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機械語
機械語(きかいご、英: machine language、machine code、 binary machine languageあるいはbinary machine code)は、コンピュータの中央処理装置(CPU)が直接理解し実行することができる命令からなる言語。マシン語(マシンご)とも。 機械語は0や1を並べた形、ビットの組み合わせパターン(ビット列)で表されるものであり、人間が日常使う言葉とはかけ離れていて読み書きしやすい形式ではない。 そのため、コンピュータのプログラムの開発に機械語が直接使われることはほとんどない。通常は人間が読みやすい形式(高級言語)でプログラムを書いてそれをコンパイラで機械語に翻訳してその機械語でコンピュータを動かしている。 機械語は中央処理装置(CPUやMPU)の動作をひとつひとつ指示するものであり、指示の内容はたとえば次のようなものである。 各プロセッサは、その設計段階で命令セットアーキテクチャ(ISA:Instruction Set Architecture)が定められ、そのISAの中で各命令の識別番号(オペコード)を定められる。機械語のプログラムは、基本的には、その識別番号(と操作対象のデータ)を実行順に並べた形式になっている。 機械語の体系は、CPU(MPU)のアーキテクチャごとに大きく異なっている。あるアーキテクチャのCPUのための機械語は、別のアーキテクチャのCPUには全く使えない。→#機械語と互換性 現在ではコンピュータのプログラムは基本的には高級言語で書くということはすでに説明したが、ハードウェア寄りのエンジニアなどがあえて機械語レベルのプログラムを作成する場合でも、大抵は機械語そのものを直接書くのではなく、機械語と1対1で対応するアセンブリ言語を使っている。→#機械語とアセンブリ言語、エンジニアが機械語を使用する状況 次に機械語の命令群が書かれた具体例を示す。 CASLのペーパーマシンCOMETについて、情報処理技術者試験の出題範囲を示す資料に処理系作成者に対する便宜として、定義の後に付されている参考資料(定義ではない)にもとづく機械語の例を以下に挙げる。なお、この機械語コードは16進数表現であり、2バイト単位で区切ってある。 一般的な機械語プログラムは以下のような構成となっている。 以上の各部分に具体的に何ビットずつ割り振って、どういう順番に並べるか、という形式(フォーマット)のことを機械語フォーマットなどと言う。アーキテクチャにより機械語フォーマットはまちまちだが、1命令を構成するデータ長が固定の「固定長」式と、命令やオペランドの種類により変化する「可変長」式に大別される。可変長の場合、機械語命令の種類によってアドレス部やデータ部、そして中には命令部までも長さが変わる。このため、読み込み位置が1バイトずれれば機械語の命令はそれ以降のすべての命令が正しく読み込まれず意味を失うため、そういった機械語フォーマットのバイナリを対象とする逆アセンブラは工夫を要する。またメモリが限られるシステムでは本来の命令の途中に飛び込み別の意味に使うというトリック的な手法もある。 基本的に、あるアーキテクチャの中央処理装置のための機械語は、別のアーキテクチャの中央処理装置のためには全く使えない。 たとえば、Pentium系列とPowerPC系列の双方で動く機械語プログラムが存在しないのは、命令セットに互換性が無いからである。 たとえ同じメーカー(や同系列企業)の中央処理装置でも、ある世代の中央処理装置のための機械語が、そのアーキテクチャの「世代」が代替わりし、アーキテクチャが変化すると、全く動かない。機械語プログラムがそのまま動くか否か、という互換性を「バイナリ互換性」と言う。 この常識を変えてみようと試みられたことがあり、1994年にIBMからコンセプトが公表されたプロセッサPowerPC 615(英語版)はx86とPowerPC命令の両立を目指し、32-bit PowerPC コード、64-bit PowerPC コード、32-bit x86 コードの実行が可能になる、という構想のものだったが、結局量産には至らなかった。 CPUの仕様が異なれば、機械語もそれぞれのCPUごとに異なる。上記類似点の範囲でのCPUごとの機械語の仕様の差異には、以下のようなものが挙げられる。 機械語で書かれたコードには頻出するパターンが存在する。 機械語に関数構文は存在しないが、関数に相当するパターンが存在する。 関数は引数を受け取り、ローカル変数を確保し、ボディの命令を実行し、戻り値を返すルーチンである。このルーチンを呼び出す場合、制御が戻るポイントを控え、引数を用意し、ルーチンへ制御を移して実行し、戻り値を記録し、戻りポイントへ制御を移す。 これらの処理によりサブルーチンへ制御が移り、関数ボディの命令列が実行される。関数命令の最終行が実行されたのち、次の処理が必要となる。 これらの処理によりメインルーチンへ制御が復帰する。 このパターンは関数の処理内容に関わらず普遍的である。前半の関数呼び出しに相当するパターンを関数プロローグ(英: function prologue)という。後半の関数からの復帰に相当するパターンを関数エピローグ(英: function prologue)という。 関数プロローグ・エピローグは同じ結果が得られるいくつかのパターンが存在する(呼出規約)。例えば引数をスタックに積むパターンとレジスタに置くパターンがある。 機械語を扱いたい場合でも機械語は0/1の組合せや16進表記であり扱いづらいので、代わりにアセンブリ言語を使うことが一般的である。アセンブリ言語は、プログラミング言語の中では機械語に一番近く、機械語とほぼ1対1に対応し、なおかつ人間に理解しやすいニーモニックで書ける。 アセンブリ言語で書かれたプログラムを機械語に変換すれば、その機械語でコンピュータは動く。アセンブラというソフトウェアを使えばアセンブリ言語から機械語への変換を自動的に行うことができる。 一方、逆アセンブラというものもあり、これはアセンブラと逆向きの作業、つまり機械語のプログラム(機械語コード)をアセンブリ言語に変換するソフトウェアである。アセンブラと逆アセンブラを使うことで、機械語←→アセンブリ言語 の間の変換を自在に行うことができる。 なお基本的にはアセンブリ言語は機械語と1対1に対応するが、若干の例外はあり、簡単なマクロなどを備えているものは多く、遅延スロットを利用するコードに自動的に変形するなどといった機能を持つものもある。また特殊な短縮形など(x86でAXがオペランドの場合など)について、機械語では違いがある場合をアセンブリ言語では明示的に指定できない場合もある。 システム開発の際の文書(仕様書)が失われることはよくある事だが、文書が残っていないシステムを分析する場合、プログラムを解析するしか方法が無いことがあり、特にソースコードも残っていないような場合には、機械語コードを解析するしかなくなる。そのような場合は、逆アセンブラで逆アセンブルつまり機械語からアセンブリ言語に変換することで、最低限ではあるが、機械語コードを解析できるようになる。さらにヒューリスティックな機能を備えたソフトウェアも使えれば、ソースコードのサブルーチン名や変数名などもある程度推測してくれる。ただしプログラムの"意味"を解析するのは人が行なう必要がある。 ここでは、プログラム内蔵方式を前提とする。一般に電源投入ないし、いわゆるコールドリセットの直後にCPUが実行するコードはROMに置いておくか、CPUの動作に依らない方法でRAMに書き込まれている必要がある(ブート)。 オペレーティングシステム(OS)がブートされた後の、OS運用下では、ファイルシステムが存在するシステムの場合、補助記憶装置中のファイルシステムに、いわゆる「実行可能バイナリ」などと呼ばれる実行ファイルとして機械語プログラムが存在しており、それがファイルシステムから主記憶にロードされて実行される、というような形態が一般的である。なお、実行時に共有ライブラリを動的リンクするなど、近年はこの「ロードして実行する」という手続きが複雑になる傾向もあり、実行時コンパイル等が一般的になると主流の形態も変化するかもしれない。 ダンプリストそのものは機械語に限らず、コアダンプなど、バイナリをリスティング出力したものであり、オクテット単位を基本とするコンピュータでは十六進法の2桁ずつで表現される。また1980年頃の「マイコン雑誌」の誌面に機械語プログラムが掲載される際の形態でもあった。 命令セットと命令フォーマットの設計によって、ダンプリストではほとんど意味不明なコードの場合もあれば、比較的読みやすいものもある。前述のようなハンドアセンブルやハンド逆アセンブルの経験者であれば、かなりその場で読めるような者もいる。そうでなくとも、デバッグ等で頻出するパターン(システムコールやサブルーチン呼出、プッシュ・ポップ等)は、経験で覚えてしまうことも多い。 現在でも全てのプログラムは、たとえ高級言語で書かれていようが、ユーザには見えていなかろうが、結局は全て機械語に変換されて実行されている。コンピュータの中央処理装置は常に機械語で動いている。コンピュータはどの瞬間も、機械語無しでは全く動かない。 コンピュータサイエンティストやエンジニアたちの数十年以上の努力の積み重ねのおかげでアセンブラが作られ、コンパイラも作られ、高級言語も作られ、便利なアプリケーション・ソフトウェアもあるので、現在では、一般ユーザも、パソコンしか触ったことがないような巷の若いソフトウェアエンジニアも、機械語は直接書いたり読んだりしなくても、コンピュータをそれなりに操れる。 だが、一般ユーザや巷のソフトウェアエンジニアが機械語を直接書いたり読んだりしていなくても、それは「彼らは直接書いたり読んだりしていない」というだけのことでしかなく、実際にはコンピュータの核心部分の中央処理装置は常に機械語で動いている。また、現在でもいわゆる「組み込み系のエンジニア」や「ハードウェア系のエンジニア」などは、しばしばアセンブラや逆アセンブラを扱う必要があり、アセンブラや逆アセンブラを使えばその画面には機械語そのものが表示されているのでそれを目にすることになる。こうしたエンジニアは、時には機械語を直接自分の目で読んだり書いたりする場合もある。また忘れてならないが、CPUやMPUの開発企業(たとえばインテルやAMDなど)で新たなCPUやMPUのアーキテクチャを設計するエンジニアたちは、しばしば機械語についてかなり深いレベルで検討しており、新たなアーキテクチャを創造する場合は新たな機械語も作り出す。 人間がわざわざ直接機械語を書いたり読んだりする場合は、以前は次のような理由であった。 今日では、GNU Binutilsないし同様なライブラリがあることも多く、そういったユーティリティやライブラリを使うことで、アセンブラ・逆アセンブラを書いたりリバースエンジニアリングなどですら、機械語に直接触れずできることも多い。そのため、巷のエンジニアたちが機械語を直接読んだり書いたりするのは、そのようなユーティリティやライブラリが(まだ)無い新しいプロセッサの場合や対応していない新機能などを使う場合、プログラミング言語には馴染まない特殊な命令を扱う場合、trampolineのようなテクニックが必要な場合、プロセッサのバグに当たった(等の可能性が疑われる)場合、何らかの理由でコアダンプを直接解析しなければならない場合、などに限られてきている。
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機械語は、コンピュータの中央処理装置(CPU)が直接理解し実行することができる命令からなる言語。マシン語(マシンご)とも。
{{複数の問題 |出典の明記=2010年12月 |独自研究=2016年7月 }} {{プログラムの実行}} '''機械語'''(きかいご、{{lang-en-short|machine language、machine code<ref name='kotobank'> 『[[日本大百科全書]]』【機械語】 (コトバンク[https://kotobank.jp/word/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AA%9E-2602]にも転載されている)]</ref><ref name="e-words">IT用語辞典 e-words【機械語】[https://e-words.jp/w/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AA%9E.html]</ref>}}、 binary machine language{{Sfn |HardwareSoftwareIF |1994 |p=7}}あるいはbinary machine code)は、[[コンピュータ]]の[[中央処理装置|中央処理装置(CPU)]]が直接理解し[[実行 (コンピュータ)|実行]]することができる[[命令 (コンピュータ)|命令]]からなる[[言語]]<ref name='kotobank' />。'''マシン語'''(マシンご)とも<ref name="e-words" />。 == 概要 == 機械語は[[0]]や[[1]]を並べた形、[[ビット]]の[[組合せ (数学)|組み合わせ]]パターン(ビット列)で表されるものであり<ref name="e-words" /><ref name='kotobank' />、人間が日常使う言葉とはかけ離れていて読み書きしやすい形式ではない<ref name="e-words" /><ref name='kotobank' />。 そのため、コンピュータのプログラムの開発に機械語が直接使われることはほとんどない<ref name='kotobank' />。通常は人間が読みやすい形式([[高級言語]])でプログラムを書いてそれを[[コンパイラ]]で機械語に翻訳してその機械語でコンピュータを動かしている<ref name='kotobank' />{{Refnest|group="※"|ただし[[組込システム]]のエンジニアなどハードウェア寄りのエンジニアは[[機械語モニタ]]を用いて機械語を直接操作することもある。}}。 機械語は中央処理装置([[CPU]]や[[MPU]])の動作をひとつひとつ指示するものであり<ref name='kotobank' />、指示の内容はたとえば次のようなものである<ref name='kotobank' />。 *[[記憶装置]]と[[演算装置]]の間の情報のやりとり<ref name='kotobank' /> *演算装置内部での演算<ref name='kotobank' />([[論理演算]]や[[2進数]]と2進数の[[加法]]、[[減法]]、[[乗法]]、[[除法]]など) *入出力チャネル{{Refnest|group="※"|CPUが入出力バスとデータ信号をやりとりするための[[チャネル]](通路、流路)のこと。I/Oチャネルとも<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E5%87%BA%E5%8A%9B%E3%83%90%E3%82%B9-6976 入出力バスとは - コトバンク]</ref>。}}に対する指令<ref name='kotobank' /> *入出力チャネルと[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の間の情報のやりとり<ref name='kotobank' /> 各プロセッサは、その設計段階で[[命令セット#命令セットアーキテクチャ|命令セットアーキテクチャ]](ISA:Instruction Set Architecture)が定められ、そのISAの中で各命令の識別番号([[オペコード]])を定められる。機械語のプログラムは、基本的には、その識別番号(と操作対象のデータ)を実行順に並べた形式になっている<ref name="e-words" />。 機械語の体系は、CPU(MPU)のアーキテクチャごとに大きく異なっている。あるアーキテクチャのCPUのための機械語は、別のアーキテクチャのCPUには全く使えない。→[[#機械語と互換性]] 現在ではコンピュータのプログラムは基本的には高級言語で書くということはすでに説明したが、ハードウェア寄りのエンジニアなどがあえて機械語レベルのプログラムを作成する場合でも、大抵は機械語そのものを直接書くのではなく、機械語と1対1で対応する[[アセンブリ言語]]を使っている。→[[#機械語とアセンブリ言語]]、[[#機械語が動いている状況とエンジニアが機械語を使用する状況|エンジニアが機械語を使用する状況]] === 機械語の具体例 === 次に機械語の命令群が書かれた具体例を示す。 [[CASL]]のペーパーマシンCOMETについて、情報処理技術者試験の出題範囲を示す資料に処理系作成者に対する便宜として、定義の後に付されている参考資料('''定義ではない''')にもとづく機械語の例を以下に挙げる。なお、この機械語コードは16進数表現であり、2[[バイト (情報)|バイト]]単位で区切ってある{{Refnest|group="※"|CPU自体が実行している生(なま)の機械語は、物理的な実態としては(4個から64個ほどの)電気的[[スイッチ]]群のOn/Off、正確に言うと各[[電圧]]の高・低(High/Low)の組み合わせであり、 それを直接的に文字(数字)にするには1/0を多数連ねた2進数(8[[桁]]、16桁、32桁、64桁など)で表現するが、人間が読みやすいように、その2進数を[[16進数]]に変換して表示することも一般的である。集積回路では片方を 0 ボルト にしてしまうと回路の動作が不安定になってしまうので、実際には、厳密に言うとHigh/Lowの2つの電圧で実現している。[[デジタル]]コンピュータでは、2値方式であることが重要で、Hi/Lowでも2値論理の論理回路としてはOn/Offと等価な動作をするので、それを土台としてCPUは設計されている。そして16進表示でも、その文字列をただ長々と何十文字や何百文字も連ねてしまうと、人間の認識能力では誰でも誤読を連発するので、 2バイトつまり16進数の4文字ごとに、あるいは1バイトつまり16進2文字ごとに区切って間に空白を入れて可読性を高めるということが画面上や紙面上では一般的である。だから情報処理技術者試験の文面でも、受験者に分かりやすくなるように16進表示にしてあり、4文字ごとに空白をはさんでいる。}}。 {| |----- ! align="left" width="17%" | [[メモリアドレス|アドレス]] ! width="45%" align="left" | 機械語(16進表示) ! align="left" colspan="3" | [[CASL]] |----- | valign="top" | 8000<br /> <br /> <br /> 800C<br /> 800D<br /> | valign="top" | 7001 0000 7002 0000<br /> 1210 800D 1220 800C<br /> F000 0002 7120 7110<br /> 000C<br /> 0048 0065 006C 006C<br /> 006F 0020 0077 006F<br /> 0072 006C 0064 0021<br /> | valign="top" | <br /> <br /> <br /> LEN<br /> TEXT | valign="top" | OUT<br /> <br /> <br /> DC<br /> DC<br /> | valign="top" | TEXT,LEN<br /> <br /> <br /> 12<br /> 'Hello world!' |} {{Gallery|width = 600px |File:W65C816S Machine Code Monitor.jpeg|別の例。[[:en:WDC 65C816|W65C816S]]というMPUの機械語を、[[機械語モニタ]]で画面に表示した例。画面上部の左寄りが機械語(16進表示。これは2文字ごとに区切っている。)、右寄りがそれを[[逆アセンブラ|逆アセンブル]]したもの。プロセッサのレジスタとメモリ[[ダンプ]]([[コアダンプ]])が表示されている。 }} == 構成 == 一般的な機械語プログラムは以下のような構成となっている。 ;命令部([[オペコード]]) :CPUに処理をさせるための命令の番号。 ;アドレス部(オペランド) :情報として利用する[[データ]]が格納されている、あるいは結果の記録先のレジスタや[[メモリアドレス]]、ジャンプ先などを示す、後述のイミディエイト値もこれに含めることもある。命令によって、個数や長さが異なる。オペランドの数について、0アドレス方式、1アドレス方式、2アドレス方式、3アドレス方式がある。0アドレス方式はオペレーションコードだけで、オペランドは存在しない。 ;イミディエイト値 :オペランドの一部に含めることもある。演算に使用する整数値などのデータが命令に引き続いて置かれているもの。即値とも。 ;データ部 :データ部は実行されない部分である。プログラムで使用するデータのうち前述のイミディエイト値に収まらないもの、文字列リテラルなどのような定数データ、グローバル変数(機械語やアセンブリ言語プログラミングの用語ではワークエリア)のためのヒープ領域やローカル変数のためのスタック領域など。通常ある程度まとめて置かれる。通例、命令として解釈することはできないが、強制的にデータ部にジャンプさせ、命令部として解釈させることで、仮にデータ部に機械語相当の命令データが配置されていた場合はそれらを実行することができる環境も存在する。これを悪用して、リターンアドレスの書き換えなどにより不正なコードを実行させてしまうような悪意のあるソフトウェアからコンピュータを保護するため、[[データ実行防止]](DEP)と呼ばれる機能を備えている環境もある<ref>[https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/cc738483(v=ws.10).aspx データ実行防止]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20081231213041/http://www.ipa.go.jp/security/awareness/vendor/programmingv2/contents/c905.html IPA ISEC セキュア・プログラミング講座:C/C++言語編 第10章 著名な脆弱性対策:バッファオーバーフロー: #5 運用環境における防御]</ref>。 以上の各部分に具体的に何ビットずつ割り振って、どういう順番に並べるか、という形式(フォーマット)のことを機械語フォーマットなどと言う。アーキテクチャにより機械語フォーマットはまちまちだが、1命令を構成するデータ長が固定の「固定長」式と、命令やオペランドの種類により変化する「可変長」式に大別される。可変長の場合、機械語命令の種類によってアドレス部やデータ部、そして中には命令部までも長さが変わる。<!--異なる命令語長やいかなる命令体系であっても、最初にCPUが読み込むのは命令部であり、固定語長のものを除けば命令部からアドレス部やデータ部、そして拡張命令部の配置を読み取る。--><!-- ← それは設計による。近年のように性能重視であれば、ペナルティが無い限りはドカッと読んでしまって、不要な部分を捨てる、というようにするのが当然だろう。-->このため、読み込み位置が1バイトずれれば機械語の命令はそれ以降のすべての命令が正しく読み込まれず意味を失うため、そういった機械語フォーマットのバイナリを対象とする[[逆アセンブラ]]は工夫を要する{{Refnest|group="※"|全て機械任せで良い結果を得ようとするよりも、人による補助をうまく取り入れられるようにするほうが良い場合もある。}}。またメモリが限られるシステムでは本来の命令の途中に飛び込み別の意味に使うというトリック的な手法もある。 == 機械語と互換性 == 基本的に、あるアーキテクチャの中央処理装置のための機械語は、別のアーキテクチャの中央処理装置のためには全く使えない。 たとえば、[[Pentium]]系列と[[PowerPC]]系列の双方で動く機械語プログラムが存在しないのは、[[命令セット]]に互換性が無いからである。 たとえ同じメーカー(や同系列企業)の中央処理装置でも、ある世代の中央処理装置のための機械語が、そのアーキテクチャの「世代」が代替わりし、アーキテクチャが変化すると、全く動かない。機械語プログラムがそのまま動くか否か、という互換性を「バイナリ互換性」と言う。 この常識を変えてみようと試みられたことがあり、1994年にIBMからコンセプトが公表されたプロセッサ{{仮リンク|PowerPC 615|en|PowerPC_600#PowerPC_615}}は[[x86]]とPowerPC命令の両立を目指し、32-bit PowerPC コード、64-bit PowerPC コード、32-bit x86 コードの実行が可能になる、という構想のものだったが、結局量産には至らなかった。 ::<small>なお、まったく役に立たない雑学だが、注意深く機械語命令を選ぶことによって、異なるアーキテクチャでもたまたま動作する、ごくごく小さなプログラムを、シャレで(お遊び的に)書くことは可能な場合がある{{Refnest|group="※"|こうした変則的な機械語プログラミングは[[:en:Polyglot (computing)|Polyglot]]の極端な1ジャンルともいえる。たとえばPC-98とX68k両対応の[[ブートセクタ]]「[http://www.vector.co.jp/soft/dos/prog/se037612.html 電脳インストーラ2]」が書かれたことがある。第1回[[IOCCC]]の入選作のひとつでmullenderによるPDP-11とVAX両対応プログラム「[http://www.ioccc.org/years.html#1984_mullender Previous IOCCC Winners]」は、その後コンテストのルールが変更されたことで、このようなプログラム自体が禁止されている。}}。</small> === CPUによる仕様の差異 === CPUの仕様が異なれば、機械語もそれぞれのCPUごとに異なる。上記類似点の範囲でのCPUごとの機械語の仕様の差異には、以下のようなものが挙げられる。 * CPUが理解できる命令の種類や数が異なる([[CISC]]、[[RISC]]、[[VLIW]]) * 命令の長さが異なる(CISCとRISCとでは長さが異なることがある。また、同じアーキテクチャでも、命令のビット数の違いも影響する) * 命令部の命令番号が一致しない * 同じ処理を行う命令でも処理結果が異なる * 演算方法が異なる(レジスタ - レジスタ間演算やメモリ - レジスタ間演算の違い。RISCでは後者の演算ができない) * データの記録方法が異なる([[エンディアン]]や[[データ構造アライメント|アラインメント]]の相違) * [[実行ファイル|実行形式]]のバイナリファイルの記録形式が異なる([[Portable Executable|PE]]、[[COFF]]、[[Executable and Linkable Format|ELF]]など) <!-- やはりこのCOMETの例は削る。試験範囲の資料では、OUTは機械命令ではなくマクロとされ、参考資料でもINについての例示があるのみであり、マクロ展開などについて説明するのはこの記事ではなくアセンブリ言語の記事でやるべき。従ってこのサンプルコード自体機械語の説明に相応しくない。 なお情報処理技術者試験の資料中で「命令コード」という語の指すものは一般に「ニーモニック」と言われているものでオペコードではないが、日経BPのITProにこれをオペコードと呼んでいるページがあるが誤りである。まったく嘆かわしい。--> == パターン == 機械語で書かれたコードには頻出するパターンが存在する。 === 関数 === {{See also|呼出規約}} 機械語に[[サブルーチン|関数]]構文は存在しないが、関数に相当するパターンが存在する。 関数は引数を受け取り、ローカル変数を確保し、ボディの命令を実行し、戻り値を返すルーチンである。このルーチンを呼び出す場合、制御が戻るポイントを控え、引数を用意し、ルーチンへ制御を移して実行し、戻り値を記録し、戻りポイントへ制御を移す。 * 引数の準備 * サブルーチン終了後の復帰ポイントメモ * ローカル変数の確保 * サブルーチン冒頭への制御移行 これらの処理によりサブルーチンへ制御が移り、関数ボディの命令列が実行される。関数命令の最終行が実行されたのち、次の処理が必要となる。 * ローカル変数の解放 * 引数の解放 * 戻り値の保存 * 復帰ポイントへの制御移行 これらの処理によりメインルーチンへ制御が復帰する。 このパターンは関数の処理内容に関わらず普遍的である。前半の関数呼び出しに相当するパターンを'''関数プロローグ'''({{lang-en-short|function prologue}})という。後半の関数からの復帰に相当するパターンを'''関数エピローグ'''({{lang-en-short|function prologue}})という。 関数プロローグ・エピローグは同じ結果が得られるいくつかのパターンが存在する([[呼出規約]])。例えば引数をスタックに積むパターンとレジスタに置くパターンがある。 == 機械語とアセンブリ言語 == {{main|アセンブリ言語}} 機械語を扱いたい場合でも機械語は0/1の組合せや16進表記であり扱いづらいので、代わりに[[アセンブリ言語]]を使うことが一般的である。アセンブリ言語は、プログラミング言語の中では機械語に一番近く、機械語とほぼ1対1に対応し、なおかつ人間に理解しやすい[[ニーモニック]]で書ける。 アセンブリ言語で書かれたプログラムを機械語に変換すれば、その機械語でコンピュータは動く{{Refnest|group="※"|アセンブリ言語で書かれたプログラムを機械語に変換することを「アセンブル(する)」と言う。}}。[[アセンブラ]]というソフトウェアを使えばアセンブリ言語から機械語への変換を自動的に行うことができる。 一方、[[逆アセンブラ]]というものもあり、これはアセンブラと逆向きの作業、つまり機械語のプログラム(機械語コード)をアセンブリ言語に変換するソフトウェアである。アセンブラと逆アセンブラを使うことで、機械語←→アセンブリ言語 の間の変換を自在に行うことができる。 ::なお人が自分の眼と頭脳と手を使ってアセンブルの作業を行うことをハンドアセンブルという。コンピュータの黎明期にはしばしばハンドアセンブルが行われていたが、近年ではほぼ全く行われていない。プロセッサが[[4ビット]]や[[8ビット]](2進数で4桁や8桁)の時代ならば、やろうとすればハンドアセンブルもできたが、その後CPUは[[16ビット]]、[[32ビット]]、[[64ビット]]となり、16ビット以降は人間の頭脳や手の能力では扱いきれなくなった。 ::1970年代後半の[[マイクロコンピュータ]]や1980年代前半のパーソナルコンピュータの登場で個人ユーザがコンピュータを使うようになったが、当時はアセンブラも高額で個人では購入しづらく、コンピュータがまだ8bitだったので、個人ユーザはハンドアセンブルを行うことがよくあった。 <!--[[インラインアセンブラ]]でもアセンブリ言語が使われている。--> なお基本的にはアセンブリ言語は機械語と1対1に対応するが、若干の例外はあり、簡単なマクロなどを備えているものは多く、遅延スロットを利用するコードに自動的に変形するなどといった機能を持つものもある。また特殊な短縮形など(x86でAXがオペランドの場合など)について、機械語では違いがある場合をアセンブリ言語では明示的に指定できない場合もある。 ;機械語コードの解析 システム開発の際の文書(仕様書)が失われることはよくある事だが、文書が残っていないシステムを分析する場合、プログラムを解析するしか方法が無いことがあり、特に[[ソースコード]]も残っていないような場合には、機械語コードを解析するしかなくなる。そのような場合は、逆アセンブラで逆アセンブルつまり機械語からアセンブリ言語に変換することで、最低限ではあるが、機械語コードを解析できるようになる。さらに[[ヒューリスティック]]な機能を備えたソフトウェアも使えれば、ソースコードのサブルーチン名や変数名などもある程度推測してくれる。ただしプログラムの"意味"を解析するのは人が行なう必要がある。 {{Seealso|逆アセンブラ}} == 機械語プログラムの読み込み == ここでは、[[プログラム内蔵方式]]を前提とする。一般に電源投入ないし、いわゆるコールドリセットの直後に[[CPU]]が実行するコードは[[Read only memory|ROM]]に置いておくか、CPUの動作に依らない方法で[[Random Access Memory|RAM]]に書き込まれている必要がある([[ブート]])。 [[オペレーティングシステム]](OS)がブートされた後の、OS運用下では、[[ファイルシステム]]が存在するシステムの場合、[[補助記憶装置]]中のファイルシステムに、いわゆる「実行可能[[バイナリ]]」などと呼ばれる[[実行ファイル]]として機械語プログラムが存在しており、それがファイルシステムから[[主記憶装置|主記憶]]にロードされて実行される、というような形態が一般的である。なお、実行時に共有[[ライブラリ]]を[[動的リンク]]するなど、近年はこの「ロードして実行する」という手続きが複雑になる傾向もあり、実行時コンパイル等が一般的になると主流の形態も変化するかもしれない。 == ダンプリスト == ダンプリストそのものは機械語に限らず、[[コアダンプ]]など、バイナリをリスティング出力したものであり、オクテット単位を基本とするコンピュータ{{Refnest|group="※"|たいていはオクテット単位だが、[[CASL]]のCOMETが16ビット単位のように、そうでないものもある。}}では[[十六進法]]の2桁ずつで表現される。また1980年頃の「マイコン雑誌」の誌面に機械語プログラムが掲載される際の形態でもあった{{Refnest|group="※"|「絶対にBASICプログラムという形態で載せる」という掟のあった、『マイコンBASICマガジン』(ベーマガ)を除く。このためベーマガでは、DATA文のデータから、BASICプログラムで機械語コードを書き込むようなプログラムを掲載していた。}}。 命令セットと命令フォーマットの設計によって、ダンプリストではほとんど意味不明なコードの場合もあれば、比較的読みやすいものもある。前述のようなハンドアセンブルやハンド逆アセンブルの経験者であれば、かなりその場で読めるような者もいる。そうでなくとも、デバッグ等で頻出するパターン(システムコールやサブルーチン呼出、プッシュ・ポップ等)は、経験で覚えてしまうことも多い。 == 機械語が動いている状況とエンジニアが機械語を使用する状況 == 現在でも全てのプログラムは、たとえ高級言語で書かれていようが、ユーザには見えていなかろうが、結局は全て機械語に変換されて実行されている。コンピュータの中央処理装置は常に機械語で動いている。コンピュータはどの瞬間も、機械語無しでは全く動かない。 コンピュータサイエンティストやエンジニアたちの数十年以上の努力の積み重ねのおかげでアセンブラが作られ、コンパイラも作られ、高級言語も作られ、便利なアプリケーション・ソフトウェアもあるので、現在では、一般ユーザも、パソコンしか触ったことがないような巷の若いソフトウェアエンジニアも、機械語は直接書いたり読んだりしなくても、コンピュータをそれなりに操れる。 だが、一般ユーザや巷のソフトウェアエンジニアが機械語を直接書いたり読んだりしていなくても、それは「彼らは直接書いたり読んだりしていない」というだけのことでしかなく、実際にはコンピュータの核心部分の中央処理装置は常に機械語で動いている。また、現在でもいわゆる「組み込み系のエンジニア」や「ハードウェア系のエンジニア」などは、しばしばアセンブラや逆アセンブラを扱う必要があり、アセンブラや逆アセンブラを使えばその画面には機械語そのものが表示されているのでそれを目にすることになる。こうしたエンジニアは、時には機械語を直接自分の目で読んだり書いたりする場合もある。また忘れてならないが、CPUやMPUの開発企業(たとえば[[インテル]]や[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]など)で新たなCPUやMPUのアーキテクチャを設計するエンジニアたちは、しばしば機械語についてかなり深いレベルで検討しており、新たなアーキテクチャを創造する場合は新たな機械語も作り出す。 人間がわざわざ直接機械語を書いたり読んだりする場合は、以前は次のような理由であった。 * アセンブラが存在しないか高価なため購入できない、クロスアセンブラであるため別のコンピュータが必要、など * きわめて単純な処理の繰り返しで高速に処理させたいのにもかかわらず、コンピュータの性能が低いうえに、プログラミング言語も[[BASIC]][[インタプリタ]]で望みの処理速度が得られず、機械語で書いた別ルーチンを呼び出す形にすれば可能な場合{{Refnest|group="※"|たとえば1970年代~1980年代など、たとえば2Dシューティング[[ゲームソフト]]の上下左右の画面[[スクロール]]処理など。}} * 高効率で処理する機械語を[[コンパイラ]]がうまく生成してくれない場合 今日では、[[GNU Binutils]]ないし同様なライブラリがあることも多く、そういったユーティリティやライブラリを使うことで、アセンブラ・[[逆アセンブラ]]を書いたり[[リバースエンジニアリング]]などですら、機械語に直接触れずできることも多い。そのため、巷のエンジニアたちが機械語を直接読んだり書いたりするのは、そのようなユーティリティやライブラリが(まだ)無い新しいプロセッサの場合や対応していない新機能などを使う場合、プログラミング言語には馴染まない特殊な命令を扱う場合、trampoline<ref>[http://catb.org/jargon/html/T/trampoline.html trampoline]</ref>のようなテクニックが必要な場合、プロセッサの[[バグ]]に当たった(等の可能性が疑われる)場合、何らかの理由で[[コアダンプ]]を直接解析しなければならない場合、などに限られてきている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="※"|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book |title=Computer Organization and Design: The Hardware/Software Interface |last1=L.Hennessy |first1=John |last2=A.Patterson |first2=David |isbn=1-55860-281-X |year=1994 |date= |publisher=Morgan Kaufmann Publishers |ref={{Sfnref |HardwareSoftwareIF |1994 }} }} == 関連項目 == * [[CPU]] * [[命令 (コンピュータ)|命令セット]] * [[機械語モニタ]] * [[アセンブリ言語]] * [[コンパイラ]] * [[テーブルジャンプ]] * [[バイナリ]] * [[リンケージエディタ|リンカ]] * [[低水準言語]] {{プログラミング言語の関連項目|state=uncollapsed}} {{プログラミング言語一覧}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きかいこ}} [[Category:プログラミング言語の分類]] [[Category:プログラミング言語]] [[Category:機械語|*]] [[Category:アセンブリ言語|*きかいこ]] [[Category:コンピュータの仕組み]] [[Category:CPU]]
2003-02-14T14:31:34Z
2023-10-14T14:20:47Z
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本の雑誌社
本の雑誌社(ほんのざっししゃ)は、目黒考二、椎名誠、沢野ひとし、木村晋介によって設立された出版社。 事務所(会社)所在地は東京都新宿区四谷(1979年〜)、新宿区信濃町(1980年3月〜、7月に株式会社化)、新宿区新宿五丁目(1983年〜)、新宿区新宿御苑前(1989年〜)、渋谷区笹塚(1993年〜)、東京都千代田区神田神保町(2012年6月〜)。 書評を中心に本と活字にまつわる様々な話題を扱った月刊『本の雑誌』(書籍扱い。当初は季刊。隔月刊をへて月刊化した)を1976年4月より発行している。1980年7月に株式会社となる(発起人は椎名誠、目黒考二、沢野ひとし、社長は目黒考二、会計監査が木村晋介)。また、『本の雑誌』の連載コラムの書籍化や、執筆者の書き下ろし本、本に関する独自企画本を刊行している。すべての出版物において、特例を除き書店からの返品を受けない、完全売切制をとっている。 1976年4月、「書評とブックガイド」を標榜するミニコミ誌(初号印刷部数は500)としてスタートする。椎名のコラムの独特の文体や、従来の書評誌にはなかったエンタテインメント志向、独自視点の特集、新しい連載執筆者の発掘などで好評を得る。1984年に「活字のコラムマガジン」に転針する。 当初は「季刊」と称する不定期刊だったが、1979年5月に隔月刊化、1987年に「特小号」発行、1988年5月号から月刊化した。 創刊号の編集兼発行人は目黒考二。2号より編集人・椎名誠/発行人・目黒考二体制となる。実質的に編集発行人を務めた目黒考二が2001年に退任、二代目発行人に浜本茂が就任した。 2008年12月発売の『本の雑誌』2009年1月号において、経営危機にあることが公表された(椎名誠のコラム『今月のお話』及び浜本茂の編集後記)。 椎名は2011年1月号をもって編集人から退き、浜本が名実ともに編集発行人となった。顧問だった目黒も退任した。 2015年、第63回菊池寛賞を受賞。 各号の特集記事以外の連載(2020年現在) 本の雑誌に掲載された文章をまとめたものや、独自の企画など。 『本の雑誌』の創刊は、椎名、目黒の他に、当時『漫画アクション』編集者の本多健治(のちに双葉社取締役)もかかわっていた。また、最初に採用された社員は木原ひろみ(のちの群ようこ)一人だった。 初期の『本の雑誌』は、契約書店への直接持ち込みにより配本されていた。目黒によって組織された学生たちの配本部隊は、アルバイトではなく「助っ人」と呼ばれた。 のちのマガジンハウス編集者で、女優本上まなみの夫である沢田康彦も助っ人出身。また、お笑い演芸専門誌『カジノフォーリー』の編集長を務めた、竹本幹男も助っ人出身。 助っ人出身者は他に、白夜書房営業部藤脇邦夫、写真家の上原ゼンジ、翻訳家の那波かおり、岩本正恵、絵本作家の本下いづみ、ジャズ評論家の富澤えいち、書評家の吉田伸子、イラストレーターの福井若恵、小学館の編集者の徳山雅記(ステレオグラム本を多数刊行。現「ドラえもんルーム」担当)、編集者・ライターの河上進(南陀楼綾繁)、落語家の柳家喬之助などがいる。上原と吉田はのち、本の雑誌社の社員になった。 当時の助っ人にアルバイト代は出ず、見返りは、出前をとって空腹を満たすことであった。 椎名誠と目黒考二が中心となって『本の雑誌』を立ち上げる経緯を描く漫画『黒と誠』(カミムラ晋作著)が、2022年7月から双葉社のWeb文芸マガジン「カラフル」で連載開始された。 双葉社には、『漫画アクション』編集部の本多健治が、かつて『本の雑誌』の創刊に関わっていたこと、『黒と誠』の企画を担当した編集者が、学生時代に本の雑誌社の助っ人だったという縁がある。。
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本の雑誌社(ほんのざっししゃ)は、目黒考二、椎名誠、沢野ひとし、木村晋介によって設立された出版社。 事務所(会社)所在地は東京都新宿区四谷(1979年〜)、新宿区信濃町(1980年3月〜、7月に株式会社化)、新宿区新宿五丁目(1983年〜)、新宿区新宿御苑前(1989年〜)、渋谷区笹塚(1993年〜)、東京都千代田区神田神保町(2012年6月〜)。 書評を中心に本と活字にまつわる様々な話題を扱った月刊『本の雑誌』(書籍扱い。当初は季刊。隔月刊をへて月刊化した)を1976年4月より発行している。1980年7月に株式会社となる(発起人は椎名誠、目黒考二、沢野ひとし、社長は目黒考二、会計監査が木村晋介)。また、『本の雑誌』の連載コラムの書籍化や、執筆者の書き下ろし本、本に関する独自企画本を刊行している。すべての出版物において、特例を除き書店からの返品を受けない、完全売切制をとっている。
{{出典の明記|date=2015年11月29日 (日) 10:09 (UTC)}} {{Infobox publisher2 | 外観またはロゴ = | 正式名称 = 株式会社 本の雑誌社 | 英文名称 = | 前身 = | 現況 = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = | 出版者記号 = | 取次会社 = | 取次コード = | 設立日 = 1976年4月(株式会社化は1980年7月) | 代表者 = | 本社郵便番号 = 〒101-0051 | 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[神田神保町]]1-37<br />友田三和ビル5F | 資本金 = | 売上高 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = | ネット販売 = | 主要出版物 = | 定期刊行物 = | 電子書籍 = | 出版以外の事業 = | 得意ジャンル = | 関係する人物 = | 外部リンク = http://www.webdoku.jp | Twitterurl = https://twitter.com/Hon_no_Zasshi | 特記事項 = }} '''本の雑誌社'''(ほんのざっししゃ)は、[[目黒考二]]、[[椎名誠]]、[[沢野ひとし]]、[[木村晋介]]によって設立された[[出版社]]。 事務所(会社)所在地は[[東京都]][[新宿区]]四谷(1979年〜)、新宿区[[信濃町 (新宿区)|信濃町]](1980年3月〜、7月に株式会社化)<ref name="名前なし-rKWZ-1">目黒考二『本の雑誌風雲録』</ref>、新宿区[[新宿]]五丁目(1983年〜)、新宿区[[新宿御苑]]前(1989年〜)、[[渋谷区]][[笹塚]](1993年〜)、[[東京都]][[千代田区]][[神田神保町]]([[2012年]]6月〜)<ref>[http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/2016/03/24/100349.html 2016年3月24日(木)新宿地下街マップ]</ref>。 書評を中心に本と活字にまつわる様々な話題を扱った月刊『'''本の雑誌'''』(書籍扱い。当初は季刊。隔月刊をへて月刊化した)を[[1976年]]4月より発行している。1980年7月に株式会社となる(発起人は椎名誠、目黒考二、沢野ひとし、社長は目黒考二、会計監査が木村晋介<ref>椎名誠『新宿遊牧民』(講談社文庫)P.66</ref>)。また、『本の雑誌』の連載コラムの書籍化や、執筆者の書き下ろし本、本に関する独自企画本を刊行している。すべての出版物において、特例を除き書店からの返品を受けない、完全売切制をとっている。 == 『本の雑誌』について == === 沿革 === 1976年4月、「書評とブックガイド」を標榜する[[ミニコミ]]誌(初号印刷部数は500)としてスタートする。椎名のコラムの独特の文体や、従来の書評誌にはなかったエンタテインメント志向、独自視点の特集、新しい連載執筆者の発掘などで好評を得る。1984年に「活字のコラムマガジン」に転針する。 当初は「季刊」と称する不定期刊だったが、1979年5月に隔月刊化、1987年に「特小号」発行、1988年5月号から月刊化した。 創刊号の編集兼発行人は目黒考二。2号より編集人・椎名誠/発行人・目黒考二体制となる。実質的に編集発行人を務めた目黒考二が2001年に退任、二代目発行人に[[浜本茂]]が就任した。 2008年12月発売の『本の雑誌』2009年1月号において、経営危機にあることが公表された(椎名誠のコラム『今月のお話』及び浜本茂の編集後記)。 椎名は2011年1月号をもって編集人から退き、浜本が名実ともに編集発行人となった。顧問だった目黒も退任した。 [[2015年]]、第63回[[菊池寛賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151014-OHT1T50092.html|title=吉永小百合、国枝慎吾らに菊池寛賞|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2015-10-14|accessdate=2015-10-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151016025834/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20151014-OHT1T50092.html|archivedate=2015年10月16日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 === 掲載コラム === 各号の特集記事以外の連載([[2020年]]現在) *本棚が見たい!(巻頭写真ページ) *その出版社、凶暴につき 四谷熱血「本づくり」黄金時代([[田代靖久]]) *マンションポエム東京論([[大山顕]]) *SF音痴が行くSF古典宇宙の旅([[高野秀行 (ノンフィクション作家)|高野秀行]]) *新旧いろいろ面白本([[椎名誠]]) *新刊めったくたガイド([[北上次郎]]ほか) *続・棒パン日常([[穂村弘]]) *ミステリー春夏冬中([[宇田川拓也]]) *アルパカ文庫堂([[内田剛]]) *本は人生のおやつです!!([[坂上友紀]]) *SF新世紀([[山岸真]]) *マンガ落穂ひろい([[田中香織]]) *毎日でも通いたい古本屋さん([[小山力也 (古本屋ツーリスト)|小山力也]]) *迷子の読書([[べつやくれい]]) *マガジン多誌済々([[下井草秀]]) *一私小説書きの日乗([[西村賢太]]) *生き残れ!燃える作家年代記([[鈴木輝一郎]]) *黒い昼食会 *ユーカリの木の蔭で([[北村薫]]) *憧れの住む東京へ([[岡崎武志]]) *私がロト7に当たるまで([[宮田珠己]]) *モーター文学のススメ([[速水健朗]]) *マルジナリアでつかまえて([[山本貴光]]) *坪内祐三の読書日記([[坪内祐三]]) *連続的SF話([[鏡明]]) *南の話([[青山南]]) *そばですよ([[平松洋子]]) *鬼花――鬼刑事・花篤好美([[中場利一]]) *三角窓口 *書籍化までy光年([[円城塔]]) *東京ロシアンルーレット([[江部拓弥]]) *行間の広い本棚([[石川美南]]) *サイコドクターの日曜日([[風野春樹]]) *ホリイのゆるーく調査([[堀井憲一郎]]) *神保町物語外伝([[沢野ひとし]]) == 『本の雑誌』以外の出版物 == ===「別冊本の雑誌」=== 本の雑誌に掲載された文章をまとめたものや、独自の企画など。 # ブックカタログ1000 さあ新しい書物探検の夜明けだ夜明けだ 1982.2 # 読み物作家100人集 1982.6 # ブックカタログ1000 PART2 1982.12 # 恋愛小説読本 ブックガイド&エッセイ 1983.6 # ブックカタログ1000 PART3 1981.12 # 活字中毒者読本 1984 # 「本の雑誌」傑作選 1988.8 # 「本屋さん」読本 1989.6 # 三角窓口傑作選 1991 1991.2 # 活字探偵団 1994.10 # 「本の雑誌」傑作選 風雲篇 1995.11 # 「三角窓口」傑作選 1997 1997.3 # 図書館読本 2000.1 # 新恋愛小説読本 2001.2 # SF本の雑誌 2009.7 # 古本の雑誌 2012.10 # 本屋の雑誌 2014.5 # 本の雑誌おじさん三人組が行く! 2017.3 # 古典名作本の雑誌 2017.8 # 10代のための読書地図 2021.7 # 本の雑誌の目黒考二・北上次郎・藤代三郎 2023.9 # 神保町 本の雑誌 2023.11 ===「本の雑誌増刊」=== * おすすめ文庫王国 - 1999年から2019年まで毎年12月に出版されている。ただし、2011年度版は2010年に2010-2011として出版された。 * [[本屋大賞]] - 2004年以降、毎年4月に出版されている。 === 「本の雑誌編集部」編の本 === * 特集・本の雑誌1 出版業界篇 1995.11 [[角川文庫]] * 特集・本の雑誌2 ブックガイド篇 1995.11 角川文庫 * 特集・本の雑誌3 活字の愉しみ篇 1995.11 角川文庫 * 匿名座談会 業界人が初めて語った舞台裏 1998.2 * 編集稼業の女たち 1998.9 * 新・匿名座談会 2000.10 * 活字探偵団 増補版 2000.1 角川文庫 別冊本の雑誌「活字探偵団」の増補版 * 本の業界 真空とびひざ蹴り 2001.6 * 日本読書株式会社 2001.9 * 注文の多い活字相談 新日本読書株式会社 2002.9 * よりぬき読書相談室 2003.7 * よりぬき読書相談室 特盛すこぶる本編 2004.6 * 作家の読書道 2005.10 * よりぬき読書相談室 どすこい幕の内編 2006.7 * 作家の読書道2 2007.8 * よりぬき読書相談室 みだれ打ち快答編 2007.9 * よりぬき読書相談室 疾風怒濤完結編 2008.10 * 作家の読書道3 2010.5 * 完全復刻版「本の雑誌」創刊号〜10号BOXセット 2015.5 * この作家この10冊 2015.8 * ベスト10本の雑誌 2017.5 * 絶景本棚 [[中村規]]写真 2018.2 * ニッポンの本屋 2018.5 * 旅する本の雑誌 2018.7 *下戸の夜 2019.6 *働くわたし 2019.8 *この作家この10冊 PART2 2019.10 *手のひら1 問いからはじまる 2020.03 *つくるたべるよむ 2020.03 *絶景本棚2 [[中村規]]写真 2020.08 *手のひら2 問いからはじまる 2020.12 *社史・本の雑誌1 本の雑誌風雲録 2021.06 **『本の雑誌』創刊45周年を記念して、目黒考二「本の雑誌風雲録」と椎名誠「本の雑誌血風録」を収録。また、表紙一覧や和田誠・装丁劇場をカラーで掲載し、45年目の特別寄稿や社員鼎談、写真館、年譜等も併載する。 *社史・本の雑誌2 付録の本の雑誌 2021.06 **カラーグラフ 表紙の本の雑誌/和田誠・装丁劇場/本の雑誌の45年/本の雑誌写真館/再録・節目の本の雑誌 など *本屋、ひらく 2023.5 == 関係者と助っ人 == 『本の雑誌』の創刊は、椎名、目黒の他に、当時『[[漫画アクション]]』編集者の[[本多健治]](のちに[[双葉社]]取締役)もかかわっていた。また、最初に採用された社員は木原ひろみ(のちの[[群ようこ]])一人だった。 初期の『本の雑誌』は、契約書店への直接持ち込みにより配本されていた。目黒によって組織された学生たちの配本部隊は、アルバイトではなく「助っ人」と呼ばれた。 のちの[[マガジンハウス]]編集者で、女優[[本上まなみ]]の夫である[[沢田康彦]]も助っ人出身。また、お笑い演芸専門誌『[[カジノフォーリー]]』の編集長を務めた、[[竹本幹男]]も助っ人出身。 助っ人出身者は他に、[[白夜書房]]営業部[[藤脇邦夫]]、写真家の[[上原ゼンジ]]、翻訳家の[[那波かおり]]、[[岩本正恵]]、絵本作家の[[本下いづみ]]、ジャズ評論家の[[富澤えいち]]、書評家の[[吉田伸子]]、イラストレーターの[[福井若恵]]、[[小学館]]の編集者の[[徳山雅記]]([[ステレオグラム]]本を多数刊行。現「[[ドラえもん]]ルーム」担当)、編集者・ライターの河上進([[南陀楼綾繁]])、落語家の[[柳家喬之助]]などがいる。上原と吉田はのち、本の雑誌社の社員になった。 当時の助っ人にアルバイト代は出ず、見返りは、出前をとって空腹を満たすことであった<ref name="名前なし-rKWZ-1"/>。 === その他の関係者 === {{Div col|cols=3}} * [[菊池仁]] - 書評家 * [[野田知佑]] - 作家、カヌーイスト * [[馳星周]] - 作家。別名義で書評掲載。 * [[中村征夫]] - 写真家 * [[佐藤秀明 (写真家)|佐藤秀明]] - 写真家 * [[太田和彦]] - 59号より表紙デザイン担当 * [[中場利一]] - 「本の雑誌」が育てた作家 * [[植上由雄]] - 「本の雑誌」が育てた作家 * [[杉江由次]] - 本の雑誌社営業部長。NPO法人「[[本屋大賞]]実行委員会」事務局担当 {{Div col end}} == 実話の漫画化 == 椎名誠と目黒考二が中心となって『本の雑誌』を立ち上げる経緯を描く漫画『黒と誠』([[カミムラ晋作]]著)が、2022年7月から[[双葉社]]のWeb文芸マガジン「[[カラフル]]」で連載開始された。 双葉社には、『漫画アクション』編集部の本多健治が、かつて『本の雑誌』の創刊に関わっていたこと、『黒と誠』の企画を担当した編集者が、学生時代に本の雑誌社の助っ人だったという縁がある。<ref>https://twitter.com/kamimurake/status/1547511153382699009</ref>。 == 参考文献 == * 目黒考二『本の雑誌風雲録』本の雑誌社 1985.5 - 本の雑誌の創刊までと、初期の「助っ人部隊」との交流の記録。 * 群ようこ『別人「群ようこ」のできるまで』[[文藝春秋]] 1985.12 - 群ようこが「本の雑誌社」に勤務して、[[エッセイスト]]になるまでの記録。 * 椎名誠『本の雑誌血風録』[[朝日新聞社]] 1997.5 - [[サラリーマン]]だった椎名等が『本の雑誌』を創刊するまでを描く。 * 椎名誠『新宿熱風どかどか団』朝日新聞社 1998.9 -『本の雑誌』創刊から、椎名他のメンバーがメジャーになっていく様を描く。 * 本の雑誌編集部編『社史・本の雑誌 創刊45周年記念』2021.6 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[青木まりこ現象]] - 41号(1985年)《いま書店界を震撼させる「青木まりこ現象」の謎と真実を追う》初出 == 外部リンク == * [http://www.webdoku.jp/ WEB本の雑誌 / 本の雑誌公式サイト] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほんのさつししや}} [[Category:日本の出版社]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:椎名誠|他]]
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カメラ
カメラ(英: camera、独: Kamera)は、写真(や映像)を撮影するための光学的な機械や装置。 写真機(しゃしんき、寫眞機)ともいう。 光学的に像を結ぶための光学系(レンズ等)を持ち、スチール写真(静止画)や映像(動画)を撮影するための装置である。高機能なスマートフォン(携帯電話)などに搭載されている静止画・動画撮影兼用の「カメラモジュール」等を「カメラ」と呼ぶことも増えている。 もともとの語源であるラテン語のcameraは「小さな部屋」を意味し、カメラの由来である「カメラ・オブスクラ」の「オブスクラ」(やはりラテン語で、obscura)は「暗い」という意味で、画家が風景画を描く際に用いた暗室に由来する(#歴史参照)。 カメラは基本的に、遮光されたボディ(暗箱)に、 を取り付けた物であり、レンズには通常、絞りが組み込まれている。 被写体からの光を集めて一点に像を結ぶようにするもので、カメラの基本的な要素部品である。 レンズからの光量を調節するための機構を絞りという。 カメラで写る範囲を確認するための窓をファインダーという。 撮影範囲を知るためのビュー・ファインダー(ファインダー)を、撮影用レンズと独立させて取り付けたものをビュー・ファインダー・カメラという。構造が簡単なため、安価なカメラに使用される。ファインダーには簡単なレンズが使用されることが多いが、ライカMシリーズのように、距離計と組み合わせて精密な焦点調節を可能にしているものもある。これらは距離計連動式カメラ(レンジファインダーカメラ)と呼ばれる。また、フィルムカメラにおいては、一眼レフカメラ・二眼レフカメラに対しコンパクトカメラと呼ぶ。 この形式の不可避の欠点として、撮影用レンズとファインダーが独立していることによるパララックス(視野の誤差)が生じるが、ほとんどの距離計連動式カメラにはパララックス補正装置が組み込まれている。またビュー・ファインダー・カメラは、その視差の為に極端な近接撮影には向かない。 2019年1~12月期のデジカメ世界出荷台数に関して、カメラ映像機器工業会(CIPA)の発表によると(前年同期比21.7%減の)1521万台だったとされた。種類別の内訳では、コンパクト型が(22%減の)675万台、一眼レフが(32%減の)450万台だった。2019年時点でミラーレスカメラの出荷台数が395万台でデジタルカメラ全体の26%を占めた。 2020年は、カメラ映像機器工業会(CIPA)の発表によると、(スマホの影響に加えて)コロナ禍によるイベント中止や外出自粛がデジタルカメラの出荷台数にも大きく影響し、世界出荷台数が(19年比42%減の)888万台だった。機種別ではミラーレスが293万台(26%減)、一眼レフは237万台(前年比47%減)であった。 カメラの原理は、写真術の発明以前から知られていた。16世紀、画家が風景画を描く際、壁面に小さな穴を空け、反対側の壁面に外の景色が映し出されるという暗室(カメラ・オブスクラ)が利用された。のちにカメラ・オブスクラには小穴の代わりにレンズが取り付けられ、より鮮明な像が得られるようになった。さらに反射鏡によって箱の上面に像を結ばせるようにした小型のカメラ・オブスクラが作られた。これは絵画における遠近画法の確立に寄与したと言われている。 1824年、ニセフォール・ニエプスが世界初の写真である「ヘリオグラフィ」を発明。携帯型カメラ・オブスキュラの画像が定着できるようになった。1839年8月19日にはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが初の実用的写真術「ダゲレオタイプ」を発表。その後のカメラは、写真とともに発展していった。 19世紀末までに、記録媒体として写真フィルムが普及し、コンパクトで手軽に写真が撮影できるカメラが大衆化する。1950年代まではイギリスやドイツ、アメリカ合衆国が世界市場を牽引していたが、1970年代以降は、日本製のカメラが世界市場を席巻する。1963年(昭和38年)には、露出を自動化したAEカメラが現れた。さらに1977年(昭和52年)には、オートフォーカス機構が実用化され、構図を決めてシャッターを押すだけで写真が撮れるのが当たり前の時代になった。 2000年(平成12年)ごろから、従来の銀塩フィルム上の化学反応による撮影画像の記録ではなく、撮像素子(CCDなど)からの電気信号をデジタルデータ化して記録するデジタルカメラが普及し始める。その後デジタルカメラは勢力を伸ばし、ついには従来のフィルムカメラを駆逐する勢いとなって、それに伴いフィルムカメラ関連の事業は縮小していった。 フィルムや印画紙などの感光材料を利用したカメラで、フィルム式カメラやインスタントカメラなどデジタルカメラ以外のほとんどのカメラが銀塩カメラにあたる。銀塩は感光材料の主たる原料に銀や塩素の化合物が用いられていることに由来する。 銀塩写真では撮影時に光を銀や塩素の化学反応として記録し、それを別の化学反応によって目に見える形に変化させる現像の処理が必要なため画像が出来上がるまでに時間がかかる。また、銀塩写真では撮影するたびにフィルムを消費するためコストが比較的高くなる。 一方で銀塩写真は化学反応の強弱に応じた細かい諧調表現が可能なことや現像のプロセスを楽しむ目的などから未だに人気がある。 デジタルカメラは、銀塩などの化学的な感光材料のかわりに、感光を電気信号に変換する部品(撮像素子)を用いたカメラである。いわゆる電子ガジェット類に機能の一つとして付属している場合もある。 デジタルカメラはモニター画面を通して撮影後すぐに結果を見ることができ、色や画像のデジタル処理も容易に行うことができる。また、デジタルカメラは撮影のみの場合にはほとんどコストがかからないなどの利点もある。コストを気にせず桁違いに多数撮影することができ、撮影したものは原則的に紙にはプリントせず、(コンピュータのHDDや外付けHDDなどに転送・蓄積させ)コンピュータの大きめで高精細のディスプレイで鑑賞するということが一般化している。 静止した写真の撮影用のカメラをスチルカメラという。 動画の撮影用のカメラをムービーカメラ(シネマカメラ、シネカメラ)という。 銀塩式(フィルム式)のムービーカメラの場合は小さいコマにフィルムを連続的に供給して記録する必要がある。 デジタル式の場合はスチールとよく似た仕組みでムービーの機能も実現できることから、多くのデジタルカメラは短時間の動画を撮影する機能を持つ。 コンパクトタイプのカメラは撮影の機能はシンプルに抑え持ち運びに便利なようにしたカメラである。 一眼レフカメラとは、フィルムに写る画像を鏡を使って反射(レフレックス)し、それをスクリーンに投影してそのままファインダー像とするカメラ。撮影用レンズとフイルムとの間に45°の反射鏡(レフレクター)を配し、フィルム上と同等の画像を上方(一部のカメラにあっては側方)のピントグラス上に結像させ、確認できるようにしたカメラである。シャッターを開く際は、反射鏡が移動されてフィルム面へと光路が切り替わる。 撮影レンズと同じ焦点距離のレンズによるレフレックス型ファインダーのカメラ。一眼レフカメラと同様に45°の反射鏡を使って、本体上部のピントグラス上にファインダー像を得る方式だが、撮影用レンズと同等のファインダー用レンズが別に存在するカメラである。ファインダーに映る像は左右が反転する。ビュー・ファインダー式と同様に視差を生じる。 製造者・使用者双方の利便性の為にフィルムの種類は規格化されており、規格ごとに概ね以下のように分類できる(なお、例えば以下では110を「超小型」に分類しているが、「小型」に分類されることも多いと思われるように、厳密な分類があるわけではない)。 多くは35mmフィルムを使うカメラ。画面フォーマットとしてはライカ判(24×36mm判)が主流だが、一コマ分を長手方向に半分にして使用する35mmハーフ判もある。また、126カートリッジ・フィルム、APSフィルム(IX240)を使うカメラも小型カメラに分類される。 中型カメラに分類される中判カメラは、120フィルムまたは220フィルム(ブローニーフィルム)を使うカメラ。画面フォーマットとしては、6×4.5cm判、6×6cm判、6×7cm判、6×8cm判、6×9cm判、6×12cm判、6×17cm判などがあるが、実際の画面サイズはカメラによって違う事もある。 大型カメラに分類される大判カメラは、4×5インチ以上で、一般に、ロールフィルムではなくいわゆるシートフィルムである。4×5in判、5×7in判、8×10in判など。 16mmフィルムやミノックス・サイズのフィルムを使うカメラ。戦前から戦後に流行した豆カメラや、110カートリッジ・フィルムを使うカメラ(ポケットカメラと呼ばれていた)等。ギネスブック等で「一般市販された世界最小の(フィルム)カメラ」とされるのは、1948年から日本の「聖ペテロ光学」により少数が製造された円形カメラ「ペタル」(Petal 直径29mm・厚さ16mm・重量60g。専用24mm円形フィルム6枚撮り)。 以下は、撮影方式・用途、その他による分類である。 三脚は、重量のあるカメラ・レンズやスローシャッターの使用、長時間露光(夜景・花火、天体写真など)、セルフタイマーで撮影者も写る場合などに使われる。三脚や一脚は、手ブレを防ぐのにも有効だが、使用の手間もかかるので、35ミリなどの小型カメラでは限られた場合にのみ用いられる。最近は、各社メーカーから、軽量のものが出され、大型のものは主流がカーボンファイバーを使用したものに移行してきている。 カメラに固定するねじは、主にインチねじであるUNC/4が使われ、まれにUNC/8が使われる。
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カメラは、写真(や映像)を撮影するための光学的な機械や装置。 写真機(しゃしんき、寫眞機)ともいう。
{{Otheruses}} [[ファイル:Nikonf.jpg|thumb|right|一眼レフカメラ、ニコンF。]] [[ファイル:中古カメラ(丹波市柏原町).jpg|thumb|right|カメラ店に並ぶさまざまなカメラ(一眼レフカメラ、レンジファインダーカメラなど)。]] [[ファイル:Sony_NEX-5.jpg|thumb|right|[[ミラーレス一眼カメラ]]の一例。]] [[File:US_Navy_040615-N-6817C-030_A_camera_crew_sets_up_for_scenes_to_be_taped_on_the_flight_deck_for_the_upcoming_motion_picture_Stealth.jpg|thumb|right|映像撮影用([[映画]]などの撮影用)のカメラの一例。]] '''カメラ'''({{lang-en-short|camera}}、{{lang-de-short|Kamera}}){{refnest|group="注釈"|「カメラ」を「キャメラ」と呼ぶ事もあるが、これは英語の発音から来たものである<ref>[https://proscrew.co.jp/information/1673/ キャメラマン、、、キャ!?] - 株式会社プロスクルー 2023年11月19日閲覧。</ref>。}}は、[[写真]](や映像)を[[撮影]]するための光学的な機械や装置<ref> 『日本大百科全書』【カメラ】</ref>。 '''写真機'''(しゃしんき、寫眞機)ともいう。 == 概説 == {{出典の明記|date=2023年3月}} [[光学]]的に像を結ぶための[[光学]]系([[レンズ]]等)を持ち、スチール写真(静止画)や映像([[動画]])を撮影するための装置である。高機能なスマートフォン(携帯電話)などに搭載されている静止画・動画撮影兼用の「カメラモジュール」等を「カメラ」と呼ぶことも増えている。 ;語源 もともとの語源である[[ラテン語]]のcameraは「小さな[[部屋]]」を意味し、カメラの由来である「[[カメラ・オブスクラ]]」の「オブスクラ」(やはりラテン語で、obscura)は「暗い」という意味で、画家が風景画を描く際に用いた暗室に由来する([[#歴史]]参照){{要出典|date=2023年3月}}。 === 構造 === カメラは基本的に、遮光されたボディ(暗箱)に、 # [[レンズ]] # [[シャッター (カメラ)|シャッター]] # [[ファインダー]] # [[焦点調節装置]] # [[撮像素子]]等 を取り付けた物であり、レンズには通常、[[絞り (光学)|絞り]]が組み込まれている。 ==== レンズ ==== {{See also|レンズ}} 被写体からの光を集めて一点に像を結ぶようにするもので、カメラの基本的な要素部品である。 ==== 絞り ==== {{See also|絞り (光学)}} レンズからの光量を調節するための機構を絞りという<ref name="01-09" />。 ==== ファインダー ==== {{See also|ファインダー}} カメラで写る範囲を確認するための窓をファインダーという<ref name="01-09" />。 [[ファイル:Leica III lightmeter IMG 0310.jpg|thumb|right|[[ライカ]]M3]] 撮影範囲を知るためのビュー・ファインダー(ファインダー)を、撮影用レンズと独立させて取り付けたものをビュー・ファインダー・カメラという。構造が簡単なため、安価なカメラに使用される。ファインダーには簡単なレンズが使用されることが多いが、[[ライカのレンジファインダーカメラ製品一覧#M型ボディー|ライカMシリーズ]]のように、距離計と組み合わせて精密な焦点調節を可能にしているものもある。これらは距離計連動式カメラ([[レンジファインダーカメラ]])と呼ばれる。また、フィルムカメラにおいては、一眼レフカメラ・二眼レフカメラに対し[[コンパクトカメラ]]と呼ぶ。 この形式の不可避の欠点として、撮影用レンズとファインダーが独立していることによる[[パララックス]](視野の誤差)が生じるが、ほとんどの距離計連動式カメラにはパララックス補正装置が組み込まれている。またビュー・ファインダー・カメラは、その視差の為に極端な近接撮影には向かない。 === 出荷統計 === 2019年1~12月期のデジカメ世界出荷台数に関して、カメラ映像機器工業会(CIPA)の発表によると(前年同期比21.7%減の)1521万台だったとされた。種類別の内訳では、コンパクト型が(22%減の)675万台、一眼レフが(32%減の)450万台だった。2019年時点で[[ミラーレス一眼カメラ|ミラーレスカメラ]]の出荷台数が395万台でデジタルカメラ全体の26%を占めた。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55167310T00C20A2X20000/ 日本経済新聞「2019年のデジカメ出荷、22%減の1521万台に」]</ref> 2020年は、カメラ映像機器工業会(CIPA)の発表によると、(スマホの影響に加えて)[[コロナ禍]]によるイベント中止や外出自粛がデジタルカメラの出荷台数にも大きく影響し、世界出荷台数が(19年比42%減の)888万台だった。機種別ではミラーレスが293万台(26%減)、一眼レフは237万台(前年比47%減)であった。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ303W20Q1A130C2000000/ 日本経済新聞「デジカメ、20年世界出荷42%減 一眼をミラーレスが抜く」</ref>  == 歴史 == {{Main|カメラの歴史}} [[ファイル:Camera obscura box.jpg|thumb|right|220px|レンズと鏡を用いた携帯式[[カメラ・オブスクラ]]。これがのちの写真機の原型になった]] カメラの原理は、写真術の発明以前から知られていた。16世紀、画家が風景画を描く際、壁面に小さな[[穴]]を空け、反対側の壁面に外の[[景色]]が映し出されるという暗室([[カメラ・オブスクラ]])が利用された<ref name="01-09">{{Cite web|和書|url=http://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/products/ricoh-filmcamera_lib/technique/pdf/01-09.pdf |title=カメラと写真がわかる本 |publisher=RICOH|accessdate=2020-07-02}}</ref>。のちにカメラ・オブスクラには小穴の代わりにレンズが取り付けられ、より鮮明な像が得られるようになった<ref name="01-09" />。さらに[[反射鏡]]によって箱の上面に像を結ばせるようにした小型のカメラ・オブスクラが作られた{{要出典|date=2023年3月}}。これは絵画における[[遠近法|遠近画法]]の確立に寄与したと言われている{{要出典|date=2023年3月}}。 [[1824年]]、[[ニセフォール・ニエプス]]が世界初の写真である「ヘリオグラフィ」を発明{{要出典|date=2023年3月}}。携帯型カメラ・オブスキュラの画像が定着できるようになった<!-- 静止画記録しか手段がなかったと -->。[[1839年]][[8月19日]]には[[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール]]が初の実用的写真術「[[ダゲレオタイプ]]」を発表{{要出典|date=2023年3月}}。その後のカメラは、写真とともに発展していった。 [[19世紀]]末までに、[[メディア (媒体)|記録媒体]]として[[写真フィルム]]が普及し{{要出典|date=2023年3月}}、コンパクトで手軽に写真が撮影できるカメラが大衆化する。[[1950年代]]までは[[イギリス]]や[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国]]が世界市場を牽引していたが、[[1970年代]]以降は、[[日本]]製のカメラが世界市場を席巻する{{要出典|date=2023年3月}}。[[1963年]]([[昭和]]38年)には、[[露出 (写真)|露出]]を自動化した[[AEカメラ]]が現れた{{要出典|date=2023年3月}}。さらに[[1977年]](昭和52年)には、[[オートフォーカス]]機構が実用化され{{要出典|date=2023年3月}}、構図を決めてシャッターを押すだけで写真が撮れるのが当たり前の時代になった。 [[2000年]]([[平成]]12年)ごろから、従来の銀塩フィルム上の[[化学反応]]による撮影画像の記録ではなく、撮像素子([[CCD]]など)からの電気信号をデジタルデータ化して記録する[[デジタルカメラ]]が普及し始める。その後デジタルカメラは勢力を伸ばし、ついには従来のフィルムカメラを駆逐する勢いとなって、それに伴いフィルムカメラ関連の事業は縮小していった。 == 種類 == [[ファイル:Hasselblad 500 CM.jpg|thumb|right|[[ハッセルブラッド]] 500 C/M]] === 銀塩式とデジタル式 === ==== 銀塩カメラ ==== [[写真フィルム|フィルム]]や[[印画紙]]などの感光材料を利用したカメラで、フィルム式カメラや[[インスタントカメラ]]などデジタルカメラ以外のほとんどのカメラが銀塩カメラにあたる<ref name="global">{{Cite web|和書|url=https://global.canon/ja/technology/kids/pdf/m_03_02.pdf |title=カメラにはいろいろある |publisher=CANON|accessdate=2020-07-02}}</ref>。銀塩は感光材料の主たる原料に銀や塩素の化合物が用いられていることに由来する<ref name="global" />。 銀塩写真では撮影時に光を銀や塩素の化学反応として記録し、それを別の化学反応によって目に見える形に変化させる現像の処理が必要なため画像が出来上がるまでに時間がかかる<ref name="global" />。また、銀塩写真では撮影するたびにフィルムを消費するためコストが比較的高くなる<ref name="global" />。 一方で銀塩写真は化学反応の強弱に応じた細かい諧調表現が可能なことや現像のプロセスを楽しむ目的などから未だに人気がある<ref name="global" />。 ==== デジタルカメラ ==== {{Main|デジタルカメラ|デジタル写真}} デジタルカメラは、銀塩などの化学的な感光材料のかわりに、感光を電気信号に変換する部品([[撮像素子]])を用いたカメラである<ref name="global" />。いわゆる電子ガジェット類に機能の一つとして付属している場合もある。 デジタルカメラはモニター画面を通して撮影後すぐに結果を見ることができ、色や画像のデジタル処理も容易に行うことができる<ref name="global" />。また、デジタルカメラは撮影のみの場合にはほとんどコストがかからないなどの利点もある<ref name="global" />。コストを気にせず桁違いに多数撮影することができ、撮影したものは原則的に紙にはプリントせず、(コンピュータの[[HDD]]や外付けHDDなどに転送・蓄積させ)コンピュータの大きめで高精細のディスプレイで鑑賞するということが一般化している。 === スチルカメラとムービーカメラ === ==== スチルカメラ ==== 静止した写真の撮影用のカメラをスチルカメラという<ref group="注釈">{{Lang|en|still camera}}。{{Lang|en|still}}=静止した、動かない、の意。</ref><ref name="global" />。 {{See|スチル写真}} ==== ムービーカメラ ==== 動画の撮影用のカメラをムービーカメラ(シネマカメラ、シネカメラ)という<ref name="global" />。 銀塩式(フィルム式)のムービーカメラの場合は小さいコマにフィルムを連続的に供給して記録する必要がある<ref name="global" />。 デジタル式の場合はスチールとよく似た仕組みでムービーの機能も実現できることから、多くのデジタルカメラは短時間の動画を撮影する機能を持つ<ref name="global" />。 {{See|ビデオカメラ|映画用カメラ}} === コンパクトカメラとレフカメラ === ==== コンパクトカメラ ==== コンパクトタイプのカメラは撮影の機能はシンプルに抑え持ち運びに便利なようにしたカメラである<ref name="global" />。 ==== 一眼レフカメラ ==== {{Main|一眼レフカメラ}} 一眼レフカメラとは、フィルムに写る画像を鏡を使って反射(レフレックス)し、それをスクリーンに投影してそのままファインダー像とするカメラ<ref name="01-09" />。撮影用レンズとフイルムとの間に45°の反射鏡(レフレクター)を配し、フィルム上と同等の画像を上方(一部のカメラにあっては側方)のピントグラス上に結像させ、確認できるようにしたカメラである。シャッターを開く際は、反射鏡が移動されてフィルム面へと光路が切り替わる。 ==== 二眼レフカメラ ==== {{Main|二眼レフカメラ}} 撮影レンズと同じ焦点距離のレンズによるレフレックス型ファインダーのカメラ<ref name="01-09" />。一眼レフカメラと同様に45°の反射鏡を使って、本体上部のピントグラス上にファインダー像を得る方式だが、撮影用レンズと同等のファインダー用レンズが別に存在するカメラである。ファインダーに映る像は左右が反転する<ref name="01-09" />。ビュー・ファインダー式と同様に視差を生じる。 === フィルムの大きさによる分類 === 製造者・使用者双方の利便性の為にフィルムの種類は規格化されており、規格ごとに概ね以下のように分類できる(なお、例えば以下では110を「超小型」に分類しているが、「小型」に分類されることも多いと思われるように、厳密な分類があるわけではない)。 ==== 小型カメラ ==== 多くは[[35mmフィルム]]を使うカメラ。画面フォーマットとしてはライカ判(24×36mm判)が主流だが、一コマ分を長手方向に半分にして使用する[[ハーフサイズカメラ|35mmハーフ判]]もある。また、[[126フィルム|126カートリッジ・フィルム]]、[[アドバンストフォトシステム|APSフィルム]](IX240)を使うカメラも小型カメラに分類される。 ==== 中型カメラ ==== {{Main|中判カメラ}} 中型カメラに分類される[[中判カメラ]]は、[[120フィルム]]または220フィルム(ブローニーフィルム)を使うカメラ。画面フォーマットとしては、6×4.5cm判、6×6cm判、6×7cm判、6×8cm判、6×9cm判、6×12cm判、6×17cm判などがあるが、実際の画面サイズはカメラによって違う事もある。 ==== 大型カメラ ==== {{Main|大判カメラ}} 大型カメラに分類される[[大判カメラ]]は、4×5[[インチ]]以上で、一般に、ロールフィルムではなくいわゆる[[シートフィルム]]である。4×5in判、5×7in判、8×10in判など。 ==== 超小型カメラ ==== {{Main|超小型写真}} [[16mmフィルム]]や[[ミノックス]]・サイズのフィルムを使うカメラ。戦前から戦後に流行した豆カメラや、110カートリッジ・フィルムを使うカメラ([[ポケットカメラ]]と呼ばれていた)等。[[ギネス世界記録|ギネスブック]]等で「一般市販された世界最小の(フィルム)カメラ」とされるのは、1948年から日本の「聖ペテロ光学」により少数が製造された円形カメラ「ペタル」(Petal 直径29mm・厚さ16mm・重量60g。専用24mm円形フィルム6枚撮り)。 === その他の分類 === <!---[[ファイル:Housing.jpg|thumb|一眼レフ用水中ハウジング]]---> 以下は、撮影方式・用途、その他による分類である。 * [[インスタントカメラ]] ** [[ポラロイド]]カメラ ** [[インスタントカメラ・チェキ|チェキ]] * [[パノラマカメラ]] * [[ビューカメラ]] * [[ステレオカメラ]] (立体カメラ) * [[ピンホールカメラ]] * スリットカメラ * [[トレイルカメラ]] * 医療用カメラ ** X線カメラ([[X線撮影|X線写真]]) ** 胃カメラ([[内視鏡]]) * [[製版]]カメラ * [[ディスクカメラ]] * 航空カメラ * [[水中カメラ]] * [[工事カメラ]] * [[レンズ付きフィルム]](使い切りカメラ) * [[レンジファインダーカメラ]] * [[AEカメラ]] * [[トイカメラ]] * [[ハーフサイズカメラ]] * [[キッズカメラ]] == 三脚・一脚 == {{Main|三脚|一脚}} [[三脚]]は、重量のあるカメラ・レンズや[[スローシャッター]]の使用、長時間露光(夜景・[[花火]]、[[天体写真]]など)、[[セルフタイマー]]で撮影者も写る場合などに使われる。三脚や[[一脚]]は、[[手ブレ]]を防ぐのにも有効だが、使用の手間もかかるので、35ミリなどの小型カメラでは限られた場合にのみ用いられる。最近は、各社メーカーから、軽量のものが出され、大型のものは主流が[[カーボンファイバー]]を使用したものに移行してきている。 カメラに固定する[[ねじ]]は、主に[[インチ#インチねじ|インチねじ]]である[[ねじ#標準規格|UNC]]<sup>1</sup>/<sub>4</sub>が使われ、まれにUNC<sup>3</sup>/<sub>8</sub>が使われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|カメラ}} {{Wiktionary}} {{Commonscat|Cameras}} * [[写真]] * [[写真レンズ]] * [[被写界深度]] - [[マニュアルフォーカス]] / [[オートフォーカス]] * [[ボケ (写真)]] * [[写真フィルム]] - [[ISO感度]] * [[家電量販店]] - [[ヨドバシカメラ]]、[[ビックカメラ]]等といった、写真関連用品の販売に由来する大手量販店 * [[カメラ小僧]] * [[カメラ付き携帯電話]] == 外部リンク == * {{Cite web |author = 一般社団法人[[カメラ映像機器工業会]] |date = |url = http://www.cipa.jp/ |title = CIPA:INDEX |work = <!-- 作品名 --> |publisher = <!-- ウェブサイトを設置している組織・団体・企業・官公庁など --> |accessdate = 2012-01-08 }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = http://www.jcii-cameramuseum.jp/ |title = 日本カメラ博物館 JCII Camera Museum |work = <!-- 作品名 --> |publisher = <!-- ウェブサイトを設置している組織・団体・企業・官公庁など --> |accessdate = 2012-01-08 }} * {{Kotobank}} {{写真}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かめら}} [[Category:カメラ|*]]
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PHS
PHS(ピーエイチエス、英: personal handy-phone system)とは、無線通信により、移動した先で長距離間の通信を行うシステム、またその電話機自体や、それによる移動体通信サービスのことを指す。日本発の通信規格でパケット通信、カメラ付端末、スライド式キーボードの装備などは、携帯電話に先行してPHSの端末において実用化された技術である。 PHSは無線機の一種であるため、日本では電波法により規制されている。日本国内で一般に流通しているPHSは、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 日本では1995年7月1日に東京・北海道地区でサービスが開始され、2023年3月31日にPHSの音声通話・データ通信サービスはすべて終了した。 2006年には全世界で契約件数が1億件となったが、そのほとんどは固定電話網の代替として普及した中国で、のちに中国政府がPHSの電波を携帯電話に割り当てる方針をとったことで日本国外のPHS市場も縮小していった。 通信手段として、電話機(端末)と基地局との間は有線通信の通信線路(電話線など)を用いずに電波による無線通信を利用する。マルチチャネルアクセス無線技術の一種でもある。 PHSは基本的に、屋外で事業者の基地局に接続し、移動先で電話として利用可能であった。そのほか、企業や家庭の内線でコードレス電話の子機として利用可能である。ただし、子機を親機やシステムに登録する必要がある。前者は公衆PHS、後者は自営PHSと区別された(後述)。 開発当初からデジタル無線方式を採用し、第二世代携帯電話と無線アクセスとの間の中間的な性能を持っていた。開発名称は第二世代デジタルコードレス電話であり、第三者が広帯域受信機で通話の内容を聞くことが難しいデジタル方式とし、企業や家庭では内線コードレス電話の子機として、屋外では簡易な基地局により公衆交換電話網に接続する発想で作られた、日本発の規格であった。 当初は「personal handy phone」の略でPHPと呼ばれたが、松下グループの関連会社であるPHP研究所と紛らわしいことから、1994年4月22日に呼称をPHSに変更すると発表。PHPからPHSに呼称が変更された際に、PHSを「ピーエイチエス」、あるいは簡略化して「フォス」と呼ぶとする発表があった。前者は事業者や報道関係でも広く知られ広まり、後者は定着しなかった。のちに若者、特に女子高生らに「ピッチ」の呼び方が広がり始め、その影響を受けて、1999年以降には移動体通信事業者もコマーシャルメッセージやパンフレットでこの呼称を用いるようになった。 1990年代後半から、中国のほか台湾、タイ、ベトナムなどアジアの中進国各国でも一定の普及を見、世界で2006年10月時点で約1億台とされた。「PHS」ではない現地特有の名称等も定着しており、小霊通、PAS(Personal Access System)、CityPhone などとも呼ばれていた。一部の中進国・発展途上国の電話回線が導入されていない地域では、固定電話の代替としてPHSが住民に普及し、また事業者が無線による固定電話回線(PHS FWA、TDD-TDMAを採用)として導入することもあった。また国際展開と併せて、2003年4月には日本事業者のDDIポケットと台湾やタイとの間でPHS事業者同士の国際ローミングサービスも開始された。 日本では2000年代から2010年代にかけ、アステルやNTTドコモPHSなど、公衆サービスから早々に撤退する事業者が相次ぐ中でDDIポケットは独自の展開を見せ、端末の高度化や高速化、各種定額制の導入など奮闘するも、2010年代のスマートフォンやLTEなどの普及に押され徐々に公衆サービスは縮小へと向かった。 2018年3月31日に、全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。サービス提供中のY!mobile(ソフトバンク・ウィルコム沖縄)は、法人向けテレメトリング以外の既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日に終了する予定であると発表していたが、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了が2021年1月31日に延期され、そして同日にサービス提供終了した。法人向けテレメトリングのサービスは、2023年3月31日に終了した。 香港では2013年4月にPHSサービスが終了・停波し、2016年5月10日から日本製を含むPHS端末の所持または使用に対しては2年以下の禁錮または5万香港ドル以下の罰金に処される。台湾でも2015年3月にPHSサービスが終了して停波した。中国は「小霊通」サービスが2014年12月31日をもってサービス終了した。なお、PHS端末に限らず無線機器の利用は各国ごとに無線の帯域や仕様が異なっており、許可制であるため、無線機器を不用意に国外へ持ち出し、または国外から持ち込んで使用すると、その国の法令により、処罰される場合がある。 なお、ヨーロッパにおけるPHS相当の移動体通信規格としては、DECTが主流である。DECT規格は「デジタルコードレス電話の新方式」として日本国内にも導入済みで利用可能である。さらに自営用PHSシステムの代替としては2010年代後半からVoLTE/sXGPによるシステムが検討され導入も一部始まっている。 PHSの主な特長を列挙。 日本国内においては、携帯電話と比較した場合、以下の特徴があった。 基地局の送信出力が携帯電話で最大25Wに対し、PHSは公衆用基地局で最小20mW - 最大500mWと小さい。そのため、基地局を多数設置して、利用可能なエリアを確保する方法が取られる。 基地局の出力が小さく、設置コストが安価なことから、地下街や地下鉄の駅構内など、地上と比較して狭い空間へのエリア展開が、1995年のサービス開始当初から実施されている(携帯電話が日本の地下鉄駅構内で利用可能になり始めたのは、2000年頃からである)。 PHSと携帯電話の最大の違いは、一つの基地局がカバーするエリアの広さの違いである。携帯電話は一つの基地局で半径数km以上をカバーしており「マクロセル」と呼ばれていたが、PHSは当初、半径100m以下 - 最大でも500m程度であり「マイクロセル」と呼ばれていた。鉄塔の建設を行うなど、大がかりな携帯電話の基地局に対して、PHSの基地局は、電柱や構内の天井や壁面などに小型の基地局装置を設置するだけであるため工事が容易・低コストである。反面、基地局あたりのカバーエリアが狭いため多数の基地局を設置する必要がある。 このマイクロセル方式により周波数の空間的再利用が可能であり、1基地局あたりのカバーエリアを小さくして、同一周波数の再利用が容易になるため、周波数の利用効率が高い特長を持つ。3G以降の携帯電話でも、都市部の高トラフィックエリアでは、マイクロセル方式を採用している場合がある。この方式により基地局一台あたりのトラフィックは携帯電話に比べ余裕があり、早い時期からパケット定額や音声通話定額などの定額サービスを開始できた。 端末の出力も携帯電話で最大200mW程度に対し、PHSはバースト内平均電力で80mW(送信平均電力は10mW)。よって基地局側に高い利得のアンテナが要求される一方で、端末側の消費電力は抑えられている。これにより、待受け・通信(通話)時ともに電池はより長持ちするとされていた。2000年代以降は、PHS端末の高機能化に伴い消費電力が増加、携帯電話の通信規格改良や電池の大容量化などにより、音声端末における差異は小さくなっていった。 1995年のサービス開始当時において、当初主流の第二世代携帯電話(PDC)方式との比較では、音質が良い、データの転送速度が速いとされていた。第三世代携帯電話(3G)では転送速度の高速化や音質の改良がなされ通信性能面では追い抜いた一方、サービス料金は高額なままであった。そこを突いてトラフィックに余裕があるPHSはパケット通信や音声通話の定額制を先んじて導入した。さらにPHSにおいても高度化PHS、次世代PHS(後述)などによる高速化が図られた。 スタンダードなPHS方式においては、音声の符号化方式には32kbpsのADPCMを使用する。なお、高度化PHSであるウィルコム(当時)のW-OAM方式において、低速だがエラーに強いBPSKによる通話時は、音声符号化方式は13 - 16kADPCMとなっていた。 周波数帯は1.9GHz帯を使用。高度化PHSにおいては1.8GHz帯(1884.65 - 1893.65MHz)を追加で使用。通話用キャリアは、同帯域内においてFDMである。1つの通話用キャリア上に、複信・多元接続方式としてTDD-TDMAを採用する。1フレームを5msとし、これを625μsのスロット8つに分割する。TDDとして、前半4つのスロットを下り(送信、基地局→端末)、後半4つを上り(受信、端末→基地局)、として独立して使用するため、多重数は4となる。また、8スロットの内2スロットは制御スロットとして使用するため、1つの周波数(1つの通話用キャリア)で同時に使用できるのは3通話となる。1通話スロットあたりのトラフィックチャネル(通話チャネル)のデータレートは32kbpsであるため、64kbpsのデータ通信を行う場合には、送受信スロットを2つずつ束ねて使用する。 PHSを利用したデータ通信に関しては、サービス開始当初は、アナログ電話回線におけるモデムと同様に、PHSの音声通話チャネルに対してモデムによる変復調を適用する、いわゆる「みなし音声」という規格により無線データ通信が行われていた。これは、データをモデムによりアナログ音声に変復調したあと、再度その音声をADPCMにより変復調して伝送するというオーバーヘッドがあり、非効率でおおむね14400bps程度と低速だった。 のちにデータを直接PHSの通信チャネルに対し伝送する方式としてPIAFS仕様が策定された。詳細は同項目を参照。各事業者のPIAFS規格採用状況は、日本国内の全PHS事業者が採用するPIAFS1.0 、NTTドコモが採用するPIAFS2.0、ウィルコムと旧:アステル系事業者の一部が採用するPIAFS2.1、ウィルコムが採用するPIAFS2.2となっていた。 PIAFSは基本的に回線交換方式であり日本国内および国際的にも各PHS事業者で共通事項が多く、互換性も高かった。一方、ウィルコムの「AIR-EDGE」のパケット通信は、W-OAMを含めて独自方式により高速化を図っていた。詳細はエアーエッジの項目を参照。なお、エアーエッジのパケット通信についてはPIAFS策定事項に含まれていないが、2004年に国際展開を目的として同社がライセンス契約による仕様公開を行った。 通信チャネルとして1884.65 - 1919.75MHzを使用。制御チャネルは、1915.85 - 1918.55MHzを使用していたが、2012年に1906.25 - 1908.35MHzへずらされた。 通信チャネルを旧3グループで共有していたため、携帯電話とは事情が異なりアステル・ドコモ撤退によるウィルコム(現:ソフトバンク)への周波数の追加割り当てなどは発生していない。高度化PHS用帯域(W-OAM向け)も名目上は各社共有である。 この周波数帯は公衆PHSサービス終了後(前述)も、日本版DECT、sXGPなどで利用される予定である。 電話機は携帯電話と異なり、次の3つの基本動作モードがある。通常PHSという場合は「公衆モード」を指す。なお、2003年頃以降発売された端末では「自営モード」「トランシーバーモード」の動作モードの一部または全部を持たないものが主流になっていた。 端末によっては、上記3モードのうちの一部または全部を同時に(モード切替をせずに)待ち受けできる物もある。 PHSは規格に互換性があるため、たとえばA事業者用のPHS端末をB事業者の公衆PHSサービスに登録して利用するといったことも原則は可能であった。ただし、この場合は基本的な音声通話やデータ通信(PIAFS)などにサービスが限定され、事業者独自や仕様の異なるサービス(インターネット接続サービス、高速ハンドオーバー)などの機能は有効にならないのが通例であった。自営モードは自営規格が適合すれば、端末・自営基地局のメーカーに関わらず接続利用可能である。 屋内で電波が微弱となった場合に、中継用の簡易型基地局(いわゆるホームアンテナなど)を窓際などに設置して利用することもあった。中継用基地局は、端末からの無線接続を受け入れると同時に、公衆用基地局に対して無線接続を行い、電波の中継(再生中継方式)を行う。このうち、端末からの無線接続を公衆モードで行うものと、自営モードで行うものに分かれる。前者は中継用基地局の設置者以外の端末から利用される場合もあった。 初期のものを除きPHS端末は携帯電話端末と同様に、着信の際、発信者が非通知設定・通知不可能・公衆電話発信の回線などでなければ、ディスプレイに発信者番号が表示された(固定電話のナンバーディスプレイと同等の機能)。端末の電話帳機能に登録している番号に合致した場合は、登録した名前も表示できた。 日本では、i-mode端末など携帯電話端末の多機能化と前後する形で、2001年ごろからPHS端末も多機能化した。もっとも、携帯型移動体通信端末におけるテキストメッセージング(SMS)の先駆けは、1996年11月20日に開始のPHSのPメールサービス(旧:DDIポケット)であった。 インターネットに接続して電子メールや、ウェブが利用可能な端末も相次いで発売された(H"LINK、mopera、ドットi、CLUB AIR-EDGE など)。 カメラ付き携帯電話の普及に少し遅れる形で、普及層向けカメラ付きPHS端末(携帯電話と同様に端末にカメラを内蔵し静止画撮影が可能なもの)が発売された。動画撮影やテレビ電話に対応した機種は、スマートフォン時代到来以前のいわゆるフィーチャーフォン時代において、普及層向けPHSでは限定的であった。もっとも、世界で初めて市販されたカメラ付き携帯電話・PHSの先駆けは、1999年7月発売の京セラ製VisualPhone VP-210(旧:DDIポケット)であった。 PHSのマイクロセルの特徴を生かして、GPS等を利用せず基地局からの方位測定によりある程度の精度の位置情報を取得するサービスがサービス開始当初から構想され、実現されていた。これも移動体通信端末では先駆けであった。 2005年以降はスマートフォンに特化したPHS端末(スマートフォン端末にPHS通信機能を内蔵させたもの)が発売された。詳細はスマートフォンを参照。 公衆モードのネットワークの基盤は、日本国内はNTT東日本・NTT西日本のISDNを基盤にしている活用型(依存型)事業者と、独自に構築した接続型(独自型)事業者の2つがあった。アステル北海道・東北・北陸・中部・四国が接続型で、その他の事業者は全て活用型であった。旧:アステル関西・中国各地方の音声サービスは上述のように活用型だったが、定額制PHSデータ通信サービス「eo64エア」・「MEGA EGG 64」はいずれも接続型であった。 活用型PHSはNTT地域会社のD70加入者電話交換機にPHS接続装置(PSM:PHS-interface Subscriber Module)を接続し、PSMと基地局(CS)の間の通信にISDN回線が使用される。乱暴な言い方をすれば、既存のISDN網の末端にPSMやCSなどの設備を取り付けてシステムを構築したものである。自前のネットワークを構築するよりも短期間でサービスエリアを広げることが可能で初期の投資も抑えることができるが、回線やPSMの使用料が事業者に毎月発生する。その後全国的にNTTの統合型ノードシステム(MHN-S)へのPSM機能の統合がなされ、PSMの廃棄費用と引き替えにPSM使用料はなくなった。 活用型PHSは、システムがデジタル電話交換機に完全に依存しているため、公衆交換電話網自体のInternet Protocolを利用したNGNへの更改に伴い、活用型PHS事業者はPHSサービスの提供に重要な影響を及ぼす予定である。 接続型PHSは活用型PHSとは異なり、ISDN網ではなく地域系通信事業者の網を経由してNTT地域会社の市外系交換機(IC)または加入者交換機(GC)に接続する。NTTのネットワークを利用する部分が少なくて済み、PSMも不要である。NTTへの依存コストはない分、自前のネットワークの構築・維持コストがかかる。他の通信事業者とのローミングの整備も必要となる。 2000年代後半から2010年代初頭の動向として、市中の末端ネットワークを光回線とし、低コスト、高スループットを実現するもの(eo64エア、W-OAM typeG)や、基本は活用型でありながら、電話局間の幹線網をVoIPでバイパスし、コスト削減・高スループットを実現するもの(ウィルコム)も出た。 高度化PHSは、現行PHS規格の改良型で、高速無線アクセスシステム的性能を持つ。 「次世代PHS」(XGP:neXt Generation PHS)は「高度化PHS」とは別に、PHSのマイクロセル・自律分散などコンセプトを引き継ぎつつ、新たに構想、策定された規格である。従来のPHSとの互換性は全くない。略称「XGP」の正式名称が、neXt Generation PHSからeXtended Global Platformに改められた経緯もあった。旧:ウィルコムが主導し2009年4月27日に東京の一部エリア、同年10月1日に正式サービス開始、以降それをWireless City Planning(WCP)が継承したが、2012年1月31日にサービス終了。 さらに、WCPは、XGPの固定資産を活用して2011年11月1日にAXGPサービスを新たに開始。これも従来PHSおよび次世代PHS(XGP)との互換性は全くない。同年2月24日、グループ企業のソフトバンクモバイルがWCPのAXGPサービスをSoftBank 4GとしてMVNO提供開始。 日本国外ではデータ通信より通話がメインの利用者が多いため、日本とは方向性の違う高度化PHS規格である「ターボPHS」が提案され検討された。主な変更点として新制御チャンネルの設定、SMSの容量拡大、音声コーデックにAMRを追加、端末出力の高出力化などがあげられる(全てサービス終了)。 高度化PHSに関する2001年6月25日の総務省情報通信審議会の答申においては同時に、従来のPHS帯とIMT-2000帯域(日本における第三世代携帯電話用の帯域、2.0GHz帯)との干渉問題の解決のためPHSの公衆用共通制御キャリア(BCCH、単に制御チャネルとも呼ばれる)を低い周波数の方にずらす対策を取ることも示された。 なおIMT-2000側は、PHS帯と隣接するIMT-2000帯内の5MHz分がガードバンドとされ、相互の干渉抑止のため使用不可とされた。この部分はKDDI(au)帯域だったが、IMT-2000・2.0GHz帯参加2社(NTTドコモ・ソフトバンク)も当初は、公平を期するため同様に各社の5MHz分とも使用不可とされた。後にこれら2社のガードバンド帯域は外されている。前述のPHSの制御チャネル移行後に、KDDI(au)分の5MHzの帯域が使用可能となった。 具体的には、現行の公衆制御キャリア1915.85 - 1918.55MHzが、移行後は1906.25 - 1908.35MHzとなり、1915.85 - 1919.75MHzは移行期限後に使用できなくなった。移行期限は2012年5月31日。期限後は、制御キャリア移行に対応していない古いPHS端末は公衆モード端末としては使用できなくなった。旧:アステルグループ、ドコモPHSの端末はガードバンド移行非対応のため公衆モードにする事はできない(電波法違反となる)。 なお、制御キャリア移行対応が必要となるのは、移行期限後も存続する計画がある事業者の基地局および端末に限られた。2011年時点でPHS事業を行なっていた事業者は、以下の対応を取った。 日本では、電気通信役務の区分など法令上や公的な資料・統計では、PHSは携帯電話と明確に区別されている。一方で両者は公衆サービス上、相違点よりも類似点の方が大きいため、本項目のほか日本における携帯電話の項目も併せて参照のこと。 法令上の呼称は当初は、本来の用途からすると不適切な「簡易型携帯電話」だったが、1998年11月に、郵政省(当時)により「PHS」に改められた。ただし、一部のマスメディアや電話会社の契約約款などの文面では、依然として「簡易型携帯電話」が使われていた。例としてNTT東日本・電話サービス契約約款における当社が別に定める内容(別紙1)内に、「簡易型携帯電話に係るもの」と記載がある。 電話端末は当初より長らくストレートタイプが多かったが、2000年以降は携帯電話のように、大画面化に有利な折りたたみ式が主流となっていた。 日本の法令では、携帯電話と同様に1999年11月から自動車・オートバイを運転中の使用が禁止され、2004年11月から交通反則通告制度により反則金の罰則対象となり、運転者は停車中を除いては通話したり、電話機の表示画面を見てはならない。ただしハンズフリー通話などは対象外である。運転中に通話やボタン操作などを行うことは非常に危険である。2019年12月1日、ながら運転の防止を視野に運転中にPHSを使用した場合の罰則がさらに強化された。なお自転車でも同様の規制があり、例として東京都では公安委員会遵守事項違反により5万円以下の罰金となる。 2005年5月に、携帯電話不正利用防止法の施行により、携帯電話とPHSに関し、契約者の本人性確認の義務付けや、不正な譲渡の禁止などが行われた。 PHS端末は使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律(小型家電リサイクル法)の対象品目とされている。 サービス上の料金制度として、月額基本料に無料通話分を含んだ、通話の状況に合わせたパック料金があった。料金前払いのプリペイド式PHSとして過去に「プチペイド」が存在した。 特殊簡易公衆電話(いわゆるピンク電話)、および新幹線公衆電話(回線が自動車公衆電話に切り替わる秋田・山形新幹線を除く)からPHSに発信はできなかった。また、電報・コレクトコール・ダイヤルQ2・ナビダイヤル・テレドーム等は利用不可。また、フリーダイヤル等は掛ける先(着信)側でPHSを受け付ける契約がされていないと掛けられなかった。 留守番電話・転送電話機能を備えたサービス・端末が一般的であった。キャッチホン機能は提供されないことが多かった。 PHS事業者のソフトバンク(旧:ワイモバイル←ウィルコム←DDIポケット)は、音声通話定額制サービスを提供していた。詳細は音声通話定額制を参照。 日本では当初、PHSや携帯電話の事業者は、地域ごとに別の会社でなければならなかった。NTTパーソナル・アステル・DDIポケットの3グループともそうであった。 DDIポケット(当時)では発足当初から北海道・東北・北陸・東京(関東・中央)・東海・関西・中国・四国・九州と会社が分かれていたが、後に地域会社の規制が廃止され、2000年にDDIポケットは地域会社を全国統合した。のちに、アステル沖縄の契約利用者受け皿として沖縄地域会社を再分割し、沖縄の地域事業者はウィルコム沖縄とした。これは沖縄を除いた全国事業者としてのウィルコム発足に先立つものだった。 やがてウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンク主導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。さらにY!mobileのブランドを残しつつソフトバンクモバイルに吸収合併された。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、それぞれPHS事業を段階的に縮小し、2018年3月31日に新規契約受付を終了、2020年7月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了する予定を発表した。しかし2020年4月、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて終了時期を2021年1月31日に延期、同日にサービス終了した。また、法人向けテレメトリングのサービスは2023年3月31日に終了した。 なお、単なる社名変更や地域統合、法人格の変動に止まるものは上記では扱わない。 当初は携帯電話よりも料金が安価な簡易型携帯電話と言う位置付けでサービス販売がされた。 Pメールサービスが日本国内でのSMSの先駆けとして1996年11月20日に開始。ポケベルの代替として、また絵文字が使えることもあり、通称「ピッチ」として女子高生を中心に一時ヒットした。 それ以降、サービスと料金の面で携帯電話との競争が激化し、PHS側でも弱点だった切れやすい音声通話の改良や、データ通信への特化等が、営業施策として行われる。携帯電話も対抗としてメールサービス等の強化、料金の低廉化が図られた。その中でサービス改善が難しく単に安価な簡易型携帯電話と言うモデルから抜け出せなかったドコモPHS(旧:NTTパーソナルグループ)とアステルグループが相次いでPHSから全面的にまたは一部撤退する。 各社はデータ通信への特化等の営業施策として、通話機能のない通信カード型PHS端末の提供、当時は日本国内初の128kbpsでの通信や、モバイルデータ通信定額制などの提供を実施。これにより、後年にWi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段が普及するまでの期間、ノートパソコンやPDAに接続して行うモバイル利用を普及、促進させた。 さらに、当時日本国内初の音声通話定額制を開始。通話・通信性能も高度化PHS(ウィルコムのW-OAM)として改善が図られる。普段は携帯電話を利用し、特定の相手との長電話などにPHSを用いる「2台目」の需要を喚起し、音声端末の契約数も復調する。 これに対し携帯電話事業者も3Gの導入以降に追随して、部分的または完全定額制の料金プランなどを開始した。データ通信分野においても、Wi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段の普及、携帯電話自体のデータ通信の高速化や一部の定額プランの導入によってPHSの利点は徐々に失われた。 さらに後年になるとスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及。高度化PHSでも実効速度256kbps前後であり、固定・モバイルの両ブロードバンドの普及と併せデータ通信の分野でも市場を喪失。通信性能面で2G - 2.5Gの範疇に留まったため、スマートフォンでのSkypeやLINEなどのインターネット電話の普及も併せ、PHSはこれに対応できず、主要な通信手段の座から外れ、以降はミニサイズ端末やPHS併載端末などニッチな市場に留まった。 2018年3月31日をもって全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。法人向けテレメトリング以外の、既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日で終了予定と発表したが、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了時期を2021年1月31日に延期し、同日、サービス提供終了した。 2023年3月31日をもってソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了した。 PHSが開始された当初の売りは、携帯電話が使えない地下鉄駅や地下街でも使え、基本料金や通話料金が安いと言う点であった。 1994年に、携帯電話にデジタルホン(現:ソフトバンク)とツーカー(現:KDDI)が新規参入し、携帯電話間で激しいシェア争いや価格競争が始まったものの、まだ高額だったのに対して、PHSは本体価格・基本料金・市内通話料金が携帯電話に比べて格段に安いことから、初年度の1995年度に総計で150万台に達した。 その後、通話エリアの拡大や本体機能の充実、本体及び新規手数料を無料とした契約促進キャンペーンや販促用景品やクイズなどの賞品への利用なども頻繁に使われたためにPHS加入者は急激に増加し、1996年末に総計600万台を突破する。 当時は携帯電話よりも端末費用と通信費用が安価であったため1990年代後半から2000年代初頭まで、日本国内の中学・高校生からの需要を喚起した。一部のユーザーではポケベルとPHSを併用し、PHSを使ってポケベルにメッセージを送信するという使い方もされた。 利用者から見ると、PHSは料金が安いが、田舎や山間部で利用できない、通話が途切れやすい、高速移動時に通話できない、などが携帯電話との当初の違いであった。PHSの黎明期は、料金の安さから特に首都圏でポケベルからPHSに移行する者も見られ、急速に契約数を伸ばした。 しかしサービス開始当時は、同じく価格競争による値下げで普及率が上昇していた携帯電話との相互通話が不可能な問題を抱えていたほかに、携帯電話に比べて利用可能なエリアが狭い、通話が途中で切れ易い問題が生じていた。 当初、基地局の設置が急速な契約者数の増大になかなか追いつかず、都市部では繋がるが郊外や地方に行くと繋がらないと言うような地域格差が広がった。都市部であっても、基地局からの電波が届かない場所に移動すると通話が途切れる現象が多発した。これは一部事業者の20mWの小出力基地局が災いしていた面もある。また各事業者で通話エリアの面的拡大が、エリア面内での通話可能エリア高密度化よりも優先されていたこともある。さらにある基地局から他の基地局へと通信を切り替えるハンドオーバー処理の改良が遅れ、これらの通話品質が改善されるまでにかなりの期間を要した。 携帯電話との接続もようやく1996年10月に、接続センターを介する暫定接続の形でPHS・携帯電話間の相互通話が可能になったが、接続センターを介するため、特殊なダイヤル操作が必要で、料金が5.5秒10円プラス1通話あたり20円と高額だった。 料金の安さや手頃感から契約増加が見込まれたものの、1997年始めから携帯電話の本体価格や料金の値下げが急激に進んでPHSとの価格差が縮まり、携帯電話にショートメッセージサービス機能が搭載されPHSの優位性は薄れた。しかも当時通話エリアの広さで携帯電話と勝負にならなかったPHSは、解約が相次いだ。結果、PHSの契約数は1997年9月の総計約710万台をピークに以降は減少に転じた。 一方、病院など医療現場の出力の大きな携帯電話の電波が使えない場所では、医療用PHSが使われている。かつて医療用ポケベルが使われたが2010年代まではPHSが主流である。医療用は出力160mW(平均出力20mW)以下に限られ、内線専用(自営型PHS)のものが主流である。 各事業者はこれらの問題点への対応策として、1998年のPHS・携帯電話間の直接接続の開始による通話料金の値下げ、基地局の大幅な増設(各事業者とも1 - 2年間で基地局を2 - 3倍に増加)による通話エリアの拡大と高密度化、ハンドオーバー処理の改良などを相次いで実施。当時の携帯電話より通話音質が良かった点などをアピールして対抗したものの功を奏せず、契約者数の減少傾向に歯止めは掛からなかった。 結果、PHS各社は黒字転換ができず、旧:NTTパーソナルグループはNTTドコモへの事業譲渡、DDIポケットは親会社のDDIセルラーグループ(現:au、KDDI・沖縄セルラー電話)による財務支援を受け、アステル各社は出資元の電力系通信事業者へ吸収されるなどの救済策がとられた。 PHSによる当時世界初の移動体電話によるテレビ電話や、文字電話と言う手書き文字による通信端末など、意欲的な試みもなされたが、いずれも普及しなかった。 音声端末低迷への抜本的な打開策として、高速な通信速度を生かしたデータ通信を前面に打ち出し、携帯電話(第2世代PDC式)との差別化を図る方針に切り替えた。 1997年4月、各社がPIAFS回線交換方式により、最大通信速度(理論値)32Kbps(実効理論値29.2Kbps)で開始。続いてその後、各社とも64Kbps(PIAFS、実効理論値58.4Kbps)サービスを開始した。 2000年に入り、定額制モバイルデータ通信サービスとして、旧:アステルグループの各サービス(北海道「定額ダイヤルアップ接続サービス」、北陸・四国「ねっとホーダイ」、東北「おトーク・どっと・ネット」、関西「eo64エア」、中国「MEGA EGG 64」)、DDIポケットの「Air H"(現:AIR-EDGE)」やNTTドコモの「@FreeD」、などのサービスが各事業者により開始され、モバイル通信分野で利用が増加した。音声端末単体でもインターネット接続可能な端末が、アステルのドットiを皮切りにして、NTTドコモの「ブラウザホン」、DDIポケットの「Air H" フォン(現:AIR-EDGE PHONE)」などの登場を見た。 DDIポケットは、他社へのPHS網の再販事業(仮想移動体通信事業者=MVNO)に乗り出し、日本通信など他社にデータ通信用として自社PHS網を再販した。 それでもなお、音声通話ユーザによる解約を主としたPHS全体契約数の減少には太刀打ちできず、2004年中に契約総数500万台を割ることとなった。 2000年代前半は低迷が目立ったが、以前からのPIAFSやAIR-EDGEなどの強みであるデータ通信分野を活かし、公衆無線LANと比べて市中の広いエリアで利用できること、また日本国外でも幾つかの国で「ラストワンマイルを繋ぐ手頃な無線技術」としての強みが注目されることになった。 基地局からの通話可能範囲が狭いことを逆手に取って、GPS等を使用せず、端末所持者の高精度な現在位置を確認できるようにした、NTTドコモの「いまどこサービス」、ウィルコム(旧:DDIポケット、現:ソフトバンクのY!mobile)の「位置情報サービス」といった「位置情報確認サービス」の提供や、安価で高速なデータ通信を利用して自動販売機などの販売機器や監視システムを遠隔管理可能する「テレメトリング(テレメタリング)」など、PHSの安価・小型・簡単なシステムを活用した運用がなされている。 またPHS無線通信部分を切手サイズにまとめたウィルコムのW-SIMにより、無線通信技術を持たない会社の新規参入が容易になったため、従来にない多種多様な端末が登場した。詳細はW-SIMの項目を参照。 以降、音声通話定額制、高度化PHSなどを導入し一時復調をみるが、携帯電話事業者も一部追随したため抜本的なユーザー数回復には至らず、さらに2010年前後よりスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及し、通信方式としてのPHSは主要な通信手段の座から外れ、ニッチな市場へと転化した。 ウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンクの指導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、PHS事業は段階的に縮小し2018年3月31日に契約新規受付を終了、2021年1月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了した。 その後、法人向けテレメトリングについても2023年3月末で終了すること2019年4月に発表した。これにより、日本でのPHSサービスは完全に終了した。 中国ではPHSは「小霊通」(しょうれいつう / ショオリントン、繁体字: 小靈通、簡体字: 小灵通、拼音: Xiǎolíngtōng)という中国語名が用いられ、2006年6月30日時点で9300万台と一時は爆発的な普及を見せたが、その後は端末生産台数の急減が報じられ、加入者数は頭打ちとなり減少を続けて、2007年9月30日には9000万台を割り込んだ。安価な音声端末がほとんどで、電気通信会社の「中国電信」および中国網通の事業を譲受した「中国聯通」が主要PHS事業者としてPHSを固定電話の延長として展開していた。 1982年7月1日、上海市で中国で初めてとなる商業化された携帯電話サービスが開始されたが初期の利用者は20人であった。一方、小霊通のサービスは1996年に試験が開始され、1999年から本格的に開始された。 小霊通のサービスは固定通信事業者の中国電信社の浙江省余杭市電信支局によって実験的に始められた。中国電信浙江省余杭市電信支局長の徐福新は、日本のPHSの雑誌記事を見てこの技術を中国の固定通信網に組み合わせることができないか1994年から自主的に研究しており、1996年に中国電信の親会社と信息産業部に申請しないまま余杭市で試験運転を始めた(後に徐福新は「小霊通の父」と呼ばれるようになった)。 中国電信社は1999年から業務別の事業改編(一次改組)により移動通信、衛星通信、ページャー事業など数社に分割され、固定通信部門は「中国電信」が事業業務を行うことになっていた。しかし、中国電信社ではそれまで主な収入源であった移動通信事業がなくなるため、一部の地方会社が「無線市内電話」や「移動市内電話」と称してデジタル無線電話のPHS用周波数帯域の使用を各地方都市で申請した。小霊通のサービスエリアは携帯電話より狭いものの、移動通信の一種を固定通信事業者が事業運営するものであったため、1999年の内部規定に反しているとして2000年5月に浙江省余杭市電信支局に対して信息産業部から小霊通サービスの禁止令が出された。しかし6月には信息産業部より「関与規範PHS無線市話建設与経営的通知」が公布され、PHSは固定市内電話システムを補完する低速移動無線システムとしてサービスエリアの限定を条件に制度化された。一次改組で中国電信社の収入の約3割を占める移動通信事業を中国移動社として事業化したため、赤字が続く固定通信業務のみでは運営が極めて困難とする中国電信側の苦情に配慮した政策といわれている。 2001年からは固定通信事業者の中国網絡通信集団公司も参入した。 中国では携帯電話の利用料金に発信側も受信側も同額を負担する「発着分離課金」制度を実施していたが、小霊通は発信側のみ課金される「発信課金」制度を採用した。小霊通サービスが低廉な料金設定を可能にした理由は、基地局への投資費用が携帯電話より著しく小さく、固定通信事業者が事業運営したため基幹通信網の維持費を固定電話利用者にも転化できたことでサービス開始当初から料金を低廉にすることができたからである。 小霊通サービスが信息産業部に正式に認められたのは2003年である。2003年5月17日には、北京、上海、天津、重慶及び広州で小霊通のサービスが一斉に解禁された。2004年末の小霊通利用者数は中国電信集団公司(CHINATELECOM)で4,603万人、中国網絡通信集団公司(CHINANETCOM)で2,201万人であった。 中国のPHSは都市単位(日本の県単位くらい)の地域別電話番号が割り振られ、他地域では使えない不便さがあった。しかし、小霊通PIMカードに電話番号を書き込む方式に2005年5月17日に統一され、各都市の電話番号が書き込まれたPIMカードを差し替えることにより、同一端末を他地域でも使えるようになった。これはPIMカードとして国際展開されている。中国国外での展開として、UTStarcom社のベトナムでのIPベースの無線用インフラなどが見られる。 香港では、1997年にサービスイン。近年は利用者が大幅に減少し、PHSの無線周波数帯を開放する目的で、2013年4月にライセンス免除の撤廃を決定。約3年間は猶予期間で所有と使用が認められたが、2016年5月9日でこの期間が終了するため、冒頭のとおり、2016年5月10日以降は使用および所有が禁止(電波法令違反)となる。台湾でも2015年3月にPHSサービスが終了し停波。中国は当初2011年にサービス終了する予定であったが、「小霊通」ユーザーの反発に会い2014年以降まで延期。2014年12月31日をもってサービス終了した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PHS(ピーエイチエス、英: personal handy-phone system)とは、無線通信により、移動した先で長距離間の通信を行うシステム、またその電話機自体や、それによる移動体通信サービスのことを指す。日本発の通信規格でパケット通信、カメラ付端末、スライド式キーボードの装備などは、携帯電話に先行してPHSの端末において実用化された技術である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "PHSは無線機の一種であるため、日本では電波法により規制されている。日本国内で一般に流通しているPHSは、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では1995年7月1日に東京・北海道地区でサービスが開始され、2023年3月31日にPHSの音声通話・データ通信サービスはすべて終了した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2006年には全世界で契約件数が1億件となったが、そのほとんどは固定電話網の代替として普及した中国で、のちに中国政府がPHSの電波を携帯電話に割り当てる方針をとったことで日本国外のPHS市場も縮小していった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "通信手段として、電話機(端末)と基地局との間は有線通信の通信線路(電話線など)を用いずに電波による無線通信を利用する。マルチチャネルアクセス無線技術の一種でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "PHSは基本的に、屋外で事業者の基地局に接続し、移動先で電話として利用可能であった。そのほか、企業や家庭の内線でコードレス電話の子機として利用可能である。ただし、子機を親機やシステムに登録する必要がある。前者は公衆PHS、後者は自営PHSと区別された(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "開発当初からデジタル無線方式を採用し、第二世代携帯電話と無線アクセスとの間の中間的な性能を持っていた。開発名称は第二世代デジタルコードレス電話であり、第三者が広帯域受信機で通話の内容を聞くことが難しいデジタル方式とし、企業や家庭では内線コードレス電話の子機として、屋外では簡易な基地局により公衆交換電話網に接続する発想で作られた、日本発の規格であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初は「personal handy phone」の略でPHPと呼ばれたが、松下グループの関連会社であるPHP研究所と紛らわしいことから、1994年4月22日に呼称をPHSに変更すると発表。PHPからPHSに呼称が変更された際に、PHSを「ピーエイチエス」、あるいは簡略化して「フォス」と呼ぶとする発表があった。前者は事業者や報道関係でも広く知られ広まり、後者は定着しなかった。のちに若者、特に女子高生らに「ピッチ」の呼び方が広がり始め、その影響を受けて、1999年以降には移動体通信事業者もコマーシャルメッセージやパンフレットでこの呼称を用いるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1990年代後半から、中国のほか台湾、タイ、ベトナムなどアジアの中進国各国でも一定の普及を見、世界で2006年10月時点で約1億台とされた。「PHS」ではない現地特有の名称等も定着しており、小霊通、PAS(Personal Access System)、CityPhone などとも呼ばれていた。一部の中進国・発展途上国の電話回線が導入されていない地域では、固定電話の代替としてPHSが住民に普及し、また事業者が無線による固定電話回線(PHS FWA、TDD-TDMAを採用)として導入することもあった。また国際展開と併せて、2003年4月には日本事業者のDDIポケットと台湾やタイとの間でPHS事業者同士の国際ローミングサービスも開始された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本では2000年代から2010年代にかけ、アステルやNTTドコモPHSなど、公衆サービスから早々に撤退する事業者が相次ぐ中でDDIポケットは独自の展開を見せ、端末の高度化や高速化、各種定額制の導入など奮闘するも、2010年代のスマートフォンやLTEなどの普及に押され徐々に公衆サービスは縮小へと向かった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2018年3月31日に、全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。サービス提供中のY!mobile(ソフトバンク・ウィルコム沖縄)は、法人向けテレメトリング以外の既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日に終了する予定であると発表していたが、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了が2021年1月31日に延期され、そして同日にサービス提供終了した。法人向けテレメトリングのサービスは、2023年3月31日に終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "香港では2013年4月にPHSサービスが終了・停波し、2016年5月10日から日本製を含むPHS端末の所持または使用に対しては2年以下の禁錮または5万香港ドル以下の罰金に処される。台湾でも2015年3月にPHSサービスが終了して停波した。中国は「小霊通」サービスが2014年12月31日をもってサービス終了した。なお、PHS端末に限らず無線機器の利用は各国ごとに無線の帯域や仕様が異なっており、許可制であるため、無線機器を不用意に国外へ持ち出し、または国外から持ち込んで使用すると、その国の法令により、処罰される場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、ヨーロッパにおけるPHS相当の移動体通信規格としては、DECTが主流である。DECT規格は「デジタルコードレス電話の新方式」として日本国内にも導入済みで利用可能である。さらに自営用PHSシステムの代替としては2010年代後半からVoLTE/sXGPによるシステムが検討され導入も一部始まっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "PHSの主な特長を列挙。", "title": "特長" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本国内においては、携帯電話と比較した場合、以下の特徴があった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "基地局の送信出力が携帯電話で最大25Wに対し、PHSは公衆用基地局で最小20mW - 最大500mWと小さい。そのため、基地局を多数設置して、利用可能なエリアを確保する方法が取られる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "基地局の出力が小さく、設置コストが安価なことから、地下街や地下鉄の駅構内など、地上と比較して狭い空間へのエリア展開が、1995年のサービス開始当初から実施されている(携帯電話が日本の地下鉄駅構内で利用可能になり始めたのは、2000年頃からである)。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "PHSと携帯電話の最大の違いは、一つの基地局がカバーするエリアの広さの違いである。携帯電話は一つの基地局で半径数km以上をカバーしており「マクロセル」と呼ばれていたが、PHSは当初、半径100m以下 - 最大でも500m程度であり「マイクロセル」と呼ばれていた。鉄塔の建設を行うなど、大がかりな携帯電話の基地局に対して、PHSの基地局は、電柱や構内の天井や壁面などに小型の基地局装置を設置するだけであるため工事が容易・低コストである。反面、基地局あたりのカバーエリアが狭いため多数の基地局を設置する必要がある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このマイクロセル方式により周波数の空間的再利用が可能であり、1基地局あたりのカバーエリアを小さくして、同一周波数の再利用が容易になるため、周波数の利用効率が高い特長を持つ。3G以降の携帯電話でも、都市部の高トラフィックエリアでは、マイクロセル方式を採用している場合がある。この方式により基地局一台あたりのトラフィックは携帯電話に比べ余裕があり、早い時期からパケット定額や音声通話定額などの定額サービスを開始できた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "端末の出力も携帯電話で最大200mW程度に対し、PHSはバースト内平均電力で80mW(送信平均電力は10mW)。よって基地局側に高い利得のアンテナが要求される一方で、端末側の消費電力は抑えられている。これにより、待受け・通信(通話)時ともに電池はより長持ちするとされていた。2000年代以降は、PHS端末の高機能化に伴い消費電力が増加、携帯電話の通信規格改良や電池の大容量化などにより、音声端末における差異は小さくなっていった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1995年のサービス開始当時において、当初主流の第二世代携帯電話(PDC)方式との比較では、音質が良い、データの転送速度が速いとされていた。第三世代携帯電話(3G)では転送速度の高速化や音質の改良がなされ通信性能面では追い抜いた一方、サービス料金は高額なままであった。そこを突いてトラフィックに余裕があるPHSはパケット通信や音声通話の定額制を先んじて導入した。さらにPHSにおいても高度化PHS、次世代PHS(後述)などによる高速化が図られた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スタンダードなPHS方式においては、音声の符号化方式には32kbpsのADPCMを使用する。なお、高度化PHSであるウィルコム(当時)のW-OAM方式において、低速だがエラーに強いBPSKによる通話時は、音声符号化方式は13 - 16kADPCMとなっていた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "周波数帯は1.9GHz帯を使用。高度化PHSにおいては1.8GHz帯(1884.65 - 1893.65MHz)を追加で使用。通話用キャリアは、同帯域内においてFDMである。1つの通話用キャリア上に、複信・多元接続方式としてTDD-TDMAを採用する。1フレームを5msとし、これを625μsのスロット8つに分割する。TDDとして、前半4つのスロットを下り(送信、基地局→端末)、後半4つを上り(受信、端末→基地局)、として独立して使用するため、多重数は4となる。また、8スロットの内2スロットは制御スロットとして使用するため、1つの周波数(1つの通話用キャリア)で同時に使用できるのは3通話となる。1通話スロットあたりのトラフィックチャネル(通話チャネル)のデータレートは32kbpsであるため、64kbpsのデータ通信を行う場合には、送受信スロットを2つずつ束ねて使用する。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "PHSを利用したデータ通信に関しては、サービス開始当初は、アナログ電話回線におけるモデムと同様に、PHSの音声通話チャネルに対してモデムによる変復調を適用する、いわゆる「みなし音声」という規格により無線データ通信が行われていた。これは、データをモデムによりアナログ音声に変復調したあと、再度その音声をADPCMにより変復調して伝送するというオーバーヘッドがあり、非効率でおおむね14400bps程度と低速だった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "のちにデータを直接PHSの通信チャネルに対し伝送する方式としてPIAFS仕様が策定された。詳細は同項目を参照。各事業者のPIAFS規格採用状況は、日本国内の全PHS事業者が採用するPIAFS1.0 、NTTドコモが採用するPIAFS2.0、ウィルコムと旧:アステル系事業者の一部が採用するPIAFS2.1、ウィルコムが採用するPIAFS2.2となっていた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "PIAFSは基本的に回線交換方式であり日本国内および国際的にも各PHS事業者で共通事項が多く、互換性も高かった。一方、ウィルコムの「AIR-EDGE」のパケット通信は、W-OAMを含めて独自方式により高速化を図っていた。詳細はエアーエッジの項目を参照。なお、エアーエッジのパケット通信についてはPIAFS策定事項に含まれていないが、2004年に国際展開を目的として同社がライセンス契約による仕様公開を行った。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "通信チャネルとして1884.65 - 1919.75MHzを使用。制御チャネルは、1915.85 - 1918.55MHzを使用していたが、2012年に1906.25 - 1908.35MHzへずらされた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "通信チャネルを旧3グループで共有していたため、携帯電話とは事情が異なりアステル・ドコモ撤退によるウィルコム(現:ソフトバンク)への周波数の追加割り当てなどは発生していない。高度化PHS用帯域(W-OAM向け)も名目上は各社共有である。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この周波数帯は公衆PHSサービス終了後(前述)も、日本版DECT、sXGPなどで利用される予定である。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "電話機は携帯電話と異なり、次の3つの基本動作モードがある。通常PHSという場合は「公衆モード」を指す。なお、2003年頃以降発売された端末では「自営モード」「トランシーバーモード」の動作モードの一部または全部を持たないものが主流になっていた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "端末によっては、上記3モードのうちの一部または全部を同時に(モード切替をせずに)待ち受けできる物もある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "PHSは規格に互換性があるため、たとえばA事業者用のPHS端末をB事業者の公衆PHSサービスに登録して利用するといったことも原則は可能であった。ただし、この場合は基本的な音声通話やデータ通信(PIAFS)などにサービスが限定され、事業者独自や仕様の異なるサービス(インターネット接続サービス、高速ハンドオーバー)などの機能は有効にならないのが通例であった。自営モードは自営規格が適合すれば、端末・自営基地局のメーカーに関わらず接続利用可能である。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "屋内で電波が微弱となった場合に、中継用の簡易型基地局(いわゆるホームアンテナなど)を窓際などに設置して利用することもあった。中継用基地局は、端末からの無線接続を受け入れると同時に、公衆用基地局に対して無線接続を行い、電波の中継(再生中継方式)を行う。このうち、端末からの無線接続を公衆モードで行うものと、自営モードで行うものに分かれる。前者は中継用基地局の設置者以外の端末から利用される場合もあった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "初期のものを除きPHS端末は携帯電話端末と同様に、着信の際、発信者が非通知設定・通知不可能・公衆電話発信の回線などでなければ、ディスプレイに発信者番号が表示された(固定電話のナンバーディスプレイと同等の機能)。端末の電話帳機能に登録している番号に合致した場合は、登録した名前も表示できた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本では、i-mode端末など携帯電話端末の多機能化と前後する形で、2001年ごろからPHS端末も多機能化した。もっとも、携帯型移動体通信端末におけるテキストメッセージング(SMS)の先駆けは、1996年11月20日に開始のPHSのPメールサービス(旧:DDIポケット)であった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "インターネットに接続して電子メールや、ウェブが利用可能な端末も相次いで発売された(H\"LINK、mopera、ドットi、CLUB AIR-EDGE など)。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "カメラ付き携帯電話の普及に少し遅れる形で、普及層向けカメラ付きPHS端末(携帯電話と同様に端末にカメラを内蔵し静止画撮影が可能なもの)が発売された。動画撮影やテレビ電話に対応した機種は、スマートフォン時代到来以前のいわゆるフィーチャーフォン時代において、普及層向けPHSでは限定的であった。もっとも、世界で初めて市販されたカメラ付き携帯電話・PHSの先駆けは、1999年7月発売の京セラ製VisualPhone VP-210(旧:DDIポケット)であった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "PHSのマイクロセルの特徴を生かして、GPS等を利用せず基地局からの方位測定によりある程度の精度の位置情報を取得するサービスがサービス開始当初から構想され、実現されていた。これも移動体通信端末では先駆けであった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年以降はスマートフォンに特化したPHS端末(スマートフォン端末にPHS通信機能を内蔵させたもの)が発売された。詳細はスマートフォンを参照。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "公衆モードのネットワークの基盤は、日本国内はNTT東日本・NTT西日本のISDNを基盤にしている活用型(依存型)事業者と、独自に構築した接続型(独自型)事業者の2つがあった。アステル北海道・東北・北陸・中部・四国が接続型で、その他の事業者は全て活用型であった。旧:アステル関西・中国各地方の音声サービスは上述のように活用型だったが、定額制PHSデータ通信サービス「eo64エア」・「MEGA EGG 64」はいずれも接続型であった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "活用型PHSはNTT地域会社のD70加入者電話交換機にPHS接続装置(PSM:PHS-interface Subscriber Module)を接続し、PSMと基地局(CS)の間の通信にISDN回線が使用される。乱暴な言い方をすれば、既存のISDN網の末端にPSMやCSなどの設備を取り付けてシステムを構築したものである。自前のネットワークを構築するよりも短期間でサービスエリアを広げることが可能で初期の投資も抑えることができるが、回線やPSMの使用料が事業者に毎月発生する。その後全国的にNTTの統合型ノードシステム(MHN-S)へのPSM機能の統合がなされ、PSMの廃棄費用と引き替えにPSM使用料はなくなった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "活用型PHSは、システムがデジタル電話交換機に完全に依存しているため、公衆交換電話網自体のInternet Protocolを利用したNGNへの更改に伴い、活用型PHS事業者はPHSサービスの提供に重要な影響を及ぼす予定である。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "接続型PHSは活用型PHSとは異なり、ISDN網ではなく地域系通信事業者の網を経由してNTT地域会社の市外系交換機(IC)または加入者交換機(GC)に接続する。NTTのネットワークを利用する部分が少なくて済み、PSMも不要である。NTTへの依存コストはない分、自前のネットワークの構築・維持コストがかかる。他の通信事業者とのローミングの整備も必要となる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2000年代後半から2010年代初頭の動向として、市中の末端ネットワークを光回線とし、低コスト、高スループットを実現するもの(eo64エア、W-OAM typeG)や、基本は活用型でありながら、電話局間の幹線網をVoIPでバイパスし、コスト削減・高スループットを実現するもの(ウィルコム)も出た。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "高度化PHSは、現行PHS規格の改良型で、高速無線アクセスシステム的性能を持つ。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「次世代PHS」(XGP:neXt Generation PHS)は「高度化PHS」とは別に、PHSのマイクロセル・自律分散などコンセプトを引き継ぎつつ、新たに構想、策定された規格である。従来のPHSとの互換性は全くない。略称「XGP」の正式名称が、neXt Generation PHSからeXtended Global Platformに改められた経緯もあった。旧:ウィルコムが主導し2009年4月27日に東京の一部エリア、同年10月1日に正式サービス開始、以降それをWireless City Planning(WCP)が継承したが、2012年1月31日にサービス終了。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "さらに、WCPは、XGPの固定資産を活用して2011年11月1日にAXGPサービスを新たに開始。これも従来PHSおよび次世代PHS(XGP)との互換性は全くない。同年2月24日、グループ企業のソフトバンクモバイルがWCPのAXGPサービスをSoftBank 4GとしてMVNO提供開始。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本国外ではデータ通信より通話がメインの利用者が多いため、日本とは方向性の違う高度化PHS規格である「ターボPHS」が提案され検討された。主な変更点として新制御チャンネルの設定、SMSの容量拡大、音声コーデックにAMRを追加、端末出力の高出力化などがあげられる(全てサービス終了)。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "高度化PHSに関する2001年6月25日の総務省情報通信審議会の答申においては同時に、従来のPHS帯とIMT-2000帯域(日本における第三世代携帯電話用の帯域、2.0GHz帯)との干渉問題の解決のためPHSの公衆用共通制御キャリア(BCCH、単に制御チャネルとも呼ばれる)を低い周波数の方にずらす対策を取ることも示された。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なおIMT-2000側は、PHS帯と隣接するIMT-2000帯内の5MHz分がガードバンドとされ、相互の干渉抑止のため使用不可とされた。この部分はKDDI(au)帯域だったが、IMT-2000・2.0GHz帯参加2社(NTTドコモ・ソフトバンク)も当初は、公平を期するため同様に各社の5MHz分とも使用不可とされた。後にこれら2社のガードバンド帯域は外されている。前述のPHSの制御チャネル移行後に、KDDI(au)分の5MHzの帯域が使用可能となった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "具体的には、現行の公衆制御キャリア1915.85 - 1918.55MHzが、移行後は1906.25 - 1908.35MHzとなり、1915.85 - 1919.75MHzは移行期限後に使用できなくなった。移行期限は2012年5月31日。期限後は、制御キャリア移行に対応していない古いPHS端末は公衆モード端末としては使用できなくなった。旧:アステルグループ、ドコモPHSの端末はガードバンド移行非対応のため公衆モードにする事はできない(電波法違反となる)。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、制御キャリア移行対応が必要となるのは、移行期限後も存続する計画がある事業者の基地局および端末に限られた。2011年時点でPHS事業を行なっていた事業者は、以下の対応を取った。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本では、電気通信役務の区分など法令上や公的な資料・統計では、PHSは携帯電話と明確に区別されている。一方で両者は公衆サービス上、相違点よりも類似点の方が大きいため、本項目のほか日本における携帯電話の項目も併せて参照のこと。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "法令上の呼称は当初は、本来の用途からすると不適切な「簡易型携帯電話」だったが、1998年11月に、郵政省(当時)により「PHS」に改められた。ただし、一部のマスメディアや電話会社の契約約款などの文面では、依然として「簡易型携帯電話」が使われていた。例としてNTT東日本・電話サービス契約約款における当社が別に定める内容(別紙1)内に、「簡易型携帯電話に係るもの」と記載がある。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "電話端末は当初より長らくストレートタイプが多かったが、2000年以降は携帯電話のように、大画面化に有利な折りたたみ式が主流となっていた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本の法令では、携帯電話と同様に1999年11月から自動車・オートバイを運転中の使用が禁止され、2004年11月から交通反則通告制度により反則金の罰則対象となり、運転者は停車中を除いては通話したり、電話機の表示画面を見てはならない。ただしハンズフリー通話などは対象外である。運転中に通話やボタン操作などを行うことは非常に危険である。2019年12月1日、ながら運転の防止を視野に運転中にPHSを使用した場合の罰則がさらに強化された。なお自転車でも同様の規制があり、例として東京都では公安委員会遵守事項違反により5万円以下の罰金となる。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2005年5月に、携帯電話不正利用防止法の施行により、携帯電話とPHSに関し、契約者の本人性確認の義務付けや、不正な譲渡の禁止などが行われた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "PHS端末は使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律(小型家電リサイクル法)の対象品目とされている。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "サービス上の料金制度として、月額基本料に無料通話分を含んだ、通話の状況に合わせたパック料金があった。料金前払いのプリペイド式PHSとして過去に「プチペイド」が存在した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "特殊簡易公衆電話(いわゆるピンク電話)、および新幹線公衆電話(回線が自動車公衆電話に切り替わる秋田・山形新幹線を除く)からPHSに発信はできなかった。また、電報・コレクトコール・ダイヤルQ2・ナビダイヤル・テレドーム等は利用不可。また、フリーダイヤル等は掛ける先(着信)側でPHSを受け付ける契約がされていないと掛けられなかった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "留守番電話・転送電話機能を備えたサービス・端末が一般的であった。キャッチホン機能は提供されないことが多かった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "PHS事業者のソフトバンク(旧:ワイモバイル←ウィルコム←DDIポケット)は、音声通話定額制サービスを提供していた。詳細は音声通話定額制を参照。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本では当初、PHSや携帯電話の事業者は、地域ごとに別の会社でなければならなかった。NTTパーソナル・アステル・DDIポケットの3グループともそうであった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "DDIポケット(当時)では発足当初から北海道・東北・北陸・東京(関東・中央)・東海・関西・中国・四国・九州と会社が分かれていたが、後に地域会社の規制が廃止され、2000年にDDIポケットは地域会社を全国統合した。のちに、アステル沖縄の契約利用者受け皿として沖縄地域会社を再分割し、沖縄の地域事業者はウィルコム沖縄とした。これは沖縄を除いた全国事業者としてのウィルコム発足に先立つものだった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "やがてウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンク主導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。さらにY!mobileのブランドを残しつつソフトバンクモバイルに吸収合併された。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、それぞれPHS事業を段階的に縮小し、2018年3月31日に新規契約受付を終了、2020年7月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了する予定を発表した。しかし2020年4月、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて終了時期を2021年1月31日に延期、同日にサービス終了した。また、法人向けテレメトリングのサービスは2023年3月31日に終了した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、単なる社名変更や地域統合、法人格の変動に止まるものは上記では扱わない。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "当初は携帯電話よりも料金が安価な簡易型携帯電話と言う位置付けでサービス販売がされた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "Pメールサービスが日本国内でのSMSの先駆けとして1996年11月20日に開始。ポケベルの代替として、また絵文字が使えることもあり、通称「ピッチ」として女子高生を中心に一時ヒットした。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "それ以降、サービスと料金の面で携帯電話との競争が激化し、PHS側でも弱点だった切れやすい音声通話の改良や、データ通信への特化等が、営業施策として行われる。携帯電話も対抗としてメールサービス等の強化、料金の低廉化が図られた。その中でサービス改善が難しく単に安価な簡易型携帯電話と言うモデルから抜け出せなかったドコモPHS(旧:NTTパーソナルグループ)とアステルグループが相次いでPHSから全面的にまたは一部撤退する。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "各社はデータ通信への特化等の営業施策として、通話機能のない通信カード型PHS端末の提供、当時は日本国内初の128kbpsでの通信や、モバイルデータ通信定額制などの提供を実施。これにより、後年にWi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段が普及するまでの期間、ノートパソコンやPDAに接続して行うモバイル利用を普及、促進させた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "さらに、当時日本国内初の音声通話定額制を開始。通話・通信性能も高度化PHS(ウィルコムのW-OAM)として改善が図られる。普段は携帯電話を利用し、特定の相手との長電話などにPHSを用いる「2台目」の需要を喚起し、音声端末の契約数も復調する。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "これに対し携帯電話事業者も3Gの導入以降に追随して、部分的または完全定額制の料金プランなどを開始した。データ通信分野においても、Wi-FiスポットやモバイルWiMAX等の無線アクセス手段の普及、携帯電話自体のデータ通信の高速化や一部の定額プランの導入によってPHSの利点は徐々に失われた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "さらに後年になるとスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及。高度化PHSでも実効速度256kbps前後であり、固定・モバイルの両ブロードバンドの普及と併せデータ通信の分野でも市場を喪失。通信性能面で2G - 2.5Gの範疇に留まったため、スマートフォンでのSkypeやLINEなどのインターネット電話の普及も併せ、PHSはこれに対応できず、主要な通信手段の座から外れ、以降はミニサイズ端末やPHS併載端末などニッチな市場に留まった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2018年3月31日をもって全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。法人向けテレメトリング以外の、既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日で終了予定と発表したが、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了時期を2021年1月31日に延期し、同日、サービス提供終了した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2023年3月31日をもってソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "PHSが開始された当初の売りは、携帯電話が使えない地下鉄駅や地下街でも使え、基本料金や通話料金が安いと言う点であった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1994年に、携帯電話にデジタルホン(現:ソフトバンク)とツーカー(現:KDDI)が新規参入し、携帯電話間で激しいシェア争いや価格競争が始まったものの、まだ高額だったのに対して、PHSは本体価格・基本料金・市内通話料金が携帯電話に比べて格段に安いことから、初年度の1995年度に総計で150万台に達した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "その後、通話エリアの拡大や本体機能の充実、本体及び新規手数料を無料とした契約促進キャンペーンや販促用景品やクイズなどの賞品への利用なども頻繁に使われたためにPHS加入者は急激に増加し、1996年末に総計600万台を突破する。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "当時は携帯電話よりも端末費用と通信費用が安価であったため1990年代後半から2000年代初頭まで、日本国内の中学・高校生からの需要を喚起した。一部のユーザーではポケベルとPHSを併用し、PHSを使ってポケベルにメッセージを送信するという使い方もされた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "利用者から見ると、PHSは料金が安いが、田舎や山間部で利用できない、通話が途切れやすい、高速移動時に通話できない、などが携帯電話との当初の違いであった。PHSの黎明期は、料金の安さから特に首都圏でポケベルからPHSに移行する者も見られ、急速に契約数を伸ばした。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "しかしサービス開始当時は、同じく価格競争による値下げで普及率が上昇していた携帯電話との相互通話が不可能な問題を抱えていたほかに、携帯電話に比べて利用可能なエリアが狭い、通話が途中で切れ易い問題が生じていた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "当初、基地局の設置が急速な契約者数の増大になかなか追いつかず、都市部では繋がるが郊外や地方に行くと繋がらないと言うような地域格差が広がった。都市部であっても、基地局からの電波が届かない場所に移動すると通話が途切れる現象が多発した。これは一部事業者の20mWの小出力基地局が災いしていた面もある。また各事業者で通話エリアの面的拡大が、エリア面内での通話可能エリア高密度化よりも優先されていたこともある。さらにある基地局から他の基地局へと通信を切り替えるハンドオーバー処理の改良が遅れ、これらの通話品質が改善されるまでにかなりの期間を要した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "携帯電話との接続もようやく1996年10月に、接続センターを介する暫定接続の形でPHS・携帯電話間の相互通話が可能になったが、接続センターを介するため、特殊なダイヤル操作が必要で、料金が5.5秒10円プラス1通話あたり20円と高額だった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "料金の安さや手頃感から契約増加が見込まれたものの、1997年始めから携帯電話の本体価格や料金の値下げが急激に進んでPHSとの価格差が縮まり、携帯電話にショートメッセージサービス機能が搭載されPHSの優位性は薄れた。しかも当時通話エリアの広さで携帯電話と勝負にならなかったPHSは、解約が相次いだ。結果、PHSの契約数は1997年9月の総計約710万台をピークに以降は減少に転じた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "一方、病院など医療現場の出力の大きな携帯電話の電波が使えない場所では、医療用PHSが使われている。かつて医療用ポケベルが使われたが2010年代まではPHSが主流である。医療用は出力160mW(平均出力20mW)以下に限られ、内線専用(自営型PHS)のものが主流である。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "各事業者はこれらの問題点への対応策として、1998年のPHS・携帯電話間の直接接続の開始による通話料金の値下げ、基地局の大幅な増設(各事業者とも1 - 2年間で基地局を2 - 3倍に増加)による通話エリアの拡大と高密度化、ハンドオーバー処理の改良などを相次いで実施。当時の携帯電話より通話音質が良かった点などをアピールして対抗したものの功を奏せず、契約者数の減少傾向に歯止めは掛からなかった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "結果、PHS各社は黒字転換ができず、旧:NTTパーソナルグループはNTTドコモへの事業譲渡、DDIポケットは親会社のDDIセルラーグループ(現:au、KDDI・沖縄セルラー電話)による財務支援を受け、アステル各社は出資元の電力系通信事業者へ吸収されるなどの救済策がとられた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "PHSによる当時世界初の移動体電話によるテレビ電話や、文字電話と言う手書き文字による通信端末など、意欲的な試みもなされたが、いずれも普及しなかった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "音声端末低迷への抜本的な打開策として、高速な通信速度を生かしたデータ通信を前面に打ち出し、携帯電話(第2世代PDC式)との差別化を図る方針に切り替えた。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1997年4月、各社がPIAFS回線交換方式により、最大通信速度(理論値)32Kbps(実効理論値29.2Kbps)で開始。続いてその後、各社とも64Kbps(PIAFS、実効理論値58.4Kbps)サービスを開始した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2000年に入り、定額制モバイルデータ通信サービスとして、旧:アステルグループの各サービス(北海道「定額ダイヤルアップ接続サービス」、北陸・四国「ねっとホーダイ」、東北「おトーク・どっと・ネット」、関西「eo64エア」、中国「MEGA EGG 64」)、DDIポケットの「Air H\"(現:AIR-EDGE)」やNTTドコモの「@FreeD」、などのサービスが各事業者により開始され、モバイル通信分野で利用が増加した。音声端末単体でもインターネット接続可能な端末が、アステルのドットiを皮切りにして、NTTドコモの「ブラウザホン」、DDIポケットの「Air H\" フォン(現:AIR-EDGE PHONE)」などの登場を見た。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "DDIポケットは、他社へのPHS網の再販事業(仮想移動体通信事業者=MVNO)に乗り出し、日本通信など他社にデータ通信用として自社PHS網を再販した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "それでもなお、音声通話ユーザによる解約を主としたPHS全体契約数の減少には太刀打ちできず、2004年中に契約総数500万台を割ることとなった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2000年代前半は低迷が目立ったが、以前からのPIAFSやAIR-EDGEなどの強みであるデータ通信分野を活かし、公衆無線LANと比べて市中の広いエリアで利用できること、また日本国外でも幾つかの国で「ラストワンマイルを繋ぐ手頃な無線技術」としての強みが注目されることになった。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "基地局からの通話可能範囲が狭いことを逆手に取って、GPS等を使用せず、端末所持者の高精度な現在位置を確認できるようにした、NTTドコモの「いまどこサービス」、ウィルコム(旧:DDIポケット、現:ソフトバンクのY!mobile)の「位置情報サービス」といった「位置情報確認サービス」の提供や、安価で高速なデータ通信を利用して自動販売機などの販売機器や監視システムを遠隔管理可能する「テレメトリング(テレメタリング)」など、PHSの安価・小型・簡単なシステムを活用した運用がなされている。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "またPHS無線通信部分を切手サイズにまとめたウィルコムのW-SIMにより、無線通信技術を持たない会社の新規参入が容易になったため、従来にない多種多様な端末が登場した。詳細はW-SIMの項目を参照。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "以降、音声通話定額制、高度化PHSなどを導入し一時復調をみるが、携帯電話事業者も一部追随したため抜本的なユーザー数回復には至らず、さらに2010年前後よりスマートフォンおよびLTE等の3.9G/4G携帯電話が普及し、通信方式としてのPHSは主要な通信手段の座から外れ、ニッチな市場へと転化した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンクの指導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、PHS事業は段階的に縮小し2018年3月31日に契約新規受付を終了、2021年1月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "その後、法人向けテレメトリングについても2023年3月末で終了すること2019年4月に発表した。これにより、日本でのPHSサービスは完全に終了した。", "title": "日本におけるPHS" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "中国ではPHSは「小霊通」(しょうれいつう / ショオリントン、繁体字: 小靈通、簡体字: 小灵通、拼音: Xiǎolíngtōng)という中国語名が用いられ、2006年6月30日時点で9300万台と一時は爆発的な普及を見せたが、その後は端末生産台数の急減が報じられ、加入者数は頭打ちとなり減少を続けて、2007年9月30日には9000万台を割り込んだ。安価な音声端末がほとんどで、電気通信会社の「中国電信」および中国網通の事業を譲受した「中国聯通」が主要PHS事業者としてPHSを固定電話の延長として展開していた。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1982年7月1日、上海市で中国で初めてとなる商業化された携帯電話サービスが開始されたが初期の利用者は20人であった。一方、小霊通のサービスは1996年に試験が開始され、1999年から本格的に開始された。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "小霊通のサービスは固定通信事業者の中国電信社の浙江省余杭市電信支局によって実験的に始められた。中国電信浙江省余杭市電信支局長の徐福新は、日本のPHSの雑誌記事を見てこの技術を中国の固定通信網に組み合わせることができないか1994年から自主的に研究しており、1996年に中国電信の親会社と信息産業部に申請しないまま余杭市で試験運転を始めた(後に徐福新は「小霊通の父」と呼ばれるようになった)。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "中国電信社は1999年から業務別の事業改編(一次改組)により移動通信、衛星通信、ページャー事業など数社に分割され、固定通信部門は「中国電信」が事業業務を行うことになっていた。しかし、中国電信社ではそれまで主な収入源であった移動通信事業がなくなるため、一部の地方会社が「無線市内電話」や「移動市内電話」と称してデジタル無線電話のPHS用周波数帯域の使用を各地方都市で申請した。小霊通のサービスエリアは携帯電話より狭いものの、移動通信の一種を固定通信事業者が事業運営するものであったため、1999年の内部規定に反しているとして2000年5月に浙江省余杭市電信支局に対して信息産業部から小霊通サービスの禁止令が出された。しかし6月には信息産業部より「関与規範PHS無線市話建設与経営的通知」が公布され、PHSは固定市内電話システムを補完する低速移動無線システムとしてサービスエリアの限定を条件に制度化された。一次改組で中国電信社の収入の約3割を占める移動通信事業を中国移動社として事業化したため、赤字が続く固定通信業務のみでは運営が極めて困難とする中国電信側の苦情に配慮した政策といわれている。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2001年からは固定通信事業者の中国網絡通信集団公司も参入した。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "中国では携帯電話の利用料金に発信側も受信側も同額を負担する「発着分離課金」制度を実施していたが、小霊通は発信側のみ課金される「発信課金」制度を採用した。小霊通サービスが低廉な料金設定を可能にした理由は、基地局への投資費用が携帯電話より著しく小さく、固定通信事業者が事業運営したため基幹通信網の維持費を固定電話利用者にも転化できたことでサービス開始当初から料金を低廉にすることができたからである。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "小霊通サービスが信息産業部に正式に認められたのは2003年である。2003年5月17日には、北京、上海、天津、重慶及び広州で小霊通のサービスが一斉に解禁された。2004年末の小霊通利用者数は中国電信集団公司(CHINATELECOM)で4,603万人、中国網絡通信集団公司(CHINANETCOM)で2,201万人であった。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "中国のPHSは都市単位(日本の県単位くらい)の地域別電話番号が割り振られ、他地域では使えない不便さがあった。しかし、小霊通PIMカードに電話番号を書き込む方式に2005年5月17日に統一され、各都市の電話番号が書き込まれたPIMカードを差し替えることにより、同一端末を他地域でも使えるようになった。これはPIMカードとして国際展開されている。中国国外での展開として、UTStarcom社のベトナムでのIPベースの無線用インフラなどが見られる。", "title": "中国におけるPHS" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "香港では、1997年にサービスイン。近年は利用者が大幅に減少し、PHSの無線周波数帯を開放する目的で、2013年4月にライセンス免除の撤廃を決定。約3年間は猶予期間で所有と使用が認められたが、2016年5月9日でこの期間が終了するため、冒頭のとおり、2016年5月10日以降は使用および所有が禁止(電波法令違反)となる。台湾でも2015年3月にPHSサービスが終了し停波。中国は当初2011年にサービス終了する予定であったが、「小霊通」ユーザーの反発に会い2014年以降まで延期。2014年12月31日をもってサービス終了した。", "title": "中国におけるPHS" } ]
PHSとは、無線通信により、移動した先で長距離間の通信を行うシステム、またその電話機自体や、それによる移動体通信サービスのことを指す。日本発の通信規格でパケット通信、カメラ付端末、スライド式キーボードの装備などは、携帯電話に先行してPHSの端末において実用化された技術である。 PHSは無線機の一種であるため、日本では電波法により規制されている。日本国内で一般に流通しているPHSは、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 日本では1995年7月1日に東京・北海道地区でサービスが開始され、2023年3月31日にPHSの音声通話・データ通信サービスはすべて終了した。 2006年には全世界で契約件数が1億件となったが、そのほとんどは固定電話網の代替として普及した中国で、のちに中国政府がPHSの電波を携帯電話に割り当てる方針をとったことで日本国外のPHS市場も縮小していった。
{{Otheruses|移動体通信|その他}} {{脚注の不足|date=2022年1月}} [[ファイル:PHSの端末例.jpg|thumb|right|250px|PHSの端末例 [[ドコモPHS]] [[633S]](シャープ)・[[ウィルコム]] [[AH-K3001V]](京セラ)・同 [[WX310SA]](三洋電機)]] '''PHS'''(ピーエイチエス、{{Lang-en-short|personal handy-phone system}}<ref>通商産業省機械情報産業局 監修、データベース振興センター 編『データベース白書 1999』データベース振興センター、1999年、434頁</ref>)とは、[[無線通信]]により、移動した先で長距離間の[[通信]]を行うシステム、またその電話機自体や、それによる[[移動体通信]][[電気通信役務|サービス]]のことを指す。日本発の通信規格である。 パケット通信、カメラ付端末、スライド式キーボードなどは、[[携帯電話]]に先行してPHSの端末において実用化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150425015319/https://www.sankeibiz.jp/business/news/150423/bsj1504230500001-n1.htm|title=日本の通信技術“世界初”だけでは通じず PHS、キャプテン…営業戦略も重要|publisher=sankeibiz|language=日本語|date=2015-04-23|accessdate=2022-01-21|page=1}}</ref>。 PHSは[[無線機]]の一種であるため、日本では[[電波法]]により規制されている。日本国内で一般に流通しているPHSは、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク([[技適マーク]])が刻印されている。 日本では[[1995年]][[7月1日]]に東京・北海道地区でサービスが開始され、[[2023年]][[3月31日]]にPHSの音声通話・データ通信サービスはすべて終了した<ref name=":2" />。 [[2006年]]には全世界で契約件数が1億件となったが、そのほとんどは[[固定電話]]網の代替として普及した中国で、のちに中国政府がPHSの電波を携帯電話に割り当てる方針をとったことで日本国外のPHS市場も縮小していった<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150425015344/https://www.sankeibiz.jp/business/news/150423/bsj1504230500001-n6.htm|title=日本の通信技術“世界初”だけでは通じず PHS、キャプテン…営業戦略も重要|publisher=sankeibiz|language=日本語|date=2015-04-23|accessdate=2022-01-21|page=6}}</ref>。 == 概要 == === 概略 === 通信手段として、電話機(端末)と[[基地局]]との間は[[有線通信]]の[[通信線路]]([[電話線]]など)を用いずに[[電波]]による[[無線通信]]を利用する。[[マルチチャネルアクセス無線]]技術の一種でもある。 PHSは基本的に、屋外で[[電気通信事業者|事業者]]の[[基地局]]に接続し、移動先で[[電話]]として利用可能であった。そのほか、企業や家庭の[[内線電話|内線]]で[[コードレス電話]]の子機として利用可能である。ただし、子機を親機やシステムに登録する必要がある。前者は公衆PHS、後者は自営PHSと区別された(後述)。 開発当初から[[デジタル]]無線方式を採用し、[[第2世代移動通信システム|第二世代携帯電話]]と[[無線アクセス]]との間の中間的な性能を持っていた。開発名称は第二世代デジタルコードレス電話であり、[[第三者]]が[[広帯域受信機]]で通話の内容を聞くことが難しいデジタル方式とし、企業や家庭では内線コードレス電話の子機として、屋外では簡易な[[基地局]]により[[公衆交換電話網]]に接続する発想で作られた、日本発の規格であった。 === 概歴 === 当初は「{{lang|en|personal handy phone}}」の略で'''PHP'''と呼ばれたが、[[パナソニックグループ|松下グループ]]の関連会社である[[PHP研究所]]{{Efn2|この企業も[[松下幸之助]]が設立こそしているが、現在のパナソニックグループを構成している企業ではない。}}と紛らわしいことから、[[1994年]][[4月22日]]に呼称をPHSに変更すると発表。PHPからPHSに呼称が変更された際に、PHSを「ピーエイチエス」、あるいは簡略化して「フォス」と呼ぶとする発表があった。前者は事業者や報道関係でも広く知られ広まり、後者は定着しなかった。のちに若者、特に[[女子高生]]らに「'''ピッチ'''」の呼び方が広がり始め、その影響を受けて、[[1999年]]以降には[[移動体通信事業者]]も[[コマーシャルメッセージ]]や[[パンフレット]]でこの呼称を用いるようになった。 [[1990年代]]後半から、[[中華人民共和国|中国]]のほか[[台湾]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ベトナム]]など[[アジア]]の[[新興工業経済地域|中進国]]各国でも一定の普及を見、世界で2006年10月時点で約1億台とされた<ref>{{Cite press release |和書 |title=世界のPHS稼動数 1億加入突破について |publisher=株式会社ウィルコム |date=2006-11-08 |url=http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/11/08/index.html |accessdate=2006-11-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061110132753/http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2006/11/08/index.html |archivedate=2006-11-10 }}</ref>。「PHS」ではない現地特有の名称等も定着しており、小霊通、[[PAS]](Personal Access System)、CityPhone などとも呼ばれていた。一部の[[新興工業経済地域|中進国]]・[[開発途上国|発展途上国]]の[[通信線路|電話回線]]が導入されていない地域では、[[固定電話]]の代替としてPHSが住民に普及し、また事業者が[[無線通信|無線]]による固定電話回線([[無線アクセス#PHS FWA|PHS FWA]]、TDD-TDMAを採用)として導入することもあった。また国際展開と併せて、2003年4月には日本事業者の[[DDIポケット]]と台湾やタイとの間でPHS事業者同士の国際ローミングサービスも開始された。 日本では2000年代から[[2010年代]]にかけ、[[アステル]]やNTTドコモPHSなど、公衆サービスから早々に撤退する事業者が相次ぐ中でDDIポケットは独自の展開を見せ、端末の高度化や高速化、各種定額制の導入など奮闘するも、2010年代の[[スマートフォン]]や[[Long Term Evolution|LTE]]などの普及に押され徐々に公衆サービスは縮小へと向かった。 [[2018年]][[3月31日]]に、全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した<ref group="注" name=":1">。基本的に、公衆サービス以外の自営用PHS端末([[コードレス電話]]の1種に該当)については、公衆PHS事業者の動向の影響は及ばない。つまり、自営用端末は、総務省により「免許を要しない無線局」としての認可が廃止されるまでは利用可能である。</ref>。サービス提供中の[[Y!mobile]]([[ソフトバンク]]・[[ウィルコム沖縄]])は、法人向け[[テレメトリング]]以外の既存契約者へのサービス提供を[[2020年]][[7月31日]]に終了する予定であると発表していたが<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1904/24/news092.html|title=ワイモバイルのPHS、23年3月末で完全終了|accessdate=2019年5月1日|publisher=ITmedia}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|title=一般向けの「PHS」が2020年7月末で終了、法人向けテレメトリングのみ継続|date=2018-04-19|last=株式会社インプレス|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1117927.html|accessdate=2018-10-18|language=ja-JP|work=ケータイ Watch}}</ref><ref name=":1" group="注" /><ref name=":0" group="注">ただし公衆サービスの終了とは'''無関係に'''、[[コードレス電話]]に関してはその技術基準の改正により、[[2005年]][[11月30日]]までに技術基準適合証明を受けた小電力コードレス電話とデジタルコードレス電話は、'''技適マークがあっても[[2022年]][[12月1日]]以降は使用できない(電波法違反)'''。PHS端末(自営モード)や自営PHS親機、アナログコードレス電話、その他PHS方式によるビジネスホン親機や集合装置などの一部が使用不可となる。(平成17年総務省令第119号改正の無線設備規則の改正附則第5条第1項による。平成17年12月1日施行)</ref>、2020年4月に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響]]により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了が[[2021年]][[1月31日]]に延期され、そして同日にサービス提供終了した<ref name="asahi202004">{{Cite news|title=ソフトバンクがPHS終了延期 コロナで医療機関が要望|date=2020年4月17日|url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASN4K5Q9TN4KULFA033.html|accessdate=2020年4月18日|language=ja-JP|work=朝日新聞}}</ref><ref name=":3" />。法人向けテレメトリングのサービスは、[[2023年]]3月31日に終了した<ref name=":2" />。 [[香港]]では[[2013年]]4月にPHSサービスが終了・停波し、[[2016年]][[5月10日]]から日本製を含むPHS端末の所持または使用に対しては2年以下の禁錮または5万[[香港ドル]]以下の罰金に処される。[[台湾]]でも[[2015年]]3月にPHSサービスが終了して停波した。[[中国]]は「小霊通」サービスが[[2014年]]12月31日をもってサービス終了した<ref name=":1">{{Cite web|url=http://www.bbtnews.com.cn/news/2014-11/17000000147124.shtml|title=北京小靈通年底退市|accessdate=2014-11-17|author=北京商报|publisher=|language=zh|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141230213829/http://www.bbtnews.com.cn/news/2014-11/17000000147124.shtml|archivedate=2014-12-30|deadurl=yes}}</ref>。なお、PHS端末に限らず無線機器の利用は各国ごとに無線の帯域や仕様が異なっており、許可制であるため、無線機器を不用意に国外へ持ち出し、または国外から持ち込んで使用すると、その国の法令により、処罰される場合がある<ref name="hkgovrelease">{{Cite web|url=http://www.ofca.gov.hk/en/media_focus/press_releases/index_id_1208.html|title=Office of the Communications Authority - Press Releases|accessdate=2018-10-18|website=www.ofca.gov.hk|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|title=香港でPHSの持ち込み、所有や使用が5月10日から禁止に 違反者には70万円超の罰金または2年間の禁固刑|date=2016-04-22|last=株式会社インプレス|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/754672.html|accessdate=2018-10-18|language=ja-JP|work=トラベル Watch}}</ref>。 なお、[[ヨーロッパ]]におけるPHS相当の移動体通信規格としては、[[DECT]]が主流である。DECT規格は「デジタル[[コードレス電話]]の新方式」として日本国内にも導入済みで利用可能である<ref group="注">ただし、仕様や技術適合基準が異なるため、日本国外のDECT機器をそのまま日本に持ち込んで使用する事はできない(逆も同様。すなわち日本国内仕様DECT機器を日本国外で使用する場合には現地電波法規制の確認が必要)。</ref>。さらに自営用PHSシステムの代替としては2010年代後半から[[VoLTE]]/[[sXGP]]によるシステムが検討され導入も一部始まっている<ref group="注">既に自営通話向けsXGPを搭載したスマートフォンが市場に出始めている(2019 - 2020年頃)。</ref>。 == 特長 == PHSの主な特長を列挙。 *屋外でPHS[[電気通信事業者|事業者]]の基地局と接続し、[[移動体通信]]として利用(公衆モード、[[#利用者端末|後述]])。 *[[音声]]の[[符号化方式]]として32k[[ビット毎秒|bps]]の[[ADPCM]]を採用し、[[無線]]条件が良好であれば[[固定電話]]並みの音声通話品質を提供。 *家庭用のデジタル[[コードレス電話]]として、親機経由で[[固定電話]]に接続。また事業所向けの[[内線電話]]として、自営[[基地局]]システムを設置して使用。 *いくつかの無線チャネルを束ねて[[無線アクセス]]に利用。[[第3世代移動通信システム]]と比較して、低速ながらも安価で大容量の通信が可能。 *PHSの国際[[ローミング]]。日本国外では[[GSM]]とPHSのデュアルモード通信端末も存在した。 *端末同士の直接通話([[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]。[[特定小電力無線]]の特定小電力10m[[ワット (単位)|W]]型と同等の利用法)が可能。 *規格に互換性があるため、基本的な[[音声通話]]やデータ通信(PIAFS)は原則、端末を問わずいずれのPHS事業者(公衆モード、[[#利用者端末|後述]])にも登録して利用可能。 *通話需要の少ない地域で[[公衆交換電話網]]の代替(PHS WLL/FWA、日本国外)。 *[[フィーチャーフォン]]的な多機能化(ケータイ、[[携帯機器]])。 == 技術 == 日本国内においては、[[携帯電話]]と比較した場合、以下の特徴があった。 基地局の[[空中線電力|送信出力]]が携帯電話で最大25[[ワット (単位)|W]]に対し、PHSは公衆用基地局で最小20mW - 最大500mWと小さい。そのため、基地局を多数設置して、利用可能なエリアを確保する方法が取られる。 基地局の出力が小さく、設置コストが安価なことから、[[地下街]]や[[地下鉄]]の[[鉄道駅|駅構内]]など、地上と比較して狭い空間へのエリア展開が、1995年のサービス開始当初から実施されている(携帯電話が[[日本の地下鉄]]駅構内で利用可能になり始めたのは、2000年頃からである)。 PHSと携帯電話<ref name=":2" group="注">概ね[[第3.5世代移動通信システム|3.5G]]までのもの。</ref>の最大の違いは、一つの基地局がカバーするエリアの広さの違いである。携帯電話<ref name=":2" group="注" />は一つの基地局で半径数km以上をカバーしており「マクロセル」と呼ばれていたが、PHSは当初、半径100m以下 - 最大でも500m程度であり「マイクロセル」と呼ばれていた<ref group="注">なお、[[第3.9世代移動通信システム|3.9G]]携帯電話においてはこの程度のサイズは「[[フェムトセル]]」と呼ばれている。</ref>。鉄塔の建設を行うなど、大がかりな携帯電話の基地局に対して、PHSの基地局は、電柱や構内の天井や壁面などに小型の基地局装置を設置するだけであるため工事が容易・低コストである。反面、基地局あたりのカバーエリアが狭いため多数の基地局を設置する必要がある<ref name="kogure">[http://www.kogures.com/hitoshi/history/keitai-phs/index.html PHSの歴史<携帯電話の歴史<歴史<木暮仁]、木暮仁:「経営と情報」に関する教材と意見</ref>。 このマイクロセル方式により周波数の空間的再利用が可能であり、1基地局あたりのカバーエリアを小さくして、同一周波数の再利用が容易になるため、周波数の利用効率が高い特長を持つ。[[第3世代移動通信システム|3G]]以降の携帯電話でも、都市部の高トラフィックエリアでは、マイクロセル方式を採用している場合がある。この方式により基地局一台あたりの[[トラヒック理論|トラフィック]]は携帯電話に比べ余裕があり、早い時期から[[パケット]]定額や音声通話定額などの定額サービスを開始できた。 端末の出力も携帯電話で最大200mW程度に対し、PHSはバースト内平均電力で80mW(送信平均電力は10mW)。よって基地局側に高い[[利得 (電気工学)|利得]]の[[アンテナ]]が要求される一方で、端末側の[[消費電力]]は抑えられている。これにより、待受け・通信(通話)時ともに[[電池]]はより長持ちするとされていた。2000年代以降は、PHS端末の高機能化に伴い消費電力が増加、携帯電話の通信規格改良や電池の大容量化などにより、音声端末における差異は小さくなっていった。 1995年のサービス開始当時において、当初主流の[[第2世代移動通信システム|第二世代携帯電話]]([[PDC]])方式との比較では、音質が良い、データの転送速度が速いとされていた。第三世代携帯電話(3G)では転送速度の高速化や音質の改良がなされ通信性能面では追い抜いた一方、サービス料金は高額なままであった。そこを突いてトラフィックに余裕があるPHSはパケット通信や音声通話の定額制を先んじて導入した。さらにPHSにおいても高度化PHS、次世代PHS(後述)などによる高速化が図られた。 スタンダードなPHS方式においては、[[音]]声の[[符号化方式]]には32k[[ビット毎秒|bps]]の[[Adaptive Differential Pulse Code Modulation|ADPCM]]を使用する。なお、[[高度化PHS]]であるウィルコム(当時)の[[W-OAM]]方式において、低速だがエラーに強い[[デジタル変調#位相偏移変調|BPSK]]による通話時は、[[音声符号化]]方式は13 - 16kADPCMとなっていた。 [[周波数]]帯は1.9GHz帯を使用。[[高度化PHS]]においては1.8GHz帯(1884.65 - 1893.65MHz)を追加で使用。通話用キャリアは、同帯域内において[[周波数分割多重化|FDM]]である。1つの通話用キャリア上に、[[複信]]・[[多元接続]]方式として[[時分割複信|TDD]]-[[時分割多元接続|TDMA]]を採用する。1フレームを5msとし、これを625μsのスロット8つに分割する。TDDとして、前半4つのスロットを下り(送信、基地局→端末)、後半4つを上り(受信、端末→基地局)、として独立して使用するため、多重数は4となる。また、8スロットの内2スロットは制御スロットとして使用するため、1つの周波数(1つの通話用キャリア)で同時に使用できるのは3通話となる。1通話スロットあたりのトラフィックチャネル(通話チャネル)のデータレートは32kbpsであるため、64kbpsのデータ通信を行う場合には、送受信スロットを2つずつ束ねて使用する。 === データ通信 === PHSを利用した[[データ通信]]に関しては、サービス開始当初は、アナログ[[電話回線]]における[[モデム]]と同様に、PHSの音声通話チャネルに対してモデムによる変復調を適用する、いわゆる「みなし音声」という規格により無線データ通信が行われていた。これは、データをモデムによりアナログ音声に変復調したあと、再度その音声をADPCMにより変復調して伝送するというオーバーヘッドがあり、非効率でおおむね14400bps程度と低速だった。 のちにデータを直接PHSの通信チャネルに対し伝送する方式として[[Personal Handyphone System Internet Access Forum Standard|PIAFS]]仕様が策定された。詳細は同項目を参照。各事業者のPIAFS規格採用状況は、日本国内の全PHS事業者が採用するPIAFS1.0 、[[NTTドコモ]]が採用するPIAFS2.0、[[ウィルコム]]と旧:[[アステル]]系事業者の一部が採用するPIAFS2.1、ウィルコムが採用するPIAFS2.2となっていた。 PIAFSは基本的に[[回線交換]]方式であり日本国内および国際的にも各PHS事業者で共通事項が多く、互換性も高かった。一方、ウィルコムの「[[エアーエッジ|AIR-EDGE]]」の[[パケット通信]]は、[[W-OAM]]を含めて独自方式により高速化を図っていた。''詳細は[[エアーエッジ]]の項目を参照。''なお、エアーエッジのパケット通信についてはPIAFS策定事項に含まれていないが、2004年に国際展開を目的として同社がライセンス契約による仕様公開を行った。 === 周波数帯域利用状況 === {{Main2|日本国外の状況、他の移動体通信など|移動体通信#各地域別周波数帯域利用状況}} 通信チャネルとして1884.65 - 1919.75MHzを使用。制御チャネルは、1915.85 - 1918.55MHzを使用していたが、2012年に1906.25 - 1908.35MHzへずらされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20201107041104/https://www.tele.soumu.go.jp/horei/reiki_honbun/a72aa32291.html|title=電波法施行規則第六条第四項第五号及び第六号の規定に基づくデジタルコードレス電話の無線局及びPHSの陸上移動局が使用する電波の型式及び用途等|accessdate=2018-10-18|website=www.tele.soumu.go.jp|language=ja}}</ref>。 通信チャネルを旧3グループで共有していたため、携帯電話とは事情が異なりアステル・ドコモ撤退によるウィルコム(現:ソフトバンク)への周波数の追加割り当てなどは発生していない。[[高度化PHS]]用帯域(W-OAM向け)も名目上は各社共有である。 この周波数帯は公衆PHSサービス終了後(前述)も、日本版[[DECT]]、[[sXGP]]などで利用される予定である。 {| class="wikitable" |+日本のPHSの周波数帯域利用状況 !周波数([[メガヘルツ|MHz]])!!日本 |- |1884.65 - 1893.65||[[W-OAM]]([[高度化PHS]]):[[ソフトバンク]]・[[ウィルコム沖縄]] |- |1893.65 - 1906.25||PHS:ソフトバンク・ウィルコム沖縄<br>[[コードレス電話#デジタルコードレス電話|第2世代デジタルコードレス電話]](自営PHS・[[DECT]]など) |- |1906.25 - 1915.55||PHS:ソフトバンク・ウィルコム沖縄 |} === 利用者端末 === 電話機は携帯電話と異なり、次の3つの基本動作モードがある。通常PHSという場合は「公衆モード」を指す。なお、2003年頃以降発売された端末では「自営モード」「トランシーバーモード」の動作モードの一部または全部を持たないものが主流になっていた。 *公衆モード:PHS事業者の基地局と接続するモード。 *自営モード:コードレス電話の子機として使用するモード。企業における内線電話システムとして多数の自営基地局を設置して使用する場合が多い。 **[[NTTパーソナル]]プロトコル **[[アステル]][[パナソニック|松下]]プロトコル **α-PHS **自営第2版 **自営第3版 **家庭第2版 *トランシーバーモード:予め登録された2台の電話機同士で、公衆基地局やコードレス親機を経由せずに直接通話ができるもの。いわゆる[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]のように送話と受話を交互に行う単信方式ではなく、通常の電話と同じく、同時に送受話できる(複信方式)。なお、トランシーバーモードの方式には、共通のコードレス親機に登録が必要なものと、不要なものがある。登録不要の方式はグループモードと呼ばれ、トランシーバー通話のほかに、電話帳転送なども可能である。 端末によっては、上記3モードのうちの一部または全部を同時に(モード切替をせずに)待ち受けできる物もある。 PHSは規格に互換性があるため、たとえばA事業者用のPHS端末をB事業者の公衆PHSサービスに登録して利用するといったことも原則は可能であった。ただし、この場合は基本的な音声通話やデータ通信(PIAFS)などにサービスが限定され、事業者独自や仕様の異なるサービス(インターネット接続サービス、高速ハンドオーバー)などの機能は有効にならないのが通例であった。自営モードは自営規格が適合すれば、端末・自営基地局のメーカーに関わらず接続利用可能である。 屋内で電波が微弱となった場合に、中継用の簡易型基地局(いわゆるホームアンテナなど)を窓際などに設置して利用することもあった。中継用基地局は、端末からの無線接続を受け入れると同時に、公衆用基地局に対して無線接続を行い、電波の中継(再生中継方式)を行う。このうち、端末からの無線接続を公衆モードで行うものと、自営モードで行うものに分かれる。前者は中継用基地局の設置者以外の端末から利用される場合もあった。 初期のものを除きPHS端末は携帯電話端末と同様に、着信の際、発信者が非通知設定・通知不可能・公衆電話発信の回線などでなければ、[[液晶ディスプレイ|ディスプレイ]]に発信者番号が表示された(固定電話の[[ナンバーディスプレイ]]と同等の機能)。端末の[[電話帳]]機能に登録している番号に合致した場合は、登録した名前も表示できた。 日本では、[[Iモード|i-mode]]端末など携帯電話端末の多機能化と前後する形で、2001年ごろからPHS端末も多機能化した。もっとも、携帯型移動体通信端末における[[ショートメッセージサービス|テキストメッセージング(SMS)]]の先駆けは、[[1996年]][[11月20日]]に開始のPHSの[[Pメール]]サービス(旧:DDIポケット)であった。 [[インターネット]]に接続して[[電子メール]]や、ウェブが利用可能な端末も相次いで発売された(H"LINK、[[mopera]]、[[ドットi]]、[[エアーエッジ|CLUB AIR-EDGE]] など)。 [[カメラ付き携帯電話]]の普及に少し遅れる形で、普及層向け[[カメラ付き携帯電話|カメラ付きPHS]]端末(携帯電話と同様に端末にカメラを内蔵し静止画撮影が可能なもの)が発売された。動画撮影やテレビ電話に対応した機種は、スマートフォン時代到来以前のいわゆるフィーチャーフォン時代において、普及層向けPHSでは限定的であった。もっとも、世界で初めて市販された[[カメラ付き携帯電話|カメラ付き携帯電話・PHS]]の先駆けは、1999年7月発売の[[京セラ]]製[[テレビ電話#DDIポケット|VisualPhone]] [[VP-210]](旧:DDIポケット)であった。 PHSのマイクロセルの特徴を生かして、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS等]]を利用せず基地局からの方位測定によりある程度の精度の位置情報を取得するサービス<ref group="注">スマートフォンのGPS搭載端末のように、リアルタイムでカーナビにも利用できる程の精度は無く、最も高精度でも数10m程度の誤差があり測位にも時間が掛かった。なお、携帯電話による基地局測位は3.5G携帯電話(LTEなど)システム以降にようやく実用化されたが、携帯電話ではフィーチャーフォン時代からGPS等による正確な測位が主流だった(携帯電話初は2002年のauの[[C3003P]])。</ref>がサービス開始当初から構想され、実現されていた。これも移動体通信端末では先駆けであった。 2005年以降は[[スマートフォン]]に特化したPHS端末(スマートフォン端末にPHS通信機能を内蔵させたもの)が発売された。''詳細は[[スマートフォン]]を参照。'' === 事業者ネットワーク === [[ファイル:WILLCOM PHS Mobile phone tower.jpg|200px|right|thumb|ウィルコムの基地局<br>3.5G迄の携帯電話基地局と比べて非常に小型なのが特徴。一方でPHSの基地局としては大型の部類。画像のクロスした垂直四本アンテナ(十字架アンテナ)は標準局として、また倍増し八本アンテナは混雑地域局とすみ分けされていた。]] 公衆モードのネットワークの基盤は、日本国内は[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]の[[ISDN]]を基盤にしている活用型(依存型)事業者と、独自に構築した接続型(独自型)事業者の2つがあった。[[アステル]]北海道・東北・北陸・中部・四国が接続型で、その他の事業者は全て活用型であった。旧:アステル関西・中国各地方の音声サービスは上述のように活用型だったが、定額制PHSデータ通信サービス「eo64エア」・「MEGA EGG 64」はいずれも接続型であった。 活用型PHSはNTT地域会社の[[D70形ディジタル交換機|D70]]加入者[[電話交換機]]にPHS接続装置(PSM:PHS-interface Subscriber Module)を接続し、PSMと[[基地局]](CS)の間の通信にISDN回線が使用される。乱暴な言い方をすれば、既存のISDN網の末端にPSMやCSなどの設備を取り付けてシステムを構築したものである。自前のネットワークを構築するよりも短期間でサービスエリアを広げることが可能で初期の投資も抑えることができるが、回線やPSMの使用料が事業者に毎月発生する。その後全国的にNTTの[[NS-8000|統合型ノードシステム(MHN-S)]]へのPSM機能の統合がなされ、PSMの廃棄費用と引き替えにPSM使用料はなくなった。 活用型PHSは、システムがデジタル[[電話交換機]]に完全に依存しているため、[[公衆交換電話網]]自体の[[Internet Protocol]]を利用した[[Next Generation Network|NGN]]への更改に伴い、活用型PHS事業者はPHSサービスの提供に重要な影響を及ぼす予定である<ref group="注">ただし前述のとおり2021年 - 2023年にかけ、公衆PHSサービスは終息した。</ref>。 接続型PHSは活用型PHSとは異なり、ISDN網ではなく地域系通信事業者の網を経由してNTT地域会社の市外系交換機(IC)または加入者交換機(GC)に接続する。NTTのネットワークを利用する部分が少なくて済み、PSMも不要である。NTTへの依存コストはない分、自前のネットワークの構築・維持コストがかかる。他の通信事業者との[[ローミング]]の整備も必要となる。 2000年代後半から2010年代初頭の動向として、市中の末端ネットワークを[[光ケーブル|光]]回線とし、低コスト、高スループットを実現するもの(eo64エア、W-OAM typeG)や、基本は活用型でありながら、電話局間の幹線網を[[VoIP]]でバイパスし、コスト削減・高スループットを実現するもの(ウィルコム)も出た。<!--[[ウィルコム]]関連記事にあれば良いと言う意味でコメントアウト: 詳細は[[ウィルコム]]を参照 ウィルコムでは[[VoIP]]対応交換機(ITX:Ip Transit eXchange)<ref>[http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2005/02/60_02pdf/b05.pdf]([[Portable Document Format|PDF]])</ref>を積極的に導入しており、'''Wireless IP Local Loop'''の構築がなされている。これにより、音声通話および[[データ通信]]のトラフィックを従来の[[公衆交換電話網]]から[[専用線]]([[VoIP]]/[[Internet Protocol|IP]]網)に流すことにより[[NTTグループ|NTT東西]]への接続料を削減し[[音声通話定額制]]を可能としている。 --> === PHSの改良規格 === ==== 高度化PHS ==== {{Main|高度化PHS}} 高度化PHSは、現行PHS規格の改良型で、高速[[無線アクセス]]システム的性能を持つ。 ==== 次世代PHSほか ==== {{Main|eXtended Global Platform|XGPサービス|AXGP}} 「[[EXtended Global Platform|次世代PHS]]」(XGP:''neXt Generation PHS'')は「高度化PHS」とは別に、PHSのマイクロセル・自律分散などコンセプトを引き継ぎつつ、新たに構想、策定された規格である。'''従来のPHSとの互換性は全くない'''。略称「'''XGP'''」の正式名称が、''neXt Generation '''PHS'''''から''eXtended Global '''Platform'''''に改められた経緯もあった。旧:[[ウィルコム]]が主導し[[2009年]][[4月27日]]に東京の一部エリア、同年10月1日に正式サービス開始、以降それを[[Wireless City Planning]](WCP)が継承したが、2012年1月31日にサービス終了。 さらに、WCPは、XGPの固定資産を活用して2011年11月1日に[[AXGP]]サービスを新たに開始。これも従来PHSおよび'''次世代PHS(XGP)との互換性は全くない'''。同年2月24日、グループ企業の[[ソフトバンクモバイル]]がWCPのAXGPサービスを[[SoftBank 4G]]として[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]提供開始。 ==== ターボPHS ==== 日本国外ではデータ通信より通話がメインの利用者が多いため、日本とは方向性の違う高度化PHS規格である「ターボPHS」が提案され検討された。主な変更点として新制御チャンネルの設定、[[ショートメッセージサービス|SMS]]の容量拡大、音声コーデックに[[Adaptive Multi-Rate|AMR]]を追加、端末出力の高出力化などがあげられる<ref>{{Cite news|title=中国の高度化PHS「Turbo PHS」とは?|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0603/23/news100.html|accessdate=2018-10-18|language=ja|work=ITmedia Mobile}}</ref>(全てサービス終了)。 === 制御チャネル移行およびIMT-2000側のガードバンド === [[高度化PHS]]に関する2001年6月25日の総務省情報通信審議会の答申においては同時に、従来のPHS帯と[[IMT-2000]]帯域(日本における[[第3世代移動通信システム|第三世代携帯電話]]用の帯域、2.0GHz帯)との干渉問題の解決のためPHSの公衆用共通制御キャリア(BCCH、単に制御チャネルとも呼ばれる)を低い周波数の方にずらす対策を取ることも示された。 なおIMT-2000側は、PHS帯と隣接するIMT-2000帯内の5MHz分がガードバンドとされ、相互の干渉抑止のため使用不可とされた。この部分は[[KDDI]]([[au (携帯電話)|au]])帯域だったが、IMT-2000・2.0GHz帯参加2社(NTTドコモ・ソフトバンク)も当初は、公平を期するため同様に各社の5MHz分とも使用不可とされた。後にこれら2社のガードバンド帯域は外されている<ref>{{Cite press release |和書 |title=第三世代移動通信システム(IMT-2000)の導入に関する方針(平成12年3月公表)に係る意見の募集-IMT-2000の2GHzメガヘルツ帯周波数の今後の取扱い- |publisher=[[総務省]] |date=2003-12-26 |url=http://www.soumu.go.jp/s-news/2003/031226_8.html |accessdate=2007-02-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20031230023643/http://www.soumu.go.jp/s-news/2003/031226_8.html |archivedate=2003-12-30 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=第三世代移動通信システム(IMT-2000)の導入に関する方針に係る意見募集結果の公表及び今後の方針案等に対する意見の募集<IMT-2000の2GHz帯周波数の今後の取扱い> |publisher=[[総務省]] |date=2004-03-19 |url=http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/040319_3.html |accessdate=2007-02-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040409214435/http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/040319_3.html |archivedate=2004-04-09 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=第三世代移動通信システム(IMT-2000)の導入に関する方針に係る今後の取扱方針案等に対する意見募集の結果及び今後の取扱方針の公表(IMT-2000の2GHzギガヘルツ帯周波数の今後の取扱い) |publisher=[[総務省]] |date=2004-05-28 |url=http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/040528_3.html |accessdate=2007-02-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040804034714/http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/040528_3.html |archivedate=2004-08-04 }}</ref>。前述のPHSの制御チャネル移行後に、KDDI(au)分の5MHzの帯域が使用可能となった。 具体的には、現行の公衆制御キャリア1915.85 - 1918.55MHzが、移行後は1906.25 - 1908.35MHzとなり、1915.85 - 1919.75MHzは移行期限後に使用できなくなった。移行期限は2012年5月31日。期限後は、制御キャリア移行に対応していない古いPHS端末は公衆モード端末としては使用できなくなった。旧:[[アステル]]グループ、ドコモPHSの端末はガードバンド移行非対応のため公衆モードにする事はできない(電波法違反となる)。 なお、制御キャリア移行対応が必要となるのは、移行期限後も存続する計画がある事業者の基地局および端末に限られた。2011年時点でPHS事業を行なっていた事業者は、以下の対応を取った。 ;[[ウィルコム]]・ウィルコム沖縄 :移行は2012年3月1日から5月25日に行われ、制御キャリアの移行に対応しない機種(主に、2003年以前の機種など、ウィルコムブランドで発売されなかった端末が中心)については、アップデート対応や代替サービスのないケースを除き、[[巻き取り (携帯電話)|巻き取り]]が実施され、その上で対応出来ない端末を継続使用した場合は2012年4月30日をもってサービス終了<!-- (強制解約はされず、契約上はサスペンド回線として残された) --><ref>{{Cite web2 |url=http://www.willcom-inc.com/ja/cch/index.html |title=制御チャネル移行に伴う重要なお知らせ |author=<!--記載なし--> |date=2011年3月1日 |website=WILLCOM |publisher=[[ウィルコム]] |access-date=2012年4月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120419174939/http://www.willcom-inc.com/ja/cch/index.html |archivedate=2012-04-19 }}</ref>。 ;[[ケイ・オプティコム]]([[eo64エア]]) :移行期限以前の2011年9月30日をもってサービスが終了した<ref>[http://www.k-opti.com/press/2010/press28.html 「eo64エア」のサービス提供終了について] ケイ・オプティコム、2010年10月19日(2011年6月23日閲覧)</ref>ため、移行対応なし。 == 日本におけるPHS == [[日本]]では、[[電気通信役務]]の区分など法令上や公的な資料・統計では、PHSは[[携帯電話]]と明確に区別されている。一方で両者は公衆サービス上、相違点よりも類似点の方が大きいため、本項目のほか[[日本における携帯電話]]の項目も併せて参照のこと。 法令上の呼称は当初は、本来の用途からすると不適切な「'''簡易型携帯電話'''」だったが、1998年11月に、郵政省(当時)により「'''PHS'''」に改められた<ref>{{Cite press release |和書 |title= |publisher=[[郵政省]] |date=1998年11月20日 |url=http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/pressrelease/japanese/denki/981120j606.html |accessdate=2003-11-18 |archiveurl= |archivedate= }}]<br>セルホン、モバイルホンとも言われている。</ref><ref>{{Cite news |和書|title=郵政省、「高性能なPHSの実現」に向け関連規則の一部改正へ |newspaper=[[INTERNET Watch]] |date=1998-11-24 |author=金丸雄一 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/981124/phs.htm |accessdate=2021-03-28}}</ref>。ただし、一部のマスメディアや電話会社の契約約款などの文面では、依然として「簡易型携帯電話」が使われていた。例として[http://www.ntt-east.co.jp/tariff/html/eb01s01.html NTT東日本・電話サービス契約約款における当社が別に定める内容(別紙1)]内に、「簡易型携帯電話に係るもの」と記載がある。 電話端末は当初より長らくストレートタイプが多かったが、2000年以降は携帯電話のように、大画面化に有利な折りたたみ式が主流となっていた。 日本の法令では、[[携帯電話]]と同様に1999年11月から[[自動車]]・[[オートバイ]]を運転中の使用が禁止され、2004年11月から[[交通反則通告制度]]により[[反則金]]の罰則対象となり、運転者は停車中を除いては通話したり、電話機の表示画面を見てはならない。ただし[[ハンズフリー・マイクロフォン|ハンズフリー]]通話などは対象外である。運転中に通話やボタン操作などを行うことは非常に危険である。2019年12月1日、[[ながら運転]]の防止を視野に運転中にPHSを使用した場合の罰則がさらに強化された<ref>{{Cite web|和書|title=もう不注意じゃ済まされません! いよいよ明日、12/1から「スマホ等ながら運転」の厳罰化スタート!【交通取締情報】|MotorFan[モーターファン]|url=https://motor-fan.jp/article/10012551|website=motor-fan.jp|accessdate=2019-12-01}}</ref>。なお自転車でも同様の規制があり、例として東京都では公安委員会遵守事項違反により5万円以下の罰金となる<ref>東京都道路交通規則第8条第4項</ref>。 2005年5月に、[[携帯電話不正利用防止法]]の施行により、携帯電話とPHSに関し、契約者の本人性確認の義務付けや、不正な譲渡の禁止などが行われた。 PHS端末は[[使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律]](小型家電リサイクル法)の対象品目とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/press/16411.html |title=使用済小型電子機器等の再資源化の促進に関する法律施行令等の公布について(お知らせ) |publisher= 環境省|accessdate=2020-02-01}}</ref>。 === 電話サービスの内容 === サービス上の料金制度として、月額基本料に無料通話分を含んだ、通話の状況に合わせたパック料金があった。料金前払いのプリペイド式PHSとして過去に「プチペイド」が存在した。 [[特殊簡易公衆電話]](いわゆるピンク電話)、および[[新幹線]][[公衆電話]](回線が自動車公衆電話に切り替わる[[秋田新幹線|秋田]]・[[山形新幹線]]を除く)からPHSに発信はできなかった。また、[[電報]]・[[コレクトコール]]・[[ダイヤルQ2]]・[[ナビダイヤル]]・[[テレドーム]]等は利用不可。また、[[フリーダイヤル]]等は掛ける先(着信)側でPHSを受け付ける契約がされていないと掛けられなかった。 [[留守番電話]]・[[転送電話]]機能を備えたサービス・端末が一般的であった。[[キャッチホン]]機能は提供されないことが多かった。 PHS事業者の[[ソフトバンク]](旧:[[ワイモバイル]]←[[ウィルコム]]←[[DDIポケット]])は、音声通話定額制サービスを提供していた。詳細は[[音声通話定額制]]を参照。 === 事業者の変遷 === [[画像:Telecom history in Japan 2019.png|thumb|320px|日本国内の電気通信業界の主な変遷(2019年4月現在)]] 日本では当初、PHSや携帯電話の事業者は、地域ごとに別の会社でなければならなかった。[[NTTパーソナル]]・[[アステル]]・[[ウィルコム|DDIポケット]]の3グループともそうであった。 DDIポケット(当時)では発足当初から北海道・東北・北陸・東京(関東・中央)・東海・関西・中国・四国・九州と会社が分かれていたが、後に地域会社の規制が廃止され、2000年にDDIポケットは地域会社を全国統合した。のちに、[[アステル沖縄]]の契約利用者受け皿として沖縄地域会社を再分割し、沖縄の地域事業者は[[ウィルコム沖縄]]とした。これは沖縄を除いた全国事業者としてのウィルコム発足に先立つものだった。 やがてウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンク主導下での経営再建を経て、[[イー・アクセス]]と経営統合し[[ワイモバイル]]に改称。さらに[[Y!mobile]]のブランドを残しつつ[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]に吸収合併された。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、それぞれPHS事業を段階的に縮小し、2018年3月31日に新規契約受付を終了、2020年7月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了する予定を発表した<ref name=":0" /><ref name=":1" group="注" /><ref name=":0" group="注" />。しかし2020年4月、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて終了時期を2021年1月31日に延期<ref name="asahi202004" />、同日にサービス終了した<ref name=":3" />。また、法人向けテレメトリングのサービスは2023年3月31日に終了した<ref name=":2" />。 *[[NTTドコモ]]グループ([[ドコモPHS]]):2008年1月7日にサービス終了<ref name="docomoPHSfin">{{Cite web|和書|url=https://www.docomo.ne.jp/info/notice/page/070427_01.html|title=重要なお知らせ:PHSサービス終了のお知らせ {{!}} お知らせ {{!}} NTTドコモ|accessdate=2018-10-18|website=www.nttdocomo.co.jp|language=ja}}</ref>。 **1998年12月1日 - NTTパーソナル通信網グループ各社が、NTTドコモグループ9社(当時)に営業譲渡。 *[[アステル]]グループ:2004年12月1日に全国ローミングサービス終了、2006年12月20日にアステル東北がサービス終了した時点で完全消滅。 **アステル九州([[アステル九州]]→[[九州通信ネットワーク]]) **アステル北海道([[アステル北海道]]→[[北海道総合通信網]]) **アステル北陸([[アステル北陸]]→[[北陸通信ネットワーク]]) **アステル関西([[アステル関西]]→[[ケイ・オプティコム]]) **アステル中国([[アステル中国]]→[[中国情報システムサービス]]→[[エネルギア・コミュニケーションズ]]) **[[アステル沖縄]]([[ウィルコム沖縄]]に事業譲渡) **アステル四国([[アステル四国]]→[[四国情報通信ネットワーク]]→[[STNet]]) **アステル中部([[アステル中部]]→[[中部テレコミュニケーション]]) **アステル東京([[アステル東京]]→[[東京通信ネットワーク]]→[[YOZAN]]) **アステル東北([[アステル東北]]→[[東北インテリジェント通信]])<!-- ワイモバイル(イー・アクセス) --><!-- 単なる社名変更や地域統合、法人格の変動に止まるものは扱わない、と直下に書いてある --> なお、単なる社名変更や地域統合、法人格の変動に止まるものは上記では扱わない。<!-- これも[[PHS]]に書く必要は無さそう:各グループ記事にて。 法人格としては、旧:アステル東京と旧:アステル中部は吸収合併により消滅し、それら以外のアステルグループ8社とNTTパーソナルグループ9社は事業譲渡後に会社清算している。ウィルコムも法人格としてはDDIポケット時代の2004年10月に新旧分離がなされている。 --> === 日本における歴史 === *[[1993年]] - [[札幌市|札幌]]と東京で実験開始。 *[[1995年]] - [[NTTパーソナル]](現:[[ドコモPHS|NTTドコモ]])、[[ウィルコム|DDIポケット]](現:ソフトバンク [[Y!mobile]]ブランド)(共に7月1日)、[[アステル]](10月1日)各グループが本サービス事業を開始。 *[[1997年]][[4月1日]] - PHS各事業者、PHSによる32Kbpsデータ通信サービスを開始。 *[[1998年]][[12月1日]] - NTTパーソナル、[[NTTドコモ]]に営業譲渡。 *[[1999年]][[1月1日]]2時 - 携帯電話とともに電話番号11桁化(050-XXX→070-5XXX・060-XXX→070-6XXXへ変更)。 *1999年 - [[2000年]] - 沖縄を除くアステル各社が清算され、電力系子会社への事業譲渡が行われる。 *[[2000年]] - アステル、初のオープンインターネットサービス、ドットiのサービス開始。32kbpsによるモバイルデータ通信定額制も一部地方で、次のAIR-EDGE(AirH")に先行して開始。 *[[2001年]] - DDIポケット、定額制モバイルデータ通信サービス「[[エアーエッジ|AirH"]]」開始。同回線の[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]も提供も開始([[日本通信]]のb-mobile) *[[2002年]] - 東京電話アステルが東京通信ネットワークから通信ベンチャーの鷹山(現:[[YOZAN]])に事業譲渡(ブランドもアステル東京に戻る)。アステル九州が新規受付終了、アステルグループの一角の崩壊が始まる。 *[[2003年]] **アステル九州が事業を停止。 **[[4月]] - DDIポケットと台湾のPHS事業者「[[大衆電信]]」([[FITEL]])との間で相互[[ローミング]]サービスが開始。後に、タイの「Asia Wireless Communication」([[トゥルー・コーポレーション|true]])や、ベトナムの「Hanoi Telecommunications」([[VNPT]])<ref group="注">ベトナムは、2010年11月30日にVNPTのサービス自体が停波・事業終了となったため、ローミング申し込みが同年10月30日をもって、ローミングサービスそのものは11月30日をもってそれぞれ終了した。</ref>との間でも開始。 *[[2004年]] - アステル北海道・北陸、関西・中国(後2者は音声のみ)が事業を停止。全国ローミングも停止し、アステルグループはこの時点で事実上崩壊。DDIポケット、新会社へ移行されKDDIグループから離脱。 *[[2005年]] **[[1月25日]] - [[アステル沖縄]]、[[ウィルコム沖縄]]へ事業譲渡。 **[[2月2日]] - DDIポケットは[[ウィルコム]]へ社名変更。AirH"も[[AIR-EDGE]]へ名称変更。 **[[2月28日]] - NTTドコモ、ドコモPHS事業の将来的なサービス停止、及び2005年[[4月30日]]に新規受付を終了することを正式発表。 **[[4月20日]] - 鷹山(アステル東京)、新規受付を終了 **[[5月1日]] - ウィルコム・ウィルコム沖縄、[[音声通話定額制]]サービス「ウィルコム定額プラン」を開始。 **[[5月26日]] - アステル四国が事業を停止。 **[[5月27日]] - アステル中部が事業を停止。 **[[7月28日]] - アステル東北が新規受付終了。アステルグループの音声PHSサービスは新規受付が全て終了となる。 **[[10月27日]] - [[ジュピターテレコム|J:COM]]が2006年[[3月1日]]からウィルコムと提携して、[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]としてPHS事業に参入すると発表。 **[[11月30日]] - アステル東京が音声サービスを停止。 *[[2006年]] **[[1月31日]] - NTTドコモが2007年秋頃にPHSサービス終了予定と発表。 **[[2月23日]] - ウィルコム・ウィルコム沖縄、高度化PHS「[[W-OAM]]」を開始。 **[[6月30日]] - アステル東京がテレメトリングサービス・児童見守りサービスを停止。これにより、アステル東京の事業は停止となった。 **[[12月20日]] - アステル東北が事業を停止。アステルグループの音声PHSサービスは全て終了となる。 *[[2007年]] **[[2月28日]] - [[エネルギア・コミュニケーションズ]]がPHSデータ通信サービス「MEGA EGG 64」のサービス新規受付を終了。 **[[9月30日]] - エネルギア・コミュニケーションズがPHSデータ通信サービス「MEGA EGG 64」のサービスを終了。 *[[2008年]] **[[1月7日]] - NTTドコモPHSがサービスを終了<ref name="docomoPHSfin" />。 **4月 - [[NTTコミュニケーションズ]]が、ウィルコム回線を使い、NTTコミュニケーションズや無料通話先プロバイダの050[[日本のIP電話|IP電話]]を通話相手とした[[音声通話定額制]]のモバイルIP電話「.Phoneユビキタス」を法人向けに開始した。 *[[2010年]] **[[2月18日]] - ウィルコムが会社更生手続開始の申立を決議。東京地方裁判所に[[会社更生法]]適用申立を行う。直ちに同裁判所より保全処分、監督命令兼調査命令等の諸命令の発令を受けた。 **[[8月31日]] - [[ケイ・オプティコム]]がPHSデータ通信サービス「eo64エア」のサービス新規受付を終了。 **[[12月1日]] - 会社更生手続に基づき、ウィルコムがソフトバンク傘下の事業者としての事業を開始。 *[[2011年]][[9月30日]] - ケイ・オプティコムがPHSデータ通信サービス「eo64エア」のサービスを停波。 *[[2012年]] **[[3月1日]] - 新制御チャネル発射開始。一部機種は引き続き使用するためにバージョンアップが必須となる。 **[[4月30日]] - 新制御チャネルに対応していない端末は使用終了となる。 **[[5月25日]] - 旧制御チャネルの停波により制御チャネル移行完了。 *[[2013年]][[11月1日]] - [[NTTコミュニケーションズ]]、[[ソフトバンク|ソフトバンクテレコム]]および[[楽天コミュニケーションズ|フュージョン・コミュニケーションズ]]が、[[NTT東西]][[加入電話]]からPHSあての選択中継制による[[中継電話]]を開始。詳細は[[マイライン#マイライン参加企業と事業者識別番号]]を参照。<!--0033等をダイヤルする必要があり、優先接続=マイラインではない--> *[[2014年]] **[[6月1日]] - ウィルコムが[[イー・アクセス]]に吸収合併され解散、イー・アクセスが存続会社としてPHS事業を継承。 **[[8月1日]] - [[7月1日]]にイー・アクセスが[[ワイモバイル]]株式会社に社名を変更した上で、同日ウィルコムPHS事業のブランド名を「[[Y!mobile]]」(ワイモバイル)に変更した。 **[[10月1日]] - PHSも[[番号ポータビリティ]]の対象になり、PHSから携帯電話に番号ポートアウト可能となった。ただし、他社携帯電話からY!mobileのPHSへと番号ポートインする場合には、[[ショートメッセージサービス|SMS]]に対応したPHS端末に限定される(2014年10月時点で4機種<ref group="注">法人向けの301JRを含めれば5機種(ただし、2015年3月時点ではアップデート対応待ちで、この時点での移行はできない)。</ref>)。 *[[2015年]] **[[4月1日]] - ワイモバイルおよび他2社<ref group="注">[[ソフトバンクBB]]、[[ソフトバンクテレコム]]</ref>がソフトバンクモバイルに吸収合併され解散、ソフトバンクモバイルが存続会社として「Y!mobile」ブランドのPHS事業を継承。 **7月1日 - ソフトバンクモバイルがソフトバンクに商号変更。 *[[2018年]][[3月31日]] - ソフトバンク・ウィルコム沖縄がPHSの新規契約受付を終了<ref>{{Cite news|title=Y!mobile、PHSの新規契約・機種変更を2018年3月で終了|date=2017-04-20|last=株式会社インプレス|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1055943.html|accessdate=2018-10-18|language=ja-JP|work=ケータイ Watch}}</ref><ref name=":0" />。 *[[2021年]]1月31日 - ソフトバンク・ウィルコム沖縄が法人向けテレメトリングを除くPHSサービスを終了<ref name=":3" />。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの感染拡大の影響]]により、当初予定の[[2020年]][[7月31日]]から延期していた<ref name="asahi202004" /><ref name=":2" /><ref name=":0" />。 *[[2023年]]3月31日 - ソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了<ref name=":2" />。これをもって名実共に完全[[停波]]となった。 ==== 概略 ==== 当初は携帯電話よりも料金が安価な簡易型携帯電話と言う位置付けでサービス販売がされた。 [[Pメール]]サービスが日本国内での[[ショートメッセージサービス|SMS]]の先駆けとして1996年11月20日に開始。[[無線呼び出し|ポケベル]]の代替として、また[[絵文字]]が使えることもあり、通称「'''ピッチ'''」として[[女子高生]]を中心に一時ヒットした。 それ以降、サービスと料金の面で携帯電話との競争が激化し、PHS側でも弱点だった切れやすい音声通話の改良や、データ通信への特化等が、営業施策として行われる。携帯電話も対抗としてメールサービス等の強化、料金の低廉化が図られた。その中でサービス改善が難しく単に安価な簡易型携帯電話と言うモデルから抜け出せなかった[[ドコモPHS]](旧:[[NTTパーソナル]]グループ)と[[アステル]]グループが相次いでPHSから全面的にまたは一部撤退する<ref group="注">[[Eo64エア]]など、データ通信専用として以降も存続した会社がある。</ref>。 各社はデータ通信への特化等の営業施策として、通話機能のない通信カード型PHS端末の提供、当時は日本国内初の128kbpsでの通信や、[[モバイルデータ通信定額制]]などの提供を実施。これにより、後年に[[公衆無線LAN|Wi-Fiスポット]]や[[モバイルWiMAX]]等の[[無線アクセス]]手段が普及するまでの期間、ノートパソコンや[[携帯情報端末|PDA]]に接続して行うモバイル利用を普及、促進させた。 さらに、当時日本国内初の[[音声通話定額制]]を開始。通話・通信性能も[[高度化PHS]](ウィルコムの[[W-OAM]])として改善が図られる。普段は携帯電話を利用し、特定の相手との長電話などにPHSを用いる「2台目」の需要を喚起し、音声端末の契約数も復調する。 これに対し携帯電話事業者も[[第3世代移動通信システム|3G]]の導入以降に追随して、部分的または完全定額制の料金プランなどを開始した。データ通信分野においても、Wi-FiスポットやモバイルWiMAX等の[[無線アクセス]]手段の普及、携帯電話自体のデータ通信の高速化や一部の定額プランの導入によってPHSの利点は徐々に失われた。 さらに後年になると[[スマートフォン]]および[[Long Term Evolution|LTE]]等の[[第3.9世代移動通信システム|3.9G]]/[[4G]]携帯電話が普及。高度化PHSでも実効速度256kbps前後であり、固定・モバイルの両ブロードバンドの普及と併せデータ通信の分野でも市場を喪失。通信性能面で2G - 2.5Gの範疇に留まったため、スマートフォンでの[[Skype]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などの[[インターネット電話]]の普及も併せ、PHSはこれに対応できず、主要な通信手段の座から外れ、以降はミニサイズ端末やPHS併載端末などニッチな市場に留まった。 2018年3月31日をもって全事業者で公衆PHSサービスの新規契約受付を終了した。法人向けテレメトリング以外の、既存契約者へのサービス提供を2020年7月31日で終了予定と発表したが<ref name=":0" /><ref name=":1" group="注" /><ref name=":0" group="注" />、2020年4月に2019新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、携帯電話への切替作業が難しいとする医療関係者に配慮し、終了時期を2021年1月31日に延期し<ref name="asahi202004"/>、同日、サービス提供終了した<ref name=":3" />。 2023年3月31日をもってソフトバンクが法人向けテレメトリングを含む全PHSサービスを終了した<ref name=":2" />。 ==== 創業期 ==== PHSが開始された当初の売りは、[[携帯電話]]が使えない[[地下鉄]]駅や[[地下街]]でも使え、基本料金や通話料金が安いと言う点であった。 1994年に、携帯電話にデジタルホン(現:ソフトバンク)と[[ツーカー]](現:KDDI)が新規参入し、携帯電話間で激しいシェア争いや価格競争が始まったものの、まだ高額だったのに対して、PHSは本体価格・基本料金・市内通話料金が携帯電話に比べて格段に安いことから、初年度の1995年度に総計で150万台に達した。 その後、通話エリアの拡大や本体機能の充実、本体及び新規手数料を無料とした契約促進キャンペーンや[[懸賞|販促用景品やクイズなどの賞品]]への利用なども頻繁に使われたためにPHS加入者は急激に増加し、1996年末に総計600万台を突破する。 当時は携帯電話よりも端末費用と通信費用が安価であったため1990年代後半から2000年代初頭まで、日本国内の中学・高校生からの需要を喚起した<ref name=":02" group="注">2000年代の初頭まで日本国内においては携帯電話の端末費用と通信費用が高く、各社とも現在のように様々な料金プランも無かったため、中学・高校生が容易に携帯電話を所有、維持できる状況では無かった。また、出費が多額であるため携帯電話を持たせない親も当時は多数派であった。</ref>。一部のユーザーではポケベルとPHSを併用し、PHSを使ってポケベルにメッセージを送信するという使い方もされた。 利用者から見ると、PHSは料金が安いが、田舎や山間部で利用できない、通話が途切れやすい、高速移動時に通話できない<ref group="注">後にハンドオーバーの改良や、[[W-OAM]]のBPSK通信によりある程度改善された。</ref>、などが携帯電話との当初の違いであった。PHSの黎明期は、料金の安さから<ref group="注">端末価格を0円に設定することも多かった。</ref>特に首都圏でポケベルからPHSに移行する者も見られ、急速に契約数を伸ばした。 ==== 携帯電話との競争激化 ==== しかしサービス開始当時は、同じく価格競争による値下げで普及率が上昇していた携帯電話との相互通話が不可能な問題を抱えていたほかに、携帯電話に比べて利用可能なエリアが狭い、通話が途中で切れ易い問題が生じていた。 当初、基地局の設置が急速な契約者数の増大になかなか追いつかず、都市部では繋がるが郊外や地方に行くと繋がらないと言うような地域格差が広がった。都市部であっても、基地局からの電波が届かない場所に移動すると通話が途切れる現象が多発した。これは一部事業者の20mWの小出力基地局が災いしていた面もある。また各事業者で通話エリアの面的拡大が、エリア面内での通話可能エリア高密度化よりも優先されていたこともある。さらにある基地局から他の基地局へと通信を切り替える[[ハンドオーバー]]処理の改良が遅れ、これらの通話品質が改善されるまでにかなりの期間を要した。 携帯電話との接続もようやく1996年10月に、接続センターを介する暫定接続の形でPHS・携帯電話間の相互通話が可能になったが、接続センターを介するため、特殊なダイヤル操作が必要で、料金が5.5秒10円プラス1通話あたり20円と高額だった。 料金の安さや手頃感から契約増加が見込まれたものの、1997年始めから携帯電話の本体価格や料金の値下げが急激に進んでPHSとの価格差が縮まり、携帯電話に[[ショートメッセージサービス]]機能が搭載されPHSの優位性は薄れた。しかも当時通話エリアの広さで携帯電話と勝負にならなかったPHSは、解約が相次いだ。結果、PHSの契約数は1997年9月の総計約710万台をピークに以降は減少に転じた。 一方、[[病院]]など医療現場の出力の大きな[[携帯電話]]の電波が使えない場所では、医療用PHSが使われている。かつて医療用ポケベルが使われたが2010年代まではPHSが主流である。医療用は出力160mW(平均出力20mW)以下に限られ、内線専用(自営型PHS)のものが主流である。 ==== 音声通話の改良 ==== 各事業者はこれらの問題点への対応策として、1998年のPHS・携帯電話間の直接接続の開始による通話料金の値下げ、基地局の大幅な増設(各事業者とも1 - 2年間で基地局を2 - 3倍に増加)による通話エリアの拡大と高密度化、[[ハンドオーバー]]処理の改良<ref group="注">ハンドオーバー処理高速化などの改良。また当初は[[電話交換機|電話交換局]]を跨ぐハンドオーバーができなかったが、1999年2月頃に各事業者とも対応した。</ref>などを相次いで実施。当時の携帯電話より通話音質が良かった点などをアピールして対抗したものの功を奏せず、契約者数の減少傾向に歯止めは掛からなかった。 結果、PHS各社は黒字転換ができず、旧:[[NTTパーソナル]]グループはNTTドコモへの事業譲渡、DDIポケットは親会社の[[DDIセルラーグループ]](現:au、[[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]])による財務支援を受け、アステル各社は出資元の電力系通信事業者へ吸収されるなどの救済策がとられた<ref group="注">なお関東地方は電力系と無関係な企業([[YOZAN]])へ再売却された。</ref>。 PHSによる当時世界初の移動体電話による[[テレビ電話]]や、[[文字電話]]と言う手書き文字による通信端末など、意欲的な試みもなされたが、いずれも普及しなかった。 ==== データ通信への特化 ==== 音声端末低迷への抜本的な打開策として、高速な通信速度を生かした[[データ通信]]を前面に打ち出し、携帯電話(第2世代[[PDC]]式)との差別化を図る方針に切り替えた。 1997年4月、各社が[[Personal Handyphone System Internet Access Forum Standard|PIAFS]]回線交換方式により、最大通信速度(理論値)32K[[ビット毎秒|bps]](実効理論値29.2Kbps)で開始。続いてその後、各社とも64Kbps(PIAFS、実効理論値58.4Kbps)サービスを開始した。 2000年に入り、定額制モバイルデータ通信サービスとして、旧:アステルグループの各サービス(北海道「定額ダイヤルアップ接続サービス」、北陸・四国「ねっとホーダイ」、東北「おトーク・どっと・ネット」、関西「eo64エア」、中国「MEGA EGG 64」)、DDIポケットの「Air H"(現:[[エアーエッジ|AIR-EDGE]])」やNTTドコモの「[[アットフリード|@FreeD]]」、などのサービスが各事業者により開始され、モバイル通信分野で利用が増加した。音声端末単体でもインターネット接続可能な端末が、アステルのドットiを皮切りにして、NTTドコモの「ブラウザホン」、DDIポケットの「Air H" フォン(現:AIR-EDGE PHONE)」などの登場を見た。 DDIポケットは、他社へのPHS網の再販事業([[仮想移動体通信事業者]]=MVNO)に乗り出し、[[日本通信]]など他社にデータ通信用として自社PHS網を再販した。 それでもなお、音声通話ユーザによる解約を主としたPHS全体契約数の減少には太刀打ちできず、2004年中に契約総数500万台を割ることとなった。 ==== その後の動向 ==== {{Main|ウィルコム|ワイモバイル|Y!mobile}}<!--ウィルコム・ワイモバイル特有の事項はなるべくウィルコム・ワイモバイルに転記して下さい--> 2000年代前半は低迷が目立ったが、以前からの[[PIAFS]]や[[AIR-EDGE]]などの強みであるデータ通信分野を活かし、[[公衆無線LAN]]と比べて市中の広いエリアで利用できること、また日本国外でも幾つかの国で「[[ラストワンマイル]]を繋ぐ手頃な無線技術」としての強みが注目されることになった。 基地局からの通話可能範囲が狭いことを逆手に取って、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS等]]を使用せず、端末所持者の高精度な現在位置を確認できるようにした、NTTドコモの「いまどこサービス」、ウィルコム(旧:DDIポケット、現:ソフトバンクの[[Y!mobile]])の「位置情報サービス」といった「位置情報確認サービス」の提供や、安価で高速なデータ通信を利用して[[自動販売機]]などの販売機器や監視システムを遠隔管理可能する「テレメトリング(テレメタリング)」など、PHSの安価・小型・簡単なシステムを活用した運用がなされている。 またPHS無線通信部分を切手サイズにまとめたウィルコムの[[W-SIM]]により、無線通信技術を持たない会社の新規参入が容易になったため、従来にない多種多様な端末が登場した。''詳細は[[W-SIM]]の項目を参照''。 以降、[[音声通話定額制]]、[[高度化PHS]]などを導入し一時復調をみるが、携帯電話事業者も一部追随したため抜本的なユーザー数回復には至らず、さらに2010年前後より[[スマートフォン]]および[[Long Term Evolution|LTE]]等の[[第3.9世代移動通信システム|3.9G]]/[[4G]]携帯電話が普及し、通信方式としてのPHSは主要な通信手段の座から外れ、ニッチな市場へと転化した。 ==== 公衆サービスの終了へ ==== ウィルコムは会社更生法の適用によりソフトバンクの指導下での経営再建を経て、イー・アクセスと経営統合しワイモバイルに改称。ウィルコム沖縄はそのまま存続したが、PHS事業は段階的に縮小し2018年3月31日に契約新規受付を終了、2021年1月31日で法人向けテレメトリング以外のサービス提供を終了した<ref name=":3" /><ref name=":0" /><ref name="asahi202004"/><ref name=":1" group="注" /><ref name=":0" group="注" />。 その後、法人向けテレメトリングについても2023年3月末で終了すること2019年4月に発表した<ref name=":2" />。これにより、日本でのPHSサービスは完全に終了した<ref>{{Cite web|和書|title=PHSの歴史に幕、ワイモバイルの「PHSテレメタリングプラン」は31日で終了 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1487153.html |website=ケータイ Watch |date=2023-03-20 |access-date=2023-03-20 |author=松本和大}}</ref>。 === 携帯電話との比較 === {{Main2|以下各項の詳細、その他の全般的事情|日本における携帯電話}} *端末販売時の[[インセンティブ (携帯電話)|インセンティブ]]モデル([[縛り (携帯電話)|縛り]])、[[固定電話]]・[[公衆電話]]などへの影響なども「[[日本における携帯電話]]」を参照。 *ウィルコム(ワイモバイル)の一部端末([[ウェブブラウザ]]搭載端末)は、ウィルコム(ワイモバイル)提供による[[災害用伝言板サービス]]が利用できた。ドコモPHSからは、iモード災害用伝言板のメッセージの登録ができなかった。[[アステル]]グループは災害伝言板サービスが日本国内で普及を見る前に音声事業が終息した。 *PHSは[[番号ポータビリティ|携帯電話番号ポータビリティ]]の対象外であったが、一部のPHS事業者では、PHS事業継承や廃止の際に、存続する他PHS事業者への同番移行サービスが行われ、利用者の便宜が図られたこともあった。のちに2013年11月より、携帯電話にも「070-AXXX」(A≠0・5・6)が割り当てられ、2014年10月より携帯電話・PHS相互間の番号ポータビリティが開始された(詳細は[[番号ポータビリティ#PHS電話番号ポータビリティ]]を参照)<!--番Pの項目に書かれている--><!--([[アステル沖縄]]→ウィルコム沖縄、[[ドコモグループ]]→ウィルコム・ウィルコム沖縄。同番移行ではないが、「[[アステル東京]]→旧:DDIポケット」や「[[東北インテリジェント通信]]→ウィルコム」のケースでは、端末・手数料等の大幅な便宜が図られている)-->。 *2004年9月頃から[[名古屋市営地下鉄]]では、[[W-CDMA]]方式のものを除き、[[携帯電話]]各社端末が[[プラットホーム]]で圏外となるような対策が行われた(改札口付近は利用可)。名古屋市交通局は、[[総務省]]の「電波の医用機器等への影響に関する調査結果」(2002年7月2日)に基づく処置であるとしている。 *NTT東日本・NTT西日本が提供する[[固定電話]]回線からPHSに発信する場合は、携帯電話に発信する場合と違い、[[中継電話]]サービス(相互接続方式による選択中継制)は提供されていなかったが、2013年より[[NTTコミュニケーションズ]]、[[ソフトバンク|ソフトバンクテレコム]]および[[楽天コミュニケーションズ|フュージョン・コミュニケーションズ]]が提供開始。''詳細は「[[マイライン#マイライン参加企業と事業者識別番号]]」参照。'' *固定電話や、携帯電話<ref group="注">ごく初期を除く。</ref>の通話時間ごとに課金する料金体系と異なり、PHSは「接続料」として「1通話あたり10円(税抜)」と、[[アクセスチャージ]]のうちセットアップ料金を課金する方式が一般的であった。携帯電話は全国どこからどこへ掛けても通常は一律料金だが、PHSからPHSへの通話、固定とPHS間の場合は、固定電話同士の場合と同様に、距離・曜日・時間帯に応じた料金設定が一般的であった。これらは、一般[[加入電話]]や[[ひかり電話]]からPHS宛に掛ける場合も同様であった<ref name="phone2phs-fee"/>。 **ウィルコム(ワイモバイル)では同事業者間PHSの通話を無料とした「[[ウィルコム定額プラン]]」開始以後に設定された料金プランでは、接続料の設定はなく、全国一律の料金設定であった。 **前述の2013年に開始したNTT東西加入電話からPHSあての選択中継制による中継電話は、全国一律の料金設定や、接続料の設定がない事業者もある<ref name="phone2phs-fee">[http://www.ymobile.jp/plan/others/tld/charge/index.html その他の通信料]ソフトバンク株式会社Y!mobile部門(2016年5月1日閲覧)</ref><!--中継電話の出典については[[マイライン#マイライン参加企業と事業者識別番号]]」参照-->。 == 中国におけるPHS == === 電話サービスの内容 === [[中華人民共和国|中国]]ではPHSは「'''小霊通'''」(しょうれいつう / ショオリントン、{{繁体字|小靈通}}、{{簡体字|小灵通}}、{{ピン音|Xiǎolíngtōng}})という中国語名が用いられ<ref name="MEDIA2227">{{Cite web|和書|author= 華金玲 / 小檜山賢二 |url=https://www.spc.jst.go.jp/cad/literatures/2227 |title=中国における移動通信メディアの利用料金と地域格差 |publisher= 中国・アジア研究論文データベース|accessdate=2020-02-01}}</ref><ref group="注">PHS自体の正式名称は「個人手持式電話系統」({{繁体字|個人手持式電話系統}}、{{簡体字|个人手持式电话系统}})もしくは「個人電話存取系統」({{繁体字|個人電話存取系統}}、{{簡体字|个人电话存取系统}})である。</ref>、2006年6月30日時点で9300万台と一時は爆発的な普及を見せたが、その後は端末生産台数の急減が報じられ<ref>[https://web.archive.org/web/20061031222339/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2006&d=0417&f=it_0417_001.shtml 小霊通の生産台数が激減、2月の減少幅は32%] 中国情報局<br> [https://web.archive.org/web/20051228225556/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2005&d=0829&f=it_0829_002.shtml 小霊通の生産台数35%減、3年後に撤退との噂も] 中国情報局</ref>、加入者数は頭打ちとなり減少を続けて、2007年9月30日には9000万台を割り込んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20071112084904/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0927&f=it_0927_003.shtml 小霊通契約数8958.3万件、単月で最大の減少に]</ref>。安価な音声端末がほとんどで、[[電気通信]]会社の「[[中国電信]]」および[[中国網通]]の事業を譲受した「[[中国聯通]]」が主要PHS事業者としてPHSを固定電話の延長として展開していた。 === 中国における歴史 === ==== 黎明期 ==== 1982年7月1日、上海市で中国で初めてとなる商業化された携帯電話サービスが開始されたが初期の利用者は20人であった<ref name="MEDIA2227" />。一方、小霊通のサービスは1996年に試験が開始され、1999年から本格的に開始された<ref name="MEDIA2227" />。 小霊通のサービスは固定通信事業者の中国電信社の浙江省余杭市電信支局によって実験的に始められた<ref name="MEDIA2227" />。中国電信浙江省余杭市電信支局長の[[徐福新]]は、日本のPHSの雑誌記事を見てこの技術を中国の固定通信網に組み合わせることができないか1994年から自主的に研究しており、1996年に中国電信の親会社と信息産業部に申請しないまま余杭市で試験運転を始めた(後に徐福新は「小霊通の父」と呼ばれるようになった)<ref name="MEDIA2227" />。 中国電信社は1999年から業務別の事業改編(一次改組)により移動通信、衛星通信、ページャー事業など数社に分割され、固定通信部門は「中国電信」が事業業務を行うことになっていた<ref name="MEDIA2227" />。しかし、中国電信社ではそれまで主な収入源であった移動通信事業がなくなるため、一部の地方会社が「無線市内電話」や「移動市内電話」と称してデジタル無線電話のPHS用周波数帯域の使用を各地方都市で申請した<ref name="MEDIA2227" />。小霊通のサービスエリアは携帯電話より狭いものの、移動通信の一種を固定通信事業者が事業運営するものであったため、1999年の内部規定に反しているとして2000年5月に浙江省余杭市電信支局に対して信息産業部から小霊通サービスの禁止令が出された<ref name="MEDIA2227" />。しかし6月には信息産業部より「関与規範PHS無線市話建設与経営的通知」が公布され、PHSは固定市内電話システムを補完する低速移動無線システムとしてサービスエリアの限定を条件に制度化された<ref name="MEDIA2227" />。一次改組で中国電信社の収入の約3割を占める移動通信事業を中国移動社として事業化したため、赤字が続く固定通信業務のみでは運営が極めて困難とする中国電信側の苦情に配慮した政策といわれている<ref name="MEDIA2227" />。 2001年からは固定通信事業者の中国網絡通信集団公司も参入した<ref name="MEDIA2227" />。 ==== 発展期 ==== 中国では携帯電話の利用料金に発信側も受信側も同額を負担する「発着分離課金」制度を実施していたが、小霊通は発信側のみ課金される「発信課金」制度を採用した<ref name="MEDIA2227" />。小霊通サービスが低廉な料金設定を可能にした理由は、基地局への投資費用が携帯電話より著しく小さく、固定通信事業者が事業運営したため基幹通信網の維持費を固定電話利用者にも転化できたことでサービス開始当初から料金を低廉にすることができたからである<ref name="MEDIA2227" />。 小霊通サービスが信息産業部に正式に認められたのは2003年である<ref name="MEDIA2227" />。2003年5月17日には、北京、上海、天津、重慶及び広州で小霊通のサービスが一斉に解禁された<ref name="MEDIA2227" />。2004年末の小霊通利用者数は中国電信集団公司(CHINATELECOM)で4,603万人、中国網絡通信集団公司(CHINANETCOM)で2,201万人であった<ref name="MEDIA2227" />。 中国のPHSは都市単位(日本の県単位くらい)の地域別電話番号が割り振られ、他地域では使えない不便さがあった。しかし、小霊通PIMカードに電話番号を書き込む方式に2005年5月17日に統一され、各都市の電話番号が書き込まれた[[PIMカード]]を差し替えることにより、同一端末を他地域でも使えるようになった。これは[[PIMカード]]として国際展開されている。中国国外での展開として、[[UTStarcom]]社のベトナムでのIPベースの無線用インフラなどが見られる。 ==== サービスの終了 ==== [[香港]]では、1997年にサービスイン。近年は利用者が大幅に減少し、PHSの無線周波数帯を開放する目的で、2013年4月にライセンス免除の撤廃を決定。約3年間は猶予期間で所有と使用が認められたが、2016年5月9日でこの期間が終了するため、冒頭のとおり、2016年5月10日以降は使用および所有が禁止(電波法令違反)となる。[[台湾]]でも2015年3月にPHSサービスが終了し停波。[[中国]]は当初2011年にサービス終了する予定であったが<ref>{{Cite news |和書|title=【中国】中国版 PHS「小霊通」、2011年にサービス終了 |newspaper=ザイロンチャイナプレス |date=2009-02-09 |publisher=[[翔泳社]] |url=https://internetcom.jp/amp/allnet/20090209/27.html |accessdate=2021-03-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170104235206/https://internetcom.jp/amp/allnet/20090209/27.html |archivedate=2017-01-04 }}</ref>、「小霊通」ユーザーの反発に会い2014年以降まで延期。2014年12月31日をもってサービス終了した<ref name=":1" />。 == PHS端末開発メーカー == *メーカー **[[京セラ]] **[[日本無線]] **[[ネットインデックス]](旧:本多エレクトロン、現:ネクス) **セイコーソリューションズ(旧:[[セイコーインスツル]]) **[[NECプラットフォームズ]](旧:日通工→NECインフロンティア) **[[エイビット]] **[[ユーティースターコムジャパン]] **[[中興通訊]] **[[英華達#英華達|インベンテック・アプライアンシズ]] **[[Wistron NeWeb|WNC]] **[[日立製作所]](旧:日立コミュニケーションテクノロジー) **[[沖電気工業|OKI]] **[[岩崎通信機]] **[[パナソニック システムネットワークス]] **[[大井電気]] **[[アイホン]](業務用のみ製造) **[[ソニー]] **[[ユニデン]] **[[モトローラ]] **[[カシオ計算機]] **[[日立製作所]] **[[三菱電機]] **[[デンソー]](旧:日本電装) **[[IBM|日本アイビーエム]] **[[ミヨシ電子]] **[[TDK]] **[[アイワ]]<ref group="注">初代法人は2002年にソニーに吸収合併されている。</ref> **[[ケンウッド]] **[[日本ビクター]] **[[セイコーエプソン|エプソン]] **鳥取三洋電機(現:[[三洋電機コンシューマエレクトロニクス]]) **[[日本電気]] **松下通信工業(現:[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ]]) **九州松下電器(現:パナソニック システムネットワークス) **[[テクノソーシング]] **[[アスモ (通信機器メーカー)|アスモ]](旧:ケーイーエス) **[[三洋電機]] **[[東芝]]<ref group="注">現在は、富士通東芝モバイルコミュニケーションズ(現:[[富士通モバイルコミュニケーションズ]])へ、当該事業を譲渡しており、東芝は撤退している。</ref> **[[アルテル]]<ref group="注">販売・サポート業務のみを手がけており、開発・製造自体は[[エイビット]]が担当していた。現在は、販売・サポート業務もエイビットが手がけているため、企業としてのアルテル自体はPHS関連から撤退している。</ref> **[[富士通]]<ref group="注">2016年2月より、同月に設立された[[富士通コネクテッドテクノロジーズ]]へ[[吸収分割]]により、当該事業を譲渡。</ref> *WILLCOM SIM STYLEメーカー **[[シャープ]] **[[バンダイ]] **[[ハギワラシスコム]] **[[パナソニック コミュニケーションズ]](現:パナソニック システムネットワークス) **[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]] == PHS基地局開発メーカー == *[[エヌテクス]](現:NECプラットフォームズ) *[[大井電気]] *[[沖電気工業]] *九州松下電器(現:パナソニック システムネットワークス) *京セラ *三洋電機 *[[住友電気工業]] *ダイヘン *デンソー *東芝 *日本電気 *日立製作所 *富士通 *松下通信工業(現:パナソニック モバイルコミュニケーションズ) *松下電工(現:[[パナソニック電工]]) *三菱電機 *明星電気 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=":3">{{Cite web|和書|title=[特集:ケータイ Watch20周年] 【今日は何の日?】ウィルコムが誕生した日|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/special/20th/1303510.html|website=ケータイ Watch|date=2021-02-01|accessdate=2021-02-01|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref> }} == 関連項目 == {{Commons|PHS}} *[[Y!mobile]] *[[高度化PHS]] *[[移動体通信]] - [[技術]]・方式間比較・[[電話網]]構成・課金方式など *[[携帯電話]] - 社会への影響など *[[携帯機器]] - いわゆる電子ガジェットとしての携帯端末の多機能化など *[[デジタル変調]] - [[変調方式]]など *[[マルチチャネルアクセス無線]] - チャネルアクセス制御方式など *[[DECT]] - [[ヨーロッパ]]等における類似規格。日本では、[[固定電話]]用の[[コードレス電話]]機の通信規格として採用されている。 *[[通信機能抑止装置]] - [[劇場]]等の着信音防止。[[特殊詐欺]]被害防止。 *[[ND16問題]] - PHS/[[DECT]]コードレス親機の電波と、東経110度CSデジタル放送の特定チャンネルが干渉する問題。 == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20161211161138/http://www.arib.or.jp/tyosakenkyu/kikaku_tushin/tsushin_std-028.html ARIB RCR STD-28 第二世代コードレス電話システム] *[http://www.xgpforum.com/ XGP FORUM] *[http://www6.plala.or.jp/paldio/index.html PALDIO Club] *[https://www.softbank.jp/corp/group/wo/ 株式会社ウィルコム沖縄] *[http://www.ymobile.jp Y!mobile - サービスサイト] *{{Twitter|https://mobile.twitter.com/ymobileOfficial?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor|ymobileOfficial}} *{{Twitter|ymobile_Care|カスタマーサービス担当}} {{携帯電話の世代}} {{DEFAULTSORT:ひいえいちえす}} [[Category:携帯電話 (PHS)|*]] [[Category:携帯電話の通信規格]] [[Category:モバイルネットワーク]]
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美術家
美術家()とは、
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美術家とは、 日本標準職業分類では、「彫刻・絵画・美術工芸品などの芸術作品の創作の仕事に従事するもの」と説明される。 また、同分類では収入を伴う仕事を職業とするため、収入が創作物に対してではなく大学における教育によるものは「大学教員」、予備校における教育によるものは「個人教師」と分類される。 美術(=ファインアート主に絵画、彫刻、工芸)の制作者、美術に関わる仕事をする者のうち、自身の表現媒剤が平面、立体、などという専門的ジャンルにとらわれない美的表現を美術的思考のもとに構築し、表現活動を行うプロフェッショナルのこと。アーティストとも。日本の芸術系大学の美術科はFine art department、美術学士号はBachelor of Fine Art (BFA) と英語表記される。 コトバンクによると、美術家の説明として、『日本国語大辞典』(小学館)による定義「美術品の制作・研究にあたる人。また、美術に巧みな人。」が紹介されている。
{{字引|date=2021年2月19日 (金) 10:06 (UTC)}} [[ファイル:Jacques Wély Le peintre.jpg|サムネイル|250px|20世紀初めにフランスのイラストレータ、[[ジャック・ウェリー]]が描いた女性美術家。]] {{読み仮名|'''美術家'''|びじゅつか}}とは、 #日本標準職業分類では、「[[彫刻]]・[[絵画]]・[[美術]][[工芸品]]などの[[芸術]]作品の[[発明|創作]]の仕事に従事するもの」と説明される<ref>日本標準職業分類 http://www.stat.go.jp/index/seido/shokgyou/1top.htm</ref>。 <br>また、同分類では[[収入]]を伴う[[労働|仕事]]を[[職業]]とするため、収入が創作物に対してではなく[[大学]]における[[教育]]によるものは「大学教員」、[[予備校]]における教育によるものは「個人教師」と分類される。 # {{要出典|date=2009年4月}}[[美術]](=[[ファインアート]]主に絵画、彫刻、[[工芸]])の制作者、美術に関わる仕事をする者のうち、自身の表現[[媒体|媒剤]]が[[平面]]、[[立体]]、などという専門的ジャンルにとらわれない美的表現を美術的思考のもとに構築し、表現活動を行う[[プロフェッショナル]]のこと。[[アーティスト]]とも。<br>日本の芸術系大学の美術科はFine art department、美術[[学士号]]はBachelor of Fine Art (BFA) と英語表記される。 #コトバンクによると、美術家の説明として、『日本国語大辞典』(小学館)による定義「美術品の制作・研究にあたる人。また、美術に巧みな人。」が紹介されている[https://kotobank.jp/word/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%AE%B6-1398677]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[職業]] * [[美術家の一覧]] * [[人名一覧]] * [[ファインアート]] * [[絵画]] * [[芸術家]]・[[画家]]・[[建築家]]・[[彫刻家]]・[[工芸家]]・[[陶芸家]]・[[華道家]]・[[デザイナー]]・[[写真家]]・[[仏師]] {{Artist-stub}} {{西洋の芸術運動}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひしゆつか}} [[Category:美術家|*]] [[Category:芸術家]]
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アメリカ (曖昧さ回避)
アメリカ(America)は、イタリア人の航海者アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の名に由来する地名、およびこの地名にちなんだ名称。亜米利加、または米(べい)。
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アメリカ(America)は、イタリア人の航海者アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の名に由来する地名、およびこの地名にちなんだ名称。亜米利加、または米(べい)。
'''アメリカ'''(America)は、[[イタリア]]人の航海者[[アメリゴ・ヴェスプッチ]](''Amerigo Vespucci'')の名に由来する地名、およびこの地名にちなんだ名称。'''亜米利加'''、または'''米'''(べい)。 [[File:Western_Hemisphere_LamAz.png|thumb|250px|upright|right|南北[[アメリカ州]]周辺の[[世界地図]]]] == 地名・国名 == * [[アメリカ州]](Americas) - アメリカ大陸とその周辺の島々の総称。'''米州'''、'''南北アメリカ'''。 ** [[北アメリカ]]('''北米''') ** [[南アメリカ]]('''南米''') * [[アメリカ大陸]] - 上記アメリカ州のうち、島々を除いた大陸部分の総称。'''米大陸'''、'''両米大陸'''。 ** [[北アメリカ大陸]]('''北米大陸''') *** [[アメリカ合衆国]](USA)- 北アメリカ大陸にある国。'''米国'''。(1776年 - 現在) **** [[アメリカ (オクラホマ州)]] - 上記同国・[[オクラホマ州]]にあるゴーストタウン。 *** [[アメリカ連合国]](CSA)- 北アメリカ大陸の南部にかつて存在した国。(1861年 - 1865年) ** [[南アメリカ大陸]]('''南米大陸''') *** {{仮リンク|アメリカ (アルゼンチン)|en|América, Buenos Aires}}(América) - [[アルゼンチン]]・[[ブエノスアイレス州]]にある都市。 == 船舶 == * [[アメリカ海軍]]の艦艇('''[[:en:USS America|USS America]]''') **[[アメリカ (米戦列艦)]]:1782年進水の[[74門艦]]。 **[[アメリカ (ヨット)]]:南北戦争時に合衆国側に徴用されたヨット。'''USS'''は付かない。 **[[アメリカ (輸送艦)]]:[[第一次世界大戦]]中に捕獲した[[ドイツ帝国]]客船'''SS Amerika'''を兵員輸送に使用。 **[[アメリカ (空母)]]:[[キティホーク級航空母艦]]3番艦。1965年就役、1996年退役。 **[[アメリカ (強襲揚陸艦)]]:[[アメリカ級強襲揚陸艦]]1番艦。2014年就役 * [[イギリス海軍]]の艦艇('''[[:en:HMS America|HMS America]]''') **[[アメリカ (戦列艦・初代)]]:1749年建造の50門[[4等艦|4等戦列艦]]。 **[[アメリカ (戦列艦・2代)]]:1757年建造の60門4等戦列艦。 **[[アメリカ (戦列艦・3代)]]:[[イントレピッド級戦列艦]]。 **[[アメリカ (戦列艦・4代)]]:[[ヴァンジュール級戦列艦]]。 *複数の客船の名前('''[[:en:SS America|SS America]]''') **[[アメリカ (1940年の客船)]] **{{see also|:en:SS America}} == 文学作品 == * アメリカ (Amerika) - [[フランツ・カフカ]]の長編小説『[[失踪者 (小説)|失踪者]]』の別題。今日では『失踪者』の題名の方がカフカの意図に近いとされている。 == 音楽作品 == * [[アメリカ (サイモン&ガーファンクルの曲)]] - [[フォークデュオ]]・[[サイモン&ガーファンクル]]の楽曲。1968年のアルバム『[[ブックエンド (アルバム)|ブックエンド]]』に収録。 ** [[イエス (バンド)|イエス]]がロックに編曲した[[カバー]]を演奏し、所属[[レコードレーベル|レーベル]]の[[オムニバス]]アルバム及び『[[イエスタデイズ (イエスのアルバム)|イエスタデイズ]]』等に収録している。 * [[アメリカ (ヴァレーズ)]](Ameriques)- [[フランス]]出身の作曲家[[エドガー・ヴァレーズ]]が[[1920年]]に作曲した管弦楽曲。 * AMERICA - [[浜田省吾]]のアルバム『[[J.BOY (アルバム)|J.BOY]]』収録曲。 * AMERICA - [[堂本光一]]の楽曲。サウンドトラック「[[KOICHI DOMOTO Endless SHOCK Original Sound Track]]」収録曲。 * America - [[サミュエル・フランシス・スミス]]作詞のアメリカ合衆国の愛国歌。『[[My Country, 'Tis of Thee]]』の題でも知られる。 * [[レナード・バーンスタイン]]が作曲した『[[ウエスト・サイド物語]]』の一曲。 ** [[ナイス (バンド)|ナイス]]がロックに編曲したカバーを発表している。 * [[チェコ]]の作曲家[[アントニン・ドヴォルザーク]]の[[弦楽四重奏曲第12番 (ドヴォルザーク)|弦楽四重奏曲第12番ヘ長調op96]]の[[ニックネーム]]。 * アメリカ - [[じん]]の楽曲。[[VOCALOID]]「[[IA -ARIA ON THE PLANETES-]]」をボーカルに使用。 == その他 == * [[アメリカ (バンド)]] - [[イギリス]]在住の米国人青年3人によりイギリスで結成され、デビューしたロックバンド。同名のアルバムも出している。 * [[クルブ・アメリカ]] - [[メキシコ]]のサッカークラブ。 * [[アメリカ (小惑星)]] - 小惑星 (916)。 * [[アメリカ (テレビドラマ)]] (''Amerika'') - 1987年に[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]](ABC)で放送されたアメリカ合衆国のテレビのミニシリーズ。 * [[サクラ]]の品種。かつてはアメリカにて[[ソメイヨシノ]]の実生から作られたとされていたが、ソメイヨシノの結実率の低さともあいまって事実は不明である。''詳細は「[[サクラ#西欧と北米式のスモモ属(Prunus)による分類法]]」を参照'' * [[フジテレビジョン|フジテレビ]]のテレビドラマシリーズ「演技者。」で放送されたドラマ。{{main|[[演技者。#第4弾:アメリカ]]}} * [[アメリカ (短編映画)]] - 2018年公開の日本の短編映画。監督・[[中川究矢]]が「反戦2部作」として手がけた短編2作品のうちの沖縄編。 == 関連項目 == * [[アメリカン (曖昧さ回避)]] * {{前方一致ページ一覧|アメリカ}} *{{intitle|アメリカ}} {{aimai}} {{デフォルトソート:あめりか}} [[Category:同名の地名]] [[Category:同名の船]] [[Category:同名の作品]]
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ドリームキャスト
ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。 ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年(平成10年)11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。 さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年(平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった。 2018年(平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。 1996年頃から開発が行われ、1997年に日本経済新聞が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。11月には会長の大川功がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。 1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサスエレクトロニクス)が共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。さらにチップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった。 この事から出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」事態となった。湯川専務の宣伝効果もあってか初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった。 この影響を理由として、発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。 販売台数のてこ入れ策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施した。 大川功は1999年頃にXbox開発の話を聞きつけ、ドリームキャストのソフトウェア開発に携わったマイクロソフト本社のビル・ゲイツ社長(当時)相手に、中裕司や鈴木裕といったセガのスタークリエイターや西和彦を引き連れてに何度も直談判し、「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず結局破談となった。ただし、Xboxはwebブラウジングには対応しないものの、Xbox Liveにてインターネットを利用したオンラインサービスは実施している。 1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった。 2000年3月にアメリカの半導体メーカーラムバス社が、日立(後のルネサスエレクトロニクス)製のSDRAM・SuperHなどが特許を侵害しているとして、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分をアメリカ国際貿易委員会へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。6月には入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務した。 撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』、『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった。 2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下した。 そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、役員同席(大川会長兼社長は欠席)のうえで香山哲特別顧問兼最高執行責任者が家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2やニンテンドーゲームキューブ・ゲームボーイアドバンス、Xboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。 これに伴い本体200万台の不良在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から、1998年3月期では1988年4月の株式上場以降では初の赤字決算となってしまい、以降2000年3月期までの3期連続で約350 - 430億円の連結純損失を計上した。 同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9900円という投げ売り状態の破格の定価に改定した。再値下げによって日本市場では売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことはなかった。 本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(後のセガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンブル版の出荷を開始した。リアセンブル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品(リファビッシュ品)の販売が開始された。これにより在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売された。 2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。 日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)が新開発したCPU・SH-4と、英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサス エレクトロニクス)の共同開発によるグラフィック描画エンジンPowerVR2を採用した。これは前世代機であるセガサターンが映像処理用のチップが2基搭載された特異な設計となったため製造コストが高くなった事の反省を踏まえたこと、リスクは高いが国内での製造・調達がしやすいこと、競合製品の初代PlayStationを研究した結果が反映されている。なお家庭用ゲーム機としては初めて法線マッピング専用のハードウェアを備えていた。マーケティング上の理由から、雑誌媒体などで行われた「128bitのゲーム機」というアピールは、SH-4内蔵のベクトル型浮動小数点演算ユニットが32ビット浮動小数点演算を4本同時に行えるため、「32bit×4 = 128bit」相当ということで、CPUが1命令で扱えるデータのビット長が128bitというわけではない。 OSはセガがマイクロソフト本社およびマイクロソフト日本法人と共同開発したWindows CEのカスタマイズ版を選択することが可能で、DirectXや通信機能に対応している。開発ツールもWindowsベースの物も用意されていた。しかし、メモリ使用効率のオーバーヘッドなどが大きかったため、実際には多くの開発会社は Windows CEを選択せずセガの用意した内製の専用のOSを使用していた。SEGA製の3Dグラフィック用のライブラリの名称は「Ninjaライブラリ」であった。ディスクドライブ関連のライブラリは「サルサ」と呼ばれていた。WinCEやDirectXとの関連が言及されたのは、社内事情に詳しいものからは宣伝効果を狙ったためだと言われていて、性能も使い勝手のよさもSEGA製のライブラリの方が上だと言われていた。 ソフトウエア供給媒体としてヤマハと共同開発した光ディスクであり、倍密CD-ROMとしての機能と同等形状で1GBの容量を持つ。その他でGD-ROMを再生する機器はアーケードゲーム媒体以外ではほとんど存在せず、事実上ドリームキャスト用ゲームソフト専用規格のディスクとなった。 ドリームキャストソフトの2トラック部分はCD-DAフォーマットになっており、通常は「これはドリームキャスト用のゲームディスクです。1トラック目にゲームのデーターが入っていますので、再生しないでください。」という女声アナウンスが収録されており(ソフトによってはキャラクターのトークやBGMに差し替わっているなどお遊び要素がある)、ドリームキャスト以外の機器で2トラック以外のデータ領域を再生すると機器破損の恐れがある。また、機器によってはCD-DAと認識せず再生できない場合もある。 生産当初のドリームキャストには、MIL-CD(ミルシーディー)再生機能が搭載されていた。MIL-CDとは「見るCD」の意味で、メディアは通常のCDプレーヤーでは音楽CDとして再生できるほか、ドリームキャストで再生した場合には独自のコンテンツを視聴できるというものである。しかし、MIL-CD対応メディア製品の発売は数種類にとどまった。 MIL-CDの実装原理はCD EXTRAと同一で、マルチセッションディスクとなっており、1番目のセッションに音楽が、2番目のセッションにデータが入っている。ドリームキャストは、この2番目のセッションを読み取って独自のコンテンツを実現した。 一方で日本国外のユーザーを中心にMIL-CD機能を利用して自作ソフトを動作させる試みが存在した。自作ソフトにはDivXプレーヤーや様々なゲームエミュレーターなどがあった。多数の非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品が開発・発表され、セガ側の思惑とは別にコアユーザーには浸透していた。 附属の標準コントローラはセガサターンのマルチコントローラのデザインを基とした大きめのもので、上部に2つの拡張スロットを装備しているのが特徴。形状の制約と「利用者に引っ張られている感じを与えない」という理由でケーブルはコントローラの下側から繋がっているが、上側からケーブルが出た形状に慣れている人はコントローラ背面に用意されているスリット(凹部)にケーブルをはさみ込むことで、擬似的にコントローラ上側からケーブルが出ているようにすることもできる。 アナログ方向キー(アナログスティック)と、アナログL/Rトリガー(一般的なLRボタンとは異なり、比較的ストロークが深く、押し込み具合で入力が異なる)、方向キー、X・Y・A・Bの4個の丸型のボタンと、三角形のスタートボタンが採用されている。方向キーは任天堂が実用新案権を取得し、任天堂のゲーム機に搭載している「十字キー」と外観が酷似しているが、任天堂の実用新案権は形状によるものではなく内部構造についてのものであり、当コントローラは内部構造が異なっているため、任天堂の実用新案には抵触しない。ちなみに、任天堂の十字キーにおける実用新案権自体も本機発売の4年前にあたる1994年(平成6年)に消滅している。 なお、初期型はトリガーの支点部にスリットが入っていて耐久力が低く、破損による故障が多発した。そのため、トリガーにスリットが無く方向キーを少し高めにセットした後期型が生産され、セガのカスタマーサポートは修理に出された初期型を不良品として後期型に無償交換していた。 また、本体にはリセットボタンが搭載されていないため、ゲームの強制リセットはXYAB同時押し+スタートボタンで行う。 拡張スロットには液晶表示付メモリーカード「ビジュアルメモリ」、振動パック「ぷるぷるぱっく」、音声入力機器「マイクデバイス」、デジタルカメラ「ドリームアイ」などが装着できる。 これらの組み合わせで、ビジュアルメモリの液晶画面にキャラクターを表示させながら、ぷるぷるぱっくで振動させるなどの表現ができた。反面、接続された各種デバイスによるコントローラ経由の消費電力が増えた。 当初は画面に向かってダイレクトに座標指示するライトガンの機能を追加する「ポインティングデバイス」、コントローラ自体の動きを検出して操作を行う「Gセンサーデバイス」も企画されていたが、発売はされていない。ケーブルが後ろ側から出ているのには、そのときに操作しやすいように、という意図もあった。 インターネット通信用のアナログモデムを標準搭載する。最高通信速度は日本国内向け純正品の場合33.6Kbpsで、本体からの着脱が可能だった。2000年(平成12年)7月に100BASE-T(ソフト側では10BASE-Tとしか使われなかった)LANアダプタ・「ブロードバンドアダプタ」が通販専売品ながら発売された。なお、モデムを標準搭載した家庭用ゲーム機は1996年(平成8年)3月にバンダイから発売されたピピンアットマークに次いで本製品が2番目である。 インターネットモデムにより本格的なインターネット対戦ゲームが楽しめるほか、アクセスのNetFrontをベースとしたWebブラウザ「ドリームパスポート」を本体に同梱したことでWebサイトの閲覧も可能で、次世代のマルチメディア機として優秀な性能を備えていた。開発当初はインターネットモデムの搭載には慎重的であった。 インターネット接続にあたっては、本体のモデムに固定電話回線を接続したモジュラーケーブルを接続し、「ドリームパスポート」やオンライン通信対応のタイトルソフトを使用し、アクセスポイントへダイヤルアップ接続することでアクセスできる。 任天堂のランドネットと異なり、既にPCでのインターネット接続用に他のISPを契約していた場合は、その接続アカウントとアクセスポイント番号(接続情報)をドリームパスポートを通じて本体に登録することにより、Webサイトのブラウジングやソフト毎に用意されたオンラインサービスの利用が可能であった。isao.net(旧 : セガプロバイダ)が提供するオンラインサービスの利用にあたっては、会員登録によるアカウントの取得と本体への接続情報登録が必要であるが、既存のISPを使用してのインターネット接続であればisao.netの接続料金は発生しなかった。 ドリームキャスト専用に用意されたISPである「セガプロバイダ」が2000年(平成12年)5月までプロバイダ料金が無料で提供された。セガプロバイダは、回線をぷらら(設立時にセガが出資)やHighway Internet(USENの買収により同社のISP部門)から借りていた。当初はアクセスポイントが大都市圏や県庁所在地などにしかなかったため、その他地域では遠方のアクセスポイントへ接続しなければならず、市外電話料金が高額になることも多かったが、その後アクセスポイントは各地方都市へも拡充されたため、この問題は解消されていった。 セガプロバイダは2000年(平成12年)6月にCSKとセガの共同出資で1999年に設立した株式会社ISAOへ承継・譲渡し、サービスが「isao.net」に変更した(同社創業者である大川功にちなんだものとされる)。プロバイダ料金を接続時間に応じた完全従量制と月額定額制にすると共に、PCユーザーにも開放し、ISPとしてISDNおよびADSLなどのブロードバンド接続サービスを開始。1アカウントでDCとPCを共用することが可能であった。 isao.netはセガによるドリームキャストの展開終了後も独自にDCユーザー向けの接続サービスとコンテンツ(プロバイダ内の電子メールなど)の提供を継続すると共に、ポータルサイトにおいてもゲーム情報の掲載や電子掲示板の提供などを通じてゲーマーに適したISPとして運営してきたが、2008年(平成20年)9月にフリービット傘下のDTIへ事業譲渡し、2009年(平成21年)にプロバイダもDTIに統合され消滅した(この時点で接続サービスを契約していたアカウントは解約の申し出を行わなかった場合はDTIへ入会扱い)。 終了に伴い、ドリームパスポートのセガプロバイダ / isao.netの接続情報復旧(isao.netのサーバーに接続し、アカウント情報を本体に登録する)が終了したため、isao.netへの接続は出来なくなり、ソフトによってはオンライン対戦などの際にユーザー識別のため必要となる旧セガプロバイダの接続情報(アカウント)の本体への登録が出来なくなっている。しかしそれ以前にオンライン対戦などネットワークサービスがほぼ打ち切られているため影響は軽微となっている。なお、他のISPでダイヤルアップ接続かブロードバンドルーター等を介してインターネット接続し、一般のWebサイト閲覧することは従来通り可能である。 元の運営会社であるISAOはISP事業と並行してセガ関係のモバイルコンテンツ製作とオンラインゲーム運営関係のソフトウェアベンダーとして事業を行っており、2010年(平成22年)に豊田通商の完全子会社として株式会社ISAO(2代目)が新たに設立され、事業を行っていたが、2019年10月1日に豊田通商から独立。2020年6月1日に株式会社Colorkrewに事業継承・吸収合併され解散した。 ブラウザの役目をする接続ソフトであり、本体にバンドルされている。バージョンアップごとにセガプロバイダおよびisao.netの登録ユーザに無料配布され、最終的に2001年(平成13年)6月リリースの「ドリームパスポートプレミヤ(Dream Passport PREMIERE 英略 : DPP)」となった。また、Hello Kitty ドリームキャストセットに附属の「ドリームパスポート2 『ハローキティ』Ver.」や、ドリームパスポート3をベースにした市販品「『でじこ』のまいブラ」などの各種キャラクターを用いたアレンジ版も作られている。 ドリームパスポート3とDPPには、ドリームキャスト上でメガドライブとPCエンジンのゲームをダウンロード配信する「ドリームライブラリ(2003年終了)」と、専用マイクやドリームアイを介してインターネット電話(固定電話含む)が可能な「DreamCall(DPPのみ、2003年〈平成15年〉1月14日終了)」を利用するための専用アプリケーションがバンドルされている。いずれも仮想通貨である「ドリム」を使用するものであった。 なお、前述のブロードバンドアダプタには専用の「ブロードバンドパスポート(Broadband Passport)」が附属し、ブロードバンド接続では当時のドリームパスポート2の代わりにこれを使用する必要があったが、ドリームパスポートプレミヤではブロードバンド接続にも対応している。これによって、ブロードバンドアダプタを装着していながら接続情報復旧のためにのみモデムに付け替えてドリームパスポートを使用しなければならない、といった手間から解放された。なお、DPP以前のドリームパスポートはSSLのアップデートに対応していないため、現在はSSLでの接続が必要なサイトは閲覧不可能である。 1999年(平成11年)2月15日から、トヨタ自動車がセガ及びCSKと提携のうえで、同社の系列販売店で発売したドリームキャストの附属CD-ROMは、トヨタ関連サイトへのリンク集やKDD(後のKDDI)の運営するISP「NEWEB」への優先接続など、通常と異なる内容になっていた。 セガプロバイダやドリームパスポートとは別に、1999年前半にマイクロソフトとウェブティービーネットワークスによって開発されたWebTVをベースにしたインターネット閲覧ソフト「マイクロソフト ウェブティービー接続キット」が希望者のみに配布された。「ドリームパスポート」との互換性はないが、1999年12月頃にドリームパスポートよりも早く接続キットのブラウザがSSL128bit対応にアップグレードされ、東京三菱銀行(当時)のインターネットバンキングである「東京三菱ダイレクト(後の三菱東京UFJダイレクト)」のWeb TV版に正式対応していた。 PSE問題の影響により中古品市場での本体の入手はかなり困難となることも懸念されたが、2006年4月以降も中古店でPSEマークつきで販売されている。セガによる本体ならびに本体付属周辺部品の有償修理は、佐倉事業所CSサービスセンター並びに関西支店CSサービスセンターで受け付けていたが、2002年11月1日を以て関西支店CSサービスセンターは佐倉事業所CSサービスセンターに統合され、2007年9月28日佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分を以て終了した。 2000年5月にフジテレビジョンが企画・発売、株式会社スマートエックスが開発したドリームキャストと互換性のある一体型テレビである。日立マクセルのオンラインショッピングサイト上や一部の店舗で限定販売された。“1970年代から見た2000年のテレビ”というコンセプトで、レトロフューチャーなデザインに仕上がっている。 本機上にはドリームキャストのシンボルマークは一切使われず、CX-1オリジナルのシンボルマークに差し替えられている。内蔵ソフトも独自のGUIとなっている。スケルトンのコントローラ・ビジュアルメモリ・キーボードおよびビジュアルアイとテレビ機能を操作するリモコンが付属している。ドリームキャストと異なり、アナログモデムとMIDIインターフェイス(MIDIインターフェイスケーブル相当)が内蔵されており、着脱することは不可となっている。また、エクステンションポートを構造上備えていないため、ブロードバンドアダプタやドリームキャスト・カラオケの接続も非対応である。 セガ側は対外的にはPRしなかったが、ドリームポイントバンク登録者向けのダイレクトメールでドリームアイと合わせて紹介していた。 ドリームキャストの販売当時、一般向けインターネットと言えばダイアルアップの時代であり、ISDNやADSLなどのデジタル通信、常時接続は一部企業やインフラに採用されるに留まっていた。しかし1999年に入るとNTT東西による一般家庭向けのISDNによる常時接続サービスが開始され、また8月にはADSLが試験的ながらも商用サービスを開始されるなど、インターネットの常時接続が急速に普及していった。それに伴いモデムと入れ替える形で接続するLAN接続対応のドリームキャスト用のブロードバンドアダプタ(10Mbps)が2000年7月15日に発売された。 ドリームキャスト本体の製造が終了した後も製造/販売が続けられたが、対応ソフト登場の遅れから流通量は少ないまま、2002年4月の受注を最後に製造が打ち切られた。 セガ・ミュージック・ネットワークス(2007年にセガがBMBへ株式売却後、2010年エクシングがBMBを吸収合併)の業務用通信カラオケ・セガカラ(Prologue 21シリーズ)のインフラを転用し、家庭用通信カラオケとして利用できる周辺機器である。ドリームキャスト・カラオケ本体はマイクミキサーの役割をし、カラオケ機能そのものは同梱ソフトの「セガカラ@ドリームキャスト」でソフトウェア処理する(ソフト単体では起動しない)。商品として「ドリームキャスト・カラオケ」単体版とDC本体をセットにした「セガカラ@ホーム」がある。 管理楽曲の演奏不可・MIDI音源が脆弱という弱点はあるが、新譜もPrologue 21とほぼ同じタイミングで配信され、タイトーのX-55よりもコストが廉価(ドリームキャスト・カラオケの本体希望小売価格9800円、利用料金は1日500ドリム、30日間2000ドリム)であった。発売時期が事業撤退表明後の2001年3月29日であったが、5年後の2006年3月29日までサービス提供が継続された。ブロードバンドアダプタ対応。 本体をコントローラー端子に接続し、付属ソフト「ビジュアルパーク」を使用することで、本体に記録した写真データをフォトレタッチして電子メールとして送信したり、付属のヘッドセットを拡張スロットに接続すれば、同じ機器環境をもった相手方とコマ送りの簡易動画ながらテレビ電話をインターネット経由(まちあわせ通信)もしくはモデムの回線交換接続(P2P)で行うことができる。希望小売価格が1万4400円とDC本体に迫る高価格であったためか余り普及しなかった。2003年1月にまちあわせ通信によるテレビ電話接続が終了している(相手方の一般加入電話回線に接続したビジュアルパークを呼び出す回線交換接続方式であれば現役で利用可能)。 キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だった自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』を除き、ローンチタイトルの多くが発売延期となった。 『セガラリー2』、前機のセガサターンでは発売しなかったセガの看板タイトル『ソニックシリーズ』の新作『ソニックアドベンチャー』を本体発売から1か月後に発売させた。しかしハードとソフトの供給の遅れが年末商戦を挟んだ市場形成期の成長に急ブレーキをかけ、その最中に『大乱闘スマッシュブラザーズ』『ファイナルファンタジーVIII』など他ハードでのメガヒットタイトルが発売された事でライトユーザーの購買意欲が消極化した。 1999年下期は『シーマン』・『Jリーグプロサッカークラブをつくろう!』・『ソウルキャリバー』・『バイオハザード CODE:Veronica』など売上本数30万本越えの単発的なヒットはあったものの、ソフト不足に悩まされる状況は変わらず、ハードの売り上げを牽引するキラーソフトの供給が続かなかった。本体の発売当初からその内容が注目を浴びていた『シェンムー』『Dの食卓2』が度重なる延期により1999年12月発売となったことがライトユーザーの関心を失わせた格好となりヒットには至らず、既に確固たる利用者層を積み上げていたPlayStationと2000年3月4日に発売された後継機PlayStation 2の前に再び苦戦を強いられたと同時に、高額の資金を投じた開発費・広告費、値下げの影響で開発コストの回収難に陥ってしまう。 2000年は一部タイトルで、TSUTAYAと提携し東京都内の一部店舗でのゲームレンタル開始や、1 - 2000円前後の廉価で機能限定版(体験版に近い)を販売し、ドリムを用いてアクティベーションの権利を購入(VMに課金データをダウンロード)することで通常版と同等にプレイできるシェアウェア型の「@barai(アットバライ)」というシステムをISAOと共同開発し数タイトル発売し、「@barai」のゲームソフトをゲーム雑誌に付録として提供するなどの試みも行った。『ROOMMANIA#203』、『サクラ大戦1・2』、『ファンタシースターオンライン』などセガオリジナルタイトルを中心としてソフトのリリース数は最多となったが、前期に存在した30万本超えのタイトルは1つも無かった。 2001年3月29日、セガを取り巻く情勢を自虐的なパロディとして反映させたシミュレーションRPG『セガガガ』が発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。なお、同月に発売された『サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜』(約34万枚)および翌2002年3月発売の『サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜』(約25万枚)がその年の最多売上タイトルとなった。 本体や周辺機器の製造が終了してからも2005年頃までは恋愛ゲーム中心にリリースが続き、恋愛ゲームが発売されなくなった後も、NAOMI基板で出たアーケード用シューティングゲームの移植を中心に年2本程度のペースで新規ソフトが発売されており、新規タイトルが発表になるたびに「ドリームキャスト最後のソフト登場」と話題となる。2007年3月8日にライセンス品として最後のソフトとなる『カラス』が発売された。 当時業務用基板「NAOMI」の責任者を務め、後にセガの社長へ就任する杉野行雄は2020年に「家庭用ゲームハード撤退後もリクエストに応えるような形でタイトルを開発するのではなく、もっと長期的な視野に立ってラインアップを整えるべきだった」と述懐した。 正規ライセンス品ソフトの発売が途絶えた後も非正規ライセンス品のソフトが主に海外で制作されている。 オンライン接続対応のゲームソフトにはドリームパスポートの一部機能が制限されたバージョンが本編ディスクあるいは添付の専用ディスクに組み込まれており、ドリームパスポートに入れ替えることなくソフトの公式ホームページを閲覧したり、公開されている専用のセーブデータをダウンロードできるようになっているものもあった。 ほか多数 ドリームキャストのソフトには通常版とは別に@barai版が存在する。通常より安く販売されたものと雑誌の付録があった。ある程度まで遊ぶと先に進めたくなるが、追加料金を払い、インターネットからメモリーカードにデータをダウンロードして制限を解除すると最後まで遊べる。このシステムが採用されたのは『エターナルアルカディア』と『ハンドレッドソード』の2作だけで、2002年3月31日にサービスは終了した。 本体の起動時のデモンストレーションは涼しげな音色にあわせてオレンジ色の玉が画面を跳ね回り、最後に渦を巻いて「Dreamcast」と表示され、ゲームソフトか内蔵のシステムソフトが起動する。この起動音は坂本龍一が作曲したもので、その音声はアルバム『CM/TV』に収録されている。 内蔵のシステムモードはドリームキャスト本体のCDドライブのドアを開けている状態か、ドリームキャスト用ゲームソフトが挿入されていない時に起動する。システムモードではビジュアルメモリのデータ管理、内蔵時計の管理、CDプレーヤーがある。CDプレーヤーは画面中央に3DCGのCD(レーベルデザインはオリジナル)が表示され、ドライブの動作に合わせて画面上のCDも動く。ゲームディスクやMIL-CDをセットすると、CD-DA部分(→#GD-ROM)しか再生しないが、一部タイトルでは画面上のCDのデザインがタイトルに関係したピクチャーレーベルで表示される。 ドリームキャストはPlayStationの販売方法を徹底的に模倣。卸子会社のセガ・ミューズを通じて「再販売価格維持」、「中古品売買禁止」、「同業者間の在庫転売禁止」の3点を小売店に強制した。当時、SCEが採用したこの販売方法は私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反で公正取引委員会と係争中だったが、メーカーの圧倒的支持を受けており、SCEが独占禁止法違反の是非を争っている間にその販売方法を模倣すればスクウェアを始めとする有力メーカーの支持を一気に奪えるという計算が働いたからである。 しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた。 2007年12月、セガオブアメリカが「Dreamcast」の商標登録の更新を申請した。一部で「後継機が開発されているのでは」と噂されたが、セガオブアメリカは「登録内容に問題があったためであり、コンソールビジネスに戻る予定は無い」と否定した。 2010年にセガにおいて「セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト」を立ち上げ、ドリームキャストの一部タイトルのPlayStation 3とXbox 360の移植版を製作し、PlayStation StoreとXbox Live Arcade上でダウンロード販売形式で販売・配信が行われている。 復刻(発売)タイトルは以下の通り 2014年には本体の劣化したGD-ROMドライブを取り外し、SDカードを利用できるように改造する試みがされている。 一部ユーザーがブロードバンドアダプタとMIL-CDのデータ部分を利用し、ゲームデータをCD-Rにコピーしたディスクを動作させることに成功したことで、それまで本体にはんだ付けを施し、シリアル接続で数十時間掛けてバックアップを行っていたものが、僅か10分程度でバックアップが行えるようになった。これはコピーディスクを違法に流通させるきっかけとなった。 そのためセガはMIL-CD機能の悪用による違法コピー対策として、2000年12月28日以降に出荷された製品をMIL-CD非対応とした。この厳密な時期は定かではないが、概ね11月1日の社名変更のタイミングと重なっている。そのため、本体ケース底面に書かれている社名によって推測する事ができる(ただし、一般にケースよりメインボードの製造が後のため、中身が交換されていなくても必ずしも正確に推測できるわけではない)。また、対応品をセガに修理に出した場合、非対応品にされて戻される事例も存在した。 両者の判別は新品であれば可能で、いわゆる湯川専務バージョンはMIL-CD対応品で、末期に製造されたロットは外箱に「MIL-CD非対応」と明記されている。しかし、中古品販売で入手するしかない現状では、外箱と中身が一致しているとは限らないため、本当に対応品かそうでないかを見分けるのは難しい。販売店によっては、対応品かどうかを独自にチェックし、その旨を表示して販売しているところも存在する。 例外的に、ドリームキャストR7は末期の製造ながら、初期ロットの在庫処分のためMIL-CD対応であり、箱にも明記されている。ただし流通量は少ない。 また、「MIL-CD非対応」と外箱に明記された物でも、海外仕様(一般に、海外仕様のものには非対応品は存在しない)のものを国内向けに変更したリアセンブル版や、故障品のパーツを再組立した再生品(もともとが故障品のパーツの寄せ集めであり、部品精度の検証が不足していたために、出荷分の初期不良率は異常に高かった)を中心に、実際はその多くは対応機であり、全体の生産量からするとMIL-CD非対応機はごく一部でしかない(日本国内分でさえ1割にもはるかに満たない)。また非対応品とされたモデルに関しても対応モデルの結線を取り外しただけという場合もあり、その場合は再度結線を施すことによりMIL-CD対応として動作が行える。 市場での敗因としてまず第一に、コントローラーの使い勝手の悪さと耐久性が挙げられる。独特の形状に加えそれまでの一般的なハードと異なりコントローラーの下からコードが伸びる仕様であり、ソフトのプレイ環境によっては1か月も持たずに破損するなどユーザーからは極めて不評であった。改善の要望は多かったが、メーカー側も応えることはなかった。 次にPlayStation 2との勝敗を分けた要因として、ソフトの後方互換性が挙げられる。それまで「ハードが変更されると旧機のソフトはプレイ不可能」ということが一般的で、DCもセガサターン用のソフトは使えなかったが、PS2がPS用ソフトのほとんどをプレイできる仕様だった。 ドリームキャストに後方互換性を持たせなかったのは、セガサターンが設計上、マルチプロセッサ機能を持っていた事に起因する。サターンと後方互換性を持たせようとすると処理チップ数が増加し、コストが高くなるという問題を孕んでいた(尚、PS2はI/OプロセッサとしてPSのCPUを搭載させることによりこの問題を解決させている)。これには、セガは業務用・家庭用を問わずハード設計の際には、なるべく汎用ICを使って設計する(必然的に基板に実装するICの種類が増える)という方針や、後方互換性を維持する事でサポートコストの増大や過去の負の遺産を引き継ぐことを嫌った、当時までのゲーム業界の慣習を引きずった事も影響している。 既に多くのサターンのソフトがPSへ移植されていたが、DCそのものにはキラーソフトが少なく、その一方でまだ市場が残っていたサターンへのソフト供給が途絶えてしまったことから、これを転機としたユーザ離れを引き起こすことになってしまった。セガサターンからドリームキャストの変更によるメーカー側の開発難航が供給低下の原因にあることも見逃すことができない。Windowsと互換性がありソフトの製作のハードルは低かったものの、立ち上がりのつまづきがサードパーティーを消極的にしソフトメーカーの参入が伸びなかった。 PS2が商業的に成功した要因として、PS用ソフトのほとんどがそのままプレイできる後方互換性を有するうえ、コントローラのボタン数やデザインも従来どおりだったため、PSから親しんできたユーザにとっても何の抵抗もなくプレイできたことにある。また、セガサターン純正のコントローラは、後に同形のコントローラーパッドがPS2用およびパソコン用で販売された経緯がある。それに慣れ親しんだユーザにとっては、ドリームキャストの純正コントローラは前述のように使い勝手が悪く、コードが下部から付いているので腕に対する負担が少ないが、長さが足りなかった。見た目よりは軽量だが、メモリカード等を装着すると当然重量は増加し、長時間プレイすると腕に対する負担が大きかった。これはプレイヤーの使用しないポートのコントローラーなどにメモリカードを挿すことなどによってある程度は回避可能だが、実際にはソフトの多くはポートAの1番スロットにしか対応していないなど、不備も目立った。 PS2はDVDプレーヤーとしても機能することがPS2のシェア拡大に少なからず貢献し、結果としてDVD-Video視聴環境の普及にも大きく貢献することとなったが、ドリームキャストでは独自の規格であるGD-ROMドライブを搭載していたためにDVDビデオの視聴は不可能だった。この点に関して、ドリームキャスト開発当時はDVDドライブがまだ高価で、コスト面での不利から搭載を見送られていた。末期には外付けのDVDドライブの開発が検討されたこともあったが、製造中止に伴って立ち消えとなっている。GD-ROMは、ドリームキャスト発売当時としては容量も十分なものだったが、DVDが普及するにつれて、記録容量、ドライブの製造コスト、ディスク単価、市場でのシェアなど、どれをとってもDVDに対し劣るものとなっていた。しかしGD-ROMに関してはアーケードのNAOMIに互換性を持たせるための設計であり、開発、移植を容易にするという観点でアーケード業界においては成功を納めた。 PS2やNINTENDO64に対し優位に立つかに思えたインターネット機能の標準搭載も、対応ゲームの少なさや発売の遅さ、深夜から朝のラッシュアワー限定で利用できるテレホーダイ以外の手段による通信料金定額の未整備ゆえに、優位性が充分に発揮されないまま終わってしまった。ドリームキャスト発売当時は電話回線を使用したダイヤルアップ接続が主流であり、通信にかかる費用はユーザにとって決して軽いものではなかった(標準モデルはモデム接続のみのため、東西NTTのISDN回線による通信費パック料金制のアイ・プランや完全定額のフレッツ・ISDNを用いるためのデジタル接続も不可であった)。しかも、日本の一般家庭でのインターネット接続環境は2000年以降ブロードバンドの商用化によって急速に普及し始めたためモデムが邪魔者になってしまった、という悪条件が追い討ちをかけた。 後に販売されたブロードバンドアダプタに関しても当時の流通の主流であったゲームショップへの流通は後回しとなり、一般ユーザーには敷居の高い通販や代理店となったISPからの購入を行うしか入手が行えなかった。またそれまで販売されていたゲームソフト及びインターネットサービスはダイアルアップを前提としたサービスとなっており、ゲーム側でもLANアダプタに対応を行う必要があったが、ブロードバンドアダプタが販売された当初は対応したゲームが一つも存在しておらず、対応したゲームソフトは2000年10月15日発売で既存ゲームのリニューアル版の『あつまれ!ぐるぐる温泉BB』の登場を待つこととなり、リニューアルではなく本格的に対応を行ったゲームは2000年12月21日発売の『ファンタシースターオンライン』の登場を待つこととなった。その後販売されたゲームは概ねブロードバンドアダプタ対応となったものの、開発時期の都合から対応されていないものもあり、販売済みのゲームについても対応は取られなかった。また発売当初はセガ公式のドリームライブラリやインターネットブラウザも対応していなかった。当時のドリームパスポート3のウリとなっている「ch@b talk」や「どこでもチャット」も対応しておらずチャットが行えないこと、当時唯一のメーカーによるゲームアーカイブシステムドリームライブラリも非対応となり、発売時点ではほとんど用途がなく、事実上IRCチャットを行うためだけの機能となっていた。価格も当時の本体定価が1万9980円のところ、ブロードバンドアダプタは別売りで9980円で、最終販売時期に至っては本体価格とブロードバンドアダプタが同額になってしまったことなども普及の妨げになった。対応ゲームが存在しないことについては各メディアでも良い見解は持っていなかった。 一方でアーキテクチャ自体は評価が高く、ほぼ同設計の業務用基板「NAOMI」が長く現役であったほか、サミーの業務用基板「ATOMISWAVE」にもその構造が転用され、こちらも北米等で長く活躍した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年(平成10年)11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年(平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1996年頃から開発が行われ、1997年に日本経済新聞が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。11月には会長の大川功がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサスエレクトロニクス)が共同開発したグラフィックスチップPowerVR2の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。さらにチップの歩留まりが向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この事から出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」事態となった。湯川専務の宣伝効果もあってか初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この影響を理由として、発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで湯川英一(専務執行役員)を常務執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "販売台数のてこ入れ策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大川功は1999年頃にXbox開発の話を聞きつけ、ドリームキャストのソフトウェア開発に携わったマイクロソフト本社のビル・ゲイツ社長(当時)相手に、中裕司や鈴木裕といったセガのスタークリエイターや西和彦を引き連れてに何度も直談判し、「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず結局破談となった。ただし、Xboxはwebブラウジングには対応しないものの、Xbox Liveにてインターネットを利用したオンラインサービスは実施している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1999年6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2000年3月にアメリカの半導体メーカーラムバス社が、日立(後のルネサスエレクトロニクス)製のSDRAM・SuperHなどが特許を侵害しているとして、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分をアメリカ国際貿易委員会へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。6月には入交昭一郎代表取締役社長が同副社長に降格、秋元康が社外取締役を退任、大川功会長が代表取締役社長を兼務した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『NBA2K1』、『NFL2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2001年1月23日午前に時事通信社などの報道でセガがPlayStation 2へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止がリークされ、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。翌24日には日本経済新聞朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)にパレスホテルで「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、役員同席(大川会長兼社長は欠席)のうえで香山哲特別顧問兼最高執行責任者が家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。コンシューマ向けゲーム事業についてはPlayStation 2やニンテンドーゲームキューブ・ゲームボーイアドバンス、Xboxなど他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これに伴い本体200万台の不良在庫整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から、1998年3月期では1988年4月の株式上場以降では初の赤字決算となってしまい、以降2000年3月期までの3期連続で約350 - 430億円の連結純損失を計上した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9900円という投げ売り状態の破格の定価に改定した。再値下げによって日本市場では売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(後のセガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンブル版の出荷を開始した。リアセンブル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品(リファビッシュ品)の販売が開始された。これにより在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日立製作所(後のルネサス エレクトロニクス)が新開発したCPU・SH-4と、英・VideoLogic(後のen:Imagination Technologies)社と日本電気半導体部門(後のルネサス エレクトロニクス)の共同開発によるグラフィック描画エンジンPowerVR2を採用した。これは前世代機であるセガサターンが映像処理用のチップが2基搭載された特異な設計となったため製造コストが高くなった事の反省を踏まえたこと、リスクは高いが国内での製造・調達がしやすいこと、競合製品の初代PlayStationを研究した結果が反映されている。なお家庭用ゲーム機としては初めて法線マッピング専用のハードウェアを備えていた。マーケティング上の理由から、雑誌媒体などで行われた「128bitのゲーム機」というアピールは、SH-4内蔵のベクトル型浮動小数点演算ユニットが32ビット浮動小数点演算を4本同時に行えるため、「32bit×4 = 128bit」相当ということで、CPUが1命令で扱えるデータのビット長が128bitというわけではない。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "OSはセガがマイクロソフト本社およびマイクロソフト日本法人と共同開発したWindows CEのカスタマイズ版を選択することが可能で、DirectXや通信機能に対応している。開発ツールもWindowsベースの物も用意されていた。しかし、メモリ使用効率のオーバーヘッドなどが大きかったため、実際には多くの開発会社は Windows CEを選択せずセガの用意した内製の専用のOSを使用していた。SEGA製の3Dグラフィック用のライブラリの名称は「Ninjaライブラリ」であった。ディスクドライブ関連のライブラリは「サルサ」と呼ばれていた。WinCEやDirectXとの関連が言及されたのは、社内事情に詳しいものからは宣伝効果を狙ったためだと言われていて、性能も使い勝手のよさもSEGA製のライブラリの方が上だと言われていた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソフトウエア供給媒体としてヤマハと共同開発した光ディスクであり、倍密CD-ROMとしての機能と同等形状で1GBの容量を持つ。その他でGD-ROMを再生する機器はアーケードゲーム媒体以外ではほとんど存在せず、事実上ドリームキャスト用ゲームソフト専用規格のディスクとなった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ドリームキャストソフトの2トラック部分はCD-DAフォーマットになっており、通常は「これはドリームキャスト用のゲームディスクです。1トラック目にゲームのデーターが入っていますので、再生しないでください。」という女声アナウンスが収録されており(ソフトによってはキャラクターのトークやBGMに差し替わっているなどお遊び要素がある)、ドリームキャスト以外の機器で2トラック以外のデータ領域を再生すると機器破損の恐れがある。また、機器によってはCD-DAと認識せず再生できない場合もある。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "生産当初のドリームキャストには、MIL-CD(ミルシーディー)再生機能が搭載されていた。MIL-CDとは「見るCD」の意味で、メディアは通常のCDプレーヤーでは音楽CDとして再生できるほか、ドリームキャストで再生した場合には独自のコンテンツを視聴できるというものである。しかし、MIL-CD対応メディア製品の発売は数種類にとどまった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "MIL-CDの実装原理はCD EXTRAと同一で、マルチセッションディスクとなっており、1番目のセッションに音楽が、2番目のセッションにデータが入っている。ドリームキャストは、この2番目のセッションを読み取って独自のコンテンツを実現した。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方で日本国外のユーザーを中心にMIL-CD機能を利用して自作ソフトを動作させる試みが存在した。自作ソフトにはDivXプレーヤーや様々なゲームエミュレーターなどがあった。多数の非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品が開発・発表され、セガ側の思惑とは別にコアユーザーには浸透していた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "附属の標準コントローラはセガサターンのマルチコントローラのデザインを基とした大きめのもので、上部に2つの拡張スロットを装備しているのが特徴。形状の制約と「利用者に引っ張られている感じを与えない」という理由でケーブルはコントローラの下側から繋がっているが、上側からケーブルが出た形状に慣れている人はコントローラ背面に用意されているスリット(凹部)にケーブルをはさみ込むことで、擬似的にコントローラ上側からケーブルが出ているようにすることもできる。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アナログ方向キー(アナログスティック)と、アナログL/Rトリガー(一般的なLRボタンとは異なり、比較的ストロークが深く、押し込み具合で入力が異なる)、方向キー、X・Y・A・Bの4個の丸型のボタンと、三角形のスタートボタンが採用されている。方向キーは任天堂が実用新案権を取得し、任天堂のゲーム機に搭載している「十字キー」と外観が酷似しているが、任天堂の実用新案権は形状によるものではなく内部構造についてのものであり、当コントローラは内部構造が異なっているため、任天堂の実用新案には抵触しない。ちなみに、任天堂の十字キーにおける実用新案権自体も本機発売の4年前にあたる1994年(平成6年)に消滅している。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、初期型はトリガーの支点部にスリットが入っていて耐久力が低く、破損による故障が多発した。そのため、トリガーにスリットが無く方向キーを少し高めにセットした後期型が生産され、セガのカスタマーサポートは修理に出された初期型を不良品として後期型に無償交換していた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、本体にはリセットボタンが搭載されていないため、ゲームの強制リセットはXYAB同時押し+スタートボタンで行う。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "拡張スロットには液晶表示付メモリーカード「ビジュアルメモリ」、振動パック「ぷるぷるぱっく」、音声入力機器「マイクデバイス」、デジタルカメラ「ドリームアイ」などが装着できる。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これらの組み合わせで、ビジュアルメモリの液晶画面にキャラクターを表示させながら、ぷるぷるぱっくで振動させるなどの表現ができた。反面、接続された各種デバイスによるコントローラ経由の消費電力が増えた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "当初は画面に向かってダイレクトに座標指示するライトガンの機能を追加する「ポインティングデバイス」、コントローラ自体の動きを検出して操作を行う「Gセンサーデバイス」も企画されていたが、発売はされていない。ケーブルが後ろ側から出ているのには、そのときに操作しやすいように、という意図もあった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "インターネット通信用のアナログモデムを標準搭載する。最高通信速度は日本国内向け純正品の場合33.6Kbpsで、本体からの着脱が可能だった。2000年(平成12年)7月に100BASE-T(ソフト側では10BASE-Tとしか使われなかった)LANアダプタ・「ブロードバンドアダプタ」が通販専売品ながら発売された。なお、モデムを標準搭載した家庭用ゲーム機は1996年(平成8年)3月にバンダイから発売されたピピンアットマークに次いで本製品が2番目である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "インターネットモデムにより本格的なインターネット対戦ゲームが楽しめるほか、アクセスのNetFrontをベースとしたWebブラウザ「ドリームパスポート」を本体に同梱したことでWebサイトの閲覧も可能で、次世代のマルチメディア機として優秀な性能を備えていた。開発当初はインターネットモデムの搭載には慎重的であった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "インターネット接続にあたっては、本体のモデムに固定電話回線を接続したモジュラーケーブルを接続し、「ドリームパスポート」やオンライン通信対応のタイトルソフトを使用し、アクセスポイントへダイヤルアップ接続することでアクセスできる。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "任天堂のランドネットと異なり、既にPCでのインターネット接続用に他のISPを契約していた場合は、その接続アカウントとアクセスポイント番号(接続情報)をドリームパスポートを通じて本体に登録することにより、Webサイトのブラウジングやソフト毎に用意されたオンラインサービスの利用が可能であった。isao.net(旧 : セガプロバイダ)が提供するオンラインサービスの利用にあたっては、会員登録によるアカウントの取得と本体への接続情報登録が必要であるが、既存のISPを使用してのインターネット接続であればisao.netの接続料金は発生しなかった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ドリームキャスト専用に用意されたISPである「セガプロバイダ」が2000年(平成12年)5月までプロバイダ料金が無料で提供された。セガプロバイダは、回線をぷらら(設立時にセガが出資)やHighway Internet(USENの買収により同社のISP部門)から借りていた。当初はアクセスポイントが大都市圏や県庁所在地などにしかなかったため、その他地域では遠方のアクセスポイントへ接続しなければならず、市外電話料金が高額になることも多かったが、その後アクセスポイントは各地方都市へも拡充されたため、この問題は解消されていった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "セガプロバイダは2000年(平成12年)6月にCSKとセガの共同出資で1999年に設立した株式会社ISAOへ承継・譲渡し、サービスが「isao.net」に変更した(同社創業者である大川功にちなんだものとされる)。プロバイダ料金を接続時間に応じた完全従量制と月額定額制にすると共に、PCユーザーにも開放し、ISPとしてISDNおよびADSLなどのブロードバンド接続サービスを開始。1アカウントでDCとPCを共用することが可能であった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "isao.netはセガによるドリームキャストの展開終了後も独自にDCユーザー向けの接続サービスとコンテンツ(プロバイダ内の電子メールなど)の提供を継続すると共に、ポータルサイトにおいてもゲーム情報の掲載や電子掲示板の提供などを通じてゲーマーに適したISPとして運営してきたが、2008年(平成20年)9月にフリービット傘下のDTIへ事業譲渡し、2009年(平成21年)にプロバイダもDTIに統合され消滅した(この時点で接続サービスを契約していたアカウントは解約の申し出を行わなかった場合はDTIへ入会扱い)。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "終了に伴い、ドリームパスポートのセガプロバイダ / isao.netの接続情報復旧(isao.netのサーバーに接続し、アカウント情報を本体に登録する)が終了したため、isao.netへの接続は出来なくなり、ソフトによってはオンライン対戦などの際にユーザー識別のため必要となる旧セガプロバイダの接続情報(アカウント)の本体への登録が出来なくなっている。しかしそれ以前にオンライン対戦などネットワークサービスがほぼ打ち切られているため影響は軽微となっている。なお、他のISPでダイヤルアップ接続かブロードバンドルーター等を介してインターネット接続し、一般のWebサイト閲覧することは従来通り可能である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "元の運営会社であるISAOはISP事業と並行してセガ関係のモバイルコンテンツ製作とオンラインゲーム運営関係のソフトウェアベンダーとして事業を行っており、2010年(平成22年)に豊田通商の完全子会社として株式会社ISAO(2代目)が新たに設立され、事業を行っていたが、2019年10月1日に豊田通商から独立。2020年6月1日に株式会社Colorkrewに事業継承・吸収合併され解散した。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ブラウザの役目をする接続ソフトであり、本体にバンドルされている。バージョンアップごとにセガプロバイダおよびisao.netの登録ユーザに無料配布され、最終的に2001年(平成13年)6月リリースの「ドリームパスポートプレミヤ(Dream Passport PREMIERE 英略 : DPP)」となった。また、Hello Kitty ドリームキャストセットに附属の「ドリームパスポート2 『ハローキティ』Ver.」や、ドリームパスポート3をベースにした市販品「『でじこ』のまいブラ」などの各種キャラクターを用いたアレンジ版も作られている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ドリームパスポート3とDPPには、ドリームキャスト上でメガドライブとPCエンジンのゲームをダウンロード配信する「ドリームライブラリ(2003年終了)」と、専用マイクやドリームアイを介してインターネット電話(固定電話含む)が可能な「DreamCall(DPPのみ、2003年〈平成15年〉1月14日終了)」を利用するための専用アプリケーションがバンドルされている。いずれも仮想通貨である「ドリム」を使用するものであった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、前述のブロードバンドアダプタには専用の「ブロードバンドパスポート(Broadband Passport)」が附属し、ブロードバンド接続では当時のドリームパスポート2の代わりにこれを使用する必要があったが、ドリームパスポートプレミヤではブロードバンド接続にも対応している。これによって、ブロードバンドアダプタを装着していながら接続情報復旧のためにのみモデムに付け替えてドリームパスポートを使用しなければならない、といった手間から解放された。なお、DPP以前のドリームパスポートはSSLのアップデートに対応していないため、現在はSSLでの接続が必要なサイトは閲覧不可能である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)2月15日から、トヨタ自動車がセガ及びCSKと提携のうえで、同社の系列販売店で発売したドリームキャストの附属CD-ROMは、トヨタ関連サイトへのリンク集やKDD(後のKDDI)の運営するISP「NEWEB」への優先接続など、通常と異なる内容になっていた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "セガプロバイダやドリームパスポートとは別に、1999年前半にマイクロソフトとウェブティービーネットワークスによって開発されたWebTVをベースにしたインターネット閲覧ソフト「マイクロソフト ウェブティービー接続キット」が希望者のみに配布された。「ドリームパスポート」との互換性はないが、1999年12月頃にドリームパスポートよりも早く接続キットのブラウザがSSL128bit対応にアップグレードされ、東京三菱銀行(当時)のインターネットバンキングである「東京三菱ダイレクト(後の三菱東京UFJダイレクト)」のWeb TV版に正式対応していた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "PSE問題の影響により中古品市場での本体の入手はかなり困難となることも懸念されたが、2006年4月以降も中古店でPSEマークつきで販売されている。セガによる本体ならびに本体付属周辺部品の有償修理は、佐倉事業所CSサービスセンター並びに関西支店CSサービスセンターで受け付けていたが、2002年11月1日を以て関西支店CSサービスセンターは佐倉事業所CSサービスセンターに統合され、2007年9月28日佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分を以て終了した。", "title": "本体" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2000年5月にフジテレビジョンが企画・発売、株式会社スマートエックスが開発したドリームキャストと互換性のある一体型テレビである。日立マクセルのオンラインショッピングサイト上や一部の店舗で限定販売された。“1970年代から見た2000年のテレビ”というコンセプトで、レトロフューチャーなデザインに仕上がっている。", "title": "本体" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "本機上にはドリームキャストのシンボルマークは一切使われず、CX-1オリジナルのシンボルマークに差し替えられている。内蔵ソフトも独自のGUIとなっている。スケルトンのコントローラ・ビジュアルメモリ・キーボードおよびビジュアルアイとテレビ機能を操作するリモコンが付属している。ドリームキャストと異なり、アナログモデムとMIDIインターフェイス(MIDIインターフェイスケーブル相当)が内蔵されており、着脱することは不可となっている。また、エクステンションポートを構造上備えていないため、ブロードバンドアダプタやドリームキャスト・カラオケの接続も非対応である。", "title": "本体" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "セガ側は対外的にはPRしなかったが、ドリームポイントバンク登録者向けのダイレクトメールでドリームアイと合わせて紹介していた。", "title": "本体" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ドリームキャストの販売当時、一般向けインターネットと言えばダイアルアップの時代であり、ISDNやADSLなどのデジタル通信、常時接続は一部企業やインフラに採用されるに留まっていた。しかし1999年に入るとNTT東西による一般家庭向けのISDNによる常時接続サービスが開始され、また8月にはADSLが試験的ながらも商用サービスを開始されるなど、インターネットの常時接続が急速に普及していった。それに伴いモデムと入れ替える形で接続するLAN接続対応のドリームキャスト用のブロードバンドアダプタ(10Mbps)が2000年7月15日に発売された。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ドリームキャスト本体の製造が終了した後も製造/販売が続けられたが、対応ソフト登場の遅れから流通量は少ないまま、2002年4月の受注を最後に製造が打ち切られた。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "セガ・ミュージック・ネットワークス(2007年にセガがBMBへ株式売却後、2010年エクシングがBMBを吸収合併)の業務用通信カラオケ・セガカラ(Prologue 21シリーズ)のインフラを転用し、家庭用通信カラオケとして利用できる周辺機器である。ドリームキャスト・カラオケ本体はマイクミキサーの役割をし、カラオケ機能そのものは同梱ソフトの「セガカラ@ドリームキャスト」でソフトウェア処理する(ソフト単体では起動しない)。商品として「ドリームキャスト・カラオケ」単体版とDC本体をセットにした「セガカラ@ホーム」がある。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "管理楽曲の演奏不可・MIDI音源が脆弱という弱点はあるが、新譜もPrologue 21とほぼ同じタイミングで配信され、タイトーのX-55よりもコストが廉価(ドリームキャスト・カラオケの本体希望小売価格9800円、利用料金は1日500ドリム、30日間2000ドリム)であった。発売時期が事業撤退表明後の2001年3月29日であったが、5年後の2006年3月29日までサービス提供が継続された。ブロードバンドアダプタ対応。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "本体をコントローラー端子に接続し、付属ソフト「ビジュアルパーク」を使用することで、本体に記録した写真データをフォトレタッチして電子メールとして送信したり、付属のヘッドセットを拡張スロットに接続すれば、同じ機器環境をもった相手方とコマ送りの簡易動画ながらテレビ電話をインターネット経由(まちあわせ通信)もしくはモデムの回線交換接続(P2P)で行うことができる。希望小売価格が1万4400円とDC本体に迫る高価格であったためか余り普及しなかった。2003年1月にまちあわせ通信によるテレビ電話接続が終了している(相手方の一般加入電話回線に接続したビジュアルパークを呼び出す回線交換接続方式であれば現役で利用可能)。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "キラーソフトとして本体と同時期に投入予定だった自社の看板タイトル『バーチャファイター3tb』を除き、ローンチタイトルの多くが発売延期となった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『セガラリー2』、前機のセガサターンでは発売しなかったセガの看板タイトル『ソニックシリーズ』の新作『ソニックアドベンチャー』を本体発売から1か月後に発売させた。しかしハードとソフトの供給の遅れが年末商戦を挟んだ市場形成期の成長に急ブレーキをかけ、その最中に『大乱闘スマッシュブラザーズ』『ファイナルファンタジーVIII』など他ハードでのメガヒットタイトルが発売された事でライトユーザーの購買意欲が消極化した。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1999年下期は『シーマン』・『Jリーグプロサッカークラブをつくろう!』・『ソウルキャリバー』・『バイオハザード CODE:Veronica』など売上本数30万本越えの単発的なヒットはあったものの、ソフト不足に悩まされる状況は変わらず、ハードの売り上げを牽引するキラーソフトの供給が続かなかった。本体の発売当初からその内容が注目を浴びていた『シェンムー』『Dの食卓2』が度重なる延期により1999年12月発売となったことがライトユーザーの関心を失わせた格好となりヒットには至らず、既に確固たる利用者層を積み上げていたPlayStationと2000年3月4日に発売された後継機PlayStation 2の前に再び苦戦を強いられたと同時に、高額の資金を投じた開発費・広告費、値下げの影響で開発コストの回収難に陥ってしまう。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2000年は一部タイトルで、TSUTAYAと提携し東京都内の一部店舗でのゲームレンタル開始や、1 - 2000円前後の廉価で機能限定版(体験版に近い)を販売し、ドリムを用いてアクティベーションの権利を購入(VMに課金データをダウンロード)することで通常版と同等にプレイできるシェアウェア型の「@barai(アットバライ)」というシステムをISAOと共同開発し数タイトル発売し、「@barai」のゲームソフトをゲーム雑誌に付録として提供するなどの試みも行った。『ROOMMANIA#203』、『サクラ大戦1・2』、『ファンタシースターオンライン』などセガオリジナルタイトルを中心としてソフトのリリース数は最多となったが、前期に存在した30万本超えのタイトルは1つも無かった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2001年3月29日、セガを取り巻く情勢を自虐的なパロディとして反映させたシミュレーションRPG『セガガガ』が発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。なお、同月に発売された『サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜』(約34万枚)および翌2002年3月発売の『サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜』(約25万枚)がその年の最多売上タイトルとなった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "本体や周辺機器の製造が終了してからも2005年頃までは恋愛ゲーム中心にリリースが続き、恋愛ゲームが発売されなくなった後も、NAOMI基板で出たアーケード用シューティングゲームの移植を中心に年2本程度のペースで新規ソフトが発売されており、新規タイトルが発表になるたびに「ドリームキャスト最後のソフト登場」と話題となる。2007年3月8日にライセンス品として最後のソフトとなる『カラス』が発売された。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "当時業務用基板「NAOMI」の責任者を務め、後にセガの社長へ就任する杉野行雄は2020年に「家庭用ゲームハード撤退後もリクエストに応えるような形でタイトルを開発するのではなく、もっと長期的な視野に立ってラインアップを整えるべきだった」と述懐した。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "正規ライセンス品ソフトの発売が途絶えた後も非正規ライセンス品のソフトが主に海外で制作されている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "オンライン接続対応のゲームソフトにはドリームパスポートの一部機能が制限されたバージョンが本編ディスクあるいは添付の専用ディスクに組み込まれており、ドリームパスポートに入れ替えることなくソフトの公式ホームページを閲覧したり、公開されている専用のセーブデータをダウンロードできるようになっているものもあった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ほか多数", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ドリームキャストのソフトには通常版とは別に@barai版が存在する。通常より安く販売されたものと雑誌の付録があった。ある程度まで遊ぶと先に進めたくなるが、追加料金を払い、インターネットからメモリーカードにデータをダウンロードして制限を解除すると最後まで遊べる。このシステムが採用されたのは『エターナルアルカディア』と『ハンドレッドソード』の2作だけで、2002年3月31日にサービスは終了した。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "本体の起動時のデモンストレーションは涼しげな音色にあわせてオレンジ色の玉が画面を跳ね回り、最後に渦を巻いて「Dreamcast」と表示され、ゲームソフトか内蔵のシステムソフトが起動する。この起動音は坂本龍一が作曲したもので、その音声はアルバム『CM/TV』に収録されている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "内蔵のシステムモードはドリームキャスト本体のCDドライブのドアを開けている状態か、ドリームキャスト用ゲームソフトが挿入されていない時に起動する。システムモードではビジュアルメモリのデータ管理、内蔵時計の管理、CDプレーヤーがある。CDプレーヤーは画面中央に3DCGのCD(レーベルデザインはオリジナル)が表示され、ドライブの動作に合わせて画面上のCDも動く。ゲームディスクやMIL-CDをセットすると、CD-DA部分(→#GD-ROM)しか再生しないが、一部タイトルでは画面上のCDのデザインがタイトルに関係したピクチャーレーベルで表示される。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ドリームキャストはPlayStationの販売方法を徹底的に模倣。卸子会社のセガ・ミューズを通じて「再販売価格維持」、「中古品売買禁止」、「同業者間の在庫転売禁止」の3点を小売店に強制した。当時、SCEが採用したこの販売方法は私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反で公正取引委員会と係争中だったが、メーカーの圧倒的支持を受けており、SCEが独占禁止法違反の是非を争っている間にその販売方法を模倣すればスクウェアを始めとする有力メーカーの支持を一気に奪えるという計算が働いたからである。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2007年12月、セガオブアメリカが「Dreamcast」の商標登録の更新を申請した。一部で「後継機が開発されているのでは」と噂されたが、セガオブアメリカは「登録内容に問題があったためであり、コンソールビジネスに戻る予定は無い」と否定した。", "title": "生産終了後の展開" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2010年にセガにおいて「セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト」を立ち上げ、ドリームキャストの一部タイトルのPlayStation 3とXbox 360の移植版を製作し、PlayStation StoreとXbox Live Arcade上でダウンロード販売形式で販売・配信が行われている。", "title": "生産終了後の展開" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "復刻(発売)タイトルは以下の通り", "title": "生産終了後の展開" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2014年には本体の劣化したGD-ROMドライブを取り外し、SDカードを利用できるように改造する試みがされている。", "title": "生産終了後の展開" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "一部ユーザーがブロードバンドアダプタとMIL-CDのデータ部分を利用し、ゲームデータをCD-Rにコピーしたディスクを動作させることに成功したことで、それまで本体にはんだ付けを施し、シリアル接続で数十時間掛けてバックアップを行っていたものが、僅か10分程度でバックアップが行えるようになった。これはコピーディスクを違法に流通させるきっかけとなった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "そのためセガはMIL-CD機能の悪用による違法コピー対策として、2000年12月28日以降に出荷された製品をMIL-CD非対応とした。この厳密な時期は定かではないが、概ね11月1日の社名変更のタイミングと重なっている。そのため、本体ケース底面に書かれている社名によって推測する事ができる(ただし、一般にケースよりメインボードの製造が後のため、中身が交換されていなくても必ずしも正確に推測できるわけではない)。また、対応品をセガに修理に出した場合、非対応品にされて戻される事例も存在した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "両者の判別は新品であれば可能で、いわゆる湯川専務バージョンはMIL-CD対応品で、末期に製造されたロットは外箱に「MIL-CD非対応」と明記されている。しかし、中古品販売で入手するしかない現状では、外箱と中身が一致しているとは限らないため、本当に対応品かそうでないかを見分けるのは難しい。販売店によっては、対応品かどうかを独自にチェックし、その旨を表示して販売しているところも存在する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "例外的に、ドリームキャストR7は末期の製造ながら、初期ロットの在庫処分のためMIL-CD対応であり、箱にも明記されている。ただし流通量は少ない。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また、「MIL-CD非対応」と外箱に明記された物でも、海外仕様(一般に、海外仕様のものには非対応品は存在しない)のものを国内向けに変更したリアセンブル版や、故障品のパーツを再組立した再生品(もともとが故障品のパーツの寄せ集めであり、部品精度の検証が不足していたために、出荷分の初期不良率は異常に高かった)を中心に、実際はその多くは対応機であり、全体の生産量からするとMIL-CD非対応機はごく一部でしかない(日本国内分でさえ1割にもはるかに満たない)。また非対応品とされたモデルに関しても対応モデルの結線を取り外しただけという場合もあり、その場合は再度結線を施すことによりMIL-CD対応として動作が行える。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "市場での敗因としてまず第一に、コントローラーの使い勝手の悪さと耐久性が挙げられる。独特の形状に加えそれまでの一般的なハードと異なりコントローラーの下からコードが伸びる仕様であり、ソフトのプレイ環境によっては1か月も持たずに破損するなどユーザーからは極めて不評であった。改善の要望は多かったが、メーカー側も応えることはなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "次にPlayStation 2との勝敗を分けた要因として、ソフトの後方互換性が挙げられる。それまで「ハードが変更されると旧機のソフトはプレイ不可能」ということが一般的で、DCもセガサターン用のソフトは使えなかったが、PS2がPS用ソフトのほとんどをプレイできる仕様だった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ドリームキャストに後方互換性を持たせなかったのは、セガサターンが設計上、マルチプロセッサ機能を持っていた事に起因する。サターンと後方互換性を持たせようとすると処理チップ数が増加し、コストが高くなるという問題を孕んでいた(尚、PS2はI/OプロセッサとしてPSのCPUを搭載させることによりこの問題を解決させている)。これには、セガは業務用・家庭用を問わずハード設計の際には、なるべく汎用ICを使って設計する(必然的に基板に実装するICの種類が増える)という方針や、後方互換性を維持する事でサポートコストの増大や過去の負の遺産を引き継ぐことを嫌った、当時までのゲーム業界の慣習を引きずった事も影響している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "既に多くのサターンのソフトがPSへ移植されていたが、DCそのものにはキラーソフトが少なく、その一方でまだ市場が残っていたサターンへのソフト供給が途絶えてしまったことから、これを転機としたユーザ離れを引き起こすことになってしまった。セガサターンからドリームキャストの変更によるメーカー側の開発難航が供給低下の原因にあることも見逃すことができない。Windowsと互換性がありソフトの製作のハードルは低かったものの、立ち上がりのつまづきがサードパーティーを消極的にしソフトメーカーの参入が伸びなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "PS2が商業的に成功した要因として、PS用ソフトのほとんどがそのままプレイできる後方互換性を有するうえ、コントローラのボタン数やデザインも従来どおりだったため、PSから親しんできたユーザにとっても何の抵抗もなくプレイできたことにある。また、セガサターン純正のコントローラは、後に同形のコントローラーパッドがPS2用およびパソコン用で販売された経緯がある。それに慣れ親しんだユーザにとっては、ドリームキャストの純正コントローラは前述のように使い勝手が悪く、コードが下部から付いているので腕に対する負担が少ないが、長さが足りなかった。見た目よりは軽量だが、メモリカード等を装着すると当然重量は増加し、長時間プレイすると腕に対する負担が大きかった。これはプレイヤーの使用しないポートのコントローラーなどにメモリカードを挿すことなどによってある程度は回避可能だが、実際にはソフトの多くはポートAの1番スロットにしか対応していないなど、不備も目立った。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "PS2はDVDプレーヤーとしても機能することがPS2のシェア拡大に少なからず貢献し、結果としてDVD-Video視聴環境の普及にも大きく貢献することとなったが、ドリームキャストでは独自の規格であるGD-ROMドライブを搭載していたためにDVDビデオの視聴は不可能だった。この点に関して、ドリームキャスト開発当時はDVDドライブがまだ高価で、コスト面での不利から搭載を見送られていた。末期には外付けのDVDドライブの開発が検討されたこともあったが、製造中止に伴って立ち消えとなっている。GD-ROMは、ドリームキャスト発売当時としては容量も十分なものだったが、DVDが普及するにつれて、記録容量、ドライブの製造コスト、ディスク単価、市場でのシェアなど、どれをとってもDVDに対し劣るものとなっていた。しかしGD-ROMに関してはアーケードのNAOMIに互換性を持たせるための設計であり、開発、移植を容易にするという観点でアーケード業界においては成功を納めた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "PS2やNINTENDO64に対し優位に立つかに思えたインターネット機能の標準搭載も、対応ゲームの少なさや発売の遅さ、深夜から朝のラッシュアワー限定で利用できるテレホーダイ以外の手段による通信料金定額の未整備ゆえに、優位性が充分に発揮されないまま終わってしまった。ドリームキャスト発売当時は電話回線を使用したダイヤルアップ接続が主流であり、通信にかかる費用はユーザにとって決して軽いものではなかった(標準モデルはモデム接続のみのため、東西NTTのISDN回線による通信費パック料金制のアイ・プランや完全定額のフレッツ・ISDNを用いるためのデジタル接続も不可であった)。しかも、日本の一般家庭でのインターネット接続環境は2000年以降ブロードバンドの商用化によって急速に普及し始めたためモデムが邪魔者になってしまった、という悪条件が追い討ちをかけた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "後に販売されたブロードバンドアダプタに関しても当時の流通の主流であったゲームショップへの流通は後回しとなり、一般ユーザーには敷居の高い通販や代理店となったISPからの購入を行うしか入手が行えなかった。またそれまで販売されていたゲームソフト及びインターネットサービスはダイアルアップを前提としたサービスとなっており、ゲーム側でもLANアダプタに対応を行う必要があったが、ブロードバンドアダプタが販売された当初は対応したゲームが一つも存在しておらず、対応したゲームソフトは2000年10月15日発売で既存ゲームのリニューアル版の『あつまれ!ぐるぐる温泉BB』の登場を待つこととなり、リニューアルではなく本格的に対応を行ったゲームは2000年12月21日発売の『ファンタシースターオンライン』の登場を待つこととなった。その後販売されたゲームは概ねブロードバンドアダプタ対応となったものの、開発時期の都合から対応されていないものもあり、販売済みのゲームについても対応は取られなかった。また発売当初はセガ公式のドリームライブラリやインターネットブラウザも対応していなかった。当時のドリームパスポート3のウリとなっている「ch@b talk」や「どこでもチャット」も対応しておらずチャットが行えないこと、当時唯一のメーカーによるゲームアーカイブシステムドリームライブラリも非対応となり、発売時点ではほとんど用途がなく、事実上IRCチャットを行うためだけの機能となっていた。価格も当時の本体定価が1万9980円のところ、ブロードバンドアダプタは別売りで9980円で、最終販売時期に至っては本体価格とブロードバンドアダプタが同額になってしまったことなども普及の妨げになった。対応ゲームが存在しないことについては各メディアでも良い見解は持っていなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "一方でアーキテクチャ自体は評価が高く、ほぼ同設計の業務用基板「NAOMI」が長く現役であったほか、サミーの業務用基板「ATOMISWAVE」にもその構造が転用され、こちらも北米等で長く活躍した。", "title": "その他" } ]
ドリームキャスト(Dreamcast)は、セガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機である。一般にはDCやドリキャスの略称で呼ばれる。 ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年(平成10年)11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。 さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年(平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった。 2018年(平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。
{{otheruses|ゲーム機|企業|ドリームキャスト (企業)}} {{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = ドリームキャスト |ロゴ = [[ファイル:Dreamcast logo.svg|180px]] |画像 = [[ファイル:Dreamcast-Console-Set.png|300px]] |画像コメント = ドリームキャスト本体とコントローラー(北米版) |メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]] |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第6世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1998年]][[11月27日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1999年]][[9月9日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[1999年]][[10月14日]] |CPU = 200[[メガヘルツ|MHz]] Hitachi [[SuperH|SH-4]] RISC |GPU = VideoLogic [[PowerVR|PowerVR2]] CLX2 |メディア = [[GD-ROM]]<br />[[コンパクトディスク|CD]] |ストレージ = [[ビジュアルメモリ]]<br />メモリーカード4X |コントローラ = ケーブル |外部接続 = コンポジット<br />S端子<br />VGA |オンラインサービス = 本体付属のモデム<br />ブロードバンドアダプタ |後方互換 = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 280万台<ref>http://gamedatamuseum.web.fc2.com/dc.htm</ref><br />{{Flagicon|USA}} 406万台<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 1,060万台<ref>「第6章 セガの最後の挑戦 ドリームキャスト」『家庭用ゲーム機興亡史』、オークラ出版、2014年5月24日発行 199頁。</ref> |最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[シーマン]] /52万4,731本<ref>{{Cite web|url= http://www.vgchartz.com/game/4264/seaman/Japan/|title= Seaman (Dreamcast)|accessdate=2013-12-31}}</ref><br />{{Flagicon|USA}} [[ソニックアドベンチャー]] /126万本<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] ソニックアドベンチャー /242万本<ref>{{Cite web|url= http://www.vgchartz.com/game/2101/sonic-adventure/|title= Sonic Adventure (Dreamcast)|accessdate=2013-12-31}}</ref> |互換ハード = [[#CX-1|CX-1]]<br/ >[[NAOMI]] |前世代ハード = [[セガサターン]] |次世代ハード = }} '''ドリームキャスト'''(''Dreamcast'')は、[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]が発売した[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]である。一般には'''DC'''や'''ドリキャス'''の略称で呼ばれる。 [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]の[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]に劣勢を強いられていた[[セガサターン]]の次世代機として社運を賭けて開発され、[[1998年]](平成10年)[[11月27日]]に日本国内で[[ゲーム機|第6世代ゲーム機]]の先陣として発売された。 さまざまな要因から[[PlayStation]]シリーズとのシェア争いに再び惨敗し、[[2001年]](平成13年)1月にセガはドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造と[[ゲーム機|プラットフォーム]]からの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲームプラットフォームとなった{{Efn|撤退表明直後の同年2月7日、[[鈴木みそ]]による取材に対しセガマーケティング部チームマネージャー(当時)の[[竹崎忠]]は「ドリームキャストがセガ最後のハードです」と発言している<ref>鈴木みそ 『おとなのしくみ(4)』 P.82 「ドリームキャスト ハード製造中止のしくみ」 エンターブレイン 2002年 ISBN 4-7577-0762-2</ref>。}}。 [[2018年]](平成30年)6月5日には20周年記念ポータルサイトが開設された。 == 歴史 == 1996年頃から開発が行われ、1997年に[[日本経済新聞]]が次世代機を開発している旨をスクープし、日立製作所のSH-4がセガの次世代ゲーム機に搭載される旨も報じられ、セガサターン後継機の存在が明らかとなった。11月には会長の[[大川功]]がマイクロソフトと開発中である旨のコメントを出した。 1998年5月21日の朝刊でティーザー広告が掲載された当日午後に「ドリームキャスト」の正式発表が行われた<ref name="story" />。広告戦略においてハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を博したかに見えた。しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという懸案事項が生じていた。英・VideoLogic(後の[[:en:Imagination Technologies]])社と[[日本電気]]半導体部門(後の[[ルネサスエレクトロニクス]])が共同開発したグラフィックスチップ[[PowerVR|PowerVR2]]の開発が予定よりも遅れたことが発端となり、ソフトウェアの開発に遅れが生じ始めた。さらにチップの[[歩留まり]]が向上せず、十分な量を確保できなかったことが致命的だった<ref name="newswich">{{Cite web|和書|work=日刊工業新聞(ニュースイッチ) |url=https://newswitch.jp/p/19268 |title=「ドリームキャストの在庫恐怖」が原点 「#メガドライブミニ」のプロモ戦略 |accessdate=2023-3-27}}</ref>。 この事から出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し<ref name="story" />、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」事態となった。湯川専務の宣伝効果もあってか初回出荷分は即日完売となったものの、PowerVR2の開発の遅れがもたらしたソフト不足が最後まで足を引っ張り、さらにPowerVR2の歩留まりが向上しない事には、増産によるシェア拡大も望めない状況にあった<ref name="newswich" />。 この影響を理由として、発売からわずか15日後の1998年12月10日付けで[[湯川英一]](専務[[執行役員]])を[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|常務]]執行役員へ降格させる人事を発表し、以後、「湯川元専務」の名でCMやマスコミに出ることになる(翌年、卸子会社セガ・ミューズ会長に就任)。 販売台数の[[テコ入れ|てこ入れ]]策として、1999年3月20日から4月11日にかけてインターネット通信機能での応募者から抽選1万名に現金1万円(総額1億円)をプレゼントする『湯川元専務のお宝さがし』キャンペーンを実施した。 大川功は1999年頃に[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]開発の話を聞きつけ、ドリームキャストのソフトウェア開発に携わった[[マイクロソフト]]本社の[[ビル・ゲイツ]]社長(当時)相手に、[[中裕司]]や[[鈴木裕]]といった[[セガ]]のスタークリエイターや[[西和彦]]を引き連れて<ref>{{Cite book|和書 |title=週刊ファミ通2021年8月5日増刊号 |year=2021 |publisher=KADOKAWA}}</ref>に何度も直談判し、「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず結局破談となった{{Efn|この話はマイクロソフト側が見解を出さなかったため噂話の領域を出ずにいた<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000531/kaigai01.htm MicrosoftがいよいよX-Box向けソフトの開発キットを配布へ] - 2000年5月31日 [[Impress Watch|PC Watch]]</ref>が、2010年2月になり当時[[日本マイクロソフト|マイクロソフト日本法人]]社長を務めていた[[古川享]]が[[Twitter]]で発言<ref>[http://www.kotaku.jp/2010/01/dc_xbox_compatibility.html 幻に終わったXboxのドリームキャスト互換・今明かされるその理由:Kotaku JAPAN, ザ・ゲーム情報ブログ・メディア]</ref>したことで事実である裏付けがなされた。また、2013年2月8日にアメリカのゲームサイトでのインタビューで、マイクロソフト米国本社の元幹部がコンシューマーゲーム事業参入に当たりセガの買収を社内で検討していたことを明かしている<ref>[http://www.joystiq.com/2013/02/08/why-bill-gates-said-no-to-buying-sega-according-to-former-ms-ex/ Why Bill Gates said no to buying Sega, according to former MS exec]-joystiq.com</ref><ref>[https://www.inside-games.jp/article/2013/02/11/63759.html マイクロソフトはセガ買収を検討していた ― 元幹部が明かす] - インサイドブログ</ref>。}}。ただし、Xboxはwebブラウジングには対応しないものの、Xbox Liveにてインターネットを利用したオンラインサービスは実施している。 [[1999年]]6月1日に開催した事業発表会「SEGA New Challenge Conference '99」席上で、6月24日から定価を2万9800円から1万9900円へ値下げすることを発表したが、値下げ相応の機械部品のコストダウンは図られていないため、1台売るごとに1万円の赤字となった<ref name="newswich" />。 2000年3月にアメリカの半導体メーカー[[ラムバス]]社が、日立(後の[[ルネサスエレクトロニクス]])製の[[SDRAM]]・[[SuperH]]などが特許を侵害している{{Efn|いわゆる[[サブマリン特許]]}}として、それを搭載した本機の米国輸入差し止めの仮処分を[[アメリカ国際貿易委員会]]へ申請する騒動が発生し、海外販売が危ぶまれたが、日立がラムバス社と和解したことでセガには影響が及ばなかった。6月には[[入交昭一郎]][[代表取締役]]社長が同副社長に降格、[[秋元康]]が社外取締役を退任、[[大川功]]会長が代表取締役社長を兼務した。 撤退への最終的な決断がされたのは2000年の年末商戦の結果を踏まえた上であり、北米では『[[NBA]]2K1』、『[[NFL]]2K1』というミリオンセラーが期待出来るタイトルとの本体同梱版がリリースされたが、勢いを取り戻す事は出来なかった<ref name="story" /><ref name="newswich" />。 [[2001年]]1月23日午前に[[時事通信社]]などの報道でセガが[[PlayStation 2]]へのゲームソフト供給とドリームキャストの生産中止が[[リーク]]され、同日のセガ株価は一時ストップ高となる。翌24日には[[日本経済新聞]]朝刊でも一面記事で後追いされ、セガは同月25日に報道の内容を一部認めるコメントを出したことで、セガおよびCSKの株価は乱高下した。 そして1月31日の15時過ぎ(株式市場終了後)に[[パレスホテル]]で「構造改革プラン説明会」と題した記者会見を開き、役員同席(大川会長兼社長は欠席<ref>{{Cite web|和書|title=News: 不安を抱えつつもソフト開発力に賭けるセガ |url=https://www.itmedia.co.jp/news/0101/31/sega.html |website=www.itmedia.co.jp |access-date=2023-03-27}}</ref>)のうえで[[香山哲 (実業家)|香山哲]]特別顧問兼[[最高執行責任者]]が家庭用ゲーム機事業から撤退を正式発表する。コンシューマ向けゲーム事業については[[PlayStation 2]]や[[ニンテンドーゲームキューブ]]・[[ゲームボーイアドバンス]]、[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]など他社プラットフォームへのソフト供給へ転換することにした。 これに伴い本体200万台の[[不良在庫]]整理損(棚卸資産等処分損)や海外販売子会社の清算などが発生し、セガの2001年3月期連結決算で約811億円という当時のゲームメーカーでは最大規模の特別損失を計上する。それまでもドリームキャストの立ち上げと売上不振から、1998年3月期では1988年4月の株式上場以降では初の赤字決算となってしまい、以降2000年3月期までの3期連続で約350 - 430億円の連結純損失を計上した{{Efn|本来であればセガの存続が危ぶまれる状況で2001年2月1日に大川功が私財約850億円をセガに寄付する事を早々に表明したことにより、最悪の事態は回避されたが、最終的に2001年3月期は家庭用ゲーム機事業撤退に関わる費用を計上したため約520億円の連結純損失となった<ref>[https://www.segasammy.co.jp/japanese/ir/library/pdf/printing_archive/2001/sega/sega_jigyo_tuuki_2001.pdf 第43期事業報告書]セガ</ref>。大川功は2000年までに私財拠出やCSKを通じて既に1000億円以上の資金提供を[[第三者割当増資]]引受などで行い、セガの財務面での下支えに寄与した。しかしその後体調が悪化し、ドリームキャストの終焉とセガの再建を見届けるような形で同年3月16日に逝去する。}}。 同月末には全世界で売れ残った本機の在庫200万台を日本では9900円という[[投げ売り]]状態の破格の定価に改定した。再値下げによって日本市場では売れ行きが好調となったが、2002年前半には一度も優位に立つことはなかった<ref name="newswich" />。 本体そのものは市場撤退後も直販のドリームキャストダイレクト(後のセガダイレクト)上で新品販売が継続され続け、国内流通品の在庫が尽きた2002年6月頃から海外市場版の本体を日本版のパッケージに巻き直したリアセンブル版の出荷を開始した。リアセンブル版の在庫が無くなった2004年からは修理品の部品を再組立した再生品([[リファビッシュ]]品)の販売が開始された{{Efn|経緯の説明と通常の1年修理保証対象の断り書きが掲載され、パッケージ上も「再生品」ステッカーが貼付された。}}。これにより在庫に余裕が生じた事から、一部の新作ソフトが発売される度にソフトとポスターなどをセットにした限定版がセガダイレクト上で発売された。 2007年にこのドリームキャストを最後にセガは家庭用ゲーム機の製造・販売事業から撤退し、家庭用ゲーム市場においては他社のゲーム機向けソフトの開発と販売に専念することとなる。 == ハードウェア == [[日立製作所]](後の[[ルネサス エレクトロニクス]])が新開発したCPU・[[SuperH|SH-4]]と、英・VideoLogic(後の[[:en:Imagination Technologies]])社と[[日本電気]]半導体部門(後の[[ルネサス エレクトロニクス]])の共同開発によるグラフィック描画エンジン[[PowerVR|PowerVR2]]を採用した。これは前世代機であるセガサターンが映像処理用のチップが2基搭載された特異な設計となったため製造コストが高くなった事の反省を踏まえたこと、リスクは高いが国内での製造・調達がしやすいこと、競合製品の初代[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]を研究した結果が反映されている<ref name="story">{{Cite web|和書|title=【連載】セガハードストーリー最終回 ゲームの未来を変えた先進的ハード 『ドリームキャスト』 {{!}} セガハード大百科 |url=https://www.sega.jp/history/hard/column/column_06.html |website=【連載】セガハードストーリー最終回 ゲームの未来を変えた先進的ハード 『ドリームキャスト』 {{!}} セガハード大百科 |access-date=2023-03-27 |language=ja}}</ref>。なお家庭用ゲーム機としては初めて[[法線マッピング]]専用のハードウェアを備えていた。マーケティング上の理由から、雑誌媒体などで行われた「128bitのゲーム機」というアピールは、SH-4内蔵の[[ベクトル計算機|ベクトル型浮動小数点演算ユニット]]が32ビット浮動小数点演算を4本同時に行えるため、「32bit×4 = 128bit」相当ということで、CPUが1命令で扱えるデータのビット長が128bitというわけではない。 [[オペレーティングシステム|OS]]はセガが[[マイクロソフト]]本社および[[日本マイクロソフト|マイクロソフト日本法人]]と共同開発した[[Windows CE]]のカスタマイズ版を選択することが可能で、[[DirectX]]や通信機能に対応している。開発ツールもWindowsベースの物も用意されていた<ref>[http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=1315 マイクロソフトと(株)セガ・エンタープライゼス、最先端の家庭用TVゲーム機、Dreamcast(TM)の開発で協力] - 1998年5月21日 日本マイクロソフト ニュースリリース</ref>。しかし、メモリ使用効率のオーバーヘッドなどが大きかったため、実際には多くの開発会社は Windows CEを選択せずセガの用意した内製の専用のOSを使用していた。{{要出典範囲|SEGA製の3Dグラフィック用のライブラリの名称は「Ninjaライブラリ」であった。ディスクドライブ関連のライブラリは「サルサ」と呼ばれていた。WinCEやDirectXとの関連が言及されたのは、社内事情に詳しいものからは宣伝効果を狙ったためだと言われていて、性能も使い勝手のよさもSEGA製のライブラリの方が上だと言われていた|date=2022年8月}}。 ; 名称 : 開発中のコードネームは「KATANA」<ref name="story" />。名前の由来として、刀ではなく「勝たなアカン。」というハード戦争の勝利への願いから来ているというのが定説となっており、セガもこれは誤りではないとしているが<ref>{{Cite web|和書|title=「セガい共通テスト」公式対策オンライン講座「セガゼミ」 第1回 コンシューマ:ハード ミヤヒロ先生 - YouTube|url=https://www.youtube.com/watch?v=wqdN_L4YaDE|website=www.youtube.com|accessdate=2021-01-23}}</ref>、実際は当時開発されていた開発機2台のうち片方がコードネーム「ブラックベルト」、つまり[[黒帯]]であり、その黒帯を斬って勝つという意味を込めた物である<ref>{{Cite book|title=現代日本にやってきたセガの女神にありがちなこと|url=https://dengekibunko.jp/product/sega/311977400000.html|publisher=Kadokawa|date=2013|location=|isbn=978-4-04-866159-1|oclc=864827133|last=師走トオル|last2=|year=}}</ref>。 : 「ドリームキャスト」の名称は候補を募り絞っていったもので特定の命名者はいない<ref>『ゲームの話をしよう』永田泰大 [[エンターブレイン]] [[2000年]] ISBN 4-7572-0662-3 P174</ref>。[[wikt:dream|dream]](夢)を[[wikt:broadcast|broadcast]](広く伝える)という願いを込めた造語である<ref>エンターブレイン『セガ・コンシューマー・ヒストリー』(2002年2月27日初版発行)P.244</ref>。 ; 筐体 : 外見はセガサターンと比べて[[重箱]]のような[[正方形]]に近い[[アスペクト比]]で小型・軽量となっている。本体カラーはホワイトのみであるが、後に限定仕様でカラーバリエーションが展開された。 : ドア左側に電源ボタン、右側にオープンボタンがついており電源が入ると中心の三角形の部分がオレンジ色に光る。背面に1か所、底面に3か所、排熱用の通気口があり、右側にファンを備えた排熱口が設けられている。リセットボタンはついていないが後述のコントローラによるソフトウェアリセットで可能となる([[#コントローラ]]の章を参照)。 ; 光学ドライブ : ディスクドライブは[[トップローディング]]式。 ; ロゴ : ドア(トレイ)部分に「シンボルマーク(渦巻きとDreamcastのロゴタイプ)」がある。この渦巻きは地域によって配色が異なり、日本とアジア地域ではオレンジ、北米地域では赤、欧州などコンポジット信号に[[PAL]]を採用している地域では青が使われている。本体真正面中心に「SEGA」、その右側には「[[Microsoft Windows CE|Windows CE]]」のロゴがそれぞれプリントされている。 ; 端子 : [[ゲームコントローラ|コントローラポート]]を4個装備し、コントローラーや周辺機器の同時接続が可能である。ただし、ポートを分配するマルチタップは存在せず、最大接続台数は4台までとなる。 : 背面にはAC電源端子・映像出力端子・シリアル端子と、本体出荷時にはモデムが装着されている[[エクステンション|エクステンションポート]]がある。 : エクステンションポートに接続できる機器として、モデム・ブロードバンドアダプターの他に[[2001年]](平成13年)発売の「[[#ドリームキャスト・カラオケ|ドリームキャスト・カラオケ]]」と、開発中止となった[[アイオメガ]]の[[ZIP (記憶媒体)|Zipドライブ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://sega.jp/corp/release/1999/0423_1/ |title=セガ IOMEGA社 技術提携] - 1999年4月23日 セガニュースリリース|deadlinkdate=2023-03-27 |url-status=unfit}}</ref>の存在が確認されており、この2つは同社のメガCD及び、任天堂の[[サテラビュー]]や[[64DD]]と同じく本体の下に置き重ねて接続する形態となっていた。 : 対応したゲームに限られるものの周辺機器の「VGAボックス」を使用して[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]や[[テレビ]]の[[VGA端子]]に接続し、[[Video Graphics Array|VGA]]・31kHz出力の[[画面解像度|VGA解像度]]画面でゲームを遊ぶことができた。また、この「VGAボックス」は[[AV端子]]と[[S端子]]に接続する機能も搭載されており、スイッチによりVGA端子かAV端子の出力に切り替えることができた。 : 今までのセガのゲーム機とは異なり、本体性能を底上げする[[エクステンション|拡張機器]](メガドライブの[[メガCD]]や[[スーパー32X]]、セガサターンの拡張〈4MB〉RAMカートリッジ、他社製品ではNINTENDO64の[[拡張パック]]等)は一切発売されなかった。 === GD-ROM === {{main|GD-ROM}} [[ソフトウェア|ソフトウエア]]供給媒体として[[ヤマハ]]と共同開発した[[光ディスク]]であり、倍密[[CD-ROM]]としての機能と同等形状で1GBの容量を持つ。その他でGD-ROMを再生する機器は[[アーケードゲーム]]媒体以外ではほとんど存在せず、事実上ドリームキャスト用ゲームソフト専用規格のディスクとなった。 ドリームキャストソフトの2トラック部分は[[CD-DA]]フォーマットになっており、通常は「''これはドリームキャスト用のゲームディスクです。1トラック目にゲームのデーターが入っていますので、再生しないでください。''」という女声アナウンスが収録されており(ソフトによってはキャラクターのトークやBGMに差し替わっているなどお遊び要素がある)、ドリームキャスト以外の機器で2トラック以外のデータ領域を再生すると機器破損の恐れがある。また、機器によってはCD-DAと認識せず再生できない場合もある。 === MIL-CD === 生産当初のドリームキャストには、'''MIL-CD'''(ミルシーディー)再生機能が搭載されていた。MIL-CDとは「見るCD」の意味で、メディアは通常の[[CDプレーヤー]]では[[CD-DA|音楽CD]]として再生できるほか、ドリームキャストで再生した場合には独自のコンテンツを視聴できるというものである。しかし、MIL-CD対応メディア製品の発売は数種類にとどまった。 MIL-CDの実装原理は[[CD EXTRA]]と同一で、マルチセッションディスクとなっており、1番目のセッションに音楽が、2番目のセッションにデータが入っている。ドリームキャストは、この2番目のセッションを読み取って独自のコンテンツを実現した。 一方で日本国外のユーザーを中心にMIL-CD機能を利用して自作ソフトを動作させる試みが存在した。自作ソフトには[[DivX]]プレーヤーや様々な[[ゲームエミュレータ|ゲームエミュレーター]]などがあった。多数の非ライセンスの商業ベースやいわゆる同人レベルの作品が開発・発表され、セガ側の思惑とは別にコアユーザーには浸透していた{{要出典|date=2015-05-19}}。 === コントローラ === 附属の標準コントローラはセガサターンのマルチコントローラのデザインを基とした大きめのもので、上部に2つの拡張スロットを装備しているのが特徴。形状の制約と「利用者に引っ張られている感じを与えない」という理由でケーブルはコントローラの下側から繋がっているが、上側からケーブルが出た形状に慣れている人はコントローラ背面に用意されているスリット(凹部)にケーブルをはさみ込むことで、擬似的にコントローラ上側からケーブルが出ているようにすることもできる。 アナログ方向キー(アナログスティック)と、アナログL/Rトリガー(一般的なLRボタンとは異なり、比較的ストロークが深く、押し込み具合で入力が異なる)、[[十字キー|方向キー]]、X・Y・A・Bの4個の丸型のボタンと、三角形のスタートボタンが採用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/dc/hard/co/ |title=ドリームキャスト・コントローラ ハード・周辺機器情報 ドリームキャスト 家庭用ゲーム セガ 製品情報 |publisher=[[セガ]] |accessdate=2015-02-23 |deadlinkdate=23-3-27}}</ref>。方向キーは[[任天堂]]が[[実用新案権]]を取得し、任天堂のゲーム機に搭載している「十字キー」と外観が酷似しているが、任天堂の実用新案権は形状によるものではなく内部構造についてのものであり、当コントローラは内部構造が異なっているため、任天堂の実用新案には抵触しない。ちなみに、任天堂の十字キーにおける実用新案権自体も本機発売の4年前にあたる[[1994年]](平成6年)に消滅している。 なお、初期型はトリガーの支点部に[[スリット]]が入っていて耐久力が低く、破損による故障が多発した。そのため、トリガーにスリットが無く方向キーを少し高めにセットした後期型が生産され、セガのカスタマーサポートは修理に出された初期型を不良品として後期型に無償交換していた。 また、本体にはリセットボタンが搭載されていないため、ゲームの強制リセットはXYAB同時押し+スタートボタンで行う。 ==== 拡張スロット ==== 拡張スロットには液晶表示付[[メモリーカード]]「[[ビジュアルメモリ]]」、振動パック「ぷるぷるぱっく」、音声[[入力機器]]「マイクデバイス」、デジタルカメラ「ドリームアイ」などが装着できる。 これらの組み合わせで、ビジュアルメモリの液晶画面にキャラクターを表示させながら、ぷるぷるぱっくで振動させるなどの表現ができた。反面、接続された各種デバイスによるコントローラ経由の[[消費電力]]が増えた。 当初は画面に向かってダイレクトに座標指示するライトガンの機能を追加する「ポインティングデバイス」、コントローラ自体の動きを検出して操作を行う「Gセンサーデバイス」{{Efn|後に登場することとなる[[Wiiリモコン]]、[[PlayStation 3|PS3]]の[[SIXAXIS]]相当の機能をつけるオプション品}}も企画されていたが、発売はされていない。ケーブルが後ろ側から出ているのには、そのときに操作しやすいように、という意図もあった。 === インターネット === ==== モデム ==== [[インターネット]]通信用のアナログ[[モデム]]を標準搭載する。最高通信速度は日本国内向け純正品の場合33.6Kbpsで、本体からの着脱が可能だった。[[2000年]](平成12年)7月に[[100BASE-T]](ソフト側では[[10BASE-T]]としか使われなかった)[[Local Area Network|LAN]]アダプタ・「ブロードバンドアダプタ」が通販専売品ながら発売された。なお、モデムを標準搭載した家庭用ゲーム機は[[1996年]](平成8年)3月に[[バンダイ]]から発売された[[ピピンアットマーク]]に次いで本製品が2番目である。 インターネットモデムにより本格的な[[インターネット]][[オンラインゲーム|対戦ゲーム]]が楽しめるほか、[[ACCESS (企業)|アクセス]]の[[NetFront]]をベースとした[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]「ドリームパスポート」を本体に同梱したことでWebサイトの閲覧も可能で、次世代の[[マルチメディア]]機として優秀な性能を備えていた。開発当初はインターネットモデムの搭載には慎重的であった<ref name="story" />。 インターネット接続にあたっては、本体のモデムに[[固定電話]]回線を接続した[[電話線|モジュラーケーブル]]を接続し、「ドリームパスポート」やオンライン通信対応のタイトルソフトを使用し、[[アクセスポイント (ISP)|アクセスポイント]]へ[[ダイヤルアップ]]接続することでアクセスできる。 任天堂の[[ランドネット]]と異なり、既にPCでのインターネット接続用に他のISPを契約していた場合は、その接続アカウントとアクセスポイント番号(接続情報)をドリームパスポートを通じて本体に登録することにより、Webサイトのブラウジングやソフト毎に用意されたオンラインサービスの利用が可能であった。isao.net(旧 : セガプロバイダ)が提供するオンラインサービスの利用にあたっては、会員登録によるアカウントの取得と本体への接続情報登録が必要であるが、既存のISPを使用してのインターネット接続であればisao.netの接続料金は発生しなかった。 ==== プロバイダ ==== {{Anchors|isao.net}} ドリームキャスト専用に用意された[[インターネットサービスプロバイダー|ISP]]である「セガプロバイダ」が[[2000年]](平成12年)5月までプロバイダ料金が無料で提供された<ref name="story" />。セガプロバイダは、回線を[[ぷらら]](設立時にセガが出資)や[[Highway Internet]]([[USEN]]の買収により同社のISP部門)から借りていた。当初は[[アクセスポイント (ISP)|アクセスポイント]]が大都市圏や県庁所在地などにしかなかったため、その他地域では遠方のアクセスポイントへ接続しなければならず、[[市外電話]]料金が高額になることも多かったが、その後アクセスポイントは各地方都市へも拡充されたため、この問題は解消されていった。 セガプロバイダは[[2000年]](平成12年)6月に[[CSK (企業)|CSK]]とセガの共同出資で1999年に設立した株式会社[[いさお|ISAO]]へ承継・譲渡し、サービスが「'''[[isao.net]]'''」に変更した(同社創業者である[[大川功]]にちなんだものとされる)。プロバイダ料金を接続時間に応じた完全従量制と月額定額制にすると共に、PCユーザーにも開放し、ISPとして[[ISDN]]および[[ADSL]]などの[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]接続サービスを開始。1アカウントでDCとPCを共用することが可能であった。 isao.netはセガによるドリームキャストの展開終了後も独自にDCユーザー向けの接続サービスとコンテンツ(プロバイダ内の[[電子メール]]など)の提供を継続すると共に、ポータルサイトにおいてもゲーム情報の掲載や[[電子掲示板]]の提供などを通じてゲーマーに適したISPとして運営してきたが、[[2008年]](平成20年)9月に[[フリービット]]傘下の[[ドリーム・トレイン・インターネット|DTI]]へ事業譲渡し、[[2009年]](平成21年)にプロバイダもDTIに統合され消滅した(この時点で接続サービスを契約していたアカウントは解約の申し出を行わなかった場合はDTIへ入会扱い)。 終了に伴い、ドリームパスポートのセガプロバイダ / isao.netの接続情報復旧(isao.netのサーバーに接続し、アカウント情報を本体に登録する)が終了したため、isao.netへの接続は出来なくなり、ソフトによってはオンライン対戦などの際にユーザー識別のため必要となる旧セガプロバイダの接続情報(アカウント)の本体への登録が出来なくなっている。しかしそれ以前にオンライン対戦などネットワークサービスがほぼ打ち切られているため影響は軽微となっている。なお、他のISPで[[ダイヤルアップ接続]]か[[ブロードバンドルーター]]等を介してインターネット接続し、一般のWebサイト閲覧することは従来通り可能である。 元の運営会社であるISAOはISP事業と並行してセガ関係のモバイルコンテンツ製作と[[オンラインゲーム]]運営関係のソフトウェアベンダーとして事業を行っており、[[2010年]](平成22年)に[[豊田通商]]の完全子会社として株式会社ISAO(2代目)が新たに設立され<ref name="maonline">{{Cite web|和書|url=https://maonline.jp/news/20100209d |title=CSKホールディングス<9737>、ネットワークサービス会社のISAOの全事業を豊田通商<8015>に譲渡 |website=M&A Online |publisher=株式会社ストライク |date=2010-02-09 |accessdate=2023-02-12}}</ref><ref name="scsk">{{Cite web|和書|url=https://www.scsk.jp/ir/information/pdf/scs/soukai_sanko_2011.pdf |type=PDF |title=株式総会参考書類 第1号議案別冊 |page=11 |publisher=住商情報システム株式会社|date=2010-02-09 |accessdate=2023-02-12}}<!--ページ数は本文フッターに書かれてあるものを記載--></ref>、事業を行っていたが、2019年10月1日に豊田通商から独立<ref name="toyota-tsusho">{{Cite web|和書|url=https://www.toyota-tsusho.com/press/detail/191001_004479.html |title=連結子会社の株式譲渡に関するお知らせ |publisher=豊田通商株式会社 |date=2019-10-01 |accessdate=2023-02-12}}</ref><ref name="colorkrew">{{Cite web|和書|url=https://www.colorkrew.com/media/news/2020050101/ |title=吸収合併および商号変更に関するお知らせ|publisher=株式会社Colorkrew |date=2020-05-01 |accessdate=2023-02-12}}</ref>。2020年6月1日に株式会社Colorkrewに事業継承・吸収合併され解散した<ref name="colorkrew"/><ref name="nta-isao">{{Cite web|和書|url=https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=5010501045513 |title=株式会社ISAOの情報 |website=国税庁法人番号公表サイト |publisher=国税庁 |date=2020-06-08 |accessdate=2023-02-12}}</ref><ref name="nta-colorkrew">{{Cite web|和書|url=https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=5010501045513 |title=株式会社Colorkrewの情報 |website=国税庁法人番号公表サイト |publisher=国税庁 |date=2022-08-25 |accessdate=2023-02-12}}</ref>。 ==== 接続ソフト ==== ===== ドリームパスポート ===== [[ブラウザ]]の役目をする接続ソフトであり、本体にバンドルされている。バージョンアップごとにセガプロバイダおよびisao.netの登録ユーザに無料配布され、最終的に[[2001年]](平成13年)6月リリースの「'''ドリームパスポートプレミヤ'''(''Dream Passport PREMIERE'' 英略 : DPP)」となった。また、Hello Kitty ドリームキャストセットに附属の「ドリームパスポート2 『[[ハローキティ]]』Ver.」や、ドリームパスポート3をベースにした市販品「『[[デ・ジ・キャラット|でじこ]]』のまいブラ」などの各種キャラクターを用いたアレンジ版も作られている。 ドリームパスポート3とDPPには、ドリームキャスト上で[[メガドライブ]]と[[PCエンジン]]のゲームをダウンロード配信する「[[ドリームライブラリ]](2003年終了)」と、専用マイクやドリームアイを介して[[インターネット電話]](固定電話含む)が可能な「'''DreamCall'''(DPPのみ、[[2003年]]〈平成15年〉[[1月14日]]終了)」を利用するための専用アプリケーションがバンドルされている。いずれも仮想通貨である「ドリム」を使用するものであった。 なお、前述のブロードバンドアダプタには専用の「ブロードバンドパスポート(''Broadband Passport'')」が附属し、ブロードバンド接続では当時のドリームパスポート2の代わりにこれを使用する必要があったが、ドリームパスポートプレミヤではブロードバンド接続にも対応している。これによって、ブロードバンドアダプタを装着していながら接続情報復旧のためにのみモデムに付け替えてドリームパスポートを使用しなければならない、といった手間から解放された。なお、DPP以前のドリームパスポートは[[Secure Sockets Layer|SSL]]のアップデートに対応していないため、現在はSSLでの接続が必要なサイトは閲覧不可能である。 ===== NEWEB ===== [[1999年]](平成11年)[[2月15日]]から、[[トヨタ自動車]]がセガ及び[[CSK (企業)|CSK]]と提携のうえで、同社の系列販売店で発売したドリームキャストの附属CD-ROMは、トヨタ関連サイトへのリンク集や[[ケイディディ|KDD]](後の[[KDDI]])の運営する{{Efn|KDDは前年の1998年12月、トヨタが出資する[[日本高速通信]]と合併している。}}[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]「[[Au one net|NEWEB]]」への優先接続など、通常と異なる内容になっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0128/toyota.htm|title=トヨタがセガと提携 系列販売店でドリームキャストを販売|publisher=[[インプレス]] INTERNET Watch|date=1999-01-28|accessdate=2014-11-07}}</ref>。 ===== マイクロソフト ウェブティービー接続キット ===== セガプロバイダやドリームパスポートとは別に、1999年前半に[[マイクロソフト]]とウェブティービーネットワークスによって開発された[[WebTV]]をベースにしたインターネット閲覧ソフト「マイクロソフト ウェブティービー接続キット」が希望者のみに配布された。「ドリームパスポート」との互換性はないが、1999年12月頃にドリームパスポートよりも早く接続キットのブラウザがSSL128bit対応にアップグレードされ、[[東京三菱銀行]](当時)の[[インターネットバンキング]]である「東京三菱ダイレクト(後の三菱東京UFJダイレクト)」のWeb TV版に正式対応していた<ref>{{Cite web|和書|title=ウェブ・ティービー・ネットワークス、東京三菱銀行と新サービスを開始、家庭のテレビでインターネットバンキング |url=https://ascii.jp/elem/000/000/316/316249/ |website=ASCII.jp |access-date=2023-03-27 |language=ja |last=ASCII}}</ref>。 === メニュー画面 === ; 言語設定 : ドリームキャストの本体の言語を、日本語・英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語に言語を変更することが可能。 ; 言語表示表 : {|class=wikitable style="font-size:smaller" !日本・北米・欧州発売版 |- |日本語 |- |English |- |Deutsch |- |Français |- |Español |- |Italiano |} === 仕様 === <gallery> ファイル:SH7091 01.jpg|Dreamcast用SH-4 HD6417091 ファイル:PowerVR2DC 01.jpg|Dreamcast用PowerVR2 315-6226(他の形番のものもある) ファイル:NAOMI Yamaha AICA Super Intelligent Sound Processor.jpg|Dreamcast用サウンドプロセッサ 315-6119(他の形番のものもある) </gallery> * [[CPU]] : [[SuperH|SH-4]](200MHz/360MIPS) ** [[浮動小数点演算能力]] : 1.4GFLOPS * [[Random Access Memory|RAM]] : 16MB * [[VRAM]] : 8MB ** グラフィックスエンジン : PowerVR2 * ポリゴン描画能力 : ** 300万ポリゴン/s * 同時表示色数 : 1677万色同時表示(24bit) ** [[バンプマッピング]](法線マッピング) ** [[フォグ]] ** [[アルファブレンディング]] ** [[アンチエイリアシング]] ** [[トライリニアフィルタリング]] ** [[環境マッピング]] ** 反射光エフェクト ** [[Zバッファ]] ** [[シェーディング|フラットシェーディング]]/[[グーローシェーディング]] * サウンドRAM : 2MB ** サウンドエンジン : [[ヤマハ|YAMAHA]] スーパー・インテリジェント・サウンド・プロセッサ、32bit [[RISC]] CPU([[ARMアーキテクチャ|ARM7]] AICA 45 MHz)内蔵 ** サウンド機能 : [[ADPCM]] 64ch * ジョイパッド接続端子4個、パッド1個付属 * GD-ROMドライブ 1基(最大12倍速) * モデム : V.34(33600bps)、V.42 MNP5までフルサポート(ブロードバンドアダプタなどへの付け替えが可能な[[リムーバブル]]方式) * [[オペレーティングシステム|OS]] : [[Windows CE]](カスタムバージョン) - 内蔵システムソフトおよび対応ソフトで使用。ソフトがWindows CEを利用するかどうかはデベロッパー次第であり、利用ソフトの場合、SEGAと表示される起動画面の右下に「'''Powered by Microsoft Windows CE'''」ロゴが表示される。 * シリアル端子 1個(対戦ケーブル・[[ネオジオポケット]]等の接続に使用。また自己責任ではあるがコネクタ自身やケーブルを改造することによりPCとも接続可能) * 寸法:幅190[[ミリメートル|mm]]×奥行き195.8mm×高さ75.5mm * 重量:1.5[[キログラム|kg]] == 本体 == {{節スタブ}} [[PSE問題]]の影響により中古品市場での本体の入手はかなり困難となることも懸念されたが、[[2006年]][[4月]]以降も中古店でPSEマークつきで販売されている。セガによる本体ならびに本体付属周辺部品の有償修理は、佐倉事業所CSサービスセンター並びに関西支店CSサービスセンターで受け付けていたが、[[2002年]][[11月1日]]を以て関西支店CSサービスセンターは佐倉事業所CSサービスセンターに統合され<ref>[http://sega.jp/topics/021001_1/ 関西支店CSサービスセンター 整理統合のご案内] {{リンク切れ|date=2016年4月}}</ref>、[[2007年]][[9月28日]]佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分を以て終了した<ref>{{Cite web|和書|title=本日をもって「セガサターン」と「ドリームキャスト」の有償修理が終了 |url=https://gigazine.net/news/20070928_saturn_dreamcast/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-03-27 |language=ja}}</ref>。 ; ドリームキャストダイレクト専売カスタムドリームキャスト : MIL-CD非対応。2002年4月発売。 === カラーバリエーション === ; ドリームキャストダイレクト専売スーパーブラックモデル : 2000年8月発売。 ; ドリームキャストダイレクト専売カラーモデル : 2001年3月発売。シルバーメタリック、パールブルー、パールピンクの3色を発売。MIL-CD非対応。1万4000円。 ; ドリームキャストR7 : 2001年9月6日発売。パチンコ店向けの端末として販売されていたものと同じ外観のモデル。黒地にR-7([[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]における7号営業を表すRegulation 7の略)と書かれている<ref>{{Cite web|和書| |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010703/sega.htm |title=セガ、ブラックボディの「ドリームキャストR7」を9月6日に発売 |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2001-07-03 |accessdate=2023-3-27}}</ref>。 === 限定品 === ; トヨタ系列店専売モデル : 1999年2月発売。 ; シーマンモデル : 『[[シーマン]]』のロゴが入ったスケルトンモデル。シーマンのソフト、マイクデバイス、[[サウンドトラック]]CDなどを同梱。500台限定。1999年7月発売。 ; [[マジョーラ]]カラーモデル : 『MAZIORA』のロゴが入った限定版。[[平忠彦]]プロデュース。塗色にアンドロメダを使用し、見る角度や光の当たり方で色が変化する。本体、コントローラーに加え、ストラップを同梱。500台限定。1999年8月発売。 ; Hello Kitty ドリームキャストセット : 『[[ハローキティ]]』のロゴが入ったスケルトンモデル。色はスケルトンピンクとスケルトンブルーの2種類。本体、コントローラーに加えて同色のビジュアルメモリ、キーボードを同梱するほか、「ハローキティのインターネットソフト」が付属する。1999年11月発売。 ; モデル;シーマン クリスマスパッケージ : 『[[シーマン]]』のロゴが入った[[クリスマス]]仕様の限定版。色はミレニアム・レッド。特別仕様ビジュアルメモリ、シーマンのソフト、プレミアム音楽CDを同梱。850台限定、[[HMV]]のみで販売された。1999年12月発売。 ; [[バイオハザード CODE:Veronica]] リミテッドボックス : レッドスケルトン(クレアバージョン)、ブルースケルトン(S.T.A.R.S.バージョン)の2種類で、それぞれ1800台、200台限定。特別仕様ビジュアルメモリ、ベロニカ初回限定版ソフト同梱。2000年2月発売。 ; サクラ大戦 Dreamcast for Internet : 『[[サクラ大戦シリーズ]]』のタイアップモデル。本体一式とビジュアルメモリを[[桜色]]のカラー塗装とし、『[[サクラ大戦]]』『[[サクラ大戦2 〜君、死にたもうことなかれ〜|サクラ大戦2]]』『サクラ大戦キネマトロン』『サクラ大戦ドリームパスポート3』の4ソフト、初回限定版には更に『[[サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜|サクラ大戦3]]』のプロモーションディスクを同梱した。MIL-CD非対応。2000年12月発売。 ; セガカラ@ホーム : カラオケ用周辺機器「ドリームキャスト・カラオケ」を装着したモデル。MIL-CD非対応。2001年3月発売。 === 互換機 === ==== CX-1{{Efn|CX-1の"CX"はフジテレビの[[コールサイン]]JOCX-DTVから来ている}} ==== 2000年5月に[[フジテレビジョン]]が企画・発売、株式会社[[スマートエックス]]が開発したドリームキャストと互換性のある一体型テレビである{{Efn|CX-1以前にも[[ファミコンテレビC1]]や[[SF-1]]などゲーム機内蔵テレビが発売された。}}。日立マクセルのオンラインショッピングサイト上や一部の店舗で限定販売された。“1970年代から見た2000年のテレビ”というコンセプトで、[[レトロフューチャー]]なデザインに仕上がっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000322/cx1.htm |title=ドリームキャストのゲームも遊べる個性的なデザインが特徴のテレビ「CX-1」 |website=PC Watch |publisher=インプレス |date=2000-03-22 |accessdate=2023-2-27}}</ref>。 本機上にはドリームキャストのシンボルマークは一切使われず、CX-1オリジナルのシンボルマークに差し替えられている。内蔵ソフトも独自のGUIとなっている。スケルトンのコントローラ・ビジュアルメモリ・キーボードおよびビジュアルアイとテレビ機能を操作するリモコンが付属している。ドリームキャストと異なり、アナログモデムとMIDIインターフェイス([[#周辺機器#セガ純正|MIDIインターフェイスケーブル]]相当)が内蔵されており、着脱することは不可となっている。また、エクステンションポートを構造上備えていないため、ブロードバンドアダプタやドリームキャスト・カラオケの接続も非対応である。 セガ側は対外的にはPRしなかったが、ドリームポイントバンク登録者向けのダイレクトメールでドリームアイと合わせて紹介していた{{要出典|date=2022年1月}}。 === 海外版 === ==== 欧州(PAL)版 ==== [[File:Dreamcast logo PAL.svg|thumb|200px|PAL版のロゴ]] [[File:Sega-dreamcast-set.png|thumb|300px|PAL版のドリームキャスト]] == 周辺機器 == <gallery> ファイル:Sega-Dreamcast-Controller-FL.jpg|コントローラ ファイル:Sega-Dreamcast-Broadband-Adapter-FL.png|ブロードバンドアダプタ(HIT-0400) ファイル:Sega-Dreamcast-Mouse-BR.png|ドリームキャスト・マウス(HKT-4200) ファイル:Sega-Dreamcast-Modem-Dialup-FL.png|モデムアダプタ(HKT-7100) ファイル:Sega-Dreamcast-Arcade-Stick.png|アーケードスティック(HKT-7300) ファイル:Dreamcast Twin Stick.png|ツインスティック(HKT-7500) ファイル:Sega-Dreamcast-Keyboard.png|ドリームキャスト・キーボード(HKT-7600) ファイル:Sega-Dreamcast-Lightgun-FL.png|ドリームキャスト・ガン(HKT-7800) ファイル:Dreamcast-Jump-Pack.png|ぷるぷるぱっく(HKT-8600) </gallery> === セガ純正 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !width=9%|型番 !width=25%|名称 !備考 |- |HIT-0300 |LANアダプタ | |- |HIT-0400 |[[#ブロードバンドアダプタ|ブロードバンドアダプタ]]<ref name="Devices">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/dreamcast/devices.html |title=関連・周辺機器 ドリームキャスト |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2023-3-27}}</ref> | |- |HKT-2000 |インターネットスターターキット{{R|Devices}} |キーボード・マウス・マウスパッドのセット。 |- |HKT-4000 |ドリームキャスト・キーボード{{R|Devices}} |HKT-7600を小型化。 |- |HKT-4100 |メモリーカード4X{{R|Devices}} | ビジュアルメモリの4倍の記憶容量を持つ、大容量メモリーカード。保存可能なバンク(領域)は4つある。記憶容量は1Mbit(128KB)200ブロック×4バンクで計4Mbit(512KB)800ブロック。ビジュアルメモリ専用ゲームには使えない。 |- |HKT-4200 |ドリームキャスト・マウス{{R|Devices}} |ボール式3ボタン[[マウス (コンピュータ)|マウス]]。 |- |HKT-4300 |[[#ドリームキャスト・カラオケ|ドリームキャスト・カラオケ]]{{R|Devices}} | |- |HKT-4350 |カラオケマイク | |- |HKT-7000 |[[ビジュアルメモリ]] |ゲームデータの保存に使用。 |- |HKT-7100 |モデムアダプタ | |- |HKT-7200 |マイクデバイス{{R|Devices}} |『[[シーマン]]』などの音声認識を必要とするゲームや、[[インターネット電話]]「DreamCall」の利用に必要であった。 |- |HKT-7300 |アーケードスティック{{R|Devices}} | |- |HKT-7400 |レーシングコントローラ{{R|Devices}} | |- |HKT-7500 |ツインスティック{{R|Devices}} |『[[電脳戦機バーチャロン]]』専用のツインスティック。 |- |HKT-7600 |ドリームキャスト・キーボード{{R|Devices}} | |- |HKT-7700<br />HKT-7701 |ドリームキャスト・コントローラ{{R|Devices}} |本体に一つ同梱。 |- |HKT-7800<br />HKT-7801 |ドリームキャスト・ガン{{R|Devices}} | |- |HKT-7900 |ステレオAVケーブル |ドリームキャストの映像と音声をテレビに出力する[[AV端子]]ケーブル。本体に一つ同梱。 |- |HKT-8000 |S端子ケーブル |ドリームキャストの映像と音声をテレビに出力するケーブル。S端子付きのテレビで利用できる。 |- |HKT-8100 |[[#ハードウェア|VGAボックス]]{{R|Devices}} |非対応ソフトあり |- |HKT-8200 |モジュラー延長ケーブル | |- |HKT-8300 |音声接続ケーブル |市販のオーディオ用変換ケーブルと同等の商品。 |- |HKT-8500 |モジュラーケーブル |市販のモジュラーケーブルと同等の商品。 |- |HKT-8600 |ぷるぷるぱっく{{R|Devices}} |ドリームキャストで振動機能を使うための商品。 |- |HKT-8700<br/ >HKT-8701 |つりコントローラ{{R|Devices}} | |- |HKT-8820 |RFアダプタ |[[RF接続]]用のケーブル。米国向けモデル |- |HKT-8830 |RFアダプタ |上記RFアダプタHKT-8820のヨーロッパ向けモデル |- |HKT-9200 |MIDIインターフェイスケーブル |[[MIDIコントローラー]]であり、[[MIDI]]デバイスと接続できる。対応ソフトは1999年12月に発売されたワカ製作所の『[[お・と・い・れ ドリームキャストシーケンサー]]』のみ。 |- |HKT-9400<br />HKT-9401 |[[#ドリームアイ|ドリームアイ]]{{R|Devices}} |専用デジタルカメラ{{Efn|2000年代後半で言う所の[[Webカメラ]]機能を備えた[[トイデジカメ]]形態に近い。}}。2000年9月14日発売。 |- |HKT-9500 |対戦ケーブル{{R|Devices}} |のちに中古価格高騰に対応するため、非純正の互換品が販売された<ref>[https://www.retrorgb.com/dreamcast-link-cable-pre-order.html Dreamcast Link Cable Pre-Order] - RetroRGB</ref>。 |- |HKT-9700 |ドリームキャスト・マラカスコントローラ{{R|Devices}} |『[[サンバ・DE・アミーゴ]]シリーズ』専用。 |- |HKT-9900 |ドリームキャスト・マウス{{R|Devices}} |ボール式3ボタン[[マウス (コンピュータ)|マウス]]。小型マウス。 |- |} ==== ブロードバンドアダプタ ==== ドリームキャストの販売当時、一般向けインターネットと言えば[[ダイアルアップ]]の時代であり、ISDNやADSLなどのデジタル通信、常時接続は一部企業やインフラに採用されるに留まっていた。しかし[[1999年]]に入るとNTT東西による一般家庭向けのISDNによる常時接続サービスが開始<ref>{{Cite web|和書|title=日本のインターネット歴史年表 1999年(平成11年) |url=https://i.impressrd.jp/e20070824117 |website=IMPRESS INNOVATION LAB |access-date=2023-03-27 |language=ja |last=編集部}}</ref>され、また8月にはADSLが試験的ながらも商用サービスを開始されるなど、インターネットの常時接続が急速に普及していった。それに伴いモデムと入れ替える形で接続するLAN接続対応のドリームキャスト用のブロードバンドアダプタ(10Mbps)が2000年7月15日に発売された。 ドリームキャスト本体の製造が終了した後も製造/販売が続けられたが、対応ソフト登場の遅れから流通量は少ないまま、2002年4月の受注を最後に製造が打ち切られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020424/bba.htm |title=CSI、DC「ブロードバンドアダプタ」の製造を終了今月中の受注状況により最終製造数を決定 |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2002-04-24 |accessdate=2023-3-27}}</ref>。 ==== ドリームキャスト・カラオケ ==== [[セガ・ミュージック・ネットワークス]](2007年にセガが[[BMB]]へ株式売却後、2010年[[エクシング]]がBMBを吸収合併)の業務用[[通信カラオケ]]・[[セガカラ]](Prologue 21シリーズ)のインフラを転用し、家庭用通信カラオケとして利用できる周辺機器である。ドリームキャスト・カラオケ本体はマイクミキサーの役割をし、カラオケ機能そのものは同梱ソフトの「セガカラ@ドリームキャスト」でソフトウェア処理する(ソフト単体では起動しない)。商品として「ドリームキャスト・カラオケ」単体版とDC本体をセットにした「セガカラ@ホーム」がある。 [[管理楽曲]]の演奏不可・MIDI音源が脆弱という弱点はあるが、新譜もPrologue 21とほぼ同じタイミングで配信され、[[タイトー]]の[[X-55]]よりもコストが廉価(ドリームキャスト・カラオケの本体希望小売価格9800円、利用料金は1日500ドリム、30日間2000ドリム)であった。発売時期が事業撤退表明後の2001年3月29日であったが、5年後の2006年3月29日までサービス提供が継続された。ブロードバンドアダプタ対応。 ==== ドリームアイ ==== 本体をコントローラー端子に接続し、付属ソフト「ビジュアルパーク」を使用することで、本体に記録した写真データをフォトレタッチして電子メールとして送信したり、付属のヘッドセットを拡張スロットに接続すれば、同じ機器環境をもった相手方とコマ送りの簡易動画ながら[[テレビ電話]]をインターネット経由(まちあわせ通信)もしくはモデムの[[回線交換]]接続(P2P)で行うことができる。希望小売価格が1万4400円とDC本体に迫る高価格であったためか余り普及しなかった。2003年1月にまちあわせ通信によるテレビ電話接続が終了している(相手方の一般加入電話回線に接続したビジュアルパークを呼び出す回線交換接続方式であれば現役で利用可能)。 === 他社発売(ライセンス商品) === <gallery> ファイル:Dreamcast NeoGeoPocketLinkAdapter.jpg|ネオジオポケット接続ケーブル </gallery> {| class="wikitable" style="font-size:smaller" ! style="width:8em" | 型番 !! width=20%|名称 !! width=9%|発売元 !! 備考 |- |ASC-1301P |'''アスキーパッドFT''' |rowspan="3"|[[アスキー (企業)|アスキー]] | |- |ASC-1302S |'''アスキースティックFT''' | |- |ASC-1305 |'''アスキーミッションスティック''' |[[エアロダンシング]]シリーズ専用。 |- |RU-015 |'''[[pop'n music]] 専用コントローラ''' |rowspan="2"|[[コナミグループ|コナミ]] | |- |RU-022 |'''[[Dance Dance Revolution]] 専用コントローラ''' | |- |TCPP-20004 |'''[[電車でGO!]]コントローラ''' |[[タイトー]] | |- |NEOP22020 |'''[[ネオジオポケット]]接続ケーブル''' |[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]] |ネオジオポケット([[ネオジオポケットカラー]]、Newネオジオポケットカラーを含む)とドリームキャストの対応ゲーム間で通信する際に使う。ネオジオポケットの周辺機器に分類される。 |- |} == ソフトウェア == {{Main|ドリームキャストのゲームタイトル一覧}} [[キラーソフト]]として本体と同時期に投入予定だった自社の看板タイトル『[[バーチャファイター3|バーチャファイター3tb]]』を除き、[[ローンチタイトル]]の多くが発売延期となった。 『[[セガラリー2#ドリームキャスト版|セガラリー2]]』、前機の[[セガサターン]]では発売しなかったセガの看板タイトル『[[ソニックシリーズ]]』の新作『[[ソニックアドベンチャー]]』を本体発売から1か月後に発売させた。しかしハードとソフトの供給の遅れが年末商戦を挟んだ市場形成期の成長に急ブレーキをかけ、その最中に『[[大乱闘スマッシュブラザーズ]]』『[[ファイナルファンタジーVIII]]』など他ハードでのメガヒットタイトルが発売された事で[[ライトユーザー]]の購買意欲が消極化した。 1999年下期は『[[シーマン]]』・『[[Jリーグプロサッカークラブをつくろう!]]』・『[[ソウルキャリバー]]』・『[[バイオハザード2|バイオハザード CODE:Veronica]]』など売上本数30万本越えの単発的なヒットはあったものの、ソフト不足に悩まされる状況は変わらず、ハードの売り上げを牽引するキラーソフトの供給が続かなかった。本体の発売当初からその内容が注目を浴びていた『[[シェンムー]]』『[[Dの食卓2]]』が度重なる延期により1999年12月発売となったことが[[ライトユーザー]]の関心を失わせた格好となりヒットには至らず、既に確固たる利用者層を積み上げていたPlayStationと2000年[[3月4日]]に発売された後継機[[PlayStation 2]]の前に再び苦戦を強いられたと同時に、高額の資金を投じた開発費・広告費、値下げの影響で開発コストの回収難に陥ってしまう<ref name="story" />。 2000年は一部タイトルで、[[TSUTAYA]]と提携し東京都内の一部店舗での[[ゲームレンタル]]開始や、1 - 2000円前後の廉価で機能限定版(体験版に近い)を販売し、ドリムを用いて[[アクティベーション]]の権利を購入(VMに課金データをダウンロード)することで通常版と同等にプレイできる[[シェアウェア]]型の「@barai(アットバライ)」というシステムをISAOと共同開発し数タイトル発売し、「@barai」のゲームソフトをゲーム雑誌に付録として提供するなどの試みも行った。『[[ROOMMANIA#203]]』、『[[サクラ大戦シリーズ|サクラ大戦1・2]]』、『[[ファンタシースターオンライン]]』などセガオリジナルタイトルを中心としてソフトのリリース数は最多となったが、前期に存在した30万本超えのタイトルは1つも無かった。 2001年3月29日、セガを取り巻く情勢を自虐的な[[パロディ]]として反映させた[[シミュレーションRPG]]『[[セガガガ]]』が発売され、これらは1998年の本体発売前の広告内容から続く一連の衝撃的な話題として報道番組や新聞で報道された。なお、同月に発売された『[[サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜]]』(約34万枚)および翌2002年3月発売の『[[サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜]]』(約25万枚)がその年の最多売上タイトルとなった。 本体や周辺機器の製造が終了してからも[[2005年]]頃までは[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛ゲーム]]中心にリリースが続き、恋愛ゲームが発売されなくなった後も、NAOMI基板で出たアーケード用[[シューティングゲーム]]の移植を中心に年2本程度のペースで新規ソフトが発売されており、新規タイトルが発表になるたびに「ドリームキャスト最後のソフト登場」と話題となる。2007年3月8日にライセンス品として最後のソフトとなる『[[カラス (ゲーム)|カラス]]』が発売された。 当時業務用基板「[[NAOMI]]」の責任者を務め、後にセガの社長へ就任する[[杉野行雄]]は2020年に「家庭用ゲームハード撤退後もリクエストに応えるような形でタイトルを開発するのではなく、もっと長期的な視野に立ってラインアップを整えるべきだった」と述懐した<ref>{{Cite web|和書|title=セガ60周年スペシャルインタビュー。セガ代表取締役社長COO・杉野氏が60年間を支えたセガの強みや、100年の企業を目指すための課題を語る {{!}} ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com |url=https://www.famitsu.com/news/202006/27200839.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-03-27 |language=ja}}</ref>。 正規ライセンス品ソフトの発売が途絶えた後も非正規ライセンス品のソフトが主に海外で制作されている。 === インターネット接続対応ソフト === オンライン接続対応のゲームソフトにはドリームパスポートの一部機能が制限されたバージョンが本編ディスクあるいは添付の専用ディスクに組み込まれており、ドリームパスポートに入れ替えることなくソフトの公式ホームページを閲覧したり、公開されている専用のセーブデータをダウンロードできるようになっているものもあった。 * [[オンラインゲーム|オンライン通信対戦]]に対応したタイトル ** [[ファンタシースターオンライン]]シリーズ ** [[電脳戦機バーチャロン|電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム]] ** [[あつまれ!ぐるぐる温泉]] ** [[セガラリー2#ドリームキャスト版|セガラリー2]] * 公式サイト等の閲覧(機能限定版のドリームパスポート)機能を備えたタイトル ** [[ソニックアドベンチャー]](Part1通常版、インターナショナル版) ** [[シェンムー]] * コンテンツ(特典)のダウンロード機能を備えたタイトル ** [[サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜]] ほか多数 * ゲーム関係以外の[[インタラクティブ]]機能を備えたタイトル ** [[#マイクロソフト ウェブティービー接続キット]] ** JRA PAT for Dreamcast - 競馬の[[PAT]]([[電話投票]])システム ** 『[[デ・ジ・キャラット|でじこ]]』のまいブラ ** ドリームフライヤー(Dream Flier)- セガによる[[HTML電子メール]]の作成・送受信ソフト。ソニックなどの内蔵テンプレートから便箋状の電子メール(いわゆるデコレーションメール)によるコミュニケーションが楽しめる。1999年12月9日発売。 ** クリスマス[[シーマン]] 〜想いを伝えるもうひとつの方法〜 - 1999年12月16日から25日の超期間限定発売された[[メッセンジャーソフト]]。 ** ビジュアルパーク(Visualpark)- [[#周辺機器|ドリームアイ]]のバンドルソフトで、ドリームアイで撮影した画像の取り込み・フォトレタッチや、添付メール作成、簡易[[テレビ電話]]が可能。 ** [[#セガカラ for ドリームキャスト]] ==== @barai ==== ドリームキャストのソフトには通常版とは別に@barai版が存在する。通常より安く販売されたものと雑誌の付録があった。ある程度まで遊ぶと先に進めたくなるが、追加料金を払い、インターネットからメモリーカードにデータをダウンロードして制限を解除すると最後まで遊べる。このシステムが採用されたのは『[[エターナルアルカディア]]』と『[[ハンドレッドソード]]』の2作だけで、[[2002年]][[3月31日]]にサービスは終了した。 ==== MIL-CD対応ソフト ==== *[[北へ。]] White Illumination PURE SONGS and PICTURES(1999年6月25日) *[[Deeps|dps]]「HEARTBREAK DIARY」(1999年7月22日) *[[チェキッ娘]]「チェキッ娘の見るCD」(1999年8月4日) *[[Dの食卓2]] オリジナルサウンドトラック+MILCD<!--実際の商品FSCA-10113の表記にそろえ、ここはハイフンなしのMILCD-->(1999年12月17日) === 内蔵ソフト === 本体の起動時のデモンストレーションは涼しげな音色にあわせてオレンジ色の玉が画面を跳ね回り、最後に渦を巻いて「Dreamcast」と表示され、ゲームソフトか内蔵のシステムソフトが起動する。この起動音は[[坂本龍一]]が作曲したもので、その音声はアルバム『[[CM/TV]]』に収録されている{{Efn|この時坂本側に支払ったギャラは1000万円だったと、2017年5月10日開催の佐藤秀樹(元セガ代表取締役社長)のトークライブで語られた。[https://kawag2017.jimdo.com/トークライブのお知らせ/ ゲームビジネスアーカイブ 第1回トークライブ ゲーム機のプラットフォームビジネス~セガのゲーム機の変遷]}}。 内蔵のシステムモードはドリームキャスト本体のCDドライブのドアを開けている状態か、ドリームキャスト用ゲームソフトが挿入されていない時に起動する。システムモードではビジュアルメモリのデータ管理、内蔵時計の管理、[[CDプレーヤー]]がある。CDプレーヤーは画面中央に3DCGのCD(レーベルデザインはオリジナル)が表示され、ドライブの動作に合わせて画面上のCDも動く。ゲームディスクやMIL-CDをセットすると、CD-DA部分(→[[#GD-ROM]])しか再生しないが、一部タイトルでは画面上のCDのデザインがタイトルに関係した[[ピクチャーレーベル]]で表示される。 === 流通 === ドリームキャストは[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]の販売方法を徹底的に模倣。[[卸]]子会社のセガ・ミューズを通じて「[[再販売価格維持]]」、「中古品売買禁止」、「同業者間の在庫転売禁止」の3点を小売店に強制した。当時、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCE]]が採用したこの販売方法は[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)違反で[[公正取引委員会]]と係争中だったが、メーカーの圧倒的支持を受けており、SCEが独占禁止法違反の是非を争っている間にその販売方法を模倣すれば[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]を始めとする有力メーカーの支持を一気に奪えるという計算が働いたからである{{要出典|date=2018年6月}}。 しかし1999年11月にセガに対しても独占禁止法違反容疑が表面化した。事件の処理に困ったあげく2000年8月にはセガ・ミューズの業務を本社に丸投げしてペーパー会社化するという「脱法行為」ギリギリの方法で摘発を逃れて一部から批判を浴びた{{要出典|date=2018年6月}}。 == 生産終了後の展開 == 2007年12月、セガオブアメリカが「Dreamcast」の商標登録の更新を申請した。一部で「後継機が開発されているのでは」と噂されたが、セガオブアメリカは「登録内容に問題があったためであり、コンソールビジネスに戻る予定は無い」と否定した<ref>GameDaily [http://www.gamedaily.com/articles/news/updated-dreamcast-trademark-sparks-dreamcast-2-rumor/18767/ Updated Dreamcast Trademark Sparks 'Dreamcast 2' Rumor] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080108033908/http://www.gamedaily.com/articles/news/updated-dreamcast-trademark-sparks-dreamcast-2-rumor/18767/ |date=2008年1月8日 }}</ref>。 {{Anchors|セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト}}2010年にセガにおいて「セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト」を立ち上げ、ドリームキャストの一部タイトルの[[PlayStation 3]]と[[Xbox 360]]の[[移植|移植版]]を製作し、[[PlayStation Store]]{{Efn|オンライン専売タイトル扱いであり[[ゲームアーカイブス]]とは異なる。}}と[[Xbox Live Arcade]]上で[[ダウンロード販売]]形式で販売・配信が行われている。 復刻(発売)タイトルは以下の通り * [[ソニックアドベンチャー]](2010年9月29日配信) * [[クレイジータクシー]](2010年11月24日配信) * [[ゲットバス]](2011年10月5日配信) * [[スペースチャンネル5#スペースチャンネル5 パート2|スペースチャンネル5 パート2]](2011年10月5日配信) * [[ソニックアドベンチャー2]](2012年10月4日〈PS3版〉、同年10月5日〈360版〉) * [[ジェット セット ラジオ]](2013年2月20日) 2014年には本体の劣化したGD-ROMドライブを取り外し、SDカードを利用できるように改造する試みがされている<ref>{{Cite web|和書|title=50年後もドリキャスを使いたい。SDカードをGD-ROM化する変換基板「GD-EMU」が近く発売 |url=https://www.gdm.or.jp/crew/2014/1218/97461 |website=エルミタージュ秋葉原 |access-date=2023-03-27 |language=ja}}</ref>。 == その他 == === 広告 === ; セガは倒れたままなのか : ドリームキャストの[[パブリック・リレーションズ|PR]]では、[[大川功]]会長が懇意にしていた秋元康を宣伝プロデューサーに招聘。先代の[[せがた三四郎]]人気を引き継ぐ形で、ゲーム機そのものよりも出演者のコミカルな演技などインパクトを前面に押し出した様々な展開が図られた。宣伝広告費はセガとしては空前規模の130億円を投じる事になった。 : まず[[ティーザー広告]]として1998年5月21日、22日に[[新聞]]での全面広告が打たれた。21日は「セガは倒れたままなのか」のコピーで[[戦国武将]]が討ち死にした場面の写真、22日は「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」のコピーとともに、討ち死にしたと思われた武士たちが一斉に立ち上がる写真であった。このタイミングでの発売予告はワープの[[飯野賢治]]より開発中の『[[Dの食卓2]]』を公開するにあたり対応ハードを公表したいとの要請を受けての発表であった[Dの食卓2 発表会で発言(1998年5月23日 東京国際フォーラム〈5000人×2回〉、中継 大阪日本橋NTTなど4か所)]。 ; 湯川専務 : 同年6月にセガは秋元を社外取締役に選任。6月19日に「[[湯川英一|湯川専務]]」シリーズが開始され、小学生のグループ(子役)が「'''セガなんてだっせーよな!プレステのほうがおもしろいよな!'''」「'''帰ってプレステやろうぜー!'''」などのフレーズを[[湯川英一]]に言い放つ自虐的なCMが放送され、話題になった<ref>[http://ascii24.com/news/i/topi/article/1998/08/12/612196-000.html 夏休み特別企画:セガDreamcast特集 Vol.1―「プレステのほうがいいよな」なんて言っていいのか? 「いいのだ!」―]<br />井上秀樹「感情模索<nowiki>[7]</nowiki> 自虐という名の安全策――昇華できれば生きる原動力に」『朝日新聞』2009年1月10日付朝刊、第13版、第20面。</ref>。CMには湯川英一を筆頭とした当時のセガ現役役員が出演し、特に「湯川専務」は役者と見違えるようなコミカルな演技から一躍時の人となった。 : この第一弾のCMは事実上プレイステーションとの[[比較広告]]であり、登録商標である「プレステ」の使用許諾をSCEから得られたことで実現している。また、その内容自体がかつて「[[ビデオ戦争]]」([[VHS]]と[[ベータマックス|β]]の規格争い)でソニーが規格争いの敗北を自ら認めた新聞広告(1984年の「ベータマックスはなくなるの?」)と類似した内容であり、関心を引き寄せる一方、皮肉にも発売後のマーケティングの失敗をセガ自らが予見した作品となってしまった。 : 本機発売直前となる1998年11月にセガ・[[大川功]]・秋元康が共同出資し、株式会社[[イキナ|エイティーワン・エンタテイメント]]を設立。秋元が代表取締役社長となり、ドリームキャスト関連の宣伝プロモーションを事実上同社へ移管した<ref>[[週刊文春]]2013年1月5日号『AKB生みの親 秋元康の「秘密」若き日の屈辱と復讐 「リスクは他人に」のビジネス哲学』</ref>。 : 発売に前後して、1998年10月から1999年3月まで放映された[[DAIBAッテキ!!]]および1999年4月から1999年9月まで放映された[[DAIBAクシン!!]]といった同番組発のアイドルである[[チェキッ娘]]出演番組(事実上の[[冠番組]])の[[1社提供]]や、[[発明BOYカニパン]]シリーズに約1年間継続して[[スポンサー|スポンサード]]を行い、本機発売直前の11月25日には秋元のプロデュースで湯川英一が「湯川専務」名義で[[日本コロムビア]]から企画盤のシングルCD「Dreamcast」をリリースした。こうして本機発売前からマスコミに湯川や秋元のインタビューを中心にドリームキャストが取り上げられるなど社会的に話題を作り上げ、てこ入れを行った。 : 11月27日の発売直後には[[ジャニーズJr.]](当時)の[[滝沢秀明]]が湯川専務と共にリヤカーで本機を売り捌く作品も放送された。湯川の執行役員常務への降格に伴い「湯川元専務」シリーズとなり継続したが、1999年春放映の8話で事実上打ち切られた。 ; 謎の後藤喜男 : 1999年6月の本体希望小売価格値下げ発表後、新たに「後藤喜男」なる中年男性が出演し、[[コンパ]]を盛り上げるシチュエーションのCMが放映されたが、「ゴトウヨシオ」の名前をアピールするだけの内容であり謎めいていた。同年11月3日には「後藤喜男と悪いお友達」名義で[[ユニバーサルミュージック (日本)|MCAビクター]]からCMソングを収録したシングルCD「僕の名前を知ってるかい?」が発売されている。 : 後藤喜男は制作プロダクション[[ジョイマン (企業)|ジョイマン]]の代表者兼プロデューサーで、秋元康の知人という間柄だった事が明らかにされている。これ以降、本体のTVCMは制作されなくなり、TVCMはソフトタイトルのみとなる。 ; その他 : ヨーロッパではイングランド[[プレミアリーグ]]の[[アーセナルFC]]と[[リーグ・アン]]の[[ASサンテティエンヌ]]のスポンサーとなり、胸にDreamcastのロゴを入れていた。 : 発売直前から2000年にかけて、セガ提供のテレビ番組の[[提供クレジット|クレジット]]は「SEGA」ではなく「Dreamcast」だった。 : [[中裕司]]によれば、ドリームキャストは毎週夜遅くまで開催されるDTM(ドリームチームミーティング)でネーミング、形状、機能やブランディング等ほぼすべてを決めていました。色んなインスピレーションが湧くようにと毎回違った場所に集まって色々なゲストの方にも参加して頂き話あって作っていったと明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=中裕司さんの2013年10月1日の投稿 |url=https://twitter.com/nakayuji/status/384976357668560897 |website=Twitter |access-date=2023-04-02 |language=ja}}</ref>。 === 関連商品 === ; 専門誌 * [[ファミ通#休廃刊した姉妹誌・増刊など|ファミ通DC]] - [[エンターブレイン]]刊。本誌刊行時、エンターブレインは[[CSK]]・セガグループ傘下だったため本誌がオフィシャル誌だった。休刊後3冊のDC関連の増刊号を経て、ほぼ同じ編集スタッフで「ファミ通Xbox」(後の[[ファミ通Xbox360]])を立ち上げ、現在に至る。 * [[ゲーマガ|Dreamcast MAGAZINE]] - ソフトバンクパブリッシング(後の[[ソフトバンククリエイティブ]])刊。『ドリマガ』への誌名変更を経て、総合誌『ゲーマガ』にリニューアルし、現在に至る。 * [[ドリームキャストFAN]] - [[徳間書店インターメディア]]刊 * [[電撃Dreamcast]] - [[メディアワークス]]刊 * [[Dreamcast PRESS]] - [[マイナビ|毎日コミュニケーションズ]]刊 === 問題点 === ==== 違法コピー ==== 一部ユーザーがブロードバンドアダプタとMIL-CDのデータ部分を利用し、ゲームデータをCD-Rにコピーしたディスクを動作させることに成功したことで、それまで本体にはんだ付けを施し、シリアル接続で数十時間掛けてバックアップを行っていたものが、僅か10分程度でバックアップが行えるようになった。これは[[海賊版|コピーディスクを違法に流通させる]]きっかけとなった。 そのためセガはMIL-CD機能の悪用による違法コピー対策として、2000年12月28日以降に出荷された製品をMIL-CD非対応とした<ref>{{Cite web|和書|title=SBG:DCの違法コピーソフト対策で「MIL CD」が非対応に |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0101/17/news08.html |website=nlab.itmedia.co.jp |access-date=2023-03-27}}</ref>{{Efn|具体的には、メインボードのリビジョンを更新し、MIL-CD機能を削除した。}}。この厳密な時期は定かではないが、概ね11月1日の社名変更のタイミングと重なっている。そのため、本体ケース底面に書かれている社名によって推測する事ができる(ただし、一般にケースよりメインボードの製造が後のため、中身が交換されていなくても必ずしも正確に推測できるわけではない)。また、対応品をセガに修理に出した場合、非対応品にされて戻される事例も存在した。 両者の判別は新品であれば可能で、いわゆる湯川専務バージョンはMIL-CD対応品で、末期に製造されたロットは外箱に「MIL-CD非対応」と明記されている。しかし、中古品販売で入手するしかない現状では、外箱と中身が一致しているとは限らないため、本当に対応品かそうでないかを見分けるのは難しい。<!--非対応品を対応品に改造する方法がゲーム改造専門誌に掲載された(ただしこの方法は、対応品として製造されたメインボードがジャンパによって非対応品とされている場合、いわゆる「封印」が施されているメインボードを対応品に戻すだけであって、元来非対応品として生産されたメインボードを対応品とする事はできない。そのため、この記事自体はほとんど嘘だと言ってよい)。-->販売店によっては、対応品かどうかを独自にチェックし、その旨を表示して販売しているところも存在する。 例外的に、ドリームキャストR7は末期の製造ながら、初期ロットの在庫処分のためMIL-CD対応であり、箱にも明記されている。ただし流通量は少ない。 また、「MIL-CD非対応」と外箱に明記された物でも、海外仕様(一般に、海外仕様のものには非対応品は存在しない)のものを国内向けに変更したリアセンブル版や、故障品のパーツを再組立した再生品(もともとが故障品のパーツの寄せ集めであり、部品精度の検証が不足していたために、出荷分の初期不良率は異常に高かった)を中心に、実際はその多くは対応機であり、全体の生産量からするとMIL-CD非対応機はごく一部でしかない(日本国内分でさえ1割にもはるかに満たない)。また非対応品とされたモデルに関しても対応モデルの結線を取り外しただけという場合もあり、その場合は再度結線を施すことによりMIL-CD対応として動作が行える。 === 評価 === {{独自研究|section=1|date=2022年1月}} 市場での敗因としてまず第一に、コントローラーの使い勝手の悪さと耐久性が挙げられる。独特の形状に加えそれまでの一般的なハードと異なりコントローラーの下からコードが伸びる仕様であり、ソフトのプレイ環境によっては1か月も持たずに破損するなどユーザーからは極めて不評であった。改善の要望は多かったが、メーカー側も応えることはなかった。 次に[[PlayStation 2]]との勝敗を分けた要因として、ソフトの[[後方互換]]性が挙げられる。それまで「ハードが変更されると旧機のソフトはプレイ不可能」ということが一般的で、DCもセガサターン用のソフトは使えなかったが、PS2がPS用ソフトのほとんどをプレイできる仕様だった。 ドリームキャストに後方互換性を持たせなかったのは、セガサターンが設計上、マルチプロセッサ機能を持っていた事に起因する。サターンと後方互換性を持たせようとすると処理チップ数が増加し、コストが高くなるという問題を孕んでいた(尚、PS2は[[入出力|I/O]]プロセッサとしてPSのCPUを搭載させることによりこの問題を解決させている)。これには、セガは業務用・家庭用を問わずハード設計の際には、なるべく汎用ICを使って設計する(必然的に基板に実装するICの種類が増える)という方針や、後方互換性を維持する事でサポートコストの増大や過去の負の遺産を引き継ぐことを嫌った、当時までのゲーム業界の慣習を引きずった事も影響している{{要出典|date=2018年6月}}。 既に多くのサターンのソフトがPSへ移植されていたが、DCそのものにはキラーソフトが少なく、その一方でまだ市場が残っていたサターンへのソフト供給が途絶えてしまったことから、これを転機としたユーザ離れを引き起こすことになってしまった。セガサターンからドリームキャストの変更によるメーカー側の開発難航が供給低下の原因にあることも見逃すことができない。Windowsと互換性がありソフトの製作のハードルは低かったものの、立ち上がりのつまづきが[[サードパーティー]]を消極的にしソフトメーカーの参入が伸びなかった{{要出典|date=2018年6月}}。 PS2が商業的に成功した要因として、PS用ソフトのほとんどがそのままプレイできる後方互換性を有するうえ、コントローラのボタン数やデザインも従来どおりだったため、PSから親しんできたユーザにとっても何の抵抗もなくプレイできたことにある。また、セガサターン純正のコントローラは、後に同形のコントローラーパッドがPS2用およびパソコン用で販売された経緯がある。それに慣れ親しんだユーザにとっては、ドリームキャストの純正コントローラは前述のように使い勝手が悪く、コードが下部から付いているので腕に対する負担が少ないが、長さが足りなかった。見た目よりは軽量だが、メモリカード等を装着すると当然重量は増加し、長時間プレイすると腕に対する負担が大きかった。これはプレイヤーの使用しないポートのコントローラーなどにメモリカードを挿すことなどによってある程度は回避可能だが、実際にはソフトの多くはポートAの1番スロットにしか対応していないなど、不備も目立った{{要出典|date=2018年6月}}。 PS2は[[DVDプレーヤー]]としても機能することがPS2のシェア拡大に少なからず貢献し、結果として[[DVD-Video]]視聴環境の普及にも大きく貢献することとなったが、ドリームキャストでは独自の規格であるGD-ROMドライブを搭載していたためにDVDビデオの視聴は不可能だった。この点に関して、ドリームキャスト開発当時はDVDドライブがまだ高価で、コスト面での不利から搭載を見送られていた{{Efn|当時のDVDプレイヤーは普及機でさえ10万円程度する状況であり、4万円で購入できるPS2はDVDプレイヤー単体としても非常に高性能かつ非常な低価格であったためゲーム機としてではなくDVDプレイヤーとして購入する層が存在した。}}。末期には外付けのDVDドライブの開発が検討されたこともあったが、製造中止に伴って立ち消えとなっている。GD-ROMは、ドリームキャスト発売当時としては容量も十分なものだったが、DVDが普及するにつれて、記録容量、ドライブの製造コスト、ディスク単価、市場でのシェアなど、どれをとってもDVDに対し劣るものとなっていた。しかしGD-ROMに関してはアーケードの[[NAOMI]]に互換性を持たせるための設計であり、開発、移植を容易にするという観点でアーケード業界においては成功を納めた{{要出典|date=2018年6月}}。 PS2や[[NINTENDO64]]に対し優位に立つかに思えた[[インターネット]]機能の標準搭載も、対応ゲームの少なさや発売の遅さ、深夜から朝のラッシュアワー限定で利用できる[[テレホーダイ]]以外の手段による通信料金定額の未整備ゆえに、優位性が充分に発揮されないまま終わってしまった。ドリームキャスト発売当時は[[電話回線]]を使用した[[ダイヤルアップ接続]]が主流であり、通信にかかる費用はユーザにとって決して軽いものではなかった(標準モデルはモデム接続のみのため、東西NTTの[[ISDN]]回線による通信費パック料金制の[[INSネット|アイ・プラン]]や完全定額の[[フレッツ#フレッツ・ISDN|フレッツ・ISDN]]を用いるためのデジタル接続も不可であった)。しかも、日本の一般家庭でのインターネット接続環境は2000年以降ブロードバンドの商用化によって急速に普及し始めたためモデムが邪魔者になってしまった、という悪条件が追い討ちをかけた<ref name="story" />。 後に販売されたブロードバンドアダプタに関しても当時の流通の主流であったゲームショップへの流通は後回しとなり、一般ユーザーには敷居の高い[[通販]]や代理店となったISPからの購入を行うしか入手が行えなかった。またそれまで販売されていたゲームソフト及びインターネットサービスはダイアルアップを前提としたサービスとなっており、ゲーム側でもLANアダプタに対応を行う必要があったが、ブロードバンドアダプタが販売された当初は対応したゲームが一つも存在しておらず、対応したゲームソフトは2000年10月15日発売で既存ゲームのリニューアル版の『[[あつまれ!ぐるぐる温泉]]BB』の登場を待つこととなり、リニューアルではなく本格的に対応を行ったゲームは2000年12月21日発売の『[[ファンタシースターオンライン]]』の登場を待つこととなった。その後販売されたゲームは概ねブロードバンドアダプタ対応となったものの、開発時期の都合から対応されていないものもあり、販売済みのゲームについても対応は取られなかった。また発売当初はセガ公式の[[ドリームライブラリ]]やインターネットブラウザも対応していなかった。当時のドリームパスポート3のウリとなっている「ch@b talk」や「どこでもチャット」も対応しておらずチャットが行えないこと、当時唯一のメーカーによるゲームアーカイブシステム[[ドリームライブラリ]]も非対応となり、発売時点ではほとんど用途がなく、事実上IRCチャットを行うためだけの機能となっていた。価格も当時の本体定価が1万9980円のところ、ブロードバンドアダプタは別売りで9980円で、最終販売時期に至っては本体価格とブロードバンドアダプタが同額になってしまったことなども普及の妨げになった。対応ゲームが存在しないことについては各メディアでも良い見解は持っていなかった<ref>{{Cite web|和書|title=Dreamcast用LANアダプタ「ブロードバンドアダプタ」発売。対応ソフトの拡充が必須 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000717/dc.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |access-date=2023-03-27}}</ref>。 一方で[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]自体は評価が高く、ほぼ同設計の業務用基板「[[NAOMI]]」が長く現役であったほか、[[サミー]]の業務用基板「[[ATOMISWAVE]]」にもその構造が転用され、こちらも北米等で長く活躍した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[Zeebo]] - ブラジルにおけるセガの総代理店[[Tectoy]]が独自にリリースしたドリームキャストの後継機 * [[カラオケJOYSOUND Wii]] - ドリームキャスト・カラオケと同系統の類似ソフト。 == 外部リンク == {{Commonscat|Sega Dreamcast}} * [https://sega.jp/history/hard/dreamcast/index.html セガハード大百科 - ドリームキャスト] * [http://www.isao.net/ isao.net](旧セガプロバイダ、パソコン向けISP。2009年2月1日にDTIへ統合) * [http://dc.sega.jp/ セガ・ドリームキャスト復刻プロジェクト] * [https://sega.jp/special/hard_anniversary2018/ メガドラ30周年・ドリキャス20周年ポータルサイト] * [http://dricas.com/ dricas] {{家庭用ゲーム機/セガ}} {{Windows CE端末}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とりいむきやすと}} [[Category:ドリームキャスト|*]] [[Category:1998年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:セガのハードウェア]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1990年代の玩具]] [[Category:Windows CE端末]]
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1,633
アド・バード
『アド・バード』は、椎名誠によるSF長編小説。『水域』『武装島田倉庫』と共に椎名SF3部作に数えられる。小説誌『すばる』に1987年9月から1989年12月まで連載され、1990年3月に集英社より刊行された。同年、第11回日本SF大賞を受賞した。 K二十一市に住む青年、安東マサルとその弟菊丸は、行方不明となった父が生きていることを知り、マザーK市への旅へ出る。世界はターターとオットマンの両陣営による改造生物を使った広告戦争により荒廃しており、市外を一歩出たところには、何もかも分解して土に変えてしまう科学合成虫ヒゾムシ、鉄を食いつくすワナナキ、触手を持った動く絨毯のような赤舌、そして鳥文字を作ったり人語を話す広告用の鳥アド・バードといった、珍妙不可思議な生物たちがうごめく危険な時代だった。道中で出会ったキンジョーという名の生体アンドロイド(ズルー)と共に、兄弟はマザーK市へ向かう。 この作品の原案は初め、1972年に椎名の友人目黒考二の個人誌『SF通信』(後の『本の雑誌』)の別冊特集号のために書いた、30枚足らずの『アドバタイジング・バード』という作品であった。 『別冊SF通信』に書いた4年後に椎名は、自分の編集している流通業界専門誌『月刊ストアーズレポート』に小売業の宣伝合戦の未来を描いた『クレイジー・キャンペーン』という小説を書き、そこにデパートの屋上に鳥文字を書くメッセンジャーズ・バードを登場させた。 それから2、3年後、創刊間もないSF雑誌『奇想天外』の懸賞小説へ応募するために『アド・バード』というタイトルで100枚の小説を書いたが落選した。この作品では鳥自身が主人公だった。 集英社の文芸誌『すばる』から小説連載の依頼があった時、椎名はこの『アド・バード』を書かせてもらうよう編集者に頼んだ。当初1年だった連載予定は半年延長されたが、それでも終了せず、結局2年6か月の長期にわたった。この結果、全850枚で作者の最長の小説となった。 目黒曰く、この作品はブライアン・オールディスの異様な植物が蔓延る未来の地球を描いた小説『地球の長い午後』を椎名なりに描いたオマージュであるという。 後にアニメ化の話もあったが、制作は中止された。
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『アド・バード』は、椎名誠によるSF長編小説。『水域』『武装島田倉庫』と共に椎名SF3部作に数えられる。小説誌『すばる』に1987年9月から1989年12月まで連載され、1990年3月に集英社より刊行された。同年、第11回日本SF大賞を受賞した。
{{Portal|文学}} 『'''アド・バード'''』は、[[椎名誠]]による[[サイエンス・フィクション|SF]][[長編小説]]。『[[水域 (小説)|水域]]』『[[武装島田倉庫]]』と共に椎名SF3部作に数えられる。[[小説誌]]『[[すばる (雑誌)|すばる]]』に[[1987年]]9月から[[1989年]]12月まで連載され、[[1990年]]3月に[[集英社]]より刊行された。同年、第11回[[日本SF大賞]]を受賞した。 == あらすじ == {{不十分なあらすじ|date=2019年6月}} K二十一市に住む青年、安東マサルとその弟菊丸は、行方不明となった父が生きていることを知り、マザーK市への旅へ出る。世界はターターとオットマンの両陣営による改造生物を使った広告戦争により荒廃しており、市外を一歩出たところには、何もかも分解して土に変えてしまう科学合成虫ヒゾムシ、鉄を食いつくすワナナキ、触手を持った動く絨毯のような赤舌、そして鳥文字を作ったり人語を話す広告用の鳥アド・バードといった、珍妙不可思議な生物たちがうごめく危険な時代だった。道中で出会ったキンジョーという名の生体[[人造人間|アンドロイド]](ズルー)と共に、兄弟はマザーK市へ向かう。 == 用語 == ===地理=== ===生物=== ; アド・バード : 群れをなして文字を作る、宣伝用に改造された鳥。群れをつくらず、人に直接セールスを行うものは「メッセンジャー・バード」と呼ぶ。 ; インドカネタタキ : 宣伝用に改造されたホタテザル。白い毛を持ち、堅いものを叩きながら隊列をなして歩く。 ; ヒゾムシ : 長さ0.8ミリ、幅0.5ミリぐらいの[[線虫]]。集団となって生物を呑み込む。 ; ワナナキ : 鉄錆を食い、酸を出して鉄を腐蝕させる。ギュルギュルといった音をたてる。刺された時に痺れることから「デンキ虫」とも呼ばれる。 ; 赤舌 : 赤色をした絨毯のような生物で細い触手を持つ。ヒゾムシなどを食う。キレエチレンガスのような臭いを放つ。成長すると、超高速で移動し、宣伝生物を食う「地ばしり」や「海ばしり」になる。 ; スナキリ : 地表近くを移動し、ラッパのような口で人に噛みつく。 == 解説 == この作品の原案は初め、[[1972年]]に椎名の友人[[目黒考二]]の個人誌『SF通信』(後の『[[本の雑誌]]』)の別冊特集号のために書いた、30枚足らずの『アドバタイジング・バード』という作品であった。 『別冊SF通信』に書いた4年後に椎名は、自分の編集している流通業界専門誌『[[月刊ストアーズレポート]]』に小売業の宣伝合戦の未来を描いた『クレイジー・キャンペーン』という小説を書き、そこにデパートの屋上に鳥文字を書くメッセンジャーズ・バードを登場させた。 それから2、3年後、創刊間もないSF雑誌『[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]』の懸賞小説へ応募するために『アド・バード』というタイトルで100枚の小説を書いたが落選した。この作品では鳥自身が主人公だった。 集英社の文芸誌『すばる』から小説連載の依頼があった時、椎名はこの『アド・バード』を書かせてもらうよう編集者に頼んだ。当初1年だった連載予定は半年延長されたが、それでも終了せず、結局2年6か月の長期にわたった。この結果、全850枚で作者の最長の小説となった。 目黒曰く、この作品は[[ブライアン・オールディス]]の異様な植物が蔓延る未来の地球を描いた小説『[[地球の長い午後]]』を椎名なりに描いたオマージュであるという<ref>アド・バード(ISBN 978-4087485929、[[集英社文庫]])解説</ref>。 後にアニメ化の話もあったが、制作は中止された。中止後にはアニメーション監督の[[小林治 (1964年生のアニメ演出家)|小林治]]が個人サイト内でアニメ化の意思を表明していたが、2021年に死去したことでこちらも実現はしなかった<ref>[https://web.archive.org/web/19990901170150/http://www.aurora.dti.ne.jp/~osamu-ko/adbird.html VISION OF DREAM]</ref>。 == 脚注 == <references /> {{日本SF大賞|第11回}} {{DEFAULTSORT:あとはあと}} [[Category:椎名誠の小説]] [[Category:日本のSF小説]] [[Category:1987年の小説]] [[Category:すばる掲載の小説]] [[Category:日本SF大賞受賞作]] [[Category:広告を題材とした作品]] [[Category:鳥を題材とした小説]]
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テレビジョン放送局
テレビジョン放送局(テレビジョンほうそうきょく)とは、テレビジョン放送(テレビの放送)を行う放送局である。 放送は、不特定多数の人間へ映像と音声を運ぶシステムである。撮像管で撮影した映像と音声は、電波に変換させられて発射(発信)される。フェーズで言えば映像と音声を撮影・録音し高周波電流(または光ケーブル)に乗せる役割と、この電流(信号)を増幅して高周波電波に変換した上で中継局やケーブルに乗せる役割からテレビ放送は成り立っている。 一般的に番組を収録・編集したり番組を決められた順番に送り出す作業を行う施設を「演奏所」、演奏所で作られた信号を電波として送信する施設を「送信所」とするが、厳密に言えば、放送局は後者のみを指す。 ABC・SBS及び民間テレビ3大ネットワークを総称してオーストラリアの5大ネットワークと称されることもある。
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テレビジョン放送局(テレビジョンほうそうきょく)とは、テレビジョン放送(テレビの放送)を行う放送局である。 放送は、不特定多数の人間へ映像と音声を運ぶシステムである。撮像管で撮影した映像と音声は、電波に変換させられて発射(発信)される。フェーズで言えば映像と音声を撮影・録音し高周波電流(または光ケーブル)に乗せる役割と、この電流(信号)を増幅して高周波電波に変換した上で中継局やケーブルに乗せる役割からテレビ放送は成り立っている。 一般的に番組を収録・編集したり番組を決められた順番に送り出す作業を行う施設を「演奏所」、演奏所で作られた信号を電波として送信する施設を「送信所」とするが、厳密に言えば、放送局は後者のみを指す。
'''テレビジョン放送局'''(テレビジョンほうそうきょく)とは、[[テレビジョン放送]]([[テレビ]]の[[放送]])を行う[[放送局]]である。 放送は、不特定多数の人間へ映像と音声を運ぶシステムである。撮像管で撮影した映像と音声は、電波に変換させられて発射(発信)される。フェーズで言えば映像と音声を撮影・録音し高周波電流(または光ケーブル)に乗せる役割と、この電流(信号)を増幅して高周波電波に変換した上で中継局やケーブルに乗せる役割からテレビ放送は成り立っている。 一般的に番組を収録・編集したり番組を決められた順番に送り出す作業を行う施設を「[[演奏所]]」、演奏所で作られた信号を電波として送信する施設を「[[送信所]]」とするが、厳密に言えば、放送局は後者のみを指す。 == 各国の主要テレビ局 == *網羅的には **「[[テレビ局一覧]]」という記事もある。 **すでに書かれた記事については「[[:Category:各国のテレビ局]]」から細分化されたカテゴリや各記事を参照可。 ===北アメリカ=== * {{Flagicon|USA}}[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ネットワーク (放送)#アメリカ|3大テレビ・ネットワーク]]の一つ。 * {{Flagicon|USA}}[[NBC]] - アメリカの3大テレビ・ネットワークの一つ。 * {{Flagicon|USA}}[[CBS]] - アメリカの3大テレビ・ネットワークの一つ。 * {{Flagicon|USA}}[[フォックス放送|FOX]] - アメリカのテレビ・ネットワーク。上の3つに加えて「4大ネットワーク」と呼ばれることがある。 * {{Flagicon|USA}}[[CWテレビジョンネットワーク|The CW]] - アメリカのテレビ・ネットワーク。規模は比較的小さいが、{{仮リンク|ニールセン・カンパニー|en|Nielsen Company}}の週間視聴者数ランキングなどでは、「4大ネットワーク」の4つとともに「ネットワーク」部門の集計に含まれる。なお、同ランキング対象のネットワークとしては唯一、名称に「The」が含まれている(旧「[[The WB]]」も同様)。 * {{Flagicon|USA}}[[マイネットワークTV]] - アメリカのテレビ・ネットワーク。旧[[United Paramount Network|UPN]]と旧The WBが合体する形でThe CWが開設された際に、加盟できなかった局を中心に作られた。The CWよりも規模が小さい。 * {{Flagicon|USA}}[[ユニビジョン]] - アメリカ最大の[[スペイン語]]テレビ・ネットワーク。番組によっては、ネットワークの週間視聴者数ランキングなどでThe CWを上回ることがある。 * {{Flagicon|USA}}[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] - アメリカのニュース専門テレビ局。「ネットワーク」ランキングの対象外。 * {{Flagicon|USA}}[[公共放送サービス|PBS]] - アメリカの[[公共放送]]局。「ネットワーク」ランキングの対象外。交付金や寄付金などで成り立っており、基本的にコマーシャルがない。 * {{Flagicon|CAN}}[[カナダ放送協会]](CBC) - [[カナダ]]の公共放送局。フランス語名称はラジオ・カナダ(Société Radio-Canada)。 * {{Flagicon|CAN}}[[CTVテレビジョンネットワーク]] - カナダ最大の民放テレビ[[ネットワーク (放送)|網]]。 * {{Flagicon|CAN}}[[グローバルテレビジョンネットワーク]] - CBC、CTVに次ぐ第3のテレビ[[ネットワーク (放送)|網]]。 === ヨーロッパ === * [[RTLテレビジョン]] - ユーロ圏の広域放送局。[[ルクセンブルク]]に本部を持つ[[RTLグループ]]傘下のテレビ局で、RTL(テレビ局)は1984年にルクセンブルクにて開局し1988年にドイツの[[ケルン]]に本社を移転したが、ドイツで放送する以外にも、衛星放送でヨーロッパの各国、[[オーストリア]]、[[ブルガリア]]、[[ルクセンブルク]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]などに向けて放送している。 * {{Flagicon|DEU}}[[ドイツ公共放送連盟|ARD]] - [[ドイツ]]の公共放送局。 * {{Flagicon|DEU}}[[第2ドイツテレビ|ZDF]] - ドイツの公共放送局。 * {{Flagicon|FRA}}[[TF1]] - フランスの民間放送局(フランス国内視聴率がとびぬけて1位)。 * {{Flagicon|FRA}}[[フランス・テレビジョン]](F2, F3, F4, F5など) - [[フランス]]の公共放送局。 * {{Flagicon|BEL}}[[RTBF]] - [[ベルギー]]の公共放送局。 * {{Flagicon|ITA}}[[イタリア放送協会|RAI]] - [[イタリア]]の[[国営放送]]局。 * {{Flagicon|SPA}}[[テレビシオン・エスパニョーラ]] - [[スペイン]]の国営テレビ局。 * {{Flagicon|POR}}[[ポルトガル国営放送]] - [[ポルトガル]]の国営放送局。 * {{Flagicon|POL}}[[ポーランド・テレビ]] - [[ポーランド]]の公共テレビ局。 * {{Flagicon|HOL}}[[オランダ放送協会]] - [[オランダ]]の公共放送組織。 * {{Flagicon|ROM}}[[ルーマニア・テレビ]] - [[ルーマニア]]の国営テレビ局。 * {{Flagicon|GRE}}[[ギリシャ国営放送]] - ギリシャの国営放送局。 * {{Flagicon|SWE}}[[スウェーデン・テレビ]] - [[スウェーデン]]の公共テレビ局。 * {{Flagicon|FIN}}[[フィンランド国営放送]] - [[フィンランド]]の国営放送局。 * {{Flagicon|IRE}}[[アイルランド放送協会]] - 半国営放送局。 * {{Flagicon|GBR}}[[英国放送協会|BBC]] - [[イギリス]]の公共放送局。 * {{Flagicon|GBR}}[[ITV (イギリス)|ITV]] - イギリスの[[民間放送]]最大手局。 * {{Flagicon|GBR}}[[チャンネル4]] - イギリスの公共放送局(広告収入で成立)。 * {{Flagicon|GBR}}[[チャンネル5]] -イギリスの最後発[[民間放送]]局。 ===オセアニア=== * {{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア放送協会]](ABC) - [[オーストラリア]]の公共放送局。 * {{Flagicon|AUS}}[[スペシャル・ブロードキャスティング・サービス]](SBS) - 上記ABC同様オーストラリアの公共放送局だが、[[英語]]以外の多言語放送が全体の約半数を占める。 * {{Flagicon|AUS}}[[Seven Network]] - オーストラリアの民間テレビ3大ネットワークの一つ。 * {{Flagicon|AUS}}[[Nine Network]] - オーストラリアの民間テレビ3大ネットワークの一つ。[[2000年]]以降視聴率トップをキープしている。 * {{Flagicon|AUS}}[[Network Ten]] - オーストラリアの民間テレビ3大ネットワークの一つ。[[カナダ]]のメディアグループ{{Flagicon|CAN}}CanWestの傘下。 ABC・SBS及び民間テレビ3大ネットワークを総称してオーストラリアの5大ネットワークと称されることもある。 === アジア === * {{Flagicon|QAT}}[[アルジャジーラ]] - [[カタール]]に本社を置く[[衛星放送]]局。 * {{Flagicon|IND}}[[ドゥールダルシャン]] - [[インド]]の国営テレビ局。 * {{Flagicon|CHN}}[[中国中央電視台]](CCTV) - [[中華人民共和国|中国]]の国営テレビ局(及び各省市の地方局)。 * {{Flagicon|HKG}}[[無綫電視]](TVB) - [[香港]]のテレビ局。 * {{Flagicon|HKG}}[[亜洲電視]](ATV) - 香港のテレビ局。放送終了した。 * {{Flagicon|HKG}}[[スター (衛星放送)|スター]](STAR TV) - 香港に本社を置く衛星放送局。 * [[TVRI]] - [[インドネシア]]の公共テレビ局。 * {{Flagicon|PHL}}[[TV5 (フィリピン)|TV5]] - [[フィリピン]]のテレビ局。 * {{Flagicon|VNM}}[[VTV]] - [[ベトナム]]の国営放送局。 * {{Flagicon|PRK}}[[朝鮮中央テレビ]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の国営放送局。 * {{Flagicon|TWN}}[[台湾電視公司]](台視) - [[台湾]]の4大民放テレビ局の一つ。 * {{Flagicon|TWN}}[[中国電視公司]](中視) - 台湾の4大民放テレビ局の一つ。 * {{Flagicon|TWN}}[[中華電視公司]](華視) - 台湾の4大民放テレビ局の一つ。 * {{Flagicon|TWN}}[[民間全民電視公司]](民視) - 台湾の4大民放テレビ局の一つ。 * {{Flagicon|TWN}}[[公共電視文化事業基金会|公共電視台]](公視) - 台湾の公共放送局。 * {{Flagicon|KOR}}[[韓国放送公社]](KBS) - [[大韓民国|韓国]]の公共放送局。 * {{Flagicon|KOR}}[[文化放送 (韓国)|韓国文化放送]](MBC) - 韓国の株式会社形式となる公有放送。 * {{Flagicon|KOR}}[[SBS (韓国)|SBS]] - 韓国の民放テレビ局。 * {{Flagicon|KOR}}[[JTBC]] - 韓国の[[中央日報]]系民放テレビ局。 * {{Flagicon|JPN}}[[日本放送協会]](NHK) - [[日本]]の公共放送局、エリアは日本全国。 * {{Flagicon|JPN}}[[日本テレビ放送網]](NTV) - 地上波の[[キー局]]を務める関東をエリアとする局。[[ネットワーク (放送)|テレビネットワーク]]は[[Nippon News Network|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]。 * {{Flagicon|JPN}}[[テレビ朝日]](EX) - 地上波のキー局を務める関東をエリアとする局。テレビネットワークは[[All-nippon News Network|ANN]]。 * {{Flagicon|JPN}}[[TBSテレビ]](TBS) - 地上波のキー局を務める関東をエリアとする局。テレビネットワークは[[Japan News Network|JNN]]。 * {{Flagicon|JPN}}[[テレビ東京]](TX) - 地上波のキー局を務める関東をエリアとする局。テレビネットワークは[[TXNネットワーク]]。 * {{Flagicon|JPN}}[[フジテレビジョン]](CX) - 地上波のキー局を務める関東をエリアとする局。テレビネットワークは[[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]]。 == 参考文献 == * 『World Raido TV Handbook Billboard』 == 関連項目 == * [[テレビ局一覧]] {{通信と放送に関する制度}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} [[Category:テレビ|ほうそうきよく]] [[Category:テレビ局|*]]
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スティル・ライフ (ローリング・ストーンズのアルバム)
『スティル・ライフ(アメリカンコンサート '81)』(Still Life American Concert 1981) は、1982年にリリースされたローリング・ストーンズのライブ・アルバム。 1981年の北米ツアーの模様が納められ、翌年のヨーロッパ・ツアーに間に合うようにリリースされた。ジャケットデザインは日本人画家、カズ・ヤマザキが担当した。 先行シングルとしてリリースされたスモーキー・ロビンソンとミラクルズのカヴァー「ゴーイング・トゥ・ア・ゴー・ゴー」は英米でトップ30ヒットとなった。一方、第二弾シングルの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」はチャート上位に上ることはなかった。 サティスファクションの演奏中に、ファンがステージに駆け寄り、キース・リチャーズがギターで彼を殴り、警備員がファンを追いかけました。 本作はイギリスでチャート4位、アメリカでは5位を記録しプラチナ・アルバムを獲得した。しかしながらそのサウンドの薄さからライブの模様を十分に伝えていないと批判的な評価が多かった。 1998年に本作はヴァージン・レコードによってリマスターの上再発売され、2009年にはユニバーサル ミュージック グループによって更なるリマスターで再々発売された。 特筆無い限りジャガー/リチャーズ作詞作曲。
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『スティル・ライフ』(Still Life American Concert 1981) は、1982年にリリースされたローリング・ストーンズのライブ・アルバム。
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パブロ・ピカソ
パブロ・ルイス・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。 パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員長、画家だった。1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。ピカソはこども頃から美術の英才教育を受けた。 彼は後年、フランス共産党員となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。 ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに銃で自殺している。 ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。 ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。 正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった。 1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ(英語版)と知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。 1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(英語版)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは1935年に別居したが、結婚そのものは1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。 またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。 1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジロー(英語版)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロード(英語版)とパロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。 しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロック(英語版)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。 このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。 ピカソが1973年に死去した際、孫にあたるパブリート(パウロの長男)は、ジャクリーヌに祖父の葬儀へ参列することを拒否されたことを苦に自殺した。またパウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、1975年に死亡した。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。 ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、2021年11月26日に100歳の誕生日を迎えてからも画家として旺盛な創作を続け、2023年6月6日に101歳で死去した(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。 第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった。 スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。 スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。 1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。 1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。 1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した。 ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館 (マラガ)(英語版)を開館した。 ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。 このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。 1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。 2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。 2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった。 2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。 2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。 2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。 2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された。 ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。1949年には鳩を描いたリトグラフ『鳩』を制作し、世界平和評議会のポスターに使用されるなど、世界で平和の象徴として使用された。ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、ホセ・ルイス・イ・ブラスコのことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごしたマラガの家で鳩を描いていた。1955年に南フランスのカンヌに移り住んだピカソは、自宅に鳩舎(英語版)を建てた。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。『鳩』を描いた1949年にフランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘には、スペイン語で鳩を意味する「パロマ」と名付けた。 パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している。 孫のマリーナにはフロリアン・ピカソ(英語版)というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。 ピカソの本名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ」である。
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"ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ(英語版)と知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(英語版)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは1935年に別居したが、結婚そのものは1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジロー(英語版)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロード(英語版)とパロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロック(英語版)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ピカソが1973年に死去した際、孫にあたるパブリート(パウロの長男)は、ジャクリーヌに祖父の葬儀へ参列することを拒否されたことを苦に自殺した。またパウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、1975年に死亡した。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、2021年11月26日に100歳の誕生日を迎えてからも画家として旺盛な創作を続け、2023年6月6日に101歳で死去した(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった。", "title": "人物と思想" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。", "title": "人物と思想" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。", "title": "人物と思想" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。", "title": "人物と思想" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950年にスターリン平和賞を受賞し、1962年にレーニン平和賞を受賞した。", "title": "人物と思想" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。", "title": "晩年" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した。", "title": "晩年" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館 (マラガ)(英語版)を開館した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このほか、アンティーブにピカソ美術館 (アンティーブ)、カンヌ近郊のヴァロリスにピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。1949年には鳩を描いたリトグラフ『鳩』を制作し、世界平和評議会のポスターに使用されるなど、世界で平和の象徴として使用された。ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、ホセ・ルイス・イ・ブラスコのことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごしたマラガの家で鳩を描いていた。1955年に南フランスのカンヌに移り住んだピカソは、自宅に鳩舎(英語版)を建てた。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。『鳩』を描いた1949年にフランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘には、スペイン語で鳩を意味する「パロマ」と名付けた。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "孫のマリーナにはフロリアン・ピカソ(英語版)というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ピカソの本名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ」である。", "title": "名前" } ]
パブロ・ルイス・ピカソは、スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。
{{Redirect|ピカソ}} {{スペイン語圏の姓名|ルイス|ピカソ}} {{Infobox artist | name = パブロ・ピカソ<br>Pablo Picasso | image = Pablo picasso 1.jpg | image_size = 230px | caption = ピカソ(1962年) | alt = | birth_name = パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ<br />Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso<ref name="CatRez">[https://books.google.com/books?ei=zvyDVN_EHJflauangugB&hl=fr&id=MlNGAQAAIAAJ&dq=Pablo+Diego+Jos%C3%A9+Francisco+picasso%2C+zervos&focus=searchwithinvolume&q=Pablo+Diego+Jos%C3%A9+Francisco Pierre Daix, Georges Boudaille, Joan Rosselet, ''Picasso, 1900-1906: catalogue raisonné de l'oeuvre peint'', Editions Ides et Calendes, 1988]</ref> | birth_date = {{birth date|df=yes|1881|10|25}} | birth_place = {{ESP1785}}・[[マラガ]] | death_date = {{death date and age|df=yes|1973|4|8|1881|10|25}} | death_place = {{FRA}}・[[ムージャン]] | resting_place= ヴォーヴナルグ城<ref name="名前なし-1">アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」[[松田健児]] p67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref> | resting_place_coordinates = {{Coord|43.554142|5.604438|region:FR}} | nationality = {{SPA}} | field = [[絵画]]、[[彫刻]]、[[版画]]、[[陶芸]]、[[舞台美術]]、著作 | training = {{plainlist| * [[ホセ・ルイス・イ・ブラスコ|ホセ・ルイス・ブラスコ]] (父) * [[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]] }} | movement = {{plainlist| * [[キュビズム]] * [[シュルレアリズム]] }} | works = 『[[花のバスケットを持つ裸の少女]]』、『[[アビニヨンの娘たち]]』、『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』、『[[泣く女]]』『[[鳩 (ピカソ)|鳩]]』 | patrons = | awards = | spouse = {{plainlist| * {{marriage|{{仮リンク|オルガ・コクローヴァ|en|Olga Khokhlova}}<br>|1918|1955|end=died}} * {{marriage|{{仮リンク|ジャクリーヌ・ロック|en|Jacqueline Roque}}<br>|1961}} }} | influenced by = {{plainlist| * [[ディエゴ・ベラスケス]] * [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]] * [[ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ]] * [[エル・グレコ]] * [[ポール・セザンヌ]] }} | influenced = {{plainlist| * [[マリー・ローランサン]] * [[フェルナン・レジェ]] * [[ジャクソン・ポロック]] * [[岡本太郎]] * ほか多数 }} }} [[ファイル:Picasso Signatur-DuMont 1977.svg|250px|thumb|ピカソのサイン]] [[ファイル:Portrait de Picasso, 1908.jpg|250px|thumb|ピカソ(1908年)]] '''パブロ・ルイス・ピカソ'''{{efn2|ピカソのフルネームには、さまざまな聖人や親族が含まれる。1881年10月28日に発行された出生証明書によると、彼は'''パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ'''(''Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso'')として生まれた<ref name="PCp15">{{cite book |last1=Cabanne |first1=Pierre |title=Pablo Picasso: His Life and Times |date=1977 |publisher=Morrow |isbn=978-0-688-03232-6 |page=15 |url=https://books.google.com/books?id=H-DqAAAAMAAJ |language=en}}</ref> 。彼の洗礼の記録によると、'''パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・クリスピン・シプリアーノ(他の資料ではクリスピニアノ)・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・ピカソ'''(''Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Cipriano (other sources: Crispiniano) de la Santísima Trinidad María de los Remedios Alarcón y Herrera Ruiz Picasso'')<ref name="PCp15" /><ref>{{cite book |last1=Lyttle |first1=Richard B. |title=Pablo Picasso: The Man and the Image |date=1989 |publisher=Atheneum |isbn=978-0-689-31393-6 |page=2 |url=https://books.google.com/books?id=vbZIAQAAIAAJ |language=en}}</ref> 名付け親が弁護士で、家族の友人であったJuan Nepomuceno Blasco y Barrosoであったことから、Juan Nepomucenoと名付けられた<ref name="PCp15" />。彼は誕生日に行われる10月25日月曜日のサンクリスピンデーにちなんで、Crispín Ciprianoと名付けられた 。Nepomucenoの妻であり、ピカソの名付け親であるMaría de los Remedios Alarcón y Herreraも、ピカソの洗礼名の中で尊重されている <ref name="PCp15" />。|name="names"}}{{efn2|{{IPAc-en|UK|ˈ|p|æ|b|l|oʊ|_|p|ɪ|ˈ|k|æ|s|oʊ}}、{{IPAc-en|US|ˈ|p|ɑː|b|l|oʊ|_|p|ɪ|ˈ|k|ɑː|s|oʊ|,_|-|ˈ|k|æ|s|-}}、{{IPA-es|ˈpaβlo piˈkaso|lang}}}}(Pablo Ruiz Picasso, [[1881年]][[10月25日]] - [[1973年]][[4月8日]])は、[[スペイン]]・[[マラガ]]生まれの、[[フランス]]で制作活動をおこなった[[画家]]である。 == 生涯 == [[ファイル:Pablo Picasso with his sister Lola, 1889.jpg|サムネイル|ピカソと妹のローラ、1889年]] パブロ・ルイス・ピカソは、[[1881年]][[10月25日]]の23時15分に、[[スペイン]]南部[[アンダルシア地方]]の[[マラガ|マラガ市]]で生まれた。父[[ホセ・ルイス・イ・ブラスコ]](1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館[[学芸員]]長、画家だった<ref>「ピカソ」 p.16 岡村多佳夫著。</ref>。1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。ピカソはこども頃から[[美術]]の英才教育を受けた。 彼は後年、[[フランス共産党|フランス共産党員]]<ref>{{Cite web|和書|title=【寄稿】ピカソ作「韓国での虐殺」は6・25戦争の虚偽宣伝物だ(朝鮮日報日本語版)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/19133c5201208e1bdaf2901e2fda77cf1b02cc91|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-06-06|language=ja|quote= スペインに生まれフランスで活動してきたピカソは、1944年にフランス共産党へ入党し、その翌年のインタビューで「私は共産主義者であって、私の絵は共産主義の絵だ」と表明した。}}</ref>となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。 [[ジョルジュ・ブラック]]とともに、[[キュビスム]]の創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の[[油絵]]と[[素描]]、10万点の[[版画]]、3万4000点の[[挿絵]]、300点の[[彫刻]]と[[陶器]]を制作し、最も多作な美術家であると『[[ギネス世界記録|ギネスブック]]』に記されている<ref>{{Cite web|url=https://guinnessworldrecords.jp/world-records/most-prolific-painter|title=Most prolific painter|accessdate=2023-01-07|publisher=ギネスブック}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000253192|title=ピカソのフルネームとギネスの認定について知りたい。|accessdate=2023-01-07|publisher=国立国会図書館}}</ref>。 ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに[[銃]]で自殺している<ref>{{Cite news |title=Picasso's Family Album |url=https://www.nytimes.com/1996/04/28/magazine/picasso-s-family-album.html |work=The New York Times |date=1996-04-28 |access-date=2022-12-14 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Michael |last=Kimmelman}}</ref>。 * [[1881年]]10月25日午後11時15分、[[スペイン]]南部[[アンダルシア州|アンダルシア地方]]の[[マラガ]]市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師の[[ホセ・ルイス・イ・ブラスコ|ホセ・ルイス・ブラスコ]]。母はマリア・ピカソ・ロペス<ref name="exhi1964">ピカソ展カタログ編集委員会「PABLO PICASSO EXHIBITION-JAPAN 1964」毎日新聞社 1964年</ref>。 * [[1891年]]、[[ガリシア州|ガリシア地方]][[ラ・コルーニャ]]に移住<ref name="名前なし-2">「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p5 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref>。父、ホセ・ルイス * 同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。 * [[1892年]]、ラ・コルーニャの美術学校に入学<ref name="名前なし-2" />。 * [[1894年]]、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる<ref name="exhi1964" />。 * [[1895年]]、[[バルセロナ]]に移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日あるいは1週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。 * [[1897年]]、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、[[マドリード]]で開かれた国立美術展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの[[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]]に入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。[[プラド美術館]]に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。 * [[1898年]]、春に[[猩紅熱]]にかかりオルタ・デ・エブロ(現在の{{仮リンク|オルタデサンジョアン|en|Horta de Sant Joan}})で療養<ref name="exhi1964" />。6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。 * [[1899年]]、バルセロナに戻る。バルセロナにある「[[四匹の猫]]」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、[[ラモン・カザス]]に代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。 * [[1900年]]、2月1日、再びピカソの個展が開催され、[[アール・ヌーヴォー]]の影響を受けた線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともに[[パリ]]を初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。 * [[1901年]]、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。 * [[1902年]]画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。 * [[1904年]]4月、詩人の[[マックス・ジャコブ]]によって〈[[洗濯船]]〉と名付けられた[[モンマルトル]]の建物に部屋を借り、パリに腰を据える。  * [[1905年]]、「ばら色の時代([[:en:Picasso's Rose Period|Picasso's Rose Period]])」または「桃色の時代」<ref>[http://kitte.hamazo.tv/e3107472.html 日本郵趣教会浜松支部]</ref>が始まる(~1906年)。ガートルード兄妹のパトロンを見つける。 * [[1907年]]、『[[アビニヨンの娘たち]]』製作。 * [[1909年]]、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。 * [[1911年]]9月、[[ルーヴル美術館]]から[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の名画『[[モナ・リザ]]』が盗まれ、[[被疑者|容疑者]]の1人として逮捕された<ref>{{Cite book|和書|author=布施英利|authorlink=布施英利|year=2015|title=パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで|publisher=[[光文社]]|page=242|isbn=978-4-334-03837-3}}</ref>(ただし1週間で釈放された)。 * [[1912年]]、[[モンパルナス]]へ移る。 * [[1913年]]、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。 * [[1916年]]、パリ郊外[[モンルージュ]]に移る。 * [[1917年]]、バレエ団[[バレエ・リュス]]の『[[パラード (バレエ)|パラード]]』の装置、衣装を製作<ref>{{ill2|ピカソとバレエ・リュス|en|Picasso and the Ballets Russes}}参照</ref>。 * [[1918年]]1月、オルガ・コクローヴァと結婚。[[8区 (パリ)|パリ8区]]ラ・ボエシー ([[:fr:Rue La Boétie|Rue La Boétie]]) に移る。 * [[1919年]]5月、ロンドンで『[[三角帽子 (ファリャ)|三角帽子]]』の装置、衣装を製作。 * [[1920年]]、『[[プルチネルラ]]』の衣装を製作。新古典主義時代。 * [[1921年]]、息子パウロ誕生。 * [[1922年]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]の『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。 * [[1924年]]、バレエ『メルキュール』([[セルゲイ・ディアギレフ|ディアギレフ]])の装置、衣装を製作。 * [[1928年]]、彫刻に専心。 * [[1930年]]、『ピカソ夫人像』が[[カーネギー賞]]を受賞。 * [[1931年]]、『[[変身譚]]』の挿絵を制作。 * [[1932年]]、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。 * [[1934年]]、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。 * [[1935年]]、娘マリア(マヤ)誕生。詩作。 * [[1936年]]、[[人民戦線]]政府の依頼により[[プラド美術館]]長に就任。[[6区 (パリ)|パリ6区]]グラン=ゾーギュスタン河岸 ([[:fr:Quai des Grands-Augustins|Quai des Grands-Augustins]]) 7番地に居住(1955年まで)。<!--グラン=ゾーギュスタンは、ファイル:Picasso qga.jpg 参照--> * [[1937年]]、『フランコの夢と嘘』([[エッチング]])出版、『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』製作。 * [[1939年]]、[[ニューヨーク近代美術館]]で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。 * [[1940年]]、[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ナチス・ドイツ占領下]]のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。 * [[1941年]]、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。 * [[1944年]]、[[パリの解放|パリ解放]]後最初の[[サロン・ドートンヌ]]に戦争中に製作した80点の作品を特別展示。[[フランス共産党]]入党。 * [[1945年]]、[[ロンドン]]、[[ブリュッセル]]で個展。 * [[1946年]]、{{仮リンク|フランソワーズ・ジロー|en|Françoise Gilot}}と共同生活。 * [[1947年]]、息子クロード誕生。陶器製作。 * [[1949年]]、娘[[パロマ・ピカソ|パロマ]]誕生。 * [[1951年]]、『[[朝鮮の虐殺]]』製作。 * [[1952年]]、『[[戦争と平和 (ピカソ)|戦争と平和]]』のパネルを制作。 * [[1953年]]、リヨン、ローマ、ミラノ、[[サンパウロ]]で個展。 * [[1954年]]、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。 * [[1955年]]、[[カンヌ]]「ラ・カルフォルニ」に住む。妻のオルガが死去。 * [[1958年]]、『イカルスの墜落』製作(パリ、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]本部)。 * [[1961年]]、ジャクリーヌ・ロックと結婚。 * [[1964年]]、日本、[[カナダ]]で回顧展。 * [[1966年]]、パリ [[グラン・パレ]]、[[プティ・パレ]]で回顧展。 * [[1967年]]、[[シカゴ]]で巨大彫刻『[[シカゴ・ピカソ]]』公開。 * [[1968年]]、[[版画]]に専心、半年間に347点を製作。 * [[1970年]]、[[アヴィニョン教皇庁]]で140点の新作油絵展。バルセロナの[[ピカソ美術館 (バルセロナ)|ピカソ美術館]]開館。 * [[1973年]][[4月8日]]午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏[[ニース]]近くにある[[ムージャン]]の自宅で[[肺水腫]]により死去。{{仮リンク|ヴォーヴナルグ城|en|Château of Vauvenargues}}に埋葬された<ref name="名前なし-1" />。 [[ファイル:Spain Andalusia Malaga BW 2015-10-24 13-13-30.jpg|thumb|180px|ピカソの生まれた[[マラガ]]の家]] == 来歴 == ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。 ; [[青の時代 (ピカソ)|青の時代]]{{weight|normal|([[1901年]] - [[1904年]])}} : 19歳のとき、親友のカサヘマスが[[自殺]]したことに大きなショックを受け<ref group="注">カサヘマスはピカソらとともにパリに出て、ジュルネーヌという女性に思いを寄せたが失恋した。心配したピカソに連れられて一度スペインに戻るが、その後ひとりでパリに行き、カフェで談笑するジュルネーヌに銃弾を浴びせたのち、自分の右こめかみを撃って自殺した。ジュルネーヌは命を取り留め、長命している。</ref>、鬱屈した心象を、[[無機化合物|無機]][[顔料]]の[[プロシア青]]を基調に使い、[[盲人]]、[[娼婦]]、[[乞食]]など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。 ;'''{{仮リンク|薔薇色の時代|en|Picasso's Rose Period|label=}}'''{{weight|normal|(1904年 - [[1906年]])}} : {{仮リンク|フェルナンド・オリヴィエ|en|Fernande Olivier}}という恋人を得て、明るい色調で[[サーカス]]の芸人、[[家族]]、[[兄弟]]、[[少女]]、[[少年]]などを描いた。薔薇色の時代の代表作『{{ill2|パイプを持つ少年|en|Garçon à la pipe}}』の少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。.<ref>[http://www.metmuseum.org/toah/hd/pica/hd_pica.htm Voorhies, James. ''Pablo Picasso (1881–1973)'', Heilbrunn Timeline of Art History, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2000]</ref><ref name="Wattenmaker">Wattenmaker, Richard J.; Distel, Anne, et al.,1993, p. 194</ref><ref>[[John Richardson (art historian)|Richardson John]]. ''A Life Of Picasso. The Prodigy, 1881–1906'', ''Dionysos'' p. 475. New York: [[Alfred A. Knopf]], 1991. {{ISBN|978-0-307-26666-8}}</ref>他にも『{{ill2|玉乗りの少女|en|Girl on a Ball}}』、『{{ill2|オ・ラパン・アジル(ピカソ)|en|Au Lapin Agile|label =オ・ラパン・アジル}}』、『{{ill2|サルタンバンクの一家|en|Family of Saltimbanques}}』、『{{ill2|軽業師の家族と猿|en|Famille d'acrobates avec singe}}』、『{{ill2|曲芸師と幼いアルルカン|en|Acrobat and Young Harlequin}}』、『[[花のバスケットを持つ裸の少女]]』、『{{ill2|ガートルード・スタインの肖像|en|Portrait of Gertrude Stein}}』、『{{ill2|馬を引く少年|en|Boy Leading a Horse}}』等がある。 ;{{仮リンク|アフリカ彫刻の時代|en|Picasso's African Period}}{{weight|normal|(1906年 - [[1908年]])}} :[[アフリカ美術|アフリカ彫刻]]や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『[[アビニヨンの娘たち]]』が生まれた。 ; {{ill2|プロトキュビスム|en|Proto-Cubism}}の時代{{weight|normal|(1907年 - [[1908年]])}} : 1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、プロトキュビスム(初期キュビスム)が確立され始める。ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、セザンヌ的キュビスムということもある。1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。 ; 分析的キュビスムの時代{{weight|normal|(1908年 - [[1912年]])}} : 1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、プロトキュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には[[抽象絵画]]ともいえるが、あくまで[[具象絵画]]である。作品としては『{{ill2|オルタ・デ・エブロの工場|en|Brick Factory at Tortosa}}』『{{ill2|ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの肖像|en|Daniel-Henry Kahnweiler (Picasso)}}』『{{ill2|Femme et pot de moutarde|en|Femme et pot de moutarde}}』等がある。 {{See also|{{ill2|ピカソの作品リスト1901–1910|en|List of Picasso artworks 1901–1910}}}} ; 総合的キュビスムの時代{{weight|normal|(1912年 - [[1921年]])}} : 総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付ける[[コラージュ]](パピエ・コレ)が導入される。これは[[マルセル・デュシャン]]の[[レディ・メイド]]の先駆である。また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。 ;[[新古典主義]]の時代{{weight|normal|([[1917年]] - [[1925年]])}} : 1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことが影響して新古典主義の時代に突入する。妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。 ;[[シュルレアリスム]](超現実主義)の時代{{weight|normal|(1925年 - [[1936年]])}} : 1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。 ; 戦争とゲルニカ([[1937年]]) :[[ナチス・ドイツ]](実行したのはドイツ空軍の[[コンドル軍団]]である)がスペインの[[ゲルニカ爆撃|ゲルニカを爆撃]]したことを非難する大作『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』や、その習作(『[[泣く女]]』など)を描いた。 ; ヴァロリス期([[1946年|1947年]] - [[1953年]]) : 陶芸家としての活動を始める。 ; 晩年{{weight|normal|([[1954年]] - [[1973年]])}} : 過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、[[油彩]]・[[水彩]]・[[クレヨン]]など多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。1972年には、死を予測したかのような一連の自画像を手がけた。 ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。[[パリ]]時代初期には、[[モンマルトル]]の[[洗濯船]]や[[モンパルナス]]に住む芸術家の仲間、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[ガートルード・スタイン]]、[[アンドレ・ブルトン]]らと頻繁に会っていた。 正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのは{{仮リンク|フェルナンド・オリヴィエ|en|Fernande Olivier}}だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎに{{仮リンク|エヴァ・グール|fr|Eva Gouel}}という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す ({{es|J’ AIME EVA}})」、「私の素敵な人 ({{es|MA JOLIE}})」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は[[結核]]を患い、1915年に亡くなった<ref name="名前なし-3">「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p48 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref>。 [[1916年]]、ピカソは[[セルゲイ・ディアギレフ]]率いる[[バレエ・リュス|ロシア・バレエ団]]の[[舞台美術]]を担当した([[ジャン・コクトー]]作『パラード』)。そこで[[バレリーナ]]で貴族出身の{{仮リンク|オルガ・コクローヴァ|en|Olga Khokhlova}}と知り合い、[[1918年]]に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来の[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。 1927年、ピカソは17歳の{{仮リンク|マリー・テレーズ・ワルテル|en|Marie-Thérèse Walter}}と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは[[1935年]]に別居した<ref name="名前なし-3"/>が、結婚そのものは[[1955年]]にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。 またピカソは[[1936年]]から[[1945年]]まで、カメラマンで画家の[[ドラ・マール]]と愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。 [[1943年]]、ピカソは21歳の画学生{{仮リンク|フランソワーズ・ジロー|en|Françoise Gilot}}と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そして{{仮リンク|クロード・ピカソ|en|Claude Picasso|label=クロード}}と[[パロマ・ピカソ|パロマ]]が生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、[[1953年]]、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている<ref>回想記『ピカソとの日々』(フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク共著、[[野中邦子]]訳、白水社、2019年)がある。</ref>。 しかしピカソはすぐ次の愛人{{仮リンク|ジャクリーヌ・ロック|en|Jacqueline Roque}}を見つけた。彼女は南仏[[ヴァロリス]]の陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。 このころピカソは、[[ジャン・コクトー]]監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役で[[カメオ出演]]している。 ピカソが1973年に死去した際、孫にあたるパブリート(パウロの長男)は、ジャクリーヌに祖父の葬儀へ参列することを拒否されたことを苦に自殺した。またパウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、1975年に死亡した。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。 ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、2021年11月26日に100歳の誕生日を迎えてからも画家として旺盛な創作を続け、2023年6月6日に101歳で死去した(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。 == 人物と思想 == [[第一次世界大戦]]、[[スペイン内戦]]、[[第二次世界大戦]]という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。[[フランス]]の2度にわたる対[[ドイツ]]戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソは[[フランシスコ・フランコ・バーモンデ|フランコ]]と[[ファシズム]]に対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった<ref group="注">内戦時にピカソは50代後半であった。兵卒は30歳前後でも老兵と言われる。彼が従軍を望んだとしても、兵卒としては勿論、たとえ尉官クラスの将校待遇にしてもらえたとしても、そもそも実戦に従軍すること自体が体力的にまず不可能であった点は充分な留意が必要である。</ref>。ピカソは青年時代にも、[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]の独立運動のメンバーたちと付き合った。また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった<ref>「ピカソ」p.62。角川文庫</ref>。 [[スペイン内戦]]中の1937年、[[バスク州|バスク地方]]の小都市[[ゲルニカ]]が[[フランシスコ・フランコ・バーモンデ|フランコ]]の依頼により[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]遠征隊「[[コンドル軍団]]」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5[[メートル|m]]・横7.8mの[[モノトーン]]の大作であり、同年の[[パリ万国博覧会 (1937年)|パリ万国博覧会]]のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領した[[ドイツ国防軍]]の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。 スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長く[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク近代美術館]]に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在は[[マドリード]]の[[ソフィア王妃芸術センター]]に展示されている<ref>「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p61 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref>。 1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権([[ヴィシー政権]])が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由に[[ブロンズ]]塑像の制作を禁止したが、[[レジスタンス運動|レジスタンス]](地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。 1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志で[[フランス共産党]]に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの[[共産主義]]思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人の[[ルイ・アラゴン]]の依頼で描いた『[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。[[1950年]]に[[スターリン平和賞]]を受賞し、[[1962年]]に[[レーニン平和賞]]を受賞した。 == 晩年 == [[ファイル:Chateau Vauvenargues.JPG|thumb|right|230px|ピカソの埋葬されたヴォーヴナルグ城]] 1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、[[ディエゴ・ベラスケス]]の『[[ラス・メニーナス]]』をもとにした連作である。ほかに[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]、[[ニコラ・プッサン|プッサン]]、[[エドゥアール・マネ|マネ]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]でも同様の仕事をしている。 1955年には[[アンリ=ジョルジュ・クルーゾー]]監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の[[第9回カンヌ国際映画祭]]で審査員特別賞を受賞、[[1984年]]にはフランス国宝に指定されている。<!--ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。--> 1968年、彼は347点におよぶエロティックな[[銅版画]]を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの[[新表現主義]]に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。 ピカソは1973年に91歳で死去した<ref>[https://www.usatoday.com/story/news/2023/01/03/when-did-pablo-picasso-die/10971250002/ When did Picasso die] 2023年7月5日閲覧</ref>。 == 死後 == [[ファイル:HotelSale hinten.JPG|thumb|220px|ピカソ美術館(パリ)]] ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインでは[[バルセロナ]]に1963年に[[ピカソ美術館 (バルセロナ)]]が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインの[[マラガ]]に{{仮リンク|ピカソ美術館 (マラガ)|en|Museo Picasso Málaga}}を開館した<ref>「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66-67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref>。 ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家([[アンリ・マティス]]など)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から[[相続税]]としてこれらの作品を徴収し、1985年に[[ピカソ美術館 (パリ)|国立ピカソ美術館]]を開館した<ref>「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行</ref>。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。 このほか、[[アンティーブ]]に[[ピカソ美術館 (アンティーブ)]]、[[カンヌ]]近郊の[[ヴァロリス]]に[[ピカソ美術館 (ヴァロリス)]]が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。 1996年、映画『[[サバイビング・ピカソ]]』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、[[アンソニー・ホプキンス]]がピカソを演じた。 === オークション落札額の推移 === 2004年、[[ニューヨーク]]の[[サザビーズ]]の[[競売]]で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000[[USドル|ドル]](約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された<ref name="名前なし-4">[https://www.afpbb.com/articles/-/3048212?pid=15816605 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」].AFPBB 2015年5月12日 2018年9月8日閲覧。</ref>。 2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークの[[クリスティーズ]]で約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額は[[アルベルト・ジャコメッティ]]のブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった<ref>[http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-15131320100505 ピカソの絵画が100億円超で落札、美術品の最高記録更新].ロイター 2010年5月5日</ref>。 2006年10月、[[ラスベガス]]の[[ホテル]]王で美術品収集家としても知られる[[ウィン・ラスベガス|スティーブ・ウィン]]が、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットの[[ブログ]]に書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。 2012年7月、[[オランダ]]の[[クンストハル美術館]]が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、[[クロード・モネ]]や[[ルシアン・フロイド]]の絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2956251?pid=11042242 盗難に遭ったピカソらの名作7点、容疑者の母親が「焼却」].[[フランス通信社|AFPBB]] 2013年7月17日</ref>。 2015年5月11日には、ニューヨークの[[クリスティーズ]]の競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した<ref name="名前なし-4"/>。 2018年5月8日、クリスティーズで『[[花のバスケットを持つ裸の少女]]』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された<ref>{{Cite web|和書|date=2018-05-10 |url=https://hypebeast.com/jp/2018/5/pablo-picasso-christies-rockefeller-auction-2018-nyc |title= パブロ・ピカソが描いた絵画 “花かごを持つ少女” が約125億円で落札される |publisher=HYPEBEAST |accessdate=2019-05-17}}</ref>。 == 家族 == ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは[[鳩]]である。1949年には鳩を描いた[[リトグラフ]]『[[鳩 (ピカソ)|鳩]]』を制作し、[[世界平和評議会]]のポスターに使用されるなど、世界で[[平和の象徴]]として使用された。ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、[[ホセ・ルイス・イ・ブラスコ]]のことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごした[[マラガ]]の家で鳩を描いていた。1955年に南フランスの[[カンヌ]]に移り住んだピカソは、自宅に{{仮リンク|鳩舎|en|Dovecote}}を建てた<ref name="Cole">{{Cite web |last=Cole |first=Ina |date=18 December 2020 |title=Nowgoal |url=https://www.nowgoal3.com/ |access-date=August 2023 |website=Art Times}}</ref>。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた<ref>{{Cite web|last=Lewis|first=Richard|date=9 March 2014|title=The Dove: Picasso and Matisse|url=http://lewisartcafe.com/the-dove-picasso-and-matisse/|access-date=18 December 2020|website=Lewis Art Cafe}}</ref>。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。『鳩』を描いた1949年にフランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘には、スペイン語で鳩を意味する「パロマ」と名付けた。 [[パロマ・ピカソ]]は著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3091079 『「ティファニー」パロマによるメンズジュエリー発表』AFPBB 2016年06月20日 2017年7月11日閲覧</ref>。 孫のマリーナには{{仮リンク|フロリアン・ピカソ|en|Florian Picasso}}というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。 == 語録 == {{plainlist| * 「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」 * 「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」 * 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」 <!-- * 「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」 --> * 「[[スペイン内戦]]は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より) }} == 名前 == ピカソの本名は、[[聖人]]や[[血縁|縁者]]の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。[[洗礼名]]は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ」である。<!-- 画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 書籍 == * 『親友ピカソ』 {{仮リンク|ジェーム・サバルテス|en|Jaime Sabartés}}、[[美術出版社]]、1950年。絶版。 * 『ピカソ礼賛』 [[神原泰]]、[[岩波書店]]、1975年。絶版。 * 『ピカソ その生涯と作品』 {{仮リンク|ローランド・ペンローズ|en|Roland Penrose}}、[[新潮社]]、1978年。絶版。 * 『ピカソ全集』 [[神吉敬三]]編、[[講談社]]、1981年。絶版。 * 『ピカソ』 [[マリ=ロール・ベルナダック]] (Marie-Laure Bernadac)(著)、{{仮リンク|ポール・デュ・ブーシェ|en|Paule du Bouchet}}(著)、[[高階絵里加]](翻訳)、[[創元社]]〈[[「知の再発見」双書]]〉、1993年、{{ISBN2|4-422-21081-5}}、ISBN 978-4-422-21081-0。 * 『ピカソ』 [[飯田善國]]著、[[岩波書店]]、2000年、ISBN 4-00-602021-X、ISBN 978-4-00-602021-7。 * 『ピカソの「正しい」鑑賞法』 [[岡部昌幸]]監修、[[青春出版社]]〈青春文庫〉、2000年、ISBN 4-413-09146-9、ISBN 978-4413091466。 * 『マイ・グランパパ、ピカソ』 [[マリーナ・ピカソ]]、[[小学館]]、2004年、ISBN 4-09-356631-3、ISBN 978-4-09-356631-5。 * 『ピカソ』 [[岡村多佳夫]]著、[[角川書店]]、2008年、ISBN 978-4-04-392101-0。 * 『ピカソの陶芸』 [[岡村多佳夫]]著、パイ・インターナショナル、2014年、ISBN 978-4-7562-4539-7。 * [https://www.artpedia.asia/boy-with-a-pipe/ 『【作品解説】パブロ・ピカソ「パイプを持った少年」』Art pedia] == 関連項目 == * {{ill2|ピカソ財団|en|Fundación Picasso}} - 1996年にフランスの裁判所からピカソの財産の正式な管財人として指名された孫のクロードが設立した宣伝や広報などを行う団体。本部は生家であるスペインの[[マラガ]]中心部。 * [[アンリ・マティス]] * [[ポール・セザンヌ]] * [[エル・グレコ]] * {{ill2|On-Line Picasso Project|de|On-Line Picasso Project}} - 1997年にピカソ財団、[[テキサスA&M大学]]デジタル図書館研究センター、[[サム・ヒューストン州立大学]]外国語学部などが協力して設立したオンライン上の解説付きのデジタルコレクション。アクセスにはパスワードが必要。 == 外部リンク == {{Commons&cat}} * [http://www.musee-picasso.fr/ Musee National Picasso, Paris](国立ピカソ美術館、フランス、パリ) * [https://www.museopicassomalaga.org/ Museo Picasso Malaga](ピカソ美術館、スペイン、マラガ) * [http://www.museupicasso.bcn.es/ Museo Picasso](ピカソ美術館、スペイン、バルセロナ) * [http://picasso.tamu.edu/ On-Line Picasso Project](オンライン・ピカソ・プロジェクト) * [https://www.spain.info/ja/que-quieres/arte/museos/malaga/museo_picasso.html スペイン政府観光局オフィシャルサイト ピカソ美術館]{{ja icon}} * {{Kotobank|ピカソ}} {{パブロ・ピカソ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひかそ はふろ}} [[Category:パブロ・ピカソ|*]] [[Category:スペインの画家]] [[Category:キュビズム]] [[Category:コラージュ・アーティスト]] [[Category:フランス共産党の人物]] [[Category:レーニン平和賞受賞者]] [[Category:スペイン内戦の人物]] [[Category:ニューヨーク万国博覧会 (1939年)の芸術家]] [[Category:バレエ・デザイナー]] [[Category:プラド美術館の館長]] [[Category:カトリック教会の棄教者]] [[Category:モダンアートの画家]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:スペインの反ファシスト]] [[Category:スペインの共産主義者]] [[Category:スペインの陶芸家]] [[Category:エコール・ド・パリ]] [[Category:在フランス・スペイン人]] [[Category:マラガ出身の人物]] [[Category:19世紀スペインの画家]] [[Category:20世紀スペインの画家]] [[Category:20世紀のセラミック工芸家]] [[Category:20世紀の彫刻家]] [[Category:20世紀フランスの画家]] [[Category:1881年生]] [[Category:1973年没]]
2003-02-14T15:39:16Z
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Smalltalk
■カテゴリ / ■テンプレート Smalltalk(スモールトーク)は、Simula のオブジェクト(およびクラス)、LISPの徹底した動的性、LOGO のタートル操作や描画機能に、アラン・ケイの「メッセージング」というアイデアを組み合わせて作られたクラスベースで手続き型の純粋オブジェクト指向プログラミング言語、および、それによって記述構築された統合化プログラミング環境の呼称。 Smalltalk で一語であり、「Small Talk」「SmallTalk」などは誤りである。 大規模な開発実績としてはCargill Lynx Projectがあり、国産製品の開発実績としてはMCFrameがある。 ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で1970年代に約10年かけ3世代(Smalltalk-72、76、80)を経て整備された。当初は、ダイナブックである Alto() のオペレーティングシステム的位置付けだったが、Alto のゼロックス社製品としての販売の可能性が同社上層部決定により完全に排除されたこと、発案者であるアラン・ケイの研究開発グループ離脱などを受けてダイナブック色は失せ、Alto のハードウェア技術を基にした商用マシン上で動作するプロの開発者向け統合化プログラミング環境「Smalltalk-80」として1983年に発売されることになる。現在はシンコムより VisualWorks()という製品名で主要なオペレーティングシステム向けに販売されている。 ※この節はを元に執筆されている。 豊富で整備されたクラスライブラリーは、特にオブジェクト指向プログラミングの手本とされ、デザインパターンの宝庫と称されるまで洗練されたものになっている。また、後世の多くのオブジェクト指向プログラミング言語に直接間接的に多大な影響を与えた。 アラン・ケイが「オブジェクト指向」という言葉を創った当初は、Smalltalk システムが体現した「パーソナルコンピューティングに関わる全てを『オブジェクト』とそれらの間で交わされる『メッセージ送信』によって表現すること」を意味していた。しかしのちに、C++ の設計者として知られるビャーネ・ストロヴストルップが(自身、Smalltalk の影響は受けていないと主張する)C++ の設計を通じて整理し発表した「『継承』機構と『多態性』を付加した『抽象データ型』のスーパーセット」という考え方として広く認知されるようになった(カプセル化、継承、多態性)。現在は、両者の渾然一体化した曖昧な概念として語られることが多い。 Smalltalk は、オブジェクトへのメッセージ送信を率直に記述する表記の特殊性や、制御構造をもたずオブジェクトへのメッセージ送信の形で記述する徹底ぶりとも併せて、C言語や C++ などの流れを強く受け継ぐ言語、およびその開発手法に慣れた開発者にとって極めてとっつきにくい言語・環境であるといわれている。このことは、Smalltalk が単なるプログラミング言語ではなく、従来のオペレーティングシステムの概念をも包括する「環境」であることが一つの理由である。Smalltalk を単なる言語としてとらえると、他の言語と比較したとき、使用するオペレーティングシステムのグラフィカルユーザインターフェースに全く従わないなど、その独自性が大きな「欠点」として映る場合もある。 これは VisualWorks や Squeak() など、旧来の Smalltalk 環境、つまりダイナブックコンピュータ環境の要素を引き継ぐ統合開発環境を通じて Smalltalk 言語や処理系を学ぶなら、多かれ少なかれ新たなオペレーティングシステムに接するような心構えを持つべきことを意味する。 Smalltalk 環境から見た Smalltalk 言語は、いわば bash などのシェルに近い。Smalltalk 環境内であればどこでもマウスで選択した文字列を Smalltalk のソースコードとして実行できるためシェルにコマンドを打ち込んだ時の様に簡単な問い合わせをすぐ実行できるようになっている。 例えばオブジェクト(クラスやメソッドも含む)の構造を調べたければ、そのオブジェクトに#browse()セレクターあるいは#inspect()セレクターを使ったメッセージ式を書き、そのメッセージ式をマウスで選択してdo it(WindowsであればCtrl+Dを押す)すれば良い。 また、設定値の指定に Smalltalk 言語のメッセージ式が使われる。現在設定されている値がメッセージ式として取得でき、値の設定をメッセージ式として指定する。この設定値を指定するメッセージ式は Smalltalk 環境の実行中に設定用のウィンドウから入力される。 Smalltalk 環境は、Smalltalk 環境の実行方法として現実のハードウェアに依存している機械語命令を使わず、現実のハードウェアから独立した中間言語命令(仮想機械に対する機械語命令)を仮想機械により実行する仮想機械方式を採用している。 Smalltalk の中間言語命令は、全てイメージファイルというファイルに書き込まれ Smalltalk の仮想機械はそのイメージファイルを読み込んでSmalltalk 環境を実行する。 この仮想機械方式による Smalltalk の実行方法は Smalltalk の言語仕様にも含まれている。 なお、Smalltalk が導入したこの仮想機械方式はEULERのpコードマシンからアラン・ケイが着想を得たものである。 イメージファイルは、Smalltalk 環境の実行状態をそのまま保存したファイルである。イメージファイルは Smalltalk 環境実行中に生成された全てのオブジェクトを直列化して保存することでSmalltalk 環境の実行状態を保存している。この直列化されたオブジェクトには、Smalltalk の中間言語も含まれている。イメージファイルに含まれる中間言語命令は、Smalltalk 自身によって記述されたコンパイラーによってソースコードから翻訳された、バイト列のオブジェクトである。 Smalltalk の実行環境が全く存在しない初期の状況ではコンパイラーも仮想機械も Smalltalk で用意する事はできない。このため Smalltalk の初期段階ではALTOのアセンブリ言語によりコンパイラーや仮想機械が実装されていた。 Smalltalk環境は翻訳方式を使う処理系としては珍しくプログラムの実行時書き換えを基本とする。例えば後述のClass Browserに入力したプログラムはソースコードを中間言語に変換したあとSmalltalk環境の一部として取り込まれ、環境を再起動したり読み込み操作をしなくても起動中のSmalltalk環境内で実行することができる。C++のような翻訳式の言語であれば原則、ソースコードを書き換えた場合は原則プログラムの再起動が必要となる。またPythonの様な言語ではソースコードを再読み込みする処理を予め書き換えたい処理の呼び出し元に組み込んでおかなければソースコードをいくら書き換えても動作に反映できない。Smalltalkではその再起動や再読み込み処理の組み込みが必要ない。このため環境をソースコードを書き換える都度環境全体を再起動しなくて済むのはもちろん、Windowを表示するプログラムを作った場合であれば、Window内のButtonの動作を変更する時もWindowを表示したままソースコードを書き換えて動作を変更できる。このためButtonを押すまでに複数の手順が必要なプログラムやWindowの表示に時間がかかるプログラムでもButtonを表示した状態から再起動せず何度でもやり直しができ効率的なソースコード変更が可能になっている。 GUIを使わないような特殊なものを除き、大半のSmalltalk環境では次のようなGUIツールが用意されている。 Smalltalkの開発ではこれらのツールを使って開発する事が半ば前提となっている。 Smalltalk環境内に存在する全てのクラスを(存在する場合は名前空間も)表示/編集できるツールで、Smalltalk開発において中核となるツールである。 言うなれば出力しかできないコンソールといったツールで、プログラムの実行結果を簡易的に表示したいときに使われるツールである。Smalltalk環境内でTranscript変数に書き込まれたメッセージは、全てこのTranscriptに表示される。 言うなればコンソールの入力側とテキストエディターを組み合わせた様なツールである。一見すれば書いたコードを実行できるだけの簡易的なテキストエディターにしか見えないが、WorkspaceはWorkspace変数というWorkspace固有の変数を持っており、Workspace内で実行されたSmalltalkコードの実行結果を保持することができる。このため、長いコードを書くような用途では使わず、Smalltalk環境に対するパッケージの追加や、環境設定、ファイルの一時的な操作など一時的な操作を実行する場所として使われる。 オブジェクトの内部構造を再帰的に表示するツールである。また、多くの場合オブジェクトの編集が可能でありWorkspaceと組み合わせてオブジェクトを組み立てていくことが可能である。例えば画面部品をWindowを表すオブジェクトに組み込み、クラス変数に格納するといった具合である。Inspectorに限らずSmalltalk環境全体に共通することであるが、オブジェクト内の変数を表示するときは内部構造そのままではなくオブジェクトの文字列表現で表示する。このため内部がHash map等複雑な構造になっている場合でもDictionary (#key -> 'value' )といった読み易い表示となる。 言語として Smalltalk が目指したもの。それは計算機を計算機の集合体として構築し、さらに計算機を構成する個々の計算機も計算機の集合体で構築するというように、再帰的な計算機を構築することであった。この再帰的な計算機を構築している無数の計算機は、個々の内部には干渉せずメッセージによる通信のみによって相互作用を発生させ目的の計算を完遂させる。 ここでいう計算機が Smalltalk ではオブジェクトという形で実装された。 この設計思想の誕生は、ロバート・S・バートン(英語版)とB5000の設計者らが会談した際の次の発言をアラン・ケイが聞き「計算機の全体を計算機とみなした場合、その計算機の構成要素を計算機に分解するのではなく関数やデータ構造に分解したいと誰が思うのか」と疑問を浮かべた事がきっかけとなっている。 ここで言及された再帰という概念は、オブジェクトの成立以外にも Smalltalk の至るところに影響を与えている。 Smalltalk の言語仕様は原則として非常に単純なため、環境もしくは処理系の相違による互換の有無は、クラスライブラリーの差異程度に由来するもの(ある意味、バージョンの違いもこれも含まれる)から、言語仕様自体の改変に由来のものまで空間的に連続で多岐にわたる。このため、単に Smalltalk として語弊のある場合、一般にその環境および処理系の呼称もしくは商標(必要ならそのバージョン)をして他と区別するために用いる慣習がある。 「"~"」のようにダブルクオーテーションでくくった文字列がコメントとして扱われる。 主な定数表現には次のようなものがある。 定数ではないが、よく用いられるオブジェクトの生成式には次のようなものがある。 言語機能の様に見えるが「/」や「@」などはただのセレクターであり、Smalltalk の使用者も同様の機能を作ることが出来る。 一時変数は宣言が必要で、「|」で挿むように記述する。変数への代入は「:=」。古い処理系では「_」が使用された(字形は「←」)。変数に型はなく全てハンドルになっている。 他の言語で予約語にあたる擬変数は self、super、nil、true、false、thisContext の6つ。self と super はそのメソッドを呼び出したメッセージの受け手(レシーバー)を、nil と true と false はそれぞれ UndefinedObject、True、False に属するソルインスタンス(唯一の実体)を、thisContext は実行中のコンテキスト(スタックフレーム)を参照するのに使える。 self と super は同種のオブジェクトだが、メッセージ式でメッセージレシーバーに指定されたときのメソッド検索の起点が異なり、self ではオブジェクトが属するクラス、super ではその基底クラスである。 Smalltalk では「メッセージ式」と呼ばれる書式でコードを記述する。メッセージ式は「レシーバー」に「メッセージ」を送ることを表すためのもので、そのまま と記述する。メッセージはさらに、呼び出されるされるメソッド(方法)の名前を表す「メッセージセレクター」と0個以上の引数の組み合わせからなる。ただし Smalltalk の場合必ずしもセレクターとメソッド名は一致しない。また、メッセージの送り先はメソッドではなくブロックや外部の関数になっている場合もある。セレクターは引数の数だけコロンを自身に含まなければならず、メッセージとして記述する際にはコロンの直後に引数を挿入する。 引数なしのメッセージを単項メッセージ、そのセレクターを単項セレクターと呼び、引数ありのメッセージをキーワードメッセージ、そのセレクターをキーワードセレクターと呼ぶ。メッセージ記述の際に引数の挿入により分断されたキーワードセレクター断片(例えば firstArg:secondArg: なら firstArg: と secondArg:)をキーワードと呼ぶが、あくまで便宜的な呼び名に過ぎず、そうした言語要素は存在しない。他の言語に見られる「キーワード引数」のように省略できるものではなく、また引数順を入れ替えられるものでもない。 セレクターは原則としてアルファベットと数字と0個以上(かつ、引数と同数)のコロンから成るが、例外として二項演算を模した記述が可能となるように記号のみから成る引数1つのセレクターを使ってメッセージ式を記述することもできる。これを二項メッセージ、そのセレクターを二項セレクターと呼ぶ。 この場合、上の「3 + 4」では、「3」がレシーバーで「+ 4」がメッセージである。 通常の処理系では、単項メッセージ、二項メッセージ、キーワードメッセージの順で評価される。二項メッセージ間で乗除の優先はない。 セミコロン「;」でメッセージ式を区切る事により、1個のレシーバーに対して複数のメッセージを送ることが出来る。これをカスケード式という。 カスケード式を用いて書いた上記の文は、カスケード式を用いない次の文と等価である。 複数の式を順次実行する場合は、式をピリオドで区切る。メソッドを中断し戻り値を指定するには復帰文「^ 戻り値式」を使う。言語機能として持つ制御構文は復帰文を除いて存在せず、復帰文以外の制御は制御構文と同等の機能を持ったメッセージ式で代用する。 ブロックは、他の言語で言えば無名関数やクロージャーに該当する機能である。ただし Smalltalk のブロックは関数ではなくオブジェクトである事に加え、無名関数というより制御構文としての性格が強くなっている。並列実行の基本単位にもなる。 ブロックは、引き数の数毎に複数定義された「value」を含むメッセージを送る事で、ブロック内に記述されたメッセージ式を実行し結果を返す。 ブロック内の:value1 :value2は引き数であり、「|」以降は「value」を含むメッセージが送られた際実行するメッセージ式である。「value」を複数ならべたセレクターは4個程度まで( #value:value:value:value: )しか定義されておらず。5個以上引き数を取る場合は、配列を引き数とする#valueWithArguments:を使う必要がある。メソッドが値を返す際は、復帰文の記述が必要となるがブロックの場合は値を返すのに復帰文は必要ない。最後に実行されたメッセージ送信の結果あるいは、最後に書かれた値が戻り値となる。ブロックは制御の基本となるオブジェクトであるため、「value」を含むメソッド以外にも膨大なメソッドを持っている。ただし、後述する他の制御構文はブロックに対し#valueセレクターまたは、#value:セレクターを使ったメッセージしか送らない。 ブロックにはvalueと合わせてよく使われるセレクターとして「cull」がある。cullの振る舞いは、ほぼvalueと同じであるが、ブロックがメッセージに含まれる引き数を無視できるという違いがある。 cullはブロックによる分岐制御が主目的であるが、分岐の基準になったオブジェクトを参照する場合もあるようなセレクターで使われる。典型的な例は、オブジェクトがnilで無いときだけブロックを実行する#ifNotNil:である。 条件分岐は #ifTrue:ifFalse: セレクターを用いたメッセージ式として、条件式の結果の真偽値へのメッセージ送信の形で次のように記述する。 Smalltalk では nil がオブジェクトである。これを利用した nil 専用の条件式も存在する。 条件分岐の制御において、他の言語でいうswitchに直接該当する文は存在しない。多態性を利用して分岐するか、次のように連想配列を利用して分岐するため不要である。 但し一部の処理系では、次のようなswitchに類似した書き方ができるものも存在する。 反復制御においてfor に直接該当する文は存在しない。代わりに回数を指定した反復がある。回数を指定した反復は、整数型へのメッセージ送信の形で次の様に記述する。 現在の反復回数を参照しながら反復する事も出来る。 for に該当する文は存在しないものの、while に該当する文は存在する。while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 #whileTrue: セレクターは、条件が真である間反復する事を意味している。逆に条件が偽である間反復する #whileFalse: というセレクターも存在する。 また do-while に該当する文も存在する。do-while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 Smalltalk では条件なしの反復も存在する。無条件反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 Smalltalk では、反復方法が複数存在するが、実は全てメソッドの再帰呼び出しによって実装されているという事になっている。ただし、こちらも #ifTrue:ifFalse 同様実際にメソッドの再帰呼び出しとして実行されていない事が多い。 C言語の break や Perl の last に相当する反復脱出は thisContext に対し #return セレクターを使ったメッセージを送る。 thisContext には、引き数を取り、引き数を脱出するブロックの戻り値として返す #return: セレクターや、戻り先のメソッドを指定する #return:to: セレクターなど多数の return 系セレクターに対応するメソッドが定義されており、他の言語には珍しい多様な反復の脱出方法を備えている。 Smalltalk にも例外処理機構が存在する。こちらも、その他の構文と同じくメッセージ式とブロックによって実現されている。例外処理は次の様に記述する。 なお#ensure:は後述のブロックによる資源の開放があるため多用されることはない。 例外の制御はメッセージ送信毎に連結リストとして積み上げられたコンテキスト情報の末端のコンテキスト(メソッドスタック)を表す thisContext オブジェクトを操作し、コンテキストを巻き戻す事で実現されている。複数の例外は、#on:do:on:do・・とon:do:を繰り返し(処理系が定義している限りの数で)記述して補足する事もできるが、次の様に例外の型を,で並べて補足する事も出来る。 なお、Smalltalkでは正常な結果を返せない異常な状態と通知両方を合わせたものが例外である。例外は正常な戻り値を返せない異常な場合と割り込みの様に非同期な通知に利用される。特徴的な点として異常な場合と通知の場合では動作が異なる。異常な場合は他の言語の例外同様、補足しなければその時点で停止しDebugウィンドウに移行するが、通知の場合は補足しなければ例外発生地点から処理を継続する。 Smalltalkでは、標準で並列処理が存在する。並列処理は次の様に記述する。 並列処理はスレッドに類似するプロセスという仕組みにより実装されている。プロセスはSmalltalk環境内で構築された並列処理の仕組みであり、グリーンスレッドで実装されている事が多い。このため、プロセスは論理的に非プリエンプティブなスレッド(グリーンスレッド)を前提しており、現在実行している処理を切り替える切り替え点を必要とする。論理的な前提は非プリエンプティブではあるものの、POSIX環境で動作させたGNU Smalltalkの様に実際はプリエンプティブなスレッドで実装されている場合もある。プロセスは他のプロセスから割り込みとして任意の例外を投げる機能があり(記述方法は環境によって異なる)、切り替え点はプリエンプティブなスレッドを使う場合でも例外の発生地点として機能する。 Smalltalk は、クラスの定義をメッセージ式による実行環境へのクラスオブジェクトの登録として実現する。他の言語と異なりクラスオブジェクトの登録は単なる定義ではなく実行環境に対する操作である。1度クラスオブジェクトを登録してイメージファイルを保存すると、明示的にクラスオブジェクトを削除しないかぎりはクラスオブジェクトがイメージファイルに残り続ける。Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトの登録は次の様に記述する。 poolDictionaries と category を除いては、C++ から派生した言語のクラス定義と概ね同じである。インスタンス変数はインスタンスメソッドのみから参照でき、クラス変数はクラスメソッドとインスタンスメソッドから参照できる。他の言語と異なりインスタンス変数をクラスメソッドから参照することはできない。 Smalltalk におけるクラスの作成は、特殊構文ではなく単なるメッセージ送信である。クラスを登録する際のメッセージは、上記の例のように次のセレクターを使用することが多い。 しかし、クラスの登録はあくまでメッセージであり自由に作れるため、実行環境には大抵その他のメソッドが用意されている。例えば、近代的な Smalltalk 環境の一つ Pharo では、次のセレクターに対応したメソッドが用意されている。 クラスオブジェクトには、クラス変数とは別途、クラスオブジェクトが Class クラスから派生したインスタンスとして状態を持つためのインスタンス変数がある。このクラスオブジェクトのインスタンス変数はクラスオブジェクト内だけで共有され、インスタンスオブジェクトからは直接使用できない。 Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトのインスタンス変数の登録は次の様に記述する。 クラスオブジェクトがもつインスタンス変数には変数を登録した基底クラスと派生クラスで別々の変数領域が確保されるという特筆すべき点がある。これを使用して下記の様にクラスに所属するオブジェクトだけを保持する変数としてつかったりする事ができる。 メソッド(処理方法)の登録は、コード文字列を引数として与えたクラスへのメッセージ送信でも行えるが、通常は環境に組み込まれたクラスブラウザ(システムブラウザ)と呼ばれるGUIツールを用いる。 メソッドは、「メッセージパターン」と呼ばれるメッセージ式のメッセージ部分を模した書式に続けて0個以上のメッセージ式を連ねることで記述する。例えば、前出の、レシーバーか引数を比べてより小さな方を返す「min:」というメソッドの登録は次のようなものになる。 一行目の「min: anOtherObject」がメッセージパターンで、メソッド名(セレクター)と仮引数となる擬変数の宣言を兼ねる。念のためここでメソッド名は「min:」、仮引数となる擬変数名は「anOtherObject」である。仮引数は仮引数自体の書き換えは不能なハンドル渡しとなっている。メッセージパターンのあとに処理を続けて書くこともできるが、通常は行を改めて(さらに、ここでは省いたが慣習としてメソッドの説明をするコメントを書き、それに続けて)処理を記述する。 なお、メッセージパターンのみで具体的な処理を記述せずにメソッドを登録した場合を含め、復帰文による明示的な戻り値の指定が無い場合、メソッドは戻り値として常に self を返す。したがって Smalltalk では値を返さないメソッドを書くことはできない。 Smalltalkは、多くの動的型付け言語やDelphiの様にクラスがオブジェクトである。このためSmalltalkではインスタンスオブジェクトと同様にクラスオブジェクトを変数に束縛してメッセージを送ることができる。 クラスオブジェクトは、オブジェクトにclassメッセージを送ることでも取得できる。 Smalltalk のブロックは一種の制御構文であるという性質上、復帰文が他の言語と比べ極めて異質な振る舞いをする。 上記のメソッドを登録したオブジェクトに#example セレクターを使ったメッセージを送ると結果としては何が返ってくるか。Smalltalk 以外の言語では 0 が返ってくるのが一般的であるが Smalltalk では 1 が返ってくる。Smalltalk はブロック内の復帰文からでもメソッド自体を抜けることができるようになっている。この例では、「block value.」を評価し、block 中の「^ 1.」で制御が戻ると example 自体も中断して結果を返す。そして example は戻り値として block が戻した 1 を戻すようになっている。 上記の様なメソッドをまたいでブロックを評価する場合はどうなるだろうか、この場合も Smalltalk は example の戻り値として block の戻り値である1を返す。Smalltalk はブロック内で復帰文が実行された際、ブロックの生成地点の呼び出し元までコンテキストを巻き戻すようになっている。この特性により Smalltalk では、#ifTrue:ifFalse: セレクターを使った分岐でメソッドを中断したり #repeat セレクター等を使った反復処理を復帰文だけで中断する事ができるようになっている。 ただし、上記の様にブロックを生成したコンテキストと、ブロックを評価する際のコンテキストが枝分かれする様な場合は復帰文を実行する事はできない。この場合は BlockContext が例外を出力し処理が停止してしまう。 メソッドに対する注釈(Pragma)は、メッセージ式だけではどうしても実現が難しい機械語でしか記述できない演算子の実装や主記憶領域の確保、仮想機械外部との入出力等の実現や、特定の目的のメソッドを自動で列挙するといった目的で使用される特殊構文である。いくつかの注釈はSmalltalk環境に組み込まれているが、利用者やライブラリーの提供者が注釈を定義する事も出来る。 メソッドに対する注釈はメソッドの翻訳時に評価されるため、メソッドにしか記述でない。Behaviorのevaluate:による評価などメッセージ式をメソッドの外部で評価する場合は、評価対象の式に注釈を含める事はできない。具体的にはSmalltalk環境のWorkspaceに注釈を記述して評価するとエラーとなる。 メソッドに対する注釈は次の様に記述する。 <と>で囲まれた範囲は、メッセージ式のメッセージ部分と同じになる。但し引き数を取らない注釈の記述はできない。 次にメソッドに対する注釈の具体例を挙げる。注釈はSmalltalk環境によって異なり、どの環境でも次の注釈が使えるわけでない事に注意すること。 Smaltallkでは、Smalltalk環境全体で参照できる大域変数を作成する事が出来る。大域変数は同じく大域変数であるSmalltalk変数に格納されたSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトにメッセージを送って作成する。また、大域変数の削除もSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトに対するメッセージ送信となっている。 SmalltalkImageは一種の連想配列であり、Smalltalkの大域変数は、Smalltalk変数を介す事で連想配列として操作する事が出来るようになっている。 なお、Smalltalkのクラス名と大域変数は同じものであり、クラス名にオブジェクトを代入すれば、そのクラスを破壊してしまうことが出来る。また、Smalltalkオブジェクトが格納されたSmalltlak変数もオブジェクトを代入し破壊する事が出来る。このように大域変数を代入により破壊してしまった場合は、最悪Smalltalk環境が起動しなくなる事態に陥り非常に危険である。このためSmalltalkではよほどの理由がなければ大域変数を使うべきではない。 プール辞書は、クラスの変数として連想配列または、他のクラスオブジェクトのクラス変数を取り込むという機能である。取り込む連想配列の要素やクラスオブジェクトのクラス変数はプール変数と呼ばれる。連想配列やクラスオブジェクトは大域変数でなくてはならない。 プール辞書には複数の連想配列やクラスオブジェクトを指定できるが、プール変数が重複した場合は、先に指定した連想配列やクラスオブジェクトのプール変数が使われる。 Pharo, GNU Smalltalkといった近代の環境では、定数以外に式の結果を指定可能な非定数要素の配列定数を使用できる。配列の要素は空白ではなく.で区切る。 継続渡し形式を支援する機能として継続があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。もっぱら反復の中断や、メソッド内の処理を飛ばすために使われる。継続の使用は次の様に記述する。 遅延評価を支援する機能として生成器があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。生成器はCoroutineにも利用できる。生成器の使用は次の様に記述する。 生成器を使って処理を作ることは多くないが、配列などを使用する際、間接的に使用していることが多い。 Smalltalk のプログラムは基本的に中間言語としてイメージファイルの中に格納され、ソースコードの編集は Smalltalk のGUI環境から行われる。このため基本的にファイルという形で Smalltalk のソースコードやプログラムを目にすることはない。しかし、ソースコードの交換目的などでどうしても Smalltalk 環境外でソースコードを管理する必要がある場合に備えファイル用の構文が存在する。ファイル用の構文は次のようになる。 本来他の言語の様なブロックが存在しないため、ブロックとして「!」が使用される。クラスの登録は「!」の一組で囲まれる。メソッドはプロトコル毎に「 クラス名 methodsFor: 'プロトコル' ! 〜 !!」というブロックで囲まれる。一つのプロトコルには複数のメソッドを定義でき、メソッド同士は一個の「!」によって区切られる。 ちなみに、クラス登録は単なるメッセージ送信であり特別な文ではないため、登録用ブロック外にも次のように単純なメッセージ送信の記述に使用する事が出来る。 ファイル用構文で記述されたメソッドの登録は、可読性や記述性の面からメッセージ式からかけ離れた変則的な構文が使用される。しかし、この変則的な構文を用いなければメソッドを登録できないわけではなく、次のように通常のメッセージ式でメソッドを登録する事も出来る。 上記では、クラスオブジェクトExampleのプロトコルInstance Methods Cに対し、メソッドselectorCを登録している。 Smalltalk において、継承とは特殊な委譲に過ぎない。 このため、例えば上記のクラスオブジェクトの生成では、Derived クラスオブジェクトの基底クラスオブジェクトとして Object を指定しているが、処理系によっては下記の様に #superclass: メッセージを送る事で、基底クラスに別のクラスオブジェクトを指定する事が出来る。 処理系により不可能な事もあるがクラスオブジェクトだけでなく、インスタンスオブジェクトから派生することも出来る。 なお通常、派生元の基本となるProtoObjectやObjectはnilから派生しており継承関係は再帰的に循環している。 Smalltalk において、メッセージ、セレクター、メソッドはそれぞれ別物である。C++ 系統の言語の様にオブジェクトに対しメッセージを送るという事は単なる比喩ではない。 あるオブジェクトに対し #hello というセレクターを使ったメッセージを送る事を考える。この時、Smalltalk においては hello というメソッドが必ず呼ばれる保証はない。例えば「hello」メッセージを受け取るオブジェクトが hello メソッドを実装していなければレシーバーに指定されたオブジェクトの doesNotUnderstand: メソッドが呼ばれる事になる。 なお、多くの Smalltalk の処理系では doesNotUnderstand: の引き数で得られたメッセージを返すだけのクラスが用意されている。例えば Smalltalk 環境のひとつである Pharo ではメッセージ作成用クラス MessageCatcher が用意されており次のようにメッセージを拾い、他のオブジェクトに渡すことが出来る。 また、セレクターとメソッドが独立していることを利用して一つのメソッドを複数のセレクターに結びつける事もできる。 メッセージにはセレクターと引き数が含まれている。このため受け取ったセレクターと引き数を編集する事も出来る。 プログラミング言語一般の概念として型検査をソースコードの翻訳時に実行するか、実行時に実行するかにより静的型付けと動的型付けという区分が存在するが、Smalltalkは、そのどちらでもなく型なし言語(英: untyped)に区分される。Smalltalk の場合、変数に対する操作は全てメッセージ送信であり、変数の種類(型)毎にできる操作は決まっていない。また、オブジェクトに対しメッセージを送った場合、そのオブジェクトがメッセージに対応するメソッドを持っていなくとも実行環境がエラーを発生させる事はない。メッセージに対応するメソッドが存在しない場合、例外を出すか無視するかは、クラスに実装されたメソッドの内容次第である。したがって Smalltalk には型付けの概念はない。例えば、Pharo の MessageCatcher は全てのメッセージを拾うため、どんなメッセージを与えられても例外が発生することはない。また、GNU Smalltalkではnilから派生したクラスのオブジェクトに存在しないメソッドに対するメッセージを送ると何も反応しない。ただし高速化のため後述の特殊セレクターを使用した場合実行時に型検査する処理系が多い。ちなみに Smalltalk は基本的に中間言語に翻訳され、翻訳時にエラーを発生させるため構文検査は静的である。 制御構文の節で述べた通り、Smalltalkの殆どの制御構文はメッセージ式である。Smalltalkに明るくないプログラマーからは言い方や見方を変えただけと捉えられがちである。Smalltalkの制御構文は実際にメッセージであるがゆえに究極には制御構文の構文要素を次のように変数に分解してしまうことが出来る。 変数に分解した分岐制御の例: これらの変数に分解された構文要素は、どのクラスのオブジェクトで無いといけないという制限はない。送られたメッセージを処理することさえ出来ればあらゆるオブジェクトに置き換える事が出来る。 Smalltalkでは高速化のためいくつかのメッセージを特別扱いする。これを特殊セレクター(英: special selector)という。 典型的な例は#ifTrue:ifFalse:である。下記のコードはでは「ifTrue: [5] ifFalse: [6]」を評価した時にメッセージが送られる訳ではなく、バイトコードレベルでインライン展開され飛越し命令の表現に置き換えられる。このため実際にifTrue:ifFalse: という名のメソッドが呼ばれることもない。また、trueやfalse以外に上記のようなBoolean用のメッセージを送ると処理系によってはMustBeBoolean例外を発生させる。このように頻繁に使用する分岐や反復を特別扱いすることで性能低下を防いでいる。 セレクターと名がつくが特殊セレクターは、特別扱いする条件が引数の状態を含んでおり、たとえ同じセレクターを使ったメッセージでも引数が条件に一致しなければ特別扱いしない。例えば下記のように引数に直接ブロックを指定していない場合では多くの処理系(VisualWorks, GNU Smalltalk等)は特別扱いせずメッセージ送信を実行する。 特殊セレクターはあくまで高速化の手段であるため種類は処理系によって異る。どの処理系が何を特殊セレクターとして扱うかは処理系ごとに提供される説明資料に記述されている。 またPharoのように設定から特殊セレクターを通常のメッセージ送信に切り替えられる処理系も存在する。 クラスオブジェクトもオブジェクトであるため、所属するクラスが存在している。クラスオブジェクトが所属するクラスはMetaclassというクラスのインスタンスオブジェクトである。 Metaclassも当然ながらクラスに所属しており、再帰的にMetaclassに属するようになっている。 クラスオブジェクトが所属するMetaclassのインスタンスオブジェクトは特殊なオブジェクトであり、クラスの継承階層と同様に継承階層を持っている。 クラスオブジェクトはMetaclassから生成された単なるオブジェクトで有ることから、Smalltalkが標準で提供するクラスオブジェクトとは異なる独自の構造をもったクラスオブジェクトを作ることができる。 例えば以下のようにメソッドの代わりにブロックを持つ無名クラスを作成することも出来る。 文法の節で述べた通りSmallatalkでは定数も全てオブジェクトである。どんな定数であれ#classや#inspectといった基本的なセレクターを使ったメッセージを受け取ることが出来るため、基本的な操作であれば定数と他のオブジェクトを区別する必要はない。 Smalltalk は、任意の広さで確保した領域を持つ可変長オブジェクトを作ることが出来る。Smalltalkには配列を表わすためArray等が存在するが、これらのクラスオブジェクトは可変長オブジェクトを使って構築されている。可変長オブジェクトの領域は、オブジェクトの生成したときの一度だけしか広さを指定できない。また、クラスオブジェクトの登録時にvariable〜で始まるセレクターを使っている必要がある。 Smalltalk は、ハンドルとごみ回収機能(ガーベッジコレクター)の全面的な導入によりハンドルテーブルの書き換えを利用した特殊な制御を提供している。 ハンドルが参照している記憶領域上のテーブルを書き換えることによりSmalltalkは、あるオブジェクトを参照している全ハンドルの参照先を一気に変更することができる。ハンドルテーブルの書き換えには#become:を用いる。ただし、数字や文字列といった定数オブジェクトは置き換えることはできず、定数を置き換える際は定数を保持しているオブジェクトを置き換える必要がある。 #become:を使っている良い例はクラスオブジェクトの再登録である。Smalltalkではクラスオブジェクトはインスタンスオブジェクトが生きている間でも再登録可能でなければならず、インスタンスオブジェクトを生きたままクラスオブジェクトを再登録するために使われている。 弱参照は参照カウント方式を使う言語でよくライブラリーとして実装されるがSmalltalkではハンドルの制御を用いた言語機能として用意されており相互参照しているが不要になっているオブジェクトを迅速に解放するために使われている。弱参照には#makeWeakを用い、#makeWeakを受け取ったオブジェクトは弱参照となる。 カゲロウ(Ephemeron)は、どこからも参照されなくなった連想配列の要素を解放するために導入された記憶領域の管理機構でありSmalltalkで初めて実装された。例えば連想配列の添字として#keyがあったとして、#keyが連想配列以外の変数で参照されていなければ連想配列の要素は必要ない。このように不要となった要素を解放するために用いる。オブジェクトをカゲロウ状態にするには#makeEphemeronを用いる。 ここでは連想配列の要素としてよく使われるAssociationを例としているが、カゲロウが消滅する基準は最初のインスタンス変数でクラスに依存しないためどんなクラスでもカゲロウにすることができる。 変数を表す識別子については、1文字目に大文字と小文字のどちらを使うか、大域変数か否かを基準にして決めることが慣習になっている。 環境自体も大文字小文字の使い分けを認識しておりメソッドを翻訳する際小文字の変数は局所変数かメンバーとして定義していないと、警告が発生したり翻訳失敗になる。 クラス名が大文字から始まるのは、クラス名が大域変数だからである。 よく使われるクラス以外の大域変数: セレクターを表す識別子については、基本的に1文字目に小文字を使うが、メソッドが存在するセレクターを避けたい場合は大文字を使う事が慣習になっている。 GNU SmalltakやVisualWorksで用意されている名前空間は、大文字のセレクターを使う典型的な例である。 なお、名前空間が使える環境の多くは、翻訳時に名前空間の名前解決できる「.」区切りの拡張構文が用意されており、実際にはこちらの構文が使われることが多いため、セレクターを使った名前空間の指定を見る機会は少ない。 オブジェクトの生成には #new セレクターを使ったメッセージを使う。他の言語と違い、new は演算子ではない。 Smalltalk ではクラスオブジェクトのメソッドもインスタンスオブジェクトのメソッドと同様に派生クラスによる再定義が可能である。このため new メソッドを再定義し初期化処理を記載する事が出来る。new メソッドを再定義してしまうとオブジェクトの生成自体が不可能になるように思われるが、本来 new メソッドは #basicNew セレクターを使ったメッセージをBehavior に送ってオブジェクトを生成しているためオブジェクトの生成手段がなくなるわけではない。このため new メソッドを再定義しても 「basicNew」メッセージをBehaviorに送ることでインスタンスオブジェクト生成することが出来る。 ただし、実際の初期化に new メソッドが使われる事は多くない。実際には慣習としてクラスの作者が新たに登録したインスタンス・クリエイションと呼ばれる new とは別の初期化用メソッドが使用される。インスタンス・クリエイションは一般的なクラスオブジェクトのメソッドであり、そのメソッドの内部で 「new」メッセージやその他のインスタンス・クリエイションを使って初期化済みのオブジェクトを生成する役割を持っているだけで基本的にその他のメソッドと変わらない。一般的にinstance creationというプロトコルに登録される。 Smalltalk では1個のセレクターに対し1個のオブジェクトから複数のメソッドを関連付けられないため 「new」メッセージの送信によりできる初期化は1個のオブジェクトにつき一通りの初期化だけである。このため複数のインスタンス・クリエイションを用意することで用途に応じた複数の初期化方法を提供しているのである。インスタンス・クリエイションは一般的なメソッドのひとつでしかない。このためインスタンス・クリエイション持つクラスオブジェクトはアブストラクト・ファクトリーとして機能する。 具体的には次のように使われる。 また、Smalltalk はクラスメソッドを上書きできるため、インスタンス・クリエイションを次の様に実装する事で基本的な初期化処理を派生元のクラスに任せることができる。 上記は、2次元座標用のクラスオブジェクトのインスタンスオブジェクトを初期化する派生元のクラスオブジェクトに実装されたインスタンス・クリエイションである。このクラスオブジェクトを継承した2次元座標用のクラスオブジェクトでは#x:y:セレクターを使ったメッセージに対応するメソッドを実装する必要はない。インスタンス・クリエイションを利用したパターンは Smalltalk では広く利用され、いたる所で見ることが出来る。 Smalltalk では、単一の値を出し入れするメッセージの事を特にアクセッサ―と呼ぶ。引き数の有無により値の入出の方向を区別する。 例: Smalltalk においてアクセッサーはその他のメソッドと役割に違いはなく特別な意味を持たないが、プロトコルとして明示的に accessing()として登録される点が特徴的である。 Smalltalk においてアクセッサーはインスタンス変数の出し入れや、クラス変数の単純な出し入れに使用される事は多くない。Smalltalk においてアクセッサーは次の用途でよく使われる。 定数は、単に定数を返すアクセッサ―で定義する。C言語の影響を受けた言語のように定数を#defineや変数で定義するという慣習はない。 Smalltalk では、非常に利用頻度の低いインスタンス変数やクラス変数を管理する方法として附帯情報(英: property)というパターンが使用される。附帯情報はインスタンス変数やクラス変数などの内部変数の代わりに連想配列によりオブジェクトを保持する仕組みである。 附帯情報の使用例: 附帯情報が有効な身近な例としてはXMLやHTMLのタグ属性が挙げられる。例えばHTMLの id 属性や onClick といったイベント属性は、必ずしも全てのタグで使用されることはない。特にイベント属性については一つのHTML上に一切記述されない事もよくある。この様な使用頻度の低い属性のためにオブジェクトに一個一個変数を定義するのは記憶領域の無駄である。ましてや onClick、onMouseDown、onMouseUp等大量に属性があればこの無駄は馬鹿にならない。この様な無駄を省くために Smalltalk では附帯情報というパターンがよく使用される。 全てのインスタンス変数やクラス変数は原理的に全て附帯情報によって表現することが出来る。この点に着目しオブジェクトに所属する変数を全て附帯情報に置き換えた言語が後の Self であり、JavaScript である。これらの言語でオブジェクトに所属する変数をプロパティーと表現するのは、この Smalltalk における附帯情報(プロパティー)に由来するもので、附帯情報の仕組みの有無に関わらずインスタンス変数やクラス変数をプロパティーと表現するのは間違いである。 附帯情報は Self や JavaScript においては当たり前の様に使用されている。しかし、Smalltalk においては附帯情報を多用する事はデバックを著しく困難にするため不適切な作法とされており、HTMLの属性の様に本当に使用頻度の低い変数だけを附帯情報で扱い、常用する変数に附帯情報を乱用すべきではないと言われている。例えば変数は統合開発環境の機能で使用箇所を把握できるが附帯情報では使用箇所をアクセッサーに限定しない限り追跡不可能になる。また、附帯情報では変数の変化に反応するブレークポイントを仕掛けることも難しい。 Smalltalk 以外の言語において、配列の範囲外にある配列要素の操作や、値の代入されていない連想配列の操作は、次の例のように操作の前に一旦判定を行なって例外処理するか、例外機構を利用する方法が一般的である。 一方 Smalltalk では、配列の範囲外操作の様に単純で頻発するような処理では、次のように予めメッセージに例外処理をブロックとして渡してしまう方法が一般的である。 予め例外処理をメッセージに含めることで、単純な例外処理をより簡潔なものとしている。 この方法は、Smalltalk 独自の復帰文と組み合わせる事でより柔軟な制御をする事ができる。 次の処理は、連想配列に値が見つかればそれを表示し、値が無ければ何もしないという処理であるが、処理の中断の判定と連想配列からの値の取り出しを一度のメッセージ送信だけで実現している。 Smalltalkでは、ブロック内だけ資源を確保しブロックの終了後に資源を開放するというブロックによる資源の開放が行われる。ブロックによる資源の開放では、資源の確保と同時に資源の開放を強制できるため開放忘れや例外による開放漏れを防ぐことができる。C#のusingに類似するが、usingを書き忘れたままnewできない分さらに強力である。 Smalltalk は反復処理のための基本構文を備えているが、ある値の生成器(入出力等)やある集合要素から要素を取得するときに基本的な反復構文を使う事は稀である。Smalltalk では、値を列挙するために値の生成器や集合要素に送るべきメッセージが概ね決まっており、値を取り出す際は極力、列挙メッセージ(英: enumerating)を使用する事が作法となっている。 次に列挙メッセージの送信例を示す。 配列に対する列挙メッセージの例: 実行結果: 数値に対する列挙メッセージの例: 実行結果: 列挙メッセージで使えるセレクターは #do: の様に全ての要素にブロックを適用するだけの単純なセレクターだけでなく、現在の集合要素の要素を操作した上で新しい集合要素を作成する #collect: や、集合要素から条件に一致する要素だけを抜き出し、新しい集合要素を作り出す #select:、集合要素の中から特定の要素を見つけ出す #detect:ifNone: など様々なセレクターがある。処理系によっては #groupBy:having: などSQLに類似したセレクターに対応するメソッドを多数用意しているものもある。Smalltalk では集合要素や値の生成器自体にこれらのメッセージを受け取れるよう実装する事で、集合要素のデータ構造や、生成器の入力元などの構造に依存せず最適な反復処理を実現できるようになっている。これらの列挙機能は近年の言語において foreach やyeild、LINQ等言語機能として賄われつつあるが Smalltalk においては、単にライブラリーの慣習として実現されている所が特徴的である。 Smalltalkでは一般的にオブジェクトに#as〜というセレクターを使ったメッセージが送られた場合、オブジェクトを別のクラスのオブジェクトに変換する。例えば次の様な変換がある。 Stringの変換による具体例(変換結果は処理系依存): オブジェクトを別のオブジェクトに変換するメソッドやメンバー関数が用意されている事は、Smalltalkに限らず他の言語でも一般的であり珍しい事ではない。Smalltalkの慣習として特徴的なところは、既存のクラスにこのオブジェクトの変換をユーザーやライブラリーの作者が自由に組み込んでいる所である。例えばSmalltalkの処理系であるPharoでは、初期状態で基本的なクラスであるStringに54個ものas〜で始まるメソッドが定義されている。この大量の変換メソッドは、メソッド追加した際すぐに影響を判断できるためメソッド追加に対し寛容的なSmalltalk独特の空気を象徴している。しかし、既存のクラスにメソッドを追加すればライブラリーを併合した際、意図しない衝突を生むため多用は避けるべきであるとの意見も存在する。 オブジェクトの変換はただオブジェクトの内部表現の変換だけでなく情報の加工にも使われる。 オブジェクト変換による具体例: イベントハンドラーを定義する方法として、Smalltalkでは次のようにセレクターと、レシーバーとなるオブジェクトを指定する方法が一般的である。 同様にイベントハンドラーを指定する別の方法としては、ブロックを指定する方法が考えられる。しかし、イベントハンドラーにブロックを使う方法は、セレクターとオブジェクトを指定する方法のようにinspectだけでブロックを抱えたオブジェクトがどんな処理を実行するか判断できないうえ、ほとんどの環境はブロックの直列化に対応しておらず直列化もできなくなってしまうため、Smalltalkの文化においては避けるべきとされる。 このセレクターとオブジェクトを指定したイベント処理の方法は、Objective-Cの文化にも引き継がれておりCocoa等のライブラリーにて頻繁に目にすることができる。 Model View Controller(MVC)は Smalltalk から生まれた、制御(コントローラー)と情報(モデル)、そして情報の表現方法(ビュー)の3つを分離しクラスオブジェクトの再利用性を高め、実行時に情報と表現の組み合わせを変更できるようにした設計方針である。Smalltalk の世界でMVCは更に表現を担当するクラスに既定の制御を取り込む仕組みを持たせることで PluggableMVC へと発展した。 Smalltalk はクラスライブラリーの基礎部分からMVCやMVCから派生した設計方式で使用されるモデルの構築を支援する仕組みを持っており、Smalltalk 以外の言語と比べモデルの構築が格段に楽になっている。次にモデルの動作を確認する最低限のコードを示す。 モデルの登録: モデルの監視側登録 動作の確認: モデルの支援機構は全て Object クラスオブジェクトに実装されており、全てのオブジェクトはモデルとして動作する。つまりクラスオブジェクトもモデルとして使用できるようになっている。 PluggableMVC は Self へと場を移し、表現と制御そして、表現対象となる情報を1個のオブジェクトで兼任する Morphic(英語版) として再設計された。Self によって発展した Morphic は Smalltalk に移植されSqueak系統の Smalltalk 環境で基本GUIシステムを構築している。Self の Morphic はウェブブラウザ―のDOMや JavaScript に大きな影響を与えている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "■カテゴリ / ■テンプレート", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Smalltalk(スモールトーク)は、Simula のオブジェクト(およびクラス)、LISPの徹底した動的性、LOGO のタートル操作や描画機能に、アラン・ケイの「メッセージング」というアイデアを組み合わせて作られたクラスベースで手続き型の純粋オブジェクト指向プログラミング言語、および、それによって記述構築された統合化プログラミング環境の呼称。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Smalltalk で一語であり、「Small Talk」「SmallTalk」などは誤りである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大規模な開発実績としてはCargill Lynx Projectがあり、国産製品の開発実績としてはMCFrameがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で1970年代に約10年かけ3世代(Smalltalk-72、76、80)を経て整備された。当初は、ダイナブックである Alto() のオペレーティングシステム的位置付けだったが、Alto のゼロックス社製品としての販売の可能性が同社上層部決定により完全に排除されたこと、発案者であるアラン・ケイの研究開発グループ離脱などを受けてダイナブック色は失せ、Alto のハードウェア技術を基にした商用マシン上で動作するプロの開発者向け統合化プログラミング環境「Smalltalk-80」として1983年に発売されることになる。現在はシンコムより VisualWorks()という製品名で主要なオペレーティングシステム向けに販売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "※この節はを元に執筆されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "豊富で整備されたクラスライブラリーは、特にオブジェクト指向プログラミングの手本とされ、デザインパターンの宝庫と称されるまで洗練されたものになっている。また、後世の多くのオブジェクト指向プログラミング言語に直接間接的に多大な影響を与えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アラン・ケイが「オブジェクト指向」という言葉を創った当初は、Smalltalk システムが体現した「パーソナルコンピューティングに関わる全てを『オブジェクト』とそれらの間で交わされる『メッセージ送信』によって表現すること」を意味していた。しかしのちに、C++ の設計者として知られるビャーネ・ストロヴストルップが(自身、Smalltalk の影響は受けていないと主張する)C++ の設計を通じて整理し発表した「『継承』機構と『多態性』を付加した『抽象データ型』のスーパーセット」という考え方として広く認知されるようになった(カプセル化、継承、多態性)。現在は、両者の渾然一体化した曖昧な概念として語られることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Smalltalk は、オブジェクトへのメッセージ送信を率直に記述する表記の特殊性や、制御構造をもたずオブジェクトへのメッセージ送信の形で記述する徹底ぶりとも併せて、C言語や C++ などの流れを強く受け継ぐ言語、およびその開発手法に慣れた開発者にとって極めてとっつきにくい言語・環境であるといわれている。このことは、Smalltalk が単なるプログラミング言語ではなく、従来のオペレーティングシステムの概念をも包括する「環境」であることが一つの理由である。Smalltalk を単なる言語としてとらえると、他の言語と比較したとき、使用するオペレーティングシステムのグラフィカルユーザインターフェースに全く従わないなど、その独自性が大きな「欠点」として映る場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これは VisualWorks や Squeak() など、旧来の Smalltalk 環境、つまりダイナブックコンピュータ環境の要素を引き継ぐ統合開発環境を通じて Smalltalk 言語や処理系を学ぶなら、多かれ少なかれ新たなオペレーティングシステムに接するような心構えを持つべきことを意味する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Smalltalk 環境から見た Smalltalk 言語は、いわば bash などのシェルに近い。Smalltalk 環境内であればどこでもマウスで選択した文字列を Smalltalk のソースコードとして実行できるためシェルにコマンドを打ち込んだ時の様に簡単な問い合わせをすぐ実行できるようになっている。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "例えばオブジェクト(クラスやメソッドも含む)の構造を調べたければ、そのオブジェクトに#browse()セレクターあるいは#inspect()セレクターを使ったメッセージ式を書き、そのメッセージ式をマウスで選択してdo it(WindowsであればCtrl+Dを押す)すれば良い。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、設定値の指定に Smalltalk 言語のメッセージ式が使われる。現在設定されている値がメッセージ式として取得でき、値の設定をメッセージ式として指定する。この設定値を指定するメッセージ式は Smalltalk 環境の実行中に設定用のウィンドウから入力される。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Smalltalk 環境は、Smalltalk 環境の実行方法として現実のハードウェアに依存している機械語命令を使わず、現実のハードウェアから独立した中間言語命令(仮想機械に対する機械語命令)を仮想機械により実行する仮想機械方式を採用している。 Smalltalk の中間言語命令は、全てイメージファイルというファイルに書き込まれ Smalltalk の仮想機械はそのイメージファイルを読み込んでSmalltalk 環境を実行する。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この仮想機械方式による Smalltalk の実行方法は Smalltalk の言語仕様にも含まれている。 なお、Smalltalk が導入したこの仮想機械方式はEULERのpコードマシンからアラン・ケイが着想を得たものである。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "イメージファイルは、Smalltalk 環境の実行状態をそのまま保存したファイルである。イメージファイルは Smalltalk 環境実行中に生成された全てのオブジェクトを直列化して保存することでSmalltalk 環境の実行状態を保存している。この直列化されたオブジェクトには、Smalltalk の中間言語も含まれている。イメージファイルに含まれる中間言語命令は、Smalltalk 自身によって記述されたコンパイラーによってソースコードから翻訳された、バイト列のオブジェクトである。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Smalltalk の実行環境が全く存在しない初期の状況ではコンパイラーも仮想機械も Smalltalk で用意する事はできない。このため Smalltalk の初期段階ではALTOのアセンブリ言語によりコンパイラーや仮想機械が実装されていた。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Smalltalk環境は翻訳方式を使う処理系としては珍しくプログラムの実行時書き換えを基本とする。例えば後述のClass Browserに入力したプログラムはソースコードを中間言語に変換したあとSmalltalk環境の一部として取り込まれ、環境を再起動したり読み込み操作をしなくても起動中のSmalltalk環境内で実行することができる。C++のような翻訳式の言語であれば原則、ソースコードを書き換えた場合は原則プログラムの再起動が必要となる。またPythonの様な言語ではソースコードを再読み込みする処理を予め書き換えたい処理の呼び出し元に組み込んでおかなければソースコードをいくら書き換えても動作に反映できない。Smalltalkではその再起動や再読み込み処理の組み込みが必要ない。このため環境をソースコードを書き換える都度環境全体を再起動しなくて済むのはもちろん、Windowを表示するプログラムを作った場合であれば、Window内のButtonの動作を変更する時もWindowを表示したままソースコードを書き換えて動作を変更できる。このためButtonを押すまでに複数の手順が必要なプログラムやWindowの表示に時間がかかるプログラムでもButtonを表示した状態から再起動せず何度でもやり直しができ効率的なソースコード変更が可能になっている。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "GUIを使わないような特殊なものを除き、大半のSmalltalk環境では次のようなGUIツールが用意されている。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Smalltalkの開発ではこれらのツールを使って開発する事が半ば前提となっている。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "Smalltalk環境内に存在する全てのクラスを(存在する場合は名前空間も)表示/編集できるツールで、Smalltalk開発において中核となるツールである。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "言うなれば出力しかできないコンソールといったツールで、プログラムの実行結果を簡易的に表示したいときに使われるツールである。Smalltalk環境内でTranscript変数に書き込まれたメッセージは、全てこのTranscriptに表示される。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "言うなればコンソールの入力側とテキストエディターを組み合わせた様なツールである。一見すれば書いたコードを実行できるだけの簡易的なテキストエディターにしか見えないが、WorkspaceはWorkspace変数というWorkspace固有の変数を持っており、Workspace内で実行されたSmalltalkコードの実行結果を保持することができる。このため、長いコードを書くような用途では使わず、Smalltalk環境に対するパッケージの追加や、環境設定、ファイルの一時的な操作など一時的な操作を実行する場所として使われる。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "オブジェクトの内部構造を再帰的に表示するツールである。また、多くの場合オブジェクトの編集が可能でありWorkspaceと組み合わせてオブジェクトを組み立てていくことが可能である。例えば画面部品をWindowを表すオブジェクトに組み込み、クラス変数に格納するといった具合である。Inspectorに限らずSmalltalk環境全体に共通することであるが、オブジェクト内の変数を表示するときは内部構造そのままではなくオブジェクトの文字列表現で表示する。このため内部がHash map等複雑な構造になっている場合でもDictionary (#key -> 'value' )といった読み易い表示となる。", "title": "環境および処理系としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "言語として Smalltalk が目指したもの。それは計算機を計算機の集合体として構築し、さらに計算機を構成する個々の計算機も計算機の集合体で構築するというように、再帰的な計算機を構築することであった。この再帰的な計算機を構築している無数の計算機は、個々の内部には干渉せずメッセージによる通信のみによって相互作用を発生させ目的の計算を完遂させる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここでいう計算機が Smalltalk ではオブジェクトという形で実装された。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この設計思想の誕生は、ロバート・S・バートン(英語版)とB5000の設計者らが会談した際の次の発言をアラン・ケイが聞き「計算機の全体を計算機とみなした場合、その計算機の構成要素を計算機に分解するのではなく関数やデータ構造に分解したいと誰が思うのか」と疑問を浮かべた事がきっかけとなっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ここで言及された再帰という概念は、オブジェクトの成立以外にも Smalltalk の至るところに影響を与えている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Smalltalk の言語仕様は原則として非常に単純なため、環境もしくは処理系の相違による互換の有無は、クラスライブラリーの差異程度に由来するもの(ある意味、バージョンの違いもこれも含まれる)から、言語仕様自体の改変に由来のものまで空間的に連続で多岐にわたる。このため、単に Smalltalk として語弊のある場合、一般にその環境および処理系の呼称もしくは商標(必要ならそのバージョン)をして他と区別するために用いる慣習がある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「\"~\"」のようにダブルクオーテーションでくくった文字列がコメントとして扱われる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "主な定数表現には次のようなものがある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "定数ではないが、よく用いられるオブジェクトの生成式には次のようなものがある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "言語機能の様に見えるが「/」や「@」などはただのセレクターであり、Smalltalk の使用者も同様の機能を作ることが出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一時変数は宣言が必要で、「|」で挿むように記述する。変数への代入は「:=」。古い処理系では「_」が使用された(字形は「←」)。変数に型はなく全てハンドルになっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "他の言語で予約語にあたる擬変数は self、super、nil、true、false、thisContext の6つ。self と super はそのメソッドを呼び出したメッセージの受け手(レシーバー)を、nil と true と false はそれぞれ UndefinedObject、True、False に属するソルインスタンス(唯一の実体)を、thisContext は実行中のコンテキスト(スタックフレーム)を参照するのに使える。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "self と super は同種のオブジェクトだが、メッセージ式でメッセージレシーバーに指定されたときのメソッド検索の起点が異なり、self ではオブジェクトが属するクラス、super ではその基底クラスである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "Smalltalk では「メッセージ式」と呼ばれる書式でコードを記述する。メッセージ式は「レシーバー」に「メッセージ」を送ることを表すためのもので、そのまま", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "と記述する。メッセージはさらに、呼び出されるされるメソッド(方法)の名前を表す「メッセージセレクター」と0個以上の引数の組み合わせからなる。ただし Smalltalk の場合必ずしもセレクターとメソッド名は一致しない。また、メッセージの送り先はメソッドではなくブロックや外部の関数になっている場合もある。セレクターは引数の数だけコロンを自身に含まなければならず、メッセージとして記述する際にはコロンの直後に引数を挿入する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "引数なしのメッセージを単項メッセージ、そのセレクターを単項セレクターと呼び、引数ありのメッセージをキーワードメッセージ、そのセレクターをキーワードセレクターと呼ぶ。メッセージ記述の際に引数の挿入により分断されたキーワードセレクター断片(例えば firstArg:secondArg: なら firstArg: と secondArg:)をキーワードと呼ぶが、あくまで便宜的な呼び名に過ぎず、そうした言語要素は存在しない。他の言語に見られる「キーワード引数」のように省略できるものではなく、また引数順を入れ替えられるものでもない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "セレクターは原則としてアルファベットと数字と0個以上(かつ、引数と同数)のコロンから成るが、例外として二項演算を模した記述が可能となるように記号のみから成る引数1つのセレクターを使ってメッセージ式を記述することもできる。これを二項メッセージ、そのセレクターを二項セレクターと呼ぶ。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この場合、上の「3 + 4」では、「3」がレシーバーで「+ 4」がメッセージである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "通常の処理系では、単項メッセージ、二項メッセージ、キーワードメッセージの順で評価される。二項メッセージ間で乗除の優先はない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "セミコロン「;」でメッセージ式を区切る事により、1個のレシーバーに対して複数のメッセージを送ることが出来る。これをカスケード式という。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "カスケード式を用いて書いた上記の文は、カスケード式を用いない次の文と等価である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "複数の式を順次実行する場合は、式をピリオドで区切る。メソッドを中断し戻り値を指定するには復帰文「^ 戻り値式」を使う。言語機能として持つ制御構文は復帰文を除いて存在せず、復帰文以外の制御は制御構文と同等の機能を持ったメッセージ式で代用する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ブロックは、他の言語で言えば無名関数やクロージャーに該当する機能である。ただし Smalltalk のブロックは関数ではなくオブジェクトである事に加え、無名関数というより制御構文としての性格が強くなっている。並列実行の基本単位にもなる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ブロックは、引き数の数毎に複数定義された「value」を含むメッセージを送る事で、ブロック内に記述されたメッセージ式を実行し結果を返す。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ブロック内の:value1 :value2は引き数であり、「|」以降は「value」を含むメッセージが送られた際実行するメッセージ式である。「value」を複数ならべたセレクターは4個程度まで( #value:value:value:value: )しか定義されておらず。5個以上引き数を取る場合は、配列を引き数とする#valueWithArguments:を使う必要がある。メソッドが値を返す際は、復帰文の記述が必要となるがブロックの場合は値を返すのに復帰文は必要ない。最後に実行されたメッセージ送信の結果あるいは、最後に書かれた値が戻り値となる。ブロックは制御の基本となるオブジェクトであるため、「value」を含むメソッド以外にも膨大なメソッドを持っている。ただし、後述する他の制御構文はブロックに対し#valueセレクターまたは、#value:セレクターを使ったメッセージしか送らない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ブロックにはvalueと合わせてよく使われるセレクターとして「cull」がある。cullの振る舞いは、ほぼvalueと同じであるが、ブロックがメッセージに含まれる引き数を無視できるという違いがある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "cullはブロックによる分岐制御が主目的であるが、分岐の基準になったオブジェクトを参照する場合もあるようなセレクターで使われる。典型的な例は、オブジェクトがnilで無いときだけブロックを実行する#ifNotNil:である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "条件分岐は #ifTrue:ifFalse: セレクターを用いたメッセージ式として、条件式の結果の真偽値へのメッセージ送信の形で次のように記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Smalltalk では nil がオブジェクトである。これを利用した nil 専用の条件式も存在する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "条件分岐の制御において、他の言語でいうswitchに直接該当する文は存在しない。多態性を利用して分岐するか、次のように連想配列を利用して分岐するため不要である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "但し一部の処理系では、次のようなswitchに類似した書き方ができるものも存在する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "反復制御においてfor に直接該当する文は存在しない。代わりに回数を指定した反復がある。回数を指定した反復は、整数型へのメッセージ送信の形で次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "現在の反復回数を参照しながら反復する事も出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "for に該当する文は存在しないものの、while に該当する文は存在する。while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "#whileTrue: セレクターは、条件が真である間反復する事を意味している。逆に条件が偽である間反復する #whileFalse: というセレクターも存在する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また do-while に該当する文も存在する。do-while に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "Smalltalk では条件なしの反復も存在する。無条件反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "Smalltalk では、反復方法が複数存在するが、実は全てメソッドの再帰呼び出しによって実装されているという事になっている。ただし、こちらも #ifTrue:ifFalse 同様実際にメソッドの再帰呼び出しとして実行されていない事が多い。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "C言語の break や Perl の last に相当する反復脱出は thisContext に対し #return セレクターを使ったメッセージを送る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "thisContext には、引き数を取り、引き数を脱出するブロックの戻り値として返す #return: セレクターや、戻り先のメソッドを指定する #return:to: セレクターなど多数の return 系セレクターに対応するメソッドが定義されており、他の言語には珍しい多様な反復の脱出方法を備えている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "Smalltalk にも例外処理機構が存在する。こちらも、その他の構文と同じくメッセージ式とブロックによって実現されている。例外処理は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお#ensure:は後述のブロックによる資源の開放があるため多用されることはない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "例外の制御はメッセージ送信毎に連結リストとして積み上げられたコンテキスト情報の末端のコンテキスト(メソッドスタック)を表す thisContext オブジェクトを操作し、コンテキストを巻き戻す事で実現されている。複数の例外は、#on:do:on:do・・とon:do:を繰り返し(処理系が定義している限りの数で)記述して補足する事もできるが、次の様に例外の型を,で並べて補足する事も出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "なお、Smalltalkでは正常な結果を返せない異常な状態と通知両方を合わせたものが例外である。例外は正常な戻り値を返せない異常な場合と割り込みの様に非同期な通知に利用される。特徴的な点として異常な場合と通知の場合では動作が異なる。異常な場合は他の言語の例外同様、補足しなければその時点で停止しDebugウィンドウに移行するが、通知の場合は補足しなければ例外発生地点から処理を継続する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "Smalltalkでは、標準で並列処理が存在する。並列処理は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "並列処理はスレッドに類似するプロセスという仕組みにより実装されている。プロセスはSmalltalk環境内で構築された並列処理の仕組みであり、グリーンスレッドで実装されている事が多い。このため、プロセスは論理的に非プリエンプティブなスレッド(グリーンスレッド)を前提しており、現在実行している処理を切り替える切り替え点を必要とする。論理的な前提は非プリエンプティブではあるものの、POSIX環境で動作させたGNU Smalltalkの様に実際はプリエンプティブなスレッドで実装されている場合もある。プロセスは他のプロセスから割り込みとして任意の例外を投げる機能があり(記述方法は環境によって異なる)、切り替え点はプリエンプティブなスレッドを使う場合でも例外の発生地点として機能する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "Smalltalk は、クラスの定義をメッセージ式による実行環境へのクラスオブジェクトの登録として実現する。他の言語と異なりクラスオブジェクトの登録は単なる定義ではなく実行環境に対する操作である。1度クラスオブジェクトを登録してイメージファイルを保存すると、明示的にクラスオブジェクトを削除しないかぎりはクラスオブジェクトがイメージファイルに残り続ける。Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトの登録は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "poolDictionaries と category を除いては、C++ から派生した言語のクラス定義と概ね同じである。インスタンス変数はインスタンスメソッドのみから参照でき、クラス変数はクラスメソッドとインスタンスメソッドから参照できる。他の言語と異なりインスタンス変数をクラスメソッドから参照することはできない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "Smalltalk におけるクラスの作成は、特殊構文ではなく単なるメッセージ送信である。クラスを登録する際のメッセージは、上記の例のように次のセレクターを使用することが多い。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "しかし、クラスの登録はあくまでメッセージであり自由に作れるため、実行環境には大抵その他のメソッドが用意されている。例えば、近代的な Smalltalk 環境の一つ Pharo では、次のセレクターに対応したメソッドが用意されている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトには、クラス変数とは別途、クラスオブジェクトが Class クラスから派生したインスタンスとして状態を持つためのインスタンス変数がある。このクラスオブジェクトのインスタンス変数はクラスオブジェクト内だけで共有され、インスタンスオブジェクトからは直接使用できない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "Smalltalk 環境に対するクラスオブジェクトのインスタンス変数の登録は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトがもつインスタンス変数には変数を登録した基底クラスと派生クラスで別々の変数領域が確保されるという特筆すべき点がある。これを使用して下記の様にクラスに所属するオブジェクトだけを保持する変数としてつかったりする事ができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "メソッド(処理方法)の登録は、コード文字列を引数として与えたクラスへのメッセージ送信でも行えるが、通常は環境に組み込まれたクラスブラウザ(システムブラウザ)と呼ばれるGUIツールを用いる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "メソッドは、「メッセージパターン」と呼ばれるメッセージ式のメッセージ部分を模した書式に続けて0個以上のメッセージ式を連ねることで記述する。例えば、前出の、レシーバーか引数を比べてより小さな方を返す「min:」というメソッドの登録は次のようなものになる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "一行目の「min: anOtherObject」がメッセージパターンで、メソッド名(セレクター)と仮引数となる擬変数の宣言を兼ねる。念のためここでメソッド名は「min:」、仮引数となる擬変数名は「anOtherObject」である。仮引数は仮引数自体の書き換えは不能なハンドル渡しとなっている。メッセージパターンのあとに処理を続けて書くこともできるが、通常は行を改めて(さらに、ここでは省いたが慣習としてメソッドの説明をするコメントを書き、それに続けて)処理を記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "なお、メッセージパターンのみで具体的な処理を記述せずにメソッドを登録した場合を含め、復帰文による明示的な戻り値の指定が無い場合、メソッドは戻り値として常に self を返す。したがって Smalltalk では値を返さないメソッドを書くことはできない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "Smalltalkは、多くの動的型付け言語やDelphiの様にクラスがオブジェクトである。このためSmalltalkではインスタンスオブジェクトと同様にクラスオブジェクトを変数に束縛してメッセージを送ることができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトは、オブジェクトにclassメッセージを送ることでも取得できる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "Smalltalk のブロックは一種の制御構文であるという性質上、復帰文が他の言語と比べ極めて異質な振る舞いをする。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "上記のメソッドを登録したオブジェクトに#example セレクターを使ったメッセージを送ると結果としては何が返ってくるか。Smalltalk 以外の言語では 0 が返ってくるのが一般的であるが Smalltalk では 1 が返ってくる。Smalltalk はブロック内の復帰文からでもメソッド自体を抜けることができるようになっている。この例では、「block value.」を評価し、block 中の「^ 1.」で制御が戻ると example 自体も中断して結果を返す。そして example は戻り値として block が戻した 1 を戻すようになっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "上記の様なメソッドをまたいでブロックを評価する場合はどうなるだろうか、この場合も Smalltalk は example の戻り値として block の戻り値である1を返す。Smalltalk はブロック内で復帰文が実行された際、ブロックの生成地点の呼び出し元までコンテキストを巻き戻すようになっている。この特性により Smalltalk では、#ifTrue:ifFalse: セレクターを使った分岐でメソッドを中断したり #repeat セレクター等を使った反復処理を復帰文だけで中断する事ができるようになっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ただし、上記の様にブロックを生成したコンテキストと、ブロックを評価する際のコンテキストが枝分かれする様な場合は復帰文を実行する事はできない。この場合は BlockContext が例外を出力し処理が停止してしまう。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "メソッドに対する注釈(Pragma)は、メッセージ式だけではどうしても実現が難しい機械語でしか記述できない演算子の実装や主記憶領域の確保、仮想機械外部との入出力等の実現や、特定の目的のメソッドを自動で列挙するといった目的で使用される特殊構文である。いくつかの注釈はSmalltalk環境に組み込まれているが、利用者やライブラリーの提供者が注釈を定義する事も出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "メソッドに対する注釈はメソッドの翻訳時に評価されるため、メソッドにしか記述でない。Behaviorのevaluate:による評価などメッセージ式をメソッドの外部で評価する場合は、評価対象の式に注釈を含める事はできない。具体的にはSmalltalk環境のWorkspaceに注釈を記述して評価するとエラーとなる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "メソッドに対する注釈は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "<と>で囲まれた範囲は、メッセージ式のメッセージ部分と同じになる。但し引き数を取らない注釈の記述はできない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "次にメソッドに対する注釈の具体例を挙げる。注釈はSmalltalk環境によって異なり、どの環境でも次の注釈が使えるわけでない事に注意すること。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "Smaltallkでは、Smalltalk環境全体で参照できる大域変数を作成する事が出来る。大域変数は同じく大域変数であるSmalltalk変数に格納されたSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトにメッセージを送って作成する。また、大域変数の削除もSmalltalkImageのインスタンスオブジェクトに対するメッセージ送信となっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "SmalltalkImageは一種の連想配列であり、Smalltalkの大域変数は、Smalltalk変数を介す事で連想配列として操作する事が出来るようになっている。 なお、Smalltalkのクラス名と大域変数は同じものであり、クラス名にオブジェクトを代入すれば、そのクラスを破壊してしまうことが出来る。また、Smalltalkオブジェクトが格納されたSmalltlak変数もオブジェクトを代入し破壊する事が出来る。このように大域変数を代入により破壊してしまった場合は、最悪Smalltalk環境が起動しなくなる事態に陥り非常に危険である。このためSmalltalkではよほどの理由がなければ大域変数を使うべきではない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "プール辞書は、クラスの変数として連想配列または、他のクラスオブジェクトのクラス変数を取り込むという機能である。取り込む連想配列の要素やクラスオブジェクトのクラス変数はプール変数と呼ばれる。連想配列やクラスオブジェクトは大域変数でなくてはならない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "プール辞書には複数の連想配列やクラスオブジェクトを指定できるが、プール変数が重複した場合は、先に指定した連想配列やクラスオブジェクトのプール変数が使われる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "Pharo, GNU Smalltalkといった近代の環境では、定数以外に式の結果を指定可能な非定数要素の配列定数を使用できる。配列の要素は空白ではなく.で区切る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "継続渡し形式を支援する機能として継続があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。もっぱら反復の中断や、メソッド内の処理を飛ばすために使われる。継続の使用は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "遅延評価を支援する機能として生成器があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。生成器はCoroutineにも利用できる。生成器の使用は次の様に記述する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "生成器を使って処理を作ることは多くないが、配列などを使用する際、間接的に使用していることが多い。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "Smalltalk のプログラムは基本的に中間言語としてイメージファイルの中に格納され、ソースコードの編集は Smalltalk のGUI環境から行われる。このため基本的にファイルという形で Smalltalk のソースコードやプログラムを目にすることはない。しかし、ソースコードの交換目的などでどうしても Smalltalk 環境外でソースコードを管理する必要がある場合に備えファイル用の構文が存在する。ファイル用の構文は次のようになる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "本来他の言語の様なブロックが存在しないため、ブロックとして「!」が使用される。クラスの登録は「!」の一組で囲まれる。メソッドはプロトコル毎に「 クラス名 methodsFor: 'プロトコル' ! 〜 !!」というブロックで囲まれる。一つのプロトコルには複数のメソッドを定義でき、メソッド同士は一個の「!」によって区切られる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ちなみに、クラス登録は単なるメッセージ送信であり特別な文ではないため、登録用ブロック外にも次のように単純なメッセージ送信の記述に使用する事が出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ファイル用構文で記述されたメソッドの登録は、可読性や記述性の面からメッセージ式からかけ離れた変則的な構文が使用される。しかし、この変則的な構文を用いなければメソッドを登録できないわけではなく、次のように通常のメッセージ式でメソッドを登録する事も出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "上記では、クラスオブジェクトExampleのプロトコルInstance Methods Cに対し、メソッドselectorCを登録している。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "Smalltalk において、継承とは特殊な委譲に過ぎない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "このため、例えば上記のクラスオブジェクトの生成では、Derived クラスオブジェクトの基底クラスオブジェクトとして Object を指定しているが、処理系によっては下記の様に #superclass: メッセージを送る事で、基底クラスに別のクラスオブジェクトを指定する事が出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "処理系により不可能な事もあるがクラスオブジェクトだけでなく、インスタンスオブジェクトから派生することも出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "なお通常、派生元の基本となるProtoObjectやObjectはnilから派生しており継承関係は再帰的に循環している。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "Smalltalk において、メッセージ、セレクター、メソッドはそれぞれ別物である。C++ 系統の言語の様にオブジェクトに対しメッセージを送るという事は単なる比喩ではない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "あるオブジェクトに対し #hello というセレクターを使ったメッセージを送る事を考える。この時、Smalltalk においては hello というメソッドが必ず呼ばれる保証はない。例えば「hello」メッセージを受け取るオブジェクトが hello メソッドを実装していなければレシーバーに指定されたオブジェクトの doesNotUnderstand: メソッドが呼ばれる事になる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "なお、多くの Smalltalk の処理系では doesNotUnderstand: の引き数で得られたメッセージを返すだけのクラスが用意されている。例えば Smalltalk 環境のひとつである Pharo ではメッセージ作成用クラス MessageCatcher が用意されており次のようにメッセージを拾い、他のオブジェクトに渡すことが出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "また、セレクターとメソッドが独立していることを利用して一つのメソッドを複数のセレクターに結びつける事もできる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "メッセージにはセレクターと引き数が含まれている。このため受け取ったセレクターと引き数を編集する事も出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "プログラミング言語一般の概念として型検査をソースコードの翻訳時に実行するか、実行時に実行するかにより静的型付けと動的型付けという区分が存在するが、Smalltalkは、そのどちらでもなく型なし言語(英: untyped)に区分される。Smalltalk の場合、変数に対する操作は全てメッセージ送信であり、変数の種類(型)毎にできる操作は決まっていない。また、オブジェクトに対しメッセージを送った場合、そのオブジェクトがメッセージに対応するメソッドを持っていなくとも実行環境がエラーを発生させる事はない。メッセージに対応するメソッドが存在しない場合、例外を出すか無視するかは、クラスに実装されたメソッドの内容次第である。したがって Smalltalk には型付けの概念はない。例えば、Pharo の MessageCatcher は全てのメッセージを拾うため、どんなメッセージを与えられても例外が発生することはない。また、GNU Smalltalkではnilから派生したクラスのオブジェクトに存在しないメソッドに対するメッセージを送ると何も反応しない。ただし高速化のため後述の特殊セレクターを使用した場合実行時に型検査する処理系が多い。ちなみに Smalltalk は基本的に中間言語に翻訳され、翻訳時にエラーを発生させるため構文検査は静的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "制御構文の節で述べた通り、Smalltalkの殆どの制御構文はメッセージ式である。Smalltalkに明るくないプログラマーからは言い方や見方を変えただけと捉えられがちである。Smalltalkの制御構文は実際にメッセージであるがゆえに究極には制御構文の構文要素を次のように変数に分解してしまうことが出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "変数に分解した分岐制御の例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "これらの変数に分解された構文要素は、どのクラスのオブジェクトで無いといけないという制限はない。送られたメッセージを処理することさえ出来ればあらゆるオブジェクトに置き換える事が出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "Smalltalkでは高速化のためいくつかのメッセージを特別扱いする。これを特殊セレクター(英: special selector)という。 典型的な例は#ifTrue:ifFalse:である。下記のコードはでは「ifTrue: [5] ifFalse: [6]」を評価した時にメッセージが送られる訳ではなく、バイトコードレベルでインライン展開され飛越し命令の表現に置き換えられる。このため実際にifTrue:ifFalse: という名のメソッドが呼ばれることもない。また、trueやfalse以外に上記のようなBoolean用のメッセージを送ると処理系によってはMustBeBoolean例外を発生させる。このように頻繁に使用する分岐や反復を特別扱いすることで性能低下を防いでいる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "セレクターと名がつくが特殊セレクターは、特別扱いする条件が引数の状態を含んでおり、たとえ同じセレクターを使ったメッセージでも引数が条件に一致しなければ特別扱いしない。例えば下記のように引数に直接ブロックを指定していない場合では多くの処理系(VisualWorks, GNU Smalltalk等)は特別扱いせずメッセージ送信を実行する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "特殊セレクターはあくまで高速化の手段であるため種類は処理系によって異る。どの処理系が何を特殊セレクターとして扱うかは処理系ごとに提供される説明資料に記述されている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "またPharoのように設定から特殊セレクターを通常のメッセージ送信に切り替えられる処理系も存在する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトもオブジェクトであるため、所属するクラスが存在している。クラスオブジェクトが所属するクラスはMetaclassというクラスのインスタンスオブジェクトである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "Metaclassも当然ながらクラスに所属しており、再帰的にMetaclassに属するようになっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトが所属するMetaclassのインスタンスオブジェクトは特殊なオブジェクトであり、クラスの継承階層と同様に継承階層を持っている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "クラスオブジェクトはMetaclassから生成された単なるオブジェクトで有ることから、Smalltalkが標準で提供するクラスオブジェクトとは異なる独自の構造をもったクラスオブジェクトを作ることができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "例えば以下のようにメソッドの代わりにブロックを持つ無名クラスを作成することも出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "文法の節で述べた通りSmallatalkでは定数も全てオブジェクトである。どんな定数であれ#classや#inspectといった基本的なセレクターを使ったメッセージを受け取ることが出来るため、基本的な操作であれば定数と他のオブジェクトを区別する必要はない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "Smalltalk は、任意の広さで確保した領域を持つ可変長オブジェクトを作ることが出来る。Smalltalkには配列を表わすためArray等が存在するが、これらのクラスオブジェクトは可変長オブジェクトを使って構築されている。可変長オブジェクトの領域は、オブジェクトの生成したときの一度だけしか広さを指定できない。また、クラスオブジェクトの登録時にvariable〜で始まるセレクターを使っている必要がある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "Smalltalk は、ハンドルとごみ回収機能(ガーベッジコレクター)の全面的な導入によりハンドルテーブルの書き換えを利用した特殊な制御を提供している。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ハンドルが参照している記憶領域上のテーブルを書き換えることによりSmalltalkは、あるオブジェクトを参照している全ハンドルの参照先を一気に変更することができる。ハンドルテーブルの書き換えには#become:を用いる。ただし、数字や文字列といった定数オブジェクトは置き換えることはできず、定数を置き換える際は定数を保持しているオブジェクトを置き換える必要がある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "#become:を使っている良い例はクラスオブジェクトの再登録である。Smalltalkではクラスオブジェクトはインスタンスオブジェクトが生きている間でも再登録可能でなければならず、インスタンスオブジェクトを生きたままクラスオブジェクトを再登録するために使われている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "弱参照は参照カウント方式を使う言語でよくライブラリーとして実装されるがSmalltalkではハンドルの制御を用いた言語機能として用意されており相互参照しているが不要になっているオブジェクトを迅速に解放するために使われている。弱参照には#makeWeakを用い、#makeWeakを受け取ったオブジェクトは弱参照となる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "カゲロウ(Ephemeron)は、どこからも参照されなくなった連想配列の要素を解放するために導入された記憶領域の管理機構でありSmalltalkで初めて実装された。例えば連想配列の添字として#keyがあったとして、#keyが連想配列以外の変数で参照されていなければ連想配列の要素は必要ない。このように不要となった要素を解放するために用いる。オブジェクトをカゲロウ状態にするには#makeEphemeronを用いる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ここでは連想配列の要素としてよく使われるAssociationを例としているが、カゲロウが消滅する基準は最初のインスタンス変数でクラスに依存しないためどんなクラスでもカゲロウにすることができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "変数を表す識別子については、1文字目に大文字と小文字のどちらを使うか、大域変数か否かを基準にして決めることが慣習になっている。 環境自体も大文字小文字の使い分けを認識しておりメソッドを翻訳する際小文字の変数は局所変数かメンバーとして定義していないと、警告が発生したり翻訳失敗になる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "クラス名が大文字から始まるのは、クラス名が大域変数だからである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "よく使われるクラス以外の大域変数:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "セレクターを表す識別子については、基本的に1文字目に小文字を使うが、メソッドが存在するセレクターを避けたい場合は大文字を使う事が慣習になっている。 GNU SmalltakやVisualWorksで用意されている名前空間は、大文字のセレクターを使う典型的な例である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "なお、名前空間が使える環境の多くは、翻訳時に名前空間の名前解決できる「.」区切りの拡張構文が用意されており、実際にはこちらの構文が使われることが多いため、セレクターを使った名前空間の指定を見る機会は少ない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "オブジェクトの生成には #new セレクターを使ったメッセージを使う。他の言語と違い、new は演算子ではない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "Smalltalk ではクラスオブジェクトのメソッドもインスタンスオブジェクトのメソッドと同様に派生クラスによる再定義が可能である。このため new メソッドを再定義し初期化処理を記載する事が出来る。new メソッドを再定義してしまうとオブジェクトの生成自体が不可能になるように思われるが、本来 new メソッドは #basicNew セレクターを使ったメッセージをBehavior に送ってオブジェクトを生成しているためオブジェクトの生成手段がなくなるわけではない。このため new メソッドを再定義しても 「basicNew」メッセージをBehaviorに送ることでインスタンスオブジェクト生成することが出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "ただし、実際の初期化に new メソッドが使われる事は多くない。実際には慣習としてクラスの作者が新たに登録したインスタンス・クリエイションと呼ばれる new とは別の初期化用メソッドが使用される。インスタンス・クリエイションは一般的なクラスオブジェクトのメソッドであり、そのメソッドの内部で 「new」メッセージやその他のインスタンス・クリエイションを使って初期化済みのオブジェクトを生成する役割を持っているだけで基本的にその他のメソッドと変わらない。一般的にinstance creationというプロトコルに登録される。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "Smalltalk では1個のセレクターに対し1個のオブジェクトから複数のメソッドを関連付けられないため 「new」メッセージの送信によりできる初期化は1個のオブジェクトにつき一通りの初期化だけである。このため複数のインスタンス・クリエイションを用意することで用途に応じた複数の初期化方法を提供しているのである。インスタンス・クリエイションは一般的なメソッドのひとつでしかない。このためインスタンス・クリエイション持つクラスオブジェクトはアブストラクト・ファクトリーとして機能する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "具体的には次のように使われる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "また、Smalltalk はクラスメソッドを上書きできるため、インスタンス・クリエイションを次の様に実装する事で基本的な初期化処理を派生元のクラスに任せることができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "上記は、2次元座標用のクラスオブジェクトのインスタンスオブジェクトを初期化する派生元のクラスオブジェクトに実装されたインスタンス・クリエイションである。このクラスオブジェクトを継承した2次元座標用のクラスオブジェクトでは#x:y:セレクターを使ったメッセージに対応するメソッドを実装する必要はない。インスタンス・クリエイションを利用したパターンは Smalltalk では広く利用され、いたる所で見ることが出来る。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "Smalltalk では、単一の値を出し入れするメッセージの事を特にアクセッサ―と呼ぶ。引き数の有無により値の入出の方向を区別する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "Smalltalk においてアクセッサーはその他のメソッドと役割に違いはなく特別な意味を持たないが、プロトコルとして明示的に accessing()として登録される点が特徴的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "Smalltalk においてアクセッサーはインスタンス変数の出し入れや、クラス変数の単純な出し入れに使用される事は多くない。Smalltalk においてアクセッサーは次の用途でよく使われる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "定数は、単に定数を返すアクセッサ―で定義する。C言語の影響を受けた言語のように定数を#defineや変数で定義するという慣習はない。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "Smalltalk では、非常に利用頻度の低いインスタンス変数やクラス変数を管理する方法として附帯情報(英: property)というパターンが使用される。附帯情報はインスタンス変数やクラス変数などの内部変数の代わりに連想配列によりオブジェクトを保持する仕組みである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "附帯情報の使用例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "附帯情報が有効な身近な例としてはXMLやHTMLのタグ属性が挙げられる。例えばHTMLの id 属性や onClick といったイベント属性は、必ずしも全てのタグで使用されることはない。特にイベント属性については一つのHTML上に一切記述されない事もよくある。この様な使用頻度の低い属性のためにオブジェクトに一個一個変数を定義するのは記憶領域の無駄である。ましてや onClick、onMouseDown、onMouseUp等大量に属性があればこの無駄は馬鹿にならない。この様な無駄を省くために Smalltalk では附帯情報というパターンがよく使用される。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "全てのインスタンス変数やクラス変数は原理的に全て附帯情報によって表現することが出来る。この点に着目しオブジェクトに所属する変数を全て附帯情報に置き換えた言語が後の Self であり、JavaScript である。これらの言語でオブジェクトに所属する変数をプロパティーと表現するのは、この Smalltalk における附帯情報(プロパティー)に由来するもので、附帯情報の仕組みの有無に関わらずインスタンス変数やクラス変数をプロパティーと表現するのは間違いである。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "附帯情報は Self や JavaScript においては当たり前の様に使用されている。しかし、Smalltalk においては附帯情報を多用する事はデバックを著しく困難にするため不適切な作法とされており、HTMLの属性の様に本当に使用頻度の低い変数だけを附帯情報で扱い、常用する変数に附帯情報を乱用すべきではないと言われている。例えば変数は統合開発環境の機能で使用箇所を把握できるが附帯情報では使用箇所をアクセッサーに限定しない限り追跡不可能になる。また、附帯情報では変数の変化に反応するブレークポイントを仕掛けることも難しい。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "Smalltalk 以外の言語において、配列の範囲外にある配列要素の操作や、値の代入されていない連想配列の操作は、次の例のように操作の前に一旦判定を行なって例外処理するか、例外機構を利用する方法が一般的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "一方 Smalltalk では、配列の範囲外操作の様に単純で頻発するような処理では、次のように予めメッセージに例外処理をブロックとして渡してしまう方法が一般的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "予め例外処理をメッセージに含めることで、単純な例外処理をより簡潔なものとしている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "この方法は、Smalltalk 独自の復帰文と組み合わせる事でより柔軟な制御をする事ができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "次の処理は、連想配列に値が見つかればそれを表示し、値が無ければ何もしないという処理であるが、処理の中断の判定と連想配列からの値の取り出しを一度のメッセージ送信だけで実現している。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "Smalltalkでは、ブロック内だけ資源を確保しブロックの終了後に資源を開放するというブロックによる資源の開放が行われる。ブロックによる資源の開放では、資源の確保と同時に資源の開放を強制できるため開放忘れや例外による開放漏れを防ぐことができる。C#のusingに類似するが、usingを書き忘れたままnewできない分さらに強力である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "Smalltalk は反復処理のための基本構文を備えているが、ある値の生成器(入出力等)やある集合要素から要素を取得するときに基本的な反復構文を使う事は稀である。Smalltalk では、値を列挙するために値の生成器や集合要素に送るべきメッセージが概ね決まっており、値を取り出す際は極力、列挙メッセージ(英: enumerating)を使用する事が作法となっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "次に列挙メッセージの送信例を示す。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "配列に対する列挙メッセージの例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "実行結果:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "数値に対する列挙メッセージの例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "実行結果:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "列挙メッセージで使えるセレクターは #do: の様に全ての要素にブロックを適用するだけの単純なセレクターだけでなく、現在の集合要素の要素を操作した上で新しい集合要素を作成する #collect: や、集合要素から条件に一致する要素だけを抜き出し、新しい集合要素を作り出す #select:、集合要素の中から特定の要素を見つけ出す #detect:ifNone: など様々なセレクターがある。処理系によっては #groupBy:having: などSQLに類似したセレクターに対応するメソッドを多数用意しているものもある。Smalltalk では集合要素や値の生成器自体にこれらのメッセージを受け取れるよう実装する事で、集合要素のデータ構造や、生成器の入力元などの構造に依存せず最適な反復処理を実現できるようになっている。これらの列挙機能は近年の言語において foreach やyeild、LINQ等言語機能として賄われつつあるが Smalltalk においては、単にライブラリーの慣習として実現されている所が特徴的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "Smalltalkでは一般的にオブジェクトに#as〜というセレクターを使ったメッセージが送られた場合、オブジェクトを別のクラスのオブジェクトに変換する。例えば次の様な変換がある。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "Stringの変換による具体例(変換結果は処理系依存):", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "オブジェクトを別のオブジェクトに変換するメソッドやメンバー関数が用意されている事は、Smalltalkに限らず他の言語でも一般的であり珍しい事ではない。Smalltalkの慣習として特徴的なところは、既存のクラスにこのオブジェクトの変換をユーザーやライブラリーの作者が自由に組み込んでいる所である。例えばSmalltalkの処理系であるPharoでは、初期状態で基本的なクラスであるStringに54個ものas〜で始まるメソッドが定義されている。この大量の変換メソッドは、メソッド追加した際すぐに影響を判断できるためメソッド追加に対し寛容的なSmalltalk独特の空気を象徴している。しかし、既存のクラスにメソッドを追加すればライブラリーを併合した際、意図しない衝突を生むため多用は避けるべきであるとの意見も存在する。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "オブジェクトの変換はただオブジェクトの内部表現の変換だけでなく情報の加工にも使われる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "オブジェクト変換による具体例:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "イベントハンドラーを定義する方法として、Smalltalkでは次のようにセレクターと、レシーバーとなるオブジェクトを指定する方法が一般的である。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "同様にイベントハンドラーを指定する別の方法としては、ブロックを指定する方法が考えられる。しかし、イベントハンドラーにブロックを使う方法は、セレクターとオブジェクトを指定する方法のようにinspectだけでブロックを抱えたオブジェクトがどんな処理を実行するか判断できないうえ、ほとんどの環境はブロックの直列化に対応しておらず直列化もできなくなってしまうため、Smalltalkの文化においては避けるべきとされる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "このセレクターとオブジェクトを指定したイベント処理の方法は、Objective-Cの文化にも引き継がれておりCocoa等のライブラリーにて頻繁に目にすることができる。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "Model View Controller(MVC)は Smalltalk から生まれた、制御(コントローラー)と情報(モデル)、そして情報の表現方法(ビュー)の3つを分離しクラスオブジェクトの再利用性を高め、実行時に情報と表現の組み合わせを変更できるようにした設計方針である。Smalltalk の世界でMVCは更に表現を担当するクラスに既定の制御を取り込む仕組みを持たせることで PluggableMVC へと発展した。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "Smalltalk はクラスライブラリーの基礎部分からMVCやMVCから派生した設計方式で使用されるモデルの構築を支援する仕組みを持っており、Smalltalk 以外の言語と比べモデルの構築が格段に楽になっている。次にモデルの動作を確認する最低限のコードを示す。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "モデルの登録:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "モデルの監視側登録", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "動作の確認:", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "モデルの支援機構は全て Object クラスオブジェクトに実装されており、全てのオブジェクトはモデルとして動作する。つまりクラスオブジェクトもモデルとして使用できるようになっている。", "title": "言語としてのSmalltalk" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "PluggableMVC は Self へと場を移し、表現と制御そして、表現対象となる情報を1個のオブジェクトで兼任する Morphic(英語版) として再設計された。Self によって発展した Morphic は Smalltalk に移植されSqueak系統の Smalltalk 環境で基本GUIシステムを構築している。Self の Morphic はウェブブラウザ―のDOMや JavaScript に大きな影響を与えている。", "title": "言語としてのSmalltalk" } ]
Smalltalk(スモールトーク)は、Simula のオブジェクト(およびクラス)、LISPの徹底した動的性、LOGO のタートル操作や描画機能に、アラン・ケイの「メッセージング」というアイデアを組み合わせて作られたクラスベースで手続き型の純粋オブジェクト指向プログラミング言語、および、それによって記述構築された統合化プログラミング環境の呼称。 Smalltalk で一語であり、「Small Talk」「SmallTalk」などは誤りである。 大規模な開発実績としてはCargill Lynx Projectがあり、国産製品の開発実績としてはMCFrameがある。
{{Otheruses|プログラミング言語|[[東方神起]]の楽曲|Small Talk}} {{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = Smalltalk | released = {{plainlist| * {{start date and age|1972}} (開発開始) * {{start date and age|1980}} (公開) }} | designer = [[アラン・ケイ]], [[ダン・インガルス]], [[エイデル・ゴールドバーグ]] | developer = [[アラン・ケイ]], [[ダン・インガルス]], [[エイデル・ゴールドバーグ]], Ted Kaehler, [[:en :Diana Merry|Diana Merry]], Scott Wallace, [[:en :L. Peter Deutsch|Peter Deutsch]], [[ラリー・テスラー]], [[パロアルト研究所]] | latest release version = {{lang|en|VisualWorks}} 8.3.1 英語版 | latest release date = {{Start date and age|2018|05}} | typing = [[型システム#型なし|型なし]]<ref name="名前なし-1">http://web.cecs.pdx.edu/~harry/musings/SmalltalkOverview.html</ref>, [[ダック・タイピング]](オプショナルな静的型検査が可能な処理系も存在する) | implementations = {{lang|en|[[VisualWorks]]}}、{{lang|en|[[Squeak]]}}、{{lang|en|[[Pharo]]}} | influenced = {{仮リンク|Actor (プログラミング言語)|en|Actor (programming language)|label={{lang|en|Actor}}}}、{{lang|en|[[Flavors]]}}、{{lang|en|[[Objective-C]]}}、{{lang|en|[[Self]]}}、{{lang|en|[[Ruby (代表的なトピック)|Ruby]]}}、{{lang|en|[[Scala]]}} }} {{プログラミング言語|lang=オブジェクト指向言語|cat=}} {{lang|en|'''Smalltalk'''}}(スモールトーク)は、{{lang|en|[[Simula]]}} の[[オブジェクト]](および[[クラス (コンピュータ)|クラス]])、{{lang|en|[[LISP]]}}の徹底した[[動的プログラミング言語|動的性]]、{{lang|en|[[LOGO]]}} のタートル操作や描画機能に、[[アラン・ケイ]]の「メッセージング」というアイデア<ref name="tools-for-thought">{{Cite book|和書 | author= ハワード・ラインゴールド 著、栗田昭平 監訳、青木真美 訳 | title= 思考のための道具 異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか? | year=1988 | date=1988-8-10 | page= 346 | publisher=[[パーソナルメディア株式会社]]|isbn = 4-89362-035-5}}</ref>を組み合わせて作られた[[クラスベース]]で手続き型の純粋[[オブジェクト指向]][[プログラミング言語]]、および、それによって記述構築された[[統合化プログラミング環境]]の呼称。 {{lang|en|Smalltalk}} で一語であり、「{{lang|en|Small Talk}}」「{{lang|en|SmallTalk}}」などは誤りである。 大規模な開発実績としてはCargill Lynx Project<ref>https://www.infoq.com/jp/news/2010/07/objects-smalltalk-erlang</ref>があり、国産製品の開発実績としては[[MCFrame]]がある。 ==概要== ===開発の経緯=== [[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]]({{lang|en|PARC}})で[[1970年代]]に約10年かけ3世代({{lang|en|Smalltalk}}-72、76、{{lang|en|80}})を経て整備された。当初は、[[ダイナブック]]である {{読み仮名|{{lang|en|[[Alto]]}}|アルト}} の[[オペレーティングシステム]]的位置付けだったが、{{lang|en|Alto}} のゼロックス社製品としての販売の可能性が同社上層部決定により完全に排除されたこと、発案者である[[アラン・ケイ]]の研究開発グループ離脱などを受けてダイナブック色は失せ、{{lang|en|Alto}} のハードウェア技術を基にした商用マシン上で動作するプロの開発者向け[[統合開発環境|統合化プログラミング環境]]「{{lang|en|Smalltalk-}}80」として[[1983年]]に発売されることになる。現在はシンコム<ref group="注釈">{{lang-en-short|Cincom}}</ref>より {{読み仮名|{{lang|en|[[:en:VisualWorks|VisualWorks]]}}|ビジュアルワークス}}という製品名で主要なオペレーティングシステム向けに販売されている。 ===Smalltalkの変遷=== <small>※この節は<ref>http://smalltalk.cincom.jp/main/about-us/smalltalks-past/</ref><ref>http://www.smalltalk.org/smalltalk/history.html</ref>を元に執筆されている。</small> {|class=wikitable !名称!!備考 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-71||最初にSmalltalkの名前を冠した言語だが、文法など一部仕様が定められただけで実装はされていない。 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-72||メッセージングの機構により最初に動作したSmalltalk。初期のGUIはタートルグラフィックスで表現されたウインドウやメニューなど原始的な構成で、言語仕様的にもクラスが関数であったり、メソッド定義がリーダーマクロ(あるいは簡易パーサー記述)のようであったりと、現在のSmalltalkとは異なる点が多い。 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-74||Smalltalk-72に対し、処理系の高速化、GUIの整備、オブジェクト指向仮想メモリ (OOZE) を導入したバージョン。 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-76||現在のメッセージ式に近い文法(特にキーワードメッセージ式)を取り入れたSmalltalk。メタクラス、第一級オブジェクトとしてのブロックなどはまだない。 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-78||Smalltalk-76を、可搬式の試作機「[[:en:Xerox NoteTaker|NoteTaker]]」で動作するよう[[8086]]向けに[[BitBlt]]等を再構築し、小さく整理したバージョン。 |- |{{lang|en|Smalltalk}}-80||現在に知られる仕様となったSmalltalk。 |- |{{lang|en|ObjectWorks}}||{{lang|en|Smalltalk}}-80を一般に普及させるために開発・販売されたSmalltalk。 |- |{{lang|en|VisualWorks}}||ObjectWorksを引き継ぎ開発されたSmalltalk。Smalltak直系の子孫で現代に至るSmalltalkの中で本家と言える存在である。 |- |{{lang|en|Apple Smalltalk}}||{{lang|en|Smalltalk}}-80 v1(リリース前バージョン)を元に、XEROX社に許諾および指導を受けて[[Apple]]が開発したSmalltalk。同時期に[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]、[[テクトロニクス]]、[[ヒューレット・パッカード]]でも同様の試みがなされている。 |- |{{lang|en|Squeak}}||Appleに移籍したアラン・ケイ、ダン・インガルスらによって{{lang|en|Apple Smalltalk}}を元に開発された。{{lang|en|Smalltalk}}の設計者により開発されており、いわば分家と言える存在である。 |- |{{lang|en|Pharo}}||Squeakから派生した実装。大胆で実験的な機能追加の試みが多いが、2017年現在精力的かつ活発に開発が進められているSmalltalk処理系のひとつ。 |} ==={{lang|en|Smalltalk}} とオブジェクト指向=== 豊富で整備されたクラスライブラリーは、特に[[オブジェクト指向プログラミング]]の手本とされ、[[デザインパターン (ソフトウェア)|デザインパターン]]の宝庫と称されるまで洗練されたものになっている。また、後世の多くのオブジェクト指向[[プログラミング言語]]に直接間接的に多大な影響を与えた。 アラン・ケイが「[[オブジェクト指向]]」という言葉を創った当初は、{{lang|en|Smalltalk}} システムが体現した「パーソナルコンピューティングに関わる全てを『[[オブジェクト]]』とそれらの間で交わされる『メッセージ送信』によって表現すること」を意味していた。しかしのちに、{{lang|en|[[C++]]}} の設計者として知られる[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]が(自身、{{lang|en|Smalltalk}} の影響は受けていないと主張する){{lang|en|C++}} の設計を通じて整理し発表した「『[[継承 (プログラミング)|継承]]』機構と『[[多態性]]』を付加した『[[抽象データ型]]』のスーパーセット」という考え方として広く認知されるようになった([[カプセル化]]、[[継承 (プログラミング)|継承]]、[[多態性]])。現在は、両者の渾然一体化した曖昧な概念として語られることが多い。 ==={{lang|en|Smalltalk}} の独自性=== {{lang|en|Smalltalk}} は、オブジェクトへのメッセージ送信を率直に記述する表記の特殊性や、制御構造をもたずオブジェクトへのメッセージ送信の形で記述する徹底ぶりとも併せて、[[C言語]]や {{lang|en|C++}} などの流れを強く受け継ぐ言語、およびその開発手法に慣れた開発者にとって極めてとっつきにくい言語・環境であるといわれている。このことは、{{lang|en|Smalltalk}} が単なるプログラミング言語ではなく、従来のオペレーティングシステムの概念をも包括する「環境」であることが一つの理由である。{{lang|en|Smalltalk}} を単なる言語としてとらえると、他の言語と比較したとき、使用するオペレーティングシステムの[[グラフィカルユーザインターフェース]]に全く従わないなど、その独自性が大きな「欠点」として映る場合もある。 これは {{lang|en|VisualWorks}} や {{読み仮名|{{lang|en|Squeak}}|スクイーク}} など、旧来の {{lang|en|Smalltalk}} 環境、つまりダイナブックコンピュータ環境の要素を引き継ぐ統合開発環境を通じて {{lang|en|Smalltalk}} 言語や処理系を学ぶなら、多かれ少なかれ新たなオペレーティングシステムに接するような心構えを持つべきことを意味する。 ==環境および処理系としてのSmalltalk== ==={{lang|en|Smalltalk}} 環境から見た{{lang|en|Smalltalk}} 言語=== {{lang|en|Smalltalk}} 環境から見た {{lang|en|Smalltalk}} 言語は、いわば {{lang|en|[[bash]]}} などの[[シェル]]に近い。{{lang|en|Smalltalk}} 環境内であればどこでもマウスで選択した文字列を {{lang|en|Smalltalk}} のソースコードとして実行できるためシェルにコマンドを打ち込んだ時の様に簡単な問い合わせをすぐ実行できるようになっている。 例えばオブジェクト(クラスやメソッドも含む)の構造を調べたければ、そのオブジェクトに{{読み仮名|<code>#browse</code>|ブラウズ}}セレクターあるいは{{読み仮名|<code>#inspect</code>|インスペクト}}セレクターを使ったメッセージ式を書き、そのメッセージ式をマウスで選択してdo it(WindowsであればCtrl+Dを押す)すれば良い。 また、設定値の指定に {{lang|en|Smalltalk}} 言語のメッセージ式が使われる。現在設定されている値がメッセージ式として取得でき、値の設定をメッセージ式として指定する。この設定値を指定するメッセージ式は {{lang|en|Smalltalk}} 環境の実行中に設定用のウィンドウから入力される。 ===仮想機械方式=== ==== 仮想機械による実行 ==== {{lang|en|Smalltalk}} 環境は、{{lang|en|Smalltalk}} 環境の実行方法として現実のハードウェアに依存している機械語命令を使わず、現実のハードウェアから独立した中間言語命令(仮想機械に対する機械語命令)を[[仮想機械]]により実行する仮想機械方式を採用している。 {{lang|en|Smalltalk}} の中間言語命令は、全てイメージファイルというファイルに書き込まれ {{lang|en|Smalltalk}} の仮想機械はそのイメージファイルを読み込んで{{lang|en|Smalltalk}} 環境を実行する。 この仮想機械方式による {{lang|en|Smalltalk}} の実行方法は {{lang|en|Smalltalk}} の言語仕様にも含まれている。<ref>http://stephane.ducasse.free.fr/FreeBooks/BlueBook/Bluebook.pdf</ref> なお、{{lang|en|Smalltalk}} が導入したこの仮想機械方式は{{lang|en|[[EULER]]}}の[[pコードマシン]]から[[アラン・ケイ]]が着想を得たものである。<ref name="名前なし-2">http://worrydream.com/EarlyHistoryOfSmalltalk/</ref> ==== イメージファイル ==== イメージファイルは、{{lang|en|Smalltalk}} 環境の実行状態をそのまま保存したファイルである。イメージファイルは {{lang|en|Smalltalk}} 環境実行中に生成された全てのオブジェクトを直列化して保存することで{{lang|en|Smalltalk}} 環境の実行状態を保存している。この直列化されたオブジェクトには、{{lang|en|Smalltalk}} の中間言語も含まれている。イメージファイルに含まれる中間言語命令は、{{lang|en|Smalltalk}} 自身によって記述されたコンパイラーによってソースコードから翻訳された、バイト列のオブジェクトである。 ====仮想機械とブートストラップ==== {{lang|en|Smalltalk}} の実行環境が全く存在しない初期の状況ではコンパイラーも仮想機械も {{lang|en|Smalltalk}} で用意する事はできない。このため {{lang|en|Smalltalk}} の初期段階では[[Alto|ALTO]]の[[アセンブリ言語]]によりコンパイラーや仮想機械が実装されていた。<ref>[http://freudenbergs.de/bert/publications/Ingalls-2014-Smalltalk78.pdf Reviving Smalltalk-78]</ref> ===実行時書き換え=== {{lang|en|Smalltalk}}環境は翻訳方式を使う処理系としては珍しくプログラムの実行時書き換えを基本とする。例えば後述のClass Browserに入力したプログラムはソースコードを中間言語に変換したあと{{lang|en|Smalltalk}}環境の一部として取り込まれ、環境を再起動したり読み込み操作をしなくても起動中の{{lang|en|Smalltalk}}環境内で実行することができる。C++のような翻訳式の言語であれば原則、ソースコードを書き換えた場合は原則プログラムの再起動が必要となる。またPythonの様な言語ではソースコードを再読み込みする処理を予め書き換えたい処理の呼び出し元に組み込んでおかなければソースコードをいくら書き換えても動作に反映できない。{{lang|en|Smalltalk}}ではその再起動や再読み込み処理の組み込みが必要ない。このため環境をソースコードを書き換える都度環境全体を再起動しなくて済むのはもちろん、Windowを表示するプログラムを作った場合であれば、Window内のButtonの動作を変更する時もWindowを表示したままソースコードを書き換えて動作を変更できる。このためButtonを押すまでに複数の手順が必要なプログラムやWindowの表示に時間がかかるプログラムでもButtonを表示した状態から再起動せず何度でもやり直しができ効率的なソースコード変更が可能になっている。 ===環境の種類=== {|class="sortable wikitable" |+ Smalltalk環境の種類 |- style="position: sticky; top: 0;" !環境!!使用している仮想機械!!有償版||無償版||CPU||OS||備考 |- |{{lang|en|ObjectWorks}}||-||○||○<ref name="名前なし-3">http://www.cincomsmalltalk.com/main/developer-community/trying-cincom-smalltalk/try-cincom-smalltalk/</ref>||-||Win||2017年現在VisualWorksを販売するCincomのWindows向け製品となっている。 |- |{{lang|en|[[:en:VisualWorks|VisualWorks]]}}||{{lang|en|Object Engine}}||○||○<ref name="名前なし-3"/>||x86/x64||Unix/Linux/OSX/Win||ゼロックス時代のSmalltalkを引き継ぐSmalltalk環境。名前空間<ref>http://smalltalk.cincom.jp/tutorials/primers/Introduction/Namespace.ssp</ref>やイメージファイルからモジュールを切り離せるパーセル<ref>http://smalltalk.cincom.jp/tutorials/vw7.7/tutorial2/vwparcels2.ssp</ref>、OSのデスクトップ上に表示できるウィンドウ等以前のSmalltalkより大きく拡張されている。2017年現在も活発に開発されている。 |- |{{lang|en|Squeak}}||{{lang|en|Cog VM}}||×||○||x86||Unix/Linux/OSX/Win||Apple Smalltalkから派生したプラットフォーム非依存やマルチメディア対応を強化したSmalltalk環境。 |- |[[Pharo]]||{{lang|en|Cog VM}}||×||○||x86/x64/Arm||Unix/Linux/OSX/Win/MacOS||Squeakから開発向けに派生したSmalltalk環境。<ref>http://www.pharo-project.org/about</ref> |- |{{lang|jp|[[Gemstone|GemStone/S]]}}||-||○||○||x86/x64||Unix/Linux/OSX/Win||データベース管理システムとしての用途に特化したSmalltalk環境。その用途からGUIは無い。2017年現在GemTalk systemにて無償版が配布されている。[https://gemtalksystems.com/]2017年現在も活発に開発されている。 |- |[[GNU Smalltalk]]||-||×||○||x86/x64/arm||Unix/Linux/Android/OSX/Win||GUI無しでの開発に特化しており他の環境ではGUIを前提としている機能をCUIで実行できる。ただしGUI環境も用意されている。[https://www.gnu.org/software/smalltalk/manual/gst.html]Cと連携するための機能が他の処理系と比較して特に強力であり、関数のポインターを指定すべき引数にブロックを渡したり、関数呼出もできる各種ポインター操作ができるようになっている。しかも、関数のポインターとして渡すブロックは変数を束縛した状態で渡す事が可能になっている。 |- |{{lang|en|[[:en:Strongtalk|Strongtalk]]}}||-||×||○||-||Win||言語仕様に静的型検査を追加したSmalltak環境。Hot spotによる最適化を初めて実装したVMで極めて高速に動作する。Strongtalkで開発されたHot spot技術はJavaVMなどにも移植された<ref>http://strongtalk.org/</ref> |- |{{lang|en|Gradualtalk}}||{{lang|en|Cog VM}}||×||○||x64||Unix/Linux/OSX/Win||Pharoの環境を元に言語仕様に静的型検査と動的型検査を追加したSmalltak環境。<ref>http://pleiad.cl/research/software/gradualtalk</ref> |- |{{lang|en|[[Amber Smalltalk]]}}||-||×||○||Web Browserに依存||Web Browserに依存||Web Browser上で動作するSmalltalk環境。<ref>http://amber-lang.net/</ref> |- |{{lang|en|[[:en:Dolphin Smalltalk|Dolphin Smalltalk]]}}||-||-||-||-||Win||Windowsに特化しておりOS固有の機能やOS固有のGUIを使用できる。OSとの親和性が高い。<ref>http://www.object-arts.com/downloads/docs/index.html</ref><ref>http://www.object-arts.com</ref>SmalltalkからJavaを呼び出すJNIPortを最初に実装した処理系であり、JNIPortが使える処理系ではDolphin Smalltalkの名前を目にする機会が多い。<ref>https://sites.google.com/site/jniport/documentation/jniport-for-visualworks</ref> |- |{{lang|en|Smalltalk/JVM}}||-||-||-||Java VMに依存||Java VMに依存||Java VMを使用する。<ref>http://missionsoft.com/</ref> |- |{{lang|en|#Smalltalk}}||-||-||-||[[共通言語基盤]]に依存||[[共通言語基盤]]に依存||.NET Frameworkを使用する。<ref>http://www.refactory.com/tools/sharp-smalltalk</ref> |- |{{lang|en|Smalltalk/X}}||-||-||-||-||Unix||Unixで動作するSmalltalk環境。 |- |{{lang|en|Smalltalk/V}}||-||-||-||-||-||pc98で動作するSmalltalk環境。 |- |[[VisualAge]]||-||-||-||-||-||{{lang|en|Smalltalk/V}}から[[IBM]]が派生させて開発したSmalltalkベースの統合開発環境。Javaで記述された[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]]の原型でもある。 |- |VA Smalltalk | - | - | - | - | - |IBMが開発を停止したVisualAgeの派生製品。<ref>{{Cite web|url=http://www.instantiations.com/docs/FAQ/wwhelp/wwhimpl/js/html/wwhelp.htm#href=va01001.html|title=Does IBM offer support for VisualAge Smalltalk?|accessdate=2018-10-16|publisher=}}</ref>2018年現在も開発が継続されている。 |- |{{lang|en|Smalltalk MT}}||-||-||-||-||Win||Windowsに特化しActive Xを生成できる。<ref>http://www.objectconnect.com/stmtvc_info.htm</ref> |- |{{lang|en|[[:en:Little Smalltalk|Little Smalltalk]]}}||-||-||-||-||-||Smalltalk環境として稼働する上で必要最低限の機能だけを備えるSmalltalk環境。 |- |{{lang|en|SmallScript}}({{lang|en|S#}})||-||-||-||-||-||- |- |{{lang|en|[[Ambrai Smalltalk]]}}||-||-||-||-||-||- |- |{{lang|en|ConcurrentSmalltalk}}||-||-||-||-||-||[[アクターモデル]]による分散処理を導入した環境。[https://ci.nii.ac.jp/naid/110003743373] |- |{{lang|en|Distributed Smalltalk}}||-||-||-||-||-||- |- |{{lang|en|PIC/Smalltalk}}||-||-||-||-||-||- |- |{{lang|en|Smalltalk Express}}||-||-||-||-||-||- |- |{{lang|en|ParcPlac Systems社 Smalltalk-80 V2.5}}||-||-||-||[[80386SX]]以上||-||pc98で動作するSmalltalk環境。動作環境として、CPU 80386SX以上、メモリ3.6Mbyte(V2.5Jでは4.6Mbyte)以上搭載、ハードディスク空き容量5Mbyte(同10Mbyte)以上とされるが、当時のマシン環境としてPC-9801DA21に7.6Mbyte以上のメモリと80Mbyte以上のハードディスクを装備した環境を推奨{{Sfn |SuperASCII 1991年1月号 |p=108-112}}。 |} ===GUIツール=== [[File:VisualWorks.png|thumb|Linux上で稼働するSmalltalk環境(VisualWorks)。 左上:Class Browser, 右上:Transcript, 左下:Workspace, 右中段:Debugger/Notifier, 中央下段:Inspector, 右下段:変数を表示したWorkspace]] ====準標準的なGUIツール==== GUIを使わないような特殊なものを除き、大半のSmalltalk環境では次のようなGUIツールが用意されている。 * Class Browser(System Browser) * Transcript * Workspace * Debugger/Notifier * Inspector Smalltalkの開発ではこれらのツールを使って開発する事が半ば前提となっている。 ====Class Browser(System Browser)==== Smalltalk環境内に存在する全てのクラスを(存在する場合は名前空間も)表示/編集できるツールで、Smalltalk開発において中核となるツールである。 {{節スタブ}} ====Transcript==== 言うなれば出力しかできないコンソールといったツールで、プログラムの実行結果を簡易的に表示したいときに使われるツールである。Smalltalk環境内でTranscript変数に書き込まれたメッセージは、全てこのTranscriptに表示される。 ====Workspace==== 言うなればコンソールの入力側とテキストエディターを組み合わせた様なツールである。一見すれば書いたコードを実行できるだけの簡易的なテキストエディターにしか見えないが、WorkspaceはWorkspace変数というWorkspace固有の変数を持っており、Workspace内で実行されたSmalltalkコードの実行結果を保持することができる。このため、長いコードを書くような用途では使わず、Smalltalk環境に対するパッケージの追加や、環境設定、ファイルの一時的な操作など一時的な操作を実行する場所として使われる。 ====Debugger/Notifier==== {{節スタブ}} ====Inspector==== オブジェクトの内部構造を再帰的に表示するツールである。また、多くの場合オブジェクトの編集が可能でありWorkspaceと組み合わせてオブジェクトを組み立てていくことが可能である。例えば画面部品をWindowを表すオブジェクトに組み込み、クラス変数に格納するといった具合である。Inspectorに限らずSmalltalk環境全体に共通することであるが、オブジェクト内の変数を表示するときは内部構造そのままではなくオブジェクトの文字列表現で表示する。このため内部がHash map等複雑な構造になっている場合でも<code>Dictionary (#key -> 'value' )</code>といった読み易い表示となる。 ==言語としてのSmalltalk== ===言語としての設計思想=== 言語として {{lang|en|Smalltalk}} が目指したもの。それは計算機を計算機の集合体として構築し、さらに計算機を構成する個々の計算機も計算機の集合体で構築するというように、再帰的な計算機を構築することであった。この再帰的な計算機を構築している無数の計算機は、個々の内部には干渉せずメッセージによる通信のみによって相互作用を発生させ目的の計算を完遂させる。 ここでいう計算機が {{lang|en|Smalltalk}} ではオブジェクトという形で実装された。 この設計思想の誕生は、{{仮リンク|ロバート・S・バートン|en|Robert S. Barton}}と[[バロース B5000|B5000]]の設計者らが会談した際の次の発言をアラン・ケイが聞き「計算機の全体を計算機とみなした場合、その計算機の構成要素を計算機に分解するのではなく関数やデータ構造に分解したいと誰が思うのか」と疑問を浮かべた事がきっかけとなっている。 <ref name="名前なし-2"/> {{quotation|{{lang|en|“The basic principal of recursive design is to make the parts have the same power as the whole.”}}<br>「再帰設計の基本原理は、部品が全体と同じ力を持つようにすることだ」}} ここで言及された再帰という概念は、オブジェクトの成立以外にも {{lang|en|Smalltalk}} の至るところに影響を与えている。 * 反復はメソッドの再帰呼び出し。 * インスタンスオブジェクトを生成しているクラスオブジェクトも、クラスオブジェクトに所属するインスタンスオブジェクトであり再帰関係を持つ。 * <code>Metaclass</code>は<code>Metaclass class</code>のインスタンスオブジェクトであり<code>Metaclass class</code>は、<code>Metaclass</code>であり再帰関係を持つ。 * 基本的な派生元となる<code>Object</code>や<code>ProtoObject</code>は、それらから派生した<code>UndefinedObject</code>のインスタンスオブジェクトである<code>nil</code>を継承しており再帰関係を持つ。 * {{lang|en|Smalltalk}} 言語は {{lang|en|Smalltalk}} 言語自身によりメッセージ送信等の言語機能が制御される。 * {{lang|en|Smalltalk}} 言語の翻訳や仮想機械は {{lang|en|Smalltalk}} 言語により実装される。 * {{lang|en|Smalltalk}} 言語の大域変数は<code>Smalltalk</code>変数に格納されたオブジェクトにより管理されるが、<code>Smalltalk</code>変数自体も大域変数である。 === 言語仕様の種類 === {{lang|en|Smalltalk}} の言語仕様は原則として非常に単純なため、環境もしくは処理系の相違による互換の有無は、クラスライブラリーの差異程度に由来するもの(ある意味、バージョンの違いもこれも含まれる)から、言語仕様自体の改変に由来のものまで空間的に連続で多岐にわたる。このため、単に {{lang|en|Smalltalk}} として語弊のある場合、一般にその環境および処理系の呼称もしくは商標(必要ならそのバージョン)をして他と区別するために用いる慣習がある。 ===文法=== ====コメント==== 「<code>"~"</code>」のようにダブルクオーテーションでくくった文字列がコメントとして扱われる。 ====定数表現==== 主な定数表現には次のようなものがある。 {|class=wikitable !型!!例 |- |整数||<code>3</code> |- |整数(16進数)||<code>16r3</code> |- |小数||<code>3.4</code> |- |浮動小数点数||<code>3.4e5</code> |- |文字||<code>$a</code> |- |文字列||<code>'abc'</code> |- |シンボル||<code>#abc</code> |- |記号を含むシンボル||<code>#'*abc'</code> |- |配列(要素は定数限定)||<code>#( 'This' #is $a 10 )</code> |- |バイト配列(要素は0〜255の定数限定)||<code>#[ 0 255 16r0 16r255 ]</code> |- |ブロック(引き数なし)||<code>[ 3 + 4 ]</code> |- |ブロック(引き数付き)||<code><nowiki>[ :x | x + 1 ]</nowiki></code> |} 定数ではないが、よく用いられるオブジェクトの生成式には次のようなものがある。 {|class=wikitable !型!!例 |- |分数||<code>3 / 4</code> |- |複素数||<code>3 + 4i</code> |- |座標||<code>3 @ 4</code> |- |共同体||<code>'a' -&gt; 0</code> |} 言語機能の様に見えるが「<code>/</code>」や「<code>@</code>」などはただのセレクターであり、{{lang|en|Smalltalk}} の使用者も同様の機能を作ることが出来る。 ====変数==== 一時変数は宣言が必要で、「<code>|</code>」で挿むように記述する。変数への代入は「<code>:=</code>」。古い処理系では「<code>_</code>」が使用された(字形は「←」)。変数に型はなく全て[[ハンドル]]になっている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | a b | a := 3. b := 4. </syntaxhighlight> ====擬変数==== 他の言語で予約語にあたる擬変数は <code>self</code>、<code>super</code>、<code>nil</code>、<code>true</code>、<code>false</code>、<code>thisContext</code> の6つ。<code>self</code> と <code>super</code> はそのメソッドを呼び出したメッセージの受け手(レシーバー)を、<code>nil</code> と <code>true</code> と <code>false</code> はそれぞれ <code>UndefinedObject</code>、<code>True</code>、<code>False</code> に属するソルインスタンス(唯一の実体)を、<code>thisContext</code> は実行中のコンテキスト(スタックフレーム)を参照するのに使える。 <code>self</code> と <code>super</code> は同種のオブジェクトだが、メッセージ式でメッセージレシーバーに指定されたときのメソッド検索の起点が異なり、<code>self</code> ではオブジェクトが属するクラス、<code>super</code> ではその基底クラスである。 ====メッセージ式==== {{lang|en|Smalltalk}} では「メッセージ式」と呼ばれる書式でコードを記述する。メッセージ式は「レシーバー」に「メッセージ」を送ることを表すためのもので、そのまま <syntaxhighlight lang="smalltalk"> receiver message </syntaxhighlight> と記述する。メッセージはさらに、呼び出されるされるメソッド(方法)の名前を表す「メッセージセレクター」<ref group="注釈">あるいは単に「セレクター」。</ref>と0個以上の引数の組み合わせからなる。ただし {{lang|en|Smalltalk}} の場合必ずしもセレクターとメソッド名は一致しない。また、メッセージの送り先はメソッドではなくブロックや外部の関数になっている場合もある。セレクターは引数の数だけコロンを自身に含まなければならず、メッセージとして記述する際にはコロンの直後に引数を挿入する。 {|class=wikitable !メッセージ式!!セレクター!!引数 |- |<code>receiver noArg</code>||<code>noArg</code>||{{N/A}} |- |<code>receiver oneArg: arg</code>||<code>oneArg:</code>||<code>arg</code> |- |<code>receiver firstArg: arg1 secondArg: arg2</code>||<code>firstArg:secondArg:</code>||<code>arg1</code>、<code>arg2</code> |} 引数なしのメッセージを'''単項メッセージ'''、そのセレクターを'''単項セレクター'''と呼び、引数ありのメッセージを'''キーワードメッセージ'''、そのセレクターを'''キーワードセレクター'''と呼ぶ。メッセージ記述の際に引数の挿入により分断されたキーワードセレクター断片(例えば <code>firstArg:secondArg:</code> なら <code>firstArg:</code> と <code>secondArg:</code>)を'''キーワード'''と呼ぶが、あくまで便宜的な呼び名に過ぎず、そうした言語要素は存在しない。他の言語に見られる「キーワード引数」のように省略できるものではなく、また引数順を入れ替えられるものでもない。 セレクターは原則としてアルファベットと数字と0個以上(かつ、引数と同数)のコロンから成るが、例外として二項演算を模した記述が可能となるように記号のみから成る引数1つのセレクターを使ってメッセージ式を記述することもできる。これを'''[[利用者定義演算子|二項メッセージ]]'''、そのセレクターを'''二項セレクター'''と呼ぶ。 {|class=wikitable !メッセージ式!!セレクター!!引数 |- |<code>3 + 4</code>||<code>+</code>||<code>4</code> |- |<code>#( 1 2 3 ), #( 4 5 )</code>||<code>,</code>||<code>#( 4 5 )</code> |} この場合、上の「<code>3 + 4</code>」では、「<code>3</code>」がレシーバーで「<code>+ 4</code>」がメッセージである。 通常の処理系では、単項メッセージ、二項メッセージ、キーワードメッセージの順で評価される。二項メッセージ間で乗除の優先はない。 {|class=wikitable !メッセージ式!!結合性を明示した等価の表現 |- |<code>3 + 4 * 5 min: 6 factorial</code>||<code>( ( 3 + 4 ) * 5 ) min: ( 6 factorial )</code> |} セミコロン「<code>;</code>」でメッセージ式を区切る事により、1個のレシーバーに対して複数のメッセージを送ることが出来る。これをカスケード式という。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | collection | collection := OrderedCollection new add: 0; add: 1; add: 2; add: 3; add: 4; yourself. </syntaxhighlight> カスケード式を用いて書いた上記の文は、カスケード式を用いない次の文と等価である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | collection | collection := OrderedCollection new. collection add: 0. collection add: 1. collection add: 2. collection add: 3. collection add: 4. </syntaxhighlight> ====制御構文==== 複数の式を順次実行する場合は、式をピリオドで区切る。メソッドを中断し戻り値を指定するには'''復帰文'''「<code>^ 戻り値式</code>」を使う。言語機能として持つ制御構文は復帰文を除いて存在せず、復帰文以外の制御は制御構文と同等の機能を持ったメッセージ式で代用する。 ===== ブロック ===== ブロックは、他の言語で言えば無名関数やクロージャーに該当する機能である。ただし {{lang|en|Smalltalk}} のブロックは関数ではなくオブジェクトである事に加え、無名関数というより制御構文としての性格が強くなっている。並列実行の基本単位にもなる。 ブロックは、引き数の数毎に複数定義された「<code>value</code>」を含むメッセージを送る事で、ブロック内に記述されたメッセージ式を実行し結果を返す。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [  0 ] value. "-> 0" [ :value1 | value1 ] value: 1. "-> 1" [ :value1 :value2 | value1 + value2 ] value: 1 value: 1. "-> 2" </syntaxhighlight> ブロック内の<code>:value1 :value2</code>は引き数であり、「<code>|</code>」以降は「<code>value</code>」を含むメッセージが送られた際実行するメッセージ式である。「<code>value</code>」を複数ならべたセレクターは4個程度まで( <code>#value:value:value:value:</code> )しか定義されておらず。5個以上引き数を取る場合は、配列を引き数とする<code>#valueWithArguments:</code>を使う必要がある。メソッドが値を返す際は、復帰文の記述が必要となるがブロックの場合は値を返すのに復帰文は必要ない。最後に実行されたメッセージ送信の結果あるいは、最後に書かれた値が戻り値となる。ブロックは制御の基本となるオブジェクトであるため、「<code>value</code>」を含むメソッド以外にも膨大なメソッドを持っている。ただし、後述する他の制御構文はブロックに対し<code>#value</code>セレクターまたは、<code>#value:</code>セレクターを使ったメッセージしか送らない。 ブロックには<code>value</code>と合わせてよく使われるセレクターとして「<code>cull</code>」がある。<code>cull</code>の振る舞いは、ほぼ<code>value</code>と同じであるが、ブロックがメッセージに含まれる引き数を無視できるという違いがある。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ :value1 | value1 ] cull: 1 cull: 2. "-> 1" </syntaxhighlight> <code>cull</code>はブロックによる分岐制御が主目的であるが、分岐の基準になったオブジェクトを参照する場合もあるようなセレクターで使われる。典型的な例は、オブジェクトがnilで無いときだけブロックを実行する<code>#ifNotNil:</code>である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | block value1 value2 | block := [ :value | value ]. value1 := 1. value2 := 2. value1 ifNotNil: [ 9 ]. "-> 9" value1 ifNotNil: block. "-> 1" value2 ifNotNil: block. "-> 2" </syntaxhighlight> ===== 条件分岐 ===== 条件分岐は <code>#ifTrue:ifFalse:</code> セレクターを用いたメッセージ式として、条件式の結果の真偽値へのメッセージ送信の形で次のように記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> 3 < 4 ifTrue: [ 5 ] ifFalse: [ 6 ]. </syntaxhighlight> {{lang|en|Smalltalk}} では <code>nil</code> がオブジェクトである。これを利用した <code>nil</code> 専用の条件式も存在する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> object := nil. object ifNil: [ 5 ] ifNotNil: [ 6 ]. object ifNotNilDo: [ :value | value inspect. ]. </syntaxhighlight> 条件分岐の制御において、他の言語でいう<code>switch</code>に直接該当する文は存在しない。多態性を利用して分岐するか、次のように連想配列を利用して分岐するため不要である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> something: aNumber | switch | "速度が求められる場合は、初期化済みのDictionaryのオブジェクトをインスタンス変数やクラス変数にキャッシュする。" switch := Dictionary new at: 1 put: [ #a ]; at: 2 put: [ #b ]; at: 3 put: [ #c ]; yourself. ^ ( switch at: aNumber ifAbsent: [ #z ] ) value. </syntaxhighlight> 但し一部の処理系では、次のような<code>switch</code>に類似した書き方ができるものも存在する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> something: aNumber ^ aNumber caseOf: { [ 1 ]->[ #a ]. [ 2 ]->[ #b ]. [ 3 ]->[ #c ]. }. </syntaxhighlight> ===== 反復 ===== 反復制御において<code>for</code> に直接該当する文は存在しない。代わりに回数を指定した反復がある。回数を指定した反復は、整数型へのメッセージ送信の形で次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "100回の反復処理を実行する" 100 timesRepeat: [ "反復実行する処理" ]. </syntaxhighlight> 現在の反復回数を参照しながら反復する事も出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "100回の反復処理を実行する" 1 to: 100 do: [ :each | "eachは現在の反復回数" ]. </syntaxhighlight> <code>for</code> に該当する文は存在しないものの、<code>while</code> に該当する文は存在する。<code>while</code> に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ true "真偽値を返す式" ] whileTrue: [ "反復実行する処理" ]. </syntaxhighlight> <code>#whileTrue:</code> セレクターは、条件が真である間反復する事を意味している。逆に条件が偽である間反復する <code>#whileFalse:</code> というセレクターも存在する。 また <code>do</code>-<code>while</code> に該当する文も存在する。<code>do</code>-<code>while</code> に該当する反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ "反復実行する処理" "このブロックの実行結果が真である間反復を繰り返す" ] whileTrue. </syntaxhighlight> {{lang|en|Smalltalk}} では条件なしの反復も存在する。無条件反復は、ブロックに対するメッセージ送信の形で次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ "反復実行する処理" ] repeat. </syntaxhighlight> {{lang|en|Smalltalk}} では、反復方法が複数存在するが、実は全てメソッドの再帰呼び出しによって実装されているという事になっている。ただし、こちらも <code>#ifTrue:ifFalse</code> 同様実際にメソッドの再帰呼び出しとして実行されていない事が多い。 ===== 反復からの脱出 ===== C言語の <code>break</code> や {{lang|en|Perl}} の <code>last</code> に相当する反復脱出は <code>thisContext</code> に対し <code>#return</code> セレクターを使ったメッセージを送る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ thisContext return. "反復を抜ける" ] repeat. </syntaxhighlight> <code>thisContext</code> には、引き数を取り、引き数を脱出するブロックの戻り値として返す <code>#return:</code> セレクターや、戻り先のメソッドを指定する <code>#return:to:</code> セレクターなど多数の <code>return</code> 系セレクターに対応するメソッドが定義されており、他の言語には珍しい多様な反復の脱出方法を備えている。 ===== 例外処理機構 ===== {{lang|en|Smalltalk}} にも例外処理機構が存在する。こちらも、その他の構文と同じくメッセージ式とブロックによって実現されている。例外処理は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ [ Exception signal: '処理失敗'. "例外発生" ] ensure: [ "例外の有無に関わらず実行したい処理" ]. ] on: Exception "補足する例外の種類" do: [ :exception | "例外を補足した際の処理" ]. </syntaxhighlight> なお<code>#ensure:</code>は後述の[[Smalltalk#ブロックによる資源の開放|ブロックによる資源の開放]]があるため多用されることはない。 例外の制御はメッセージ送信毎に連結リストとして積み上げられたコンテキスト情報の末端のコンテキスト(メソッドスタック)を表す <code>thisContext</code> オブジェクトを操作し、コンテキストを巻き戻す事で実現されている。複数の例外は、<code>#on:do:on:do</code>・・と<code>on:do:</code>を繰り返し(処理系が定義している限りの数で)記述して補足する事もできるが、次の様に例外の型を<code>,</code>で並べて補足する事も出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> [ Notification signal: '接続準備完了'. ] on: Error, Notification do: [ :exception | "エラーと通知両方の例外を1度に補足" ]. </syntaxhighlight> なお、{{lang|en|Smalltalk}}では正常な結果を返せない異常な状態と通知両方を合わせたものが例外である。例外は正常な戻り値を返せない異常な場合と割り込みの様に非同期な通知に利用される。特徴的な点として異常な場合と通知の場合では動作が異なる。異常な場合は他の言語の例外同様、補足しなければその時点で停止しDebugウィンドウに移行するが、通知の場合は補足しなければ例外発生地点から処理を継続する。 ===== 並列処理 ===== {{lang|en|Smalltalk}}では、標準で並列処理が存在する。並列処理は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | process semaphore | semaphore := Semaphore new. process := [ Process yield. "他のProcessに切り替える切り替え点" "並列実行される子処理" semaphore signal. "親処理への終了通知" ] newProcess. process resume. "子処理の起動。Blockに対し#forkを送る場合はnewProcessとresumeは省略できる" "並列実行される親処理" semaphore wait. "子処理の終了待機" </syntaxhighlight> 並列処理はスレッドに類似するプロセスという仕組みにより実装されている。プロセスは{{lang|en|Smalltalk}}環境内で構築された並列処理の仕組みであり、グリーンスレッドで実装されている事が多い。このため、プロセスは論理的に非[[プリエンプション|プリエンプティブ]]なスレッド([[グリーンスレッド]])を前提しており、現在実行している処理を切り替える切り替え点を必要とする。論理的な前提は非プリエンプティブではあるものの、POSIX環境で動作させたGNU Smalltalkの様に実際はプリエンプティブなスレッドで実装されている場合もある。<ref>[https://www.gnu.org/software/smalltalk/manual-base/html_node/ProcessorScheduler_002dbasic.html#ProcessorScheduler_002dbasic]</ref>プロセスは他のプロセスから割り込みとして任意の例外を投げる機能があり(記述方法は環境によって異なる)、切り替え点はプリエンプティブなスレッドを使う場合でも例外の発生地点として機能する。 ====クラスオブジェクトの登録==== {{lang|en|Smalltalk}} は、クラスの定義をメッセージ式による実行環境へのクラスオブジェクトの登録として実現する。他の言語と異なりクラスオブジェクトの登録は単なる定義ではなく実行環境に対する操作である。1度クラスオブジェクトを登録してイメージファイルを保存すると、明示的にクラスオブジェクトを削除しないかぎりはクラスオブジェクトがイメージファイルに残り続ける。{{lang|en|Smalltalk}} 環境に対するクラスオブジェクトの登録は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "DerivedクラスをSmalltalk環境に登録する例" Object "基底クラスオブジェクト" subclass: #Derived "Objectクラスの派生として登録するクラスオブジェクト名の指定" instanceVariableNames: 'ia ib ic' "インスタンス(実体)オブジェクトに所属する変数名(インスタンス変数)の指定(空白区切り)" classVariableNames: 'ca cb cc' "クラスオブジェクトと共有する変数名(クラス変数)の指定(空白区切り)" poolDictionaries: 'pa pb pc' "クラスに所属する変数(プール変数)を取り込む辞書の指定(空白区切り)" category: 'example'. "Smalltalk環境上でクラス名を表示する際にクラスが所属する分類の指定" </syntaxhighlight> <code>poolDictionaries</code> と <code>category</code> を除いては、{{lang|en|C++}} から派生した言語のクラス定義と概ね同じである。インスタンス変数はインスタンスメソッドのみから参照でき、クラス変数はクラスメソッドとインスタンスメソッドから参照できる。他の言語と異なりインスタンス変数をクラスメソッドから参照することはできない。 {{lang|en|Smalltalk}} におけるクラスの作成は、特殊構文ではなく単なるメッセージ送信である。クラスを登録する際のメッセージは、上記の例のように次のセレクターを使用することが多い。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> #subclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: </syntaxhighlight> しかし、クラスの登録はあくまでメッセージであり自由に作れるため、実行環境には大抵その他のメソッドが用意されている。例えば、近代的な {{lang|en|Smalltalk}} 環境の一つ {{lang|en|Pharo}} では、次のセレクターに対応したメソッドが用意されている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> #subclass: #subclass:category: #subclass:instanceVariableNames: #subclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #subclass:uses: #subclass:uses:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableByteSubclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableByteSubclass:uses:ginstanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableSubclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableSubclass:uses:ginstanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableWordSubclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #variableWordSubclass:uses:ginstanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #weakSubclass:instanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: #weakSubclass:uses:ginstanceVariableNames:classVariableNames:poolDictionaries:category: </syntaxhighlight> クラスオブジェクトには、クラス変数とは別途、クラスオブジェクトが <code>Class</code> クラスから派生したインスタンスとして状態を持つためのインスタンス変数がある。このクラスオブジェクトのインスタンス変数はクラスオブジェクト内だけで共有され、インスタンスオブジェクトからは直接使用できない。 {{lang|en|Smalltalk}} 環境に対するクラスオブジェクトのインスタンス変数の登録は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Derived class instanceVariableNames: 'ia ib ic'. "クラスオブジェクトのインスタンス変数名(空白区切り)" </syntaxhighlight>クラスオブジェクトがもつインスタンス変数には変数を登録した基底クラスと派生クラスで別々の変数領域が確保されるという特筆すべき点がある。これを使用して下記の様にクラスに所属するオブジェクトだけを保持する変数としてつかったりする事ができる。<syntaxhighlight lang="smalltalk"> Object subclass: #Super. Super class instanceVariableNames: 'objects'. Super class methodsFor: 'accessing' ! objects ^ objects ifNil: [ objects := OrderedCollection new ]. !! Super class methodsFor: 'instance creation' ! new | object | object := super new. self objects add: object. ^ object. !! Super subclass: #Derived. Derived new. Derived objects size. "-> 1" Super objects size. "-> 0" </syntaxhighlight> ====メソッドの登録==== メソッド(処理方法)の登録は、コード文字列を引数として与えたクラスへのメッセージ送信でも行えるが、通常は環境に組み込まれたクラスブラウザ(システムブラウザ)と呼ばれるGUIツールを用いる。 メソッドは、「メッセージパターン」と呼ばれるメッセージ式のメッセージ部分を模した書式に続けて0個以上のメッセージ式を連ねることで記述する。例えば、前出の、レシーバーか引数を比べてより小さな方を返す「<code>min:</code>」というメソッドの登録は次のようなものになる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> min: anOtherObject ^ self < anOtherObject ifTrue: [ self ] ifFalse: [ anOtherObject ]. </syntaxhighlight> 一行目の「<code>min: anOtherObject</code>」がメッセージパターンで、メソッド名(セレクター)と仮引数となる擬変数の宣言を兼ねる。念のためここでメソッド名は「min:」、仮引数となる擬変数名は「<code>anOtherObject</code>」である。仮引数は仮引数自体の書き換えは不能なハンドル渡しとなっている。メッセージパターンのあとに処理を続けて書くこともできるが、通常は行を改めて(さらに、ここでは省いたが慣習としてメソッドの説明をするコメントを書き、それに続けて)処理を記述する。 なお、メッセージパターンのみで具体的な処理を記述せずにメソッドを登録した場合を含め、復帰文による明示的な戻り値の指定が無い場合、メソッドは戻り値として常に <code>self</code> を返す。したがって {{lang|en|Smalltalk}} では値を返さないメソッドを書くことはできない。 ====クラスオブジェクト==== {{lang|en|Smalltalk}}は、多くの動的型付け言語や{{lang|en|Delphi}}の様にクラスがオブジェクトである。このため{{lang|en|Smalltalk}}ではインスタンスオブジェクトと同様にクラスオブジェクトを変数に束縛してメッセージを送ることができる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | object | object := Something new. object value. "インスタンスオブジェクトにvalueメッセージを送信" object := Something. object value. "クラスオブジェクトにvalueメッセージを送信" </syntaxhighlight> クラスオブジェクトは、オブジェクトに<code>class</code>メッセージを送ることでも取得できる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> ' ' class. "-> ByteString" </syntaxhighlight> ====復帰文とブロック==== {{lang|en|Smalltalk}} のブロックは一種の制御構文であるという性質上、復帰文が他の言語と比べ極めて異質な振る舞いをする。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> example | block | block := [ ^ 1 ]. block value. "ブロックを実行" ^ 0. </syntaxhighlight> 上記のメソッドを登録したオブジェクトに<code>#example</code> セレクターを使ったメッセージを送ると結果としては何が返ってくるか。{{lang|en|Smalltalk}} 以外の言語では <code>0</code> が返ってくるのが一般的であるが {{lang|en|Smalltalk}} では <code>1</code> が返ってくる。{{lang|en|Smalltalk}} はブロック内の復帰文からでもメソッド自体を抜けることができるようになっている。この例では、「<code>block value.</code>」を評価し、<code>block</code> 中の「<code>^ 1.</code>」で制御が戻ると <code>example</code> 自体も中断して結果を返す。そして <code>example</code> は戻り値として <code>block</code> が戻した <code>1</code> を戻すようになっている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> callee: aBlock aBlock value. ^ 2. </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="smalltalk"> caller | block | block := [ ^ 1 ]. self callee: block. ^ 0. </syntaxhighlight> 上記の様なメソッドをまたいでブロックを評価する場合はどうなるだろうか、この場合も {{lang|en|Smalltalk}} は <code>example</code> の戻り値として <code>block</code> の戻り値である1を返す。{{lang|en|Smalltalk}} はブロック内で復帰文が実行された際、ブロックの生成地点の呼び出し元までコンテキストを巻き戻すようになっている。この特性により {{lang|en|Smalltalk}} では、<code>#ifTrue:ifFalse:</code> セレクターを使った分岐でメソッドを中断したり <code>#repeat</code> セレクター等を使った反復処理を復帰文だけで中断する事ができるようになっている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> exampleBlock ^ [ ^ 1 ]. </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="smalltalk"> callee: aBlock aBlock value. ^ 2. </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="smalltalk"> caller | block | block := self exampleBlock. self callee: block. ^ 0. </syntaxhighlight> ただし、上記の様にブロックを生成したコンテキストと、ブロックを評価する際のコンテキストが枝分かれする様な場合は復帰文を実行する事はできない。この場合は <code>BlockContext</code> が例外を出力し処理が停止してしまう。 ==== メソッドに対する注釈 ==== メソッドに対する注釈(Pragma)は、メッセージ式だけではどうしても実現が難しい機械語でしか記述できない演算子の実装や主記憶領域の確保、仮想機械外部との入出力等の実現や、特定の目的のメソッドを自動で列挙するといった目的で使用される特殊構文である。いくつかの注釈はSmalltalk環境に組み込まれているが、利用者やライブラリーの提供者が注釈を定義する事も出来る。 メソッドに対する注釈はメソッドの翻訳時に評価されるため、メソッドにしか記述でない。Behaviorの<code>evaluate:</code>による評価などメッセージ式をメソッドの外部で評価する場合は、評価対象の式に注釈を含める事はできない。具体的にはSmalltalk環境のWorkspaceに注釈を記述して評価するとエラーとなる。 メソッドに対する注釈は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> < keyword1: arg1 ... keywordN: argN > </syntaxhighlight> <code><</code>と<code>></code>で囲まれた範囲は、メッセージ式のメッセージ部分と同じになる。但し引き数を取らない注釈の記述はできない。 次にメソッドに対する注釈の具体例を挙げる。注釈はSmalltalk環境によって異なり、どの環境でも次の注釈が使えるわけでない事に注意すること。 {|class=wikitable !コード!!意味 |- |<code><primitive: 1></code>||数値演算など原子的機能の呼び出し。引き数の値は呼び出す機能の番号。 |- |<code><apicall: int 'GetLastError' () module: 'kernel32.dll'></code>||FFIによる外部関数の呼び出し。先頭のapicallは呼び出し規約であり注釈の名前ではない。cdeclなどもある。 |} ==== 大域変数 ==== Smaltallkでは、Smalltalk環境全体で参照できる大域変数を作成する事が出来る。大域変数は同じく大域変数であるSmalltalk変数に格納された<code>SmalltalkImage</code>のインスタンスオブジェクトにメッセージを送って作成する。また、大域変数の削除も<code>SmalltalkImage</code>のインスタンスオブジェクトに対するメッセージ送信となっている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Smalltalk at: #GlobalVariable put: 100. GlobalVariable. "->100" globalVariable := 10. Smalltalk at: #GlobalVariable. "->10" Smalltalk removeAt: #GlobalVariable. GlobalVariable. "->nil" </syntaxhighlight> <code>SmalltalkImage</code>は一種の連想配列であり、Smalltalkの大域変数は、Smalltalk変数を介す事で連想配列として操作する事が出来るようになっている。 なお、Smalltalkのクラス名と大域変数は同じものであり、クラス名にオブジェクトを代入すれば、そのクラスを破壊してしまうことが出来る。また、Smalltalkオブジェクトが格納されたSmalltlak変数もオブジェクトを代入し破壊する事が出来る。このように大域変数を代入により破壊してしまった場合は、最悪Smalltalk環境が起動しなくなる事態に陥り非常に危険である。このためSmalltalkではよほどの理由がなければ大域変数を使うべきではない。 ==== プール辞書 ==== プール辞書は、クラスの変数として連想配列または、他のクラスオブジェクトのクラス変数を取り込むという機能である。取り込む連想配列の要素やクラスオブジェクトのクラス変数はプール変数と呼ばれる。連想配列やクラスオブジェクトは大域変数でなくてはならない。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "プール辞書で使用する連想配列の登録" Smalltalk at: #UserPoolA put: Dictionary new. UserPoolA at: #ExamplePoolValueA put: 1. "プール辞書で使用するクラスオブジェクトの登録" Object subclass: #UserPoolB instanceVariableNames: '' classVariableNames: 'ExamplePoolValueB' poolDictionaries: '' category: 'example'. "UserPoolAとUserPoolBをプール変数として利用するクラスオブジェクト" Object subclass: #Someone instanceVariableNames: '' classVariableNames: '' poolDictionaries: 'UserPoolA UserPoolB' "UserPoolAとUserPoolBを辞書に記述しプール変数を取り込む" category: 'example'. Someone methodsFor: 'accessing' ! valueA ^ ExamplePoolValueA. "UserPoolAのExamplePoolValueAを参照" ! valueB ^ ExamplePoolValueB. "UserPoolBのExamplePoolValueBを参照" !! </syntaxhighlight> プール辞書には複数の連想配列やクラスオブジェクトを指定できるが、プール変数が重複した場合は、先に指定した連想配列やクラスオブジェクトのプール変数が使われる。 ===準標準的な文法=== ==== 非定数要素配列 ==== Pharo, GNU Smalltalkといった近代の環境では、定数以外に式の結果を指定可能な非定数要素の配列定数を使用できる。配列の要素は空白ではなく<code>.</code>で区切る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> array := { 1. 1 + 1 }. "1と2を要素に持つ配列を作る。" </syntaxhighlight> ==== 継続 ==== 継続渡し形式を支援する機能として継続があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。もっぱら反復の中断や、メソッド内の処理を飛ばすために使われる。継続の使用は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> result := Continuation currentDo: [ :break | aCondition1 ifTrue: [ break value: 1 ]. "aCondition1がtrueなら以降の処理を中断しresultに1を代入する。" aCondition2 ifTrue: [ break value: 2 ]. "aCondition2がtrueなら以降の処理を中断しresultに2を代入する。" 3 "aCondition1, aCondition2両方trueならresultに3を代入する。" ]. </syntaxhighlight> ==== 生成器 ==== 遅延評価を支援する機能として生成器があり、PharoやGNU Smalltalkで使用できる。生成器はCoroutineにも利用できる。生成器の使用は次の様に記述する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> stream := Generator on: [ :each | each yield: 1. each yield: 2. "stream nextを1回呼ぶまで実行しない。" each yield: 3. "stream nextを2回呼ぶまで実行しない。" ]. stream next. "-> 1" stream next. "-> 2" stream next. "-> 3" </syntaxhighlight> 生成器を使って処理を作ることは多くないが、配列などを使用する際、間接的に使用していることが多い。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | readStream grater2 total | readStream := #( 1 2 3 4 5 ) readStream. "#readStreamにより#select:を遅延実行する生成器が作られる。" grater2 := ( ( readStream select: [ :each | 1 < each ] ) collect: [ :each | each * 2 ] ) reject: [ :each | 8 > each ]. total := grater2 inject: 0 into: [ :value :each | value + total ]. "#inject:into:でeachに代入するとき初めて#select:と#collect:と#reject:が実行される。" </syntaxhighlight> ===ファイル用構文=== {{lang|en|Smalltalk}} のプログラムは基本的に中間言語としてイメージファイルの中に格納され、ソースコードの編集は {{lang|en|Smalltalk}} のGUI環境から行われる。このため基本的にファイルという形で {{lang|en|Smalltalk}} のソースコードやプログラムを目にすることはない。しかし、ソースコードの交換目的などでどうしても {{lang|en|Smalltalk}} 環境外でソースコードを管理する必要がある場合に備えファイル用の構文が存在する。ファイル用の構文は次のようになる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Object subclass: #Example instanceVariableNames: '' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: 'example'. Example methodsFor: 'Instance Methods A' ! selectorA1 "処理" ^ 0. ! selectorA2: anArgument "処理" ^ 0. !! Example methodsFor: 'Instance Methods B' ! selectorB1 "処理" ^ 0. ! selectorB2: anArgument "処理" ^ 0. !! Example class methodsFor: 'Class Methods' ! selector1 "処理" ^ 0. ! selector2: anArgument "処理" ^ 0. !! </syntaxhighlight> 本来他の言語の様なブロックが存在しないため、ブロックとして「<code>!</code>」が使用される。クラスの登録は「<code>!</code>」の一組で囲まれる。メソッドはプロトコル毎に「<code> クラス名 methodsFor: 'プロトコル' ! 〜 !!</code>」というブロックで囲まれる。一つのプロトコルには複数のメソッドを定義でき、メソッド同士は一個の「<code>!</code>」によって区切られる。 ちなみに、クラス登録は単なるメッセージ送信であり特別な文ではないため、登録用ブロック外にも次のように単純なメッセージ送信の記述に使用する事が出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Example methodsFor: 'Instance Methods A' ! selector1 !! 'hello' displayNl. 'world' displayNl. Example2 methodsFor: 'Instance Methods A' ! selector !! </syntaxhighlight> ファイル用構文で記述されたメソッドの登録は、可読性や記述性の面からメッセージ式からかけ離れた変則的な構文が使用される。しかし、この変則的な構文を用いなければメソッドを登録できないわけではなく、次のように通常のメッセージ式でメソッドを登録する事も出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Example compile: ' selectorC: anArgument ^ 0. ' classified: 'Instance Methods C'. </syntaxhighlight> 上記では、クラスオブジェクト<code>Example</code>のプロトコル<code>Instance Methods C</code>に対し、メソッド<code>selectorC</code>を登録している。 ===委譲と継承=== {{lang|en|Smalltalk}} において、継承とは特殊な委譲に過ぎない。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Object subclass: #Derived "DerivedはObjectクラスから派生させる" instanceVariableNames: '' "オブジェクトに所属する変数は定義しない" classVariableNames: '' "クラスオブジェクトと共有する変数は定義しない" poolDictionaries: '' "クラスに所属する変数は定義しない" category: 'example'. "クラスの分類はexampleとする(今回の名前に意味はない)" </syntaxhighlight> このため、例えば上記のクラスオブジェクトの生成では、<code>Derived</code> クラスオブジェクトの基底クラスオブジェクトとして <code>Object</code> を指定しているが、処理系によっては下記の様に <code>#superclass:</code> メッセージを送る事で、基底クラスに別のクラスオブジェクトを指定する事が出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "superclass: NewBase. メッセージを送り基底クラスを NewBase に変更する事が出来る。" Derived superclass: NewBase. </syntaxhighlight> 処理系により不可能な事もあるがクラスオブジェクトだけでなく、インスタンスオブジェクトから派生することも出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "インスタンスオブジェクトの nil から派生した Derived クラスを Smalltalk 環境に登録する" nil subclass: #Derived instanceVariableNames: '' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: 'example'. </syntaxhighlight> なお通常、派生元の基本となるProtoObjectやObjectはnilから派生しており継承関係は再帰的に循環している。 ===メッセージ=== {{lang|en|Smalltalk}} において、メッセージ、セレクター、メソッドはそれぞれ別物である。{{lang|en|C++}} 系統の言語の様にオブジェクトに対しメッセージを送るという事は単なる比喩ではない。 あるオブジェクトに対し <code>#hello</code> というセレクターを使ったメッセージを送る事を考える。この時、{{lang|en|Smalltalk}} においては <code>hello</code> というメソッドが必ず呼ばれる保証はない。例えば「hello」メッセージを受け取るオブジェクトが <code>hello</code> メソッドを実装していなければレシーバーに指定されたオブジェクトの <code>doesNotUnderstand:</code> メソッドが呼ばれる事になる。 なお、多くの {{lang|en|Smalltalk}} の処理系では <code>doesNotUnderstand:</code> の引き数で得られたメッセージを返すだけのクラスが用意されている。例えば {{lang|en|Smalltalk}} 環境のひとつである {{lang|en|Pharo}} ではメッセージ作成用クラス <code>MessageCatcher</code> が用意されており<ref>{{Cite web|url=http://magaloma.seasidehosting.st/Kernel#Message|title=Pharo source documentation|accessdate=2018-09-03|website=magaloma.seasidehosting.st|language=en}}</ref>次のようにメッセージを拾い、他のオブジェクトに渡すことが出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> message := MessageCatcher new show: 'text'. "「show: 'text'」がmessageに代入される。" message sendTo: Transcript. "「Transcript show: 'text'」が実行される。" </syntaxhighlight> また、セレクターとメソッドが独立していることを利用して一つのメソッドを複数のセレクターに結びつける事もできる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "#onClick:を使ったメッセージをopen:メソッドに転送させる。" FileEventHandler addSelector: #onClick: withMethod: FileEventHandler >> #open:. </syntaxhighlight> {{see also|メッセージ転送}} メッセージにはセレクターと引き数が含まれている。このため受け取ったセレクターと引き数を編集する事も出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> message := MessageCatcher new bold: true text: 'example'. message selector keywords keysAndValuesDo: [ :key :each | Transcript show: each, ':=', ( message arguments at: key ) printString; cr. ]. " 以下が出力される。 bold:=true text:=example " </syntaxhighlight> ====型付け==== プログラミング言語一般の概念として型検査をソースコードの翻訳時に実行するか、実行時に実行するかにより[[型システム|静的型付け]]と[[型システム|動的型付け]]という区分が存在するが、{{lang|en|Smalltalk}}は、そのどちらでもなく型なし言語({{lang-en-short|untyped}})に区分される<ref name="名前なし-1"/>。{{lang|en|Smalltalk}} の場合、変数に対する操作は全てメッセージ送信であり、変数の種類(型)毎にできる操作は決まっていない。また、オブジェクトに対しメッセージを送った場合、そのオブジェクトがメッセージに対応するメソッドを持っていなくとも実行環境がエラーを発生させる事はない。メッセージに対応するメソッドが存在しない場合、例外を出すか無視するかは、クラスに実装されたメソッドの内容次第である。したがって {{lang|en|Smalltalk}} には型付けの概念はない。例えば、{{lang|en|Pharo}} の <code>MessageCatcher</code> は全てのメッセージを拾うため、どんなメッセージを与えられても例外が発生することはない。また、GNU Smalltalkではnilから派生したクラスのオブジェクトに存在しないメソッドに対するメッセージを送ると何も反応しない。ただし高速化のため後述の特殊セレクターを使用した場合実行時に型検査する処理系が多い。ちなみに {{lang|en|Smalltalk}} は基本的に中間言語に翻訳され、翻訳時にエラーを発生させるため構文検査は静的である。 ====メッセージと制御構文==== 制御構文の節で述べた通り、{{lang|en|Smalltalk}}の殆どの制御構文はメッセージ式である。{{lang|en|Smalltalk}}に明るくないプログラマーからは言い方や見方を変えただけと捉えられがちである。{{lang|en|Smalltalk}}の制御構文は実際にメッセージであるがゆえに究極には制御構文の構文要素を次のように変数に分解してしまうことが出来る。 変数に分解した分岐制御の例: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | then else message condition | then := [ 1 ]. else := [ 2 ]. message := MessageCatcher new ifTrue: then ifFalse: else. condition := 2 = 2. ^ message sendTo: condition. </syntaxhighlight> これらの変数に分解された構文要素は、どのクラスのオブジェクトで無いといけないという制限はない。送られたメッセージを処理することさえ出来ればあらゆるオブジェクトに置き換える事が出来る。 ====特殊セレクター==== Smalltalkでは高速化のためいくつかのメッセージを特別扱いする。これを特殊セレクター({{lang-en-short|special selector}})という。 典型的な例は<code>#ifTrue:ifFalse:</code>である。下記のコードはでは「ifTrue: [5] ifFalse: [6]」を評価した時にメッセージが送られる訳ではなく、バイトコードレベルでインライン展開され飛越し命令の表現に置き換えられる。このため実際に<code>ifTrue:ifFalse:</code> という名のメソッドが呼ばれることもない。また、trueやfalse以外に上記のようなBoolean用のメッセージを送ると処理系によってはMustBeBoolean例外を発生させる。このように頻繁に使用する分岐や反復を特別扱いすることで性能低下を防いでいる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> 3 < 4 ifTrue: [ 5 ] ifFalse: [ 6 ]. </syntaxhighlight> セレクターと名がつくが特殊セレクターは、特別扱いする条件が引数の状態を含んでおり、たとえ同じセレクターを使ったメッセージでも引数が条件に一致しなければ特別扱いしない。例えば下記のように引数に直接ブロックを指定していない場合では多くの処理系(VisualWorks, GNU Smalltalk等)は特別扱いせずメッセージ送信を実行する。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | then else | then := [ 5 ]. else := [ 6 ]. true ifTrue: then ifFalse: else. </syntaxhighlight> 特殊セレクターはあくまで高速化の手段であるため種類は処理系によって異る。どの処理系が何を特殊セレクターとして扱うかは処理系ごとに提供される説明資料に記述されている。<ref>https://www.gnu.org/software/smalltalk/manual/gst.html#Performance</ref><ref>ImplementationLimits7x.pdf(VisualWorks付録)</ref> またPharoのように設定から特殊セレクターを通常のメッセージ送信に切り替えられる処理系も存在する。 ===クラスオブジェクトとMetaclass=== クラスオブジェクトもオブジェクトであるため、所属するクラスが存在している。クラスオブジェクトが所属するクラスは<code>Metaclass</code>というクラスのインスタンスオブジェクトである。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> ByteString. "-> ByteString" ByteString class. "-> ByteString class" ByteString class class. "-> Metaclass" </syntaxhighlight> <code>Metaclass</code>も当然ながらクラスに所属しており、再帰的に<code>Metaclass</code>に属するようになっている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> ' ' class. "-> ByteString" ' ' class class. "-> ByteString class" ' ' class class class. "-> Metaclass" ' ' class class class class. "-> Metaclass class" ' ' class class class class class. "-> Metaclass" ' ' class class class class class class. "-> Metaclass class" </syntaxhighlight> クラスオブジェクトが所属する<code>Metaclass</code>のインスタンスオブジェクトは特殊なオブジェクトであり、クラスの継承階層と同様に継承階層を持っている。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Collection class superclass. "-> Object class" Object class superclass. "-> ProtoObject class" ProtoObject class superclass. "-> Class" </syntaxhighlight> クラスオブジェクトはMetaclassから生成された単なるオブジェクトで有ることから、Smalltalkが標準で提供するクラスオブジェクトとは異なる独自の構造をもったクラスオブジェクトを作ることができる。 例えば以下のようにメソッドの代わりにブロックを持つ無名クラスを作成することも出来る。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | class object | "Metaclassからクラスオブジェクトを生成" class := Class new superclass: Object; methodDictionary: MethodDictionary new. "生成したクラスオブジェクトのセレクターにメソッドではなくブロックを紐付け" class methodDictionary add: #something1: -> [ :value | value ] block; add: #something2 -> [ 2 ] block. "生成したクラスオブジェクトをインスタンスオブジェクトの生成に使用" object := class new. Transcript show: ( object something1: 1 ) printString; nl. "生成したクラスオブジェクトを基底クラスとして使用" class subclass: #Example instanceVariableNames: '' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: ''. </syntaxhighlight> ===定数とオブジェクト=== 文法の節で述べた通り{{lang|en|Smallatalk}}では定数も全てオブジェクトである。どんな定数であれ<code>#class</code>や<code>#inspect</code>といった基本的なセレクターを使ったメッセージを受け取ることが出来るため、基本的な操作であれば定数と他のオブジェクトを区別する必要はない。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | showClass | showClass := [ :object | Transcript show: object class name; cr. ]. showClass value: Object new; "-> Object" value: Object; "-> Object class" value: nil; "-> UndefinedObject" value: 0; "-> SmallInteger" value: 0.0; "-> Float" value: 0.0e1; "-> Float" value: $0; "-> Character" value: ''; "-> ByteString" value: #a; "-> ByteSymbol" value: #'a'; "-> ByteSymbol" value: #(); "-> Array" value: []. "-> BlockClosure" </syntaxhighlight> ===可変長オブジェクト=== {{lang|en|Smalltalk}} は、任意の広さで確保した領域を持つ可変長オブジェクトを作ることが出来る。{{lang|en|Smalltalk}}には配列を表わすためArray等が存在するが、これらのクラスオブジェクトは可変長オブジェクトを使って構築されている。可変長オブジェクトの領域は、オブジェクトの生成したときの一度だけしか広さを指定できない。また、クラスオブジェクトの登録時に<code>variable〜</code>で始まるセレクターを使っている必要がある。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Object variableSubclass: #ExampleArray instanceVariableNames: '' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: 'example'. | array | array := ExampleArray new: 100. "要素100個分の領域を確保した可変長オブジェクトを生成する。" array at: 1 put: 0. "1番目の要素に0を入れる。" array at: 1. "1番目の要素を取り出す。" </syntaxhighlight> ===記憶領域の管理=== {{lang|en|Smalltalk}} は、ハンドルとごみ回収機能([[ガベージコレクタ|ガーベッジコレクター]])の全面的な導入によりハンドルテーブルの書き換えを利用した特殊な制御を提供している。<ref>https://www.gnu.org/software/smalltalk/manual/html_node/Special-objects.html#Special-objects</ref> ====ハンドルテーブルの書き換え<ref>https://www.gnu.org/software/smalltalk/manual-base/html_node/Object_002dbuilt-ins.html#Object_002dbuilt-ins</ref>==== ハンドルが参照している記憶領域上のテーブルを書き換えることにより{{lang|en|Smalltalk}}は、あるオブジェクトを参照している全ハンドルの参照先を一気に変更することができる。ハンドルテーブルの書き換えには<code>#become:</code>を用いる。ただし、数字や文字列といった定数オブジェクトは置き換えることはできず、定数を置き換える際は定数を保持しているオブジェクトを置き換える必要がある。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | value1 value2 | value1 := 'hello' asValue. value2 := value1. "この時点ではvalue2はValueHolder('hello')" value1 become: 'こんにちは' asValue. "この時点でvalue2はValueHolder('こんにちは')になる" </syntaxhighlight><code>#become:</code>を使っている良い例はクラスオブジェクトの再登録である。Smalltalkではクラスオブジェクトはインスタンスオブジェクトが生きている間でも再登録可能でなければならず、インスタンスオブジェクトを生きたままクラスオブジェクトを再登録するために使われている。 ====弱参照==== 弱参照は[[参照カウント]]方式を使う言語でよくライブラリーとして実装されるが{{lang|en|Smalltalk}}ではハンドルの制御を用いた言語機能として用意されており相互参照しているが不要になっているオブジェクトを迅速に解放するために使われている。弱参照には<code>#makeWeak</code>を用い、<code>#makeWeak</code>を受け取ったオブジェクトは弱参照となる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | holder object | holder := ValueHolder new. holder makeWeak. "holderが弱参照になる。" object := Object new. holder value: object. ObjectMemory compact. "ごみ回収。この時点ではholder valueはnilではない。" object := nil. ObjectMemory compact. "ごみ回収。この時点でholder valueはnilとなる。" </syntaxhighlight> ==== カゲロウ(蜉蝣) ==== カゲロウ({{lang|en|Ephemeron}})は、どこからも参照されなくなった連想配列の要素を解放するために導入された記憶領域の管理機構でありSmalltalkで初めて実装された。例えば連想配列の添字として#keyがあったとして、#keyが連想配列以外の変数で参照されていなければ連想配列の要素は必要ない。このように不要となった要素を解放するために用いる。オブジェクトをカゲロウ状態にするには<code>#makeEphemeron</code>を用いる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | association key | key := Object new. association := Association key: key value: Object new. association makeEphemeron. "associationがカゲロウになる。" ObjectMemory compact. "ごみ回収。この時点ではassociation keyとassociation valueは共にnilではない。" key := nil. ObjectMemory compact. "ごみ回収。この時点ではassociation keyとassociation valueは共にnilとなる。" </syntaxhighlight> ここでは連想配列の要素としてよく使われるAssociationを例としているが、カゲロウが消滅する基準は最初のインスタンス変数でクラスに依存しないためどんなクラスでもカゲロウにすることができる。 ==={{lang|en|Smalltalk}} の慣習=== ====大文字からはじめる識別子と小文字からはじめる識別子==== =====変数名===== 変数を表す識別子については、1文字目に大文字と小文字のどちらを使うか、大域変数か否かを基準にして決めることが慣習になっている。 環境自体も大文字小文字の使い分けを認識しておりメソッドを翻訳する際小文字の変数は局所変数かメンバーとして定義していないと、警告が発生したり翻訳失敗になる。 {|class=wikitable |大域変数||大文字からはじめる |- |大域変数以外(局所変数等)||小文字からはじめる |} クラス名が大文字から始まるのは、クラス名が大域変数だからである。 よく使われるクラス以外の大域変数: * Smalltalk * Processor * Transcript =====セレクター===== セレクターを表す識別子については、基本的に1文字目に小文字を使うが、メソッドが存在するセレクターを避けたい場合は大文字を使う事が慣習になっている。 GNU SmalltakやVisualWorksで用意されている名前空間は、大文字のセレクターを使う典型的な例である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Smalltalk SystemExceptions InvalidValue signalOn: 0. "「Smalltalk」以外は全てセレクター" </syntaxhighlight> なお、名前空間が使える環境の多くは、翻訳時に名前空間の名前解決できる「.」区切りの拡張構文が用意されており、実際にはこちらの構文が使われることが多いため、セレクターを使った名前空間の指定を見る機会は少ない。 ====オブジェクトの生成と初期化==== オブジェクトの生成には <code>#new</code> セレクターを使ったメッセージを使う。他の言語と違い、<code>new</code> は演算子ではない。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> |object| object := Example new. "Exampleクラスオブジェクトに「new」メッセージを送りオブジェクトを生成。" </syntaxhighlight> {{lang|en|Smalltalk}} ではクラスオブジェクトのメソッドもインスタンスオブジェクトのメソッドと同様に派生クラスによる再定義が可能である。このため <code>new</code> メソッドを再定義し初期化処理を記載する事が出来る。<code>new</code> メソッドを再定義してしまうとオブジェクトの生成自体が不可能になるように思われるが、本来 <code>new</code> メソッドは <code>#basicNew</code> セレクターを使ったメッセージを<code>Behavior</code> に送ってオブジェクトを生成しているためオブジェクトの生成手段がなくなるわけではない。このため <code>new</code> メソッドを再定義しても 「basicNew」メッセージを<code>Behavior</code>に送ることでインスタンスオブジェクト生成することが出来る。 ただし、実際の初期化に <code>new</code> メソッドが使われる事は多くない。実際には慣習としてクラスの作者が新たに登録した'''インスタンス・クリエイション'''と呼ばれる <code>new</code> とは別の初期化用メソッドが使用される。インスタンス・クリエイションは一般的なクラスオブジェクトのメソッドであり、そのメソッドの内部で 「<code>new</code>」メッセージやその他のインスタンス・クリエイションを使って初期化済みのオブジェクトを生成する役割を持っているだけで基本的にその他のメソッドと変わらない。一般的に<code>instance creation</code>というプロトコルに登録される。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | number | number := Number readFrom: '10'. "readFrom:がインスタンス・クリエイション". </syntaxhighlight> {{lang|en|Smalltalk}} では1個のセレクターに対し1個のオブジェクトから複数のメソッドを関連付けられない<ref group="注釈">他の言語でいうメソッドの多重定義はできない。</ref>ため 「<code>new</code>」メッセージの送信によりできる初期化は1個のオブジェクトにつき一通りの初期化だけである。このため複数のインスタンス・クリエイションを用意することで用途に応じた複数の初期化方法を提供しているのである。インスタンス・クリエイションは一般的なメソッドのひとつでしかない。このためインスタンス・クリエイション持つクラスオブジェクトは[[Abstract Factory パターン|アブストラクト・ファクトリー]]として機能する。 具体的には次のように使われる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> defaultDatabase "既定のデータベースのクラスオブジェクトを定義した派生クラスで再定義可能なメソッド。 オーバーライドされた際は、必ずしもクラスオブジェクトが返されるとは限らず、インスタンス オブジェクトが返される場合もある。" ^ PostgreSQL. </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="smalltalk"> database "databaseへの接続を返すメソッド。 defaultDatabaseにより返されたPostgreSQLに対し、インスタンス・クリエイションである #connect:セレクターを使ったメッセージが送られ、PostgreSQLのインスタンスオブジェクトが生成される。 ただし、defaultDatabaseは、派生クラスによって再定義できるため、#connect:セレクターを使ったメッセージが 必ずしもPostgreSQLクラスオブジェクトに送られるとは限らない。" ^ self defaultDatabase connect: self configuration. </syntaxhighlight> また、{{lang|en|Smalltalk}} はクラスメソッドを上書きできるため、インスタンス・クリエイションを次の様に実装する事で基本的な初期化処理を派生元のクラスに任せることができる。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> x: aX y: aY ^ self new x: aX; y: aY. </syntaxhighlight> 上記は、2次元座標用のクラスオブジェクトのインスタンスオブジェクトを初期化する派生元のクラスオブジェクトに実装されたインスタンス・クリエイションである。このクラスオブジェクトを継承した2次元座標用のクラスオブジェクトでは<code>#x:y:</code>セレクターを使ったメッセージに対応するメソッドを実装する必要はない。インスタンス・クリエイションを利用したパターンは {{lang|en|Smalltalk}} では広く利用され、いたる所で見ることが出来る。 ====アクセッサー==== {{lang|en|Smalltalk}} では、単一の値を出し入れするメッセージの事を特にアクセッサ―<ref group="注釈">{{lang-en-short|accessor}}</ref>と呼ぶ。引き数の有無により値の入出の方向を区別する。 例: {|class=wikitable !コード!!意味 |- |<code>object value.</code>||オブジェクトから値を取得する |- |<code>object value: 10.</code>||オブジェクトに値を渡す |} {{lang|en|Smalltalk}} においてアクセッサーはその他のメソッドと役割に違いはなく特別な意味を持たないが、プロトコルとして明示的に {{読み仮名|<code>accessing</code>|アクセッシング}}として登録される点が特徴的である。 {{lang|en|Smalltalk}} においてアクセッサーはインスタンス変数の出し入れや、クラス変数の単純な出し入れに使用される事は多くない。{{lang|en|Smalltalk}} においてアクセッサーは次の用途でよく使われる。 {|class=wikitable !目的!!詳細 |- |nowrap|インスタンス変数やクラス変数の初期化||インスタンス変数やクラス変数からの値の取得時にインスタンス変数やクラス変数が <code>nil</code> であればそれらの変数を初期化する。 |- |nowrap|使用するクラス・オブジェクトの抽象化||クラス・オブジェクトあるいはファクトリーオブジェクトを取得できるアクセッサ―を用意し、アクセッサ―を派生クラスでオーバーライドする事で派生クラスからオブジェクトの生成に使うクラス・オブジェクトを自由に切り替えられるようにする。 |- |nowrap|保管場所の抽象化||オブジェクトが、インスタンス・クラス・プールのどこで管理されているかを抽象化する意味がある。例えばクラス変数やプール辞書の操作では、クラス変数やプール辞書の操作目的であってもインスタンスオブジェクトのメソッドとしてアクセッサーを用意する。 |- |nowrap|インスタンス変数やクラス変数に対する委譲||インスタンス変数やクラス変数に対しメッセージを送るアクセッサ―を定義し、複数の箇所でインスタンス変数やクラス変数に対する同じメッセージ送信をしないようにする。これにより<code>self object value value: 1.</code>というような複雑なメッセージを<code>self value: 1.</code>というメッセージに単純化する。 |} ====定数==== 定数は、単に定数を返すアクセッサ―で定義する。C言語の影響を受けた言語のように定数を#defineや変数で定義するという慣習はない。 ====附帯情報==== {{lang|en|Smalltalk}} では、非常に利用頻度の低いインスタンス変数やクラス変数を管理する方法として附帯情報({{lang-en-short|property}})というパターンが使用される。附帯情報はインスタンス変数やクラス変数などの内部変数の代わりに連想配列によりオブジェクトを保持する仕組みである。 附帯情報の使用例: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> Tag methodsFor: 'accessing' ! id ^ self valueOfProperty: #id. ! id: aString self setProperty: #id toValue: aString. !! </syntaxhighlight> 附帯情報が有効な身近な例としては[[Extensible Markup Language|XML]]や[[HyperText Markup Language|HTML]]のタグ属性が挙げられる。例えばHTMLの <code>id</code> 属性や <code>onClick</code> といったイベント属性は、必ずしも全てのタグで使用されることはない。特にイベント属性については一つのHTML上に一切記述されない事もよくある。この様な使用頻度の低い属性のためにオブジェクトに一個一個変数を定義するのは記憶領域の無駄である。ましてや <code>onClick</code>、<code>onMouseDown</code>、<code>onMouseUp</code>等大量に属性があればこの無駄は馬鹿にならない。この様な無駄を省くために {{lang|en|Smalltalk}} では附帯情報というパターンがよく使用される。 全てのインスタンス変数やクラス変数は原理的に全て附帯情報によって表現することが出来る。この点に着目しオブジェクトに所属する変数を全て附帯情報に置き換えた言語が後の {{lang|en|[[Self]]}} であり、{{lang|en|[[JavaScript]]}} である。これらの言語でオブジェクトに所属する変数をプロパティーと表現するのは、この {{lang|en|Smalltalk}} における附帯情報(プロパティー)に由来するもので、附帯情報の仕組みの有無に関わらずインスタンス変数やクラス変数をプロパティーと表現するのは間違いである。 附帯情報は {{lang|en|Self}} や {{lang|en|JavaScript}} においては当たり前の様に使用されている。しかし、{{lang|en|Smalltalk}} においては附帯情報を多用する事はデバックを著しく困難にするため不適切な作法とされており、HTMLの属性の様に本当に使用頻度の低い変数だけを附帯情報で扱い、常用する変数に附帯情報を乱用すべきではないと言われている。例えば変数は統合開発環境の機能で使用箇所を把握できるが附帯情報では使用箇所をアクセッサーに限定しない限り追跡不可能になる。また、附帯情報では変数の変化に反応するブレークポイントを仕掛けることも難しい。<ref name="名前なし-4">ケント・ベックの {{lang|en|Smalltalk}} ベストプラクティス・パターン―シンプル・デザインへの宝石集 ISBN 978-4894717541</ref> ====単純な例外処理==== {{lang|en|Smalltalk}} 以外の言語において、配列の範囲外にある配列要素の操作や、値の代入されていない連想配列の操作は、次の例のように操作の前に一旦判定を行なって例外処理するか、例外機構を利用する方法が一般的である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | key | key := #phoneNumber. ( map contain: key ) ifTrue: [ ^ map at: key ] ifFalse: [ ^ nil ]. </syntaxhighlight> 一方 {{lang|en|Smalltalk}} では、配列の範囲外操作の様に単純で頻発するような処理では、次のように予めメッセージに例外処理をブロックとして渡してしまう方法が一般的である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "#phoneNumber に対応する値が無ければ常に nil を返す。map 自身に #phoneNumber が追加される事はない。" ^ map at:#phoneNumber ifAbsent: [ ^ nil ]. </syntaxhighlight> 予め例外処理をメッセージに含めることで、単純な例外処理をより簡潔なものとしている。 この方法は、{{lang|en|Smalltalk}} 独自の復帰文と組み合わせる事でより柔軟な制御をする事ができる。 次の処理は、連想配列に値が見つかればそれを表示し、値が無ければ何もしないという処理であるが、処理の中断の判定と連想配列からの値の取り出しを一度のメッセージ送信だけで実現している。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | value | value := map at:#phoneNumber ifAbsent: [ ^ self ]. Transcript show: value; cr. </syntaxhighlight> ====ブロックによる資源の開放==== {{lang|en|Smalltalk}}では、ブロック内だけ資源を確保しブロックの終了後に資源を開放するというブロックによる資源の開放が行われる。ブロックによる資源の開放では、資源の確保と同時に資源の開放を強制できるため開放忘れや例外による開放漏れを防ぐことができる。{{lang|en|C#}}の<code>using</code>に類似するが、<code>using</code>を書き忘れたまま<code>new</code>できない分さらに強力である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "Pharo" 'example.txt' asFileReference writeStreamDo: "example.txtを開く" [ :writeStream | writeStream nextPutAll: 'text'. ]. "example.txtを閉じる(例外発生時も閉じる)" </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "GNU Smalltalk" 'example.txt' asFile withWriteStreamDo: "example.txtを開く" [ :writeStream | writeStream nextPutAll: 'text'. ]. "example.txtを閉じる(例外発生時も閉じる)" </syntaxhighlight> ====要素の列挙==== {{lang|en|Smalltalk}} は反復処理のための基本構文を備えているが、ある値の生成器(入出力等)やある集合要素から要素を取得するときに基本的な反復構文を使う事は稀である。{{lang|en|Smalltalk}} では、値を列挙するために値の生成器や集合要素に送るべきメッセージが概ね決まっており、値を取り出す際は極力、列挙メッセージ({{lang-en-short|enumerating}})を使用する事が作法となっている。 次に列挙メッセージの送信例を示す。 配列に対する列挙メッセージの例: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> #( 4 3 2 1 0 ) do: [ :each | "配列の要素が1個ずつ each に代入され表示領域(Transcript)に表示される" Transcript show: each; cr. ]. </syntaxhighlight> 実行結果: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> 4 3 2 1 0 </syntaxhighlight> 数値に対する列挙メッセージの例: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> ( 0 to: 4 ) do: [ :each | "配列の要素が1個ずつ each に代入され表示領域(Transcript)に表示される" Transcript show: each; cr. ]. </syntaxhighlight> 実行結果: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> 0 1 2 3 4 </syntaxhighlight> 列挙メッセージで使えるセレクターは <code>#do:</code> の様に全ての要素にブロックを適用するだけの単純なセレクターだけでなく、現在の集合要素の要素を操作した上で新しい集合要素を作成する <code>#collect:</code> や、集合要素から条件に一致する要素だけを抜き出し、新しい集合要素を作り出す <code>#select:</code>、集合要素の中から特定の要素を見つけ出す <code>#detect:ifNone:</code> など様々なセレクターがある。処理系によっては <code>#groupBy:having:</code> などSQLに類似したセレクターに対応するメソッドを多数用意しているものもある。{{lang|en|Smalltalk}} では集合要素や値の生成器自体にこれらのメッセージを受け取れるよう実装する事で、集合要素のデータ構造や、生成器の入力元などの構造に依存せず最適な反復処理を実現できるようになっている。これらの列挙機能は近年の言語において <code>foreach</code> や<code>yeild</code>、LINQ等言語機能として賄われつつあるが {{lang|en|Smalltalk}} においては、単にライブラリーの慣習として実現されている所が特徴的である。 ====オブジェクトの変換==== Smalltalkでは一般的にオブジェクトに<code>#as〜</code>というセレクターを使ったメッセージが送られた場合、オブジェクトを別のクラスのオブジェクトに変換する。例えば次の様な変換がある。 Stringの変換による具体例(変換結果は処理系依存): <syntaxhighlight lang="smalltalk"> 'abcd' asSymbol.      "→Symbolクラスのオブジェクト" '10' asInteger.       "→SignedIntegerクラスのオブジェクト" '10:00' asTime.       "→Timeクラスのオブジェクト" "以下は処理系によっては存在しない" '/home' asPath.       "→AbsolutePathクラスのオブジェクト" 'http://example.com' asUrl. "→Urlクラスのオブジェクト" </syntaxhighlight> オブジェクトを別のオブジェクトに変換するメソッドやメンバー関数が用意されている事は、Smalltalkに限らず他の言語でも一般的であり珍しい事ではない。Smalltalkの慣習として特徴的なところは、既存のクラスにこのオブジェクトの変換をユーザーやライブラリーの作者が自由に組み込んでいる所である。例えばSmalltalkの処理系であるPharoでは、初期状態で基本的なクラスであるStringに54個もの<code>as〜</code>で始まるメソッドが定義されている。この大量の変換メソッドは、メソッド追加した際すぐに影響を判断できるためメソッド追加に対し寛容的なSmalltalk独特の空気を象徴している。しかし、既存のクラスにメソッドを追加すればライブラリーを併合した際、意図しない衝突を生むため多用は避けるべきであるとの意見も存在する。<ref name="名前なし-4"/> オブジェクトの変換はただオブジェクトの内部表現の変換だけでなく情報の加工にも使われる。 オブジェクト変換による具体例:<syntaxhighlight lang="smalltalk"> #( 2 1 2 3 1 3 ) asSortedCollection asSet. "-> #( 1 2 3 )" </syntaxhighlight> ====セレクターとオブジェクトを指定したイベント処理==== イベントハンドラーを定義する方法として、{{lang|en|Smalltalk}}では次のようにセレクターと、レシーバーとなるオブジェクトを指定する方法が一般的である。 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | view controller | view := Morph new. controller := FileControlHandler withOwnerView: view. "#click:イベントが発生すると、controllerに対し#open:を使ったメッセージを送る。" view handler on: #click: send: #open: to: controller. </syntaxhighlight> 同様にイベントハンドラーを指定する別の方法としては、ブロックを指定する方法が考えられる。しかし、イベントハンドラーにブロックを使う方法は、セレクターとオブジェクトを指定する方法のように<code>inspect</code>だけでブロックを抱えたオブジェクトがどんな処理を実行するか判断できないうえ、ほとんどの環境はブロックの直列化に対応しておらず直列化もできなくなってしまうため、{{lang|en|Smalltalk}}の文化においては避けるべきとされる。<ref name="名前なし-4"/> このセレクターとオブジェクトを指定したイベント処理の方法は、Objective-Cの文化にも引き継がれており{{lang|en|Cocoa}}等のライブラリーにて頻繁に目にすることができる。 ===MVCとMVCから派生した設計方式=== [[Model View Controller]](MVC)は {{lang|en|Smalltalk}} から生まれた、制御(コントローラー)と情報(モデル)、そして情報の表現方法(ビュー)の3つを分離しクラスオブジェクトの再利用性を高め、実行時に情報と表現の組み合わせを変更できるようにした設計方針である。{{lang|en|Smalltalk}} の世界でMVCは更に表現を担当するクラスに既定の制御を取り込む仕組みを持たせることで {{lang|en|PluggableMVC}} へと発展した。 ====モデル支援機構==== {{lang|en|Smalltalk}} はクラスライブラリーの基礎部分からMVCやMVCから派生した設計方式で使用されるモデルの構築を支援する仕組みを持っており、{{lang|en|Smalltalk}} 以外の言語と比べモデルの構築が格段に楽になっている。次にモデルの動作を確認する最低限のコードを示す。 モデルの登録: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "単純なモデルのクラスオブジェクトを登録" Object subclass: #ValueHolderModel instanceVariableNames: 'value' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: 'Models'. ValueHolderModel class methodsFor: 'accessing' ! defaultValue ^ 0. !! ValueHolderModel methodsFor: 'accessing' ! value value isNull: [ model := self class defaultValue. ]. ^ value. ! value: aValue value := aValue. self changed: #value. !! </syntaxhighlight> モデルの監視側登録 <syntaxhighlight lang="smalltalk"> "モデルを監視する単純なクラスオブジェクトを登録" Object subclass: #ValueHolderObserver instanceVariableNames: 'model getSelector' classVariableNames: '' poolDictionaries: '' category: 'Models'. ValueHolderObserver class methodsFor: 'accessing' ! defaultModel "model が nil の場合に使用する既定のモデルを返す" ^ ValueHolderModel. !! ValueHolderObserver methodsFor: 'accessing' ! value model ifNil: [ ^ nil ]. "modelから指定のセレクターで値を取り出す" ^ model perform: getSelector. ! getState: aGetSelector "モデルから値を取り出す際のセレクターはシンボルにより外部から指定する" getSelector := aGetSelector. ! model "現在監視対象となっているモデルを返す" model isNull: [ model := self class defaultModel new. model addDependent: self. ]. ^ model. ! model: aModel "現在監視対象となっているモデルを監視対象から除去し、 aModelに指定されたオブジェクトを監視対象として追加する。" self model removeDependent: self. model := aModel. self model addDependent: self. "また、通常は新しいモデルからValueHolderObserverにとっての初期値の読み取りを行う。 ここでは、初期値の読み取りの代わりにモデルが持つvalueオブジェクトの内容を表示Window(Transcript)に表示する。" Transcript show: self value asString; cr. !! ValueHolderObserver methodsFor: 'updating' ! update: anAspect "モデルが存在しないときは更新しない" model ifNil: [ ^ nil ]. "モデルが更新されると呼び出され、モデルが持つvalueオブジェクトの内容を表示Window(Transcript)に表示する。" getSelector = anAspect ifTrue: [ Transcript show: self value asString; cr. ]. !! ValueHolderObserver class methodsFor: 'instance creation' ! on: aModel getState: aGetSelector ^ self getState: aGetSelector; model: aModel. !! </syntaxhighlight> 動作の確認: <syntaxhighlight lang="smalltalk"> | model observer | model := ValueHolderModel new. "監視対象にmodelを指定してobserverを生成。 on:getState:内にてmodel valueが返す値、0が表示Window(Transcript)に表示される。" observer := ValueHolderObserver on: model getState: #value. "modelの値を更新。observerの#update:が実行されmodel valueが返す値、100が表示Window(Transcript)に表示される。" model value: 100. </syntaxhighlight> モデルの支援機構は全て <code>Object</code> クラスオブジェクトに実装されており、全てのオブジェクトはモデルとして動作する。つまりクラスオブジェクトもモデルとして使用できるようになっている。 ====Morphic方式==== {{lang|en|PluggableMVC}} は {{lang|en|Self}} へと場を移し、表現と制御そして、表現対象となる情報を1個のオブジェクトで兼任する {{仮リンク|Morphic|en|Morphic (software)}} として再設計された。{{lang|en|Self}} によって発展した {{lang|en|Morphic}} は {{lang|en|Smalltalk}} に移植され{{lang|en|Squeak}}系統の {{lang|en|Smalltalk}} 環境で基本GUIシステムを構築している。{{lang|en|Self}} の {{lang|en|Morphic}} はウェブブラウザ―の[[DOM]]や {{lang|en|JavaScript}} に大きな影響を与えている。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |author= |title=SuperASCII 1991年1月号 |volume=2 |issue=1 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1991-1-1 |isbn= |ref={{Sfnref |SuperASCII 1991年1月号}} }} == 関連項目 == * [[SUnit]] *[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]] * [[メッセージ転送]] * [[利用者定義演算子]] ==外部リンク== *{{cite book|last1=Goldberg|first1=Adele|last2=Robson|first2=David|title=Smalltalk-80: The Language and its Implementation|url=http://stephane.ducasse.free.fr/FreeBooks/BlueBook/Bluebook.pdf|date=May 1983|publisher=Addison-Wesley|isbn=0-201-11371-6}} *{{cite book|title=The Early History Of Smalltalk(原文)|url=http://worrydream.com/EarlyHistoryOfSmalltalk/}} *{{cite book|title=The Early History Of Smalltalk(整形版)|url=http://gagne.homedns.org/~tgagne/contrib/EarlyHistoryST.html}} *{{cite book|title=Design Principles Behind Smalltalk|url=http://www.cs.virginia.edu/~evans/cs655/readings/smalltalk.html}} *[http://freudenbergs.de/bert/publications/Ingalls-2014-Smalltalk78.pdf Reviving Smalltalk-78] {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} [[Category:オブジェクト指向言語|SMALLTALK]] [[Category:フリー教育ソフトウェア]] [[Category:アラン・ケイ]]
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2023-03-20T11:11:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Smalltalk
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星新一
星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一、1926年〈大正15年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉12月30日)は、日本の小説家、SF作家。 父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。 膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。 また、小松左京・筒井康隆と合わせて「SF御三家」と呼ばれる。 1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年(昭和20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鷗外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫(従甥)にあたる。 東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中学の同期には、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、今村昌平(映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいた。 附属中学在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級、旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。 高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。当時の寮生活について、親友の北杜夫や小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」 と回想している。 こうした感想については、戦後と戦中の違い、四修進学の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している。 1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた。卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。 高級官吏採用試験である高等試験に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する。修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった。 1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。 1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。 会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。 星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。 1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され、当時江戸川乱歩が責任編集を務めていた「宝石」に転載されてデビューした。 1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加した。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。 1959年(昭和34年)11月21日発売の月刊誌『ヒッチコック・マガジン』1960年1月号に「年賀の客」が掲載され、「文春漫画読本」からも注文がくる。『ヒッチコック・マガジン』8月号~11月号に掲載された「雨」「その子を殺すな!」「信用ある製品」「食事前の授業」と、『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「生活維持省」の計6編のショートショートで、第44回直木賞(1960年下半期)の候補となる。また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ『鉄人28号』でSFアドバイザーとしてクレジットされた。 1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。 1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。 以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。 1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照) 1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。 1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。 それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。 かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。 1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。 入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。 自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・JCHO東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。71歳没。 2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。 また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウ(英語版)な存在として遇され、安部公房(純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。 星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし、大庭みな子、鶴見俊輔、尾崎秀樹、奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。晩年の谷崎潤一郎が星作品を愛読していたと石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり、星から取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。 SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞(1970年創設)を星は一度も受賞していない。その低評価の事情について筒井康隆は、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している。 ただし、1983年の「ショートショート1001編を達成」を機に、翌1984年夏の日本SF大会で、日本SFファングループ連合会議議長の門倉純一の提案で「星雲賞特別賞」を授賞することとなる。実際に授賞式まで行われたが、星の側が受賞を拒否し、「幻の星雲賞」となった。 後年、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏、柴野拓美、小松左京らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。 星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直ししており、星は晩年までこの作業を続けていた。 激しい暴力や殺人シーン、ベッドシーンの描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。 加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない、などの制約を自らに課していた。もちろん例外もあり、『気まぐれ指数』などは五輪前の東京の雰囲気がきめ細かく描写された風俗ユーモアミステリである。『ほら男爵現代の冒険』も人名、地名が頻出するが、人名は意図的にシンプルまたは奇妙なものが使われている。 ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」などの名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。疑問符や感嘆符も原則使わない。 しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも(あるいは本人ですら)分からなかった。以下にその例を挙げる。 作品は20言語以上に翻訳され、世界中で読まれている。 寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた(『未来いそっぷ』と題した作品集もある)。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書(光村図書出版『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、東京書籍『NEW HORIZON』に掲載された「おーいでてこーい」(英語の教科書であるため、英訳され「Can Anyone Hear Me?」のタイトルで収録)など)やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。 評論家の浅羽通明は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。 また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している。 挿絵の多くは真鍋博や和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。 アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。 容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店『山珍居』に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文などで神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙(インナースペース)」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり、北杜夫とも親交が深かった。 一方で、礼節を欠いた人間には距離を置いて接していた。そのため、『ヒッチコック・マガジン』の担当編集者で、ショート・ショートの大家となるきっかけを作った恩人でありながら、1965年の山川方夫の葬儀の席での振る舞いなどから、星は小林信彦をひどく嫌っており、1969年の覆面座談会事件に関与した稲葉明雄の親友という要素も加わったことで、晩年は小林と顔を合わせることも嫌がっていた。小林の側は、企業PR誌などの高額な仕事が増えた星が原稿料の問題で『ヒッチコック・マガジン』での執筆を「勘弁してほしい」と告げてきた旨を記している。 星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。なお、鮎川哲也の推理小説『死者を笞打て』(1965年)では、執筆当時の推理文壇関係者が多少名前を変えて登場しており、星も「星野新一」として登場する。また登場人物のひとりが酒豪のため、男にもかかわらず「ボッコちゃん」と呼ばれている。また、手塚治虫の漫画『W3()』(1965年 - 1966年)の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた。 『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と応答をした。星は「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。 作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の......』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており、星にすれば理解が及ばず、お手上げの状態だったという。 生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さなかった。アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている(#星新一作品の映像化参照)。 なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。福島正実は著書『未踏の時代』で、星や筒井康隆、小松左京らSF作家仲間で、稼動したばかりの東海第一原発を見学に行ったとき、星が案内役の技官に「お土産に原子を1つ分けてください」と言ったというエピソードを披露しているが、星なりのジョークだと思われる。 また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた。別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。 身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは田中光二である。 特にドイツ文学に傾倒したり滞在した経験があるわけではないが、この国と縁の深い人物の多い家系 も影響しているのか、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。同じくエッセイ「名前」では長女の名前ユリカを誕生月7月のドイツ語(Juli ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。また、星作品には国籍の明確な外国人はほとんど登場しないが(そもそもどこの国の話かすら判らないものが多い)、『ほら男爵現代の冒険』の主人公は当然ドイツ人であり(ただし文中でドイツという言葉は使われない。先祖の話や、旧日本軍に同盟国の方と呼ばれたり、生きていたヒトラーに同胞としてふるまうなどの間接表現にとどまる)、『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン『大公三重奏曲』を挙げ、コルトー、ティボー、カザルスの演奏盤を愛聴していた。 小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター(池畑慎之介☆)に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という。その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している。 ウイスキーが好きで、特にサントリーの角瓶(角)を愛飲していた。エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している。 公立はこだて未来大学は2012年9月6日に「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。松原仁(はこだて未来大学)、中島秀之(はこだて未来大学学長)、角薫(はこだて未来大学)、迎山和司(はこだて未来大学)、佐藤理史(名古屋大学)、赤石美奈(法政大学)の6人でプロジェクトチームを結成した。星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライ・アンド・エラー(英語版)を繰り返し、人工知能によって2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを自動生成できるようにすることを目指している。瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなどの顧問を務める。2015年9月には、自動生成されたショートショートを第3回星新一賞に応募したことが発表された。 未来における鶴の進化型、ホシヅルを生み出し、サイン代わりに描いていた。星の死後、彼の誕生日9月6日は「ホシヅルの日」とされ、友人のSF作家たちが集って星を偲ぶ会が催される。2014年は世田谷文学館で催された「日本SF展」と日程が重なったため、一般来場客を招いた公開形式で催された。当日は星マリナらにより生前のアルバム写真によるプレゼンや新刊絵本の英語での朗読がなされ、ホシヅルのケーキや星新一の等身大パネルなどを関係者とともに囲みこの日を祝った。 1979年(昭和54年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。発案者は講談社の編集者宇山日出臣(秀雄)。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を阿刀田高に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中である。受賞者の中でも江坂遊の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。もっとも、いわゆる第二世代のSF作家たちには私的交遊なども通じて星の弟子を自認している者が多く、第一世代後半組でも作風にまったく共通点のない平井和正が文庫解説で弟子を宣言している。 2013年から日本経済新聞社が主催する公募文学賞。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一、1926年〈大正15年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉12月30日)は、日本の小説家、SF作家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、小松左京・筒井康隆と合わせて「SF御三家」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年(昭和20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精と森鷗外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫(従甥)にあたる。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中学の同期には、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、今村昌平(映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "附属中学在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級、旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。当時の寮生活について、親友の北杜夫や小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」 と回想している。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうした感想については、戦後と戦中の違い、四修進学の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた。卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高級官吏採用試験である高等試験に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する。修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスはコウジカビのこと)であった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され、当時江戸川乱歩が責任編集を務めていた「宝石」に転載されてデビューした。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加した。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)11月21日発売の月刊誌『ヒッチコック・マガジン』1960年1月号に「年賀の客」が掲載され、「文春漫画読本」からも注文がくる。『ヒッチコック・マガジン』8月号~11月号に掲載された「雨」「その子を殺すな!」「信用ある製品」「食事前の授業」と、『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「生活維持省」の計6編のショートショートで、第44回直木賞(1960年下半期)の候補となる。また、この年に横山光輝原作の実写版テレビドラマ『鉄人28号』でSFアドバイザーとしてクレジットされた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照)", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・JCHO東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。71歳没。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウ(英語版)な存在として遇され、安部公房(純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった北杜夫以外にも、井上ひさし、大庭みな子、鶴見俊輔、尾崎秀樹、奥野健男ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は新潮文庫での太宰治担当解説者である)。晩年の谷崎潤一郎が星作品を愛読していたと石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり、星から取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞(1970年創設)を星は一度も受賞していない。その低評価の事情について筒井康隆は、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ただし、1983年の「ショートショート1001編を達成」を機に、翌1984年夏の日本SF大会で、日本SFファングループ連合会議議長の門倉純一の提案で「星雲賞特別賞」を授賞することとなる。実際に授賞式まで行われたが、星の側が受賞を拒否し、「幻の星雲賞」となった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "後年、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏、柴野拓美、小松左京らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直ししており、星は晩年までこの作業を続けていた。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "激しい暴力や殺人シーン、ベッドシーンの描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない、などの制約を自らに課していた。もちろん例外もあり、『気まぐれ指数』などは五輪前の東京の雰囲気がきめ細かく描写された風俗ユーモアミステリである。『ほら男爵現代の冒険』も人名、地名が頻出するが、人名は意図的にシンプルまたは奇妙なものが使われている。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」などの名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。疑問符や感嘆符も原則使わない。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも(あるいは本人ですら)分からなかった。以下にその例を挙げる。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "作品は20言語以上に翻訳され、世界中で読まれている。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた(『未来いそっぷ』と題した作品集もある)。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書(光村図書出版『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、東京書籍『NEW HORIZON』に掲載された「おーいでてこーい」(英語の教科書であるため、英訳され「Can Anyone Hear Me?」のタイトルで収録)など)やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "評論家の浅羽通明は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "挿絵の多くは真鍋博や和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。", "title": "作品の特徴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店『山珍居』に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文などで神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙(インナースペース)」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり、北杜夫とも親交が深かった。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方で、礼節を欠いた人間には距離を置いて接していた。そのため、『ヒッチコック・マガジン』の担当編集者で、ショート・ショートの大家となるきっかけを作った恩人でありながら、1965年の山川方夫の葬儀の席での振る舞いなどから、星は小林信彦をひどく嫌っており、1969年の覆面座談会事件に関与した稲葉明雄の親友という要素も加わったことで、晩年は小林と顔を合わせることも嫌がっていた。小林の側は、企業PR誌などの高額な仕事が増えた星が原稿料の問題で『ヒッチコック・マガジン』での執筆を「勘弁してほしい」と告げてきた旨を記している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。なお、鮎川哲也の推理小説『死者を笞打て』(1965年)では、執筆当時の推理文壇関係者が多少名前を変えて登場しており、星も「星野新一」として登場する。また登場人物のひとりが酒豪のため、男にもかかわらず「ボッコちゃん」と呼ばれている。また、手塚治虫の漫画『W3()』(1965年 - 1966年)の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "『三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と応答をした。星は「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の......』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており、星にすれば理解が及ばず、お手上げの状態だったという。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さなかった。アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックスの武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている(#星新一作品の映像化参照)。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。福島正実は著書『未踏の時代』で、星や筒井康隆、小松左京らSF作家仲間で、稼動したばかりの東海第一原発を見学に行ったとき、星が案内役の技官に「お土産に原子を1つ分けてください」と言ったというエピソードを披露しているが、星なりのジョークだと思われる。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた。別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは田中光二である。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "特にドイツ文学に傾倒したり滞在した経験があるわけではないが、この国と縁の深い人物の多い家系 も影響しているのか、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。同じくエッセイ「名前」では長女の名前ユリカを誕生月7月のドイツ語(Juli ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。また、星作品には国籍の明確な外国人はほとんど登場しないが(そもそもどこの国の話かすら判らないものが多い)、『ほら男爵現代の冒険』の主人公は当然ドイツ人であり(ただし文中でドイツという言葉は使われない。先祖の話や、旧日本軍に同盟国の方と呼ばれたり、生きていたヒトラーに同胞としてふるまうなどの間接表現にとどまる)、『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン『大公三重奏曲』を挙げ、コルトー、ティボー、カザルスの演奏盤を愛聴していた。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター(池畑慎之介☆)に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という。その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ウイスキーが好きで、特にサントリーの角瓶(角)を愛飲していた。エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "公立はこだて未来大学は2012年9月6日に「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。松原仁(はこだて未来大学)、中島秀之(はこだて未来大学学長)、角薫(はこだて未来大学)、迎山和司(はこだて未来大学)、佐藤理史(名古屋大学)、赤石美奈(法政大学)の6人でプロジェクトチームを結成した。星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライ・アンド・エラー(英語版)を繰り返し、人工知能によって2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを自動生成できるようにすることを目指している。瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなどの顧問を務める。2015年9月には、自動生成されたショートショートを第3回星新一賞に応募したことが発表された。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "未来における鶴の進化型、ホシヅルを生み出し、サイン代わりに描いていた。星の死後、彼の誕生日9月6日は「ホシヅルの日」とされ、友人のSF作家たちが集って星を偲ぶ会が催される。2014年は世田谷文学館で催された「日本SF展」と日程が重なったため、一般来場客を招いた公開形式で催された。当日は星マリナらにより生前のアルバム写真によるプレゼンや新刊絵本の英語での朗読がなされ、ホシヅルのケーキや星新一の等身大パネルなどを関係者とともに囲みこの日を祝った。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。発案者は講談社の編集者宇山日出臣(秀雄)。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を阿刀田高に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中である。受賞者の中でも江坂遊の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。もっとも、いわゆる第二世代のSF作家たちには私的交遊なども通じて星の弟子を自認している者が多く、第一世代後半組でも作風にまったく共通点のない平井和正が文庫解説で弟子を宣言している。", "title": "星新一ショートショート・コンテスト" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2013年から日本経済新聞社が主催する公募文学賞。", "title": "星新一賞" } ]
星 新一は、日本の小説家、SF作家。 父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鷗外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である。 膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。 また、小松左京・筒井康隆と合わせて「SF御三家」と呼ばれる。
{{Infobox 作家 | name = 星 新一<br />(ほし しんいち)</span> | image = SF-Magazine-1963-December-1.jpg | imagesize = 200px | caption = <small>星新一と妻の香代子<br />『[[S-Fマガジン]]』1963年12月号([[早川書房]])より</small> | birth_name = 星親一 | birth_date = {{生年月日と年齢|1926|9|6|没}} | birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[本郷 (文京区)|本郷区]]曙町<br />(現:[[東京都]][[文京区]][[本駒込]]) | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1926|9|6|1997|12|30}} | death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]] 東京船員保険病院<br />(現:[[地域医療機能推進機構東京高輪病院|JCHO東京高輪病院]]) | resting_place = [[青山霊園]] | occupation = [[小説家]]、[[SF作家]] | nationality = {{JPN}} | period = [[1949年]] - [[1996年]] | subject = [[ショートショート]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[推理小説]]、[[時代小説]]、評伝 | movement = | notable_works = 『未来いそっぷ』(1971年)<br />『[[ボッコちゃん]]』(1971年) | awards = [[日本推理作家協会賞]](1968年)<br />[[日本SF大賞]]特別賞(1998年) | debut_works = セキストラ(1957年) | spouse = 星(村尾)香代子 | partner = | children = 星ユリカ(長女)<br />[[星マリナ]](次女) | relations = [[星一]](父)<br />[[小金井良精]](外祖父)<br />[[小金井喜美子]](外祖母)<br />[[森鷗外]](大伯父)<br />[[出澤三太]](異母兄)<br />[[岡部三郎]](弟の義父) | influences = [[太宰治]]<br />[[川端康成]]<ref>星新一「『[[心中 (川端康成)|心中]]』に魅入られて」(『川端康成全集第6巻』第7回月報)(新潮社、1969年)</ref><br />[[杉村楚人冠]]<br />[[城昌幸]]<br />[[ヘンリー・スレッサー]]<br />[[レイ・ブラッドベリ]]<br />[[アナトール・フランス]]<br />[[フレドリック・ブラウン]]<br />[[ロバート・シェクリー]]<br />[[ロバート・A・ハインライン]]{{Efn|北杜夫との対談「わが習作時代とSF文学と」では、北杜夫から好きな外国作家を聞かれ「シェクレー、ブラッドベリー、ハインライン、フレドリック・ブラウンもうまいし」と答えている<ref>北杜夫『マンボウ談話室』p.183、講談社、1977年</ref>。}} | influenced = [[新井素子]]<br />[[江坂遊]]など | signature = | website = {{URL|https://hoshishinichi.com}} <!--|footnotes=脚注・小話--> }} {{読み仮名_ruby不使用|'''星 新一'''|ほし しんいち|本名:星 親一、[[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[9月6日]] - [[1997年]]〈[[平成]]9年〉[[12月30日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[SF作家]]。 父は[[星薬科大学]]の創立者で[[星製薬]]の創業者・[[星一]]。[[森鷗外]]は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略である(弟の名前の協一は「協力第一」の略)。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと[[堤清二]]と並んで稀有な[[東京証券取引所|東証]]一部[[上場]]企業(当時)の社長経験者である{{efn|ただし、堤の場合は西武の経営参加や上場よりも創作活動が遙かに先行しており、星の場合は完全に経営を離れたのちに創作活動が始まっている。}}。 膨大な作品量でありながら、どの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「'''[[ショートショート]]([[掌編小説]])の神様'''」と呼ばれているが、『[[明治・父・アメリカ]]』、父親や父の恩人[[花井卓蔵]]らを書いた伝記小説『[[人民は弱し 官吏は強し]]』などのノンフィクション作品もある。 また、[[小松左京]]・[[筒井康隆]]と合わせて「'''[[サイエンス・フィクション|SF]]御三家'''」と呼ばれる<ref>[[宮崎哲弥]]『いまこそ「小松左京」を読み直す』 [[NHK出版新書]]、2020、p.7</ref>。 == 略歴 == === 生い立ち === [[1926年]]([[大正]]15年)、[[東京府]][[東京市]][[本郷 (文京区)|本郷区]]曙町(現・[[東京都]][[文京区]][[本駒込]])に生まれる。母方の祖父[[小金井良精]]の家がある本郷で[[1945年]]([[昭和]]20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の[[小金井良精]]と[[森鷗外]]の妹・[[小金井喜美子]]である{{efn|次女の星マリナは父、星新一の発想や文体に影響を与えた人物として、彼を幼児の頃から育てた祖父母、小金井良精・喜美子夫妻を挙げている<ref>[[中日新聞]] 2022年12月23日夕刊、2面。</ref>。}}。また小説家・[[鈴木俊平]]は父の妹の孫(従甥)にあたる<ref>『きまぐれ読書メモ』p.219([[有楽出版社]]、昭和56年(1981年))</ref>。 [[東京女子高等師範学校]]附属小学校(現・[[お茶の水女子大学附属小学校]])を経て、[[東京高等師範学校]]附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])に進む。附属中学の同期には、[[槌田満文]]([[武蔵野大学]][[名誉教授]])、[[今村昌平]]([[映画監督]])、[[大野公男]](元[[北海道情報大学]]学長)、[[児玉進]](映画監督)、[[黒澤洋]](元[[日本興業銀行]]会長)、[[星野英一]]([[東京大学]]名誉教授)などがいた。 附属中学在学中の[[1941年]]12月に[[日本の対米英宣戦布告|対米開戦]]となり、これにより[[英語]]が[[敵性語]]となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修([[飛び級#第二次世界大戦以前|飛び級]]、[[旧制中学校|旧制中学]]は5年制)で旧制の官立[[東京高等学校 (旧制)|東京高等学校]](現・[[東京大学]][[教養学部]]及び[[東京大学教育学部附属中等教育学校]]に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため[[今日泊亜蘭]]の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。 高等学校在学中、満16歳の時に1年間の[[学生寮#日本の学生寮|寮]]生活を経験した。当時の寮生活について、親友の[[北杜夫]]や[[小松左京]]がしばしば[[旧制高校]]の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」<ref>星新一『きまぐれ読書メモ』p.20([[有楽出版社]]、[[1981年]]([[昭和]]56年))</ref>、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」<ref>『きまぐれ暦』p.225([[新潮文庫]]、[[1979年]](昭和54年))</ref> と回想している。 こうした感想については、[[戦後#日本での「戦後」の位置づけ|戦後]]と[[戦中#日本|戦中]]の違い、四修進学の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、[[新制大学]]卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している{{efn|当時は、通常なら[[帝国大学]]の場合は満23歳での卒業であったので、それに比べて星は2年早く卒業したことになる。}}。 === 大学・大学院時代 === [[1948年]](昭和23年)、東京大学[[農学部]][[農芸化学]]科を卒業した{{R|全史540}}。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の[[穂積忠彦]](俳優・[[穂積隆信]]の兄)がいた<ref>『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.108</ref>。卒業論文は固形[[ペニシリン]]の培養についてであった。 高級官吏採用試験である[[高等文官試験|高等試験]]{{efn|のちの国家公務員上級(甲種)試験やI種試験、現在の[[国家公務員#採用試験|国家公務員総合職試験]]にあたる。}}に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、[[坂口謹一郎]]のもとで[[農芸化学]]を研究する。液体内での澱粉分解酵素[[ジアスターゼ]]の生産などをした。[[1950年]](昭和25年)に大学院の[[修士課程|前期]]を修了する{{Efn|ただし、星自身は「先日、東大の大学院の女性の会(妙なのがあるな)に呼ばれ、話をした。修士課程を二つ出て、博士課程に在籍の人もいた。まいったね。それから私は、自分の略歴から、大学院に行ったことを削るようにしている。学歴で作品が書けるわけじゃない」と述べている。<ref>『気まぐれスターダスト』p.75(2000年、出版芸術社)を参照</ref>。}}。修士論文は「[[アスペルギルス属]]のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」(アスペルギルスは[[コウジカビ]]のこと)であった<ref>「星新一年譜」(『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、[[1976年]](昭和51年))、p.202。</ref>。 [[1949年]](昭和24年)、[[同人誌]]「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。 === 星製薬時代 === [[1951年]](昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を[[大谷米太郎]]に譲るまでその処理に追われた<ref>『人民は弱し 官吏は強し』、『星新一 一〇〇一話をつくった人』</ref>{{R|全史540}}。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。 会社を手放した直後、病床で[[レイ・ブラッドベリ]]の『[[火星年代記]](火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「[[空飛ぶ円盤]]」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「[[日本空飛ぶ円盤研究会|空飛ぶ円盤研究会]]」に参加した。この研究会は[[三島由紀夫]]、[[石原慎太郎]]が加わっていたことでも知られている。 星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、[[星薬科大学]]の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった{{Efn|その後、1970年の『日本紳士録』第58版にも「星薬科大理事」との肩書が記載されている。}}。 === 作家デビュー === [[1957年]](昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った[[柴野拓美]]らと日本初のSF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が[[大下宇陀児]]に注目され{{Efn|ただし[[最相葉月]]は『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、[[2007年]]([[平成]]19年))のpp.208-217で「[[矢野徹|矢野]]からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。そこで乱歩が大下宇陀児に提灯もち(→※)を依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記した{{要校閲範囲|date=2023年5月|[[ルーブリック]]}}は約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。<br />※注記……「提灯もち」の一般的な意味は、他人の手先に使われて、'''その人の'''長所を吹聴してまわったりすること、または、それをする人のこと<ref>{{Cite Kotobank|word=提灯持|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2023-05-11}}</ref>。ここでの「提灯もち」役の大下は、依頼者の乱歩のことでなく、その意を受けて星のことを誉めそやす役割となっているので、一般的な用例から拡大した意味(星の意思にかかわらず、いわば星に代位して乱歩が星のための手先として大下を使う関係)で用いられている。}}、当時[[江戸川乱歩]]が責任編集を務めていた「[[宝石 (雑誌)|宝石]]」に転載されてデビューした{{R|全史540}}。 [[1958年]](昭和33年)には、[[多岐川恭]]が創設した若手推理小説家の親睦団体「[[他殺クラブ]]」に、[[河野典生]]、[[樹下太郎]]、[[佐野洋]]、[[竹村直伸]]、[[水上勉]]、[[結城昌治]]と参加した<ref>[http://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/tanteisakka/ta.html 探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典・多岐川恭]</ref>。なお、「他殺クラブ」については、佐野洋の自伝『ミステリーとの半世紀』(小学館)には、「1960年3月結成」とある(同書、P.130)。 [[File:Japanese-edition-of-Alfred-Hitchcocks-Mystery-Magazine-1960-January-1.jpg|thumb|180px|星が[[直木三十五賞|直木賞]]候補となるきっかけをつくった『[[ヒッチコック・マガジン]]』。最初の作品が掲載された同誌1960年1月号。]] [[1959年]](昭和34年)11月21日発売の月刊誌『[[ヒッチコック・マガジン]]』1960年1月号に「年賀の客」が掲載され、「[[漫画読本|文春漫画読本]]」からも注文がくる。『ヒッチコック・マガジン』8月号~11月号に掲載された「雨」「その子を殺すな!{{efn|name="retitle"}}」「信用ある製品」「食事前の授業」と、『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「[[生活維持省]]」の計6編のショートショートで、第44回[[直木三十五賞|直木賞]](1960年下半期)の候補となる<ref name="Naoki Prize">{{Wayback|url=https://prizesworld.com/naoki/ichiran/ichiran41-60.htm|title=「直木賞のすべて」受賞作・候補作一覧(非公式サイト)|date=20230326160659}}</ref>。また、この年に[[横山光輝]]原作の実写版テレビドラマ『[[鉄人28号]]』でSFアドバイザーとして[[クレジットタイトル|クレジット]]された。 [[1961年]](昭和36年)、医者の娘で[[小牧バレエ団]]の[[バレリーナ]]だった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。 [[1963年]](昭和38年)、[[福島正実]]の主導による[[日本SF作家クラブ]]の創設に参加した。同年、同クラブの一員として、[[ウルトラシリーズ]]第1作『[[ウルトラQ]]』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・[[北澤杏子]]の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『[[マタンゴ]]』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。 === SF小説の巨匠として === 以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。 [[1979年]](昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは[[#星新一ショートショート・コンテスト]]を参照) [[1980年]](昭和55年)、[[日本推理作家協会賞]]の選考委員を務める(昭和56年([[1981年]])まで)。 [[1983年]](昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。 それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で[[再版]]される都度、「ダイヤルを回す(=[[ダイヤル#電話機のダイヤル|ダイヤル式]]の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。 かねてより「住んでみたい街」に東京都[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]を挙げており{{efn|星は「高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい」「戦前の[[本郷区|本郷]]の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった」と述べている<ref>星新一『きまぐれ遊歩道』pp.90-92(新潮文庫、1996年)。</ref>。}}、母の死去による[[戸越]]の自宅の売却に伴い、[[1993年]](平成5年)、高輪のマンションに転居した。 === 後年・死去 === [[1994年]](平成6年)に[[口腔癌]]と診断され、手術を受ける。 入退院を繰り返した後、[[1996年]](平成8年)[[4月4日]]に自宅で倒れて[[東京慈恵会医科大学附属病院]]に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、[[4月20日]]には人工呼吸器を外すことができた。しかし[[4月22日]]の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。 自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、[[1997年]](平成9年)[[12月30日]]18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・[[地域医療機能推進機構東京高輪病院|JCHO東京高輪病院]])で[[間質性肺炎]]のために死去した。{{没年齢|1926|9|6|1997|12|30}}<ref>最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』上、新潮社〈新潮文庫〉、2010年、pp.11-18。</ref>。 == 評価 == [[2007年]](平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした[[最相葉月]]の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』([[新潮社]])が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。 また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほど{{要校閲範囲|date=2023年5月|{{仮リンク|ハイブロウ|en|Highbrow}}な}}存在として遇され、[[安部公房]]([[純文学]]とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。 星作品の文庫解説には、SF作家仲間や親友ともいえる交友のあった[[北杜夫]]以外にも、[[井上ひさし]]、[[大庭みな子]]、[[鶴見俊輔]]、[[尾崎秀樹]]、[[奥野健男]]ら大物の名が並ぶ(奥野などは本来は[[新潮文庫]]での[[太宰治]]担当解説者である)。晩年の[[谷崎潤一郎]]が星作品を愛読していたと[[石川喬司]]が紹介しており、また星が「[[時代小説|歴史もの]]」を執筆するにあたり、星から取材を受けた[[池波正太郎]]もその新境地開拓を称賛するなど、[[#星雲賞|後述]]するSFファンの冷淡さに比べると[[文壇]]内部での評価は決して低くはなかった。 === 受賞(受賞候補)歴 === * 1960年(昭和35年)、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『その子を殺すな!{{efn|name="retitle"|初出時のタイトル。のちに収録された作品集『悪魔のいる天国』(中央公論社、1961年12月)及び『ボッコちゃん』(新潮社、1971年5月)において『誘拐』と改題。}}』、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で第44回[[直木三十五賞|直木賞]]の候補作に選ばれる(最終受賞者は[[寺内大吉]]と[[黒岩重吾]])<ref name="Naoki Prize" />。 * [[1962年]](昭和37年)、ショートショート集『[[ボッコちゃん|人造美人]]』、ショートショート集『[[ようこそ地球さん]]』(旧バージョン)、ショートショート集『悪魔のいる天国』で第15回[[日本推理作家協会賞]]候補。 * [[1965年]](昭和40年)、長編小説『[[夢魔の標的]]』で第18回日本推理作家協会賞候補。 * [[1968年]](昭和43年)、ショートショート集『[[妄想銀行]]』で第21回日本推理作家協会賞を受賞<ref>[http://db2.dcube.co.jp/mystery/FMPro?-db=mystery_sakuhin.fp5&-format=prize_detail.html&-lay=cgi&-error=prize_detail.html&-Op=eq&%8D%EC%95i==%96%CF%91z%8B%E2%8Ds&-max=1&-Find 1968年 第21回 日本推理作家協会賞]{{リンク切れ|date=2023年5月}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://db2.dcube.co.jp/mystery/FMPro?-db=mystery_sakuhin.fp5&-format=prize_detail.html&-lay=cgi&-error=prize_detail.html&-Op=eq&%8D%EC%95i==%96%CF%91z%8B%E2%8Ds&-max=1&-Find|title=1968年 第21回 日本推理作家協会賞『妄想銀行』(文学賞検索サイト)|date=20080608033714}}</ref>{{R|全史540}}。 * [[1981年]](昭和56年)、「[[マンボウ・マブゼ共和国]]」([[北杜夫]]が自宅を領土として設立した[[ミニ独立国]])から文華勲章が授与される。「日本の勲章ならみっともなくて下げておられぬが、外国の勲章なら…」と語った。 * [[1998年]](平成10年)、第19回[[日本SF大賞]]特別賞を受賞<ref>[http://www.sfwj.or.jp/list.html 日本SF大賞]{{リンク切れ|date=2023年5月}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://sfwj.jp/awards/winners/|title=日本SF大賞/各賞受賞一覧(日本SF作家クラブ)|date=20230409203231}}</ref>。 === 星雲賞 === SFファンが選ぶ年間ベスト賞である[[星雲賞]](1970年創設)を星は一度も受賞していない。その低評価の事情について[[筒井康隆]]は、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している<ref>『'60年代日本SFベスト集成』への星の収録作「解放の時代」の解説</ref>。 ただし、1983年の「ショートショート1001編を達成」を機に、翌1984年夏の[[日本SF大会]]で、[[日本SFファングループ連合会議]]議長の門倉純一の提案で「星雲賞特別賞」を授賞することとなる。実際に授賞式まで行われたが、星の側が受賞を拒否し、「幻の星雲賞」となった<ref>[http://www.hoshishinichi.com/note/34.html][[牧眞司]]<span>「ぼくのSFファン修業時代、星作品に関係することなど」</span></ref>。 後年、[[手塚治虫]]、[[矢野徹]]、[[米澤嘉博]]、[[野田昌宏]]、[[柴野拓美]]、[[小松左京]]らは死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星の死去時は授賞されなかった。第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』が星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。 == 作品の特徴 == 星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった[[固有名詞]]が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し{{efn|「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど。}}しており、星は晩年までこの作業を続けていた。 激しい暴力や殺人シーン、ベッドシーンの描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。 加えて、時事風俗は扱わない、[[当用漢字]]表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない、などの制約を自らに課していた。もちろん例外もあり、『気まぐれ指数』などは五輪前の東京の雰囲気がきめ細かく描写された風俗ユーモアミステリである。『ほら男爵現代の冒険』も人名、地名が頻出するが、人名は意図的にシンプルまたは奇妙なものが使われている。 ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」などの名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。[[疑問符]]や[[感嘆符]]も原則使わない。 しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも(あるいは本人ですら)分からなかった。以下にその例を挙げる。 ; [[声の網]]([[1970年]]) : 電話線を経由する情報(血圧や体温なども感知する)をコンピュータに管理させている。コンピュータはいたるところに設置され、すべて[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]でつながっている。人間たちは好きな時に好きな場所で必要な情報を取り出している([[インターネット]]の普及、[[ユビキタス社会]]の実現)。 ; [[おーい でてこーい]](1958年) : ある日突然出来た深い底なしの穴に、生産することだけ考えていて、その後始末は誰も考えていなかった人間たちは、これ幸いとばかりに都会のゴミや工場の排水や放射性廃棄物など、物を生産することで発生した不用なものをどんどん捨てていく([[公害]]、[[自然破壊#自然破壊の例と起こりうる問題|生態系の破壊]]、[[大量消費社会]]){{Efn|星新一は『きまぐれエトセトラ』「いわんとすること」で、執筆、発表当時は公害という言葉も概念もなく、公害問題と結びつけられたことでショートショートとしての面白さが損なわれると嘆いている。}}。 ; [[白い服の男]](1968年) : 戦争に関する事物、事象などあらゆるものを封印してねじ曲げて管理された世界を描く([[表現の自由]]、[[言論の自由]]などに踏み込んだ監視社会。[[有害情報|有害情報規制]]、[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律|児童ポルノ法]]改正などに含まれる単純所持規制問題など)。 作品は20言語以上に翻訳され{{Efn|1985年時点で[[英語]]・[[ドイツ語]]・[[フランス語]]・[[イタリア語]]・[[中国語]]・[[ロシア語]]・[[朝鮮語]]・[[ルーマニア語]]・[[ポーランド語]]・[[チェコ語]]・[[インドネシア語]]・[[ウクライナ語]]・[[ノルウェー語]]・[[ラトビア語]]・[[リトアニア語]]・[[ベンガル語]]・[[セルビア・クロアチア語]]・[[マジャール語]]・[[アゼルバイジャン語]]・[[エスペラント]]の20言語<ref>[[深見弾]]「星新一―億の読者をもつ作家」(新潮文庫「たくさんのタブー」巻末)より)</ref>。}}、世界中で読まれている。 [[寓話]]的な内容の作品が多く、星も自らを「現代の[[アイソーポス|イソップ]]」と称していた(『未来いそっぷ』と題した作品集もある)。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書([[光村図書出版]]『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、[[東京書籍]]『[[NEW HORIZON (東京書籍)|NEW HORIZON]]』に掲載された「おーいでてこーい」(英語の教科書であるため、英訳され「Can Anyone Hear Me?」のタイトルで収録)など)やテレビ番組『[[週刊ストーリーランド]]』(「殺し屋ですのよ」など)・『[[世にも奇妙な物語]]』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。 評論家の[[浅羽通明]]は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。 また、[[筒井康隆]]は星の作品について、[[ストア派|ストイシズム]]による自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・[[プロット (物語)|プロット]]・[[ギャグ]]・[[ナンセンス文学#理論|ナンセンス]]のアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している<ref>『ボッコちゃん』解説([[新潮社]])</ref>。 挿絵の多くは[[真鍋博]]や[[和田誠]]が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。 アメリカの[[一コマ漫画]]の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『[[進化した猿たち]]』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・[[星一|一]]を描いた『人民は弱し [[官吏]]は強し』、[[明治]]時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルの[[エッセイ]]集なども多数残している。 == 人物・エピソード == 容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる<ref>最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人(下)』新潮文庫 pp.161-163</ref>。SF作家仲間たちと[[西新宿]]の台湾料理店『山珍居』に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文などで神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。[[平井和正]]は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙<small>(インナースペース)</small>」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり、[[北杜夫]]とも親交が深かった{{Efn|2人とも父親は医薬系組織(製薬会社と病院)のトップで東北出身、欧米留学経験あり、母親は東京の[[ブルジョア]]出身(東京帝国大学教授の娘と大病院の娘)で、本人は東京山の手(本郷と青山)に生まれ育っている。}}。 一方で、礼節を欠いた人間には距離を置いて接していた。そのため、『[[ヒッチコック・マガジン]]』の担当編集者で、[[ショートショート|ショート・ショート]]の大家となるきっかけを作った恩人でありながら、1965年の[[山川方夫]]の葬儀の席での振る舞いなどから、星は[[小林信彦]]をひどく嫌っており、[[1969年]]の[[覆面座談会事件]]に関与した[[稲葉明雄]]の親友という要素も加わったことで、晩年は小林と顔を合わせることも嫌がっていた。小林の側は、企業PR誌などの高額な仕事が増えた星が原稿料の問題で『ヒッチコック・マガジン』での執筆を「勘弁してほしい」と告げてきた旨を記している<ref>小林信彦『テレビの黄金時代』([[文藝春秋]]、2002年、文庫化2005年)文庫版p.87</ref>。 [[星製薬]]が人手に渡った後も永らく、[[星薬科大学]]評議員という肩書きがあった。なお、[[鮎川哲也]]の推理小説『死者を笞打て』(1965年)では、執筆当時の推理文壇関係者が多少名前を変えて登場しており、星も「星野新一」として登場する。また登場人物のひとりが酒豪のため、男にもかかわらず「ボッコちゃん」と呼ばれている。また、[[手塚治虫]]の漫画『{{読み仮名|[[W3]]|ワンダースリー}}』(1965年 - 1966年)の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の[[手塚眞]]にちなんでいる可能性も考えていた<ref>星新一「文句を言い忘れた『W3』の主人公名」『[[朝日ジャーナル]]臨時増刊 手塚治虫の世界』[[朝日新聞社]]、1989年。</ref>。 『[[三田文学]]』1970年10月号で、[[福島正実]]と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「[[ネパール]]に、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と応答をした。星は「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。 作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった[[新井素子]]の『あたしの中の……』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った<ref>{{Cite web|和書 |url=http://moto-ken.cool.ne.jp/profile/senko.html| title= 第一回奇想天外SF新人賞選考会:選考過程|accessdate=2008-06-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207204130/http://moto-ken.cool.ne.jp/profile/senko.html |archivedate=2009-02-07|deadlinkdate=2014-09-16 }} (『奇想天外』1978年2月号「新人賞選考座談会」より一部抜粋)</ref>。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。とはいえ、[[#星新一ショートショート・コンテスト|星新一ショートショート・コンテスト]]とほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「[[ビックリハウス]]」の[[エンピツ賞]]受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており、星にすれば理解が及ばず、お手上げの状態だったという<ref>『きまぐれ読書メモ』(有楽出版社)p.178</ref>。 生前は自己の作品の映像化・[[戯曲]]化をほとんど許さなかった。アニメ化を持ちかけた製作会社[[ガイナックス]]の[[武田康廣]]に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『[[小松左京アニメ劇場]]』を快諾したという<ref>武田康廣『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを創った男たち』ワニブックス、2002年、pp.120-121。</ref>。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の[[岡本忠成]]によって[[人形アニメ|人形アニメーション]]として在命中に製作されている([[#星新一作品の映像化]]参照)。 なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の[[修士]]号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。福島正実は著書『未踏の時代』で、星や筒井康隆、小松左京らSF作家仲間で、稼動したばかりの[[東海第一原発]]を見学に行ったとき、星が案内役の技官に「お土産に原子を1つ分けてください」と言ったというエピソードを披露しているが、星なりのジョークだと思われる<ref>{{Cite book|和書|title=未踏の時代 日本SFを築いた男の回想録|date=2009-12-09|series=ハヤカワ文庫 JA 976|publisher=早川書房|isbn=978-4-15-030976-3|author=福島正実}}</ref>。 また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた<ref>『きまぐれ遊歩道』(新潮文庫)pp.111-112他</ref>。別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「[[不渡り]][[手形]]をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。 身長180センチという、大正生まれとしてはずばぬけた長身の持ち主であった。そのため、日本SF作家クラブには「星新一より背の高い人間の入会は認めない」という冗談会則があったが、これを初めて破って入会したのは[[田中光二]]である。 特に[[ドイツ文学]]に傾倒したり滞在した経験があるわけではないが、この国と縁の深い人物の多い家系{{Efn|外祖父・[[小金井良精]]と大伯父・[[森鴎外]]については有名だが、父・星一も留学経験こそないものの、[[フリッツ・ハーバー]]訪日の援助をしたり、[[ベルリン工科大学]]名誉教授の称号を贈られるほどの親独家として名高い。医師である義父もドイツ語に通じた人物である。}} も影響しているのか、[[ドイツ]]びいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。同じくエッセイ「名前」では長女の名前ユリカを誕生月[[7月]]のドイツ語([[:de:Juli|Juli]] ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。また、星作品には国籍の明確な外国人はほとんど登場しないが(そもそもどこの国の話かすら判らないものが多い)、『ほら男爵現代の冒険』の主人公は当然ドイツ人であり(ただし文中でドイツという言葉は使われない。先祖の話や、旧日本軍に[[枢軸国|同盟国]]の方と呼ばれたり、生きていた[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]に同胞としてふるまうなどの間接表現にとどまる)、『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にも[[クラシック音楽]]を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|大公三重奏曲]]』を挙げ、[[アルフレッド・コルトー|コルトー]]、[[ジャック・ティボー|ティボー]]、[[パブロ・カザルス|カザルス]]の演奏盤を愛聴していた<ref>星新一『きまぐれ遊歩道』p.76(新潮文庫、1990年)</ref>。 小松左京によると、星には[[少年愛]]の傾向があり、ひところはピーター([[池畑慎之介☆]])に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という<ref>北杜夫『怪人とマンボウ』p.118(講談社、1977年)</ref>。その後、[[郷ひろみ]]に入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している<ref>北杜夫『怪人とマンボウ』p.119(講談社、1977年)</ref>。 ウイスキーが好きで、特に[[サントリー]]の[[サントリー角瓶|角瓶(角)]]を愛飲していた。[[エジプト]]旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なく[[サントリーオールド|オールド]]を買った。角が置かれていなかったことを非常に残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している<ref>{{Cite web|和書|author=佐々木清隆|date=1998-01-11|url=http://www.asahi-net.or.jp/~jg3k-ssk/hoshi2.html|title=さよならバーバリー(2)|publisher=PAX PROJECT|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224132039/http://www.asahi-net.or.jp/~jg3k-ssk/hoshi2.html|archivedate=1999-02-24|accessdate=2023-04-25}}</ref>。 [[公立はこだて未来大学]]は2012年9月6日に「きまぐれ[[人工知能]]プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。[[松原仁 (情報工学者)|松原仁]](はこだて未来大学)、[[中島秀之]](はこだて未来大学学長)、[[角薫]](はこだて未来大学)、[[迎山和司]](はこだて未来大学)、[[佐藤理史]]([[名古屋大学]])、[[赤石美奈]]([[法政大学]])の6人でプロジェクトチームを結成した。星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成[[アルゴリズム]]の検討と共に{{仮リンク|トライ・アンド・エラー|en|trial and error|preserve=1}}を繰り返し、人工知能によって2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを自動生成できるようにすることを目指している{{Efn|5年以内にショートショートの公募に匿名で応募して入賞することを目指すとしている。}}。[[瀬名秀明]]が小説の評価方法の検討を行うなどの顧問を務める。[[2015年]]9月には、自動生成されたショートショートを第3回[[星新一賞]]に応募したことが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=第3回星新一賞に応募しました。|url=http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/news/150924.html|date=2015-09-24|accessdate=2016-01-29}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/results/index.html|title=成果作品(きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ)|date=20160321102521}}</ref>。 === ホシヅル === {{main|ホシヅル}} 未来における鶴の進化型、[[ホシヅル]]を生み出し、サイン代わりに描いていた。星の死後、彼の誕生日[[9月6日]]は「[[ホシヅルの日]]」とされ、友人の[[SF作家]]たちが集って星を偲ぶ会が催される。[[2014年]]は[[世田谷文学館]]で催された「日本SF展」と日程が重なったため、一般来場客を招いた公開形式で催された。当日は星マリナらにより生前のアルバム写真によるプレゼンや新刊絵本の英語での朗読がなされ、ホシヅルのケーキや星新一の等身大パネルなどを関係者とともに囲みこの日を祝った<ref>{{Cite web|和書|title=ホシヅルの日@SFの国|publisher=日本SF作家クラブ |url=http://sfwj.jp/events/e20140906-hoshizulu.html|accessdate=2014-12-29}}</ref>。 == 家系図 == {{familytree/start}} {{familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | A-1 |A-1=[[小林親真|小林又兵衛]]}} {{familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| }} {{familytree| | | | | | | | | B-1 | | | | B-2 |y| B-3 | | B-4 | | B-5 |B-1=森静泰|B-2=小金井良達|B-3=幸|B-4=[[小林虎三郎]]|B-5=[[小林雄七郎]]}} {{familytree| | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | |!}} {{familytree| | | | | C-1 | | C-2 | | C-3 |y| C-4 | | C-5 |C-1=[[森鷗外]]|C-2=[[三木竹二]]|C-3=[[小金井喜美子|喜美子]]|C-4=[[小金井良精]]|C-5=[[桑木厳翼]]}} {{familytree| |,|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |,|-|^|-|.| | | |!}} {{familytree| D-0 | | D-1 |y| D-2 |y| D-3 | | D-4 |~| D-5 | | D-6 |D-0=<small>(星一の妹)</small>|D-1=<small>(内妻)</small>|D-2=[[星一]]|D-3=精|D-4=小金井良一|D-5=素子|D-6=[[岡部三郎]]}} {{familytree| |!| | | | | |!| | | |)|-|-|-|.| | | | | | | | | |!| |}} {{familytree| E-0 | | | | E-1 | | E-2 | | E-3 |~|~|~|~|~|~|~| E-4 |E-0=<small>(娘)</small>|E-1=[[出澤三太]]|E-2=星新一|E-3=星協一|E-4=<small>(長女)</small>|boxstyle_ E-2=background-color: #FDFC8F;}} {{familytree| |!| | | | | | | | | |!}} {{familytree| F-0 | | | | | | | | F-1 |F-0=[[鈴木俊平]]|F-1=[[星マリナ]]}} {{familytree/end}} == 作品 == *『生命のふしぎ』[[新潮社]]([[1959年]](昭和34年)) *: 少年向けの科学解説書。長らく絶版だったが、[[2000年]](平成12年)に[[新潮オンデマンドブックス]]から[[オンデマンド印刷]]として発行 [http://www.shinchosha.co.jp/book/865012/]。ISBN 978-4-10-865012-1 また、[[2005年]](平成17年)に[[電子書店パピレス]]から[[電子書籍]]として発行 [http://www.papy.co.jp/act/books/1-21439/]。 * *『[[人造美人]] ショートミステリイ』新潮社([[1961年]](昭和36年)) *: 初の短編集。30篇収録であり、現在の自選集『ボッコちゃん』とは異なる。 * *『[[ようこそ地球さん]] ショート・ショート28選』新潮社([[1961年]] のち文庫 *: 31篇収録。星によると「[[ユーリイ・ガガーリン|ガガーリン]]少佐を乗せた初の人工衛星発射のおかげもある」とのこと。 * *『悪魔のいる天国』[[中央公論社]]([[1961年]] のち[[ハヤカワ文庫]]、[[新潮文庫]] *『ボンボンと悪夢』新潮社([[1962年]] のち文庫  *『宇宙のあいさつ』[[早川書房]]([[1963年]] のちハヤカワ文庫、新潮文庫  *『気まぐれ指数』新潮社([[1963年]] のち文庫 *: ユーモアミステリー小説。初の長編。[[東京新聞]]に連載された。 *: [[東京高等師範学校|東京高師]]附属中学(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中・高]])時代の同級生で当時[[東京新聞]]文化部次長の[[槌田満文]]が連載させた。 *: [[日本放送協会|NHK]]([[少年ドラマシリーズ]])、[[テレビ朝日|NET]](「おれの番だ」に改題、[[植木等]]出演)でテレビドラマ化もされた。 * *『花とひみつ』([[1964年]]  *: 和田誠挿絵による限定版であり、私家版。[[1979年]]に[[フレーベル館]]から『はなとひみつ』の題名で出版された。 * *『妖精配給会社』早川書房([[1964年]] のちハヤカワ文庫,新潮文庫   *『[[夢魔の標的]]』早川書房([[1964年]] のち文庫、新潮文庫   *: はじめてのSF長編。『[[S-Fマガジン]]』に連載された。 * *『おせっかいな神々』新潮社([[1965年]] のち文庫  *『ノックの音が』[[毎日新聞社]]、1965 のち講談社文庫、新潮文庫   *: いずれも「ノックの音が」の文ではじまる連作もの。 *『エヌ氏の遊園地』[[三一書房]]・新書([[1966年]] のち[[講談社文庫]]、新潮文庫  *『黒い光』[[斎藤寿夫]]絵. [[秋田書店]]([[1966年]](昭和41年)) *: 少年向けSF8篇収録。『ちぐはぐな部品』に数編が改稿の上収録されている。 * *『気まぐれロボット』[[和田誠]]絵. [[理論社]]([[1966年]](昭和41年))のちに『きまぐれロボット』に改題。(角川文庫) *: 子ども向けショートショートに童話を加えたもの。 * *『妄想銀行』新潮社([[1967年]] のち文庫、[[双葉文庫]]  *『盗賊会社 現代寓話集』[[日本経済新聞社]]([[1968年]] のち講談社文庫、新潮文庫   *『マイ国家 ショート・ショート』新潮社・新潮小説文庫([[1968年]] のち新潮文庫  *『午後の恐竜』([[1968年]] のちハヤカワ文庫、新潮文庫 *『ひとにぎりの未来』新潮社([[1969年]] のち文庫  *『殺し屋ですのよ』未来プロモーション([[1969年]] のち文庫  *『宇宙の声』毎日新聞社([[1969年]] のち角川文庫 *:[[ジュブナイル|小学生向けSF中編]]。 * *『おみそれ社会 星新一短篇集』[[講談社]]([[1970年]] のち文庫、新潮文庫   *『声の網』講談社([[1970年]] のち文庫、角川文庫  *: 12章よりなるSF短編連作。長編と見なすこともできる。 * *『ほら男爵 現代の冒険』新潮社([[1970年]] のち文庫  *: 「ほら男爵」こと[[ミュンヒハウゼン男爵]]の子孫の冒険を描く、連作短編集。星はドイツびいきで、「気まぐれ指数」にも重要な役割で在日ドイツ人を登場させている。ただし、こちらの内容は完全な無国籍風である。 * *『だれかさんの悪夢』新潮社([[1970年]] のち文庫  <!--*: 4章より成るユーモア長編。--> *『未来いそっぷ』新潮社([[1971年]] のち文庫 *『[[ボッコちゃん]]』[[新潮文庫]]([[1971年]](昭和46年)) *: 『人造美人』『ようこそ地球さん』の中から19編を選び、それにほかの短編集に収録の作品を加えて50編にまとめた自選短編集。 * *『なりそこない王子』講談社([[1971年]] のち文庫、新潮文庫   *『だれも知らない国で』新潮社([[1971年]](昭和46年)) *: 書き下ろし長編の少年もの。後に『ブランコのむこうで』と改題された。(新潮文庫) * *『さまざまな迷路』新潮社([[1972年]] のち文庫  *『にぎやかな部屋』新潮社・書下ろし新潮劇場([[1972年]] のち文庫  *: 戯曲。[[レーゼドラマ]]として書かれたが、舞台上演もされている。 * *『ようこそ地球さん』([[1972年]] 新潮文庫 *: 自選集である『ボッコちゃん』に収録しなかった、『人造美人』と『ようこそ地球さん』([[1961年]](昭和36年))の残りの42篇を集めた短編集。 * *『ちぐはぐな部品』角川文庫([[1972年]](昭和47年)) *『おかしな先祖』講談社([[1972年]] のち文庫、角川文庫   *: ユーモアSF短編10編。 * *『[[殿さまの日]]』新潮社([[1972年]] のち文庫 *: 時代小説7篇を収録した短編集。「殿さまの日」「ねずみ小僧次郎吉」「江戸から来た男」「元禄お犬さわぎ」「かたきの首」「藩医三代記」「神の城」。版によっては「厄よけ吉兵衛」「島からの三人」「道中すごろく」が加えられる。 *『[[城のなかの人]]』[[角川書店]]([[1973年]] のち文庫 *: 時代小説5篇を収録した短編集。[[豊臣秀頼]]・[[由井正雪]]・[[小栗忠順]]を描いた3作と、[[吉良義央|吉良家]]遺臣・黒潮良吉と或る[[岡島常樹#伝承・巷説|田舎大名勘定方]]の部下を主人公にしたフィクション2作「ああ吉良家の忠臣」「薬草の栽培法」からなる。版や出版社によっては家老嫡男の恋「春風のあげく」と米相場を扱った「すずしい夏」に替えられる。 *『冬きたりなば』ハヤカワ文庫、1973 *『かぼちゃの馬車』新潮社([[1973年]] のち文庫  *『ごたごた気流』講談社([[1974年]] のち文庫、角川文庫   *『白い服の男』ハヤカワ文庫([[1974年]] のち新潮文庫  *『夜のかくれんぼ』新潮社([[1974年]] のち文庫  *『おのぞみの結末』[[いんなあとりっぷ社]]([[1975年]] のち新潮文庫  *『たくさんのタブー』新潮社([[1976年]] のち文庫  *『どこかの事件』新潮社([[1977年]] のち文庫  *『安全のカード』新潮社([[1978年]] のち文庫  *『ご依頼の件』新潮社([[1980年]] のち文庫  *『地球から来た男』角川書店([[1981年]] のち文庫  *『ありふれた手法』新潮社([[1981年]] のち文庫  *『凶夢など30』新潮社([[1982年]] のち文庫  *『どんぐり民話館』新潮社([[1983年]] のち文庫 *『これからの出来事』新潮社([[1985年]] のち文庫  *『[[竹取物語]]』角川文庫([[1987年]] 現代語訳 *『つねならぬ話』新潮社([[1988年]] のち文庫  *: 神話的な物語を描いた短編集。 *『やっかいな関係』[[田中靖夫]]絵. 青竜社, 1991.6 *『天国からの道』新潮文庫([[2005年]]) *『ふしぎな夢』新潮文庫([[2005年]]) *『つぎはぎプラネット』新潮文庫([[2013年]]) === エッセイ集 === *『きまぐれ星のメモ』[[読売新聞社]]([[1968年]] のち角川文庫  *『進化した猿たち』早川書房([[1968年]]  *: アメリカの[[一コマ漫画]]の紹介とエッセイ。 *『新・進化した猿たち』早川書房([[1968年]]  *: 進化した猿たちの続編。のちに再編集し、『進化した猿たち 1・2・3』の3冊でハヤカワ文庫、ついで新潮文庫化される。 * *『きまぐれ博物誌』[[河出書房新社]]([[1971年]] のち角川文庫  *『きまぐれ暦』河出書房新社([[1975年]] のち新潮文庫  *『きまぐれ体験紀行』講談社([[1978年]] のち文庫、角川文庫   *: ソ連、東南アジア、香港、韓国等の旅行体験を描いたエッセイ集。 *『できそこない博物館』[[徳間書店]]、1979 のち文庫、新潮文庫   *: 小説の発想についてのエッセイ集。 *『きまぐれフレンドシップ』[[奇想天外社]]([[1980年]] のち[[集英社文庫]]、新潮文庫   *『きまぐれ読書メモ』[[実業之日本社]]([[1981年]](昭和56年)) *『きまぐれエトセトラ』講談社([[1983年]] のち角川文庫  *『あれこれ好奇心』角川書店([[1986年]] のち文庫  *『きまぐれ学問所』角川文庫([[1989年]] *『きまぐれ遊歩道』新潮社([[1990年]] のち文庫  * === ノンフィクション === *『人民は弱し官吏は強し』[[文藝春秋]]([[1967年]] のち角川文庫、新潮文庫  *: 実父である星製薬の創立者・星一の栄光と悲劇を描いたノンフィクション。初刊本、全集収録のほか、角川文庫版に続く新潮文庫版はなお改装版で版を重ねるなど、星のノンフィクションとしてはロングセラーとなっている。 * *『祖父・小金井良精の記』河出書房新社([[1974年]] のち文庫  *『明治・父・アメリカ』[[筑摩書房]]([[1975年]] のち新潮文庫  *: 星の父の少年・青年期を描いたもの。 * *『明治の人物誌』新潮社([[1978年]] のち文庫  *: 星の父とかかわりのあった明治期の10人を伝記にしたもの。 *: なお10人とは、[[中村正直]]・[[野口英世]]・[[岩下清周]]・[[伊藤博文]]・[[新渡戸稲造]]・[[トーマス・エジソン|エジソン]]・[[後藤猛太郎]]・[[花井卓蔵]]・[[後藤新平]]・[[杉山茂丸]]。 * *『夜明けあと』新潮社([[1996年]] のち文庫  *: 「[[文明開化]]」の明治時代の世相や風俗を扱った新聞記事を1年ごとに整理して紹介したもの。 * === 作品集 === * {{Cite book|和書|date=1969-07-20|title=星新一作品100|series=世界SF全集 第28巻|publisher=早川書房|isbn=4-15-200028-7}} * 『星新一の作品集』全18巻 新潮社、[[1974年]](昭和49年) - [[1975年]](昭和50年) * 『星新一ショートショート1001』全3巻 新潮社、[[1998年]](平成10年) ISBN 4-10-319426-X * 『きまぐれ星からの伝言』([[牧眞司]]編、徳間書店、2016年(平成28年)) - 小説・エッセイ・翻訳・インタビュー・対談・講演など === 翻訳 === * [[フレドリック・ブラウン]]『さあ、気ちがいになりなさい』早川書房 [[1962年]](昭和37年){{Efn|下訳は当時早川書房の編集者だった[[福島正実]]、[[南山宏]]、[[常盤新平]]らが担当している。星による訳者あとがき(2005年の再版では割愛されている)では、単に'''協力者'''として3人への謝辞が書かれているが、下訳の事実について福島らの元同僚・[[内田庶]]がエッセイの中で言及している。}} * [[ジョン・ウィンダム]]『[[海竜めざめる]]』早川書房、[[1966年]](昭和41年) * [[クリスティーネ・ネストリンガー]]『トマニ式の生き方』エイプリル・ミュージック [[1978年]](昭和53年) * フレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウン傑作集』サンリオ、[[1982年]](昭和57年) * [[アイザック・アシモフ]]『アシモフの雑学コレクション』新潮社、[[1986年]](昭和61年) ISBN 4-10-218604-2 * なお星作品の主な外国語訳は以下のとおり。 *: [[1963年]](昭和38年)に『ボッコちゃん』が英訳され、『Magazine of Fantasy and Science Fiction』6月号に掲載。 *: [[1966年]](昭和41年)に短編『景品』が[[ロシア語]]に訳され、[[コムソモール|コムソモリスカヤ・プラウダ]]紙に掲載。同年『冬きたりなば』が[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[ミール出版所|ミル出版社]]刊の『世界SF選集』の国際短編[[アンソロジー]]に収録される。 *: [[1967年]](昭和42年)、短編『タバコ』『願望』『危機』『冬きたりなば』『宇宙の男たち』『景品』がソ連・ミル出版社刊の日本SF短編アンソロジーに収録される。 === 解説 === *{{Cite book|和書 |author=星一 |authorlink=星一 |others=[[江見水蔭]] |date=1918-04-27 |title=三十年後 |publisher=新報知社 |id={{NDLJP|933081}} |ref={{Harvid|星|江見|1918}} }} - アイディアは星、文章化は[[江見水蔭]]{{efn|name="30nengo"|作家の[[横田順彌]]が星新一に聞いた話では、『三十年後』は星一は箇条書きでアイデアを出しただけで、執筆のほとんどは[[江見水蔭]]の手によるものだったという。そのアイデアにしてもわずかだった<ref>{{Cite book|和書|author=横田順彌|authorlink=横田順彌|date=2004-06|title=古書ワンダーランド2|publisher=平凡社|isbn=978-4-582-83227-3|pages=163-164}}</ref>。}}。 **{{Cite book|和書 |author=星一 |authorlink=星一 |others=星新一 要約・解説、星マリナ 監修 |date=2015-09 |title=三十年後 |series=ホシヅル文庫 |publisher=新潮社図書編集室 |isbn=978-4-10-910056-4 |ref={{Harvid|星|2015}} }} === 共著 === *{{Cite book|和書 |author=中川米造 |authorlink=中川米造 |author2=星新一 |date=1980-10 |title=手当ての航跡 医学史講義 |series=Lecture books |publisher=[[朝日出版社]] |isbn=978-4-255-80033-2 |ref={{Harvid|中川|星|1980}} }} === ドラマ原作 === * [[宇宙船シリカ]] - NHK総合テレビにて[[1960年]](昭和35年)9月5日から[[1962年]](昭和37年)3月27日まで放送されたSF人形劇。 == 星新一に関する作品 == === 特集雑誌など === * 別冊新評『星新一の世界』 新評社、1976年(昭和51年)12月(「76 AUTUMN」号。ただし表紙には‘WIN’と表記)。 ** 内容は、本人のエッセイ、ショートショート、インタビュー、対談、他作家などの寄稿、座談会、グラビア(スナップ写真、収集物など)、資料(大辞典、年譜、作品目録、書評目録など)他 * 『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年) ** 『おもろ放談』(改題、角川文庫、1981年) === 星新一作品の漫画化 === * 『[[コミック☆星新一]]』 [[ミステリーボニータ]]、平成13年(2001年)9月号 - 平成16年(2004年)6月号) **[[川口まどか]]、[[志村貴子]]、他『コミック☆星新一 午後の恐竜』 秋田書店、平成15年([[2003年]][[6月19日]])※単行本、書籍扱いコミックス **[[鬼頭莫宏]]、[[阿部潤]]、他『コミック☆星新一 空への門』 秋田書店、平成16年([[2004年]][[7月15日]])※ 単行本、書籍扱いコミックス **[[川口まどか]]、[[鬼頭莫宏]]、他『コミック星新一 ショートショート招待席』 秋田書店(秋田文庫)、平成20年([[2008年]][[10月10日]]) <!-- * [[間瀬元朗]]『イキガミ』 - 「生活維持省」とアイデアが類似 --> *[[石黒正数]]、[[渡辺ペコ]]、[[道満晴明]]、[[白井弓子]]、「コミック☆星新一 親しげな悪魔」、秋田書店、平成24年([[2012年]][[8月16日]])※ 単行本、書籍扱いコミックス(続刊予定) === 星新一作品の映像化 === * [[岡本忠成]]作品 [http://www.hoshishinichi.com/list/19.html] ** 「ふしぎなくすり」[[1965年]](原作:盗んだ書類) *** 毎日映画コンクール[[大藤信郎賞]]、教育映画祭教育映画部門最高賞、東京都教育映画コンクール銀賞受賞 ** 「ようこそ宇宙人」[[1966年]](原作:夜の事件) ***ベネチア国際児童映画祭(イタリア)銀賞、毎日映画コンクール[[大藤信郎賞]]、教育映画祭学校教育映画部門最高賞、児童福祉文化賞、東京都教育映画コンクール金賞受賞 ** 「キツツキ計画」[[1966年]](原作:キツツキ計画) ** 「花ともぐら」[[1970年]](原作:花とひみつ) * 『[[気まぐれ指数]]』([[日本放送協会|NHK]][[少年ドラマシリーズ]]、[[1973年]](昭和48年)[[4月16日]] - [[4月25日]]) * 『女難の季節』([[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ]]、1989年(平成元年)9月25日) * [[NHK番組たまご]]『星新一ショートショート劇場』([[2007年]](平成19年)[[11月11日]]) ** 「ゆきとどいた生活」、「肩の上の秘書」、「プレゼント」、「包囲」、「愛用の時計」の5編。 * 『[[星新一ショートショート]]』([[日本放送協会|NHK]]、[[2008年]](平成20年)[[3月31日]] - [[2009年]](平成21年)[[3月2日]]、[[2010年]](平成22年)[[1月2日]]) ** 上記[[パイロット版]]の反響を受けてのシリーズ化。毎週3編をそれぞれ実写・[[セルアニメ|手描きアニメ]]・[[コンピュータアニメーション|CGアニメ]]で映像化。実に100編近いショート・ショートが映像化された。 * 『[[きまぐれロボット]]』([[2004年]](平成16年)) ** きまぐれロボットのショートショートの小説を[[インターネットテレビ]]と[[OVA]]に映像にした作品。声の出演:[[インパルス (お笑いコンビ)|インパルス]]・[[板倉俊之]]、[[MEGUMI]]。 * [[世にも奇妙な物語]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[共同テレビジョン|共同テレビ]]) ** 『[[世にも奇妙な物語 雨の特別編|酒場で聞いた話]]』(原作「なんでもない」)(1991年(平成3年)制作、未放送) - 主演:[[みのすけ]] ** 『人形』(1992年(平成4年)6月4日) - 主演:[[杉本哲太]] ** 『ネチラタ事件』(1992年(平成4年)8月13日) - 主演:[[細川俊之]] ** 『穴』(原作「おーい、でてこーい」)(1992年(平成4年)12月30日) - 主演:[[いかりや長介]] ** 『ブルギさん』(原作「もてなし」)(1995年(平成7年)1月4日) - 主演:[[田原俊彦]] ** 『夢のつづき』(原作「はやる店」)(1995年(平成7年)1月4日) - 主演:[[片岡鶴太郎]] ** 『殺し屋ですのよ』(2004年(平成16年)[[3月29日]]) - 主演:[[観月ありさ]] * [[週刊ストーリーランド]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) ** 『ぴったりのベルト』(原作「愛用の時計」)(2000年(平成12年)1月13日) - 声の出演:[[久川綾]]ほか ** 『殺し屋ですのよ』(2000年(平成12年)2月3日) - 声の出演:[[新田三士郎]]、[[唐沢潤]]ほか ** 『逃走の道』(2000年(平成12年)2月17日) - 声の出演:[[小林清志]]、[[高木渉]]、[[藤本譲]]ほか ** 『謎の通信販売』(原作「世界の終幕」)(2000年(平成12年)6月22日) - 声の出演:[[飛田展男]]ほか ** 『生み出すニワトリ』(原作「リオン」)(2001年(平成13年)1月18日) - 声の出演:[[佐久間レイ]]、[[松本保典]]ほか ** 『鈴森なんでも相談所 〜外灯〜』(原作「サービス」)(2001年(平成13年)2月8日) - 声の出演:[[宮澤正]]、[[荘真由美]]ほか *[[土曜プレミアム]]『[[星新一ミステリーSP]]』(フジテレビ、2014年(平成26年)2月15日) **「程度の問題」、「きまぐれロボット」、「霧の星で」、「七人の犯罪者」、「華やかな三つの願い」の5作品を[[オムニバス]]ドラマとして放送 * 『[[星新一の不思議な不思議な短編ドラマ]]』(NHK BS4K・BSプレミアム、2022年([[令和]]4年)、全20回)<ref name="oricon2225037">{{Cite web2|url=https://www.oricon.co.jp/news/2225037/full/|title=『星新一の不思議な不思議な短編ドラマ』放送決定 水原希子、永山瑛太、高良健吾、北山宏光ら出演|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2022-02-18|accessdate=2022-02-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/460840.html|title=「星新一の不思議な不思議な短編ドラマ」放送のおしらせ|website=ドラマトピックス|publisher=日本放送協会|date=2022-02-18|accessdate=2022-02-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220218022846/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/460840.html|archivedate=2022-02-18|deadlinkdate=2023-05-11}}</ref> <!-- ** 『ボッコちゃん』(2022年4月5日) - [[水原希子]]<ref name="oricon2225037"/>、[[古舘寛治]]、[[岡山天音]]、[[篠原篤]]、[[中村祐志]]、[[片桐はいり]]、[[杉本哲太]] ** 『生活維持省』(2022年4月12日) - [[永山瑛太]]<ref name="oricon2225037"/>、[[渋川清彦]]、[[品川徹]]、[[飯田基祐]]、[[岡本あずさ]]、[[中村ゆり]]、[[西田尚美]] ** 『不眠症』(2022年4月19日) - [[林遣都]]<ref name="oricon2225037"/>、[[岡部尚]]、[[佐藤玲 (女優)|佐藤玲]]、[[坂口涼太郎]]、[[八十田勇一]] ** 『地球から来た男』(2022年4月26日) - [[高良健吾]]<ref name="oricon2225037"/>、[[川瀬陽太]]、[[水間ロン]]、[[松本若菜]]、[[和田虎白]]、[[原扶貴子]]、[[小沢日出晴]]、[[河井青葉]] ** 『善良な市民同盟 前・後編』(2022年5月3日・10日) - [[北山宏光]]<ref name="oricon2225037"/>、[[玉城ティナ]]<ref name="oricon2225037"/>、[[麿赤児]] ** 『逃走の道』(2022年5月17日) - [[村杉蝉之介]]<ref name="oricon2225037"/>、[[コウメ太夫]]<ref name="oricon2225037"/>、[[大塚ヒロタ]]、[[影山徹]]、[[竹井亮介]] ** 『見失った表情』(2022年5月24日) - [[石橋静河]]<ref name="oricon2225037"/>、[[前田公輝]]、[[玄里]] ** 『薄暗い星で』(2022年5月31日) - [[染谷将太]]<ref name="oricon2225037"/>、[[栗原類]]<ref name="oricon2225037"/>、[[山崎直樹 (俳優)|山崎直樹]]、[[中込佐知子]] ** 『白い服の男』(2022年6月7日) - [[滝藤賢一]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[村上虹郎]]<ref name="nhkpr33487">{{Cite web2|url=https://web.archive.org/web/20220316022002/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=33487|title=【出演者発表 第2弾】星新一ワールドを彩る後期キャストはこちら!|website=NHK_PR|publisher=日本放送協会|date=2022-03-16|accessdate=2022-03-16}}</ref> ** 『ものぐさ太郎』(2022年6月14日) - [[荒川良々]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[玄田哲章]]、[[中尾隆聖]]、[[野沢雅子]]、[[千葉繁]] ** 『窓』(2022年6月21日) - [[奈緒]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[リリー・フランキー]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『凍った時間』(2022年6月28日) - [[村上淳]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『夜と酒と』(2022年7月5日) - [[竹原ピストル]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[夏帆]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『ずれ』(2022年7月12日) - [[若葉竜也]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[増子直純]]、[[オカダ・カズチカ]] ** 『もてなし』(2022年7月19日) - [[柄本時生]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『鍵』(2022年7月26日) - [[玉山鉄二]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『買収に応じます』(2022年8月2日) - [[田中直樹 (お笑い芸人)|田中直樹]]<ref name="nhkpr33487"/>、[[加藤諒]]<ref name="nhkpr33487"/> ** 『処刑 前・後編』(2022年8月9・16日) - [[窪塚洋介]]<ref name="nhkpr33487"/> --> <!-- === ラジオドラマ === === 朗読 === --> === 伝記 === * {{Cite book|和書|author=最相葉月|authorlink=最相葉月|date=2007-03|title=星新一 一〇〇一話をつくった人|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-459802-1}} ** {{Cite book|和書|author=最相葉月|date=2010-03|title=星新一 一〇〇一話をつくった人|series=新潮文庫|volume=上|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-148225-5}} - 修正加筆。人名索引と年譜を追加。 ** {{Cite book|和書|author=最相葉月|date=2010-03|title=星新一 一〇〇一話をつくった人|series=新潮文庫|volume=下|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-148226-2}} === 研究・エッセイ === * {{Cite book|和書|author=最相葉月|date=2003-04|title=あのころの未来 星新一の預言|publisher=新潮社|isbn=4-10-459801-1}} ** {{Cite book|和書|author=最相葉月|date=2005-09|title=あのころの未来 星新一の預言|publisher=新潮社|series=新潮文庫 |isbn=4-10-148222-5}} * {{Cite book|和書|others=最相葉月監修|date=2007-11|title=星新一空想工房へようこそ|publisher=新潮社|series=[[とんぼの本]]|isbn=978-4-10-602164-0}} *[[浅羽通明]]『星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと』筑摩書房〈[[筑摩選書]]〉、2021年10月。ISBN 978-4-480-01738-3。 === フィクション === * [[平井和正]]「星新一の内的宇宙<small>(インナースペース)</small>」(ショートショート) - 初出『[[SFマガジン]]』1970年5月号 == 星新一ショートショート・コンテスト == 1979年(昭和54年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。発案者は講談社の編集者[[宇山日出臣]](秀雄)<ref>最相葉月『星新一(下)』(新潮文庫)p.267</ref>。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を[[阿刀田高]]に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中である。受賞者の中でも[[江坂遊]]の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。もっとも、いわゆる第二世代のSF作家たちには私的交遊なども通じて星の弟子を自認している者が多く、第一世代後半組でも作風にまったく共通点のない[[平井和正]]が文庫解説で弟子を宣言している。 === 主な受賞者 === * 1979年(昭和54年)入選 ** [[二宮由紀子]](絵本作家) ** [[吉沢景介]](SF作家) ** [[藤井青銅]](放送作家) ** [[佐々木清隆]](放送作家) * 1980年(昭和55年)入選 ** [[江坂遊]](ショートショート作家) ** [[小川有里]](介護福祉作家) ** [[淡里茉莉子]](情報工学者、『[[知恵蔵]]』解説委員) ** [[西秋生]](SF作家) * 1981年(昭和56年)入選 ** [[太田忠司]](推理小説作家) * [[1982年]](昭和57年)入選 ** [[津井つい]](『[[文學界]]』同人誌推薦) ** [[伝江田航洋]](医学解説) * 1983年(昭和58年)入選 ** [[安土萌]](絵本作家) ** [[井上雅彦]](ホラー作家) ** [[斎藤肇]](推理小説作家) * [[1984年]](昭和59年)入選 ** [[田中哲弥]](SF作家) ** [[奥田哲也 (作家)|奥田哲也]](推理小説作家) * [[1985年]](昭和60年)入選 ** [[山口タオ]](絵本作家) ** [[矢崎存美]](SF作家) ** [[宏奈和泉]](SF作家) ** [[すやまたけし]](介護福祉作家) * [[小説現代]]コンテスト ** [[乙一]](ミステリ作家) ** [[中野玲子]](SF作家) ** [[鈴木輝一郎]](ミステリ、時代小説作家) ** [[狩生玲子]](童話作家) ** [[田村義隆]](SF作家) ** [[小林雄次]](放送作家) ** [[道尾秀介]](ミステリ作家) ** [[田丸雅智]](ショートショート作家) == 星新一賞 == {{main|星新一賞}} 2013年から[[日本経済新聞社]]が主催する公募[[文学賞]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="全史540">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=540|loc=「特撮映画スタッフ名鑑」}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}} == 関連項目 == {{Div col}} *[[出澤三太]] - 異母兄 *[[常盤新平]] *[[星新一ショートショート]] *[[ホシヅル]] *[[マタンゴ]] *{{読み仮名|[[W3]]|ワンダースリー}} {{Div col end}} == 外部リンク == {{commonscat|Shinichi Hoshi}} {{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:P sci-fi.png|34px|Project:スペキュレイティブ・フィクション]]}} *{{Official website|https://hoshishinichi.com/}} *{{kotobank|星新一}} *{{kotobank|星 新一}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほし しんいち}}<!--カテゴリの50音順--> [[Category:筑波大学附属高等学校出身の人物]] [[Category:旧制東京高等学校出身の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:日本推理作家協会賞受賞者]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:日本の短編小説作家]] [[Category:星新一|*]] [[Category:星薬科大学の人物]] [[Category:レーゼドラマを書いた作家]] [[Category:1926年生]] [[Category:1997年没]] [[Category:20世紀日本の小説家]]
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ショートショート
ショートショート(英: short short story)は、小説の中でも特に短い作品のこと。日本で「ショートショート」の語が定着する以前は「超短編小説」などと呼ばれていた。 定義は諸説あり、短編小説や掌編小説、ショートストーリーとは異なる独自のジャンルとされることもあるが、それらと区別しない場合もある。ジャンルは、SF・ミステリー・ユーモア小説など様々である。アイデアの面白さを追求し、印象的な結末を持たせる傾向がある。 ショートショート小説は他のジャンルへも影響を及ぼし、漫画におけるショートショート作品集や、映画におけるショートショートフィルムなども誕生した。 ショートショートは、1920年代中頃にアメリカの雑誌『コスモポリタン』で考え出された形式である。コスモポリタン誌は、上質紙のカラーページが雑誌前半にあり、ここに小説の冒頭を載せ、小説の途中で「○○ページにつづく」として雑誌後半へ誘導していた。読者は途中で読むのを中断される上に紙質の悪いページに移動しなければならないので、あまり好ましい掲載方法ではなかった。そこで編集長は途中で中断せずに済むような短い小説を載せることを考えた。サマセット・モームに執筆を依頼し短い作品を連載したところ評判になった(モームの連載作品は『コスモポリタンズ』という短編集になっている。)。その他の雑誌、新聞もこれを真似するようになり、短編より短い形式が広まった。はじめは「ショートショート・ストーリー(英: short short story)」と呼ばれていたが、次第にショートショート(英: short-short)と呼ばれるようになった。フレドリック・ブラウンがこの形式を得意とした。 日本では、都筑道夫が「ショートショート」という言葉を紹介し、1001編以上のショートショートを発表した星新一によってショートショート形式が一般に広められた。その後に江坂遊らへ受け継がれた。現在は田丸雅智などが活動している。また、日本に紹介された当初は「ショート・ショート」と中黒「・」を付して表記していたが、のちに「ショートショート」の表記が一般化した。 近年のアメリカでは、「フラッシュフィクション(英: Flash fiction)」・「サドンフィクション(英: Sudden fiction)」といった新しい名称が提唱され、様々な作風が模索され、活発な執筆・出版活動がされている。 様々な作家・評論家らが論じているが、定まったものは存在しない。厚木淳は「日本の文庫本で1ページから数ページで収まる長さの」短編小説であり、「新鮮なアイデア、完全なプロット、意外な結末」の三原則が盛り込まれたものと定義している。 近年では田丸雅智が、「短くて不思議な物語」という定義を複数の公募賞の要項や小学校の国語科教科書で提示している。「もっと詳しく言うと『アイデアがあり、印象的な結末のある物語』とも」と付言される場合もあるが、初心者向けの講座やワークシートでは「不思議な言葉から想像を広げる」というステップを推奨しており、事実上、ファンタジックな設定を中核とすることが要件となっている 。 ショートショートの長さに明確な規定はないが、ショートショート集を編纂するときや、コンテストで作品を募集するときには長さが決められることがある。雑誌『小説現代』のコンテストでは400字詰め原稿用紙7枚まで、雑誌『SFマガジン』の読者投稿コーナーでは400字詰め原稿用紙5枚程度としている。都筑道夫と星新一とがショートショートのアンソロジーを編纂したときには400字詰め原稿用紙20枚までとした。エラリー・クイーンが編纂した『ミニ・ミステリ傑作選』に収録されたすべての作品は2,000語以下である。ショートショート大賞では、第1回目が原稿用紙20枚以下、第2回目と第3回目が原稿用紙15枚以下で募集した。2020年よりショートショートの賞となった坊っちゃん文学賞では、4000字以内が制限となっている。
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ショートショートは、小説の中でも特に短い作品のこと。日本で「ショートショート」の語が定着する以前は「超短編小説」などと呼ばれていた。 定義は諸説あり、短編小説や掌編小説、ショートストーリーとは異なる独自のジャンルとされることもあるが、それらと区別しない場合もある。ジャンルは、SF・ミステリー・ユーモア小説など様々である。アイデアの面白さを追求し、印象的な結末を持たせる傾向がある。 ショートショート小説は他のジャンルへも影響を及ぼし、漫画におけるショートショート作品集や、映画におけるショートショートフィルムなども誕生した。
'''ショートショート'''({{lang-en-short|short short story}})は、[[小説]]の中でも特に短い作品のこと。<!--{{要出典範囲|簡易的に「短くて不思議な」小説とされることもある。|date=2022-02}}-->[[日本]]で「ショートショート」の語が定着する以前は「超短編小説」などと呼ばれていた<ref>{{Harvid|シャパード|トーマス|1994a}}</ref><ref>{{Harvid|シャパード|トーマス|1994b}}</ref>。 [[定義]]は諸説あり、[[短編小説]]や[[掌編小説]]、ショートストーリーとは異なる独自のジャンルとされることもあるが、それらと区別しない場合もある。ジャンルは、[[サイエンス・フィクション|SF]]<ref>{{Harvnb|アシモフほか|1981}}</ref>・[[推理小説|ミステリー]]<ref>{{Harvnb|アシモフほか|1983}}、{{Harvnb|クイーン|1975}}</ref>・[[ユーモア]]小説など様々である。アイデアの面白さを追求し、印象的な結末を持たせる傾向がある。 ショートショート小説は他の[[ジャンル]]へも影響を及ぼし、[[漫画]]におけるショートショート作品集や、[[映画]]におけるショートショートフィルムなども誕生した。 == 成立 == ショートショートは、[[1920年代]]中頃に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の雑誌『[[コスモポリタン (雑誌)|コスモポリタン]]』で考え出された形式である。コスモポリタン誌は、上質紙のカラーページが雑誌前半にあり、ここに小説の冒頭を載せ、小説の途中で「○○ページにつづく」として雑誌後半へ誘導していた。読者は途中で読むのを中断される上に紙質の悪いページに移動しなければならないので、あまり好ましい掲載方法ではなかった。そこで編集長は途中で中断せずに済むような短い小説を載せることを考えた。[[サマセット・モーム]]に執筆を依頼し短い作品を連載したところ評判になった(モームの連載作品は『コスモポリタンズ』という短編集になっている<ref>{{Harvnb|Maugham|1958}}、{{Harvnb|モーム|1994}}</ref>。)。その他の雑誌、新聞もこれを真似するようになり、短編より短い形式が広まった。はじめは「ショートショート・ストーリー({{Lang-en-short|short short story}})」と呼ばれていたが、次第にショートショート({{Lang-en-short|short-short}})と呼ばれるようになった。[[フレドリック・ブラウン]]がこの形式を得意とした。 [[日本]]では、[[都筑道夫]]が「ショートショート」という言葉を紹介し、1001編以上のショートショートを発表した[[星新一]]<ref>{{Harvnb|星|1998}}</ref>によってショートショート形式が一般に広められた。その後に[[江坂遊]]らへ受け継がれた。現在は[[田丸雅智]]などが<!--{{要出典範囲|現代ショートショートの第一人者として|date=2022-02}}-->活動している。{{要出典範囲|また、日本に紹介された当初は「'''ショート・ショート'''」と[[中黒]]「・」を付して表記していたが、のちに「ショートショート」の表記が一般化した。|date=2022-02}} 近年のアメリカでは、「フラッシュフィクション({{Lang-en-short|Flash fiction}})」<ref>{{Harvnb|Thomas|Thomas|Hazuka|1992}}、{{Harvnb|Thomas|Shapard|2006}}</ref>・「サドンフィクション({{Lang-en-short|Sudden fiction}})」<ref>{{Harvnb|シャパード|トーマス|1994a}}、{{Harvnb|シャパード|トーマス|1994b}}</ref>といった新しい名称が提唱され、様々な作風が模索され、活発な執筆・出版活動がされている。 == 定義 == 様々な[[作家]]・[[評論家]]らが論じているが、定まったものは存在しない。[[厚木淳]]は「日本の文庫本で1ページから数ページで収まる長さの」短編小説であり、「新鮮なアイデア、完全なプロット、意外な結末」の三原則が盛り込まれたものと定義している<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ショート・ショート|title=ショート・ショート(しょーとしょーと)とは|publisher=[[コトバンク]]|author=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2019-09-29|language=ja|ref={{SfnRef|kotobank-ショート・ショート}}}}</ref>。 近年では[[田丸雅智]]が、「短くて不思議な物語」という定義を複数の公募賞の要項や小学校の国語科教科書で提示している。「もっと詳しく言うと『アイデアがあり、印象的な結末のある物語』とも」と付言される場合もあるが、初心者向けの講座やワークシートでは「不思議な言葉から想像を広げる」というステップを推奨しており、事実上、ファンタジックな設定を中核とすることが要件となっている{{efn|「ショートショート大賞」公式サイトによる<ref name="第3回ショートショート大賞">{{Cite web|和書|url=http://shortshortawards.com/|title=第3回 ショートショート大賞|publisher=「ショートショート大賞」事務局|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180202002400/https://shortshortawards.com/|archivedate=2018-02-02|accessdate=2019-09-29}}</ref>。}} <ref>{{Cite web|和書|url=http://kinobooks.jp/lp/shortshort/|title=たった40分で誰でも必ず小説が書ける 超ショートショート講座 - KINOBOOKS(キノブックス)|accessdate=2022-09-23}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/2020shou/kokugo/pdf/kokugo2_newstyle.pdf|title=教育出版『ひろがる言葉 小学国語』|accessdate=2022-10-04}}</ref> <ref name=bo>{{Cite web|和書|url=https://bocchan-shortshort-matsuyama.jp/|title=坊っちゃん文学賞 – ショートショート募集|accessdate=2022-09-23}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ehime-np.co.jp/online/information/short_short/index.html|title=超ショートショート アイデアと作品募集 _ 愛媛新聞ONLINE.html|accessdate=2022-10-04}}</ref>。 == 長さ == ショートショートの長さに明確な規定はないが、ショートショート集を編纂するときや、コンテストで作品を募集するときには長さが決められることがある。雑誌『小説現代』のコンテストでは400字詰め原稿用紙7枚まで、雑誌『[[SFマガジン]]』の読者投稿コーナーでは400字詰め原稿用紙5枚程度としている。都筑道夫と星新一とがショートショートのアンソロジーを編纂したときには400字詰め原稿用紙20枚までとした。[[エラリー・クイーン]]が編纂した『ミニ・ミステリ傑作選』に収録されたすべての作品は2,000語以下である<ref>{{Harvnb|クイーン|1975}}{{要ページ番号|date=2019年9月}}</ref>。ショートショート大賞では、第1回目が原稿用紙20枚以下<ref name="第1回ショートショート大賞">{{Cite web|和書|url=http://shortshortawards.com/|title=人間なんてみんなキテレツ。ショートショート大賞始まる。|publisher=「ショートショート大賞」事務局|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208153953/https://shortshortawards.com/|archivedate=2015-12-08|accessdate=2019-09-29}}</ref>、第2回目と第3回目が原稿用紙15枚以下で募集した<ref name="第2回ショートショート大賞">{{Cite web|和書|url=http://shortshortawards.com/|title=第2回 ショートショート大賞|publisher=「ショートショート大賞」事務局|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170525134735/http://shortshortawards.com/|archivedate=2017-05-25|accessdate=2019-09-29}}</ref><ref name="第3回ショートショート大賞" />。2020年よりショートショートの賞となった坊っちゃん文学賞では、4000字以内が制限となっている<ref name=bo/>。 == 著名な作家 == === 日本 === <!-- 項目の50音順 --> *[[阿刀田高]] *[[新井素子]] *[[稲垣足穂]] - デビュー作『[[一千一秒物語]]』は、一編が数行の作品もある超ショートショート集である。 *[[井上雅彦]] *[[江坂遊]]<!--{{要出典範囲|(星新一の後継者とされる)|date=2022-01}}--> *[[太田忠司]] *[[大西赤人]] *[[梶尾真治]] *[[川端康成]] *[[倉多江美]] - 漫画におけるショートショート作品『一万十秒物語』がある。タイトルは『一千一秒物語』のもじり。 *[[小松左京]] *[[城昌幸]] *[[高井信]] *[[太宰治]] *[[田丸雅智]]<!--{{要出典範囲|(新世代ショートショートの第一人者とされる)|date=2022-01}}--> *[[筒井康隆]] *[[都筑道夫]] *[[豊田有恒]] *[[星新一]] *[[眉村卓]] *[[岬兄悟]] *[[三橋一夫 (作家)|三橋一夫]] *[[山川方夫]] *[[山口タオ]] *[[夢野久作]] *[[横田順彌]] *[[吉高寿男]] === アメリカ合衆国 === <!-- 姓のアルファベット順 --> *[[アイザック・アシモフ]] *[[オー・ヘンリー]] *[[フレドリック・ブラウン]] *[[ヘンリー・スレッサー]] *[[レイ・ブラッドベリ]] *[[ロバート・シェクリイ]] *[[R・A・ラファティ]] {{Div col end}} === 英国 === *[[サキ (小説家)|サキ]] *[[サマセット・モーム]] *[[ロアルド・ダール]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |editor=アイザック・アシモフ 他|editor-link=アイザック・アシモフ |translator=[[浅倉久志]] 他 |date=1981-07 |title=三分間の宇宙 世界のSF作家からのおくりもの100 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-06-113312-9 |ref={{Harvid|アシモフほか|1981}}}} *{{Cite book|和書 |editor=アイザック・アシモフ 他 |translator=山本俊子 |date=1983-07 |title=ミニ・ミステリ100 |volume=(上)|series=ハヤカワ・ミステリ文庫 HM 89ー1 |publisher=[[早川書房]] |isbn=978-4-15-074601-8 |ref={{Harvid|アシモフほか|1983}}}} - 巻末の解説で、ショートショートの成り立ちが紹介されている。 *{{Cite book|和書 |editor=エラリー・クイーン|editor-link=エラリー・クイーン |translator=[[永井淳]] ほか |date=1975-10 |title=ミニ・ミステリ傑作選 |series=創元推理文庫 104ー24 |publisher=[[東京創元社]] |isbn=978-4-488-10424-5 |ref={{Harvid|クイーン|1975}}}} *{{Cite book|和書 |editor=ロバート・シャパード、ジェームズ・トーマス |translator=[[村上春樹]]・[[小川高義]] |date=1994-01 |title=Sudden fiction 超短編小説70 |series=[[文春文庫]] |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4-16-725402-5 |ref={{Harvid|シャパード|トーマス|1994a}}}} *{{Cite book|和書 |editor=ロバート・シャパード、ジェームズ・トーマス |translator=[[柴田元幸]] |date=1994-10 |title=Sudden fiction 超短編小説・世界篇 2 |series=文春文庫 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-730941-1 |ref={{Harvid|シャパード|トーマス|1994b}}}} *{{Cite book|和書 |author=高井信|authorlink=高井信 |date=2005-09 |title=ショートショートの世界 |series=集英社新書 0308 |publisher=[[集英社]] |isbn=978-4-08-720308-0 |ref={{Harvid|高井|2005}}}} *{{Cite book|和書 |author=星新一|authorlink=星新一 |date=1998-12 |title=星新一ショートショート1001 全3冊セット |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-319426-2 |ref={{Harvid|星|1998}}}} - 文庫本39冊にわたる短編1042編を全て収録。 *{{Cite book|和書 |author=W.S.Maugham|authorlink=サマセット・モーム |others=[[岩崎良三]] 訳註 |date=1958-06 |title=コスモポリタンズ |series=英米作家対訳双書 827 |publisher=金星堂 |isbn=978-4-7647-0827-3 |ref={{Harvid|Maugham|1958}}}} **{{Cite book|和書 |author=サマセット・モーム |translator=[[龍口直太郎]] |date=1994-12 |title=コスモポリタンズ |series=ちくま文庫 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4-480-03002-3 |ref={{Harvid|モーム|1994}}}} *{{Citation |editor-last=Thomas |editor-first=James |editor2-last=Thomas |editor2-first=Denise |editor3-last=Hazuka |editor3-first=Tom |date=1992-07-17 |title=Flash Fiction: 72 Very Short Stories |publisher=W. W. Norton & Company |edition=Paperback |isbn=978-0-393-30883-9 }} - 750語以下の長さから成る72の超短編小説集。 *{{Citation |editor-last=Thomas |editor-first=James |editor2-last=Shapard |editor2-first=Robert |date=2006-08-17 |title=Flash Fiction Forward: 80 Very Short Stories |publisher=W. W. Norton & Company |edition=Paperback |isbn=978-0-393-32802-8 }} - 750語以下の長さから成る80の超短編小説集。 == 関連項目 == * [[ショートショートの広場]] - [[講談社]]から発行されるショートショート集。 * [[ショートショートフィルムフェスティバル]] - 25分以内の映画作品だけを取り上げる[[映画祭]]。 * [[掌編小説]] / [[短編小説]] * [[ショートショートショー~世界一短い動画祭~]] == 外部リンク == *{{Kotobank|ショートショート}} *{{Kotobank|ショート・ショート|2=[[厚木淳]]}} {{Narrative}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよおとしよおと}} [[Category:短編小説|*しよおとしよおと]] [[Category:小説のジャンル]]
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岳物語
『岳物語』(がくものがたり)は、椎名誠による日本の私小説。1985年、集英社刊。続編『続 岳物語』は1986年、同社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、保育園から小学校6年間を経て中学校入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり、代表作の1つと評価される。本項目では、正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』(1998年)についても併せて解説する。 1985年5月、集英社刊行。「きんもくせい」「アゲハチョウ」「インドのラッパ」「タンポポ」「ムロアジ大作戦」「鷲と豚」「三十年」「ハゼ釣り」「二日間のプレゼント」の9編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年9月刊行、文庫版解説は斎藤茂太。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。また英語版も刊行されており、『Gaku Stories』(1991年、講談社英語文庫)『My boy』(1992年、講談社インターナショナル)の2タイトルが存在する。 各短編は集英社『青春と読書』1983年11月号 - 1985年4月号に掲載。最初から『岳物語』としての連載だったわけではなく、椎名が同誌に毎号30枚の短編小説を書くという企画に対して、初回に息子の岳を主人公にした初の私小説「きんもくせい」を発表したところ、編集者の好評を得て、岳と家族をテーマとした私小説としてシリーズ化されたものである。『岳物語』のタイトルは9つの短編をまとめて単行本化する際に付されたものであり、表題作は存在しない。 本作の主人公である椎名の長男・岳は1973年7月生まれ、椎名が29歳の時の子である。当時の椎名は流通・小売系の出版社デパートニューズ社(後のストアーズ社)に編集者として勤務していた。同社在籍中には処女出版となる『クレジットとキャッシュレス社会』(1979年、教育社)ほか、複数の流通・小売系の専門書を上梓している。サラリーマン生活の一方、1976年には目黒考二らと『本の雑誌』の刊行を開始し、キャンピング集団「東ケト会」の企画など、後の作家生活の下地となる活動を展開しつつあった。1979年、『本の雑誌』誌上に掲載した『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)が初のエッセイ集として単行本化。1980年3月には東ケト会の活動を描いた第2集エッセイ『わしらは怪しい探検隊』(北宋社)を発表し、後にシリーズ化される。同年12月には椎名はストアーズ社を退職し、フリーの作家生活に入った。 岳が生まれ育った時期はこのように、椎名が「サラリーマンから転がるようにモノカキに転身」し、「三十代の新米親父と作家デビューの時代が重なって」いたと語る、家族生活においても仕事上でも大きな転換期であった。そうした折に連載小説の題材に困り、いたずら盛りの息子の行動をそのまま文章にしていれば作品が出来上がると考えて、家族の風景を書き始めたのが作品誕生の契機であった。 なお、岳の姉で椎名の長女である渡辺葉は、本作中には全く登場しない。これに関して椎名は、「きんもくせい」「アゲハチョウ」と1・2作目に姉を登場させる機会がなかったうちに家族テーマの連載の運びとなり、突然姉を登場させづらくなってしまったという理由と、父が家族を題材に小説を書くと知った葉が早くから「自分のことを書いたらだめだからね」と言っていたという理由を挙げている。 1986年7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は野田知佑。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。 各短編は『青春と読書』1985年5月号 - 1986年6月号に掲載。岳のエピソードは小学校高学年の出来事が中心となり、親への反抗と自立、父から離れて対等な一人の男へと成長していく過程が描かれ、中学校入学祝いの餃子パーティーと入学式の日を描いた「出発」で物語は幕を閉じる。 1998年8月、集英社刊行。『岳物語』『続 岳物語』の2冊を再編して1冊にまとめた書籍。再編に当たって、家族に余り関係のないエピソードであった「インドのラッパ」「冬の椿」の2編が削除され、全編に亘って椎名が改稿を行っている。また、作品のモデルとなった渡辺岳自身が、初めて自分の目から見た家族生活や、父の小説のモデルとされた事、「作家の息子」に対する周囲の反応などへの所感を綴ったエッセイ「「岳物語」と僕」を寄せている。 東京都小平市に家を構えるよろず雑文書きの「私」と、保育園に勤める妻との間に生まれた息子は、両親の登山好きから「岳」と名付けられた。岳は保育園児の頃から、好奇心から友達と近所のサツマイモ畑を根こそぎ掘ってしまうなど、何かと事件を巻き起こす。読み書き英会話と就学前から教育にかまびすしい地域の中で、私たち夫婦はあえて習い事の類を一切させずに岳を小学校に入学させた。岳は自由闊達に育ち、小学4年生にしてバレンタインデーに3人の同級生からチョコレートをもらう程の人気者となった。一方、学校の勉強はからきしで、上級生にもケンカで挑みかかり、乱暴者の問題児と教師たちから煙たがられて私や妻が学校に呼び出されることもしばしばであった。 4年生の時、私の友人である野田さんの家がある亀山湖に初めて連れていかれた岳は、そこで釣りを教わって以来、それまで見せたこともない集中力で釣りにのめり込んでいく。私が冗談で「多摩川でナマズを釣ってきてくれよ」と声をかけた時には、自分で仕掛けを調べ本当にナマズを釣ってきて私を驚かせた。5年生の夏休み、岳は両親から離れ野田さんと釧路川のカヌー下りに出発した。岳の不在の間、私は朧げな自身の少年時代の記憶を思い出していた。世田谷の家を引き払って各地を転々とし、異母兄弟が何人もいた子供心にも訳ありと分かる家庭。私が鉄棒から落ちて頭を縫うケガを負っても駆けつけず、そして小学6年の時に死んだ父。釧路川から帰って来た岳の伸びた髪を風呂場で散髪しながら、私は父が死んで30年になること、その30年とはそのまま私と岳との歳の隔たりでもあることを考えていた。 岳が5年生の冬。昨年に引き続き取材旅行のため正月に家を空けてしまうことになった私は、スケジュールの合間を縫って、岳に東伊豆の稲取への一泊二日の釣り旅行をプレゼントする。旅先の岳は、釣具店の店主と私にはまるで分からない専門的な語で仕掛けや餌の話をし、見たこともない道具を使って見事にカサゴを釣り上げ、彼が私の知らない世界へと突き進んでいることを感じさせた。それから1か月。私は酷寒のイルクーツクから、久しぶりに家に電話をかけた。雑音混じりの途切れがちな回線の中で、岳から鴨川に釣りに出かけて海に転落した話を聞き、私は激しく動揺して問いただすものの、私の慌てぶりとは裏腹に岳の声はのんびりとしたものだった。やがて回線の不調で無情にも電話が切れてしまい、諦めて受話器をおいた私はため息をひとつつき、一人くつくつと笑うのだった。 2か月間のシベリアの旅から帰国しぼんやりした気分の中、パーティーに出席した私は友人の沢野ひとしから、「椎名は少し息子に構いすぎだ、子どもはやがて必ず親からきっぱりと離れていくのだから、いつまでも子どもと気持ちをぴったり通わせようとしているとショックが大きい」と冗談とも忠告ともつかない言葉をかけられる。その通り、6年生になる岳は釣りやカヌーの腕前で完全に私を凌駕し、小学校からの帰宅後には小食として自分でラーメンなどを調理し、トレパンの破れも自分で繕うようになっていた。そして、毎夜シーナ家の客間で繰り広げられる、プロレスごっこと呼ぶには余りに激しい「男の闘い」においても、ついに岳は肩車のような技で私を宙に浮かせ、投げ飛ばしてみせるまでに成長していた。 この前後から、岳の親離れの兆候は様々な場面で表れるようになった。小6の最後の運動会を岳に黙って見に行った両親に対して怒り、夏休みに私や野田さんらと共に川下りに行った十勝川では、私よりも同級生のトッタン・ミッタン兄弟と行動を共にし、保育園児の頃からの習慣だった自宅の風呂場での散髪も断るようになった。そして、数か月に一度のペースで雑多に散らかった自室の古い雑誌や低学年のころのおもちゃを突如として大量に処分するのだった。私はこの片づけを“子供の脱皮”のようなものと考えていた。 岳の小学生最後の冬は、私にとって辛い出来事が続いた。シベリア横断旅行のリーダーだった星見利夫さんが壮絶な闘病の末に癌で亡くなり、私は小さな骨になってしまった父親を前に涙をぼろぼろとこぼす小6の娘さんの姿に耐えられず、ついに星見さんの骨を拾って骨壺に納めてやれなかった。高校時代の友人で東京オリンピックのボクシング代表にまでなった吉野の失踪と殺害の噂、そして義母の脳血栓。重苦しい日々の中で、私は小6で自分の父が病死したとき、父の骨を見たのだろうかと思い出そうとしたが、葬儀の前後のことは思い出せても、肝心なことは何も記憶していなかった。岳を中学校の制服の採寸に洋品店に連れていった日、着慣れない詰襟を羽織る岳を眺めながら、父も私が中学校の制服を着るのを見届けたかっただろうか、という考えがふと頭をよぎるのだった。 小学生最後の春休み、岳はトッタン・ミッタンら6人の友人と亀山湖で一週間の魚釣り合宿を計画した。私には絶対について来るなと言い、野田さんの手すら借りずに、彼らは全て自分たちでその合宿をやり遂げてみせた。中学校入学直前、野田さん達を自宅に招いての餃子パーティーがあり、桜の花が舞う中で岳の入学式の日を迎えた。少年岳と私のひとつの優しい時代が終わり、これからの彼が自分の世界を歩んでいくことを私は感じていた。 『続 岳物語』中の一編「ヨコチンの謎」の一部は、「風呂場の散髪」(「ふろ場の散髪」)の題名で、学校図書刊行の中学1年生国語科用文部科学省検定済教科書に採用された。保育園児の頃から約8年間、岳の髪が伸びたタイミングを見計らって父の椎名が声をかけ、自宅の風呂場でバリカンを使って岳の散髪を行っていた習慣に、大きな変化が訪れた際のエピソードを描いている。なお、教科書収録に当たっては原作から一部表現の変更や、場面の削除(散髪に素直に応じていた頃の岳が、髪を切られながらABCの歌の替え歌を歌う場面など)といった編集が行われている。椎名はこの替え歌の削除について、「子供が本当に生き生きしている様子を描写しようとしてもそういうのは大人の誰かが大人の良識のもとに消してしまうのである」「ある一時期子供が一番無邪気に笑いとばしているこの種のコトバのいったいどこがどうしていけないのだろうか」と批判した。 岳が日増しに大人びてきた小学6年生の7月。シベリアでの取材旅行を終えて帰宅した私は、すっかり岳の髪が伸びているのを見て散髪を提案するが、今まで素直に応じていた岳が「まだいいよ」とそれを断る。さらに夏休みに入るころになっても、なおも散髪に応じない岳に痺れを切らした私は、半ば強引に岳を風呂場に連れて行く。しかし、そこでも岳はシャツを脱ごうとせず、構わずバリカンを入れようとする父の手をつかみ、父の裁量で自分の髪を切られることの不合理を、上手く言葉で表現できないながらも涙を流して真剣に訴えた。父子の話し合いで、今後は風呂場での散髪をやめ、岳が自分のタイミングで床屋に行くことを決めた。その夜、私はこの出来事を妻に話し「だんだん反抗的になってきているよ」と嘆いたが、妻にそれは反抗ではなく岳が自立期にきているのだと諭され、そういうことなのかもしれないと納得するのだった。 ここでは、語り手である「私」とその家族、及び『岳物語』単行本冒頭で触れられる野田知佑のみを挙げる。椎名誠は妻の渡辺一枝との結婚に際して妻の姓に入り、本名は渡辺姓であるが、作中では主に「シーナ家」と表現される。先述の通り、渡辺家の長女で岳の姉である渡辺葉は、本作には登場しない。 本作は正・続の単行本・文庫版累計で260万部以上(2008年時点)のヒット作となった。父子の交流と少年の成長の物語として、上述した「風呂場の散髪」のほかにも複数回学校教科書に取り上げられ、国語科の受験問題や模擬試験の題材としてもよく使用されている。 作者の椎名誠自身は、本作が子育てや教育の物語と捉えられたことは思わぬ評価であり、自分としては岳・自分・野田さん・ガクや、その周囲の人々による友情物語のつもりであったと語っている。椎名は雑誌連載当初、本作が単行本になることを想定していなかったために、軽く考えて主人公の名を本名のまま「岳」とした。ところが、実際には2年足らずで単行本化された上に続編まで執筆するベストセラーとなり、このことで息子の岳に対しては「書かれた当人には数々の迷惑を与えた」「作家を親にもつと子供はたまったものではない、そんなことを私もしてしまった」と述懐している。『岳物語』中の一編「二日間のプレゼント」は自身の小説で最も好きな作品と語っており(2002年時点)、また『岳物語』が3度目の教科書掲載で高校1年国語科教科書に採用された際、好きな作家である宮沢賢治の隣に並んで載ったことは、作家としての勲章であると振り返っている。 父の椎名によれば、中学生時代の岳は本作に対して猛烈に怒ったという。『定本 岳物語』(1998年)の刊行に際して、当時アメリカで写真学を修めていた20代半ばの渡辺岳本人はエッセイ「「岳物語」と僕」を寄稿し、初めて自らの筆で所感を表明している。この中で渡辺は、本作の発表以後、事あるごとに「『岳物語』の岳」として他人に先入観を持って接されたこと、周囲の反応から想像される主人公の「元気はつらつの岳少年」と現実の自分自身との乖離、ある者は「親の七光」と冷たく当たりまたある者は過剰に優しく接してくる大人達の態度、そうしたものに窮屈さを感じ続け、『岳物語』を未だに読むことができていないと明かしている。父を尊敬し、また感謝もしているが、それでも『岳物語』を愛することは出来ないと語り、結びでは「本当の『岳物語』というものは、僕の心の奥深くにあり、今でもしっかりと続いているのです」と綴っている。渡辺の心境に変化が訪れたのはその後彼が結婚し家庭を持った時で、作家の父が息子を題材として書くのも当然と思うようになった、と手紙で椎名に伝えたという。 野田知佑は『岳物語』単行本冒頭に本作を野田に捧げる旨の一文が添えられ、岳も「もう一人の父親のようでもあり、新しい遊びを次々に教えてくれる親友のようでもありました」と慕う、誠・岳父子と本作にとって重要な人物である。野田は『続 岳物語』の文庫版解説において、敢えて作品の文学的評価を一切行わず、本作に描かれた頃の野田から見た岳の姿や、『続 岳物語』完結後の岳の成長や野田との交流を語ることに紙幅を割くことで解説に代えている。この中で野田は、高校生の頃のよく鍛え上げられた岳の肉体を見て、これは椎名が文字通り血と汗を流して作り上げたもの、と父を讃え、逞しく成長した岳に対しても「彼をボディ・ガードにして北極圏の川に行きたいものだ」「本の『岳物語』はこれで終るが、われわれの『岳物語』はこれからいよいよ面白くなる」と、彼の将来に期待を寄せている。 目黒考二にとって椎名は、『本の雑誌』の編集作業や東ケト会の活動などを共にする「仲間うち」の存在であり、そのために普段は敢えて椎名の著書について評することを避けていた。しかし本作については『本の雑誌』連載の読書ガイド「新刊めったくたガイド」(北上次郎名義)の中で「一度だけ禁を破る」として『岳物語』を紹介するほど気に入っている。この読書ガイドの中で目黒は『岳物語』について、親子の交流の背後に椎名自身の父親の姿をだぶらせている点、そして作品の底流に流れる、たとえ親子でも人生のある一時期しか濃密な関係を持ち得ないという哀しみを作品の魅力として挙げ、「若い父親諸君はぜひ読んでほしい」と評している。後年の椎名へのインタビューの中では、『続 岳物語』はさらに良いと評し、『岳物語』『続 岳物語』の文庫化に際して、気に入った作品なのでぜひ解説を書かせて欲しいと椎名に頼んでいたにもかかわらず、すっかり忘れられていたというエピソードを明かしている。目黒は本作が広く読者を獲得した要因について、作中の父親(椎名)は決して立派な教育者ではなく、息子に対して横暴ですぐ怒り、それを妻や友人に窘められて反省する、そうしたどこにでもいるような父親の姿に、読者が自己を投影し共感を得られたからだと分析している。また、『定本 岳物語』に収められた渡辺岳本人によるエッセイに関しても、モデルとして書かれたことの戸惑いを実に正直に書いていて素晴らしい、と評している。 (集英社『すばる』2007年3月号 - 2008年10月号連載「いいかげんな青い空」改題) 『岳物語』正・続2冊は商業的にも大きな成功を収め、読者や椎名の友人知人から「ぜひ続編が読みたい」「面白くなるのはこれから(中学生以降)だ」といった声が多数寄せられたが、先に記した通り中学生になった岳本人の怒り、そして彼が実生活で受けた様々な迷惑に直面した椎名は、続編を書くことを止めた。岳は高校卒業後、短期間プロボクサーとして活動したのちアメリカ合衆国に渡った。サンフランシスコの大学で写真学を修めて写真関係の仕事に就き、同地で日本人女性と結婚し、一男一女の家族となった。 そうした折に、椎名が長年の『本の雑誌』編集の相棒であった目黒考二から、祖父と孫の小説を書いてはどうかと提案を受けて執筆されたのが『大きな約束』『続 大きな約束』(集英社、2009年)である。椎名は同作中で『岳物語』所収作と同じ「アゲハチョウ」と題した短編を執筆し、その中で上述のような『岳物語』第3部を執筆しなかった事情や、その後の岳の略歴について説明した。そして、第3子の出産を日本で行うために岳夫妻と2人の孫が日本にやって来るところで『続 大きな約束』は幕を閉じる。 岳一家は第3子となる次男の誕生後、東日本大震災の影響もあってそのまま日本に定住することを決め、椎名は3人の孫との関係を描いた私小説の執筆を本格的に開始した(『三匹のかいじゅう』『孫物語』『家族のあしあと』など)。それらの作品群の中では息子の本名を基本的に使わず、「彼ら(孫たち)の父親」と表現している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『岳物語』(がくものがたり)は、椎名誠による日本の私小説。1985年、集英社刊。続編『続 岳物語』は1986年、同社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、保育園から小学校6年間を経て中学校入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり、代表作の1つと評価される。本項目では、正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』(1998年)についても併せて解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1985年5月、集英社刊行。「きんもくせい」「アゲハチョウ」「インドのラッパ」「タンポポ」「ムロアジ大作戦」「鷲と豚」「三十年」「ハゼ釣り」「二日間のプレゼント」の9編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年9月刊行、文庫版解説は斎藤茂太。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。また英語版も刊行されており、『Gaku Stories』(1991年、講談社英語文庫)『My boy』(1992年、講談社インターナショナル)の2タイトルが存在する。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "各短編は集英社『青春と読書』1983年11月号 - 1985年4月号に掲載。最初から『岳物語』としての連載だったわけではなく、椎名が同誌に毎号30枚の短編小説を書くという企画に対して、初回に息子の岳を主人公にした初の私小説「きんもくせい」を発表したところ、編集者の好評を得て、岳と家族をテーマとした私小説としてシリーズ化されたものである。『岳物語』のタイトルは9つの短編をまとめて単行本化する際に付されたものであり、表題作は存在しない。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本作の主人公である椎名の長男・岳は1973年7月生まれ、椎名が29歳の時の子である。当時の椎名は流通・小売系の出版社デパートニューズ社(後のストアーズ社)に編集者として勤務していた。同社在籍中には処女出版となる『クレジットとキャッシュレス社会』(1979年、教育社)ほか、複数の流通・小売系の専門書を上梓している。サラリーマン生活の一方、1976年には目黒考二らと『本の雑誌』の刊行を開始し、キャンピング集団「東ケト会」の企画など、後の作家生活の下地となる活動を展開しつつあった。1979年、『本の雑誌』誌上に掲載した『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)が初のエッセイ集として単行本化。1980年3月には東ケト会の活動を描いた第2集エッセイ『わしらは怪しい探検隊』(北宋社)を発表し、後にシリーズ化される。同年12月には椎名はストアーズ社を退職し、フリーの作家生活に入った。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "岳が生まれ育った時期はこのように、椎名が「サラリーマンから転がるようにモノカキに転身」し、「三十代の新米親父と作家デビューの時代が重なって」いたと語る、家族生活においても仕事上でも大きな転換期であった。そうした折に連載小説の題材に困り、いたずら盛りの息子の行動をそのまま文章にしていれば作品が出来上がると考えて、家族の風景を書き始めたのが作品誕生の契機であった。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、岳の姉で椎名の長女である渡辺葉は、本作中には全く登場しない。これに関して椎名は、「きんもくせい」「アゲハチョウ」と1・2作目に姉を登場させる機会がなかったうちに家族テーマの連載の運びとなり、突然姉を登場させづらくなってしまったという理由と、父が家族を題材に小説を書くと知った葉が早くから「自分のことを書いたらだめだからね」と言っていたという理由を挙げている。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1986年7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は野田知佑。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各短編は『青春と読書』1985年5月号 - 1986年6月号に掲載。岳のエピソードは小学校高学年の出来事が中心となり、親への反抗と自立、父から離れて対等な一人の男へと成長していく過程が描かれ、中学校入学祝いの餃子パーティーと入学式の日を描いた「出発」で物語は幕を閉じる。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1998年8月、集英社刊行。『岳物語』『続 岳物語』の2冊を再編して1冊にまとめた書籍。再編に当たって、家族に余り関係のないエピソードであった「インドのラッパ」「冬の椿」の2編が削除され、全編に亘って椎名が改稿を行っている。また、作品のモデルとなった渡辺岳自身が、初めて自分の目から見た家族生活や、父の小説のモデルとされた事、「作家の息子」に対する周囲の反応などへの所感を綴ったエッセイ「「岳物語」と僕」を寄せている。", "title": "作品概要・執筆背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "東京都小平市に家を構えるよろず雑文書きの「私」と、保育園に勤める妻との間に生まれた息子は、両親の登山好きから「岳」と名付けられた。岳は保育園児の頃から、好奇心から友達と近所のサツマイモ畑を根こそぎ掘ってしまうなど、何かと事件を巻き起こす。読み書き英会話と就学前から教育にかまびすしい地域の中で、私たち夫婦はあえて習い事の類を一切させずに岳を小学校に入学させた。岳は自由闊達に育ち、小学4年生にしてバレンタインデーに3人の同級生からチョコレートをもらう程の人気者となった。一方、学校の勉強はからきしで、上級生にもケンカで挑みかかり、乱暴者の問題児と教師たちから煙たがられて私や妻が学校に呼び出されることもしばしばであった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "4年生の時、私の友人である野田さんの家がある亀山湖に初めて連れていかれた岳は、そこで釣りを教わって以来、それまで見せたこともない集中力で釣りにのめり込んでいく。私が冗談で「多摩川でナマズを釣ってきてくれよ」と声をかけた時には、自分で仕掛けを調べ本当にナマズを釣ってきて私を驚かせた。5年生の夏休み、岳は両親から離れ野田さんと釧路川のカヌー下りに出発した。岳の不在の間、私は朧げな自身の少年時代の記憶を思い出していた。世田谷の家を引き払って各地を転々とし、異母兄弟が何人もいた子供心にも訳ありと分かる家庭。私が鉄棒から落ちて頭を縫うケガを負っても駆けつけず、そして小学6年の時に死んだ父。釧路川から帰って来た岳の伸びた髪を風呂場で散髪しながら、私は父が死んで30年になること、その30年とはそのまま私と岳との歳の隔たりでもあることを考えていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "岳が5年生の冬。昨年に引き続き取材旅行のため正月に家を空けてしまうことになった私は、スケジュールの合間を縫って、岳に東伊豆の稲取への一泊二日の釣り旅行をプレゼントする。旅先の岳は、釣具店の店主と私にはまるで分からない専門的な語で仕掛けや餌の話をし、見たこともない道具を使って見事にカサゴを釣り上げ、彼が私の知らない世界へと突き進んでいることを感じさせた。それから1か月。私は酷寒のイルクーツクから、久しぶりに家に電話をかけた。雑音混じりの途切れがちな回線の中で、岳から鴨川に釣りに出かけて海に転落した話を聞き、私は激しく動揺して問いただすものの、私の慌てぶりとは裏腹に岳の声はのんびりとしたものだった。やがて回線の不調で無情にも電話が切れてしまい、諦めて受話器をおいた私はため息をひとつつき、一人くつくつと笑うのだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2か月間のシベリアの旅から帰国しぼんやりした気分の中、パーティーに出席した私は友人の沢野ひとしから、「椎名は少し息子に構いすぎだ、子どもはやがて必ず親からきっぱりと離れていくのだから、いつまでも子どもと気持ちをぴったり通わせようとしているとショックが大きい」と冗談とも忠告ともつかない言葉をかけられる。その通り、6年生になる岳は釣りやカヌーの腕前で完全に私を凌駕し、小学校からの帰宅後には小食として自分でラーメンなどを調理し、トレパンの破れも自分で繕うようになっていた。そして、毎夜シーナ家の客間で繰り広げられる、プロレスごっこと呼ぶには余りに激しい「男の闘い」においても、ついに岳は肩車のような技で私を宙に浮かせ、投げ飛ばしてみせるまでに成長していた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この前後から、岳の親離れの兆候は様々な場面で表れるようになった。小6の最後の運動会を岳に黙って見に行った両親に対して怒り、夏休みに私や野田さんらと共に川下りに行った十勝川では、私よりも同級生のトッタン・ミッタン兄弟と行動を共にし、保育園児の頃からの習慣だった自宅の風呂場での散髪も断るようになった。そして、数か月に一度のペースで雑多に散らかった自室の古い雑誌や低学年のころのおもちゃを突如として大量に処分するのだった。私はこの片づけを“子供の脱皮”のようなものと考えていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "岳の小学生最後の冬は、私にとって辛い出来事が続いた。シベリア横断旅行のリーダーだった星見利夫さんが壮絶な闘病の末に癌で亡くなり、私は小さな骨になってしまった父親を前に涙をぼろぼろとこぼす小6の娘さんの姿に耐えられず、ついに星見さんの骨を拾って骨壺に納めてやれなかった。高校時代の友人で東京オリンピックのボクシング代表にまでなった吉野の失踪と殺害の噂、そして義母の脳血栓。重苦しい日々の中で、私は小6で自分の父が病死したとき、父の骨を見たのだろうかと思い出そうとしたが、葬儀の前後のことは思い出せても、肝心なことは何も記憶していなかった。岳を中学校の制服の採寸に洋品店に連れていった日、着慣れない詰襟を羽織る岳を眺めながら、父も私が中学校の制服を着るのを見届けたかっただろうか、という考えがふと頭をよぎるのだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "小学生最後の春休み、岳はトッタン・ミッタンら6人の友人と亀山湖で一週間の魚釣り合宿を計画した。私には絶対について来るなと言い、野田さんの手すら借りずに、彼らは全て自分たちでその合宿をやり遂げてみせた。中学校入学直前、野田さん達を自宅に招いての餃子パーティーがあり、桜の花が舞う中で岳の入学式の日を迎えた。少年岳と私のひとつの優しい時代が終わり、これからの彼が自分の世界を歩んでいくことを私は感じていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "『続 岳物語』中の一編「ヨコチンの謎」の一部は、「風呂場の散髪」(「ふろ場の散髪」)の題名で、学校図書刊行の中学1年生国語科用文部科学省検定済教科書に採用された。保育園児の頃から約8年間、岳の髪が伸びたタイミングを見計らって父の椎名が声をかけ、自宅の風呂場でバリカンを使って岳の散髪を行っていた習慣に、大きな変化が訪れた際のエピソードを描いている。なお、教科書収録に当たっては原作から一部表現の変更や、場面の削除(散髪に素直に応じていた頃の岳が、髪を切られながらABCの歌の替え歌を歌う場面など)といった編集が行われている。椎名はこの替え歌の削除について、「子供が本当に生き生きしている様子を描写しようとしてもそういうのは大人の誰かが大人の良識のもとに消してしまうのである」「ある一時期子供が一番無邪気に笑いとばしているこの種のコトバのいったいどこがどうしていけないのだろうか」と批判した。", "title": "風呂場の散髪" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "岳が日増しに大人びてきた小学6年生の7月。シベリアでの取材旅行を終えて帰宅した私は、すっかり岳の髪が伸びているのを見て散髪を提案するが、今まで素直に応じていた岳が「まだいいよ」とそれを断る。さらに夏休みに入るころになっても、なおも散髪に応じない岳に痺れを切らした私は、半ば強引に岳を風呂場に連れて行く。しかし、そこでも岳はシャツを脱ごうとせず、構わずバリカンを入れようとする父の手をつかみ、父の裁量で自分の髪を切られることの不合理を、上手く言葉で表現できないながらも涙を流して真剣に訴えた。父子の話し合いで、今後は風呂場での散髪をやめ、岳が自分のタイミングで床屋に行くことを決めた。その夜、私はこの出来事を妻に話し「だんだん反抗的になってきているよ」と嘆いたが、妻にそれは反抗ではなく岳が自立期にきているのだと諭され、そういうことなのかもしれないと納得するのだった。", "title": "風呂場の散髪" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ここでは、語り手である「私」とその家族、及び『岳物語』単行本冒頭で触れられる野田知佑のみを挙げる。椎名誠は妻の渡辺一枝との結婚に際して妻の姓に入り、本名は渡辺姓であるが、作中では主に「シーナ家」と表現される。先述の通り、渡辺家の長女で岳の姉である渡辺葉は、本作には登場しない。", "title": "主な登場人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "本作は正・続の単行本・文庫版累計で260万部以上(2008年時点)のヒット作となった。父子の交流と少年の成長の物語として、上述した「風呂場の散髪」のほかにも複数回学校教科書に取り上げられ、国語科の受験問題や模擬試験の題材としてもよく使用されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "作者の椎名誠自身は、本作が子育てや教育の物語と捉えられたことは思わぬ評価であり、自分としては岳・自分・野田さん・ガクや、その周囲の人々による友情物語のつもりであったと語っている。椎名は雑誌連載当初、本作が単行本になることを想定していなかったために、軽く考えて主人公の名を本名のまま「岳」とした。ところが、実際には2年足らずで単行本化された上に続編まで執筆するベストセラーとなり、このことで息子の岳に対しては「書かれた当人には数々の迷惑を与えた」「作家を親にもつと子供はたまったものではない、そんなことを私もしてしまった」と述懐している。『岳物語』中の一編「二日間のプレゼント」は自身の小説で最も好きな作品と語っており(2002年時点)、また『岳物語』が3度目の教科書掲載で高校1年国語科教科書に採用された際、好きな作家である宮沢賢治の隣に並んで載ったことは、作家としての勲章であると振り返っている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "父の椎名によれば、中学生時代の岳は本作に対して猛烈に怒ったという。『定本 岳物語』(1998年)の刊行に際して、当時アメリカで写真学を修めていた20代半ばの渡辺岳本人はエッセイ「「岳物語」と僕」を寄稿し、初めて自らの筆で所感を表明している。この中で渡辺は、本作の発表以後、事あるごとに「『岳物語』の岳」として他人に先入観を持って接されたこと、周囲の反応から想像される主人公の「元気はつらつの岳少年」と現実の自分自身との乖離、ある者は「親の七光」と冷たく当たりまたある者は過剰に優しく接してくる大人達の態度、そうしたものに窮屈さを感じ続け、『岳物語』を未だに読むことができていないと明かしている。父を尊敬し、また感謝もしているが、それでも『岳物語』を愛することは出来ないと語り、結びでは「本当の『岳物語』というものは、僕の心の奥深くにあり、今でもしっかりと続いているのです」と綴っている。渡辺の心境に変化が訪れたのはその後彼が結婚し家庭を持った時で、作家の父が息子を題材として書くのも当然と思うようになった、と手紙で椎名に伝えたという。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "野田知佑は『岳物語』単行本冒頭に本作を野田に捧げる旨の一文が添えられ、岳も「もう一人の父親のようでもあり、新しい遊びを次々に教えてくれる親友のようでもありました」と慕う、誠・岳父子と本作にとって重要な人物である。野田は『続 岳物語』の文庫版解説において、敢えて作品の文学的評価を一切行わず、本作に描かれた頃の野田から見た岳の姿や、『続 岳物語』完結後の岳の成長や野田との交流を語ることに紙幅を割くことで解説に代えている。この中で野田は、高校生の頃のよく鍛え上げられた岳の肉体を見て、これは椎名が文字通り血と汗を流して作り上げたもの、と父を讃え、逞しく成長した岳に対しても「彼をボディ・ガードにして北極圏の川に行きたいものだ」「本の『岳物語』はこれで終るが、われわれの『岳物語』はこれからいよいよ面白くなる」と、彼の将来に期待を寄せている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "目黒考二にとって椎名は、『本の雑誌』の編集作業や東ケト会の活動などを共にする「仲間うち」の存在であり、そのために普段は敢えて椎名の著書について評することを避けていた。しかし本作については『本の雑誌』連載の読書ガイド「新刊めったくたガイド」(北上次郎名義)の中で「一度だけ禁を破る」として『岳物語』を紹介するほど気に入っている。この読書ガイドの中で目黒は『岳物語』について、親子の交流の背後に椎名自身の父親の姿をだぶらせている点、そして作品の底流に流れる、たとえ親子でも人生のある一時期しか濃密な関係を持ち得ないという哀しみを作品の魅力として挙げ、「若い父親諸君はぜひ読んでほしい」と評している。後年の椎名へのインタビューの中では、『続 岳物語』はさらに良いと評し、『岳物語』『続 岳物語』の文庫化に際して、気に入った作品なのでぜひ解説を書かせて欲しいと椎名に頼んでいたにもかかわらず、すっかり忘れられていたというエピソードを明かしている。目黒は本作が広く読者を獲得した要因について、作中の父親(椎名)は決して立派な教育者ではなく、息子に対して横暴ですぐ怒り、それを妻や友人に窘められて反省する、そうしたどこにでもいるような父親の姿に、読者が自己を投影し共感を得られたからだと分析している。また、『定本 岳物語』に収められた渡辺岳本人によるエッセイに関しても、モデルとして書かれたことの戸惑いを実に正直に書いていて素晴らしい、と評している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(集英社『すばる』2007年3月号 - 2008年10月号連載「いいかげんな青い空」改題)", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『岳物語』正・続2冊は商業的にも大きな成功を収め、読者や椎名の友人知人から「ぜひ続編が読みたい」「面白くなるのはこれから(中学生以降)だ」といった声が多数寄せられたが、先に記した通り中学生になった岳本人の怒り、そして彼が実生活で受けた様々な迷惑に直面した椎名は、続編を書くことを止めた。岳は高校卒業後、短期間プロボクサーとして活動したのちアメリカ合衆国に渡った。サンフランシスコの大学で写真学を修めて写真関係の仕事に就き、同地で日本人女性と結婚し、一男一女の家族となった。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そうした折に、椎名が長年の『本の雑誌』編集の相棒であった目黒考二から、祖父と孫の小説を書いてはどうかと提案を受けて執筆されたのが『大きな約束』『続 大きな約束』(集英社、2009年)である。椎名は同作中で『岳物語』所収作と同じ「アゲハチョウ」と題した短編を執筆し、その中で上述のような『岳物語』第3部を執筆しなかった事情や、その後の岳の略歴について説明した。そして、第3子の出産を日本で行うために岳夫妻と2人の孫が日本にやって来るところで『続 大きな約束』は幕を閉じる。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "岳一家は第3子となる次男の誕生後、東日本大震災の影響もあってそのまま日本に定住することを決め、椎名は3人の孫との関係を描いた私小説の執筆を本格的に開始した(『三匹のかいじゅう』『孫物語』『家族のあしあと』など)。それらの作品群の中では息子の本名を基本的に使わず、「彼ら(孫たち)の父親」と表現している。", "title": "書誌情報" } ]
『岳物語』(がくものがたり)は、椎名誠による日本の私小説。1985年、集英社刊。続編『続 岳物語』は1986年、同社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、保育園から小学校6年間を経て中学校入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり、代表作の1つと評価される。本項目では、正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』(1998年)についても併せて解説する。
{{基礎情報 文学作品 | 題名 = 岳物語 | 画像 = | 画像サイズ = | キャプション = | 作者 = [[椎名誠]] | 国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | ジャンル = [[私小説]] | 発表形態 = 雑誌連載 | 初出 = 『[[青春と読書]]』<br />1983年11月号 - 1985年4月号 | 初出の出版元 = [[集英社]] | 収録 = | 刊行 = | 刊行の出版元 = 1985年5月20日、[[集英社]]<br />1989年9月25日、[[集英社文庫]] | id = {{ISBN2|978-4-0877-2524-7}}<br />{{ISBN2|978-4-0874-9490-7}}(集英社文庫) | 受賞 = | 訳者 = | 前作 = | 次作 = 『続 岳物語』(1986年) }} {{基礎情報 文学作品 | 題名 = 続 岳物語 | 画像 = | 画像サイズ = | キャプション = | 作者 = 椎名誠 | 国 = {{JPN}} | 言語 = 日本語 | ジャンル = 私小説 | 発表形態 = 雑誌連載 | 初出 = 『青春と読書』<br />1985年5月号 - 1986年6月号 | 初出の出版元 = 集英社 | 収録 = | 刊行 = | 刊行の出版元 = 1986年7月25日、集英社<br />1989年11月15日、集英社文庫 | id = {{ISBN2|978-4-0877-2569-8}}<br />{{ISBN2|978-4-0874-9507-2}}(集英社文庫) | 受賞 = | 訳者 = | 前作 = 『岳物語』(1985年) | 次作 = 『大きな約束』(2009年){{sfn|家族のあしあと|p=280|loc=あとがき}} }} [[Image:Tsudajukuuniv.JPG|thumb|right|220px|本作の主な舞台は[[東京都]][[小平市]]である。写真は当時椎名の自宅があった津田町<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=さらば国分寺書店のオババ |publisher=新潮社 |series=新潮文庫 |year=1996 |month=9 |isbn=978-4-1014-4817-6 |page=23}}</ref>の[[津田塾大学]]。]] 『'''岳物語'''』(がくものがたり)は、[[椎名誠]]による日本の[[私小説]]。[[1985年]]、[[集英社]]刊。続編『'''続 岳物語'''』は[[1986年]]、同社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、[[保育所|保育園]]から[[小学校]]6年間を経て[[中学校]]入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり<ref name="自走式漂流記 pp.404-405">{{Harvnb|自走式漂流記|1996|pp=404-405}}</ref>{{sfn|単行本|1985|p=252|loc=あとがき}}、代表作の1つと評価される<ref name="浦安図書館">{{Cite web|和書|url=http://library.city.urayasu.chiba.jp/special/200812/page_2.html |title=椎名誠の世界 |publisher=[[浦安市立図書館]] |accessdate=2022-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kisnet.or.jp/nippo/nippo-1998-05-20-1.html |title=柏崎日報復刊50周年で椎名誠さん講演会 |publisher=[[柏崎日報]] |date=1998-05-20 |accessdate=2022-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|editor=竹田竜世 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL8L266CL8LPTQP001.html |title=熱い夏、でっかい空、どろんこで駆ける球児 椎名誠さん - 高校野球 |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2018-08-19 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。本項目では、正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』([[1998年]])についても併せて解説する。 == 作品概要・執筆背景 == === 『岳物語』 === [[1985年]]5月、[[集英社]]刊行。「きんもくせい」「アゲハチョウ」「インドのラッパ」「タンポポ」「ムロアジ大作戦」「鷲と豚」「三十年」「ハゼ釣り」「二日間のプレゼント」の9編を収録。文庫版は[[集英社文庫]]から[[1989年]]9月刊行、文庫版解説は[[斎藤茂太]]{{sfn|文庫版|1989|p=262|loc=解説(斎藤茂太)}}。[[挿絵]]は単行本・文庫版ともに[[沢野ひとし]]<ref name="自走式漂流記 pp.404-405" />。また英語版も刊行されており、『Gaku Stories』([[1991年]]、[[講談社]]英語文庫)『My boy』([[1992年]]、講談社インターナショナル)の2タイトルが存在する<ref name="自走式漂流記 pp.404-405" />。 各短編は集英社『[[青春と読書]]』1983年11月号 - 1985年4月号に掲載{{sfn|単行本|1985|loc=奥付}}。最初から『岳物語』としての連載だったわけではなく、椎名が同誌に毎号30枚の短編小説を書くという企画に対して、初回に息子の岳を主人公にした初の私小説「きんもくせい」を発表したところ、編集者の好評を得て、岳と家族をテーマとした私小説としてシリーズ化されたものである<ref name="文学館 岳2">{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/5094 |title=椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その2 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。『岳物語』のタイトルは9つの短編をまとめて単行本化する際に付されたものであり、表題作は存在しない。 本作の主人公<ref name="家族のあしあと p.279">{{Harvnb|家族のあしあと|p=279|loc=あとがき}}</ref>である椎名の長男・岳は[[1973年]]7月生まれ、椎名が29歳の時の子である<ref name="文学館 年譜">{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/history |title=こんな風に生きてきた |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。当時の椎名は[[流通]]・[[小売]]系の[[出版社]]デパートニューズ社(後のストアーズ社)に[[編集者]]として勤務していた<ref name="文学館 年譜" />。同社在籍中には処女出版となる『クレジットとキャッシュレス社会』([[1979年]]、教育社)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/1366 |title=クレジットとキャッシュレス社会 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>ほか、複数の流通・小売系の専門書を上梓している。[[サラリーマン]]生活の一方、[[1976年]]には[[目黒考二]]らと『[[本の雑誌社|本の雑誌]]』の刊行を開始し、[[キャンプ|キャンピング]]集団「[[東ケト会]]」の企画など、後の作家生活の下地となる活動を展開しつつあった<ref name="文学館 年譜" />。[[1979年]]、『本の雑誌』誌上に掲載した『[[さらば国分寺書店のオババ]]』([[情報センター出版局]])が初の[[随筆|エッセイ]]集として単行本化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/1369 |title=さらば国分寺書店のオババ |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。[[1980年]]3月には東ケト会の活動を描いた第2集エッセイ『[[東ケト会#あやしい探検隊|わしらは怪しい探検隊]]』(北宋社)を発表し、後にシリーズ化される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/1370 |title=わしらは怪しい探検隊 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。同年12月には椎名はストアーズ社を退職し、フリーの作家生活に入った<ref name="文学館 年譜" />。 岳が生まれ育った時期はこのように、椎名が「サラリーマンから転がるようにモノカキに転身」し<ref name="家族のあしあと p.278">{{Harvnb|家族のあしあと|p=278|loc=あとがき}}</ref>、「三十代の新米親父と作家デビューの時代が重なって」いたと語る<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=孫物語 |publisher=新潮社 |date=2015-04-21 |isbn=978-4-1034-5623-0 |page=221 |chapter=あとがき}}</ref>、家族生活においても仕事上でも大きな転換期であった。そうした折に連載小説の題材に困り、いたずら盛りの息子の行動をそのまま文章にしていれば作品が出来上がると考えて、家族の風景を書き始めたのが作品誕生の契機であった<ref name="家族のあしあと p.278" />。 なお、岳の姉で椎名の長女である[[渡辺葉]]は、本作中には全く登場しない。これに関して椎名は、「きんもくせい」「アゲハチョウ」と1・2作目に姉を登場させる機会がなかったうちに家族テーマの連載の運びとなり、突然姉を登場させづらくなってしまったという理由と、父が家族を題材に小説を書くと知った葉が早くから「自分のことを書いたらだめだからね」と言っていたという理由を挙げている{{sfn|定本|1998|p=429|loc=あとがき}}。 === 『続 岳物語』 === [[1986年]]7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は[[野田知佑]]{{sfn|続 文庫版|1989|p=292|loc=解説(野田知佑)}}。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし{{sfn|自走式漂流記|1996|p=410}}。 各短編は『青春と読書』1985年5月号 - 1986年6月号に掲載{{sfn|続 単行本|1986|loc=奥付}}。岳のエピソードは小学校高学年の出来事が中心となり、親への反抗と自立、父から離れて対等な一人の男へと成長していく過程が描かれ<ref>{{Cite book|和書|editor=日本子どもの本研究会 |title=新・どの本よもうかな? 中学生版 日本編 |publisher=[[金の星社]] |year=2014 |month=3 |isbn=978-4-3230-1597-2 |page=58}}</ref>、中学校入学祝いの[[餃子]]パーティーと入学式の日を描いた「出発」で物語は幕を閉じる。 === 『定本 岳物語』 === [[1998年]]8月、集英社刊行。『岳物語』『続 岳物語』の2冊を再編して1冊にまとめた書籍。再編に当たって、家族に余り関係のないエピソードであった「インドのラッパ」「冬の椿」の2編が削除され、全編に亘って椎名が改稿を行っている{{sfn|定本|1998|p=428|loc=あとがき}}<ref name="文学館 岳3">{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/5113 |title=椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その3 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。また、作品のモデルとなった渡辺岳自身が、初めて自分の目から見た家族生活や、父の小説のモデルとされた事、「作家の息子」に対する周囲の反応などへの所感を綴ったエッセイ「「岳物語」と僕」を寄せている。 ==あらすじ== ===『岳物語』=== [[東京都]][[小平市]]に家を構えるよろず雑文書きの「私」と、[[保育園]]に勤める妻との間に生まれた息子は、両親の登山好きから「岳」と名付けられた。岳は保育園児の頃から、好奇心から友達と近所の[[サツマイモ]]畑を根こそぎ掘ってしまうなど、何かと事件を巻き起こす。読み書き英会話と[[就学前教育|就学前]]から教育にかまびすしい地域の中で、私たち夫婦はあえて習い事の類を一切させずに岳を小学校に入学させた。岳は自由闊達に育ち、小学4年生にして[[バレンタインデー]]に3人の同級生からチョコレートをもらう程の人気者となった。一方、学校の勉強はからきしで、上級生にもケンカで挑みかかり、乱暴者の問題児と教師たちから煙たがられて私や妻が学校に呼び出されることもしばしばであった。 4年生の時、私の友人である[[野田知佑|野田さん]]の家がある[[亀山ダム|亀山湖]]に初めて連れていかれた岳は、そこで[[釣り]]を教わって以来、それまで見せたこともない集中力で釣りにのめり込んでいく。私が冗談で「[[多摩川]]で[[ナマズ]]を釣ってきてくれよ」と声をかけた時には、自分で仕掛けを調べ本当にナマズを釣ってきて私を驚かせた。5年生の夏休み、岳は両親から離れ野田さんと[[釧路川]]の[[カヌー]]下りに出発した。岳の不在の間、私は朧げな自身の少年時代の記憶を思い出していた。世田谷の家を引き払って各地を転々とし、異母兄弟が何人もいた子供心にも訳ありと分かる家庭。私が鉄棒から落ちて頭を縫うケガを負っても駆けつけず、そして小学6年の時に死んだ父。釧路川から帰って来た岳の伸びた髪を[[風呂|風呂場]]で[[散髪]]しながら、私は父が死んで30年になること、その30年とはそのまま私と岳との歳の隔たりでもあることを考えていた。 岳が5年生の冬。昨年に引き続き取材旅行のため正月に家を空けてしまうことになった私は、スケジュールの合間を縫って、岳に[[東伊豆町|東伊豆]]の[[稲取]]への一泊二日の釣り旅行をプレゼントする。旅先の岳は、釣具店の店主と私にはまるで分からない専門的な語で仕掛けや餌の話をし、見たこともない道具を使って見事に[[カサゴ]]を釣り上げ、彼が私の知らない世界へと突き進んでいることを感じさせた。それから1か月。私は酷寒の[[イルクーツク]]から、久しぶりに家に電話をかけた。雑音混じりの途切れがちな回線の中で、岳から[[鴨川市|鴨川]]に釣りに出かけて海に転落した話を聞き、私は激しく動揺して問いただすものの、私の慌てぶりとは裏腹に岳の声はのんびりとしたものだった。やがて回線の不調で無情にも電話が切れてしまい、諦めて受話器をおいた私はため息をひとつつき、一人くつくつと笑うのだった。 ===『続 岳物語』=== 2か月間の[[シベリア]]の旅から帰国しぼんやりした気分の中、パーティーに出席した私は友人の[[沢野ひとし]]から、「椎名は少し息子に構いすぎだ、子どもはやがて必ず親からきっぱりと離れていくのだから、いつまでも子どもと気持ちをぴったり通わせようとしているとショックが大きい」と冗談とも忠告ともつかない言葉をかけられる。その通り、6年生になる岳は釣りやカヌーの腕前で完全に私を凌駕し、小学校からの帰宅後には小食として自分でラーメンなどを調理し、トレパンの破れも自分で繕うようになっていた。そして、毎夜シーナ家の客間で繰り広げられる、プロレスごっこと呼ぶには余りに激しい「男の闘い」においても、ついに岳は[[肩車 (柔道)|肩車]]のような技で私を宙に浮かせ、投げ飛ばしてみせるまでに成長していた。 この前後から、岳の親離れの兆候は様々な場面で表れるようになった。小6の最後の運動会を岳に黙って見に行った両親に対して怒り、夏休みに私や野田さんらと共に川下りに行った[[十勝川]]では、私よりも同級生のトッタン・ミッタン兄弟と行動を共にし、保育園児の頃からの習慣だった自宅の風呂場での散髪も断るようになった。そして、数か月に一度のペースで雑多に散らかった自室の古い雑誌や低学年のころのおもちゃを突如として大量に処分するのだった。私はこの片づけを“子供の脱皮”のようなものと考えていた。 岳の小学生最後の冬は、私にとって辛い出来事が続いた。シベリア横断旅行のリーダーだった星見利夫さんが壮絶な闘病の末に[[悪性腫瘍|癌]]で亡くなり、私は小さな骨になってしまった父親を前に涙をぼろぼろとこぼす小6の娘さんの姿に耐えられず、ついに星見さんの骨を拾って骨壺に納めてやれなかった。高校時代の友人で[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]のボクシング代表にまでなった吉野の失踪と殺害の噂、そして義母の[[脳血栓]]。重苦しい日々の中で、私は小6で自分の父が病死したとき、父の骨を見たのだろうかと思い出そうとしたが、葬儀の前後のことは思い出せても、肝心なことは何も記憶していなかった。岳を中学校の制服の採寸に洋品店に連れていった日、着慣れない[[詰襟]]を羽織る岳を眺めながら、父も私が中学校の制服を着るのを見届けたかっただろうか、という考えがふと頭をよぎるのだった。 小学生最後の春休み、岳はトッタン・ミッタンら6人の友人と亀山湖で一週間の魚釣り合宿を計画した。私には絶対について来るなと言い、野田さんの手すら借りずに、彼らは全て自分たちでその合宿をやり遂げてみせた。中学校入学直前、野田さん達を自宅に招いての[[餃子]]パーティーがあり、[[サクラ|桜]]の花が舞う中で岳の入学式の日を迎えた。少年岳と私のひとつの優しい時代が終わり、これからの彼が自分の世界を歩んでいくことを私は感じていた。 == 風呂場の散髪 == 『続 岳物語』中の一編「ヨコチンの謎」の一部は、「'''風呂場の散髪'''」(「'''ふろ場の散髪'''」)<ref group="注">題名のかな・漢字は編集年度によって異なる。採用当初は「ふろ場」で、2012年教科書以降は「風呂場」表記である。</ref>の題名で、[[学校図書]]刊行の中学1年生[[国語 (教科)|国語科]]用[[文部科学省]][[文部科学省検定済教科書|検定済教科書]]に採用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gakuto.co.jp/docs/ms/kokugo/pdf/h28hikokugo_s.pdf#page=13 |format=PDF |page=11 |title=中学校国語 平成28年度用 編集の趣旨と特色 |website=学校図書 |publisher=[[学校図書]] |accessdate=2019-06-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190626112226/https://www.gakuto.co.jp/docs/ms/kokugo/pdf/h28hikokugo_s.pdf#page=13 |archivedate=2019-06-26}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=中学校国語 1 |year=2001 |publisher=[[学校図書]] |pages=6-17}}(平成13年度[[文部科学省]][[検定済教科書]])</ref>。保育園児の頃から約8年間、岳の髪が伸びたタイミングを見計らって父の椎名が声をかけ、自宅の[[風呂|風呂場]]で[[バリカン]]を使って岳の[[散髪]]を行っていた習慣に、大きな変化が訪れた際のエピソードを描いている。なお、教科書収録に当たっては原作から一部表現の変更や、場面の削除(散髪に素直に応じていた頃の岳が、髪を切られながら[[ABCの歌]]の[[替え歌]]<ref group="注">替え歌は「えーびーしーでーいーえす<!-- 原文は「えす」です。「えふ」ではありませんので変えないで下さい。 -->じー/カーニーチンポコはさまれたあ/いーてーいーてーはーなーせー/はーなすもんかーソーセージー{{sic}}(後略)」というもので、この中のチンポコという歌詞が問題視された。なお、この替え歌は「ヨコチンの謎」を通読した場合、岳の散髪と、岳の通うサッカークラブのキャプテン「ヨコチン」のあだ名、という並行した2つの話題を最後に繋ぎ合わせる役割を担っている。</ref>を歌う場面など)といった編集が行われている。椎名はこの替え歌の削除について、「子供が本当に生き生きしている様子を描写しようとしてもそういうのは大人の誰かが大人の良識のもとに消してしまうのである」「ある一時期子供が一番無邪気に笑いとばしているこの種のコトバのいったいどこがどうしていけないのだろうか」と批判した<ref>{{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=怒濤の編集後記 |publisher=[[本の雑誌社]] |year=1998 |month=10 |isbn=978-4-9384-6372-4 |page=195}}</ref>。 === あらすじ(風呂場の散髪) === 岳が日増しに大人びてきた小学6年生の7月。[[シベリア]]での取材旅行<ref group="注">『[[週刊ポスト]]』に連載した、[[大黒屋光太夫]]の足跡を辿ったノンフィクション『シベリア追跡』のための取材旅行。</ref>を終えて帰宅した私は、すっかり岳の髪が伸びているのを見て散髪を提案するが、今まで素直に応じていた岳が「まだいいよ」とそれを断る。さらに[[夏休み]]に入るころになっても、なおも散髪に応じない岳に痺れを切らした私は、半ば強引に岳を風呂場に連れて行く。しかし、そこでも岳はシャツを脱ごうとせず、構わずバリカンを入れようとする父の手をつかみ、父の裁量で自分の髪を切られることの不合理を、上手く言葉で表現できないながらも涙を流して真剣に訴えた。父子の話し合いで、今後は風呂場での散髪をやめ、岳が自分のタイミングで[[理容所|床屋]]に行くことを決めた。その夜、私はこの出来事を妻に話し「だんだん反抗的になってきているよ」と嘆いたが、妻にそれは反抗ではなく岳が自立期にきているのだと諭され、そういうことなのかもしれないと納得するのだった。 == 主な登場人物 == [[Image:Lake Kameyama.jpg|thumb|right|220px|「あかるい春です」ほか複数の作品に登場する[[亀山ダム|亀山湖]]。近隣に[[野田知佑]]宅があり、岳はこの地に通って多くのことを学んだ。]] ここでは、語り手である「私」とその家族、及び『岳物語』単行本冒頭で触れられる[[野田知佑]]のみを挙げる。椎名誠は妻の[[渡辺一枝]]との結婚に際して妻の姓に入り、本名は渡辺姓であるが、作中では主に「シーナ家」と表現される<ref name="浦安図書館" />。先述の通り、渡辺家の長女で岳の姉である[[渡辺葉]]は、本作には登場しない。 ; 岳 : 椎名誠の第2子で長男の渡辺岳がモデル。ただし、作中では姉の存在について言及がなく、[[一人っ子]]であるかのように描かれる。両親ともに[[登山]]好きであったために岳と名付けられた。第1作「きんもくせい」の中では[[保育園]]児で、作中を通じて[[小学校]]6年間と[[中学校]]入学までの成長が語られる。 : 父やその友人達によって幼少期から様々な冒険に連れ出され、自宅では父と激しい[[プロレス]]ごっこに興じてきたため、同学年の子どもと比して高い体力を有し、自由奔放な性格に育っている。地元の少年[[サッカー]]クラブにも通うほか、小学校中学年からは[[釣り]]にのめり込み、父や野田さんの腕前をあっという間に追い越してしまった。 : 一方、小学校の勉強にはほとんど興味を示さず(両親ともそれを一切咎め立てしていない)、腕っぷしも強いため、学校ではトラブルの多い問題児扱いされることもしばしばである。小学校高学年になるにつれ、今まで無条件に懐き従っていた父親に対しても不器用に自分の意見を表明しようとする場面が増え、両親からの自立に向かって成長していく。 ; 私 : 作者の[[椎名誠]]自身がモデル。本作は父親である「私」の視点から描かれる。[[東京都]][[小平市]]に自宅を構える一家の長。 : 物語の冒頭では「あまり稼ぎのよくないよろず雑文書き」と自称しているが、やがて[[作家]]・[[随筆家]]・[[編集者|雑誌編集者]]として多忙となり、取材旅行などにより自宅を空けることが多くなる。そうした事情もあって、長男の岳の教育は基本的に自由放任主義であるが、旅先の[[パタゴニア]]<ref group="注">『パタゴニア あるいは風とタンポポの物語り』(情報センター出版局、1987年)のための取材旅行。</ref>で現地の材料をかき集めて岳のために「パタゴニア[[チャンピオンベルト]]」{{refnest|group="注"|このベルトは岳とのプロレスごっこで父子の間を行き来したのち椎名の手許に返り、『椎名誠の増刊号』123頁に写真がある{{sfn|椎名誠の増刊号|p=123}}。}}を自作するなど、息子を想い、家にいる時間は最大限の触れ合いを持つよう努めている。 : その背景には、自身が小学6年生で父を病で亡くし、厳格だった父との間に親しい思い出を残せなかった経験がある。小学校高学年に差し掛かるにつれ次第に無邪気に父に従うだけではなくなっていく岳の変化や反抗を、自立と成長の過程と理解しつつも頭を悩ませる。息子に対する強引で横暴な態度をしばしば妻や友人にたしなめられて反省するなど、子を通じて父自身も成長していく。 ; 妻 : 椎名誠の妻・[[渡辺一枝]]がモデル。岳が通ったのとは別の[[保育園]]に勤める[[保育士|保母]]。椎名の友人である[[木村晋介]]の高校の同級生で、木村が仲人役となってふたりは結婚した。家を留守にしがちな夫を支え、夫と共に「自分で出来ることは自分でやるように」と言い聞かせて岳の教育に当たっている。 ; 野田さん : [[カヌー|カヌーイスト]]の[[野田知佑]]がモデル。椎名とは、自身の海外渡航の際に大切な愛犬のガクを預けるなど、深い親交を結んでいる。その息子の岳からも、もう一人の父にして親友のように尊敬されており、足繁く[[亀山ダム|亀山湖]]湖畔の野田宅に通う岳に[[釣り]]や[[カヌー]]を教え、両親から預かって[[釧路川]]の川下りに同行させるなど、彼の人格形成に大きな影響を与えた人物である。『岳物語』単行本冒頭には「私の恩師であり私の息子岳の親友である野田知佑氏に」という一文が添えられている。 ; ガク : 野田知佑の飼い[[犬]]。世界中を冒険のため飛び回っている野田から時折椎名が預かっている。[[ジャーマン・シェパード・ドッグ|シェパード]]のオスと[[柴犬]]のメスの間に生まれた。まだ仔犬の頃に野田に引き取られてカヌー犬として育てられ、脚の太い強靭な体格と人懐こい性格を兼ね備えた犬に成長している。多くの冒険を経てきた犬だけに[[散歩]]が大好きで、朝の散歩は私(椎名)の、夕方の散歩は岳の担当と決まっている。名前は椎名の息子の岳にならって付けられたものだが<ref>{{Cite book|和書|author=野田知佑 |authorlink=野田知佑 |title=ともに彷徨いてあり カヌー犬・ガクの生涯 |year=2002 |month=4 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-1635-8470-6 |page=21}}</ref>、紛らわしいため椎名の友人たちは犬のガクを「犬ガク」、椎名の息子を「ひと岳」と呼ぶ。 == 評価 == [[Image:Inatori Onsen 20100601.jpg|thumb|right|280px|椎名が最も好きな作品と語る「二日間のプレゼント」の舞台である[[東伊豆町|東伊豆]]の[[稲取]]。2年続けて年末年始に家を空けてしまうことになった「私」は、多忙なスケジュールの合間を縫って、岳と1泊2日の釣り旅行に出かける。]] ; セールス 本作は正・続の単行本・文庫版累計で260万部以上([[2008年]]時点{{sfn|大きな約束|p=282|loc=あとがき}})のヒット作となった。父子の交流と少年の成長の物語として、上述した「風呂場の散髪」のほかにも複数回学校教科書に取り上げられ、[[国語 (教科)|国語科]]の[[受験]]問題や[[模擬試験]]の題材としてもよく使用されている{{sfn|三匹のかいじゅう|p=262|loc=あとがき}}。 ; 椎名誠 作者の[[椎名誠]]自身は、本作が子育てや教育の物語と捉えられたことは思わぬ評価であり、自分としては岳・自分・野田さん・ガクや、その周囲の人々による友情物語のつもりであったと語っている{{sfn|続 単行本|1986|p=283|loc=あとがき}}。椎名は雑誌連載当初、本作が単行本になることを想定していなかったために、軽く考えて主人公の名を本名のまま「岳」とした<ref name="家族のあしあと p.279" />。ところが、実際には2年足らずで単行本化された上に続編まで執筆するベストセラーとなり、このことで息子の岳に対しては「書かれた当人には数々の迷惑を与えた」「作家を親にもつと子供はたまったものではない、そんなことを私もしてしまった」と述懐している{{sfn|定本|1998|p=432|loc=あとがき}}{{sfn|三匹のかいじゅう|p=263|loc=あとがき}}。『岳物語』中の一編「二日間のプレゼント」は自身の小説で最も好きな作品と語っており(2002年時点)<ref name="椎名誠の増刊号 p.159">{{Harvnb|椎名誠の増刊号|p=159}}</ref>、また『岳物語』が3度目の教科書掲載で高校1年国語科教科書に採用された際、好きな作家である[[宮沢賢治]]の隣に並んで載ったことは、作家としての勲章であると振り返っている<ref name="椎名誠の増刊号 p.159" />。 ; 渡辺岳 父の椎名によれば、中学生時代の岳は本作に対して猛烈に怒ったという<ref name="自走式漂流記 pp.404-405" /><ref name="定本 p.431">{{Harvnb|定本|1998|p=431|loc=あとがき}}</ref>。『定本 岳物語』(1998年)の刊行に際して、当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で写真学を修めていた20代半ばの渡辺岳本人はエッセイ「「岳物語」と僕」を寄稿し、初めて自らの筆で所感を表明している。この中で渡辺は、本作の発表以後、事あるごとに「『岳物語』の岳」として他人に先入観を持って接されたこと、周囲の反応から想像される主人公の「元気はつらつの岳少年」と現実の自分自身との乖離、ある者は「親の七光」と冷たく当たりまたある者は過剰に優しく接してくる大人達の態度、そうしたものに窮屈さを感じ続け、『岳物語』を未だに読むことができていないと明かしている{{sfn|定本|1998|p=452}}。父を尊敬し、また感謝もしているが、それでも『岳物語』を愛することは出来ないと語り、結びでは「本当の『岳物語』というものは、僕の心の奥深くにあり、今でもしっかりと続いているのです」と綴っている{{sfn|定本|1998|p=460}}。渡辺の心境に変化が訪れたのはその後彼が結婚し家庭を持った時で、作家の父が息子を題材として書くのも当然と思うようになった、と手紙で椎名に伝えたという{{sfn|続 大きな約束|p=215}}。 ; 野田知佑 [[野田知佑]]は『岳物語』単行本冒頭に本作を野田に捧げる旨の一文が添えられ、岳も「もう一人の父親のようでもあり、新しい遊びを次々に教えてくれる親友のようでもありました」{{sfn|定本|1998|p=457}}と慕う、誠・岳父子と本作にとって重要な人物である。野田は『続 岳物語』の文庫版解説において、敢えて作品の文学的評価を一切行わず、本作に描かれた頃の野田から見た岳の姿や、『続 岳物語』完結後の岳の成長や野田との交流を語ることに紙幅を割くことで解説に代えている。この中で野田は、高校生の頃のよく鍛え上げられた岳の肉体を見て、これは椎名が文字通り血と汗を流して作り上げたもの、と父を讃え{{sfn|続 文庫版|1989|p=298|loc=解説(野田知佑)}}、逞しく成長した岳に対しても「彼をボディ・ガードにして北極圏の川に行きたいものだ」「本の『岳物語』はこれで終るが、われわれの『岳物語』はこれからいよいよ面白くなる」と、彼の将来に期待を寄せている{{sfn|続 文庫版|1989|p=299|loc=解説(野田知佑)}}。 ; 目黒考二 [[目黒考二]]にとって椎名は、『本の雑誌』の編集作業や東ケト会の活動などを共にする「仲間うち」の存在であり、そのために普段は敢えて椎名の著書について評することを避けていた<ref name="北上 pp.128-129">{{Harvnb|北上|1995|pp=128-129}}</ref>。しかし本作については『本の雑誌』連載の読書ガイド「新刊めったくたガイド」([[目黒考二#別名|北上次郎]]名義)の中で「一度だけ禁を破る」として『岳物語』を紹介するほど気に入っている<ref name="北上 pp.128-129" /><ref name="文学館 岳1">{{Cite web|和書|url=https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/5030 |title=椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その1 |website=椎名誠 旅する文学館 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。この読書ガイドの中で目黒は『岳物語』について、親子の交流の背後に椎名自身の父親の姿をだぶらせている点、そして作品の底流に流れる、たとえ親子でも人生のある一時期しか濃密な関係を持ち得ないという哀しみを作品の魅力として挙げ、「若い父親諸君はぜひ読んでほしい」と評している<ref name="北上 pp.128-129" />。後年の椎名へのインタビューの中では、『続 岳物語』はさらに良いと評し、『岳物語』『続 岳物語』の文庫化に際して、気に入った作品なのでぜひ解説を書かせて欲しいと椎名に頼んでいたにもかかわらず、すっかり忘れられていたというエピソードを明かしている<ref name="文学館 岳1" />。目黒は本作が広く読者を獲得した要因について、作中の父親(椎名)は決して立派な教育者ではなく、息子に対して横暴ですぐ怒り、それを妻や友人に窘められて反省する、そうしたどこにでもいるような父親の姿に、読者が自己を投影し共感を得られたからだと分析している<ref name="文学館 岳2" />。また、『定本 岳物語』に収められた渡辺岳本人によるエッセイに関しても、モデルとして書かれたことの戸惑いを実に正直に書いていて素晴らしい、と評している<ref name="文学館 岳3" />。 == 書誌情報 == * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |authorlink=椎名誠 |title=岳物語 |publisher=[[集英社]] |date=1985-05-20 |isbn=978-4-0877-2524-7 |ref={{sfnref|単行本|1985}} }} ** {{Cite book|和書|author= |title=岳物語 |publisher=集英社 |series=[[集英社文庫]] |date=1989-09-25 |isbn=978-4-0874-9490-7 |ref={{sfnref|文庫版|1989}} }} * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=続 岳物語 |publisher=集英社 |date=1986-07-25 |isbn=978-4-0877-2569-8 |ref={{sfnref|続 単行本|1986}} }} ** {{Cite book|和書|author= |title=続 岳物語 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |date=1989-11-15 |isbn=978-4-0874-9507-2 |ref={{sfnref|続 文庫版|1989}} }} * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=定本 岳物語 |publisher=集英社 |date=1998-08-10 |isbn=978-4-0877-4347-0 |ref={{sfnref|定本|1998}} }} === その後と関連作品 === * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=大きな約束 |publisher=集英社 |date=2009-02-05 |isbn=978-4-0877-1281-0 |ref={{sfnref|大きな約束}} }} * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=続 大きな約束 |publisher=集英社 |date=2009-05-01 |isbn=978-4-0877-1282-7 |ref={{sfnref|続 大きな約束}} }} (集英社『[[すばる (雑誌)|すばる]]』2007年3月号 - 2008年10月号連載「いいかげんな青い空」改題) 『岳物語』正・続2冊は商業的にも大きな成功を収め、読者や椎名の友人知人から「ぜひ続編が読みたい」「面白くなるのはこれから(中学生以降)だ」といった声が多数寄せられたが{{sfn|定本|1998|p=430|loc=あとがき}}、先に記した通り中学生になった岳本人の怒り、そして彼が実生活で受けた様々な迷惑に直面した椎名は、続編を書くことを止めた<ref name="定本 p.431" /><ref name="続 大きな約束 p.214">{{Harvnb|続 大きな約束|p=214}}</ref>。岳は高校卒業後、短期間[[プロボクサー]]として活動したのち[[アメリカ合衆国]]に渡った{{sfn|定本|1998|p=458}}。[[サンフランシスコ]]の大学で写真学を修めて写真関係の仕事に就き{{sfn|定本|1998|p=450|loc=あとがき}}、同地で日本人女性と結婚し、一男一女の家族となった<ref name="続 大きな約束 p.214" /><ref name="三匹のかいじゅう p.264">{{Harvnb|三匹のかいじゅう|p=264|loc=あとがき}}</ref>。 そうした折に、椎名が長年の『本の雑誌』編集の相棒であった[[目黒考二]]から、祖父と孫の小説を書いてはどうかと提案を受けて執筆されたのが『大きな約束』『続 大きな約束』(集英社、2009年)である{{sfn|続 大きな約束|p=261}}。椎名は同作中で『岳物語』所収作と同じ「アゲハチョウ」と題した短編を執筆し、その中で上述のような『岳物語』第3部を執筆しなかった事情や、その後の岳の略歴について説明した。そして、第3子の出産を日本で行うために岳夫妻と2人の孫が日本にやって来るところで『続 大きな約束』は幕を閉じる{{sfn|続 大きな約束|loc=「湾岸道路」}}。 岳一家は第3子となる次男の誕生後、[[東日本大震災]]の影響もあってそのまま日本に定住することを決め<ref name="三匹のかいじゅう p.264" />、椎名は3人の孫との関係を描いた私小説の執筆を本格的に開始した(『三匹のかいじゅう』『孫物語』『家族のあしあと』など)。それらの作品群の中では息子の本名を基本的に使わず、「彼ら(孫たち)の父親」と表現している{{sfn|三匹のかいじゅう|p=27}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|year=1992 |publisher=新潮社 |journal=椎名誠の増刊号 |issue=[[小説新潮]] 7月臨時増刊 |id={{ASIN|B005U2DMGM}} |ref={{sfnref|椎名誠の増刊号}} }} * {{Cite book|和書|author=北上次郎 |authorlink=目黒考二 |title=新刊めったくたガイド大全 |publisher=本の雑誌社 |year=1995 |month=6 |isbn=978-4-9384-6348-9 |ref={{sfnref|北上|1995}} }} * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |authorlink=椎名誠 |title=自走式漂流記 1944〜1996 |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮文庫]] |year=1996 |month=8 |isbn=978-4-1014-4818-3 |ref={{sfnref|自走式漂流記|1996}} }} * {{Cite book|和書|author=椎名誠 |title=三匹のかいじゅう 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ユニバーサル・シリアル・バス
ユニバーサル・シリアル・バス(英: Universal Serial Bus、略称:USB、ユーエスビー)は、コンピュータ等の情報機器に周辺機器を接続するためのシリアルバス規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、ホスト機器にさまざまな周辺機器を接続するためのペリフェラルバス規格であり、最初の規格となるUSB 1.0は1996年に登場した。現在のパーソナルコンピュータ周辺機器において、最も普及した汎用インターフェース規格である。 USB規格では、1つのバスについて周辺機器は最大で127台接続可能である。接続口が足りない場合には、ツリー状に拡張できるUSBハブの使用も想定している。プラグアンドプレイにも対応しており、規格制定当時の一般的な外部インターフェースでは不可能だったホットスワップも可能としていた。 ホストバスアダプタからの周辺機器への電源供給を規定している(バスパワー)。そのため従来のコンピュータ周辺機器だけでなく、事務用品や携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、日用品や便利グッズなど多様な機器へ電力を供給をする用途にも使用されるようになった。USBのコネクタを持ちつつ、この電力供給機能に特化したデータ通信を一切行わないという充電専用ケーブルも販売されている。 USBはホスト機器と周辺機器を接続する規格であり、ホスト同士・周辺機器同士の直接接続にはUSB On-The-Go対応機器を除いて非対応で、電力供給能力が低いといった限界や柔軟性に欠ける部分はあるものの、現在のパーソナルコンピュータ環境では利便性に優れ、周辺機器との接続に最も使用される規格である。特に外部記憶デバイスとして扱えるUSB接続のUSBメモリは可搬性の高さからよく利用されている。 USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。 従来からのRS-232CシリアルポートやIEEE 1284パラレルポート、PS/2コネクタの置き換え(後々、レガシーポートとも呼ばれるようになる)を狙ってコンパック、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC)、IBM、インテル、マイクロソフト、NEC、ノーテルネットワークスの7社が合同で1994年に開発を行い、Windows 98において正式にサポートされたことで普及した。 さらにUSB 2.0/3.0の登場によって転送速度が大幅に向上し、従来はIDEやSCSI、イーサネットなど高速転送規格が必要だったハードディスクドライブ等の機器との接続にも用いられている。 USB 3ではマイナーバージョンが乱立し、ユーザーに混乱を引き起こした。USB Promoter GroupのCEO、Brad SaundersはUSB 3における混乱を受けて、USB4を元にした新規格が作られた際には、マイナーバージョンではなく新名称を与える方針を公表した。 当初はインテル、マイクロソフト、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(現:ヒューレット・パッカード)、IBM、NEC、ノーザンテレコム(現:ノキア)が仕様を策定したが、2017年9月現在では、NPOのUSBインプリメンターズ・フォーラム (USB-IF) が仕様の策定や管理などを行なっている。USB-IFは、Apple、ヒューレット・パッカード、インテル、マイクロソフト、ルネサスエレクトロニクス、STマイクロエレクトロニクスの6社が主導企業であり、合計996社で構成される。 類似独自規格の乱造乱立を防ぐ目的で特許自体は存在しているが、特許使用料は無料とされている。なお、USBデバイスの製造においては製造者を識別するためのベンダーIDの申請を行う必要がある。 多くの他のバス規格では、特許料の支払いの関係で個別での契約が必要であるなど、中小法人の参入が難しかったのに対し、USB規格ではルールさえ守れば事実上誰でも参入可能なことが普及を促進したと言われており、玩具など幅広い機器が発売されている。 USB規格は、最大転送速度の向上などを求めて何度か規格が拡張されている。これらは1.1から4まで上位互換であり、機能や性能が下位規格に縛られる事を除けば、下位規格品と上位規格品を接続しても正しく動作する事が求められている。 1996年1月発表。最大12 Mbps (1.5MB/s)。 1998年9月発表。USB 1.0の規格仕様を電源管理等について改善した。最大12 Mbps (1.5MB/s)。 2000年4月発表。USB 1.1の規格仕様に、High-Speedモード(最大480 Mbps)を追加した。 480 MbpsのHigh-Speed転送やそれをサポートする機器と、規格のバージョン番号であるUSB 2.0を同一の意味で使う場合があるが、これは誤用である。USB 2.0規格では依然としてFull-SpeedデバイスおよびLow-Speedデバイスは設計および製造が可能でかつ販売および利用が可能である。USB-IFではHigh-Speedであることを明示したいような場合の用語として"Hi-Speed USB"を使うように指導している。 USB-IFにより規格標準化が進められ、2008年8月のIntel Developer Forumにて、revision 1.0が2008年第4四半期に登場すると明言され、同時にピンの仕様とコネクタおよびケーブルのプロトタイプが出席者に対して公開された。その後、正式な通称が「SuperSpeed USB」とされ、ロゴも公開された。2008年9月には暫定規格であるrevision 0.9が決定された。 2008年11月17日に「SuperSpeed USB Developers Conference」上で正式な仕様が発表され、USB 3.0規格はrevision 1.0として正式なものとなった。 USB 3.0は、物理的な後方互換性を保ちつつ、最大データ転送速度が5 Gbps(ただし、8ビットのデータが10ビットの信号に変換されて送られるので、実際のデータ転送速度は4 Gbps = 500 MB/sが上限)となった。ピンの数が標準では5本増えて9本となり、USB On-The-Go対応のオプションでは計10本となるが、ピン形状が工夫されUSB 1.1やUSB 2.0対応の(標準)A端子、(標準)B端子、マイクロB端子との物理的な後方互換性は確保されたが、ミニUSBは規格から消滅した。 ピンの数が増えた理由は、USB 2.0以前とUSB 3.0以降で完全に別の信号線を使用するからである。つまり、USB 3.0以降はUSB 2.0以前と別の技術で動作している。 符号化方式がUSB 2.0のNRZIに対して8b/10bとPRBSが採用され、通信モードも半二重から全二重(単信2組)となる。物理層にはPCI Express 2.0の技術が準用されている。携帯機器への配慮から消費電力の削減が強く求められ、SuperSpeedではポーリングが排除され、4つの待機モードも新たに設けられた。 また、USB 3.0対応機器のコネクタの絶縁体部には1.1/2.0との区別のため青色を使用することが推奨されている。 電磁放射ノイズのピークを下げるために、スペクトラム拡散クロックが必須とされた。光伝送も含まれる予定だったがコスト面からの反対が多く、revision 1.0での導入は見送られた。光伝送技術の導入に積極的なインテル社は、将来の採用を構想している。 放射電磁雑音対策のために、信号ケーブルにはシールド付きの物を使用するが、規格である3 mの伝送距離を満たした試作品は直径6 mmあり、携帯機器によってはUSBケーブルで宙に浮いてしまう。そういった事態を避けるために今後、伝送距離を1 m程度に短くし、伝送損失が許される範囲の規格で更に細い信号ケーブルを使う事も検討されている。 USB 3.0がチップセットに内蔵されることでマザーボードの標準機能に含まれるのは、AMD社ではA75、Intel社ではIntel 7シリーズからである。 増設インターフェイスカードを使用する際には、通信速度のボトルネックに注意が必要となる。USB 3.0の1ポートあたりの最大転送速度は5 Gbpsであり、PCI Express x1 (Gen 2) の最大転送速度も5 Gbpsであるため、市場に多く出回っているPCI Express x1のインターフェイスカードを増設した場合、USB 3.0を2ポート以上接続して利用するとPCI Express x1の転送速度がボトルネックとなる。これを避けるために、PCI Express x4スロットで接続するインターフェイスカードも登場している。また、PCI Express x1のマザーボードからの最大供給電力は10 Wであるが、USB 3.0の2ポートに規格上限の電力を供給すると9 Wとなり、カード自体の消費電力と合わせると不足する。このため、多くのPCI Express x1のインターフェイスカードには、電源ユニットからの電力線を接続する補助電源端子が備わっている。 2012年までの多くのパソコンで、USB 3.0が1ポート(もしくは2ポート)と残りがUSB 2.0ポートという組み合わせにされている理由は、(1) 2009年の時点でUSB 3.0コントローラーを市場に供給できる唯一のメーカーであったルネサスのUSB 3.0コントローラが技術的に2ポートまでしか対応していないこと、(2) USB 3.0の要求する電力がUSB 2.0よりも高く、容量の大きな電源が必要になってくること、および、(3) チップセット内蔵の場合、CPU⇔サウスブリッジ間のバス・バンド幅が現状では十分でないため、現状では全てのポートをUSB 3.0化することは技術的に不可能であること、などが原因である。ほどなくVIAなどの各製造メーカーもUSB 3.0に対応し、また4ポート対応のコントローラーも開発されるなどで、登場から5年後の2014年頃には特にポートの少ないノートパソコンではUSB 3.0への完全対応がなされた。 2013年8月1日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.1規格の策定完了を発表した。USB 3.1は、以下のようにUSB 3.0を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。 USB 3.1 Gen 2モードはSuperSpeedPlus USBで10 Gbpsの転送を可能とする。 SuperSpeedPlus USB 10 Gbpsでは信号転送速度を5 GHzから10 GHzにアップ、データエンコードも8b/10bからより効率的な128b/132b の採用など物理レイヤーを変更することで現行のSuperSpeed USBの2倍の実効データスループット性能を実現している。一方でソフトウェア階層やデバイスのプロトコルといった論理レイヤーは現行のUSB 3.0と共通で、USB 3.1 Gen 1モードでは5 GbpsのUSB 3.0と同様に使用でき、Gen 1モード・Gen 2モードのいずれもUSB 3.0ハブ・デバイス・ケーブルとの互換性は保たれている(ただしUSB 3.0ハブ下の機器は5 Gbpsでの転送となる)。 この結果、USB 3.1対応機器はUSB 1.1/2.0の論理レイヤー+USB 1.1/2.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.1の物理レイヤー という3パターンの内部動作が要求される複雑なものとなっている。 2017年7月25日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.2規格を発表。2017年9月25日に正式リリースされた。 USB 3.2は、以下のようにUSB 3.0と3.1を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。 x2が2レーンを表している。USB 3.2 対応の両端がType-Cコネクタのケーブルを利用したときだけ2レーンが利用可能になり、20 Gbps対応となる。 2倍の物理層が必要な2レーンオペレーションに対応しつつも転送速度を10 Gbpsに留めておく合理的な理由がほとんど存在しないため、Gen 1x2に実用性はあまりない。 ケーブルの片側がStandard-Aでもう一方がType-CのUSB 3.1 Gen 2対応ケーブルも使用できるが、その場合、2レーンは使用できない。 2019年3月4日に仕様策定が進行中であることが。2019年9月3日に仕様が一般公開された。技術的にはIntelから提供されたThunderboltプロトコル仕様がベースとなっており、既存のUSB 2.0・USB 3.2仕様との後方互換性を有する。バージョンに小数点以下の数字が付かなくなり、かつ、数字とUSBの間に空白を入れないことになった。 2レーンオペレーションのType-Cコネクタを使用する事が前提であり、帯域は標準で20 Gbps、オプションで40 Gbpsとなる。ただし、USBとしてのデータ転送プロトコルは最大で20 GbpsのUSB 3.2のままである。対応したプロトコル(USB 3.2、DisplayPort、オプションでPCI Express)トンネリングに対応し、最低でも1レーンを占有するDisplayPort Alt Modeでは不可能であったケーブル一本でのUSB 3.2の20 Gbpsデータ転送とDisplayPortの映像出力を同時に利用できる。また、ホスト側にDisplayPort(USB4及び従来のDP Alt Mode)による映像出力の実装が義務付けられたため、規格に準拠しUSB4を名乗っているポートであれば必ず映像出力に対応する事となった。 2022年10月18日に、データ転送速度が80 Gbpsに向上したUSB4 Version 2.0の仕様が公開された。80 Gbpsでのデータ転送は既存のUSB 40Gbpsパッシブケーブル、もしくは新たに規定されたUSB 80Gbpsアクティブケーブルで可能となる。既存のUSB4・USB 3.2・USB 2.0との後方互換性を有する。 Wireless USBは、2005年5月に発表された。無線通信によるデバイス接続をサポートする。Agere Systems(現:LSIコーポレーション)、HP、インテル、マイクロソフト、NEC、フィリップス、サムスン電子の7社により策定された。有線USB規格と接続性を考慮しているが、それらとは独立した規格として作成されている。 USBでは、1つのバスに仕様上最大127台の機器を接続し同時に使用することができる。ホットプラグにも対応する。ただしOS、USB機器によっては、取り外す場合USBデバイスを停止させる手順を実施しないと警告が出ることがある。これは、ドライバ・ソフトウェアの処理で、状態の不整合による不具合が起こることがあるためである。 ホストを根 (root) とし、ハブとデバイスによる木構造の接続形態をとる。通信データはパケット化され送られる。ハブとデバイスは動作中それぞれ独立したバスアドレスを持つ。このアドレスはデバイスがバスに接続時にホストにより動的に割り当てられる。アドレスは7ビットであり、特殊用途のアドレス0を除くと127個の個別デバイスが同一バス上に同時に存在できる。パケットはHigh-speedまではブロードキャストされ、パケットに指定されているあて先アドレスを見てデバイス側で必要なパケットを受信する。SuperSpeed以降はユニキャストである。通信はホスト側からの働きかけにより開始される必要があるため、SCSIなどと異なりバス上でデバイス側からの通信開始は基本的には行えない。周辺機器同士を直接接続するための拡張仕様USB On-The-Goでは、どちらか片側がホストとしてふるまうことで「ホスト対デバイス」の関係となるよう設計されている。 HDDなどを接続するとHigh-SpeedモードでもMass Storageクラス準拠では転送速度がボトルネックとなる場合があるため、転送方法の工夫で実効速度を向上させる製品を出荷しているところがある。バッファローの「TurboUSB」とアイ・オー・データ機器の「マッハUSB」がそれで、20 - 30%高速化すると謳っている。ソフトウェアで処理するため接続するパソコンの性能に依存し、両社ともWindowsとMac OSのみの対応となっている。 USB Attached SCSI Protocol(略称:UASP)とはUSBの拡張仕様で通信プロトコルの一つである。 一般的に補助記憶装置との通信はバルク転送が使われており、転送効率の悪さから通信速度の低下を招いていた。それに代わりSCSIデバイスで使われていた通信プロトコルを応用することで通信速度の改善を図ることができる。 UASPを利用するにはパソコン及びデバイスの対応と、それらを制御するOSの対応がそれぞれ必要である。 USBでは、周辺機器の機能によってグループ分けされたデバイス・クラスと呼ばれる仕様群が定義されている。それぞれのクラス仕様(クラス仕様によってはサブクラスの仕様)に従って作成されたデバイスには統一した制御インターフェースが用意され、クラス仕様に準拠した機器類は、クラス・ドライバーと呼ばれる共通のデバイスドライバ・ソフトウェアによって動作させることができるため、同一クラスであれば製品ごとに個別のドライバ・ソフトウェアを作る必要がなくなっている。例えば、多くのUSBメモリはマスストレージ・クラスというクラスに属しており、OS側がマスストレージ・クラス対応のクラス・ドライバを用意していれば、USBメモリがクラス仕様に準拠する限り、新たにドライバをインストールする必要がなく、初めて接続してもすぐに動作する。ただし、実際にはデバイス側の仕様違反、特定ホストの動作に依存したデバイスの実装、仕様上の曖昧さによるぶれなどにより、共通のクラス・ドライバでは動作しない、ドライバ内に不具合回避処理が盛り込まれる、専用ドライバが提供される、という場合もある。 2009年11月現在、USB.orgによって定義されているデバイス・クラスは以下の通りである。 USB規格ではホストコントローラの規格を定義しておらず、以下のホストコントローラ規格はUSBの仕様外である。複数のホストコントローラ規格がある。これらは制御方法が異なるため、それぞれ別のドライバが必要である。ただし同一ホストコントローラ規格内では共通のものが通常使える。 端子類/コネクタの形状はUSB 2.0までは転送プロトコルと同じ規格で、3.0以降は転送プロトコルとは独立した規格で定められている。ミニA端子B端子、ABソケットについては拡張規格であるUSB On-The-Go規格内で定められている。定義されている端子形状には以下のものがある。 A端子類はコンピュータ本体やハブ(下流・デバイス接続側)に、B端子類は周辺機器やハブ(上流・ホスト接続側)に使われている。ミニB端子類は、デジタルカメラなどの小型デバイスに使用される。端子形状を変えることにより接続方法を制限し、バストポロジーの木構造が保たれるように配慮されている。 ミニABソケット(メス側コネクタ)は、ミニAプラグとミニBプラグのどちらでも接続できるものであり、マイクロABソケット(メス側コネクタ)についても同様である。詳しくはUSB On-The-Go参照のこと。携帯情報端末やスマートフォンなどの一部で使われている。これらの搭載機はパソコンに接続する場合は『子機』として動作し、単体の場合は他のUSB機材を接続して『親機』として使うことを前提としている事と小型化のために採用している。使用時は接続ケーブルを交換することでどちらの動作をすべきなのかを判断している。本体側もUSBホスト機能を内蔵している。 USB 3.0まで対応出来る端子とソケットが2008年11月から新しく仕様に加わった。従来どおりUSB 1.1以降での上位互換性を守り、USB 3.0まで対応可能な端子とソケットはUSB 1.1以降の物との混用が可能である。USB 3.0でのピン数の増加に対応して新たな端子とソケットは、USB 2.0までの規格形状を満たしながら、奥まった位置 (A) や2段重ね (B)、横位置(SideCarと呼ばれる横並びの配置、Micro-B)に追加の端子が増やされた。(この増やされた端子の分だけ、USB 3.0のBコネクタ、Micro-Bコネクタは、USB 2.0までのBコネクタやMicro-Bコネクタよりも大きく、USB 3.0用の接続ケーブルをUSB 2.0機器に接続することができない。) どの世代においても、端子は、データ端子よりも電源端子の方が長くなっている。これは、機器が挿抜される際、電源が入っていない状態でデータ端子に電圧がかかり、機器を破損するのを防止するためである。 補足:WACOMが出していた液晶タブレットPL-550はミニDINコネクタ4ピン形状のコネクタを採用している。しかし、ピンアサインはS端子ともADB (Apple Desktop Bus) とも異なる。現在、日本国内でこのケーブル単体での入手は困難である。 USBポートとコネクタは、さまざまな機能とUSBバージョンを区別するために色分けされていることがよくある。ただし、これらの色はUSB仕様の一部ではなく、メーカーによって異なる場合がある。たとえば、USB 3.0仕様では適切な色分けが義務付けられているが、標準AのUSB3.0コネクタとプラグには青色 (Pantone 300C) のインサートのみが推奨されている。初期型のPlayStation3のコラボモデルは例外的に、本体カラーにUSB端子の色が変更されている場合がある。 2014年8月、USB 3.0 Promoter Groupによって策定された。スマートフォンなどの小型機器に向けたサイズの縮小と、最大100Wまでの電力供給を可能にするUSB Power Deliveryへの対応、そして表裏どちら向きでも挿せる構造が特徴。 ただし、USB Type-Cコネクタを装備する機器であってもUSB 3.1やUSB Power Deliveryに対応するとは限らないので注意が必要(コネクタ形状と機能は別々に考える必要がある)。 特徴は以下の通り。 USB A端子はその端子を正面から見るといずれの側からも単なる長方形となっており、接続するための裏表を間違う事がある。実際にはオス側(穴のある側)表面にかかれているUSBのマークにより判断が可能だが、それを利用者が意識せず逆差ししようとすることがある。USBポートおよびオス側コネクタ内の厚みの半分ほどをプラスチックの板で塞ぐことにより、逆差しが物理的に不可能になるようにしてあるので(本記事内の各写真を参照)USBプラグが差せない、という状況になる。 バッファローはA端子の表裏どちらを挿しても正常に使用できる独自仕様の「どっちもUSB」シリーズ(USBハブ・ケーブル等)を2012年に発売した。 USB 2.0規格ではケーブルはHigh/Full Speed用とLow Speed用の2つが定められている。安価に製造できるようLow Speed用は電気的特性が緩い。Low Speedデバイスではケーブルが分離できるように設計することが明示的に禁止されているため、単独のケーブルはすべてHigh/Full Speed用となる。 USB 3.0規格はSuperSpeed用に信号線が増やされているためにケーブルもUSB 3.0用のものが用いられる。 誤接続を防ぐため、A端子はホスト側、B端子はデバイス側と規定されている。このため、両側がA端子、あるいは両側がB端子であるようなケーブルは規格違反品である。 またこれとは別に、A端子とAソケットが付いたUSB延長ケーブルはA・B端子使い分けの点では問題がないが、複数接続によって規定の長さを超える危険性があるため、これも規格で明示的に禁止されている。 USB 2.0規格はUSB 1.1規格と互換性を保つように設計されたため、USB 2.0規格のUSBポートにUSB 1.1規格で設計された機器をつないでも使える。また、USB 2.0規格で新設されたHigh Speed機器をUSB 1.1規格で設計されたポート、ハブにつないだ場合でも、Full Speedの転送速度で使用できる。また、USB 3.0規格は、USB 2.0規格と互換性があるように設計されている。しかし、現在のUSB 3.0規格に準拠していない製品にもかかわらず、USB 3.0をうたっている製品がある。これらは、USB 2.0との互換性がない・転送速度が遅いなどの不具合を起こす可能性がある。 USBケーブルの規格はUSB 2.0で変更されていないので、同じものが使えることになっている。USB 1.1の規格を正しく守っていない低品質のケーブルでは、High Speed通信においてケーブルの長さなどに制約を受けることもある。また「USB 2.0対応」と称するケーブルも発売されている。これはシールド線構造等外部からのノイズを防ぐ工夫がなされているものと考えられる。 見落とされがちであるが、ACアダプターに十分な給電能力があっても、その規格に見合うケーブルが使われていない場合、給電能力が制限されるので注意が必要である。 USBホストコントローラとUSBデバイス側のコントローラのメーカー、モデル、ファームウェア等の差異、かつてはさらにOSやドライバ側の問題などによっても相性問題が生じたことも知られており、特に規格成立初期に登場したコントローラ同士を接続した際に混乱を生じたこともあった。 この「初期の相性問題」については、インテル社が自社製のPC用チップセットにUSBホストコントローラを内蔵することによって各デバイスがインテル社製チップセットのホストコントローラおよびWindowsへの接続に対して互換性の確保を図ることで、間接的に機器間の相性問題も収斂してゆくという結果を、USB 1.1、2.0ともに辿っている。 また、USB 1.1までの仕様では、インピーダンス等の電気的特性における仕様がゆるく、規格適合性試験も必須でなかったため、相性問題の発生を抑制し切れないという事情もあった。USB 2.0仕様からは電気的仕様が厳密になり、USBロゴを取得するための規格適合性試験も必須となったため、「相性問題」はほぼ解消されたといわれる。 しかし、市場やユーザーの手元には、初期に製造され相性問題を抱える製品が現存している場合もあり、また、一部のメーカー・ベンダー製ホストコントローラとコントローラ間などにおいては、相性問題を発生する状況も依然として存在し続けている。 具体的な症状としては、USBメモリが認識はされるが中身が表示されない(別のコネクタに接続すると正常に動作する)、ストレージモードで接続している携帯型音楽プレーヤーが途中でシャットダウンする、などが挙げられる。 規格上は、最大127台までの機器を一つのバスに接続することができる。木構造の「深さ」を示すTierは、ルートハブ(ホスト)を含め7段までに制限されている。つまりデバイスとホストの間にハブは最大5台まで存在することができる。ケーブルの最大長は規格では遅延時間とVBUSの電圧降下の最大値として定められており、ケーブル1本あたり最大26 nsおよび125 mVである (§7.1.16, 7.2.2)。 しかし実際には、USBコントローラやハブとUSB機器の「相性」や、ハブの備える物理的なポート数などによって制約を受け、USB関連デバイスの開発メーカー等における接続テストのような場合を除けば、日常的に実際に127台のデバイスを接続して利用する例は極めてまれといえる。言い換えるなら、エンドユーザーが規格上の論理接続数を一般的な利用の範囲内で飽和させるという使用例はまずあり得ず、余裕をもった規格であるといえる。 週刊アスキーで実験したところ、80台目あたりからエラーが頻発したものの、繋ぎ方を工夫すれば100台までは実用に耐えたという。 USBは、基本的には信号ケーブルとして設計されている。その一方で実際的な利便性にも配慮し、小電力のデバイスについては、接続される周辺機器の駆動用の電源をUSBケーブルで供給するバスパワード(「バスパワー」と省略されることが多い)による駆動にも対応している。供給電圧は5 V (±10%)、電流はローパワーデバイスは100 mA(USB 3.xは150 mA)、ハイパワーデバイス最大は500 mA (USB 2.0)・900 mA (USB 3.0) までとされている。USBデバイスがサスペンド状態の場合は最大電流は500 μAまでだったが、2007年リリースのLink Power Management Addendum ECNにより2.5 mAまでとなった。 USB給電のための規格で、USB 2.0規格の給電仕様の拡張が試みられている。USB IFにより2007年にRevision 1.1、2010年にRevision 1.2がリリースされた。従来のUSB 2.0ポートはStandard Downstream Port (SDP) と定義し、新たにチャージングポートと呼ぶ2種類が規格化されている。 2012年7月にUSB 3.0プロモーターグループは、USB Power Delivery (USB PD) Revision 1.0 Version 1.0 の規格化を完了したと発表した。USB Battery Charging Revision 1.2と共存して使用される。10 W・18 W・36 W・60 W・100 W の5つのパワープロファイル (Power Profile) があり、認証されたPD対応USBケーブル、USB A/Bコネクタを使用することで20 V, 100 Wまでの電源供給が可能となる。マイクロUSB B/ABコネクタでは最大20 V, 60 Wまでとなる。ホストからデバイス、デバイスからホストへの電源供給がケーブルのつなぎかえなしで可能。 2014年にUSB 3.1の一部として USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.0 がリリースされ、USB Type-Cケーブルに対応した。 2016年にリリースされた USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.2 と USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では5つのパワープロファイルに代わって、パワールール (Power Rules) という給電仕様にとなった。 USB Power Delivery Revision 2.0 との後方互換性を持つ。5V・9V・15V・20Vの電圧仕様があり、供給側は3Aで最大供給電力以下となる電圧はすべてサポートする必要がある。パワールール以外の電圧、電流もオプションで許可されている。正式にUSB Type-C専用の給電規格となり、USB A/BコネクタでのPDは普及することなく規格から削除された。 USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでプログラマブル・パワー・サプライ (Programmable Power Supply; PPS) の機能があり、電圧を可変にでき、充電時の余計な発熱を減らし、電力の利用効率を上げられる。一部のスマートフォンなどで利用されている。 また USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでファスト・ロール・スワップ (Fast Role Swap; FRS) の機能があり、0.15ミリ秒以内に給電と受電の役割を入れ替えることができる。 USB給電仕様は、当初はローパワーデバイスについてはPC/AT互換機におけるPS/2コネクタの置き換えを念頭に、マウスやキーボードに搭載される小電力の半導体ロジック等の駆動を前提として設計された。またハイパワーデバイスについてもそれらのロジック回路などよりは電力を要求することを想定しているものの、いずれもスピンドル(モーター)の駆動や機器の充電手段等としての大電力の利用を想定したものではなかった。このため小型ノートパソコンの一部などのように供給電流を抑えてある場合、500 mAに近い電流で動く事を想定しているUSB接続機材の動作が不安定だったり動作しない事もある。 ハイパワーデバイスとしての仕様以上の電力を要求するディスクドライブ等のモーター駆動式の機器や、大規模な集積回路などを含み電力を消費する画像用のキャプチャー機器等については、USBバスは純粋に信号バスとしてのみ利用し、電力は機器側で用意する「セルフパワー」と呼ばれる接続手段を用いることとされた。 バスパワードのデバイスを多数接続、あるいはバスパワードのハブを使用して多段接続をすると、給電能力を超えるため、ポート側には給電をシャットダウンする機能が備わっている。ユーザー側でも不用意に過大なたこ足配線とならないよう、市販のバスパワー駆動のUSBハブは殆どが4ポート以下で構成されている。 USBポート、バスパワードのハブにおいて、給電能力を大幅に越えた合計消費電力となるポートの接続はサポートしておらず、最悪の場合、ハブやPC側のインターフェース・カードやバス、電源回路などの保護回路が作動するか、機器にダメージを与えることがある。 しかし市場では実際に、USBの普及に伴いこの僅かな供給電力を、2.5インチおよび1.8インチのポータブルハードディスクドライブ、また、消費電力の大きいDVD-Rの書き込みドライブ等のスピンドル媒体への供給電力に転用したり、携帯電話やPHSなどの電池充電用の電源として流用する例が目立ち始めた。 コンピュータ本体との接続ケーブルとAC電源を別に用意する煩わしさをなくすために、1本のケーブルで機器を接続したいというユーザーの要求は根強く、USBの給電能力を増強するべくPlusPowerという電圧と電流の拡張も検討されていた。しかし、安全性や互換性の問題などの指摘も相次いだことから正式に仕様には盛り込まれなかった。 この問題を解決するため、PoweredUSBという、USB 2.0ポートを拡張した規格がIBMより登場した。供給電圧5 V・12 V・24 V。最大電流は6 A。PoweredUSBに対応した接続ケーブルが必要とされる。しかし、2012年11月現在、この規格はUSB-IFから正式な承認を得られていない。 また、デバイスとは認識させず、電源のみを供給させる周辺機器も存在する。1台の機器に対して、2つのホストコネクターから2台分のバスパワーを供給するための特殊な二股ケーブルなどが該当する。 中華人民共和国情報産業部では2006年、携帯電話の充電器にUSBポートを設け、複数キャリア間でもACアダプターが共用できるようにする方針を打ち出している。 2007年4月には、USB経由での充電時間を短縮するための規格「Battery Charging Revision 1.0」が策定された。これは、充電器などが、USBのホストが大電流を流すことができるかを検知することで、従来のUSB 2.0規格における上限の500 mAを超える電流を得ることを実現する仕組みの規格である。 2009年6月に携帯電話の業界団体やEUでも携帯電話端末の充電器のコネクタにマイクロUSBを採用し、共通化する動きがでてきた。 市場では、PCやセルフパワー型のハブのUSBポートからコンセントのように電力が得られる点を利用して、USBを電源供給にのみ用いる周辺機器が次第に登場するようになった。モバイル機器だけでなく、携帯ゲーム機、デジタルオーディオプレーヤー等の携帯機器用の充電器・充電用ケーブルや、小型扇風機、電灯といったデバイスとは認識されない周辺機器、中にはUSBから電源を得る利点がほとんど見出せないようなものも商品化されており、電気街の商品棚をにぎわせている。年末になると登場する卓上クリスマスツリーや、夏季の扇風機などはもはや風物詩でさえある。中には、USBによるバスパワー30本分(並列接続で15アンペア、計75ワット)を電源として用いる「焼き肉プレート」を自作した人物も存在する。 一方、これらのような「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器の展開を追う形で、単に電源を供給するために電力供給機能のみに限定した、USBポートと同一形状のコネクタを持つACアダプタや、充電式の電池や乾電池等を使用した給電ユニット等も発売されている。このような製品を使用することによって、外出時に機器ごとにACアダプタを持ち歩かずに充電可能で、かつ複数の機器を単一のACアダプタで使用することが出来る利便性がある。また国ごとに違うコンセントの形状や周波数・電圧等に対して機器側で対応するのではなく各国で市販されているUSBアダプタ側で対応できるためメーカーとしては輸出機械の設計が容易になるメリットも有る。壁面のコンセントボックスに埋め込んで給電用USBポートを提供するUSBコンセントも市販されている。 ただし、メーカーが保証している一部機種を除いて、これら「電力供給専用のUSBポート関連製品」を用いて充電することは機器メーカーの保証対象外となる。 また、これらの「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器と、通常のインターフェースとしてのUSBポートを接続する場合も、ほとんどが動作保証の対象外となる(そもそも、ホスト側の許可を得ずにターゲットが勝手に「電力を奪う」実装はUSB規格違反である)。 最近では、高性能なUSB電源供給能力を謳ったマザーボードも販売されている。 2010年代初頭から、カフェ、ホテル、空港、旅客機、鉄道や長距離バス・タクシーの車内で、利用者のスマートフォンの充電やノートパソコンの利用の便宜を図るため、電源を提供する例が増えている。 多くは商用電源の提供であるが、商用電源のプラグ形状や電圧は、国家や地域によって異なるため、海外旅行者が手持ちのACアダプタを使えない場合などに配慮して、壁面USBコンセントを使ったUSB電源の提供や、USB-ACアダプタの貸出を行っている場合もある。 しかしUSBは、もともとデータ通信用の接続規格として制定されたものであり、電力供給専用として使うことを想定された規格ではない。一見電力供給専用に見える機器・コネクタであっても、それが接続された機器からデータを抜き取ったり、コンピュータプログラムを送り込んだりしないと保証することは困難である。一部のUSB充電器は充電専用であることを明示するために、USBコネクタの樹脂部品部分に赤色や緑色、黄色といった色分けをしている(青色はUSB3.xの意であり給電用ではない)が、統一された規格ではないうえ、不正な機器が偽装のためこれらの色付きコネクタを使うことも容易に可能である。 そのため、情報機器からのデータの抜き取りやコンピュータウイルスへの感染を未然に防止する観点から、自宅などの信用できる場所以外の施設では、給電用にUSBポートが提供されている場合であっても、これらのUSB(USB-C, マイクロUSBやLightningなど、データ通信可能なケーブルの接続されたものや、貸出されたUSB-ACアダプタも同様)を使用せず、スマートフォンやタブレット端末の情報機器は、自前で純正アダプタを用意して、商用電源コンセントから充電することが、コンピュータセキュリティ上望ましい。 2023年4月6日には、米国連邦捜査局 (FBI) も同様の注意喚起を行うツイートを行った。 2010年代以降、スマートフォンやUSB充電に対応したワイヤレスヘッドホンの登場とともにUSB ACアダプタが普及している。ただし、それ以前の2000年代でも、形状が今の時代とは異なるUSB ACアダプターが製造・使用されていたことがある。 スマートフォン用としては、一般にUSB Type-Aポートを持つUSB ACアダプタが登場したが、スマートフォンがUSB Type-Cポートをサポートするようになってからは、USB Type-Cポートを持つUSB ACアダプタも登場している。2019年頃より窒化ガリウム技術を採用することにより、小型軽量化が進み、複数のポートを搭載し、同時に2台以上のデバイスの充電に対応した製品も登場している。 なお、日本国内での使用を想定してUSB ACアダプタを購入する際には、特定電気用品PSEマーク、製造事業者等の名称、定格電圧、定格消費電力等の表示のある機器を選択すること。そのほか、メーカー(機器に自社のブランドを付けて販売している業者)が信用できるか、偽ブランド品ではないかなど留意するとともに、購入した覚えのない機器、出所の明らかでない機器は使用しないことが望ましい(前述のコンピュータセキュリティに対する懸念のほか、盗聴器が内蔵されているなどの懸念に対する防御のため)。 USBはUSB 1.0のころから接触不良が多く見られた。特にUSB 1.0では機器のオス側で接点面が上を向いた状況で使われると塵埃が乗ったり腐蝕性物質(塩分)の付着により接触不良となることが多い。また、たびたび端子の脱着を繰り返す間に金属枠の部分が変形し、接点の圧力が低下することが接触不良の原因となりうる。 スマホなどのモバイル機器ではUSBマイクロ端子が通信だけでなく、単に給電や充電に使われることが多いが、ポケットなどに入れることで端子に塵埃が入り込み接触不良となることがある。また脱着を繰り返すたびに金属枠が変形し、接点の圧力が低下することで接触不良となることもある。 接触不良が起こると単に給電や充電が不安定になるだけでなく、通信が不安定になることで、例えばハードディスクやUSBメモリーなどでは深刻で、単にデーターエラーとなるだけでなく、時に不可逆なハードエラーとなることがある。 まず、接触不良が起きた場合には端子の金属枠が変形していないか確認する必要がある。多くは脱着により端子枠が変形して広くなり、接点の圧力が低下する方向なるので用手的に金属枠を狭くすることで解決することがある。 接点の塵埃や腐蝕に対しては、エアを吹く以外に適切な解決方法がないが、コンタクトRと称してレシートを用いて接点を研磨する方法が報告されている。これはレシートに塗られた炭酸カルシウムの層により接点の塵埃や酸化物を研磨してとりさる方法である。簡便で入手しやすく、非導電のため接点のショートなどの危険が無いのが特長である。 USBは、それまでのレガシーインターフェースに代わる新たな汎用バス・インターフェースとして、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)インテル、マイクロソフト、NECなどにより策定された。 USBは、当初からホットプラグを可能とする画期的なインターフェースとして注目を集め、Microsoft WindowsではWindows 95 OSR2から、Macintoshでは暫定的に初代iMac専用のMac OS 8.1からサポートされるようになった。ただし、Windows 95 OSR2とUSB Supplemental Support、及びメーカー提供のデバイスドライバの組み合わせによる対応は追加仕様であり、周辺機器メーカーも乗り気ではなく、OSの標準仕様として盛り込まれるWindows 98が登場するまでは様子見の感が強かった。Macintosh環境においてiMacがUSB以外のインターフェースを切り捨てて登場したために、USBの普及が急速に進んだが、標準サポートとなるMac OS 8.6までは数多くの不具合と問題を抱えていた。 日本国内においてUSBに対して動きが素早かったのは、USBの仕様策定にも関わったNECである。NECはPC-9821シリーズやPC98-NXシリーズにUSBポートを搭載するだけでなく、1997年にはターミナルアダプタ、マウス、キーボード、スキャナ、プリンター、ジョイスティック等多種のUSBデバイスを登場させていた。ただし、これらの素早い展開は一部にWindows 98以降でサポートされない物も出てくるなど混乱を生じる原因ともなった。 最初のホストアダプタ製品は、1996年にPC向けのPCIインターフェースに増設するカードとして登場した。 またインテルが1996年にリリースしたPC向けチップセット430HXにおいてUSBホストアダプター機能を内蔵すると、USBを搭載したPCは急速に普及を開始する。 IBMは、AptivaJ/Hシリーズ1996年11月モデルでオンボードのUSBポートを備えた機種を登場させた(前述の430HXチップセットの採用による)。しかしキーボードやマウスはPS/2コネクタに接続されていた。 当時のWindows 95 OSR2では、USBデバイスのサポートは限定的なものだったため、IBM側では動作を保証しない非公式のUSBドライバーを添付するに留め、該当機種に付属したマニュアルにはこのドライバーの入った付属ディスクに動作未保証が明記され、同社サポートダイアルでもプリインストールのWindows 95と付属ドライバーで動作させていた環境では動作保証はないとアナウンスしていた。これらはAptivaに限らず、同時期の他の互換機についても同様である。これらの機種のUSBポートは、Windows 98等のUSBサポート機能のあるOSを導入した際に、はじめて正式対応される性質のものだった。 標準添付のマウスやキーボードをUSBによって接続しPS/2コネクタを廃した製品は、日本国内ではNECが1997年秋に発売したPC98-NXシリーズ(準PC/AT互換機)が最初である。これはUSB接続のマウスとキーボードを「レガシー・エミュレーション」によりPS/2デバイスとして動作するようにしたものである。ただし、初期のPC98-NXシリーズについてはPS/2コネクタはマザーボード上に存在し、筐体に穴が開けられていないだけに留まり、またシリアル/パラレル等のレガシーポートも健在である等、レガシーフリーを徹底したものではなかった。また当時の一部機種ではBIOSの既定値設定に問題があり、当時のLinux 2.4系カーネル(カーネル側でもレガシーエミュレーションを想定していなかった)のインストール時に正しく認識することができなかった。このような経緯を受け、後にサードパーティー各社から発売されたUSB機器の中には、トラブルを嫌忌してPC98-NXシリーズでは動作保証しない旨表示するものも存在した。 なおUSB 1.1に正式対応したのはWindows 98 Second Editionからで、その後登場したUSBデバイスは初期版Windows 98以前を対応環境に含めない場合がほとんどである。ただしSecond EditionもUSBマスストレージ・クラスなど多くの汎用ドライバを標準装備していないため個別にドライバをインストールする必要があり、挿してすぐに使える便利さは備えていない。 このようにUSBホストアダプタの実現と搭載は早かったものの、PC互換機を中心とした市場では急速な移行を強いられることはなく、USBへの移行は緩やかなものとなった。長年に渡って互換性が検証され、よくメンテナンスされたレガシーインターフェースはハード・ソフト(ドライバ)とも「枯れて」動作も安定しており、単純な仕様によりCPUに対する負荷が少ないというメリットもあった。またパラレルポートもECPによる転送速度はUSB 1.1よりも高速であり、SCSIはさらに高速である。これらのレガシーインターフェースの多くは、ホットスワップにこそ対応しないもののプラグアンドプレイへの対応は完了しており、ユーザビリティの面でも特に不自由がなかったため、USB 1.1の段階では利便性の面においても移行にメリットを見出し難いという事情も存在していた。 なお、特にキーボードについては、USB HIDの仕様でキーロールオーバー数が6に制限されるため(それ以上の同時押しに対しては、先に押されたキーが放されたことにするなどする必要がある)、ゲーム用などでPS/2接続のキーボードの需要がある(標準のドライバではない専用の特殊なドライバと独自設計のプロトコルで、USB接続でこの問題を解決したキーボードもある)。 PC市場においてUSBデバイスはUSB 2.0が登場した2000年頃より本格的な普及を開始し、現在では外付け用周辺機器の接続用バスの主流の座はUSBに移っている。レガシーバスを搭載しないレガシーフリーPCも現れており、特にラップトップPCでは比較的早い時期から特に珍しいものではなくなっていた。しかしUSBとレガシーポートの併用もまた、実に10年以上の長期に渡り続いている。レガシーポートを搭載したPCもごく最近まで一般的に販売され続けて来ており、2000年代における現状としては、完全な移行はUSBの登場から10余年をもってようやく完了しつつある、という状態である。 米調査会社In-Stat社は2007年に全世界で出荷されたUSBのポート数は26億ポートに達したと伝えた。同社はこの数が2012年には43億ポートになり、この内USB 3.0は4.5億ポートとなると予測している。 1998年にUSBを標準搭載したiMacは、モニタ一体型の斬新なデザインとともに、従来の汎用インターフェースADBのみならずSCSIやRS-422シリアルポートも廃してUSBへ一本化するなど、PC98-NXよりさらに思い切った仕様で登場し、話題と議論を呼んだ。 従来、USB機器の製造・販売に躊躇していた周辺機器メーカーも、既存のインターフェースを扱うことができなくなったiMacシリーズ向けとしてUSBへの対応を迫られる形となり、普及が一気に進んだ。iMac本体に合わせたトランスルーセントデザインのUSB周辺機器が流行となり、幅広い層に受け入れられていった。こうしたUSBデバイスにはMacintoshとWindows双方のドライバが添付され、結果としてPC/AT互換機におけるUSBの普及を後押ししたという側面もある。 USB 3.1(初期はGen 1の為5 Gbps)の登場とともに、USB-Cだけを採用したMacBookが2015年3月10日に発表された。電源ポートもUSB Power Deliveryで兼ね、従来のUSB-AやMagSafe 2すら搭載しないという大胆なI/Oポートの構成を採っている。 NECのPC-9821シリーズは他社に先駆けてUSBに対応したモデルを出していたが、USB登場時点ですでにPC-9821シリーズ自身が末期だったこともあり、NEC製の機器を除き対応機器は非常に限られているが、Windows 98 SEやWindows 2000では、多くのデバイスが動作するようになった。 家庭用ゲーム機ではドリームキャストとXboxがUSBをアレンジした独自形状の端子によるコントローラ接続を採用した。最初に汎用USB端子を採用したのはPlayStation 2だが、キーボード、マウス、ボイスチャット用ヘッドセットなど一部の周辺機器の接続を除けば積極的には活用されなかった。また、キーボードとマウスはPC/AT互換機用USB仕様のものがそのまま流用できるが、あまり知られなかった。ただし、PS2本体を改造し、ゲームデータをバックアップ起動するときは頻繁にUSBメモリを接続する。また、PS2を採用したアーケードゲームの基板のバージョンアップにも使用する。 2000年代後半に登場したXbox 360、PlayStation 3の汎用USB 2.0端子はコントローラーを接続するほか、パソコンに近い柔軟な活用性を持っている。双方とも、のちの本体アップデートで外付けHDDを自由に接続できるようになった。WiiもUSB 2.0端子を備えるが、用途はネットワークアダプターやキーボード、Wii用周辺機器などの接続に限られる。 PlayStation 4のAUX端子およびAUX端子に接続するPlayStation Cameraの実態はUSB 3.0であり、他機器との同時接続で通信速度を確保できない可能性を回避するため独自形状の端子となっている。 携帯ゲーム機のPlayStation PortableやPlayStation Vitaはそれ自体がUSBデバイスとして機能し、パソコンやPlayStation 3に接続してデータのやり取りや、一部のモデルを除き充電などを行う。 最近のアーケードゲーム基板NAOMIやSYSTEM246等のI/O通信用に、物理的にUSBケーブルが流用されているが、こちらは業界団体JAMMAで策定されたJAMMA VIDEO規格 (JVS) となっており、信号レベル・プロトコルともUSBとは互換性はない。 携帯電話端末はUSBケーブルを使ってパソコンに接続しデータのやり取りや充電、携帯電話の通信網を使ったデータ通信などを行う。携帯電話側の端子は独自のものが多いが、汎用USBポートを採用したものもある。携帯音楽プレーヤーなどの小型デバイスも汎用USB端子を備えPCに接続するものが多い。薄型テレビ、AVアンプ、デジタルフォトフレーム、DVD/BDレコーダー/プレーヤーなどもUSB端子を持つものがあり、USBメモリ内のマルチメディア・ファイルを再生したりデジタルカメラ、デジタルビデオカメラなどとの接続に利用する。薄型テレビにはUSB接続されたHDDにTV放送を録画できる物がある。 早ければ2009年の年末からストレージ機器などの採用機器が登場すると見込まれていた。バッファローが2009年10月28日にUSB 3.0対応の外付けハードディスクドライブとUSB 3.0ポートを増設するためのインターフェースカードを発売。これは個人が購入できるUSB 3.0対応機器とインターフェースカードとしては世界初となる。コンシューマ向けに販売されているマザーボード、インターフェースボードではNECエレクトロニクス(現:ルネサス エレクトロニクス)製USB 3.0コントローラチップと、マーベル製SATA 3.0 (SATA 6 Gb/s) コントローラーチップが同一の基板上に搭載され、単一の製品として販売される事例が多い。PlayStation 4,Xbox Oneのみ、外付けHDDをUSB3.0の規格で接続でき、外付けHDDのゲームデータを直接起動することも可能である。 なお、実効500 MB/secであるUSB 3.0のインターフェースカードを増設する場合は、増設バスの帯域幅も実効500 MB/secのものが必要となり、さもなくば動作はするが増設バスがボトルネックとなる。PCI Express 2.0 x1(実効500 MB/sec)対応のものが標準的である。 2010年8月、初期に登場したUSB-IF未認証のコントローラーを採用したマザーボードでUSB 1.x/2.0機器を接続しても動作しない問題が起きている。 USB 2.0規格に対応するUSBデバイスは幅広いオペレーティングシステム (OS) でサポートされている。以下に主な物を示す。 USBクラス仕様の周辺機器の場合は、USBクラスデバイスをサポートするOS環境下であれば利用が可能である。組み込み系やゲーム機、デジタル家電等の場合は、ホスト側のUSBクラスデバイスのサポートが無かったり、不完全だったりする場合もある。またクラスデバイスでない周辺機器の場合も、各OS向けに周辺機器を認識するドライバ・ソフトウェアさえ用意されれば、同じ機器が利用できる。 USB 3.0規格に対応したUSBデバイスや、USBコントローラーを内蔵したマザーボード、インターフェースボード等は、2009年末から2010年前半に出揃い始めている。 OSのサポート状況は、それぞれのコントローラーやデバイスのドライバー(USB 3.0のマスストレージ、クラスドライバ等を含む)のサポートに主として依存すると目されている。OS自体がサポート打ち切りの場合、正式なドライバーのサポートは受けられない事が通例である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ユニバーサル・シリアル・バス(英: Universal Serial Bus、略称:USB、ユーエスビー)は、コンピュータ等の情報機器に周辺機器を接続するためのシリアルバス規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、ホスト機器にさまざまな周辺機器を接続するためのペリフェラルバス規格であり、最初の規格となるUSB 1.0は1996年に登場した。現在のパーソナルコンピュータ周辺機器において、最も普及した汎用インターフェース規格である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "USB規格では、1つのバスについて周辺機器は最大で127台接続可能である。接続口が足りない場合には、ツリー状に拡張できるUSBハブの使用も想定している。プラグアンドプレイにも対応しており、規格制定当時の一般的な外部インターフェースでは不可能だったホットスワップも可能としていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ホストバスアダプタからの周辺機器への電源供給を規定している(バスパワー)。そのため従来のコンピュータ周辺機器だけでなく、事務用品や携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、日用品や便利グッズなど多様な機器へ電力を供給をする用途にも使用されるようになった。USBのコネクタを持ちつつ、この電力供給機能に特化したデータ通信を一切行わないという充電専用ケーブルも販売されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "USBはホスト機器と周辺機器を接続する規格であり、ホスト同士・周辺機器同士の直接接続にはUSB On-The-Go対応機器を除いて非対応で、電力供給能力が低いといった限界や柔軟性に欠ける部分はあるものの、現在のパーソナルコンピュータ環境では利便性に優れ、周辺機器との接続に最も使用される規格である。特に外部記憶デバイスとして扱えるUSB接続のUSBメモリは可搬性の高さからよく利用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "従来からのRS-232CシリアルポートやIEEE 1284パラレルポート、PS/2コネクタの置き換え(後々、レガシーポートとも呼ばれるようになる)を狙ってコンパック、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC)、IBM、インテル、マイクロソフト、NEC、ノーテルネットワークスの7社が合同で1994年に開発を行い、Windows 98において正式にサポートされたことで普及した。", "title": "設立" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "さらにUSB 2.0/3.0の登場によって転送速度が大幅に向上し、従来はIDEやSCSI、イーサネットなど高速転送規格が必要だったハードディスクドライブ等の機器との接続にも用いられている。", "title": "設立" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "USB 3ではマイナーバージョンが乱立し、ユーザーに混乱を引き起こした。USB Promoter GroupのCEO、Brad SaundersはUSB 3における混乱を受けて、USB4を元にした新規格が作られた際には、マイナーバージョンではなく新名称を与える方針を公表した。", "title": "設立" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当初はインテル、マイクロソフト、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(現:ヒューレット・パッカード)、IBM、NEC、ノーザンテレコム(現:ノキア)が仕様を策定したが、2017年9月現在では、NPOのUSBインプリメンターズ・フォーラム (USB-IF) が仕様の策定や管理などを行なっている。USB-IFは、Apple、ヒューレット・パッカード、インテル、マイクロソフト、ルネサスエレクトロニクス、STマイクロエレクトロニクスの6社が主導企業であり、合計996社で構成される。", "title": "規格所有者" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "類似独自規格の乱造乱立を防ぐ目的で特許自体は存在しているが、特許使用料は無料とされている。なお、USBデバイスの製造においては製造者を識別するためのベンダーIDの申請を行う必要がある。", "title": "規格所有者" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "多くの他のバス規格では、特許料の支払いの関係で個別での契約が必要であるなど、中小法人の参入が難しかったのに対し、USB規格ではルールさえ守れば事実上誰でも参入可能なことが普及を促進したと言われており、玩具など幅広い機器が発売されている。", "title": "規格所有者" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "USB規格は、最大転送速度の向上などを求めて何度か規格が拡張されている。これらは1.1から4まで上位互換であり、機能や性能が下位規格に縛られる事を除けば、下位規格品と上位規格品を接続しても正しく動作する事が求められている。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1996年1月発表。最大12 Mbps (1.5MB/s)。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1998年9月発表。USB 1.0の規格仕様を電源管理等について改善した。最大12 Mbps (1.5MB/s)。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2000年4月発表。USB 1.1の規格仕様に、High-Speedモード(最大480 Mbps)を追加した。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "480 MbpsのHigh-Speed転送やそれをサポートする機器と、規格のバージョン番号であるUSB 2.0を同一の意味で使う場合があるが、これは誤用である。USB 2.0規格では依然としてFull-SpeedデバイスおよびLow-Speedデバイスは設計および製造が可能でかつ販売および利用が可能である。USB-IFではHigh-Speedであることを明示したいような場合の用語として\"Hi-Speed USB\"を使うように指導している。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "USB-IFにより規格標準化が進められ、2008年8月のIntel Developer Forumにて、revision 1.0が2008年第4四半期に登場すると明言され、同時にピンの仕様とコネクタおよびケーブルのプロトタイプが出席者に対して公開された。その後、正式な通称が「SuperSpeed USB」とされ、ロゴも公開された。2008年9月には暫定規格であるrevision 0.9が決定された。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2008年11月17日に「SuperSpeed USB Developers Conference」上で正式な仕様が発表され、USB 3.0規格はrevision 1.0として正式なものとなった。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "USB 3.0は、物理的な後方互換性を保ちつつ、最大データ転送速度が5 Gbps(ただし、8ビットのデータが10ビットの信号に変換されて送られるので、実際のデータ転送速度は4 Gbps = 500 MB/sが上限)となった。ピンの数が標準では5本増えて9本となり、USB On-The-Go対応のオプションでは計10本となるが、ピン形状が工夫されUSB 1.1やUSB 2.0対応の(標準)A端子、(標準)B端子、マイクロB端子との物理的な後方互換性は確保されたが、ミニUSBは規格から消滅した。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ピンの数が増えた理由は、USB 2.0以前とUSB 3.0以降で完全に別の信号線を使用するからである。つまり、USB 3.0以降はUSB 2.0以前と別の技術で動作している。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "符号化方式がUSB 2.0のNRZIに対して8b/10bとPRBSが採用され、通信モードも半二重から全二重(単信2組)となる。物理層にはPCI Express 2.0の技術が準用されている。携帯機器への配慮から消費電力の削減が強く求められ、SuperSpeedではポーリングが排除され、4つの待機モードも新たに設けられた。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、USB 3.0対応機器のコネクタの絶縁体部には1.1/2.0との区別のため青色を使用することが推奨されている。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "電磁放射ノイズのピークを下げるために、スペクトラム拡散クロックが必須とされた。光伝送も含まれる予定だったがコスト面からの反対が多く、revision 1.0での導入は見送られた。光伝送技術の導入に積極的なインテル社は、将来の採用を構想している。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "放射電磁雑音対策のために、信号ケーブルにはシールド付きの物を使用するが、規格である3 mの伝送距離を満たした試作品は直径6 mmあり、携帯機器によってはUSBケーブルで宙に浮いてしまう。そういった事態を避けるために今後、伝送距離を1 m程度に短くし、伝送損失が許される範囲の規格で更に細い信号ケーブルを使う事も検討されている。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "USB 3.0がチップセットに内蔵されることでマザーボードの標準機能に含まれるのは、AMD社ではA75、Intel社ではIntel 7シリーズからである。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "増設インターフェイスカードを使用する際には、通信速度のボトルネックに注意が必要となる。USB 3.0の1ポートあたりの最大転送速度は5 Gbpsであり、PCI Express x1 (Gen 2) の最大転送速度も5 Gbpsであるため、市場に多く出回っているPCI Express x1のインターフェイスカードを増設した場合、USB 3.0を2ポート以上接続して利用するとPCI Express x1の転送速度がボトルネックとなる。これを避けるために、PCI Express x4スロットで接続するインターフェイスカードも登場している。また、PCI Express x1のマザーボードからの最大供給電力は10 Wであるが、USB 3.0の2ポートに規格上限の電力を供給すると9 Wとなり、カード自体の消費電力と合わせると不足する。このため、多くのPCI Express x1のインターフェイスカードには、電源ユニットからの電力線を接続する補助電源端子が備わっている。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2012年までの多くのパソコンで、USB 3.0が1ポート(もしくは2ポート)と残りがUSB 2.0ポートという組み合わせにされている理由は、(1) 2009年の時点でUSB 3.0コントローラーを市場に供給できる唯一のメーカーであったルネサスのUSB 3.0コントローラが技術的に2ポートまでしか対応していないこと、(2) USB 3.0の要求する電力がUSB 2.0よりも高く、容量の大きな電源が必要になってくること、および、(3) チップセット内蔵の場合、CPU⇔サウスブリッジ間のバス・バンド幅が現状では十分でないため、現状では全てのポートをUSB 3.0化することは技術的に不可能であること、などが原因である。ほどなくVIAなどの各製造メーカーもUSB 3.0に対応し、また4ポート対応のコントローラーも開発されるなどで、登場から5年後の2014年頃には特にポートの少ないノートパソコンではUSB 3.0への完全対応がなされた。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2013年8月1日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.1規格の策定完了を発表した。USB 3.1は、以下のようにUSB 3.0を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "USB 3.1 Gen 2モードはSuperSpeedPlus USBで10 Gbpsの転送を可能とする。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "SuperSpeedPlus USB 10 Gbpsでは信号転送速度を5 GHzから10 GHzにアップ、データエンコードも8b/10bからより効率的な128b/132b の採用など物理レイヤーを変更することで現行のSuperSpeed USBの2倍の実効データスループット性能を実現している。一方でソフトウェア階層やデバイスのプロトコルといった論理レイヤーは現行のUSB 3.0と共通で、USB 3.1 Gen 1モードでは5 GbpsのUSB 3.0と同様に使用でき、Gen 1モード・Gen 2モードのいずれもUSB 3.0ハブ・デバイス・ケーブルとの互換性は保たれている(ただしUSB 3.0ハブ下の機器は5 Gbpsでの転送となる)。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この結果、USB 3.1対応機器はUSB 1.1/2.0の論理レイヤー+USB 1.1/2.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.1の物理レイヤー という3パターンの内部動作が要求される複雑なものとなっている。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2017年7月25日、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.2規格を発表。2017年9月25日に正式リリースされた。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "USB 3.2は、以下のようにUSB 3.0と3.1を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "x2が2レーンを表している。USB 3.2 対応の両端がType-Cコネクタのケーブルを利用したときだけ2レーンが利用可能になり、20 Gbps対応となる。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2倍の物理層が必要な2レーンオペレーションに対応しつつも転送速度を10 Gbpsに留めておく合理的な理由がほとんど存在しないため、Gen 1x2に実用性はあまりない。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ケーブルの片側がStandard-Aでもう一方がType-CのUSB 3.1 Gen 2対応ケーブルも使用できるが、その場合、2レーンは使用できない。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2019年3月4日に仕様策定が進行中であることが。2019年9月3日に仕様が一般公開された。技術的にはIntelから提供されたThunderboltプロトコル仕様がベースとなっており、既存のUSB 2.0・USB 3.2仕様との後方互換性を有する。バージョンに小数点以下の数字が付かなくなり、かつ、数字とUSBの間に空白を入れないことになった。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2レーンオペレーションのType-Cコネクタを使用する事が前提であり、帯域は標準で20 Gbps、オプションで40 Gbpsとなる。ただし、USBとしてのデータ転送プロトコルは最大で20 GbpsのUSB 3.2のままである。対応したプロトコル(USB 3.2、DisplayPort、オプションでPCI Express)トンネリングに対応し、最低でも1レーンを占有するDisplayPort Alt Modeでは不可能であったケーブル一本でのUSB 3.2の20 Gbpsデータ転送とDisplayPortの映像出力を同時に利用できる。また、ホスト側にDisplayPort(USB4及び従来のDP Alt Mode)による映像出力の実装が義務付けられたため、規格に準拠しUSB4を名乗っているポートであれば必ず映像出力に対応する事となった。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2022年10月18日に、データ転送速度が80 Gbpsに向上したUSB4 Version 2.0の仕様が公開された。80 Gbpsでのデータ転送は既存のUSB 40Gbpsパッシブケーブル、もしくは新たに規定されたUSB 80Gbpsアクティブケーブルで可能となる。既存のUSB4・USB 3.2・USB 2.0との後方互換性を有する。", "title": "USBの各世代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Wireless USBは、2005年5月に発表された。無線通信によるデバイス接続をサポートする。Agere Systems(現:LSIコーポレーション)、HP、インテル、マイクロソフト、NEC、フィリップス、サムスン電子の7社により策定された。有線USB規格と接続性を考慮しているが、それらとは独立した規格として作成されている。", "title": "Wireless USB" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "USBでは、1つのバスに仕様上最大127台の機器を接続し同時に使用することができる。ホットプラグにも対応する。ただしOS、USB機器によっては、取り外す場合USBデバイスを停止させる手順を実施しないと警告が出ることがある。これは、ドライバ・ソフトウェアの処理で、状態の不整合による不具合が起こることがあるためである。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ホストを根 (root) とし、ハブとデバイスによる木構造の接続形態をとる。通信データはパケット化され送られる。ハブとデバイスは動作中それぞれ独立したバスアドレスを持つ。このアドレスはデバイスがバスに接続時にホストにより動的に割り当てられる。アドレスは7ビットであり、特殊用途のアドレス0を除くと127個の個別デバイスが同一バス上に同時に存在できる。パケットはHigh-speedまではブロードキャストされ、パケットに指定されているあて先アドレスを見てデバイス側で必要なパケットを受信する。SuperSpeed以降はユニキャストである。通信はホスト側からの働きかけにより開始される必要があるため、SCSIなどと異なりバス上でデバイス側からの通信開始は基本的には行えない。周辺機器同士を直接接続するための拡張仕様USB On-The-Goでは、どちらか片側がホストとしてふるまうことで「ホスト対デバイス」の関係となるよう設計されている。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "HDDなどを接続するとHigh-SpeedモードでもMass Storageクラス準拠では転送速度がボトルネックとなる場合があるため、転送方法の工夫で実効速度を向上させる製品を出荷しているところがある。バッファローの「TurboUSB」とアイ・オー・データ機器の「マッハUSB」がそれで、20 - 30%高速化すると謳っている。ソフトウェアで処理するため接続するパソコンの性能に依存し、両社ともWindowsとMac OSのみの対応となっている。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "USB Attached SCSI Protocol(略称:UASP)とはUSBの拡張仕様で通信プロトコルの一つである。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一般的に補助記憶装置との通信はバルク転送が使われており、転送効率の悪さから通信速度の低下を招いていた。それに代わりSCSIデバイスで使われていた通信プロトコルを応用することで通信速度の改善を図ることができる。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "UASPを利用するにはパソコン及びデバイスの対応と、それらを制御するOSの対応がそれぞれ必要である。", "title": "機能概略" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "USBでは、周辺機器の機能によってグループ分けされたデバイス・クラスと呼ばれる仕様群が定義されている。それぞれのクラス仕様(クラス仕様によってはサブクラスの仕様)に従って作成されたデバイスには統一した制御インターフェースが用意され、クラス仕様に準拠した機器類は、クラス・ドライバーと呼ばれる共通のデバイスドライバ・ソフトウェアによって動作させることができるため、同一クラスであれば製品ごとに個別のドライバ・ソフトウェアを作る必要がなくなっている。例えば、多くのUSBメモリはマスストレージ・クラスというクラスに属しており、OS側がマスストレージ・クラス対応のクラス・ドライバを用意していれば、USBメモリがクラス仕様に準拠する限り、新たにドライバをインストールする必要がなく、初めて接続してもすぐに動作する。ただし、実際にはデバイス側の仕様違反、特定ホストの動作に依存したデバイスの実装、仕様上の曖昧さによるぶれなどにより、共通のクラス・ドライバでは動作しない、ドライバ内に不具合回避処理が盛り込まれる、専用ドライバが提供される、という場合もある。", "title": "デバイス・クラス" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2009年11月現在、USB.orgによって定義されているデバイス・クラスは以下の通りである。", "title": "デバイス・クラス" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "USB規格ではホストコントローラの規格を定義しておらず、以下のホストコントローラ規格はUSBの仕様外である。複数のホストコントローラ規格がある。これらは制御方法が異なるため、それぞれ別のドライバが必要である。ただし同一ホストコントローラ規格内では共通のものが通常使える。", "title": "ホストコントローラの種類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "端子類/コネクタの形状はUSB 2.0までは転送プロトコルと同じ規格で、3.0以降は転送プロトコルとは独立した規格で定められている。ミニA端子B端子、ABソケットについては拡張規格であるUSB On-The-Go規格内で定められている。定義されている端子形状には以下のものがある。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "A端子類はコンピュータ本体やハブ(下流・デバイス接続側)に、B端子類は周辺機器やハブ(上流・ホスト接続側)に使われている。ミニB端子類は、デジタルカメラなどの小型デバイスに使用される。端子形状を変えることにより接続方法を制限し、バストポロジーの木構造が保たれるように配慮されている。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ミニABソケット(メス側コネクタ)は、ミニAプラグとミニBプラグのどちらでも接続できるものであり、マイクロABソケット(メス側コネクタ)についても同様である。詳しくはUSB On-The-Go参照のこと。携帯情報端末やスマートフォンなどの一部で使われている。これらの搭載機はパソコンに接続する場合は『子機』として動作し、単体の場合は他のUSB機材を接続して『親機』として使うことを前提としている事と小型化のために採用している。使用時は接続ケーブルを交換することでどちらの動作をすべきなのかを判断している。本体側もUSBホスト機能を内蔵している。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "USB 3.0まで対応出来る端子とソケットが2008年11月から新しく仕様に加わった。従来どおりUSB 1.1以降での上位互換性を守り、USB 3.0まで対応可能な端子とソケットはUSB 1.1以降の物との混用が可能である。USB 3.0でのピン数の増加に対応して新たな端子とソケットは、USB 2.0までの規格形状を満たしながら、奥まった位置 (A) や2段重ね (B)、横位置(SideCarと呼ばれる横並びの配置、Micro-B)に追加の端子が増やされた。(この増やされた端子の分だけ、USB 3.0のBコネクタ、Micro-Bコネクタは、USB 2.0までのBコネクタやMicro-Bコネクタよりも大きく、USB 3.0用の接続ケーブルをUSB 2.0機器に接続することができない。)", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "どの世代においても、端子は、データ端子よりも電源端子の方が長くなっている。これは、機器が挿抜される際、電源が入っていない状態でデータ端子に電圧がかかり、機器を破損するのを防止するためである。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "補足:WACOMが出していた液晶タブレットPL-550はミニDINコネクタ4ピン形状のコネクタを採用している。しかし、ピンアサインはS端子ともADB (Apple Desktop Bus) とも異なる。現在、日本国内でこのケーブル単体での入手は困難である。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "USBポートとコネクタは、さまざまな機能とUSBバージョンを区別するために色分けされていることがよくある。ただし、これらの色はUSB仕様の一部ではなく、メーカーによって異なる場合がある。たとえば、USB 3.0仕様では適切な色分けが義務付けられているが、標準AのUSB3.0コネクタとプラグには青色 (Pantone 300C) のインサートのみが推奨されている。初期型のPlayStation3のコラボモデルは例外的に、本体カラーにUSB端子の色が変更されている場合がある。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2014年8月、USB 3.0 Promoter Groupによって策定された。スマートフォンなどの小型機器に向けたサイズの縮小と、最大100Wまでの電力供給を可能にするUSB Power Deliveryへの対応、そして表裏どちら向きでも挿せる構造が特徴。 ただし、USB Type-Cコネクタを装備する機器であってもUSB 3.1やUSB Power Deliveryに対応するとは限らないので注意が必要(コネクタ形状と機能は別々に考える必要がある)。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "特徴は以下の通り。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "USB A端子はその端子を正面から見るといずれの側からも単なる長方形となっており、接続するための裏表を間違う事がある。実際にはオス側(穴のある側)表面にかかれているUSBのマークにより判断が可能だが、それを利用者が意識せず逆差ししようとすることがある。USBポートおよびオス側コネクタ内の厚みの半分ほどをプラスチックの板で塞ぐことにより、逆差しが物理的に不可能になるようにしてあるので(本記事内の各写真を参照)USBプラグが差せない、という状況になる。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "バッファローはA端子の表裏どちらを挿しても正常に使用できる独自仕様の「どっちもUSB」シリーズ(USBハブ・ケーブル等)を2012年に発売した。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "USB 2.0規格ではケーブルはHigh/Full Speed用とLow Speed用の2つが定められている。安価に製造できるようLow Speed用は電気的特性が緩い。Low Speedデバイスではケーブルが分離できるように設計することが明示的に禁止されているため、単独のケーブルはすべてHigh/Full Speed用となる。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "USB 3.0規格はSuperSpeed用に信号線が増やされているためにケーブルもUSB 3.0用のものが用いられる。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "誤接続を防ぐため、A端子はホスト側、B端子はデバイス側と規定されている。このため、両側がA端子、あるいは両側がB端子であるようなケーブルは規格違反品である。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "またこれとは別に、A端子とAソケットが付いたUSB延長ケーブルはA・B端子使い分けの点では問題がないが、複数接続によって規定の長さを超える危険性があるため、これも規格で明示的に禁止されている。", "title": "物理接続" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "USB 2.0規格はUSB 1.1規格と互換性を保つように設計されたため、USB 2.0規格のUSBポートにUSB 1.1規格で設計された機器をつないでも使える。また、USB 2.0規格で新設されたHigh Speed機器をUSB 1.1規格で設計されたポート、ハブにつないだ場合でも、Full Speedの転送速度で使用できる。また、USB 3.0規格は、USB 2.0規格と互換性があるように設計されている。しかし、現在のUSB 3.0規格に準拠していない製品にもかかわらず、USB 3.0をうたっている製品がある。これらは、USB 2.0との互換性がない・転送速度が遅いなどの不具合を起こす可能性がある。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "USBケーブルの規格はUSB 2.0で変更されていないので、同じものが使えることになっている。USB 1.1の規格を正しく守っていない低品質のケーブルでは、High Speed通信においてケーブルの長さなどに制約を受けることもある。また「USB 2.0対応」と称するケーブルも発売されている。これはシールド線構造等外部からのノイズを防ぐ工夫がなされているものと考えられる。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "見落とされがちであるが、ACアダプターに十分な給電能力があっても、その規格に見合うケーブルが使われていない場合、給電能力が制限されるので注意が必要である。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "USBホストコントローラとUSBデバイス側のコントローラのメーカー、モデル、ファームウェア等の差異、かつてはさらにOSやドライバ側の問題などによっても相性問題が生じたことも知られており、特に規格成立初期に登場したコントローラ同士を接続した際に混乱を生じたこともあった。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "この「初期の相性問題」については、インテル社が自社製のPC用チップセットにUSBホストコントローラを内蔵することによって各デバイスがインテル社製チップセットのホストコントローラおよびWindowsへの接続に対して互換性の確保を図ることで、間接的に機器間の相性問題も収斂してゆくという結果を、USB 1.1、2.0ともに辿っている。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、USB 1.1までの仕様では、インピーダンス等の電気的特性における仕様がゆるく、規格適合性試験も必須でなかったため、相性問題の発生を抑制し切れないという事情もあった。USB 2.0仕様からは電気的仕様が厳密になり、USBロゴを取得するための規格適合性試験も必須となったため、「相性問題」はほぼ解消されたといわれる。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかし、市場やユーザーの手元には、初期に製造され相性問題を抱える製品が現存している場合もあり、また、一部のメーカー・ベンダー製ホストコントローラとコントローラ間などにおいては、相性問題を発生する状況も依然として存在し続けている。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "具体的な症状としては、USBメモリが認識はされるが中身が表示されない(別のコネクタに接続すると正常に動作する)、ストレージモードで接続している携帯型音楽プレーヤーが途中でシャットダウンする、などが挙げられる。", "title": "互換性" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "規格上は、最大127台までの機器を一つのバスに接続することができる。木構造の「深さ」を示すTierは、ルートハブ(ホスト)を含め7段までに制限されている。つまりデバイスとホストの間にハブは最大5台まで存在することができる。ケーブルの最大長は規格では遅延時間とVBUSの電圧降下の最大値として定められており、ケーブル1本あたり最大26 nsおよび125 mVである (§7.1.16, 7.2.2)。", "title": "複数機器接続" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかし実際には、USBコントローラやハブとUSB機器の「相性」や、ハブの備える物理的なポート数などによって制約を受け、USB関連デバイスの開発メーカー等における接続テストのような場合を除けば、日常的に実際に127台のデバイスを接続して利用する例は極めてまれといえる。言い換えるなら、エンドユーザーが規格上の論理接続数を一般的な利用の範囲内で飽和させるという使用例はまずあり得ず、余裕をもった規格であるといえる。", "title": "複数機器接続" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "週刊アスキーで実験したところ、80台目あたりからエラーが頻発したものの、繋ぎ方を工夫すれば100台までは実用に耐えたという。", "title": "複数機器接続" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "USBは、基本的には信号ケーブルとして設計されている。その一方で実際的な利便性にも配慮し、小電力のデバイスについては、接続される周辺機器の駆動用の電源をUSBケーブルで供給するバスパワード(「バスパワー」と省略されることが多い)による駆動にも対応している。供給電圧は5 V (±10%)、電流はローパワーデバイスは100 mA(USB 3.xは150 mA)、ハイパワーデバイス最大は500 mA (USB 2.0)・900 mA (USB 3.0) までとされている。USBデバイスがサスペンド状態の場合は最大電流は500 μAまでだったが、2007年リリースのLink Power Management Addendum ECNにより2.5 mAまでとなった。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "USB給電のための規格で、USB 2.0規格の給電仕様の拡張が試みられている。USB IFにより2007年にRevision 1.1、2010年にRevision 1.2がリリースされた。従来のUSB 2.0ポートはStandard Downstream Port (SDP) と定義し、新たにチャージングポートと呼ぶ2種類が規格化されている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2012年7月にUSB 3.0プロモーターグループは、USB Power Delivery (USB PD) Revision 1.0 Version 1.0 の規格化を完了したと発表した。USB Battery Charging Revision 1.2と共存して使用される。10 W・18 W・36 W・60 W・100 W の5つのパワープロファイル (Power Profile) があり、認証されたPD対応USBケーブル、USB A/Bコネクタを使用することで20 V, 100 Wまでの電源供給が可能となる。マイクロUSB B/ABコネクタでは最大20 V, 60 Wまでとなる。ホストからデバイス、デバイスからホストへの電源供給がケーブルのつなぎかえなしで可能。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2014年にUSB 3.1の一部として USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.0 がリリースされ、USB Type-Cケーブルに対応した。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2016年にリリースされた USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.2 と USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では5つのパワープロファイルに代わって、パワールール (Power Rules) という給電仕様にとなった。 USB Power Delivery Revision 2.0 との後方互換性を持つ。5V・9V・15V・20Vの電圧仕様があり、供給側は3Aで最大供給電力以下となる電圧はすべてサポートする必要がある。パワールール以外の電圧、電流もオプションで許可されている。正式にUSB Type-C専用の給電規格となり、USB A/BコネクタでのPDは普及することなく規格から削除された。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでプログラマブル・パワー・サプライ (Programmable Power Supply; PPS) の機能があり、電圧を可変にでき、充電時の余計な発熱を減らし、電力の利用効率を上げられる。一部のスマートフォンなどで利用されている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "また USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションでファスト・ロール・スワップ (Fast Role Swap; FRS) の機能があり、0.15ミリ秒以内に給電と受電の役割を入れ替えることができる。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "USB給電仕様は、当初はローパワーデバイスについてはPC/AT互換機におけるPS/2コネクタの置き換えを念頭に、マウスやキーボードに搭載される小電力の半導体ロジック等の駆動を前提として設計された。またハイパワーデバイスについてもそれらのロジック回路などよりは電力を要求することを想定しているものの、いずれもスピンドル(モーター)の駆動や機器の充電手段等としての大電力の利用を想定したものではなかった。このため小型ノートパソコンの一部などのように供給電流を抑えてある場合、500 mAに近い電流で動く事を想定しているUSB接続機材の動作が不安定だったり動作しない事もある。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ハイパワーデバイスとしての仕様以上の電力を要求するディスクドライブ等のモーター駆動式の機器や、大規模な集積回路などを含み電力を消費する画像用のキャプチャー機器等については、USBバスは純粋に信号バスとしてのみ利用し、電力は機器側で用意する「セルフパワー」と呼ばれる接続手段を用いることとされた。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "バスパワードのデバイスを多数接続、あるいはバスパワードのハブを使用して多段接続をすると、給電能力を超えるため、ポート側には給電をシャットダウンする機能が備わっている。ユーザー側でも不用意に過大なたこ足配線とならないよう、市販のバスパワー駆動のUSBハブは殆どが4ポート以下で構成されている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "USBポート、バスパワードのハブにおいて、給電能力を大幅に越えた合計消費電力となるポートの接続はサポートしておらず、最悪の場合、ハブやPC側のインターフェース・カードやバス、電源回路などの保護回路が作動するか、機器にダメージを与えることがある。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "しかし市場では実際に、USBの普及に伴いこの僅かな供給電力を、2.5インチおよび1.8インチのポータブルハードディスクドライブ、また、消費電力の大きいDVD-Rの書き込みドライブ等のスピンドル媒体への供給電力に転用したり、携帯電話やPHSなどの電池充電用の電源として流用する例が目立ち始めた。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "コンピュータ本体との接続ケーブルとAC電源を別に用意する煩わしさをなくすために、1本のケーブルで機器を接続したいというユーザーの要求は根強く、USBの給電能力を増強するべくPlusPowerという電圧と電流の拡張も検討されていた。しかし、安全性や互換性の問題などの指摘も相次いだことから正式に仕様には盛り込まれなかった。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "この問題を解決するため、PoweredUSBという、USB 2.0ポートを拡張した規格がIBMより登場した。供給電圧5 V・12 V・24 V。最大電流は6 A。PoweredUSBに対応した接続ケーブルが必要とされる。しかし、2012年11月現在、この規格はUSB-IFから正式な承認を得られていない。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "また、デバイスとは認識させず、電源のみを供給させる周辺機器も存在する。1台の機器に対して、2つのホストコネクターから2台分のバスパワーを供給するための特殊な二股ケーブルなどが該当する。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "中華人民共和国情報産業部では2006年、携帯電話の充電器にUSBポートを設け、複数キャリア間でもACアダプターが共用できるようにする方針を打ち出している。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2007年4月には、USB経由での充電時間を短縮するための規格「Battery Charging Revision 1.0」が策定された。これは、充電器などが、USBのホストが大電流を流すことができるかを検知することで、従来のUSB 2.0規格における上限の500 mAを超える電流を得ることを実現する仕組みの規格である。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2009年6月に携帯電話の業界団体やEUでも携帯電話端末の充電器のコネクタにマイクロUSBを採用し、共通化する動きがでてきた。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "市場では、PCやセルフパワー型のハブのUSBポートからコンセントのように電力が得られる点を利用して、USBを電源供給にのみ用いる周辺機器が次第に登場するようになった。モバイル機器だけでなく、携帯ゲーム機、デジタルオーディオプレーヤー等の携帯機器用の充電器・充電用ケーブルや、小型扇風機、電灯といったデバイスとは認識されない周辺機器、中にはUSBから電源を得る利点がほとんど見出せないようなものも商品化されており、電気街の商品棚をにぎわせている。年末になると登場する卓上クリスマスツリーや、夏季の扇風機などはもはや風物詩でさえある。中には、USBによるバスパワー30本分(並列接続で15アンペア、計75ワット)を電源として用いる「焼き肉プレート」を自作した人物も存在する。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "一方、これらのような「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器の展開を追う形で、単に電源を供給するために電力供給機能のみに限定した、USBポートと同一形状のコネクタを持つACアダプタや、充電式の電池や乾電池等を使用した給電ユニット等も発売されている。このような製品を使用することによって、外出時に機器ごとにACアダプタを持ち歩かずに充電可能で、かつ複数の機器を単一のACアダプタで使用することが出来る利便性がある。また国ごとに違うコンセントの形状や周波数・電圧等に対して機器側で対応するのではなく各国で市販されているUSBアダプタ側で対応できるためメーカーとしては輸出機械の設計が容易になるメリットも有る。壁面のコンセントボックスに埋め込んで給電用USBポートを提供するUSBコンセントも市販されている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ただし、メーカーが保証している一部機種を除いて、これら「電力供給専用のUSBポート関連製品」を用いて充電することは機器メーカーの保証対象外となる。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "また、これらの「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器と、通常のインターフェースとしてのUSBポートを接続する場合も、ほとんどが動作保証の対象外となる(そもそも、ホスト側の許可を得ずにターゲットが勝手に「電力を奪う」実装はUSB規格違反である)。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "最近では、高性能なUSB電源供給能力を謳ったマザーボードも販売されている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2010年代初頭から、カフェ、ホテル、空港、旅客機、鉄道や長距離バス・タクシーの車内で、利用者のスマートフォンの充電やノートパソコンの利用の便宜を図るため、電源を提供する例が増えている。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "多くは商用電源の提供であるが、商用電源のプラグ形状や電圧は、国家や地域によって異なるため、海外旅行者が手持ちのACアダプタを使えない場合などに配慮して、壁面USBコンセントを使ったUSB電源の提供や、USB-ACアダプタの貸出を行っている場合もある。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "しかしUSBは、もともとデータ通信用の接続規格として制定されたものであり、電力供給専用として使うことを想定された規格ではない。一見電力供給専用に見える機器・コネクタであっても、それが接続された機器からデータを抜き取ったり、コンピュータプログラムを送り込んだりしないと保証することは困難である。一部のUSB充電器は充電専用であることを明示するために、USBコネクタの樹脂部品部分に赤色や緑色、黄色といった色分けをしている(青色はUSB3.xの意であり給電用ではない)が、統一された規格ではないうえ、不正な機器が偽装のためこれらの色付きコネクタを使うことも容易に可能である。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "そのため、情報機器からのデータの抜き取りやコンピュータウイルスへの感染を未然に防止する観点から、自宅などの信用できる場所以外の施設では、給電用にUSBポートが提供されている場合であっても、これらのUSB(USB-C, マイクロUSBやLightningなど、データ通信可能なケーブルの接続されたものや、貸出されたUSB-ACアダプタも同様)を使用せず、スマートフォンやタブレット端末の情報機器は、自前で純正アダプタを用意して、商用電源コンセントから充電することが、コンピュータセキュリティ上望ましい。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2023年4月6日には、米国連邦捜査局 (FBI) も同様の注意喚起を行うツイートを行った。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2010年代以降、スマートフォンやUSB充電に対応したワイヤレスヘッドホンの登場とともにUSB ACアダプタが普及している。ただし、それ以前の2000年代でも、形状が今の時代とは異なるUSB ACアダプターが製造・使用されていたことがある。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "スマートフォン用としては、一般にUSB Type-Aポートを持つUSB ACアダプタが登場したが、スマートフォンがUSB Type-Cポートをサポートするようになってからは、USB Type-Cポートを持つUSB ACアダプタも登場している。2019年頃より窒化ガリウム技術を採用することにより、小型軽量化が進み、複数のポートを搭載し、同時に2台以上のデバイスの充電に対応した製品も登場している。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "なお、日本国内での使用を想定してUSB ACアダプタを購入する際には、特定電気用品PSEマーク、製造事業者等の名称、定格電圧、定格消費電力等の表示のある機器を選択すること。そのほか、メーカー(機器に自社のブランドを付けて販売している業者)が信用できるか、偽ブランド品ではないかなど留意するとともに、購入した覚えのない機器、出所の明らかでない機器は使用しないことが望ましい(前述のコンピュータセキュリティに対する懸念のほか、盗聴器が内蔵されているなどの懸念に対する防御のため)。", "title": "USB給電" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "USBはUSB 1.0のころから接触不良が多く見られた。特にUSB 1.0では機器のオス側で接点面が上を向いた状況で使われると塵埃が乗ったり腐蝕性物質(塩分)の付着により接触不良となることが多い。また、たびたび端子の脱着を繰り返す間に金属枠の部分が変形し、接点の圧力が低下することが接触不良の原因となりうる。", "title": "USBと接触不良" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "スマホなどのモバイル機器ではUSBマイクロ端子が通信だけでなく、単に給電や充電に使われることが多いが、ポケットなどに入れることで端子に塵埃が入り込み接触不良となることがある。また脱着を繰り返すたびに金属枠が変形し、接点の圧力が低下することで接触不良となることもある。", "title": "USBと接触不良" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "接触不良が起こると単に給電や充電が不安定になるだけでなく、通信が不安定になることで、例えばハードディスクやUSBメモリーなどでは深刻で、単にデーターエラーとなるだけでなく、時に不可逆なハードエラーとなることがある。", "title": "USBと接触不良" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "まず、接触不良が起きた場合には端子の金属枠が変形していないか確認する必要がある。多くは脱着により端子枠が変形して広くなり、接点の圧力が低下する方向なるので用手的に金属枠を狭くすることで解決することがある。", "title": "USBと接触不良" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "接点の塵埃や腐蝕に対しては、エアを吹く以外に適切な解決方法がないが、コンタクトRと称してレシートを用いて接点を研磨する方法が報告されている。これはレシートに塗られた炭酸カルシウムの層により接点の塵埃や酸化物を研磨してとりさる方法である。簡便で入手しやすく、非導電のため接点のショートなどの危険が無いのが特長である。", "title": "USBと接触不良" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "USBは、それまでのレガシーインターフェースに代わる新たな汎用バス・インターフェースとして、コンパック(現:ヒューレット・パッカード)インテル、マイクロソフト、NECなどにより策定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "USBは、当初からホットプラグを可能とする画期的なインターフェースとして注目を集め、Microsoft WindowsではWindows 95 OSR2から、Macintoshでは暫定的に初代iMac専用のMac OS 8.1からサポートされるようになった。ただし、Windows 95 OSR2とUSB Supplemental Support、及びメーカー提供のデバイスドライバの組み合わせによる対応は追加仕様であり、周辺機器メーカーも乗り気ではなく、OSの標準仕様として盛り込まれるWindows 98が登場するまでは様子見の感が強かった。Macintosh環境においてiMacがUSB以外のインターフェースを切り捨てて登場したために、USBの普及が急速に進んだが、標準サポートとなるMac OS 8.6までは数多くの不具合と問題を抱えていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "日本国内においてUSBに対して動きが素早かったのは、USBの仕様策定にも関わったNECである。NECはPC-9821シリーズやPC98-NXシリーズにUSBポートを搭載するだけでなく、1997年にはターミナルアダプタ、マウス、キーボード、スキャナ、プリンター、ジョイスティック等多種のUSBデバイスを登場させていた。ただし、これらの素早い展開は一部にWindows 98以降でサポートされない物も出てくるなど混乱を生じる原因ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "最初のホストアダプタ製品は、1996年にPC向けのPCIインターフェースに増設するカードとして登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "またインテルが1996年にリリースしたPC向けチップセット430HXにおいてUSBホストアダプター機能を内蔵すると、USBを搭載したPCは急速に普及を開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "IBMは、AptivaJ/Hシリーズ1996年11月モデルでオンボードのUSBポートを備えた機種を登場させた(前述の430HXチップセットの採用による)。しかしキーボードやマウスはPS/2コネクタに接続されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "当時のWindows 95 OSR2では、USBデバイスのサポートは限定的なものだったため、IBM側では動作を保証しない非公式のUSBドライバーを添付するに留め、該当機種に付属したマニュアルにはこのドライバーの入った付属ディスクに動作未保証が明記され、同社サポートダイアルでもプリインストールのWindows 95と付属ドライバーで動作させていた環境では動作保証はないとアナウンスしていた。これらはAptivaに限らず、同時期の他の互換機についても同様である。これらの機種のUSBポートは、Windows 98等のUSBサポート機能のあるOSを導入した際に、はじめて正式対応される性質のものだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "標準添付のマウスやキーボードをUSBによって接続しPS/2コネクタを廃した製品は、日本国内ではNECが1997年秋に発売したPC98-NXシリーズ(準PC/AT互換機)が最初である。これはUSB接続のマウスとキーボードを「レガシー・エミュレーション」によりPS/2デバイスとして動作するようにしたものである。ただし、初期のPC98-NXシリーズについてはPS/2コネクタはマザーボード上に存在し、筐体に穴が開けられていないだけに留まり、またシリアル/パラレル等のレガシーポートも健在である等、レガシーフリーを徹底したものではなかった。また当時の一部機種ではBIOSの既定値設定に問題があり、当時のLinux 2.4系カーネル(カーネル側でもレガシーエミュレーションを想定していなかった)のインストール時に正しく認識することができなかった。このような経緯を受け、後にサードパーティー各社から発売されたUSB機器の中には、トラブルを嫌忌してPC98-NXシリーズでは動作保証しない旨表示するものも存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "なおUSB 1.1に正式対応したのはWindows 98 Second Editionからで、その後登場したUSBデバイスは初期版Windows 98以前を対応環境に含めない場合がほとんどである。ただしSecond EditionもUSBマスストレージ・クラスなど多くの汎用ドライバを標準装備していないため個別にドライバをインストールする必要があり、挿してすぐに使える便利さは備えていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "このようにUSBホストアダプタの実現と搭載は早かったものの、PC互換機を中心とした市場では急速な移行を強いられることはなく、USBへの移行は緩やかなものとなった。長年に渡って互換性が検証され、よくメンテナンスされたレガシーインターフェースはハード・ソフト(ドライバ)とも「枯れて」動作も安定しており、単純な仕様によりCPUに対する負荷が少ないというメリットもあった。またパラレルポートもECPによる転送速度はUSB 1.1よりも高速であり、SCSIはさらに高速である。これらのレガシーインターフェースの多くは、ホットスワップにこそ対応しないもののプラグアンドプレイへの対応は完了しており、ユーザビリティの面でも特に不自由がなかったため、USB 1.1の段階では利便性の面においても移行にメリットを見出し難いという事情も存在していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "なお、特にキーボードについては、USB HIDの仕様でキーロールオーバー数が6に制限されるため(それ以上の同時押しに対しては、先に押されたキーが放されたことにするなどする必要がある)、ゲーム用などでPS/2接続のキーボードの需要がある(標準のドライバではない専用の特殊なドライバと独自設計のプロトコルで、USB接続でこの問題を解決したキーボードもある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "PC市場においてUSBデバイスはUSB 2.0が登場した2000年頃より本格的な普及を開始し、現在では外付け用周辺機器の接続用バスの主流の座はUSBに移っている。レガシーバスを搭載しないレガシーフリーPCも現れており、特にラップトップPCでは比較的早い時期から特に珍しいものではなくなっていた。しかしUSBとレガシーポートの併用もまた、実に10年以上の長期に渡り続いている。レガシーポートを搭載したPCもごく最近まで一般的に販売され続けて来ており、2000年代における現状としては、完全な移行はUSBの登場から10余年をもってようやく完了しつつある、という状態である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "米調査会社In-Stat社は2007年に全世界で出荷されたUSBのポート数は26億ポートに達したと伝えた。同社はこの数が2012年には43億ポートになり、この内USB 3.0は4.5億ポートとなると予測している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "1998年にUSBを標準搭載したiMacは、モニタ一体型の斬新なデザインとともに、従来の汎用インターフェースADBのみならずSCSIやRS-422シリアルポートも廃してUSBへ一本化するなど、PC98-NXよりさらに思い切った仕様で登場し、話題と議論を呼んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "従来、USB機器の製造・販売に躊躇していた周辺機器メーカーも、既存のインターフェースを扱うことができなくなったiMacシリーズ向けとしてUSBへの対応を迫られる形となり、普及が一気に進んだ。iMac本体に合わせたトランスルーセントデザインのUSB周辺機器が流行となり、幅広い層に受け入れられていった。こうしたUSBデバイスにはMacintoshとWindows双方のドライバが添付され、結果としてPC/AT互換機におけるUSBの普及を後押ししたという側面もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "USB 3.1(初期はGen 1の為5 Gbps)の登場とともに、USB-Cだけを採用したMacBookが2015年3月10日に発表された。電源ポートもUSB Power Deliveryで兼ね、従来のUSB-AやMagSafe 2すら搭載しないという大胆なI/Oポートの構成を採っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "NECのPC-9821シリーズは他社に先駆けてUSBに対応したモデルを出していたが、USB登場時点ですでにPC-9821シリーズ自身が末期だったこともあり、NEC製の機器を除き対応機器は非常に限られているが、Windows 98 SEやWindows 2000では、多くのデバイスが動作するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "家庭用ゲーム機ではドリームキャストとXboxがUSBをアレンジした独自形状の端子によるコントローラ接続を採用した。最初に汎用USB端子を採用したのはPlayStation 2だが、キーボード、マウス、ボイスチャット用ヘッドセットなど一部の周辺機器の接続を除けば積極的には活用されなかった。また、キーボードとマウスはPC/AT互換機用USB仕様のものがそのまま流用できるが、あまり知られなかった。ただし、PS2本体を改造し、ゲームデータをバックアップ起動するときは頻繁にUSBメモリを接続する。また、PS2を採用したアーケードゲームの基板のバージョンアップにも使用する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2000年代後半に登場したXbox 360、PlayStation 3の汎用USB 2.0端子はコントローラーを接続するほか、パソコンに近い柔軟な活用性を持っている。双方とも、のちの本体アップデートで外付けHDDを自由に接続できるようになった。WiiもUSB 2.0端子を備えるが、用途はネットワークアダプターやキーボード、Wii用周辺機器などの接続に限られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "PlayStation 4のAUX端子およびAUX端子に接続するPlayStation Cameraの実態はUSB 3.0であり、他機器との同時接続で通信速度を確保できない可能性を回避するため独自形状の端子となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "携帯ゲーム機のPlayStation PortableやPlayStation Vitaはそれ自体がUSBデバイスとして機能し、パソコンやPlayStation 3に接続してデータのやり取りや、一部のモデルを除き充電などを行う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "最近のアーケードゲーム基板NAOMIやSYSTEM246等のI/O通信用に、物理的にUSBケーブルが流用されているが、こちらは業界団体JAMMAで策定されたJAMMA VIDEO規格 (JVS) となっており、信号レベル・プロトコルともUSBとは互換性はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "携帯電話端末はUSBケーブルを使ってパソコンに接続しデータのやり取りや充電、携帯電話の通信網を使ったデータ通信などを行う。携帯電話側の端子は独自のものが多いが、汎用USBポートを採用したものもある。携帯音楽プレーヤーなどの小型デバイスも汎用USB端子を備えPCに接続するものが多い。薄型テレビ、AVアンプ、デジタルフォトフレーム、DVD/BDレコーダー/プレーヤーなどもUSB端子を持つものがあり、USBメモリ内のマルチメディア・ファイルを再生したりデジタルカメラ、デジタルビデオカメラなどとの接続に利用する。薄型テレビにはUSB接続されたHDDにTV放送を録画できる物がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "早ければ2009年の年末からストレージ機器などの採用機器が登場すると見込まれていた。バッファローが2009年10月28日にUSB 3.0対応の外付けハードディスクドライブとUSB 3.0ポートを増設するためのインターフェースカードを発売。これは個人が購入できるUSB 3.0対応機器とインターフェースカードとしては世界初となる。コンシューマ向けに販売されているマザーボード、インターフェースボードではNECエレクトロニクス(現:ルネサス エレクトロニクス)製USB 3.0コントローラチップと、マーベル製SATA 3.0 (SATA 6 Gb/s) コントローラーチップが同一の基板上に搭載され、単一の製品として販売される事例が多い。PlayStation 4,Xbox Oneのみ、外付けHDDをUSB3.0の規格で接続でき、外付けHDDのゲームデータを直接起動することも可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "なお、実効500 MB/secであるUSB 3.0のインターフェースカードを増設する場合は、増設バスの帯域幅も実効500 MB/secのものが必要となり、さもなくば動作はするが増設バスがボトルネックとなる。PCI Express 2.0 x1(実効500 MB/sec)対応のものが標準的である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2010年8月、初期に登場したUSB-IF未認証のコントローラーを採用したマザーボードでUSB 1.x/2.0機器を接続しても動作しない問題が起きている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "USB 2.0規格に対応するUSBデバイスは幅広いオペレーティングシステム (OS) でサポートされている。以下に主な物を示す。", "title": "サポートするOS" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "USBクラス仕様の周辺機器の場合は、USBクラスデバイスをサポートするOS環境下であれば利用が可能である。組み込み系やゲーム機、デジタル家電等の場合は、ホスト側のUSBクラスデバイスのサポートが無かったり、不完全だったりする場合もある。またクラスデバイスでない周辺機器の場合も、各OS向けに周辺機器を認識するドライバ・ソフトウェアさえ用意されれば、同じ機器が利用できる。", "title": "サポートするOS" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "USB 3.0規格に対応したUSBデバイスや、USBコントローラーを内蔵したマザーボード、インターフェースボード等は、2009年末から2010年前半に出揃い始めている。", "title": "サポートするOS" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "OSのサポート状況は、それぞれのコントローラーやデバイスのドライバー(USB 3.0のマスストレージ、クラスドライバ等を含む)のサポートに主として依存すると目されている。OS自体がサポート打ち切りの場合、正式なドライバーのサポートは受けられない事が通例である。", "title": "サポートするOS" } ]
ユニバーサル・シリアル・バスは、コンピュータ等の情報機器に周辺機器を接続するためのシリアルバス規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、ホスト機器にさまざまな周辺機器を接続するためのペリフェラルバス規格であり、最初の規格となるUSB 1.0は1996年に登場した。現在のパーソナルコンピュータ周辺機器において、最も普及した汎用インターフェース規格である。 USB規格では、1つのバスについて周辺機器は最大で127台接続可能である。接続口が足りない場合には、ツリー状に拡張できるUSBハブの使用も想定している。プラグアンドプレイにも対応しており、規格制定当時の一般的な外部インターフェースでは不可能だったホットスワップも可能としていた。 ホストバスアダプタからの周辺機器への電源供給を規定している(バスパワー)。そのため従来のコンピュータ周辺機器だけでなく、事務用品や携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、日用品や便利グッズなど多様な機器へ電力を供給をする用途にも使用されるようになった。USBのコネクタを持ちつつ、この電力供給機能に特化したデータ通信を一切行わないという充電専用ケーブルも販売されている。 USBはホスト機器と周辺機器を接続する規格であり、ホスト同士・周辺機器同士の直接接続にはUSB On-The-Go対応機器を除いて非対応で、電力供給能力が低いといった限界や柔軟性に欠ける部分はあるものの、現在のパーソナルコンピュータ環境では利便性に優れ、周辺機器との接続に最も使用される規格である。特に外部記憶デバイスとして扱えるUSB接続のUSBメモリは可搬性の高さからよく利用されている。 USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。
{{Redirect|USB}} {{出典の明記|date=2015年10月}} [[ファイル:USB Icon.svg|thumb|200 px|USBのマーク]] [[ファイル:Type A USB connector.jpg|thumb|250 px|USBコネクタ(A端子)]] '''ユニバーサル・シリアル・バス'''({{Lang-en-short|Universal Serial Bus}}、略称:'''USB'''、ユーエスビー)は、[[コンピュータ]]等の情報機器に[[周辺機器]]を接続するための[[バス (コンピュータ)|シリアルバス]]規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]機器にさまざまな周辺機器を接続するための[[ペリフェラルバス]][[標準化|規格]]であり、最初の規格となるUSB 1.0は[[1996年]]に登場した。現在の[[パーソナルコンピュータ]]周辺機器において、最も普及した汎用[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]規格である。 USB規格では、1つのバスについて周辺機器は最大で127台接続可能である。接続口が足りない場合には、ツリー状に拡張できる[[USBハブ]]の使用も想定している。[[プラグアンドプレイ]]にも対応しており、規格制定当時の一般的な外部インターフェースでは不可能だった[[ホットスワップ]]も可能としていた。 [[ホストバスアダプタ]]からの周辺機器への[[電源]]供給を規定している(バスパワー)。そのため従来のコンピュータ周辺機器だけでなく、事務用品や[[携帯電話]]、[[デジタルオーディオプレーヤー]]、[[日用品]]や便利グッズなど多様な[[機器]]<ref>ミニ[[扇風機]]、[[電気毛布]]、[[電気ポット]]と言った「USB[[家庭用電気機械器具|家電]]」も発売されている。</ref>へ電力を供給をする用途にも使用されるようになった。USBのコネクタを持ちつつ、この電力供給機能に特化したデータ通信を一切行わないという[[充電]]専用ケーブルも販売されている。 USBはホスト機器と周辺機器を接続する規格であり、ホスト同士・周辺機器同士の直接接続には[[USB On-The-Go]]対応機器を除いて非対応で、電力供給能力が低いといった限界や柔軟性に欠ける部分はあるものの、現在のパーソナルコンピュータ環境では利便性に優れ、周辺機器との接続に最も使用される規格である。特に外部[[補助記憶装置|記憶デバイス]]として扱えるUSB接続の[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]は可搬性の高さからよく利用されている。 USB 3.1 Gen 2 以上の最大転送速度は10 Gbps、USB 3.2 Gen 2x2 以上で 20 Gbps、USB4 Gen 3x2 以上で 40 Gbpsとなる。 {{TOC limit|3}} == 設立 == [[ファイル:SuperSpeed USB.svg|thumb|200px|SuperSpeed USBのロゴマーク]] 従来からの[[RS-232]]C[[シリアルポート]]や[[IEEE 1284]][[パラレルポート]]、[[PS/2コネクタ]]の置き換え(後々、[[レガシーデバイス|レガシーポート]]とも呼ばれるようになる)を狙って[[コンパック]]、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]] (DEC)、[[IBM]]、[[インテル]]、[[マイクロソフト]]、[[日本電気|NEC]]、[[ノーテルネットワークス]]の7社が合同で1994年に開発を行い、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]において正式にサポートされたことで普及した。 さらにUSB 2.0/3.0の登場によって転送速度が大幅に向上し、従来は[[Advanced Technology Attachment#IDE|IDE]]や[[Small Computer System Interface|SCSI]]、[[イーサネット]]など高速転送規格が必要だった[[ハードディスクドライブ]]等の機器との接続にも用いられている。 USB 3ではマイナーバージョンが乱立し、ユーザーに混乱を引き起こした。USB Promoter GroupのCEO、Brad SaundersはUSB 3における混乱を受けて、USB4を元にした新規格が作られた際には、マイナーバージョンではなく新名称を与える方針を公表した<ref>{{Cite web|和書|title=2021年ごろ登場! 新規格「USB4」に知っておくべきことすベて|url=https://www.lifehacker.jp/2020/05/everything-you-need-to-know-about-usb-4.html|website=www.lifehacker.jp|date=2020-05-17|accessdate=2020-09-27|language=ja|first=mediagene|last=Inc}}</ref>。 == 規格所有者 == 当初は[[インテル]]、[[マイクロソフト]]、[[コンパック]](現:[[ヒューレット・パッカード]])、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]](現:ヒューレット・パッカード)、[[IBM]]、[[日本電気|NEC]]、ノーザンテレコム(現:[[ノキア]])が仕様を策定したが、[[2017年]]9月現在では、[[非営利団体|NPO]]の[[USBインプリメンターズ・フォーラム]] (USB-IF) が仕様の策定や管理などを行なっている。USB-IFは、[[Apple]]、ヒューレット・パッカード、インテル、マイクロソフト、[[ルネサスエレクトロニクス]]、[[STマイクロエレクトロニクス]]の6社が主導企業であり、合計996社で構成される。 類似独自規格の乱造乱立を防ぐ目的で[[特許]]自体は存在しているが、特許使用料は無料とされている。なお、USBデバイスの製造においては製造者を識別するためのベンダーIDの申請を行う必要がある。 多くの他のバス規格では、特許料の支払いの関係で個別での契約が必要であるなど、[[中小企業|中小法人]]の参入が難しかったのに対し、USB規格ではルールさえ守れば事実上誰でも参入可能なことが普及を促進したと言われており、[[玩具]]など幅広い機器が発売されている。 == USBの各世代 == <!--"Version"という用語はUSBでは規格内での小さな仕様変更の版数を示すので「バージョン」という節名は使用しないほうが良いと考えます。--> USB規格は、最大転送速度の向上などを求めて何度か規格が拡張されている。これらは1.1から4まで[[互換性|上位互換]]であり、機能や性能が下位規格に縛られる事を除けば、下位規格品と上位規格品を接続しても正しく動作する事が求められている。 {| class="wikitable" |+ USBの比較 |- ! style="width:8.5em"| 規格名(旧名称) !! 仕様発行日 !! 最大データ転送速度(実効速度) !! 最大伝送距離 !! 給電能力 (5V) !! 備考 |- | USB&nbsp;1.0 | 1996年1月 | rowspan="2" | [[半二重]]12&nbsp;Mbps (1.5&nbsp;MB/s) | rowspan="3" | {{Ubl|5&nbsp;m|USB Type-Cは4&nbsp;mまで}} | rowspan="3" | {{Ubl|500&nbsp;mA|USB Power Delivery対応のUSB Type-Cは1.5&nbsp;Aまたは3&nbsp;A}} | rowspan="2" | |- | USB&nbsp;1.1 | 1998年9月 |- | USB 2.0 | 2000年4月 | 半二重480&nbsp;Mbps (60&nbsp;MB/s) |- | {{Ubl|USB&nbsp;3.2 Gen&nbsp;1|(USB&nbsp;3.1 Gen&nbsp;1)|(USB&nbsp;3.0)}} | 2008年11月 | [[全二重]]5&nbsp;Gbps (500&nbsp;MB/s) | {{Ubl|3&nbsp;m|USB Type-Cは2&nbsp;mまで<ref name="ConnectorSpecification"/>}} | {{Ubl|900&nbsp;mA|USB Power Delivery対応のUSB Type-Cは1.5&nbsp;Aまたは3&nbsp;A}} |SuperSpeed USB |- | {{Ubl|USB&nbsp;3.2 Gen&nbsp;2|(USB&nbsp;3.1 Gen&nbsp;2)}} | 2013年8月 | 全二重10&nbsp;Gbps (1.21&nbsp;GB/s) | rowspan="2" | 1&nbsp;m<ref name="ConnectorSpecification">{{Cite web|url=https://www.usb.org/sites/default/files/USB%20Type-C%20Spec%20R2.0%20-%20August%202019.pdf |title=Universal Serial Bus Type-C Cable and Connector Specification Release 2.0 |language=en |format=PDF |publisher=[[USBインプリメンターズ・フォーラム]] |page=37 |at=Table 3-1 |accessdate=2019-11-22}}</ref> | {{Ubl|1000&nbsp;mA|USB Power Delivery対応のUSB Type-Cは1.5&nbsp;Aまたは3&nbsp;A}} |SuperSpeed USB 10Gbps |- | USB&nbsp;3.2 Gen&nbsp;2x2 | 2017年9月25日 | 全二重20&nbsp;Gbps (2.42&nbsp;GB/s) | rowspan="2" | {{Ubl|1000&nbsp;mA|USB Power Delivery対応の場合は1.5&nbsp;Aまたは3&nbsp;A}} | {{Unbulleted list|SuperSpeed USB 20Gbps|USB Type-Cのみ対応}} |- | {{Unbulleted list|USB4 Version 1.0}} | 2019年9月3日 | {{Unbulleted list|全二重20 Gbps (2.42 GB/s)|全二重40 Gbps (4.85 GB/s)}} | 0.8&nbsp;m<ref name="ConnectorSpecification"/> | {{Unbulleted list|USB4™ 20Gbps|USB4™ 40Gbps|Thunderbolt 3を基盤とする}} |- | USB4 Version 2.0 | 2022年11月 | 全二重80 Gbps (8&nbsp;GB/s) | | |} [[ファイル:USB & Thunderbolt Speed Comparison 2023.svg|サムネイル|424x424ピクセル|USBと[[Thunderbolt]]の転送速度 ただし、Thunderbolt3は映像用の帯域を含めた値であり、データ転送速度は22Gbps~8Gbpsの間となる。]] === USB 1.0 === {{Anchors|USB1.0}} [[1996年]]1月発表。最大12 M[[ビット毎秒|bps]] (1.5MB/s)。 === USB 1.1 === {{Anchors|USB1.1}} [[1998年]]9月発表。USB 1.0の規格仕様を電源管理等について改善した。最大12 M[[ビット毎秒|bps]] (1.5MB/s)。 === USB 2.0 === {{Anchors|USB2.0}} [[2000年]]4月発表。USB 1.1の規格仕様に、High-Speedモード(最大480 Mbps)を追加した。 480 MbpsのHigh-Speed転送やそれをサポートする機器と、規格のバージョン番号であるUSB 2.0を同一の意味で使う場合があるが、これは誤用である。USB 2.0規格では依然としてFull-SpeedデバイスおよびLow-Speedデバイスは設計および製造が可能でかつ販売および利用が可能である。USB-IFではHigh-Speedであることを明示したいような場合の用語として"Hi-Speed USB"を使うように指導している<ref>{{Cite web|url=http://www.usb.org/about/usb_nomenclature |title=USB-IF nomenclature information |language=en |publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム |accessdate=2007-02-23 |deadlink=2020-09-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070302142211/http://www.usb.org/about/usb_nomenclature |archivedate=2007-03-02}}</ref>。 === USB 3.0 === {{Anchors|USB3.0}} USB-IFにより規格標準化が進められ、[[2008年]]8月のIntel Developer Forumにて、revision 1.0が2008年第4[[年#派生単位|四半期]]に登場すると明言され、同時にピンの仕様と[[コネクタ]]および[[ケーブル]]の[[プロトタイプ]]が出席者に対して公開された。その後、正式な通称が「SuperSpeed USB」とされ、[[ロゴタイプ|ロゴ]]も公開された。2008年9月には暫定規格であるrevision 0.9が決定された。 2008年11月17日に「SuperSpeed USB Developers Conference」上で正式な仕様が発表され、USB 3.0規格はrevision 1.0として正式なものとなった。 USB 3.0は、物理的な[[互換性|後方互換性]]を保ちつつ、最大データ転送速度が5 Gbps(ただし、8ビットのデータが10ビットの信号に変換されて送られるので、実際のデータ転送速度は4 Gbps = 500 MB/sが上限)となった。ピンの数が標準では5本増えて9本となり、[[USB On-The-Go]]対応のオプションでは計10本となるが、ピン形状が工夫されUSB 1.1やUSB 2.0対応の(標準)A端子、(標準)B端子、マイクロB端子との物理的な後方互換性は確保されたが、ミニUSBは規格から消滅した。 ピンの数が増えた理由は、USB 2.0以前とUSB 3.0以降で完全に別の信号線を使用するからである。つまり、USB 3.0以降はUSB 2.0以前と別の技術で動作している<ref>{{Citation|url=https://www.usb.org/document-library/usb-32-specification-released-september-22-2017-and-ecns |title=Universal Serial Bus 3.2 Specification |at=Figure 3-1. USB 3.2 Dual Bus System Architecture |language=en |format=PDF |publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム |accessdate=2019-04-03}}</ref>。 符号化方式がUSB 2.0のNRZIに対して[[8b/10b]]とPRBSが採用され、通信モードも半二重から全二重(単信2組)となる。[[物理層]]には[[PCI Express]] 2.0の技術が準用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/interface/20100805_385435.html |title=USB 3.0 その1 |work=大原雄介の最新インターフェイス動向 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2010-08-05}}</ref>。[[携帯機器]]への配慮から消費電力の削減が強く求められ、SuperSpeedでは[[ポーリング (情報)|ポーリング]]が排除され、4つの待機モードも新たに設けられた。 また、USB 3.0対応機器のコネクタの絶縁体部には1.1/2.0との区別のため青色を使用することが推奨されている。 [[電磁放射]]ノイズのピークを下げるために、[[スペクトラム拡散]]クロックが必須とされた。光伝送も含まれる予定だったがコスト面からの反対が多く、revision 1.0での導入は見送られた。光伝送技術の導入に積極的なインテル社は、将来の採用を構想している。 放射電磁雑音対策のために、信号ケーブルには[[電磁シールド|シールド]]付きの物を使用するが、規格である3 mの伝送距離を満たした試作品は直径6 mmあり、携帯機器によってはUSBケーブルで宙に浮いてしまう。そういった事態を避けるために今後、伝送距離を1 m程度に短くし、伝送損失が許される範囲の規格で更に細い信号ケーブルを使う事も検討されている。 USB 3.0が[[チップセット]]に内蔵されることで[[マザーボード]]の標準機能に含まれるのは、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]社ではA75、Intel社ではIntel 7シリーズからである。 増設インターフェイスカードを使用する際には、通信速度のボトルネックに注意が必要となる。USB 3.0の1ポートあたりの最大転送速度は5 Gbpsであり、PCI Express x1 (Gen 2) の最大転送速度も5 Gbpsであるため、市場に多く出回っているPCI Express x1のインターフェイスカードを増設した場合、USB 3.0を2ポート以上接続して利用するとPCI Express x1の転送速度がボトルネックとなる。これを避けるために、PCI Express x4スロットで接続するインターフェイスカードも登場している<ref>{{Cite news|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20121117/etc_area.html |title=PCIe x4のUSB 3.0カードが発売、複数機器なら速度向上 |publisher=インプレス |accessdate=2013-02-16}}</ref>。また、PCI Express x1のマザーボードからの最大供給電力は10 Wであるが、USB 3.0の2ポートに規格上限の電力を供給すると9 Wとなり、カード自体の消費電力と合わせると不足する。このため、多くのPCI Express x1のインターフェイスカードには、電源ユニットからの電力線を接続する補助電源端子が備わっている。 2012年までの多くのパソコンで、USB 3.0が1ポート(もしくは2ポート)と残りがUSB 2.0ポートという組み合わせにされている理由は、{{要出典|範囲=(1) 2009年の時点でUSB 3.0コントローラーを市場に供給できる唯一のメーカーであったルネサスのUSB 3.0コントローラが技術的に2ポートまでしか対応していないこと、(2) USB 3.0の要求する電力がUSB 2.0よりも高く、容量の大きな電源が必要になってくること、および、(3) チップセット内蔵の場合、[[CPU]]⇔[[チップセット#構成|サウスブリッジ]]間のバス・バンド幅が現状では十分でないため、現状では全てのポートをUSB 3.0化することは技術的に不可能であること、などが原因である|date=2023年4月}}。ほどなく[[VIA Technologies|VIA]]などの各製造メーカーもUSB 3.0に対応し、また4ポート対応のコントローラーも開発されるなどで、登場から5年後の2014年頃には特にポートの少ないノートパソコンではUSB 3.0への完全対応がなされた。 === USB 3.1 === {{Anchors|USB3.1}} [[2013年]][[8月1日]]、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.1規格の策定完了を発表した。USB 3.1は、以下のようにUSB 3.0を取り込んでいる(GenはGenerationの意)。 * USB 3.1 Gen 1 ({{0}}5 Gbps) ← 従来のUSB 3.0のこと * USB 3.1 Gen 2 (10 Gbps) ← '''USB 3.1で新しく拡張''' USB 3.1 Gen 2モードはSuperSpeedPlus USBで10 Gbpsの転送を可能とする<ref>{{Cite web|和書|author=大原雄介 |date=2013-08-12 |url=http://ascii.jp/elem/000/000/816/816743/ |title=USB 3.1が発表、USB 3.0からなにがどう変わる? |publisher=ASCII.jp |accessdate=2018-10-13}}</ref>。 SuperSpeedPlus USB 10 Gbpsでは信号転送速度を5 GHzから10 GHzにアップ、データエンコードも[[8b/10b]]からより効率的な'''128b/132b''' の採用など物理レイヤーを変更することで現行のSuperSpeed USBの2倍の実効データスループット性能を実現している。一方でソフトウェア階層やデバイスのプロトコルといった論理レイヤーは現行のUSB 3.0と共通で、USB 3.1 Gen 1モードでは5 GbpsのUSB 3.0と同様に使用でき、Gen 1モード・Gen 2モードのいずれもUSB 3.0ハブ・デバイス・ケーブルとの互換性は保たれている(ただしUSB 3.0ハブ下の機器は5 Gbpsでの転送となる)。 この結果、USB 3.1対応機器はUSB 1.1/2.0の論理レイヤー+USB 1.1/2.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.0の物理レイヤー、USB 3.xの論理レイヤー+USB 3.1の物理レイヤー という3パターンの内部動作が要求される複雑なものとなっている。 === USB 3.2 === {{Anchors|USB 3.2}} [[2017年]][[7月25日]]、USB 3.0 Promoter GroupはUSB 3.2規格を発表<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1072546.html |title=転送速度を2倍に引き上げた「USB 3.2」が策定 |newspaper=PC Watch |publisher=インプレス |accessdate=2017-07-26}}</ref>。2017年[[9月25日]]に正式リリースされた<ref>{{Cite press|url=https://www.usb.org/press/USB-IF_Press_Releases/USB_3.2_specification_published_USB-IF_PR_FINAL.pdf |title=USB-IF Announces USB 3.2 Specification Published |language=en |format=PDF |publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム |accessdate=2017-09-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170927000214/https://www.usb.org/press/USB-IF_Press_Releases/USB_3.2_specification_published_USB-IF_PR_FINAL.pdf |archivedate=2017-09-27}}</ref>。 USB 3.2は、以下のようにUSB 3.0と3.1を取り込んでいる(GenはGenerationの意)<ref>{{Citation|url=https://www.usb.org/document-library/usb-32-specification-released-september-22-2017-and-ecns |title=Universal Serial Bus 3.2 Specification |date=September 22, 2017 |at=Table 5-1. USB Connectors Applicability to USB 3.2 |language=en |format=PDF |publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム |accessdate=2019-04-03}}</ref>。 * USB 3.2 Gen 1x1 ({{0}}5 Gbps) ← 従来のUSB 3.0, USB 3.1 Gen 1のこと * USB 3.2 Gen 1x2 (10 Gbps) ← '''USB 3.2で新しく拡張(2レーン)''' * USB 3.2 Gen 2x1 (10 Gbps) ← 従来のUSB 3.1 Gen 2 のこと * USB 3.2 Gen 2x2 (20 Gbps) ← '''USB 3.2で新しく拡張(2レーン)''' '''x2'''が2レーンを表している。USB 3.2 対応の両端がType-Cコネクタのケーブルを利用したときだけ2レーンが利用可能になり、20 Gbps対応となる<ref>{{Citation|url=https://www.usb.org/document-library/usb-32-specification-released-september-22-2017-and-ecns |title=Universal Serial Bus 3.2 Specification |date=September 22, 2017 |at=Table 5-2. Standard USB Cables Applicability to USB 3.2 |language=en |format=PDF |publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム |accessdate=2019-04-03}}</ref>。 2倍の物理層が必要な2レーンオペレーションに対応しつつも転送速度を10 Gbpsに留めておく合理的な理由がほとんど存在しないため、Gen 1x2に実用性はあまりない<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=USB 3.2とUSB4は従来のUSB規格から何が変わるのか? 混乱しがちなUSBの最新事情を説明しよう|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999902/20190403022/|website=www.4gamer.net|accessdate=2021-03-19|language=ja|first=Aetas|last=Inc}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=USB 4の発表で、USB 3.2はどうなった? (3/5)|url=https://ascii.jp/elem/000/001/848/1848727/|website=ASCII.jp|accessdate=2021-03-19|language=ja|last=ASCII}}</ref>。 ケーブルの片側がStandard-Aでもう一方がType-CのUSB 3.1 Gen 2対応ケーブルも使用できるが、その場合、2レーンは使用できない。 === USB4 === {{Main|USB4}} {{Anchors|USB4}} 2019年3月4日に仕様策定が進行中であることが<ref>{{Cite web|url=https://usb.org/sites/default/files/2019-03/USB_PG_USB4_DevUpdate_Announcement_FINAL_20190226.pdf|title=USB Promoter Group Announces USB4 Specification|accessdate=2019-3-5|publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム|format=PDF}}</ref>。2019年9月3日に仕様が一般公開された<ref>{{Cite web|title=USB-IF Announces Publication of USB4TM Specification|url=https://www.usb.org/sites/default/files/2019-09/USB-IF_USB4%20spec%20announcement_FINAL.pdf|website=www.usb.org|accessdate=2019-09-03|publisher=USBインプリメンターズ・フォーラム}}</ref>。技術的にはIntelから提供されたThunderboltプロトコル仕様がベースとなっており、既存のUSB 2.0・USB 3.2仕様との後方互換性を有する<ref>{{Cite web|和書|title=USBの次世代仕様「USB4」が発表。Thunderbolt 3ベースで最大転送速度は40 Gbpsに|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999902/20190305012/|website=www.4gamer.net|accessdate=2019-03-05|language=ja|first=聡|last=米田}}</ref>。バージョンに小数点以下の数字が付かなくなり、かつ、数字とUSBの間に空白を入れないことになった。 2レーンオペレーションのType-Cコネクタを使用する事が前提であり、帯域は標準で20 Gbps、オプションで40 Gbpsとなる。ただし、USBとしてのデータ転送プロトコルは最大で20 GbpsのUSB 3.2のままである。対応したプロトコル(USB 3.2、[[DisplayPort]]、オプションで[[PCI Express]])[[トンネリング]]に対応し、最低でも1レーンを占有する[[DisplayPort]] Alt Modeでは不可能であったケーブル一本でのUSB 3.2の20 Gbpsデータ転送とDisplayPortの映像出力を同時に利用できる。また、ホスト側にDisplayPort(USB4及び従来のDP Alt Mode)による映像出力の実装が義務付けられたため、規格に準拠しUSB4を名乗っているポートであれば必ず映像出力に対応する事となった。 2022年10月18日に、データ転送速度が80 Gbpsに向上したUSB4 Version 2.0の仕様が公開された。80 Gbpsでのデータ転送は既存のUSB 40Gbpsパッシブケーブル、もしくは新たに規定されたUSB 80Gbpsアクティブケーブルで可能となる。既存のUSB4・USB 3.2・USB 2.0との後方互換性を有する。 * USB 20Gbps (USB4 Gen 2x2) * USB 40Gbps (USB4 Gen 3x2) * USB 80Gbps (USB4 Gen 4x2) == Wireless USB == {{Main|Wireless USB}} [[Wireless USB]]は、[[2005年]]5月に発表された。[[無線通信]]によるデバイス接続をサポートする。Agere Systems(現:[[LSIコーポレーション]])、HP、インテル、マイクロソフト、NEC、[[フィリップス]]、[[サムスン電子]]の7社により策定された。有線USB規格と接続性を考慮しているが、それらとは独立した規格として作成されている。 == 機能概略 == USBでは、1つのバスに仕様上最大127台の機器を接続し同時に使用することができる。ホットプラグにも対応する。ただし[[オペレーティングシステム|OS]]、USB機器によっては、取り外す場合USBデバイスを停止させる手順を実施しないと警告が出ることがある。これは、ドライバ・ソフトウェアの処理で、状態の不整合による不具合が起こることがあるためである。 ホストを根 (root) とし、ハブとデバイスによる[[木構造 (データ構造)|木構造]]の接続形態をとる。[[通信]]データは[[パケット]]化され送られる。[[ハブ (ネットワーク機器)|ハブ]]とデバイスは動作中それぞれ独立したバスアドレスを持つ。このアドレスはデバイスがバスに接続時にホストにより動的に割り当てられる。アドレスは7[[ビット]]であり、特殊用途のアドレス0を除くと127個の個別デバイスが同一バス上に同時に存在できる。パケットはHigh-speedまでは[[ブロードキャスト]]され、パケットに指定されているあて先アドレスを見てデバイス側で必要なパケットを受信する。SuperSpeed以降はユニキャストである。通信はホスト側からの働きかけにより開始される必要があるため、SCSIなどと異なりバス上でデバイス側からの通信開始は基本的には行えない。周辺機器同士を直接接続するための拡張仕様[[USB On-The-Go]]では、どちらか片側がホストとしてふるまうことで「ホスト対デバイス」の関係となるよう設計されている。 === 転送速度 === ; Low-Speed(LSモード) : 速度 1.5 Mbps : キーボードやマウスなど、高速な通信が必要ない周辺機器に用いる。 ; Full-Speed(FSモード) : 速度 12 Mbps : [[イメージスキャナ|イメージスキャナー]]や[[プリンター]]など、通信速度が要求される周辺機器に用いる。USB 1.1まではこの速度が最大である。G5 Laser Mouse等、[[ロジクール]]の一部のマウスでも用いられている。 ; High-Speed(HSモード) : 速度 480 Mbps : 大容量ストレージなどを実用的な速度で扱える。USB 2.0で新設された。その他Full-Speed同様、イメージスキャナーやプリンターなど、通信速度が要求される周辺機器に用いる。 ; SuperSpeed(SSモード) : 速度 5 Gbps : HDD (Hard Disk Drive) やSSD (Solid State Drive) 等の高速デバイスを扱える。USB 3.0で新設された。USB 3.1 の仕様書では Gen 1, USB 3.2 の仕様書では Gen 1x1 と呼んでいる。 ; SuperSpeedPlus(SS+モード) : 速度 10 Gbps, 20 Gbps : 600 MB/s以上のSSD等高速デバイスを扱える。USB 3.1で新設され、Gen 2 が 10 Gbps。USB 3.2 では2レーンが使えるようになり Gen 2x1, Gen 2x2 の3種類となり、Gen 2x2 は 20 Gbps。規格上はGen 1x2も存在するが、実用的ではない(10 GbpsならGen 2x1を、2レーンならGen 2x2を利用する方が合理的)なため、製品はほとんど存在しない<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 === 独自の高速化技術 === HDDなどを接続するとHigh-SpeedモードでもMass Storageクラス準拠では転送速度が[[ボトルネック]]となる場合があるため、転送方法の工夫で実効速度を向上させる製品を出荷しているところがある。[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]の「TurboUSB」と[[アイ・オー・データ機器]]の「マッハUSB」がそれで、20 - 30%高速化すると謳っている。[[ソフトウェア]]で処理するため接続するパソコンの性能に依存し、両社ともWindowsとMac OSのみの対応となっている。 === 転送モード === ; コントロール転送 : デバイスの設定・制御のためのもの。 ; インタラプト転送 : 一定間隔でデータを転送するためのもの。キーボードやマウスなどに使われる。名前から想像されるのとは異なり、ホストからの一定間隔のポーリングによって実現される。 ; バルク転送 : 比較的まとまった量のデータを非周期的に転送するためのもの。[[補助記憶装置]]や[[イメージスキャナ]]などに用いられる。 ; アイソクロナス転送 : 連続的周期的なデータを転送を行う。再送がないため確実性は保証されない。[[ビデオ]]や[[音響機器]]の入出力などに使用される。 ==== USB Attached SCSI Protocol ==== {{see also|USB Attached SCSI}} USB Attached SCSI Protocol(略称:UASP)とはUSBの拡張仕様で通信プロトコルの一つである。 一般的に補助記憶装置との通信はバルク転送が使われており、転送効率の悪さから通信速度の低下を招いていた。それに代わりSCSIデバイスで使われていた通信プロトコルを応用することで通信速度の改善を図ることができる。 UASPを利用するにはパソコン及びデバイスの対応と、それらを制御するOSの対応がそれぞれ必要である。 == デバイス・クラス == {{Anchors|USBクラス}} USBでは、周辺機器の機能によってグループ分けされた'''デバイス・クラス'''と呼ばれる仕様群が定義されている。それぞれのクラス仕様(クラス仕様によってはサブクラスの仕様)に従って作成されたデバイスには統一した制御インターフェースが用意され、クラス仕様に準拠した機器類は、'''クラス・ドライバー'''と呼ばれる共通の[[デバイスドライバ]]・ソフトウェアによって動作させることができるため、同一クラスであれば製品ごとに個別のドライバ・ソフトウェアを作る必要がなくなっている。例えば、多くの[[USBメモリ]]は'''マスストレージ・クラス'''というクラスに属しており、OS側がマスストレージ・クラス対応のクラス・ドライバを用意していれば、USBメモリがクラス仕様に準拠する限り、新たにドライバを[[インストール]]する必要がなく、初めて接続してもすぐに動作する。ただし、実際にはデバイス側の仕様違反、特定ホストの動作に依存したデバイスの実装、仕様上の曖昧さによるぶれなどにより、共通のクラス・ドライバでは動作しない、ドライバ内に不具合回避処理が盛り込まれる、専用ドライバが提供される、という場合もある。 2009年11月現在、USB.orgによって定義されているデバイス・クラスは以下の通りである<ref>[https://www.usb.org/defined-class-codes USB Class Codes] USB.org内</ref>。 {| class="wikitable" |- ! クラスID ! 使用するディスクリプタ ! クラス名 ! 用途 |- | 00[[hexadecimal|h]] | Device | (未定義)<ref>Use class information in the interface descriptors. This base class is defined to be used in device descriptors to indicate that class information should be determined from the Interface Descriptors in the device.</ref> | (デバイス・クラスが未定義であることを示す。この場合、インターフェース・ディスクリプタによって使用するドライバが特定される。) |- | 01h | Interface | オーディオ | [[スピーカー]]、[[マイク]]、[[サウンドカード]]、[[MIDI]]機器 |- | 02h | Both | USB communications device class (Communications and CDC Control) | [[ネットワークカード|イーサネットカード]]、[[モデム]] |- | 03h | rowspan="5" | Interface | USB human interface device class(ヒューマンインターフェースデバイス (HID)) | [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[ジョイスティック]] |- | 05h | Physical Interface Device (PID) | フォースフィードバックジョイスティック |- | 06h | イメージ | [[Webカメラ]]、[[イメージスキャナ]] |- | 07h | プリンター | [[プリンター]]、[[CNC]] |- | 08h | USB mass-storage device class(マスストレージ) | [[USBメモリ]]、[[メモリーカードリーダライタ]]、[[デジタルオーディオプレーヤー]]、[[デジタルスチルカメラ]]、[[外部記憶装置]] |- | 09h | Device | USB hub | USBハブ |- | 0Ah | rowspan="5" | Interface | CDC-Data | (クラスコード02hのCommunications and CDC Controlと同時に使われる。) |- | 0Bh | Smart Card | USB [[ICカード]]リーダー |- | 0Dh | Content security | [[指紋]]読み取り機 |- | 0Eh | USB video device class(ビデオ) | [[Webカメラ]] |- | 0Fh | Personal Healthcare | 脈拍計(脈拍計つき時計) |- | DCh | Both | Diagnostic Device | USB コンプライアンステスト用デバイス |- | E0h | Interface | [[無線通信|Wireless]] Controller | [[Wi-Fi]]アダプタ、[[Bluetooth]]アダプタ |- | EFh | Both | Miscellaneous | [[Microsoft ActiveSync]] device |- | FEh | Interface | アプリケーション定義 | [[IrDA]]ブリッジ、Test & Measurement Class (USBTMC)<ref>''Universal Serial Bus Test and Measurement Class Specification (USBTMC), Revision 1.0, April 14, 2003'', USB Implementers Forum, Inc.</ref>、USB DFU (Direct Firmware update)<ref>{{Cite web|url=http://www.usb.org/developers/devclass_docs/DFU_1.1.pdf |title=DFU_1.1.doc |format=PDF |date= |accessdate=2010-06-22}}</ref> |- | FFh | Both | ベンダー定義 | (ベンダー定義のドライバを使用することを示す。) |} <!-- {{See also|en:USB mass-storage device class}} --> == ホストコントローラの種類 == USB規格では[[ホストバスアダプタ|ホストコントローラ]]の規格を定義しておらず、以下のホストコントローラ規格はUSBの仕様外である。複数のホストコントローラ規格がある。これらは制御方法が異なるため、それぞれ別のドライバが必要である。ただし同一ホストコントローラ規格内では共通のものが通常使える。 ; UHCI (Universal Host Controller Interface) : インテル社が開発し、インテルおよびVIA社のx86用チップセットで採用されている。USB 1.x時代に開発され、Full/Low Speed対応。 ; OHCI (Open Host Controller Interface) : マイクロソフト社、[[ナショナル セミコンダクター]]社、コンパック社が開発し、インテル・VIA社以外のチップセットで使われている。USB 1.x時代に開発され、Full/Low Speed対応。 ; EHCI (Enhanced Host Controller Interface) : インテル社が開発した。ただしコントリビューター(貢献者)として[[コンパック]]社、[[ルーセント・テクノロジー]]社、マイクロソフト社、NECが挙げられている。USB 2.0規格で新設されたHigh Speedをサポートする。通常Full/Low Speedデバイスとの通信を行うための"Companion HostController"(UHCI、OHCIが普通)が同一[[チップセット|チップ]]内に実装され、Full/Low Speedデバイスがハブを通さず直接接続されたときに通信を担当する。EHCIはFull/Low Speedデバイスとの通信も行うことができるが、その場合にはデバイスとの間にあるUSB 2.0規格ハブによりHigh Speedへの通信速度変換が行われた上で実行される。 ; xHCI (eXtensible Host Controller Interface) : インテル社が開発した。USB 3.0規格で新設されたSuperSpeedをサポートする。すでにインテルより提供が開始され、周辺機器の開発が始められている。 ; WHCI (Wireless Host Controller Interface) : インテル社が開発した、Wireless USBのホスト規格である。UWB一般の制御とWireless USBのホスト部と複数の機能を同時に定義している。Wireless USB部分の制御方法はEHCIと似ている。 ; ScanLogic<!--Cypressに買収された-->のSL811HST、NXPセミコンダクターズ<!--フィリップスから分社-->のISP1160等 : 組み込み用途向けのマイコンバス直結型USBホストコントローラー。規格化はされていないのでメーカーが異なると全く互換性は無い。 == 物理接続 == === 端子類/コネクタ === {{Anchors|MicroUSB|Micro-USB}} {| class="wikitable" style="text-align:center; margin-left:auto; margin-right:auto;" |+ コネクタ一覧 |- ! 規格 ! [[#USB 1.0|USB 1.0]]<br />1996 ! [[#USB 1.1|USB 1.1]]<br />1998 ! [[#USB 2.0|USB 2.0]]<br />2001 ! USB 2.0<br />改訂版 ! [[#USB 3.0|USB 3.0]]<br />2008 ! [[#USB 3.1|USB 3.1]]<br />2013 ! [[#USB 3.2|USB 3.2]]<br />2017 ! [[USB4]]<br />2019 |- ! 最大転送速度 | colspan="2" | 12 Mbps | colspan="2" | 480 Mbps | 5 Gbps | 10 Gbps | 20 Gbps | 40 Gbps |- ! A コネクタ | colspan="2" | [[File:USB Type-A receptacle White.svg|75px]] | colspan="2" | [[File:USB Type-A receptacle Black.svg|75px]] | colspan="2" | [[File:USB 3.0 Type-A receptacle blue.svg|75px]] | colspan="2" {{n/a|非推奨}} |- ! B コネクタ | colspan="4" | [[File:USB Type-B receptacle.svg|x60px]] | colspan="2" | [[File:USB 3.0 Type-B receptacle blue.svg|x75px]] | colspan="2" {{n/a|非推奨}} |- ! C コネクタ | colspan="2" {{N/A|後方互換のみ}} | colspan="6" style="font-size:60%"| [[File:USB Type-C Receptacle Pinout.svg|219x219px]]<br />(Enlarged to show detail) |- ! ミニA コネクタ | {{N/A}} | colspan="3" | [[File:USB Mini-A receptacle.svg|75x75px]] | colspan="5" {{n/a|非推奨}} |- ! ミニB コネクタ | {{N/A}} | colspan="3" | [[File:USB Mini-B receptacle.svg|67x67px]] | colspan="5" {{n/a|非推奨}} |- ! ミニAB コネクタ{{Efn|「ミニUSBコネクタ(ミニ8ピン平型)」とも呼ばれる。}} | colspan="3" {{N/A}} | [[File:USB_Mini-AB_receptacle.svg|60px]] | colspan="5" {{n/a|非推奨}} |- style="height: 6em;" ! マイクロA コネクタ | colspan="3" {{N/A}} | [[File:USB Micro-A.svg|alt=|frameless|75x75px]] | colspan="2" | [[File:USB 3.0 Micro-A.svg|frameless|117x117px]] | colspan="2" {{n/a|非推奨}} |- ! マイクロB コネクタ | colspan="3" {{N/A}} | [[File:USB Micro-B receptacle.svg|alt=|frameless|75x75px]] | colspan="2" | [[File:USB 3.0 Micro-B receptacle.svg|frameless|117x117px]] | colspan="2" {{n/a|非推奨}} |- ! マイクロAB コネクタ | colspan="3" {{N/A}} | [[File:USB Micro-AB receptacle.svg|75x75px]] | colspan="2" | [[File:USB micro AB SuperSpeed.png|frameless|117x117px]] | colspan="2" {{n/a|非推奨}} |} <gallery mode="packed" heights="75px"> USB Male Plug Type A.jpg|USB Aオス (plug) 側コネクタ USB Male Plug Type B.jpg|USB Bオス (plug) 側コネクタ USB Port.jpg|USB Aメス (receptacle) 側コネクタ Mini-A.jpg|USBミニAオス (plug) 側コネクタ Mini-B.jpg|USBミニBオス (plug) 側コネクタ MicroB USB Plug.jpg|USBマイクロBオス (plug) 側コネクタ USB Micro-B receptacle.svg|USBマイクロBメス (receptacle) 側コネクタ USB 3.0 Micro-B connector receptacle.jpg|USB 3.0 マイクロBメス (receptacle) 側コネクタ USB 3.0 Micro-B connector plug.jpg|USB 3.0 マイクロBオス (plug) 側コネクタ Usb type-c plug socket.jpg|USB Type-C オス (plug) 側コネクタ Smartphone equipped with type-c terminal.jpg|USB Type-C メス (receptacle) 側コネクタ </gallery> 端子類/コネクタの形状はUSB 2.0までは転送プロトコルと同じ規格で、3.0以降は転送プロトコルとは独立した規格で定められている。ミニA端子B端子、ABソケットについては拡張規格である[[USB On-The-Go]]規格内で定められている。定義されている端子形状には以下のものがある。 * USB 2.0までの対応品 ** USB Aプラグとソケット (Standard-A) ** USB Bプラグとソケット (Standard-B) ** ミニUSB仕様 *** ミニAプラグとソケット *** ミニBプラグとソケット *** ミニABソケット ** マイクロUSB仕様 *** マイクロAプラグとソケット *** マイクロBプラグとソケット *** マイクロABソケット * USB 3.0までの対応品 ** USB Aプラグとソケット (Standard-A) ** USB Bプラグとソケット (Standard-B) ** マイクロBプラグとソケット * USB 3.1までの対応品 ** USB Aプラグとソケット (Standard-A) ** USB Cプラグとソケット A端子類はコンピュータ本体やハブ(下流・デバイス接続側)に、B端子類は周辺機器やハブ(上流・ホスト接続側)に使われている。ミニB端子類は、[[デジタルカメラ]]などの小型デバイスに使用される。端子形状を変えることにより接続方法を制限し、バストポロジーの木構造が保たれるように配慮されている。 ミニABソケット(メス側コネクタ)は、ミニAプラグとミニBプラグのどちらでも接続できるものであり、マイクロABソケット(メス側コネクタ)についても同様である。詳しくは[[USB On-The-Go]]参照のこと。[[携帯情報端末]]や[[スマートフォン]]などの一部で使われている。これらの搭載機はパソコンに接続する場合は『子機』として動作し、単体の場合は他のUSB機材を接続して『親機』として使うことを前提としている事と小型化のために採用している。使用時は接続ケーブルを交換することでどちらの動作をすべきなのかを判断している。本体側もUSBホスト機能を内蔵している。 USB 3.0まで対応出来る端子とソケットが2008年11月から新しく仕様に加わった。従来どおりUSB 1.1以降での上位互換性を守り、USB 3.0まで対応可能な端子とソケットはUSB 1.1以降の物との混用が可能である。USB 3.0でのピン数の増加に対応して新たな端子とソケットは、USB 2.0までの規格形状を満たしながら、奥まった位置 (A) や2段重ね (B)、横位置(SideCarと呼ばれる横並びの配置、Micro-B)に追加の端子が増やされた。(この増やされた端子の分だけ、USB 3.0のBコネクタ、Micro-Bコネクタは、USB 2.0までのBコネクタやMicro-Bコネクタよりも大きく、USB 3.0用の接続ケーブルをUSB 2.0機器に接続することができない。) どの世代においても、端子は、データ端子よりも電源端子の方が長くなっている。これは、機器が挿抜される際、電源が入っていない状態でデータ端子に電圧がかかり、機器を破損するのを防止するためである。 補足:[[WACOM]]が出していた液晶タブレットPL-550は[[ミニDINコネクタ]]4ピン形状のコネクタを採用している。しかし、ピンアサインは[[S端子]]ともADB ([[Apple Desktop Bus]]) とも異なる。現在、日本国内でこのケーブル単体での入手は困難である。 ==== 色 ==== {{色}} [[ファイル:Orange USB port.jpg|thumb|カードリーダー付きのフロントパネルの例。USB3.0スイッチのオレンジ色の充電専用USBポート(左)。]] [[ファイル:Blue USB port without USB 3.0 contacts.jpg|thumb|USBコネクタ (USB 3.0) 推奨の青が採用されたUSBポート(Sagemcom F @ ST 3864OPADSLモデムルータ)。]] {| class="wikitable" |+ 通常のUSBカラーコーディング |- ! colspan="7" | カラー ! ポート !プラグ ! 説明 |- | colspan="3" style="background-color:black; width:5px;" | | colspan="3" style="background-color:white; width:5px;" | | ブラック、またはホワイト | colspan="2" rowspan="4" | ○ | Type-A、またはType-B |- | colspan="6" style="background-color:#005eb8; width:5px;" | | ブルー | Type-A、またはType-B, SuperSpeed(3.x系統) |- | colspan="6" style="background-color:#6cb0c5; width:5px;" | | ティールブルー<!--https://ja.wikipedia.org/wiki/鴨の羽色--> | Type-A、またはType-B, SuperSpeed+(3.x系統) |- | colspan="6" style="background-color:#00C000; width:5px;" | | グリーン | Type-A、またはType-B, [[Qualcomm]] Quick Charge<ref>{{cite web |title=Qualcomm Certified Nekteck Quick Charge 2.0 54W 4 Ports USB Rapid Turbo Car Charger |url=https://www.amazon.com/Qualcomm-Certified-Nekteck-Charger-included/dp/B016HQ24IQ/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8 |access-date=19 July 2017 }}</ref> |- | colspan="6" style="background-color:#800080; width:5px;" | | パープル | ー |○ | Type-A、またはUSB-C, [[Huawei]] SuperCharge |- | colspan="3" style="background-color:yellow; width:5px;" | | colspan="3" style="background-color:red; width:5px;" | | イエロー、またはレッド | rowspan="2" | ○ | rowspan="2" |ー | ハイカレント(大電流) またはスリープ&チャージ |- | colspan="6" style="background-color:orange; width:5px;" | | オレンジ | 主に産業用ハードウェアで使用される高保持コネクタ。 |} USBポートとコネクタは、さまざまな機能とUSBバージョンを区別するために色分けされていることがよくある。ただし、これらの色はUSB仕様の一部ではなく、メーカーによって異なる場合がある。たとえば、USB 3.0仕様では適切な色分けが義務付けられているが、標準AのUSB3.0コネクタとプラグには青色 ([[パントン|Pantone]] 300C) のインサートのみが推奨されている<ref>{{cite web|url=http://www.usb.org/developers/docs/documents_archive/usb_30_spec_070113.zip|title=Universal Serial Bus Revision 3.0 Specification, Sections 3.1.1.1 and 5.3.1.3|website=usb.org|format=ZIP|access-date=2019-04-28|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20140519092924/http://www.usb.org/developers/docs/documents_archive/usb_30_spec_070113.zip|archive-date=19 May 2014|df=dmy-all}}</ref>。初期型の[[PlayStation 3|PlayStation3]]のコラボモデルは例外的に、本体カラーにUSB端子の色が変更されている場合がある。 ==== USB Type-C ==== {{Main|USB Type-C}} [[ファイル:USB Type-C icon.svg|thumb|USB-Cプラグ]] 2014年8月、USB 3.0 Promoter Groupによって策定された<ref>[https://web.archive.org/web/20171006032711/http://japanese.engadget.com/2014/08/13/usb-c-lightning/]</ref>。スマートフォンなどの小型機器に向けたサイズの縮小と、最大100Wまでの電力供給を可能にするUSB Power Deliveryへの対応、そして表裏どちら向きでも挿せる構造が特徴。 ただし、USB Type-Cコネクタを装備する機器であってもUSB 3.1やUSB Power Deliveryに対応するとは限らないので注意が必要(コネクタ形状と機能は別々に考える必要がある)。 特徴は以下の通り。 * 裏表がない<ref name="nikkeibp">{{cite news|url=http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/325410/051600225/?P=1|title=USBの新規格Type-C:USB Type-Cは今後、主流になるか? PC・スマホも続々登場|publisher=日経BP|date=2016-05-18|accessdate=2016-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160923135351/http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/325410/051600225/?P=1|archivedate=2016-09-23}}</ref>。 * データ転送、動画転送、給電が可能<ref name="nikkeibp"/>。 * 旧規格USB2.0、及び将来の規格に対応<ref name="nikkeibp"/>。 * HDMIやVirtualLink等、USB以外のプロトコルにも対応 <gallery> ファイル:USB Type-C plug 20170626 crop.jpg|USB Type-C オス ファイル:MSI Bravo 17 (0017FK-007)-USB-C port PNr°0760.jpg|USB Type-C メス </gallery> ==== ピン配置 ==== [[ファイル:USB 2.0 connectors.svg|thumb|250px|USB 2.0まで対応のプラグ]] [[ファイル:USB types 2.jpg|thumb|250px|USB 2.0まで対応のプラグとソケット。この場合の「ソケット」はレセプタクルとも呼ばれる機器側の受け口となる「コネクタ」を指す。(左から右へ)<br />UC-E6互換プラグ<br />ミニBプラグ<br />(標準)Bプラグ<br />(標準)Aソケット<br />(標準)Aプラグ]] [[ファイル:USB.svg|thumb|250px|USB 2.0まで対応のStandard AとStandard Bのプラグ]] [[ファイル:USB 3.0 Micro-B plug.svg|thumb|250px|'''USB 3.0対応のマイクロBプラグ'''<br />USB 2.0規格のマイクロ仕様のコネクタの横にUSB 3.0規格で増えた端子分のコネクタが並べられる。<br /><small>No.1: 電源 (VBUS)<br />No.2: USB 2.0差動対 (D−)<br />No.3: USB 2.0差動対 (D+)<br />No.4: USB OTGのID識別線<br />No.5: GND<br />No.6: USB 3.0信号送信線 (−)<br />No.7: USB 3.0信号送信線 (+)<br />No.8: GND<br />No.9: USB 3.0信号受信線 (−)<br />No.10: USB 3.0信号受信線 (+)</small>]] {| class="wikitable" |+ ピン配置 ! colspan="3" |標準USBコネクタ ! colspan="3" |ミニ・マイクロUSBコネクタ |- ! Pin !! Function(ホスト側) !! Function(機器側) !Pin !Function(ホスト側) !Function(機器側) |- | 1 || V<sub>BUS</sub> (4.75 - 5.25 V) || V<sub>BUS</sub> (4.4 - 5.25 V) |1 |V<sub>BUS</sub> (4.75 - 5.25 V) |V<sub>BUS</sub> (4.4 - 5.25 V) |- | 2 || colspan="2" | D− |2 | colspan="2" |D− |- | 3 || colspan="2" | D+ |3 | colspan="2" |D+ |- | 4 || colspan="2" | [[接地|GND]] |4 | colspan="2" |ID |- | colspan="3" | |5 | colspan="2" |[[接地|GND]] |} ==== 端子形状・方向 ==== USB A端子はその端子を正面から見るといずれの側からも単なる長方形となっており、接続するための裏表を間違う事がある。実際にはオス側(穴のある側)表面にかかれているUSBのマークにより判断が可能だが、それを利用者が意識せず逆差ししようとすることがある。USBポートおよびオス側コネクタ内の厚みの半分ほどをプラスチックの板で塞ぐことにより、逆差しが物理的に不可能になるようにしてあるので(本記事内の各写真を参照)USBプラグが差せない、という状況になる。 [[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]はA端子の表裏どちらを挿しても正常に使用できる独自仕様の「どっちもUSB」シリーズ(USBハブ・ケーブル等)を2012年に発売した<ref>{{Cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/514154.html|title=動画と写真で見る、バッファローコクヨの上下どっちでも挿せるUSB Hub|date=2012-02-24|accessdate=2012-08-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://buffalo.jp/product/news/2012/08/08_06/|title=表裏どちら向きでも挿せる“どっちもUSBコネクター”を採用したUSBケーブルを発売。コネクター部分に起伏をつけ挿抜しやすさも追求。|publisher=[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]] プレスリリース|date=2012-08-06|accessdate=2012-08-08}}</ref>。 === ケーブル === USB 2.0規格では[[ケーブル]]はHigh/Full Speed用とLow Speed用の2つが定められている。安価に製造できるようLow Speed用は電気的特性が緩い。Low Speedデバイスではケーブルが分離できるように設計することが明示的に禁止されているため、単独のケーブルはすべてHigh/Full Speed用となる。 USB 3.0規格はSuperSpeed用に信号線が増やされているためにケーブルもUSB 3.0用のものが用いられる。 誤接続を防ぐため、A端子はホスト側、B端子はデバイス側と規定されている。このため、両側がA端子、あるいは両側がB端子であるようなケーブルは規格違反品である。 またこれとは別に、A端子とAソケットが付いたUSB延長ケーブルはA・B端子使い分けの点では問題がないが、複数接続によって規定の長さを超える危険性があるため、これも規格で明示的に禁止されている<ref>Universal Serial Bus Revision 2.0 specification, 6.4.4 Prohibited Cable Assemblies</ref>。 {{Main2|USB Type-Cケーブル|USB Type-C}} == 互換性 == === バージョン間 === USB 2.0規格はUSB 1.1規格と互換性を保つように設計されたため、USB 2.0規格のUSBポートにUSB 1.1規格で設計された機器をつないでも使える。また、USB 2.0規格で新設されたHigh Speed機器をUSB 1.1規格で設計されたポート、ハブにつないだ場合でも、Full Speedの転送速度で使用できる。また、USB 3.0規格は、USB 2.0規格と互換性があるように設計されている。しかし、現在のUSB 3.0規格に準拠していない製品にもかかわらず、USB 3.0をうたっている製品がある。これらは、USB 2.0との互換性がない・転送速度が遅いなどの不具合を起こす可能性がある。 === ケーブル === {{独自研究|section=1|date=2010年10月}} <!-- 「考えられる」では独自研究の域ではないか? --> USB[[ケーブル]]の規格はUSB 2.0で変更されていないので、同じものが使えることになっている。USB 1.1の規格を正しく守っていない低品質のケーブルでは、High Speed通信においてケーブルの長さなどに制約を受けることもある。また「USB 2.0対応」と称するケーブルも発売されている。これはシールド線構造等外部からの[[ノイズ]]を防ぐ工夫がなされているものと考えられる。 見落とされがちであるが、ACアダプターに十分な給電能力があっても、その規格に見合うケーブルが使われていない場合、給電能力が制限されるので注意が必要である。 === 相性 === USBホストコントローラとUSBデバイス側のコントローラのメーカー、モデル、[[ファームウェア]]等の差異、かつてはさらにOSやドライバ側の問題などによっても相性問題が生じたことも知られており、特に規格成立初期に登場したコントローラ同士を接続した際に混乱を生じたこともあった。 この「初期の相性問題」については、インテル社が自社製のPC用チップセットにUSBホストコントローラを内蔵することによって各デバイスがインテル社製チップセットのホストコントローラおよびWindowsへの接続に対して互換性の確保を図ることで、間接的に機器間の相性問題も収斂してゆくという結果を、USB 1.1、2.0ともに辿っている。 また、USB 1.1までの仕様では、[[インピーダンス]]等の電気的特性における仕様がゆるく、規格適合性試験も必須でなかったため、相性問題の発生を抑制し切れないという事情もあった。USB 2.0仕様からは電気的仕様が厳密になり、USBロゴを取得するための規格適合性試験も必須となったため、「相性問題」はほぼ解消されたといわれる。 しかし、市場やユーザーの手元には、初期に製造され相性問題を抱える製品が現存している場合もあり、また、一部のメーカー・ベンダー製ホストコントローラとコントローラ間などにおいては、相性問題を発生する状況も依然として存在し続けている。 具体的な症状としては、USBメモリが認識はされるが中身が表示されない(別のコネクタに接続すると正常に動作する)、ストレージモードで接続している携帯型音楽プレーヤーが途中でシャットダウンする、などが挙げられる。 == 複数機器接続 == 規格上は、最大127台までの機器を一つのバスに接続することができる。木構造の「深さ」を示すTierは、ルートハブ(ホスト)を含め7段までに制限されている。つまりデバイスとホストの間にハブは最大5台まで存在することができる。ケーブルの最大長は規格では遅延時間とVBUSの電圧降下の最大値として定められており、ケーブル1本あたり最大26 nsおよび125 mVである (§7.1.16, 7.2.2)。<!-- ケーブルの遅延時間はケーブルの構造や材質で変わる。そのため特定の物理性能のケーブルを定めなければ長さを逆算することはできない。これを元にケーブルの長さを計算した場合、Full Speedの場合は最大5[[メートル|m]]、Low Speedの場合は3mとなる。USB規格ではケーブルの最大長はケーブルの物理長でなく遅延時間で決められている cf.§6.4.1 一本の[[ケーブル]]の長さは最大5[[メートル|m]]、ハブを介しても最遠方のデバイスまでの総延長距離で25mまでとされている --> しかし実際には、USBコントローラやハブ<!-- 給電能力はセルフパワーHUB等の介在によって解消すべき問題の給電能力 -->とUSB機器の「[[相性]]」や、ハブの備える物理的なポート数などによって制約を受け、USB関連デバイスの開発メーカー等における接続テストのような場合を除けば、日常的に実際に127台のデバイスを接続して利用する例は極めてまれといえる。言い換えるなら、エンドユーザーが規格上の論理接続数を一般的な利用の範囲内で飽和させるという使用例はまずあり得ず、余裕をもった規格であるといえる。<!-- USB-IFのロゴ認定では127台のテストが行われる。したがって不可能ではない。ロゴを取得していないデバイスを接続した場合には不安定動作が考えられるが、大抵と言うためには機器の全体集合を推定できるだけの経験をする必要がある上に接続個数との関連性も不明。思い込み・FUDの類 --><!-- また、実際に多数の機器をハブを介して(セルフパワーの物も含め)一度に接続すると、機器間の相性等にもよるが、大抵の場合動作信頼性が低下したり、最悪の場合コンピュータのクラッシュを招く事もあるため、実際に127台も接続することは、本体側のUSBポートが少ない機種の場合、実質上殆ど不可能であると言える。--> [[週刊アスキー]]で実験したところ、80台目あたりからエラーが頻発したものの、繋ぎ方を工夫すれば100台までは実用に耐えたという<ref>USBの限界に挑む! 規格上の接続数127台は可能か?[http://ascii.jp/elem/000/000/720/720038/ 1/3] [http://ascii.jp/elem/000/000/720/720038/index-2.html 2/3] [http://ascii.jp/elem/000/000/720/720038/index-3.html 3/3] ASCII.jpデジタル2012年8月24日</ref>。 == USB給電 == {{独自研究|section=1|date=2010年4月}} {| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em; float:right" |+ USB給電規格 |- ! 規格 !! 電流 !! 電圧 !! 電力 |- | USB 1.x and 2.0 || 500 mA{{Efn|5ユニットロードまで。USB 1.xと2.0の1ユニットロードは100 mA。}} || rowspan="6" | 5 V || 2.5 W |- | USB 3.x || 900 mA{{Efn|6ユニットロードまで。USB 3.xの1ユニットロードは150 mA。}} || 4.5 W |- | USB Battery Charging<br />Revision 1.2 || 0.5 - 1.5 A || 2.5 - 7.5 W |- | rowspan=2 | USB Type-C{{Efn|Type-C - Type-C間のケーブルの場合のみ1.5 Aに対応。3.0 Aはオプション。データプロトコルはUSB 2.0かUSB 3.x。}} || 1.5 A || 7.5 W |- | 3 A || 15 W |- | rowspan=6 | USB Power Delivery<br />Revision 1.0{{Efn|Type-A/BもしくはType-Cケーブル。}} || 2 A || 10 W |- | 1.5 A || rowspan="3" | 12 V || 18 W |- | 3 A || 36 W |- | 5 A || rowspan="2" | 60 W |- | 3 A || rowspan="2" | 20 V |- | 5 A || 100 W |} {| class="wikitable floatright" style="text-align: left; border: none; margin: 1em auto 1em 1.5em" |+ USB Power Delivery Revision 3.0 パワールール<ref name="USB Implementers Forum">{{citation | title=USB Power Delivery Specification Rev. 3.0, v1.0a | chapter=10 Power Rules | date=2016-03-25 | url=http://www.usb.org/developers/powerdelivery/USB_PD_v3.0_080416.zip | publisher=USB Implementers Forum | accessdate=2016-11-01 }}</ref> |- ! rowspan=2 | 給電出力電力 (W) ! colspan=4 | 電流 (A) |- ! +5&nbsp;V ! +9&nbsp;V ! +15&nbsp;V ! +20&nbsp;V |- ! 0.5–15 | 0.1–3.0 | {{no}} | rowspan=2 {{no}} | rowspan=3 {{no}} |- ! 15–27 | rowspan=4 valign="center" | 3.0 <br />(15&nbsp;W) | 1.7–3.0 |- ! 27–45 | rowspan=3 valign="center" | 3.0 <br />(27&nbsp;W) | 1.8–3.0 |- ! 45–60 | rowspan=2 valign="center" | 3.0 <br />(45&nbsp;W) | 2.25–3.0 |- ! 60–100 | 3.0–5.0 |} USBは、基本的には信号ケーブルとして設計されている。その一方で実際的な利便性にも配慮し、小電力のデバイスについては、接続される周辺機器の駆動用の電源をUSBケーブルで供給する'''バスパワード'''(「バスパワー」と省略されることが多い)による駆動にも対応している。供給[[電圧]]は5 V (±10%)、[[電流]]は'''ローパワーデバイス'''は100 mA(USB 3.xは150 mA)、'''ハイパワーデバイス'''最大は500 mA (USB 2.0)・900 mA (USB 3.0) まで<ref>[http://www.necel.com/usb/ja/about_usb/USB3_1.html USB3.0 基本仕様(NECエレクトロニクス)]</ref>とされている。USBデバイスがサスペンド状態の場合は最大電流は500 μAまでだったが、2007年リリースのLink Power Management Addendum ECNにより2.5 mAまでとなった<ref>http://www.usb.org/developers/docs/usb20_</ref>。 === USB Battery Charging Specification (USB BC) === USB給電のための規格で、USB 2.0規格の給電仕様の拡張が試みられている。USB IFにより2007年にRevision 1.1、2010年にRevision 1.2がリリースされた<ref>[http://www.usb.org/developers/devclass_docs/batt_charging_1_1.zip "Battery Charging Specification, Revision 1.1"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140329080504/http://www.usb.org/developers/devclass_docs/batt_charging_1_1.zip |date=2014年3月29日 }} (Zip). USB Implementers Forum. 7 December 2010. Retrieved 13 January 2012.</ref>。従来のUSB 2.0ポートはStandard Downstream Port (SDP) と定義し<ref>[http://www.usb.org/developers/devclass_docs/BCv1.2_011912.zip "Battery Charging v1.2 Spec and Adopters Agreement"]. USB Implementers Forum. 15 April 2009. Retrieved 23 September 2009.</ref>、新たにチャージングポートと呼ぶ2種類が規格化されている。 ; Charging Downstream Port (CDP) : 1.5 Aまでの給電に加えデータ通信もサポート。データラインでのハードウェアハンドシェイクを行うことで、エニュメレーション(接続認識)の前でも1.5 Aまでの給電が可能。ハイスピードモードでは900 mAまで。 ; Dedicated Charging Port (DCP) : 1.5 Aまでの給電のみをサポートしデータ通信は行わない。端子のD+とD−ピンを短絡させることでDCPと認識させる。エニュメレーションは行わない。 === USB Power Delivery (USB PD) === 2012年7月にUSB 3.0プロモーターグループは、USB Power Delivery (USB PD) Revision 1.0 Version 1.0 の規格化を完了したと発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.usb.org/press/USB_Power_Delivery_Spec_Completion_FINAL_072712.pdf "USB 3.0 Promoter Group Announces Availability of USB Power Delivery Specification"]}}. 2012-07-18. Retrieved 2013-01-16.</ref>。USB Battery Charging Revision 1.2と共存して使用される。10 W・18 W・36 W・60 W・100 W の5つの'''パワープロファイル''' (Power Profile) があり、認証されたPD対応USBケーブル、USB A/Bコネクタを使用することで20 V, 100 Wまでの電源供給が可能となる。マイクロUSB B/ABコネクタでは最大20 V, 60 Wまでとなる。ホストからデバイス、デバイスからホストへの電源供給がケーブルのつなぎかえなしで可能。 2014年にUSB 3.1の一部として USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.0 がリリースされ、[[USB Type-C]]ケーブルに対応した。 2016年にリリースされた USB Power Delivery Revision 2.0 Version 1.2 と USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では5つのパワープロファイルに代わって、'''パワールール''' (Power Rules) という給電仕様にとなった。 USB Power Delivery Revision 2.0 との後方互換性を持つ。5V・9V・15V・20Vの電圧仕様があり、供給側は3Aで最大供給電力以下となる電圧はすべてサポートする必要がある。パワールール以外の電圧、電流もオプションで許可されている<ref>https://plus.google.com/+BensonLeung/posts/71FgNerD8TB 2016-10-30閲覧</ref>。正式にUSB Type-C専用の給電規格となり、USB A/BコネクタでのPDは普及することなく規格から削除された。 USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションで'''プログラマブル・パワー・サプライ''' (Programmable Power Supply; PPS) の機能があり、電圧を可変にでき、充電時の余計な発熱を減らし、電力の利用効率を上げられる<ref name="renesas-pps">[https://www.renesas.com/jp/ja/support/technical-resources/engineer-school/usb-power-delivery-02-fast-role-swap-programmable-power-supply.html USB PDの技術 〜安全と利便性を実現する技術〜 | ルネサス エレクトロニクス]</ref>。一部のスマートフォンなどで利用されている<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/config/1217555.html 【山田祥平のRe:config.sys】とにもかくにもType-C、Galaxy Note 10+が示す急速充電の方向性 - PC Watch]</ref>。 また USB Power Delivery Revision 3.0 Version 1.0 では、オプションで'''ファスト・ロール・スワップ''' (Fast Role Swap; FRS) の機能があり、0.15ミリ秒以内に給電と受電の役割を入れ替えることができる<ref name="renesas-pps"/>。 === 経緯 === USB給電仕様は、当初はローパワーデバイスについては[[PC/AT互換機]]における[[PS/2コネクタ]]の置き換えを念頭に、マウスやキーボードに搭載される小電力の[[半導体]][[ロジック]]等の駆動を前提として設計された。またハイパワーデバイスについてもそれらのロジック回路などよりは電力を要求することを想定しているものの、いずれも[[スピンドル]]([[電動機|モーター]])の駆動や機器の[[充電]]手段等としての大電力の利用を想定したものではなかった。このため小型ノートパソコンの一部などのように供給電流を抑えてある場合、500 mAに近い電流で動く事を想定しているUSB接続機材の動作が不安定だったり動作しない事もある。 ハイパワーデバイスとしての仕様以上の電力を要求する[[ディスクドライブ]]等のモーター駆動式の機器や、大規模な[[集積回路]]などを含み電力を消費する画像用の[[キャプチャ (録画ソフト)|キャプチャー]]機器等については、USBバスは純粋に信号バスとしてのみ利用し、電力は機器側で用意する「セルフパワー」と呼ばれる接続手段を用いることとされた。 バスパワードのデバイスを多数接続、あるいはバスパワードのハブを使用して多段接続をすると、給電能力を超えるため、ポート側には給電を[[シャットダウン]]する機能が備わっている。ユーザー側でも不用意に過大な[[たこ足配線]]とならないよう、市販のバスパワー駆動のUSBハブは殆どが4ポート以下で構成されている。 USBポート、バスパワードのハブにおいて、給電能力を大幅に越えた合計消費電力となるポートの接続はサポートしておらず、最悪の場合、ハブやPC側の[[拡張カード|インターフェース・カード]]やバス、電源回路などの保護回路が作動するか、機器にダメージを与えることがある。 === より電力消費の大きいデバイス === しかし市場では実際に、USBの普及に伴いこの僅かな供給電力を、2.5インチおよび1.8インチのポータブル[[ハードディスクドライブ]]、また、消費電力の大きい[[DVD-R]]の書き込みドライブ等のスピンドル媒体への供給電力に転用したり、携帯電話や[[PHS]]などの電池充電用の電源として流用する例が目立ち始めた。 コンピュータ本体との接続ケーブルと[[交流|AC]]電源を別に用意する煩わしさをなくすために、1本のケーブルで機器を接続したいというユーザーの要求は根強く、USBの給電能力を増強するべく''PlusPower''という電圧と電流の拡張も検討されていた。しかし、安全性や互換性の問題などの指摘も相次いだことから正式に仕様には盛り込まれなかった。 === PoweredUSB === この問題を解決するため、'''PoweredUSB'''という、USB 2.0ポートを拡張した規格がIBMより登場した<ref>[http://www.poweredusb.org/ PoweredUSB.org]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0602/scythe.htm サイズ、5/12Vを最大3A供給できる「PoweredUSB」対応製品], PC Watch, 2006年6月2日</ref>。供給電圧5 V・12 V・24 V。最大電流は6 A。PoweredUSBに対応した接続ケーブルが必要とされる。しかし、2012年11月現在、この規格はUSB-IFから正式な承認を得られていない。 また、デバイスとは認識させず、<!-- デバイスとして認識されない場合には2.5 mAしか引けないのがUSBの仕様--><!--USB本来の仕様の範囲内で-->電源のみを供給させる周辺機器も存在する。1台の機器に対して、2つのホストコネクターから2台分のバスパワーを供給するための特殊な二股ケーブルなどが該当する。 === モバイル機器充電用規格 === [[中華人民共和国情報産業部]]では2006年、携帯電話の充電器にUSBポートを設け、複数[[通信キャリア|キャリア]]間でもACアダプターが共用できるようにする方針を打ち出している<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/2006/12/19/jp20061219_66138.html 人民網日本語版 2006年12月19日付]</ref>。 [[2007年]]4月には、USB経由での充電時間を短縮するための規格「Battery Charging Revision 1.0」が策定された<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0419/usb.htm USB機器の充電時間を短縮する規格が策定] (PC Watch 2007/4/19)</ref>。これは、充電器などが、USBのホストが大電流を流すことができるかを検知することで、従来のUSB 2.0規格における上限の500 mAを超える電流を得ることを実現する仕組みの規格である。 2009年6月に携帯電話の業界団体や[[欧州連合|EU]]でも携帯電話端末の充電器のコネクタにマイクロUSBを採用し、共通化する動きがでてきた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090218/324945/ 携帯電話の業界団体,充電器の規格統一で協力へ](日経BP, 2009年6月30日)</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090630/332925/ 欧州で携帯電話の充電器を共通化,Apple,Nokia,RIMなど大手10社が合意](日経ITPro, 2009年6月30日)</ref><ref>[http://www.gsmworld.com/our-work/programmes-and-initiatives/universal-charging-solution/index.htm Universal Charging Solution]</ref>。 === 給電専用ポートとしてのUSB === [[ファイル:USB fans 1.jpg|thumb|USB小型の[[扇風機]]]] 市場では、PCやセルフパワー型のハブのUSBポートから[[配線用差込接続器|コンセント]]のように電力が得られる点を利用して、USBを電源供給にのみ用いる周辺機器が次第に登場するようになった。モバイル機器だけでなく、[[携帯型ゲーム|携帯ゲーム機]]、[[デジタルオーディオプレーヤー]]等の携帯機器用の充電器・充電用ケーブルや、[[USB扇風機|小型扇風機]]、[[電灯]]といったデバイスとは認識されない周辺機器、中にはUSBから電源を得る利点がほとんど見出せないようなものも商品化されており、電気街の商品棚をにぎわせている。年末になると登場する卓上[[クリスマスツリー]]や、夏季の扇風機などはもはや[[風物詩]]でさえある。中には、USBによるバスパワー30本分(並列接続で15アンペア、計75ワット)を電源として用いる「焼き肉プレート」を自作した人物も存在する<ref>[http://xe.bz/aho/24/ 動く!改造アホ一台] より。</ref>。これらの商品の中には、電力回路の設計が杜撰であったために、接続するだけでPCやスマートフォンのUSBポートを物理的に破壊してしまうような事例も存在した<ref>[https://togetter.com/li/1240923 USBやiPhoneのLightning端子で小型扇風機(ファン)を使用すると、わりと大変なことになることがあるっぽい/「モバイルファンを使った結果スマホを破壊された」]</ref>。 一方、これらのような「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器の展開を追う形で、単に電源を供給するために電力供給機能のみに限定した、USBポートと同一形状のコネクタを持つ[[ACアダプタ]]や、充電式の電池や[[乾電池]]等を使用した給電ユニット等も発売されている。このような製品を使用することによって、外出時に機器ごとにACアダプタを持ち歩かずに充電可能で、かつ複数の機器を単一のACアダプタで使用することが出来る利便性がある。また国ごとに違う[[配線用差込接続器|コンセント]]の形状や[[商用電源周波数|周波数]]・電圧等に対して機器側で対応するのではなく各国で市販されているUSBアダプタ側で対応できるためメーカーとしては輸出機械の設計が容易になるメリットも有る。壁面のコンセントボックスに埋め込んで給電用USBポートを提供するUSBコンセントも市販されている。 ただし、メーカーが保証している一部機種を除いて、これら「電力供給専用のUSBポート関連製品」を用いて充電することは機器メーカーの保証対象外となる。 また、これらの「給電専用ポートとしてのUSB」タイプ周辺機器と、通常のインターフェースとしてのUSBポートを接続する場合も、ほとんどが動作保証の対象外となる(そもそも、ホスト側の許可を得ずにターゲットが勝手に「電力を奪う」実装はUSB規格違反である)。 最近では、高性能なUSB電源供給能力を謳った[[マザーボード]]も販売されている。 === USB給電とセキュリティ === 2010年代初頭から、カフェ、ホテル、空港、旅客機、鉄道や長距離バス・タクシーの車内で、利用者のスマートフォンの充電やノートパソコンの利用の便宜を図るため、電源を提供する例が増えている。 多くは[[商用電源]]の提供であるが、商用電源のプラグ形状や電圧は、国家や地域によって異なるため、海外旅行者が手持ちのACアダプタを使えない場合などに配慮して、壁面USBコンセントを使ったUSB電源の提供や、USB-ACアダプタの貸出を行っている場合もある。 しかしUSBは、もともとデータ通信用の接続規格として制定されたものであり、電力供給専用として使うことを想定された規格ではない。一見電力供給専用に見える機器・コネクタであっても、それが接続された機器からデータを抜き取ったり、[[コンピュータプログラム]]を送り込んだりしないと保証することは困難である。一部のUSB充電器は充電専用であることを明示するために、USBコネクタの樹脂部品部分に赤色や緑色、黄色といった色分けをしている(青色はUSB3.xの意であり給電用ではない)が、統一された規格ではないうえ、不正な機器が偽装のためこれらの色付きコネクタを使うことも容易に可能である。 そのため、情報機器からのデータの抜き取りや[[コンピュータウイルス]]への感染を未然に防止する観点から、自宅などの信用できる場所以外の施設では、給電用にUSBポートが提供されている場合であっても、これらのUSB(USB-C, マイクロUSBや[[Lightning (インターフェイス)|Lightning]]など、データ通信可能なケーブルの接続されたものや、貸出されたUSB-ACアダプタも同様)を使用せず、スマートフォンやタブレット端末の情報機器は、自前で純正アダプタを用意して、商用電源コンセントから充電することが、[[コンピュータセキュリティ]]上望ましい。 [[2023年]][[4月6日]]には、米国[[連邦捜査局]] (FBI) も同様の注意喚起を行うツイートを行った<ref>{{Cite web|和書| url=https://gigazine.net/news/20230411-fbi-warns-public-free-charging-station/|title=「無料の公共スマホ充電ステーションを使うな」とFBIが警告|publisher=[[Gigazine]]|date=2023-04-11|accessdate=2023-04-12}}</ref>。 === USB ACアダプタ === 2010年代以降、スマートフォンやUSB充電に対応したワイヤレスヘッドホンの登場とともにUSB ACアダプタが普及している。ただし、それ以前の2000年代でも、形状が今の時代とは異なるUSB ACアダプターが製造・使用されていたことがある。 スマートフォン用としては、一般にUSB Type-Aポートを持つUSB ACアダプタが登場したが、スマートフォンがUSB Type-Cポートをサポートするようになってからは、USB Type-Cポートを持つUSB ACアダプタも登場している<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/02878/|title=iPhone、ついにUSB「Type-C」を同梱のACアダプターに搭載|accessdate=2021/1/14|publisher=日経XTECH}}</ref>。2019年頃より[[窒化ガリウム]]技術を採用することにより、小型軽量化が進み、複数のポートを搭載し、同時に2台以上のデバイスの充電に対応した製品も登場している<ref>{{Cite web|和書|url=https://eetimes.jp/ee/articles/1912/23/news042.html|title=本格的に立ち上がり始めた、GaN採用の充電器市場|accessdate=2021/1/14|publisher=EETimes Japan}}</ref>。 なお、日本国内での使用を想定してUSB ACアダプタを購入する際には、特定電気用品[[電気用品安全法|PSEマーク]]、製造事業者等の名称、定格電圧、定格消費電力等の表示のある機器を選択すること<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/act_outline.html|title=電気用品安全法の概要|accessdate=2021/1/13|publisher=経済産業省}}</ref>。そのほか、メーカー(機器に自社のブランドを付けて販売している業者)が信用できるか、偽ブランド品ではないかなど留意するとともに、購入した覚えのない機器、出所の明らかでない機器は使用しないことが望ましい(前述のコンピュータセキュリティに対する懸念のほか、盗聴器が内蔵されているなどの懸念に対する防御のため)。 <gallery> ファイル:Apple 5W USB Power Adapter (4935).jpg|モバイル機器のUSB ACアダプタ ファイル:TUNEMAXGaNCharger.png|窒化ガリウム技術を採用したマルチポートUSB ACアダプタ </gallery> == USBと接触不良 == USBはUSB 1.0のころから[[接触不良]]が多く見られた。特にUSB 1.0では機器のオス側で接点面が上を向いた状況で使われると塵埃が乗ったり腐蝕性物質(塩分)の付着により接触不良となることが多い。また、たびたび端子の脱着を繰り返す間に金属枠の部分が変形し、接点の圧力が低下することが接触不良の原因となりうる。 スマホなどのモバイル機器では[[USBマイクロ]]端子が通信だけでなく、単に給電や充電に使われることが多いが、ポケットなどに入れることで端子に塵埃が入り込み接触不良となることがある。また脱着を繰り返すたびに金属枠が変形し、接点の圧力が低下することで接触不良となることもある。 接触不良が起こると単に給電や充電が不安定になるだけでなく、通信が不安定になることで、例えばハードディスクやUSBメモリーなどでは深刻で、単にデーターエラーとなるだけでなく、時に不可逆なハードエラーとなることがある。 まず、接触不良が起きた場合には端子の金属枠が変形していないか確認する必要がある。多くは脱着により端子枠が変形して広くなり、接点の圧力が低下する方向なるので用手的に金属枠を狭くすることで解決することがある。 接点の塵埃や腐蝕に対しては、エアを吹く以外に適切な解決方法がないが、[[コンタクトR]]と称してレシートを用いて接点を研磨する方法が報告されている<ref>https://web.archive.org/web/20080505041321/http://www3.coara.or.jp/~tomoyaz/higaax08.html#080209 ●接触不良USBを救うコンタクトRのナゾ 今日の必ずトクする一言</ref>。これはレシートに塗られた炭酸カルシウムの層により接点の塵埃や酸化物を研磨してとりさる方法である。簡便で入手しやすく、非導電のため接点のショートなどの危険が無いのが特長である。 == 歴史 == USBは、それまでのレガシーインターフェースに代わる新たな汎用バス・インターフェースとして、[[コンパック]](現:[[ヒューレット・パッカード]])インテル、マイクロソフト、[[日本電気|NEC]]などにより策定された。 USBは、当初からホットプラグを可能とする画期的なインターフェースとして注目を集め、[[Microsoft Windows]]では[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] OSR2から、[[Macintosh]]では暫定的に初代iMac専用の[[Classic Mac OS#Mac OS 8|Mac OS 8.1]]からサポートされるようになった。ただし、Windows 95 OSR2とUSB Supplemental Support、及びメーカー提供の[[デバイスドライバ]]の組み合わせによる対応は追加仕様であり、周辺機器メーカーも乗り気ではなく、OSの標準仕様として盛り込まれる[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]が登場するまでは様子見の感が強かった。Macintosh環境においてiMacがUSB以外のインターフェースを切り捨てて登場したために、USBの普及が急速に進んだが、標準サポートとなるMac OS 8.6までは数多くの不具合と問題を抱えていた。 日本国内においてUSBに対して動きが素早かったのは、USBの仕様策定にも関わったNECである。NECは[[PC-9821シリーズ]]や[[PC98-NXシリーズ]]にUSBポートを搭載するだけでなく、1997年には[[ターミナルアダプタ]]、マウス、キーボード、スキャナ、プリンター、[[ジョイスティック]]等多種のUSBデバイスを登場させていた。ただし、これらの素早い展開は一部にWindows 98以降でサポートされない物も出てくるなど混乱を生じる原因ともなった。 === PC/AT互換機 === 最初のホストアダプタ製品は、1996年にPC向けの[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]インターフェースに増設するカードとして登場した。 またインテルが[[1996年]]にリリースしたPC向けチップセット[[インテル チップセット#Pentium対応製品|430HX]]においてUSBホストアダプター機能を内蔵すると、USBを搭載したPCは急速に普及を開始する。 ==== 当初 ==== [[IBM]]は、[[Aptiva]]J/Hシリーズ1996年11月モデルで[[オンボード]]のUSBポートを備えた機種を登場させた(前述の430HXチップセットの採用による)。しかし<!---これは当時の一般的なPC/AT互換機に準じる構成にUSBホストアダプターを追加したものであり、--->キーボードやマウスは[[PS/2コネクタ]]に接続されていた。 当時のWindows 95 OSR2では、USBデバイスのサポートは限定的なものだったため、IBM側では動作を保証しない非公式のUSBドライバーを添付するに留め、該当機種に付属したマニュアルにはこのドライバーの入った付属ディスクに動作未保証が明記され、同社サポートダイアルでも[[プリインストール]]のWindows 95と付属ドライバーで動作させていた環境では動作保証はないとアナウンスしていた。これらはAptivaに限らず、同時期の他の互換機についても同様である。これらの機種のUSBポートは、Windows 98等のUSBサポート機能のあるOSを導入した際に、はじめて正式対応される性質のものだった。 標準添付のマウスやキーボードをUSBによって接続しPS/2コネクタを廃した製品は、日本国内ではNECが[[1997年]]秋に発売した[[PC98-NXシリーズ]](準[[PC/AT互換機]])が最初である。これはUSB接続のマウスとキーボードを「レガシー・[[エミュレータ|エミュレーション]]」によりPS/2デバイスとして動作するようにしたものである。ただし、初期のPC98-NXシリーズについてはPS/2コネクタはマザーボード上に存在し、筐体に穴が開けられていないだけに留まり、またシリアル/パラレル等のレガシーポートも健在である等、レガシーフリーを徹底したものではなかった。また当時の一部機種ではBIOSの既定値設定に問題があり、当時のLinux 2.4系カーネル(カーネル側でもレガシーエミュレーションを想定していなかった)のインストール時に正しく認識することができなかった。このような経緯を受け、後に[[サードパーティー]]各社から発売されたUSB機器の中には、トラブルを嫌忌してPC98-NXシリーズでは動作保証しない旨表示するものも存在した。 ==== USB 1.1 ==== なおUSB 1.1に正式対応したのはWindows 98 Second Editionからで、その後登場したUSBデバイスは初期版Windows 98以前を対応環境に含めない場合がほとんどである。ただしSecond EditionもUSBマスストレージ・クラスなど多くの汎用ドライバを標準装備していないため個別にドライバをインストールする必要があり、挿してすぐに使える便利さは備えていない。 このようにUSBホストアダプタの実現と搭載は早かったものの、PC互換機を中心とした市場では急速な移行を強いられることはなく、USBへの移行は緩やかなものとなった。長年に渡って互換性が検証され、よく[[メンテナンス]]されたレガシーインターフェースはハード・ソフト(ドライバ)とも「枯れて」動作も安定しており、単純な仕様によりCPUに対する負荷が少ないというメリットもあった。<!-- 実際にPS/2は割り込み処理によって低負荷で安定した動作を実現していた。--><!-- ← USBも割り込みドリブンで動く点は同じ。ミスリード -->またパラレルポートもECPによる転送速度はUSB 1.1よりも高速であり、SCSIはさらに高速である。これらのレガシーインターフェースの多くは、[[ホットスワップ]]にこそ対応しないもののプラグアンドプレイへの対応は完了しており、ユーザビリティの面でも特に不自由がなかったため、USB 1.1の段階では利便性の面においても移行にメリットを見出し難いという事情も存在していた。 なお、特にキーボードについては、USB HIDの仕様でキーロールオーバー数が6に制限されるため(それ以上の同時押しに対しては、先に押されたキーが放されたことにするなどする必要がある)、ゲーム用などでPS/2接続のキーボードの需要がある(標準のドライバではない専用の特殊なドライバと独自設計のプロトコルで、USB接続でこの問題を解決したキーボードもある)。 ==== USB 2.0以降 ==== PC市場においてUSBデバイスはUSB 2.0が登場した[[2000年]]頃より本格的な普及を開始し、現在では外付け用周辺機器の接続用バスの主流の座はUSBに移っている。レガシーバスを搭載しないレガシーフリーPCも現れており、特に[[ラップトップパソコン|ラップトップPC]]では比較的早い時期から特に珍しいものではなくなっていた。しかしUSBとレガシーポートの併用もまた、実に10年以上の長期に渡り続いている。レガシーポートを搭載したPCもごく最近まで一般的に販売され続けて来ており、[[2000年代]]における現状としては、完全な移行はUSBの登場から10余年をもってようやく完了しつつある、という状態である。 米調査会社In-Stat社は2007年に全世界で出荷されたUSBのポート数は26億ポートに達したと伝えた。同社はこの数が[[2012年]]には43億ポートになり、この内USB 3.0は4.5億ポートとなると予測している<ref name="日経エレ2008.10.06">『姿を表わした「USB 3.0」5Gビット/秒で機器を接続』 日経エレクトロニクス 2008年10月6日号</ref>。 === Macintosh === <!--最後の行為からだいぶ経過したので:{{NoticeS|この記事のノートに、この節への編集行為に関する議論があります→[[ノート:Universal Serial Bus#演説編集?|演説編集?]]}}--> [[ファイル:IMac Bondi Blue.jpg|thumb|外部機器の接続にUSBを全面的に採用した初代iMac]] 1998年にUSBを標準搭載した[[iMac]]は、モニタ一体型の斬新なデザインとともに、従来の汎用インターフェース[[Apple Desktop Bus|ADB]]のみならず[[Small Computer System Interface|SCSI]]や[[RS-422]]<!-- RS-232C -->シリアルポートも廃してUSBへ一本化するなど、PC98-NXよりさらに思い切った仕様で登場し、話題と議論を呼んだ。 従来、USB機器の製造・販売に躊躇していた周辺機器メーカーも、既存のインターフェースを扱うことができなくなったiMacシリーズ向けとしてUSBへの対応を迫られる形となり、普及が一気に進んだ。iMac本体に合わせた[[トランスルーセント]]デザインのUSB周辺機器が流行となり、幅広い層に受け入れられていった。こうしたUSBデバイスにはMacintoshとWindows双方のドライバが添付され、結果としてPC/AT互換機におけるUSBの普及を後押ししたという側面もある。 USB 3.1(初期はGen 1の為5 Gbps)の登場とともに、USB-Cだけを採用した[[MacBook]]が2015年3月10日に発表された。電源ポートもUSB Power Deliveryで兼ね、従来のUSB-AやMagSafe 2すら搭載しないという大胆なI/Oポートの構成を採っている。 === PC-9821シリーズ === [[日本電気|NEC]]の[[PC-9821シリーズ]]は他社に先駆けてUSBに対応したモデルを出していたが、USB登場時点ですでにPC-9821シリーズ自身が末期だったこともあり、NEC製の機器を除き対応機器は非常に限られているが、Windows 98 SEやWindows 2000では、多くのデバイスが動作するようになった。 === ゲーム機 === [[File:Sony Playstation 2 SCPH-5001 V9 - Portas USB 1.1, do controle Dualshock 2 e do Memory Card USB 1.1, Dualshock 2 controller and Memory Card slot ports (19290890908).jpg|thumb|PlayStation 2のUSBポート]] 家庭用ゲーム機では[[ドリームキャスト]]と[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]がUSBをアレンジした独自形状の端子によるコントローラ接続を採用した。最初に汎用USB端子を採用したのは[[PlayStation 2]]だが、キーボード、マウス、ボイスチャット用ヘッドセットなど一部の周辺機器の接続を除けば積極的には活用されなかった。また、キーボードとマウスはPC/AT互換機用USB仕様のものがそのまま流用できるが、あまり知られなかった。ただし、PS2本体を改造し、ゲームデータをバックアップ起動するときは頻繁にUSBメモリを接続する。また、PS2を採用した[[アーケードゲーム]]の基板のバージョンアップにも使用する。 2000年代後半に登場した[[Xbox 360]]、[[PlayStation 3]]の汎用USB 2.0端子はコントローラーを接続するほか、パソコンに近い柔軟な活用性を持っている。双方とも、のちの本体アップデートで外付けHDDを自由に接続できるようになった。[[Wii]]もUSB 2.0端子を備えるが、用途はネットワークアダプターやキーボード、Wii用周辺機器などの接続に限られる。 [[PlayStation 4]]のAUX端子およびAUX端子に接続するPlayStation Cameraの実態はUSB 3.0であり、他機器との同時接続で通信速度を確保できない可能性を回避するため独自形状の端子となっている。 携帯ゲーム機の[[PlayStation Portable]]や[[PlayStation Vita]]はそれ自体がUSBデバイスとして機能し、パソコンやPlayStation 3に接続してデータのやり取りや、一部のモデル<!-- PSP-1000ですがwiki注釈を付けるようなものではないのでコメント -->を除き充電などを行う。 最近の[[アーケードゲーム]]基板[[NAOMI]]や[[SYSTEM246]]等のI/O通信用に、物理的にUSBケーブルが流用されているが、こちらは業界団体[[日本アミューズメントマシン工業協会|JAMMA]]で策定されたJAMMA VIDEO規格 ([[JVS]]) となっており、信号レベル・プロトコルともUSBとは互換性はない。 === デジタル家電 === 携帯電話端末はUSBケーブルを使ってパソコンに接続しデータのやり取りや充電、携帯電話の通信網を使ったデータ通信などを行う。携帯電話側の端子は独自のものが多いが、汎用USBポートを採用したものもある。[[携帯音楽プレーヤー]]などの小型デバイスも汎用USB端子を備えPCに接続するものが多い。[[薄型テレビ]]、AV[[アンプ (音響機器)|アンプ]]、[[デジタルフォトフレーム]]、DVD/BDレコーダー/プレーヤーなどもUSB端子を持つものがあり、USBメモリ内のマルチメディア・ファイルを再生したりデジタルカメラ、デジタル[[ビデオカメラ]]などとの接続に利用する。[[薄型テレビ]]にはUSB接続されたHDDにTV放送を録画できる物がある<ref>SHARP LC-22K5等</ref>。 === USB 3.0 === <!--暫定置き場--> 早ければ2009年の年末からストレージ機器などの採用機器が登場すると見込まれていた<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/169367.html 【PC Watch】 NECエレ、5Gbps転送対応のUSB 3.0ホストコントローラを開発]</ref>。[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]が2009年10月28日にUSB 3.0対応の外付け[[ハードディスクドライブ]]とUSB 3.0ポートを増設するためのインターフェースカードを発売。これは個人が購入できるUSB 3.0対応機器とインターフェースカードとしては世界初となる<ref>[http://buffalo.jp/products/new/2009/001023.html 世界初!! 従来比10倍の次世代高速規格USB3.0に対応したハードディスク] - [[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]プレスリリース 2009年10月7日</ref>。コンシューマ向けに販売されている[[マザーボード]]、インターフェースボードではNECエレクトロニクス(現:[[ルネサス エレクトロニクス]])製USB 3.0コントローラチップと、[[マーベル・テクノロジー・グループ|マーベル]]製[[シリアルATA#リビジョン|SATA 3.0]] (SATA 6 Gb/s) コントローラーチップが同一の基板上に搭載され、単一の製品として販売される事例が多い。[[PlayStation 4]],[[Xbox One]]のみ、外付けHDDをUSB3.0の規格で接続でき、外付けHDDのゲームデータを直接起動することも可能である。 なお、実効500 MB/secであるUSB 3.0のインターフェースカードを増設する場合は、増設バスの帯域幅も実効500 MB/secのものが必要となり、さもなくば動作はするが増設バスが[[ボトルネック]]となる。[[PCI Express]] 2.0 x1(実効500 MB/sec)対応のものが標準的である。 <gallery> Area SD-PEU3N-2EL.jpg|USB 3.0インターフェースカード NEC μPD720200.jpg|NECエレクトロニクス製USB 3.0ホストコントローラ (μPD720200) </gallery> 2010年8月、初期に登場したUSB-IF未認証のコントローラーを採用したマザーボードでUSB 1.x/2.0機器を接続しても動作しない問題が起きている<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1008/23/news094_2.html テクノロジー最前線(2):普及目前USB 3.0に暗雲? 下位互換性ない未認証品出回る (2/2)]</ref>。 == サポートするOS == USB 2.0規格に対応するUSBデバイスは幅広いオペレーティングシステム (OS) でサポートされている。以下に主な物を示す。 * [[Microsoft Windows 95|Windows 95 OSR2.1]]以降 (USB 1.x) * [[Windows 98]]/[[Windows Me]] (USB 1.x) * [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000 Service Pack 4]]以降 (USB 2.0) * [[Microsoft Windows XP|Windows XP Service Pack 1]]以降 (USB 2.0) * [[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]以降 (USB 2.0) * [[Windows 8]]以降 (USB 3.0) * [[Windows 10]]以降 (USB Type-C、USB4) * [[Mac OS X v10.3]] / [[macOS Server|Mac OS X Server v10.3]]以降 * 各種[[Linuxディストリビューション]] ** USBクラス仕様でない独自プロトコルのデバイスは、ドライバーが提供されていないことが多い。またHigh Speedサポート(いわゆるUSB 2.0)は実質的にkernel 2.4.22以降の対応と見なすのが妥当である。 * 各種[[BSD系OS]] * [[Solaris]]/[[OpenSolaris]] * [[超漢字]] * [[BeOS]]、[[Haiku (オペレーティングシステム)|Haiku]] * [[FreeDOS]] USBクラス仕様の周辺機器の場合は、USBクラスデバイスをサポートするOS環境下であれば利用が可能である。組み込み系やゲーム機、デジタル家電等の場合は、ホスト側のUSBクラスデバイスのサポートが無かったり、不完全だったりする場合もある。またクラスデバイスでない周辺機器の場合も、各OS向けに周辺機器を認識する[[デバイスドライバ|ドライバ・ソフトウェア]]さえ用意されれば、同じ機器が利用できる。 USB 3.0規格に対応したUSBデバイスや、USBコントローラーを内蔵したマザーボード、インターフェースボード等は、2009年末から2010年前半に出揃い始めている。 OSのサポート状況は、それぞれのコントローラーやデバイスのドライバー(USB 3.0のマスストレージ、クラスドライバ等を含む)のサポートに主として依存すると目されている。OS自体がサポート打ち切りの場合、正式なドライバーのサポートは受けられない事が通例である。 == 主なUSBデバイス == * [[ヒューマンマシンインタフェース]](ヒューマンインタフェースデバイス (HID)) ** [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]] ** [[液晶ディスプレイ]] ** [[ポインティングデバイス]] - [[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[トラックボール]]、[[ペンタブレット]] ** [[ゲームコントローラー]] ** [[リモコン]]受光部 ** [[バーコード]]リーダー、磁気[[カードリーダー]] * 文書関連機器 ** [[プリンター]] ** 携帯情報端末、[[電子ブックリーダー]] ** [[複合機]] * 映像機器 ** デジタルカメラ ** デジタルムービーカメラ ** [[イメージスキャナ|イメージスキャナー]] ** [[CCDイメージセンサ|CCDカメラ]]ユニット(= [[Webカメラ]]) ** TV[[チューナー]] ** [[デジタルフォトフレーム]]と補助ディスプレイ ** ビデオキャプチャーボックス ** USBモニター * 音響機器 ** オーディオ機器([[ミニディスク|MD]]・ポータブル[[デジタルオーディオプレーヤー]]他) ** USB音源(= USBサウンドデバイス)、[[MIDI]]機器。USB音源は[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]接続の内蔵用カードなどに比べノイズの影響を受けにくく高音質を実現しやすい。 ** USB[[スピーカー]] ** [[ICレコーダー]]の一部機種 ** [[ヘッドセット (音響機器)|ヘッドセット]] ** ラジオチューナー ** FMトランスミッター * 外部記憶装置 ** [[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]] ** [[メモリーカード]]類の[[メモリーカードリーダライタ|カードリーダ]]等 ** [[ハードディスクドライブ]] (HDD) ** [[光学ドライブ]]類 ([[コンパクトディスク|CD]]/[[DVD]]/[[Blu-ray Disc|BD]]/[[光磁気ディスク|MO]]) ** [[フロッピーディスク]]ドライブ ** [[ソリッドステートドライブ]] (SSD) * 通信装置類 ** [[USBハブ]] ** 従来の接続ケーブル規格である[[Small Computer System Interface|SCSI]]、[[RS-232C]]などを用いた周辺機器をUSBへ変換するためのケーブル変換器 ** ケーブル両端部でホスト動作するコンピュータ同士を直接接続してデータ転送を行うための特殊なケーブル接続器 ** USB経由で接続する[[ネットワークカード|ネットワーク・アダプタ]]([[Local Area Network|LAN]]カードや[[無線LAN]]) ** USB機器をLANへ収容する装置。USBハブを備える製品もある。[[ネットワークアタッチトストレージ]]に内蔵されることもある ** [[モデム]]、[[ターミナルアダプタ]]、[[ダイアルアップ接続]]、[[ISDN]]など。[[ケーブルテレビ|CATV]]/[[ADSL]]/[[FTTH]]などの[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド回線]]では、[[イーサネット]]の使用が主流である。 ** [[携帯電話]]、[[PHS]] - [[エアーエッジ|AIR-EDGE PHONE]]や一部[[スマートフォン]]など。携帯電話等ではMicroUSB等がインターフェースとして使用されており、それらの内の端末側コネクターが特殊形状のものでは専用の接続ケーブルを必要とするものがある。2009年11月、[[国際電気通信連合]]によって携帯電話の充電器と端子をMicroUSBに統一するよう勧告がなされた。[[2021年]]現在は主流が後継の[[USB Type-C|Type-C]]端子に移り変わっておりMicroUSBは安価なものを除き採用されなくなってきている。{{要出典|date=2018年5月}} ** [[Bluetooth]]アダプタ ** [[ICカード]]リーダー * 内部接続用インターフェース ** [[複合機]]、[[現金自動預払機|ATM]]、[[自動販売機]]、[[マシニングセンタ]]など。いくつかのコンポーネントの集合によって成り立つ機器の内部接続にも使用される。以前はこのような機器同士の接続には取り回しが不便なレガシーインターフェースや汎用性に乏しいベンダー固有インターフェースで接続される事が多かったが、これをUSBに置き換えることにより設計自由度の向上や[[実装]]コストの削減が見込める。 * その他 ** 広告POP用の[[電光掲示板]] ** [[無停電電源装置]] - 電源障害時に接続している[[サーバ]]等を安全な方法でシャットダウンさせる為の信号を送る。 ** [[電子楽器]] - 電子楽器を制御して演奏させたり、人による演奏手順を記録する際に使用。 ** [[組み込みシステム]]開発に用いる[[デバッガ]]類 *** [[オンチップ・エミュレータ]] *** [[インサーキット・エミュレータ]] ** 開発者向け[[ゲーム機]] - プログラミングなどを行うパソコンと接続しデバッグ情報の送受信が行えるよう特別に設計されたゲーム機。 ** [[測定機器]] - 主にデバイス側であるが高機能な機器ではホストにもなり得る。 ** おもちゃ - [[ロボット]]など ** ジョークグッズ *** [[バンプレスト]]が、[[テレビアニメ]]『[[機動戦士ガンダム]]』に登場する、『[[テム・レイ#テム・レイの回路|テム・レイの回路]]』(ガンダムのパワーアップ回路とされたが、実際には旧式回路で全く役に立たない)を模したグッズを頒布するにあたって、「旧式回路」という原作の設定を再現するため、当時は既に古い規格になっていたUSB 1.1のUSBハブとして製作された。 * バスパワーだけを使用する機器 ** ミニライト、[[扇風機]]、マグカップヒーターなど ** [[充電器]] ** [[冷却]]装置 ** [[USB Killer]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『なんでもUSB』([[I/O (雑誌)|I/O]]別冊)[[工学社]] {{ISBN2|4-87593-900-0}} == 関連項目 == * [[プラグアンドプレイ]] * [[Wireless USB]] * [[IEEE 1394]] * [[Thunderbolt]] * [[PictBridge]] * [[USB Type-C]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.usb.org/ USB Implementers Forum, Inc.] - USB.org {{en icon}} * [https://www.usb.org/documents USB.org - Documents] - USB 3.2などの規格書 {{en icon}}<!-- * [http://api.usb.co.jp/usb/ USB機器のVenderID, ProductID検索] - 合同会社アクセルテック --> {{コンピュータバス}} {{Basic computer components}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆにはあさるしりあるはす}} [[Category:USB|*]] [[Category:インタフェース規格]] [[Category:コネクタ]]
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将棋
将棋(しょうぎ)は、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べる本将棋(、古将棋や現代の変形将棋、変則将棋類などと区別するための名称)を指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられている。本項では、主に本将棋について解説する(古将棋および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照)。 チェスやシャンチーなどと区別するため日本将棋()ともいい、特に日本の「本将棋」には「持ち駒」の観念が古くからあることが特徴とされている。これは、諸外国のチェス類似の伝統的ゲームに例のない独特のルールである。持ち駒を利用したチェス派生のゲームが考案されたのは後年のことである。 ゲーム理論の分類では、一般的には二人零和有限確定完全情報ゲームであるとされる。ただしステイルメイトや後述する千日手に関してルールの不備や曖昧さがあり、厳密には二人零和有限確定完全情報ゲームとは言えない。 現代の日本では特に本項で述べるいわゆる本将棋(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及している。また、はさみ将棋やまわり将棋など、本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり、変則将棋と総称される。 歴史的には「大将棋」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「中将棋」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「小将棋」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対比して「古将棋」と総称される。また、現代でも中将棋などにはわずかではあるが愛好家が存在する。ほかに小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、おもに福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。 将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。 上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。実際の駒では成銀、成桂、成香、と金はすべて「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても、先手が玉将を持つことで後手と区別している働きが存在する。 将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。 将棋の対局において駒は対局者各20枚ずつの計40枚を用いる。対局者間の棋力の差によって手合割(ハンデ)を考慮する必要もあり、対局者間の棋力の差がかなり大きい場合には駒落ち(棋力で上回る側に属する駒の一部を盤上から除外した状態での対局)となるが、基本的には駒を落さずに対局者各20枚ずつ対等に駒を持つ「平手(ひらて)」で指される(手合割の詳細については後述)。 平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。 上図のように盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、...、9(筋)、縦方向に一、二、三、...、九(段)とマス目の位置を表す座標が決められており、先手番から見て右端の敵陣1段目の位置を「1一」、左端の自陣1段目の位置を「9九」と表す。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は☗(Unicode文字参照U+2617、)、後手は☖(U+2616、)で示すのが一般的だが、コンピューターではJIS2004やUnicode登場前からの伝統的手法として先手は▲・後手は△で示すことも多い。 先手・後手は振り駒により決定する(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定している場合もある)。 配置の順番は以下のように行われる。 上座の人が駒袋または駒箱を盤の下に(足付きの場合)入れる。 上記はあくまで作法であって並べる手順は基本的には自由であるが、多くのプロ棋士は伝統的に受け継がれてきた大橋流・伊藤流という二つの並べ方のどちらかを採用している。現在の主流は大橋流であり、およそ8割の棋士が採用している。伊藤流を採用している棋士は、鈴木大介、窪田義行など。また独自の並べ方を採用する棋士としては熊坂学などが挙げられる。 自分の番(手番)が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを1回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスしたりすること(自分の駒をまったく移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。 盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて駒の動きに書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。 前述のように盤上の相手側3段を敵陣と呼ぶが、玉(王)と金以外の駒(飛、角、銀、桂、香、歩)は移動前後のマスが敵陣内だった場合、「成る」か否かの選択によって成駒へと変化することができる。 上述のように、成りは強制ではなく、成るか成らないかを選択することができる。特に銀、桂、香は、成ることによって移動できなくなるマスがあるため、不都合を生じることがある(例えば、銀が成ると斜め後ろに動かせなくなる)。そのため、これらの駒で成るか成らないかについて慎重な検討を要することもある。これに対して飛、角、歩は、成ると移動できるマスが単純に増加するのみの(駒の性能が上がる)ため、成りが選択されることがほとんどである。ただし、ごくまれに、反則である打ち歩詰め(後述)になる局面を回避する、または逆に成ることによって自玉に詰みが生じる局面(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまう局面)を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。 持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は一般的に盤の脇の駒台に置かれる。 持ち駒は自分の手番において盤上の駒を指す代わりに、合法手である(何らかの禁じ手や反則行為に該当しない)限りで任意の空きマスに打つことができる。 ただし、敵陣に持ち駒を打つ場合、成る前(将棋駒の表側)の状態で打たなければならない(持ち駒を打った手番のまま成ることはできない)。 プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計(チェスクロック)を用い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。 公式戦では、名人戦では9時間、NHK杯では10分というように棋戦ごとに対局者それぞれの累計時間が決められており、その分を使い果たして以降は1手当たりの制限時間(30秒から1分)が課される「秒読み」が主である。プロの公式戦以外では持ち時間なしで最初から1手当たり○秒以内で指す対局も存在する他、一般的な対局では持ち時間がなくなった瞬間に負け(切れ負け)となる「指し切り」も普及している。 対局者の棋力の差によってはハンデキャップ付きの対局も行われる。棋力の差が非常に大きい場合、上位者が駒の一部を取り除いて(駒落ち)対局する。右図は「二枚落ち」と呼ばれる駒落ちの場合である。 駒落ち戦の場合には「先手」や「後手」ではなく、駒を欠いた上位者を上手(うわて)、そのままにした方を下手(したて)といい、上手を先攻として指し始める。 駒落ちにおいては棋力の差により、1枚ないし2枚の駒を落とすものから、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある。特殊・あるいは極端なものとしては、上手が玉将1枚だけになる「裸玉」(19枚落ち)、上手が19枚落ち+持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち・銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。 原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指す。しかし将棋は伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、最も遅い場合でも一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態(詰み)となった時点で勝敗が決まる他、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。 投了のタイミングは、ルール上は自分の手番であればいつ行ってもよいが、実際に投了する局面としては、自玉が詰まされることが確定的となったとき(自玉が即詰みになることが判明した場合、自玉に必至がかかり敵玉が詰まないとき)がまず挙げられ、相手の攻めを受け切れず、自玉が一手一手の寄り筋となった場合、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合も該当すると考えられる。このほか、自玉に具体的な詰み筋・寄り筋は見えなくても、到底勝ち目がないと判断して戦意喪失した場合、すなわち相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合(指し切り)や、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合、一方的に入玉されて敵玉が寄る見込みのない形になってしまったなどの場合に投了することもある。特にプロの公式戦では完全に詰むまで指すことはきわめて稀である。 原則的には詰みまたは投了によって勝敗が確定するが、勝敗の決し方には以下のようなものがある。 同一局面が4回現れた場合千日手となる。同一局面とは、「盤面・両者の持駒・手番」がすべて同一の場合のことをいう。千日手は原則として無勝負・指し直しだが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の負けである。これは、千日手が成立した手番に関係ないため、自身が指した手で千日手が成立して負けが決まることもあれば、相手が指した手で千日手が成立して負けが決まることもある。 通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなく「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や最後の審判(詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。 先後両者の玉(王)が互いに入玉し、互いの玉を詰ますことが困難になった場合、両者の合意の上で判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合を持将棋という。プロの公式戦においては「24点法」が用いられる。この場合、大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点として、互いに24点以上であれば引き分けとなる。アマチュアの大会の場合はそれぞれの規定による。一般に採用されることが多い「27点法」では、「24点法」と同様の点数計算を行ない、点数が多い方が勝ち、同点の場合は後手勝ちとしている。 次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合ただちに負けとなる。対局中であれば、反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、終局前に反則が指摘された場合、反則した時点に戻して反則した側の負けとなる。対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘してもよい。 終局後に反則が判明した場合も、原則として反則をした側の負けとなる。たとえば、対局者が反則に気づかずに手を進め、反則された側が投了したとしても、反則を行った対局者の負けとして勝負結果が変更されることになる(棋戦の運営による例外の対応もあり。以前は投了優先であったが、2019年6月10日および同年10月1日に将棋連盟対局規定の一部変更が行われている)。 プロの棋戦で発生した反則は、記録に残っているもので回数が多い順に下記のとおり(2018年10月20日現在)。プロの棋戦において、打ち歩詰め・行き所のない駒によって反則負けになった例は現時点では1例もない。 プロが行ってしまった「ルール違反の手」として、下記のような事例がある。 なお、「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と誤認する者も多いが、そのようなルールは存在しない。これは、本来「自分で気づかなければいけない」とされているためである。そのような王手の発声は、指導対局や縁台将棋、初心者同士の対局などで慣習的に行われる場合があるに過ぎず、プロの公式戦などで行われることは皆無である。 打ち歩によって、連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態を作った場合、打ち歩詰めに該当するのか否かが不明である。連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態は詰みとみなすのかどうかに依存し、現行ルールではどちらの解釈も可能である。公式戦での前例は存在しないとされるが、「最後の審判」という詰将棋の問題において、発生する可能性が指摘されている。 この他に、歩を打った後の局面が「ステイルメイト」状態(次に動かせる駒が反則手以外にない局面)になった場合に、「打ち歩詰めの反則規定」に該当するのかについて、「一方が玉以外に盤上の駒や持ち駒がない」などの極端な勢力差にならない限り局面が出現せず、プロの実戦上は相当前の段階で投了による決着となるため、特に正式な見解は出されていない。また、両者が連続王手で千日手となった場合については定義されていないが、いまだ局面や手順として再現できておらず、公式戦でも前例が存在しないがゆえ、特に問題視されていない。 公式戦ルールの不備が改正された例としては、1983年に千日手の規定が「同一手順を3回繰り返した場合」から「同一局面が4回現れた場合」に変更された例がある。旧規定では、千日手になることなく無限に指し続ける手順の存在が数学を用いて簡単に証明でき、実際に千日手模様の無限ではないが、かなり長手数の対局が見られたことから改正された。また、相入玉の将棋で、一方が持将棋の合意や投了を拒否した場合、詰みによる決着の見込みがないまま延々と指し続けることになりかねないため、入玉宣言法や500手指了ルールが暫定導入されている。 将棋の対局は、大きく以下の3つの場面に分けて考えることができる。 ひとつの対局を序盤・中盤・終盤の三場面に分けると、各場面ごとに目標とすべきことや思案すべきことや決断すべきことがある。以下、各場面ごとの指し方を解説する。 序盤戦は、攻撃・守備に適した駒組みを目指す段階である。将棋では長年の研究により効果的な駒組みのパターン(戦法)が数多く考案されており、それぞれの戦法について効果的な駒組みの手順(や分岐した手順)が研究され定跡が整備されている。序盤戦では戦法ごとの定跡をベースに、相手の駒組みを見ながらときには独自の工夫を加えて作戦勝ちを目指すことになる。 基本のセオリーは、盤面を左・右に分け、どちらかで攻撃の陣形を構築し、反対側で守備の陣形を構築する。居飛車はおもに右側を攻撃に使い左側を守備に使う戦法、振り飛車はおもに左側を攻撃に使い右側を守備に使う戦法になる。守備面では、通常は、玉を飛車の位置とは反対側に移動させ、2枚の金および銀桂香歩など(の一部)を用いて玉の周囲を守る囲いを築く。攻撃面では、通常は、強力な駒である飛角を中心に、そこに囲いに使わなかった駒(銀桂香歩など)も絡め、敵陣突破を図る体制を築く。もっとも、これはあくまで基本のセオリーであり、このセオリーをあえて外す戦法も数多くある。 将棋の初手は30通りあり、各初手について「ウィキブックス/将棋/定跡書」のページおよびそのリンク先に詳しい解説がある。 プロ棋戦における初手は、角道を開ける▲7六歩が最も多く、飛車先の歩を突く▲2六歩がそれに次ぎ、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。近年3番目に採用率の多い初手は、先手ゴキゲン中飛車などで用いられる▲5六歩である。プロ棋士全体では(一年の)総対局数が約2300局あり、そのおよそ7割約1600局は初手▲7六歩と指している将棋で最も指されている初手となる。次いで約2割が▲2六歩、そして▲5六歩と続く。『イメージと読みの将棋観』(日本将棋連盟、2008)では2007年度統計で初手▲7六歩の出現率が78.5パーセントで先手勝率は5割2分7厘であるという。▲2六歩の出現率は17.3パーセントで勝率は5割4分6厘。初手▲5六歩の出現率は4.0パーセントで、勝率は5割3分2厘であるという。初手については見解も棋士ではさまざまで、羽生善治や佐藤康光、谷川浩司、渡辺明、森内俊之らは初手は▲7六歩か▲2六歩で、いずれも居飛車党なので、7六歩は矢倉もしくは角換わりでたまに振り飛車志向、2六歩は相掛かり志向としている。佐藤はゲン担ぎもあり、どちらかで負けたら違うほうにしているなどとしている。森内はその2手の他、▲3六歩や、▲1六歩と▲9六歩も1回ずつ指しており、いずれも勝利している。 現在では初手7八飛戦法や4八飛、5八飛といった先に振り飛車を明示する指し方も多い。初手▲5八飛は森内が小学生時代に羽生相手に指し、すると羽生は△5二飛と指したことが知られている。また基本的に嬉野流は初手▲6八銀、英春流は初手▲4八銀である。 羽生や谷川は両者とも先崎学に初手3六歩を試みられている。渡辺も初手▲3六歩を指したことがある他、藤井猛が初手▲6六歩を6局指しており、1勝4敗1戦千日手の戦績を残している。藤井によれば6六歩を指す意味は、相手が飛車先を伸ばさない居飛車戦法の場合▲7六歩の一手を省略でき、先手もその分他の手を先に指すことができるからだとしている。つまり早く△8六歩を突いて形を決めさせる意味があるという。 また中原誠が1983年の十段戦で加藤一二三に対し初手▲7八金を指している。この意味は先手居飛車党が振り飛車党相手に3手目に4八銀や6八玉として居飛車にしてこいというのと同様、後手に振り飛車にすると有利ですよと打診・挑発している意味もある。実戦では加藤は△8四歩とし、以下は普通の相掛かり戦となった。 なお初手の最悪手については、羽生は初手の▲8六歩としており、加藤一二三は1八香を初手の最悪手としている。1八香は振り飛車であれば、飛車を振った後に穴熊を目指すことができるが居飛車党からすれば意味のない1手パスにしかならないとしている。ただし渡辺は初手はどの手を指してもそこまで悪くない、先手なので1手パスして後手になると思って指せばさほど影響はないとしている。 駒組みが完成して駒がぶつかりあい始めるのが中盤戦の始まりである。中盤戦の攻撃面では相手の駒を取ったり、敵陣に切り込んでいくことを考え、終盤戦へ向けて持ち駒を増やして攻撃力を増すために相手の駒をとったり、敵陣を崩し敵陣内部に攻めの拠点を作ったりすることが目標となる。当然相手のほうも同様のことを考え目標としているので、防御面では相手に駒を取らせない、相手に自陣への侵入を許さないということも重要である。攻防どちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。駒のやりとりが生じるので、駒の損得の計算も重要になる(これについては#駒の損得(戦力差)の節で説明する)。中盤戦で役に立つことが多い駒、次に終盤戦に入った段階で役に立つ駒はどれか、ということも考慮しつつ駒のやりとりをする。 なお、駒組みが未完成のままいきなり互いの玉に迫る激しい展開となることもあり、この場合は中盤戦がなく、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価される。 また、特にプロやアマ高段者などの対局では、時として中盤で形勢に大差がついたために、一方が攻防共に見込みがないと判断して投了することもあり、この場合は終盤戦がなく、中盤戦で終局となったと評価される。 どちらかの守りの陣が崩れ、玉の囲いも崩れ始めたころから終盤戦になる。 終盤戦は、勝利条件である詰みを目指して相手の玉に迫っていく。 終盤戦では、以下のような概念が使われる。 これらの概念を使って自玉と敵玉の状態を把握し、受けるべきか攻めるべきかなどを判断していくことになる。 最後の詰みに至る手順を寄せという。(中盤戦では駒のやりとりの損得計算が重要だったが)寄せの段階では駒の損得計算はさほど重要ではなくなり、それよりも「詰むか詰まないか」が最重要となり、正確な読みの力が重要となる。相手の玉を詰むことができるかできないかを見極めることも重要であるし、また自玉が詰むか詰まないかを見極めることも重要である。(なお、寄せの読みの力は普段から詰将棋のトレーニングをすることで養うことができる。また詰将棋問題を自作することで「詰むか詰まないか」の感覚を一層磨くことができる)。 王手には強制力があり、王手をかけた側は一応は一種の「先手」となり、王手をかけ続ける限りは(逆王手を除けば)自らが攻め続けることができる。だが実戦での寄せは、将棋の格言で「王手するより縛りと必至」「玉は包むように寄せよ」「王手は追う手」というように、敵玉が即詰みでない場合の安易な王手は、かえって敵玉を安全地帯に逃がして勝ちを逃してしまう結果を生むことのほうが多いので、むしろ相手の玉にじわじわと縛りをかけ、つまり相手玉の周囲のマス目に自分の駒を効かせて相手玉の動ける方向を制限してゆき必至を狙う方が勝利につながることが多いとされている。 中盤戦で形勢に大差がつき片方だけが敵陣を切り崩しなおかつ持ち駒の種類も多い状態で終盤戦に入ったような場合は、終盤戦でもその勢いのまま優勢側が一方的に寄せてゆき、劣勢側は防戦で最善をつくしても防戦むなしく勝負がつくという展開が多い。 ただしそういう状況に陥ってしまったと劣勢側が気づいた場合は、そうはさせまじと、「一発逆転」を狙って、「狙うは相手玉のみ」とばかりに、持ち駒も守備に使うことは諦め攻撃のみに使う覚悟で、なりふりかまわずともかく相手玉とその周辺だけに集中して一気に攻撃をしかける場合もある。「一発逆転」などということは簡単にできるものではないが、それでも、そのまま生真面目に防戦ばかりしていては勝つ可能性は限りなくゼロに近いことが分かっているので、たとえ博打のような選択であるにしても、相手が「うっかりミス」などをしてくれて自分が勝てる可能性を残したほうがまだマシだ、という計算をしたうえでの作戦である。 時には、互いに詰めろを掛けては受ける攻防を繰り返し、最終的にAがBの玉に必至をかけ、その瞬間にBがAの玉を即詰みにする手順を見つければBの勝ち、見つけられなければAの勝ちになる、といったきわどいゲーム展開になることもある。 お互いに玉に迫りあっている場合では、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうことが多々ある。また詰めろや必至で敵玉に迫っていったとしても、そのときに自玉に詰めろがかかっていることを見落としていたり、あるいは相手が王手をかけてきたところで正しく対応していれば詰まなかったところを対応を誤ったりで、自玉が即詰みの筋に入ってしまってからではそれに気づいても手遅れである(このようなケースを「頓死(とんし)」という)。このように終盤戦は、1手のミスで勝敗がひっくり返ってしまうことも多い重要な局面である。 この他に、一方的に攻められている場合などでは、相手陣に玉が侵入する入玉を目指す方法もある。 将棋の形勢とは、駒の損得や囲いや駒の働きなどを総合した有利不利の差のこと。形勢を指す語は次のように数多く存在しており、同程度の形勢を表す語であってもニュアンスが異なる。形勢の悪いほうから、 となる。この他に「形勢不明」というのもある。 コンピュータ将棋では、形勢判断は評価値(形勢値)と呼ばれる数値で表す。それには得点方式とパーセンテージ方式があり、概ね次のような目安となる。 ただし、2023年のコンピュータ将棋大会で上位に入るソフト同士の対戦では評価値+300から逆転しない確率は約97%であるとされる。 序盤・中盤・終盤を問わず、指し手を決める際の基本は先読みと形勢判断である。まず、自分がこの手を指せば相手がどのように応じるか、それに対し自分はどのように応じるか、といった具合に先を読み、最終的に自分が有利になっているかどうか形勢を判断して、その手を指すかどうかを決めるのである。 形勢判断の要素としては、一般的に の4つが挙げられる。 将棋の駒は動けるマスに違いがあることから、それぞれ価値が異なる。玉将(王将)はゲームの勝利条件となる最終目標の駒であるから、当然最高の価値を持つ。その他の駒の価値は局面によって変わってくるが、おおむね価値のある順に飛角金銀桂香歩となる。このうち、特に価値の高い飛車と角行を大駒と呼び、大駒と比べて価値の低い金将・銀将・桂馬・香車・歩兵を小駒と呼ぶ。 無条件で相手の駒を手に入れたり、自分の価値の低い駒と相手の価値の高い駒を交換したりすれば、局面を有利にできることが多い。このようにして、駒のやりとりで自分の戦力を上げたり相手の戦力を下げたりすることを駒得(こまどく)という。反対に相手に駒得をされることを駒損(こまぞん)という。駒得・駒損は形勢が有利か不利かを判断する上で、もっとも基本的な要素となる。特に相手の玉将を詰めるという目標がまだ見えていない序盤から中盤は、基本的に駒得を目指していくことになる。 自分の大駒1枚と相手の小駒2枚(または大駒と小駒1枚ずつ)の交換を行うことを、二枚替えという。駒得を図ったり、受け駒を一気に剥がしたりするための基本的な戦略の一つとなっている。例えば、角行1枚を相手に渡すかわりに金将と銀将を手に入れた場合、金銀2枚を得たメリットが角行を失ったデメリットを上回る。一方で飛車1枚の場合は、角行+銀将の2枚との交換で有利とされる。もっとも、終盤では相手に渡した大駒で詰まされる可能性があり、必ずしも二枚替えが有利となるわけではない。 駒得・駒損の目安として、各駒の価値を点数化した表を用いて点数計算をする方法がある(なお、ここでいう点数計算は持将棋となった場合の判定のための点数計算とは無関係であるため注意)。コンピュータ将棋のソフトウェア(ソフト)では、各駒の点数を内部で計算したものを局面評価のためのベースとすることがある。また、駒の点数計算による駒得・駒損の評価は、もっとも基本的な価値判断の方法としてプロ棋士が執筆した将棋の入門書などでも解説されることが多い。ここでは、代表的なコンピュータ将棋ソフトとして世界コンピュータ将棋選手権で複数回の優勝経験があるPonanzaとBonanza、代表的な棋士として永世名人の資格保持者である羽生善治と谷川浩司の4者がつけた評価値のうち、それぞれ最新のものを掲載する。 羽生方式や谷川方式に沿って計算する場合、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)すると、自分は6点+5点-10点=1点、相手は10点-(6点+5点)=-1点で、差し引き2点自分が得したことになる。また、自分の成香(香車の成り駒)と相手の金将を交換すると、自分は6点-6点=0点、相手は3点-6点=-3点で、差し引き3点だけ自分が得したことになる。 なお、上記における駒の価値はあくまでも目安であり、状況に応じて常に変化する。昇格(成り)に関しても、全ての駒において形式的な点数が上がってはいるが、局面によっては実質的に生駒の価値のほうが大きいとされる場合もある。特に利きの変化においてデメリットを伴う銀将(→成銀)・桂馬(→成桂)・香車(→成香)に関しては、昇格の判断が難しいとされる。 盤上の駒がその価値を発揮できるかどうかは、局面やその駒の位置によって大きく変わってくる。そこで、自分の駒がどの程度働いているかの判断基準を「駒の効率」と呼んで、形勢判断の一要素としている。 例えば序盤において、左の香車と右の香車は先程の点数計算では同じ3点(羽生式や谷川式の場合)となる。しかし、もし玉将を左側に囲った場合、左の香車は玉将の守備を行う役割があることから、一般的に右の香車よりも価値が上がるとされる。また、例えば角交換となったあとで一方が盤上に角行を打ち込んだ場合、盤上に打たれた生駒状態の角行と未だに持ち駒状態の角行とでは、後者のほうが一般に価値が高い。なぜならば、後者の角行は隙あらば相手陣に打ち込んで竜馬にするチャンスもあり、相手側に対して打ち込みの隙を作ってはならないという制約を課す効果があるからである。 この他に、持ち駒の歩兵が0枚から1枚に増えた場合と、1枚から2枚に増えた場合とを比べた場合、形式的な計算ではどちらも1点であるが、実質的には前者のほうが価値が大きいとされることが多い。これは、歩切れ(持ち駒の歩兵がない状態)は、何かと入り用になる歩兵を好きなタイミングで使うことができずに不利とされているためである。 玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の配置のことである。遠さ・堅さ・広さなどの要素で判断される。 玉形が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。駒の損得で勝っている場合は穏やかな局面にすると良いのに対し、玉形で上回っている場合は激しい展開が望ましいとされる。駒損でも玉形の評価が良いとき、こちらは玉形を生かして激しく攻めまくり、相手は必死に耐えて反撃を狙ったりする。 なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響される。たとえば、矢倉囲いは上からの攻めに強い囲いであるため、互いに居飛車ならば堅いと評価されるが、相手が振り飛車ならば玉形の評価は悪くなる。 一方的に攻め続けている状態のことを「手番を持つ」又は「先手をとる」と呼ぶ。極終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、主導権を得ることが重要となる。攻防に必要な駒さえあれば、全体的な駒の損得はほとんど形勢に影響しない。手番を得るために駒を捨てるということも行われる。これを表す格言として「終盤は駒の損得より速度」がある。 また、戦略・戦術以前の問題として、そもそも対局において先手番が有利か否かという点が話題となることがある(ある局面での手番を意味する「先手」「後手」ではなく、一つの対局の最初の手を指す側か否かの「先手」「後手」)。 将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるとみられているが、4人制チャトランガなのか2人制チャトランガなのか確定的な資料は見出されておらず論争がある。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー(象棋)、タイにはマークルック(マックルック)がある。 伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威づけのために創作された説であると考えられている。 チャトランガ系のゲームがいつごろ日本に伝わったのかは明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。日本への伝来はいくつかの説があるが、木村義徳の6世紀から7世紀と、増川宏一の10から11世紀が激しく対立している。 系統も不明である。東南アジア系のゲームの伝来説では、マークルックとの類似性が19世紀末以降から一部指摘されており、その後、増川と大内延介がこれを広めた。ただしマークルックはビア以外は立体駒で、成立時期が12世紀までしか遡れていないという問題がある。逆に将棋がマークルックの成駒ルールに影響を与えたという説もある。また東南アジア説でも直接伝来は考えにくいため、最終的に増川は中国南岸において文字駒化したものが伝わったという説を提唱した。 中国系のゲームの伝来説では、シャンチーと駒名の類似が認められるものの、置き方からルールまで差異が非常に激しいという問題がある。また、枝分かれする前の共通祖先の姿が立像なのか文字駒なのかも不明である(木村説では立像)。 いずれにしても当時の日本将棋に関する文献は皆無で、出土品も少なく、各説は想像の域を出ない。 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。 考古資料としての発掘は1980年代から相次いだ。現状、最古の駒は奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。 三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。ただし平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。 最古期の駒が発掘されるのは寺院に多く、僧が関わっていたとみられるが、一方で正倉院に囲碁・双六はあっても将棋は無いことから貴族への普及はその後と推測され、日記に登場するのは平安後期である。平安時代の駒は近畿だけでなく全国から発掘されている。これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。 古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。 これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。 13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。15世紀から16世紀ごろ(室町時代)には小将棋から醉象が除かれて本将棋になったと考えられる。このころに「将棋を指す」という表現が定着したとされる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年 - 1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。 16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。 江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、前提として江戸時代には本将棋が普及しており、これらの将棋類はごく一部を除いて実際に指されることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。 将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながっていく。 将棋の発展のうち特筆すべきものとして、「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用制度が考案されたことが挙げられる。もっとも、このルールがいつごろできたものかのかは分かっていない。現在、提唱されている説としてはおもに以下の3つがある。 持ち駒ルールが生まれた理由もよく分かっていない。上述した駒の数の減少に伴うゲーム性低下を補うため、将棋の駒に色分けが無いためという説明が一般的になされる。また、や、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品を表していることから、将棋は戦争という殺し合いをテーマにしたゲームではなく、資産を取り合う貿易や商売をテーマにしたゲームという側面があり、相手から奪った資産は消滅するのではなく自分のものになるのが自然であるため、持ち駒使用ルールが生まれたのだとする考察もある。 本将棋は上述の通り15世紀から16世紀(室町時代)ごろに小将棋から醉象を除き持ち駒の再使用ルールを加える形で成立していたとされる。 17世紀初頭、1612年(慶長17年)ごろ、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂(大橋姓は没後)・加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ将棋所・碁所を名乗るようになった。 宗桂の後継者である大橋家・大橋分家・伊藤家の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が名人を称した。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。 寛永年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。 江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合った。特に伊藤家の伊藤看寿の作品である『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。 江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。 現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。 江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。将棋を専業とする者たち(なお、そのほとんどは関東では家元三家の門下、関西では天野宗歩の門下で修行した者たちである)は、家元に対して自由に活動するようになり、名人位は彼らの協議によって決定する推挙制に移行した。 アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなかったといわれている。 1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。 大正時代のころの将棋界は有力棋士たちがそれぞれ連盟(派閥)をつくり、特定の新聞社と契約をして一門の経済状況を安定させていた。例えば大崎熊雄が師の井上義雄死去後に主宰した東京将棋研究会は当時の有力誌である国民新聞や地方紙と契約し隆盛していた。一方で土居市太郎は東京将棋同盟社、関根金次郎は東京将棋倶楽部を主宰していた。明治時代以降から棋士有力者が各派に分かれていくなかで、基本的に他流試合は行わないのがこのころの原則となっていた。しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の首領を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が報知新聞社主催で行われた。 これを縁として、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。 1935年に東京日日新聞および大阪毎日新聞主催の名人戦が始まり、戦争を挟みつつも将棋人気は拡大していった。 第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。 現代の将棋は定跡が整備され、高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。 各年度の将棋界の詳細は各項目に譲るが、1935年の名人戦を皮切りに8つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている(2018年現在)。 女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の女流棋戦である女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された。2018年現在、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている。 プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくない。 コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして始まった。1960年代の詰将棋プログラムを先駆けとし、1980年代にはゲームソフトが発売されるようになったが、複雑性ゆえ当時のハードウェアの性能では強さには限界があり、1989年のゲームボーイ用の将棋ソフトでは、AIのレベルによっては電池残量との戦いになるほどの長考が行われた。 その後ハードウェアの性能向上にあわせて着実に強くなり、21世紀にはアマトップやプロと平手での本格対局が実施されるに至った。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、2017年にponanzaが当時の名人である佐藤天彦との対局に勝利し、コンピュータ将棋ソフトが名人超えをしたことが証明された。 インターネットの普及を通じて盤駒を利用しなくとも対局ができるネット将棋が普及。それによって将棋センターは次々閉鎖されていったが、取って代わるように1996年ごろからJava将棋やザ・グレート将棋、将棋倶楽部24、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などのサイトが次々と登場した。2010年代には英語が公用語の国際サイト81Dojo、twitterと連動できるshogitter、カジュアルな作りで人気を伸ばした将棋ウォーズなどが登場した。2022年1月に変則将棋の1つフリーズ将棋も遊べるようになった。 将棋がテレビなどで一般的に話題になった代表的なものでは、内藤國雄「おゆき」大ヒット(1976年)、谷川浩司史上最年少名人(1983年)、羽生世代の活躍(1980年代から平成初期)、中高年の星米長邦雄名人獲得(1993年)、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道、村山聖の早逝(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、コンピューター将棋ソフトBonanzaの躍進(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦によるプロとコンピューターの対決の配信(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)、将棋もの作品の流行(平成末期)、将棋ソフト不正使用疑惑(2016年)、藤井聡太の史上最年少デビューと無敗のままでの歴代連勝記録更新(2016年 - 2017年)、羽生善治の永世七冠達成(2017年)と国民栄誉賞授与(2018年)などがある。 将棋の対局放送は長丁場であることもあり一般的ではなく、長年NHK杯やNHK BSの特別番組、CS放送の専門チャンネルなどに限られていた。地上波民放で数少ない例としてテレビ東京主催の『早指し将棋選手権』があったが2003年に終了している。1995年頃の羽生フィーバーでは観戦するファン(観る将)の萌芽があったが、当時のインターネット環境では活かすことができなかった。2010年代になってから無料インターネット動画サイトを通じた配信が定着したことで、2017年からの藤井フィーバーに繋がった。 『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)による、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」。調査時期は発表年の前年。 2009年の急増は調査方法切り替えによる。なおデータは16歳から79歳までのため実際はより多いと考えられている。 2017年からの藤井フィーバーにより「観る将」は増加したが、競技人口である「指す将」は減少を続けており、大会参加者や道場へ通う子供も増えていないという。 国際将棋フォーラムなど、日本国外への普及も試みられている。ただし将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯で世界的にはチェスが普及しており、漢字が読める漢字圏でも既にシャンチー系のゲームが普及しているため、日本経由からも伝わった囲碁や、日本で商品化されたオセロが、白黒の石でゲームを行うこと、チャトランガ系ゲームとは異なり類似のものが無いなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的に小規模である(ガラパゴス化)。 将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国では早く明代に倭寇対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。またアメリカ合衆国では1860年に万延元年遣米使節によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(オランダ語版)『チェス史の典拠研究』では将棋と中将棋が紹介されている。1966年トレバー・レゲット(英語版)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス (George F. Hodges) は将棋協会 (The Shogi Association, TSA) というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している。 2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。 非漢字圏や漢字が読めない子供向けの普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、GNU Shogiのもの、ChessVariantsのもの、Hidetchi国際駒(81Dojo)、おおきな森のどうぶつしょうぎなどがある。 海外向け(日本在住者を除く)のアマ免状では、名人の署名もなく簡素な日本語で表記されており、間違いがないように名前は自分で記入ができる。 英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、駒の種類、動かし方、位置、成・不成を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。 駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかである。成り駒は + を前置することで表し、英語名称はPromoted Rook(+R、竜)、Promoted Silver(+S、成銀)のように頭にPromotedを付けて表すのが一般的である。位置は横の筋を将棋と同様右から左に1...9で、縦の段を上から下にa...iで表す。したがって「7六歩」は「P-7f」、「5五馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手をb (black)、後手をw (white) とする。 駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。 棋譜法にはいくつかの変種がある。イギリスの Shogi Foundation の出版物では、駒の位置を縦横とも数字で示している(「7六歩」は「P76」になる)。また、成り駒について、竜をD(Dragon)、馬をH(Horse)、と金をT(Tokin)で表す流儀もある。 盤面の状態の総数は10程度と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、シャンチー(象棋)の10程度、チェスの10程度と比べて大きい値である。 また、ゲーム木の複雑性は、10と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、チェスの10程度、シャンチーの10程度よりも大きい値である。 将棋棋士の羽生善治は、将棋はガラパゴス化で生まれたユニークな存在であり、比較的近いと思われるのはタイ将棋のマックルックだが、よく似ているとは言えないと述べた。 囲碁用語と共通のものについては、囲碁が由来であるのか将棋が由来であるのかはっきりしない。辞書によっては囲碁が由来であるとされているので注意。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "将棋(しょうぎ)は、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べる本将棋(、古将棋や現代の変形将棋、変則将棋類などと区別するための名称)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられている。本項では、主に本将棋について解説する(古将棋および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チェスやシャンチーなどと区別するため日本将棋()ともいい、特に日本の「本将棋」には「持ち駒」の観念が古くからあることが特徴とされている。これは、諸外国のチェス類似の伝統的ゲームに例のない独特のルールである。持ち駒を利用したチェス派生のゲームが考案されたのは後年のことである。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゲーム理論の分類では、一般的には二人零和有限確定完全情報ゲームであるとされる。ただしステイルメイトや後述する千日手に関してルールの不備や曖昧さがあり、厳密には二人零和有限確定完全情報ゲームとは言えない。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現代の日本では特に本項で述べるいわゆる本将棋(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及している。また、はさみ将棋やまわり将棋など、本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり、変則将棋と総称される。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "歴史的には「大将棋」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「中将棋」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「小将棋」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対比して「古将棋」と総称される。また、現代でも中将棋などにはわずかではあるが愛好家が存在する。ほかに小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、おもに福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。", "title": "総説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。実際の駒では成銀、成桂、成香、と金はすべて「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても、先手が玉将を持つことで後手と区別している働きが存在する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "将棋の対局において駒は対局者各20枚ずつの計40枚を用いる。対局者間の棋力の差によって手合割(ハンデ)を考慮する必要もあり、対局者間の棋力の差がかなり大きい場合には駒落ち(棋力で上回る側に属する駒の一部を盤上から除外した状態での対局)となるが、基本的には駒を落さずに対局者各20枚ずつ対等に駒を持つ「平手(ひらて)」で指される(手合割の詳細については後述)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "上図のように盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、...、9(筋)、縦方向に一、二、三、...、九(段)とマス目の位置を表す座標が決められており、先手番から見て右端の敵陣1段目の位置を「1一」、左端の自陣1段目の位置を「9九」と表す。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は☗(Unicode文字参照U+2617、)、後手は☖(U+2616、)で示すのが一般的だが、コンピューターではJIS2004やUnicode登場前からの伝統的手法として先手は▲・後手は△で示すことも多い。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "先手・後手は振り駒により決定する(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定している場合もある)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "配置の順番は以下のように行われる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "上座の人が駒袋または駒箱を盤の下に(足付きの場合)入れる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記はあくまで作法であって並べる手順は基本的には自由であるが、多くのプロ棋士は伝統的に受け継がれてきた大橋流・伊藤流という二つの並べ方のどちらかを採用している。現在の主流は大橋流であり、およそ8割の棋士が採用している。伊藤流を採用している棋士は、鈴木大介、窪田義行など。また独自の並べ方を採用する棋士としては熊坂学などが挙げられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自分の番(手番)が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを1回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスしたりすること(自分の駒をまったく移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて駒の動きに書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "前述のように盤上の相手側3段を敵陣と呼ぶが、玉(王)と金以外の駒(飛、角、銀、桂、香、歩)は移動前後のマスが敵陣内だった場合、「成る」か否かの選択によって成駒へと変化することができる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "上述のように、成りは強制ではなく、成るか成らないかを選択することができる。特に銀、桂、香は、成ることによって移動できなくなるマスがあるため、不都合を生じることがある(例えば、銀が成ると斜め後ろに動かせなくなる)。そのため、これらの駒で成るか成らないかについて慎重な検討を要することもある。これに対して飛、角、歩は、成ると移動できるマスが単純に増加するのみの(駒の性能が上がる)ため、成りが選択されることがほとんどである。ただし、ごくまれに、反則である打ち歩詰め(後述)になる局面を回避する、または逆に成ることによって自玉に詰みが生じる局面(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまう局面)を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は一般的に盤の脇の駒台に置かれる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "持ち駒は自分の手番において盤上の駒を指す代わりに、合法手である(何らかの禁じ手や反則行為に該当しない)限りで任意の空きマスに打つことができる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし、敵陣に持ち駒を打つ場合、成る前(将棋駒の表側)の状態で打たなければならない(持ち駒を打った手番のまま成ることはできない)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計(チェスクロック)を用い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "公式戦では、名人戦では9時間、NHK杯では10分というように棋戦ごとに対局者それぞれの累計時間が決められており、その分を使い果たして以降は1手当たりの制限時間(30秒から1分)が課される「秒読み」が主である。プロの公式戦以外では持ち時間なしで最初から1手当たり○秒以内で指す対局も存在する他、一般的な対局では持ち時間がなくなった瞬間に負け(切れ負け)となる「指し切り」も普及している。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "対局者の棋力の差によってはハンデキャップ付きの対局も行われる。棋力の差が非常に大きい場合、上位者が駒の一部を取り除いて(駒落ち)対局する。右図は「二枚落ち」と呼ばれる駒落ちの場合である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "駒落ち戦の場合には「先手」や「後手」ではなく、駒を欠いた上位者を上手(うわて)、そのままにした方を下手(したて)といい、上手を先攻として指し始める。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "駒落ちにおいては棋力の差により、1枚ないし2枚の駒を落とすものから、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある。特殊・あるいは極端なものとしては、上手が玉将1枚だけになる「裸玉」(19枚落ち)、上手が19枚落ち+持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち・銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指す。しかし将棋は伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、最も遅い場合でも一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態(詰み)となった時点で勝敗が決まる他、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている(投了)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "投了のタイミングは、ルール上は自分の手番であればいつ行ってもよいが、実際に投了する局面としては、自玉が詰まされることが確定的となったとき(自玉が即詰みになることが判明した場合、自玉に必至がかかり敵玉が詰まないとき)がまず挙げられ、相手の攻めを受け切れず、自玉が一手一手の寄り筋となった場合、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合も該当すると考えられる。このほか、自玉に具体的な詰み筋・寄り筋は見えなくても、到底勝ち目がないと判断して戦意喪失した場合、すなわち相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合(指し切り)や、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合、一方的に入玉されて敵玉が寄る見込みのない形になってしまったなどの場合に投了することもある。特にプロの公式戦では完全に詰むまで指すことはきわめて稀である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "原則的には詰みまたは投了によって勝敗が確定するが、勝敗の決し方には以下のようなものがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同一局面が4回現れた場合千日手となる。同一局面とは、「盤面・両者の持駒・手番」がすべて同一の場合のことをいう。千日手は原則として無勝負・指し直しだが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の負けである。これは、千日手が成立した手番に関係ないため、自身が指した手で千日手が成立して負けが決まることもあれば、相手が指した手で千日手が成立して負けが決まることもある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなく「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や最後の審判(詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "先後両者の玉(王)が互いに入玉し、互いの玉を詰ますことが困難になった場合、両者の合意の上で判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合を持将棋という。プロの公式戦においては「24点法」が用いられる。この場合、大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点として、互いに24点以上であれば引き分けとなる。アマチュアの大会の場合はそれぞれの規定による。一般に採用されることが多い「27点法」では、「24点法」と同様の点数計算を行ない、点数が多い方が勝ち、同点の場合は後手勝ちとしている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合ただちに負けとなる。対局中であれば、反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、終局前に反則が指摘された場合、反則した時点に戻して反則した側の負けとなる。対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘してもよい。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "終局後に反則が判明した場合も、原則として反則をした側の負けとなる。たとえば、対局者が反則に気づかずに手を進め、反則された側が投了したとしても、反則を行った対局者の負けとして勝負結果が変更されることになる(棋戦の運営による例外の対応もあり。以前は投了優先であったが、2019年6月10日および同年10月1日に将棋連盟対局規定の一部変更が行われている)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "プロの棋戦で発生した反則は、記録に残っているもので回数が多い順に下記のとおり(2018年10月20日現在)。プロの棋戦において、打ち歩詰め・行き所のない駒によって反則負けになった例は現時点では1例もない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "プロが行ってしまった「ルール違反の手」として、下記のような事例がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と誤認する者も多いが、そのようなルールは存在しない。これは、本来「自分で気づかなければいけない」とされているためである。そのような王手の発声は、指導対局や縁台将棋、初心者同士の対局などで慣習的に行われる場合があるに過ぎず、プロの公式戦などで行われることは皆無である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "打ち歩によって、連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態を作った場合、打ち歩詰めに該当するのか否かが不明である。連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態は詰みとみなすのかどうかに依存し、現行ルールではどちらの解釈も可能である。公式戦での前例は存在しないとされるが、「最後の審判」という詰将棋の問題において、発生する可能性が指摘されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この他に、歩を打った後の局面が「ステイルメイト」状態(次に動かせる駒が反則手以外にない局面)になった場合に、「打ち歩詰めの反則規定」に該当するのかについて、「一方が玉以外に盤上の駒や持ち駒がない」などの極端な勢力差にならない限り局面が出現せず、プロの実戦上は相当前の段階で投了による決着となるため、特に正式な見解は出されていない。また、両者が連続王手で千日手となった場合については定義されていないが、いまだ局面や手順として再現できておらず、公式戦でも前例が存在しないがゆえ、特に問題視されていない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "公式戦ルールの不備が改正された例としては、1983年に千日手の規定が「同一手順を3回繰り返した場合」から「同一局面が4回現れた場合」に変更された例がある。旧規定では、千日手になることなく無限に指し続ける手順の存在が数学を用いて簡単に証明でき、実際に千日手模様の無限ではないが、かなり長手数の対局が見られたことから改正された。また、相入玉の将棋で、一方が持将棋の合意や投了を拒否した場合、詰みによる決着の見込みがないまま延々と指し続けることになりかねないため、入玉宣言法や500手指了ルールが暫定導入されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "将棋の対局は、大きく以下の3つの場面に分けて考えることができる。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ひとつの対局を序盤・中盤・終盤の三場面に分けると、各場面ごとに目標とすべきことや思案すべきことや決断すべきことがある。以下、各場面ごとの指し方を解説する。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "序盤戦は、攻撃・守備に適した駒組みを目指す段階である。将棋では長年の研究により効果的な駒組みのパターン(戦法)が数多く考案されており、それぞれの戦法について効果的な駒組みの手順(や分岐した手順)が研究され定跡が整備されている。序盤戦では戦法ごとの定跡をベースに、相手の駒組みを見ながらときには独自の工夫を加えて作戦勝ちを目指すことになる。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "基本のセオリーは、盤面を左・右に分け、どちらかで攻撃の陣形を構築し、反対側で守備の陣形を構築する。居飛車はおもに右側を攻撃に使い左側を守備に使う戦法、振り飛車はおもに左側を攻撃に使い右側を守備に使う戦法になる。守備面では、通常は、玉を飛車の位置とは反対側に移動させ、2枚の金および銀桂香歩など(の一部)を用いて玉の周囲を守る囲いを築く。攻撃面では、通常は、強力な駒である飛角を中心に、そこに囲いに使わなかった駒(銀桂香歩など)も絡め、敵陣突破を図る体制を築く。もっとも、これはあくまで基本のセオリーであり、このセオリーをあえて外す戦法も数多くある。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "将棋の初手は30通りあり、各初手について「ウィキブックス/将棋/定跡書」のページおよびそのリンク先に詳しい解説がある。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "プロ棋戦における初手は、角道を開ける▲7六歩が最も多く、飛車先の歩を突く▲2六歩がそれに次ぎ、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。近年3番目に採用率の多い初手は、先手ゴキゲン中飛車などで用いられる▲5六歩である。プロ棋士全体では(一年の)総対局数が約2300局あり、そのおよそ7割約1600局は初手▲7六歩と指している将棋で最も指されている初手となる。次いで約2割が▲2六歩、そして▲5六歩と続く。『イメージと読みの将棋観』(日本将棋連盟、2008)では2007年度統計で初手▲7六歩の出現率が78.5パーセントで先手勝率は5割2分7厘であるという。▲2六歩の出現率は17.3パーセントで勝率は5割4分6厘。初手▲5六歩の出現率は4.0パーセントで、勝率は5割3分2厘であるという。初手については見解も棋士ではさまざまで、羽生善治や佐藤康光、谷川浩司、渡辺明、森内俊之らは初手は▲7六歩か▲2六歩で、いずれも居飛車党なので、7六歩は矢倉もしくは角換わりでたまに振り飛車志向、2六歩は相掛かり志向としている。佐藤はゲン担ぎもあり、どちらかで負けたら違うほうにしているなどとしている。森内はその2手の他、▲3六歩や、▲1六歩と▲9六歩も1回ずつ指しており、いずれも勝利している。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "現在では初手7八飛戦法や4八飛、5八飛といった先に振り飛車を明示する指し方も多い。初手▲5八飛は森内が小学生時代に羽生相手に指し、すると羽生は△5二飛と指したことが知られている。また基本的に嬉野流は初手▲6八銀、英春流は初手▲4八銀である。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "羽生や谷川は両者とも先崎学に初手3六歩を試みられている。渡辺も初手▲3六歩を指したことがある他、藤井猛が初手▲6六歩を6局指しており、1勝4敗1戦千日手の戦績を残している。藤井によれば6六歩を指す意味は、相手が飛車先を伸ばさない居飛車戦法の場合▲7六歩の一手を省略でき、先手もその分他の手を先に指すことができるからだとしている。つまり早く△8六歩を突いて形を決めさせる意味があるという。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また中原誠が1983年の十段戦で加藤一二三に対し初手▲7八金を指している。この意味は先手居飛車党が振り飛車党相手に3手目に4八銀や6八玉として居飛車にしてこいというのと同様、後手に振り飛車にすると有利ですよと打診・挑発している意味もある。実戦では加藤は△8四歩とし、以下は普通の相掛かり戦となった。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお初手の最悪手については、羽生は初手の▲8六歩としており、加藤一二三は1八香を初手の最悪手としている。1八香は振り飛車であれば、飛車を振った後に穴熊を目指すことができるが居飛車党からすれば意味のない1手パスにしかならないとしている。ただし渡辺は初手はどの手を指してもそこまで悪くない、先手なので1手パスして後手になると思って指せばさほど影響はないとしている。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "駒組みが完成して駒がぶつかりあい始めるのが中盤戦の始まりである。中盤戦の攻撃面では相手の駒を取ったり、敵陣に切り込んでいくことを考え、終盤戦へ向けて持ち駒を増やして攻撃力を増すために相手の駒をとったり、敵陣を崩し敵陣内部に攻めの拠点を作ったりすることが目標となる。当然相手のほうも同様のことを考え目標としているので、防御面では相手に駒を取らせない、相手に自陣への侵入を許さないということも重要である。攻防どちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。駒のやりとりが生じるので、駒の損得の計算も重要になる(これについては#駒の損得(戦力差)の節で説明する)。中盤戦で役に立つことが多い駒、次に終盤戦に入った段階で役に立つ駒はどれか、ということも考慮しつつ駒のやりとりをする。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "なお、駒組みが未完成のままいきなり互いの玉に迫る激しい展開となることもあり、この場合は中盤戦がなく、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価される。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、特にプロやアマ高段者などの対局では、時として中盤で形勢に大差がついたために、一方が攻防共に見込みがないと判断して投了することもあり、この場合は終盤戦がなく、中盤戦で終局となったと評価される。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "どちらかの守りの陣が崩れ、玉の囲いも崩れ始めたころから終盤戦になる。 終盤戦は、勝利条件である詰みを目指して相手の玉に迫っていく。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "終盤戦では、以下のような概念が使われる。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "これらの概念を使って自玉と敵玉の状態を把握し、受けるべきか攻めるべきかなどを判断していくことになる。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "最後の詰みに至る手順を寄せという。(中盤戦では駒のやりとりの損得計算が重要だったが)寄せの段階では駒の損得計算はさほど重要ではなくなり、それよりも「詰むか詰まないか」が最重要となり、正確な読みの力が重要となる。相手の玉を詰むことができるかできないかを見極めることも重要であるし、また自玉が詰むか詰まないかを見極めることも重要である。(なお、寄せの読みの力は普段から詰将棋のトレーニングをすることで養うことができる。また詰将棋問題を自作することで「詰むか詰まないか」の感覚を一層磨くことができる)。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "王手には強制力があり、王手をかけた側は一応は一種の「先手」となり、王手をかけ続ける限りは(逆王手を除けば)自らが攻め続けることができる。だが実戦での寄せは、将棋の格言で「王手するより縛りと必至」「玉は包むように寄せよ」「王手は追う手」というように、敵玉が即詰みでない場合の安易な王手は、かえって敵玉を安全地帯に逃がして勝ちを逃してしまう結果を生むことのほうが多いので、むしろ相手の玉にじわじわと縛りをかけ、つまり相手玉の周囲のマス目に自分の駒を効かせて相手玉の動ける方向を制限してゆき必至を狙う方が勝利につながることが多いとされている。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "中盤戦で形勢に大差がつき片方だけが敵陣を切り崩しなおかつ持ち駒の種類も多い状態で終盤戦に入ったような場合は、終盤戦でもその勢いのまま優勢側が一方的に寄せてゆき、劣勢側は防戦で最善をつくしても防戦むなしく勝負がつくという展開が多い。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ただしそういう状況に陥ってしまったと劣勢側が気づいた場合は、そうはさせまじと、「一発逆転」を狙って、「狙うは相手玉のみ」とばかりに、持ち駒も守備に使うことは諦め攻撃のみに使う覚悟で、なりふりかまわずともかく相手玉とその周辺だけに集中して一気に攻撃をしかける場合もある。「一発逆転」などということは簡単にできるものではないが、それでも、そのまま生真面目に防戦ばかりしていては勝つ可能性は限りなくゼロに近いことが分かっているので、たとえ博打のような選択であるにしても、相手が「うっかりミス」などをしてくれて自分が勝てる可能性を残したほうがまだマシだ、という計算をしたうえでの作戦である。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "時には、互いに詰めろを掛けては受ける攻防を繰り返し、最終的にAがBの玉に必至をかけ、その瞬間にBがAの玉を即詰みにする手順を見つければBの勝ち、見つけられなければAの勝ちになる、といったきわどいゲーム展開になることもある。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "お互いに玉に迫りあっている場合では、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうことが多々ある。また詰めろや必至で敵玉に迫っていったとしても、そのときに自玉に詰めろがかかっていることを見落としていたり、あるいは相手が王手をかけてきたところで正しく対応していれば詰まなかったところを対応を誤ったりで、自玉が即詰みの筋に入ってしまってからではそれに気づいても手遅れである(このようなケースを「頓死(とんし)」という)。このように終盤戦は、1手のミスで勝敗がひっくり返ってしまうことも多い重要な局面である。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この他に、一方的に攻められている場合などでは、相手陣に玉が侵入する入玉を目指す方法もある。", "title": "場面ごとの戦い方" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "将棋の形勢とは、駒の損得や囲いや駒の働きなどを総合した有利不利の差のこと。形勢を指す語は次のように数多く存在しており、同程度の形勢を表す語であってもニュアンスが異なる。形勢の悪いほうから、", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "となる。この他に「形勢不明」というのもある。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "コンピュータ将棋では、形勢判断は評価値(形勢値)と呼ばれる数値で表す。それには得点方式とパーセンテージ方式があり、概ね次のような目安となる。 ただし、2023年のコンピュータ将棋大会で上位に入るソフト同士の対戦では評価値+300から逆転しない確率は約97%であるとされる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "序盤・中盤・終盤を問わず、指し手を決める際の基本は先読みと形勢判断である。まず、自分がこの手を指せば相手がどのように応じるか、それに対し自分はどのように応じるか、といった具合に先を読み、最終的に自分が有利になっているかどうか形勢を判断して、その手を指すかどうかを決めるのである。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "形勢判断の要素としては、一般的に", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "の4つが挙げられる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "将棋の駒は動けるマスに違いがあることから、それぞれ価値が異なる。玉将(王将)はゲームの勝利条件となる最終目標の駒であるから、当然最高の価値を持つ。その他の駒の価値は局面によって変わってくるが、おおむね価値のある順に飛角金銀桂香歩となる。このうち、特に価値の高い飛車と角行を大駒と呼び、大駒と比べて価値の低い金将・銀将・桂馬・香車・歩兵を小駒と呼ぶ。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "無条件で相手の駒を手に入れたり、自分の価値の低い駒と相手の価値の高い駒を交換したりすれば、局面を有利にできることが多い。このようにして、駒のやりとりで自分の戦力を上げたり相手の戦力を下げたりすることを駒得(こまどく)という。反対に相手に駒得をされることを駒損(こまぞん)という。駒得・駒損は形勢が有利か不利かを判断する上で、もっとも基本的な要素となる。特に相手の玉将を詰めるという目標がまだ見えていない序盤から中盤は、基本的に駒得を目指していくことになる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "自分の大駒1枚と相手の小駒2枚(または大駒と小駒1枚ずつ)の交換を行うことを、二枚替えという。駒得を図ったり、受け駒を一気に剥がしたりするための基本的な戦略の一つとなっている。例えば、角行1枚を相手に渡すかわりに金将と銀将を手に入れた場合、金銀2枚を得たメリットが角行を失ったデメリットを上回る。一方で飛車1枚の場合は、角行+銀将の2枚との交換で有利とされる。もっとも、終盤では相手に渡した大駒で詰まされる可能性があり、必ずしも二枚替えが有利となるわけではない。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "駒得・駒損の目安として、各駒の価値を点数化した表を用いて点数計算をする方法がある(なお、ここでいう点数計算は持将棋となった場合の判定のための点数計算とは無関係であるため注意)。コンピュータ将棋のソフトウェア(ソフト)では、各駒の点数を内部で計算したものを局面評価のためのベースとすることがある。また、駒の点数計算による駒得・駒損の評価は、もっとも基本的な価値判断の方法としてプロ棋士が執筆した将棋の入門書などでも解説されることが多い。ここでは、代表的なコンピュータ将棋ソフトとして世界コンピュータ将棋選手権で複数回の優勝経験があるPonanzaとBonanza、代表的な棋士として永世名人の資格保持者である羽生善治と谷川浩司の4者がつけた評価値のうち、それぞれ最新のものを掲載する。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "羽生方式や谷川方式に沿って計算する場合、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)すると、自分は6点+5点-10点=1点、相手は10点-(6点+5点)=-1点で、差し引き2点自分が得したことになる。また、自分の成香(香車の成り駒)と相手の金将を交換すると、自分は6点-6点=0点、相手は3点-6点=-3点で、差し引き3点だけ自分が得したことになる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "なお、上記における駒の価値はあくまでも目安であり、状況に応じて常に変化する。昇格(成り)に関しても、全ての駒において形式的な点数が上がってはいるが、局面によっては実質的に生駒の価値のほうが大きいとされる場合もある。特に利きの変化においてデメリットを伴う銀将(→成銀)・桂馬(→成桂)・香車(→成香)に関しては、昇格の判断が難しいとされる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "盤上の駒がその価値を発揮できるかどうかは、局面やその駒の位置によって大きく変わってくる。そこで、自分の駒がどの程度働いているかの判断基準を「駒の効率」と呼んで、形勢判断の一要素としている。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "例えば序盤において、左の香車と右の香車は先程の点数計算では同じ3点(羽生式や谷川式の場合)となる。しかし、もし玉将を左側に囲った場合、左の香車は玉将の守備を行う役割があることから、一般的に右の香車よりも価値が上がるとされる。また、例えば角交換となったあとで一方が盤上に角行を打ち込んだ場合、盤上に打たれた生駒状態の角行と未だに持ち駒状態の角行とでは、後者のほうが一般に価値が高い。なぜならば、後者の角行は隙あらば相手陣に打ち込んで竜馬にするチャンスもあり、相手側に対して打ち込みの隙を作ってはならないという制約を課す効果があるからである。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "この他に、持ち駒の歩兵が0枚から1枚に増えた場合と、1枚から2枚に増えた場合とを比べた場合、形式的な計算ではどちらも1点であるが、実質的には前者のほうが価値が大きいとされることが多い。これは、歩切れ(持ち駒の歩兵がない状態)は、何かと入り用になる歩兵を好きなタイミングで使うことができずに不利とされているためである。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の配置のことである。遠さ・堅さ・広さなどの要素で判断される。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "玉形が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。駒の損得で勝っている場合は穏やかな局面にすると良いのに対し、玉形で上回っている場合は激しい展開が望ましいとされる。駒損でも玉形の評価が良いとき、こちらは玉形を生かして激しく攻めまくり、相手は必死に耐えて反撃を狙ったりする。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響される。たとえば、矢倉囲いは上からの攻めに強い囲いであるため、互いに居飛車ならば堅いと評価されるが、相手が振り飛車ならば玉形の評価は悪くなる。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "一方的に攻め続けている状態のことを「手番を持つ」又は「先手をとる」と呼ぶ。極終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、主導権を得ることが重要となる。攻防に必要な駒さえあれば、全体的な駒の損得はほとんど形勢に影響しない。手番を得るために駒を捨てるということも行われる。これを表す格言として「終盤は駒の損得より速度」がある。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "また、戦略・戦術以前の問題として、そもそも対局において先手番が有利か否かという点が話題となることがある(ある局面での手番を意味する「先手」「後手」ではなく、一つの対局の最初の手を指す側か否かの「先手」「後手」)。", "title": "先読みと形勢判断" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるとみられているが、4人制チャトランガなのか2人制チャトランガなのか確定的な資料は見出されておらず論争がある。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー(象棋)、タイにはマークルック(マックルック)がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威づけのために創作された説であると考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "チャトランガ系のゲームがいつごろ日本に伝わったのかは明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。日本への伝来はいくつかの説があるが、木村義徳の6世紀から7世紀と、増川宏一の10から11世紀が激しく対立している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "系統も不明である。東南アジア系のゲームの伝来説では、マークルックとの類似性が19世紀末以降から一部指摘されており、その後、増川と大内延介がこれを広めた。ただしマークルックはビア以外は立体駒で、成立時期が12世紀までしか遡れていないという問題がある。逆に将棋がマークルックの成駒ルールに影響を与えたという説もある。また東南アジア説でも直接伝来は考えにくいため、最終的に増川は中国南岸において文字駒化したものが伝わったという説を提唱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "中国系のゲームの伝来説では、シャンチーと駒名の類似が認められるものの、置き方からルールまで差異が非常に激しいという問題がある。また、枝分かれする前の共通祖先の姿が立像なのか文字駒なのかも不明である(木村説では立像)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "いずれにしても当時の日本将棋に関する文献は皆無で、出土品も少なく、各説は想像の域を出ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "考古資料としての発掘は1980年代から相次いだ。現状、最古の駒は奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。ただし平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "最古期の駒が発掘されるのは寺院に多く、僧が関わっていたとみられるが、一方で正倉院に囲碁・双六はあっても将棋は無いことから貴族への普及はその後と推測され、日記に登場するのは平安後期である。平安時代の駒は近畿だけでなく全国から発掘されている。これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。15世紀から16世紀ごろ(室町時代)には小将棋から醉象が除かれて本将棋になったと考えられる。このころに「将棋を指す」という表現が定着したとされる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年 - 1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、前提として江戸時代には本将棋が普及しており、これらの将棋類はごく一部を除いて実際に指されることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "将棋の発展のうち特筆すべきものとして、「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用制度が考案されたことが挙げられる。もっとも、このルールがいつごろできたものかのかは分かっていない。現在、提唱されている説としてはおもに以下の3つがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "持ち駒ルールが生まれた理由もよく分かっていない。上述した駒の数の減少に伴うゲーム性低下を補うため、将棋の駒に色分けが無いためという説明が一般的になされる。また、や、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品を表していることから、将棋は戦争という殺し合いをテーマにしたゲームではなく、資産を取り合う貿易や商売をテーマにしたゲームという側面があり、相手から奪った資産は消滅するのではなく自分のものになるのが自然であるため、持ち駒使用ルールが生まれたのだとする考察もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "本将棋は上述の通り15世紀から16世紀(室町時代)ごろに小将棋から醉象を除き持ち駒の再使用ルールを加える形で成立していたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "17世紀初頭、1612年(慶長17年)ごろ、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂(大橋姓は没後)・加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ将棋所・碁所を名乗るようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "宗桂の後継者である大橋家・大橋分家・伊藤家の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が名人を称した。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "寛永年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合った。特に伊藤家の伊藤看寿の作品である『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。将棋を専業とする者たち(なお、そのほとんどは関東では家元三家の門下、関西では天野宗歩の門下で修行した者たちである)は、家元に対して自由に活動するようになり、名人位は彼らの協議によって決定する推挙制に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなかったといわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "大正時代のころの将棋界は有力棋士たちがそれぞれ連盟(派閥)をつくり、特定の新聞社と契約をして一門の経済状況を安定させていた。例えば大崎熊雄が師の井上義雄死去後に主宰した東京将棋研究会は当時の有力誌である国民新聞や地方紙と契約し隆盛していた。一方で土居市太郎は東京将棋同盟社、関根金次郎は東京将棋倶楽部を主宰していた。明治時代以降から棋士有力者が各派に分かれていくなかで、基本的に他流試合は行わないのがこのころの原則となっていた。しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の首領を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が報知新聞社主催で行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "これを縁として、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1935年に東京日日新聞および大阪毎日新聞主催の名人戦が始まり、戦争を挟みつつも将棋人気は拡大していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "現代の将棋は定跡が整備され、高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "各年度の将棋界の詳細は各項目に譲るが、1935年の名人戦を皮切りに8つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている(2018年現在)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の女流棋戦である女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された。2018年現在、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして始まった。1960年代の詰将棋プログラムを先駆けとし、1980年代にはゲームソフトが発売されるようになったが、複雑性ゆえ当時のハードウェアの性能では強さには限界があり、1989年のゲームボーイ用の将棋ソフトでは、AIのレベルによっては電池残量との戦いになるほどの長考が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "その後ハードウェアの性能向上にあわせて着実に強くなり、21世紀にはアマトップやプロと平手での本格対局が実施されるに至った。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、2017年にponanzaが当時の名人である佐藤天彦との対局に勝利し、コンピュータ将棋ソフトが名人超えをしたことが証明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "インターネットの普及を通じて盤駒を利用しなくとも対局ができるネット将棋が普及。それによって将棋センターは次々閉鎖されていったが、取って代わるように1996年ごろからJava将棋やザ・グレート将棋、将棋倶楽部24、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などのサイトが次々と登場した。2010年代には英語が公用語の国際サイト81Dojo、twitterと連動できるshogitter、カジュアルな作りで人気を伸ばした将棋ウォーズなどが登場した。2022年1月に変則将棋の1つフリーズ将棋も遊べるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "将棋がテレビなどで一般的に話題になった代表的なものでは、内藤國雄「おゆき」大ヒット(1976年)、谷川浩司史上最年少名人(1983年)、羽生世代の活躍(1980年代から平成初期)、中高年の星米長邦雄名人獲得(1993年)、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道、村山聖の早逝(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、コンピューター将棋ソフトBonanzaの躍進(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦によるプロとコンピューターの対決の配信(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)、将棋もの作品の流行(平成末期)、将棋ソフト不正使用疑惑(2016年)、藤井聡太の史上最年少デビューと無敗のままでの歴代連勝記録更新(2016年 - 2017年)、羽生善治の永世七冠達成(2017年)と国民栄誉賞授与(2018年)などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "将棋の対局放送は長丁場であることもあり一般的ではなく、長年NHK杯やNHK BSの特別番組、CS放送の専門チャンネルなどに限られていた。地上波民放で数少ない例としてテレビ東京主催の『早指し将棋選手権』があったが2003年に終了している。1995年頃の羽生フィーバーでは観戦するファン(観る将)の萌芽があったが、当時のインターネット環境では活かすことができなかった。2010年代になってから無料インターネット動画サイトを通じた配信が定着したことで、2017年からの藤井フィーバーに繋がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)による、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」。調査時期は発表年の前年。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2009年の急増は調査方法切り替えによる。なおデータは16歳から79歳までのため実際はより多いと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "2017年からの藤井フィーバーにより「観る将」は増加したが、競技人口である「指す将」は減少を続けており、大会参加者や道場へ通う子供も増えていないという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "国際将棋フォーラムなど、日本国外への普及も試みられている。ただし将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯で世界的にはチェスが普及しており、漢字が読める漢字圏でも既にシャンチー系のゲームが普及しているため、日本経由からも伝わった囲碁や、日本で商品化されたオセロが、白黒の石でゲームを行うこと、チャトランガ系ゲームとは異なり類似のものが無いなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的に小規模である(ガラパゴス化)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国では早く明代に倭寇対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。またアメリカ合衆国では1860年に万延元年遣米使節によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(オランダ語版)『チェス史の典拠研究』では将棋と中将棋が紹介されている。1966年トレバー・レゲット(英語版)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス (George F. Hodges) は将棋協会 (The Shogi Association, TSA) というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "非漢字圏や漢字が読めない子供向けの普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、GNU Shogiのもの、ChessVariantsのもの、Hidetchi国際駒(81Dojo)、おおきな森のどうぶつしょうぎなどがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "海外向け(日本在住者を除く)のアマ免状では、名人の署名もなく簡素な日本語で表記されており、間違いがないように名前は自分で記入ができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、駒の種類、動かし方、位置、成・不成を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかである。成り駒は + を前置することで表し、英語名称はPromoted Rook(+R、竜)、Promoted Silver(+S、成銀)のように頭にPromotedを付けて表すのが一般的である。位置は横の筋を将棋と同様右から左に1...9で、縦の段を上から下にa...iで表す。したがって「7六歩」は「P-7f」、「5五馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手をb (black)、後手をw (white) とする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "棋譜法にはいくつかの変種がある。イギリスの Shogi Foundation の出版物では、駒の位置を縦横とも数字で示している(「7六歩」は「P76」になる)。また、成り駒について、竜をD(Dragon)、馬をH(Horse)、と金をT(Tokin)で表す流儀もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "盤面の状態の総数は10程度と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、シャンチー(象棋)の10程度、チェスの10程度と比べて大きい値である。", "title": "将棋のゲームとしての特質" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "また、ゲーム木の複雑性は、10と見積もられる。これは、囲碁の10程度よりは小さいものの、チェッカーの10程度、リバーシの10程度、チェスの10程度、シャンチーの10程度よりも大きい値である。", "title": "将棋のゲームとしての特質" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "将棋棋士の羽生善治は、将棋はガラパゴス化で生まれたユニークな存在であり、比較的近いと思われるのはタイ将棋のマックルックだが、よく似ているとは言えないと述べた。", "title": "将棋のゲームとしての特質" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "囲碁用語と共通のものについては、囲碁が由来であるのか将棋が由来であるのかはっきりしない。辞書によっては囲碁が由来であるとされているので注意。", "title": "将棋用語に由来する慣用表現" } ]
将棋(しょうぎ)は、二人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べる本将棋(ほんしょうぎ、を指す。 チェスなどと同じく、古代インドのチャトランガが起源であると考えられている。本項では、主に本将棋について解説する。
{{Otheruseslist|日本将棋|朝鮮将棋|チャンギ}} {{将棋ヘッダ}} {{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム}} '''将棋'''(しょうぎ)は、二人で行う[[ボードゲーム]](盤上遊戯)の一種である。一般的に「将棋」という場合には、本項で述べる{{読み仮名|'''本将棋'''|ほんしょうぎ|古将棋や現代の変形将棋、変則将棋類などと区別するための名称}}を指す。 [[チェス]]などと同じく、[[古代インド]]の[[チャトランガ]]が起源であると考えられている<ref name="chiezo2006_pp999">{{Cite encyclopedia |encyclopedia=[[知恵蔵|朝日現代用語 知恵蔵2006]] |title=将棋の起源 |date=2006年1月1日 |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=4-02-390006-0 |pages=999-1000 }}</ref>。本項では、主に本将棋について解説する(古将棋および将棋に関連する遊戯については、[[将棋類の一覧]]を参照)。 == 総説 == チェスや[[シャンチー]]などと区別するため{{読み仮名|'''日本将棋'''|にほんしょうぎ}}ともいい、特に日本の「本将棋」には「[[持ち駒]]」の観念が古くからあることが特徴とされている。これは、諸外国のチェス類似の伝統的ゲームに例のない独特のルールである。[[クレージーハウス|持ち駒を利用したチェス派生のゲーム]]が考案されたのは後年のことである。 [[ゲーム理論]]の分類では、一般的には[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]であるとされる。ただし[[ステイルメイト]]や後述する千日手に関してルールの不備や曖昧さがあり、厳密には二人零和有限確定完全情報ゲームとは言えない。 現代の[[日本]]では特に本項で述べるいわゆる'''本将棋'''(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及している。また、[[はさみ将棋]]や[[まわり将棋]]など、本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり、'''[[変則将棋]]'''と総称される<ref name="shogiyougo-175・176"> 『日本将棋用語事典』 p.175-176 東京堂出版 2004年</ref>。 歴史的には「[[大将棋]]」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「[[中将棋]]」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「[[小将棋]]」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対比して「'''古将棋'''」と総称される<ref name="shogiyougo-129"> 『日本将棋用語事典』 p.129 東京堂出版 2004年</ref><ref name="shogiyougo-102"> 『日本将棋用語事典』 p.102 東京堂出版 2004年</ref>。また、現代でも中将棋などにはわずかではあるが愛好家が存在する。ほかに小将棋から派生したと推定される[[朝倉将棋]]が福井県を中心として残されており、おもに福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれている。 == ルール == 将棋は2人の競技者(対局者)によって行われる。ここでは便宜的に自分と相手と呼ぶことにする。 === 将棋盤と駒 === {| |{{Shogi diagram|tright| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |先手番から見た将棋盤 }} |[[ファイル:Shogi Koma Ryoko.jpg|サムネイル|{{center|成駒も含めた将棋の全種の駒。}}{{nowrap|(上段左から)龍・飛・王・玉・角・馬。}}<br/>{{nowrap|(下段左から)成香・香・成銀・銀・金・桂・成桂・歩・と金。}}]] |}{{clear}} * 将棋の対局には縦横9マスずつに区切られた[[将棋盤]]と[[駒 (将棋)|将棋駒]]を用いる。 * 対局者とは将棋盤を挟んで向かい合って対局することになるが、このとき将棋盤の自分側から3段目までのマスを'''自陣'''、相手側から3段目までのマスを'''敵陣'''と呼ぶ。 * 敵味方の区別は駒の向きで行われる。王将と玉将以外は敵味方共通の駒を用い、先の尖った独特の五角形で向きが存在し、一局を通じて自分の駒と相手の駒は常に向き合う方向に配置される。したがって、駒の向いている方向によって、その駒が現在自分と相手のどちらに属しているかが表される。ほかの将棋に類するゲーム(チェス、シャンチーなど)と違って、駒の色分けは無い。 **「持ち駒」のルールから、駒が敵味方どちらに属しているかは幾度も変わることとなる。 * 盤上の駒は一局を通じて常に1つのマスに入る(シャンチー・[[囲碁]]のように線の交点に配置されるわけではない)。 **1つのマスに複数の駒が存在したり、1つの駒が2つ以上のマスに同時に存在したりすることはない。 === 駒の種類 === * 将棋の駒は[[玉将]](玉)及び[[玉将|王将]](王)、[[飛車]](飛)、[[角行]](角)、[[金将]](金)、[[銀将]](銀)、[[桂馬]](桂)、[[香車]](香)、[[歩兵 (将棋)|歩兵]](歩)の8種類であり、それぞれ動ける範囲が決まっている。 * 一般的に一組の将棋駒には玉将と王将が1枚ずつ入って構成されている。慣例としては上位者が王将、下位者が玉将を用いる<ref name="shogiyougo-26・27"> 『日本将棋用語事典』 p.26-27 東京堂出版 2004年</ref>。ただし、2つとも玉将である「双玉」と呼ばれる場合もある<ref name="shogiyougo-56"> 『日本将棋用語事典』 p.56 東京堂出版 2004年</ref>。 **なお、駒の種類である玉将の「玉」、金将の「金」、銀将の「銀」はいずれも[[宝|宝物]]の意味であり<ref name="shogiyougo-56" />、本来は2つとも玉将で構成されている双玉であったと考えられている<ref name="shogiyougo-56" />。したがって、将棋で「王様」と呼ぶのは厳密には正しくないとされる<ref name="shogiyougo-56" />(一般的に棋譜の読み上げでも玉将と王将を区別せず「ぎょく」と読み上げる) **また、一般的に自分側の玉将(王将)のことを「自玉」、相手側の玉将(王将)のことは「相手玉」あるいは「敵玉」という。ただし、玉将(王将)に利きのかかる手は「王手」と言い、「玉手」と言うことは普通ない)。 * 将棋駒のうち、玉(王)と金以外の、飛、角、銀、桂、香、歩については敵陣内への移動・敵陣内での移動・敵陣内からの移動の際に成ること(後述)を選択することができ、これによって以下のように駒の動きが変化する(成りを選択した時点で駒を裏返す)。 * 将棋駒のうち一方向に向かって何マスでも進めることのできる飛車、竜(成った飛車)、角、馬(成った角)、香のことを総称して「'''走り駒'''」(跳び駒ともいう)という。 * 玉、王以外の大きな駒である飛車、角行はまとめて「大駒(おおごま)」と呼ばれ、金将、銀将をまとめて「金駒(かなごま)」と呼ぶことがある。それぞれ、戦術において似た役割の駒をまとめた言い方でもある。 * 「駒の利き」とは盤上にある各駒の効力が及んでいる範囲(機能している範囲)を言い、各駒が移動・攻撃できる範囲に相当する。 ==== 駒の動き ==== ;(駒の動きの注意事項) *盤上の駒を動かす際には、いかなる駒も、盤外の位置には移動できない。 *移動できる位置に自陣の駒がいる場合は、その位置には移動できない。 *移動できる位置に相手の駒がいる場合は、相手の駒を「持ち駒」として捕獲した上で、その位置に移動できる。 *走り駒(飛車、竜、角、馬、香)の進行方向に他の駒(自陣または相手の駒)がいる場合、そのマスから先には移動できない。 *走り駒の進行方向に自陣の駒がいる場合、その手前のマスまで移動できる。 *走り駒の進行方向に相手の駒がいる場合、相手の駒を「持ち駒」として捕獲した上で、そのマスまで移動できる。 {{将棋の駒の動きの凡例}} : {| class="wikitable" !元の駒 !colspan="2"|動き !成駒 !colspan="2"|動き |- |[[玉将]](ぎょくしょう)<br />- 玉(ぎょく)<br />王将(おうしょう)<br />- 王(おう)<br />{{2rows-brackets|盤上および棋譜では|どちらも「玉将・玉」|bracket1=【|bracket2=】| lineheight = 120% }}[[ファイル:Shogi_king.jpg|90px]]<br>【英語圏表記: K([[King]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''玉'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |} ||全方向に1マス動ける。||align="center" style="background-color:#EEE"|なし|| align="center" style="background-color:#EEE"|-||align="center" style="background-color:#EEE"|- |- |[[飛車]](ひしゃ)<br />飛(ひ)<br />《車(しゃ)》<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://dictionary.goo.ne.jp/jn/101315/meaning/m0u/ |title=しゃ【車】 の意味 |publisher=[[goo辞書]]([[デジタル大辞泉]]) |accessdate=2017-01-25}}</ref><br />[[ファイル:Shogi_rook.jpg|90px]]<br>【英語圏表記:R([[Rook]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#DFD"||||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|―||'''飛'''||style="background-color:#DFD"|― |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#DFD"||||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||縦横に何マスでも動ける。<br />駒を飛び越えてはいけない。 |[[竜王 (将棋の駒)|龍王]]・竜王(りゅうおう)<br />龍・竜(りゅう)<br />《王(おう)》<ref group="注">明治の頃までの呼び方だが、「王」では王将(玉将)と紛らわしいため、略称としては専ら「龍(竜)」が用いられるようになった。</ref><br />[[ファイル:Shogi_rook_p.jpg|90px]]<br>【 +R(Promoted Rook)/ D(Dragon)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||style="background-color:#DFD"||||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|―||'''龍'''||style="background-color:#DFD"|― |-style="height:1em;border:0px;" |○||style="background-color:#DFD"||||○ |} ||飛車と同じ動きに加えて斜めにも1マスだけ動ける。 |- |[[角行]](かくぎょう)<br />角(かく)<br />[[ファイル:Shogi bishop.jpg|90px]]<br>【英語圏表記: B([[:en:Bishop_(chess)|Bishop]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|\||style="background-color:#e2e2e2"|&nbsp;||style="background-color:#DFD"|/ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&nbsp;||'''角'''||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|/||style="background-color:#e2e2e2"|&nbsp;||style="background-color:#DFD"|\ |} ||斜めに何マスでも動ける。<br />駒を飛び越えてはいけない。 |[[竜馬|龍馬]]・竜馬(りゅうめ、りゅうま)<br />馬(うま)<br />[[ファイル:Shogi_bishop_p.jpg|90px]]<br>【 +B(Promoted Bishop)/ H(Horse)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|\||○||style="background-color:#DFD"|/ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''馬'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#DFD"|/||○||style="background-color:#DFD"|\ |} ||角行と同じ動きに加えて縦横にも1マスだけ動ける。 |- |[[金将]](きんしょう)<br />金(きん)<br />[[ファイル:Shogi_gold.jpg|90px]]<br>【英語圏表記:G([[Gold]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''金'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||斜め後ろ以外に1マス動ける。||align="center" style="background-color:#EEE"|なし|| align="center" style="background-color:#EEE"|-||align="center" style="background-color:#EEE"|- |- |[[銀将]](ぎんしょう)<br />銀(ぎん)<br />[[ファイル:Shogi_silver.jpg|90px]]<br>【英語圏表記:S([[Silver]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||'''銀'''||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○ |} ||前と斜めに1マス動ける。||成銀(なりぎん)<br />[[ファイル:Shogi_silver_p.jpg|90px]]<br />(代替表記の例:全)<br>【 +S(Promoted Silver)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''全'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||金将と同じ。 |- |[[桂馬]](けいま)<br />桂(けい)<br />[[ファイル:Shogi_knight.jpg|90px]]<br>【英語圏表記: N([[Knight]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |☆||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||☆ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||'''桂'''||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||前へ2、横へ1の位置に移動できる。別の駒が隣接している場合でも、飛び越えて移動できる。<br />{{0}}<br />※敵陣1-2段目への打ち桂は不可。 |成桂(なりけい)<br />[[ファイル:Shogi_knight_p.jpg|90px]]<br />(代替表記の例:圭、今)<br>【 +N(Promoted Knight)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''圭'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||金将と同じ。 |- |[[香車]](きょうしゃ、きょうす)<br />香(きょう)<br />[[ファイル:Shogi_lance.jpg|90px]]<br>【英語圏表記:L([[:en:Lance|Lance]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#DFD"||||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||'''香'''||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||前に何マスでも動ける。<br />駒を飛び越えてはいけない。<br />{{0}}<br />※敵陣1段目への打ち香は不可。 |成香(なりきょう)<br />[[ファイル:Shogi_lance_p.jpg|90px]]<br />(代替表記の例:杏、仝)<br>【 +L(Promoted Lance)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''杏'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||金将と同じ。 |- |[[歩兵 (将棋)|歩兵]](ふひょう)<br />歩(ふ)<br />《兵(ひょう)》<ref>明治期までの一部の書籍にある呼び方。</ref><br />[[ファイル:Shogi_pawn.jpg|90px]]<br>【英語圏表記: P([[:en:Pawn|Pawn]])】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||'''歩'''||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||前に1マス動ける。<br />{{0}}<br />※敵陣1段目への打ち歩は不可。<br />※二歩・打ち歩詰めの反則あり。 |と金(ときん)<br />と(と)<br />[[ファイル:Shogi_pawn_p.jpg|90px]]<br />(代替表記の例:个)<br>【 +P(Promoted Pawn)/ T(Tokin)】 | {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5" style="text-align:center;" |-style="height:1em;border:0px;" |○||○||○ |-style="height:1em;border:0px;" |○||'''と'''||○ |-style="height:1em;border:0px;" |style="background-color:#e2e2e2"|&emsp;||○||style="background-color:#e2e2e2"|&emsp; |} ||金将と同じ。 |- |colspan="6"|表中の駒の一文字による略称については、《》はかつて用いられたが、現在ではほとんど用いられない呼び方である。 |} 上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。実際の駒では成銀、成桂、成香、と金はすべて「金」と表記されているのが実際で、くずし方を変えることで成る前の駒がわかるようにしている。王将と玉将では役割が同一であっても、''先手が玉将''を持つことで後手と区別している働きが存在する。 === 対局の進行 === 将棋は対局者が相互に自らの駒を動かすことによってゲームが進められる。 * 対局において先に駒を動かし始める側の対局者を先手、そうでない側の対局者を後手という。 *将棋では一局を通じて'''先手と後手が交互に'''手番が巡り、自分の手番においては、盤上にある自分の駒のいずれか1つを一度動かす、あるいは、'''持ち駒'''(相手から取って自分の駒となった駒。後述)を1つ盤上に置く。自分の手番が終わると相手の手番となり、これを終局まで繰り返す。 **この手順における一回の動作(盤上の駒を動かす、または持ち駒を盤上に置く)を「'''一手'''」と呼び、動詞としては'''盤上の駒を動かす'''場合には「'''指す'''」、'''持ち駒を盤上に置く'''場合には「'''打つ'''」という<ref name=":0">[https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=378 第359回 将棋は「指す」で、碁は「打つ」ではなかったのか? - 日本語、どうでしょう?] - [[ジャパンナレッジ]]</ref>。一局を通して「指す」「打つ」といった対局者の'''駒の動き全般'''を「'''指し手'''」と呼ぶ。 **囲碁との混用で「将棋を打つ」という表現が使われることがある<ref name=":0" />。逆に囲碁において「囲碁を指す」という表現が使われることもある<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「囲碁を指す」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 |url=https://www.weblio.jp/content/%E5%9B%B2%E7%A2%81%E3%82%92%E6%8C%87%E3%81%99 |website=www.weblio.jp |access-date=2023-04-14}}</ref>。チェスなどの将棋類も日本語では「指す」と表現する<ref name=":1" />(なぜ「指す」という表現が使われるようになったのかは不明とされる<ref name=":0" />)。 ==== 駒の配置 ==== 将棋の対局において駒は対局者各20枚ずつの計40枚を用いる。対局者間の[[棋力]]の差によって[[将棋の手合割|手合割]](ハンデ)を考慮する必要もあり、対局者間の棋力の差がかなり大きい場合には駒落ち(棋力で上回る側に属する駒の一部を盤上から除外した状態での対局)となるが、基本的には駒を落さずに対局者各20枚ずつ対等に駒を持つ「'''平手'''(ひらて)」で指される(手合割の詳細については後述)。 平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。 {{Shogi diagram|tleft| |lg|ng|sg|gg|kg|gg|sg|ng|lg | |rg| | | | | |bg| |pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps | |bs| | | | | |rs| |ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls |平手戦の初期配置}} {{clear}} 上図のように盤面を図として表示する場合、下側が[[先手]]、上側が[[後手]]となる。先手から見て将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、…、9(筋)、縦方向に一、二、三、…、九(段)とマス目の位置を表す座標が決められており、先手番から見て右端の敵陣1段目の位置を「1一」、左端の自陣1段目の位置を「9九」と表す。[[棋譜]]はこの数字を用いて表現される<ref>新聞・本・雑誌などでは、筋を算用数字、段を漢数字で記載されるが、日本将棋連盟の棋譜記録の際は、段の位置も含めすべて算用数字で記載する。([https://www.shogi.or.jp/faq/kihuhyouki.html 棋譜の表記方法|よくある質問|日本将棋連盟]より)</ref>。また、先手は{{JIS2004フォント|☗}}([[Unicode]]文字参照U+2617、[[ファイル:Shogi_kifu_sente.png|14px]])、後手は{{JIS2004フォント|☖}}(U+2616、[[ファイル:Shogi_kifu_gote.png|14px]])で示すのが一般的だが、コンピューターでは[[JIS2004]]や[[Unicode]]登場前からの伝統的手法として先手は▲・後手は△で示すことも多い。 先手・後手は[[振り駒]]により決定する(プロのリーグ戦など事前に先手・後手が決定している場合もある)。 配置の順番は以下のように行われる。 #'''[[上座]]に座る人が[[駒箱]]または[[駒袋]]から駒を[[将棋盤|盤]]上に出す'''(このときは、一つ一つ取るのではなく逆さにして出すが、あまり散らばらないようにする)。 #'''上座の人が[[玉将|王将]]を所定の位置に置く。'''[[下座]]の人がこれに対して玉将を置く。たまに、双玉(どちらも玉将のこと)の駒も存在する。このときは上位者が書体が入った方をもち、下位者が作者の銘が入ったほうを持つ<ref name="shogiyougo-26・27"/>。 #ここからは原則として「'''大橋流'''」と「'''伊藤流'''」の2つに分かれる(「大橋」「伊藤」は[[江戸時代]]の将棋の[[家元]]で、一世名人の[[大橋宗桂 (初代)|大橋宗桂]]、三世名人の[[伊藤宗看 (初代)|伊藤宗看]]を祖としている)。 #大橋流または伊藤流のいずれにしても、上座の人、下座の人が交互に並べていく。 :*'''大橋流''':下の段優先で並べる。段が同じなら5筋に近い方が優先、それも同じなら左の方を優先する。 :*'''伊藤流''':伊藤流は、右桂を並べるまでは大橋流と同じだが、以下、左から順に歩を並べて、左香、右香、角、飛車となる。並べている途中で、走り駒である香車・角行・飛車が敵陣に直射しないように配慮した並べ方といわれている。 :下図の番号順に駒を並べる ::{| style="padding: 10px;" |- !大橋流!!伊藤流 |- |[[ファイル:Shogi ohashi ryu.png]]||[[ファイル:Shogi ito ryu.png]] |} 余り歩(通常、1枚か2枚歩が多く入っている)を、駒袋へ入れる(手合割の場合は、上手が落とす駒を盤上から除く)。 上座の人が駒袋または駒箱を盤の下に(足付きの場合)入れる。 *終局後 *:終局後は、上座の人が、玉、飛、角、金、銀、桂、香、歩の順に、正しい枚数があるか確認しながら駒箱または駒袋にしまう。 上記はあくまで作法であって並べる手順は基本的には自由であるが、多くのプロ棋士は伝統的に受け継がれてきた大橋流・伊藤流という二つの並べ方のどちらかを採用している。現在の主流は大橋流であり、およそ8割の棋士が採用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/column/2017/05/post_126.html |title=大橋流と伊藤流、これが一体何かわかりますか? 対局前に必ず行うあの方法をご紹介 |accessdate=2018-07-24 |author=佐藤友康 |date=2017-05-06 |work=将棋コラム |publisher=[[日本将棋連盟]]}}</ref>。伊藤流を採用している棋士は、[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]、[[窪田義行]]など。また独自の並べ方を採用する棋士としては[[熊坂学]]などが挙げられる<ref>[https://shogi1.com/tanakakaishu-koma-narabekata/ 駒の並べ方の常識が崩壊?大橋流、伊藤流、熊坂流どの流派とも違う田中魁秀九段の並べ方がとても自由な件] - 将棋ワンストップニュース・2015年7月5日</ref>。 ==== 手番における動作 ==== 自分の番('''手番''')が来たら、必ず盤上の自分の駒のいずれか1つを1回動かすか、持ち駒を1つだけ盤上に打たなければならない。二手続けて指したり(二手指し)、パスしたりすること(自分の駒をまったく移動せず、持ち駒も打たないこと)はできない。 ===== 盤上の駒の移動 ===== 盤上にある自分の駒は、その駒の種類に応じて[[#駒の動き|駒の動き]]に書かれている範囲内に存在するマスであれば、どこにでも移動させることができる。ただし、以下のような制限がある。 * 盤上に存在しないマスには移動できない。それぞれの駒の利きも盤上にあるマスの範囲に限られる。 * すでに自分の他のコマが存在するマスには移動できない。相手のコマが存在するマスに移動する場合、相手のコマは必ず自分の「持ち駒」として捕獲することになる。 * 桂馬以外の駒は、自分と相手どちらの他の駒も飛び越して移動することができない。 **飛、角、香などの走り駒は、他のコマの奥にあるマスに移動することもできない。すなわち走り駒の移動範囲と駒の利きは、盤の端のマス・相手の駒があるマス・自分のほかの駒から一つ手前…の中で最も近いマスが限界となる。 ** 桂馬は周囲マスの駒に関わらず、あくまで移動先となるマス(先述の[[#駒の動き|駒の動き]]を参照)に、自分の他のコマが存在していない状態であれば移動できる。 *玉将と相手の走り駒などとの位置関係により、自分の駒を移動させることによって自玉を相手駒の利きにさらすことになる場合には、後述する[[#反則行為|禁じ手]]に該当することとなり移動できない。 ===== 駒の成・不成の選択 ===== 前述のように盤上の相手側3段を'''敵陣'''と呼ぶが、玉(王)と金以外の駒(飛、角、銀、桂、香、歩)は移動前後のマスが敵陣内だった場合、「'''成る'''」か否かの選択によって'''[[成駒]]'''へと変化することができる。 *成駒は元の駒を裏返して配置することで表示される。 **銀、桂、香の駒の裏面には「金」の字が崩して書いてある(歩の裏面の「と」も、本来は「金」あるいは同音の「今」の字を崩したもの)が、もともとの駒の種類が分からなくならないように各駒の種類に応じて裏面の「金」の字体は異なる。 *成駒は移動可能な範囲が異なる。 **飛は[[竜王 (将棋の駒)|竜王]](竜)、角は[[竜馬]](馬)となり、それぞれ飛・角のもともとの駒の動きに加えて、全方向1マスの範囲にも動けるようになる。 **銀は[[銀将|成銀]]、桂は[[桂馬|成桂]]、香は[[香車|成香]]、歩は[[歩兵 (将棋)|と金]]となり、それらはすべて金と同様に扱われる。 ***と金と歩は区別される。すなわち、同じ縦の列に歩と成った歩(と金)が並んでも二歩(後述)にはならない。 *成りは強制ではなく、成らないこと(「'''不成'''(ならず・ふなり<ref group="注" name="narazu"> 「歩成り」との区別から「ならず」と呼ばれることがほとんどである。</ref>)」と称する)を選択することもできる。 **不成を選択した場合、それ以後は、敵陣に入るときだけでなく、敵陣の中で動くとき、敵陣から出るときそれぞれで、その都度、成るか成らないかを選択することができる。 **ただし、不成では駒がそれ以上動けなくなってしまう場合(歩兵や香車を敵陣の一番奥の段に移動させる場合、桂馬を相手側2段目以内に動かす場合)は、成りが強制される。 *成駒は相手に取られて相手の持ち駒となった時点で、成る前の状態に戻る。 *持ち駒を成った状態で打つこと(持ち駒を打つと同時に成ること)はできない。 *一度成駒にした駒は、盤上にある限り自分で元に戻すことはできない。 上述のように、成りは強制ではなく、成るか成らないかを選択することができる。特に銀、桂、香は、成ることによって移動できなくなるマスがあるため、不都合を生じることがある(例えば、銀が成ると斜め後ろに動かせなくなる)。そのため、これらの駒で成るか成らないかについて慎重な検討を要することもある。これに対して飛、角、歩は、成ると移動できるマスが単純に増加するのみの(駒の性能が上がる)ため、成りが選択されることがほとんどである。<br>ただし、ごくまれに、反則である打ち歩詰め(後述)になる局面を回避する、または逆に成ることによって自玉に詰みが生じる局面(大抵は、成ってしまうと自玉の打ち歩詰めが解消されてしまう局面)を回避するなどの理由で、あえて駒を成らない場合もある。 ===== 持ち駒の使用 ===== [[ファイル:Shogi.jpg|alt=Shogi game in progress|サムネイル|相手から取った駒は自分の持ち駒として再利用できる]] 持ち駒(自分の駒が移動した際に捕獲して得た駒)は一般的に盤の脇の[[駒台]]に置かれる。 持ち駒は自分の手番において盤上の駒を指す代わりに、合法手である(何らかの[[#反則行為|禁じ手や反則行為]]に該当しない)限りで任意の空きマスに打つことができる。 ただし、敵陣に持ち駒を打つ場合、成る前(将棋駒の表側)の状態で打たなければならない(持ち駒を打った手番のまま成ることはできない)。 ==== 持ち時間 ==== {{main|持ち時間#将棋}} プロの公式戦では[[持ち時間]]を定め、ストップウオッチまたは[[対局時計]](チェスクロック)を用い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。 公式戦では、[[名人戦 (将棋)|名人戦]]では9時間、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]では10分というように棋戦ごとに対局者それぞれの累計時間が決められており、その分を使い果たして以降は1手当たりの制限時間(30秒から1分)が課される「秒読み」が主である<!--ストップウォッチの場合は厳密に言えば違いますが、簡便のためこう書きました-->。プロの公式戦以外では持ち時間なしで最初から1手当たり○秒以内で指す対局も存在する他、一般的な対局では持ち時間がなくなった瞬間に負け(切れ負け)となる「指し切り」も普及している。 ==== 手合割 ==== {{Shogi diagram|tright| |lg|ng|sg|gg|kg|gg|sg|ng|lg | | | | | | | | | |pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg|pg | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps|ps | |bs| | | | | |rs| |ls|ns|ss|gs|ks|gs|ss|ns|ls |二枚落ちの初期配置}} {{main|将棋の手合割}} 対局者の[[棋力]]の差によっては[[ハンデキャップ]]付きの対局も行われる。棋力の差が非常に大きい場合、上位者が駒の一部を取り除いて(駒落ち)対局する。右図は「二枚落ち」と呼ばれる駒落ちの場合である。 駒落ち戦の場合には「先手」や「後手」ではなく、駒を欠いた上位者を'''上手'''(うわて)、そのままにした方を'''下手'''(したて)といい、上手を先攻として指し始める。 駒落ちにおいては棋力の差により、1枚ないし2枚の駒を落とすものから、[[飛車]]・[[角行]]に加え、[[金将]]・[[銀将]]・[[桂馬]]・[[香車]]まで落とす十枚落ちまでの手合割がある。特殊・あるいは極端なものとしては、上手が玉将1枚だけになる「裸玉」(19枚落ち)、上手が19枚落ち+持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち・銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。 === 勝敗の決め方 === 原則として互いに自らの駒で相手の玉将(王将)を捕獲することを目指す。しかし将棋は伝統的に「実際に王を取る」ことは忌避されたため、最も遅い場合でも一方の玉将(王将)が相手の駒に捕獲されてしまうことが不可避な状態([[詰み]])となった時点で勝敗が決まる他、どちらか一方が逆転不可能と判断した時点で投降することにより対局を終了する習慣になっている([[投了]])。 投了のタイミングは、ルール上は自分の手番であればいつ行ってもよいが、実際に投了する局面としては、自玉が詰まされることが確定的となったとき(自玉が即詰みになることが判明した場合、自玉に[[必至]]がかかり敵玉が詰まないとき)がまず挙げられ、相手の攻めを受け切れず、自玉が一手一手の寄り筋となった場合、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合も該当すると考えられる。このほか、自玉に具体的な詰み筋・寄り筋は見えなくても、到底勝ち目がないと判断して戦意喪失した場合、すなわち相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合(指し切り)や、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合、一方的に入玉されて敵玉が寄る見込みのない形になってしまったなどの場合に投了することもある。特にプロの公式戦では完全に詰むまで指すことはきわめて稀である。 原則的には詰みまたは投了によって勝敗が確定するが、勝敗の決し方には以下のようなものがある。 * どちらかの対局者が以下の状態になった場合には、その対局者の負けとなり、もう一方の対局者の勝ちとなる。 ** [[詰み]](自玉に[[王手]]がかかり、かつ王手放置が確定しており合法な指し手が存在しない)<ref group="注">将棋の通常の対局ではまず発生しないが、自玉に王手が掛かっていないのに合法な指し手が存在しない(チェスでいう[[ステイルメイト]])局面については、合法手がないため負けが確定している。但しその場合は詰みにはならないため、実際に負けとなるのは投了するか、持ち時間が切れるか、非合法手を打つ反則行為を行ったときである。[[コンピュータ将棋]]などでは、ステイルメイトは詰みと同様とすることが多い。</ref> ** [[投了]](勝利不可能と判断して負けを認めた) ** 時間切れ([[持ち時間]]中に手を指せなかった) ** [[#反則行為|反則行為]](反則を行ったことを指摘された) *** ルール違反(基本ルールに反する動作を行った) *** [[禁手|禁じ手]](ルールで禁止された手を指した) *** 連続[[王手]]の[[千日手]](相手玉への王手の連続によって千日手が成立した) ** 相[[入玉]]の点数不足(相入玉に対局者同士が合意し、点数計算で基準点数に満たない場合。「24点法」の場合は24点未満) ** 被[[入玉]]宣言(条件を満たした状態で対戦相手が入玉を宣言した) * 以下の状態になった場合には、引き分けとなる。 ** 連続王手以外の[[千日手]](連続王手以外で同一局面が4回現れた場合) ** [[持将棋]](相入玉に対局者同士が合意し、点数計算で両者ともに基準点数を満たす場合。「24点法」の場合は両者ともに24点以上) ==== 千日手 ==== 同一局面が4回現れた場合[[千日手]]となる。同一局面とは、「盤面・両者の持駒・手番」がすべて同一の場合のことをいう。千日手は原則として無勝負・指し直しだが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の負けである。これは、千日手が成立した手番に関係ないため、自身が指した手で千日手が成立して負けが決まることもあれば、相手が指した手で千日手が成立して負けが決まることもある。 通常の禁手のように、自分が指した手で負けが決まるとは限らないため、ルールでは「禁じられた手」ではなく「禁じられた局面」と表記している。連続王手の千日手は通常の禁手とは異なる特殊な規定のため、双方連続王手の千日手や[[最後の審判 (詰将棋)|最後の審判]](詰将棋作品)といった状況においてルールの不備が指摘されている。 ==== 持将棋 ==== 先後両者の玉(王)が互いに[[入玉]]し、互いの玉を詰ますことが困難になった場合、両者の合意の上で判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合を[[入玉|持将棋]]という。プロの公式戦においては「24点法」が用いられる。この場合、大駒1枚につき5点、小駒1枚につき1点として、互いに24点以上であれば引き分けとなる。アマチュアの大会の場合はそれぞれの規定による。一般に採用されることが多い「27点法」では、「24点法」と同様の点数計算を行ない、点数が多い方が勝ち、同点の場合は後手勝ちとしている。 ==== 反則行為 ==== 次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合ただちに負けとなる。対局中であれば、反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、終局前に反則が指摘された場合、反則した時点に戻して反則した側の負けとなる。対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘してもよい。 終局後に反則が判明した場合も、原則として反則をした側の負けとなる。たとえば、対局者が反則に気づかずに手を進め、反則された側が投了したとしても、反則を行った対局者の負けとして勝負結果が変更されることになる(棋戦の運営による例外の対応もあり。以前は投了優先であったが、2019年6月10日および同年10月1日に将棋連盟対局規定の一部変更が行われている<ref>[https://www.shogi.or.jp/faq/taikyoku-kitei.html 対局規定(抄録):日本将棋連盟]</ref>)。 * ルール違反 *: 以下の例を含む、基本ルールに反する行為。 ** 駒の初期配置を間違えたまま対局開始(角と飛を左右逆配置、駒を裏返したまま成り駒で配置等) **2手続けて指す('''二手指し''')、後手が誤って初手を指す **ルール上移動できない位置に駒を移動する(特に、角(馬)を遠い位置に移動させるときに間違えやすい) **駒を成れない状況で成ってしまう、玉や金を成ってしまう、成り駒を盤上で裏返し元の駒に戻す、成り駒を打つ(持ち駒を裏返して打つ) **持ち駒を駒台に乗せず手に隠し持つあるいは将棋盤や駒台の陰に置く('''隠し駒''')など。 **いったん着手した手を元に戻し、変える行為('''待った''')も基本的には即負けである。駒から手を離した時点で着手が完了となるため、いったん駒を動かしても手を離さなければ、その時点では元に戻して別の手を指してかまわない。<br>仲間同士の気楽な対局や駒落ちなど指導を目的とする対局の場合は、例外的に「待った」は許可される場合もあるが、多くの人は「待った」をマナー違反とみなすため、注意が必要である。 * 禁じ手 *: 基本ルールには反していないが、特別に禁止されている手のこと。 ** 連続王手の千日手 **: 連続王手での千日手は王手している側が指し手を変更しなければならないが、これを行わずに千日手が成立してしまった場合。千日手が成立した時点で反則になるため、対戦相手が指した手によって反則が確定する場合もある。 ** [[二歩]] **: 歩兵を2枚以上同じ縦の列に配置することはできない。ただし、なった歩兵(と金)は何枚同じ列にあっても構わない。 ** [[行き所のない駒]]の禁止 **: 盤上の駒を行き先のない(動けない)状態にしてはいけない。味方の駒に進路を塞がれて一時的に動けない場合はこれにあたらない。 **: 打つ場合、不成で進む場合ともに敵陣1、2段目の桂馬、1段目の香車・歩兵は配置してはいけない。したがって盤上の桂馬・香車・歩兵がその場所に進む場合は強制的に成らなければならない。 ** [[打ち歩詰め]] **: 持ち駒の歩を打つことで、直接、相手の王を詰ませてはいけない。 **:ただし、歩による王手が詰め手順の最終手でなければ、歩を打つことによる王手そのものは反則ではない。したがって、歩を打って王手をかけたのちの連続王手で最終的に「詰み」が成立することは問題がない。 ***ただし、最後に盤上の歩を突いて玉を詰ます'''突き歩詰め'''は反則ではない。 ** 自玉を相手駒の利きにさらす手(王手放置) **: 自らの着手の後、自らの王が[[王手]]のかかった状態にあってはいけない。すなわち、 **# 相手に王手された場合は、次の手番で直ちに王手を回避しなければならない。 **# 王を相手の駒の利きに移動してはならない。 **# 王以外の駒を移動させた結果、王が相手の駒(香車、飛車(龍王)、角行(龍馬))の利きにさらされるようにしてはならない。 **:(ただし自らの着手が相手の王をとってしまう場合には、それでゲームは終了となるので、盤面で自らの王が[[王手]]のかかった状態になっても構わない) プロの棋戦で発生した反則は、記録に残っているもので回数が多い順に下記のとおり(2018年10月20日現在)<ref name="反則集計回数">{{Cite news|title=ツィート|date=2018-10-20|author=[[毎日新聞]]・将棋|url=https://twitter.com/mainichi_shogi/status/1053475663535996929|accessdate=2018-10-21|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181021201858/https:/twitter.com/mainichi_shogi/status/1053475663535996929|archivedate=2018-10-21|work=[[Twitter]]}}</ref>。プロの棋戦において、打ち歩詰め・行き所のない駒によって反則負けになった例は現時点では1例もない。 {| class="wikitable" style="margin-left:2em;" |+ style="text-align:left;"|'''プロの棋戦で発生した反則''' |- !1位 |二歩||86回||{{small|(2018年10月20日時点)<ref name="反則集計回数">{{Cite news|title=ツィート|date=2018-10-20|author=[[毎日新聞]]・将棋|url=https://twitter.com/mainichi_shogi/status/1053475663535996929|accessdate=2018-10-21|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181021201858/https:/twitter.com/mainichi_shogi/status/1053475663535996929|archivedate=2018-10-21|work=[[Twitter]]}}</ref>{{Refnest|group="注"|name="二歩"|左記以外に判明している「二歩」として、[[第81期順位戦]](2022年度)B級2組8回戦の[[中村修_(棋士)|中村修]]九段 - [[村山慈明]]七段戦で二歩による中村九段の反則負けの事例がある。}}}} |- !2位 |二手指し||28回||{{small|(2018年10月20日時点)<ref name="反則集計回数" />}} |- !3位 |ルール違反の手を指す{{Efn2|角や馬・桂馬などが可動位置以外に移動する(筋違い)、飛・角・香車などが他の駒を飛び越える、成れない状況で駒を成る、持ち駒を成駒で打つ、など。}}||25回||{{small|(2018年10月20日時点)<ref name="反則集計回数" />{{Efn2|name="ルール違反の指し手2018-1018"}}}} |- !4位 |王手放置、自らの王を相手の駒の利きにさらす||14回||{{small|(2018年10月20日時点)<ref name="反則集計回数" />{{Refnest|group="注"|name="王手放置"|王手放置の例として明らかにされているのが、{{リスト|[[橋本崇載]]五段-[[増田裕司]]五段の対局(2006年2月22日、第56回NHK杯予選、段位は当時)で、橋本の王手に対して増田が王手を受けずに王手をかけ直し、王手放置による増田の反則となった<ref>以下の記事中の記述による。{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/shougi/open24/060223.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20060224170049/http://www.asahi.com/shougi/open24/060223.html |title=asahi.com :第24回朝日オープン 本戦トーナメント - 将棋 |date=2006-2-23 |access-date=2006-2-23 |archive-date=2006-2-24}}「昨日関西でおこなわれた増田五段―橋本五段戦、終盤で橋本五段が王手をかけたのに対して、増田五段がそれを受けずに王手をかけ返すという椿事が起こった。もちろん「王手放置」の反則で、橋本五段の勝ち。」</ref>。|[[竹部さゆり]]-[[早水千紗]]戦(2012年9月14日、女流名人位戦)、早水の反則負け[https://www.shogi.or.jp/game/result/201209.html (参照)]。}}}}}} |- !5位 |後手が初手を指す||{{0}}7回||{{small|(2022年12月22日時点){{Efn2|name="後手初手指し2022-1222"}}}} |- !6位 |連続王手の千日手||{{0}}2回||{{small|(2018年10月20日時点)<ref name="反則集計回数" />}} |} プロ{{Efn2|[[棋士 (将棋)|棋士]]・[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]・[[新進棋士奨励会|奨励会員]]。}}が行ってしまった「ルール違反の手」として、下記のような事例がある。 * 持ち駒を、成り駒の状態で打った(一字駒の「成銀」を「金」と見間違えた。[[島朗#人物|参考]])。 * 駒を飛び越える位置に角を動かした<ref>{{Cite web|和書|url=http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9400.html|title=石橋幸緒女流王位がタイトル戦で角による豪快な「反則手」で勝局がふいになる|work=[[田丸昇]]公式ブログ と金 横歩き|date=2009-10-19|accessdate=2013-06-19}}</ref>{{Efn2|name="ルール違反の指し手2018-1018"|「ルール違反の指し手」の直近の例は2018年10月18日の[[第77期順位戦]]B級1組▲[[橋本崇載]]八段-[[菅井竜也]]七段戦における菅井七段の反則負けで、同様の反則は記録上25回目。<ref>{{Cite web|和書|title=トップ棋士が「角のワープ」で反則負け 109手目の痛恨ミス(松本博文) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20181018-00100991|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2021-01-04|language=ja}}</ref>。}}。 * 自分が取った駒を相手の駒台に乗せた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/shougi/open25/honsen_05/04.html|title=伝説の事件 - 第25回朝日オープン将棋選手権本戦第5局|work=[[朝日新聞|asahi.com]]|date=2007-01-09|accessdate=2013-08-13}}</ref>。 * 盤上から駒台に移ってしまった香車を持ち駒として使用した(服の袖が当たったことが原因である。[[関根紀代子#反則負け|参考]]){{Efn2|公式戦「JT杯日本シリーズ」に合わせて行なわれる「テーブルマークこども大会」決勝戦でも同様の反則が生じた事例がある。和装の対局者の袖が盤上の香車を駒台に動かしてしまい、その香車を盤上に打ち反則負けとなった<ref>[https://web.archive.org/web/20211121061608/http://live.shogi.or.jp/tablemark/kifu/2021/tablemark202111210101.html 2021年11月21日 東京大会低学年の部【web.archive.orgのアーカイブ】]</ref>。}}。 * 相手の駒を取ったあと、別の場所に駒を動かした(8八の王将で7八の相手の馬を取ろうとして、馬を駒台に移したあと王将を8七に移動させた。棋譜上は馬を取らずに王を8七へ指した王手放置となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=Aq51BgAAQBAJ&pg=PA55&lpg=PA55&dq=&source=bl&ots=&sig=&hl=ja&sa=X&ved=#v=onepage&q&f=false|title=将棋世界2015年3月号「関西本部棋士室24時」|accessdate=2021-12-21|author=池田将之|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211221011556/https://books.google.co.jp/books?id=Aq51BgAAQBAJ&pg=PA55&lpg=PA55&dq=&source=bl&ots=&sig=&hl=ja&sa=X&ved=#v=onepage&q&f=false |archivedate=2021-12-21 |}}</ref>。[[糸谷哲郎#対局関連|参考]])。 * いったん不成で敵陣に置いたように見えた駒を持ち直し、成りに変えた。対局はそのまま継続されたが、テレビ放送後の視聴者の抗議を受け、「待った」であるとされた<ref group="注">対局者の「着手が30秒を超えており、考慮時間が消費されるべきである」との抗議で考慮時間が1回分消費されたが、対局時には反則であるという指摘はされなかった。テレビ放送後の視聴者からの抗議を受けて理事会で協議を行い、反則であるとされ次年度の銀河戦への出場停止などの処分が決定した(参考:[https://web.archive.org/web/20051103025811/http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2005-06-2.html 加藤一二三九段、第14期銀河戦出場停止に](日本将棋連盟からのお知らせ))。</ref>。 * 後手番が自身は先手と思い込み初手を指したことで、開始直後に反則負けとなった{{Efn2|name="後手初手指し2022-1222"|後手による「初手指し」の直近の例は2022年12月22日の[[第81期順位戦]]B級1組▲[[近藤誠也]]七段-△[[千田翔太]]七段戦で、後手の千田七段が「初手△8四歩」と指して反則負けとなっている。後手による「初手指し」は記録上7度目の反則<ref>{{Cite web|和書|title=プロ棋士が初手で反則負け、将棋順位戦で波乱…後手番の千田七段「思い込んで準備進めていた」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/20221222-OYT1T50094/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-12-22 |access-date=2022-12-22 |language=ja}}</ref>。ひとつ前の事例は、2011年1月の[[第61期王将戦]]▲[[植山悦行]]七段-△[[金沢孝史]]五段戦で、後手の金沢五段が「初手△3四歩」と指して反則負けとなっている[https://www.shogi.or.jp/game/result/201101.html (参照)]。順位戦での同様の反則はほかに、2007年7月17日の[[第66期順位戦]]C級2組▲[[東和男]]七段-△[[有吉道夫]]九段戦で、後手の有吉九段が「初手△3四歩」と指して反則負けとなっている[https://www.shogi.or.jp/game/result/200707.html (参照)]。女流棋戦での例では、[[2007年]][[4月24日]]に行われた[[第15期大山名人杯倉敷藤花戦|第15期倉敷藤花戦]]2回戦▲[[甲斐智美]]女流二段-△[[関根紀代子]]女流四段で、後手の関根が誤って初手を指して反則負けとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20221222-00329536 |title=後手番なのに1手目を指してしまい反則負け 千田翔太七段(28)B級1組順位戦で痛恨のうっかり(松本博文) - 個人 - Yahoo!ニュース |date=2022-12-22 |access-date=2022-12-22}}</ref>。}}。 なお、「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と誤認する者も多いが、そのようなルールは存在しない<ref group="注">日本将棋連盟でも、[https://www.shogi.or.jp/faq/index.html よくあるご質問]にて、同じ指摘を行っている。なお、将棋とは異なり、チェスでは王手(チェック)をかける場合、強制ではないが慣習的に「チェック」と口頭で告げるべきとされている([[王手#チェスの王手(チェック)]]参照)。</ref>。これは、本来「''自分で気づかなければいけない''」とされているためである{{Efn2|NHK[[Eテレ]]『[[将棋フォーカス]]』2017年10月22日・放送分でも解説されている。}}。そのような王手の発声は、指導対局や[[縁台将棋]]、初心者同士の対局などで慣習的に行われる場合があるに過ぎず、プロの公式戦などで行われることは皆無である。 ==== 公式戦ルールの不備 ==== 打ち歩によって、連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態を作った場合、[[打ち歩詰め]]に該当するのか否かが不明である。連続王手の千日手でしか王手を解除できない状態は詰みとみなすのかどうかに依存し、現行ルールではどちらの解釈も可能である。公式戦での前例は存在しないとされるが、「[[最後の審判 (詰将棋)|最後の審判]]」という[[詰将棋]]の問題において、発生する可能性が指摘されている。 この他に、歩を打った後の局面が「[[ステイルメイト]]」状態(次に動かせる駒が反則手以外にない局面)になった場合に、「打ち歩詰めの反則規定」に該当するのかについて、「一方が玉以外に盤上の駒や持ち駒がない」などの極端な勢力差にならない限り局面が出現せず、プロの実戦上は相当前の段階で投了による決着となるため、特に正式な見解は出されていない。また、両者が連続王手で千日手となった場合については定義されていないが、いまだ局面や手順として再現できておらず、公式戦でも前例が存在しないがゆえ、特に問題視されていない。 公式戦ルールの不備が改正された例としては、[[1983年]]に千日手の規定が「同一手順を3回繰り返した場合」から「同一局面が4回現れた場合」に変更された例がある。旧規定では、千日手になることなく無限に指し続ける手順の存在が数学を用いて簡単に証明でき、実際に千日手模様の無限ではないが、かなり長手数の対局が見られたことから改正された。また、相入玉の将棋で、一方が持将棋の合意や投了を拒否した場合、詰みによる決着の見込みがないまま延々と指し続けることになりかねないため、[[入玉#「入玉宣言法」による持将棋|入玉宣言法]]や[[入玉#500手指了による持将棋|500手指了ルール]]が暫定導入されている。 == 場面ごとの戦い方 == {{main|将棋の戦法|将棋の戦法一覧|将棋の格言}} 将棋の対局は、大きく以下の3つの場面に分けて考えることができる。 ; 序盤 : 初手から、駒組みが完成して駒がぶつかり合うまで ; 中盤 : 駒組みが完成して駒がぶつかり合ってから、どちらかの玉の囲いが崩れ始めるまで ; 終盤 : どちらかの玉の囲いが崩れ始めてから、終局まで ::※ただし、序盤・中盤・終盤の境目というのは突き詰めて言えば曖昧であり、ここに記載した線引き法はあくまで目安である。 ひとつの対局を序盤・中盤・終盤の三場面に分けると、各場面ごとに目標とすべきことや思案すべきことや決断すべきことがある。以下、各場面ごとの指し方を解説する。 === 序盤戦 === 序盤戦は、攻撃・守備に適した駒組みを目指す段階である。将棋では長年の研究により効果的な駒組みのパターン('''戦法''')が数多く考案されており、それぞれの戦法について効果的な駒組みの手順(や分岐した手順)が研究され'''[[定石|定跡]]'''が整備されている。序盤戦では戦法ごとの定跡をベースに、相手の駒組みを見ながらときには独自の工夫を加えて作戦勝ちを目指すことになる。 基本のセオリーは、盤面を左・右に分け、どちらかで攻撃の陣形を構築し、反対側で守備の陣形を構築する。'''[[居飛車]]'''はおもに右側を攻撃に使い左側を守備に使う戦法、'''[[振り飛車]]'''はおもに左側を攻撃に使い右側を守備に使う戦法になる。守備面では、通常は、玉を飛車の位置とは反対側に移動させ、2枚の金および銀桂香歩など(の一部)を用いて玉の周囲を守る'''[[囲い]]'''を築く。攻撃面では、通常は、強力な駒である飛角を中心に、そこに囲いに使わなかった駒(銀桂香歩など)も絡め、敵陣突破を図る体制を築く。もっとも、これはあくまで基本のセオリーであり、このセオリーをあえて外す戦法も数多くある。 <u>将棋の初手は30通り</u>あり、各初手について「[[b:将棋#定跡書|ウィキブックス/将棋/定跡書]]」のページおよびそのリンク先に詳しい解説がある。 {{Wikibooks|将棋/▲7六歩}}{{Wikibooks|将棋/▲2六歩}}{{Wikibooks|将棋/▲5六歩}} プロ棋戦における初手は、角道を開ける▲7六歩が最も多く、飛車先の歩を突く▲2六歩がそれに次ぎ、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。<!-- プロの場合、近年までは▲7六歩の方がかなり多かったが、近年は▲2六歩が急増している。それでも▲2六歩の採用率が▲7六歩の採用率を上回るまでには至っていない。しかし、新しい指し方の研究も進んでいて、▲7六歩や▲2六歩以外の初手についても、これら二大初手と比較すると採用率は圧倒的に少ないものの、いろいろと試みられている。[要出典] -->近年<!--▲7六歩と▲2六歩に次いで-->3番目に採用率の多い初手は、先手ゴキゲン中飛車などで用いられる▲5六歩である。プロ棋士全体では(一年の)総対局数が約2300局あり、そのおよそ7割約1600局は初手▲7六歩と指している将棋で最も指されている初手となる。次いで約2割が▲2六歩、そして▲5六歩と続く。『イメージと読みの将棋観』(日本将棋連盟、2008)では2007年度統計で初手▲7六歩の出現率が78.5パーセントで先手勝率は5割2分7厘であるという。▲2六歩の出現率は17.3パーセントで勝率は5割4分6厘。初手▲5六歩の出現率は4.0パーセントで、勝率は5割3分2厘であるという。初手については見解も棋士ではさまざまで、[[羽生善治]]や[[佐藤康光]]、[[谷川浩司]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]、[[森内俊之]]らは初手は▲7六歩か▲2六歩で、いずれも居飛車党なので、7六歩は矢倉もしくは角換わりでたまに振り飛車志向、2六歩は相掛かり志向としている。佐藤はゲン担ぎもあり、どちらかで負けたら違うほうにしているなどとしている。森内はその2手の他、▲3六歩や、▲1六歩と▲9六歩も1回ずつ指しており、いずれも勝利している。 現在では[[角交換振り飛車#初手7八飛(△3二飛)角交換型|初手7八飛戦法]]や[[b:将棋#▲4八飛|4八飛]]、5八飛といった先に振り飛車を明示する指し方も多い。[[b:将棋#▲5八飛|初手▲5八飛]]は森内が小学生時代に羽生相手に指し、すると羽生は△5二飛と指したことが知られている。また基本的に[[嬉野流]]は[[b:将棋#▲6八飛|初手▲6八銀]]、[[英春流]]は[[b:将棋#▲4八飛|初手▲4八銀]]である。 羽生や谷川は両者とも[[先崎学]]に[[b:将棋#▲3六歩|初手3六歩]]を試みられている。渡辺も初手▲3六歩を指したことがある他、藤井猛が[[b:将棋#▲6六歩|初手▲6六歩]]を6局指しており、1勝4敗1戦千日手の戦績を残している。藤井によれば6六歩を指す意味は、相手が飛車先を伸ばさない居飛車戦法の場合▲7六歩の一手を省略でき、先手もその分他の手を先に指すことができるからだとしている。つまり早く△8六歩を突いて形を決めさせる意味があるという。 また[[中原誠]]が1983年の[[十段戦 (将棋)|十段戦]]で加藤一二三に対し[[b:将棋#▲7八金|初手▲7八金]]を指している。この意味は先手居飛車党が振り飛車党相手に3手目に4八銀や6八玉として居飛車にしてこいというのと同様、後手に振り飛車にすると有利ですよと打診・挑発している意味もある。実戦では加藤は△8四歩とし、以下は普通の相掛かり戦となった。 なお初手の最悪手については、羽生は初手の▲8六歩としており、[[加藤一二三]]は1八香を初手の最悪手としている。1八香は振り飛車であれば、飛車を振った後に[[穴熊囲い|穴熊]]を目指すことができるが居飛車党からすれば意味のない1手パスにしかならないとしている。ただし渡辺は初手はどの手を指してもそこまで悪くない、先手なので1手パスして後手になると思って指せばさほど影響はないとしている。 === 中盤戦 === 駒組みが完成して駒がぶつかりあい始めるのが中盤戦の始まりである。中盤戦の攻撃面では相手の駒を取ったり、敵陣に切り込んでいくことを考え、終盤戦へ向けて持ち駒を増やして攻撃力を増すために相手の駒をとったり、敵陣を崩し敵陣内部に攻めの拠点を作ったりすることが目標となる。当然相手のほうも同様のことを考え目標としているので、防御面では相手に駒を取らせない、相手に自陣への侵入を許さないということも重要である。攻防どちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。駒のやりとりが生じるので、駒の損得の計算も重要になる(これについては[[#駒の損得(戦力差)]]の節で説明する)。中盤戦で役に立つことが多い駒、次に終盤戦に入った段階で役に立つ駒はどれか、ということも考慮しつつ駒のやりとりをする。 なお、駒組みが未完成のままいきなり互いの玉に迫る激しい展開となることもあり、この場合は中盤戦がなく、序盤戦から急に終盤戦に入ったと評価される。 また、特にプロやアマ高段者などの対局では、時として中盤で形勢に大差がついたために、一方が攻防共に見込みがないと判断して投了することもあり、この場合は終盤戦がなく、中盤戦で終局となったと評価される。 === 終盤戦 === どちらかの守りの陣が崩れ、玉の囲いも崩れ始めたころから終盤戦になる。 終盤戦は、勝利条件である[[詰み]]を目指して相手の玉に迫っていく。 終盤戦では、以下のような概念が使われる。 * [[王手]]:Bが'''受けなければ'''次のターンでAがBの玉を取れる状態。ルール上、Bは何らかの方法で受けなければ負けとなる。 * 逆王手:Aにかかっている王手を受けると同時に、Bに王手をかけること。 * 詰むや詰まざるや:終盤は持ち時間も足りなくなるので、自玉や敵玉が自分も相手もすぐに詰みとわかる状態以外は、実際に王手を進めてみないと分からない状態。 * 一手前の受け:次に王手や詰めろ、必死を掛けられる前に一手先に防御の手を指しておく。 * 玉の早逃げ:詰まされる前、詰めろを掛けられる前に先に玉を逃がしておく。 * 顔面受け:玉将自身を直接相手の攻撃に対しての受け駒として使うこと。 * 粘り:終盤詰めろや、隙きを突いて攻めてくる相手に対し、とにかく受けの手を指して相手のミスを誘ってチャンスをうかがうこと。 * 一手隙き:攻められてもあと一手余裕がある状態。この間に相手を詰ませれば勝ちになる。 * 攻防の一手:一手前の受けや早逃げなど防御用の手であるとともに、攻撃の手にもなっている。飛車や角打ちなどで生じることが多い。 * [[詰み]]:Bが'''どのように受けても'''次のターンでAがBの玉を取れる状態。ルール上、Bは投了しなければならない。 * 即詰み:Bが'''どのように受けても'''王手の連続で詰みまで到達できる状態。この状態になれば、Aが間違えない限り詰みと同様となる。 * [[詰めろ]]:Bが'''受けなければ'''次のターンで即詰みになる状態。Bは何らかの方法で受けるか、この瞬間にAの玉を即詰みにしなければ負けてしまう。 * 詰めろ逃れの詰めろ:Aにかかっている詰めろを受けると同時に、Bに詰めろをかけること。 * [[必至]]:Bが'''どのように受けても'''次のターンで即詰みになる状態。Bはこの瞬間にAの玉を即詰みにしない限り負けてしまう。 * 一手一手の寄り:Bが'''どのように受けても'''王手または詰めろの連続で必至まで到達できる状態。この状態になれば、Aが間違えない限り必至と同様となる。 * ゼット:Aが'''持ち駒を何枚持っていたとしても'''絶対にBの玉が即詰みにならない状態。 これらの概念を使って自玉と敵玉の状態を把握し、受けるべきか攻めるべきかなどを判断していくことになる。 最後の詰みに至る手順を'''寄せ'''という。(中盤戦では駒のやりとりの損得計算が重要だったが)寄せの段階では駒の損得計算はさほど重要ではなくなり、それよりも「詰むか詰まないか」が最重要となり、正確な読みの力が重要となる。相手の玉を詰むことができるかできないかを見極めることも重要であるし、また自玉が詰むか詰まないかを見極めることも重要である。(なお、寄せの読みの力は普段から[[詰将棋]]のトレーニングをすることで養うことができる。また詰将棋問題を自作することで「詰むか詰まないか」の感覚を一層磨くことができる)。 [[王手]]には強制力があり、王手をかけた側は一応は一種の「先手」となり、王手をかけ続ける限りは(逆王手を除けば)自らが攻め続けることができる。だが実戦での寄せは、[[将棋の格言]]で「王手するより縛りと必至」「玉は包むように寄せよ」「王手は追う手」というように、敵玉が即詰みでない場合の安易な王手は、かえって敵玉を安全地帯に逃がして勝ちを逃してしまう結果を生むことのほうが多いので、むしろ相手の玉にじわじわと縛りをかけ、つまり相手玉の周囲のマス目に自分の駒を効かせて相手玉の動ける方向を制限してゆき[[必至]]を狙う方が勝利につながることが多いとされている。 中盤戦で形勢に大差がつき片方だけが敵陣を切り崩しなおかつ持ち駒の種類も多い状態で終盤戦に入ったような場合は、終盤戦でもその勢いのまま優勢側が一方的に寄せてゆき、劣勢側は防戦で最善をつくしても防戦むなしく勝負がつくという展開が多い。 ただしそういう状況に陥ってしまったと劣勢側が気づいた場合は、そうはさせまじと、「一発逆転」を狙って、「狙うは相手玉のみ」とばかりに、持ち駒も守備に使うことは諦め攻撃のみに使う覚悟で、なりふりかまわずともかく相手玉とその周辺だけに集中して一気に攻撃をしかける場合もある。「一発逆転」などということは簡単にできるものではないが、それでも、そのまま生真面目に防戦ばかりしていては勝つ可能性は限りなくゼロに近いことが分かっているので、たとえ博打のような選択であるにしても、相手が「うっかりミス」などをしてくれて自分が勝てる可能性を残したほうがまだマシだ、という計算をしたうえでの作戦である。 時には、互いに詰めろを掛けては受ける攻防を繰り返し、最終的にAがBの玉に必至をかけ、その瞬間にBがAの玉を即詰みにする手順を見つければBの勝ち、見つけられなければAの勝ちになる、といったきわどいゲーム展開になることもある。 お互いに玉に迫りあっている場合では、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうことが多々ある。また詰めろや必至で敵玉に迫っていったとしても、そのときに自玉に詰めろがかかっていることを見落としていたり、あるいは相手が王手をかけてきたところで正しく対応していれば詰まなかったところを対応を誤ったりで、自玉が即詰みの筋に入ってしまってからではそれに気づいても手遅れである(このようなケースを「頓死(とんし)」という)。このように終盤戦は、1手のミスで勝敗がひっくり返ってしまうことも多い重要な局面である。 この他に、一方的に攻められている場合などでは、相手陣に玉が侵入する[[入玉]]を目指す方法もある。 == 先読みと形勢判断 == 将棋の形勢とは、駒の損得や囲いや駒の働きなどを総合した有利不利の差のこと。形勢を指す語は次のように数多く存在しており、同程度の形勢を表す語であってもニュアンスが異なる。形勢の悪いほうから、 * 「必敗/投了級」 * 「敗勢/ほぼ負け/非常に苦しい」 * 「劣勢/不調/厳しい」 * 「不利/苦戦/悪い」 * 「不満/指しにくい/つまらない/やや悪い」 * 「互角/五分/難解/これから」 * 「有望/指しやすい/指せる/持ちたい/不満なし/やや良し」 * 「有利/十分/満足/良し」 * 「優勢/好調/大成功」 * 「勝勢/あと一歩」 * 「必勝」 となる。この他に「形勢不明」というのもある。 [[コンピュータ将棋]]では、形勢判断は評価値(形勢値)と呼ばれる数値で表す。それには得点方式とパーセンテージ方式があり、概ね次のような目安となる。 ただし、2023年のコンピュータ将棋大会で上位に入るソフト同士の対戦では評価値+300から逆転しない確率は約97%であるとされる<ref>{{Cite web||url=https://yaneuraou.yaneu.com/2023/06/03/the-kakugawari-is-over/|title=角換りは終わったのかについて1万文字程度で|publisher=[[やねうら王]]|date=2023-06-03|accessdate=2023-12-10}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 評価値(形勢値)の目安 |- ! 形勢 ! 得点方式 !! パーセンテージ方式 |- ! 完全に互角 | 0点 || 50% |- ! ほぼ互角 | 絶対値300点以内 || 45-55% |- ! 指しやすい(指しにくい) | 絶対値300-500点 || 55-60%(45-40%) |- ! 有利(不利) | 絶対値500-1000点 || 60-75%(40-25%) |- ! 優勢(劣勢) | 絶対値1000-2000点 || 75-90%(25-10%) |- ! 勝勢(敗勢) | 絶対値2000点以上 || 90%以上(10%以下) |- ! 事実上勝敗が決している状態<ref group="注">具体的には、即詰み、必至、一手一手の寄りの読み切りなど。この表現はソフトによってまちまちであり、表には表現例を示す。ソフトによっては例えば最も下の例ように即詰みと必至(あるいは一手一手の寄りなどの読み切り)を区別している例もある。</ref> |・絶対値が表現できる最大値(例えば「9999」「50000」「99999」など<ref group="注">画面上絶対値「∞」と表示することもある。</ref>)<br />・「[[チェックメイト|Mate]]:XX」(XXは完全に詰むまでの手数)<ref group="注">この表示はあくまで「双方が最善を尽くした場合XX手で詰みに至る」というだけのことであり、必ずしも即詰みや必至を表しているとは限らない。この場合内部的には「99999」等の表現できる最大値から完全に詰むまでの手数を引いた値となるほか、またその値が直接表示されることもある。</ref><br />・即詰み「99999」、必至等「50000」 || 99%(1%) |- ! その他特殊な場合 | ・「-1」(千日手が最善と判断した場合。一部ソフトでの例)<br />・絶対値「31111」([[やねうら王]]における優等局面)|| |} 序盤・中盤・終盤を問わず、指し手を決める際の基本は先読みと形勢判断である。まず、自分がこの手を指せば相手がどのように応じるか、それに対し自分はどのように応じるか、といった具合に先を読み、最終的に自分が有利になっているかどうか形勢を判断して、その手を指すかどうかを決めるのである。 形勢判断の要素としては、一般的に * 駒の損得(戦力差) * 駒の効率(駒の働き) * 玉形(玉の安全度) * 手番(主導権) の4つが挙げられる。 === 駒の損得(戦力差) === {{Main|大駒・小駒}} 将棋の駒は動けるマスに違いがあることから、それぞれ価値が異なる。[[玉将|玉将(王将)]]はゲームの勝利条件となる最終目標の駒であるから、当然最高の価値を持つ。その他の駒の価値は局面によって変わってくるが、おおむね価値のある順に飛角金銀桂香歩となる。このうち、特に価値の高い飛車と角行を'''大駒'''と呼び、大駒と比べて価値の低い金将・銀将・桂馬・香車・歩兵を'''小駒'''と呼ぶ。 無条件で相手の駒を手に入れたり、自分の価値の低い駒と相手の価値の高い駒を交換したりすれば、局面を有利にできることが多い。このようにして、駒のやりとりで自分の戦力を上げたり相手の戦力を下げたりすることを'''駒得'''(こまどく)という。反対に相手に駒得をされることを'''駒損'''(こまぞん)という。駒得・駒損は形勢が有利か不利かを判断する上で、もっとも基本的な要素となる。特に相手の玉将を詰めるという目標がまだ見えていない序盤から中盤は、基本的に駒得を目指していくことになる。 自分の大駒1枚と相手の小駒2枚(または大駒と小駒1枚ずつ)の交換を行うことを、'''二枚替え'''という。駒得を図ったり、受け駒を一気に剥がしたりするための基本的な戦略の一つとなっている。例えば、角行1枚を相手に渡すかわりに金将と銀将を手に入れた場合、金銀2枚を得たメリットが角行を失ったデメリットを上回る。一方で飛車1枚の場合は、角行+銀将の2枚との交換で有利とされる。もっとも、終盤では相手に渡した大駒で詰まされる可能性があり、必ずしも二枚替えが有利となるわけではない。 駒得・駒損の目安として、各駒の価値を点数化した表を用いて点数計算をする方法がある(なお、ここでいう点数計算は[[持将棋]]となった場合の判定のための点数計算とは無関係であるため注意)。コンピュータ将棋のソフトウェア(ソフト)では、各駒の点数を内部で計算したものを局面評価のためのベースとすることがある。また、駒の点数計算による駒得・駒損の評価は、もっとも基本的な価値判断の方法としてプロ棋士が執筆した将棋の入門書などでも解説されることが多い。ここでは、代表的なコンピュータ将棋ソフトとして[[世界コンピュータ将棋選手権]]で複数回の優勝経験がある[[Ponanza]]<ref>[http://ascii.jp/elem/000/001/263/1263060/ ASCII.jp]で公開されているPonanza電王戦バージョン(2016年)の駒の価値。</ref>と[[Bonanza]]<ref>[https://web.archive.org/web/20110725134532/http://www.geocities.jp/bonanza_shogi/ Bonanza]で公開されているBonanza 6.0(2011年)の駒の価値。</ref><ref group="注">なお、コンピュータのつけた評価値は、内部の計算に用いるために大きな値(飛車1枚で1000点前後になるなど)となっているため、1%程度に縮小して棋士のつけた評価値とスケールを合わせている。</ref>、代表的な棋士として永世名人の資格保持者である[[羽生善治]]<ref>{{Cite |和書 |author = 羽生善治 |title = 羽生善治の将棋入門 |date = 2015 |publisher = 河出書房新社 }}</ref>と[[谷川浩司]]<ref>{{Cite |和書 |author = 谷川浩司 |title = 谷川浩司の本筋を見極める |date = 2007 |publisher = NHK出版 }}</ref>の4者がつけた評価値のうち、それぞれ最新のもの<ref group="注">同じソフト・棋士でも、徐々に改良を重ねているため、本やバージョンによって数値は異なる。例えば、谷川浩司は過去の著書(谷川浩司 『将棋に勝つ考え方』 池田書店、1982年)では、歩兵=1点、香車=5点、桂馬=6点、銀将=8点、金将=9点、角行=13点、飛車=15点、と金=12点、成香=10点、成桂=10点、成銀=9点、龍馬=15点、龍王=17点としていたことがある。</ref>を掲載する<ref group="注">玉将(王将)については他のいかなる駒よりも常に価値が高いので、点数は「付けられない」あるいは「∞点」と表現される。ただ、コンピュータ将棋などでは便宜的に全40枚のうち玉将2枚を除いた38枚(金将以外全て成っている状態)の点数の総計より、十分大きい有限の点数が設定されることがある。</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 代表的なソフト・棋士による将棋の駒の評価 |- ! 駒 ! Ponanza !! Bonanza !! 羽生善治 !! 谷川浩司 |- ! 歩兵 | 0.9 || 1.2 || 1 || 1 |- ! 香車 | 3.2 || 3.2 || 3 || 3 |- ! 桂馬 | 4.1 || 3.6 || 4 || 4 |- ! 銀将 | 5.2 || 5.1 || 5 || 5 |- ! 金将 | 5.5 || 6.2 || 6 || 6 |- ! 角行 | 9.3 || 7.9 || 9 || 8 |- ! 飛車 | 10.6 || 8.9 || 10 || 10 |- ! | || || || |- ! と金 | 5.9 || 7.4 || 8 || 7 |- ! 成香 | 5.5 || 6.8 || 6 || 6 |- ! 成桂 | 5.6 || 7.1 || 6 || 6 |- ! 成銀 | 5.7 || 6.9 || 6 || 6 |- ! 竜馬 | 10.8 || 11.5 || 13 || 10 |- ! 竜王 | 15.2 || 13.2 || 15 || 12 |} 羽生方式や谷川方式に沿って計算する場合、自分の飛車を相手の金将・銀将の2枚と交換(二枚替え)すると、自分は6点+5点-10点=1点、相手は10点-(6点+5点)=-1点で、差し引き2点自分が得したことになる。また、自分の成香(香車の成り駒)と相手の金将を交換すると、自分は6点-6点=0点、相手は3点-6点=-3点で、差し引き3点だけ自分が得したことになる。 なお、上記における駒の価値はあくまでも目安であり、状況に応じて常に変化する。昇格(成り)に関しても、全ての駒において形式的な点数が上がってはいるが、局面によっては実質的に生駒の価値のほうが大きいとされる場合もある。特に利きの変化においてデメリットを伴う銀将(→成銀)・桂馬(→成桂)・香車(→成香)に関しては、昇格の判断が難しいとされる。 === 駒の効率(駒の働き) === 盤上の駒がその価値を発揮できるかどうかは、局面やその駒の位置によって大きく変わってくる。そこで、自分の駒が'''どの程度働いているか'''の判断基準を「駒の効率」と呼んで、形勢判断の一要素としている。 例えば序盤において、左の香車と右の香車は先程の点数計算では同じ3点(羽生式や谷川式の場合)となる。しかし、もし玉将を左側に囲った場合、左の香車は玉将の守備を行う役割があることから、一般的に右の香車よりも価値が上がるとされる。また、例えば角交換となったあとで一方が盤上に角行を打ち込んだ場合、盤上に打たれた生駒状態の角行と未だに持ち駒状態の角行とでは、後者のほうが一般に価値が高い。なぜならば、後者の角行は隙あらば相手陣に打ち込んで竜馬にするチャンスもあり、相手側に対して打ち込みの隙を作ってはならないという制約を課す効果があるからである。 この他に、持ち駒の歩兵が0枚から1枚に増えた場合と、1枚から2枚に増えた場合とを比べた場合、形式的な計算ではどちらも1点であるが、実質的には前者のほうが価値が大きいとされることが多い。これは、歩切れ(持ち駒の歩兵がない状態)は、何かと入り用になる歩兵を好きなタイミングで使うことができずに不利とされているためである。 === 玉形(玉の安全度) === 玉形とは、玉将(王将)の位置とその周りの駒の配置のことである。遠さ・堅さ・広さなどの要素で判断される。 ; 遠さ : 基本的に、玉は戦場から遠いほど良いとされる。たとえば対抗型ならば、互いの飛車のいる側が戦場となるため、玉は反対側に行けば行くほど安泰になる。また、玉が端に寄れば、端にある桂馬や香車などを守りに使いやすくなるという効果もある。ただし、端にいることで逃げる場所が少なくなるという短所もあるため、一概に端にいれば安全というわけではない。 ; 堅さ : 玉の周りを金や銀などで覆った守りの陣形を'''囲い'''(かこい)と呼ぶ。囲いは、駒の枚数が多いほど堅くなる。また、駒の位置関係によっても変わってくる。たとえば金銀が連結(相互に利きを及ぼしている状態)していると、相手に取られても自身の駒で取り返すことができるため、崩されにくい囲いとなる。 ; 広さ : 広さは玉の逃げ場所の多さである。囲いが突破されたとしても、逃げ場所が多ければ詰むまでの間に時間稼ぎをしたり、相手に駒をたくさん使わせたりすることができる。そのため、自玉が詰まされる前に相手玉を詰ませることができる場合がある。 玉形が良いか悪いは勝敗に大きく関わってくる。駒の損得で勝っている場合は穏やかな局面にすると良いのに対し、玉形で上回っている場合は激しい展開が望ましいとされる。駒損でも玉形の評価が良いとき、こちらは玉形を生かして激しく攻めまくり、相手は必死に耐えて反撃を狙ったりする。 なお、玉形の良し悪しは相手の攻めの形に大きく影響される。たとえば、[[矢倉囲い]]は上からの攻めに強い囲いであるため、互いに居飛車ならば堅いと評価されるが、相手が振り飛車ならば玉形の評価は悪くなる。 === 手番(主導権) === 一方的に攻め続けている状態のことを「手番を持つ」又は「先手をとる」と呼ぶ。極終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、主導権を得ることが重要となる。攻防に必要な駒さえあれば、全体的な駒の損得はほとんど形勢に影響しない。手番を得るために駒を捨てるということも行われる。これを表す格言として「終盤は駒の損得より速度」がある。 {{main|将棋界#将棋は先手が有利か}} また、戦略・戦術以前の問題として、そもそも対局において先手番が有利か否かという点が話題となることがある(ある局面での手番を意味する「先手」「後手」ではなく、一つの対局の最初の手を指す側か否かの「先手」「後手」)。 == 歴史 == {{未検証|section=1|date=2007年7月}} === 古将棋 === ==== 日本への伝来 ==== {{see also|チェスの歴史|増川宏一#将棋の南方伝来ルート論}} 将棋の起源は、古代[[インド]]の[[チャトランガ]](シャトランガ)であるとみられているが<ref name="chiezo2006_pp999"/>、4人制チャトランガなのか2人制チャトランガなのか確定的な資料は見出されておらず論争がある{{Sfn|木村(2004)}}。[[ユーラシア大陸]]の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋には[[チェス]]、[[中華人民共和国|中国]]には[[シャンチー]](象棋)、[[タイ王国|タイ]]には[[マークルック]](マックルック)がある。 伝説としては、将棋は[[北周|周]]の[[武帝 (北周)|武帝]]が作った<ref>{{harv|増川(2003)}}では、明治時代初めに書かれた{{harv|将棋絹篩}}の序文などに見られるが、宋代の『太平御覧』にあるものをそのまま引き写したのだろうとしている(88ページ)。が、増川説に対しては、{{harv|木村(2004)}}で、武帝説の起源は初唐の数種の史料に遡る点等を指摘し、批判している。</ref>、[[吉備真備]]が[[唐]]に渡来したときに将棋を伝えた<ref>増川の同書(88 - 89ページ)に、1690年の『人倫訓蒙図彙』、1746年の『本朝俗諺誌』、1755年の『象棋百番奇巧図式序』などに記述があると指摘している。</ref>などといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威づけのために創作された説であると考えられている。 チャトランガ系のゲームがいつごろ日本に伝わったのかは明らかになっていない。[[囲碁]]の碁盤が[[正倉院]]の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が[[奈良時代]]前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。日本への伝来はいくつかの説があるが、[[木村義徳]]の6世紀から7世紀と、[[増川宏一]]の10から11世紀が激しく対立している<ref>{{Cite book|和書|author=木村義徳|authorlink=木村義徳|title=持駒使用の謎|year=2001|publisher=日本将棋連盟|isbn= 4-8197-0067-7}}</ref><ref>[[木村義徳]]「[https://www.andrew.ac.jp/soken/assets/wr/sokenk152_1.pdf 将棋の日本到着時期を巡って]」</ref>。 系統も不明である。東南アジア系のゲームの伝来説では、マークルックとの類似性が19世紀末以降から一部指摘されており、その後、増川と[[大内延介]]がこれを広めた<ref>将棋棋士の[[大内延介]]は、著書『将棋の来た道』(めこん(文庫本は小学館)、ISBN 978-4-8396-0032-7)でマークルックを指した経験から、将棋との類似を指摘し、将棋の源流ではないかと主張している。</ref><ref name="banjo"/>。ただしマークルックはビア以外は立体駒で、成立時期が12世紀までしか遡れていないという問題がある。逆に将棋がマークルックの成駒ルールに影響を与えたという説もある<ref>清水康二「[https://www.nakayama-zaidan.or.jp/report/h25/h25-B-07.pdf タイのマックルック駒の調査による日本将棋の起源に関する研究]」</ref>。また東南アジア説でも直接伝来は考えにくいため、最終的に増川は中国南岸において文字駒化したものが伝わったという説を提唱した<ref name="banjo"/>。 中国系のゲームの伝来説では、シャンチーと駒名の類似が認められるものの、置き方からルールまで差異が非常に激しいという問題がある。また、枝分かれする前の共通祖先の姿が立像なのか文字駒なのかも不明である(木村説では立像)<ref name="shomin">{{Cite journal|和書|author=清水康二 |title=「庶民の遊戯である将棋」考 : 将棋伝来問題の定説化を目指して |journal=考古學論攷 : 橿原考古学研究所紀要 |ISSN=02879271 |publisher=奈良県立橿原考古学研究所 |year=2014 |volume=37 |pages=47-59 |id={{CRID|1520009408247791360}} |url=https://www.academia.edu/6582918/_庶民の遊戯である将棋_考}}</ref><ref name="banjo">{{Cite thesis|author=清水康二 |title=東アジア盤上遊戯史研究 |url=https://hdl.handle.net/10291/19711 |volume=明治大学 |type=博士(史学) 乙第532号 |year=2017 |naid=500001084865}}</ref>。 いずれにしても当時の日本将棋に関する文献は皆無で、出土品も少なく、各説は想像の域を出ない。 <!-- 最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。一方、6世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国の[[シャンチー]]([[中国]][[象棋]])と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされるが、アラビアなど古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、[[平安時代]]に入ってからの伝来であったとする説がある。インドからアラビアを経て、中国の[[シャンチー]]が朝鮮半島から日本に伝わったというものである。しかし[[平安時代]]には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きく異なる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒(コーン)があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの[[中継貿易]]は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代の[[シャンチー]]の成立時期は平安時代より遅く、また現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている<ref group="注">前述の増川宏一らが、東南アジア伝来説を主張している。</ref>。--> ==== 平安将棋 ==== 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に著された『[[麒麟抄]]』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。[[藤原明衡]](ふじわらのあきひら)の著とされる『[[新猿楽記]]』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。 [[考古資料]]としての発掘は1980年代から相次いだ<ref name="shomin"/>。現状、最古の駒は[[奈良県]]の[[興福寺]]境内から発掘された駒16点で<ref>増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、ISBN 4-08-720019-1)、12 - 15ページ。出土資料そのものについては『木簡研究』16号(1994年)、「奈良・興福寺旧境内」(26ページ)参照。</ref><ref>三宅 弘「[http://shiga-bunkazai.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/08/5e49ab3475d4aae4ccb5e0e4fc056d51.pdf 将棋史研究ノート9―飛車と角行の登場―]」滋賀県文化財保護協会</ref>、同時に[[天喜]]6年(1058年)と書かれた[[木簡]]が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。 [[三善為康]]によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『[[二中歴]]』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では[[平安将棋]](または平安小将棋)および[[平安大将棋]]と呼ばれている<ref group="注">「平安将棋」の呼び名は、関西[[将棋会館]]にあった将棋博物館でも採用している([https://www.shogi.or.jp/history/story/ 将棋史年表]。このページでは[[木村義徳]]の説に従っている)。</ref>。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には[[持ち駒]]の概念がなかったことがうかがえる。ただし平安将棋は持ち駒使用になっていたとする[[木村義徳]]の説もある。 最古期の駒が発掘されるのは寺院に多く、僧が関わっていたとみられるが<ref>{{Cite journal|和書|author=[[古作登]] |url=http://id.nii.ac.jp/1297/00000014/ |title=平安時代の「酔象」駒発見から日本将棋の進化過程を推察するー将棋は仏教寺院で仏典を参考に改良が進められたー |journal=大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 |ISSN=1881-1949 |publisher=大阪商業大学アミューズメント産業研究所 |year=2014 |volume=16 |pages=141-166 |id={{CRID|1050001201665721984}} |ref=harv}}</ref>、一方で正倉院に囲碁・[[すごろく#盤双六|双六]]はあっても将棋は無いことから貴族への普及はその後と推測され、日記に登場するのは平安後期である<ref name="banjo"/>。平安時代の駒は近畿だけでなく全国から発掘されている<ref name="shomin"/>。これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある[[玉将]]・[[金将]]・[[銀将]]・[[桂馬]]・[[香車]]・[[歩兵 (将棋)|歩兵]]と平安大将棋のみにある[[銅将]]・[[鐵将|鉄将]]・[[横行]]・[[猛虎 (将棋)|猛虎]]・[[飛龍 (将棋)|飛龍]]・[[反車|奔車]]・[[仲人 (将棋)|注人]]である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に[[仏教]]の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある<ref>『遊戯史研究』6号(1994年)、清水康二「将棋伝来についての一試論」(12ページ)。これを紹介したサイトが日本[[中将棋]]連盟の[http://www.chushogi-renmei.com/koramu/koramu09.htm 古典将棋コラム九 日本将棋と仏教観]にある。</ref>。 古将棋においては桂馬の動きは、[[チャトランガ]](インド)、[[シャンチー]](中国象棋)、[[チェス]]と同様に[[八方桂]]であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために[[八方桂]]から二方桂に動きが制限されたといわれている。 ==== 将棋の発展(種類) ==== これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。 13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした[[大将棋]]が遊ばれるようになり、大将棋の[[飛車]]・[[角行]]・[[醉象]]を平安将棋に取り入れた[[小将棋]]も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した[[中将棋]]が考案され、現在に至っている。15世紀から16世紀ごろ([[室町時代]])には[[小将棋]]から醉象が除かれて'''本将棋'''になったと考えられる<ref>[https://www.shogi.or.jp/history/story/ 日本将棋連盟「日本将棋の歴史」内「画期的な駒の再使用ルール」]を参照。</ref>。このころに「将棋を指す」という表現が定着したとされる<ref name=":0" />。[[元禄]]年間の1696年に出版された『[[諸象戯図式]]』によると、[[天文 (元号)|天文]]年中(1532年 - 1555年)に[[後奈良天皇]]が[[日野晴光]]と[[伊勢貞孝]]に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない<ref>大内延介の『将棋の来た道』(小学館文庫版、ISBN 4-09-416541-X)に、大橋家文書に含まれていた碑文から同様の記述が見つかり、記述の信憑性が高まったと指摘している(35ページ)。</ref>。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。 16世紀後半の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]のものとされる[[一乗谷朝倉氏遺跡]]から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ[[醉象]]の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。 [[ファイル:Brooklyn Museum - Two Boys Playing Shogi with a Third Observer.jpg|thumb|180px|将棋をする少年(18世紀)]] [[江戸時代]]に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。[[天竺大将棋]]・[[大大将棋]]・[[摩訶大大将棋]]・[[泰将棋]](大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・[[大局将棋]]などである。ただし、前提として江戸時代には本将棋が普及しており、これらの将棋類はごく一部を除いて実際に指されることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。 将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながっていく。 ==== 持ち駒の利用 ==== 将棋の発展のうち特筆すべきものとして、「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用制度が考案されたことが挙げられる。もっとも、このルールがいつごろできたものかのかは分かっていない。現在、提唱されている説としてはおもに以下の3つがある。 * 15世紀から16世紀ごろとする説…15世紀から16世紀に本将棋が成立した際の駒の数が持ち駒ルールに関連すると考える説である。将棋の駒の数は上述したように徐々に減って現代の本将棋になった。この説では、駒の減少は互いに駒が足りなくなって相手玉を詰められなくなるなどのゲーム性の低下を伴うことから、これを補うために持ち駒制度が考案されたのだと説明する。これを前提に、駒の数が現代と同じになった16世紀頃が持ち駒制度の考案時期であるとする。 * 13世紀以前とする説…1300年ごろに書かれた『[[普通唱導集]]』に、将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」との文句がある<ref>{{Cite book|和書|author=村山修一|publisher=[[法藏館]]|isbn= 978-4-8318-7558-7|title=普通唱導集―翻刻・解説|year=2006|quote=桂馬を飛ばして銀に替ふ}}</ref>ことを根拠とする説である。これは持ち駒ルールを前提にした駒の交換を言っているものであると理解し、この時期には持ち駒の概念があったものと考えるものである<ref>{{cite journal|和書|journal=遊戯史研究|issue=5|year=1993|author=佐伯真一|title=「普通唱導集」の将棋関係記事について|url=http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/yugisi01.htm}}</ref>。 * 11世紀以前とする説…銀の裏面の「全」に似た字や歩の裏面の「と」に似た字などは「金」の崩し字であると考えられているが、これらがそれぞれ異なる崩し字を使う理由を持ち駒制度と関連づける説である。これらが単に「金」ではなく、あえて区別できるように書かれている理由を、取って持ち駒とした場合に元の銀や歩に戻ることが分かるようにするためだと理解すれば、成駒が区別可能か否かで持ち駒ルールの有無が分かるということになる。そのうえで、上記奈良県で出土した最古の駒について、成駒の文字が区別可能であるからこの時期には持ち駒ルールがあったとする。 持ち駒ルールが生まれた理由もよく分かっていない。上述した駒の数の減少に伴うゲーム性低下を補うため、将棋の駒に色分けが無いためという説明が一般的になされる。また、や、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品を表していることから、将棋は戦争という殺し合いをテーマにしたゲームではなく、資産を取り合う貿易や商売をテーマにしたゲームという側面があり、相手から奪った資産は消滅するのではなく自分のものになるのが自然であるため、持ち駒使用ルールが生まれたのだとする考察もある。 === 本将棋 === 本将棋は上述の通り15世紀から16世紀(室町時代)ごろに小将棋から醉象を除き持ち駒の再使用ルールを加える形で成立していたとされる。 ==== 御城将棋と家元 ==== [[17世紀]]初頭、1612年([[慶長]]17年)ごろ、[[江戸幕府|幕府]]は将棋と囲碁の達人であった[[大橋宗桂 (初代)|大橋宗桂]](大橋姓は没後)・加納算砂([[本因坊算砂]])らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ[[将棋所]]・[[碁所]]を名乗るようになった<ref group="注">なお、近年の研究によると、将棋所や碁所という役職は幕府公認のものではなく自称である。</ref>。 宗桂の後継者である[[大橋家]]・[[大橋分家]]・[[伊藤家]]の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が[[名人 (将棋)|名人]]を称した。現在でも名人の称号は「[[名人戦 (将棋)|名人戦]]」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。 [[寛永]]年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍[[徳川吉宗]]のころには、年に1度、[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付([[11月17日]])が「[[将棋の日]]」となっている。 江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、[[詰将棋]]の能力も競い合った。特に伊藤家の[[伊藤看寿]]の作品である『[[将棋図巧]]』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。 江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる[[大橋宗英]]が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった[[天野宗歩]]は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。 現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「[[日本将棋大系]]」にまとめられている。 ==== 新聞将棋・将棋連盟の結成 ==== [[File:Shogi playing japan 0001.jpg|thumb|300px|将棋を楽しむ職人たち(1915年頃)]] 江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。将棋を専業とする者たち(なお、そのほとんどは関東では家元三家の門下、関西では天野宗歩の門下で修行した者たちである)は、家元に対して自由に活動するようになり、名人位は彼らの協議によって決定する推挙制に移行した。 アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での[[縁台将棋]]も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、[[将棋棋士|専業プロ]]として将棋で生活していくことはできなかったといわれている。 1899年(明治32年)ごろから、[[萬朝報]]が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため<ref name="heibon">「国民百科事典4」平凡社 p21 1961年11月15日初版発行</ref><ref>ただし[[越智信義]]著『将棋文化誌』 (Kindle) では、[[萬朝報]]の将棋欄創設は1908年(明治41年)に掲載開始した「高段名手勝継将棋」開始時点とされている。 </ref>、[[新聞]]に将棋の実戦[[棋譜]]が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。 大正時代のころの将棋界は有力棋士たちがそれぞれ連盟([[派閥]])をつくり、特定の新聞社と契約をして[[一門]]の経済状況を安定させていた。例えば[[大崎熊雄]]が師の[[井上義雄]]死去後に主宰した東京将棋研究会は当時の有力誌である[[国民新聞]]や[[地方紙]]と契約し隆盛していた。一方で[[土居市太郎]]は東京将棋同盟社、[[関根金次郎]]は東京将棋倶楽部を主宰していた。明治時代以降から棋士有力者が各派に分かれていくなかで、基本的に[[他流試合]]は行わないのがこのころの原則となっていた。しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の[[首領]]を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が[[報知新聞社]]主催で行われた。 これを縁として、1924年([[大正]]13年)には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の[[日本将棋連盟]]の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。 1935年に[[東京日日新聞]]および[[大阪毎日新聞]]主催の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]が始まり、戦争を挟みつつも将棋人気は拡大していった<ref>[[坂口安吾]] [https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43155_30637.html 碁にも名人戦つくれ]</ref>。 ==== 将棋禁止の危機 ==== 第二次世界大戦後、日本将棋連盟に[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)より呼び出しがかかった<ref name="升田幸三" />。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の[[升田幸三]]を派遣する<ref name="升田幸三" />。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた<ref name="升田幸三" />。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論<ref name="升田幸三" />。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた<ref name="升田幸三">[[升田幸三]]『名人に香車を引いた男』223ページ「GHQ高官の度肝を抜く」より</ref>。 === 現代棋界の動向 === {{main|将棋界|棋士 (将棋)|棋戦 (将棋)|}} 現代の将棋は[[定石|定跡]]が整備され、高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋な[[マインドスポーツ]]へと変化している。 各年度の将棋界の詳細は各項目に譲るが、1935年の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]を皮切りに8つのタイトル戦を含む10以上の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]が開催されている(2018年現在)。 女性のプロ([[女流棋士 (将棋)|女流棋士]])も誕生し、1974年には最初の女流棋戦である女流名人位戦(現・[[女流名人戦 (将棋)|女流名人戦]])が開始された。2018年現在、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている。 プロの発展とともに、[[将棋のアマチュア棋戦]]も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくない。 ==== コンピュータ将棋 ==== {{main|コンピュータ将棋}} コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして始まった。1960年代の詰将棋プログラムを先駆けとし<ref>https://ameblo.jp/professionalhearts/entry-10001276891.html などを参照</ref>、1980年代にはゲームソフトが発売されるようになったが、複雑性ゆえ当時のハードウェアの性能では強さには限界があり、1989年のゲームボーイ用の将棋ソフトでは、AIのレベルによっては電池残量との戦いになるほどの長考が行われた<ref>[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『ゲームボーイクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。ISBN 9784865117790 p16</ref>。 その後ハードウェアの性能向上にあわせて着実に強くなり、21世紀にはアマトップやプロと平手での本格対局が実施されるに至った。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、2017年に[[ponanza]]が当時の名人である[[佐藤天彦]]との対局に勝利し、コンピュータ将棋ソフトが名人超えをしたことが証明された。 ==== インターネット将棋 ==== インターネットの普及を通じて盤駒を利用しなくとも対局ができるネット将棋が普及。それによって将棋センターは次々閉鎖されていったが、取って代わるように1996年ごろからJava将棋やザ・グレート将棋、[[将棋倶楽部24]]、[[近代将棋]]道場、[[Yahoo!ゲーム]]の将棋などのサイトが次々と登場した。2010年代には英語が公用語の国際サイト[[81Dojo]]、[[twitter]]と連動できる[[shogitter]]、カジュアルな作りで人気を伸ばした[[将棋ウォーズ]]などが登場した。2022年1月に変則将棋の1つ[https://www.freezeshogi.com/ フリーズ将棋]も遊べるようになった。 ==== 将棋と放送 ==== 将棋がテレビなどで一般的に話題になった代表的なものでは、[[内藤國雄]]「[[おゆき (内藤国雄の曲)|おゆき]]」大ヒット(1976年)、[[谷川浩司]]史上最年少名人(1983年)、[[羽生世代]]の活躍(1980年代から平成初期)、中高年の星[[米長邦雄]]名人獲得(1993年)、[[羽生善治]]の七冠達成(1996年)、将棋を題材とした[[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]『[[ふたりっ子]]』の放送(1996年)、[[中原誠]]と[[林葉直子]]の不倫報道、[[村山聖]]の早逝(1998年)、[[瀬川晶司]]のプロ編入試験(2005年)、[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の移管問題(2006年)、[[コンピューター将棋]]ソフト[[Bonanza]]の躍進(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、[[将棋電王戦]]によるプロとコンピューターの対決の配信(2012年)、[[今泉健司]]のプロ編入試験(2014年)、将棋もの作品の流行(平成末期)、[[将棋ソフト不正使用疑惑]](2016年)、[[藤井聡太]]の史上最年少デビューと無敗のままでの歴代連勝記録更新(2016年 - 2017年)、羽生善治の永世七冠達成(2017年)と[[国民栄誉賞]]授与(2018年)などがある。 将棋の対局放送は長丁場であることもあり一般的ではなく、長年[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]やNHK BSの特別番組、[[CS放送]]の専門チャンネルなどに限られていた。地上波民放で数少ない例として[[テレビ東京]]主催の『[[早指し将棋選手権]]』があったが2003年に終了している。1995年頃の羽生フィーバーでは観戦するファン(観る将)の萌芽があったが、当時の[[インターネット]]環境では活かすことができなかった<ref>{{Cite web |title=1995年の将棋ブームと2020年の将棋ブームの違いを考える |url=https://shogipenclublog.com/blog/2020/10/10/fan/ |website=将棋ペンクラブログ |date=2020-10-10 |access-date=2023-11-25 |language=ja |last=将棋ペンクラブログ}}</ref>。2010年代になってから無料インターネット動画サイトを通じた配信が定着したことで、[[2017年度の将棋界|2017年からの藤井フィーバー]]に繋がった<ref name=":2">{{Cite web |title=将棋人口は460万人、囲碁人口は130万人に減少――ファンを増やす「神の一手」はあるのか(古作登) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9258b0b248d80c482b157adbb8c590fd4b0ce7b6 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-11-25 |language=ja}}</ref>。 ==== 将棋人口 ==== 『[[レジャー白書]]』(財団法人[[社会経済生産性本部]])による、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」。調査時期は発表年の前年。 2009年の急増は調査方法切り替えによる<ref name="jinkou10">[http://www.asahi.com/shougi/topics/TKY201109130339.html asahi.com(朝日新聞社):囲碁人口610万人、将棋1200万人 レジャー白書 - 将棋]</ref>。なおデータは16歳から79歳までのため実際はより多いと考えられている<ref name=":2" />。 2017年からの藤井フィーバーにより「観る将」は増加したが、競技人口である「指す将」は減少を続けており、大会参加者や道場へ通う子供も増えていないという<ref name=":2" />。 {| class="wikitable" |- ! 調査年度 !! 人口(万人) |- | 2004年 || 840<ref name="jinkou05">[https://web.archive.org/web/20060805175314/http://www.asahi.com/igo/topics/TKY200608050145.html asahi.com: 05年の囲碁人口は350万人、前年より100万人減 - 囲碁]</ref> |- | 2005年 || 710<ref name="jinkou05" /> |- | 2008年 || 690<ref name="jinkou10" /> |- | 2009年 || 1,270<ref name="jinkou10" /> |- | 2010年 || 1,200<ref name="jinkou10" /> |- | 2011年 || 830<ref name="jinkou12">[https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12293-733488/ 将棋人口ってどれくらい?~コスパが良く、生涯楽しめる趣味~|ニフティニュース]</ref> |- | 2012年 || 850<ref name="jinkou12" /> |- | 2013年 || 670<ref name="jinkou12" /> |- | 2014年 || 850<ref name="mjnews">[https://mj-news.net/news/20211020167412 「レジャー白書2021」麻雀人口400万人で前年比110万人減 – 麻雀ウォッチ]</ref> |- | 2015年 || 530<ref name="mjnews" /> |- | 2016年 || 530<ref name="mjnews" /> |- | 2017年 || 700<ref name="mjnews" /> |- | 2018年 || 680<ref name="mjnews" /> |- | 2019年 || 620<ref name="mjnews" /> |- | 2020年 || 530<ref name="mjnews" /> |- | 2021年 || 500<ref name="jinkou21">[https://web.archive.org/web/20221110222813/https://news.yahoo.co.jp/byline/kosakunoboru/20221111-00323461 将棋人口は500万人、囲碁人口は150万人に減少――ファンを増やす「妙手」はあるのか(古作登) - 個人 - Yahoo!ニュース]</ref> |} === 日本国外への普及 === [[国際将棋フォーラム]]<ref name="shogiyougo-77"> 『日本将棋用語事典』 p.77 東京堂出版 2004年</ref>など、日本国外への普及も試みられている。ただし将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯で世界的には[[チェス]]が普及しており、漢字が読める[[漢字圏]]でも既にシャンチー系のゲームが普及しているため、日本経由からも伝わった[[囲碁]]や、日本で商品化された[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]が、白黒の石でゲームを行うこと、[[チャトランガ]]系ゲームとは異なり類似のものが無いなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的に小規模である([[ガラパゴス化]])。 将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国では早く[[明]]代に[[倭寇]]対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。また[[アメリカ合衆国]]では1860年に[[万延元年遣米使節]]によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(<small>[[:nl:Antonius van der Linde|オランダ語版]]</small>)『チェス史の典拠研究』では将棋と[[中将棋]]が紹介されている{{Sfn|増川(2003)|p=13-14}}。1966年トレバー・レゲット(<small>[[:en:Trevor Leggett|英語版]]</small>)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス (George F. Hodges) は将棋協会 (The Shogi Association, TSA) というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた<ref>ホッジスをはじめとする西洋人の努力は、({{Cite journal|和書|author=増川宏一 |journal=将棋 |publisher=法政大学出版局 |year=1985 |id={{全国書誌番号|86013322}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000001774488}} に簡単に紹介されている</ref>。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している<ref>{{citation|url=http://www.shogi.net/fesa/|title=Federation of European Shogi Associations}}</ref>。 2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。 非漢字圏や漢字が読めない子供向けの普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、[[GNU Shogi]]のもの<ref>{{citation|url=http://www.gnu.org/software/xboard/whats_new/rules/Shogi.html|title=Shogi (Japanese Chess)|publisher=GNU Operating System}}</ref>、ChessVariantsのもの<ref>{{citation|url=http://www.chessvariants.com/graphics.dir/motifshogi/index.html|title=Motif Shogi Pieces|publisher=The Chess Variant Pages}}</ref>、Hidetchi国際駒([[81Dojo]])<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=wOh6UJrUdqs Shogi News: Internationalized shogi pieces] - [[YouTube]] HIDETCHI{{en icon}} - 他のデザインの国際駒のアイデアも紹介されている。</ref><ref>[http://meikoma.com/intpiece.html 将棋駒 国際駒] - 銘駒図鑑</ref>、[[どうぶつしょうぎ|おおきな森のどうぶつしょうぎ]]などがある。 海外向け(日本在住者を除く)のアマ免状では、名人の署名もなく簡素な日本語で表記されており、間違いがないように名前は自分で記入ができる。 ==== 英語圏の棋譜表記 ==== 英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、駒の種類、動かし方、位置、成・不成を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。 駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかである。成り駒は + を前置することで表し、英語名称はPromoted Rook(+R、竜)、Promoted Silver(+S、成銀)のように頭にPromotedを付けて表すのが一般的である。位置は横の筋を将棋と同様右から左に1…9で、縦の段を上から下にa…iで表す。したがって「7六歩」は「P-7f」、「5五馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手をb (black)、後手をw (white) とする<ref>{{citation|url=https://genedavissoftware.com/shogi-game-notation/|title=Shogi Game Notation|publisher=Online Shogi Resources}}</ref>。 駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。 棋譜法にはいくつかの変種がある。イギリスの Shogi Foundation の出版物では、駒の位置を縦横とも数字で示している(「7六歩」は「P76」になる)<ref>{{cite book|author=Roger Hare|title=A Brief Introduction to Shogi|year=2019|url=http://eric.macshogi.com/shogi/roger/Introduction%20to%20Shogi.pdf}}</ref>。また、成り駒について、竜をD(Dragon)、馬をH(Horse)、と金をT(Tokin)で表す流儀もある<ref>[[81Dojo]]の棋譜など</ref>。 == 将棋のゲームとしての特質 == 盤面の状態の総数は10<sup>71</sup>程度と見積もられる<ref name="CCC">[https://web.archive.org/web/20150709211006/http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"]</ref>。これは、[[囲碁]]の10<sup>170</sup>程度<ref>{{Cite web|url=https://tromp.github.io/go/gostate.pdf|title=Combinatorics of Go|accessdate=2018-12-22|website=tromp.github.io|publisher=John Tromp, Gunnar Farneback}}</ref>よりは小さいものの、[[チェッカー]]の10<sup>20</sup>程度<ref name="美添一樹" />、[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]の10<sup>28</sup>程度<ref name="美添一樹" />、[[シャンチー]](象棋)の10<sup>48</sup>程度<ref name="CCC" />、[[チェス]]の10<sup>50</sup>程度<ref name="美添一樹">{{Cite journal|last=美添一樹|date=2008-06-15|title=モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00060963/|journal=情報処理|volume=49|issue=6|pages=686–693|language=ja}}</ref>と比べて大きい値である。 また、[[ゲーム木]]の複雑性は、10<sup>226</sup>と見積もられる<ref name=CCC />。これは、囲碁の10<sup>400</sup>程度<ref name=CCC />よりは小さいものの、チェッカーの10<sup>31</sup>程度、リバーシの10<sup>58</sup>程度<ref>[https://web.archive.org/web/20171231103934/https://www.dphu.org/uploads/attachements/books/books_3721_0.pdf Searching for Solutions in Games and Artificial Intelligence]</ref>、チェスの10<sup>123</sup>程度<ref name=CCC />、シャンチーの10<sup>150</sup>程度<ref name=CCC />よりも大きい値である。 将棋棋士の[[羽生善治]]は、将棋は[[ガラパゴス化]]で生まれたユニークな存在であり、比較的近いと思われるのはタイ将棋のマックルックだが、よく似ているとは言えないと述べた<ref name="habu-2">[https://style.nikkei.com/article/DGXBZO36920180R01C11A2000000/ ガラパゴス的に進化した日本の将棋 羽生善治 将棋棋士|働き方・学び方|NIKKEI STYLE]</ref>。 <!-- ページ不明 <ref name=habu>[[#羽生|羽生「将棋の海外普及」(2011)]]</ref>{{出典無効|date=2019-09-12}}(ただし、後年には「よく似ているとまでは言えない」とも発言している<ref name="habu-2"/>)羽生は、日本の将棋と他の将棋類とのあいだの大きな相違点として持ち駒(とった駒の再利用)を挙げている。このルールの相違により、他の将棋では序盤が激しく、駒数の減る終盤は静かな戦いになることが多いのに対し、いつまでも駒数の減らない将棋では終盤の攻防がきわめて激しいものとなるというゲームの質の決定的な違いを生んでいることを指摘している<ref name=habu />。{{出典無効|date=2019-09-12}}|date=2019-09-12}}。--> == 将棋用語に由来する慣用表現 == {{wikiquote|将棋}} 囲碁用語と共通のものについては、囲碁が由来であるのか将棋が由来であるのかはっきりしない。辞書によっては囲碁が由来であるとされているので注意。 ; 先手(せんて)・後手(ごて) ※囲碁用語と共通 :; 将棋用語としての先手・後手 :: 対局開始から先に指す方が先手。後に指す方が後手である<small>(囲碁では「先番」「後番」もしくは「黒番」「白番」と呼ぶ)</small>。後述の用法との混同を避けるため、誇張して対局開始時の先手、後手を言う場合先手番、後手番とも言う。また、対局途中においても、相手が対応せざるを得ない手(王手など)を仕掛けた側を先手、それに対応する側を後手ということがある<small>(囲碁用語としての「先手」「後手」はこちらの意味)</small>。 :; 慣用表現としての先手・後手 :: 「先手を取る」「後手に回る」など、さまざまな表現で用いられる。「先手を取る」は相手よりも素早く対応して先制することを言い、「後手に回る」はそれとは逆に相手と比べて出遅れて受け身に回ることを言う。 ; [[手抜き (ゲーム)|手抜き]](てぬき) ※囲碁用語と共通 :; 将棋用語としての手抜き :: 相手の手に応対せずに別の手を指すことを言う。必ずしも悪い意味ではなく、あえて相手の手に付き合わないのが最善手であることはよくあることである。 :; 慣用表現としての手抜き :: 必要な作業を怠ることを言う。やるべきことをしっかりやらなかったというネガティブな意味合いであり、「手抜き工事」などと批判的に使われる。 ; [[待った]](まった) ※囲碁用語と共通 :; 将棋用語としての待った :: 自分が指した手に対して相手が予想外の手で応じてきた場合に、この2つの手を取り消して局面を戻し、もう一度自分の手からやり直すこと。公式な対局ではルール上認められないが、練習や指導などの非公式な対局では相手の合意があれば認められることもある。待ったが認められない真剣勝負のことを「待ったなし」と言う。 :; 慣用表現としての待った :: 相手の予想外の行動に対して、中止や取り消し、あるいは猶予を求めること(なお、将棋用語としての待ったは、相手の手だけでなく自分の手も取り消して自分の手番からやり直すことであるため、若干意味が異なる)。「待ったをかける」などの言い回しで使われる。やり直しの利かない場面であることを「待ったなし」と言う。 ; 結局(けっきょく) ※囲碁用語と共通 :; 将棋用語としての結局 :: {{要出典範囲|将棋の|date=2019-09-12}}一局が指し終わって勝負の決着がつくことを言った。現在では、この意味では「終局」と言うのが普通であり、「結局」が将棋用語として使われることは少ない。 :; 慣用表現としての結局 :: 紆余曲折があったものの最終的にはどうなったかという結末のことを言う。 ; 飛車角落ち(ひしゃかくおち) :; 将棋用語としての飛車角落ち :: 「[[将棋の手合割#二枚落ち|二枚落ち]]」の別名。棋力に差がある場合のハンデとして、一方の対局者が飛車と角を取り除いて対局する。 :; 慣用表現としての飛車角落ち :: チームスポーツで主力選手2人が欠けるなど、中心となる戦力を欠いた状態で勝負すること<ref>{{Cite web|和書|url=http://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E8%BB%8A%E8%A7%92%E8%90%BD%E3%81%A1|title=飛車角落ち とは|work=コトバンク|accessdate=2013-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140417114042/http://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E8%BB%8A%E8%A7%92%E8%90%BD%E3%81%A1|archivedate=2014-04-17}}(原出典:{{Citation|year=2006|title=大辞林|publisher=三省堂|edition=3rd}})</ref>。 ; 高飛車(たかびしゃ) :; 将棋用語としての高飛車 :: 序盤の段階で[[飛車]]を自陣よりも前方の四段目や五段目に進出させて、中央部で活躍させる戦法、あるいはその飛車のこと。たとえば、[[横歩取り8五飛]]戦法が出現して間もないころは「横歩取り高飛車戦法」との別名で呼ばれることもあった。近年「浮き飛車」と呼ばれることが多くなっており、高飛車という用語の使用頻度は減っている。 :; 慣用表現としての高飛車 :: 人が高圧的な様子(将棋の高飛車戦法において、強力な飛車が味方の駒を下にして自由に暴れまわる様子に擬えたものと思われる)。「高飛車な態度」のように使われる。1990年代には、これを略した「'''タカビー'''」という[[若者言葉]]も生まれた。 ; [[成金]](なりきん) :; 将棋用語としての成金 :: もともと[[金将]]よりも価値の低かった駒([[歩兵 (将棋)|歩兵]]・[[香車]]・[[桂馬]]・[[銀将]])が敵陣に到達したことで金将と同様の動きの成駒(歩兵であれば「と金」)になったもの。 :; 慣用表現としての成金 :: もともと貧しかったのに急に金持ちになった者を指す。多くの場合相手をねたんだりさげすんだりする目的で用いられる。類義語として、もともと身分の低かった者が高い地位に登りつめるという意味の[[成り上がり]]がある。 ; 手駒(てごま) :; 将棋用語としての手駒 :: [[持ち駒]]のこと。相手から取って自分のものとし、任意の場所に打てる状態にしている駒。 :; 慣用表現としての手駒 :: 自分の支配下にあって自由に利用できる人材などのリソースのことを指す。単に「駒」とも言う。「手駒にする」「駒が足りない」のような使い方をする。 ; 捨て駒(すてごま) :; 将棋用語としての捨て駒 :: 相手の駒を移動させる狙いなどの大局的な見地から、意図的に自分の駒を相手に取らせること。また、その取らせる駒のこと。 :; 慣用表現としての捨て駒 :: 人の団体において、その団体の何らかの目的を達成するために、意図的に一部のメンバーを犠牲にすること。また、その犠牲になるメンバー。囲碁の[[捨て石]]と同義語。 ; [[王手]](おうて) :; 将棋用語としての王手 :: 相手が応じなければ次の一手で相手の[[玉将]]を取れる状態であること、あるいはその状態にする指し手を言う。王手をかけられた側は、(投了する場合を除いて)その王手を解消するような手を指さなければならない。相手に王手をかけられた際に、その王手を解消しつつ相手に王手をかけ返すことを「逆王手」と言う。 :; 慣用表現としての王手 :: あと一歩で求めていた結果が得られる状態であること、あるいはその状態にする行為を言う。たとえば、スポーツの大会であと1勝で優勝が決まるという場面では「優勝に王手」と表現される。また、相手に王手をかけられた際に、こちらも同様に王手をかけること(たとえば、[[日本シリーズ]]など先に4勝したほうが優勝という1対1のスポーツの勝負で、2勝3敗と後がない状態からこちらが1勝して3勝3敗に追いついた場合)を「逆王手」ということもある(ただし、相手にかけられた王手を解消したわけではないため、将棋における「逆王手」とは多少意味が異なる)。 ; [[詰み]](つみ) :; 将棋用語としての詰み :: どのような手を指しても次に玉将を取られてしまう状態。この状態になったら投了しなければならない。 :; 慣用表現としての詰み :: どのような行動を取っても不利益な結果を避けられない状態。まだ正式には確定していないものの事実上敗北が決まってしまった場面や進退窮まった場面などで、状況を悲観して「詰みだ」「詰んだ」「詰んでいる」などと使う。 ; [[将棋倒し]](しょうぎだおし) :; 将棋用語としての将棋倒し :: 将棋駒を利用した古典的遊びのひとつで、駒を立てて並べてから端の駒を倒すことで、連鎖的にすべての駒を倒すというもの。 :; 慣用表現としての将棋倒し :: 将棋駒に限らず、複数の何かが連鎖的に倒れることを言う(類義語として「[[ドミノ倒し]]」)。特に、人混みの中で何らかのきっかけによって人々が連鎖的に倒れる事故は、典型的な将棋倒しである。しかし、2001年に発生した[[明石花火大会歩道橋事故]]の際には、将棋のイメージ悪化を危惧した日本将棋連盟の依頼により、報道関係各社はこの言葉の使用を自主規制した。近年では相当する表現として'''「[[群衆雪崩]]」'''の用語を充てる事例がみられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |title=将棋絹篩 上 |date=1883-03 |doi=10.11501/861195 |id={{NDLJP|861195}} |publisher=三木書楼 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001541678-00 |ref={{SfnRef|将棋絹篩}}}} * {{Cite book|和書|title=チェス|author=増川宏一|publisher=法政大学出版局|year=2003|series=ものと人間の文化史 110|isbn=4588211013|ref={{SfnRef|増川(2003)}}}} * {{Cite journal|和書|author=木村義徳 |year=2004 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00001254/ |title=将棋の日本到着時期をめぐって : 増川宏一説に対する批判 |journal=桃山学院大学総合研究所紀要 |ISSN=1346-048X |publisher=桃山学院大学総合研究所 |volume=30 |issue=2 |pages=45-59 |naid=110001044966 |ref={{SfnRef|木村(2004)}}}} == 関連項目 == {{col| * [[将棋の戦法一覧]] * [[将棋類の一覧]] * [[将棋類の駒の一覧]] * [[将棋の手合割]] * [[将棋の格言]] * [[将棋用語一覧]] * [[将棋界]] * [[棋士 (将棋)]] * [[将棋棋士一覧]] * [[棋戦 (将棋)]] * [[棋風]] * [[将棋講座]] * [[将棋の段級]]([[段級位制]]) * [[将棋会館]] * [[将棋のアマチュア棋戦]] * [[日本将棋連盟]] * [[日本女子プロ将棋協会]] * [[日本アマチュア将棋連盟]] * [[コンピュータ将棋]] * [[将棋ウォーズ]] * [[近代将棋|近代将棋道場]] * [[ぴよ将棋]] | * [[日本将棋大系]] * [[封じ手]] * [[持ち時間]] * [[対局時計]] * [[天童市]] * [[人間将棋]] * [[詰将棋]] * [[変則将棋]] * [[四人将棋]] * [[軍人将棋]] * [[まわり将棋]] * [[将棋・チェス板]] * [[J-Chess]] * [[チェス]] * [[シャンチー]] * [[マークルック]] * [[チャンギ]] * [[どうぶつしょうぎ]] * [[盤寿]] * [[将棋パズル]] }} == 外部リンク == {{Wiktionary|将棋}} {{Wikibooks|将棋}} {{commonscat|Shogi}} * [https://www.shogi.or.jp/ 日本将棋連盟] * [http://amaren.la.coocan.jp/ 日本アマチュア将棋連盟] * [https://joshi-shogi.com/ 日本女子プロ将棋協会] {{将棋}} {{各国の将棋類}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しようき}} [[Category:将棋|*]] [[Category:抽象戦略ゲーム]]
2003-02-14T16:11:52Z
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IEEE 1394
IEEE 1394(アイトリプルイー 1394)はAV機器やコンピュータを接続する高速シリアルバス規格である。1986年にAppleが提唱したFireWire(ファイアワイアもしくはファイヤーワイヤー)規格をソニー、TI、IBMなどと共同で1995年にIEEE 1394-1995として標準化したもの。 IEEE 1394は、SCSIの後継を意識しつつ、ホットスワップにも対応したシリアル汎用バスとして設計され、ビデオ・オーディオ分野やコンシューマ向けストレージの接続用として普及したほか、ビークルバスのIDB-1394は本規格を拡張したものである。同時に64台の機器を同一ネットワーク上に接続でき、初期は100 Mbps、200 Mbps、400 Mbps、後に800 Mbpsという通信速度で策定・普及した。最終的には3200 Mbpsに拡張されたが、この速度での使用例はごく少ない。 その性格上、様々なデータをやりとりできるため、FireWire、i.LINK(アイリンク)、DV端子などの複数の名称が使われるようになった。 FireWireは提唱者のAppleが使用していた開発コードネームであったが、2002年5月29日に商標化した。これを、正式にIEEE 1394の統一ブランドとして採用することがIEEE 1394の推進団体である 1394 Trade Association から発表されている。 一方ソニーは、FireWireがIEEE 1394の統一ブランドとして採用される以前から、自社のデジタルビデオカメラ製品などに搭載したIEEE 1394端子をi.LINKと呼び、同社の商標としている。この呼称はDV端子と共に主に家電製品で使われる名称として一般にも普及した。 DV端子もデジタルビデオカムコーダやデジタルビデオテープレコーダに搭載されたIEEE 1394端子の呼称の1つであったが、電源供給機能を持たず、通信できる信号の内容がDV規格の映像音声信号のものに限定の設計になっている。現在では「i.LINK(DV)」等と呼ばれることが多い。 プラグ&プレイおよびホットプラグに対応している。 バス上にホスト機器を必要とせず、機器から機器へと接続するだけでデータ転送が可能になっている。そのため、IEEE 1394対応機器はポートを2つ備えている場合が多い。この2基のポートは、片方から送られてくるパケットはリピータとして必ず他方へそのまま再送信することが義務づけられていた。 例えば、パソコンで使用するのであればパソコンのポートからDVDドライブ、DVDのポートからHDDと、数珠繋ぎに接続出来る(デイジーチェーン)。また、リピータハブを用いてツリー状にネットワークを組むことも可能である。ツリーとデイジーチェーンを混在させることもできるが、ネットワークがループバックを形成してしまうことの無いように注意が必要である。また、ケーブルの長さは4.5メートルまでで、機器の接続は63台までという規格になっている。 IEEE 1394では様々なデータをやり取りするため、IEEE 1394が規定するプロトコル上にスタックするプロトコルが用意されている。その中でもSBP2 (Serial Bus Protocol-2) はSCSIコマンドをやり取りするためのプロトコルでSCSIで接続できるデバイス(ATAPI、イメージスキャナなど)を扱えるようになる。 機器への電源供給(バスパワー)に対応した6ピンコネクタと非対応の4ピンコネクタが存在し、i.LINK、DV端子としては主に4ピンが用いられる。IEEE 1394-1995、IEEE 1394a-2000 など、いくつかのバージョンが存在するが、いずれもほぼ同等の機能をもつ。6ピンコネクタは、8 Vから最高33 V/1.5 Aの強力な電源供給機能を持つが、これらの供給能力はバス上に存在する全ての接続機器の能力に左右される。 IEEE 1394は複数の企業にまたがる複数の特許技術が採用されており、当初、その利用には個別にライセンスを受ける必要があった。一方で類似規格であるUSBでは、デバイスの製造には製造者の申請こそ必要なものの、特許使用料自体は無料であった。この事により多くの中小企業が参入の難しいIEEE 1394ではなくUSBを選んだと言われており、USBを用いた玩具など幅広い製品が発売された。 このIEEE 1394に関する複雑な特許問題は、早くから特許を保有する企業群の間でも問題視されており、1999年5月には共同ライセンスプログラムを発表し、1デバイスあたり1ライセンスで25セントの特許料支払いで解決できるようになった。 ただ、1デバイス1ライセンスであるため、1企業1ライセンスと単純なUSBほどの広がりは見せていない。 前述の特許問題の影響でチップセットメーカーであるインテルがIEEE1394のチップセットの統合に消極的(ただしインテルは特許問題は決着したと言及している)だったことによって普及が思うようにいかなかったことや、USBが速度を大幅にアップさせたUSB3.0を登場させ、IEEE1394の速度を上回ってしまったこと、さらにApple自体もインテルと共同開発したThunderboltを策定したことによって、MacintoshなどをThunderboltに置き換えるなど、IEEE1394を搭載しないパソコンが徐々に増えていき衰退していった。 IEEE 1394ベースの接続規格
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IEEE 1394はAV機器やコンピュータを接続する高速シリアルバス規格である。1986年にAppleが提唱したFireWire(ファイアワイアもしくはファイヤーワイヤー)規格をソニー、TI、IBMなどと共同で1995年にIEEE 1394-1995として標準化したもの。
{{Infobox コネクタ |name = |type = |image = |logo = File:FireWire_Logo.svg |caption = |designer = {{flatlist|*[[IEEE]] *[[Apple]]}} |design_date = 1986年 |manufacturer       = 多数 |production_date = |superseded = |superseded_by = |superseded_by_date = |external = 対応 |daisy_chain = 対応 最大63デバイス |hotplug = 対応 |length = |width = |height = |electrical = |ground = |maximum_voltage = 33 V |maximum_current = 1.5 A |audio_signal = |video_signal = |data_signal = 有り |data_bit_width = |data_bandwidth = 400 - 3200 Mbps |data_devices = |data_style = |cable = |physical_connector = |num_pins = 4, 6, 9 |pinout_col1_name = |pinout_col2_name = |pinout_image = ファイル:FireWire-46 Diagram.svg |pinout_caption = IEEE 1394端子(左:6ピン・右:4ピン) |pin1 = |pin1_name = |pin2 = |pin2_name = |pin3 = |pin3_name = |pin4 = |pin4_name = |pin5 = |pin5_name = |pin6 = |pin6_name = |pin7 = |pin7_name = |pin8 = |pin8_name = |pin_custom1_name = |pin_name_custom1 = |pin_custom1 = |pin_custom2_name = |pin_name_custom2 = |pin_custom2 = 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Interface|SCSI]]の後継を意識しつつ、[[ホットスワップ]]にも対応したシリアル汎用バスとして設計され、ビデオ・オーディオ分野やコンシューマ向け[[補助記憶装置|ストレージ]]の接続用として普及したほか、[[ビークルバス]]の[[IDB-1394]]は本規格を拡張したものである。同時に64台の機器を同一ネットワーク上に接続でき、初期は100 Mbps、200 Mbps、400 Mbps、後に800 Mbpsという通信速度で策定・普及した{{Sfn|伊藤|2001|p=289}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.spacesoft.co.jp/Products/IEEE1394/What1394/1394outline.htm |title=1394の概要 |work=IEEE1394 とは |publisher=有限会社スペースソフト |accessdate=2020-03-05}}</ref><ref name="spacesoft-1394b">{{Cite web|和書|url=http://www.spacesoft.co.jp/Products/IEEE1394/What1394/P1394b/IEEE1394b.htm |title=IEEE1394b 解説 |publisher=有限会社スペースソフト |accessdate=2020-03-05}}</ref>。{{要出典範囲|最終的には3200 Mbpsに拡張された{{Sfn|伊藤|2001|p=289}}{{R|spacesoft-1394b}}が、この速度での使用例はごく少ない|date=2018年8月}}。 == 特徴 == [[ファイル:VIA_Fire_IIM_VT6308P_1394_Host_Controller.jpg|thumb|IEEE 1394ホストコントローラの例]] その性格上、様々なデータをやりとりできるため、'''FireWire'''、'''i.LINK'''(アイリンク)、'''DV端子'''などの複数の名称が使われるようになった。 '''FireWire'''は提唱者の[[Apple]]が使用していた開発[[コードネーム]]であったが、2002年5月29日に商標化した。これを、正式にIEEE 1394の統一ブランドとして採用することがIEEE 1394の推進団体である 1394 Trade Association から発表されている。<!--- 正式名称採用が遅れた理由は様々であるため、詳細は記述せず ---> 一方[[ソニー]]は、FireWireがIEEE 1394の統一ブランドとして採用される以前から、自社の[[ビデオカメラ|デジタルビデオカメラ]]製品などに搭載したIEEE 1394端子を'''i.LINK'''と呼び、同社の商標としている{{Sfn|伊藤|2001|p=288}}。この呼称はDV端子と共に主に[[家庭用電気機械器具|家電製品]]で使われる名称として一般にも普及した。 '''DV端子'''も[[デジタルビデオ]][[カムコーダ]]やデジタル[[ビデオテープレコーダ]]に搭載されたIEEE 1394端子の呼称の1つであったが、電源供給機能を持たず、通信できる信号の内容が[[DV (ビデオ規格)|DV]]規格の映像音声信号のものに限定の設計になっている。現在では「i.LINK(DV)」等と呼ばれることが多い。 {{Main|DV端子}} === 仕様 === [[プラグアンドプレイ|プラグ&プレイ]]および[[ホットスワップ|ホットプラグ]]に対応している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.spacesoft.co.jp/Products/IEEE1394/What1394/NewBus.htm |title=新世代バスの分類 |work=IEEE1394 とは |publisher=有限会社スペースソフト |accessdate=2020-03-05}}</ref>。 [[バス (コンピュータ)|バス]]上にホスト機器を必要とせず、機器から機器へと接続するだけでデータ転送が可能になっている。そのため、IEEE 1394対応機器は[[入出力ポート|ポート]]を2つ備えている場合が多い。この2基のポートは、片方から送られてくるパケットは[[リピータ]]として必ず他方へそのまま再送信することが義務づけられていた。 <!--ここには「この2基の・・・」がコメントアウトされていて、続けて「ユーザ操作性には影響しない技術的詳細を、あえて記述する意図がわからない 」と書かれていたのですが、これは詳細というほどではなく技術的情報も当然記載されているべきです。--> 例えば、パソコンで使用するのであればパソコンのポートから[[DVD]]ドライブ、DVDのポートから[[ハードディスクドライブ|HDD]]と、数珠繋ぎに接続出来る([[デイジーチェーン]])。また、リピータハブを用いてツリー状にネットワークを組むことも可能である。ツリーとデイジーチェーンを混在させることもできるが、ネットワークが[[ループバック]]を形成してしまうことの無いように注意が必要である。また、ケーブルの長さは4.5メートルまでで、機器の接続は63台までという規格になっている。 IEEE 1394では様々なデータをやり取りするため、IEEE 1394が規定する[[プロトコル]]上に[[スタック]]するプロトコルが用意されている。その中でも[[SBP2]] (Serial Bus Protocol-2) は[[SCSIコマンド]]をやり取りするためのプロトコルでSCSIで接続できるデバイス([[Advanced Technology Attachment#ATAPI|ATAPI]]、[[イメージスキャナ]]など)を扱えるようになる。 機器への電源供給([[バスパワード|バスパワー]])に対応した6ピンコネクタと非対応の4ピンコネクタが存在し、i.LINK、DV端子としては主に4ピンが用いられる{{Sfn|伊藤|2001|p=288}}。IEEE 1394-1995、IEEE 1394a-2000 など、いくつかのバージョンが存在するが、いずれもほぼ同等の機能をもつ。6ピンコネクタは、8 Vから最高33 V/1.5 Aの強力な電源供給機能を持つが、これらの供給能力はバス上に存在する全ての接続機器の能力に左右される。 == 特許問題 == IEEE 1394は複数の企業にまたがる複数の[[特許]]技術が採用されており、当初、その利用には個別に[[ライセンス]]を受ける必要があった。一方で類似規格である[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]では、デバイスの製造には製造者の申請こそ必要なものの、特許使用料自体は無料であった。この事により多くの中小企業が参入の難しいIEEE 1394ではなくUSBを選んだと言われており、USBを用いた[[玩具]]など幅広い製品が発売された。 このIEEE 1394に関する複雑な特許問題は、早くから特許を保有する企業群の間でも問題視されており、[[1999年]]5月には共同ライセンスプログラムを発表し、1デバイスあたり1ライセンスで25セントの特許料支払いで解決できるようになった。 ただ、1デバイス1ライセンスであるため、1企業1ライセンスと単純なUSBほどの広がりは見せていない。 == 衰退 == 前述の特許問題の影響でチップセットメーカーである[[インテル]]がIEEE1394のチップセットの統合に消極的(ただしインテルは特許問題は決着したと言及している)<ref>{{Cite web|和書|title=後藤弘茂のWeekly海外ニュース|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990416/kaigai01.htm|website=pc.watch.impress.co.jp|accessdate=2020-05-14}}</ref>だったことによって普及が思うようにいかなかったことや、USBが速度を大幅にアップさせたUSB3.0を登場させ、IEEE1394の速度を上回ってしまった<ref>IEEE1394の最高速度であるIEEE1394bが3200Mbps(3.2Gbps)なのに対し、USB3.0は5Gbps。</ref>こと、さらにApple自体もインテルと共同開発した[[Thunderbolt]]を策定したことによって、[[Macintosh]]などをThunderboltに置き換えるなど、IEEE1394を搭載しないパソコンが徐々に増えていき衰退していった。 == 接続方法 == ; デイジーチェーン : 機器がリピータとなり、パソコンのポートをホストに機器から機器へと直接接続する方式。最大接続台数17(パソコン含む)、機器間のケーブル長4.5 mまで、総延長72 mまで接続可能 ; スター : パソコンのポート1つに対し1台の機器を接続する方式。機器間のケーブル長4.5 mまで ; ツリー : リピータハブを用いて枝分かれさせながら接続する方式。途中にデイジーチェーンやスター接続も可能。最大接続台数63(パソコン含む)、機器間のケーブル長4.5 mまで、ひとつの枝に対し最大17台(パソコン含む)、総延長72 mまで接続可能 == 拡張規格 == [[ファイル:Buffalo IFC-ILP4.jpg|thumb|IEEE 1394カード<br/>([[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]製)]] ; IEEE 1394a-2000 : いくつかの点を改良し、あらためて規格として策定したもの。IEEE 1394-1995とほぼ同じ。後述のIEEE 1394bと区別するため'''FireWire 400'''とも呼ばれる。 : 工業用途で用いられる場合、単に'''.a'''(ドットエー)と呼ばれることもある。 ; IEEE 1394b-2002 : '''FireWire 800'''とも呼ばれ、現在のところ800 Mbpsまでに対応した規格。IEEE 1394aとは上位互換性を持つが、端子の形状がIEEE 1394aの6ピンに対して9ピンとなっており{{R|spacesoft-1394b}}、変換ケーブルが必要となる。 : 工業用途で用いられる場合、単に'''.b'''(ドットビー)と呼ばれることもある。 : なお、IEEE 1394の普及促進団体1394 Trade Associationは、2008年2月に3200 Mbpsまでの転送速度に対応する拡張仕様 "'''FireWire S3200'''" を策定。従来のFireWire800で使用されているケーブルやコネクタがそのまま使用できる。 ; IEEE 1394c-2006 : '''FireWire S800T'''とも呼ばれ、[[物理層]]として[[カテゴリー5ケーブル|カテゴリー5]]に対応した[[ツイストペアケーブル]]を使用する規格。FireWire 800と同等の機能をもち、転送速度は最大で800 Mbps。 == 利用例 == === コンピュータ === * Macintosh -1999年にリリースされた[[Power Macintosh G3 (Blue & White)|Power Macintosh G3(B&W)]]から、[[Mac Pro|Mac Pro (Mid 2012)]], [[Mac mini|Mac mini (Late 2012)]], [[MacBook Pro|MacBook Pro (Mid 2012)]]まで採用されていた。 * VAIO - 1998年にリリースされた[[VAIO|バイオノート 505]]シリーズから搭載<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980629/sony.htm|title=ソニー、VAIO 505新機種にIEEE1394端子搭載|accessdate=2018-08-23|website=pc.watch.impress.co.jp}}</ref>。 *CASSIOPEIA FIVA - 2001年にリリースされた8.4インチノートパソコン [[カシオペア (コンピュータ)|カシオペアファイバ]] MPC-205から搭載。 === コンピュータ周辺機器 === * ストレージ ** ハードディスクドライブ ** [[CD-R]]ドライブ、DVDドライブ、[[Blu-ray Disc]]ドライブ ** [[光磁気ディスク|MO]]ドライブ ** [[ZIP_(記憶媒体)|ZIP]]ドライブ ** [[メモリーカード]]リーダー ** IEEE1394[[フラッシュメモリ]] * [[デジタルオーディオプレーヤー]] ** [[iPod]] - もともとiPodの接続はFireWire接続専用であったが、[[2003年]]発売の第3世代からUSB2.0をサポート。[[2005年]]9月から発売された第1世代[[iPod nano]]/第5世代iPodから転送はUSBのみとなり、FireWireは充電専用となった。 * [[オーディオインターフェース]] : コンピュータへ音声を取り込み、あるいは出力する際に使用する機器。特に高機能な製品において、多チャンネルのオーディオ信号を低[[レイテンシ]]で入出力するというシビアな要求から、USBに集約される傾向にある他のPC周辺機器と比較すると大きなニーズを持っている([[mLAN]]も参照)。当機器の登場当初は秀でた[[DTM]]ソフトウェアがほとんど[[Macintosh]]用(すなわちFireWire用)であった歴史経緯も、ニーズ残存に無縁ではない。 * [[Webカメラ]] * [[プリンター|プリンタ]]、[[イメージスキャナ]] * [[デジタルカメラ]] * ビデオ・テレビ[[キャプチャ (録画ソフト)|キャプチャ]]ボックス === 家庭電化製品 === * [[テレビ受像機]] * [[セットトップボックス]] * [[PlayStation 2]] - [[テレビゲーム]]機。ただし、[[PlayStation_2#SCPH-50000系|SCPH-50000]]以降の型番では削除されている。 * デジタルビデオカメラ、[[カムコーダ]] * [[BDレコーダー]] - セットトップボックスと接続することで(パススルー方式ではない場合であっても)[[ケーブルテレビ]]のBS・CSのハイビジョン放送の録画が可能になる。 * [[デジタルチューナー]]、[[D-VHS]]、一部の[[ハードディスク・レコーダー|HDDレコーダー]] - デジタルテレビ放送の[[MPEG-2システム|MPEG-2 TS]]を伝送 '''IEEE 1394ベースの接続規格''' * i.LINK - 上記のセットトップボックス・デジタルチューナー・レコーダーの端子の呼称、一部は下記のDV端子の機能を包含する。機器の端子部分や説明書において、[[DV (ビデオ規格)|DV]]規格のみ送受信可能な端子には「i.LINK(DV)」、[[デジタルテレビ放送]]などのMPEG-2 TS規格のみ送受信可能な端子には「i.LINK(TS)」等の付記がされることもある。また機器の実装において、送出(OUT)専用や受け入れ(IN)専用の端子とされている場合もある。 * DV端子 - 主にビデオカメラのDV規格デジタルビデオ映像音声を伝送。現在では「i.LINK(DV)」等の記述が多い。 * [[IP over IEEE 1394]] - OSが対応していればLANと同じように使うことができ、さらに端末相互をデイジーチェーンで接続することで、ハブがなくてもネットワークを組むことが可能。 * [[SBP2]] - SCSI ストレージ機器接続 * [[mLAN]] - [[MIDI]]、オーディオ * [[HAVi]] - 家庭用AV機器の相互接続規格 === 機器制御・業務用途 === * [[IDB-1394]] - 高速車載LAN規格。 * 工業用[[CCDイメージセンサ|CCDカメラ]] - 工業用の場合、通常のIEEE 1394コネクタと異なり、抜け防止のネジ止め機構が付いている。 * [[スペースシャトル]]{{R|SAE}} * [[F-22 (戦闘機)|F-22]] - 戦闘機。内部システムネットワークに使用。 * [[F-35 (戦闘機)|F-35]] - 戦闘機。内部システムネットワークにIEEE 1394bを採用{{R|SAE}}<ref>{{Cite web|url=http://www.1394ta.org/press/TAPress/2007_0904.html |title=IEEE 1394b Playing Pivotal Role in F-35 Lightning II Joint Strike Fighter |accessdate=2011-03-01 |language=en}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite magazine|和書|magazine=DOS/V POWER REPORT |year=2001 |month=12 |volume=11 |issue=12 |title=IEEE1394環境の現状と課題 |last=伊藤 |first=五郎 |publisher=インプレス |id=[[雑誌コード]] 06705-12 |pages=288-294 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[ユニバーサル・シリアル・バス]] (USB) - 競合規格 * [[Thunderbolt]] - Appleとインテルが共同開発した事実上の後継規格。AppleはThunderboltからFireWireに変換できるアダプタを発売している。 == 外部リンク == {{Commons|FireWire}} * [http://www.1394ta.org 1394 Trade Association]{{en icon}} * [http://developer.apple.com/hardwaredrivers/firewire/ アップル FireWire]{{en icon}} * [http://www.sony.jp/products/i-link/ ソニー i.LINK プロダクトインフォメーション] * [http://www.mlancentral.com ヤマハ mLAN mLANcentral]{{en icon}} * [http://pinouts.ws/firewire-1394-pinout.html FireWire (IEEE-1394) pinout]{{en icon}} * [http://support.microsoft.com/kb/233307# Microsoft サポートオンライン - IEEE 1394 関連の一般的なトラブルシューティング] {{コンピュータバス}} {{IEEE standards}} {{Basic computer components}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:IEEE 1394}} [[Category:インタフェース規格]] [[Category:IEEE標準|*01394]] [[Category:映像端子]] [[Category:音声端子]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IEEE_1394
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かくれんぼ
かくれんぼ(速蔵、かくれんぼう、隠れん坊)は、伝統的な子供の遊びである。全国的に有名である。鬼が目をふさいでいる間に子が隠れ、後に鬼が子を見つけだすという単純なルールであり、派生したルールを持つ遊びも多い。「かくれご」とも呼ばれる。 なお、日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在する(英語圏のHide-and-seekなど)。 かくれんぼに明確なルールは存在しないが、一般に遊ばれているルールを総合すると、次のようなものになる。 かくれんぼは2人以上によって行われ、1人の鬼(親ともいう)と残りの子に分かれる(人数が多い時は鬼を複数人にすることもある)。最初の鬼はじゃんけんなどによって決めることが多い。 鬼は壁や柱といった、もたれかかることができる場所に顔を向け、腕で目をふさぎ、あらかじめ決められていただけの数を大声で数える。この声が聞こえている間に子は鬼に見つからないような場所を見つけ、潜む。子が潜むことができる範囲ははっきり決まっていないことが多いが、一般には鬼が数を数える声が聞こえる範囲、というのが不文律的に定められている。これは、あまりに遠くなると探すのに時間がかかるのに加え、後述する確認の作業が行えないためである。 決められた数を数えると、鬼は確認の作業を行う。これは、子が全員隠れたことを確認するとともに、鬼の捜索開始を宣言するものである。鬼は数を数える時の体勢のまま「もういいかい」と、大声で尋ねる。子は、自分がすでに隠れ終わっている場合は「もういいよ」、まだ隠れきっていない場合は「まあだだよ(「まだだよ」の意)」と答える。「まあだだよ」の声が聞こえた場合、鬼はしばらく待って、再び「もういいかい」と尋ねる。この間に、まだ隠れていない子は早急に隠れなくてはならない。これを繰り返し、「まあだだよ」の声が聞こえなくなると、鬼は目を開き、開始する。この確認作業は省略されることもある。 鬼は目をふさいでいる間の物音や、「もういいよ」の声の届いた方向・距離などをたよりに、隠れた子を見つけだす。子を見つけると、鬼は相手の名前の後に「みいつけた(「見つけた」の意)」と叫び指を指し、発見したことを宣言する。発見の時には実際に手を触れないと駄目だとするルールもある。こうして子が全員発見されると、最初に発見された子が新たな鬼となり、次のセットを開始する。毎回のセットでは、鬼が最後まで見つけられなかった子がさしあたっての優秀者と見なされるが、総合を争うといったことはほとんど行われない。 日本では近代まで神隠し・誘拐(人身売買)を恐れ、夕暮れ時以降はタブーとされていた。 かくれんぼはそのルールの単純さから、それに派生したルールを定めた別の遊びがいくつか存在する。たとえば、鬼に気づかれないように後ろから近づき、鬼の背中に触れると同時に「アウト」と言うことに成功した場合、その鬼はもう一度鬼になるルールの存在である。これは後述する缶けりに近い。鬼ごっことの融合で、隠れ鬼ごっこなどの名前がつく場合もある。かくれんぼのルールを強く生かしたものとしては、一度見つかった参加者の再解放を可能にした缶けりが有名である。
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かくれんぼ(速蔵、かくれんぼう、隠れん坊)は、伝統的な子供の遊びである。全国的に有名である。鬼が目をふさいでいる間に子が隠れ、後に鬼が子を見つけだすという単純なルールであり、派生したルールを持つ遊びも多い。「かくれご」とも呼ばれる。 なお、日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在する(英語圏のHide-and-seekなど)。
{{Otheruses|子供の遊びのかくれんぼ|「かくれんぼ」を称する作品|かくれんぼ (曖昧さ回避)}} [[ファイル:Meyerheim Versteckspiel.jpg|thumb|right|200px|かくれんぼで遊ぶこどもたち]] '''かくれんぼ'''(速蔵<ref>{{Cite book|和書 |title=日本難訓難語大辞典 |year=2007 |publisher=[[遊子館]]}}</ref>、かくれんぼう、隠れん坊)は、伝統的な[[こどもの文化|子供の遊び]]である。全国的に有名である。[[鬼]]が目をふさいでいる間に子が隠れ、後に鬼が子を見つけだすという単純なルールであり、派生したルールを持つ遊びも多い。「かくれご」とも呼ばれる。 なお、日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在する(英語圏のHide-and-seekなど)。 == ルール == かくれんぼに明確なルールは存在しないが、一般に遊ばれているルールを総合すると、次のようなものになる。 かくれんぼは2人以上によって行われ、1人の鬼(親ともいう)と残りの子に分かれる(人数が多い時は鬼を複数人にすることもある)。最初の鬼は[[じゃんけん]]などによって決めることが多い。 鬼は壁や柱といった、もたれかかることができる場所に顔を向け、腕で[[目]]をふさぎ、あらかじめ決められていただけの数を大声で数える。この声が聞こえている間に子は鬼に見つからないような場所を見つけ、潜む。子が潜むことができる範囲ははっきり決まっていないことが多いが、一般には鬼が数を数える声が聞こえる範囲、というのが不文律的に定められている。これは、あまりに遠くなると探すのに[[時間]]がかかるのに加え、後述する[[確認]]の[[作業]]が行えないためである。 決められた数を数えると、鬼は''確認の作業''を行う。これは、子が全員隠れたことを確認するとともに、鬼の捜索開始を宣言するものである。鬼は数を数える時の体勢のまま「もういいかい」と、大声で尋ねる。子は、自分がすでに隠れ終わっている場合は「もういいよ」、まだ隠れきっていない場合は「まあだだよ(「まだだよ」の意)」と答える。「まあだだよ」の声が聞こえた場合、鬼はしばらく待って、再び「もういいかい」と尋ねる。この間に、まだ隠れていない子は早急に隠れなくてはならない。これを繰り返し、「まあだだよ」の声が聞こえなくなると、鬼は目を開き、開始する。この確認作業は省略されることもある。 鬼は目をふさいでいる間の物音や、「もういいよ」の声の届いた方向・[[距離]]などをたよりに、隠れた子を見つけだす。子を見つけると、鬼は相手の[[名前]]の後に「みいつけた(「見つけた」の意)」と叫び指を指し、発見したことを宣言する。発見の時には実際に手を触れないと駄目だとするルールもある。こうして子が全員発見されると、最初に発見された子が新たな鬼となり、次のセットを開始する。毎回のセットでは、鬼が最後まで見つけられなかった子がさしあたっての優秀者と見なされるが、総合を争うといったことはほとんど行われない。 日本では近代まで[[神隠し]]・[[誘拐]]([[人身売買]])を恐れ、夕暮れ時以降は[[タブー]]とされていた<ref>[[柳田國男]]『山の人生』郷土研究社 [[1926年]]、所収『柳田國男全集』筑摩書房、『柳田國男文芸論集』講談社文芸文庫。[[小松和彦]]「かはたれ時、たそがれ時-神隠しと隠れんぼのタブー」「建築雑誌」Vol.106, No.1312([[1991年]]4月)。 </ref>。 == 派生した遊び == かくれんぼはその[[規則|ルール]]の単純さから、それに派生したルールを定めた別の遊びがいくつか存在する。たとえば、鬼に気づかれないように後ろから近づき、鬼の背中に触れると同時に「アウト」と言うことに成功した場合、その鬼はもう一度鬼になるルールの存在である<ref>[[コメットさん#第1期|コメットさん(第1期)]]第78話</ref>。これは後述する缶けりに近い。[[鬼ごっこ]]との融合で、[[隠れ鬼ごっこ]]などの名前がつく場合もある。かくれんぼのルールを強く生かしたものとしては、一度見つかった参加者の再解放を可能にした[[缶けり]]が有名である。 == 関連項目 == * [[湯村温泉 (兵庫県)|湯村温泉]] - 毎年6月に開催される全日本かくれんぼ大会の開催地 * [[こどもの文化]] - [[鬼ごっこ]]/[[隠れ鬼ごっこ]] - [[ぼうけん]]/[[缶けり]] * [[木曜ゴールデンドラマ]] かくれんぼ([[1985年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、主演:[[竹下景子]]) * [[ステルスゲーム]] * [[隠れん坊オンライン]] - オンラインのかくれんぼゲーム * [[Among Us]] - [[2022年]][[12月9日]]にかくれんぼモードが追加<ref>{{Cite web|last=Victoria|first=t.|date=2022-10-9|title=NEW GAME MODE: Hide n Seek is here! Emergency Meeting #35|url=https://www.innersloth.com/new-game-mode-hide-n-seek-is-here-emergency-meeting-35/|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2022-12-10|website=Innersloth|language=en-US}}</ref> == 外部リンク == {{Commonscat|Hide and seek}} * [https://japan-kakurenbo.com/ 日本かくれんぼ協会] *[https://japan-kakurenbo.com/japan-champ2019/ かくれんぼ日本選手権(2019年)] *[http://www.zennitikakurenbo.org/ 全日本かくれんぼ協会(2014年6月17日閲覧)] * [http://www.eventscramble.jp/e/kakurenbo/ 全日本かくれんぼ大会 イベントスクランブル(2014年6月17日閲覧)] == 脚注 == {{Reflist}} {{デフォルトソート:かくれんほ}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:鬼ごっこ]]
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鬼ごっこ
鬼ごっこ()は、子供の遊びの一つである。子供の屋外遊びとしては最もポピュラーなものであり、狭義には、メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続くという形式のものをさす。鬼事(おにごと)や鬼遊びとも呼ばれる。 類似する遊びは世界中に存在し、ブリューゲルの絵画『子供の遊戯』にも、目隠しをしたオニが子を追いかける「目隠し遊び」の様子が描かれている。 また、オニと子の呼び方も多様であり、日本では追う側が鬼、追われる側が子と呼ばれるが、アメリカではルールも同じ「タグ」(tag)、ヨーロッパの「狐とがちょう」、中国の「鷹と鶏」、イランの「狼と仔羊」、ネイティブアメリカンの「コヨーテとおやじ」などさまざまな呼び名がある。自転車の鬼ごっこもタッチで交代と言うルールがある。 狭義の鬼ごっこのルールは、次のようなものになる。 鬼ごっこは2人以上の参加者によって行われ、1人のオニ(親ともいう)と残りの子に分かれる。最初の鬼はじゃんけんなどによって定めることが多い。 スタートと同時に、子は一斉にオニから遠く離れるべく逃げ出す。オニは一定時間(これは開始に先立って参加者間で定められる。たとえば「10数える間」など)その場にとどまり、その後で子を追いかける。オニ・子ともに移動は自由だが、逃げる範囲(開始前に「この公園の中」など明確に定められるか、あるいは漠然と不文律的に定められている)を逸脱することは禁じられている。また、自転車などの乗り物の利用や絶対的にオニが子にタッチできない状態をつくる(例えば屋内での鬼ごっこであれば一部屋に鍵を掛けて立て籠もるなど)ことは禁じられている。オニは子の体の一部分に触れることで子を捕まえることができる。捕まった子は新たにオニとなり、捕まえたオニは新たに子となる。これを繰り返すことでゲームは進行する。 また、鬼ごっこのルールには多様なバリエーションが存在する。 加古里子は『遊びの四季』(じゃこめてい出版、1975年)で「鬼ごっこ」のバリエーションとして、鬼の力の強さに応じて、 という5つの類型を紹介している。 また、同氏が文献等の調査に基づいて執筆した『伝承遊び考3 鬼遊び考』(小峰書店、2008年)では、「鬼ごっこ」を含む「鬼遊び」には500種類の基本形があり、それぞれに4ないし5種類のバリエーションが想定されるため、最低でも2000種類の鬼遊びが存在するとしている。 加えて、情報機器の発達に伴い、ニンテンドーDSのピクトチャットを連絡手段に使う鬼ごっこを行う子供達が現れるなど、時代と共に鬼ごっこの風景も変わっている。 YouTuberのFischer'sが、10908人を集めた鬼ごっこを行い「一つの会場で同時に鬼ごっこをした最多の人数」でギネス世界記録を達成した。 一部地域ではオニが子にタッチする行為に特定の名称が存在する。 鬼ごっこの一種、鬼ごっこから派生した遊びなど。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鬼ごっこ()は、子供の遊びの一つである。子供の屋外遊びとしては最もポピュラーなものであり、狭義には、メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続くという形式のものをさす。鬼事(おにごと)や鬼遊びとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "類似する遊びは世界中に存在し、ブリューゲルの絵画『子供の遊戯』にも、目隠しをしたオニが子を追いかける「目隠し遊び」の様子が描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、オニと子の呼び方も多様であり、日本では追う側が鬼、追われる側が子と呼ばれるが、アメリカではルールも同じ「タグ」(tag)、ヨーロッパの「狐とがちょう」、中国の「鷹と鶏」、イランの「狼と仔羊」、ネイティブアメリカンの「コヨーテとおやじ」などさまざまな呼び名がある。自転車の鬼ごっこもタッチで交代と言うルールがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "狭義の鬼ごっこのルールは、次のようなものになる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鬼ごっこは2人以上の参加者によって行われ、1人のオニ(親ともいう)と残りの子に分かれる。最初の鬼はじゃんけんなどによって定めることが多い。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スタートと同時に、子は一斉にオニから遠く離れるべく逃げ出す。オニは一定時間(これは開始に先立って参加者間で定められる。たとえば「10数える間」など)その場にとどまり、その後で子を追いかける。オニ・子ともに移動は自由だが、逃げる範囲(開始前に「この公園の中」など明確に定められるか、あるいは漠然と不文律的に定められている)を逸脱することは禁じられている。また、自転車などの乗り物の利用や絶対的にオニが子にタッチできない状態をつくる(例えば屋内での鬼ごっこであれば一部屋に鍵を掛けて立て籠もるなど)ことは禁じられている。オニは子の体の一部分に触れることで子を捕まえることができる。捕まった子は新たにオニとなり、捕まえたオニは新たに子となる。これを繰り返すことでゲームは進行する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、鬼ごっこのルールには多様なバリエーションが存在する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "加古里子は『遊びの四季』(じゃこめてい出版、1975年)で「鬼ごっこ」のバリエーションとして、鬼の力の強さに応じて、", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "という5つの類型を紹介している。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、同氏が文献等の調査に基づいて執筆した『伝承遊び考3 鬼遊び考』(小峰書店、2008年)では、「鬼ごっこ」を含む「鬼遊び」には500種類の基本形があり、それぞれに4ないし5種類のバリエーションが想定されるため、最低でも2000種類の鬼遊びが存在するとしている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "加えて、情報機器の発達に伴い、ニンテンドーDSのピクトチャットを連絡手段に使う鬼ごっこを行う子供達が現れるなど、時代と共に鬼ごっこの風景も変わっている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "YouTuberのFischer'sが、10908人を集めた鬼ごっこを行い「一つの会場で同時に鬼ごっこをした最多の人数」でギネス世界記録を達成した。", "title": "ギネス世界記録" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一部地域ではオニが子にタッチする行為に特定の名称が存在する。", "title": "タッチの呼称" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "鬼ごっこの一種、鬼ごっこから派生した遊びなど。", "title": "鬼ごっこ系の遊び" } ]
鬼ごっこは、子供の遊びの一つである。子供の屋外遊びとしては最もポピュラーなものであり、狭義には、メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続くという形式のものをさす。鬼事(おにごと)や鬼遊びとも呼ばれる。 類似する遊びは世界中に存在し、ブリューゲルの絵画『子供の遊戯』にも、目隠しをしたオニが子を追いかける「目隠し遊び」の様子が描かれている。 また、オニと子の呼び方も多様であり、日本では追う側が鬼、追われる側が子と呼ばれるが、アメリカではルールも同じ「タグ」(tag)、ヨーロッパの「狐とがちょう」、中国の「鷹と鶏」、イランの「狼と仔羊」、ネイティブアメリカンの「コヨーテとおやじ」などさまざまな呼び名がある。自転車の鬼ごっこもタッチで交代と言うルールがある。
{{Otheruses|伝統的な遊び|その他|おにごっこ (曖昧さ回避)}} {{読み仮名|'''鬼ごっこ'''|おにごっこ、鬼子事<ref>{{Citation|和書|year=1934|contribution= おにごっこ(鬼子事)|editor=金沢庄三郎|editor-link=金沢庄三郎|title=[[広辞林]]|edition=新訂|publisher=[[三省堂]]|pages=217}}</ref>、鬼事<ref>{{Citation|和書|author=落合直文|author-link=落合直文|year=1921|contribution=おにごっこ(鬼事)|others=[[芳賀矢一]]改修|title=言泉:日本大辞典|volume=第一|publisher=[[大倉書店]]|pages=544}}</ref>}}は、[[こどもの文化|子供の遊び]]の一つである。子供の屋外遊びとしては最もポピュラーなものであり、狭義には、メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続くという形式のものをさす<ref>加古里子『伝承遊び考3 鬼遊び考』[[小峰書店]]、2008。pp45-46。</ref>。'''鬼事'''(おにごと)や'''鬼遊び'''とも呼ばれる<ref>{{Citation|和書|year=2019|contribution=おにごっこ(鬼ごっこ)|editor=松村明|editor-link=松村明|title=[[大辞林|大辞林 4.0]]|publisher=[[三省堂]]}}</ref>。 類似する遊びは世界中に存在し、[[ピーテル・ブリューゲル|ブリューゲル]]の絵画『[[子供の遊戯]]』にも、目隠しをしたオニが子を追いかける「[[目隠し鬼|目隠し遊び]]」の様子が描かれている<ref>森洋子「ブリューゲルの「子供の遊戯」(3):ブランコ遊びから目隠し鬼ごっこまで」『幼児の教育』、1981。p36。</ref>。 また、オニと子の呼び方も多様であり、日本では追う側が[[鬼]]、追われる側が子と呼ばれるが、アメリカではルールも同じ「タグ」[[:en:Tag (game)|(tag)]]<ref>[[アーサー・ビナード]](『もしも、詩があったら』[[光文社新書]] 2015年)pp.198-210。</ref>、[[ヨーロッパ]]の「狐とがちょう」、[[中国]]の「鷹と鶏」、[[イラン]]の「狼と仔羊」、[[ネイティブアメリカン]]の「[[コヨーテ]]とおやじ」などさまざまな呼び名がある<ref>大森隆子[http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou12/06%20Omori.pdf 「保育のための“遊び”研究考(VII)-「子とろ子とろ」について(下)-」]『豊橋短期大学紀要 第12号』1995。p136。</ref>。自転車の鬼ごっこもタッチで交代と言うルールがある。 == ルール == 狭義の鬼ごっこのルールは、次のようなものになる。 鬼ごっこは2人以上の参加者によって行われ、1人のオニ(親ともいう)と残りの子に分かれる。最初の鬼は[[じゃんけん]]などによって定めることが多い。 スタートと同時に、子は一斉にオニから遠く離れるべく逃げ出す。オニは一定時間(これは開始に先立って参加者間で定められる。たとえば「10数える間」など)その場にとどまり、その後で子を追いかける。オニ・子ともに移動は自由だが、逃げる範囲(開始前に「この公園の中」など明確に定められるか、あるいは漠然と不文律的に定められている)を逸脱することは禁じられている。また、自転車などの乗り物の利用や絶対的にオニが子にタッチできない状態をつくる(例えば屋内での鬼ごっこであれば一部屋に鍵を掛けて立て籠もるなど)ことは禁じられている。オニは子の体の一部分に触れることで子を捕まえることができる。捕まった子は新たにオニとなり、捕まえたオニは新たに子となる。これを繰り返すことでゲームは進行する。 また、鬼ごっこのルールには多様なバリエーションが存在する。 [[かこさとし|加古里子]]は『遊びの四季』(じゃこめてい出版、1975年)で「鬼ごっこ」のバリエーションとして、鬼の力の強さに応じて、 * 鬼の力が強く、子は逃げるだけのもの * 鬼の入れない領域やハンデを課してその力を制限するもの * 子のうちの小数が鬼に対抗できる力を持つもの * 鬼の力を奪い取るものや鬼と子の力が互角のもの * 何らかの弱点を持った鬼がいじめられるもの という5つの類型を紹介している。 また、同氏が文献等の調査に基づいて執筆した『伝承遊び考3 鬼遊び考』(小峰書店、2008年)では、「鬼ごっこ」を含む「鬼遊び」には500種類の基本形があり、それぞれに4ないし5種類のバリエーションが想定されるため、最低でも2000種類の鬼遊びが存在するとしている。 加えて、情報機器の発達に伴い、[[ニンテンドーDS]]の[[ピクトチャット]]を連絡手段に使う鬼ごっこを行う子供達が現れる<ref>{{Cite web|和書|date=2008-7-12|url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008071290135030.html|title=DS鬼ごっこで遊ぼ 無線通信で“情報戦”|publisher=東京新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080714074826/http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008071290135030.html|archivedate=2008-7-14|accessdate=2010-4-10<!-- アーカイブページを閲覧 -->}}</ref>など、時代と共に鬼ごっこの風景も変わっている。 == ギネス世界記録 == [[YouTuber]]の[[フィッシャーズ (YouTuber)|Fischer's]]が、10908人を集めた鬼ごっこを行い「一つの会場で同時に鬼ごっこをした最多の人数」で[[ギネス世界記録]]を達成した<ref>[http://www2.knb.ne.jp/news/20110605_28354.htm 鬼ごっこでギネス新記録樹立]{{リンク切れ|date=2013年4月13日 (土) 04:58 (UTC)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://web.archive.org/web/20110614034800/http://news24.jp/articles/2011/06/06/07184006.html |title=ギネス新記録樹立!1500人超が鬼ごっこ|work=[[日テレNEWS24]]|author=|publisher=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]|accessdate=2013-04-13}}</ref>。 == タッチの呼称 == 一部地域ではオニが子にタッチする行為に特定の名称が存在する。 * でん(をつく)([[大阪府]]) - 鬼ごっこ以外でもタッチそのものを指す用語や、短時間の滞在、とんぼ返りを指す用語としても使用される(「○○さんの家にでんして帰ってきただけや」など)。鬼ごっこそのものが「でんつき」と呼ばれる事もある(ただし「でんつき」はどちらかというと「[[缶蹴り]]」に近い遊びの意味で使われることが多い)。 * あがり([[奈良県]]の一部) * えった([[北海道]]) - [[ロシア語]]が語源という説がある。 == 鬼ごっこ系の遊び == 鬼ごっこの一種、鬼ごっこから派生した遊びなど。 * [[目隠し鬼]] * [[いろ鬼]] * [[こおり鬼]] * [[かわり鬼]] * [[バナナ鬼]] * [[しっぽ鬼]] * [[高鬼]] * [[手つなぎ鬼]] * [[ボール鬼]] * [[ケイドロ]] * [[隠れ鬼ごっこ]] * [[ぼうけん]] * [[バラ当て]] * [[水雷艦長]] ==派生競技== * [[スポーツ鬼ごっこ]] * [[チェイスタグ]] * [[パルクール鬼ごっこ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 関連項目 == * [[鬼]] * [[鬼ごっこ協会]] * [[こどもの文化]] * [[かくれんぼ]] * [[缶けり]] * [[ポコペン]] * [[だるまさんがころんだ]] * [[影踏み鬼]] * [[ハンカチ落とし]] * [[リーダー探し]] * [[五歩]] * [[ウインク殺人事件]] * [[フォックスハンティング]] {{日本の遊戯}} [[Category:鬼ごっこ|*]] [[Category:子供の遊び|おにこつこ]]
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Javaアプレット
Javaアプレット(Java Applet)は、ネットワークを通してWebブラウザに読み込まれ実行されるJavaのアプリケーションの一形態。Java 10まではJava Runtime Environmentに搭載されていて、Java 9より非推奨になり、Java 11で廃止。 最初の実装は1995年に公開されたHotJavaへのもので、その後1996年にNetscape Navigatorに搭載されたことで普及した。単にアプレットとも言う。基本的にデスクトップ版Javaの全機能を持つが、Webページの一部として自動的に読み込まれて動作するため、セキュリティー上の観点から一般のアプリケーションプログラムと比べさまざまな制限(サンドボックス)が課せられている。ただし、このセキュリティー上の制限は、ユーザーの許諾により解除する事もできる。 Javaアプレットを実行するにはWebブラウザがNPAPI(英語版)をサポートしていることが必要である。Google Chromeはバージョン42(2015年4月)でNPAPIが標準状態で無効になりバージョン45(2015年9月)以降でNPAPIをサポートしなくなった。Mozilla Firefoxはバージョン52(2017年3月)以降でFlash Player以外のすべてのNPAPIプラグインのサポートを打ち切った。オラクル社は2017年9月22日にリリースされたJava 9でJavaアプレットを非推奨にし、Java 11では廃止することを2016年1月27日に発表した。JavaアプレットだけでなくFlashやSilverlightといった類似技術も多数のWebブラウザがサポート廃止予定で今後はHTML5とJavaScriptなどに移行する流れである。 Webの普及初期に、インタラクティブ性を高められる技術の一つとして注目を浴び、当時のWeb普及に寄与した。しかし、当時Internet Explorerとシェアを二分していたNetscape 4.xにおいて当時まだできたばかりのJITコンパイルに時間がかかった等の理由により、Javaアプレットをロードすると数十秒から数分の間操作を受け付けなくなるという現象が起こり、この現象が影響してJavaアプレットを利用したサイトが敬遠されるようになってしまった。また、当初は以下のような技術的な問題もあり、ShockwaveやFlashの台頭もあって、ウェブ上でインタラクティブ性を実現する用途には、広く使われているとは言えない状況であった。 これらは主にJavaアプレットが登場したときまだ十分にWeb関連の技術や環境が発達していなかったことによるが、その後のJava VMの改良や、回線速度の向上、ハードウェア性能の向上により解消されているものが多い。その後は、利用シェアが大きいとは言えないものの、オンライントレードのローソク足チャート表示、チャットやCGアニメーション、ゲーム、教育機関による学習システムなどでの利用を見ることができた。 登場時には画期的であった、以下のような特徴がある。 終盤においても以下の欠点があり、利用上の問題点となるときがあった。 Webブラウザに組み込んで使うことを目指して作成され、その後の仕様変更・機能追加もWebブラウザ利用に焦点を置いたものであるが、Javaアプレットを動作させるアプリケーションが必ずWebブラウザでなければならないわけではない。例えばOpenOffice.orgでは、文書内にJavaアプレットを埋め込むことができる。 Java アプレットには、インターネットでの配布を可能にするために以下のようなセキュリティー上の制限が設けられている。 これらの制限は、ユーザーがポリシー・ファイルを作成し、これらの動作を許諾することによって外すことができる。ポリシー・ファイルは、URIで指定されるコードベース(codeBase)、もしくは電子署名(signedBy)ごとに承諾する動作を規定する。なお、後者の場合はアプレット開発者がアプレットにJarSignerというツールを使って電子署名する必要があるが、署名に必要な鍵は他の処理系で使われる鍵と同一のもの、例えばOpenSSLで生成したものが利用できる。 アプリケーション配布システムとしては、Javaアプレットよりも便利で高度なJava Web Startの登場により、必要性が薄れてきている。
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Javaアプレットは、ネットワークを通してWebブラウザに読み込まれ実行されるJavaのアプリケーションの一形態。Java 10まではJava Runtime Environmentに搭載されていて、Java 9より非推奨になり、Java 11で廃止。
'''Javaアプレット'''(Java Applet)は、ネットワークを通して[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]に読み込まれ実行される[[Java]]の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の一形態。Java 10までは[[Java Runtime Environment]]に搭載されていて、Java 9より非推奨になり、Java 11で廃止<ref name="roadmap201803">[http://www.oracle.com/technetwork/java/javase/javaclientroadmapupdate2018mar-4414431.pdf Java Client Roadmap Update - An Oracle White Paper March 2018]</ref>。 == 概要 == 最初の実装は[[1995年]]に公開された[[HotJava]]へのもので、その後[[1996年]]に[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]に搭載されたことで普及した。単に[[アプレット]]とも言う。基本的にデスクトップ版Javaの全機能を持つが、Webページの一部として自動的に読み込まれて動作するため、セキュリティー上の観点から一般のアプリケーションプログラムと比べさまざまな制限([[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]])が課せられている。ただし、このセキュリティー上の制限は、ユーザーの許諾により解除する事もできる。 Javaアプレットを実行するには[[Webブラウザ]]が{{仮リンク|NPAPI|en|NPAPI}}をサポートしていることが必要である。[[Google Chrome]]はバージョン42(2015年4月)でNPAPIが標準状態で無効になりバージョン45(2015年9月)以降でNPAPIをサポートしなくなった。[[Mozilla Firefox]]はバージョン52(2017年3月)以降で[[Flash Player]]以外のすべてのNPAPIプラグインのサポートを打ち切った<ref>https://support.mozilla.org/ja/kb/npapi-plugins</ref>。[[オラクル (企業)|オラクル]]社は2017年9月22日にリリースされたJava 9でJavaアプレットを非推奨にし、Java 11<ref name="roadmap201803"/>では廃止することを2016年1月27日に発表した<ref>https://blogs.oracle.com/java-platform-group/moving-to-a-plugin-free-web</ref>。JavaアプレットだけでなくFlashや[[Silverlight]]といった類似技術も多数のWebブラウザがサポート廃止予定で今後は[[HTML5]]と[[JavaScript]]などに移行する流れである。 == 歴史 == Webの普及初期に、インタラクティブ性を高められる技術の一つとして注目を浴び、当時のWeb普及に寄与した。しかし、当時[[Internet Explorer]]とシェアを二分していたNetscape 4.xにおいて当時まだできたばかりの[[JIT]]コンパイルに時間がかかった等の理由により、Javaアプレットをロードすると数十秒から数分の間操作を受け付けなくなるという現象が起こり、この現象が影響してJavaアプレットを利用したサイトが敬遠されるようになってしまった。また、当初は以下のような技術的な問題もあり、[[Adobe Shockwave|Shockwave]]や[[Adobe Flash|Flash]]の台頭もあって、ウェブ上でインタラクティブ性を実現する用途には、広く使われているとは言えない状況であった。 *[[ブロードバンドインターネット接続]]の普及前は、Javaアプレットを快適に動作するのに必要な高速な回線を利用できるユーザが少なかった。 *Javaがまだ生まれて間もない技術だったためWebブラウザ上の[[Java仮想マシン|Java VM]]の動作が遅かった。 *最初の1 - 2年は、ベンダごとのJava仮想マシンの実装が仕様に合わず、[[マイクロソフト|Microsoft]]社製のJava仮想マシンが[[サン・マイクロシステムズ|SUN]]のライセンスに違反した独自仕様の実装を進めたこともあり、環境ごとの互換性を取るのが難しかった。 これらは主にJavaアプレットが登場したときまだ十分にWeb関連の技術や環境が発達していなかったことによるが、その後のJava VMの改良や、回線速度の向上、ハードウェア性能の向上により解消されているものが多い。その後は、利用シェアが大きいとは言えないものの、[[オンライントレード]]の[[ローソク足]][[罫線表|チャート]]表示、[[チャット]]や[[コンピュータグラフィックス|CG]][[アニメーション]]、[[ゲーム]]、教育機関による学習システムなどでの利用を見ることができた。 == 利点 == 登場時には画期的であった、以下のような特徴がある。 *ほぼ完全なJavaの環境であり、オブジェクト指向プログラミングで、高機能なアプリケーションを作成できる。実際に[[JPEG2000]]デコーダーや[[Secure Shell|SSH]]クライアント等の、通常は[[C言語]]などで書かれるような高度なアプリケーションも存在する。 *[[HyperText Markup Language|HTML]]内に埋め込むことにより、シームレスに高機能デスクトップ・アプリケーションの配布が可能であり、アプリケーションの配布コストを低減できる。 *サンドボックスと呼ばれる強力なセキュリティー機構を持つため、インターネットでのアプリケーション配布が可能である。 *ポータブルな[[クロスプラットフォーム]]環境である。同一の配布ファイルで、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[Mac OS]]、[[Linux]]等の処理系でアプリケーションを動作させることができる。 == 欠点 == 終盤においても以下の欠点があり、利用上の問題点となるときがあった。 *Javaが得意としない動画やベクター描画の処理は、必然的にJavaアプレットでも得意とされない。[[統合開発環境]]でのこれらの処理の記述サポートが貧弱であった。 *Java言語で書かれるので、専門的なプログラマー以外には難易度が高いとされる。この点を補うために[[JavaFX]]が登場しているが、認知度が高いとは言えなかった。 *ブラウザーにインストールされていないことがあった。[http://www.statowl.com/plugin_overview.php Web Browser Plugin Market Share / Global Usage]によればブラウザーのJava VMのインストール率は80%前後であり、同種の機能を持つAdobe Flashの95%超には及ばない。 == ブラウザー以外の用途 == Webブラウザに組み込んで使うことを目指して作成され、その後の仕様変更・機能追加もWebブラウザ利用に焦点を置いたものであるが、Javaアプレットを動作させるアプリケーションが必ずWebブラウザでなければならないわけではない。例えば[[OpenOffice.org]]では、文書内にJavaアプレットを埋め込むことができる。 == セキュリティー制限とその解除 == Java アプレットには、インターネットでの配布を可能にするために以下のようなセキュリティー上の制限が設けられている。 *[[ローカル]]の資源に[[アクセス]]できない([[クリップボード]]や[[ハードディスクドライブ|ディスク]]の読み書きができない、印刷機能を扱えないなど)。 *アプレットの[[ダウンロード]]元[[サーバ]]としか[[通信]]できない。 これらの制限は、ユーザーがポリシー・ファイルを作成し、これらの動作を許諾することによって外すことができる。ポリシー・ファイルは、[[URI]]で指定されるコードベース(codeBase)、もしくは[[電子署名]](signedBy)ごとに承諾する動作を規定する。なお、後者の場合はアプレット開発者がアプレットに[[JarSigner]]というツールを使って電子署名する必要があるが、署名に必要な鍵は他の処理系で使われる鍵と同一のもの、例えば[[OpenSSL]]で生成したものが利用できる。 == 関連技術 == アプリケーション配布システムとしては、Javaアプレットよりも便利で高度な[[Java Web Start]]の登場により、必要性が薄れてきている{{要出典|date=2018年11月}}。 == 関連項目 == {{Wikibooks|Java|Java}} * [[Javaアプリケーション]] * [[Java Servlet]] * [[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]] * [[HotJava]] * [[Java Web Start]] * [[JavaFX]] == 参照 == <references/> {{Java}} [[Category:Java]] [[Category:Javaプラットフォーム]] [[Category:ウェブ開発]]
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片桐仁
片桐 仁(かたぎり じん、1973年(昭和48年)11月27日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優、声優、彫刻家。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。トゥインクル・コーポレーション所属。埼玉県立春日部高等学校、多摩美術大学卒業。身長176cm。血液型B型。 妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)。 雑誌で連載を抱え、数多くの造形作品を発表している。作風は顔をモチーフとしたものが多く、彫刻家として片桐斎仁吾郎名義で粘土の作品集も出版している。 造形作品を発表しているもののみ。コラムやエッセイは除く。 主にコラムやエッセイなど。造形作品の連載は除く。
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片桐 仁は、日本のお笑いタレント、俳優、声優、彫刻家。 埼玉県南埼玉郡宮代町出身。トゥインクル・コーポレーション所属。埼玉県立春日部高等学校、多摩美術大学卒業。身長176cm。血液型B型。 妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)。
{{複数の問題 | 存命人物の出典明記 = 2014年11月 | 雑多な内容の箇条書き = 2011年6月 }} {{Infobox お笑い芸人 | 名前 = {{ruby|片桐|かたぎり}} {{ruby|仁|じん}} | 画像 = | キャプション = | 本名 = 片桐 仁 | ニックネーム = ギリジン、仁ちゃん | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1973|11|27}} | 没年月日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[宮代町]] | 血液型 = [[ABO式血液型|B型]] | 身長 = 176 [[センチメートル|cm]] | 方言 = [[共通語]]・[[埼玉弁]] | 最終学歴 = [[多摩美術大学]][[版画]]科 | 師匠 = | 出身 = | コンビ名 = [[ラーメンズ]] | トリオ名 = | グループ名 = [[エレ片]] | 相方 = [[小林賢太郎]] | 芸風 = | 立ち位置 = | 事務所 = [[トゥインクル・コーポレーション]] | 活動時期 = [[1995年]] - | 同期 = [[品川庄司]]<br />[[角田晃広]]([[東京03]])など | 現在の代表番組 = | 過去の代表番組 = <small>'''バラエティ'''</small><br />[[シャキーン!]]<br />[[落下女]]<br />[[車あるんですけど…?]]<hr /><small>'''ドラマ'''</small><br />[[ザ・クイズショウ]]<br />[[99.9-刑事専門弁護士-]]<br />[[あなたの番です]] | 作品 = 著書『粘土道』 | 他の活動 = [[俳優]]、[[声優]]、[[彫刻家]] | 配偶者 = 村山ゆき(元タレント) | 親族 = | 弟子 = | 公式サイト = [https://twinkle-co.co.jp/talent/katagirijin/ プロフィール] | 受賞歴 = }} {{Infobox YouTube personality | channel_display_name = ギリちゃんねる【片桐仁公式】 | channel_url = UCifAzjR7Q05jXZ05nNcIilQ | years_active = [[2020年]]<!-- [[4月18日]] --> - | subscribers = 6.44万人 | views = 370万回 | stats_update = {{dts|2023-09-29}} | network = [[トゥインクル・コーポレーション]] | silver_button = | silver_year = }} '''片桐 仁'''(かたぎり じん、[[1973年]]([[昭和]]48年)[[11月27日]] - )は、[[日本]]の[[お笑いタレント]]、[[俳優]]、[[声優]]、[[彫刻家]]。 [[埼玉県]][[南埼玉郡]][[宮代町]]出身。[[トゥインクル・コーポレーション]]所属。[[埼玉県立春日部高等学校]]、[[多摩美術大学]]卒業。身長176cm。血液型B型<ref>{{Cite web|和書|url=https://twinkle-co.co.jp/talent/katagirijin/|title=片桐仁 (Katagiri Jin) &#124; 株式会社トゥインクル・コーポレーション|publisher=[[トゥインクル・コーポレーション]]|accessdate=2021-07-26}}</ref>。 妻は元モデルでタレントの村山ゆき(現・片桐友紀)<ref name="sanma" />。 == 概要 == * 多摩美術大学時代に[[小林賢太郎]]と共に[[ラーメンズ]]を結成。[[エレキコミック]]とのコントユニット・[[エレ片]]での活動も行っている。 * 長めの天然パーマ(作品によっては髪を後ろでまとめている)が特徴的で、演技とも素とも取れるエキセントリックな言動を持ち味とする。その存在感を買われて、単独でのCMや舞台・ドラマへの出演の機会も得ている。また、文章や造形にもその個性と才能を発揮し、雑誌やwebでの連載を持つ。文章については敬愛する[[大槻ケンヂ]]から受けた影響が大きいと語っている。 * 相方の小林賢太郎に対してはその才能を尊敬している。 * ラーメンズとしての活動が不定期なこともあり、2000年代からは単独での俳優活動や「エレ片」としての活動が中心となり、さらに声優・ナレーションにも進出。頻度は高くないが単独でバラエティ番組に出演することもある。 * 2010年6月、出身地である[[宮代町]]の「外交官」に就任<ref>{{Cite web|和書|title=宮代町外交官、応援キャラクター|url=https://www.town.miyashiro.lg.jp/0000000851.html|website=宮代町|accessdate=2023-02-18}}</ref>。名刺には「俳優 片桐仁」と書かれていた。 == 人物 == {{出典の明記|section=1|date=2017年10月31日 (火) 03:37 (UTC)}} ;家族 * 妻と長男の太朗(たろう・[[岡本太郎]]から命名)、次男の春太(はるた)の4人家族。 * 妻が小学生時代から飼っている[[オカメインコ]](サーちゃん)と、結婚後に飼い始めた[[ヨウム]](うろこ)の2匹の愛鳥がおり、鳥をモチーフとした造形作品にも影響を与えている。 * ピタゴラスイッチの『おとうさんスイッチ』に長男・太朗と出演した事がある。[[Mr.Children]]の「[[SUPERMARKET FANTASY#収録内容|エソラ]]」PVにも親子でエキストラ出演し、アルバムのジャケットにもスーパーで息子を[[カート]]に乗せて買い物している客の1人として映っている。 * 義母(村山ゆきの実母)が洋裁の達人で、粘土道の衣装等を仕立ててもらっている。 * 実家は[[日本公文教育研究会|公文式]]の教室だった。このため、家に帰ると勉強している子供が沢山いて嫌だったという。 ;趣味 * 粘土細工が得意で、作品展を開催するほどである<ref>[https://minne.com/topics/katagirijin つくる人のはなし]</ref><ref>[https://www.cinra.net/news/20150614-giriten 片桐仁の不条理アート粘土作品展『ギリ展』、代表作や新作を一挙展示]</ref><ref>[https://www.fashion-press.net/news/17451 ラーメンズ片桐仁のシュールな粘土作品が集結!「ギリ展」幕張で開催]</ref><ref>[http://www.parco-art.com/web/museum/exhibition.php?id=549 片桐仁 感涙の大秘宝展〜粘土と締切と14年〜]</ref>。先述したピタゴラスイッチの「おとうさんスイッチ」出演時にも、片桐作成の粘土細工を使用している。 * [[機動戦士ガンダム|ガンダム]]オタク<ref name="sanma">{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/%e8%b8%8a%e3%82%8b%ef%bc%81%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%be%e5%be%a1%e6%ae%bf%ef%bc%81%ef%bc%81/805918 |title=踊る!さんま御殿!!|2014/11/18(火)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2020-12-17}}</ref>([[モデラー (模型)|モデラー]]、ガンプラ所有数約300体)であり、模型誌「[[月刊ホビージャパン]]」でコラムの執筆も行っている。 * ガンダムはもとより、[[ドラゴンボール]]をはじめとするマンガや、「[[ドラゴンクエストシリーズ|DQシリーズ]]」「[[ファイナルファンタジーシリーズ|FFシリーズ]]」などのゲームの話題に喰いつく。 * [[縄文時代]]に関するもの([[縄文土器]])が好き。 ;その他 * 小学校では自転車クラブ、中学時代はソフトテニス部に所属。 * [[円周率]]を40桁程度暗記しており、[[ラーメンズ]]公演『STUDY』、[[KKP]]公演『Sweet7』、エレ片でのコント中などで披露した。 * 大学の同期に[[ニイルセン]]、[[佐野研二郎]]がいる。片桐は版画科で佐野はグラフィック科だった。 * [[浅野忠信]]と生年月日が同じ<ref>{{Cite tweet|user=asano_tadanobu |number=1008255976393228288 |title=ラーメンズ 片桐仁さん! 僕たち2人は1973年11月27日生まれ 誕生日が全部一緒!やっと会えました! |date=2018-06-17 |accessdate=2020-12-17}}</ref>。 * 奥手な性格の為、26歳までずっと彼女ができず童貞であった。 * 中学生の頃、バレンタインデーに「バキバキに踏まれたチョコレート」をもらったことがある。本人曰く、「どうしたかは覚えてない」<ref>{{Cite web|和書|title=エレキコミック&片桐仁「エレ片 新コントの人」インタビュー|写真家・池田晶紀や馬喰町バンドと作る新しいエレ片 (2/2) - お笑いナタリー 特集・インタビュー|url=https://natalie.mu/owarai/pp/elekata05/page/2|website=お笑いナタリー|accessdate=2021-05-08|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。 == 出演 == {{Main2|ラーメンズとしての出演|ラーメンズ#出演|エレ片としての出演|エレ片#ライブ}} === テレビドラマ === * [[金田一少年の事件簿 (松本潤のテレビドラマ)|金田一少年の事件簿SP 魔術列車殺人事件]](2001年3月25日、日本テレビ) - チャネラー桜庭 役 * 東京ぬけ道ガール(2002年2月22日、日本テレビ) * [[塩カルビ]] 第9話(2002年11月28日、テレビ神奈川) - 北沢 役 * [[神はサイコロを振らない〜君を忘れない〜|神はサイコロを振らない]](2006年1月18日 - 3月15日、日本テレビ) - 浜砂藤吉 役 * [[根津サンセットカフェ]](2006年8月1日 - 2007年3月28日、TBSテレビ) - ジン 役 * [[占い師 天尽]](2007年1月12日 - 3月16日、中部日本放送) - 天尽 役(主演) * [[死ぬかと思った]] 第7話(2007年5月19日、日本テレビ) - 小西 役 * [[週刊 赤川次郎]]「幽霊屋敷の電話番」(2007年7月3日 - 9月25日、テレビ東京) - 太田信一 役 * [[蒼い瞳とニュアージュ]](2007年11月25日、WOWOW) - 佐竹 役 * [[SP 警視庁警備部警護課第四係|SP]] 第5 - 7話(2007年12月1日 - 12月15日、フジテレビ) - 大橋正一 役 * [[ザ・クイズショウ]](2008年7月6日 - 9月27日、日本テレビ) - 田崎徹(MC-TAZAKI) 役(主演) * [[超人ウタダ]](2009年1月30日 - 3月24日、WOWOW) - 神崎竜吾郎 役 * [[ザ・クイズショウ#第2シーズン|ザ・クイズショウ 第2シーズン]](2009年6月20日、日本テレビ) - 田崎徹 役 * [[偉人の来る部屋]](2009年10月5日 - 12月28日、東京MXテレビ) - 主演・天海時男 役 * [[仮面ライダーW]](2009年10月18日、25日、テレビ朝日) - 伊刈 役 * [[三代目明智小五郎〜今日も明智が殺される〜]](2010年4月15日 - 6月17日、毎日放送) - 三代目怪人二十面相 役 * [[連続テレビ小説]](NHK) ** [[ゲゲゲの女房]](2010年6月4日 - 7月17日) - 貧乏神 / 大蔵省の男 / 只野 役 ** [[とと姉ちゃん]] 第131話(2016年9月2日) - 西村電器店の店長 役 ** [[エール (テレビドラマ)|エール]](2020年) - 大倉憲三 役<ref name="yell20200912">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20200911231725/https://www.nhk.or.jp/yell/information/news/0912.html|title=後半のおもな出演者が決定!|work=NHK連続テレビ小説『エール』|publisher=日本放送協会|date=2020-09-12|accessdate=2020-09-12}}</ref><ref name="real618233">{{Cite news|url=https://realsound.jp/movie/2020/09/post-618233.html|title=吉岡秀隆、伊藤あさひ、板垣瑞生、萩原利久らが朝ドラ初出演 『エール』新キャスト発表|newspaper=[[リアルサウンド|Real Sound]]|publisher=株式会社blueprint|date=2020-09-12|accessdate=2020-09-12}}</ref> * [[宇宙犬作戦]](2010年7月9日 - 12月24日、テレビ東京) - モジャット・ユーグレノフィタ 役 * [[中学生日記]](2010年11月13日、NHK) - 上前津仁 役 * [[デカワンコ#テレビドラマ|デカワンコ]] 第3話(2011年1月29日、日本テレビ) * [[横山秀夫サスペンス#2011年|横山秀夫サスペンス 引き継ぎ]](2011年3月27日、WOWOW) - 野々村一樹 役 * [[マドンナ・ヴェルデ#テレビドラマ|マドンナ・ヴェルデ〜娘のために産むこと〜]](2011年4月19日 - 5月24日、NHK) - 曽根崎伸一郎 役 * [[金曜プレステージ]]・監察医七浦小夜子・法医学者の事件プロファイル(2011年4月22日、フジテレビ) - 桑田秋成 役 * [[カンブリアン ウォーズ]](2012年2月18日、NHKBSプレミアム) - オオハシ 役 * [[ボーイズ・オン・ザ・ラン#テレビドラマ|ボーイズ・オン・ザ・ラン]] 第8話(2012年8月31日、テレビ朝日) - 大塚健太 役 * [[花のズボラ飯#テレビドラマ|花のズボラ飯]] 第4話(2012年11月15日、毎日放送) - カッパ急便配達員 役 * ラヴ・コンシェル(2013年1月14日 - 1月18日、NOTTV) * [[青山ワンセグ開発]] 「恋愛のレッスン」(2013年10月4日 - 18日、2014年1月17日 - 3月28日、NHK Eテレ) - 山中大介 役(主演) * [[実験刑事トトリ#第2シリーズ|実験刑事トトリ2]] 第5話(2013年11月9日、NHK) - ホームレス 役 * 指恋 〜君に贈るメッセージ〜(2013年12月4日 - 、UULA) * [[福家警部補の挨拶#フジテレビ版(2014年)|福家警部補の挨拶]] 第3話(2014年1月28日、フジテレビ) - 西村浩 役 * [[烏賊川市シリーズ#テレビドラマ|私の嫌いな探偵]](2014年1月17日 - 3月7日、テレビ朝日) - 金蔵 役 * [[鉄神ガンライザーNEO]](2014年7月13日 - 10月19日、テレビ岩手) - 日高見スグル 役 ** 鉄神ガンライザーNEO2(2015年8月9日 - 11月15日) * [[玉川区役所 OF THE DEAD]](2014年10月 - 12月、テレビ東京) - 田之倉圭 役 * [[東京センチメンタル]](テレビ東京) - 柴田幸吉 役 ** 年末特別ドラマ(2014年12月30日) ** [[ドラマ24]](2016年1月16日 - 4月9日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinemacafe.net/article/2015/10/08/34686.html|title=吉田鋼太郎、連ドラ初主演!「東京センチメンタル」で高畑充希&大塚寧々と共演|publisher=シネマカフェ|date=2015-10-08|accessdate=2020-12-17}}</ref> ** 東京センチメンタルSP〜千住の恋〜(2017年1月3日) ** 東京センチメンタルSP〜御茶ノ水の恋〜(2018年3月31日) * [[みんな!エスパーだよ!|みんな!エスパーだよ!番外編 〜エスパー、都へ行く〜]](2015年4月3日、テレビ東京) - 梶本幸雄 役 * [[牙狼-GARO- -GOLDSTORM- 翔|牙狼〈GARO〉-GOLDSTORM- 翔]] 第5話(2015年5月8日、テレビ東京) - カジ 役 * [[かもしれない女優たち]](2015年6月23日、フジテレビ) - 片桐仁 役 * [[ヒガンバナ〜警視庁捜査七課〜]] 第3話(2016年1月27日、日本テレビ) - 山吹 役 * [[99.9-刑事専門弁護士-]](TBS) - 明石達也 役 ** SEASON I(2016年4月17日 - 6月19日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/owarai/news/177355|title=片桐仁が弁護士になれない“伝説の男”演じる、松本潤主演リーガルドラマ|publisher=お笑いナタリー|date=2016-02-25|accessdate=2020-12-17}}</ref> ** SEASON II(2018年1月14日 - 3月18日) ** 完全新作SP新たな出会い篇~映画公開前夜祭~(2021年12月29日)<ref>{{Cite web|和書|title=児嶋一哉、『99.9』新作SPドラマに事件の被告人役で出演 「大島役の児嶋だよ!」|url=https://realsound.jp/movie/2021/12/post-917278.html|website=Real Sound|リアルサウンド 映画部|accessdate=2021-12-04|language=ja}}</ref> * [[グ・ラ・メ! -大宰相の料理人-#テレビドラマ|グ・ラ・メ!〜総理の料理番〜]](2016年7月 - 9月、テレビ朝日) - 神田 役 * GAKUYA〜開場は開演の30分前です〜(2016年11月20日 - 12月18日、[[フジテレビTWO]]) - 猫柳大吉 役(主演<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/204583|title=片桐仁が小劇場の小屋主演じるオムニバスコメディ、猫好き設定|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-10-07|accessdate=2020-12-17}}</ref>) * [[大貧乏]] 第8話(2017年2月26日、フジテレビ) - 都鳥仁 役 * [[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ Season6]] 第11話(2017年6月24日、テレビ東京) - 川島 役 * [[下北沢ダイハード]] 第6話「未来から来た男」(2017年8月26日、テレビ東京) - 片桐仁(本人) 役 * プレミアムドラマ『[[捜査会議はリビングで!]]』シリーズ(NHK BSプレミアム) - 谷悠馬 役 ** 捜査会議はリビングで!(2018年7月15日 - 9月2日) ** [[捜査会議はリビングで おかわり!]](2020年2月2日 - 3月22日) * [[ブラックスキャンダル (テレビドラマ)|ブラックスキャンダル]](2018年10月4日 -12月6日、読売テレビ) - 巻田健吾 役<ref>{{Cite news|url=https://realsound.jp/movie/2018/09/post-248632.html|title=安藤政信、松井玲奈、若葉竜也、松本まりか、山口紗弥加主演ドラマ『ブラックスキャンダル』に出演|newspaper=Real Sound|publisher=リアルサウンド映画部|date=2018-09-11|accessdate=2020-12-17}}</ref> * [[SUITS/スーツ (日本のテレビドラマ)|SUITS/スーツ]] 第8話(2018年11月26日、フジテレビ) - 柳沢大悟 役 * [[ザンビ#テレビドラマ|ザンビ]](2019年1月24日 - 3月28日、日本テレビ) - 守口琢磨 役 * [[この女に賭けろ#テレビドラマ|よつば銀行 原島浩美がモノ申す!〜この女に賭けろ〜]] 第5話・第7話(2019年2月18日・3月4日、テレビ東京) - 「喫茶サツキ」の客 役 * [[絶叫 (小説)#テレビドラマ|絶叫]](2019年3月24日 - 4月14日、WOWOW) - 八木徳夫 役 * [[あなたの番です]](2019年4月14日 - 9月8日、日本テレビ) - 藤井淳史 役 ** 劇場版公開記念!「あなたの番です」完全新撮スペシャル!(2021年12月10日) * [[病院の治しかた〜ドクター有原の挑戦〜]] 第1話、第5話、最終話(2020年1月20日、2月17日、3月9日、テレビ東京) - 膳場大輔 役 * [[警視庁・捜査一課長|警視庁・捜査一課長2020]] 第10話(2020年7月9日、テレビ朝日) - 武田茂樹(スパイス武田) 役 * [[真夏の少年〜19452020]] 第1話、第2話、最終話(2020年7月31日、8月7日、9月18日、テレビ朝日) - 近藤誠三 役 * [[妖怪シェアハウス]] 第4話(2020年8月22日、テレビ朝日) - [[アマビエ]] 役 * それでも私は旅がしたい。~今だからこその旅スタイル~(2020年9月22日、テレビ大阪) - 近藤幸正 役<ref>{{Cite press release|和書|url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000762.000020945.html|title= 萩原聖人×片桐仁×八木アリサの「今感×旅」をテーマに一人旅のオムニバスドラマが放送!|publisher=PR TIMES|date= 2020-09-16|accessdate= 2020-09-24}}</ref> * [[アノニマス〜警視庁“指殺人”対策室〜]] 第1話・第2話(2021年1月25日・2月1日、テレビ東京) - 片桐仁(本人役) 役 * [[遺留捜査]] 第6シーズン 最終話(2021年3月18日、テレビ朝日) - 西野伸太郎 役 * [[真犯人フラグ]] 第7話・特別編(2021年11月28日・12月26日、日本テレビ) - 藤井淳史 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2215544/full/|title=『真犯人フラグ』×『あな番』のクロスオーバーが実現 片桐仁&筧美和子が登場|accessdate=2021-11-28|publisher=ORICON NEWS}}</ref> * [[ドクター・ホワイト#テレビドラマ|ドクターホワイト]](2022年1月17日 - 3月21日、関西テレビ・フジテレビ系) - 西島耕助 役<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2214685/|title=浜辺美波主演の医療ドラマ『ドクターホワイト』 追加キャストに柄本佑&瀧本美織ら【コメントあり】|newspaper=ORICON NEWS|date=2021-11-21|accessdate=2021-11-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/456782|title=宮田俊哉「ドクターホワイト」に出演、“宮田・ドラマ”にキスマイメンバーから反響が|website=映画ナタリー|publisher=株式会社ナターシャ|date=2021-12-09|accessdate=2021-12-09}}</ref> ** ドクターホワイト 特別編(2022年3月28日)<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2228361/full/|title=浜辺美波主演『ドクターホワイト特別編』3・28放送決定 あらすじ&場面写真解禁|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-03-21|accessdate=2022-03-22}}</ref> * [[ガンプラくん|ガンプラくん、ガンダムベース攻略戦]](2022年3月21日、テレビ東京) - ふみお 役 * [[吉祥寺ルーザーズ]](2022年4月11日 - 6月27日、テレビ東京) - 秦幡多 役<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20220307-2286773/|title=増田貴久、秋元康企画新ドラマで主演! 田中みな実らとシェアハウスでシットコム|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2022-03-07|accessdate=2022-03-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/472022|title=増田貴久が吉祥寺の一軒家で共同生活、ドラマ「吉祥寺ルーザーズ」ビジュアル到着|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-31|accessdate=2022-04-01}}</ref> *[[刑事7人]] Season8(2022年) - 川浦善樹 役 *[[オクトー 〜感情捜査官 心野朱梨〜]](2022年) ‐ 小野寺大伍 役 * [[祈りのカルテ#テレビドラマ|祈りのカルテ 研修医の謎解き診察記録]](2022年10月8日 - 12月17日、日本テレビ) - 大賀寛太 役<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20220929-2466146/|title=斉藤由貴、勝村政信、りょう、片桐仁『祈りのカルテ』で“クセあり”指導医|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2022-09-29|accessdate=2022-09-29}}</ref> * [[晩酌の流儀]] 年末スペシャル 〜一年の最後に、最高の一杯を〜(2022年12月31日、テレビ東京)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/505087|title=栗山千明が絶品蟹料理を楽しむ「晩酌の流儀 年末スペシャル」放送決定|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-15}}</ref> * [[パパとなっちゃんのお弁当]](2023年1月16日 - 3月17日、日本テレビ) - 定食屋「赤シャツ」店主・赤星石太郎 役 * [[弁護士ソドム]] 第3話(2023年5月12日、テレビ東京) - 栗原浩二 役 * [[Dr.チョコレート]] 第7話(2023年6月3日、日本テレビ) - 皆川誠二 役 * [[ギフテッド (漫画)#テレビドラマ|ギフテッド]] Season1 第5話 - 最終話(2023年9月9日 - 10月1日、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]・フジテレビ) - 匠京太郎 役 * [[大病院占拠|XXX占拠]](2024年1月13日〈予定〉 - 、日本テレビ) - 川越和夫 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/552485|title=白石聖、SixTONESジェシー、瀧内公美らが櫻井翔主演ドラマ「XXX占拠」に出演|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-12-10|accessdate=2023-12-10}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=dbs_ntv|author=XXX占拠【公式】|number=1734936312564822323|title=大病院占拠 続編 新土曜ドラマ『#XXX占拠』初回放送日決定 2024年1月13日(土)よる10時スタート|date=2023-12-13|accessdate=2023-12-13}}</ref> === Webドラマ === * 銀座ぐらん堂、午後3時。「噂しあう男たち」(ネット配信ドラマ[[goo]]) * 踊る大宣伝会議、或いは私は如何にして踊るのを止めてゲームのルールを変えるに至ったか。Season2<ref group="注">タイトル中「ゲームの」に二重取り消し線が入るのが正式表記。</ref>(2015年、ネスレシアター) - 溝口博武 役<ref>{{Cite web|和書|url=http://nestle.jp/brand/nescafe/cinema/|title=踊る大宣伝会議(略)Season2|publisher=ネスレシアター|date=|accessdate=2015-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151018010424/http://nestle.jp/brand/nescafe/cinema/ |archivedate=2015-10-18 }}</ref> === バラエティ === <!-- 単発のゲスト出演は記述不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> * ガンプラ☆一直線(1999年、TVじゃまーる) * [[落下女]](2005年4月16日 - 2006年3月28日、日本テレビ) * [[ピタゴラスイッチ]](NHK教育) ** 大人のピタゴラスイッチシリーズ(2013年 - 2018年)MC ** ピタゴラ装置 大解説スペシャル(2015年)MC * [[車あるんですけど…?]](2016年10月2日 - 2018年7月1日、テレビ東京)見届け人(MC)<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/25/kiji/K20160925013420870.html|title=テレ東「ドラGO!」18年間の歴史に幕…ネット惜しむ声続々|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-09-25|accessdate=2020-12-17}}</ref> * [[美の巨人たち|新美の巨人たち]](2019年11月-、テレビ東京)Art Traveler * [[リモート繋いだら、偉人のプレゼンいきなり始まった。]](2023年1月17日、フジテレビ)徳川綱吉 役 === 声優 === * [[ピタゴラスイッチ]](2002年 - 、NHK教育)「10本アニメ」 * [[シャキーン!]](2007年5月14日 - 5月18日、7月30日 - 8月3日、2008年1月1日 - 1月3日、2008年3月31日 - 2022年3月31日、NHK教育) - ジュモクさん、ナイトジュモク、ジュモやん、ジュモ助の声 ** シャキーン!ザ・ナイト(2009年4月 - 2011年3月) ** [[キャラクター大集合 とどけ!みんなの元気パワー|ETV50キャラクター大集合 とどけ!みんなの元気パワー〜輝け!こども番組元気だ!大賞〜]](2009年9月21日) ** [[まいん&シャキーン!夢のコラボ Eテレパワーで倒せ!謎の宇宙人]](2010年10月11日) ** ゆうやけシャキーン!(2015年3月31日 - 2016年3月29日) * OVA「[[ルパン三世 GREEN vs RED]]」(2008年) - ヤスオ<ref>{{Cite news |url=http://www.lupin-3rd.net/sakuhin_ova.html |title=劇場版・OVA - 作品データ |website=ルパン三世NETWORK |accessdate=2020-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110926215812/http://www.lupin-3rd.net/sakuhin_ova.html |archivedate=2011-09-26}}</ref> * [[リトル・チャロ]]東北編スペシャル〜神宿る里へ〜 - ナレーション * 中学星シリーズ(2011年) - 亜部ぴろし * [[TIGER & BUNNY]](2011年) - ライオネル・ホーク * [[青山ワンセグ開発]]6月期「ドンマイしげるさん」(2013年、NHK Eテレ) - 全15役 * [[にゅるにゅる!!KAKUSENくん]](2013年) - カクセンパイ<ref>{{Cite web|和書|publisher=にゅるにゅる!!KAKUSENくん|title=キャスト|url=http://kakusen-kun.com/cast.html|accessdate=2013-06-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130625174006/http://kakusen-kun.com/cast.html |archivedate=2013-06-25 }}</ref> * [[最上級のひらめきニンゲンを目指せ!クイズ!金の正解!銀の正解!|クイズ!金の正解!銀の正解!]](2017年4月22日- 9月16日、フジテレビ) 神様(ナレーション) * [[映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて]](2019年) - シャドウ星人・ダイブ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0110966|title=映画『プリキュア』片桐仁、石川由依ら参加!追加ゲスト声優発表|work=シネマトゥディ|date=2019-09-04}|accessdate=2020-12-17}}</ref><!-- 2019-10-19 --> * [[別冊オリンピア・キュクロス]](2020年) - 村長<ref>{{Cite web|url=http://bessatsu-olympia-kyklos.com/#cast|title=CAST|work=TVアニメ「別冊オリンピア・キュクロス」公式サイト|accessdate=2020-12-17}}</ref><!-- 2020-04-20 --> * [[TIGER & BUNNY 2]](2022年) - ライオネル・ホーク<!-- 2022-04-08 --> === 映画 === * [[犬と歩けば チロリとタムラ]](2004年) - 田島剛 役 * MASK DE 41(2004年) - 蒲田 役 * [[M-1グランプリへの道 まっすぐいこおぜ!]](2004年) - 松崎超人 役 * [[あゝ!一軒家プロレス]](2004年) - 織田 役 * [[天使 (漫画)#映画|天使]](2006年) * [[UDON]](2006年) - 三島憲治郎 役 * [[同窓会 (映画)|同窓会]](2008年) * [[GSワンダーランド]](2008年) - 榎崇洋(酋長) 役 * [[聖家族〜大和路]](2010年) - 河野扁理 役(主演) * [[シャッフル (2011年の映画)|シャッフル]](2011年) - さいとうたかし 役(友情出演) * ゴーストライターホテル(2012年) - 右田直樹 役 * [[小野寺の弟・小野寺の姉#映画|小野寺の弟・小野寺の姉]](2014年10月25日、[[西田征史]]監督) * [[アイアムアヒーロー#映画|アイアムアヒーロー]](2016年4月23日) - 中田コロリ 役 * [[TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ]](2016年6月25日) - 鬼野 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0078498|title=中村獅童、笑撃のビジュアル公開!宮藤官九郎の地獄ファンタジーで怪演|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-12-02|accessdate=2020-12-17}}</ref> * [[泥棒役者#映画 (2017年)|泥棒役者]](2017年11月18日) - 高梨仁 役 * [[ラーメン食いてぇ!#実写映画|ラーメン食いてぇ!]](2018年3月3日) - 赤星亘 役 * [[凜-りん-]](2019年2月22日) * [[空母いぶき#映画|空母いぶき]](2019年5月24日) - 藤堂一馬 役<ref>{{Cite news|url= https://www.cinra.net/news/20181213-ibuki |title= 映画『空母いぶき』に本田翼、片桐仁、中井貴一、深川麻衣、斉藤由貴ら出演 |newspaper= CINRA.NET |publisher= 株式会社 CINRA |date=2018-12-13 |accessdate=2018-12-16}}</ref> * [[“隠れビッチ”やってました。#実写映画|“隠れビッチ”やってました。]](2019年12月6日) - 永田裕志 役 * [[青葉家のテーブル]] (2021年6月18日) - 大工原史郎 役 * [[あなたの番です#映画|あなたの番です 劇場版]](2021年12月10日) - 藤井淳史 役<ref>{{Cite web|和書|title=劇場版「あなたの番です」西野七瀬や横浜流星ら32名続投、舞台は船上パーティ|url=https://natalie.mu/eiga/news/431005|website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-06-04|accessdate=2021-06-04}}</ref> * [[99.9-刑事専門弁護士-THE MOVIE]](2021年12月30日、松竹) - 明石達也 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/444838|title=松本潤主演の映画「99.9」公開日が12月30日に決定、予告編とポスター解禁|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-13|accessdate=2021-09-13}}</ref> * [[妖怪シェアハウス|妖怪シェアハウス -白馬の王子様じゃなかったん怪-]](2022年6月17日、[[豊島圭介]]監督) - アマビエ 役 === 舞台 === * [[good day house]](2002年8月27日 - 9月11日、[[小林賢太郎プロデュース公演]]) * [[Sweet7]](2003年6月27日 - 7月13日、小林賢太郎プロデュース公演) * [[Paper Runner]](2004年4月13日 - 5月2日、小林賢太郎プロデュース公演) * [[MIDSUMMER CAROL ガマ王子 vs ザリガニ魔人]](2004年7月4日 - 8月14日、[[G2 (演出家)|G2]]プロデュース/PARCO)滝田 役 * パリアッチ(2005年7月2日 - 7月18日、クリオネプロデュース)掘込 役 * [[ダブリンの鐘つきカビ人間]](2005年10月28日 - 11月27日、G2プロデュース/PARCO)主演・カビ人間 役 * はなび(6月13日 - 6月18日、下町ダニーローズ)神様 役 * 泥棒役者(2006年9月9日 - 9月24日、[[劇団たいしゅう小説家]])主演・泥棒 役 * Love30〜女と男と物語〜(2006年11月3日 - 11月30日、PARCO) * [[あ・うん]](2006年12月20日 - 12月28日、下町ダニーローズ)石川義彦 役 * ツグノフの森(2007年5月3日 - 6月3日、G2プロデュース)画家タニガワ 役 * ひーはー(2007年7月26日 - 9月2日、PIPER結成10周年公演)茶沢 役 * からっぽの湖(2008年2月8日 - 3月3日、[[AGAPE store]])編集長、島根 役 * GOD DOCTOR(2008年5月4日 - 5月23日、演劇[[大宮エリー]])調和のまーくん 役 * 審判員は来なかった(2008年7月10日 - 8月3日、ペンギンプルペイルパイルズ)大使、ジック審判長、ジドルフ 役 * [[悪夢のエレベーター]](2008年9月12日 - 9月28日)小川順、管理人望月 役 * 冬の絵空(2008年12月6日 - 2009年2月1日)シロ、犬男 役 * [[雨の日の森の中]](2009年11月4日 - 11月30日、[[西田征史]])後藤治郎 役 * 残念なお知らせ(2010年2月12日 - 3月5日、[[AGAPE store]])歌のおにいさん・三浦 役 * 初恋(2010年6月4日 - 7月3日、[[土田英生]]セレクション vol.1)吉村邦男 役 * 鎌塚氏、放り投げる(2011年5月12日 - 5月28日、M&O plays プロデュース)堂田テルミツ 役 * [[TEAM NACS#TEAM NACS 15th project「5D-FIVE DIMENSIONS-」|totsugi式]](2011年6月10日 - 6月30日、[[戸次重幸]]) * わらいのまち(2011年9月4日 - 24日、東宝セレソンDX) * 豆之坂書店(2011年12月27日 - 29日)安達万里(古本マニア) 役 * F・W 〜親愛なるクジラ様〜(2012年2月9日、[[アルカイックスマイル]])声のみ出演 * BOB(2012年4月27日 - 5月21日、[[西田征史]])大塚健太、神田 役 * スピリチュアルな1日(2012年6月13日 - 7月8日、小峯裕之)徳大寺 役 * グッバイ・エイリアン(2012年8月8日 - 8月26日、ニコルソンズ 木下半太)主演 * 地球の王様(2012年10月26日 - 12月24日)芦田 役 * デキルカギリ(2013年2月21日 - 3月10日、G2プロデュース)倉橋銀二 役 * レミング―世界の涯まで連れてって(2013年4月21日 - 6月2日)コック2・ジロ 役 * 小野寺の弟・小野寺の姉(2013年7月12日 - 8月28日、[[西田征史]])山縣はじめ 役 * ライクドロシー(2013年11月8日 - 12月7日、森崎事務所)バイス 役 * [[海峡の光]](2014年4月11日 - 29日)斎藤 役 * 鎌塚氏、振り下ろす(2014年7月4日 - 8月9日、M&O plays プロデュース)堂田テルミツ 役 * 第16回[[東京03]]単独公演「あるがままの君でいないで」(2014年9月20日、東京・草月ホール)<ref>特別追加公演にて披露されたコント「マカオの夜は大混乱」に日替わりスペシャルゲストとして登場した。</ref> * ベター・ハーフ(2015年4月3日 - 5月5日、[[鴻上尚史]]) - 沖村嘉治 役 * サバイバーズ・ギルト&シェイム(2016年11月11日 - 12月4日、[[KOKAMI@network]]) * コントマンシップ [[カジャラ]] KAJALLA #1 「大人たるもの」(2016年7月27日 - 9月11日) * サクラパパオー(2017年4月26日 - 5月26日、パルコ・プロデュース) - 的場博美 役 * ベター・ハーフ〈再演〉(2017年6月25日 - 8月6日、[[鴻上尚史]]) - 沖村嘉治 役 * 誰か席に着いて(2017年11月10日 - 12月17日、[[倉持裕]]) 染田奏平 役 * 鎌塚氏、舞い散る(2019年11月22日 - 12月25日、M&Oplaysプロデュース) - 堂田テルミツ 役 * 家族のはなしPART1〈再演〉(2020年4月24日 - 5月6日、[[東京建物 Brillia HALL]]) * No.9 -不滅の旋律-(2015年10月10日 - 10月25日、[[TBS赤坂ACTシアター|赤坂ACTシアター]] / 10月31日 - 11月4日、[[オリックス劇場]] / 11月13日 - 11月15日、[[北九州芸術劇場]] 大ホール) - ヨハン・ネポムク・メルツェル 役 ** No.9 -不滅の旋律-〈再演〉(2018年11月11日 - 12月2日、TBS赤坂ACTシアター / 12月7日 - 10日、大阪(オリックス劇場) / 12月22日 - 24日、横浜([[KAAT神奈川芸術劇場]]) / 2019年1月11日 - 14日、久留米(久留米シティプラザ)) - ヨハン・ネポムク・メルツェル 役 ** No.9 -不滅の旋律-〈再々演〉(2020年12月13日 - 2021年1月7日(※12月31日は[[AbemaTV|ABEMA]] 、[[イープラス]]からライブ配信もあわせて行う<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎の主演舞台『No.9-不滅の旋律-』大みそかにABEMAで生配信決定|url=https://www.oricon.co.jp/news/2179967/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2020-12-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎主演の『No.9−不滅の旋律−』 イープラス「Streaming+」にて、大晦日公演のライブ配信が決定 {{!}} SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス|url=https://spice.eplus.jp/articles/280517|website=SPICE(スパイス)|エンタメ特化型情報メディア スパイス|accessdate=2020-12-22}}</ref>。)、TBS赤坂ACTシアター / <small>【11月、オーストリア・ウィーン(フォルクス劇場)※ベートーヴェン生誕250周年の記念公演として開幕が予定されていたが、新型コロナウイルスの感染状況を考慮し公演中止となった。<ref>{{Cite web|和書|title=ベートーヴェン生誕250周年、稲垣吾郎出演「No.9」再々演決定(コメントあり)|url=https://natalie.mu/stage/news/393568|website=ステージナタリー|accessdate=2020-08-29|language=ja|publisher=株式会社ナターシャ}}</ref>】</small>) - ヨハン・ネポムク・メルツェル 役 * 「[[バクマン。]]」THE STAGE(2021年10月8日 - 17日、[[天王洲 銀河劇場]]/10月21日 - 24日、[[TOKYO DOME CITY HALL]]/10月28日 - 31日、[[メルパルクホール大阪]]) - 川口たろう 役<ref>[https://bakuman-stage.com/ 「バクマン。」THE STAGE公式サイト]</ref> * [[閃光ばなし]](2022年9月26日 - 10月2日、[[ロームシアター京都]] / 10月8日 - 30日<ref group="注">10月30日の公演のみ、関係者が新型コロナウイルス陽性となり中止。</ref>、[[東京建物 Brillia HALL]]) - 柳英起 役<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202206170001012_m.html?mode=all |title= 関ジャニ∞安田章大が舞台「閃光ばなし」に主演「静かな燃える闘志を感じます」黒木華と初共演 |newspaper= 日刊スポーツ|date= 2022-06-18|accessdate= 2022-06-18}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/stage/news/482063 |title= 舞台「閃光ばなし」安田章大と黒木華が兄妹に、バイクに乗ったビジュアルも公開 |newspaper= ステージナタリー|date= 2022-06-18|accessdate= 2022-06-18}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2239120/full/ |title= 関ジャニ∞安田章大、黒木華と舞台初共演 昭和を生き抜く兄妹役「彼女となら、おもしろく暴れられる」 |newspaper= ORICON NEWS|date= 2022-06-18|accessdate= 2022-06-18}}</ref> * [[ハロルドとモード 少年は虹を渡る|ハロルドとモード]](2023年9月28日 - 10月12日、[[EX THEATER ROPPONGI]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/529570|title=G2版「ハロルドとモード」4度目の上演決定、黒柳徹子の相手役にSnow Man向井康二|date=2023-06-21|website=ステージナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-06-21}}</ref> === ラジオ === * [[JUNK|金曜JUNK2]] [[エレ片のコント太郎]](2006年4月7日 - 2007年3月30日、TBSラジオ) * [[JUNK 交流戦スペシャル]](2006年8月18日、TBSラジオ) メインパーソナリティ * [[JUNK|水曜JUNK2]] エレ片のコント太郎(2007年4月4日 - 2008年9月24日、TBSラジオ) * [[JUNK|水曜JUNK ZERO]] エレ片のコント太郎(2008年10月1日 - 2010年3月31日、TBSラジオ) * [[JUNK|JUNKサタデー]] エレ片のコント太郎(2010年4月 - 2021年3月、TBSラジオ) * [[大竹まこと ゴールデンラジオ!]](2012年1月10日、文化放送)ゲスト * 劇ラヂ!ライブ (NHKラジオ第1)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210606064938/http://www.nhk.or.jp/radiosp/gekiraji/|title=劇ラヂ!ライブ / これまでの放送 |accessdate=2022-09-15|publisher=NHK 日本放送協会(アーカイブ版)}}</ref> ** 第1回「みちのく☆パンクロック」(2012年5月4日) - 嵐☆三十郎 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201205041920001300500|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 第1回「劇ラヂ!ライブ」第1部 (2012年5月4日19:20 - 19:55 放送)|accessdate=2022-11-22|publisher=NHK 日本放送協会}} <br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201205042005001300500|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 第1回「劇ラヂ!ライブ」第2部 (2012年5月4日20:05 - 20:55 放送)|accessdate=2022-11-22|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref> ** 第2回「恋の大捜査線」(2012年11月23日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201211231805001300500|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 第2回「劇ラヂ!ライブ」第1部 (2012年11月23日18:05 - 18:50 放送)|accessdate=2022-11-22|publisher=NHK 日本放送協会}} <br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201211231920001300500|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 第2回「劇ラヂ!ライブ」第2部 (2012年11月23日19:20 - 19:55 放送)|accessdate=2022-11-22|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref> * [[岡田惠和 今宵、ロックバーで〜ドラマな人々の音楽談義〜]] 第208回(2016年9月10日、NHK-FM)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201609101800031300700|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 岡田惠和 今宵、ロックバーで ~ドラマな人々の音楽談議~「第208回 ゲスト 片桐仁」(NHK-FM・2016年9月10日放送)|accessdate=2022-11-22|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref> * [[今日は一日○○三昧#第231回「今日は一日“音の風景”三昧」|今日は一日“音の風景”三昧]](2019年9月16日、NHK-FM) - MC <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201909161215001300700|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル /「今日は一日“音の風景”三昧」 (2019年9月16日放送)|accessdate=2022-11-29|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref> * [[今日は一日○○三昧#第247回「今日は一日“音の風景”三昧2020」|今日は一日“音の風景”三昧 2020]](2020年11月3日、NHK-FM) - MC<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A202011031215001300700|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 「今日は一日“音の風景”三昧2020」前半 (2020年11月3日12:15 - 18:50 放送)|accessdate=2022-11-29|publisher=NHK 日本放送協会}} <br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A202011031920001300700|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 「今日は一日“音の風景”三昧2020」後半 (2020年11月3日19:20 - 21:15 放送)|accessdate=2022-11-29|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref> * エレ片のケツビ!(2021年4月 - 、TBSラジオ) * [[ミュ〜コミ+プラス#百田夏菜子とラジオドラマのせかい|百田夏菜子とラジオドラマのせかい]](2022年4月1日 - 29日、ニッポン放送) - 4月度マンスリーゲスト<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.1242.com/article/353049|title= ももクロ・百田夏菜子のラジオドラマのプロジェクト 4月は俳優・片桐仁と5シチュエーションに挑戦!|accessdate=2022-09-15|publisher=ニッポン放送}}</ref> === CM === * 2001年 [[トヨタファイナンス]] 「TS3カード」 * 2002年 [[ミツカン]] 「追いがつおつゆ」 * 2002年 [[産経新聞]] * 2002年 [[OMCカード]] * 2005年 [[マスターカード]] 「priceless:進んだ生活篇」 * 2005年 [[エースコック]] 「春雨ヌードル」 * 2005年 [[アサヒビール]] 「アサヒ新生 夏を冷やす篇」 * 2011年 [[ノートン アンチウイルス|ノートン]] 「たいせつなもの」 * 2013年 [[爽健美茶]] * 2013年 [[神獄のヴァルハラゲート]]「戦略会議篇」「勝利への賛辞篇」 * 2019年 [[クラシエホームプロダクツ]]「ナイーブ 」 * 2019年 年末[[ジャンボ宝くじ]]「年末ショーで宝くじ篇」 === その他 === * 2004年 [[ノーナ・リーヴス]]のアルバム「NEW SOUL/RHYTHM NIGHT」収録「ニュー・ソウル」にて、片桐仁&Paper Runnersバック・コーラス隊として参加 * 2005年 [[佐藤竹善]]のシングルCD「風光る」ジャケット及びPV * 2007年 キキコミ 第9話 (ネット配信ドラマ[[ニフティ]]) - イトウマサミ 役 * 2007年 [[プロペラ犬#月イチイベント:プロペラ犬ひみつ集会|プロペラ犬ひみつ集会]](8月23日、[[プロペラ犬]]) * 2008年 [[Mr.Children]]「[[SUPERMARKET FANTASY|エソラ]]」PV * 2010年 オマスガ メジャーデビューミニアルバム「オマスガイダンス」ジャケット * 2013年 [[自殺島]] プロモーションムービー「9人の『生きる』言葉」に出演 * 2023年 らりるれローテーションズ「らりるれローテーション」配信リリース(2023年7月19日 [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]])メンバーは '''片桐仁'''、[[松田杏咲]]、[[街裏ぴんく]]、ちびシャトル、パーツイシバ == 作品 == 雑誌で連載を抱え、数多くの造形作品を発表している。作風は顔をモチーフとしたものが多く、彫刻家として片桐斎仁吾郎名義で粘土の作品集も出版している。 * 2003年 - 粘土作品集「粘土道」を講談社より出版 * 2005年 - 「gg+kohkoku special 文房具展」に作品を出品(FLEG代官山) * 2006年 - [[ワンダーフェスティバル]]とガンプラEXPOにて、プラモデルのジャンクパーツを使った巨大な顔オブジェを出品 * 2007年 - BE@RBRICK「モバイルオリジナル 100%BE@RBRICK」のペイントデザイン * 2008年 - 「[[ネスカフェ]] これでもかコレクション」にてエコバッグとマグカップをデザイン * 2008年 - 舞台「冬の絵空」の衣装(犬兜)造形 * 2010年 - [[ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店)|VV]]×片桐仁 オリジナルペナント「地球」をデザイン * 2011年 - 粘土作品集「ジンディー・ジョーンズ 感涙の秘宝 粘土道2」を講談社より出版 * 2013年 - 片桐仁の粘土道(iOS/android対象アプリ) ; 個展 * 2001年 -「俺の粘土道展」(パステル・ミュージアム 4月25日 - 4月30日) * 2003年 -「粘土道展」(ロゴスギャラリー 8月22日 - 8月31日) * 2012年 -「ジンディー・ジョーンズ 感涙の秘宝展 〜ギリジン文明と青森縄文創作オーパーツの世界〜」(ポスターハリスギャラリー 2月22日 - 3月6日) * 2013年 -「片桐仁 感涙の大秘宝展 〜粘土と締切と14年〜」 :(パルコミュージアム 4月5日 - 4月22日) :(札幌RARCO 9月12日 - 9月30日) :(UHA味覚糖 11月6日 - 12月2日) * 2015年 -「不条理アート粘土作品展「ギリ展」」(イオンモール幕張新都心 7月10日 - 7月26日) * 2016年 -「不条理アート粘土作品展「ギリ展」」 :(イオンレイクタウンkaze 5月13日 - 5月29日) :(イオンモール名古屋茶屋 6月17日 - 7月3日) :(イオンモール京都桂川 8月5日 - 8月21日) :(イオンモール広島祇園 9月22日 - 10月10日) :(イオンモール高知 10月21日 - 11月6日) :・映画「TOO YOUNG TOO DIE! 若くして死ぬ」作中にて使用される「鬼フォン」を製作 * 2017年 -「不条理アート粘土作品展「ギリ展」」 :(イオンモール高岡 4月28日 - 5月14日) :(イオンモール筑紫野 5月26日 - 6月11日) :(イオンモール沖縄ライカム 6月23日 - 7月9日) :(イオンモール下田 7月21日 - 8月6日) :(イオンモール名取 8月11日 - 8月31日) :(イオンモール幕張新都心 11月17日 - 12月3日) * 2018年 -「不条理アート粘土作品展「ギリ展」」<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000020.000014123.html|title=片桐仁 不条理アート粘土作品展「ギリ展」2018年度 全国ツアー追加開催決定!!|date=2018-03-13|accessdate=2021-03-21|publisher=PR TIMES}}</ref> :(イオンモール春日部 3月17日 - 4月1日) :(イオンモール鈴鹿 7月20日 - 8月5日) :(イオンモールいわき小名浜 8月10日 - 8月26日) :(イオンモール神戸北 9月14日 - 9月30日) :(イオンモール甲府昭和 11月9日 - 11月25日) :(イオンモール浜松志都呂 12月7日 - 12月24日)※ツアーファイナル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fashion-press.net/news/38140|title=片桐仁の不条理アート粘土作品展「ギリ展」静岡・浜松でツアーファイナル開催|date=2018-12-13|accessdate=2021-03-21|publisher=FASHION PRESS}}</ref> * 2019年 -「不条理アート粘土作品展「技力(ギリ)展台湾」」<ref>{{Cite web|和書|url=https://camp-fire.jp/projects/view/127597|title=片桐仁「ギリ展台湾」無料開催プロジェクト!作品レプリカをリターンでお届け!|date=2019-03|accessdate=2021-03-21|work=CAMPFIRE}}</ref> :(台湾華山クリエイティブパーク内「華山Laugh & Peace Factory」 6月7日 - 6月30日)※無料開催 * 2020年 - 「粘土道20周年記念 片桐仁創作大百科展」<ref>{{Cite web|和書|url=https://spice.eplus.jp/articles/261401|title=片桐仁、創作活動20周年で過去最大規模の展覧会『片桐仁創作大百科展』開催|date=2019-11-19|accessdate=2021-03-21|publisher=SPICE}}</ref> :(Gallery AaMo 3月23日 - 4月15日)※開催中止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/aamo/topics/0313.html|title=「粘土道20周年記念 片桐仁創作大百科展」開催中止のお知らせ|date=2020-03-17|accessdate=2021-03-21}}</ref> ; 連載雑誌 造形作品を発表しているもののみ。コラムやエッセイは除く。 * 俺の粘土道 『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』(1999年12月 - 2004年12月) * ギリ・エッグ 『[[B.L.T.]]』(2002年10月 - 連載終了) * ジンティー・ジョーンズの超考古学研究室 『[[KING (雑誌)|KING]]』(2006年11月号 - 2007年9月号) * ジンディー・ジョーンズ 感涙の秘宝 『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』(2008年2月15日号 - 連載終了) == 書籍 == * 粘土道(講談社、2003年8月、{{ISBN2|978-4063645217}}) * 粘土道 完全版(講談社、2009年3月、{{ISBN2|978-4063528114}}) * ラーメンズ・片桐仁のガンプラ戦士ジンダム(光文社、2009年4月、{{ISBN2|978-4334975661}}) * ラーメンズ片桐仁のおしえて何故ならしりたがりだから(東京ニュース通信社、2009年4月、{{ISBN2|978-4863360518}}) * ジンディー・ジョーンズ 感涙の秘宝 粘土道2(講談社、2011年11月、{{ISBN2|978-4063528268}}) * おしり2 ラーメンズ片桐仁のおしえて何故ならしりたがりだから(東京ニュース通信社、2015年2月、{{ISBN2|978-4863364578}}) * 片桐仁粘土道大百科(トゥインクル・コーポレーション/イオンモール 2018年3月) ; 雑誌連載 主にコラムやエッセイなど。造形作品の連載は除く。 * スポーツの温度 『[[J SPORTS|J-Sky Sports]]』(2002年7月 - 連載終了) * 片桐仁の教えて!何故なら知りたがりだから 『[[テレビブロス|TV Bros.]]』(2003年4月 - 連載中) * ラーメンズ片桐仁の機動戦士ジンダム 『[[FLASH EXCITING]]』(2006年6月1日増刊号 - 2008年10月25日増刊号) * 邦題いいホーダイ(仮) 『[[Men's JOKER]]』(2004年4月 - 2006年8月) * HOBBY JIN 『[[ホビージャパン|月刊ホビージャパン]]』(2004年10月号 - 2012年4月号) * 現代片桐体質改善計画 『[[Sportiva]]』(2005年9月 - 2006年4月号) * ラーメンズ片桐と行くフェチ書店 『LOVE書店』(2006年第1号 - 2010年) * 片桐仁と行くアート探訪『[[東京ウォーカー]]』(2013年6月4日発売号 - 連載中) * 片桐仁の親子でねんど道『kodomoe』(創刊号(2013年12月号) - 連載中) ; その他 * 2006年 - [[山本幸久]]「笑う招き猫」の解説 * 2008年 - 佐藤沙恵「[[テルミン]]学習帳」の帯推薦文とコラム * 2008年 - [[ルノアール兄弟]]「おれは魔物とくらしてる ルノアール兄弟作品集」の帯推薦文 * 2008年 - [[榎本俊二]]「[[えの素]] 中 完全版」のコラボ原作 * 2010年 - [[大宮エリー]]「生きるコント」文庫版の解説 * 2013年 - [[乙幡啓子]]「乙幡脳大博覧会」の帯推薦文 * 2013年 - 「宮代巨峰ワイン」のラベルデザイン ==関連書籍== * [[高野寛]]『対談集 夢の中で会えるでしょう』(2018年10月10日発売、mille books) {{ISBN2|978-4-902744-93-4}} C0073 - 対談相手の1人。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [https://twinkle-co.co.jp/talent/katagirijin/ 片桐仁 (Katagiri Jin) | 株式会社トゥインクル・コーポレーション] * {{Twitter|JinKatagiri_now|片桐仁なう}} * {{Instagram|jinmansan|片桐仁〜Jin katagiri art official〜}} * {{Ameba ブログ|jin-katagiri-official|片桐仁オフィシャルブログ「片桐仁の○○ブログ」}} * {{Ameba ブログ|uchuinu|モジャットユ-グレノフィタの宇宙犬作戦日誌}} * {{YouTube|c=UCifAzjR7Q05jXZ05nNcIilQ|ギリちゃんねる【片桐仁公式】}} * {{NHK人物録|D0009070952_00000}} * {{TVer talent|t000596}} * [http://c.goodygoody.jp/tokyoshokan/katagiri/index.html 片桐仁のモジャモジャモヤモヤモワモワ](連載終了) * [http://www.theaterpark.jp/column/katagiri/index.html 片桐仁の「起承転転転転転…」](連載終了) * [http://smartshimbun.jp/column2/4/ 片桐仁の首都高社会見学 ](Vol.1 - 6 連載終了) * [http://www.cinra.net/column/artistfile2011.php 片桐仁と行く『アーティスト・ファイル2011』展](11年4月18日 CINRA.NET掲載) {{トゥインクル・コーポレーション}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かたきり しん}} [[Category:日本の男性コメディアン]] [[Category:お笑い芸人]] [[Category:日本の男優]] [[Category:21世紀日本の俳優]] [[Category:日本の男性声優]] [[Category:21世紀日本の彫刻家]] [[Category:過去のケイダッシュ系列所属者]] [[Category:日本の男性YouTuber]] [[Category:多摩美術大学出身の人物]] [[Category:学士号取得者]] [[Category:埼玉県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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ラーメンズ
ラーメンズは、日本のお笑いコントユニット。 1996年結成。2009年を最後にユニットとしての活動が休止状態となり、2020年にメンバーの小林賢太郎の芸能界引退によりコンビでの活動を終了した。 共に多摩美術大学版画科の同級生。二人とも同大学の絵画科を志していたが落ちてしまい、版画科へと進学した。在学中、以前存在していた落語研究部を復活させるかたちで「オチケン」を設立。学業そっちのけでお笑いに打ち込んだ。 卒業間近の1996年、小林賢太郎が「絵を売りたいのならば名前を売ってからでも遅くない」と片桐仁を口説き、ラーメンズを結成した。結成当時は田辺エージェンシー所属だったものの、1998年に同社のお笑い部門の独立に伴いトゥインクル・コーポレーションに移籍。 1999年、『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に第1回から参加し、知名度を上げる。 前後して1998年に初の単独公演『箱式』を挙行。特に2000年から2002年初頭にかけては、全て新作で構成されるコント公演を約2年間で6作品(リメイクで構成された公演もさらに1作品)というハイペースで新作を発表。ツアー興行の規模や動員数も拡大してゆき、これらの「本公演」はラーメンズの代名詞となった。後にDVDや戯曲脚本集にまとめられ、YouTubeでも全編が公開されている。 二人とも既婚であり、小林は大学時代の同級生と2000年に、片桐は元モデルの村山ゆきと2003年に結婚している。 ラーメンズとしての舞台の本公演は2009年の『TOWER』が最後となった。それ以降は単独活動が増え、片桐は役者として舞台や映画、テレビドラマで活躍。バラエティ番組に出演することもある。同じ事務所で大学時代からの友人であるエレキコミックとのユニット「エレ片」としてもラジオ番組やコントライブで活動。小林は小島淳二とともに映像製作ユニット「NAMIKIBASHI」を組むほか、ソロライブ「POTSUNEN」、コント公演「カジャラ」なども行う。過去には升野英知(バカリズム)とともにユニット「大喜利猿」を組んでいた。 2016年6月26日放送の、小林による年1回のコント番組『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)に片桐が初出演し、7年ぶりに2人が共演。2016年7月27日から行われた小林が作・演出を手がける新作コント公演『カジャラ#1「大人たるもの」』にも片桐が出演し、舞台でも共演した。これが小林と片桐が同じ舞台を踏んだ最後の機会となった。 2017年1月1日、各地の復興支援として、映像ソフト化されている自身のコント映像100本をYouTubeに公開した。この動画で得る広告収入は日本赤十字社を通じ寄付される。自主規制により一部シーンがカットされているコントもある。 2017年10月17日に小林賢太郎が著作物及びマネジメントを行う個人事務所「スタジオコンテナ」を設立してトゥインクルから独立。互いに所属事務所が異なるコンビとなった。これに従いラーメンズの公式サイトは閉鎖され、小林の個人サイトに吸収されている。その後も小林の個人サイトでラーメンズは紹介されており、プロフィール上はコンビが存続していることになっていた。 2020年12月1日、同年11月16日に小林が表舞台からの引退を表明したことを受け、小林・片桐両者および所属事務所のトゥインクルコーポレーションがコメントを同時に発表。その理由の一つとして、足を悪くしてしまったことを挙げている。スタジオコンテナの閉鎖、小林の退社も併せて発表されたことで、正式にコンビとしての活動を終了することになったため、事実上の解散状態となっている。ただし、本人たちの口から「解散」と明言されたメディアは一つも無く、そのため報道では相方の不在による「事実上の解散」と取り扱われているという。それ以降、解散後、小林は芸能界引退後も執筆活動などの裏方として活動し、片桐は引き続きピン芸人、俳優として芸能活動を続ける。 第5・6・7回は英文字三部作、第8・9・10回は漢字三部作。初期は非常に短期間の間に新作公演を発表。尚、第7回公演「news」は、ラーメンズ初の全国ツアーである。 特別公演「零の箱式」では、客演として西田征史・室岡悟・三宅信太郎の3人が複数のコントに参加している。 第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT345」は3,4,5月に桜前線と共に公演されたことが名前の由来である。 第17回公演「TOWER」において42000人を超える観客を動員し、これはお笑い単独ライブで最も多い。また、公演箇所が13箇所と最多であった。 演目タイトルはのちに発売された「小林賢太郎戯曲集」と異なるものもあるが、ここではDVD・VHSのエンドロールにあるものを表記する。 コンビでの出演に限る 映像作品 ラジオCM ※販売元は全てポニーキャニオン。発売日順。 ※第8回以降の販売元は全てポニーキャニオン。発売日順。 ※個人名義のものは小林賢太郎の出版物、片桐仁の出版物を参照。
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ラーメンズは、日本のお笑いコントユニット。 1996年結成。2009年を最後にユニットとしての活動が休止状態となり、2020年にメンバーの小林賢太郎の芸能界引退によりコンビでの活動を終了した。
{{複数の問題|独自研究=2014年10月|存命人物の出典明記=2014年10月|雑多な内容の箇条書き=2015年6月25日 (木) 04:44 (UTC)}} {{Infobox お笑いコンビ | コンビ名 = ラーメンズ | 画像 = | キャプション = | メンバー = [[小林賢太郎]]<br />[[片桐仁]] | 結成年 = [[1996年]] | 影響 = バナナマン | 事務所 =スタジオコンテナ(小林賢太郎)<br>[[トゥインクル・コーポレーション]](片桐仁) | 活動時期 = 1996年 - | 出会い = [[多摩美術大学]] | 芸種 = [[コント]] | 過去の代表番組 = [[完売劇場]]<br />[[爆笑オンエアバトル]]<br />[[ピタゴラスイッチ]](不定期出演)<br />など | 同期 = [[品川庄司]]、[[すっちー]]、[[ライセンス (お笑いコンビ)|ライセンス]]、[[ロザン]]、[[角田晃広]]([[東京03]])など | 受賞歴 = [[2000年]] [[爆笑オンエアバトル]]第2回チャンピオン大会 審査員特別賞 | 公式サイト = {{Wayback |url=http://www.rahmens.net/ |title=ラーメンズ公式サイト }} | caption = | birth_name = | birth_date = | birth_place = | death_date = | death_place = | origin = | nationality = | education = | residence = | occupation = | height = | religion = | partner = | spouse = | signature = | signature_size = | signature_alt = | website = | pseudonym = | channel_name = | channel_url = UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig | channel_direct_url = | channels = | channel_display_name = ラーメンズ公式<ref>{{Cite web |url=https://kentarokobayashi.net/youtube/ |title=KENTARO KOBAYASHI WORKS |accessdate=2020-07-11}}</ref> | creator = | years_active = [[2016年]] | genre = [[コント]] | subscribers = 24.8万人 | subscriber_date = | views = 61,010,078回 | view_date = | network = | associated_acts = | catchphrase(s) = | silver_button = | silver_year = | gold_button = | gold_year = | diamond_button = | diamond_year = | ruby_button = | ruby_year = | module = | stats_update = {{dts|2023-10-16}} | extra_information = }}{{Infobox YouTube personality | views = 61,010,078回 | channel_url = UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig | years_active = [[2016年]] | genre = [[コント]] | stats_update = {{dts|2023-10-16}} | channel_display_name = ラーメンズ公式<ref>{{Cite web |url=https://kentarokobayashi.net/youtube/ |title=KENTARO KOBAYASHI WORKS |accessdate=2020-07-11}}</ref> }}'''ラーメンズ'''は、[[日本]]のお笑いコントユニット。 [[1996年]]結成。[[2020年]]にメンバーの小林賢太郎の表舞台の引退を表明した。 == メンバー == * '''[[小林賢太郎|小林 賢太郎]]'''(こばやし けんたろう、[[1973年]][[4月17日]] - )({{年数|1973|4|17}}歳) :身長182cm、体重70kg、血液型A型。劇作家、演出家。パフォーマーとしても活動していた。 * '''[[片桐仁|片桐 仁]]'''(かたぎり じん、[[1973年]][[11月27日]] - )({{年数|1973|11|27}}歳) :身長176cm、体重62kg、血液型B型。俳優、彫刻家としても活動している。 == 略歴 == 共に[[多摩美術大学]]版画科の同級生。二人とも同大学の絵画科を志していたが落ちてしまい、版画科へと進学した。在学中、以前存在していた[[落語]]研究部を復活させるかたちで「オチケン」を設立。学業そっちのけでお笑いに打ち込んだ。 卒業間近の1996年、[[小林賢太郎]]が「絵を売りたいのならば名前を売ってからでも遅くない」と[[片桐仁]]を口説き、ラーメンズを結成した。結成当時は[[田辺エージェンシー]]所属だったものの、1998年に同社のお笑い部門の独立に伴い[[トゥインクル・コーポレーション]]に移籍。 [[1999年]]、『[[爆笑オンエアバトル]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])に第1回から参加し、知名度を上げる。 前後して[[1998年]]に初の単独公演『箱式』を挙行。特に[[2000年]]から[[2002年]]初頭にかけては、全て新作で構成されるコント公演を約2年間で6作品(リメイクで構成された公演もさらに1作品)というハイペースで新作を発表。ツアー興行の規模や動員数も拡大してゆき、これらの「本公演」はラーメンズの代名詞となった。後に[[DVD]]や戯曲脚本集にまとめられ、[[YouTube]]でも全編が公開されている。 二人とも既婚であり、小林は大学時代の同級生と2000年に、片桐は元モデルの村山ゆきと2003年に[[結婚]]している。 ラーメンズとしての舞台の本公演は[[2009年]]の『TOWER』が最後となった。それ以降は単独活動が増え、片桐は役者として舞台や[[映画]]、[[テレビドラマ]]で活躍。[[バラエティ番組]]に出演することもある。同じ[[芸能事務所|事務所]]で[[大学]]時代からの友人である[[エレキコミック]]とのユニット「[[エレ片]]」としても[[ラジオ番組]]や[[コント]][[公演|ライブ]]で活動。小林は[[小島淳二]]とともに映像製作ユニット「[[NAMIKIBASHI]]」を組むほか、ソロライブ「[[POTSUNEN]]」、コント公演「[[カジャラ]]」なども行う。過去には升野英知([[バカリズム]])とともにユニット「[[大喜利猿]]」を組んでいた。 [[2016年]]6月26日放送の、小林による年1回のコント番組『[[小林賢太郎テレビ]]』([[NHK BSプレミアム]])に片桐が初出演し、7年ぶりに2人が共演。2016年7月27日から行われた小林が作・演出を手がける新作コント公演『カジャラ#1「大人たるもの」』にも片桐が出演し、舞台でも共演した。これが小林と片桐が同じ舞台を踏んだ最後の機会となった。 [[2017年]][[1月1日]]、各地の復興支援として、映像ソフト化されている自身のコント映像100本をYouTubeに公開した。この動画で得る[[広告収入]]は[[日本赤十字社]]を通じ寄付される<ref>{{Cite news|title = ラーメンズ、コント映像100本をYouTubeで公開 広告収入で復興支援 |url = https://www.oricon.co.jp/news/2084035/full/|date = 2017-1-1|accessdate = 2017-1-3|publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]}}</ref>。自主規制により一部シーンがカットされているコントもある。 [[2017年]][[10月17日]]に小林賢太郎が著作物及びマネジメントを行う個人事務所「スタジオコンテナ」を設立してトゥインクルから独立。互いに所属事務所が異なるコンビとなった。これに従いラーメンズの公式サイトは閉鎖され、小林の個人サイトに吸収されている。その後も小林の個人サイトでラーメンズは紹介されており、プロフィール上はコンビが存続していることになっていた。 [[2020年]][[12月1日]]、同年[[11月16日]]に小林が表舞台からの引退を表明したことを受け、小林・片桐両者および所属事務所のトゥインクルコーポレーションがコメントを同時に発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://kentarokobayashi.net/message/2020/12/01/3776/|title=肩書きから「パフォーマー」をはずしました。|publisher=小林賢太郎|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202101859/https://kentarokobayashi.net/message/2020/12/01/3776/ |archivedate=2020-12-2 |deadlinkdate=2021年4月 |accessdate=2021-4-29}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.twinkle-co.co.jp/info/katagirijin.html|title=小林賢太郎引退を受けて|publisher=片桐仁|accessdate=2021-4-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210124155156/http://www.twinkle-co.co.jp/info/katagirijin.html |archivedate=2021-1-24 |deadlinkdate=2021年4月}}</ref><ref name="twincle20201201">{{Cite press release|和書|url=http://www.twinkle-co.co.jp/info/kobayashikentarou.html|deadlinkdate=2021年4月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210124163224/http://www.twinkle-co.co.jp/info/kobayashikentarou.html |archivedate=2021-1-24 |title=小林賢太郎 芸能活動からの引退及び退所のお知らせ|publisher=[[トゥインクル・コーポレーション]]|date=2020-12-01|accessdate=2021-4-29}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/01/kiji/20201201s00041000244000c.html |title=小林賢太郎が芸能活動引退 裏方へ 09年以来ラーメンズ本公演叶わず 事務所引き留めも「強い希望」 |newspaper=スポニチスクエア |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2020-12-01 |accessdate=2020-12-01}}</ref>。その理由の一つとして、足を悪くしてしまったことを挙げている。スタジオコンテナの閉鎖、小林の退社も併せて発表されたことで、正式にコンビとしての活動を終了することになったため、事実上の解散状態となっている。ただし、本人たちの口から「解散」と明言されたメディアは一つも無く、そのため報道では相方の不在による「事実上の解散」と取り扱われているという。それ以降、解散後、小林は芸能界引退後も執筆活動などの裏方として活動し、片桐は引き続きピン芸人、俳優として芸能活動を続ける。 == 芸風 == {{出典の明記|section=1|date=2011年6月}} * 主に[[舞台]]で活動。[[テレビ番組]]は過去に『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)・『[[完売劇場]]』([[テレビ朝日]])などに出演していたが、近年は舞台公演を中心としている。小林は「自分がやりたいことだけやりたい。そのためには舞台が1番。評価もすぐわかる。そこがいい」「自分の目の届く範囲でやりたいんです」と語っている。 * ラーメンズのコントは、しばしばお笑いと[[演劇]]の中間に[[カテゴリ|カテゴライズ]]される。公演は6~10本程度のコントで構成されており、上演時間は約1時間半ほどである。また、他のお笑い芸人のようにシチュエーションにあった舞台装置(セット)を用意することはなく、舞台公演における空間や美術はシンプルで、モノトーンの衣装と裸足を基本とする。小道具を使わず、物事を[[パントマイム]]で表現するのが特徴(衣装を身に着けることはある)。 * [[エレキコミック]]の[[やついいちろう]]によれば、大学の落研に所属していた頃のラーメンズは毒舌漫才を得意とするグループだったという<ref>やついいちろう『それこそ青春というやつなのだろうな』([[PARCO出版]]) 94ページ</ref>。本格的にプロとして活動してからは[[コント]]のみに専念している。「爆笑だけがおもしろいわけじゃない」として幅広くコントを追求しており、[[脚本]]を手がける小林はコントの[[世界観]]について、「自分たちのコントは[[日常生活|日常]]の中の非日常ではなく、'''非日常の中の日常'''。コントに出てくる人物にとっては当たり前のこと」と語っている。そのため「[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]」「[[ボケ (漫才)|ボケ]]」といった役割がないコントが多く、「バカ二人」(小林談)というスタンスを保っている。 * 小林は、[[声帯模写]]・[[形態模写]]([[パントマイム]]も含む)・[[奇術|手品]]が得意で、コントの中で取り入れることも多い。 * ラーメンズのコントには「歌」が入ることが多い。歌の幅は広く、シンプルな音に不思議な歌詞を載せるものから[[替え歌]]、[[ラップ]]に至るまで、様々な音楽が取り入れられている。コント全てが歌で占められているものもある。 * 異国人に扮した設定で行うコントも多く見られる。[[文学]]作品をもじったコントや、[[アカデミー|アカデミック]]な言葉など、観客側にある程度の知識が要求されるネタも多い<ref name=netashutten/> 。特に2001年1月13日に放送された爆笑オンエアバトルで行った「日本語学校イタリア編」は当時『'''千葉!滋賀!佐賀!'''』として[[Adobe Flash|Flash]]化され、インターネットミーム現象を起こした<ref>{{Cite web|和書|title=「Flash」終了目前、SNSで別れを惜しむ声 「名作コンテンツがごっそり消える」「一つの時代の終焉」|url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/30271/|website=ねとらぼ調査隊|date=2020-06-17|accessdate=2020-12-01|language=ja|first=© ITmedia|last=Inc}}</ref>。 * 「ドーデスと言う男」「ネイノーさん」「ホコサキ」などに代表される奇人キャラを扱うコントや、「怪傑ギリジン」「路上のギリジン」「タカシと父さん」「現代片桐概論」などに代表される、一人だけが良く喋り動くがもう一人はほとんどセリフを話すこともなく静止しているだけの形式のコントも多々ある(小林は「やってはいけないことではないのに、誰もやっていないこと」と称する)<ref name=netashutten/>。 * その作風から、しばしば[[シティボーイズ]]と比較される。小林はシティボーイズを大好きと語っており<ref>[[広告批評]] 2003年9月号 130-141ページ(小林賢太郎インタビュー)</ref>、また舞台「[[泥棒役者]]」のインタビューの際、[[きたろう]]の「俺たちの影響を受けているという感じがうれしい」というコメントに対し、片桐は「完全に影響されている」と返している。 * 小林は「コントは生き物だ」と述べている。緻密に練られた脚本が特徴である一方で[[即興|アドリブ]]も多々あり、[[地方]]公演の時は地元ネタを演じるなど、[[観客]]を大切に考えている面が見受けられる(不思議の国のニポン など)<ref name=netashutten>出典:「小林賢太郎戯曲集―home FLAT news」([[幻冬舎]]、2002年1月)、「文庫版 小林賢太郎戯曲集―椿・鯨・雀」(幻冬舎、2007年8月)、「小林賢太郎戯曲集―CHERRY BLOSSOM FRONT345・ATOM・CLASSIC」(幻冬舎、2007年9月)、[[富山大学]]人間発達科学部紀要 177-187ページ([[国立国会図書館]]で閲覧可能)、語文 第百二十五輯「ラーメンズ・小林賢太郎の『コント』について ―ラーメンズとその他のお笑い芸人の『コント』における台詞の比較-」([[日本大学]]国文学会、90-102ページ 国立国会図書館で閲覧可能)</ref>。 * 同世代の芸人である[[バナナマン]]のコントにも影響を受けており、片桐は「バナナマンがいなかったらラーメンズを解散していた」と発言している<ref>[[テレビブロス]] 2014年2月15日号</ref> 。ちなみにバナナマンとは「genico」、「[[君の席]]」というユニットを組んだ事がある。 == エピソード == * お互いにいたるところで相方を褒めちぎっている<ref>[[広告批評]] 2003年9月号 128ページ、134ページ など。</ref>。 * 業界関係者のファンも多い。ミュージシャンの[[KREVA]]はファンを公言しており、ラーメンズの声を[[サンプリング]]した楽曲がある。[[KICK THE CAN CREW]]のライブにゲストとして招かれたこともある。小林個人では「[[国民的行事 (曲)|国民的行事]]」のPVへ出演している<ref>広告批評 2003年9月号 111-112ページ</ref>。他に、[[椎名林檎]]<ref>広告批評 2003年9月号 113ページ</ref>、[[高橋幸宏]]もラーメンズのファンであることを話している<ref>広告批評 2003年9月号 114-115ページ</ref>。また、[[声優]]の[[林原めぐみ]]が[[雑誌]]の企画で片桐と対談し、ラーメンズのファンであると語っている。その模様は[[単行本]]にも収録されている<ref>『林原めぐみの愛たくて逢いたくて…ファイナルシーズン』([[角川書店]])66-75ページ</ref>。 * [[スタイリスト]]は[[伊賀大介]]。小林が[[短編映画]]『[[短篇キネマ 百色眼鏡|百色眼鏡]]』へ出演したのをきっかけに知り合ったという<ref>広告批評 2003年9月号 66ページ</ref>。 * [[ポスター]]などの[[グラフィックデザイン|デザイン]]は"good design company"の[[水野学]]が手がけている。彼も[[多摩美術大学]]の出身で、ラーメンズの2人とは学生時代からの知り合い<ref>広告批評 2003年9月号 102-103ページ、広告批評 2006年8月号 9ページ</ref>。 * 小林・片桐・やついいちろうの3人は、かつて同じ[[アルバイト]]([[警備員]])をしていた<ref>『新刊展望』(日販発行)2006年5月号 8ページ</ref>。 *ライブの最後の挨拶で小林が観客に対してウソの告知をしたりドッキリを仕掛けたりする(例:実際は降っていないのに、外は大雨なので気をつけて帰るように、など)。「CHERRY BLOSSOM FRONT345」内で解散ドッキリを行った際に、その本格さから泣き出すファンも存在(はける際に小林がドッキリであることをバラした)。 * どちらも[[眼鏡]]をかけていることがあるが、小林は[[伊達眼鏡]]である。 === 爆笑オンエアバトル === * 『爆笑オンエアバトル』には、第1回目から出演し、『現代片桐概論』のネタを披露。1位通過及び、番組内における高評価の代名詞である'''「オーバー500」を初めて記録'''した。その後もオンエア経験を重ね、同番組のチャンピオン大会の第1回と第2回の予選に参加した。第2回のチャンピオン大会では本選に出場し、最終決戦には進出できなかったが、特別審査員の[[立川談志]]から、審査員特別賞を受賞している。この時は201KBだった<ref name=onairbattle>『爆笑オンエアバトル 10→11』([[学研ホールディングス|GAKKEN]]) 24-53ページ</ref>。15回目の挑戦で『心理テスト』のネタで2度目の「オーバー500」を獲得。しかし、その後16回目の挑戦では413KBの好記録だったが6位オフエア、17回目の挑戦(最後の挑戦)では221KB(自己最低KB)と初の連敗を記録したが、17回の挑戦のうち13回の[[オンエア]]を獲得。オンエア率は約7割6分となり、'''[[爆笑オンエアバトル#プラチナバトラー&ゴールドバトラー|ゴールドバトラー]]に認定'''された。これらの記録から、2008年の番組公式ホームページ内の『オンバト名勝負百選』というコーナーで「爆笑オンバト初期の立役者といえば、漫才の[[ますだおかだ]]とコントのラーメンズと言える」と番組[[プロデューサー]]から評された。また、『爆笑オンエアバトル』の最終回ではこの2組が「爆笑オンエアバトルのレジェンド」と紹介された<ref name=onairbattle/><ref>爆笑オンエアバトル公式本第1巻ではますだおかだとラーメンズの対談が収録されており、2002年の正月スペシャルではこの2組が合同コントを行っている</ref>。 * 2001年1月13日に放送された「日本語学校イタリア編」で講師役がイタリア語なまりで日本の都道府県名を順に読み上げるフラッシュ動画を用いたコントのネタで「千葉滋賀佐賀」「ヒョギフ大統領の貴重」などが令和のネット(Twitter)上でトレンド入りするなど注目を浴びている。 * オフエア4回のうち3回がボール1個差か2個差の僅差である<ref>289KBで初のオフエアとなった回では[[ますだおかだ]]が番組史上初のパーフェクトを達成している</ref>。 * 通常回においては2002年1月12日放送分が最後の出場となったが、その後2008年12月30日放送分の爆笑オンエアバトル10周年企画「ヒーローたちの伝説ネタSP」で約7年振りに2人揃って番組に出演し、インタビューに答えていた。また同回では2001年6月23日放送分において披露したネタ「心理テスト」もフルで流されていた。 == ライブ == === 本公演 === 第5・6・7回は英文字三部作、第8・9・10回は漢字三部作。初期は非常に短期間の間に新作公演を発表。尚、第7回公演「news」は、ラーメンズ初の全国ツアーである。 特別公演「零の箱式」では、客演として[[西田征史]]・[[室岡悟]]・三宅信太郎の3人が複数のコントに参加している。 第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT345」は3,4,5月に桜前線と共に公演されたことが名前の由来である。 第17回公演「TOWER」において42000人を超える観客を動員し、これはお笑い単独ライブで最も多い。また、公演箇所が13箇所と最多であった。 演目タイトルはのちに発売された「小林賢太郎戯曲集」と異なるものもあるが、ここではDVD・VHSのエンドロールにあるものを表記する。 * 第1回公演「箱式」(1998年6月27日-6月28日) * 第2回公演「箱式第二集」(1998年11月28日-11月29日) * 第3回公演「箱よさらば。」(1999年5月28日-5月30日) * 第4回公演「完全立方体{{~}}PERFECT CUBE{{~}}」(1999年9月3日-9月5日) <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第5回公演「home」(2000年1月28日-1月30日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 無用途人間 * 読書対決 * 映画マニアの部屋(映画好きの二人) * 縄跳び部 * ファン * 100万円 * 漫画家と担当 * 無類人間 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第6回公演「FLAT」(2000年5月2日-5月14日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 初男 * 埋蔵金 * 海豹 * アレグレット * ドーデスという男 * 新橋駅をご利用のみなさん * お引っ越し * 棒 * 透明人間 * プーチンとマーチン </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第7回公演「news」(2000年8月2日-9月2日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 私の言葉が見えますか * 読書対決 news篇 * バッハ * 雪男 * 私の言葉が見えますか(弱気) * 王様 * big news * 英語で話そう * 私の言葉が見えますか(完結) </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第8回公演「椿」(2001年1月29日-2月16日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 時間電話 * 心理テスト * ドラマチックカウント * インタビュー * 心の中の男 * 高橋 * 斜めの日(斜めになった日) * 日本語学校アメリカン * 悪魔が来たりてなんかいう </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第9回公演「鯨」(2001年6月1日-7月8日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * ことわざ仙人 * 超能力 * バースデー * 壷バカ * 絵かき歌 * count * アカミー賞 * 器用で不器用な男と不器用で器用な男の話 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">特別公演「零の箱式」(2001年8月27日-9月12日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 現代片桐概論 * 文庫本 * タカシと父さん * 釣りの朝 * かわいそうなピンクの子犬コロチンの物語 * 片桐教習所 * 日本語学校(フランス篇) * 小さな会社 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第10回公演「雀」(2001年12月28日-2002年1月27日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * お時間様 * 音遊 * プレオープン * 許して下さい * 人類創世 * ネイノーさん * 男女の気持ち * 雀 </div></div> * 超特別公演「RMS1」(2002年3月12日-3月14日) <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第11回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT345」(2002年3月29日-5月12日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 本人不在 * エアメールの嘘 * レストランそれぞれ * 怪傑ギリジン * 小説家らしき存在 * マーチンとプーチン2 * 蒲田の行進曲 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第12回公演「ATOM」(2002年12月25日-2003年1月12日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 上下関係 * 新噺 * アトム * 路上のギリジン * 採集 * アトムより </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第13回公演「CLASSIC」(2003年3月12日-4月6日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * ベルボーイのホテル旅館化計画 * マリコマリオ * 受験 * ダメ人間 * マニアな二人 (DVD未収録) * ギリジンツーリスト * バニーボーイ * 1313 * 帝王閣ホテル応援歌 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第14回公演「STUDY」(2003年12月26日-2004年2月26日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * study * ホコサキ * QA * 科学の子 * 地球の歩き方 * いろいろマン * 金部 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第15回公演「ALICE」(2005年1月18日-4月24日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * モーフィング * 後藤を待ちながら * 風と桶に関する幾つかの考察 * バニー部 * 甲殻類のワルツ * イモムシ * 不思議の国のニポン </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第16回公演「TEXT」(2007年2月1日-4月1日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 50 on 5 * 同音異義の交錯 * 不透明な会話 * 条例 * スーパージョッキー * 銀河鉄道の夜のような夜 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">第17回公演「TOWER」(2009年4月1日-6月28日)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * タワーズ1 * シャンパンタワーとあやとりとロールケーキ * 名は体を表す * ハイウエスト * やめさせないと * 五重塔 * タワーズ2 </div></div> === プロデュース公演 === * Rahmens presents Golden Balls Live(2005年8月3日-9月19日) * [[小林賢太郎プロデュース公演|小林賢太郎プロデュース公演 (KKP)]] (コンビでの出演は「[[good day house]]」「[[Sweet7]]」のみ) * [[カジャラ]] (コンビでの出演は「#1 『大人たるもの』」のみ) === その他の公演 === * ラーメンズ・テツ&トモ合同ライブ「源氏、博、丈太郎、歌」(1999年10月) * [[チョコレイトハンター]] ([[東京03|アルファルファ]]、[[オークラ]]とのユニット) * genico ([[バナナマン]]とのユニット)1st live 「Setagaya genico」(2000年10月3日-4日) * ライヴ![[君の席]] ([[おぎやはぎ]]、[[バナナマン]]とのユニット)(2002年3月2日-3日)DVD化 === 客演 === * 鈴木の大地([[劇団カムカムミニキーナ]])(1997年) * ニッキーズ・パビリオン([[故林広志]] 作・演出)(2001年10月19日-21日) == 出演 == '''コンビでの出演に限る''' === テレビ === * [[ブレイクもの!]]([[フジテレビ]]) * [[新橋ミュージックホール]]([[読売テレビ]]) * 爆笑オンエアバトル (NHK総合) 戦績13勝4敗 最高512KB ゴールドバトラー認定 ** 第1回チャンピオン大会 予選4位敗退 ** 第2回チャンピオン大会 決勝9位(審査員特別賞受賞) ** 番組第1回目に出場して'''初の1位通過及びオーバー500を記録'''(1999年3月27日放送分、512KB)。 * [[完売劇場]]([[テレビ朝日]])キャッチコピーは【芸術知能犯】 * [[ピタゴラスイッチ]] (NHK) - コーナーで不定期出演 * 笑いの巣([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[ウラ日テレ]](日本テレビ) * [[笑点]](日本テレビ) * [[POTSUNEN #小林賢太郎テレビ|小林賢太郎テレビ8]](NHK BSプレミアム) - 小林のソロ番組にコンビ名義で出演 === 映画 === * [[小島淳二]] 『[[Jam Films#Jam Films 2|机上の空論]]』 '''映像作品''' * 『[[THE JAPANESE TRADITION 〜日本の形〜]]』 === CM === * [[アップルジャパン]] [[Get a Mac]] - 役割は片桐がパソコン、小林がMac。 ** Macとパソコン篇 ** ウイルス篇 ** iLife篇 ** 年賀状篇 ** 再起動篇 ** 円グラフ篇 ** セキュリティ篇 ** ステップ篇 ** iMovie篇 ** オフィスの仲間篇 ** 膨張篇 ** 絵の練習篇 * [[スタジオジブリ]] 『[[もののけ姫]]』 DVD発売告知 * [[東芝]] 企業CM * [[KICK THE CAN CREW]] 「[[magic number (KICK THE CAN CREWのアルバム)|magic number]]」 '''ラジオCM''' * [[リクルートホールディングス|リクルート]] * [[マシェリ]] === ラジオ === * ラーメンズのコントの時間(1998年6月6日-27日) [[茨城放送]] * [[赤坂お笑いD・O・J・O]]([[TBSラジオ]])- 七段を所得 == 作品 == <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">DVD</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> ;本公演 ※販売元は全て[[ポニーキャニオン]]。発売日順。 * 『Rahmens 0001 select』<ref group="注">2000~2001年までに発表されたコントの中から、一万人のファンから募った人気投票によりセレクトされたベスト10作品集。</ref>(2002年8月21日) * 『The Box Set of Four Titles Rahmens』<ref group="注">第8回公演『椿』~第10回公演『雀』と特別公演『零の箱式』をDVD化し、収録した4本組DVD-BOX。</ref>(2002年9月29日) * 『The Box Set of Four Titles Rahmens(2)』<ref group="注">第11回公演『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』~第14回公演『STUDY』をDVD化し、収録した4本組DVD-BOX。</ref>(2004年12月15日) * 第15回公演『ALICE』<ref group="注">それまでの作品は全てVHSかDVD-BOXでの発売のみに限られていたが、本作品からDVD単体で発売されるようになった(後に以前の作品も単体で発売されるようになる)。</ref>(2006年5月17日) * 第5回公演『home』(2009年3月18日) * 第16回公演『TEXT』<ref group="注">この公演以降は、blu-rayでも発売されている。</ref>(2009年4月1日) * 第6回公演『FLAT』<ref group="注">編集上、複数の公演を繋いでいるため、あるコントの中で片桐がシーンによって眼鏡をかけていたりいなかったりする(プーチンとマーチンなど)。</ref>(2009年5月8日) * 第7回公演『news』(2009年6月3日) * 第8回公演『椿』(2009年7月1日) * 第9回公演『鯨』(2009年7月1日) * 第10回公演『雀』(2009年7月1日) * 特別公演『零の箱式』<ref group="注">結成初期に披露していたコントの作品集。</ref>(2009年7月1日) * 第11回公演『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』(2009年10月21日) * 第12回公演『ATOM』(2009年10月21日) * 第13回公演『CLASSIC』<ref group="注">公演当日に行われていた6番目のコント「マニアな二人」はVHS・DVDには収録されておらず(後に発売された戯曲集も)、また収録されていないこと自体説明されていない(このコントは手品の種明かしや[[機動戦士ガンダム|ガンダム]]、[[プラモデル]]の[[マニア|マニアック]]な知識が織り込まれたものだった)。そのため同VHS・DVDは実際の公演より時間が短く、その代わりに「バニーボーイ」の別バージョンが[[収録]]されている。</ref>(2009年10月21日) * 第14回公演『STUDY』(2009年10月21日) * 第17回公演『TOWER』(2010年9月15日) ;その他の公演 * 『ライヴ!!君の席-SPECIAL SIX SEATS-』([[バップ]]、2003年5月21日) * 小林賢太郎プロデュース公演『good day house』(ポニーキャニオン、2005年4月20日) * 小林賢太郎プロデュース公演『PAPER RUNNER』(ポニーキャニオン、2005年4月20日) * 小林賢太郎プロデュース公演『Sweet7』(ポニーキャニオン、2005年8月3日) * Rahmens presents 『GOLDEN BALLS LIVE』NAMIKIBASHI Satellite mix(ポニーキャニオン、2008年3月19日) * 小林賢太郎最新コント公演 カジャラ #1『大人たるもの』(ポニーキャニオン、2017年3月15日) ;その他 * 『爆笑オンエアバトル ラーメンズ』(ポニーキャニオン、2001年5月16日) * 『笑いの巣PRESENTS 君の席1』(バップ、2001年6月21日) * 『笑いの巣PRESENTS 君の席2』(バップ、2001年8月22日) * 『笑いの巣PRESENTS 君の席3』(バップ、2001年10月24日) * 『完売地下劇場 REVENGE Basement1 無源/Basement2 煩悩』(ポニーキャニオン、2005年8月18日) * 『完売地下劇場 REVENGE Basement3 我流/Basement4 天命』(ポニーキャニオン、2005年10月19日) * 『完売地下劇場 REVENGE Basement5 武感/Basement6 触界』(ポニーキャニオン、2005年12月22日) * 『完売地下劇場 REVENGE Basement7 喜受/Basement8 渇愛』(ポニーキャニオン、2006年2月15日) * 『完売地下劇場 REVENGE Basement9 奪取/Basement10 混迷』(ポニーキャニオン、2006年4月19日) * 『THE JAPANESE TRADITION ~日本の形~』(アスミック・エース、2007年3月2日) </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">VHS</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> ;本公演 ※第8回以降の販売元は全てポニーキャニオン。発売日順。 * 第6回公演『FLAT』(ポニーキャニオン、2000年8月19日) * 第7回公演『news』<ref group="注">第5回公演「home」{{~}}第7回公演「news」までは全て販売会社が異なり、特に第7回公演「news」は他の公演とは違って版権が[[バップ]]にあったため、長らくこの三部作をDVDとして発売することは難しいとされていたが、2009年に第5-7回公演のすべてが[[ポニーキャニオン]]によりDVDで発売された。</ref>(バップ、2000年11月22日。現在絶版) ** 『news-NEWS』<ref group="注">第7回公演『news』の舞台裏を映像化したもの。2015年現在、DVD化はされていない。</ref>(バップ、2000年11月22日) * 第5回公演『home』<ref group="注">本作品と第7回公演『news』のVHSは制作会社の都合上絶版となっている。その後、『news』と共に本作品は2009年3月にDVD発売されている。</ref>(オメガA.T.ミュージック、2001年3月7日。現在絶版) * 第8回公演『椿』(2001年6月20日) * 第9回公演『鯨』(2001年11月21日) * 特別公演『零の箱式』(2001年12月19日) * 第10回公演『雀』<ref group="注">本作品では[[映像編集|編集]]がおかしい部分が多々ある(具体的には、複数の[[カメラ]]で撮影した同じ[[シーン]]を連続して繋げてあったり、[[音声]]と映像があっていない等)。後に発売されたDVD-BOX内においても修正されていなかったが、2009年リリースの単品/レンタルDVDでようやく修正が施された。</ref>(2002年8月21日) * 第11回公演『CHERRY BLOSSOM FRONT 345』(2003年2月19日) * 第12回公演『ATOM』(2003年7月2日) * 第13回公演『CLASSIC』(2003年12月3日) * 第14回公演『STUDY』(2004年6月30日) ;その他 * 『ネタde笑辞典ライブ Vol.4』(日本コロムビア、1998年5月21日) </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">CD</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 『ラーメンズの日本語学校』(インディーズシングル・3000枚限定。現在絶版) * 『[[ラーメンズの新日本語学校]]』<ref group="注">以前発売された『ラーメンズの日本語学校』に新録作品を加えて再発された。</ref>(ポニーキャニオン、2006年9月6日) </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">本</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> ※個人名義のものは[[小林賢太郎#出版物|小林賢太郎の出版物]]、[[片桐仁#書籍|片桐仁の出版物]]を参照。 * 『かるた?』([[日本テレビ放送網]]、2001年9月。現在絶版) * 『ラーメンズ つくるひとデコ(凸)』([[太田出版]]、2002年8月) * 『微妙ハンター』([[ぴあ]]、2003年3月。現在絶版) </div></div> == 関連項目 == * [[ニイルセン]] 多摩美術大学の同級生。舞台美術を担当 * [[徳澤青弦]] 第9回公演「鯨」以降で音楽を担当。「鯨」では公演最終日に舞台上で[[チェロ]]の生演奏(曲は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の「[[無伴奏チェロ組曲]]第1番ト長調」より前奏曲)を行っている (この様子はVHSやDVDで見ることができる)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.rahmens.net/ |title=ラーメンズ公式サイト}}(閉鎖) * {{YouTube|c=UCQ75mjyRYZbprTUwO5kP8ig|ラーメンズ公式}} * [https://web.archive.org/web/20140622192644/http://www.twinkle-co.co.jp:80/talent/rahmens.html トゥインクル・コーポレーションによるプロフィール](削除) {{爆笑オンエアバトルゴールドバトラー}} {{Navboxes|title =[[爆笑オンエアバトル チャンピオン大会|<span style="color:#000;">爆笑オンエアバトル チャンピオン大会</span>]](2回)|titlestyle =background:#EBF1F9;color:#000; |list1= {{爆笑オンエアバトル第1回チャンピオン大会}} {{爆笑オンエアバトル第2回チャンピオン大会}} }} {{デフォルトソート:らあめんす}} [[category:日本のお笑いコンビ]] [[Category:過去のケイダッシュ系列所属者]] [[category:日本の劇団]]
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じゃんけん
じゃんけん(漢字表記:石拳、両拳、雀拳)は、3種類の指の出し方(グー・パー・チョキ)でいわゆる三すくみの関係を構成し、その強弱関係により勝敗を決める日本の遊戯である。 地域によって「じゃいけん」「いんじゃん」などさまざまな呼び方がある。アメリカ合衆国などの英語圏の場合、多くは "Rock Paper Scissors" という呼称が使われているが、 "Scissors Paper Stone" などと表現されることもある(表記上の揺れは数種類ある。略号はRPS)。中国では「猜拳」、韓国では「가위바위보(カウィバウィボ)」となどと呼ばれる。 コイントスやくじなどと異なって道具は必要でなく、ごく短時間で決着が付くことから、その勝敗によって参加者の優先順位や組み合わせなどを決定する簡便な方法としてよく使われる。複数回行って何連勝できるかなどのゲームとしてそれ自体が楽しまれることもある。 グー・パー・チョキの三すくみを用いる一般的なじゃんけんのほか、特に大人数で勝敗や組み分けを決めるために用いられる多い勝ち・うらおもて・グーパーなどといった類似の遊戯がある。 その起源は中国から九州に伝来した虫拳であり、これが変化して日本独自のものに作り上げられたという。三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳など、三すくみの関係を指で表す遊戯)は、日本・東アジアから東南アジアにかけての地域に多く見られる。 最も有力な説は、日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳(本拳・箸拳など)のうち球磨拳の要素が加わった拳遊びから発展し、19世紀末(明治時代)に九州で考案されたとするものである。数拳のうち1, 3, 4が省かれ、分かりやすい0と5および中間の2を残して新しく「石」「紙」「鋏」の意味を与え、三すくみ構成としたとされる。 江戸時代には、じゃんけんについて記載されている文献はほとんど存在しない。歌川広重が文政13年(1830年)に作成した 「ふうりゅうおさなあそび」には、チョキとグーらしき手遊びをしている幼児が描かれているが、じゃんけんと明言はされておらず、本拳や球磨拳といった他の拳遊びでも似た形となることがある。天保9年(1838年)に刊行された『誹風柳多留』には、「リャン拳で 鋏を出すは 花屋の子」という川柳が含まれており、鋏を出す拳遊戯としてはじゃんけんと共通したものである。江戸時代後期の歌舞伎作家・西沢一鳳が1850年(嘉永3年)に著した『皇都午睡(みやこのひるね)』には、「近頃東都にてはやりしはジヤン拳也 酒は拳酒 色品は 蛙ひとひよこ三ひよこひよこ 蛇ぬらぬら ジヤンジヤカ ジヤカジヤカジヤンケンナ 婆様に和藤内が呵られて 虎はハウハウツテトロテン なめくでサア来なせへ 跡は狐拳也」とあるが、これも現在のじゃんけんとは異なり、虫拳の類いであろうと推定される。 ウィーン大学で日本学を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在のじゃんけんは江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。『奄美方言分類辞典』に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。 明治時代には石・紙(ふろしき)・鋏を出し合う石拳が普及するようになり、明治26年(1893年)には、石拳の一名として「ジャンケン」の語が存在したとされる。明治37年(1904年)の『尋常小学読本 七』には「おにをきめるよ、じゃん、けん、ぽん」という表記がある。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(4代目歌川広重)が往事を懐かしんで1905年(明治38年)に刊行した『絵本江戸風俗往来』にも、「ぢやん拳」について記されている。 20世紀には、日本の海外発展や柔道などの日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャー(漫画、アニメ、コンピュータゲームなど)の隆盛に伴い、急速に世界中に拡がった。 明代末期の中国で書かれた『五雜俎』によると、漢代中国には「手勢令」と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では「手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鴟とする」などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して「用法知らず」とされ、当時「捉中指」という遊びのルーツではないかと作者が推測している。『全唐詩』の八百七十九巻には「招手令」について「亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下」というルールと思われる記述がある。「蹲鴟を以て虎膺の下とす」から三すくみ的要素を見て取れる。 拳遊びを○○拳と呼ぶのは中国の影響と考えられる。○○拳という呼称は中国では主に拳法のことであるが、明代に書かれた『六研齋筆記』に「謂之豁拳」の記述があり、拳遊びのことを「猜拳」「画拳(かくけん)」「豁拳」などと呼んでいた。現在中国で行われているじゃんけんは明治以後に日本から伝わったものと考えられるが、同じ「猜拳」の語で呼ばれている。 石・紙・鋏(はさみ)のじゃんけんは日本起源で、近代以降日本人の移民や交流で世界各地に広がり、日本と密接な関係を持っていたイギリスの旧植民地や南アメリカでも日本人が入植した地域を中心にじゃんけんが行われている。一方、日本との接触が少ない所では石・紙・鋏のじゃんけんは普及していない。 中国や朝鮮では、日本から伝播した際に紙が「布」に置き換わったため「石」・「布」・「鋏」となった。 19世紀後半まで鎖国していた日本に対し、19世紀中ごろのアメリカ大陸横断鉄道建設の労働者など、欧米に早くから多くの移民を送り出してきた中国式の石・鋏・布が世界標準とならなかったのは、中国に現在のじゃんけんが伝来したのが明治以降のことで、当時の中国人がまだ現在のじゃんけんを知らなかったからと思われる。現在の中華人民共和国西部地区(新疆ウィグル)や中央アジアでは未だにじゃんけんがほとんど普及していない。中国語ではじゃんけんの掛け声は「シータォー(石)・チェンツ(鋏)・プー(布)」であるが、「ジャン・ジン・ボー」などと言う人もいる。また、高齢者の中にはじゃんけんを知らない人もいる。 2002年(平成14年)、世界各地のじゃんけん系ゲームのルールを統一し、世界大会を開くためとして「The World Rock Paper Scissors Society(略号:WRPS)」がカナダで結成された。同団体は元々1842年にイギリスで設立されたと主張しているが、この頃にはまだ現在のじゃんけん自体が存在しておらず、これはWRPSのジョークである。そもそもWRPS自体が冗談で創られた団体であり、もし本当にじゃんけんが19世紀当時のイギリスで行われていたのなら、旧大英帝国領を中心にじゃんけんが普及していたり、他のヨーロッパ諸国にもイギリスから伝わった明らかな痕跡が見られるはずであるが、そのような事実はない。ヨーロッパでは19世紀以前の文献にじゃんけんは存在せず、20世紀になって日本についての記述からじゃんけんが出てくる。また、20世紀に日本人が海外での体験を書いた書物にも、日本人同士がじゃんけんをしていると欧米人が不思議に思い、何をしているのかと質問されたとの記事が散見され、最近までヨーロッパではじゃんけんがほとんど知られていなかったことが確認できる。このことからもWRPSの設立が比較的最近であることがわかる。 日本が舞台となった『007は二度死ぬ』(1967年(昭和42年))原作の小説では、日本的な雰囲気を出すために主人公ジェームズ・ボンドがじゃんけんをする場面が登場する。 日本のじゃんけんのチョキは、もともと数拳で2を表す人差し指と親指を伸ばす形で和鋏の形状をイメージしたもの(男チョキと呼ばれる)だったが、国内を伝播するうちに洋鋏からイメージされた人差し指と中指を使う女チョキが派生した。じゃんけんの原型となった拳遊びは九州を中心とする西日本に多く分布し、古い形態である男チョキも九州を中心に西日本に多い(韓国でも行われている)。男チョキが普及しなかった東京など東日本の一部では「田舎チョキ」と呼ばれることもある。ヨーロッパ諸国のじゃんけんは女チョキしかないが、これは日本の関東地方から伝わったことによるものと推測される。また、日本ではパーを出す場合は五本の指が離れるように広げるが、WRPSのじゃんけんでは(■右の画像のように)五指を揃える。これは「パーは紙である」という意味しか伝わらなかったために生じたものであろう。 じゃんけんの語源には、2人で行うから「両拳」(りゃんけん)、チョキを示す「鋏拳」(じゃーちゅあん)が変化したとする説、「石拳」(じゃくけん・いしけん)の「じゃくけん」が変化した説、「蛇拳」(じゃけん)説、じゃんけんの広東語「猜拳」(チャイキュン)説、レプチャ語説など、他にも多くの説があるが不明である。 じゃんけんぽんの語源にも、仏教語の料間法意(りゃけんほうい)説や長崎の唐人が伝えたという様拳元宝(ヤンケンエンポウ)説があるが、多数の掛け声の種類があることから疑問であるとされる。一般的な掛け声のホイが転化したという「じゃんけん+掛け声」「じゃんけんほい」説もある。昭和4年の「全国ヂャンケン称呼集」では135種類の掛け声を収集し、後には100種以上の掛け声を収集している。 また、以下のようにグー・パー・チョキはすべて日本語であるという説もある。 【ヘブライ語説】 ジャンケンポン=ジャン(隠して)ケン(準備して)ポン(来い!) じゃんけんは2人以上の参加者によって行う。参加者は向き合い(あるいは円になり)片腕を体の前に出す。参加者全員で呼吸を合わせ、「じゃん、けん、ぽん」の三拍子のかけ声を発し、「ぽん」の発声と同時に「手」を出す。この「手」の組み合わせによって勝者と敗者を決定する。 勝負が決定しなかった場合を「あいこ」と言う。あいこのときは「あい、こで、しょ」のかけ声を同様に行い、「しょ」で再び「手」を出す。通常「あいこでしょ」は勝敗が決定するまで繰り返される。 変則ルールで「じゃんぽんけん」と言う場合もある。その場合は、通常ルールでは負ける人が勝ち、勝つ人が負けるというルールになる。あいこのときは通常ルールと基本的に同じとなる。 じゃんけんの「手」は指の動きによって表され、以下の三つがある。 勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。 2人のときは、以上に加えて両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。3人以上のときは、全員が出した「手」が三種類のうちの二種類だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、全ての手が出たときには「あいこ」になる。 一見して分かるとおり、グー・パー・チョキの三者は三すくみの関係にあり、三つの「手」の間に特別な優劣もなければ、勝敗の確率が人によって変わることもない。この三者の関係は、そのモデルである「石」「紙」「はさみ」を考えると理解しやすい。つまり、以下のとおりである。 なお、「ぽん」のタイミングに「手」が出なかった場合はやり直しになる。特に、わざとタイミングを遅らせて、相手の手を見てから自分の手を出す行為は「遅出し」「後出し(あと出し)」と呼ばれる反則であり、負けと見なされる。なお、この反則行為から派生したゲームとして、親の出した手を瞬時に判断して子が勝てる手を出す『あと出しじゃんけん』というゲームもある。 ちなみに、1990年代以降の東京都知事選挙においては、知名度の高い立候補者が都民にインパクトを与えて得票数を増やす目的でわざと遅い時期に出馬を表明する風習が定着しており、これを「後出し(あと出し)じゃんけん」と呼んで揶揄することも多い。 上で述べたルールによれば、対戦者が増えるほど「あいこ」になる確率が増えるため、決着が遅れることがある。このため次のような対策がとられるのが普通である。 じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームであるという特性から、しばしば確率の問題(設問)などで使われることがある。例えば2人での対戦において、「グー」「パー」「チョキ」を出す確率をそれぞれ3分の1、つまり同様に確からしいと仮定し、あいこの際に勝敗が決まるまで無制限にやり直すとした場合でも、平均すれば1.5回で勝敗が決着する。 また、じゃんけんをn人で行うとすると、nが2以上のとき1回の試行であいことなる確率は、1 - 2 - 2/3となる。 例えば、じゃんけんを4人で行う場合はnに4を代入して、あいこの確率は13/27となる。 じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームである一方、心理戦の側面も有している。これは、競技の性質上、相手が何を出すのかが事前に分かっていれば確実に勝つことができるため、それを何らかの方法で読み取ろうとする努力がときになされるためである。 例えば、2人での勝負において、2回連続で互いにグーであいこになったとする。このとき、相手は何を出すかを考えると、一番単純なのは相手がまたグーを出すことであるから、それに勝つパーを出す作戦が考えられるが、相手も同じ考えをしてくるならばパーに勝つチョキを出すべきである。さらに、相手がそこまで見越してチョキを出してくることを想定して、再びグーを出す作戦も考え得る。このように、競技の性質から、思考は堂々巡りに陥ることになるが、相手の人となりを知っているのなら、そこから「どこまで考えを巡らす人物であるか」などを考慮に入れ、最終的に相手が出すであろう手を予測することになる。 また、1回目がグー・2回目がチョキであいこになったとすれば、「グー・チョキ・パー」という語呂から3回目にはパーが出てくる可能性が高い。特に、「あいこでしょ」がテンポ良く行われている場合には、別の手を出すまでに考えが至らないことも多く、テンポに乗せられてパーを出してしまう可能性も多い。テンポが速い場合には、手の決定は瞬間的・反射的に行われることが多いため、こういった予測が一層効果的であるとする考え方もある。 複数ラウンドによる勝負では、心理戦の要素は一層高まる。相手の性格と前回相手が出した手から、次に出す手を判断しそれに勝つであろう手を出すという作戦をとることができる。特に子供同士でじゃんけんを行っているときや酒が入るなど、判断力が低下した場でのジャンケンは顕著に性格が出るため、例えば前回相手が負けたなら、その負けた手に勝つ手を出すという作戦をとることができる。例えば、パー対グーで負けたときにはパーに勝つために相手はチョキを出すと予想し、グーを出すという作戦である。 1回勝負であったとしても、心理戦の要素を持ち込むことができる。実際のじゃんけんに入る前に、相手に「何を出すのか」と尋ねたり、「自分はグーを出す」などと相手に宣言するなどして、相手がそれに対してどう判断するかを予測したりして、心理戦を生じさせることができる。 別の方法は、自分の前で両の掌(てのひら)を、右掌が左側に、左掌が右側になるような形で合わせ、両手の指を結び合わせ、肘と手首を曲げながらその結び合わせた手を自分の顔の前に持ってくるものである(手をいったん下方に動かしてから自分の前に持ち上げる形をとる)。結び合わされた手は、小指の側が自分の顔に近く、親指の側が自分から遠くにあるが、その手を覗き込むようにして、結び合わされた親指の隙間から見える光の形を見る。 ただしこの方法の勝率への関係性は定かではない。 「手」を出し合うときの掛け声「じゃんけんぽん」は、標準的なものであるが、これには主に地方ごとに様々なバリエーションがある。 また、時おり同じ市町村でも地域によって異なる場合がある。通常の掛け声のパターンとメロディに乗せるパターン(京都など近畿地方に多い)に大別される。 日本では「最初はグー」とグーを出してから「じゃんけんぽん」のタイミングを合わせることがよく行なわれる。これは志村けんが考案したもので、飲み屋での仲間とのやりとりを「8時だョ!全員集合」での仲本工事とのコント「ジャンケン決闘」(1981~1982年)に取り入れ、そこから全国に広まった。それまでじゃんけんの出だしのタイミングが合わず、やり直しになることもしばしばあった。2020年3月の志村の死去時には日本じゃんけん協会が追悼コメントを発表している。 じゃんけんを基本ルールにした遊びとして最も有名なものとしては「あっち向いてホイ」がある。 そのほか、「グリコ」「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」「おかしやさん」「カレーライス」「グリンピースじゃん」「軍艦じゃんけん」「ドンパッパ」「ビームフラッシュ」「じゃんけんブルドッグ」「猿さんべん」などがあり、また、「脚じゃんけん」「舌じゃんけん」など、手以外の体の部分を使って遊ぶものがある。あるいはまた、「最初はグー じゃんけんポンとだすアホがいる」「最初はグー じゃんけんポンと出さないアホがいる」などという、ひっかけのじゃんけんもあった。 野球拳でもじゃんけんを行うが、これは派生したものとは違う。※該当項目にて詳述する。 日本ではじゃんけんだけの大会が開かれることはほとんどないが、普及し始めて日の浅い地域では新知識に対する感動が大きく、世界大会が開かれるようになった。日本ではグーパーじゃんけんなどがあるので大人数でもじゃんけんのトーナメント戦はほとんど行われなくなったが、カナダに本拠を置く国際じゃんけん協会の主催による世界大会はトーナメント方式で戦われている。 じゃんけんにおける心理戦の側面や、勝敗に伴って何らかの利得を得、または負担を負うことを約して勝負を行った場合の「賭博」としての側面などを題材としたフィクションが存在する。じゃんけんの特性上、それを題材として中長編の作品を作ることは困難であるため、作中の一エピソードとして、または、短編として扱われる場合が多い。 野球拳の系統を除く。 これらの作品のほかに、じゃんけんのルールとは関係なく、攻撃手段をそれぞれグー・チョキ・パーに見立てた必殺技が登場する作品もある。代表的なものにドラゴンボールの「ジャン拳」、HUNTER×HUNTERの「ジャジャン拳」など。 有名なものをあげる。 また、正式なじゃんけんではないが、『オールスター親子で勝負!』(日本テレビ系)では、カエル・ヘビ・ナメクジのジェスチャーで「虫拳」をやる「親子トリプルマッチ」があった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "じゃんけん(漢字表記:石拳、両拳、雀拳)は、3種類の指の出し方(グー・パー・チョキ)でいわゆる三すくみの関係を構成し、その強弱関係により勝敗を決める日本の遊戯である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地域によって「じゃいけん」「いんじゃん」などさまざまな呼び方がある。アメリカ合衆国などの英語圏の場合、多くは \"Rock Paper Scissors\" という呼称が使われているが、 \"Scissors Paper Stone\" などと表現されることもある(表記上の揺れは数種類ある。略号はRPS)。中国では「猜拳」、韓国では「가위바위보(カウィバウィボ)」となどと呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コイントスやくじなどと異なって道具は必要でなく、ごく短時間で決着が付くことから、その勝敗によって参加者の優先順位や組み合わせなどを決定する簡便な方法としてよく使われる。複数回行って何連勝できるかなどのゲームとしてそれ自体が楽しまれることもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "グー・パー・チョキの三すくみを用いる一般的なじゃんけんのほか、特に大人数で勝敗や組み分けを決めるために用いられる多い勝ち・うらおもて・グーパーなどといった類似の遊戯がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その起源は中国から九州に伝来した虫拳であり、これが変化して日本独自のものに作り上げられたという。三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳など、三すくみの関係を指で表す遊戯)は、日本・東アジアから東南アジアにかけての地域に多く見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最も有力な説は、日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳(本拳・箸拳など)のうち球磨拳の要素が加わった拳遊びから発展し、19世紀末(明治時代)に九州で考案されたとするものである。数拳のうち1, 3, 4が省かれ、分かりやすい0と5および中間の2を残して新しく「石」「紙」「鋏」の意味を与え、三すくみ構成としたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "江戸時代には、じゃんけんについて記載されている文献はほとんど存在しない。歌川広重が文政13年(1830年)に作成した 「ふうりゅうおさなあそび」には、チョキとグーらしき手遊びをしている幼児が描かれているが、じゃんけんと明言はされておらず、本拳や球磨拳といった他の拳遊びでも似た形となることがある。天保9年(1838年)に刊行された『誹風柳多留』には、「リャン拳で 鋏を出すは 花屋の子」という川柳が含まれており、鋏を出す拳遊戯としてはじゃんけんと共通したものである。江戸時代後期の歌舞伎作家・西沢一鳳が1850年(嘉永3年)に著した『皇都午睡(みやこのひるね)』には、「近頃東都にてはやりしはジヤン拳也 酒は拳酒 色品は 蛙ひとひよこ三ひよこひよこ 蛇ぬらぬら ジヤンジヤカ ジヤカジヤカジヤンケンナ 婆様に和藤内が呵られて 虎はハウハウツテトロテン なめくでサア来なせへ 跡は狐拳也」とあるが、これも現在のじゃんけんとは異なり、虫拳の類いであろうと推定される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ウィーン大学で日本学を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在のじゃんけんは江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。『奄美方言分類辞典』に「奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "明治時代には石・紙(ふろしき)・鋏を出し合う石拳が普及するようになり、明治26年(1893年)には、石拳の一名として「ジャンケン」の語が存在したとされる。明治37年(1904年)の『尋常小学読本 七』には「おにをきめるよ、じゃん、けん、ぽん」という表記がある。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(4代目歌川広重)が往事を懐かしんで1905年(明治38年)に刊行した『絵本江戸風俗往来』にも、「ぢやん拳」について記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "20世紀には、日本の海外発展や柔道などの日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャー(漫画、アニメ、コンピュータゲームなど)の隆盛に伴い、急速に世界中に拡がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "明代末期の中国で書かれた『五雜俎』によると、漢代中国には「手勢令」と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では「手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鴟とする」などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して「用法知らず」とされ、当時「捉中指」という遊びのルーツではないかと作者が推測している。『全唐詩』の八百七十九巻には「招手令」について「亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下」というルールと思われる記述がある。「蹲鴟を以て虎膺の下とす」から三すくみ的要素を見て取れる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "拳遊びを○○拳と呼ぶのは中国の影響と考えられる。○○拳という呼称は中国では主に拳法のことであるが、明代に書かれた『六研齋筆記』に「謂之豁拳」の記述があり、拳遊びのことを「猜拳」「画拳(かくけん)」「豁拳」などと呼んでいた。現在中国で行われているじゃんけんは明治以後に日本から伝わったものと考えられるが、同じ「猜拳」の語で呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "石・紙・鋏(はさみ)のじゃんけんは日本起源で、近代以降日本人の移民や交流で世界各地に広がり、日本と密接な関係を持っていたイギリスの旧植民地や南アメリカでも日本人が入植した地域を中心にじゃんけんが行われている。一方、日本との接触が少ない所では石・紙・鋏のじゃんけんは普及していない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中国や朝鮮では、日本から伝播した際に紙が「布」に置き換わったため「石」・「布」・「鋏」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "19世紀後半まで鎖国していた日本に対し、19世紀中ごろのアメリカ大陸横断鉄道建設の労働者など、欧米に早くから多くの移民を送り出してきた中国式の石・鋏・布が世界標準とならなかったのは、中国に現在のじゃんけんが伝来したのが明治以降のことで、当時の中国人がまだ現在のじゃんけんを知らなかったからと思われる。現在の中華人民共和国西部地区(新疆ウィグル)や中央アジアでは未だにじゃんけんがほとんど普及していない。中国語ではじゃんけんの掛け声は「シータォー(石)・チェンツ(鋏)・プー(布)」であるが、「ジャン・ジン・ボー」などと言う人もいる。また、高齢者の中にはじゃんけんを知らない人もいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)、世界各地のじゃんけん系ゲームのルールを統一し、世界大会を開くためとして「The World Rock Paper Scissors Society(略号:WRPS)」がカナダで結成された。同団体は元々1842年にイギリスで設立されたと主張しているが、この頃にはまだ現在のじゃんけん自体が存在しておらず、これはWRPSのジョークである。そもそもWRPS自体が冗談で創られた団体であり、もし本当にじゃんけんが19世紀当時のイギリスで行われていたのなら、旧大英帝国領を中心にじゃんけんが普及していたり、他のヨーロッパ諸国にもイギリスから伝わった明らかな痕跡が見られるはずであるが、そのような事実はない。ヨーロッパでは19世紀以前の文献にじゃんけんは存在せず、20世紀になって日本についての記述からじゃんけんが出てくる。また、20世紀に日本人が海外での体験を書いた書物にも、日本人同士がじゃんけんをしていると欧米人が不思議に思い、何をしているのかと質問されたとの記事が散見され、最近までヨーロッパではじゃんけんがほとんど知られていなかったことが確認できる。このことからもWRPSの設立が比較的最近であることがわかる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本が舞台となった『007は二度死ぬ』(1967年(昭和42年))原作の小説では、日本的な雰囲気を出すために主人公ジェームズ・ボンドがじゃんけんをする場面が登場する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本のじゃんけんのチョキは、もともと数拳で2を表す人差し指と親指を伸ばす形で和鋏の形状をイメージしたもの(男チョキと呼ばれる)だったが、国内を伝播するうちに洋鋏からイメージされた人差し指と中指を使う女チョキが派生した。じゃんけんの原型となった拳遊びは九州を中心とする西日本に多く分布し、古い形態である男チョキも九州を中心に西日本に多い(韓国でも行われている)。男チョキが普及しなかった東京など東日本の一部では「田舎チョキ」と呼ばれることもある。ヨーロッパ諸国のじゃんけんは女チョキしかないが、これは日本の関東地方から伝わったことによるものと推測される。また、日本ではパーを出す場合は五本の指が離れるように広げるが、WRPSのじゃんけんでは(■右の画像のように)五指を揃える。これは「パーは紙である」という意味しか伝わらなかったために生じたものであろう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "じゃんけんの語源には、2人で行うから「両拳」(りゃんけん)、チョキを示す「鋏拳」(じゃーちゅあん)が変化したとする説、「石拳」(じゃくけん・いしけん)の「じゃくけん」が変化した説、「蛇拳」(じゃけん)説、じゃんけんの広東語「猜拳」(チャイキュン)説、レプチャ語説など、他にも多くの説があるが不明である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "じゃんけんぽんの語源にも、仏教語の料間法意(りゃけんほうい)説や長崎の唐人が伝えたという様拳元宝(ヤンケンエンポウ)説があるが、多数の掛け声の種類があることから疑問であるとされる。一般的な掛け声のホイが転化したという「じゃんけん+掛け声」「じゃんけんほい」説もある。昭和4年の「全国ヂャンケン称呼集」では135種類の掛け声を収集し、後には100種以上の掛け声を収集している。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、以下のようにグー・パー・チョキはすべて日本語であるという説もある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "【ヘブライ語説】 ジャンケンポン=ジャン(隠して)ケン(準備して)ポン(来い!)", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "じゃんけんは2人以上の参加者によって行う。参加者は向き合い(あるいは円になり)片腕を体の前に出す。参加者全員で呼吸を合わせ、「じゃん、けん、ぽん」の三拍子のかけ声を発し、「ぽん」の発声と同時に「手」を出す。この「手」の組み合わせによって勝者と敗者を決定する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "勝負が決定しなかった場合を「あいこ」と言う。あいこのときは「あい、こで、しょ」のかけ声を同様に行い、「しょ」で再び「手」を出す。通常「あいこでしょ」は勝敗が決定するまで繰り返される。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "変則ルールで「じゃんぽんけん」と言う場合もある。その場合は、通常ルールでは負ける人が勝ち、勝つ人が負けるというルールになる。あいこのときは通常ルールと基本的に同じとなる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "じゃんけんの「手」は指の動きによって表され、以下の三つがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2人のときは、以上に加えて両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。3人以上のときは、全員が出した「手」が三種類のうちの二種類だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、全ての手が出たときには「あいこ」になる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一見して分かるとおり、グー・パー・チョキの三者は三すくみの関係にあり、三つの「手」の間に特別な優劣もなければ、勝敗の確率が人によって変わることもない。この三者の関係は、そのモデルである「石」「紙」「はさみ」を考えると理解しやすい。つまり、以下のとおりである。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、「ぽん」のタイミングに「手」が出なかった場合はやり直しになる。特に、わざとタイミングを遅らせて、相手の手を見てから自分の手を出す行為は「遅出し」「後出し(あと出し)」と呼ばれる反則であり、負けと見なされる。なお、この反則行為から派生したゲームとして、親の出した手を瞬時に判断して子が勝てる手を出す『あと出しじゃんけん』というゲームもある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ちなみに、1990年代以降の東京都知事選挙においては、知名度の高い立候補者が都民にインパクトを与えて得票数を増やす目的でわざと遅い時期に出馬を表明する風習が定着しており、これを「後出し(あと出し)じゃんけん」と呼んで揶揄することも多い。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上で述べたルールによれば、対戦者が増えるほど「あいこ」になる確率が増えるため、決着が遅れることがある。このため次のような対策がとられるのが普通である。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームであるという特性から、しばしば確率の問題(設問)などで使われることがある。例えば2人での対戦において、「グー」「パー」「チョキ」を出す確率をそれぞれ3分の1、つまり同様に確からしいと仮定し、あいこの際に勝敗が決まるまで無制限にやり直すとした場合でも、平均すれば1.5回で勝敗が決着する。", "title": "確率としてのじゃんけん" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、じゃんけんをn人で行うとすると、nが2以上のとき1回の試行であいことなる確率は、1 - 2 - 2/3となる。", "title": "確率としてのじゃんけん" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "例えば、じゃんけんを4人で行う場合はnに4を代入して、あいこの確率は13/27となる。", "title": "確率としてのじゃんけん" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームである一方、心理戦の側面も有している。これは、競技の性質上、相手が何を出すのかが事前に分かっていれば確実に勝つことができるため、それを何らかの方法で読み取ろうとする努力がときになされるためである。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "例えば、2人での勝負において、2回連続で互いにグーであいこになったとする。このとき、相手は何を出すかを考えると、一番単純なのは相手がまたグーを出すことであるから、それに勝つパーを出す作戦が考えられるが、相手も同じ考えをしてくるならばパーに勝つチョキを出すべきである。さらに、相手がそこまで見越してチョキを出してくることを想定して、再びグーを出す作戦も考え得る。このように、競技の性質から、思考は堂々巡りに陥ることになるが、相手の人となりを知っているのなら、そこから「どこまで考えを巡らす人物であるか」などを考慮に入れ、最終的に相手が出すであろう手を予測することになる。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、1回目がグー・2回目がチョキであいこになったとすれば、「グー・チョキ・パー」という語呂から3回目にはパーが出てくる可能性が高い。特に、「あいこでしょ」がテンポ良く行われている場合には、別の手を出すまでに考えが至らないことも多く、テンポに乗せられてパーを出してしまう可能性も多い。テンポが速い場合には、手の決定は瞬間的・反射的に行われることが多いため、こういった予測が一層効果的であるとする考え方もある。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "複数ラウンドによる勝負では、心理戦の要素は一層高まる。相手の性格と前回相手が出した手から、次に出す手を判断しそれに勝つであろう手を出すという作戦をとることができる。特に子供同士でじゃんけんを行っているときや酒が入るなど、判断力が低下した場でのジャンケンは顕著に性格が出るため、例えば前回相手が負けたなら、その負けた手に勝つ手を出すという作戦をとることができる。例えば、パー対グーで負けたときにはパーに勝つために相手はチョキを出すと予想し、グーを出すという作戦である。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1回勝負であったとしても、心理戦の要素を持ち込むことができる。実際のじゃんけんに入る前に、相手に「何を出すのか」と尋ねたり、「自分はグーを出す」などと相手に宣言するなどして、相手がそれに対してどう判断するかを予測したりして、心理戦を生じさせることができる。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "別の方法は、自分の前で両の掌(てのひら)を、右掌が左側に、左掌が右側になるような形で合わせ、両手の指を結び合わせ、肘と手首を曲げながらその結び合わせた手を自分の顔の前に持ってくるものである(手をいったん下方に動かしてから自分の前に持ち上げる形をとる)。結び合わされた手は、小指の側が自分の顔に近く、親指の側が自分から遠くにあるが、その手を覗き込むようにして、結び合わされた親指の隙間から見える光の形を見る。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ただしこの方法の勝率への関係性は定かではない。", "title": "心理戦" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「手」を出し合うときの掛け声「じゃんけんぽん」は、標準的なものであるが、これには主に地方ごとに様々なバリエーションがある。", "title": "発声" }, { "paragraph_id": 43, 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じゃんけんは、3種類の指の出し方(グー・パー・チョキ)でいわゆる三すくみの関係を構成し、その強弱関係により勝敗を決める日本の遊戯である。 地域によって「じゃいけん」「いんじゃん」などさまざまな呼び方がある。アメリカ合衆国などの英語圏の場合、多くは "Rock Paper Scissors" という呼称が使われているが、 "Scissors Paper Stone" などと表現されることもある(表記上の揺れは数種類ある。略号はRPS)。中国では「猜拳」、韓国では「가위바위보(カウィバウィボ)」となどと呼ばれる。
{{multiple image |align = right |direction = vertical |background color = #BD9 |header = グー・チョキ・パー 相関図 |header_align = center |footer = |image1 = Rock-paper-scissors.svg |width1 = 270 |caption1 =・紙(パー)>[[石]](グー):石は紙に包まれてしまう。<br />・鋏(チョキ)>[[紙]](パー):紙は鋏に切られてしまう。<br />・石(グー)>[[はさみ|鋏]](チョキ):鋏は石に刃が立たない。 }} '''じゃんけん'''(漢字表記:石拳、両拳、雀拳)は、3種類の指の出し方(グー・パー・チョキ)でいわゆる[[三すくみ]]の関係を構成し、その強弱関係により[[勝負|勝敗]]を決める[[日本]]の遊戯である。 地域によって「じゃいけん」「いんじゃん」などさまざまな呼び方がある<ref>{{Cite web|author=中本正智|url=http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/tmu_j/pdf/5/5-11%E4%B8%AD%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E6%99%BA.pdf|format=PDF|title=じゃんけん ー東京および周辺ー|publisher=[[首都大学東京]]|accessdate=2023-12-25}}</ref>。[[アメリカ合衆国]]などの[[英語圏]]の場合、多くは "Rock Paper Scissors" という呼称が使われているが、 "Scissors Paper Stone" などと表現されることもある(表記上の揺れは数種類ある<ref group="注">"Rock-paper-scissors", "Rock, Paper, Scissors", etc.</ref>。略号はRPS<ref>[[#WRPS|World Rock Paper Scissors (RPS) Society]].</ref>)。[[中華人民共和国|中国]]では「猜拳」、[[大韓民国|韓国]]では「가위바위보(カウィバウィボ)」となどと呼ばれる。 == 概説 == [[コイントス]]や[[くじ]]などと異なって道具は必要でなく、ごく短時間で決着が付くことから、その勝敗によって参加者の優先順位や組み合わせなどを決定する簡便な方法としてよく使われる。複数回行って何連勝できるかなどの[[ゲーム]]としてそれ自体が楽しまれることもある。 グー・パー・チョキの三すくみを用いる一般的なじゃんけんのほか、特に大人数で勝敗や組み分けを決めるために用いられる[[多い勝ち]]・[[うらおもて]]・[[グーパー]]などといった類似の遊戯がある。 == 歴史 == [[File:Mushi-ken (虫拳), Japanese rock-paper-scissors variant, from the Kensarae sumai zue (1809).jpg|thumb|虫拳『拳会角力図会』 180]] その起源は中国から[[九州]]に伝来した'''[[虫拳]]'''であり、これが変化して日本独自のものに作り上げられたという<ref name="gsn" />。'''[[三すくみ拳]]'''(虫拳・[[蛇拳]]・[[狐拳]]・[[虎拳]]など、三すくみの関係を指で表す遊戯)は、日本・[[東アジア]]から[[東南アジア]]にかけての地域に多く見られる<ref name="gsn" />。 最も有力な説は、日本に古くからあった三すくみ拳に[[17世紀]]末に[[東アジア]]から伝来した'''数拳'''(本拳・[[箸拳]]など)のうち'''[[球磨拳]]'''の要素が加わった'''[[拳遊び]]'''から発展し、[[19世紀]]末([[明治|明治時代]])に九州で考案されたとするものである。数拳のうち1, 3, 4が省かれ、分かりやすい0と5および中間の2を残して新しく「石」「紙」「鋏」の意味を与え、三すくみ構成としたとされる。 [[江戸時代]]には、じゃんけんについて記載されている文献はほとんど存在しない{{sfn|高橋浩徳|2015|p=156}}。[[歌川広重]]が文政13年(1830年)に作成した 「ふうりゅうおさなあそび」には、チョキとグーらしき手遊びをしている幼児が描かれているが、じゃんけんと明言はされておらず、本拳や球磨拳といった他の拳遊びでも似た形となることがある{{sfn|高橋浩徳|2015|p=156}}。天保9年(1838年)に刊行された『[[誹風柳多留]]』には、「'''リャン拳'''で 鋏を出すは 花屋の子」という川柳が含まれており、鋏を出す拳遊戯としてはじゃんけんと共通したものである{{sfn|高橋浩徳|2015|p=156}}。江戸時代後期の[[歌舞伎]][[作家]]・[[西沢一鳳]]が[[1850年]](嘉永3年)に著した『皇都午睡(みやこのひるね)』には、''「近頃東都にてはやりしは'''ジヤン拳'''也 酒は拳酒 色品は 蛙ひとひよこ三ひよこひよこ 蛇ぬらぬら ジヤンジヤカ ジヤカジヤカジヤンケンナ 婆様に和藤内が呵られて 虎はハウハウツテトロテン なめくでサア来なせへ 跡は狐拳也」''とあるが、これも現在のじゃんけんとは異なり、虫拳の類いであろうと推定される。 [[ウィーン大学]]で[[日本学]]を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在のじゃんけんは江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている<ref>[[#Linhart (1998)|Linhart (1998)]]</ref>。『奄美方言分類辞典』に「[[奄美群島|奄美]]に[[本土]]([[九州]])からじゃんけんが伝わったのは明治の末である」と記されており、明治初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている<ref>[[#Nagata et Suyama (1977)|長田・須山 (1977)]]</ref>。 明治時代には石・紙(ふろしき)・鋏を出し合う石拳が普及するようになり、明治26年(1893年)には、石拳の一名として「ジャンケン」の語が存在したとされる{{sfn|高橋浩徳|2015|p=156}}。明治37年(1904年)の『[[尋常小学読本]] 七』には「おにをきめるよ、じゃん、けん、ぽん」という表記がある{{sfn|高橋浩徳|2015|p=160}}。また、江戸時代末期に幼少時代を過ごした[[歌川広重 (4代目)|菊池貴一郎]](4代目歌川広重)が往事を懐かしんで[[1905年]](明治38年)に刊行した『絵本江戸風俗往来』にも、「ぢやん拳」について記されている<ref>[[#Kikuchi (1905)|菊池 (1905)]]</ref>{{sfn|高橋浩徳|2015|p=161}}。 [[20世紀]]には、日本の海外発展や[[柔道]]などの[[日本武道]]の世界的普及、日本産の[[サブカルチャー]]([[漫画]]、[[アニメーション|アニメ]]、[[コンピュータゲーム]]など)の隆盛に伴い、急速に世界中に拡がった。 === 歴史参考 === {{独自研究|section=1|date=2012年3月}} [[明]]代末期の[[中国]]で書かれた『[[五雑組|五雜俎]]』によると、[[漢]]代中国には「[[手勢令]]」と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では''「手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鴟とする」''などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して「用法知らず」とされ、当時「捉中指」という遊びのルーツではないかと作者が推測している<ref>[[:zh:wikisource:五雜俎/卷06]]。</ref>。『全唐詩』の八百七十九巻には「招手令」について「亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下」というルールと思われる記述がある。「蹲鴟を以て虎膺の下とす」から三すくみ的要素を見て取れる。 拳遊びを○○拳と呼ぶのは中国の影響と考えられる。○○拳という呼称は中国では主に[[拳法]]のことであるが、明代に書かれた『六研齋筆記』に「謂之豁拳」の記述があり、拳遊びのことを「猜拳」「画拳(かくけん)」「豁拳」などと呼んでいた。現在中国で行われているじゃんけんは明治以後に日本から伝わったものと考えられるが、同じ「猜拳」の語で呼ばれている。 石・紙・鋏(はさみ)のじゃんけんは日本起源で、近代以降日本人の[[移民]]や交流で世界各地に広がり、日本と密接な関係を持っていた[[イギリス]]の旧[[植民地]]や<ref>http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/rpsmap.html 赤は存在が確認された国。ピンクは、少なくとも一部の人は知っている国。黄色は存在が否定的な国。</ref>[[南アメリカ]]でも日本人が入植した地域を中心にじゃんけんが行われている。一方、日本との接触が少ない所では石・紙・鋏のじゃんけんは普及していない。 中国や[[朝鮮]]では、日本から伝播した際に紙が「布」に置き換わったため「石」・「布」・「鋏」となった。 19世紀後半まで[[鎖国]]していた日本に対し、19世紀中ごろの[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[大陸横断鉄道]]建設の労働者など、欧米に早くから多くの移民を送り出してきた中国式の石・鋏・布が世界標準とならなかったのは、中国に現在のじゃんけんが伝来したのが明治以降のことで、当時の中国人がまだ現在のじゃんけんを知らなかったからと思われる。現在の[[中華人民共和国]]西部地区([[新疆ウィグル自治区|新疆ウィグル]])や[[中央アジア]]では未だにじゃんけんがほとんど普及していない。中国語ではじゃんけんの掛け声は「シータォー(石)・チェンツ(鋏)・プー(布)」であるが、「ジャン・ジン・ボー」などと言う人もいる。また、高齢者の中にはじゃんけんを知らない人もいる。 {{multiple image | align = right | image1 = Rock-paper-scissors (rock).png | width1 = 100 | alt1 = | caption1 = | image2 = Rock-paper-scissors (paper).png | width2 = 100 | alt2 = | caption2 = | image3 = Rock-paper-scissors (scissors).png | width3 = 100 | alt3 = | caption3 = | footer = WRPSにおけるじゃんけんの手の出し方。左からそれぞれグー・パー・チョキを表す。 }} [[2002年]](平成14年)、世界各地のじゃんけん系ゲームのルールを統一し、世界大会を開くためとして「The World Rock Paper Scissors Society(略号:WRPS)」が[[カナダ]]で結成された。同団体は元々[[1842年]]に[[イギリス]]で設立されたと主張しているが、この頃にはまだ現在のじゃんけん自体が存在しておらず、これはWRPSのジョークである。そもそもWRPS自体が冗談で創られた団体であり、もし本当にじゃんけんが19世紀当時のイギリスで行われていたのなら、旧[[イギリス帝国|大英帝国]]領を中心にじゃんけんが普及していたり、他の[[ヨーロッパ]]諸国にもイギリスから伝わった明らかな痕跡が見られるはずであるが、そのような事実はない。ヨーロッパでは19世紀以前の文献にじゃんけんは存在せず、20世紀になって日本についての記述からじゃんけんが出てくる。また、20世紀に日本人が海外での体験を書いた書物にも、日本人同士がじゃんけんをしていると[[欧米]]人が不思議に思い、何をしているのかと質問されたとの記事が散見され、最近までヨーロッパではじゃんけんがほとんど知られていなかったことが確認できる。このことからもWRPSの設立が比較的最近であることがわかる。 日本が舞台となった『[[007は二度死ぬ]]』([[1967年]](昭和42年))原作の小説では、日本的な雰囲気を出すために主人公[[ジェームズ・ボンド]]がじゃんけんをする場面が登場する。 日本のじゃんけんのチョキは、もともと数拳で2を表す[[人差し指]]と[[親指]]を伸ばす形で和鋏の形状をイメージしたもの('''男チョキ'''と呼ばれる)だったが、国内を伝播するうちに洋鋏からイメージされた人差し指と[[中指]]を使う'''女チョキ'''が派生した。じゃんけんの原型となった拳遊びは[[九州]]を中心とする[[西日本]]に多く分布し、古い形態である男チョキも九州を中心に西日本に多い([[大韓民国|韓国]]でも行われている)。男チョキが普及しなかった東京など東日本の一部では「田舎チョキ」と呼ばれることもある。ヨーロッパ諸国のじゃんけんは女チョキしかないが、これは日本の[[関東地方]]から伝わったことによるものと推測される。また、日本ではパーを出す場合は五本の指が離れるように広げるが、WRPSのじゃんけんでは(■右の画像のように)五指を揃える。これは「パーは紙である」という意味しか伝わらなかったために生じたものであろう。 == 語源 == じゃんけんの語源には、2人で行うから「両拳」(りゃんけん)<ref group="注">じゃんけんぽんについての語源「じゃんけんぽん」は「両拳【石+並】」説 {{Cite web|和書|url=http://gogensanpo.hp.infoseek.co.jp/main2.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2006年9月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060520130628/http://gogensanpo.hp.infoseek.co.jp/main2.html |archivedate=2006年5月20日 |deadlinkdate=2018年3月 }} </ref>、チョキを示す「鋏拳」(じゃーちゅあん)が変化したとする説、「石拳」(じゃくけん・いしけん)の「じゃくけん」が変化した説、「蛇拳」(じゃけん)説、じゃんけんの広東語「猜拳」(チャイキュン)説、[[レプチャ語]]説など、他にも多くの説があるが不明である{{sfn|高橋浩徳|2015|p=162}}。 '''じゃんけんぽん'''の語源にも、仏教語の料間法意(りゃけんほうい)説や長崎の唐人が伝えたという様拳元宝(ヤンケンエンポウ)説があるが、多数の掛け声の種類があることから疑問であるとされる{{sfn|高橋浩徳|2015|p=162}}。一般的な掛け声のホイが転化したという「じゃんけん+掛け声」「じゃんけんほい」説もある。昭和4年の「全国ヂャンケン称呼集」では135種類の掛け声を収集し、後には100種以上の掛け声を収集している{{sfn|高橋浩徳|2015|p=165}}。 また、以下のようにグー・パー・チョキはすべて日本語であるという説もある。 * ぐっと拳を握るからグー * ぱっと手を広げるからパー * チョキンと切るからチョキ 【ヘブライ語説】 ジャンケンポン=ジャン(隠して)ケン(準備して)ポン(来い!) == ルール == [[File:Playing janken - school in Japan.jpg|thumb|250px|じゃんけんをする生徒たち]] じゃんけんは2人以上の参加者によって行う。参加者は向き合い(あるいは円になり)片腕を体の前に出す。参加者全員で呼吸を合わせ、「じゃん、けん、ぽん」の三拍子のかけ声を発し、「ぽん」の発声と同時に「手」を出す。この「手」の組み合わせによって勝者と敗者を決定する。 勝負が決定しなかった場合を「あいこ」と言う。あいこのときは「あい、こで、しょ」のかけ声を同様に行い、「しょ」で再び「手」を出す。通常「あいこでしょ」は勝敗が決定するまで繰り返される<ref group="注">通常どおり、じゃんけんの掛け声を繰り返すこともある。時折、何度もあいこが繰り返されると「しょ」だけを発声することもある。「あいこでしょ」のかけ声を使わない場合は「ぽん」や「ぽい」だけとなる。</ref>。 変則ルールで「じゃんぽんけん」と言う場合もある。その場合は、通常ルールでは負ける人が勝ち、勝つ人が負けるというルールになる。あいこのときは通常ルールと基本的に同じとなる。 === 「手」の種類 === じゃんけんの「手」は指の動きによって表され、以下の三つがある。 * グー ** 五本の指を全て握る。親指を他の四本の指の中に入れるかどうかは任意である。グーは「石」の象徴であるとされる。数拳では0を意味する。 * パー ** 五本の指を離して広げる。WRPSでは指を揃えて出す。パーは「紙・布」の象徴であるとされる。数拳では5を意味する。 * チョキ ** 5本のうち、2本の指を伸ばし、それ以外を全て曲げる。チョキは「鋏(はさみ)」の象徴であるとされる。数拳では2を意味する。 ** チョキには2種類あり、親指と人差し指を伸ばす手を「男チョキ」、人差し指と中指を伸ばす手を「女チョキ」という呼び方がある。「男チョキ」は[[和鋏]](握り鋏)を表しておりチョキの原型であるのに対して、「女チョキ」は形が[[洋鋏]]のイメージに近いために新たに生まれたものとされる。 ** 「チー」「ピー」「キー」などと呼ぶ地域もある。「男チョキ」は東京など東日本には普及しなかったので、一部には「田舎チョキ」と呼ばれたりする。全国的には「女チョキ」が主流である。 === 勝敗の決定 === 勝敗に関しては、次のようなルールが定められている。 * グーは、チョキに勝ち、パーに敗れる。 * パーは、グーに勝ち、チョキに敗れる。 * チョキは、パーに勝ち、グーに敗れる。 2人のときは、以上に加えて両者が同じ手を出したときには「あいこ(引き分け)」となる。3人以上のときは、全員が出した「手」が三種類のうちの二種類だけであったときに勝負が決する。たとえば、5人中2人がパー、3人がグーを出したならば、パーを出した2人が勝者となる。全員が同じ手を出したときや、全ての手が出たときには「あいこ」になる。 一見して分かるとおり、グー・パー・チョキの三者は[[三すくみ]]の関係にあり、三つの「手」の間に特別な優劣もなければ、勝敗の確率が人によって変わることもない。この三者の関係は、そのモデルである「石」「紙」「はさみ」を考えると理解しやすい。つまり、以下のとおりである。 * 「石」は「鋏」に切られないが、「紙」に包まれてしまうので、「石」は「鋏」に勝ち「紙」に負ける。 * 「紙」は「石」を包むことができるが、「鋏」に切られてしまうので、「紙」は「石」に勝ち「鋏」に負ける。 * 「鋏」は「紙」を切ることができるが、「石」は切ることができないので、「鋏」は「紙」に勝ち「石」に負ける。 なお、「ぽん」のタイミングに「手」が出なかった場合はやり直しになる。特に、わざとタイミングを遅らせて、相手の手を見てから自分の手を出す行為は「遅出し」「後出し(あと出し)」と呼ばれる反則であり、負けと見なされる。なお、この反則行為から派生したゲームとして、親の出した手を瞬時に判断して子が勝てる手を出す『'''[[あと出しじゃんけん]]'''』というゲームもある。 ちなみに、1990年代以降の[[東京都知事選挙]]においては、知名度の高い立候補者が都民にインパクトを与えて得票数を増やす目的でわざと遅い時期に出馬を表明する風習が定着しており<ref group="注">[[2011年東京都知事選挙]]に当選した[[石原慎太郎]]や[[2012年東京都知事選挙]]に当選した[[猪瀬直樹]]などがその典型である。</ref>、これを「'''後出し(あと出し)じゃんけん'''」と呼んで揶揄することも多い。 === 複数人における決着を早く行う方法 === 上で述べたルールによれば、対戦者が増えるほど「あいこ」になる確率が増えるため、決着が遅れることがある。このため次のような対策がとられるのが普通である。 ==== 審判がいない場合 ==== * 「パー」だけを使ってするじゃんけんは'''[[うらおもて]]'''と呼ばれる。「うらかおもて」などの掛け声を言いながら「パー」を出す、このときに掌(てのひら)を上向きが「表」、掌を下向きが「裏」とし、「裏」と「表」の人数を数え数の少ない方を勝ち、または負けとする(始める前に決めておく。通常、勝ちを決める場合は少ない方を勝ち、負けを決める場合は少ない方を負けとする)。最後に二人残った場合はじゃんけんをする。[[1970年]](昭和45年)頃に熊本県から始まり、九州、全国へと広まったが、最近は新興のグーパーの方が盛んである。 * グー・パー・チョキの関係を一時的に無視し、最も多く、もしくは少なく出されたものを勝者とする。最後に二人残った場合はじゃんけんをする。 * 「グー」と「パー」だけを使ってするじゃんけんで'''「[[グーパー]]」'''または'''「グーパージャン」'''と呼ばれる(他に、「グットッパ」、「グッパージャス」と呼ばれることもある)。「グーとパーでわかれましょ」(主に東日本で使われる)「グッパでわかれましょ」(主に西日本で使われる)などの掛け声を言いながら「グー」または「パー」を出す、「グー」と「パー」の人数を数え数の少ない方を勝ち、または負けとする<ref group="注">始める前に決めておく。通常、勝ちを決める場合は少ない方を勝ち、負けを決める場合は少ない方を負けとする。</ref>。最後に二人残った場合は普通のじゃんけんをする。このやり方は上記2つのやり方を参考に生まれたものとする説もある。また、このグーパーは、チームを分ける時などに使われる。その際は、人数が偶数であれば、グーとパーを出した人数が等しい際に勝負が決まる。なお、この類似として「グッチョ」(グーチョキ・グッチ・グーキー・グッピー)など、相手が普段やりなれていない方法を用いて、相手の混乱を誘う方法が、近年は西日本の方で盛んである。この際は主催者となる人物は、事前に告げることなく掛け声「グッチョでわかれましょ」などをかけることが多い。 * [[多い勝ち]]、または、多いもん逃れ(ローカル)がある。[[多い勝ち#掛け声|掛け声]]と共に、グー・パー・チョキの何らかを出す。多いものが勝者という一種の多数決に似ている仕組み。もちろん最低3人はいないと成立しないため、二人になれば普通のじゃんけんに変わる。なお、この仕組みは仕掛けられる場合があり、はめられるケース(あるいは、その地域において暗黙の了解として常識的な手が決まっている場合があり、それを知らなかった者が負ける)もある。そのような内通を防ぐため、互いに共謀できない少ない者勝ちのじゃんけんも広く行われている。細部のルールも地域ごとに微妙に異なる。 * 隣接する2人同士でじゃんけんをし、勝った者同士、負けた者同士で再びじゃんけんを行う。対戦者が奇数の場合3人で対戦するか、1人が[[シード]]権を獲得する。 * 少ない勝ちを採用した [[ゲーマーじゃんけん]]がある。「ゲーマーじゃんけん、じゃんけん、ぽん」の掛け声と共に、グー・パー・チョキの何らかを出す。少ないものが勝者となる。例えば、グーが一人、パーが二人、チョキが一人の場合には、パーを出したものは複数いるためにバッティングが起こり脱落する。グーとチョキが少数なので暫定的に残るが、じゃんけんの判定により、グーを勝ちとするものである。さらに、勝者同士で早く順番が回ってくる方を勝ちとするように判定を加える。例えば、Aがグー、Bがパー、Cがグー、Dがパー、Eがパーを出した場合には、AとCの出したグーが少数ということで勝ちとなり、さらに、座り位置を時計回りに見て、AをスタートプレイヤーにすればCは3番目となるが、CをスタートプレイヤーとするとAは4番目となるため、Aを勝ちとする。この方式を採用することであいこのケースが減って、すぐにゲームが始められるというメリットがあり、テーブルゲームのスタートプレイヤーを素早く決めるための方法として広く普及している。 * グー・チョキ・パーが同時に出た『三すくみ』の引き分け状態のときはチョキを勝ちとする「チョキじゃんけん」がある。 ==== 審判がいる場合 ==== * 審判が出した手と、各対戦者の手によって脱落者を決め、これを繰り返して最終的な勝者・敗者を決める。 * 集団で行う場合は、「一人 対 多数であいこは負け」とする。これは、[[関口宏]]が[[情報番組]]『[[テレビあっとランダム]]』のなかで始めたものである。 * あいこを負けとしない場合もある。また、審判に負けた者が毎回残って敗者を選ぶ場合もある。選出する人数に近い人数が残った場合、普通のじゃんけんで決めることが多い。 == 確率としてのじゃんけん == じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームであるという特性から、しばしば[[確率]]の問題(設問)などで使われることがある<ref name="Maruyama (2006)">[[#Maruyama (2006)|丸山 (2006)]]</ref>。例えば2人での対戦において、「グー」「パー」「チョキ」を出す確率をそれぞれ3分の1、つまり同様に確からしいと仮定し、あいこの際に勝敗が決まるまで無制限にやり直すとした場合でも、平均すれば1.5回で勝敗が決着する<ref name="Maruyama (2006)" />。 また、じゃんけんを{{mvar|n}}人で行うとすると、{{mvar|n}}が2以上のとき1回の試行であいことなる確率は、1 - {{sfrac|2{{sup|{{mvar|n}}}} - 2|3{{sup|{{mvar|n}}-1}}}}となる。 例えば、じゃんけんを4人で行う場合は{{mvar|n}}に4を代入して、あいこの確率は{{sfrac|13|27}}となる。 == 心理戦 == じゃんけんは偶然性に多くを支配されるゲームである一方、心理戦の側面も有している。これは、競技の性質上、相手が何を出すのかが事前に分かっていれば確実に勝つことができるため、それを何らかの方法で読み取ろうとする努力がときになされるためである。 例えば、2人での勝負において、2回連続で互いにグーであいこになったとする。このとき、相手は何を出すかを考えると、一番単純なのは相手がまたグーを出すことであるから、それに勝つパーを出す作戦が考えられるが、相手も同じ考えをしてくるならばパーに勝つチョキを出すべきである。さらに、相手がそこまで見越してチョキを出してくることを想定して、再びグーを出す作戦も考え得る。このように、競技の性質から、思考は堂々巡りに陥ることになるが、相手の[[人格|人となり]]を知っているのなら、そこから「どこまで考えを巡らす人物であるか」などを考慮に入れ、最終的に相手が出すであろう手を予測することになる。 また、1回目がグー・2回目がチョキであいこになったとすれば、「グー・チョキ・パー」という語呂から3回目にはパーが出てくる可能性が高い。特に、「あいこでしょ」がテンポ良く行われている場合には、別の手を出すまでに考えが至らないことも多く、テンポに乗せられてパーを出してしまう可能性も多い。テンポが速い場合には、手の決定は瞬間的・反射的に行われることが多いため、こういった予測が一層効果的であるとする考え方もある。 複数ラウンドによる勝負では、心理戦の要素は一層高まる。相手の性格と前回相手が出した手から、次に出す手を判断しそれに勝つであろう手を出すという作戦をとることができる。特に子供同士でじゃんけんを行っているときや[[酔い#酒酔い|酒が入る]]など、判断力が低下した場でのジャンケンは顕著に性格が出るため、例えば前回相手が負けたなら、その負けた手に勝つ手を出すという作戦をとることができる。例えば、パー対グーで負けたときにはパーに勝つために相手はチョキを出すと予想し、グーを出すという作戦である。 1回勝負であったとしても、心理戦の要素を持ち込むことができる。実際のじゃんけんに入る前に、相手に「何を出すのか」と尋ねたり、「自分はグーを出す」などと相手に宣言するなどして、相手がそれに対してどう判断するかを予測したりして、心理戦を生じさせることができる。 別の方法は、自分の前で両の[[手|掌]](てのひら)を、右掌が左側に、左掌が右側になるような形で合わせ、両手の指を結び合わせ、[[肘]]と手首を曲げながらその結び合わせた手を自分の顔の前に持ってくるものである(手をいったん下方に動かしてから自分の前に持ち上げる形をとる)。結び合わされた手は、小指の側が自分の顔に近く、親指の側が自分から遠くにあるが、その手を覗き込むようにして、結び合わされた親指の隙間から見える光の形を見る。 ただしこの方法の勝率への関係性は定かではない。 == 発声 == === 掛け声 === 「手」を出し合うときの掛け声「じゃんけんぽん」は、標準的なものであるが、これには主に地方ごとに様々なバリエーションがある。 * 北海道 - じゃらけつほい<ref name="gsn" /> * 仙台 - いしけんぎっ<ref name="gsn" />、じっけっぴっ<ref name="gsn" /> * 南東北 - じっけった<ref name="gsn" /> * 北関東- じーげんぴっ<ref name="gsn" /> * 関西 - いんじゃんほい<ref name="gsn">{{Cite web|和書|url=http://www2.gsn.ed.jp/houkoku/2006c/06c01/06c01/pdf/06c01s-j02.pdf|title=「外国のジャンケンに挑戦しよう!」指導資料|publisher=群馬県総合教育センター|accessdate=2020-03-31}}</ref><ref>札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』2006年、新潮社、p132</ref>(「いーんじゃーんで、ほーい」とのばす場合もある<ref name="gsn" />) * 東海 - いんちゃんし<ref name="gsn" /> * 静岡 -じすとっぺ<ref name="gsn" /> * 飛騨 - じゃんけんしっ<ref name="gsn" /> * 山陽 - じっけった<ref name="gsn" /> また、時おり同じ市町村でも地域によって異なる場合がある。通常の掛け声のパターンとメロディに乗せるパターン([[京都市|京都]]など[[近畿地方]]に多い)に大別される。 === 導入部 (最初はグー) === 日本では「最初はグー」とグーを出してから「じゃんけんぽん」のタイミングを合わせることがよく行なわれる。これは[[志村けん]]が考案したもので、飲み屋での仲間とのやりとりを「[[8時だョ!全員集合]]」での[[仲本工事]]とのコント「ジャンケン決闘」(1981~1982年)に取り入れ、そこから全国に広まった。それまでじゃんけんの出だしのタイミングが合わず、やり直しになることもしばしばあった。2020年3月の志村の死去時には日本じゃんけん協会が追悼コメントを発表している<ref>{{Citenews|title=じゃんけん協会「最初はグー」考案の志村さん追悼|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202003310000130.html|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-03-31|accessdate=2020-03-31}}</ref><ref>{{Citenews|title=じゃんけん「最初はグー!」の発案者は志村けんさんだった…飲み屋での仲間とのやり取りを「8時だョ!全員集合」のコントに導入|url=https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020033002100163.html|newspaper=中日スポーツ|date=2020-03-30|accessdate=2020-03-31}}</ref>。 == 派生した遊び == じゃんけんを基本ルールにした遊びとして最も有名なものとしては「[[あっち向いてホイ]]」がある。 そのほか、「[[グリコ (遊び)|グリコ]]」「[[たたいて・かぶって・ジャンケンポン]]」「おかしやさん」「カレーライス」「[[グリンピースじゃん]]」「[[軍艦じゃんけん]]」「[[ドンパッパ]]」「[[ビームフラッシュ]]」「[[じゃんけんブルドッグ]]」「猿さんべん」などがあり、また、「脚じゃんけん」「舌じゃんけん」など、手以外の体の部分を使って遊ぶものがある。あるいはまた、「最初はグー じゃんけんポンとだすアホがいる」「最初はグー じゃんけんポンと出さないアホがいる」などという、ひっかけのじゃんけんもあった。 [[野球拳]]でもじゃんけんを行うが、これは派生したものとは違う。※該当項目にて詳述する。 == 主要な大会 == 日本ではじゃんけんだけの大会が開かれることはほとんどないが、普及し始めて日の浅い地域では新知識に対する感動が大きく、世界大会が開かれるようになった。日本ではグーパーじゃんけんなどがあるので大人数でもじゃんけんの[[トーナメント方式|トーナメント]]戦はほとんど行われなくなったが、カナダに本拠を置く国際じゃんけん協会の主催による世界大会はトーナメント方式で戦われている。 *'''World Rock Paper Scissors Society sanctioned tournaments'''(WRPS) {|class="wikitable" |+'''歴代WRPS開催地および優勝者''' <!-- caption --> !開催年 !開催地 !メダル !チャンピオン !性別 !国籍 !出典 |- | rowspan=3 | [[2002年]] | rowspan=18 | {{Center| [[トロント]]<br />(カナダ)}} |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Peter Lovering |男 |{{Flagicon|CAN}}[[カナダ]] |<ref name="NPR 20031024">{{Cite news |title=2003 World Rock Paper Scissors Championship |url=http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=1477870 |date=2003-10-24 |work=All Things Considered |language=en |publisher=[[ナショナル・パブリック・ラジオ|National Public Radio]] |accessdate=2011-11-03}}</ref> |- |[[ファイル:Med 2.png|Silver]] |Moe Asem |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 3.png|Bronze]] |Dave Ferris |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- | rowspan=3 | [[2003年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Rob Krueger |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 2.png|Silver]] |Marc Rigaux |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 3.png|Bronze]] |Patrick Merry |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- | rowspan=3 | [[2004年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Lee Rammage |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 2.png|Silver]] |Heather Birrell |女 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 3.png|Bronze]] |Chris Berggeren |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |- | rowspan=3 | [[2005年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Andrew Bergel |男 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[ファイル:Med 2.png|Silver]] |Stan Long |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |- |[[ファイル:Med 3.png|Bronze]] |Stewart Waldman |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |- | rowspan=3 | [[2006年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Bob Cooper |男 |{{Flagicon|SCO}}[[スコットランド]] | |- |[[ファイル:Med 2.png|Silver]] |Bryan Bennett |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |- |[[ファイル:Med 3.png|Bronze]] |Tom Smith |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |- |[[2007年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Andrea Farina |女 |{{Flagicon|USA}}アメリカ |<ref>{{Cite web |title=Rock Paper Scissors crowns a queen as its champ - Weird News |url=http://cnews.canoe.ca/CNEWS/WeirdNews/2007/10/15/4577669-sun.html |work=Canoe leading Canadian portal |language=en |publisher=Canoe Inc. |date=2007-10-25 |accessdate=2011-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110628230049/http://cnews.canoe.ca/CNEWS/WeirdNews/2007/10/15/4577669-sun.html |archivedate=2011年6月28日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref> |- |[[2008年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Monica Martinez |女 |{{Flagicon|CAN}}カナダ | |- |[[2009年]] |[[ファイル:Med 1.png|Gold]] |Tim Conrad |男 |{{Flagicon|USA}}アメリカ | |} :<ref>[[#WRPS|World Rock Paper Scissors Society (official website)]].</ref> * '''USA RPS Championship''' {{節スタブ}}<!--“アメリカRPSチャンピオンシップ”--> :<ref>[[#USARPSLeague|USA RPS League (official website)]].</ref> [[ファイル:rps2010_2.jpg|thumb|right|280px|UK Rock Paper Scissors Championships 2010年大会(第4回大会)の対戦風景]] * '''National Xtreme RPS Competition 2007-2008''' {{節スタブ}} * '''UK Rock Paper Scissors Championship''' {{節スタブ}}<!--“イギリスRPSチャンピオンシップ”--> :<ref>[[#U.K.RPSC|UK Rock Paper Scissors Championships (official website)]].</ref> * '''[[ギネス世界記録|ギネス・ワールド・レコーズ]]''' {{節スタブ}} * '''World Series of Rock Paper Scissors''' {{節スタブ}}<!--“RPSワールドシリーズ”--> * '''Red Bull Roshambull World Online Series''' {{節スタブ}} * '''[[AKB48グループじゃんけん大会]]''' {{see|AKB48グループじゃんけん大会}} == じゃんけんに関連した作品 == じゃんけんにおける心理戦の側面や、勝敗に伴って何らかの利得を得、または負担を負うことを約して勝負を行った場合の「[[賭博]]」としての側面などを題材とした[[フィクション]]が存在する。じゃんけんの特性上、それを題材として中長編の作品を作ることは困難であるため、作中の一エピソードとして、または、短編として扱われる場合が多い。 === 小説・児童文学 === * ジャンケンポン協定([[佐木隆三]][[1963年]]、[[晶文社]]→[[講談社文庫]])- 新日本文学賞受賞 * ジャンケン入門([[清水義範]]) - ISBN 978-4-0418-0406-3 * [[七人の武器屋]]([[大楽絢太]]) - 異常にじゃんけんの強い人物が登場する。 * 全日本じゃんけんトーナメント([[清涼院流水]]) - ISBN 978-4-8772-8800-6 * [[かいぞくポケット]]([[寺村輝夫]]) - 部下の名がジャン・ケン・ポンで、じゃんけんをするシーンもある。 === 楽曲 === * やきいもグーチーパー - [[1969年]](昭和44年)。[[童謡]]。作詞:[[阪田寛夫]]、作曲:[[山本直純]]。[[焼き芋|やきいも]]を食べる表現とジャンケン遊びの歌<ref>大山美和子(他共著)『たのしく遊べるこどものうた 改訂版』[[鈴木出版]]、1983年初版、1993年改訂版、163頁。ISBN 978-4-7902-7041-6。</ref>。 * ジャンケン ポン(グー・チョキ・パーのうた)[[1976年]](昭和51年)。作詞:[[川内康範]] 、作曲:[[北原じゅん]]、編曲:[[角田圭伊悟]]、歌:ひまわり。[[まんが日本昔ばなし]]のエンディングテーマ曲(1976年1月〜1977年12月本放送で使用)。 * ジャンケンパラダイス - [[1984年]](昭和59年)。歌:[[本間勇輔]]。『[[ひらけ!ポンキッキ]]』シリーズより。 * [[ふ・わ・ふ・ら#収録曲|ジャンケンポンのヒロイン]] - [[1986年]](昭和61年)。歌:[[うしろゆびさされ組]]。 * [[あいこでしょ]] - [[1988年]](昭和63年)。歌:[[工藤夕貴]]と[[ひばり児童合唱団]]。『[[みんなのうた]]』より<ref>初回放送1988年08月〜09月 https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN198808_01/</ref>。 * [[世界はグー・チョキ・パー]] - [[1994年]](平成6年)。歌:[[武田鉄矢|武田鉄矢一座]]。映画『[[ドラえもん のび太と夢幻三剣士]]』のエンディングテーマ曲。 * [[ミニモニ。ジャンケンぴょん!/春夏秋冬だいすっき!|ミニモニ。ジャンケンぴょん!]] - [[2001年]](平成13年)。歌:[[ミニモニ。]] * [[ギャラクシー☆ばばんがBang!]] - [[2002年]](平成14年)。歌:[[エンジェル隊]]。 テレビアニメ『[[ギャラクシーエンジェル]]』(第3期)前期オープニングテーマ曲。歌詞の中に最初はグーでじゃんけんぽんが出てくる。 * クインテットじゃんけん - [[2004年]](平成16年)。作詞:[[下山啓]]、作曲:[[宮川彬良]]。「[[クインテット (テレビ番組)|クインテット]]」の番組オリジナル曲。 * [[ジャンケントレイン]] - [[2011年]](平成23年)。作詞・作曲:にしのやや、編曲:[[上杉洋史]]、歌:[[つるの剛士]]。CGアニメ「[[チャギントン]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)のエンディングテーマ。 * [[ケラケラじゃんけん]] - [[2014年]](平成26年)。歌:[[ケラケラ]] * [[ジャンケンポンGO!!]] - [[2022年]](令和4年)。歌:[[郷ひろみ]]。 === 漫画 === * [[おごってジャンケン隊]]、社長DEジャンケン隊([[現代洋子]]) * [[格闘お遊戯]]([[小林よしのり]]) - ジャン拳という拳法が登場する。 * [[激戦!!ジャンケン島]]([[澤井啓夫]]) * [[ジャンケンポン]]([[泉昭二]]) - 三人兄弟の名前がジャン・ケン・ポン。 * [[賭博黙示録カイジ]]([[福本伸行]]) - 「限定ジャンケン」・・・「グー」「チョキ」「パー」それぞれの出せる回数を限定することで高度な心理戦を生み出している。 * [[とっても!ラッキーマン]]([[ガモウひろし]]) - ジャンケンマンという敵が出てくる。 * [[星のカービィ デデデでプププなものがたり]]([[ひかわ博一]]) - 本来[[カービィ]]はグーしか出せないが、コピー能力を駆使してのじゃんけんが使える。 *[[ダイヤモンドは砕けない|ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない]]([[荒木飛呂彦]]) - じゃんけんで勝つことで相手の能力を奪い取る事が出来るキャラクターが登場する === アニメ === * [[視聴者]]相手のじゃんけん ** [[古代王者 恐竜キング Dキッズ・アドベンチャー]] - 毎週、[[コマーシャルメッセージ|CM]]後の[[アイキャッチ]]で視聴者を相手に見立て、じゃんけんを行っている(ガブが視聴者の相手をする)。また、二期より登場した宇宙海賊ザンジャークのメンバーの名前が、グーネンコ(グー)、ミハサ(ハサミ=チョキ)、ザッパー(パー)とじゃんけんをもじっている。 ** [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] ([[1991年]](平成3年)[[10月20日]]より) - 毎週、[[次回予告]]の終了間際に行っている。 ** [[パタパタ飛行船の冒険]] - 次回予告の後、SD化されたキャラがじゃんけんをしていた。 ** [[ボボボーボ・ボーボボ]] - 視聴者相手のじゃんけんをやり、[[ボボボーボ・ボーボボ_(架空の人物)|ボーボボ]]が「勝ちは○○、負けとあいこは××しよう!」と占いをする、「[[ボボボーボ・ボーボボ#ジャンケン占い|ジャンケン占い]]」コーナーが、中期より行われていた。 ** [[スマイルプリキュア!]] - 黄瀬(きせ)やよいがキュアピース変身時に「ピカピカぴかりん じゃんけんポン♪ キュアピース!」と名乗りながら、じゃんけんを行なっている。なお敵の策略でプリキュア全員が幼児化された第38話では、中・薬・小指のみを曲げた「グッチョッパー」なる反則技を披露した。 ** [[ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン|すすめ!キッチン戦隊クックルン]] - 「クックルン」メンバーの代表者がじゃんけんをする「クックルンじゃんけん」がある。 ** [[ご注文はうさぎですか?]] - [[ご注文はうさぎですか??|2期]]エンディングテーマ「ときめきポポロン♪唄:チマメ隊」の最後で視聴者に向かって、じゃんけんしている。 * [[うちの三姉妹]] - [[うちの三姉妹#主題歌|OP(2代目)]]の歌詞でじゃんけんが三姉妹言葉で歌われている。 * [[ジャンケンマン]] - 主人公ジャンケンマンのほか、親友に「グーヤン」「チョッキン」「パージャン」「アイコ」、そして悪者に「オソダシ仮面」と、じゃんけんに関する名前が付いている。 * [[日常 (漫画)|日常]] - アニメの初期、および最終回にミニコーナーとして「日常のじゃんけんコーナー」が存在した。 * [[出撃!マシンロボレスキュー]] - マシンロボレスキューチームの3部隊「レッドウイングス」「ブルーサイレンズ」「イエローギアーズ」の紋章は、それぞれ「パー」「チョキ」「グー」を象っている。またそれぞれの部隊に所属するマシンロボの共通武器「フィンガーフラッシュ」は、手を紋章の状態にしてビームを発射する。 === ゲーム === [[野球拳]]の系統を除く。 * [[ジャンケンマン (アーケードゲーム)|ジャンケンマン]] * [[アレックスキッド]](アレックスキッドのミラクルワールドにてボスとじゃんけんで対決する) * [[エッガーランド]](初代最終ボス戦) * [[サラダの国のトマト姫]] * [[たけしの戦国風雲児]] * [[じゃんけんディスク城]](『[[ファミマガディスク]]』シリーズ:じゃんけん勝負ではなく、グー・チョキ・パーのパネルを使ったパズル) * [[新桃太郎伝説]](じゃんけん勝負ではなく、グー・チョキ・パーのパネルを使ったパズル) * [[遊人のふりふりガールズ]] * [[鈴木爆発]](特定のステージでジャンケン勝負となる) * [[ペーパーマリオ カラースプラッシュ]] (Super じゃんけん de ポン) === ロボット === * [[ロボット工学]]者の東大工学部・[[石川正俊]]教授が「じゃんけんロボット」を製作している。これは相手の出した手をカメラで判別してそれに勝てる手をロボットハンドで出すという、いわゆる「後出し」を瞬時に行うことで人間には絶対に負けないようになっている。人間より素早く危険を察知・回避するシステムへの応用が期待されている。 === その他 === * [[ジャンケン娘]](映画:[[1955年]](昭和30年)) * [[ジャンケンケンちゃん]](TV映画:[[1969年]]〜[[1970年]](昭和44年〜45年)) * [[UFO大戦争 戦え! レッドタイガー]] - [[特撮]]番組:[[戦闘員]]にグー・チョキ・パーがいる * [[ジャッカー電撃隊]] - 特撮番組。第13話「青いキークイズ!!密室殺人の謎・なぞ」で、頭が拳の形をしている機械怪物デビルグーが「グーグー」と言いながら頭突き攻撃するのに対し、ジャッカーは扇型スクラムで「パー!!」と叫んで反撃。 * [[バッテンロボ丸]] - 特撮番組。主人公・ロボ丸が住む「カリントニュータウン」という町に、屯田博士が造ったロボット「グット」「チョキット」「パラット」の、通称「グーチョキパートリオ」が居る。だが形状は、パラットが手の平状なのに対し、チョキットは一般的なロボット、グットは[[恐竜]]状と、全然じゃんけんとは関係なかった。 * [[伊集院光のばんぐみ]] - 「真剣ジャンケン」という企画があった。 * [[AKB48グループじゃんけん大会]] * CRフィーバーじゃんけんバトル - 2004年8月に[[三共 (パチンコ)|SANKYO]]が発売した[[パチンコ]]機。 * セコイヤチョコレート - [[フルタ製菓]]の[[チョコレート]]菓子。フルタが提供している先述の『スマイルプリキュア!』第30話(2012年9月9日)放送分より、「サクサクセコイヤ じゃんけんポン」のナレーションと共に、画面右上にじゃんけんの出し目が移されているCMが放送。 これらの作品のほかに、じゃんけんのルールとは関係なく、攻撃手段をそれぞれグー・チョキ・パーに見立てた[[必殺技]]が登場する作品もある。代表的なものに[[ドラゴンボール]]の「ジャン拳」、[[HUNTER×HUNTER]]の「ジャジャン拳」など。 == テレビ番組におけるじゃんけん == {{出典の明記|date=2018年3月|section=1}} 有名なものをあげる。 ;[[コント]]内におけるじゃんけん * [[8時だョ!全員集合]]([[TBSテレビ|TBS]]系列) - [[仲本工事]]と[[志村けん]]が[[西部劇]]の雰囲気漂う[[飲み屋|酒場]]で「'''最初はグー! ジャンケンポン!!'''」と言って2人がジャンケンをし、負けた方が罰ゲームを受けていくコントが存在した。 :コントに限らず、日本では「最初はグー」と発してまず全員にグーを出させてから次の「じゃんけんぽん」のタイミングを合わせることがよく行なわれるが、これは志村けんが考案したものである<ref name="shimura" /><ref>{{Citenews|title=志村けんさんは「最初はグー!」を始めた人…今ではジャンケンの定番に|url=https://hochi.news/articles/20200330-OHT1T50187.html|newspaper=スポーツ報知|date=2020-03-30|accessdate=2020-03-31}}</ref>。志村が飲み屋で仲間と飲んでいたときに誰が支払うかじゃんけんで決めようとしたが、みな酔っ払っていて手を出す動作が合わないため、志村が「違う違う違う、はい、グー出してグーって」と皆を促したのが最初である<ref name="shimura" />。それを『8時だョ!全員集合』での仲本工事とのコント「ジャンケン決闘」に取り入れ、客席の子供たちにも唱和してもらい、という具合にして普及していった<ref name="shimura">{{Cite web|和書|author=杉山実|url=https://www.rbbtoday.com/article/2018/12/12/165855.html|title=「最初はグー」生みの親・志村けん、誕生秘話明かす「飲み屋で酔っ払いをまとめるため」|work=エンタメRBB|publisher=iid|date=2018-12-12|accessdate=2018-12-15}}</ref>。 :上記ドリフでの「最初はグー」からの派生として「最初はグー、またまたグー<ref>「最初はグー」の次に「お次はチョキ」とする場合もある。</ref>、[[いかりや長介]]頭はパー、正義は勝つ」などの[[フレーズ]]が子供達の間で生まれた<ref name="shimura" />。 {{main|志村けん}} * [[志村けんのだいじょうぶだぁ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列) - [[志村けん]]と[[いしのようこ|石野陽子]]とのコントで「じゃんけんホイホイどっちひくの、こっちひくの、ビームシュワッチ!ビームシュワッチ!」という後半は[[ウルトラマン]]にちなんだ仕草がある。{{see also|ビームフラッシュ}} ;出場者が司会者とじゃんけんを行うもの * [[コント55号の裏番組をぶっとばせ!]] - ([[日本テレビ系列]])で行われた[[野球拳]]のコーナーで出場者が番組進行役のコント55号(萩本欽一・坂上二郎)とじゃんけんを行った。 * [[テレビあっとランダム|テレビあッとランダム]]([[テレビ東京]]系列) - スタジオに来た観客全員が司会の[[関口宏]]を相手に集団じゃんけんを行い、最終的に勝ち残った1人に番組のその日のテーマに沿った賞品が当たる。「一人vs多数であいこは敗け」というルールでの集団じゃんけんをテレビで行った最初の番組といわれている。この形式は、後に『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)でも、中期以後エンディング(提供クレジット場面)で行われていた。 * [[サムズアップ人生開運プロジェクト]]([[テレビ朝日]]系列) - 司会の[[みのもんた]]と挑戦者が予告じゃんけんをして戦う番組。[[視聴率]]が悪くすぐに[[打ち切り]]になった。 * [[パオパオチャンネル]](テレビ朝日系列) - [[所ジョージ]]が司会を務めた火曜日の放送に「勝ち抜き5じゃんけん」 というコーナーがあった。これは、両手・足・頭・口でグー・チョキ・パーを出し、差分で勝敗を決め勝ち抜いていくという視聴者参加型のコーナーであった。 ;出場者同士がじゃんけんを行うもの * [[アメリカ横断ウルトラクイズ]](日本テレビ系列) - 成田空港にて行われる「国内第二次予選」の方法として採用されていた。詳細は「[[アメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式]]」を参照。 * [[ダントツ笑撃隊!!]](日本テレビ系) - [[あのねのね]]がコーナー司会を務める「ダントツ拳」があった。64人の一般参加者が「ビームシュワッチ!」のかけ声で、番組オリジナルのグー(両腕を前でクロス)・チョキ(両手を額に逆Vの字にする)・パー(『ウルトラマン』のスペシウム光線ポーズ)を出して勝負。負けた人は[[原田伸郎]]と共に「負けちゃった、負けちゃった」と言って踊りながら退場。これを繰り返し、最後に残った1人が優勝、賞金10万円獲得となる。 * [[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]](フジテレビ系列) - 「ジャンケン誕生日」というコーナーがあった。放送日に誕生日を迎える50人ほどをステージに招き、出場者同士で生残りじゃんけんを行う。最後まで残った人が誕生会をあげられる。 * [[大正テレビ寄席]](テレビ朝日系) - 番組後期、「チュー拳 勝抜き大合戦」というコーナーがあった。会場から参加した一般人が、リズムに乗りながら、司会の[[牧伸二]]の「ハチ公顔負け、チュー拳ホイ!」のかけ声でじゃんけんをする。 * [[わが家の友だち10チャンネル]](テレビ朝日系列の特別番組、[[1977年]][[4月1日]]放送) - 14:00から「青空じゃんけん大会」が行われていた。担当司会は『テレビ寄席』と同じ牧伸二。[[神宮外苑]]絵画館前に勢揃いした一般参加者が、牧の「みんな〜友だち、じゃんけんホイ!」(前述の「チュー拳」と同じ口調)でじゃんけんをし、優勝者には自動車が贈られた。 * [[とんねるずのみなさんのおかげでした]](フジテレビ系列) - 「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#男気ジャンケンシリーズ|男気ジャンケン 大人買いの旅]]」というコーナーがある。全国のご当地商品をかけて出演者同士がじゃんけんをして、勝者が全額支払って購入する。 * [[ものまね王座決定戦]](フジテレビ系列) - 審査員10人による1人当たり10点満点の合計100点満点で高得点を獲得した方が次のステージに進出できるが、トーナメント勝ち抜き戦方式であるため、引き分けは無く、必ず勝負をつけなければならない。そこで、同点だった場合はじゃんけんで勝った方が次のステージに進むことが出来る。このため、100点満点を出してもじゃんけんで負けて敗退することがある。 ;[[キャラクター]]が視聴者相手にじゃんけんを行うもの * [[ポンキッキーズ]](フジテレビ系列) - 短いコーナーでCGキャラクター「[[コニーちゃん]]」がテンポのよい掛声「ジャカジャカジャンケン」に乗って視聴者相手に行う。 * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](フジテレビ系列) - 番組最後に次回予告の紹介後、主人公の「サザエ」がそれぞれグー・パー・チョキの描かれたパネルを出す。また[[データ放送]]化された[[2018年]][[10月7日]]放送分からは、データ放送画面で「[[サザエさんじゃんけん]]」をスタート。後述の「めざましじゃんけん」・「失恋じゃんけん」・「ドラガオじゃんけん」同様、リモコンのボタンで出し目を決め、番組最後のじゃんけん場面でサザエと勝負、「勝ち」・「負け」・「あいこ」に応じて点数が入る。長きにわたって続けられているじゃんけんであり、これを研究する者([[高木啓之]])もいる。なお、このじゃんけんが導入される前は、サザエがピーナツらしき物を投げ喰いするものだったが、子供が真似をして喉に詰まらせる事故が起きたことを受けて廃止になり、後継のエンディングとしてじゃんけんが導入されたという経緯がある。 * [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん]](テレビ朝日) - [[2017年]][[4月7日]]より、『サザエさん』・『めざまし』・『失恋』と同じデータ放送を使った「ドラガオじゃんけん」が行われている。ボタンで出し目を選択して[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]とじゃんけん勝負するのは同じだが、ドラえもん側の出し目が「ドラえもんの表情」で、「グー」は「ふくれっ面」、「チョキ」は「驚き顔」、「パー」は「笑顔」という設定になっている(顔でやるのは、ドラえもんは手が常にグー状でじゃんけんが出来ないため)。なお回によっては、[[野比のび太]]などの別なキャラが担当する事もある。 * [[じゃんけんキッズ]](TBS系列) - ブリッジで、番組キャラクター「ジャンケル」が視聴者相手にじゃんけんをする。 * [[アイドリング!!!]](フジテレビ系列)-出演者が[[椅子]]に座り、「あっちむいてホイ(あっちむいてパイ)」(この時にじゃんけんを要する)をし、負けたほうが[[パイ投げ]]を受ける。 * [[痛快TV スカッとジャパン]](フジテレビ系列) - 番組最後で、「イヤミ課長」こと馬場課長([[木下ほうか]])が行う「はい論破! じゃんけん」というコーナーがある。 * [[キッズステーション]](こども・アニメ専門チャンネル) - 朝6:30など特定時間の番組開始前にグー・パー・チョキが回転しじゃんけんを行う。 * [[ピタゴラスイッチ]] (NHK Eテレ) では「ピタゴラじゃんけん装置」というコーナーを放送することもあるが、番組の「ピタゴラ装置」とじゃんけんを仕掛けてじゃんけんをするように促している。このコーナーは2021年から番組終了時に放送されている。 ;その他 * [[がんばれ!!タブチくん!!]] - 映画シリーズに、主人公がじゃんけんで負けるとトレーニングをしない代わりに家事を任されるというのがある。 * [[ショウワノート#ジャポニカ学習帳|ジャポニカ学習帳]](発売:[[ショウワノート]])の[[コマーシャルメッセージ|CM]] - ジャポニカ王子([[声優|声]]:[[竹内順子]])と仲間たちが登場し、ジャポニカ王子とじゃんけんを行うCMがある。 * [[三枝の結婚ゲーム]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]・テレビ朝日系) - 後期の[[ハワイ]]旅行獲得ゲームで、じゃんけんが使用された。マルチビジョンに映された4人の大王から選んで相手とし、自分は「グー棒」「パー棒」「チョキ棒」の中から1つ選び、選んだ大王とじゃんけんして勝ったら[[ハワイ]]旅行を獲得。 * [[よろしく!すねかじり ゲーム&クイズ]](テレビ東京系列) - 番組の最後、優勝チームの代表(大抵は子供)が番組プロデューサーとじゃんけんして、勝ったら海外旅行を獲得。 * [[めざましテレビ|めざましテレビアクア・めざましテレビ]]・[[めざましどようび]](フジテレビ系列) - [[データ放送]]を使った「めざましじゃんけん」が行われている。リモコンのボタンを使って自分の出し目を選択し、番組出演者(あるいはフジテレビ系番組の出演者)の「めざましじゃんけん、じゃんけんぽん!」のかけ声と共に、出演者とじゃんけん、勝ち・負け・あいこによってポイントが入る。 * [[失恋ショコラティエ]](フジテレビ系列) - 『サザエさん』・『めざまし』同様、データ放送を使ったじゃんけんが有り、ボタンで出し目を選択して、番組クロージングで出演者とじゃんけんする。 * [[Go!プリンセスプリキュア]]・[[魔法つかいプリキュア!]]・[[キラキラ☆プリキュアアラモード]](朝日放送・テレビ朝日系) - データ放送を使ったじゃんけんが有り、じゃんけんに勝って電話(『Go!プリンセス』のみ[[テレドーム]]。他は[[67コール]])する事でプレゼントに応募できる。 また、正式なじゃんけんではないが、『[[オールスター親子で勝負!]]』(日本テレビ系)では、[[カエル]]・[[ヘビ]]・[[ナメクジ]]の[[ジェスチャー]]で「[[虫拳]]」をやる「親子トリプルマッチ」があった。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|9994|270A|-|RAISED FIST|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9995|270B|-|RAISED HAND|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9996|270C|-|VICTORY HAND|font=絵文字フォント}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 ==<!--著者名の50音順--> * {{Cite book|和書 |author=菊池貴一郎|authorlink=歌川広重 (4代目) |editor=鈴木棠三 |title=絵本江戸風俗往来 |series=[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]] |volume=〈50〉|publisher=[[平凡社]] |origyear=1905 |date=1965年9月、1989年12月 |isbn=978-4-5828-0050-0 |ref=Kikuchi (1905)}} * {{Cite journal|和書 |author=高橋浩徳|authorlink=高橋浩徳| title=日本の拳遊戯(下)じゃんけん|journal=大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要|volume=17|issn=1881-1949|year=2015|ref=harv}} * {{Cite book|和書 |editor=長田須磨・須山名保子共編 |title=奄美方言分類辞典 |volume=上巻 |publisher=[[笠間書院]] |date=1977-04 |isbn= |ref=Nagata et Suyama (1977)}}ASIN B000J8V5WU * {{Cite book|和書 |author=丸山健夫 |title=「風が吹けば桶屋が儲かる」のは0.8%!? ―身近なケースで学ぶ確率・統計 |series=[[PHP新書]] |publisher=[[PHP研究所]] |date=2006-07-28 |isbn=978-4-5696-5432-4 |ref=Maruyama (2006)}} * {{Cite book|和書 |author=セップ・リンハルト (Sepp Linhart) |translator= |editor= |title=拳の文化史 |series=角川叢書 |publisher=[[角川書店]] |date=1998-12-25 |isbn=978-4-0470-2103-7 |ref=Linhart (1998)}} * 柴崎銀河「チョキじゃんけん 引き分けならばチョキの勝ち」銀河企画(遊びのアイデア選書05)、2022年8月8日。ISBN 978-4-909793-06-5。 == 関連項目 == {{Wiktionary|じゃんけん}} {{Commonscat|Rock Paper Scissors}} * [[虫拳]] * [[虎拳]] * [[狐拳]] :[[キツネ|狐]]・[[狩猟|猟師]]・[[庄屋]]の三種類によって勝敗を決める[[三すくみ]]。 :狐(負け):猟師(鉄砲による勝ち) :猟師(負け):庄屋(権力による勝ち) :庄屋(負け):狐(妖術による勝ち) * [[野球拳]] :躍った後に「よよいのよい」で両者グーを出し、その後じゃんけんをする。「最初はグー」の元ネタ。 * [[モラ (ゲーム)]] :西洋で広く知られている指を使った、じゃんけんに似た遊び。 * [[じゃんけん将棋]] * [[たたいて・かぶって・ジャンケンポン]] == 外部リンク == '''公式サイト''' * {{Anchors|WRPS}}{{Cite web|和書|title=日本じゃんけん協会|url=https://japan-rps.jimdofree.com/|work=(official website) |language=jp |publisher=japan Rock Paper Scissors Society |accessdate=2021-02-11}} :日本の公式じゃんけん協会 * {{Anchors|WRPS}}{{Cite web |title=World Rock Paper Scissors Society |url=https://www.wrpsa.com/ |work=(official website) |language=en |publisher=World Rock Paper Scissors Society |accessdate=2021-02-11}} :世界じゃんけん協会。 * {{Anchors|USARPSLeague}}{{Cite web |title=USA RPS League |url=http://www.usarps.com/ |work=(official website) |language=en |publisher=USA RPS League |accessdate=2011-11-03}} :アメリカRPSリーグ(アメリカじゃんけんリーグ)。 * {{Anchors|U.K.RPSC}}{{Cite web |title=UK Rock Paper Scissors Championships |url=http://ukrockpaperscissorschampionships.com/default.aspx |work=(official website) |language=en |publisher=UK Rock Paper Scissors Championships |accessdate=2011-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111111040402/http://ukrockpaperscissorschampionships.com/default.aspx |archivedate=2011年11月11日 |deadlinkdate=2018年3月 }} :イギリスRPSチャンピオンシップ(イギリスじゃんけん選手権)。 '''関連ウェブサイト''' * {{Anchors|WN}}{{Cite web |title=Rock-paper-scissors |url=http://wn.com/Rock-paper-scissors |work=(website) |language=en |publisher=World News Inc. |accessdate=2011-11-03}} * {{Cite web|和書|title=複数人のじゃんけんで勝負がつく確率 |url=http://keisan.casio.jp/has10/SpecExec.cgi?id=system%2f2006%2f1216268673 |work=keisan(ウェブサイト)|publisher=[[カシオ計算機]] |accessdate=2011-11-03}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しやんけん}} [[Category:じゃんけん|*]] [[Category:拳遊び]] [[Category:日本のゲーム]]
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IBM
IBM(アイビーエム、正式名: International Business Machines Corporation)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州アーモンクに本社を置くテクノロジー関連企業。世界170か国以上で事業を展開する典型的な多国籍企業であり、世界最大手規模のIT企業。IBMの愛称はビッグブルー、IBM社員の愛称はIBMer。行動指針は、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」。社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化として、何ものにもとらわれず「野鴨」、「THINK」などがあり、これらは創業時から100年以上続いている。 IBMは1911年にC-T-Rとして創立され、特に1960年代以降はコンピュータ市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降はコンサルティングを含めたサービスとソフトウェア中心の事業に舵を切り、2010年代頃にはクラウドコンピューティングとコグニティブコンピューティングを提供する企業と自己定義している。以降も、レッドハットの巨額買収(2019)やキンドリルのスピンオフ(2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、ソフトウェア、コンサルティング事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2022年現在、アメリカ合衆国の代表的株価指数とされるダウ平均株価を構成する30銘柄のうちの一社である。 事業内容はコンピュータ関連のサービスおよびコンサルティングの提供と、ソフトウェア、ハードウェアの開発・製造・販売・保守、およびそれらに伴うファイナンシング、メインフレームコンピュータからナノテクノロジーに至る分野でサービスを提供している。 IBMは研究機関としても有名でもある、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった。IBMによる発明はDRAM、ハードディスク、フロッピーディスク、磁気ストライプカード、リレーショナルデータベース(RDB)、SQLプログラミング言語、バーコード、現金自動預け払い機(ATM)などがある。 IBMは既存のコモディティ化した市場を脱出し、高付加価値な収益性の高い市場に着目することで、事業構成を絶えず組み替えている。例えばプリンタ事業をLexmarkに分社し(1991年に)、レノボへのパーソナルコンピュータ(ブランド、ThinkPadやNetVistaなど)およびx86ベースのサーバー事業を売却(2005年と2014年)。またファブレス化として2014年にIBMのグローバルな商用半導体技術事業を米GLOBALFOUNDRIESに工場、技術者、テクノロジー知的財産だけではなく、現金15億ドルまでも付けて譲渡。2021年には成長分野のクラウドとAIに集中するため、売り上げの四分の一を占めるITインフラの保守・更新事業を新会社名はキンドリルとしてスピンオフ。一方でPwCコンサルティング(2002年)、SPSS(2009年)、Weather Company(2016年)などの企業を買収している。 製品やロゴの色から本国アメリカでは「Big Blue」の愛称で呼ばれている。これに由来してIBMのプロジェクトには「Blue」を冠するものが多く、広告などのイメージカラーになっている。IBM社員はIBMの価値観を体現する者として、IBMerという呼称を用いている。ダウ平均株価の銘柄に含まれる30社のうちの1社であり、2016年時点で約38万人 の従業員数がいる世界最大級の規模の企業となっている。基礎科学の研究にも力を入れワトソン研究所やチューリッヒ研究所からはノーベル賞受賞者を輩出。IBM社員から5人のノーベル賞、6人のチューリング賞、10人のアメリカ国家技術賞、5人のアメリカ国家科学賞の受賞者を輩出している。 IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年にサムスン電子へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している。 元CEOのジニー・ロメッティは、米Fortune誌が選ぶ「ビジネス界で最もパワフルな女性」 の一人として長年ランクインしている。 100年以上の歴史を持つ希有なアメリカ企業であり、いまだ創業時の理念や行動規範を尊重する文化を持つ。誠実さを象徴するため、事実上のドレスコードであった青いスーツに白いシャツからIBMの企業としての呼称にビッグブルーが用いられることが多い。また、IBM社員のことをIBMerと称する。ビッグブルーとは、あまりにも強すぎるIBMの市場における存在感に対する畏敬の意として用いることもあれば、保守的で均一的なことへの揶揄として用いることもある。ルイス・ガースナーがIBMを抜本的に改革するため、CEO就任時にあえてブルーのシャツを着て役員会に出席したことで、事実上のドレスコードは撤廃された。 1916年、トーマス・J・ワトソン・シニアはIBM教育プログラムを策定し、社員への教育をコミットメントした。この際にできたのが、「教育に飽和点はない」という現在まで続く理念である。 1962年、当時CEOであったトーマス・J・ワトソン・ジュニアがコロンビア大学でIBMの指針である、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている。 2003年の7月29日から31日の3日間、当時のCEOであったサミュエル・パルミサーノがオンラインジャムセッションを主催し、行動規範や価値観について議論するため、数万人のIBMerが参加した。当時、企業理念を大規模な社員が議論して策定することも、オンラインでジャムセッションすることも極めて珍しいことだった。このジャムセッションを元に、2003年11月にIBMは新しい価値観として、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」を発表した。これは、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」という40年前の企業理念を現代風に言い換えたものであり、IBMの行動規範が40年以上にわたってDNAとして続いていることをIBMが認めている。 社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化である「野鴨」は、ビジネスでは飼い慣らされない野鴨のような挑戦する精神を持って欲しいということで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの書物から引用して作られた。 大文字で書かれた「THINK」は創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが、「考えることがあらゆる前進を生み出す源」として1915年に講演したことに起因する。 1953年、トーマス・ワトソン・ジュニアは社会の潮流に先駆け、人種、肌の色、宗教で差別しないという規定を策定した。これは1954年のブラウン対教育委員会裁判での連邦最高裁判決の1年前、そして1964年の公民権法制定の11年前にあたる。 1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。 1999年、イントラネットを用いて部分的在宅勤務が制度化され、2009年には完全在宅勤務が認められた。一般的な企業の約10年から20年前に実現した取り組みだった。 2004年、オンデマンドワークスタイルを取り入れ、オフィス内をフリーアドレス化し、「社員に働く場所は自由」であることを明示し、顧客エンゲージメントや在宅勤務に対する心理的抵抗を下げる施策をうった。 2017 年、IBM はWorking Motherの100 Best Companies List に 32 年連続で選ばれた。 これ以外にも、週休2日制(1972年)、産休(1974年)、フレックスタイム(1989年)、長期勤続リフレッシュ休暇(1990年)、介護休暇(1991年)、ボランティア休暇(1991年)、短時間勤務(2004年)など、社員の働ける条件で働くという環境を作るため、世界でも最先端の試みを最も早く行っている企業である。 アメリカ企業として珍しい点として、日本企業のような社歌の存在が挙げられる。1931年に管弦楽団を用いてEver Onwardを策定している。創業から1980年代までリストラをしたことがなく、1950年に世界で最初に終身雇用制を確立したことから、日本企業以上に日本企業的な一面があった。後述の1993年の巨額赤字を機に企業方針を転換し、家族的経営からハイパフォーマンスカルチャーへと移行した。 また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、ルイス・ガースナーを外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。 2003年、オンデマンド・コミュニティーと称するプラットフォームをリリースし、退職した社員とITのサポートが必要なNPOや学校とのマッチングを行っている。創業時から社会貢献活動に意欲的だった取り組みのオンライン化である。2004年、スマトラ沖地震救済のため、IT機器の無償支給の他、IBMerによるボランティアを実施し、320万ドル相当の貢献をした。創業の年、トーマス・ワトソンは20以上の慈善団体に資金を寄付した他、2001年、2008年、2010年など天災の際に寄付を続けている。これらは現在のESGの先駆けであるといえる。 社会課題解決に対しても積極的で、2007年にはストックホルム市の交通量最適化プロジェクトでは、交通量25%削減、公共交通機関利用者1日当たり4万人増加、市内の排出ガス14%削減という成果を出した。現在多くの企業が取り組むサステナビリティーの先駆けとなる施策を、本業で社会的インパクトを与えることを視野に入れて果敢に取り組んでいる。 IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、クラウド・コンピューティング、コグニティブ・コンピューティング、コマース、データ&アナリティクス、IoT、ITインフラストラクチャ、モバイル、およびセキュリティ、に分類されている。 IBM Watsonは自然言語処理と機械学習を用いて大量の非構造化データ(例えばメールやSNS、動画、画像など)から論理的に推論し意思決定に役立たせるためのプラットフォームである。ワトソンは2011年に米国の人気クイズ番組「ジェパディ!」でデビューし、3ゲームのトーナメント戦で、人間のクイズ王であるケン・ジェニングスとブラッド・ラターを破った。それ以来、ビジネス、医療、研究開発、および大学などの分野で採用されている。例えばIBMは米国スローンケタリング記念がんセンターと提携しており、臨床データや最新の研究論文と患者データの照合に活用し、悪性黒色腫のスクリーニング検査のがん患者一人ひとりに最適な治療方法を見つける支援を行っている。また企業がコールセンターのためのワトソンを使用して、顧客サービスのオペレーターを支援し始めている。 クラウド・コンピューティング関連のサービスとしてPaaS、IaaS、SaaSを提供している。 など IBMの歴史は電子計算機の開発の数十年前に始まる。電子計算機の前には、パンチカードによるデータ処理機器を開発していた。1911年6月16日、ニューヨーク州エンディコットにコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー(C-T-R : Computing-Tabulating-Recording Company)として設立された。 C-T-Rは3つの別個の企業の合併を通じて成形された。タビュレーティング・マシーン・カンパニー(1896年設立)、インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー・オブ・ニューヨーク(1900年設立)、コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ(1901年設立)の3社である。タビュレーティング・マシーン・カンパニーの当時の社長は創業者のハーマン・ホレリスであった。この合併の鍵を握っている人物は資産家のチャールズ・フリントであり、彼は3社の創業者を集めて合併を提案し、1930年に引退するまでC-T-Rの取締役であった。 IBMでは1911年を創立の年としている。1917年、C-T-Rはカナダ市場に参入する際にInternational Business Machine Co., Limitedの社名を使用し、1924年2月14日に本体の社名を現在と同じInternational Business Machines Corporationに変更した。 トーマス・J・ワトソン・シニアはIBMの創立者と記述されることが多いが、1911年時点の社長は、ジョージ・W・フェアチャイルドである。トーマス・J・ワトソン・シニアは、1914年にNCRからC-T-Rの事業部長(ゼネラルマネージャー)として迎えられ、1915年に社長となった。彼は、C-T-RがInternational Business Machines Corporationに社名変更した1924年の時点も社長の任にあった。 C-T-Rの元となった3社は様々な製品を製造していた。従業員勤務時間記録システム、計量器、自動食肉薄切り機、そしてコンピュータの開発にとって重要なパンチカード関連機器などである。時とともにC-T-Rはパンチカード関連事業を中心とするようになり、他の事業は徐々にやめていった。 1933年6月20日にエレクトロマチック・タイプライターズ・カンパニーを買収して、タイプライター事業にも乗り出した。 第二次世界大戦期間中、IBMはブローニング自動小銃BARとM1カービン銃を製造した。同盟各国の軍ではIBMのタビュレーティングマシンは会計処理や兵站業務などの戦争関連の目的で広く使われた。ロスアラモスで行われた世界初の核兵器開発計画であるマンハッタン計画ではIBMのパンチカード機器が広く計算に使用された。このことはリチャード・P・ファインマンの著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に記された。同じく戦時中、アメリカ初の大規模な自動ディジタル計算機(自動でディジタル式(計算機構としてアナログ的な部分が無い計算機械)ではあるが、リレーだけではなくローターなども含む、電動だが完全に機械式)のHarvard Mark Iの建造も担当した。 大戦前からの流れとして、ホレリス統計機が国勢調査に用いられるようになってから事業が大幅に伸びたことや、前述のように電気機械式計算機Harvard Mark Iに関与したこともあり、企業や政府の計算需要に目をつけてはいたが、戦後、コンピュータ事業への進出は、コンピュータ黎明期の他のパイオニア的な企業と比較して必ずしも先進的だったわけではない。 エドウィン・ブラック(IBMがOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人であった)の2001年の著書『IBMとホロコースト』(ISBN 4-7601-2158-7)では、IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給しており、ホロコーストの実行にそれが使われる可能性を認識していたと主張した。また同書は、ニューヨーク本社の協力のもとでIBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポートしていたと主張した。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べた。2003年のドキュメンタリーザ・コーポレーション(The Corporation)でもこの問題を追及した。IBMはこれらを証拠に起こされた訴訟で、それを裏付けるだけの当時の資料を保有していないとし、これらを退けた。IBMはまた、著者や原告によって提起された主張を真剣に受け止め、この件に関する適切な学問的評価を期待している、と述べた。 終戦後すぐの1946年に、エレクトロニクスによる「電子」計算機であるENIACが完成し、電子式コンピュータの時代が幕を開けた。ENIACはIBMのパンチカード機器を入出力に使用していた。当初、コンピュータの世界で先行したのは、ENIACの主要開発者2人を雇い入れることに成功したUNIVACであった。UNIVAC Iは(当時としては)ベストセラー機となった他、1952年アメリカ合衆国大統領選挙を予想するというデモンストレーションにも印象的に成功するなどしていた。 IBMは、前述のHarvard Mark Iに技術的に引き続くSSECも建造しているが、電子式でない計算機械はすぐに時代遅れとなる趨勢にあった。 IBMもIBM 701に始まるIBM 700/7000 seriesやIBM 650といったコンピュータを開発・出荷したが、初期の機種は性能や機能の点でUNIVACに及ばず(IBM 701には当初は磁気テープが無く、650はより下位機種でドラムを主記憶としていたため遅かった)、IBMの成功はコアメモリを採用した704や、7090などトランジスタの世代からであり、データ処理業界でのその地位を確固なものとしたのは、次の1960年代で述べるSystem/360である(たとえば、コンピュータのトランジスタ化についても、7090が1959年であるのに対し、PhilcoのTransac S-2000は1957年と、他社に先行されている)。 1950年代については、商用コンピュータ以外に特筆すべきことがある。この時代にIBMはアメリカ空軍の自動化防衛システムのためのコンピュータを開発する契約を結んだ。SAGE対空システムに関わることでIBMはMITで行われている重要な研究にアクセスできた。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピュータで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピュータ言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれている(Whirlwind)。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20 %)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があった。ただし、先端技術へのアクセスは軍の保護下で行われた。また、IBMはプロジェクトのソフトウェア開発をランド研究所に取られてしまい、勃興期のソフトウェア産業で支配的な役割を得るチャンスを逃した。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は、「プロジェクトがいつか完了したとき、2000人のプログラマにIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている。IBMはSAGEでの大規模リアルタイムネットワーク構築の経験を生かし、SABRE航空予約システムを開発し、さらなる成功を収めた。 1960年代中には、IBMはバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェル、RCA、GEの、他のコンピュータ主要7社を圧倒して大きなシェアを有したため、「IBMと7人の小人」と称された。その後1970年代、IBMとバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェルが市場に生き残り、その頭文字から「IBMとBUNCH」と改称された(英単語bunchには「束」「小さな(粒などの)カタマリ」という意味がある)。その後、これらの企業はバロースとUNIVAC(スペリー)の合併で誕生したユニシス以外はIBMの独占するメインフレーム市場から事実上撤退した。 1964年4月に発表されメインフレームの世界に君臨したSystem/360は、IBM史にとどまらず、コンピュータ史上において重要なコンピュータである。主記憶へのアドレス付けはバイト単位とし、4バイトなどを1ワードとすること、科学技術計算用と事務処理用で別の命令セット・別のコンピュータとするのではなく、またハイエンドからローエンドまで命令セットアーキテクチャを共通とした「シリーズ」とし、価格差は実装方法の差とするなど、コンピュータの大きな世代交代(メインフレーム→ミニコンピュータ→マイクロプロセッサ)を経た今も共通の標準は、System/360で打ち立てられた。System/360は絶対的に成功し、他社を圧倒してメインフレーム市場をほぼ独占した。またそのために、アムダールや日本の一部メーカーなどは、いわゆる互換機(Plug-Compatible Machine)による商法へと流れることとなった。System/360のアーキテクチャは何度かの(ちょうど30年後の1994年4月発表のS/390など)拡張を受けながらも、基本はそのまま引き継がれ、こんにちのSystem z・z/Architectureに至っている。 一方でこの独占は、政府からも目をつけられる程のものであった。1969年には遂に、司法省により独占禁止法違反で提訴されることになる(1969年1月17日)。IBMが汎用電子デジタルコンピュータ市場(特にビジネス向けに設計されたコンピュータ)を独占しようと謀り、シャーマン独占禁止法の2条に違反したとの訴えである。具体的には、CDC 6600対抗機種を発表してCDC側の販売に打撃を与え、結局その対抗機種を発売しなかったという件である。訴訟は1983年まで続き、IBMに多大な影響を与えた。同じ訴因でCDCからも訴えられ、CDC側に有利な条件で和解している。なお、IBMは以前から度々独占禁止法違反で訴えられてきた企業ではある。古くは1933年、パンチカード機器とパンチカードの抱き合わせ販売で訴えられている。独占禁止法にかかわる司法省の闘争は、IBMとのやりとりが史上最長である。 日本においては、国産コンピュータメーカーを育成するという政府の意図のもと、IBM製コンピュータを導入するには、政府の認可が必要となる時期があった。国産メインフレーム六社政策のもと、IBMメインフレームを模倣した互換機を日本企業が生産していた時期があった。しかし、IBMが圧倒的シェアと投資額で設計・開発しているメインフレームの互換機を作るのは極めて困難であり、1981年に日立製作所や三菱電機など6名によるIBM産業スパイ事件が起こった。IBMはスパイ行為の被害者だが、当時の日本の潮流としてはあたかもIBMが加害者であるかのような誤解が長期間にわたって流布されていた。なお、この事件は日本企業のIBMのUS本社に対してのスパイ行為であり、日本IBMは関与していない。 1969年、30年続いてきたIBMとNASAの協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している。 1970年代に、当初はIBMの住む世界とは遠く離れた(System/360は32ビット(アドレスは24ビット)マシンであり、似たようなスペックの68000が登場したのは1980年である)電卓用などのちっぽけな4ビットプロセッサから始まったマイクロコンピュータは、しかし、革命という言葉すら使われるほどの(en:Microcomputer revolution)変革となり、1970年代の末にはApple IIに代表されるen:Home computerが一般への広い普及のきざしを見せ、1979年にVisiCalcが登場するに至ってビジネスの世界へも進出が始まった。 IBMはこの乗り遅れを挽回するために、1981年にパーソナルコンピュータ「IBM PC」をリリースする。同機はIBMエントリーシステム部門に雇われたフィリップ・ドン・エストリッジと "chess" と呼ばれるチームにより、「IBMとしては異例ずくめ」「突貫工事」で開発されたもので、1981年8月11日に完成した。標準価格は1,565ドルで決して安くは無いがビジネスに使用可能であり、PCを購入したのも企業だった。IBM PCはインテルの8088を使い、OSはIBM PC DOSという名前だが中身はマイクロソフトのMS-DOSであった。 1983年に「VisiCalcのIBM PC版」と言えるLotus 1-2-3が登場すると、企業の中間管理職層がその可能性を見出した。IBMの名前に保証され、彼らはPCを購入してビジネススクールで学んだ計算をPCで行うようになった。しかし、そのようにしてPCの成功が広まる一方で、それまでのビジネスである(PCから見れば)大型のコンピュータの、下位に相当する部分がPCに喰われる、というダブルバインドは1990年代には大いに同社を苦しめることとなる。 パーソナルコンピュータ(パソコン)の世界では逆に「先輩」であったAppleが1984年に発表・発売したMacintoshは、洗練されたGUIなど多くの点でIBM機に先行するものであった(1995年のWindows 95の際に、Win95 = Mac84 などとも言われたほどであった)。しかし、ビジネスユースから広まったIBM PC(後には互換機)の牙城をMacintoshはなかなか崩せず、2000年代のAppleの起点は1998年のiMacを待たねばならない。 このように挽回に成功したIBM PCではあったが、他社(サードパーティー供給)による周辺機器にとどまらず、「母屋」であるコンピュータ本体の互換機を作られてしまう事態に至り、IBMのパソコン事業は多くの試行錯誤を繰り返すことになる。1987年発売のPS/2では、MCAという高性能・高機能だがIBMが主導権を抑えたバスを採用したが、普及させることはできなかった。CPUについては、1990年代に自社のPower ArchitectureをベースとしたPowerPCにより今度はAppleとも手を組み、PReP・CHRP、次世代OSのTaligent、クロスプラットフォーム開発環境Kaleidaというプラットフォームを打ち出すも、いわゆる「ウィンテル」である、他社製PC/AT互換機とMS-DOS(後にはWindows)というコンビを脅かすには至らなかった。OSについては、MS-DOSのようなシングルタスクではない、次世代の本格的なマルチタスクOSとしてOS/2をマイクロソフトと当初は共同開発していたが、マイクロソフトが「NT」(後のWindows NT)を独自路線で開発することを決定して決裂、Windows NTは、旧来のWindowsからの移行パスにこそ苦労した(当初は95の次は、などとも言われていたものの、最終的に2000年のWindows MEまで旧Windowsが残った)ものの、既存シェアの強みでOS/2を寄せ付けず、「PC/AT互換機のOS」の座はWindows NTのものとなった。 1990年代にはダウンサイジングの潮流によりIBMの主力であったメインフレームは「時代遅れ、過去の遺物(レガシー)、滅び行く恐竜」と呼ばれ、IBMの業績は急速に悪化した。1993年1月19日、IBMは1992年度会計での49億7000万ドルの損失を発表した。これは単年度の単一企業による損失額としてはアメリカ史上最悪であったと言われた。なお1991年の赤字は29億ドル、1993年度の赤字は81億ドル、3年間の赤字は累積150億ドルであり、通常の企業では事業再生が極めて困難な数字である。 この損失以来、IBMは事業の主体をハードウェアから、ソフトウェアおよびサービスへと大胆な転換を進めた。また当時は水平分業モデルのマイクロソフト、インテル、サン・マイクロシステムズ、オラクルなどが好調であったため、米国のPC事業部(IBM PC Company)やプリンター事業部など、IBM分社化の動きも進められた。ハードウェアは主力のメインフレームの低価格化を進め、複数のサーバーシリーズのブランド名や機能の共通化が進められた。IBMは伝統的に、日本で日本企業が採用する以前から、各国で終身雇用を行っていたが、これを方針転換しリストラの実施が開始された。後には最終的に、最盛期には全世界で40万人いた社員を22万人まで削減することになる。 1993年、ナビスコ社から引き抜かれたルイス・ガースナーがCEOに就任し、不採算部門の売却、世界規模の事業統合、官僚主義の一掃、顧客指向の事業経営を行い、独自システムと独自OSによる顧客の囲い込みをやめ、オープンシステムを採用したシステムインテグレーター事業へ戦略を大きく転換した。また顧客の要望を聞き、顧客はトータルなサービスを望んでいると考え、IBM分社化の動きを停止した。これによりIBMはLinuxを推進する大手コンピュータ企業の筆頭となった。ルイス・ガースナーの考えとして、IBMを分社化した場合、同規模の競合他社との競争にさらされるが、誰も一から今のIBMのような統合された会社を作ろうとは思わないだろうという願いがあった。IBMは代々、生え抜きの人材がCEOとなる文化であったが、ルイス・ガースナーが初めて外部から招聘されたCEOである。このことからも、当時のIBMがいかに危機的な状況であったかがうかがえる。 1995年にはネットワーク・コンピューティング、1997年にはe-ビジネスを提唱した。 1995年、IBMはLotus Notesを持つLotusを買収した。以後も運用管理ソフトウェアを持つTivoli、データベースのInformix、ソフトウェア開発ツールを持つRationalなどを買収し、従来からのIBMソフトウェア(DB2、WebSphereなど)と統合した。この結果、2003年にはソフトウェア事業の5ブランド(Information Management、WebSphere、Lotus、Tivoli、Rational)を形成した。なお、それぞれのイメージカラーは緑・紫・黄・赤・水色である。 1999年、IBMはソフトウェア戦略を全世界で方針転換し、IBMは今後はアプリケーションパッケージは開発せず、ミドルウェアまでに集中し、各業務に強いアプリケーション・ベンダーとパートナーシップを組んで、ユーザーにソリューションを提供することを発表した。 コアと位置づけた事業の買収と投資を進める一方で、コモディティ化と価格低下が進みIBMの強みを活かせないと判断した非コア事業の売却を行い、「選択と集中」を進めている。1991年にはタイプライター事業、1998年にはネットワーク事業を売却した。ルイス・ガースナーの当時の判断としては、ハードウェアとミドルウェア、サービス事業をIBMの主軸とし、アプリケーションパッケージは開発しないという戦略であった。アプリケーションパッケージが中心となった2020年代においてもIBMのこの変わっておらず、ERPやCRMのようなアプリケーションパッケージを自社で持っていない。 IBMはコンサルティングを含むサービス、ソフトウェアなどからなるビジネスソリューションに重心を移しており、ユーザー企業の業務分析、提案から構築、保守までのワンストップ型のサービスの提供を目指している。 2002年7月、IBMはプライスウォーターハウスクーパース(PricewaterhouseCoopers、PwC)のコンサルティング部門を39億ドルで買収し、従来からのコンサルティング部門と統合し、IBM ビジネスコンサルティング サービスとなった。(なお日本市場のみ、当初は別法人のIBMビジネスコンサルティングサービスが設立されたが、後に日本IBMと合併した。) またコンサルティング以外のサービス事業(IBMグローバルサービス、IGS)では、システム構築(SI)に続き、ユーザー企業の情報システムの戦略的アウトソーシング(SO)、更には財務・人事・顧客サービス・購買など業務自体のリエンジニアリングと受託を含めたアウトソーシング(ビジネス・トランスフォーメーション・アウトソーシング、BTO)などを提唱している。 「選択と集中」によるコア事業への集中と、非コア事業の売却も続いている。ソフトウェア事業では、2006年にはコンテンツ管理ソフトウェアを持つFileNet、2007年にはBIツールを持つCognosなどを買収し、製品に統合した。また非コア事業として、2004年にはパーソナルコンピュータ事業、2006年には企業向けプリンター事業を、2010年にも、IBMの法人向けアプリケーション・パッケージ・ソフトウェアのビジネスとして唯一存続していたPLM事業(CATIA、ENOVIA) を、それぞれ事業部門ごと(製品、施設、従業員など)会社分割し売却した。また、2012年にも、リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)の東芝への売却が、2014年には、System xサーバー事業のレノボへの売却が発表された。 IBMは着実に特許件数を増やしており、他社とのクロスライセンス契約時にも重要となる。IBMは1993年から2012年までの20年間連続で米国での特許取得件数で第1位となり、20年間の合計は約67,000件となった。知的財産権の保護はビジネスとしても重要性を増している。この期間にIBMは特許使用料などで100億ドル以上を得た。2003年、フォーブス誌の記事でIBMリサーチの Paul Horn は、IBMが知的財産権のライセンス供与によって毎年10億ドルの利益を得ていると述べた。この特許取得記録1位は2021年まで続き、29年間続いたため、少なくとも29年はこの記録が破られることはないということになる。 2008年にIBMはコーポレート・ビジョンとしてSmarter Planetを提唱し、2009年にはその一部であるスマートグリッド、IoTや人工知能を活用したSmarter Cities(スマートシティ)の取り組みが世界的に注目された。 2009年10月16日、ハードウェア事業の総責任者で次期CEOの有力候補の一人と見なされていた 上級副社長のロバート(ボブ)・モファットが、サン・マイクロシステムズとの買収交渉や仕入れ先のアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)などに関する情報をヘッジファンドに漏らしたというインサイダー取引への関与により、連邦捜査局に逮捕・起訴され、モファットはその容疑を認めた。 2010年5月 人事部門のトップであるティム・リンゴが「2017年までに、全世界で40万人いる従業員から30万人を解雇して正社員10万人体制とし、プロジェクト毎に契約社員を雇用するクラウドソーシングの雇用形態に移行する」と発言した事が報道された。しかし、2021年末時点、後述のキンドリル分社後のIBM従業員数は28.2万人であり、クラウドソーシングに移行したという事実はない。 2020年10月、マネージド・インフラストラクチャー・サービス部門の2021年末までの分社化予定を発表した。IBMの顧客向けインフラ・サービス部門はキンドリルとしてスピンオフが2021年11月3日に完了し、キンドリル株(KD)は翌4日よりニューヨーク証券取引所で取引が始まった。 なお2009年3月18日にはIBMがサン・マイクロシステムズの買収を交渉中と報道されたが、最終的にはオラクルが買収することとなった。 詳細は「IBMによる合併買収一覧」に記載 IBMの海外オペレーションは事業が大発展した1970~80年代には、ヨーロッパ・中東・アフリカ地域を統括するIBM Europe/Middle East/Africa会社(本部:ベルギー・ブリュッセル、略称:E/ME/A=エメア)、南北アメリカ・アジア太平洋地域を統括するIBM Americas/Far East会社(本部:ニューヨーク州マウントプレサント、略称:A/FE=アフェ)を設置して、後者の下ではさらに日本・韓国・台湾・オーストラリアなどを統括するIBM Asia Pacific会社(本部:東京、後に香港、略称:AP)があって、生産・販売・地域性による開発はなるべく各地域内で行なうような政策を敷いた。しかし1990年代以降は、日本IBM・英国IBM・ドイツIBMのように事業が大きな国のIBMは本社へ直接報告するように戻り、新しいAP(本部:シンガポール)はオーストラリア・韓国・インドネシアなどの諸国を統括する組織になって、世界全体ではもう少し小さな地域性を生かしてお互いに協力する体制へ代った。 IBMの日本法人は日本アイ・ビー・エム(日本IBM)株式会社で、米 IBM 社の孫会社にあたる。また、日本IBMの下には更に複数の子会社と関連会社が存在している。2002年以降はコンサルティング会社のIBMビジネスコンサルティングサービス(IBCS)が並存していたが、2010年4月に日本IBMに統合された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "IBM(アイビーエム、正式名: International Business Machines Corporation)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州アーモンクに本社を置くテクノロジー関連企業。世界170か国以上で事業を展開する典型的な多国籍企業であり、世界最大手規模のIT企業。IBMの愛称はビッグブルー、IBM社員の愛称はIBMer。行動指針は、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」。社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化として、何ものにもとらわれず「野鴨」、「THINK」などがあり、これらは創業時から100年以上続いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "IBMは1911年にC-T-Rとして創立され、特に1960年代以降はコンピュータ市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降はコンサルティングを含めたサービスとソフトウェア中心の事業に舵を切り、2010年代頃にはクラウドコンピューティングとコグニティブコンピューティングを提供する企業と自己定義している。以降も、レッドハットの巨額買収(2019)やキンドリルのスピンオフ(2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、ソフトウェア、コンサルティング事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2022年現在、アメリカ合衆国の代表的株価指数とされるダウ平均株価を構成する30銘柄のうちの一社である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "事業内容はコンピュータ関連のサービスおよびコンサルティングの提供と、ソフトウェア、ハードウェアの開発・製造・販売・保守、およびそれらに伴うファイナンシング、メインフレームコンピュータからナノテクノロジーに至る分野でサービスを提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "IBMは研究機関としても有名でもある、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった。IBMによる発明はDRAM、ハードディスク、フロッピーディスク、磁気ストライプカード、リレーショナルデータベース(RDB)、SQLプログラミング言語、バーコード、現金自動預け払い機(ATM)などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IBMは既存のコモディティ化した市場を脱出し、高付加価値な収益性の高い市場に着目することで、事業構成を絶えず組み替えている。例えばプリンタ事業をLexmarkに分社し(1991年に)、レノボへのパーソナルコンピュータ(ブランド、ThinkPadやNetVistaなど)およびx86ベースのサーバー事業を売却(2005年と2014年)。またファブレス化として2014年にIBMのグローバルな商用半導体技術事業を米GLOBALFOUNDRIESに工場、技術者、テクノロジー知的財産だけではなく、現金15億ドルまでも付けて譲渡。2021年には成長分野のクラウドとAIに集中するため、売り上げの四分の一を占めるITインフラの保守・更新事業を新会社名はキンドリルとしてスピンオフ。一方でPwCコンサルティング(2002年)、SPSS(2009年)、Weather Company(2016年)などの企業を買収している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "製品やロゴの色から本国アメリカでは「Big Blue」の愛称で呼ばれている。これに由来してIBMのプロジェクトには「Blue」を冠するものが多く、広告などのイメージカラーになっている。IBM社員はIBMの価値観を体現する者として、IBMerという呼称を用いている。ダウ平均株価の銘柄に含まれる30社のうちの1社であり、2016年時点で約38万人 の従業員数がいる世界最大級の規模の企業となっている。基礎科学の研究にも力を入れワトソン研究所やチューリッヒ研究所からはノーベル賞受賞者を輩出。IBM社員から5人のノーベル賞、6人のチューリング賞、10人のアメリカ国家技術賞、5人のアメリカ国家科学賞の受賞者を輩出している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年にサムスン電子へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "元CEOのジニー・ロメッティは、米Fortune誌が選ぶ「ビジネス界で最もパワフルな女性」 の一人として長年ランクインしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "100年以上の歴史を持つ希有なアメリカ企業であり、いまだ創業時の理念や行動規範を尊重する文化を持つ。誠実さを象徴するため、事実上のドレスコードであった青いスーツに白いシャツからIBMの企業としての呼称にビッグブルーが用いられることが多い。また、IBM社員のことをIBMerと称する。ビッグブルーとは、あまりにも強すぎるIBMの市場における存在感に対する畏敬の意として用いることもあれば、保守的で均一的なことへの揶揄として用いることもある。ルイス・ガースナーがIBMを抜本的に改革するため、CEO就任時にあえてブルーのシャツを着て役員会に出席したことで、事実上のドレスコードは撤廃された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1916年、トーマス・J・ワトソン・シニアはIBM教育プログラムを策定し、社員への教育をコミットメントした。この際にできたのが、「教育に飽和点はない」という現在まで続く理念である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1962年、当時CEOであったトーマス・J・ワトソン・ジュニアがコロンビア大学でIBMの指針である、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2003年の7月29日から31日の3日間、当時のCEOであったサミュエル・パルミサーノがオンラインジャムセッションを主催し、行動規範や価値観について議論するため、数万人のIBMerが参加した。当時、企業理念を大規模な社員が議論して策定することも、オンラインでジャムセッションすることも極めて珍しいことだった。このジャムセッションを元に、2003年11月にIBMは新しい価値観として、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」を発表した。これは、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」という40年前の企業理念を現代風に言い換えたものであり、IBMの行動規範が40年以上にわたってDNAとして続いていることをIBMが認めている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化である「野鴨」は、ビジネスでは飼い慣らされない野鴨のような挑戦する精神を持って欲しいということで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの書物から引用して作られた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大文字で書かれた「THINK」は創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが、「考えることがあらゆる前進を生み出す源」として1915年に講演したことに起因する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1953年、トーマス・ワトソン・ジュニアは社会の潮流に先駆け、人種、肌の色、宗教で差別しないという規定を策定した。これは1954年のブラウン対教育委員会裁判での連邦最高裁判決の1年前、そして1964年の公民権法制定の11年前にあたる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1999年、イントラネットを用いて部分的在宅勤務が制度化され、2009年には完全在宅勤務が認められた。一般的な企業の約10年から20年前に実現した取り組みだった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2004年、オンデマンドワークスタイルを取り入れ、オフィス内をフリーアドレス化し、「社員に働く場所は自由」であることを明示し、顧客エンゲージメントや在宅勤務に対する心理的抵抗を下げる施策をうった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2017 年、IBM はWorking Motherの100 Best Companies List に 32 年連続で選ばれた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これ以外にも、週休2日制(1972年)、産休(1974年)、フレックスタイム(1989年)、長期勤続リフレッシュ休暇(1990年)、介護休暇(1991年)、ボランティア休暇(1991年)、短時間勤務(2004年)など、社員の働ける条件で働くという環境を作るため、世界でも最先端の試みを最も早く行っている企業である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アメリカ企業として珍しい点として、日本企業のような社歌の存在が挙げられる。1931年に管弦楽団を用いてEver Onwardを策定している。創業から1980年代までリストラをしたことがなく、1950年に世界で最初に終身雇用制を確立したことから、日本企業以上に日本企業的な一面があった。後述の1993年の巨額赤字を機に企業方針を転換し、家族的経営からハイパフォーマンスカルチャーへと移行した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、ルイス・ガースナーを外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2003年、オンデマンド・コミュニティーと称するプラットフォームをリリースし、退職した社員とITのサポートが必要なNPOや学校とのマッチングを行っている。創業時から社会貢献活動に意欲的だった取り組みのオンライン化である。2004年、スマトラ沖地震救済のため、IT機器の無償支給の他、IBMerによるボランティアを実施し、320万ドル相当の貢献をした。創業の年、トーマス・ワトソンは20以上の慈善団体に資金を寄付した他、2001年、2008年、2010年など天災の際に寄付を続けている。これらは現在のESGの先駆けであるといえる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "社会課題解決に対しても積極的で、2007年にはストックホルム市の交通量最適化プロジェクトでは、交通量25%削減、公共交通機関利用者1日当たり4万人増加、市内の排出ガス14%削減という成果を出した。現在多くの企業が取り組むサステナビリティーの先駆けとなる施策を、本業で社会的インパクトを与えることを視野に入れて果敢に取り組んでいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、クラウド・コンピューティング、コグニティブ・コンピューティング、コマース、データ&アナリティクス、IoT、ITインフラストラクチャ、モバイル、およびセキュリティ、に分類されている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "IBM Watsonは自然言語処理と機械学習を用いて大量の非構造化データ(例えばメールやSNS、動画、画像など)から論理的に推論し意思決定に役立たせるためのプラットフォームである。ワトソンは2011年に米国の人気クイズ番組「ジェパディ!」でデビューし、3ゲームのトーナメント戦で、人間のクイズ王であるケン・ジェニングスとブラッド・ラターを破った。それ以来、ビジネス、医療、研究開発、および大学などの分野で採用されている。例えばIBMは米国スローンケタリング記念がんセンターと提携しており、臨床データや最新の研究論文と患者データの照合に活用し、悪性黒色腫のスクリーニング検査のがん患者一人ひとりに最適な治療方法を見つける支援を行っている。また企業がコールセンターのためのワトソンを使用して、顧客サービスのオペレーターを支援し始めている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "クラウド・コンピューティング関連のサービスとしてPaaS、IaaS、SaaSを提供している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "など", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "IBMの歴史は電子計算機の開発の数十年前に始まる。電子計算機の前には、パンチカードによるデータ処理機器を開発していた。1911年6月16日、ニューヨーク州エンディコットにコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー(C-T-R : Computing-Tabulating-Recording Company)として設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "C-T-Rは3つの別個の企業の合併を通じて成形された。タビュレーティング・マシーン・カンパニー(1896年設立)、インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー・オブ・ニューヨーク(1900年設立)、コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ(1901年設立)の3社である。タビュレーティング・マシーン・カンパニーの当時の社長は創業者のハーマン・ホレリスであった。この合併の鍵を握っている人物は資産家のチャールズ・フリントであり、彼は3社の創業者を集めて合併を提案し、1930年に引退するまでC-T-Rの取締役であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "IBMでは1911年を創立の年としている。1917年、C-T-Rはカナダ市場に参入する際にInternational Business Machine Co., Limitedの社名を使用し、1924年2月14日に本体の社名を現在と同じInternational Business Machines Corporationに変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "トーマス・J・ワトソン・シニアはIBMの創立者と記述されることが多いが、1911年時点の社長は、ジョージ・W・フェアチャイルドである。トーマス・J・ワトソン・シニアは、1914年にNCRからC-T-Rの事業部長(ゼネラルマネージャー)として迎えられ、1915年に社長となった。彼は、C-T-RがInternational Business Machines Corporationに社名変更した1924年の時点も社長の任にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "C-T-Rの元となった3社は様々な製品を製造していた。従業員勤務時間記録システム、計量器、自動食肉薄切り機、そしてコンピュータの開発にとって重要なパンチカード関連機器などである。時とともにC-T-Rはパンチカード関連事業を中心とするようになり、他の事業は徐々にやめていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1933年6月20日にエレクトロマチック・タイプライターズ・カンパニーを買収して、タイプライター事業にも乗り出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦期間中、IBMはブローニング自動小銃BARとM1カービン銃を製造した。同盟各国の軍ではIBMのタビュレーティングマシンは会計処理や兵站業務などの戦争関連の目的で広く使われた。ロスアラモスで行われた世界初の核兵器開発計画であるマンハッタン計画ではIBMのパンチカード機器が広く計算に使用された。このことはリチャード・P・ファインマンの著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に記された。同じく戦時中、アメリカ初の大規模な自動ディジタル計算機(自動でディジタル式(計算機構としてアナログ的な部分が無い計算機械)ではあるが、リレーだけではなくローターなども含む、電動だが完全に機械式)のHarvard Mark Iの建造も担当した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大戦前からの流れとして、ホレリス統計機が国勢調査に用いられるようになってから事業が大幅に伸びたことや、前述のように電気機械式計算機Harvard Mark Iに関与したこともあり、企業や政府の計算需要に目をつけてはいたが、戦後、コンピュータ事業への進出は、コンピュータ黎明期の他のパイオニア的な企業と比較して必ずしも先進的だったわけではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "エドウィン・ブラック(IBMがOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人であった)の2001年の著書『IBMとホロコースト』(ISBN 4-7601-2158-7)では、IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給しており、ホロコーストの実行にそれが使われる可能性を認識していたと主張した。また同書は、ニューヨーク本社の協力のもとでIBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポートしていたと主張した。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べた。2003年のドキュメンタリーザ・コーポレーション(The Corporation)でもこの問題を追及した。IBMはこれらを証拠に起こされた訴訟で、それを裏付けるだけの当時の資料を保有していないとし、これらを退けた。IBMはまた、著者や原告によって提起された主張を真剣に受け止め、この件に関する適切な学問的評価を期待している、と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "終戦後すぐの1946年に、エレクトロニクスによる「電子」計算機であるENIACが完成し、電子式コンピュータの時代が幕を開けた。ENIACはIBMのパンチカード機器を入出力に使用していた。当初、コンピュータの世界で先行したのは、ENIACの主要開発者2人を雇い入れることに成功したUNIVACであった。UNIVAC Iは(当時としては)ベストセラー機となった他、1952年アメリカ合衆国大統領選挙を予想するというデモンストレーションにも印象的に成功するなどしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "IBMは、前述のHarvard Mark Iに技術的に引き続くSSECも建造しているが、電子式でない計算機械はすぐに時代遅れとなる趨勢にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "IBMもIBM 701に始まるIBM 700/7000 seriesやIBM 650といったコンピュータを開発・出荷したが、初期の機種は性能や機能の点でUNIVACに及ばず(IBM 701には当初は磁気テープが無く、650はより下位機種でドラムを主記憶としていたため遅かった)、IBMの成功はコアメモリを採用した704や、7090などトランジスタの世代からであり、データ処理業界でのその地位を確固なものとしたのは、次の1960年代で述べるSystem/360である(たとえば、コンピュータのトランジスタ化についても、7090が1959年であるのに対し、PhilcoのTransac S-2000は1957年と、他社に先行されている)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1950年代については、商用コンピュータ以外に特筆すべきことがある。この時代にIBMはアメリカ空軍の自動化防衛システムのためのコンピュータを開発する契約を結んだ。SAGE対空システムに関わることでIBMはMITで行われている重要な研究にアクセスできた。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピュータで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピュータ言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれている(Whirlwind)。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20 %)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があった。ただし、先端技術へのアクセスは軍の保護下で行われた。また、IBMはプロジェクトのソフトウェア開発をランド研究所に取られてしまい、勃興期のソフトウェア産業で支配的な役割を得るチャンスを逃した。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は、「プロジェクトがいつか完了したとき、2000人のプログラマにIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている。IBMはSAGEでの大規模リアルタイムネットワーク構築の経験を生かし、SABRE航空予約システムを開発し、さらなる成功を収めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1960年代中には、IBMはバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェル、RCA、GEの、他のコンピュータ主要7社を圧倒して大きなシェアを有したため、「IBMと7人の小人」と称された。その後1970年代、IBMとバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェルが市場に生き残り、その頭文字から「IBMとBUNCH」と改称された(英単語bunchには「束」「小さな(粒などの)カタマリ」という意味がある)。その後、これらの企業はバロースとUNIVAC(スペリー)の合併で誕生したユニシス以外はIBMの独占するメインフレーム市場から事実上撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1964年4月に発表されメインフレームの世界に君臨したSystem/360は、IBM史にとどまらず、コンピュータ史上において重要なコンピュータである。主記憶へのアドレス付けはバイト単位とし、4バイトなどを1ワードとすること、科学技術計算用と事務処理用で別の命令セット・別のコンピュータとするのではなく、またハイエンドからローエンドまで命令セットアーキテクチャを共通とした「シリーズ」とし、価格差は実装方法の差とするなど、コンピュータの大きな世代交代(メインフレーム→ミニコンピュータ→マイクロプロセッサ)を経た今も共通の標準は、System/360で打ち立てられた。System/360は絶対的に成功し、他社を圧倒してメインフレーム市場をほぼ独占した。またそのために、アムダールや日本の一部メーカーなどは、いわゆる互換機(Plug-Compatible Machine)による商法へと流れることとなった。System/360のアーキテクチャは何度かの(ちょうど30年後の1994年4月発表のS/390など)拡張を受けながらも、基本はそのまま引き継がれ、こんにちのSystem z・z/Architectureに至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方でこの独占は、政府からも目をつけられる程のものであった。1969年には遂に、司法省により独占禁止法違反で提訴されることになる(1969年1月17日)。IBMが汎用電子デジタルコンピュータ市場(特にビジネス向けに設計されたコンピュータ)を独占しようと謀り、シャーマン独占禁止法の2条に違反したとの訴えである。具体的には、CDC 6600対抗機種を発表してCDC側の販売に打撃を与え、結局その対抗機種を発売しなかったという件である。訴訟は1983年まで続き、IBMに多大な影響を与えた。同じ訴因でCDCからも訴えられ、CDC側に有利な条件で和解している。なお、IBMは以前から度々独占禁止法違反で訴えられてきた企業ではある。古くは1933年、パンチカード機器とパンチカードの抱き合わせ販売で訴えられている。独占禁止法にかかわる司法省の闘争は、IBMとのやりとりが史上最長である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本においては、国産コンピュータメーカーを育成するという政府の意図のもと、IBM製コンピュータを導入するには、政府の認可が必要となる時期があった。国産メインフレーム六社政策のもと、IBMメインフレームを模倣した互換機を日本企業が生産していた時期があった。しかし、IBMが圧倒的シェアと投資額で設計・開発しているメインフレームの互換機を作るのは極めて困難であり、1981年に日立製作所や三菱電機など6名によるIBM産業スパイ事件が起こった。IBMはスパイ行為の被害者だが、当時の日本の潮流としてはあたかもIBMが加害者であるかのような誤解が長期間にわたって流布されていた。なお、この事件は日本企業のIBMのUS本社に対してのスパイ行為であり、日本IBMは関与していない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1969年、30年続いてきたIBMとNASAの協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1970年代に、当初はIBMの住む世界とは遠く離れた(System/360は32ビット(アドレスは24ビット)マシンであり、似たようなスペックの68000が登場したのは1980年である)電卓用などのちっぽけな4ビットプロセッサから始まったマイクロコンピュータは、しかし、革命という言葉すら使われるほどの(en:Microcomputer revolution)変革となり、1970年代の末にはApple IIに代表されるen:Home computerが一般への広い普及のきざしを見せ、1979年にVisiCalcが登場するに至ってビジネスの世界へも進出が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "IBMはこの乗り遅れを挽回するために、1981年にパーソナルコンピュータ「IBM PC」をリリースする。同機はIBMエントリーシステム部門に雇われたフィリップ・ドン・エストリッジと \"chess\" と呼ばれるチームにより、「IBMとしては異例ずくめ」「突貫工事」で開発されたもので、1981年8月11日に完成した。標準価格は1,565ドルで決して安くは無いがビジネスに使用可能であり、PCを購入したのも企業だった。IBM PCはインテルの8088を使い、OSはIBM PC DOSという名前だが中身はマイクロソフトのMS-DOSであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1983年に「VisiCalcのIBM PC版」と言えるLotus 1-2-3が登場すると、企業の中間管理職層がその可能性を見出した。IBMの名前に保証され、彼らはPCを購入してビジネススクールで学んだ計算をPCで行うようになった。しかし、そのようにしてPCの成功が広まる一方で、それまでのビジネスである(PCから見れば)大型のコンピュータの、下位に相当する部分がPCに喰われる、というダブルバインドは1990年代には大いに同社を苦しめることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "パーソナルコンピュータ(パソコン)の世界では逆に「先輩」であったAppleが1984年に発表・発売したMacintoshは、洗練されたGUIなど多くの点でIBM機に先行するものであった(1995年のWindows 95の際に、Win95 = Mac84 などとも言われたほどであった)。しかし、ビジネスユースから広まったIBM PC(後には互換機)の牙城をMacintoshはなかなか崩せず、2000年代のAppleの起点は1998年のiMacを待たねばならない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "このように挽回に成功したIBM PCではあったが、他社(サードパーティー供給)による周辺機器にとどまらず、「母屋」であるコンピュータ本体の互換機を作られてしまう事態に至り、IBMのパソコン事業は多くの試行錯誤を繰り返すことになる。1987年発売のPS/2では、MCAという高性能・高機能だがIBMが主導権を抑えたバスを採用したが、普及させることはできなかった。CPUについては、1990年代に自社のPower ArchitectureをベースとしたPowerPCにより今度はAppleとも手を組み、PReP・CHRP、次世代OSのTaligent、クロスプラットフォーム開発環境Kaleidaというプラットフォームを打ち出すも、いわゆる「ウィンテル」である、他社製PC/AT互換機とMS-DOS(後にはWindows)というコンビを脅かすには至らなかった。OSについては、MS-DOSのようなシングルタスクではない、次世代の本格的なマルチタスクOSとしてOS/2をマイクロソフトと当初は共同開発していたが、マイクロソフトが「NT」(後のWindows NT)を独自路線で開発することを決定して決裂、Windows NTは、旧来のWindowsからの移行パスにこそ苦労した(当初は95の次は、などとも言われていたものの、最終的に2000年のWindows MEまで旧Windowsが残った)ものの、既存シェアの強みでOS/2を寄せ付けず、「PC/AT互換機のOS」の座はWindows NTのものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1990年代にはダウンサイジングの潮流によりIBMの主力であったメインフレームは「時代遅れ、過去の遺物(レガシー)、滅び行く恐竜」と呼ばれ、IBMの業績は急速に悪化した。1993年1月19日、IBMは1992年度会計での49億7000万ドルの損失を発表した。これは単年度の単一企業による損失額としてはアメリカ史上最悪であったと言われた。なお1991年の赤字は29億ドル、1993年度の赤字は81億ドル、3年間の赤字は累積150億ドルであり、通常の企業では事業再生が極めて困難な数字である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この損失以来、IBMは事業の主体をハードウェアから、ソフトウェアおよびサービスへと大胆な転換を進めた。また当時は水平分業モデルのマイクロソフト、インテル、サン・マイクロシステムズ、オラクルなどが好調であったため、米国のPC事業部(IBM PC Company)やプリンター事業部など、IBM分社化の動きも進められた。ハードウェアは主力のメインフレームの低価格化を進め、複数のサーバーシリーズのブランド名や機能の共通化が進められた。IBMは伝統的に、日本で日本企業が採用する以前から、各国で終身雇用を行っていたが、これを方針転換しリストラの実施が開始された。後には最終的に、最盛期には全世界で40万人いた社員を22万人まで削減することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1993年、ナビスコ社から引き抜かれたルイス・ガースナーがCEOに就任し、不採算部門の売却、世界規模の事業統合、官僚主義の一掃、顧客指向の事業経営を行い、独自システムと独自OSによる顧客の囲い込みをやめ、オープンシステムを採用したシステムインテグレーター事業へ戦略を大きく転換した。また顧客の要望を聞き、顧客はトータルなサービスを望んでいると考え、IBM分社化の動きを停止した。これによりIBMはLinuxを推進する大手コンピュータ企業の筆頭となった。ルイス・ガースナーの考えとして、IBMを分社化した場合、同規模の競合他社との競争にさらされるが、誰も一から今のIBMのような統合された会社を作ろうとは思わないだろうという願いがあった。IBMは代々、生え抜きの人材がCEOとなる文化であったが、ルイス・ガースナーが初めて外部から招聘されたCEOである。このことからも、当時のIBMがいかに危機的な状況であったかがうかがえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1995年にはネットワーク・コンピューティング、1997年にはe-ビジネスを提唱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1995年、IBMはLotus Notesを持つLotusを買収した。以後も運用管理ソフトウェアを持つTivoli、データベースのInformix、ソフトウェア開発ツールを持つRationalなどを買収し、従来からのIBMソフトウェア(DB2、WebSphereなど)と統合した。この結果、2003年にはソフトウェア事業の5ブランド(Information Management、WebSphere、Lotus、Tivoli、Rational)を形成した。なお、それぞれのイメージカラーは緑・紫・黄・赤・水色である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1999年、IBMはソフトウェア戦略を全世界で方針転換し、IBMは今後はアプリケーションパッケージは開発せず、ミドルウェアまでに集中し、各業務に強いアプリケーション・ベンダーとパートナーシップを組んで、ユーザーにソリューションを提供することを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "コアと位置づけた事業の買収と投資を進める一方で、コモディティ化と価格低下が進みIBMの強みを活かせないと判断した非コア事業の売却を行い、「選択と集中」を進めている。1991年にはタイプライター事業、1998年にはネットワーク事業を売却した。ルイス・ガースナーの当時の判断としては、ハードウェアとミドルウェア、サービス事業をIBMの主軸とし、アプリケーションパッケージは開発しないという戦略であった。アプリケーションパッケージが中心となった2020年代においてもIBMのこの変わっておらず、ERPやCRMのようなアプリケーションパッケージを自社で持っていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "IBMはコンサルティングを含むサービス、ソフトウェアなどからなるビジネスソリューションに重心を移しており、ユーザー企業の業務分析、提案から構築、保守までのワンストップ型のサービスの提供を目指している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2002年7月、IBMはプライスウォーターハウスクーパース(PricewaterhouseCoopers、PwC)のコンサルティング部門を39億ドルで買収し、従来からのコンサルティング部門と統合し、IBM ビジネスコンサルティング サービスとなった。(なお日本市場のみ、当初は別法人のIBMビジネスコンサルティングサービスが設立されたが、後に日本IBMと合併した。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "またコンサルティング以外のサービス事業(IBMグローバルサービス、IGS)では、システム構築(SI)に続き、ユーザー企業の情報システムの戦略的アウトソーシング(SO)、更には財務・人事・顧客サービス・購買など業務自体のリエンジニアリングと受託を含めたアウトソーシング(ビジネス・トランスフォーメーション・アウトソーシング、BTO)などを提唱している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「選択と集中」によるコア事業への集中と、非コア事業の売却も続いている。ソフトウェア事業では、2006年にはコンテンツ管理ソフトウェアを持つFileNet、2007年にはBIツールを持つCognosなどを買収し、製品に統合した。また非コア事業として、2004年にはパーソナルコンピュータ事業、2006年には企業向けプリンター事業を、2010年にも、IBMの法人向けアプリケーション・パッケージ・ソフトウェアのビジネスとして唯一存続していたPLM事業(CATIA、ENOVIA) を、それぞれ事業部門ごと(製品、施設、従業員など)会社分割し売却した。また、2012年にも、リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)の東芝への売却が、2014年には、System xサーバー事業のレノボへの売却が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "IBMは着実に特許件数を増やしており、他社とのクロスライセンス契約時にも重要となる。IBMは1993年から2012年までの20年間連続で米国での特許取得件数で第1位となり、20年間の合計は約67,000件となった。知的財産権の保護はビジネスとしても重要性を増している。この期間にIBMは特許使用料などで100億ドル以上を得た。2003年、フォーブス誌の記事でIBMリサーチの Paul Horn は、IBMが知的財産権のライセンス供与によって毎年10億ドルの利益を得ていると述べた。この特許取得記録1位は2021年まで続き、29年間続いたため、少なくとも29年はこの記録が破られることはないということになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2008年にIBMはコーポレート・ビジョンとしてSmarter Planetを提唱し、2009年にはその一部であるスマートグリッド、IoTや人工知能を活用したSmarter Cities(スマートシティ)の取り組みが世界的に注目された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2009年10月16日、ハードウェア事業の総責任者で次期CEOの有力候補の一人と見なされていた 上級副社長のロバート(ボブ)・モファットが、サン・マイクロシステムズとの買収交渉や仕入れ先のアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)などに関する情報をヘッジファンドに漏らしたというインサイダー取引への関与により、連邦捜査局に逮捕・起訴され、モファットはその容疑を認めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2010年5月 人事部門のトップであるティム・リンゴが「2017年までに、全世界で40万人いる従業員から30万人を解雇して正社員10万人体制とし、プロジェクト毎に契約社員を雇用するクラウドソーシングの雇用形態に移行する」と発言した事が報道された。しかし、2021年末時点、後述のキンドリル分社後のIBM従業員数は28.2万人であり、クラウドソーシングに移行したという事実はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2020年10月、マネージド・インフラストラクチャー・サービス部門の2021年末までの分社化予定を発表した。IBMの顧客向けインフラ・サービス部門はキンドリルとしてスピンオフが2021年11月3日に完了し、キンドリル株(KD)は翌4日よりニューヨーク証券取引所で取引が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお2009年3月18日にはIBMがサン・マイクロシステムズの買収を交渉中と報道されたが、最終的にはオラクルが買収することとなった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "詳細は「IBMによる合併買収一覧」に記載", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "IBMの海外オペレーションは事業が大発展した1970~80年代には、ヨーロッパ・中東・アフリカ地域を統括するIBM Europe/Middle East/Africa会社(本部:ベルギー・ブリュッセル、略称:E/ME/A=エメア)、南北アメリカ・アジア太平洋地域を統括するIBM Americas/Far East会社(本部:ニューヨーク州マウントプレサント、略称:A/FE=アフェ)を設置して、後者の下ではさらに日本・韓国・台湾・オーストラリアなどを統括するIBM Asia Pacific会社(本部:東京、後に香港、略称:AP)があって、生産・販売・地域性による開発はなるべく各地域内で行なうような政策を敷いた。しかし1990年代以降は、日本IBM・英国IBM・ドイツIBMのように事業が大きな国のIBMは本社へ直接報告するように戻り、新しいAP(本部:シンガポール)はオーストラリア・韓国・インドネシアなどの諸国を統括する組織になって、世界全体ではもう少し小さな地域性を生かしてお互いに協力する体制へ代った。", "title": "海外IBMの管理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "IBMの日本法人は日本アイ・ビー・エム(日本IBM)株式会社で、米 IBM 社の孫会社にあたる。また、日本IBMの下には更に複数の子会社と関連会社が存在している。2002年以降はコンサルティング会社のIBMビジネスコンサルティングサービス(IBCS)が並存していたが、2010年4月に日本IBMに統合された。", "title": "海外IBMの管理" } ]
IBMは、アメリカ合衆国ニューヨーク州アーモンクに本社を置くテクノロジー関連企業。世界170か国以上で事業を展開する典型的な多国籍企業であり、世界最大手規模のIT企業。IBMの愛称はビッグブルー、IBM社員の愛称はIBMer。行動指針は、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」。社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化として、何ものにもとらわれず「野鴨」、「THINK」などがあり、これらは創業時から100年以上続いている。 IBMは1911年にC-T-Rとして創立され、特に1960年代以降はコンピュータ市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降はコンサルティングを含めたサービスとソフトウェア中心の事業に舵を切り、2010年代頃にはクラウドコンピューティングとコグニティブコンピューティングを提供する企業と自己定義している。以降も、レッドハットの巨額買収(2019)やキンドリルのスピンオフ(2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、ソフトウェア、コンサルティング事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2022年現在、アメリカ合衆国の代表的株価指数とされるダウ平均株価を構成する30銘柄のうちの一社である。
{{Otheruses|コンピュータ会社}} {{出典の明記|date=2021年3月}} {{Infobox company | name = International Business Machines Corporation | logo = IBM logo.svg | logo_size = 150px | logo_caption = | image = IBM CHQ - Oct 2014.jpg | image_size = 200px | image_caption = IBM本社([[ニューヨーク]] [[アーモンク]]) | type = [[株式会社]] | traded_as = {{ubl|{{NYSE|IBM}}|[[DJIA]] component|[[S&P 100]] component|[[S&P 500]] component}} | trade_name = IBM | predecessors = [[:en:Computing-Tabulating-Recording Company#Computing Scale Company of America|コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ]]<br />[[:en:International Time Recording Company|インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー]]<br />[[:en:Computing-Tabulating-Recording Company#Tabulating Machine Company|タビュレーティング・マシーン・カンパニー]] | ISIN = US4592001014 | founders = {{Unbulleted list|[[チャールズ・フリント]]|[[トーマス・J・ワトソン]]}} | area_served = 177ヵ国<ref name="fortune20160201">{{cite news|url=https://fortune.com/2016/02/01/ibm-employee-performance-reviews/|title=IBM Is Blowing Up Its Annual Performance Review|work=Fortune|date=February 1, 2016|access-date=July 22, 2016}}</ref> | key_people = [[:en:Ginni Rometty|Ginni Rometty]]<br />{{small|(Executive Chairman)}}<br />[[:en:Arvind Krishna|Arvind Krishna]]<br />{{small|(CEO)}}<br />[[:en:Jim Whitehurst|Jim Whitehurst]]<br />{{small|(President)}} | industry = [[クラウドコンピューティング]]<br />[[人工知能|AI]]<br />[[ハードウェア]]<br />[[ソフトウェア]]<br />[[サービス]] | products = コンピュータ関連[[ハードウェア]]・[[ソフトウェア]] | services = {{hlist|[[アウトソーシング]]|[[コンサルティング]]|[[:en:Managed services|マネージドサービス]]}} | revenue = {{Increase}} {{US$|link=yes}}57.35 billion (2021)<ref name="2020rev">{{cite web |title=IBM Reports 2021 Fourth-Quarter and Full-Year Results |url=https://www.ibm.com/investor/att/pdf/IBM-4Q21-Earnings-Press-Release.pdf |website=IBM.com |access-date=February 19, 2021 |archive-date=January 24, 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220124213837/https://www.ibm.com/investor/att/pdf/IBM-4Q21-Earnings-Press-Release.pdf |url-status=live }}</ref> | operating_income = {{Increase}} US$6.86 billion (2021)<ref name=2020rev/> | net_income = {{Increase}} US$5.74 billion (2021)<ref name=2020rev/> | assets = {{nowrap|{{Decrease}} US$132.00 billion (2021)<ref name=2020rev/>}} | equity = {{Decrease}} US$18.99 billion (2021)<ref name=2020rev/> | owner = | num_employees = 282,100 (2021)<ref>{{cite web|title=2021 IBM Annual Report|url=https://www.ibm.com/annualreport/assets/downloads/IBM_Annual_Report_2021.pdf|publisher=IBM.com|accessdate=2023-02-05}}</ref> | website = {{URL|ibm.com}} | founded = {{Start date and age|1911|06|16}} ([[C-T-R]])<ref name=certificate1911>{{citation|contribution=Certificate of Incorporation of Computing-Tabulating-Recording-Co|title=Appendix to Hearings Before the Committee on Patents, House of Representatives, Seventy-Fourth Congress, on H. R. 4523, Part III|publisher=United States Government Printing Office|date=1935|orig-year=Incorporation paperwork filed June 16, 1911|url=https://books.google.com/books?id=_8tFAQAAMAAJ&pg=PA3428}}</ref> | location_city = [[ニューヨーク]] [[アーモンク]] | location_country = [[アメリカ合衆国]] }} '''IBM'''(アイビーエム、正式名: '''International Business Machines Corporation''')は、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[アーモンク]]に本社を置くテクノロジー関連[[企業]]。世界170か国以上<ref name=":0" />で事業を展開する典型的な[[多国籍企業]]であり、世界最大手規模のIT企業。IBMの愛称は'''ビッグブルー、'''IBM社員の愛称は'''IBMer'''。行動指針は、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」。社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化として、何ものにもとらわれず「'''野鴨'''」、「[[Think (IBM)|'''THINK''']]」などがあり、これらは創業時から100年以上続いている<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - 「THINK(考えよ)」という文化 |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/think_culture/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-04 |language=ja-JP}}</ref>。 IBMは1911年に[[C-T-R]]として創立され、特に1960年代以降はコンピュータ市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降は[[コンサルティング]]を含めた[[サービス]]と[[ソフトウェア]]中心の事業に舵を切り、2010年代頃には[[クラウドコンピューティング]]と[[コグニティブコンピューティング]]を提供する企業と自己定義している。以降も、[[レッドハット]]の巨額買収(2019)や[[キンドリル]]の[[スピンオフ]](2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、[[ソフトウェア]]、[[コンサルティング]]事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2022年現在、[[アメリカ合衆国]]の代表的株価指数とされる[[ダウ平均株価]]を構成する30銘柄のうちの一社である。 == 概要 == 事業内容は[[コンピュータ]]関連の[[サービス]]および[[コンサルティング]]の提供と、[[ソフトウェア]]、[[ハードウェア]]の開発・製造・販売・保守、およびそれらに伴う[[融資|ファイナンシング]]、メインフレームコンピュータからナノテクノロジーに至る分野でサービスを提供している。 [[ファイル:IBMinventions.png|thumb|left|IBMの発明: (左上)[[ハードディスク|ハードディスクドライブ]]、(右上)[[DRAM]]、(左下)[[磁気ストライプカード]]、(右下)[[バーコード|UPCバーコード]]]] IBMは研究機関としても有名でもある、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった<ref>[https://www.ibm.com/press/jp/ja/pressrelease/48806.wss IBM、23年連続で特許取得数の首位を獲得] </ref>。IBMによる発明は[[DRAM]]、[[ハードディスク]]、[[フロッピーディスク]]、[[磁気ストライプカード]]、[[関係データベース|リレーショナルデータベース]](RDB)、[[SQL]]プログラミング言語、[[バーコード]]、[[現金自動預け払い機]](ATM)などがある。 IBMは既存の[[コモディティ化]]した市場を脱出し、高付加価値な収益性の高い市場に着目することで、事業構成を絶えず組み替えている。例えばプリンタ事業を[[レックスマーク|Lexmark]]に分社し(1991年に)、[[レノボ]]への[[パーソナルコンピュータ]](ブランド、[[ThinkPad]]や[[NetVista]]など)およびx86ベースのサーバー事業を売却(2005年と2014年)。また[[ファブレス]]化として2014年にIBMのグローバルな商用半導体技術事業を米[[GLOBALFOUNDRIES]]に工場、技術者、テクノロジー知的財産だけではなく、現金15億ドルまでも付けて譲渡<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/ibm_semiconductor-1/ IBMの半導体研究モデルは、何が他社と違うのか?]</ref>。2021年には成長分野のクラウドとAIに集中するため、売り上げの四分の一を占める[[:en:Managed services|ITインフラの保守・更新]]事業を新会社名は[[キンドリル]]としてスピンオフ。一方で[[PWCコンサルティング|PwCコンサルティング]](2002年)、[[SPSS]](2009年)、[[:en:The Weather Company|Weather Company]](2016年)などの企業を買収している。 [[製品]]やロゴの色から本国アメリカでは「'''Big Blue'''」の[[愛称]]で呼ばれている。これに由来してIBMの[[プロジェクト]]には「Blue」を冠するものが多く、広告などのイメージカラーになっている。IBM社員はIBMの価値観を体現する者として、IBMerという呼称を用いている。[[ダウ平均株価]]の銘柄に含まれる30社のうちの1社であり、2016年時点で約38万人<ref name=":0">[https://www.ibm.com/investor/att/pdf/IBM_Annual_Report_2015.pdf IBM Annual Report 2015]</ref> の従業員数がいる世界最大級の規模の企業となっている。基礎科学の研究にも力を入れ[[トーマス・J・ワトソン研究所|ワトソン研究所]]やチューリッヒ研究所からは[[ノーベル賞]]受賞者を輩出。IBM社員から5人の[[ノーベル賞]]、6人の[[チューリング賞]]、10人の[[アメリカ国家技術賞]]、5人の[[アメリカ国家科学賞]]の受賞者を輩出している。 IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年に[[サムスン電子]]へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している<ref>{{Cite web |title=Why IBM is no longer interested in breaking patent records–and how it plans to measure innovation in the age of open source and quantum computing |url=https://fortune.com/2023/01/06/ibm-patent-record-how-to-measure-innovation-open-source-quantum-computing-tech/ |website=Fortune |access-date=2023-02-04 |language=en}}</ref>。 元[[CEO]]の[[:en:Ginni Rometty|ジニー・ロメッティ]]は、米Fortune誌が選ぶ[https://fortune.com/most-powerful-women/ 「ビジネス界で最もパワフルな女性」] の一人として長年ランクインしている。 == 文化 == === 呼称 === 100年以上の歴史を持つ希有なアメリカ企業であり、いまだ創業時の理念や行動規範を尊重する文化を持つ。誠実さを象徴するため、事実上のドレスコードであった青いスーツに白いシャツからIBMの企業としての呼称に'''ビッグブルー'''が用いられることが多い。また、IBM社員のことを'''IBMer'''と称する。ビッグブルーとは、あまりにも強すぎるIBMの市場における存在感に対する畏敬の意として用いることもあれば、保守的で均一的なことへの揶揄として用いることもある。[[ルイス・ガースナー]]がIBMを抜本的に改革するため、CEO就任時にあえてブルーのシャツを着て役員会に出席したことで、事実上のドレスコードは撤廃された<ref>{{Cite book|和書 |title=巨象も踊る |date=12月1日 |year=2002年 |publisher=日経BP}}</ref>。 === 行動規範 === 1916年、トーマス・J・ワトソン・シニアはIBM教育プログラムを策定し、社員への教育をコミットメントした。この際にできたのが、「'''教育に飽和点はない'''」という現在まで続く理念である。 1962年、当時CEOであった[[トーマス・J・ワトソン・ジュニア]]がコロンビア大学でIBMの指針である、「'''個人の尊重'''」「'''最善の顧客サービス'''」「'''完全性の追求'''」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - 企業よ、信念をもて |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/bizbeliefs/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-04 |language=ja-JP}}</ref>。 2003年の7月29日から31日の3日間、当時のCEOであったサミュエル・パルミサーノがオンラインジャムセッションを主催し、行動規範や価値観について議論するため、数万人のIBMerが参加した。当時、企業理念を大規模な社員が議論して策定することも、オンラインでジャムセッションすることも極めて珍しいことだった。このジャムセッションを元に、2003年11月にIBMは新しい価値観として、「'''お客様の成功に全力を尽くす'''」「'''私たち、そして世界に価値あるイノベーション'''」「'''あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任'''」を発表した。これは、「'''個人の尊重'''」「'''最善の顧客サービス'''」「'''完全性の追求'''」という40年前の企業理念を現代風に言い換えたものであり、IBMの行動規範が40年以上にわたってDNAとして続いていることをIBMが認めている<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - 企業よ、信念をもて |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/bizbeliefs/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-04 |language=ja-JP}}</ref>。 === 価値観 === 社員への教育理念は、「'''教育に飽和点はない'''」。社員の文化である「'''野鴨'''」は、ビジネスでは飼い慣らされない野鴨のような挑戦する精神を持って欲しいということで、デンマークの哲学者[[セーレン・キェルケゴール]]の書物から引用して作られた<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - 100周年記念映像 |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/films/wild_ducks.html |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-05 |language=ja-JP}}</ref>。 大文字で書かれた「[[Think (IBM)|'''THINK''']]」は創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが、「考えることがあらゆる前進を生み出す源」として1915年に講演したことに起因する<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - 「THINK(考えよ)」という文化 |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/think_culture/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-05 |language=ja-JP}}</ref>。 === 社員の尊重 === 1953年、トーマス・ワトソン・ジュニアは社会の潮流に先駆け、人種、肌の色、宗教で差別しないという規定を策定した<ref>{{Cite web |title=IBM100 - Building an Equal Opportunity Workforce |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/equalworkforce/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-07 |access-date=2023-02-04 |language=en-US}}</ref>。これは1954年のブラウン対教育委員会裁判での連邦最高裁判決の1年前、そして1964年の公民権法制定の11年前にあたる。 1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。 1999年、イントラネットを用いて部分的在宅勤務が制度化され、2009年には完全在宅勤務が認められた。一般的な企業の約10年から20年前に実現した取り組みだった。 2004年、オンデマンドワークスタイルを取り入れ、オフィス内をフリーアドレス化し、「社員に働く場所は自由」であることを明示し、顧客エンゲージメントや在宅勤務に対する心理的抵抗を下げる施策をうった。 2017 年、IBM は''Working Mother''の100 Best Companies List に 32 年連続で選ばれた<ref>{{Cite web |title=IBM, Best Companies {{!}} Working Mother |url=https://web.archive.org/web/20201016195433/https://www.workingmother.com/best-companies-ibm |website=web.archive.org |date=2020-10-16 |access-date=2023-02-05}}</ref>。 これ以外にも、週休2日制(1972年)、産休(1974年)、フレックスタイム(1989年)、長期勤続リフレッシュ休暇(1990年)、介護休暇(1991年)、ボランティア休暇(1991年)、短時間勤務(2004年)など、社員の働ける条件で働くという環境を作るため、世界でも最先端の試みを最も早く行っている企業である。 === 日本企業的な一面 === アメリカ企業として珍しい点として、日本企業のような社歌の存在が挙げられる。1931年に管弦楽団を用いてEver Onwardを策定している<ref>{{Cite web |title=IBM Archives: Transcript of IBM Rally Song, Ever Onward |url=https://www.ibm.com/ibm/history/multimedia/everonward_trans.html |website=www.ibm.com |date=2003-01-23 |access-date=2023-02-05 |language=en-US}}</ref>。創業から1980年代までリストラをしたことがなく、1950年に世界で最初に終身雇用制を確立したことから、日本企業以上に日本企業的な一面があった。後述の1993年の巨額赤字を機に企業方針を転換し、家族的経営からハイパフォーマンスカルチャーへと移行した<ref>{{Cite web|和書|title=『IBMは、こうして終身雇用制をやめた!-日米両国の反パラレルワールド(21)』 |url=https://ameblo.jp/koshioheikuroh/entry-12450241179.html |website=小塩丙九郎の歴史・経済ブログ |access-date=2023-02-05 |language=ja}}</ref>。 また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、[[ルイス・ガースナー]]を外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。 === 社会貢献 === 2003年、オンデマンド・コミュニティーと称するプラットフォームをリリースし、退職した社員とITのサポートが必要なNPOや学校とのマッチングを行っている。創業時から社会貢献活動に意欲的だった取り組みのオンライン化である<ref>{{Cite web |title=IBM100 - A Global Volunteer Network |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/volunteerism/ |website=www-03.ibm.com |date=2017-12-04 |access-date=2023-02-04 |language=en-US}}</ref>。2004年、スマトラ沖地震救済のため、IT機器の無償支給の他、IBMerによるボランティアを実施し、320万ドル相当の貢献をした。創業の年、トーマス・ワトソンは20以上の慈善団体に資金を寄付した他、2001年、2008年、2010年など天災の際に寄付を続けている。これらは現在のESGの先駆けであるといえる<ref>{{Cite web |title=IBM100 - The Mobilization of Relief Efforts |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/relief/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-07 |access-date=2023-02-04 |language=en-US}}</ref>。 社会課題解決に対しても積極的で、2007年にはストックホルム市の交通量最適化プロジェクトでは、交通量25%削減、公共交通機関利用者1日当たり4万人増加、市内の排出ガス14%削減という成果を出した。現在多くの企業が取り組むサステナビリティーの先駆けとなる施策を、本業で社会的インパクトを与えることを視野に入れて果敢に取り組んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=地球のあるべき姿を希求する「Smarter Planet」 |url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0906/17/news076.html |website=ITmedia エンタープライズ |access-date=2023-02-04 |language=ja}}</ref>。 == 主な事業 == IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、[[クラウドコンピューティング|クラウド・コンピューティング]]、[[コグニティブコンピューティング|コグニティブ・コンピューティング]]、コマース、データ&アナリティクス、[[モノのインターネット|IoT]]、ITインフラストラクチャ、モバイル、および[https://www.ibm.com/jp-ja/security セキュリティ]、に分類されている<ref name=":0" />。 === コグニティブ・コンピューティング === IBM [[ワトソン (コンピュータ)|Watson]]は[[自然言語処理]]と[[機械学習]]を用いて大量の[[非構造化データ]](例えばメールやSNS、動画、画像など)から論理的に推論し意思決定に役立たせるためのプラットフォームである。[[ワトソン (コンピュータ)|ワトソン]]は2011年に米国の人気クイズ番組「[[ジェパディ!]]」でデビューし、3ゲームのトーナメント戦で、人間のクイズ王である[[ケン・ジェニングス]]と[[:en:Brad Rutter|ブラッド・ラター]]を破った。それ以来、ビジネス、医療、研究開発、および大学などの分野で採用されている。例えばIBMは米国[[:en:Memorial Sloan Kettering Cancer Center|スローンケタリング記念がんセンター]]と提携しており、臨床データや最新の研究論文と患者データの照合に活用し、[[悪性黒色腫]]の[[スクリーニング|スクリーニング検査]]のがん患者一人ひとりに最適な治療方法を見つける支援を行っている<ref>[https://www.mskcc.org/about/innovative-collaborations/watson-oncology Watson Oncology] </ref>。また企業が[[コールセンター]]のための[[ワトソン (コンピュータ)|ワトソン]]を使用して、顧客サービスのオペレーターを支援し始めている。 ==== Watson API とサービス<ref>{{Cite web|和書|title=日本IBMとソフトバンク、Watson日本語版を提供 6つのAPIを用意|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/744365.html|website=クラウド Watch|date=2016-02-19|accessdate=2021-09-01|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref> ==== * Natural Language Classifier(2022年8月8日サービス終了<ref>{{Cite web|title=IBM Cloud Docs|url=https://cloud.ibm.com/docs/natural-language-classifier?topic=natural-language-classifier-migrating|website=cloud.ibm.com|accessdate=2021-09-01}}</ref>) * Dialog * Retrieve and Rank(2017年10月 サービス終了を発表<ref name=":1">{{Cite web|title=Watson Retrieve and Rank|url=https://www.ibm.com/watson/services/retrieve-and-rank/|website=www.ibm.com|date=2016-11-28|accessdate=2021-09-01|language=en}}</ref>) * Document Conversion(2017年10月 サービス終了を発表<ref name=":1" />) * Speech to Text * Text to Speech * Personality Insights(2021年12月1日サービス終了<ref>{{Cite web|和書|title=IBM Watson Personality Insights の非推奨化/サービス提供終了のお知らせ|url=https://www.ibm.com/blogs/solutions/jp-ja/ibm-watson-personality-insights-sunset/|website=IBM ソリューション ブログ|date=2020-11-26|accessdate=2021-09-01|language=ja}}</ref>) * Visual Recognition(2021年12月1日サービス終了<ref>{{Cite web|和書|title=IBM Watson Visual Recognitionサービス提供終了のお知らせ|url=https://www.ibm.com/blogs/solutions/jp-ja/ibm-watson-visual-recognition-depre/|website=IBM ソリューション ブログ|date=2020-12-08|accessdate=2021-09-01|language=ja}}</ref>) * Watson Assistant * Watson Natural Language Understanding * Watson Discovery<ref>{{Cite web|和書|title=IBM Watson Discovery - 概要|url=https://www.ibm.com/jp-ja/cloud/watson-discovery|website=www.ibm.com|accessdate=2021-09-01|language=ja-jp}}</ref> * Watson Knowledge Studio<ref>{{Cite web|title=Watson Knowledge Studio - Watson Knowledge Studio|url=https://www.ibm.com/jp-ja/cloud/watson-knowledge-studio|website=www.ibm.com|accessdate=2021-09-01|language=ja-jp}}</ref> === クラウド・コンピューティング === [[クラウド・コンピューティング]]関連のサービスとして[[PaaS]]、[[IaaS]]、[[SaaS]]を提供している。 * [[IBM Cloud]](旧 [[SoftLayer]]、[[Bluemix]]など) === ITサービス === * [[システムインテグレータ|システム構築 (SI)]] * [[ITアウトソーシング]]やバックオフィス業務などの[[ビジネス・プロセス・アウトソーシング]] * IT製品やシステムの保守サービス === その他サービス === * [[コンサルティング]] * ファイナンシング * 教育・トレーニング など === ソフトウェア === * 企業向け[[ミドルウェア]](ソフトウェア事業部によるもの、以下の5ブランドで構成される) ** [[WebSphere|IBM WebSphere Software]]([[アプリケーションサーバ|Webアプリケーション基盤]]と統合) ** [[IBM Information Management Software]](情報管理、[[データベース]]など) ** [[ロータス (ソフトウェア)|IBM Workforce Solutions Software(旧称:IBM Lotus Software)]]([[グループウェア]]など) ** [[Tivoli|IBM Tivoli Software]](システム運用管理) ** [[ラショナル|IBM Rational Software]](ソフトウェア開発) * 企業向け(各サーバー事業部によるもの) ** System z Software([[メインフレーム]]用。[[z/OS]]、[[z/VSE]]、[[z/VM]]、[[Transaction Processing Facility|z/TPF]]、[[IMS]]、[[CICS]]など) ** [[ミッドレンジコンピュータ|ミッドレンジ]]用([[OS/400|IBM i]]、[[AIX]]、[[PowerHA]]など) === ハードウェア === * [[サーバ|サーバー]]製品の[[IBM Systems]]。以下の製品シリーズの総称。 ** [[メインフレーム]] の [[System z|IBM Z (System z)]] ** ソフトウェア、ミドルウェア、設計・運用機能を含めて一体化した[[PureSystems]] ** [[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]系プロセッサ搭載の[[ミッドレンジコンピュータ|ミッドレンジ]]・[[UNIX]]サーバーの [[Power Systems]] * ストレージ製品の[[System Storage]] ** [[磁気ディスク装置]]のIBM DS8000シリーズ、IBM XIV Storage System、IBM Storwize ファミリー ** [[フラッシュメモリ|半導体ディスク装置]]のIBM FlashSystem、IBM DS8880F、IBM Storwize F ** [[磁気テープ#コンピュータ用|磁気テープ]]装置のIBM TSシリーズ(エンタープライズ・テープ:[[IBM 3592]]および[[Linear Tape-Open|LTO]]) === 過去の事業 === * [[サービス・ビューロー]]社 * [[プリンター]]事業 - [[1991年]]に[[レックスマーク]]として分社化。 * [[ハードディスクドライブ]](HDD)事業 - [[2003年]]に[[日立製作所]]に売却。 * [[パーソナルコンピュータ]](PC)事業 - [[2005年]]に[[レノボ|联想集团(レノボ)]]に売却。 * [[x86]]系プロセッサ搭載の[[System x]]サーバー事業 - [[2014年]]に[[レノボ|联想集团(レノボ)]]に売却。 * [[半導体]]製造事業 - 2014年に[[グローバルファウンドリーズ]](GF)に15億ドルの現金とともに譲渡。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM2001N_Q4A021C1FFB000/ IBM、半導体製造を譲渡 15億ドル支払う条件で](日本経済新聞)</ref> * マネージド・インフラストラクチャー・サービス部門 - 2021年にキンドリルとして分社化。 == 歴史 == === 創業 === [[ファイル:Thomas J Watson Sr.jpg|thumb|upright|1914年 - 1956年にIBMを率いた[[トーマス・J・ワトソン|トーマス・J・ワトソン・シニア]]]] IBMの歴史は電子計算機の開発の数十年前に始まる。電子計算機の前には、[[パンチカード]]によるデータ処理機器を開発していた。[[1911年]][[6月16日]]、[[ニューヨーク州]][[エンディコット (ニューヨーク州)|エンディコット]]に[[C-T-R|コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー]]('''C-T-R''' : '''C'''omputing-'''T'''abulating-'''R'''ecording Company)として設立された。 [[ファイル:CTR Company Logo.png|サムネイル|150x150ピクセル|C-T-R社のロゴ]] C-T-Rは3つの別個の企業の[[合併 (企業)|合併]]を通じて成形された。タビュレーティング・マシーン・カンパニー([[1896年]]設立)、インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー・オブ・ニューヨーク([[1900年]]設立)、コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ([[1901年]]設立)の3社である。タビュレーティング・マシーン・カンパニーの当時の社長は創業者の[[ハーマン・ホレリス]]であった。この合併の鍵を握っている人物は資産家の[[チャールズ・フリント]]であり、彼は3社の創業者を集めて合併を提案し、[[1930年]]に引退するまでC-T-Rの取締役であった<ref>{{cite web| url=https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/builders/builders_flint.html| title=IBM Archives: Charles R. Flint|accessdate=2008年2月25日}}</ref>。 IBMでは[[1911年]]を創立の年としている<ref>[https://www.ibm.com/jp/ibm/corpo.html IBMコーポレーション概要]</ref>。[[1917年]]、C-T-Rは[[カナダ]]市場に参入する際にInternational Business Machine Co., Limitedの社名を使用し、[[1924年]][[2月14日]]に本体の社名を現在と同じInternational Business Machines Corporationに変更した。 [[トーマス・J・ワトソン|トーマス・J・ワトソン・シニア]]はIBMの創立者と記述されることが多いが、1911年時点の社長は、ジョージ・W・フェアチャイルドである<ref>[https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/chairmen/chairmen_2.html George W. Fairchild]</ref>。[[トーマス・J・ワトソン|トーマス・J・ワトソン・シニア]]は、1914年に[[NCR (企業)|NCR]]からC-T-Rの事業部長(ゼネラルマネージャー)として迎えられ、[[1915年]]に社長となった。彼は、C-T-RがInternational Business Machines Corporationに社名変更した1924年の時点も社長の任にあった。 C-T-Rの元となった3社は様々な製品を製造していた。[[タイムレコーダー|従業員勤務時間記録システム]]、[[計量器]]、自動食肉薄切り機、そしてコンピュータの開発にとって重要な[[パンチカードシステム|パンチカード関連機器]]などである。時とともにC-T-Rはパンチカード関連事業を中心とするようになり、他の事業は徐々にやめていった。 [[1933年]][[6月20日]]に[[エレクトロマチック・タイプライターズ・カンパニー]]を買収して、[[タイプライター#電動式|タイプライター]]事業にも乗り出した<ref>"Business Machine Deal", The New York Times, Vol.82, No.27572 (1933年6月21日), p.23, l.3.</ref>。 === 第二次世界大戦 === {| class="toccolours" style="float:right; margin-left:1em; font-size:90%; line-height:1.4em; width:220px;" ! colspan="2" style="text-align: center;" | '''IBMロゴの歴史'''<ref>[https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/logo/logo_5.html IBM Logo - IBM Archives - IBM]</ref> |- | '''ロゴ'''|| '''年''' |- | colspan="2" |<hr> |- | <center>[[Image:Original IBM Logo.png|70px]]</center> || 1924–1946 |- | <center>[[Image:Older IBM Logo 2.png|100px]]</center> || 1947–1956 |- | <center>[[Image:Old IBM Logo.png|100px]]</center>|| 1956–1972 |- | <center>[[Image:IBM logo.svg|85px]]</center> || 1972–現在 |} [[第二次世界大戦]]期間中、IBMは[[ブローニング自動小銃M1918|ブローニング自動小銃BAR]]と[[U.S.M1カービン|M1カービン銃]]を製造した。同盟各国の軍ではIBMの[[タビュレーティングマシン]]は会計処理や[[兵站]]業務などの戦争関連の目的で広く使われた。[[ロスアラモス国立研究所|ロスアラモス]]で行われた世界初の[[核兵器]]開発計画である[[マンハッタン計画]]ではIBMのパンチカード機器が広く計算に使用された。このことは[[リチャード・P・ファインマン]]の著書『[[ご冗談でしょう、ファインマンさん]]』に記された。同じく戦時中、アメリカ初の大規模な自動ディジタル計算機(自動でディジタル式(計算機構としてアナログ的な部分が無い計算機械)ではあるが、リレーだけではなくローターなども含む、電動だが完全に機械式)の[[Harvard Mark I]]の建造も担当した。 大戦前からの流れとして、ホレリス統計機が[[国勢調査]]に用いられるようになってから事業が大幅に伸びたことや、前述のように電気機械式計算機Harvard Mark Iに関与したこともあり、企業や[[政府]]の計算需要に目をつけてはいたが、戦後、コンピュータ事業への進出は、コンピュータ黎明期の他のパイオニア的な企業と比較して必ずしも先進的だったわけではない。 エドウィン・ブラック(IBMがOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人であった)の2001年の著書『IBMとホロコースト』(ISBN 4-7601-2158-7)では、IBMのニューヨーク本社とCEO[[トーマス・J・ワトソン]]が海外子会社を通して[[ナチス・ドイツ]]にパンチカード機器を供給しており、[[ホロコースト]]の実行にそれが使われる可能性を認識していたと主張した。また同書は、ニューヨーク本社の協力のもとでIBM[[ジュネーヴ]]オフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポートしていたと主張した。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べた。[[2003年]]の[[ドキュメンタリー]]''[[ザ・コーポレーション]]''(The Corporation)でもこの問題を追及した。IBMはこれらを証拠に起こされた訴訟で、それを裏付けるだけの当時の資料を保有していないとし、これらを退けた。IBMはまた、著者や原告によって提起された主張を真剣に受け止め、この件に関する適切な学問的評価を期待している、と述べた<ref>{{Cite web | url= https://www.ibm.com/press/us/en/pressrelease/1388.wss| title=IBM Statement on Nazi-era Book and Lawsuit| date=2001-02-14| publisher=IBM|accessdate=2008年2月25日}}</ref>。 === 空軍と航空会社のプロジェクト === [[ファイル:IBM Electronic Data Processing Machine - GPN-2000-001881.jpg|thumb|200 px|[[1957年]]に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]で使用される[[IBM 704]]電子データ処理装置]] 終戦後すぐの[[1946年]]に、エレクトロニクスによる「電子」計算機である[[ENIAC]]が完成し、電子式コンピュータの時代が幕を開けた。ENIACはIBMのパンチカード機器を入出力に使用していた。当初、コンピュータの世界で先行したのは、ENIACの主要開発者2人を雇い入れることに成功した[[UNIVAC]]であった。[[UNIVAC I]]は(当時としては)ベストセラー機となった他、[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙]]を予想するというデモンストレーションにも印象的に{{efn|世間の予想と異なる結果だったことから、報道では当初はその予想を控えめに扱っていたが、結果的に正しい結果を予想していた、といった[[伝説]]がある。}}成功するなどしていた。 IBMは、前述のHarvard Mark Iに技術的に引き続く[[Selective Sequence Electronic Calculator|SSEC]]も建造しているが、電子式でない計算機械はすぐに時代遅れとなる趨勢にあった。 IBMも[[IBM 701]]に始まる[[IBM 700/7000 series]]や[[IBM 650]]といったコンピュータを開発・出荷したが、初期の機種は性能や機能の点でUNIVACに及ばず(IBM 701には当初は磁気テープが無く、650はより下位機種でドラムを主記憶としていたため遅かった)、IBMの成功は[[磁気コアメモリ|コアメモリ]]を採用した[[IBM 704|704]]や、[[IBM 7090|7090]]などトランジスタの世代からであり、[[データ処理]]業界でのその地位を確固なものとしたのは、次の1960年代で述べる[[System/360]]である(たとえば、コンピュータのトランジスタ化についても、7090が[[1959年]]であるのに対し、[[:en:Philco#Transistor research and product development|Philco]]の[[:en:Philco computers|Transac S-2000]]は[[1957年]]と、他社に先行されている)。 [[1950年代]]については、商用コンピュータ以外に特筆すべきことがある。この時代にIBMは[[アメリカ空軍]]の自動化防衛システムのためのコンピュータを開発する契約を結んだ。[[半自動式防空管制組織|SAGE]]対空システムに関わることでIBMは[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]で行われている重要な研究にアクセスできた。それは世界初の[[リアルタイムシステム|リアルタイム]]指向のデジタルコンピュータで、[[ブラウン管|CRT]]表示、[[磁気コアメモリ]]、[[ライトガン]]、最初の実用的代数コンピュータ言語、[[デジタル-アナログ変換回路|デジタル・アナログ変換技術]]、[[モデム|電話回線でのデジタルデータ転送]]などの最新技術が含まれている([[Whirlwind]])。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20 %)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があった。ただし、先端技術へのアクセスは軍の保護下で行われた。また、IBMはプロジェクトのソフトウェア開発を[[ランド研究所]]に取られてしまい、勃興期のソフトウェア産業で支配的な役割を得るチャンスを逃した。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は、「プロジェクトがいつか完了したとき、2000人のプログラマにIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている。IBMはSAGEでの大規模リアルタイムネットワーク構築の経験を生かし、[[SABRE]]航空予約システムを開発し、さらなる成功を収めた。 === 1960年代から1980年代までの成功 === {{関連記事|IBMメインフレーム用オペレーティングシステムの歴史|フロッピーディスクの歴史}} [[ファイル:IBM System 370-145 und Bandlaufwerke 2401.png|thumb|right|200px|[[System/370]]]] [[ファイル:IBM PC 5150.jpg|thumb|right|200px|[[IBM PC]]]] 1960年代中には、IBMは[[バロース]]、[[UNIVAC]]、[[NCR (企業)|NCR]]、[[コントロール・データ・コーポレーション|CDC]]、[[ハネウェル]]、[[RCA]]、[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]の、他のコンピュータ主要7社を圧倒して大きなシェアを有したため、「IBMと7人の小人」と称された。その後1970年代、IBMとバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェルが市場に生き残り、その頭文字から「IBMと[[BUNCH]]」と改称された(英単語bunchには「束」「小さな(粒などの)カタマリ」という意味がある)。その後、これらの企業はバロースとUNIVAC([[スペリー]])の合併で誕生した[[ユニシス]]以外はIBMの独占するメインフレーム市場から事実上撤退した。<!-- 英語版は途中ジョークとも思われる記述があったので、訳さなかった。(訳者) --> 1964年4月に発表され[[メインフレーム]]の世界に君臨した[[System/360]]は、IBM史にとどまらず、コンピュータ史上において重要なコンピュータである。主記憶へのアドレス付けはバイト単位とし、4バイトなど{{efn|近年は8バイト}}を1ワードとすること、科学技術計算用と事務処理用で別の命令セット・別のコンピュータとするのではなく、またハイエンドからローエンドまで命令セットアーキテクチャを共通とした「シリーズ」とし、価格差は実装方法の差とするなど、コンピュータの大きな世代交代(メインフレーム→[[ミニコンピュータ]]→[[マイクロプロセッサ]])を経た今も共通の標準は、System/360で打ち立てられた。System/360は絶対的に成功し、他社を圧倒してメインフレーム市場をほぼ独占した。またそのために、[[アムダール]]や日本の一部{{efn|日本電気のように、互換機にしなかったメーカーもあった。}}メーカーなどは、いわゆる[[互換機]](Plug-Compatible Machine{{efn|皮肉なことに、[[頭字語]]にすると以前のIBMの商売であるPunched Card Machineのそれと同じ「PCM」である。}})による商法へと流れることとなった。System/360のアーキテクチャは何度かの(ちょうど30年後の1994年4月発表の[[IBM S/390|S/390]]など)拡張を受けながらも、基本はそのまま引き継がれ、こんにちの[[System z]]・[[z/Architecture]]に至っている。 一方でこの独占は、政府からも目をつけられる程のものであった。1969年には遂に、司法省により[[反トラスト法|独占禁止法]]違反で提訴されることになる(1969年1月17日)。IBMが汎用電子デジタルコンピュータ市場(特にビジネス向けに設計されたコンピュータ)を独占しようと謀り、[[シャーマン法|シャーマン独占禁止法]]の2条に違反したとの訴えである。具体的には、[[CDC 6600]]対抗機種を発表してCDC側の販売に打撃を与え、結局その対抗機種を発売しなかったという件である。訴訟は1983年まで続き、IBMに多大な影響を与えた<ref>{{Cite web|和書|title=巨大企業を訴えてもどうせ負ける、わけではなかった! {{!}} グーグルを滅ぼしかけた夫婦【最終回】 |url=https://courrier.jp/news/archives/115518/ |website=クーリエ・ジャポン |date=2018-03-29 |access-date=2023-02-04 |language=ja}}</ref>。同じ訴因でCDCからも訴えられ、CDC側に有利な条件で和解している。なお、IBMは以前から度々独占禁止法違反で訴えられてきた企業ではある。古くは1933年、パンチカード機器とパンチカードの抱き合わせ販売で訴えられている。独占禁止法にかかわる司法省の闘争は、IBMとのやりとりが史上最長である。 日本においては、国産コンピュータメーカーを育成するという政府の意図のもと、IBM製コンピュータを導入するには、政府の認可が必要となる時期があった<ref>{{Cite journal|和書|author=名和小太郎 |date=2011 |url=https://doi.org/10.1241/johokanri.54.155 |title=40年前:System/360前後 |journal=情報管理 |ISSN=00217298 |publisher=国立研究開発法人 科学技術振興機構 |volume=54 |issue=3 |pages=155-157 |doi=10.1241/johokanri.54.155 |CRID=1390282680484779648 |access-date=2023-10-13}}</ref>。国産メインフレーム六社政策のもと、IBMメインフレームを模倣した互換機を日本企業が生産していた時期があった。しかし、IBMが圧倒的シェアと投資額で設計・開発しているメインフレームの互換機を作るのは極めて困難であり、1981年に日立製作所や三菱電機など6名による[[IBM産業スパイ事件]]が起こった。IBMはスパイ行為の被害者だが、当時の日本の潮流としてはあたかもIBMが加害者であるかのような誤解が長期間にわたって流布されていた。なお、この事件は日本企業のIBMのUS本社に対してのスパイ行為であり、[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]は関与していない。 1969年、30年続いてきたIBMと[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している<ref>{{Cite web|和書|title=IBM100 - アポロ計画 |url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/apollo/ |website=www-03.ibm.com |date=2012-03-01 |access-date=2023-02-04 |language=ja-JP}}</ref>。 1970年代に、当初はIBMの住む世界とは遠く離れた(System/360は32ビット(アドレスは24ビット)マシンであり、似たようなスペックの[[MC68000|68000]]が登場したのは1980年である)[[電卓]]用などのちっぽけな4ビットプロセッサ{{efn|[[Intel 4004|4004]]に集積されているのは約2300個のトランジスタである}}から始まった[[マイクロコンピュータ]]は、しかし、革命という言葉すら使われるほどの([[:en:Microcomputer revolution]])変革となり、1970年代の末には[[Apple II]]に代表される[[:en:Home computer]]が一般への広い普及のきざしを見せ、1979年に[[VisiCalc]]が登場するに至ってビジネスの世界へも進出が始まった。 IBMはこの乗り遅れを挽回するために、1981年に[[パーソナルコンピュータ]]「[[IBM PC]]」をリリースする。同機はIBMエントリーシステム部門に雇われた[[フィリップ・ドナルド・エストリッジ|フィリップ・ドン・エストリッジ]]と "chess" と呼ばれるチームにより、「IBMとしては異例ずくめ」「突貫工事」で開発されたもので、1981年8月11日に完成した。標準価格は1,565ドルで決して安くは無いがビジネスに使用可能であり、PCを購入したのも企業だった。IBM PCは[[インテル]]の[[Intel 8088|8088]]を使い、OSは[[IBM PC DOS]]という名前だが中身は[[マイクロソフト]]の[[MS-DOS]]であった。 1983年に「VisiCalcのIBM PC版」と言える[[Lotus 1-2-3]]が登場すると、企業の中間管理職層がその可能性を見出した。IBMの名前に保証され、彼らはPCを購入してビジネススクールで学んだ計算をPCで行うようになった。しかし、そのようにしてPCの成功が広まる一方で、それまでのビジネスである(PCから見れば)大型のコンピュータの、下位に相当する部分がPCに喰われる、というダブルバインドは1990年代には大いに同社を苦しめることとなる。 パーソナルコンピュータ(パソコン)の世界では逆に「先輩」であった[[Apple]]が1984年に発表・発売した[[Macintosh]]は、洗練されたGUIなど多くの点でIBM機に先行するものであった(1995年の[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の際に、Win95 = Mac84 などとも言われたほどであった)。しかし、ビジネスユースから広まったIBM PC(後には互換機)の牙城をMacintoshはなかなか崩せず、2000年代のAppleの起点は1998年の[[iMac]]を待たねばならない。 このように挽回に成功したIBM PCではあったが、他社([[サードパーティー]]供給)による周辺機器にとどまらず、「母屋」であるコンピュータ本体の互換機を作られてしまう事態に至り、IBMのパソコン事業は多くの試行錯誤を繰り返すことになる。1987年発売の[[IBM PS/2|PS/2]]では、[[Micro Channel Architecture|MCA]]という高性能・高機能だがIBMが主導権を抑えたバスを採用したが、普及させることはできなかった。CPUについては、1990年代に自社の[[Power Architecture]]をベースとした[[PowerPC]]により今度はAppleとも手を組み、[[PReP]]・[[CHRP]]、次世代OSの[[Taligent]]、クロスプラットフォーム開発環境[[Kaleida Labs|Kaleida]]というプラットフォームを打ち出すも、いわゆる「ウィンテル」である、他社製[[PC/AT互換機]]と[[MS-DOS]](後には[[Microsoft Windows|Windows]])というコンビを脅かすには至らなかった。OSについては、MS-DOSのようなシングルタスクではない、次世代の本格的なマルチタスクOSとして[[OS/2]]をマイクロソフトと当初は共同開発していたが、マイクロソフトが[[Microsoft Windows NT|「NT」(後のWindows NT)]]を独自路線で開発することを決定して決裂、Windows NTは、旧来のWindowsからの移行パスにこそ苦労した(当初は95の次は、などとも言われていたものの、最終的に2000年の[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows ME]]まで旧Windowsが残った)ものの、既存シェアの強みでOS/2を寄せ付けず、「PC/AT互換機のOS」の座はWindows NTのものとなった。 === 1990年代の業績悪化と回復 === [[1990年]]代には[[ダウンサイジング]]の潮流によりIBMの主力であった[[メインフレーム]]は「時代遅れ、過去の遺物(レガシー)、滅び行く恐竜」と呼ばれ、IBMの業績は急速に悪化した。[[1993年]][[1月19日]]、IBMは1992年度会計での49億7000万ドルの損失を発表した。これは単年度の単一企業による損失額としてはアメリカ史上最悪であったと言われた。なお1991年の赤字は29億ドル、1993年度の赤字は81億ドル、3年間の赤字は累積150億ドルであり、通常の企業では事業再生が極めて困難な数字である。 この損失以来、IBMは事業の主体をハードウェアから、ソフトウェアおよびサービスへと大胆な転換を進めた。また当時は水平分業モデルの[[マイクロソフト]]、[[インテル]]、[[サン・マイクロシステムズ]]、[[オラクル (企業)|オラクル]]などが好調であったため、米国のPC事業部(IBM PC Company)やプリンター事業部など、IBM分社化の動きも進められた。ハードウェアは主力のメインフレームの低価格化を進め、複数のサーバーシリーズのブランド名や機能の共通化が進められた。IBMは伝統的に、日本で日本企業が採用する以前から、各国で[[終身雇用]]を行っていたが、これを方針転換し[[リストラ]]の実施が開始された。後には最終的に、最盛期には全世界で40万人いた社員を22万人まで削減することになる。 1993年、[[ナビスコ社]]から[[ヘッドハンティング|引き抜]]かれた[[ルイス・ガースナー]]が[[最高経営責任者|CEO]]に就任し、不採算部門の売却、世界規模の事業統合、[[官僚制|官僚主義]]の一掃、顧客指向の事業経営を行い、独自システムと独自OSによる顧客の囲い込みをやめ、[[オープンシステム (コンピュータ)|オープンシステム]]を採用した[[システムインテグレーター]]事業へ戦略を大きく転換した。また顧客の要望を聞き、顧客はトータルなサービスを望んでいると考え、IBM分社化の動きを停止した。これによりIBMは[[Linux]]を推進する大手コンピュータ企業の筆頭となった。ルイス・ガースナーの考えとして、IBMを分社化した場合、同規模の競合他社との競争にさらされるが、誰も一から今のIBMのような統合された会社を作ろうとは思わないだろうという願いがあった。IBMは代々、生え抜きの人材がCEOとなる文化であったが、ルイス・ガースナーが初めて外部から招聘されたCEOである。このことからも、当時のIBMがいかに危機的な状況であったかがうかがえる。 [[1995年]]には[[ネットワーク・コンピューティング]]、[[1997年]]には[[e-ビジネス]]を提唱した。 1995年、IBMは[[Lotus Notes]]を持つ[[ロータス (ソフトウェア)|Lotus]]を買収した。以後も運用管理ソフトウェアを持つ[[Tivoli]]、[[データベース]]の[[Informix]]、[[ソフトウェア開発ツール]]を持つ[[ラショナル|Rational]]などを買収し、従来からのIBMソフトウェア([[DB2]]、[[WebSphere]]など)と統合した。この結果、2003年にはソフトウェア事業の5ブランド(Information Management、WebSphere、Lotus、Tivoli、Rational)を形成した。なお、それぞれのイメージカラーは緑・紫・黄・赤・水色である。 1999年、IBMはソフトウェア戦略を全世界で方針転換し、IBMは今後はアプリケーションパッケージは開発せず、[[ミドルウェア]]までに集中し、各業務に強いアプリケーション・[[ベンダー]]とパートナーシップを組んで、ユーザーに[[ソリューション]]を提供することを発表した。 コアと位置づけた事業の買収と投資を進める一方で、[[コモディティ化]]と価格低下が進みIBMの強みを活かせないと判断した非コア事業の売却を行い、「選択と集中」を進めている。1991年には[[タイプライター]]事業、1998年には[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]事業を売却した。ルイス・ガースナーの当時の判断としては、ハードウェアとミドルウェア、サービス事業をIBMの主軸とし、アプリケーションパッケージは開発しないという戦略であった。アプリケーションパッケージが中心となった2020年代においてもIBMのこの変わっておらず、ERPやCRMのようなアプリケーションパッケージを自社で持っていない。 === 2000年代以降 === {| class="infobox" style="width:14em; text-align:center;" ! 年度 !! 成立した特許数 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2008.html 2008年] || 4186 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2007.html 2007年] || 3125 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2006.html 2006年] || 3621 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2005.html 2005年] || 2941 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2004.html 2004年] || 3248 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2003.html 2003年] || 3415 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2002.html 2002年] || 3288 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2001.html 2001年] || 3411 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_2000.html 2000年] || 2886 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1999.html 1999年] || 2756 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1998.html 1998年] || 2658 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1997.html 1997年] || 1724 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1996.html 1996年] || 1867 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1995.html 1995年] || 1383 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1994.html 1994年] || 1298 |- | [https://www.ibm.com/ibm/history/history/year_1993.html 1993年] || 1087 |- | colspan="2" | <small>年度のリンク先はIBMのその年の業績に関する外部ページ</small> |} IBMは[[コンサルティング]]を含むサービス、ソフトウェアなどからなるビジネスソリューションに重心を移しており、ユーザー企業の業務分析、提案から構築、保守までのワンストップ型のサービスの提供を目指している。 2002年7月、IBMは[[プライスウォーターハウスクーパース]](PricewaterhouseCoopers、PwC)のコンサルティング部門を39億ドルで買収し、従来からのコンサルティング部門と統合し、IBM ビジネスコンサルティング サービスとなった。(なお日本市場のみ、当初は別法人の[[IBMビジネスコンサルティングサービス]]が設立されたが、後に日本IBMと合併した。) またコンサルティング以外のサービス事業(IBMグローバルサービス、IGS)では、システム構築(SI)に続き、ユーザー企業の情報システムの戦略的[[アウトソーシング]](SO)、更には財務・人事・顧客サービス・購買など業務自体の[[ビジネスプロセス・リエンジニアリング|リエンジニアリング]]と受託を含めたアウトソーシング(ビジネス・トランスフォーメーション・アウトソーシング、BTO)などを提唱している。 「選択と集中」によるコア事業への集中と、非コア事業の売却も続いている。ソフトウェア事業では、2006年にはコンテンツ管理ソフトウェアを持つ[[:en:FileNet|FileNet]]、2007年には[[ビジネスインテリジェンス|BI]]ツールを持つ[[コグノス|Cognos]]などを買収し、製品に統合した。また非コア事業として、2004年には[[パーソナルコンピュータ]]事業、2006年には企業向け[[プリンター]]事業を、2010年にも、IBMの法人向けアプリケーション・パッケージ・ソフトウェアのビジネスとして唯一存続していた[[PLM]]事業([[CATIA]]、ENOVIA)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2009/10/2703.html PLM販売事業をダッソー・システムズへ統合する意向を発表]</ref> を、それぞれ事業部門ごと(製品、施設、従業員など)会社分割し売却した。また、[[2012年]]にも、[[販売時点情報管理|リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)]]の[[東芝テック|東芝]]への売却が<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2012/04/1701.html 東芝テック、IBMのリテール・ストア・ソリューション事業取得で合意](日本IBM)</ref>、[[2014年]]には、System xサーバー事業の[[レノボ]]への売却が発表された。 IBMは着実に特許件数を増やしており、他社とのクロスライセンス契約時にも重要となる。IBMは1993年から2012年までの20年間連続で米国での特許取得件数で第1位となり、20年間の合計は約67,000件となった<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2013/01/1101.html IBM、20年連続で最多件数の米国特許を取得]</ref>。知的財産権の保護はビジネスとしても重要性を増している。この期間にIBMは特許使用料などで100億ドル以上を得た。2003年、[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]誌の記事でIBMリサーチの Paul Horn は、IBMが[[知的財産権]]のライセンス供与によって毎年10億ドルの利益を得ていると述べた。この特許取得記録1位は2021年まで続き、29年間続いたため、少なくとも29年はこの記録が破られることはないということになる。 2008年にIBMはコーポレート・ビジョンとしてSmarter Planetを提唱し、2009年にはその一部である[[スマートグリッド]]、IoTや[[人工知能]]を活用したSmarter Cities(スマートシティ)の取り組みが世界的に注目された<ref>[https://www.ibm.com/ibm/history/ibm100/jp/ja/icons/smarterplanet/ Smarter Planet - IBM]</ref>。 2009年10月16日、ハードウェア事業の総責任者で次期CEOの有力候補の一人と見なされていた<ref>[https://japan.cnet.com/article/20402769/ インサイダー取引関与で起訴のIBM幹部が退職] (CNET Japan)</ref> 上級副社長のロバート(ボブ)・モファットが、[[サン・マイクロシステムズ]]との買収交渉や仕入れ先の[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ]](AMD)などに関する情報を[[ヘッジファンド]]に漏らしたという[[インサイダー取引]]への関与により、[[連邦捜査局]]に逮捕・起訴され<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0911/04/news033.html AMDのルイズ元CEO、GLOBALFOUNDRIESの会長を辞職-インサイダー取引事件の余波続く](eWEEK)</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20091106-ibm/ 名門IBMを襲ったインサイダー取引事件-なぜ彼は彼女にリークしたのか](マイコミジャーナル)</ref>、モファットはその容疑を認めた<ref>[https://www.nikkei.com/tech/news/article/g=96958A9C9381959CE1E2E2E2E78DE1E2E2E1E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;da=96958A88889DE2E0E2E5EAE5E5E2E3E7E3E0E0E2E2EBE2E2E2E2E2E2 米IBM元幹部、インサイダー事件で有罪認める](日本経済新聞)</ref>。 2010年5月 人事部門のトップであるティム・リンゴが「2017年までに、全世界で40万人いる従業員から30万人を解雇して正社員10万人体制とし、プロジェクト毎に契約社員を雇用する[[クラウドソーシング]]の雇用形態に移行する」と発言した事が報道された。しかし、2021年末時点、後述のキンドリル分社後のIBM従業員数は28.2万人であり、クラウドソーシングに移行したという事実はない<ref>{{Cite web |title=Explore the 2021 IBM Annual Report today |url=https://www.ibm.com/annualreport/index.html |website=2021 IBM Annual Report |date=2021-03-12 |access-date=2023-02-04 |language=en-US |last=IBM}}</ref>。 === キンドリルのスピンオフ === 2020年10月、マネージド・インフラストラクチャー・サービス部門の2021年末までの分社化予定を発表した<ref>[https://jp.newsroom.ibm.com/2020-10-09-IBM-accelerates-hybrid-cloud-growth-strategy-to-turn-market-leading-managed-infrastructure-services-into-an-independent-company IBMがハイブリッドクラウドの成長戦略を加速し、市場をリードするマネージド・インフラストラクチャー・サービス部門を独立した会社に - IBM]</ref>。IBMの顧客向けインフラ・サービス部門はキンドリルとして[[スピンオフ]]が2021年11月3日に完了し<ref>[https://newsroom.ibm.com/2021-11-03-IBM-Completes-the-Separation-of-Kyndryl]</ref>、キンドリル株(KD)は翌4日より[[ニューヨーク証券取引所]]で取引が始まった。 == 略歴 == * [[1911年]][[6月15日]] - 3社の合併によって、 The Computing-Tabulating-Recording Company(C-T-R)設立(同社ではこの年を創立の年としている)。 * [[1914年]] - [[NCR (企業)|NCR]]のセールス部門を統括していたT・J・ワトソン・シニアが社長に就任。 * [[1924年]][[2月14日]] - International Business Machines Corporation(IBM)に改称。 * [[1974年]] - [[東京証券取引所]]外国株市場に上場(コード: 6680) * [[1991年]][[3月27日]] - [[タイプライター]]事業部門を[[レックスマーク|レックスマーク・インターナショナル・インコーポレイテッド]](Lexmark International, Inc.)として[[スピンオフ]]。 * [[1998年]]12月 - IBMグローバルネットワーク(IGN)部門を[[AT&T]]に売却。AT&Tグローバル・サービスを設立。 * [[2002年]] ** [[10月1日]] - 米 PricewaterhouseCoopersよりコンサルティング部門を買収。本格的なサービス事業の強化を図る。 ** [[12月31日]] - [[ハードディスクドライブ]]事業部門を[[日本]]の株式会社[[日立製作所]]に売却。 * [[2003年]][[1月1日]] - 同事業部門及び日立のHDD部門を統合した[[日立グローバルストレージテクノロジーズ]]が発足。 * [[2004年]][[12月8日]] - [[パーソナルコンピュータ]]事業部門(Personal Computing Division)を[[中華人民共和国|中国]]の[[レノボ|聯想集団有限公司]](Lenovo Group Limited、レノボ)に売却すると発表。 : 売却価格は6億ドルで、2005年3月に対米外国投資委員会が承認したことで2005年5月に取引が成立した。IBMはLenovoに19%出資し、Lenovoはニューヨーク州に本部を移転して経営陣にIBMの役員も迎えた。Lenovoは5年間、IBMの商標を使用する権利を有する。結果としてIBMの最も成功した製品のひとつである[[ThinkPad]]シリーズを引き継ぐこととなった。その後Lenovoの業績が買収前と比べて良くなってきたため[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]を前にIBMの商標使用を廃止した。 * [[2005年]][[2月7日]] - 東京証券取引所の外国株市場廃止に伴い、同取引所第一部に指定。同年[[5月6日]]、上場維持費用などを考慮して自主的に上場廃止。廃止となっても株式保有者は米国本社の株主であり、株主としての扱いは何ら変わらないが売買時に米国株を取り扱っていない証券会社では売買できないようになった * [[2006年]][[1月25日]] - 周辺機器部門のひとつである法人向け[[プリンター]]事業を[[日本]]の株式会社[[リコー]]に売却することを発表。3年を掛けてプリンター事業から撤退。 * [[2009年]]4月 - [[SaaS]]タイプの[[クラウドコンピューティング]]である[[LotusLive]]をサービス開始。 * [[2010年]]4月 - ソフトウェア事業部の[[PLM]]事業部門(Product Lifecycle Management Solutions)を[[フランス]]の[[ダッソー・システムズ]](Dassault Systèmes S.A.)に約6億ドルで売却。 * [[2012年]]8月 - [[販売時点情報管理|リテール・ストア・ソリューション事業(POS事業)]]を[[東芝テック]]に売却<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2012/04/1701.html 東芝テック、IBMのリテール・ストア・ソリューション事業取得で合意 日本IBM] - 2012年4月20日閲覧</ref><ref>[https://www.toshibatec.co.jp/file/pre120801_1j.pdf IBM リテール・ストア・ソリューション事業の第一回取得手続の完了ならびに東芝グローバルコマースソリューション社の設立について]</ref>。 * [[2013年]]9月 - カスタマーケア・アウトソーシング([[コールセンター]]請負)事業をSynnexに売却<ref>[https://www.reuters.com/article/idUSBRE9891EC20130910 IBM to sell its customer care business to Synnex]</ref>。 * [[2014年]]7月 - [[Apple]]とモバイル分野での企業導入に関しての提携を発表<ref>[https://www.ibm.com/press/us/en/pressrelease/44370.wss Apple and IBM Forge Global Partnership to Transform Enterprise Mobility]</ref><ref>[https://www.marketwatch.com/story/apple-and-ibm-forge-global-partnership-to-transform-enterprise-mobility-2014-07-15 Apple and IBM Forge Global Partnership to Transform Enterprise Mobility]</ref>。 * [[2014年]]10月 - 独ソフトウェア企業[[SAP (企業)|SAP]]と同社の[[インメモリデータベース|インメモリーデータ処理プラットフォーム]]「[[SAP HANA]]」の活用やクラウドサービスでの提携を発表。<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35055192/ HANA Enterprise CloudをSoftLayerから利用--SAPとIBMがパートナーシップ] </ref> * [[2015年]]4月30日 - [[日本郵政]]グループ、Appleと共同でiPadと専用アプリケーションを400万〜500万人の日本の高齢者へ提供すると発表<ref>[https://www.ibm.com/press/us/en/pressrelease/46740.wss Japan Post Group, IBM and Apple Deliver iPads and Custom Apps to Connect Elderly in Japan to Services, Family and Community]</ref><ref>[https://www.apple.com/jp/pr/library/2015/04/30Japan-Post-Group-IBM-and-Apple-Deliver-iPads-and-Custom-Apps-to-Connect-Elderly-in-Japan-to-Services-Family-and-Community.html 日本郵政グループ、IBM、Apple、日本の高齢者がサービスを通じて家族・地域コミュニティーとつながるために、iPadと専用アプリケーションを提供]</ref> 。 * 2015年8月5日 -自社へ最大20万台の[[Macintosh]]を導入し、企業へのMacintosh導入支援をすると発表<ref>[https://www.ibm.com/press/us/en/pressrelease/47386.wss Mac At Work: IBM Launches Services to Deploy Macs at Scale to the Enterprise via Cloud]</ref><ref>[https://jp.wsj.com/articles/SB10685294686418064255204581153350172073740 IBM、企業のマック導入支援-アップルと提携]</ref><ref>[https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/column/infostand/715849.html IBMが企業向けMac導入サービス開始 社内でもMac実装進める]</ref>。 * 2016年4月 - 独[[SAP (企業)|SAP]]との提携拡大を発表。SAPの第四世代ERP「[[SAP S/4HANA]]」やクラウドサービス「SAP HANA Cloud Platform(HCP)」とIBMのクラウドやコグニティブ関連のテクノロジを統合し、企業のデジタルビジネス化を推進する。<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35080780/ IBMとSAP、新たな提携を発表--HANAとクラウド、認知コンピューティングなど連携] </ref> * 2018年10月 - Linuxデュストリビューター大手の米[[レッドハット]]を買収すると発表した。買収総額は約340億[[USドル]]([[日本円]]にして約3兆8000億円)で、取引は2019年下半期に完了の見込み<ref>{{Cite news|title=IBM、レッドハット買収で合意--340億ドル|newspaper=CNET Japan|date=2018-10-29|url=https://japan.cnet.com/article/35127693/|accessdate=2019-2-17}}</ref><ref>{{Cite news|title=IBM、レッド・ハット買収で合意-3.7兆円と過去最大規模|newspaper=ブルームバーグ|date=2018-10-29|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-10-28/PHBMKX6JTSEA01|accessdate=2018-10-29}}</ref><ref>{{Cite news|title=IBMがLinuxのRed Hatを340億ドルで買収へ ハイブリッドクラウド強化|newspaper=ITmedia|date=2018-10-29|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/spv/1810/29/news050.html|accessdate=2018-10-29}}</ref>。 * 2018年12月 - 半導体事業に関し、[[サムスングループ|サムスン]]と7nmでの半導体製造委託を含めた15年間の戦略的提携の拡大を発表<ref>{{Cite web|title=IBM Expands Strategic Partnership with Samsung to Include 7nm Chip Manufacturing|url=https://newsroom.ibm.com/2018-12-20-IBM-Expands-Strategic-Partnership-with-Samsung-to-Include-7nm-Chip-Manufacturing|website=IBM News Room|accessdate=2019-09-01|language=en-us}}</ref>。 * 2019年1月 - 世界初の量子回路ベースの商用[[量子コンピュータ]] [[IBM Q System One]]を発売した<ref>{{cite news |title=IBM Unveils Q System One Quantum Computer |url=https://www.extremetech.com/extreme/283427-quantum-computing-goes-commercial-with-ibms-q-system-one |work=ExtremeTech |date=10 January 2019}}</ref>。利用者はクラウドサービスとして、このコンピュータを使用することができる。 === 主な企業買収 === {{main|IBMによる合併買収一覧}} * 1933年 [[エレクトロマチック]] (電動[[タイプライター]]メーカー、[[:en:IBM Electromatic typewriter|IBMエレクトリック]]の基本特許は[[エレクトロマチック]]によるものだった、1991年に[[レックスマーク]]として分社化) * 1985年 [[:en:ROLM|ロルム]] ([[構内交換機|PBX]]メーカー、IBMによる初の大型買収でデータ通信と音声通信の統合を目指したが、1993年に[[シーメンス]]に売却) * 1995年 [[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]] (グループウェア、IBMによる初のソフトウェア事業の大型買収、現在のIBMソフトウェア部門のLotusブランド) * 1996年 [[Tivoli]](運用管理ソフトウェア、現在のIBMソフトウェア部門のTivoliブランド) * 1999年 [[シークエント・コンピュータ|シークエント]](並列処理の[[NUMA]]テクノロジー、現在のSystem xなどに統合) * 2001年 [[Informix]]([[データベース]]、現在のIBMソフトウェア部門のInformation Managementブランドの一部) * 2002年 [[PWCコンサルティング|PwCコンサルティング]](コンサルティング、現在の[[IBMビジネスコンサルティングサービス]]) * 2003年 [[ラショナル]]([[ソフトウェア開発ツール]]、現在のIBMソフトウェア部門のRationalブランド) * 2004年 キャンドル(主に[[メインフレーム]]の運用管理ソフトウェア、現在のIBMソフトウェア部門のTivoliブランドの一部)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2004/04021.html IBM、キャンドルの買収で合意]</ref> * 2005年 Ascentual(データ統合ソフトウェア、現在のIBMソフトウェア部門のInfoSphereブランドの一部)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/20050315004.html IBM、Ascential Software を買収]</ref> * 2006年 [[:en:IBM Internet Security Systems|インターネット セキュリティ システムズ]](セキュリティソリューション、現在のIBMサービス部門などに統合)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/20060824001.html IBM インターネット セキュリティ システムズを買収]</ref> * 2006年 [[:en:FileNet|FileNet]](ビジネスプロセス管理・コンテンツ管理、現在のIBMソフトウェア部門のInformation Managementブランドの一部)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/20060815001.html IBMがFileNetを買収]</ref> * 2007年 [[コグノス|Cognos]]([[ビジネスインテリジェンス|BI]]ツール、現在のIBMソフトウェア部門のInformation Managementブランドの一部)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/20071115001.html IBMがコグノスを買収し「インフォメーション・オンデマンド(IOD)」戦略を強化]</ref> * 2008年 [[:en:Telelogic|Telelogic]](ELM分野のソフトウェア開発、現在のソフトウェア部門などに統合)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/20070612001.html IBMがTelelogic社を買収]</ref> * 2008年 [[:en:ILOG|ILOG]](BPMマネジメント、現在のIBMソフトウェア部門などに統合)<ref>[https://www.ibm.com/jp/press/2009/01/0801.html IBM、ILOG社の買収を完了]</ref> * 2009年 [[SPSS]](同名の統計解析ツール、[[ビジネスインテリジェンス|BI]]ツール)<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0907/29/news014.html IBM、予測分析のSPSSを12億ドルで買収]</ref> * 2013年 [[SoftLayer]]([[クラウドコンピューティング]]基盤サービス) * 2015年 [[:en:Strongloop|StrongLoop]]([[Node.js]]の大手プロバイダー) * 2015年 [[:en:AlchemyAPI|AlchemyAPI]]([[ディープラーニング|ディープ・ラーニング]](深層学習)の大手プロバイダー) * 2016年 [[Ustream]]([[動画共有サービス]]) * 2016年 Bluewolf([[セールスフォース・ドットコム|Salesforce]]クラウド・コンサルティングの最大手パートナー) なお2009年3月18日にはIBMが[[サン・マイクロシステムズ]]の買収を交渉中と報道されたが、最終的にはオラクルが買収することとなった<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090318/326861/?ST=kessan IBMがサンと買収交渉、米紙が報道]</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090319/326931/ IBMがサン買収か、IT市場はどう変わる?]</ref>。 詳細は「[[IBMによる合併買収一覧]]」に記載 == 海外IBMの管理 == IBMの海外オペレーションは事業が大発展した1970~80年代には、[[ヨーロッパ]]・[[中東]]・[[アフリカ]]地域を統括するIBM Europe/Middle East/Africa会社(本部:[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]、略称:E/ME/A=エメア)、[[南北アメリカ]]・[[アジア太平洋]]地域を統括するIBM Americas/Far East会社(本部:[[ニューヨーク州]][[マウントプレザント (ニューヨーク州)|マウントプレサント]]、略称:A/FE=アフェ)を設置して<ref>[https://www.nytimes.com/1974/04/03/archives/ibm-realings-strucutre-of-subsidiaries-overseas-ibm-realigning.html I.B.M. Realigns Structure Of Subsidiaries Overseas (New York Times, 1974]</ref>、後者の下ではさらに[[日本]]・[[韓国]]・[[台湾]]・[[オーストラリア]]などを統括するIBM Asia Pacific会社(本部:東京、後に香港、略称:AP)があって、生産・販売・地域性による開発はなるべく各地域内で行なうような政策を敷いた。しかし1990年代以降は、[[日本IBM]]・[[英国IBM]]・[[ドイツIBM]]のように事業が大きな国のIBMは本社へ直接報告するように戻り、新しいAP(本部:シンガポール)はオーストラリア・韓国・インドネシアなどの諸国を統括する組織になって<ref>[https://avpn.asia/organisation/__trashed-2/ IBM Asia Pacific]</ref>、世界全体ではもう少し小さな地域性を生かしてお互いに協力する体制へ代った。 === 日本IBM === {{Main|日本IBM}} IBMの日本法人は[[日本アイ・ビー・エム|日本アイ・ビー・エム(日本IBM)株式会社]]で、米 IBM 社の孫会社にあたる。また、日本IBMの下には更に複数の子会社と関連会社が存在している。2002年以降はコンサルティング会社の[[IBMビジネスコンサルティングサービス]](IBCS)が並存していたが、2010年4月に日本IBMに[[経営統合|統合]]された<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20100225/345085/ 日本IBMとIBCSが4月に統合 ]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[System/360]] * [[トイレの使用を予約するシステム及び方法の特許]] * [[IBM産業スパイ事件]] * [[ディープ・ブルー (コンピュータ)]] * [[Blue Gene]] * [[World Community Grid]] * [[Future Systems プロジェクト]] * [[HAL 9000]] * [[江崎玲於奈]] * [[クリアストリーム]] * [[三井信雄]] * [[ブロックチェーン]] * [[レノボ]] * 世界のIBM施設:[[:en::Category:IBM facilities]]英語で&[[:Category:IBMの施設]]日本語で == 外部リンク == {{Commons&cat|International Business Machines}} {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} * [https://www.ibm.com/jp-ja/ 日本IBM][https://web.archive.org/web/20001219102800/http://www.ibm.co.jp/]{{ja icon}} * [https://www.ibm.com/jp-ja/products IBM 製品] * [https://www.ibm.com/jp-ja/products/software IBM ソフトウェア] * [https://www.ibm.com/jp-ja/products/trials IBM 無料評価版] * [https://www.ibm.com/jp-ja/it-infrastructure IBM ITインフラストラクチャー(サーバー、ストレージ)] * [https://www.ibm.com/ IBM]{{en icon}} {{Finance links | name = IBM | symbol = IBM | google = IBM | yahoo_jp = IBM | bloomberg_jp = IBM:US | reuters_jp = IBM | sec_cik = 51143 }} * [https://www.ibm.com/ibm/history/interactive/ibm_history.pdf a history of progress 1890s to 2001] # IBM社による社史。 {{IBM}} {{DJIA}} {{S&P 100}} {{MATvp}} {{Authority control}} {{pri|IBM (代表的なトピック)}} {{DEFAULTSORT:あいひいえむ}} [[Category:IBM|*]] [[Category:アメリカ合衆国のコンピュータ企業]] [[Category:アメリカ合衆国の電気機器メーカー]] [[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:アメリカ合衆国の半導体企業]] [[Category:アメリカ国家技術賞受賞者]] [[Category:アメリカ合衆国の多国籍企業]] [[Category:NYSE上場企業]] [[Category:ニューヨーク州の企業]] [[Category:ウェストチェスター郡 (ニューヨーク州)]] [[Category:1911年設立の企業]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM
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1970年代
1970年代(せんきゅうひゃくななじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1970年から1979年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1970年代について記載する。
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{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1970年代の日本}} {{出典の明記|date=2019年3月21日 (木) 12:25 (UTC)}} {{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1970 | 年 = 1970 }} <imagemap>File:1970s decade montage.png|420px|thumb|'''上段''': (左)1974年に起きた[[ウォーターゲート事件]]によって[[アメリカ合衆国大統領]]を辞任し、ホワイトハウスを去る際に[[Vサイン#ベトナム戦争、勝利と平和|勝利のV]]を掲げる[[リチャード・ニクソン]]。(右)1975年の[[サイゴン陥落]]によって[[ベトナム戦争]]が終結した後に米国海軍の航空母艦に乗る避難民。<br />'''中段''': (左)1979年の[[イラン革命]]では、[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]の亡命後[[ルーホッラー・ホメイニー]]により[[イスラム共和制|イスラム共和制政体]]が成立された。(中央)1970年代の中盤から遅くにかけて、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]の人気がピークに達した。(右)[[オイルショック|第一次オイルショック]]は交通の停滞を巻き起こし、世界経済に損害を与えた。<br /> '''下段''': (左)1970年11月の[[1970年のボーラ・サイクロン]]では、東パキスタン(1971年に[[バングラデシュ]]として独立)の[[ベンガル地方|ベンガル・デルタ地帯]]で約50万人の人命が失われた。(右)1978年の[[キャンプ・デービッド合意]]へのサインの後に握手を交わす[[イスラエル]]と[[エジプト]]の首脳。 rect 301 4 592 200 [[サイゴン陥落]] rect 2 2 297 200 [[ウォーターゲート事件]] rect 390 202 611 424 [[オイルショック]] rect 192 203 386 423 [[ディスコ (音楽)]] rect 0 203 184 424 [[イラン革命]] rect 309 426 600 621 [[キャンプ・デービッド合意]] rect 0 427 305 621 [[1970年のボーラ・サイクロン]] </imagemap> {{読み仮名_ruby不使用|'''1970年代'''|せんきゅうひゃくななじゅうねんだい}}は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1970年から1979年までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた1970年代について記載する。 == できごと == === 1970年 === {{main|1970年}} * [[三島由紀夫]]自死([[三島事件]])。 * [[日本万国博覧会]](大阪万博)が開催。 * [[1970 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・メキシコ大会]]開催。[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が[[サッカーイタリア代表|イタリア]]を下し優勝。 * [[天六ガス爆発事故]] * [[ビートルズの解散問題|ビートルズが解散]]。 * ICSD[[クリアストリーム]]が[[ルクセンブルク]]で設立される。 === 1971年 === {{main|1971年}} * [[ドルショック]]が起こる。 * [[中華人民共和国]]が[[国際連合加盟国|国連加盟]]、[[中華民国]]([[台湾]])は事実上の追放。([[アルバニア決議]]) === 1972年 === {{main|1972年}} * [[イスラエル]]の[[テルアビブ空港]]で[[テルアビブ空港乱射事件|日本赤軍乱射事件]]。 * [[日中共同声明]] * [[ウォーターゲート事件]] * [[ミュンヘンオリンピック]] === 1973年 === {{main|1973年}} * '''[[オイルショック]]''' * [[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ニューヨーク・ワールドトレードセンタービル]](現:[[1 ワールドトレードセンター]])グランドオープン。 * [[日本赤軍]]による[[ドバイ日航機ハイジャック事件]]発生。 * [[ブルース・リー]]主演の[[映画]]『[[燃えよドラゴン]]』が公開され、大旋風が起こるもブルース・リー死去。 * [[金大中事件]]発生。 * [[第四次中東戦争]]勃発。 === 1974年 === {{main|1974年}} * [[ヴィリー・ブラント|ブラント]][[ドイツの首相|西ドイツ首相]]の秘書[[ギュンター・ギヨーム]]が[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]][[情報機関]]の[[スパイ]]として逮捕([[シュタージ#対西ドイツ工作の成果|ギヨーム事件]])。 * [[カーネーション革命]]、ポルトガルの独裁体制が崩壊。 * [[ギリシャ軍事政権|ギリシャの軍事政権]]が亡命していた[[コンスタンディノス・カラマンリス|カラマンリス]]が帰国して新政権を樹立し終焉。 * ウォーターゲート事件で[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]米大統領が辞職。 * [[中華人民共和国]][[秦]]王朝「[[始皇帝]]」の墓の一部とされる[[兵馬俑]]が発掘される。 * [[日本赤軍]]が[[オランダ]]・[[デン・ハーグ|ハーグ]]にある[[フランス]][[大使館]]を占拠([[ハーグ事件]])。 * [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]作の[[絵画]]『[[モナ・リザ]]』が[[上野]][[国立西洋美術館]]で期間展示される。 * [[1974 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・西ドイツ大会]]開催。地元[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]が[[サッカーオランダ代表|オランダ]]を下し優勝。 * サッカーの[[ペレ]]が引退。 === 1975年 === {{main|1975年}} * [[ホーチミン市|サイゴン]](当時)陥落、[[ベトナム戦争]]が終結。 * [[イギリス]]女王[[エリザベス2世]]が来日する。 * [[蔣介石]][[中華民国]][[総統]]が死去。 * [[沖縄国際海洋博覧会]]開幕。 * [[日本赤軍]]がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠([[クアラルンプール事件]])。 * 第1回[[主要国首脳会議|サミット]]が[[フランス]]で開催。 * [[スペイン]]の[[総統]]である[[フランシスコ・フランコ]]が死去。 === 1976年 === {{main|1976年}} * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]で、[[ロッキード事件]]が発覚する。 * [[ソウェト蜂起]] * [[中華人民共和国]]の総理[[周恩来]]が死去。 * [[中国共産党]]の主席[[毛沢東]]が死去。 * [[中華人民共和国]]で[[唐山地震]]。24万人以上の犠牲(20世紀最大被害の地震)。 * [[ベレンコ中尉亡命事件]] * [[モントリオールオリンピック]] === 1977年 === {{main|1977年}} *[[Apple II]]を発表。 * [[ジミー・カーター]]、[[アメリカ合衆国]]39代[[大統領]]に就任。 * [[日米漁業協定]]調印。200[[海里]][[排他的経済水域|経済水域]]規定に基づく初の漁業協定。 * スペイン領[[カナリア諸島]]で[[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故|テネリフェの悲劇]]。死者583人を出す史上最悪の航空事故となった。 * [[ロンドン]]で第3回[[主要国首脳会議|サミット]]開催。 * [[1977年ニューヨーク大停電]] - [[ニューヨーク]]で[[落雷]]が原因の[[停電]]が起こり、復旧までの3日間に900万人が影響を受けた。 * [[ダッカ日航機ハイジャック事件]] === 1978年 === {{main|1978年}} * [[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン]]で[[四月革命 (アフガニスタン)|四月革命]]発生。事実上の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]の始まり。 * 世紀の[[作曲家]][[アラム・ハチャトゥリアン]]が死去。 * [[1978 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会]]開催。地元[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]が[[サッカーオランダ代表|オランダ]]を下し優勝。 * [[日中平和友好条約]]調印。 * [[日本]]をはじめアジア各国において、[[中波]]放送の周波数間隔を'''10キロ[[サイクル (単位)|サイクル]]''' (kc) から'''9[[キロヘルツ]]''' (kHz) 間隔に変更。 === 1979年 === {{main|1979年}} * '''[[オイルショック|第二次オイルショック]]'''が起こる。 * [[アメリカ合衆国]]と[[中華人民共和国]]が国交樹立。 * [[スリーマイル島原子力発電所事故]] * [[イギリス]]で[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]が国内初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]となる。 * '''[[イラン革命]]''' * [[イラク]]、[[バアス党]]の[[サッダーム・フセイン]]がイラク大統領に就任。 * [[エジプト]]と[[イスラエル]]が[[エジプト・イスラエル平和条約]]に調印。 * [[イランアメリカ大使館人質事件]] * [[主要国首脳会議|東京サミット]] * [[大韓民国|韓国]]の[[大統領]]である[[朴正煕]]が暗殺される。 * [[ソビエト連邦|旧ソ連]]が'''[[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻|アフガニスタンに侵攻]]'''。 * [[マザー・テレサ]]が[[ノーベル平和賞]]を受賞する。 == 世相 == === 社会 === * 欧米を中心に、[[スタグフレーション]]が起こる。 * 1970年代後半から、[[新保守主義]]の台頭が始まる。 * [[文化大革命]]が終焉。[[鄧小平]]の指導体制の下で、1978年から[[改革開放]]政策が始まる。 * 韓国で[[漢江の奇跡]](韓国の[[高度経済成長]])。 === 文化 === * 欧米では[[ロック (音楽)|ロック]]がポップミュージックの主流となった。ロックの複雑化・多様化が進み、[[プログレッシブ・ロック]]、[[グラムロック]]、[[ニューロマンティック]]が流行したが、末期にはその反動からシンプルで反逆的な[[パンク・ロック]]が英米を席巻した。 * [[マイクロプロセッサ]]の登場。[[パーソナルコンピュータ]]が現れ、一般の人々がコンピュータを手軽に使えるようになった。 * [[1972年]]に初の[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム機]]「[[オデッセイ (ゲーム機)|オデッセイ]]」がアメリカで発売された。また、[[アーケードゲーム]]『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』を大ヒットさせた[[アタリ (企業)|アタリ社]]もその移植版となる家庭用ゲーム機「[[ホーム・ポン]]」を[[1975年]]にアメリカで発売し、家庭用ゲームが認知されるきっかけとなった(''[[ゲーム機#第1世代|第1世代]]'')。1970年代後半にはアーケードゲーム『[[スペースインベーダー]]』が日本で一大ブームを巻き起こした。 <gallery> File:Magnavox-Odyssey-Console-Set.png|オデッセイ File:TeleGames-Atari-Pong.png|ホーム・ポン </gallery> == 人物 == === アメリカ合衆国と西ヨーロッパ === ==== 政治と軍事 ==== * [[マルセロ・カエターノ]]([[1906年]] - [[1980年]]) * [[ネルソン・ロックフェラー]]([[1908年]] - [[1979年]]) * [[ジョルジュ・ポンピドゥー]]([[1911年]] - [[1974年]]) * [[ジェームズ・キャラハン]]([[1912年]] - [[2005年]]) * [[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]([[1912年]] - [[1978年]]) * [[リチャード・ニクソン]]([[1913年]] - [[1994年]]) * [[ジェラルド・R・フォード|ジェラルド・ルドルフ・フォード]]([[1913年]] - [[2006年]]) * [[ヴィリー・ブラント]]([[1913年]] - [[1992年]]) * [[ハロルド・ウィルソン]]([[1916年]] - [[1995年]]) * [[エドワード・ヒース]]([[1916年]] - [[2005年]]) * [[アルド・モーロ]]([[1916年]] - [[1978年]]) * [[ヘルムート・シュミット]]([[1918年]] - [[2015年]]) * [[ジュリオ・アンドレオッティ]]([[1919年]] - [[2013年]]) * [[ゲオルギオス・パパドプロス]]([[1919年]] - [[1999年]]) * [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]([[1920年]] - [[2005年]]) * [[エンリコ・ベルリンゲル]]([[1922年]] - [[1984年]]) * [[ヘンリー・キッシンジャー]]([[1923年]] - [[2023年]]) * [[ジミー・カーター]]([[1924年]] - ) * [[マーガレット・サッチャー]]([[1925年]] - [[2013年]]) * [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]([[1926年]] - [[2020年]]) * [[ズビグネフ・ブレジンスキー]]([[1928年]] - [[2017年]]) * [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]([[1938年]] - ) ==== 哲学と思想 ==== * [[グレゴリー・ベイトソン]]([[1904年]] - [[1980年]]) * [[エマニュエル・レヴィナス]]([[1906年]] - [[1995年]]) * [[エルンスト・フリードリヒ・シューマッハー]]([[1911年]] - [[1977年]]) * [[ハインツ・コフート]]([[1913年]] - [[1981年]]) * [[ジェームズ・ジョル]]([[1918年]] - [[1994年]]) * [[ポール・ド・マン]]([[1919年]] - [[1983年]]) * [[ジェームズ・M・ブキャナン|ジェームズ・マギル・ブキャナン]]([[1919年]] -[[2013年]]) * [[ジョン・ロールズ]]([[1921年]] - [[2002年]]) * [[ケネス・アロー]]([[1921年]] - [[2017年]]) * [[ルネ・ジラール]]([[1923年]] - [[2015年]]) * [[J・G・A・ポーコック|ジョン・グレヴィル・アガード・ポーコック]]([[1924年]] - ) * [[ポール・ファイヤアーベント]]([[1924年]] - [[1994年]]) * [[ジル・ドゥルーズ]]([[1925年]] - [[1995年]]) * [[ミシェル・ド・セルトー]]([[1925年]] - [[1986年]]) * [[マイケル・ダメット]]([[1925年]] - [[2011年]]) * [[カルロス・カスタネダ]]([[1925年]]/[[1931年]]? - [[1998年]]) * [[ヒラリー・パトナム]]([[1926年]] - [[2016年]]) * [[クリフォード・ギアツ]]([[1926年]] - [[2006年]]) * [[イヴァン・イリイチ]]([[1926年]] - [[2002年]]) * [[ニクラス・ルーマン]]([[1927年]] - [[1998年]]) * [[アルビン・トフラー]]([[1928年]] - [[2016年]]) * [[ヘイドン・ホワイト]]([[1928年]] - [[2018年]]) * [[ジョージ・スタイナー]]([[1929年]] - [[2020年]]) * [[エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ]]([[1929年]] - ) * [[フェリックス・ガタリ]]([[1930年]] - [[1992年]]) * [[ピエール・ブルデュー]]([[1930年]] - [[2002年]]) * [[ミシェル・セール]]([[1930年]] - [[2019年]]) * [[ハロルド・ブルーム]]([[1930年]] ‐ [[2019年]]) * [[イマニュエル・ウォーラーステイン]]([[1930年]] - [[2019年]]) * [[エズラ・ヴォーゲル]]([[1930年]] - [[2020年]]) * [[マーシャル・サーリンズ]]([[1930年]] - [[2021年]]) * [[リチャード・ローティ]]([[1931年]] - [[2007年]]) * [[ポール・ヴィリリオ]]([[1932年]] - [[2018年]]) * [[ジョン・サール]]([[1932年]] - ) * [[スタンレー・ミルグラム]]([[1933年]] - [[1984年]]) * [[エドワード・サイード]]([[1935年]] - [[2003年]]) * [[ピーター・ブラウン (歴史学者)|ピーター・ブラウン]]([[1935年]] - ) * [[トマス・ネーゲル]]([[1937年]] - ) * [[ロバート・ノージック]]([[1938年]] - [[2002年]]) * [[ピエール・マシュレ]]([[1938年]] - ) * [[カルロ・ギンズブルグ]]([[1939年]] - ) * [[ツヴェタン・トドロフ]]([[1939年]] - [[2017年]]) * [[クェンティン・スキナー]]([[1940年]] - ) * [[マッシモ・カッチャーリ]]([[1944年]] - ) * [[ダグラス・ホフスタッター]]([[1945年]] - ) ==== 文学 ==== * [[ソール・ベロー]]([[1915年]] - [[2005年]]) * [[ハインリヒ・ベル]]([[1917年]] - [[1985年]]) * [[プリーモ・レーヴィ]]([[1919年]] - [[1987年]]) * [[チャールズ・ブコウスキー]]([[1920年]] - [[1994年]]) * [[カート・ヴォネガット]]([[1922年]] - [[2007年]]) * [[ミシェル・トゥルニエ]]([[1924年]] - [[2016年]]) * [[ミヒャエル・エンデ]]([[1929年]] - [[1995年]]) * [[ジョン・バース]]([[1930年]] - ) * [[ゲーリー・スナイダー]]([[1930年]] - ) * [[トニ・モリスン]]([[1931年]] - [[2019年]]) * [[レイモンド・ブリッグズ]]([[1934年]] - [[2022年]]) * [[デイヴィッド・ロッジ]]([[1935年]] - ) * [[ジョルジュ・ペレック]]([[1936年]] - [[1982年]]) * [[リチャード・バック]]([[1936年]] - ) * [[トマス・ピンチョン]]([[1937年]] - ) * [[ジョン・アーヴィング]]([[1942年]] - ) * [[エリカ・ジョング]]([[1942年]] - ) * [[スティーヴン・キング]]([[1947年]] - ) * [[ケン・フォレット]]([[1949年]] - ) ==== 芸術 ==== * [[ミノル・ヤマサキ]]([[1912年]] - [[1986年]]) * [[ヘルムート・ニュートン]]([[1920年]] - [[2004年]]) * [[ヨーゼフ・ボイス]]([[1921年]] - [[1986年]]) * [[デュアン・マイケルズ]]([[1932年]] - ) * [[リチャード・ロジャース (建築家)|リチャード・ロジャース]]([[1933年]] - [[2021年]]) * [[クリストとジャンヌ=クロード]] ** クリスト([[1935年]] - [[2020年]]) ** ジャンヌ=クロード([[1935年]] - [[2009年]]) * [[イリナ・イオネスコ]]([[1935年]] - [[2022年]]) * リチャード・エステス([[1936年]] - ) * [[ハンス・ハーケ]]([[1936年]] - ) * [[ヤニス・クネリス]]([[1936年]] - [[2017年]]) * クロード・ヴィアラ([[1936年]] - ) * [[デイヴィッド・ホックニー]]([[1937年]] - ) * [[レンゾ・ピアノ]]([[1937年]] - ) * [[ダニエル・ビュラン]]([[1938年]] - ) * [[リチャード・セラ]]([[1938年]] - ) * [[チャールズ・ジェンクス]]([[1939年]] - [[2019年]]) * ジャン・ピエール・レイノー([[1939年]] - ) * チャック・クロース([[1940年]] - 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[[2020年]]) === サハラ以南のアフリカ === * [[ジャン=ベデル・ボカサ|ジャン・ベデル・ボカサ]]([[1921年]] - [[1996年]]) * [[ナディン・ゴーディマー]]([[1923年]] - [[2014年]]) * [[イディ・アミン]]([[1925年]] - [[2003年]]) * [[アゴスティニョ・ネト]]([[1922年]] - [[1979年]]) * [[ルイス・カブラル]]([[1931年]] - [[2009年]]) * [[サモラ・マシェル]]([[1933年]] - [[1986年]]) * [[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]([[1937年]] - ) === 西アジアと北アフリカ === * [[ゴルダ・メイア]]([[1898年]] - [[1978年]]) * [[ルーホッラー・ホメイニー]]([[1902年]] - [[1989年]]) * [[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]([[1906年]] - [[1975年]]) * [[メナヘム・ベギン]]([[1913年]] - [[1992年]]) * [[アンワル・アッ=サーダート]]([[1918年]] - [[1981年]]) * [[バブラク・カールマル]]([[1929年]] - [[1996年]]) * [[ハーフィズ・アル=アサド]]([[1930年]] - [[2000年]]) * [[ダニ・カラヴァン]]([[1930年]] - [[2021年]]) === 南アジア === * モラルジー・デーサーイー([[1896年]] - [[1995年]]) * [[マザー・テレサ]]([[1910年]] - [[1997年]]) * [[インディラ・ガンディー]]([[1917年]] - [[1984年]]) * [[ムジブル・ラフマン]]([[1920年]] - [[1975年]]) * [[ムハンマド・ジア=ウル=ハク|ムハンマド・ジア・ウル・ハク]]([[1924年]] - [[1988年]]) * [[ズルフィカール・アリー・ブットー]]([[1928年]] - [[1979年]]) * [[バグワン・シュリ・ラジニーシ]]([[1931年]] - [[1990年]]) === 東南アジア === * [[チャン・バン・フォン]]([[1902年]] - [[1982年]]) * [[レ・ズアン]]([[1907年]] - [[1986年]]) * [[ロン・ノル]]([[1913年]] - [[1985年]]) * [[ズオン・バン・ミン]]([[1916年]] - [[2001年]]) * [[ノロドム・シハヌーク]]([[1922年]] - [[2012年]]) * [[グエン・ヴァン・チュー]]([[1923年]] - [[2001年]]) * [[ポル・ポト]]([[1928年]] - [[1998年]]) * [[ヘン・サムリン]]([[1934年]] - ) === 中国 === * [[毛沢東]]([[1893年]] - [[1976年]]) * [[葉剣英]]([[1897年]] - [[1986年]]) * [[周恩来]]([[1898年]] - [[1976年]]) * [[鄧小平]]([[1904年]] - [[1997年]]) * [[林彪]]([[1907年]] - [[1971年]]) * [[李先念]]([[1909年]] - [[1992年]]) * [[四人組 (中国史)|四人組]] ** [[江青]]([[1914年]] - [[1991年]]) ** [[張春橋]]([[1917年]] - [[2005年]]) ** [[姚文元]]([[1932年]] - [[2005年]]) ** [[王洪文]]([[1935年]] - [[1992年]]) * [[汪東興]]([[1916年]] - [[2015年]]) * [[華国鋒]]([[1921年]] - [[2008年]]) === 香港 === * [[ブルース・リー|李小龍]]([[1940年]] - [[1973年]]) === 台湾 === * [[厳家淦]]([[1905年]] - [[1993年]]) * [[蔣経国]]([[1910年]] - [[1988年]]) === 韓国 === * [[朴正煕]]([[1917年]] - [[1979年]]) * [[崔圭夏]]([[1919年]] - [[2006年]]) == フィクションのできごと == * 後半 - [[宇宙人]]「オーバーロード」が地球に来訪。巨大な宇宙船が世界各地の都市上空に飛来し、その6日後にオーバーロードの地球総督カレルレンが全世界に向けて、電波による音声のみの自己紹介を行う。(小説『[[幼年期の終り]]』)<ref group = "注">新版では[[21世紀]]前半の出来事に書き直されている。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 幼年期の終り |publisher = [[早川書房]] |year = 1979 |pages = 12-18,23,28-30 |isbn = 978-4-15-010341-5}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = アーサー・C・クラーク |title = 幼年期の終わり |publisher = [[光文社]] |year = 2007 |pages = 9,20-22,450 |isbn = 978-4-334-75144-9}}</ref> * 末 - [[月]]に初めての恒久的コロニーが建造される。また、[[火星]]に着陸した[[マーズ・ローバー|ロボット車]]が、のちに「放浪石」と呼ばれるようになる生命と[[ソリス湖|太陽の湖]]で接触する。(小説『[[2001年宇宙の旅]]』第一稿)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 失われた宇宙の旅2001 |publisher = 早川書房 |year = 2000 |pages = 11,16-19 |isbn = 978-4-15-011308-7}}</ref> * [[ソビエト連邦|ソヴィエト]]の天体物理学者ゲオルギ・モヤシュカ博士が、地球の周りを巡る地球外知性体の人工衛星から放たれた意図的な超高周波の無線信号を[[電波望遠鏡]]で受信。この「アラムチェック衛星」の写真を撮影すべく[[偵察衛星]]が打ち上げられるが、偵察衛星の自爆によってアラムチェック衛星は失われる。(小説『{{仮リンク|アルベマス|en|Radio Free Albemuth}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フィリップ・K・ディック|authorlink=フィリップ・K・ディック |title = アルベマス |publisher = [[東京創元社]] |year = 1995 |pages = 107,109,293-295,333-341,346,354,362 |isbn = 978-4-488-69613-9}}</ref> * [[プリンストン高等研究所|高等研究所]]のソウル・ラッパポート博士が、[[パロマー天文台|パロマ天文台]]の[[ニュートリノ]]転化装置が記録していた雑音が、[[ポラリス (恒星)|小熊座α星]]の方向から反復して放たれているニュートリノ・レーザーの[[搬送波]]と見られることを発見。これは未知の地球外文明が発信した「メッセージ」だと判断され、全面的な研究と解読を目的とした「マスターズ・ヴォイス計画」(MAVO計画)が、アイヴァー・バロイン教授を科学部門の最高責任者として秘密裏に開始される。(小説『{{仮リンク|天の声 (小説)|label=天の声|en|His Master's Voice (novel)}}』)<ref>[[スタニスワフ・レム]]『天の声』[[サンリオ]]、1982年、6・35・42・62 - 75・86・89・99・130 - 133・206 - 211・329頁。{{NCID|BA58553778}}。</ref> * [[人工知能]]に類する存在によって[[ケンタウルス座アルファ星|ケンタウルス]]系から放たれた通信が8年間に渡り記録されるが、この時点では誰にも気づかれずに終わる。(小説『[[ニューロマンサー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ウィリアム・ギブスン|authorlink=ウィリアム・ギブスン |title = ニューロマンサー |publisher = 早川書房 |year = 1986 |pages = 121,122,435 |isbn = 978-4-15-010672-0}}</ref> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[1970年代の音楽]] * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{Navboxes | title = 1970年代の各国 | list1 = {{各年のアメリカ|1970|unit=2||List=2}} {{各年のヨーロッパ|1970|unit=2||List=2}} {{各年のアフリカ|1970|unit=2||List=2}} {{各年のアジア|1970|unit=2||List=2}} {{各年のオセアニア|1970|unit=2||List=2}} }} {{History-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1970ねんたい}} [[Category:1970年代|*]]
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1960年代
1960年代(せんきゅうひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1960年から1969年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1960年代について記載する。
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{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1960年代の日本}} {{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1960 }} <imagemap>File:1960s montage.png|420px|thumb|right|'''上段''': (左)1960年代に激化した[[ベトナム戦争]]で地面を這う兵士。(右)1960年に結成された[[ビートルズ]]は[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]の一部であり、世界の音楽に変化をもたらした。<br />'''中段''': (左)[[ジョン・F・ケネディ]]アメリカ合衆国大統領は、就任3年後の1963年に[[ケネディ大統領暗殺事件]]によって[[暗殺]]された。(中央)1963年、100万人の群衆に対して行なわれた演説『[[I Have a Dream]]』は、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]を有名にした。(右)数百万人の観客を動員した1969年の[[ウッドストック・フェスティバル]]。<br />'''下段''': (左)1958年から1961年まで行われた、中国の[[毛沢東]]による[[大躍進政策]]。(中央)1969年に起こった[[ストーンウォールの反乱]]は、後に同性愛者らの権利獲得運動の転換点となった。(右)1969年7月の[[月面着陸]]では、人類の歴史上初めて人が月に着陸して月面を歩いた。 rect 0 0 239 167 [[ベトナム戦争]] rect 240 0 498 167 [[ビートルズ]] rect 0 168 195 298 [[ケネディ大統領暗殺事件]] rect 196 168 316 298 [[I Have a Dream]] rect 317 168 498 298 [[ウッドストック・フェスティバル]] rect 0 299 120 489 [[大躍進政策]] rect 121 299 240 489 [[ストーンウォールの反乱]] rect 241 299 498 489 [[月面着陸]] </imagemap> '''1960年代'''(せんきゅうひゃくろくじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1960年から1969年までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた1960年代について記載する。 == できごと == === 1960年 === {{main|1960年}} * '''[[ベトナム戦争]]'''(〜[[1975年]]) * [[アフリカの年]]。18の[[植民地]]から17か国が独立。 * [[T・H・メイマン|メイマン]]が[[ルビー]]による[[レーザー]]発振に成功。 * [[1月19日]] - [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米新安全保障条約]]が結ばれる。 * [[2月13日]] - [[フランス]]が初の[[核実験]]。 * [[ローマオリンピック]]が開催。 * [[フクロオオカミ]](タスマニアタイガー)が絶滅。 === 1961年 === {{main|1961年}} * [[4月12日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ボストーク]]1号人類初の有人宇宙飛行 * [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ベルリン]]中央部に[[ベルリンの壁]]が縦断設置する。 === 1962年 === {{main|1962年}} * [[6月23日]] - [[日米安全保障条約]]改定が発効。 * [[8月6日]] - [[俳優|女優]]の[[マリリン・モンロー]]が死去。 * [[10月16日]]-[[10月28日]] - [[キューバ危機]]。 === 1963年 === {{main|1963年}} * [[11月22日]] - 米[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]][[暗殺]]される([[ケネディ大統領暗殺事件]])。 === 1964年 === {{main|1964年}} * [[マレー・ゲルマン|ゲルマン]]と[[ジョージ・ツヴァイク|ツヴァイク]]が[[クォーク]]モデルを発表。 * [[4月7日]] - 米[[IBM]]社が[[メインフレーム|汎用計算機]][[システム/360|System 360]]を発表。 * [[5月28日]] - [[パレスチナ解放機構]](PLO)が設立。 * [[5月]] - [[アーノ・ペンジアス|ペンジアス]]と[[ロバート・ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]が[[宇宙背景放射]]を発見。 * [[10月1日]] - 世界初の高速鉄道、[[東海道新幹線]]開業。 * [[10月10日]] - [[アジア]]初の[[近代オリンピック]]として、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]が日本で開催される。 * [[10月16日]] - [[中華人民共和国]]が初の[[核実験]]。 === 1965年 === {{main|1965年}} * [[2月21日]] - [[マルコム・X]]が暗殺される。 * [[2月]]-[[1968年]][[10月]] - 米国が[[北ベトナム]]を[[北爆]]。 * [[3月18日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ボスホート]]2号により人類初の[[宇宙遊泳]]。 * [[日韓基本条約]]の調印。 === 1966年 === {{main|1966年}} * [[5月16日]] - [[中華人民共和国]][[文化大革命]]開始。 * [[アメリカ会計学会]]が[[ASOBAT]]を発表。 === 1967年 === {{main|1967年}} * [[6月5日]] - [[第三次中東戦争]]勃発。 * [[7月1日]] - [[欧州諸共同体]](EC)が6か国で成立。 * [[7月6日]] - 女優[[ヴィヴィアン・リー]]が死去。 * [[8月8日]] - [[東南アジア諸国連合]](ASEAN)結成。 === 1968年 === {{main|1968年}} * [[4月4日]] - [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]暗殺。 *[[5月8日]] - [[五月革命 (フランス)]]。 * [[8月20日]] - [[ワルシャワ条約機構]]軍が[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]に侵攻([[プラハの春]]の終焉)。 * [[メキシコオリンピック]]が開催される。 * 12月、ICSD[[ユーロクリア]]がブリュッセルで設立される。 * [[ARPANET]]プロジェクト発足。 === 1969年 === {{main|1969年}} * [[7月20日]] - '''[[アポロ11号]]が人類初の[[月面着陸]]。''' == 世相 == === 社会 === * 中華人民共和国で、[[文化大革命]]。[[毛沢東]]の指導体制の下で大混乱をもたらした。 * ソビエト連邦で[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]が権力を掌握、「雪どけ」が終焉した。 * [[ベトナム戦争]]が泥沼化。若者を中心に、反戦運動が盛んになる。 === 文化 === * [[ビートルズ]]が世界的に、社会現象を巻き起こす。 * [[ローリング・ストーンズ]]、[[ボブ・ディラン]]も大活躍し、世界の若者に大きな影響を与える。 * アメリカやヨーロッパを中心に、[[1960年代のカウンターカルチャー|カウンターカルチャー]]が花開く。 * イギリスで[[モッズ]]、[[ビート・グループ]]、ブルース・ロックが社会現象になる。 * [[ジャマイカ]]で[[スカ]]やロック・ステディが誕生した。 * 米国を中心に[[ヒッピー]]文化が流行となった。 == 人物 == === アメリカ合衆国と西ヨーロッパ === ==== 政治と軍事 ==== * [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]([[1881年]] - [[1963年]]) * [[シャルル・ド・ゴール]]([[1890年]] - [[1970年]]) * [[アレン・ウェルシュ・ダレス]]([[1893年]] - [[1969年]]) * [[ハロルド・マクミラン]]([[1894年]] - [[1986年]]) * [[ルートヴィヒ・エアハルト]]([[1897年]] - [[1977年]]) * [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]([[1897年]] - [[1978年]]) * [[アレック・ダグラス=ヒューム|アレック・ダグラス・ヒューム]]([[1903年]] - [[1995年]]) * [[クルト・ゲオルク・キージンガー]]([[1904年]] - [[1988年]]) * [[リンドン・ジョンソン]]([[1908年]] - [[1973年]]) * [[ジョン・F・ケネディ|ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ]]([[1917年]] - 1963年) * [[ロバート・マクナマラ]]([[1916年]] - [[2009年]]) * [[ハロルド・ウィルソン]](1916年 - 1995年) * [[マルコム・X]] ([[1925年]] - [[1965年]]) * [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]([[1929年]] - [[1968年]]) ==== 哲学と思想 ==== * [[ヘルベルト・マルクーゼ]]([[1898年]] - [[1979年]]) * [[フランセス・イエイツ]]([[1899年]] - [[1981年]]) * [[ハンス・ゲオルク・ガダマー]]([[1900年]] - [[2002年]]) * [[ジャック・ラカン]]([[1901年]] - [[1981年]]) * [[マイケル・オークショット]](1901年 - [[1990年]]) * [[エミール・バンヴェニスト]]([[1902年]] - [[1976年]]) * [[エリック・ホッファー]](1902年 - [[1983年]]) * [[アンリ・コルバン]]([[1903年]] - [[1978年]]) * [[カール・ラーナー]]([[1904年]] - [[1984年]]) * [[イヴ・コンガール]](1904年 - [[1995年]]) * [[ピエール・クロソウスキー]]([[1905年]] - [[2001年]]) * [[A・J・P・テイラー|アラン・ジョン・パーシヴァル・テイラー]]([[1906年]] - [[1990年]]) * [[レイチェル・カーソン]]([[1907年]] - [[1964年]]) * [[ハーバート・ハート]]([[1907年]] - [[1992年]]) * [[ジョン・ケネス・ガルブレイス]]([[1908年]] - [[2006年]]) * [[アブラハム・マズロー]](1908年 - [[1970年]]) * [[フリッツ・フィッシャー]](1908年 - [[1999年]]) * [[アイザイア・バーリン]]([[1909年]] - [[1997年]]) * [[ピーター・ドラッカー]](1909年 - [[2005年]]) * [[マーシャル・マクルーハン]]([[1911年]] - [[1980年]]) * [[バーバラ・タックマン]]([[1912年]] – [[1989年]]) * [[ポール・リクール]]([[1913年]] - 2005年) * [[フィリップ・アリエス]]([[1914年]] - [[1984年]]) * [[ヤン・コット]](1914年 - [[2001年]]) * [[ロラン・バルト]]([[1915年]] - [[1980年]]) * [[ポール・サミュエルソン]](1915年 - [[2009年]]) * [[ピーター・ギーチ]]([[1916年]] - [[2013年]]) * ハロルド・ガーフィンケル([[1917年]] - [[2011年]]) * [[ドナルド・デイヴィッドソン]](1917年 - [[2003年]]) * [[エリック・ホブズボーム]](1917年 - 2012年) * [[ルイ・アルチュセール]]([[1918年]] - [[1990年]]) * [[ダニエル・ベル]]([[1919年]] - 2011年) * [[メアリー・ダグラス]]([[1921年]] - [[2007年]]) * ハンス・ロベルト・ヤウス(1921年 - 1997年) * [[トーマス・クーン]]([[1922年]] - [[1996年]]) * [[ミシェル・アンリ]](1922年 - [[2002年]]) * [[アーヴィング・ゴッフマン]](1922年 - [[1982年]]) * [[G・スペンサー=ブラウン|ジョージ・スペンサー・ブラウン]]([[1923年]] - [[2016年]]) * [[ピーター・ゲイ]](1923年 - [[2015年]]) * [[ミシェル・フーコー]]([[1926年]] - [[1984年]]) * [[ロナルド・D・レイン|ロナルド・デヴィド・レイン]]([[1927年]] - [[1989年]]) * [[フランソワ・フュレ]](1927年 - 1997年) * [[トーマス・ルックマン]](1927年 - 2016年) * [[ユルゲン・ハーバーマス]]([[1929年]] - ) * [[アンドレ・グンダー・フランク]](1929年 - [[2005年]]) * [[ピーター・L・バーガー|ピーター・ラドウィグ・バーガー]](1929年 - [[2017年]]) * [[ジャック・デリダ]]([[1930年]] - [[2004年]]) * [[ギー・ドゥボール]]([[1931年]] - [[1994年]]) * [[スチュアート・ホール]]([[1932年]] - [[2014年]]) ==== 文学 ==== * [[エリアス・カネッティ]]([[1905年]] - [[1994年]]) * [[アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ]]([[1909年]] - [[1991年]]) * [[ペーター・ヴァイス]]([[1916年]] - [[1982年]]) * [[アンソニー・バージェス]]([[1917年]] - [[1993年]]) * [[パウル・ツェラン]]([[1920年]] - [[1970年]]) * [[トルーマン・カポーティ]]([[1924年]] - [[1984年]]) * [[ジョン・ファウルズ]]([[1926年]] - [[2005年]]) * [[フィリップ・K・ディック|フィリップ・キンドレド・ディック]]([[1928年]] - [[1982年]]) * [[アーシュラ・K・ル=グウィン|アーシュラ・クローバー・ル・グウィン]]([[1929年]] - [[2018年]]) * [[ジェームズ・グレアム・バラード]]([[1930年]] - [[2009年]]) * [[ドナルド・バーセルミ]]([[1931年]] - [[1989年]]) * [[ジョン・アップダイク]]([[1932年]] - [[2009年]]) * [[シルヴィア・プラス]](1932年 - [[1963年]]) * [[スーザン・ソンタグ]]([[1933年]] - [[2004年]]) * [[フィリップ・ロス]](1933年 - [[2018年]]) * [[リチャード・ブローティガン]]([[1935年]] - [[1984年]]) * [[ケン・キージー]](1935年 - [[2001年]]) * [[フィリップ・ソレルス]]([[1936年]] - [[2023年]]) ==== 芸術 ==== * [[ヴィクトル・ヴァザルリ]]([[1906年]] - [[1997年]]) * フィリップ・ガストン([[1913年]] - [[1980年]]) * [[セザール・バルダッチーニ]]([[1921年]] - [[1998年]]) * ジュールズ・オリツキー([[1922年]] - [[2007年]]) * [[ロイ・リキテンスタイン]]([[1923年]] - 1997年) * [[ダイアン・アーバス]](1923年 - [[1971年]]) * [[ジョージ・シーガル]]([[1924年]] - [[2000年]]) * [[ロバート・ラウシェンバーグ]]([[1925年]] - [[2008年]]) * [[ジャン・ティンゲリー]](1925年 - [[1991年]]) * [[アラン・カプロー]]([[1927年]] - [[2006年]]) * パウル・ヴンダーリッヒ(1927年 - ) * [[アンディ・ウォーホル]]([[1928年]] - [[1987年]]) * [[イヴ・クライン]](1928年 - [[1962年]]) * [[アルマン (美術家)|アルマン]]([[1928年]] - [[2005年]]) * [[ソル・ルウィット]](1928年 - [[2007年]]) * [[ドナルド・ジャッド]]([[1928年]] - [[1994年]]) * [[ロバート・インディアナ]](1928年 - [[2018年]]) * アルナルド・ポモドーロ(1928年 - ) * ホルスト・ヤンセン([[1929年]] - [[1995年]]) * [[クレス・オルデンバーグ]](1929年 - ) * [[ジャスパー・ジョーンズ]]([[1930年]] - ) * [[ニキ・ド・サンファル]](1930年 - [[2002年]]) * [[トム・ウェッセルマン]]([[1931年]] - [[2004年]]) * [[ジョージ・マチューナス]]([[1931年]] - [[1978年]]) * [[ロバート・モリス (芸術家)|ロバート・モリス]](1931年 - 2018年) * [[ブリジット・ライリー (画家)|ブリジット・ライリー]](1931年 - ) * [[ナム・ジュン・パイク]]([[1932年]] - 2006年) * [[ピエロ・マンゾーニ]]([[1933年]] - [[1963年]]) * アレン・ジョーンズ([[1937年]] - ) * [[エド・ルシェ]](1937年 - ) * [[ロバート・スミッソン]] ([[1938年]] - [[1973年]]) * [[ジグマー・ポルケ]]([[1941年]] - [[2010年]]) ==== ファッション ==== * [[セシル・ビートン]]([[1904年]] - [[1980年]]) * [[ピエール・カルダン]]([[1922年]] - [[2020年]]) * [[アンドレ・クレージュ]] ([[1923年]] - [[2016年]]) * [[ヴィダル・サスーン]]([[1928年]] - [[2012年]]) * [[ソニア・リキエル]]([[1930年]] - [[2016年]]) * マリウッチア・マンデリ([[1933年]] - 2016年) * [[マリー・クヮント]] ([[1934年]] - [[2023年]]) * [[イヴ・サン=ローラン|イヴ・サン・ローラン]]([[1936年]] - [[2008年]]) * [[ツイッギー]]([[1949年]] - ) ==== 音楽 ==== ===== クラシック音楽 ===== * [[グレン・グールド]]([[1932年]] - [[1982年]]) ===== 現代音楽 ===== * [[リゲティ・ジェルジュ]]([[1923年]] - [[2006年]]) * [[シャルル・アズナヴール]]([[1924年]] - [[2018年]]) * [[ジョージ・マチューナス]]([[1931年]] - [[1978年]]) * [[クシシュトフ・ペンデレツキ]]([[1933年]] - [[2020年]]) * [[オノ・ヨーコ]](1933年 - ) ===== ポピュラー音楽 ===== * [[ビートルズ]] ** [[ジョン・レノン]]([[1940年]] - [[1980年]]) ** [[リンゴ・スター]](1940年 - ) ** [[ポール・マッカートニー]]([[1942年]] - ) ** [[ジョージ・ハリスン]]([[1943年]] - [[2001年]]) * [[ローリング・ストーンズ]] ** [[チャーリー・ワッツ]]([[1941年]] - [[2021年]]) ** [[ミック・ジャガー]](1943年 - ) ** [[キース・リチャーズ]](1943年 - ) * [[ボブ・ディラン]](1941年 - ) ==== 映画音楽 ==== * [[エンニオ・モリコーネ]]([[1928年]] - [[2020年]]) * [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]([[1932年]] - ) ==== 映画・演劇・舞踏 ==== * [[ルキノ・ヴィスコンティ]]([[1906年]] - [[1976年]]) * [[バート・ランカスター]]([[1913年]] - [[1994年]]) * [[グレゴリー・ペック]]([[1916年]] - [[2003年]]) * [[マーゴ・フォンテイン]]([[1919年]] - [[1991年]]) * [[エリック・ロメール]]([[1920年]] - [[2010年]]) * [[メリナ・メルクーリ]](1920年 - [[1994年]]) * [[アーサー・ペン]]([[1922年]] - 2010年) * [[フランコ・ゼフィレッリ]]([[1923年]] - [[2019年]]) * [[マルチェロ・マストロヤンニ]]([[1924年]] - [[1996年]]) * [[ピーター・ブルック]]([[1925年]] - [[2022年]]) * [[ピーター・セラーズ]](1925年 - [[1980年]]) * [[モーリス・ベジャール]]([[1927年]] - [[2007年]]) * [[ジャネット・リー]](1927年 - [[2004年]]) * [[シドニー・ポワティエ]](1927年 - 2022年) * [[スタンリー・キューブリック]]([[1928年]] - [[1999年]]) * [[セルジュ・ゲンスブール]](1928年 - [[1991年]]) * [[セルジオ・レオーネ]]([[1929年]] - [[1989年]]) * [[ジャン=リュック・ゴダール]]([[1930年]] - 2022年) * [[ショーン・コネリー]](1930年 - [[2020年]]) * [[スティーブ・マックイーン]](1930年 - [[1980年]]) * [[クリント・イーストウッド]](1930年 - ) * [[ジャック・ドゥミ]]([[1931年]] - [[1990年]]) * [[マイク・ニコルズ]](1931年 - [[2014年]]) * [[フランソワ・トリュフォー]]([[1932年]] - [[1984年]]) * [[エリザベス・テイラー]](1932年 - [[2011年]]) * [[アンソニー・パーキンス]](1932年 - [[1992年]]) * [[ピーター・オトゥール]](1932年 - [[2013年]]) * [[ロマン・ポランスキー]]([[1933年]] - ) * [[ジャン=ポール・ベルモンド]](1933年 - [[2021年]]) * [[ソフィア・ローレン]]([[1934年]] - ) * [[マギー・スミス]](1934年 - ) * [[シャーリー・マクレーン]](1934年 - ) * [[アラン・ドロン]]([[1935年]] - ) * [[ジュリー・アンドリュース]](1935年 - ) * [[ロバート・レッドフォード]]([[1936年]] - ) * [[デニス・ホッパー]](1936年 - [[2010年]]) * [[ルドルフ・ヌレエフ]]([[1938年]] - [[1993年]]) * [[ロミー・シュナイダー]](1938年 - [[1982年]]) * [[テレンス・スタンプ]]([[1939年]] - ) * [[ピーター・フォンダ]]([[1940年]] - [[2019年]]) * [[フェイ・ダナウェイ]]([[1941年]] - ) * [[カトリーヌ・ドヌーヴ]]([[1943年]] - ) * [[ミア・ファロー]]([[1945年]] - ) ==== スポーツ ==== * [[アル・ロペス]]([[1908年]] - [[2005年]]) * [[ウォルター・オルストン]]([[1911年]] - [[1984年]]) * [[ハンク・アーロン]]([[1934年]] - [[2021年]]) * [[ビル・ラッセル]](1934年 - [[2022年]]) * [[アントン・ヘーシンク]](1934年 - [[2010年]]) * [[ロベルト・クレメンテ]](1934年 - [[1972年]]) * [[トム・ヘインソーン]](1934 - [[2020年]]) * [[フランク・ロビンソン]]([[1935年]] - [[2019年]]) * [[ウィルト・チェンバレン]]([[1936年]] - [[1999年]]) * [[ブルックス・ロビンソン]]([[1937年]] - ) * [[ジェリー・ウェスト]]([[1938年]] - ) * [[ジョン・ハブリチェック]]([[1940年]] - 2019年) * [[モハメド・アリ]]([[1942年]] - [[2016年]]) ==== 科学と技術 ==== * [[バックミンスター・フラー]]([[1895年]] - [[1983年]]) * [[ジャック・モノー]]([[1910年]] - [[1976年]]) * [[ジョン・C・リリー|ジョン・カニンガム・リリー]]([[1915年]] - [[2001年]]) * [[モーリス・ウィルキンス]] ([[1916年]] - [[2004年]]) * [[フランシス・クリック]]([[1916年]] - [[2004年]]) * [[エドワード・ローレンツ]]([[1917年]] - [[2008年]]) * [[リチャード・P・ファインマン|リチャード・フィリップス・ファインマン]]([[1918年]] - [[1988年]]) * [[ティモシー・リアリー]]([[1920年]] - [[1996年]]) * [[マービン・ミンスキー]]([[1927年]] - [[2016年]]) * [[ジェームズ・ワトソン]]([[1928年]] - ) * [[マレー・ゲルマン]]([[1929年]] - [[2019年]]) * [[ロジャー・ペンローズ]]([[1931年]] - ) * [[スティーヴン・ホーキング]]([[1942年]] - [[2018年]]) ==== 宇宙開発 ==== * [[ニール・アームストロング]]([[1930年]] - [[2012年]]) ==== その他 ==== * [[アリストテレス・オナシス]]([[1906年]] - [[1975年]]) * [[ジャクリーン・ケネディ・オナシス]]([[1929年]] - [[1994年]]) * [[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]([[1939年]] - [[1963年]]) === ソ連と東ヨーロッパ === * [[ヴァルター・ウルブリヒト]]([[1893年]] - [[1973年]]) * [[アナスタス・ミコヤン]]([[1895年]] - [[1978年]]) * [[レオニード・ブレジネフ]]([[1907年]] - [[1982年]]) * [[セルゲーイ・ボンダルチューク]]([[1920年]] - [[1994年]]) * [[アレクサンデル・ドゥプチェク]]([[1921年]] - [[1992年]]) * [[スタニスワフ・レム]](1921年 - [[2006年]]) * [[ユーリイ・ガガーリン]]([[1934年]] - [[1968年]]) * [[ヤン・シュヴァンクマイエル]](1934年 - ) * [[ヨゼフ・コウデルカ]]([[1938年]] - ) * [[ヨシフ・ブロツキー]]([[1940年]] - [[1996年]]) * [[リュドミラ・サベーリエワ]]([[1942年]] - ) === ラテン・アメリカ === * [[ジュセリーノ・クビチェック]]([[1902年]] - [[1976年]]) * [[ルシオ・コスタ]](1902年 - [[1998年]]) * [[オスカー・ニーマイヤー]]([[1907年]] - [[2012年]]) * [[フアン・ベラスコ・アルバラード]]([[1910年]] - [[1977年]]) * [[エリック・ウィリアムズ]]([[1911年]] - [[1981年]]) * [[フリオ・コルタサル]]([[1914年]] - [[1984年]]) * [[チェ・ゲバラ]]([[1928年]] - [[1967年]]) * [[カルロス・フエンテス]](1928年 - 2012年) * [[フェルナンド・ボテロ]]([[1932年]] - ) * [[ペレ]]([[1940年]] - [[2022年]]) === サハラ以南のアフリカ === * [[ジョモ・ケニヤッタ]]([[1893年]] - [[1978年]]) * [[レオポール・セダール・サンゴール]]([[1906年]] - 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イッセー尾形
イッセー尾形(イッセーおがた、1952年2月22日 - )は、日本の俳優、コメディアン。一人芝居のスタイルを確立した「日本における一人芝居の第一人者」と呼ばれる。 本名は尾形 一成(おがた かずしげ)。「一成」の名は宇垣一成に因むという。芸名の「イッセー」は、本名の音読みからつけたものである。 福岡県福岡市生まれ。父は保険会社のサラリーマンで転勤を繰り返し、まもなく北九州市小倉に移り、幼稚園から小学校1年まで長崎県佐世保市、その後また福岡市に戻り小学校3年の時、東京都杉並区に引越す。高校3年の時千葉県津田沼に移る。東京都立豊多摩高等学校卒業。 美術大学受験に失敗して浪人していた19歳の時に新宿の演劇養成所「アクターズスタジオ」に入る。そこで知り合った森田雄三と共に自由劇場へ移り、高田純次らと劇団「うでくらべ」を結成もした(10カ月ほどで終焉)。以後は建築現場で働きながら一人芝居の技を磨く。 1981年に日本テレビ『お笑いスター誕生!!』で金賞を獲得して広く認知されるようになった。当時は折からの漫才ブームの中で観客は“爆笑型”の笑いを求める傾向にあり、イッセーの芸風は他の出演者に比べて地味な印象があった。「自分も爆笑型をやった方がいいのだろうか」と悩み、爆笑型のネタを作り収録前のリハーサルで披露した。しかし番組のディレクターから「イッセー君は、そういうのとは違うんじゃない?」とアドバイスされ、自分のスタイルを貫くことに自信を持った。この直後の『意地悪ばあさん』(青島幸男主演)では早野金造巡査を演じ、認知度は一気に高まった。『意地悪ばあさん』は1982年にレギュラー番組が終了した後、月曜ドラマランド枠の単発スペシャルが放送されたが、1983年10月の第1作で早野は警察をクビになって波多野医院(ばあさんの長男のシゲル(佐藤英夫が演じた)が経営する医院)の事務長になっている。しかし不評だったのか1984年4月の次作以降は警察官に戻っている。それほどイッセー尾形=早野巡査のイメージは強かった。 現在では日本国内のみならずアメリカやヨーロッパといった海外でも巡業を行っている。また一人芝居(代表作は「アトムおじさん」など)の他にも桃井かおりや小松政夫との二人芝居、映画、ドラマ・CM・司会、小説の執筆、絵画など幅広く活動を行なっている。 2009年3月10日に服用した皮膚病の薬のアレルギーで一時入院、翌日には退院した。 2016年、『沈黙 -サイレンス-』でロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞の次点入賞を果たす。 平均して公演は1時間30分〜1時間45分前後で、6演目前後のネタが披露される。ひとネタは10分から20分前後で、暗転に始まり暗転に終わる。ネタが演じられている間は、照明や音響効果が施されることはほとんどない(演出上それらが使用される場合もあり、その際には非常に劇的な効果が見られる)。ネタとネタの間の着替えはBGMとともに照明がついた状態で行われ、観客は衣装替えやメイクの過程を見ながら次のネタへの推理を働かせることが出来る。公演の最後は「歌ネタ」と呼ばれる、楽器(ギター、チェロ等)を使用したネタが演じられるのが通例。ネタの発想は、主に水回りで思いつくことが多いという。 基本的に、芝居はイスや携帯電話など最小限の小道具と衣装だけで行われる。ネタの内容は市井の人物が、誰かと掛け合っているシチュエーションが主で、一種落語的ではあるものの、落語と違って状況説明は一切行われない。演目名さえ劇中では明かされず、終演後に公演劇場のロビーの掲示板などで示されるのみである。つまり、新ネタが演じられると観客は当初、その状況をまったく把握できないわけだが、時間を追うごとにイッセーの演技によって状況が理解できるようになり、そのミステリアスかつ知的にスリリングな展開もイッセーの舞台の大きな魅力となっている。作品の全ては長年、演出家の森田雄三と打ち合わせながら作られてきた。 アドリブのように見える自然なセリフ回しも、公演に上げられた段階でほぼ完璧に作り上げられている。複数の公演における同じネタを比較しても(間合いなどに微妙な変化があったとしても、ビデオで確認してさえ)セリフはほとんど同一で変わらない。これは年月が隔たった公演における同一ネタの再演の場合でも同様で、イッセーの驚異的・天才的な記憶力がうかがわれる。 連続テレビ小説(NHK) 大河ドラマ(NHK) プレミアムドラマ(NHK BSプレミアム) NHKスペシャル(NHK総合) その他 レコード CDシングル CD CD-BOX
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イッセー尾形は、日本の俳優、コメディアン。一人芝居のスタイルを確立した「日本における一人芝居の第一人者」と呼ばれる。
{{ActorActress | 芸名 = イッセー 尾形 | ふりがな = いっせー おがた | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 尾形 一成 | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[福岡市]] | 死没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 身長 = | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]] | 生年 = 1952 | 生月 = 2 | 生日 = 22 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | ジャンル = 俳優、コメディアン、小説家 | 活動期間 = [[1971年]] - | 活動内容 = 舞台(一人芝居)、映画、ドラマ | 配偶者 = あり | 主な作品 ='''テレビドラマ'''<br>『[[意地悪ばあさん]]』<br>『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』<br>『[[スカーレット (テレビドラマ)|スカーレット]]』<br/>『[[どうする家康]]』<hr>'''映画'''<br>『[[トニー滝谷]]』<br />『[[太陽 (映画)|太陽]]』 <hr>'''舞台'''<br>『イッセー尾形の都市生活カタログ』シリーズ<br />『イッセー尾形のとまらない生活』シリーズ | 受賞 = 第35回文化庁[[芸術選奨新人賞|芸術選奨文部大臣新人賞]]大衆芸術部門(1985年)<br />第21回[[紀伊國屋演劇賞]](1986年)<br />第26回放送批評[[ギャラクシー賞]]奨励賞(1988年)<br />第27回[[ゴールデン・アロー賞]]演劇芸術賞(1989年)<br />第14回スポニチ文化芸術大賞グランプリ(2006年) | その他 = }} '''イッセー尾形'''(イッセーおがた、[[1952年]][[2月22日]] - )は、[[日本]]の俳優、[[コメディアン]]。[[一人芝居]]のスタイルを確立した「日本における一人芝居の第一人者」と呼ばれる。 == 来歴・人物 == 本名は尾形 一成(おがた かずしげ)。「一成」の名は[[宇垣一成]]に因むという<ref group="注">僕の本名の「一成」は、陸軍大将の名前をそのまま借用したそうだ。僕のその「宇垣」という陸軍大将のことはほとんど知らない。昔は偉い人の名前をそのまま付けるということがちょくちょくあったようだ。僕のように名前のルーツに興味がなくなったのか、いただき名前の習慣は廃れたみたいだ。(「いただき名前」)</ref>。芸名の「イッセー」は、本名の音読みからつけたものである。 [[福岡県]][[福岡市]]生まれ。父は保険会社の[[サラリーマン]]で転勤を繰り返し、まもなく[[北九州市]]小倉に移り、幼稚園から小学校1年まで[[長崎県]][[佐世保市]]、その後また福岡市に戻り小学校3年の時、[[東京都]][[杉並区]]に引越す<ref>『「家」の履歴書』 光進社 2001年、114-120頁</ref>。高校3年の時[[千葉県]][[津田沼]]に移る。[[東京都立豊多摩高等学校]]卒業。 美術大学受験に失敗して浪人していた19歳の時に新宿の演劇養成所「アクターズスタジオ」に入る<ref>[https://www.dokant.com/backnumber/mens/30/ The Greatest Person`s Vibration!! side-A イッセー尾形] - ドカント 2005年3月号(vol.030)</ref>。そこで知り合った[[森田雄三]]と共に[[自由劇場]]へ移り、[[高田純次]]らと劇団「うでくらべ」を結成もした(10カ月ほどで終焉<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/10272?page=2 (2ページ目)高田純次 71歳 真面目に語る「30歳の決断、40歳の決断」] - 文春オンライン、2019年1月1日</ref>)。以後は建築現場で働きながら一人芝居の技を磨く。 1981年に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[お笑いスター誕生!!]]』で金賞を獲得して広く認知されるようになった。当時は折からの[[漫才ブーム]]の中で観客は“爆笑型”の笑いを求める傾向にあり、イッセーの芸風は他の出演者に比べて地味な印象があった。「自分も爆笑型をやった方がいいのだろうか」と悩み、爆笑型のネタを作り収録前のリハーサルで披露した。しかし番組のディレクターから「イッセー君は、そういうのとは違うんじゃない?」とアドバイスされ、自分のスタイルを貫くことに自信を持った。この直後の『[[いじわるばあさん|意地悪ばあさん]]』([[青島幸男]]主演)では早野金造[[巡査]]を演じ、認知度は一気に高まった。『意地悪ばあさん』は[[1982年]]にレギュラー番組が終了した後、[[月曜ドラマランド]]枠の単発スペシャルが放送されたが、[[1983年]]10月の第1作で早野は警察をクビになって波多野医院(ばあさんの長男のシゲル([[佐藤英夫 (俳優)|佐藤英夫]]が演じた)が経営する医院)の事務長になっている。しかし不評だったのか[[1984年]]4月の次作以降は警察官に戻っている。それほどイッセー尾形=早野巡査のイメージは強かった。 現在では日本国内のみならず[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[ヨーロッパ]]といった海外でも[[巡業]]を行っている。また一人芝居(代表作は「[[鉄腕アトム|アトム]]おじさん」など<ref>[https://bb.watch.impress.co.jp/cda/news/14454.html ShowTime、「アトムおじさん」などイッセー尾形の一人芝居を配信] - BB Watch、2006年6月28日</ref>)の他にも[[桃井かおり]]や[[小松政夫]]との二人芝居、映画、ドラマ・CM・司会、小説の執筆、絵画など幅広く活動を行なっている。 2009年3月10日に服用した皮膚病の薬のアレルギーで一時入院、<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/03/12/12.html イッセー尾形 薬アレルギーで緊急入院] 2009年3月12日 スポニチ閲覧</ref>翌日には退院した。 2016年、『[[沈黙 -サイレンス-]]』で[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞]]の次点入賞を果たす<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/05/kiji/K20161205013852300.html|title=「君の名は。」ロサンゼルス映画批評家協会賞でアニメ賞受賞|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-12-05|accessdate=2016-12-05}}</ref>。 == 一人芝居のスタイル == 平均して公演は1時間30分〜1時間45分前後で、6演目前後のネタが披露される。ひとネタは10分から20分前後で、暗転に始まり暗転に終わる。ネタが演じられている間は、照明や音響効果が施されることはほとんどない(演出上それらが使用される場合もあり、その際には非常に劇的な効果が見られる)。ネタとネタの間の着替えはBGMとともに照明がついた状態で行われ、観客は衣装替えやメイクの過程を見ながら次のネタへの推理を働かせることが出来る。公演の最後は「歌ネタ」と呼ばれる、楽器(ギター、チェロ等)を使用したネタが演じられるのが通例。ネタの発想は、主に水回りで思いつくことが多いという<ref>[http://www.living-lets.com/LWC/2011/09/post_75.html 「イッセー尾形さんに特別インタビュー」 原点は“ふつうの人を輝かせたい!”] LWCブログ</ref>。 基本的に、芝居はイスや携帯電話など最小限の小道具と衣装だけで行われる。ネタの内容は市井の人物が、誰かと掛け合っているシチュエーションが主で、一種[[落語]]的ではあるものの、落語と違って状況説明は一切行われない。演目名さえ劇中では明かされず、終演後に公演劇場のロビーの掲示板などで示されるのみである。つまり、新ネタが演じられると観客は当初、その状況をまったく把握できないわけだが、時間を追うごとにイッセーの演技によって状況が理解できるようになり、そのミステリアスかつ知的にスリリングな展開もイッセーの舞台の大きな魅力となっている。作品の全ては長年、演出家の[[森田雄三]]と打ち合わせながら作られてきた。 アドリブのように見える自然なセリフ回しも、公演に上げられた段階でほぼ完璧に作り上げられている。複数の公演における同じネタを比較しても(間合いなどに微妙な変化があったとしても、ビデオで確認してさえ)セリフはほとんど同一で変わらない。これは年月が隔たった公演における同一ネタの再演の場合でも同様で、イッセーの驚異的・天才的な記憶力がうかがわれる。 == 出演作品 == === テレビドラマ === '''[[連続テレビ小説]](NHK)''' * [[凛凛と]](1990年) * [[つばさ (2009年のテレビドラマ)|つばさ]](2009年) - ラジオの男役、ナレーション * [[まんぷく]](2018年) - 剛田一隆 役 * [[スカーレット (テレビドラマ)|スカーレット]](2019年) - 深野心仙 役<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教が朝ドラ初出演へ“世界的な芸術家”役 『スカーレット』新たな出演者発表| work = ORICON NEWS| publisher = oricon ME| date = 2019-05-23| url = https://www.oricon.co.jp/news/2136080/full/| accessdate = 2019-05-23}}</ref> '''[[大河ドラマ]](NHK)''' * [[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]](1987年) - [[国分盛重]] 役 * [[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]](1993年 - 1994年) - [[藤原経輔]] 役 * [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](2019年) - [[永田秀次郎]] 役 * [[青天を衝け]](2021年) - [[三野村利左衛門]] 役<ref>{{Cite web|和書|title=吉沢亮主演の大河ドラマ「青天を衝け」新キャスト発表、イッセー尾形ら13名|url=https://natalie.mu/eiga/news/440398|website=映画ナタリー|date=2021-08-11|accessdate=2021-08-11}}</ref> * [[どうする家康]](2023年) - [[鳥居忠吉]] 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220415023203/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=33840|title=2023年 大河ドラマ「どうする家康」新たな出演者発表!|accessdate=2022-4-15|publisher=NHK|date=2022-4-15}}</ref> ''' [[プレミアムドラマ]]([[NHK BSプレミアム]])''' * [[ペコロスの母に会いに行く#テレビドラマ|ペコロス、母に会いに行く]](2013年2月17日) - 岡野雄一 役 * [[歪んだ波紋#テレビドラマ|歪んだ波紋]](2019年11月 - 12月) - 垣内智成 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190824010000/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/406314.html|title=松田龍平×松山ケンイチ『歪んだ波紋』制作開始!|work=NHKドラマトピックス|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2019-08-23|accessdate=2019-08-24}}</ref> '''[[NHKスペシャル]](NHK総合)''' * [[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]] File.07 [[警察庁長官狙撃事件]](2018年9月8日) - 中村泰 役 * [[詐欺の子]](2019年3月23日) - 河北孝一 役 '''その他''' * [[走れ!熱血刑事]] 第23話「おかしなおかしな目撃者」(1981年5月、[[テレビ朝日]]/[[勝新太郎|勝プロ]]) - 青木ショウヘイ 役 * [[ザ・ハングマン]] 第44話「人狩り村に潜入せよ」(1981年9月、[[朝日放送テレビ|ABC]]/[[松竹芸能]]) - 武田正夫 役 * [[野々村病院物語|野々村病院物語II]](1982年 - 1983年、[[TBSテレビ|TBS]]) - 延命順作 役 * [[意地悪ばあさん (テレビドラマ)#フジテレビ版|意地悪ばあさん]](1981年 - 1989年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 早野金造 役 * [[いじわるクッキー#長谷川町子の意地悪クッキー|長谷川町子の意地悪クッキー]](1983年、フジテレビ) * [[ビートたけしの学問ノススメ]](1984年、TBS) - 夏目胆石 役 * [[花へんろ]](1985年・1986年・1988年、NHK) * 向田邦子新春シリーズ 眠る盃(1985年、TBS) * [[藤子不二雄の夢カメラ]](1986年3月3日、1987年3月2日、フジテレビ[[月曜ドラマランド]]) - [[ヨドバ]] 役 * [[お坊っチャマにはわかるまい!]](1986年、TBS) * [[まんが道#銀河テレビ小説・まんが道|まんが道]](1986年、[[日本放送協会|NHK]][[銀河テレビ小説]]) - 西森光男 役 * 敵同志好き同志([[1987年|1987年, 日本テレビ]])-大山正彦 役 * 新橋烏森口青春篇(1988年、NHK銀河テレビ小説) - 森川編集長 役 * 山頭火・何んでこんなに淋しい風ふく(NHK、1989年) * [[さよなら李香蘭]](1989年、フジテレビ) * 女相撲(TBS、1991年) * [[こゝろ#映像化|こころ]](1991年12月15日、[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]第1816回、[[MBSテレビ|毎日放送]]) - 先生役 * [[くろしおの恋人たち]](1994年、NHK[[ドラマ新銀河]]) - 鳥山万作 役 * [[やさしい関係]](1995年、NHKドラマ新銀河) * [[花へんろ|新・花へんろ]](1997年、NHK) * 都会のタコツボ師1〜3(1988年 - 1990年、フジテレビ [[ザ・ドラマチックナイト]]→[[男と女のミステリー]]) * 男たちの運動会(1989年、NHK[[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマ]]) * ラベンダーの風吹く丘(1989年、NHK) * [[腕におぼえあり]](1992年、NHK) - 戸田勘十郎 役 * くらげが眠るまで(1998年 - 1999年) * [[イッセー尾形の「たった二人の人生ドラマ」]](2006年、NHK) - 主演 * [[天使のわけまえ (テレビドラマ)|天使のわけまえ]](NHK) - おっさん〈佐藤喜市〉 役  * [[市長死す#2012年版|松本清張没後20年特別企画・市長死す]](2012年4月3日、フジテレビ) - 田山与太郎 役 * [[PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜]](2012年10月 - 12月、フジテレビ) - 財前修 役 * [[よる★ドラ]]『[[恋するハエ女]](2012年11月 - 12月、NHK) - 藤巻総理 役 * [[長谷川町子物語〜サザエさんが生まれた日〜]](2013年11月29日、フジテレビ) - 長谷川勇吉 役 * [[Smoking Gun 民間科捜研調査員 流田縁#テレビドラマ|SMOKING GUN〜決定的証拠〜]](2014年4月 - 6月、フジテレビ) - 田坂繋 役 * [[55歳からのハローライフ]](2014年、NHK) - 第5話(最終回)主演 * シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興 を支えた市民たち 第1回 鯉昇れ、焦土の空へ(2014年9月26日、NHK広島) - 石本秀一 役 * [[このミステリーがすごい! ベストセラー作家からの挑戦状]]「残されたセンリツ」(2014年12月29日、TBS) - 河原崎雄二 役 * [[月曜ゴールデン]]『女流ミステリー作家 薬師寺叡子 京都殺人ダイアリー』(2015年2月9日、TBS) - 堂島勉警部 役 * [[ナポレオンの村]](2015年7月-9月、[[TBSテレビ|TBS]]) - 菰田孝三郎 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2053218/full/|title=“スーパー公務員”唐沢寿明が限界集落を救う TBS新ドラマ『ナポレオンの村』に主演|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-05-25|accessdate=2015-05-25}}</ref> * [[グーグーだって猫である2 -good good the fortune cat-]] 第2話(2016年6月18日、[[WOWOW]]) - 賀川 役 * [[カインとアベル (2016年のテレビドラマ)|カインとアベル]] 第3話(2016年10月31日、フジテレビ) - 兵頭光一 役 * [[スニッファー ウクライナの私立探偵]](2016年) - 志村孝彦 * [[カルテット (2017年のテレビドラマ)|カルテット]] 第1話(2017年1月17日、TBS) - ベンジャミン瀧田 役<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/214774|title=イッセー尾形がピアニスト役、サンド富澤も出演「カルテット」|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-12-27|accessdate=2016-12-27}}</ref> * [[アシガール#テレビドラマ|アシガール]](2017年、NHK総合) - 天野信茂 役 ** アシガールSP 〜超時空ラブコメ再び〜(2018年、NHK総合) * [[居酒屋ぼったくり]] (2018年4月 - 6月、[[BS12トゥエルビ]]) - シンゾウ 役 * [[雲霧仁左衛門 (2013年のテレビドラマ)|雲霧仁左衛門]]4(2018年、[[NHK BSプレミアム]]) - 柏屋清兵衛 * [[ドラマW#連続ドラマW|連続ドラマW]] [[イアリー 見えない顔]](2018年8月4日 - 、[[WOWOW]]) - 仏上健次郎 * [[透明なゆりかご 産婦人科医院 看護師見習い日記#テレビドラマ|透明なゆりかご]] 第6回(2018年8月24日、NHK総合) - 神村重吉 役 * [[僕とシッポと神楽坂#テレビドラマ|僕とシッポと神楽坂]](2018年10月 - 11月、テレビ朝日) - 徳丸善次郎 役<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2115736/full/|title=広末涼子、相葉雅紀主演ドラマ『僕とシッポと神楽坂』ヒロイン役|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2018-07-17|accessdate=2018-09-07}}</ref> * [[ラジエーションハウス#テレビドラマ|ラジエーションハウス~放射線科の診断レポート~]] 第1話 (2019年4月8日、フジテレビ)、特別編(6月24日) - 菊島亨 役 * [[螢草 (葉室麟)#テレビドラマ|螢草 菜々の剣]](2019年7月 - 9月、NHK BSプレミアム) - 柚木弥左衛門 役 * 福岡放送開局50周年スペシャルドラマ『[[天国からのラブソング]]』(2020年3月15日・[[福岡放送]]、3月20日・[[BS日本|BS日テレ]]) - 光井浩(こう) 役<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20191028dog00m200083000c.html|title=濱田龍臣:バラエティー番組に投稿された実話 ドラマ化で主演 ギター&博多弁に挑戦|newspaper=まんたんウェブ|publisher=MANTAN|date=2019-10-29|accessdate=2020-02-04}}</ref> * [[大江戸もののけ物語]](2020年7月 - 、NHK BSプレミアム) - 清庵和尚 役 * [[太陽の子 (2020年のテレビドラマ)|太陽の子]](2020年8月15日、NHK総合・[[NHK BS4K]]・[[NHK BS8K]]) - 澤村 役 * [[トッカイ バブルの怪人を追いつめた男たち]](2021年) - 金丸岳雄 役 * [[ハルカの光]](2021年) - 岡林一郎 役 * [[神様のカルテ]](2021年) - 内藤鴨一(古狐先生) 役 * [[コタローは1人暮らし]](2021年) - 清水のじーさん 役/清水のばーさん 役 ** 帰ってきたぞよ!コタローは1人暮らし(2023年)<ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/drama/detail/3653846|title=山本舞香・Sexy Zone松島聡ら「コタローは1人暮らし」続編に続投決定 白洲迅が新キャラで登場|newspaper=モデルプレス|publisher=ネットネイティブ|date=2023-03-17|accessdate=2023-03-17}}</ref> * [[相棒]] season20 第11話(2022年) - 若槻正隆 役 * [[今どきの若いモンは#テレビドラマ|今どきの若いモンは]](2022年4月9日 - 5月28日、WOWOW)- 田貫常務 役 * [[定年オヤジ改造計画#テレビドラマ|定年オヤジ改造計画]](2022年7月25日、NHK BSプレミアム、BS4K)- 語り(老猫の声)<ref>{{Cite web2|url=https://www.nhk.jp/g/blog/9o0fo8b-3n3a/|title=特集ドラマ「定年オヤジ改造計画」7月25日(月) よる9時放送!|website=ドラマ情報|publisher=日本放送協会|date=2022-05-31|accessdate=2022-05-31}}</ref> * [[石子と羽男-そんなコトで訴えます?-]](2022年) ‐ 羽根岡泰助 役 * [[PICU 小児集中治療室]] 第1話、第10話(2022年10月10日、12月12日、フジテレビ) - 山田透 役<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20221001-2467244/|title=イッセー尾形、月9『PICU』初回ゲスト「吉沢さんの魅力全開のドラマになるでしょう」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2022-10-01|accessdate=2022-10-01}}</ref> * [[大河ドラマが生まれた日]](2023年2月4日、NHK総合) - 吉種 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/497116|title=阿部サダヲが生田斗真の上司に、大河ドラマ誕生の舞台裏描くコメディの新キャスト解禁|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-10-11|accessdate=2022-10-11}}</ref> === 映画 === * [[それから]](1985年) - 寺尾 役 * [[そろばんずく]](1986年) - 花月 役 * [[男はつらいよ]](松竹) ** [[男はつらいよ 幸福の青い鳥]](1986年) - 車掌 役 ** [[男はつらいよ 知床慕情]](1987年) - 医者 役 ** [[男はつらいよ 寅次郎物語]](1987年) - 警官 役 ** [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]](1989年) - 旅行社の社員 役 ** [[男はつらいよ ぼくの伯父さん]](1989年) - 列車内の老人 役 * [[BU・SU]](1987年) - 北崎 役 * [[悲しい色やねん]](1988年) - 盛山昇 役 * [[会社物語 MEMORIES OF YOU]](1988年) - セールスマン 役 * [[善人の条件]](1989年) - 来照寺和尚 役 * [[社葬 (映画)|社葬]](1989年) - 竹下博文 役 * [[ノーライフキング]](1989年) - サラリーマン 役 * [[どっちもどっち]](1990年) - 精神科医 役 * [[ご挨拶]] 第3話「NOW IT'S MOMENT IN OUR LIFE !!」(1991年) * [[未来の想い出|未来の想い出 Last Christmas]](1992年) * [[第1回欽ちゃんのシネマジャック]]「生きる ある臨死」(1993年) * [[ヤンヤン 夏の想い出]](2000年) - 大田 役 * こどもの時間(2001年) - 語り<ref>{{Cite news|url= http://nonaka-mariko.com/kodomono-jikan/ |title= 野中真理子公式ホームページ |newspaper= |date= |accessdate= 2023-03-30 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20010607024744/http://www.motherland.co.jp/inaho/index.html |title= マザーランド作品紹介 |newspaper= |date= |accessdate= 2023-03-30 }}</ref> * [[トニー滝谷]](2004年) - トニー滝谷/滝谷省三郎 役(二役) * 晴れた家(2005年、『トニー滝谷』のメイキング・ドキュメンタリー) * [[太陽 (映画)|太陽]](2005年) - [[昭和天皇]] 役 * [[ホームレス中学生#映画|ホームレス中学生]](2008年) - 田村一郎 役 * [[60歳のラブレター]](2009年) - 松山正彦 役 * [[図書館戦争#劇場アニメーション|図書館戦争 革命のつばさ]](2012年) - 当麻蔵人 役※声の出演 * [[「また、必ず会おう」と誰もが言った。]](2013年) - 柳下吉治 役 * [[さいはてにて-やさしい香りと待ちながら-]](2015年) - 弁護士 役 * [[先生と迷い猫]](2015年) - 森依恭一 役 * [[HERO (2015年の映画)|HERO]](2015年) - 木下高雄検事 役 * [[ボクは坊さん。]](2015年) - 新居田明 役 * [[沈黙 -サイレンス-]](2016年) - [[井上政重|井上筑後守]] 役 * [[いつまた、君と 何日君再来]](2017年) - 芦村忠 役 * [[泣き虫しょったんの奇跡]](2018年) - 工藤一男 役<ref>{{Cite news|url= http://eiga.com/news/20180316/4/ |title= 松田龍平主演「泣き虫しょったんの奇跡」に永山絢斗、染谷将太、妻夫木聡、松たか子ら結集! |newspaper= 映画.com |date= 2018-03-16 |accessdate= 2018-03-16 }}</ref> * [[ソローキンの見た桜]](2019年) - 河野所長 役<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20190220/23/|title=イッセー尾形、ロシア人俳優にビビる!? 阿部純子が饒舌トークに破顔|publisher=映画.com|date=2019-02-20|accessdate=2019-03-24}}</ref> * [[漫画誕生]](2019年) - [[北澤楽天|北沢楽天]] 役<ref>{{Cite web|和書|url = https://eiga.com/movie/86605/ |title = 漫画誕生 : 作品情報 - 映画.com |website = 映画.com |language = 日本語 |accessdate = 2019-11-21 }}</ref> * [[ONODA 一万夜を越えて]](2021年10月8日公開)- 谷口義美 役<ref>{{Cite web2 |url=https://realsound.jp/movie/2021/10/post-879164.html | title=イッセー尾形がフランス人監督と触れたものづくりの原点 『ONODA』が映す今の日本 |date=2021-10-13 |publisher=Real Sound |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230815220730/https://realsound.jp/movie/2021/10/post-879164.html |df=ja |url-status=live |archivedate=2023-08-15 |accessdate=2023-08-15}}</ref> === オリジナルビデオ === * [[企業戦士YAMAZAKI]](1995年) - 山崎宅郎 役※初主演 === 舞台 === * ミュージカル『DNA-SHARAKU』(2016年1月、[[新国立劇場]]中劇場) - 蔦屋重三郎 役 * {{仮リンク|ART (戯曲)|en|Art (play)}}(2020年3月 - 4月) - マルク 役 === 吹き替え === * [[空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎]](2018年2月24日、東宝) - 玄宗 役<ref>{{Cite web|和書|work=映画『空海-KU-KAI-』公式サイト|url=http://ku-kai-movie.jp|title=NEWS|accessdate=2017-12-11}}</ref> === 劇場アニメ === * [[DEEMO サクラノオト -あなたの奏でた音が、今も響く-]](2022年2月25日、[[ポニーキャニオン]]) - くるみ割り人形 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://deemomovie.jp/character/index.html|title=CHARACTER|publisher=映画『DEEMO THE MOVIE』オフィシャルサイト|accessdate=2021-12-30}}</ref> * [[火の鳥 (漫画)|火の鳥]] エデンの花(2023年11月3日、ハピネットファントム・スタジオ) - ズダーバン 役<ref name="eiganatalie">{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/532803|title=手塚治虫による「火の鳥」望郷編、エンディングが異なる2作品にアニメ化|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-14|accessdate=2023-07-14}}</ref> * [[屋根裏のラジャー]](2023年12月15日公開、東宝) - ミスター・バンティング 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/537717|title=ラジャー役は寺田心! スタジオポノック最新作「屋根裏のラジャー」キャスト一挙発表|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-21|accessdate=2023-08-21}}</ref> ===配信アニメ=== * 火の鳥 エデンの宙(2023年9月13日配信予定、[[Disney+]]) - ズダーバン 役<ref name="eiganatalie"/> === ラジオ === * [[イッセー尾形のニュースなひとり]](1994年、TBSラジオ) * [[高田文夫のラジオビバリー昼ズ]](ニッポン放送) - 1997年より年初のゲストとして定期出演。歌ネタの披露や近況報告を行う。 * イッセー尾形とみんなの青空(2008年10月5日 - 2009年10月4日、文化放送) === バラエティ === * [[イッセー尾形の笑ートカタログ]]シリーズ([[ファミリー劇場]]) * [[大正週間漫画 ゲラゲラ45]](テレビ朝日系)(アナウンサーのムトベさん役) * イッセー尾形がみたい!(ビデオ) * イッセー尾形 The Best of Best Collection '89-'93(DVD) * [[世界の超豪華・珍品料理]](フジテレビ) === ドキュメンタリー === * 珠玉の感動ストーリー ありがとう(BS朝日、2014年4月9日 - ) - 語り * [[BS1スペシャル]]「にっぽんディープ紀行 “昭和”を探して〜キャバレー、遊郭 その周辺〜」(2021年2月14日、[[NHK BS1]]) - 語り<ref>{{Cite web|和書|url=https://archive.ph/TlOLZ |title=BS1スペシャル「にっぽんディープ紀行 “昭和”を探して〜キャバレー、遊郭 その周辺〜」 |date=2021-02-14 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/TlOLZ |archivedate=2021-05-09 |accessdate=2021-05-09}}</ref> * BSフジサタデースペシャル『[[長谷川町子]]没後30年スペシャル「彩り」と「ことば」―時を超えて―』(2022年11月26日) - インタビュー出演<ref>{{Cite news|url= https://www.bsfuji.tv/hasegawamachiko/pub/index.html |title= <BSフジサタデースペシャル>『長谷川町子没後30年スペシャル「彩り」と「ことば」―時を超えて―』 |publisher= BSフジ |accessdate= 2022-11-27 }}</ref><ref>[https://www.tvu.co.jp/program/20221126_hasegawamachiko/ 長谷川町子没後30年スペシャル「彩りとことば」-時を超えて-] テレビマンユニオン</ref> === 音楽番組 === * [[夢・音楽館]]※桃井かおりの代役 === その他 === * [[BS1スペシャル]]「ワタシたちはガイジンじゃない!日系ブラジル人 笑いと涙の30年」([[NHK BS1]] 主演 2020年12月29日/地上波放映日 2021年2月11日) === CM === * [[片岡物産]] モンカフェ * [[キンカン]] * [[カルビーポテトチップス|カルビー ポテトチップス]] * [[ポーラ化粧品]](1984年) * [[フロントランナー|日本ポラロイド]] ポラロイドカメラ(1984年) * [[森下仁丹]] 暮らしのデオドライザーシリーズ(1984年) * [[東京ガス]](1985年)<ref>『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社[[アーバン。コミュニケーションズ]]。128頁~131頁</ref> * [[IMAGICA|東洋現像所]] (IMAGICA への社名変更告知CM。1986年 - 1987年) * [[森永乳業]] エスキモー ミルウォーカー(1987年) * [[学生援護会]] 就職情報誌「[[デューダ|DODA(デューダ)]]」(1989年、[[大地康雄]]と共演) * [[日本生命]] * [[サニクリーン]] * [[エッソ石油]] * [[ニビシ醤油]] * [[セガ]]・[[ゲームギア]] * [[キリンビバレッジ]] Jive(1991年) * [[トヨタ・カローラ|トヨタ・カローラ(7代目)]](1993年) * [[ユニクロ]](2006年、2014年) * [[武田薬品工業]] 「アリナミン」(2006年)※店頭での販促用DVD  * [[ACジャパン|公共広告機構(現:ACジャパン)]] 「バレなきゃいい、が見えている」(1994年) * [[東日本旅客鉄道]] (安全啓発のポスターおよび山手線の車内放映用CM 2007年 - ) * [[北海道新聞社]] 喜怒哀楽編(2007年 - ) * [[日本自動車連盟]] 心配性の父篇(2013年) == 音楽 == レコード * 「葛飾亀有三丁目交番番歌」([[日本コロムビア|コロムビア]]、1983年5月21日)※「[[爆笑!!ドットスタジオ]]」挿入歌 :「お尻のスタンプシリタンプ」(歌:[[平塚たかあき]]、[[森の木児童合唱団]])との両A面シングル。 CDシングル * 「日本のサラリーマン」([[ポニーキャニオン]]、1994年)※[[エスエス製薬]] エスカップC1000 CMイメージ・ソング CD * 『昭和コミックソング大行進~笑いのギフト・パック~』(コロムビア、2003年) :※「葛飾亀有三丁目交番番歌」を収録 CD-BOX * 『(笑)タイム』([[EMIミュージック・ジャパン]]) :※Disc-3に「葛飾亀有三丁目交番番歌」を収録 == 著書 == * 『イッセー尾形の都市生活カタログ』[[森田雄三]]共著. [[早川書房]], 1991 * 『イッセー尾形の人生カタログ』[[朝日新聞社]], 1991 のち文庫 * 『イッセー尾形の都市生活カタログ part 2』森田雄三共著. 早川書房, 1992 * 『お察しください』[[ネスコ]], 1993 * 『いつでもやりたい』[[廣済堂出版]], 1993 * 『イッセー尾形のナマ本』全4巻 森田雄三共著. [[小学館文庫]], 1994-98 * 『本人の希望』森田雄三共著. 早川書房, 1994 * 『イッセー尾形の遊泳生活』角川書店, 1995 * 『イッセー尾形のよその国 : I'm Japonicus,am I?』[[ニキ美和]] 写真撮影. [[二玄社]], 1995 * 『ヘイ、タクシー :イッセー尾形の都市生活カタログ』(ハヤカワ文庫 森田雄三共著. 早川書房, 1995 * 『イッセー尾形のここだけの話 イッセー尾形となかまたち (Aldo book : CD-ROM bundle)キッズコーポレーション, 1997 * 『イッセー尾形のそうと思えばとめられるとまらない生活』[[検見崎誠]]共著. クレイン, 1997 * 『いつか、スパゲティ』[[新潮社]], 1999 * 『空の穴』[[徳間書店]], 1999 文春文庫、2002 * 『とりあえずの愛』朝日新聞社, 2001 * 『月の砂』徳間書店, 2001 * 『正解ご無用』[[中央公論新社]], 2003 * 『消える男』[[文藝春秋]], 2006 * 『言い忘れてさようなら』[[徳間書店]], 2009 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[日本の男優一覧]] * [[福岡県出身の人物一覧]] * [[森田雄三]] ==外部リンク== * [http://issey-ogata-yesis.com/ IsseyOgata Official Web Site] - イッセー尾形本人公式サイト * [http://issey-ogata.jugem.jp/ イッセー尾形] * {{NHK人物録|D0009070131_00000}} * {{TVer talent|t011290}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いつせえおかた}} [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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1950年代
1950年代(せんきゅうひゃくごじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1950年から1959年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1950年代について記載する。 1950年代は、冷戦構造の固定した時代として位置づけられる。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。 また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。
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1950年代(せんきゅうひゃくごじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1950年から1959年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1950年代について記載する。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1950年代の日本}} {{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1950 }} <imagemap>File:1950s_decade_montage.png|420px|thumb|right|'''上段''': (左)1950年9月、[[朝鮮戦争]]で市街戦を行うアメリカ海兵隊。(右)[[ジョナス・ソーク]]により開発された[[ポリオワクチン]]。<br />'''中段''': (左)1954年、アメリカ軍の[[水素爆弾]]実験「[[キャッスル作戦]]」ロメオ実験でのキノコ雲。(中央)1959年、[[フィデル・カストロ]]らの[[7月26日運動]]が[[キューバ革命]]を起こし西側で初の共産主義政府を樹立。(右)1950年代中盤、新たなポピュラー音楽であるロックンロールの主役となった[[エルヴィス・プレスリー]]。<br />'''下段''': (左)1956年、[[第二次中東戦争|スエズ危機]]でイスラエル・イギリス・フランスのエジプト侵攻により発煙する石油タンク。(中央)1956年 [[ハンガリー動乱]]。(右)1957年10月、世界初の人工衛星としてソ連が[[スプートニク1号]]を打ち上げた。 rect 0 0 254 206 [[朝鮮戦争]] rect 254 0 538 206 [[ポリオワクチン]] rect 0 206 166 414 [[水素爆弾]] rect 166 208 371 414 [[キューバ革命]] rect 371 208 538 414 [[エルヴィス・プレスリー]] rect 0 414 262 606 [[第二次中東戦争]] rect 260 414 390 607 [[ハンガリー動乱]] rect 390 414 540 607 [[スプートニク1号]] </imagemap> '''1950年代'''(せんきゅうひゃくごじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[1950年]]から[[1959年]]までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた1950年代について記載する。 == できごと == {{節スタブ|date=2021年2月}} 1950年代は、[[冷戦]]構造の固定した時代として位置づけられる。旧[[枢軸国]]を含む[[西側諸国]]では、経済が急速に復興し、[[1920年代]]と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや[[保守]]化し、一部の[[人権]]拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として[[カウンターカルチャー|対抗文化]]としての[[若者文化]]が生まれ、[[1960年代]]の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。 また[[朝鮮戦争]]後の東西ブロックの緊張から、[[軍備拡張競争]]、[[宇宙開発競争]]、西側における[[赤狩り]]([[マッカーシズム]])が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。 <!-- === 1950年 === {{main|1950年}} === 1951年 === {{main|1951年}} === 1952年 === {{main|1952年}} === 1953年 === {{main|1953年}} === 1954年 === {{main|1954年}} === 1955年 === {{main|1955年}} === 1956年 === {{main|1956年}} === 1957年 === {{main|1957年}} === 1958年 === {{main|1958年}} === 1959年 === {{main|1959年}} --> == 戦争と政治 == * [[朝鮮戦争]]([[1950年]]〜[[1953年]]) * [[中華人民共和国によるチベット併合|チベット侵攻]](1950年〜[[1951年]]) * [[サンフランシスコ]]講和会議、[[日本国との平和条約]](1951年) ** 翌[[1952年]]に発行され、日本の[[主権]]回復 * 米[[中央情報局|CIA]]、[[グアテマラ]]政府の転覆工作([[1954年]]) * [[アメリカ合衆国|米国]]の[[水素爆弾|水爆]]実験、[[キャッスル作戦]](1954年) * [[周恩来]]と[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]による、[[平和五原則|平和5原則]](1954年) * [[ワルシャワ条約機構|ワルシャワ条約]]締結(1955年)、東西の軍事ブロック化 * [[ハンガリー動乱]]([[1956年]]) * [[第二次中東戦争|スエズ危機]](第2次中東戦争、1956年〜[[1957年]]) * [[チベット動乱]](1956年〜[[1959年]]) * [[ウラル核惨事]](1957年9月29日) * [[フィデル・カストロ]]、[[キューバ]]で政権掌握(1959年) * 米国で[[赤狩り]]([[マッカーシズム]]) * [[ヨーロッパ共同市場]] (ECM) 設立 * 地上での[[核実験]]が最も行われた時代 * [[ラオス]]、[[カンボジア]]など[[植民地]]の独立が続く(「[[アジア・アフリカ諸国の独立年表#1950年代]]」も参照)。 * [[イスラエル]]、[[インドネシア]]、[[マレーシア]]などの[[新興国]]で国の基盤整備が行われる。 * [[日本]]で[[明仁|皇太子明仁親王]](現[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])と[[上皇后美智子|正田美智子]](現[[上皇后]])の成婚(1959年) == 経済 == * [[欧州石炭鉄鋼共同体]]の発足(1952年) * [[ドイツ]]「[[経済の奇跡]]」 * [[中華人民共和国|中国]]「[[大躍進政策]]」([[1958年]]〜[[1961年]]) - 無謀な計画であったため、1,000万人以上の[[餓死]]者を出し大失敗に終わる。 == 文化 == * 西側諸国で[[テレビ]]が普及し、[[ラジオ]]にかわり主要なメディアとなる。 * 国際旅行の主役が[[旅客船|客船]]から[[飛行機]]に移行。 * 初期の[[ロックンロール]]。 * [[ビート・ジェネレーション]]、[[モッズ]]、[[ロッカーズ]]などの[[若者文化]]が生まれる。 * [[インスタントラーメン]]、[[フリーズドライ]]など、新しい形態の[[インスタント食品]]の開発が始まる。 * 中国が[[漢字]]改革を開始。 * 中国が[[ラテン文字]]を、[[ソビエト連邦]]が[[キリル文字]]を応用して、自国内の少数民族語の[[正書法]]を相次いで制定。 * 米国を中心に、[[ビバップ]]、[[ハード・バップ]]が盛行。 == 人物 == === アメリカ合衆国と西ヨーロッパ === ==== 政治 ==== * [[コンラート・アデナウアー]]([[1876年]] - [[1967年]]) * [[ロベール・シューマン]]([[1886年]] - [[1963年]]) * [[ジョン・フォスター・ダレス]]([[1888年]] - [[1959年]]) * [[ジャン・モネ]]([[1888年]] - [[1979年]]) * [[ドワイト・D・アイゼンハワー|ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー]]([[1890年]] - [[1969年]]) * [[シャルル・ド・ゴール]]([[1890年]] - [[1970年]]) * [[ディーン・アチソン]]([[1893年]] - [[1971年]]) * [[アンソニー・イーデン]]([[1897年]] - [[1977年]]) * [[ギー・モレ]]([[1905年]] - [[1975年]]) * [[ピエール・マンデス=フランス]]([[1907年]] - [[1982年]]) * [[エドガール・フォール]]([[1908年]] - [[1988年]]) * [[ジョセフ・マッカーシー]]([[1908年]] - [[1957年]]) * [[エリザベス2世]]([[1926年]] - [[2022年]]) ==== 哲学と思想 ==== * [[アルベルト・シュヴァイツァー]]([[1875年]] - [[1965年]]) * [[ピエール・テイヤール・ド・シャルダン]]([[1881年]] - [[1955年]]) * [[ジャック・マリタン]]([[1882年]] - [[1973年]]) * [[ルドルフ・カルナップ]] ([[1891年]] - [[1970年]]) * [[マイケル・ポランニー]]([[1891年]] - [[1976年]]) * [[マルシャル・ゲルー]]([[1891年]] - [[1976年]]) * [[アレクサンドル・コイレ]]([[1892年]] - [[1964年]]) * [[エルンスト・カントロヴィチ]]([[1895年]] - [[1963年]]) * [[ロマーン・ヤーコブソン]]([[1896年]] - [[1982年]]) * [[カール・ウィットフォーゲル]]([[1896年]] - [[1988年]]) * [[ジャン・ピアジェ]]([[1896年]] - [[1980年]]) * [[ドナルド・ウィニコット]]([[1896年]] - [[1971年]]) * [[ジョルジュ・デュメジル]]([[1898年]] - [[1986年]]) * [[グンナー・ミュルダール]]([[1898年]] - [[1987年]]) * [[ルイス・イェルムスレウ]]([[1899年]] - [[1965年]]) * [[レオ・シュトラウス]]([[1899年]] - [[1973年]]) * [[カール・ロジャーズ]]([[1902年]] - [[1987年]]) * [[タルコット・パーソンズ]]([[1902年]] - [[1979年]]) * [[エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード|エドワード・エヴァン・エヴァンズ・プリチャード]]([[1902年]] - [[1973年]]) * [[エリク・H・エリクソン|エリク・ホーンブルガー・エリクソン]]([[1902年]] - [[1994年]]) * [[ユルギス・バルトルシャイティス]]([[1903年]] - [[1988年]]) * [[ジョルジュ・カンギレム]]([[1904年]] - [[1995年]]) * [[ヴィクトール・フランクル]]([[1905年]] - [[1997年]]) * [[レイモン・アロン]]([[1905年]] - [[1983年]]) * [[ワイリー・サイファー]]([[1905年]] - [[1987年]]) * [[ハンナ・アーレント]]([[1906年]] - [[1975年]]) * ハロルド・ローゼンバーグ([[1906年]] - [[1978年]]) * [[アイザック・ドイッチャー]]([[1907年]] - [[1967年]]) * [[ミルチャ・エリアーデ]]([[1907年]] - [[1986年]]) * [[モーリス・ブランショ]]([[1907年]] - [[2003年]]) * [[ジャン・イポリット]]([[1907年]] - [[1968年]]) * [[クロード・レヴィ=ストロース|クロード・レヴィ・ストロース]]([[1908年]] - [[2009年]]) * [[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]] ([[1908年]] - [[2000年]]) * [[グスタフ・ルネ・ホッケ]]([[1908年]] - [[1985年]]) * [[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]([[1909年]] - [[1957年]]) * [[エルンスト・ゴンブリッチ]]([[1909年]] - [[2001年]]) * [[デイヴィッド・リースマン]]([[1909年]] - [[2002年]]) * [[エミール・シオラン]]([[1911年]] - [[1995年]]) * [[ノースロップ・フライ]]([[1912年]] - [[1991年]]) * [[エメ・セゼール]]([[1913年]] - [[2008年]]) * [[ヒュー・トレヴァー=ローパー|ヒュー・トレヴァー・ローパー]]([[1914年]] - [[2003年]]) * [[アルバン・ウィリアム・フィリップス]]([[1914年]] - [[1975年]]) * [[ウォルト・ロストウ]]([[1916年]] - [[2003年]]) * [[エリザベス・アンスコム]] ([[1919年]] - [[2001年]]) * [[レイモンド・ウィリアムズ]]([[1921年]] - [[1988年]]) * [[フランツ・ファノン]] ([[1925年]] - [[1961年]]) * [[ノーム・チョムスキー]]([[1928年]] - ) ==== 文学 ==== * [[J・R・R・トールキン|ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン]]([[1892年]] - 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元号から西暦への変換表
元号から西暦への変換表 1868年1月25日(明治元年1月1日)〜1912年7月29日 西暦(グレゴリオ暦)と連係した新暦は、1873年(明治6年)1月1日に施行された。そのため、1872年(明治5年)までは、西暦年と完全には一致しない。 1912年7月30日〜1926年12月24日 1926年12月25日〜1989年1月7日 1989年1月8日〜2019年4月30日 2019年5月1日〜
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元号から西暦への変換表
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大江健三郎
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。 東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた。 新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。 1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。 核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷である四国の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた。 上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある。 戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。 1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちに大江の作品の舞台となる。1941年、大瀬小学校に入学。この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1944年、父親が50歳で心臓麻痺で急死している。1947年、大瀬中学校に入学。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、翌年、大学進学のための教育を受けるために愛媛県立松山東高等学校へ転校する。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などの作品を読む。松山東高校では文芸部に所属して部誌『掌上』を編集、自作の詩や評論を掲載した。同校において同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。 1953年に上京し、浪人生として予備校に通ったのち、1954年に東京大学教養学部文科二類(現在の文科III類)に入学。演劇脚本や短編小説の執筆を始める。1955年、小説「優しい人たち」が「文藝」第三回全国学生小説コンクールで入選佳作となる。同年、小説「火山」が銀杏並木文学賞(東京大学教養学部学友会学生理事会の主催)第二席となり、教養学部の学内誌に掲載されて、作品が初めて活字となる。この頃、ブレーズ・パスカル、アルベール・カミュ、ジャン=ポール・サルトル、ノーマン・メイラー、ウィリアム・フォークナー、安部公房などの作品を読む。1956年、文学部仏文科に進み、高校時代より著作を愛読し私淑してきた渡辺一夫に直接師事する。小説「火葬のあと」が「文藝」第五回全国学生小説コンクール選外佳作となる。東大学生演劇脚本の戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに入選する。 1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載され、文芸評論家平野謙の激賞を受ける。これを契機として、短編「死者の奢り」により学生作家としてデビューし、続々と短編を各文芸誌に発表するようになる。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となる。1958年、自身初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表する。大江の故郷の村をモデルにした閉ざされた山村を舞台にして、社会から疎外された感化院の少年たちの束の間の自由とその蹉跌を描いた。同年、短編「飼育」により第39回芥川賞を23歳で受賞する。 1959年、東京大学卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」であった。同年、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する。政治などの現実社会から内向的な性の世界へと退却する、停滞状況にある現代青年を描く。この時期の大江の、性を露骨に描いて日常的規範を攪拌させる方法はノーマン・メイラーの影響を受けている。この年、東京都世田谷区の成城に転居し、近所に住む武満徹と親交が始まる。1960年、伊丹十三の妹のゆかりと結婚。同年、石原慎太郎、江藤淳、浅利慶太らと「若い日本の会」で活動をともにし、日米安保条約(新安保条約)締結に反対する(「安保闘争」参照)。「日本文学代表団」の一員として、野間宏、亀井勝一郎、開高健らとともに中華人民共和国(中国)を訪問して中国の文学者と交流し、毛沢東と対面している。 1961年、中編「セヴンティーン」と続編「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を発表する。浅沼稲次郎暗殺事件に触発されて、オナニストの青年が天皇との合一の夢想に陶酔して右翼テロリストとなる様を描いたが、同じ頃に発表された深沢七郎の『風流夢譚』と同様に右翼団体からの脅迫に晒された(このため「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」はその後の単行本に収められていなかったが、2018年『大江健三郎全小説3』で遂に「セヴンティーン」と併せて収録された)。同年、ブルガリアとポーランドの招きに応じて、両国やソ連、ヨーロッパ各地を訪問して、フランスの首都パリでサルトルにインタビューを行っている。 1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害をもって誕生する。1964年、光の誕生を受けての作品『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、様々な精神遍歴の末、現実を受容して子供とともに生きる決意をするまでの過程を描いた作品である。同年、太平洋戦争末期に人類史上初めて核攻撃を受けた広島市に何度も訪れた体験や、原水爆禁止世界大会に参加した体験を基にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始する。障害を持つ子との共生、核時代の問題という終生の大きなテーマを同時に二つ手にしたこの年は、大江にとって重大な転機の年であった。1965年、広島について報告するために、米国の国際政治学者ヘンリー・キッシンジャーのセミナーに研究員として参加して、ハーヴァード大学に滞在している。 1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表し、最年少(2019年時点で破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞する。遣米使節が渡航した万延元年(1860年)から安保闘争(1960年)までの百年を歴史的・思想史的に展望して、四国の森の谷間の村に起こる「想像力の暴動」と様々に傷を抱えた家族の恢復の物語を描いた。1968年、東京の新宿にある紀伊國屋ホールにて月例の連続講演を一年間行ない、これは『核時代の想像力』(1970年)としてまとめられた。この頃からガストン・バシュラールに依拠して、現実を変えていく力としての「想像力」論を打ち出していく。1968年、『個人的な体験』の英訳 "A Personal Matter" が出版されている。1967年には長女の菜採子、1969年には次男の桜麻が生まれている。 この頃から海外の作家との交流が盛んになる。1968年にオーストラリアのアデレード芸術祭に参加し、エンツェンスベルガー、ビュトールと面会する。1970年、1973年にはアジア・アフリカ作家会議に参加。1977年、ハワイ大学のセミナー「文学における東西文化の出会い」に参加してアレン・ギンズバーグ、ウォーレ・ショインカと対話する。また1970年代には文芸誌『新潮』『海』においてアップダイク、ギュンター・グラス、バルガス・リョサと対談している。 1971年、1972年に発表した二つの中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島由紀夫のクーデター未遂と自決を受けて天皇制を批判的に問い直すことを主題とした。1973年には『洪水はわが魂に及び』を発表し、第26回野間文芸賞を受賞。本作は核状況下における終末観的な世界把握の下に構想されており、破滅へ向かう先進文明に対抗するものとしてのスピリチュアルな祈りを主題としている。1974年には『万延元年のフットボール』の英訳 "The Silent Cry" が出版されている。 1975年、大学時代の恩師の渡辺一夫が肺癌で死去し、大きなショックを受けた。立ち直りのきっかけを求めて1976年にメキシコに渡り、コレヒオ・デ・メヒコの客員教授として日本の戦後思想史の講座を受け持つ。現地でオクタビオ・パスやフアン・ルルフォ、メキシコに居を構えていたガブリエル・ガルシア=マルケスらラテン・アメリカの文学者と知り合う。1976年に発表された『ピンチランナー調書』は天皇制や核の問題を主題としている。 1978年には「遅れてきた構造主義者」と称して、ちょうど日本に紹介され始めたバフチン、ロシア・フォルマリズムなどの思想潮流や山口昌男の理論などを参照して『小説の方法』を出版している。1979年に発表された原稿用紙1,000枚の大作『同時代ゲーム』において、故郷の森の谷間の「村=国家=小宇宙」の神話や歴史を描いた。大江はこれを自らの文学的な人生の大きい柱の作品と位置付けており、実際、本作にはこれ以前の大江作品の様々なモチーフが回収され、以降の作品に現れる要素も胚胎している。1980年から1982年にかけて、中村雄二郎、山口昌男とともに編集代表を務めて論集「叢書文化の現在」(全13巻)を編纂して、学際的な新しい「知」の枠組みを提示する。 1982年、荒涼とした世界における男女の生き死にを見つめた連作短編集『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を発表して、翌1983年に第34回読売文学賞受賞(本作と武満徹との関係は、後述「関わりの深い人物」項目を参照)。本作以降の大江は多くの作品において、作家自身を思わせる小説家を語り手として、自分の経験や思索を虚構化していく。また自作の引用、自己批評、書き直しや西洋の古典(本作においてはマルカム・ラウリーである)との対話によって、読むこと書くことの試行錯誤そのものを小説に書き込むようになる。 1983年の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクの預言詩や、それに関連する研究を読むことで導かれた思索を織り交ぜながら、知的障害をもつ長男・光を中心とした家族の日常を私小説的に描き、第10回大佛次郎賞を受賞する。ここで、ブレイク研究者の女性詩人キャスリーン・レインを大きな導き手としてネオ・プラトニズムに触れ、大江文学中期のテーマである「魂の問題」「再生」といった神秘的な問題を掘り下げ始めるようになった。同年、米国のカリフォルニア大学バークレー校に共同研究員として滞在している。 1984年、磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男とともに編集同人となり、季刊誌『へるめす』を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。当時の出版界が「知」のブームが沸く中で創刊された本誌は1980年代を代表する知識人の拠点となる。同年、国際ペンクラブ東京大会に参加して、講演「核状況下における文学─なぜわれわれは書くか」を行い、カート・ヴォネガット、アラン・ロブ=グリエ、ウィリアム・スタイロンと対話する。1985年、連合赤軍事件を文学の仕事として受け止め直す連作短編集『河馬に嚙まれる』を発表する。表題作で第11回川端康成文学賞を受賞している。同年『万延元年のフットボール』のフランス語訳 "Le jeu du siècle" がガリマール出版社より刊行されている。 1986年には『同時代ゲーム』の世界をリライトした『M/Tと森のフシギの物語』を発表する。このリライトは難渋であるとして読者に十分に受け入れられなかった『同時代ゲーム』を平易にすると同時に、『同時代ゲーム』において十分に展開しきれなかった「魂の再生」のテーマを追求する意味合いがあった。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにした虚実綯い交ぜのメタ・フィクショナルな自伝『懐かしい年への手紙』を発表する。『同時代ゲーム』以来の原稿用紙1,000枚の大作で、『芽むしり仔撃ち』以来描き続けてきた森の谷間の小宇宙を統合する試みであった。前者は1989年に "M/T et l'histoire des merveilles de la forêt" のタイトルで、後者は1993年に "Lettres aux années de nostalgie" のタイトルで、フランス語訳がガリマール社より刊行された。 1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし、子供を自殺で失った女性の悲嘆とその乗り越えを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞する。1990年に発表されたSF『治療塔』とその続編の『治療塔惑星』(1991年)では、イェーツの詩を引きながら核時代の危機と人類救済の主題を描いている。1990年、連作短編集『静かな生活』を発表。『新しい人よ眼ざめよ』において主題となった知的障害を持つ長男との共生の体験を、彼の妹の視点を通して改めて描いている。この時期の大江は女性を語り手に選び、それに見あった語り口を模索している。また超越的な存在と自分自身の関係を問い直そうとしている。 1993年9月より原稿用紙2,000枚に及ぶ三部からなる長編『燃えあがる緑の木』の連載を開始する。『懐かしい年への手紙』の後日譚として、四国の森の中の谷間の村を舞台とした「教会」の勃興から瓦解に至るまでの過程を、両性具有の若い女性の視点を通して描き、「魂の救済」の問題を描き尽くした。連載当時はこれを「最後の小説」としていた。 『燃えあがる緑の木』連載中の1994年、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている(who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」という理由でノーベル文学賞を受賞する。川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者であった。ストックホルムで行われた受賞講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端の講演は極めてvague(あいまい、ぼんやりした)であり、閉じた神秘主義であるとし、自分は日本をambiguous(あいまい、両義的)な国として捉えると述べた。日本は、開国以来、伝統的日本と西欧化の両極に引き裂かれた国であるとの見方を示し、小説家としての自分の仕事は、ユマニスムの精神に立って「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒す」ことであると述べた。 小説執筆の一旦の終了を受けて1996年より新潮社より『大江健三郎小説』(10巻)が刊行開始された。これは全集ではなく、作者が吟味し基準に適うもののみが収録された。長編でいうと初期作品の『われらの時代』『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』は収録されなかった。 1995年に「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結し、小説執筆をやめてスピノザの研究に取り組むと述べていた。だが1996年の友人・武満徹の病死を契機に考えを変え、告別式の弔辞において新作を捧げるとし、1999年に『宙返り』を発表。信徒が計画するテロを防ぐために一度「棄教」した新興宗教の教祖らによる、波乱の中での教団の再建を描いている。これ以降の創作活動は作家自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と称する。 2000年、義兄の伊丹十三の自殺を受けて、文学的な追悼として伊丹の死を新生の希望へと繋ぐ『取り替え子(チェンジリング)』を発表する。続けて『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)を発表した。これらは「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。『さようなら、私の本よ!』では2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受けてテロリズムの問題が主題とされた。 2007年には、30年前にお蔵入りとなった映画制作の顛末と、再び企画を立ち上げる老人たちの友情を描いた『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(文庫刊行時に『美しいアナベル・リイ』に改題)を発表する。2009年には、終戦の夏におきた父親の水死の真相を描こうとする老作家の巻きこまれる騒動を描く『水死』を発表。本作は70年代に中編「みずから我が涙をぬぐいたまう日」で取り組まれた「父と天皇制」のテーマに再度挑むものであった。2013年には、東日本大震災とそれに伴う原発事故を題材とした『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を刊行した。 『取り替え子(チェンジリング)』以降のレイト・ワークは『美しいアナベル・リイ』を除き、大江をモデル人物とした老作家・長江古義人を主人公とする(『美しいアナベル・リイ』の語り手の老作家「私」は、作中で他の登場人物からケンサンロウ、Kenzaburoと呼ばれる)。 創作以外の活動としては1996年にプリンストン大学で客員講師を、1999年にベルリン自由大学で客員教授を務めている。2006年に純文学を志す有望な若手作家を世界に紹介する目的で大江健三郎賞が創設された(本賞は2014年に終了した)。 2014年、『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)を出版。作家自身が作品を厳選し、全収録作品に加筆・修訂を施している。2016年、仏ガリマール社より1,300ページを超える選集が刊行された(「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」が収録された)。2018年より『大江健三郎全小説』(15巻)が講談社から刊行開始された。「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」が収録されることで話題になった。全小説と銘打っているが作者が不出来だと封印している『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』の二点が収録されておらず完全な全集ではない。 2021年2月、「死者の奢り」『同時代ゲーム』『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』などの作品の自筆原稿1万枚超を含む資料約50点が東京大学に寄託されると発表された。資料を保管・管理し、国内外の研究者に公開する研究拠点「大江健三郎文庫」が文学部内に設立される。同一作家の自筆原稿コレクションとしては屈指の規模になるという。 2023年3月3日、老衰のため死去。88歳没 最初期の大江の作品を論じるときに決まって引用されるのが、1958年の第一作品集『死者の奢り』の後書きに記された次の一文である。「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」。大江は、一人称による感覚的な表現で、犬殺し、死体運搬人、カリエス患者、偽学生、捕らえられた黒人兵、少年院の少年、など多彩な題材のヴァリエーションでこの主題を展開した。そして、占領下の生活を強いられた敗戦後の日本と日本人の「監禁状態」、未来に希望や確信を持てない青年の不安を描き出した。これらは当時、大学の仏文科の学生として、ガリマール版サルトルを読み込んで、サルトルの作品『壁』『自由への道』などから「壁の中」「猶予」という概念を獲得して、それに倣ってのものであった。 この「監禁状態」の主題からの次の展開として、大江は、独自の「政治的人間」と「性的人間」の二項対立を、主題に導き入れる。次の文章も、初期大江論で常に引用される文章である。「政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抵抗し、他者を撃ちたおすか、あるいは他者に他者であることをみずから放棄させる。」「性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。かれは他者と硬く冷たい関係をもたぬばかりか、かれにとって本来、他者は存在しない。かれ自身、他のいかなる存在にとっても他者でありえない。」「政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない、政治的人間は他者と対立し、抗争し続けるだけだ」(「われらの性の世界」)。大江は、現実から疎外され、現実生活における行動の契機を奪われて停滞を余儀なくされている現代青年(性的人間)を描いていく。『われらの時代』(1959)『遅れてきた青年』(1962)『叫び声』(1963) の登場人物は、日米安保体制の下政治的にアメリカに従属しながらではあるが、それなりのは経済的繁栄や安定を手にしつつあった戦後日本社会(政治的に牝になった国)において、日常生活に埋没することを忌避しながらも、そこでしか生き得ない自分を嫌悪して、狂気や暴力に惹かれていく青年である。彼らは戦争を渇望したり、外国への脱出を希望する。しかし願いは叶うことはなく、やがて破滅して「敗北の確認」といった形で小説は終わる。 戦後社会を呪詛する絶望的な青年像を描いてきた大江にとって、大きな転機となったのが、1963年6月の長男の大江光の誕生であった。この出来事は、これまでの創作において、否定的に表象されてきた「日常」に大江を引き戻す契機となった。光の誕生を題材として書かれた1964年の『個人的な体験』はこの関心の変容を、物語の展開として孕んでいる。主人公の「鳥(バード)」は、それまでの大江の作品の主人公と同様に、現実逃避的な心性から、アフリカへ逃避する願望を持っている。「鳥」は生まれてきた脳に重い障害をもつ赤ん坊を見棄てるか、手術を受けさせて生かすかの決断の前で揺れて、最終的には回心してアフリカへの幻想を捨てて、子供とともに生きる覚悟を決める。大江の現実世界に対する関心もまた、従前の日米安保体制下での軍事的、政治的従属を批判的に捉えるという眼差しから、より世界的な拡がりのある「ヒロシマ」を中心とする「核」の問題へと移ることになる。 大江は、光の誕生と同年の1963年8月の原水爆禁止世界大会を取材し、その後も原爆病院の医師や原爆の生存者に取材を重ねて1965年に『ヒロシマ・ノート』を出版している。『ヒロシマ・ノート』は冒頭こう書き始められる。「このような本を、個人的な話から書きはじめるのは、妥当でないかもしれない。」「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であった。」この私生活の苦しい状況の中での取材で、大江は悲惨な体験をした広島の人々の生き方から励ましを受け取る。そしてこう述べている。「まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけていた。僕は直接かれらに勇気づけられたし、逆に、いま僕自身が、ガラス箱のなかの自分の息子との相関においておちこみつつある一種の神経症の種子、頽廃の根を、深奥からえぐりだされる痛みの感覚をもあじわっていた。そして僕は、広島とこれらの真に広島的なる人々をヤスリとして、自分自身の内部の硬度を点検してみたいとねがいはじめたのである。」障害を持つ子供との共生という個人的な問題と世界規模の核状況という一見、対極的な二つの問題は、大江にとって当初からひと繋がりのものである。『個人的な体験』には核状況は主題として取り込まれており、(赤ん坊の誕生時期を二年遡行させて)1961年のソ連による通称「ツァーリ・ボンバ」の水爆実験が描かれる。そして、赤ん坊をどうするべきか、という個人的な問題に閉じ込められて、世界規模の脅威に感応しえなくなった主人公「鳥(バード)」の姿が描かれて、私的な問題との対比で核の問題の重大さが強調された。「核」の問題と「共生」の問題は、現実世界の最大の暴力である核に対して最も無力な存在としての障害児として大江の想像力の中で関連づけられて、以後の作品においてもこの二つの主題が同時に現れることになる。 1973年の『洪水はわが魂に及び』の核シェルターに閉じこもる主人公・大木勇魚とその子供で知的障害をもつ幼児ジンと交流をする不良少年たち「自由航海団」は、初期作品の『われらの時代』の「不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)」や『叫び声』の「友人たち(レ・ザミ)号」の乗員たちと同類型の登場人物である。しかし本作は「洪水」に核時代の始まりというイメージが重ねられているように、核状況の終末観を背景としていること、そして、それに対抗するものとしての「祈り」が主題として登場することにおいて新しい。この「祈り」は神などの特定の祈る対象のない「祈り」であり、大江自身の説明によるならば「人間存在の破壊されえぬことの顕現」(ミルチャ・エリアーデ)を感得するためのものである。 長男・光と「祈り」との関係については、1987年10月に東京女子大学で行われた「信仰を持たないものの祈り」(『人生の習慣』)という講演があり、そこで大江は次のような回想をしている。光は、四歳になっても能動的に言葉を話さず、意思疎通が難しかったが、鳥の声のテレビ番組には関心を示した。そこで鳥の声のレコードを買ってきて、自宅で一日中流し続けていた。一年後、北軽井沢の林で長男と散歩していると、クイナが鳴いた直後に長男が「クイナです」と反応した。幻聴かと緊張しながら、鳥がもう一度啼いたらいいと思い、そのときに自分の心の中に「ある祈りのようなもの」を感じた。そしてもう一度クイナが鳴き、光はまた「クイナです」と言った。大江は、この場面を次のように説明している。「祈ったというよりも、集中していたというほうが正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。(......)いま自分がこの木を見て集中している、ほかのことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。」この一種の啓示体験が『洪水はわが魂に及び』に設定として取り込まれた。 1983年の作品『新しい人よ眼ざめよ』はヴァルネラブルな父と子が、『洪水はわが魂におよび』のように社会の外に退避するのではなく、社会の中でどう生きていくのかを書く試みであった。虚構性の低い私小説的な作りの小説の中で、日常生活の中で光の存在から受けた多様な気づきにウィリアム・ブレイクの詩が重ね合わされていく。大江がブレイクの神秘主義的な「死と再生」のヴィジョンに深く揺り動かされたのは、大江が既に、ブレイクのヴィジョンに共通するところのある「人間存在の破壊されえぬことの顕現」を光との共生によって見出してきていたことに由来し、また、ブレイクを介することによって大江は「障害を持って生まれざるをえなかった息子についての遺恨の思いと「罪のゆるし」、自分のきたるべき死と、息子ともどもの再生への思い」をあらためて把握し直すことになった。作品においては、息子との共生の時々が、ブレイクのヴィジョンを触媒にして、瞬時に、驚きに満ちた解放感を伴って、普遍的な光景として救出されていく。本作においても、核状況下の現代世界における極小的な弱者である障害児と、それに拮抗する極大的な暴力である核というモチーフは引き継がれており、結末において、ブレイクの詩に導かれて光の存在に「凶々しい核時代」に拮抗する「新しい人」を見出して終わる。 「信仰を持たないものの祈り」というテーマは、この後も『人生の親戚』、『懐かしい年への手紙』とその後日譚となる『燃えあがる緑の木』『宙返り』に引き継がれていく。 『個人的な体験』な体験を境にして、大江の作品は質的に変化する。作品世界がそれまでの水平型な「脱出」のモチーフから、垂直型の空間体験に変わる。このことは『万延元年のフットボール』に顕著に見られ、自宅の庭に掘った穴ぼこに潜り込んだ主人公の描写から物語は始まり、終章で故郷の屋敷の地下に座り込んだ主人公の思念が語られる。主人公はアイデンティティの回復を求めて父祖の地に戻り、父祖の歴史の真相を探り、未来に想像力を働かせる。こうした縦の関係の探究は、幼少期の体験として心理的な傷となった父の死と天皇性の問題を掘り起こすことにもなった。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で、失われた父の全容を復元しようとする中で、父はしばしば超越者と混同されるが、三島由紀夫のクーデター未遂を受けて書かれた1972年の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』では明確に天皇制の問題となった。 1967年に出版された『万延元年のフットボール』は、当時の色川大吉や安丸良夫らによって先導された民衆史との並行関係が指摘されるように、歴史を権力の側からではなく、民衆の側から見ようとする試みであった。執筆当時は、建国記念の日の制定や、政府主導の「明治百年」記念イベントが大々的に展開されるなど、復古主義的な動きがあり、大江はそれに大きな違和感を抱いており、これが作品成立の背景にある。1965年に本土復帰前の沖縄を訪れた大江は、日本本土の天皇という中心を指向する文化とは別の文化を発見して大きな衝撃を受けている。日本的というよりアジア的な宇宙観、神話構造に根ざした民衆文化を知ることで、四国の森の中の故郷の土地を新しい眼で見るきっかけを得ており、これが作品に反映されている。 1979年に発表された『同時代ゲーム』は、幼少期に祖母などから聞いた故郷の伝承を手がかりにして、ロシア・フォルマリズムやミハイル・バフチン、構造主義などの知見を援用する形で、大江の故郷の森の谷間の村の神話を再構築した。大江は、執筆の動機として天皇との関係を述べている。「僕がこの森のなかの「共同体」を、はじめてそこに古代国家を建設した人びとのものとして成立させえたことの(かれらがじつはその「場所」の侵犯者ではないかという疑いもまた、隠された主題としてあるのではあるが)その根本的な条件としては、僕が中心志向の天皇制文化とは対極にある、周縁志向の反・天皇制文化をひとつの全体として表現することをめざしたということがあると思う。アマツカミという中心の、万世一系の末裔=天皇を頂点に置いた世界モデルとしての日本文化。それに対立する、クニツカミという多様な周縁的存在につながるものとしての世界モデル。僕はそのような文化に、自分の希求する共同体文化の中核(共同体文化の中核に傍点)を想定し、そこに「位置する」はたらきに、自己の個人の中核(個人の中核に傍点)に「位置する」はたらきをかさねることをめざして、この小説を書いたのである。」 『同時代ゲーム』は1986年に、ナラティブを変えて、やわらかい口語的な文体で『M/Tと森のフシギの物語』にリライトされる。『同時代ゲーム』では、森の谷間の「村=国家=小宇宙」の創建者「壊す人」や「父=神主」の父権的な族長(ぺイトリアーク)をめぐる歴史に主眼が置かれたが、『M/Tと森のフシギの物語』では女族長(メイトリアーク)とトリックスターという二つの神話原型が物語の枠組みとなった。そして最終章に語り手「僕」の母親と「僕」の息子ヒカリ(光)と交感のエピソードを置き、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』へと大江が追求してきた「森の神話」の作品群と、『個人的な体験』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る「共生」の物語群が交錯することとなった。併せて『同時代ゲーム』において傍系的な挿話であった「森のフシギ」が、土地の人間が生まれ、育ち、死んでいく、いのちのおおもと、個でありながら一つの全体性を形作る共同幻想として物語の中心に据えられ、ウィリアム・ブレイクやダンテにつながる神秘思想的な世界観が示された。 小説の方法に自覚的な作家である。『小説の方法』をはじめとした小説の方法論を考察した著作がある。小説創造のベースに置いている考え方で、特に重要なものはガストン・バシュラールの想像力論の「想像力とは、知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、基本的イメージからわれわれを解放してイメージを変える能力である」という考え方、ミハイル・バフチンの「グロテスク・リアリズム」の概念(精神的・理想的なものを肉体的・物質的な次元に引き下げ、民衆的・祝祭的な生きた総体として捉えること)、ロシア・フォルマリズムの理論家ヴィクトル・シクロフスキーの芸術における「異化」の概念などである。 自作に先行文学作品からの引用を織り込んで作品世界を作り上げることに特徴がある。これは1980年代以降に顕著となる。その効果として作品中に地の文と別のテクスチュアの文を織り込むことで文体の多様化を図る。地の文章を一つの柱としたら、それと構造的に支え合い、力を及ぼし合うもう一つの柱として引用を建てて作品の奥行きを増す。という効果を狙っている。このやり方が立脚する根本の思想としては「本来、言葉とは他人のものだ」という言語観がある。大江は大学時代の恩師である渡辺一夫から作家生活をやっていく上で、三年ごとに主題を決めて一人の作家なり思想家なりをその作品のみならず、研究まで読み込むと良い、という勧めを受けており、それを実践している。その実践が上述の引用に結びついている。 引用についてこう述べている。「本当に、引用の問題はいままでの小説──少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説──の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文章との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく、そういう文章を作ることが文体のつくり方での主目的にさえなりました。ある詩に感銘するでしょう、その引用が一番ぴったりするように、その環境としての文章を作っていく。そういうわけですから、引用が、なにより決定的に重要な意味を持ち始めます。『懐かしい年への手紙』ではダンテですし、短篇の連作集『「雨の木」を聴く女たち』の場合は、マルカム・ラウリー。『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクですね。『燃えあがる緑の木』三部作の場合はイエーツ、『宙返り』ではR・S・トーマスだった。」(大江健三郎作家自身を語る) 1980年代以降の大江の殆どの小説は、過去に書いた自己の小説を引用・参照し、再利用・再生することで書かれている。こうした方法の理論的起源は『小説の方法』で考察されたシクロフスキーの「異化」理論である。自作を「異化」することは、創作者の意識において、すでに反射化された自作を再び明視すること、自作に対する固まった観念を疑問視するということ、自作への異議申し立てである。自作言及・自作引用する作品は多くの場合、自作の注釈・説明という方向ではなく、自作を解体する方向へ物語を導いて、それまでの「大江健三郎」「大江健三郎の小説」およびそれらにまつわる批評を含む、総合的な「自己」を相対化していく。一方、自伝小説『懐かしい年への手紙』は多数の自作と他の作家の作品を縦横無尽に引用していくが、こうした複数の自作を同時に再検討・再解釈をする形式は過去の自作に新しい意味内容を付与するだけではなく、それらの自作を統合するという方向を向いている。大江の自己言及小説は、自己の統合や達成を遅延化し、非完成を目的とする「晩年の様式」型と、自作の完成や統合、締めくくりを目指す「最後の小説」型との二類型に分類できる。 大江自身は散文を書く人間であるが、詩を重要視しており、上述の通り、ダンテ、ブレイク、イェーツなどの詩を自分の中に取り込んで、その磁場の中で創作を行っている。元々、高校の頃から三好達治、萩原朔太郎、中原中也、富永太郎、谷川俊太郎などの日本の詩人を愛読していた。大学生協の図書部で深瀬基寛対訳のT・S・エリオット、オーデンを手に入れて、その翻訳文体でその文体で、この国にはない小説が書けるのではないかと考えるようになったという。 こう述べている。「とくにオーデンの詩について、私が魅力を感じたのはこういうことだった。そこではこまかな具体的事物から人間について、また社会、政治、国際関係について、ひとつながりに、共通のヴォキャブラリーとナラティヴによって語られている。さらに、エリオットの詩的な優雅さが日常的な散文の語り口へとなだらかな移行を示す――あるいは、その逆方向へ――その書き方が好きだったのだ。そして両者ともに、日常生活の観察のレヴェルにかさねて形而上学的な、さらには神秘主義的ですらある豊かさ、深さにいたる表現に惹かれて、それもまた私には新しい小説のスタイルへの指針のように感じられたのである。だからといって、すぐさまそれを、私が作品に実現しえたのではなかったけれども。」 小説家としての自分にとって詩がどういう意味を持つかについて『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文「なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの」において次のように述べている。 「この不慮の死の陥穽にみちみちた時代を生きるにあたって、そうした突然の死のまぎわに、自分の肉体=魂の内部に、ぼくとともに死ぬところの詩を確保することで、いくらかなりと死の恐怖と苦痛をやわらげるべく詩をもとめているのであるし、そのような詩よりほかの、いかなる華やかな言葉の飾りもさがしだそうとしているのではないのだ。」 (しかし) 「ぼくは詩をあきらめた人間である。それは、あきらめるという言葉がもともと二重の意味あいをそなえて一個の言葉として実在している事情そのままに、詩の言葉と小説の言葉の根本的なことなりについて、なんとかあきらかに認識したことによって、詩を書くことをやめ、小説にむかった人間だ。」 「ぼくが詩をあきらめたのは、自分の言葉にたいする、自分自身の方向づけが、詩の言葉より、小説の言葉にむいていることを認めざるをえなかったからである。」 「ぼくにとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂につきささっているトゲのように感じられる。それは燃えるトゲである。日常生活において自分の肉体=魂が、その深みにしっかり沈んでいる詩の錘をたよりに生きているとすれば、小説を書こうとしているぼくの肉体=魂は、自分の小説の言葉によって、なんとかこの燃えるトゲにたちむかおうとしているわけである。この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である。」 『新しい人よ眼ざめよ』を執筆しながらブレイクを読解していたが、大きな参考としていたのが、学者ディヴィッド・V・アードマン『ブレイク、帝国に真向う予言者』と、学匠詩人キャスリン・レイン『ブレイクと伝統』だという。レインの、ブレイクの魂の課題をキリスト教以前の神秘的な信仰に引きつけての解釈を介して「これまでずっといつまでも漠然としたところの残る気がかりな対象だったネオ・プラトニズムが、ブレイクの詩と絵画を素材にして、よく理解できると思えた」「レインに導かれた私は、光との共生で直接経験を重ねてきたことを、明快な神秘主義において受けとめなおすことができると感じた」という。ダンテに関心を導いたのもレインであるという。その後、大江はイェーツに関心を移していくが、イェーツにも、ユダヤ・キリスト教の背後、あるいは外側の伝統としての宗教感情、イマジェリー、宇宙観を読み込んでいく。そのイェーツ解釈をもとにして、『燃えあがる緑の木』を執筆している。 「後期の仕事(レイト・ワーク)」においてもR・S・トーマス(『宙返り』)、アルチュール・ランボー(『取り替え子(チェンジリング)』)T・S・エリオット(『さようなら、私の本よ!』)、エドガー・アラン・ポー(『美しいアナベル・リイ』)と詩が果たす役割は大きい。 詩人マイ・ベストスリーを問われてT・S・エリオット、イエーツ、ブレイクと答えている。 一旦書き上げた草稿を徹底的に推敲して書き直す。本人はこの作業を友人の批評家エドワード・サイードの用語からとって「エラボレーション」と読んでいる。例えば『取り替え子(チェンジリング)』の場合、1000枚ほど書いてそれを500枚まで縮め、さらに加筆して現在の長さになったという。最初に書かれた文章が原型を留めないほどに、徹底的に書き直された原稿用紙の写真は『大江健三郎全小説』などで見ることができる。 批評家フレドリック・ジェイムソンが『宙返り』についてロンドン・レビュー・オブ・ブックス誌で「スウード・カップル (Pseudo-Couples)」というタイトルの評論を書いている。ジェイムソンは、大江の作品には、ベケットの戯曲や小説につながる「おかしな二人組(スウード・カップル)」が出てきて、二人の人物の組み合わせが物語を動かす構造になっていると指摘している。この指摘は作家自身気に入っており、『取り替え子』からの三部作を「「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作」と名付けている。『芽むしり仔撃ち』の兄弟、『万延元年のフットボール』の蜜三郎と鷹四、『懐かしい年への手紙』の「僕」とギー兄さんなどにこの二人組の系譜を確認できる。 1980年代以降の大江の作品は、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガのように一つの作品に登場した人物(とその子孫)が別の作品に登場し、全体として緩くつながっていることに特徴がある。例えば、『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』に登場するアルコール依存症の英文学者くずれの高安カッチャンの息子、ザッカリー・K・高安が『燃えあがる緑の木』に登場、『懐かしい年への手紙』の主要人物ギー兄さんの息子のギー・ジュニアが『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に登場などの例が挙げられる。 影響を受けた古典として長編『源氏物語』、中編『好色五人女』、短編『枕草子』と答えている。「新潮日本古典集成」をベッドや電車で愛読したという。 大江自身が(擬似的な)私小説の書き手であることもあり、近代文学の中では、日本独自の文学のスタイルである、読者との共犯関係のもとで告白を行う私小説に特別な関心を寄せている。葛西善蔵、嘉村礒多、牧野信一といった破滅型私小説の作家を評価している。 ノーベル賞の受賞の第一報を受けて自宅前で記者に囲まれて「日本文学の水準は高い。安部公房、大岡昇平、井伏鱒二が生きていれば、その人たちがもらって当然でした。日本の現代作家たちが積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私が受賞したのです」とコメントした。熱心に読んでいた日本の作家は石川淳、中野重治であるという。安部、大岡とはプライベートな交際もあった。 三島由紀夫の自決を受けてすぐに、天皇制を批判的に問い直す「みずから我が涙をぬぐいたまう日」を書いている。その後も三島事件は『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)連作の「落ちる、落ちる、叫びながら...」「蚤の幽霊」、『さようなら、私の本よ!』(2005年)と繰り返し取り上げられる。大江がかつて天皇崇拝のテロリストの少年を描いた「セヴンティーン」を発表した際、それを読んだ三島は、大江は国家主義に情念的に引きつけられるところがある人間なのではないか、と考えて『新潮』の編集者を介して大江に手紙をよこしたという。2007年のインタビューで大江は、三島の読み取りは正しく、自分の中にアンビバレントなものがあることを認めている。 村上春樹の口語体の小説の翻訳が、「英語の小説」として世界に広く受け入れられていることについて、それは日本文学史上初の達成であると肯定的に評価している。かつて芥川賞の選者として村上の『風の歌を聴け』を評価できなかったのは、表層のカート・ヴォネガット的な口語体の言葉のくせに引っかかって、実力を見抜けなかったと述べている。 若い頃はジャズを聴いており、デューク・エリントン、ジャンゴ・ラインハルトには相当詳しいという(外国の大学に行ってエリントンの30年代から50年代の時期のビッグバンドの演奏家・歌手についての話題になって、ヒケをとったことはないという)。MJQのジョン・ルイスのピアノの入ったLPはすべて集めていた、という時期もあったという。ただ長男光がジャズをかけていると嫌がるためクラシックに転向した。クラシックの好みは武満徹、バッハ、晩期ベートーヴェン、ヴェルディである。 大酒家である。中年期にそれで痛風になって断酒したりもした。2007年に出版されたインタビューでは、シングルモルト、タンブラー1杯を350mLのビール4缶をチェイサーにして飲むと答えている。 80年代から、週6日プールに通い、1日1000m泳ぐことを習慣としている。『「雨の木」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』では題材として小説に取り入れられている。 大江のアイコンとなっている丸い眼鏡は、辞書を引きながら読書をするのに向くものを探して、本をよく読んだ人たち、柳田國男、折口信夫、サルトル、ジェイムズ・ジョイスが丸い眼鏡をかけているのを参考に探したもので、同じものを10個まとめて購入したという。 作曲家(1963年6月13日 - )。大江の長男で、知的な障害を持って産まれた。光という名前は、シモーヌ・ヴェイユが著作でひいた、カラスが辺りが真っ暗なのでなかなか餌が見つけられずにいるときに「この世に光があったら、どんなに餌を拾うのが易しいだろう」と思った瞬間に世界に光が満ちたというイヌイットの寓話から採られたという。光は作曲家であり、日本コロムビアより「大江光の音楽」(1992)「大江光ふたたび」(1994) のCDを出しており、後者は日本ゴールドディスク大賞を受賞している。光の存在は、大江の創作のインスピレーションの源となり、共生の経験は大江の文業を貫く大きな主題となっている。『個人的な体験』『新しい人よ眼ざめよ』『静かな生活』は光の誕生や成長がテーマ・題材である(なお、光は他の大江の作品にもヒカリ、アカリの名前で登場する)。 NHKは1994年、大江と息子・光との共生を題材にして「響きあう父と子 大江健三郎と息子光の三〇年」という番組を放映した。1995年に伊丹十三が大江の原作を映画化した『静かな生活』の劇伴音楽は光の曲が採用されている。 映画監督・俳優・エッセイスト(1933年5月15日 - 1997年12月20日)。大江の妻・ゆかりの兄である。大江とは松山東高等学校で知り合い、大江にアルチュール・ランボーの原語の詩集を与えるような文化的な手ほどきをした。伊丹の俳優時代のヨーロッパ滞在の見聞を綴ったエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』は『日常生活の冒険』の元ネタとされ、主人公の斎木犀吉も伊丹がモデルであるとされる。伊丹は、大江のノーベル賞受賞後の1995年『静かな生活』を原作とした同名映画を監督しており、文庫版の『静かな生活』の解説として、エッセイを寄せて映画撮影の裏話を披露している。大江の小説『取り替え子(チェンジリング)』は1997年の伊丹の投身自殺の衝撃を受けて書かれており、伊丹をモデル人物とする登場人物は「塙吾良」と名付けられている。大江の擬似自伝小説『懐かしい年への手紙』においては伊丹は「秋山君」として登場する。 フランス文学者・東京大学教授(1901年9月25日 - 1975年5月10日)。大江は高校時代に渡辺の著作『フランス・ルネサンス断章』を読んで感銘を受け、渡辺の指導を受けたいと考えて東京大学へ進学して師事する。大江の最初期の作品の文体は渡辺が翻訳したピエール・ガスカールの短編集『けものたち・死者の時』の文体から大きな影響を受けている。渡辺は大学卒業後も大江の精神的な庇護者であり、大江の仲人も務めている。渡辺は、作家生活を続ける上で三年毎に一つの主題を決めて書物を読み進めていくといいと助言を与え、大江はそれを実践し創作に結びつけている(「人物」項目の「創作方法など」参照)。1975年の渡辺の死去は大江に大きなショックを与えて、大江のメキシコ渡航を促した。大江にとってメキシコ体験は重要で『同時代ゲーム』の大きなインスピレーションの源となった(大江のメキシコでの体験は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『人生の親戚』などの題材ともなった)。1984年に大江は渡辺の全体像を語った連続講義『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』を出版している。また『狂気について―渡辺一夫評論選』(岩波文庫)の編纂を清水徹とともに行い、同書と『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の解説を執筆している。大江のレイト・ワークにおいては渡辺は「六隅先生」として登場する。 作曲家(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。「若い日本の会」に大江とともに参加して1960年安保改定に反対する。1963年に武満が大江の住む成城の家の100mくらいの近所に引っ越してきて親交が始まる。武満は大江文学のよき理解者で、大江の著作の解説を担当したこともある。1980年に大江が『文學界』に発表した短編「頭のいい「雨の木」」にインスピレーションを受けて武満は「(3人の打楽器奏者のための)雨の樹」を作曲する。さらにそれを受けて大江は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』連作を書き継ぐことになった。連作第二作の表題作冒頭には、その初演のコンサートの場面が出てくる。1985年、雑誌『へるめす』創刊時に、ともに編集同人となった。1980年代に武満は大江とともにオペラを作る構想を立てており、お互いの芸術観,世界観を語りあった対談を行い、共著『オペラをつくる』(岩波新書)を出版している。ここから派生して大江は『治療塔』を執筆している(『治療塔』にはリブレットもあり、これは短編集『僕が本当に若かった頃』に収録されている)。1990年代、大江は「最後の小説」とした『燃えあがる緑の木』を1995年に書き終えて小説執筆をやめていたが、1996年の武満の死に促されて『宙返り』で小説執筆を再開した。同書巻頭には「──永遠の武満徹に」という献辞が記された。2001年に東京オペラシティのコンサートホール・タケミツメモリアルで没後5年特別企画として行われた「講演と室内楽演奏会「音と言葉」」の講演録は「武満徹のエラボレーション」としてエッセイ集『言い難き嘆きもて』に収録されている。大江のレイト・ワークにおいて、武満は「篁さん」として登場する。 文化人類学者・東京外国語大学教授(1931年8月20日 - 2013年3月10日)。山口は1970年代に「中心と周縁」理論を提唱し、大江はその大きな影響を受けた(ただし、山口が「中心と周縁」理論として提示したことは大江はすでに『万延元年のフットボール』に書き込んでいるのではないかという説をニューアカデミズムの論者浅田彰、柄谷行人らは主張している。『万延元年のフットボール』参照)。大江はまた、山口が『文化と両義性』などの著作において日本に紹介した文化理論からも大きな影響を受けた。岩波書店の『叢書文化の現在』の編者をともに務めて、親交が始まった。1979年、山口や、やはり編者の中村雄二郎らと連れ立ってバリ島の習俗を取材する旅行に出ており、そのエピソードは連作『新しい人よ眼ざめよ』の同名短編に描かれている。1985年に、ともに『へるめす』編集同人となる。大江は関心のある書物を、蔵書家の山口から借りたり、山口を通じてよその大学の研究室から借りたりして読むことも多かったという。その代表的なものが大江文学の中期において重要な役割を果たしたキャスリーン・レイン著『ブレイクと伝統』(Blake and Tradition) である。大江は、山口らと酒場で落ち合って、書物を借り受けて内容の説明を聴いているうちに、その書物を早く読みたくてたまらなくなって酒席を切り上げて一人先に帰宅するということもあったという。 谷崎潤一郎賞の最年少受賞をはじめとして、国内の主要な文学賞を他の作家より二十年以上早いペースで次々に受賞して、1994年には日本人で二人目のノーベル文学賞を受賞している。 比較文学者小谷野敦は「大江は戦後日本最大の作家である」とした上で、三島由紀夫が、谷崎潤一郎が没したときに、明治末年に谷崎が現れてから没するまでの半世紀を「谷崎朝時代」と呼んだのになぞらえて、大江がデビューした1958年以降を「大江朝時代」であるとした。 「同時代の大江健三郎」(群像2018年8月号)と題された大江と同世代の筒井康隆×蓮實重彦による対談において、筒井は「1950年代から2010年代まで、ずっと大江健三郎の時代だった」と評している。蓮實は「大江さんが作家として一番偉いと思っている」と述べた。 読売新聞文化部記者尾崎真理子は、大江の最新作をいち早く的確に評することは同時代の批評家にとっての必須要件であったため、大江を軸にして日本の主要な批評家を並べることで1950年代から2020年までに至る日本現代文学史を描けるとした。 バージニア大学教授 Michiko Niikuni Wilson は「大江は現代日本文学を長年の孤立から脱け出させ、世界文学の中心に届けた」("Oe has delivered modern Japanese literature out of its long isolation and into the heart of world literature.") と評している。 戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、平和主義者として、護憲派の立場から、日本国憲法第9条についてエッセイや講演で積極的に言及している。核兵器についても反対の立場を明確にしている。 1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引用している。 同1994年、ノーベル賞の受賞を受けて天皇からの親授式を伴う文化勲章の授与が内定し、文化庁から電話で打診されたときにはそれを断っている。米紙ニューヨークタイムズのインタビューで「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(注:天皇制)を認めないからだ。これは単純なことだが非常に重要なことだ」と話した。 1995年、フランスの南太平洋における核実験再開に抗議して、南仏で開催される予定だったシンポジウムへの出席を取りやめた。このことでフランスのノーベル賞作家クロード・シモンとの間で論争が生じた。 1999年、朝日新聞に掲載されたアメリカの批評家スーザン・ソンタグとの公開書簡において、NATOによるユーゴ空爆を批判し、意見が対立した。 2003年の自衛隊イラク派遣の際は仏紙リベラシオン掲載記事において「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した。 2004年には、憲法9条の平和主義の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。 歴史認識について、1990年代以降表面化してきた歴史修正主義を伴う右派運動・言論について繰り返し反対を表明している。2001年には、「新しい歴史教科書をつくる会」編集・扶桑社版の植民地支配と侵略を肯定する中学校の歴史教科書の検定申請がされたことを受けて鵜飼哲、高橋哲哉、小森陽一、井上ひさしら学者・文化人17人の連名で「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」と題する声明を発表している。 大江は1970年に『沖縄ノート』を上梓している。第二次世界大戦末期の地上戦において、戦後も朝鮮戦争・ベトナム戦争の基地として戦争に巻き込まれ、本土から捨て石とされ続けていた日本返還前の沖縄をめぐるルポルタージュである。この書において沖縄戦において生じた民間人の集団自決は軍に強いられたものであるとした。これについて、2005年、歴史の見直しを主張する右派に担ぎだされて、旧軍指揮官と遺族が大江を提訴したが、裁判では「集団自決に日本軍が深く関わった」(地裁)「軍が深く関わったことは否定できず、総体としての軍の強制、命令と評価する見解もあり得る」(高裁)と判断されて、指揮官・遺族は敗訴した。 原子力発電について、1960年代に行われた講演において、核エネルギーの開発が、自身が強く反対する核兵器の開発や保持と結びつくことに懸念や警戒を示したうえで、両者が切り離されているのならば「(注:電源としての)核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べていたが 、1970年代後半以降は反対する立場をとっている。2011年、東日本大震災による福島第一原子力発電所事故を契機に立ち上がった脱原発の社会運動「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人となっている(他の呼びかけ人は内橋克人、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔)。 東アジア外交については、2006年には中国社会科学院の招きで訪中して複数の場所で講演を行い、南京大虐殺紀念館などにも訪れた。講演ではいずれも魯迅をテーマとしたが、その中で日中友好に触れて日本における戦争加害の歴史の忘却を憂えた。2012年には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元『世界』編集長の岡本厚ら1300人と共同で発表。韓国、中国との領土問題について対立を感情的にエスカレートさせずに冷静に協議、対話をしていく必要があることを訴えた。 著作は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、イタリア語、スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷である四国の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちに大江の作品の舞台となる。1941年、大瀬小学校に入学。この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1944年、父親が50歳で心臓麻痺で急死している。1947年、大瀬中学校に入学。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、翌年、大学進学のための教育を受けるために愛媛県立松山東高等学校へ転校する。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などの作品を読む。松山東高校では文芸部に所属して部誌『掌上』を編集、自作の詩や評論を掲載した。同校において同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1953年に上京し、浪人生として予備校に通ったのち、1954年に東京大学教養学部文科二類(現在の文科III類)に入学。演劇脚本や短編小説の執筆を始める。1955年、小説「優しい人たち」が「文藝」第三回全国学生小説コンクールで入選佳作となる。同年、小説「火山」が銀杏並木文学賞(東京大学教養学部学友会学生理事会の主催)第二席となり、教養学部の学内誌に掲載されて、作品が初めて活字となる。この頃、ブレーズ・パスカル、アルベール・カミュ、ジャン=ポール・サルトル、ノーマン・メイラー、ウィリアム・フォークナー、安部公房などの作品を読む。1956年、文学部仏文科に進み、高校時代より著作を愛読し私淑してきた渡辺一夫に直接師事する。小説「火葬のあと」が「文藝」第五回全国学生小説コンクール選外佳作となる。東大学生演劇脚本の戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに入選する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載され、文芸評論家平野謙の激賞を受ける。これを契機として、短編「死者の奢り」により学生作家としてデビューし、続々と短編を各文芸誌に発表するようになる。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となる。1958年、自身初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表する。大江の故郷の村をモデルにした閉ざされた山村を舞台にして、社会から疎外された感化院の少年たちの束の間の自由とその蹉跌を描いた。同年、短編「飼育」により第39回芥川賞を23歳で受賞する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1959年、東京大学卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」であった。同年、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する。政治などの現実社会から内向的な性の世界へと退却する、停滞状況にある現代青年を描く。この時期の大江の、性を露骨に描いて日常的規範を攪拌させる方法はノーマン・メイラーの影響を受けている。この年、東京都世田谷区の成城に転居し、近所に住む武満徹と親交が始まる。1960年、伊丹十三の妹のゆかりと結婚。同年、石原慎太郎、江藤淳、浅利慶太らと「若い日本の会」で活動をともにし、日米安保条約(新安保条約)締結に反対する(「安保闘争」参照)。「日本文学代表団」の一員として、野間宏、亀井勝一郎、開高健らとともに中華人民共和国(中国)を訪問して中国の文学者と交流し、毛沢東と対面している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1961年、中編「セヴンティーン」と続編「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を発表する。浅沼稲次郎暗殺事件に触発されて、オナニストの青年が天皇との合一の夢想に陶酔して右翼テロリストとなる様を描いたが、同じ頃に発表された深沢七郎の『風流夢譚』と同様に右翼団体からの脅迫に晒された(このため「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」はその後の単行本に収められていなかったが、2018年『大江健三郎全小説3』で遂に「セヴンティーン」と併せて収録された)。同年、ブルガリアとポーランドの招きに応じて、両国やソ連、ヨーロッパ各地を訪問して、フランスの首都パリでサルトルにインタビューを行っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害をもって誕生する。1964年、光の誕生を受けての作品『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、様々な精神遍歴の末、現実を受容して子供とともに生きる決意をするまでの過程を描いた作品である。同年、太平洋戦争末期に人類史上初めて核攻撃を受けた広島市に何度も訪れた体験や、原水爆禁止世界大会に参加した体験を基にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始する。障害を持つ子との共生、核時代の問題という終生の大きなテーマを同時に二つ手にしたこの年は、大江にとって重大な転機の年であった。1965年、広島について報告するために、米国の国際政治学者ヘンリー・キッシンジャーのセミナーに研究員として参加して、ハーヴァード大学に滞在している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表し、最年少(2019年時点で破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞する。遣米使節が渡航した万延元年(1860年)から安保闘争(1960年)までの百年を歴史的・思想史的に展望して、四国の森の谷間の村に起こる「想像力の暴動」と様々に傷を抱えた家族の恢復の物語を描いた。1968年、東京の新宿にある紀伊國屋ホールにて月例の連続講演を一年間行ない、これは『核時代の想像力』(1970年)としてまとめられた。この頃からガストン・バシュラールに依拠して、現実を変えていく力としての「想像力」論を打ち出していく。1968年、『個人的な体験』の英訳 \"A Personal Matter\" が出版されている。1967年には長女の菜採子、1969年には次男の桜麻が生まれている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この頃から海外の作家との交流が盛んになる。1968年にオーストラリアのアデレード芸術祭に参加し、エンツェンスベルガー、ビュトールと面会する。1970年、1973年にはアジア・アフリカ作家会議に参加。1977年、ハワイ大学のセミナー「文学における東西文化の出会い」に参加してアレン・ギンズバーグ、ウォーレ・ショインカと対話する。また1970年代には文芸誌『新潮』『海』においてアップダイク、ギュンター・グラス、バルガス・リョサと対談している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1971年、1972年に発表した二つの中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島由紀夫のクーデター未遂と自決を受けて天皇制を批判的に問い直すことを主題とした。1973年には『洪水はわが魂に及び』を発表し、第26回野間文芸賞を受賞。本作は核状況下における終末観的な世界把握の下に構想されており、破滅へ向かう先進文明に対抗するものとしてのスピリチュアルな祈りを主題としている。1974年には『万延元年のフットボール』の英訳 \"The Silent Cry\" が出版されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1975年、大学時代の恩師の渡辺一夫が肺癌で死去し、大きなショックを受けた。立ち直りのきっかけを求めて1976年にメキシコに渡り、コレヒオ・デ・メヒコの客員教授として日本の戦後思想史の講座を受け持つ。現地でオクタビオ・パスやフアン・ルルフォ、メキシコに居を構えていたガブリエル・ガルシア=マルケスらラテン・アメリカの文学者と知り合う。1976年に発表された『ピンチランナー調書』は天皇制や核の問題を主題としている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1978年には「遅れてきた構造主義者」と称して、ちょうど日本に紹介され始めたバフチン、ロシア・フォルマリズムなどの思想潮流や山口昌男の理論などを参照して『小説の方法』を出版している。1979年に発表された原稿用紙1,000枚の大作『同時代ゲーム』において、故郷の森の谷間の「村=国家=小宇宙」の神話や歴史を描いた。大江はこれを自らの文学的な人生の大きい柱の作品と位置付けており、実際、本作にはこれ以前の大江作品の様々なモチーフが回収され、以降の作品に現れる要素も胚胎している。1980年から1982年にかけて、中村雄二郎、山口昌男とともに編集代表を務めて論集「叢書文化の現在」(全13巻)を編纂して、学際的な新しい「知」の枠組みを提示する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1982年、荒涼とした世界における男女の生き死にを見つめた連作短編集『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を発表して、翌1983年に第34回読売文学賞受賞(本作と武満徹との関係は、後述「関わりの深い人物」項目を参照)。本作以降の大江は多くの作品において、作家自身を思わせる小説家を語り手として、自分の経験や思索を虚構化していく。また自作の引用、自己批評、書き直しや西洋の古典(本作においてはマルカム・ラウリーである)との対話によって、読むこと書くことの試行錯誤そのものを小説に書き込むようになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1983年の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクの預言詩や、それに関連する研究を読むことで導かれた思索を織り交ぜながら、知的障害をもつ長男・光を中心とした家族の日常を私小説的に描き、第10回大佛次郎賞を受賞する。ここで、ブレイク研究者の女性詩人キャスリーン・レインを大きな導き手としてネオ・プラトニズムに触れ、大江文学中期のテーマである「魂の問題」「再生」といった神秘的な問題を掘り下げ始めるようになった。同年、米国のカリフォルニア大学バークレー校に共同研究員として滞在している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1984年、磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男とともに編集同人となり、季刊誌『へるめす』を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。当時の出版界が「知」のブームが沸く中で創刊された本誌は1980年代を代表する知識人の拠点となる。同年、国際ペンクラブ東京大会に参加して、講演「核状況下における文学─なぜわれわれは書くか」を行い、カート・ヴォネガット、アラン・ロブ=グリエ、ウィリアム・スタイロンと対話する。1985年、連合赤軍事件を文学の仕事として受け止め直す連作短編集『河馬に嚙まれる』を発表する。表題作で第11回川端康成文学賞を受賞している。同年『万延元年のフットボール』のフランス語訳 \"Le jeu du siècle\" がガリマール出版社より刊行されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1986年には『同時代ゲーム』の世界をリライトした『M/Tと森のフシギの物語』を発表する。このリライトは難渋であるとして読者に十分に受け入れられなかった『同時代ゲーム』を平易にすると同時に、『同時代ゲーム』において十分に展開しきれなかった「魂の再生」のテーマを追求する意味合いがあった。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにした虚実綯い交ぜのメタ・フィクショナルな自伝『懐かしい年への手紙』を発表する。『同時代ゲーム』以来の原稿用紙1,000枚の大作で、『芽むしり仔撃ち』以来描き続けてきた森の谷間の小宇宙を統合する試みであった。前者は1989年に \"M/T et l'histoire des merveilles de la forêt\" のタイトルで、後者は1993年に \"Lettres aux années de nostalgie\" のタイトルで、フランス語訳がガリマール社より刊行された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし、子供を自殺で失った女性の悲嘆とその乗り越えを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞する。1990年に発表されたSF『治療塔』とその続編の『治療塔惑星』(1991年)では、イェーツの詩を引きながら核時代の危機と人類救済の主題を描いている。1990年、連作短編集『静かな生活』を発表。『新しい人よ眼ざめよ』において主題となった知的障害を持つ長男との共生の体験を、彼の妹の視点を通して改めて描いている。この時期の大江は女性を語り手に選び、それに見あった語り口を模索している。また超越的な存在と自分自身の関係を問い直そうとしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1993年9月より原稿用紙2,000枚に及ぶ三部からなる長編『燃えあがる緑の木』の連載を開始する。『懐かしい年への手紙』の後日譚として、四国の森の中の谷間の村を舞台とした「教会」の勃興から瓦解に至るまでの過程を、両性具有の若い女性の視点を通して描き、「魂の救済」の問題を描き尽くした。連載当時はこれを「最後の小説」としていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『燃えあがる緑の木』連載中の1994年、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている(who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」という理由でノーベル文学賞を受賞する。川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者であった。ストックホルムで行われた受賞講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端の講演は極めてvague(あいまい、ぼんやりした)であり、閉じた神秘主義であるとし、自分は日本をambiguous(あいまい、両義的)な国として捉えると述べた。日本は、開国以来、伝統的日本と西欧化の両極に引き裂かれた国であるとの見方を示し、小説家としての自分の仕事は、ユマニスムの精神に立って「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒す」ことであると述べた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "小説執筆の一旦の終了を受けて1996年より新潮社より『大江健三郎小説』(10巻)が刊行開始された。これは全集ではなく、作者が吟味し基準に適うもののみが収録された。長編でいうと初期作品の『われらの時代』『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』は収録されなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1995年に「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結し、小説執筆をやめてスピノザの研究に取り組むと述べていた。だが1996年の友人・武満徹の病死を契機に考えを変え、告別式の弔辞において新作を捧げるとし、1999年に『宙返り』を発表。信徒が計画するテロを防ぐために一度「棄教」した新興宗教の教祖らによる、波乱の中での教団の再建を描いている。これ以降の創作活動は作家自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と称する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2000年、義兄の伊丹十三の自殺を受けて、文学的な追悼として伊丹の死を新生の希望へと繋ぐ『取り替え子(チェンジリング)』を発表する。続けて『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)を発表した。これらは「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。『さようなら、私の本よ!』では2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受けてテロリズムの問題が主題とされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2007年には、30年前にお蔵入りとなった映画制作の顛末と、再び企画を立ち上げる老人たちの友情を描いた『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(文庫刊行時に『美しいアナベル・リイ』に改題)を発表する。2009年には、終戦の夏におきた父親の水死の真相を描こうとする老作家の巻きこまれる騒動を描く『水死』を発表。本作は70年代に中編「みずから我が涙をぬぐいたまう日」で取り組まれた「父と天皇制」のテーマに再度挑むものであった。2013年には、東日本大震災とそれに伴う原発事故を題材とした『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を刊行した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『取り替え子(チェンジリング)』以降のレイト・ワークは『美しいアナベル・リイ』を除き、大江をモデル人物とした老作家・長江古義人を主人公とする(『美しいアナベル・リイ』の語り手の老作家「私」は、作中で他の登場人物からケンサンロウ、Kenzaburoと呼ばれる)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "創作以外の活動としては1996年にプリンストン大学で客員講師を、1999年にベルリン自由大学で客員教授を務めている。2006年に純文学を志す有望な若手作家を世界に紹介する目的で大江健三郎賞が創設された(本賞は2014年に終了した)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2014年、『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)を出版。作家自身が作品を厳選し、全収録作品に加筆・修訂を施している。2016年、仏ガリマール社より1,300ページを超える選集が刊行された(「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」が収録された)。2018年より『大江健三郎全小説』(15巻)が講談社から刊行開始された。「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」が収録されることで話題になった。全小説と銘打っているが作者が不出来だと封印している『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』の二点が収録されておらず完全な全集ではない。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2021年2月、「死者の奢り」『同時代ゲーム』『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』などの作品の自筆原稿1万枚超を含む資料約50点が東京大学に寄託されると発表された。資料を保管・管理し、国内外の研究者に公開する研究拠点「大江健三郎文庫」が文学部内に設立される。同一作家の自筆原稿コレクションとしては屈指の規模になるという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2023年3月3日、老衰のため死去。88歳没", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最初期の大江の作品を論じるときに決まって引用されるのが、1958年の第一作品集『死者の奢り』の後書きに記された次の一文である。「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」。大江は、一人称による感覚的な表現で、犬殺し、死体運搬人、カリエス患者、偽学生、捕らえられた黒人兵、少年院の少年、など多彩な題材のヴァリエーションでこの主題を展開した。そして、占領下の生活を強いられた敗戦後の日本と日本人の「監禁状態」、未来に希望や確信を持てない青年の不安を描き出した。これらは当時、大学の仏文科の学生として、ガリマール版サルトルを読み込んで、サルトルの作品『壁』『自由への道』などから「壁の中」「猶予」という概念を獲得して、それに倣ってのものであった。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この「監禁状態」の主題からの次の展開として、大江は、独自の「政治的人間」と「性的人間」の二項対立を、主題に導き入れる。次の文章も、初期大江論で常に引用される文章である。「政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抵抗し、他者を撃ちたおすか、あるいは他者に他者であることをみずから放棄させる。」「性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。かれは他者と硬く冷たい関係をもたぬばかりか、かれにとって本来、他者は存在しない。かれ自身、他のいかなる存在にとっても他者でありえない。」「政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない、政治的人間は他者と対立し、抗争し続けるだけだ」(「われらの性の世界」)。大江は、現実から疎外され、現実生活における行動の契機を奪われて停滞を余儀なくされている現代青年(性的人間)を描いていく。『われらの時代』(1959)『遅れてきた青年』(1962)『叫び声』(1963) の登場人物は、日米安保体制の下政治的にアメリカに従属しながらではあるが、それなりのは経済的繁栄や安定を手にしつつあった戦後日本社会(政治的に牝になった国)において、日常生活に埋没することを忌避しながらも、そこでしか生き得ない自分を嫌悪して、狂気や暴力に惹かれていく青年である。彼らは戦争を渇望したり、外国への脱出を希望する。しかし願いは叶うことはなく、やがて破滅して「敗北の確認」といった形で小説は終わる。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "戦後社会を呪詛する絶望的な青年像を描いてきた大江にとって、大きな転機となったのが、1963年6月の長男の大江光の誕生であった。この出来事は、これまでの創作において、否定的に表象されてきた「日常」に大江を引き戻す契機となった。光の誕生を題材として書かれた1964年の『個人的な体験』はこの関心の変容を、物語の展開として孕んでいる。主人公の「鳥(バード)」は、それまでの大江の作品の主人公と同様に、現実逃避的な心性から、アフリカへ逃避する願望を持っている。「鳥」は生まれてきた脳に重い障害をもつ赤ん坊を見棄てるか、手術を受けさせて生かすかの決断の前で揺れて、最終的には回心してアフリカへの幻想を捨てて、子供とともに生きる覚悟を決める。大江の現実世界に対する関心もまた、従前の日米安保体制下での軍事的、政治的従属を批判的に捉えるという眼差しから、より世界的な拡がりのある「ヒロシマ」を中心とする「核」の問題へと移ることになる。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大江は、光の誕生と同年の1963年8月の原水爆禁止世界大会を取材し、その後も原爆病院の医師や原爆の生存者に取材を重ねて1965年に『ヒロシマ・ノート』を出版している。『ヒロシマ・ノート』は冒頭こう書き始められる。「このような本を、個人的な話から書きはじめるのは、妥当でないかもしれない。」「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であった。」この私生活の苦しい状況の中での取材で、大江は悲惨な体験をした広島の人々の生き方から励ましを受け取る。そしてこう述べている。「まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけていた。僕は直接かれらに勇気づけられたし、逆に、いま僕自身が、ガラス箱のなかの自分の息子との相関においておちこみつつある一種の神経症の種子、頽廃の根を、深奥からえぐりだされる痛みの感覚をもあじわっていた。そして僕は、広島とこれらの真に広島的なる人々をヤスリとして、自分自身の内部の硬度を点検してみたいとねがいはじめたのである。」障害を持つ子供との共生という個人的な問題と世界規模の核状況という一見、対極的な二つの問題は、大江にとって当初からひと繋がりのものである。『個人的な体験』には核状況は主題として取り込まれており、(赤ん坊の誕生時期を二年遡行させて)1961年のソ連による通称「ツァーリ・ボンバ」の水爆実験が描かれる。そして、赤ん坊をどうするべきか、という個人的な問題に閉じ込められて、世界規模の脅威に感応しえなくなった主人公「鳥(バード)」の姿が描かれて、私的な問題との対比で核の問題の重大さが強調された。「核」の問題と「共生」の問題は、現実世界の最大の暴力である核に対して最も無力な存在としての障害児として大江の想像力の中で関連づけられて、以後の作品においてもこの二つの主題が同時に現れることになる。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1973年の『洪水はわが魂に及び』の核シェルターに閉じこもる主人公・大木勇魚とその子供で知的障害をもつ幼児ジンと交流をする不良少年たち「自由航海団」は、初期作品の『われらの時代』の「不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)」や『叫び声』の「友人たち(レ・ザミ)号」の乗員たちと同類型の登場人物である。しかし本作は「洪水」に核時代の始まりというイメージが重ねられているように、核状況の終末観を背景としていること、そして、それに対抗するものとしての「祈り」が主題として登場することにおいて新しい。この「祈り」は神などの特定の祈る対象のない「祈り」であり、大江自身の説明によるならば「人間存在の破壊されえぬことの顕現」(ミルチャ・エリアーデ)を感得するためのものである。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "長男・光と「祈り」との関係については、1987年10月に東京女子大学で行われた「信仰を持たないものの祈り」(『人生の習慣』)という講演があり、そこで大江は次のような回想をしている。光は、四歳になっても能動的に言葉を話さず、意思疎通が難しかったが、鳥の声のテレビ番組には関心を示した。そこで鳥の声のレコードを買ってきて、自宅で一日中流し続けていた。一年後、北軽井沢の林で長男と散歩していると、クイナが鳴いた直後に長男が「クイナです」と反応した。幻聴かと緊張しながら、鳥がもう一度啼いたらいいと思い、そのときに自分の心の中に「ある祈りのようなもの」を感じた。そしてもう一度クイナが鳴き、光はまた「クイナです」と言った。大江は、この場面を次のように説明している。「祈ったというよりも、集中していたというほうが正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。(......)いま自分がこの木を見て集中している、ほかのことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。」この一種の啓示体験が『洪水はわが魂に及び』に設定として取り込まれた。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1983年の作品『新しい人よ眼ざめよ』はヴァルネラブルな父と子が、『洪水はわが魂におよび』のように社会の外に退避するのではなく、社会の中でどう生きていくのかを書く試みであった。虚構性の低い私小説的な作りの小説の中で、日常生活の中で光の存在から受けた多様な気づきにウィリアム・ブレイクの詩が重ね合わされていく。大江がブレイクの神秘主義的な「死と再生」のヴィジョンに深く揺り動かされたのは、大江が既に、ブレイクのヴィジョンに共通するところのある「人間存在の破壊されえぬことの顕現」を光との共生によって見出してきていたことに由来し、また、ブレイクを介することによって大江は「障害を持って生まれざるをえなかった息子についての遺恨の思いと「罪のゆるし」、自分のきたるべき死と、息子ともどもの再生への思い」をあらためて把握し直すことになった。作品においては、息子との共生の時々が、ブレイクのヴィジョンを触媒にして、瞬時に、驚きに満ちた解放感を伴って、普遍的な光景として救出されていく。本作においても、核状況下の現代世界における極小的な弱者である障害児と、それに拮抗する極大的な暴力である核というモチーフは引き継がれており、結末において、ブレイクの詩に導かれて光の存在に「凶々しい核時代」に拮抗する「新しい人」を見出して終わる。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「信仰を持たないものの祈り」というテーマは、この後も『人生の親戚』、『懐かしい年への手紙』とその後日譚となる『燃えあがる緑の木』『宙返り』に引き継がれていく。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『個人的な体験』な体験を境にして、大江の作品は質的に変化する。作品世界がそれまでの水平型な「脱出」のモチーフから、垂直型の空間体験に変わる。このことは『万延元年のフットボール』に顕著に見られ、自宅の庭に掘った穴ぼこに潜り込んだ主人公の描写から物語は始まり、終章で故郷の屋敷の地下に座り込んだ主人公の思念が語られる。主人公はアイデンティティの回復を求めて父祖の地に戻り、父祖の歴史の真相を探り、未来に想像力を働かせる。こうした縦の関係の探究は、幼少期の体験として心理的な傷となった父の死と天皇性の問題を掘り起こすことにもなった。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で、失われた父の全容を復元しようとする中で、父はしばしば超越者と混同されるが、三島由紀夫のクーデター未遂を受けて書かれた1972年の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』では明確に天皇制の問題となった。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1967年に出版された『万延元年のフットボール』は、当時の色川大吉や安丸良夫らによって先導された民衆史との並行関係が指摘されるように、歴史を権力の側からではなく、民衆の側から見ようとする試みであった。執筆当時は、建国記念の日の制定や、政府主導の「明治百年」記念イベントが大々的に展開されるなど、復古主義的な動きがあり、大江はそれに大きな違和感を抱いており、これが作品成立の背景にある。1965年に本土復帰前の沖縄を訪れた大江は、日本本土の天皇という中心を指向する文化とは別の文化を発見して大きな衝撃を受けている。日本的というよりアジア的な宇宙観、神話構造に根ざした民衆文化を知ることで、四国の森の中の故郷の土地を新しい眼で見るきっかけを得ており、これが作品に反映されている。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1979年に発表された『同時代ゲーム』は、幼少期に祖母などから聞いた故郷の伝承を手がかりにして、ロシア・フォルマリズムやミハイル・バフチン、構造主義などの知見を援用する形で、大江の故郷の森の谷間の村の神話を再構築した。大江は、執筆の動機として天皇との関係を述べている。「僕がこの森のなかの「共同体」を、はじめてそこに古代国家を建設した人びとのものとして成立させえたことの(かれらがじつはその「場所」の侵犯者ではないかという疑いもまた、隠された主題としてあるのではあるが)その根本的な条件としては、僕が中心志向の天皇制文化とは対極にある、周縁志向の反・天皇制文化をひとつの全体として表現することをめざしたということがあると思う。アマツカミという中心の、万世一系の末裔=天皇を頂点に置いた世界モデルとしての日本文化。それに対立する、クニツカミという多様な周縁的存在につながるものとしての世界モデル。僕はそのような文化に、自分の希求する共同体文化の中核(共同体文化の中核に傍点)を想定し、そこに「位置する」はたらきに、自己の個人の中核(個人の中核に傍点)に「位置する」はたらきをかさねることをめざして、この小説を書いたのである。」", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『同時代ゲーム』は1986年に、ナラティブを変えて、やわらかい口語的な文体で『M/Tと森のフシギの物語』にリライトされる。『同時代ゲーム』では、森の谷間の「村=国家=小宇宙」の創建者「壊す人」や「父=神主」の父権的な族長(ぺイトリアーク)をめぐる歴史に主眼が置かれたが、『M/Tと森のフシギの物語』では女族長(メイトリアーク)とトリックスターという二つの神話原型が物語の枠組みとなった。そして最終章に語り手「僕」の母親と「僕」の息子ヒカリ(光)と交感のエピソードを置き、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』へと大江が追求してきた「森の神話」の作品群と、『個人的な体験』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る「共生」の物語群が交錯することとなった。併せて『同時代ゲーム』において傍系的な挿話であった「森のフシギ」が、土地の人間が生まれ、育ち、死んでいく、いのちのおおもと、個でありながら一つの全体性を形作る共同幻想として物語の中心に据えられ、ウィリアム・ブレイクやダンテにつながる神秘思想的な世界観が示された。", "title": "主題系" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "小説の方法に自覚的な作家である。『小説の方法』をはじめとした小説の方法論を考察した著作がある。小説創造のベースに置いている考え方で、特に重要なものはガストン・バシュラールの想像力論の「想像力とは、知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、基本的イメージからわれわれを解放してイメージを変える能力である」という考え方、ミハイル・バフチンの「グロテスク・リアリズム」の概念(精神的・理想的なものを肉体的・物質的な次元に引き下げ、民衆的・祝祭的な生きた総体として捉えること)、ロシア・フォルマリズムの理論家ヴィクトル・シクロフスキーの芸術における「異化」の概念などである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "自作に先行文学作品からの引用を織り込んで作品世界を作り上げることに特徴がある。これは1980年代以降に顕著となる。その効果として作品中に地の文と別のテクスチュアの文を織り込むことで文体の多様化を図る。地の文章を一つの柱としたら、それと構造的に支え合い、力を及ぼし合うもう一つの柱として引用を建てて作品の奥行きを増す。という効果を狙っている。このやり方が立脚する根本の思想としては「本来、言葉とは他人のものだ」という言語観がある。大江は大学時代の恩師である渡辺一夫から作家生活をやっていく上で、三年ごとに主題を決めて一人の作家なり思想家なりをその作品のみならず、研究まで読み込むと良い、という勧めを受けており、それを実践している。その実践が上述の引用に結びついている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "引用についてこう述べている。「本当に、引用の問題はいままでの小説──少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説──の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文章との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく、そういう文章を作ることが文体のつくり方での主目的にさえなりました。ある詩に感銘するでしょう、その引用が一番ぴったりするように、その環境としての文章を作っていく。そういうわけですから、引用が、なにより決定的に重要な意味を持ち始めます。『懐かしい年への手紙』ではダンテですし、短篇の連作集『「雨の木」を聴く女たち』の場合は、マルカム・ラウリー。『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクですね。『燃えあがる緑の木』三部作の場合はイエーツ、『宙返り』ではR・S・トーマスだった。」(大江健三郎作家自身を語る)", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1980年代以降の大江の殆どの小説は、過去に書いた自己の小説を引用・参照し、再利用・再生することで書かれている。こうした方法の理論的起源は『小説の方法』で考察されたシクロフスキーの「異化」理論である。自作を「異化」することは、創作者の意識において、すでに反射化された自作を再び明視すること、自作に対する固まった観念を疑問視するということ、自作への異議申し立てである。自作言及・自作引用する作品は多くの場合、自作の注釈・説明という方向ではなく、自作を解体する方向へ物語を導いて、それまでの「大江健三郎」「大江健三郎の小説」およびそれらにまつわる批評を含む、総合的な「自己」を相対化していく。一方、自伝小説『懐かしい年への手紙』は多数の自作と他の作家の作品を縦横無尽に引用していくが、こうした複数の自作を同時に再検討・再解釈をする形式は過去の自作に新しい意味内容を付与するだけではなく、それらの自作を統合するという方向を向いている。大江の自己言及小説は、自己の統合や達成を遅延化し、非完成を目的とする「晩年の様式」型と、自作の完成や統合、締めくくりを目指す「最後の小説」型との二類型に分類できる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大江自身は散文を書く人間であるが、詩を重要視しており、上述の通り、ダンテ、ブレイク、イェーツなどの詩を自分の中に取り込んで、その磁場の中で創作を行っている。元々、高校の頃から三好達治、萩原朔太郎、中原中也、富永太郎、谷川俊太郎などの日本の詩人を愛読していた。大学生協の図書部で深瀬基寛対訳のT・S・エリオット、オーデンを手に入れて、その翻訳文体でその文体で、この国にはない小説が書けるのではないかと考えるようになったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "こう述べている。「とくにオーデンの詩について、私が魅力を感じたのはこういうことだった。そこではこまかな具体的事物から人間について、また社会、政治、国際関係について、ひとつながりに、共通のヴォキャブラリーとナラティヴによって語られている。さらに、エリオットの詩的な優雅さが日常的な散文の語り口へとなだらかな移行を示す――あるいは、その逆方向へ――その書き方が好きだったのだ。そして両者ともに、日常生活の観察のレヴェルにかさねて形而上学的な、さらには神秘主義的ですらある豊かさ、深さにいたる表現に惹かれて、それもまた私には新しい小説のスタイルへの指針のように感じられたのである。だからといって、すぐさまそれを、私が作品に実現しえたのではなかったけれども。」", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "小説家としての自分にとって詩がどういう意味を持つかについて『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文「なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの」において次のように述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「この不慮の死の陥穽にみちみちた時代を生きるにあたって、そうした突然の死のまぎわに、自分の肉体=魂の内部に、ぼくとともに死ぬところの詩を確保することで、いくらかなりと死の恐怖と苦痛をやわらげるべく詩をもとめているのであるし、そのような詩よりほかの、いかなる華やかな言葉の飾りもさがしだそうとしているのではないのだ。」 (しかし) 「ぼくは詩をあきらめた人間である。それは、あきらめるという言葉がもともと二重の意味あいをそなえて一個の言葉として実在している事情そのままに、詩の言葉と小説の言葉の根本的なことなりについて、なんとかあきらかに認識したことによって、詩を書くことをやめ、小説にむかった人間だ。」 「ぼくが詩をあきらめたのは、自分の言葉にたいする、自分自身の方向づけが、詩の言葉より、小説の言葉にむいていることを認めざるをえなかったからである。」 「ぼくにとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂につきささっているトゲのように感じられる。それは燃えるトゲである。日常生活において自分の肉体=魂が、その深みにしっかり沈んでいる詩の錘をたよりに生きているとすれば、小説を書こうとしているぼくの肉体=魂は、自分の小説の言葉によって、なんとかこの燃えるトゲにたちむかおうとしているわけである。この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である。」", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『新しい人よ眼ざめよ』を執筆しながらブレイクを読解していたが、大きな参考としていたのが、学者ディヴィッド・V・アードマン『ブレイク、帝国に真向う予言者』と、学匠詩人キャスリン・レイン『ブレイクと伝統』だという。レインの、ブレイクの魂の課題をキリスト教以前の神秘的な信仰に引きつけての解釈を介して「これまでずっといつまでも漠然としたところの残る気がかりな対象だったネオ・プラトニズムが、ブレイクの詩と絵画を素材にして、よく理解できると思えた」「レインに導かれた私は、光との共生で直接経験を重ねてきたことを、明快な神秘主義において受けとめなおすことができると感じた」という。ダンテに関心を導いたのもレインであるという。その後、大江はイェーツに関心を移していくが、イェーツにも、ユダヤ・キリスト教の背後、あるいは外側の伝統としての宗教感情、イマジェリー、宇宙観を読み込んでいく。そのイェーツ解釈をもとにして、『燃えあがる緑の木』を執筆している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "「後期の仕事(レイト・ワーク)」においてもR・S・トーマス(『宙返り』)、アルチュール・ランボー(『取り替え子(チェンジリング)』)T・S・エリオット(『さようなら、私の本よ!』)、エドガー・アラン・ポー(『美しいアナベル・リイ』)と詩が果たす役割は大きい。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "詩人マイ・ベストスリーを問われてT・S・エリオット、イエーツ、ブレイクと答えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一旦書き上げた草稿を徹底的に推敲して書き直す。本人はこの作業を友人の批評家エドワード・サイードの用語からとって「エラボレーション」と読んでいる。例えば『取り替え子(チェンジリング)』の場合、1000枚ほど書いてそれを500枚まで縮め、さらに加筆して現在の長さになったという。最初に書かれた文章が原型を留めないほどに、徹底的に書き直された原稿用紙の写真は『大江健三郎全小説』などで見ることができる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "批評家フレドリック・ジェイムソンが『宙返り』についてロンドン・レビュー・オブ・ブックス誌で「スウード・カップル (Pseudo-Couples)」というタイトルの評論を書いている。ジェイムソンは、大江の作品には、ベケットの戯曲や小説につながる「おかしな二人組(スウード・カップル)」が出てきて、二人の人物の組み合わせが物語を動かす構造になっていると指摘している。この指摘は作家自身気に入っており、『取り替え子』からの三部作を「「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作」と名付けている。『芽むしり仔撃ち』の兄弟、『万延元年のフットボール』の蜜三郎と鷹四、『懐かしい年への手紙』の「僕」とギー兄さんなどにこの二人組の系譜を確認できる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1980年代以降の大江の作品は、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガのように一つの作品に登場した人物(とその子孫)が別の作品に登場し、全体として緩くつながっていることに特徴がある。例えば、『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』に登場するアルコール依存症の英文学者くずれの高安カッチャンの息子、ザッカリー・K・高安が『燃えあがる緑の木』に登場、『懐かしい年への手紙』の主要人物ギー兄さんの息子のギー・ジュニアが『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に登場などの例が挙げられる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "影響を受けた古典として長編『源氏物語』、中編『好色五人女』、短編『枕草子』と答えている。「新潮日本古典集成」をベッドや電車で愛読したという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "大江自身が(擬似的な)私小説の書き手であることもあり、近代文学の中では、日本独自の文学のスタイルである、読者との共犯関係のもとで告白を行う私小説に特別な関心を寄せている。葛西善蔵、嘉村礒多、牧野信一といった破滅型私小説の作家を評価している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ノーベル賞の受賞の第一報を受けて自宅前で記者に囲まれて「日本文学の水準は高い。安部公房、大岡昇平、井伏鱒二が生きていれば、その人たちがもらって当然でした。日本の現代作家たちが積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私が受賞したのです」とコメントした。熱心に読んでいた日本の作家は石川淳、中野重治であるという。安部、大岡とはプライベートな交際もあった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "三島由紀夫の自決を受けてすぐに、天皇制を批判的に問い直す「みずから我が涙をぬぐいたまう日」を書いている。その後も三島事件は『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)連作の「落ちる、落ちる、叫びながら...」「蚤の幽霊」、『さようなら、私の本よ!』(2005年)と繰り返し取り上げられる。大江がかつて天皇崇拝のテロリストの少年を描いた「セヴンティーン」を発表した際、それを読んだ三島は、大江は国家主義に情念的に引きつけられるところがある人間なのではないか、と考えて『新潮』の編集者を介して大江に手紙をよこしたという。2007年のインタビューで大江は、三島の読み取りは正しく、自分の中にアンビバレントなものがあることを認めている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "村上春樹の口語体の小説の翻訳が、「英語の小説」として世界に広く受け入れられていることについて、それは日本文学史上初の達成であると肯定的に評価している。かつて芥川賞の選者として村上の『風の歌を聴け』を評価できなかったのは、表層のカート・ヴォネガット的な口語体の言葉のくせに引っかかって、実力を見抜けなかったと述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "若い頃はジャズを聴いており、デューク・エリントン、ジャンゴ・ラインハルトには相当詳しいという(外国の大学に行ってエリントンの30年代から50年代の時期のビッグバンドの演奏家・歌手についての話題になって、ヒケをとったことはないという)。MJQのジョン・ルイスのピアノの入ったLPはすべて集めていた、という時期もあったという。ただ長男光がジャズをかけていると嫌がるためクラシックに転向した。クラシックの好みは武満徹、バッハ、晩期ベートーヴェン、ヴェルディである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "大酒家である。中年期にそれで痛風になって断酒したりもした。2007年に出版されたインタビューでは、シングルモルト、タンブラー1杯を350mLのビール4缶をチェイサーにして飲むと答えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "80年代から、週6日プールに通い、1日1000m泳ぐことを習慣としている。『「雨の木」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』では題材として小説に取り入れられている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "大江のアイコンとなっている丸い眼鏡は、辞書を引きながら読書をするのに向くものを探して、本をよく読んだ人たち、柳田國男、折口信夫、サルトル、ジェイムズ・ジョイスが丸い眼鏡をかけているのを参考に探したもので、同じものを10個まとめて購入したという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "作曲家(1963年6月13日 - )。大江の長男で、知的な障害を持って産まれた。光という名前は、シモーヌ・ヴェイユが著作でひいた、カラスが辺りが真っ暗なのでなかなか餌が見つけられずにいるときに「この世に光があったら、どんなに餌を拾うのが易しいだろう」と思った瞬間に世界に光が満ちたというイヌイットの寓話から採られたという。光は作曲家であり、日本コロムビアより「大江光の音楽」(1992)「大江光ふたたび」(1994) のCDを出しており、後者は日本ゴールドディスク大賞を受賞している。光の存在は、大江の創作のインスピレーションの源となり、共生の経験は大江の文業を貫く大きな主題となっている。『個人的な体験』『新しい人よ眼ざめよ』『静かな生活』は光の誕生や成長がテーマ・題材である(なお、光は他の大江の作品にもヒカリ、アカリの名前で登場する)。 NHKは1994年、大江と息子・光との共生を題材にして「響きあう父と子 大江健三郎と息子光の三〇年」という番組を放映した。1995年に伊丹十三が大江の原作を映画化した『静かな生活』の劇伴音楽は光の曲が採用されている。", "title": "関わりの深い人物" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "映画監督・俳優・エッセイスト(1933年5月15日 - 1997年12月20日)。大江の妻・ゆかりの兄である。大江とは松山東高等学校で知り合い、大江にアルチュール・ランボーの原語の詩集を与えるような文化的な手ほどきをした。伊丹の俳優時代のヨーロッパ滞在の見聞を綴ったエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』は『日常生活の冒険』の元ネタとされ、主人公の斎木犀吉も伊丹がモデルであるとされる。伊丹は、大江のノーベル賞受賞後の1995年『静かな生活』を原作とした同名映画を監督しており、文庫版の『静かな生活』の解説として、エッセイを寄せて映画撮影の裏話を披露している。大江の小説『取り替え子(チェンジリング)』は1997年の伊丹の投身自殺の衝撃を受けて書かれており、伊丹をモデル人物とする登場人物は「塙吾良」と名付けられている。大江の擬似自伝小説『懐かしい年への手紙』においては伊丹は「秋山君」として登場する。", "title": "関わりの深い人物" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "フランス文学者・東京大学教授(1901年9月25日 - 1975年5月10日)。大江は高校時代に渡辺の著作『フランス・ルネサンス断章』を読んで感銘を受け、渡辺の指導を受けたいと考えて東京大学へ進学して師事する。大江の最初期の作品の文体は渡辺が翻訳したピエール・ガスカールの短編集『けものたち・死者の時』の文体から大きな影響を受けている。渡辺は大学卒業後も大江の精神的な庇護者であり、大江の仲人も務めている。渡辺は、作家生活を続ける上で三年毎に一つの主題を決めて書物を読み進めていくといいと助言を与え、大江はそれを実践し創作に結びつけている(「人物」項目の「創作方法など」参照)。1975年の渡辺の死去は大江に大きなショックを与えて、大江のメキシコ渡航を促した。大江にとってメキシコ体験は重要で『同時代ゲーム』の大きなインスピレーションの源となった(大江のメキシコでの体験は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『人生の親戚』などの題材ともなった)。1984年に大江は渡辺の全体像を語った連続講義『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』を出版している。また『狂気について―渡辺一夫評論選』(岩波文庫)の編纂を清水徹とともに行い、同書と『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の解説を執筆している。大江のレイト・ワークにおいては渡辺は「六隅先生」として登場する。", "title": "関わりの深い人物" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "作曲家(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。「若い日本の会」に大江とともに参加して1960年安保改定に反対する。1963年に武満が大江の住む成城の家の100mくらいの近所に引っ越してきて親交が始まる。武満は大江文学のよき理解者で、大江の著作の解説を担当したこともある。1980年に大江が『文學界』に発表した短編「頭のいい「雨の木」」にインスピレーションを受けて武満は「(3人の打楽器奏者のための)雨の樹」を作曲する。さらにそれを受けて大江は『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』連作を書き継ぐことになった。連作第二作の表題作冒頭には、その初演のコンサートの場面が出てくる。1985年、雑誌『へるめす』創刊時に、ともに編集同人となった。1980年代に武満は大江とともにオペラを作る構想を立てており、お互いの芸術観,世界観を語りあった対談を行い、共著『オペラをつくる』(岩波新書)を出版している。ここから派生して大江は『治療塔』を執筆している(『治療塔』にはリブレットもあり、これは短編集『僕が本当に若かった頃』に収録されている)。1990年代、大江は「最後の小説」とした『燃えあがる緑の木』を1995年に書き終えて小説執筆をやめていたが、1996年の武満の死に促されて『宙返り』で小説執筆を再開した。同書巻頭には「──永遠の武満徹に」という献辞が記された。2001年に東京オペラシティのコンサートホール・タケミツメモリアルで没後5年特別企画として行われた「講演と室内楽演奏会「音と言葉」」の講演録は「武満徹のエラボレーション」としてエッセイ集『言い難き嘆きもて』に収録されている。大江のレイト・ワークにおいて、武満は「篁さん」として登場する。", "title": "関わりの深い人物" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "文化人類学者・東京外国語大学教授(1931年8月20日 - 2013年3月10日)。山口は1970年代に「中心と周縁」理論を提唱し、大江はその大きな影響を受けた(ただし、山口が「中心と周縁」理論として提示したことは大江はすでに『万延元年のフットボール』に書き込んでいるのではないかという説をニューアカデミズムの論者浅田彰、柄谷行人らは主張している。『万延元年のフットボール』参照)。大江はまた、山口が『文化と両義性』などの著作において日本に紹介した文化理論からも大きな影響を受けた。岩波書店の『叢書文化の現在』の編者をともに務めて、親交が始まった。1979年、山口や、やはり編者の中村雄二郎らと連れ立ってバリ島の習俗を取材する旅行に出ており、そのエピソードは連作『新しい人よ眼ざめよ』の同名短編に描かれている。1985年に、ともに『へるめす』編集同人となる。大江は関心のある書物を、蔵書家の山口から借りたり、山口を通じてよその大学の研究室から借りたりして読むことも多かったという。その代表的なものが大江文学の中期において重要な役割を果たしたキャスリーン・レイン著『ブレイクと伝統』(Blake and Tradition) である。大江は、山口らと酒場で落ち合って、書物を借り受けて内容の説明を聴いているうちに、その書物を早く読みたくてたまらなくなって酒席を切り上げて一人先に帰宅するということもあったという。", "title": "関わりの深い人物" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "谷崎潤一郎賞の最年少受賞をはじめとして、国内の主要な文学賞を他の作家より二十年以上早いペースで次々に受賞して、1994年には日本人で二人目のノーベル文学賞を受賞している。", "title": "文学的評価" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "比較文学者小谷野敦は「大江は戦後日本最大の作家である」とした上で、三島由紀夫が、谷崎潤一郎が没したときに、明治末年に谷崎が現れてから没するまでの半世紀を「谷崎朝時代」と呼んだのになぞらえて、大江がデビューした1958年以降を「大江朝時代」であるとした。", "title": "文学的評価" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "「同時代の大江健三郎」(群像2018年8月号)と題された大江と同世代の筒井康隆×蓮實重彦による対談において、筒井は「1950年代から2010年代まで、ずっと大江健三郎の時代だった」と評している。蓮實は「大江さんが作家として一番偉いと思っている」と述べた。", "title": "文学的評価" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "読売新聞文化部記者尾崎真理子は、大江の最新作をいち早く的確に評することは同時代の批評家にとっての必須要件であったため、大江を軸にして日本の主要な批評家を並べることで1950年代から2020年までに至る日本現代文学史を描けるとした。", "title": "文学的評価" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "バージニア大学教授 Michiko Niikuni Wilson は「大江は現代日本文学を長年の孤立から脱け出させ、世界文学の中心に届けた」(\"Oe has delivered modern Japanese literature out of its long isolation and into the heart of world literature.\") と評している。", "title": "文学的評価" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、平和主義者として、護憲派の立場から、日本国憲法第9条についてエッセイや講演で積極的に言及している。核兵器についても反対の立場を明確にしている。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引用している。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同1994年、ノーベル賞の受賞を受けて天皇からの親授式を伴う文化勲章の授与が内定し、文化庁から電話で打診されたときにはそれを断っている。米紙ニューヨークタイムズのインタビューで「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(注:天皇制)を認めないからだ。これは単純なことだが非常に重要なことだ」と話した。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1995年、フランスの南太平洋における核実験再開に抗議して、南仏で開催される予定だったシンポジウムへの出席を取りやめた。このことでフランスのノーベル賞作家クロード・シモンとの間で論争が生じた。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1999年、朝日新聞に掲載されたアメリカの批評家スーザン・ソンタグとの公開書簡において、NATOによるユーゴ空爆を批判し、意見が対立した。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2003年の自衛隊イラク派遣の際は仏紙リベラシオン掲載記事において「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2004年には、憲法9条の平和主義の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "歴史認識について、1990年代以降表面化してきた歴史修正主義を伴う右派運動・言論について繰り返し反対を表明している。2001年には、「新しい歴史教科書をつくる会」編集・扶桑社版の植民地支配と侵略を肯定する中学校の歴史教科書の検定申請がされたことを受けて鵜飼哲、高橋哲哉、小森陽一、井上ひさしら学者・文化人17人の連名で「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」と題する声明を発表している。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "大江は1970年に『沖縄ノート』を上梓している。第二次世界大戦末期の地上戦において、戦後も朝鮮戦争・ベトナム戦争の基地として戦争に巻き込まれ、本土から捨て石とされ続けていた日本返還前の沖縄をめぐるルポルタージュである。この書において沖縄戦において生じた民間人の集団自決は軍に強いられたものであるとした。これについて、2005年、歴史の見直しを主張する右派に担ぎだされて、旧軍指揮官と遺族が大江を提訴したが、裁判では「集団自決に日本軍が深く関わった」(地裁)「軍が深く関わったことは否定できず、総体としての軍の強制、命令と評価する見解もあり得る」(高裁)と判断されて、指揮官・遺族は敗訴した。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "原子力発電について、1960年代に行われた講演において、核エネルギーの開発が、自身が強く反対する核兵器の開発や保持と結びつくことに懸念や警戒を示したうえで、両者が切り離されているのならば「(注:電源としての)核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べていたが 、1970年代後半以降は反対する立場をとっている。2011年、東日本大震災による福島第一原子力発電所事故を契機に立ち上がった脱原発の社会運動「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人となっている(他の呼びかけ人は内橋克人、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔)。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "東アジア外交については、2006年には中国社会科学院の招きで訪中して複数の場所で講演を行い、南京大虐殺紀念館などにも訪れた。講演ではいずれも魯迅をテーマとしたが、その中で日中友好に触れて日本における戦争加害の歴史の忘却を憂えた。2012年には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元『世界』編集長の岡本厚ら1300人と共同で発表。韓国、中国との領土問題について対立を感情的にエスカレートさせずに冷静に協議、対話をしていく必要があることを訴えた。", "title": "政治的思想・見解" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "著作は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、イタリア語、スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。", "title": "作品" } ]
大江 健三郎は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村出身。 東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた。 新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。 1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。 核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷である四国の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた。 上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある。 戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。
{{Infobox 作家 |name = 大江 健三郎<br />{{small|(おおえ けんざぶろう)}} |image = Paris - Salon du livre 2012 - Kenzaburō Ōe - 003.jpg |imagesize = 225px |caption = 大江健三郎(2012年、[[パリ]]にて) |pseudonym = |birth_name = |birth_date = {{生年月日|1935|1|31}} |birth_place = {{JPN}} [[愛媛県]][[喜多郡]][[大瀬村]] |death_date ={{死亡年月日と没年齢|1935|1|31|2023|3|3}} |death_place = |resting_place = |occupation = [[小説家]] |language = [[日本語]] |nationality = {{JPN}} |education = [[学士(文学)|文学士]](東京大学・[[1959年]]) |alma_mater = [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]][[フランス文学|仏文科]] |period = [[1957年]] - [[2019年]] |genre = [[小説]]、[[評論]]、[[随筆]] |subject = [[人間の性|性]]、[[政治]]、[[核時代]]、[[障害者]]との共生、故郷の伝承、[[祈り]]、新しい人、偶発事<ref>『[[大江健三郎作家自身を語る]]』([[新潮社]]、2007年5月1日)</ref>、[[魂]]のこと等 |movement = |notable_works = 『[[飼育 (小説)|飼育]]』(1958年)<br />『[[芽むしり仔撃ち]]』(1958年)<br />『[[セヴンティーン]]』(1961年) <br />『[[個人的な体験]]』(1964年)<br />『[[万延元年のフットボール]]』(1967年)<br />『[[洪水はわが魂に及び]]』(1973年)<br />『[[同時代ゲーム]]』(1979年)<br />『[[新しい人よ眼ざめよ]]』(1983年)<br />『[[懐かしい年への手紙]]』(1987年)<br />『[[燃えあがる緑の木]]』(1993年 - 1995年)<br />『[[取り替え子 (小説)|取り替え子]](チェンジリング)』(2000年)<br />『[[水死 (大江健三郎の小説)|水死]]』(2009年) |awards = [[芥川龍之介賞]](1958年)<br />[[新潮社文学賞]](1964年)<br />[[谷崎潤一郎賞]](1967年)<br />[[野間文芸賞]](1973年)<br />[[読売文学賞]](1983年)<br />[[大佛次郎賞]](1983年)<br />[[川端康成文学賞]](1984年)<br />[[伊藤整文学賞]](1990年)<br />[[ノーベル文学賞]](1994年)<br />[[朝日賞]](1995年)<br />[[グリンザーネ・カヴール賞]](1996年)<br />[[ハーバード大学]]名誉博士号(2000年)<br />[[レジオンドヌール勲章]](コマンドゥール)(2002年) |debut_works = 『奇妙な仕事』(1957年) |spouse = 大江ゆかり |partner = |children = [[大江光]]([[長男]]) |relations = [[伊丹万作]]([[岳父]])<br />[[伊丹十三]]([[義兄]])<br />[[池内万作]](甥) |influences = [[ジャン・ポール・サルトル]]、[[ノーマン・メイラー]]、{{日本語版にない記事リンク|キャスリー・レイン|en|Kathleen Raine}}、[[ミルチャ・エリアーデ]]、[[ミハイル・バフチン]]、[[アルベール・カミュ]]、[[アルチュール・ランボー]]、[[ピエール・ガスカール]](初期)、[[フョードル・ドストエフスキー]]、[[ウィリアム・フォークナー]]、[[ウィリアム・ブレイク]]、[[ダンテ・アリギエーリ]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、[[T・S・エリオット]]、[[エドワード・サイード]]、[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]]、[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)]]、[[渡辺一夫]]、[[山口昌男]]、[[伊丹十三]]、[[夏目漱石]]、[[小林秀雄]]等多数 |influenced =[[北野武]]<ref>『あのひと』「見る前に跳べ —あとがきにかえて」[[飛鳥新社]]1985年8月1日</ref>、[[伊坂幸太郎]]、[[井上ひさし]]、[[大島渚]]、[[田原総一朗]]、[[武満徹]]、[[小野正嗣]]、[[小谷野敦]]、[[中村文則]]、[[中上健次]]、[[筒井康隆]]、[[村上春樹]]、[[村上龍]]、[[町田康]]、[[山本直樹]]、[[蓮實重彦]]、[[オルハン・パムク]]、[[莫言]]、[[カズオ・イシグロ]]、[[佐々木中]]、[[佐川恭一]]、[[細田守]]、[[阿部和重]]等多数 |signature = |website = }} {{thumbnail:begin}} {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1994年|ノーベル文学賞|詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている<ref>尾崎真理子「ノーベル賞はいかにしてもたらされたか」『大江健三郎全小説7』</ref>[http://nobelprize.org/literature/laureates/1994/]}} {{thumbnail:end}} '''大江 健三郎'''(おおえ けんざぶろう、[[1935年]]〈[[昭和]]10年〉[[1月31日]] - [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[3月3日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。[[昭和]]中期から[[平成]]後期にかけて[[現代文学]]に位置する作品を発表した。[[愛媛県]][[喜多郡]][[大瀬村]](現:[[内子町]])出身。 [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]][[フランス文学|仏文]]科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の[[1958年]]、[[短編小説]]「[[飼育 (小説)|飼育]]」により当時最年少の23歳で[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞。新進作家として脚光を浴びた{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=kindle1778}}。 新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく<ref>[https://kotobank.jp/word/大江健三郎-39045 大江健三郎] デジタル[[大辞泉]](小学館)</ref>。[[1967年]]、代表作とされる<ref>[[山本昭宏]]『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院) p.151<!-- 大江の代表作として必ず挙げられる」としている。--></ref>『[[万延元年のフットボール]]』により歴代最年少{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=kindle3045}}で[[谷崎潤一郎賞]]を受賞した。 [[1973年]]に『[[洪水はわが魂に及び]]』により[[野間文芸賞]]、[[1983年]]に『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』]]により[[読売文学賞]](小説賞)など多数の文学賞を受賞。[[1994年]]、[[日本文学]]史上において2人目の[[ノーベル文学賞]]受賞者となった。 [[核兵器]]や[[天皇制]]などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男([[作曲家]]の[[大江光]])との共生、故郷である[[四国]]の森のなかの谷間の村の歴史や伝承といった主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた<ref>小野正嗣『NHK[[100分de名著]] 大江健三郎 燃えあがる緑の木 』[[kindle]]171〜209/1864</ref><ref>黒古一夫『作家はこのようにして生まれ、大きくなった大江健三郎伝説』(河出書房新社)の次の各章「「性」「政治」「「天皇制」」「個人的な体験」「「ヒロシマ」」「根拠地の思想」</ref>。 上記以外の主な作品に『[[芽むしり仔撃ち]]』『[[個人的な体験]]』『[[同時代ゲーム]]』『[[新しい人よ眼ざめよ]]』『[[懐かしい年への手紙]]』『[[燃えあがる緑の木]]』『[[取り替え子 (小説)|取り替え子(チェンジリング)]]』『[[水死 (大江健三郎の小説)|水死]]』などがある<ref>著者プロフィール{{harv|大江健三郎作家自身を語る}}</ref>。 [[戦後民主主義]]の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。 == 来歴 == === 生い立ち === [[1935年]]1月31日、[[愛媛県]][[喜多郡]]大瀬村(現:[[内子町]])に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちに大江の作品の舞台となる。[[1941年]]、大瀬小学校に入学。この年に[[太平洋戦争]]が始まり、5年生の夏まで続いた。[[1944年]]、父親が50歳で心臓麻痺で急死している<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社">「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社</ref>。[[1947年]]、大瀬中学校に入学。[[1950年]]、[[愛媛県立内子高等学校]]に入学するも、翌年、大学進学のための教育を受けるために[[愛媛県立松山東高等学校]]へ転校する<ref>小谷野敦『江藤淳と大江健三郎 : 戦後日本の政治と文学』</ref>。高校時代は[[石川淳]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[渡辺一夫]]、[[花田清輝]]などの作品を読む<ref name="「読むための大江健三郎年譜」『大江健三郎・再発見』集英社">「読むための大江健三郎年譜」『大江健三郎・再発見』集英社</ref>。松山東高校では文芸部に所属して部誌『掌上』を編集、自作の詩や評論を掲載した。同校において同級生だった[[伊丹十三]]と親交を結ぶ。 [[1953年]]に上京し、[[浪人生]]として[[予備校]]に通ったのち、[[1954年]]に[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]文科二類(現在の文科III類)に入学。[[演劇]][[脚本]]や短編小説の執筆を始める。[[1955年]]、小説「優しい人たち」が「[[文藝]]」第三回全国学生小説コンクールで入選佳作となる。同年、小説「火山」が銀杏並木文学賞(東京大学教養学部学友会学生理事会の主催<ref>[https://gakuyu-kai.org/ichou.html#div01 銀杏並木文学賞とは] 東京大学教養学部学友会学生理事会</ref>)第二席となり、教養学部の学内誌に掲載されて、作品が初めて活字となる<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。この頃、[[ブレーズ・パスカル]]、[[アルベール・カミュ]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[ノーマン・メイラー]]、[[ウィリアム・フォークナー]]、[[安部公房]]などの作品を読む<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。[[1956年]]、文学部仏文科に進み、高校時代より著作を愛読し私淑してきた{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=33-35}}[[渡辺一夫]]に直接師事する。小説「火葬のあと」が「文藝」第五回全国学生小説コンクール選外佳作となる。東大学生演劇脚本の[[戯曲]]「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに入選する<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。 === 芥川賞作家として ─ 飼育、芽むしり仔撃ち、個人的な体験 === [[File:Kenzaburo-Oe-1.png|thumb|180px|<small>『新日本文学全集 第11巻』(集英社、1962年10月)より</small>]] [[1957年]]、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『[[東京大学新聞]]』に掲載され、文芸評論家[[平野謙 (評論家)|平野謙]]の激賞を受ける。これを契機として、短編「[[死者の奢り]]」により学生作家としてデビューし、続々と短編を各文芸誌に発表するようになる。「死者の奢り」は第38回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる。[[1958年]]、自身初の長編小説『[[芽むしり仔撃ち]]』を発表する。大江の故郷の村をモデルにした<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)p.62</ref>閉ざされた山村を舞台にして、社会から疎外された[[児童自立支援施設|感化院]]の少年たちの束の間の自由とその蹉跌を描いた。同年、短編「[[飼育 (小説)|飼育]]」により第39回芥川賞を23歳で受賞する。 [[1959年]]、東京大学卒業。[[卒業論文]]は「サルトルの小説におけるイメージについて」であった<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。同年、書き下ろし長編『[[われらの時代]]』を刊行する。政治などの現実社会から内向的な性の世界へと退却する、停滞状況にある現代青年を描く<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)pp.82-85</ref>。この時期の大江の、性を露骨に描いて日常的規範を攪拌させる方法は[[ノーマン・メイラー]]の影響を受けている<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)p.83</ref>。この年、[[東京都]][[世田谷区]]の[[成城]]に転居し、近所に住む[[武満徹]]と親交が始まる。[[1960年]]、伊丹十三の妹のゆかりと結婚。同年、[[石原慎太郎]]、[[江藤淳]]、[[浅利慶太]]らと「[[若い日本の会]]」で活動をともにし、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約(新安保条約)]]締結に反対する<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>(「[[安保闘争]]」参照)。「日本文学代表団」の一員として、[[野間宏]]、[[亀井勝一郎]]、[[開高健]]らとともに[[中華人民共和国]](中国)を訪問して中国の文学者と交流し、[[毛沢東]]と対面している{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=144-145}}。 1961年、中編「[[セヴンティーン]]」と続編「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を発表する。[[浅沼稲次郎暗殺事件]]に触発されて、オナニストの青年が天皇との合一の夢想に陶酔して右翼テロリストとなる様を描いたが、同じ頃に発表された[[深沢七郎]]の『[[風流夢譚]]』と同様に[[右翼団体]]からの脅迫に晒された(このため「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」はその後の単行本に収められていなかったが、2018年『大江健三郎全小説3』で遂に「セヴンティーン」と併せて収録された)<ref>尾崎真理子「封印は解かれ、ここから新たに始まる」『大江健三郎全小説3』</ref>。同年、[[ブルガリア]]と[[ポーランド]]の招きに応じて、両国や[[ソ連]]、ヨーロッパ各地を訪問して、フランスの首都[[パリ]]でサルトルにインタビューを行っている<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=154}}。 [[1963年]]、長男の[[大江光|光]]が頭蓋骨異常のため[[知的障害]]をもって誕生する。[[1964年]]、光の誕生を受けての作品『[[個人的な体験]]』により第11回[[新潮社文学賞]]を受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、様々な精神遍歴の末、現実を受容して子供とともに生きる決意をするまでの過程を描いた作品である。同年、太平洋戦争末期に[[広島市への原子爆弾投下|人類史上初めて核攻撃を受けた広島市]]に何度も訪れた体験や、[[原水爆禁止日本協議会|原水爆禁止世界大会]]に参加した体験を基に[[ルポルタージュ]]『[[ヒロシマ・ノート]]』の連載を開始する。障害を持つ子との共生、核時代の問題という終生の大きなテーマを同時に二つ手にしたこの年は、大江にとって重大な転機の年であった<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)p.114<!--山本は先行論を挙げほぼ定説といえるとしている--></ref>。[[1965年]]、広島について報告するために、[[アメリカ合衆国|米国]]の国際政治学者[[ヘンリー・キッシンジャー]]のセミナーに研究員として参加して、[[ハーヴァード大学]]に滞在している<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/><ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)pp.141-142</ref>。 === 国際的な作家へ ─ 万延元年のフットボール、洪水はわが魂に及び、同時代ゲーム<!-- 段組について 榎本正樹は『大江健三郎の八〇年代』彩流社 1995年P15-16において、大江の最後の小説までのキャリアを〜『個人的な体験』をI期、『万延』〜『同時代ゲーム』をII期、『雨の木』〜をIII期とするのは大江研究において一般的であるとしている。--> === [[1967年]]、30代最初の長編として『[[万延元年のフットボール]]』を発表し、最年少(2019年時点で破られていない)で第3回[[谷崎潤一郎賞]]を受賞する。[[万延元年遣米使節|遣米使節]]が渡航した万延元年(1860年)から安保闘争(1960年)までの百年を歴史的・思想史的に展望して<ref>柄谷行人「大江健三郎のアレゴリー」『終焉をめぐって』講談社学術文庫<!--幕末以来の日本の思想を国権/民権の軸、西洋/アジアの軸の四象限で整理して、それらの思想の絡み合いの歴史が本作に描きこまれていると論じている--></ref><ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)pp.151ー152</ref>、四国の森の谷間の村に起こる「想像力の暴動」と様々に傷を抱えた家族の恢復の物語を描いた<!--「想像力の暴動」という表現は万延元年の10章のタイトルであり作品中の表現である。このあらまし作成にあたり、文庫版の裏表紙の梗概、『大江健三郎・再発見』の中の作品案内の榎本正樹による梗概 pp.234-235、『大江健三郎文学事典―全著作・年譜・文献完全ガイド』の篠原茂による梗概などを参考にしている-->。[[1968年]]、東京の[[新宿]]にある[[紀伊國屋ホール]]にて月例の連続講演を一年間行ない、これは『核時代の想像力』(1970年)としてまとめられた。この頃から[[ガストン・バシュラール]]に依拠して、現実を変えていく力としての「想像力」論を打ち出していく<ref>服部訓和「大江健三郎におけるウィリアム・ブレイク受容:フライによるブレイク」『総合文化研究』([[日本大学]]商学部)20(1)、2014年6月 pp.79-108</ref>。1968年、『個人的な体験』の英訳 "A Personal Matter" が出版されている。1967年には長女の菜採子、1969年には次男の桜麻が生まれている<ref>「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社</ref>。 この頃から海外の作家との交流が盛んになる。1968年に[[オーストラリア]]の[[アデレード]]芸術祭に参加し、[[エンツェンスベルガー]]、[[ビュトール]]と面会する。[[1970年]]、[[1973年]]にはアジア・アフリカ作家会議に参加。[[1977年]]、[[ハワイ大学]]のセミナー「文学における東西文化の出会い」に参加して[[アレン・ギンズバーグ]]、[[ウォーレ・ショインカ]]と対話する{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=182}}。また1970年代には文芸誌『[[新潮]]』『[[海 (雑誌)|海]]』において[[アップダイク]]、[[ギュンター・グラス]]、[[バルガス・リョサ]]と対談している<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。 [[1971年]]、[[1972年]]に発表した[[みずから我が涙をぬぐいたまう日|二つの中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」]]では、前年の[[三島事件|三島由紀夫のクーデター未遂と自決]]を受けて天皇制を批判的に問い直すことを主題とした<ref>大江健三郎「*二つの中篇をむすぶ作家のノート」『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社文芸文庫</ref>。1973年には『[[洪水はわが魂に及び]]』を発表し、第26回[[野間文芸賞]]を受賞。本作は<!-- 核兵器の大量配備、公害問題の顕在化などの当時の社会状況と関連して、-->核状況下における[[終末観]]的な世界把握の下に構想されており<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)pp.198−202</ref>、破滅へ向かう先進文明に対抗するものとしてのスピリチュアルな祈りを主題としている<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.202-208</ref>。1974年には『万延元年のフットボール』の英訳 "The Silent Cry" が出版されている。 [[1975年]]、大学時代の恩師の[[渡辺一夫]]が[[肺癌]]で死去し、大きなショックを受けた。立ち直りのきっかけを求めて{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=139}}[[1976年]]に[[メキシコ]]に渡り、[[:en:El Colegio de México|コレヒオ・デ・メヒコ]]の[[客員教授]]として日本の戦後思想史の講座を受け持つ。現地で[[オクタビオ・パス]]や[[フアン・ルルフォ]]、メキシコに居を構えていた[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]]ら[[ラテン・アメリカ]]の文学者と知り合う{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=139}}{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=149-150}}。1976年に発表された『[[ピンチランナー調書]]』は天皇制や核の問題を主題としている。 [[1978年]]には「遅れてきた[[構造主義]]者」と称して<ref>榎本正樹『大江健三郎の八〇年代』p.18</ref>、ちょうど日本に紹介され始めた[[バフチン]]、[[ロシア・フォルマリズム]]などの思想潮流や[[山口昌男]]の理論などを参照して『小説の方法』を出版している<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)pp.224-229</ref><ref>榎本正樹『大江健三郎の八〇年代』pp.17-22</ref>。[[1979年]]に発表された原稿用紙1,000枚の大作<ref name="新潮文庫表4梗概">新潮文庫表4梗概</ref>『[[同時代ゲーム]]』において、故郷の森の谷間の「村=国家=[[マクロコスモスとミクロコスモス|小宇宙]]」の神話や歴史を描いた。大江はこれを自らの文学的な人生の大きい柱の作品と位置付けており{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=164}}、実際、本作にはこれ以前の大江作品の様々なモチーフが回収され、以降の作品に現れる要素も胚胎している<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』(講談社)p.204</ref>。[[1980年]]から[[1982年]]にかけて、[[中村雄二郎]]、[[山口昌男]]とともに編集代表を務めて論集「[[叢書文化の現在]]」(全13巻)を編纂して、学際的な新しい「知」の枠組みを提示する<ref>榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』(審美社)p.17</ref>。 === 円熟へ 連作短編の時代 ─ 「雨の木」を聴く女たち、新しい人よ眼ざめよ<!-- 段組について 榎本正樹は『大江健三郎の八〇年代』彩流社 1995年 pp.15-16において、大江の最後の小説までのキャリアを〜『個人的な体験』をI期、『万延』〜『同時代ゲーム』をII期、『雨の木』〜をIII期とするのは大江研究において一般的であるとしている。--> === 1982年、荒涼とした世界における男女の生き死にを見つめた<ref name="新潮文庫表4梗概"/>連作短編集『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』を発表して、翌[[1983年]]に第34回[[読売文学賞]]受賞(本作と[[武満徹]]との関係は、後述「関わりの深い人物」項目を参照)。本作以降の大江は多くの作品において、作家自身を思わせる小説家を語り手として、自分の経験や思索を虚構化していく<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)p.239, pp.242-244</ref>。また自作の引用、自己批評、書き直しや西洋の古典(本作においては[[:en:Malcolm Lowry|マルカム・ラウリー]]である){{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=175}}との対話によって、読むこと書くことの試行錯誤そのものを小説に書き込むようになる<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』(人文書院)p.263</ref>。 1983年の連作短編集『[[新しい人よ眼ざめよ]]』では[[ウィリアム・ブレイク]]の預言詩や、それに関連する研究を読むことで導かれた思索を織り交ぜながら、知的障害をもつ長男・光を中心とした家族の日常を[[私小説]]的に描き、第10回[[大佛次郎賞]]を受賞する。ここで、ブレイク研究者の女性詩人[[:en:Kathleen Raine|キャスリーン・レイン]]を大きな導き手として[[ネオ・プラトニズム]]に触れ、大江文学中期のテーマである「魂の問題」「再生」といった神秘的な問題を掘り下げ始めるようになった<ref name="「読むための大江健三郎年譜」『大江健三郎・再発見』集英社"/>{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=235-253}}<ref name="ReferenceB">大江健三郎「本の読み方の、自分の流儀について、レインを介して次の段階へ」『小説のたくらみ知のたのしみ』新潮文庫</ref>。同年、米国の[[カリフォルニア大学バークレー校]]に共同研究員として滞在している<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。 [[1984年]]、[[磯崎新]]、[[大岡信]]、[[武満徹]]、[[中村雄二郎]]、[[山口昌男]]とともに編集同人となり、季刊誌『[[へるめす]]』を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。当時の出版界が「知」のブームが沸く中で創刊された本誌は1980年代を代表する知識人の拠点となる<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』(講談社)p.156</ref>。同年、[[国際ペン|国際ペンクラブ]]東京大会に参加して、講演「核状況下における文学─なぜわれわれは書くか」を行い、[[カート・ヴォネガット]]、[[アラン・ロブ=グリエ]]、[[ウィリアム・スタイロン]]と対話する<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=280}}。1985年、[[連合赤軍事件]]を文学の仕事として受け止め直す<ref>『河馬に噛まれる』単行本帯の著者メッセージ</ref>連作短編集『[[河馬に嚙まれる]]』を発表する。表題作で第11回[[川端康成文学賞]]を受賞している。同年『万延元年のフットボール』のフランス語訳 "Le jeu du siècle" が[[ガリマール出版社]]より刊行されている<ref name="ガリマール社サイト内Ôé Kenzaburô">[http://www.gallimard.fr ガリマール社サイト内Ôé Kenzaburô]</ref>。 === ノーベル賞受賞まで ─ 懐かしい年への手紙、燃えあがる緑の木 === [[1986年]]には『同時代ゲーム』の世界をリライトした『[[M/Tと森のフシギの物語]]』を発表する。このリライトは難渋であるとして読者に十分に受け入れられなかった『同時代ゲーム』を平易にすると同時に{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=163}}、『同時代ゲーム』において十分に展開しきれなかった「魂の再生」のテーマを追求する意味合いがあった<ref>小野正嗣「解説」『M/Tと森のフシギの物語』(講談社文庫)pp.450-452</ref>。[[1987年]]には[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』を下敷きにした虚実綯い交ぜの[[メタフィクション|メタ・フィクショナル]]な自伝<ref name="「読むための大江健三郎年譜」『大江健三郎・再発見』集英社"/>『[[懐かしい年への手紙]]』を発表する。『同時代ゲーム』以来の原稿用紙1,000枚の大作で、『芽むしり仔撃ち』以来描き続けてきた森の谷間の小宇宙を統合する試みであった<ref>読むための大江健三郎年譜『大江健三郎・再発見』集英社</ref>。前者は1989年に "M/T et l'histoire des merveilles de la forêt" のタイトルで、後者は1993年に "Lettres aux années de nostalgie" のタイトルで、フランス語訳がガリマール社より刊行された<ref name="ガリマール社サイト内Ôé Kenzaburô"/>。 [[1989年]]の『[[人生の親戚]]』では長編で初めて女性を主人公とし<ref>篠原茂『大江健三郎文学事典』森田出版、1998年</ref>、子供を自殺で失った女性の悲嘆とその乗り越えを描いて第1回[[伊藤整文学賞]]を受賞する。[[1990年]]に発表されたSF『[[治療塔]]』<!--(連載時のタイトル『再会、あるいはラスト・ピース』を改題)-->とその続編の『[[治療塔惑星]]』(1991年)では、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェーツ]]の詩を引きながら核時代の危機と人類救済の主題を描いている。1990年、連作短編集『[[静かな生活]]』を発表。『新しい人よ眼ざめよ』において主題となった知的障害を持つ長男との共生の体験を、彼の妹の視点を通して改めて描いている。この時期の大江は女性を語り手に選び、それに見口を模索している<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 p.265</ref>。また超越的な存在と自分自身の関係を問い直そうとしている<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 p.270</ref>。 [[1993年]]9月より原稿用紙2,000枚に及ぶ三部からなる長編『[[燃えあがる緑の木]]』の連載を開始する。『懐かしい年への手紙』の後日譚として、四国の森の中の谷間の村を舞台とした「教会」の勃興から瓦解に至るまでの過程を、両性具有の若い女性の視点を通して描き、「魂の救済」の問題を描き尽くした<ref>第一部新潮文庫表4梗概</ref>。連載当時はこれを「最後の小説」としていた<ref name="名前なし-1">榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 pp.6-11</ref>。 『燃えあがる緑の木』連載中の[[1994年]]、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている<ref>訳は小野正嗣『NHK100分で名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』</ref>(who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」という理由で[[ノーベル文学賞]]を受賞する。[[川端康成]]以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者であった。[[ストックホルム]]で行われた受賞講演は川端の「[[美しい日本の私―その序説|美しい日本の私]]」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端の講演は極めてvague(あいまい、ぼんやりした)であり、閉じた神秘主義であるとし、自分は日本をambiguous(あいまい、両義的)な国として捉えると述べた。日本は、開国以来、伝統的日本と[[西ヨーロッパ|西欧]]化の両極に引き裂かれた国であるとの見方を示し、小説家としての自分の仕事は、ユマニスムの精神に立って「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒す」ことであると述べた<ref>大江健三郎「あいまいな日本の私」『あいまいな日本の私』岩波新書</ref>。 小説執筆の一旦の終了を受けて[[1996年]]より新潮社より『大江健三郎小説』(10巻)が刊行開始された<ref>[https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2018/07/15/210730 私の中の見えない炎 大江健三郎 自作解説(1996)]</ref>。これは全集ではなく、作者が吟味し基準に適うもののみが収録された。長編でいうと初期作品の『われらの時代』『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』は収録されなかった。 === 後期の仕事(レイト・ワーク)─ 取り替え子、水死 === [[1995年]]に「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結し、小説執筆をやめて[[スピノザ]]の研究に取り組むと述べていた<ref name="名前なし-1"/><ref>大江健三郎「世界文学は日本文学たりうるか?」『あいまいな日本の私』岩波新書</ref>。だが[[1996年]]の友人・[[武満徹]]の病死を契機に考えを変え、告別式の弔辞において新作を捧げるとし{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=270}}、1999年に『[[宙返り (大江健三郎の小説)|宙返り]]』を発表。信徒が計画するテロを防ぐために一度「棄教」した新興宗教の教祖らによる、波乱の中での教団の再建を描いている。これ以降の創作活動は作家自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と称する。 [[2000年]]、義兄の[[伊丹十三]]の自殺を受けて、文学的な追悼として伊丹の死を新生の希望へと繋ぐ<ref>講談社文庫表4梗概</ref>『[[取り替え子 (小説)|取り替え子(チェンジリング)]]』を発表する。続けて『[[憂い顔の童子]]』([[2002年]])、『[[さようなら、私の本よ!|さようなら、私の本よ!]]』([[2005年]])を発表した。これらは「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。『さようなら、私の本よ!』では[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けてテロリズムの問題が主題とされた。 [[2007年]]には、30年前にお蔵入りとなった映画制作の顛末と、再び企画を立ち上げる老人たちの友情を描いた『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(文庫刊行時に『[[美しいアナベル・リイ]]』に改題)を発表する。[[2009年]]には、終戦の夏におきた父親の水死の真相を描こうとする老作家の巻きこまれる騒動を描く『[[水死 (大江健三郎の小説)|水死]]』を発表。本作は70年代に中編「みずから我が涙をぬぐいたまう日」で取り組まれた「父と天皇制」のテーマに再度挑むものであった<ref name="尾崎真理子「復元された父の肖像」『大江健三郎全小説全解説』講談社">尾崎真理子「復元された父の肖像」『大江健三郎全小説全解説』講談社</ref>。[[2013年]]には、[[東日本大震災]]とそれに伴う[[福島第一原子力発電所事故|原発事故]]を題材とした『[[晩年様式集|晩年様式集(イン・レイト・スタイル)]]』を刊行した。 『取り替え子(チェンジリング)』以降のレイト・ワークは『美しいアナベル・リイ』を除き、大江をモデル人物とした老作家・長江古義人を主人公とする<ref name="尾崎真理子「復元された父の肖像」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/><ref>尾崎真理子「永遠のモラリスト、伊丹十三」『大江健三郎全小説全解説』講談社</ref><ref>尾崎真理子「「晩年のスタイル」こそ苛烈に」『大江健三郎全小説全解説』講談社</ref>(『美しいアナベル・リイ』の語り手の老作家「私」は、作中で他の登場人物からケンサンロウ、Kenzaburoと呼ばれる)<ref>[[榎本正樹]]「「おかしな二人組」の継承と新展開」『すばる』2009年2月号</ref>。 創作以外の活動としては[[1996年]]に[[プリンストン大学]]で客員講師を、[[1999年]]に[[ベルリン自由大学]]で客員教授を務めている。[[2006年]]に純文学を志す有望な若手作家を世界に紹介する目的で<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>[[大江健三郎賞]]が創設された(本賞は[[2014年]]に終了した)。 2014年、『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)を出版。作家自身が作品を厳選し、全収録作品に加筆・修訂を施している。[[2016年]]、仏ガリマール社より1,300ページを超える選集が刊行された(「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」が収録された)<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。2018年より『大江健三郎全小説』(15巻)が講談社から刊行開始された。「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」が収録されることで話題になった。全小説と銘打っているが作者が不出来だと封印している『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』の二点が収録されておらず完全な全集ではない<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』(講談社)p.42</ref>。 [[2021年]]2月、「死者の奢り」『同時代ゲーム』『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』などの作品の自筆原稿1万枚超を含む資料約50点が東京大学に寄託されると発表された。資料を保管・管理し、国内外の研究者に公開する研究拠点「大江健三郎文庫」が文学部内に設立される。同一作家の自筆原稿コレクションとしては屈指の規模になるという<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP2D3CLNP2BUCVL029.html 「大江健三郎さん、自筆原稿を東大に寄託 研究拠点設立へ」朝日新聞2021年2月12日 16時00分]</ref>。 === 死去 === [[2023年]]3月3日、老衰のため死去。{{没年齢|1935|1|31|2023|3|3}}<ref>{{Cite web|和書|title=ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230313/k10014006861000.html |website=NHKニュース |access-date=2023-03-13 |last=日本放送協会}}</ref> == 主題系 == === 監禁状態・性的人間 === 最初期の大江の作品を論じるときに決まって引用されるのが、1958年の第一作品集『[[死者の奢り]]』の後書きに記された次の一文である。「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」<ref name="一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 p.16">一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』(和泉書院)p.16</ref>。大江は、一人称による感覚的な表現で、犬殺し、死体運搬人、[[カリエス]]患者、偽学生、捕らえられた黒人兵、少年院の少年、など多彩な題材のヴァリエーションでこの主題を展開した<ref name="一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 p.16"/>。そして、占領下の生活を強いられた敗戦後の日本と日本人の「監禁状態」、未来に希望や確信を持てない青年の不安を描き出した<ref name="一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 p.16"/>。これらは当時、大学の仏文科の学生として、[[ガリマール出版社|ガリマール]]版[[サルトル]]を読み込んで、サルトルの作品『壁』『自由への道』などから「壁の中」「猶予」という概念を獲得して、それに倣ってのものであった<ref>一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 p.17</ref>。 この「監禁状態」の主題からの次の展開として、大江は、独自の「政治的人間」と「性的人間」の二項対立を、主題に導き入れる。次の文章も、初期大江論で常に引用される文章である。「政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抵抗し、他者を撃ちたおすか、あるいは他者に他者であることをみずから放棄させる。」「性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。かれは他者と硬く冷たい関係をもたぬばかりか、かれにとって本来、他者は存在しない。かれ自身、他のいかなる存在にとっても他者でありえない。」「政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない、政治的人間は他者と対立し、抗争し続けるだけだ」(「われらの性の世界」)。大江は、現実から疎外され、現実生活における行動の契機を奪われて停滞を余儀なくされている現代青年(性的人間)を描いていく<ref>一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』(和泉書院)p.26</ref>。『[[われらの時代]]』(1959)『遅れてきた青年』(1962)『[[叫び声]]』(1963) の登場人物は、日米安保体制の下政治的にアメリカに従属しながらではあるが、それなりのは経済的繁栄や安定を手にしつつあった戦後日本社会(政治的に牝になった国)において、日常生活に埋没することを忌避しながらも、そこでしか生き得ない自分を嫌悪して、狂気や暴力に惹かれていく青年である。彼らは戦争を渇望したり、外国への脱出を希望する{{sfn|柴田勝二|2015|p=171}}。しかし願いは叶うことはなく、やがて破滅して「敗北の確認」といった形で小説は終わる。 === 共生・核時代・祈り === 戦後社会を呪詛する絶望的な青年像を描いてきた大江にとって、大きな転機となったのが、1963年6月の長男の[[大江光]]の誕生であった。この出来事は、これまでの創作において、否定的に表象されてきた「日常」に大江を引き戻す契機となった{{sfn|柴田勝二|2015|p=172}}。光の誕生を題材として書かれた1964年の『[[個人的な体験]]』はこの関心の変容を、物語の展開として孕んでいる{{sfn|柴田勝二|2015}}。主人公の「鳥(バード)」は、それまでの大江の作品の主人公と同様に、現実逃避的な心性から、アフリカへ逃避する願望を持っている。「鳥」は生まれてきた脳に重い障害をもつ赤ん坊を見棄てるか、手術を受けさせて生かすかの決断の前で揺れて、最終的には回心してアフリカへの幻想を捨てて、子供とともに生きる覚悟を決める{{sfn|柴田勝二|2015|p=166-170}}。大江の現実世界に対する関心もまた、従前の日米安保体制下での軍事的、政治的従属を批判的に捉えるという眼差しから、より世界的な拡がりのある「ヒロシマ」を中心とする「核」の問題へと移ることになる{{sfn|柴田勝二|2015|p=164-165}}。 大江は、光の誕生と同年の1963年8月の原水爆禁止世界大会を取材し、その後も原爆病院の医師や原爆の生存者に取材を重ねて1965年に『[[ヒロシマ・ノート]]』を出版している。『ヒロシマ・ノート』は冒頭こう書き始められる。「このような本を、個人的な話から書きはじめるのは、妥当でないかもしれない。」「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であった。」この私生活の苦しい状況の中での取材で、大江は悲惨な体験をした広島の人々の生き方から励ましを受け取る。そしてこう述べている。「まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけていた。僕は直接かれらに勇気づけられたし、逆に、いま僕自身が、ガラス箱のなかの自分の息子との相関においておちこみつつある一種の神経症の種子、頽廃の根を、深奥からえぐりだされる痛みの感覚をもあじわっていた。そして僕は、広島とこれらの真に広島的なる人々をヤスリとして、自分自身の内部の硬度を点検してみたいとねがいはじめたのである。」<ref>「プロローグ 広島へ……」『ヒロシマ・ノート』</ref>障害を持つ子供との共生という個人的な問題と世界規模の核状況という一見、対極的な二つの問題は、大江にとって当初からひと繋がりのものである{{sfn|柴田勝二|2015|p=162}}。『個人的な体験』には核状況は主題として取り込まれており、(赤ん坊の誕生時期を二年遡行させて)1961年のソ連による通称「[[ツァーリ・ボンバ]]」の水爆実験が描かれる。そして、赤ん坊をどうするべきか、という個人的な問題に閉じ込められて、世界規模の脅威に感応しえなくなった主人公「鳥(バード)」の姿が描かれて、私的な問題との対比で核の問題の重大さが強調された{{sfn|柴田勝二|2015|p=160-164}}。「核」の問題と「共生」の問題は、現実世界の最大の暴力である核に対して最も無力な存在としての障害児として大江の想像力の中で関連づけられて、以後の作品においてもこの二つの主題が同時に現れることになる{{sfn|柴田勝二|2015|p=160-164}}。 1973年の『[[洪水はわが魂に及び]]』の核シェルターに閉じこもる主人公・大木勇魚とその子供で知的障害をもつ幼児ジンと交流をする不良少年たち「自由航海団」は、初期作品の『[[われらの時代]]』の「不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)」や『[[叫び声]]』の「友人たち(レ・ザミ)号」の乗員たちと同類型の登場人物である。しかし本作は「洪水」に核時代の始まりというイメージが重ねられているように、核状況の終末観を背景としていること、そして、それに対抗するものとしての「祈り」が主題として登場することにおいて新しい<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.198-200</ref>。この「祈り」は神などの特定の祈る対象のない「祈り」であり、大江自身の説明によるならば「人間存在の破壊されえぬことの顕現」([[ミルチャ・エリアーデ]])を感得するためのものである<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.202-203</ref>。 長男・光と「祈り」との関係については、1987年10月に[[東京女子大学]]で行われた「信仰を持たないものの祈り」(『人生の習慣』)という講演があり、そこで大江は次のような回想をしている。光は、四歳になっても能動的に言葉を話さず、意思疎通が難しかったが、鳥の声のテレビ番組には関心を示した。そこで鳥の声のレコードを買ってきて、自宅で一日中流し続けていた。一年後、北軽井沢の林で長男と散歩していると、クイナが鳴いた直後に長男が「クイナです」と反応した。幻聴かと緊張しながら、鳥がもう一度啼いたらいいと思い、そのときに自分の心の中に「ある祈りのようなもの」を感じた。そしてもう一度クイナが鳴き、光はまた「クイナです」と言った。大江は、この場面を次のように説明している。「祈ったというよりも、集中していたというほうが正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。(......)いま自分がこの木を見て集中している、ほかのことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。」<ref>大江健三郎「井伏さんの祈りとリアリズム」『あいまいな日本の私』岩波書店</ref>この一種の啓示体験が『洪水はわが魂に及び』に設定として取り込まれた<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.204-206</ref>。 1983年の作品『[[新しい人よ眼ざめよ]]』はヴァルネラブルな父と子が、『洪水はわが魂におよび』のように社会の外に退避するのではなく、社会の中でどう生きていくのかを書く試みであった。虚構性の低い私小説的な作りの小説の中で、日常生活の中で光の存在から受けた多様な気づきに[[ウィリアム・ブレイク]]の詩が重ね合わされていく<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.250-251</ref>。大江がブレイクの神秘主義的な「死と再生」のヴィジョンに深く揺り動かされたのは、大江が既に、ブレイクのヴィジョンに共通するところのある「人間存在の破壊されえぬことの顕現」を光との共生によって見出してきていたことに由来し、また、ブレイクを介することによって大江は「障害を持って生まれざるをえなかった息子についての遺恨の思いと「罪のゆるし」、自分のきたるべき死と、息子ともどもの再生への思い」をあらためて把握し直すことになった。作品においては、息子との共生の時々が、ブレイクのヴィジョンを触媒にして、瞬時に、驚きに満ちた解放感を伴って、普遍的な光景として救出されていく<ref>{{Cite journal|和書|author=杉山若菜 |title=大江健三郎研究 : その〈想像力〉の軌跡 |issue=大東文化大学 博士論文(日本文学)、 甲第154号 |year=2019 |naid=500001371574 |url=http://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/52643/ |pages=181-185}}</ref>。本作においても、核状況下の現代世界における極小的な弱者である障害児と、それに拮抗する極大的な暴力である核というモチーフは引き継がれており、結末において、ブレイクの詩に導かれて光の存在に「凶々しい核時代」に拮抗する「新しい人」を見出して終わる<ref>黒古一夫『大江健三郎論 森の思想と生き方の原理』彩流社 p.162</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=南徽貞 |title=大江健三郎研究 : 「死と再生」という主題をめぐって |issue=東京外国語大学 博士論文 (学術)、 甲第211号 |year=2016 |naid=500000971978 |url=https://hdl.handle.net/10108/85922 |id={{NDLJP|10121542}} |pages=117-119}}</ref>。 「信仰を持たないものの祈り」というテーマは、この後も『[[人生の親戚]]』、『[[懐かしい年への手紙]]』とその後日譚となる『[[燃えあがる緑の木]]』『[[宙返り (大江健三郎の小説)|宙返り]]』に引き継がれていく<ref> 神谷光信「大江健三郎信仰なき者という立場」『国文学 解釈と鑑賞』二〇〇九年四月 </ref>。 === 天皇制と森の神話 === 『個人的な体験』な体験を境にして、大江の作品は質的に変化する。作品世界がそれまでの水平型な「脱出」のモチーフから、垂直型の空間体験に変わる。このことは『[[万延元年のフットボール]]』に顕著に見られ、自宅の庭に掘った穴ぼこに潜り込んだ主人公の描写から物語は始まり、終章で故郷の屋敷の地下に座り込んだ主人公の思念が語られる。主人公はアイデンティティの回復を求めて父祖の地に戻り、父祖の歴史の真相を探り、未来に想像力を働かせる<ref name="一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 pp.35-36">一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 pp.35-36</ref>。こうした縦の関係の探究は、幼少期の体験として心理的な傷となった父の死と天皇性の問題を掘り起こすことにもなった<ref name="一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 pp.35-36"/>。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で、失われた父の全容を復元しようとする中で、父はしばしば超越者と混同されるが、三島由紀夫のクーデター未遂を受けて書かれた1972年の『[[みずから我が涙をぬぐいたまう日]]』では明確に天皇制の問題となった<ref>一條孝夫『大江健三郎その文学世界と背景』和泉書院 pp.36-37</ref>。 1967年に出版された『万延元年のフットボール』は、当時の[[色川大吉]]や[[安丸良夫]]らによって先導された民衆史との並行関係が指摘されるように<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ば小説家』人文書院 pp.151-153</ref>、歴史を権力の側からではなく、民衆の側から見ようとする試みであった。執筆当時は、[[建国記念の日]]の制定や、政府主導の「明治百年」記念イベントが大々的に展開されるなど、復古主義的な動きがあり、大江はそれに大きな違和感を抱いており<ref name="Language pp.41-62">{{Cite journal|和書|author=史姫淑 |title=大江健三郎『万延元年のフットボール』論 |journal=言語・地域文化研究 |ISSN=1341-9587 |publisher=東京外国語大学大学院 |year=2009 |month=mar |issue=15 |pages=41-62 |naid=120002224422 |url=https://hdl.handle.net/10108/57689}}</ref>、これが作品成立の背景にある。1965年に本土復帰前の沖縄を訪れた大江は、日本本土の天皇という中心を指向する文化とは別の文化を発見して大きな衝撃を受けている。日本的というよりアジア的な宇宙観、神話構造に根ざした民衆文化を知ることで、四国の森の中の故郷の土地を新しい眼で見るきっかけを得ており、これが作品に反映されている<ref name="Language pp.41-62"/>。 1979年に発表された『[[同時代ゲーム]]』は、幼少期に祖母などから聞いた故郷の伝承を手がかりにして、[[ロシア・フォルマリズム]]や[[ミハイル・バフチン]]、[[構造主義]]などの知見を援用する形で、大江の故郷の森の谷間の村の神話を再構築した<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ば小説家』人文書院 p.232</ref>。大江は、執筆の動機として天皇との関係を述べている。「僕がこの森のなかの「共同体」を、はじめてそこに古代国家を建設した人びとのものとして成立させえたことの(かれらがじつはその「場所」の侵犯者ではないかという疑いもまた、隠された主題としてあるのではあるが)その根本的な条件としては、僕が中心志向の天皇制文化とは対極にある、周縁志向の反・天皇制文化をひとつの全体として表現することをめざしたということがあると思う。アマツカミという中心の、万世一系の末裔=天皇を頂点に置いた世界モデルとしての日本文化。それに対立する、クニツカミという多様な周縁的存在につながるものとしての世界モデル。僕はそのような文化に、自分の希求する共同体文化の中核(共同体文化の中核に傍点)を想定し、そこに「位置する」はたらきに、自己の個人の中核(個人の中核に傍点)に「位置する」はたらきをかさねることをめざして、この小説を書いたのである。」<ref>{{Cite journal|和書|author=蘇明仙 |title=『同時代ゲーム』 : その神話の両義性 |journal=Comparatio |ISSN=13474286 |publisher=九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会 |year=2002 |month=may |volume=6 |pages=41-53 |naid=110007159066 |doi=10.15017/16018 |url=https://hdl.handle.net/2324/16018}}</ref> 『同時代ゲーム』は1986年に、ナラティブを変えて、やわらかい口語的な文体で『[[M/Tと森のフシギの物語]]』にリライトされる。『同時代ゲーム』では、森の谷間の「村=国家=小宇宙」の創建者「壊す人」や「父=神主」の父権的な族長(ぺイトリアーク)をめぐる歴史に主眼が置かれたが、『M/Tと森のフシギの物語』では女族長(メイトリアーク)と[[トリックスター]]という二つの神話原型が物語の枠組みとなった<ref>榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 pp.203-207</ref>。そして最終章に語り手「僕」の母親と「僕」の息子ヒカリ(光)と交感のエピソードを置き、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』へと大江が追求してきた「森の神話」の作品群と、『個人的な体験』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る「共生」の物語群が交錯することとなった<ref>榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 p.208</ref>。併せて『同時代ゲーム』において傍系的な挿話であった「森のフシギ」が、土地の人間が生まれ、育ち、死んでいく、いのちのおおもと、個でありながら一つの全体性を形作る共同幻想として物語の中心に据えられ、ウィリアム・ブレイクや[[ダンテ]]につながる神秘思想的な世界観が示された<ref>榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 p.213</ref>。 == 人物 == === 創作方法など === ;小説の方法 小説の方法に自覚的な作家である。『小説の方法』をはじめとした小説の方法論を考察した著作がある。小説創造のベースに置いている考え方で、特に重要なものは[[ガストン・バシュラール]]の想像力論の「想像力とは、知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、基本的イメージからわれわれを解放してイメージを変える能力である」という考え方、[[ミハイル・バフチン]]の「グロテスク・リアリズム」の概念(精神的・理想的なものを肉体的・物質的な次元に引き下げ、民衆的・祝祭的な生きた総体として捉えること)、[[ロシア・フォルマリズム]]の理論家[[ヴィクトル・シクロフスキー]]の芸術における「[[異化]]」の概念などである<ref>榎本正樹『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 pp.17-22</ref><ref>加賀乙彦「日本文学の未来についての恐ろしい予感」『小説の経験』朝日文芸文庫</ref><ref>大江健三郎「この方法を永らく探しもとめてきた」『私という小説家の作り方』新潮文庫</ref><ref>大江健三郎「森のなかの祭りの笑いから」『私という小説家の作り方』新潮文庫</ref>。 ;引用 自作に先行文学作品からの引用を織り込んで作品世界を作り上げることに特徴がある<ref>小野正嗣『NHK100分で名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』kindle 714/1864</ref>。これは1980年代以降に顕著となる。その効果として作品中に地の文と別のテクスチュアの文を織り込むことで文体の多様化を図る。地の文章を一つの柱としたら、それと構造的に支え合い、力を及ぼし合うもう一つの柱として引用を建てて作品の奥行きを増す。という効果を狙っている。このやり方が立脚する根本の思想としては「本来、言葉とは他人のものだ」という言語観がある<ref>大江健三郎「引用には力がある」『私という小説家の作り方』新潮文庫</ref>。大江は大学時代の恩師である[[渡辺一夫]]から作家生活をやっていく上で、三年ごとに主題を決めて一人の作家なり思想家なりをその作品のみならず、研究まで読み込むと良い、という勧めを受けており、それを実践している<ref>大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫 p.103</ref>{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=383}}。その実践が上述の引用に結びついている。 引用についてこう述べている。「本当に、引用の問題はいままでの小説──少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説──の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文章との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく、そういう文章を作ることが文体のつくり方での主目的にさえなりました。ある詩に感銘するでしょう、その引用が一番ぴったりするように、その環境としての文章を作っていく。そういうわけですから、引用が、なにより決定的に重要な意味を持ち始めます。『懐かしい年への手紙』では[[ダンテ]]ですし、短篇の連作集『「雨の木」を聴く女たち』の場合は、[[:en:Malcolm Lowry|マルカム・ラウリー]]。『新しい人よ眼ざめよ』では[[ウィリアム・ブレイク]]ですね。『燃えあがる緑の木』三部作の場合は[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イエーツ]]、『宙返り』では[[:en:R. S. Thomas|R・S・トーマス]]だった。」{{harv|大江健三郎作家自身を語る}} ;自作リライト 1980年代以降の大江の殆どの小説は、過去に書いた自己の小説を引用・参照し、再利用・再生することで書かれている。こうした方法の理論的起源は『小説の方法』で考察されたシクロフスキーの「異化」理論である。自作を「異化」することは、創作者の意識において、すでに反射化された自作を再び明視すること、自作に対する固まった観念を疑問視するということ、自作への異議申し立てである<ref name="ReferenceD">時渝軒「一九八〇年代以降の大江健三郎小説における自作リライトの手法」『大江健三郎全小説11』</ref>。自作言及・自作引用する作品は多くの場合、自作の注釈・説明という方向ではなく、自作を解体する方向へ物語を導いて、それまでの「大江健三郎」「大江健三郎の小説」およびそれらにまつわる批評を含む、総合的な「自己」を相対化していく<ref name="ReferenceD"/>。一方、自伝小説『懐かしい年への手紙』は多数の自作と他の作家の作品を縦横無尽に引用していくが、こうした複数の自作を同時に再検討・再解釈をする形式は過去の自作に新しい意味内容を付与するだけではなく、それらの自作を統合するという方向を向いている。大江の自己言及小説は、自己の統合や達成を遅延化し、非完成を目的とする「晩年の様式」型と、自作の完成や統合、締めくくりを目指す「最後の小説」型との二類型に分類できる<ref name="ReferenceD"/>。 ;詩の重視 大江自身は[[散文]]を書く人間であるが、詩を重要視しており、上述の通り、ダンテ、ブレイク、イェーツなどの詩を自分の中に取り込んで、その磁場の中で創作を行っている。元々、高校の頃から[[三好達治]]、[[萩原朔太郎]]、[[中原中也]]、[[富永太郎]]、[[谷川俊太郎]]などの日本の詩人を愛読していた。大学生協の図書部で[[深瀬基寛]]対訳の[[T・S・エリオット]]、[[W・H・オーデン|オーデン]]を手に入れて、その翻訳文体でその文体で、この国にはない小説が書けるのではないかと考えるようになったという<ref name="大江健三郎「詩人たちに導かれて」『私という小説家の作り方』新潮文庫">大江健三郎「詩人たちに導かれて」『私という小説家の作り方』新潮文庫</ref>。 こう述べている。「とくにオーデンの詩について、私が魅力を感じたのはこういうことだった。そこではこまかな具体的事物から人間について、また社会、政治、国際関係について、ひとつながりに、共通のヴォキャブラリーとナラティヴによって語られている。さらに、エリオットの詩的な優雅さが日常的な散文の語り口へとなだらかな移行を示す――あるいは、その逆方向へ――その書き方が好きだったのだ。そして両者ともに、日常生活の観察のレヴェルにかさねて形而上学的な、さらには神秘主義的ですらある豊かさ、深さにいたる表現に惹かれて、それもまた私には新しい小説のスタイルへの指針のように感じられたのである。だからといって、すぐさまそれを、私が作品に実現しえたのではなかったけれども。」<ref name="大江健三郎「詩人たちに導かれて」『私という小説家の作り方』新潮文庫"/> 小説家としての自分にとって詩がどういう意味を持つかについて『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文「なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの」において次のように述べている。 「この不慮の死の陥穽にみちみちた時代を生きるにあたって、そうした突然の死のまぎわに、自分の肉体=魂の内部に、ぼくとともに死ぬところの詩を確保することで、いくらかなりと死の恐怖と苦痛をやわらげるべく詩をもとめているのであるし、そのような詩よりほかの、いかなる華やかな言葉の飾りもさがしだそうとしているのではないのだ。」 <br />(しかし) <br />「ぼくは詩をあきらめた人間である。それは、あきらめるという言葉がもともと二重の意味あいをそなえて一個の言葉として実在している事情そのままに、詩の言葉と小説の言葉の根本的なことなりについて、なんとかあきらかに認識したことによって、詩を書くことをやめ、小説にむかった人間だ。」 <br />「ぼくが詩をあきらめたのは、自分の言葉にたいする、自分自身の方向づけが、詩の言葉より、小説の言葉にむいていることを認めざるをえなかったからである。」 <br />「ぼくにとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂につきささっているトゲのように感じられる。それは燃えるトゲである。日常生活において自分の肉体=魂が、その深みにしっかり沈んでいる詩の錘をたよりに生きているとすれば、小説を書こうとしているぼくの肉体=魂は、自分の小説の言葉によって、なんとかこの燃えるトゲにたちむかおうとしているわけである。この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である。」 『新しい人よ眼ざめよ』を執筆しながらブレイクを読解していたが、大きな参考としていたのが、学者[[:en:David V. Erdman|ディヴィッド・V・アードマン]]『ブレイク、帝国に真向う予言者』と、学匠詩人[[:en:Kathleen Raine|キャスリン・レイン]]『ブレイクと伝統』だという。レインの、ブレイクの魂の課題をキリスト教以前の神秘的な信仰に引きつけての解釈を介して「これまでずっといつまでも漠然としたところの残る気がかりな対象だった[[ネオ・プラトニズム]]が、ブレイクの詩と絵画を素材にして、よく理解できると思えた」「レインに導かれた私は、光との共生で直接経験を重ねてきたことを、明快な神秘主義において受けとめなおすことができると感じた」という。ダンテに関心を導いたのもレインであるという。その後、大江はイェーツに関心を移していくが、イェーツにも、ユダヤ・キリスト教の背後、あるいは外側の伝統としての宗教感情、イマジェリー、宇宙観を読み込んでいく。そのイェーツ解釈をもとにして、『燃えあがる緑の木』を執筆している<ref name="大江健三郎「詩人たちに導かれて」『私という小説家の作り方』新潮文庫"/>。 「後期の仕事(レイト・ワーク)」においてもR・S・トーマス(『宙返り』)、[[アルチュール・ランボー]](『取り替え子(チェンジリング)』)T・S・エリオット(『さようなら、私の本よ!』)、[[エドガー・アラン・ポー]](『美しいアナベル・リイ』)と詩が果たす役割は大きい。 詩人マイ・ベストスリーを問われてT・S・エリオット、イエーツ、ブレイクと答えている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=390}}。 ;エラボレーション 一旦書き上げた草稿を徹底的に推敲して書き直す<ref>{{Cite journal|和書 |author=工藤彰、岡田猛、ドミニク チェン |title=リアルタイムの創作情報に基づいた作家の執筆スタイルと推敲過程の分析 |url=https://doi.org/10.11225/jcss.22.573 |journal=認知科学 |issn=1341-7924 |publisher=日本認知科学会 |year=2015 |volume=22 |issue=4 |pages=573-590 |naid=130005154831 |doi=10.11225/jcss.22.573 |accessdate=2020-10-17}}</ref>。本人はこの作業を友人の批評家[[エドワード・サイード]]の用語からとって「エラボレーション」と読んでいる<ref>大江健三郎「武満徹のエラボレーション」『言い難き嘆きもて』講談社文庫</ref>{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=284}}。例えば『取り替え子(チェンジリング)』の場合、1000枚ほど書いてそれを500枚まで縮め、さらに加筆して現在の長さになったという<ref name="ddnavi.com">[https://ddnavi.com/interview/23089/a/2/ 大江健三郎 Interview long Version 2005年9月号]</ref>。最初に書かれた文章が原型を留めないほどに、徹底的に書き直された原稿用紙の写真は『大江健三郎全小説』などで見ることができる。 ;おかしな二人組 批評家[[フレドリック・ジェイムソン]]が『宙返り』について[[ロンドン・レビュー・オブ・ブックス]]誌で「スウード・カップル (Pseudo-Couples)」というタイトルの評論を書いている。ジェイムソンは、大江の作品には、[[ベケット]]の戯曲や小説につながる「おかしな二人組(スウード・カップル)」が出てきて、二人の人物の組み合わせが物語を動かす構造になっていると指摘している<ref>[https://www.lrb.co.uk/v25/n22/fredric-jameson/pseudo-couples Fredric Jameson · Pseudo-Couples (翻訳が『大江健三郎全小説13』に収録されている)]</ref>。この指摘は作家自身気に入っており、『取り替え子』からの三部作を「「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作」と名付けている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=296}}。『[[芽むしり仔撃ち]]』の兄弟、『[[万延元年のフットボール]]』の蜜三郎と鷹四、『[[懐かしい年への手紙]]』の「僕」とギー兄さんなどにこの二人組の系譜を確認できる<ref name="ddnavi.com"/>。 ;サーガの形成 1980年代以降の大江の作品は、[[フォークナー]]の[[ヨクナパトーファ郡|ヨクナパトーファ・サーガ]]のように一つの作品に登場した人物(とその子孫)が別の作品に登場し、全体として緩くつながっていることに特徴がある。例えば、『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』に登場するアルコール依存症の英文学者くずれの高安カッチャンの息子、ザッカリー・K・高安が『[[燃えあがる緑の木]]』に登場<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.321</ref>、『[[懐かしい年への手紙]]』の主要人物ギー兄さんの息子のギー・ジュニアが『[[晩年様式集|晩年様式集(イン・レイト・スタイル)]]』に登場<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.414</ref>などの例が挙げられる。 === 日本文学 === ;日本の古典 影響を受けた古典として長編『[[源氏物語]]』、中編『[[好色五人女]]』、短編『[[枕草子]]』と答えている。「[[新潮日本古典集成]]」をベッドや電車で愛読したという{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=385}}。 ;私小説への偏愛 大江自身が(擬似的な)[[私小説]]の書き手であることもあり、近代文学の中では、日本独自の文学のスタイルである、読者との共犯関係のもとで告白を行う私小説に特別な関心を寄せている。[[葛西善蔵]]、[[嘉村礒多]]、[[牧野信一]]といった破滅型私小説の作家を評価している<ref>大江健三郎「虚構の仕掛けとなる私」『私という小説家の作り方』新潮文庫</ref><ref>大江健三郎・古井由吉「百年の短編小説を読む」『文学の淵を渡る』新潮文庫</ref>。 ;敬愛する先行文学者 ノーベル賞の受賞の第一報を受けて自宅前で記者に囲まれて「日本文学の水準は高い。[[安部公房]]、[[大岡昇平]]、[[井伏鱒二]]が生きていれば、その人たちがもらって当然でした。日本の現代作家たちが積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私が受賞したのです」とコメントした{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=280}}。熱心に読んでいた日本の作家は[[石川淳]]、[[中野重治]]であるという{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=156}}。安部、大岡とはプライベートな交際もあった{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=156-159}}。 ;三島由紀夫 [[三島由紀夫]]の自決を受けてすぐに、天皇制を批判的に問い直す「[[みずから我が涙をぬぐいたまう日]]」を書いている。その後も三島事件は『[[新しい人よ眼ざめよ]]』(1983年)連作の「落ちる、落ちる、叫びながら…」「蚤の幽霊」、『[[さようなら、私の本よ!]]』(2005年)と繰り返し取り上げられる。大江がかつて天皇崇拝のテロリストの少年を描いた「セヴンティーン」を発表した際、それを読んだ三島は、大江は国家主義に情念的に引きつけられるところがある人間なのではないか、と考えて『[[新潮]]』の編集者を介して大江に手紙をよこしたという。2007年のインタビューで大江は、三島の読み取りは正しく、自分の中にアンビバレントなものがあることを認めている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=80}}。 ;村上春樹 [[村上春樹]]の口語体の小説の翻訳が、「英語の小説」として世界に広く受け入れられていることについて、それは日本文学史上初の達成であると肯定的に評価している{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=335}}。かつて芥川賞の選者として村上の『[[風の歌を聴け]]』を評価できなかったのは、表層の[[カート・ヴォネガット]]的な口語体の言葉のくせに引っかかって、実力を見抜けなかったと述べている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=409}}。 === 趣味など === ;音楽 若い頃はジャズを聴いており、[[デューク・エリントン]]、[[ジャンゴ・ラインハルト]]には相当詳しいという(外国の大学に行ってエリントンの30年代から50年代の時期のビッグバンドの演奏家・歌手についての話題になって、ヒケをとったことはないという)。[[モダン・ジャズ・カルテット|MJQ]]の[[ジョン・ルイス (ジャズ演奏者)|ジョン・ルイス]]のピアノの入ったLPはすべて集めていた、という時期もあったという{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=309-400}}。ただ長男光がジャズをかけていると嫌がるためクラシックに転向した{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=231}}。クラシックの好みは武満徹、バッハ、晩期ベートーヴェン、ヴェルディである{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=400}}。 ;大酒家 大酒家である。中年期にそれで痛風になって断酒したりもした{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=302}}。2007年に出版されたインタビューでは、シングルモルト、タンブラー1杯を350mLのビール4缶をチェイサーにして飲むと答えている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=382}}。 ;水泳 80年代から、週6日プールに通い、1日1000m泳ぐことを習慣としている{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=223}}。『「雨の木」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』では題材として小説に取り入れられている。 ;丸い眼鏡 大江のアイコンとなっている丸い眼鏡は、辞書を引きながら読書をするのに向くものを探して、本をよく読んだ人たち、[[柳田國男]]、[[折口信夫]]、[[サルトル]]、[[ジェイムズ・ジョイス]]が丸い眼鏡をかけているのを参考に探したもので、同じものを10個まとめて購入したという{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=220}}。 === その他 === * ベルギー王立リエージュ大学博士号を、[[重原久美春]](1998年)についで日本人として2番目に授与された(2000年)。 * 2002年[[アメリカ芸術科学アカデミー]]外国人会員に選出されている<ref>[https://web.archive.org/web/20020611071755/http://www.columbia.edu/cu/news/02/05/aaaa.html American Academy of Arts and Sciences Elects Ten Columbia Scholars]</ref>。 * 2002年に[[レジオンドヌール勲章]]を受章している。 * 身長は172センチである<ref>小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』p.38</ref>。 == 関わりの深い人物 == ;[[大江光]] 作曲家(1963年6月13日 - )。大江の長男で、知的な障害を持って産まれた。光という名前は、[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]が著作でひいた、カラスが辺りが真っ暗なのでなかなか餌が見つけられずにいるときに「この世に光があったら、どんなに餌を拾うのが易しいだろう」と思った瞬間に世界に光が満ちたという[[イヌイット]]の寓話から採られたという{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=99-100}}。光は作曲家であり、[[日本コロムビア]]より「大江光の音楽」(1992)「大江光ふたたび」(1994) のCDを出しており、後者は[[日本ゴールドディスク大賞]]を受賞している<ref>榎本正樹『大江健三郎の八〇年代』彩流社 p.10</ref>。光の存在は、大江の創作のインスピレーションの源となり、共生の経験は大江の文業を貫く大きな主題となっている。『[[個人的な体験]]』『[[新しい人よ眼ざめよ]]』『[[静かな生活]]』は光の誕生や成長がテーマ・題材である(なお、光は他の大江の作品にもヒカリ、アカリの名前で登場する)<ref>小野正嗣『NHK100分で名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木 』kindle194/1861</ref>。 NHKは1994年、大江と息子・光との共生を題材にして「響きあう父と子 大江健三郎と息子光の三〇年」という番組を放映した<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。1995年に伊丹十三が大江の原作を映画化した『静かな生活』の劇伴音楽は光の曲が採用されている<ref name="伊丹十三「「静かな生活」映画化について」『大江健三郎全小説9』講談社">伊丹十三「「静かな生活」映画化について」『大江健三郎全小説9』講談社</ref>。 ;[[伊丹十三]] 映画監督・俳優・エッセイスト(1933年5月15日 - 1997年12月20日)。大江の妻・ゆかりの兄である。大江とは松山東高等学校で知り合い、大江に[[アルチュール・ランボー]]の原語の詩集を与えるような文化的な手ほどきをした{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=56}}。伊丹の俳優時代のヨーロッパ滞在の見聞を綴ったエッセイ『[[ヨーロッパ退屈日記]]』は『[[日常生活の冒険]]』の元ネタとされ、主人公の斎木犀吉も伊丹がモデルであるとされる{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=166}}。伊丹は、大江のノーベル賞受賞後の1995年『[[静かな生活]]』を原作とした同名映画を監督しており、文庫版の『静かな生活』の解説として、エッセイを寄せて映画撮影の裏話を披露している<ref name="伊丹十三「「静かな生活」映画化について」『大江健三郎全小説9』講談社"/>。大江の小説『[[取り替え子 (小説)|取り替え子(チェンジリング)]]』は1997年の伊丹の投身自殺の衝撃を受けて書かれており、伊丹をモデル人物とする登場人物は「塙吾良」と名付けられている。大江の擬似自伝小説『[[懐かしい年への手紙]]』においては伊丹は「秋山君」として登場する<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.366</ref>。 ;[[渡辺一夫]] フランス文学者・東京大学教授(1901年9月25日 - 1975年5月10日)。大江は高校時代に渡辺の著作『フランス・ルネサンス断章』を読んで感銘を受け、渡辺の指導を受けたいと考えて東京大学へ進学して師事する<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/><ref name="尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.14">尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.14</ref>。大江の最初期の作品の文体は渡辺が翻訳した[[ピエール・ガスカール]]の短編集『けものたち・死者の時』の文体から大きな影響を受けている<ref name="尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.14"/>。渡辺は大学卒業後も大江の精神的な庇護者であり、大江の仲人も務めている{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=45}}。渡辺は、作家生活を続ける上で三年毎に一つの主題を決めて書物を読み進めていくといいと助言を与え、大江はそれを実践し創作に結びつけている(「人物」項目の「創作方法など」参照)<ref>大江健三郎『私という小説家の作り方』p.103</ref>。1975年の渡辺の死去は大江に大きなショックを与えて、大江のメキシコ渡航を促した{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=139}}。大江にとってメキシコ体験は重要で『[[同時代ゲーム]]』の大きなインスピレーションの源となった(大江のメキシコでの体験は『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』や『[[人生の親戚]]』などの題材ともなった){{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=138-140}}。1984年に大江は渡辺の全体像を語った連続講義『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』を出版している。また『狂気について―渡辺一夫評論選』(岩波文庫)の編纂を[[清水徹]]とともに行い、同書と『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の解説を執筆している。大江のレイト・ワークにおいては渡辺は「六隅先生」として登場する{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=309}}。 ;[[武満徹]] 作曲家(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。「若い日本の会」に大江とともに参加して1960年安保改定に反対する。1963年に武満が大江の住む成城の家の100mくらいの近所に引っ越してきて親交が始まる<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=166}}。武満は大江文学のよき理解者で、大江の著作の解説を担当したこともある<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 pp.35-36</ref>。1980年に大江が『文學界』に発表した短編「頭のいい「雨の木」」にインスピレーションを受けて武満は「(3人の打楽器奏者のための)雨の樹」を作曲する。さらにそれを受けて大江は『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』連作を書き継ぐことになった。連作第二作の表題作冒頭には、その初演のコンサートの場面が出てくる<ref>大江健三郎「「雨の木」を聴く女たち」『「雨の木」を聴く女たち』新潮文庫</ref><ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.233</ref>。1985年、雑誌『[[へるめす]]』創刊時に、ともに編集同人となった。1980年代に武満は大江とともにオペラを作る構想を立てており、お互いの芸術観,世界観を語りあった対談を行い、共著『オペラをつくる』(岩波新書)を出版している<ref>大江健三郎・武満徹『オペラをつくる』岩波新書</ref>。ここから派生して大江は『[[治療塔]]』を執筆している(『治療塔』には[[リブレット (音楽)|リブレット]]もあり、これは短編集『[[僕が本当に若かった頃]]』に収録されている)<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.263</ref>。1990年代、大江は「最後の小説」とした『[[燃えあがる緑の木]]』を1995年に書き終えて小説執筆をやめていたが、1996年の武満の死に促されて『[[宙返り (大江健三郎の小説)|宙返り]]』で小説執筆を再開した。同書巻頭には「──永遠の武満徹に」という献辞が記された{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=270}}。2001年に[[東京オペラシティ|東京オペラシティのコンサートホール・タケミツメモリアル]]で没後5年特別企画として行われた「講演と室内楽演奏会「音と言葉」」の講演録は「武満徹のエラボレーション」としてエッセイ集『言い難き嘆きもて』に収録されている<ref>大江健三郎「武満徹のエラボレーション」『言い難き嘆きもて』講談社</ref>。大江のレイト・ワークにおいて、武満は「篁さん」として登場する{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=309}}。 ;[[山口昌男]] [[文化人類学]]者・東京外国語大学教授(1931年8月20日 - 2013年3月10日)。山口は1970年代に「中心と周縁」理論を提唱し<ref>[https://artscape.jp/artword/index.php/中心と周縁]</ref>、大江はその大きな影響を受けた(ただし、山口が「中心と周縁」理論として提示したことは大江はすでに『[[万延元年のフットボール]]』に書き込んでいるのではないかという説を[[ニューアカデミズム]]の論者[[浅田彰]]、[[柄谷行人]]らは主張している。『[[万延元年のフットボール]]』参照)<ref name="ReferenceG">山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 pp.225-229</ref><ref>浅田彰・柄谷行人・蓮實重彦・三浦雅士「討議昭和批評の諸問題1965-1989」柄谷行人編『近代日本の書評II』講談社文芸文庫</ref>{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=258}}。大江はまた、山口が『文化と両義性』などの著作において日本に紹介した文化理論からも大きな影響を受けた<ref name="ReferenceG"/>。岩波書店の『[[叢書文化の現在]]』の編者をともに務めて、親交が始まった<ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 p.229</ref>。1979年、山口や、やはり編者の[[中村雄二郎]]らと連れ立って[[バリ島]]の習俗を取材する旅行に出ており、そのエピソードは連作『新しい人よ眼ざめよ』の同名短編に描かれている{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=257}}。1985年に、ともに『へるめす』編集同人となる。大江は関心のある書物を、蔵書家の山口から借りたり、山口を通じてよその大学の研究室から借りたりして読むことも多かったという。その代表的なものが大江文学の中期において重要な役割を果たした[[:en:Kathleen Raine|キャスリーン・レイン]]著『ブレイクと伝統』(Blake and Tradition) である<ref name="ReferenceB"/>{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=247-252}}<ref>大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮文庫p.70-72</ref>。大江は、山口らと酒場で落ち合って、書物を借り受けて内容の説明を聴いているうちに、その書物を早く読みたくてたまらなくなって酒席を切り上げて一人先に帰宅するということもあったという<ref>大江健三郎「「カシアート」を追いかけて、活性化の話の後、ふたたび「カシアート」を追いかける」『小説のたくらみ知の楽しみ』新潮文庫</ref><ref>山本昭宏『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 p.228</ref>。 == 文学的評価 == [[谷崎潤一郎賞]]の最年少受賞をはじめとして、国内の主要な文学賞を他の作家より二十年以上早いペースで次々に受賞して{{sfn|大江健三郎作家自身を語る|p=154}}、1994年には日本人で二人目のノーベル文学賞を受賞している。 比較文学者[[小谷野敦]]は「大江は戦後日本最大の作家である」とした上で、[[三島由紀夫]]が、[[谷崎潤一郎]]が没したときに、明治末年に谷崎が現れてから没するまでの半世紀を「谷崎朝時代」と呼んだのになぞらえて、大江がデビューした1958年以降を「大江朝時代」であるとした{{sfn|戦後日本の政治と文学|p=14-16}}。 「同時代の大江健三郎」(群像2018年8月号)と題された大江と同世代の[[筒井康隆]]×[[蓮實重彦]]による対談において、筒井は「1950年代から2010年代まで、ずっと大江健三郎の時代だった」と評している。蓮實は「大江さんが作家として一番偉いと思っている」と述べた<ref>「同時代の大江健三郎」『群像』2018年8月号</ref>。 読売新聞文化部記者[[尾崎真理子]]は、大江の最新作をいち早く的確に評することは同時代の批評家にとっての必須要件であったため、大江を軸にして日本の主要な批評家を並べることで1950年代から2020年までに至る日本現代文学史を描けるとした<ref>尾崎真理子『大江健三郎全小説全解説』講談社 p.8</ref>。 バージニア大学教授 Michiko Niikuni Wilson は「大江は現代日本文学を長年の孤立から脱け出させ、世界文学の中心に届けた」("Oe has delivered modern Japanese literature out of its long isolation and into the heart of world literature.") と評している<ref>{{Cite web |title=Kenzaburo Oe: Laughing Prophet and Soulful Healer |author=Michiko Niikuni Wilson |website=NobelPrize.org |url=https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1994/oe/article/ |accessdate=2021-10-04}}</ref>。 === 国内受賞歴 === *1958年 短編「[[飼育 (小説)|飼育]]」で[[芥川龍之介賞]] *1964年『[[個人的な体験]]』で[[新潮社文学賞]] *1967年『[[万延元年のフットボール]]』で[[谷崎潤一郎賞]] *1973年『[[洪水はわが魂に及び]]』で[[野間文芸賞]] *1983年『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』で[[読売文学賞]] *1983年『[[新しい人よ眼ざめよ]]』で[[大佛次郎賞]] *1984年 短編「[[河馬に嚙まれる]]」で[[川端康成文学賞]] *1990年『[[人生の親戚]]』で[[伊藤整文学賞]] == 政治的思想・見解 == [[戦後民主主義]]者を自認し、[[国家主義]]、特に日本における[[天皇制]]には一貫して批判的な立場を取っている。また、[[平和主義]]者として<ref>大江健三郎「人には何冊の本が必要か」『定義集』朝日新聞社</ref><ref name="大江健三郎「これからも沖縄で続くこと」『定義集』朝日新聞社">大江健三郎「これからも沖縄で続くこと」『定義集』朝日新聞社</ref>、護憲派の立場から、[[日本国憲法第9条]]についてエッセイや講演で積極的に言及している。<!--[[自衛隊]]の存在に対しても否定的である。←90年代のエッセイ「公正な翻訳」『言い難き嘆きもて』収録では自衛隊の規模の拡大に懸念を示している。つまり自衛隊の存在自体を否定しているという事実はない-->[[核兵器]]についても反対の立場を明確にしている。 1994年のノーベル賞記念講演の際には[[デンマーク]]の文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引用している。 同1994年、ノーベル賞の受賞を受けて[[天皇]]からの親授式を伴う[[文化勲章]]の授与が内定し、[[文化庁]]から電話で打診されたときにはそれを断っている。米紙[[ニューヨークタイムズ]]のインタビューで「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(注:天皇制)を認めないからだ。これは単純なことだが非常に重要なことだ」と話した<ref>[https://gendai.media/articles/-/55459?page=3 「勲章」を受け取ることを拒んだ人たちの意外な理由 ニュースサイト『現代ビジネス』]</ref>。 1995年、フランスの南太平洋における核実験再開に抗議して、南仏で開催される予定だったシンポジウムへの出席を取りやめた<ref name="「大江健三郎年譜」『大江健三郎全小説全解説』講談社"/>。このことでフランスのノーベル賞作家[[クロード・シモン]]との間で論争が生じた<ref>ノーベル賞作家・シモン氏、仏核実験批判の大江健三郎氏に反論 1995年9月22日 朝日新聞朝刊</ref>。 1999年、朝日新聞に掲載されたアメリカの批評家[[スーザン・ソンタグ]]との公開書簡において、[[北大西洋条約機構|NATO]]による[[アライド・フォース作戦|ユーゴ空爆]]を批判し、意見が対立した<ref>『暴力に逆らって書く―大江健三郎往復書簡』</ref>。 2003年の[[自衛隊イラク派遣]]の際は仏紙[[リベラシオン]]掲載記事において「[[イラク]]へは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200312010281.html |title=自衛隊派遣に「怒っている」大江健三郎氏が仏紙で論陣 2003年12月1日朝日新聞 |archiveurl=https://archive.vn/xYKB |archivedate=2012-09-20 |accessdate=2021-02-28}}</ref>。 2004年には、憲法9条の平和主義の理念を守ることを目的として<ref name="大江健三郎「これからも沖縄で続くこと」『定義集』朝日新聞社"/>、[[加藤周一]]、[[鶴見俊輔]]らとともに[[九条の会]]を結成し、全国各地で講演会を開いている。 歴史認識について、1990年代以降表面化してきた[[歴史修正主義]]を伴う[[右翼|右派]]運動・言論について繰り返し反対を表明している<ref>大江健三郎「宗教的な想像力と文学的想像力」『鎖国してはならない』講談社</ref><ref>大江健三郎「ヨーロッパの日本研究へ」『鎖国してはならない』講談社</ref><ref>大江健三郎「ベルリン・レクチュア」『鎖国してはならない』講談社</ref>。2001年には、「[[新しい歴史教科書をつくる会]]」編集・[[扶桑社]]版の植民地支配と侵略を肯定する中学校の歴史教科書の検定申請がされたことを受けて[[鵜飼哲]]、[[高橋哲哉]]、[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]、[[井上ひさし]]ら学者・文化人17人の連名で「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」と題する声明を発表している<ref>{{Cite journal|和書|author=別所良美 |date=2001-11 |url=https://ncu.repo.nii.ac.jp/records/1466 |title=歴史認識とアイデンティティ形成 |journal=名古屋市立大学人文社会学部研究紀要 |ISSN=13429310 |publisher=名古屋市立大学人文社会学部 |volume=11 |pages=21-43 |naid=120006682685 |CRID=1050564287497957888}}</ref>。 大江は1970年に『沖縄ノート』を上梓している。[[第二次世界大戦]]末期の地上戦において、戦後も[[朝鮮戦争]]・[[ベトナム戦争]]の基地として戦争に巻き込まれ、本土から捨て石とされ続けていた[[沖縄返還|日本返還前の沖縄]]をめぐるルポルタージュである。この書において沖縄戦において生じた民間人の集団自決は軍に強いられたものであるとした。これについて、2005年、歴史の見直しを主張する右派に担ぎだされて<ref>徳永信一「沖縄集団自決冤罪訴訟が光りを当てた日本人の真実」『正論』2006年9月号</ref>、旧軍指揮官と遺族が大江を提訴したが、裁判では「集団自決に日本軍が深く関わった」(地裁)「軍が深く関わったことは否定できず、総体としての軍の強制、命令と評価する見解もあり得る」(高裁)と判断されて、指揮官・遺族は敗訴した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2202C_S1A420C1CC0000/ 「沖縄集団自決、軍関与認めた判決確定 大江さん側勝訴」日本経済新聞2011/4/22付]</ref>。 {{Main|大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判}} 原子力発電について、1960年代に行われた講演において、核エネルギーの開発が、自身が強く反対する核兵器の開発や保持と結びつくことに懸念や警戒を示したうえで、両者が切り離されているのならば「(注:電源としての)核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べていたが <ref>大江健三郎「文学とは何か (2)」『核時代の想像力』新潮社</ref>、1970年代後半以降は反対する立場をとっている<ref>大江健三郎「方法としての小説」『小説の方法』岩波書店</ref>。2011年、[[東日本大震災]]による[[福島第一原子力発電所事故]]を契機に立ち上がった脱原発の社会運動「[[さようなら原発1000万人アクション]]」の呼びかけ人の一人となっている(他の呼びかけ人は[[内橋克人]]、[[落合恵子]]、[[鎌田慧]]、[[坂本龍一]]、[[澤地久枝]]、[[瀬戸内寂聴]]、[[辻井喬]]、[[鶴見俊輔]])。 東アジア外交については、2006年には中国社会科学院の招きで訪中して複数の場所で講演を行い、[[南京大虐殺紀念館]]などにも訪れた。講演ではいずれも[[魯迅]]をテーマとしたが、その中で日中友好に触れて日本における戦争加害の歴史の忘却を憂えた<ref>[http://japanese.china.org.cn/japanese/259111.htm 『さようなら、私の本よ!』を携えて 大江健三郎氏が訪中] 2006年9月11日 チャイナネット</ref><ref>[https://www.mfa.gov.cn/ce/cgfuk//jpn/zlggz/yhjl/t271190.htm 大江健三郎氏、中国科学院で講演] 2006/09/11 [[在福岡中華人民共和国総領事館]]</ref>。2012年には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の[[本島等]]、元『[[世界 (雑誌)|世界]]』編集長の[[岡本厚]]ら1300人と共同で発表。韓国、中国との領土問題について対立を感情的にエスカレートさせずに冷静に協議、対話をしていく必要があることを訴えた<ref>[https://inmylifeao.exblog.jp/18019297/ 声明原文]</ref>。 == 作品 == 著作は[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[ロシア語]]、[[中国語]]、[[イタリア語]]、[[スペイン語]]などに[[翻訳]]されているものも少なくない。なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。 === 長編小説 === * 『[[芽むしり仔撃ち]]』講談社、1958年(のち新潮文庫) * 『[[われらの時代]]』中央公論社、1959年(のち中公文庫、新潮文庫) * 『夜よゆるやかに歩め』中央公論社、1959年 * 『青年の汚名』文藝春秋、1960年(のち文春文庫) * 『遅れてきた青年』新潮社、1962年(のち新潮文庫) * 『[[叫び声]]』講談社、1963年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) * 『[[日常生活の冒険]]』文藝春秋、1964年(のち新潮文庫) * 『[[個人的な体験]]』新潮社、1964年(のち新潮文庫) - '''新潮社文学賞'''(英訳 A personal matter ノーベル賞対象作) * 『[[万延元年のフットボール]]』講談社、1967年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) - '''谷崎潤一郎賞'''(英訳 The silent cry 仏訳 Le Jeu du siècle ノーベル賞対象作) * 『[[洪水はわが魂に及び]]』上・下 新潮社、1973年(のち新潮文庫) - '''野間文芸賞''' * 『[[ピンチランナー調書]]』新潮社、1976年(のち新潮文庫) * 『[[同時代ゲーム]]』新潮社、1979年(のち新潮文庫) * 『[[M/Tと森のフシギの物語]]』岩波書店、1986年(のち[[岩波現代文庫|同時代ライブラリー]]、講談社文庫、岩波文庫)(仏訳 M/T et l'histoire des merveilles de la forêt ノーベル賞対象作) * 『[[懐かしい年への手紙]]』講談社、1987年(のち講談社文芸文庫)(仏訳 Lettres aux années de nostalgie ノーベル賞対象作) * 『[[キルプの軍団]]』岩波書店、1988年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫、岩波文庫) * 『[[人生の親戚]]』新潮社、1989年(のち新潮文庫) - '''伊藤整文学賞''' * 『[[治療塔]]』岩波書店、1990年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫) * 『[[治療塔惑星]]』岩波書店、1991年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫) * 『[[燃えあがる緑の木]]』三部作 新潮社、1993〜1995年(のち新潮文庫) **『「救い主」が殴られるまで』1993年/『揺れ動く(ヴァシレーション)』1994年/『大いなる日に』1995年 * 『[[宙返り (大江健三郎の小説)|宙返り]]』上・下 講談社、1999年(のち講談社文庫) * 『[[取り替え子 (小説)|取り替え子(チェンジリング)]]』講談社、2000年(のち講談社文庫) * 『[[憂い顔の童子]]』講談社、2002年(のち講談社文庫) * 『[[二百年の子供]]』中央公論新社、2003年(のち中公文庫) * 『[[さようなら、私の本よ!|さようなら、私の本よ!]]』講談社、2005年(のち講談社文庫)<!--* 『おかしな二人組(スゥード カップル)』(三部作) 講談社、2006年**『取り替え子』/『憂い顔の童子』/『さようなら、私の本よ!』の特装版--> * 『[[美しいアナベル・リイ|臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ]]』新潮社、2007年(のち新潮文庫『[[美しいアナベル・リイ]]』へ改題) * 『[[水死 (大江健三郎の小説)|水死]]』講談社、2009年(のち講談社文庫) * 『[[晩年様式集|晩年様式集(イン・レイト・スタイル)]]』講談社、2013年(のち講談社文庫) === 連作短編集 === * 『[[「雨の木」を聴く女たち|「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち]]』新潮社、1982年(のち新潮文庫)- '''読売文学賞''' ** 頭のいい「雨の木」/「雨の木」を聴く女たち/「雨の木」の首吊り男/さかさまに立つ「雨の木」/泳ぐ男—水のなかの「雨の木」 * 『[[新しい人よ眼ざめよ]]』講談社、1983年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫)- '''大佛次郎賞''' **無垢の歌、経験の歌/怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって/落ちる、落ちる、叫びながら … …/蚤の幽霊/魂が星のように降って、跗骨のところへ/鎖につながれたる魂をして/新しい人よ眼ざめよ * 『[[河馬に嚙まれる]]』文藝春秋、1985年(のち文春文庫、講談社文庫)- '''短編「河馬に嚙まれる」で川端康成文学賞''' ** 河馬に嚙まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/「浅間山荘」のトリックスター/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先だつ苦痛について/サンタクルスの「広島週間」/生の連鎖に働く河馬(講談社文庫版には「「浅間山荘」のトリックスター」と「サンタクルスの「広島週間」」の二作品は収録されていない) * 『[[静かな生活]]』講談社、1990年(のち講談社文芸文庫) ** 静かな生活/この惑星の棄て子/案内人(ストーカー)/自動人形の悪夢/小説の悲しみ/家としての日記 === 中・短編集 === * 『死者の奢り』文藝春秋、1958年 - '''短編「飼育」で芥川龍之介賞''' ** [[死者の奢り]].偽証の時/[[飼育 (小説)|飼育]]/鳩/奇妙な仕事/人間の羊/[[他人の足]] * 『見るまえに跳べ』新潮社、1958年 ** 見るまえに跳べ/暗い川おもい櫂/不意の唖/喝采/戦いの今日 * 『死者の奢り・飼育』新潮社、1959年(新潮文庫)【新潮文庫オリジナル再編集】 ** 死者の奢り/他人の足/飼育/人間の羊/不意の唖/戦いの今日 * 『孤独な青年の休暇』新潮社、1960年 ** 孤独な青年の休暇/後退青年研究所/上機嫌/共同生活/ここより他の場所 * 『性的人間』新潮社、1963年 ** [[性的人間]]/[[セヴンティーン]]/不満足 * 『性的人間』新潮社、1968年(新潮文庫)【新潮文庫オリジナル再編集】 ** 性的人間/セヴンティーン/共同生活 * 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』新潮社、1969年(のち新潮文庫) ** 第1部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの ** 第2部 ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短篇 走れ、走りつづけよ/核時代の森の隠遁者/生け贄男は必要か ** 第3部 [[W・H・オーデン|オーデン]]と[[ウィリアム・ブレイク|ブレイク]]の詩を核とする二つの中篇 狩猟で暮したわれらの先祖/父よ、あなたはどこへ行くのか? * 『空の怪物アグイー』新潮社、1972年(新潮文庫)【新潮文庫オリジナル再編集】 ** 不満足/スパルタ教育/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/[[空の怪物アグイー]]/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界 * 『[[みずから我が涙をぬぐいたまう日]]』講談社、1972年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) ***二つの中篇をむすぶ作家のノート<!--アスタリスクは原文にあり-->/みずから我が涙をぬぐいたまう日/月の男(ムーン・マン) * 『見るまえに跳べ』新潮社、1974年(新潮文庫)【新潮文庫オリジナル再編集】 **奇妙な仕事/動物倉庫/運搬/鳩/見るまえに跳べ/鳥/ここより他の場所/上機嫌/後退青年研究所/下降生活者 * 『現代伝奇集』岩波書店、1980年 ** 頭のいい「雨の木」/身がわり山羊の反撃/『芽むしり仔撃ち』裁判 * 『[[いかに木を殺すか]]』文藝春秋、1984年(のち文春文庫) ** 揚げソーセージの食べ方/グルート島のレントゲン画法/見せるだけの拷問/メヒコの大抜け穴/もうひとり和泉式部が生まれた日/その山羊を野に/「罪のゆるし」のあお草/いかに木を殺すか * 『[[僕が本当に若かった頃]]』講談社、1992年(のち講談社文芸文庫) ** 火をめぐらす鳥/「涙を流す人」の楡/宇宙大の「雨の木(レイン・ツリー)」/夢の師匠/治療塔/ベラックヮの十年/マルゴ公妃のかくしつきスカート/僕が本当に若かった頃/茱萸(ぐみ)の木の教え・序 *『大江健三郎自選短篇』、岩波書店、2014年(岩波文庫) ** 奇妙な仕事/死者の奢り/他人の足/飼育/人間の羊/不意の啞/セヴンティーン/空の怪物アグイー/頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」/「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち/さかさまに立つ「雨の木(レイン・ツリー)」/無垢の歌、経験の歌/怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって/落ちる、落ちる、叫びながら……/新しい人よ眼ざめよ/静かな生活/案内人(ストーカー)/河馬に嚙まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/「涙を流す人」の楡/ベラックワの十年/マルゴ公妃のかくしつきスカート/火をめぐらす鳥 === 評論・随筆等 === * 『世界の若者たち』新潮社、1962年<!-- 中国レポートのほか、[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[島津貴子]]、[[大藪春彦]]、[[黒柳徹子]]らとの対談 --> * 『ヨーロッパの声、僕自身の声』毎日新聞社、1962年 * 『厳粛な綱渡り』文藝春秋、1965年(のち文春文庫、講談社文芸文庫) * 『[[ヒロシマ・ノート]]』岩波書店 <岩波新書>、1965年 * 『持続する志』文藝春秋、1968年(のち講談社文芸文庫) * 『壊れものとしての人間』講談社、1970年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) * 『核時代の想像力』新潮社 <新潮選書>、1970年 * 『[[沖縄ノート]]』岩波書店 <岩波新書>、1970年 * 『鯨の死滅する日』文藝春秋、1972年(のち講談社文芸文庫) * 『同時代としての戦後』講談社、1973年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) * 『状況へ』岩波書店、1974年 * 『文学ノート 付15篇』新潮社、1974年 * 『言葉によって-状況・文学*』新潮社、1976年 * 『小説の方法』岩波書店 <岩波現代選書>、1978年(のち同時代ライブラリー) * 『表現する者-状況・文学**』新潮社、1978年 * 『方法を読む=大江健三郎文芸時評』講談社、1980年 * 『核の大火と「人間」の声』岩波書店、1982年 * 『広島からオイロシマへ―'82ヨーロッパの反核・平和運動を見る』岩波書店 <岩波ブックレットNo.4>、1982年 * 『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』岩波書店<岩波セミナーブックス8>、1984年 * 『生き方の定義-再び状況へ』岩波書店、1985年 * 『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社、1985年(のち新潮文庫) * 『[[新しい文学のために]]』岩波書店 <岩波新書>、1988年 * 『「最後の小説」』講談社、1988年(のち講談社文芸文庫) ** 大江が書いた数少ない[[シナリオ]]の一つである(厳密には"戯曲・シナリオ草稿"、戯曲には他に文庫版『見るまえに跳べ』所収の「動物倉庫」がある)『[[革命女性]]』が巻末に付録された * 『ヒロシマの「生命の木」』NHK出版、1991年 * 『人生の習慣(ハビット)』岩波書店、1992年 * 『文学再入門』NHK出版 <[[NHK人間大学]]>、1992年 * 『新年の挨拶』岩波書店、1993年(のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫) * 『小説の経験』朝日新聞社、1994年(のち朝日文芸文庫) * 『あいまいな日本の私』岩波書店 <岩波新書>、1995年<!--* 『あいまいな日本の私 : Japan,the ambiguous,and myself The Nobel Prize speech and other lectures』(英文)講談社インターナショナル、1995年--> * 『恢復する家族』(大江ゆかり画)講談社、1995年(のち講談社文庫) * 『日本の「私」からの手紙』岩波書店 <岩波新書>、1996年 * 『ゆるやかな絆』(大江ゆかり画)講談社、1996年(のち講談社文庫) * 『[[私という小説家の作り方]]』新潮社、1998年(のち新潮文庫) * 『「自分の木」の下で』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2001年(のち朝日文庫) * 『鎖国してはならない』講談社、2001年(のち講談社文庫) * 『言い難き嘆きもて』講談社、2001年(のち講談社文庫) * 『「新しい人」の方へ』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫) * 『「話して考える」(シンク・トーク)と「書いて考える」(シンク・ライト)』集英社、2004年(のち集英社文庫) * 『「伝える言葉」プラス』朝日新聞社、2006年(のち朝日文庫) * 『[[大江健三郎作家自身を語る]]』(尾崎真理子 聞き手・構成)新潮社、2007年(のち新潮文庫、増補されている){{sfn|大江健三郎作家自身を語る}} * 『読む人間-読書講義』集英社、2007年(のち集英社文庫) * 『定義集』[[朝日新聞出版]]、2012年(のち朝日文庫) * 『親密な手紙』岩波書店 <岩波新書>、2023年 === 共著 === * 『対話・原爆後の人間』(重藤文夫)新潮社、1971年 * 『『世界』の40年—戦後を見直す、そして、いま』([[安江良介]])岩波書店 <岩波ブックレット No.39>、1984年 * 『私たちはいまどこにいるか ——主体性の再建——』([[隅谷三喜男]])岩波書店 <岩波ブックレット No.113>、1988年 * 『ユートピア探し 物語探し—文学の未来に向けて』([[井上ひさし]]、[[筒井康隆]])岩波書店、1988年 * 『自立と共生を語る—障害者・高齢者と家族・社会』(上田敏ほか)三輪書店、1990年 * 『オペラをつくる』([[武満徹]])岩波書店 <岩波新書>、1990年 * 『日本語と日本人の心』([[河合隼雄]]、[[谷川俊太郎]])岩波書店、1996年(のち岩波現代文庫) * 『シンポジウム 共生への志——心のいやし、魂の鎮めの時代に向けて——』([[ロナルド・ドーア]]、[[プラティープ・ウンソンタム・秦]])岩波書店 <岩波ブックレット No.528>、2001年 * 『君たちに伝えたい言葉—ノーベル賞受賞者と中学生の対話』([[ハロルド・クロトー|ハロルド・クロート]])読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.25>、2001年 *『大江健三郎・再発見』集英社 2001年 **井上ひさし、[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]、アンドレ・シガノス、[[フィリップ・フォレスト]] * 『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』([[小澤征爾]])中央公論新社、2001年(のち中公文庫) * 『暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡』朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫) **[[ギュンター・グラス]]、[[ナディン・ゴーディマー]]、[[アモス・オズ]]、[[マリオ・バルガス・リョサ|マリオ・バルガス=リョサ]]、[[スーザン・ソンタグ]]、[[鄭義]]、[[アマルティア・セン]]、[[ノーム・チョムスキー]]、[[エドワード・サイード]]ほか2名と * 『何を学ぶか 作家の信条、科学者の思い ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」』([[白川英樹]])読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.34>、2004年 *『なぜ変える?教育基本法』([[辻井喬]]他共編)岩波書店、2006年10月、ISBN 978-4-00-024158-8) **[[暉峻淑子]],[[姜尚中]],[[尾木直樹]],[[西原博史]],[[苅谷剛彦]]ほか * 『憲法九条、あしたを変える——小田実の志を受けついで——』([[井上ひさし]]、[[梅原猛]]他)岩波書店 <岩波ブックレット No.731>、2008年 * 『冥誕 加藤周一追悼』([[鶴見俊輔]]他)かもがわ出版、2009年 * 『文学の淵を渡る』([[古井由吉]])新潮社、2015年(のち新潮文庫) * 『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』講談社、2018年 **[[長嶋有]]、[[岡田利規]]、[[安藤礼二]]、[[中村文則]]、[[星野智幸]]、[[綿矢りさ]]、[[本谷有希子]]、[[岩城けい]] * 『大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人』([[柄谷行人]])講談社、2018年 === 全集 === * 大江健三郎全作品、新潮社、第1期全6巻、1966-1967、第2期全6巻、1977-1978年 * 大江健三郎同時代論集、岩波書店、全10巻、1980-1981年 * 大江健三郎小説、新潮社、全10巻、1996-1997年 *大江健三郎全小説、講談社、全15巻、2018-2019年(連作短編集 ◇) **第1巻 初期作品群①:奇妙な仕事/死者の奢り/他人の足/石膏マスク/偽証の時/動物倉庫/飼育/人間の羊/運搬/鳩/芽むしり仔撃ち/見るまえに跳べ/暗い川 おもい櫂/鳥/不意の啞/喝采/戦いの今日/部屋/われらの時代 **第2巻 初期作品群②:ここより他の場所/共同生活/上機嫌/報復する青年/勇敢な兵士の弟/後退青年研究所/孤独な青年の休暇/下降生活者/遅れてきた青年 **第3巻 初期作品群③:セヴンティーン/政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)/幸福な若いギリアク人/不満足/ヴィリリテ/善き人間/叫び声/スパルタ教育/性的人間/大人向き/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界 **第4巻 父と天皇制:走れ、走りつづけよ/生け贄男は必要か/狩猟で暮したわれらの先祖/核時代の森の隠遁者/父よ、あなたはどこへ行くのか?/われらの狂気を生き延びる道を教えよ/みずから我が涙をぬぐいたまう日/月の男(ムーン・マン)/水死 **第5巻 共生:空の怪物アグイー/個人的な体験/ピンチランナー調書/新しい人よ眼ざめよ ◇ **第6巻 中期傑作短・中編:身がわり山羊の反撃/『芽むしり仔撃ち』裁判/揚げソーセージの食べ方/グルート島のレントゲン画法/見せるだけの拷問/メヒコの大抜け穴/もうひとり和泉式部が生れた日/その山羊を野に/「罪のゆるし」のあお草/いかに木を殺すか/ベラックワの十年/夢の師匠/宇宙大の「雨の木(レイン・ツリー)」/火をめぐらす鳥/「涙を流す人」の楡/僕が本当に若かった頃/マルゴ公妃のかくしつきスカート/茱萸の木の教え・序 **第7巻 ノーベル賞授賞の理由となった作品:万延元年のフットボール/洪水はわが魂に及び **第8巻 森の神話:M/Tと森のフシギの物語/同時代ゲーム **第9巻 女性的なるものの力 「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち ◇/人生の親戚/静かな生活 ◇/美しいアナベル・リイ **第10巻 時空を超えたSF的試み:治療塔/治療塔惑星/二百年の子供 **第11巻 革命運動・理想郷の建設:河馬に嚙まれる ◇/懐かしい年への手紙/キルプの軍団 **第12巻 魂の救済:「救い主」が殴られるまで──燃えあがる緑の木 第一部/揺れ動く(ヴァシレーション)──燃えあがる緑の木 第二部/大いなる日に──燃えあがる緑の木 第三部 **第13巻 神なき祈り:宙返り **第14巻 親しい友人の死:日常生活の冒険/取り替え子(チェンジリング)/憂い顔の童子 **第15巻 テロルと3・11カタストロフ:さようなら、私の本よ!/晩年様式集(イン・レイト・スタイル)) === 文学全集 === * 新鋭文学叢書12『大江健三郎集』筑摩書房、1960年 * 新日本文学全集11『開高健・大江健三郎集』集英社、1962年 * 角川版昭和文学全集9『開高健・大江健三郎』角川書店、1963年 * 現代の文学43『大江健三郎集』河出書房新社、1964年 * われらの文学18『大江健三郎』講談社、1965年 * 日本の文学76『石原慎太郎 開高健 大江健三郎』中央公論社、1968年 * 日本文学全集第2集25『大江健三郎集』河出書房新社、1968年 * 新潮日本文学64『大江健三郎集』新潮社、1969年 * De Luxe われらの文学7『大江健三郎』講談社、1969年 * 現代日本の文学47『安部公房・大江健三郎集』学習研究社、1970年 * 現代の文学28『大江健三郎』講談社、1972年 * 日本文学全集50『大江健三郎/芽むしり仔撃ち 日常生活の冒険』河出書房新社、1971年 * 日本文学全集44『大江健三郎 安部公房 開高健』新潮社、1971年 * 新潮現代文学55『大江健三郎/個人的な体験 ピンチランナー調書』新潮社、1978年 * 日本の原爆文学9『大江健三郎 金井利博』ほるぷ出版、1983年 * 昭和文学全集16『大岡昇平 埴谷雄高 野間宏 大江健三郎』小学館、1987年 * 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集22 『大江健三郎』河出書房新社、2015年 === 共編 === *『[[岩波講座]]文学』岩波書店、全12巻、1975-1976年 *『[[叢書文化の現在]]』岩波書店、全13巻、1980-1982年(1巻 言葉と世界「小説の言葉」/4巻 中心と周縁「小説の周縁」/12巻 仕掛けとしての政治「政治死の生首と「生命の樹」」/13巻 文化の活性化「示唆する者としてのかりそめの役割」を執筆) === 台本 === * 『歌劇『ヒロシマのオルフェ』』([[芥川也寸志]])(CD)カメラータ・トウキョウ、2002年 === 講演映像 === * 『私の最後の小説、「燃えあがる緑の木」』(カセット)新潮社、1994年 * 『大江健三郎 文学再入門』(ビデオカセット)NHKソフトウェア、全12巻、1995年 === テレビ番組 === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> * [[NHKスペシャル]]「世界はヒロシマを覚えているか〜大江健三郎・対話と思索の旅〜」[[カール・セーガン]]、[[フリーマン・ダイソン]]、[[アンドレイ・サハロフ]]、[[金芝河]]、アルカジイ・ストルガツキーらと対話。1990年8月5日 * NHK[[人間大学]]「文学再入門」1992年10月~12月(のちビデオカセット化) * [[NHKスペシャル]]「響きあう父と子 〜大江健三郎と息子 光の30年〜」1994年9月18日 * [[サンデーモーニング]]特集(出演)、1999年6月27日 * NHKスペシャル「シリーズ安全保障」にてイラクへの自衛隊派遣、改憲問題などについて、[[後藤田正晴]]、[[中曽根康弘]]、[[栗山尚一]]と討論。2003年12月20日 * [[ETV特集]]「追悼 大江健三郎さん ノーベル賞の旅」(2023年4月1日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/9RV237RQ98/ |title=追悼 大江健三郎さん ノーベル賞の旅(1995年放送) |date=2023-04-01 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.md/SRXxo |df=ja |url-status=live |archivedate=2023-03-29 |accessdate=2023-03-29}}</ref> == 作品の映画化 == * われらの時代 (1959) 監督:[[蔵原惟繕]] * 偽大学生 (1960) 監督:[[増村保造]] * [[飼育 (映画)|飼育]] (1961) 監督:[[大島渚]] * [[静かな生活]] (1995) 監督:[[伊丹十三]] 音楽:[[大江光]] == 研究・評伝 == * [[松原新一]]『大江健三郎の世界』講談社 1967年 * [[野口武彦]]『吠え声・叫び声・沈黙 大江健三郎の世界』新潮社 1971年 * [[篠原茂]]『大江健三郎論』東邦出版社 1973年 * [[片岡啓治]]『大江健三郎論?精神の地獄をゆく者』立風書房 1973年 * [[渡辺広士]]『大江健三郎』審美社 1973年 * [[川西政明]]『大江健三郎論 未成の夢』講談社 1979年 * [[蓮實重彦]]『大江健三郎論』青土社 1980年 * 松崎晴夫『デモクラットの文学 広津和郎と大江健三郎』新日本出版社 1981年 * 篠原茂『大江健三郎文学事典』スタジオVIC 1984年 * [[一條孝夫]]『大江健三郎の世界』和泉書院 1985年 * サミュエル横地淑子『大江健三郎文学 海外の評価』創林社 1985年 * [[榎本正樹]]『大江健三郎 八〇年代のテーマとモチーフ』審美社 1989年 * [[黒古一夫]]『大江健三郎論 森の思想と生き方の原理』彩流社 1989年 * [[マサオ・ミヨシ]]ほか『大江健三郎 群像日本の作家23』小学館 1992年 * [[柴田勝二]]『大江健三郎論 地上と彼岸』有精堂出版 1992年 * [[蓮實重彦]]『大江健三郎論新装版』青土社 1992年 * 文芸研究プロジェ編著『よくわかる大江健三郎』ジャパン・ミックス 1994年 * [[渡辺広士]]『大江健三郎 増補版』審美社 1994年 * オーケンで遊ぶ青年の会編『大江健三郎がカバにもわかる本 コレ一冊!あといらないッ!』洋泉社 1995年 * 榎本正樹『大江健三郎の八〇年代』彩流社 1995年 * 中村泰行『大江健三郎文学の軌跡』新日本出版社 1995年 * 平野栄久『大江健三郎わたしの同時代ゲーム』オリジン出版センター 1995年 * [[鷲田小弥太]]ほか『大江健三郎とは誰か 鼎談 人・作品・イメージ』三一書房 1995年 * [[本多勝一]]『大江健三郎の人生-貧困なる精神X集』毎日新聞社 1995年 ISBN 4620310565 * [[谷沢永一]]『こんな日本に誰がした-戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状』[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]] ISBN 4877120297 * 一條孝夫『大江健三郎 その文学世界と背景』和泉書院 1997年 * 桒原丈和『大江健三郎論』三一書房 1997年 * 黒古一夫『大江健三郎とこの時代の文学』勉誠社 1997年 * 篠原茂『大江健三郎文学事典―全著作・年譜・文献完全ガイド〔改訂版〕』森田出版 1998年 ISBN 494418901X * ジャン・ルイ・シェフェル『大江健三郎―その肉体と魂の苦悩と再生』2001年 ISBN 4896340779 * [[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]『歴史認識と小説―大江健三郎論』2002年 ISBN 406211304X * 張文穎『トポスの呪力―大江健三郎と中上健次』2002年 ISBN 4881251244 * 黒古一夫『作家はこのようにして生まれ、大きくなった―大江健三郎伝説』2003年 ISBN 4309015751 * [[井口時男]]『危機と闘争 大江健三郎と中上健次』作品社 2004年 * 蘇明仙『大江健三郎論 <神話形成>の文学世界と歴史認識』花書院 2006年 * クラウプロトック・ウォララック『大江健三郎論 「狂気」と「救済」を軸にして』専修大学出版局 2007年 * 王新新『再啓蒙から文化批評へ 大江健三郎の1957〜1967』東北大学出版会 2007年 * 黒古一夫『戦争・辺境・文学・人間 大江健三郎から村上春樹まで』勉誠出版 2010年 * [[小谷野敦]]『江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学』筑摩書房 2015年{{sfn||戦後日本の政治と文学}} * [[山本昭宏]]『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』人文書院 2019年 * [[尾崎真理子]]『大江健三郎全小説全解説』講談社 2020年 * [[工藤庸子]]『大江健三郎と「晩年の仕事」』講談社 2022年 * [[野崎歓]]『無垢の歌 大江健三郎と子供たちの物語』生きのびるブックス株式会社 2022年 * 尾崎真理子『大江健三郎の「義」』講談社 2022年 * 菊間晴子『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』東京大学出版会 2023年 === 雑誌の特集 === * 『国文学 解釈と教材の研究』「特集 七〇年代の政治と性 大江健三郎」学燈社(1971年7月号) * 『ユリイカ』「特集 大江健三郎ーその神話的世界」青土社(1974年3月号) * 『国文学 解釈と教材の研究』「特集 大江健三郎ー方法化した想像力」学燈社(1979年2月号) * 『国文学 解釈と教材の研究』「特集 大江健三郎ー神話的宇宙を読む」学燈社(1982年6月号) * 『Switch 』Vol.8 No.1「緑したたる森 萌え出ずる樹 大江健三郎」扶桑社(1990年3月号) * 『国文学 解釈と教材の研究』「特集 大江健三郎ー八〇年代から九〇年代へ」学燈社(1990年7月号) * 『文學界』「特集・大江健三郎の文学」文藝春秋(1994年12月号) * 『新潮』「特集・ノーベル賞受賞 大江健三郎」新潮社(1994年12月号) * 『群像 特別編集 大江健三郎』講談社(1995年4月) * 『国文学 解釈と教材の研究 2月臨時増刊号』「21世紀に向けていま大江健三郎の小説を読む」学燈社(1997年2月号) * 『IN★POCKET』2004年4月号「大江健三郎の50年」講談社(2004年4月号) * 『群像』「特集 大江健三郎「文学の言葉」を伝えるために」講談社(2005年11月号) * 『早稲田文学』6号「大江健三郎(ほぼ)全小説解題」早稲田文学会(2013年9月号) * 『ユリイカ』「2023年7月臨時増刊号 総特集大江健三郎 ―1935-2023―」青土社 == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=大江健三郎, 尾崎真理子 |title=大江健三郎作家自身を語る |publisher=新潮社 |year=2013 |series=新潮文庫 9636お-9-23 |edition=2007年刊の増補・改訂 |NCID=BB14211741 |ISBN=9784101126234 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025004963-00 |ref={{harvid|大江健三郎作家自身を語る}}}} * {{Cite book|和書|author=小谷野敦|authorlink=小谷野敦|title=江藤淳と大江健三郎 : 戦後日本の政治と文学 |publisher=筑摩書房 |year=2015 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トマス・ピンチョン
トマス・ラッグルス・ピンチョン・ジュニア(英語:Thomas Ruggles Pynchon Jr.、1937年5月8日 - )は、アメリカの小説家。現代のアメリカ文学を代表する小説家のひとりであり、1990年代以降定期的にノーベル文学賞候補に挙げられている。公の場に一切姿を見せない覆面作家として知られる。 作品は長大で難解とされるものが多く、SFや科学、TVや音楽などのポップカルチャーから歴史まで極めて幅広い要素が含まれた総合的なポストモダン文学である。 1937年、ニューヨーク州ロングアイランド、グレンコーブに測量技師トマス・ラグルズ・ピンチョン・シニアとキャサリン・フランセス・ベネット・ピンチョンの間に長男として生まれる。妹と弟がいる。 父はプロテスタントで母はアイルランド系のカトリック。16歳でオイスター・ベイ高校を最優秀学生として卒業した。コーネル大学から奨学金を得て、同年秋に工学部応用物理工学科に入学。2年後には大学を一時離れ、海軍に2年間所属した。 1957年にはコーネル大学に戻り英文科に入学。当時の創作科の講師にウラジミール・ナボコフがおり、ピンチョンはその講義を受けていたと言われている(レポートの採点をまかされていたナボコフの妻はピンチョンの独特な手書き文字を覚えていると証言している)。大学3年と4年の時に学内で発行される文芸雑誌『コーネル・ライター』の編集に携わり、1959年5月同誌に「スモール・レイン」を発表。 1959年、大学を最優の成績で卒業したピンチョンは、複数の大学院からの奨学金を断り、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントでボヘミアン生活を送りながら小説『V.』を執筆しはじめる 1960年2月から1962年9月までの間、シアトルのボーイング航空機会社に就職して米軍の地対空ミサイルボマークのテクニカルライターとして働いている。その間、3編の短編(「ロウ・ランド」「エントロピー」「アンダー・ザ・ローズ」)を文芸誌に掲載。退職後はカリフォルニアやメキシコに移り住んだとされている。 1962年、メキシコで長編第1作『V.』を完成。1963年に出版され、同年度の最優秀処女小説に与えられるフォークナー賞を受けた。 1966年、長編第2作『競売ナンバー49の叫び』を発表。ローゼンタール基金賞を受賞。1967年から1972年まではおそらくメキシコとカリフォルニアで生活していたと思われる。 1973年、長編第3作目にして代表作『重力の虹』を発表。1974年度の全米図書賞を受賞する。同年、ピューリッツァー賞フィクション部門に諮問委員会が全員一致で推薦したが、理事会は「読みにくく卑猥である」としてこれを退け同部門は該当作無しとなった)。以後、約16年にわたり新作を発表しなかった。 1975年、米文芸アカデミーより5年に1度優秀な小説に与えられるハウエルズ賞に選ばれたが、「いらないものはいらない」と受賞を辞退。 1984年、初期短編を集めた『スロー・ラーナー』発表。序文を書き下ろす。同年10月28日、ニューヨーク・タイムズにエッセイ「ラッダイトをやってもいいのか?(Is It O.K. to Be a Luddite?)」を掲載(日本語訳は『夜想』25号(1989年))。1988年、マッカーサー奨励金(MacArthur Foundation Genius Grant)として31万ドルを受ける。 1990年、16年ぶりの長編第4作『ヴァインランド』発表。それ以前に取材を兼ねて2度来日したとも噂される。90年代半ば、出版エージェントのメラニー・ジャクソンと結婚、長男ジャクソン・ピンチョンが生まれる。 1997年、長編第5作『メイスン&ディクスン』発表。2003年、ジョージ・オーウェル著『1984年』の新版に序文を寄稿。 2006年、長編第6作『逆光』を出版。オンライン書店Amazon.comに、ピンチョン本人と思われる人物によって宣伝文が掲載される。 2009年、長編第7作『LAヴァイス』発表。 2014年、長編第8作『ブリーディング・エッジ』発表。初の映画化となる『インヒアレント・ヴァイス』が北米で公開。 全集。新潮社が2010年6月から刊行、2021年5月に最新作『ブリーディング・エッジ』が刊行され、ピンチョンの既発表作すべてを網羅した。
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トマス・ラッグルス・ピンチョン・ジュニアは、アメリカの小説家。現代のアメリカ文学を代表する小説家のひとりであり、1990年代以降定期的にノーベル文学賞候補に挙げられている。公の場に一切姿を見せない覆面作家として知られる。 作品は長大で難解とされるものが多く、SFや科学、TVや音楽などのポップカルチャーから歴史まで極めて幅広い要素が含まれた総合的なポストモダン文学である。
{{存命人物の出典明記|date=2016年7月18日 (月) 11:13 (UTC)}} {{Infobox 作家 | name = トマス・ピンチョン<br />Thomas Pynchon | death_date = | image =Thomas_Pynchon,_Navy_Sailor.jpg | image_size = 170px | caption = 水兵時代の写真(1955年) | birth_date = {{生年月日と年齢|1937|5|8}} | birth_place = {{USA}} [[ニューヨーク州]] [[ロングアイランド]] | death_place = | occupation = [[小説家]] | nationality = {{USA}} | period = [[1960年]] - | genre = [[ポストモダン文学]] | subject = | movement = | notable_works = 『[[V.]]』(1963年)<br />『[[重力の虹]]』(1973年)<br />『[[LAヴァイス]]』(2009年) | awards = [[全米図書賞]] (1974年『重力の虹』) | debut_works = 『V.』(1963年) }} '''トマス・ラッグルス・ピンチョン・ジュニア'''([[英語]]:Thomas Ruggles Pynchon Jr.、[[1937年]][[5月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]]。現代の[[アメリカ文学]]を代表する小説家のひとりであり<ref>文芸批評家の[[ハロルド・ブルーム]]は、現代を代表する米国人小説家として、ピンチョンと[[ドン・デリーロ]]、[[フィリップ・ロス]]、[[コーマック・マッカーシー]]の4人を挙げている。</ref>、1990年代以降定期的に[[ノーベル文学賞]]候補に挙げられている。公の場に一切姿を見せない覆面作家として知られる。 作品は長大で難解とされるものが多く、[[サイエンス・フィクション|SF]]や科学、TVや音楽などの[[ポップカルチャー]]から歴史まで極めて幅広い要素が含まれた総合的な[[ポストモダン文学]]である。 == 略歴 == [[1937年]]、[[ニューヨーク州]][[ロングアイランド]]、[[グレンコーブ (ニューヨーク州)|グレンコーブ]]に測量技師トマス・ラグルズ・ピンチョン・シニアとキャサリン・フランセス・ベネット・ピンチョンの間に長男として生まれる。妹と弟がいる。 父は[[プロテスタント]]で母は[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]の[[カトリック教会|カトリック]]。16歳でオイスター・ベイ高校を最優秀学生として卒業した。[[コーネル大学]]から奨学金を得て、同年秋に工学部応用物理工学科に入学。2年後には大学を一時離れ、[[アメリカ海軍|海軍]]に2年間所属した。 [[1957年]]にはコーネル大学に戻り英文科に入学。当時の創作科の講師に[[ウラジミール・ナボコフ]]がおり、ピンチョンはその講義を受けていたと言われている(レポートの採点をまかされていたナボコフの妻はピンチョンの独特な手書き文字を覚えていると証言している)。大学3年と4年の時に学内で発行される文芸雑誌『コーネル・ライター』の編集に携わり、[[1959年]]5月同誌に「スモール・レイン」を発表。 [[1959年]]、大学を最優の成績で卒業したピンチョンは、複数の大学院からの奨学金を断り、[[マンハッタン]]の[[グリニッジ・ヴィレッジ]]のアパートメントで[[ボヘミアン]]生活を送りながら小説『[[V.]]』を執筆しはじめる [[1960年]]2月から[[1962年]]9月までの間、[[シアトル]]の[[ボーイング]]航空機会社に就職して米軍の[[地対空ミサイル]][[ボマーク (ミサイル)|ボマーク]]の[[テクニカルライター]]として働いている。その間、3編の短編(「ロウ・ランド」「エントロピー」「アンダー・ザ・ローズ」)を文芸誌に掲載。退職後は[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]や[[メキシコ]]に移り住んだとされている。 [[1962年]]、メキシコで長編第1作『[[V.]]』を完成。[[1963年]]に出版され、同年度の最優秀処女小説に与えられる[[ペン/フォークナー賞|フォークナー賞]]を受けた。 [[1966年]]、長編第2作『[[競売ナンバー49の叫び]]』を発表。[[ローゼンタール基金賞]]を受賞。[[1967年]]から[[1972年]]まではおそらくメキシコとカリフォルニアで生活していたと思われる。 [[1973年]]、長編第3作目にして代表作『[[重力の虹]]』を発表。[[1974年]]度の[[全米図書賞]]を受賞する。同年、[[ピューリッツァー賞]]フィクション部門に諮問委員会が全員一致で推薦したが、理事会は「読みにくく卑猥である」としてこれを退け同部門は該当作無しとなった)。以後、約16年にわたり新作を発表しなかった。 [[1975年]]、米文芸アカデミーより5年に1度優秀な小説に与えられる[[ハウエルズ賞]]に選ばれたが、「いらないものはいらない」と受賞を辞退。 [[1984年]]、初期短編を集めた『[[スロー・ラーナー]]』発表。序文を書き下ろす。同年[[10月28日]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]にエッセイ「ラッダイトをやってもいいのか?(Is It O.K. to Be a Luddite?)」を掲載(日本語訳は『夜想』25号(1989年))。[[1988年]]、マッカーサー奨励金(MacArthur Foundation Genius Grant)として31万ドルを受ける。 [[1990年]]、16年ぶりの長編第4作『[[ヴァインランド (小説)|ヴァインランド]]』発表。それ以前に取材を兼ねて2度来日したとも噂される。90年代半ば、出版エージェントのメラニー・ジャクソンと結婚、長男ジャクソン・ピンチョンが生まれる。 [[1997年]]、長編第5作『[[メイスン&ディクスン]]』発表。[[2003年]]、[[ジョージ・オーウェル]]著『[[1984年 (小説)|1984年]]』の新版に序文を寄稿。 [[2006年]]、長編第6作『[[逆光 (小説)|逆光]]』を出版。オンライン書店[[Amazon.com]]に、ピンチョン本人と思われる人物によって宣伝文が掲載される。 [[2009年]]、長編第7作『[[LAヴァイス]]』発表。 [[2014年]]、長編第8作『[[ブリーディング・エッジ]]』発表。初の映画化となる『[[インヒアレント・ヴァイス]]』が北米で公開。 == 作品 == * 「エントロピー」''Entropy''(1960年) - 短編 ** 短編集『[[スロー・ラーナー]]』所収。他に「現代アメリカ短編選集第3」([[井上謙治]]訳、[[白水社]]、1970年 / 新装版「アメリカ幻想小説傑作集」白水Uブックス、1985年)にも収録 * 『[[V.]]』''V.''(1963年) ** [[三宅卓雄]]・[[伊藤貞基]]・[[中川ゆきこ]]・[[広瀬英一]]・[[中村紘一]]訳、[[国書刊行会]]、1979年 ** [[小山太一]]・[[佐藤良明]]訳、[[新潮社]]「トマス・ピンチョン 全小説」、2011年 * 『[[競売ナンバー49の叫び]]』''The Crying of Lot 49''(1966年) ** [[志村正雄]]訳、[[サンリオ]]文庫、1985年 / 筑摩書房、1992年 / [[ちくま文庫]]、2010年 ** 佐藤良明訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2011年 * 『[[重力の虹]]』''Gravity's Rainbow''(1973年) ** [[越川芳明]]・[[佐伯泰樹]]・[[植野達郎]]・[[幡山秀明]]訳、国書刊行会、1993年 ** 佐藤良明訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2014年 * 『[[スロー・ラーナー]]』''Slow Learner-Early Stories''(1984年) - 短編集 ** 志村正雄訳、[[筑摩書房]]、1988年 / ちくま文庫、1994年 / 新装版、2008年 ** 佐藤良明訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2010年 * 『[[ヴァインランド (小説)|ヴァインランド]]』''Vineland ''(1990年) ** 佐藤良明訳、新潮社、1998年 ** 佐藤良明訳(改訳)、河出書房新社「[[池澤夏樹=個人編集 世界文学全集]]」、2009年 ** 佐藤良明訳(改訳)、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」 2011年 * 『[[メイスン&ディクスン]]』''Mason & Dixon''(1997年) ** [[柴田元幸]]訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2010年 * 『[[逆光 (小説)|逆光]]』''Against the Day''(2006年) ** [[木原善彦]]訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2010年 * 『[[LAヴァイス]]』''Inherent Vice''(2009年) ** [[栩木玲子]]・佐藤良明訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2012年 *『[[ブリーディング・エッジ]]』''Bleeding Edge''(2013年) **佐藤良明・栩木玲子訳、新潮社「トマス・ピンチョン 全小説」、2021年 ===トマス・ピンチョン 全小説=== 全集。新潮社が2010年6月から刊行、2021年5月に最新作『ブリーディング・エッジ』が刊行され、ピンチョンの既発表作すべてを網羅した<ref>但し、短編"''Mortality and Mercy in Vienna''"を除く。筑摩書房版およびちくま文庫版『競売ナンバー49の叫び』には志村正雄訳で「生かすも殺すもウィーンでは」という日本語題で収録されている。</ref>。 == 備考 == * 覆面作家として著名であり、顔写真も学生時代と軍隊時代のものが2点知られているのみである。『V.』の[[フォークナー賞]]授賞式以降は公の場に一切姿を見せず、顔を出さない形でのインタビューなども受けていない。作品の難解さと寡作さも相まって、神秘的なイメージの強い作家としても知られる。しかし、[[2004年]]1月にアニメ『[[ザ・シンプソンズ]]』に本人役として突如出演(声のみ)、2月にも再登場し世間を驚かせた。このことは世間に強い衝撃を与え、覆面作家が増える原因の一つにもなった。 * 上記に付随するエピソードとしてフォークナー賞受賞後、とある雑誌が取材のためピンチョン宅を訪ねたところ、遠くの山中へ逃げ込んでしまい、写真を撮ることはできなかったという。全米図書賞の授賞式の際には姿を現さず、代わりにコメディアンを登壇させ、関係者を困惑させた。 * 自殺したカリフォルニアの作家{{仮リンク|ワンダ・ティナスキー|en|Wanda Tinasky}}がピンチョンと同一人物であるという噂が1990年代にあった。 * 『メイスン&ディクスン』の次の作品は[[ロシア]]の数学者[[ソフィア・コワレフスカヤ]]に関する小説になると噂されていた。その当時[[ドイツ]]の文化メディア大臣を務めていた[[ミヒャエル・ナウマン]]は、ドイツでピンチョンのコワレフスカヤ研究を助けたと発言している。その後発表された『逆光』では、コワレフスカヤの名が数度言及され、コワレフスカヤを思い起こさせる女性数学者ヤシュミーン・ハーフコートが登場する。 * かねてから少数の若手作家とは接触があり、[[スティーヴ・エリクソン]]はピンチョンから[[エイミーコミック]]を手渡されたと告白している。 == 参考文献 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ポストモダン文学]] * [[ポストモダン]] * [[木原善彦]] - 翻訳家、研究者 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひんちよん とます}} [[Category:トマス・ピンチョン|*]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:ポストモダン著作家]] [[Category:全米図書賞受賞者]] [[Category:マッカーサー・フェロー]] [[Category:アイルランド系アメリカ人]] [[Category:ニューヨーク州ナッソー郡出身の人物]] [[Category:1937年生]] [[Category:存命人物]]
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遺伝子
遺伝子()は、ほとんどの生物においてDNAを担体とし、その塩基配列にコードされる遺伝情報である。ただし、RNAウイルスではRNA配列にコードされている。 分子生物学における最狭義の遺伝子はタンパク質の一次構造に対応する転写産物 (mRNA) の情報を含む核酸分子上の特定の領域=構造遺伝子(シストロン)をさす。転写因子結合部位として、転写産物の転写時期と生産量を制御するプロモーターやエンハンサーなどの隣接した転写調節領域を遺伝子に含める場合もある(→オペロン)。ちなみに、語感が似る調節遺伝子とは上記の転写因子のタンパク質をコードしたれっきとした構造遺伝子である。 しかし、転写産物そのものが機能を持ち、タンパク質に翻訳されない、転移RNA (tRNA) やリボソームRNA (rRNA) 、機能性ノンコーディングRNAに対応する遺伝情報が、タンパク質構造遺伝子と同程度の数をもつことが報告され、狭義の遺伝子に含められるようになっている。 古典的な遺伝子の定義は、ゲノムもしくは染色体の特定の位置に占める遺伝の単位(→遺伝子座)であり、構造は変化しないと考えられていた。しかし突然変異やトランスポゾン(可動性遺伝子)の発見、抗体産生細胞で多種の抗体を作り出すための遺伝子再編成の発見などから、分子生物学的実験対象としての遺伝子の概念はたびたび修正を余儀なくされた。 また同じ生物学内でも進化論や集団遺伝学、進化ゲーム理論での議論で用いられる遺伝子という単語は、上記の構造遺伝子やDNA上の領域あるいは遺伝子座とは相当に異なる概念を内包しており、混同してはならない(例:リチャード・ドーキンスの著書表題『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』)。こちらは、自然選択あるいは遺伝的浮動の対象として集団中で世代をまたいで頻度を変化させうる情報単位である。メンデル遺伝的な面をもつもののほか、表現型に算術平均的影響を与える量的形質遺伝子、遺伝情報の突然変異や組み換えに対応する無限対立遺伝子モデルなど、理論的でありながら、即物的な分子生物学の側面を包含した考え方である。これを模倣し、文化進化の文脈で用いられるミームは集団遺伝学における遺伝子のアナロジーである。 遺伝子という言葉は、「遺伝する因子」としての本来の意味を超えて遺伝子産物の機能までを含んで用いられる場合があり、混乱を誘発している。後者の典型例としては、遺伝しない遺伝子を使った遺伝子治療などがあげられる。さらに遺伝子やDNAという言葉は、科学的・神秘的といったイメージが先行し、一般社会において生物学的定義から離れた用いられ方がされていることが多い。それらの大半は通俗的な遺伝観を言い換えたものに過ぎない。一般雑誌などでは疑似科学的な用法もしばしば見受けられる。 遺伝子はDNAが複製されることによって次世代へと受け継がれる。複製はDNAの二重らせんが解かれて、それぞれの分子鎖に相補的な鎖が新生されることで行われる。 本質的には情報でしかない遺伝子が機能するためには発現される必要がある。発現は、一般に転写と翻訳の過程を経て、遺伝情報(= DNAの塩基配列)がタンパク質などに変換される過程である。こうしてできたタンパク質が、ある場合は直接特定の生体内化学反応に寄与して化学平衡などに変化をもたらすようになり、ある場合は他の遺伝子の発現に影響を与え、その結果形質が表現型として現われてくる。転写はDNAからRNA(mRNAやrRNAなど)に情報が写し取られる現象であり、翻訳はmRNAの情報を基にタンパク質が合成される過程である。この過程はセントラルドグマとも呼ばれる。 遺伝子発現に関する多くの知見は真核生物ではなく細菌である大腸菌をモデル生物とした実験から得られてきた。 核内では様々なDNA結合特異性を持った転写調節因子の転写調節領域への結合や、DNAのメチル化状態などで遺伝子の活性が制御されている。DNAからRNAポリメラーゼによってRNAへと転写された転写産物はmRNA前駆体と呼ばれる。 これが、5'末端へのキャップ構造の付加やスプライシング、3'末端の切断、ポリA鎖の付加といった作用を受けてmRNAとなる。mRNAは転写の場である核から核膜孔を通過し細胞質へ運ばれる。 細胞質では、キャップ構造を認識する蛋白質や翻訳開始因子との作用によりリボソームがmRNAに結合する。リボソーム上では、コドンに対応したアンチコドンを持ったアミノアシルtRNAがAサイトに結合することで塩基配列からアミノ酸配列への遺伝情報の翻訳が行われる。Pサイトに結合しているペプチジルtRNAから、アミノ酸が連なったポリペプチドがAサイトのtRNAに付加され、これがPサイトに移動することが繰り返される。 翻訳されたアミノ酸配列はその一次構造に依存した立体構造をもつ蛋白質へと折り畳まれる。蛋白質の機能はその立体構造によって規定されており、正常な構造をもつ蛋白質がさらに糖鎖の付加やリン酸化といった翻訳後の修飾をうけて最終的な遺伝子産物となることもある。 一般に、遺伝子研究とは遺伝学、分子生物学、ゲノミクスなどの研究を指す。集団遺伝学や進化遺伝学は含めないことが多い。 遺伝子研究はメンデル・モーガンの古典遺伝学に始まった。古典遺伝学における遺伝子研究はメンデルの行ったような交雑実験と表現型の観察を中心とし、遺伝子は遺伝情報を担う粒子の概念として扱われた。 分子生物学黎明期では主に大腸菌やファージを用いて、DNAを直接扱う形質転換実験や、DNA塩基配列からの遺伝子発現機構の解析などが行われた。現在では様々なモデル生物に研究対象が拡大している。これは、遺伝子の実体がほとんど全生物において『DNAである』ことによる(DNAを扱えればいかなる生物でも分子生物学的実験は行える)。 突然変異の表現型から遺伝子機能を推定する正の遺伝学はマウスなどでは行いづらく、先に遺伝子を同定してから変異体を作成する逆遺伝学という手法が生まれた。逆遺伝学の先にゲノムプロジェクトがあり、さまざまな生物種で進行または終了している。ゲノムプロジェクトによって遺伝子の数を有限に規定することができる。 DNAの構造決定とゲノムプロジェクトは遺伝子研究にパラダイムシフトをもたらした。シーケンシング(塩基配列の解析)技術は2009年現在も飛躍的に進歩し続けており、高速かつ低コストにゲノム全体を網羅的に解析できるようになりつつある。単に塩基配列を知るというレベルではなく、個体差を比較したり、遺伝子の発現パターンをプロファイリングしたりといった、従来は困難と認識されてきた研究も現実的に可能となってきた。in vivoにおける遺伝子の機能、すなわち『遺伝子はどのように生物体で機能しているのか』という問いへの答えが明らかになりつつある。 遺伝子の機能を調べるにはいくつかのテクニックが必要である。生物体内 (in vivo) における特定の遺伝子はいくつかのコピーが存在するものの、その遺伝子が何を意味しているのか、発現するとどうなるのか、変異が起こればどうなるのかを調べることは困難である。したがって、その遺伝子のみを取り出して、遺伝子の特性を生物体外 (in vitro) で調べる必要がある。それらの過程には の三段階を経る。クローニングや発現の前には、サブクローニングや発現ベクターへの遺伝子の導入といったプロセスを経ることもある。 クローニングとは、遺伝子のクローンを作成する実験である。遺伝子のクローンを作成するにはある程度の配列がわかっていることを前提に現在2つの方法が実用化されている。 遺伝子配列がわからない場合には、目的のタンパク質を対象生物内から精製し、タンパク質N末端配列を決定した後、ミックスプライマー(アミノ酸とその遺伝暗号に対応するパターン全てを含む複数種のプライマー、詳しくは当該記事にて)を用いてクローニングができる。 上記いずれのケースにおいても、単一のDNA配列のみを増幅した、あるいは精製したのみではヌクレアーゼによって分解を受けてしまう。したがって、目的DNA配列をクローニングベクターに導入し、大腸菌を用いてベクターを増幅することを含めてクローニングという実験が完結する。 細菌は遺伝子に介在配列を持たないためにDNAから遺伝子をクローニングすることが可能だが、真核生物の場合はイントロンをのぞいたエクソン部分のみを抽出する必要がある。これはスプライシング後のmRNAを精製し、逆転写PCR (RT-PCR) を行うことによってクローニングが可能となる。 シークエンシングとはDNAの塩基配列の並びを決定する実験を意味する。シークエンシングを行うには、やはりある程度の配列が判明している必要があるが、クローニングが可能であれば特に問題はない。シークエンシングにはかつてマクサム - ギルバート法が用いられていたが、現在はサンガー - クルソン法(ジデオキシヌクレオチド鎖終結法)の変法である『ダイターミネーターサイクルシークエンシング法』が一般的である。 2009年現在もっとも一般的に使われているシークエンシング技術では、1つのプライマーから1,200塩基対の配列が一回の実験で決定可能である。しかし「次世代型シーケンサー」と総称される高速解読装置が複数のメーカーから発表されており、これらを用いれば従来よりはるかに大量の配列情報を短時間に得ることができる。たとえばアプライドバイオシステムズ社のSolidシステムでは一回の解析で30億塩基対の解読が可能という。 タンパク質を用いた実験を行うには、 という二通りの方法がある。生物内からタンパク質を精製するには、大量のサンプルが必要であり、タンパク質精製のテクニックが必要であるために一般的な技術とは言いがたい。一方過剰発現系を用いれば、誰でも簡単に目的のタンパク質を大量に得ることができる。 最も一般的な過剰発現系には、発現ベクター中の大腸菌のlacZプロモーター配列の下流に、クローニングした遺伝子を導入する方法がある。この方法では、IPTGという物質を用いてlacZプロモーター下流の遺伝子を大腸菌内で発現させることができる。転写されたmRNAはその後、大腸菌のリボソームで翻訳され、大量にタンパク質を生産する。 このようにして生産したタンパク質を用いて、酵素であれば活性を測定したり、DNA結合タンパクであればDNA結合実験を行ったりとタンパク質の実験が可能である。現在、ポストゲノムと言われる分野の主流はこの過剰発現系を用いたものである。しかしながら、大腸菌発現系では多くの問題を抱えており、現在大腸菌以外にも多くの発現宿主が開発されている(細菌:細胞外酵素作成型(Bacillus属を用いたもの)真核生物:出芽酵母、動物細胞、ヒト細胞などなど)。 以上のような方法と比較して、要するコスト及び時間を低下させることが可能な、コムギ胚芽を利用した無細胞タンパク質合成系という新たな方法も研究されている。 遺伝子導入とは、上記にあげた遺伝子の実験系を用いて目的遺伝子の宿主でない他生物にクローニングしたベクターを導入し、その遺伝子が有効な形質を発現できるように仕向けることである。例えば、特定の除草剤に対して耐性を持つような作物や、霜害を防ぐ糖タンパクを生産できる作物(アイスマイナス)などはその一例である。 しかしながら、導入したベクターが花粉などを通じて拡散し、除草剤耐性を持っていなかった雑草にまでそうした形質が導入される危険性を指摘され、このような遺伝子組み換え実験は厳しく規制された状況である。遺伝子組み換え実験による物理的規制は というランクが付けられており、危険な遺伝子組み換え実験を行う場合にはそれ相応の規制のランクの敷かれた実験室で行うよう義務付けられている。 なお、遺伝子組み換えの規制に関して、1975年、アメリカで開かれたアシロマ会議において基本的なガイドラインが決められた。遺伝子組み換えによって誕生した生物の取り扱いについては、2003年、生物の多様性に関する条約としてカルタヘナ議定書が締結された。 現在の遺伝子の概念はメンデルによって定義される。彼はエンドウのいくつかの表現型に注目した交雑実験を行い、表現形質が分離することを発見する(1865年 →メンデルの法則)。これを説明するために形質を伝える因子たる「遺伝粒子」を考え、これが現在の遺伝子の基となっている。それまで形質は液体のように混じりあっていくと考えられていた。しかし、長らくメンデルの法則は不評で、1900年に再発見されるまで理解されなかった。 細胞学者たちは減数分裂の様子を観察し、対になった染色体が一つずつになり、接合後に再び対を作るという染色体の挙動が、遺伝子のそれと同じであることを発見した(→染色体説)。ショウジョウバエの突然変異を用いた遺伝学的実験によりそれが明らかにされた。 染色体はタンパク質と核酸からできていることが明らかにされたが、当時はタンパク質が遺伝子の正体であると考えられていた。多数の種類があるタンパク質に比べ、核酸はあまりにも多様性が低いと考えられていたためである。実際、100bpのDNAの情報量は約10の60乗 (4) であるのに対し、100個のアミノ酸で構成される蛋白質の情報量は10の130乗 (20 = 2 × 10) と甚だ差が激しい。 しかし、肺炎双球菌やファージを用いた実験で DNA が遺伝子の正体であることが実証され、そのすぐ後に DNA の構造が解明された。DNA の二重らせん構造は遺伝子の性質と非常によく一致していた。
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"染色体はタンパク質と核酸からできていることが明らかにされたが、当時はタンパク質が遺伝子の正体であると考えられていた。多数の種類があるタンパク質に比べ、核酸はあまりにも多様性が低いと考えられていたためである。実際、100bpのDNAの情報量は約10の60乗 (4) であるのに対し、100個のアミノ酸で構成される蛋白質の情報量は10の130乗 (20 = 2 × 10) と甚だ差が激しい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、肺炎双球菌やファージを用いた実験で DNA が遺伝子の正体であることが実証され、そのすぐ後に DNA の構造が解明された。DNA の二重らせん構造は遺伝子の性質と非常によく一致していた。", "title": "歴史" } ]
遺伝子は、ほとんどの生物においてDNAを担体とし、その塩基配列にコードされる遺伝情報である。ただし、RNAウイルスではRNA配列にコードされている。
{{otheruses||中西圭三のアルバム|遺伝子 (中西圭三のアルバム)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2023年11月8日 (水) 06:02 (UTC) | 独自研究 = 2023年11月8日 (水) 06:02 (UTC) }} {{Expand English|date=2023-11-08}} [[Image:Gene.png|right|thumbnail|270px|遺伝子 (gene) は[[デオキシリボ核酸|DNA]]二重らせん構造からなり、それがさらに巻いた構造をとり[[染色体]]を成す。[[真核生物]]の染色体はXのような形をとる。]] {{読み仮名|'''遺伝子'''|いでんし}}は、ほとんどの生物において'''[[デオキシリボ核酸|DNA]]'''を[[担体]]とし、その[[塩基配列]]にコードされる[[遺伝情報]]である。ただし、[[RNAウイルス]]では[[リボ核酸|RNA]]配列にコードされている。 == 概念 == 分子生物学における最狭義の遺伝子は[[タンパク質]]の[[一次構造]]に対応する転写産物 (mRNA) の情報を含む核酸分子上の特定の領域='''[[構造遺伝子]]'''(シストロン)をさす。[[転写因子]]結合部位として、転写産物の転写時期と生産量を制御する[[プロモーター]]や[[エンハンサー]]などの隣接した'''転写調節領域'''を遺伝子に含める場合もある(→[[オペロン]])。ちなみに、語感が似る調節遺伝子とは上記の[[転写因子]]のタンパク質をコードしたれっきとした構造遺伝子である。 しかし、転写産物そのものが機能を持ち、タンパク質に翻訳されない、転移RNA (tRNA) やリボソームRNA (rRNA) 、機能性[[ノンコーディングRNA]]に対応する遺伝情報が、タンパク質構造遺伝子と同程度の数をもつことが報告され、狭義の遺伝子に含められるようになっている。 古典的な'''遺伝子'''の定義は、[[ゲノム]]もしくは[[染色体]]の特定の位置に占める[[遺伝]]の単位(→[[遺伝子座]])であり、構造は変化しないと考えられていた。しかし突然変異や[[トランスポゾン]](可動性遺伝子)の発見、抗体産生細胞で多種の抗体を作り出すための遺伝子再編成の発見などから、分子生物学的実験対象としての遺伝子の概念はたびたび修正を余儀なくされた。 また同じ生物学内でも[[進化論]]や[[集団遺伝学]]、[[進化ゲーム理論]]での議論で用いられる遺伝子という単語は、上記の[[構造遺伝子]]や[[デオキシリボ核酸|DNA]]上の領域あるいは遺伝子座とは相当に異なる概念を内包しており、混同してはならない(例:[[リチャード・ドーキンス]]の著書表題『The Selfish Gene([[利己的な遺伝子]])』)。こちらは、[[自然選択]]あるいは[[遺伝的浮動]]の対象として集団中で世代をまたいで頻度を変化させうる情報単位である。メンデル遺伝的な面をもつもののほか、表現型に算術平均的影響を与える量的形質遺伝子、遺伝情報の突然変異や組み換えに対応する無限対立遺伝子モデルなど、理論的でありながら、即物的な分子生物学の側面を包含した考え方である。これを模倣し、文化進化の文脈で用いられる[[ミーム]]は集団遺伝学における遺伝子のアナロジーである。 遺伝子という言葉は、「遺伝する因子」としての本来の意味を超えて遺伝子産物の機能までを含んで用いられる場合があり、混乱を誘発している。後者の典型例としては、遺伝しない遺伝子を使った[[遺伝子治療]]などがあげられる。さらに遺伝子やDNAという言葉は、科学的・神秘的といったイメージが先行し、一般社会において[[生物学]]的定義から離れた用いられ方がされていることが多い。それらの大半は通俗的な遺伝観を言い換えたものに過ぎない。一般雑誌などでは[[疑似科学]]的な用法もしばしば見受けられる。 == 機能 == [[ファイル:Dna-split.png|thumb|DNA複製]] 遺伝子はDNAが[[DNA複製|複製]]されることによって次世代へと受け継がれる。複製はDNAの[[二重らせん]]が解かれて、それぞれの分子鎖に相補的な鎖が新生されることで行われる。 本質的には情報でしかない遺伝子が機能するためには'''[[遺伝子発現|発現]]'''される必要がある。発現は、一般に[[転写 (生物学)|転写]]と[[翻訳 (生物学)|翻訳]]の過程を経て、[[遺伝情報]](= DNAの塩基配列)が[[タンパク質]]などに変換される過程である。こうしてできたタンパク質が、ある場合は直接特定の生体内化学反応に寄与して化学平衡などに変化をもたらすようになり、ある場合は他の遺伝子の発現に影響を与え、その結果[[形質]]が[[表現型]]として現われてくる。'''転写'''はDNAからRNA([[mRNA]]や[[rRNA]]など)に情報が写し取られる現象であり、'''翻訳'''はmRNAの情報を基にタンパク質が合成される過程である。この過程は[[セントラルドグマ]]とも呼ばれる。 == 遺伝子の発現 == [[遺伝子発現]]に関する多くの知見は真核生物ではなく[[細菌]]である[[大腸菌]]を[[モデル生物]]とした実験から得られてきた。 == 真核生物の遺伝子の一般的な働き方 == [[細胞核|核]]内では様々なDNA結合特異性を持った[[転写調節因子]]の転写調節領域への結合や、[[DNAメチル化|DNAのメチル化]]状態などで遺伝子の活性が制御されている。[[デオキシリボ核酸|DNA]]から[[RNAポリメラーゼ]]によってRNAへと[[転写 (生物学)|転写]]された転写産物は[[mRNA前駆体]]と呼ばれる。 これが、5'末端へのキャップ構造の付加やスプライシング、3'末端の切断、ポリA鎖の付加といった作用を受けてmRNAとなる。mRNAは転写の場である核から核膜孔を通過し[[細胞質]]へ運ばれる。 細胞質では、キャップ構造を認識する蛋白質や翻訳開始因子との作用により[[リボソーム]]がmRNAに結合する。リボソーム上では、コドンに対応した[[アンチコドン]]を持ったアミノアシル[[tRNA]]がAサイトに結合することで塩基配列からアミノ酸配列への遺伝情報の[[翻訳 (生物学)|翻訳]]が行われる。Pサイトに結合しているペプチジルtRNAから、アミノ酸が連なったポリペプチドがAサイトのtRNAに付加され、これがPサイトに移動することが繰り返される。 翻訳されたアミノ酸配列はその一次構造に依存した立体構造をもつ蛋白質へと折り畳まれる。蛋白質の機能はその立体構造によって規定されており、正常な構造をもつ蛋白質がさらに[[糖鎖]]の付加やリン酸化といった翻訳後の修飾をうけて最終的な遺伝子産物となることもある。 == 遺伝子研究 == 一般に、遺伝子研究とは[[遺伝学]]、[[分子生物学]]、[[ゲノミクス]]などの研究を指す。[[集団遺伝学]]や[[進化遺伝学]]は含めないことが多い。 <!--以降、説明の重複や前後関係の混乱などを整理してみた。誤りがあれば修正いただきたい--> 遺伝子研究は[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]・[[トーマス・ハント・モーガン|モーガン]]の[[古典遺伝学]]に始まった。古典遺伝学における遺伝子研究は[[メンデルの法則|メンデル]]の行ったような[[交雑実験]]と[[表現型]]の観察を中心とし、遺伝子は遺伝情報を担う粒子の概念として扱われた。 分子生物学黎明期では主に[[大腸菌]]や[[ファージ]]を用いて、DNAを直接扱う形質転換実験や、DNA塩基配列からの遺伝子発現機構の解析などが行われた。現在では様々な[[モデル生物]]に研究対象が拡大している。これは、遺伝子の実体がほとんど全生物において『DNAである』ことによる(DNAを扱えればいかなる生物でも分子生物学的実験は行える)。 [[突然変異]]の表現型から遺伝子機能を推定する正の遺伝学はマウスなどでは行いづらく、先に遺伝子を同定してから変異体を作成する[[逆遺伝学]]という手法が生まれた。逆遺伝学の先にゲノムプロジェクトがあり、さまざまな生物種で進行または終了している。ゲノムプロジェクトによって遺伝子の数を有限に規定することができる。<!--この説明はどうか?間違ってはいないが妙に限定的過ぎないだろうか?--> [[デオキシリボ核酸|DNA]]の構造決定と[[ゲノムプロジェクト]]は遺伝子研究に[[パラダイムシフト]]をもたらした。シーケンシング(塩基配列の解析)技術は2009年現在も飛躍的に進歩し続けており、高速かつ低コストにゲノム全体を網羅的に解析できるようになりつつある。単に塩基配列を知るというレベルではなく、個体差を比較したり、遺伝子の発現パターンをプロファイリングしたりといった、従来は困難と認識されてきた研究も現実的に可能となってきた。[[in vivo]]における遺伝子の機能、すなわち『遺伝子はどのように生物体で機能しているのか』という問いへの答えが明らかになりつつある。 === 遺伝子操作の概要 === 遺伝子の機能を調べるにはいくつかのテクニックが必要である。生物体内 (in vivo) における特定の遺伝子はいくつかのコピーが存在するものの、その遺伝子が何を意味しているのか、発現するとどうなるのか、変異が起こればどうなるのかを調べることは困難である。したがって、その遺伝子のみを取り出して、遺伝子の特性を生物体外 ([[in vitro]]) で調べる必要がある。それらの過程には # [[クローニング]]:扱いやすくするために対象遺伝子を担うDNAの数を増やす # [[シークエンシング]]:遺伝子の配列を読む # [[過剰発現系|過剰発現]]:遺伝子をタンパク質に翻訳し、その機能を理解する の三段階を経る。クローニングや発現の前には、サブクローニングや発現ベクターへの遺伝子の導入といったプロセスを経ることもある。 === クローニング === クローニングとは、遺伝子のクローンを作成する実験である。遺伝子のクローンを作成するにはある程度の配列がわかっていることを前提に現在2つの方法が実用化されている。 * ゲノムDNAを[[制限酵素]]で切断し、[[サザンブロッティング]]で目的遺伝子を含む配列を同定する方法 * [[ポリメラーゼ連鎖反応|PCR]]法を用いて目的の遺伝子配列を増幅する方法 遺伝子配列がわからない場合には、目的のタンパク質を対象生物内から精製し、タンパク質[[エドマン分解|N末端配列]]を決定した後、[[ミックスプライマー]](アミノ酸とその遺伝暗号に対応するパターン全てを含む複数種のプライマー、詳しくは当該記事にて)を用いてクローニングができる。 上記いずれのケースにおいても、単一のDNA配列のみを増幅した、あるいは精製したのみでは[[ヌクレアーゼ]]によって分解を受けてしまう。したがって、目的DNA配列をクローニングベクターに導入し、大腸菌を用いてベクターを増幅することを含めてクローニングという実験が完結する。 細菌は遺伝子に介在配列を持たないためにDNAから遺伝子をクローニングすることが可能だが、真核生物の場合は[[イントロン]]をのぞいた[[エクソン]]部分のみを抽出する必要がある。これは[[スプライシング]]後の[[mRNA]]を精製し、[[逆転写酵素|逆転写]][[ポリメラーゼ連鎖反応|PCR]] (RT-PCR) を行うことによってクローニングが可能となる。 {{main|クローニング}} === シークエンシング === {{main|DNAシークエンシング}} シークエンシングとはDNAの塩基配列の並びを決定する実験を意味する。シークエンシングを行うには、やはりある程度の配列が判明している必要があるが、クローニングが可能であれば特に問題はない。シークエンシングにはかつて[[マクサム - ギルバート法]]が用いられていたが、現在はサンガー - クルソン法([[ジデオキシヌクレオチド鎖終結法]])の変法である『ダイターミネーターサイクルシークエンシング法』が一般的である。 2009年現在もっとも一般的に使われているシークエンシング技術では、1つの[[プライマー]]から1,200塩基対の配列が一回の実験で決定可能である。しかし「次世代型シーケンサー」と総称される高速解読装置が複数のメーカーから発表されており、これらを用いれば従来よりはるかに大量の配列情報を短時間に得ることができる。たとえばアプライドバイオシステムズ社のSolidシステムでは一回の解析で30億塩基対の解読が可能という<ref>[http://www.natureasia.com/japan/advertising/advertorial/pdf/2007_NatureJapan_Advertorial.pdf 森下真一、橋本 真一 「日本オリジナルの遺伝子解析法と次世代シーケンサの出会いは新しい知見をもたらす」Nature 日本版 Advertising Supplement 2007]</ref>。 === 過剰発現 === タンパク質を用いた実験を行うには、 * 生物内からタンパク質を精製する、 * '''[[過剰発現系]]'''(かじょうはつげんけい)を用いて大腸菌等ベクターの宿主に目的タンパク質を大量に発現させる という二通りの方法がある。生物内からタンパク質を精製するには、大量のサンプルが必要であり、[[タンパク質の精製|タンパク質精製]]のテクニックが必要であるために一般的な技術とは言いがたい。一方過剰発現系を用いれば、誰でも簡単に目的のタンパク質を大量に得ることができる。 最も一般的な過剰発現系には、発現ベクター中の大腸菌の[[lacZ|''lac''Z]]プロモーター配列の下流に、クローニングした遺伝子を導入する方法がある。この方法では、[[IPTG]]という物質を用いて''lacZ''プロモーター下流の遺伝子を大腸菌内で発現させることができる。転写されたmRNAはその後、大腸菌の[[リボソーム]]で翻訳され、大量にタンパク質を生産する。 このようにして生産したタンパク質を用いて、[[酵素]]であれば活性を測定したり、DNA結合タンパクであればDNA結合実験を行ったりとタンパク質の実験が可能である。現在、ポストゲノムと言われる分野の主流はこの過剰発現系を用いたものである。しかしながら、大腸菌発現系では多くの問題を抱えており、現在大腸菌以外にも多くの発現宿主が開発されている(細菌:細胞外酵素作成型([[Bacillus属|''Bacillus''属]]を用いたもの)真核生物:[[出芽酵母]]、動物細胞、ヒト細胞などなど)。 {{main|過剰発現系}} 以上のような方法と比較して、要するコスト及び時間を低下させることが可能な、コムギ胚芽を利用した[[無細胞タンパク質合成系]]という新たな方法も研究されている。 === 遺伝子研究の応用 === [[遺伝子導入]]とは、上記にあげた遺伝子の実験系を用いて目的遺伝子の宿主でない他生物にクローニングしたベクターを導入し、その遺伝子が有効な形質を発現できるように仕向けることである。例えば、特定の[[除草剤]]に対して耐性を持つような作物や、[[霜害]]を防ぐ糖タンパクを生産できる作物(アイスマイナス)などはその一例である。 しかしながら、導入したベクターが[[花粉]]などを通じて拡散し、除草剤耐性を持っていなかった雑草にまでそうした形質が導入される危険性を指摘され、このような遺伝子組み換え実験は厳しく規制された状況である。遺伝子組み換え実験による物理的規制は * P1:一般的な実験室 * P2:病原性を扱うような実験室 * P3:バイオクリーンルーム(室内に流入する空気は全て[[HEPA|HEPAフィルタ]](0.22μm方形のフィルター)を通している) * P4:遺伝子組み換え対象生物に触れずに実験できる実験室 というランクが付けられており、危険な遺伝子組み換え実験を行う場合にはそれ相応の規制のランクの敷かれた実験室で行うよう義務付けられている。 なお、遺伝子組み換えの規制に関して、1975年、アメリカで開かれたアシロマ会議において基本的なガイドラインが決められた。遺伝子組み換えによって誕生した生物の取り扱いについては、2003年、生物の多様性に関する条約としてカルタヘナ議定書が締結された。 == 歴史 == 現在の遺伝子の概念は[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]によって定義される。彼はエンドウのいくつかの[[表現型]]に注目した交雑実験を行い、表現形質が分離することを発見する(1865年 →[[メンデルの法則]])。これを説明するために形質を伝える因子たる「遺伝粒子」を考え、これが現在の遺伝子の基となっている。それまで形質は液体のように混じりあっていくと考えられていた。しかし、長らくメンデルの法則は不評で、1900年に再発見されるまで理解されなかった。<ref>『フォトサイエンス生物図録』視覚でとらえる142頁~143頁</ref> 細胞学者たちは減数分裂の様子を観察し、対になった染色体が一つずつになり、接合後に再び対を作るという染色体の挙動が、遺伝子のそれと同じであることを発見した(→[[染色体説]])。[[ショウジョウバエ]]の[[突然変異]]を用いた遺伝学的実験によりそれが明らかにされた。<ref>『フォトサイエンス生物図録』視覚でとらえる144頁~145頁</ref> 染色体はタンパク質と核酸からできていることが明らかにされたが、当時はタンパク質が遺伝子の正体であると考えられていた。多数の種類があるタンパク質に比べ、核酸はあまりにも多様性が低いと考えられていたためである。実際、100bpのDNAの情報量は約10の60乗 (4<sup>100</sup>) であるのに対し、100個のアミノ酸で構成される蛋白質の情報量は10の130乗 (20<sup>100</sup> = 2<sup>100</sup> × 10<sup>100</sup>) と甚だ差が激しい。 しかし、肺炎双球菌やファージを用いた実験で DNA が遺伝子の正体であることが実証され、そのすぐ後に DNA の構造が解明された。DNA の二重らせん構造は遺伝子の性質と非常によく一致していた。 === メンデルの法則発見から二重らせん構造発見までの歴史 === * [[1865年]] [[グレゴール・ヨハン・メンデル]]がエンドウの交雑実験の結果を発表。(→[[メンデルの法則]]) * [[1869年]] [[フリードリッヒ・ミーシェル]]が膿の細胞抽出液から[[デオキシリボ核酸|DNA]]を発見する。 * [[1900年]] メンデルの投稿した論文が[[ユーゴー・ド・フリース]]([[オランダ]])、[[カール・エーリヒ・コレンス]]([[ドイツ]])、[[エーリヒ・フォン・チェルマク]]([[オーストリア]])によって再発見される。この再発見者の一人フリースは[[パンゲン説]]を推し、細胞内で形質を伝達する物質をパンゲンと仮定する。 * [[1903年]] [[ウォルター・S・サットン]]がパンゲンが[[染色体]]上にあることを提唱した。(→[[染色体説]]) * [[1909年]] [[ウィルヘルム・ヨハンセン]]はメンデルの指摘した因子をフリースの名づけたパンゲン (pangen) から『'''gene(遺伝子)'''』と呼ぶことを提案した。 * [[1910年]] [[トーマス・ハント・モーガン]]が[[ショウジョウバエ]]の交雑実験を始める。 * [[1921年]] DNAの[[テトラヌクレオチドモデル]]を解説した論文が発表される(J. Biol Chem. 48:119〜125)。当時、遺伝物質は多様性に富んだポリペプチド(タンパク質)であり、テトラヌクレオチドはその保護の役割を果たしていると考えられていた。 * [[1922年]] モーガンらのグループによってショウジョウバエの4つの染色体上に座している50個の遺伝子の相対位置が決定され、発表される。 * [[1927年]] [[ハーマン・J・マラー]]が[[X線]]は遺伝子に[[突然変異]]を導入することを指摘する。 * [[1934年]] {{仮リンク|トルビョルン・カスペルソン|label=カスパーソン|en|Torbjörn Caspersson}}がDNAは[[生体高分子]]であることを示し、テトラヌクレオチドモデルが誤りであることが証明される。 * [[1935年]] [[マックス・デルブリュック]]らは、遺伝子は物質的単位であることを提案した。 * [[1941年]] [[ジョージ・ウェルズ・ビードル|ビードル]]と[[エドワード・ローリー・タータム|タータム]]が『[[一遺伝子一酵素説]]』(1つの遺伝子は1つの酵素をコードしている)を発表。 * [[1944年]] [[フレデリック・グリフィス]]の肺炎双球菌の形質転換実験([[グリフィスの実験]])を元にした、[[オズワルド・アベリー]]らの『DNAが遺伝物質であることの実験的証明』を収めた論文が掲載される(J. Exp. Med. 79:137〜158)。この論文はDNA=遺伝物質であることが確実な今、矛盾のないものだが、当時は評価を全く受けなかった(註:この見方は、アヴェリーが属していたロックフェラー研究所およびその周辺での、当初の反響を伝えているに過ぎない。実際には、ジョシュア・レーダーバーグ、ジェームス・ワトソン、マックファーレン・バーネットなど現代遺伝学・分子生物学の元を築いた科学者たちが、「まだ初学者であった頃にアヴェリーらの論文を読んで大きな刺激を受けた」と述べている。ちなみに、ワトソンは彼の著書(ワトソン&ベリー『DNA』)のなかでも、「アヴェリーの実験はハーシーとチェイスの実験が行われる前に既に評価されていた」と重ねて記している。つまり、先を見据えていた科学者の間では正当に評価されていたということである。) * [[1950年]] [[エルヴィン・シャルガフ]]が[[ペーパークロマトグラフィー]]を用いて塩基存在比に数学的関連があることを明らかにした(AとT、GとCはそれぞれ数が等しいことを示した)。 * [[1952年]] [[アルフレッド・ハーシー]]と[[マーサ・チェイス]]による『[[ハーシーとチェイスの実験]]』結果が論文に掲載される(J. Gen. Physiol. 36:39〜56)。本論文によってファージの遺伝物質がDNAであることが確実視されたと言われる。同年、[[ロザリンド・フランクリン]]がDNAが[[二重らせん構造]]であることを証明するX線回折像写真を撮影する。 * [[1953年]] [[ジェームズ・ワトソン]]と[[フランシス・クリック]]によってDNAのB型二重らせん構造のモデルが示され、DNAは生体内で『[[二重らせん構造]]』をとっていることを示す論文が発表される(Nature 171:737,738)。 === 二重らせん構造発見以降の歴史 === * [[1955年]] セベロ・オチョアによってポリヌクレオチドホスホリラーゼが発見された(一見遺伝子とは無関係だが[[遺伝暗号]]の解明に寄与した重要な[[酵素]]である) * [[1956年]] エリオット・ヴォルキンとラザルス・アストラチャンによってDNAから[[タンパク質]]への情報のメッセンジャーがRNAである証拠が提出された(mRNAが存在する可能性を示した、このことが確実になったのは5年後、ソル・シュピーゲルマンとベンジャミン・D・ホールらの実験による) * [[1958年]] クリックによって[[セントラルドグマ]]が提唱された(Symp. Soc. Exp. Biol. 12:138〜163)。 * [[1959年]] ロバート・ホリーによって[[tRNA|tRNA<sup>ala</sup>]]分子が単離された * [[1961年]] マーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マテイによって[[大腸菌]][[無細胞発現系]]を用いたポリ[[ウラシル]]からポリ[[フェニルアラニン]]が合成される実験が行われた(遺伝暗号解明への初めての実験)。 * [[1964年]] ニーレンバーグとフィリップ・レーダーによって遺伝暗号解明に大きな寄与をした『[[トリプレット結合能測定法]]』が開発された。ヤノフスキーによって遺伝子がタンパク質をコードしていることが示された(遺伝子タンパク質間の'''共直線性'''が示された) * [[1966年]] 遺伝暗号の解読が完了した * [[1970年]] ハワード・テミンとデビット・バルチモアがそれぞれある種の[[ウイルス]]で[[逆転写酵素|逆転写]]反応を見出した(セントラルドグマ概念の訂正) * [[1977年]] 遺伝子が介在配列によっていくつかの単位に分断されていることが発見された(不連続遺伝子、[[イントロン]]の発見) * [[1979年]] [[フレデリック・サンガー]]によって[[ミトコンドリア]]ではことなる遺伝暗号が使用されていることが発見された([[非標準コドン]]の発見) * [[1981年]] [[トーマス・チェック]]によって自己[[スプライシング]]イントロンが発見された([[リボザイム]]の発見) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2019年6月|section=1}} * 『細胞の分子生物学』ニュートンプレス - 詳しく知りたい人向け。 * 『Lewin 遺伝子』東京化学同人 - 詳しく知りたい人向け。 == 関連項目 == {{Wiktionary|遺伝子}} * [[致死遺伝子]] * [[複対立遺伝子]] * [[補足遺伝子]] * [[抑制遺伝子]] * [[遺伝子組み換え作物]] * [[遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律]](カルタヘナ法) * [[遺伝子検査]] * [[遺伝子診断]] * [[遺伝子治療]] * [[遺伝子決定論]] * [[ヒトゲノム計画]] * [[ハプロタイプ]] * [[ナンセンス変異依存mRNA分解機構]] * その他は{{Prefix}}を参照。 * {{ill2|遺伝子記憶|en|Genetic memory (psychology)}} - 祖先が経験した内容、学習行動を子孫の遺伝子が記憶しているという説。 == 外部リンク == * [http://nsgene-lab.jp/gene_main/ 遺伝子の部屋(いでんこのへや)] - いでんこさんと博士の対話形式で進められる遺伝子についての分りやすい解説。NS遺伝子研究室内。 {{Normdaten}} {{biosci-stub}} {{DEFAULTSORT:いでんし}} [[Category:遺伝学|いでんし]] [[Category:分子生物学]] [[Category:遺伝子|いでんし]]
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オープンコンテント
オープンコンテント(英: open content)は、オープンソースから類推によって作られた文章・画像・音楽などの著作物を利用者が自由に利用・修正・再頒布することを許諾した作品(コンテンツ)の総称である。 利用・修正・再頒布が許諾された作品に類する概念・用語は複数存在しており、オープンコンテント・オープン作品・自由文化作品・フリーコンテントなどがある。 オープンコンテントは作品の改変するための元データと最終成果物のみを公開することで、創造の過程や更新の過程なども共有して作品の修正をより自由に行うことを手助けすることができる。オープンコンテントは著作権法の下に作品利用が許諾されており、その利用に際する制約は作品に適用されているオープンライセンスに依存する。オープンコンテントの概念はユーザー生成コンテント・メディア・ソフトウェア・エンジニアリング・研究・教育・立法など多数の分野で応用されていた。 オープンコンテントの概念は類似した思想・用語が複数存在しており、それぞれ異なる背景や理念を持っている。 オープンコンテント・プロジェクト(英語版)はオープンコンテント(英: Open Content)を、自由で恒久的な5R、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)の権限を利用者に提供するライセンスで頒布されるコンテンツと説明している。 オープンナレッジ・インターナショナル(英語版)はオープン作品(英: Open Works)を、オープンの定義(英語版)(英: Open Definition)においてオープンライセンスが課せられ、高々一回限りの利用許諾費用でインターネットを介してダウンロード可能で、修正可能なオープンフォーマットで頒布されるコンテンツと定義している。 エリック・メーラー(英語版)たちは自由文化作品(英: Free Cultural Works)およびフリーコンテント(英: Free Content)を、自由文化作品の定義(英: Definition of Free Cultural Works)において誰でも目的を問わず自由に学習・利用・修正が可能な作品と定義している。 オープンコンテントの概念と用語は、1998年、デイビット・ウィレイ(英語版)が設立したオープンコンテント・プロジェクト(英語版)がOpen Content Licence(英語版)を策定したものが根源となっている。この時、オープンコンテント・プロジェクトは、オープンコンテントをオープンソースやフリーソフトウェアのコミュニティが利用するものに類似するライセンスを適用した自由な利用・修正・再頒布が可能なコンテンツと定義していた。ただし、この時の定義はオープンコンテントを商用に用いてはならない制約を含んでおり、厳密にはOpen Content Licenceも適合するものではなかった。その後、オープンコンテントの公開性を5Rs、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)で述べた。また、オープンコンテントと著作権法の平行性についても言及し、著作権法に従って著作権保持者がライセンスで作品の利用を許諾することを述べた。オープンソースの定義や自由文化作品の定義と異なり、オープンコンテントとして名乗るために作品が承認されなければならない明確な基準は存在していない。それ以来、各団体やライセンスで汎用・洗練され、従来の著作権制約を伴わないより広い利用範囲を持つ作品の在り方が登場した。 2001年、ローレンス・レッシグは著作者が自らの著作物の再利用を許可するライセンスであるクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを策定するクリエイティブ・コモンズを設立した。2003年、デイビット・ウィレイはクリエイティブ・コモンズにDirector of Educational Licensesとして参加し、同団体でのオープンコンテントの促進活動を支援することを発表した。 2004年、ルーファス・ポロック(英語版)はイギリスのケンブリッジでオープンなコンテンツとデータを促進・共有する国際非営利団体となるオープンナレッジ財団(英語版)を設立した。2007年、オープンナレッジ財団はオープンナレッジ(英語版)を定義するオープンナレッジの定義(英語版)を発表した。2014年10月、オープンソースの定義・フリーソフトウェアの定義・自由文化作品の定義と同様に、オープンナレッジ財団はオープンの定義(英語版) バージョン2.0でオープン作品とオープンライセンスを定義した。その他の定義との明確な違いは、パブリックドメインを中心にしていることと、利便性(オープンアクセス)と可読性(オープンフォーマット)に焦点を当てていることである。 2005年10月、Yahoo!、インターネットアーカイブ、カリフォルニア大学、トロント大学などはデジタルスキャン文書のアーカイブの永久的な構築を目的としたOpen Content Allianceを設立した。2008年5月までマイクロソフトもLive Book Searchプロジェクトの一環としてOpen Content Allianceの活動に参加していた。デジタルスキャン文書のアーカイブの一部はインターネットアーカイブのオンラインコレクションとして保存されている。 2006年、エリック・メーラー(英語版)・リチャード・ストールマン・ローレンス・レッシグ・ベンジャミン・マコ・ヒル(英語版)たちはフリーコンテントを定義する自由文化作品の定義を発表した 。2008年、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを自由文化作品の定義に準拠した自由文化作品の公認ライセンスと承諾した。自由文化作品の定義はウィキペディアでも参照されている。 著作物の法的な基点として、コピーライト・パブリックドメイン・コピーレフトおよびライセンスがある。 コピーライトは、著作権法の下に著者や作者の作品の複製・掲載などの著作物の利用権利を制御する概念である。多くの司法圏においてコピーライトは有効期限を持ち、一定年数の経過によりその効力を失効して作品をパブリックドメインの元へと移行する。著作権法は知的作品・芸術作品の作者の権利とその作品を利用する他者の権利のバランスを取っている。コピーライトの有効期間内において、フェアユースを除いて、著作物は作者の許諾を得て利用・修正・再頒布を可能とする。古典的なコピーライトの概念は、第一に作品利用やフェアユースに際してロイヤルティーの支払い義務などにより著作物の利用を制限する。第二に作者の予期しない著作物の利用を抑制する 。第三にマッシュアップやコラボレーションのような派生作品の生産を制限し、作者同士の区分を認識させる。 パブリックドメインは、著作権を失効した人物や著作権が適用されることのないアイデアや事実からなる作品の状態である。パブリックドメイン作品は作者が自明に公有に置いたり、もはやその作品の利用・頒布をコピーライトにより制御することがない作品である。その様な作品は法的な制約に縛られず作品を利用・修正・再頒布することが出来る。パブリックドメイン作品やパーミッシブ・ライセンスが課せられた作品はコピーセンターとも呼ばれる。一般的に使用されているパブリックドメイン・シンボルはコピーライト・シンボル(英語版)に右上から左下へ斜線を引いたものである。 コピーレフトは、コピーライトの言葉遊びから誕生した、作品を利用・修正・再頒布する自由の権利を行使するために著作権法を使用する概念である。コピーレフトの目的は作者が制作したコンテンツを作者以外の利用者が利用・修正する自由をコピーライトの下に著作権法に従って様々なライセンスで規定する法的フレームワークを提供することである。パブリックドメイン作品と異なり、作者はコンテンツの著作権を保持したまま、作品利用に対して制約の少ないライセンスによりコンテンツの利用・修正を許可する。コピーレフト・ライセンスは源作品の著作権表示を維持したまま、派生作品に同一のライセンスを課すことを求める。一般的に使用されているコピーレフト・シンボルはコピーライト・シンボル(英語版)を左右反転したものであり、文字そのものには意味を持っていない。 ライセンスは、著作権法の下に作者が他者に対して作者の定めた制約に従う範囲でのコンテンツの利用を許諾する。コンテンツに課すライセンスにおいて、ライセンスの制約を緩めてパーミッシブ・ライセンスとすればオープンコンテントとして他者に作品の利用・修正を許可し、一方でライセンスの制約を締めてプロプライエタリ・ライセンスとすればコピーライトに従って作品の利用を制限する。パブリックドメイン相当の制約でコンテンツ利用を許諾するライセンスとしてはCC0やWTFPLがある。コピーレフト・ライセンスの例としてはGFDLやCC BY-SAがある。 オープンコンテントの概念は専門分野においてより特化・洗練した形を取り、各分野で作品・製作物・成果の利用・修正・再頒布および共有をしている。 ユーザーが生成したコンテンツを一つの形に取り纏めて、そのコンテンツをオープンライセンスで頒布するユーザー生成のオープンコンテントの在り方がある。ウィキペディアはウェブ上の利用者が生産するオープンコンテントの中で最もよく知られているデータベースの1つである。ウィキペディアの記事は、ウィキペディアの提示する利用許諾ライセンスを執筆文章に課すことを執筆者が同意しており、同ライセンスの下に記事を利用することができる。ウィキペディアのコンテンツの大部分はオープンコンテントであるが、一部の著作権のあるコンテンツはフェアユースの下で利用されている。 テキスト・音楽・画像・動画などのメディアコンテンツでは、クリエイティブ・コモンズなどが提供するライセンススキームに従って作品の頒布を許可している。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの全てが完全に自由な作品の利用を認めているわけではなく、ライセンス条項に依っては商用利用禁止・改変禁止などの制約を伴って頒布を許可するものも存在する。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは自由文化作品の定義に従ったライセンスであると承認されている。クリエイティブ・コモンズのデジタルライブラリでは写真・クリップアート・音楽・文学などのオープンコンテントを提供している。あるウェブサイトにあるオープンコンテントを別のウェブサイトで大量に再利用することも合法ではあるが、重複コンテンツ(英語版)問題を引き起こすため適切ではない。 ソフトウェアでは、パーミッシブ・ライセンスやコピーレフト・ライセンス課したソフトウェアのソースコードを公開することで利用・修正・再頒布が可能となっている。オープンソース・イニシアティブやフリーソフトウェア財団が標準化団体として存在し、オープンソースの定義やフリーソフトウェアの定義によりオープンコンテントのソフトウェアの在り方を示している。単純化した作品のコラボレーションと同様にモジュール化したソフトウェアのマッシュアップは複数の作者のコンテンツを一つのソフトウェアとして構築することを認めている。オープンソースの開発モデルは、科学研究などの古典的な学術分野に代表されるピア認識および共同利益のインセンティブを有すると分類されており、このインセンティブモデルから生じる社会構造はコンテンツの生産コストを低下させる。P2Pの開発モデルでソフトウェアの重要な観点が与えられることにより、開発者から知識蓄積の負担を取り除き、ソフトウェアの開発コストを削減する。開発者から利用者へソフトウェアを提供すると同時に利用者から開発者へソフトウェアリソース(アイデア・レポート・バグ)が提供されるなら、開発モデルは利用者の人数に依存せず実現可能なスケーラビリティを持つことも出来る。オープンコンテントのソフトウェアとソースコードのインターネットを介した頒布はホスティングサービスにより自由に利用できる環境が整っている。 オープンコンテントの概念はエンジニアリングにおける設計やノウハウの分野で製品開発に関わるコスト削減や知識共有のために使われている。オープンデザイン(英語版)の概念は移動体通信・小規模製造 ・自動車産業・農業などのプロジェクトで使われている。製造分野でのオープンデザイン手法は新規もしくは既存改変の機器のコンポーネントを設計・製造するCADやCAMに利用されている。Open Source Hardware Association(英語版)はオープンソースのハードウェアの概念としてオープンソースハードウェアを提唱し、ハードウェアの知識・規格・製造の自由な利用・修正・頒布を促進している。これらの開発基盤となる迅速な製造技術により、エンドユーザーは、オープンコンテントのソフトウェアやハードウェアを使用して、設計図から独自機器を製造することもできる。 学術分野において知識・研究結果・論文・書籍などのコンテントは自由利用は一般的ではないが、オープンコンテントの概念を伴ったコンテンツの利用・頒布を認めるオープンアクセスも広がりを見せている。オープンアクセスはオンラインの研究結果を著者の課したライセンスに従う範囲での自由な閲覧と利用を認めている。著者は研究結果の閲覧者を拡大するためや思想的な理由からオープンアクセス出版を利用する。PLOSやBioMed Centralなどのオープンアクセス出版社はオープンコンテントの論文の出版・閲覧をサポートしており、このような出版形態は人文科学より科学の分野でより使われるようになってきている。アメリカ国立衛生研究所・RUCK(英語版)・EUなど、様々な投資組織や政府研究機関が資金調達の資格を得るためには学術成果をオープンアクセスとするオープンアクセス・マンデート(英語版)とすることを定めている。マサチューセッツ工科大学など、機関レベルの大学は自身の理念の紹介でデフォルトでオープンアクセスとすることを述べている。いくつかの組織の理念では時間差で公開したり、研究者へ資金請求してオープンアクセスへ研究成果を提供している。オープンコンテントの出版は、従来大学が一般的に加入して支払っていた研究成果の情報を得るためのコストの削減の手法とみなされていたが、現在では質の良くない論文の提出を抑えることで業界全体の論文の質を高める手法であると考えられている。非オープンコンテントの論文を大学が入手するためには費用がかかるかもしれないが、そのような出版社が費用をかけることなく、論文は信頼しうる学者によって執筆・査読がなされている。この点において、Nature Publishing Group(英語版)とカリフォルニア大学のように、出版社と大学の間でサブスクリプション・コストについて論争が起きることがある。 高等教育のための代替ルートを提供する教育リソースを作成するためにオープンコンテントが利用されている。従来の大学は高価で学費・授業料は高騰しており、オープンコンテントの教育リソースは教育・学習コンテンツの共有と再利用に観点を置いた自由な高等教育を提供する一つの手法である。オープンコースウェア・セーラーアカデミー(英語版)・カーンアカデミーなど、多くのオープンコンテントを通した教育を促進するプロジェクト・組織がある。MIT・Yele・Tuftsなどの大学は、オープンコンテントの学術分野利用の手法として教科書・参考資料・レッスンビデオ・チュートリアルなどを自由に利用できるよう公開している。そのような手法は機関全体の方針として採用したり、研究者個人や部署・部門の非公式なコンテンツとして提供したりする。 どんな国・政府でも自身の法律と法システムを持っており、立法府が制定した成文法や判例に基づく不文法が法律文書として存在している。法の支配を受けた国家では、法律文書はオープンコンテントとして公開されているが、一般には明確なライセンスが課せられているわけではなく厳密には暗黙のライセンス(英語版)で公開されている。いくつかの僅かな国家はでは、イギリス政府におけるCC-BY 4.0とライセンスの互換性があるOpen Government Licence(英語版)など、法律文書は明確なオープンコンテントのライセンスが課せられている。他の多くの国家では、法律文書は政府を著作者として同国家の著作権法の下に適切に扱われる。ベルヌ条約による自動的な著作物の保護は法律文書には適用されず、第2.4条で公文書は著作物の保護から除外することが明文化されている。法律文章はライセンスを「継承」することも出来る。各国の法律文書類は、LexML Brasil(英語版)・Legislation.gov.uk(英語版)・EUR-Lexなど、各国のリポジトリを通じて利用可能である。一般に法律文書は一つ以上の正式版が存在するが、主に閲覧される文書は政府公報で公開されたものである。そのため、法律文書は最終的にはリポジトリまたはそれを含む政府公報が提示するライセンスを継承することが出来る。 オープンライセンス(英: Open License)は、オープンコンテントの著作物をコピーライトの下に、その作品の作者の定める制約に従って利用者に利用・修正・再頒布を許可するライセンスの総称である。 オープンライセンスには、作品の利用制約の緩いパーミッシブ・ライセンスや、利用者の自由を広げるコピーレフト・ライセンスなどがある。オープンナレッジ・インターナショナル(英語版)はオープンの定義(英語版)においてオープンライセンスの単語を定義し、オープンライセンスとして適したライセンスの一覧を管理している。エリック・メーラー(英語版)たちは自由文化作品の定義に準拠していると判断したライセンスのリストを管理している。 オープンライセンスはオープンソースライセンスと同様、ライセンスの互換性・ライセンスの氾濫・ライセンス感染の課題が存在し、ライセンスの策定および選択は注意深い検討が必要である。 オープンナレッジ・インターナショナルは数あるオープンライセンスの内で利用を推奨するライセンスを提示している。 オープンライセンスには特定分野に特化したライセンスが存在する。 ソフトウェア分野ではソフトウェアのソースコードやソフトウェアの挙動について制約として細かく言及したオープンソースライセンスがある。メディア分野ではGNU GPL同等の制約を芸術作品に適用することを目的としてCopyleft Attitudeの策定したFree Art Licenseがある。ゲーム分野ではテーブルトークRPGのシナリオについて言及したウィザーズ・オブ・ザ・コーストの策定したOpen Game License(英語版)がある。政府資料・法律文書では政府のウェブサイトで頒布されるコンテンツをCC-BY 4.0と互換性のあるオープンコンテントの利用を許諾するライセンス・利用規約として、イギリス政府の Open Government Licence(英語版)や日本政府の政府標準利用規約がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オープンコンテント(英: open content)は、オープンソースから類推によって作られた文章・画像・音楽などの著作物を利用者が自由に利用・修正・再頒布することを許諾した作品(コンテンツ)の総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "利用・修正・再頒布が許諾された作品に類する概念・用語は複数存在しており、オープンコンテント・オープン作品・自由文化作品・フリーコンテントなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オープンコンテントは作品の改変するための元データと最終成果物のみを公開することで、創造の過程や更新の過程なども共有して作品の修正をより自由に行うことを手助けすることができる。オープンコンテントは著作権法の下に作品利用が許諾されており、その利用に際する制約は作品に適用されているオープンライセンスに依存する。オープンコンテントの概念はユーザー生成コンテント・メディア・ソフトウェア・エンジニアリング・研究・教育・立法など多数の分野で応用されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オープンコンテントの概念は類似した思想・用語が複数存在しており、それぞれ異なる背景や理念を持っている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "オープンコンテント・プロジェクト(英語版)はオープンコンテント(英: Open Content)を、自由で恒久的な5R、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)の権限を利用者に提供するライセンスで頒布されるコンテンツと説明している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オープンナレッジ・インターナショナル(英語版)はオープン作品(英: Open Works)を、オープンの定義(英語版)(英: Open Definition)においてオープンライセンスが課せられ、高々一回限りの利用許諾費用でインターネットを介してダウンロード可能で、修正可能なオープンフォーマットで頒布されるコンテンツと定義している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "エリック・メーラー(英語版)たちは自由文化作品(英: Free Cultural Works)およびフリーコンテント(英: Free Content)を、自由文化作品の定義(英: Definition of Free Cultural Works)において誰でも目的を問わず自由に学習・利用・修正が可能な作品と定義している。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オープンコンテントの概念と用語は、1998年、デイビット・ウィレイ(英語版)が設立したオープンコンテント・プロジェクト(英語版)がOpen Content Licence(英語版)を策定したものが根源となっている。この時、オープンコンテント・プロジェクトは、オープンコンテントをオープンソースやフリーソフトウェアのコミュニティが利用するものに類似するライセンスを適用した自由な利用・修正・再頒布が可能なコンテンツと定義していた。ただし、この時の定義はオープンコンテントを商用に用いてはならない制約を含んでおり、厳密にはOpen Content Licenceも適合するものではなかった。その後、オープンコンテントの公開性を5Rs、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)で述べた。また、オープンコンテントと著作権法の平行性についても言及し、著作権法に従って著作権保持者がライセンスで作品の利用を許諾することを述べた。オープンソースの定義や自由文化作品の定義と異なり、オープンコンテントとして名乗るために作品が承認されなければならない明確な基準は存在していない。それ以来、各団体やライセンスで汎用・洗練され、従来の著作権制約を伴わないより広い利用範囲を持つ作品の在り方が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2001年、ローレンス・レッシグは著作者が自らの著作物の再利用を許可するライセンスであるクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを策定するクリエイティブ・コモンズを設立した。2003年、デイビット・ウィレイはクリエイティブ・コモンズにDirector of Educational Licensesとして参加し、同団体でのオープンコンテントの促進活動を支援することを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2004年、ルーファス・ポロック(英語版)はイギリスのケンブリッジでオープンなコンテンツとデータを促進・共有する国際非営利団体となるオープンナレッジ財団(英語版)を設立した。2007年、オープンナレッジ財団はオープンナレッジ(英語版)を定義するオープンナレッジの定義(英語版)を発表した。2014年10月、オープンソースの定義・フリーソフトウェアの定義・自由文化作品の定義と同様に、オープンナレッジ財団はオープンの定義(英語版) バージョン2.0でオープン作品とオープンライセンスを定義した。その他の定義との明確な違いは、パブリックドメインを中心にしていることと、利便性(オープンアクセス)と可読性(オープンフォーマット)に焦点を当てていることである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2005年10月、Yahoo!、インターネットアーカイブ、カリフォルニア大学、トロント大学などはデジタルスキャン文書のアーカイブの永久的な構築を目的としたOpen Content Allianceを設立した。2008年5月までマイクロソフトもLive Book Searchプロジェクトの一環としてOpen Content Allianceの活動に参加していた。デジタルスキャン文書のアーカイブの一部はインターネットアーカイブのオンラインコレクションとして保存されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2006年、エリック・メーラー(英語版)・リチャード・ストールマン・ローレンス・レッシグ・ベンジャミン・マコ・ヒル(英語版)たちはフリーコンテントを定義する自由文化作品の定義を発表した 。2008年、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを自由文化作品の定義に準拠した自由文化作品の公認ライセンスと承諾した。自由文化作品の定義はウィキペディアでも参照されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "著作物の法的な基点として、コピーライト・パブリックドメイン・コピーレフトおよびライセンスがある。", "title": "法的基点" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コピーライトは、著作権法の下に著者や作者の作品の複製・掲載などの著作物の利用権利を制御する概念である。多くの司法圏においてコピーライトは有効期限を持ち、一定年数の経過によりその効力を失効して作品をパブリックドメインの元へと移行する。著作権法は知的作品・芸術作品の作者の権利とその作品を利用する他者の権利のバランスを取っている。コピーライトの有効期間内において、フェアユースを除いて、著作物は作者の許諾を得て利用・修正・再頒布を可能とする。古典的なコピーライトの概念は、第一に作品利用やフェアユースに際してロイヤルティーの支払い義務などにより著作物の利用を制限する。第二に作者の予期しない著作物の利用を抑制する 。第三にマッシュアップやコラボレーションのような派生作品の生産を制限し、作者同士の区分を認識させる。", "title": "法的基点" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "パブリックドメインは、著作権を失効した人物や著作権が適用されることのないアイデアや事実からなる作品の状態である。パブリックドメイン作品は作者が自明に公有に置いたり、もはやその作品の利用・頒布をコピーライトにより制御することがない作品である。その様な作品は法的な制約に縛られず作品を利用・修正・再頒布することが出来る。パブリックドメイン作品やパーミッシブ・ライセンスが課せられた作品はコピーセンターとも呼ばれる。一般的に使用されているパブリックドメイン・シンボルはコピーライト・シンボル(英語版)に右上から左下へ斜線を引いたものである。", "title": "法的基点" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コピーレフトは、コピーライトの言葉遊びから誕生した、作品を利用・修正・再頒布する自由の権利を行使するために著作権法を使用する概念である。コピーレフトの目的は作者が制作したコンテンツを作者以外の利用者が利用・修正する自由をコピーライトの下に著作権法に従って様々なライセンスで規定する法的フレームワークを提供することである。パブリックドメイン作品と異なり、作者はコンテンツの著作権を保持したまま、作品利用に対して制約の少ないライセンスによりコンテンツの利用・修正を許可する。コピーレフト・ライセンスは源作品の著作権表示を維持したまま、派生作品に同一のライセンスを課すことを求める。一般的に使用されているコピーレフト・シンボルはコピーライト・シンボル(英語版)を左右反転したものであり、文字そのものには意味を持っていない。", "title": "法的基点" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": 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Group(英語版)とカリフォルニア大学のように、出版社と大学の間でサブスクリプション・コストについて論争が起きることがある。", "title": "各分野の利用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "高等教育のための代替ルートを提供する教育リソースを作成するためにオープンコンテントが利用されている。従来の大学は高価で学費・授業料は高騰しており、オープンコンテントの教育リソースは教育・学習コンテンツの共有と再利用に観点を置いた自由な高等教育を提供する一つの手法である。オープンコースウェア・セーラーアカデミー(英語版)・カーンアカデミーなど、多くのオープンコンテントを通した教育を促進するプロジェクト・組織がある。MIT・Yele・Tuftsなどの大学は、オープンコンテントの学術分野利用の手法として教科書・参考資料・レッスンビデオ・チュートリアルなどを自由に利用できるよう公開している。そのような手法は機関全体の方針として採用したり、研究者個人や部署・部門の非公式なコンテンツとして提供したりする。", "title": "各分野の利用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "どんな国・政府でも自身の法律と法システムを持っており、立法府が制定した成文法や判例に基づく不文法が法律文書として存在している。法の支配を受けた国家では、法律文書はオープンコンテントとして公開されているが、一般には明確なライセンスが課せられているわけではなく厳密には暗黙のライセンス(英語版)で公開されている。いくつかの僅かな国家はでは、イギリス政府におけるCC-BY 4.0とライセンスの互換性があるOpen Government Licence(英語版)など、法律文書は明確なオープンコンテントのライセンスが課せられている。他の多くの国家では、法律文書は政府を著作者として同国家の著作権法の下に適切に扱われる。ベルヌ条約による自動的な著作物の保護は法律文書には適用されず、第2.4条で公文書は著作物の保護から除外することが明文化されている。法律文章はライセンスを「継承」することも出来る。各国の法律文書類は、LexML Brasil(英語版)・Legislation.gov.uk(英語版)・EUR-Lexなど、各国のリポジトリを通じて利用可能である。一般に法律文書は一つ以上の正式版が存在するが、主に閲覧される文書は政府公報で公開されたものである。そのため、法律文書は最終的にはリポジトリまたはそれを含む政府公報が提示するライセンスを継承することが出来る。", "title": "各分野の利用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "オープンライセンス(英: Open License)は、オープンコンテントの著作物をコピーライトの下に、その作品の作者の定める制約に従って利用者に利用・修正・再頒布を許可するライセンスの総称である。", "title": "オープンライセンス" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "オープンライセンスには、作品の利用制約の緩いパーミッシブ・ライセンスや、利用者の自由を広げるコピーレフト・ライセンスなどがある。オープンナレッジ・インターナショナル(英語版)はオープンの定義(英語版)においてオープンライセンスの単語を定義し、オープンライセンスとして適したライセンスの一覧を管理している。エリック・メーラー(英語版)たちは自由文化作品の定義に準拠していると判断したライセンスのリストを管理している。", "title": "オープンライセンス" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オープンライセンスはオープンソースライセンスと同様、ライセンスの互換性・ライセンスの氾濫・ライセンス感染の課題が存在し、ライセンスの策定および選択は注意深い検討が必要である。", "title": "オープンライセンス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "オープンナレッジ・インターナショナルは数あるオープンライセンスの内で利用を推奨するライセンスを提示している。", "title": "オープンライセンス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "オープンライセンスには特定分野に特化したライセンスが存在する。", "title": "オープンライセンス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ソフトウェア分野ではソフトウェアのソースコードやソフトウェアの挙動について制約として細かく言及したオープンソースライセンスがある。メディア分野ではGNU GPL同等の制約を芸術作品に適用することを目的としてCopyleft Attitudeの策定したFree Art Licenseがある。ゲーム分野ではテーブルトークRPGのシナリオについて言及したウィザーズ・オブ・ザ・コーストの策定したOpen Game License(英語版)がある。政府資料・法律文書では政府のウェブサイトで頒布されるコンテンツをCC-BY 4.0と互換性のあるオープンコンテントの利用を許諾するライセンス・利用規約として、イギリス政府の Open Government Licence(英語版)や日本政府の政府標準利用規約がある。", "title": "オープンライセンス" } ]
オープンコンテントは、オープンソースから類推によって作られた文章・画像・音楽などの著作物を利用者が自由に利用・修正・再頒布することを許諾した作品(コンテンツ)の総称である。 利用・修正・再頒布が許諾された作品に類する概念・用語は複数存在しており、オープンコンテント・オープン作品・自由文化作品・フリーコンテントなどがある。 オープンコンテントは作品の改変するための元データと最終成果物のみを公開することで、創造の過程や更新の過程なども共有して作品の修正をより自由に行うことを手助けすることができる。オープンコンテントは著作権法の下に作品利用が許諾されており、その利用に際する制約は作品に適用されているオープンライセンスに依存する。オープンコンテントの概念はユーザー生成コンテント・メディア・ソフトウェア・エンジニアリング・研究・教育・立法など多数の分野で応用されていた。
[[File:Discussing Creative Commons licensing in Khmer.jpg|thumb|[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]] 左手にコモンズ証 右手にリーガル・コード]] [[File:OpenCola soft drink recipe.pdf|thumb|オープンコンテントである[[オープンコーラ (飲料)|オープンコーラ]]のレシピ]] '''オープンコンテント'''({{lang-en-short|''open content''}})は、[[オープンソース]]から類推によって作られた[[文章]]・[[画像]]・[[音楽]]などの[[著作物]]を利用者が自由に利用・修正・再頒布することを許諾した作品([[コンテンツ]])の総称である<ref name="grossman">{{Cite news | last = Grossman| first = Lev| title = New Free License to Cover Content Online| work = Netly News|accessdate = 2010-01-12| date = 18 July 1998| url = http://www.time.com/time/digital/daily/0,2822,621,00.html |archiveurl = https://web.archive.org/web/20000619122406/http://www.time.com/time/digital/daily/0,2822,621,00.html |archivedate = 19 June 2000}}</ref>。 利用・修正・再頒布が許諾された作品に類する概念・用語は複数存在しており、オープンコンテント・オープン作品・自由文化作品・フリーコンテントなどがある。 オープンコンテントは作品の改変するための元データと最終成果物のみを公開することで、創造の過程や更新の過程なども共有して作品の修正をより自由に行うことを手助けすることができる。オープンコンテントは著作権法の下に作品利用が許諾されており、その利用に際する制約は作品に適用されているオープンライセンスに依存する。オープンコンテントの概念はユーザー生成コンテント・メディア・ソフトウェア・エンジニアリング・研究・教育・立法など多数の分野で応用されていた。 == 定義 == オープンコンテントの概念は類似した思想・用語が複数存在しており、それぞれ異なる背景や理念を持っている。 {{仮リンク|オープンコンテント・プロジェクト|en|Open Content Project}}はオープンコンテント({{lang-en-short|Open Content}})を、自由で恒久的な5R、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)の権限を利用者に提供するライセンスで頒布されるコンテンツと説明している<ref name="OpenContentDefinition" />。 {{仮リンク|オープンナレッジ・インターナショナル|en|Open Knowledge International}}はオープン作品({{lang-en-short|Open Works}})を、{{仮リンク|オープンの定義|en|The Open Definition}}({{lang-en-short|Open Definition}})において{{仮リンク|オープンライセンス|en|Open Licence}}が課せられ、高々一回限りの利用許諾費用でインターネットを介してダウンロード可能で、修正可能な[[オープンフォーマット]]で頒布されるコンテンツと定義している<ref name="TOD">{{cite web|url=http://opendefinition.org|title=The Open Definition Defining Open in Open Data, Open Content and Open Knowledge|publisher=Open Knowledge International|accessdate=22 January 2017}}</ref>。 {{仮リンク|エリック・メーラー|en|Erik Möller}}たちは自由文化作品({{lang-en-short|Free Cultural Works}})および[[フリーコンテント]]({{lang-en-short|Free Content}})を、[[自由文化作品の定義]]({{lang-en-short|Definition of Free Cultural Works}})において誰でも目的を問わず自由に学習・利用・修正が可能な作品と定義している<ref>{{cite web|url=https://freedomdefined.org/Definition|title=Definition of Free Cultural Works|publisher=freedomdefined.org|accessdate=2018-03-30}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Open content norm.svg|thumb|{{仮リンク|Open Content Project|en|Open Content Project}}のロゴ (1998)]] オープンコンテントの概念と用語は、1998年、{{仮リンク|デイビット・ウィレイ|en|David A. Wiley}}が設立した{{仮リンク|オープンコンテント・プロジェクト|en|Open Content Project}}が{{仮リンク|Open Content Licence|en|Open Content Licence}}を策定したものが根源となっている<ref name="grossman">{{Cite news | last = Grossman| first = Lev| title = New Free License to Cover Content Online| work = Netly News|accessdate = 2010-01-12| date = 18 July 1998| url = http://www.time.com/time/digital/daily/0,2822,621,00.html |archiveurl = https://web.archive.org/web/20000619122406/http://www.time.com/time/digital/daily/0,2822,621,00.html |archivedate = 19 June 2000}}</ref>。この時、オープンコンテント・プロジェクトは、オープンコンテントをオープンソースやフリーソフトウェアのコミュニティが利用するものに類似するライセンスを適用した自由な利用・修正・再頒布が可能なコンテンツと定義していた<ref name="OpenContent19990128">{{cite web| last = Wiley| first = David| title = Open Content| work = OpenContent.org| accessdate = 2012-04-17| year = 1998| url = http://www.opencontent.org/home.shtml| archiveurl = https://web.archive.org/web/19990128224600/http://www.opencontent.org/home.shtml| archivedate = 28 January 1999}}</ref>。ただし、この時の定義はオープンコンテントを商用に用いてはならない制約を含んでおり、厳密にはOpen Content Licenceも適合するものではなかった。その後、オープンコンテントの公開性を5Rs、Retain(保持)・Reuse(再利用)・Revise(改変)・Remix(編集)・Redistribute(再頒布)で述べた<ref name="OpenContentDefinition">{{cite web | last = Wiley| first = David| title = Open Content| work = OpenContent.org| accessdate = 2011-11-18| url = http://opencontent.org/definition/}}</ref>。また、オープンコンテントと[[著作権法]]の平行性についても言及し、著作権法に従って著作権保持者がライセンスで作品の利用を許諾することを述べた<ref>{{cite web|url=http://www.apdip.net/publications/fosseprimers/foss-opencontent-nocover.pdf |title=Lawrence Liang, "Free/Open Source Software Open Content", '&#39;Asia-Pacific Development Information Programme: e-Primers on Free/Open Source Software'&#39;, United Nations Development Programme – Asia-Pacific Development Information Programme, 2007. |format=PDF |accessdate=2012-06-23}}</ref>。[[オープンソースの定義]]や[[自由文化作品の定義]]と異なり、オープンコンテントとして名乗るために作品が承認されなければならない明確な基準は存在していない。それ以来、各団体やライセンスで汎用・洗練され、従来の[[著作権]]制約を伴わないより広い利用範囲を持つ作品の在り方が登場した。 2001年、[[ローレンス・レッシグ]]は著作者が自らの著作物の再利用を許可するライセンスである[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]を策定する[[クリエイティブ・コモンズ]]を設立した<ref>{{cite web|url=https://creativecommons.org/faq/ |title=Frequently Asked Questions |publisher=Creative Commons |date = 4 August 2016 |accessdate=20 December 2011}}</ref>。2003年、デイビット・ウィレイはクリエイティブ・コモンズにDirector of Educational Licensesとして参加し、同団体でのオープンコンテントの促進活動を支援することを発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20030802222546/http://opencontent.org/ OpenContent is officially closed. And that's just fine.] on opencontent.org (30 June 2003, archived)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20030806102812/http://creativecommons.org/press-releases/entry/3733 Creative Commons Welcomes David Wiley as Educational Use License Project Lead] by matt (23 June 2003)</ref>。 2004年、{{仮リンク|ルーファス・ポロック|en|Rufus Pollock}}は[[イギリス]]の[[ケンブリッジ]]でオープンなコンテンツとデータを促進・共有する国際非営利団体となる{{仮リンク|オープンナレッジ・インターナショナル|en|Open Knowledge International|label=オープンナレッジ財団}}を設立した<ref>{{cite web |url = http://www.timdavies.org.uk/2014/04/12/data-information-knowledge-and-power-exploring-open-knowledges-new-core-purpose/|title = Data, information, knowledge and power – exploring Open Knowledge's new core purpose |first = Tim|last = Davies|date = 12 April 2014|work = Tim's Blog|accessdate = 25 October 2015}}</ref><ref>{{Cite web|title = Open Knowledge: About|url = https://okfn.org/about/|website = okfn.org|accessdate = 25 October 2015}}</ref>。2007年、オープンナレッジ財団は{{仮リンク|オープンナレッジ|en|Open Knowledge}}を定義する{{仮リンク|オープンナレッジ|en|Open Knowledge|label=オープンナレッジの定義}}を発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20070818100846/http://www.opendefinition.org/1.0 version 1.0] on opendefinition.org (archived 2007)</ref>。2014年10月、[[オープンソースの定義]]・[[フリーソフトウェアの定義]]・[[自由文化作品の定義]]と同様に、オープンナレッジ財団は{{仮リンク|オープンの定義|en|The Open Definition}} バージョン2.0でオープン作品とオープンライセンスを定義した<ref>[http://opendefinition.org/od/2.1/en/ Open Definition 2.1] on opendefinition.org</ref>。その他の定義との明確な違いは、[[パブリックドメイン]]を中心にしていることと、[[利便性]]([[オープンアクセス]])と[[可読性]]([[オープンフォーマット]])に焦点を当てていることである。 2005年10月、[[Yahoo!]]、[[インターネットアーカイブ]]、[[カリフォルニア大学]]、[[トロント大学]]などはデジタルスキャン文書のアーカイブの永久的な構築を目的とした[[Open Content Alliance]]を設立した<ref>http://www.nytimes.com/2005/10/03/business/03yahoo.html?_r=1&scp=2&sq=open%20content%20alliance&st=cse&oref=slogin, by Katie Hafner, ''[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]'', October 3, 2005</ref>。2008年5月まで[[マイクロソフト]]もLive Book Searchプロジェクトの一環としてOpen Content Allianceの活動に参加していた<ref>http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9802E0DF113FF935A15753C1A9639C8B63</ref><ref name=msdown>[http://blogs.msdn.com/livesearch/archive/2008/05/23/book-search-winding-down.aspx "Book search winding down"], Live Search Blog. Official announcement from Microsoft. Last accessed May 23, 2008.</ref>。デジタルスキャン文書のアーカイブの一部は[[インターネットアーカイブ]]のオンラインコレクションとして保存されている。 2006年、{{仮リンク|エリック・メーラー|en|Erik Möller}}・[[リチャード・ストールマン]]・[[ローレンス・レッシグ]]・{{仮リンク|ベンジャミン・マコ・ヒル|en|Benjamin Mako Hill}}たちは[[フリーコンテント]]を定義する[[自由文化作品の定義]]を発表した<ref>{{cite web|url=http://freedomdefined.org/index.php?title=Definition&action=history |title=Revision history of "Definition" – Definition of Free Cultural Works |publisher=Freedomdefined.org |date= |accessdate=2012-11-14}}</ref> 。2008年、[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]を自由文化作品の定義に準拠した自由文化作品の公認ライセンスと承諾した<ref>{{cite web|url=https://creativecommons.org/weblog/entry/8051 |title=Approved for Free Cultural Works |publisher=Creative Commons |date=24 July 2009 |accessdate=2012-11-14}}</ref>。自由文化作品の定義は[[ウィキペディア]]でも参照されている<ref>{{cite web|url=https://wikimediafoundation.org/wiki/Resolution:Licensing_policy |title=Resolution:Licensing policy |publisher=Wikimedia Foundation |date= |accessdate=2012-11-14}}</ref>。 == 法的基点 == 著作物の法的な基点として、[[コピーライト]]・[[パブリックドメイン]]・[[コピーレフト]]および[[ライセンス]]がある。 [[File:Copyright.svg|thumb|upright=0.25|コピーライト]] [[コピーライト]]は、[[著作権法]]の下に著者や作者の作品の複製・掲載などの[[著作物]]の利用権利を制御する概念である。多くの司法圏においてコピーライトは有効期限を持ち、一定年数の経過によりその効力を失効して作品をパブリックドメインの元へと移行する。著作権法は知的作品・芸術作品の作者の権利とその作品を利用する他者の権利のバランスを取っている。コピーライトの有効期間内において、[[フェアユース]]を除いて、著作物は作者の許諾を得て利用・修正・再頒布を可能とする。古典的なコピーライトの概念は、第一に作品利用やフェアユースに際して[[ロイヤルティー]]の支払い義務などにより著作物の利用を制限する。第二に作者の予期しない著作物の利用を抑制する<ref>{{cite web|url=http://www.copyright.gov/orphan/ |title=The Importance of Orphan Works Legislation|accessdate=2018-03-30}}</ref> 。第三に[[マッシュアップ]]や[[コラボレーション]]のような派生作品の生産を制限し、作者同士の区分を認識させる<ref>{{cite journal|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0144818801000710|title=Fair use and copyright protection: a price theory explanation |journal=International Review of Law and Economics|author=Ben Depoorter|author2= Francesco Parisi|doi=10.1016/S0144-8188(01)00071-0 |year=2002 |volume=21|issue=4|page=453}}</ref>。 [[File:PD-icon.svg|thumb|upright=0.25|パブリックドメイン]] [[パブリックドメイン]]は、著作権を失効した人物や著作権が適用されることのないアイデアや事実からなる作品の状態である。パブリックドメイン作品は作者が自明に公有に置いたり、もはやその作品の利用・頒布をコピーライトにより制御することがない作品である。その様な作品は法的な制約に縛られず作品を利用・修正・再頒布することが出来る。パブリックドメイン作品や[[パーミッシブ・ライセンス]]が課せられた作品はコピーセンターとも呼ばれる<ref>{{cite web |url=http://www.catb.org/jargon/html/C/copycenter.html |title=Copycenter |last=Raymond |first=Eric S. |authorlink=エリック・レイモンド |publisher=The Jargon File |accessdate=August 9, 2008 }}</ref>。一般的に使用されているパブリックドメイン・シンボルは{{仮リンク|コピーライト・シンボル|en|Copyright symbol}}に右上から左下へ斜線を引いたものである。 [[File:Copyleft.svg|thumb|upright=0.25|コピーレフト]] [[コピーレフト]]は、コピーライトの言葉遊びから誕生した、作品を利用・修正・再頒布する自由の権利を行使するために著作権法を使用する概念である<ref name="gnu-copyleft">{{citeweb|author=Free Software Foundation|url=https://www.gnu.org/copyleft/copyleft.html|title=What is Copyleft?|date=2018-01-01|accessdate=2018-02-09}}</ref><ref name="Dusollier">{{cite journal|title=Open source and copyleft. Authorship reconsidered?|author=Dusollier, S|series=Columbia journal of Law and the Arts|year=2003|volume=26|issue=296}}</ref>。コピーレフトの目的は作者が制作したコンテンツを作者以外の利用者が利用・修正する自由をコピーライトの下に著作権法に従って様々なライセンスで規定する法的フレームワークを提供することである。パブリックドメイン作品と異なり、作者はコンテンツの著作権を保持したまま、作品利用に対して制約の少ないライセンスによりコンテンツの利用・修正を許可する。コピーレフト・ライセンスは源作品の著作権表示を維持したまま、派生作品に同一のライセンスを課すことを求める。一般的に使用されているコピーレフト・シンボルは{{仮リンク|コピーライト・シンボル|en|Copyright symbol}}を左右反転したものであり、文字そのものには意味を持っていない。 [[ライセンス]]は、著作権法の下に作者が他者に対して作者の定めた制約に従う範囲でのコンテンツの利用を許諾する<ref>Intellectual Property Licensing: Forms and Analysis, by Richard Raysman, Edward A. Pisacreta and Kenneth A. Adler. Law Journal Press, 1999-2008. {{ISBN2|978-1-58852-086-9}}</ref>。コンテンツに課すライセンスにおいて、ライセンスの制約を緩めて[[パーミッシブ・ライセンス]]とすればオープンコンテントとして他者に作品の利用・修正を許可し、一方でライセンスの制約を締めて[[プロプライエタリ]]・ライセンスとすればコピーライトに従って作品の利用を制限する。パブリックドメイン相当の制約でコンテンツ利用を許諾するライセンスとしては[[CC0]]や[[WTFPL]]がある。コピーレフト・ライセンスの例としては[[GNU Free Documentation License|GFDL]]や[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC BY-SA]]がある。 == 各分野の利用 == オープンコンテントの概念は専門分野においてより特化・洗練した形を取り、各分野で作品・製作物・成果の利用・修正・再頒布および共有をしている。 === ユーザー生成コンテンツ === {{main|ユーザー生成コンテンツ}} [[File:Wikipedia-logo-v2.svg|thumb|right|upright=0.25|[[ウィキペディア]]]] ユーザーが生成したコンテンツを一つの形に取り纏めて、そのコンテンツをオープンライセンスで頒布するユーザー生成のオープンコンテントの在り方がある。[[ウィキペディア]]はウェブ上の利用者が生産するオープンコンテントの中で最もよく知られているデータベースの1つである。ウィキペディアの記事は、ウィキペディアの提示する利用許諾ライセンスを執筆文章に課すことを執筆者が同意しており、同ライセンスの下に記事を利用することができる。ウィキペディアのコンテンツの大部分はオープンコンテントであるが、一部の著作権のあるコンテンツは[[フェアユース]]の下で利用されている。 === メディア === [[File:Cc.logo.circle.svg|thumb|upright=0.25|[[クリエイティブ・コモンズ]]]] テキスト・音楽・画像・動画などのメディアコンテンツでは、[[クリエイティブ・コモンズ]]などが提供するライセンススキームに従って作品の頒布を許可している。[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス]]の全てが完全に自由な作品の利用を認めているわけではなく、ライセンス条項に依っては商用利用禁止・改変禁止などの制約を伴って頒布を許可するものも存在する。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは[[自由文化作品の定義]]に従ったライセンスであると承認されている。クリエイティブ・コモンズのデジタルライブラリでは写真・クリップアート・音楽・文学などのオープンコンテントを提供している。あるウェブサイトにあるオープンコンテントを別のウェブサイトで大量に再利用することも合法ではあるが、{{仮リンク|重複コンテンツ|en|duplicate content}}問題を引き起こすため適切ではない。 === ソフトウェア === {{main|オープンソースソフトウェア}} [[File:Osi standard logo.png|thumb|right|upright=0.25|[[Open Source Initiative|OSI]]]] [[File:FSF-Logo_part.svg|thumb|right|upright=0.25|[[フリーソフトウェア財団|FSF]]]] ソフトウェアでは、[[パーミッシブ・ライセンス]]や[[コピーレフト]]・ライセンス課したソフトウェアのソースコードを公開することで利用・修正・再頒布が可能となっている。[[オープンソース・イニシアティブ]]や[[フリーソフトウェア財団]]が標準化団体として存在し<ref name="dod-what-is-oss">{{citeweb|author=United States Department of Defense|date=2009-10-16|url=http://dodcio.defense.gov/Open-Source-Software-FAQ/#Q:_What_is_open_source_software_.28OSS.29.3F|title=Defining Open Source Software (OSS)|quote=Careful legal review is required to determine if a given license is really an open source software license. The following organizations examine licenses; licenses should pass at least the first two industry review processes, and preferably all of them|accessdate=2018-02-09}}</ref>、[[オープンソースの定義]]や[[フリーソフトウェアの定義]]によりオープンコンテントのソフトウェアの在り方を示している<ref>{{citeweb|author=annr|date=2017-05-16|url=https://kb.iu.edu/d/annr|title=What is open source, and what is the Open Source Initiative?|accessdate=2018-02-09}}</ref><ref>{{citeweb|author=GNU Project|authorlink=GNUプロジェクト|date=2018-01-01|url=https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.html|title=What is free software?|accessdate=2018-02-09}}</ref>。単純化した作品のコラボレーションと同様にモジュール化したソフトウェアのマッシュアップは複数の作者のコンテンツを一つのソフトウェアとして構築することを認めている。オープンソースの開発モデルは、科学研究などの古典的な学術分野に代表されるピア認識および共同利益の[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]]を有すると分類されており、このインセンティブモデルから生じる社会構造はコンテンツの生産コストを低下させる。[[P2P]]の開発モデルでソフトウェアの重要な観点が与えられることにより、開発者から知識蓄積の負担を取り除き、ソフトウェアの開発コストを削減する<ref>{{cite journal |url=http://hal.inria.fr/docs/00/28/33/44/PDF/RR-6519.pdf |title=The Practice of Free and Open Source Software Processes |accessdate=March 22, 2009 |volume=N° 6519 |issue=April 2008 |date=May 29, 2008 |version=inria-00274193, version 2 |author1=Pawlak, Michel |author2=Bryce, Ciarán |author3=Laurière, Stéphane |journal=Rapport de recherche |publisher=[[Institut national de recherche en informatique et en automatique]] (INRIA) |issn=0249-6399 |format=PDF}}</ref>。開発者から利用者へソフトウェアを提供すると同時に利用者から開発者へソフトウェアリソース(アイデア・レポート・バグ)が提供されるなら、開発モデルは利用者の人数に依存せず実現可能な[[スケーラビリティ]]を持つことも出来る。オープンコンテントのソフトウェアとソースコードのインターネットを介した頒布は[[OSSホスティングサービスの比較|ホスティングサービス]]により自由に利用できる環境が整っている。 === エンジニアリング === [[File:Open-source-hardware-logo.svg|thumb|upright=0.25|[[オープンソースハードウェア]]]] オープンコンテントの概念はエンジニアリングにおける設計やノウハウの分野で製品開発に関わるコスト削減や知識共有のために使われている。{{仮リンク|オープンデザイン|en|Open design}}の概念は[[移動体通信]]・小規模製造<ref>{{cite web |url=http://www.thestandard.com/news/2008/03/04/reprap-open-source-3d-printer-masses |title=RepRap: An open-source 3D printer for the masses |accessdate=March 22, 2009 |last=Hendry |first=Andrew |date=March 4, 2008 |work=[[Computerworld]] Australia |publisher=[[The Industry Standard]]}}</ref> ・自動車産業<ref>{{cite web |url=http://www.heise.de/tr/Das-offenste-aller-Autos--/artikel/68663/ |title=The most open of all cars |accessdate=March 22, 2009 |last=Honsig |first= Markus |date=January 25, 2006 |work=[[Technology Review]] |publisher=[[Heinz Heise]] |language=German}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.smh.com.au/drive/australian-drive-for-green-commuter-cars-20100613-y64q.html|title=Australian drive for green commuter cars|date=14 June 2010|work=The Sydney Morning Herald |location=Sydney |accessdate=5 June 2015}}</ref>・農業<ref>{{cite web |url=http://www.isb.vt.edu/news/2005/artspdf/dec0501.pdf |title=Open-source Agriculture |accessdate=March 22, 2009 |last=Stewart Jr. |first=C. Neal |date=December 2005 |work= ISB News Report |publisher=Information Systems for Biotechnology (ISB) |format=PDF}}</ref>などのプロジェクトで使われている。製造分野でのオープンデザイン手法は新規もしくは既存改変の機器のコンポーネントを設計・製造する[[CAD]]や[[CAM]]に利用されている。{{仮リンク|Open Source Hardware Association|en|Open Source Hardware Association}}はオープンソースの[[ハードウェア]]の概念として[[オープンソースハードウェア]]を提唱し、ハードウェアの知識・規格・製造の自由な利用・修正・頒布を促進している。これらの開発基盤となる迅速な製造技術により、エンドユーザーは、オープンコンテントのソフトウェアやハードウェアを使用して、設計図から独自機器を製造することもできる。 === 研究 === {{main|オープンアクセス}} [[File:Open Access logo PLoS white.svg|thumb|upright=0.25|[[オープンアクセス]]]] 学術分野において知識・研究結果・論文・書籍などのコンテントは自由利用は一般的ではないが、オープンコンテントの概念を伴ったコンテンツの利用・頒布を認める[[オープンアクセス]]も広がりを見せている<ref name="earlham.edu">Suber, Peter. [http://www.earlham.edu/~peters/fos/overview.htm "Open Access Overview"]. Earlham.edu. Retrieved on 2011-12-03.</ref>。オープンアクセスはオンラインの研究結果を著者の課したライセンスに従う範囲での自由な閲覧と利用を認めている。著者は研究結果の閲覧者を拡大するためや思想的な理由からオープンアクセス出版を利用する<ref>{{cite web|title=Open access self-archiving: An author study|url=http://eprints.ecs.soton.ac.uk/10999/1/jisc2.pdf|author1=Alma Swan |author2=Sheridan Brown | date = May 2005 | publisher = Key Perspectives Limited|accessdate=2018-03-30}}</ref><ref>{{cite journal |url= http://www.ariadne.ac.uk/issue37/andrew/ |title=Trends in Self-Posting of Research Material Online by Academic Staff |accessdate=March 22, 2009 |last=Andrew |first=Theo |date=October 30, 2003 |journal=Ariadne |issue= 37 | publisher=[[UKOLN]] |issn=1361-3200}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.jisc.ac.uk/uploaded_documents/JISCOAreport1.pdf |title=JISC/OSI Journal Authors Survey Report |accessdate=March 22, 2009 |author=Key Perspectives |publisher=[[Joint Information Systems Committee]] (JISC) |format=PDF}}</ref>。[[PLOS]]や[[BioMed Central]]などのオープンアクセス出版社はオープンコンテントの論文の出版・閲覧をサポートしており、このような出版形態は人文科学より科学の分野でより使われるようになってきている。[[アメリカ国立衛生研究所]]・{{仮リンク|Research Councils UK|en|Research Councils UK|label=RUCK}}・[[欧州連合|EU]]など、様々な投資組織や政府研究機関が資金調達の資格を得るためには学術成果をオープンアクセスとする{{仮リンク|オープンアクセス・マンデート|en|Open-access mandate}}とすることを定めている<ref>{{cite web|url=http://www.nhmrc.gov.au/grants/partnerships/_files/funding_policy.pdf |title=NHMRC Partnership Projects – Funding Policy |accessdate=March 22, 2009 |last=Haslam |first=Maryanne |publisher=[[National Health and Medical Research Council]] (NHMRC) |format=PDF |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090317204124/http://www.nhmrc.gov.au/grants/partnerships/_files/funding_policy.pdf |archivedate=March 17, 2009 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://grants.nih.gov/grants/guide/notice-files/not-od-05-022.html|title= Policy on Enhancing Public Access to Archived Publications Resulting from NIH-Funded Research | accessdate=July 12, 2009}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.rcuk.ac.uk/documents/documents/rcukopenaccesspolicy-pdf/|title=Open access - RCUK Policy and revised guidance |accessdate=2018-03-30}}</ref><ref>{{cite web| url=http://data.consilium.europa.eu/doc/document/ST-9526-2016-INIT/en/pdf|title= Outcome of Proceedings, 9526/16 RECH 208 TELECOM 100, The transition towards an Open Science System|accessdate=2018-03-30 }}</ref>。[[マサチューセッツ工科大学]]など、機関レベルの大学は自身の理念の紹介でデフォルトでオープンアクセスとすることを述べている<ref>{{cite web|title=MIT faculty open access to their scholarly articles|date=20 March 2009|url=http://web.mit.edu/newsoffice/2009/open-access-0320.html|publisher=MIT news|accessdate=2018-03-30}}</ref>。いくつかの組織の理念では時間差で公開したり、研究者へ資金請求してオープンアクセスへ研究成果を提供している<ref>{{cite web|url=http://mic.sgmjournals.org/misc/self_archiving.dtl|title=Policy of the Society for General Microbiology towards author self-archiving on PubMed Central and institutional and other repositories|accessdate=April 10, 2009}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www3.interscience.wiley.com/authorresources/onlineopen.html|title=OnlineOpen|accessdate=April 10, 2009}}</ref>。オープンコンテントの出版は、従来大学が一般的に加入して支払っていた研究成果の情報を得るためのコストの削減の手法とみなされていたが<ref name="WellcomeTrustReport">{{cite web|title=Costs and business models in scientific research publishing: A report commissioned by the Wellcome Trust|url=http://www.wellcome.ac.uk/stellent/groups/corporatesite/@policy_communications/documents/web_document/wtd003184.pdf|accessdate=May 23, 2009}}</ref><ref>{{cite journal |title=Libraries face higher costs for academic journals |last=Mayor |first=Susan |date=April 19, 2003 |journal=[[BMJ]]: British Medical Journal |publisher=[[BMJ Group]] |volume=326 |issue=7394 |page=840 |pmc=1125769}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ams.org/membership/journal-survey.html|title=AMS Journal price survey|accessdate=May 23, 2009}}</ref>、現在では質の良くない論文の提出を抑えることで業界全体の論文の質を高める手法であると考えられている<ref name="WellcomeTrustReport"/>。非オープンコンテントの論文を大学が入手するためには費用がかかるかもしれないが、そのような出版社が費用をかけることなく、論文は信頼しうる学者によって執筆・[[査読]]がなされている。この点において、{{仮リンク|Nature Publishing Group|en|Nature Publishing Group}}と[[カリフォルニア大学]]のように<ref>{{cite web |title=Response from the University of California to the Public statement from Nature Publishing Group regarding subscription renewals at the California Digital Library |date=June 10, 2010 |url=http://osc.universityofcalifornia.edu/news/UC_Response_to_Nature_Publishing_Group.pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20100626082706/http://osc.universityofcalifornia.edu/news/UC_Response_to_Nature_Publishing_Group.pdf |archive-date=June 26, 2010 |dead-url=yes |accessdate=September 13, 2015}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article1013152.ece |title=Boycott 'greedy' journal publishers, say scientists | location=London | work=The Times | first=Nigel | last=Hawkes | date=November 10, 2003 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110429061407/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article1013152.ece |archive-date=April 29, 2011 |dead-url=yes |accessdate=September 13, 2015}}</ref>、出版社と大学の間で[[サブスクリプション方式|サブスクリプション]]・コストについて論争が起きることがある。 === 教育 === {{main|オープン教育リソース}} [[Image:Global_Open_Educational_Resources_Logo.svg|thumb|upright=0.25|[[オープン教育リソース|OER]]]] 高等教育のための代替ルートを提供する教育リソースを作成するためにオープンコンテントが利用されている。従来の大学は高価で学費・授業料は高騰しており<ref name="Tuition Inflation" >{{cite web | last = Kantrowitz| first = Mark| title = Tuition Inflation| work = FinAid.org| accessdate = 2012-04-18| year = 2012| url = http://www.finaid.org/savings/tuition-inflation.phtml}}</ref>、オープンコンテントの教育リソースは教育・学習コンテンツの共有と再利用に観点を置いた自由な高等教育を提供する一つの手法である<ref name="Horizon Report">{{cite web| last = NMC| first = | title = One Year or Less: Open Content| work = 2010 Horizon Report| accessdate = 2012-04-18| year = 2012| url = http://wp.nmc.org/horizon2010/chapters/open-content/| deadurl = yes| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120316120303/http://wp.nmc.org/horizon2010/chapters/open-content/| archivedate = 16 March 2012| df = dmy-all}}</ref>。[[オープンコースウェア]]・{{仮リンク|セーラーアカデミー|en|Saylor Academy}}・[[カーンアカデミー]]など、多くのオープンコンテントを通した教育を促進するプロジェクト・組織がある。[[MIT]]・[[イェール大学|Yele]]・[[タフツ大学|Tufts]]などの大学は、オープンコンテントの学術分野利用の手法として教科書・参考資料・レッスンビデオ・チュートリアルなどを自由に利用できるよう公開している。そのような手法は機関全体の方針として採用したり<ref>{{cite web |url=http://ocw.mit.edu/OcwWeb/web/about/about/index.htm|title=About OpenCourseWare|accessdate=April 10, 2009}}</ref>、研究者個人や部署・部門の非公式なコンテンツとして提供したりする<ref>{{cite web | last = Admin| first =| title = Open.edu: Top 50 University Open Courseware Collections| work = DIY Learning| accessdate = 2012-04-18| year = 2012| url = http://onlineuniversityrankings2010.com/2010/open-edu-top-50-university-open-courseware-collections/}}</ref>。 === 立法 === どんな国・政府でも自身の法律と法システムを持っており、立法府が制定した成文法や判例に基づく不文法が法律文書として存在している。[[法の支配]]を受けた国家では、法律文書はオープンコンテントとして公開されているが、一般には明確なライセンスが課せられているわけではなく厳密には{{仮リンク|暗黙のライセンス|en|Implied license}}で公開されている。いくつかの僅かな国家はでは、[[イギリス政府]]における[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC-BY 4.0]]と[[ライセンスの互換性]]がある{{仮リンク|Open Government Licence|en|Open Government Licence}}など、法律文書は明確なオープンコンテントのライセンスが課せられている。他の多くの国家では、法律文書は政府を著作者として同国家の著作権法の下に適切に扱われる。[[ベルヌ条約]]による自動的な著作物の保護は法律文書には適用されず、第2.4条で公文書は著作物の保護から除外することが明文化されている。法律文章はライセンスを「継承」することも出来る。各国の法律文書類は、{{仮リンク|LexML Brasil|en|LexML Brasil}}・{{仮リンク|Legislation.gov.uk|en|Legislation.gov.uk}}・[[EUR-Lex]]など、各国のリポジトリを通じて利用可能である。一般に法律文書は一つ以上の正式版が存在するが、主に閲覧される文書は[[政府公報]]で公開されたものである。そのため、法律文書は最終的にはリポジトリまたはそれを含む政府公報が提示するライセンスを継承することが出来る。 == オープンライセンス == <!-- [[オープンライセンス]]のリダイレクト節、節名変更時はリダイレクト元も修正 --> オープンライセンス({{lang-en-short|Open License}})は、オープンコンテントの著作物をコピーライトの下に、その作品の作者の定める制約に従って利用者に利用・修正・再頒布を許可する[[ライセンス]]の総称である<ref name="oki-def">{{cite web|url=http://opendefinition.org/od/2.1/en/|title=Open Definition 2.1|publisher=Open Knowledge International|accessdate=2018-03-30}}</ref>。 オープンライセンスには、作品の利用制約の緩い[[パーミッシブ・ライセンス]]や、利用者の自由を広げる[[コピーレフト]]・ライセンスなどがある。{{仮リンク|オープンナレッジ・インターナショナル|en|Open Knowledge International}}は{{仮リンク|オープンの定義|en|The Open Definition}}においてオープンライセンスの単語を定義し<ref name="oki-def" />、オープンライセンスとして適したライセンスの一覧を管理している<ref>{{cite web|url=http://opendefinition.org/licenses/|title=Conformant Licenses|publisher=Open Knowledge International|accessdate=2018-03-30}}</ref>。{{仮リンク|エリック・メーラー|en|Erik Möller}}たちは[[自由文化作品の定義]]に準拠していると判断したライセンスのリストを管理している<ref>{{cite web|url=https://freedomdefined.org/Licenses|title=Licenses|publisher=Definition of Free Cultural Works|accessdate=2018-03-30}}</ref>。 オープンライセンスは[[オープンソースライセンス]]と同様、[[ライセンスの互換性]]・[[ライセンスの氾濫]]・[[ライセンス感染]]の課題が存在し、ライセンスの策定および選択は注意深い検討が必要である。 === 推奨ライセンス === オープンナレッジ・インターナショナルは数あるオープンライセンスの内で利用を推奨するライセンスを提示している<ref name="oki-def" />。 {| class="sortable wikitable" |+ 推奨されるオープンライセンス ! ライセンス名 ! 略称 ! 策定者 ! 対象 ! 備考 |- | [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|Creative Commons CC0]] | CC0 | [[クリエイティブ・コモンズ]] | コンテンツ・データ | パブリックドメイン同等の利用許可を与える汎用法的ツール |- | [[Public Domain Dedication and Licence|Open Data Commons Public Domain Dedication and Licence]] | PDDL | [[Open Data Commons]] | データ | パブリックドメイン同等の利用許可を与えるデータに適用するライセンス |- | [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|Creative Commons Attribution 4.0]] | CC BY 4.0 | [[クリエイティブ・コモンズ]] | コンテンツ・データ | [[帰属 (著作権)|帰属表示]]を制約として自由な利用を許諾する汎用ライセンス |- | [[Open Data Commons Licence|Open Data Commons Attribution License]] | ODC BY | [[Open Data Commons]] | データ | [[著作権表示]]を制約として自由な利用を許諾するデータに適用するライセンス |- | [[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|Creative Commons Attribution Share-Alike 4.0]] | CC BY-SA 4.0 | [[クリエイティブ・コモンズ]] | コンテンツ・データ | [[帰属 (著作権)|帰属表示]]と[[継承 (クリエイティブ・コモンズ)|同等条件継承]]を制約として自由な利用を許諾する汎用ライセンス |- | [[オープンデータベースライセンス|Open Database License]]<ref name="ODbL1">{{cite web|url=http://www.opendatacommons.org/licenses/odbl/1.0/|title=Open Database License (ODbL) v1.0|publisher=[[Open Data Commons]]|accessdate=2 July 2011}}</ref> | ODbL | {{仮リンク|オープンナレッジ・インターナショナル|en|Open Knowledge International}} | データ | 同等条件制約を派生利用コンテンツへ適用することを制約とするデータベース利用に際して適用するライセンス |- |} === その他ライセンス === オープンライセンスには特定分野に特化したライセンスが存在する。 ソフトウェア分野ではソフトウェアのソースコードやソフトウェアの挙動について制約として細かく言及したオープンソースライセンスがある。メディア分野では[[GNU GPL]]同等の制約を芸術作品に適用することを目的としてCopyleft Attitudeの策定した[[自由芸術ライセンス|Free Art License]]がある。ゲーム分野では[[テーブルトークRPG]]のシナリオについて言及した[[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]]の策定した{{仮リンク|Open Game License|en|Open Game License}}がある。政府資料・法律文書では政府のウェブサイトで頒布されるコンテンツを[[クリエイティブ・コモンズ・ライセンス|CC-BY 4.0]]と互換性のあるオープンコンテントの利用を許諾するライセンス・利用規約として、[[イギリス政府]]の {{仮リンク|Open Government Licence|en|Open Government Licence}}や[[日本政府]]の[[政府標準利用規約]]がある。 == 脚注 == {{reflist|30em}} == 外部リンク == * ウィキメディア・コモンズには、[[commons:Category:Open content|オープンコンテント]]に関するカテゴリがあります。 {{Intellectual property activism}} {{Open navbox}} {{DEFAULTSORT:おおふんこんてんと}} [[Category:オープンコンテント|*]]
2003-02-14T20:44:43Z
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Debian
Debian(発音: [ˈdɛbiən] デビアン)またはDebian ProjectはLinuxディストリビューションのひとつであるDebian GNU/Linuxを中心とするUnix系システムのディストリビューションを作成しているプロジェクトである。名前の通り、GNUプロジェクトの精神の尊重と(そのため、システム全体も一般には単にLinuxと呼ばれる事が多いのに対し、Debianでは「GNU/Linux」という呼称を積極的に使っている。呼称が分かれる経緯についてはGNU/Linux名称論争を参照。)、同プロジェクトによるプロダクトの積極的な採用などが特徴である。Linuxディストリビューションの他、カーネル(核)をLinuxカーネルからGNU HurdやFreeBSDのカーネルに置き換えた、Debian GNU/HurdやDebian GNU/kFreeBSDなどがある。 Linuxカーネル、必須なユーティリティ類のutil-linux(en:Util-linux)、プログラムのビルドに必要なGCCやGNU Binutils、coreutilsなどのその他のUnix系ユーティリティをはじめ、その他デスクトップ環境向けやサーバ運用向けなど多数の、計51,000以上のパッケージを提供している。対象環境として現在10のアーキテクチャ(環境)向けに開発されており、インテルやAMDの32ビット・64ビットプロセッサ、組み込み機器で使われるARMアーキテクチャなどがそれには含まれている。低水準のパッケージ管理システムはdpkg、高水準のパッケージ管理システムはAPTである。デスクトップ環境は各種のものがパッケージにあるが、Debian 8では導入時に選べるのはGNOME、Xfce、KDE、Cinnamon、MATE、LXDE、LXQtである。 その他の特徴として、Debianを母体として、さらに調整や変更を加えた派生Linuxディストリビューションの作成が考慮されている、という点がある。派生先にはUbuntu他多くの派生ディストリビューションが存在する。 インストーラ用のCD/DVDイメージはWebからのダウンロード、BitTorrent・jigdo・uNetBootInなどで取得できる。さらに、インストーラーをオンライン再販業者から購入する事も可能である。 Debian の各版に付けられている開発用コード名は、ディズニー映画「トイ・ストーリー」の登場人物の名前に基づいている。Debian の不安定版は、おもちゃをいつも壊す悪ガキのキャラクターである Sid にちなんでいる。 Debianは1993年8月16日に当時パデュー大学の学生であったイアン・マードックにより創設された。 マードックは当初"Debian Linux Release"という名称を付けた。当時"Softlanding Linux System (SLS)"という初のGNU/Linuxディストリビューションが公開されていたが、SLSは保守がお粗末であったり不具合が頻発したためマードックは全く新しいディストリビューションを立ち上げた。 1993年、マードックは"Debianマニフェスト"というこの新しいオペレーティングシステムについての概要を公表した。その中で、このディストリビューションの保守は、LinuxおよびGNUの精神に基づき公開された手法で維持されることを求めた。彼はこのディストリビューションの名称を、ガールフレンド(後の妻)の名前Debra Lynnと自身の名前IanからDebianとした。 Debianプロジェクトからは、1994年から1995年にかけて0.9版のシリーズが初めて公開された。この期間、フリーソフトウェア財団のGNUプロジェクトが支援を行った。1995年には、インテルi386以外の環境に対しても対応が開始されることとなり、1996年に最初の1.x版が公開された。 1996年にはブルース・ペレンズがDebianプロジェクトのリーダーとしてマードックの後任に就いた。同年開発者のEan Schuesslerは、Debianプロジェクトがその利用者に対して社会的な契約を交わすべきであるとの提案を行った。これに関してDebianプロジェクトのメーリングリストで行われた議論は、プロジェクトについての「Debian社会契約」と「Debianフリーソフトウェアガイドライン (DFSG)」にまとめられた。ペレンズは、Software in the Public Interest (SPI) というDebianプロジェクトを公式に支え、プロジェクトを統括する非営利組織の創設にも関わった。 ペレンズは、glibc移行後初めての版となったDebian 2.0が公開される直前にDebianプロジェクトを引退した。 この時期、Debianプロジェクトは新たなリーダーを選出し、2.x を公開した。この時期にAPTが初めて導入され、Debian GNU/HurdというLinuxカーネル以外の開発も始められた。1999年にはDebianを母体とするディストリビューションも現れ始めた。Libranet (2006年に開発停止)、Corel Linux そして StormixによるStorm Linuxである。 特筆すべきは、2000年に公開された2.2版(コードネーム: potato)で、この版はlibc等重要なパッケージの保守で、デュシェンヌ型筋ジストロフィーのため亡くなった、Joel 'Espy' Kleckerに捧げられた。 2000年後半には、プロジェクトはパッケージアーカイブとリリースマネージメントに関する大きな変革を行い、「パッケージプール」方式と次期stable版の土台となる"testing"版の導入が開始された。また同年には全世界のDebian開発者・技術者を集めて年1回開催されるDebConf(Debianカンファレンス)が開かれるようになった。 この頃CorelはLinux部門を売却 (後にXandrosとなっている) 、Stormixは2001年破産を宣告されている。 2002年7月、Debian 3.0 (コードネーム: woody)が公開された。(遡ることver.1.1から、Debianは公開の際に映画トイ・ストーリーのキャラクター名をコードネームとして採用し現在に至る。) 3.0(woody)公開後、次期版3.1(sarge)まで、およそ3年という長期に渡る空白期間が存在する。主な理由として、potatoからwoody以後にかけて、パッケージ数が2倍程に増加、またwoodyでの対応環境も増加したため、公開直後からこれに伴うバグが飛躍的に増大した点がある。とりわけリリースクリティカルバグが事実上すべて解消されない限り公開できないため、公開日程に多大なる影響を与えた。パッケージメンテナのバグに対する考え方は温度差があり、たとえば特定の言語のみ発生するバグならば、そのメンテナがバグ対象の言語圏でも無い限りバグを修正することに対する意欲を持つことは少ない。コミュニティによるボランティアを作業基盤とするDebian特有の問題とも言える。 しかし、長くなっていく公開間隔について、フリーソフトウェアコミュニティから疑問の声が上がった。Debianのsargeリリース直前には、実際にDebian開発者の1人であったShuttleworthが主導してUbuntuというプロジェクトを派生させた。Shuttleworthが雇っているUbuntu開発者の多くは、かつてはDebianボランティアだったか、または今もDebianに関わっている人々である。多くの場合、Ubuntu開発者として(Canonicalを通して)雇われた人々はDebianでも同じパッケージの管理をしている。この点については本人も公式サイトで「Debian の開発者の中には、Ubuntu で仕事のほとんどをするようになった人も確かにいます。また、Ubuntu と Debian で同じように仕事をしている開発者もいます。」としてそれを認めている。Debian の創立者、Ian Murdochは、Ubuntu の人気が Debian 派生のディストロのために良い兆しだとは考えていない。それは、Ubuntu 用に作られたパッケージが Sarge上で動作しないことが多いことを挙げている。Murdochは、Ubuntuが本当にDebianと互換性があった場合、開発のための作業のエネルギーの全てをSargeに向けられる可能性があり、それが本当に全体として見た場合、Debianの開発システムに利益をもたらすと主張している。したがって、当時のこうした混乱状況がsargeの開発をさらに遅らせることになったといえる。 その後、Debianから派生したUbuntuは多数の常勤の開発者によって開発されるところとなり、次第に影響力を増していった。しかし、ブラジル人のDebian開発者、Otavio Salvador は、「「ユーザはUbuntuを信用しているが、ユーザには安定したパッケージを提供する必要がある」 という考えにUbuntuがコミット (バージョン管理)しているかどうか、確信が持てない。」と述べている。また彼は、Shuttleworth個人に対しても不信感を抱いており、露骨に「言動が一致していない」と非難し、「品質対公開日程の問題で溝が深まったことでUbuntuとDebianの関係はひどいものになっている。」と語っている。このように、Ubuntuに対する評価は分かれている。 Debianのstable開発の長期化と派生であるUbuntuの誕生は、Debianコミュニティに対する意識を変化させ、Debian 4.0(コードネーム: etch)以降の版に対しての公開日程を含むいくつかの改善をもたらしたのは確かである。2011年現在では両コミュニティにおいて、バグ修正の取扱いなど相互交流もある。 2005年6月、Debian 3.1(コードネーム: sarge)が公開された。小規模な改良(バージョン番号が小数部の増加に留まる)にも関わらず、この正式版では数多くの変更が実施されたが、それは一つ前の版woodyからsarge公開までの期間が長かったことが原因である。この版では70%以上のソフトウェアが更新の対象となっただけではなく、ソフトウェアの容量も増加した。新規のインストーラーが導入され、40ヶ国語にも及ぶ言語に対応するようになった。 このリリースでは、woody以前のインストーラである、"boot-floppies"をDebianインストーラと呼ばれるモジュラー設計の新しいインストーラで置き換えた。この新しいインストーラは高度な導入方法に対応しており、RAID、XFS そしてLVMにも対応している。またハードウェア検知能力に優れるため、Linuxのインストールに不慣れな者でもインストールできるようになっている。インストーラは約40ヶ国の言語で完全なソフトウェアレベルでの国際化を実現している。インストールマニュアルと包括的なリリースノートはそれぞれ10と15の言語に翻訳され公開されている。 このときの公開では、Debianプロジェクトの各サブプロジェクトの取り組みも含まれており、Debian-Edu (Skolelinux)、Debian-Med、Debian-Accessibilityがそれに当たる。Skolelinuxは学校教育において有用なソフトウェアのパッケージを作成しDebianアーカイブに収録、また教育現場へのDebianの利用促進を行うプロジェクトである。Debian-Medは医療現場におけるDebianの利用促進や医療用ソフトウェアの作成、パッケージ化を担っている。Debian-AccessibilityはDebianシステムやDebianプロジェクトのWebサイトの利便性向上や障害者に対するDebianの利用を支援するプロジェクトで、その一部は視覚障害者のためのブライユ端末上における導入支援などがある。 2006年、ウェブブラウザやメーラーといった Mozilla関連のソフトウェア名が商標上の問題によって変更された。Firefox は、Iceweasel へ、Thunderbird は Icedove へといったように変わった。これはMozilla Foundationの要請によりDebianプロジェクトでMozilla Firefoxの名称が使えなくなったことによる。 2007年4月8日、Debian 4.0(コードネーム: etch)が公開された。GUIインストールが公式に対応されている。この公開版では新たにAMD64に対応した一方、Debian初のx86以外の対応環境であったm68kは公式に非対応となった(但し非公式ながら動作する)。 2009年2月14日、Debian 5.0(コードネーム: lenny)が公開された。開発期間は22ヶ月。25000以上のソフトウェア・パッケージが収録された。新たにマーベル・テクノロジー・グループが販売しているARM基盤のNAS、OrionプラットフォームとAsus Eee PCのようなネットブックに対応した。この版はMIPSアーキテクチャメンテナで2008年12月26日に交通事故で亡くなったThiemo Seuferに捧げられた。 2010年9月5日、公式にバックポートサービス (Debian Backport) を開始した。 5.0公開からほぼ2年経った2011年2月6日、Debian 6.0(コードネーム: squeeze)が公開された。FreeBSDカーネル(Debian GNU/kFreeBSD)が「テクノロジープレビュー」としてこの版から正式に対応されたが、その一方でalphaとhppa、armの3つの環境がこの版から公式に非対応となった。 6.0公開から2年以上経過した2013年5月4日、Debian 7.0(コードネーム: wheezy)が公開された。この版からarmhfとs390xの2つの環境に正式対応されることとなった。 2014年4月24日、Debian 6.0の保守が2016年2月まで延長されることが発表され、2014年6月16日より長期サポート(LTS)期間に入った。 2015年4月25日、Debian 8.0(コードネーム: jessie)が公開された。この版よりAArch64(64ビット版ARM環境)とPOWER 64 ビットリトルエンディアン版が正式対応された。またs390 環境の対応が終了し、s390xに置き換えられた。なお、ia64 および sparc が、開発者不足から、正式版に含まれなくなった。 2017年6月17日、Debian 9.0(コードネーム: stretch)が公開された。この版より64 ビットリトルエンディアン MIPSが対応環境に追加された。逆に32ビット版PowerPCがサポートされる対応環境から外れた(PowerPC 64ビット版は引き続き保守が継続される)。 2019年7月6日、Debian 10.0(コードネーム: buster)が公開された。 2021年8月14日、Debian 11.0(コードネーム: bullseye)が公開された。 プロジェクトは、世界中の有志の開発者によって構成されている。プロジェクトには誰でも参加できるが、正規の開発者になるためには、技術的なチェックを受ける必要がある。2020年11月現在、1100名以上のメンバーがいる。日本人の開発者は40人ほどである。 プロジェクトの抱負として、Debian社会契約を掲げている。Debian社会契約は、プロジェクトが遵守すべき事項を定めたもので、1997年7月5日に採択された。その中のDebianフリーソフトウェアガイドライン (DFSG) は、Debianにおけるソフトウェア評価基準となっており、このガイドラインに適合しない、フリーではないと評価されたソフトウェアは、Debianの一部として提供されることはない。 プロジェクト内の意思決定はDebian憲章の下で行なわれる。Debian憲章は、組織構成やその権限、投票にかけるまでの手続きなどを定めたもので、1998年12月2日に採択された。 このことから、Debianプロジェクトは独立した非中央集権的な組織である。また他のGNU/Linuxディストリビューション(例えば、Ubuntu、openSUSE、Fedora、そしてMandriva)のように企業が所有するものではない。 にも関わらず、プロジェクトの生産付加価値は極めて高く、Debian 4.0 (etch)版に含まれる全パッケージ開発コストを例にとると、コード総数2億8300万行、COCOMOモデル(en:COCOMO)を使用した生産価値評価は130億米ドルにのぼるとされる。2009年4月2日、オンラインコミュニティサイトOhlohはある時点でのDebian GNU/Linuxプロジェクトのコードベース(コード総数4500万行)をCOCOMOモデルを用いて評価したところ、開発コストは約8億1900万米ドルになると推計した。Debian 5.0 (lenny) リリースに関して、Juan José Amorらの推計によると、有効なコード総数は324,000,000行、COCOMOモデルによる生産価値評価は61億ユーロにのぼるとされる。 無論こうしたDebianに関するコミュニティの門戸の広さは、全く問題がないわけではなく、以前には、「一部ユーザによる礼儀知らずな行為」とコミュニティの意思決定の遅さが批判されたことがある。 毎年、Debianカンファレンス (通称DebConf) が開催される。Debianカンファレンスは、世界中のDebian開発者が直接会談する場で、2000年7月5日に初めて開催された。資金面などの多くの障害があるため、今のところ日本で開催されたことはないが、有志によって開催が検討されている。 Debianプロジェクトリーダー(Debian Project Leader; DPL)はプロジェクトの公的な代表者であり、プロジェクトの現在の方向性を決める立場にある。プロジェクトは次のリーダーを選出してきた: 補佐的な役職として、アンソニー・タウンズによりDebian Second in Charge (2IC; 副リーダー)が創設された。スティーブ・マッキンタイアーは2006年4月から翌2007年4月までこの役職に就いている。2009年4月からはLuk Claesがその地位にいる。現プロジェクトリーダー、ステファノ・ザッキローリは、2ICを選出しない旨DPL選挙の際に宣言していた。 注意すべきことに、上記リストにはアクティブな開発マネージャーのみ含まれている。2003年から導入された、開発アシスタント、そして引退したマネージャー("release wizards"と呼ばれる)はここには含まれていない。 Debianの特長として、保守の単純さがある。パッケージ管理システムを備えており、ひとたび導入が終了すれば、パッケージマネージャのAPT (Advanced Package Tool) により、ソフトウェアの更新が行える。パッケージの導入は、セキュリティ関連の更新やプログラム相互の依存性確認も含めて、仮想端末(コンソール)より容易に操作できる。 パッケージの依存関係には、大きく分けて、depends(依存)、recommends(推奨)、suggests(提案) という3種類の項目が設定されており、動作に必須なものがdepends、動作に必須ではないが常識的に必要とするものがrecommends、組み合わせる事で更に便利に使えるものがsuggestsに指定されている。lenny以前では、apt-getは、depends以外の項目を上手に扱えなかった。これらの項目を最大限生かす事ができるaptitudeの使用がSarge以降では勧められていた。Squeezeではこの点は改善された。さらに、自動削除に対応するようにも更新された。 APTには補助的機能を追加するフロントエンドが数多く提供されており、以下ではaptitudeを含めた幾つかのフロントエンドを紹介する。 扱いやすいユーザーインターフェイスは複数存在する。 一般的に良く知られる代表としては、Debianだけでなく RPM系のディストリビューションでも使われている Synaptic(シナプティック)がある。Synapticは、apt-getコマンドを使用せずにシステムの更新が全てマウスで直感的に行えるだけでなく、ソフトウェアの削除機能も備えている。 「apt-watch(アプト-ウォッチ)」は、デスクトップで使用するユーザーにとって、アップデートの公開を直ちに通知してくれるアプレットとして極めて有効なツールである。apt-watch は、より簡易にパッケージの管理を実現するツールとして開発されたアプリケーションである。これは、ネットワークに接続し、アップデータを定期的に監視するアプレットであり、アップデータが利用可能となった時には、クライアントに自動的に更新の通知を行う。Windows Updatesや Red Hat Network と同様な機能を持っている。 4.0 (Etch) では、apt-watch に加えて新たに update-manager も用意された。これは、GNOMEデスクトップ環境で利用可能なパッケージの管理ツールである。この update-manager は、Update Notifier と呼ばれるデスクトップ上のアプレットと組み合わせて利用することができる。機能的には apt-watch と似ているが、APT keyring を管理する仕組みが追加されている。なお、Update Notifier は GNOME や KDE、Xfce など Freedesktop.org 準拠の全てのデスクトップ環境で動作するように設計されている。 ただしこれらもアップデートの実際の内部処理は、APT が機能しているので、apt-get コマンドを実行することと大差は無い。 Debian 4.0 では、グラフィカルなパッケージ・インストーラーが新たに提供された。このインストーラーを利用すれば、ローカルに保存した Debianパッケージがコマンド操作なしでインストール可能である。Red Hat Linux で初めて採用された GNOME-RPM (あるいは gnorpm とも) というグラフィカルなインストーラーと好対照を成すツールであるが、GNOME-RPM がシェルプロンプトから RPMコマンドを実行するのと同じ機能を有するのに留まるのとは違い、gdebi は APTのようにパッケージ間の依存関係を自動的に解決する機能も併せ持っている点でより優れている。GDebi とも表記される。 パッケージ管理にはdebconfと呼ばれるフレームワークが用意されており、パッケージ作成者はユーザーに対して簡易のフロントエンドを提供できる。このフレームワークを積極的に利用しているパッケージでは、インストール後にユーザーが行うであろう初期設定の大半を、対話形式の質問に答えていくだけで、インストールと同時に終える事ができる。debconfパッケージ自身もdebconfの設定を有しており、利用するフロントエンドインターフェースと優先度を設定できる。debconfのインターフェースは、対話形式のものから、非対話形式(質問なしで自動設定)なもの、キャラクタベースなものから、グラフィカルなもの、または設定ファイルを直接書き換える用途で使用するエディタまで、ユーザーが自由に選択可能である。優先度はパッケージの各質問毎に設定されており、ユーザが介在しないとシステムが動作しなくなる高レベルのものから、標準で問題ないような些細なものまである。(システムに不慣れなユーザのため)ある優先度より低い設定をすべて標準で済ませ、それらを一切質問させないことも可能である。 公開は、4種類で行なわれている。 Debianのコードネームは、ディズニー配給の映画「トイ・ストーリー」のキャラクタから取られている。これは、過去にDebianのプロジェクトリーダーを務めたブルース・ペレンズが、トイ・ストーリーを製作したピクサー・アニメーション・スタジオの社員であったためである。 Debian の「スワール」マーク(意匠)は 1999 年に Raul Silva によって考案された。これはその年に開催されたコンテスト用のものであって、それ以前に使われていた準公式のマークに替わるものとしてデザインされた。 このコンテストの勝者に対して、@debian.org のメールアドレスと、希望するアーキテクチャ用の Debian 2.1 インストール CD のセットが贈られた。マークの意味について Debian プロジェクトから公式な声明は出ていなかったが、 このマークが選ばれた時点では、これはコンピュータを動作させる魔法の煙 (または精霊) を表していることがほのめかされた。 Debian のこのマークの由来については、最初に命名された Debian のキャラクターとして選ばれた バズ・ライトイヤー(Buzz Lightyear)のあごに渦巻きがあるからだという説がある。Stefano Zacchiroli も、この渦巻きが Debian のものであると示唆している。Debian のコードネームはトイ・ストーリーのキャラクターの名前を付けているので、 バズ・ライトイヤーのスワールが候補となった可能性が高いと思われる。Debian 開発者の Bruce Perens も Pixar の元で働いていた。 Debianでは、以下のような環境に対応したバイナリ版を作成している。括弧内はプロジェクトでの呼称である。 以下の環境はかつて対応されていたが、現在では公式には対応されていない(一部の環境では非公式な対応が存在する)。 Linuxカーネル以外をカーネルとするものもある。名称の通り、ユーザーランドはGNUの成果物に依存している。 まだ正式公開されていない上記以外の環境やカーネル版もいくつかある。 アーキテクチャ カーネル Debian プロジェクトは派生ディストリビューションの重要性を完全に認めており、関係者間の協力を活発に支援している。通常これは、当初派生ディストリビューションで開発されていた改善を Debian が取り込むことを意味する。こうすることで、誰もが恩恵を受けることができ、長期におよぶ保守作業を減らすことになる。 このため、派生ディストリビューションは [email protected] メーリングリストの議論に参加し、派生物調査に参加するよう勧められている。派生物調査は、派生ディストリビューションの中でなされた作業に関する情報を集めることを目標にしている。こうすることで、公式の Debian 開発者が Debian 派生物内の自分のパッケージの状況をより良く追跡することが可能になる。 Debianテスト版の派生品一覧に掲載。 Ubuntu派生品一覧に掲載。 ここでは割愛し、詳細はUbuntu#派生品に記述。 Debian安定版の派生品一覧に掲載。 MEPISの派生品一覧に掲載。 KNOPPIXの派生品一覧に掲載。 上記のようにDebianはいくつかのディストリビューションの母体として利用されている。Debianの派生品一覧に非掲載であるるものの、以下もその一部である。 なお、Ubuntuの派生版や、他言語版を含めWikipediaに記事が存在しないものは掲載しない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Debian(発音: [ˈdɛbiən] デビアン)またはDebian ProjectはLinuxディストリビューションのひとつであるDebian GNU/Linuxを中心とするUnix系システムのディストリビューションを作成しているプロジェクトである。名前の通り、GNUプロジェクトの精神の尊重と(そのため、システム全体も一般には単にLinuxと呼ばれる事が多いのに対し、Debianでは「GNU/Linux」という呼称を積極的に使っている。呼称が分かれる経緯についてはGNU/Linux名称論争を参照。)、同プロジェクトによるプロダクトの積極的な採用などが特徴である。Linuxディストリビューションの他、カーネル(核)をLinuxカーネルからGNU HurdやFreeBSDのカーネルに置き換えた、Debian GNU/HurdやDebian GNU/kFreeBSDなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Linuxカーネル、必須なユーティリティ類のutil-linux(en:Util-linux)、プログラムのビルドに必要なGCCやGNU Binutils、coreutilsなどのその他のUnix系ユーティリティをはじめ、その他デスクトップ環境向けやサーバ運用向けなど多数の、計51,000以上のパッケージを提供している。対象環境として現在10のアーキテクチャ(環境)向けに開発されており、インテルやAMDの32ビット・64ビットプロセッサ、組み込み機器で使われるARMアーキテクチャなどがそれには含まれている。低水準のパッケージ管理システムはdpkg、高水準のパッケージ管理システムはAPTである。デスクトップ環境は各種のものがパッケージにあるが、Debian 8では導入時に選べるのはGNOME、Xfce、KDE、Cinnamon、MATE、LXDE、LXQtである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その他の特徴として、Debianを母体として、さらに調整や変更を加えた派生Linuxディストリビューションの作成が考慮されている、という点がある。派生先にはUbuntu他多くの派生ディストリビューションが存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "インストーラ用のCD/DVDイメージはWebからのダウンロード、BitTorrent・jigdo・uNetBootInなどで取得できる。さらに、インストーラーをオンライン再販業者から購入する事も可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Debian の各版に付けられている開発用コード名は、ディズニー映画「トイ・ストーリー」の登場人物の名前に基づいている。Debian の不安定版は、おもちゃをいつも壊す悪ガキのキャラクターである Sid にちなんでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Debianは1993年8月16日に当時パデュー大学の学生であったイアン・マードックにより創設された。 マードックは当初\"Debian Linux Release\"という名称を付けた。当時\"Softlanding Linux System (SLS)\"という初のGNU/Linuxディストリビューションが公開されていたが、SLSは保守がお粗末であったり不具合が頻発したためマードックは全く新しいディストリビューションを立ち上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1993年、マードックは\"Debianマニフェスト\"というこの新しいオペレーティングシステムについての概要を公表した。その中で、このディストリビューションの保守は、LinuxおよびGNUの精神に基づき公開された手法で維持されることを求めた。彼はこのディストリビューションの名称を、ガールフレンド(後の妻)の名前Debra Lynnと自身の名前IanからDebianとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Debianプロジェクトからは、1994年から1995年にかけて0.9版のシリーズが初めて公開された。この期間、フリーソフトウェア財団のGNUプロジェクトが支援を行った。1995年には、インテルi386以外の環境に対しても対応が開始されることとなり、1996年に最初の1.x版が公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1996年にはブルース・ペレンズがDebianプロジェクトのリーダーとしてマードックの後任に就いた。同年開発者のEan Schuesslerは、Debianプロジェクトがその利用者に対して社会的な契約を交わすべきであるとの提案を行った。これに関してDebianプロジェクトのメーリングリストで行われた議論は、プロジェクトについての「Debian社会契約」と「Debianフリーソフトウェアガイドライン (DFSG)」にまとめられた。ペレンズは、Software in the Public Interest (SPI) というDebianプロジェクトを公式に支え、プロジェクトを統括する非営利組織の創設にも関わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ペレンズは、glibc移行後初めての版となったDebian 2.0が公開される直前にDebianプロジェクトを引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この時期、Debianプロジェクトは新たなリーダーを選出し、2.x を公開した。この時期にAPTが初めて導入され、Debian GNU/HurdというLinuxカーネル以外の開発も始められた。1999年にはDebianを母体とするディストリビューションも現れ始めた。Libranet (2006年に開発停止)、Corel Linux そして StormixによるStorm Linuxである。 特筆すべきは、2000年に公開された2.2版(コードネーム: potato)で、この版はlibc等重要なパッケージの保守で、デュシェンヌ型筋ジストロフィーのため亡くなった、Joel 'Espy' Kleckerに捧げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2000年後半には、プロジェクトはパッケージアーカイブとリリースマネージメントに関する大きな変革を行い、「パッケージプール」方式と次期stable版の土台となる\"testing\"版の導入が開始された。また同年には全世界のDebian開発者・技術者を集めて年1回開催されるDebConf(Debianカンファレンス)が開かれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この頃CorelはLinux部門を売却 (後にXandrosとなっている) 、Stormixは2001年破産を宣告されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2002年7月、Debian 3.0 (コードネーム: woody)が公開された。(遡ることver.1.1から、Debianは公開の際に映画トイ・ストーリーのキャラクター名をコードネームとして採用し現在に至る。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "3.0(woody)公開後、次期版3.1(sarge)まで、およそ3年という長期に渡る空白期間が存在する。主な理由として、potatoからwoody以後にかけて、パッケージ数が2倍程に増加、またwoodyでの対応環境も増加したため、公開直後からこれに伴うバグが飛躍的に増大した点がある。とりわけリリースクリティカルバグが事実上すべて解消されない限り公開できないため、公開日程に多大なる影響を与えた。パッケージメンテナのバグに対する考え方は温度差があり、たとえば特定の言語のみ発生するバグならば、そのメンテナがバグ対象の言語圏でも無い限りバグを修正することに対する意欲を持つことは少ない。コミュニティによるボランティアを作業基盤とするDebian特有の問題とも言える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、長くなっていく公開間隔について、フリーソフトウェアコミュニティから疑問の声が上がった。Debianのsargeリリース直前には、実際にDebian開発者の1人であったShuttleworthが主導してUbuntuというプロジェクトを派生させた。Shuttleworthが雇っているUbuntu開発者の多くは、かつてはDebianボランティアだったか、または今もDebianに関わっている人々である。多くの場合、Ubuntu開発者として(Canonicalを通して)雇われた人々はDebianでも同じパッケージの管理をしている。この点については本人も公式サイトで「Debian の開発者の中には、Ubuntu で仕事のほとんどをするようになった人も確かにいます。また、Ubuntu と Debian で同じように仕事をしている開発者もいます。」としてそれを認めている。Debian の創立者、Ian Murdochは、Ubuntu の人気が Debian 派生のディストロのために良い兆しだとは考えていない。それは、Ubuntu 用に作られたパッケージが Sarge上で動作しないことが多いことを挙げている。Murdochは、Ubuntuが本当にDebianと互換性があった場合、開発のための作業のエネルギーの全てをSargeに向けられる可能性があり、それが本当に全体として見た場合、Debianの開発システムに利益をもたらすと主張している。したがって、当時のこうした混乱状況がsargeの開発をさらに遅らせることになったといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、Debianから派生したUbuntuは多数の常勤の開発者によって開発されるところとなり、次第に影響力を増していった。しかし、ブラジル人のDebian開発者、Otavio Salvador は、「「ユーザはUbuntuを信用しているが、ユーザには安定したパッケージを提供する必要がある」 という考えにUbuntuがコミット (バージョン管理)しているかどうか、確信が持てない。」と述べている。また彼は、Shuttleworth個人に対しても不信感を抱いており、露骨に「言動が一致していない」と非難し、「品質対公開日程の問題で溝が深まったことでUbuntuとDebianの関係はひどいものになっている。」と語っている。このように、Ubuntuに対する評価は分かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Debianのstable開発の長期化と派生であるUbuntuの誕生は、Debianコミュニティに対する意識を変化させ、Debian 4.0(コードネーム: etch)以降の版に対しての公開日程を含むいくつかの改善をもたらしたのは確かである。2011年現在では両コミュニティにおいて、バグ修正の取扱いなど相互交流もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2005年6月、Debian 3.1(コードネーム: 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"paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2006年、ウェブブラウザやメーラーといった Mozilla関連のソフトウェア名が商標上の問題によって変更された。Firefox は、Iceweasel へ、Thunderbird は Icedove へといったように変わった。これはMozilla Foundationの要請によりDebianプロジェクトでMozilla Firefoxの名称が使えなくなったことによる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2007年4月8日、Debian 4.0(コードネーム: etch)が公開された。GUIインストールが公式に対応されている。この公開版では新たにAMD64に対応した一方、Debian初のx86以外の対応環境であったm68kは公式に非対応となった(但し非公式ながら動作する)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2009年2月14日、Debian 5.0(コードネーム: lenny)が公開された。開発期間は22ヶ月。25000以上のソフトウェア・パッケージが収録された。新たにマーベル・テクノロジー・グループが販売しているARM基盤のNAS、OrionプラットフォームとAsus Eee PCのようなネットブックに対応した。この版はMIPSアーキテクチャメンテナで2008年12月26日に交通事故で亡くなったThiemo Seuferに捧げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2010年9月5日、公式にバックポートサービス (Debian Backport) を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "5.0公開からほぼ2年経った2011年2月6日、Debian 6.0(コードネーム: squeeze)が公開された。FreeBSDカーネル(Debian GNU/kFreeBSD)が「テクノロジープレビュー」としてこの版から正式に対応されたが、その一方でalphaとhppa、armの3つの環境がこの版から公式に非対応となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "6.0公開から2年以上経過した2013年5月4日、Debian 7.0(コードネーム: wheezy)が公開された。この版からarmhfとs390xの2つの環境に正式対応されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2014年4月24日、Debian 6.0の保守が2016年2月まで延長されることが発表され、2014年6月16日より長期サポート(LTS)期間に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2015年4月25日、Debian 8.0(コードネーム: jessie)が公開された。この版よりAArch64(64ビット版ARM環境)とPOWER 64 ビットリトルエンディアン版が正式対応された。またs390 環境の対応が終了し、s390xに置き換えられた。なお、ia64 および sparc が、開発者不足から、正式版に含まれなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2017年6月17日、Debian 9.0(コードネーム: stretch)が公開された。この版より64 ビットリトルエンディアン MIPSが対応環境に追加された。逆に32ビット版PowerPCがサポートされる対応環境から外れた(PowerPC 64ビット版は引き続き保守が継続される)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年7月6日、Debian 10.0(コードネーム: buster)が公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2021年8月14日、Debian 11.0(コードネーム: bullseye)が公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "プロジェクトは、世界中の有志の開発者によって構成されている。プロジェクトには誰でも参加できるが、正規の開発者になるためには、技術的なチェックを受ける必要がある。2020年11月現在、1100名以上のメンバーがいる。日本人の開発者は40人ほどである。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "プロジェクトの抱負として、Debian社会契約を掲げている。Debian社会契約は、プロジェクトが遵守すべき事項を定めたもので、1997年7月5日に採択された。その中のDebianフリーソフトウェアガイドライン (DFSG) は、Debianにおけるソフトウェア評価基準となっており、このガイドラインに適合しない、フリーではないと評価されたソフトウェアは、Debianの一部として提供されることはない。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "プロジェクト内の意思決定はDebian憲章の下で行なわれる。Debian憲章は、組織構成やその権限、投票にかけるまでの手続きなどを定めたもので、1998年12月2日に採択された。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このことから、Debianプロジェクトは独立した非中央集権的な組織である。また他のGNU/Linuxディストリビューション(例えば、Ubuntu、openSUSE、Fedora、そしてMandriva)のように企業が所有するものではない。 にも関わらず、プロジェクトの生産付加価値は極めて高く、Debian 4.0 (etch)版に含まれる全パッケージ開発コストを例にとると、コード総数2億8300万行、COCOMOモデル(en:COCOMO)を使用した生産価値評価は130億米ドルにのぼるとされる。2009年4月2日、オンラインコミュニティサイトOhlohはある時点でのDebian GNU/Linuxプロジェクトのコードベース(コード総数4500万行)をCOCOMOモデルを用いて評価したところ、開発コストは約8億1900万米ドルになると推計した。Debian 5.0 (lenny) リリースに関して、Juan José Amorらの推計によると、有効なコード総数は324,000,000行、COCOMOモデルによる生産価値評価は61億ユーロにのぼるとされる。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "無論こうしたDebianに関するコミュニティの門戸の広さは、全く問題がないわけではなく、以前には、「一部ユーザによる礼儀知らずな行為」とコミュニティの意思決定の遅さが批判されたことがある。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "毎年、Debianカンファレンス (通称DebConf) が開催される。Debianカンファレンスは、世界中のDebian開発者が直接会談する場で、2000年7月5日に初めて開催された。資金面などの多くの障害があるため、今のところ日本で開催されたことはないが、有志によって開催が検討されている。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "Debianプロジェクトリーダー(Debian Project Leader; DPL)はプロジェクトの公的な代表者であり、プロジェクトの現在の方向性を決める立場にある。プロジェクトは次のリーダーを選出してきた:", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "補佐的な役職として、アンソニー・タウンズによりDebian Second in Charge (2IC; 副リーダー)が創設された。スティーブ・マッキンタイアーは2006年4月から翌2007年4月までこの役職に就いている。2009年4月からはLuk Claesがその地位にいる。現プロジェクトリーダー、ステファノ・ザッキローリは、2ICを選出しない旨DPL選挙の際に宣言していた。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "注意すべきことに、上記リストにはアクティブな開発マネージャーのみ含まれている。2003年から導入された、開発アシスタント、そして引退したマネージャー(\"release wizards\"と呼ばれる)はここには含まれていない。", "title": "プロジェクトの組織構成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "Debianの特長として、保守の単純さがある。パッケージ管理システムを備えており、ひとたび導入が終了すれば、パッケージマネージャのAPT (Advanced Package Tool) により、ソフトウェアの更新が行える。パッケージの導入は、セキュリティ関連の更新やプログラム相互の依存性確認も含めて、仮想端末(コンソール)より容易に操作できる。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "パッケージの依存関係には、大きく分けて、depends(依存)、recommends(推奨)、suggests(提案) という3種類の項目が設定されており、動作に必須なものがdepends、動作に必須ではないが常識的に必要とするものがrecommends、組み合わせる事で更に便利に使えるものがsuggestsに指定されている。lenny以前では、apt-getは、depends以外の項目を上手に扱えなかった。これらの項目を最大限生かす事ができるaptitudeの使用がSarge以降では勧められていた。Squeezeではこの点は改善された。さらに、自動削除に対応するようにも更新された。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "APTには補助的機能を追加するフロントエンドが数多く提供されており、以下ではaptitudeを含めた幾つかのフロントエンドを紹介する。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "扱いやすいユーザーインターフェイスは複数存在する。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一般的に良く知られる代表としては、Debianだけでなく RPM系のディストリビューションでも使われている Synaptic(シナプティック)がある。Synapticは、apt-getコマンドを使用せずにシステムの更新が全てマウスで直感的に行えるだけでなく、ソフトウェアの削除機能も備えている。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "「apt-watch(アプト-ウォッチ)」は、デスクトップで使用するユーザーにとって、アップデートの公開を直ちに通知してくれるアプレットとして極めて有効なツールである。apt-watch は、より簡易にパッケージの管理を実現するツールとして開発されたアプリケーションである。これは、ネットワークに接続し、アップデータを定期的に監視するアプレットであり、アップデータが利用可能となった時には、クライアントに自動的に更新の通知を行う。Windows Updatesや Red Hat Network と同様な機能を持っている。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "4.0 (Etch) では、apt-watch に加えて新たに update-manager も用意された。これは、GNOMEデスクトップ環境で利用可能なパッケージの管理ツールである。この update-manager は、Update Notifier と呼ばれるデスクトップ上のアプレットと組み合わせて利用することができる。機能的には apt-watch と似ているが、APT keyring を管理する仕組みが追加されている。なお、Update Notifier は GNOME や KDE、Xfce など Freedesktop.org 準拠の全てのデスクトップ環境で動作するように設計されている。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ただしこれらもアップデートの実際の内部処理は、APT が機能しているので、apt-get コマンドを実行することと大差は無い。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Debian 4.0 では、グラフィカルなパッケージ・インストーラーが新たに提供された。このインストーラーを利用すれば、ローカルに保存した Debianパッケージがコマンド操作なしでインストール可能である。Red Hat Linux で初めて採用された GNOME-RPM (あるいは gnorpm とも) というグラフィカルなインストーラーと好対照を成すツールであるが、GNOME-RPM がシェルプロンプトから RPMコマンドを実行するのと同じ機能を有するのに留まるのとは違い、gdebi は APTのようにパッケージ間の依存関係を自動的に解決する機能も併せ持っている点でより優れている。GDebi とも表記される。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "パッケージ管理にはdebconfと呼ばれるフレームワークが用意されており、パッケージ作成者はユーザーに対して簡易のフロントエンドを提供できる。このフレームワークを積極的に利用しているパッケージでは、インストール後にユーザーが行うであろう初期設定の大半を、対話形式の質問に答えていくだけで、インストールと同時に終える事ができる。debconfパッケージ自身もdebconfの設定を有しており、利用するフロントエンドインターフェースと優先度を設定できる。debconfのインターフェースは、対話形式のものから、非対話形式(質問なしで自動設定)なもの、キャラクタベースなものから、グラフィカルなもの、または設定ファイルを直接書き換える用途で使用するエディタまで、ユーザーが自由に選択可能である。優先度はパッケージの各質問毎に設定されており、ユーザが介在しないとシステムが動作しなくなる高レベルのものから、標準で問題ないような些細なものまである。(システムに不慣れなユーザのため)ある優先度より低い設定をすべて標準で済ませ、それらを一切質問させないことも可能である。", "title": "保守の容易さ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "公開は、4種類で行なわれている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "Debianのコードネームは、ディズニー配給の映画「トイ・ストーリー」のキャラクタから取られている。これは、過去にDebianのプロジェクトリーダーを務めたブルース・ペレンズが、トイ・ストーリーを製作したピクサー・アニメーション・スタジオの社員であったためである。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "Debian の「スワール」マーク(意匠)は 1999 年に Raul Silva によって考案された。これはその年に開催されたコンテスト用のものであって、それ以前に使われていた準公式のマークに替わるものとしてデザインされた。 このコンテストの勝者に対して、@debian.org のメールアドレスと、希望するアーキテクチャ用の Debian 2.1 インストール CD のセットが贈られた。マークの意味について Debian プロジェクトから公式な声明は出ていなかったが、 このマークが選ばれた時点では、これはコンピュータを動作させる魔法の煙 (または精霊) を表していることがほのめかされた。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "Debian のこのマークの由来については、最初に命名された Debian のキャラクターとして選ばれた バズ・ライトイヤー(Buzz Lightyear)のあごに渦巻きがあるからだという説がある。Stefano Zacchiroli も、この渦巻きが Debian のものであると示唆している。Debian のコードネームはトイ・ストーリーのキャラクターの名前を付けているので、 バズ・ライトイヤーのスワールが候補となった可能性が高いと思われる。Debian 開発者の Bruce Perens も Pixar の元で働いていた。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "Debianでは、以下のような環境に対応したバイナリ版を作成している。括弧内はプロジェクトでの呼称である。", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以下の環境はかつて対応されていたが、現在では公式には対応されていない(一部の環境では非公式な対応が存在する)。", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "Linuxカーネル以外をカーネルとするものもある。名称の通り、ユーザーランドはGNUの成果物に依存している。", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "まだ正式公開されていない上記以外の環境やカーネル版もいくつかある。", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アーキテクチャ", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "カーネル", "title": "必要環境" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Debian プロジェクトは派生ディストリビューションの重要性を完全に認めており、関係者間の協力を活発に支援している。通常これは、当初派生ディストリビューションで開発されていた改善を Debian が取り込むことを意味する。こうすることで、誰もが恩恵を受けることができ、長期におよぶ保守作業を減らすことになる。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "このため、派生ディストリビューションは [email protected] メーリングリストの議論に参加し、派生物調査に参加するよう勧められている。派生物調査は、派生ディストリビューションの中でなされた作業に関する情報を集めることを目標にしている。こうすることで、公式の Debian 開発者が Debian 派生物内の自分のパッケージの状況をより良く追跡することが可能になる。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "Debianテスト版の派生品一覧に掲載。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "Ubuntu派生品一覧に掲載。 ここでは割愛し、詳細はUbuntu#派生品に記述。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "Debian安定版の派生品一覧に掲載。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "MEPISの派生品一覧に掲載。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "KNOPPIXの派生品一覧に掲載。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "上記のようにDebianはいくつかのディストリビューションの母体として利用されている。Debianの派生品一覧に非掲載であるるものの、以下もその一部である。", "title": "Debian派生のディストリビューション" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "なお、Ubuntuの派生版や、他言語版を含めWikipediaに記事が存在しないものは掲載しない。", "title": "Debian派生のディストリビューション" } ]
DebianまたはDebian ProjectはLinuxディストリビューションのひとつであるDebian GNU/Linuxを中心とするUnix系システムのディストリビューションを作成しているプロジェクトである。名前の通り、GNUプロジェクトの精神の尊重と(そのため、システム全体も一般には単にLinuxと呼ばれる事が多いのに対し、Debianでは「GNU/Linux」という呼称を積極的に使っている。呼称が分かれる経緯についてはGNU/Linux名称論争を参照。)、同プロジェクトによるプロダクトの積極的な採用などが特徴である。Linuxディストリビューションの他、カーネル(核)をLinuxカーネルからGNU HurdやFreeBSDのカーネルに置き換えた、Debian GNU/HurdやDebian GNU/kFreeBSDなどがある。
{{Infobox OS | name = Debian | logo = [[ファイル:Debian-OpenLogo.svg|80px]] | screenshot = File:Debia10-buster-cinnamon-ja.png | screenshot_alt = Screenshot of Debian 10 (buster) with the GNOME desktop environment | caption = Debian 10 (buster) Cinnamon デスクトップ | developer = Debian Project | family = [[Unix系]],[[Linux]] | working_state = 開発中 | source_model = [[FLOSS]] | released = {{Start date|1993|08|16}} | frequently updated = yes <!-- 最新バージョンは[[Template:Latest stable software release/Debian]]。 --> | latest_test_date = N/A | frequently_updated = yes | language = 75言語<ref name="stretch-release-note">{{Cite web|和書|url=https://www.debian.org/releases/stretch/amd64/release-notes/ch-installing.ja.html |title=Debian 9 (stretch) リリースノート (64 ビット PC 用)第3章 インストールシステム |accessdate=2017-06-20 |publisher=Debian |date= 2017-06-17}}</ref> | updatemodel = [[ロングタームサポート|LTS]] | package_manager = [[APT]], [[dpkg]] (その他数種類のフロントエンド) | supported_platforms = [[x86|i386 (i486以降のx86)]]、[[x64|AMD64]]、[[PowerPC]](64ビット版のみ)、[[ARMアーキテクチャ|ARM]]、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]、[[System z|S390]]<ref name="stretch-release-note" />(以下は非公式: [[IA-64]], [[SPARC]], [[MC68000|m68k]], [[DEC Alpha|Alpha]], [[PA-RISC|HPPA]]) | kernel_type = [[モノリシックカーネル|モノリシック]] ([[Linuxカーネル|Linux]], [[FreeBSD]] (''テクノロジープレビュー'')), [[マイクロカーネル|マイクロ]] ([[GNU Hurd]] (非公式)) | userland = [[GNU Core Utilities]] | ui = [[GNOME]], [[KDE]], [[Xfce]], [[LXDE]]など | license = [[Debianフリーソフトウェアガイドライン|DFSG]] ([[GNU General Public License|GNU GPL]]その他)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.debian.org/legal/licenses/ |title=ライセンス情報|publisher=Debian|accessdate=2009-02-28}}</ref> | website = {{Plainlist| * {{URL|https://www.debian.org/}} * {{Onion URL|5ekxbftvqg26oir5wle3p27ax3wksbx{{wbr}}cecnm6oemju7bjra2pn26s3qd}} }} }} '''Debian'''({{pron|ˈdɛbiən}} '''デビアン''')または'''Debian Project'''は[[Linuxディストリビューション]]のひとつである'''Debian GNU/Linux'''を中心とする[[Unix系]]システムのディストリビューションを作成しているプロジェクトである。 名前の通り、[[GNUプロジェクト]]の精神の尊重と(そのため、システム全体も一般には単に[[Linux]]と呼ばれる事が多いのに対し、Debianでは「[[GNU/Linux]]」という呼称を積極的に使っている。呼称が分かれる経緯については''[[GNU/Linux名称論争]]''を参照。)、同プロジェクトによるプロダクトの積極的な採用などが特徴である。 Linuxディストリビューションの他、[[カーネル]](核)を[[Linuxカーネル]]から[[GNU Hurd]]や[[FreeBSD]]のカーネルに置き換えた、[[Debian GNU/Hurd]]や[[Debian GNU/kFreeBSD]]などがある。 == 概要 == [[Linuxカーネル]]、必須なユーティリティ類のutil-linux([[:en:Util-linux]])、プログラムの[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]に必要な[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]や[[GNU Binutils]]、[[GNU Core Utilities|coreutils]]などのその他の[[Unix系]][[ユーティリティ]]をはじめ、その他[[デスクトップ環境]]向けや[[サーバ]]運用向けなど多数の、計51,000以上のパッケージを提供している<ref name="stretch-release-news" />。対象環境として現在10の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ(環境)]]向けに開発されており<ref name="stretch-release-news" />、[[インテル]]や[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]の[[32ビット]]・[[64ビット]][[プロセッサ]]、組み込み機器で使われる[[ARMアーキテクチャ]]などがそれには含まれている。低水準のパッケージ管理システムは[[dpkg]]、高水準のパッケージ管理システムは[[APT]]である。[[デスクトップ環境]]は各種のものがパッケージにあるが、Debian 8では導入時に選べるのは[[GNOME]]、[[Xfce]]、[[KDE]]、[[Cinnamon]]、[[MATE (デスクトップ環境)|MATE]]、[[LXDE]]、[[LXQt]]である。 <gallery> Debian-kde.png|Debian 7 (wheezy) KDE4.8 Plasmaデスクトップ Debian-wheezy-xfce-ja.png|Debian 7 (wheezy) Xfce4.8デスクトップ Debian10_Gnome.png|Debian 10 (buster) GNOME デスクトップ XFCE 4.12.3 on Debian 9.3.png|Debian 9 (stretch) XFCE デスクトップ </gallery> その他の特徴として、Debianを母体として、さらに[[カスタム#パーソナルコンピュータにおけるカスタム|調整や変更]]を加えた派生Linuxディストリビューションの作成が考慮されている、という点がある。派生先には[[Ubuntu]]他多くの派生ディストリビューションが存在する。 インストーラ用のCD/DVD[[ISO_9660|イメージ]]はWebからのダウンロード、[[BitTorrent]]・[[jigdo]]・uNetBootInなどで取得できる。さらに、インストーラーをオンライン再販業者から購入する事も可能である<ref>{{Cite web|和書| first = | last = | accessdate = 2010-11-29 | url = http://www.debian.org/CD/vendors/ | title = Debian CD のベンダ | publisher = www.debian.org }}</ref>。 <gallery> Debian10-installation-menu.png| Debian 10 のインストール・メニュー Debian10-text-installer.png| [[Debianインストーラ]]のテキスト版 Debian10-graphical-installer.png| Debianインストーラの[[視覚|グラフィカル]]版 Debian10-console-login.png| Debian 10 のコンソール・ログイン画面 </gallery> == 歴史 == === 開発・公開履歴 === *[[1993年]][[8月16日]] [[イアン・マードック]]により開始。 *[[1996年]][[6月16日]] Debian 1.1(コード名 buzz)を公開。 *1996年12月12日 Debian 1.2(rex)を公開。 *1997年6月5日 Debian 1.3(bo)を公開。 *[[1998年]][[7月24日]] Debian 2.0(hamm)を公開。 *1999年3月9日 Debian 2.1(slink)を公開。 *2000年8月14−15日 Debian 2.2(potato)を公開。 *[[2002年]][[7月19日]] Debian 3.0(woody)を公開。 *[[2003年]][[8月16日]] プロジェクト発足10周年を迎えた。 *2005年6月6日 Debian 3.1(sarge)を公開。 *[[2007年]][[4月8日]] Debian 4.0(etch)を公開。 *[[2009年]][[2月14日]] Debian 5.0(lenny)を公開。 *[[2011年]][[2月6日]] Debian 6.0(squeeze)を公開。 *[[2013年]][[5月4日]] Debian 7.0(wheezy)を公開。 *[[2015年]][[4月25日]] Debian 8.0(jessie)を公開。 *[[2017年]][[6月17日]] Debian 9.0(stretch)を公開。 *[[2019年]][[7月6日]] Debian 10.0(buster)を公開。 *[[2021年]][[8月14日]] Debian 11.0(bullseye)を公開。 *2023年6月10日 Debian 12.0(bookworm)を公開。 Debian の各版に付けられている開発用コード名は、ディズニー映画「トイ・ストーリー」の登場人物の名前に基づいている。Debian の不安定版は、おもちゃをいつも壊す悪ガキのキャラクターである Sid にちなんでいる。 ===1993年〜1998年=== Debianは[[1993年]]8月16日に当時[[パデュー大学]]の学生であった[[イアン・マードック]]により創設された。 マードックは当初"Debian Linux Release"という名称を付けた<ref>{{cite mailing list | url = https://groups.google.com/g/comp.os.linux.development/c/Md3Modzg5TU/m/xty88y5OLaMJ | title = New release under development; suggestions requested | mailinglist =comp.os.linux.development | date = 1993-08-16 | author = Ian A Murdock }}</ref>。当時"Softlanding Linux System (SLS)"という初のGNU/Linuxディストリビューションが公開されていたが、SLSは保守がお粗末であったり不具合が頻発したためマードックは全く新しいディストリビューションを立ち上げた。 1993年、マードックは"Debianマニフェスト"というこの新しいオペレーティングシステムについての概要を公表した。その中で、このディストリビューションの保守は、LinuxおよびGNUの精神に基づき公開された手法で維持されることを求めた。彼はこのディストリビューションの名称を、ガールフレンド(後の妻)の名前Debra Lynnと自身の名前IanからDebianとした<ref>{{Citation | author = Robin Nixon | year = 2010 | title = Ubuntu: Up and Running: A Power User's Desktop Guide isbn = 978-0-596-80484-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書 | author= GLYN MOODY 小山祐司監訳 | title= ソースコードの反逆 | year=2002 | date=2002-6-11 | publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = 4-7561-4100-5 |page=108}}</ref>。 Debianプロジェクトからは、[[1994年]]から[[1995年]]にかけて0.9版のシリーズが初めて公開された。この期間、[[フリーソフトウェア財団]]の[[GNUプロジェクト]]が支援を行った。1995年には、インテルi386以外の環境に対しても対応が開始されることとなり、[[1996年]]に最初の1.x版が公開された。 1996年には[[ブルース・ペレンズ]]がDebianプロジェクトのリーダーとしてマードックの後任に就いた。同年開発者のEan Schuesslerは、Debianプロジェクトがその利用者に対して社会的な契約を交わすべきであるとの提案を行った。これに関してDebianプロジェクトの[[メーリングリスト]]で行われた議論は、プロジェクトについての「[[Debian社会契約]]」と「[[Debianフリーソフトウェアガイドライン]] (DFSG)」にまとめられた。ペレンズは、[[Software in the Public Interest]] (SPI) というDebianプロジェクトを公式に支え、プロジェクトを統括する[[非営利組織]]の創設にも関わった。 ペレンズは、[[GNU Cライブラリ|glibc]]移行後初めての版となったDebian 2.0が公開される直前にDebianプロジェクトを引退した。 ===1999年〜2004年=== この時期、Debianプロジェクトは新たなリーダーを選出し、2.x を公開した。この時期に[[APT]]が初めて導入され、[[Debian GNU/Hurd]]というLinuxカーネル以外の開発も始められた。[[1999年]]にはDebianを母体とするディストリビューションも現れ始めた。[[Libranet]] ([[2006年]]に開発停止<ref>{{cite web | first = Tal | last = Danzig | accessdate = 2010-11-30 | url = https://web.archive.org/web/20060617224800/http://forum.libranet.com/viewtopic.php?t=9559 | title = Current status | publisher = forum.libranet.com ([[インターネットアーカイブ]])}}</ref>)、[[Corel Linux]] そして Stormixによる[[Storm Linux]]である。 特筆すべきは、[[2000年]]に公開された2.2版(コードネーム: potato)で、この版はlibc等重要なパッケージの保守で、[[デュシェンヌ型筋ジストロフィー]]のため亡くなった、Joel 'Espy' Kleckerに捧げられた<ref name="potato"></ref>。 2000年後半には、プロジェクトはパッケージアーカイブとリリースマネージメントに関する大きな変革を行い、「パッケージプール」方式と次期stable版の土台となる"testing"版の導入が開始された。また同年には全世界のDebian開発者・技術者を集めて年1回開催される[[DebConf]](Debianカンファレンス)が開かれるようになった。 この頃[[コーレル|Corel]]はLinux部門を売却 (後に[[Xandros]]となっている) 、Stormixは[[2001年]]破産を宣告されている。 [[2002年]]7月、Debian 3.0 (コードネーム: woody)が公開された。(遡ることver.1.1から、Debianは公開の際に映画[[トイ・ストーリー]]のキャラクター名をコードネームとして採用し現在に至る。) 3.0(woody)公開後、次期版3.1(sarge)まで、およそ3年という長期に渡る空白期間が存在する。主な理由として、potatoからwoody以後にかけて、パッケージ数が2倍程に増加、またwoodyでの対応環境も増加したため、公開直後からこれに伴うバグが飛躍的に増大した点がある。とりわけリリースクリティカルバグが事実上すべて解消されない限り公開できないため、公開日程に多大なる影響を与えた。パッケージメンテナのバグに対する考え方は温度差があり、たとえば特定の言語のみ発生するバグならば、そのメンテナがバグ対象の言語圏でも無い限りバグを修正することに対する意欲を持つことは少ない。コミュニティによるボランティアを作業基盤とするDebian特有の問題とも言える。 しかし、長くなっていく公開間隔について、フリーソフトウェアコミュニティから疑問の声が上がった。Debianのsargeリリース直前には、実際にDebian開発者の1人であった[[マーク・シャトルワース|Shuttleworth]]が主導して[[Ubuntu]]というプロジェクトを派生させた。Shuttleworthが雇っているUbuntu開発者の多くは、かつてはDebianボランティアだったか、または今もDebianに関わっている人々である。多くの場合、Ubuntu開発者として([[カノニカル|Canonical]]を通して)雇われた人々はDebianでも同じパッケージの管理をしている<ref>{{Cite web|和書|title=DebConf6:Debianユーザのための激しく刺激的で熱い取り組み {{!}} OSDN Magazine|url=https://mag.osdn.jp/06/05/25/0324244|website=OSDN|accessdate=2020-04-09|language=ja}}</ref>。この点については本人も公式サイト<ref>{{Cite web|title=MarkShuttleworth - Ubuntu Wiki|url=https://wiki.ubuntu.com/MarkShuttleworth#Is_Ubuntu_a_Debian_fork.3F_Or_spoon.3F_What_sort_of_silverware_are_you.2C_man.3F|website=wiki.ubuntu.com|accessdate=2020-04-09}}</ref>で「Debian の開発者の中には、Ubuntu で仕事のほとんどをするようになった人も確かにいます。また、Ubuntu と Debian で同じように仕事をしている開発者もいます。」としてそれを認めている。Debian の創立者、Ian Murdochは、Ubuntu の人気が Debian 派生のディストロのために良い兆しだとは考えていない。それは、Ubuntu 用に作られたパッケージが Sarge上で動作しないことが多いことを挙げている。Murdochは、Ubuntuが本当にDebianと互換性があった場合、開発のための作業のエネルギーの全てをSargeに向けられる可能性があり、それが本当に全体として見た場合、Debianの開発システムに利益をもたらすと主張している<ref>{{Cite web|title=Sarge vs. The Hoary Hedgehog? - InternetNews.|url=http://www.internetnews.com/dev-news/article.php/3496541|website=www.internetnews.com|accessdate=2020-04-09}}</ref>。したがって、当時のこうした混乱状況がsargeの開発をさらに遅らせることになったといえる。 その後、Debianから派生したUbuntuは多数の常勤の開発者によって開発されるところとなり、次第に影響力を増していった。しかし、ブラジル人のDebian開発者、Otavio Salvador は、「「ユーザはUbuntuを信用しているが、ユーザには安定したパッケージを提供する必要がある」 という考えにUbuntuが[[コミット (バージョン管理)]]しているかどうか、確信が持てない。」と述べている。また彼は、Shuttleworth個人に対しても不信感を抱いており、露骨に「言動が一致していない」と非難し、「品質対公開日程の問題で溝が深まったことでUbuntuとDebianの関係はひどいものになっている。」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=DebConf6:Debianユーザのための激しく刺激的で熱い取り組み {{!}} OSDN Magazine|url=https://mag.osdn.jp/06/05/25/0324244|website=OSDN|accessdate=2020-04-09|language=ja}}</ref>。このように、Ubuntuに対する評価は分かれている。 Debianのstable開発の長期化と派生であるUbuntuの誕生は、Debianコミュニティに対する意識を変化させ、Debian 4.0(コードネーム: etch)以降の版に対しての公開日程を含むいくつかの改善をもたらしたのは確かである。[[2011年]]現在では両コミュニティにおいて、バグ修正の取扱いなど相互交流もある<ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.ubuntulinux.jp/community/ubuntustory/debian | title = DebianとUbuntu {{!}} Ubuntu Japanese Team | publisher = www.ubuntulinux.jp | accessdate = 2011-04-13 | quote = 開発コミュニティ }}</ref>。 ===2005年以降=== [[File:Debian Etch-ja.png|thumb|250px|Debian 4.0 Etch (2007)]] [[2005年]]6月、Debian 3.1(コードネーム: sarge)が公開された。小規模な改良(バージョン番号が小数部の増加に留まる)にも関わらず、この正式版では数多くの変更が実施されたが、それは一つ前の版woodyからsarge公開までの期間が長かったことが原因である。この版では70%以上のソフトウェアが更新の対象となっただけではなく、ソフトウェアの容量も増加した。新規のインストーラーが導入され、40ヶ国語にも及ぶ言語に対応するようになった。 このリリースでは、woody以前のインストーラである、"boot-floppies"を[[Debianインストーラ]]と呼ばれる[[モジュール#ソフトウェア|モジュラー]]設計の新しいインストーラで置き換えた。この新しいインストーラは高度な導入方法に対応しており、[[RAID]]、[[XFS]] そして[[論理ボリュームマネージャ|LVM]]にも対応している。またハードウェア検知能力に優れるため、Linuxのインストールに不慣れな者でもインストールできるようになっている。インストーラは約40ヶ国の言語で完全なソフトウェアレベルでの国際化を実現している。インストール[[マニュアル]]と包括的なリリースノートはそれぞれ10と15の言語に翻訳され公開されている。 このときの公開では、Debianプロジェクトの各サブプロジェクトの取り組みも含まれており、[[Debian-Edu]] ([[Skolelinux]])、[[Debian-Med]]、[[Debian-Accessibility]]がそれに当たる。Skolelinuxは学校教育において有用なソフトウェアのパッケージを作成しDebianアーカイブに収録、また教育現場へのDebianの利用促進を行うプロジェクトである。Debian-Medは医療現場におけるDebianの利用促進や医療用ソフトウェアの作成、パッケージ化を担っている。Debian-AccessibilityはDebianシステムやDebianプロジェクトのWebサイトの[[アクセシビリティ|利便性]]向上や[[障害者]]に対するDebianの利用を支援するプロジェクトで、その一部は[[視覚障害者]]のための[[点字ディスプレイ|ブライユ端末]]上における導入支援などがある。 [[File:Iceweasel icon.svg|thumb|64px|left|[[Iceweasel]] logo]] [[2006年]]、[[ウェブブラウザ]]や[[メーラー]]といった [[Mozilla]]関連のソフトウェア名が商標上の問題によって変更された。[[Mozilla Firefox|Firefox]] は、[[Iceweasel]] へ、[[Mozilla Thunderbird|Thunderbird]] は [[Icedove]] へといったように変わった。これはMozilla Foundationの要請によりDebianプロジェクトでMozilla Firefoxの名称が使えなくなったことによる。 [[2007年]]4月8日、Debian 4.0(コードネーム: etch)が公開された。GUIインストールが公式に対応されている。この公開版では新たにAMD64に対応した一方、Debian初のx86以外の対応環境であったm68kは公式に非対応となった(但し非公式ながら動作する)。 [[2009年]]2月14日、Debian 5.0(コードネーム: lenny)が公開された。開発期間は22ヶ月。25000以上のソフトウェア・パッケージが収録された。新たに[[マーベル・テクノロジー・グループ]]が販売しているARM基盤の[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]、[[:en:Orion (system-on-a-chip)|Orion]][[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]と[[Eee PC|Asus Eee PC]]のような[[ネットブック]]に対応した。この版はMIPSアーキテクチャメンテナで[[2008年]]12月26日に交通事故で亡くなったThiemo Seuferに捧げられた<ref>{{Cite web|和書| first = | last = | accessdate = 2010-11-29 | url = http://www.debian.org/News/2008/20081229 | title = Debian プロジェクトは Thiemo Seufer さんの死に哀悼の意を捧げます | publisher = www.debian.org }}</ref><ref name="lenny released">{{Cite web|和書|url=http://www.debian.org/News/2009/20090214 |title=Debian GNU/Linux 5.0 がリリース |accessdate=2009-02-15 |publisher=Debian |date= 2009-02-14}}</ref>。 [[2010年]]9月5日、公式にバックポートサービス (Debian Backport) を開始した。 [[File:Debian 6.0.2.1.png|thumb|250px|Debian 6.0 Squeeze (2011)]] [[File:Screenshot-debian_wheezy_ja.png|thumb|250px|Debian GNU/Linux 7.5<br />(GNOMEデスクトップ)]] 5.0公開からほぼ2年経った[[2011年]]2月6日、Debian 6.0(コードネーム: squeeze)が公開された。[[FreeBSD]]カーネル([[Debian GNU/kFreeBSD]])が「テクノロジープレビュー」としてこの版から正式に対応されたが、その一方でalphaとhppa、armの3つの環境がこの版から公式に非対応となった。 6.0公開から2年以上経過した[[2013年]]5月4日、Debian 7.0(コードネーム: wheezy)が公開された。この版からarmhfとs390xの2つの環境に正式対応されることとなった。 [[2014年]]4月24日、Debian 6.0の保守が2016年2月まで延長されることが発表され<ref name="squeeze-lts-announce"> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2014/20140424 | title = Debian -- News -- Long term support for Debian 6.0 Announced | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref>、[[2014年]]6月16日より長期サポート(LTS)期間に入った<ref name="squeeze-lts"> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2014/20140616 | title = Debian -- News -- Debian 6 debuts its long term support period | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref>。 [[2015年]]4月25日、Debian 8.0(コードネーム: jessie)が公開された。この版よりAArch64([[64ビット]]版ARM環境)とPOWER 64 ビットリトルエンディアン版が正式対応された。またs390 環境の対応が終了し、s390xに置き換えられた。なお、ia64 および sparc が、開発者不足から、正式版に含まれなくなった。 [[2017年]][[6月17日]]、Debian 9.0(コードネーム: stretch)が公開された。この版より64 ビットリトルエンディアン MIPSが対応環境に追加された。逆に[[32ビット]]版PowerPCがサポートされる対応環境から外れた(PowerPC 64ビット版は引き続き保守が継続される)。 [[2019年]][[7月6日]]、Debian 10.0(コードネーム: buster)が公開された。 [[2021年]][[8月14日]]、Debian 11.0(コードネーム: bullseye)が公開された。<ref name="debian_11_released" /> == プロジェクトの組織構成 == プロジェクトは、世界中の有志の開発者によって構成されている。プロジェクトには誰でも参加できるが、正規の開発者になるためには、技術的なチェックを受ける必要がある。2020年11月現在、1100名以上<ref>http://db.debian.org/</ref>のメンバーがいる。日本人の開発者は40人ほどである。 プロジェクトの抱負として、Debian社会契約<ref>http://www.debian.org/social_contract</ref>を掲げている。Debian社会契約は、プロジェクトが遵守すべき事項を定めたもので、[[1997年]][[7月5日]]に採択された。その中の[[Debianフリーソフトウェアガイドライン]] (DFSG) は、Debianにおける[[ソフトウェア]]評価基準となっており、このガイドラインに適合しない、フリーではないと評価されたソフトウェアは、Debianの一部として提供されることはない。 プロジェクト内の意思決定はDebian憲章<ref>http://www.debian.org/devel/constitution</ref>の下で行なわれる。Debian憲章は、組織構成やその権限、投票にかけるまでの手続きなどを定めたもので、[[1998年]][[12月2日]]に採択された。 このことから、Debianプロジェクトは独立した非中央集権的な組織である。また他のGNU/Linuxディストリビューション(例えば、Ubuntu、openSUSE、Fedora、そしてMandriva)のように企業が所有するものではない。 にも関わらず、プロジェクトの生産付加価値は極めて高く、Debian 4.0 (etch)版に含まれる全パッケージ開発コストを例にとると、コード総数2億8300万行、[[COCOMO]]モデル([[:en:COCOMO]])を使用した生産価値評価は130億米ドルにのぼるとされる<ref>{{cite web | first = Terry | last = Hancock | accessdate = 2008-10-31 | url = http://www.freesoftwaremagazine.com/books/mihrfc/impossible_thing_1_developing_efficient_free_software_like_gnu_debian | title = Impossible thing #1: Developing efficient, well engineered free software like Debian GNU/Linux | publisher = www.freesoftwaremagazine.com }}</ref>。[[2009年]]4月2日、オンラインコミュニティサイト[[Ohloh]]はある時点でのDebian GNU/Linuxプロジェクトのコードベース(コード総数4500万行)をCOCOMOモデルを用いて評価したところ、開発コストは約8億1900万米ドルになると推計した<ref>[http://www.ohloh.net/p/debian Ohloh.net], Debian GNU/Linux</ref>。Debian 5.0 (lenny) リリースに関して、Juan José Amorらの推計によると、有効なコード総数は324,000,000行、COCOMOモデルによる生産価値評価は61億ユーロにのぼるとされる<ref>{{cite web | first = Juan | last = Amor | accessdate = 2010-11-29 | url = http://gsyc.es/~frivas/paper.pdf | title = Measuring Lenny: the size of Debian 5.0 | publisher = GSyC/Libresoft, [[レイ・フアン・カルロス大学|Universidad Rey Juan Carlos]] ([[:en:King Juan Carlos University|King Juan Carlos University]])}}</ref>。 無論こうしたDebianに関するコミュニティの門戸の広さは、全く問題がないわけではなく、以前には、「一部ユーザによる礼儀知らずな行為」とコミュニティの意思決定の遅さが批判されたことがある<ref>{{Cite web|和書| first = Bruce | last = Byfield | accessdate = 2010-11-30 | url = http://sourceforge.jp/magazine/06/09/06/0929250 | title = 保守担当者の辞任で明らかになったDebianプロジェクトの問題 | publisher = NewsForge, [[SourceForge.JP]] Magazine}}</ref>。 {{Main|DebConf}} 毎年、Debianカンファレンス<ref>http://www.debconf.org/</ref> (通称[[DebConf]]) が開催される。Debianカンファレンスは、世界中のDebian開発者が直接会談する場で、[[2000年]][[7月5日]]に初めて開催された。資金面などの多くの障害があるため、今のところ日本で開催されたことはないが、有志によって開催が検討されている<ref>http://wiki.debian.org/DebConfInJapan</ref>。 ===プロジェクトリーダー=== Debianプロジェクトリーダー(Debian Project Leader; DPL)はプロジェクトの公的な代表者であり、プロジェクトの現在の方向性を決める立場にある<ref> [http://www.debian.org/devel/leader What does a Debian Project Leader do] www.debian.org </ref>。プロジェクトは次のリーダーを選出してきた:<ref> {{cite web | url = http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ch-leaders | title = A Brief History of Debian Chapter 2&nbsp;– Leadership | accessdate = 2008-11-01 | publisher = Debian}} </ref> # [[イアン・マードック]] (1993年8月&nbsp;– 1996年3月), Debianプロジェクト創設者 # [[ブルース・ペレンズ]] (1996年4月&nbsp;– 1997年12月) # [[イアン・ジャクソン]] (1998年1月&nbsp;– 1998年12月) # [[ウィヘルト・アッカーマン]] (1999年1月&nbsp;– 2001年3月) # [[ベン・コリンズ (プログラマー)|ベン・コリンズ]] (2001年4月&nbsp;– 2002年4月) # [[ビーデール・ガービー]] (2002年4月&nbsp;– 2003年4月) # [[マーチン・マイケルメイヤー]]{{訳語疑問点|date=2011年6月}} ([[:en:Martin Michlmayr|Martin Michlmayr]]) (2003年3月&nbsp;– 2005年3月) # [[ブランデン・ロビンソン]] ([[:en:Branden Robinson|Branden Robinson]]) (2005年4月&nbsp;– 2006年4月) # [[アンソニー・タウンズ]] (2006年4月&nbsp;– 2007年4月) # [[サム・オセヴァール]]{{訳語疑問点|date=2011年6月}} ([[:en:Sam Hocevar|Sam Hocevar]]) (2007年4月&nbsp;– 2008年4月) # [[スティーブ・マッキンタイアー]] (2008年4月&nbsp;– 2010年4月) # [[ステファノ・ザッキローリ]] (2010年4月&nbsp;– 2013年4月) # Lucas Nussbaum(2013年4月&nbsp;– 2015年4月) # Neil McGovern(2015年4月&nbsp;– 2016年4月) # Mehdi Dogguy(2016年4月&nbsp;– 2017年4月) # Chris Lamb(2017年4月&nbsp;– 2019年4月) # Sam Hartman(2019年4月&nbsp;– 2020年4月) # Jonathan Carter(2020年4月&nbsp;– 現職) 補佐的な役職として、アンソニー・タウンズにより''Debian Second in Charge'' (2IC; 副リーダー)が創設された。スティーブ・マッキンタイアーは2006年4月から翌2007年4月までこの役職に就いている。2009年4月からはLuk Claesがその地位にいる。現プロジェクトリーダー、ステファノ・ザッキローリは、2ICを選出しない旨DPL選挙の際に宣言していた<ref> {{cite web | url = http://www.debian.org/vote/2010/platforms/zack | title = DPL Platform - Stefano Zacchiroli | accessdate = 2010-04-16 | publisher = Debian }}</ref>。 ===開発マネージャ=== * Brian C. White (1997–1999) * Richard Braakman (1999–2000) * [[アンソニー・タウンズ]] (2000–2004) * Steve Langasek, Andreas Barth そして Colin Watson (2004–2007) * Andreas Barth と Luk Claes (2007–2008) * Luk Claes と Marc Brockschmidt (2008–2009) * Luk Claes と Adeodato Simó (2009–2010) * Adam D. Barratt と Neil McGovern (2010–現職)<ref> {{cite web | url = http://lists.debian.org/debian-devel-announce/2010/08/msg00000.html | title = Bits from the (chilly) release team | accessdate = 2011-02-11 }}</ref> 注意すべきことに、上記リストにはアクティブな開発マネージャーのみ含まれている。[[2003年]]から導入された、開発アシスタント、そして引退したマネージャー("release wizards"と呼ばれる)はここには含まれていない<ref name="releasemanagers"> {{cite web | url = http://www.debian.org/intro/organization | title = The Debian organization web page | accessdate = 2008-11-01 | publisher = Debian }}</ref>。 == 保守の容易さ == === APT === {{Main|APT}} [[File:Debian 7 Aptitude Package Details.png|thumb|Using [[Aptitude]] to view Debian package details]] [[File:Debian-aptitude.png|thumb|Package installed with Aptitude]] Debianの特長として、[[メンテナンス|保守]]の単純さがある。[[パッケージ管理システム]]を備えており、ひとたび[[インストール|導入]]が終了すれば、パッケージマネージャの''APT (Advanced Package Tool)'' により、[[ソフトウェア]]の更新が行える。パッケージの導入は、[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]関連の更新や[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]相互の依存性確認も含めて、[[仮想端末]]([[コンソール]])より容易に操作できる。 パッケージの依存関係には、大きく分けて、''depends(依存)''、''recommends(推奨)''、''suggests(提案)'' という3種類の項目が設定されており、動作に必須なものがdepends、動作に必須ではないが常識的に必要とするものがrecommends、組み合わせる事で更に便利に使えるものがsuggestsに指定されている。lenny以前では、apt-getは、depends以外の項目を上手に扱えなかった。これらの項目を最大限生かす事ができるaptitudeの使用がSarge以降では勧められていた。Squeezeではこの点は改善された<ref>http://www.debian.org/releases/squeeze/i386/release-notes/ch-whats-new.ja.html#pkgmgmt</ref><ref>http://www.debian.org/releases/squeeze/i386/release-notes/ch-upgrading.ja.html#upgrading-full</ref>。さらに、自動削除に対応するようにも更新された<ref>http://www.debian.org/doc/manuals/debian-reference/ch02.ja.html</ref>。 APTには補助的機能を追加する[[フロントエンド]]が数多く提供されており、以下ではaptitudeを含めた幾つかのフロントエンドを紹介する。 ==== aptitude ==== {{Main|aptitude}} ==== GUIフロントエンド ==== [[ファイル:Screenshot-Synaptic ja.png|thumb|Synaptic]] [[ファイル:Screenshot-apt-watch notification.png|thumb|apt-watch の自動更新通知]] <!--[[画像:Screenshot-update-manager-ja.png|thumb|update-manager]]--> [[ファイル:Updates-notification-icon.png|thumb|Update Notifier の自動更新通知]] 扱いやすい[[ユーザーインターフェイス]]は複数存在する。 一般的に良く知られる代表としては、Debianだけでなく RPM系のディストリビューションでも使われている [[Synaptic]](シナプティック)がある。Synapticは、apt-getコマンドを使用せずにシステムの更新が全てマウスで直感的に行えるだけでなく、ソフトウェアの削除機能も備えている。 「apt-watch(アプト-ウォッチ)」は、デスクトップで使用するユーザーにとって、アップデートの公開を直ちに通知してくれる[[アプレット]]として極めて有効なツールである。apt-watch は、より簡易にパッケージの管理を実現するツールとして開発されたアプリケーションである。これは、ネットワークに接続し、アップデータを定期的に監視するアプレットであり、アップデータが利用可能となった時には、クライアントに自動的に更新の通知を行う。Windows Updatesや Red Hat Network と同様な機能を持っている。 4.0 (Etch) では、apt-watch に加えて新たに update-manager も用意された。これは、[[GNOME]]デスクトップ環境で利用可能なパッケージの管理ツールである。この update-manager は、Update Notifier と呼ばれるデスクトップ上のアプレットと組み合わせて利用することができる。機能的には apt-watch と似ているが、APT keyring を管理する仕組みが追加されている。なお、Update Notifier は GNOME や [[KDE]]、[[Xfce]] など [[Freedesktop.org]] 準拠の全てのデスクトップ環境で動作するように設計されている。 ただしこれらもアップデートの実際の内部処理は、APT が機能しているので、apt-get コマンドを実行することと大差は無い。 === gdebi === [[ファイル:Screenshot-Package Installer.png|thumb|GDebi パッケージ・インストーラー]] Debian 4.0 では、グラフィカルなパッケージ・インストーラーが新たに提供された。このインストーラーを利用すれば、ローカルに保存した Debianパッケージがコマンド操作なしでインストール可能である。[[Red Hat Linux]] で初めて採用された GNOME-RPM<ref>http://www.jp.redhat.com/support/manuals/RHL62/ref-guide/ch-gnorpm.html</ref> (あるいは gnorpm とも) というグラフィカルなインストーラーと好対照を成すツールであるが、GNOME-RPM がシェルプロンプトから RPMコマンドを実行するのと同じ機能を有するのに留まるのとは違い、gdebi は APTのようにパッケージ間の依存関係を自動的に解決する機能も併せ持っている点でより優れている。GDebi とも表記される。 === debconf === パッケージ管理には[[debconf (ソフトウェアパッケージ)|debconf]]と呼ばれる[[アプリケーションフレームワーク|フレームワーク]]が用意されており、パッケージ作成者はユーザーに対して簡易のフロントエンドを提供できる。このフレームワークを積極的に利用しているパッケージでは、インストール後にユーザーが行うであろう初期設定の大半を、対話形式の質問に答えていくだけで、インストールと同時に終える事ができる。debconfパッケージ自身もdebconfの設定を有しており、利用するフロントエンドインターフェースと優先度を設定できる。debconfのインターフェースは、対話形式のものから、非対話形式(質問なしで自動設定)なもの、[[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクタ]]ベースなものから、[[グラフィカルユーザインタフェース|グラフィカル]]なもの、または設定ファイルを直接書き換える用途で使用するエディタまで、ユーザーが自由に選択可能である。優先度はパッケージの各質問毎に設定されており、ユーザが介在しないとシステムが動作しなくなる高レベルのものから、標準で問題ないような些細なものまである。(システムに不慣れなユーザのため)ある優先度より低い設定をすべて標準で済ませ、それらを一切質問させないことも可能である。 == 種類 == [[File:Debian10-CD-Cover.png|thumb|A Debian 10.0 Buster box cover]] 公開は、4種類で行なわれている。 # 安定版 (stable):これは、厳密に安定性を検証した版で公式の公開となる。公開は2009年より2年の間隔をもっておこなわれ、日程を決定することにより奇数年の12月に固定し、翌年の偶数年前半に公開される<ref>Debian -- ニュース -- Debian は時間ベースのリリースフリーズを採用します: https://www.debian.org/News/2009/20090729</ref>。 #* ソフトウェアの[[セキュリティホール]]や[[バグ]]の修正は、主に上流から修正コードをバックポートする事で行なわれる。そのため、ソフトウェアのメジャーバージョン(例: '''1'''.0.0→'''2'''.0.0)やマイナーバージョン(例: 1.'''0'''.0→1.'''1'''.0)が更新されることは滅多になく、ビルドバージョン(例: 1.0.'''0'''→1.0.'''1''')かパッケージ番号(例: 1.0.0+deb8u'''1'''→1.0.0+deb8u'''2''')が更新されることがほとんどである。 #* 安定版に含まれるソフトウェアは上述のとおりメジャー/マイナーバージョンアップされることが滅多にないが、テスト版や不安定版のパッケージを安定版向けにリビルドし、backportsパッケージとして提供されているソフトウェアが一部存在する。これにより、新版のソフトウェアをソースコンパイルすることなく、パッケージ管理下で使用することが可能になる。 #* 不定期に新しい[[バージョン#コンピュータ・ソフトウェア|リビジョン]]が公開される。この公開版はそれまでの更新を包含して提供される小規模バージョンアップデートであり、構成を変えるものではない。8.0、8.1、8.2に対して8.3公開時までの全ての更新を適用すると、8.3と同じものになる。 #* リビジョンは下記の形式で示される。 #** 4.0(etch)以前: バージョン番号の末尾の"r'''N'''"表記(N = 0, 1, 2, ...)。例えば、3.1版4回目のアップデートは、3.1'''r3'''。 #** 5.0(lenny)以降: バージョン番号の小数第二位の値。例えば、5.0版4回目のアップデートは、5.0.'''4'''。 #** 7.0(wheezy)以降: バージョン番号の小数第一位の値。例えば、7.0版4回目のアップデートは、7.'''4'''。 #* 次の安定版が公開されると、それまでの安定版は一般に「旧安定版」(oldstable) と呼ばれて区別される。 #* セキュリティアップデートは、次の安定版が公開された後も、そのまま一年間は継続して提供される。 #** 6.0(squeeze)以降は、旧安定版のLTS(Long Term Support)が実施されるようになった<ref name="lts">{{cite web | url = https://wiki.debian.org/LTS | title = LTS | publisher = Debian | accessdate = 2020-02-22 }}</ref>。Debian LTS teamによって、安定版としての最初の公開日から少なくとも5年後までセキュリティサポートが提供される。 # テスト版 (testing):次期の安定版となる公開テスト中の版である。次に説明する不安定版で一定期間致命的なバグが発見されなかったパッケージが、自動的にテスト版に組み入れられる。 #* デスクトップなどで使う分には支障のない程度の安定度を持っていると言われ、最新のデスクトップを使いたい場合は、このテスト版を使うことが多いようである。だがパッケージ更新が機械的に行なわれるため、依存関係が壊れやすい。 #* 公開が近付くと段階的に固定され、この自動処理が止められる。すべてのRCバグ (Release Critical Bug。安定版として致命的なバグ) が無くなったとき、テスト版は安定版として公開される。 #* テスト版が安定版として公開される時期が近付くとセキュリティアップデートの提供が始まる。それ以前は提供されない。だが、2005年9月より、Debian開発者の有志らがDebian Testing Security Teamを結成し、非公式な形でテスト版向けのセキュリティアップデートを提供している。 # 不安定版 (unstable):これは、開発者向けの版である。コードネームは不変で「''sid''」と呼ばれる。 #* 通常新規パッケージはこの版に投入される。セキュリティのアップデートは提供されないが、パッケージの更新サイクルが早いため、セキュリティの問題も比較的早く取り除かれる。またテスト版とは違い、DSA (Debian Security Advisory) によってどのバージョンから当該セキュリティホールが塞がれているか告知される。 <!-- # 旧安定版(oldstable): --> # 実験版 (experimental):これは、影響が大きなパッケージ群が、不安定版に入れる前に一時的に置かれて、不安定版との組合せによりしばらく実験が行われる。experimentalだけで全ての導入を行うことは出来ず、他の版との組み合わせにより動く。 <!-- # volatile: # backports.org: --> Debianのコードネームは、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]配給の映画「[[トイ・ストーリー]]」のキャラクタから取られている。これは、過去にDebianのプロジェクトリーダーを務めた[[ブルース・ペレンズ]]が、トイ・ストーリーを製作した[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]の社員であったためである。 == 公開/開発履歴 == {{Main article|Debianのバージョン履歴}} {| class="wikitable" style="float:center;" |- ! 凡例 |- | style="background-color:#FFE6E6;" | 保守終了(過去の版) |- | style="background-color:#FFFFE6;" | 保守継続 |- | style="background-color:#E6E6FF;" | 現行版 |} {| class="wikitable" style="width:100%; font-size:90%;" ! rowspan=2 | バージョン ! rowspan=2 | [[コードネーム]] ! rowspan=2 style="width:8em" | 公開日 ! rowspan=2 | [[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]数 ! rowspan=2 | [[カーネル]]数 ! rowspan=2 | パッケージ数 ! colspan=2 style="white-space:nowrap;"| 保守期限 ! rowspan=2 | 特記事項 |- ! style="width:8%" |通常 ! style="width:8%" |LTS |---- | 1.1 | ''buzz'' | align="right" | 1996年6月17日 | rowspan="3" align="right" | 1 | rowspan="10" align="right" | 1 | align="right" | 474 | colspan="2" rowspan="6" style="background-color:#FFE6E6;" |No | {{Mono|dpkg}}、[[Executable and Linkable Format|ELF]]へ移行、Linux 2.0<ref>{{cite web | url = http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ch-detailed.en.html#s4.2 | date = 2007-04-03 | accessdate = 2007-04-26 | title = A Brief History of Debian, 4.2: the 1.x Releases | quote = 1.1 ''Buzz'' released June 1996 (474 packages, 2.0 kernel, fully ELF, dpkg)}}</ref> |- | 1.2 | ''rex'' | align="right" | 1996年12月12日 | align="right" | 848 | rowspan="2" | - |- | 1.3 | ''bo'' | align="right" | 1997年6月2日 | align="right" | 974 |- | 2.0 | ''hamm'' | align="right" | 1998年7月24日 | align="right" | 2 | align="right" | ~&nbsp;1500 | [[GNU Cライブラリ|glibc]]へ移行、新アーキテクチャ: {{Mono|m68k}}<ref>{{cite web | url=http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ch-detailed.en.html#s4.3 | date = 2007-04-03 | accessdate = 2007-04-26 | title = A Brief History of Debian, 4.3: the 2.x Releases | quote = Debian 2.0 (''Hamm'') was released July 1998 for the Intel i386 and Motorola 68000 series architectures. This release marked the move to a new version of the system C libraries (glibc2 or for historical reasons libc6).}}</ref> |- | 2.1 | ''slink'' | align="right" | 1999年3月9日 | align="right" | 4 | align="right" | ~&nbsp;2250 | {{Mono|APT}}、新アーキテクチャ: {{Mono|alpha}}, {{Mono|sparc}}<ref>{{cite web | url=http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ch-detailed.en.html#s4.3 | date = 2007-04-03 | accessdate = 2007-04-26 | title = A Brief History of Debian, 4.3: the 2.x Releases | quote = this release of Debian was the first to require 2 CD-ROMs for the "Official Debian CD set"}}</ref> |- | 2.2 | ''potato'' | align="right" | 2000年8月15日 | align="right" | 6 | align="right" | ~&nbsp;3900 | 新アーキテクチャ: {{Mono|arm}}, {{Mono|powerpc}}<ref name="potato">{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-announce/debian-announce-2000/msg00009.html | title = Debian GNU/Linux 2.2, the "Joel 'Espy' Klecker" release | mailinglist = debian-announce | date = 2000-08-15 | accessdate = 2008-10-04 | author = Martin Schulze }}</ref> |- | 3.0 | ''woody'' | align="right" | 2002年7月19日 | rowspan="3" align="right" | 11 | align="right" | ~&nbsp;8500 | colspan=2 style="background-color:#FFE6E6;" |2006年6月30日<ref> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2006/20060601 | title = Debian -- News -- Security Support for Debian 3.0 to be terminated | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref> | 新アーキテクチャ: {{Mono|hppa}}, {{Mono|ia64}}, {{Mono|mips}}, {{Mono|mipsel}}, {{Mono|s390}}<ref>{{cite web | url=http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ch-detailed.en.html#s4.4 | date = 2007-04-03 | accessdate = 2007-04-26 | title = A Brief History of Debian, 4.4: the 3.x Releases | quote = This is the first release including HP PA-RISC, IA-64, MIPS, MIPS (DEC) and IBM s/390 ports.}}</ref> |- | 3.1 | ''sarge'' | align="right" | 2005年6月6日 | align="right" | ~&nbsp;15400 | colspan=2 style="background-color:#FFE6E6;" | 2008年3月31日<ref> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2008/20080229 | title = Debian -- News -- Security Support for Debian 3.1 to be terminated | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref> | モジュラーインストーラー、半公式{{Mono|amd64}}対応 |- | 4.0 | ''etch'' | align="right" | 2007年4月8日 | align="right" | ~&nbsp;18000 | colspan=2 style="background-color:#FFE6E6;" | 2010年2月15日 <ref> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2010/20100121 | title = Debian -- News -- Security Support for Debian 4.0 to be terminated | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref> | グラフィカルインストールサポート、[[udev]]へ移行、モジュラー[[X.Org Server|X.Org]]へ移行、新アーキテクチャ: {{Mono|amd64}}、脱落アーキテクチャ: {{Mono|m68k}}<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-announce/debian-announce-2007/msg00002.html | title = Debian GNU/Linux 4.0 released | mailinglist = debian-announce | date = 2007-04-08 | accessdate = 2008-10-04 | author = Alexander Schmehl }}</ref> 最終版は、[[2010年]][[5月22日]]に公開された、4.0r9<ref>{{cite web | title = Debian Wiki DebianEtch | publisher = Debian | url = http://wiki.debian.org/DebianEtch | accessdate = 2009-02-10 }}</ref>。 |- | 5.0 | ''lenny''<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-devel-announce/2006/11/msg00004.html | title = testing d-i Release Candidate 1 and more release adjustments | mailinglist = debian-devel-announce | date = 2006-11-16 | accessdate = 2008-10-04 | author = Steve Langasek }}</ref> | align="right" | 2009年2月14日 | align="right" | 11{{Ref label|lenny|A|A}} | align="right" | ~&nbsp;28000 | colspan=2 style="background-color:#FFE6E6;" | 2012年2月6日<ref> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2012/20120209 | title = Debian -- News -- Security Support for Debian 5.0 to be terminated | publisher = Debian | accessdate = 2015-10-04 }} </ref> | 新アーキテクチャ: {{Mono|armel}}<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-devel-announce/2008/06/msg00000.html | title = Release Update: arch status, major transitions finished, freeze coming up | first = Marc | last = Brockschmidt | date = 2008-06-02 | accessdate = 2008-11-01 | mailinglist = debian-devel-announce }}</ref> [[SPARC]] 32ビットハードウェア非対応となる<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-devel-announce/2007/07/msg00006.html | title = Retiring the sparc32 port | last = Smakov | first = Jurij | mailinglist = debian-devel-announce | date = 2007-07-18 | accessdate = 2008-10-31 }}</ref>。完全な[[Eee PC]]対応<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-devel-announce/2008/08/msg00002.html | title = Bits from the Debian Eee PC team, summer 2008 | mailinglist = debian-devel-announce | first = Ben | last = Armstrong | date = 2008-08-03 | accessdate = 2008-10-31}}</ref>。 |- | 6.0 | ''squeeze'' | align="right" | 2011年2月6日 | align="right" | 9{{Ref label|squeeze|B|B}} | align="right" | 2{{Ref label|squeeze|B|B}} | align="right" | ~&nbsp;29000 | style="background-color:#FFE6E6;" | 2014年5月31日<ref name="squeeze-lts-announce" /> | style="background-color:#FFE6E6;" | 2016年2月29日<ref name="squeeze-lts-eol">{{Cite web | url = https://www.debian.org/News/2016/20160212 | title = Debian 6.0 Long Term Support reaching end-of-life | accessdate = 2016-03-10 | date = February 12th, 2016 }}</ref> | 新カーネル: {{Mono|kfreebsd}}{{Mono|(-i386/-amd64)}}(''テクノロジープレビュー'')、脱落アーキテクチャ: {{Mono|alpha}}, {{Mono|hppa}}, {{Mono|arm}}<ref>{{cite mailing list | url = http://lists.debian.org/debian-announce/2011/msg00001.html | title = Debian GNU/Linux 6.0 released | mailinglist = debian-announce | date = 2011-02-06 | accessdate = 2011-02-06 | author = Meike Reichle }}</ref>。LTS対象アーキテクチャ: {{Mono|i386}}, {{Mono|amd64}}<ref name="lts" />。[[Embedded GLIBC|eglibc]]への移行<ref>{{cite web | url = http://blog.aurel32.net/?p=47 | accessdate = 2009-05-21 | title = Aurelien's weblog: Debian is switching to EGLIBC | publisher = Aurélien Jarno }}</ref>。新しい[[insserv]]とSysv [[init]]による依存関係ベースのブートシーケンスサポート<ref>[http://wiki.debian.org/LSBInitScripts/DependencyBasedBoot LSBInitScripts/DependencyBasedBoot - Debian Wiki<!-- Bot generated title -->]</ref>。旧式[[ライブラリ]]の除去<ref>[http://wiki.debian.org/ReleaseGoals/RemoveOldLibs ReleaseGoals/RemoveOldLibs - Debian Wiki<!-- Bot generated title -->]</ref>。[[バイナリ・ブロブ]]の[[Linuxカーネル]]イメージパッケージからの分離<ref name="free kernel"> {{cite web | url = http://www.debian.org/News/2010/20101215 | title = Debian 6.0 "Squeeze" to be released with completely free Linux Kernel | publisher = Debian | accessdate = 2010-12-15 }} </ref>。長期サポート(LTS)の開始<ref name="squeeze-lts" />。 [[Plasma (KDE)|KDE Plasma 4]].4.5, GNOME 2.30, Xfce 4.6, LXDE 0.5.0, X.Org 7.5, Linux 2.6.32<ref name="squeeze-release-news">{{cite web | url = http://www.debian.org/News/2011/20110205a | title = Debian -- News -- Debian 6.0 "Squeeze" released | publisher = Debian | accessdate = 2011-01-05 }}</ref>。 |- | 7.0 | ''wheezy''<ref name="7.0 release">{{cite web | first = | last = | date = 2013-05-04 | accessdate = 2013-05-05 | url = http://www.debian.org/News/2013/20130504 |title = Debian 7.0 Wheezy released | publisher = www.debian.org }}</ref> | align="right" | 2013年5月4日 | align="right" | 11 | align="right" | 2 | align="right" | ~&nbsp;37000 | style="background-color:#FFE6E6;" | 2016年4月25日<ref name="wheezy-lts"> {{cite web | url = https://www.debian.org/News/2018/20180601 | title = Debian 7 Long Term Support reaching end-of-life | publisher = Debian | accessdate = 2018-07-20 }} </ref> | style="background-color:#FFE6E6;" | 2018年5月31日<ref name="wheezy-lts" /> | 新アーキテクチャ: {{Mono|armhf}}­, {{Mono|s390x}}<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.debian.org/releases/wheezy/amd64/release-notes/ch-whats-new.ja.html#idp159648 |title=第2章 Debian 7.0 の最新情報|accessdate=2013-6-8}}</ref>。LTS対象アーキテクチャ: {{Mono|i386}}, {{Mono|amd64}}, {{Mono|armel}}, {{Mono|armhf}}<ref name="lts" />。Multiarchのサポート<ref>{{cite web | url = http://www.debian.org/News/2011/20110726b | title = Debian -- News -- Debian 7 "Wheezy" to introduce multiarch support | publisher = Debian | accessdate = 2013-06-08 }}</ref>。amd64向けに[[UEFI]]インストール/ブートに対応<ref name="wheezy-release-news">{{Cite web|和書| url = http://www.debian.org/News/2013/20130504 | title = Debian -- ニュース -- Debian 7.0 "Wheezy" リリース | publisher = Debian | accessdate = 2013-06-08 }} </ref>。<br /> Linux 3.2, kFreeBSD 8.3/9.0, KDE Plasma 4.8.4, GNOME 3.4, Xfce 4.8, X.Org 7.7<ref name="wheezy-release-news" />。 |- | 8.0 | ''jessie''<ref name="jessie-release-news">{{cite web | url = https://www.debian.org/News/2015/20150426 | title = Debian 8 Jessie released | publisher = Debian | accessdate = 2016-10-29 }}</ref> | align="right" | 2015年4月25日 | rowspan="3" align="right" | 10 | rowspan="3" align="right" | 1 | align="right" | ~&nbsp;43000 | style="background-color:#FFE6E6;" | 2018年6月17日<ref name="lts" /> | style="background-color:#FFE6E6;" | 2020年6月30日<ref name="lts" /> | 新アーキテクチャ: {{Mono|arm64}}, {{Mono|ppc64el}}、脱落アーキテクチャ: {{Mono|s390}}, {{Mono|ia64}}, {{Mono|sparc}}、脱落カーネル: {{Mono|kfreebsd}}{{Mono|(-i386/-amd64)}}<ref name="jessie-support-architecture">{{Cite web|和書| url = https://www.debian.org/releases/jessie/amd64/release-notes/ch-whats-new.ja.html#idp64836096 | title = 第2章 Debian 8 の最新情報 | accessdate = 2017-07-22}}</ref>。LTS対象(予定)アーキテクチャ: {{Mono|i386}}, {{Mono|amd64}}, {{Mono|armel}}, {{Mono|armhf}}<ref name="lts" />。[[Embedded GLIBC|eglibc]]から[[GNU Cライブラリ|glibc]]への再移行<ref name="debian-switching-back-to-glibc">{{cite web | url = https://blog.aurel32.net/175 | title = Debian is switching (back) to GLIBC | accessdate = 2017-07-22}}</ref>。systemdを標準のinitシステムへ。32ビットシステム上のUEFI対応。<ref name="jessie-release-news" /> Linux 3.16, KDE Plasma 4.14.2, GNOME 3.14, Xfce 4.10<ref name="jessie-release-news" /> |- | 9.0 | ''stretch''<ref name="stretch-release-news">{{cite web | url = https://www.debian.org/News/2017/20170617 | title = Debian -- News -- Debian 9 "Stretch" released | publisher = www.debian.org | accessdate = 2017-06-18}}</ref> | align="right" | 2017年6月17日 | align="right" | ~&nbsp;52000 | style="background-color:#FFE6E6;" | 2020年7月6日<ref name="lts" /> | style="background-color:#FFFFE6;" | 2022年6月30日<ref name="lts" /> |新アーキテクチャ: {{Mono|mips64el}}、脱落アーキテクチャ: {{Mono|powerpc}}<ref name="stretch-support-architecture">{{Cite web|和書| url = https://www.debian.org/releases/stretch/amd64/release-notes/ch-whats-new.ja.html#idm45309675803072 |title=第2章 Debian 9 の最新情報|accessdate=2017-7-22}}</ref>。MariaDBがMySQLを置き換え。GnuPGを2.1(モダンブランチ)に移行。Xorgサーバーを一般ユーザー権限で実行可能に<ref name="stretch-whats-new">{{Cite web|和書| url = https://www.debian.org/releases/stretch/amd64/release-notes/ch-whats-new.ja.html#newdistro | title = Debian -- News -- Debian 9 "Stretch" released | publisher = www.debian.org | accessdate = 2017-07-22}}</ref>。 Linux 4.9, [[KDE Plasma 5]].8. GNOME 3.22, Xfce 4.12<ref name="stretch-release-news" />。 |- | 10.0 | ''buster'' <ref name="debian_9_and_10">https://lists.debian.org/debian-release/2014/11/msg00749.html</ref> | align="right" | 2019年7月6日 | align="right" | ~ 59000 | style="background-color:#FFFFE6;" | 2022年6月<ref name="lts" /> | style="background-color:#FFFFE6;" | 2024年6月<ref name="lts" /> |UEFIセキュアブートに対応。標準のディスプレイサーバを[[X.Org Server|X.org]]から[[Wayland]]に移行。Linux 4.19, KDE Plasma 5.14, GNOME 3.30, Xfce 4.12。 |- | 11.0 | ''bullseye'' <ref name="debian_11_released">https://www.debian.org/News/2021/20210814</ref> | align="right" | 2021年8月14日 | align="right" | 9 | align="right" | 1 | align="right" | ~ 60000 | style="background-color:#E6E6FF;" | 2024年 | style="background-color:#E6E6FF;" | 2026年 | exFATファイルシステムにカーネルが対応<ref name="debian_11_released" />。Linux 5.10, [[KDE Plasma 5]].20, GNOME 3.38, Xfce 4.16<ref name="debian_11_released" />。 |- | 12.0 | ''Bookworm'' <ref>{{Cite web|和書|title=Debian 10 "Buster"は2019年中頃に登場 Debian 12の名前は"Bookworm"に {{!}} ソフトアンテナブログ|url=https://www.softantenna.com/wp/software/debian-10-mid-2019/|website=www.softantenna.com|accessdate=2020-05-09}}</ref> | align="right" | 2023年6月10日 | align="right" | 8 | align="right" | 1 | align="right" | ~ 64000 | | | |- |13.0 |''trixie'' |TBA | | | | | | |} :{{note label|lenny|A|A}} Linuxカーネルの11アーキテクチャ + ARMアーキテクチャにおける追加のABI ({{Mono|armel}}) に対応している<ref name="lenny released"/>。 :{{note label|squeeze|B|B}} Linuxカーネルの9つのアーキテクチャ + FreeBSDカーネル(i386、amd64の2アーキテクチャのみ)に対応していることを示す<ref name="squeeze released"> {{cite web | first = | last = | date = 2011-02-06 | accessdate = 2011-06-26 | url = http://www.debian.org/News/2011/20110205a | title = Debian 6.0 Squeeze released | publisher = www.debian.org }}</ref>。 {{Timeline Debian GNU/Linux}} == ロゴ == [[File:Debian-OpenLogo.svg|thumb| ロゴマークの「スワール」(渦巻き)は[[:en:magic smoke|魔法の煙]]を表している。]] Debian の「スワール」マーク(意匠)は 1999 年に Raul Silva によって考案された<ref>{{cite web |url = http://gnuart.onshore.com/ |title = GNU/art |accessdate =2020/02/02 }}</ref><ref>{{cite web |url = https://lists.debian.org/debian-www/2010/10/msg00119.html |title = Logo credit |accessdate =2020/02/02 }}</ref>。これはその年に開催されたコンテスト用のものであって、それ以前に使われていた準公式のマークに替わるものとしてデザインされた<ref>{{cite web |url = //www.debian.org/News/1999/19990204.en.html |title = Debian Logo Contest |accessdate =2020/02/02 }}</ref>。 このコンテストの勝者に対して、@debian.org のメールアドレスと、希望するアーキテクチャ用の Debian 2.1 インストール CD のセットが贈られた。マークの意味について Debian プロジェクトから公式な声明は出ていなかったが、 このマークが選ばれた時点では、これはコンピュータを動作させる魔法の煙 (または精霊) を表していることがほのめかされた<ref>{{cite web |url = https://lists.debian.org/debian-devel/2005/01/msg01782.html |title = Origins of the Debian logo |accessdate =2020/02/02 }}</ref>。 Debian のこのマークの由来については、最初に命名された Debian のキャラクターとして選ばれた バズ・ライトイヤー(Buzz Lightyear)のあごに渦巻きがあるからだという説がある{{sfn |Krafft |2005 |p=66}}<ref>{{cite AV media |url=http://www.pixar.com/sites/default/files/ts_billboards_title_v3.jpg |title=Toy Story |type=Billboard |publisher=[[Pixar]] |access-date=2014-08-20 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131110181603/http://www.pixar.com/sites/default/files/ts_billboards_title_v3.jpg |archivedate=November 10, 2013 |df=mdy-all }}</ref>。Stefano Zacchiroli も、この渦巻きが Debian のものであると示唆している。Debian のコードネームはトイ・ストーリーのキャラクターの名前を付けているので、 バズ・ライトイヤーのスワールが候補となった可能性が高いと思われる。Debian 開発者の Bruce Perens も Pixar の元で働いていた<ref>{{cite web |url = https://upsilon.cc/~zack/talks/2010/20101204-versailles.pdf |title = Debian: 17 ans de logiciel libre, 'do-ocracy' et démocratie |page = 6 |publisher = [[Stefano Zacchiroli]] |date = 2010-12-04 |access-date = 2014-10-21 |archive-url = https://web.archive.org/web/20161120152845/https://upsilon.cc/~zack/talks/2010/20101204-versailles.pdf |archive-date = November 20, 2016 |url-status = dead }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Chapter 3. Debian リリース|url=https://www.debian.org/doc/manuals/project-history/releases.ja.html|website=www.debian.org|accessdate=2020-06-20}}</ref>。 == 必要環境 == [[File:HP-HP9000-C110-Workstation 21.jpg|thumb|[[HP 9000]] C110 [[PA-RISC]] [[ワークステーション|workstation]] booting Debian Lenny]] Debianでは、以下のような環境に対応した[[バイナリ]]版を作成している。括弧内はプロジェクトでの呼称である。 * [[x64|AMD64]] (amd64/x86-64) <!--etch から--> * [[ARMアーキテクチャ|ARM]] [[Application_binary_interface#EABI|EABI]] (armel) <!--lenny から--> * Hard Float ABI [[ARMアーキテクチャ|ARM]] (armhf) <!--wheezy から--> * 64ビット版[[ARMアーキテクチャ|ARM]] (arm64) <!--jessie から--> * [[x86]] (i386/IA-32、ただし現行版では[[Intel 80386|80386]]には対応しない) * [[MIPSアーキテクチャ|MIPS]] (mips/mipsel) * 64ビット版リトルエンディアン[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]] (mips64el) <!--stretch から--> * 64ビット版リトルエンディアン[[PowerPC]] (ppc64el) <!--jessie から--> * [[System z]] (s390x) <!--wheezy から--> 以下の環境はかつて対応されていたが、現在では公式には対応されていない(一部の環境では非公式な対応が存在する)。 * [[MC68000]] (m68k)(etchより開発対象から外された) * [[DEC Alpha|Alpha]] (alpha)(squeezeより開発対象から外された) * [[ARMアーキテクチャ|ARM]] (arm)(同上。armelにより置き換え) * [[PA-RISC]] (hppa)(同上) * [[IA-64]] (ia64)(jessieより開発対象から外された) * [[SPARC]] (sparc)(同上) * [[IBM S/390]]及び[[zSeries]](同上。s390xに置き換え) * 32ビット版[[PowerPC]] (powerpc)(stretchより開発対象から外された<ref name="stretch-release-note" />) [[Linuxカーネル]]以外を[[カーネル]]とするものもある。名称の通り、ユーザーランドは[[GNU]]の成果物に依存している。 [[File:Horned logo.svg|thumb|right|Logo of Debian GNU/kFreeBSD]] * [[Debian GNU/kFreeBSD]] (kfreebsd-i386, kfreebsd-amd64) <!--squeeze から-->(jessieより開発対象から外された) まだ正式公開されていない上記以外の環境やカーネル版もいくつかある。 ''アーキテクチャ'' * [[SuperH]] (sh4) * Motorola/IBM PowerPC64 (ppc64) * Linksys NSLU2 (armeb) * Renesas Technology M32R (m32r) * Sun UltraSPARC (sparc64) * 32ビットポインタ搭載[[x64|64ビットPC]] (x32) ''カーネル'' * [[Debian GNU/Hurd]] (hurd-i386) <gallery> Debian-gnu-hurd-running-emacs.png|Debian GNU/Hurd Hurd-logo.svg|Logo </gallery> * Debian GNU/NetBSD (netbsd-i386, netbsd-alpha) * Debian GNU/Solaris (solaris-i386) == Debian派生のディストリビューション == === 派生物調査と協力体制について === Debian プロジェクトは派生ディストリビューションの重要性を完全に認めており、関係者間の協力を活発に支援している。通常これは、当初派生ディストリビューションで開発されていた改善を Debian が取り込むことを意味する。こうすることで、誰もが恩恵を受けることができ、長期におよぶ保守作業を減らすことになる。 このため、派生ディストリビューションは [email protected] メーリングリストの議論に参加し、派生物調査に参加するよう勧められている。派生物調査は、派生ディストリビューションの中でなされた作業に関する情報を集めることを目標にしている。こうすることで、公式の Debian 開発者が Debian 派生物内の自分のパッケージの状況をより良く追跡することが可能になる<ref>https://debian-handbook.info/browse/ja-JP/stable/derivative-distributions.html</ref>。 === Debian (テスト版) 派生 === [[:en:List of Linux distributions#Debian (Testing) based|Debianテスト版の派生品一覧]]に掲載。 {| class="wikitable" |- ! 配布版 !! 説明 |- | [[BackTrack]] | Debian派生であり、Kali Linuxの前身。[[ペネトレーションテスト|侵入テスト]]目的に特化していることが特徴だった。開発停止。 |- |[[Kali Linux]] |Debian派生の1DVD型。侵入テスト目的に特化していることが特徴。BackTrackから[[フォーク (ソフトウェア開発)|派生]]した後継版。 |- |[[PureOS]] | 完全に自由ソフトウェアだけで構成されている、[[プライバシー]]と[[セキュリティ|保安]]、利便性に重点を置いているGNU/Linuxディストリビューション。 |- |{{仮リンク|Astra Linux|en|Astra Linux}} | [[ロシア連邦|ロシアの政府機関]]における[[:ru:Astra Linux|制式OS]]のひとつ<ref>{{URL|www.astralinux.ru}}</ref>。 |- |[[Ubuntu]] | 6ヶ月ごとの更新と商用の保守を掲げる。デスクトップ環境として[[GNOME]]を採用している。[[パソコン雑誌]]に雑誌社特製のLive CD/DVDとして付属される場合がある。[[Ubuntu#派生品|多彩な派生版]]が存在。 |- |{{仮リンク|gLinux|en|gLinux}} | [[Google]]社内向けのデスクトップOS<ref name="glinux_gc">{{Cite web|和書|url=https://cloud.google.com/blog/ja/topics/developers-practitioners/how-google-got-to-rolling-linux-releases-for-desktops|title=Google がデスクトップ向け Linux リリースのロールアウトに至った経緯|publisher=[[Google Cloud]]|accessdate=2023-01-11}}</ref>。2018年まではUbuntuベースの[[Goobuntu]]を使用していたが、OSアップデートの[[ローリングリリース]]対応を目的として移行した<ref name="glinux_gc" />。 |} === Ubuntu 派生 === [[:en:List of Linux distributions#Ubuntu-based|Ubuntu派生品一覧]]に掲載。<br/> ここでは割愛し、''詳細は[[Ubuntu#派生品]]に記述。'' === Debian (安定版) 派生 === [[:en:List of Linux distributions#Debian (Stable) based|Debian安定版の派生品一覧]]に掲載。 {| class="wikitable" |- ! 配布版 !! 説明 |- |{{仮リンク|Astra Linux|en|Astra Linux}} | [[ロシア連邦|ロシアの政府機関]]における[[:ru:Astra Linux|制式OS]]のひとつ。 |- |{{仮リンク|Corel Linux|en|Corel Linux}} | 企業向けディストリビューションで[[Eee PC]]に搭載されていた、後継版の[[Xandros]]に移行。 |- |[[CrunchBang Linux]] | ウィンドウマネージャにOpenBoxを採用し、軽量、高速を重視したディストリビューション。開発停止。 |- |[[Deepin]] | Wuhan Deepin Technology Co.が開発を手掛ける、Debianを母体とした中国産 Linux ディストリビューション。 |- |[[Devuan]] | 2014 に Debianから派生<ref>{{cite web | url=http://news.softpedia.com/news/Fork-Debian-Project-Announces-the-Systemd-less-OS-Devuan-466178.shtml | title=Fork Debian Project Announces the Systemd-less OS Devuan | work=Softpedia | date=28 November 2014 | accessdate=30 November 2014 | author=Stahie, Silviu | archive-url=https://web.archive.org/web/20141130142144/http://news.softpedia.com/news/Fork-Debian-Project-Announces-the-Systemd-less-OS-Devuan-466178.shtml | archive-date=30 November 2014 | url-status=live }}</ref>。 |- |[[gNewSense]] | [[GNU FSDG]]に適合し、[[フリーソフトウェア財団]]の支援を受ける。[[Linux-libre]]を使用し、ファームウェアのレベルまで100%自由ソフトで構成される。開発停止。 |- | {{仮リンク|KANOTIX|en|Kanotix}} | Debian派生でCD起動/HDD導入共可能。 |- |[[KNOPPIX]] | Debianを基にCD起動で利用できるようにしている。派生版は[[#KNOPPIX 派生]]を参照。 |- | [[Maemo]] | [[Nokia N800]], [[Nokia N810|N810]]など携帯端末のほか、[[Nokia N900]] タブレット端末とその他の Linux kernel派生の機器向けに開発された<ref>{{cite web|url=http://maemo.org/|title=maemo.org - maemo.org: Home of the Maemo community|date=1 December 2006|website=maemo.org|access-date=29 November 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20121123114615/http://maemo.org/|archive-date=23 November 2012|url-status=live}}</ref>。 |- |[[MEPIS]] | デスクトップ環境に[[KDE]]を採用したディストリビューション。開発停止。派生版は[[#MEPIS 派生]]を参照。 |- | [[Linux_Mint|MintPPC]] | PowerPC 向け。MintPPC は Mint LXDE のコードを用いるが、Linux Mint ではない<ref>{{cite web|url=http://www.mintppc.org/|title=Home|website=Mint PPC|access-date=2018-12-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20101013025534/http://mintppc.org/|archive-date=2010-10-13|url-status=live}}</ref>。 |- | {{仮リンク|NepaLinux|en|NepaLinux}} | [[GNOME]]やWindowマネージャーの[[fluxbox]]を使用する{{仮リンク|Morphix|de|Morphix}}が前身。<ref>{{cite web|url=http://www.nepalinux.org/|title=nepalinux.org&nbsp;-&nbsp;Diese Website steht zum Verkauf!&nbsp;-&nbsp;Informationen zum Thema nepalinux.|website=www.nepalinux.org|access-date=2012-11-29|archive-url=https://web.archive.org/web/20110312003906/http://www.nepalinux.org/|archive-date=2011-03-12|url-status=live}}</ref> |- | [[OpenZaurus]] | [[シャープ|Sharp]] [[ザウルス|Zaurus]] [[携帯情報端末|PDA]]向け Debian パッケージと ROM イメージ。 {{仮リンク|Ångström distribution|en|Ångström distribution}}後継<ref>{{cite web|url=http://www.openzaurus.org/|title=Apache2 Debian Default Page: It works|website=www.openzaurus.org|access-date=2012-11-29|archive-url=https://web.archive.org/web/20020330152808/http://www.openzaurus.org/|archive-date=2002-03-30|url-status=dead}}</ref>。 |- | [[Pardus]] | [[トルコ]][[政府]]からの支援を受けて開発されているディストリビューション。 |- | {{仮リンク|Parrot OS|en|Parrot OS|redirect=1}} | オウムの壁紙を採用する[[イタリア]]製。セキュリティを重視し、[[Tor Browser]]も組み込まれている。一般向けのHome版のほか、侵入テストなども行えるSecurity版などがある。 |- | [[Raspberry Pi OS]] | 小型シングルボードコンピュータである[[Raspberry Pi]]向けに開発されたディストリビューション。 |- | [[Skolelinux]] | [[ノルウェー]]産 Linux で、学校向け [[thin client]]ディストリビューション<ref>{{cite web|url=https://wiki.debian.org/DebianEdu/|title=DebianEdu - Debian Wiki|website=wiki.debian.org|access-date=2018-12-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20181229220025/https://wiki.debian.org/DebianEdu/|archive-date=2018-12-29|url-status=live}}</ref>。 |- | [[SolydXK]] | [[Xfce]] and [[KDE]] desktop focused on stability, security and ease of use.<ref>{{cite web|url=https://solydxk.com/|title=SolydXK Community — English|website=solydxk.com|access-date=2018-12-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20190122092515/https://solydxk.com/|archive-date=2019-01-22|url-status=live}}</ref> |- | [[The Amnesic Incognito Live System]] (TAILS) | プライバシーと匿名性の保護に特化したディストリビューション。[[Tor#Torの利用]]も参照。 |- | [[Vyatta]] | VyOSの前身<ref>[http://www.vyatta.org/ Vyatta website] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120424205015/http://www.vyatta.org/ |date=2012-04-24 }}</ref>。 |- | [[VyOS]] | [[Virtual Private Network|VPN]] / [[ルーター]] / [[コンピュータネットワーク|ネットワーク]][[ファイアウォール]]用ディストリビューション。 |} === MEPIS 派生 === [[:en:List of Linux distributions#MEPIS-based|MEPISの派生品一覧]]に掲載。 {| class="wikitable" |- ! 配布版 !! 説明 |- | [[antiX]] | Debian安定版から派生した軽量な Live CD かつインストール(導入)可能なディストリビューション。 |- | [[MX Linux]] | 中量級。KNOPPIXのように Live CD としても利用可能。 |} === KNOPPIX 派生 === [[:en:List of Linux distributions#Knoppix-based|KNOPPIXの派生品一覧]]に掲載。 {{see also|[[KNOPPIX#その他の派生版]]}} {| class="wikitable" |- ! 配布版 !! 説明 |- | [[Damn Small Linux]] | 名刺大の[[コンパクトディスク|CD]]やUSB pendrive向けの軽量なKNOPPIX[[Live CD]]。開発停止。 |} === その他の派生版 === 上記のようにDebianはいくつかのディストリビューションの母体として利用されている。[[:en:List of Linux distributions#Debian-based|Debianの派生品一覧]]に非掲載であるるものの、以下もその一部である。 なお、[[Ubuntu#派生品|Ubuntuの派生版]]や、他言語版を含めWikipediaに記事が存在しないものは掲載しない。 ==== 現行(2020.4.1)のDebian派生ディストリビューション ==== * [[Clonezilla]] - [[補助記憶装置|ディスク]]または[[パーティション]]の複製(クローニング)ならびに[[ディスクドライブ仮想化ソフト|イメージ作成]](イメージング)用。 * [[gnuLinEx|LinEx]] - [[スペイン]]の地方自治体、教育機関で利用するために開発されたディストリビューション。 * [[Linux_Mint|Linux Mint Debian Edition(LMDE)]] - [[Linux Mint]]プロジェクトがDebian安定版をベースに開発したディストリビューション。 * [[OpenMediaVault]] - 無償な[[ネットワークアタッチトストレージ]](NAS)向けディストリビューション。 * Pengwin<ref>https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1179710.html WSL向けに最適化されたLinuxディストロ「WLinux」が改称、「Pengwin」に</ref> - Debian派生。前身は[[Red Hat Enterprise Linux]]と互換性があるとされる WLinux<ref>https://news.mynavi.jp/techplus/article/20181218-742626/ Winodws 10にRHEL互換の新しいLinux「WLinux Enterprise」登場</ref><ref>[https://www.softantenna.com/wp/windows/wlinux/ Windows 10に最適化されたLinuxディストロ「WLinux」が爆誕 - 期間限定の50%オフでセール中]</ref><ref>[https://betanews.com/2018/09/24/windows-10-now-has-its-own-exclusive-linux-distro-wlinux/ Windows 10 now has its own exclusive Linux distro -- WLinux]</ref>。 * [[Puppy Linux]] - [[Puppy Linux#バージョン 5 以降|ver.5 以降]]はDebian系もあり。 * [[SLAX]] - Slax 9からはDebian系。元は[[Slackware]]の派生ソフト。CD起動で利用可能。日本語化された[http://hatochan.dyndns.org/slax-ja/index.php? SLAX-ja]も存在する。 *[[Voyager (オペレーティングシステム)|Voyager]]<ref>[https://voyagerlive.org/ Live Voyager]</ref><ref>[https://distrowatch.com/table.php?distribution=voyager DistroWatch.com: Voyager Live]</ref><ref>[https://sourceforge.net/projects/voyagerlive/ Voyager download | SourceForge.net]</ref><ref>[https://ja.osdn.net/projects/sfnet_voyagerlive/ Voyager 日本語情報トップページ - OSDN]</ref> - [[フランス]]産のOS。MacOS風の画面が美しい。Debian (安定版) から派生<ref>[https://distrowatch.com/?newsid=10634 Voyager Live 10]</ref>した[[32ビット|32bit]]版と[[64ビット|64bit]]版のほか、[[Xubuntu#Voyager|Xubuntu派生版]]もある。 * [[Whonix]] - 保安面重視のOS。通信はすべて[[Tor]]経由でおこなう。 * [[WindOS]] - Debian Squeeze派生で作られた軽量OS。起動時の初期メモリ消費量が60MB以下。開発が停滞している<ref name="WindOS">{{Cite news|url = http://www44.atwiki.jp/windos/|title = WindOS公式ホームページ|accessdate = 2 December 2012|last = |first = WindOS|authorlink = |date = 2012年2月| work = }}</ref>。 ==== 開発終了及び休止したDebian派生ディストリビューション ==== * [[aptosid]] - 旧名sidux。Debian sid派生のデスクトップ向けディストリビューション。CD起動/HDD導入共可能。 * {{仮リンク|Freespire|en|Freespire}} : [[Linspire]]の無料版。CD起動/HDD導入共可能。 * [[Linspire]] - 企業向けディストリビューション(旧名Lindows)。 * [[Progeny Debian]] - Redhat/Fedoraのインストーラ[[Anaconda]]を移植したGNU/Linux。 * [[UserLinux]] - 元Debianプロジェクトリーダー[[ブルース・ペレンズ]]により提唱され、企業向けディストリビューションの基幹となるべく開発されていたDebian母体のディストリビューション。開発停止。 === 日本発の派生版 === * [[ARMA aka Omoikane GNU/Linux]] : [[ファイルシステム]]に[[XFS]]を採用している。 * 巫女 GNYO/Linux : [[openMosix]]と[[SCore]]を利用した[[コンピュータ・クラスター|PCクラスタ]]が構築可能。CD起動/HDD導入共可能。開発停止。 * [[Ubuntu#日本発の派生品]] * [[KNOPPIX#日本発の派生版]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Debian}} {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS_logo.svg|41px|ウィキポータル FLOSS]]}} {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} * {{distroWatch|Debian}} === プロジェクトの公式リソース === * [https://www.debian.org/ Debian Project] * [https://www.debian.org/doc/manuals/project-history/ プロジェクトの歴史] === コミュニティサイト === * [https://wiki.debian.org/ja/FrontPage Debian Wiki] * [https://www.debian.or.jp/ Debian JP Project] === カスタムDebianディストリビューション === [https://wiki.debian.org/DebianPureBlends Debian Pure Blends]に一覧などがある。 == 関連項目 == * [[Linuxディストリビューションの比較]] * [[Ubuntu]] {{Linux-distro}} {{Debian}} {{Tor onion services}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:Debian}} [[Category:Debian|*]] [[Category:Debian派生ディストリビューション|*]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:フリーソフトウェアのプロジェクト]] [[Category:OSファミリ]] [[Category:1993年のソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Debian
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プログラミング
コンピュータープログラミング(英語: Computer Programming)とは、ある特定のコンピューティングの結果を得ることを目的として、実行可能なコンピュータープログラムを設計・構築するプロセスのことである。プログラミングが関係するタスクの例としては、アルゴリズムの生成、アルゴリズムの正確さとリソースの消費量のプロファイリング、選択したプログラミング言語でのアルゴリズムの実装(これは一般にコーディング(英語:coding)と呼ばれる)などがある。プログラムのソースコードは、コンピューターのCPUで直接実行される機械語ではなく、プログラマーが理解できる1つ以上のプログラミング言語で書かれる。プログラミングの目的は、あるタスク(オペレーティングシステムのように複雑な場合もある)をコンピューター上で自動化する1連の命令を見つけることで、与えられた問題を解決することである。そのため、プログラミングのプロセスには、アプリケーションドメインに関する知識、特定のアルゴリズム、形式論理など、さまざまな主題に関する専門性が要求されることが多い。 プログラミングをするときに関係するタスクには、テスト、デバッグ、ソースコードのメンテナンス、ビルドシステムの構築、コンピュータープログラムの機械コードなどの生成されたアーティファクト(英語版)の管理などがある。これらのプロセスはプログラミングのプロセスの一部と考えられるが、広義のプロセスはよく「ソフトウェア開発」と呼ばれ、実際にコードを書く行為に対しては、「プログラミング」、「実装」、「コーディング」という名前が使われることが多い。ソフトウェア工学 (software engineering) は、エンジニアリングの技術をソフトウェア開発の実践と組み合わせたものである。「リバースエンジニアリング」はこの逆のプロセスを表す。「ハッカー」とは、技術的な知識を使って問題を解決する技術のあるすべてのコンピュータの専門家を表す言葉であるが、一般的な用語では「セキュリティハッカー(英語版)」と同じ意味でも使われている。 最古のプログラマブルな機械(プログラムによって動作の変化を制御できる機械)としては、1206年にアル=ジャザリが作った二足歩行ロボットがあると言われている。アル・ジャザリのロボットは、ボートに4体の演奏人形が乗ったもので、宮廷のパーティで池に浮かべて音楽を演奏したと言われている。プログラムはカムにあり、それによって小さなてこを押して、打楽器を演奏する。カムは実際には円筒にペグが突き刺された形であり、このペグの配置でプログラミングし、演奏パターンを変更した。 1801年に開発されたジャカード織機がプログラマブルな機械の起源とされることが多い。この機械は、穴を開けた一連の厚紙(パンチカードの原型)を使った。穴の配列が布を織る際のパターンに対応している。従って、カードを入れ替えることで全く異なる布を織ることができた。1830年ごろには、チャールズ・バベッジがパンチカードを使った解析機関を考案した。 このような先駆者の発明をさらに発展させたのがハーマン・ホレリスであり、1896年にタビュレイティング・マシン・カンパニー(Tabulating Machine Company、後のIBM) を設立した。彼はホレリス式パンチカード、タビュレーティングマシン、キーパンチ機などを発明した。これらの発明が情報処理産業の基礎となったのである。1906年には、タビュレーティングマシンにプラグボードを追加することで、組み替えれば様々な仕事ができるようになった。これがプログラミングへの第一歩である。1940年代には、プラグボードによるプログラマブルな機械が各種登場していた。初期のコンピュータにもプラグボードでプログラムを組むものがあった。 フォン=ノイマン・アーキテクチャの発明により、プログラムをコンピュータのメモリに格納できるようになった。初期のプログラミングは機械語のコードを直接並べる(「コーディング」の本来の意)ことで行われた。入力方法としては穿孔カードや鑽孔テープが利用された他、スイッチなどで直接入力したり、まだ半導体技術などのない時代のため、ROMに相当する電気的配線を直接変更したりすることもあった。しかし、機械語の命令は人間にとって扱いにくく、代わりにニーモニックと呼ばれる略語を割り当てたアセンブリ言語により、プログラマは命令をテキスト形式で記述できるようになった。しかし、アセンブリ言語は機械語と同様にプロセッサの種類ごとに異なるため、(意図的に互換性があるように設計された機械以外では)他機種にはそのまま流用できなかった。また(人間から見れば)単純な処理でも、機械が操作できる基本的な処理命令は細粒度であり、大量に記述する必要があった。 そこで、特定のコンピュータに依存しない記述方法で、処理の内容をより抽象的に記述するためのプログラミング言語が開発された。そして、プログラミング言語によって記述されたプログラムを、コンパイラを利用して機械語に翻訳することで、実行プログラムを作成することが一般的になった。1954年、最初のプログラミング言語の1つであるFORTRANが開発された。これにより、演算を直接数式のように記述できるようになった(例えば、Y = X*2 + 5*X + 9)。このプログラムの記述(あるいは「ソース」)はコンパイラと呼ばれる特別なプログラムで機械の命令に変換される。他にも様々な言語が開発された(ビジネス用途のCOBOLなど)。プログラムの入力は依然としてパンチカードやさん孔テープで行われていた。1960年代後半、記憶装置や端末の価格が低下してきたことにより、キーボードから直接コンピュータにプログラムを入力できるようになってきた。また同じ頃、コンピュータによる処理対象のデータとしての文書についてもコンピュータ自身を利用して編集されるようになり最初はラインエディタ、続いてスクリーンエディタといった、テキストエディタが開発され、それらによってソースコード自身がコンピュータ上で編集されるようになった。 コンピュータの能力は時と共に飛躍的に向上した。このため、より抽象化されたプログラミング言語が開発されるようになっていった。抽象化レベルの高い言語はオーバーヘッドも大きいが、コンピュータ自体の性能の向上が激しいため、多少オーバーヘッドが増えても以前よりも高性能な動作が実現された。このような抽象化レベルの高い言語の利点は、習得が容易であることと、プログラム作成時間が短縮されること。そして何より、バッファオーバフロー等の危険性を孕んだプログラムを書く余地が無いこと、である。しかしそれでも、巨大で複雑なプログラムや、高速性が何よりも重視されるプログラムでは、現在でも比較的低レベルな言語を使っている。 20世紀後半を通して、先進国ではプログラマが魅力的な職業の1つとされてきた。しかし、発展途上国の安い労働力をプログラミングに利用する傾向が強まっている。この傾向がどれだけ続くのか、それによってどのような影響があるのかは未知数である。 まず、そのプログラムの目的、さらには「本当に解決したい問題は何なのか」ということについて十分な検討が必要である(ワインバーグの著書などを参考のこと)。プログラミングの過程は文書化され、将来の拡張に利用できるため、これは非常に重要なことである。 続いて、全体のスタイルをおおまかに2つに分けると「トップダウン設計」と「ボトムアップ実装」になる。「なんとかの設計と実装」といったようなタイトルの本が多くあるように、どちらも重要だが、一般に対象についてよくわかっているものについてのプログラミングでは前者のスタイル、よくわかっていない場合は後者のスタイルとする。「設計された通りに実装することは不可能」といった場合に開発体勢の問題などから正しい対処がされないまま、設計と実装がちぐはぐになったプロダクトは悲惨である。また反復型開発では、あまりに大きなプログラムを一方通行のプロセスで書くことは最初から避けるものとされる。 目的のプログラムを書き始める前に、まずテストを書く、というスタイルもある(これを、「テストファースト」という。詳しくは、テスト駆動開発を参照)。あるいは対象が有限オートマトンやプロセス計算など、形式手法的な方法でモデル化できるのであれば、まずはそのようにすべきである(本来はモデル主導というのはそのような意味のはずである)。 最初の段階として、トップダウン設計では軽量プログラミング言語や、非形式的な記述が適している場合には擬似言語(擬似コード)などで全体設計を検討する。ボトムアップ実装では、階層構造の「葉」にあたるサブルーチンの実装を検討する。なお、流れ図(フローチャート)はコンピュータの黎明期である1940年代後半に、当時のプログラムは機械語で読むのも書くのも難しかったことから、補助のために使われその当時には有用性が高く(en:Herman Goldstine#The First Draftに当時の流れ図がある)、MIXという機械語を使っている教科書『The Art of Computer Programming』などでは使われているが、現代のプログラミング言語でも有用と信じられていることもあるようである。 プログラミングの過程で、ソースコードを記述することを特に指してコーディングという。元々は機械語が符号であること、またはアセンブリ言語のニモニックがまるで暗号みたいである(正確には「コード」は暗号の1分類。コード (暗号) を参照)というところからコンピュータプログラムに「コード」という語が使われ、それを書く作業というきわめて限定された意味の語だったが、近年はHTMLを書くという意味にも使われるなど濫用され気味である(なお、デモシーンでは機械語のテクニックを駆使して高効率のプログラムを書く、というような本来の意味に近い意味で使われている)。 可能な限り避けたいものではあるが、プログラムにはバグ (bug) の混入が避けられない。場合によっては仕様にバグがあることもある(もっとひどい場合には標準規格のようなものでもバグがある)。デバッグ (debug) とはバグを取る作業であり、プログラミングの過程に必要なものとして見積りなどでは含めておかなければならない。 一旦の完成の後も、ある程度の期間使われるプログラムでは、使用しているうちに、プログラムの性能や機能に新しい要求が発生したり、プログラムの設定を変更する必要がでてきたり、テストにより発見できなかったバグが見つかることがある。このような事態に対応するため、プログラムを保守していく作業が必要になる。 プログラミングをする人をプログラマという。プログラミングを行うには一般に、コンピュータ科学を中心としたプログラミングそれ自体についての能力や知識と、書こうとするプログラムが対象とする問題領域などについての能力や知識の両方が必要である。 この他、プログラムが、作者以外の人によって利用される場合には、プログラムの利用方法や機能について質問を受けることがある。プログラムを、意図したとおり稼働させてゆくためには、これらの問い合わせに対応する必要もある。 一般に、職業としてプログラミングを行う場合、これらの作業が工程として含まれる。大規模なプログラミングでは、これらの作業を分業することも多い。 このような業務は、ソフトウェア工学という学問のソフトウェア開発工程の分野として扱われる。 プログラミングコードがある程度自動生成できるようになった今、専門家の予測通りプログラミングエンジニアの役割は変わりつつあるが、現時点ではコード自動生成の商用・学術利用には著作権上の課題がある。 プログラミング言語が異なれば、プログラミングのスタイル(プログラミングパラダイム)も異なる。どの言語を使うかの判断には、企業としてのポリシー、その用途への適合性、サードパーティのパッケージが使えるか、個人の好みなど様々な要素がある。理想的には、用途に最も適した言語を選ぶべきである。しかし、その言語を使えるプログラマが十分揃えられないとか、その言語の処理系に問題があるとか、実行時の効率が悪いといった問題から、最適な言語を選べないこともある。 アレン・ダウニー (Allen Downey) は、著書『計算機科学者のように考える方法』(How To Think Like A Computer Scientist) で次のように書いている。 言語が違えば、詳細も違って見えるが、どんな言語にも次のような基本的命令要素がある。 今日までに、プログラミングの進歩に貢献したパラダイムとして、次があげられる: プログラミングには、文字による言語で記述する方法ばかりではなく、視覚言語や図形言語で記述する方法であるビジュアルプログラミングという方法もある。 ソフトウェア開発手法がどうであれ、最終的にはプログラムは基本的な属性を満たさなければならない。プログラミングにおいてそれを気にかけておくことで、デバッグやその後の開発およびユーザーサポートにかかる時間とコストを削減できる。ソフトウェア品質を確保する方法は様々だが、以下の5つの属性が最も重要である。 ソフトウェア開発の第一段階は要求分析であり、その後モデル化し、実装し、デバッグする。これら作業については様々な方法論がある。要求分析で一般的な方法論としてユースケース分析がある。 モデル化技法としてはオブジェクト指向分析設計 (OOAD) とモデル駆動型アーキテクチャ(MDA)がある。統一モデリング言語 (UML) は OOAD や MDA での記法として使われている。 データベース設計では、似たような技法として実体関連モデルがある。 実装技法としては様々なプログラミングパラダイムがある(オブジェクト指向プログラミング、手続き型プログラミング、関数型プログラミング、論理プログラミングなど)。 デバッグには統合開発環境 (IDE) が使われることが多い(Visual Studio、NetBeans、Eclipseなど)。独立したデバッガ(gdbなど)も使われている。 どのプログラミング言語が一番使われているかというのは、非常に難しい問題である。言語によっては特定の分野でのみ一般的なものもあるし(例えば、COBOLは企業のデータセンターでよく使われており、FORTRANは科学技術計算に強く、C言語は組み込み市場で強い)、汎用的に様々なアプリケーションを書くのに使われている言語もある。 言語の人気を測定する手段として、求人広告に挙げられている言語を数え上げる方法がある。また、既存のソースコードの行数を言語毎に推計する方法もある(ただし、言語によって同じ機能を実現するのに必要な行数が異なるため、補正が必要)。 バグだらけのプログラムは使いものにならないため、デバッグは重要である。C言語やアセンブリ言語などは、慣れたプログラマであっても、バッファオーバーランや不正なポインタやメモリの初期化忘れ/解放忘れといったバグを作りこみやすい。バッファオーバーランは隣接するメモリ領域を破壊し、全く関係ない箇所でプログラムに異常が発生する原因となる。このため、C言語やC++でのプログラミング向けに Valgrind、Purify、BoundsChecker といったメモリデバッガが開発されてきた。 Java、C#、PHP、Python といった言語にはそのような問題がほとんどないが、性能は低い。ただし、データベースアクセスやファイル入出力が性能を決定付けるような分野では、これらの言語の性能でも何ら問題ない。また、最近ではこれらの言語の処理系でも性能が向上してきている。 プログラミング言語が使えるようになったことにより、機械語によるプログラミングを人間が直接する必要がなくなったのも一種の「プログラミングレス」だと言えばそれは大成功していると言えるだろうし(プログラミング言語の研究はその初期には「自動プログラミング」等と呼ばれていた)、結局「思想」というものが何を指すのか明確でないので、どうとでも言えることである。あるいは、現代においてはアプリケーションソフトウェアを使うだけでもコンピュータの利活用の幅がおおいにある、というのも一種の「プログラミングレス」であろう。理屈としては、ドメイン固有言語のうち、チューリング完全でないようなものは汎用の言語ではないから、それらを使ったコンピュータの利活用も「プログラミングレス」と言えなくもない。また、GUIによる設定やドラッグ&ドロップでアプリケーションが開発できることなどを指して、プログラミングレス、あるいは、ノンプログラミングということもある。 プログラムを書くことはアートなのか、クラフトなのか、工学なのかという議論がある。よいプログラミングには、それら3つの要素すべてが必要とされ、最終的に効率的で保守しやすいソフトウェアを生み出すことを目的とする(何が効率的で、何が保守しやすいかという判断も様々である)。「プログラムを書くことは設計をすること」という意見もある。 プログラミングスクラッチ プログラミングには、様々な種類があるが、中でも、小中学生が意欲的に取り組めるプログラミングスクラッチというものがある。これは、ブロック同士を繋げて、一つのプログラム、そして、世界に一つだけのプログラムを作ることができる。できることは無限大で、とても楽しく勉強ができる。
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"text": "プログラムを書くことはアートなのか、クラフトなのか、工学なのかという議論がある。よいプログラミングには、それら3つの要素すべてが必要とされ、最終的に効率的で保守しやすいソフトウェアを生み出すことを目的とする(何が効率的で、何が保守しやすいかという判断も様々である)。「プログラムを書くことは設計をすること」という意見もある。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プログラミングスクラッチ", "title": "プログラミングに関する資格" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "プログラミングには、様々な種類があるが、中でも、小中学生が意欲的に取り組めるプログラミングスクラッチというものがある。これは、ブロック同士を繋げて、一つのプログラム、そして、世界に一つだけのプログラムを作ることができる。できることは無限大で、とても楽しく勉強ができる。", "title": "プログラミングに関する資格" } ]
コンピュータープログラミングとは、ある特定のコンピューティングの結果を得ることを目的として、実行可能なコンピュータープログラムを設計・構築するプロセスのことである。プログラミングが関係するタスクの例としては、アルゴリズムの生成、アルゴリズムの正確さとリソースの消費量のプロファイリング、選択したプログラミング言語でのアルゴリズムの実装(これは一般にコーディングと呼ばれる)などがある。プログラムのソースコードは、コンピューターのCPUで直接実行される機械語ではなく、プログラマーが理解できる1つ以上のプログラミング言語で書かれる。プログラミングの目的は、あるタスク(オペレーティングシステムのように複雑な場合もある)をコンピューター上で自動化する1連の命令を見つけることで、与えられた問題を解決することである。そのため、プログラミングのプロセスには、アプリケーションドメインに関する知識、特定のアルゴリズム、形式論理など、さまざまな主題に関する専門性が要求されることが多い。 プログラミングをするときに関係するタスクには、テスト、デバッグ、ソースコードのメンテナンス、ビルドシステムの構築、コンピュータープログラムの機械コードなどの生成されたアーティファクトの管理などがある。これらのプロセスはプログラミングのプロセスの一部と考えられるが、広義のプロセスはよく「ソフトウェア開発」と呼ばれ、実際にコードを書く行為に対しては、「プログラミング」、「実装」、「コーディング」という名前が使われることが多い。ソフトウェア工学 は、エンジニアリングの技術をソフトウェア開発の実践と組み合わせたものである。「リバースエンジニアリング」はこの逆のプロセスを表す。「ハッカー」とは、技術的な知識を使って問題を解決する技術のあるすべてのコンピュータの専門家を表す言葉であるが、一般的な用語では「セキュリティハッカー」と同じ意味でも使われている。
{{otheruses|コンピュータプログラムの作成}} {{複数の問題 |出典の明記=2017年5月17日 (水) 15:57 (UTC) |更新=2021年3月 }} [[File:Prog_one.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Prog_one.png|右|サムネイル|インターネット[[チェス]]のプログラム[[Lichess]]の[[人工知能]]のプログラミングの例。もしb3にいる白のビショップがa2に移動すれば、黒のナイトを取ることができる。プログラムは黒に対して最も有利な移動を探索するように設計されているため、その後、b1のポーンがビショップを取る可能性が非常に高いと計算する。黒のプレイヤーはポーンをc2に移動したところである。<!--Notation: if B×N then b1×B.-->]] '''コンピュータープログラミング'''({{Lang-en|Computer Programming}})とは、ある特定の[[コンピューティング]]の結果を得ることを目的として、[[実行ファイル|実行可能]]な[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータープログラム]]を設計・構築するプロセスのことである。'''プログラミング'''が関係するタスクの例としては、アルゴリズムの生成、[[アルゴリズム]]の正確さとリソースの消費量のプロファイリング、選択したプログラミング言語でのアルゴリズムの実装(これは一般に'''コーディング'''([[英語]]:coding)と呼ばれる)などがある<ref>{{cite web|url=http://yearofcodes.tumblr.com/what-is-coding|title=What is coding|author=Shaun Bebbington|year=2014|accessdate=2014-03-03}}</ref><ref>{{cite web|url=http://yearofcodes.tumblr.com/what-is-programming|title=What is programming|author=Shaun Bebbington|year=2014|accessdate=2014-03-03}}</ref>。プログラムの[[ソースコード]]は、[[コンピューター]]の[[CPU]]で直接実行される[[機械語]]ではなく、[[プログラマー]]が理解できる1つ以上の[[プログラミング言語]]で書かれる。プログラミングの目的は、あるタスク([[オペレーティングシステム]]のように複雑な場合もある)をコンピューター上で自動化する1連の命令を見つけることで、与えられた問題を解決することである。そのため、プログラミングのプロセスには、[[ドメイン (ソフトウェア工学)|アプリケーションドメイン]]に関する知識、特定のアルゴリズム、形式[[論理学|論理]]など、さまざまな主題に関する専門性が要求されることが多い。 プログラミングをするときに関係するタスクには、[[ソフトウェアテスト|テスト]]、[[デバッグ]]、[[ソースコード]]のメンテナンス、[[ビルド自動化|ビルドシステム]]の構築、コンピュータープログラムの[[機械コード]]などの生成された{{仮リンク|アーティファクト (ソフトウェア開発)|en|Artifact (software development)|label=アーティファクト}}の管理などがある。これらのプロセスはプログラミングのプロセスの一部と考えられるが、広義のプロセスはよく「[[ソフトウェア開発]]」と呼ばれ、実際にコードを書く行為に対しては、「プログラミング」、「実装」、「コーディング」という名前が使われることが多い。[[ソフトウェア工学]] (software engineering) は、[[工学|エンジニアリング]]の技術をソフトウェア開発の実践と組み合わせたものである。「[[リバースエンジニアリング]]」はこの逆のプロセスを表す。「[[ハッカー]]」とは、技術的な知識を使って問題を解決する技術のあるすべてのコンピュータの専門家を表す言葉であるが、一般的な用語では「{{仮リンク|セキュリティハッカー|en|Security_hacker|label=}}」と同じ意味でも使われている。 == 歴史 == [[File:Ada_lovelace.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Ada_lovelace.jpg|サムネイル|[[エイダ・ラブレス]]。{{仮リンク|Luigi Menabrea|en|Luigi Menabrea|label=}}の論文の最後には、[[解析機関]]の処理のために設計された最初のアルゴリズムについて書かれた彼女のメモが記載されている。彼女は、世界史上初のコンピュータープログラマーであると考えられている。]] [[画像:PunchCardDecks.agr.jpg|thumb|パンチカードのつまった箱。プログラムデッキがいくつかある。|代替文=]] [[File:IBM402plugboard.Shrigley.wireside.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:IBM402plugboard.Shrigley.wireside.jpg|代替文=|サムネイル|[[:en:IBM_402_Accounting_Machine|IBM 402 Accounting Machine]]のための配線された制御パネル。]] 最古のプログラマブルな[[機械]](プログラムによって動作の変化を制御できる機械)としては、1206年に[[アル=ジャザリ]]が作った[[二足歩行ロボット]]があると言われている。アル・ジャザリの[[ロボット]]は、ボートに4体の演奏人形が乗ったもので、宮廷のパーティで池に浮かべて音楽を演奏したと言われている。プログラムは[[カム (機械要素)|カム]]にあり、それによって小さな[[てこ]]を押して、[[打楽器]]を演奏する。カムは実際には円筒に[[ペグ]]が突き刺された形であり、このペグの配置でプログラミングし、演奏パターンを変更した<ref>[http://www.shef.ac.uk/marcoms/eview/articles58/robot.html A 13th Century Programmable Robot.] University of Sheffield.</ref>。 1801年に開発された[[ジャカード織機]]がプログラマブルな機械の起源とされることが多い。この機械は、穴を開けた一連の厚紙(パンチカードの原型)を使った。穴の配列が布を織る際のパターンに対応している。従って、カードを入れ替えることで全く異なる布を織ることができた。1830年ごろには、[[チャールズ・バベッジ]]が[[パンチカード]]を使った[[解析機関]]を考案した。 このような先駆者の発明をさらに発展させたのが[[ハーマン・ホレリス]]であり、[[1896年]]にタビュレイティング・マシン・カンパニー({{lang|en|Tabulating Machine Company}}、後の[[IBM]]) を設立した。彼はホレリス式パンチカード、[[タビュレーティングマシン]]、[[キーパンチ]]機などを発明した。これらの発明が情報処理産業の基礎となったのである。[[1906年]]には、タビュレーティングマシンに[[プラグボード]]を追加することで、組み替えれば様々な仕事ができるようになった。これがプログラミングへの第一歩である。[[1940年代]]には、プラグボードによるプログラマブルな機械が各種登場していた。初期のコンピュータにもプラグボードでプログラムを組むものがあった。 [[ノイマン型|フォン=ノイマン・アーキテクチャ]]の発明により、プログラムを[[記憶装置|コンピュータのメモリ]]に格納できるようになった。初期のプログラミングは[[機械語]]のコードを直接並べる(「コーディング」の本来の意)ことで行われた。入力方法としては穿孔カードや鑽孔テープが利用された他、スイッチなどで直接入力したり、まだ半導体技術などのない時代のため、ROMに相当する電気的配線を直接変更したりすることもあった。しかし、機械語の命令は人間にとって扱いにくく、代わりに'''ニーモニック'''と呼ばれる略語を割り当てた[[アセンブリ言語]]により、プログラマは命令をテキスト形式で記述できるようになった。しかし、アセンブリ言語は[[機械語]]と同様に[[プロセッサ]]の種類ごとに異なるため、(意図的に互換性があるように設計された機械以外では)他機種にはそのまま流用できなかった。また(人間から見れば)単純な処理でも、機械が操作できる基本的な処理命令は細粒度であり、大量に記述する必要があった。 そこで、特定のコンピュータに依存しない記述方法で、処理の内容をより抽象的に記述するための[[プログラミング言語]]が開発された。そして、プログラミング言語によって記述されたプログラムを、[[コンパイラ]]を利用して機械語に翻訳することで、実行プログラムを作成することが一般的になった。1954年、最初のプログラミング言語の1つである[[FORTRAN]]が開発された。これにより、演算を直接数式のように記述できるようになった(例えば、Y = X*2 + 5*X + 9)。このプログラムの記述(あるいは「ソース」)は[[コンパイラ]]と呼ばれる特別なプログラムで機械の命令に変換される。他にも様々な言語が開発された(ビジネス用途の[[COBOL]]など)。プログラムの入力は依然としてパンチカードや[[さん孔テープ]]で行われていた。1960年代後半、記憶装置や[[端末]]の価格が低下してきたことにより、キーボードから直接コンピュータにプログラムを入力できるようになってきた。また同じ頃、コンピュータによる処理対象のデータとしての文書についてもコンピュータ自身を利用して編集されるようになり<ref group="注釈">これは、[[タイムシェアリングシステム]]の発達とも関連する。</ref>最初はラインエディタ、続いてスクリーンエディタといった、[[テキストエディタ]]が開発され、それらによってソースコード自身がコンピュータ上で編集されるようになった。 [[コンピュータ]]の能力は時と共に飛躍的に向上した。このため、より[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]されたプログラミング言語が開発されるようになっていった。抽象化レベルの高い言語は[[オーバーヘッド]]も大きいが、コンピュータ自体の性能の向上が激しいため、多少オーバーヘッドが増えても以前よりも高性能な動作が実現された。このような抽象化レベルの高い言語の利点は、習得が容易であることと、プログラム作成時間が短縮されること。そして何より、バッファオーバフロー等の危険性を孕んだプログラムを書く余地が無いこと、である。しかしそれでも、巨大で複雑なプログラムや、高速性が何よりも重視されるプログラムでは、現在でも比較的低レベルな言語を使っている。 20世紀後半を通して、先進国ではプログラマが魅力的な職業の1つとされてきた。しかし、発展途上国の安い労働力をプログラミングに利用する傾向が強まっている。この傾向がどれだけ続くのか、それによってどのような影響があるのかは未知数である。 == プログラミングの過程 == [[Image:Listing1.jpg|220px|サムネイル|[[BASIC]]によるプログラム例]]まず、そのプログラムの目的、さらには「本当に解決したい問題は何なのか」ということについて十分な検討が必要である([[ジェラルド・ワインバーグ|ワインバーグ]]の著書などを参考のこと)。プログラミングの過程は文書化され、将来の拡張に利用できるため、これは非常に重要なことである<ref name=":0">{{Cite journal|last=Villiger|first=Jessica|last2=Schweiger|first2=Simone A.|last3=Baldauf|first3=Artur|date=2022-10|title=Making the Invisible Visible: Guidelines for the Coding Process in Meta-Analyses|url=http://journals.sagepub.com/doi/10.1177/10944281211046312|journal=Organizational Research Methods|volume=25|issue=4|pages=716–740|language=en|doi=10.1177/10944281211046312|issn=1094-4281}}</ref>。 続いて、全体のスタイルをおおまかに2つに分けると「トップダウン設計」と「ボトムアップ実装」<ref>http://catb.org/jargon/html/B/bottom-up-implementation.html</ref>になる。「なんとかの設計と実装」といったようなタイトルの本が多くあるように、どちらも重要だが、一般に対象についてよくわかっているものについてのプログラミングでは前者のスタイル、よくわかっていない場合は後者のスタイルとする。「設計された通りに実装することは不可能」といった場合に開発体勢の問題などから正しい対処がされないまま、設計と実装がちぐはぐになったプロダクトは悲惨である。また[[反復型開発]]では、あまりに大きなプログラムを一方通行のプロセスで書くことは最初から避けるものとされる。 目的のプログラムを書き始める前に、まずテストを書く、というスタイルもある(これを、「'''テストファースト'''」という。詳しくは、[[テスト駆動開発]]を参照)。あるいは対象が[[有限オートマトン]]や[[プロセス計算]]など、[[形式手法]]的な方法でモデル化できるのであれば、まずはそのようにすべきである(本来は[[モデル駆動工学|モデル主導]]というのはそのような意味のはずである)。 最初の段階として、トップダウン設計では[[軽量プログラミング言語]]や、非形式的な記述が適している場合には[[擬似言語]]([[擬似コード]])などで全体設計を検討する。ボトムアップ実装では、階層構造の「葉」にあたるサブルーチンの実装を検討する<ref group="注釈">たとえば、アクションゲームで1フレーム中に行わなければならない計算が可能かどうかが、開発の最後までわからなかったりしては困るだろう。</ref>。なお、'''[[フローチャート|流れ図]]'''([[フローチャート]])はコンピュータの黎明期である1940年代後半に、当時のプログラムは[[機械語]]<ref group="注釈">ないし極く単純な[[アセンブリ言語]]</ref>で読むのも書くのも難しかったことから、補助のために使われその当時には有用性が高く([[:en:Herman Goldstine#The First Draft]]に当時の流れ図がある)、[[MIX (プログラミング)|MIX]]という機械語を使っている教科書『[[The Art of Computer Programming]]』などでは使われているが、現代のプログラミング言語でも有用と信じられていることもあるようである。 プログラミングの過程で、[[ソースコード]]を記述することを特に指して'''コーディング'''という。元々は[[機械語]]が符号であること、または[[アセンブリ言語]]のニモニックがまるで[[暗号]]みたいである(正確には「コード」は暗号の1分類。[[コード (暗号)]] を参照)というところからコンピュータプログラムに「コード」という語が使われ、それを書く作業というきわめて限定された意味の語だったが、近年はHTMLを書くという意味にも使われるなど濫用され気味である(なお、[[デモシーン]]では機械語のテクニックを駆使して高効率のプログラムを書く、というような本来の意味に近い意味で使われている)。 可能な限り避けたいものではあるが、プログラムには[[バグ]] (bug) の混入が避けられない。場合によっては仕様にバグがあることもある(もっとひどい場合には標準規格のようなものでもバグがある)。[[デバッグ]] (debug) とはバグを取る作業であり、プログラミングの過程に必要なものとして見積りなどでは含めておかなければならない<ref group="注釈">ただし、デバッグがあることをあてにしてルーズにプログラムを書くことは厳に戒められねばならない。バグにも種類があり、たとえば、インタプリタでも最初の構文解析で検出されるような簡単なものなら問題ないが、突き止めるのが極めて困難な部類のバグ([[特異なバグ]]を参照)はできる限り早い時点で回避されるに越したことはない。</ref>。 一旦の完成の後も、ある程度の期間使われるプログラムでは、使用しているうちに、プログラムの性能や機能に新しい要求が発生したり、プログラムの設定を変更する必要がでてきたり、テストにより発見できなかったバグが見つかることがある。このような事態に対応するため、プログラムを[[ソフトウェア保守|保守]]していく作業が必要になる。 ==プログラマ== {{Main|プログラマ}} プログラミングをする人を[[プログラマ]]という。プログラミングを行うには一般に、[[コンピュータ科学]]を中心としたプログラミングそれ自体についての能力や知識と、書こうとするプログラムが対象とする問題領域などについての能力や知識の両方が必要である。 ===職業としてのプログラマ=== ==== プログラマの仕事 ==== * [[要求分析]] * [[ソフトウェア設計]] * [[プログラム仕様]] * [[ソフトウェアアーキテクチャ]] * [[ソースコード|コーディング]] * [[コンパイラ|コンパイル]] * [[ソフトウェアテスト]] * [[ソフトウェアドキュメンテーション]] * [[ソフトウェア保守]] この他、プログラムが、作者以外の人によって利用される場合には、プログラムの利用方法や機能について質問を受けることがある。プログラムを、意図したとおり稼働させてゆくためには、これらの問い合わせに対応する必要もある。 一般に、職業としてプログラミングを行う場合、これらの作業が工程として含まれる。大規模なプログラミングでは、これらの作業を分業することも多い。 このような業務は、[[ソフトウェア工学]]という学問の[[ソフトウェア開発工程]]の分野として扱われる。 プログラミングコードがある程度自動生成できるようになった今、専門家の予測通りプログラミングエンジニアの役割は変わりつつあるが<ref>{{Cite web |title=What Are The Benefits Of Chat GPT-4 Over GPT-3.5 |url=https://mytasker.com/blog/benefits-of-chat-gpt4-over-gpt3-point-5 |website=mytasker.com |access-date=2023-05-26}}</ref>、現時点ではコード自動生成の商用・学術利用には著作権上の課題がある<ref>{{Cite web |title=ChatGPT Copyright: Everything you need to know |url=https://neuroflash.com/blog/chatgpt-copyright-everything-you-need-to-know/ |website=neuroflash |date=2023-02-21 |access-date=2023-05-26 |language=en-US |first=Vanessa |last=Arnold}}</ref>。 == プログラミング言語 == {{main|プログラミング言語}} プログラミング言語が異なれば、プログラミングのスタイル([[プログラミングパラダイム]])も異なる。どの言語を使うかの判断には、企業としてのポリシー、その用途への適合性、サードパーティのパッケージが使えるか、個人の好みなど様々な要素がある。理想的には、用途に最も適した言語を選ぶべきである<ref>{{Cite book|和書|url= https://books.google.co.jp/books?id=NsSkLRVZ0fQC&pg=PA27#v=onepage&q&f=false|title= 実践F# 関数型プログラミング入門|publisher= 技術評論社|isbn= 978-4-7741-5127-4|author= 荒井省三、いげ太}}</ref>。しかし、その言語を使えるプログラマが十分揃えられないとか、その言語の処理系に問題があるとか、実行時の効率が悪いといった問題から、最適な言語を選べないこともある。 アレン・ダウニー ({{lang|en|Allen Downey}}) は、著書『計算機科学者のように考える方法』({{lang|en|How To Think Like A Computer Scientist}}) で次のように書いている。 {{quotation| 言語が違えば、詳細も違って見えるが、どんな言語にも次のような基本的命令要素がある。 :'''入力''': キーボード、ファイル、その他の機器からデータを入手する。 :'''出力''': 画面にデータを表示したり、ファイルその他の機器にデータを送る。 :'''演算''': 加減算のような基本的算術操作を行う。 :'''条件付き実行''': 条件をチェックして、一連の処理を行うか否かを判断する。 :'''繰り返し''': ある処理を繰り返し実行する。通常、毎回何かが変化している。|[[:en:Allen B.Downey|Allen B.Downey]]|''[http://openbookproject.net/thinkcs/python/english3e/way_of_the_program.html#what-is-a-program How to Think Like a Computer Scientist§What is a program?]''}} ===プログラミングパラダイム=== {{Main|プログラミングパラダイム}} 今日までに、プログラミングの進歩に貢献した[[プログラミングパラダイム|パラダイム]]として、次があげられる: *プログラムの実行制御の仕組みとして、命令から命令へと直接移動する代わりに、論理的な順接・反復構造を用いてロジックの抽象化を目指した[[構造化プログラミング]] *[[変数 (プログラミング)|変数]]の使用による副作用の発生を排除しようとした[[関数型プログラミング]] *[[宣言型プログラミング]]を可能にした[[論理プログラミング]] *データと手続きの直交化を押し進め、人間の概念構成に近い表現を可能にした[[オブジェクト指向プログラミング]]<!-- *人間ではなくコンピュータがプログラムを生成する[[遺伝的プログラミング]]([[遺伝的アルゴリズム]]の拡張) --><!-- 「遺伝的プログラミング」の programming って、線形計画法(linear programming)とか、動的計画法(Dynamic Programming)の「計画法」とちゃいますか? --MN --> プログラミングには、文字による言語で記述する方法ばかりではなく、視覚言語や図形言語で記述する方法である[[ビジュアルプログラミング]]という方法もある。 == 最近のプログラミング == {{ソフトウェア開発工程}} === 品質 === ソフトウェア開発手法がどうであれ、最終的にはプログラムは基本的な属性を満たさなければならない。プログラミングにおいてそれを気にかけておくことで、デバッグやその後の開発およびユーザーサポートにかかる時間とコストを削減できる。[[ソフトウェア品質]]を確保する方法は様々だが、以下の5つの属性が最も重要である。 * 効率性: [[計算資源|リソース]]使用量(プロセッサ、メモリ、デバイス、ネットワークその他)は可能な限り少ない方がよい。 * 信頼性: プログラムは正しく動作しなければならない。それは単にソースコードが正しく実装されているというだけでなく、誤差の伝播を少なくするとか、典型的な値の範囲に関するエラー(オーバーフロー、アンダーフロー、[[ゼロ除算]]など)を防ぐという観点も含まれる。 * 頑健性: [[データ型]]の間違いなど実行時エラーによるプログラム停止を誘発するような事態に対処できなければならない。これは、特にユーザーとのやり取りの場面や、[[エラーメッセージ]]の処理などで重要となる。 * [[移植性]]: 再プログラミングしなくとも、任意のソフトウェア環境やハードウェア環境で動作すべきである。 * [[可読性]]: 後の保守をコーディングした人が行うとは限らないため、[[命名規則 (プログラミング)|命名規則]]やコメントなどをわかりやすくしておく。 === 方法論 === ソフトウェア開発の第一段階は[[要求分析]]であり、その後モデル化し、実装し、[[デバッグ]]する。これら作業については様々な方法論がある。[[要求分析]]で一般的な方法論として[[ユースケース]]分析がある。 モデル化技法としては[[オブジェクト指向分析設計]] (OOAD) と[[モデル駆動型アーキテクチャ]](MDA)がある。[[統一モデリング言語]] (UML) は OOAD や MDA での記法として使われている。 [[データベース]]設計では、似たような技法として[[実体関連モデル]]がある。 実装技法としては様々な[[プログラミングパラダイム]]がある([[オブジェクト指向プログラミング]]、[[手続き型プログラミング]]、[[関数型プログラミング]]、[[論理プログラミング]]など)。 デバッグには[[統合開発環境]] (IDE) が使われることが多い([[Microsoft Visual Studio|Visual Studio]]、[[NetBeans]]、[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]]など)。独立したデバッガ([[GNUデバッガ|gdb]]など)も使われている。 === 言語利用状況 === どのプログラミング言語が一番使われているかというのは、非常に難しい問題である。言語によっては特定の分野でのみ一般的なものもあるし(例えば、[[COBOL]]は企業のデータセンターでよく使われており、[[FORTRAN]]は科学技術計算に強く、[[C言語]]は組み込み市場で強い)、汎用的に様々なアプリケーションを書くのに使われている言語もある。 言語の人気を測定する手段として、求人広告に挙げられている言語を数え上げる方法がある<ref>[http://www.computerweekly.com/Articles/2007/09/11/226631/sslcomputer-weekly-it-salary-survey-finance-boom-drives-it-job.htm Survey of Job advertisements mentioning a given language]</ref>。また、既存の[[ソースコード行数|ソースコードの行数]]を言語毎に推計する方法もある(ただし、言語によって同じ機能を実現するのに必要な行数が異なるため、補正が必要)。 === デバッグ === [[バグ]]だらけのプログラムは使いものにならないため、[[デバッグ]]は重要である。C言語やアセンブリ言語などは、慣れたプログラマであっても、[[バッファオーバーラン]]や不正な[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]やメモリの初期化忘れ/解放忘れといったバグを作りこみやすい。バッファオーバーランは隣接するメモリ領域を破壊し、全く関係ない箇所でプログラムに異常が発生する原因となる。このため、C言語や[[C++]]でのプログラミング向けに [[Valgrind]]、[[IBM Rational Purify|Purify]]、[[BoundsChecker]] といった[[メモリデバッガ]]が開発されてきた。 [[Java]]、[[C Sharp|C#]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Python]] といった言語にはそのような問題がほとんどないが、性能は低い。ただし、データベースアクセスやファイル入出力が性能を決定付けるような分野では、これらの言語の性能でも何ら問題ない。また、最近ではこれらの言語の処理系でも性能が向上してきている。 === プログラミングレス思想 === [[プログラミング言語]]が使えるようになったことにより、[[機械語]]によるプログラミングを人間が直接する必要がなくなったのも一種の「プログラミングレス」だと言えばそれは大成功していると言えるだろうし(プログラミング言語の研究はその初期には「自動プログラミング」等と呼ばれていた)、結局「思想」というものが何を指すのか明確でないので、どうとでも言えることである。あるいは、現代においてはアプリケーションソフトウェアを使うだけでもコンピュータの利活用の幅がおおいにある、というのも一種の「プログラミングレス」であろう。理屈としては、[[ドメイン固有言語]]のうち、[[チューリング完全]]でないようなものは汎用の言語ではないから、それらを使ったコンピュータの利活用も「プログラミングレス」と言えなくもない。また、GUIによる設定やドラッグ&ドロップでアプリケーションが開発できることなどを指して、プログラミングレス、あるいは、ノンプログラミングということもある<ref>株式会社エクス コラム 「[https://xeex-products.jp/extelligence/non-programming/ ノンプログラミング が熱い!7つの背景]」 2017年11月13日閲覧</ref>。 ==大会== * [[Robocode]] * [http://terrarium2.codeplex.com/ テラリウム] * [[ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト]] * [[U-20プログラミングコンテスト]] * [[PALROコンテスト]] ==議論== プログラムを書くことはアートなのか、クラフトなのか、工学なのかという議論がある<ref>{{cite paper | author = Paul Graham | date = 2003年 | url = http://www.paulgraham.com/hp.html | title = Hackers and Painters | accessdate = 2006年8月22日}}</ref><ref>Paul Graham『ハッカーと画家』オーム社、2005年 ISBN 978-4-274-06597-2 </ref>。よいプログラミングには、それら3つの要素すべてが必要とされ、最終的に効率的で保守しやすいソフトウェアを生み出すことを目的とする(何が効率的で、何が保守しやすいかという判断も様々である)。「プログラムを書くことは[[設計]]をすること」という意見もある<ref>[[s:プログラマが知るべき97のこと/コードは設計である]]</ref>。 == プログラミングに関する資格 == {{seealso|Category:プログラミング関連資格}} === 国家資格 === *[[情報処理技術者試験]] - [[経済産業省]]所管の独立行政法人である[[情報処理推進機構]](IPA)が実施する[[国家資格]]。 **[[基本情報技術者試験]] - 例年、午後科目で[[擬似言語]]を用いた[[アルゴリズム]]に関する問題が必須解答問題として出題される他、選択必須問題として[[C言語]]、[[Java]]、[[Python]]、[[CASL|アセンブラ言語]]、[[表計算ソフト (情報処理技術者試験)|表計算ソフト]]のいずれかの言語に関する問題が出題される<ref group="注釈">2019年度(令和元年度)秋期までは[[COBOL]]が選択可能だった。</ref>。現在は[[表計算ソフト (情報処理技術者試験)|表計算ソフト]]が選択可能になった<ref group="注釈">元々は[[初級システムアドミニストレータ試験]](初級シスアド)に出題されていたが、2009年より基本情報技術者試験に移行した。初級シスアドは2009年春期を最後に廃止された。</ref>ため必ずしも[[プログラミング言語]]の習得は必要ではなくなったものの、こちらは[[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ]]定義の内容も出題されており、やはりアルゴリズムの知識や論理的思考力が要求される。 **[[応用情報技術者試験]] - 午後科目で自由選択制の問題としてプログラミングに関する内容が出題される(2014年春期までは選択必須問題であり、プログラミングまたは[[経営戦略]]のどちらかを必ず選択する必要があった)。前身の[[ソフトウェア開発技術者試験]]では必須問題だった。 **[[プロダクションエンジニア試験]] - 午後試験では複雑な[[アルゴリズム]]を主に多岐にわたるのシステム設計技法が多数出題されていた。2000年度の試験を最後に廃止され、一部の出題範囲が[[ソフトウェア開発技術者試験]]に継承された。 **[[情報セキュリティスペシャリスト試験]] - 午後科目で自由選択制の問題として例年セキュアプログラミングに関する内容が出題されていた。用いられるのは[[C++]]、[[Java]]、[[ECMAScript]]のいずれかであり<ref group="注釈">2011年までは[[Perl]]が出題対象に含まれていた。</ref>、受験者はいずれの言語にも対応できる必要があった(受験者が言語を選択できる基本情報技術者試験と異なる点である。)。2017年より名称独占資格である情報処理安全確保支援士に移行する形で廃止された。 **[[テクニカルエンジニア(情報セキュリティ)試験]] - 情報セキュリティスペシャリスト試験の前身として2008年まで実施された。 *[[情報処理安全確保支援士]](登録情報セキュリティスペシャリスト) - 名称独占資格。前身の情報セキュリティスペシャリスト試験を士業化し情報処理技術者試験制度から独立する形で2017年に新設された。 ===  公的資格 === *[[日商プログラミング検定]] *[[情報検定]](J検) 情報システム試験 プログラミングスキル ===  民間資格 === *[[マイクロソフト認定プロフェッショナル]](MCP) *[[情報処理技術者能力認定試験]] - [[サーティファイ]]が実施する検定試験。出題構成が国家資格である基本情報技術者試験と類似している。 *[[C言語プログラミング能力認定試験]] - [[サーティファイ]]が実施する、[[C言語]]に関する検定試験。 *[[プログラミング能力検定]] プログラミングスクラッチ プログラミングには、様々な種類があるが、中でも、小中学生が意欲的に取り組めるプログラミングスクラッチというものがある。これは、ブロック同士を繋げて、一つのプログラム、そして、世界に一つだけのプログラムを作ることができる。できることは無限大で、とても楽しく勉強ができる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== *[[Webプログラミング]] *[[ゲームプログラミング]] *[[プログラミング用語一覧]]、[[プログラミング用語 (分野別)]] *[[Hello world]] *[[ソフトウェア工学]] *[[コードキャンプ]] *[[データ構造]] *[[アルゴリズム]] {{Normdaten}} {{コンピュータ科学}} {{Software engineering}} {{DEFAULTSORT:ふろくらみんく}} [[Category:プログラミング|*ふろくらみんく]] [[Category:ソフトウェア開発工程]]
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CHILL
CHILL(チル、CCITT HIgh Level Language)は、主として交換機の制御プログラムの記述に用いられる高水準プログラミング言語である。 言語仕様としてはAdaのサブセットとなっているが、Adaの制定に時間がかかったため、CHILLの方が先に制式化されている。Adaとサブセットと言う観点で言えばModula-2と似通っている面もあるが、CHILLがModula-2の影響を受けているわけではない。多重処理の記述に適したプロセスの生成、同期通信、排他制御を記述するための並列処理機能を持つ。大規模開発のため、モジュール間での広域変数・関数のアクセス制御が細かく設定できるのもAda譲りである。並列処理機能に加えて、周期処理や時間依存の処理のような実時間制御機能をサポートしていることも特徴である。 ITUは標準のCHILLコンパイラを提供している。フリーのCHILLコンパイラとしては、GCCにバージョン2.95まではバンドルされていたが、それ以降のバージョンでは削除された。また、Object CHILLと呼ばれるオブジェクト指向のバージョンも開発された。 最初の仕様書は1980年に出版された。国際規格としては、ITU-T(旧CCITT)勧告Z.200として発行されており、これに相当するISO規格はISO/IEC 9496:2003である(両者の文章は同じである)。ITU-T勧告Z.200の最終版は1999年末であり、以降、ITU-Tは同規格の管理を中止している。日本では、保守作業へのみ利用されているとみなされており、2006年10月現在、JIS制定が見送られている。 CHILLはアルカテル System 12やシーメンスEWSD(英語版)などのシステムで使用されていた。
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CHILLは、主として交換機の制御プログラムの記述に用いられる高水準プログラミング言語である。 言語仕様としてはAdaのサブセットとなっているが、Adaの制定に時間がかかったため、CHILLの方が先に制式化されている。Adaとサブセットと言う観点で言えばModula-2と似通っている面もあるが、CHILLがModula-2の影響を受けているわけではない。多重処理の記述に適したプロセスの生成、同期通信、排他制御を記述するための並列処理機能を持つ。大規模開発のため、モジュール間での広域変数・関数のアクセス制御が細かく設定できるのもAda譲りである。並列処理機能に加えて、周期処理や時間依存の処理のような実時間制御機能をサポートしていることも特徴である。 ITUは標準のCHILLコンパイラを提供している。フリーのCHILLコンパイラとしては、GCCにバージョン2.95まではバンドルされていたが、それ以降のバージョンでは削除された。また、Object CHILLと呼ばれるオブジェクト指向のバージョンも開発された。 最初の仕様書は1980年に出版された。国際規格としては、ITU-T(旧CCITT)勧告Z.200として発行されており、これに相当するISO規格はISO/IEC 9496:2003である(両者の文章は同じである)。ITU-T勧告Z.200の最終版は1999年末であり、以降、ITU-Tは同規格の管理を中止している。日本では、保守作業へのみ利用されているとみなされており、2006年10月現在、JIS制定が見送られている。 CHILLはアルカテル System 12やシーメンスEWSDなどのシステムで使用されていた。
{{Otheruses|プログラミング言語|その他|チル}} {{Infobox programming language | name = CHILL | logo = | paradigm = [[手続き型プログラミング|手続き型]] | year = 1980年 | designer = [[ITU-T|CCITT]] | developer = | latest release version = 3.0? | latest release date = {{start date and age|mf=yes|2003}} | typing = [[静的型付け|静的]]・[[型システム#強い型付けと弱い型付け|強い型付け]] | implementations = | dialects = Object CHILL | influenced by = [[COBOL]], [[PL/1]] | influenced = | operating system = [[交換機]] | license = | website = | file ext = }} '''CHILL'''(チル、CCITT HIgh Level Language)は、主として[[交換機]]の制御プログラムの記述に用いられる[[高水準言語|高水準プログラミング言語]]である。 言語仕様としては[[Ada]]のサブセットとなっているが、Adaの制定に時間がかかったため、CHILLの方が先に制式化されている。Adaとサブセットと言う観点で言えば[[Modula-2]]と似通っている面もあるが、CHILLがModula-2の影響を受けているわけではない。多重処理の記述に適した[[プロセス]]の生成、同期通信、[[排他制御]]を記述するための[[並列処理]]機能を持つ。大規模開発のため、モジュール間での広域変数・関数のアクセス制御が細かく設定できるのもAda譲りである。並列処理機能に加えて、[[周期処理]]や時間依存の処理のような実時間制御機能をサポートしていることも特徴である。 ITUは標準のCHILL[[コンパイラ]]を提供している。フリーのCHILLコンパイラとしては、[[GNU Compiler Collection|GCC]]にバージョン2.95まではバンドルされていたが、それ以降のバージョンでは削除された。また、Object CHILLと呼ばれる[[オブジェクト指向]]のバージョンも開発された<ref>{{cite conference |author = Jürgen F. H. Winkler |author2=Georg Dießl |title = Object CHILL—an object oriented language for systems implementation |book-title = Proceedings of the 1992 ACM annual conference on Communications |pages = 139–147 |publisher = [[Association for Computing Machinery]] |date = 1992 |location = Kansas City, Missouri, USA |url = http://portal.acm.org/citation.cfm?id=131232 |doi = 10.1145/131214.131232 |isbn = 0-89791-472-4 |access-date = 2008-12-30}}</ref>。 最初の仕様書は1980年に出版された。国際規格としては、[[ITU-T]](旧CCITT)勧告Z.200として発行されており、これに相当する[[国際標準化機構|ISO]]規格はISO/IEC 9496:2003である(両者の文章は同じである)。ITU-T勧告Z.200の最終版は1999年末であり、以降、ITU-Tは同規格の管理を中止している。日本では、保守作業へのみ利用されているとみなされており、2006年10月現在、[[日本産業規格|JIS]]制定が見送られている。 CHILLはアルカテル System 12やシーメンス{{仮リンク|EWSD|en|EWSD}}などのシステムで使用されていた。 == 関連項目 == その他の交換機向けプログラミング言語 * {{仮リンク|PLEX (プログラミング言語)|label=PLEX|en|PLEX (programming language)}} * [[Erlang]] ==脚注== {{Reflist}} ==外部リンク== * [http://www.itu.int/rec/T-REC-Z.200/en ITU Z.200 standard page], has freely downloadable CHILL spec * [http://psc.informatik.uni-jena.de/languages/chill/chill.htm The CHILL Homepage] * [https://gcc.gnu.org/onlinedocs/gcc-2.95.3/chill.html Documentation for GNU CHILL] {{Normdaten}} [[Category:プログラミング言語]] [[Category:ITU-T勧告]] [[Category:ISO/IEC標準]]
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チェス
チェス(英: chess、ペルシア語: شطرنج / šaṭranj シャトランジ)は、二人で行うボードゲーム、マインドスポーツの一種である。白・黒それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。チェスプレイヤーの間では、その文化的背景などからボードゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもあるとされ、ゲームで勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている。 非常に古い歴史を持つゲームであり、様々な媒体を通して盛んである。現在では欧米圏のみならず、全世界150か国以上で楽しまれている。カードゲームなども含めたゲーム全般においてもブリッジと並んで最も多くプレイされている。 チェスの起源には諸説があるが、一般的には古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であると言われている。日本においては、同じチャトランガ系統のゲームである将棋の方が遥かに競技人口が多く、両者は基本的なルールが似ていることから、チェスは西洋将棋または国際将棋と訳されることがある。一方で、チェスと将棋はチャトランガが異なるルートで東西に伝播しつつ独自の変遷を遂げたものであるとされ、盤の広さや駒の性能、取った駒の扱いに関するルールの違いなどから、両者は似て非なるゲームであるとも評される。 競技としてのチェスは、頭脳によるスポーツの代表格でもある。遊戯としての側面のほかに、ARISF加盟IOC承認スポーツであるなど、スポーツとしての側面も持つ。 ゲーム理論では、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。 最低限必要な物 公式戦などで必要になる物 チェスの戦いは、基本的に「戦略(Strategy)」と「戦術(Tactics)」の2つの面で考えられる。「戦略」は、局面を正しく評価し、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことである。「戦術」は、より短期的な数手程度の作戦を示し、「手筋」などとも呼ばれる。戦略と戦術は、完全に切り離して考えられるものではない。多くの戦略的な目標は戦術によって達成されること、戦術的なチャンスはそれまでの戦略の結果として得られることが多いからである。 ゲームの目的は、相手のキングを詰めることである。したがって、まず有利な局面を作ることが目標とされる。局面の優劣を評価する上で重要な要素は、駒を得すること(マテリアルアドバンテージ)と、駒がよい位置を占めること(ポジショナルアドバンテージ)である。 取られた駒を永久に排除されるチェスにおいては、相手より駒が多いか少ないかが重要な意味をもつ。駒の価値は目安として、ポーン = 1点、ナイト = 3点、ビショップ = 3点強、ルーク = 5点、クイーン = 9点とされ、合計点数が1点でも違うと、特に終盤では大きな差となる。合計点数が多いことを、マテリアルアドバンテージ(material advantage)をもつという。多くの場合ポーン(P)を1個多く奪われることは、勝敗に大きく影響する。終盤では、ポーンがクイーンになるプロモーションの争いとなることが多いからである。このため、7段目に進んだポーンを3点に評価する考え方もある。またビショップは盤上半数のマスには進めないため、自分にだけ2つのビショップが揃っている場合は6点ではなく7点近くに評価する考え方もある。これをツービショップ、またはビショップペアという。 戦術は、1手から数手程度で完結する短期的な戦い方の技術である。戦術では「先を読む」ことが重要で、コンピュータが得意とする分野である。戦術においてよく用いられる基本的な手段としては、フォーク(両取り)、ピン、ディスカバードアタック、スキュア(串刺し)、ツークツワンクなどがある。戦術のなかでも、駒の犠牲を払って優位な形やチェックメイトを狙うものは、「コンビネーション」と呼ばれている。 チェスの1局は、序盤・中盤・終盤の3つの局面に分けて考えられることが多い。序盤 (Opening) は多くの場合、開始10手から25手程度を指し、対局者が戦いに備えて駒を展開する局面である。中盤 (middlegame) は多くの駒が展開され、局面を優位にコントロールするために様々な戦術が用いられる。終盤 (endgame) は、大部分の駒が交換され盤上から無くなった局面で、キングが戦いにおいて重要な役割を担う。盤上の駒の数がゲームの進行に伴って不可逆的に減少するチェスにおいては、駒の数が減った場合における完全解析のプロジェクトが進行しており、2018年までに「白黒双方のキングと残り5駒を加えた盤上7駒」までの状況について完全解析が完了し、「テーブルベース」としてデータベース化されている。 チェスの戦い方を表す格言として、「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」という言葉がある。これは序盤を既に確立された序盤定跡に忠実に従うことを「本」、中盤以降は記憶に頼ることが難しくなるため、そこで要求される巧みさや機転を「奇術」にたとえている。終盤の「機械」とは、特にチェックを意識する最終盤における読みの深さ、ミスを犯さない冷静沈着な精神などを指す。 前述の通り、形勢判断に最も重要な要素は、残存戦力、すなわち残っている駒の数である。次いで駒の働き、キングの安全性が判断材料となる。 2018年現在、世界全体でルールを知る人は推定約7億人とされ、もっとも広く親しまれているゲームのひとつである。世界チェス連盟 (FIDE) 所属の登録競技者数は2018年現在で36万人である。 将棋のトッププロ棋士・羽生善治は趣味でチェスを行いFIDEマスター位を有する、日本国内屈指の強豪である。羽生は2005年の著書『上達するヒント』の中で、「私は趣味でチェスをするのですが、日本ではプレイする人が少ないので、母国語(日本語)のチェスの本はほとんど出版されていません。ですから、海外で将棋を愛好する人達が母国語の将棋の本がとても少なく、情報が少なくて物足りない気持ちは十分理解できるつもりです。」と記した。ただし2005年以降に出版点数は増えている。それ以前も合わせて複数のチェス書(翻訳書を含む)を出した出版社として日東書院、河出書房新社、白水社、毎日コミュニケーションズ(現社名マイナビ)、山海堂(解散)、チェストランス出版、アンパサンチェス研究会、デイリー子供クラブなどがあり、ほかに自費出版のものもあり、これらの一部は電子書籍化されている。加えて世界的なネット対戦サイトの Chess.com や Lichess、その携帯用アプリでもインターフェースや一部の教材が日本語化され、日本語でのチェス学習環境は大きく進歩している。 チェスの盤面状態の種類は10程度、ゲーム木の複雑性は10程度と見積もられている。 他のゲームでは、盤面状態の種類は、チェッカーが10程度、リバーシが10程度、シャンチーが10程度、将棋が10程度、囲碁が10程度 となっており、チェスは、囲碁、将棋の次に大きな値である。 同様に、ゲーム木複雑性は、チェッカーが10程度、リバーシが10程度、シャンチーが10程度、将棋が10程度、囲碁が10程度となっており、チェスは囲碁、将棋、シャンチーの次に大きな値である。 ゲーム理論では、チェスのようなゲームは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。理論上は完全な先読みが可能であるこの種のゲームでは、双方のプレーヤーがルール上可能なあらゆる着手の中から最善手を突き詰めた場合、先手必勝、後手必勝、ないし引き分けのいずれかの結果が最初から決まってしまうことがエルンスト・ツェルメロによって証明されている。 チェスの初手から最終手までにルール上可能な着手は、1950年にクロード・シャノン によって10と試算されている。その全てを網羅し必勝戦略を導き出すことはいまだ実現に至っていないものの、コンピュータにチェスをさせるという試みはコンピュータの黎明期から行なわれており、コンピュータの歴史と、コンピュータチェスの歴史は並行して歩んできた。 機械にチェスを指させることは、コンピュータが発明される以前から人々の目標となっていた。 1769年にハンガリーのヴォルフガング・フォン・ケンペレンはトルコ人という名の人形を製作した。この人形は、熟練者級のチェスの腕を持ち、ナイト・ツアーをこなすこともできた。しかし、実際にはトルコ人は中に人間が入って操作するイリュージョンであった。チェスを指す人形を題材にしたイリュージョンは、他にもアジーブ(英語版)やメフィスト(英語版)など様々なものがあった。 1840年代に数学者のチャールズ・バベッジは、機械にゲームをプレイさせるためのアルゴリズムを考案した。しかし、チェスのような複雑なゲームをプレイさせることは現実的ではないとして、チェスのアルゴリズムの考案を断念した。 1912年、スペインの技術者レオナルド・トーレス・ケベードが、世界で初めて自動でチェスをプレイする機械「エル・アヘドレシスタ」の開発に成功した。エル・アヘドレシスタは、3種類の駒のみで構成されたエンドゲームをプレイすることができた。一方、初期配置からチェックメイトまでを通してプレイするためにはコンピュータ科学の発展を俟たなければならなかった。 1936年に数学者のアラン・チューリングが抽象的なコンピュータの概念であるチューリングマシンを考案すると、これを機に様々なアルゴリズムが整備されるようになり、1945年にドイツのコンラート・ツーゼがチェスプログラムのアルゴリズムについて世界で初めて言及した。1949年、ベル研究所のクロード・シャノンが評価関数や探索木などの概念を確立し、チェスのアルゴリズムの大枠を完成させた。1951年にはチューリングがチェスのアルゴリズムに基づき、初期配置からチェックメイトまでのプレイができることを示した。もっとも、これらのチェスアルゴリズムは、電子的に実装されたものではなく、アルゴリズムの手順に従って紙と鉛筆を使って手計算を繰り返すことで、チェスのプレイが可能であることを示したものである。 1945年に数学者のジョン・フォン・ノイマンがノイマン型コンピュータを考案し、チューリングマシンを具体化する方法を提示すると、電子回路によってコンピュータを実装することが可能になり、1950年代前半にかけて、コンピュータが次々と製作された。コンピュータが制作されたことでツーゼ、シャノン、チューリングらが考案したチェスアルゴリズムを電子的に動作させることができるようになり、1956年、ロスアラモス研究所がコンピュータ上で6×6のミニチュアボードでチェスをプレイするプログラムを実装した。これにより、コンピュータ・チェスが確立した。 黎明期の1950年代のチェスプログラムはとても弱く、人間の頭脳で判断すればすぐに愚かなものだと判断がつくような手を連発するものが多く、人間の中級者(どころか初心者)でも簡単に打ち負かすことができるようなマシン(プログラム)ばかりであった。最も強い部類でもMac Hack VI(マックハック)でせいぜいレーティングは1670と言われる程度にすぎなかった。当時、果たして将来的にでも人間の一流プレーヤーを破ることができるようなプログラムができるのか、という点に関して非常に疑問視されていた。1968年にはインターナショナル・マスターのデイヴィッド・レヴィは「今後10年以内に自分を破るようなコンピュータは現れない」というほうに賭ける賭けを行い、実際1978年に当時最強の<チェス4.7>と対戦し、それに勝った。ただし、当時レヴィは遠くない未来に自分を越えるコンピュータが現れるかもしれない、との感想を漏らした。そして、レヴィがエキシビションマッチでディープ・ソートに敗れたのは1989年のことであった。 コンピュータと人間の力関係の象徴的なものとして世界中の注目を集め、そして結果として人々に深い印象を残したのは、IBMのディープ・ブルーとガルリ・カスパロフの対戦であった。1996年に両者の対戦が行われたところ、6戦の戦績として、カスパロフ(人間の世界チャンピオン)の側の3勝1敗2引き分けで、人間側の勝利であった(人間の世界チャンピオンの頭脳のほうが、世界最強のチェスマシンよりも強いことを知り喜んだり快く思う人、「ほっとした」人も多かった)。ただし、コンピュータチェスを推進する人々からは、初めて人間の世界チャンピオンから1局であれ勝利を収めた、という点は評価された。1997年、ディープ・ブルーが再度ガルリ・カスパロフと対戦し、ようやく初めて世界チャンピオンに勝利を収め、コンピュータチェスの歴史に残る大きな節目(あるいは人類の意味の歴史の一こま)として大々的に報道された。勝利したIBM側は、格好の宣伝材料としてこの出来事を利用し、すぐにディープ・ブルーを解体してしまい、それとの再戦(リベンジ戦、名誉回復戦)はできない状態にしてしまった。 その後のコンピュータと人間の対戦の際立ったものを挙げると、2002年10月に行われたウラジーミル・クラムニク(露)とコンピュータソフト「ディープ・フリッツ」とのマッチでは、両者が引き分け、2003年01月26日から2月7日までニューヨークで行なわれたカスパロフと「ディープ・ジュニア」とのマッチも、1勝1敗4引き分けで両者引き分けに終わり、2003年11月11日から11月18日まで行なわれたカスパロフと「X3Dフリッツ」のマッチも、1勝1敗2引き分けで両者引き分けに終わったこと、また2006年10月に統一世界チャンピオンとなったクラムニクとディープ・フリッツとの6ゲームマッチが、2006年11月25日から12月5日までボンで行なわれ、ディープ・フリッツが2勝4引き分けでマッチに勝ったことなどが挙げられよう。 こうして、今日では人間のチャンピオン対コンピュータの対戦もよく行われている。また上記のような特殊なチェス専用マシンでなくても、市販のPCやスマートフォン上で走るチェスプログラムも強力となっており、対戦して楽しんでいるファンも多い。 西洋の絵画、特に17世紀までのヴァニタスをはじめとする寓意的な静物画には、触覚を示す比喩として、チェスボードや駒が描かれる事がある。また、近現代においては、マルセル・デュシャンは自身もチェス・プレイヤーをしていた経歴をもち、作品に度々登場させている。現代音楽では、ジョン・ケージ(チェスに関してはデュシャンの弟子でもある)が、チェスボード上を動く駒の音を作品に取り入れた例がある。 英語版のカテゴリ(en:Category:Films about chess)も参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チェス(英: chess、ペルシア語: شطرنج / šaṭranj シャトランジ)は、二人で行うボードゲーム、マインドスポーツの一種である。白・黒それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。チェスプレイヤーの間では、その文化的背景などからボードゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもあるとされ、ゲームで勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "非常に古い歴史を持つゲームであり、様々な媒体を通して盛んである。現在では欧米圏のみならず、全世界150か国以上で楽しまれている。カードゲームなども含めたゲーム全般においてもブリッジと並んで最も多くプレイされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チェスの起源には諸説があるが、一般的には古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であると言われている。日本においては、同じチャトランガ系統のゲームである将棋の方が遥かに競技人口が多く、両者は基本的なルールが似ていることから、チェスは西洋将棋または国際将棋と訳されることがある。一方で、チェスと将棋はチャトランガが異なるルートで東西に伝播しつつ独自の変遷を遂げたものであるとされ、盤の広さや駒の性能、取った駒の扱いに関するルールの違いなどから、両者は似て非なるゲームであるとも評される。 競技としてのチェスは、頭脳によるスポーツの代表格でもある。遊戯としての側面のほかに、ARISF加盟IOC承認スポーツであるなど、スポーツとしての側面も持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゲーム理論では、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最低限必要な物", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公式戦などで必要になる物", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "チェスの戦いは、基本的に「戦略(Strategy)」と「戦術(Tactics)」の2つの面で考えられる。「戦略」は、局面を正しく評価し、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことである。「戦術」は、より短期的な数手程度の作戦を示し、「手筋」などとも呼ばれる。戦略と戦術は、完全に切り離して考えられるものではない。多くの戦略的な目標は戦術によって達成されること、戦術的なチャンスはそれまでの戦略の結果として得られることが多いからである。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲームの目的は、相手のキングを詰めることである。したがって、まず有利な局面を作ることが目標とされる。局面の優劣を評価する上で重要な要素は、駒を得すること(マテリアルアドバンテージ)と、駒がよい位置を占めること(ポジショナルアドバンテージ)である。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "取られた駒を永久に排除されるチェスにおいては、相手より駒が多いか少ないかが重要な意味をもつ。駒の価値は目安として、ポーン = 1点、ナイト = 3点、ビショップ = 3点強、ルーク = 5点、クイーン = 9点とされ、合計点数が1点でも違うと、特に終盤では大きな差となる。合計点数が多いことを、マテリアルアドバンテージ(material advantage)をもつという。多くの場合ポーン(P)を1個多く奪われることは、勝敗に大きく影響する。終盤では、ポーンがクイーンになるプロモーションの争いとなることが多いからである。このため、7段目に進んだポーンを3点に評価する考え方もある。またビショップは盤上半数のマスには進めないため、自分にだけ2つのビショップが揃っている場合は6点ではなく7点近くに評価する考え方もある。これをツービショップ、またはビショップペアという。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "戦術は、1手から数手程度で完結する短期的な戦い方の技術である。戦術では「先を読む」ことが重要で、コンピュータが得意とする分野である。戦術においてよく用いられる基本的な手段としては、フォーク(両取り)、ピン、ディスカバードアタック、スキュア(串刺し)、ツークツワンクなどがある。戦術のなかでも、駒の犠牲を払って優位な形やチェックメイトを狙うものは、「コンビネーション」と呼ばれている。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "チェスの1局は、序盤・中盤・終盤の3つの局面に分けて考えられることが多い。序盤 (Opening) は多くの場合、開始10手から25手程度を指し、対局者が戦いに備えて駒を展開する局面である。中盤 (middlegame) は多くの駒が展開され、局面を優位にコントロールするために様々な戦術が用いられる。終盤 (endgame) は、大部分の駒が交換され盤上から無くなった局面で、キングが戦いにおいて重要な役割を担う。盤上の駒の数がゲームの進行に伴って不可逆的に減少するチェスにおいては、駒の数が減った場合における完全解析のプロジェクトが進行しており、2018年までに「白黒双方のキングと残り5駒を加えた盤上7駒」までの状況について完全解析が完了し、「テーブルベース」としてデータベース化されている。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "チェスの戦い方を表す格言として、「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」という言葉がある。これは序盤を既に確立された序盤定跡に忠実に従うことを「本」、中盤以降は記憶に頼ることが難しくなるため、そこで要求される巧みさや機転を「奇術」にたとえている。終盤の「機械」とは、特にチェックを意識する最終盤における読みの深さ、ミスを犯さない冷静沈着な精神などを指す。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "前述の通り、形勢判断に最も重要な要素は、残存戦力、すなわち残っている駒の数である。次いで駒の働き、キングの安全性が判断材料となる。", "title": "戦い方" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2018年現在、世界全体でルールを知る人は推定約7億人とされ、もっとも広く親しまれているゲームのひとつである。世界チェス連盟 (FIDE) 所属の登録競技者数は2018年現在で36万人である。", "title": "競技人口" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "将棋のトッププロ棋士・羽生善治は趣味でチェスを行いFIDEマスター位を有する、日本国内屈指の強豪である。羽生は2005年の著書『上達するヒント』の中で、「私は趣味でチェスをするのですが、日本ではプレイする人が少ないので、母国語(日本語)のチェスの本はほとんど出版されていません。ですから、海外で将棋を愛好する人達が母国語の将棋の本がとても少なく、情報が少なくて物足りない気持ちは十分理解できるつもりです。」と記した。ただし2005年以降に出版点数は増えている。それ以前も合わせて複数のチェス書(翻訳書を含む)を出した出版社として日東書院、河出書房新社、白水社、毎日コミュニケーションズ(現社名マイナビ)、山海堂(解散)、チェストランス出版、アンパサンチェス研究会、デイリー子供クラブなどがあり、ほかに自費出版のものもあり、これらの一部は電子書籍化されている。加えて世界的なネット対戦サイトの Chess.com や Lichess、その携帯用アプリでもインターフェースや一部の教材が日本語化され、日本語でのチェス学習環境は大きく進歩している。", "title": "競技人口" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "チェスの盤面状態の種類は10程度、ゲーム木の複雑性は10程度と見積もられている。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "他のゲームでは、盤面状態の種類は、チェッカーが10程度、リバーシが10程度、シャンチーが10程度、将棋が10程度、囲碁が10程度 となっており、チェスは、囲碁、将棋の次に大きな値である。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同様に、ゲーム木複雑性は、チェッカーが10程度、リバーシが10程度、シャンチーが10程度、将棋が10程度、囲碁が10程度となっており、チェスは囲碁、将棋、シャンチーの次に大きな値である。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ゲーム理論では、チェスのようなゲームは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類される。理論上は完全な先読みが可能であるこの種のゲームでは、双方のプレーヤーがルール上可能なあらゆる着手の中から最善手を突き詰めた場合、先手必勝、後手必勝、ないし引き分けのいずれかの結果が最初から決まってしまうことがエルンスト・ツェルメロによって証明されている。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "チェスの初手から最終手までにルール上可能な着手は、1950年にクロード・シャノン によって10と試算されている。その全てを網羅し必勝戦略を導き出すことはいまだ実現に至っていないものの、コンピュータにチェスをさせるという試みはコンピュータの黎明期から行なわれており、コンピュータの歴史と、コンピュータチェスの歴史は並行して歩んできた。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "機械にチェスを指させることは、コンピュータが発明される以前から人々の目標となっていた。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1769年にハンガリーのヴォルフガング・フォン・ケンペレンはトルコ人という名の人形を製作した。この人形は、熟練者級のチェスの腕を持ち、ナイト・ツアーをこなすこともできた。しかし、実際にはトルコ人は中に人間が入って操作するイリュージョンであった。チェスを指す人形を題材にしたイリュージョンは、他にもアジーブ(英語版)やメフィスト(英語版)など様々なものがあった。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1840年代に数学者のチャールズ・バベッジは、機械にゲームをプレイさせるためのアルゴリズムを考案した。しかし、チェスのような複雑なゲームをプレイさせることは現実的ではないとして、チェスのアルゴリズムの考案を断念した。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1912年、スペインの技術者レオナルド・トーレス・ケベードが、世界で初めて自動でチェスをプレイする機械「エル・アヘドレシスタ」の開発に成功した。エル・アヘドレシスタは、3種類の駒のみで構成されたエンドゲームをプレイすることができた。一方、初期配置からチェックメイトまでを通してプレイするためにはコンピュータ科学の発展を俟たなければならなかった。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1936年に数学者のアラン・チューリングが抽象的なコンピュータの概念であるチューリングマシンを考案すると、これを機に様々なアルゴリズムが整備されるようになり、1945年にドイツのコンラート・ツーゼがチェスプログラムのアルゴリズムについて世界で初めて言及した。1949年、ベル研究所のクロード・シャノンが評価関数や探索木などの概念を確立し、チェスのアルゴリズムの大枠を完成させた。1951年にはチューリングがチェスのアルゴリズムに基づき、初期配置からチェックメイトまでのプレイができることを示した。もっとも、これらのチェスアルゴリズムは、電子的に実装されたものではなく、アルゴリズムの手順に従って紙と鉛筆を使って手計算を繰り返すことで、チェスのプレイが可能であることを示したものである。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1945年に数学者のジョン・フォン・ノイマンがノイマン型コンピュータを考案し、チューリングマシンを具体化する方法を提示すると、電子回路によってコンピュータを実装することが可能になり、1950年代前半にかけて、コンピュータが次々と製作された。コンピュータが制作されたことでツーゼ、シャノン、チューリングらが考案したチェスアルゴリズムを電子的に動作させることができるようになり、1956年、ロスアラモス研究所がコンピュータ上で6×6のミニチュアボードでチェスをプレイするプログラムを実装した。これにより、コンピュータ・チェスが確立した。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "黎明期の1950年代のチェスプログラムはとても弱く、人間の頭脳で判断すればすぐに愚かなものだと判断がつくような手を連発するものが多く、人間の中級者(どころか初心者)でも簡単に打ち負かすことができるようなマシン(プログラム)ばかりであった。最も強い部類でもMac Hack VI(マックハック)でせいぜいレーティングは1670と言われる程度にすぎなかった。当時、果たして将来的にでも人間の一流プレーヤーを破ることができるようなプログラムができるのか、という点に関して非常に疑問視されていた。1968年にはインターナショナル・マスターのデイヴィッド・レヴィは「今後10年以内に自分を破るようなコンピュータは現れない」というほうに賭ける賭けを行い、実際1978年に当時最強の<チェス4.7>と対戦し、それに勝った。ただし、当時レヴィは遠くない未来に自分を越えるコンピュータが現れるかもしれない、との感想を漏らした。そして、レヴィがエキシビションマッチでディープ・ソートに敗れたのは1989年のことであった。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "コンピュータと人間の力関係の象徴的なものとして世界中の注目を集め、そして結果として人々に深い印象を残したのは、IBMのディープ・ブルーとガルリ・カスパロフの対戦であった。1996年に両者の対戦が行われたところ、6戦の戦績として、カスパロフ(人間の世界チャンピオン)の側の3勝1敗2引き分けで、人間側の勝利であった(人間の世界チャンピオンの頭脳のほうが、世界最強のチェスマシンよりも強いことを知り喜んだり快く思う人、「ほっとした」人も多かった)。ただし、コンピュータチェスを推進する人々からは、初めて人間の世界チャンピオンから1局であれ勝利を収めた、という点は評価された。1997年、ディープ・ブルーが再度ガルリ・カスパロフと対戦し、ようやく初めて世界チャンピオンに勝利を収め、コンピュータチェスの歴史に残る大きな節目(あるいは人類の意味の歴史の一こま)として大々的に報道された。勝利したIBM側は、格好の宣伝材料としてこの出来事を利用し、すぐにディープ・ブルーを解体してしまい、それとの再戦(リベンジ戦、名誉回復戦)はできない状態にしてしまった。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その後のコンピュータと人間の対戦の際立ったものを挙げると、2002年10月に行われたウラジーミル・クラムニク(露)とコンピュータソフト「ディープ・フリッツ」とのマッチでは、両者が引き分け、2003年01月26日から2月7日までニューヨークで行なわれたカスパロフと「ディープ・ジュニア」とのマッチも、1勝1敗4引き分けで両者引き分けに終わり、2003年11月11日から11月18日まで行なわれたカスパロフと「X3Dフリッツ」のマッチも、1勝1敗2引き分けで両者引き分けに終わったこと、また2006年10月に統一世界チャンピオンとなったクラムニクとディープ・フリッツとの6ゲームマッチが、2006年11月25日から12月5日までボンで行なわれ、ディープ・フリッツが2勝4引き分けでマッチに勝ったことなどが挙げられよう。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうして、今日では人間のチャンピオン対コンピュータの対戦もよく行われている。また上記のような特殊なチェス専用マシンでなくても、市販のPCやスマートフォン上で走るチェスプログラムも強力となっており、対戦して楽しんでいるファンも多い。", "title": "コンピュータ・チェス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "西洋の絵画、特に17世紀までのヴァニタスをはじめとする寓意的な静物画には、触覚を示す比喩として、チェスボードや駒が描かれる事がある。また、近現代においては、マルセル・デュシャンは自身もチェス・プレイヤーをしていた経歴をもち、作品に度々登場させている。現代音楽では、ジョン・ケージ(チェスに関してはデュシャンの弟子でもある)が、チェスボード上を動く駒の音を作品に取り入れた例がある。", "title": "チェスを扱った作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英語版のカテゴリ(en:Category:Films about chess)も参照", "title": "チェスを扱った作品" } ]
チェスは、二人で行うボードゲーム、マインドスポーツの一種である。白・黒それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。チェスプレイヤーの間では、その文化的背景などからボードゲームであると同時に「スポーツ」でも「芸術」でも「科学」でもあるとされ、ゲームで勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている。
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年2月}} {{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム}} [[ファイル:Staunton chess set.jpg|サムネイル|280px|チェスセット]] '''チェス'''({{lang-en-short|chess}}、{{lang-fa|شطرنج}} / ''šaṭranj'' [[シャトランジ]])は、二人で行う[[ボードゲーム]]、[[マインドスポーツ]]の一種である。白・黒それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。チェスプレイヤーの間では、その文化的背景などからボードゲームであると同時に「[[スポーツ]]」でも「[[芸術]]」でも「[[科学]]」でもあるとされ<ref>『[[チェスの本]]』フランスワ・ル・リヨネ 成相恭二訳 [[白水社]] {{ISBN2|4-560-05603-X}}</ref>、ゲームで勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている<ref>{{Cite book|和書 |author=松本康司 |title=チェスの名人になってみないか 図解チェス入門 |year=1980 |month=3 |publisher=青年書館 |id={{全国書誌番号|80023310}} |chapter=チェスの妙味(解説篇) |pages=20頁 }}<br>{{Harvtxt|ロフリン|1977|loc=日本語版への序}}</ref>。 == 概要 == 非常に古い歴史を持つゲームであり、様々な媒体を通して盛んである。現在では[[ヨーロッパ|欧米圏]]のみならず、全世界150か国以上で楽しまれている。[[カードゲーム]]なども含めたゲーム全般においても[[コントラクトブリッジ|ブリッジ]]と並んで最も多くプレイされている。 [[ファイル:OdznakaOS.jpg|サムネイル|120px|1935年[[チェス・オリンピアード|チェス五輪]]の記念バッジ ]] チェスの起源には諸説があるが、一般的には古代インドの戦争ゲーム、[[チャトランガ]]が起源であると言われている<ref>{{Harvtxt|ロフリン|1977|p=2}}</ref><ref name="chiezo2006_pp999">{{Cite encyclopedia |author=村上耕司 |encyclopedia=[[知恵蔵|朝日現代用語 知恵蔵2006]] |title=将棋の起源 |date=2006年1月1日 |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=4-02-390006-0 |pages=999-1000 }}</ref>。日本においては、同じチャトランガ系統のゲームである[[将棋]]の方が遥かに競技人口が多く<ref>{{Harvtxt|松田道弘|1993|p=323}}</ref>、両者は基本的なルールが似ていることから、チェスは'''西洋将棋'''または'''国際将棋'''と訳されることがある{{r|chiezo2006_pp999}}<ref name="kurata981_p103">{{Cite book|和書 |author=倉田操 |title=ゲームとチェスの遊び方 |edition=9刷 |date=1981年7月10日 |publisher=虹有社 |id={{全国書誌番号|93009517}} |pages=103頁 |chapter=チェスについて |quote=我国では,チェスのことを,将棋によく似ているところから「西洋将棋」とも言っております。 }}</ref><ref name="masukawa1978_p137">{{Cite book|和書 |author=増川宏一 |authorlink=増川宏一 |title=盤上遊戯 |edition=初版 |date=1978年7月10日 |publisher=[[法政大学出版局]] |series=ものと人間の文化史(29) |isbn=978-4588202919 |pages=137頁 |chapter=チェス }}</ref><ref>{{Bulleted list|{{Cite web|和書 |year=2006 |url=https://www.joc.or.jp/sports/chess.html |title=チェス |work=競技情報 |publisher=[[日本オリンピック委員会]] |accessdate=2009-11-07 }}|{{Citation|和書 |year=1965 |contribution=チェス〈chess〉 |title=旺文社国語辞典 |edition=中型新 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競技としてのチェスは、[[マインドスポーツ|頭脳によるスポーツ]]の代表格でもある。遊戯としての側面のほかに、[[IOC承認国際競技連盟連合|ARISF]]加盟[[国際オリンピック委員会|IOC]]承認スポーツであるなど、スポーツとしての側面も持つ。 [[ゲーム理論]]では、[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に分類される<ref name="MDDGameTheory_p31">{{Cite book|和書 |last=Davis |first=Morton.D |translator=桐谷維、森克美 |title=ゲームの理論入門 チェスから核戦略まで |origyear=1970 |edition=第46刷 |date=1973-09-30 |publisher=[[講談社]] |series=[[ブルーバックス]] |isbn=4-06-117817-2 |pages=31-32頁 |chapter=第2章 完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム |quote=[[ゲーム理論|ゲームの理論]]家の眼から見れば、チェス・ゲームの例には四つの本質的要素がある。(中略)これら四つの特性を持つゲームは「[[二人零和有限確定完全情報ゲーム|完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム]]」と言われる。 }}</ref>。 == 用具 == {| class="floatright" |- style="vertical-align:top" | [[ファイル:Chess-king.JPG|180px|サムネイル|チェスの駒とボード]] | {{チェスの駒}} |} '''最低限必要な物''' * [[チェスボード]]:縦横8マスずつに区切られた、64マスの[[市松模様]]の正方形の盤。「チェス盤」とも呼ばれている。 * [[チェスの駒|チェスピース]]:6種類の動き方が異なる[[駒]]の総称。全体の駒の数は、白黒あわせて32個。公式戦では、[[イギリス]]の[[ジャック・オブ・ロンドン]]が販売したことで定着した[[スタントンチェスセット]]と呼ばれる駒が使用される。各人、キングx1、クイーンx1、ビショップx2、ナイトx2、ルークx2、ポーンx8、あわせて16個をもつ。敵味方の識別はその色で行う(将棋のように駒の向きではない。また、チェスの駒の向きは関係ない。例のナイトの駒は左向きであるが特に意味は無い。)。 '''公式戦などで必要になる物''' * [[対局時計|チェス・クロック(対局時計)]]:主に[[持ち時間|公式戦]]で指す場合に使用する。 * [[棋譜|スコアシート(棋譜用紙)]]:公式戦では、互いのプレイヤーが駒の動きを一手一手記録する必要がある。 {{clear}} == チェスの遊び方(概略)== {{Chess diagram |tright |'''駒の初期配置''' |rd|nd|bd|qd|kd|bd|nd|rd |pd|pd|pd|pd|pd|pd|pd|pd | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |pl|pl|pl|pl|pl|pl|pl|pl |rl|nl|bl|ql|kl|bl|nl|rl | }} {{Main|チェスのルール}} * ゲームは2人のプレイヤーにより、[[チェスボード]]の上で行われる。 * 白が先手、黒が後手となる。 * 双方のプレイヤーは、交互に盤上にある自分の駒を1回ずつ動かす。パスをすることはできない。 * 味方の駒の動ける範囲に敵の駒があれば、それを取ることができる。 **ただし[[ポーン]]だけは、敵の駒を取れる範囲が通常の移動範囲と異なる。 * 敵の駒を取った駒は、取られた駒のあったマスへ移動する。 ** これはポーンも同じだが、ポーン同士による[[アンパッサン]]は例外である。 ** 取られた駒は盤上から取りのぞき、以降そのゲームが終わるまで使用しない。 * [[ナイト (チェス)|ナイト]]と、[[キャスリング]]時のキング・ルークを除き、駒は他の駒を飛び越して移動することはできない。 * キングは、敵の駒が利いている(直後の手で取られるような)場所には移動することができない。 * 相手のキングに、自分の駒を利かせて取ろうとする手を「'''[[王手#チェスの「王手」|チェック]]'''」と呼ぶ。 ** この状態では、相手側は次の手ですぐにキングの安全を確保しなければならない。 ** キングが次の手で絶対に逃げられないように追い詰めた[[王手#チェスの「王手」|チェック]]のことを「'''[[詰み#チェスの「詰み」|チェックメイト]]'''」と呼び、この手を指したプレイヤーの勝ちになる。 * 以下の場合はすべて引き分けとなる。 ** ルール上動かせる駒がなくなったがチェックにはなっていない状態「[[ステイルメイト]]」になった場合 ** どちらもチェックメイトができなくなるほどにコマを失った場合 ** 永久王手など、同一の局面が3回生じる[[千日手#チェスにおける千日手|千日手]]が指摘された場合 == チェスの歴史(概略) == [[ファイル:KnightsTemplarPlayingChess1283.jpg|サムネイル|150px|[[テンプル騎士団]] ]] {{Main|チェスの歴史}} * チェスの起源は紀元前、古代インドの[[チャトランガ]]だと言われている{{r|chiezo2006_pp999}}。ただしチャトランガがどのようなゲームであったかについては論争がある<ref name="matsuda1993_pp206">{{Harvtxt|松田道弘|1993|pp=206-262}}</ref>。詳細は「[[チャトランガ]]」を参照。 * [[ペルシア]]に伝えられて[[シャトランジ]]と名を変え、さらにヨーロッパに伝わっていった。 * [[8世紀]]にはロシアに伝えられ、約100年遅れて[[西ヨーロッパ]]へ伝わる。 * [[15世紀]]末、[[ルイス・デ・ルセナ]]によるヨーロッパ最初のチェスの本、「チェスの技術」が出版された。 [[ファイル:André Philidor.jpg|right|thumb|100px|[[フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール|フィリドール]] ]] * [[16世紀]]、ほぼ現在と同じルールに固定された。「[[アンパッサン]]」、「[[ツークツワンク]]」、「[[キャスリング]]」などの用語がヨーロッパ各地の言語で生まれていることからもわかるように、ヨーロッパ各地でルールが発展していった。 * [[17世紀]]には、チェスは娯楽として普及。資産家をスポンサーとして競技されるようになる。 * [[1749年]]、[[フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール|フィリドール]]が『フィリドールの解析』を著し、「ポーンはチェスの魂である」との言葉を残す。 * [[1857年]]、ポール・モーフィーが、アメリカのチェス大会で優勝。翌年ヨーロッパに渡り、ここでも圧倒的勝利を収めている。 * [[1886年]]、[[ヴィルヘルム・シュタイニッツ]]がツケルトートを破り、「公式」な世界チャンピオンとなる。 * [[1935年]]、アレヒンが1937年にタイトルを奪回、1946年に死去するまでチャンピオンの地位にあった。このアレヒン以降は、ソ連-ロシアのプレーヤーがチャンピオンを保持し続ける時代が長かった。 * [[1972年]]、[[ボビー・フィッシャー]]が、[[ボリス・スパスキー]]を破ってチャンピオンの座に就く。フィッシャーは「米国の英雄」とも呼ばれたが、1975年防衛戦の実施方法を巡って[[FIDE]]と対立。タイトルを剥奪された。 * [[1997年]]、[[FIDE]]は国際オリンピック委員会(IOC)の勧告を受け入れ、挑戦者制をトーナメント制に改めた。 * [[2000年]]、インドの[[ヴィスワナータン・アーナンド|アナンド]]が優勝。初めてチェス発祥の地にチャンピオンが誕生した。 == 戦い方 == {{出典の明記|date=Feb 2021|section=1}} チェスの戦いは、基本的に「戦略(Strategy)」と「戦術(Tactics)」の2つの面で考えられる。「戦略」は、局面を正しく評価し、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことである。「戦術」は、より短期的な数手程度の作戦を示し、「手筋」などとも呼ばれる。戦略と戦術は、完全に切り離して考えられるものではない。多くの戦略的な目標は戦術によって達成されること、戦術的なチャンスはそれまでの戦略の結果として得られることが多いからである。 === 駒の配置 === ゲームの目的は、相手のキングを詰めることである。したがって、まず有利な局面を作ることが目標とされる。局面の優劣を評価する上で重要な要素は、駒を得すること(マテリアルアドバンテージ)と、駒がよい位置を占めること(ポジショナルアドバンテージ)である。 ====マテリアルアドバンテージ==== 取られた駒を永久に排除されるチェスにおいては、相手より駒が多いか少ないかが重要な意味をもつ。駒の価値は目安として、ポーン = 1点、ナイト = 3点、ビショップ = 3点強、ルーク = 5点、クイーン = 9点とされ、合計点数が1点でも違うと、特に終盤では大きな差となる。合計点数が多いことを、マテリアルアドバンテージ(material advantage)をもつという。多くの場合ポーン(P)を1個多く奪われることは、勝敗に大きく影響する。終盤では、ポーンがクイーンになるプロモーションの争いとなることが多いからである。このため、7段目に進んだポーンを3点に評価する考え方もある。またビショップは盤上半数のマスには進めないため、自分にだけ2つのビショップが揃っている場合は6点ではなく7点近くに評価する考え方もある。これをツービショップ、またはビショップペアという。 ====ポーンの形==== * ポーンは後退できない駒なので、前進には慎重さを要する。動きの制約が最も大きく狙われても容易に逃げることができないので、ポーンが狙われにくい配置であることが重要である。{{main|ポーン#さまざまなポーンの形}} * ポーンによってキングを安全にし、他の駒のための空間を確保し、重要なマスを支配することも大きな要素である。 === 戦術 === 戦術は、1手から数手程度で完結する短期的な戦い方の技術である。戦術では「先を読む」ことが重要で、コンピュータが得意とする分野である。戦術においてよく用いられる基本的な手段としては、フォーク([[両取り]])、[[ピン (チェス)|ピン]]、[[ディスカバードアタック]]、スキュア(串刺し)、[[ツークツワンク]]などがある。戦術のなかでも、駒の犠牲を払って優位な形やチェックメイトを狙うものは、「コンビネーション」と呼ばれている。 === ゲーム全体の流れ === チェスの1局は、序盤・中盤・終盤の3つの局面に分けて考えられることが多い。序盤 (Opening) は多くの場合、開始10手から25手程度を指し、対局者が戦いに備えて駒を展開する局面である。中盤 (middlegame) は多くの駒が展開され、局面を優位にコントロールするために様々な戦術が用いられる。終盤 (endgame) は、大部分の駒が交換され盤上から無くなった局面で、キングが戦いにおいて重要な役割を担う。盤上の駒の数がゲームの進行に伴って不可逆的に減少するチェスにおいては、駒の数が減った場合における完全解析のプロジェクトが進行しており、2018年までに「白黒双方のキングと残り5駒を加えた盤上7駒」までの状況について完全解析が完了し、「テーブルベース」としてデータベース化されている。 チェスの戦い方を表す格言として、「序盤は本のように、中盤は奇術師のように、終盤は機械のように指せ」{{efn|この格言の出典については、チェルネフとスピールマンの二説がある。前者は「最新図解チェス」([[渡井美代子]]、日東書院)などに、後者は[[q:en:chess|英語版ウィキクオート]]などに記載されている。}}という言葉がある。これは序盤を既に確立された序盤定跡に忠実に従うことを「本」、中盤以降は記憶に頼ることが難しくなるため、そこで要求される巧みさや機転を「奇術」にたとえている。終盤の「機械」とは、特にチェックを意識する最終盤における読みの深さ、ミスを犯さない冷静沈着な精神などを指す。 === 形勢判断 === 前述の通り、形勢判断に最も重要な要素は、残存戦力、すなわち残っている駒の数である。次いで駒の働き、キングの安全性が判断材料となる。 === 序盤 === * 序盤定跡 {{main|オープニング (チェス)}} ** 序盤定跡については、Batsford Chess Openings 2 (BCO2)<ref>Garry Kasparov, Raymond Keene (1989). Batsford Chess Openings 2, Henry Holt and Company. ISBN 0-8050-3409-9.</ref> や、Modern Chess Openings(MCO)<ref>Nick De Firmian (1999). Modern Chess Openings: MCO-14, Random House Puzzles & Games. ISBN 0-8129-3084-3.</ref> が詳しい。 * 序盤の原則 ** '''中央支配''' **:中央を支配することは要点の一つである。中央を支配することによって陣地が広がるので、自分の駒は移動の選択肢が増え、相手(敵)の駒は移動の選択肢が少なくなる。 **:白の二つのポーンが d4 と e4 に並ぶか、c4, d4 または e4, f4 に並ぶ[[ファランクス]]は白にとって一つの理想であり、最初の数手はこれをめぐる争いであることが多い。定跡 [[クイーンズ・ギャンビット・ディクラインド|Queen's Gambit Declined]] (1. d4 d5 2.c4 e6) の 2.c4 (gambit) は、もし黒が 2.… dxc4 と取れば 3. e4 としてファランクスを作る意図であるし、そうしない 2. … e6 (declined) は、中央を守ろうとするものである。 ** マイナーピースの展開とイニシャティブ **:'''数多くのマイナーピース(ナイトとビショップ)を早く中央寄りに繰り出すこと'''も重要である。最初の位置よりも中央寄りであるほうが、利きが及ぶ点が多く、駒の力を活かすことになる。 **:さらに、敵の駒に利きを及ぼすことによって、敵の手が制限されてくる。狙われた駒が守られていない駒ならば、それを守る手が必要になるし、狙われた駒が既に守られている駒であっても、その駒を守っている駒が動かせなくなるという制限を受けることになる。つまり、敵の手の選択肢が減ってくる。このような状態をイニシャティブを取った状態という。 **:[[ルイ・ロペス|Ruy Lopez]]の 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5 という動きはこれらの原則の典型である。 == 競技人口 == 2018年現在、世界全体でルールを知る人は推定約7億人とされ、もっとも広く親しまれているゲームのひとつである。[[世界チェス連盟]] (FIDE) 所属の登録競技者数は2018年現在で36万人である<ref>[https://www.chess.com/ja/article/view/tiesuwozhi-suren-hashi-jie-nihe-ren Chess.comの記事「チェスを指す人は世界で何人?」]</ref>。 === 日本語の情報環境 === [[将棋]]のトッププロ棋士・[[羽生善治]]は趣味でチェスを行いFIDEマスター位を有する、日本国内屈指の強豪である。羽生は2005年の著書『上達するヒント』の中で、「私は趣味でチェスをするのですが、日本ではプレイする人が少ないので、母国語(日本語)のチェスの本はほとんど出版されていません。ですから、海外で将棋を愛好する人達が母国語の将棋の本がとても少なく、情報が少なくて物足りない気持ちは十分理解できるつもりです。」と記した<ref>羽生善治『上達するヒント』 2005年刊。p.3 まえがき</ref>。ただし2005年以降に出版点数は増えている。それ以前も合わせて複数のチェス書(翻訳書を含む)を出した出版社として[[辰巳出版|日東書院]]、[[河出書房新社]]、[[白水社]]、[[毎日コミュニケーションズ]](現社名マイナビ)、[[山海堂 (出版社)|山海堂]](解散)、チェストランス出版、アンパサンチェス研究会、デイリー子供クラブなどがあり、ほかに自費出版のものもあり、これらの一部は電子書籍化されている。加えて世界的なネット対戦サイトの [[Chess.com]] や [[Lichess]]、その携帯用アプリでもインターフェースや一部の教材が日本語化され、日本語でのチェス学習環境は大きく進歩している。 == 称号 == {{See also|国際チェス連盟のタイトル}} {| class="wikitable" ! 終身称号 !! 備考 |- | [[グランドマスター]] || 男子 GM, 女子 GMW |- | インターナショナルマスター || 男子 IM, 女子 IMW |- | FIDEマスター || 男子 FM, 女子 FMW |- | 国際審判 || IA |- | 通信チェスグランドマスター || ICCF GM |- | 通信チェスシニアインターナショナルマスター || ICCF SIM |- | 通信チェスインターナショナルマスター || ICCF IM |- ! 期間称号 !! 備考 |- | 各種世界チャンピオン || 国際チェス連盟が定める規約に従って選出された者 |- | 各種国内チャンピオン || 国際チェス連盟加盟国協会が定める規約に従い選出された者 |} == 通信チェス(概略) == {{Main|通信チェス}} === 通信チェスの概要 === * 「通信チェス」とは遠距離の相手と、通信を用いて行うチェスの対局を指す。一つのゲームが一日以内で終了するケースはごくまれで、数日・数週間・数ヶ月かかるのが一般的である。 ** '''OTB''':「Over-The-Board chess」のこと。対局者とボードを挟んで、リアルタイムにプレイする通常のチェスを指す。 ** '''通信チェス''':「Correspondence chess」のこと。一般郵便・Eメール・専用サーバなどの通信手段を用いて行われる。 *ゲームの勝敗はすべて管理組織に報告され、[[レイティング]]や次の対局などに反映される。 * 通信チェスの世界最大の組織は、ICCF(国際通信チェス連盟)<ref group="注釈">ICCF:International Correspondence Chess Federation</ref> である。日本では、ICCF公認のJCCA(日本通信チェス協会)<ref group="注釈">JCCA:Japan Correspondence Chess Association</ref> が管理している。 * JCCAは、以前はJPCA(日本郵便チェス協会)<ref group="注釈">JPCA:Japan Postal Chess Association</ref> と呼ばれていた。 * インターネットが普及する以前は郵便でのやりとりが多かったため、日本では「郵便チェス」の名で親しまれていた。現在はEメールやWebサーバを使用しての対局が多くなり、変更された組織の正式名称にあわせて「通信チェス」と呼ばれている。 === 通信チェスの特徴 === {| align="right" | [[ファイル:Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 25 Pf.jpg|70px]] | [[ファイル:Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 70 Pf.jpg|70px]] | [[ファイル:Stamps of Germany (BRD) Wohlfahrtsmarke 1972 30 Pf.jpg|70px]] |} #対局は同時刻に行われず、双方が一手一手異なる時間帯にプレイする。 #持ち時間が時間 (Hour) ではなく、日数 (Day) 単位で規定されている。 #ゲームの対局中でも、書籍やデータベース・ソフトの利用が公認されている。 == コンピュータ・チェス == {{Main|コンピュータチェス}} === ゲームとしての数学的特性 === チェスの盤面状態の種類は10{{sup|50}}程度、[[ゲーム木]]の複雑性は10{{sup|123}}程度と見積もられている<ref>[http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150709211006/http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf |date=2015年7月9日 }}</ref>。 他のゲームでは、盤面状態の種類は、[[チェッカー]]が10<sup>20</sup>程度<ref name=":1">{{Cite journal|last=美添一樹|date=2008-06-15|title=モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00060963/|journal=情報処理|volume=49|issue=6|pages=686–693|language=ja}}</ref>、[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]が10<sup>28</sup>程度{{r|:1}}、[[シャンチー]]が10<sup>48</sup>程度{{r|CCC}}、[[将棋]]が10<sup>71</sup>程度<ref name=CCC>[https://web.archive.org/web/20150709211006/http://www.csie.ndhu.edu.tw/~sjyen/Papers/2004CCC.pdf Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"]</ref>、[[囲碁]]が10<sup>170</sup>程度<ref name=":0">{{Cite web|url=https://tromp.github.io/go/gostate.pdf|title=Combinatorics of Go|accessdate=2018-12-22|website=tromp.github.io|publisher=John Tromp, Gunnar Farneback}}</ref> となっており、チェスは、囲碁、将棋の次に大きな値である。 同様に、ゲーム木複雑性は、チェッカーが10<sup>31</sup>程度、リバーシが10<sup>58</sup>程度<ref>[https://www.dphu.org/uploads/attachements/books/books_3721_0.pdf Searching for Solutions in Games and Artificial Intelligence]</ref>、シャンチーが10<sup>150</sup>程度{{r|CCC}}、将棋が10<sup>226</sup>程度{{r|CCC}}、囲碁が10<sup>400</sup>程度{{r|CCC}}となっており、チェスは囲碁、将棋、シャンチーの次に大きな値である。 ゲーム理論では、チェスのようなゲームは[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に分類される{{r|MDDGameTheory_p31}}。理論上は完全な先読みが可能であるこの種のゲームでは、双方のプレーヤーがルール上可能なあらゆる着手の中から最善手を突き詰めた場合、先手必勝、後手必勝、ないし引き分けのいずれかの結果が最初から決まってしまうことが[[エルンスト・ツェルメロ]]によって証明されている<ref name="MDDGameTheory_p36">{{Cite book|和書 |last=Davis |first=Morton.D |translator=桐谷維、森克美 |title=ゲームの理論入門 チェスから核戦略まで |origyear=1970 |edition=第46刷 |date=1973-09-30 |publisher=[[講談社]] |series=[[ブルーバックス]] |isbn=4-06-117817-2 |pages=36-37頁 |chapter=第2章 完全情報・有限・2人・ゼロ和ゲーム }}</ref>。 チェスの初手から最終手までにルール上可能な着手は、[[1950年]]に[[クロード・シャノン]]<ref>{{cite journal | author = Claude Shannon | title = Programming a Computer for Playing Chess | journal = Philosophical Magazine | volume = 41 | issue = 314 | year = 1950 | url = http://archive.computerhistory.org/projects/chess/related_materials/text/2-0%20and%202-1.Programming_a_computer_for_playing_chess.shannon/2-0%20and%202-1.Programming_a_computer_for_playing_chess.shannon.062303002.pdf}}</ref> によって10{{sup|120}}と試算されている。その全てを網羅し必勝戦略を導き出すことはいまだ実現に至っていないものの、[[コンピュータ]]にチェスをさせるという試みはコンピュータの黎明期から行なわれており、コンピュータの歴史と、[[コンピュータチェス]]の歴史は並行して歩んできた。 === コンピュータ・チェスの考案 === [[ファイル:Racknitz - The Turk 1.jpg|right|thumb|トルコ人。「メルツェルの将棋指し」として有名なチェス人形だったが実は人力だった]] 機械にチェスを指させることは、コンピュータが発明される以前から人々の目標となっていた。 [[1769年]]にハンガリーの[[ヴォルフガング・フォン・ケンペレン]]は[[トルコ人 (人形)|トルコ人]]という名の人形を製作した。この人形は、熟練者級のチェスの腕を持ち、[[ナイト・ツアー]]をこなすこともできた。しかし、実際にはトルコ人は中に人間が入って操作する[[奇術|イリュージョン]]であった。チェスを指す人形を題材にしたイリュージョンは、他にも{{仮リンク|アジーブ|en|Ajeeb}}や{{仮リンク|メフィスト (人形)|label=メフィスト|en|Mephisto (automaton)}}など様々なものがあった。 [[1840年代]]に数学者の[[チャールズ・バベッジ]]は、機械にゲームをプレイさせるための[[アルゴリズム]]を考案した。しかし、チェスのような複雑なゲームをプレイさせることは現実的ではないとして、チェスのアルゴリズムの考案を断念した。 [[1912年]]、[[スペイン]]の技術者[[レオナルド・トーレス・ケベード]]が、世界で初めて自動でチェスをプレイする機械「[[エル・アヘドレシスタ]]」の開発に成功した。エル・アヘドレシスタは、3種類の駒のみで構成された[[エンドゲーム・スタディ|エンドゲーム]]をプレイすることができた。一方、初期配置からチェックメイトまでを通してプレイするためにはコンピュータ科学の発展を俟たなければならなかった。 [[1936年]]に数学者の[[アラン・チューリング]]が抽象的なコンピュータの概念である[[チューリングマシン]]を考案すると、これを機に様々なアルゴリズムが整備されるようになり、[[1945年]]にドイツの[[コンラート・ツーゼ]]がチェスプログラムのアルゴリズムについて世界で初めて言及した。[[1949年]]、[[ベル研究所]]の[[クロード・シャノン]]が[[評価関数]]や[[探索木]]などの概念を確立し、チェスのアルゴリズムの大枠を完成させた。[[1951年]]にはチューリングがチェスのアルゴリズムに基づき、初期配置からチェックメイトまでのプレイができることを示した。もっとも、これらのチェスアルゴリズムは、電子的に実装されたものではなく、アルゴリズムの手順に従って紙と鉛筆を使って手計算を繰り返すことで、チェスのプレイが可能であることを示したものである。 [[1945年]]に数学者の[[ジョン・フォン・ノイマン]]が[[ノイマン型]]コンピュータを考案し、チューリングマシンを具体化する方法を提示すると、電子回路によってコンピュータを実装することが可能になり、1950年代前半にかけて、コンピュータが次々と製作された。コンピュータが制作されたことでツーゼ、シャノン、チューリングらが考案したチェスアルゴリズムを電子的に動作させることができるようになり、[[1956年]]、[[ロスアラモス研究所]]がコンピュータ上で6×6のミニチュアボードでチェスをプレイするプログラムを実装した。これにより、コンピュータ・チェスが確立した。 === コンピュータ・チェスの発展 === 黎明期の1950年代のチェスプログラムはとても弱く、人間の頭脳で判断すればすぐに愚かなものだと判断がつくような手を連発するものが多く、人間の中級者(どころか初心者)でも簡単に打ち負かすことができるようなマシン(プログラム)ばかりであった。最も強い部類でもMac Hack VI(マックハック)でせいぜいレーティングは1670と言われる程度にすぎなかった。当時、果たして将来的にでも人間の一流プレーヤーを破ることができるようなプログラムができるのか、という点に関して非常に疑問視されていた。1968年にはインターナショナル・マスターの[[デイヴィッド・レヴィ]]は「今後10年以内に自分を破るようなコンピュータは現れない」というほうに賭ける賭けを行い、実際1978年に当時最強の<チェス4.7>と対戦し、それに勝った。ただし、当時レヴィは遠くない未来に自分を越えるコンピュータが現れるかもしれない、との感想を漏らした。そして、レヴィがエキシビションマッチで[[ディープ・ソート]]に敗れたのは1989年のことであった。 [[ファイル:Garry Kasparov (Roma 2003).jpg|right|thumb|110px|[[ガルリ・カスパロフ|カスパロフ]]]] コンピュータと人間の力関係の[[象徴]]的なものとして世界中の注目を集め、そして結果として人々に深い印象を残したのは、IBMの[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]と[[ガルリ・カスパロフ]]の対戦であった。1996年に両者の対戦が行われたところ、6戦の戦績として、カスパロフ(人間の世界チャンピオン)の側の3勝1敗2引き分けで、人間側の勝利であった(人間の世界チャンピオンの頭脳のほうが、世界最強のチェスマシンよりも強いことを知り喜んだり快く思う人、「ほっとした」人も多かった)。ただし、コンピュータチェスを推進する人々からは、初めて人間の世界チャンピオンから1局であれ勝利を収めた、という点は評価された。1997年、[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]が再度[[ガルリ・カスパロフ]]と対戦し、ようやく初めて世界チャンピオンに勝利を収め、コンピュータチェスの歴史に残る大きな節目(あるいは人類の意味の歴史の一こま)として大々的に報道された。勝利したIBM側は、格好の宣伝材料としてこの出来事を利用し、すぐにディープ・ブルーを解体してしまい、それとの再戦(リベンジ戦、名誉回復戦)はできない状態にしてしまった{{efn|その後、人間がコンピュータに負けにくい[[アリマア]]という新しいボードゲームが考案された。}}。 [[ファイル:Vladimir Kramnik 06 08 2006.jpg|right|thumb|80px|[[ウラジーミル・クラムニク|クラムニク]] ]] その後のコンピュータと人間の対戦の際立ったものを挙げると、2002年10月に行われた[[ウラジーミル・クラムニク]](露)とコンピュータソフト「[[ディープ・フリッツ]]」とのマッチでは、両者が引き分け、2003年01月26日から2月7日まで[[ニューヨーク]]で行なわれたカスパロフと「ディープ・ジュニア」とのマッチも、1勝1敗4引き分けで両者引き分けに終わり、2003年11月11日から11月18日まで行なわれた[[ガルリ・カスパロフ|カスパロフ]]と「[[X3Dフリッツ]]」のマッチも、1勝1敗2引き分けで両者引き分けに終わったこと、また2006年10月に統一世界チャンピオンとなった[[ウラジーミル・クラムニク|クラムニク]]とディープ・フリッツとの6ゲームマッチが、2006年11月25日から12月5日までボンで行なわれ、ディープ・フリッツが2勝4引き分けでマッチに勝ったことなどが挙げられよう。 こうして、今日では[[人間]]のチャンピオン対[[コンピュータ]]の対戦もよく行われている。また上記のような特殊なチェス専用マシンでなくても、市販のPCやスマートフォン上で走るチェスプログラムも強力となっており、対戦して楽しんでいるファンも多い。 == チェスを扱った作品 == <!--この節にはノートでの議論に基づく合意事項があります。編集する際は必ず確認するようお願いします。またルールに異議がある場合でも独断で編集せず、ノートページにて議論を提起してください。--> === 文学 === * [[ルイス・キャロル]]『[[鏡の国のアリス]]』 * [[ウラジーミル・ナボコフ]]『[[ディフェンス (小説)|ディフェンス]]』 * [[レイモンド・スマリヤン]]([[野崎昭弘]] 訳)『[[シャーロック・ホームズ]]のチェス・ミステリー』 * [[パトリック・セリー]]([[高橋啓]] 訳)『名人と蠍』 * [[ダン・シモンズ]]『殺戮のチェスゲーム』 * [[S・S・ヴァン=ダイン]]『[[僧正殺人事件]]』 * [[ウィリアム・フォークナー]]『Knight's Gambit』 * [[ダレン・シャン]]『[[デモナータ]]』 * [[ベルティーナ・ヘンリヒス]]『チェスをする女』 * [[たけうちりうと]]『騎士(ナイト)とビショップ』『騎士とサクリファイス』『騎士とテロリスト』『騎士とプリンス』 * [[春原いずみ]]『チェックメイトからはじめよう』 * [[小川洋子]]『[[猫を抱いて象と泳ぐ]]』 * [[ラファエル・ピヴィダル]]『08 ou la haute fidélité』 * [[瀬名秀明]]『第九の日―The Tragedy of Joy』 * [[浅井ラボ]]『灰よ、竜に告げよ』―されど罪人は竜と踊る〈2〉 * [[竹本健治]]『チェス殺人事件』(短編) * [[柳広司]]『キング&クイーン』 * [[北村薫]]『盤上の敵』 * [[宮内悠介]]『人間の王』(短編、『盤上の夜』収録) [[画像:Lublin_Baugin_Die_fuenf_Sinne.jpg|thumb|150px|リュバン・ボージャン, ''チェス盤のある静物'']] [[画像:Honoré Daumier 032.jpg|thumb|150px|オノレ・ドーミエ, <br />''チェスをする人'']] === 美術および音楽 === 西洋の絵画、特に[[17世紀]]までの[[ヴァニタス]]をはじめとする寓意的な[[静物画]]には、[[触覚]]を示す比喩として、[[チェスボード]]や駒が描かれる事がある。また、近現代においては、[[マルセル・デュシャン]]は自身もチェス・プレイヤーをしていた経歴をもち、作品に度々登場させている。現代音楽では、[[ジョン・ケージ]](チェスに関してはデュシャンの弟子でもある)が、チェスボード上を動く駒の音を作品に取り入れた例がある。 * [[ルドヴィコ・カラッチ]]『チェスをする人』 * [[リュバン・ボージャン]]『チェス盤のある静物』 * [[ウジェーヌ・ドラクロワ]]『チェスをするアラブ人』 * [[オノレ・ドーミエ]]『チェスをする人』 * [[アンリ・マティス]]『画家の家族』『チェスボードの隣の女』 * [[パウル・クレー]]『スーパー・チェス』 * [[マルセル・デュシャン]]『チェス・プレイヤーの肖像』『ポケットチェスセット』 * [[ジョン・ケージ]](音楽)『[[0分00秒|0'00" No.2]]』『チェス・ピース』『再会(Reunion)』([[マルセル・デュシャン]]との共演) * [[ソフォニスバ・アングイッソラ]]『チェスをするルチア、ミネルヴァ、エウロパ』 * [[Official髭男dism]]『[[Chessboard/日常|Chessboard]]』 === 舞台作品 === * バレエ『[[チェックメイト (バレエ)|チェックメイト]]』(振付:[[ニネット・ド・ヴァロア]]、作曲:[[アーサー・ブリス]]) * ミュージカル『[[チェス (ミュージカル)|Chess]]』(1984年、作:[[ティム・ライス]]) === 映画 === ==== チェスを主題とした作品 ==== 英語版のカテゴリ([[:en:Category:Films about chess]])も参照 * {{仮リンク|チェス狂|en|Chess Fever}} - 1925年モスクワ大会の際に作られたコメディ短編、大会参加者が多数出演している * [[ロシアの白い雪]](Belyy sneg Rossii) - [[アレクサンドル・アレヒン]]の伝記映画、1980年ソ連作品 * ''[[:fr:La Diagonale du fou|La Diagonale du fou]]'' - [[川端康成]]『[[名人 (小説)|名人]]』をチェスに翻案した1984年のフランス・スイス合作映画 * [[ボビー・フィッシャーを探して]] - 1993年 * [[ゲーリーじいさんのチェス]] - [[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー]]のアニメーション作品、1997年[[アカデミー短編アニメ賞]]受賞 * {{仮リンク|愛のエチュード|en|The Luzhin Defence}} - [[ウラジーミル・ナボコフ]]の小説『[[ディフェンス (小説)|ディフェンス]]』を映画化。2000年 * [[Game Over: Kasparov and the Machine]] - [[ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ]]戦を扱った2003年のドキュメンタリー映画 * {{仮リンク|ナイト・オブ・チェス/夢のちから|en|Knights of the South Bronx}} - 2005年米国のテレビ映画 * [[完全なるチェックメイト]] - 1972年の世界選手権マッチ、フィッシャー対スパスキー戦を米ソ冷戦の枠組みでとらえる。2014年 * {{仮リンク|ダークホース(2014年の映画)|en|The Dark Horse (2014 film)}} - 新設チェスクラブの戦いを描くニュージーランド映画、各地の映画祭で受賞 * {{仮リンク|奇跡のチェックメイト クイーン・オブ・カトウェ|en|Queen of Katwe}} - [[チェス・オリンピアード]]に出場するウガンダの少女を描いた2016年南アフリカ/アメリカ作品 * [[ファヒム パリが見た奇跡]] - バングラデシュ難民のフランスでの活躍を描いた2019年フランス作品 * [[世にも奇妙な物語 映画の特別編#チェス|世にも奇妙な物語 映画の特別編「チェス」]] ==== チェスの場面がある作品 ==== * [[007 ロシアより愛をこめて]] * [[2001年宇宙の旅]] - 宇宙船を制御するコンピュータである「[[HAL 9000]]」が船員を相手にチェスを指す場面がある。チェスで人間を負かす程の知能を持つHAL 9000は、後に船員に対して反乱を起こす。 * [[相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン]] * [[第七の封印 (映画)|第七の封印]] * [[美しき獲物]] ([[クリストファー・ランバート]]&[[ダイアン・レイン]]) * [[華麗なる賭け]] * [[ご注文はうさぎですか?]] * [[キューブ ゼロ]](CUBE ZERO) * [[チェスをする人]][[:en:The Chess Players (film)]]([[サタジット・レイ]]監督)* [[デスノート (映画)|デスノート]] - 映画版には、自分自身が黒幕であることを隠して警察に協力する主人公と、それを暴こうとする好敵手が、チェスで勝負を繰り広げる場面がある。 * [[デスノート the Last name]] * [[ハリー・ポッターと賢者の石]] - 原作小説、および映画のクライマックスで、敵対者の元へ向かうため主人公らが人間を駒に見立てたチェスを行う場面がある。 * [[ブレードランナー]] === テレビ === ==== チェスを主題とした作品 ==== *「屋台でうまれた“チェス王子”-インドネシア ブカシ-」(2009年放映、NHKのドキュメンタリー「[[アジアンスマイル]]」の一話) * [[クイーンズ・ギャンビット (ドラマ)|クイーンズ・ギャンビット]] - 2020年の[[Netflix]]オリジナルドラマ ==== チェスの場面がある作品 ==== * [[End game〜天才バラガンの推理ゲーム〜]] - 主人公がチェスの前チャンピオン。 * [[スパイ大作戦]](シーズン2)「王手!」 * [[刑事コロンボ]]第16話「断たれた音」 * [[スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説]]第13話「白銀の決闘! スキー場は大パニック」 - 主要登場人物の矢島雪乃がチェス大会に出場する。 * [[相棒]] - 主人公・杉下右京の趣味として随所に登場。特にシーズン14のオープニングには対局シーンが使われている。 * [[CSI:科学捜査班]](シーズン14)第16話「破滅の王者」 * [[コールドケース 迷宮事件簿]](シーズン2)第19話「チェス」 * [[NUMBERS 天才数学者の事件ファイル]](シーズン4)14話「死のチェックメイト」 * [[メンタリスト (テレビドラマ)|メンタリスト]](シーズン2)「赤い鼻の恐怖」 * [[クリミナル・マインド FBI行動分析課]](シーズン5)第12話「人形の館」・(シーズン7)第11話「天才vs.天才」・(シーズン8)第12話「ツークツワンク」~第24話「レプリケーターの正体」 - シーズン8後半は[[ツークツワンク]]というチェス用語がキーワードになる。また主要キャラにチェスを得意とするキャラが2人おり、これら以外でもチェスをしているシーンが多い。 * [[明治開化 新十郎探偵帖]](2020〜2021年、[[NHK BSプレミアム]]) === 漫画 === ==== チェスを主題とした作品 ==== * [[雪リコ]]『[[チェックメイト (漫画)|チェックメイト]]』 * [[磯見仁月]]『[[クロノ・モノクローム]]』 * [[若松卓宏]]『[[盤上のポラリス]]』 ==== チェスの場面がある作品 ==== * [[山本亜季]]『HUMANITASヒューマニタス』第2章「冷戦下・旧ソ連のチェス王者・ユーリ」 * [[三条陸]](原作)、[[稲田浩司]](作画)、[[堀井雄二]](監修)『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]』 - 大魔王が嗜んでいるほか、作中ではチェスの駒をもとに、ハドラー親衛騎団と呼ばれる五体の金属生命体が生み出される。アニメ放送期間中にはファン向けにシルバー製チェスセットが数量限定販売された。 === アニメーション === * [[カウボーイビバップ]](Session#14「ボヘミアン・ラプソディ」) * [[コードギアス 反逆のルルーシュ]] - 主人公の特技はチェスという設定があり、作戦行動をチェスの戦局に例えるなど、様々な場面でチェスの用語やチェスセットが象徴的に登場する。対局の場面もある。 * [[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]](テレビ版)第24話 * [[ノーゲーム・ノーライフ]] * [[ルパン三世]] - [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]でチェスを行うシーンが多い。22話では[[コンピュータチェス]]とルパン三世が対決するシーンがある。(ルパンの負け、コンピューターはルパンによって[[スクラップ]]に)ほか57話でもハンター教授がコンピュータチェスで対戦している他、ルパンが「泥棒とチェス(勝負)は終わってみるまでわからない」というシーンもある。 * [[ペンギン・ハイウェイ]] * [[涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)|涼宮ハルヒの憂鬱]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Refbegin|2}} * {{Citation|和書 |author=松田道弘 |author-link=松田道弘 |title=ベストゲーム・カタログ 遊びの新世界をパトロール |origyear=1988 |edition=初 |date=1993-9-30 |publisher=[[社会思想社]] |series=[[現代教養文庫]] |isbn=4-390-11482-4 }} * {{Citation|和書 |last=ロフリン |first=Я.Г. |author-link=:ru:Рохлин, Яков Герасимович |title=楽しいチェス読本(原題 {{ru|Книга о шахматах}}) |origyear=1975 |edition=第1 |date=1977-10-25 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |language=日本語 |id={{全国書誌番号|77028261}} }} {{Refend}} == 関連項目 == * [[世界チェス選手権]] * [[国際チェス連盟]] * 日本チェス連盟([[ナショナルチェスソサエティーオブジャパン|NCS]]) * [[Wikibooks:Chess]] - チェス(英語版Wikibooks) * [[Wikibooks:Chess Strategy]] - チェスの戦略(英語版Wikibooks) * [[Wikibooks:Chess Opening Theory]] - チェスの序盤定跡(英語版Wikibooks) * [[ワールドマインドスポーツゲームズ]] - 2008年に第1回大会が開催。5競技種目の一つとしてチェスを採用。 * [[カーリング]] - 「氷上のチェス」といわれる。 *[[グレート・ゲーム]] - [[情報戦]]をチェスに例えた表現。 == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = チェス | b = チェス | q = チェス | s = no | n = no | v = no }} * [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924551 チェス(西洋将棋)の手ほどき : 附記・ドミノの遊び方] - [[国立国会図書館デジタルコレクション]] * [https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000029981 チェスの駒の写真が載っている資料が見たい。なるべく四方から見たものがよい。] - [[レファレンス協同データベース]] * [https://www.ted.com/talks/alex_gendler_a_brief_history_of_chess/transcript?language=ja アレックス・ジェンドラー: チェスの歴史 ― アレックス・ジェンドラー] - TED Talk * [https://help.gnome.org/users/gnome-chess/stable/chess-rules.html.ja チェスのルール] - GNOME * [https://www.shogi.or.jp/history/world/chess.html チェス|世界の将棋|将棋の歴史] - [[日本将棋連盟]] * {{Kotobank}} {{チェス}} {{各国の将棋類}} {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちえす}} [[Category:チェス|*]] [[Category:抽象戦略ゲーム]] [[Category:ボードゲーム]] [[Category:インドの発明]]
2003-02-15T01:30:02Z
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アリマア
アリマア (Arimaa) は、チェスの盤と駒を使用してプレイすることができる2人用のボードゲーム。子供でも理解できる簡素なルールでありながら、各局面で指せる手の数を何千通りにもすることでコンピュータによる計算を困難にしていることが特徴。元NASA職員であるオマール・サイド(Omar Syed) が考案し、2002年11月20日に発表した。当時小学生であったオマールの息子アーミル (Aamir Syed) も、開発に大きな役割を果たした。「Arimaa」という名称は、Aamirのスペルをひっくり返し(rimaa)、先頭にaを付け加えたものである。 このゲームを生み出す動機となったのは、チェスの世界チャンピオンと互角に戦うことのできるコンピュータソフトの出現である。世界のトップレベルに到達したことでコンピュータチェスは一応の目標を達成したといえるが、アリマアでは可能な手を端から検索するなどいわば「力業」ともいえる従来の方法は通用せず、強いアリマアプログラムを作成するためには違ったアプローチが必要になると考えられる。そもそもコンピュータのように早くも正確でもなく、膨大な定跡データベースも持つことができない人間の思考能力でコンピュータと対等に戦えるという事実は、いまだ知られていない斬新で強力なアルゴリズムが見つかる可能性を示唆している。人間どうしが行うゲームとしても十分に遊べるものであるが、人間と(人間が書いた)プログラムとの対戦で真価が発揮されるゲームである。 オマールは2020年までにアリマアで人間を打ち負かすプログラムを開発した者には1万ドルの賞金を支払うと宣言している。2004年に行われたゲームでは、世界最強のアリマアプログラムは0勝8敗でオマールに完敗した。このプログラムは囲碁九路盤限定チャンピオンになったプログラム「Many Faces of Go」の開発者であるデイビット・フォットランド (David Fotland) によって書かれたものである。2014年までは人間がコンピュータを退けてきたが、2015年、David Wu が開発したプログラム「Sharp」が人間を7勝2敗で破り、賞金が支払われた。 ゲーム理論上では二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されるため、完全な先読みは理論的には可能である。 8×8マスのゲームボードと五種類の駒を使う。駒はプレイヤーごとに象とラクダが各1個、馬と犬、猫が各2個、ウサギが8個。駒の強さは象→ラクダ→馬→犬→猫→ウサギの順。チェスの駒でプレイする場合、キング→象、クイーン→ラクダ、ナイト→馬、ルーク→犬、ビショップ→猫、ポーン→ウサギとして代用することが多い。 アリマアでは、駒の配置は固定されておらず、プレイヤーが自由に配置できる。チェスと同様端から二列が自陣となり、先手からその中に駒を配置する。先手の配置がすべて完了したら、後手も駒を配置する。両プレイヤーの配置が完了したら、チェスのように各プレイヤーが交互に手番を経過していく。各プレイヤーは一度の手番(turn)に最大4手(step)まで動かすことができる。4手すべてを消費しなくても手番を終了できるが、少なくとも1手は消費しなければ手番を終了できない。 相手側の一番奥の列をゴール列と呼ぶ。8個あるウサギのうち、先にひとつでも相手のゴール列に到達した側の勝利となる。一方のプレイヤーがすべてのウサギを失い勝利の可能性を失った場合でもゲームは続行し、両方のプレイヤーがすべてのウサギを失った場合は引き分けに持ち込むことができる。 プレイヤーは任意の自分の駒を隣接する前後左右4マスのいずれかに一マスずつ進めることができ、駒を1マス進めるごとに1手を費やす。ただしウサギだけは後ろへ進めず、ウサギが後ろへ進めないのを除けば全ての駒の動きは同じである。駒は移動方向を変えることもできるし、異なる複数の駒を進めてもよい。駒を進める順番も自由である。別の駒がいるマスには侵入できず、チェスのように相手の駒を取ることはできない。 駒は「PUSH」ができる。押し出しでは、まず隣り合う相手の駒を空いている任意の方向に動かし、その空いた位置に自分の駒が進む。また、駒は「PULL」もできる。相手の駒に隣り合う自分の駒を1マス移動させ、空いた位置に先ほど隣接していた相手の駒を移動させる。押し出しと引っ張りは自分より弱い駒に対してのみ可能で、同じ強さの駒同士では出来ない。押し出しや引っ張りには相手の駒の移動に1手と自分の駒の移動に1手で計2手を費やす。一連の押し出しが完了する前に、他の駒を移動させたり別の押し出しや引っ張りを行うことは出来ない。また、押し出しと引っ張りは一回の手番のあいだに完了させなければならない。1回の手番内で移動や押し出し、引っ張りをどのように組み合わせてもよい。ただし、押し出しを完了した手を引っ張りの一部とみなし直後に相手の駒を動かすことはできない。 駒がより弱い相手の駒に隣接すると、隣接された相手の駒は移動できなくなる。これをFREEZEと呼ぶ。ただし、味方の駒が隣接している駒はFREEZEしない。FREEZEしている駒は、味方が隣接することでFREEZEを解き、動けるようにすることができる。 ゲームボードには罠となるマスが4つ設置されている。罠に侵入した駒は、罠にかかったとみなされゲームから除外される。ただし、罠マスに侵入した駒に味方の駒が隣接している場合は罠に掛からない。罠マス上を通過したい場合は、そこに味方が隣接することで罠に落ちるのを防ぐことができる。隣接する味方の駒がいなくなると、その瞬間に罠マス上の駒は罠にかかってゲームから除外される。押し出しや引っ張りによって、相手の駒を罠にかけることもできる。罠マスの位置はc3、c6、f3、f6の4ヶ所。将棋のようなゲームから除外された駒が復帰するルールはない。
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アリマア (Arimaa) は、チェスの盤と駒を使用してプレイすることができる2人用のボードゲーム。子供でも理解できる簡素なルールでありながら、各局面で指せる手の数を何千通りにもすることでコンピュータによる計算を困難にしていることが特徴。元NASA職員であるオマール・サイド(Omar Syed) が考案し、2002年11月20日に発表した。当時小学生であったオマールの息子アーミル も、開発に大きな役割を果たした。「Arimaa」という名称は、Aamirのスペルをひっくり返し(rimaa)、先頭にaを付け加えたものである。 このゲームを生み出す動機となったのは、チェスの世界チャンピオンと互角に戦うことのできるコンピュータソフトの出現である。世界のトップレベルに到達したことでコンピュータチェスは一応の目標を達成したといえるが、アリマアでは可能な手を端から検索するなどいわば「力業」ともいえる従来の方法は通用せず、強いアリマアプログラムを作成するためには違ったアプローチが必要になると考えられる。そもそもコンピュータのように早くも正確でもなく、膨大な定跡データベースも持つことができない人間の思考能力でコンピュータと対等に戦えるという事実は、いまだ知られていない斬新で強力なアルゴリズムが見つかる可能性を示唆している。人間どうしが行うゲームとしても十分に遊べるものであるが、人間と(人間が書いた)プログラムとの対戦で真価が発揮されるゲームである。 オマールは2020年までにアリマアで人間を打ち負かすプログラムを開発した者には1万ドルの賞金を支払うと宣言している。2004年に行われたゲームでは、世界最強のアリマアプログラムは0勝8敗でオマールに完敗した。このプログラムは囲碁九路盤限定チャンピオンになったプログラム「Many Faces of Go」の開発者であるデイビット・フォットランド によって書かれたものである。2014年までは人間がコンピュータを退けてきたが、2015年、David Wu が開発したプログラム「Sharp」が人間を7勝2敗で破り、賞金が支払われた。 ゲーム理論上では二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されるため、完全な先読みは理論的には可能である。
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坊つちやん
『坊つちやん』(ぼっちゃん)は、夏目漱石による日本の中編小説。現代表記では『坊っちゃん』。 1906年(明治39年)、『ホトトギス』第九巻第七号(4月1日)の「附録」(別冊ではない)として発表。1907年(明治40年)1月1日発行の『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に収録された。その後は単独で単行本化されているものも多い。 登場する人物の描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、痴情のもつれあり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品である。 親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている坊っちゃんは、家族から疎まれる少年期を過ごす。そんな中、下女の清だけは坊っちゃんの曲がったことが大嫌いな性格を(褒められるのをお世辞だろうからと言われてもそれを)気に入り、可愛がってくれていた。 父親と死別後、兄から渡された600円(兄は同時に清に与えるようにと50円を渡した)を学費に東京の物理学校に入学。卒業後8日目、母校の校長の誘いに「行きましょうと即席に返事をした」ことから四国の旧制中学校に数学の教師(月給40円)として赴任した。授業は1週21時間(第7章)。そこで教頭の「赤シャツ」や美術教師の「野だいこ」、数学主任の「山嵐」、英語教師の「うらなり」と出会う。 赴任先で蕎麦屋に入って、天麩羅を4杯頼んだこと、団子を2皿食べたこと、温泉の浴槽で遊泳したことを生徒から冷やかされ、初めての宿直の夜に寄宿生達から手ひどい嫌がらせを受けた坊っちゃんは、寄宿生らの処分を訴えるが、赤シャツや教員の大勢は事なかれ主義から教師全体の責任としながら、坊っちゃんに生徒の責任を転嫁しようとした。この時に筋を通す処分を主張したのは、仲違い中の山嵐だった。結局生徒達は坊っちゃんへの謝罪と厳罰を受けることになるが、宿直当日に坊っちゃんも温泉街へ無断外出をしたため、外食店への出入り禁止を言い渡される。 やがて坊っちゃんは、赤シャツがうらなりの婚約者であるマドンナへの横恋慕からうらなりを左遷したことを知り、義憤にかられる。このことで坊っちゃんと山嵐は過去の諍いを水に流し意気投合。彼らを懲らしめるための策を練るが、赤シャツの陰謀によって山嵐が辞職に追い込まれてしまう。坊っちゃんと山嵐は、赤シャツの不祥事を暴くための監視を始め、ついに夜明けに芸者遊び帰りの赤シャツと腰巾着の野だいこを取り押さえる。当初の予定通り、芸者遊びについて山嵐と共に詰問し、しらを切る彼らに天誅を加えた。 即刻辞職した坊っちゃんは、東京に帰郷。清を下女として雇い、街鉄の技手(月給25円)となった。 漱石自身が高等師範学校(後の東京高等師範学校、旧東京教育大学、現在の筑波大学の前身)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きにして、後年書いた小説である。 漱石は本作を10日足らずで書き上げた。 現在読まれている本文は、『ホトトギス』編集者である高浜虚子による手が加わっている。漱石は虚子宛て書簡において松山方言の添削を依頼しているが、漱石直筆原稿を検討した渡部江里子は、虚子の「手入れ」が「方言の手直しを越えた改変」にも及んでいることを指摘している。渡部は漱石の依頼を越えた「虚子の越権行為」と判断しており、現行のテキストをそのまま受容してよいか議論の必要を提起している。 また漱石の初稿では、坊っちゃんの赴任先は「四国辺」ではなく「中国辺の中学校」となっていた。ここから本作と官立山口高等中学校との関連を指摘する論考もある。 一般的表記(当時の小宮豊隆ら)は、「坊つちやん」、現代表記では、「坊っちゃん」。初出である『ホトトギス』第九巻第七号の目次の表記は「坊っちやん」である。漱石自身は、自筆原稿の表紙や最後の149枚目にあるとおり、「坊っちやん」とも「坊つちやん」とも書いている。印刷物など、「坊ちゃん」と表記されるケースも多い。 井上ひさしは、『坊っちゃん』の映像化が、ことごとく失敗に終わっているとする個人的見解を述べ、その理由として、『坊っちゃん』が、徹頭徹尾、文章の面白さにより築かれた物語であるからと主張している。 丸谷才一は、清は、主人公である坊っちゃんの生みの母であるという説を提出した。 詳しくは『坊つちやん (映画)』を参照。 詳しくは『坊つちやん (テレビドラマ)』を参照。 作中では舞台は「四国」としか表現されていないが、漱石の経歴および作中の描写(語尾の「ぞな、もし」が特徴的な方言、県庁と温泉があるなど)から、愛媛県松山市が舞台であると推測される。 このことから、作中での扱いは「野蛮な所」「気の利かぬ田舎もの」「猫の額ほどな町内」などと非常に悪いものの、松山市内及びその周辺部には本作にちなんで「坊っちゃん」(「坊ちゃん」と誤表記しているものも散見される)や「マドンナ」を冠した物件や商品などが多数存在する。代表的なものは下記のとおりである。 また、坊っちゃんが進学した設定である東京物理学校の後身、東京理科大学では創立125周年を記念してイメージキャラクター「坊っちゃん」「マドンナちゃん」が制定されている。この他同大学の出版物に「坊っちゃん」を冠するなどの活動を行っている。
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『坊つちやん』(ぼっちゃん)は、夏目漱石による日本の中編小説。現代表記では『坊っちゃん』。 1906年(明治39年)、『ホトトギス』第九巻第七号(4月1日)の「附録」(別冊ではない)として発表。1907年(明治40年)1月1日発行の『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に収録された。その後は単独で単行本化されているものも多い。 登場する人物の描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、痴情のもつれあり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品である。
{{表記揺れ案内|表記1=坊っちやん|表記2=坊っちゃん|表記3=坊ちやん|表記4=坊ちゃん|議論ページ=[[ノート:坊つちやん#表記について|過去の議論]]}} {{基礎情報 書籍 |title = 坊っちゃん |orig_title = 坊つちやん |image = Manuscripts of "Botchan".jpg |image_size = 250px |image_caption = 『坊つちやん』原稿の一部 |author = [[夏目漱石|夏目金之助(漱石)]] |translator = <!-- 訳者 --> |illustrator = <!-- イラスト --> |published = [[1906年]]4月、[[1907年]][[1月1日]]ほか |publisher = [[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]、[[春陽堂]]ほか |country = {{JPN}} |type = <!-- 形態 --> |pages = <!-- ページ数 --> |preceded_by = <!--シリーズの場合に記入--> |followed_by = |website = |id = <!-- コード --> |portal1 = 文学 }} [[File:Natsume Soseki, an English teacher at Matsuyama Middle School.jpg|thumb|180px|愛媛県尋常中学校教師の夏目漱石([[1896年]]3月)]] 『'''坊つちやん'''』(ぼっちゃん)は、[[夏目漱石]]による[[日本]]の[[中編小説]]。現代表記では『'''坊っちゃん'''』。 [[1906年]](明治39年)、『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』第九巻第七号(4月1日)の「附録」(別冊ではない)として発表。[[1907年]](明治40年)[[1月1日]]発行の『[[鶉籠]](ウズラカゴ)』([[春陽堂書店|春陽堂]]刊)に収録された。その後は単独で単行本化されているものも多い。 登場する人物の描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、痴情のもつれあり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品である<ref>[http://www.shinchosha.co.jp/book/101003/ 新潮文庫のあらすじより]</ref>。 == あらすじ == <q cite="夏目漱石『坊つちやん』">親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている</q>坊っちゃんは、家族から疎まれる少年期を過ごす。そんな中、下女の清だけは坊っちゃんの曲がったことが大嫌いな性格を(褒められるのをお世辞だろうからと言われてもそれを)気に入り、可愛がってくれていた。 父親と死別後、兄から渡された600円(兄は同時に清に与えるようにと50円を渡した)を学費に東京の[[東京物理学校|物理学校]]{{efn|「坊っちゃん」が物理学校卒業という設定になっているのは、漱石自身が同校の設立者([[学校法人東京理科大学#沿革|東京物理学校維持同盟]]員)である[[桜井房記]]・[[中村恭平 (教育者)|中村恭平]]と親交が深かったほかに、当時の一般的イメージとして物理学校出身教員が高い評判を得ていたことも関係していると考えられている<ref>馬場錬成『物理学校:近代史のなかの理科学生』([[中公新書|中公新書ラクレ]]、[[2006年]])参照</ref>。}}に入学。卒業後8日目、母校の校長の誘いに「行きましょうと即席に返事をした」ことから[[四国]]の[[旧制中学校]]に[[数学]]の教師(月給40円)として赴任した。授業は1週21時間(第7章)。そこで教頭の「赤シャツ」や美術教師の「野だいこ」、数学主任の「山嵐」、英語教師の「うらなり」と出会う。 赴任先で[[蕎麦]]屋に入って、[[蕎麦#天ぷら蕎麦/天ざる蕎麦|天麩羅]]を4杯頼んだこと、[[団子]]を2皿食べたこと、温泉の浴槽で遊泳したことを生徒から冷やかされ、初めての宿直の夜に寄宿生達から手ひどい嫌がらせを受けた坊っちゃんは、寄宿生らの処分を訴えるが、赤シャツや教員の大勢は事なかれ主義から教師全体の責任としながら、坊っちゃんに生徒の責任を転嫁しようとした。この時に筋を通す処分を主張したのは、仲違い中の山嵐だった。結局生徒達は坊っちゃんへの謝罪と厳罰を受けることになるが、宿直当日に坊っちゃんも温泉街へ無断外出をしたため、外食店への出入り禁止を言い渡される。 やがて坊っちゃんは、赤シャツがうらなりの婚約者であるマドンナへの横恋慕からうらなりを左遷したことを知り、義憤にかられる。このことで坊っちゃんと山嵐は過去の諍いを水に流し意気投合。彼らを懲らしめるための策を練るが、赤シャツの陰謀によって山嵐が辞職に追い込まれてしまう。坊っちゃんと山嵐は、赤シャツの不祥事を暴くための監視を始め、ついに夜明けに芸者遊び帰りの赤シャツと腰巾着の野だいこを取り押さえる。当初の予定通り、芸者遊びについて山嵐と共に詰問し、しらを切る彼らに天誅を加えた。 即刻辞職した坊っちゃんは、東京に帰郷。清を下女として雇い、街鉄{{efn|正式には「[[東京都電車#前史|東京市街鉄道]]」で、現在の[[東京都電車|都電]]の前身の一つとなった路面電車鉄道である。のち東京電車鉄道・東京電気鉄道と合併して東京鉄道となり、さらに[[東京市]]に買収されて東京市電と改称された。}}の技手(月給25円)となった。 == 登場人物 == ;坊っちゃん :本編の[[主人公]]。語り手で、[[一人称]]は地文では「おれ」。会話では目上の人物に対して「わたし」「ぼく」も使う。 :東京の[[東京物理学校|物理学校]](現在の[[東京理科大学]]の前身<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.u-presscenter.jp/article/post-35706.html|title=東京理科大学近代科学資料館が6月23日~8月10日まで企画展「『坊っちゃん』とその時代」を開催 -- 明治期の科学者と夏目漱石の交友を探る|publisher=大学プレスセンター|date=2016-06-18|accessdate=2021-02-16}}</ref>)を卒業したばかりの[[江戸っ子]]気質で血気盛んで無鉄砲な新任教師。[[新聞]]報道に「近頃[[東京市|東京]]([[江戸]])から赴任した生意気なる某」とあるのに立腹して「れっきとした[[姓]]もあり名もある」と言いながら本名、実名は明らかにされない{{efn|[[1977年]]の[[中村雅俊]]出演映画での名は近藤大介となっている。また[[大和田秀樹]]のコミカライズ『坊っちゃん♥』では、少なくとも姓は「多田野」である事が示唆されている。}}。「坊っちゃん」とは、清が主人公を呼ぶ呼び名であり、また第11章では野だいこから「勇み肌の坊っちゃん」と馬鹿にされる。無鉄砲な[[江戸っ子]]気質の持ち主。[[悪戯|いたずら]]好きで喧嘩っ早い性格ゆえに両親からは冷たく扱われ、兄と不仲である。本人の弁によれば無鉄砲なのは親譲り。そのせいで子供の頃から損ばかりしているとのこと。家庭内で自分に対する愛情を表してくれたのは下女の清だけであった。[[東京物理学校|物理学校]]の卒業生で、卒業後は校長の勧めを受け四国の中学校で数学教師になる。[[旗本]]の家の出で、[[源満仲|多田満仲]]([[ルビ]]は「ただのまんじゅう」)の子孫と称している{{efn|夏目漱石は、満仲の弟、[[源満快|満快]]の子孫。}}。[[敷島 (たばこ)|敷島]]を吸う愛煙家(第五章、第七章)。酒については「飲む奴は馬鹿だ」という(第九章)。蕎麦が大好き(第三章)で、[[マグロ|鮪]]の[[刺身|さし身]]、[[蒲鉾]]のつけ焼も好き(第七章)。喧嘩は好きな方(第十章)。よく夢を見る(第二章、第四章)。髪形は五分刈(第七、十章)。小学校の時分、同級生の挑発に乗って学校の二階から飛び降り、1週間ほど腰を抜かす。親類に貰った[[ナイフ]]を見せた友人に「切れるナイフというなら指を切って見ろ」と注文され、右手親指の甲に切りつけて見せる。この傷跡は一生消えなかった(第一章)。嘘を吐くことや不正が嫌いで、理由を問わず他人がそれをすることも決して許さない。 :一説には漱石自身とほぼ同時期に愛媛県尋常中学校の数学教師であった[[弘中又一]]{{efn|1873年-1938年、山口県湯野村(現[[周南市]])出身。1893年12月柳井小学校高等科英語代用教員、1894年同志社普通学校(現[[同志社大学]])卒業、1895年愛媛県尋常中学校、以後各地の中学校に勤務。}}がモデルとされている<ref name="asahi">朝日新聞 1971年10月2日</ref>。 ;清(きよ) :坊っちゃんの家の下女。[[明治維新]]で落ちぶれた身分のある家の出身。 :家族に疎まれる坊っちゃんを庇い、可愛がっている。何かにつけて「あなたは真っ直ぐで、よいご気性だ」と褒め、坊っちゃん自身は「よい気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろう」と思い、「おれは、お世辞は嫌(きらい)だ」と答えるが、「それだから好いご気性です」と笑顔で褒める。そんな清に対して坊っちゃんは、地文では「自分の力でおれを製造して誇っている様に見える。少々気味がわるかった。」としており、それ以降も清の言葉に「今から考えると馬鹿馬鹿しい」「教育のない婆さんだから仕方がない」などと辛辣に語っている<ref>「新潮文庫」『坊っちゃん』8~10頁より。 </ref>が、松山に発つ際の別れ際には、涙を浮かべる清に対して、泣かなかったが「もう少しで泣くところであった」と記述があり、坊っちゃんが清を慕う気持ちもうかがえる。坊っちゃんは、その清から三円借りている(このくだりで、「今となっては十倍にして返してやりたくても返せない」との記述があり、清が既に亡くなっていることが示唆されている)が、それを「帰さない」{{efn|この三円は、清の分身だから「返す」のではなく「帰す」なのだというのが坊っちゃんの理屈である。このあたりについて詳しくは、参考文献の [http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/index.html 山下浩] を参照。}}まま任地へ行ってしまった。 :長年仕えた坊っちゃんの家が人手に渡ってしまった後は、裁判所に勤める甥の家に世話になっていた。坊っちゃんが松山に赴任してからも気にかけており、他人にあだ名を付けたり、癇癪を起こさないよう手紙を通じて諫言している。また後述の通り、坊っちゃんの兄から坊っちゃんを通して五十円を受け取り、それを「坊っちゃんが家を持つ時の足しに」と郵便局に[[貯金]]していたが、坊っちゃんが小遣いが無くて困っているだろうとその中から[[為替]]で十円を送っている(第七章)。松山に来て人間の様々な汚い面を知った坊っちゃんは、清がいかに「善人」で、「気立ての良い女」であったかを知ることになり、「一刻もはやく東京(江戸)へ帰って、清と一緒になるに限る」とまで思うようになる。坊っちゃんが教師を辞職して帰郷した際は涙を流して喜び<ref>坊っちゃん自身も早く清に会いたくて下宿にも行かずに真っ直ぐ清の元に向かっており、「余り嬉しかったから、『もう田舎へは行かず、東京で清とうち(家)を持つんだ』と宣言している。(「新潮文庫」『坊っちゃん』131頁)</ref>、再び坊っちゃんと暮らすが、[[肺炎]]で他界し、[[小日向]]の[[養源寺 (文京区)|養源寺]]に墓があることが語られて物語は終わる。 :なお漱石の妻[[夏目鏡子]]の本名はキヨであるが、漱石の他の作品では、『門』の宗助のところ、『彼岸過迄』の松本のところなどでも、下女の名はキヨである。 ;[[兄]] :坊っちゃんの兄。 :坊っちゃん曰く「いやに色が白い」顔立ちが特徴。[[実業家]]志望で英語を勉強していた。性格は坊っちゃん曰く「元来女の様な{{efn|教科書等では「さっぱりしない」}}性分で、ずるい」ため坊っちゃんとは仲が良くないが、両親からは可愛がられていた。[[東京高等商業学校|商業学校]]卒業<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000206808 夏目漱石「坊っちゃん」(明治39年発表)の文中に「…六月に兄は商業学校を卒業した。…」とある。「坊ちゃ... | レファレンス協同データベース]</ref>後、家財のほとんどを叩き売って金に替え、坊っちゃんに六百円、清に五十円を渡して{{efn|これについて坊っちゃんは内心で「兄にしては感心なやり方だ」と評価して、礼を言ってもらっておいた。}}[[九州]]に赴いた後、坊っちゃんとは会っていない。 ;[[父|おやじ]] :坊っちゃんの父親。 :坊っちゃん曰く「何にもせぬ男」。頑固だがえこひいきはしない(ただし坊っちゃんには小遣いはやらず、何かにつけて「貴様はだめだ」と口癖のように叱っていた)。妻が亡くなってから6年後の正月に[[脳卒中|卒中]]で亡くなる。 ;[[母]] :坊っちゃんの母親。兄ばかり贔屓にする。坊っちゃんが台所でトンボ返りをした(この時、竃に胸を打ち付け痛めた)のに腹を立てて、「顔を見たくない」とまで言い放ち、親戚の家に泊まりに行っている間に病死した(第一章)。これには坊っちゃんも、「そんな大病ならもっと大人しくすれば良かった」と後悔している。 ;勘太郎 :坊っちゃんの隣に住んでいた[[質屋]]の「山城屋」の倅。十三四。坊っちゃん曰く「弱虫」。坊っちゃんの二つばかり年上。栗を盗もうとした際に坊っちゃんにやられて「ぐう」と言った。 ;山嵐 :[[数学 (教科)|数学]]の主任教師。名字は堀田。[[会津藩|会津]]出身。 :面構えは坊っちゃん曰く「[[比叡山|(比)叡山]]の悪僧」。正義感の強い性格で生徒に人望がある。 :赤シャツの陰謀により坊っちゃんとは仲違いもあったが、自分が坊っちゃんに下宿先にと勧めた「いか銀」の本性を知り、坊っちゃんに謝罪して以降は意気投合。たびたび彼に陰湿ないたずらをする生徒たちの行為が職員会議で問題になり、当時坊っちゃんとは対立していたにもかかわらず、生徒を厳罰処分にするよう求める。一方で坊っちゃんが[[宿直]]中にもかかわらず学校を抜け出して温泉まで行ったことについてもしっかり釘を刺す(第六章)。外食を禁止していながら、[[芸者]]と密会している赤シャツと野だいこを坊っちゃんと一緒に懲らしめる(第十一章)などして友情を深める。[[ニッケル]]製の[[懐中時計]]を用いる(第十一章)。 :一説には漱石とほぼ同時期に愛媛県尋常中学校に数学教師として着任していた渡部政和がモデルの一人とされている。 :一説には漱石の上司であった[[嘉納治五郎]]と会津出身の漱石門下の[[皆川正禧]]の二つの縁から、会津出身で「[[山嵐 (柔道)|山嵐]]」を得意技とした柔道家・[[西郷四郎]]をモデルの一人とする説もある。<ref>近藤哲・著『漱石と會津っぽ・山嵐』歴史春秋社 1995年</ref> ;赤シャツ :[[教頭]]。坊っちゃんの学校で唯一の[[東京帝国大学|帝大]]卒の[[学士|文学士]]。 :表向きは物腰柔らかく穏やかな口調だが陰湿な性格で、坊っちゃんと山嵐から毛嫌いされる。「赤はからだに薬になる」という理由で、通年[[フランネル]]の赤いシャツを着用する<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 11頁。</ref>(第二章)。[[琥珀]]製の[[パイプ (たばこ)|パイプ]]を絹の[[ハンカチ]]で磨く。[[奏任官]][[待遇官吏|待遇]](第四章)。金側の懐中時計(=[[金時計]])を用いる。マドンナを手なずけて婚約者のうらなりから横取りする(第七章)。独身、弟と一戸建て(家賃九円五十銭)に住む(第八章)。坊っちゃんが宿直した際の騒動後に[[飲食店]]の立ち入りを禁止された坊っちゃんに注意を加えたにもかかわらず、[[芸者]]と[[旅館]]で密会していたため、帰り道で野だいこと共に山嵐と坊っちゃんに懲らしめられる(第十一章)。 :漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の教頭だった[[横地石太郎]]がモデルとする説もあるが<ref name="asahi"/>、横地本人はこれを否定し<ref name=kanazawa>[https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/project/past_pro/past-160910.html 企画展「『坊つちやん』に登場する赤シャツのモデル? 横地石太郎」] - 金沢ふるさと偉人館、2019年12月2日閲覧。</ref>、困惑・閉口した反応を示している<ref name=sarai>[https://serai.jp/hobby/141876 漱石と明治人のことば54「(漱石は)誰とでも交際する人ではないが友情に厚い人だった] - [[サライ (雑誌)|サライ.jp]]、2019年12月2日閲覧。</ref>。実際の横地と漱石は、愛媛時代には互いの家を訪問するなど親しく付き合い<ref name=sarai/>、漱石が熊本の[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]に異動した後も交際した<ref name=kanazawa/>。また、当時の横地の渾名は「天神さん」であった<ref name=sarai/>。そもそも東京大学理学部を卒業した横地の学位は理学士で、文学士という設定の赤シャツとは異なり、漱石自身も講演録『私の個人主義』において「当時其中学に文学士と云ったら私一人なのだから、赤シャツは私の事にならなければならん」と断っている<ref name=sarai/>。これは赤シャツが漱石自身というよりも、若い教師たちから文学士である自分が煙たがられていないかといった不安の反映であると同時に、東京帝大出を鼻にかけて権力を振りまわすような傾向が教育界にあってはならないことを同窓に警告しているとする説がある<ref>『坊っちゃん』 [[偕成社文庫]] 解説 [[村松定孝]] 1988年</ref>。 ;赤シャツの[[弟]] :坊っちゃんに[[代数学|代数]]と[[算術]]を教わっている。坊っちゃん曰く「至って出来のわるい子」で、「渡りものだから、生まれ付いての田舎者よりも人が悪い」。赤シャツの策略の手先としても使われたことがある。 ;小鈴 :赤シャツの馴染みの芸者。角屋で働いている。芸者の中では一番若くて美人。 ;[[幇間|野だいこ]] :[[美術 (教科)|画学]]教師。東京出身。赤シャツの腰巾着。名字は吉川。江戸っ子を自称しており、[[芸人]]ふうに「…でげす」(…です、の意)と言う。 :気に入らないものに陰口を叩いたり、赤シャツなど上司におべっかを使うため、坊っちゃんからは初対面の時に「こんなのが江戸っ子なら、江戸には生まれたくないものだ」と苦々しく思われ、第五章では「[[漬け物石|たくあん石]]をつけて、海の底へでも沈めちまうのが日本のため」と断言されるなど赤シャツ以上に良く思われていない。坊っちゃんがいか銀の下宿を飛び出した翌日、ちゃっかり坊っちゃんのいた部屋に住み着く(第七章)。赤シャツと様々な悪巧みをするが、芸者と密会した帰り道で山嵐と坊っちゃんに懲らしめられる(第十一章)。 :{{要出典範囲|一説には漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の画学教師だった高瀬半哉がモデルとされている|date=2023年6月}}。 ;うらなり :[[英語 (教科)|英語]]教師。名字は古賀。 :お人好しで消極的な性格。青白いながらふくれた容姿の持ち主で、子供の頃に同じように青くふくれている人物について清から「あれはうらなりの[[カボチャ|とうなす]]ばかり食べているからああなった」と聞いたことを思い出した坊っちゃんから「うらなり」と名づけられた。 :マドンナの婚約者であったが、1年前のうらなりの父の急死で結婚が延びていた間に赤シャツがマドンナと交際をはじめてしまい、赤シャツの陰謀(表向きは家庭の事情)で再三拒否したにもかかわらず言い含められて[[延岡市|延岡]]に転属になる(第九章)。山嵐と並んで坊っちゃんの理解者の一人であり、いか銀を退去した坊っちゃんに萩野夫婦の下宿人になることを勧める(第七章)。 :一説には漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の英語教師だった梅木忠朴がモデルとされている<ref>安倍能成『我が生ひ立ち』</ref>。 ;[[マドンナ]] :うらなりの婚約者だった令嬢。名字は遠山。マドンナは教師たちの間でのあだ名。 :赤シャツと交際している。坊っちゃん曰く、「色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人」、「[[水晶]]の珠を[[香水]]で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ち」の美人。作中のキーパーソンだが、発言はなく出番もわずかな[[マクガフィン]]的な存在。坊っちゃんとの関係は、作中では坊っちゃんが一方的に注目しているだけで、彼女自身は坊っちゃんのことを全く知らない。うらなりの人柄を買っている坊ちゃんはマドンナを「こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、よっぼど気の知れないおきゃん」と評した。 :一説には松山市の軍人の娘であった遠田ステがモデルの一人とされている<ref name="asahi" />。 ;マドンナの母親 :坊っちゃんの推測による母親らしき人物。歳は四十五六。背は低いが顔がよく似ている。 ;狸 :坊っちゃんの学校の[[校長]]。事なかれ主義の優柔不断な人物。奏任官待遇(第四章)。 :{{要出典範囲|一説には漱石の愛媛県尋常中学校教師赴任時代の校長だった住田昇がモデルの一人とされている|date=2023年6月}}。 ;生徒たち :坊っちゃんの学校の教え子。 :新米教師である坊っちゃんの私生活を尾行してからかったり(第三章)、宿直中の坊っちゃんの[[蚊帳]]の中に[[イナゴ]]を入れる(第四章)など手の込んだ[[悪戯|いたずら]]をするが、たびたびしらを切り坊っちゃんを怒らせる。のちに職員会議で問題になり、山嵐の訴えで坊っちゃんに直接謝罪したうえで一週間の[[停学|謹慎]]となる。 :以後はいたずらをしなくなったものの坊っちゃんをからかうこともあり、彼からは「心から後悔していない」と言われた。第十章では、犬猿の仲である[[師範学校]]の生徒たちと喧嘩をして山嵐が免職されるきっかけを作ってしまう。 ;いか銀 :坊っちゃんが山嵐に勧められて最初に下宿した骨董屋。 :坊っちゃんを始めとする下宿人に[[骨董品]]を売りつけようとするが、坊っちゃんが取り合わないため、無実の罪を着せて坊っちゃんを追い出す。第九章で、販売していた骨董品は贋物であったことが山嵐によって語られた。 ;萩野夫妻 :鍛冶屋町に住む老夫婦。旦那は[[謡]]が趣味。 :いか銀を退去し、うらなりの母の勧めで訪れた坊っちゃんを自宅の一室に住まわせる(第七章)。坊っちゃん曰く「[[士族]]だけあって上品だが、惜しいことに食い物がまずい」。庭には[[蜜柑]]の木がある。 :特に夫人はかなりの情報通であり、坊っちゃんにマドンナ事件やうらなりの延岡転任の真相を教える。坊っちゃんが赤シャツからの増給を断ろうとした際は諌めたが「俺の月給は上がろうと下がろうと俺の月給」と聞き入れられなかった(第八章)。 == 作品の成立 == 漱石自身が[[高等師範学校]](後の[[東京高等師範学校]]、旧[[東京教育大学]]、現在の[[筑波大学]]の前身)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校([[愛媛県立松山東高等学校|松山東高校]]の前身)で[[1895年]](明治28年)4月から教鞭をとり、[[1896年]](明治29年)4月に熊本の[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]へ赴任するまでの体験を下敷きにして、後年書いた小説である。 漱石は本作を10日足らずで書き上げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hiroshiyamashita.com/2_10.htm|website=www.hiroshiyamashita.com|accessdate=2021-07-31|title=漱石の自筆原稿『坊っちやん』における虚子の手入れ箇所の推定、ならびに考察|quote=漱石が『坊っちやん』を書き始めたのは明治三十九年三月十五日、あるいは十七日頃で、「ホトヽギス」編集者の虚子が原稿を受け取ったのは三月二十五日頃と推定されている。つまり漱石は『坊っちやん』を十日足らずで書き上げたことになり}}</ref><ref name="watanabe">渡部江里子「[http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/2_10.htm 漱石の自筆原稿『坊っちやん』における虚子の手入れ箇所の推定、ならびに考察]」『漱石雑誌小説復刻全集』三巻所収(リンク先は書誌学者山下浩のウェブサイト)</ref>。 現在読まれている本文は、『ホトトギス』編集者である[[高浜虚子]]による手が加わっている<ref name="watanabe" />。漱石は虚子宛て書簡において松山方言の添削を依頼しているが<ref name="watanabe" />、漱石直筆原稿を検討した[[渡部江里子]]は、虚子の「手入れ」が「方言の手直しを越えた改変」にも及んでいることを指摘している<ref name="watanabe" />。渡部は漱石の依頼を越えた「虚子の越権行為」と判断しており、現行のテキストをそのまま受容してよいか議論の必要を提起している<ref name="watanabe" />。 また漱石の初稿では、坊っちゃんの赴任先は「四国辺」ではなく「中国辺の中学校」となっていた。ここから本作と[[山口高等学校 (旧制)|官立山口高等中学校]]との関連を指摘する論考もある<ref>河西喜治 『坊っちゃんとシュタイナー 隈本有尚とその時代』 ぱる出版、2000年、ISBN 4-89386-806-3</ref>。 == 「坊っちゃん」の表記 == 一般的表記(当時の小宮豊隆ら)は、「坊つちやん」、現代表記では、「坊っちゃん」。初出である『ホトトギス』第九巻第七号の目次の表記は「坊っちやん」である。漱石自身は、自筆原稿の表紙や最後の149枚目にあるとおり、「坊っちやん」とも「坊つちやん」とも書いている。印刷物など、「坊ちゃん」と表記されるケースも多い。 == 批評・分析 == [[井上ひさし]]は、『坊っちゃん』の映像化が、ことごとく失敗に終わっているとする個人的見解を述べ、その理由として、『坊っちゃん』が、徹頭徹尾、文章の面白さにより築かれた物語であるからと主張している<ref>『児童文学名作全集1』 福武文庫 あとがき</ref>。 [[丸谷才一]]は、清は、主人公である坊っちゃんの生みの母であるという説を提出した<ref>「『坊つちやん』のこと」、『[[群像]]』2007年1月号。丸谷才一『星のあひびき』所収。</ref>。 == 翻案 == === 映画 === *『坊つちゃん』(1935年、監督[[山本嘉次郎]]、坊っちゃん:[[宇留木浩]]、マドンナ:[[夏目初子]]、清:[[英百合子]]、山嵐:[[丸山定夫]]、赤シャツ:[[森野鍛冶哉]]、野だいこ:[[東屋三郎]]、うらなり:[[藤原釜足]]、狸:[[徳川夢声]]) *『坊っちゃん』(1953年、監督[[丸山誠治]]、坊っちゃん:[[池部良]]、マドンナ:[[岡田茉莉子]]、清:[[浦辺粂子]]、山嵐:[[小沢栄太郎|小沢栄]]、赤シャツ:[[森繁久弥]]、野だいこ:[[多々良純]]、うらなり:[[瀬良明]]、狸:[[小堀誠]]) *『坊っちゃん』(1958年、監督[[番匠義彰]]、坊っちゃん:[[南原宏治|南原伸二]]、マドンナ:[[有馬稲子]]、清:英百合子、山嵐:[[伊藤雄之助]]、赤シャツ:[[トニー谷]]、野だいこ:[[三井弘次]]、うらなり:[[大泉滉]]、狸:[[伴淳三郎]]) *『坊っちゃん』(1966年、監督[[市村泰一]]、坊っちゃん:[[坂本九]]、マドンナ:[[加賀まりこ]]、山嵐:[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、赤シャツ:[[牟田悌三]]、野だいこ:[[藤村有弘]]、うらなり:[[大村崑]]、狸:[[古賀政男]]、小使:[[三木のり平]]、その他:[[桜むつ子]]) *『坊っちゃん』(1977年、監督[[前田陽一 (映画監督)|前田陽一]]、坊っちゃん:[[中村雅俊]]、マドンナ:[[松坂慶子]]、清:[[荒木道子]]、山嵐:[[地井武男]]、赤シャツ:[[米倉斉加年]]、野だいこ:[[湯原昌幸]]、うらなり:[[岡本信人]]、狸:[[大滝秀治]]、小夜:[[五十嵐めぐみ]]、〆香:[[宇津宮雅代]]、小使:[[今福将雄]]) 詳しくは『[[坊つちやん (映画)]]』を参照。 === テレビドラマ === *『坊っちゃん』(1957年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、坊っちゃん:[[宍戸錠]]、赤シャツ:[[十朱久雄]]、野だいこ:[[西川敬三郎]]、うらなり:[[春日俊二]]、その他:[[村瀬幸子]]、[[浜田寅彦]]) *『坊っちゃん』(1960年、NET(現[[テレビ朝日]])、坊っちゃん:[[高島忠夫]]、マドンナ:[[安西郷子]]、山嵐:[[田島義文]]、赤シャツ:[[十朱久雄]]、野だいこ:[[谷晃]]、うらなり:[[瀬良明]]、狸:[[中村是好]]) *『坊っちゃん』(1965年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、坊っちゃん:[[松本白鸚 (2代目)|市川染五郎]]、マドンナ:[[喜浦節子]]、山嵐:[[加藤武]]、赤シャツ:[[北村和夫]]、野だいこ:[[三木のり平]]、狸:[[三島雅夫]]) *『坊っちゃん』(1966年1月1日、[[日本放送協会|NHK]]、坊っちゃん:[[津川雅彦]]、マドンナ:[[入江若葉]]、山嵐:[[ハナ肇]]、赤シャツ:[[佐藤慶]]、野だいこ:[[谷啓]]、うらなり:[[石橋エータロー]]、その他:[[益田喜頓]]、[[横山通乃|横山道代]]、[[浦辺粂子]]、[[なべおさみ]])<ref>[http://www2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01.cgi?recId=&uk=&hitCount=&sort=&programPage=&cornerPage=&vd=&keyword=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E+%E5%9D%8A%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93&op=AND&keyword_not=&op_not=OR&year_1=&month_1=&day_1=&year_2=&month_2=&day_2=&from_hour=&from_minute=&to_hour=&to_minute=&lgenre1=&lgenre2=&lgenre3=&genre_op=AND&rec_count=50&cal_edit= 番組表検索結果 | NHKクロニクル] - [[NHKオンライン]]</ref> *『坊っちゃん』(1968年、[[毎日放送|MBS]]、坊っちゃん:[[石田太郎]]、マドンナ:[[三井美奈]]、山嵐:[[名古屋章]]、赤シャツ:[[仲谷昇]]、野だいこ:[[藤岡琢也]]、うらなり:[[西本裕行]]、狸:[[高木均]]) *『ザ・ドリフターズの坊っちゃん』(1970年、NET、坊っちゃん:[[加藤茶]]、マドンナ:[[松原智恵子]]、山嵐:[[荒井注]]、赤シャツ:[[いかりや長介]]、野だいこ:[[仲本工事]]、うらなり:[[高木ブー]]) *『坊っちゃん』(1970年、日本テレビ、坊っちゃん:[[竹脇無我]]、マドンナ:[[山本陽子]]、山嵐:[[田村高廣]]、赤シャツ:[[米倉斉加年]]、野だいこ:[[牟田悌三]]、うらなり:[[小松政夫]]、狸:[[松村達雄]]、その他:[[財津一郎]]、[[木田三千雄]]、[[佐々木すみ江]]、[[江戸家猫八 (4代目)|江戸家小猫]]、[[野島昭生]]、[[安原義人]]) *『[[新・坊っちゃん]]』(1975年、NHK、坊っちゃん:[[柴俊夫]]、マドンナ:[[結城しのぶ]]、山嵐:[[西田敏行]]、赤シャツ:[[河原崎長一郎]]、野だいこ:[[下條アトム]]、うらなり:[[園田裕久]]、狸:[[三國一朗]]) *『新 坊っちゃん』(<!--1987?年、-->フジテレビ、坊っちゃん:[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]、[[いとうまい子|伊藤麻衣子]]、[[下川辰平]]、[[庄司永建]]、[[小野ヤスシ]]、[[及川ヒロオ]]、[[八木昌子]]、[[奥田圭子]](奥田佳子)、[[藤井一子]]、[[小沢なつき]]、[[石丸謙二郎]]、[[佐渡稔]]、[[嶋英二]]、[[幸内康雄]]、[[花井直孝]]、[[工藤静香]]、[[利根川龍二]]、[[向井薫]]、原作:羽里昌『その後の坊っちゃん』) *『坊っちゃん -人生損ばかりのあなたに捧ぐ-』(1994年、NHK、坊っちゃん:[[本木雅弘]]、マドンナ:[[千堂あきほ]]、清:[[加藤治子]]、山嵐:[[所ジョージ]]、赤シャツ:[[江守徹]]、野だいこ:[[渡辺いっけい]]、うらなり:[[宮川一朗太]]、狸:[[フランキー堺]]、ぎん:[[由紀さおり]]、森田:[[中条静夫]]、モナリザ:[[高岡早紀]])脚本:[[内舘牧子]] *『坊っちゃんちゃん』(1996年、[[TBSテレビ|TBS]]、坊っちゃん:[[郷ひろみ]]、マドンナ:[[清水美沙|清水美砂]]、清・クロ(二役):[[樹木希林]]、いか銀:[[名古屋章]]、山嵐:[[金田明夫]]、赤シャツ:[[井上順]]、野だいこ:[[嶋大輔]]、うらなり:[[平田満]]、狸:[[ケーシー高峰]]、坊っちゃんの教え子:[[仲間由紀恵]]) *『坊っちゃん』(2016年、フジテレビ、坊っちゃん:[[二宮和也]]、マドンナ:[[松下奈緒]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2063153/full/|title=松下奈緒、二宮主演ドラマ『坊っちゃん』マドンナ役|publisher=ORICON STYLE|date=2015-12-01|accessdate=2015-12-02}}</ref>、<!--清:[[]]、-->山嵐:[[古田新太]]、赤シャツ:[[及川光博]]、野だいこ:[[八嶋智人]]、うらなり:[[山本耕史]]、狸:[[岸部一徳]]、清:[[宮本信子]]、物理学校校長:[[佐藤浩市]]、マドンナの父:[[小林薫]]、マドンナの母:[[浅野ゆう子]]、[[夏目漱石]]:[[又吉直樹]])<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20150804-F2OFHC45CJKKTCRKWMBHSODBPU/ |title= 二宮和也で“坊っちゃん”!多くの名優演じたヤンチャ教師が蘇る |publisher= SANSPO.COM |date= 2015-08-04 |accessdate= 2015-08-04 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20151104-66Q2CCJDIVNKXEVM3ZZ5UMKHTI/ |title= 正月じゃないとできない顔ぶれ!フジ系新春SPドラマ「坊っちゃん」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 株式会社 産経デジタル |date= 2015-11-04 |accessdate= 2015-11-04 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2064305/full/ |title= 又吉直樹が夏目漱石役で出演 嵐・二宮主演ドラマ『坊っちゃん』 |newspaper= ORICON STYLE |publisher= 株式会社oricon ME |date= 2015-12-23 |accessdate= 2015-12-23 }}</ref> *『"くたばれ" 坊っちゃん』([[2016年]]、[[NHK BSプレミアム]]、矢崎純平:[[勝地涼]]、老人:[[山﨑努]]、高砂ゆかり:[[瀧本美織]])<ref>[https://web.archive.org/web/20160308122758/http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=04179 愛媛発地域ドラマ制作開始!題材はあの名作“くたばれ”坊っちゃん] - [[NHKオンライン]]</ref> 詳しくは『[[坊つちやん (テレビドラマ)]]』を参照。 === アニメ === ; 『坊っちゃん』([[1980年]]6月13日・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]版)<ref>{{Cite web|和書|title=坊っちゃん {{!}} 1980年代 {{!}} TMS作品一覧 |url=https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1980s/034201.html |website=アニメーションの総合プロデュース会社 トムス・エンタテインメント |access-date=2023-05-16}}</ref> :* スタッフ :** 監修:[[出崎統]]、キャラクター原画:[[モンキー・パンチ]]、アニメーション制作:東京ムービー新社 :* キャスト :** 坊っちゃん:[[西城秀樹]]、山嵐:[[納谷悟朗]]、赤シャツ:[[八奈見乗児]]、野だいこ:[[田の中勇]]、狸:[[永井一郎]]、うらなり:[[山田康雄]]、清:[[麻生美代子]]、チビ:[[野沢雅子]]、[[北村弘一]]、[[鈴木れい子]]、[[嶋俊介]]、ナレーター:[[久米明]] :* 音楽 :** オープニング「酔歌」 :*** 作詞 - 島崎藤村 / 作曲 - 渡辺岳夫 / 歌 - デューク・エイセス :** エンディング「東西南北」 :*** 作詞 - 島崎藤村 / 作曲 - 渡辺岳夫 / 歌 - デューク・エイセス :** 挿入歌「荒城の月」 :*** 作詞 - 土井晩翠 / 作曲 - 滝廉太郎 / 歌 - 西城秀樹 : 当時フジテレビで放送されていた『[[日生ファミリースペシャル]]』の中の一作品として放送された。マドンナは登場するが、セリフが一切ない。 : ; 『坊っちゃん』([[1986年]][[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版)<ref>{{Cite web|和書|title=青春アニメ全集 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8349 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-16}}</ref> :* キャラクターデザイン:[[本宮ひろ志]] :* 声の出演 :** 坊っちゃん:[[安原義人]]、山嵐:[[飯塚昭三]]、赤シャツ:[[中村正 (声優)|中村正]]、野だいこ:[[はせさん治]]、狸:[[神山卓三]]、うらなり:[[林一夫]]、清:[[京田尚子]]、マドンナ:[[滝沢久美子]]、語り手:[[木内みどり]] : 日本テレビで放送された「[[青春アニメ全集]]」の中の一作品として放送された。 === 舞台・ミュージカル === *夏休み特別企画「坊っちゃん」 ([[1987年]]8月、大阪・[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]、坊っちゃん役:[[近藤真彦]]、マドンナ役:[[宮崎萬純]]) *[[アイ・ラブ・坊っちゃん]]([[1992年]]初演、[[音楽座]]公演) **漱石の日常と「坊っちゃん」の世界が二重構造で展開されるミュージカル。[[1993年]]、[[1995年]]、[[2000年]]、[[2007年]]に再演。2000年公演時の坊っちゃん役は[[中村繁之]] *『赤シャツ』([[2001年]]初演、劇団[[青年座]]公演、脚本:[[マキノノゾミ]]、演出:[[宮田慶子]]) **赤シャツの視点から展開されるストーリー。坊っちゃんからは見えていなかった裏の事情を描く。 *ミュージカル『坊っちゃん!』([[2006年]]、劇団[[わらび座]]公演、脚本・演出:[[ジェームス三木]]、音楽:[[飯島優]]、振付:[[室町あかね]]) *明治芸能祭『坊っちゃん』(2018年、明治150周年記念事業、明治村・呉服座、脚本・演出:尾平晃一 制作 Entertainment Project Beat) **「坊っちゃん」が幼い頃から松山へ行くまでを描いた、笑いあり感動ありのオリジナルストーリー。 === 漫画 === *『坊ちやん繪物語』(1917年、作画:[[岡本一平]]) *『漫画坊つちやん』(1918年、作画:[[近藤浩一路]])<ref>{{Cite book ja|author=近藤浩一路 |year=1918 |title=漫画坊つちやん |publisher=新潮社 |id={{NDLJP|1087976}} }}</ref> * 『坊っちゃん』(作画:[[水島新司]]) - 若干アレンジしてある。1965年、日の丸文庫<ref>{{Cite web|和書|title=東京・日の丸文庫(光伸書房)/水島新司/原作=夏目漱石「坊っちゃん」 |url=https://ekizo.mandarake.co.jp/auction/item/itemInfoJa.html?index=544225 |website=ekizo.mandarake.co.jp |access-date=2023-05-16}}</ref>。 * 『坊っちゃん』(作画:[[モンキー・パンチ]])<ref>{{Cite web|和書|title=坊ちゃん - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C273136 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-16}}</ref> - 『[[マンガ少年]]』1980年6・7月号に掲載。先述のスペシャルアニメ版放送に先駆け、キャラクター原案担当のモンキー・パンチによって漫画化。 * 『坊っちゃん』(作画:[[一峰大二]]、構成:[[辻真先]])1987年、[[暁教育図書]]、『コミグラフィック. 日本の文学』<ref>{{Cite book |title=坊っちゃん |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001884573-00 |publisher=暁教育図書 |date=1987 |location=東京 |first=夏目 |last=漱石}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=一峰大二●坊ちゃん―夏目漱石/日本の文学●コミグラフィック/990円/古本通販/夢の屋 |url=http://yumenoyabook.web.fc2.com/gazo/Y47-07.html |website=yumenoyabook.web.fc2.com |access-date=2023-07-24}}</ref> *『BOCCHAN 坊っちゃん』(作画:[[江川達也]]) - 『[[コミック・ガンボ]]』連載、「坊っちゃんは、明治のサムライである」という観点の元、『坊っちゃん』を江川流の解釈で[[コミカライズ]]した作品。2007年、ガンボコミックス、ISBN 9784903955018<ref>{{Cite book |title=坊っちゃん |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009139280-00 |publisher=デジマ |date=2007 |location=東京 |first=江川 |last=達也, 1961-}}</ref>。 *『坊っちゃん{{ハート}}』(作画:[[大和田秀樹]])- 『[[別冊漫画ゴラク]]』、『漫画ゴラクスペシャル』で連載されたギャグマンガ<ref>{{Cite web|和書|title=坊っちゃん(最新刊) |無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア |url=https://www.cmoa.jp/title/113417/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-05-16}}</ref>。坊っちゃんを男勝りのために'''坊っちゃん'''とあだ名を付けられた女性にする、うらなりが延岡への転勤が決まった後もまだ松山に留まっており、赤シャツ達の陰謀を免職後の坊っちゃんと山嵐に伝えるなどの大胆な改編がされているが物語は基本的に原作に準じて展開する。2016年、ISBN 9784537134186<ref>{{Cite book ja |title=坊っちゃん{{ハート}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I027219864-00 |publisher=日本文芸社 |date=2016 |location=東京 |first=秀樹 |last=大和田}}</ref>。 == 関連作品・パロディ == === 小説 === *[[三四郎]]『坊ちゃんのその後』191?年。『坊つちゃん』の続編<ref>{{Cite thesis|和書|author=関恵実 |url=https://doi.org/10.34360/00002335 |title=続・漱石 : 漱石作品の続編 |volume=専修大学 |series=博士(文学) 甲第114号 |year=2009 |doi=10.34360/00002335 |id={{naid|500000476121}} |access-date=2023-05-06}}</ref>。 *{{Cite book|和書|author=石原豪人|authorlink=石原豪人|year=2004|month=7|title=謎とき・坊っちゃん 夏目漱石が本当に伝えたかったこと|publisher=飛鳥新社|isbn=4-87031-626-9}} - 作品の疑問点は、登場人物が全員ゲイなら説明がつくという著作。 *{{Cite book|和書|author=内田康夫|authorlink=内田康夫|year=2003|month=5|title=坊っちゃん殺人事件|publisher=角川書店|series=角川文庫|isbn=4-04-160758-2}} *{{Cite book|和書|author=奥泉光|authorlink=奥泉光|year=2004|month=10|title=坊ちゃん忍者幕末見聞録|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=4-12-204429-4}} *{{Cite book|和書|author=かんべむさし|authorlink=かんべむさし|year=1986|month=9|title=宇宙の坊っちゃん|publisher=徳間書店|series=徳間文庫|isbn=4-19-578140-X}} *{{Cite book|和書|author=小林信彦|authorlink=小林信彦|year=2009|month=11|title=[[うらなり]]|publisher=文藝春秋|series=文春文庫 こ6-24|isbn=978-4-16-725624-1}} - 延岡に転属となった英語教師古河(うらなり)のその後という設定で、原作の騒動をうらなり側から描く。 *{{Cite book|和書|author=羽里昌|year=1986|month=5|title=その後の坊っちゃん|publisher=潮出版社|isbn=4-267-01089-7}}-タイトルは「その後の坊っちゃん」だが、坊っちゃんそのものではなく、モデルとされている弘中又一を主人公にして、松山から徳島に転任になった「坊っちゃん」のその後を描く。回想シーンでは「夏目金之助(漱石)」も登場する。 *{{Cite book|和書|author=ビートたけし|authorlink=ビートたけし|year=1986|month=8|title=たけしの新・坊っちゃん|publisher=太田出版|isbn=4-900416-10-X}} *{{Cite book|和書|author=万城目学|authorlink=万城目学|year=2007|month=4|title=[[鹿男あをによし]]|publisher=幻冬舎|series=幻冬舎文庫 ま-17-1|isbn=978-4-344-41466-2}} - 期間限定で東京近郊から地方に赴任した教師の赴任 - 帰郷までの時間軸、キャラクター設定、生徒にいたずらされる内容、教頭とトラブルを起こし最後は陰湿な手段でクビ同然に辞めさせられるなど、本作品を本歌取りした作品である。ドラマ版に出演した[[児玉清]]も「あの名作『坊っちゃん』が百年の時の壁を超えて現代に甦ったか」と文庫版に書評を寄せている。 *{{Cite book|和書|author=柳広司|authorlink=柳広司|year=2010|month=11|title=[[贋作『坊っちゃん』殺人事件]]|publisher=角川書店|series=角川文庫 16552|isbn=978-4-04-382905-7}} - 坊っちゃんが再び松山に渡り、赤シャツの首吊り自殺の真相究明に乗り出す。 *{{Cite book|和書|author=山田風太郎|authorlink=山田風太郎|year=1997|month=10|title=牢屋の坊っちゃん|publisher=筑摩書房|series=ちくま文庫 |isbn=978-4-48-003352-9}} === その他 === *『[[「坊っちゃん」の時代]]』(原作:[[関川夏央]] 作画:[[谷口ジロー]]) - 本作執筆中の漱石を中心に明治末期の文学者達を描いた作品。 *テレビドラマ『[[浅見光彦シリーズ (TBSのテレビドラマ)|浅見光彦シリーズ]]』「坊っちゃん殺人事件」([[2001年]][[9月24日]]放送) *『[[赤シャツの逆襲]]』 - [[南海放送]]制作のラジオドラマおよびテレビドラマ。本作の登場人物の「赤シャツ」をフィーチャーしたオリジナル作品。 *アニメ『[[ヤッターマン]]』の第103話「シッパイツァーだコロン」([[1978年]][[12月23日]]放送)では、ゾロメカが坊っちゃん仕立てとなっている。ヤッターマン側がカボッチャン(カボチャ+坊っちゃん)・イモアラシ(イモ+山嵐)、ドロンボー側がアカシャツノカブ(赤シャツ+カブ)・ノダイコン(野だいこ+ダイコン)・プリマドンナ。 *アニメ『[[イタダキマン]]』の第11話「かんぱい坊っちゃん先生」([[1983年]][[7月2日]])では、なぜか[[ロッキー山脈]]に坊っちゃん(声:[[井上和彦 (声優)|井上和彦]])の分教場が所在、そこへ、オシャカパズルで妖力を手に入れた校長ダヌキ(声:[[西尾徳]])率いるタヌキ軍団が、タヌキ狩りをした人間に復讐し「タヌキ帝国」を建造しようと現れる。クライマックスは、二束三文トリオ([[三悪 (タイムボカンシリーズ)|三悪]])によって校長ダヌキは釜型メカ「ブンブクチャガーマ」に変身するも、イタダキマンの「ブーダマゾロメカ」(胴体が玉になっているブタ)によって崖から転落し敗北。 == 「坊っちゃん」を付けた施設・商品など == [[ファイル:坊っちゃんとマドンナ像.jpeg|thumb|right|250px|[[松山城ロープウェイ]]東雲口駅前に設置された「坊っちゃんとマドンナ像」]] 作中では舞台は「四国」としか表現されていないが、漱石の経歴および作中の描写(語尾の「ぞな、もし」が特徴的な[[伊予弁|方言]]、県庁と温泉があるなど)から、[[愛媛県]][[松山市]]が舞台であると推測される{{efn|[[師範学校]]との乱闘を報じた新聞を「四国新聞」としているが、これは架空の新聞である。実際に[[香川県]]で発行されている[[四国新聞]]がこの名称になったのは、本作の発表から40年後の1946年のことで、当時は存在しない}}。 このことから、作中での扱いは「野蛮な所」「気の利かぬ田舎もの」「猫の額ほどな町内」などと非常に悪いものの、松山市内及びその周辺部には本作にちなんで「坊っちゃん」(「坊ちゃん」と誤表記しているものも散見される)や「マドンナ」を冠した物件や商品などが多数存在する。代表的なものは下記のとおりである。 * [[坊っちゃん湯]]([[道後温泉本館]]のこと) * [[坊っちゃん列車]] * [[坊っちゃんスタジアム]](サブグラウンドは「[[マドンナ]]スタジアム」) * [[坊っちゃんエクスプレス]]([[松山市|松山]]-[[高松市|高松]]間の[[高速バス]]。なお[[岡山市|岡山]]方面は「[[マドンナエクスプレス]]」) * [[坊っちゃん団子]] * [[坊っちゃん文学賞]] * [[坊っちゃん劇場]] * ぼっちゃりん([[松山競輪場|松山けいりん]]公式マスコット) * 「松山マドンナ大使」([[観光大使]]) また、坊っちゃんが進学した設定である東京物理学校の後身、[[東京理科大学]]では創立125周年を記念してイメージキャラクター「坊っちゃん」「マドンナちゃん」が制定されている。この他同大学の出版物に「坊っちゃん」を冠するなどの活動を行っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=島田裕巳|authorlink=島田裕巳|year=2008|month=8|title=誰も知らない『坊っちゃん』|publisher=牧野出版|isbn=978-4-89500-121-2}} *[https://www.hiroshiyamashita.com 山下浩]『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』([[日本エディタースクール]]出版部、1993) *同 [https://www.hiroshiyamashita.com 『漱石雑誌小説復刻全集』] == 関連項目 == * [[粟飴]] - 作中では「越後の笹飴」として登場する。冒頭、東京から遠く四国へ向かうことになった主人公に土産の希望を尋ねられた清が、まるで反対方向の[[越後国|越後]]名物を挙げて主人公に呆れられる(彼女は明治時代の[[高齢者]]らしく、日本地理の知識に乏しいらしい)。西の方に行くんだと説明する主人公に、なおも清は「[[箱根峠|箱根]]のさきですか手前ですか」とスケールのだいぶずれた基準で訊ね返し、主人公は閉口する。 * [[伊予弁]] - 「なもしと[[菜飯]]は違うぞな、もし」など誇張された松山の方言が登場する。語尾に「~なもし」とつけるのは大正生まれの人あたりまでで、現在はほとんど使われていない言い方。 * [[学園ドラマ]] - 熱血教師や陰険な教頭など、後世のドラマの登場人物設定に影響が見られるといわれている{{誰|date=2020年7月|post-text=に}}。 * [[寅さん]] - 筋立てや人物、言葉などに影響が見られるといわれている{{誰|date=2020年7月|post-text=に}}。 == 外部リンク == *{{青空文庫|000148|752|新字新仮名|坊っちゃん}} *{{近代デジタルライブラリー書誌情報|41008293|鶉籠(ウズラカゴ)}} *{{近代デジタルライブラリー書誌情報|43003793|鶉籠(ウズラカゴ)}} *[http://www.iyotetsu.co.jp/botchan/ 坊っちゃん列車に乗ろう] - 伊予鉄道株式会社 * [http://www.sosekiproject.org Soseki Project](英語圏向けの漱石教材) * {{Commonscat-inline}} {{夏目漱石}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほつちやん}} [[Category:坊つちやん|*]] [[Category:夏目漱石の小説]] [[Category:1906年の小説]] [[Category:松山市を舞台とした作品]] [[Category:明治時代を舞台とした小説]] [[Category:愛媛県を舞台とした小説]] [[Category:教師を主人公とした小説]] [[Category:日本の旧制教育機関を舞台とした小説]] [[Category:日本の旧制中学校|作 ほつちやん]] [[Category:フォア文庫]] [[Category:1980年のテレビアニメ]] [[Category:日生ファミリースペシャル]] [[Category:青春アニメ全集]] [[Category:小説を原作とするアニメ作品]] [[Category:東京ムービーのアニメ作品]] [[Category:明治時代を舞台としたアニメ作品]] [[Category:モンキー・パンチの漫画作品]] [[Category:1980年の漫画]] [[Category:マンガ少年]] [[Category:明治時代を舞台とした漫画作品]] [[Category:日本の旧制教育機関を舞台とした漫画作品]] [[Category:1987年の舞台作品]] [[Category:2000年代のミュージカル]] [[Category:日本の小説を原作とする舞台作品]] [[Category:小説を原作とするミュージカル]] [[Category:日本の旧制教育機関を舞台とした作品]]
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羽生善治
羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、日本の将棋棋士である。二上達也九段門で棋士番号は175。埼玉県所沢市出身。日本将棋連盟所属で2023年6月9日付をもって日本将棋連盟会長に就任(現職)。 1985年に中学生でプロ棋士となり、1989年、初タイトルとして竜王位を獲得した。1996年2月14日、将棋界で初の全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)(当時のタイトル数は7)の独占を達成した。 2017年12月5日、第30期竜王戦で15期ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠(永世竜王、十九世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将、永世棋聖)を達成した。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初である。このような実績により、2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与された。 2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が大山康晴を超え史上最多の45回となった。 通算優勝回数153回、公式戦優勝回数145回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場138回、同一タイトル戦26回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)、一般棋戦優勝回数46回は歴代単独1位の記録である。また、非タイトル戦優勝回数54回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位23回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。 羽生とほぼ同じ年齢には森内俊之(十八世名人資格保持者)や佐藤康光(永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。 埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ。 小学1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わった。 小学2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が、将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた。 道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった(15級とも)。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり、いわゆるアマチュア強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった。 1979年、小学3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である赤ヘルを被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)。 1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝を果たした。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する。 小学5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた。しかし、6年生の春(1982年4月3日)に優勝し条件を満たした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は、優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと番組内で述べている。 同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録した。この成績をもって、当時の規定により四段に昇段してプロに昇格し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となった。 末尾の年表も参照。 デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受賞した。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進んだ。1987年12月5日、17歳2か月で天王戦優勝を果たした。 羽生が知られるようになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)を打った。加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している。 この1988年度は、対局数・勝利数・勝率・連勝の記録4部門を独占(80局・64勝・0.800・18連勝)をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。 1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を獲得し、タイトル戦に初登場した。七番勝負の相手は、研究会「島研」での恩師であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった。 1990年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠となり肩書として「前竜王」を名乗るが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、それ以降、タイトルを保持する状態が2018年12月まで27年9か月続く。この間竜王挑戦時の「六段」を最後に段位を名乗ることがなかった。 1992年度、第40期王座戦で福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となった。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、森下卓曰く「タイトル保有の図式が逆転」した。 1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる(王位戦ではこの奪取時が初の王位リーグ入りだったが、以降は2022年現在に至るまで、一度も王位リーグから陥落していない)。このときに「初めて七冠を意識した」と述べた。しかし、竜王戦で佐藤康光に敗れ四冠に後退した。 一方順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格した。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得た。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年に長年の宿願を果たして初の名人位を史上最年長で獲得した50歳の米長邦雄であった。羽生は3連勝・2連敗の後の第6局で勝ち、奪取した。 同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となった。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得し、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間に同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。 そして最後の第7局(1995年3月23-24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行した。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神・淡路大震災で被災したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名)。敗れた羽生は「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った。 ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆・有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取った。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった。 第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県のマリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日-2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を達成した。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという。 タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事だった。 なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった。 直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)という数字であった。 新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。 次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で三浦弘行を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引きの趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日-7月30日=棋聖失冠日)。しかし羽生は、「通常に戻れるのでほっとした」と語っている。 三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退した。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。 第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角)を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった。 第38期王位戦七番勝負(1997年度、対佐藤康光)から第48期王座戦五番勝負(2000年度、対藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)。第13期竜王戦(2000年度)七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して記録は止まった。 2003年2月23日、第36回早指し将棋選手権の決勝で藤井猛九段に勝利し、史上最速・最年少・最高勝率で通算800勝(史上11人目)を達成した。 2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。 同年度の竜王戦・王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止された。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなり、11年9か月ぶりに一冠に後退した。この時点でタイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖(一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得た。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わった(2004年6月11日-9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占めた。 2004年度は、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得たが、その名人戦(2005年4月-6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸した。結果的にこの2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。 2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである。 2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となった。 2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1,000勝(特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成した。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成した。 2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得た。これにより史上初のいわゆる永世六冠(永世名人・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得た。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の初代永世位決定戦となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日-18日に山形県天童市で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。 2010年6月1日、第51期王位戦白組プレーオフで戸辺誠に勝ち、通算1100勝を達成。同年6月26日、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛した。同年9月29日、第58期王座戦では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛。同一タイトル19連覇、同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した。 第58回(2008年度)-第60回(2010年度)のNHK杯戦で史上初の3連覇を達成した。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立った。 2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた第69期名人戦で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の第52期王位戦で広瀬章人王位に挑戦し、4勝3敗で奪取(2011年9月13日)して通算タイトル獲得数を80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ。しかし、第59期王座戦で挑戦者の渡辺にストレート負けを喫し、20連覇を逸する。なお、同年、初出場の第19回富士通杯達人戦(非公式戦)で優勝している。 2012年2月11日、第5回朝日杯将棋オープン戦で、2年ぶり2度目の優勝。第70期順位戦(2011年度)で史上3人目のA級順位戦全勝優勝を達成。第61回NHK杯戦では2012年3月18日放送の決勝で渡辺を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦4連覇を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した。この時点で通算優勝回数が124回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)となり、大山康晴の最多記録に並ぶ。 第70期名人戦(2012年)で森内に敗北(2勝4敗)。A級全勝者挑戦の名人奪取失敗は史上初。しかし、直後の第83期棋聖戦で新鋭・中村太地(タイトル初挑戦)を3連勝で退け、通算タイトル獲得数を81期として歴代単独1位となる。8月17日の対局(銀河戦決勝収録・対阿久津主税)で勝利し、史上5人目の通算1,200勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成。 第60期王座戦で渡辺から前年奪われた王座を奪還。その最終第4局は千日手指し直しの末深夜2時までもつれる熱戦で、第40回将棋大賞の名局賞に選ばれた(初の勝局での受賞)。 第71期A級順位戦(2012年度)で優勝し、2年連続で名人挑戦。 第71期名人戦は3年連続で森内との対決となったが、1勝4敗で敗退。一方、渡辺の挑戦を受けて史上初の三冠同士対決となった第84期棋聖戦では3勝1敗でタイトルを防衛し、通算公式戦優勝回数を125回として歴代単独1位となる。 第61期王座戦で中村太地に対して1勝2敗からの2連勝で辛くも防衛。このシリーズは200手超あり、千日手あり、打ち歩詰め筋ありという白熱したシリーズだった。これにより、同一タイトル通算獲得数を歴代単独1位の21期とする(従来の記録は大山の王将通算20期)。第7回朝日杯将棋オープン決勝戦(2014年2月8日)で渡辺二冠を下し、3度目の優勝。また、渡辺王将に挑戦した第63期(2013年度)王将戦ではフルセットにもつれ込むも惜敗(四冠を逃す)。 2014年度、第72期名人戦で4年連続・9回目の顔合わせとなった森内名人を4連勝のストレートで破り名人に復位。約4年ぶりに四冠に復帰した。3期連続の挑戦、および3度の復位はともに名人戦史上初である。3度の復位は全て森内から、3度の失冠のうち2度は森内によるものである。第85期棋聖戦では、森内竜王を挑戦者に迎え、名人戦とは立場を変えての番勝負となった。結果は羽生の3連勝で防衛。大山の記録に並ぶ棋聖7連覇、13期目の獲得となった。 第55期王位戦では、挑戦者に木村一基を迎え、第3局に王位戦史上初(タイトル戦では22年ぶり)となる持将棋が成立した。結果は羽生の4勝2敗1持将棋で防衛(4連覇、16期目)。なお、タイトル戦での持将棋は、羽生自身にとっては、初タイトルを獲得した第2期竜王戦(1989年)第2局(対島朗竜王)以来2度目である。 第62期王座戦では、2回目のタイトル挑戦となった豊島将之を迎えた。開幕2連勝のあと2連敗しフルセットになったが防衛し、同一タイトル獲得記録を22に更新、四冠を堅持した。これにより、タイトル通算獲得数が90期になった。また、2014年11月20日、第64期王将戦挑戦者決定リーグ戦5回戦で三浦弘行九段戦に勝利し、史上4人目の1,300勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成した。 第40期棋王戦で渡辺に挑戦するも、3連敗で奪取失敗。なお、2014年度は2つのタイトル挑戦者決定戦で敗れ(第27期竜王戦挑戦者決定三番勝負・対糸谷1勝2敗、王将リーグプレーオフ・対郷田)、年度全てのタイトル戦登場を逃した。 2015年度、第73期名人戦は行方尚史を挑戦者に迎え、4勝1敗で防衛。これにより名人通算9期、名人位獲得数が歴代3位となった。なお、羽生が制した第1局は名人戦史上最短手数となる60手での決着であった。 2015年から始まった第1期叡王戦には参加しなかった。 第86期棋聖戦では豊島将之七段を迎えての防衛戦であった。2年連続タイトル挑戦で勢いに乗る豊島を3勝1敗で退けて防衛。大山十五世名人の棋聖7連覇の記録を塗り替え8連覇を達成。また、元王位の広瀬章人を挑戦者に迎えた第56期王位戦では、4勝1敗で盤石の防衛。そして第63期王座戦ではタイトル戦初登場の佐藤天彦を3勝2敗のフルセットで退けた。 第9回朝日杯将棋オープン戦の決勝(2016年2月13日)で森内に勝利し、3連覇を達成。また、一般棋戦の通算優勝回数が44回となり、大山の記録に並んだ。 2016年度、第74期名人戦は佐藤天彦を挑戦者に迎え、1勝4敗で失冠。名人通算10期とはならなかった。 その後、第87期棋聖戦では羽生が苦手としていた永瀬拓矢を挑戦者に迎え、3勝2敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を9へと伸ばす。その後初タイトルを目指す木村一基を挑戦者に迎えた第57期王位戦七番勝負もフルセットで防衛。これにより25年連続の年度複数冠を達成。第64期王座戦五番勝負ではストレートで挑戦者の糸谷哲郎を破り、自身の持つ同一タイトル獲得記録を24期に伸ばした。第2期叡王戦に初参加、九段予選を勝ち上がり本戦に進出、準決勝で佐藤天彦名人に敗れた。 2017年度、第88期棋聖戦では若手のホープ斎藤慎太郎七段を挑戦者に迎え、3勝1敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を10へと伸ばすとともに、自身3つ目のタイトル2桁連覇(王座・棋王・棋聖)を達成した。 第58期王位戦では棋聖戦挑戦者の斎藤と共に順位戦でB級1組へ昇級した菅井竜也七段を挑戦者に迎えた。菅井の振り飛車に苦戦し1勝4敗で失冠。続けて、第65期王座戦では4年ぶり2回目の挑戦となる中村太地六段を挑戦者に迎え、1勝3敗で失冠。自身13年ぶりとなる一冠に後退した。 第30期竜王戦では挑戦者決定戦に進出し松尾歩八段を相手に2勝1敗で勝利。自身7年ぶりの竜王戦七番勝負登場を決めた。七番勝負では渡辺竜王を4勝1敗で破り15期ぶりに竜王位に復位し、永世竜王を獲得するとともに史上初の永世七冠となった。また、史上初の永世七冠を達成したことにより安倍晋三内閣総理大臣から棋士として初の国民栄誉賞を、囲碁棋士の井山裕太七冠と共に授与された。 また、竜王位の獲得により既に防衛していた棋聖と合わせて55日ぶりに二冠となり、26年連続の年度複数冠を達成。 第76期順位戦では、最終局を終えて6人が6勝4敗で並び、史上初の6人でのプレーオフとなった。A級2位の羽生は4回戦で豊島将之八段、5回戦(挑戦者決定戦)で稲葉陽八段を破り、自身17回目となる名人戦への出場を決めた。佐藤天彦名人との七番勝負は、第1局(2018年4月11日-12日)を97手にて勝利して、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝を最年少・最速・最高勝率で達成するも、番勝負の結果は2勝4敗に終わり、名人復位はならなかった。また、第66期王座戦では、決勝トーナメント1回戦で深浦康市九段に敗退し、26年続いた連続番勝負出場記録が途切れた。第89期棋聖戦では2勝3敗の末、豊島将之八段に敗れ棋聖位を失冠し再び竜王の一冠となった。 2018年度の第31期竜王戦七番勝負で挑戦者の広瀬章人八段を相手にフルセットの上、3勝4敗で敗れ1990年度(1991年)の棋王獲得以来27年ぶりの無冠となった。なお竜王戦第六局では、2日目(2018年12月13日)の12時7分に投了し竜王戦史上最速投了を記録(全棋戦でも史上4番目)して大敗している。この際、日本将棋連盟から「前竜王」を名乗るか意向を問われたが、「前竜王」を辞退して「九段」を名乗ることにした。一方、第68回NHK杯戦では、羽生本人も含めた羽生世代の棋士4人(羽生・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆)が若手の強豪を退けてベスト4を占める中、羽生は準決勝で丸山、決勝で郷田を破り、NHK杯11回目の優勝と一般棋戦で大山康晴の44回を超える45回目の優勝を果たした。 2019年度は、5月23日に第60期王位戦挑戦者決定リーグで、谷川浩司九段に対し94手で勝利する。これにより、通算勝利数が1433勝となり大山康晴十五世名人が持つ最多勝利数記録に並び、1位タイとなった。また、王位戦挑戦者決定リーグ白組は羽生と永瀬拓矢叡王が共にリーグ4勝1敗でプレーオフとなり、133手で羽生が永瀬に勝利。通算勝利数歴代単独1位となる1434勝を達成した(対局数2027局、1434勝591敗 2持将棋、勝率0.708)。王位戦挑戦者決定戦では紅組優勝の木村一基九段に敗れ、挑戦権獲得を逃した。他棋戦でも第67期王座戦決勝トーナメントベスト4や第69期王将戦挑戦者決定リーグ進出・残留等と健闘するも、いずれもタイトル挑戦を逃し、30年間連続していたタイトル戦の番勝負出場も、31年目で途絶えることとなった。 2020年度は、第33期竜王戦1組ランキング戦で優勝すると、決勝トーナメントでも優勝し、史上初の50歳以上での竜王戦七番勝負登場を決めた。50歳以上でのタイトル戦登場は史上6人目である。勝てばタイトル通算100期となる竜王戦七番勝負では、豊島将之竜王から第2局で勝利を挙げるも対戦成績1勝4敗で敗れ、偉業は持ち越しとなった。羽生は七番勝負第4局の前日に無菌性髄膜炎による体調不良で入院となり、対局を延期(第5局を第4局として行う)するハプニングもあった。 2021年度は、第62期王位戦で挑戦者決定戦進出、第71期王将戦リーグ残留、第71回NHK杯ベスト4と健闘するも、公式戦の年間成績は14勝24敗に終わり、プロ入り36年目で初の年度負け越しとなった。また、2022年2月4日、第80期順位戦A級8回戦で永瀬拓矢王座に敗れ、成績が2勝6敗となり、最終9回戦を待たずに史上4位タイの29期連続(名人位9期を含む)で在籍していたA級からの陥落が決まった。 2022年度は、6月16日に第81期順位戦B級1組1回戦で山崎隆之八段に82手で勝利し、史上初の通算1500勝を達成した(特別将棋栄誉敢闘賞)。また、11月22日には第72期王将戦挑戦者決定リーグを6戦全勝で制し、2年ぶりのタイトル戦挑戦者となり、タイトル戦において藤井聡太王将と初対戦となったが、2勝4敗で敗れた。 2023年6月9日の棋士総会で理事として正式選出された後、理事会によって新会長に選任された。羽生の師匠である二上達也、二上の師匠である渡辺東一も会長経験者であり、渡辺の師匠である関根金次郎も現行の日本将棋連盟につながる将棋大成会・(旧)日本将棋連盟の会長経験者であることから、実質師弟四世代で連盟会長の経験者となる。 攻守ともに優れた居飛車党であり、急戦・持久戦問わず指しこなす。時折、振り飛車を採用することもある。 好きな駒は銀将で、理由は攻め、受けの要であるため。羽生が研究用に使っていた駒を譲り受けたライターによれば、柘植製の使い込まれた駒のうち、銀だけがすり減っていたという。 また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている。 終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれ、それを表題とした書籍も複数出版されている。 金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている。 著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。 長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」と語る。これと似た評価としては他に、観戦記者による「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある。 渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな...」と、ナレーションの「差を見せ付けられた」との声とともに語った。 深浦康市は2003年に、「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語っている。 身長は172 cm。血液型はAB型。 妻は元俳優でNHK連続テレビ小説『京、ふたり』のヒロイン役を務めた畠田理恵である。婚約発表は1995年7月に行われた。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生した。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日。1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生した。 両親は、互いの祖母が姉妹という再従姉弟の関係にあり、しかも同じ会社の出身者である。 お笑いタレントの歩子(旧芸名:ハブサービス、本名:羽生幸次郎)は従弟にあたる。 プロ棋士となってからも一時東京都立富士森高等学校に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、東京都立上野高等学校通信制に転入し、卒業。母は「将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔した」と述べているが、羽生は逆に「あの時高校に通っていたおかげで将棋を嫌いにならずにすんだ。感謝している。」と述べている。 羽生家の先祖は代々、現在の鹿児島県の種子島に居住しており、1996年の七冠達成を記念して、親戚たちが建てた記念碑と記念樹が西之表市にある。 2021年5月、トップコートと業務提携したことが公表された。将棋関連の業務については従来通り日本将棋連盟が窓口となるが、将棋以外のイベント・広告等については同社が窓口となる。 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」という旨を述べている。 永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みしていた。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。永世竜王資格の獲得は2002年に通算6期獲得で永世竜王まで残り1期としたが、その後森内に1度、渡辺に2度阻止された。2008年に渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。しかし2017年に渡辺明から4勝1敗で奪取し、15年ぶりの竜王復位とともに永世竜王の資格を獲得した。 通算タイトル獲得期数の従来記録(大山の80期)更新に際しても足踏みを見せた。通算81期の新記録達成まであと一歩とするも、渡辺明(2011年王座戦)、森内(2012年名人戦挑戦)に連続阻止され、中村太地(2012年棋聖戦)への勝利で達成した。また、通算100期の大台達成も、あと1期のところで、佐藤天彦(2018年名人戦挑戦)、豊島(2018年棋聖戦)、広瀬(2018年竜王戦)に連続阻止され、27年ぶりの無冠になった。 2023年に創設された50歳以上の棋士による公式戦「第1回達人戦」に於いて決勝戦で丸山忠久に勝利し、初代達人となった。その際の表彰式では“将棋連盟会長たる羽生が、初代達人としての羽生に表彰を行う”形となったことが話題になった。 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった。その後、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになったが、ほとんどの場合羽生の勝利が決定的になった局面のため、将棋界では「手が震えるのは羽生が勝ちを確信した時」と言われている。羽生自身も2008年の第66期名人戦第3局・対森内俊之名人戦での大逆転劇の際の話として「このように指せば勝てると道筋が見えた時、手が震えるようになった」と語っている。 プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる。 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人で当該棋戦準称号保持者、また当該棋戦永世称号資格保持者)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている。 相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけたと言われる。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している。しかし、第25期竜王戦第2局(渡辺明-丸山忠久)の解説を務めた際に、視聴者からの質問としてこの件が取り上げられ、「私自身としてはそんなに厳しい口調で言ったというつもりは全くなかった。対局後に主催者が入室するまでの2~3分の間に、簡単な感想として「こういう手があったのではないか?」と軽く聞いたつもりだった。秒読みの緊迫した後だったので、見る人によってはそういう風に見えたのではないか」と発言している。 初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。 1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、羽生が勝利している。 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、羽生が勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っていた。なお、2手目△6二銀は、2018年の名人戦第6局・対佐藤天彦戦で、佐藤の初手▲2六歩に対して久々に指したものの、145手で羽生が敗れた。 2001年9月1日の第14期竜王戦・挑戦者決定三番勝負第1局(対木村一基)、終盤の優勢な局面で135手目が大悪手となり頓死してしまった。もし神様から一手指し直す権利をもらったら、これをやり直したいと述べている。 2007年10月14日放送の第57回NHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」と述べた。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日-9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミスを誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている。 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミスによって、時間切れ負けをする。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢の局面であった。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた。 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は羽生とは昔から顔見知りであったため、その気安さもあってのことと言われている。当の羽生は永世七冠達成時の対談で「(テレビ中継の無い)昔の感覚で言うと全然変な話じゃない」と大山康晴らを引き合いにコメントした。 チェスにおいては国際チェス連盟(FIDE)のタイトル(称号)でグランドマスター(GM)、インターナショナルマスター(IM)に次ぐ、FIDEマスター(FIDE Master, FM)位を有する、日本国内屈指の強豪である。現在では選手として競技会への参加は少なくなったが、国内でのチェスの普及や親善としてのイベント対局をこなしている。 海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年6月にフィラデルフィアで行われた「World Open」では、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。 チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26歳とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師、ジャック・ピノーから教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った。 現在はチェスプレーヤーの小島慎也(IM、レーティング2400)と月に数回集中的な練習対局を行っている。 上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅いこと、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。 1999年6月には、非公式の自由対局ながらIMのアルミラ・スクリプチェンコに2戦2勝。しかし、その夫(当時)であるGMのジョエル・ローティエに森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。 また、2002年10月には再来日したGMのジョエル・ローティエに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。 2004年には日本人として3人目となるFMの称号を獲得。以降、2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年の「World Open」では5勝2分2敗で237人中38位となり、IM獲得への第一歩となる1度目のIMノームを達成した(日本人として3人目)。これらの大会で30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(但し、当時、早指しはレイティング対象とならなかった。現在は長時間のゲームとは別枠として計算されるようになった)。 2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジア圏のランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月から長期間、チェス大会へ出場しなくなり、2014年までFIDEからは「active player」(活動中の選手)の認定を受けなくなった。 これ以降もイベントでの対局は時折行い、2011年10月にはフランスで開催された国際将棋フォーラムで、アンドル=エ=ロワール県のヴィランドリー城でフランス国内チャンピオンのマキシム・バシエ・ラグラーブ(対局時の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、黒番(後手、一般的に不利とされる)を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。バシエ・ラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べた。 2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分、5.5P/6R)を果たす。4月22日には都内で小島慎也とともに、GMで世界王者への挑戦経験もあるナイジェル・ショート(対局時の世界ランキング49位、レーティング2697)と、2面指しのエキシビション対局を行い、後手黒番を持って引き分けになった。 2012年9月14日、神戸で開催されたチェス・プロブレムの世界大会「WCCC2012」で、2011年に対局したバシエラグラーブ(対局時の世界ランキング50位、レーティング2697。将棋は1年前から始めた)と、将棋とチェスを同時に指すという変則ルールで公開対局を行った。ハンデとして羽生は将棋が飛車落ち、チェスは先手白番で、将棋に勝ちチェスは負けた。羽生はインタビューに「頭を切り替えて考える面白さがあった」とし、バシエラグラーブは「チェスと将棋が影響を及ぼし合えば面白い」と答えた。 2013年11月、ジャパンオープンで総合3位(5勝1分2敗、5.5P/8R)。12月には年末年始の休みを利用してポーランドに渡り、クラクフで開催された「第24回クラクフ国際チェスフェスティバル2013」に参加。6勝1分2敗(6.5P/9R)の成績を残し2度目のIMノームを達成した。6勝の中には、GMのBartłomiej Heberla(対局時のレーティング2561)から後手黒番で上げた1勝が含まれている。これにより2014年2月のFIDEレーティングで2415となり、「active player」へ復帰した(世界2459位、アジア230位)。 2014年11月28日、電王戦の特別企画で元世界王者のガルリ・カスパロフと先手後手を入れ替える早指し(25分)の二番勝負で対局したが、カスパロフが2連勝した。 将棋にチェスの手法を持ち込むこともあり、その一例として、AbemaTVの企画番組にて持ち時間配分で「フィッシャールール」を採用した将棋トーナメント戦を羽生が提案。2018年に「AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治」として放送された。 2021年2月時点でレーティングは2399と日本国内2位、世界ランキングは3194位、アジア圏のランキングは393位。 普段は自然体で喋るが、インタビューなどでは「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、受け答えをする場合がある。 対局時の寝癖がトレードマークとされる。結婚後は一時頻度が少なくなったが、2013年の王座戦第4局では「後頭部に見事な寝癖がついている。」と日本将棋連盟王座戦中継サイトに記録が残るなど、2010年代に入り再び寝癖が現れる機会が多くなった。演歌歌手・長山洋子の歌「たてがみ」は、寝癖になぞらえたタイトルのオマージュソングである。 チャトランガ系統のゲームは一通り出来る。囲碁は小学生の時にやっており、5級からは苦戦したものの初段になりやめた。ただ、プロ棋士になってから再度ルールを覚えており、酒の席などでたまに知り合いと碁を打つことがある。 漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻に記している。但し、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している。 2006年11月に八王子市より八王子観光大使を委嘱される。 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から六冠になるまでを書いた本(マンガ形式)もある。 将棋を題材にしたテレビゲームの監修およびアドバイスを度々行っており、自身が登場するゲームソフトもある。詳細は下記節を参照。 好きな映画は小津安二郎監督の『東京物語』。また、小説では『氷点』(三浦綾子)を一時愛読していた。 基本的に弟子はとらない。 独身時は、収入の半分は寄付に使っていて、億の収入に税金を支払うと貯金はなしであった。 ※2023年4月3日現在 登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。 詳細は末尾の年表、タイトル戦戦績一覧を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照。 通算46回 = 歴代1位 詳細は、末尾の年表を参照。 なお、プロデビュー(1985年12月18日)以降に存在した、新進棋士の棋戦を除く一般棋戦のうち、優勝経験がないのは下記の3つ(但し、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす)。 通算8回 = 歴代1位 詳細は末尾の年表を参照。記録は次項を参照。 昇段およびタイトルの獲得、 失冠等による肩書きの遍歴を記す。(「継続中の日数」は閲覧日現在のもの。 文字 は全タイトル独占。)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、日本の将棋棋士である。二上達也九段門で棋士番号は175。埼玉県所沢市出身。日本将棋連盟所属で2023年6月9日付をもって日本将棋連盟会長に就任(現職)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1985年に中学生でプロ棋士となり、1989年、初タイトルとして竜王位を獲得した。1996年2月14日、将棋界で初の全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)(当時のタイトル数は7)の独占を達成した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2017年12月5日、第30期竜王戦で15期ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠(永世竜王、十九世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将、永世棋聖)を達成した。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初である。このような実績により、2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が大山康晴を超え史上最多の45回となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "通算優勝回数153回、公式戦優勝回数145回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場138回、同一タイトル戦26回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)、一般棋戦優勝回数46回は歴代単独1位の記録である。また、非タイトル戦優勝回数54回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位23回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "羽生とほぼ同じ年齢には森内俊之(十八世名人資格保持者)や佐藤康光(永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小学1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わった。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "小学2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が、将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった(15級とも)。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり、いわゆるアマチュア強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1979年、小学3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である赤ヘルを被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝を果たした。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "小学5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた。しかし、6年生の春(1982年4月3日)に優勝し条件を満たした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は、優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと番組内で述べている。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録した。この成績をもって、当時の規定により四段に昇段してプロに昇格し、加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となった。", "title": "プロデビューまで" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "末尾の年表も参照。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率一位賞を受賞した。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進んだ。1987年12月5日、17歳2か月で天王戦優勝を果たした。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "羽生が知られるようになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)を打った。加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この1988年度は、対局数・勝利数・勝率・連勝の記録4部門を独占(80局・64勝・0.800・18連勝)をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を獲得し、タイトル戦に初登場した。七番勝負の相手は、研究会「島研」での恩師であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1990年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠となり肩書として「前竜王」を名乗るが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、それ以降、タイトルを保持する状態が2018年12月まで27年9か月続く。この間竜王挑戦時の「六段」を最後に段位を名乗ることがなかった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1992年度、第40期王座戦で福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となった。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、森下卓曰く「タイトル保有の図式が逆転」した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる(王位戦ではこの奪取時が初の王位リーグ入りだったが、以降は2022年現在に至るまで、一度も王位リーグから陥落していない)。このときに「初めて七冠を意識した」と述べた。しかし、竜王戦で佐藤康光に敗れ四冠に後退した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一方順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格した。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得た。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年に長年の宿願を果たして初の名人位を史上最年長で獲得した50歳の米長邦雄であった。羽生は3連勝・2連敗の後の第6局で勝ち、奪取した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となった。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得し、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間に同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そして最後の第7局(1995年3月23-24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行した。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神・淡路大震災で被災したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名)。敗れた羽生は「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆・有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取った。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県のマリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日-2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を達成した。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事だった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)という数字であった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で三浦弘行を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引きの趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日-7月30日=棋聖失冠日)。しかし羽生は、「通常に戻れるのでほっとした」と語っている。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退した。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角)を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第38期王位戦七番勝負(1997年度、対佐藤康光)から第48期王座戦五番勝負(2000年度、対藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)。第13期竜王戦(2000年度)七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して記録は止まった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年2月23日、第36回早指し将棋選手権の決勝で藤井猛九段に勝利し、史上最速・最年少・最高勝率で通算800勝(史上11人目)を達成した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年度の竜王戦・王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止された。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなり、11年9か月ぶりに一冠に後退した。この時点でタイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖(一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得た。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わった(2004年6月11日-9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占めた。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2004年度は、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得たが、その名人戦(2005年4月-6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸した。結果的にこの2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1,000勝(特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成した。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人(十九世名人)の資格を得た。これにより史上初のいわゆる永世六冠(永世名人・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得た。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の初代永世位決定戦となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日-18日に山形県天童市で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2010年6月1日、第51期王位戦白組プレーオフで戸辺誠に勝ち、通算1100勝を達成。同年6月26日、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛した。同年9月29日、第58期王座戦では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛。同一タイトル19連覇、同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "第58回(2008年度)-第60回(2010年度)のNHK杯戦で史上初の3連覇を達成した。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立った。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた第69期名人戦で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の第52期王位戦で広瀬章人王位に挑戦し、4勝3敗で奪取(2011年9月13日)して通算タイトル獲得数を80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ。しかし、第59期王座戦で挑戦者の渡辺にストレート負けを喫し、20連覇を逸する。なお、同年、初出場の第19回富士通杯達人戦(非公式戦)で優勝している。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2012年2月11日、第5回朝日杯将棋オープン戦で、2年ぶり2度目の優勝。第70期順位戦(2011年度)で史上3人目のA級順位戦全勝優勝を達成。第61回NHK杯戦では2012年3月18日放送の決勝で渡辺を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦4連覇を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した。この時点で通算優勝回数が124回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)となり、大山康晴の最多記録に並ぶ。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第70期名人戦(2012年)で森内に敗北(2勝4敗)。A級全勝者挑戦の名人奪取失敗は史上初。しかし、直後の第83期棋聖戦で新鋭・中村太地(タイトル初挑戦)を3連勝で退け、通算タイトル獲得数を81期として歴代単独1位となる。8月17日の対局(銀河戦決勝収録・対阿久津主税)で勝利し、史上5人目の通算1,200勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第60期王座戦で渡辺から前年奪われた王座を奪還。その最終第4局は千日手指し直しの末深夜2時までもつれる熱戦で、第40回将棋大賞の名局賞に選ばれた(初の勝局での受賞)。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "第71期A級順位戦(2012年度)で優勝し、2年連続で名人挑戦。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第71期名人戦は3年連続で森内との対決となったが、1勝4敗で敗退。一方、渡辺の挑戦を受けて史上初の三冠同士対決となった第84期棋聖戦では3勝1敗でタイトルを防衛し、通算公式戦優勝回数を125回として歴代単独1位となる。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第61期王座戦で中村太地に対して1勝2敗からの2連勝で辛くも防衛。このシリーズは200手超あり、千日手あり、打ち歩詰め筋ありという白熱したシリーズだった。これにより、同一タイトル通算獲得数を歴代単独1位の21期とする(従来の記録は大山の王将通算20期)。第7回朝日杯将棋オープン決勝戦(2014年2月8日)で渡辺二冠を下し、3度目の優勝。また、渡辺王将に挑戦した第63期(2013年度)王将戦ではフルセットにもつれ込むも惜敗(四冠を逃す)。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2014年度、第72期名人戦で4年連続・9回目の顔合わせとなった森内名人を4連勝のストレートで破り名人に復位。約4年ぶりに四冠に復帰した。3期連続の挑戦、および3度の復位はともに名人戦史上初である。3度の復位は全て森内から、3度の失冠のうち2度は森内によるものである。第85期棋聖戦では、森内竜王を挑戦者に迎え、名人戦とは立場を変えての番勝負となった。結果は羽生の3連勝で防衛。大山の記録に並ぶ棋聖7連覇、13期目の獲得となった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第55期王位戦では、挑戦者に木村一基を迎え、第3局に王位戦史上初(タイトル戦では22年ぶり)となる持将棋が成立した。結果は羽生の4勝2敗1持将棋で防衛(4連覇、16期目)。なお、タイトル戦での持将棋は、羽生自身にとっては、初タイトルを獲得した第2期竜王戦(1989年)第2局(対島朗竜王)以来2度目である。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第62期王座戦では、2回目のタイトル挑戦となった豊島将之を迎えた。開幕2連勝のあと2連敗しフルセットになったが防衛し、同一タイトル獲得記録を22に更新、四冠を堅持した。これにより、タイトル通算獲得数が90期になった。また、2014年11月20日、第64期王将戦挑戦者決定リーグ戦5回戦で三浦弘行九段戦に勝利し、史上4人目の1,300勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第40期棋王戦で渡辺に挑戦するも、3連敗で奪取失敗。なお、2014年度は2つのタイトル挑戦者決定戦で敗れ(第27期竜王戦挑戦者決定三番勝負・対糸谷1勝2敗、王将リーグプレーオフ・対郷田)、年度全てのタイトル戦登場を逃した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2015年度、第73期名人戦は行方尚史を挑戦者に迎え、4勝1敗で防衛。これにより名人通算9期、名人位獲得数が歴代3位となった。なお、羽生が制した第1局は名人戦史上最短手数となる60手での決着であった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2015年から始まった第1期叡王戦には参加しなかった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第86期棋聖戦では豊島将之七段を迎えての防衛戦であった。2年連続タイトル挑戦で勢いに乗る豊島を3勝1敗で退けて防衛。大山十五世名人の棋聖7連覇の記録を塗り替え8連覇を達成。また、元王位の広瀬章人を挑戦者に迎えた第56期王位戦では、4勝1敗で盤石の防衛。そして第63期王座戦ではタイトル戦初登場の佐藤天彦を3勝2敗のフルセットで退けた。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "第9回朝日杯将棋オープン戦の決勝(2016年2月13日)で森内に勝利し、3連覇を達成。また、一般棋戦の通算優勝回数が44回となり、大山の記録に並んだ。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2016年度、第74期名人戦は佐藤天彦を挑戦者に迎え、1勝4敗で失冠。名人通算10期とはならなかった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "その後、第87期棋聖戦では羽生が苦手としていた永瀬拓矢を挑戦者に迎え、3勝2敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を9へと伸ばす。その後初タイトルを目指す木村一基を挑戦者に迎えた第57期王位戦七番勝負もフルセットで防衛。これにより25年連続の年度複数冠を達成。第64期王座戦五番勝負ではストレートで挑戦者の糸谷哲郎を破り、自身の持つ同一タイトル獲得記録を24期に伸ばした。第2期叡王戦に初参加、九段予選を勝ち上がり本戦に進出、準決勝で佐藤天彦名人に敗れた。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2017年度、第88期棋聖戦では若手のホープ斎藤慎太郎七段を挑戦者に迎え、3勝1敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を10へと伸ばすとともに、自身3つ目のタイトル2桁連覇(王座・棋王・棋聖)を達成した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "第58期王位戦では棋聖戦挑戦者の斎藤と共に順位戦でB級1組へ昇級した菅井竜也七段を挑戦者に迎えた。菅井の振り飛車に苦戦し1勝4敗で失冠。続けて、第65期王座戦では4年ぶり2回目の挑戦となる中村太地六段を挑戦者に迎え、1勝3敗で失冠。自身13年ぶりとなる一冠に後退した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "第30期竜王戦では挑戦者決定戦に進出し松尾歩八段を相手に2勝1敗で勝利。自身7年ぶりの竜王戦七番勝負登場を決めた。七番勝負では渡辺竜王を4勝1敗で破り15期ぶりに竜王位に復位し、永世竜王を獲得するとともに史上初の永世七冠となった。また、史上初の永世七冠を達成したことにより安倍晋三内閣総理大臣から棋士として初の国民栄誉賞を、囲碁棋士の井山裕太七冠と共に授与された。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、竜王位の獲得により既に防衛していた棋聖と合わせて55日ぶりに二冠となり、26年連続の年度複数冠を達成。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "第76期順位戦では、最終局を終えて6人が6勝4敗で並び、史上初の6人でのプレーオフとなった。A級2位の羽生は4回戦で豊島将之八段、5回戦(挑戦者決定戦)で稲葉陽八段を破り、自身17回目となる名人戦への出場を決めた。佐藤天彦名人との七番勝負は、第1局(2018年4月11日-12日)を97手にて勝利して、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝を最年少・最速・最高勝率で達成するも、番勝負の結果は2勝4敗に終わり、名人復位はならなかった。また、第66期王座戦では、決勝トーナメント1回戦で深浦康市九段に敗退し、26年続いた連続番勝負出場記録が途切れた。第89期棋聖戦では2勝3敗の末、豊島将之八段に敗れ棋聖位を失冠し再び竜王の一冠となった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2018年度の第31期竜王戦七番勝負で挑戦者の広瀬章人八段を相手にフルセットの上、3勝4敗で敗れ1990年度(1991年)の棋王獲得以来27年ぶりの無冠となった。なお竜王戦第六局では、2日目(2018年12月13日)の12時7分に投了し竜王戦史上最速投了を記録(全棋戦でも史上4番目)して大敗している。この際、日本将棋連盟から「前竜王」を名乗るか意向を問われたが、「前竜王」を辞退して「九段」を名乗ることにした。一方、第68回NHK杯戦では、羽生本人も含めた羽生世代の棋士4人(羽生・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆)が若手の強豪を退けてベスト4を占める中、羽生は準決勝で丸山、決勝で郷田を破り、NHK杯11回目の優勝と一般棋戦で大山康晴の44回を超える45回目の優勝を果たした。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2019年度は、5月23日に第60期王位戦挑戦者決定リーグで、谷川浩司九段に対し94手で勝利する。これにより、通算勝利数が1433勝となり大山康晴十五世名人が持つ最多勝利数記録に並び、1位タイとなった。また、王位戦挑戦者決定リーグ白組は羽生と永瀬拓矢叡王が共にリーグ4勝1敗でプレーオフとなり、133手で羽生が永瀬に勝利。通算勝利数歴代単独1位となる1434勝を達成した(対局数2027局、1434勝591敗 2持将棋、勝率0.708)。王位戦挑戦者決定戦では紅組優勝の木村一基九段に敗れ、挑戦権獲得を逃した。他棋戦でも第67期王座戦決勝トーナメントベスト4や第69期王将戦挑戦者決定リーグ進出・残留等と健闘するも、いずれもタイトル挑戦を逃し、30年間連続していたタイトル戦の番勝負出場も、31年目で途絶えることとなった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2020年度は、第33期竜王戦1組ランキング戦で優勝すると、決勝トーナメントでも優勝し、史上初の50歳以上での竜王戦七番勝負登場を決めた。50歳以上でのタイトル戦登場は史上6人目である。勝てばタイトル通算100期となる竜王戦七番勝負では、豊島将之竜王から第2局で勝利を挙げるも対戦成績1勝4敗で敗れ、偉業は持ち越しとなった。羽生は七番勝負第4局の前日に無菌性髄膜炎による体調不良で入院となり、対局を延期(第5局を第4局として行う)するハプニングもあった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2021年度は、第62期王位戦で挑戦者決定戦進出、第71期王将戦リーグ残留、第71回NHK杯ベスト4と健闘するも、公式戦の年間成績は14勝24敗に終わり、プロ入り36年目で初の年度負け越しとなった。また、2022年2月4日、第80期順位戦A級8回戦で永瀬拓矢王座に敗れ、成績が2勝6敗となり、最終9回戦を待たずに史上4位タイの29期連続(名人位9期を含む)で在籍していたA級からの陥落が決まった。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2022年度は、6月16日に第81期順位戦B級1組1回戦で山崎隆之八段に82手で勝利し、史上初の通算1500勝を達成した(特別将棋栄誉敢闘賞)。また、11月22日には第72期王将戦挑戦者決定リーグを6戦全勝で制し、2年ぶりのタイトル戦挑戦者となり、タイトル戦において藤井聡太王将と初対戦となったが、2勝4敗で敗れた。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2023年6月9日の棋士総会で理事として正式選出された後、理事会によって新会長に選任された。羽生の師匠である二上達也、二上の師匠である渡辺東一も会長経験者であり、渡辺の師匠である関根金次郎も現行の日本将棋連盟につながる将棋大成会・(旧)日本将棋連盟の会長経験者であることから、実質師弟四世代で連盟会長の経験者となる。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "攻守ともに優れた居飛車党であり、急戦・持久戦問わず指しこなす。時折、振り飛車を採用することもある。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "好きな駒は銀将で、理由は攻め、受けの要であるため。羽生が研究用に使っていた駒を譲り受けたライターによれば、柘植製の使い込まれた駒のうち、銀だけがすり減っていたという。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれ、それを表題とした書籍も複数出版されている。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」と語る。これと似た評価としては他に、観戦記者による「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな...」と、ナレーションの「差を見せ付けられた」との声とともに語った。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "深浦康市は2003年に、「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語っている。", "title": "棋風・評価" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "身長は172 cm。血液型はAB型。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "妻は元俳優でNHK連続テレビ小説『京、ふたり』のヒロイン役を務めた畠田理恵である。婚約発表は1995年7月に行われた。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生した。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日。1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "両親は、互いの祖母が姉妹という再従姉弟の関係にあり、しかも同じ会社の出身者である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "お笑いタレントの歩子(旧芸名:ハブサービス、本名:羽生幸次郎)は従弟にあたる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "プロ棋士となってからも一時東京都立富士森高等学校に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、東京都立上野高等学校通信制に転入し、卒業。母は「将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔した」と述べているが、羽生は逆に「あの時高校に通っていたおかげで将棋を嫌いにならずにすんだ。感謝している。」と述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "羽生家の先祖は代々、現在の鹿児島県の種子島に居住しており、1996年の七冠達成を記念して、親戚たちが建てた記念碑と記念樹が西之表市にある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2021年5月、トップコートと業務提携したことが公表された。将棋関連の業務については従来通り日本将棋連盟が窓口となるが、将棋以外のイベント・広告等については同社が窓口となる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」という旨を述べている。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みしていた。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。永世竜王資格の獲得は2002年に通算6期獲得で永世竜王まで残り1期としたが、その後森内に1度、渡辺に2度阻止された。2008年に渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。しかし2017年に渡辺明から4勝1敗で奪取し、15年ぶりの竜王復位とともに永世竜王の資格を獲得した。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "通算タイトル獲得期数の従来記録(大山の80期)更新に際しても足踏みを見せた。通算81期の新記録達成まであと一歩とするも、渡辺明(2011年王座戦)、森内(2012年名人戦挑戦)に連続阻止され、中村太地(2012年棋聖戦)への勝利で達成した。また、通算100期の大台達成も、あと1期のところで、佐藤天彦(2018年名人戦挑戦)、豊島(2018年棋聖戦)、広瀬(2018年竜王戦)に連続阻止され、27年ぶりの無冠になった。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2023年に創設された50歳以上の棋士による公式戦「第1回達人戦」に於いて決勝戦で丸山忠久に勝利し、初代達人となった。その際の表彰式では“将棋連盟会長たる羽生が、初代達人としての羽生に表彰を行う”形となったことが話題になった。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった。その後、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになったが、ほとんどの場合羽生の勝利が決定的になった局面のため、将棋界では「手が震えるのは羽生が勝ちを確信した時」と言われている。羽生自身も2008年の第66期名人戦第3局・対森内俊之名人戦での大逆転劇の際の話として「このように指せば勝てると道筋が見えた時、手が震えるようになった」と語っている。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人で当該棋戦準称号保持者、また当該棋戦永世称号資格保持者)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけたと言われる。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している。しかし、第25期竜王戦第2局(渡辺明-丸山忠久)の解説を務めた際に、視聴者からの質問としてこの件が取り上げられ、「私自身としてはそんなに厳しい口調で言ったというつもりは全くなかった。対局後に主催者が入室するまでの2~3分の間に、簡単な感想として「こういう手があったのではないか?」と軽く聞いたつもりだった。秒読みの緊迫した後だったので、見る人によってはそういう風に見えたのではないか」と発言している。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、羽生が勝利している。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、羽生が勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っていた。なお、2手目△6二銀は、2018年の名人戦第6局・対佐藤天彦戦で、佐藤の初手▲2六歩に対して久々に指したものの、145手で羽生が敗れた。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2001年9月1日の第14期竜王戦・挑戦者決定三番勝負第1局(対木村一基)、終盤の優勢な局面で135手目が大悪手となり頓死してしまった。もし神様から一手指し直す権利をもらったら、これをやり直したいと述べている。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2007年10月14日放送の第57回NHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」と述べた。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日-9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミスを誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミスによって、時間切れ負けをする。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢の局面であった。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は羽生とは昔から顔見知りであったため、その気安さもあってのことと言われている。当の羽生は永世七冠達成時の対談で「(テレビ中継の無い)昔の感覚で言うと全然変な話じゃない」と大山康晴らを引き合いにコメントした。", "title": "対局関連の逸話" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "チェスにおいては国際チェス連盟(FIDE)のタイトル(称号)でグランドマスター(GM)、インターナショナルマスター(IM)に次ぐ、FIDEマスター(FIDE Master, FM)位を有する、日本国内屈指の強豪である。現在では選手として競技会への参加は少なくなったが、国内でのチェスの普及や親善としてのイベント対局をこなしている。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年6月にフィラデルフィアで行われた「World Open」では、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26歳とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師、ジャック・ピノーから教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "現在はチェスプレーヤーの小島慎也(IM、レーティング2400)と月に数回集中的な練習対局を行っている。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅いこと、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1999年6月には、非公式の自由対局ながらIMのアルミラ・スクリプチェンコに2戦2勝。しかし、その夫(当時)であるGMのジョエル・ローティエに森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "また、2002年10月には再来日したGMのジョエル・ローティエに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2004年には日本人として3人目となるFMの称号を獲得。以降、2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年の「World Open」では5勝2分2敗で237人中38位となり、IM獲得への第一歩となる1度目のIMノームを達成した(日本人として3人目)。これらの大会で30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(但し、当時、早指しはレイティング対象とならなかった。現在は長時間のゲームとは別枠として計算されるようになった)。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジア圏のランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月から長期間、チェス大会へ出場しなくなり、2014年までFIDEからは「active player」(活動中の選手)の認定を受けなくなった。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "これ以降もイベントでの対局は時折行い、2011年10月にはフランスで開催された国際将棋フォーラムで、アンドル=エ=ロワール県のヴィランドリー城でフランス国内チャンピオンのマキシム・バシエ・ラグラーブ(対局時の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、黒番(後手、一般的に不利とされる)を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。バシエ・ラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べた。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分、5.5P/6R)を果たす。4月22日には都内で小島慎也とともに、GMで世界王者への挑戦経験もあるナイジェル・ショート(対局時の世界ランキング49位、レーティング2697)と、2面指しのエキシビション対局を行い、後手黒番を持って引き分けになった。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2012年9月14日、神戸で開催されたチェス・プロブレムの世界大会「WCCC2012」で、2011年に対局したバシエラグラーブ(対局時の世界ランキング50位、レーティング2697。将棋は1年前から始めた)と、将棋とチェスを同時に指すという変則ルールで公開対局を行った。ハンデとして羽生は将棋が飛車落ち、チェスは先手白番で、将棋に勝ちチェスは負けた。羽生はインタビューに「頭を切り替えて考える面白さがあった」とし、バシエラグラーブは「チェスと将棋が影響を及ぼし合えば面白い」と答えた。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2013年11月、ジャパンオープンで総合3位(5勝1分2敗、5.5P/8R)。12月には年末年始の休みを利用してポーランドに渡り、クラクフで開催された「第24回クラクフ国際チェスフェスティバル2013」に参加。6勝1分2敗(6.5P/9R)の成績を残し2度目のIMノームを達成した。6勝の中には、GMのBartłomiej Heberla(対局時のレーティング2561)から後手黒番で上げた1勝が含まれている。これにより2014年2月のFIDEレーティングで2415となり、「active player」へ復帰した(世界2459位、アジア230位)。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2014年11月28日、電王戦の特別企画で元世界王者のガルリ・カスパロフと先手後手を入れ替える早指し(25分)の二番勝負で対局したが、カスパロフが2連勝した。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "将棋にチェスの手法を持ち込むこともあり、その一例として、AbemaTVの企画番組にて持ち時間配分で「フィッシャールール」を採用した将棋トーナメント戦を羽生が提案。2018年に「AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治」として放送された。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2021年2月時点でレーティングは2399と日本国内2位、世界ランキングは3194位、アジア圏のランキングは393位。", "title": "チェス" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "普段は自然体で喋るが、インタビューなどでは「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、受け答えをする場合がある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "対局時の寝癖がトレードマークとされる。結婚後は一時頻度が少なくなったが、2013年の王座戦第4局では「後頭部に見事な寝癖がついている。」と日本将棋連盟王座戦中継サイトに記録が残るなど、2010年代に入り再び寝癖が現れる機会が多くなった。演歌歌手・長山洋子の歌「たてがみ」は、寝癖になぞらえたタイトルのオマージュソングである。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "チャトランガ系統のゲームは一通り出来る。囲碁は小学生の時にやっており、5級からは苦戦したものの初段になりやめた。ただ、プロ棋士になってから再度ルールを覚えており、酒の席などでたまに知り合いと碁を打つことがある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻に記している。但し、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "2006年11月に八王子市より八王子観光大使を委嘱される。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から六冠になるまでを書いた本(マンガ形式)もある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "将棋を題材にしたテレビゲームの監修およびアドバイスを度々行っており、自身が登場するゲームソフトもある。詳細は下記節を参照。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "好きな映画は小津安二郎監督の『東京物語』。また、小説では『氷点』(三浦綾子)を一時愛読していた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "基本的に弟子はとらない。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "独身時は、収入の半分は寄付に使っていて、億の収入に税金を支払うと貯金はなしであった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "※2023年4月3日現在", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "詳細は末尾の年表、タイトル戦戦績一覧を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "通算46回 = 歴代1位", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "詳細は、末尾の年表を参照。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "なお、プロデビュー(1985年12月18日)以降に存在した、新進棋士の棋戦を除く一般棋戦のうち、優勝経験がないのは下記の3つ(但し、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす)。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "通算8回 = 歴代1位", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "詳細は末尾の年表を参照。記録は次項を参照。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "", "title": "年表" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "昇段およびタイトルの獲得、 失冠等による肩書きの遍歴を記す。(「継続中の日数」は閲覧日現在のもの。 文字 は全タイトル独占。)", "title": "肩書き" } ]
羽生 善治は、日本の将棋棋士である。二上達也九段門で棋士番号は175。埼玉県所沢市出身。日本将棋連盟所属で2023年6月9日付をもって日本将棋連盟会長に就任(現職)。 1985年に中学生でプロ棋士となり、1989年、初タイトルとして竜王位を獲得した。1996年2月14日、将棋界で初の全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)(当時のタイトル数は7)の独占を達成した。 2017年12月5日、第30期竜王戦で15期ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠(永世竜王、十九世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将、永世棋聖)を達成した。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初である。このような実績により、2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与された。 2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が大山康晴を超え史上最多の45回となった。 通算優勝回数153回、公式戦優勝回数145回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場138回、同一タイトル戦26回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)、一般棋戦優勝回数46回は歴代単独1位の記録である。また、非タイトル戦優勝回数54回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位23回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。 羽生とほぼ同じ年齢には森内俊之(十八世名人資格保持者)や佐藤康光(永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。
{{半保護}} {{Infobox 将棋棋士 |image = [[File:Habu at ISF 2011 02.JPG|180px]] |caption = 第5回[[国際将棋フォーラム]]([[2011年]]) |名前 = 羽生 善治 |棋士番号 = 175 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1970|9|27}} |プロ年度 = 1985年12月18日(15歳) |出身地 = [[埼玉県]][[所沢市]]<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/175.html|title=棋士データベース 竜王(棋聖) 羽生善治|accessdate=2018-4-19|date=|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180418224454/https://www.shogi.or.jp/player/pro/175.html|archivedate=2018-4-19}}</ref> | 所属 = 関東 |師匠=[[二上達也]]九段 |永世 = 永世竜王(資格)<br/>十九世名人(資格)<br/>永世王位(資格)<br/>名誉王座(資格)<br/>永世棋王(資格)<br/>永世王将(資格)<br/>永世棋聖(資格)<br/>名誉NHK杯選手権者<ref group="注釈" name="syuui">襲位(就位)は原則引退後(名誉王座のみ原則引退後または還暦後)。名誉NHK杯選手権者は即日就位。</ref> |タイトル = |段位 = 九段 |タイトル合計 = 99期(歴代1位) |優勝回数 = 46回(歴代1位) |順位戦クラス=B級1組|竜王戦クラス=1組}} {{Infobox Chess player | name = 羽生善治 | image = | caption = | birthname = | nickname = | country = {{JPN}} | birth_date = | birth_place = | death_date = | death_place = | title = [[国際チェス連盟のタイトル|FIDE Master]] | worldchampion = | womensworldchampion = | ICCFworldchampion = | rating = 2399(2020年11月) | peakrating = 2415(2015年1月) | ranking = 3193位(2020年11月) | peakranking = | FideID = 7000537 }} '''羽生 善治'''(はぶ よしはる、[[1970年]][[9月27日]] - )は、日本の[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]である。[[二上達也]]九段門で[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は175。[[埼玉県]][[所沢市]]出身。[[日本将棋連盟]]所属で2023年6月9日付をもって[[日本将棋連盟]]会長に就任(現職)<ref name="Shogi Renmei">{{Cite press release |title= 日本将棋連盟新役員のお知らせ【修正あり】|publisher= 日本将棋連盟|date= 2023-06-09|url=https://www.shogi.or.jp/news/2023/06/post_2309.html |format= HTML|language=ja |access-date= 2023-11-26}}</ref>。 [[1985年]]に中学生でプロ棋士となり、[[1989年]]、初タイトルとして[[竜王戦|竜王位]]を獲得した。[[1996年]][[2月14日]]、[[将棋界]]で初の全7タイトル(竜王、[[名人 (将棋)|名人]]、[[王位戦 (将棋)|王位]]、[[王座戦 (将棋)|王座]]、[[棋王戦 (将棋)|棋王]]、[[王将戦|王将]]、[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]])(当時のタイトル数は7<ref group="注釈">のち、2017年度から叡王戦が加わり、タイトル戦は8となった。</ref>)の独占を達成した。 [[2017年]][[12月5日]]、[[第30期竜王戦]]で15期ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠([[竜王戦|永世竜王]]、[[名人 (将棋)|十九世名人]]、[[王位戦 (将棋)|永世王位]]、[[王座戦 (将棋)|名誉王座]]、[[棋王戦 (将棋)|永世棋王]]、[[王将戦#永世王将|永世王将]]、[[棋聖戦 (将棋)|永世棋聖]])を達成した。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初である<ref group="注釈">タイトル戦の数が6つ以上になってからの「永世六冠」も羽生が初めて(タイトル戦が5つの時代には大山康晴が「永世五冠」を達成している)。名誉NHK杯選手権者の称号を得たのも羽生が史上初であり、2018年現在において唯一の保持者である。</ref>。このような実績により、2018年に棋士として初めて[[国民栄誉賞]]を授与された<ref group="web">{{cite news ja|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASL2F4S0NL2FUTFK00W.html|title= 羽生・井山両氏に国民栄誉賞授与 首相「感動与えた」|newspaper=朝日新聞|accessdate=2023-02-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180213194357/https://www.asahi.com/articles/ASL2F4S0NL2FUTFK00W.html|archivedate=2018-02-13}}</ref>。 2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が[[大山康晴]]を超え史上最多の45回となった。 通算優勝回数153回、公式戦優勝回数145回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場138回、同一タイトル戦26回連続登場([[王座戦_(将棋)|王座]])、同一タイトル獲得通算24期([[王座戦_(将棋)|王座]])、一般棋戦優勝回数46回は歴代単独1位の記録である。また、非タイトル戦優勝回数54回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位23回も歴代1位である。詳細は[[#主な成績|主な成績]]を参照。 羽生とほぼ同じ年齢には[[森内俊之]](十八世名人資格保持者)や[[佐藤康光]](永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「[[羽生世代]]」と呼ばれる。 == プロデビューまで == [[埼玉県]][[所沢市]]で生まれ、幼稚園に入る頃から[[東京都]][[八王子市]]に移り住んだ<ref group="book" name="zokan168">『[[将棋世界]][4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』[[日本将棋連盟]]、1996年、168-175頁 「羽生善治、生い立ちの記」(記・炬口勝弘)</ref>。 小学1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の[[駒 (将棋)|駒]]の動かし方を教わった<ref group="book" name="zokan168"/><ref group="注釈">羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに[[山形県]]に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。(『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、171頁</ref>。 ===八王子将棋クラブ=== 小学2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が、将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)<ref group="book" name="zokan168"/>。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった<ref group="book" name="zokan168"/>。家が[[新興住宅地]]にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた<ref group="book" name="zokan168"/>。 道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった<ref group="book" name="zokan168"/>(15級とも)。その後、[[棋力]]は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり<ref group="book" name="zokan168"/>、いわゆるアマチュア強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは[[将棋盤]]を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった<ref group="book" name="zokan168"/>。 ===将棋大会=== 1979年、小学3年生で4級のとき、日本橋[[東急百貨店|東急デパート]]の「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は[[先崎学]])をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする<ref group="book" name="zokan168"/>。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも[[広島東洋カープ]]の赤い[[ベースボールキャップ|野球帽]]である赤ヘルを被らせていた(羽生自身は[[読売ジャイアンツ]]ファンであった)<ref group="book" name="zokan168"/><ref group="book">[[田中寅彦]] 『羽生善治 神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年 ISBN 978-4584191286</ref>。 1981年1月7日、「第1回[[小田急百貨店|小田急]]将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝を果たした。このとき、準決勝で[[森内俊之]]を、決勝で[[小倉久史]]を破っている<ref group="book" name="zokan168"/>。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった<ref group="book">『[[将棋マガジン]]』1996年6月号 日本将棋連盟、37頁</ref>。同年、5年生に上がると、[[将棋のアマチュア棋戦|アマ名人戦]]の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過<ref group="book" name="zokan168"/>。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する<ref group="book" name="zokan168"/>。 ===奨励会=== 小学5年生のとき、[[新進棋士奨励会|奨励会]]への入会を志し、道場の[[師範代]]である中嶋克安[[指導棋士]](二上の最初の弟子)<ref group="注釈">中嶋克安指導棋士は、父が病気で倒れたため奨励会を退会して家業を継ぎ、そのかたわら道場(のちの八王子将棋クラブ)を開いた。</ref>に相談をしたが、中嶋は「[[小学生将棋名人戦]]で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた<ref group="注釈">小学生将棋名人戦には3年生のときから参加し、2年連続1回戦負けの後、前年の5年生時はベスト8であった。</ref><ref group="book" name="zokan168"/>。しかし、6年生の春([[1982年]][[4月3日]])に優勝し条件を満たした。このとき森内は3位、[[NHK教育テレビジョン|NHKテレビ]]解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える[[谷川浩司]]だった。母は対局が行われた[[日本放送協会|NHK]]のスタジオから、すぐに二上に電話を入れた<ref group="book" name="zokan168"/>。小学生将棋名人戦に出演していた[[大山康晴]]は、優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと番組内で述べている{{要出典|date=2014-10}}<ref group="注釈">但し、この大山の発言は両名への単なる称賛だけではなく、谷川に対しての侮蔑の意味も込められている。[[盤外戦#大山康晴|盤外戦]]を参照のこと。</ref>。 同年、奨励会入会試験に合格。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段([[#昇段履歴|後述]])を重ね、[[1985年]][[12月18日]]に三段での13勝4敗を記録した。この成績をもって、当時の規定<ref name="sandan" group="注釈">当時は、三段リーグの制度がなかった。</ref>により四段に昇段してプロに昇格し、[[加藤一二三]]、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となった<ref group="web">{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/topics/news/2016/09/post_1452.html|title=新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2016-09-05|date=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160903131548/http://www.shogi.or.jp/topics/news/2016/09/post_1452.html|archivedate=2016年9月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。 == 戦績 == 末尾の[[#年表|年表]]も参照。 === デビュー === {| style="float:right" |- | {{Shogi diagram|tright |第38回 NHK杯戦 準々決勝<br />第60手 △3二同玉まで<br/>(この次の一手が▲5二銀)<br/>△加藤一二三 持駒:桂歩 |lg|ng| |gg| | | | | | |rg| | | | |kgl| | |pg| | |pg|pg|pg|ng| | | | |pg|sg| | |pg| | | |pg| | | | | | | | | |ps| | | | | | |ps|ps|ss|ps|ps|ps|ps|ls|ps | | |gs| | |ks| |pg|rg |ls|ns| | | | |gs| |bg |▲羽生善治 持駒:角金銀二香歩}} |} デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、[[将棋大賞]]の新人賞と勝率一位賞を受賞した。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「[[羽生世代|チャイルドブランド]]」<ref group="注釈">[[島朗]]による命名。</ref>と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進んだ。[[1987年]][[12月5日]]、17歳2か月で[[天王戦]]優勝を果たした。 羽生が知られるようになったのは、五段時代の第38回([[1988年]]度)[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]である。[[大山康晴]](3回戦)、[[加藤一二三]](4回戦 = 準々決勝)、[[谷川浩司]](準決勝)、[[中原誠]](決勝)と、当時現役の[[名人戦 (将棋)|名人]]経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定<ref group="注釈">これについて谷川浩司は「まず抽選をするわけですから」と述べた上で、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している。(『[[別冊宝島]]380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 [[宝島社]]、1998年、16頁 ISBN 978-4796693806)。</ref>のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)を打った。加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している<ref group="book">『将棋世界』2007年11月号 日本将棋連盟、102頁 「加藤一二三九段、1000敗を語る」</ref>。 この1988年度は、対局数・勝利数・勝率・連勝の記録4部門を独占(80局・64勝・0.800・18連勝<ref group="注釈">18連勝のうち10勝は前年度からの繰越し。連勝を止めたのは大山康晴。</ref>)をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。 1989年、[[第2期竜王戦]]で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を獲得し、タイトル戦に初登場した。[[番勝負|七番勝負]]の相手は、研究会「島研」での恩師であり前年に[[第1期竜王戦|初代竜王]]の座に就いた[[島朗]]であった。[[入玉|持将棋]]1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。[[将棋界|棋界]]で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の[[屋敷伸之]]によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった<ref group="web">[https://www.rayraw.com/ 玲瓏:羽生善治(棋士)データベース]の年度別成績を参照。</ref>。 1990年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠となり肩書として「前竜王」を名乗るが<ref group="注釈">「前竜王」はタイトルに準じる称号。「[[棋戦 (将棋)#竜王と名人]]」を参照。</ref>、4か月後の1991年3月に[[棋王戦 (将棋)|棋王]]位を獲得し、それ以降、タイトルを保持する状態が2018年12月まで27年9か月続く。この間竜王挑戦時の「六段」を最後に段位を名乗ることがなかった<ref group="注釈">同様の事例としては、棋聖位再挑戦時の「八段」を最後にタイトル称号・前名人・永世十段・十六世名人を名乗り、名人在位中に昇段した「九段」の段位を称することがなかった中原誠がいる。羽生以外の現役棋士では、2004年竜王挑戦時「六段」からの竜王獲得後、2023年の名人失冠で無冠(九段)になるまで18年半のタイトル保持を続けていた渡辺明がいる。</ref><ref group="注釈">第1期・第2期[[叡王戦]]では、棋戦運営の都合上、タイトル保持者もタイトル称号ではなく段位で呼称されていたため、羽生が参加した第2期では「羽生善治九段」と呼称されていた。</ref>。 === 七冠独占 === [[1992年]]度、第40期[[王座戦 (将棋)|王座戦]]で[[福崎文吾]]から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となった。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、[[森下卓]]曰く「タイトル保有の図式が逆転」<ref group="注釈">森下は「もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか」とも述べている(『[[将棋マガジン]]』1996年6月号 日本将棋連盟、16頁)。</ref>した。 [[1993年]]度、谷川から[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]を、[[郷田真隆]]から[[王位戦 (将棋)|王位]]を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる(王位戦ではこの奪取時が初の王位リーグ入りだったが、以降は2022年現在に至るまで、一度も王位リーグから陥落していない)。このときに「初めて七冠を意識した」<ref group="book" name="zokan68">『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』(日本将棋連盟、1996年) 68-69頁 「七冠を得た喜び」(記・羽生善治)</ref>と述べた。しかし、竜王戦で[[佐藤康光]]に敗れ四冠に後退した。 一方[[順位戦]]では、1991年度([[第50期順位戦|第50期]])のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格した。そして迎えた[[第52期順位戦|第52期(1993年度)A級順位戦]]では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得た。この第52期(1994年度)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]七番勝負の相手は、前年に長年の宿願を果たして初の名人位を史上最年長で獲得した50歳の[[米長邦雄]]であった。羽生は3連勝・2連敗<ref group="注釈">米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていたが、3連敗の後に2勝を返しさらに9年現役をつとめる(日本将棋連盟「米長邦雄の本」)。</ref>の後の第6局で勝ち、奪取した。 同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となった。残るタイトルは、谷川が保持する[[王将戦|王将位]]ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得し、[[1995年]]1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間に同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。 そして最後の第7局([[1995年]]3月23-24日)は、[[青森県]]・[[奥入瀬渓流|奥入瀬]]で行われた。[[矢倉囲い|相矢倉]]の戦形となったが、2日目に[[千日手]]が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行した。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった<ref group="注釈">このことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102)。</ref>。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。[[阪神・淡路大震災]]で被災<ref group="注釈">谷川は、第1局と第2局の間に阪神・淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、20-21頁 ISBN 978-4796693806)。</ref>したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名<ref group="book" name="sm9604">『[[将棋マガジン]]』1996年4月号 日本将棋連盟、14-16頁</ref>)。敗れた羽生は「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った<ref group="book" name="zokan68"/>。 ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・[[三浦弘行]])、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・[[森雞二]])、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、[[村山聖]]・[[森内俊之]]・[[丸山忠久]]・郷田真隆・[[有吉道夫]]に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取った。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった<ref group="注釈">[[第53期順位戦#第53期名人戦七番勝負|第53期名人戦]]第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。第43期王座戦第2局の98手目、森は△6九銀からの詰み(立会人の[[内藤國雄]]曰く「1秒でわかる詰み」)を見逃して受けに回り、羽生の逆転勝ちとなった。谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれた結果、羽生の勝ちとなった(以上、「[[将棋マガジン]]」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。</ref>。 {| style="float:right" |- | {{Shogi diagram|tright |【七冠達成の図】<br/>第45期王将戦第4局<br/>82手目△7八金<br/>△羽生善治竜王・名人<br/>持駒:金銀桂歩四 |lg|ng| | | | |sg| |lg | | |hs|sg|kg| |gg| | | | |pg| |pg|pg| |ps| |pg| | |pg| | |rs| |pg | | | | | | | | | |ps|ps|ps| | | | | |ps | | |ns|plg| | | | | | |ks|ggl| |sg| | | | | | | | | | | | |ls |▲谷川浩司王将<br/>持駒:飛角金桂歩三}} |} 第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、[[山口県]]の[[マリンピアくろい]]での第4局([[1996年]][[2月13日]]-[[2月14日]])を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した<ref group="book" name="sm9604"/>。羽生の後手番で戦形は[[横歩取り]]の激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに'''七冠独占'''を達成した。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという<ref group="book" name="zokan68"/>。 タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事だった。 なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである<ref group="book" name="hyaku">羽生善治 著『才能とは続けられること(100年インタビュー)』PHP研究所。</ref>。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった<ref group="book" name="zokan68"/>。 直後に第21期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]](七冠王としての最初の防衛戦)で[[高橋道雄]]を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、[[早指し将棋選手権]]でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の[[番勝負]]での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)<ref group="注釈">46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(0.833)。この年度の最終戦となった対[[屋敷伸之]]戦に勝っていれば、1967年度に[[中原誠]]の記録した歴代最高勝率(0.8545、47勝8敗)に並ぶことができていた。なお、羽生のこの記録は2011年度の[[中村太地 (棋士)|中村太地]]の勝率(0.8511、40勝7敗)に抜かれ、現在では歴代3位となる。但し、中原、中村ともに比較的低段位者と当たることの多い若手時代の記録であるのに対して、この年度の羽生は7度ものタイトル戦を戦いながらの記録である(1967年度の中原は後期の[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]のみに登場、2011年度の中村はタイトル戦登場なし)。</ref>という数字であった。 新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦([[第54期順位戦#第54期名人戦七番勝負|第54期]])であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という<ref group="book">[[将棋マガジン]](日本将棋連盟)1996年8月号でのインタビュー</ref>。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。 === 七冠から一冠へ陥落、再び四冠 === 次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で三浦弘行<ref group="注釈">羽生の全冠独占後に『[[将棋マガジン]]』(日本将棋連盟)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司や佐藤康光の名を挙げた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。</ref>を挑戦者に迎えた第67期[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で[[相掛かり]]2八飛車引き<ref group="注釈">相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかったため、[[力戦]]と呼ばれた。しかし、これをきっかけにプロ間で流行するようになる。</ref>の趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした([[1996年]][[2月14日]]=王将奪取日-[[7月30日]]=棋聖失冠日)。しかし羽生は、「通常に戻れるのでほっとした」と語っている<ref group="book">『日本将棋用語事典』118頁下段。</ref>。 三浦から棋聖位を奪われたのと同年の[[第9期竜王戦]]と、翌[[1997年]]の[[第55期順位戦#第55期名人戦七番勝負|第55期名人戦]]という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退した。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。 第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角<ref group="book">『将棋世界』1998年5月号 日本将棋連盟、「第47回NHK杯トーナメント 四冠羽生善治vs八段村山聖 痛恨の△7六角」</ref>)を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった<ref group="注釈">この後の村山の休場による4月の不戦勝を含めると8勝6敗。</ref>。 [[第38期王位戦]]七番勝負(1997年度、対佐藤康光)から[[第48期王座戦 (将棋)|第48期王座戦]]五番勝負(2000年度、対[[藤井猛]])にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)。[[第13期竜王戦]](2000年度)七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して記録は止まった。 [[2003年]]2月23日、第36回[[早指し将棋選手権]]の決勝で藤井猛九段に勝利し、史上最速・最年少・最高勝率で通算800勝(史上11人目)を達成した<ref group="web" name="asahi20030223">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/shougi/news/TKY200302230125.html |title=羽生竜王、最速・最年少で「800勝」 |access-date=2022-11-02 |publisher=朝日新聞社 |date=2003-02-23 |website=朝日新聞 |archive-date=2003-04-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20030402144453/http://www.asahi.com/shougi/news/TKY200302230125.html}}</ref>。 2003年度、[[第51期王座戦 (将棋)|第51期王座戦]]では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛<ref group="web">{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/news/index.cfm?i=20031015se064s1 |title=(10/15)羽生王座12連覇を達成・128手までで渡辺五段下す |access-date=2022-11-02 |publisher=NIKKEI NET 将棋王国 |date=2003-10-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20031231021204/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/news/index.cfm?i=20031015se064s1 |archive-date=2003-12-31}}</ref>。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。 同年度の竜王戦・王将戦、そして翌[[2004年]]度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止された。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなり、11年9か月ぶりに一冠に後退した。この時点でタイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]](一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得た。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わった(2004年6月11日-9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占めた。 === 永世名人獲得成功と永世竜王獲得失敗 === 2004年度は、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得たが、その名人戦(2005年4月-6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸した。結果的にこの2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。 [[第64期順位戦#A級|2005年度のA級順位戦]]では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである<ref group="注釈">この谷川とのプレーオフの一局は結果的に(羽生が谷川の玉を)「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回[[将棋大賞]]で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞した。</ref>。 2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となった。 2007年12月20日、[[第66期順位戦#A級|第66期A級順位戦]]6回戦・対[[久保利明]]戦で勝ち、史上8人目の通算1,000勝([[特別将棋栄誉賞]])を史上最年少、最速、最高勝率で達成した。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成した。 {{Wikinews|将棋・羽生善治さん「永世名人」獲得|date=2008年6月18日}} 2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により[[名人_(将棋)#永世名人|'''永世名人''']]('''十九世名人''')の資格を得た。これにより史上初のいわゆる'''永世六冠'''(永世名人・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、[[第21期竜王戦]]で渡辺明竜王への挑戦権を得た。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の初代永世位決定戦となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日-18日に[[山形県]][[天童市]]で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した<ref group="注釈">[[囲碁]]のタイトル戦では3連敗4連勝は、すでに何度も発生していた。</ref>。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。 === 大山の記録を超えて === ==== 2010年度 ==== 2010年6月1日、[[第51期王位戦]]白組プレーオフで[[戸辺誠]]に勝ち、通算1100勝を達成<ref group="web" name="1100勝">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2010/06/1100.html |title=羽生善治名人、1100勝を達成!|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2010-06-02 |accessdate=2010-06-02}}</ref>。同年6月26日、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛した。同年9月29日、[[第58期王座戦 (将棋)|第58期王座戦]]では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG27031_Z20C10A9000000/ |title=将棋王座戦第3局、羽生王座が19連覇 自身の記録更新 |publisher=日本経済新聞社 |date=2010-09-29 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129180605/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2901Y_Z20C10A9MM8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref><ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2901Y_Z20C10A9MM8000/ |title=将棋王座戦第3局 羽生王座が19連覇 |publisher=日本経済新聞社 |date=2010年9月29日 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129180605/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2901Y_Z20C10A9MM8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。同一タイトル19連覇、同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した<ref group="注釈">2005年度、第53期王座戦で佐藤(康)の挑戦を退け王座戦14連覇を果たした時点で大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録(1959年-1971年、名人13連覇)を抜いた。</ref>。 第58回(2008年度)-第60回(2010年度)のNHK杯戦で史上初の3連覇を達成した。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立った。 [[File:Habu at ISF 2011 03.JPG|thumb|200px|2011年10月 パリ近郊で開催された第5回国際将棋フォーラムにて]] ==== 2011年度 ==== 2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた[[第69期順位戦#第69期名人戦七番勝負|第69期名人戦]]で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の[[第52期王位戦]]で[[広瀬章人]]王位に挑戦し、4勝3敗で奪取([[2011年]][[9月13日]])して通算タイトル獲得数を80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1304G_T10C11A9CR8000/ |title=羽生が王位奪取 タイトル獲得数、最多タイ通算80期 大山十五世名人に並ぶ |publisher=日本経済新聞社 |date=2011-09-13 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129181846/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1304G_T10C11A9CR8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。しかし、[[第59期王座戦 (将棋)|第59期王座戦]]で挑戦者の渡辺にストレート負けを喫し、20連覇を逸する<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2704W_X20C11A9000000/ |title=将棋王座戦、羽生20連覇ならず 渡辺が王座奪取 |publisher=日本経済新聞社 |date=2011年9月27日 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129181610/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2704W_X20C11A9000000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref><ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2706G_X20C11A9MM8000/ |title=渡辺が王座奪取、羽生の20連覇阻む 将棋王座戦 |publisher=日本経済新聞社 |date=2011年9月27日 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129181237/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG2706G_X20C11A9MM8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。なお、同年、初出場の第19回[[富士通杯達人戦]](非公式戦)で優勝している。 2012年2月11日、第5回[[朝日杯将棋オープン戦]]で、2年ぶり2度目の優勝。[[第70期順位戦]](2011年度)で史上3人目のA級順位戦全勝優勝を達成。[[第61回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第61回NHK杯戦]]では2012年3月18日放送の決勝で渡辺を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦4連覇<ref group="注釈">翌年の決勝での敗退まで、羽生は5年間をかけてこのトーナメントで24連勝している。この記録は[[佐藤康光]]評するに自身の13連勝など問題にならない(『NHK杯伝説の名勝負』p.196)、決勝戦で羽生の五連覇を阻んだ[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]評するに「1回負けたら終わりのトーナメントで5年で24連勝したのだから、信じられない記録です。」、「羽生さんは信じられない記録をたくさんもっているけど、その中でも一番信じられない記録といってもいいかもしれない。」(『NHK杯伝説の名勝負』p.223 より引用)とのことである。</ref>を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した<ref group="注釈">囲碁界では[[坂田栄男]]が名誉NHK杯選手権者の称号を獲得している。</ref><ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/03/nhk_5.html |title=羽生善治二冠、名誉NHK杯に!|publisher=日本将棋連盟 |date=2012-03-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170820122640/https://www.shogi.or.jp/news/2012/03/nhk_5.html |archivedate=2021-03-06 |accessdate=2021-03-06}}</ref>。この時点で通算優勝回数が124回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)となり、大山康晴の最多記録に並ぶ。 ==== 2012年度 ==== [[第70期順位戦#第70期名人戦七番勝負|第70期名人戦]](2012年)で森内に敗北(2勝4敗)。A級全勝者挑戦の名人奪取失敗は史上初。しかし、直後の[[第83期棋聖戦 (将棋)|第83期棋聖戦]]で新鋭・[[中村太地 (棋士)|中村太地]](タイトル初挑戦)を3連勝で退け、通算タイトル獲得数を81期として歴代単独1位となる<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/07/post_588.html|title=羽生、通算タイトル獲得数歴代単独1位に|publisher=日本将棋連盟|date=2012-07-06|accessdate=2017-12-15}}</ref>。8月17日の対局(銀河戦決勝収録・対[[阿久津主税]]<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.igoshogi.net/shogi/ginga/kifu.html?kifu=g20K0401 |title=将棋 - 第20期 銀河戦 決勝トーナメント 決勝戦 |publisher=囲碁・将棋チャンネルホームページ (igoshogi.net) |accessdate=2022-11-30 |archive-date=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129182321/https://www.igoshogi.net/shogi/ginga/kifu.html?kifu=g20K0401}}</ref>)で勝利し、史上5人目の通算1,200勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成<ref group="web" name="1200勝">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/08/1200_1.html |title=羽生二冠、1200勝を達成!|publisher=日本将棋連盟|date=2012-08-17|accessdate=2017-12-15}}</ref>。 [[第60期王座戦 (将棋)|第60期王座戦]]で渡辺から前年奪われた王座を奪還。その最終第4局は千日手指し直しの末深夜2時までもつれる熱戦で、第40回将棋大賞の名局賞に選ばれた(初の勝局での受賞)。 [[第71期順位戦#A級|第71期A級順位戦]](2012年度)で優勝し、2年連続で名人挑戦。 === 2013年度 === [[第71期順位戦#第71期名人戦七番勝負|第71期名人戦]]は3年連続で森内との対決となったが、1勝4敗で敗退。一方、渡辺の挑戦を受けて史上初の三冠同士対決となった[[第84期棋聖戦 (将棋)|第84期棋聖戦]]では3勝1敗でタイトルを防衛し、通算公式戦優勝回数を125回として歴代単独1位となる。 [[第61期王座戦 (将棋)|第61期王座戦]]で中村太地に対して1勝2敗からの2連勝で辛くも防衛。このシリーズは200手超あり{{Efn|第2局。結果は203手で羽生勝ち<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG18097_Y3A910C1000000/ |title=王座戦第2局、羽生勝ち1勝1敗に |publisher=日本経済新聞社 |date=2013-09-18 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129183930/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG18097_Y3A910C1000000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。}}、千日手あり{{Efn|第4局は51手で千日手となった<ref name="nikkei201309190017" group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG080BA_Y3A001C1CR8000/ |title=王座戦第4局、羽生踏ん張り最終局へ 2勝2敗のタイ |date=2013-10-09 |accessdate=2022-11-30 |publisher=日本経済新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129184150/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG080BA_Y3A001C1CR8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。}}、打ち歩詰め筋あり{{Efn|第4局の千日手指し直し局<ref name="nikkei201309190017" group="web" />。}}という白熱したシリーズだった。これにより、同一タイトル通算獲得数を歴代単独1位の21期とする(従来の記録は大山の王将通算20期)<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG21080_R21C13A0000000/ |title=羽生が王座防衛 通算21期、同一タイトルで最多 |date=2013-10-21 |accessdate=2022-11-30 |publisher=日本経済新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129183545/https://www.nikkei.com/article/DGXNASFG21080_R21C13A0000000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>。第7回朝日杯将棋オープン決勝戦(2014年2月8日)で渡辺二冠を下し、3度目の優勝。また、渡辺王将に挑戦した第63期(2013年度)王将戦ではフルセットにもつれ込むも惜敗(四冠を逃す)。 === 3度目の名人復位と4年ぶりの四冠復帰(2014年度) === [[File:ShogiJapanSeriesFinalTokyo2014HabuWatanabe.jpg|thumb|280px|2014年の[[第35回将棋日本シリーズ]]決勝、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]との対局。]] [[2014年度の将棋界|2014年度]]、[[第72期順位戦#第72期名人戦七番勝負|第72期名人戦]]で4年連続・9回目の顔合わせとなった森内名人を4連勝のストレートで破り名人に復位。約4年ぶりに四冠に復帰した。3期連続の挑戦、および3度の復位はともに名人戦史上初である。3度の復位は全て森内から、3度の失冠のうち2度は森内によるものである。[[第85期棋聖戦 (将棋)|第85期棋聖]]戦では、森内竜王を挑戦者に迎え、名人戦とは立場を変えての番勝負となった。結果は羽生の3連勝で防衛。大山の記録に並ぶ棋聖7連覇、13期目の獲得となった。 [[第55期王位戦]]では、挑戦者に[[木村一基]]を迎え、第3局に王位戦史上初(タイトル戦では22年ぶり)となる持将棋が成立した。結果は羽生の4勝2敗1持将棋で防衛(4連覇、16期目)。なお、タイトル戦での持将棋は、羽生自身にとっては、初タイトルを獲得した[[第2期竜王戦]](1989年)第2局(対島朗竜王)以来2度目である。 [[第62期王座戦 (将棋)|第62期王座戦]]では、2回目のタイトル挑戦となった[[豊島将之]]を迎えた。開幕2連勝のあと2連敗しフルセットになったが防衛し、同一タイトル獲得記録を22に更新、四冠を堅持した。これにより、タイトル通算獲得数が90期になった。また、2014年11月20日、[[第64期王将戦]]挑戦者決定リーグ戦5回戦で三浦弘行九段戦に勝利し、史上4人目の1,300勝を史上最年少・史上最速・史上最高勝率で達成した<ref group="web" name="1300勝">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/1300_1.html |title=羽生名人、1300勝を達成! |access-date=2022-05-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161006072438/https://www.shogi.or.jp/news/2014/11/1300_1.html |archive-date=2016-10-06 |language=ja |date=2014-11-21 |publisher=日本将棋連盟}}</ref>。 [[第40期棋王戦]]で渡辺に挑戦するも、3連敗で奪取失敗。なお、2014年度は2つのタイトル挑戦者決定戦で敗れ([[第27期竜王戦]]挑戦者決定三番勝負・対糸谷1勝2敗、王将リーグプレーオフ・対郷田)、年度全てのタイトル戦登場を逃した。 === 2015年度 === [[2015年度の将棋界|2015年度]]、[[第73期順位戦#第73期名人戦七番勝負|第73期名人戦]]は[[行方尚史]]を挑戦者に迎え、4勝1敗で防衛。これにより名人通算9期、名人位獲得数が歴代3位となった。なお、羽生が制した第1局は名人戦史上最短手数となる60手での決着であった<ref group="web">{{Cite news ja|title=名人戦:羽生、充実の指し回し…粘る行方にすき与えず|newspaper=毎日新聞|date=2015-05-29|url=http://mainichi.jp/feature/news/20150530k0000m040084000c.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20150602194316/http://mainichi.jp/feature/news/20150530k0000m040084000c.html|archive-date=2015-06-03}}</ref>。 2015年から始まった[[第1期叡王戦]]には参加しなかった。 [[第86期棋聖戦 (将棋)|第86期棋聖戦]]では豊島将之七段を迎えての防衛戦であった。2年連続タイトル挑戦で勢いに乗る豊島を3勝1敗で退けて防衛。大山十五世名人の棋聖7連覇の記録を塗り替え8連覇を達成。また、元王位の[[広瀬章人]]を挑戦者に迎えた[[第56期王位戦]]では、4勝1敗で盤石の防衛。そして[[第63期王座戦 (将棋)|第63期王座戦]]ではタイトル戦初登場の[[佐藤天彦]]を3勝2敗のフルセットで退けた。 第9回朝日杯将棋オープン戦の決勝(2016年2月13日)で森内に勝利し、3連覇を達成。また、一般棋戦の通算優勝回数が44回となり、大山の記録に並んだ。 === 13年ぶりの一冠後退と竜王挑戦、そして永世七冠 === [[2016年度の将棋界|2016年度]]、[[第74期順位戦#第74期名人戦七番勝負|第74期名人戦]]は[[佐藤天彦]]を挑戦者に迎え、1勝4敗で失冠。名人通算10期とはならなかった。 その後、[[第87期棋聖戦 (将棋)|第87期棋聖戦]]では羽生が苦手としていた[[永瀬拓矢]]を挑戦者に迎え、3勝2敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を9へと伸ばす。その後初タイトルを目指す木村一基を挑戦者に迎えた[[第57期王位戦]]七番勝負もフルセットで防衛。これにより25年連続の年度複数冠を達成。[[第64期王座戦 (将棋)|第64期王座戦]]五番勝負ではストレートで挑戦者の糸谷哲郎を破り、自身の持つ同一タイトル獲得記録を24期に伸ばした。[[第2期叡王戦]]に初参加、九段予選を勝ち上がり本戦に進出、準決勝で佐藤天彦名人に敗れた。 2017年度、[[第88期棋聖戦 (将棋)|第88期棋聖戦]]では若手のホープ[[斎藤慎太郎]]七段を挑戦者に迎え、3勝1敗で防衛。自身の持つ棋聖戦連覇記録を10へと伸ばすとともに、自身3つ目のタイトル2桁連覇(王座・棋王・棋聖)を達成した。 [[第58期王位戦]]では棋聖戦挑戦者の斎藤と共に順位戦でB級1組へ昇級した[[菅井竜也]]七段を挑戦者に迎えた。菅井の振り飛車に苦戦し1勝4敗で失冠。続けて、[[第65期王座戦 (将棋)|第65期王座戦]]では4年ぶり2回目の挑戦となる中村太地六段を挑戦者に迎え、1勝3敗で失冠。自身13年ぶりとなる一冠に後退した。 [[File:羽生善治 2018年 竜王就位式に於いて.jpg|thumb|250px|2018年1月 第30期竜王就位式。通算7期目の竜王位獲得により永世七冠の資格を得た羽生。日本将棋連盟会長[[佐藤康光]]とともに。]] [[第30期竜王戦]]では挑戦者決定戦に進出し[[松尾歩]]八段を相手に2勝1敗で勝利。自身7年ぶりの竜王戦七番勝負登場を決めた。七番勝負では渡辺竜王を4勝1敗で破り15期ぶりに竜王位に復位し、永世竜王を獲得するとともに史上初の'''永世七冠'''となった<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生善治が竜王戦で勝利、史上初「永世七冠」に。“天才”が歩んだ足跡をたどる|newspaper=ハフポスト|date=2017年12月5日<!--16時24分(日本時間)-->|url=http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/05/yoshiharu-habu-legend_a_23297098/|accessdate=2017-12-06|archive-url=https://web.archive.org/web/20171205093303/http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/05/yoshiharu-habu-legend_a_23297098/|archive-date=2017-12-05}}</ref>。また、史上初の永世七冠を達成したことにより[[安倍晋三]][[内閣総理大臣]]から棋士として初の'''[[国民栄誉賞]]'''を、囲碁棋士の[[井山裕太]]七冠と共に授与された。 また、竜王位の獲得により既に防衛していた棋聖と合わせて55日ぶりに二冠となり、26年連続の年度複数冠を達成。 [[第76期順位戦]]では、最終局を終えて6人が6勝4敗で並び、史上初の6人でのプレーオフとなった。A級2位の羽生は4回戦で[[豊島将之]]八段、5回戦(挑戦者決定戦)で[[稲葉陽]]八段を破り、自身17回目となる名人戦への出場を決めた。佐藤天彦名人との七番勝負は、第1局(2018年4月11日-12日)を97手にて勝利して、大山康晴十五世名人に次ぐ2人目の通算1400勝を最年少・最速・最高勝率で達成<ref group="web" name="1400勝">{{Cite news ja|title=名人戦:羽生、反撃決め先勝 史上2人目の1400勝|date=|url=https://mainichi.jp/articles/20180413/k00/00m/040/057000c|accessdate=2018-04-15|publication-date=2018-4-12|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180415042716/https://mainichi.jp/articles/20180413/k00/00m/040/057000c|archivedate=2018-4-15|work=[[毎日新聞]]}}</ref>するも、番勝負の結果は2勝4敗に終わり、名人復位はならなかった。また、[[第66期王座戦 (将棋)|第66期王座戦]]では、決勝トーナメント1回戦で深浦康市九段に敗退し、26年続いた連続番勝負出場記録が途切れた<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生竜王の王座戦連続出場、26年でストップ|url=https://www.asahi.com/articles/ASL5S7KP1L5SUCVL02H.html|accessdate=2018-06-01|date=2018-05-24|newspaper=朝日新聞デジタル|archive-url=https://web.archive.org/web/20180524220046/https://www.asahi.com/articles/ASL5S7KP1L5SUCVL02H.html|archive-date=2018-05-25}}</ref>。[[第89期棋聖戦 (将棋)|第89期棋聖戦]]では2勝3敗の末、豊島将之八段に敗れ棋聖位を失冠し再び竜王の一冠となった<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生竜王 タイトル獲得100期お預け 初タイトルの豊島棋聖誕生で31年ぶり「群雄割拠」時代に|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/17/kiji/20180717s000413F2275000c.html|accessdate=2018-7-17|date=2018-7-17|newspaper=スポニチ Sponichi Annex|archive-date=2018-07-19|archive-url=https://web.archive.org/web/20180717153934/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/17/kiji/20180717s000413F2275000c.html}}</ref>。 === 27年ぶりの無冠 === 2018年度の[[第31期竜王戦]]七番勝負で挑戦者の[[広瀬章人]]八段を相手にフルセットの上、3勝4敗で敗れ1990年度(1991年)の棋王獲得以来'''27年ぶりの無冠'''となった<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生善治竜王、27年ぶりの無冠に 竜王戦第7局敗れる|url=https://www.sankei.com/smp/west/news/181221/wst1812210035-s1.html|accessdate=2018-12-21|date=2018-12-21|newspaper=産経ニュース|archive-url=https://web.archive.org/web/20181221182743/https://www.sankei.com/smp/west/news/181221/wst1812210035-s1.html|archive-date=2018-12-22}}</ref>。なお竜王戦第六局では、2日目(2018年12月13日)の12時7分に投了し竜王戦史上最速投了を記録(全棋戦でも史上4番目)して大敗している。この際、日本将棋連盟から「前竜王」を名乗るか意向を問われたが、「前竜王」を辞退して「九段」を名乗ることにした。一方、[[第68回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第68回NHK杯戦]]では、羽生本人も含めた羽生世代の棋士4人(羽生・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆)が若手の強豪を退けてベスト4を占める中、羽生は準決勝で丸山、決勝で郷田を破り、NHK杯11回目の優勝と一般棋戦で大山康晴の44回を超える45回目の優勝を果たした。 === 通算勝利数歴代1位(2019年度) === [[2019年度の将棋界|2019年度]]は、5月23日に[[第60期王位戦]]挑戦者決定リーグで、谷川浩司九段に対し94手で勝利する。これにより、通算勝利数が1433勝となり大山康晴十五世名人が持つ最多勝利数記録に並び、1位タイとなった<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45188780T20C19A5CR8000/ |title=羽生九段、史上最多タイ1433勝 大山十五世名人に並ぶ |access-date=2022-05-29 |language=ja |date=2019-05-23 |publisher=日本経済新聞 (nikkei.com) |archive-url=https://web.archive.org/web/20190523131626/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45188780T20C19A5CR8000/ |archive-date=2019-05-23}}</ref>。また、王位戦挑戦者決定リーグ白組は羽生と永瀬拓矢叡王が共にリーグ4勝1敗でプレーオフとなり、133手で羽生が永瀬に勝利。'''通算勝利数歴代単独1位'''となる1434勝を達成した(対局数2027局、1434勝591敗 2持将棋、勝率0.708)<ref group="web" name="最多1434勝">{{Cite news ja|title=羽生善治九段、通算1434勝達成 歴代単独1位に|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/06/14341.html|accessdate=2019-06-05|date=2019-06-04|newspaper=日本将棋連盟|archive-url=https://web.archive.org/web/20190604113434/https://www.shogi.or.jp/news/2019/06/14341.html|archive-date=2019-06-04}}</ref>。王位戦挑戦者決定戦では紅組優勝の木村一基九段に敗れ、挑戦権獲得を逃した。他棋戦でも[[第67期王座戦 (将棋)|第67期王座戦]]決勝トーナメントベスト4<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46546710V20C19A6BC8000/ |title=羽生九段、王座戦ベスト4入り 30年連続本戦の偉業 |publisher=日本経済新聞社 |date=2019-06-25 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129164956/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46546710V20C19A6BC8000/ |archive-date=2022-11-30 |website=日本経済新聞 (nikkei.com)}}</ref>や[[第69期王将戦]]挑戦者決定リーグ進出<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/09/06/kiji/20190906s000413F2250000c.html |title=羽生九段 郷田九段を下し3期ぶり王将戦挑戦者決定リーグ復帰 |publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社 |date=2019-09-06 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129164215/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/09/06/kiji/20190906s000413F2250000c.html |archive-date=2022-11-30 |website=スポニチ Sponichi Annex 芸能}}</ref>・残留<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/11/15/kiji/20191115s000413F2403000c.html |title=羽生九段が王将戦リーグ残留、糸谷八段は陥落 |publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社 |date=2019-11-15 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129165414/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/11/15/kiji/20191115s000413F2403000c.html |archive-date=2022-11-30 |website=スポニチ Sponichi Annex 芸能}}</ref>等と健闘するも、いずれもタイトル挑戦を逃し、30年間連続していたタイトル戦の番勝負出場も、31年目で途絶えることとなった<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20191115-00150964 |title=羽生善治九段(49)2019年度タイトル戦番勝負への登場なし 1988年度以来31年ぶり |access-date=2022-11-30 |date=2019-11-15 |publisher=個人 - Yahoo!ニュース |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129162424/https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20191115-00150964 |archive-date=2022-11-30 |author=[[松本博文]]}}</ref>。 === 50代でのタイトル挑戦(2020年度) === [[2020年度の将棋界|2020年度]]は、[[第33期竜王戦]]1組ランキング戦で優勝すると、決勝トーナメントでも優勝し、史上初の50歳以上での竜王戦七番勝負登場を決めた<ref group="注釈">決勝トーナメント優勝時は49歳だが、竜王戦七番勝負開催時は50歳。</ref><ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生善治九段「竜王戦」出場決める タイトル通算100期に挑む|agency=[[日本放送協会|NHK]]|date=2020-9-19|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200919/k10012627341000.html|newspaper=|archive-url=https://web.archive.org/web/20200920001526/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200919/k10012627341000.html|archive-date=2020-09-20}}</ref>。50歳以上でのタイトル戦登場は史上6人目<ref group="注釈">他の5名の棋士は[[土居市太郎]]・[[升田幸三]]・大山康晴・二上達也(羽生の師匠)・米長邦雄</ref>である。勝てばタイトル通算100期となる竜王戦七番勝負では、[[豊島将之]]竜王から第2局で勝利を挙げる<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20201023-OYT1T50232/ |title=羽生九段が激しい寄せ合い制し、1勝1敗に…竜王戦第2局 |publisher=読売新聞社 |date=2020-10-23 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129175041/https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20201023-OYT1T50232/ |archive-date=2022-11-30 |website=読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)}}</ref><ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/8630171 |title=羽生善治九段、シリーズ初勝利 豊島将之竜王下しタイトル100期にあと3勝/将棋・竜王戦七番勝負 |publisher=ABEMA |date=2020-10-23 |accessdate=2022-11-30 |archive-date=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129175346/https://times.abema.tv/articles/-/8630171 |website=ABEMA TIMES}}</ref>も対戦成績1勝4敗で敗れ、偉業は持ち越しとなった<ref group="web">{{Cite web|和書|title=豊島将之竜王VS羽生善治九段 第33期竜王戦七番勝負第5局 豊島将之竜王が勝利し初防衛|将棋ニュース|日本将棋連盟 |url=https://www.shogi.or.jp/news/2020/12/201205_n_result_01.html |website=www.shogi.or.jp |accessdate=2020-12-07 |language=ja |publisher=日本将棋連盟 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201206093909/https://www.shogi.or.jp/news/2020/12/201205_n_result_01.html |archive-date=2020-12-06 |date=2020-12-06}}</ref>。羽生は七番勝負第4局の前日に[[無菌性髄膜炎]]による体調不良で入院となり、対局を延期(第5局を第4局として行う)するハプニングもあった<ref group="web">{{Cite web|和書|title=羽生善治九段退院の報告|将棋ニュース|日本将棋連盟 |url=https://www.shogi.or.jp/news/2020/11/post_1967.html |website=www.shogi.or.jp |accessdate=2020-12-07 |language=ja |publisher=日本将棋連盟 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201116030845/https://www.shogi.or.jp/news/2020/11/post_1967.html |archive-date=2020-11-16 |date=2020-11-16}}</ref>。 === A級から陥落(2021年度) === [[2021年度の将棋界|2021年度]]は、[[第62期王位戦]]で挑戦者決定戦進出<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/05/08/kiji/20210508s000413F2183000c.html |title=藤井聡太王位への挑戦権懸け 24日に豊島竜王vs羽生九段 |publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社 |date=2021-05-08 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129173551/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/05/08/kiji/20210508s000413F2183000c.html |archive-date=2022-11-30 |website=スポニチ Sponichi Annex 芸能}}</ref>、[[第71期王将戦]]リーグ残留<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/11/24/kiji/20211124b00041003021000c.html |title=羽生九段、4勝2敗で王将リーグ残留「負けた将棋を反省して来期に繋げられたら」 |publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社 |date=2021年11月24日 |accessdate=2022-11-30 |website=スポニチ Sponichi Annex 芸能 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129174116/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/11/24/kiji/20211124b00041003021000c.html |archive-date=2022-11-30}}</ref>、[[第71回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第71回NHK杯]]ベスト4と健闘するも、公式戦の年間成績は14勝24敗に終わり、プロ入り36年目で'''初の年度負け越し'''となった<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/10019111 |title=羽生善治九段、苦しみの2021年度が終了 年度勝率.368と初の5割切り 順位戦は30期ぶりB級1組から巻き返しへ |access-date=2022-05-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220401083750/https://times.abema.tv/articles/-/10019111 |archive-date=2022-04-01 |publisher=ABEMA |language=ja |website=ABEMA TIMES}}</ref>。また、2022年2月4日、[[第80期順位戦#A級|第80期順位戦A級]]8回戦で永瀬拓矢王座に敗れ、成績が2勝6敗となり、最終9回戦を待たずに史上4位タイの'''29期連続'''(名人位9期を含む)で在籍していた'''A級からの陥落'''が決まった<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生善治九段が29期連続在籍A級からの陥落決定、永瀬拓矢王座に敗れB級1組へ|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2022-02-04|accessdate=2022-02-10|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202202040000832.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20220204134111/https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202202040000832.html|archive-date=2022-02-04}}</ref>。 === 2年ぶりのタイトル挑戦(2022年度)=== [[2022年度の将棋界|2022年度]]は、6月16日に[[第81期順位戦#B級1組|第81期順位戦B級1組]]1回戦で[[山崎隆之]]八段に82手で勝利し、史上初の'''通算1500勝'''を達成した('''[[特別将棋栄誉賞#1500勝(特別将棋栄誉敢闘賞)|特別将棋栄誉敢闘賞]]'''<ref>「特別将棋栄誉敢闘賞」は2022年(令和4年)4月から創設され通算1500勝達成者に贈られる。</ref>)<ref group="web" name="1500勝">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/06/1500.html |title=将棋ニュース 羽生善治九段が1500勝達成 |access-date=2022-06-16 |website=日本将棋連盟 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220616134828/https://www.shogi.or.jp/news/2022/06/1500.html |archive-date=2022-06-16 |date=2022-06-16}}<br>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ6J72ZLQ6FPCVL001.html |title=将棋の羽生善治九段、前人未到の1500勝 B級1組順位戦で勝利 |access-date=2022-06-16 |publisher=朝日新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220616133634/https://www.asahi.com/articles/ASQ6J72ZLQ6FPCVL001.html |archive-date=2022-06-16 |language=ja |website=朝日新聞デジタル |date=2022-06-16}}<br>{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/10027981 |title=羽生善治九段、前人未踏の公式戦通算1500勝達成 順位戦B級1組開幕戦で山崎隆之八段を破る |access-date=2022-06-16 |publisher=ABEMA |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220616123129/https://times.abema.tv/articles/-/10027981 |archive-date=2022-06-16 |website=ABEMA TIMES |date=2022-06-16}}</ref>。また、11月22日には[[第72期王将戦]]挑戦者決定リーグを6戦全勝で制し、2年ぶりのタイトル戦挑戦者となり、タイトル戦において[[藤井聡太]]王将と初対戦となったが<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20221122/k00/00m/040/265000c |title=「全勝は想定していなかった」 羽生九段が藤井王将への挑戦権獲得 |publisher=毎日新聞社 |date=2022-11-22 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129163629/https://mainichi.jp/articles/20221122/k00/00m/040/265000c |archive-date=2022-11-30 |website=毎日新聞 (mainichi.jp)}}</ref>、2勝4敗で敗れた<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20230312/k00/00m/040/023000c |title=藤井聡太王将が羽生善治九段を降す 4勝2敗、王将戦で初防衛 |publisher=毎日新聞社 |date=2023-3-12|accessdate=2023-3-24|archive-url=https://web.archive.org/web/20230312070428/https://mainichi.jp/articles/20230312/k00/00m/040/023000c |archive-date=2023-3-12 |website=毎日新聞 (mainichi.jp)}}</ref>。 === 日本将棋連盟会長就任(2023年度)=== 2023年6月9日の棋士総会で理事として正式選出された後、理事会によって新会長に選任された<ref name="Shogi Renmei"/>。羽生の師匠である二上達也、二上の師匠である[[渡辺東一]]も会長経験者であり、渡辺の師匠である[[関根金次郎]]も現行の日本将棋連盟につながる将棋大成会・(旧)日本将棋連盟の会長経験者であることから、実質師弟四世代で連盟会長の経験者となる。2023年に創設された50歳以上の棋士による公式戦「第1回達人戦」において決勝戦で丸山忠久に勝利し、初代達人となった。 == 棋風・評価 == 攻守ともに優れた[[将棋の戦法一覧#対抗型居飛車の戦法一覧|居飛車]]党であり、急戦・持久戦問わず指しこなす。時折、[[将棋の戦法一覧#対抗型振り飛車の戦法一覧|振り飛車]]を採用することもある<ref group="web">[https://www.rayraw.com/ 玲瓏:羽生善治(棋士)データベース]の戦型別対局成績によると、振り飛車の採用率は約1割である(2015年2月24日閲覧)。</ref>。 好きな駒は[[銀将]]で、理由は攻め、受けの要であるため<ref group="web">{{Cite news ja|title=棋士はどの駒が一番お気に入り?|newspaper=将棋情報局|date=2020-05-18|archive-url=https://web.archive.org/web/20200525012038/https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=115717|archive-date=2020-05-25|url=https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=115717|access-date=2022-05-30}}</ref>。羽生が研究用に使っていた駒を譲り受けたライターによれば、[[ツゲ|柘植]]製の使い込まれた駒のうち、銀だけがすり減っていたという<ref group="web">[https://www.shogi.or.jp/column/2017/12/post_288.html 伝説の棋士・阪田三吉の名言「銀が泣いている」に込められた想いとは?] 日本将棋連盟(安次嶺隆幸)、2017年12月11日(2017年12月14日閲覧)。</ref>。 また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。[[勝又清和]]は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている<ref group="book">『将棋世界』2008年10月号 日本将棋連盟、68頁 「これならわかる! 最新戦法講義」</ref>。 終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「[[羽生マジック]]」と呼ばれ、それを表題とした書籍も複数出版されている。 金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている<ref group="book">『将棋世界』2008年3月号 日本将棋連盟、63-65頁 「進化する羽生将棋」(記・[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]・[[勝又清和]])</ref>。 著書『決断力』{{要ページ番号|date=2014-11}}で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。 長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」と語る<ref group="book">『将棋世界』2006年10月号 日本将棋連盟、18-19頁</ref>。これと似た評価としては他に、[[観戦記者]]による「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある<ref group="web">『[[日刊現代#ゲンダイネット|ゲンダイネット]]』2000年7月7日掲載「話題の焦点」</ref>。 渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「[[情熱大陸]]」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな…」と、ナレーションの「差を見せ付けられた」との声とともに語った<ref>DVD『情熱大陸×羽生善治・渡辺明・佐藤康光・谷川浩司』([[ジェネオンエンタテインメント]])収録</ref>。 深浦康市は2003年に、「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語っている<ref group="web">NIKKEI NET将棋王国 会見プラザ 第5回 深浦康市八段</ref>{{要出典|date=2014-11}}。 == 人物 == 身長は172{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]<ref group="book">平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)</ref>。血液型は[[ABO式血液型|AB型]]<ref group="book" name="zokan68"/><ref group="book">『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、巻末 ISBN 978-4796693806</ref>。 妻は元[[俳優]]で[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[京、ふたり]]』のヒロイン役を務めた[[畠田理恵]]である。婚約発表は1995年7月に行われた。1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生した。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日。1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生した。 両親は、互いの祖母が姉妹という[[再従姉弟]]の関係にあり、しかも同じ会社の出身者である<ref group="book" name="zokan168"/>。 [[お笑いタレント]]の[[歩子]](旧芸名:ハブサービス、本名:羽生幸次郎)は[[いとこ|従弟]]にあたる<ref group="web">[https://career.oricon.co.jp/news/57307/ 一発ギャグ日本一は将棋・羽生名人のいとこ・羽生幸次郎] オリコン転職 2008年8月17日</ref>。 プロ棋士となってからも一時[[東京都立富士森高等学校]]に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、[[東京都立上野高等学校]]通信制に転入し、卒業。母は「将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔した」と述べている<ref group="web">{{Cite news ja|title=棋士・羽生善治のお母さん ハツさん:2 高校入学、勧めたことを後悔|newspaper=朝日新聞|date=2008年8月|url=http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY200808110277.html|accessdate=2009-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090409130737/http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY200808110277.html|archivedate=2009年4月9日|url-status=dead}}</ref>が、羽生は逆に「あの時高校に通っていたおかげで将棋を嫌いにならずにすんだ。感謝している。」と述べている。 羽生家の先祖は代々、現在の[[鹿児島県]]の[[種子島]]に居住しており、1996年の七冠達成を記念して、親戚たちが建てた記念碑と記念樹が[[西之表市]]にある<ref group="web">[http://www.city.nishinoomote.lg.jp/admin/soshiki/soumuka/hishokouhou/kouhou/shisei_mado/sityoudokugenbacknumber/4539.html 11 羽生棋士と種子島(2018年3月号)] 西之表市役所</ref>。 2021年5月、[[トップコート]]と業務提携したことが公表された。将棋関連の業務については従来通り[[日本将棋連盟]]が窓口となるが、将棋以外のイベント・広告等については同社が窓口となる<ref group="web">[https://twitter.com/yuzutapioka/status/1395586336946462724 @yuzutapiokaのツイート](2021年5月21日)</ref><ref group="web">[https://topcoat.co.jp/Yoshiharu_Habu 羽生善治] - TopCoat</ref>。 == 対局関連の逸話 == === タイトル === 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、[[入玉]]模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」<ref group="book" name="hyaku"/>と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」<ref group="book">『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、17頁 ISBN 978-4796693806</ref>という旨を述べている。 永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みしていた。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得した(森内が十八世、羽生が十九世)。永世竜王資格の獲得は2002年に通算6期獲得で永世竜王まで残り1期としたが、その後森内に1度、渡辺に2度阻止された。[[2008年]]に[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。しかし[[2017年]]に渡辺明から4勝1敗で奪取し、15年ぶりの竜王復位とともに永世竜王の資格を獲得した。 通算タイトル獲得期数の従来記録(大山の80期)更新に際しても足踏みを見せた。通算81期の新記録達成まであと一歩とするも、渡辺明(2011年王座戦)、森内(2012年名人戦挑戦)に連続阻止され、中村太地(2012年棋聖戦)への勝利で達成した。また、通算100期の大台達成も、あと1期のところで、佐藤天彦(2018年名人戦挑戦)、豊島(2018年棋聖戦)、広瀬(2018年竜王戦)に連続阻止され、27年ぶりの無冠になった。 2023年に創設された50歳以上の棋士による公式戦「第1回達人戦」に於いて決勝戦で[[丸山忠久]]に勝利し、初代達人となった。その際の表彰式では“'''将棋連盟会長たる羽生が、初代達人としての羽生に表彰を行う'''”形となったことが話題になった<ref>{{リスト|{{Cite news2|url= https://www.nikkansports.com/general/news/202311250001293.html |title= 羽生が初代達人 「自分の名前を読むのは面はゆい」 会長として自作自演の表彰に苦笑い |publisher= 日刊スポーツ |date= 2023-11-25 |accessdate= 2023-11-26 }}|{{Cite news2|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/11/26/kiji/20231126s000413F2196000c.html |title= 羽生善治九段 「初代達人」に輝き1人2役 「優勝、羽生善治」“セルフ表彰式”に大歓声 |newspaper= Sponichi Annex |agency= スポーツニッポン新聞社 |date= 2023-11-26 |accessdate= 2023-11-26 }}}}</ref>。 === 所作・習性 === [[2003年]]の[[第51期王座戦 (将棋)|第51期王座戦]]では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった<ref group="book">『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟</ref><ref group="book">『わたしの失敗 III: 著名35人の体験談』産経新聞文化部、2008年、123頁。</ref>。その後、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになったが、ほとんどの場合羽生の勝利が決定的になった局面のため、将棋界では「手が震えるのは羽生が勝ちを確信した時」と言われている<ref group="web">{{Cite news ja|title=手震える…羽生王将 猛攻かわして2勝3敗|newspaper=スポニチアネックス|date=2010-03-12|url=http://www.sponichi.co.jp/society/special/osho2010/KFullNormal20100312119.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129041333/http://www.sponichi.co.jp/society/special/osho2010/KFullNormal20100312119.html|archivedate=2014年11月29日|url-status=dead}}</ref>。羽生自身も[[2008年]]の第66期名人戦第3局・対森内俊之名人戦での大逆転劇の際の話として「このように指せば勝てると道筋が見えた時、手が震えるようになった」と語っている<ref group="book">『脳を活かす生活術: 希望の道具箱』([[茂木健一郎]]著、[[PHP研究所]]、[[2009年]])「07 涙とは自分自身を更新させる道具」</ref>。 <!-- 文献資料もしくは放送のアーカイヴが担保されるまでコメントアウト 手の震えが出るようになったのは30代に入ってからである{{要出典|date=2014-10}}<ref group="注釈">たとえば、『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との[[朝日オープン将棋選手権|朝日オープン]]での対局や、『[[囲碁・将棋ジャーナル]]』([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。</ref>。田中寅彦はNHK杯で羽生の将棋を解説していた際、「[[イップス]]が出ないね」と発言し、この震えをイップスと見ている{{要出典|date=2014-10}}。 --> プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「[[ハブ (動物)|ハブ]]にらみ」が相手を恐れさせたとされる<ref group="book">将棋世界special vol.2『羽生善治―将棋史を塗り替えた男―』([[将棋世界]]編集部 編)28ページなど</ref>。 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった<ref group="book">羽生善治『決断力』 角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁。</ref>。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人で当該棋戦準称号保持者、また当該棋戦永世称号資格保持者)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている<ref group="web">[http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3046s3 NIKKEI NET 将棋王国 コラムの森(1995年9月26日の日本経済新聞夕刊からの引用)] 日本経済新聞社 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080521052841/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020722s3046s3 |date=2008年5月21日 }}</ref>。 相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の[[山崎隆之]]に厳しい言葉を投げかけたと言われる。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している<ref group="book">[[梅田望夫]]『シリコンバレーから将棋を観る』中央公論新社、2009年。</ref>。しかし、第25期竜王戦第2局(渡辺明-丸山忠久)の解説を務めた際に、視聴者からの質問としてこの件が取り上げられ、「私自身としてはそんなに厳しい口調で言ったというつもりは全くなかった。対局後に主催者が入室するまでの2~3分の間に、簡単な感想として「こういう手があったのではないか?」と軽く聞いたつもりだった。秒読みの緊迫した後だったので、見る人によってはそういう風に見えたのではないか」と発言している<ref group="web">[https://www.youtube.com/watch?v=AZspL_FJ8xI 羽生善治、第57期王座戦で山崎隆之があっさり投了した件を語る。]{{出典無効|date=2017年12月6日|title=転載動画}}</ref>。 === 諸対局内容 === 初めての五冠王の頃は[[振り駒]]で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。 * 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という[[相掛かり]]の出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使ったことがある<ref group="注釈">解説役で出演していた[[内藤國雄]]は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる、との旨の解説をした{{要出典|date=2014-10}}<!-- 当時の将棋講座テキストに載っているかもしれません -->。</ref>。 1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、羽生が勝利している。 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対[[畠山鎮]]戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、羽生が勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が[[振り飛車]]党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった[[居飛車]]党である。羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っていた<ref group="book">『将棋世界』2006年8月号 日本将棋連盟、22頁</ref>。なお、2手目△6二銀は、2018年の名人戦第6局・対佐藤天彦戦で、佐藤の初手▲2六歩に対して久々に指したものの、145手で羽生が敗れた<ref group="web">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/special/timeline/76th-shogimeijinsen/|title=第76期将棋名人戦七番勝負|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-06-21|accessdate=2018-08-15}}</ref>。 2001年9月1日の第14期竜王戦・挑戦者決定三番勝負第1局(対[[木村一基]])、終盤の優勢な局面で135手目が大悪手となり頓死してしまった。もし神様から一手指し直す権利をもらったら、これをやり直したいと述べている<ref group="web">[https://originalnews.nico/23346/2 羽生三冠「もし神様から指し直す権利をもらったら?」に対して、一手詰めを見逃して頓死した“あの対局”を振り返る | ニコニコニュース オリジナル - Part 2]</ref>。 2007年10月14日放送の第57回NHK杯戦、対[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]]戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の[[加藤一二三]]は「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」と述べた<ref group="book">加藤一二三 著『羽生善治論 「天才」とは何か』59ページなど</ref>。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。 [[2008年]]の[[第66期順位戦#第66期名人戦七番勝負|第66期名人戦]]第3局(2008年5月8日-9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス<ref group="注釈">羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした142手目が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。</ref>を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビューの中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている<ref group="book">『プロフェッショナル 仕事の流儀 羽生善治 棋士 直感は経験で磨く』([[茂木健一郎]] 編集、NHK「プロフェッショナル」制作班 編 [[NHK出版]])98ページなど</ref>。 史上初のネット公式棋戦である[[大和証券杯ネット将棋・最強戦]]の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミス<ref group="注釈">2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト([http://www.shogi.or.jp/osirase/2008/main.html#080516 第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16)] 日本将棋連盟 2008年5月16日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080914054341/http://www.shogi.or.jp:80/osirase/2008/main.html |date=2008年9月14日 }})上での発表による。</ref>によって、時間切れ負けをする<ref group="注釈">3か月前に[[中井広恵]]もネット対局で時間切れ負けをしている。</ref>。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢<ref group="注釈">直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解</ref>の局面であった<ref group="注釈">翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。[http://www.shogi.or.jp/osirase/2008/main.html#080516 第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16)] 日本将棋連盟 2008年5月16日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080914054341/http://www.shogi.or.jp:80/osirase/2008/main.html |date=2008年9月14日 }})で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。</ref>。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた<ref group="注釈">この反則負けの3日前-2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。</ref>。 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。この記者は[[朝日新聞社]]の嘱託を長くつとめた[[東公平]]で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は羽生とは昔から顔見知りであったため、その気安さもあってのことと言われている<ref group="web">{{Cite news ja|title=朝日委託記者、名人戦対局中の羽生にサインおねだり|newspaper=夕刊フジ|date=2009-04-11|url=http://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009041101_all.html|accessdate=2015-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090414040227/http://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009041101_all.html|archivedate=2009-04-14}}</ref>。当の羽生は永世七冠達成時の対談で「(テレビ中継の無い)昔の感覚で言うと全然変な話じゃない」と大山康晴らを引き合いにコメントした。 == チェス == [[File:Peter Heine Nielsen and Yoshiharu Habu.JPG|thumb|250px|チェスに興じる羽生(国際将棋フォーラム2014)]] チェスにおいては[[国際チェス連盟のタイトル|国際チェス連盟(FIDE)のタイトル(称号)]]で[[グランドマスター]](GM)、インターナショナルマスター(IM)に次ぐ、FIDEマスター(FIDE Master, FM)位を有する、日本国内屈指の強豪である。現在では選手として競技会への参加は少なくなったが、国内でのチェスの普及や親善としてのイベント対局をこなしている。 海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年6月に[[フィラデルフィア]]で行われた「World Open」では、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。 チェスの魅力を将棋棋士の[[室岡克彦]]に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26歳とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師、ジャック・ピノーから教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った<ref group="web">[http://www.shogi.net/chessbase-habu.html When a Shogi champion turns to chess] chessbase.com(英語)</ref>。 {{要出典|現在{{いつ|date=2023年11月}}はチェスプレーヤーの[[小島慎也]](IM、レーティング2400)と月に数回集中的な練習対局を行っている。|date=2023年11月}} 上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅いこと、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。 1999年6月には、非公式の自由対局ながらIMの[[アルミラ・スクリプチェンコ]]に2戦2勝。しかし、その夫(当時)であるGMの[[ジョエル・ローティエ]]に森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。 また、2002年10月には再来日したGMのジョエル・ローティエに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。 2004年には日本人として3人目となるFMの称号を獲得。以降、2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年の「World Open」では5勝2分2敗で237人中38位となり、IM獲得への第一歩となる1度目のIMノームを達成した(日本人として3人目)。これらの大会で30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(但し、当時、早指しはレイティング対象とならなかった。現在は長時間のゲームとは別枠として計算されるようになった)。 2007年5月の時点で[[レイティング]]は2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジア圏のランキングは260位、[[日本チェス協会]]の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月から長期間、チェス大会へ出場しなくなり、2014年までFIDEからは「active player」(活動中の選手)の認定を受けなくなった。 これ以降もイベントでの対局は時折行い、2011年10月には[[フランス]]で開催された[[国際将棋フォーラム]]で、[[アンドル=エ=ロワール県]]の[[ヴィランドリー城]]でフランス国内チャンピオンの[[:en:Maxime Vachier-Lagrave|マキシム・バシエ・ラグラーブ]](対局時の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、黒番(後手、一般的に不利とされる)を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。バシエ・ラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べた<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生二冠、チェスで仏チャンピオンと引き分け|newspaper=朝日新聞|date=2011年10月|url=http://www.asahi.com/culture/update/1030/TKY201110300210.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111030112425/http://www.asahi.com/culture/update/1030/TKY201110300210.html|archivedate=2011年10月30日|url-status=dead}}</ref><ref group="web">[https://en.chessbase.com/post/che-playing-japanese-shogi-champions Chess-playing Japanese Shogi champions] Chess News(英語)</ref>。 2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分、5.5P/6R)を果たす。4月22日には都内で小島慎也とともに、GMで世界王者への挑戦経験もある[[:en:Nigel Short|ナイジェル・ショート]](対局時の世界ランキング49位、レーティング2697)と、2面指しのエキシビション対局を行い、後手黒番を持って引き分けになった<ref group="web">{{Cite news ja|title=羽生二冠、チェスで引き分け 世界トップ級と対戦|newspaper=朝日新聞|date=2012年4月|url=http://www.asahi.com/culture/update/0421/TKY201204210368.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120422043309/http://www.asahi.com/culture/update/0421/TKY201204210368.html|archivedate=2012年4月22日|url-status=dead}}</ref>。 2012年9月14日、[[神戸]]で開催された[[チェス・プロブレム]]の世界大会「WCCC2012」で、2011年に対局したバシエラグラーブ(対局時の世界ランキング50位、レーティング2697。将棋は1年前から始めた<ref group="web">{{Cite news ja|title=30カ国140人、複雑さと格闘 チェス版「詰将棋」、神戸で世界大会|newspaper=朝日新聞|date=2012-10-02|url=http://www.asahi.com/shougi/topics/TKY201210020479.html}}</ref>)と、将棋とチェスを同時に指すという変則ルールで公開対局を行った。ハンデとして羽生は将棋が飛車落ち、チェスは先手白番で、将棋に勝ちチェスは負けた。羽生はインタビューに「頭を切り替えて考える面白さがあった」とし、バシエラグラーブは「チェスと将棋が影響を及ぼし合えば面白い」と答えた<ref group="web">{{Cite news ja|title=同時対局:羽生王位と仏王者が将棋・チェス同時対局|newspaper=毎日新聞|date=2012年9月|url=http://mainichi.jp/feature/news/20120918ddm041040045000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120922082737/http://mainichi.jp/feature/news/20120918ddm041040045000c.html|archivedate=2012年9月22日|url-status=dead}}</ref><ref group="web">[https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=JBqYZ5cTqh8 対局中の映像] 朝日新聞社(Youtube) 2012年9月17日</ref>。 2013年11月、ジャパンオープンで総合3位(5勝1分2敗、5.5P/8R)。12月には年末年始の休みを利用して[[ポーランド]]に渡り、[[クラクフ]]で開催された「第24回クラクフ国際チェスフェスティバル2013」に参加。6勝1分2敗(6.5P/9R)の成績を残し2度目のIMノームを達成した<ref group="web">[https://shinyakojima-blog.blogspot.com/2014/01/a-challenge-for-second-im-norm.html?spref=tw A Challenge for The Second IM Norm - Accomplished! -] 小島慎也ブログ 2014年1月4日</ref>。6勝の中には、GMのBartłomiej Heberla(対局時のレーティング2561)から後手黒番で上げた1勝が含まれている。これにより2014年2月のFIDEレーティングで2415となり、「active player」へ復帰した(世界2459位、アジア230位)<ref group="web">[http://ratings.fide.com/card.phtml?event=7000537 FIDE Chess Profile] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141209042528/https://ratings.fide.com/card.phtml?event=7000537 |date=2014年12月9日 }}</ref>。 [[2014年]][[11月28日]]、[[将棋電王戦|電王戦]]の特別企画で元世界王者の[[ガルリ・カスパロフ]]と先手後手を入れ替える早指し(25分)の二番勝負で対局したが、カスパロフが2連勝した<ref group="web">[https://denou.jp/chess/ 電王戦スペシャルチェス対局] ニコニコ動画</ref>。 将棋にチェスの手法を持ち込むこともあり、その一例として、[[ABEMA|AbemaTV]]の企画番組にて[[持ち時間]]配分で「[[持ち時間#チェス|フィッシャールール]]」を採用した将棋トーナメント戦を羽生が提案。2018年に「[[ABEMAトーナメント|AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治]]」として放送された<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/05/abematv_inspired_by.html|title=『AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治』6月17日(日)夜8時より放送|publisher=日本将棋連盟|date=2018-05-22|accessdate=2018-06-01}}</ref><ref group="注釈">その後は「[[ABEMAトーナメント]]」として、対局者の組み合わせが「女流戦」「団体戦」「師弟戦」の異なるバリエーションで行われ、[[囲碁・将棋チャンネル]]でもフィッシャールールを採用した「[[銀河戦|新銀河戦]]」「[[竜星戦|新竜星戦]]」(囲碁の非公式戦)の新棋戦が行われている。</ref>。 2021年2月時点でレーティングは2399と日本国内2位、世界ランキングは3194位、アジア圏のランキングは393位<ref>{{Cite web|url=https://ratings.fide.com/topfed.phtml?tops=0&ina=2&country=JPN|title=Federations Ranking|accessdate=2021-2-19|publisher=国際チェス連盟}}</ref>。 == エピソード == 普段は自然体で喋るが、インタビューなどでは「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、受け答えをする場合がある<ref group="web">{{Cite news ja|title=「正面からぶつかる姿勢貫けた」羽生名人、一問一答|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-20|url=http://www.asahi.com/shougi/news/TKY201005190472.html|accessdate=2011-05-20}}</ref>。<!-- 全てのインタビューでそうである、と言う証明はできませんし、そうじゃないか?とする論者もいませんので、現時点では書けるのはここまで。 --> 対局時の[[寝癖]]がトレードマークとされる<ref group="web" name="bp140519">[https://web.archive.org/web/20160304081316/http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20140519/397915/?rt=nocnt 羽生善治三冠の髪の寝癖、勝敗と関係がある?] 日経BP社 2014年5月19日</ref>。結婚後は一時頻度が少なくなったが<ref group="web" name="penclub110421">[https://shogipenclublog.com/blog/2011/04/21/ 髪の寝癖を直すのに要する時間(羽生名人編)] 将棋ペンクラブログ 2011年4月21日</ref>、2013年の王座戦第4局では「後頭部に見事な寝癖がついている。」と日本将棋連盟王座戦中継サイトに記録が残るなど<ref group="web">[http://live.shogi.or.jp/ouza/kifu/61/ouza201310080101.html 2013年10月8日五番勝負 第4局 羽生善治王座 対 中村太地六段|第61期王座戦] 日本将棋連盟王座戦中継サイト</ref>、2010年代に入り再び寝癖が現れる機会が多くなった<ref group="web" name="bp140519"/>。[[演歌歌手]]・[[長山洋子]]の歌「たてがみ」は、寝癖になぞらえたタイトルの[[オマージュ]]ソングである。 [[チャトランガ]]系統のゲームは一通り出来る<ref group="book">著書『決断力』 角川書店(角川oneテーマ21)、199頁 ISBN 978-4047100084</ref>。[[囲碁]]は小学生の時にやっており、5級からは苦戦したものの初段になりやめた<ref group="book">『先を読む頭脳』([[松原仁 (情報工学者)|松原仁]]・伊藤毅志と共著) [[新潮社]]、2006年、147頁 ISBN 978-4103016717</ref>。ただ、プロ棋士になってから再度ルールを覚えており、酒の席などでたまに知り合いと碁を打つことがある<ref group="web" name="penclub110421"/>。 [[漫画]]作品『[[月下の棋士]]』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の[[能條純一]]が単行本最終巻に記している。但し、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している{{要ページ番号|date=2014-6}}。 [[2006年]]11月に[[八王子市]]より八王子観光大使を委嘱される<ref group="web">[http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/guide4_taishi4.html 八王子観光協会] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101205021526/http://hachioji-kankokyokai.or.jp/guide4_taishi4.html |date=2010年12月5日 }}</ref>。 子供の頃[[日本公文教育研究会|公文式]]をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から六冠になるまでを書いた本(マンガ形式)もある<ref group="book">高橋美幸著『まんが羽生善治物語』[[日本公文教育研究会|くもん出版]]、1995年6月。ISBN=9784875769934。</ref>。 将棋を題材にしたテレビゲームの監修およびアドバイスを度々行っており、自身が登場するゲームソフトもある。詳細は下記節を参照。 好きな映画は[[小津安二郎]]監督の『[[東京物語]]』<ref group="book" name="nhk201506">『NHK将棋講座テキスト』2015年6月号、6-7頁。</ref>。また、小説では『[[氷点]]』([[三浦綾子]])を一時愛読していた<ref group="book" name="nhk201506"/>。 基本的に弟子はとらない<ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/237722|title=将棋・羽生善治竜王が「弟子」をとらない理由|work=東洋経済ONLINE|date=2018-09-15|accessdate=2018-09-29}}</ref>。 独身時は、収入の半分は寄付に使っていて、億の収入に税金を支払うと貯金はなしであった<ref>[https://archive.li/lBOXO 羽生九段、巨額の賞金も貯金は“全然なかった]<!-- https://news.yahoo.co.jp/articles/a6acf01c162031cc920c2ae4ec94e1ddc94f8b7b --></ref><ref>[https://archive.is/QXv2Q 羽生九段、巨額の賞金も貯金は“全然なかった]</ref><ref>[https://archive.is/4S4h7 羽生九段、巨額の賞金も貯金は“全然なかった]</ref>。 == 昇段履歴 == * [[1982年]][[12月2日|12月{{0}}2日]](12歳) - 6級で[[新進棋士奨励会|奨励会]]入会 * [[1983年]]{{0}}2月{{0}}3日{{0|(12歳)}} - 5級 (9勝3敗) * 1983年{{0}}3月28日{{0|(12歳)}} - 4級 (6連勝) * 1983年{{0}}5月11日{{0|(12歳)}} - 3級 (6連勝) * 1983年{{0}}7月{{0}}7日{{0|(12歳)}} - 2級 (6連勝) * 1983年{{0}}8月24日{{0|(12歳)}} - 1級 (6連勝) * [[1984年]]{{0}}1月11日(13歳) - 初段 (12勝4敗) * 1984年{{0}}9月10日{{0|(13歳)}} - 二段 (14勝5敗) * [[1985年]]{{0}}4月25日(14歳) - 三段 (12勝4敗) * 1985年[[12月18日]](15歳) - 四段 (13勝4敗)<ref name="sandan" group="注釈" /> = プロ入り(当時史上3人目の「中学生棋士」) * [[1988年]]{{0}}[[4月1日|4月{{0}}1日]](17歳) - 五段 ([[第46期順位戦#C級2組|順位戦]]C級1組昇級、通算98勝27敗) * [[1989年]][[10月1日|10月{{0}}1日]](19歳) - 六段 ([[第2期竜王戦|竜王]]挑戦、通算191勝48敗) * 1989年[[12月27日]]{{0|(19歳) - 六段}} ([[第2期竜王戦|第2期竜王]] 獲得{{=}}タイトル1期) * [[1990年]]10月{{0}}1日(20歳) - 七段 (竜王獲得1期{{=}}[[第2期竜王戦|第2期竜王]]、通算224勝66敗)<ref group="注釈">当時は、[[将棋の段級|竜王戦の昇段規定]]であっても、1年以内に2つ昇段できない規定であったため。</ref> * 1991年{{0}}[[3月18日]]{{0|(20歳) - 七段}} ([[第16期棋王戦|第16期棋王]] 獲得{{=}}タイトル2期) * 1992年{{0}}[[9月22日]](21歳){{0| - 七段}} ([[第40期王座戦 (将棋) |第40期王座]] 獲得{{=}}タイトル3期) * [[1993年]]{{0}}4月{{0}}1日(22歳) - 八段 ([[第51期順位戦#B級1組|順位戦]]A級昇級、通算358勝111敗) * [[1994年]]{{0}}4月{{0}}1日(23歳) - 九段 (タイトル3期{{small|{{=}}1992年9月22日達成}}、通算402勝130敗)<ref group="注釈">八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、当時は、1年以内の飛び昇段ができない規定であったため。</ref> == 主な成績 == ※2023年4月3日現在 === タイトル・永世称号 === 登場・連覇の{{Color box|white|'''太字'''}}は歴代最多記録。 詳細は末尾の[[#年表|年表]]、[[羽生善治のタイトル戦戦績一覧|タイトル戦戦績一覧]]を参照。他の棋士との比較は、[[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]]、[[将棋のタイトル在位者一覧]]を参照。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%" |- style="background-color: #ccf" | '''タイトル''' | 獲得年度 | 登場 | '''獲得期数''' | 連覇 | 永世称号 | (備考) |- | '''[[竜王戦|竜王]]''' | style="text-align:left" | 1989, 1992, 1994-1995, <br/>2001-2002, 2017 | <!--登場-->'''16回''' | <!--獲得-->'''7期'''<br/>{{small|(歴代2位)}} | <!--連覇-->2連覇 |style="text-align:right;"|'''永世竜王''' 資格 | |- | '''[[名人戦 (将棋)|名人]]''' | style="text-align:left" | 1994-1996, 2003, <br/>2008-2010, 2014-2015 | <!--登場-->17回 | <!--獲得-->'''9期'''<br/>{{small|(歴代3位)}} | <!--連覇-->3連覇<br/>{{small|(※2度)}} |style="text-align:right;"|'''[[名人 (将棋)|十九世名人]]''' 資格 | |- | '''[[王位戦 (将棋)|王位]]''' | style="text-align:left" | 1993-2001, 2004-2006, <br/>2011-2016 | <!--登場-->'''23回''' | <!--獲得-->'''18期'''<br/>{{small|(歴代1位)}} | <!--連覇-->9連覇<br/>{{small|(歴代2位)}} |style="text-align:right;"|'''永世王位''' 資格 | |- | '''[[叡王戦|叡王]]''' | style="text-align:center" | - | <!--登場-->0 | <!--獲得-->- | <!--連覇-->- |style="text-align:left;min-height:3em"| | |- | '''[[王座戦 (将棋)|王座]]''' | style="text-align:left" | 1992-2010, 2012-2016 | <!--登場-->'''26回''' | <!--獲得-->'''24期'''<br/>{{small|(歴代1位)}} | <!--連覇-->'''19連覇'''<br/>{{small|(歴代1位)}} |style="text-align:right;"|'''名誉王座''' 資格 | |- | '''[[棋王戦 (将棋)|棋王]]''' | style="text-align:left" | 1990-2001, 2004 | <!--登場-->'''17回''' | <!--獲得-->'''13期'''<br/>{{small|(歴代1位)}} | <!--連覇-->'''12連覇'''<br/>{{small|(歴代1位)}} |style="text-align:right;"|'''永世棋王''' 資格 | |- | '''[[王将戦|王将]]''' | style="text-align:left" | 1995-2000, 2002, <br/>2004-2008 | <!--登場-->19回 | <!--獲得-->'''12期'''<br/>{{small|(歴代2位)}} | <!--連覇-->6連覇<br/>{{small|(歴代2位タイ)}} |style="text-align:right;"|'''永世王将''' 資格 | |- | '''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]''' | style="text-align:left" | 1993前-1995,<br/>2000, 2008-2017 | <!--登場-->20回 | <!--獲得-->'''16期'''<br/>{{small|(歴代1位タイ)}} | <!--連覇-->'''10連覇''' <br/>{{small|(歴代1位)}} |style="text-align:right;"|'''永世棋聖''' 資格 | |- style="background-color: #ccf" | '''旧タイトル''' | 獲得年度 | 登場 | '''獲得期数''' | 連覇 | 永世称号 |(備考) |- |'''[[十段戦 (将棋)|十段]]''' | style="text-align:center" | - |<!--登場年度メモ -->0 |<!--獲得-->- |<!--連覇-->- | | |- |colspan="8" | 登場回数合計'''138'''(歴代1位)、獲得合計'''99期'''(歴代1位)(最新は2022年度王将戦) |} {| |{{将棋タイトル獲得記録}} |} === 一般棋戦優勝 === 通算46回 = 歴代1位 {{table2|cols=4|style=font-size:95%; width:60%; white-space:nowrap; |row1=background-color:#EEEEEE; line-height:120% |{{center|'''棋戦名'''}}|{{center|'''優勝<br/>回数'''}} |優勝年度 |備考 |[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯テレビ将棋<br/>トーナメント]] |11回 |1988、1991、<wbr>1995、<wbr>1997-1998、<wbr>2000、<wbr>2008-2011、<wbr>2018年度 |名誉NHK杯選手権者<br/>(史上初)<ref group="注釈">永世称号のうち名誉王座以外は原則として引退後に名乗ることになるが(名誉王座のみ満60歳になると現役でも名乗れる)、「名誉NHK杯選手権者」の称号はNHK杯通算10回目の優勝時に与えられる。</ref> |[[朝日杯将棋オープン戦]] |{{0}}5回 |2009、<wbr>2011、<wbr>2013-2015年度 | |[[銀河戦]] |{{0}}5回 |2000-2001、<wbr>2004、<wbr>2006、<wbr>2012年度 | |[[将棋日本シリーズ]] |{{0}}5回 |1991、<wbr>1998、<wbr>2003、<wbr>2010-2011年度 | |[[朝日オープン将棋選手権]] |{{0}}7回 |1990、<wbr>1992、<wbr>1998、<wbr>2004-2007年度 |(終了棋戦) |[[オールスター勝ち抜き戦]]<br/>(5連勝以上) |{{0}}4回 |1988(6連勝)、<wbr>1991(5連勝)、<wbr>2000(16連勝、歴代1位)、<wbr>2002年度(7連勝) |(終了棋戦) |[[早指し将棋選手権]] |{{0}}3回 |1992、<wbr>1995、<wbr>2002年度 |(終了棋戦) |[[天王戦]] |{{0}}2回 |1987-1988年度 |(終了棋戦) |[[若獅子戦]] |{{0}}2回 |1987、1989年度 |(終了棋戦) |[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]] |{{0}}1回 |1988年度 | |[[達人戦立川立飛杯]] |{{0}}1回 |2023年度 | |row13=background-color:#EEEEEE; |{{center|'''優勝回数 合計'''}}|'''46回''' |(2023年度 達人戦立川立飛杯まで) | }} 詳細は、末尾の[[#年表|年表]]を参照。 なお、プロデビュー(1985年12月18日)以降に存在した、新進棋士の棋戦を除く一般棋戦のうち、優勝経験がないのは下記の3つ(但し、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす<ref group="注釈">たとえば、[[朝日杯将棋オープン戦]]の前身の前身は[[朝日オープン将棋選手権#全日本プロ将棋トーナメント|全日本プロ将棋トーナメント]]。タイトル戦では[[竜王戦]]の前身は[[十段戦 (将棋)|十段戦]]。</ref>)。 * [[名将戦]](1987年度で終了) * [[大和証券杯ネット将棋・最強戦]](2007年創設、2012年度で終了) * [[叡王戦]](一般棋戦時代、2015年 - 2016年度、第1期は不参加、タイトル戦「叡王戦」については「[[羽生善治#タイトル・永世称号|タイトル・永世称号]]」を参照) ==== 非公式戦優勝 ==== 通算8回 = 歴代1位 * [[富士通杯達人戦|達人戦]](非公式戦時代) 2回 : 2011、2012年度 * [[銀河戦]](非公式戦時代) 2回 : 1997、1998年度 * [[若駒戦]] 1回 : 1985-1986年、準々決勝以降対局は四段昇段後 * IBM杯 1回 : 1992年度 * 全日空杯 1回 : 1992年度 * 獅子王戦 1回 : 2016年 === 在籍クラス === {{main2|竜王戦と順位戦のクラス|将棋棋士の在籍クラス}} {{将棋棋士年別在籍クラスA}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1986|JJ=45|j=C2|#=49|RR=|r=##|##=(棋戦創設前)}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1987|JJ=46|j=C2|#=06|RR=1|r=4|w=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1988|JJ=47|j=C1|#=19|RR=2|r=3|w=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1989|JJ=48|j=C1|#=02|RR=3|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1990|JJ=49|j=B2|#=21|RR=4|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1991|JJ=50|j=B2|#=03|RR=5|r=2|w=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1992|JJ=51|j=B1|#=12|RR=6|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1993|JJ=52|j=A|#=09|CJ=1|RR=7|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1994|JJ=53|j=名人|#=|RR=8|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1995|JJ=54|j=名人|#=|RR=9|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1996|JJ=55|j=名人|#=|RR=10|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1997|JJ=56|j=A|#=01|RR=11|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1998|JJ=57|j=A|#=02|RR=12|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=1999|JJ=58|j=A|#=04|RR=13|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2000|JJ=59|j=A|#=03|RR=14|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2001|JJ=60|j=A|#=03|RR=15|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2002|JJ=61|j=A|#=04|CJ=1|RR=16|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2003|JJ=62|j=名人|#=|RR=17|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2004|JJ=63|j=A|#=01|CJ=1|RR=18|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2005|JJ=64|j=A|#=01|RR=19|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2006|JJ=65|j=A|#=02|RR=20|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2007|JJ=66|j=A|#=03|CJ=1|RR=21|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2008|JJ=67|j=名人|#=|RR=22|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2009|JJ=68|j=名人|#=|RR=23|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2010|JJ=69|j=名人|#=|RR=24|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2011|JJ=70|j=A|#=01|CJ=1|RR=25|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2012|JJ=71|j=A|#=01|CJ=1|RR=26|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2013|JJ=72|j=A|#=01|CJ=1|RR=27|r=1|w=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2014|JJ=73|j=名人|#=|RR=28|r=1|w=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2015|JJ=74|j=名人|#=|RR=29|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2016|JJ=75|j=A|#=01|RR=30|r=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2017|JJ=76|j=A|#=02|CJ=1|RR=31|r=竜王}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2018|JJ=77|j=A|#=01|RR=32|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2019|JJ=78|j=A|#=02|RR=33|r=1|w=1|CR=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2020|JJ=79|j=A|#=05|RR=34|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2021|JJ=80|j=A|#=08|RR=35|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2022|JJ=81|j=B1|#=01|RR=36|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラス|Y=2023|JJ=82|j=B1|#=06|RR=37|r=1}} {{将棋棋士年別在籍クラスZ|note=}} === 将棋大賞 === 詳細は末尾の[[#年表|年表]]を参照。記録は次項を参照。 === 記録(歴代1位) === * タイトル戦関連 ** 通算タイトル獲得 - 99期 ** タイトル戦登場回数 - 138回 ** タイトル奪取回数 - 22回<ref group="注釈">内訳は竜王5回・名人4回・王位3回・王座2回・棋王2回・王将3回・棋聖3回。また、同時にタイトル失冠回数(22回)も1位である。</ref> ** 連続タイトル保持 - 27年9か月 (1991年3月18日棋王獲得-2018年12月21日竜王失冠) ** 連続年度複数タイトル保持 - 27年 (1992年度- 2018年度) ** 同一タイトル獲得 - 24期([[王座戦_(将棋)|王座]]:1992-2010、2012-2016年) ** 同一タイトル連覇 - 19期(王座:1992-2010年) ** 同一タイトル戦連続登場回数 - 26期(王座:1992年-2017年) ** 同一タイトル戦番勝負連勝 - 19連勝(王座:第52期第4局{{=}}2004年度 - 第58期第3局{{=}}2010年度) ** 同一タイトル連続ストレート獲得 - 6期(王座:第53期{{=}}2005年度 - 第58期{{=}}2010年度) ** 同一タイトル復位期間 - 15'''年'''<ref group="注釈">'''期'''としての復位期間記録は、棋聖戦が年2回実施されていた時期に二上達也が[[第37期棋聖戦 (将棋)|第37期棋聖戦]](1980年度)で達成した29期ぶり。</ref>(竜王:第30期{{=}}2017年度) ** 最高同時タイトル - 7冠(1996年2月14日-1996年7月30日、当時全冠) ※史上初 ** タイトル戦における年長者側の最長年齢差勝利 - 31歳9か月差([[第72期王将戦]]第2局{{=}}2022年度、対[[藤井聡太]]竜王)<br/>{{small|(※「タイトル戦における年長者側の最長年齢差対局」では史上2位記録、史上1位は[[第15期棋王戦]]の40歳2か月差)}} ** 最多永世称号タイトル獲得 - 7冠(永世竜王・永世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将) ※史上初 ** 最多永世称号獲得 - 8つ(上記の永世七冠および一般棋戦の名誉NHK杯選手権者) ※史上初 ** 竜王復位最多回数 - 4回(第5期{{=}}1992年度、第7期{{=}}1994年度、第14期{{=}}2001年度、第30期{{=}}2017年度) ※史上初 ** 名人復位最多回数 - 3回(第61期{{=}}2003年度、第66期{{=}}2008年度、第72期{{=}}2014年度) ※史上初 ** A級順位戦全勝 - 9戦全勝(第70期{{=}}2011年度) ※史上3人目<ref group="注釈">第31期(1972年度)の中原誠(8戦全勝)、第62期(2003年度)の森内俊之(9戦全勝)に続く記録。</ref> ** 竜王戦1組通算在籍期数<ref group="注釈">竜王在位を含む。</ref> - 31期(第3期-第4期、第6期-34期) ※継続中 ** 竜王戦1組連続在籍期数 - 29期(第6期-34期) ※継続中 ** 王位リーグ通算在籍期数<ref group="注釈">王位在位を含む。</ref> - 30期(第34期-) ※継続中 ** 王位リーグ連続在籍期数 - 30期(第34期-) ※継続中 ** [[王将戦]]の挑戦者決定リーグ全勝回数 - 2回 ※歴代1位タイ([[佐藤康光]]と同数) ** [[王将戦]]の挑戦者決定リーグで最年長での全勝達成 - 52歳<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f876932bf691b535288b412a2ab67bb3a51b26d9 |title=羽生善治九段(52)史上最年長で王将リーグ全勝達成! 若き王者・藤井聡太王将(20)への挑戦権獲得! |access-date=2023-01-23 |date=2022-11-22 |website=Yahoo!ニュース |authorlink=松本博文}}</ref>([[第72期王将戦]]{{=}}2022年度) ※史上2位(43歳)の記録も羽生自身が保持。 * 優勝関連 **優勝回数 - 通算153回(タイトル戦99・一般棋戦46・非公式戦8) **公式戦優勝回数 - 通算145回(タイトル戦99・一般棋戦46) **非タイトル戦優勝回数 - 通算54回(一般棋戦46・非公式戦8) **一般棋戦優勝回数 - 通算46回 **非公式戦優勝回数 - 通算8回(銀河戦2・達人戦2・若駒戦1・IBM杯1・全日空杯1・獅子王戦1) **[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]優勝回数 - 11回(第38回{{=}}1988年度、第41回、第45回、第47回-第48回、第50回、第58回-[[第61回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第61回]]、[[第68回NHK杯テレビ将棋トーナメント|第68回]]) ※名誉NHK杯選手権者 **NHK杯連続優勝 - 4連覇(2008{{=}}第58回 -2011年度) **[[オールスター勝ち抜き戦]] - 16連勝(2000年{{=}}第20回)<ref group="注釈">「オールスター勝ち抜き戦」は終了棋戦のため、羽生の16連勝の記録は破られないことが確定。谷川浩司と中原誠が12連勝で2位タイ。</ref> **[[銀河戦]]優勝回数 - 7回(1997{{=}}第5回 -1998、2000-2001、2004、2006、2012年度) **[[朝日杯将棋オープン戦|朝日杯]]優勝回数 - 5回(2009{{=}}第3回、2011、2013、2014、2015年度) * [[将棋大賞]]関連 ** 最優秀棋士賞 - 22回 ** 最年少最優秀棋士賞 - 18歳(1988年度) ** 最多勝利賞 - 14回 ** 年度最多勝利 - 68勝(2000年度) ** 最多対局賞 - 12回 ** 年度最多対局 - 89局(2000年度) ** 勝率第一位賞 - 7回 ** 連勝賞 - 5回 ** 名局賞 - 9回 ** 敢闘賞 - 1回 ** 年度記録4部門賞独占(最多対局、最多勝利、勝率一位、連勝) - 4回(1988、1989、1992、2000年度)<ref group="注釈">羽生以外には、藤井聡太が2017年度に4部門賞を独占している。</ref> * 高記録達成回数 ** 年度勝数60勝以上 - 4回(1988年度-64勝、1992年度-61勝、2000年度-68勝、2004年度-60勝)<ref group="注釈">羽生以外には、森内俊之(1991年度-63勝)、木村一基(2001年度-61勝)、藤井聡太(2017年度-61勝)が1度ずつ達成している。</ref> * 通算記録 ** 通算最多勝数:1528勝(2023年3月31日時点、更新中) - [[大山康晴]]の記録「1433勝」を抜き歴代1位 ** 最多勝数記録更新時成績:対局数 2027対局、1434勝591敗 持将棋2、勝率0.708(2019年6月4日達成)<ref group="web" name="最多1434勝"/> {|class="wikitable" style="margin-left:3em; font-size:10.0pt; line-height:120%;" |- !通算記録 !!勝数/負数 !!持将棋 !!対局数 !!勝率 !!年齢 !!四段昇段後 !!達成日!! |- style="!font-size:smaller; !color:#AAA;" !{{0}}100勝 |{{0}}100勝{{0}}27敗 | {{center|-}} |{{0}}127局 |0.7874 |17歳6か月<!-- {{age in years and months|1970|09|27|1988|04|16|age=yes|to=none}} --> |{{0}}2年3か月<!-- {{age in years and months|1985|12|18|1988|04|16|to=none}} --> |1988年{{0}}4月16日 |rowspan="10"|<ref group="web" name="1000勝">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/12/1000.html |title=羽生善治二冠が公式戦通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2007年12月20日 |access-date=2023-12-15|archive-url=https://web.archive.org/web/20071224125335/http://www.shogi.or.jp/osirase/2007-1220_habu1000win.html |archive-date=2007-12-24}}</ref> |- !{{0}}200勝 |{{0}}200勝{{0}}53敗 |持将棋1 |{{0}}254局 |0.7905 |{{age in years and months|1970|09|27|1989|11|24|age=yes|to=none}} |{{0}}{{age in years and months|1985|12|18|1989|11|24|to=none}} |1989年11月24日 |- !{{0}}300勝 |{{0}}300勝{{0}}95敗 |持将棋1 |{{0}}396局 |0.7594 |{{age in years and months|1970|09|27|1992|04|27|age=yes|to=none}} |{{0}}{{age in years and months|1985|12|18|1992|04|27|to=none}} |1992年{{0}}4月27日 |- !{{0}}400勝 |{{0}}400勝128敗 |持将棋1 |{{0}}529局 |0.7575 |{{age in years and months|1970|09|27|1994|02|22|age=yes|to=none}} |{{0}}{{age in years and months|1985|12|18|1994|02|22|to=none}} |1994年{{0}}2月22日 |- !{{0}}500勝 |{{0}}500勝156敗 |持将棋1 |{{0}}657局 |0.7621 |{{age in years and months|1970|09|27|1996|03|08|age=yes|to=none}} |{{age in years and months|1985|12|18|1996|03|08|to=none}} |1996年{{0}}3月{{0}}8日 |- !{{0}}600勝 |{{0}}600勝209敗 |持将棋1 |{{0}}810局 |0.7416<br/>{{small|(達成時最高)}} |{{age in years and months|1970|09|27|1999|02|10|age=yes|to=none}}<br/>{{small|(達成時最年少)}} |{{age in years and months|1985|12|18|1999|02|10|to=none}}<br/>{{small|(達成時最速)}} |1999年{{0}}2月10日<br/>{{small|(史上20人目)}} |- !{{0}}700勝 |{{0}}700勝238敗 |持将棋1 |{{0}}939局 |0.7462 |{{age in years and months|1970|09|27|2001|02|02|age=yes|to=none}} |{{age in years and months|1985|12|18|2001|02|02|to=none}} |2001年{{0}}2月{{0}}2日 |- !{{0}}800勝 |{{0}}800勝283敗 |持将棋1 |1084局 |0.7386<br/>{{small|(達成時最高)}} |{{age in years and months|1970|09|27|2003|02|23|age=yes|to=none}}<br/>{{small|(達成時最年少)}} |{{age in years and months|1985|12|18|2003|02|23|to=none}}<br/>{{small|(達成時最速)}} |2003年{{0}}2月23日<br/>{{small|(史上11人目)}} |- !{{0}}900勝 |{{0}}900勝323敗 |持将棋1 |1224局 |0.7358 |{{age in years and months|1970|09|27|2005|04|13|age=yes|to=none}} |{{age in years and months|1985|12|18|2005|04|13|to=none}} |2005年{{0}}4月13日 |- !1000勝 |1000勝373敗 |持将棋1 |1374局 |0.7283 <br/>{{small|(達成時最高)}} |37歳2か月<br/>{{small|(達成時最年少)}}<!-- {{age in years and months|1970|09|27|2007|12|20|age=yes|to=none}} --> |22年0か月<br/>{{small|(達成時最速)}}<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2007|12|20|to=none}} --> |2007年12月20日<br/>{{small|(史上8人目)}} |- !1100勝 |1100勝420敗 |持将棋1 |1521局 |0.7236<br/>{{small|(達成時最高)}} |39歳8か月<br/>{{small|(達成時最年少)}}<!-- {{age in years and months|1970|09|27|2010|06|01|age=yes|to=none}} --> |24年5か月<br/>{{small|(達成時最速)}}<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2010|06|01|to=none}} --> |2010年{{0}}6月{{0}}1日<br/>{{small|(史上7人目)}} |<ref group="web" name="1100勝"/> |- !1200勝 |1200勝459敗 |持将棋1 |1660局 |0.7233<br/>{{small|(達成時最高)}} |41歳10か月<!-- 20日 --><br/>{{small|(達成時最年少)}}<!-- {{age in years and months|1970|09|27|2012|08|17|age=yes|to=none}} --> |26年8か月<!-- 日数計算では厳密には26年7か月 --><br/>{{small|(達成時最速)}}<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2012|08|17|to=none}} --> |2012年{{0}}8月17日<br/>{{small|(史上5人目)}} |<ref group="web" name="1200勝"/> |- !1300勝 |1300勝499敗 |持将棋2 |1801局 |0.7226<br/>{{small|(達成時最高)}} |44歳1か月<!-- 20日 --><br/>{{small|(達成時最年少)}}<!-- {{age in years and months|1970|09|27|2014|11|20|age=yes|to=none}} --> |28年11か月<br/>{{small|(達成時最速)}}<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2014|11|20|to=none}} --> |2014年11月20日<br/>{{small|(史上4人目)}} |<ref group="web" name="1300勝"/> |- !1400勝 |1400勝565敗 |持将棋2 |1967局 |0.7124<br/>{{small|(達成時最高)}} |47歳6か月<br/>{{small|(達成時最年少)}}<!-- {{age in years and months|1970|09|27|2018|04|12|age=yes|to=none}} --> |32年3か月<br/>{{small|(達成時最速)}}<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2018|04|12|to=none}} --> |2018年{{0}}4月12日<br/>{{small|(史上2人目)}} |<ref group="web" name="1400勝"/><br/><ref group="web">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180412/k10011400821000.html |title=将棋 羽生二冠 通算1400勝を達成 史上2人目 |access-date=2022-11-02 |publisher=NHK |date=2018年4月12日 |website=NHK NEWS WEB |archive-url=https://web.archive.org/web/20180414090144/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180412/k10011400821000.html |archive-date=2018-04-14 |url-status=dead}}</ref><br/><ref group="web">[https://web.archive.org/web/20180417191934/https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/12/habu_a_23410021/ ハフポスト、「通算1400勝の偉業、史上最年少で達成。それでも羽生竜王「これを励みに前に」」2018年04月13日]</ref> |- !1500勝 |1500勝654敗 |持将棋2 |2156局 |0.6963 |51歳8か月<!-- 20日 --><!-- {{age in years and months|1970|09|27|2022|06|16|age=yes|to=none}} --> |36年5か月<!-- {{age in years and months|1985|12|18|2022|06|16|to=none}} --> |2022年{{0}}6月16日<br/>{{small|(史上初)}}<ref>通算1500勝達成は2023年3月31日時点で唯一の達成。</ref> |<ref group="web" name="1500勝"/> |} * 珍記録 ** 最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日) ** タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日、当時棋王) ** 将棋のタイトル戦七番勝負史上初の3連勝4連敗(2008年12月18日、第21期竜王戦第7局) ** 名人戦敗退回数 - 8回<ref group="注釈">[[升田幸三]]と並ぶタイ記録</ref> ** 名人戦史上初のA級順位戦全勝者が名人位奪取失敗(2012年6月13日、第70期名人戦第6局) ** 名人戦史上初の3期連続挑戦(2012(第70期)-2014年度) ** 竜王戦敗退回数 - 9回<ref group="注釈">竜王戦七番勝負'''登場回数'''でさえ9回以上の棋士は他に[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]のみ(2022年度竜王戦終了時点)</ref> ** 竜王戦史上最速投了記録 - 2日目12時7分投了(2018年12月13日、第31期竜王戦第6局2日目、対局者広瀬章人八段(当時)) ** 竜王・名人を持たない序列3位以下の棋士としては最多の五冠(2000年7月31日の棋聖獲得から2001年8月6日の棋聖失冠まで) * 賞金関連 ** 獲得賞金・対局料ランキング首位 - 15年連続を含む23回(1993-1996、1998-2012、2014-2016、2018年)<ref group="注釈">1997年は[[谷川浩司]]、2013年は[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]に次いで2位。2017年は3位。</ref> == その他表彰 == ;日本将棋連盟による表彰 [[ファイル:20180213eiyo01.jpg|サムネイル|[[2018年]][[2月13日]]、[[国民栄誉賞]]授与式にて、同時受賞者の[[井山裕太]]、[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]]と]] * [[1999年]]{{0}}[[2月10日]] - [[将棋栄誉賞]](公式戦通算600勝) * [[2003年]]{{0}}[[2月23日]] - [[将棋栄誉敢闘賞]](公式戦通算800勝)<ref group="web" name="asahi20030223"/> * [[2007年]][[12月20日]] - [[特別将棋栄誉賞]](公式戦通算1000勝)<ref group="注釈">史上8人目。</ref><ref group="web" name="1000勝"/> * [[2010年]][[11月17日]] - 現役勤続25年表彰 <ref group="web">[https://www.shogi.or.jp/news/2010/11/36_4.html 第36回「将棋の日」表彰・感謝の式典の模様|将棋ニュース|日本将棋連盟]</ref> * [[2012年]]{{0}}[[8月17日]] - [[特別将棋栄誉賞#1200勝|特別将棋栄誉賞]](公式戦通算1200勝)<ref group="web" name="1200勝"/> * [[2022年]]{{0}}[[6月16日]] - [[特別将棋栄誉賞#1500勝(特別将棋栄誉敢闘賞)|特別将棋栄誉敢闘賞]](公式戦通算1500勝)<ref group="web" name="1500勝"/> ;上記以外の表彰 * [[1996年]]{{0}}[[3月21日]] - [[内閣総理大臣顕彰]] <ref>{{Cite web|和書 |url=https://shogipenclublog.com/blog/2021/01/13/habu-184/ |title=羽生善治七冠(当時)「将棋以外のことは読めません」 |website=将棋ペンクラブログ |date=2021-01-13 |accessdate=2021-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202310120000316.html |title=羽生善治九段も7冠達成時に受賞 ジーコ氏や佐藤琢磨、はやぶさ2PTも/内閣総理大臣顕彰とは - 社会 : 日刊スポーツ |date=2023-10-12 |accessdate=2023-10-12}}</ref> * 2003年10月{{0|00日}} - [[日本メガネベストドレッサー賞]]受賞 * [[2008年]][[10月10日]] - 第56回[[菊池寛賞]] <ref group="注釈">将棋界では[[大山康晴]]十五世名人に次ぐ史上2人目。</ref> * [[2018年]]{{0}}[[2月13日]] - [[国民栄誉賞]] <ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-13 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26845670T10C18A2CR8000/ |title=天才2棋士、破顔 羽生・井山両氏に国民栄誉賞授与 |work=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2020-10-20}}</ref> * [[2018年]][[11月3日|11月{{0}}3日]] - [[紫綬褒章]] <ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20181101-OHT1T50284.html?page=1|title=真田広之に紫綬褒章「日本文化を発信していきたい」|accessdate=2023-05-08|publisher=[[スポーツ報知]]|date =2018-11-02}}</ref> == 著書 == === 単著 === ==== 専門書 ==== * {{Cite book |和書 |title=ミラクル終盤術 |year=1991 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839954345 |volume= }} ※『羽生のミラクル終盤術』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=羽生の頭脳 |year=1992-1994年 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839935528 |volume=全10巻 }} * {{Cite book |和書 |title=天才詰将棋 |year=1993 |publisher=光文社 |series=光文社将棋シリーズ |isbn=9784334716592 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生マジック |year=1996-1998年 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839950767 |volume=全2巻 }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の戦いの絶対感覚 |year=2001 |publisher=河出書房新社 |series=最強将棋塾 |isbn=9784309275680 |volume= }} ※『羽生善治の将棋の教科書・実戦篇―戦いの絶対感覚』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=羽生の奥義12 |year=2002 |publisher=将棋を世界に広める会 |series= |isbn=9784861370083 |volume= }} ※『上達するヒント』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=羽生善治 好機の視点 |year=2003 |publisher=小学館 |series=小学館文庫 |isbn=9784094057515 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生の法則 |year=2003-2007年 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839940478 |volume=全6巻 }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の終盤術 |year=2005-2006年 |publisher=浅川書房 |series=最強将棋21 |isbn=9784861370113 |volume=全3巻 }} * {{Cite book |和書 |title=読む将棋百科 |year=2009 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=9784309279220 |volume= }} ※『羽生善治の将棋辞典』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=羽生対局から50問!投了図からの詰将棋 |year=2010 |publisher=梧桐書院 |series= |isbn=9784340160006 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=変わりゆく現代将棋 |year=2010 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839934408 |volume=上・下 }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋の教科書 |year=2012 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=9784309273525 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=もっと羽生流!初段+プラスの詰将棋150題 |year=2014 |publisher=成美堂出版 |series= |isbn=9784415317670 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の定跡の教科書 |year=2014 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=9784309275116 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の手筋の教科書 |year=2015 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=978-4-309-27639-7 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋 序盤〜中盤―強くなる指し方 |year=2015 |publisher=成美堂出版 |series= |isbn=9784415320984 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋 終盤―勝つための指し方 |year=2017 |publisher=成美堂出版 |series= |isbn=9784415323121 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋「次の一手」150題 |year=2017 |publisher=成美堂出版 |series= |isbn=9784415324135 |volume= }} ==== 入門書 ==== * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋ビギナーズバイブル |year=1996 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784839964870 |volume=全3巻 }} ※『楽しく覚えよう!将棋ビギナーズガイド』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋入門 ジュニア版 |year=2002 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=9784309276403 |volume=全5巻 }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋を始めたい人のために |year=2011 |publisher=成美堂出版 |series= |isbn=9784415310961 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の将棋入門 |year=2011 |publisher=日本将棋連盟 |series= |isbn=9784416315156 |volume= }} ==== 一般書 ==== * {{Cite book |和書 |title=簡単に、単純に考える |year=2001 |publisher=PHP研究所 |series= |isbn=9784569662817 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=挑戦する勇気 |year=2002 |publisher=朝日新聞社 |series=朝日選書 |isbn=9784022618887 |volume= }} ※『将棋から学んできたこと―これからの道を歩く君へ』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=決断力 |year=2005 |publisher=角川書店 |series=角川oneテーマ21 |isbn= 9784047100084 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=[図解]羽生善治の頭脳強化ドリル―直感力、集中力、決断力、構想力を鍛える |year=2007 |publisher=PHP研究所 |series= |isbn=9784569659176 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=結果を出し続けるために |year=2010 |publisher=日本実業出版社 |series= |isbn=9784534047786 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治の思考 |year=2010 |publisher=ぴあ |series= |isbn=9784569679532 |volume= }} ※『捨てる力』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=大局観―自分と闘って負けない心 |year=2011 |publisher=角川書店 |series=角川oneテーマ21 |isbn=9784047102767 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=40歳からの適応力 |year=2011 |publisher=扶桑社 |series=扶桑社新書 |isbn=9784594073169 |volume= }} ※『適応力』へ改題。 * {{Cite book |和書 |title=才能とは続けられること |year=2012 |publisher=PHP研究所 |series= |isbn=9784569782065 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=直感力 |year=2012 |publisher=PHP研究所 |series=PHP新書 |isbn=9784569804897 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=迷いながら、強くなる |year=2013 |publisher=三笠書房 |series= |isbn=9784837984115 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=羽生善治 闘う頭脳 |year=2016 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=9784167905835 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=永世七冠 羽生善治 |year=2018 |publisher=宝島社 |series= |isbn=9784800282163 |volume= }} * {{Cite book |和書 |title=瞬間を生きる |year=2018 |publisher=PHP研究所 |series= |isbn=9784569840758 |volume= }} === 共著・監修書(主要) === * {{Cite book |和書 |title=盤上の海、詩の宇宙 |year=1997 |publisher=河出書房新社 |series= |isbn=9784309263199 |volume= }} ※[[吉増剛造]]と共著。 * {{Cite book |和書 |title=先を読む頭脳 |year=2006 |publisher=新潮社 |series= |isbn=9784101374710 |volume= }} ※伊藤毅志・[[松原仁 (情報工学者)|松原仁]]と共著。 * {{Cite book |和書 |title=勉強について、私たちの考え方と方法 |year=2007 |publisher=PHP研究所 |series= |isbn=9784569693521 |volume= }} ※[[小山政彦]]と共著。 * {{Cite book |和書 |title=勝ち続ける力 |year=2009 |publisher=大和書房 |series= |isbn=9784101374727 |volume= }} ※[[柳瀬尚紀]]と共著。 * {{Cite book |和書 |title=自分の頭で考えるということ |year=2010 |publisher=新潮社 |series= |isbn=9784479305934 |volume= }} ※[[茂木健一郎]]と共著、『考える力』へ改題。 == 関連書 == * 飛矢正順 『四人の名人を破った少年』 (評伝社、1990年) ISBN 978-4893718150 * 月刊将棋世界編 『月刊将棋世界 臨時増刊号 竜王、羽生善治。』 (日本将棋連盟、1990年) * [[森雞二]] 『羽生善治妙技伝』 (木本書店、1993年) ISBN 978-4905689430 * 大矢順正 『羽生善治 天才棋士、その魅力と強さの秘密』 (勁文社、1994年) ISBN 978-4766921052 * [[高橋美幸]]原作・まきのまさる画 『まんが羽生善治物語』 (くもん出版、1995年) ISBN 978-4875769934 * [[田中寅彦]] 『羽生善治 神様が愛した青年』 (ベストセラーズ・ワニ選書、1996年) ISBN 978-4584191286 * [[大崎善生]]他編 『月刊将棋世界 臨時増刊号 七冠王、羽生善治。』 (日本将棋連盟、1996年) * 炬口勝弘 『七冠王 羽生善治 α波頭脳の秘密』 (マガジンハウス、1996年) ISBN 978-4838707379 * 万代勉他 『しなやかな天才たち [[イチロー]]・[[武豊]]・羽生善治』 (アリアドネ企画、1996年) ISBN 978-4384023152 * [[日浦市郎]] 『羽生善治名人位防衛戦の舞台裏 羽生vs森内 七番勝負での強さの秘密』 (エール出版社、1996年) ISBN 978-4753915903 * 大矢順正 『羽生善治・頭の鍛え方-いかにして「考える力」「集中力」をつけるか』 (三笠書房・知的生きかた文庫、1996年) ISBN 978-4837908197 * 七冠研究記者会 『強すぎる天才・羽生善治の謎』 (本の森出版センター、1996年) ISBN 978-4876932931 * [[大内延介]] 『子どものための「超」集中記憶術-羽生善治に学ぶ』 (講談社、1997年) ISBN 978-4062086509 * [[保坂和志]] 『羽生 21世紀の将棋』 (朝日出版社、1997年) ISBN 978-4255970141 * 小室明 『天才羽生善治神話 谷川光速流との対決』 (三一書房・三一将棋シリーズ、1997年) ISBN 978-4380972881 * [[椎名龍一]] 『羽生善治 夢と、自信と。』 (学習研究社、2006年) ISBN 978-4052026447 * [[梅田望夫]] 『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』 (中央公論新社、2009年) ISBN 978-4120040283 * [[山田史生 (観戦記者)|山田史生]] 『最強棋士 羽生善治-天才の育ちと環境』 (思文出版、2009年) ISBN 978-4898063347 * [[別冊宝島]]1666 『羽生善治・考える力-人生を変える史上最強棋士の「思考法」』 (宝島社、2009年) ISBN 978-4796674157 * 梅田望夫 『どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?-現代将棋と進化の物語』 (中央公論新社、2010年) ISBN 978-4120041778 :ほか多数 == ゲーム == * [[羽生名人のおもしろ将棋]](スーパーファミコン用ソフト、1995年発売、トミー) * 『[[最強羽生将棋]]』 ([[NINTENDO64]]用ソフト、1996年6月発売、羽生善治名人<ref group="注釈">1996年6月の販売開始当時。</ref>監修・日本将棋連盟推薦) * 羽生善治将棋で鍛える「決断力」DS([[ニンテンドーDS]]用ソフト、2009年3月12日発売、アイデス)<ref group="web">[https://web.archive.org/web/20160327011942/http://www.idesnet.co.jp/habu/ 羽生善治将棋で鍛える「決断力」DS] アイデス</ref> * 『羽生将棋』 ([[スマートフォン]]向け[[アプリケーション]]<ref group="web">[https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.ihabu.ihabu&hl=ja i羽生将棋 〜初心者、初級者向け将棋総合アプリ〜]</ref><ref group="web">[https://web.archive.org/web/20150402100608/http://www.idesnet.co.jp/ihabu/ i羽生将棋] アイデス</ref><ref group="web">[https://shogi.zukeran.org/2013/02/20/shogi-no-otehon/ 初心者向け良アプリ 「羽生善治の将棋のお手本」]</ref>、羽生善治永世名人監修・日本将棋連盟推薦) *『激指デラックス 名人戦道場』(2013年07月19日、[[マイナビ]])※パソコン用ソフト *『将棋レボリューション 激指13』(2013年12月13日、マイナビ)※パソコン用ソフト *『将棋レボリューション 激指15』(2019年7月8日、マイナビ)※パソコン用ソフト == 出演 == === テレビ番組 === * [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]] 『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』「直感は経験で磨く」 (2006年7月13日放送)<ref group="web">[https://www.nhk.or.jp/professional/2006/0713/index.html 羽生善治] プロフェッショナル 仕事の流儀 番組公式サイト</ref> * NHK総合 『プロフェッショナル 仕事の流儀』「ライバルスペシャル 最強の二人、宿命の対決 名人戦 森内俊之vs羽生善治」 (2008年7月15日放送) * NHK総合 『[[爆笑問題のニッポンの教養]]』FILE:108「本当の強さって何?」 (2010年4月27日放送) * NHK総合 『[[クローズアップ現代]]』「学びをあきらめない-74歳老棋士・最後の闘い」 (2010年7月8日放送) ※[[有吉道夫]]に関する内容 * [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 『[[アナザースカイ (テレビ番組)|アナザースカイ]]』 (2011年12月9日放送) * [[ヒストリーチャンネル]] 『20世紀のファイルから』「棋士列伝」 * 日本テレビ 『[[世界一受けたい授業]]』 (2007年3月3日放送) ※講師として出演 * NHK総合 [[連続テレビ小説]]『[[ふたりっ子]]』 ※本人役でスポット出演 * [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]] 『[[ETV特集]]』「七冠王・羽生善治 将棋の宇宙を語る」 (1996年2月16日放送) * NHK教育 『[[未来潮流]]』「羽生善治・[[吉増剛造]] 盤上の海・詩の宇宙」 (1997年1月18日放送) * NHK教育 『[[趣味悠々]]』「羽生善冶の将棋はむずかしくない!」 (1997年放送) * [[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK BShi]] 『[[100年インタビュー]]』 (2008年10月2日放送) * [[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]] 『[[大逆転将棋]]』 * NHK総合 『NEWS WEB』「史上最速1300勝」 (2014年11月21日放送) * [[BSフジ]] 『五木寛之「風のCafe」』 (2014年12月6日放送) *[[NHK BSプレミアム]]『[[盤上のアルファ]]』(2019年2月3日)※第1話、本人役<ref>{{Cite web|和書|title=登場人物(キャスト)|url=https://www.nhk.or.jp/pd/banjou/html_banjou_cast.html|website=盤上のアルファ~約束の将棋~|accessdate=2020-12-03|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200926131632/https://www.nhk.or.jp/pd/banjou/html_banjou_cast.html|archivedate=2020-09-26}}</ref> *[[NHK BS1]]『ザ・ヒューマン 羽生善治 天才棋士 50歳の苦闘』(2021年2月20日放送) *[[テレビ朝日]]『[[徹子の部屋]]』(1995年5月3日、2022年11月2日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2255391/full/ |title=【徹子の部屋】羽生善治、畠田理恵との結婚生活明かす 20歳・藤井聡太への想いも |access-date=2022-11-02 |publisher=ORICON NEWS |date=2022-11-01 |archive-date=2022-11-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221101164737/https://www.oricon.co.jp/news/2255391/full/}}</ref>) *[[テレビ東京]]『[[世界!ニッポン行きたい人応援団|世界!ニッポン行きたい人応援団]]』(2022年11月21日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/11/post_2211.html |title=世界!ニッポン行きたい人応援団"ご招待で人生変わっちゃった!"に羽生善治九段が出演 |publisher=日本将棋連盟 (shogi.or.jp) |date=2022年11月21日 |accessdate=2022-11-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221129172216/https://www.shogi.or.jp/news/2022/11/post_2211.html |archive-date=2022-11-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202211/24041_202211212000.html |title=月曜プレミア8 世界!ニッポン行きたい人応援団“ご招待で人生変わっちゃった!”(テレビ東京、2022/11/21 20:00 OA)の番組情報ページ |access-date=2022-11-30 |publisher=株式会社テレビ東京、株式会社BSテレビ東京 |website=テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式) (tv-tokyo.co.jp) |archive-url=https://web.archive.org/web/20221121062222/https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202211/24041_202211212000.html |archive-date=2022-11-21}}</ref>) :ほか多数 === ラジオ === * 王手!最後のお願い(2020年1月1日、[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]])<ref>{{Cite web|和書|title=過去の放送|url=https://www4.nhk.or.jp/P6042/5/|website=王手!最後のお願い - NHK|accessdate=2020-03-21|language=ja|last=日本放送協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200321090002/https://www4.nhk.or.jp/P6042/5/|archivedate=2020-03-21}}</ref> * [[TBSラジオ]]「Meet Up」(2022年9月17日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbsradio.jp/articles/59821/ |title=将棋棋士の羽生善治さんのMeet Upパート1 |access-date=2022-11-02 |publisher=TBSラジオ (tbsradio.jp) |archive-url=https://web.archive.org/web/20221101165345/https://www.tbsradio.jp/articles/59821/ |archive-date=2022-11-02}}</ref>、9月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbsradio.jp/articles/59822/ |title=将棋棋士の羽生善治さんのMeet Upパート2 |access-date=2022-11-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221101165548/https://www.tbsradio.jp/articles/59822/ |archive-date=2022-11-02 |publisher=TBSラジオ (tbsradio.jp)}}</ref>) === ウェブテレビ === * 電王戦×TOYOTA「リアル車将棋」(2005年2月8日、3月1日、ニコニコ生放送)※3月は特別編<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト|url=https://global.toyota/jp/detail/6325103|website=global.toyota|accessdate=2020-03-21}}</ref> === CM === * [[明治乳業]] - 「[[明治ブルガリアヨーグルト]]」 * [[麒麟麦酒|キリンビール]] - 「秋味」 * [[日本公文教育研究会]] - 「公文式」 ※[[田中寅彦]]との共演もあり。''[[田中寅彦#エピソード]]''も参照。 * [[ネスレ日本]] - 「[[ネスカフェ]] 匠」 * [[サントリー#健康食品・化粧品事業|サントリーウエルネス]] - 「[[セサミン|DHA&EPA+セサミンEX]]」 ※ヴァイオリニストの[[高嶋ちさ子]]と共演<ref>{{Cite web|和書|title=羽生善治さん&高嶋ちさ子さんが初共演! 「DHA&EPA+セサミンEX」新TV-CM「細胞積木(さいぼうつみき)」篇 6月26日(土)より全国でオンエア開始|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000075017.html|publisher=[[PR TIMES]]||date=2021-06-24|accessdate=2021-06-24}}</ref> * [[森永製菓]] - 「[[inゼリー|inゼリーエネルギーブドウ糖]]」 ※女優の[[秋田汐梨]]と共演<ref>{{Cite web|和書|date=2023-09-28|url=https://www.nikkansports.com/m/general/nikkan/news/202309270000411_m.html|title=羽生善治九段、愛飲する「inゼリー」CMに登場 女子高生に「集中」伝授 10月2日から|website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2023-09-28}}</ref> * [[富士フイルム]] - 「[[富士フイルムのコマーシャルメッセージ#お正月を写そう|お正月を写そう♪]]」 ※俳優の[[横浜流星]]、[[広瀬すず]]、将棋棋士の[[藤井聡太]]と共演<ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000014.000039366.html|title=お正月から将棋に夢中の羽生善治九段と藤井聡太竜王・名人に、広瀬すずさん・横浜流星さんもたじたじ?「お正月を写そう♪2024 チェキ・お正月も対局」篇||publisher=富士フイルム株式会社|date=2023-12-26|accessdate=2023-12-26}}</ref> {{:羽生善治の戦績}} == 肩書き == {{棋士羽生善治の肩書きの遍歴}} == 演じた俳優 == * [[東出昌大]] - 映画『[[聖の青春#映画|聖の青春]]』(2016年、監督:[[森義隆]]、原作:[[大崎善生]]) * [[土屋伸之]]([[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]) - ドラマ『[[うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間#テレビドラマ|うつ病九段]]』(2020年、原作:[[先崎学]])<ref>{{Cite news ja|title=ナイツ土屋が羽生善治役、鈴木福が藤井聡太役で出演 『うつ病九段』20日放送 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2178734/full/|newspaper=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2020-12-08|accessdate=2020-12-08}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|30em}} === 出典 === ==== 書籍 ==== {{Reflist|group="book"|30em}} ==== オンライン ==== {{Reflist|group="web"|30em}} ==== その他 ==== {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation|title=NHK杯伝説の名勝負 次の一手|series=NHK将棋シリーズ|year=2013|editor=NHK出版 |publisher=NHK出版 |author=[[内藤國雄]]、[[加藤一二三]]、[[谷川浩司]]、羽生善治、[[森内俊之]]、[[佐藤康光]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] (監修)}} == 関連項目 == * [[羽生善治のタイトル戦戦績一覧]] * [[羽生世代]] * [[種子島]] - 羽生善治の祖父が同島の出身で、全国でもここは羽生姓が多い場所である。 * [[将棋棋士の獲得タイトル数ランキング|将棋棋士の公式戦優勝回数ランキング]] * [[棋士 (将棋)]] * [[将棋棋士一覧]] * [[将棋棋士の在籍クラス]] * [[棋戦 (将棋)]] * [[将棋のタイトル戦結果一覧]] * [[将棋のタイトル在位者一覧]] * [[将棋大賞]] * [[棋風]] * [[寝癖]] * NHK『[[大逆転将棋]]』 * [[羽生結弦]] - 同姓かつ[[菊池寛賞]]受賞や[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]で複数優勝など共通点が多い。 == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/player/pro/175.html 日本将棋連盟 プロフィール] * [https://topcoat.co.jp/Yoshiharu_Habu 事務所プロフィール] - [[トップコート]](業務提携) * [https://www.rayraw.com/ 玲瓏:羽生善治(棋士)データベース] * {{fide|id=7000537}} * {{Instagram|shogi_danshi}} * {{Twitter|yoshiharuhabu}} * {{Twitter|abT_habu|チーム羽生}}(第4回[[ABEMAトーナメント]]) * {{Twitter|abT5_habu|チーム羽生}}(第5回ABEMAトーナメント) * {{NHK人物録|D0009072007_00000}} * {{NHK放送史|D0009030280_00000|将棋の羽生善治・初の七冠制覇}} {{日本将棋連盟所属棋士}} {{日本将棋連盟会長|2023-現在}} {{将棋竜王戦}} {{将棋順位戦}} {{将棋永世名人|十九世}} {{Navboxes |title=タイトル(7冠)99期 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%9F%E5%96%84%E6%B2%BB
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コンピュータ
コンピュータ(英: computer)は、広義には、計算やデータ処理を自動的に行う装置全般のことである。今日では、特に断らない限りエレクトロニクスを用いたエレクトロニック・コンピュータ(英: electronic computer、漢字表記では電子計算機)を指す。 「コンピュータ」とは、元は計算する人間の作業者を指したが、今では計算する装置あるいはシステムを指す。 歴史的には、機械式のアナログやデジタルの計算機、電気回路によるアナログ計算機、リレー回路によるデジタル計算機、真空管回路によるデジタル計算機、半導体回路によるデジタル計算機などがある。 1970年代や1980年代頃まではコンピュータといえばアナログコンピューターも含めたが、1990年代や2000年頃には一般には、主に電子回路による、デジタル方式でかつプログラム内蔵方式のコンピュータを指す状況になっていた。(広義の)演算を高速かつ大量に行えるため多用途であり、数値計算、情報処理、データ処理、制御、シミュレーション、文書作成、動画編集、ゲーム、仮想現実(VR)、画像認識、人工知能などに用いられる。さらに近年では、大学や先端企業などで、量子回路(現在よく使われる電子回路とは異なるもの)を用いた量子コンピュータも研究・開発されている。 様々な種類があり、メインフレーム、スーパーコンピュータ、パーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)などの他、さまざまな機器(コピー機、券売機、洗濯機、炊飯器、自動車など)に内蔵された組み込みシステムやそれから派生したシングルボードコンピュータもある。2010年代には板状でタッチスクリーンで操作するタブレット(- 型コンピュータ)、板状で小型で電話・カメラ・GPS機能を搭載したスマートフォンも普及した。 世界に存在するコンピュータの台数は次のようになっている。 コンピュータ同士を繋ぐネットワークは、1990年代に爆発的に普及して地球を覆うネットワークとなり、現在ではインターネットおよびそこに接続された膨大な数のコンピュータがITインフラとして様々なサービスを支えている。 日本では「コンピュータ」や「コンピューター」という表記が多く使われている。 日本の法律用語、たとえば刑法や著作権法等では「電子計算機()」と表現される(英語のelectronic computerに相当)。これは電算機()と略される。なお「電算業務」「電算処理」「電算室」などの語には、「コンピュータの」という意味合いで「電算」という表現が織り込まれている。これについて、情報処理学会が日本における計算機の歴史について調査した際に、学会誌『情報処理』に掲載された富士通における歴史を述べた記事 によれば、電子計算機以前の頃、リレーによる計算機によりサービスを開始した同社が(「電子」じゃないけど、ということで)使い始めた言葉であろう、と書かれている。 中華人民共和国や台湾などでは「電脳」が使われ、日本でも趣味的な分野では「電脳(でんのう)」が使われることがある。 1950年代では「人工頭脳」(じんこうずのう) や「電子頭脳」(でんしずのう)とも表現した。 英語の「computer」は算術演算を行う主体であるが、元々は計算する人間を指していた。この用法は今でも有効である。オックスフォード英語辞典第2版では、この語が計算する機械をも指すようになった最初の年を1286年と記している。同辞典では、1946年までに、「computer」の前に修飾語を付けることで異なる方式の計算機を区別するようになったとする。たとえば「analogue computer」「digital computer」「electronic computer」といった表現である。 計算手は、電子計算機と区別する場合はレトロニムで「human computer」とも呼ばれる。 現在のコンピューターの主な構成要素は通常以下のように分類できる。 現在のコンピューターの基本はノイマン型で、そのハードウェアはコンピュータの5大装置とも呼ばれる装置(または機能)、すなわち制御装置、演算装置、記憶装置、入力装置、出力装置に分類できる。このうち制御装置と演算装置の2つは通常は中央処理装置(CPU) に含まれる。またメモリマップドI/Oでは記憶装置・入力装置・出力装置、タッチパネルでは入力装置・出力装置は一体化されている。これは大型コンピュータから小さなコンピュータまで共通で、スマートフォンなども同様である。 制御装置は実行に必要な情報を記憶装置から読み出し、実行結果を記憶装置の中の正しい場所に収める。 演算装置は、加算・減算などの算術演算、AND・OR・NOTなどの論理演算、比較(2つの値が等しいかどうかなど)、ビットシフト等を行う装置である。 記憶装置(メモリ)はアドレスを附与された領域の列であり、各領域には命令又はデータが格納される。領域に格納された情報は書換可能か否か、揮発性(動力の供給を止めることで情報が失くなるという性質)を有つか否かは、記憶装置の実装方法に依存するため、通常はCPUが直接操作(アドレッシング)できて高速なDRAMなどの主記憶装置と、大量データを保存できるが低速な磁気ディスク装置やディスクドライブなどの補助記憶装置に分類できる。 入力装置と出力装置は、合わせて入出力装置とも呼ばれ、コンピュータが外部であるユーザーや他の機器との間の情報のやりとりを行う。現代のコンピュータで代表的な入力装置にはキーボード、マウス、マイクロフォン、スキャナなどがあり、出力装置にはディスプレイ、スピーカー、プリンターなどがある。また入力装置と出力装置を兼ね備えたものには上述のタッチスクリーンの他にネットワークカードなどがある。 コンピュータのソフトウェアは多種類あり、大別する方法もいくつかあり、まずシステムソフトウェアとアプリケーションソフト(応用ソフトウェア)の2つに分類しておいて前者のシステムソフトウェアを更に基本ソフトウェアとミドルウェアに分類する方法と、最初から基本ソフトウェア・ミドルウェア・応用ソフトの3つに分類する方法がある。基本ソフトウェアは「広義のOS」とも呼ばれ、更に「狭義のOS」とも呼ばれる制御プログラムと、サービスプログラム、言語処理プログラムに分類できる。 コンピュータの中枢部であるCPUが理解し実行できる形式は機械語だけだが、ソフトウェア開発をする人は通常はプログラミング言語でソフトウェアを記述しそれをコンパイラを使って機械語に翻訳し、その機械語を実行させる。プログラミング言語は低水準言語とも呼ばれる機械語に近いアセンブリ言語と、人間が理解しやすい自然言語に近い形式で記述する高水準言語に大別できる。 機械語は「0」か「1」を並べたビット列命令(二進コード、バイナリコード)で表現される。 アセンブリ言語はCPUの命令セットにほぼ対応した記述ができるプログラミング言語で、開発難易度は高くCPUの種類(命令セット)に依存するが、コンピューターを細かく制御でき、高速性が必要な制御系などで使用されている。 高水準言語は時代・用途・特性などにより多種類あり、特に有名な言語を挙げるだけでも、1957年に誕生し「最初の高水準言語」とされる科学技術計算用のFORTRAN、1959年に誕生し金融系の事務計算を得意とし2020年代の現在でも大企業のメインフレームで使われ続けているCOBOL、1964年に大学の教育用に誕生し1970年代後半から1980年代のマイクロコンピュータやパーソナルコンピュータで普及したBASIC、1958年に登場しリスト処理に優れ1950年代や60年代の方式の人工知能用に発展したLISPなどが使われたが、最初に挙げた3言語は行番号(文番号)やgoto文を多用する言語であったので記述に混乱が生じがちで開発時のデバッグや運用開始後の改良作業も困難になりがちだったので、1972年にはその欠点を克服する構造化プログラミングが可能なC言語が登場し現在に至るまで広く使われるようになり、1983年にはそのC言語をオブジェクト指向に対応させたC++が登場し 組み込みシステムのソフト開発や 動作の高速性を求められるコンピューターゲームの開発 等々で現在も重要な役割を果たしており、更に1995年にはCとC++の系統に属し「Write once, run anywhere」というスローガンを掲げコードを1回書けばどのプラットフォームでも走り ネットの分散コンピューティングにも向いており おまけに様々な要素を言語仕様自体として最初から含んでいるという長所があるJavaが登場し、2020年代の現在でも常に人気最上位にランクインする状態となっている。また1991年には可読性を重視したPythonが登場しこちらも人気となり、2010年代にはニューラルネットワーク方式の人工知能用のライブラリも充実させ、人工知能開発分野では主流言語となっている。1995年には、全てをオブジェクトとして扱い真のオブジェクト指向であるRubyが登場した。2004年にはファンにより簡潔にWebアプリケーションを書けるRuby on Railsも開発され、イーコマース・サイトを開発する人々やオープンソースのコミュニティ(コミュニティのサイト)で好んで使われるようになった。2012年にはRubyが「日本発」のプログラミング言語としては初めて国際電気標準会議(IEC)で国際規格に認証された。 なお言語処理系は、プログラム言語で記述したソースコードを事前に機械語コード(バイナリコード)に変換するコンパイラや、ソースコードを実行時に逐次解釈しながら実行するインタプリタや、それら2つの中間的な性質を備えた方式などに分類される。 「制御プログラム」とエンジニアに呼ばれるものは、別名では「狭義のオペレーティングシステム (OS) 」と言い(そしてパーソナルコンピュータの世界ではこれのみを「OS」と呼んでおり)、その主な役割はジョブ管理、タスク管理、記憶管理などである。この制御プログラムあるいはOSを細分すると、カーネルとデバイスドライバとファイルシステムに分けることができる。 カーネルはOSの中核であり、その主な役割は次のようなことである。 デバイスドライバは周辺機器を直接制御する抽象的なインタフェースをアプリケーションソフトに対して提供する。 ファイルシステムは、データやプログラムが記録される「ファイル」を管理するソフトウェアである。 なお制御プログラムの構成法として、カーネルの機能を限定し最小限の記憶管理やタスク管理に限ったものを「マイクロカーネル」といい、これは機能を絞っている代わりに、その限定的機能に関しては信頼性が増すというメリットがある。マイクロカーネル方式が採用される場合は、ファイルシステムなどはマイクロカーネルの外で作動するサーバプロセスとして提供される。マイクロカーネル方式に対して、カーネル自体にファイルシステムなどさまざまな機能を担当させる方式を「モノリシックカーネル(方式)」という。 世間に普及するコンピュータを台数を基準として見た場合、最も多いのは組み込みシステムであり、すなわちエアコンや炊飯器などの家電製品、乗用車、各種の測定機器、工作機械などに組み込まれた非常に小さく安価なコンピュータであり、組み込みシステムでは組み込みOSと呼ばれるOSを用いる。2019年時点でのシェアを見ると、東京大学の坂村健が開発し無料配布可能で機器開発者が改変することも許されているTRON系OSのシェアが世界第1位のおよそ60%であり、24年連続トップ。TRON系のなかでもITRONが最も普及している。TRON以外はPOSIX系つまりUnix系、Linux類である。たとえば米リナックスワークスのLynxOS、米ウィンドリバーのVxWorks、米シンビアンのSymbian OSなど。なお小規模な組み込みシステムのなかには、明確なOSを内蔵していないものもある。 次に台数が多いのがスマートフォンであり、スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点でAndroidが約72%、iOSが 約27%である。なおAndroidも広い意味でのLinuxの一種であり、より具体的に言うとLinuxのカーネルを一部改編し他のオープンソース・ソフトウェアを組み合わせたものである。つまりおよそ7割の人々が実は意識せずにLinuxの一種を毎日使っているわけである。 ノートPCやデスクトップPCのOSおよびそのシェアとしては、2021年時点でWindows 75.4%、MacOS 15.93%、ChromeOS 2.59%、Linux 2.33%となっている。なお、このMacOSはFreeBSDを基にしたOSでありUnix系である。 スーパーコンピュータのOSは、2021年現在、ほぼ100%、Linuxである。スーパーコンピュータ用は2000年ころはUNIXが9割ほどを占めていたが、その後の10年間つまり2010年ころまでにそのほぼ全てがLinuxに置き換わるということが起きた。 ハードウェアの抽象化層を持つ現在のオペレーティングシステムの多くは、何らかの標準化されたユーザインタフェースを兼ね備えている。かつてはキャラクタユーザインタフェース(CUI)のみが提供されていたが、1970年代にアラン・ケイらが Dynabook構想を提唱し、「暫定 Dynabook」と呼ばれる Altoと Smalltalkによるグラフィカルユーザインタフェース環境を実現した。なお、「暫定 Dynabook」は当時のゼロックスの首脳陣の判断により製品化されなかった(ゼロックスより発売されたグラフィカルユーザインタフェース搭載のシステム Xerox Starは「暫定 Dynabook」とは別系統のプロジェクトに由来する)が、この影響を受け開発されたApple Computer(現:Apple)の LISAや Macintosh、マイクロソフトの Windowsの発売、普及により、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)が一般的にも普及することとなった。一方、Unix系OSでも1980年代からX Window Systemが開発されグラフィカルユーザインタフェースが実現した。CUIとGUIはそれぞれ長所と短所があり、GUIは初心者に優しいので初心者向けにはもっぱらGUIを使う操作法が教えられ、上級者あたりになるとGUIとCUIを併用することになり、コンピュータ技術者やシステム運用エンジニアなどはしばしば主にCUIを使いGUIは補助的に使う。現在CUIを使う人はGUIとCUIを同時並行的に使用しGUIのマルチウィンドウのいくつかをCUI状態で使うといったことも一般的である。またLinuxなどではGUIモードとCUIモードを根本的に切り替えるということも可能である。 サービスプログラムとは、基本的なテキストエディタやファイル変換プログラムなどである。 言語処理プログラムとは、アセンブラやコンパイラやインタプリタやジェネレータのことである。 1970年代や1980年代頃までは、「コンピュータ」といえばアナログコンピュータとデジタルコンピュータの両方を指した。その後は、アナログコンピュータがほとんど使われなくなり、「コンピュータ」といえば専らデジタルコンピュータを指す。 アナログコンピュータは、電気的現象・機械的現象・水圧現象を利用してある種の物理現象を表現し、問題を解くのに使われる計算機の形態。アナログ計算機はある種の連続的な物理量を別の物理量で表し、それに数学的な関数を作用させる。入力の変化に対してほぼリアルタイムで出力が得られる特徴があり(これはいわゆる「高速型」の場合の話である。時間をかけてバランスが取れた状態を見つけ出すとか、移動量の合計を得るといったような「低速型のアナログ計算機」もある)、各種シミュレーションなどに利用されたが、演算内容を変更するには回路を変更する必要があり、得られる精度にも限界があるので、デジタルコンピュータの性能の向上とDA/ADコンバータの高精度化・高速化によって役目を終えた。 なお、かつて電子式アナログコンピュータの重要な要素として多用されたものと同じ機能を持つ電子回路は、IC化され「オペアンプIC」として今日でも広く使われているが、モジュール化され簡単に使えるものになっているため、一般にコンピュータとは見なされてない。 それに対して今日主流のデジタルコンピュータは 離散的な物理量( " 飛び飛び " の物理量)を利用するコンピュータである。以前は2値方式のほかに10値方式や他の方式があったが、今日ではもっぱら2値方式(電圧のHigh/Low。数字で抽象化して表現すると1/0)によるものを指しており、その中枢部にあたるCPUでは二進法で数値が表現され、ブール論理の論理演算を行っている。 電気方式やエレクトロニクス方式のデジタルコンピュータは1940年代や1950年代はリレー式のものや真空管式のものが使われたが、これは素子を定期的・不定期的に交換しなければならずメンテナンスにそれなりの手間がかかるものだったので、1950年代以降は新たに発明されたトランジスタで論理回路や演算装置を構成することで低消費電力かつ高速動作で、リレー式や真空管式より小型で、素子交換も不要なコンピュータを実現し、さらに1960年代以降は集積回路も用いて一層の小型化・低消費電力化・高速化が実現することになった。 日本の行政組織内では次のような関連用語も使われている。それぞれ異なった意味で使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コンピュータ(英: computer)は、広義には、計算やデータ処理を自動的に行う装置全般のことである。今日では、特に断らない限りエレクトロニクスを用いたエレクトロニック・コンピュータ(英: electronic computer、漢字表記では電子計算機)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「コンピュータ」とは、元は計算する人間の作業者を指したが、今では計算する装置あるいはシステムを指す。 歴史的には、機械式のアナログやデジタルの計算機、電気回路によるアナログ計算機、リレー回路によるデジタル計算機、真空管回路によるデジタル計算機、半導体回路によるデジタル計算機などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1970年代や1980年代頃まではコンピュータといえばアナログコンピューターも含めたが、1990年代や2000年頃には一般には、主に電子回路による、デジタル方式でかつプログラム内蔵方式のコンピュータを指す状況になっていた。(広義の)演算を高速かつ大量に行えるため多用途であり、数値計算、情報処理、データ処理、制御、シミュレーション、文書作成、動画編集、ゲーム、仮想現実(VR)、画像認識、人工知能などに用いられる。さらに近年では、大学や先端企業などで、量子回路(現在よく使われる電子回路とは異なるもの)を用いた量子コンピュータも研究・開発されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "様々な種類があり、メインフレーム、スーパーコンピュータ、パーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)などの他、さまざまな機器(コピー機、券売機、洗濯機、炊飯器、自動車など)に内蔵された組み込みシステムやそれから派生したシングルボードコンピュータもある。2010年代には板状でタッチスクリーンで操作するタブレット(- 型コンピュータ)、板状で小型で電話・カメラ・GPS機能を搭載したスマートフォンも普及した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "世界に存在するコンピュータの台数は次のようになっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "コンピュータ同士を繋ぐネットワークは、1990年代に爆発的に普及して地球を覆うネットワークとなり、現在ではインターネットおよびそこに接続された膨大な数のコンピュータがITインフラとして様々なサービスを支えている。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本では「コンピュータ」や「コンピューター」という表記が多く使われている。", "title": "表記・呼称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本の法律用語、たとえば刑法や著作権法等では「電子計算機()」と表現される(英語のelectronic computerに相当)。これは電算機()と略される。なお「電算業務」「電算処理」「電算室」などの語には、「コンピュータの」という意味合いで「電算」という表現が織り込まれている。これについて、情報処理学会が日本における計算機の歴史について調査した際に、学会誌『情報処理』に掲載された富士通における歴史を述べた記事 によれば、電子計算機以前の頃、リレーによる計算機によりサービスを開始した同社が(「電子」じゃないけど、ということで)使い始めた言葉であろう、と書かれている。", "title": "表記・呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中華人民共和国や台湾などでは「電脳」が使われ、日本でも趣味的な分野では「電脳(でんのう)」が使われることがある。", "title": "表記・呼称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1950年代では「人工頭脳」(じんこうずのう) や「電子頭脳」(でんしずのう)とも表現した。", "title": "表記・呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "英語の「computer」は算術演算を行う主体であるが、元々は計算する人間を指していた。この用法は今でも有効である。オックスフォード英語辞典第2版では、この語が計算する機械をも指すようになった最初の年を1286年と記している。同辞典では、1946年までに、「computer」の前に修飾語を付けることで異なる方式の計算機を区別するようになったとする。たとえば「analogue computer」「digital computer」「electronic computer」といった表現である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "計算手は、電子計算機と区別する場合はレトロニムで「human computer」とも呼ばれる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現在のコンピューターの主な構成要素は通常以下のように分類できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現在のコンピューターの基本はノイマン型で、そのハードウェアはコンピュータの5大装置とも呼ばれる装置(または機能)、すなわち制御装置、演算装置、記憶装置、入力装置、出力装置に分類できる。このうち制御装置と演算装置の2つは通常は中央処理装置(CPU) に含まれる。またメモリマップドI/Oでは記憶装置・入力装置・出力装置、タッチパネルでは入力装置・出力装置は一体化されている。これは大型コンピュータから小さなコンピュータまで共通で、スマートフォンなども同様である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "制御装置は実行に必要な情報を記憶装置から読み出し、実行結果を記憶装置の中の正しい場所に収める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "演算装置は、加算・減算などの算術演算、AND・OR・NOTなどの論理演算、比較(2つの値が等しいかどうかなど)、ビットシフト等を行う装置である。", 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等々で現在も重要な役割を果たしており、更に1995年にはCとC++の系統に属し「Write once, run anywhere」というスローガンを掲げコードを1回書けばどのプラットフォームでも走り ネットの分散コンピューティングにも向いており おまけに様々な要素を言語仕様自体として最初から含んでいるという長所があるJavaが登場し、2020年代の現在でも常に人気最上位にランクインする状態となっている。また1991年には可読性を重視したPythonが登場しこちらも人気となり、2010年代にはニューラルネットワーク方式の人工知能用のライブラリも充実させ、人工知能開発分野では主流言語となっている。1995年には、全てをオブジェクトとして扱い真のオブジェクト指向であるRubyが登場した。2004年にはファンにより簡潔にWebアプリケーションを書けるRuby on Railsも開発され、イーコマース・サイトを開発する人々やオープンソースのコミュニティ(コミュニティのサイト)で好んで使われるようになった。2012年にはRubyが「日本発」のプログラミング言語としては初めて国際電気標準会議(IEC)で国際規格に認証された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお言語処理系は、プログラム言語で記述したソースコードを事前に機械語コード(バイナリコード)に変換するコンパイラや、ソースコードを実行時に逐次解釈しながら実行するインタプリタや、それら2つの中間的な性質を備えた方式などに分類される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「制御プログラム」とエンジニアに呼ばれるものは、別名では「狭義のオペレーティングシステム (OS) 」と言い(そしてパーソナルコンピュータの世界ではこれのみを「OS」と呼んでおり)、その主な役割はジョブ管理、タスク管理、記憶管理などである。この制御プログラムあるいはOSを細分すると、カーネルとデバイスドライバとファイルシステムに分けることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": 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Dynabook」は当時のゼロックスの首脳陣の判断により製品化されなかった(ゼロックスより発売されたグラフィカルユーザインタフェース搭載のシステム Xerox Starは「暫定 Dynabook」とは別系統のプロジェクトに由来する)が、この影響を受け開発されたApple Computer(現:Apple)の LISAや Macintosh、マイクロソフトの Windowsの発売、普及により、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)が一般的にも普及することとなった。一方、Unix系OSでも1980年代からX Window Systemが開発されグラフィカルユーザインタフェースが実現した。CUIとGUIはそれぞれ長所と短所があり、GUIは初心者に優しいので初心者向けにはもっぱらGUIを使う操作法が教えられ、上級者あたりになるとGUIとCUIを併用することになり、コンピュータ技術者やシステム運用エンジニアなどはしばしば主にCUIを使いGUIは補助的に使う。現在CUIを使う人はGUIとCUIを同時並行的に使用しGUIのマルチウィンドウのいくつかをCUI状態で使うといったことも一般的である。またLinuxなどではGUIモードとCUIモードを根本的に切り替えるということも可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "サービスプログラムとは、基本的なテキストエディタやファイル変換プログラムなどである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "言語処理プログラムとは、アセンブラやコンパイラやインタプリタやジェネレータのことである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1970年代や1980年代頃までは、「コンピュータ」といえばアナログコンピュータとデジタルコンピュータの両方を指した。その後は、アナログコンピュータがほとんど使われなくなり、「コンピュータ」といえば専らデジタルコンピュータを指す。", "title": "アナログとデジタル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アナログコンピュータは、電気的現象・機械的現象・水圧現象を利用してある種の物理現象を表現し、問題を解くのに使われる計算機の形態。アナログ計算機はある種の連続的な物理量を別の物理量で表し、それに数学的な関数を作用させる。入力の変化に対してほぼリアルタイムで出力が得られる特徴があり(これはいわゆる「高速型」の場合の話である。時間をかけてバランスが取れた状態を見つけ出すとか、移動量の合計を得るといったような「低速型のアナログ計算機」もある)、各種シミュレーションなどに利用されたが、演算内容を変更するには回路を変更する必要があり、得られる精度にも限界があるので、デジタルコンピュータの性能の向上とDA/ADコンバータの高精度化・高速化によって役目を終えた。", "title": "アナログとデジタル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、かつて電子式アナログコンピュータの重要な要素として多用されたものと同じ機能を持つ電子回路は、IC化され「オペアンプIC」として今日でも広く使われているが、モジュール化され簡単に使えるものになっているため、一般にコンピュータとは見なされてない。", "title": "アナログとデジタル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "それに対して今日主流のデジタルコンピュータは 離散的な物理量( \" 飛び飛び \" の物理量)を利用するコンピュータである。以前は2値方式のほかに10値方式や他の方式があったが、今日ではもっぱら2値方式(電圧のHigh/Low。数字で抽象化して表現すると1/0)によるものを指しており、その中枢部にあたるCPUでは二進法で数値が表現され、ブール論理の論理演算を行っている。", "title": "アナログとデジタル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "電気方式やエレクトロニクス方式のデジタルコンピュータは1940年代や1950年代はリレー式のものや真空管式のものが使われたが、これは素子を定期的・不定期的に交換しなければならずメンテナンスにそれなりの手間がかかるものだったので、1950年代以降は新たに発明されたトランジスタで論理回路や演算装置を構成することで低消費電力かつ高速動作で、リレー式や真空管式より小型で、素子交換も不要なコンピュータを実現し、さらに1960年代以降は集積回路も用いて一層の小型化・低消費電力化・高速化が実現することになった。", "title": "アナログとデジタル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本の行政組織内では次のような関連用語も使われている。それぞれ異なった意味で使われている。", "title": "日本の行政での関連用語" } ]
コンピュータは、広義には、計算やデータ処理を自動的に行う装置全般のことである。今日では、特に断らない限りエレクトロニクスを用いたエレクトロニック・コンピュータを指す。 「コンピュータ」とは、元は計算する人間の作業者を指したが、今では計算する装置あるいはシステムを指す。 歴史的には、機械式のアナログやデジタルの計算機、電気回路によるアナログ計算機、リレー回路によるデジタル計算機、真空管回路によるデジタル計算機、半導体回路によるデジタル計算機などがある。 1970年代や1980年代頃まではコンピュータといえばアナログコンピューターも含めたが、1990年代や2000年頃には一般には、主に電子回路による、デジタル方式でかつプログラム内蔵方式のコンピュータを指す状況になっていた。(広義の)演算を高速かつ大量に行えるため多用途であり、数値計算、情報処理、データ処理、制御、シミュレーション、文書作成、動画編集、ゲーム、仮想現実(VR)、画像認識、人工知能などに用いられる。さらに近年では、大学や先端企業などで、量子回路(現在よく使われる電子回路とは異なるもの)を用いた量子コンピュータも研究・開発されている。 様々な種類があり、メインフレーム、スーパーコンピュータ、パーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)などの他、さまざまな機器(コピー機、券売機、洗濯機、炊飯器、自動車など)に内蔵された組み込みシステムやそれから派生したシングルボードコンピュータもある。2010年代には板状でタッチスクリーンで操作するタブレット、板状で小型で電話・カメラ・GPS機能を搭載したスマートフォンも普及した。 世界に存在するコンピュータの台数は次のようになっている。 組み込みシステムは、2018年時点でおよそ100億台あると推計されている。 スマートフォンは、2018年時点で33億6千万台が稼働状態と推計されている。 サーバ・デスクトップPC・ノートPCは、2019年時点で20億台を超えると推計されている。 コンピュータ同士を繋ぐネットワークは、1990年代に爆発的に普及して地球を覆うネットワークとなり、現在ではインターネットおよびそこに接続された膨大な数のコンピュータがITインフラとして様々なサービスを支えている。
<!-- {{redirect|電脳|株式会社|電脳 (企業)}} ・特筆性薄し ・同名企業多数 date|2021年4月 --> {{出典の明記|date=2014-4}} {{multiple image|title=コンピュータ|perrow = 2|total_width=300 | image1 = ENIAC-changing_a_tube.jpg | alt1 = 20世紀前半の真空管式コンピュータの真空管を交換する男性 | image2 = IBM System360 Mainframe.jpg | alt2 = IBM 360とその操作パネルが置かれたコンピュータルーム | image3 = Thinking Machines Connection Machine CM-5 Frostburg 2.jpg| alt3 = Thinking Machines Connection Machine CM-5 Frostburg 2 | image4 = NEC_PC-9801UV11.jpg | alt4 = NEC PC-9801 | image5 = Amiga500 system.jpg | alt5 = Amiga500 | image6 = Columbia Supercomputer - NASA Advanced Supercomputing Facility.jpg| alt6 = NASAのColumbia Supercomputer | image7 = Dell PowerEdge Servers.jpg | alt7 = デル PowerEdge Servers | image8 = G5 supplying Wikipedia via Gigabit at the Lange Nacht der Wissenschaften 2006 in Dresden.JPG | alt8 = AppleのG5。2006年にドレスデンで使われたWikipediaのサーバ。 | image9 = ThinkCentre S50.jpg | alt9 = デスクトップコンピュータ・表示ディスプレイ・キーボード | image10 = Macbook Air 2020 (M1) - 1.jpg| alt10 = [[Macbook Air]] (2020年モデル。[[Apple M1]]搭載で、高性能で省電力。) | image11 = Embedded Systems PBL.jpg | alt11 = [[組み込みシステム]] | image12 = Raspberry_PI_B+_в_прозрачном_корпусе.jpg | alt12 = Raspberry Pi | image13 = PS4-Console-wDS4.png | alt13 = コンピュータゲームのコンソールとコントローラ。 | image14 = Wikipédia en français sur mobile android (cropped).jpg | alt14 = 現代の[[スマートフォン]] | footer = さまざまなコンピュータ。(1)20世紀前半の[[真空管式コンピュータ]] (2)IBM [[System/360]](1964年-1970年代)。[[アーキテクチャ]]と回路実装を明確に区別して作られた最初のコンピュータ。大成功しシリーズ化。その後のコンピュータに多大な影響を与えた。 (3) [[コネクションマシン]](1980年代 - 1990年代)のCM5 Frostburg 2 (4)日本電気の[[PC-9801]](1980年代 - 1990年代)、この時代の日本で最も普及した[[16ビット|16bit]][[パソコン]]であり2016年に[[重要科学技術史資料]]に選定された。(5)[[コモドール]]の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]][[Amiga|Amiga500]](1987年)。 (6)NASAの[[スーパーコンピュータ]] [[Columbia]](2004年) (7)[[19インチラック|ラック]][[サーバ]](DELL、[[PowerEdge]]、2006年) (8)[[Power Mac]] G5(2006年[[ドレスデン]]でWikipediaのサーバとして使われたもの) (9)2005年や2010年ころまではしばしば使われていたデスクトップ型コンピュータ (10)[[MacBook Air#MacBook Air (M1, 2020)]] (2020年の[[Apple M1]]搭載モデル。高性能なのに省電力で、バッテリーで長時間使える。) (11)[[組み込みシステム]] (12) [[ARMアーキテクチャ|ARM]]プロセッサ搭載[[シングルボードコンピュータ]]、[[Raspberry Pi]](2010年代-現在) (13)[[コンピュータゲーム]]の[[ゲーム機#家庭用ゲームコンソール|コンソール]] [[PlayStation 4]]とそのコントローラ (14)[[スマートフォン]]と呼ばれる電話・カメラ・GPS機能つき小型コンピュータ}} '''コンピュータ'''({{lang-en-short|computer}})は、広義には、計算やデータ処理を自動的に行う装置全般のことである<ref name="ndz">『日本大百科全書』コンピュータ</ref>。今日では、特に断らない限り[[エレクトロニクス]]を用いたエレクトロニック・コンピュータ({{Lang-en-short|electronic computer}}、漢字表記では電子計算機)を指す<ref name="ndz" />。 「コンピュータ」とは、元は計算する人間の作業者を指したが、今では計算する装置あるいはシステムを指す。 歴史的には、機械式のアナログやデジタルの計算機、[[電気回路]]によるアナログ計算機、[[継電器|リレー]]回路によるデジタル計算機、[[真空管]]回路によるデジタル計算機、[[半導体]]回路によるデジタル計算機などがある。 1970年代や1980年代頃まではコンピュータといえば[[アナログコンピューター]]も含めた<ref name="ndz"/>が、1990年代や2000年頃には一般には、主に[[電子回路]]による、[[デジタル]]方式でかつ[[プログラム内蔵方式]]のコンピュータを指す状況になっていた。(広義の)演算を高速かつ大量に行えるため多用途であり、[[数値計算]]、[[情報処理]]、[[データ処理]]、[[制御システム|制御]]、[[シミュレーション]]、[[ワードプロセッサ|文書作成]]、[[動画編集]]、[[コンピューターゲーム|ゲーム]]、[[バーチャル・リアリティ|仮想現実]](VR)、[[コンピュータビジョン|画像認識]]、[[人工知能]]などに用いられる。さらに近年では、大学や先端企業などで、[[量子回路]](現在よく使われる電子回路とは異なるもの)を用いた[[量子コンピュータ]]も研究・開発されている。{{Seealso|コンピューティング}} 様々な種類があり、[[メインフレーム]]、[[スーパーコンピュータ]]、[[パーソナルコンピュータ]]([[マイクロコンピュータ]])などの他、さまざまな機器(コピー機、券売機、洗濯機、炊飯器、自動車など)に内蔵された[[組み込みシステム]]やそれから派生した[[シングルボードコンピュータ]]もある。2010年代には板状で[[タッチスクリーン]]で操作する[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]](- 型コンピュータ)、板状で小型で電話・カメラ・GPS機能を搭載した[[スマートフォン]]も普及した。 世界に存在するコンピュータの台数は次のようになっている。 *[[組み込みシステム]]は、2018年時点でおよそ100億台あると推計されている<ref>[https://www.incibe-cert.es/en/blog/introduction-embedded-systems Introduction to Embedded Systems]</ref>。 *[[スマートフォン]]は、2018年時点で33億6千万台が稼働状態と推計されている<ref>[https://techjury.net/blog/smartphone-usage-statistics/#gref "So, How Many Smartphones Are There in the World?"]</ref>。 *[[サーバ]]・[[デスクトップパソコン|デスクトップPC]]・[[ノートPC]]は、2019年時点で20億台を超えると推計されている<ref>[https://www.scmo.net/faq/2019/8/9/how-many-compaters-is-there-in-the-world#:~:text=In%202019%2C%20there%20were%20over,servers%2C%20desktops%2C%20and%20laptops. HOW MANY COMPUTERS ARE THERE IN THE WORLD?]</ref>。 コンピュータ同士を繋ぐ[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]は、[[1990年代]]に爆発的に普及して地球を覆うネットワークとなり、現在ではインターネットおよびそこに接続された膨大な数のコンピュータが[[ITインフラストラクチャ|ITインフラ]]として様々なサービスを支えている。 ==表記・呼称== 日本では「コンピュータ」や「コンピューター」という表記が多く使われている<ref group="注釈">[[長音符]]の扱いについて、JISのルールと国語審議会のルールが食い違っている。([[長音符#長音符を付ける流儀・付けない流儀]]参照) [[日本産業規格|JIS]] Z 8301では[[長音符]]を付けない、というルールが提示されており、それに沿う形で[[工学]][[専門書]]では長音符をつけない。工学分野の[[論文]]でも長音符をつけないのが一般的である。それに対して[[国語審議会]]の報告に沿った基準では長音符をつけるとしており、[[新聞社]]、[[放送局]]、小中学校[[教科書]]などでは長音符付きで表記している。コンピュータ関連のメーカーに関しては、会社ごとに対応が別れている。[[日本マイクロソフト|マイクロソフトの日本法人]]は(もともとはJISの規定のほうを尊重し「2音の用語は長音符号を付け、3音以上の用語の場合は省くことを原則とする」という規定(JIS Z 8301:規格票の様式及び作成方法)に即した表記ルールを採用していたが)、2008年11月に、あくまで自社製品に関してのみの話として、[[国語審議会]]の報告のほうの影響を受けた内閣告示をもとにした「言語の末尾が-er、-or、-arなどで終わる場合に長音表記をつける」というルールに変更するとした[https://japan.zdnet.com/article/20377831/]。同社の担当者は、一般消費者は工業系・自然科学系の末尾の長音を省略する傾向の表記に対して違和感を感じていて、コンピュータが一般消費者の必需品になるにつれて違和感を感じる人の割合が増加してきたからだ、といった主旨の説明を述べた[https://japan.zdnet.com/article/20377831/]。ただしメーカーにより主なユーザの範囲が異なり、表記方法も異なる。</ref>。 [[日本の法律]]用語、たとえば[[刑法 (日本)|刑法]]や[[著作権法]]等では「{{読み仮名|'''電子計算機'''|でんしけいさんき}}」と表現される(英語のelectronic computerに相当)。これは{{読み仮名|'''電算機'''|でんさんき}}と略される。なお「電算業務」「電算処理」「電算室」などの語には、「コンピュータの」という意味合いで「電算」という表現が織り込まれている。これについて、[[情報処理学会]]が日本における計算機の歴史について調査した際に<!--発掘した、発見した、が続くか? 何れにせよ捻れの有る文章なので早急に直す必要がある。-->、学会誌『情報処理』に掲載された[[富士通]]における歴史を述べた記事<ref>『日本における計算機の歴史 : 富士通における計算機開発の歴史』{{NAID|110002753426}}§3.1</ref> によれば、電子計算機以前の頃、[[継電器|リレー]]による計算機によりサービスを開始した同社が(「電子」じゃないけど、ということで)使い始めた言葉であろう、と書かれている。 [[中華人民共和国]]や[[台湾]]などでは「電脳」が使われ、日本でも趣味的な分野では「電脳(でんのう)」が使われることがある。 [[1950年代]]では「人工頭脳」(じんこうずのう)<ref>{{全国書誌番号|57000106}}</ref> や「[[電子頭脳]]」(でんしずのう)とも表現した。 == 語源 == [[英語]]の「{{lang|en|computer}}」は[[算術演算]]を行う主体であるが、元々は計算する[[人間]]を指していた。この用法は今でも有効である。[[オックスフォード英語辞典]]第2版では、この語が計算する機械をも指すようになった最初の年を[[1286年]]と記している。同辞典では、[[1946年]]までに、「{{lang|en|computer}}」の前に修飾語を付けることで異なる方式の計算機を区別するようになったとする。たとえば「{{lang|en|analogue computer}}」「{{lang|en|digital computer}}」「{{lang|en|electronic computer}}」といった表現である。 {{Seealso|デジタル#概要|ジョージ・スティビッツ}} [[計算手]]は、電子計算機と区別する場合は[[レトロニム]]で「human computer」とも呼ばれる。 == 概要 == 現在のコンピューターの主な構成要素は通常以下のように分類できる。 {{see|コンピュータ・アーキテクチャ}} === ハードウェア === [[File:Eckert-Mauchly (von Neumann) architecture.svg|thumb|5大装置。制御装置と演算装置(ALU)はCPU(茶色の部分)に収められている。中央下が記憶装置。左が入力装置で右が出力装置]] 現在のコンピューターの基本は[[ノイマン型]]で、その[[ハードウェア]]は[[コンピュータの5大装置]]とも呼ばれる装置(または機能)、すなわち'''[[制御装置]]'''、'''[[演算装置]]'''、'''[[記憶装置]]'''、'''[[入力装置]]'''、'''[[出力装置]]'''に分類できる<ref name="Kayanoki_Reiwa04_24">栢木厚『令和04年 栢木先生の基本情報技術者教室』技術評論社、2021年、pp.24-25, 「コンピュータの構成」</ref><ref name="Kihon_4">安井浩之・木村誠聡・辻裕之『基本を学ぶ コンピュータ概論』オーム社、2011年, pp.4-5、「5大装置」</ref><ref name="Ohtaki_2020_106">大滝みや子『2020年版 基本情報技術者 標準教科書』オーム社、2019年, pp.106-107,「コンピュータの構成」</ref><ref name="Ohtaki_Reiwa2">大滝みや子『基本情報技術者教科書 令和2年度』インプレス、p.154「コンピュータの基本構成」</ref><ref name="Kihon_4" />。このうち制御装置と演算装置の2つは通常は'''[[中央処理装置|中央処理装置(CPU)]] '''に含まれる<ref name="Kayanoki_Reiwa04_24" /><ref name="Kihon_4" />。また[[メモリマップドI/O]]では記憶装置・入力装置・出力装置、[[タッチパネル]]では入力装置・出力装置は一体化されている。これは大型コンピュータから小さなコンピュータまで共通で<ref name="Kihon_4" />、スマートフォンなども同様である<ref name="Kayanoki_Reiwa04_24" />。 制御装置は実行に必要な情報を記憶装置から読み出し、実行結果を記憶装置の中の正しい場所に収める。 演算装置は、加算・減算などの算術演算、AND・OR・NOTなどの[[論理演算]]、比較(2つの値が等しいかどうかなど)、ビットシフト等を行う装置である。 記憶装置(メモリ)は[[メモリアドレス|アドレス]]を附与された領域の列であり、各領域には命令又はデータが格納される。領域に格納された情報は書換可能か否か、揮発性(動力の供給を止めることで情報が失くなるという性質)を有つか否かは、記憶装置の実装方法に依存するため、通常はCPUが直接操作(アドレッシング)できて高速な[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]などの[[主記憶装置]]と、大量データを保存できるが低速な[[磁気ディスク装置]]や[[ディスクドライブ]]などの[[補助記憶装置]]に分類できる。 入力装置と出力装置は、合わせて入出力装置とも呼ばれ、コンピュータが外部であるユーザーや他の機器との間の情報のやりとりを行う。現代のコンピュータで代表的な入力装置には[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[マイクロフォン]]、[[スキャナ]]などがあり、出力装置には[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]、[[スピーカー]]、[[プリンター]]などがある。また入力装置と出力装置を兼ね備えたものには上述のタッチスクリーンの他に[[ネットワークカード]]などがある。 === ソフトウェア === コンピュータの[[ソフトウェア]]は多種類あり、大別する方法もいくつかあり、まず[[システムソフトウェア]]と[[アプリケーションソフト]](応用ソフトウェア)の2つに分類しておいて前者のシステムソフトウェアを更に基本ソフトウェアと[[ミドルウェア]]に分類する方法<ref name="2020_Otaki_154">『2020年版 基本情報技術者 標準教科書』オーム社, pp.154-158 「ソフトウェアの体系」「基本ソフトウェアの構成」</ref>と、最初から基本ソフトウェア・ミドルウェア・応用ソフトの3つに分類する方法<ref>五十嵐順子 『かんたん合格 基本情報技術者 教科書 令和2年度』インプレス、2019年、p.70「ソフトウェアの分類」</ref>がある。基本ソフトウェアは「広義のOS」とも呼ばれ、更に「狭義のOS」とも呼ばれる制御プログラムと、[[ユーティリティソフトウェア|サービスプログラム]]、[[プログラミング言語|言語処理プログラム]]に分類できる<ref name="2020_Otaki_154" />。 ==== ソフトウェアと機械語・アセンブラ・高級言語  ==== コンピュータの中枢部である[[CPU]]が理解し実行できる形式は[[機械語]]だけだが、ソフトウェア開発をする人は通常は[[プログラミング言語]]でソフトウェアを記述しそれを[[コンパイラ]]を使って機械語に翻訳し、その機械語を[[実行 (コンピュータ)|実行]]させる。プログラミング言語は[[低水準言語]]とも呼ばれる機械語に近い[[アセンブリ言語]]と、人間が理解しやすい自然言語に近い形式で記述する[[高水準言語]]<ref name="2022_Kayanoki">栢木厚 著『令和04年 栢木先生の基本情報技術者教室』技術評論社、2021年、ISBN 978-4297123932, pp.62-65「ソフトウェア」</ref>に大別できる。 機械語は「0」か「1」を並べたビット列命令(二進コード、バイナリコード)で表現される。 :{{Seealso|機械語}} アセンブリ言語はCPUの[[命令セット]]にほぼ対応した記述ができるプログラミング言語で、開発難易度は高くCPUの種類(命令セット)に依存するが、コンピューターを細かく制御でき、高速性が必要な制御系などで使用されている。 :{{Seealso|アセンブリ言語}} 高水準言語は時代・用途・特性などにより多種類あり、特に有名な言語を挙げるだけでも、1957年に誕生し「最初の高水準言語」とされる科学技術計算用の[[FORTRAN]]、1959年に誕生し金融系の事務計算を得意とし2020年代の現在でも大企業の[[メインフレーム]]で使われ続けている[[COBOL]]、1964年に大学の教育用に誕生し1970年代後半から1980年代の[[マイクロコンピュータ]]や[[パーソナルコンピュータ]]で普及した[[BASIC]]、1958年に登場しリスト処理に優れ1950年代や60年代の方式の人工知能{{Efn|LISPで開発されていた1960年代の人工知能は、現在主流の人工知能とは大きく異なっており、知識を記号で表現し記号を操作して推論を行うような方式の人工知能。現在主流の[[ニューラルネットワーク]]方式とは全然異なる方式の人工知能。}}用に発展した[[LISP]]などが使われたが、最初に挙げた3言語は[[行番号]](文番号)や[[goto文]]を多用する言語であったので[[スパゲッティプログラム|記述に混乱]]が生じがちで開発時の[[デバッグ]]や運用開始後の改良作業も困難になりがちだったので{{Efn|当時のFORTRAN、COBOL、BASICの話。その後、1972年に登場したC言語の構造化プログラミングの良さが広く認知されるようになってからは、構造化を導入して行番号・文番号(およびGOTO文)を廃止する方向で改良され、FORTRANは1990年(FORTRAN 90や95)あたりからGOTO文を廃止し、BASICのほうも行番号を廃した構造化BASICが登場し、そのような構造化されたものが使われるようになっていった。}}、1972年にはその欠点を克服する[[構造化プログラミング]]が可能な[[C言語]]が登場し現在に至るまで広く使われるようになり、1983年にはそのC言語を[[オブジェクト指向]]に対応させた[[C++]]が登場し [[組み込みシステム]]のソフト開発や 動作の高速性を求められる[[コンピューターゲーム]]の開発 等々で現在も重要な役割を果たしており<ref name="Masui_CPP">増井敏克『プログラミング言語図鑑』ソシム、2017、p.54、「C++」</ref>、更に1995年にはCとC++の系統に属し「[[Write once, run anywhere]]」というスローガンを掲げコードを1回書けばどの[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]でも走り ネットの分散コンピューティングにも向いており おまけに様々な要素を言語仕様自体として最初から含んでいるという長所がある<ref name="Rikunabi">[https://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001335]</ref>[[Java]]が登場し、2020年代の現在でも常に人気最上位にランクインする状態となっている<ref name="Masui_Java">増井敏克『プログラミング言語図鑑』p.94「Java」</ref>。また1991年には可読性を重視した[[Python]]が登場しこちらも人気となり、2010年代には[[ニューラルネットワーク]]方式の[[人工知能]]用の[[ライブラリ]]も充実させ、人工知能開発分野では主流言語となっている。1995年には、全てをオブジェクトとして扱い真のオブジェクト指向である<ref name="The_Codest">[https://thecodest.co/blog/what-is-the-popularity-of-the-ruby-programming-language/ What is the popularity of the Ruby programming language?]</ref>[[Ruby]]が登場した。2004年にはファンにより簡潔にWebアプリケーションを書ける[[Ruby on Rails]]も開発され、[[ECサイト|イーコマース・サイト]]を開発する人々や[[オープンソースソフトウェア|オープンソース]]のコミュニティ(コミュニティのサイト)で好んで使われるようになった<ref name="The_Codest" />{{Efn|[[GitHub]]や[[クックパッド]](Cookpad)などもRubyおよびRuby on Railsで開発されることになった。(出典:増井敏克『プログラミング言語図鑑』ソシム、2017、pp.140-141.)}}。2012年にはRubyが「日本発」のプログラミング言語としては初めて国際電気標準会議(IEC)で国際規格に認証された。 なお言語処理系は、プログラム言語で記述した[[ソースコード]]を事前に機械語コード(バイナリコード)に変換する[[コンパイラ]]や、ソースコードを実行時に逐次解釈しながら実行する[[インタプリタ]]や、それら2つの中間的な性質を備えた方式などに分類される。 ====制御プログラム(OS)==== {{Main|オペレーティングシステム}} 「制御プログラム」とエンジニアに呼ばれるものは、別名では「狭義の[[オペレーティングシステム]] (OS) 」と言い<ref name="2020_Otaki_154" />(そしてパーソナルコンピュータの世界ではこれのみを「OS」と呼んでおり<ref name="2020_Otaki_154" />)、その主な役割はジョブ管理、タスク管理、記憶管理などである<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128">日高哲郎『情報処理教科書 基本情報技術者 テキスト&問題集 2015年版』翔泳社, pp.128-138「オペレーティングシステム」</ref><ref name="2022_Kayanoki" />。この制御プログラムあるいはOSを細分すると、[[カーネル]]と[[デバイスドライバ]]と[[ファイルシステム]]に分けることができる<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128" />。 ;カーネル [[カーネル]]はOSの中核であり、その主な役割は次のようなことである<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128" />。 *ジョブ管理 *タスク管理 *記憶管理 *システムコールサービス - システムコールサービスの'''[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]'''(Application Programming Interface、[[アプリケーションプログラミングインタフェース]])は[[アプリケーションソフト]]から、OSが用意しているさまざまな機能を利用するための仕組みであり<ref name="2022_Kayanoki" />、アプリケーション開発の手間が減り<ref name="2022_Kayanoki" />、統一的な操作性も実現できる。 ;デバイスドライバ [[デバイスドライバ]]は周辺機器を直接制御する抽象的なインタフェースをアプリケーションソフトに対して提供する<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128" />。 ;ファイルシステム [[ファイルシステム]]は、データやプログラムが記録される「ファイル」を管理するソフトウェアである<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128" />。 なお制御プログラムの構成法として、カーネルの機能を限定し最小限の記憶管理やタスク管理に限ったものを「マイクロカーネル」といい<ref name="2020_Otaki_154" />、これは機能を絞っている代わりに、その限定的機能に関しては信頼性が増すというメリットがある。マイクロカーネル方式が採用される場合は、ファイルシステムなどはマイクロカーネルの外で作動するサーバプロセスとして提供される<ref name="2020_Otaki_154" />。マイクロカーネル方式に対して、カーネル自体にファイルシステムなどさまざまな機能を担当させる方式を「モノリシックカーネル(方式)」という<ref name="2020_Otaki_154" /><ref name="2015_Hidaka_128" />{{Efn|モノリシックは "一枚岩" という意味。}}。 ;コンピュータのタイプごとのOS 世間に普及するコンピュータを台数を基準として見た場合、最も多いのは[[組み込みシステム]]であり、すなわちエアコンや炊飯器などの家電製品、乗用車、各種の測定機器、工作機械などに組み込まれた非常に小さく安価なコンピュータであり、組み込みシステムでは[[組み込みオペレーティングシステム|組み込みOS]]と呼ばれるOSを用いる。2019年時点でのシェアを見ると、東京大学の[[坂村健]]が開発し無料配布可能で機器開発者が改変することも許されている[[TRON]]系OSのシェアが世界第1位のおよそ60%であり、24年連続トップ<ref name="monoist">[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2005/01/news072.html 組み込みOSのAPIはTRON系OSがシェア60%、24年連続トップ]</ref>。TRON系のなかでも[[ITRON]]が最も普及している<ref name="monoist" />。TRON以外は[[POSIX]]系つまり[[Unix系]]、[[Linux]]類である<ref name="monoist" />。たとえば米リナックスワークスの[[LynxOS]]、米ウィンドリバーの[[VxWorks]]、米シンビアンの[[Symbian OS]]など。なお小規模な組み込みシステムのなかには、明確なOSを内蔵していないものもある。 次に台数が多いのがスマートフォンであり、スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点で[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]が約72%、[[iOS]]が 約27%である<ref>[https://gs.statcounter.com/os-market-share/mobile/worldwide]</ref>。なおAndroidも広い意味でのLinuxの一種であり、より具体的に言うとLinuxの[[カーネル]]を一部改編し他の[[オープンソース]]・ソフトウェアを組み合わせたものである。つまりおよそ7割の人々が実は意識せずにLinuxの一種を毎日使っているわけである。 ノートPCやデスクトップPCのOSおよびそのシェアとしては、2021年時点でWindows 75.4%、[[MacOS]] 15.93%、[[ChromeOS]] 2.59%、[[Linux]] 2.33%となっている<ref>[https://gs.statcounter.com/os-market-share/desktop/worldwide/#monthly-202012-202012-bar]</ref>。なお、このMacOSは[[FreeBSD]]を基にしたOSでありUnix系である。 [[ファイル:Operating systems used on top 500 supercomputers.svg|thumb|400px|スーパーコンピュータにおけるOSの使用比率]] スーパーコンピュータのOSは、2021年現在、ほぼ100%、[[Linux]]である。スーパーコンピュータ用は2000年ころは[[UNIX]]が9割ほどを占めていたが、その後の10年間つまり2010年ころまでにそのほぼ全てがLinuxに置き換わるということが起きた。 ;CUIとGUI ハードウェアの抽象化層を持つ現在のオペレーティングシステムの多くは、何らかの標準化された[[ユーザインタフェース]]を兼ね備えている。かつては[[キャラクタユーザインタフェース]]('''CUI''')のみが提供されていたが、1970年代に[[アラン・ケイ]]らが [[ダイナブック|Dynabook]]構想を提唱し、「暫定 {{lang|en|Dynabook}}」と呼ばれる [[Alto]]と [[Smalltalk]]による[[グラフィカルユーザインタフェース]]環境を実現した。なお、「暫定 {{lang|en|Dynabook}}」は当時の[[ゼロックス]]の首脳陣の判断により製品化されなかった(ゼロックスより発売されたグラフィカルユーザインタフェース搭載のシステム [[Xerox Star]]は「暫定 {{lang|en|Dynabook}}」とは別系統のプロジェクトに由来する)が、この影響を受け開発されたApple Computer(現:[[Apple]])の [[Lisa (コンピュータ)|LISA]]や [[Macintosh]]、[[マイクロソフト]]の [[Microsoft Windows|Windows]]の発売、普及により、グラフィカルユーザインタフェース('''GUI''')が一般的にも普及することとなった。一方、Unix系OSでも1980年代から[[X Window System]]が開発されグラフィカルユーザインタフェースが実現した。CUIとGUIはそれぞれ長所と短所があり、GUIは初心者に優しいので初心者向けにはもっぱらGUIを使う操作法が教えられ、上級者あたりになるとGUIとCUIを併用することになり、コンピュータ技術者やシステム運用エンジニアなどはしばしば主にCUIを使いGUIは補助的に使う。現在CUIを使う人はGUIとCUIを同時並行的に使用しGUIのマルチウィンドウのいくつかをCUI状態で使うといったことも一般的である。またLinuxなどではGUIモードとCUIモードを根本的に切り替えるということも可能である<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1603/25/news026.html]</ref>。 ==== サービスプログラム ==== サービスプログラムとは、基本的な[[テキストエディタ]]やファイル変換プログラムなどである。 ==== 言語処理プログラム ==== 言語処理プログラムとは、[[アセンブラ]]や[[コンパイラ]]や[[インタプリタ]]やジェネレータのことである。 ==アナログとデジタル== 1970年代や1980年代頃までは、「コンピュータ」といえば'''アナログコンピュータ'''と'''デジタルコンピュータ'''の両方を指した。その後は、アナログコンピュータがほとんど使われなくなり、「コンピュータ」といえば専らデジタルコンピュータを指す。 [[アナログコンピュータ]]は、[[電気]]的現象・[[機械]]的現象・[[水圧]]現象を利用してある種の物理現象を表現し、問題を解くのに使われる計算機の形態<ref>{{lang|nl|Universiteit van Amsterdam Computer Museum (2007)}}</ref>。アナログ計算機はある種の'''連続的な[[物理量]]'''を別の物理量で表し、それに数学的な関数を作用させる。入力の変化に対してほぼリアルタイムで出力が得られる特徴があり(これはいわゆる「高速型」の場合の話である。時間をかけてバランスが取れた状態を見つけ出すとか、移動量の合計を得るといったような「低速型のアナログ計算機」もある)、各種[[シミュレーション]]などに利用されたが、演算内容を変更するには回路を変更する必要があり、得られる精度にも限界があるので、デジタルコンピュータの性能の向上とDA/ADコンバータの高精度化・高速化によって役目を終えた。 なお、かつて電子式アナログコンピュータの重要な要素として多用されたものと同じ機能を持つ電子回路は、IC化され「[[オペアンプ]]IC」として今日でも広く使われているが、モジュール化され簡単に使えるものになっているため、一般にコンピュータとは見なされてない。 それに対して今日主流のデジタルコンピュータは '''離散的な物理量'''( " 飛び飛び " の物理量)を利用するコンピュータである。以前は2値方式のほかに10値方式や他の方式があったが{{Efn|デジタル方式にはタイガー計算器のように歯車の離散的な角度により[[十進法]]を表現するものや、機械として見ると2値論理方式の機械でも、数の扱いとしては[[3増し符号]]などにより十進法のものもあった。数値の表現法である「x進法」と、論理のモデルである「x値論理」は、厳密には別のものであることに注意されたい。}}、今日ではもっぱら'''2値方式'''([[電圧]]のHigh/Low。数字で抽象化して表現すると1/0)によるものを指しており、その中枢部にあたるCPUでは[[二進法]]で数値が表現され、[[ブール論理]]の[[論理演算]]を行っている。 {{Seealso|デジタル|コンピュータの数値表現}} 電気方式や[[エレクトロニクス]]方式のデジタルコンピュータは1940年代や1950年代は[[継電器|リレー]]式のものや[[真空管式コンピュータ|真空管式]]のものが使われたが、これは素子を定期的・不定期的に交換しなければならずメンテナンスにそれなりの手間がかかるものだったので、1950年代以降は新たに発明された[[トランジスタ]]で論理回路や演算装置を構成することで低消費電力かつ高速動作で、リレー式や真空管式より小型で、素子交換も不要なコンピュータを実現し、さらに1960年代以降は[[集積回路]]も用いて一層の小型化・低消費電力化・高速化が実現することになった。 {{Seealso|計算機の歴史}} == 歴史 == {{Main2|詳細は[[計算機の歴史]]ならびに[[情報・通信・コンピュータ一覧の一覧]]を}} ===古代=== [[ファイル:NAMA Machine d'Anticythère 1.jpg|thumb|200px|[[アンティキティラ島の機械]](紀元前150年 - 紀元前100年ころ)。現在確認できる最古の歯車式計算機。]] * [[紀元前2千年紀|紀元前2000年]]頃 古代バビロニアで手動式[[デジタル]]計算器である[[アバカス]]が([[そろばん]]は中国起源説もある)発明される([[古代ギリシア]]では[[紀元前3世紀|紀元前300年]]頃に伝わって来たとされており、日本では西暦[[1400年]]頃の[[室町時代]]に[[明]]から伝わって来たといわれる)。 * [[紀元前2世紀]] - [[アンティキティラ島の機械]]。 [[紀元前150年]] - [[紀元前100年]]ころに[[古代ギリシア]]人によって作られた、現在確認できるものでは世界最古の[[歯車]]式[[アナログ計算機]]。 ===17・18世紀=== {{Double image aside|right|Pascaline-CnAM 823-1-IMG 1506-black.jpg|200|Detail of the pascaline's carry mecanism - the sautoir.jpg|200|[[ブレーズ・パスカル]]の歯車式計算機「パスカリーヌ」(1642年)とその機構図}} <!--* 16世紀の初め - 複雑なそろばんが[[ロシア]]で発明されました。そこでは、ワイヤー上に10個の木製のボールがありました。--> * 1620年 イギリスの[[エドマンド・ガンター]]が、手動式アナログ計算器である[[計算尺]]の原型となる対数尺を発明。 * [[1623年]]頃、ドイツの[[ヴィルヘルム・シッカート]]が、[[ネイピアの骨]]を応用し、乗算と加減算を行なえる歯車式の計算機を作った。加減算に関しては繰り上がりができたが、乗算に関しては繰り上がりができなかった。 * [[1642年]] フランスの[[ブレーズ・パスカル]]が[[歯車式計算機]]パスカリーヌを開発。約50台が作成された。(英語版記事 [[:en:Pascal's calculator]]が参照可) * 1673年 ドイツの[[ゴットフリート・ライプニッツ]]が{{仮リンク|ライプニッツの環|en|Leibniz wheel}}を発明<ref>{{Cite web2|language=ja|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%97%e3%83%8b%e3%83%83%e3%83%84%e3%81%ae%e7%92%b0|title=ライプニッツの環|website=英辞郎 on the WEB|access-date=2023年3月22日}}</ref>。その後パスカリーヌより高機能な計算機を開発し、60年間に約1500台が販売された。 * 1698年 ライプニッツが[[二進法]]の数理を確立。 * 1725年 織機の制御に[[パンチカード]]が使われ始める<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.wired.com/2008/04/a-picture-histo/|title=A Picture History Of Computer Storage|last=Sorrel|first=Charlie|date=8 April 2008|website=WIRED|access-date=22 March 2023}}</ref>。 ===19世紀=== * 1801年 [[ジョゼフ・マリー・ジャカール]]が[[ジャカード織機]]を発明。 * 1822年 [[解析機関]]の設計者[[チャールズ・バベッジ]]が第1[[階差機関]]の実験モデルを作成。 * 1823年 バベッジによる階差機関の開発開始。[[ファイル:BabbageDifferenceEngine.jpg|thumb|バベッジの階差機関は彼の没後に完成した]] * 1833年 追加予算が打ち切られ、階差機関の開発が中止となる。 * 1843年 シュウツ親子により階差機関が完成。 * 1854年 [[ジョージ・ブール]]が[[ブール代数]]を発見する。 * 1865年 [[国際電気通信連合|万国電信連合]](現・国際電気通信連合)設立。電気通信分野における初の[[標準化]]機関であり、国際機関。 * 1871年 バベッジが解析機関の実現を見ぬまま死去。解析機関のオペレータである[[エイダ・ラブレス]]は世界最初のプログラマとされる。 <!--* 1876年-ロシアの数学者[[パフヌティ・チェビシェフ]]は、数十の無段変速機を備えた加算装置を作成。 1881年に、彼はまた、彼の発明(チェビシェフの加算機)の乗算と除算の接頭辞を設計しました。--> * 1889年 [[ハーマン・ホレリス]]が[[パンチカード]]方式の自動集計機を実現。[[ファイル:IBMカード穿孔機.JPG|thumb|パンチカード穿孔機]] * 1897年 [[フェルディナント・ブラウン]]が陰極線管(通称[[ブラウン管]])を発明。 ===20世紀=== * 1905年 イギリスの物理学者の[[ジョン・フレミング]]が二極[[真空管]]を発明。 * 1906年 ** [[国際電気標準会議]](IEC)設立。電気電子関連技術を扱う国際的な標準化団体。 ** [[リー・ド・フォレスト]]が三極真空管を発明。 <!--* 1912年 - [[微分方程式|常微分方程式を統合]]するための世界初の機械は、ロシアの科学者ア{{仮リンク|レクセイ・クリロフ|en|Aleksey Krylov}}のプロジェクトに従って作成されました。--> * 1936年 [[アラン・チューリング]]が、論文 ''On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem'' を発表。同論文で[[チューリングマシン]]を提示。 * 1938年 ドイツの[[コンラート・ツーゼ]]が、自宅で機械式の計算機V1を作成。後に[[Zuse Z1|Z1]]と改名。 * 1939年 ツーゼがZ1をベースに演算部が[[継電器|リレー]]、記憶部が機械式のテスト用の計算機Z2を作成。 * 1940年 ツーゼがZ2をベースに全リレー式の計算機[[Zuse Z3|Z3]]を作成。Z3は(意図的にそのように設計されたものではないが)1998年に万能(チューリング完全)であると証明された<ref>[http://www.rtd-net.de/Zuse.html RTD Net]: "From various sides Konrad Zuse was awarded with the title "Inventor of the computer"."</ref><ref>[http://www.german-way.com/famous-konrad-zuse.html GermanWay]: "(...)German inventor of the computer"</ref><ref>[http://www.monstersandcritics.com/tech/features/article_1566782.php/Z-like-Zuse-German-inventor-of-the-computer Monsters & Critics]: "he(Zuse) built the world's first computer in Berlin"</ref><ref>[http://inventors.about.com/library/weekly/aa050298.htm "Konrad Zuse earned the semiofficial title of "''inventor of the modern computer''"], [[About.com]]</ref> * 1942年 [[ジョン・アタナソフ]]と[[クリフォード・ベリー]]が真空管を使って演算処理をするデジタル計算機[[アタナソフ&ベリー・コンピュータ|ABC]]を作成。 * 1943年 ローレンツSZ42暗号機によるドイツ軍の[[暗号]]を解読するため、イギリスで[[Colossus]]が発明される。 * 1944年 ツーゼがZ4を作成。メモリ部分は機械式に戻る。 * 1945年 [[ジョン・フォン・ノイマン]]の[[EDVACに関する報告書の第一草稿]]が発表。[[プログラム内蔵方式]]が提唱される。 * 1946年 [[ペンシルベニア大学]]で真空管を使って演算処理をするデジタル計算機[[ENIAC]]が作成される。一般に広く知られた初のコンピュータ。[[ファイル:Eniac.jpg|right|thumb|17468本の真空管を使って作られたENIAC]] * 1947年 AT&T[[ベル研究所]]の[[ウォルター・ブラッテン]]、[[ジョン・バーディーン]]、[[ウィリアム・ショックレー]]らが[[トランジスタ]]を発明。 <!--* 1948年12月4日 - 国民経済に先端技術を導入するためのソビエト連邦閣僚会議の国家委員会は、デジタル電子コンピューターのイリヤ・ブルックとボリス・ラメエフの発明を番号10475で登録しました。--> * 1948年 [[マンチェスター大学]]の[[フレデリック・C・ウィリアムス]]と[[トム・キルバーン]]が、初のプログラム内蔵式のコンピュータ[[Manchester Small-Scale Experimental Machine|The Baby]]を発明。 * 1949年 [[モーリス・ウィルクス]]と[[ケンブリッジ大学]]の数学研究所のチームによる[[EDSAC]]稼働。 <!--* 1950年 - 最初のソビエト電子コンピューターは、[[セルゲイ・レベデフ (計算機科学者)|セルゲイ・レベデフ]]のグループによってキエフで作成されました。--> * 1951年 [[EDVAC]]稼働。 * 1951年 **[[レミントンランド]]が[[UNIVAC I]]を商品化。 ** プリンストン高等研究所(IAS)が開発した[[IASマシン]]の稼働が始まる。 * 1952年 ** 米[[IBM]]が商用のプログラム内蔵式コンピュータ[[IBM 701]]を発売。 ** [[ETL Mark I]](リレー式)を[[経済産業省|通産省]]工業技術院電気試験所(現:[[産業技術総合研究所]])が完成。 *1953年 [[マサチューセッツ工科大学|MIT]]にて[[Whirlwind]]が実用化された。量産機AN/FSQ-7が1958年から[[半自動式防空管制組織|SAGE]]に使われ、後のIBMのコンピュータ技術の基礎となった。 * 1956年 ** [[FORTRAN]]が誕生(最初のFORTRANマニュアルのリリース)。 ** 「[[FUJIC]]」([[富士フイルム]])稼働。 ** アメリカ合衆国[[ブルックヘブン国立研究所]]の[[ウィリアム・ヒギンボーサム]]が、アナログコンピュータ(オペアンプ)と[[オシロスコープ]]を用いた『[[Tennis for Two]]』を開発。 ** 米IBMによる磁気ディスク([[ハードディスクドライブ]])「IBM 350」の初出荷。5Mキャラクタ。 * 1957年 [[MUSASINO-1]]が稼働([[日本電信電話公社]]電気通信研究所、現・NTT研究所<ref group="注釈">21世紀の現在、「NTT研究所」は研究開発分野ごとにサービスイノベーション、情報ネットワーク、先端技術の3総合研究所とIOWN総合イノベーションセンターの4つに分かれている。</ref>)。[[パラメトロン]]を利用した最初のコンピュータであった。 * 1958年 <!--** 志を同じくする人々のグループを持つニコライ・ブルセンツォフは、位置対称の[[三進法]]({{仮リンク|「Setun」|en|Setun}})を備えた世界初の3進コンピューターを構築しました。--> **米[[テキサス・インスツルメンツ]]の[[ジャック・キルビー]]が[[集積回路]](IC)を発明。 ** [[フランク・ローゼンブラット]]、[[パーセプトロン]]の論文を発表する。 * 1960年 [[日本国有鉄道]]が日本初の[[オンラインシステム]]である[[マルス (システム)|マルス1]]を導入<ref>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.1587/bplus.13.58 |title=開発物語 みどりの窓口の予約システム「マルス」の開発史|accessdate=2020-5-26|author=竹井和昭|journal=通信ソサイエティマガジン|date=2019|volume=13 |issue=1 |pages=58-67 |publisher=電子情報通信学会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jrs.co.jp/guideline/mars/ |title=旅客販売総合システム「マルス」|publisher=JRシステム|accessdate=2020-5-26}}</ref>。 * 1960年 米[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|ディジタル・イクイップメント]]が、世界初の[[ミニコンピュータ]][[PDPシリーズ|PDP-1]]を発売。 * 1961年 米IBM、[[IBM 7030]]を発売。 * 1962年 世界初の[[シューティングゲーム]]とされている「[[スペースウォー!]]」が開発される。 * 1963年 ** [[アメリカ電気学会]](AIEE)と[[無線学会]](IRE)が合併し、[[IEEE]]設立。 ** [[アイバン・サザランド]]が[[Sketchpad]]を開発。[[CAD]]プログラムの先駆け。 * 1964年 ** 米IBMが[[メインフレーム]]の[[System/360]]を発売。商用初の[[オペレーティングシステム]]が生まれる。 ** [[コントロール・データ・コーポレーション]]、[[CDC 6600]]を製造開始。1969年まで世界最高速の地位にあり、世界で初めて成功した[[スーパーコンピュータ]]とも言われる。 * 1965年 ** [[Multics]]が開発される。後のUNIXはこのMultixの利点と欠点を踏まえて開発されたものである。 ** [[ゴードン・ムーア]]、「Electronics」誌に発表された論文「Cramming more components onto integrated circuits」で[[ムーアの法則]]を提唱する。 * 1966年 [[Association for Computing Machinery|ACM]]、[[チューリング賞]]を創設。 * 1967年 米IBMが[[フロッピーディスク]]を開発。 * 1968年 [[ダグラス・エンゲルバート]]が、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]や[[ウィンドウ]]などをデモンストレーション。 * 1969年 ** 後に[[インターネット]]の母体となる[[ARPANET]]が運用開始。UNIXオペレーティングシステムの開発が始まる。 ** [[エドガー・F・コッド]]が[[関係データベース|リレーショナルデータベース]]を提唱。 * 1970年 ** [[インテル]]が世界初の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] 1103を発売。 ** 後に[[イーサネット]]の原型となる[[ALOHAnet]]が運用開始。 * 1971年 [[インテル]]が世界最初のシングルチップの4ビット[[マイクロプロセッサ]]、[[Intel 4004|i4004]]を[[ビジコン]]と共同開発。10月に発売された[[ビジコン]]の電卓141-PFに搭載される。 * 1972年 ** 4月、[[インテル]]が8ビットのマイクロプロセッサ[[Intel 8008|i8008]]を発表。 ** [[アタリ (企業)|アタリ]]、業務用[[ゲーム機]]「[[ポン (ゲーム)|PONG]]」を発売。 ** [[マグナボックス]]、世界初の家庭用ゲーム機「[[オデッセイ (ゲーム機)|ODYSSEY]]」を発売。 ** [[アラン・ケイ]]が[[オブジェクト指向]]の概念を提唱。 * 1973年 ** 米[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]]において、[[チャック・サッカー]]が [[Alto]]を製作。[[アラン・ケイ]]らはこれを用い、オブジェクト指向に基づく汎用の[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]][[デスクトップ環境]]である[[暫定Dynabook]]環境を構築。 ** [[ケン・トンプソン]]と[[デニス・リッチー]]が[[パデュー大学]]で行なわれたthe Symposium on Operating Systems PrinciplesでUNIXに関する最初の論文を発表。 * 1974年 ** 4月、インテルが8ビットのマイクロプロセッサ[[Intel 8080|i8080]]を発表。 ** 12月 [[Micro Instrumentation and Telemetry Systems|MITS]]が、世界初の一般消費者向けマイクロコンピュータ[[Altair 8800]]を発売。主に組み立てキットとして販売された。 ** [[ゲイリー・キルドール]]が8ビットCPU(8080)用のディスクオペレーティングシステム[[CP/M]]を開発。 * 1975年 ** 4月、[[ビル・ゲイツ]]が[[マイクロソフト]]を設立。 ** [[クレイ・リサーチ]]が[[Cray-1]]を発表。[[スーパーコンピュータ]]の代名詞となる。 ** 米IBM、[[IBM 5100]]ポータブル・コンピュータを発売。 ** 米IBM、[[ジョン・コック]]の統括のもとで、[[RISC]]の概念に基づくマイクロプロセッサ[[IBM 801]]の開発を行う。 * 1976年 [[日本電気|NEC]]、[[TK-80]]を発売。6万台を売り上げ、初期のマイコンとしては異例の大ヒットとなる。 * 1977年 ** [[ビル・ジョイ]]が開発した1[[Berkeley Software Distribution|BSD]]が初めて配布される。 ** [[Apple|Apple Computer]]がパーソナルコンピュータ[[Apple II]]を発売。 ** 富士通、日本初のベクトル型プロセッサFACOM 230-75APUを開発し[[航空宇宙技術研究所]]に納入。 * 1978年 米国シカゴで最初の[[電子掲示板]]「CBBS」が開設される。 * 1979年 **NECが[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]を発売。 **ビジコープ、[[VisiCalc]]を発売。世界初の[[表計算ソフト]]であり、Apple IIの[[キラーアプリケーション]]となる。 **[[オラクル (企業)|オラクル]]、商用初の[[関係データベース]]製品である Oracle 2をリリース。 * 1980年 ** [[欧州原子核研究機構|CERN]]の研究員[[ティム・バーナーズ=リー]]が、[[World Wide Web]]の元となるEnquireを開発。 ** [[シャープ]]が[[ポケットコンピュータ]]PC-1210を発売。ポケットサイズで[[BASIC]]が動作する初のデバイス。 * 1981年 ** 米IBMが[[MS-DOS|PC DOS]]を搭載したパーソナルコンピュータ[[IBM PC]]を発売。以後、[[マイクロソフト]]社から各社に[[MS-DOS]]がOEM供給される。 ** ゼロックス、[[Xerox Star]]を発売。GUIを装備した初の商用[[ワークステーション]]であった。 * 1982年 ** 米[[サン・マイクロシステムズ]]がTCP/IPを採用したワークステーションを発売。 ** GRiD Systemsが世界初の折りたたみ型[[ラップトップコンピュータ]][[Grid Compass]]を発売。 ** 世界初の(狭義の)[[コンピュータウイルス]]{{仮リンク|Elk Cloner|en|Elk Cloner}}が出現。 ** NECが[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]を発売。 ** [[セイコーエプソン|エプソン]]が初期のハンドヘルドコンピュータである[[HC-20]]を発売。 * 1983年 [[リチャード・ストールマン]]が[[GNUプロジェクト]]を開始。 * 1984年 ** Apple Computerが[[Macintosh]]を発売。 ** 米IBMが[[PC/AT]]を発売。[[オープンアーキテクチャ]]を採用し、[[Industry Standard Architecture|ATバス]]などの技術が[[PC/AT互換機]]の基礎となる。 ** [[坂村健]]によって[[TRONプロジェクト|TRON]]が提唱される。 * 1985年 ** [[デイヴィッド・ドイッチュ]]が[[量子コンピュータ]]の原モデルである量子チューリングマシンを定義した。 ** Apple Computerが[[LaserWriter]]を発売。[[ページ記述言語]]として[[PostScript]]を採用した[[レーザープリンター]]で、ページレイアウトソフト「[[Adobe PageMaker|PageMaker]]」とともに[[DTP]]の時代を切り開く。 ** [[フィリップス]]が初の[[CD-ROM]]ドライブであるCM100を発表。 ** マイクロソフトが最初の[[Microsoft Windows|Windows]]製品である[[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.0]]を発売。 * 1986年 ** [[SQL]]の最初の規約が批准される。 **[[Internet Engineering Task Force|IETF]]設立。[[インターネット標準]]の策定団体。 ** 日本で[[Σプロジェクト]]が開始される。 * 1987年 ** [[ISO/IEC JTC 1]]設立。国際標準化機構 (ISO) と国際電気標準会議 (IEC) の標準化作業をすり合わせるための組織。 ** 3月、シャープが[[X68000]]を発売。 ** 米IBM、[[IBM PS/2]]を発売。バス[[Micro Channel Architecture|MCA]]は普及しなかったが、[[Video Graphics Array|VGA]]、[[PS/2コネクタ]]などは[[PC/AT互換機]]の標準となる。日本では[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]が日本語対応を行った[[PS/55]]シリーズを発売した。 * 1988年 ** [[NeXT]]が[[NeXTcube]]を発売。搭載された[[NEXTSTEP]]は後に[[macOS|Mac OS X]]の基盤となった。 ** [[PC-VAN]]において、[[コンピュータウイルス]]の被害が日本で初めて報告された。 * 1989年 東芝がノートパソコン[[ダイナブック (東芝)|DynaBook]]を発売(IBM PC/XT互換)。 * 1990年 マイクロソフトが[[Windows 3.x|Windows 3.0]] を発売。初の成功したWindows製品となった。 * 1991年 ** [[リーナス・トーバルズ]]がスクラッチビルドによるUnix風のOSカーネル[[Linux]]を発表。 ** ティム・バーナーズ=リーが[[World Wide Web]]プロジェクトを発表する。 ** [[フィル・ジマーマン]]が[[公開鍵暗号]][[Pretty Good Privacy|PGP]]を開発し公開した。 * 1992年 [[シリコングラフィックス]]、[[OpenGL]]を公開する。 * 1993年 ** [[Unicode]]と概ね互換のISO/IEC 10646が国際標準化される。 ** [[NetBSD]]・[[FreeBSD]]の発表。 ** [[CERN]]、World Wide Webを無料で公開。同年に[[ウェブブラウザ]]・[[NCSA Mosaic]]がリリースされ、World Wide Webの普及が始まる。 * 1994年 ** ティム・バーナーズ=リー、[[World Wide Web Consortium|W3C]]を設立。World Wide Web関連のプロトコルを策定する標準化団体。 ** マイクロソフトが[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]を発売。 * 1995年 マイクロソフトが[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]を発売。 * 1996年 ** サン・マイクロシステムズにより、[[Java]]の開発環境が公式にリリースされた。 ** [[ECMAScript]]が策定され[[JavaScript]]が標準化される。 ** [[The Open Group]]が創設され、[[UNIX戦争]]が終結した。 ** [[USロボティクス]]、[[Palm (PDA)|Palm Pilot]]を発売。最も成功した[[携帯情報端末]]となる。 * 1997年 ** チェス専用スーパーコンピュータ・[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]がチェス世界チャンピオン[[ガルリ・カスパロフ]]に勝利した。 ** この頃、[[Netscape Communicator]]と[[Internet Explorer]]のシェア争い(第一次[[ブラウザ戦争]])を背景に、[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]の機能が飛躍的にリッチになる。 * 2000年 [[2000年問題]]。大きなトラブルはなかった。 ===21世紀=== [[File:Global Digital Divide1.png|thumb|350px|right|2006年時点の、世界の[[情報格差]]を示す地図]] * 2001年 ** [[インターネット・バブル]]が崩壊。 ** 4月、Apple Computerが[[macOS|Mac OS X]]を発売。10月には[[iPod]]を発表。 * 2003年 中国で人工知能を応用したインターネット[[検閲]]システム[[グレート・ファイアウォール]]が本格稼働開始。 * 2004年 [[Mozilla Firefox]] 1.0 がリリース。この頃から第二次[[ブラウザ戦争]]が勃発し、デスクトップにおける[[Google Chrome]]の覇権が固まる2014年頃まで続く。 * 2007年 [[Apple]]が[[iPhone]]を発売。Mac OS X派生の[[モバイルオペレーティングシステム]] iPhone OS(現:[[iOS]])を搭載し、以降[[スマートフォン]]の普及が急激に進んだ。 * 2008年 [[Google]]がLinuxベースのモバイルオペレーティングシステム[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]をリリース。 * 2009年 米[[IBM]]、[[意思決定支援システム]][[ワトソン (コンピュータ)|ワトソン]]を公開する。 * 2010年 [[Apple]]が[[iPad]]を発売。 * 2011年 **アジア太平洋[[地域インターネットレジストリ]]の[[IPアドレス枯渇問題|IPv4アドレスが枯渇]]。 **[[D-Wave Systems]]は世界初の商用[[量子コンピュータ]]システムであるD-Wave Oneを発表した。[[量子焼きなまし法|量子アニーリング]]方式により最適化問題を解く専用計算機である。 **世界のパソコン出荷台数がピークの3億5280万台に達する。 * 2012年 Google、[[スタンフォード大学]]との共同研究である{{仮リンク|グーグル・ブレイン|en|Google Brain}}(Google brain)を構築し、[[ディープラーニング]]の有用性が認められる。 * 2014年 [[Amazon.com|アマゾン]]、AIアシスタント[[Amazon Alexa]]を発表、[[スマートスピーカー]]の[[Amazon Echo]]に搭載される。 * 2016年 [[DeepMind|Google DeepMind]]が開発した[[AlphaGo]]が[[AlphaGo対李世ドル|世界最強の棋士と目される李世乭に勝利]]した。 * 2020年 [[OpenAI]]が高性能な[[自然言語処理]]モデル[[GPT-3]]を公開する。 == 種類 == * [[スーパーコンピュータ]](スパコン、HPCサーバ) * [[メインフレーム]](汎用コンピュータ、汎用機) * [[ミニコンピュータ]](ミニコン) * [[オフィスコンピュータ]](オフコン) * [[ワークステーション]] (WS) * [[コンピュータ・クラスター]] * [[組み込みシステム]](基本的には[[マイクロコントローラ]]を用いる) * [[シングルボードコンピュータ]] * 汎用[[サーバ]] ** エンタープライズサーバ ** PCサーバ * [[パーソナルコンピュータ]](パソコン、PC) ** [[ノートパソコン]] ** [[デスクトップパソコン]] ** [[ゲーミングPC]](GPUを搭載している高性能PC。ゲーム用途だけでなく、高い処理能力が必要とされるさまざまな用途に使用されている。) * [[マイクロコンピュータ]](マイコン。1970年代後半から1980年代にかけて一般的であったもの。PCの前段階。) * [[シンクライアント]] * [[ワードプロセッサ]] * [[ゲーム機]] ** 据置型ゲーム機 ** [[携帯型ゲーム]]機 ::(※ 近年では[[Nintendo Switch]]のように据置型と携帯型の境界を無くすような、単純に分類できないタイプの売上が伸びている。) * [[スマートフォン]] * [[タブレット (コンピュータ)|タブレット]] * [[ウェアラブルコンピュータ]] ** [[スマートウォッチ]] ** [[スマートグラス]] * [[携帯電話]]機(フィーチャーフォン) * [[携帯情報端末|PDA]](個人情報端末、[[ハンドヘルドコンピュータ]]) * [[ポケットコンピュータ]](1980年代に使われたもの。マイクロコンピュータと電卓の中間的性質のもの) * [[プログラム電卓]](ユーザが作成するプログラムをもとに複雑な手順の計算を自動的に行える電卓) * [[関数電卓]]、[[電卓]] === 研究段階のコンピュータ === * [[光コンピュータ]] - [[集積回路|半導体]]の[[電子回路]]の代わりに[[光集積回路]]を使用する。 * [[量子コンピュータ]] * [[分子コンピュータ]] * [[DNAコンピュータ]] * [[ニューロコンピュータ]] * [[生体コンピュータ]] == 日本の行政での関連用語 == 日本の行政組織内では次のような関連用語も使われている。それぞれ異なった意味で使われている。 *「電子情報処理組織」- 市の機関等が使用する電子計算機(コンピュータ等)と申請者等が使用する電子計算機とを電気通信回線(インターネット等)で接続したもの<ref>[https://www.city.iwamizawa.hokkaido.jp/soshiki/johoshisutemuka/johokokai_kojinjohohogo/10645.html 行政手続き等に係る電子情報処理組織の使用状況について] 岩見沢市公式サイト</ref><ref>[https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2016022400016/ 「行政手続に係る電子情報処理組織の使用状況」] 大田原市公式サイト</ref>。 ::;関連項目 ::*(裁判用語)[[電子情報処理組織による申立て]] - 裁判手続の申立ての方法の1つであり、「電子情報処理組織」を使う方法。 *「電子計算組織」 - 電子計算機及びそれと[[通信回線]]により接続する[[端末]]機等を使用し、与えられた一連の処理手順に従つて事務を自動的に処理する組織(出典:南陽市の公式サイト<ref>[https://www1.g-reiki.net/nanyo/reiki_honbun/g500RG00000041.html]</ref>)。この場合、コンピュータ単体では「電子計算組織」とは呼んでいない。 *「電子計算処理組織」-大切で厳重に管理されるべき情報を電子計算処理する際に、その適切な運営、事務の適正化と効率的な推進、各種データの保護を目的として市役所内に設けられている組織(出典:泉南市公式サイト<ref>[https://www.city.sennan.lg.jp/kakuka/soumu/somuka/soumukakari/densannsyori/1455947135424.html 泉南市公式サイト]</ref>)。 ここでの「組織」は、人的組織を指す。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} * 総合索引に関する項目 ** [[コンピュータ用語一覧]]、[[コンピュータ略語一覧]] ** [[プログラミング用語一覧]]、[[プログラミング用語 (分野別)]] * [[ハードウェア]]に関する項目 ** [[計算機の歴史]] ** [[情報機器]] * [[コンピュータ・アーキテクチャ]] **[[ノイマン型|ノイマン型アーキテクチャ]] **[[ハーバード・アーキテクチャ]](Harvard architecture) / [[:en:modified Harvard architecture]] * [[ソフトウェア]]に関する項目 ** [[ファームウェア]] / [[システムソフトウェア]] / [[オペレーティングシステム]] / [[アプリケーションソフト]] ** [[プログラミング言語]] ** [[プログラミング]]、[[ソフトウェア開発]] * コンピュータを含むネットワークに関する項目 ** [[インターネット]] ** [[Local Area Network|LAN]] / [[Wide Area Network|WAN]] ** [[コンピュータネットワーク]] ** [[オンライン]]、[[データ通信]] *コンピュータを含むシステムやインフラに関する項目 ** [[コンピュータシステム]]、[[情報システム]] ** [[ITインフラストラクチャ]] *コンピュータの使用(や研究、開発など)に関する項目 **[[コンピューティング]] **{{仮リンク|コンピューティングの歴史|en|History of computing}} **[[ユーザー (コンピュータ)]] * 科学、工学に関する項目 ** [[計算機科学]] ** [[情報工学]] ** [[計算機工学]] ** [[ソフトウェア工学]] * 研究者、技術者に関する項目 **{{仮リンク|コンピュータサイエンティスト|en|computer scientist}} **[[コンピュータ技術者]]([[:en:Computer engineering#Profession: Computer engineer|Computer engineer]])、ハードウェアアーキテクト [[:en:hardware systems 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[[Category:機械]]
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関係データベース
関係データベース(かんけいデータベース、リレーショナルデータベース、英: relational database)は、関係モデル(リレーショナルデータモデル、後述)にもとづいて設計、開発されるデータベースである。関係データベースを管理するデータベース管理システム (DBMS) を関係データベース管理システム (RDBMS) と呼ぶ。 Oracle Database、Microsoft SQL Server、MySQL、PostgreSQL、DB2、FileMaker、H2 Database などがRDBMSである 。 関係モデルはIBMのエドガー・F・コッドによって考案された現在もっとも広く用いられているデータモデルである。データベースの利用者は、クエリ(問い掛け)をデータベースに与え、データを検索したり、変更することができる。 データは表に似た構造で管理されるが、関係(リレーション)と呼ぶ概念でモデル化される。関係(リレーション)は組(タプル、表における行に相当する)、属性(アトリビュート、表における列に相当する)、定義域(ドメイン)、候補キー(主キー)、外部キーなどによって構成される。SQLなどに代表されるデータベース言語(問い合わせ言語)を用いて、関係に対して制限・射影・結合・和・差・交わりなどの関係代数演算(集合演算を含む)ないし関係論理演算を行うことで結果を取り出す。 関係を複数持つことも可能で、互いを関連させることも可能である。 例えばある食品を扱う(架空の)通信販売会社における顧客管理データベースでは、顧客リストと物品販売リストは別々のデータ群であるが、顧客管理番号や顧客名などで連結して情報を抽出することが可能である。これを図表であらわすと、以下の通りになる。 例えばこの二つのデータ群を顧客番号で関連付け、顧客番号の代わりに顧客氏名のデータを要求すると、以下のような表になる。通販会社では、これを見て、顧客がどういう物を好むか判断して、新商品の案内を送ったらいいかが把握できる。 また販売日を050116(2005年1月16日)で限定して、顧客番号で関連付け、商品と送り先(顧客住所)のデータを要求すると以下のとおり。通販会社はこれを見て、箱に注文された商品を入れ、宅配便の送り状に宛先を記入して商品発送を行うことができる。 このように、目的に合わせてデータを連結させ、求める表を得ることができるのが関係データベースの最大の特徴である。なおデータを連結する際の目安となる項をキーと呼ぶが、このキーは、全てのデータに一貫して一意である必要がある。この例では顧客番号がキーであるが、同じ顧客番号で複数の会員が登録されていると、データの抽出に異常が発生する(実際はそのような不適切な重複キーを登録する時点で、クエリエラーとして返信されてくる)。 この様式は、相互のデータベースが別々に存在していることで、各々のデータベース内容の変更に対応させやすく、また相互連結をクエリによって行うことで、逐次的に部分的な登録内容の変更がなされても、随時最新の情報を利用できる点で優れている。上記の例で例えるなら、顧客番号00001の相田氏が引越しをして住所が変った際に、顧客データベースだけを変更して、再び各々の同じクエリ(問い掛け)をデータベースに送信すれば、住所変更後のデータに更新されたものが返信されてくることとなる。 なお上記の例では、説明の便宜上で顧客データベースと販売データベースという2つのテーブル(上に述べたリスト状のデータ群)に分けたが、実際にこのような業務を行うデータベースでは、さらに商品リストのテーブルが別に設けられ、この商品データベースでは各々の商品定価などの情報が管理される(もっといえば、商品データベースも様々な要素でいくつものテーブルに分解されるだろう)など、いくつものテーブルが複雑に連携しあって利用者にデータを提供するよう設計される。これはテーブル上のデータが重複する冗長性を避け、よりデータを管理しやすくするためである。これらもやはりキーによって相互連結されて利用される。 一度きちんと設計されたデータベースでは、複数のクエリもあらかじめ定型文(定型クエリ)の形で用意され、利用者は何も考えずに用意された定型のクエリを投げ掛けることで、随時最新のデータを元にした表を見ることができる。 これが実際の業務に利用されるアプリケーションソフトウェアの形ともなると、グラフィカルユーザインターフェース (GUI) などの操作画面を持ち、利用者は画面上のボタンをクリックすることで、プログラム内部でクエリ文が組み合わせによって生成され、データベースに投げ掛けられ、戻ってきたデータをアプリケーション側で処理し、適切な画面上に表示されたり、表計算ソフトで開くためのファイル形式で答えが出力・提供されたりすることとなるため、最終的な利用者側ではクエリや関係 (リレーション) 等は全くと言ってよいほどに意識されていないことが多い。
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関係データベースは、関係モデル(リレーショナルデータモデル、後述)にもとづいて設計、開発されるデータベースである。関係データベースを管理するデータベース管理システム (DBMS) を関係データベース管理システム (RDBMS) と呼ぶ。 Oracle Database、Microsoft SQL Server、MySQL、PostgreSQL、DB2、FileMaker、H2 Database などがRDBMSである。
'''関係データベース'''(かんけいデータベース、'''リレーショナルデータベース'''、[[英語|英]]: relational database)は、[[関係モデル]](リレーショナルデータモデル、後述)にもとづいて[[データベース設計|設計]]、開発される[[データベース]]である。関係データベースを管理する[[データベース管理システム]] (DBMS) を[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) と呼ぶ。 <!--現在では、データベースという語が関係データベースを指していることが多い。--> [[Oracle Database]]、[[Microsoft SQL Server]]、[[MySQL]]、[[PostgreSQL]]、[[DB2]]、[[FileMaker]]、[[H2 Database]] などがRDBMSである<ref name="footer">関係データベースに含まれないデータベースは、[[NoSQL]] などを参照。</ref> 。<!--の[[データベース管理システム]] (DBMS) がサポートするのは関係データベースである。--> ==関係モデル== [[画像:Relational model concepts_Version_Japanese.png|thumbnail|right|360px|[[関係モデル]]の概念]] {{main|関係モデル}} [[関係モデル]]は[[IBM]]の[[エドガー・F・コッド]]によって考案された<ref>E. F. Cood(1969) "A Relational Model of Data for Large Shared Data Banks" IBM Research Laboratory, California. 全文:http://www.seas.upenn.edu/~zives/03f/cis550/codd.pdf</ref>現在もっとも広く用いられている[[データモデル]]である。[[データベース]]の利用者は、[[クエリ]](問い掛け)をデータベースに与え、データを検索したり、変更することができる。 <!-- クエリ(問い掛け)は例えば、[[公営競技]]における[[投票券 (公営競技)|投票券]]での投票に相当する。それぞれの競走対象の倍率がリアルタイムでデータベースプログラムで計算され、公示される仕組みになっている。 --> データは[[表 (データベース)|表]]に似た構造で管理されるが、[[関係 (データベース)|関係(リレーション)]]と呼ぶ概念でモデル化される。関係(リレーション)は[[組 (データベース)|組]]([[組 (データベース)|タプル]]、表における行に相当する)、[[属性 (データベース)|属性]]([[属性 (データベース)|アトリビュート]]、表における列に相当する)、[[定義域 (データベース)|定義域(ドメイン)]]、[[候補キー]]([[主キー]])、[[外部キー]]などによって構成される。[[SQL]]などに代表される[[データベース言語]]([[問い合わせ言語]])を用いて、関係に対して[[関係代数 (関係モデル)#制限|制限]]・[[関係代数 (関係モデル)#射影|射影]]・[[関係代数 (関係モデル)#結合|結合]]・[[関係代数 (関係モデル)#和|和]]・[[関係代数 (関係モデル)#差|差]]・[[関係代数 (関係モデル)#交わり|交わり]]などの[[関係代数 (関係モデル)|関係代数]]演算(集合演算を含む)ないし[[関係論理]]演算を行うことで結果を取り出す。 関係を複数持つことも可能で、互いを関連させることも可能である。 <!--複数のデータ群が[[関係 (データベース)|関係(リレーション)]]と呼ばれる構造で相互連結可能である 複数の関係を連結させて 複数の[[関係 (データベース)|関係(リレーション)]]を基本的なデータ型とする。複数の関係を連結させてデータを検索したり、変更することができる。--> ===例=== 例えばある[[食品]]を扱う(架空の)[[通信販売]]会社における顧客管理データベースでは、顧客リストと物品販売リストは別々のデータ群であるが、顧客管理番号や顧客名などで連結して情報を抽出することが可能である。これを図表であらわすと、以下の通りになる。 : 食品通信販売会社におけるデータベースの例(※データは架空のもの) {|class="wikitable" |+ 顧客 |- !顧客番号 !顧客氏名 !住所1 !住所2 !電話番号 |- !00001 |相田孝之 |東京都新宿区 |歌舞伎町x-x-x |03-xxxx-xxxx |- !00002 |伊藤美香 |神奈川県横浜市 |中区山下町xx |045-xxx-xxxx |- !00003 |内田浩二 |埼玉県さいたま市 |高砂xx-xx |048-xxx-xxxx |- !style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |} {|class="wikitable" |+ 販売 |- !販売日 !顧客番号 !商品1 !商品2 !商品3 !…… |- !050115 |00002 |吟醸灘一本 |特選おつまみ | | |- !050116 |00001 |神戸和牛セット | | | |- !050116 |00003 |特売・生ハム |粒マスタード |マリーローランサン | |- !050117 |00001 |薩摩黒豚ハム | | | |- !style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |} 例えばこの二つのデータ群を顧客番号で関連付け、顧客番号の代わりに顧客氏名のデータを要求すると、以下のような表になる。通販会社では、これを見て、顧客がどういう物を好むか判断して、新商品の案内を送ったらいいかが把握できる。 {|class="wikitable" |+ 顧客名別売上 |- !顧客氏名 !商品1 !商品2 !商品3 !…… |- !相田孝之 |神戸和牛セット | | | |- !相田孝之 |薩摩黒豚ハム | | | |- !伊藤美香 |吟醸灘一本 |特選おつまみ | | |- !内田浩二 |特売・生ハム |粒マスタード |マリーローランサン | |- !style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |} また販売日を050116(2005年1月16日)で限定して、顧客番号で関連付け、商品と送り先(顧客住所)のデータを要求すると以下のとおり。通販会社はこれを見て、箱に注文された商品を入れ、宅配便の送り状に宛先を記入して商品発送を行うことができる。 {|class="wikitable" |+ 商品発送先 |- !送り先住所1+2 !顧客氏名 !商品1 !商品2 !商品3 !…… |- |東京都新宿区歌舞伎町x-x-x |相田孝之 |神戸和牛セット | | | |- |埼玉県さいたま市高砂xx-xx |内田浩二 |特売・生ハム |粒マスタード |マリー |…… |- |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |style="text-align:center"|⋮ |} このように、目的に合わせてデータを連結させ、求める表を得ることができるのが関係データベースの最大の特徴である。なおデータを連結する際の目安となる項を'''キー'''と呼ぶが、このキーは、全てのデータに一貫して[[一意性制約|一意]]である必要がある。この例では顧客番号がキーであるが、同じ顧客番号で複数の会員が登録されていると、データの抽出に異常が発生する(実際はそのような不適切な重複キーを登録する時点で、クエリエラーとして返信されてくる)。 この様式は、相互のデータベースが別々に存在していることで、各々のデータベース内容の変更に対応させやすく、また相互連結をクエリによって行うことで、逐次的に部分的な登録内容の変更がなされても、随時最新の情報を利用できる点で優れている。上記の例で例えるなら、顧客番号00001の相田氏が引越しをして住所が変った際に、顧客データベースだけを変更して、再び各々の同じクエリ(問い掛け)をデータベースに送信すれば、住所変更後のデータに更新されたものが返信されてくることとなる。 ====例について(備考)==== なお上記の例では、説明の便宜上で'''顧客データベース'''と'''販売データベース'''という2つのテーブル(上に述べたリスト状のデータ群)に分けたが、実際にこのような業務を行うデータベースでは、さらに商品リストのテーブルが別に設けられ、この商品データベースでは各々の商品定価などの情報が管理される(もっといえば、商品データベースも様々な要素でいくつものテーブルに分解されるだろう)など、いくつものテーブルが複雑に連携しあって利用者にデータを提供するよう設計される。これはテーブル上のデータが重複する冗長性を避け、よりデータを管理しやすくするためである。これらもやはりキーによって相互連結されて利用される。 一度きちんと設計されたデータベースでは、複数のクエリもあらかじめ'''定型文'''(定型クエリ)の形で用意され、利用者は何も考えずに用意された定型のクエリを投げ掛けることで、随時最新のデータを元にした表を見ることができる。 これが実際の業務に利用される[[アプリケーションソフトウェア]]の形ともなると、[[グラフィカルユーザインターフェース]] (GUI) などの操作画面を持ち、利用者は画面上のボタンをクリックすることで、プログラム内部でクエリ文が組み合わせによって生成され、データベースに投げ掛けられ、戻ってきたデータをアプリケーション側で処理し、適切な画面上に表示されたり、[[表計算ソフト]]で開くための[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]形式で答えが出力・提供されたりすることとなるため、最終的な利用者側ではクエリや[[関係 (データベース)|関係 (リレーション) ]]等は全くと言ってよいほどに意識されていないことが多い。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[関係モデル|'''関係モデル(リレーショナルモデル)''']] ** [[関係 (データベース)|関係(リレーション)]] ** [[候補キー]] ** '''[[主キー]]''' ** '''[[外部キー]]''' ** '''[[関係の正規化]]''' ** [[関係代数 (関係モデル)]] ** [[関係論理]](関係計算) * [[関係データベース管理システム]] - [[関係データベース管理システムの比較]] * [[トランザクション]] ** [[ACID (コンピュータ科学)]] * [[データ完全性]](一貫性制約) * [[データベース言語]]/[[問い合わせ言語]] ** [[SQL]] ** [[QUEL]] ** [[Tutorial D]] * [[データベース設計]] * [[データモデリング]] * [[オブジェクト関係データベース]] * [[オブジェクトデータベース]] *[[関係代数 (関係モデル)#射影|射影]] *[[関係代数 (関係モデル)|結合]](関係代数) *[[関係代数 (関係モデル)|和]](関係代数・関係モデル) *[[関係代数 (関係モデル)|選択]](関係代数・選択演算) {{Software-stub}} {{DEFAULTSORT:かんけいてえたへえす}} [[Category:関係データベース管理システム|*]] [[Category:データベース管理システム]] [[Category:データモデリング]] [[Category:関係モデル]] [[Category:データベース理論]] [[Category:エドガー・F・コッド]]
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民俗学
民俗学(みんぞくがく、英語: folklore studies / folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民族の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。 民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。 この学問は、近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。通常はfolkloreの訳語とされるが、folkloreは民間伝承(民俗)それ自体をも指すため、英語圏では民俗学をFolklore-StudiesやFolkloristicsと呼ぶことも少なくない。 人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。 時代や学者によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。 日本で民俗学といった場合、一般には日本民俗学を指すが、海外を見ると19世紀の欧米を中心として、多くの国で民俗学に相当する学問が誕生している。誕生の経緯は国ごとの政治的社会的状況や民族学(文化人類学)等との関係によって多様である上に、他の社会科学のように国際的な交流が盛んではなく各国独自の進展をしてきたこともあって、一概に民俗学の歴史を語ることはできない。 ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、主にフランス革命による近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬や民族意識の高まりが存在する。 イギリスでは1846年に、作家のウィリアム・トムズ(William John Thoms)がドイツ語のフォルクスクンデを英語に訳してフォークロアfolkloreの術語を提唱し、古代文化の名残や民謡などを対象に民俗研究の草分けとなったが、学問の組織化としては、1878年にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)らがロンドンに“Folklore Society"(民俗学協会)を設立した時期を端緒とする。進化主義人類学が波及力を持っていた19世紀末のイギリスでは、民俗学も庶民の習俗に見るキリスト教以前の残存(Survival)を対象にするとともに、自民族のみならず海外植民地を関心に入れるなど、人類学との近接性が顕著にみとめられる。それは1885年に民俗学の協会が設立されたフランスも同様であり、20世紀初頭にかけてサンティーヴ(Pierre Saintyves)、ロベール・エルツ(Robert Hertz)、レヴィ=ブリュル(Lucien Levi-Bruhl)、ファン・ヘネップ(Arnold van Gennep)といった学者が、近代的な民俗学・人類学研究を進めた。彼らのアプローチに異同はあるにせよ、民間伝承の起源を遡及し原始的な民族心理の究明を重視する点では概ね共通している。またエルツやレヴィ=ブリュルはモース(Marcel Mauss)やデュルケーム(Emile Durkheim)などと近く、ファン・ヘネップも後にターナー(Victor Turner)へ影響を及ぼすなど、人類学や社会学と不可分の位置にあったこともフランスの民俗学研究の特徴だった。 一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という民族主義的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者のヘルダー(Johann Gottfried Herder)が民族の魂の発露としての民謡の概念を提唱し、次いで昔話収集や古法・法諺の研究で有名なグリム兄弟らが、ドイツロマン主義を背景に神話学としての民俗学への道筋を敷き、それは時代風潮とも合って、一種のブームとなった。そのためロマン派のドイツ民俗学はゲルマニスティク(ドイツ語学・文学研究)との重なりが強かった。その傾向に異を唱えたのは、1850年代のヴィルヘルム・ハインリヒ・リールであった。リールは、ロマン派の民俗学が珍習奇俗の収集とそれを神話との関係で読み解く好事家的な方向にあることを批判し、現実の民衆生活を体系的に把握すべきことを説いた。特に「学問としてのフォルクスクンデ」が重要であるが、ドイツ民俗学の関係者がリールに注目するようになるのは20世紀に入ってからであり、リール自身はグリム兄弟との接触もなく、また生前には民俗学の人脈とはほとんど無関係であった。後にリールはドイツ民俗学の指標とされるようになるが、他方、リールの思想の保守性や反動的性格を指摘する声も根強く、評価をめぐって何度も論争が起きた。 1891年にはグリム兄弟の晩年の弟子でもあるカール・ヴァインホルト(ベルリン大学教授)がベルリン民俗学会を基礎に民俗学協会の設立へと軌道を敷き、それが後に今日のドイツ民俗学会となった。ドイツでは19世紀後半から民俗学が盛んになり、研究組織や愛好団体が多数あったが、統一的組織はなく、その意味でドイツ民俗学会の設立はドイツ民俗学の展開においてエポックとなった。ヴァインホルトはドイツ語史や方言研究を専門とするドイツ語学教授で、グリム兄弟の神話を民俗学の方向へ伸ばし、民俗学を学問へ発展させるべく学会機関誌として『民俗学誌』の刊行も始めた。 20世紀前半には、ハンブルク大学において初めて大学での民俗学ポスト(ただし、設置者の構想ではハンブルク都市史に重点があった)に就いたオットー・ラウファー(Otto Lauffer)、ロマン派の民俗学との決別を劇的に表現したスイスのエードゥァルト・ホフマン=クライヤー(Eduard Hoffman-Krayer)、上層文化/下層文化の二層論を提示したナウマン(Hans Naumann)、心理学的方法を提唱したアードルフ・シュパーマーなど多くの理論家が生まれた。 しかし現行の習俗を古代との連続性(Kontinuität)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出そうとする傾向をもつ民俗学は、本質的に民族主義的な政治イデオロギーに取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の国家社会主義時代には国民統治および人種主義の国策学問へと取り込まれていった。ナチス政権下の国策民俗学機関として「ローゼンベルク機関」と「アーネンエルベ(祖先の遺産)」が組織され、ゲルマン民族の遺産の解明のためあらゆる資料が集められ、その中には荒唐無稽な偽古文書も含まれ、オカルティックな偽史までが国策に利用されていった。ナチス党員としてプロパガンダ作成や民俗行事の創出に積極的に関わった学者は必ずしも多くはなく、熱狂的となったのは若手や少壮が中心で、彼らはまたナチ・エリートでもあったが、他の大半の研究者も批判的視点をもつには程遠く、思想的にナチズムと同質・同根の要素をかかえていたのが実態であり、それだけに問題は根深いものがあった。そうした体質が、戦後、何度か波をつくりながら批判されることになった。戦後の西ドイツ民俗学界は、学問としての信頼を失ったフォルクスクンデを自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。ミュンヘンではハンス・モーザーとカール=ジーギスムント・クラーマーが中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。 現行の民俗事象の把握では、テュービンゲン大学のヘルマン・バウジンガーが最初の主要著作『科学技術世界のなかの民俗文化』(1961年刊)において、科学的な技術機器と常に身近に接する生活のあり方こそ近・現代の生活文化の基本であるとの観点に立ち、逆に伝統文化や伝承には一種の異質性とそれゆえの吸引力があることに着目して、民俗学の背景となっていた、伝統・伝承に基底的なものを見てきた従来の通念を覆すような理解の構図を提示した。またこれに理論的な支柱を得てハンス・モーザーがフォークロリズム(フォークロリスムス、Folklorismus)の概念を提起し、さらにバウジンガーが補強したことによって、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込むことが大幅に進展し、変化しにくいとされる伝統習俗に固執する旧い民俗学からの脱却が図られた。 バウジンガーは、1971年、テュービンゲン大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft(経験的[型]文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容し、また近年ではEUが日常生活の次元でも枠組みとなる趨勢もあって、マールブルク大学を先駆けとするヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデの二重名称を採用することが多くなっている。日本でも、ドイツの動きに刺激されて、民俗学の名称への疑問が起きている。ただし、学問名称をめぐっては、ドイツ民俗学の研究者河野眞は、ドイツ語の「フォルクスクンデ」は一般語であると共に、<民の覚え>といった古めかしくもあれば馴染みやすくもある語感をもち、それゆえ言葉が独り歩きして混乱を大きくした面があること、それに対して日本語の「民俗学」は民俗研究をもっぱら指す造語の性格にあり、その違いを見ると、学問名称の当否に関するかぎり日本語の場合大きな問題ではなく、むしろドイツ民俗学界において名称変更を機になされた議論の中身に注目すべきであると説いている。 日本での民俗学は近世における国学や本草学にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは坪井正五郎が東京人類学会を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・自然人類学・考古学等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、新渡戸稲造らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の柳田國男は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した南方熊楠にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。 ヨーロッパのフォークロアやエスノロジーが、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学へのアンチテーゼとして、二つには進化主義的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには地方改良運動に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。 1935年には柳田を中心に「民間伝承の会」が設立され、機関誌の発刊や民俗学講習会が行われた。またこの時代に柳田は概説書を精力的に執筆しており、学説史の中では学問としての組織や方法が整った1930年代半ばを民俗学の完成時期と見なすのが一般的である。1949年、「民間伝承の会」は日本民俗学会と改称され、この頃から大学にも民俗学の講座が設置されるようになった。それまでの民俗学は柳田邸で行われる木曜会や雑誌上において柳田が学徒を直接指導し、その成果が子弟を通じて全国に広まっていくという意味で、アカデミズムの枠外で展開した一種の運動体だったが、戦後の学制の中では國學院大學や東京教育大学、成城大学などにおいて専門教育が開始されることにより、現在にまで至る教育・研究の制度的枠組みが誕生した。また神奈川大学ではアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)が移設設置され民俗資料学が研究されている。 民俗学の調査手法としては、庶民の生活を総体的に把握するという目的を果たすため、農山漁村を中心とした集落に滞在し、聞き取り(聞き書き)調査や紙資料を含む文字資料(金石文、棟札など)の収集、建築物や民具など物質文化の記録、あるいは生業、共同労働、年中行事、人生儀礼などの場への参与観察、そして民俗誌の記述が主体となる。フィールドワークの蓄積からエスノグラフィーを描くことを重視するという意味では文化人類学の手法に近似するが、マリノフスキー以降の近代人類学が研究者個人による数ヶ月〜数年の長期滞在調査を基本とするのに対し、民俗学では数日〜数ヶ月スパンの中短期調査を繰り返し行うことが多く、また複数研究者による共同調査が実施されることも多い。 初期の民俗学では日本各地から集められた民俗資料を類型化・比較し、日本全体の枠組みの中で民俗事象の歴史的変遷を明らかにするという「重出立証法」が採られた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作を元に柳田國男が提唱したこの方法論は長く民俗学の基礎理論だったが、一方では山口麻太郎や和歌森太郎などからは民俗の地域性を過小評価する方法論だとする批判意見も出された。学説史の中で最も影響力のある批判は福田アジオによるもので、民俗を日本全体での比較ではなく、それが伝承される村落や信仰組織等と切り離さずに分析すべきという「個別分析法」を提唱した。構造機能主義人類学の影響が色濃い福田の方法は、村落社会において民俗を捉え、それが生活の中で相互に連関しながら全体として有している意味を明らかにしようとする。民族全体のスケールの大きい歴史を追ってきたそれ以前の民俗学に比べ、福田の方法論は小規模集落(ムラ)の歴史それ自体をより実証的に描こうとする点に特色があり、同世代の宮田登が提唱する地域民俗学とともにポスト柳田民俗学の方法論として影響した。 もともと民俗学は文化人類学や社会学、宗教学、歴史学など多くの分野と密接に関連しており、ライフヒストリー研究やパフォーマンス理論、社会史、身体論等、研究対象によってはそれらの分野に通じる方法論が用いられることも多々ある。いずれにせよ民俗学の研究方法は分析的(Analytical)というよりは記述的(Descriptive)であり、対象へのインテンシブな調査を元に厚い記述(ギルバート・ライル)を目指す、いわゆる質的研究の一つに位置づけられる。 上に掲げた伝承されてきたさまざまな民俗事象が、民俗学の研究対象として説明されることが多いが、ドイツの民俗学者ハンス・ナウマン(Hans Naumann)は、民俗学の研究対象を「基層文化」すなわち、表層文化に対して、素朴で集団的、また類型的な日常的生活文化、伝承性の濃厚な文化としている。いずれにせよ、上に掲げたそれぞれは、民俗学における基本的な資料となっており、その意味から民俗資料と称される。 「民俗資料」の語の使用は、柳田國男が最初であり、折口信夫も用いているが、2人とも当初からはっきりした規定をしているわけではなかった。ただし、柳田は『民間伝承論』のなかで、 という三分法の類別を提示しており、さらにこれを、1.有形文化・生活技術誌―旅人の学、2.言語芸術・口承文芸―寄寓者の学、3.生活解説・生活観念・生活の諸様式―同郷人の学、というように趣旨説明している。 いっぽう折口は、 という民俗資料の分類をおこなっている。 はば広く「民俗資料」の語が一般に定着し、明確な概念規定が法令上なされたのは、1954年(昭和29年)の「文化財保護法」の第一次改正において「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習及びこれに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」として文化財のひとつとして保護の対象となって以来であった。以後、文化庁文化財保護部(現在の文化財部)によって「無形の民俗資料記録」なども編まれるに至っている。 「民俗資料」の名称とともに、そのなかで資料価値の高いものが文化財となって、保護の対象となりうることの了解が社会で広がり、今日では文化財の分類名称としての「民俗資料」は「民俗文化財」と改称されている。その一方で、現代では、文化財の指定の有無とは関係なく、民俗学において、庶民の生活史の推移の理解のために必要な伝承資料全般を民俗資料と呼称している。 都市化によって民俗学が主たるフィールドとしてきた閉鎖性の高い農村は実質的に消滅し、一見伝統的な生活様式を保っているように見える地域にも、過疎化や観光開発、産業構造の変化等、古いタイプの民俗調査ではカバーしきれない状況が生まれつつある。また民俗学の黎明期には日本の人口の多くを占めてきた農村人口も、現在では都市人口に圧倒され、都市住民および都市の生活様式が一般性を持つに到った。こうした対象の変化に対して、現代の民俗学はさまざまな新分野を開拓しつつある。 「民俗の消滅」が盛んに議論された1970年代〜80年代にかけては、都市民俗学のブームやアメリカ民俗学の影響を受けた都市伝説研究の隆盛が見られた。また1990年代以降は観光人類学の影響を受けた地域開発・観光化の研究、文化財制度の研究等、現代社会のシステムと地域の関係を問う動きが増加する。更に同時期には国民国家論批判の文脈から柳田國男の民俗学観の批判的検証が盛んに行われ、柳田民俗学が中心的に扱ってこなかった漂泊民などのいわゆるサンカ、「非常民」、性を主題とする研究に焦点が当てられることも増加した。 また、韓国や台湾、中国、モンゴル、東南アジアなどで比較民俗学の観点から実地調査を行ったり、ヨーロッパの村落を調査する試みも現れている。 戦後学問としての民俗学の体系がおおよそ完成し、大学などにおける研究が盛んになったが、民間における研究活動が収縮したわけではなく、「在野」と「アカデミズム」が混在または並立する日本民俗学独特の研究体制が存在する。 「在野」においては、戦前から日本各地に地方学会と呼ばれる学会、研究会が組織され、地域に根ざした研究活動がなされており、日本民俗学の大きな一角を担っている。会名に都道府県名を冠した団体が多い。石仏(石造物)、特定の宗派などの専門特化した研究団体も多く設立され、地域、分野など様々な切り口で研究がなされており、自治体誌編纂や文化財調査にも活躍している。 大学においては、民俗学関係の大学院教育が充実さを増し、國學院大學、筑波大学(1975年)、成城大学(1973年)、神奈川大学(1921年アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)の移設)などが著名である。また、1950年代に正規の学科、研究科のほかに学生や卒業生、教職員などを対象にした研究会、学生サークルが多く設立された。正課授業などと連携して研究や教育が積極的に行なう方法や(國學院大學、成城大学などの学生サークル)、民俗調査(民俗採集)や資料収集に特化するなど、形式、目的は様々だが、いずれも民俗資料収集や研究者養成に大きく貢献するなど、日本民俗学界において重要な地位を占めている。 研究団体の多くは、入会に際して職業、学歴、住所等を問われないのが一般的であり、日本民俗学会も民俗学に興味がある、会費納入などの一般的な条件を除いては会員資格を特に定めていない(ただし、会員による紹介と理事会の承認が必要とされている)。これには、会員資格を特に定めないことにより、民俗事象に関心があるという以外に共通項がない者同士の横のつながりを持たせるという機能がある。 研究を行う者の職業は、民俗学の研究を職業としている者のほかには、会社員、公務員、自営業、主婦、農業、無職(定年退職した者など)など様々であり、学生や大学等の研究者の中には民俗学を専門にしていない(まったく関わりが無い分野)者もいる。これにより、学会などでの発表や会合で名乗る肩書きは、在住都道府県名と氏名を名乗ることが慣習として行なわれてきたが、最近では在籍研究機関名を名乗る者も出てきている。ちなみに研究機関に所属していない研究者が在職の会社名を名乗ったり、無職、主婦などの職業名で名乗ることはあまり無い。 研究職以外の者が研究を続けるには、本人の意志、家族の協力、経済的余裕(研究費用は原則自己負担になる。特に民俗採訪の際の交通費や滞在費、資料の購入費がかさむ)、時間的余裕などの一定の要件が必要になってくる。サラリーマン(特に公務員)では、兼職や副業と誤解されたり、“趣味にかまけている”といった評価を受けたりしないためにも、場合によっては勤務先の理解も必要な場合がある。 「民俗学研究者」の定義もあいまいになる。日本民俗学の中心的な機関は日本民俗学会であり、本格的研究を行なっている者はほぼ会員になっている(同学会の歴史に柳田が大きく関わっているため“反柳田”的な研究者の中にはあえて入らない者もいる)が、事実上、日本民俗学会会員=民俗学者という構図が暗黙の了解として存在していた。これ以外には、地元の源義経や弘法大師の伝説などが実話であることの証拠や資料探しに奔走している者や、いわゆる郷土史家と呼ばれる者の中には民俗学研究者を名乗る者がたまにあり、誰でも“研究者”を名乗れてしまう問題もある。 なお、同学会の会員では、会員名簿の情報の範囲において、近年は大学等の研究者、博物館学芸員、文化財関係者などの割合が増えている。また、現在の同学会の役員は、ほぼ全員が大学等の研究者であり、必然的に大卒以上の学歴を所持している。 研究を始めるきっかけも様々で、単純に自らの住む地域の文化・風習に興味を持ったというものから、他分野(社会学・歴史学・経済学・農学等)の研究者・出身者が隣接分野として興味を持ち始めるもの、民俗事象に関連がある趣味(歴史散策、旅行、鉄道、登山、神社仏閣めぐりなど)を通じて興味を持ち始めるものなど多種多様である。民俗学自体が他の諸学問などと密接に、有機的に関わりがあることを表している。また、大学生が民俗学関係の大学・研究室・サークルに入った理由としては、「田舎が好き」、「妖怪や都市伝説に興味がある」、「民謡、昔話が好き」、「博物館に就職したい」などを挙げる者が多く、入学当初に学問体系としての民俗学自体に関心がある者は比較的少ない。 民俗学界において在野性やアカデミズムに関する議論は、職業などによる区別(差別)、日本民俗学史上の多くの民間研究者の功績などの問題があるためあまりされてこなかった(最近では2005年の第57回日本民俗学会年会において「野の学問とアカデミズム」がテーマとして取り上げられた)。議論を間違えると、学歴や職業によって対立が起こりかねない。また、大学等の研究者の中にはこの在野性を嫌うものもおり、これらを排除して大学などに所属する職業民俗学者のみを民俗学研究者とする「普通の学問」にすべき、考古学や天文学のように民俗学者と民俗学ファンといった形でたとえ緩やかにでも区分すべきという論調も見られる。 在野性を帯びるという特性から、大学関係者を除いて上下関係や師弟関係もほとんど無く、他分野の研究者からは自由な学風と評されることも多い。しかし反面、“みんなで研究”という雰囲気や、特に地方学会において学術研究的思考や論文執筆に不慣れな者が多いことから、情緒的、趣味的と揶揄されたり、妖怪や方言、民謡、昔話といった“素人受け”をする分野を抱えることなどから、民俗学を非科学的なイメージで捉える者も少なからずいる。また、他の学問分野や諸趣味、海外の民俗学界などと連携や共有できる部分が多くあるものの、これまではあまり積極的にされてこなかった。日本民俗学界は、これからは社会の変化に対して民俗学がどうあるべきかといった議論はもちろん、こうした他分野や社会とどういった関わりを持つことが出来るのか模索していくことになる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "民俗学(みんぞくがく、英語: folklore studies / folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民族の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この学問は、近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。通常はfolkloreの訳語とされるが、folkloreは民間伝承(民俗)それ自体をも指すため、英語圏では民俗学をFolklore-StudiesやFolkloristicsと呼ぶことも少なくない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "時代や学者によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。", "title": "学問としての諸特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本で民俗学といった場合、一般には日本民俗学を指すが、海外を見ると19世紀の欧米を中心として、多くの国で民俗学に相当する学問が誕生している。誕生の経緯は国ごとの政治的社会的状況や民族学(文化人類学)等との関係によって多様である上に、他の社会科学のように国際的な交流が盛んではなく各国独自の進展をしてきたこともあって、一概に民俗学の歴史を語ることはできない。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、主にフランス革命による近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬や民族意識の高まりが存在する。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イギリスでは1846年に、作家のウィリアム・トムズ(William John Thoms)がドイツ語のフォルクスクンデを英語に訳してフォークロアfolkloreの術語を提唱し、古代文化の名残や民謡などを対象に民俗研究の草分けとなったが、学問の組織化としては、1878年にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)らがロンドンに“Folklore Society\"(民俗学協会)を設立した時期を端緒とする。進化主義人類学が波及力を持っていた19世紀末のイギリスでは、民俗学も庶民の習俗に見るキリスト教以前の残存(Survival)を対象にするとともに、自民族のみならず海外植民地を関心に入れるなど、人類学との近接性が顕著にみとめられる。それは1885年に民俗学の協会が設立されたフランスも同様であり、20世紀初頭にかけてサンティーヴ(Pierre Saintyves)、ロベール・エルツ(Robert Hertz)、レヴィ=ブリュル(Lucien Levi-Bruhl)、ファン・ヘネップ(Arnold van Gennep)といった学者が、近代的な民俗学・人類学研究を進めた。彼らのアプローチに異同はあるにせよ、民間伝承の起源を遡及し原始的な民族心理の究明を重視する点では概ね共通している。またエルツやレヴィ=ブリュルはモース(Marcel Mauss)やデュルケーム(Emile Durkheim)などと近く、ファン・ヘネップも後にターナー(Victor Turner)へ影響を及ぼすなど、人類学や社会学と不可分の位置にあったこともフランスの民俗学研究の特徴だった。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という民族主義的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者のヘルダー(Johann Gottfried Herder)が民族の魂の発露としての民謡の概念を提唱し、次いで昔話収集や古法・法諺の研究で有名なグリム兄弟らが、ドイツロマン主義を背景に神話学としての民俗学への道筋を敷き、それは時代風潮とも合って、一種のブームとなった。そのためロマン派のドイツ民俗学はゲルマニスティク(ドイツ語学・文学研究)との重なりが強かった。その傾向に異を唱えたのは、1850年代のヴィルヘルム・ハインリヒ・リールであった。リールは、ロマン派の民俗学が珍習奇俗の収集とそれを神話との関係で読み解く好事家的な方向にあることを批判し、現実の民衆生活を体系的に把握すべきことを説いた。特に「学問としてのフォルクスクンデ」が重要であるが、ドイツ民俗学の関係者がリールに注目するようになるのは20世紀に入ってからであり、リール自身はグリム兄弟との接触もなく、また生前には民俗学の人脈とはほとんど無関係であった。後にリールはドイツ民俗学の指標とされるようになるが、他方、リールの思想の保守性や反動的性格を指摘する声も根強く、評価をめぐって何度も論争が起きた。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1891年にはグリム兄弟の晩年の弟子でもあるカール・ヴァインホルト(ベルリン大学教授)がベルリン民俗学会を基礎に民俗学協会の設立へと軌道を敷き、それが後に今日のドイツ民俗学会となった。ドイツでは19世紀後半から民俗学が盛んになり、研究組織や愛好団体が多数あったが、統一的組織はなく、その意味でドイツ民俗学会の設立はドイツ民俗学の展開においてエポックとなった。ヴァインホルトはドイツ語史や方言研究を専門とするドイツ語学教授で、グリム兄弟の神話を民俗学の方向へ伸ばし、民俗学を学問へ発展させるべく学会機関誌として『民俗学誌』の刊行も始めた。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "20世紀前半には、ハンブルク大学において初めて大学での民俗学ポスト(ただし、設置者の構想ではハンブルク都市史に重点があった)に就いたオットー・ラウファー(Otto Lauffer)、ロマン派の民俗学との決別を劇的に表現したスイスのエードゥァルト・ホフマン=クライヤー(Eduard Hoffman-Krayer)、上層文化/下層文化の二層論を提示したナウマン(Hans Naumann)、心理学的方法を提唱したアードルフ・シュパーマーなど多くの理論家が生まれた。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし現行の習俗を古代との連続性(Kontinuität)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出そうとする傾向をもつ民俗学は、本質的に民族主義的な政治イデオロギーに取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の国家社会主義時代には国民統治および人種主義の国策学問へと取り込まれていった。ナチス政権下の国策民俗学機関として「ローゼンベルク機関」と「アーネンエルベ(祖先の遺産)」が組織され、ゲルマン民族の遺産の解明のためあらゆる資料が集められ、その中には荒唐無稽な偽古文書も含まれ、オカルティックな偽史までが国策に利用されていった。ナチス党員としてプロパガンダ作成や民俗行事の創出に積極的に関わった学者は必ずしも多くはなく、熱狂的となったのは若手や少壮が中心で、彼らはまたナチ・エリートでもあったが、他の大半の研究者も批判的視点をもつには程遠く、思想的にナチズムと同質・同根の要素をかかえていたのが実態であり、それだけに問題は根深いものがあった。そうした体質が、戦後、何度か波をつくりながら批判されることになった。戦後の西ドイツ民俗学界は、学問としての信頼を失ったフォルクスクンデを自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。ミュンヘンではハンス・モーザーとカール=ジーギスムント・クラーマーが中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現行の民俗事象の把握では、テュービンゲン大学のヘルマン・バウジンガーが最初の主要著作『科学技術世界のなかの民俗文化』(1961年刊)において、科学的な技術機器と常に身近に接する生活のあり方こそ近・現代の生活文化の基本であるとの観点に立ち、逆に伝統文化や伝承には一種の異質性とそれゆえの吸引力があることに着目して、民俗学の背景となっていた、伝統・伝承に基底的なものを見てきた従来の通念を覆すような理解の構図を提示した。またこれに理論的な支柱を得てハンス・モーザーがフォークロリズム(フォークロリスムス、Folklorismus)の概念を提起し、さらにバウジンガーが補強したことによって、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込むことが大幅に進展し、変化しにくいとされる伝統習俗に固執する旧い民俗学からの脱却が図られた。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "バウジンガーは、1971年、テュービンゲン大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft(経験的[型]文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容し、また近年ではEUが日常生活の次元でも枠組みとなる趨勢もあって、マールブルク大学を先駆けとするヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデの二重名称を採用することが多くなっている。日本でも、ドイツの動きに刺激されて、民俗学の名称への疑問が起きている。ただし、学問名称をめぐっては、ドイツ民俗学の研究者河野眞は、ドイツ語の「フォルクスクンデ」は一般語であると共に、<民の覚え>といった古めかしくもあれば馴染みやすくもある語感をもち、それゆえ言葉が独り歩きして混乱を大きくした面があること、それに対して日本語の「民俗学」は民俗研究をもっぱら指す造語の性格にあり、その違いを見ると、学問名称の当否に関するかぎり日本語の場合大きな問題ではなく、むしろドイツ民俗学界において名称変更を機になされた議論の中身に注目すべきであると説いている。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本での民俗学は近世における国学や本草学にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは坪井正五郎が東京人類学会を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・自然人類学・考古学等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、新渡戸稲造らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の柳田國男は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した南方熊楠にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ヨーロッパのフォークロアやエスノロジーが、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学へのアンチテーゼとして、二つには進化主義的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには地方改良運動に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1935年には柳田を中心に「民間伝承の会」が設立され、機関誌の発刊や民俗学講習会が行われた。またこの時代に柳田は概説書を精力的に執筆しており、学説史の中では学問としての組織や方法が整った1930年代半ばを民俗学の完成時期と見なすのが一般的である。1949年、「民間伝承の会」は日本民俗学会と改称され、この頃から大学にも民俗学の講座が設置されるようになった。それまでの民俗学は柳田邸で行われる木曜会や雑誌上において柳田が学徒を直接指導し、その成果が子弟を通じて全国に広まっていくという意味で、アカデミズムの枠外で展開した一種の運動体だったが、戦後の学制の中では國學院大學や東京教育大学、成城大学などにおいて専門教育が開始されることにより、現在にまで至る教育・研究の制度的枠組みが誕生した。また神奈川大学ではアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)が移設設置され民俗資料学が研究されている。", "title": "民俗学史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "民俗学の調査手法としては、庶民の生活を総体的に把握するという目的を果たすため、農山漁村を中心とした集落に滞在し、聞き取り(聞き書き)調査や紙資料を含む文字資料(金石文、棟札など)の収集、建築物や民具など物質文化の記録、あるいは生業、共同労働、年中行事、人生儀礼などの場への参与観察、そして民俗誌の記述が主体となる。フィールドワークの蓄積からエスノグラフィーを描くことを重視するという意味では文化人類学の手法に近似するが、マリノフスキー以降の近代人類学が研究者個人による数ヶ月〜数年の長期滞在調査を基本とするのに対し、民俗学では数日〜数ヶ月スパンの中短期調査を繰り返し行うことが多く、また複数研究者による共同調査が実施されることも多い。", "title": "民俗学研究法" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "初期の民俗学では日本各地から集められた民俗資料を類型化・比較し、日本全体の枠組みの中で民俗事象の歴史的変遷を明らかにするという「重出立証法」が採られた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作を元に柳田國男が提唱したこの方法論は長く民俗学の基礎理論だったが、一方では山口麻太郎や和歌森太郎などからは民俗の地域性を過小評価する方法論だとする批判意見も出された。学説史の中で最も影響力のある批判は福田アジオによるもので、民俗を日本全体での比較ではなく、それが伝承される村落や信仰組織等と切り離さずに分析すべきという「個別分析法」を提唱した。構造機能主義人類学の影響が色濃い福田の方法は、村落社会において民俗を捉え、それが生活の中で相互に連関しながら全体として有している意味を明らかにしようとする。民族全体のスケールの大きい歴史を追ってきたそれ以前の民俗学に比べ、福田の方法論は小規模集落(ムラ)の歴史それ自体をより実証的に描こうとする点に特色があり、同世代の宮田登が提唱する地域民俗学とともにポスト柳田民俗学の方法論として影響した。", "title": "民俗学研究法" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "もともと民俗学は文化人類学や社会学、宗教学、歴史学など多くの分野と密接に関連しており、ライフヒストリー研究やパフォーマンス理論、社会史、身体論等、研究対象によってはそれらの分野に通じる方法論が用いられることも多々ある。いずれにせよ民俗学の研究方法は分析的(Analytical)というよりは記述的(Descriptive)であり、対象へのインテンシブな調査を元に厚い記述(ギルバート・ライル)を目指す、いわゆる質的研究の一つに位置づけられる。", "title": "民俗学研究法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上に掲げた伝承されてきたさまざまな民俗事象が、民俗学の研究対象として説明されることが多いが、ドイツの民俗学者ハンス・ナウマン(Hans Naumann)は、民俗学の研究対象を「基層文化」すなわち、表層文化に対して、素朴で集団的、また類型的な日常的生活文化、伝承性の濃厚な文化としている。いずれにせよ、上に掲げたそれぞれは、民俗学における基本的な資料となっており、その意味から民俗資料と称される。", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「民俗資料」の語の使用は、柳田國男が最初であり、折口信夫も用いているが、2人とも当初からはっきりした規定をしているわけではなかった。ただし、柳田は『民間伝承論』のなかで、", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "という三分法の類別を提示しており、さらにこれを、1.有形文化・生活技術誌―旅人の学、2.言語芸術・口承文芸―寄寓者の学、3.生活解説・生活観念・生活の諸様式―同郷人の学、というように趣旨説明している。", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "いっぽう折口は、", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "という民俗資料の分類をおこなっている。", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "はば広く「民俗資料」の語が一般に定着し、明確な概念規定が法令上なされたのは、1954年(昭和29年)の「文化財保護法」の第一次改正において「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習及びこれに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」として文化財のひとつとして保護の対象となって以来であった。以後、文化庁文化財保護部(現在の文化財部)によって「無形の民俗資料記録」なども編まれるに至っている。", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「民俗資料」の名称とともに、そのなかで資料価値の高いものが文化財となって、保護の対象となりうることの了解が社会で広がり、今日では文化財の分類名称としての「民俗資料」は「民俗文化財」と改称されている。その一方で、現代では、文化財の指定の有無とは関係なく、民俗学において、庶民の生活史の推移の理解のために必要な伝承資料全般を民俗資料と呼称している。", "title": "研究対象と資料" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "都市化によって民俗学が主たるフィールドとしてきた閉鎖性の高い農村は実質的に消滅し、一見伝統的な生活様式を保っているように見える地域にも、過疎化や観光開発、産業構造の変化等、古いタイプの民俗調査ではカバーしきれない状況が生まれつつある。また民俗学の黎明期には日本の人口の多くを占めてきた農村人口も、現在では都市人口に圧倒され、都市住民および都市の生活様式が一般性を持つに到った。こうした対象の変化に対して、現代の民俗学はさまざまな新分野を開拓しつつある。", "title": "日本民俗学の変化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「民俗の消滅」が盛んに議論された1970年代〜80年代にかけては、都市民俗学のブームやアメリカ民俗学の影響を受けた都市伝説研究の隆盛が見られた。また1990年代以降は観光人類学の影響を受けた地域開発・観光化の研究、文化財制度の研究等、現代社会のシステムと地域の関係を問う動きが増加する。更に同時期には国民国家論批判の文脈から柳田國男の民俗学観の批判的検証が盛んに行われ、柳田民俗学が中心的に扱ってこなかった漂泊民などのいわゆるサンカ、「非常民」、性を主題とする研究に焦点が当てられることも増加した。", "title": "日本民俗学の変化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、韓国や台湾、中国、モンゴル、東南アジアなどで比較民俗学の観点から実地調査を行ったり、ヨーロッパの村落を調査する試みも現れている。", "title": "日本民俗学の変化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "戦後学問としての民俗学の体系がおおよそ完成し、大学などにおける研究が盛んになったが、民間における研究活動が収縮したわけではなく、「在野」と「アカデミズム」が混在または並立する日本民俗学独特の研究体制が存在する。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「在野」においては、戦前から日本各地に地方学会と呼ばれる学会、研究会が組織され、地域に根ざした研究活動がなされており、日本民俗学の大きな一角を担っている。会名に都道府県名を冠した団体が多い。石仏(石造物)、特定の宗派などの専門特化した研究団体も多く設立され、地域、分野など様々な切り口で研究がなされており、自治体誌編纂や文化財調査にも活躍している。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大学においては、民俗学関係の大学院教育が充実さを増し、國學院大學、筑波大学(1975年)、成城大学(1973年)、神奈川大学(1921年アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)の移設)などが著名である。また、1950年代に正規の学科、研究科のほかに学生や卒業生、教職員などを対象にした研究会、学生サークルが多く設立された。正課授業などと連携して研究や教育が積極的に行なう方法や(國學院大學、成城大学などの学生サークル)、民俗調査(民俗採集)や資料収集に特化するなど、形式、目的は様々だが、いずれも民俗資料収集や研究者養成に大きく貢献するなど、日本民俗学界において重要な地位を占めている。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "研究団体の多くは、入会に際して職業、学歴、住所等を問われないのが一般的であり、日本民俗学会も民俗学に興味がある、会費納入などの一般的な条件を除いては会員資格を特に定めていない(ただし、会員による紹介と理事会の承認が必要とされている)。これには、会員資格を特に定めないことにより、民俗事象に関心があるという以外に共通項がない者同士の横のつながりを持たせるという機能がある。 研究を行う者の職業は、民俗学の研究を職業としている者のほかには、会社員、公務員、自営業、主婦、農業、無職(定年退職した者など)など様々であり、学生や大学等の研究者の中には民俗学を専門にしていない(まったく関わりが無い分野)者もいる。これにより、学会などでの発表や会合で名乗る肩書きは、在住都道府県名と氏名を名乗ることが慣習として行なわれてきたが、最近では在籍研究機関名を名乗る者も出てきている。ちなみに研究機関に所属していない研究者が在職の会社名を名乗ったり、無職、主婦などの職業名で名乗ることはあまり無い。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "研究職以外の者が研究を続けるには、本人の意志、家族の協力、経済的余裕(研究費用は原則自己負担になる。特に民俗採訪の際の交通費や滞在費、資料の購入費がかさむ)、時間的余裕などの一定の要件が必要になってくる。サラリーマン(特に公務員)では、兼職や副業と誤解されたり、“趣味にかまけている”といった評価を受けたりしないためにも、場合によっては勤務先の理解も必要な場合がある。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「民俗学研究者」の定義もあいまいになる。日本民俗学の中心的な機関は日本民俗学会であり、本格的研究を行なっている者はほぼ会員になっている(同学会の歴史に柳田が大きく関わっているため“反柳田”的な研究者の中にはあえて入らない者もいる)が、事実上、日本民俗学会会員=民俗学者という構図が暗黙の了解として存在していた。これ以外には、地元の源義経や弘法大師の伝説などが実話であることの証拠や資料探しに奔走している者や、いわゆる郷土史家と呼ばれる者の中には民俗学研究者を名乗る者がたまにあり、誰でも“研究者”を名乗れてしまう問題もある。 なお、同学会の会員では、会員名簿の情報の範囲において、近年は大学等の研究者、博物館学芸員、文化財関係者などの割合が増えている。また、現在の同学会の役員は、ほぼ全員が大学等の研究者であり、必然的に大卒以上の学歴を所持している。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "研究を始めるきっかけも様々で、単純に自らの住む地域の文化・風習に興味を持ったというものから、他分野(社会学・歴史学・経済学・農学等)の研究者・出身者が隣接分野として興味を持ち始めるもの、民俗事象に関連がある趣味(歴史散策、旅行、鉄道、登山、神社仏閣めぐりなど)を通じて興味を持ち始めるものなど多種多様である。民俗学自体が他の諸学問などと密接に、有機的に関わりがあることを表している。また、大学生が民俗学関係の大学・研究室・サークルに入った理由としては、「田舎が好き」、「妖怪や都市伝説に興味がある」、「民謡、昔話が好き」、「博物館に就職したい」などを挙げる者が多く、入学当初に学問体系としての民俗学自体に関心がある者は比較的少ない。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "民俗学界において在野性やアカデミズムに関する議論は、職業などによる区別(差別)、日本民俗学史上の多くの民間研究者の功績などの問題があるためあまりされてこなかった(最近では2005年の第57回日本民俗学会年会において「野の学問とアカデミズム」がテーマとして取り上げられた)。議論を間違えると、学歴や職業によって対立が起こりかねない。また、大学等の研究者の中にはこの在野性を嫌うものもおり、これらを排除して大学などに所属する職業民俗学者のみを民俗学研究者とする「普通の学問」にすべき、考古学や天文学のように民俗学者と民俗学ファンといった形でたとえ緩やかにでも区分すべきという論調も見られる。", "title": "在野の学としての日本民俗学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "在野性を帯びるという特性から、大学関係者を除いて上下関係や師弟関係もほとんど無く、他分野の研究者からは自由な学風と評されることも多い。しかし反面、“みんなで研究”という雰囲気や、特に地方学会において学術研究的思考や論文執筆に不慣れな者が多いことから、情緒的、趣味的と揶揄されたり、妖怪や方言、民謡、昔話といった“素人受け”をする分野を抱えることなどから、民俗学を非科学的なイメージで捉える者も少なからずいる。また、他の学問分野や諸趣味、海外の民俗学界などと連携や共有できる部分が多くあるものの、これまではあまり積極的にされてこなかった。日本民俗学界は、これからは社会の変化に対して民俗学がどうあるべきかといった議論はもちろん、こうした他分野や社会とどういった関わりを持つことが出来るのか模索していくことになる。", "title": "在野の学としての日本民俗学" } ]
民俗学は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民族の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。
{{混同|民族学}} {{複数の問題 |脚注の不足=2023年9月 |独自研究=2022年5月}} '''民俗学'''(みんぞくがく、{{lang-en|folklore studies / folkloristics}})は、[[学問]][[wikt:領域|領域]]のひとつ。高度な[[文明]]を有する諸国家において、自国民族の日常生活文化の[[歴史]]を、[[民間伝承]]をおもな[[資料]]として再構成しようとする学問で、[[民族学]]や[[文化人類学]]の近接領域である。 == 概要 == 民俗学は、[[風俗]]や[[習慣]]、[[伝説]]、[[民話]]、[[歌謡]]、生活用具、[[家屋]]など古くから民間で[[伝承]]されてきた有形、無形の[[民俗資料]]をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。 この学問は、[[近代化]]によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく[[伝統|伝統文化]]への[[ロマン主義]]的な憧憬や[[ナショナリズム]]の高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、[[ヨーロッパ]]特に[[イギリス]]の[[ケンブリッジ (曖昧さ回避)|ケンブリッジ学派]]の強い影響をうけて、[[柳田國男]]や[[折口信夫]]らによって近代科学として完成された。通常は''folklore''の訳語とされるが、[[:en:folklore|folklore]]は[[民間伝承]](民俗)それ自体をも指すため、英語圏では民俗学をFolklore-Studiesや[[:en:Folkloristics|Folkloristics]]と呼ぶことも少なくない。 人間の生活には、誕生から、[[育児]]、[[結婚]]、[[死]]に至るまでさまざまな[[儀式]]が伴っている。こうした[[通過儀礼]]とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。 == 学問としての諸特徴 == [[時代]]や[[学者]]によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。 # [[研究]]の目的は、ある[[民族]]の[[伝統]]的な[[文化_(代表的なトピック)|文化]]、[[信仰]]、風俗、[[慣習]]、[[思考]]の様式を解明することにある。また、こうした対象の歴史的変遷とともに、時代をさかのぼりながらその原初形態を明らかにしようとする傾向を持つ。 # 研究の対象が自民族の[[基層文化]]である場合は、他民族の事例を自民族の研究の補助材料として使う場合が多い。 # 研究の手法として、[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]のほか、現代社会に残存する[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[風習]]・思考の様式を重視する。このため[[フィールド・ワーク]]による材料収集を行う。 # また[[未開]]であると考えられる他民族の文化・風習・思考の様式を、人間のプリミティブな[[精神]][[活動]]のあらわれであると考え、これを研究上の材料または補助材料とすることも多い(この点について、現在では[[ポストコロニアル理論|ポストコロニアル]]な考えから批判が行われることがある)。「未開」と「古代」(始原)の同一視は民俗学の特色のひとつである。 # 現代人が[[無意識]]のうちに行っていること、あるいは合理的な説明をつけながら行っていることのなかに、古代的な意味を見出す、という型の研究が多い。 # 日本では[[文学]]研究・[[批評]]に大きな影響を与えており、この点で[[文化人類学]]・[[民族学]]とは異なった特色がある。 # 特に[[日本]]の民俗学研究にあっては、その初期に大きな影響を与えた柳田國男、折口信夫の二人が強烈な個性の持主であり、西欧渡来の学問の手法を消化して日本独自のフォークロアを完成させたため、「柳田学」「[[折口学]]」といった名で呼ばれることもある。また、柳田自身、「新国学」と称して民俗学の体系化を試みており、[[近世]]以来の[[国学]]の影響も強い。 # 日本民俗学は「[[在野]]の学」と表現され、他の諸学問と比較したときに最も特異とされる特徴でもある。これは在野とアカデミズム(民俗学を職業としているか否か)を区別しない、[[学歴]]や[[職業]]にかかわらず民俗事象に興味関心のある者は誰でも参加できる学問、といった感覚で用いられている。これらのことから、通常「在野の民俗学者」という言い方がされることは少ない(逆に「大学の民俗学者」という言い方がされることがある)。 # 日本においては民俗または民俗学という用語が一般には通じにくいことがあり、[[民族学]]([[文化人類学]])と混同されたり、ミンゾクという言葉から政治的な活動、研究を行なっているという勘違いを受けたりすることが間々ある。[[マスメディア|マスコミ]]や出版物などにおいても「民族文化財」や「民族資料館」といった誤植が多く見られる(無論本当の「民族資料館」も存在する)。大学においては「紛争などの民族問題を学びたい」、「[[アイヌ民族]]を勉強したい」という理由で民俗学研究会の扉をたたく学生がいるのも新入生の多い時期には良くある風景である(民族学については隣接学問でもあるので、研究会、学会の中には研究対象に含めている団体もある)。 == 民俗学史 == 日本で民俗学といった場合、一般には日本民俗学を指すが、海外を見ると19世紀の欧米を中心として、多くの国で民俗学に相当する学問が誕生している。誕生の経緯は国ごとの政治的社会的状況や民族学(文化人類学)等との関係によって多様である上に、他の社会科学のように国際的な交流が盛んではなく各国独自の進展をしてきたこともあって、一概に民俗学の歴史を語ることはできない。 === ヨーロッパの民俗学 === ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、主に[[フランス革命]]による近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化への[[ロマン主義]]的な憧憬や[[民族意識]]の高まりが存在する。 ==== イギリス、フランス民俗学 ==== イギリスでは1846年に、作家のウィリアム・トムズ(William John Thoms)がドイツ語の[[フォルクスクンデ]]を英語に訳してフォークロア''folklore''の術語を提唱し、古代文化の名残や民謡などを対象に民俗研究の草分けとなったが、学問の組織化としては、1878年に[[ジョージ・ゴム]](George Laurence Gomme)らがロンドンに“Folklore Society"(民俗学協会)を設立した時期を端緒とする。[[進化主義]]人類学が波及力を持っていた19世紀末のイギリスでは、民俗学も庶民の習俗に見るキリスト教以前の残存(Survival)を対象にするとともに、自民族のみならず海外植民地を関心に入れるなど、人類学との近接性が顕著にみとめられる。それは1885年に民俗学の協会が設立されたフランスも同様であり、20世紀初頭にかけてサンティーヴ(Pierre Saintyves)、[[ロベール・エルツ]](Robert Hertz)、[[レヴィ=ブリュル]](Lucien Levi-Bruhl)、[[ファン・ヘネップ]](Arnold van Gennep)といった学者が、近代的な民俗学・人類学研究を進めた。彼らのアプローチに異同はあるにせよ、民間伝承の起源を遡及し原始的な民族心理の究明を重視する点では概ね共通している。またエルツやレヴィ=ブリュルは[[マルセル・モース|モース]](Marcel Mauss)や[[エミール・デュルケーム|デュルケーム]](Emile Durkheim)などと近く、ファン・ヘネップも後に[[ヴィクター・ターナー|ターナー]](Victor Turner)へ影響を及ぼすなど、人類学や[[社会学]]と不可分の位置にあったこともフランスの民俗学研究の特徴だった。 ==== ドイツ民俗学 ==== 一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という[[民族主義]]的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者の[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]](Johann Gottfried Herder)が民族の魂の発露としての[[民謡]]の概念を提唱し、次いで[[昔話]]収集や古法・[[法諺]]の研究で有名な[[グリム兄弟]]らが、ドイツ[[ロマン主義]]を背景に[[神話学]]としての民俗学への道筋を敷き、それは時代風潮とも合って、一種のブームとなった。そのためロマン派のドイツ民俗学は[[ゲルマニスティク]](ドイツ語学・文学研究)との重なりが強かった。その傾向に異を唱えたのは、1850年代の[[ヴィルヘルム・ハインリヒ・リール]]であった。リールは、ロマン派の民俗学が珍習奇俗の収集とそれを神話との関係で読み解く好事家的な方向にあることを批判し、現実の民衆生活を体系的に把握すべきことを説いた。特に「学問としてのフォルクスクンデ」が重要であるが、ドイツ民俗学の関係者がリールに注目するようになるのは20世紀に入ってからであり、リール自身はグリム兄弟との接触もなく、また生前には民俗学の人脈とはほとんど無関係であった。後にリールはドイツ民俗学の指標とされるようになるが、他方、リールの思想の保守性や反動的性格を指摘する声も根強く、評価をめぐって何度も論争が起きた。 1891年にはグリム兄弟の晩年の弟子でもある[[カール・ヴァインホルト]]([[ベルリン大学]]教授)がベルリン民俗学会を基礎に民俗学協会の設立へと軌道を敷き、それが後に今日の[[ドイツ民俗学会]]となった。ドイツでは19世紀後半から民俗学が盛んになり、研究組織や愛好団体が多数あったが、統一的組織はなく、その意味でドイツ民俗学会の設立はドイツ民俗学の展開においてエポックとなった<ref name="kawano"/>。ヴァインホルトはドイツ語史や方言研究を専門とするドイツ語学教授で、グリム兄弟の神話を民俗学の方向へ伸ばし、民俗学を学問へ発展させるべく学会機関誌として『民俗学誌』の刊行も始めた<ref name="kawano">河野眞「[https://web.archive.org/web/20160306004221/http://ic.aichi-u.ac.jp/aic/civilization21/files/conts009/kawano.pdf 民俗学における個と社会 ―20世紀初めのフォルク論争を読み直す(3)]」『文明21』No9、2002年</ref>。 20世紀前半には、[[ハンブルク大学]]において初めて大学での民俗学ポスト(ただし、設置者の構想ではハンブルク都市史に重点があった)に就いた[[オットー・ラウファー]](Otto Lauffer)、ロマン派の民俗学との決別を劇的に表現したスイスの[[エードゥァルト・ホフマン=クライヤー]](Eduard Hoffman-Krayer)、上層文化/下層文化の二層論を提示した[[ハンス・ハウマン|ナウマン]](Hans Naumann)、心理学的方法を提唱した[[アードルフ・シュパーマー]]など多くの理論家が生まれた。 しかし現行の習俗を古代との[[連続性]](Kontinuität)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出そうとする傾向をもつ民俗学は、本質的に[[民族主義]]的な政治[[イデオロギー]]に取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の[[国家社会主義]]時代には国民統治および[[人種主義]]の国策学問へと取り込まれていった。[[ナチス]]政権下の国策民俗学機関として「ローゼンベルク機関」と「アーネンエルベ(祖先の遺産)」が組織され、ゲルマン民族の遺産の解明のためあらゆる資料が集められ、その中には荒唐無稽な偽古文書も含まれ、オカルティックな偽史までが国策に利用されていった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=kxNtBAAAQBAJ&pg=PT8 民俗学の国策化]大塚英志『怪談前後―柳田民俗学と自然主義―』角川学芸出版、2007年2月</ref>。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]党員として[[プロパガンダ]]作成や民俗行事の創出に積極的に関わった学者は必ずしも多くはなく、熱狂的となったのは若手や少壮が中心で、彼らはまたナチ・エリートでもあったが、他の大半の研究者も批判的視点をもつには程遠く、思想的にナチズムと同質・同根の要素をかかえていたのが実態であり、それだけに問題は根深いものがあった。そうした体質が、戦後、何度か波をつくりながら批判されることになった。戦後の[[西ドイツ]]民俗学界は、学問としての信頼を失ったフォルクスクンデを自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。[[ミュンヘン]]では[[ハンス・モーザー]]と[[カール=ジーギスムント・クラーマー]]が中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。 現行の民俗事象の把握では、[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]の[[ヘルマン・バウジンガー]]が最初の主要著作『科学技術世界のなかの民俗文化』(1961年刊)において、科学的な技術機器と常に身近に接する生活のあり方こそ近・現代の生活文化の基本であるとの観点に立ち、逆に伝統文化や伝承には一種の異質性とそれゆえの吸引力があることに着目して、民俗学の背景となっていた、伝統・伝承に基底的なものを見てきた従来の通念を覆すような理解の構図を提示した。またこれに理論的な支柱を得て[[ハンス・モーザー]]が[[フォークロリズム]](フォークロリスムス、Folklorismus)の概念を提起し、さらにバウジンガーが補強したことによって、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込むことが大幅に進展し、変化しにくいとされる伝統習俗に固執する旧い民俗学からの脱却が図られた。 バウジンガーは、1971年、テュービンゲン大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりに''Institut fur Empirische Kulturwissenschaft''(経験的[型]文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容し、また近年ではEUが日常生活の次元でも枠組みとなる趨勢もあって、[[マールブルク大学]]を先駆けとする[[ヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデ]]の二重名称を採用することが多くなっている。日本でも、ドイツの動きに刺激されて、民俗学の名称への疑問が起きている。ただし、学問名称をめぐっては、ドイツ民俗学の研究者[[河野眞]]は、ドイツ語の「フォルクスクンデ」は一般語であると共に、<民の覚え>といった古めかしくもあれば馴染みやすくもある語感をもち、それゆえ言葉が独り歩きして混乱を大きくした面があること、それに対して日本語の「民俗学」は民俗研究をもっぱら指す造語の性格にあり、その違いを見ると、学問名称の当否に関するかぎり日本語の場合大きな問題ではなく、むしろドイツ民俗学界において名称変更を機になされた議論の中身に注目すべきであると説いている。 === 日本民俗学 === 日本での民俗学は近世における[[国学]]や[[本草学]]にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは[[坪井正五郎]]が[[東京人類学会]]を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・[[自然人類学]]・[[考古学]]等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、[[新渡戸稲造]]らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の[[柳田國男]]は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した[[南方熊楠]]にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。 ヨーロッパの[[フォークロア]]や[[民族学|エスノロジー]]が、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学への[[アンチテーゼ]]として、二つには[[進化主義]]的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには[[地方改良運動]]に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。 1935年には柳田を中心に「[[民間伝承の会]]」が設立され、機関誌の発刊や民俗学講習会が行われた。またこの時代に柳田は概説書を精力的に執筆しており、学説史の中では学問としての組織や方法が整った1930年代半ばを民俗学の完成時期と見なすのが一般的である。1949年、「民間伝承の会」は'''[[日本民俗学会]]'''と改称され、この頃から大学にも民俗学の[[講座]]が設置されるようになった。それまでの民俗学は柳田邸で行われる[[木曜会 (柳田國男)|木曜会]]や雑誌上において柳田が学徒を直接指導し、その成果が子弟を通じて全国に広まっていくという意味で、アカデミズムの枠外で展開した一種の運動体だったが、戦後の学制の中では[[國學院大學]]や[[東京教育大学]]、[[成城大学]]などにおいて専門教育が開始されることにより、現在にまで至る教育・研究の制度的枠組みが誕生した。また[[神奈川大学]]ではアチック・ミューゼアム([[神奈川大学日本常民文化研究所|日本常民文化研究所]])が移設設置され民俗資料学が研究されている。 == 民俗学研究法 == 民俗学の調査手法としては、庶民の生活を総体的に把握するという目的を果たすため、農山漁村を中心とした集落に滞在し、聞き取り(聞き書き)調査や紙資料を含む文字資料(金石文、棟札など)の収集、建築物や[[民具]]など物質文化の記録、あるいは生業、共同労働、[[年中行事]]、[[通過儀礼|人生儀礼]]などの場への[[参与観察]]、そして[[民俗誌]]の記述が主体となる。[[フィールドワーク]]の蓄積からエスノグラフィーを描くことを重視するという意味では[[文化人類学]]の手法に近似するが、[[ブロニスワフ・マリノフスキ|マリノフスキー]]以降の近代人類学が研究者個人による数ヶ月〜数年の長期滞在調査を基本とするのに対し、民俗学では数日〜数ヶ月スパンの中短期調査を繰り返し行うことが多く、また複数研究者による共同調査が実施されることも多い。 初期の民俗学では日本各地から集められた[[民俗資料]]を類型化・比較し、日本全体の枠組みの中で民俗事象の歴史的変遷を明らかにするという「[[重出立証法]]」が採られた。ジョージ・ゴム(George L. Gomme)の著作を元に柳田國男が提唱したこの方法論は長く民俗学の基礎理論だったが、一方では[[山口麻太郎]]や[[和歌森太郎]]などからは民俗の地域性を過小評価する方法論だとする批判意見も出された。学説史の中で最も影響力のある批判は[[福田アジオ]]によるもので、民俗を日本全体での比較ではなく、それが伝承される村落や信仰組織等と切り離さずに分析すべきという「個別分析法」を提唱した。[[ラドクリフ=ブラウン|構造機能主義]]人類学の影響が色濃い福田の方法は、村落社会において民俗を捉え、それが生活の中で相互に連関しながら全体として有している意味を明らかにしようとする。民族全体のスケールの大きい歴史を追ってきたそれ以前の民俗学に比べ、福田の方法論は小規模集落(ムラ)の歴史それ自体をより実証的に描こうとする点に特色があり、同世代の[[宮田登]]が提唱する地域民俗学とともにポスト柳田民俗学の方法論として影響した。 もともと民俗学は[[文化人類学]]や[[社会学]]、[[宗教学]]、[[歴史学]]など多くの分野と密接に関連しており、ライフヒストリー研究やパフォーマンス理論、[[社会史]]、身体論等、研究対象によってはそれらの分野に通じる方法論が用いられることも多々ある。いずれにせよ民俗学の研究方法は分析的(Analytical)というよりは記述的(Descriptive)であり、対象へのインテンシブな調査を元に[[厚い記述]]([[ギルバート・ライル]])を目指す、いわゆる[[質的研究]]の一つに位置づけられる。 == 研究対象と資料 == * 生活([[衣食住]]、民具) * 風習(家族制度、社会制度、通過儀礼、社会集団、生業と産業、四季の行事、まつり、遊技・競技・娯楽) * 説話・歌曲・俗諺(伝説とお伽話、俗曲・俗謡、諺・謎、諺詩・俚諺) * 信仰(神道、仏教、霊魂と来世、妖怪変化、予兆と卜占、魔術、病気と民間療法) 上に掲げた伝承されてきたさまざまな民俗事象が、民俗学の研究対象として説明されることが多いが、ドイツの民俗学者[[ハンス・ナウマン]]([[:de:Hans Naumann|Hans Naumann]])は、民俗学の研究対象を「[[基層文化]]」すなわち、表層文化に対して、素朴で集団的、また類型的な日常的生活文化、[[伝承]]性の濃厚な文化としている。いずれにせよ、上に掲げたそれぞれは、民俗学における基本的な[[資料]]となっており、その意味から[[民俗資料]]と称される。 {{main|民俗資料}} 「民俗資料」の語の使用は、柳田國男が最初であり、折口信夫も用いているが、2人とも当初からはっきりした規定をしているわけではなかった。ただし、柳田は『民間伝承論』のなかで、 # 目に映ずる資料<体碑>…たとえば研究者が旅行の途中でも観ようとすれば可能な、形をとった事物行為伝承 # 耳に聞こえる言語資料<口碑>…多少とも地元の言葉に通じて、耳を働かさなければつかみ得ない口頭伝承。言語芸術。 # 心意感覚に訴えてはじめて理解できる資料<心碑>…旅人ではつかむことの不可能な、同郷人、同国人の感覚によらなければ理解できない類の心意伝承。 という三分法の類別を提示しており、さらにこれを、1.有形文化・生活技術誌―旅人の学、2.言語芸術・口承文芸―寄寓者の学、3.生活解説・生活観念・生活の諸様式―同郷人の学、というように趣旨説明している。 いっぽう折口は、 # 周期伝承(年中行事) # 階級伝承(老若制度・性別・職業・生得による区別) # 造形伝承 # 行動伝承(舞踊・演劇) # 言語伝承(諺・歌謡・伝説説話) という民俗資料の分類をおこなっている。 はば広く「民俗資料」の語が一般に定着し、明確な概念規定が法令上なされたのは、[[1954年]](昭和29年)の「[[文化財保護法]]」の第一次改正において「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習及びこれに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件でわが国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」として[[文化財]]のひとつとして保護の対象となって以来であった。以後、[[文化庁]]文化財保護部(現在の文化財部)によって「[[無形の民俗資料記録]]」なども編まれるに至っている。 「民俗資料」の名称とともに、そのなかで資料価値の高いものが文化財となって、保護の対象となりうることの了解が社会で広がり、今日では文化財の分類名称としての「民俗資料」は「[[民俗文化財]]」と改称されている。その一方で、現代では、文化財の指定の有無とは関係なく、民俗学において、庶民の生活史の推移の理解のために必要な伝承資料全般を'''民俗資料'''と呼称している。 == 日本民俗学の変化 == 都市化によって民俗学が主たるフィールドとしてきた閉鎖性の高い農村は実質的に消滅し、一見伝統的な生活様式を保っているように見える地域にも、[[過疎化]]や観光開発、産業構造の変化等、古いタイプの[[民俗調査]]ではカバーしきれない状況が生まれつつある。また民俗学の黎明期には日本の人口の多くを占めてきた農村人口も、現在では都市人口に圧倒され、都市住民および都市の生活様式が一般性を持つに到った。こうした対象の変化に対して、現代の民俗学はさまざまな新分野を開拓しつつある。 「民俗の消滅」が盛んに議論された1970年代〜80年代にかけては、[[都市民俗学]]のブームやアメリカ民俗学の影響を受けた[[都市伝説]]研究の隆盛が見られた。また1990年代以降は[[観光人類学]]の影響を受けた地域開発・観光化の研究、[[文化財]]制度の研究等、現代社会のシステムと地域の関係を問う動きが増加する。更に同時期には[[国民国家]]論批判の文脈から柳田國男の民俗学観の批判的検証が盛んに行われ、柳田民俗学が中心的に扱ってこなかった漂泊民などのいわゆるサンカ、「非常民」、性を主題とする研究に焦点が当てられることも増加した。 また、[[大韓民国|韓国]]や[[台湾]]、[[中国]]、[[モンゴル]]、[[東南アジア]]などで[[比較民俗学]]の観点から実地調査を行ったり、ヨーロッパの[[村落]]を調査する試みも現れている。 == 在野の学としての日本民俗学 == {{独自研究|section=1|date=2015年8月}} 戦後学問としての民俗学の体系がおおよそ完成し、大学などにおける研究が盛んになったが、民間における研究活動が収縮したわけではなく、「[[在野]]」と「アカデミズム」が混在または並立する日本民俗学独特の研究体制が存在する。 「在野」においては、戦前から日本各地に地方学会と呼ばれる学会、研究会が組織され、地域に根ざした研究活動がなされており、日本民俗学の大きな一角を担っている。会名に都道府県名を冠した団体が多い。[[石仏]](石造物)、特定の[[宗派]]などの専門特化した研究団体も多く設立され、地域、分野など様々な切り口で研究がなされており、[[地方公共団体|自治体]]誌編纂や[[文化財]]調査にも活躍している。 大学においては、民俗学関係の[[大学院]]教育が充実さを増し、[[國學院大學]]、[[筑波大学]](1975年)、[[成城大学]](1973年)、[[神奈川大学]](1921年アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)の移設)などが著名である。また、1950年代に正規の学科、研究科のほかに学生や卒業生、教職員などを対象にした研究会、[[学生サークル]]が多く設立された。正課授業などと連携して研究や教育が積極的に行なう方法や(國學院大學、成城大学などの学生サークル)、民俗調査([[民俗採集]])や資料収集に特化するなど、形式、目的は様々だが、いずれも[[民俗資料]]収集や研究者養成に大きく貢献するなど、日本民俗学界において重要な地位を占めている。 研究団体の多くは、入会に際して職業、学歴、住所等を問われないのが一般的であり、日本民俗学会も民俗学に興味がある、会費納入などの一般的な条件を除いては会員資格を特に定めていない(ただし、会員による紹介と理事会の承認が必要とされている)。これには、会員資格を特に定めないことにより、民俗事象に関心があるという以外に共通項がない者同士の横のつながりを持たせるという機能がある。 研究を行う者の職業は、民俗学の研究を職業としている者のほかには、会社員、[[公務員]]、自営業、主婦、[[農業]]、無職(定年退職した者など)など様々であり、学生や大学等の研究者の中には民俗学を専門にしていない(まったく関わりが無い分野)者もいる。これにより、学会などでの発表や会合で名乗る肩書きは、在住都道府県名と氏名を名乗ることが慣習として行なわれてきたが、最近では在籍研究機関名を名乗る者も出てきている。ちなみに研究機関に所属していない研究者が在職の会社名を名乗ったり、無職、主婦などの職業名で名乗ることはあまり無い。 研究職以外の者が研究を続けるには、本人の意志、家族の協力、経済的余裕(研究費用は原則自己負担になる。特に民俗採訪の際の交通費や滞在費、資料の購入費がかさむ)、時間的余裕などの一定の要件が必要になってくる。サラリーマン(特に公務員)では、兼職や副業と誤解されたり、“趣味にかまけている”といった評価を受けたりしないためにも、場合によっては勤務先の理解も必要な場合がある。 「民俗学研究者」の定義もあいまいになる。日本民俗学の中心的な機関は日本民俗学会であり、本格的研究を行なっている者はほぼ会員になっている(同学会の歴史に柳田が大きく関わっているため“反柳田”的な研究者の中にはあえて入らない者もいる)が、事実上、日本民俗学会会員=民俗学者という構図が暗黙の了解として存在していた。これ以外には、地元の[[源義経]]や[[空海|弘法大師]]の[[伝説]]などが実話であることの証拠や資料探しに奔走している者や、いわゆる[[郷土史]]家と呼ばれる者の中には民俗学研究者を名乗る者がたまにあり、誰でも“研究者”を名乗れてしまう問題もある。 なお、同学会の会員では、会員名簿の情報の範囲において、近年は大学等の研究者、博物館学芸員、文化財関係者などの割合が増えている。また、現在の同学会の役員は、ほぼ全員が大学等の研究者であり、必然的に大卒以上の学歴を所持している。 研究を始めるきっかけも様々で、単純に自らの住む地域の文化・風習に興味を持ったというものから、他分野([[社会学]]・[[歴史学]]・[[経済学]]・[[農学]]等)の研究者・出身者が隣接分野として興味を持ち始めるもの、民俗事象に関連がある[[趣味]]([[歴史]]散策、[[旅行]]、[[鉄道]]、[[登山]]、[[神社]][[仏閣]]めぐりなど)を通じて興味を持ち始めるものなど多種多様である。民俗学自体が他の諸学問などと密接に、有機的に関わりがあることを表している。また、大学生が民俗学関係の大学・研究室・サークルに入った理由としては、「田舎が好き」、「[[妖怪]]や[[都市伝説]]に興味がある」、「[[民謡]]、[[昔話]]が好き」、「[[博物館]]に就職したい」などを挙げる者が多く、入学当初に学問体系としての民俗学自体に関心がある者は比較的少ない。 民俗学界において在野性やアカデミズムに関する議論は、職業などによる区別(差別)、日本民俗学史上の多くの民間研究者の功績などの問題があるためあまりされてこなかった(最近では[[2005年]]の第57回日本民俗学会年会において「野の学問とアカデミズム」がテーマとして取り上げられた)。議論を間違えると、学歴や職業によって対立が起こりかねない。また、大学等の研究者の中にはこの在野性を嫌うものもおり、これらを排除して大学などに所属する職業民俗学者のみを民俗学研究者とする「普通の学問」にすべき、[[考古学]]や[[天文学]]のように民俗学者と民俗学ファンといった形でたとえ緩やかにでも区分すべきという論調も見られる。 在野性を帯びるという特性から、大学関係者を除いて上下関係や師弟関係もほとんど無く、他分野の研究者からは自由な学風と評されることも多い。しかし反面、“みんなで研究”という雰囲気や、特に地方学会において学術研究的思考や論文執筆に不慣れな者が多いことから、情緒的、趣味的と揶揄されたり、[[妖怪]]や[[方言]]、[[民謡]]、[[昔話]]といった“素人受け”をする分野を抱えることなどから、民俗学を非科学的なイメージで捉える者も少なからずいる。また、他の学問分野や諸趣味、海外の民俗学界などと連携や共有できる部分が多くあるものの、これまではあまり積極的にされてこなかった。日本民俗学界は、これからは社会の変化に対して民俗学がどうあるべきかといった議論はもちろん、こうした他分野や社会とどういった関わりを持つことが出来るのか模索していくことになる。 == 日本の代表的な民俗学者 == {{Col| * [[赤坂憲雄]] * [[赤田光男]] * [[赤松啓介]] * [[網野善彦]] * [[荒木邦夫]] * [[石塚尊俊]] * [[伊波普猷]] * [[岩井宏實]] * [[岩﨑竹彦]] * [[大間知篤三]] * [[大月隆寛]] * [[大島建彦]] * [[大藤時彦]] * [[小野重朗]] * [[岡正雄]] * [[折口信夫]] | * [[神野善治]] * [[川合勇太郎]] * [[小井川潤次郎]] * [[小松和彦]] * [[五来重]] * [[今和次郎]] * [[櫻井龍彦]] * [[桜井徳太郎]] * [[桜田勝徳]] * [[下野敏見]] * [[渋沢敬三]] * [[白石昭臣]] * [[菅豊]] * [[菅江真澄]] * [[鈴木岩弓]] * [[関敬吾]] * [[瀬川清子]] | * [[高群逸枝]] * [[高取正男]] * [[竹田旦]] * [[武田明]] * [[神島二郎]] * [[神崎宣武]] * [[後藤総一郎]] * [[竹内利美]] * [[武田豊四郎]] * [[近藤雅樹]] * [[田中忠三郎]] * [[谷川健一]] * [[千葉徳爾]] | * [[中桐確太郎]] * [[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]] * [[西村真次]] * [[野村純一]] * [[野本寛一]] * [[早川孝太郎]] * [[福田晃]] * [[福田アジオ]] * [[古野清人]] * [[南方熊楠]] * [[宮田登]] * [[宮本常一]] * [[宮本馨太郎]] | * [[政岡伸洋]] * [[倉石忠彦]] * [[篠原徹]] * [[川村邦光]] * [[乾武俊]] * [[飯島吉晴]] * [[祝宮静]] * [[内藤正敏]] * [[西垣晴次]] | * [[柳宗悦]] * [[柳田國男]] * [[和歌森太郎]] * [[吉岡郁夫]] * [[吉野裕子]] }} == 日本の代表的な民俗学研究団体 == {{Col| * [[日本民俗学会]] * 現代民俗学会 * 日本民俗[[音楽]]学会 * 日本民俗[[建築]]学会 * 日本山岳[[修験]]学会 * 民俗[[芸能]]学会 * 日本[[民具]]学会 * 西郊民俗談話会 * 山村民俗の会 | * [[成城大学]]民俗学研究所 * 成城大学民俗学研究会 * [[國學院大學]]民俗学研究会 * [[中央大学]]民俗研究会 * [[神奈川大学日本常民文化研究所]]([[神奈川大学]]) * [[柳田國男]]記念伊那民俗学研究所([[長野県]]) * [[近畿大学]]民俗学研究所 | * 青森県民俗の会([[青森県]]) * 秋田民俗学会([[秋田県]]) * 東北民俗の会([[宮城県]]) * 茨城民俗学会([[茨城県]]) * 相模民俗学会([[神奈川県]]) * 埼玉民俗の会([[埼玉県]]) * 長野県民俗の会([[長野県]]) * 新潟県民俗学会([[新潟県]]) * 美濃民俗文化の会([[岐阜県]]) * 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[[野生の思考]] * [[構造主義]] * [[ハレとケ]] * [[フォークロア]] * [[フォークロリズム]] * [[都市伝説]] * [[手締め]] * [[民俗資料]] * [[民俗資料の分類]] * [[民俗文化財]] * [[連続性]] }} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|民俗学|[[画像:WLM logo-2.svg|34px|Portal:民俗学]]}} * [http://www.fsjnet.jp/ 日本民俗学会ホームページ] * [http://gendaiminzoku.com/ 現代民俗学会] * [https://www.rekihaku.ac.jp/ 国立歴史民俗博物館] {{神道 横}} {{人文科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みんそくかく}} [[Category:民俗学|*]] [[Category:人文科学]]
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上方落語
上方落語(かみがたらくご)は、大阪・京都を中心とする畿内の上方で主に演じられる落語の総称である。 上方で催される落語は「大阪落語」や「京都落語」などと称されていたが、1932年(昭和7年)7月1日発行の雑誌『上方』十九号で初めて「上方落語」が用いられた、と花月亭九里丸は『寄席楽屋事典』で著している。現在、京都落語は系譜上衰えていることから、大阪落語が上方落語と称される。 江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源とされる。寛政から文化にかけて、浄瑠璃作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下り御霊などの社地で噺を演じた松田彌助が台頭した。彌助一門に松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」初代桂文治がおり、初代文治は大阪で初めて寄席を開き、声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目と4代目が東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、2代目桂文都(のち2代目月亭文都)、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年桂文左衛門)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。 桂一門に並ぶ現代の上方落語で主力門派の笑福亭一門は、始祖とされる松富久亭松竹の詳細が明らかでないが天保から安永の時期に成立しており、桂と笑福亭の両門派に立川、林屋(林家)を加えた4門派が、明治期まで上方落語の主流を成した。上方林屋一門は、江戸の初代林屋正蔵の孫弟子に当たる初代林屋正三が故郷の岡山に近い大阪で腰を据えたことを端緒に、明治維新前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に代わられていく。 明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「桂派」と、文都、2代目文團治(のち7代目桂文治)、初代笑福亭福松、3代目笑福亭松鶴らを核とする派手で陽気な「三友派」が並立する。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では3代目桂文三、初代露の五郎、3代目桂文團治、2代目林家染丸、初代桂枝雀、初代桂ざこばなどの名人上手を輩出。京都では2代目曾呂利新左衛門、2代目桂文之助、初代桂枝太郎が活躍した。また東京から初代橘ノ圓、2代目三遊亭圓馬、5代目翁家さん馬らが移住し、寄席を盛り上げた。 大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気、吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界、などから低迷した。 漫才は、エンタツやアチャコが大学野球のラジオ中継から『早慶戦』を創作するなど時代に即する新しい笑いを創造した。落語は内部抗争で秩序が整わず、林正之助をはじめとする吉本興行部は商品価値が無いと見なされ、旧態依然の古い芸に安住して愛好家が離れた。初代春團治は、洒落を盛り込んだ不条理に加えて新しい媒体であるレコードを活用した演出で、唯一新しい笑いを提供して多くの愛好家を獲得し、今日の上方落語に大きく影響したが、孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死で上方落語は漫才に王座を譲ったと見られた。この状況に危機感を持った5代目笑福亭松鶴は、大阪市東成区今里の自宅を本拠地に、4代目桂米團治、初代橘ノ圓都、2代目立花家花橘、初代桂春輔、三遊亭志ん蔵ら同志を集めて「楽語荘」を結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。 一方、2代目桂春團治は地方巡業に活路を見出すべく自ら演芸団を組織した。しかしこれは専属契約の内容を巡る吉本との紛争に発展し、京阪神を含む都市部では口演出来なくなってしまう 戦時中の漫才師や漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などへ派遣されたが、座して演ずる落語家は兵士に対して酷なので呼ばれず、比較的空襲が少ない神戸や京都などで富裕層や芸者を客として落語会を催して好評を得た。 太平洋戦争時、大阪や神戸にあった定席の寄席は空襲によって失われた。主力寄席だったミナミの南地花月、キタの北新地花月倶楽部を失った吉本興行部改めて吉本興業は、終戦直前から1945年末にかけて花菱アチャコを除く所属芸人との契約を解き演芸から撤退する(この結果、地方巡業問題で吉本と揉めていた2代目春團治は上方演芸界に復帰を果たした)。1947年、松竹共同創業者の白井松次郎は、大阪ミナミの映画館「戎橋松竹」を演芸場に改め、ここに5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、2代目春團治らが結集する。一方、戎橋松竹の新人会(「戎松日曜会」)などに出ていた若手の2代目笑福亭光鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)・3代目桂米朝・2代目桂小春(のちの3代目桂春團治)・2代目桂あやめ(のちの5代目桂文枝)・3代目桂米之助らは1948年に「さえずり会」というグループを結成する。 5代目松鶴と漫談家の丹波家九里丸との確執から、1948年3月に京都・新京極に「富貴」がオープンしたことを期に、九里丸が誘う形で2代目春団治や4代目米團治・4代目文團治・4代目桂文枝・橘ノ圓都・文の家かしく・橘家小圓太らが戎橋松竹を抜けて浪花新生三友派を結成する分裂状態となった。しかし、九里丸の姿勢から浪花新生三友派からは次第に離反者が相次ぎ、「さえずり会」も仲裁に入る形で1949年4月に両者が合同する形で関西演芸協会が結成され、分裂は約1年で収束した。 とはいえ、名の通ったベテランの噺家は依然として少なく、桂春輔が「楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったらもう落語はないねんさかいに、聞くねやったら今のうち」と枕で話すほどであった。春輔自身も1948年秋に、5代目松鶴が1950年に、4代目米團治と2代目立花家花橘が1951年に、2代目林家染丸が1952年に、2代目春團治が1953年に相次いで他界し、2代目春團治が没した際には作家の谷崎潤一郎が「大阪落語は終わった」と新聞に記した。 この状況で、落語から離れていた3代目林家染丸が1952年11月に復帰(染丸襲名は1953年8月)。また1952年3月には小林一三の後援で「宝塚若手落語会」が発足し、「さえずり会」に集まった若手落語家などが参加した。若手落語家はそのほかにも勉強会へ参加するほか、初代橘ノ圓都、3代目笑福亭福松、桂右之助、4代目桂文團治、初代桂南天、桂文蝶、2代目三升紋三郎ら引退同然だった古老に噺の伝授を乞うなど、精力的に活動した。古老の中でも圓都は持ち演目が飛びぬけて多く、上方や東京の噺家に対して積極的に稽古をつけるなど古典落語の継承に努め、晩年は高座に復帰して1972年(昭和47年)に没するまで、明治の上方落語を最後まで残した。東京の8代目桂文楽、3代目三遊亭金馬、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生らの落語家も上方落語の復興に助力し、大阪生まれの小文治、百生は東京の観客に上方落語を紹介するなど大きな功績をあげた。 1951年(昭和26年)9月1日に新日本放送が開局して民間放送が時流となり、NHKを含めた各放送局は内容の充実を図るために「創作物としての上方落語」と「芸能人としての落語家」に着目し、番組と連動した落語会の主催や、専属芸能人として落語家と契約を交わすなどした。この潮流で米朝や初代森乃福郎らが知名度を上げて上方落語界に利をもたらした。NHKと朝日放送は特に積極的で、NHKは心斎橋の日立ホールを拠点に「放送演芸会」と連携した「上方落語の会」を開催し、朝日放送は「ABC上方落語をきく会」を主催し、のちに「ABCヤングリクエスト」に「ミッドナイト寄席」を設けて「上方落語をきく会」の演目を放送した。 1956年に、長谷川幸延が初代春團治の生涯を脚色した小説『桂春団治』を原作とする映画『世にも面白い男の一生 桂春団治』(監督:木村恵吾、主演:森繁久彌)が公開される。この映画は後述する3代目春団治襲名を後押ししたほか、4代目桂福團治や2代目桂春蝶が落語家を志願する契機となるなど、一定の影響をもたらした。 1957年(昭和32年)に3代目染丸を初代会長として上方落語協会が結成される。会長の下に2代目光鶴・3代目米朝・2代目桂福団治(桂小春が1950年に襲名)・3代目桂小文枝(桂あやめが1952年に襲名)が幹事となり、染丸と幹事の4人を併せて「上方落語五人男」と称された。 1959年(昭和34年)に3代目桂春團治、1962年(昭和37年)に6代目笑福亭松鶴と大名跡が相次いで復活した。この二人とほぼ同時期に入門した2代目桂小春団治、2代目笑福亭松之助、3代目桂文我、戦前入門ながら彼らと同世代の3代目林家染丸、3代目林家染語楼、昭和30年代前半入門組の4代目桂文紅、3代目桂米紫、月亭可朝など、中堅が実力を備えて人数も増えていった。 昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、笑福亭仁鶴、桂三枝(現在の6代目桂文枝)、笑福亭鶴光、2代目桂春蝶、笑福亭鶴瓶、桂朝丸(現在の2代目桂ざこば)らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、1972年(昭和47年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。 ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、1971年(昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「1080分落語会」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席(講談1席含む)が生放送で流された。ほかラジオ大阪の「オンワード落語百選」、FM大阪の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。 ー方では1966年(昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「上方落語の四天王」と呼ばれるようになっていく。 落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。 1986年(昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して2代目桂枝雀が台頭し、いわゆる「漫才ブーム」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。 平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移る。その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだ。この結果、落語家は「お笑い芸人」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていった。放送タレントとしてのお笑い芸人(実質上は漫才・漫談・コント。ただし彼らとて放送メディアで本来の芸を披露する機会は少ない)を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっている。 これは東西とも同様の現象であるが、上方落語においては1999年(平成11年)に2代目枝雀が早世した影響も大きい。カリスマ性を持った人気者だった枝雀の穴は、容易に埋められるものではなかった。また、笑福亭松葉(追贈7代目笑福亭松鶴)、2代目桂歌之助、桂喜丸、4代目林家染語楼、桂吉朝といった、将来を嘱望されていた戦後生まれの落語家の相次ぐ他界も痛手であった。そのような中、笑福亭鶴瓶らによる「六人の会」の活動や、4代目桂文我による古典の発掘作業、3代目桂小春團治や笑福亭鶴笑らの海外公演(パペット落語)といった新たな動きもある。 また、元来お笑い芸人ないしお笑いタレントとしてテレビ等で活躍していた芸人が、芸人の飽和状態の中で自己の新しい芸をつけようと、落語を新たに始める例がある。多くは諸芸の一つとして落語を嗜んでいる程度に過ぎないが、山崎邦正(月亭方正)のように協会に加盟して本格的に落語を始める者、更に一歩進み、後藤征平(月亭太遊)や渡辺鐘(桂三度)のように従来のキャリアを捨てて落語家の道を選ぶ者も出はじめている。 2004年以降は、東京との交流が密接になった。「六人の会」主催の「大銀座落語祭」に参加する上方落語家が2008年現在114人にまで達し、東西落語家の親睦交流が深まる一方で、深川江戸資料館、お江戸日本橋亭、国立演芸場、よしもと浅草花月などの主な演芸場における上方落語家出演も増えるなど、東京の落語愛好家にも上方落語が受け入れられている。さらに、笑福亭鶴光のように落語芸術協会に加盟し、東京で弟子をとり上方落語の普及を目指すものもいる。 2006年9月15日には、上方落語協会によって戦後初の上方落語専門定席「天満天神繁昌亭」(後述)が開設され、これが大阪の観光名所の一つとして全国的に紹介されるに及んで当初の予想をはるかに上回る入場人員数を得続けている。また2007年10月から翌年3月まで放送された、上方女流落語家の半生を描いたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」は関西を中心にマニアックな人気を博し、ドラマを見て上方落語に興味を覚えたという世代も現れた。ドラマ中で主人公の兄弟子役として出演した桂吉弥の落語会は放送以降、常に大入りの人気となっている。 2007年以降は、長く途絶えていた大名跡や著名な名跡が相次いで襲名され復活。2007年には桂歌々志が師匠の名跡である3代目桂歌之助を、2008年には3代目桂小米朝が半世紀ぶりに5代目米團治を、2009年には桂春菜が3代目桂春蝶を、2010年には笑福亭小つるが6代目笑福亭枝鶴、桂つく枝が5代目桂文三、桂都丸が4代目桂塩鯛および都丸の弟子たちが4代目桂米紫・2代目桂鯛蔵を襲名。2011年以降も、桂こごろうが2代目桂南天を、月亭八天が7代目月亭文都を襲名、そして2012年には桂三枝が、桂一門の宗家名跡でもある6代目桂文枝を襲名した。ただし、この傾向については4代目桂文我からの批判もある。戦後の「四天王」と呼ばれた落語家は、3代目桂春團治が2016年に死去したことで全員が鬼籍に入った。2018年に桂春之輔が4代目桂春團治を襲名し、6代目桂文枝に続いて「四天王」の名跡を継ぐ形になった。 主に上方言葉を用いる。噺の登場人物によって、京言葉や大阪言葉などを使い分ける。上方言葉の使用は近畿圏外出身者がその会得に苦労する。江戸落語を演じる落語家の出身地は全国にちらばっているが、上方落語家に箱根以東の東日本出身者は数人であり、北日本出身者は桂三段(北海道帯広市)のみである。近年は、自身の出身地に由来する方言(和歌山弁など)で演じる落語家もいる。 江戸落語では上方の言葉を話す人物が多く出るが(例「御神酒徳利」「金明竹」「三十石」「祇園会」)、上方落語では江戸言葉はあまり出ない。「ざこ八」や「江戸荒物」くらいである。戦前までは言葉や芸風の違いで、上方落語は東京の客層には受け入れられなかったが、戦後マスコミの発達で大阪の言葉が東京にも浸透し、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生ら在京の上方落語家の努力や前述の「上方落語の四天王」の活躍で、東京でもさかんに聴ける様になった。 古典落語については、3代目柳家小さんらによって多くの上方の噺が東京に移植され、逆に東京から上方に移植された噺もある。そのため、同じ内容でも上方落語と江戸(東京)落語で題名が異なる噺や、「饅頭こわい」のように中身まで異なる噺もある。ただし片方にしかない噺については、東西交流の進んだ太平洋戦争後はこの限りではない。 上方落語の中心をなす「旅ネタ」は、「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」の四つに分かれる。入門したての落語家は、一門によっては口馴らしとして「発端」を教わるが、「東の旅」の「三十石」のようにかなりの技量を要するネタもある。 このほかの旅ネタには、冥土の旅に「地獄八景亡者戯」、海底の旅に「小倉船」(「竜宮界竜の都」)、天空の旅に「月宮殿星の都」、異国の旅に「島巡り」(「島巡り大人の屁」)があり、いずれも、奇想天外な内容ではめものを用いた派手な演出が見られる。 落とし噺(狭義の落語)と並んで江戸落語の軸を成す人情噺(狭義の人情噺。内容が講談に近く、サゲがない。「牡丹灯籠」、「文七元結」、「真景累ヶ淵」など)は、上方落語には存在しないと言ってよい。広い意味での人情噺に含まれるとされる「立ち切れ線香」、「ざこ八」、「大丸屋騒動」などは落とし噺である。ただし、「鬼あざみ」のように例外的にサゲがつかないネタもある(講釈から移植されたものなど)。この差異に関して「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と桂米朝は述べている。 東西交流の進む現代では、人情噺を上方風の演出で口演する落語家がいるので「上方には人情噺はない(少ない)」という原則も崩れつつあるが、総体的には上方の演目は落とし噺が中心である。 歌舞伎をテーマにした上方落語には 1. 歌舞伎の芝居をそのままに演じるやり方:「加賀見山」「本能寺」「自来也」「綱七」 サゲ:普通のサゲが用いられる場合と、幕切れのあと、「やあれ、日本一だっせ。日本一」「やかましなあ。あんさん。日本一って言うてんと、成駒屋、葉村屋言うて誉めなはれ」「いいえな。わたい、日本橋一丁目の薬屋の者だすねやが、ここで店の宣伝しょう思いまして。やあれ、日本一!」すると小屋の若いもんが来て「こら。日本一の薬屋ておのれかい」「へえ」「こっちへこい」「もうし、何しなはんねん!」「二三丁ほど振り出したるんじゃ」とサゲるパターンとがある。 2. 普通の落語から芝居になるやり方:「昆布巻芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」「質屋芝居」「足あがり」「七段目」(登場人物が芝居好きで俄で演じ出すという仕立てになっているものがほとんど) サゲ:ここでは普通のサゲである。 の2種類に分別される。 江戸の芝居噺の演出は人情噺の途中から一転、衣装を引き抜き背景に書割を設けるが、上方はそのような演出は用いない。明治期に初代桂文我、昭和に入って初代桂小春團治、東京に移った桂小文治などが得意としていたが、上方落語や上方歌舞伎の衰退などが原因で、現在ではそのほとんど(特に1. のやり方)が絶滅している。ただ、初代小春團治が花柳芳兵衛として舞踊家に転じたのち、芸の伝承のためNHKに幾つかのネタを映像として収録させており、桂米朝らがそれを元に「本能寺」や「そってん芝居」などの復活を試みている。 昭和に入っていくつかの新作落語が東西の落語界で作られたが、上方では4代目桂米團治作「代書」(「代書屋」とも)、3代目桂米朝作「一文笛」、3代目林家染語楼作「青空散髪」、三田純市作「まめだ」などが古典の範疇になっており、一部の演目は東京でも演じられている。現在は、桂三枝(現・6代目文枝)(「妻の旅行」、「鯛」、「ゴルフ夜明け前」などを創作)を中心に「創作落語」の名でさかんに作られている。 小佐田定雄一門のように専業の落語作家が存在するのも特徴である。2代目笑福亭松之助は「明石光司」、4代目桂文紅は「青井竿竹」の筆名で、新作を手がけていた。 噺の登場人物は、喜六、清八、おさき、源兵衛、家主、医者(「赤壁周庵」の名が多い)、上町のおっさんなど。 喜六(喜イ公、喜イさんとも)は、江戸の「与太郎」にあたる「アホ」役だが、生業(下駄屋がよく出る)を持ち、妻帯(妻の名は「おさき」「お松」がよく用いられる)している点が「与太郎」と異なる。性格は、与太郎が天然の馬鹿と設定されることが多いのに対し、どことなく醒めたところがみられる。(→「喜六と清八」も参照のこと) 江戸落語によく出てくる熊五郎、八五郎は、上方では喜六・清八の役どころとなる。上方で熊五郎、八五郎の名が登場するのは「らくだ」「へっつい幽霊」に「脳天の熊五郎」(「らくだ」では「弥猛(ヤタケタ)の熊五郎」とも)、「八五郎坊主」に「八五郎」があるくらいである。また江戸落語「三軒長屋」などに出てくる大工の棟梁は、上方では手伝い(テッタイ)の又兵衛として登場する。 時代設定を特に定めない、あるいは庶民にも名字を名乗ることが許された明治以降に置いた演出では、演者にゆかりのある噺家の本名に因みかつ一般的な姓が出る場合がある(例えば6代目松鶴一門なら「竹内さん」、林家一門なら「大橋さん」「岡本さん」)。 落語では一般的に扇子や手拭を小道具として用いるが、上方落語でしか用いない小道具として以下のものがある。 通常、以上の3点はセットで用いられ、舞台への出し入れで持ち運ぶ際は、見台の上に膝隠しを乗せる。 今日では普通に使用されている、演者の名前を書いた名ビラやそれを掲げておく台のメクリは明治時代まで、出囃子は昭和初期まで、上方の寄席でしか使用されていなかった。 口演中に演出としてお囃子を盛り込む点も江戸落語との違いである。このお囃子をはめものと呼ぶ。 たとえば、「新町にまいります。その陽気な事」(「三枚起請」)と演者が言うと、楽屋にいるお囃子が三味線を弾き唄を唄って華やかな遊里を表現する。逆に「ふたなり」「皿屋敷」などで登場人物が寂しい夜道を歩くときは、三味線が静かに弾かれ寂しい情景を表現する。 以上のように情景描写に使われる事が多いが、「野崎詣り」などでは舟が移動するなどの擬音に用いられる。「紙屑屋」「辻占茶屋」などの「音曲噺」では演者と掛け合いの型となる。「蛸芝居」「質屋芝居」「本能寺」などの芝居噺では、歌舞伎の下座音楽となる。 桂文珍はコンピューターの機械音を用いる事があるが、これもはめものの一変形である。 お囃子奏者は「下座」あるいは「ヘタリ」とも呼ばれ、三味線奏者と太鼓・笛などの鳴物奏者で構成される。三味線奏者は専業だが、鳴物奏者は若手の落語家が務めることが多い。三味線奏者は、戦後は後継者難に直面し、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「上方落語下座音楽」の保持者であった林家トミ(2代目林家染丸の妻)の没後は存亡の危機に晒されたが、3代目桂米朝が自身の番組『米朝ファミリー 和朗亭』(朝日放送テレビ)で取り上げたことや、4代目林家染丸らによる後進育成活動などにより徐々に増え、2006年12月現在、上方落語協会会員だけでも11名を数える。現代の代表的な三味線奏者としては内海英華、かつら枝代(2代目枝雀の妻)、林家和女(5代目林家小染の妻、3代目桂あやめの姉)らがいる。 真打制度は大正時代に一旦廃止され、戦後に上方落語協会が部外秘の内規として復活させたが、昭和40年代の上方落語ブームによって有名無実化した。 天満天神繁昌亭の開設を機に、上方落語協会会長の桂三枝(現・6代桂文枝)が真打制度を復活させる計画を提案したが、反対意見が多く断念した。 現在は香盤(上方落語協会の内規)が真打制度の代替として存在し、芸歴5年以上を中座(江戸落語の二つ目に相当)、15年以上を真打と同格としており、真打相当からA、B、Cのランクに分かれている。 よって、通常上方落語で「前座」などの言葉を用いる際は、出番を表す言葉として使われることが多い。 順番は以下のとおり。 寄席での料金の支払いは、江戸の落語が先払いだったのに対して上方落語は後払いであった。 東京の落語家は、概ね落語協会や落語芸術協会といった所属団体によって色分けされているが、上方の落語家は、戦後の経緯から、吉本興業や松竹芸能、米朝事務所などの所属芸能事務所によって色分けされている。各事務所には、以下に示すように基本的に一門単位で加入することが多いが、一門の多数とは異なる事務所に属したり(笑福亭仁鶴、月亭可朝、笑福亭笑瓶など)や個人事務所を構えたり(笑福亭福笑、4代目立花家千橘など)、フリーで活動する落語家もいる。関西出身で落語立川流に入門した立川文都や立川雲水は上方落語を演ずる。 しかし、大多数の落語家は上方落語協会の会員であり、天満天神繁昌亭への出演や「彦八まつり」への参加などでは事務所の枠を超えて協力し合っている。このこともあり、漫才やコントなどの他の上方演芸ではよく見られ、テレビ番組の出演者編成でも時にネックとなる『所属芸能事務所間の壁』というものについても、落語界では決して絶無ではないがそれほど高くないとされている。 上方落語協会とは別の落語家団体としては関西落語文芸協会がある。これは四天王(特に6代目松鶴)との確執などで上方落語協会を脱退した3代目林家染三が設立したものである。染三の高齢化により活動休止状態にあり、彼の死去した2012年以降、団体は事実上消滅状態にある。 なお上方演芸全般の組織として関西演芸協会があり、落語家も多数所属する。2006年12月現在の会長は落語家の4代目桂福團治である。 明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に三友派の象徴であった「紅梅亭」(旧称「今嘉の席」「泉熊の席」。後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在ししのぎを削った。 他にもキタ北新地の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町、堀江、松屋町、新町、松島、大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していたが、天満宮の「第二文芸館」(同じく吉本の買収後「天満花月吉川館」)を皮切りに順次吉本に買収された事により、次第に漫才中心の興行内容にシフトしていった。 太平洋戦争時は戦地への慰問や落語家の高齢化に伴い寄席も一日4時間ほどしか開演していなかった。足りない芸人などは東京吉本から、柳家金語楼、柳家三亀松等を呼び寄せ興行をなんとかつないでいた。しかし戦争の激化により一部は閉鎖され、残った寄席も大阪大空襲によって灰燼に帰した。 1947年、ミナミに「戎橋松竹」(通称「戎松」)が開場。その後も戎松の後身の「千日劇場」や、松竹芸能系の「角座」「演芸の浪花座」(道頓堀)「新花月」(新世界)、吉本興業系の「なんば花月」「うめだ花月」、東宝系でケーエープロダクションの芸人が多く出演した「トップホットシアター」、京都・新京極に「富貴」「京洛劇場」「京都花月」、神戸・兵庫駅前に「寄席のパレス」、新開地に「神戸松竹座」などが開場したが、いずれも漫才との混成演芸場であり、落語の定席とは言い難かった。 落語専門定席の不在が上方落語の滅亡につながる事を懸念した上方落語協会は、会長・笑福亭松鶴の主導の下、南区千年町の日本基督教団島之内教会を借りて、1972年(昭和47年)2月より、月5日の「島之内寄席」を開催。芸能事務所や放送局(当時、一部の名のある落語家は放送局と専属契約を交わしていた)の枠を超えた定席として位置づけたが、会場側の都合によりわずか2年で潰えてしまう。 その後「島之内寄席」は会場を転々とし、1974年(昭和49年)4月にブラザーミシンビル(心斎橋)、同年12月に船場センタービル地下のボウリング場、1975年(昭和50年)6月にはダイエー京橋店へと移り、月3日興行に短縮された。この「島之内京橋ダイエー亭」は約9年続く。1984年(昭和59年)4月に南区畳屋町にある料亭「暫」に移転し、「島之内」に復帰するも、3年後には「暫」がビル改装のため閉鎖、1987年(昭和62年)に心斎橋のCBカレッジへ移り、ついに月1日興行となった。1993年(平成5年)に天王寺の一心寺シアターへ移った後、1996年(平成8年)のワッハ上方開館に伴いレッスンルームへ移転。2005年(平成17年)にワッハホールへと会場を移した。ワッハホールの閉館に伴い、2011年(平成23年)に千日前のTORII HALLに移転し、月1日興行ながら現在も続いている。後述の神戸新開地・喜楽館開館までは、上方落語協会は島之内寄席を天満天神繁昌亭と並ぶ協会主催寄席の両輪と位置づけていた。 1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、上方落語協会は浪曲親友協会などと共に、大阪に東京同様の国立演芸場の開設を求めて文化庁などに働きかけを行った。結果として、現在、国立文楽劇場小ホールで奇数月に開かれている「上方演芸特選会」として実を結んだが、年間6回のみの興行であり、定席と呼ぶにはほど遠かった。 その後も専門定席の構想が浮上しては消えていったが、上方落語協会が桂三枝体制に入ると具体化し、2006年(平成18年)9月15日に「天満天神繁昌亭」が大阪天満宮境内北側に開席。「島之内寄席」が島之内教会を離れて32年、大阪大空襲から61年を経て落語専門定席は名実共に復活した。さらに2018年7月11日には天満天神繁盛亭に次ぐ定席として、神戸市に神戸新開地・喜楽館がオープンした。 なお、純然たる落語専門定席ではないが、一時は「なんばグランド花月」「通天閣劇場」などの演芸場でも落語のプログラムが組み込まれ、吉本興業や松竹芸能に所属する落語家が独演会や勉強会を行うこともあった。また、2020年3月に閉館した千日前のTORII HALLにおいて毎月1日に開かれていた「TORII寄席」には、米朝事務所所属の落語家が多く出演した。 その後、天満天神繁昌亭の成功で興行側には落語を見直す気運が高まり、2008年なんばグランド花月で落語家のみの興行が定期的に行われるようになった。その他にも吉本興業は「うめだ花月」で月曜日から金曜まで昼の時間(12:30から)のみ「花花寄席」と題して吉本所属・フリーの若手中心で構成されたプログラムを行っていた。「うめだ花月」の閉館後は「なんばグランド花月」内にある「ヨシモト∞ホール大阪」で毎週土曜に開催していた。 2008年に2代目桂ざこばが西成区山王に「動楽亭」を開席、2009年5月には4代目桂福團治が会長の関西演芸協会が法善寺寄席を開席した。 落語定席の復活がなかなか実現しない一方で、昭和40年代より地域に密着した勉強会や自主公演が盛んに行われた。これがいわゆる「地域寄席」であり、1972年(昭和47年)8月から1992年(平成4年)8月まで3代目桂米之助が主宰した「岩田寄席」(東大阪市)がその始まりとされる。 現在では、1974年(昭和49年)7月に始まった旭堂南陵主宰の「堺おたび寄席」(堺市、2005年3月に中断したが場所を代えて復活。講談と落語の会)と同年9月から続く「田辺寄席」(大阪市、桂文太と世話人会が運営)を最古参に、「もとまち寄席恋雅亭」(神戸市、世話人は桂春駒)、「桂米朝落語研究会」(京都市東山区、桂米朝一門主宰)「尼崎落語研究会」(尼崎市、桂米朝一門主宰)、「京都市民寄席」(京都市)をはじめ数多く行われ、上方落語普及と演者の修業の場として活発な活動を行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "上方落語(かみがたらくご)は、大阪・京都を中心とする畿内の上方で主に演じられる落語の総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "上方で催される落語は「大阪落語」や「京都落語」などと称されていたが、1932年(昭和7年)7月1日発行の雑誌『上方』十九号で初めて「上方落語」が用いられた、と花月亭九里丸は『寄席楽屋事典』で著している。現在、京都落語は系譜上衰えていることから、大阪落語が上方落語と称される。", "title": "「上方落語」の語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源とされる。寛政から文化にかけて、浄瑠璃作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下り御霊などの社地で噺を演じた松田彌助が台頭した。彌助一門に松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」初代桂文治がおり、初代文治は大阪で初めて寄席を開き、声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目と4代目が東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、2代目桂文都(のち2代目月亭文都)、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年桂文左衛門)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "桂一門に並ぶ現代の上方落語で主力門派の笑福亭一門は、始祖とされる松富久亭松竹の詳細が明らかでないが天保から安永の時期に成立しており、桂と笑福亭の両門派に立川、林屋(林家)を加えた4門派が、明治期まで上方落語の主流を成した。上方林屋一門は、江戸の初代林屋正蔵の孫弟子に当たる初代林屋正三が故郷の岡山に近い大阪で腰を据えたことを端緒に、明治維新前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に代わられていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「桂派」と、文都、2代目文團治(のち7代目桂文治)、初代笑福亭福松、3代目笑福亭松鶴らを核とする派手で陽気な「三友派」が並立する。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では3代目桂文三、初代露の五郎、3代目桂文團治、2代目林家染丸、初代桂枝雀、初代桂ざこばなどの名人上手を輩出。京都では2代目曾呂利新左衛門、2代目桂文之助、初代桂枝太郎が活躍した。また東京から初代橘ノ圓、2代目三遊亭圓馬、5代目翁家さん馬らが移住し、寄席を盛り上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気、吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界、などから低迷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "漫才は、エンタツやアチャコが大学野球のラジオ中継から『早慶戦』を創作するなど時代に即する新しい笑いを創造した。落語は内部抗争で秩序が整わず、林正之助をはじめとする吉本興行部は商品価値が無いと見なされ、旧態依然の古い芸に安住して愛好家が離れた。初代春團治は、洒落を盛り込んだ不条理に加えて新しい媒体であるレコードを活用した演出で、唯一新しい笑いを提供して多くの愛好家を獲得し、今日の上方落語に大きく影響したが、孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死で上方落語は漫才に王座を譲ったと見られた。この状況に危機感を持った5代目笑福亭松鶴は、大阪市東成区今里の自宅を本拠地に、4代目桂米團治、初代橘ノ圓都、2代目立花家花橘、初代桂春輔、三遊亭志ん蔵ら同志を集めて「楽語荘」を結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方、2代目桂春團治は地方巡業に活路を見出すべく自ら演芸団を組織した。しかしこれは専属契約の内容を巡る吉本との紛争に発展し、京阪神を含む都市部では口演出来なくなってしまう", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "戦時中の漫才師や漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などへ派遣されたが、座して演ずる落語家は兵士に対して酷なので呼ばれず、比較的空襲が少ない神戸や京都などで富裕層や芸者を客として落語会を催して好評を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "太平洋戦争時、大阪や神戸にあった定席の寄席は空襲によって失われた。主力寄席だったミナミの南地花月、キタの北新地花月倶楽部を失った吉本興行部改めて吉本興業は、終戦直前から1945年末にかけて花菱アチャコを除く所属芸人との契約を解き演芸から撤退する(この結果、地方巡業問題で吉本と揉めていた2代目春團治は上方演芸界に復帰を果たした)。1947年、松竹共同創業者の白井松次郎は、大阪ミナミの映画館「戎橋松竹」を演芸場に改め、ここに5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、2代目春團治らが結集する。一方、戎橋松竹の新人会(「戎松日曜会」)などに出ていた若手の2代目笑福亭光鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)・3代目桂米朝・2代目桂小春(のちの3代目桂春團治)・2代目桂あやめ(のちの5代目桂文枝)・3代目桂米之助らは1948年に「さえずり会」というグループを結成する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "5代目松鶴と漫談家の丹波家九里丸との確執から、1948年3月に京都・新京極に「富貴」がオープンしたことを期に、九里丸が誘う形で2代目春団治や4代目米團治・4代目文團治・4代目桂文枝・橘ノ圓都・文の家かしく・橘家小圓太らが戎橋松竹を抜けて浪花新生三友派を結成する分裂状態となった。しかし、九里丸の姿勢から浪花新生三友派からは次第に離反者が相次ぎ、「さえずり会」も仲裁に入る形で1949年4月に両者が合同する形で関西演芸協会が結成され、分裂は約1年で収束した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "とはいえ、名の通ったベテランの噺家は依然として少なく、桂春輔が「楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったらもう落語はないねんさかいに、聞くねやったら今のうち」と枕で話すほどであった。春輔自身も1948年秋に、5代目松鶴が1950年に、4代目米團治と2代目立花家花橘が1951年に、2代目林家染丸が1952年に、2代目春團治が1953年に相次いで他界し、2代目春團治が没した際には作家の谷崎潤一郎が「大阪落語は終わった」と新聞に記した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この状況で、落語から離れていた3代目林家染丸が1952年11月に復帰(染丸襲名は1953年8月)。また1952年3月には小林一三の後援で「宝塚若手落語会」が発足し、「さえずり会」に集まった若手落語家などが参加した。若手落語家はそのほかにも勉強会へ参加するほか、初代橘ノ圓都、3代目笑福亭福松、桂右之助、4代目桂文團治、初代桂南天、桂文蝶、2代目三升紋三郎ら引退同然だった古老に噺の伝授を乞うなど、精力的に活動した。古老の中でも圓都は持ち演目が飛びぬけて多く、上方や東京の噺家に対して積極的に稽古をつけるなど古典落語の継承に努め、晩年は高座に復帰して1972年(昭和47年)に没するまで、明治の上方落語を最後まで残した。東京の8代目桂文楽、3代目三遊亭金馬、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生らの落語家も上方落語の復興に助力し、大阪生まれの小文治、百生は東京の観客に上方落語を紹介するなど大きな功績をあげた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)9月1日に新日本放送が開局して民間放送が時流となり、NHKを含めた各放送局は内容の充実を図るために「創作物としての上方落語」と「芸能人としての落語家」に着目し、番組と連動した落語会の主催や、専属芸能人として落語家と契約を交わすなどした。この潮流で米朝や初代森乃福郎らが知名度を上げて上方落語界に利をもたらした。NHKと朝日放送は特に積極的で、NHKは心斎橋の日立ホールを拠点に「放送演芸会」と連携した「上方落語の会」を開催し、朝日放送は「ABC上方落語をきく会」を主催し、のちに「ABCヤングリクエスト」に「ミッドナイト寄席」を設けて「上方落語をきく会」の演目を放送した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1956年に、長谷川幸延が初代春團治の生涯を脚色した小説『桂春団治』を原作とする映画『世にも面白い男の一生 桂春団治』(監督:木村恵吾、主演:森繁久彌)が公開される。この映画は後述する3代目春団治襲名を後押ししたほか、4代目桂福團治や2代目桂春蝶が落語家を志願する契機となるなど、一定の影響をもたらした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)に3代目染丸を初代会長として上方落語協会が結成される。会長の下に2代目光鶴・3代目米朝・2代目桂福団治(桂小春が1950年に襲名)・3代目桂小文枝(桂あやめが1952年に襲名)が幹事となり、染丸と幹事の4人を併せて「上方落語五人男」と称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)に3代目桂春團治、1962年(昭和37年)に6代目笑福亭松鶴と大名跡が相次いで復活した。この二人とほぼ同時期に入門した2代目桂小春団治、2代目笑福亭松之助、3代目桂文我、戦前入門ながら彼らと同世代の3代目林家染丸、3代目林家染語楼、昭和30年代前半入門組の4代目桂文紅、3代目桂米紫、月亭可朝など、中堅が実力を備えて人数も増えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、笑福亭仁鶴、桂三枝(現在の6代目桂文枝)、笑福亭鶴光、2代目桂春蝶、笑福亭鶴瓶、桂朝丸(現在の2代目桂ざこば)らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、1972年(昭和47年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、1971年(昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「1080分落語会」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席(講談1席含む)が生放送で流された。ほかラジオ大阪の「オンワード落語百選」、FM大阪の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ー方では1966年(昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「上方落語の四天王」と呼ばれるようになっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して2代目桂枝雀が台頭し、いわゆる「漫才ブーム」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移る。その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだ。この結果、落語家は「お笑い芸人」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていった。放送タレントとしてのお笑い芸人(実質上は漫才・漫談・コント。ただし彼らとて放送メディアで本来の芸を披露する機会は少ない)を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これは東西とも同様の現象であるが、上方落語においては1999年(平成11年)に2代目枝雀が早世した影響も大きい。カリスマ性を持った人気者だった枝雀の穴は、容易に埋められるものではなかった。また、笑福亭松葉(追贈7代目笑福亭松鶴)、2代目桂歌之助、桂喜丸、4代目林家染語楼、桂吉朝といった、将来を嘱望されていた戦後生まれの落語家の相次ぐ他界も痛手であった。そのような中、笑福亭鶴瓶らによる「六人の会」の活動や、4代目桂文我による古典の発掘作業、3代目桂小春團治や笑福亭鶴笑らの海外公演(パペット落語)といった新たな動きもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、元来お笑い芸人ないしお笑いタレントとしてテレビ等で活躍していた芸人が、芸人の飽和状態の中で自己の新しい芸をつけようと、落語を新たに始める例がある。多くは諸芸の一つとして落語を嗜んでいる程度に過ぎないが、山崎邦正(月亭方正)のように協会に加盟して本格的に落語を始める者、更に一歩進み、後藤征平(月亭太遊)や渡辺鐘(桂三度)のように従来のキャリアを捨てて落語家の道を選ぶ者も出はじめている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2004年以降は、東京との交流が密接になった。「六人の会」主催の「大銀座落語祭」に参加する上方落語家が2008年現在114人にまで達し、東西落語家の親睦交流が深まる一方で、深川江戸資料館、お江戸日本橋亭、国立演芸場、よしもと浅草花月などの主な演芸場における上方落語家出演も増えるなど、東京の落語愛好家にも上方落語が受け入れられている。さらに、笑福亭鶴光のように落語芸術協会に加盟し、東京で弟子をとり上方落語の普及を目指すものもいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2006年9月15日には、上方落語協会によって戦後初の上方落語専門定席「天満天神繁昌亭」(後述)が開設され、これが大阪の観光名所の一つとして全国的に紹介されるに及んで当初の予想をはるかに上回る入場人員数を得続けている。また2007年10月から翌年3月まで放送された、上方女流落語家の半生を描いたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」は関西を中心にマニアックな人気を博し、ドラマを見て上方落語に興味を覚えたという世代も現れた。ドラマ中で主人公の兄弟子役として出演した桂吉弥の落語会は放送以降、常に大入りの人気となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2007年以降は、長く途絶えていた大名跡や著名な名跡が相次いで襲名され復活。2007年には桂歌々志が師匠の名跡である3代目桂歌之助を、2008年には3代目桂小米朝が半世紀ぶりに5代目米團治を、2009年には桂春菜が3代目桂春蝶を、2010年には笑福亭小つるが6代目笑福亭枝鶴、桂つく枝が5代目桂文三、桂都丸が4代目桂塩鯛および都丸の弟子たちが4代目桂米紫・2代目桂鯛蔵を襲名。2011年以降も、桂こごろうが2代目桂南天を、月亭八天が7代目月亭文都を襲名、そして2012年には桂三枝が、桂一門の宗家名跡でもある6代目桂文枝を襲名した。ただし、この傾向については4代目桂文我からの批判もある。戦後の「四天王」と呼ばれた落語家は、3代目桂春團治が2016年に死去したことで全員が鬼籍に入った。2018年に桂春之輔が4代目桂春團治を襲名し、6代目桂文枝に続いて「四天王」の名跡を継ぐ形になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "主に上方言葉を用いる。噺の登場人物によって、京言葉や大阪言葉などを使い分ける。上方言葉の使用は近畿圏外出身者がその会得に苦労する。江戸落語を演じる落語家の出身地は全国にちらばっているが、上方落語家に箱根以東の東日本出身者は数人であり、北日本出身者は桂三段(北海道帯広市)のみである。近年は、自身の出身地に由来する方言(和歌山弁など)で演じる落語家もいる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "江戸落語では上方の言葉を話す人物が多く出るが(例「御神酒徳利」「金明竹」「三十石」「祇園会」)、上方落語では江戸言葉はあまり出ない。「ざこ八」や「江戸荒物」くらいである。戦前までは言葉や芸風の違いで、上方落語は東京の客層には受け入れられなかったが、戦後マスコミの発達で大阪の言葉が東京にも浸透し、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生ら在京の上方落語家の努力や前述の「上方落語の四天王」の活躍で、東京でもさかんに聴ける様になった。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "古典落語については、3代目柳家小さんらによって多くの上方の噺が東京に移植され、逆に東京から上方に移植された噺もある。そのため、同じ内容でも上方落語と江戸(東京)落語で題名が異なる噺や、「饅頭こわい」のように中身まで異なる噺もある。ただし片方にしかない噺については、東西交流の進んだ太平洋戦争後はこの限りではない。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上方落語の中心をなす「旅ネタ」は、「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」の四つに分かれる。入門したての落語家は、一門によっては口馴らしとして「発端」を教わるが、「東の旅」の「三十石」のようにかなりの技量を要するネタもある。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このほかの旅ネタには、冥土の旅に「地獄八景亡者戯」、海底の旅に「小倉船」(「竜宮界竜の都」)、天空の旅に「月宮殿星の都」、異国の旅に「島巡り」(「島巡り大人の屁」)があり、いずれも、奇想天外な内容ではめものを用いた派手な演出が見られる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "落とし噺(狭義の落語)と並んで江戸落語の軸を成す人情噺(狭義の人情噺。内容が講談に近く、サゲがない。「牡丹灯籠」、「文七元結」、「真景累ヶ淵」など)は、上方落語には存在しないと言ってよい。広い意味での人情噺に含まれるとされる「立ち切れ線香」、「ざこ八」、「大丸屋騒動」などは落とし噺である。ただし、「鬼あざみ」のように例外的にサゲがつかないネタもある(講釈から移植されたものなど)。この差異に関して「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と桂米朝は述べている。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東西交流の進む現代では、人情噺を上方風の演出で口演する落語家がいるので「上方には人情噺はない(少ない)」という原則も崩れつつあるが、総体的には上方の演目は落とし噺が中心である。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "歌舞伎をテーマにした上方落語には", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1. 歌舞伎の芝居をそのままに演じるやり方:「加賀見山」「本能寺」「自来也」「綱七」", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "サゲ:普通のサゲが用いられる場合と、幕切れのあと、「やあれ、日本一だっせ。日本一」「やかましなあ。あんさん。日本一って言うてんと、成駒屋、葉村屋言うて誉めなはれ」「いいえな。わたい、日本橋一丁目の薬屋の者だすねやが、ここで店の宣伝しょう思いまして。やあれ、日本一!」すると小屋の若いもんが来て「こら。日本一の薬屋ておのれかい」「へえ」「こっちへこい」「もうし、何しなはんねん!」「二三丁ほど振り出したるんじゃ」とサゲるパターンとがある。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2. 普通の落語から芝居になるやり方:「昆布巻芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」「質屋芝居」「足あがり」「七段目」(登場人物が芝居好きで俄で演じ出すという仕立てになっているものがほとんど)", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "サゲ:ここでは普通のサゲである。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "の2種類に分別される。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "江戸の芝居噺の演出は人情噺の途中から一転、衣装を引き抜き背景に書割を設けるが、上方はそのような演出は用いない。明治期に初代桂文我、昭和に入って初代桂小春團治、東京に移った桂小文治などが得意としていたが、上方落語や上方歌舞伎の衰退などが原因で、現在ではそのほとんど(特に1. のやり方)が絶滅している。ただ、初代小春團治が花柳芳兵衛として舞踊家に転じたのち、芸の伝承のためNHKに幾つかのネタを映像として収録させており、桂米朝らがそれを元に「本能寺」や「そってん芝居」などの復活を試みている。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "昭和に入っていくつかの新作落語が東西の落語界で作られたが、上方では4代目桂米團治作「代書」(「代書屋」とも)、3代目桂米朝作「一文笛」、3代目林家染語楼作「青空散髪」、三田純市作「まめだ」などが古典の範疇になっており、一部の演目は東京でも演じられている。現在は、桂三枝(現・6代目文枝)(「妻の旅行」、「鯛」、「ゴルフ夜明け前」などを創作)を中心に「創作落語」の名でさかんに作られている。 小佐田定雄一門のように専業の落語作家が存在するのも特徴である。2代目笑福亭松之助は「明石光司」、4代目桂文紅は「青井竿竹」の筆名で、新作を手がけていた。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "噺の登場人物は、喜六、清八、おさき、源兵衛、家主、医者(「赤壁周庵」の名が多い)、上町のおっさんなど。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "喜六(喜イ公、喜イさんとも)は、江戸の「与太郎」にあたる「アホ」役だが、生業(下駄屋がよく出る)を持ち、妻帯(妻の名は「おさき」「お松」がよく用いられる)している点が「与太郎」と異なる。性格は、与太郎が天然の馬鹿と設定されることが多いのに対し、どことなく醒めたところがみられる。(→「喜六と清八」も参照のこと)", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "江戸落語によく出てくる熊五郎、八五郎は、上方では喜六・清八の役どころとなる。上方で熊五郎、八五郎の名が登場するのは「らくだ」「へっつい幽霊」に「脳天の熊五郎」(「らくだ」では「弥猛(ヤタケタ)の熊五郎」とも)、「八五郎坊主」に「八五郎」があるくらいである。また江戸落語「三軒長屋」などに出てくる大工の棟梁は、上方では手伝い(テッタイ)の又兵衛として登場する。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "時代設定を特に定めない、あるいは庶民にも名字を名乗ることが許された明治以降に置いた演出では、演者にゆかりのある噺家の本名に因みかつ一般的な姓が出る場合がある(例えば6代目松鶴一門なら「竹内さん」、林家一門なら「大橋さん」「岡本さん」)。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "落語では一般的に扇子や手拭を小道具として用いるが、上方落語でしか用いない小道具として以下のものがある。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "通常、以上の3点はセットで用いられ、舞台への出し入れで持ち運ぶ際は、見台の上に膝隠しを乗せる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "今日では普通に使用されている、演者の名前を書いた名ビラやそれを掲げておく台のメクリは明治時代まで、出囃子は昭和初期まで、上方の寄席でしか使用されていなかった。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "口演中に演出としてお囃子を盛り込む点も江戸落語との違いである。このお囃子をはめものと呼ぶ。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "たとえば、「新町にまいります。その陽気な事」(「三枚起請」)と演者が言うと、楽屋にいるお囃子が三味線を弾き唄を唄って華やかな遊里を表現する。逆に「ふたなり」「皿屋敷」などで登場人物が寂しい夜道を歩くときは、三味線が静かに弾かれ寂しい情景を表現する。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "以上のように情景描写に使われる事が多いが、「野崎詣り」などでは舟が移動するなどの擬音に用いられる。「紙屑屋」「辻占茶屋」などの「音曲噺」では演者と掛け合いの型となる。「蛸芝居」「質屋芝居」「本能寺」などの芝居噺では、歌舞伎の下座音楽となる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "桂文珍はコンピューターの機械音を用いる事があるが、これもはめものの一変形である。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "お囃子奏者は「下座」あるいは「ヘタリ」とも呼ばれ、三味線奏者と太鼓・笛などの鳴物奏者で構成される。三味線奏者は専業だが、鳴物奏者は若手の落語家が務めることが多い。三味線奏者は、戦後は後継者難に直面し、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「上方落語下座音楽」の保持者であった林家トミ(2代目林家染丸の妻)の没後は存亡の危機に晒されたが、3代目桂米朝が自身の番組『米朝ファミリー 和朗亭』(朝日放送テレビ)で取り上げたことや、4代目林家染丸らによる後進育成活動などにより徐々に増え、2006年12月現在、上方落語協会会員だけでも11名を数える。現代の代表的な三味線奏者としては内海英華、かつら枝代(2代目枝雀の妻)、林家和女(5代目林家小染の妻、3代目桂あやめの姉)らがいる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "真打制度は大正時代に一旦廃止され、戦後に上方落語協会が部外秘の内規として復活させたが、昭和40年代の上方落語ブームによって有名無実化した。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "天満天神繁昌亭の開設を機に、上方落語協会会長の桂三枝(現・6代桂文枝)が真打制度を復活させる計画を提案したが、反対意見が多く断念した。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現在は香盤(上方落語協会の内規)が真打制度の代替として存在し、芸歴5年以上を中座(江戸落語の二つ目に相当)、15年以上を真打と同格としており、真打相当からA、B、Cのランクに分かれている。 よって、通常上方落語で「前座」などの言葉を用いる際は、出番を表す言葉として使われることが多い。 順番は以下のとおり。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "寄席での料金の支払いは、江戸の落語が先払いだったのに対して上方落語は後払いであった。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "東京の落語家は、概ね落語協会や落語芸術協会といった所属団体によって色分けされているが、上方の落語家は、戦後の経緯から、吉本興業や松竹芸能、米朝事務所などの所属芸能事務所によって色分けされている。各事務所には、以下に示すように基本的に一門単位で加入することが多いが、一門の多数とは異なる事務所に属したり(笑福亭仁鶴、月亭可朝、笑福亭笑瓶など)や個人事務所を構えたり(笑福亭福笑、4代目立花家千橘など)、フリーで活動する落語家もいる。関西出身で落語立川流に入門した立川文都や立川雲水は上方落語を演ずる。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "しかし、大多数の落語家は上方落語協会の会員であり、天満天神繁昌亭への出演や「彦八まつり」への参加などでは事務所の枠を超えて協力し合っている。このこともあり、漫才やコントなどの他の上方演芸ではよく見られ、テレビ番組の出演者編成でも時にネックとなる『所属芸能事務所間の壁』というものについても、落語界では決して絶無ではないがそれほど高くないとされている。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "上方落語協会とは別の落語家団体としては関西落語文芸協会がある。これは四天王(特に6代目松鶴)との確執などで上方落語協会を脱退した3代目林家染三が設立したものである。染三の高齢化により活動休止状態にあり、彼の死去した2012年以降、団体は事実上消滅状態にある。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお上方演芸全般の組織として関西演芸協会があり、落語家も多数所属する。2006年12月現在の会長は落語家の4代目桂福團治である。", "title": "江戸落語との違い" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に三友派の象徴であった「紅梅亭」(旧称「今嘉の席」「泉熊の席」。後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在ししのぎを削った。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "他にもキタ北新地の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町、堀江、松屋町、新町、松島、大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していたが、天満宮の「第二文芸館」(同じく吉本の買収後「天満花月吉川館」)を皮切りに順次吉本に買収された事により、次第に漫才中心の興行内容にシフトしていった。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "太平洋戦争時は戦地への慰問や落語家の高齢化に伴い寄席も一日4時間ほどしか開演していなかった。足りない芸人などは東京吉本から、柳家金語楼、柳家三亀松等を呼び寄せ興行をなんとかつないでいた。しかし戦争の激化により一部は閉鎖され、残った寄席も大阪大空襲によって灰燼に帰した。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1947年、ミナミに「戎橋松竹」(通称「戎松」)が開場。その後も戎松の後身の「千日劇場」や、松竹芸能系の「角座」「演芸の浪花座」(道頓堀)「新花月」(新世界)、吉本興業系の「なんば花月」「うめだ花月」、東宝系でケーエープロダクションの芸人が多く出演した「トップホットシアター」、京都・新京極に「富貴」「京洛劇場」「京都花月」、神戸・兵庫駅前に「寄席のパレス」、新開地に「神戸松竹座」などが開場したが、いずれも漫才との混成演芸場であり、落語の定席とは言い難かった。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "落語専門定席の不在が上方落語の滅亡につながる事を懸念した上方落語協会は、会長・笑福亭松鶴の主導の下、南区千年町の日本基督教団島之内教会を借りて、1972年(昭和47年)2月より、月5日の「島之内寄席」を開催。芸能事務所や放送局(当時、一部の名のある落語家は放送局と専属契約を交わしていた)の枠を超えた定席として位置づけたが、会場側の都合によりわずか2年で潰えてしまう。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "その後「島之内寄席」は会場を転々とし、1974年(昭和49年)4月にブラザーミシンビル(心斎橋)、同年12月に船場センタービル地下のボウリング場、1975年(昭和50年)6月にはダイエー京橋店へと移り、月3日興行に短縮された。この「島之内京橋ダイエー亭」は約9年続く。1984年(昭和59年)4月に南区畳屋町にある料亭「暫」に移転し、「島之内」に復帰するも、3年後には「暫」がビル改装のため閉鎖、1987年(昭和62年)に心斎橋のCBカレッジへ移り、ついに月1日興行となった。1993年(平成5年)に天王寺の一心寺シアターへ移った後、1996年(平成8年)のワッハ上方開館に伴いレッスンルームへ移転。2005年(平成17年)にワッハホールへと会場を移した。ワッハホールの閉館に伴い、2011年(平成23年)に千日前のTORII HALLに移転し、月1日興行ながら現在も続いている。後述の神戸新開地・喜楽館開館までは、上方落語協会は島之内寄席を天満天神繁昌亭と並ぶ協会主催寄席の両輪と位置づけていた。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、上方落語協会は浪曲親友協会などと共に、大阪に東京同様の国立演芸場の開設を求めて文化庁などに働きかけを行った。結果として、現在、国立文楽劇場小ホールで奇数月に開かれている「上方演芸特選会」として実を結んだが、年間6回のみの興行であり、定席と呼ぶにはほど遠かった。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "その後も専門定席の構想が浮上しては消えていったが、上方落語協会が桂三枝体制に入ると具体化し、2006年(平成18年)9月15日に「天満天神繁昌亭」が大阪天満宮境内北側に開席。「島之内寄席」が島之内教会を離れて32年、大阪大空襲から61年を経て落語専門定席は名実共に復活した。さらに2018年7月11日には天満天神繁盛亭に次ぐ定席として、神戸市に神戸新開地・喜楽館がオープンした。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "なお、純然たる落語専門定席ではないが、一時は「なんばグランド花月」「通天閣劇場」などの演芸場でも落語のプログラムが組み込まれ、吉本興業や松竹芸能に所属する落語家が独演会や勉強会を行うこともあった。また、2020年3月に閉館した千日前のTORII HALLにおいて毎月1日に開かれていた「TORII寄席」には、米朝事務所所属の落語家が多く出演した。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "その後、天満天神繁昌亭の成功で興行側には落語を見直す気運が高まり、2008年なんばグランド花月で落語家のみの興行が定期的に行われるようになった。その他にも吉本興業は「うめだ花月」で月曜日から金曜まで昼の時間(12:30から)のみ「花花寄席」と題して吉本所属・フリーの若手中心で構成されたプログラムを行っていた。「うめだ花月」の閉館後は「なんばグランド花月」内にある「ヨシモト∞ホール大阪」で毎週土曜に開催していた。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2008年に2代目桂ざこばが西成区山王に「動楽亭」を開席、2009年5月には4代目桂福團治が会長の関西演芸協会が法善寺寄席を開席した。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "落語定席の復活がなかなか実現しない一方で、昭和40年代より地域に密着した勉強会や自主公演が盛んに行われた。これがいわゆる「地域寄席」であり、1972年(昭和47年)8月から1992年(平成4年)8月まで3代目桂米之助が主宰した「岩田寄席」(東大阪市)がその始まりとされる。", "title": "定席" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "現在では、1974年(昭和49年)7月に始まった旭堂南陵主宰の「堺おたび寄席」(堺市、2005年3月に中断したが場所を代えて復活。講談と落語の会)と同年9月から続く「田辺寄席」(大阪市、桂文太と世話人会が運営)を最古参に、「もとまち寄席恋雅亭」(神戸市、世話人は桂春駒)、「桂米朝落語研究会」(京都市東山区、桂米朝一門主宰)「尼崎落語研究会」(尼崎市、桂米朝一門主宰)、「京都市民寄席」(京都市)をはじめ数多く行われ、上方落語普及と演者の修業の場として活発な活動を行っている。", "title": "定席" } ]
上方落語(かみがたらくご)は、大阪・京都を中心とする畿内の上方で主に演じられる落語の総称である。
{{出典の明記|date=2022年10月}} '''上方落語'''(かみがたらくご)は、[[大阪府|大阪]]・[[京都府|京都]]を中心とする[[畿内]]の[[上方]]で主に演じられる[[落語]]の総称である。        == 「上方落語」の語源 == {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} 上方で催される落語は「大阪落語」や「京都落語」などと称されていたが、[[1932年]](昭和7年)[[7月1日]]発行の雑誌『上方』十九号で初めて「上方落語」が用いられた、と[[花月亭九里丸]]は『寄席楽屋事典』で著している。現在、京都落語は系譜上衰えていることから、大阪落語が上方落語と称される。 == 歴史 == {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} === 江戸時代まで === [[江戸時代]]中期に、京都の'''[[露の五郎兵衛#初代|初代露の五郎兵衛]]'''や大阪の'''[[米沢彦八#初代|初代米沢彦八]]'''が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「[[軽口]]」(かるくち)が落語の起源とされる。[[寛政]]から[[文化 (元号)|文化]]にかけて、[[浄瑠璃]]作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下り御霊などの社地で噺を演じた[[松田彌助]]が台頭した。彌助一門に松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」[[桂文治 (初代)|初代桂文治]]がおり、初代文治は大阪で初めて寄席を開き、声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目と4代目が東西に並立するが、上方4代目の弟子である[[桂文枝#初代|桂文枝]]は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、門下の初代桂文之助(のち[[曽呂利新左衛門#二世 曽呂利新左衛門|2代目曽呂利新左衛門]])、2代目桂文都(のち[[月亭文都 (2代目)|2代目月亭文都]])、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年[[桂文左衛門]])、[[桂文團治#初代|初代桂文團治]]も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。 桂一門に並ぶ現代の上方落語で主力門派の[[松鶴一門|笑福亭一門]]は、始祖とされる[[松富久亭松竹]]の詳細が明らかでないが[[天保]]から[[安永]]の時期に成立しており、桂と笑福亭の両門派に[[立川三光|立川]]、[[林家正三|林屋(林家)]]を加えた4門派が、[[明治]]期まで上方落語の主流を成した。上方林屋一門は、江戸の[[林家正蔵#初代|初代林屋正蔵]]の孫弟子に当たる[[林家正三#初代|初代林屋正三]]が故郷の[[岡山県|岡山]]に近い大阪で腰を据えたことを端緒に、[[明治維新]]前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に代わられていく。 === 明治期 === [[File:Bunji Katsura VII Scan10063.JPG|thumb|140px|七代目文治『落語系圖』]] 明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「[[桂派]]」と、文都、2代目文團治(のち[[桂文治 (7代目)|7代目桂文治]])、[[笑福亭福松#初代|初代笑福亭福松]]、[[笑福亭松鶴#3代目|3代目笑福亭松鶴]]らを核とする派手で陽気な「[[三友派]]」が並立する。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では[[桂文三 (3代目)|3代目桂文三]]、[[露の五郎#初代|初代露の五郎]]、[[桂文團治#3代目|3代目桂文團治]]、[[林家染丸#2代目|2代目林家染丸]]、[[桂枝雀#初代|初代桂枝雀]]、[[桂ざこば (初代)|初代桂ざこば]]などの名人上手を輩出。[[京都]]では2代目曾呂利新左衛門、[[桂文之助#上方|2代目桂文之助]]、[[桂枝太郎#初代|初代桂枝太郎]]が活躍した。また東京から[[橘ノ圓 (初代)|初代橘ノ圓]]、[[三遊亭圓馬#2代目|2代目三遊亭圓馬]]、[[翁家さん馬#5代目|5代目翁家さん馬]]らが移住し、寄席を盛り上げた。 === 大正から昭和初期まで === [[File:Harudanji Katsura I Scan10004.JPG|thumb|130px|初代春団治]] [[大正]]から[[昭和]]初期にかけては[[桂春団治 (初代)|初代桂春團治]]、[[桂三木助 (2代目)|2代目桂三木助]]、[[三遊亭圓馬#3代目|3代目三遊亭圓馬]]、[[立花家花橘#2代目|2代目立花家花橘]]、[[桂小春団治#初代|初代桂小春團治]]<ref>のちに舞踊へ転じて[[花柳芳兵衛]]となる。</ref>らが人気を集めたが、やがて[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]などの新興の[[漫才]]の人気、[[吉本興業|吉本興行部]]による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界、などから低迷した。 漫才は、エンタツやアチャコが大学野球のラジオ中継から『早慶戦』を創作するなど時代に即する新しい笑いを創造した。落語は内部抗争で秩序が整わず、[[林正之助]]をはじめとする吉本興行部は商品価値が無いと見なされ、旧態依然の古い芸に安住して愛好家が離れた。初代春團治は、洒落を盛り込んだ不条理に加えて新しい媒体であるレコードを活用した演出で、唯一新しい笑いを提供して多くの愛好家を獲得し、今日の上方落語に大きく影響したが、孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死で上方落語は漫才に王座を譲ったと見られた。この状況に危機感を持った[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目笑福亭松鶴]]は、大阪市東成区今里の自宅を本拠地に、[[桂米團治 (4代目)|4代目桂米團治、初代]][[橘ノ圓都]]、[[立花家花橘#2代目|2代目立花家花橘]]、初代桂春輔、三遊亭志ん蔵ら同志を集めて「楽語荘」を結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。 一方、[[桂春団治 (2代目)|2代目桂春團治]]は地方巡業に活路を見出すべく自ら演芸団を組織した{{Sfn|河本・小佐田|2002|pp=49 - 50}}。しかしこれは専属契約の内容を巡る吉本との紛争に発展し、京阪神を含む都市部では口演出来なくなってしまう 戦時中の漫才師や漫談家は[[わらわし隊]]などの慰問団で中国などへ派遣されたが、座して演ずる落語家は兵士に対して酷なので呼ばれず、比較的空襲が少ない神戸や京都などで富裕層や芸者を客として落語会を催して好評を得た。 [[ファイル:Shofukutei Shokaku V Scan0068.JPG|サムネイル|173x173ピクセル|五代目松鶴]] [[File:Yonedanji Katsura IV Scan10008.JPG|thumb|right|160px|四代目米團治]] === 太平洋戦争後から昭和30年代 === [[File:Beicho and Harudanji 3 Scan10002.jpg|thumb|240px|{{small|のちに人間国宝となる三代目米朝(右)と、三代目春団治(左。当時小春)。1947年から1950年ごろ}}]] [[File:Shokaku VI Yonenosuke Bunshi V Scan10067.JPG|thumb|240px|{{small|「戎松日曜会」。後列右から六代目松鶴(当時は三代目光鶴あるいは四代目枝鶴)、三代目米之助、五代目文枝(当時あやめ)、[[旭堂南陵 (3代目)|旭堂南陵(当時二代目小南陵)]]。子供は[[和多田勝|和多田勝(当時小つる)]] }}]] [[太平洋戦争]]時、大阪や神戸にあった定席の寄席は空襲によって失われた。主力寄席だったミナミの南地花月、キタの北新地花月倶楽部を失った吉本興行部改めて吉本興業は、終戦直前から1945年末にかけて[[花菱アチャコ]]を除く所属芸人との契約を解き演芸から撤退する(この結果、地方巡業問題で吉本と揉めていた2代目春團治は上方演芸界に復帰を果たした{{Sfn|河本・小佐田|2002|pp=142 - 143}})。[[1947年]]、[[松竹]]共同創業者の[[白井松次郎]]は、大阪[[ミナミ]]の映画館「[[戎橋松竹]]」を演芸場に改め、ここに5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、2代目春團治らが結集する{{Sfn|戸田|2014|pp=91 - 92}}。一方、戎橋松竹の新人会(「戎松日曜会」)などに出ていた若手の2代目笑福亭光鶴(のちの[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]<ref>5代目松鶴の子</ref>)・[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]・2代目桂小春(のちの[[桂春団治 (3代目)|3代目桂春團治]]<ref>2代目春團治の子</ref>)・2代目桂あやめ(のちの[[桂文枝 (5代目)|5代目桂文枝]])・[[桂米之助 (3代目)|3代目桂米之助]]らは1948年に「さえずり会」というグループを結成する{{Sfn|戸田|2014|pp=101 - 109}}。 5代目松鶴と漫談家の[[花月亭九里丸|丹波家九里丸]]との確執から、1948年3月に京都・[[新京極]]に「[[富貴 (寄席)|富貴]]」がオープンしたことを期に、九里丸が誘う形で2代目春団治や4代目米團治・4代目文團治・[[桂文枝#4代目|4代目桂文枝]]・[[橘ノ圓都]]・[[笑福亭福松#3代目|文の家かしく]]・[[橘家小圓太]]らが戎橋松竹を抜けて[[三友派#浪花新生三友派|浪花新生三友派]]を結成する分裂状態となった{{Sfn|戸田|2014|pp=114 - 116}}。しかし、九里丸の姿勢から浪花新生三友派からは次第に離反者が相次ぎ、「さえずり会」も仲裁に入る形で1949年4月に両者が合同する形で関西演芸協会が結成され、分裂は約1年で収束した{{Sfn|戸田|2014|pp=117 - 119}}。 とはいえ、名の通ったベテランの噺家は依然として少なく、[[桂春輔]]が「楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったらもう落語はないねんさかいに、聞くねやったら今のうち」と枕で話すほどであった{{Sfn|戸田|2014|p=69}}。春輔自身も1948年秋に、5代目松鶴が1950年に、4代目米團治と[[立花家花橘#2代目|2代目立花家花橘]]が1951年に、2代目林家染丸が1952年に、2代目春團治が1953年に相次いで他界し、2代目春團治が没した際には作家の[[谷崎潤一郎]]が「大阪落語は終わった」と新聞に記した。 [[File:Takarazuka Rakugokai 1955 Scan10006.JPG|thumb|240px|{{small|1955年正月、宝塚若手落語会写真より 前列左より桂春坊(二代目露の五郎兵衛)、二代目笑福亭松之助、橘家円二郎、四代目桂文枝、三代目桂米朝、笑福亭小つる(和多田勝)、三代目桂米之助 後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)、旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)、六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人) 写真原本は三代目米之助の右に初代笑福亭鶴三、奥野の右に三代目林家小染が写るが、綴じ部分にあたるため割愛}}]] この状況で、落語から離れていた[[林家染丸#3代目|3代目林家染丸]]が1952年11月に復帰(染丸襲名は1953年8月){{Sfn|戸田|2014|pp=168 - 170}}。また1952年3月には[[小林一三]]の後援で「宝塚若手落語会」が発足し{{Sfn|戸田|2014|p=152}}、「さえずり会」に集まった若手落語家などが参加した。若手落語家はそのほかにも勉強会へ参加するほか、初代[[橘ノ圓都]]、[[笑福亭福松#3代目|3代目笑福亭福松]]、[[桂右之助]]、[[桂文團治#4代目|4代目桂文團治]]、初代[[桂南天]]、[[桂文蝶]]、2代目[[三升紋三郎]]ら引退同然だった古老に噺の伝授を乞うなど、精力的に活動した。古老の中でも圓都は持ち演目が飛びぬけて多く、上方や東京の噺家に対して積極的に稽古をつけるなど古典落語の継承に努め、晩年は高座に復帰して[[1972年]](昭和47年)に没するまで、明治の上方落語を最後まで残した。東京の[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]、[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]、[[桂小文治 (2代目)|2代目桂小文治]]、[[三遊亭百生#2代目|2代目三遊亭百生]]らの落語家も上方落語の復興に助力し、大阪生まれの小文治、百生は東京の観客に上方落語を紹介するなど大きな功績をあげた。 [[1951年]](昭和26年)[[9月1日]]に[[毎日放送|新日本放送]]が開局して民間放送が時流となり、[[日本放送協会|NHK]]を含めた各放送局は内容の充実を図るために「創作物としての上方落語」と「芸能人としての落語家」に着目し、番組と連動した落語会の主催や、専属芸能人として落語家と契約を交わすなどした。この潮流で米朝や[[森乃福郎#初代|初代森乃福郎]]らが知名度を上げて上方落語界に利をもたらした。NHKと[[朝日放送ラジオ|朝日放送]]は特に積極的で、NHKは[[心斎橋]]の[[心斎橋筋2丁目劇場|日立ホール]]を拠点に「放送演芸会」と連携した「上方落語の会」を開催し、朝日放送は「ABC[[上方落語をきく会]]」を主催し、のちに「[[ABCヤングリクエスト]]」に「[[ABCヤングリクエスト#コーナー|ミッドナイト寄席]]」を設けて「上方落語をきく会」の演目を放送した。 [[1956年]]に、[[長谷川幸延]]が初代春團治の生涯を脚色した小説『[[桂春団治 (小説)|桂春団治]]』を原作とする映画『[[桂春団治 (小説)#映画(1956年版)|世にも面白い男の一生 桂春団治]]』(監督:[[木村恵吾]]、主演:[[森繁久彌]])が公開される。この映画は後述する3代目春団治襲名を後押しした{{Sfn|戸田|2014|pp=202 - 203}}ほか、[[桂福團治|4代目桂福團治]]や[[桂春蝶 (2代目)|2代目桂春蝶]]が落語家を志願する契機となる{{Sfn|戸田|2014|p=214}}{{Sfn|戸田|2014|p=251}}など、一定の影響をもたらした。 [[1957年]](昭和32年)に3代目染丸を初代会長として[[上方落語協会]]が結成される{{Sfn|戸田|2014|pp=194 - 195}}。会長の下に2代目光鶴・3代目米朝・2代目桂福団治(桂小春が1950年に襲名)・3代目桂小文枝(桂あやめが1952年に襲名)が幹事となり、染丸と幹事の4人を併せて「'''上方落語五人男'''」と称された{{Sfn|戸田|2014|p=197}}。 [[1959年]](昭和34年)に3代目桂春團治、[[1962年]](昭和37年)に6代目笑福亭松鶴と大名跡が相次いで復活した。この二人とほぼ同時期に入門した2代目桂小春団治<ref>のちの[[露の五郎兵衛#2代目|2代目露の五郎兵衛]]</ref>、[[笑福亭松之助|2代目笑福亭松之助]]、[[桂文我 (3代目)|3代目桂文我]]、戦前入門ながら彼らと同世代の3代目林家染丸、[[林家染語楼 (3代目)|3代目林家染語楼]]、昭和30年代前半入門組の[[桂文紅 (4代目)|4代目桂文紅]]、[[桂米紫#3代目|3代目桂米紫]]、[[月亭可朝]]など、中堅が実力を備えて人数も増えていった。 === 昭和40年代から昭和末期 === 昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]、桂三枝(現在の[[桂文枝 (6代目)|6代目桂文枝]])、[[笑福亭鶴光]]、[[桂春蝶 (2代目)|2代目桂春蝶]]、[[笑福亭鶴瓶]]、桂朝丸(現在の[[桂ざこば (2代目)|2代目桂ざこば]])らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、[[1972年]](昭和47年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。 ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、[[1971年]](昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「[[1080分落語会]]」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席([[講談]]1席含む)が生放送で流された。ほか[[大阪放送|ラジオ大阪]]の「オンワード落語百選」、[[エフエム大阪|FM大阪]]の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。 ー方では[[1966年]](昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「'''上方落語の四天王'''」と呼ばれるようになっていく。 落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。 [[1986年]](昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して[[桂枝雀 (2代目)|2代目桂枝雀]]が台頭し、いわゆる「[[漫才ブーム]]」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。 === 平成期 === 平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移る。その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだ。この結果、落語家は「[[お笑い芸人]]」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていった。放送タレントとしてのお笑い芸人(実質上は漫才・漫談・コント。ただし彼らとて放送メディアで本来の芸を披露する機会は少ない)を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっている。 これは東西とも同様の現象であるが、上方落語においては1999年(平成11年)に2代目枝雀が早世した影響も大きい。カリスマ性を持った人気者だった枝雀の穴は、容易に埋められるものではなかった。また、笑福亭松葉(追贈[[笑福亭松鶴 (7代目)|7代目笑福亭松鶴]])、[[桂歌之助 (2代目)|2代目桂歌之助]]、[[桂喜丸]]、[[林家染語楼 (4代目)|4代目林家染語楼]]、[[桂吉朝]]といった、将来を嘱望されていた戦後生まれの落語家の相次ぐ他界も痛手であった。そのような中、笑福亭鶴瓶らによる「[[六人の会]]」の活動や、[[桂文我 (4代目)|4代目桂文我]]による古典の発掘作業、[[桂小春団治 (3代目)|3代目桂小春團治]]や[[笑福亭鶴笑]]らの海外公演(パペット落語)といった新たな動きもある。 また、元来お笑い芸人ないしお笑いタレントとしてテレビ等で活躍していた芸人が、芸人の飽和状態の中で自己の新しい芸をつけようと、落語を新たに始める例がある。多くは諸芸の一つとして落語を嗜んでいる程度に過ぎないが、山崎邦正([[月亭方正]])のように協会に加盟して本格的に落語を始める者、更に一歩進み、後藤征平([[月亭太遊]])や渡辺鐘([[桂三度]])のように従来のキャリアを捨てて落語家の道を選ぶ者も出はじめている。 2004年以降は、東京との交流が密接になった。「六人の会」主催の「大銀座落語祭」に参加する上方落語家が2008年現在114人にまで達し、東西落語家の親睦交流が深まる一方で、[[深川江戸資料館]]、[[お江戸日本橋亭]]、[[国立演芸場]]、[[よしもと浅草花月]]などの主な演芸場における上方落語家出演も増えるなど、東京の落語愛好家にも上方落語が受け入れられている<ref>「[[読売新聞]]」夕刊2008年8月15日</ref>。さらに、[[笑福亭鶴光]]のように[[落語芸術協会]]に加盟し、東京で弟子をとり上方落語の普及を目指すものもいる。 2006年9月15日には、上方落語協会によって戦後初の上方落語専門定席「[[天満天神繁昌亭]]」(後述)が開設され、これが大阪の観光名所の一つとして全国的に紹介されるに及んで当初の予想をはるかに上回る入場人員数を得続けている。また2007年10月から翌年3月まで放送された、上方女流落語家の半生を描いた[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[ちりとてちん (テレビドラマ)|ちりとてちん]]」は関西を中心にマニアックな人気を博し、ドラマを見て上方落語に興味を覚えたという世代も現れた。ドラマ中で主人公の兄弟子役として出演した[[桂吉弥]]の落語会は放送以降、常に大入りの人気となっている。 2007年以降は、長く途絶えていた大[[名跡]]や著名な名跡が相次いで襲名され復活。2007年には桂歌々志が師匠の名跡である[[桂歌之助 (3代目)|3代目桂歌之助]]を、[[2008年]]には3代目桂小米朝が半世紀ぶりに[[桂米團治 (5代目)|5代目米團治]]を、[[2009年]]には桂春菜が[[桂春蝶 (3代目)|3代目桂春蝶]]を、2010年には[[笑福亭小つる]]が[[笑福亭枝鶴 (6代目)|6代目]][[笑福亭枝鶴]]、[[桂つく枝]]が5代目[[桂文三]]、[[桂都丸]]が4代目[[桂塩鯛]]および都丸の弟子たちが4代目[[桂米紫]]・2代目[[桂鯛蔵]]を襲名。2011年以降も、[[桂南天 (2代目)|桂こごろう]]が2代目[[桂南天]]を、[[月亭文都 (7代目)|月亭八天]]が7代目[[月亭文都]]を襲名、そして2012年には桂三枝が、桂一門の宗家名跡でもある6代目[[桂文枝]]を襲名した。ただし、この傾向については4代目桂文我からの批判もある<ref>『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房)あとがきより</ref>。戦後の「四天王」と呼ばれた落語家は、3代目桂春團治が[[2016年]]に死去したことで全員が鬼籍に入った<ref>{{Cite news|title=訃報 桂春団治さん85歳=落語家|newspaper=毎日新聞|date=2016-01-14|url=https://mainichi.jp/articles/20160114/k00/00m/040/165000c|accessdate=2018-11-18}}</ref>。[[2018年]]に桂春之輔が[[桂春団治 (4代目)|4代目桂春團治]]を襲名し<ref>{{Cite news|title=四代目「桂春団治」襲名披露|newspaper=産経ニュースWEST|date=2018-2-11|url=http://www.sankei.com/west/news/180211/wst1802110056-n1.html|agency=産業経済新聞社|accessdate=2018-11-18}}</ref>、6代目桂文枝に続いて「四天王」の名跡を継ぐ形になった。 == 江戸落語との違い == {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} === 言葉 === 主に[[関西弁|上方言葉]]を用いる。噺の登場人物によって、[[京言葉]]や[[大阪弁|大阪言葉]]などを使い分ける。上方言葉の使用は[[近畿地方|近畿圏]]外出身者がその会得に苦労する。江戸落語を演じる落語家の出身地は全国にちらばっているが、上方落語家に[[箱根]]以東の[[東日本]]出身者は数人であり<ref>2023年現在、[[笑福亭円笑]](東京都[[品川区]])、[[桂春雨]](東京都[[文京区]])、[[桂ぽんぽ娘]](東京都[[葛飾区]])。</ref><ref name=":0" />、[[北日本]]出身者は[[桂三段]]([[北海道]][[帯広市]])のみである<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=東西寄席演芸家年鑑2 |date=2021-8-29 |publisher=東京かわら版 |pages=256-328 |isbn=9784910085135}}</ref>。近年は、自身の出身地に由来する方言([[紀州弁|和歌山弁]]など)で演じる落語家もいる。 江戸落語では[[上方]]の言葉を話す人物が多く出るが(例「御神酒徳利」「金明竹」「三十石」「祇園会」)、上方落語では[[江戸言葉]]はあまり出ない。「[[ざこ八]]」や「[[江戸荒物]]」くらいである。戦前までは言葉や芸風の違いで、上方落語は東京の客層には受け入れられなかったが、戦後[[マスメディア|マスコミ]]の発達で大阪の言葉が東京にも浸透し、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生ら在京の上方落語家の努力や前述の「上方落語の四天王」の活躍で、東京でもさかんに聴ける様になった。 === 演目 === 古典落語については、[[柳家小さん (3代目)|3代目柳家小さん]]らによって多くの[[上方]]の噺が東京に移植され、逆に東京から上方に移植された噺もある。そのため、同じ内容でも上方落語と江戸(東京)落語で題名が異なる噺や、「[[まんじゅうこわい|饅頭こわい]]」のように中身まで異なる噺もある。ただし片方にしかない噺については、東西交流の進んだ太平洋戦争後はこの限りではない。 * '''上方→江戸''':「[[らくだ (落語)|らくだ]]」、「[[二番煎じ (落語)|二番煎じ]]」、「[[かぜうどん]]」(東京では「[[うどん屋 (落語)|うどん屋]]」)、「[[猫の災難]]」、「[[二階ぞめき]]」、「[[碁どろ]]」、「[[不動坊]]」、「[[高砂や]]」、「[[青菜 (落語)|青菜]]」、「[[みかん屋]]」(同「[[かぼちゃ屋]]」)、「[[時うどん]]」(同「[[時そば]]」)、「[[三十石]]」、「[[貧乏花見]]」(同「[[長屋の花見]]」)、「[[子ほめ]]」、「[[牛ほめ]]」、「[[地獄八景亡者戯]]」(同「地獄めぐり」)、「[[宿屋仇]]」(同「[[宿屋の仇討]]」)、「[[高津の富]]」(同「[[宿屋の富]]」)、「[[いらちの愛宕詣り]]」(同「堀の内」)、「[[鴻池の犬]]」(同「[[大どこの犬]]」)、「[[菊江仏壇]]」(同「[[白ざつま]]」)、「[[けんげしゃ茶屋]]」(同「[[かつぎ茶屋]]」)、「[[米揚げ笊]]」(同「[[ざる屋]]」)、「[[借家借り]]」(同「[[小言幸兵衛]]」)、「[[立ち切れ線香]]」(同「[[たちきり]]」)、「[[佐々木裁き]]」(同「[[佐々木政談]]」「[[池田大助]]」)、「[[高倉狐]]」(同「[[王子の狐]]」)、「[[寝床]]」、「[[近日息子]]」、「[[饅頭こわい]]」、「[[景清 (落語)|景清]]」、「[[笠碁]]」、「[[三枚起請]]」、「[[仔猫]]」、「[[百年目]]」など。 * '''江戸→上方''':「[[酢豆腐]]」(上方では「[[酢豆腐|ちりとてちん]]」)、「[[花見の仇討]]」(同「[[桜の宮]]」)、「[[反魂香 (落語)|反魂香]]」(同「[[高尾]]」)、「[[締めこみ]]」(同「[[盗人の仲裁]]」)、「[[唐茄子屋政談]]」(同「[[南京屋政談]]」または「なんきん政談」)、「[[芝浜]]」(同「[[夢の革財布]]」)など。 * '''上方のみ''':「[[池田の猪買い]]」、「[[冬の遊び]]」、「[[算段の平兵衛]]」、「[[莨の火]]」、「[[土橋万歳]]」、「[[有馬小便]]」、「[[いかけ屋]]」、「[[本能寺 (落語)|本能寺]]」、「[[野崎詣り]]」、「[[西行鼓ヶ滝]]」、「[[江戸荒物]]」、「[[日和違い]]」、「[[欲の熊鷹]]」など。 * '''江戸のみ''':「[[三軒長屋]]」、「[[黄金餅]]」、「[[大工調べ]]」、「[[佃祭り]]」、「[[よかちょろ]]」、「[[五人廻し]]」など。 {{Main|古典落語}} ==== 旅ネタ ==== 上方落語の中心をなす「旅ネタ」は、「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」の四つに分かれる。入門したての落語家は、一門によっては口馴らしとして「発端」を教わるが、「東の旅」の「三十石」のようにかなりの技量を要するネタもある。 * '''[[東の旅]]''':本題「[[伊勢参宮神乃賑]]」。「発端」、「[[煮売屋]]」、「[[七度狐]]」、「[[軽業]]」、「[[三人旅]]」、「[[うんつく酒|運つく酒]]」、「[[矢橋舟]]」、「[[宿屋町]]」「[[こぶ弁慶]]」、「[[三十石]]」などで構成される。[[伊勢神宮]]参詣の道中を主題とする。 * '''西の旅''':「[[明石名所]]」、「[[兵庫船]]」(「兵庫渡海鱶魅入」)。[[金刀比羅宮]]参詣が主題。 * '''南の旅''':「[[紀州飛脚]]」 * '''北の旅''':「[[池田の猪買い]]」 このほかの旅ネタには、冥土の旅に「[[地獄八景亡者戯]]」、海底の旅に「[[小倉船]]」(「竜宮界竜の都」)、天空の旅に「[[月宮殿星の都]]」、異国の旅に「[[島巡り]]」(「島巡り大人の屁」)があり、いずれも、奇想天外な内容ではめものを用いた派手な演出が見られる。 ==== 人情噺 ==== 落とし噺(狭義の落語)と並んで江戸落語の軸を成す[[人情噺]](狭義の人情噺。内容が[[講談]]に近く、[[落ち|サゲ]]がない。「[[牡丹灯籠]]」、「[[文七元結]]」、「[[真景累ヶ淵]]」など)は、上方落語には存在しないと言ってよい。広い意味での人情噺に含まれるとされる「[[立ち切れ線香]]」、「ざこ八」、「[[大丸屋騒動]]」などは落とし噺である。ただし、「鬼あざみ」のように例外的にサゲがつかないネタもある([[講釈]]から移植されたものなど)。この差異に関して「上方では浄瑠璃<!-- 人形浄瑠璃だけを指しているとは限らないので、「浄瑠璃(文楽)」とするのはあまり適切ではない -->が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と桂米朝は述べている。 東西交流の進む現代では、人情噺を上方風の演出で口演する落語家がいるので「上方には人情噺はない(少ない)」という原則も崩れつつあるが、総体的には上方の演目は落とし噺が中心である。 ==== 芝居噺 ==== 歌舞伎をテーマにした上方落語には 1. 歌舞伎の芝居をそのままに演じるやり方:「加賀見山」「本能寺」「自来也」「綱七」 サゲ:普通のサゲが用いられる場合と、幕切れのあと、「やあれ、日本一だっせ。日本一」「やかましなあ。あんさん。日本一って言うてんと、成駒屋、葉村屋言うて誉めなはれ」「いいえな。わたい、日本橋一丁目の薬屋の者だすねやが、ここで店の宣伝しょう思いまして。やあれ、日本一!」すると小屋の若いもんが来て「こら。日本一の薬屋ておのれかい」「へえ」「こっちへこい」「もうし、何しなはんねん!」「二三丁ほど振り出したるんじゃ」とサゲるパターンとがある。 2. 普通の落語から芝居になるやり方:「昆布巻芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」「質屋芝居」「足あがり」「七段目」(登場人物が芝居好きで俄で演じ出すという仕立てになっているものがほとんど) サゲ:ここでは普通のサゲである。 の2種類に分別される。 江戸の芝居噺の演出は人情噺の途中から一転、衣装を引き抜き背景に書割を設けるが、上方はそのような演出は用いない。明治期に初代桂文我、昭和に入って初代桂小春團治、東京に移った桂小文治などが得意としていたが、上方落語や上方歌舞伎の衰退などが原因で、現在ではそのほとんど(特に1. のやり方)が絶滅している。ただ、初代小春團治が花柳芳兵衛として舞踊家に転じたのち、芸の伝承のためNHKに幾つかのネタを映像として収録させており、桂米朝らがそれを元に「本能寺」や「そってん芝居」などの復活を試みている。 ==== 新作落語 ==== 昭和に入っていくつかの[[新作落語]]が東西の落語界で作られたが、上方では4代目桂米團治作「[[代書]]」(「代書屋」とも)、3代目桂米朝作「[[一文笛]]」、3代目[[林家染語楼]]作「[[青空散髪]]」、[[三田純市]]作「[[まめだ]]」などが古典の範疇になっており、一部の演目は東京でも演じられている。現在は、[[桂文枝 (6代目)|桂三枝(現・6代目文枝)]](「妻の旅行」、「鯛」、「[[ゴルフ夜明け前]]」などを創作)を中心に「[[創作落語]]」の名でさかんに作られている。 [[小佐田定雄]]一門のように専業の落語作家が存在するのも特徴である。[[笑福亭松之助|2代目笑福亭松之助]]は「明石光司」、4代目[[桂文紅]]は「青井竿竹」の筆名で、新作を手がけていた。 ==== 登場人物 ==== 噺の登場人物は、喜六、清八、おさき、源兵衛、家主、医者(「赤壁周庵」の名が多い)、上町のおっさんなど。 喜六(喜イ公、喜イさんとも)は、江戸の「与太郎」にあたる「アホ」役だが、生業(下駄屋がよく出る)を持ち、妻帯(妻の名は「おさき」「お松」がよく用いられる)している点が「与太郎」と異なる。性格は、与太郎が天然の馬鹿と設定されることが多いのに対し、どことなく醒めたところがみられる。(→「[[喜六と清八]]」も参照のこと) 江戸落語によく出てくる熊五郎、八五郎は、上方では喜六・清八の役どころとなる。上方で熊五郎、八五郎の名が登場するのは「[[らくだ (落語)|らくだ]]」「へっつい幽霊」に「脳天の熊五郎」(「らくだ」では「弥猛(ヤタケタ)の熊五郎」とも)、「[[八五郎坊主]]」に「八五郎」があるくらいである。また江戸落語「三軒長屋」などに出てくる大工の棟梁は、上方では手伝い(テッタイ)の又兵衛として登場する。 時代設定を特に定めない、あるいは庶民にも名字を名乗ることが許された明治以降に置いた演出では、演者にゆかりのある噺家の本名に因みかつ一般的な姓が出る場合がある(例えば6代目松鶴一門なら「竹内さん」、林家一門なら「大橋さん」「岡本さん」)。 === 道具 === {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} [[ファイル:Chiritotechin crop.jpg|thumb|上方落語で使用される見台および膝隠]] 落語では一般的に[[扇子]]や[[手拭]]を小道具として用いるが、上方落語でしか用いない小道具として以下のものがある。 ; [[見台]](けんだい) : 演者の前に置く小さな机。書き物机や湯船、布団や床といったものに見立てる。もっとも、演じる噺によって使わない場合や、滅多に使わない落語家もいる(3代目桂春団治、2代目桂枝雀、桂三枝など大きな動きのある演目をする落語家など)。 ; 小拍子(こびょうし) : 小さな[[拍子木]]。普段は見台の上に置かれており、鳴らすときは左手で小拍子を持ち、見台を打つ。噺の合いの手などに使ったり、雰囲気を変えるために使ったりする。また、舞台の袖でお囃子や鐘の音など効果音を出す裏方に合図を送るためにも使う。変わったところでは、[[創作落語]]でパソコンの[[マウス (コンピュータ)|マウス]]に見立てて使用した例([[桂文珍]]・「[[心中恋電脳]]」)がある。 ; 膝隠(ひざかくし) : 演者のひざを隠す小さな衝立。 通常、以上の3点はセットで用いられ、舞台への出し入れで持ち運ぶ際は、見台の上に膝隠しを乗せる。 ; [[張扇]](はりおうぎ、はりせん)''' : ものをたたいて音を立てるための専用の[[扇子]]。単に扇子のかたちをしているだけで、紙貼などによって型で作ることもある。場面転換の合図にしたり、山場で調子を出したりするときに用いる。 今日では普通に使用されている、演者の名前を書いた'''名ビラ'''やそれを掲げておく台の'''メクリ'''は[[明治]]時代まで、'''[[出囃子 (落語)|出囃子]]'''は昭和初期まで、上方の寄席でしか使用されていなかった。 === はめもの === {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} 口演中に演出としてお囃子を盛り込む点も江戸落語との違いである。このお囃子を'''はめもの'''と呼ぶ。 たとえば、「新町にまいります。その陽気な事」(「三枚起請」)と演者が言うと、楽屋にいるお囃子が三味線を弾き唄を唄って華やかな遊里を表現する。逆に「ふたなり」「皿屋敷」などで登場人物が寂しい夜道を歩くときは、三味線が静かに弾かれ寂しい情景を表現する。 以上のように情景描写に使われる事が多いが、「野崎詣り」などでは舟が移動するなどの擬音に用いられる。「紙屑屋」「辻占茶屋」などの「音曲噺」では演者と掛け合いの型となる。「蛸芝居」「質屋芝居」「本能寺」などの芝居噺では、歌舞伎の[[下座音楽]]となる。 桂文珍はコンピューターの機械音を用いる事があるが、これもはめものの一変形である。 お囃子奏者は「下座」あるいは「ヘタリ」とも呼ばれ、三味線奏者と太鼓・笛などの鳴物奏者で構成される。三味線奏者は専業だが、鳴物奏者は若手の落語家が務めることが多い。三味線奏者は、戦後は後継者難に直面し、[[記録作成等の措置を講ずべき無形文化財]]「上方落語下座音楽」の保持者であった[[林家とみ|林家トミ]](2代目林家染丸の妻)の没後は存亡の危機に晒されたが、3代目桂米朝が自身の番組『米朝ファミリー 和朗亭』(朝日放送テレビ)で取り上げたことや、[[林家染丸 (4代目)|4代目林家染丸]]らによる後進育成活動などにより徐々に増え、2006年12月現在、上方落語協会会員だけでも11名を数える。現代の代表的な三味線奏者としては[[内海英華]]、[[かつら枝代]](2代目枝雀の妻)、林家和女([[林家小染 (5代目)|5代目林家小染]]の妻、[[桂あやめ (3代目)|3代目桂あやめ]]の姉)らがいる。 === 制度 === {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} [[落語家#真打|真打制度]]は[[大正]]時代に一旦廃止され、戦後に[[上方落語協会]]が部外秘の内規として復活させたが、昭和40年代の上方落語ブームによって有名無実化した。 天満天神繁昌亭の開設を機に、上方落語協会会長の桂三枝(現・6代桂文枝)が真打制度を復活させる計画を提案したが、反対意見が多く断念した。 現在は香盤(上方落語協会の内規)が真打制度の代替として存在し、芸歴5年以上を中座(江戸落語の二つ目に相当)、15年以上を真打と同格としており、真打相当からA、B、Cのランクに分かれている。 よって、通常上方落語で「前座」などの言葉を用いる際は、出番を表す言葉として使われることが多い。 順番は以下のとおり。 * '''前座'''(ぜんざ):勉強中の若手が出る。名ビラや座布団を返すなどの雑用もこなす。元は、[[仏教]]の高僧が説教をする際、出番前に話をする修行僧を「前座(まえざ)」と呼んだことに由来する。 * '''二つ目'''、'''三つ目'''(以降、四つ目……と適宜続く) * '''中トリ''':仲入り(休憩)直前の演者を指す。 : (仲入り) * '''カブリ''':「かぶりつき」、「ツカミ」、江戸落語では「くいつき」とも言う。 * '''シバリ''':江戸の「膝前」とも。[[色物]]など。だれ始めた客を縛り付ける、という意味から。 * '''モタレ''':「膝がわり」とも。「トリ」の前に出演する演者。 * '''トリ''':「主任」とも。その会の責任者。「売り上げ金をとる」、「興行の真をとる」などの意味合いから。 * '''追い出し''':「バラシ」とも。退場する客がはけるまでの間、軽い噺でつなぐ役割で出演する。現在では稀。 寄席での料金の支払いは、江戸の落語が先払いだったのに対して上方落語は後払いであった<ref>[https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/24193/ 大阪が“笑いの聖地”と呼ばれる理由とは? 上方落語、吉本興業に見る笑いの歴史]</ref>。 === 所属団体 === {{出典の明記|date=2022年10月|section=1}} 東京の落語家は、概ね[[落語協会]]や[[落語芸術協会]]といった所属団体によって色分けされているが、上方の落語家は、戦後の経緯から、[[吉本興業]]や[[松竹芸能]]、[[米朝事務所]]などの所属[[芸能事務所]]によって色分けされている。各事務所には、以下に示すように基本的に一門単位で加入することが多いが、一門の多数とは異なる事務所に属したり(笑福亭仁鶴、月亭可朝、[[笑福亭笑瓶]]など)や個人事務所を構えたり([[笑福亭福笑]]、[[立花家千橘 (4代目)|4代目立花家千橘]]など)、フリーで活動する落語家もいる。関西出身で[[落語立川流]]に入門した[[立川文都]]や[[立川雲水]]は上方落語を演ずる。 * 米朝事務所 - 3代目桂[[米朝一門]](月亭一門、雀々らを除く) * 松竹芸能 - 6代目笑福亭[[松鶴一門]](仁鶴一門・鶴笑師弟・笑太等を除く)、3代目桂[[春団治一門]]、森乃福郎一門 * 吉本興業 - 5代目桂[[文枝一門]]、[[林家染丸一門]]、6代目松鶴一門の一部(笑福亭仁鶴一門、笑福亭鶴笑一門、笑福亭笑太)、月亭八方一門、2代目笑福亭松之助一門 * 露の五郎兵衛事務所 - 2代目[[露の五郎兵衛一門]] しかし、大多数の落語家は[[上方落語協会]]の会員であり、天満天神繁昌亭への出演や「[[彦八まつり]]」への参加などでは事務所の枠を超えて協力し合っている。このこともあり、漫才やコントなどの他の上方演芸ではよく見られ、テレビ番組の出演者編成でも時にネックとなる『所属芸能事務所間の壁』というものについても、落語界では決して絶無ではないがそれほど高くないとされている。 上方落語協会とは別の落語家団体としては[[関西落語文芸協会]]がある。これは四天王(特に6代目松鶴)との確執などで上方落語協会を脱退した3代目[[林家染三]]が設立したものである。染三の高齢化により活動休止状態にあり、彼の死去した2012年以降、団体は事実上消滅状態にある。 なお上方演芸全般の組織として[[関西演芸協会]]があり、落語家も多数所属する。2006年12月現在の会長は落語家の4代目[[桂福團治]]である。 == 定席 == {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} === 歴史 === ==== 明治から昭和初期まで ==== 明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ[[法善寺]]周辺には、北側に三友派の象徴であった「[[紅梅亭]]」(旧称「今嘉の席」「泉熊の席」。後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地[[金沢亭]]」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在ししのぎを削った。 他にも[[キタ]][[北新地]]の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、[[上本町]]、[[堀江 (大阪市)|堀江]]、[[松屋町]]、[[新町 (大阪市)|新町]]、[[松島遊廓|松島]]、[[大阪天満宮]]界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していたが、天満宮の「第二文芸館」(同じく吉本の買収後「[[天満花月吉川館]]」)を皮切りに順次吉本に買収された事により、次第に漫才中心の興行内容にシフトしていった。 太平洋戦争時は戦地への慰問や落語家の高齢化に伴い寄席も一日4時間ほどしか開演していなかった。足りない芸人などは東京吉本から、[[柳家金語楼]]、[[柳家三亀松]]等を呼び寄せ興行をなんとかつないでいた。しかし戦争の激化により一部は閉鎖され、残った寄席も[[大阪大空襲]]によって灰燼に帰した。 ==== 太平洋戦争後 ==== [[1947年]]、ミナミに「[[戎橋松竹]]」(通称「戎松」)が開場。その後も戎松の後身の「[[千日劇場]]」や、[[松竹芸能]]系の「[[道頓堀角座|角座]]」「演芸の[[浪花座]]」([[道頓堀]])「[[新花月]]」([[新世界 (大阪)|新世界]])、[[吉本興業]]系の「[[なんば花月]]」「[[うめだ花月]]」、[[東宝]]系で[[ケーエープロダクション]]の芸人が多く出演した「[[トップホットシアター]]」、京都・新京極に「[[富貴 (寄席)|富貴]]」「[[京洛劇場]]」「[[京都花月劇場|京都花月]]」、神戸・[[兵庫駅]]前に「寄席のパレス」、[[新開地]]に「神戸松竹座」などが開場したが、いずれも漫才との混成演芸場であり、落語の定席とは言い難かった。 落語専門定席の不在が上方落語の滅亡につながる事を懸念した上方落語協会は、会長・笑福亭松鶴の主導の下、[[中央区 (大阪市)|南区]]千年町の[[日本基督教団島之内教会]]を借りて、[[1972年]](昭和47年)[[2月]]より、月5日の「[[島之内寄席]]」を開催。芸能事務所や放送局(当時、一部の名のある落語家は放送局と専属契約を交わしていた)の枠を超えた定席として位置づけたが、会場側の都合によりわずか2年で潰えてしまう。 その後「島之内寄席」は会場を転々とし、[[1974年]](昭和49年)4月にブラザーミシンビル(心斎橋)、同年12月に船場センタービル地下のボウリング場、[[1975年]](昭和50年)6月には[[ダイエー京橋店]]へと移り、月3日興行に短縮された。この「島之内京橋ダイエー亭」は約9年続く。[[1984年]](昭和59年)4月に南区畳屋町にある料亭「暫」に移転し、「島之内」に復帰するも、3年後には「暫」がビル改装のため閉鎖、[[1987年]](昭和62年)に心斎橋のCBカレッジへ移り、ついに月1日興行となった。[[1993年]](平成5年)に[[天王寺]]の[[一心寺シアター倶楽|一心寺シアター]]へ移った後、[[1996年]](平成8年)の[[ワッハ上方]]開館に伴いレッスンルームへ移転。[[2005年]](平成17年)にワッハホールへと会場を移した。ワッハホールの閉館に伴い、[[2011年]](平成23年)に[[千日前]]の[[TORII HALL]]に移転し、月1日興行ながら現在も続いている。後述の[[神戸新開地・喜楽館]]開館までは、上方落語協会は島之内寄席を天満天神繁昌亭と並ぶ協会主催寄席の両輪と位置づけていた。 [[1999年]](平成11年)から[[2000年]](平成12年)にかけて、上方落語協会は浪曲親友協会などと共に、大阪に東京同様の国立演芸場の開設を求めて文化庁などに働きかけを行った。結果として、現在、[[国立文楽劇場]]小ホールで奇数月に開かれている「上方演芸特選会」として実を結んだが、年間6回のみの興行であり、定席と呼ぶにはほど遠かった。 その後も専門定席の構想が浮上しては消えていったが、上方落語協会が桂三枝体制に入ると具体化し、[[2006年]](平成18年)[[9月15日]]に「[[天満天神繁昌亭]]」が大阪天満宮境内北側に開席。「島之内寄席」が島之内教会を離れて32年、大阪大空襲から61年を経て落語専門定席は名実共に復活した。さらに2018年7月11日には天満天神繁盛亭に次ぐ定席として、[[神戸市]]に[[神戸新開地・喜楽館]]がオープンした。 なお、純然たる落語専門定席ではないが、一時は「[[なんばグランド花月]]」「[[通天閣劇場TENGEKI|通天閣劇場]]」などの[[演芸場]]でも落語のプログラムが組み込まれ、吉本興業や松竹芸能に所属する落語家が独演会や勉強会を行うこともあった。また、[[2020年]]3月に閉館した千日前のTORII HALLにおいて毎月1日に開かれていた「TORII寄席」には、[[米朝事務所]]所属の落語家が多く出演した。 その後、天満天神繁昌亭の成功で興行側には落語を見直す気運が高まり、2008年なんばグランド花月で落語家のみの興行が定期的に行われるようになった。その他にも吉本興業は「[[うめだ花月]]」で月曜日から金曜まで昼の時間(12:30から)のみ「[[花花寄席]]」と題して吉本所属・フリーの若手中心で構成されたプログラムを行っていた。「うめだ花月」の閉館後は「なんばグランド花月」内にある「[[ヨシモト∞ホール大阪]]」で毎週土曜に開催していた。 2008年に2代目桂ざこばが[[西成区]][[山王 (大阪市)|山王]]に「動楽亭」を開席、2009年5月には[[桂福團治|4代目桂福團治]]が会長の[[関西演芸協会]]が[[法善寺寄席]]を開席した。 === 地域寄席 === 落語定席の復活がなかなか実現しない一方で、昭和40年代より地域に密着した勉強会や自主公演が盛んに行われた。これがいわゆる「地域寄席」であり、1972年(昭和47年)8月から1992年(平成4年)8月まで[[桂米之助 (3代目)|3代目桂米之助]]が主宰した「岩田寄席」(東大阪市)がその始まりとされる。 現在では、1974年(昭和49年)7月に始まった[[旭堂南陵 (3代目)|旭堂南陵]]主宰の「堺おたび寄席」(堺市、2005年3月に中断したが場所を代えて復活。講談と落語の会)と「[[桂米朝落語研究会]]」([[京都市]][[東山区]]、桂[[米朝一門]]主宰)「[[尼崎落語研究会]]」(尼崎市、桂米朝一門主宰)、「京都市民寄席」(京都市)をはじめ数多く行われ、上方落語普及と演者の修業の場として活発な活動を行っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2019年2月|section=1}} <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> * [[小佐田定雄]]『噺の肴―らくご副読本』弘文出版、1996年、ISBN 4-87520-201-6 *[[花月亭九里丸]]編 『寄席楽屋事典』東方出版、[[2003年]]、ISBN 4885918650(1960年に九里丸が本名名義で自費出版した著書の復刻再刊) * {{Cite book |和書 |author=河本寿栄|editor=小佐田定]|date=2002-02 |title=二代目さん 二代目桂春団治の芸と人|edition= |publisher=[[青蛙房]] |volume= |ref={{SfnRef|河本・小佐田|2002}} }} *3代目桂米朝『落語と私』[[文藝春秋]]〈[[文春文庫]]〉、[[1986年]]、ISBN 4-16-741301-9 *3代目桂米朝『[[桂米朝集成]]』[[岩波書店]]、[[2004年]] *5代目桂文枝『あんけら荘夜話』青蛙房、[[1996年]]、ISBN 4-7905-0285-6 *3代目桂米朝・[[上岡龍太郎]](著)[[戸田学]](企画・構成)『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』[[朝日新聞社]]、[[2000年]]、ISBN 4-02-257522-0 * [[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]、[[関山和夫]]監修『圓生古典落語』[[集英社]]<[[集英社文庫]]>、[[1979年]] *{{Cite book|和書|author=戸田学編|others=|year=2004-07|title=六世笑福亭松鶴はなし|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-002586-4|ref={{SfnRef|戸田|2004}}}} *{{Cite book |和書 |author=戸田学 |date=2014-07 |title=上方落語の戦後史|edition= |publisher=岩波書店 |volume= |ref={{SfnRef|戸田|2014}} }} *天満天神繁昌亭・上方落語協会(編)、やまだりよこ(著) 『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』[[出版文化社]]、2006年、ISBN 4-88338-351-2 *山本進『図説 落語の歴史』[[河出書房新社]]、[[2006年]]、ISBN 4-309-76079-1 * [https://web.archive.org/web/20170220132931/http://www.kamigatarakugo.jp/qa.html よくある質問] - 上方落語協会公式サイト内の記事 * [https://web.archive.org/web/20070212083909/http://www.nikkei.co.jp/weekend/kat/20030606sy666000_06.html NIKKEI NET 京の噺家 桂米二でございます 第9回 上方落語協会] - [[日本経済新聞|NIKKEI NET]]内、[[2003年]][[6月7日]]の記事 == 関連項目 == * [[上方噺家]] * [[落語家一覧]] * [[彦八まつり]] * [[ちりとてちん (テレビドラマ)|ちりとてちん]] * [[落語みゅーじあむ]] * [[:Category:落語の演目]] == 外部リンク == * [https://kamigatarakugo.jp/ 上方落語協会] * [https://www.hanjotei.jp/ 天満天神繁昌亭] * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/rakugo/ |title=上方落語メモ【世紀末亭】 |date=20040227100057}} - 上方落語をテキストで楽しむページ * [http://eonet.jp/hanjotei/ 【ライブ繁昌亭】] - 天満天神繁昌亭の昼席公演の模様を毎日配信中 {{Portal bar|日本|大阪府|京都府|お笑い|舞台芸術}} {{デフォルトソート:かみかたらくこ}} [[Category:落語]] [[Category:大阪府の文化]] [[Category:京都府の文化]]
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1,685
C
Cは、ラテン文字(アルファベット)の3番目の文字。小文字は c 。ギリシア文字のΓ(ガンマ)に由来し、キリル文字のГは同系である。 キリル文字のСは別字で、ラテン文字のSに相当する文字である。 大文字、小文字とも半円形ないし不完全な円である。 フラクトゥールでは C c {\displaystyle {\mathfrak {C\ c}}} のようである。 ギリシア文字のΓ(ガンマ)が「く」の字の角度で書かれたものを丸めた形に由来する。古ラテン語期には /k/ 音および /g/ 音の双方をこの文字で表していたが、のちにやや変形した G が別文字として分化し /g/ 音を担うようになるとともに、C はもっぱら /k/ を表すようになった。 ラテン語期を経て俗ラテン語期に入ると前舌母音の前に位置する場合に限り軟音化が進んだ(音価節参照)。 いっぽうラテン文字を使う西/南スラブ系の言語などでは C を [ts] と発音する用法が発達した。19世紀にサンスクリットの研究が進むと、サンスクリットの持つ子音 [c] および [ch] (いずれも日本語のチャ行に近い音)を( ch および chh ではなく)c および ch で表すことが定着し、c を常にこのような音価に用いる用法は、後にはインドネシア語の正書法などに受け継がれた。 現代では多くの言語の正書法や音標記号などにおいて用いられるが、その流儀は大きく2つに分類できる。 元々のラテン語の c は常に [k] で発音されるものだったが、俗ラテン語時代になると転訛しはじめ、c の直後に“前舌母音”( e · i · y · æ )が来る場合に限り、その影響を受けて、c を [c] (「ティ」と「キ」の間のような子音)や [ʧ] (「チャチュチョ」のような子音)で発音するようになった。これを軟音化と呼ぶ。 [k]と発音するのを「固い (hard) c」、摩擦音 (/s/) や破擦音で発音するのを「柔らかい (soft) c」と呼ぶ (en:Hard and soft C)。 時代が下りロマンス諸語が分化するにつれ、この音はさらに多様な音へと分化した。現在のロマンス諸語の正書法は、こうした自然の音変化を受け継いだものである。また、フランス語の影響を大きく受けた英語でも、同様の読み方をする。 どの言語においても、a · o · u · l · r などの前の c はラテン語時代と変わらない [k] 音を保っている。 また、フランス語やルーマニア語などでは語末に c を置く単語がいくらかあり、これらも [k] で発音する。 上記以外のヨーロッパ圏の言語では c をこのように使い分けることはないが、ラテン語やフランス語、英語などから c を含む単語を借用する場合、e · i · y ( · ä ) の前の c を z, c, s などに、a · o · u · l · r の前の c は k に、それぞれ置き換えて用いるのが伝統的であった。一例を挙げれば: いずれも英語やフランス語の concert 「コンサート、演奏会」の借用で、各言語の規則にしたがって字を置き換えたものである。 ベトナム語の正書法「クオック・グー」では c はつねに [k] を表すが、その位置は a, o, u などの前や音節末に限られる。 その他の場所では [k] 音に k や q を用いる。 わかりやすく言うと、ka, kê, ki, kô, ku, kwôk などと書けば済みそうなところ、わざわざ c や q を持ち込んで、ca, kê, ky, cô, cu, quôc などと表記するルールだが、もともとクオック・グーはフランス人宣教師によって考案されたものであり、考案の際にロマンス諸語的な表記法を大いに参考にしたことがこうした部分にもよく表れているといえる。
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Cは、ラテン文字(アルファベット)の3番目の文字。小文字は c。ギリシア文字のΓ(ガンマ)に由来し、キリル文字のГは同系である。 キリル文字のСは別字で、ラテン文字のSに相当する文字である。
{{Dablink|「'''C#'''」は[[Help:ページ名#特殊文字|MediaWiki上の制約]]から、この項目が表示されます。[[プログラミング言語]]については「[[C Sharp]]」をご覧ください。}} {{Otheruses}} {{A-Z}} '''C'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[3]]番目の[[文字]]。小文字は '''c''' 。[[ギリシア文字]]の[[Γ]](ガンマ)に由来し、[[キリル文字]]の[[Г]]は同系である。 キリル文字の[[С]]は別字で、ラテン文字の[[S]]に相当する文字である。 == 字形 == [[File:C cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-C.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大文字、小文字とも半円形ないし不完全な円である。 [[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{C\ c}</math>のようである。 == 歴史 == ギリシア文字の[[Γ]](ガンマ)が「く」の字の角度で書かれたものを丸めた形に由来する<ref>ギリシア文字のΓは元々様々な角度で書かれていた。</ref>。[[古ラテン語]]期には /k/ 音および /g/ 音の双方をこの文字で表していたが、のちにやや変形した [[G]] が別文字として分化し /g/ 音を担うようになるとともに、C はもっぱら /k/ を表すようになった。 [[ラテン語]]期を経て[[俗ラテン語]]期に入ると[[前舌母音]]の前に位置する場合に限り軟音化が進んだ([[#音価|音価節]]参照)。 いっぽうラテン文字を使う西/南[[スラブ語派|スラブ系の言語]]などでは C を [ts] と発音する用法が発達した。19世紀に[[サンスクリット]]の研究が進むと、サンスクリットの持つ子音 [c] および [cʰ] (いずれも日本語のチャ行に近い音)を( ch および chh ではなく)c および ch で表すことが定着し、c を常にこのような音価に用いる用法は、後には[[インドネシア語]]の正書法などに受け継がれた。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]:ケー * {{Lang-en-short|cee}}(スィー){{ipa|siː}} * [[オランダ語|蘭]]・[[ポルトガル語|葡]]:セー * [[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]:セ * [[ベトナム語|越]]:セー、コー * [[ポーランド語|波]]:ツェ {{ipa|tsɛ}} * [[ドイツ語|独]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[チェコ語|捷]]・[[スロバキア語|斯]]:ツェー {{ipa|tseː}}, {{ipa|tsɛː}} * [[エスペラント|エス]]:ツォー * [[イタリア語|伊]]:チ {{ipa|tʃi}} * [[ルーマニア語|羅]]:チェ {{ipa|tʃe}} * [[インドネシア語|尼]]:チェー * [[トルコ語|土]]:ヂェ {{ipa|dʒe}} *[[日本語|日]]:シー /ɕiː/ == 音価 == 現代では多くの言語の正書法や音標記号などにおいて用いられるが、その流儀は大きく2つに分類できる。 === Cの置かれた位置によって2種類の音を表す正書法 === 元々の[[ラテン語]]の {{unicode|c}} は常に '''{{IPA|k}}''' で発音されるものだった<ref> ただし、[[G]] が発明されるより前の最初期のラテン語では、{{IPA|k · g}} の両音兼用だった。 </ref>が、[[俗ラテン語]]時代になると転訛しはじめ、{{unicode|c}} の直後に“[[前舌母音]]”( {{unicode|e · i · y · æ}} )が来る場合に限り、その影響を受けて、{{unicode|c}} を '''{{IPA|c}}''' ([[無声硬口蓋閉鎖音|「ティ」と「キ」の間のような子音]])や '''{{IPA|ʧ}}''' ([[無声後部歯茎破擦音|「チャチュチョ」のような子音]])で発音するようになった。これを軟音化と呼ぶ。 {{IPA|k}}と発音するのを「固い ({{en|hard}}) c」、[[摩擦音]] ({{ipa|s}}) や[[破擦音]]で発音するのを「柔らかい ({{en|soft}}) c」と呼ぶ ([[:en:Hard and soft C]])。 時代が下り[[ロマンス諸語]]が分化するにつれ、この音はさらに多様な音へと分化した。現在のロマンス諸語の正書法は、こうした自然の音変化を受け継いだものである。また、フランス語の影響を大きく受けた英語でも、同様の読み方をする<ref>[[オランダ語]]も同様。ただしラテン語やフランス語由来の語彙自体が英語よりはずっと少ない。</ref>。 *{{unicode|e · i}} <ref name="cy"/> の前の {{unicode|c}} を '''{{IPA|ʧ}}''' と発音する - [[イタリア語]]、[[ルーマニア語]] *:<span style="color:steelblue">(例) イタリア語: {{lang|it|'''cielo'''}} '''[チエーロ]''' 「空」 ( &lt; 俗ラテン語: {{lang|la|celo}} [チェーロ][キェーロ] &lt; ラテン語: {{lang|la|cælum}} [カェルム] )</span> *{{unicode|e · i ( · y <ref name="cy">フランス語・英語以外では {{lang|en|cy}} の組み合わせは稀。</ref> )}} の前の {{unicode|c}} を '''{{IPA|s}}''' と発音する - [[フランス語]]、[[英語]]、[[ポルトガル語]]、[[スペイン語]]([[ラテンアメリカ]])、[[カタルーニャ語]]など。 *:<span style="color:steelblue">(例) フランス語: {{lang|fr|'''ciel'''}} '''[スィエル]''' 「空」 ( 由来は上に同じ )</span> *{{unicode|e · i}} <ref name="cy"/> の前の {{unicode|c を}} '''{{IPA|θ}}''' と発音する - [[スペイン語]](スペイン本土) *:<span style="color:steelblue">(例) スペイン語: {{lang|es|'''cielo'''}} '''[シエロ]''' 「空」 ( 由来は上に同じ )</span> どの言語においても、{{unicode|a · o · u · l · r}} などの前の {{unicode|c}} はラテン語時代と変わらない '''{{IPA|k}}''' 音を保っている<ref> ただし {{lang|la|'''cl'''}} の組み合わせは言語によって変形を被っていることが多い。例: {{lang-la|'''cl'''avis}} 「鍵」 [クラウィス] &gt; {{lang-fr|'''cl'''é}} [クレ] / {{lang-it|'''chi'''ave}} [キァーヴェ] / {{lang-es|'''ll'''ave}} [リャベ] / {{lang-pt|'''ch'''ave}} [シャヴィ] </ref>。 また、フランス語やルーマニア語などでは語末に {{unicode|c}} を置く単語がいくらかあり、これらも '''{{IPA|k}}''' で発音する<ref>フランス語では無音の場合もある。 (例) {{lang|fr|blanc}} [ブラン] 「白い」。</ref>。 ::<span style="color:steelblue">(例) フランス語: {{lang|fr|'''lac'''}} '''[ラック]''' 「湖」、ルーマニア語: {{lang|ro|'''bec'''}} '''[ベック]''' 「電球」</span> ==== 英仏語のCとヨーロッパの言語 ==== 上記以外のヨーロッパ圏の言語では {{unicode|c}} をこのように使い分けることはないが、ラテン語やフランス語、英語などから {{unicode|c}} を含む単語を借用する場合、{{unicode|e · i · y ( · ä <ref>ドイツ語ではラテン語の {{lang|la|æ}} を {{lang|de|ä}} に置き換える。</ref> )}} の前の {{unicode|c}} を {{unicode|z, c, s}} などに、{{unicode|a · o · u · l · r}} の前の {{unicode|c}} は {{unicode|k}} に、それぞれ置き換えて用いるのが伝統的であった。一例を挙げれば: * {{lang-de|Konzert}} [コンツェルト] * {{lang-cz|koncert}} [コンツェルト] * {{lang-sv|konsert}} [コンセート] いずれも英語やフランス語の {{lang|fr|concert}} 「コンサート、演奏会」の借用で、各言語の規則にしたがって字を置き換えたものである。 ==== ベトナム語 ==== [[ベトナム語]]の正書法「[[クオック・グー]]」では {{lang|vt|c}} はつねに '''{{IPA|k}}''' を表すが、その位置は a, o, u などの前<ref>正確には、{{lang|vt|a · o · ô · u · ơ · ư · ă · â}} の前。</ref>や音節末<ref>正確には音節末では若干違った音になる。</ref>に限られる。 その他の場所では {{IPA|k}} 音に {{lang|vt|k}} や {{lang|vt|q}} を用いる。 わかりやすく言うと、{{unicode|ka, kê, ki, kô, ku, kwôk}} などと書けば済みそうなところ、わざわざ {{lang|vt|c}} や {{lang|vt|q}} を持ち込んで、{{lang|vt|ca, kê, ky, cô, cu, quôc}} などと表記するルールだが、もともとクオック・グーはフランス人宣教師によって考案されたものであり、考案の際にロマンス諸語的な表記法を大いに参考にしたことがこうした部分にもよく表れているといえる。 === Cの位置にかかわらず破擦音などを表す用法 === [[File:Mall culture jakarta25.jpg|thumb|220px|インドネシア風かき氷 {{lang|id|es campur}} を売る[[ジャカルタ]]市内の屋台。「エス・チャンプル」と発音する。]] ==== 正書法 ==== *[[ポーランド語]]、[[チェコ語]]、[[スロバキア語]]、[[スロベニア語]]などの[[スラヴ語派|スラヴ系言語]]、[[バルト語派]]に分類される[[ラトビア語]]、[[リトアニア語]]、その他[[ハンガリー語]]や[[アルバニア語]]など、[[ラテン文字]]を用いる東欧の言語の多くでは、{{unicode|c}} は後続音の如何にかかわらず、常に '''{{IPA|ts}}''' 音を表す。ポーランド人[[ルドヴィコ・ザメンホフ]]の考案による[[エスペラント]]もまた同様である。 *:<span style="color:steelblue">(例) ハンガリー語: {{lang|hu|'''cukor'''}} '''[ツコル]''' 「砂糖」</span> *また[[中国語]]の[[ピンイン]]においては、“息を出さない「ツ」音” {{IPA|ts}} を {{unicode|z}} と書くのに対して、“息を強く出す「ツ」音” '''{{IPA|tsʰ}}''' を {{unicode|c}} と表している。 *:<span style="color:steelblue">(例) 中国語: {{unicode|'''cānkǎo'''}} {{lang|zh|参考}} '''[ツァンカオ]''' 「参考にする」</span> *東欧以外のいくつかの言語では {{unicode|c}} を '''{{IPA|ʧ}}''' の音標とするものがある。[[インドネシア語]]や[[マレー語]]はその代表である。 *:<span style="color:steelblue">(例) インドネシア語: {{lang|id|'''cokelat'''}} '''[チョクラッ]''' 「チョコレート」</span> *[[トルコ語]]や、トルコ語に倣って正書法を定めた[[アゼルバイジャン語]]などでは、{{unicode|c}} は '''{{IPA|dʒ}}''' ([[有声後部歯茎破擦音|ヂャ行のような子音]])を表し、{{IPA|ʧ}} には[[セディーユ]]付きの {{unicode|ç}} が当てられている。 *:<span style="color:steelblue">(例) トルコ語: {{lang|tr|'''cuma'''}} '''[ヂュマー]''' 「金曜日」</span> ==== その他 ==== *[[国際音声記号]]では、{{IPA|c}} は [[無声硬口蓋閉鎖音]]を表す。 *ラテン文字による正書法のない言語などで[[音素]]寄りの音標文字としてラテン文字を使う場合は、c は [[無声硬口蓋閉鎖音|'''{{IPA|c}}''']] や [[無声後部歯茎破擦音|'''{{IPA|ʧ}}''']] の音に当てることが多い。主要な例として[[サンスクリット]]がある。また日本人になじみの深い例として、[[アイヌ語]]のラテン文字表記を挙げることができる。 :<span style="color:steelblue">(例) サンスクリット: {{unicode|'''candraḥ'''}} '''[チャンドラ]''' 「月」、アイヌ語: {{lang|ain|'''cise'''}} '''[チセ]''' 「家」</span> * [[ズールー語]]、[[コサ語]]では[[吸着音]]の一種、[[歯吸着音]]{{IPA|ǀ}}を表す。 === 記号付き文字、多重音字などについて === *各種ダイアクリティカルマークの付いた c については、[[#関連項目]]を参照。 *[[二重音字]]としては、[[ゲルマン語派|ゲルマン系の言語]]で ck {{IPA|k}} が広く定着しているほか、多くの言語で ch が様々に使われている。 後者については [[ch]] を参照のこと。 *[[国際音声記号]]で用いる {{IPA2|[[円唇後舌広半母音|'''ɔ''']]}} や {{IPA2|[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|'''ɕ''']]}} については、それぞれの項目を参照。 == Cの意味 == === 学術的な記号・単位 === * [[100|百]]を意味する数字。語源はラテン語で「百」を意味する{{la|'''c'''entum}}。ないしその派生語の略。 ** 1/100 を表す[[国際単位系|SI接頭辞]]'''[[センチ]]'''(小文字)。 ** ¢は英語では[[セント (通貨)|セント]]と読み、基本通貨単位([[ユーロ]]や[[ドル]]など)の1/100を表す単位として多くの国で使われる(国によって呼び名は異なる)。 ** [[ローマ数字]]の百。 * [[12|十二]]を意味する数字。[[十六進法]]や[[二十進法]]など、十三進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十二(十進法の'''12''')を一桁で表すために用いられる。 * [[circa]] (c.)  通例、年代と共に用いて、およそ、約、...の頃の意。 「c.1162–1227」は、1162年頃生まれ・1227年没(正確)。 * [[炭素]]の[[元素記号]]。 * [[電荷]]の単位[[クーロン (代表的なトピック)|クーロン]]のシンボル。 * [[温度]]を示す[[セルシウス度]](摂氏)で用いられる記号(℃)。 * 数学では一般に既知の数、集合、行列等を示す、[[A]], [[B]]に次ぐ文字として用いられる。 * 大文字太字の '''C'''は、[[数学]]において[[複素数]] ({{en|'''c'''omplex number}}) 全体の集合を表す。 * [[中心化群]] {{math|''C''{{sub|''G''}}(''S'')}} * [[滑らかな関数|関数の滑らかさ]] {{mvar|C{{sup|k}}}} * [[定数]] ({{en|'''c'''onstant}}) を表す。特に[[積分定数]]を表す時は通例大文字。 * <sub>''n''</sub>C<sub>''m''</sub> は[[組合せ (数学)|組合せ]] ({{en|'''c'''ombination}}) の総数。 * [[対称操作]]のひとつである[[回転 (数学)|回転]]を表現する記号。具体的な使用例は[[分子対称性]]を参照。 * [[実数連続体]]の[[基数]]。 * [[光速度]]({{la|celeritas}})を表す(小文字)。 * [[自然科学]]では[[熱容量]]・[[電気容量]]({{en|'''c'''apasity}}、大文字だが比熱容量を表す際は小文字)、[[濃度]]({{en|'''c'''oncentration}})、[[光度 (光学)|光度]] ([[カンデラ]]:'''c'''andela)を示す文字に用いる。電気容量を表すことから、回路素子の[[コンデンサ]] ({{en|'''c'''ondenser}}, {{en|'''c'''apacitor}}) を表す際にも用いる * [[加熱]]を示すときに用いられる場合がある。加熱を表すフランス語「[[:fr:Chauffage|'''C'''hauffage]]」の略。 * [[トランジスタ]]の端子の1つ。コレクタ ({{en|'''c'''ollector}}) * [[CPU]]の[[マルチコア#用語|コア]]('''c'''ore)のこと。 * [[C言語]]。プログラミング言語の1つ。ここから派生した言語である[[C++]]と組み合わせてC/C++と表記されることもある。 * [[う蝕|虫歯]]を表す。また C1 - C4 (Cは'''C'''ariesの頭文字。)でその進行度を表す。 * [[文法]]で、[[補語]] ('''c'''omplement)、[[可算名詞]] ('''c'''ountable) の略号。 * [[音楽]]で用いられる[[拍子]]の1つ、4 分の 4拍子の記号は大文字の C に似ているが、起源的に関係がない。 * カラー印刷などで使われる基本色 YMC, YMCK の中の[[シアン (色)|シアン]] ('''C'''yan)。 * [[音楽]]で用いられる[[音名]]の1つ(英米式、ツェー(独式))。イタリア式で「'''do'''」(ド)、日本式では「'''ハ'''」に相当。 → [[ハ (音名)]] ** 音階の1番目の音であることから、日本の音楽・芸能関係者の間で1を表す隠語として使われる。例:C(ツェー)万=[[10000|1万]](円) * [[写真]]の[[印画紙]]の面種が光沢仕上げ (crystal) であることを意味する。対する絹目はS (silk) で示す。 * [[視力検査]]で用いられる[[ランドルト環]]は、Cを基にしている。 * [[ケッペンの気候区分]]の[[温帯]]を表すC * マクロ経済学で、Cは[[消費]] ('''c'''onsumption)を表す。また、cは限界消費性向を表す。 === その他の記号 === * [[野球]]で[[捕手]](キャッチャー、英:''Catcher'')を表す略称。 * [[サッカー]]で[[主将]](キャプテン、英:''captain'')を表す略称。キャプテンマークなどに「C」と表示。 * [[アメリカンフットボール]]で[[センター (アメリカンフットボール)|センター]]。 * [[バスケットボール]]で[[センター (バスケットボール)|センター]]。 * 大文字のCを丸で囲んだ[[著作権マーク]]は[[著作権]] (Copyright) を表す記号。マルC。「<span style="font-size:larger">©</span>」 * [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]における路線記号。 ** [[東京メトロ千代田線]] ('''C'''hiyoda) ** [[富山地方鉄道富山軌道線]]・[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]] ('''C'''hihō) ** [[西日本旅客鉄道|JR]][[草津線]] ** [[Osaka Metro中央線]]・[[近鉄けいはんな線]] ('''C'''hūō) ** JR[[境線]] * [[体操競技]]の技の難度の1つ。現在はB難度の上、D難度の下。「ウルトラC」という言葉は、これに由来する(この言葉の生まれた当時は、3ランク制でC難度が最高だった)。 * [[日本国有鉄道]]の[[機関車]]で、動軸が3軸の形式に付される記号。C62、EC40など。 * 日本で[[電車]]の用途を表す記号で、運転台付きの車両(制御車)のこと。電動車、付随車を表す記号と組み合わせて、Mc、Tcのように表される。 * [[創造]] (creation) の頭文字。多くの日本企業で社名などに用いられている。 * 古代ローマ人の個人名[[ガイウス]] (Gaius) の略。 * [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[広島東洋カープ]] ('''C'''arp) の略号。 * [[Jリーグ]]のクラブの[[セレッソ大阪]] ('''C'''erezo) 。 ** また、[[中央大学]]([[中央大学陸上競技部|陸上部]]・[[中央大学硬式野球部|野球部]])、[[智辯学園]]([[智辯学園高等学校|高校野球部、高校陸上部]]、[[智辯学園高等学校|高校野球部、高校陸上部]]、[[智辯学園和歌山高等学校|和歌山高校野球部、和歌山高校野球部]]等)及び[[中京大学附属中京高等学校]](陸上部・野球部)等の教育機関でも略号として使われている。 *軍用[[航空機]]の形式で輸送機を表す記号。 *民間[[航空機]]の登録番号(レジスタ)における国籍表示で[[カナダ]]を表す。 * 人名の敬称「ちゃん」を表す。紙媒体ではマルC(©)、WWWや電子メールでは全角小文字のC(c)が主に使われる。1990年代後半から日本語コミュニティにおいて10代前半を中心に流行(同様に、「くん」は[[K]])。 * (古)男女関係の進行段階で、肉体関係 ([[H]])。 * [[欧州]]の[[自動車]]のカテゴリー、全長を基準に設定されている記号。[[Cセグメント]]。[[VW・ゴルフ]]、[[トヨタ・カローラ]]等が代表的な車種である。 * [[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]]のレーティング表示において15歳以上対象を表す(2006年3月以降)。 * 「チャーリー」[[フォネティックコード]]の第三コード。 * [[シティグループ]]の[[ニューヨーク証券取引所]][[証券コード]]([[ティッカーシンボル]]) * [[旅客機]]の座席区分で[[ビジネスクラス]]を表す。 * 「C調」は通常[[ハ長調]]を意味するが、「いい調子」をひっくり返したジャズ・音楽業界の[[隠語]]でもある。1960年代から一般に広まる。現在はほぼ[[廃語|死語]]。 ** 「C調気分で-」というフレーズの入った曲が存在する([[サザンオールスターズ]])。 * C○○(○○は数字)で[[コミックマーケット]]○○(通算○○回目のコミックマーケット)を示す。 === 商品名・作品名 === * [[「C」]] - [[中山美穂]]のデビュー曲。 * [[「C」 (アルバム)]] - 中山美穂のデビューアルバム。 * [[C (Base Ball Bearのアルバム)]] - [[Base Ball Bear]]のアルバム。 * [[メルセデス・ベンツ・Cクラス]]。 * [[いすゞ自動車]]が発売していたバスシリーズ(CLM・CJM・CJAなど)。[[いすゞ・C系]]を参照。 * [[C (アニメ)]] - [[フジテレビジョン]]系列で放送のテレビアニメ。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0043|67||1-3-35|0063|99||1-3-67|[[半角]]}} {{ULu|FF23|65315||1-3-35|FF43|65347||1-3-67|全角|font=JIS2004フォント}} 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MS-DOS
MS-DOS(エムエス-ディーオーエス、エムエスドス)は、1981年よりマイクロソフトが開発・販売したパーソナルコンピュータ向けのオペレーティングシステム(OS)である。 「MS-DOS」が製品名で、マイクロソフト ディスク・オペレーティングシステム(英: the Microsoft Disk Operating System)を意味する。 IBMはIBM PC用のオペレーティングシステムの開発をマイクロソフトに依頼し1981年にIBM PC DOSとして発売したが、このOSをマイクロソフト経由で他社にOEM提供したものがMS-DOSである。ただしマイクロソフトは現在ではMS-DOSは1981年発売と説明している。IBM PC DOSとMS-DOSはバージョン5まではほぼ同内容だが、バージョン6以降は独自機能が追加された。 MS-DOSはCP/M類似のIntel 8086系向けの16ビット オペレーティングシステムだが、IBM PCの成功によりパーソナルコンピュータ市場でデファクトスタンダードとなり、後に8ビットなど各種のCPUやコンピュータ用にも移植され、また各種の組み込み機器でも使用された。 MS-DOSは基本的にはコマンドラインインタフェースやUNIX風の階層型のファイルシステムを持つシングルタスクのオペレーティングシステムだが、各種アプリケーションや、バージョン4より付属のDOSSHELLや、別売のMicrosoft Windows 2.0などの併用により、グラフィカルユーザインタフェースや疑似マルチタスクも使用可能となった。ただしMS-DOS自体は画面描画に関わるアプリケーションプログラミングインタフェースを持たないため、多くのMS-DOS用アプリケーションは機種依存であり、異なる機種間では稼働せず、また移植も容易ではなかった。 MS-DOSと互換性を持つオペレーティングシステムには、IBM PC DOSの他、DR-DOS (Novell DOS)、オープンソースのFreeDOSなどがあり、またMicrosoft Windowsのコマンドプロンプトなどの互換環境がある。 最終となった製品バージョンは、マイクロソフト版はMS-DOS バージョン6.2、IBM版はPC DOS 2000である。 1980年7月頃、IBMは後にIBM PCとなるパーソナルコンピュータの開発に着手した。しかし、IBMの主力商品である汎用コンピュータに比べるとごく少数のスタッフとわずかな予算しか与えられなかった。プロジェクトリーダーのフィリップ・ドン・エストリッジ(英語版)は、可及的速やかに商品化にこぎ着けるためにソフトウェアは自社開発せず、すべて外部から調達する方針を立てた。 当時のマイクロソフトはBASICインタプリタやアセンブラならびに各種言語のコンパイラ等を開発しており、それらの製品のほとんどが当時のパーソナルコンピュータ市場におけるデファクトスタンダードOSであるデジタルリサーチのCP/M上で動作するものであった。 IBMはマイクロソフトに対し当初はBASICなどの言語製品の開発を依頼していた。OSについても8086対応版のCP/Mをマイクロソフトに開発してもらおうとした。しかし彼らはCP/Mのソースの権利を持っていなかった為、ビル・ゲイツのアドバイスに従ってデジタルリサーチと交渉することにした。ところがデジタルリサーチとの交渉はうまくいかず、再びマイクロソフトに開発の依頼を持ち込んだ。 マイクロソフトは「M-DOS」というOSを開発した経験はあるが、販売したことはなかった。IBMから要求された期日は1年以内という厳しいもので、言語製品の開発に加えてOSにまで手を回す余裕はなかった。同じ頃、シアトル・コンピュータ・プロダクツはCP/Mが8086に移植されない事に業を煮やし、ティム・パターソンがわずか6週間で開発したQDOSを、86-DOSとして販売した。基本的には8080/Z80用に作られたデジタルリサーチのCP/Mクローンであり、8086に移植して、ディスク読み込み処理のバッファ管理を改良し、ファイルシステムを新規開発したFAT12にしたものである。ファーストバージョンは1980年8月に出荷された。 IBM PC用のOSを必要としていたマイクロソフトは、1981年5月にティム・パターソンを雇い、同年7月に86-DOS 1.10を$75,000で購入した。マイクロソフトはバージョンナンバーを変更せず、名前をMS-DOSに変更した。1981年8月にMS-DOS 1.10/1.14をPC DOS 1.0としてIBMに提供し、IBM 5150やIBM PCで動作する3つのOSの1つとなった。 IBMは当初「PC DOS」名称でIBMのみへの供給を主張し、マイクロソフトはIBM以外のメーカーへのOEM供給を主張した結果、IBM用はPC DOS名称、マイクロソフトによる各メーカーへのOEM供給も認めて普及を図るという役割分担となったと言われる。この役割分担は後のOS/2 Ver. 1.Xでも同様となる。 リスクを軽減化するために買い取りを避けIBM PCの出荷台数に対して使用料を支払うというライセンス契約をしたこと、そしてマイクロソフトから各メーカーへの自由なOEM供給を認めた事が後のマイクロソフトの躍進の原動力と言え、また見方を変えれば、最終的に「軒先を貸して母屋を取られた」IBMの大失策であるとも言えるが、MS-DOS(およびPC DOS)の普及(デファクトスタンダード化)を決定づけたとも言える。 1982年、マイクロソフトはバージョン1.25からIBM以外のメーカーにMS-DOSのOEM供給を開始した。ライフボート・アソシエイツ(英語版)のSB-DOS、コンパックのCompaq-DOS、ゼニス・データ・システムズ(英語版)のZ-DOSなど、供給先メーカーは70社以上に及んだ。1983年のバージョン2.0より、IBM以外の各メーカーへのOEM供給品は「MS-DOS」名称に一本化された。OEM供給品に自社の商標(MS)をつけ「MS-DOS」名称としたのは、OEM先メーカーが独自の名前をつけて混乱することを避けるために整理する意味があった。ただし、その後も富士通FM TOWNSのTownsOSや各種制御機器など、内部的にMS-DOSがOEM提供されている場合には「MS-DOS」の名称はユーザーには見えない場合があった。 MS-DOSは8086系CPUを搭載したパソコンで動作させることが前提の設計だった。各パソコンには専用のハードウェアがあり、MS-DOSもそれぞれ別のバージョンが作られ、その状況は既存のCP/Mと同様で、CP/Mと同じ方法でハードウェアをエミュレーションして違いを吸収した。これを実現するためMS-DOSはプライマリディスクドライブやコンソールなどの最小限の内蔵ドライバや内蔵カーネルをブートローダーで読み込み、それ以外のデバイスドライバを起動時に動的に読み込めるモジュール方式を採用した。OEM各社はマイクロソフトが提供した開発キットを用い、基本的なI/Oドライバとマイクロソフトの標準カーネルを組み合わせて独自のMS-DOSを作ることができ、普通はハードに添付するディスクの形でユーザーへ届けられた。従って各ハードウェアごとに異なるバージョンのMS-DOSが存在することになり、IBM互換機とMS-DOSマシンの2種類に大きく分類された。Tandy 2000(英語版)のような一部のパソコンはMS-DOS互換だったがIBM互換ではなく、特定のハードやIBM PCのアーキテクチャに依存しないMS-DOS専用に作られたソフトウェアを実行できた。 このデザインはアプリケーションの互換性を高めるのに役立ち、MS-DOSのサービスだけを使ってデバイスI/Oにアクセスする場合は特に有効で、このデザイン方針は後のWindows NTにも影響を及ぼした(Hardware Abstraction Layerを参照)。しかし当時はハードに直接アクセスすることでパフォーマンスを稼ぐアプリが主流を占め、特にゲームではこれが顕著で、各社は次第に独自路線をあきらめてIBM-PC互換機を作るようになり(英語版)、1つのMS-DOSがどの会社のパソコンでも動作するようになった。 DOSは標準でグラフィカルユーザインターフェースやマルチタスク機能や仮想記憶を持たず、80386などの32ビット環境でも「高速な8086」としか使用できなかったため、DOSの拡張や次世代OSが待望された。 1985年にはDOSエクステンダーであるDESQview、同年にDOS上で稼働する「オペレーティング環境」としてMicrosoft Windowsが登場した。更に1987年には本格的なDOSの後継OSとしてIBMとマイクロソフトから OS/2 Ver. 1.0 が登場した。OS/2はDOSと同様に、IBMおよびマイクロソフトの両者から供給されたが、性能やDOS互換環境の問題もあり広く普及しなかったためDOSは継続して使われた。 1990年に日本ではIBM DOSのバージョン4からDOS/Vが生まれ、マイクロソフトもバージョン5からDOS/VのOEM供給を開始したため、日本でもPC/AT互換機の市場が立ち上がり始めた。 1993年のバージョン6からは、IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約(OSクロスライセンス契約)が終了したため以後はIBMまたはマイクロソフトの単独開発となった。両者は基本部分の互換性は保たれているが、付属ユーティリティの相違などが広がった。マイクロソフトはこのMS-DOS 6を単体販売の最終バージョンとし、1995年のMicrosoft Windows 95以降は単体のDOSも不要となった。IBMはDOSの改良を続けたが、1998年のPC DOS 2000が最終バージョンとなり、2001年にはサポートも終了した。 2014年3月25日、マイクロソフトはSCP MS-DOS 1.25、およびAltos MS-DOS 2.11とTeleVideo PC DOS 2.11の混合版を、Microsoft Research License Agreementに基づいて一般公開した。これにより、コードソースは利用可能になるが、オープンソース・イニシアティブやフリーソフトウェア財団の規格で定義されるオープンソースではない。マイクロソフトは、2018年9月28日にMITライセンスに基づいてコードを再ライセンスし、これらのバージョンをフリーソフトウェアとした 。 MS-DOSと名付けられているように、マイクロソフトのパーソナルコンピュータ向けのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)であり、主にディスクの管理を行うシングルタスクOSであった。開発当初のCPUにマルチタスク機能・メモリ保護機能がなかったためMS-DOSも対応しておらず、CPUにそれらの機能が搭載された後もMS-DOSが対応することはなかった。またグラフィック画面やサウンドの操作・ネットワーク機能などは、Microsoft WindowsやLAN Managerのほかアプリケーションが直接I/Oを操作するかデバイスドライバなどで提供されていた。 ファイルの管理は、FATとクラスタにより構成される。 ファイル名は8.3形式、つまり、8バイトまでのベース名と3バイトまでの拡張子の合計最大11バイト(拡張子の前の「.」を数えれば12バイト)で表す。アルファベットの大文字と小文字は区別しない(全て大文字と見なされる)。 バージョン2以降では、ディレクトリの作成が可能となり、ファイル属性にも対応した。 起動順序はバージョンによって若干違うが、概ね以下の通りである。 COMMAND.COMでは、各ドライブをA:から最大Z:までのドライブレターで管理し、内部コマンドではファイル・ディレクトリ一覧の参照、ファイルとディレクトリの作成・コピー・名前変更、コンピュータの時刻や環境変数およびパスの設定参照などができるほか、外部コマンドやアプリケーションなどの実行形式のファイルの起動が行えた。またVer.2以降ではUNIXを意識した入出力のリダイレクト機能やパイプ機能なども利用できたが、MS-DOS上のパイプやリダイレクトはいずれもテンポラリファイルを介した擬似的な実装に留まっていた。 MS-DOSにおける実行ファイルの形式は、現在のUNIX系環境で言うシェルスクリプトに類似したコマンドのバッチ処理を記述するバッチファイル(拡張子はBAT)と、CPUが直接実行するバイナリファイルに大別することができる。 このうちバイナリファイルには、単一のセグメントを使うCOM形式、複数のセグメントが使用される場合のEXE形式、さらにデバイスドライバとしてSYS形式が存在し、それぞれ同名の拡張子を持つ。 COM形式の実行ファイルは、バイナリ読み込み時に設定されるコード・データ・エクストラ・スタックの各セグメントレジスタの値が同一アドレスに設定され、プログラム内部でセグメントレジスタを操作しない場合は単一セグメント、最大64KBのメモリ空間を操作する。CP/M 80用に書かれた8080用のアセンブリ言語のソースコードを8086へコンバートした場合を想定したメモリモデルであるが、COM形式のバイナリであってもプログラム側で適切にセグメントレジスタを操作することで64KB以上の空間へのアクセスが可能である。 このうち.SYS形式のバイナリは、原則的に起動時に一度だけ実行されるCONFIG.SYSに記述する以外の方法では直接読み込むことができない。 システムコールは、ソフトウェア割り込みにより呼び出されるが、8080やZ80などの8ビットのコンピュータではメジャーな存在だったCP/Mとの互換性、特に8080用にアセンブリ言語で書かれたソースコードを8086にコンバートして用いる場合を想定し、call 5でも利用可能としてCP/M 80からの移行を促した。 MS-DOSにおいて、DOS自身のカーネルを含むプログラムの実行に確保できるメモリ空間(ユーザーメモリ、コンベンショナル・メモリ)は、8086のアドレス空間の最大1MBである。ほとんどのコンピュータでは、この空間にBIOS ROMやメモリマップドI/O、VRAMなどの空間も存在するため、バンク切替えや様々なメモリ拡張手段などを用いずに一時にアクセス可能なメモリ空間は最大でも640KBから768KB程度であった。 日本語入力用のFEPなどの常駐型のデバイスドライバを使用すると一度に使用できるユーザーメモリはさらに減少するため、ユーザーはEMSやXMS、HMAやUMBなどの拡張メモリの管理機能を利用して、辞書や常駐部やMS-DOSシステムの一部をそれらへ配置し、コンベンショナルメモリの圧迫を少しでも避けることが重視されるようになった。 そのため、RAMディスクドライブやディスクキャッシュなどはバンクメモリやEMS、プロテクトメモリ(80286/386以降)の機能を用いて、コンベンショナルメモリ以外の領域を使用するのが一般的であった。 これらのメモリ配分の設定はCONFIG.SYSやAUTOEXEC.BATを記述することで行い、事実上ユーザーに一任されていた。 バージョン3まではメモリドライバやデバイスドライバはOSには付属せずサードパーティー製のメモリドライバ等を使用する必要があったが、バージョン5では標準機能としてOSに付属するようになった。また、これらの環境設定を半自動的に行う設定アプリケーションも添付された。 各種デバイスドライバには自動でインストールを行うスクリプトやプログラムが整備され、動く状態を作るだけであればエンドユーザーがこれらを直接操作する必要はなくなったが、全ての環境に対応するのは難しく最適な設定や問題発生時の対応など初心者にとっては設定のハードルは高かった。 従来のWindows 3.xはMS-DOSから起動するアプリケーションであったが、Windows 9x系では互換性のためにMS-DOS相当の機能が一部内部に組み込まれているものの「MS-DOSを必要としないWindowsという単体のOS」となった。Windows 95・98などのWindows本体を起動している状態ではプロテクトモードの完全なマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)で稼働しているが、シングルタスクのMS-DOSモード(DOSプロンプトとは異なる)に切り替えることが可能である。Windows上で起動するDOSプロンプトもMS-DOSと互換性があるが一部動作しないアプリケーションがあり、この問題を解決するための機能がMS-DOSモードで、完全なCUI表示となり、MS-DOSアプリケーションのみが動作し、DOSプロンプト上ではロングファイルネームで表示されるVFATであっても8文字+拡張子3文字のショートファイルネーム形式のファイル名で表示され、MS-DOSとほぼ同じ状態になる。 MS-DOSとPC DOSの主要なバージョンの一覧は以下の通り。 CP/M程度の機能しか持たない、基本的なディスクオペレーティングシステム。ファイルシステムは後のバージョンで実装された階層構造を持っておらず、ディレクトリが利用できない。CP/Mとの大きな違いは、汎用化の為などで、入出力デバイスなど、機種依存する部分を分離するという方向性である。MSDOS.SYSとIO.SYSという2つのファイルがあることにあらわれている(前者が非依存なモジュール、後者が依存が大きいモジュールである。なお、機種や機能によって、IO.SYSが機能を抱えるか、BIOSに依存するかは異なっており、例えばディスクIOは多くの機種でBIOS依存だが、文字表示位置の制御などはIBM PCではBIOSだが、PC-98ではIO.SYSが行っている)。 このバージョンが使われていた頃は、8086またはその互換プロセッサ(8088等)を利用したパーソナルコンピュータ市場もそれほど大きくなかった為、出荷本数の大半はIBM PCにバンドルされた分だった。 IBM PC/XTの仕様に合わせ、HDDや360KB 5.25インチフロッピーディスク (2D) をサポートしている。階層構造ディレクトリ、CONFIG.SYSによるデバイスドライバの追加機能、UNIXライクなパイプ等の機能が追加された。アセンブラのMASMが付属していた。 マイクロソフト版はこのバージョンより名称が「MS-DOS」に一本化された。 当初 IBM PC/AT 用に発売。主としてネットワーク対応と大容量HD対応の為の16ビットFATが追加された。本来80286が標準のPC/AT向けだったが、互換性確保目的で80286のプロテクトモードを利用した新機軸は敢えて盛り込まれなかったためサードパーティー製の各種ユーティリティによって機能拡張するユーザが多かった。 ベンダーによる独自拡張などで方言が多くバージョン番号の体系も大きく乱れている。必要十分なスペックと安定性が評価され、またバージョン4以降の仕様変更の影響を避けるために一部ではかなりの長期間にわたって愛用されていた。 バージョン3.20から派生し、8086上で限定的な擬似マルチタスク環境を実現したもの。マイクロソフトが開発したが不十分であるとしてIBMには採用されず、アプリコットコンピューターズ(英語版)にネットワークOSとしてOEMされた他、僅かの用途に留まり絶滅亜種になってしまった。非同期I/O対応やバックグラウンドタスク規約など資産の一部は Windows 2.x に流用され、また80286プロテクトモードを前提に並行開発されていたもの(当初バージョン5と呼ばれていた)はIBM主導で大幅に改訂され、世に出た時にはOS/2バージョン1.0になっていた。 IBM主導で開発されたバージョン。OS/2色が濃くなり、IFSやラージバッファ等の追加のみならず管理セクタ数が増やされた事に伴いHDは理論上最大2GBの領域を扱うことができるようになった(実際にはBIOSの制限があった)他、添付ユーティリティを利用すると最大512MBのパーティションまで作成可能になったが、その反面余りに多くの変更がファイルシステムに加えられたため非互換性の問題も生じてしまった。 情報が全部公開されていなかったものの、2バイトコードによるユニバーサルランゲージ対応が内部的に完了したのも本バージョンからである。従来のバンクメモリに代るEMSの標準サポートによって扱えるメモリ領域が1MB以上に拡張された。 互換OSのDR DOSで好評を博していた「GEM」に類似のグラフィカルユーザインタフェース環境、「DOSシェル」が添付された。これはマウスオペレーションやグラフィカルなメニューによる直感的な操作が行えるもので、依然シングルタスクながらも複数のアプリケーションを重複起動して切替動作させることができ(いわゆるタスクスイッチャ)、GUIもキャラクタベースによる簡易なものとグラフィック画面とテキスト画面を組み合わせたもの(表示が美しく、ポインタの動作もスムーズになる)とを選択できた。DOSシェルのデザインはIBM Systems Application Architecture Common User Accessに準拠していた。 本バージョンには性急な複雑化に伴う非常に多くのバグが存在し、またOS自体が消費するメモリが過大だったため、メーカーによってDOS 3.30 を拡張した DOS 3.31 を採用するなどして4.0を採用しないところが有った。特に日本ではコンベンショナルメモリの空き容量が日本語処理アプリケーションの稼動に大きく影響を与えるため、大手メーカーであるNEC、富士通などが3.21系の拡張版のみを販売し続けた。 再びマイクロソフト主導で開発された。バージョン4で付加された中途半端なユーティリティの多くが削除された一方、80386、80486等に備わる仮想86モードの活用と Windows 3.0 との親和性を主眼にほぼ全面的に再コードされたため、パソコン通信等を介した約1年にわたる大規模なベータテストを経て市販開始された。IBMの製品へのバンドルに限定せず、巷に溢れるPC/AT互換機へのフル対応を初めからうたいインストーラ込みで発売された最初のMS-DOS(PC DOS)でもある。 メモリ消費は少ないものの大容量ドライブが扱えないバージョン3、その逆で大容量ドライブが使えるがメモリ消費が大きいバージョン4というジレンマを抱えていたが、限りあるメモリ領域の消費を抑える機能を追加することでそれまでの問題を払拭するに至った。このバージョンによりDOSはほぼ完成を見たが8086~80286とその互換CPU上の動作には制約が強まり、結局のところ巧妙なアップグレード戦略の下でハードウエアの買い替え需要が喚起された。 XMSによってDOS本体の一部をHMAに、デバイスドライバやアプリケーションの一部をUMBに待避させることが可能で、コンベンショナルメモリが大きく取れるようになった。またタスクスイッチ規約が明確に定義され、DOSシェルの機能拡張(Windows 3.0 のサブセット化)が図られた。各種LAN対応も進められ、コマンドにヘルプが付されるなど利便性も向上した。 テキストエディタは、過去のバージョンに標準添付されていたラインエディタ「EDLIN」に加えスクリーンエディタ「EDIT(英語版)」が添付された。開発環境として、コマンドラインエディタに加え独自に拡張された構造化BASICコンパイラQuickBASICが標準添付されていた。 それまで未公開だったファンクションの多くがユーザに解放されたためカスタマイズやデバイスドライバ開発が更に容易になった。日本ではマイクロソフトがDOS/VのOEM供給を開始し、PC/AT互換機をベースに独自の拡張を行っていたAX陣営や東芝 (J-3100)もこの頃よりDOS/Vへのシフトを進めるようになった。また、世界のデファクトスタンダードであるPC/AT互換機のハードウェアでそのまま日本語版OSを使えるようになった為に日本国外のメーカーが積極的に日本市場へ参入し始め、NECの独擅場であった日本市場は大きく変貌することとなった。 ディスク最適化やディスク圧縮機能(後述)、コンピュータウイルス検出・除去など、CD-ROMアクセスに必要なMSCDEXの付属等付加機能の充実が主。MS-DOS単体としての最終版。 デジタルリサーチからMS-DOS互換の DR-DOS 6.0 が発売された。大きな特徴は補助ユーティリティの大幅な増強である。その為、IBMおよびマイクロソフトでも基本仕様はほとんど変えずに補助ユーティリティを追加する事でバージョン6を発売することになった。IBMは6.1、それに続くマイクロソフトは6.2と、先に出た競合相手よりバージョン番号はそれぞれ0.1だけ大きい。 起動時に特定のキーを押すとCONFIG.SYS・AUTOEXEC.BATの一部の行を実行したり、全てバイパスする機能があった。 マイクロソフト版は同時期に発売された Windows 3.1 の普及を促すという販売戦略からDOSシェルを廃止したと見られた。テキストエディタは日本語に対応して共通のEDITとなった(PC-98版はSEDITが付属)。 Windows 95/98/98SE に含まれているバージョン。ファイルシステムでは長いファイル名がサポートされたのが最大の特徴。従来のMSDOS.SYSは名前こそ同じであるがプログラムではなく設定ファイルとなった。IO.SYSが実行する標準シェルはWindowsを起動するためのWIN.COMであるが、MSDOS.SYSを編集することでWindows 95/98ではWindowsを起動せずにMS-DOSモード(COMMAND.COM)で起動することができた。Windows 95初期(OSR1)までのバージョンは7.0だが、Windows 95のOSR2以降ではFAT32にも対応しているバージョン7.1である。 1995年リリース。IBM版のみ。開発環境として「REXX」を標準添付。ディスク圧縮ユーティリティは「SuperStor/DS」から「Stacker4.0」に変更された。MS-DOS 7(マイクロソフト版)とは異なりGUIとの融合はされなかったが、当時インターネットの普及が進んでいた中でPalm Top PC 110の人気を受けてPC DOS用ウェブブラウザ「WebBoy」が開発された。 Windows Meに含まれているバージョン。IO.SYSにHIMEM.SYSおよびSMARTDRV(ディスクキャッシュ)の機能を統合した最終版であり、MS-DOSモードでの起動も廃止されWindowsのブートローダの機能のみとなった。Windows MeやWindows XP以降で起動ディスクを作成するとこのMS-DOSが書き込まれる。 またPC-9800シリーズ全盛期には、ゲームソフトの組み込み用として下位互換(INT21系のサブセットのみ互換)の「MEG-DOS」などがあった。アリスソフトの「ALICE-DOS」は、もともとゲームソフト本体はMS-DOSをインストールしたハードディスクドライブ上で動かすことを前提としあくまでもフロッピー単体でも起動するようサポート用に作られたものであったため、バッチファイルを動かす機能も有していた。 なお、互換性はあるがOSではないものにDOSBoxがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "MS-DOS(エムエス-ディーオーエス、エムエスドス)は、1981年よりマイクロソフトが開発・販売したパーソナルコンピュータ向けのオペレーティングシステム(OS)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「MS-DOS」が製品名で、マイクロソフト ディスク・オペレーティングシステム(英: the Microsoft Disk Operating System)を意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "IBMはIBM PC用のオペレーティングシステムの開発をマイクロソフトに依頼し1981年にIBM PC DOSとして発売したが、このOSをマイクロソフト経由で他社にOEM提供したものがMS-DOSである。ただしマイクロソフトは現在ではMS-DOSは1981年発売と説明している。IBM PC DOSとMS-DOSはバージョン5まではほぼ同内容だが、バージョン6以降は独自機能が追加された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "MS-DOSはCP/M類似のIntel 8086系向けの16ビット オペレーティングシステムだが、IBM PCの成功によりパーソナルコンピュータ市場でデファクトスタンダードとなり、後に8ビットなど各種のCPUやコンピュータ用にも移植され、また各種の組み込み機器でも使用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "MS-DOSは基本的にはコマンドラインインタフェースやUNIX風の階層型のファイルシステムを持つシングルタスクのオペレーティングシステムだが、各種アプリケーションや、バージョン4より付属のDOSSHELLや、別売のMicrosoft Windows 2.0などの併用により、グラフィカルユーザインタフェースや疑似マルチタスクも使用可能となった。ただしMS-DOS自体は画面描画に関わるアプリケーションプログラミングインタフェースを持たないため、多くのMS-DOS用アプリケーションは機種依存であり、異なる機種間では稼働せず、また移植も容易ではなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "MS-DOSと互換性を持つオペレーティングシステムには、IBM PC DOSの他、DR-DOS (Novell DOS)、オープンソースのFreeDOSなどがあり、またMicrosoft Windowsのコマンドプロンプトなどの互換環境がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最終となった製品バージョンは、マイクロソフト版はMS-DOS バージョン6.2、IBM版はPC DOS 2000である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1980年7月頃、IBMは後にIBM PCとなるパーソナルコンピュータの開発に着手した。しかし、IBMの主力商品である汎用コンピュータに比べるとごく少数のスタッフとわずかな予算しか与えられなかった。プロジェクトリーダーのフィリップ・ドン・エストリッジ(英語版)は、可及的速やかに商品化にこぎ着けるためにソフトウェアは自社開発せず、すべて外部から調達する方針を立てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当時のマイクロソフトはBASICインタプリタやアセンブラならびに各種言語のコンパイラ等を開発しており、それらの製品のほとんどが当時のパーソナルコンピュータ市場におけるデファクトスタンダードOSであるデジタルリサーチのCP/M上で動作するものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "IBMはマイクロソフトに対し当初はBASICなどの言語製品の開発を依頼していた。OSについても8086対応版のCP/Mをマイクロソフトに開発してもらおうとした。しかし彼らはCP/Mのソースの権利を持っていなかった為、ビル・ゲイツのアドバイスに従ってデジタルリサーチと交渉することにした。ところがデジタルリサーチとの交渉はうまくいかず、再びマイクロソフトに開発の依頼を持ち込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "マイクロソフトは「M-DOS」というOSを開発した経験はあるが、販売したことはなかった。IBMから要求された期日は1年以内という厳しいもので、言語製品の開発に加えてOSにまで手を回す余裕はなかった。同じ頃、シアトル・コンピュータ・プロダクツはCP/Mが8086に移植されない事に業を煮やし、ティム・パターソンがわずか6週間で開発したQDOSを、86-DOSとして販売した。基本的には8080/Z80用に作られたデジタルリサーチのCP/Mクローンであり、8086に移植して、ディスク読み込み処理のバッファ管理を改良し、ファイルシステムを新規開発したFAT12にしたものである。ファーストバージョンは1980年8月に出荷された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "IBM PC用のOSを必要としていたマイクロソフトは、1981年5月にティム・パターソンを雇い、同年7月に86-DOS 1.10を$75,000で購入した。マイクロソフトはバージョンナンバーを変更せず、名前をMS-DOSに変更した。1981年8月にMS-DOS 1.10/1.14をPC DOS 1.0としてIBMに提供し、IBM 5150やIBM PCで動作する3つのOSの1つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "IBMは当初「PC DOS」名称でIBMのみへの供給を主張し、マイクロソフトはIBM以外のメーカーへのOEM供給を主張した結果、IBM用はPC DOS名称、マイクロソフトによる各メーカーへのOEM供給も認めて普及を図るという役割分担となったと言われる。この役割分担は後のOS/2 Ver. 1.Xでも同様となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "リスクを軽減化するために買い取りを避けIBM PCの出荷台数に対して使用料を支払うというライセンス契約をしたこと、そしてマイクロソフトから各メーカーへの自由なOEM供給を認めた事が後のマイクロソフトの躍進の原動力と言え、また見方を変えれば、最終的に「軒先を貸して母屋を取られた」IBMの大失策であるとも言えるが、MS-DOS(およびPC DOS)の普及(デファクトスタンダード化)を決定づけたとも言える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1982年、マイクロソフトはバージョン1.25からIBM以外のメーカーにMS-DOSのOEM供給を開始した。ライフボート・アソシエイツ(英語版)のSB-DOS、コンパックのCompaq-DOS、ゼニス・データ・システムズ(英語版)のZ-DOSなど、供給先メーカーは70社以上に及んだ。1983年のバージョン2.0より、IBM以外の各メーカーへのOEM供給品は「MS-DOS」名称に一本化された。OEM供給品に自社の商標(MS)をつけ「MS-DOS」名称としたのは、OEM先メーカーが独自の名前をつけて混乱することを避けるために整理する意味があった。ただし、その後も富士通FM TOWNSのTownsOSや各種制御機器など、内部的にMS-DOSがOEM提供されている場合には「MS-DOS」の名称はユーザーには見えない場合があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "MS-DOSは8086系CPUを搭載したパソコンで動作させることが前提の設計だった。各パソコンには専用のハードウェアがあり、MS-DOSもそれぞれ別のバージョンが作られ、その状況は既存のCP/Mと同様で、CP/Mと同じ方法でハードウェアをエミュレーションして違いを吸収した。これを実現するためMS-DOSはプライマリディスクドライブやコンソールなどの最小限の内蔵ドライバや内蔵カーネルをブートローダーで読み込み、それ以外のデバイスドライバを起動時に動的に読み込めるモジュール方式を採用した。OEM各社はマイクロソフトが提供した開発キットを用い、基本的なI/Oドライバとマイクロソフトの標準カーネルを組み合わせて独自のMS-DOSを作ることができ、普通はハードに添付するディスクの形でユーザーへ届けられた。従って各ハードウェアごとに異なるバージョンのMS-DOSが存在することになり、IBM互換機とMS-DOSマシンの2種類に大きく分類された。Tandy 2000(英語版)のような一部のパソコンはMS-DOS互換だったがIBM互換ではなく、特定のハードやIBM PCのアーキテクチャに依存しないMS-DOS専用に作られたソフトウェアを実行できた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このデザインはアプリケーションの互換性を高めるのに役立ち、MS-DOSのサービスだけを使ってデバイスI/Oにアクセスする場合は特に有効で、このデザイン方針は後のWindows NTにも影響を及ぼした(Hardware Abstraction Layerを参照)。しかし当時はハードに直接アクセスすることでパフォーマンスを稼ぐアプリが主流を占め、特にゲームではこれが顕著で、各社は次第に独自路線をあきらめてIBM-PC互換機を作るようになり(英語版)、1つのMS-DOSがどの会社のパソコンでも動作するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "DOSは標準でグラフィカルユーザインターフェースやマルチタスク機能や仮想記憶を持たず、80386などの32ビット環境でも「高速な8086」としか使用できなかったため、DOSの拡張や次世代OSが待望された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1985年にはDOSエクステンダーであるDESQview、同年にDOS上で稼働する「オペレーティング環境」としてMicrosoft Windowsが登場した。更に1987年には本格的なDOSの後継OSとしてIBMとマイクロソフトから OS/2 Ver. 1.0 が登場した。OS/2はDOSと同様に、IBMおよびマイクロソフトの両者から供給されたが、性能やDOS互換環境の問題もあり広く普及しなかったためDOSは継続して使われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1990年に日本ではIBM DOSのバージョン4からDOS/Vが生まれ、マイクロソフトもバージョン5からDOS/VのOEM供給を開始したため、日本でもPC/AT互換機の市場が立ち上がり始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1993年のバージョン6からは、IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約(OSクロスライセンス契約)が終了したため以後はIBMまたはマイクロソフトの単独開発となった。両者は基本部分の互換性は保たれているが、付属ユーティリティの相違などが広がった。マイクロソフトはこのMS-DOS 6を単体販売の最終バージョンとし、1995年のMicrosoft Windows 95以降は単体のDOSも不要となった。IBMはDOSの改良を続けたが、1998年のPC DOS 2000が最終バージョンとなり、2001年にはサポートも終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2014年3月25日、マイクロソフトはSCP MS-DOS 1.25、およびAltos MS-DOS 2.11とTeleVideo PC DOS 2.11の混合版を、Microsoft Research License Agreementに基づいて一般公開した。これにより、コードソースは利用可能になるが、オープンソース・イニシアティブやフリーソフトウェア財団の規格で定義されるオープンソースではない。マイクロソフトは、2018年9月28日にMITライセンスに基づいてコードを再ライセンスし、これらのバージョンをフリーソフトウェアとした 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "MS-DOSと名付けられているように、マイクロソフトのパーソナルコンピュータ向けのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)であり、主にディスクの管理を行うシングルタスクOSであった。開発当初のCPUにマルチタスク機能・メモリ保護機能がなかったためMS-DOSも対応しておらず、CPUにそれらの機能が搭載された後もMS-DOSが対応することはなかった。またグラフィック画面やサウンドの操作・ネットワーク機能などは、Microsoft WindowsやLAN Managerのほかアプリケーションが直接I/Oを操作するかデバイスドライバなどで提供されていた。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ファイルの管理は、FATとクラスタにより構成される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ファイル名は8.3形式、つまり、8バイトまでのベース名と3バイトまでの拡張子の合計最大11バイト(拡張子の前の「.」を数えれば12バイト)で表す。アルファベットの大文字と小文字は区別しない(全て大文字と見なされる)。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "バージョン2以降では、ディレクトリの作成が可能となり、ファイル属性にも対応した。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "起動順序はバージョンによって若干違うが、概ね以下の通りである。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "COMMAND.COMでは、各ドライブをA:から最大Z:までのドライブレターで管理し、内部コマンドではファイル・ディレクトリ一覧の参照、ファイルとディレクトリの作成・コピー・名前変更、コンピュータの時刻や環境変数およびパスの設定参照などができるほか、外部コマンドやアプリケーションなどの実行形式のファイルの起動が行えた。またVer.2以降ではUNIXを意識した入出力のリダイレクト機能やパイプ機能なども利用できたが、MS-DOS上のパイプやリダイレクトはいずれもテンポラリファイルを介した擬似的な実装に留まっていた。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "MS-DOSにおける実行ファイルの形式は、現在のUNIX系環境で言うシェルスクリプトに類似したコマンドのバッチ処理を記述するバッチファイル(拡張子はBAT)と、CPUが直接実行するバイナリファイルに大別することができる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このうちバイナリファイルには、単一のセグメントを使うCOM形式、複数のセグメントが使用される場合のEXE形式、さらにデバイスドライバとしてSYS形式が存在し、それぞれ同名の拡張子を持つ。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "COM形式の実行ファイルは、バイナリ読み込み時に設定されるコード・データ・エクストラ・スタックの各セグメントレジスタの値が同一アドレスに設定され、プログラム内部でセグメントレジスタを操作しない場合は単一セグメント、最大64KBのメモリ空間を操作する。CP/M 80用に書かれた8080用のアセンブリ言語のソースコードを8086へコンバートした場合を想定したメモリモデルであるが、COM形式のバイナリであってもプログラム側で適切にセグメントレジスタを操作することで64KB以上の空間へのアクセスが可能である。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このうち.SYS形式のバイナリは、原則的に起動時に一度だけ実行されるCONFIG.SYSに記述する以外の方法では直接読み込むことができない。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "システムコールは、ソフトウェア割り込みにより呼び出されるが、8080やZ80などの8ビットのコンピュータではメジャーな存在だったCP/Mとの互換性、特に8080用にアセンブリ言語で書かれたソースコードを8086にコンバートして用いる場合を想定し、call 5でも利用可能としてCP/M 80からの移行を促した。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "MS-DOSにおいて、DOS自身のカーネルを含むプログラムの実行に確保できるメモリ空間(ユーザーメモリ、コンベンショナル・メモリ)は、8086のアドレス空間の最大1MBである。ほとんどのコンピュータでは、この空間にBIOS ROMやメモリマップドI/O、VRAMなどの空間も存在するため、バンク切替えや様々なメモリ拡張手段などを用いずに一時にアクセス可能なメモリ空間は最大でも640KBから768KB程度であった。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本語入力用のFEPなどの常駐型のデバイスドライバを使用すると一度に使用できるユーザーメモリはさらに減少するため、ユーザーはEMSやXMS、HMAやUMBなどの拡張メモリの管理機能を利用して、辞書や常駐部やMS-DOSシステムの一部をそれらへ配置し、コンベンショナルメモリの圧迫を少しでも避けることが重視されるようになった。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "そのため、RAMディスクドライブやディスクキャッシュなどはバンクメモリやEMS、プロテクトメモリ(80286/386以降)の機能を用いて、コンベンショナルメモリ以外の領域を使用するのが一般的であった。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これらのメモリ配分の設定はCONFIG.SYSやAUTOEXEC.BATを記述することで行い、事実上ユーザーに一任されていた。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "バージョン3まではメモリドライバやデバイスドライバはOSには付属せずサードパーティー製のメモリドライバ等を使用する必要があったが、バージョン5では標準機能としてOSに付属するようになった。また、これらの環境設定を半自動的に行う設定アプリケーションも添付された。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "各種デバイスドライバには自動でインストールを行うスクリプトやプログラムが整備され、動く状態を作るだけであればエンドユーザーがこれらを直接操作する必要はなくなったが、全ての環境に対応するのは難しく最適な設定や問題発生時の対応など初心者にとっては設定のハードルは高かった。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "従来のWindows 3.xはMS-DOSから起動するアプリケーションであったが、Windows 9x系では互換性のためにMS-DOS相当の機能が一部内部に組み込まれているものの「MS-DOSを必要としないWindowsという単体のOS」となった。Windows 95・98などのWindows本体を起動している状態ではプロテクトモードの完全なマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)で稼働しているが、シングルタスクのMS-DOSモード(DOSプロンプトとは異なる)に切り替えることが可能である。Windows上で起動するDOSプロンプトもMS-DOSと互換性があるが一部動作しないアプリケーションがあり、この問題を解決するための機能がMS-DOSモードで、完全なCUI表示となり、MS-DOSアプリケーションのみが動作し、DOSプロンプト上ではロングファイルネームで表示されるVFATであっても8文字+拡張子3文字のショートファイルネーム形式のファイル名で表示され、MS-DOSとほぼ同じ状態になる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "MS-DOSとPC DOSの主要なバージョンの一覧は以下の通り。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "CP/M程度の機能しか持たない、基本的なディスクオペレーティングシステム。ファイルシステムは後のバージョンで実装された階層構造を持っておらず、ディレクトリが利用できない。CP/Mとの大きな違いは、汎用化の為などで、入出力デバイスなど、機種依存する部分を分離するという方向性である。MSDOS.SYSとIO.SYSという2つのファイルがあることにあらわれている(前者が非依存なモジュール、後者が依存が大きいモジュールである。なお、機種や機能によって、IO.SYSが機能を抱えるか、BIOSに依存するかは異なっており、例えばディスクIOは多くの機種でBIOS依存だが、文字表示位置の制御などはIBM PCではBIOSだが、PC-98ではIO.SYSが行っている)。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このバージョンが使われていた頃は、8086またはその互換プロセッサ(8088等)を利用したパーソナルコンピュータ市場もそれほど大きくなかった為、出荷本数の大半はIBM PCにバンドルされた分だった。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "IBM PC/XTの仕様に合わせ、HDDや360KB 5.25インチフロッピーディスク (2D) をサポートしている。階層構造ディレクトリ、CONFIG.SYSによるデバイスドライバの追加機能、UNIXライクなパイプ等の機能が追加された。アセンブラのMASMが付属していた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "マイクロソフト版はこのバージョンより名称が「MS-DOS」に一本化された。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "当初 IBM PC/AT 用に発売。主としてネットワーク対応と大容量HD対応の為の16ビットFATが追加された。本来80286が標準のPC/AT向けだったが、互換性確保目的で80286のプロテクトモードを利用した新機軸は敢えて盛り込まれなかったためサードパーティー製の各種ユーティリティによって機能拡張するユーザが多かった。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ベンダーによる独自拡張などで方言が多くバージョン番号の体系も大きく乱れている。必要十分なスペックと安定性が評価され、またバージョン4以降の仕様変更の影響を避けるために一部ではかなりの長期間にわたって愛用されていた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "バージョン3.20から派生し、8086上で限定的な擬似マルチタスク環境を実現したもの。マイクロソフトが開発したが不十分であるとしてIBMには採用されず、アプリコットコンピューターズ(英語版)にネットワークOSとしてOEMされた他、僅かの用途に留まり絶滅亜種になってしまった。非同期I/O対応やバックグラウンドタスク規約など資産の一部は Windows 2.x に流用され、また80286プロテクトモードを前提に並行開発されていたもの(当初バージョン5と呼ばれていた)はIBM主導で大幅に改訂され、世に出た時にはOS/2バージョン1.0になっていた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "IBM主導で開発されたバージョン。OS/2色が濃くなり、IFSやラージバッファ等の追加のみならず管理セクタ数が増やされた事に伴いHDは理論上最大2GBの領域を扱うことができるようになった(実際にはBIOSの制限があった)他、添付ユーティリティを利用すると最大512MBのパーティションまで作成可能になったが、その反面余りに多くの変更がファイルシステムに加えられたため非互換性の問題も生じてしまった。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "情報が全部公開されていなかったものの、2バイトコードによるユニバーサルランゲージ対応が内部的に完了したのも本バージョンからである。従来のバンクメモリに代るEMSの標準サポートによって扱えるメモリ領域が1MB以上に拡張された。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "互換OSのDR DOSで好評を博していた「GEM」に類似のグラフィカルユーザインタフェース環境、「DOSシェル」が添付された。これはマウスオペレーションやグラフィカルなメニューによる直感的な操作が行えるもので、依然シングルタスクながらも複数のアプリケーションを重複起動して切替動作させることができ(いわゆるタスクスイッチャ)、GUIもキャラクタベースによる簡易なものとグラフィック画面とテキスト画面を組み合わせたもの(表示が美しく、ポインタの動作もスムーズになる)とを選択できた。DOSシェルのデザインはIBM Systems Application Architecture Common User Accessに準拠していた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "本バージョンには性急な複雑化に伴う非常に多くのバグが存在し、またOS自体が消費するメモリが過大だったため、メーカーによってDOS 3.30 を拡張した DOS 3.31 を採用するなどして4.0を採用しないところが有った。特に日本ではコンベンショナルメモリの空き容量が日本語処理アプリケーションの稼動に大きく影響を与えるため、大手メーカーであるNEC、富士通などが3.21系の拡張版のみを販売し続けた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "再びマイクロソフト主導で開発された。バージョン4で付加された中途半端なユーティリティの多くが削除された一方、80386、80486等に備わる仮想86モードの活用と Windows 3.0 との親和性を主眼にほぼ全面的に再コードされたため、パソコン通信等を介した約1年にわたる大規模なベータテストを経て市販開始された。IBMの製品へのバンドルに限定せず、巷に溢れるPC/AT互換機へのフル対応を初めからうたいインストーラ込みで発売された最初のMS-DOS(PC DOS)でもある。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "メモリ消費は少ないものの大容量ドライブが扱えないバージョン3、その逆で大容量ドライブが使えるがメモリ消費が大きいバージョン4というジレンマを抱えていたが、限りあるメモリ領域の消費を抑える機能を追加することでそれまでの問題を払拭するに至った。このバージョンによりDOSはほぼ完成を見たが8086~80286とその互換CPU上の動作には制約が強まり、結局のところ巧妙なアップグレード戦略の下でハードウエアの買い替え需要が喚起された。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "XMSによってDOS本体の一部をHMAに、デバイスドライバやアプリケーションの一部をUMBに待避させることが可能で、コンベンショナルメモリが大きく取れるようになった。またタスクスイッチ規約が明確に定義され、DOSシェルの機能拡張(Windows 3.0 のサブセット化)が図られた。各種LAN対応も進められ、コマンドにヘルプが付されるなど利便性も向上した。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "テキストエディタは、過去のバージョンに標準添付されていたラインエディタ「EDLIN」に加えスクリーンエディタ「EDIT(英語版)」が添付された。開発環境として、コマンドラインエディタに加え独自に拡張された構造化BASICコンパイラQuickBASICが標準添付されていた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "それまで未公開だったファンクションの多くがユーザに解放されたためカスタマイズやデバイスドライバ開発が更に容易になった。日本ではマイクロソフトがDOS/VのOEM供給を開始し、PC/AT互換機をベースに独自の拡張を行っていたAX陣営や東芝 (J-3100)もこの頃よりDOS/Vへのシフトを進めるようになった。また、世界のデファクトスタンダードであるPC/AT互換機のハードウェアでそのまま日本語版OSを使えるようになった為に日本国外のメーカーが積極的に日本市場へ参入し始め、NECの独擅場であった日本市場は大きく変貌することとなった。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ディスク最適化やディスク圧縮機能(後述)、コンピュータウイルス検出・除去など、CD-ROMアクセスに必要なMSCDEXの付属等付加機能の充実が主。MS-DOS単体としての最終版。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "デジタルリサーチからMS-DOS互換の DR-DOS 6.0 が発売された。大きな特徴は補助ユーティリティの大幅な増強である。その為、IBMおよびマイクロソフトでも基本仕様はほとんど変えずに補助ユーティリティを追加する事でバージョン6を発売することになった。IBMは6.1、それに続くマイクロソフトは6.2と、先に出た競合相手よりバージョン番号はそれぞれ0.1だけ大きい。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "起動時に特定のキーを押すとCONFIG.SYS・AUTOEXEC.BATの一部の行を実行したり、全てバイパスする機能があった。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "マイクロソフト版は同時期に発売された Windows 3.1 の普及を促すという販売戦略からDOSシェルを廃止したと見られた。テキストエディタは日本語に対応して共通のEDITとなった(PC-98版はSEDITが付属)。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Windows 95/98/98SE に含まれているバージョン。ファイルシステムでは長いファイル名がサポートされたのが最大の特徴。従来のMSDOS.SYSは名前こそ同じであるがプログラムではなく設定ファイルとなった。IO.SYSが実行する標準シェルはWindowsを起動するためのWIN.COMであるが、MSDOS.SYSを編集することでWindows 95/98ではWindowsを起動せずにMS-DOSモード(COMMAND.COM)で起動することができた。Windows 95初期(OSR1)までのバージョンは7.0だが、Windows 95のOSR2以降ではFAT32にも対応しているバージョン7.1である。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1995年リリース。IBM版のみ。開発環境として「REXX」を標準添付。ディスク圧縮ユーティリティは「SuperStor/DS」から「Stacker4.0」に変更された。MS-DOS 7(マイクロソフト版)とは異なりGUIとの融合はされなかったが、当時インターネットの普及が進んでいた中でPalm Top PC 110の人気を受けてPC DOS用ウェブブラウザ「WebBoy」が開発された。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "Windows Meに含まれているバージョン。IO.SYSにHIMEM.SYSおよびSMARTDRV(ディスクキャッシュ)の機能を統合した最終版であり、MS-DOSモードでの起動も廃止されWindowsのブートローダの機能のみとなった。Windows MeやWindows XP以降で起動ディスクを作成するとこのMS-DOSが書き込まれる。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "またPC-9800シリーズ全盛期には、ゲームソフトの組み込み用として下位互換(INT21系のサブセットのみ互換)の「MEG-DOS」などがあった。アリスソフトの「ALICE-DOS」は、もともとゲームソフト本体はMS-DOSをインストールしたハードディスクドライブ上で動かすことを前提としあくまでもフロッピー単体でも起動するようサポート用に作られたものであったため、バッチファイルを動かす機能も有していた。 なお、互換性はあるがOSではないものにDOSBoxがある。", "title": "MS-DOSとの互換性を持つオペレーティングシステム" } ]
MS-DOS(エムエス-ディーオーエス、エムエスドス)は、1981年よりマイクロソフトが開発・販売したパーソナルコンピュータ向けのオペレーティングシステム(OS)である。 「MS-DOS」が製品名で、マイクロソフト ディスク・オペレーティングシステム(英: the Microsoft Disk Operating System)を意味する。
{{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|frame=1}} {{Infobox OS |name = MS-DOS |logo = Msdos-icon.svg |logo_size = 64px |screenshot = [[File:StartingMsdos.png]] |caption = MS-DOSのコマンドラインの一例。画像ではCドライブのルートディレクトリを指定している。 |developer = [[マイクロソフト|Microsoft]] |source_model = [[クローズドソース]]、2018年から一部のバージョンは[[オープンソース]]<ref name="mit-relicense">{{cite web |last1=Turner |first1=Rich |title=Re-Open-Sourcing MS-DOS 1.25 and 2.0 |url=https://blogs.msdn.microsoft.com/commandline/2018/09/28/re-open-sourcing-ms-dos-1-25-and-2-0/ |website=Windows Command Line Tools For Developers |access-date=29 September 2018}}</ref> |programmed_in = [[アセンブリ言語]] |language = 多言語 |prog_language = [[C言語]]、[[Pascal]]、[[QBasic]]、[[バッチファイル]]など |kernel_type = [[モノリシックカーネル]] |working_state = 終了 |latest_release_version = 8.0 |latest_release_date = {{Start date and age|2000|9|14}} |ui=[[キャラクタユーザインタフェース]] (CUI), [[テキストユーザインタフェース]] (TUI) |license = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]<br />[[MIT License]] (v1.25 と v2.0)<ref name="mit-relicense"/> |supported_platforms = [[x86]] }} {{Wikibooks|MS-DOS/PC DOS入門}} '''MS-DOS'''(エムエス-ディーオーエス、エムエスドス<ref>日本国商標登録番号第2016333号</ref>)は、1981年より[[マイクロソフト]]が開発・販売した[[パーソナルコンピュータ]]向けの[[オペレーティングシステム]](OS)である。 「MS-DOS」が製品名で、マイクロソフト [[DOS (OS)|ディスク・オペレーティングシステム]]({{Lang-en-short|the Microsoft Disk Operating System}})を意味する<ref>{{Cite web|url=https://blogs.microsoft.com/blog/2011/08/10/the-ibm-pc-is-30-years-old-and-were-all-just-getting-started/|title=The IBM PC is 30 Years Old – And We’re (All) Just Getting Started|author=Jeffrey Meisner|work=Official Microsoft Blog|publisher=Microsoft|date=2011-8-10|accessdate=2022-8-12}}</ref>。 ==概要== [[IBM]]は[[IBM PC]]用のオペレーティングシステムの開発をマイクロソフトに依頼し1981年に[[IBM PC DOS]]として発売したが、このOSをマイクロソフト経由で他社に[[OEM]]提供したものがMS-DOSである<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/Windows/20051216/226357/ 本当に知っている?Windows XPの基礎[アーキテクチャ編](第2回)なぜDOSアプリがWindowsで動くのか? - 日経XTECH]「何とか納期に間にあった「PC-DOS」だが,Microsoftが他社にOEM供給する際には,自社の商標である「MS」を付け「MS-DOS」と呼んだ。」</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/20120420-msdos/ 世界のOSたち - コンピューターを支える一時代を築いた「MS-DOS」- +Digital]「最初のMS-DOS「PC DOS 1.0」が誕生しました。IBMとMicrosoftとの契約では、開発したOSを他社へOEM(他社ブランドの製品を製造すること)供給することが認められていた」</ref>。ただしマイクロソフトは現在ではMS-DOSは1981年発売と説明している<ref>[https://news.microsoft.com/facts-about-microsoft/ Facts About Microsoft - Microsoft]"Aug. 12, 1981 IBM introduces its personal computer with Microsoft’s 16-bit operating system, MS-DOS 1.0"</ref>。IBM PC DOSとMS-DOSはバージョン5まではほぼ同内容だが、バージョン6以降は独自機能が追加された。 MS-DOSは[[CP/M]]類似の[[Intel 8086]]系向けの[[16ビット]] オペレーティングシステムだが、IBM PCの成功によりパーソナルコンピュータ市場で[[デファクトスタンダード]]となり、後に[[8ビット]]など各種の[[CPU]]やコンピュータ用にも移植され、また各種の[[組み込み]]機器でも使用された。 MS-DOSは基本的には[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインインタフェース]]や[[UNIX]]風の階層型の[[ファイルシステム]]を持つ[[シングルタスク]]のオペレーティングシステムだが、各種アプリケーションや、バージョン4<ref>一部メーカー用はバージョン5</ref>より付属の[[MS-DOS Shell|DOSSHELL]]や、別売の[[Microsoft Windows 2.0]]などの併用により、[[グラフィカルユーザインタフェース]]や疑似[[マルチタスク]]も使用可能となった。ただしMS-DOS自体は画面描画に関わる[[アプリケーションプログラミングインタフェース]]を持たないため、多くのMS-DOS用アプリケーションは機種依存であり、異なる機種間では稼働せず、また移植も容易ではなかった<ref>{{Cite journal|author=Steve Rosenthal|year=1983|title=MS-DOS Boards The S-100 Bus|url=https://books.google.co.jp/books?id=q8fwTt09_MEC&pg=PA625|journal=PC Mag|volume=2|issue=6|pages=625-628|publisher=Ziff Davis, Inc.|accessdate=2016-10-31}}</ref>。 MS-DOSと互換性を持つオペレーティングシステムには、IBM PC DOSの他、[[DR-DOS]] (Novell DOS)、[[オープンソース]]の[[FreeDOS]]などがあり、またMicrosoft Windowsのコマンドプロンプトなどの互換環境がある。 最終となった製品バージョンは、マイクロソフト版はMS-DOS バージョン6.2、IBM版はPC DOS 2000である。 ==歴史== ===開発の経緯=== {{main|シアトル・コンピュータ・プロダクツ|86-DOS}} [[1980年]]7月頃、IBMは後にIBM PCとなるパーソナルコンピュータの開発に着手した<ref name="elder198907">{{cite news|author=Elder, Tait|date=July 1989|work=Harvard Business Review|title=New Ventures: Lessons from Xerox and IBM|url=https://hbr.org/1989/07/new-ventures-lessons-from-xerox-and-ibm|accessdate=20 January 2015}}</ref>。しかし、IBMの主力商品である[[メインフレーム|汎用コンピュータ]]に比べるとごく少数のスタッフとわずかな予算しか与えられなかった。プロジェクトリーダーの{{仮リンク|フィリップ・ドン・エストリッジ|en|Philip Don Estridge}}は、すぐに商品化できるようソフトウェアは自社開発せず、すべて外部から調達する方針を立てた<ref name="nhkpub_1996">{{Cite book||author=相田洋、大墻敦|title=新・電子立国 第1巻 ソフトウェア帝国の誕生|year=1996|publisher=[[NHK出版]]|ISBN=4140802715|pages=238-303|chapter=第5章 IBMパソコンの誕生とMS-DOSの開発}}</ref>。 当時のマイクロソフトは[[BASIC]][[インタプリタ]]や[[アセンブリ言語|アセンブラ]]ならびに各種言語の[[コンパイラ]]等を開発しており、それらの製品のほとんどが当時のパーソナルコンピュータ市場における[[デファクトスタンダード]]OSである[[デジタルリサーチ]]の[[CP/M]]上で動作するものであった。 IBMはマイクロソフトに対し当初はBASICなどの言語製品の開発を依頼していた<ref name="Manes">Manes & Andrews (1993). ''Gates'', Doubleday, ISBN 0-385-42075-7.</ref>。OSについても8086対応版のCP/Mをマイクロソフトに開発してもらおうとした<ref name="Isaacson_2014">{{cite book|last=Isaacson|first=Walter|title=The Innovators: How a Group of Inventors, Hackers, Geniuses, and Geeks Created the Digital Revolution|date=2014|publisher=[[Simon & Schuster]]|page=358|author-link=Walter Isaacson|title-link=The Innovators: How a Group of Inventors, Hackers, Geniuses, and Geeks Created the Digital Revolution|isbn=978-1476708690}}</ref>。しかし彼らはCP/Mのソースの権利を持っていなかった為、[[ビル・ゲイツ]]のアドバイスに従ってデジタルリサーチと交渉することにした<ref>{{cite news|last=Maiello|first=John Steele Gordon Michael|date=December 23, 2002|work=Forbes|title=Pioneers Die Broke|archiveurl=http://www.forbes.com/forbes/2002/1223/258_print.html|url=http://www.forbes.com/forbes/2002/1223/258_print.html|accessdate=March 31, 2008|archivedate=September 16, 2012}}</ref>。ところがデジタルリサーチとの交渉はうまくいかず、再びマイクロソフトに開発の依頼を持ち込んだ。<ref name="Evans">Evans, Harold (2004). ''They Made America'', Little, Brown and Company. ISBN 0-316-27766-5 ISBN 0-316-01385-4.</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=w_OhaFDePS4C&pg=PA50 Operational Choice], ''PC Magazine'' Charter Issue, February–March 1982</ref><ref>Hamm, Steve; Jay Greene (October 25, 2004). [http://www.businessweek.com/magazine/content/04_43/b3905109_mz063.htm "The Man Who Could Have Been Bill Gates"]. BusinessWeek.</ref><ref>{{cite web|url=http://thestarman.pcministry.com/DOS/ibm100/|title=IBM Personal Computer DOS Version 1.00|accessdate=2016-10-30|last=Sedory|first=Daniel B.}}</ref> マイクロソフトは「M-DOS」というOSを開発した経験はあるが、販売したことはなかった<ref name="nhkpub_1996" />。IBMから要求された期日は1年以内という厳しいもので、言語製品の開発に加えてOSにまで手を回す余裕はなかった<ref>{{Cite journal|author=John Markoff, Paus frelberger|year=1983|title=In Focus|url=https://books.google.co.jp/books?id=ty8EAAAAMBAJ&hl=ja&pg=PA32|journal=InfoWorld|volume=5|issue=35|page=32|publisher=InfoWorld Media Group, Inc..|accessdate=2016-11-01}}</ref>。同じ頃、[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]]はCP/Mが8086に移植されない事に業を煮やし、[[ティム・パターソン]]がわずか6週間で開発した[[86-DOS|QDOS]]を、86-DOSとして販売した。基本的には8080/Z80用に作られた[[デジタルリサーチ]]の[[CP/M]]クローンであり、[[Intel 8086|8086]]に移植して、ディスク読み込み処理のバッファ管理を改良し、ファイルシステムを新規開発した[[File Allocation Table|FAT12]]にしたものである。ファーストバージョンは1980年8月に出荷された<ref name="Linfo">{{Cite web |title=MS-DOS: A Brief Introduction |work=The Linux Information Project |url=http://www.linfo.org/ms-dos.html |access-date=December 14, 2017 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20171214120951/http://www.linfo.org/ms-dos.html |archive-date=December 14, 2017}}</ref>。 [[IBM PC]]用のOSを必要としていたマイクロソフトは<ref name="A history of Windows">{{Cite web |title=A history of Windows |website=microsoft.com |publisher=[[マイクロソフト|Microsoft]] |date=November 2013 |url=http://windows.microsoft.com/en-us/windows/history |access-date=May 10, 2015 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20150510042758/http://windows.microsoft.com/en-us/windows/history |archive-date=May 10, 2015}}</ref><ref name="digitalresearch.biz">{{Cite web |author-first=Leven |author-last=Antov |date=1996 |title=History of MS-DOS |website=Digital Research |url=http://www.digitalresearch.biz/HISZMSD.HTM |access-date=May 6, 2015 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20171002211831/http://www.digitalresearch.biz/HISZMSD.HTM |archive-date=October 2, 2017}}</ref>、1981年5月にティム・パターソンを雇い<ref group="注">このやり方を進言したのは当時同社役員でもあった[[西和彦]]と言われている{{要出典|date=2016年10月}}</ref><ref name="Paterson_1983_Byte_Short_History2">{{cite journal|last=Paterson|first=Tim|date=June 1983|title=A Short History of MS-DOS|url=//archive.org/stream/byte-magazine-1983-06/1983_06_BYTE_08-06_16-Bit_Designs#page/n245/mode/2up|journal=[[Byte (magazine)|Byte]]|page=246|accessdate=18 August 2013|issn=0360-5280}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=関口和一|authorlink=関口和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=[[日本経済新聞社]]|ISBN=4-532-16331-5|pages=75-79|chapter=3. 国産機の開発 : 動き始めた巨象}}</ref>、同年7月に86-DOS 1.10を$75,000で購入した。マイクロソフトはバージョンナンバーを変更せず、名前をMS-DOSに変更した。1981年8月にMS-DOS 1.10/1.14を[[IBM PC DOS|PC DOS]] 1.0としてIBMに提供し、[[IBM PC|IBM 5150]]や[[IBM PC]]で動作する3つのOSの1つ<ref>{{Cite web |title=Personal Computer Announced by IBM |website=ibm.com |publisher=[[IBM]] |url=http://www.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/pcpress.pdf |access-date=September 27, 2014}}</ref>となった<ref name="Linfo" />。 ===各メーカーへのOEM供給=== IBMは当初「PC DOS」名称でIBMのみへの供給を主張し、マイクロソフトはIBM以外のメーカーへのOEM供給を主張した結果、IBM用はPC DOS名称、マイクロソフトによる各メーカーへのOEM供給も認めて普及を図るという役割分担となったと言われる{{要出典|date=2016年10月}}。この役割分担は後の[[OS/2]] Ver. 1.Xでも同様となる。 リスクを軽減化するために買い取りを避けIBM PCの出荷台数に対して使用料を支払うという[[ライセンス]]契約をしたこと、そしてマイクロソフトから各メーカーへの自由なOEM供給を認めた事が後のマイクロソフトの躍進の原動力と言え、また見方を変えれば、最終的に「軒先を貸して母屋を取られた」IBMの大失策であるとも言えるが、MS-DOS(およびPC DOS)の普及(デファクトスタンダード化)を決定づけたとも言える。{{要出典|date=2016年10月}} 1982年、マイクロソフトはバージョン1.25からIBM以外のメーカーにMS-DOSのOEM供給を開始した。{{仮リンク|ライフボート・アソシエイツ|en|Lifeboat Associates}}のSB-DOS<ref name="roy">{{cite book|last=Allan|first=Roy A.|title=A history of the personal computer: the people and the technology|url=http://www.retrocomputing.net/info/allan/|year=2001|publisher=Allan Pub.|page=[http://www.retrocomputing.net/info/allan/eBook12.pdf 14]|chapter=Microsoft in the 1980s, part III 1980s — The IBM/Macintosh era|location=[[London, Ontario]]|accessdate=December 5, 2009|isbn=0-9689108-0-7}}</ref>、[[コンパック]]のCompaq-DOS<ref name="Ref-12">Duncan, Ray (1988). ''The MS-DOS Encyclopedia'', Microsoft Press. ISBN 1-55615-049-0.</ref>、{{仮リンク|ゼニス・データ・システムズ|en|Zenith Data Systems}}のZ-DOS<ref>[https://books.google.com/books?id=KTAEAAAAMBAJ&pg=PA10 Zenith's new Z100 has something for everybody], ''InfoWorld'', July 12, 1982</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=EDAEAAAAMBAJ&pg=PA35 Zenith challenges IBM's share of micro market], ''InfoWorld'', September 13, 1982</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=0C8EAAAAMBAJ&pg=PA91 Review: Zenith Z-100], ''InfoWorld'', November 7, 1983</ref>など、供給先メーカーは70社以上に及んだ<ref name="freiberger19820823">{{Cite news |title=Bill Gates, Microsoft and the IBM Personal Computer |work={{仮リンク|InfoWorld|en|InfoWorld|label=InfoWorld}} |date=August 23, 1982 |author-last=Freiberger |author-first=Paul |author-link=Paul Freiberger |pages=22 |url=https://books.google.com/books?id=VDAEAAAAMBAJ&lpg=PA19&pg=PA22 |access-date=January 29, 2015}}</ref>。1983年のバージョン2.0より、IBM以外の各メーカーへのOEM供給品は「MS-DOS」名称に一本化された。OEM供給品に自社の商標(MS)をつけ「MS-DOS」名称としたのは、OEM先メーカーが独自の名前をつけて混乱することを避けるために整理する意味があった{{要出典|date=2016年10月}}。ただし、その後も富士通[[FM TOWNS]]の[[FM TOWNS#TownsOS|TownsOS]]や各種制御機器など、内部的にMS-DOSがOEM提供されている場合には「MS-DOS」の名称はユーザーには見えない場合があった。 MS-DOSは8086系CPUを搭載したパソコンで動作させることが前提の設計だった。各パソコンには専用のハードウェアがあり、MS-DOSもそれぞれ別のバージョンが作られ、その状況は既存のCP/Mと同様で、[[CP/M#構成|CP/Mと同じ方法]]でハードウェアをエミュレーションして違いを吸収した。これを実現するためMS-DOSはプライマリディスクドライブやコンソールなどの最小限の内蔵ドライバや内蔵カーネルをブートローダーで読み込み、それ以外のデバイスドライバを起動時に動的に読み込めるモジュール方式を採用した。[[OEM]]各社はマイクロソフトが提供した開発キットを用い、基本的なI/Oドライバとマイクロソフトの標準カーネルを組み合わせて独自のMS-DOSを作ることができ、普通はハードに添付するディスクの形でユーザーへ届けられた。従って各ハードウェアごとに異なるバージョンのMS-DOSが存在することになり、IBM互換機とMS-DOSマシンの2種類に大きく分類された。{{仮リンク|Tandy 2000|en|Tandy 2000|label=Tandy 2000}}のような一部のパソコンはMS-DOS互換だったがIBM互換ではなく、特定のハードやIBM PCのアーキテクチャに依存しないMS-DOS専用に作られたソフトウェアを実行できた。 このデザインはアプリケーションの互換性を高めるのに役立ち、MS-DOSのサービスだけを使ってデバイスI/Oにアクセスする場合は特に有効で、このデザイン方針は後のWindows NTにも影響を及ぼした([[Hardware Abstraction Layer]]を参照)。しかし当時はハードに直接アクセスすることでパフォーマンスを稼ぐアプリが主流を占め、特にゲームではこれが顕著で、各社は次第に{{仮リンク|IBM PCがパソコン市場に与えた影響|en|Influence of the IBM PC on the personal computer market#Domination of the clones|label=独自路線をあきらめてIBM-PC互換機を作るようになり}}、1つのMS-DOSがどの会社のパソコンでも動作するようになった。 ===DOSの限界と開発の終焉=== DOSは標準で[[グラフィカルユーザインターフェース]]や[[マルチタスク]]機能や[[仮想記憶]]を持たず、[[Intel 80386|80386]]などの[[32ビット]]環境でも「高速な[[Intel 8086|8086]]」としか使用できなかったため、DOSの拡張や次世代OSが待望された。 1985年には[[DOSエクステンダー]]である[[DESQview]]<ref name="ASTDesqview">[https://books.google.com/books?id=a8FBzsfoBZEC&pg=PA22 AST memory board to come with Quarterdeck Desqview], ''Computerworld'', November 4, 1985</ref>、同年にDOS上で稼働する「オペレーティング環境」としてMicrosoft Windowsが登場した<ref>[https://books.google.com/books?id=OC8EAAAAMBAJ&pg=PA8 Microsoft Focuses Efforts On Direct Corporate Sales], ''InfoWorld'', November 18, 1985</ref>。更に1987年には本格的なDOSの後継OSとしてIBMとマイクロソフトから OS/2 Ver. 1.0 が登場した<ref>[https://books.google.com/books?id=Az8EAAAAMBAJ&pg=PA1 IBM Ships OS/2 Four Months Early], ''InfoWorld'', December 7, 1987</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=AT8EAAAAMBAJ&pg=PA1 Zenith First to Ship Microsoft OS/2], ''InfoWorld'', December 21, 1987</ref>。OS/2はDOSと同様に、IBMおよびマイクロソフトの両者から供給されたが、性能やDOS互換環境の問題もあり広く普及しなかったためDOSは継続して使われた<ref>[https://books.google.com/books?id=BD8EAAAAMBAJ&pg=PA5 Vendors Decide Against Bundling OS/2 With PCs], ''InfoWorld'', November 30, 1987</ref>。 1990年に日本ではIBM DOSのバージョン4からDOS/Vが生まれ、マイクロソフトもバージョン5からDOS/VのOEM供給を開始したため<ref>『日経バイト』 1991年12月号、p.160.。</ref>、日本でもPC/AT互換機の市場が立ち上がり始めた<ref name="ascii_199808">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝 : History 「そして、世界標準がやって来た」|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=22|issue=8|pages=378-379|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=03865428}}</ref>。 1993年のバージョン6からは、IBMとマイクロソフトのOS共同開発契約(OSクロスライセンス契約)が終了したため以後はIBMまたはマイクロソフトの単独開発となった<ref name=":4">{{Cite journal|author=John M. Goodman|date=1994-01-24|title=Reviews: DOS vs. DOS: Two variations on the theme|url=https://books.google.co.jp/books?id=_DoEAAAAMBAJ&lpg=PA59&hl=ja&pg=PA59|journal=InfoWorld|page=59|publisher=InfoWorld Media Group, Inc..|accessdate=2016-10-30}}</ref>。両者は基本部分の互換性は保たれているが、付属ユーティリティの相違などが広がった。マイクロソフトはこのMS-DOS 6を単体販売の最終バージョンとし、1995年の[[Microsoft Windows 95]]以降は単体のDOSも不要となった<ref group="注">Windows 95以降ではDOSは技術的には内部に存在しているが、製品としてバンドルされている。</ref>。IBMはDOSの改良を続けたが、1998年のPC DOS 2000が最終バージョンとなり、2001年にはサポートも終了した<ref name=":2">{{Cite web|url=http://www-01.ibm.com/common/ssi/printableversion.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/9/897/ENUS298-169/index.html|title=IBM PC DOS 2000 CAN EASE YOUR TRANSITION TO THE YEAR 2000|accessdate=2016-10-30|date=1998-05-26|publisher=IBM Corporation}}</ref>。 2014年3月25日、マイクロソフトは[[SCP MS-DOS 1.25]]、および[[Altos MS-DOS 2.11]]と[[TeleVideo PC DOS 2.11]]の混合版を、[[Microsoft Research License Agreement]]に基づいて一般公開した。これにより、コードソースは利用可能になるが、[[オープンソース・イニシアティブ]]や[[フリーソフトウェア財団]]の規格で定義される[[オープンソース]]ではない<ref name="Paterson_2014_MSDOS125">{{cite web |author-first=Tim |author-last=Paterson |author-link=Tim Paterson |title=Microsoft DOS V1.1 and V2.0: /msdos/v11source/MSDOS.ASM |url=http://www.computerhistory.org/atchm/microsoft-research-license-agreement-msdos-v1-1-v2-0/ |publisher=[[Computer History Museum]], [[Microsoft]] |date=December 19, 2013<!-- 2014-03-25 --> |orig-year=1983-05-17 |access-date=March 25, 2014}} (NB. While the publishers claim this would be MS-DOS 1.1 and 2.0, it actually is [[SCP MS-DOS 1.25]] and a mixture of [[Altos MS-DOS 2.11]] and [[TeleVideo PC DOS 2.11]].)</ref><ref name="Shustek_2014_MS-DOS">{{Cite web |title=Microsoft MS-DOS early source code |series=Software Gems: The Computer History Museum Historical Source Code Series |author-first=Len |author-last=Shustek |date=March 24, 2014 |url=http://www.computerhistory.org/atchm/microsoft-ms-dos-early-source-code/ |access-date=March 29, 2014}} (NB. While the author claims this would be MS-DOS 1.1 and 2.0, it actually is [[SCP MS-DOS 1.25]] and a mixture of [[Altos MS-DOS 2.11]] and [[TeleVideo PC DOS 2.11]].)</ref><ref name="Levin_2014_MS-DOS">{{cite web |title=Microsoft makes source code for MS-DOS and Word for Windows available to public |date=March 25, 2014 |author-first=Roy |author-last=Levin |work=Official Microsoft Blog |url=https://blogs.microsoft.com/blog/2014/03/25/microsoft-makes-source-code-for-ms-dos-and-word-for-windows-available-to-public/ |access-date=March 29, 2014}} (NB. While the author claims this would be MS-DOS 1.1 and 2.0, it actually is [[SCP MS-DOS 1.25]] and a mixture of [[Altos MS-DOS 2.11]] and [[TeleVideo PC DOS 2.11]].)</ref><ref>{{Cite news |title=Psych! Microsoft didn't really open-source MS-DOS |author-last=Phipps |author-first=Simon |date=March 26, 2014 |work=[[InfoWorld]] |url=http://www.infoworld.com/t/open-source-software/psych-microsoft-didnt-really-open-source-ms-dos-239111 |access-date=March 27, 2014}}</ref>。マイクロソフトは、2018年9月28日に[[MITライセンス]]に基づいてコードを再ライセンスし、これらのバージョンを[[フリーソフトウェア]]とした<ref name="mit-relicense" /> 。 ==機能== MS-DOSと名付けられているように、マイクロソフトのパーソナルコンピュータ向けのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)であり、主にディスクの管理を行うシングルタスクOSであった。開発当初のCPUにマルチタスク機能・メモリ保護機能がなかったためMS-DOSも対応しておらず、CPUにそれらの機能が搭載された後もMS-DOSが対応することはなかった。またグラフィック画面やサウンドの操作・ネットワーク機能などは、Microsoft Windowsや[[LAN Manager]]のほかアプリケーションが直接I/Oを操作するか[[デバイスドライバ]]などで提供されていた。 ===ファイル管理=== ファイルの管理は、[[File Allocation Table|FAT]]と[[クラスタ (記憶媒体)|クラスタ]]により構成される。 ファイル名は[[8.3形式]]、つまり、8バイトまでのベース名と3バイトまでの[[拡張子]]の合計最大11バイト(拡張子の前の「[[終止符|.]]」を数えれば12バイト)で表す。アルファベットの[[大文字]]と[[小文字]]は区別しない(全て大文字と見なされる)。 バージョン2以降では、[[ディレクトリ]]の作成が可能となり、[[属性|ファイル属性]]にも対応した。 ===起動順序=== 起動順序はバージョンによって若干違うが、概ね以下の通りである。 #コンピュータのROM [[Basic Input/Output System|BIOS]]やディスクの[[マスターブートレコード]]からディスクのセクタ0にある[[ブートセクタ]]を読み込んで実行。 #ディスクから<code>[[IO.SYS]]</code>と<code>[[MSDOS.SYS]]</code>がメモリ中にロードされる。 #<code>IO.SYS</code>を起動し、その後<code>MSDOS.SYS</code>に制御を移行する。 #<code>[[CONFIG.SYS]]</code>が起動ドライブの[[ルートディレクトリ]]にあれば、そこに記述されたデバイスドライバを読み込む。 #[[バッチ処理]]のための[[コマンドインタプリタ]]でもある標準[[シェル]]の<code>[[COMMAND.COM]]</code>を起動する。 #<code>[[AUTOEXEC.BAT]]</code>が起動ドライブのルートディレクトリにあれば、その内容を実行し、[[環境変数]]の設定や起動時に実行すべきコマンド等の呼び出し、場合によっては[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の起動なども行う。 <code>COMMAND.COM</code>では、各ドライブを<code>A:</code>から最大<code>Z:</code>まで<ref group="注"><span data-ve-clipboard-key="0.5142649835640344-16">ドライブレターの数</span>はCONFIG.SYSの<code>LASTDRIVE</code>で変更可。</ref>の[[ドライブレター]]で管理し、内部コマンドではファイル・ディレクトリ一覧の参照、ファイルとディレクトリの作成・コピー・名前変更、コンピュータの時刻や環境変数および[[パス (コンピュータ)|パス]]の設定参照などができるほか、外部コマンドやアプリケーションなどの[[実行ファイル|実行形式のファイル]]の起動が行えた。またVer.2以降ではUNIXを意識した入出力の[[リダイレクト (CLI)|リダイレクト]]機能や[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]機能なども利用できたが、MS-DOS上のパイプやリダイレクトはいずれもテンポラリファイルを介した擬似的な実装に留まっていた。 ===実行ファイル=== MS-DOSにおける[[実行ファイル]]の形式は、現在のUNIX系環境で言う[[シェル#シェルスクリプト|シェルスクリプト]]に類似したコマンドのバッチ処理を記述する[[バッチファイル]](拡張子は<code>BAT</code>)と、[[CPU]]が直接実行するバイナリファイルに大別することができる。 このうちバイナリファイルには、単一の[[セグメント方式|セグメント]]を使う<code>[[COMファイル|COM]]</code>形式、複数のセグメントが使用される場合の<code>[[EXEフォーマット|EXE]]</code>形式、さらにデバイスドライバとして<code>SYS</code>形式が存在し、それぞれ同名の拡張子を持つ。 <code>COM</code>形式の実行ファイルは、バイナリ読み込み時に設定されるコード・データ・エクストラ・スタックの各セグメントレジスタの値が同一アドレスに設定され、プログラム内部でセグメントレジスタを操作しない場合は単一セグメント、最大64KBのメモリ空間を操作する。CP/M 80用に書かれた[[Intel 8080|8080]]用のアセンブリ言語のソースコードを8086へコンバートした場合を想定したメモリモデルであるが、<code>COM</code>形式のバイナリであってもプログラム側で適切にセグメントレジスタを操作することで64KB以上の空間へのアクセスが可能である。 このうち.<code>SYS</code>形式のバイナリは、原則的に起動時に一度だけ実行される<code>CONFIG.SYS</code>に記述する以外の方法では直接読み込むことができない<ref group="注"><span data-ve-clipboard-key="0.1444910571201179-4"> ただし、</span>PC-98版のMS-DOS 3.1以降では<code>ADDDRV.EXE</code>と登録を記述したファイルの組み合わせにより登録し、<code>DELDRV.EXE</code>で外せる。この方法を使用できるのは[[キャラクタデバイス]]のみであり、<code>CONFIG.SYS</code>で一度登録したデバイスドライバは外せない。IBM PC用では何種類かサードパーティで同様のプログラムが作成されている。</ref>。 ===システムコール=== [[システムコール]]<!-- BIOS ≠ system call -->は、[[割り込み (コンピュータ)#ソフトウェア割り込み|ソフトウェア割り込み]]により呼び出されるが、8080や[[Z80]]などの8ビットのコンピュータではメジャーな存在だったCP/Mとの互換性、特に8080用にアセンブリ言語で書かれたソースコードを8086にコンバートして用いる場合を想定し、call 5でも利用可能としてCP/M 80からの移行を促した<ref>[http://www.ctyme.com/intr/rb-5797.htm FAR JMP instruction for CP/M-style calls]</ref>。 ===メモリ管理=== MS-DOSにおいて、DOS自身のカーネルを含むプログラムの実行に確保できるメモリ空間(ユーザーメモリ、コンベンショナル・メモリ)は、8086のアドレス空間の最大1MBである。ほとんどのコンピュータでは、この空間にBIOS ROMや[[メモリマップドI/O]]、[[VRAM]]などの空間も存在するため、バンク切替えや様々なメモリ拡張手段などを用いずに一時にアクセス可能なメモリ空間は最大でも640KBから768KB程度<ref group="注">ユーザーメモリは、IBM PC互換機およびPC-9800シリーズ等では640KB、[[PC-H98シリーズ]]やFMRシリーズ・FM TOWNS等は768KB。</ref>であった。 [[日本語入力システム|日本語入力]]用の[[FEP]]などの常駐型のデバイスドライバを使用すると一度に使用できるユーザーメモリはさらに減少するため、ユーザーはEMSや[[XMS]]、[[XMS#HMA|HMA]]や[[XMS#UMB|UMB]]などの拡張メモリの管理機能を利用して、[[辞典|辞書]]や常駐部やMS-DOSシステムの一部をそれらへ配置し、コンベンショナルメモリの圧迫を少しでも避けることが重視されるようになった。 そのため、RAMディスクドライブやディスクキャッシュなどは[[バンク切り換え|バンクメモリ]]や[[Expanded Memory Specification|EMS]]、[[プロテクトモード|プロテクトメモリ]]([[Intel 80286|80286]]/[[Intel 80386|386]]以降)の機能を用いて、コンベンショナルメモリ以外の領域を使用するのが一般的であった。 これらのメモリ配分の設定は<code>CONFIG.SYS</code>や<code>AUTOEXEC.BAT</code>を記述することで行い、事実上ユーザーに一任されていた。 バージョン3まではメモリドライバやデバイスドライバはOSには付属せず[[サードパーティー]]製のメモリドライバ等を使用する必要があったが、バージョン5では標準機能としてOSに付属するようになった。また、これらの環境設定を半自動的に行う設定アプリケーションも添付された。 各種デバイスドライバには自動でインストールを行うスクリプトやプログラムが整備され、動く状態を作るだけであればエンドユーザーがこれらを直接操作する必要はなくなったが、全ての環境に対応するのは難しく最適な設定や問題発生時の対応など初心者にとっては設定のハードルは高かった。 ===Windows 9x=== 従来の[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]はMS-DOSから起動するアプリケーションであったが、[[Windows 9x系]]では互換性のためにMS-DOS相当の機能が一部内部に組み込まれているものの「MS-DOSを必要としないWindowsという単体のOS」となった。Windows 95・98などのWindows本体を起動している状態では[[プロテクトモード]]の完全なマルチタスク(プリエンプティブマルチタスク)で稼働しているが、シングルタスクのMS-DOSモード([[DOSプロンプト]]とは異なる)に切り替えることが可能である。Windows上で起動するDOSプロンプトもMS-DOSと互換性があるが一部動作しないアプリケーションがあり、この問題を解決するための機能がMS-DOSモードで、完全な[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]表示となり、MS-DOSアプリケーションのみが動作し、DOSプロンプト上では[[ロングファイルネーム]]で表示されるVFATであっても8文字+拡張子3文字のショートファイルネーム形式のファイル名で表示され、MS-DOSとほぼ同じ状態になる。 ==バージョン== ===バージョン一覧=== {{See also|IBM PC DOS}} MS-DOSとPC DOSの主要なバージョンの一覧は以下の通り。 {| class="wikitable" !バージョン|| nowrap="" |出荷開始||[[IBM]]||[[マイクロソフト]]||備考 |- |1|| nowrap="" |[[1981年]]|| nowrap="" |PC DOS 1.0|| nowrap="" |(MS-DOS) 1.25||1981年 [[IBM PC]]用にPC DOSが登場。1982年 マイクロソフトがIBM以外に1.25以降の[[OEM]]供給を開始(名称は供給先により異なる)。 |- |2|| nowrap="" |[[1983年]]|| nowrap="" |PC DOS 2.0|| nowrap="" |MS-DOS 2.0||[[PC/XT]]用に登場、階層ディレクトリなど。マイクロソフト版の名称が「MS-DOS」に一本化された。日本では[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]などに日本語MS-DOSのOEM供給を開始。 |- |3|| nowrap="" |[[1984年]]|| nowrap="" |PC DOS 3.0|| nowrap="" |MS-DOS 3.0||[[PC/AT]]用に登場、FAT16など。広く普及し事実上の標準に。同時期に[[DR DOS]] 4も出荷。 |- |4|| nowrap="" |[[1988年]]|| nowrap="" |IBM DOS 4.0|| nowrap="" |MS-DOS 4.0||IBM版が名称変更。[[DOSシェル]]など。IBM版4.05より日本で[[DOS/V]](IBM DOS J4.05/V)も登場。 |- |5|| nowrap="" |[[1991年]]|| nowrap="" |IBM DOS 5.0|| nowrap="" |MS-DOS 5.0||メモリ管理機能強化。IBMとマイクロソフトのOS共同開発の最終版。マイクロソフト版は初めて単体の直接販売が開始される。日本ではマイクロソフト版DOS/V(MS-DOS 5.0/V)も登場し、各社[[PC/AT互換機]]に広く採用される。同時期にDR DOS 6.0 出荷。 |- |6|| nowrap="" |[[1993年]]|| nowrap="" |PC DOS 6.1<br>PC DOS 6.3|| nowrap="" |MS-DOS 6.0<br>MS-DOS 6.2||IBM版が名称再変更。PC DOSとMS-DOSは付属ユーティリティの違いが拡大。MS-DOSは単体販売の最終版。同時期に[[ノベル (企業)|Novell]] DOS(DR DOS) 7出荷。 |- | rowspan="2" |7|| nowrap="" |[[1995年]]|| nowrap="" |(なし)|| nowrap="" |MS-DOS 7.0<br>MS-DOS 7.1||Windows 95/98/98SEの内部バージョン。PC DOS 7 とは全く別物。7.1はWindows 95 OSR2 以降で、[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]に対応した。 |- | nowrap="" |1995年|| nowrap="" |PC DOS 7<br>PC DOS 2000|| nowrap="" |(なし)||IBM版のみ。スクリプト言語の[[REXX]]をサポート。MS-DOS 7 とは全く別物。 |- |8|| nowrap="" |[[2000年]]|| nowrap="" |(なし)|| nowrap="" |MS-DOS 8||Windows Meの内部バージョン。MS-DOSの最終版。 |} ===バージョン1=== [[ファイル:Compaq mddos ver1-12.jpg|サムネイル|[[コンパック]]OEMのMS-DOS 1.12]] [[ファイル:MS-DOS1.25 for PC-9801.png|サムネイル|[[PC-9801]]用MS-DOS 1.25における漢字入力機能]] CP/M程度の機能しか持たない、基本的なディスクオペレーティングシステム。ファイルシステムは後のバージョンで実装された階層構造を持っておらず、ディレクトリが利用できない。CP/Mとの大きな違いは、汎用化の為などで、[[入出力]]デバイスなど、機種依存する部分を分離するという方向性である。MSDOS.SYSとIO.SYSという2つのファイルがあることにあらわれている(前者が非依存なモジュール、後者が依存が大きいモジュールである。なお、機種や機能によって、IO.SYSが機能を抱えるか、BIOSに依存するかは異なっており、例えばディスクIOは多くの機種でBIOS依存だが、文字表示位置の制御などはIBM PCではBIOSだが、PC-98ではIO.SYSが行っている)。 このバージョンが使われていた頃は、8086またはその互換プロセッサ(8088等)を利用したパーソナルコンピュータ市場もそれほど大きくなかった為、出荷本数の大半はIBM PCにバンドルされた分だった<ref>{{Cite book|和書|author=菅木真治|title=MS-DOS読本|date=1983-11-15|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISBN=4871487210|pages=54-76|chapter=2. Dear, MS-DOS}}</ref>。 *バージョン1.0(1981年8月)<ref name="PCannounce">[http://www-03.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/pcpress.pdf IBM Press Release announcing the PC] August 12, 1981</ref>- IBM PC(初代)出荷と同時にリリース。64KBのメモリ空間のうち約12KB(そのうちシェルが5KB)を占有した。また、160KBの[[フロッピーディスク|5.25インチフロッピーディスク]] (1D) をサポートしていた。シアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOS 1.14と同等<ref name="ascii_198408">{{Cite journal|和書|author=編集部|year=1984|title=DOSの歴史|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=8|issue=8|pages=154-155|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。PC DOSのみ。 *バージョン1.1(1982年5月)<ref>[https://books.google.com/books?id=XDAEAAAAMBAJ&pg=PA3 IBM enhances Personal Computer with 2-sided drives], ''InfoWorld'', June 7, 1982</ref>- 360KB 5.25インチフロッピーディスク (2D) サポートの他、一部のバグフィクス。PC DOSのみ。 *バージョン1.25(1982年5月)<ref name="AdvancedDOS">Duncan, Ray (1988). ''Advanced MS-DOS Programming'', Microsoft Press. ISBN 1-55615-157-8.</ref>- マイクロソフトが、8086プロセッサを利用したパーソナルコンピュータ、更には[[PC/AT互換機|IBM PC互換機]]向けに、IBM以外のメーカーへのOEM提供を開始。日本では当時マイクロソフトの代理店であった[[アスキー (企業)|アスキー]]が日本語版MS-DOSを開発している最中で、それに先駆けて複数のメーカーが各自で日本語処理機能を実装して販売していた<ref name="nikkeielec_1983">「Unix風の機能を持ち込んだ日本語MS-DOS2.0の機能と内部構造」『日経エレクトロニクス』 1983年12月19日号、pp.165-190。</ref>。 ===バージョン2=== [[ファイル:Leading Edge Model D Boot Disk for MS-DOS 2.11.png|サムネイル|Leading Edge Model D用のMS-DOS 2.11起動ディスク]] IBM [[IBM PC XT|PC/XT]]の仕様に合わせ、[[ハードディスクドライブ|HDD]]や360KB 5.25インチフロッピーディスク (2D) をサポートしている。階層構造ディレクトリ、<code>CONFIG.SYS</code>によるデバイスドライバの追加機能、UNIXライクなパイプ等の機能が追加された。アセンブラの[[Microsoft Macro Assembler|MASM]]が付属していた。 マイクロソフト版はこのバージョンより名称が「MS-DOS」に一本化された。 *バージョン2.0(1983年3月)<ref name="Allen">Allen, Paul (2011). ''Idea Man'', Penguin, ISBN 978-1-59184-382-5.</ref> - PC/XT 出荷と同時にリリースされた。 *バージョン2.01(1983年5月) <ref name="ascii_198408" /> - 日本では「日本語MS-DOS 2.0」としてリリースされ、[[パソピア|パソピア16]]などに採用された<ref name="nikkeielec_1983" /><ref>{{Cite book|和書|author=菅木真治|title=MS-DOS読本|date=1983-11-15|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|ISBN=4871487210|pages=204-205|chapter=MS-DOS MACHINE}}</ref>。 *バージョン2.1(1983年10月)<ref>IBM. ''PC DOS 2.1 Announcement Letter''. 1983-11-01 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/9/897/ENUS283-389/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[3]</nowiki>]).</ref> - IBM [[IBM PCjr|PCjr]] 向け。 *バージョン2.11(1983年10月)<ref name="ascii_198408" /> - バージョン2.01とバージョン2.1を統合。アジアやヨーロッパなど多言語市場を意識し、文字セットや日付表示のローカライズをサポート。各社のx86パーソナルコンピュータ向けに広く利用された他<ref>Allan, Roy A. (2001). ''A History of the Personal Computer'', Allan Publishing, ISBN 0-9689108-0-7. [[iarchive:A_History_of_the_Personal_Computer|eBook on archive.org.]] [https://archive.org/download/A_History_of_the_Personal_Computer/eBookAB.pdf Appendix B: Versions of DOS]</ref>、日本ではアスキーの市場戦略の関係で、市販ソフトウェアに[[サブセット]]版の[[バンドル]]が許されていた<ref>服部雅幸「トピック・レポート:機能不足が表面化、老兵「MS-DOS2.11」」『日経パソコン』 1991年1月21日号、pp.178-182。</ref>。 *バージョン2.25(1985年10月)<ref name="AdvancedDOS" /> - 東アジア市場向けに2バイト言語に対応を図った「アジアバージョン」。{{要出典|範囲=理由不明だが、日本市場においてはバージョン2.11の名称で流通した(<code>MSDOS.SYS</code>内部に2.25の表記あり)。|date=2016年10月}} ===バージョン3=== [[ファイル:NEC MS-DOS 3.3C.jpg|サムネイル|[[PC-9800シリーズ]]用MS-DOS 3.3C]] 当初 IBM [[PC/AT]] 用に発売。主として[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]対応と大容量HD対応の為の16ビットFATが追加された<ref group="注">もっとも、管理できるセクタ数は65535個であったため、32MB以上のパーティションを切ることは出来なかった。</ref>。本来80286が標準の[[PC/AT]]向けだったが、互換性確保目的で80286のプロテクトモードを利用した新機軸は敢えて盛り込まれなかったためサードパーティー製の各種ユーティリティによって機能拡張するユーザが多かった。 ベンダーによる独自拡張などで方言が多くバージョン番号の体系も大きく乱れている<ref group="注">富士通 FMRシリーズ及びFM TOWNS用MS-DOS 3.1の後期バージョンでは米国版の3.2/3.3の機能の一部が取り入れられていた。PC-98版MS-DOS 3.1は同一のバージョン番号で複数の版が存在し、互換性の問題が生じたことでユーザーやソフトハウスを混乱させた。</ref><ref name="nikkeipc_1988" />。必要十分なスペックと安定性が評価され、またバージョン4以降の仕様変更の影響を避けるために一部ではかなりの長期間にわたって愛用されていた。 *バージョン3.0(1984年8月)<ref>{{Cite journal|author=Somerson, Paul|date=1984-11-13|title=AT the Party|url=https://books.google.com/books?id=-Ukz6hjZEA4C&pg=PA117#v=onepage&q&f=false|journal=PC Magazine|page=123|accessdate=2016-10-30}}</ref> - PC/ATの発売と同時にリリースされた。1.2MB 5.25インチフロッピーディスク (2HD) 及び32MBまでのHDをサポート。HDの論理ボリュームはひとつのみ。 *バージョン3.1(1984年11月)<ref>[https://books.google.com/books?id=Hy8EAAAAMBAJ&pg=PA11 IBM Rolls out New PC: Networking products, windowing software also announced], ''InfoWorld'', Sep 10, 1984</ref> - 3.0のバグフィックス版。別売の{{仮リンク|PC Network|en|IBM PC Network}}または{{仮リンク|MS-Net|en|MS-Net}}で[[トークンリング]]に対応したネットワーク機能が供給された。但し、性能が低く専ら[[ノベル (企業)|ノベル]]の[[NetWare]]などの[[ネットワークオペレーティングシステム|NOS]]が一般的に用いられた<ref>{{Cite journal|year=1987|title=IBM PC and PC-Compatible NOSs Compared|url=https://books.google.ca/books?id=im4qAAAAMAAJ&pg=PA5|journal=U-M Computing News|volume=2|issue=2|pages=4-11|publisher=UM Libraries.|accessdate=2016-10-30}}</ref>。日本ではマイクロソフトから日本語版が供給され、日本国内メーカーの多くのパソコンに採用された<ref name="nikkeipc_1988" />。また、NECのPC-98LT、Handy98、{{要出典|範囲=富士通のFM TOWNS|date=2020年1月}}にはROMで内蔵された。 *バージョン3.20(1986年1月)<ref name="DOS3.2">[https://books.google.com/books?id=MskyBf-SNfUC&pg=PA2 PC-DOS upgrade supports 3{{1/2}}-in. floppy disk drives], ''Computerworld'', March 24, 1986</ref> - 720KB 3.5インチフロッピーディスク (2DD) をサポート。フォーマットプログラムの機種依存ルーチンを<code>IO.SYS</code>に移したことで移植性を高めている。 *バージョン3.21 - 3.20のアジアバージョン。2バイトコードに対応し、日本ではAXなどに採用された<ref name="nikkeipc_1988" />。 **MS-DOS 3.3(PC-98版) - バージョン3.21を独自拡張<ref group="注">NECがマイクロソフトから日本語版MS-DOS 3.21の供給を受けてMS-DOS 3.3として販売していた。</ref><ref name="nikkeipc_1988">光田一徳「トピック・レポート:混乱するMS-DOS―こんなにあるバージョン」『日経パソコン』 1988年12月5日号、pp.183-188。</ref>。マイナーバージョンに3.3A~3.3D<ref group="注">PC-98版のバージョン3.3Dはバージョン5.0と同時発売。見かけ上のセクタサイズを1KB若しくは2KBとすることで最大128Mのパーティションを管理することが出来た。</ref>が存在。 *バージョン3.22(1989年10月)<ref>「米マイクロソフト、ROM化可能なOS―省電力・小型機向け発売。」『日経産業新聞』1989年10月5日、7面。</ref> - ROM化に対応。同年8月にデジタルリサーチがROM化可能なDR DOSを開発している<ref>「デジタル・リサーチ、ROM化可能なOS発売―「MS-DOS」とも互換性」『日経産業新聞』1989年8月29日、9面。</ref>。 *バージョン3.3([[IBM PS/2]]版)(1987年4月)<ref>IBM. ''Operating System/2 Standard Edition Announcement Letter''. 1987-04-02 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/9/897/ENUS287-099/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[19]</nowiki>]).</ref> - IBM主導で開発された。1.44MB 3.5インチディスク (2HD) をサポート。多言語対応の為、コードページが採用された。HDにおいて複数の論理ドライブを扱えるようになった。 *バージョン3.3(OEM版)(1987年8月)<ref>[https://books.google.com/books?id=1zsEAAAAMBAJ&pg=PA3 Microsoft to Release Own DOS 3.3], ''InfoWorld'', August 3, 1987</ref> - IBM版の同バージョンと同等。 ===バージョン4(1986年)=== バージョン3.20から派生し、8086上で限定的な[[マルチタスク#ノンプリエンプティブ・マルチタスク|擬似マルチタスク]]環境を実現したもの<ref>{{cite web|url=https://sites.google.com/site/pcdosretro/multitaskingdos4|title=Information about the little known multitasking MS-DOS 4.0|accessdate=2014-02-13|author=Vernon Brooks|work=PC DOS Retro}}</ref>。マイクロソフトが開発したが不十分であるとしてIBMには採用されず、{{仮リンク|アプリコットコンピューターズ|en|Apricot Computers}}にネットワークOSとしてOEMされた他、僅かの用途に留まり絶滅亜種になってしまった<ref>[https://books.google.com/books?id=lS8EAAAAMBAJ&pg=PA1 MS-DOS 4.0 in U.K.; U.S. Waiting for 5.0], ''InfoWorld'', March 24, 1986</ref><ref>Larry Osterman. [http://blogs.msdn.com/b/larryosterman/archive/2004/03/22/94209.aspx Did you know that OS/2 wasn't Microsoft's first non Unix multitasking operating system?] MSDN Blogs</ref>。非同期I/O対応やバックグラウンドタスク規約など資産の一部は [[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.x]] に流用され、また80286プロテクトモードを前提に並行開発されていたもの(当初バージョン5と呼ばれていた)はIBM主導で大幅に改訂され、世に出た時にはOS/2バージョン1.0になっていた{{要出典|date=2016年10月}}。 ===バージョン4=== IBM主導で開発されたバージョン<ref name=":3">{{Cite journal|year=1988|title=Industry News|url=https://books.google.co.jp/books?id=WSBVAAAAMAAJ&lpg=RA2-PA48&pg=RA2-PA48|journal=U-M Computing News|volume=3|issue=4|page=48|publisher=UM Libraries.|accessdate=2016-10-30}}</ref>。OS/2色が濃くなり、[[IFS]]やラージバッファ等の追加のみならず管理セクタ数が増やされた事に伴いHDは理論上最大2GBの領域を扱うことができるようになった(実際にはBIOSの制限があった)他、添付ユーティリティを利用すると最大512MBのパーティションまで作成可能になったが<ref>[https://books.google.com/books?id=ZzoEAAAAMBAJ&pg=PA1 Incompatibilities Hinder Useful DOS 4.0 Features], ''InfoWorld'', August 15, 1988</ref>、その反面余りに多くの変更がファイルシステムに加えられたため非互換性の問題も生じてしまった。 情報が全部公開されていなかったものの、2バイトコードによるユニバーサルランゲージ対応が内部的に完了したのも本バージョンからである<ref group="注">それまでの日本語版DOSはマイクロソフトが日本市場向けに改変したもので、世界共通の仕様ではなかった。また、バージョン3までの英語版DOSをDOS/V化するとファイル名の扱いなどで不具合が生じる場合がある</ref>{{要出典|date=2016年10月}}。従来のバンクメモリに代るEMSの標準サポートによって扱えるメモリ領域が1MB以上に拡張された<ref name="AdvancedDOS" />。 互換OSの[[DR DOS]]で好評を博していた「[[Graphical Environment Manager|GEM]]」に類似のグラフィカルユーザインタフェース環境、「[[MS-DOS Shell|DOSシェル]]」が添付された<ref name="AdvancedDOS" />。これはマウスオペレーションやグラフィカルなメニューによる直感的な操作が行えるもので、依然シングルタスクながらも複数のアプリケーションを重複起動して切替動作させることができ(いわゆるタスクスイッチャ)、GUIもキャラクタベースによる簡易なものとグラフィック画面とテキスト画面を組み合わせたもの(表示が美しく、ポインタの動作もスムーズになる)とを選択できた。DOSシェルのデザインはIBM [[Systems Application Architecture]] [[Common User Access]]に準拠していた<ref>{{Cite journal|author=Paul Somerson|date=1988-09-27|title=First Looks : OS Who? IBM DOS 4.0 Brags New Look, Long-Awaited Features|url=https://books.google.co.jp/books?id=UenCawr7OowC&lpg=PA33&hl=ja&pg=PA33|journal=PC Mag|page=33|accessdate=2016-10-30}}</ref>。 本バージョンには性急な複雑化に伴う非常に多くのバグが存在し、またOS自体が消費するメモリが過大だったため、メーカーによってDOS 3.30 を拡張した DOS 3.31 を採用するなどして4.0を採用しないところが有った<ref>[https://books.google.com/books?id=tjAEAAAAMBAJ&pg=PT14 Users Still Slow to Accept DOS 4.0], ''InfoWorld'', July 31, 1989</ref>。特に日本ではコンベンショナルメモリの空き容量が日本語処理アプリケーションの稼動に大きく影響を与えるため、大手メーカーであるNEC、富士通などが3.21系の拡張版のみを販売し続けた。 *MS-DOS 4.0(マイクロソフト版)(1988年7月)<ref name=":3" /> *IBM DOS 4.0(IBM版、PC DOSより改称)(1988年7月)<ref>IBM. ''PC DOS 4.0 Announcement Letter''. 1988-07-19 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/0/897/ENUS288-380/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[22]</nowiki>]).</ref> **IBM DOS J4.05/V(1990年11月)(日本のみ)<ref>「MIXハイライト:PC AT互換パソコンでDOS/Vが動いた」『日経バイト』 1991年1月号、pp.326-328。</ref> - いわゆる「DOS/V」の最初のバージョン。末尾の「V」は[[Video Graphics Array|VGA]]を意味し、漢字ROMがなくても日本語表示が出来るように拡張されたもので、専用ハードウェアを付加することなく日本語対応が可能になったため日本国内外のPC/AT互換機メーカーが日本市場に参入する契機になった<ref name="ascii_199808" />。 *MS-DOS 4.01(マイクロソフト版)(1988年12月)<ref>[https://books.google.com/books?id=ADoEAAAAMBAJ&pg=PT16 Microsoft Releases Updated DOS 4; Some OEMs Ship Versions This Month], ''InfoWorld'', November 28, 1988</ref> - バグフィクス。 ===バージョン5=== [[ファイル:Disquetes instalacion MSDOS 50.jpg|サムネイル|MS-DOS 5.0 セットアップディスク]] 再びマイクロソフト主導で開発された<ref>{{Cite journal|year=1991|title=MS-DOS 5.0: The Old Standard Improved|url=https://books.google.co.jp/books?id=SyJVAAAAMAAJ&lpg=PA329&hl=ja&pg=PA329|journal=U-M Computing News|volume=6|issue=2|page=329|publisher=UM Libraries.|accessdate=2016-10-30}}</ref>。バージョン4で付加された中途半端なユーティリティの多くが削除された一方、80386、[[Intel 486|80486]]等に備わる[[仮想86モード]]の活用と [[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]] との親和性を主眼にほぼ全面的に再コードされたため、[[パソコン通信]]等を介した約1年にわたる大規模なベータテストを経て市販開始された。IBMの製品へのバンドルに限定せず、巷に溢れるPC/AT互換機へのフル対応を初めからうたいインストーラ込みで発売された最初のMS-DOS(PC DOS)でもある。{{要出典|date=2016年10月}} メモリ消費は少ないものの大容量ドライブが扱えないバージョン3、その逆で大容量ドライブが使えるがメモリ消費が大きいバージョン4というジレンマを抱えていたが、限りあるメモリ領域の消費を抑える機能を追加することでそれまでの問題を払拭するに至った。このバージョンによりDOSはほぼ完成を見たが8086~80286とその互換CPU上の動作には制約が強まり、結局のところ巧妙なアップグレード戦略の下でハードウエアの買い替え需要が喚起された。{{要出典|date=2016年10月}} XMSによってDOS本体の一部をHMAに、デバイスドライバやアプリケーションの一部をUMBに待避させることが可能で、コンベンショナルメモリが大きく取れるようになった。またタスクスイッチ規約が明確に定義され、DOSシェルの機能拡張(Windows 3.0 のサブセット化)が図られた。各種LAN対応も進められ、コマンドにヘルプが付されるなど利便性も向上した。 [[テキストエディタ]]は、過去のバージョンに標準添付されていた[[ラインエディタ]]「<code>[[EDLIN]]</code>」に加えスクリーンエディタ「{{仮リンク|EDIT|en| MS-DOS Editor}}」が添付された<ref group="注">PC/AT互換機用の英語版のみ。PC-98版は<code>SEDIT</code>(バージョン3.3Dにも付属)、EPSON PC版は<code>MEDIT</code>、富士通版(FMRシリーズ、FM TOWNS用)は<code>EDIAS</code>と各社ばらばらのコマンド名・機能のエディタが添付された。</ref>。開発環境として、コマンドラインエディタに加え独自に拡張された構造化BASICコンパイラ[[QuickBASIC]]が標準添付されていた。 それまで未公開だったファンクションの多くがユーザに解放されたためカスタマイズやデバイスドライバ開発が更に容易になった{{要出典|date=2016年10月}}。日本ではマイクロソフトがDOS/VのOEM供給を開始し、PC/AT互換機をベースに独自の拡張を行っていたAX陣営や東芝 ([[ダイナブック_(東芝)|J-3100]])もこの頃よりDOS/Vへのシフトを進めるようになった<ref>「問:東芝のパソコンはDOS/Vパソコンなの?」『日経パソコン』 1994年1月31日号、pp.202-203。</ref>。また、世界のデファクトスタンダードであるPC/AT互換機のハードウェアでそのまま日本語版OSを使えるようになった為に日本国外のメーカーが積極的に日本市場へ参入し始め、NECの独擅場であった日本市場は大きく変貌することとなった<ref name="ascii_199808" />。 *MS-DOS 5.0(1991年6月)<ref name="Manes" /> *IBM DOS 5.0(1991年6月)<ref>IBM. ''IBM DOS Version 5.00 and Upgrade''. 1991-06-11 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/2/877/ENUSZP91-0432/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[25]</nowiki>]).</ref> - 他マイナーバージョンアップやローカライズ版多数 ===バージョン6=== [[ファイル:MS-DOS 6.2V floppy disks.jpg|thumb|right|MS-DOS 6.2/V セットアップディスク]] [[デフラグメンテーション|ディスク最適化]]や[[ディスク圧縮]]機能(後述)、[[コンピュータウイルス]]検出・除去など、CD-ROMアクセスに必要なMSCDEXの付属等付加機能の充実が主。MS-DOS単体としての最終版。 デジタルリサーチからMS-DOS互換の DR-DOS 6.0 が発売された<ref name="Caldera_1996_Suit">''Software Developer Caldera sues Microsoft for Antitrust practices alleges monopolistic acts shut its DR DOS operating system out of market'' Caldera News, 1996-07-24 ([http://www.maxframe.com/DR/Info/fullstory/ca_sues_ms.html <nowiki>[3]</nowiki>]).</ref>。大きな特徴は補助ユーティリティの大幅な増強である。その為、IBMおよびマイクロソフトでも基本仕様はほとんど変えずに補助ユーティリティを追加する事でバージョン6を発売することになった。IBMは6.1、それに続くマイクロソフトは6.2と、先に出た競合相手よりバージョン番号はそれぞれ0.1だけ大きい。 起動時に特定のキーを押すと<code>CONFIG.SYS</code>・<code>AUTOEXEC.BAT</code>の一部の行を実行したり、全てバイパスする機能があった。 マイクロソフト版は同時期に発売された [[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]] の普及を促すという販売戦略からDOSシェルを廃止したと見られた<ref group="注">別売のサプリメンタルディスクで配布された。PC-98版には従来どおり付属。</ref><ref name=":4" />。テキストエディタは日本語に対応して共通の<code>EDIT</code>となった(PC-98版は<code>SEDIT</code>が付属<ref group="注">[[メガソフト]]社の[[Mifes|MIFES]]のサブセット版</ref><ref name="yomigaeru2">藤山哲人「PC-9801開発現場の8つの秘密」、『月刊アスキー別冊 蘇るPC-9801伝説 永久保存版 第2弾』、アスキー、2007年4月9日初版、138ページ</ref>)。 *MS-DOS 6.0(1993年3月)<ref>[https://books.google.com/books?id=PTwEAAAAMBAJ&pg=PA8 MS-DOS 6 hype doesn't match analyst forecasts], ''InfoWorld'', March 29, 1993</ref> *PC DOS 6.1(IBM DOSより改称)(1993年6月)<ref>IBM. ''IBM PC DOS Version 6.1''. 1993-06-29 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/7/897/ENUS293-347/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[27]</nowiki>]).</ref> - IBMの独自ビルド。初期のバージョンにはディスク圧縮ユーティリティは添付されておらず、後のPC DOS 6.1 with Compressionでアドスター社の「SuperStor/DS」が添付された(日本語版PC DOS J6.1/V は最初から圧縮ユーティリティ添付)。 *MS-DOS 6.2(1993年11月)<ref>[https://books.google.com/books?id=8ToEAAAAMBAJ&pg=PT122 Notes From the Field], Robert X. Cringely, ''InfoWorld'', Nov 8, 1993, p. 122</ref> - ディスク圧縮ユーティリティ「DoubleSpace」のバグフィクス等<ref>[https://books.google.com/books?id=6joEAAAAMBAJ&pg=PA3 MS-DOS 6.2 lets users uncompress DoubleSpace volumes;protects data], ''InfoWorld'', November 1, 1993</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=E9TvMcu1mIwC&pg=PA37 MS-DOS 6.2 Addresses DoubleSpace Concerns, Adds Features], ''PC Magazine'', January 11, 1994</ref>。「DoubleSpace」は、ディスク容量を圧縮し、圧縮されたまま読み書きを可能にするもの。このユーティリティに用いられている技術の一部がスタック・エレクトロニクス社の特許を侵害しているものとして、訴訟を起こされた。 MS-DOS 6.0 のユーザはオンラインの無償アップデートパッケージを入手することで MS-DOS 6.2 にアップグレードできた。 **MS-DOS 6.2/V(1993年12月) - 日本ではマイクロソフトが自社ブランドで発売した唯一の日本語版MS-DOS単体パッケージ<ref>「マイクロソフト、MS-DOS最新版、自社ブランドで発売。」『日経産業新聞』 1993年12月7日、6面。</ref>。IBM DOS J5.0/VまたはMS-DOS 5.0/Vからのアップグレードのみ。5.0/Vと同様にOEMでも供給。 *MS-DOS 6.21(1994年2月)- マイクロソフトによるスタック・エレクトロニクス社の特許侵害が一部認められた為、「DoubleSpace」を除去したもの。<ref name="Stac2">[https://books.google.com/books?id=x_1p1FQCWXkC&pg=PA30 Microsoft settles for piece of the Stac], ''Computerworld'', June 27, 1994</ref><ref name="heavyweights">[https://books.google.com/books?id=jjgEAAAAMBAJ&pg=PA87 The DOS heavyweights go another round], ''InfoWorld'', August 29, 1994</ref> *PC DOS 6.3(1994年4月)<ref>IBM. ''IBM PC DOS Version 6.3''. 1994-04-27 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/3/897/ENUS294-263/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[28]</nowiki>]).</ref> - IBMの独自ビルド。MS-DOS 6.2 同様、オンラインの無償アップデートパッケージを入手してPC DOS 6.1 から 6.3 にアップグレードできた。 *MS-DOS 6.22(1994年6月) - スタック・エレクトロニクス社の特許を侵害しない形で作成されたものが「DriveSpace」として改めて添付された(但し、日本語版には関係ない)。なお、DoubleSpaceとDriveSpaceの圧縮機能には互換性がなく、そのままでは互いに圧縮されたパーティションにアクセスすることができない。<ref>[https://books.google.com/books?id=QZtKFFB8weQC&pg=PA10#v=onepage&q&f=false Judge rules against Microsoft], ''Computerworld'', June 13, 1994</ref><ref>[https://books.google.com/books?id=fzgEAAAAMBAJ&pg=PA5 MS-DOS recall order may disrupt supply line of PCs], ''InfoWorld'', June 20, 1994</ref> ===バージョン7(マイクロソフト版)=== Windows 95/98/98SE に含まれているバージョン。ファイルシステムでは[[長いファイル名]]がサポートされたのが最大の特徴。従来の<code>MSDOS.SYS</code>は名前こそ同じであるがプログラムではなく設定ファイルとなった。<code>IO.SYS</code>が実行する標準シェルはWindowsを起動するための<code>WIN.COM</code>であるが、MSDOS.SYSを編集することでWindows 95/98ではWindowsを起動せずにMS-DOSモード(<code>COMMAND.COM</code>)で起動することができた。Windows 95初期(OSR1)までのバージョンは7.0だが、Windows 95のOSR2以降では[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]にも対応しているバージョン7.1である<ref>{{Cite journal|date=1997-10-07|title=PCTech User-to-User|url=https://books.google.co.jp/books?id=oOfsp5YznnkC&lpg=PA319&ots=s5QKRN1hO7&hl=ja&pg=PA319|journal=PC Mag|volume=16|issue=17|page=319|publisher=Ziff Davis, Inc.|accessdate=2016-10-31}}</ref>。 ===バージョン7(IBM版)=== 1995年リリース。IBM版のみ。開発環境として「[[REXX]]」を標準添付。ディスク圧縮ユーティリティは「SuperStor/DS」から「Stacker4.0」に変更された<ref name="disappearing">[https://books.google.com/books?id=oToEAAAAMBAJ&pg=PA68 PC DOS 7 beats its disappearing competitors], ''InfoWorld'', April 10, 1995</ref>。MS-DOS 7(マイクロソフト版)とは異なりGUIとの融合はされなかったが、当時[[インターネット]]の普及が進んでいた中で[[Palm Top PC 110]]の人気を受けてPC DOS用[[ウェブブラウザ]]「[[WebBoy]]」が開発された<ref name="pcwatch19970317">{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970317/webboy.htm|title=日本IBM、旧型機をよみがえらせるDOS用のWebブラウザ「WebBoy」を発表|accessdate=2012-08-23|date=1997-03-17|publisher=PC Watch}}</ref>。 * PC DOS 7(1995年4月)<ref>IBM. ''IBM PC DOS Version 7''. 1995-02-28 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/4/897/ENUS295-074/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[29]</nowiki>]).</ref> * PC DOS 2000(1998年5月)<ref>IBM. ''IBM PC DOS 2000 Can Ease Your Transition to the Year 2000''. 1998-05-26 ([http://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/9/897/ENUS298-169/index.html&lang=en&request_locale=en <nowiki>[31]</nowiki>]).</ref> - PC DOS 7 をベースに、[[ユーロ記号]]の表示や西暦[[2000年問題]]に対応したもの。VERコマンドではPC DOS Version 7.0 Revision 1と表示される。日本語版は製品名から「/V」が外れたが、「DOS/V」部分を含んでいる。これがPC DOS(IBM DOS)およびMS-DOS全体の事実上の最終バージョンとなる(互換OSは除く)。2001年にはサポートが終了した<ref name=":2" />。 === バージョン8(マイクロソフト版) === [[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]に含まれているバージョン。<code>IO.SYS</code>に<code>HIMEM.SYS</code>および<code>SMARTDRV</code>(ディスクキャッシュ)の機能を統合した最終版であり、MS-DOSモードでの起動も廃止されWindowsの[[ブートローダ]]の機能のみとなった<ref>{{Cite web|url=http://www.microsoft.com/whdc/archive/fast-boot.mspx|title=Improving "Cold Boot" Time for System Manufacturers|accessdate=2016-10-30|date=2001-12-04|publisher=Microsoft|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090125012228/http://www.microsoft.com/whdc/archive/fast-boot.mspx|archivedate=2009-01-25|deadlinkdate=2016-10-30}}</ref>。Windows Meや[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以降で起動ディスクを作成するとこのMS-DOSが書き込まれる。 ==MS-DOSとの互換性を持つオペレーティングシステム== {{出典の明記|date=2016年10月|section=1}} ===MS-DOSとバイナリ互換性を持つオペレーティングシステム=== *[[DR-DOS]] *[[PC-Engine (オペレーティングシステム)|PC-Engine]]([[PC-8800シリーズ|PC-88VA]]) *[[FM TOWNS#TownsOS|TownsOS]](FM TOWNS) *[[FreeDOS]] *[[PTS-DOS|PTS-DOS(試用版)]] *[[RxDOS]] またPC-9800シリーズ全盛期には、ゲームソフトの組み込み用として下位互換(INT21系のサブセットのみ互換)の「MEG-DOS」などがあった。[[アリスソフト]]の「ALICE-DOS」は、もともとゲームソフト本体はMS-DOSをインストールした[[ハードディスクドライブ]]上で動かすことを前提としあくまでもフロッピー単体でも起動するようサポート用に作られたものであったため、バッチファイルを動かす機能も有していた。 なお、互換性はあるがOSではないものに[[DOSBox]]がある。 ===MS-DOSの影響を受けつつもバイナリ互換性の無いオペレーティングシステム=== *[[Human68k]]([[ハドソン]]、[[シャープ]]) - [[X68000]]、ファイルシステムにFAT12/16のサブセットを採用、<code>COMMAND.COM</code>に酷似したコマンドラインインタプリタや、システムコールのファンクションにもINT21Hを真似た設計が見られる等、影響を(主に開発工期の短縮などの側面から)強く受け模倣していることは明らかではあるが、その他は全く別個の実装であり、CPU自体にも互換性は無い。 *[[Carry日本語DOS]]([[キャリーラボ]]) - [[PC-8800シリーズ]]/[[X1シリーズ|X1]]。通称CDOS-II。ファイルシステムのみFAT12に対応したOSで、CP/Mエミュレータが存在した。Z80を前提としたCP/Mのバリアント(変種)であり、MS-DOSの移植ではない。当然MS-DOS用のバイナリも動作しない。パソコン通信ソフトの一部としても使用され、PC-8800シリーズ版はJET-TERMに、X1シリーズ版はJETターボターミナル([[エス・ピー・エス|SPS]]発売)に付属する。PC-8800シリーズ版はOSのみのフリー版がある。前身であるCarryDOS(CDOS)とはファイルシステム、システムコールともに互換性はない。 *[[MSX-DOS]] (マイクロソフト、アスキー)<ref>{{Cite journal|和書|year=1988|title=テクニカルレポート 日本語MSX-DOS2大研究|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=12|issue=10|pages=305-308|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=03865428}}</ref> - [[MSX]]、FAT12のサブセットに対応し、MS-DOSの<code>COMMAND.COM</code>に酷似したコマンドインタプリタがある、CP/M互換OS。CDOS-IIと同様にCP/Mのバリアントであり、MS-DOS用のバイナリは動作しない。表計算アプリケーション[[Multiplan]]の一部として、PC-8800シリーズ、X1シリーズ、[[MZ-2500]]にもサブセット版がある。 *[[IDOS]]([[ソフトバンク]]) - PC-8800シリーズ、[[PC-8000シリーズ]]、ファイルシステムのみFAT12に対応した、CP/M互換OS。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} ==関連項目== {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} *[[マイクロソフトの歴史]] *[[Windows 9x系]] *[[仮想DOSマシン]] *[[Win32コンソール]] ==外部リンク== {{Commons category|MS-DOS}} {{Wikibooks|MS-DOS/PC DOS入門|MS-DOS/PC DOSの操作方法}} *[https://hp.vector.co.jp/authors/VA000199/history.html DOSの歴史セミナ(Altair☆)] *[https://www.sanosemi.com/history_of_PC_refURL.htm パソコン産業およびパソコン技術の歴史関連URL] *{{Wayback|url=http://www.os.rim.or.jp/~ppp/msdos/SD/ |title=DOSの系譜を辿る|date=20071209114924}}(「Software Design」1998年6月号に掲載されたものを、編集部の許可のもと転載) *[ftp://ftp.boulder.ibm.com/ps/products/dos/fixes/dos7.0/ PC DOS 7 の修正入手先] *[https://www-01.ibm.com/common/ssi/ShowDoc.wss?docURL=/common/ssi/rep_ca/3/760/PSP98003/index.html&lang=ja&request_locale=ja 日本IBM・PC DOS 2000] *{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/2994/virtualpc/pcdos2kj/pcdos2kj.html |title=PC DOS 2000 のインストール画面 |date=20090105014350}} {{Windows}} {{オペレーティングシステム}} {{Authority control}} [[Category:MS-DOS・Windows 3.x・9x系|*]] [[Category:MS-DOS]] [[Category:IBMのオペレーティングシステム]] [[Category:パソコンの歴史]] [[Category:1981年のソフトウェア]] [[Category:フリーソフトウェアOS]] [[Category:マイクロソフトのフリーソフト]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MS-DOS
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インテル
インテル(英: Intel Corporation)は、世界最大手の中央処理装置(CPU、MPU)および半導体素子のメーカー。 本社をカリフォルニア州サンタ・クララに置いている。社名の由来はIntegrated Electronics(集積されたエレクトロニクス)。 主にマイクロプロセッサ、チップセット、フラッシュメモリなどの設計開発・製造・販売を手掛けている。主な製品にIA-32(Pentiumシリーズなど。8086シリーズの流れをくむアーキテクチャ)、IA-64(Itaniumなど)、Intel 64などのCPU(マイクロプロセッサ)があり、パーソナルコンピュータではPC/AT互換機やAppleのMac(ただし、Appleは徐々に自社開発のプロセッサに切り替えると発表している)に使われているほか、ワークステーションやサーバ、データセンター、モバイルデバイス向けの製品も扱っている。 1990年代末からは多方面のコンピュータ関連ハードウェア事業に展開している。アクセラレーター系プロセッサに関しては、主にCPU統合型GPU(iGPU)およびXeon Phiと呼ばれるMIC(Many Integrated Core)を手掛けている。1992年以降から現在に至るまで、世界第1位の半導体メーカーとして君臨し続け、特に世界のPC向けCPU市場2020年現在60%近いシェアを維持している。 海外事務所は50ヵ国以上、製造・研究拠点は8ヵ国17拠点にある。特にイスラエルの拠点は大きく、2007年現在で7000人の従業員を擁している。 カリフォルニア州サンノゼ市にある半導体製造工場には、インテルの歴史を紹介するインテル博物館が併設されている。 日本法人(インテル株式会社)は、東京都千代田区(東京本社)に本社を置く。1971年に渋谷区に設置された米国法人の日本支社が前身である。その後、1976年4月28日に世田谷区にインテルジャパン株式会社が設立され、1997年2月1日に現在の商号に変更した。1981年に設立されて本社機能を持っていたつくばオフィスは2016年12月に閉鎖し、業務は1990年から二本社制の片翼を担っていた東京に移管された。 CPUに関するインテル独自の製品カテゴリを以下に示す。 LPIA(Low Power on Intel Architecture)は、IA-32命令セットアーキテクチャに基づく低消費電力なCPU製品のカテゴリーである。 CULV(Consumer ultra low voltage)とはカテゴリー名称であり、厳密には超低電圧にて動作するプロセッサ群を指す。これらはAtomファミリーより性能面で上位に位置しているが、消費電力では10 W以下であり、ネットブック向けと従来型ノートパソコン向けの間を埋めるCPUとして、Core 2 Duo、Core 2 Solo、Celeron M、Pentiumといった従来ファミリーのカテゴリはそのままに、それらの中で特に消費電力の少ない製品をまとめたものである。 そのカテゴリー呼称は技術的な区切りではなく、マーケティング用途での区分であり、Atomよりも高い単価によって、ASP(平均販売価格)の向上が期待されている。 これらのプロセッサ群は、機能をある程度限定してCPUにそれほどの処理性能を求めないネットブックに対し、従来のノートパソコンの延長線上にある超薄型ノートパソコン用のCPUとして、ある程度の演算性能を持ちながら、超低電圧動作によって低消費電力化が行えられるCPUのカテゴリー名称である。 1990年代後半まではIntel 740などビデオカードを展開していたが、その後はいわゆるオンボードグラフィックのノースブリッジ統合型グラフィックス製品のみとなり、性能も外付けビデオカードには到底及ばないローエンド帯が中心だった。2009年、新たに開発したLarrabeeで再びdGPU市場に参入する計画を立てるも、満足するパフォーマンスが得られなかったとしてGPUとしての投入は中止されてしまった。時代の移り変わりでGPUの統合先はノースブリッジからCPUに代わった(iCPU)が、引き続き性能はローエンドレベルであった。近年はGPU専用eDRAMを搭載し性能を高めたIntel Iris Pro Graphicsを発売するなどブランド力を高めイメージの払拭を図っている。2018年、元AMDでグラフィックス部門のリーダーだったラジャ・コドゥリをヘッドハンティングしてアーキテクチャを大幅に刷新したIntel Xeで、2020年を目途に二度目のdGPU市場再参入を発表している。 また、2022年9月8日にIntel Arcの詳細スペックを発表し、2022年9月にASRockからIntel Arc A380 Challenger ITXが発売され、上位モデルも今後発売されるとされている。 2015年のアルテラ買収に伴い、同社のFPGA、CPLDが製品群に加わった。 4inch×4inchのミニPC。キット、ボードでも提供される。 NOR型フラッシュメモリを得意とするが、前述の通り、事業をSTマイクロエレクトロニクス、フランシスコ・パートナーズとの合弁会社「Numonyx」に移管した。NAND型フラッシュメモリは、マイクロン・テクノロジーとの合弁会社「IM フラッシュ・テクノロジーズ」にて生産され、Intel・Micron双方のブランドで販売される。 容量はいずれも80GBまたは160GBである。 夜間の屋外で光点を立体配置する大規模な演出用のドローンと制御システムのパッケージを販売している。 放送局向けとして、自社開発のAIを利用した中継映像の演出用ソリューションを販売している。 大会主催者向けには、AIによる関係者の移動経路の最適化など運営用ソリューションを販売している。 ※現在はすべて撤退。 1990年代の初めにはニセ486やニセPentiumが大量にアジアの闇CPU市場に出現してその対策に苦慮した。これらはリマーク品といわれ、低性能品のセラミックパッケージ表面の型番印刷を巧みに削ぎ落として高性能品の型番を印字し直したものだった。最初に出された対策はホログラムを貼り付ける方法だったが、当時のCPUパッケージには貼りつけられるだけの余分な空間が全くなかった。その後、新たなPentiumファミリーであるPentium II・Pentium III・Celeronでは、二次キャッシュの実装問題とリマーク品問題とを一挙に解決する方策として、CPUパッケージにS.E.C.C.(Single Edge Contact Cartridge)やS.E.P.P.(Single Edge Processor Package)が採用された。この結果、類似するリマーク品は流通しなくなった。 CPUを製造する半導体メーカーは、世界初のCPUである4004の時代から、宿命的に性能向上の手法としてクロック周波数の高速化が求められ、インテルは常に(時には求められる以上に)高速化を推し進めてきた。数百kHzの初期世代からやがてMHz、GHzで数えるまでになった。他社とのクロック競争を常にリードしてきたインテルは、2000年前後にはクロックの物理的な限界に行き着いている自覚を持った。 現在の半導体プロセスの主流であるCMOSテクノロジーでは、クロックを高速化すると、それに完全に比例して消費電力が増大する。さらに、プロセスルールの微細化が面積当り消費電力に2乗で効いてくるので、「光速度でも1 ns(=1 GHzでの1クロック)の時間内には30 cmしか情報を伝播できない」という物理法則の制約以前に、まずCPUダイが自らの発熱で溶ける可能性が目前の危機となった。 この問題の究極の解答として、シングルコア(単一のプロセッサコア)でのこれ以上の無理な高速化を避けて、マルチコア(複数のプロセッサコア)による並列的な動作によって性能向上を図る道を採った。デュアルコアやクアッドコアの新世代CPUによって、新たなコア数競争の時代に突入した。 インテルは、4004から80286まではセカンドソースとしてAMDやNECにもセカンドソース製造契約を与え、普及とリスク分散を優先したが、普及した80386からはセカンドソース製造契約を停止した。また、インテルに出資していたIBMはi486までは製造権を持ち独自のカスタム版を出荷していた。 セカンドソース製造契約の提出を停止した後のインテルは、CPUの半導体製造ライン(Fab)を完全な自社製造で貫き、外部契約の半導体製造会社(ファウンドリ)には一切出していない。これは技術情報漏洩(ろうえい)防止のためだけでなく、そもそも、最高密度の製造プロセスを使ってチップ製造を行うメーカーは自社とその競合メーカーだけに限られるということが最大の理由である。すなわち、最先端を行くインテルが求めているプロセスでの製造ラインを維持することは、技術力のみならず製造販売量も世界トップであるインテル以外には不可能であり、外部の委託製造会社では最先端製造ラインの開発・建設・維持コストを負担するだけの業績が見込めないからである。半導体製造装置メーカーも常にインテルと共に新プロセス対応の新世代製造装置を開発しており、2008年12月15日から17日にかけて開催された「2008 International Electron Device Meeting」(IEDM 2008)で、2009年後半からラスト・ゲート方式HKMG(High-k、Metal Gate:高誘電率ゲート絶縁膜とメタルゲート電極)による32 nmプロセスの量産を開始する予定と発表した。逆に、CPU以外のチップは、CPUがより新しい製造技術に移ってコストの償却が完了した旧世代の製造ラインを再利用して製造している。そのため、インテル製のチップセットやオンボードグラフィックスチップなどは、同時期のCPUに比して数世代前の仕様にて製造されている。 社是はないが、"Six Values"と呼ばれるものがあり、インテル社内の基本ルールとされている。1974年の"Eleven Values"が起源である。そのうち、QualityとCustomer Orientationは日本企業の製造管理に学んだものである。 インテルはその豊富な資金力を背景にインテル キャピタル(Intel Capital)の名称でベンチャーキャピタル活動も行っており、日本企業に限っても過去に以下のような企業に出資している。 ブランド調査会社インターブランドのBusinessWeek誌と共同で行った"The Best Global Brand Ranking 2006"の調査では、インテルのブランド価値は約300億ドルに相当し、コカ・コーラ、マイクロソフト、IBM、ゼネラル・エレクトリックに次いで世界で5番目となっている。 1990年代後半から2000年頃、PCのハードウェアの中枢であるCPUの市場をほぼ独占したインテルと、ソフトウェアの中枢であるオペレーティングシステムの市場をほぼ独占したマイクロソフト(のWindows)、という状況を指す、「Wintel」(Windows + Intel)という造語があった。 今日ではあまり用いられないが、その背景としては、マイクロソフトがインテルに対してAMD64を採用するよう要請した、という話が語られるほどのIA-64等による混乱のダメージや、インテル以外のCPU開発に投資したり、逆にインテルがLinux向けのベンチャーキャピタルに投資するなど、両者が比較的健全な関係になったことが挙げられる。また、200x年代、いわゆるゼロ年代には、インテルがまだ公表していないCPUをAppleが採用したり、インテルがAppleのため密かに1年もかけてカスタムCPUを設計製造するなど、AppleとインテルはかつてのWintelよりも親密な関係などと言われることもあったが、それより何よりも、スマートフォンの普及などに代表される「パーソナルコンピュータの斜陽化」によって、PCにおける支配力の意味が薄れたことが大きい。Appleも2010年代には、iPhoneなどで使っているARMへの関与のほうが大きくなっている。 現在の多くのコンピュータに使用されているPCIバス規格において、インテルは機器の製造元を表すベンダーIDの値にヒット作である8086にちなんだ 0x8086 を使用および呼称している。 米インテルは1998年6月より米連邦取引委員会(FTC)の独占禁止法違反に関する審理を受け、1999年3月に和解している。日本法人は2005年3月8日に独占禁止法違反で日本の公正取引委員会より排除勧告を受けている。ヨーロッパでは、インテルが欧州で不当な販売方法を行っているとして欧州委員会が2001年から調査してきた。一時静かだった後、あらためて欧州委員会が2004年に調査を開始した。この結果、2007年7月27日に欧州委員会は米インテルに対して欧州連合競争法違反の疑いがあると告知した。日本と欧州連合の勧告では、CPUの販売で競合他社の製品を使わないように不当に働きかけたと指摘された。この取引に応じなかったシャープとインテルとは、一時期ほぼ断絶状態にあった。 これに対して、インテルの法務責任者は、MPU市場は正常に機能しており、インテルの行動は適法だと確信していると発表した。一方でアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)は、消費者やPCメーカーのためのMPU市場開放が進むだろうと今回の告知を歓迎した。 2008年には、ニューヨーク州が米インテルに対して独占禁止法違反の疑いがあるとして、文章や情報を求める召喚状を送付した。同社がライバルのAMDをCPU市場から閉め出すことでAMDならびに消費者・コンピューターメーカーに損害を与え、独占禁止法に違反していないかを検討するのが目的だとされる。インテルは現在PC向けプロセッサ(MPU)市場の8割近くを占有しており、こうした地位を乱用していないかが争点とされている。政府機関による同様のインテル調査は2005年3月の日本を皮切りに、韓国、欧州の3拠点で立て続けに行われており、米国でのケースは4例目となる。 2009年5月13日、欧州委員会はインテルに対して10億6000万ユーロの制裁金を命じた。欧州委員会の発表では、インテルは主要なコンピュータメーカーに対して働きかけ、インテルからCPUを購入することの見返りにメーカーに対してリベートを支払ったとされる。また、各小売業者に対して金銭を渡し、インテル製のCPUを搭載したコンピュータのみ販売するよう取り計らったことが指摘されている。更に、インテルはコンピュータメーカーに対して、AMD製のCPUを搭載した製品の販売差し止めや、発売延期を求め、それら製品の販売ルートに制限を加えたとされる。インテルは欧州委員会の決定内容については争うものの、同委員会の制裁措置を受け入れる意向を発表した。 2009年11月4日、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ司法長官が、インテルを独占禁止法(反トラスト法)違反の疑いで告訴した。当時、一部のコンピューターメーカーに巨額のリベートを提供する見返りとして、AMD製のCPUを使わないよう圧力をかけていたという。更に、ヒューレット・パッカード、IBM、デルなどの主要コンピューターメーカーに対しては、AMD製のCPUを利用したパソコンやサーバなどを販売した場合は報復措置を取ると脅していたとされ、例えば当時のヒューレット・パッカードに対しては、一つでもAMD製品を利用した場合は開発中のインテル製品の一部を「引き上げる」と圧力をかけたとしている。 訴訟では、不当行為の是正、州政府機関および顧客への損害賠償、追徴金などを求めている。 2009年11月にインテルとAMDは和解を発表した。和解によって両社は独占禁止法やライセンスなどのすべての訴えを取り下げ、5年間の特許クロスライセンスを締結し、インテルはAMDに12億5000万ドルを支払い、不当な契約を行わないことで合意した。ただし、両社間だけの問題でない独占禁止法違反に関する調査は米連邦取引委員会や欧州委員会などの各国機関で継続される。 2009年12月16日、米連邦取引委員会(FTC)はインテルを提訴した。同日、インテルは反論の声明を発表した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "インテル(英: Intel Corporation)は、世界最大手の中央処理装置(CPU、MPU)および半導体素子のメーカー。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本社をカリフォルニア州サンタ・クララに置いている。社名の由来はIntegrated Electronics(集積されたエレクトロニクス)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主にマイクロプロセッサ、チップセット、フラッシュメモリなどの設計開発・製造・販売を手掛けている。主な製品にIA-32(Pentiumシリーズなど。8086シリーズの流れをくむアーキテクチャ)、IA-64(Itaniumなど)、Intel 64などのCPU(マイクロプロセッサ)があり、パーソナルコンピュータではPC/AT互換機やAppleのMac(ただし、Appleは徐々に自社開発のプロセッサに切り替えると発表している)に使われているほか、ワークステーションやサーバ、データセンター、モバイルデバイス向けの製品も扱っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1990年代末からは多方面のコンピュータ関連ハードウェア事業に展開している。アクセラレーター系プロセッサに関しては、主にCPU統合型GPU(iGPU)およびXeon Phiと呼ばれるMIC(Many Integrated Core)を手掛けている。1992年以降から現在に至るまで、世界第1位の半導体メーカーとして君臨し続け、特に世界のPC向けCPU市場2020年現在60%近いシェアを維持している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "海外事務所は50ヵ国以上、製造・研究拠点は8ヵ国17拠点にある。特にイスラエルの拠点は大きく、2007年現在で7000人の従業員を擁している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カリフォルニア州サンノゼ市にある半導体製造工場には、インテルの歴史を紹介するインテル博物館が併設されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本法人(インテル株式会社)は、東京都千代田区(東京本社)に本社を置く。1971年に渋谷区に設置された米国法人の日本支社が前身である。その後、1976年4月28日に世田谷区にインテルジャパン株式会社が設立され、1997年2月1日に現在の商号に変更した。1981年に設立されて本社機能を持っていたつくばオフィスは2016年12月に閉鎖し、業務は1990年から二本社制の片翼を担っていた東京に移管された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "CPUに関するインテル独自の製品カテゴリを以下に示す。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "LPIA(Low Power on Intel Architecture)は、IA-32命令セットアーキテクチャに基づく低消費電力なCPU製品のカテゴリーである。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "CULV(Consumer ultra low voltage)とはカテゴリー名称であり、厳密には超低電圧にて動作するプロセッサ群を指す。これらはAtomファミリーより性能面で上位に位置しているが、消費電力では10 W以下であり、ネットブック向けと従来型ノートパソコン向けの間を埋めるCPUとして、Core 2 Duo、Core 2 Solo、Celeron M、Pentiumといった従来ファミリーのカテゴリはそのままに、それらの中で特に消費電力の少ない製品をまとめたものである。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そのカテゴリー呼称は技術的な区切りではなく、マーケティング用途での区分であり、Atomよりも高い単価によって、ASP(平均販売価格)の向上が期待されている。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これらのプロセッサ群は、機能をある程度限定してCPUにそれほどの処理性能を求めないネットブックに対し、従来のノートパソコンの延長線上にある超薄型ノートパソコン用のCPUとして、ある程度の演算性能を持ちながら、超低電圧動作によって低消費電力化が行えられるCPUのカテゴリー名称である。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年代後半まではIntel 740などビデオカードを展開していたが、その後はいわゆるオンボードグラフィックのノースブリッジ統合型グラフィックス製品のみとなり、性能も外付けビデオカードには到底及ばないローエンド帯が中心だった。2009年、新たに開発したLarrabeeで再びdGPU市場に参入する計画を立てるも、満足するパフォーマンスが得られなかったとしてGPUとしての投入は中止されてしまった。時代の移り変わりでGPUの統合先はノースブリッジからCPUに代わった(iCPU)が、引き続き性能はローエンドレベルであった。近年はGPU専用eDRAMを搭載し性能を高めたIntel Iris Pro Graphicsを発売するなどブランド力を高めイメージの払拭を図っている。2018年、元AMDでグラフィックス部門のリーダーだったラジャ・コドゥリをヘッドハンティングしてアーキテクチャを大幅に刷新したIntel Xeで、2020年を目途に二度目のdGPU市場再参入を発表している。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、2022年9月8日にIntel Arcの詳細スペックを発表し、2022年9月にASRockからIntel Arc A380 Challenger ITXが発売され、上位モデルも今後発売されるとされている。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2015年のアルテラ買収に伴い、同社のFPGA、CPLDが製品群に加わった。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "4inch×4inchのミニPC。キット、ボードでも提供される。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "NOR型フラッシュメモリを得意とするが、前述の通り、事業をSTマイクロエレクトロニクス、フランシスコ・パートナーズとの合弁会社「Numonyx」に移管した。NAND型フラッシュメモリは、マイクロン・テクノロジーとの合弁会社「IM フラッシュ・テクノロジーズ」にて生産され、Intel・Micron双方のブランドで販売される。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "容量はいずれも80GBまたは160GBである。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "夜間の屋外で光点を立体配置する大規模な演出用のドローンと制御システムのパッケージを販売している。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "放送局向けとして、自社開発のAIを利用した中継映像の演出用ソリューションを販売している。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大会主催者向けには、AIによる関係者の移動経路の最適化など運営用ソリューションを販売している。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "※現在はすべて撤退。", "title": "主な製品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1990年代の初めにはニセ486やニセPentiumが大量にアジアの闇CPU市場に出現してその対策に苦慮した。これらはリマーク品といわれ、低性能品のセラミックパッケージ表面の型番印刷を巧みに削ぎ落として高性能品の型番を印字し直したものだった。最初に出された対策はホログラムを貼り付ける方法だったが、当時のCPUパッケージには貼りつけられるだけの余分な空間が全くなかった。その後、新たなPentiumファミリーであるPentium II・Pentium III・Celeronでは、二次キャッシュの実装問題とリマーク品問題とを一挙に解決する方策として、CPUパッケージにS.E.C.C.(Single Edge Contact Cartridge)やS.E.P.P.(Single Edge Processor Package)が採用された。この結果、類似するリマーク品は流通しなくなった。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "CPUを製造する半導体メーカーは、世界初のCPUである4004の時代から、宿命的に性能向上の手法としてクロック周波数の高速化が求められ、インテルは常に(時には求められる以上に)高速化を推し進めてきた。数百kHzの初期世代からやがてMHz、GHzで数えるまでになった。他社とのクロック競争を常にリードしてきたインテルは、2000年前後にはクロックの物理的な限界に行き着いている自覚を持った。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在の半導体プロセスの主流であるCMOSテクノロジーでは、クロックを高速化すると、それに完全に比例して消費電力が増大する。さらに、プロセスルールの微細化が面積当り消費電力に2乗で効いてくるので、「光速度でも1 ns(=1 GHzでの1クロック)の時間内には30 cmしか情報を伝播できない」という物理法則の制約以前に、まずCPUダイが自らの発熱で溶ける可能性が目前の危機となった。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この問題の究極の解答として、シングルコア(単一のプロセッサコア)でのこれ以上の無理な高速化を避けて、マルチコア(複数のプロセッサコア)による並列的な動作によって性能向上を図る道を採った。デュアルコアやクアッドコアの新世代CPUによって、新たなコア数競争の時代に突入した。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "インテルは、4004から80286まではセカンドソースとしてAMDやNECにもセカンドソース製造契約を与え、普及とリスク分散を優先したが、普及した80386からはセカンドソース製造契約を停止した。また、インテルに出資していたIBMはi486までは製造権を持ち独自のカスタム版を出荷していた。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "セカンドソース製造契約の提出を停止した後のインテルは、CPUの半導体製造ライン(Fab)を完全な自社製造で貫き、外部契約の半導体製造会社(ファウンドリ)には一切出していない。これは技術情報漏洩(ろうえい)防止のためだけでなく、そもそも、最高密度の製造プロセスを使ってチップ製造を行うメーカーは自社とその競合メーカーだけに限られるということが最大の理由である。すなわち、最先端を行くインテルが求めているプロセスでの製造ラインを維持することは、技術力のみならず製造販売量も世界トップであるインテル以外には不可能であり、外部の委託製造会社では最先端製造ラインの開発・建設・維持コストを負担するだけの業績が見込めないからである。半導体製造装置メーカーも常にインテルと共に新プロセス対応の新世代製造装置を開発しており、2008年12月15日から17日にかけて開催された「2008 International Electron Device Meeting」(IEDM 2008)で、2009年後半からラスト・ゲート方式HKMG(High-k、Metal Gate:高誘電率ゲート絶縁膜とメタルゲート電極)による32 nmプロセスの量産を開始する予定と発表した。逆に、CPU以外のチップは、CPUがより新しい製造技術に移ってコストの償却が完了した旧世代の製造ラインを再利用して製造している。そのため、インテル製のチップセットやオンボードグラフィックスチップなどは、同時期のCPUに比して数世代前の仕様にて製造されている。", "title": "製品開発と製造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "社是はないが、\"Six Values\"と呼ばれるものがあり、インテル社内の基本ルールとされている。1974年の\"Eleven Values\"が起源である。そのうち、QualityとCustomer Orientationは日本企業の製造管理に学んだものである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "インテルはその豊富な資金力を背景にインテル キャピタル(Intel Capital)の名称でベンチャーキャピタル活動も行っており、日本企業に限っても過去に以下のような企業に出資している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ブランド調査会社インターブランドのBusinessWeek誌と共同で行った\"The Best Global Brand Ranking 2006\"の調査では、インテルのブランド価値は約300億ドルに相当し、コカ・コーラ、マイクロソフト、IBM、ゼネラル・エレクトリックに次いで世界で5番目となっている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1990年代後半から2000年頃、PCのハードウェアの中枢であるCPUの市場をほぼ独占したインテルと、ソフトウェアの中枢であるオペレーティングシステムの市場をほぼ独占したマイクロソフト(のWindows)、という状況を指す、「Wintel」(Windows + Intel)という造語があった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "今日ではあまり用いられないが、その背景としては、マイクロソフトがインテルに対してAMD64を採用するよう要請した、という話が語られるほどのIA-64等による混乱のダメージや、インテル以外のCPU開発に投資したり、逆にインテルがLinux向けのベンチャーキャピタルに投資するなど、両者が比較的健全な関係になったことが挙げられる。また、200x年代、いわゆるゼロ年代には、インテルがまだ公表していないCPUをAppleが採用したり、インテルがAppleのため密かに1年もかけてカスタムCPUを設計製造するなど、AppleとインテルはかつてのWintelよりも親密な関係などと言われることもあったが、それより何よりも、スマートフォンの普及などに代表される「パーソナルコンピュータの斜陽化」によって、PCにおける支配力の意味が薄れたことが大きい。Appleも2010年代には、iPhoneなどで使っているARMへの関与のほうが大きくなっている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "現在の多くのコンピュータに使用されているPCIバス規格において、インテルは機器の製造元を表すベンダーIDの値にヒット作である8086にちなんだ 0x8086 を使用および呼称している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "米インテルは1998年6月より米連邦取引委員会(FTC)の独占禁止法違反に関する審理を受け、1999年3月に和解している。日本法人は2005年3月8日に独占禁止法違反で日本の公正取引委員会より排除勧告を受けている。ヨーロッパでは、インテルが欧州で不当な販売方法を行っているとして欧州委員会が2001年から調査してきた。一時静かだった後、あらためて欧州委員会が2004年に調査を開始した。この結果、2007年7月27日に欧州委員会は米インテルに対して欧州連合競争法違反の疑いがあると告知した。日本と欧州連合の勧告では、CPUの販売で競合他社の製品を使わないように不当に働きかけたと指摘された。この取引に応じなかったシャープとインテルとは、一時期ほぼ断絶状態にあった。", "title": "独占禁止法違反の疑い" }, { 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"2009年11月4日、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ司法長官が、インテルを独占禁止法(反トラスト法)違反の疑いで告訴した。当時、一部のコンピューターメーカーに巨額のリベートを提供する見返りとして、AMD製のCPUを使わないよう圧力をかけていたという。更に、ヒューレット・パッカード、IBM、デルなどの主要コンピューターメーカーに対しては、AMD製のCPUを利用したパソコンやサーバなどを販売した場合は報復措置を取ると脅していたとされ、例えば当時のヒューレット・パッカードに対しては、一つでもAMD製品を利用した場合は開発中のインテル製品の一部を「引き上げる」と圧力をかけたとしている。", "title": "独占禁止法違反の疑い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "訴訟では、不当行為の是正、州政府機関および顧客への損害賠償、追徴金などを求めている。", "title": "独占禁止法違反の疑い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2009年11月にインテルとAMDは和解を発表した。和解によって両社は独占禁止法やライセンスなどのすべての訴えを取り下げ、5年間の特許クロスライセンスを締結し、インテルはAMDに12億5000万ドルを支払い、不当な契約を行わないことで合意した。ただし、両社間だけの問題でない独占禁止法違反に関する調査は米連邦取引委員会や欧州委員会などの各国機関で継続される。", "title": "独占禁止法違反の疑い" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年12月16日、米連邦取引委員会(FTC)はインテルを提訴した。同日、インテルは反論の声明を発表した。", "title": "独占禁止法違反の疑い" } ]
インテルは、世界最大手の中央処理装置(CPU、MPU)および半導体素子のメーカー。 本社をカリフォルニア州サンタ・クララに置いている。社名の由来はIntegrated Electronics(集積されたエレクトロニクス)。
{{Otheruses|アメリカに本社を置く半導体メーカー|その他のインテル|インテル (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2021年3月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = インテル | 英文社名 = Intel Corporation | ロゴ = [[File:Intel logo 2023.svg|200px]] | 画像 = [[File:2200 Mission College Boulevard.jpg |300px]] | 画像説明 = インテル本社(2023年) | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = {{上場情報| NASDAQ | INTC}} | 略称 = Intel | 国籍 = {{USA}} | 本社郵便番号 = 95054-1549 | 本社所在地 = [[カリフォルニア州]][[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]] ミッション・カレッジ・ブールヴァード 2200 | 本社緯度度 = 37 | 本社緯度分 = 23 | 本社緯度秒 = 16.5 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 121 | 本社経度分 = 57 | 本社経度秒 = 48.7 | 本社E(東経)及びW(西経) = W | 設立 = [[1968年]]([[昭和]]43年)[[7月18日]] | 業種 = 電気機器 | 事業内容 = [[マイクロプロセッサ]]・[[チップセット]]・[[フラッシュメモリ]]などの[[開発]]・[[製造]]・[[販売]] | 代表者 = {{Unbulleted list|[[:en:Omar Ishrak|オマー・イシュラック]]([[会長|取締役会会長]](2021年1月15日-))|[[:en:Pat Gelsinger|パット・ゲルシンガー]]([[最高経営責任者|CEO]](2021年2月15日 - ))|[[:en:Renée James|レネイ・ジェームズ]]([[社長]])}} | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = 790.2億US$(2021年)<ref name="xbrlus_1">{{cite web |url=https://www.intc.com/filings-reports/annual-reports/content/0000050863-22-000007/0000050863-22-000007.pdf|title=Intel Corporation 2021 Annual Report Form (10-K) |publisher=United States Securities and Exchange Commission |date=January 27, 2022 |access-date=January 31, 2022}}</ref> | 営業利益 = 194.6億US$(2021年)<ref name="xbrlus_1" /> | 純利益 = 198.7億US$(2021年)<ref name="xbrlus_1" /> | 純資産 = 1684億1000万US$(2021年)<ref name="xbrlus_1" /> | 総資産 = 953.9億US$(2021年)<ref name="xbrlus_1" /> | 従業員数 = 11万千百人(2021年)<ref name="xbrlus_1" /> | 決算期 = | 主要株主 = | 関係する人物 = {{Unbulleted list|[[ロバート・ノイス]](創業者)|[[ゴードン・ムーア]](創業者)|[[アンドルー・グローヴ]]}} | 外部リンク = {{URL|https://www.intel.com}} | 特記事項 = }} {{基礎情報 会社 |社名 = インテル株式会社 |英文社名 = Intel Kabushiki Kaisha |ロゴ = [[File:Intel logo 2023.svg|200px]] |画像 = [[File:Intel Japan Tsukuba Office.jpg|300px]] |画像説明 = つくば事業所(2016年に閉鎖) |種類 = [[株式会社]] |市場情報 = |略称 = インテル、Intel |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 100-0005 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]三丁目1番1号 国際ビル5階 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 40|本社緯度秒 = 37.18|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 45|本社経度秒 = 40.2|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = No |本社地図国コード = |本店郵便番号 = |本店所在地 = |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = [[1976年]]([[昭和]]51年)[[4月28日]] |業種 = 電気機器 |事業内容 = マイクロプロセッサ・チップセット・フラッシュメモリーなどの開発・提供・販売 |代表者 = [[鈴木国正]]([[代表取締役]][[社長]]) |資本金 = 4億8000万円 |発行済株式総数 = |売上高 = 2415億0400万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy">{{Cite web|和書|url=https://catr.jp/settlements/c542f/294126 |title=インテル株式会社 第47期決算公告 |website=官報決算データベース |accessdate=2023-04-08}}</ref> |営業利益 = 26億1300万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |経常利益 = 12億3100万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |純利益 = ▲1億1000万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |純資産 = |総資産 = 313億0800万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |従業員数 = 約540名(2012年12月末現在) |決算期 = |主要株主 = {{Flagicon|USA}} インテル |主要子会社 = |関係する人物 = [[西岡郁夫]](元社長) |外部リンク = [https://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/homepage.html www.intel.co.jp] |特記事項 = |法人番号 = 4010001122400 }} '''インテル'''({{lang-en-short|Intel Corporation}}<ref name="Britannica">Britannica, Intel</ref>)は、世界最大手の[[中央処理装置]]([[CPU]]、[[MPU]])および[[半導体素子]]のメーカー<ref>[https://www.techtarget.com/whatis/definition/Intel TechTarget, what is Intel?]</ref>。 本社を[[サンタクララ (カリフォルニア州)|カリフォルニア州サンタ・クララ]]に置いている<ref name="Britannica" />。社名の由来は{{Lang|en|'''Int'''egrated '''El'''ectronics}}(集積されたエレクトロニクス)<ref name="company-overview-history-pdf">{{Cite web|和書|url=https://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/company-overview/history-pdf.html |title=インテルの歩み |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2019-12-22}}</ref>{{Rp|4}}。 == 概要 == 主に[[マイクロプロセッサ]]、[[チップセット]]、[[フラッシュメモリ]]などの設計開発・製造・販売を手掛けている。主な製品に[[IA-32]]([[Pentium]]シリーズなど。[[Intel 8086|8086]]シリーズの流れをくむアーキテクチャ)、[[IA-64]]([[Itanium]]など)、[[Intel 64]]{{efn2|IA-32の64ビット拡張。[[x64|AMD64]]と一部の命令を除いて互換性がある。}}などの[[CPU]]([[マイクロプロセッサ]])があり、[[パーソナルコンピュータ]]では[[PC/AT互換機]]や[[Apple]]の[[Mac (コンピュータ)|Mac]](ただし、[[Apple]]は徐々に自社開発の[[プロセッサ]]に切り替えると発表している)に使われているほか、[[ワークステーション]]や[[サーバ]]、[[データセンター]]、[[モバイルデバイス]]向けの製品も扱っている。 [[1990年代]]末からは多方面の[[コンピュータ]]関連[[ハードウェア]]事業に展開している。アクセラレーター系プロセッサに関しては、主にCPU統合型[[Graphics Processing Unit|GPU]](iGPU)および[[Xeon Phi]]と呼ばれるMIC(Many Integrated Core)を手掛けている。1992年以降から現在に至るまで、世界第1位の[[半導体]]メーカーとして君臨し続け、特に世界の[[パーソナルコンピュータ|PC]]向けCPU市場2020年現在60%近いシェアを維持している<ref>{{Cite web|和書|title=プロセッサ市場の下剋上なるか? Intelを追うAMDを躍進させた2人の立役者|url=https://eetimes.jp/ee/articles/2005/15/news035.html|website=EE Times Japan|accessdate=2021-02-15|language=ja}}</ref>。 海外事務所は50ヵ国以上、製造・研究拠点は8ヵ国17拠点にある。特に[[イスラエル]]の拠点は大きく、2007年現在で7000人の従業員を擁している<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/1130/intel.htm |title=【Intelイスラエル訪問レポート】 Core 2 Duoの故郷を報道陣に公開 11月29日(現地時間) 開催 |web site=PC Watch |accessdate=2012-05-18}}</ref>。 [[カリフォルニア]]州[[サンノゼ]]市にある[[半導体]]製造工場には、インテルの歴史を紹介するインテル博物館が併設されている。 日本法人('''インテル株式会社''')は、東京都千代田区(東京本社)に本社を置く。[[1971年]]に[[渋谷区]]に設置された米国法人の日本支社が前身である。その後、[[1976年]][[4月28日]]に[[世田谷区]]にインテルジャパン株式会社が設立され、[[1997年]][[2月1日]]に現在の商号に変更した<ref>{{Cite web|和書|date=1997-01-22 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970122/intel.htm |title=インテルジャパン、2月1日より「インテル」に社名変更 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-21}}</ref>。1981年に設立されて本社機能を持っていたつくばオフィスは2016年12月に閉鎖し、業務は1990年から二本社制の片翼を担っていた東京に移管された<ref>{{Cite news|title=インテルがつくば撤退 パソコン不況で人員削減 |newspaper=週刊エコノミスト |date=2016年12月27日 |url=https://www.weekly-economist.com/2016/12/27/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%B0%E6%92%A4%E9%80%80-%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3%E4%B8%8D%E6%B3%81%E3%81%A7%E4%BA%BA%E5%93%A1%E5%89%8A%E6%B8%9B/ |accessdate=2017-01-06}}</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2019-05}} <!-- HACK: スペックやプロセスルールの書き方がおかしい。どうやらラインナップ初期の値と、当該製品シリーズがその後最終的に到達した値が書かれてあるようだが、不適切。もし記載が必要ならば、発表当時の数字に固定するべき。 --> === 設立 - 1970年代 === * [[1968年]][[7月18日]] - [[フェアチャイルドセミコンダクター]]を退職した[[ロバート・ノイス]]、[[ゴードン・ムーア]]([[ムーアの法則]]で知られる)らが設立した{{R|company-overview-history-pdf|page=4}}。3番目の社員として[[アンドルー・グローヴ]]が入社した。当初は半導体メモリを主力製品とし、[[磁気コアメモリ]]の置き換え・駆逐を野望とした。 * [[1969年]][[4月]] - インテル初の製品である[[Static Random Access Memory|SRAM]] 3101を発表(記憶容量64ビット){{R|company-overview-history-pdf|page=4}}。 * [[1970年]][[10月]] - 世界初の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] 1103を発表(記憶容量1,024ビット){{R|company-overview-history-pdf|page=4}}。DRAM1103の広告で、ICパッケージが虫のように紙面を埋め尽くし「Cores Lose Price War」(コアは価格戦争に負けた)と宣言した<ref>{{Cite web|url=https://www.computerhistory.org/siliconengine/mos-dynamic-ram-competes-with-magnetic-core-memory-on-price/ |title=1970: MOS Dynamic RAM Competes with Magnetic Core Memory on Price | The Silicon Engine | Computer History Museum |language=en |accessdate=2017-08-17}}リンク先の3番目の画像を参照</ref>。 * [[1971年]][[9月]] - 世界初の[[UV-EPROM]] 1702を発表(記憶容量2,048ビット)<!--{{R|company-overview-history-pdf|page=4}}-->。 * 1971年[[10月]] - [[NASDAQ]]に株式を公開{{R|company-overview-history-pdf|page=4}}。 * 1971年[[11月15日]] - 世界初のマイクロプロセッサである'''[[Intel 4004|4004]]'''(4ビット、クロック周波数108 kHz、トランジスター数2,300個)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=4}}。 * [[1972年]]4月 - '''[[Intel 8008|8008]]'''(8ビット、クロック周波数200 kHz、トランジスター数3,500個、プロセス技術10 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=5}}。 * [[1974年]][[4月1日]] - '''[[Intel 8080|8080]]'''(8ビット、クロック周波数2 MHz、トランジスター数6,000個、プロセス技術6 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=5}}。 * [[1976年]][[3月]] - '''[[Intel 8085|8085]]'''(8ビット、クロック周波数2 MHz、トランジスター数6,500個、プロセス技術3 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=5}}。 * [[1978年]][[6月8日]] - '''[[Intel 8086|8086]]'''(16ビット、クロック周波数5 - 10 MHz、トランジスター数2万9000個、プロセス技術3 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=6}}。 * [[1979年]][[6月]] - 8086の廉価版である'''[[Intel 8088|8088]]'''を発表<!--{{R|company-overview-history-pdf|page=5}}-->。1Mビットのバブルメモリーを発表{{R|company-overview-history-pdf|page=6}}。 === 1980年代 === * [[1980年]] - [[ゼロックス]]、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]](現在の[[ヒューレット・パッカード|HP]])と共同でLANの規格を[[IEEE]] 802委員会に「[[イーサネット|Ethernet]] 1.0規格」として提出・公開(詳細は[[イーサネット#歴史]]を参照)。 * [[1981年]][[8月]] - [[IBM]]が同社初のパソコン[[IBM PC]]を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=6}}。CPUに8088が採用されたことは、インテルが急成長するきっかけとなった。 * [[1982年]][[2月]] - '''[[Intel 80286|80286]]'''を発表(16ビット、クロック周波数6 - 12.5 MHz、トランジスター数13万4000個、プロセス技術1.5 µm){{R|company-overview-history-pdf|page=7}}。 * [[1985年]]10月 - DRAM事業から撤退し、CPUの開発・生産に経営資源を集中{{R|company-overview-history-pdf|page=7}}。[[x86]]シリーズでは初の32ビットマイクロプロセッサである'''[[Intel 80386|i386]]'''(後にi386DXと改称。クロック周波数16 - 33 MHz、トランジスター数27万5000個、プロセス技術1.5 - 1 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf}}{{Rp|7}}。 * [[1989年]]4月 - '''[[Intel 486|i486]]'''(クロック周波数16 - 100 MHz、トランジスター数120万個、プロセス技術1 -0.6 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=8}}。 === 1990年代 === * [[1991年]][[5月]] - '''Intel Inside'''ロゴ(日本では『インテル、入ってる』として広く知られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.denda-a.com/column08.html |title=人材確保にはブランド認知が必要 / Intel Inside誕生裏話 |accessdate=2011-01-23}}</ref>)を発表。[[コマーシャルメッセージ|CM]]、カタログなど様々なメディアで広く世界中で使用されたが、これは日本発のブランディング・キャンペーンである。発案者はインテル社外のIT業界関係者であるとの誤報が複数ある{{要出典|date=2019-12}}が、同社つくば本社マーケティング・スタッフの議論・試行錯誤の成果である。当時、米国Intel Corporationは「The Computer Inside」<ref>{{Cite web|url=https://www.cpu-world.com/Memorabilia/80386/ |title=Intel 80386/80387 Memorabilia |language=en |accessdate=2015-04-09}}</ref>というキャンペーンを欧米で展開していたが、日本から対案として米国本社に「Intel in it」<ref>{{Cite web|和書|url=http://shachotv.jp/info/de_book.html |title=傳田信行氏 サイン本プレゼント:社長TV |accessdate=2015-04-09 |deadlinkdate=2019-12-22}} </ref>キャンペーンが提案され、特例として実施されたものである。後にシリコンバレーのサンタクララを拠点とするIntel Corporationは日本法人案を取入れ、戦略変更を行い「Intel Inside」ブランディング戦略として世界規模でこのコンセプトを展開した。ブランディング戦略の詳細はHarvard Business Schoolのケース・スタディにまとめられている<ref>{{Cite web|url=https://www.hbs.edu/faculty/Pages/item.aspx?num=29096 |title=Inside Intel Inside |language=en |accessdate=2015-04-09}}</ref>。 <gallery widths="200"> File:Intel Logo.svg|「ドロップ-e」ロゴ File:Intel Inside Logo (1968-2003).svg|「Intel Inside」ロゴ </gallery> * 1991年[[12月]] - 現在の本社社屋であるロバート・ノイス・ビルディングが竣工{{R|company-overview-history-pdf|page=8}}。 * [[1993年]]3月 - x86の第5世代に当たる'''[[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]'''(クロック周波数60 - 300 MHz、トランジスター数310万個、プロセス技術0.8 - 0.35 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=8}}。同社のCPUで初めて製品名に固有名詞を使った。その後、Pentiumの名称は、引き続き同社のCPUのブランドとして使われた。 * [[1994年]][[11月]] - Pentiumに[[Pentium FDIV バグ|浮動小数点計算のバグ]]があることが発覚。当初インテルは問題ないとしていたが、同年[[12月20日]]に製品回収に至った。 * [[1995年]]8月 - [[コンパック]](現在のHP)、DEC、IBM、[[マイクロソフト]]、[[日本電気|NEC]]、ノーザンテレコム(現在の[[ノーテルネットワークス]])とともに、これまでのシリアルポート、パラレルポート、PS/2ポートなどを置き換えるインターフェイス規格、[[ユニバーサル・シリアル・バス]] (USB) を推進する業界団体USB-IFを発足。 * 1995年11月 - x86の第6世代に当たる'''[[Pentium Pro]]'''(クロック周波数150 - 200 MHz、トランジスター数550万個、プロセス技術0.8 - 0.35 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=9}}。 * [[1997年]][[1月]] - Pentiumにマルチメディア処理を強化する'''[[MMX]]'''拡張命令を追加した'''MMX Pentium'''を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=9}}。 * 1997年[[5月]] - 第6世代の機能とMMXテクノロジーとをサポートする'''[[Pentium II]]'''(クロック周波数233 - 450 MHz、トランジスター数750万個、プロセス技術0.35 -0.18 µm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=9}}。CPUパッケージには、これまでの正方形のパッケージに代わり、Single Edge Contact (S.E.C.) カートリッジが採用された。 * [[1998年]]4月 - 低価格パソコン向けの'''[[Celeron]]'''(クロック周波数266 MHz - 3.46 GHz、プロセス技術250 - 45 nm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * [[1999年]]2月 - [[ストリーミングSIMD拡張命令]] ('''SSE''') をサポートする'''[[Pentium III]]'''(クロック周波数450 MHz - 1.40 GHz、プロセス技術250 - 130 nm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。この製品でクロック周波数が1 GHzの大台を突破した。 === 2000年代前半 === * [[2000年]]11月 - [[NetBurstマイクロアーキテクチャ|NetBurstマイクロアーキテクチャー]]を採用した'''[[Pentium 4]]'''(プロセス技術180 - 65 nm、トランジスター数4,200 万個、クロック周波数1.40 - 3.80 GHz)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * [[2001年]]5月 - [[サーバ]]、[[ワークステーション]]向けの'''[[Xeon]]'''(クロック周波数1.40 - 3.80 GHz、プロセス技術180 - 45 nm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * 2001年5月 - インテル初の64ビットプロセッサである'''[[Itanium]]'''(クロック周波数は733 MHz - 1.66 GHz、プロセス技術180 - 90 nm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * [[2003年]]3月 - [[ノートパソコン]]向けに一から設計された'''[[Pentium M]]'''を発表。同月に発表されたノートパソコン向けのプラットフォーム「'''[[Centrino]]''' モバイル・テクノロジー」を構成する部品の一つである。 * [[2005年]]4月 - インテル初のデュアルコア・プロセッサであるハイエンド・デスクトップパソコン向けの'''[[Pentium Extreme Edition]]'''を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * 2005年5月 - メインストリーム・デスクトップパソコン向けのデュアルコア・プロセッサ'''[[Pentium D]]'''を発表。Pentium Extreme Editionとは違い、[[ハイパースレッディング・テクノロジー]](HT テクノロジー)は無効化されている。 * 2005年11月 - マイクロン・テクノロジーとの合弁会社「IM フラッシュ・テクノロジーズ」を設立し、[[NAND型フラッシュメモリ]]事業に参入{{R|company-overview-history-pdf|page=10}}。 * 2005年 - これまで[[モトローラ]]製とIBM製のCPUを採用し続けていたAppleが、2006年以降、MacのCPUをインテル製に切り替えることを発表。 === 2000年代後半 === * [[2006年]]1月 - 製品ブランドとロゴ([[コーポレートアイデンティティ|CI]])とスローガンを刷新{{R|company-overview-history-pdf|page=11}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0116/hot404.htm |title=新しいIntelロゴに込められた意図 |date=2006-01-16 |author=元麻布春男 |work=元麻布春男の週刊PCホットライン |publisher=PC Watch |accessdate=2019-12-22}}</ref>。[[Intel Core|Core]]ブランド最初の製品となる'''[[Core Duo#Intel Core|Core Duo]]'''を(1コアのCore Soloとこのアーキテクチャを採用するCeleron Mも)発表。新ロゴは、創業時から使用されてきた「ドロップ-e」ロゴと「Intel Inside」ロゴを融合・発展させたものである<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2006/060105.htm |title=インテル、企業ブランドを刷新 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2008-07-23}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。同時に、それ以前の自らをプロセッサメーカーだったインテルバージョン2と称し、今後はインテルバージョン3のプラットフォームメーカーであると宣言した。 <gallery widths="200"> File:Intel-logo.svg|「Intel」ロゴ(2006年~2020年) </gallery> * 2006年[[6月27日]] - XScaleマイクロアーキテクチャなどの技術ライセンスとモバイル事業を[[マーベル・テクノロジー・グループ|マーベル]]へ売却することを発表。売却額は6億ドル。1400人の技術者・従業員もマーベルへ移籍し、買収は2006年11月8日に完了した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2006/060628.htm |title=マーベルがインテルのコミュニケーション・プロセッサーとアプリケーション・プロセッサー事業を 6 億ドルで買収 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-10-20}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 * 2006年[[7月]] - 高性能と低消費電力を両立させる[[Coreマイクロアーキテクチャ|Coreマイクロアーキテクチャー]]を採用した'''[[Intel Core 2|Core 2 Duo]]'''(クロック周波数1.06 - 3.20 GHz、トランジスター数2億9100万個、プロセス技術65 - 45 nm)を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=11}}。 * 2006年11月 - ハイエンド・デスクトップパソコン向けの'''Core 2 Extreme'''を発表{{R|company-overview-history-pdf|page=11}}。 * [[2007年]]1月 - メインストリーム・デスクトップパソコン向けのクアッドコア・プロセッサ'''Core 2 Quad'''を発表。 *2007年5月 - [[NOR型フラッシュメモリ]]事業をSTマイクロエレクトロニクス、フランシスコ・パートナーズとの合弁会社「Numonyx」に移管。 * [[2008年]][[3月3日]] - [[ネットブック]]やモバイル・インターネット・デバイス(MID)など向けに'''[[Intel Atom|Atom]]'''を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2008/080303.htm |title=インテル、最新の低消費電力プロセッサー・ファミリー向け「インテル Atom」ブランドを発表 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-05-02}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 * 2008年[[7月16日]] - Centrinoの後継となる'''Centrino 2'''を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2008/080716c.htm |title=インテル、インテル Centrino 2 プロセッサー・テクノロジーで革新的なノートブック PC 技術を提供 |publisher=インテル株式会社}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 * 2008年[[9月9日]] - 「X18-M Mainstream SATA SSD」と「X25-M Mainstream SATA SSD」を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2008/080909b.htm |title=インテル、ノートブック / デスクトップ PC 向け SSD 新製品を出荷開始 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-05-02}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。10月には企業向け高性能SSD「X-25E Extreme SATA SSD」も発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2008/081016b.htm |title=インテル、エンタープライズ用途向け高性能ソリッド・ステート・ドライブ(SSD)を出荷開始 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-05-02}}</ref>。 * 2008年[[11月18日]] - Core iシリーズ最初の製品となる'''[[Intel Core i7|Core i7]]'''(クロック周波数2.66 - 3.20 GHz)を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2008/081118a.htm |title=インテル史上最高の Intel Core i7 プロセッサーを発表 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-05-02}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 === 2010年代前半 === * 2010年[[3月17日]] - 32 nmプロセスを採用した、初の6コア内蔵となる'''[[Intel Core i7|Core i7]]'''-980X Extreme Edition(クロック周波数3.33 GHz)を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.com/jp/intel/pr/press2008/081210.htm |title=インテル コーポレーション、次世代の 32 nm プロセス技術開発を完了 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2009-05-03}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 * 2011年[[3月2日]] - [[マカフィー]]の買収を完了。 * [[2012年]][[1月27日]] - [[リアルネットワークス]]の保有するストリーミング・メディア関連特許とビデオ・コーデックを買収することを発表。約190の特許と170の特許出願、ビデオコーデック・ソフトウェアが対象となり、買収額は1億2000万ドル。インテルは[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]にストリーミング・メディア技術において大きく引き離されており、リアルネットワークスの買収によってAMDとの技術的な差を埋めることを目指すとしている。 * 2015年6月、[[アルテラ]]と買収を合意。12月に買収を完了。買収額は167億ドル。 === 2010年代後半 === * [[2017年]][[5月30日]] - '''[[Intel Core i9|Core i9]]'''を発表。 * [[2017年]][[6月21日]] - [[国際オリンピック委員会]]との間で、2024年までのワールドワイドTOPパートナー契約を結ぶ<ref>{{Cite press release|和書|url=https://newsroom.intel.co.jp/news-releases/ioc-intel-announce-worldwide-top-partnership-through-2024/ |title=IOCとインテル コーポレーション、2024年までのTOPパートナーシップを発表 |publisher=インテル株式会社 |accessdate=2017年7月8日}}</ref>。 * [[2018年]][[6月8日]] - Intel 50周年記念として、最大5GHzのCore i7-8086Kを発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/event/1125668.html |title=Intel、最大5GHz達成のCore i7-8086Kを6月8日から発売 |author=笠原一輝 |date=2018-06-05 |website=PC Watch |accessdate=2019-12-22}}</ref>。 === 2020年代前半 === * [[2020年]][[9月2日]] - 企業ロゴと製品ブランドロゴを刷新<ref name="itmedia200903">{{Cite news|title=Intel、企業ロゴを14年ぶりに変更|newspaper=ITmedia NEWS|date=2020-09-03|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2009/03/news058.html|accessdate=2020-09-03}}</ref><ref name="pcwatch200903">{{Cite news|title=Intel、14年ぶりにコーポレートロゴを変更 ~新Coreプロセッサーのロゴシールも新デザインに|newspaper=PC Watch|date=2020-09-03|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1274667.html|accessdate=2020-09-03}}</ref>。ロゴの変更は2006年以来14年ぶりとなり、1991年以降用いられてきた「青色の円で囲む形式」のロゴではなくなった<ref name="itmedia200903"/><ref name="pcwatch200903"/>。 <gallery widths="200"> File:Intel logo 2023.svg|「Intel」ロゴ(2020年~) </gallery> === 歴代CEO === {| class="wikitable" |+ ! ! !期間 ! |- |初代 |[[ロバート・ノイス]] |1968年 - [[1975年]] |{{R|company-overview-history-pdf|page=4}} |- |2代目 |[[ゴードン・ムーア]] |1975年 - [[1987年]] |{{R|company-overview-history-pdf|page=5}} |- |3代目 |[[アンドルー・グローヴ]] |1987年 - [[1998年]]<ref name="pcwatch19970526">{{Cite web|和書|date=1997-05-26|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970526/intel.htm|title=米Intel社の新社長にバレット氏が就任 グローブ前社長は会長に|publisher=PC Watch|accessdate=2012-08-28}}</ref> |{{R|company-overview-history-pdf|page=7}} |- |4代目 |[[クレイグ・バレット]] |1998年<ref name="pcwatch19970526" /> - [[2005年]] | rowspan="2" |{{R|company-overview-history-pdf|page=10}} |- |5代目 |[[ポール・オッテリーニ]] |2005年 - 2013年 |- |6代目 |[[ブライアン・クルザニッチ]] |2013年 - 2018年 |{{R|company-overview-history-pdf|page=12}} |- |7代目 |[[:en:Bob Swan|ボブ・スワン]] |2019年 - 2021年 | |- |8代目 |[[:en:Pat Gelsinger|パット・ゲルシンガー]] |2021年 - |<ref>{{Cite web|和書|title=パット・ゲルシンガーがインテルCEOに就任 – インテル ニュースルーム|url=https://newsroom.intel.co.jp/news/pat-gelsinger-joins-intel-ceo/|website=newsroom.intel.co.jp|accessdate=2021-03-28}}</ref> |} == 主な製品 == === インテル・プラットフォーム === * モバイル ** [[Centrino]] *** Sonoma *** Napa *** Santa-Rosa ** Centrino 2 *** Montevina ** Centrino Atom ** Evo * コンシューマー・デスクトップ ** Anchor Creek ** Bridge Creek * エンタープライズ・クライアント ** Lyndon ** Averill * 1Pワークステーション ** Gallaway ** Wyloway * 1Pサーバー ** Kaylo * 1Pワークステーション ** Gallaway ** Wyloway * 2Pワークステーション * 2Pバリューサーバー * 2Pバリューサーバー * 2Pサーバー * MPサーバー * Itanium === マイクロプロセッサ === [[ファイル:I486DX2-50_QFP.jpg|thumb|right|Intel i486DX2]] [[ファイル:Intel 8008.jpg|thumb|200px|right|i8008]] ==== PC向け ==== * [[Intel 4004|4004]] * [[Intel 8008|8008]] * [[Intel 8080|8080]] * [[Intel 8085|8085]] * [[Intel 8086|8086]] ** [[Intel 8088|8088]]:8086のデータバスを8ビットに半減させた製品 ** [[Intel 80186|80186]]:8086に周辺チップを統合し、若干の命令追加を行った製品 * [[Intel 80286|80286]] * [[Intel 80386|i386DX/SX]]シリーズ * [[Intel 486|i486DX/SX/DX2/SX2/DX4]]シリーズ * [[オーバードライブプロセッサ]] * [[Intel Pentium (1993年)|Pentium]] ** MMX Pentium * [[Pentium II]] * [[Celeron]] * [[Pentium III]] * [[Pentium 4]] * [[Pentium D]] * [[Celeron D]] * [[Intel Core|Core]] ** Core Duo ** Core Solo * [[Intel Core 2|Core 2]] ** Core 2 Solo ** Core 2 Duo ** Core 2 Quad ** Core 2 Extreme * [[Pentium Dual-Core]] * [[Intel Core i9|Core i9]] * [[Intel Core i7|Core i7]] * [[Intel Core i5|Core i5]] * [[Intel Core i3|Core i3]] * [[Intel Pentium (2010年)|Pentium]]([[Nehalemマイクロアーキテクチャ]]以降) * [[Intel Celeron (2010年)|Celeron]]([[Nehalemマイクロアーキテクチャ]]以降) ==== サーバ、ワークステーション向け ==== * [[Pentium Pro]] * Pentium II Xeon * Pentium III Xeon * Pentium III-S * [[Xeon]] * [[Itanium]] * [[Itanium 2]] ==== モバイル向け ==== * Mobile Pentium II * Mobile Celeron * Mobile Pentium III * Mobile Pentium III-M * [[Pentium 4-M|Mobile Pentium 4-M]] * Mobile Pentium 4 * [[Pentium M]] * [[Celeron M]] * [[Intel Core]](Core Duo、Core Solo) * [[Intel Core 2]](Core 2 Duo、Core 2 Solo) * Intel Core i9/i7/i5/i3 * [[Intel Pentium (2010年)|Pentium]]([[Nehalemマイクロアーキテクチャ]]以降) * [[Intel Celeron (2010年)|Celeron]]([[Nehalemマイクロアーキテクチャ]]以降) * [[Intel Atom|Atom]] ==== 組込用途 ==== {{Commonscat|Intel Microcontrollers|インテルのマイクロコントローラー}} * [[StrongARM]] * [[XScale|XScale PXA210/PXA25x/PXA26x/PXA27x]]シリーズ(2006年に[[マーベル・テクノロジー・グループ|マーベル]]へ売却) * [[Intel 8048]] - MCS-48ファミリー * [[Intel 8051|i8051]]シリーズ * [[Intel MCS96]]/[[Intel MCS296|MCS296]]シリーズ * [[Intel 860|i860]] * [[Intel 960|i960]] * [[Intel IXP42x/IXP46x]]シリーズ * [[Intel 80186/80286]]シリーズ * [[Intel Embedded IA-32 Processors and Chipsets]] * [[Intel IOP3xx]]シリーズ * [[Intel PCI Bridges]] ==== その他 ==== ; [[Intel iAPX 432]] : 1981年発表の、インテル初の32ビットプロセッサである。メインプロセッサは2チップ構成。それまでの8080系CPUの限界に対して過去のしがらみを捨て、数々の先進的な[[マルチタスク]]機能と[[メモリ管理]]機能をハードウェアでサポートし、[[フォールトトレラント設計|フォールトトレラント]]機能の搭載、[[マルチプロセッサ]]対応など、非常に高度で先進的で複雑なデザインだった。インテルはこのデザインをマイクロメインフレームと称した。しかし、コンパイラをはじめとするソフトウェアの完成度が低いなどの技術的理由で本来の性能を生かすことが出来ず、米軍の[[Ada]]コンピュータ以外にはほとんど普及しないままCPU市場から消え去った。この経験もあって8080系統の連綿と続くCPUの命令体系は、拡張に次ぐ拡張で階上階を重ねていくことで、最適化コンパイラなどのソフトウェアの継承を容易にした。 ; MXP5800/5400 : インテルが[[デジタルカメラ]]用のプロセッサとして開発していたが一旦立ち消えになり、そのアーキテクチャーが、高度画像処理用のプロセッサを求めていたCPU市場の需要をターゲットに洗練(リファイン)されて2004年に発表された。しかし、採用されたのは富士ゼロックス(現:[[富士フイルムビジネスイノベーション]])の[[複合機]]と[[走査|ネットワークスキャナー]]だけで、その後の需要も見込めないことから消えてしまった。DSPの汎用性と、ハードウェア・アクセラレーターの強み、そしてソフトウェアで実現するメディアプロセッサとしての素質は素晴らしいものだったが、いずれも性能や方向性が中庸的なものだったため高度画像処理用のプロセッサを求めていた技術者には受け入れられることがなかった。 === 製品カテゴリ === CPUに関するインテル独自の製品カテゴリを以下に示す。 ==== LPIA ==== '''LPIA'''(Low Power on Intel Architecture)は、IA-32[[命令セットアーキテクチャ]]に基づく低消費電力なCPU製品のカテゴリーである<ref>{{Cite web |authorlink=インテル |date=2004-12 |url=https://www.intel.com/technology/systems/lpia/ |title=Low Power on Intel(R) Architecture |language=英語 |accessdate=2008-04-06 }}</ref>。 * [[Intel A100]] * [[Intel Atom]] ==== CULV ==== '''CULV'''({{en|Consumer ultra low voltage}})とはカテゴリー名称であり、厳密には超低電圧にて動作するプロセッサ群を指す。これらはAtomファミリーより性能面で上位に位置しているが、消費電力では10 W以下であり、[[ネットブック]]向けと従来型ノートパソコン向けの間を埋めるCPUとして、Core 2 Duo、Core 2 Solo、Celeron M、Pentiumといった従来ファミリーの[[カテゴリ]]はそのままに、それらの中で特に消費電力の少ない製品をまとめたものである{{efn2|「CULV」に属するCPUをプロセッサ番号で表せば、Core 2 DuoのSU9600、SU9400、SU9300、Core 2 SoloのSU3500、SU3300、Celeron Mの723、PentiumのSU2700がある。これらは動作クロック1.6 - 1.2G Hz、1 - 3メガバイトの2次キャッシュを持ち、いずれも800 MHzバスとx64命令セット、45 nmプロセスで、Core 2 Soloの5.5 Wを除けば10 WのTDP<!--何の略?-->である。}}。 そのカテゴリー呼称は技術的な区切りではなく、[[マーケティング]]用途での区分であり、Atomよりも高い単価によって、ASP(平均販売価格)の向上が期待されている。 これらのプロセッサ群は、機能をある程度限定してCPUにそれほどの処理性能を求めないネットブックに対し、従来のノートパソコンの延長線上にある超薄型ノートパソコン{{efn2|具体的には、概ね厚さが1インチ(約2.5 cm)未満で重量1.5 kg程度、11 - 13型のディスプレイを備えて10万円以下のクラスである。}}用のCPUとして、ある程度の演算性能を持ちながら、超低電圧動作によって低消費電力化が行えられるCPUのカテゴリー名称である。 === FPU(数値演算コプロセッサ) === * [[Intel 8087|i8087]] - i8086用 * [[Intel 80287|i80287]] - i80286用 * [[Intel 80387|i80387]]/i387SX - i386用 * [[Intel 487|i487SX]]/i487SX2 - i486SX用 ** i487シリーズは構造的にはFPUではなく、一部のピン配置を除いてi486DX/i486DX2と同等のCPUである。すなわち、FPUソケットにi487を刺すことにより、i486SXは動作を止め、i487がCPUとしてすべての処理を担う。なお、i486SXも実はi486DXと同等のダイを用いた製品であり、浮動小数計算回路のテストを省略して無効にしただけの物である。 === チップセット === [[ファイル:Intel82443bx_agpset.jpg|thumb|right|Intel440BX]] {{main|インテル チップセット}} * i430FX/HX/VX * i450KX/GX * i440FX * i440LX/EX * [[Intel 440BX|i440BX]]/ZX * i440GX * [[Intel 810|i810/E/DC-100]] * [[Intel 815|i815]]/E * [[Intel 820|i820]] * i830/M/MP * i840 * i845/D/E/G/GE/GV/P/PE * i850/E * E7205 * i865PE/GE * i855PM/GM/GME * i852GM/GME * i875PE * E7210 * i925X * i915P/G * i955X * i945P / G * Intel P965 / G965 / Q965 / Q963 * Intel 975X * X38 / P35 / G35 / G33 / G31 / Q35 / Q31 * X48 / P45 / P43 / G45 / G43 / Q45 * X58 * H55 / H57 / Q57 * P67 / H67 / Q67 / Z68 * X79 / Z77 / H77 / Q77 * Z87 / H87 * X99 / Z97 / H97 * Z170 / H170 / B150 / H110 / Q170 / Q150 * X299 / Z270 / H270 / B250 / Q270 /Q250 ※第7または8世代インテルプロセッサー向け * Z390 / Z370 / H370 / B365 / B360 / H310 / Q370 ※第9世代インテルプロセッサー向け * Z490 /H470 /B460 /H410 ※第10世代インテルプロセッサー向け * Z590 /H570 /B560 /H510 ※第11世代インテルプロセッサー向け * Z690 /H670 /B660 /H610 ※第12世代インテルプロセッサー向け * Z790 ※第13世代インテルプロセッサー向け * W480 / Z490 / H470 / B460 / H410 / Q470 * W580 / Z590 / H570 / B560 / H510 / Q570 === グラフィック・アクセラレーター === [[ファイル:i740.jpg|thumb|right|Intel i740]] 1990年代後半までは[[Intel 740]]など[[ビデオカード]]を展開していたが、その後はいわゆる[[オンボードグラフィック]]の[[チップセット#構成|ノースブリッジ]]統合型グラフィックス製品のみとなり、性能も外付けビデオカードには到底及ばないローエンド帯が中心だった。[[2009年]]、新たに開発した[[Larrabee]]で再びdGPU市場に参入する計画を立てるも、満足するパフォーマンスが得られなかったとしてGPUとしての投入は中止されてしまった。時代の移り変わりでGPUの統合先はノースブリッジからCPUに代わった(iCPU)が、引き続き性能はローエンドレベルであった。近年はGPU専用[[eDRAM]]を搭載し性能を高めたIntel Iris Pro Graphicsを発売するなどブランド力を高めイメージの払拭を図っている。[[2018年]]、元[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]でグラフィックス部門のリーダーだった[[ラジャ・コドゥリ]]をヘッドハンティングして[[アーキテクチャ]]を大幅に刷新した[[Intel Xe]]で、[[2020年]]を目途に二度目のdGPU市場再参入を発表している。 また、2022年9月8日にIntel Arcの詳細スペックを発表し、2022年9月にASRockからIntel Arc A380 Challenger ITXが発売され、上位モデルも今後発売されるとされている。 * [[Intel 740]] * [[Intel 810]] * [[Intel Extreme Graphics]] * [[Intel Graphics Media Accelerator]] * [[Larrabee]](開発中止) * [[Intel HD Graphics]] * Intel UHD Graphics * [[Intel HD Graphics|Intel Iris Xe Graphics]] * [[Intel Xe]] * [[Intel Xe|Intel Arc]] === MICアクセラレーター === * [[Xeon Phi]] === プログラマブル・ロジックデバイス === {{see also|アルテラ}} 2015年の[[アルテラ]]買収に伴い、同社の[[FPGA]]、[[CPLD]]が製品群に加わった。 * Agilex * Stratix - ハイエンド * Arria - ミッドレンジ * Cyclone - 低コスト * MAX - 低コスト === イーサネット・コントローラー === * intel 8259xシリーズ * intel 8257xシリーズ * intel 8256xシリーズ * intel 8255xシリーズ * intel 8254xシリーズ === デスクトップ・ボード(マザーボード) === ; インテル純正チップセット :* エクストリーム・シリーズ :* メディア・シリーズ :* エグゼティブ・シリーズ :* クラシック・シリーズ :* エッセンシャル・シリーズ : ; サードパーティ製チップセット :* エッセンシャル・シリーズ<!-- 型番は省略 --> === ネクスト・ユニット・オブ・コンピューティング(NUC) === [[ファイル:Intel NUC Mini PC.jpg|thumb|right|インテル NUC 筐体]] [[ファイル:Intel nuc boards.jpg|thumb|right|インテル NUC ボード(ミニPC)]] 4inch×4inchのミニPC。キット、ボードでも提供される。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/products/boards-kits/nuc.html|title=インテルNUC|publisher=インテル株式会社|accessdate=2019-12-28}}</ref> * NUCミニPC * NUCキット * NUCボード === フラッシュメモリー === [[NOR型フラッシュメモリ]]を得意とするが、前述の通り、事業をSTマイクロエレクトロニクス、フランシスコ・パートナーズとの合弁会社「Numonyx」に移管した。[[NAND型フラッシュメモリ]]は、マイクロン・テクノロジーとの合弁会社「IM フラッシュ・テクノロジーズ」にて生産され、Intel・Micron双方のブランドで販売される。 ==== ソリッドステート・ドライブ(SSD) ==== [[ファイル:Intel DC S3700 SSD series, top side of a 100 GB SATA 3.0 model.jpg|thumb|right|Intel SSD DC S3700 シリーズ]] ; デスクトップパソコン、ノートパソコン向け * X18-M Mainstream SATA SSD * X25-M Mainstream SATA SSD 容量はいずれも80GBまたは160GBである。 ; サーバ、ワークステーション、ストレージ・システム向け * X-25E Extreme SATA SSD - 容量は32GB。64GBのものも予定されている。 === ソフトウェア === * [[Intel C++ Compiler]] * {{仮リンク|Intel Fortran Compiler|en|Intel Fortran Compiler}} * [[Intel Math Kernel Library]](MKL) * [[Intel Integrated Performance Primitives]](IPP) * [[Intel Threading Building Blocks]](TBB) * [[Intel Parallel Studio]] * {{仮リンク|Intel Inspector|en|Intel Inspector}}(Intel Thread Checkerの後継) * {{仮リンク|Intel VTune Amplifier|en|VTune}}(Intel VTune Performance Analyzerの後継) * {{仮リンク|Intel Advisor|en|Intel Advisor}} === 法人向け === ==== ドローン ==== 夜間の屋外で光点を立体配置する大規模な演出用の[[無人航空機|ドローン]]と制御システムのパッケージを販売している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=印象的だった開会式のドローン演出、裏方でインテルの力 (1/3)|url=https://ascii.jp/elem/000/004/063/4063641/|website=ASCII.jp|accessdate=2021-07-26|language=ja|last=ASCII}}</ref>。 ==== スポーツ ==== 放送局向けとして、自社開発のAIを利用した中継映像の演出用ソリューションを販売している<ref name=":0" />。 大会主催者向けには、AIによる関係者の移動経路の最適化など運営用ソリューションを販売している<ref name=":0" />。 === 過去の製品 === ※現在はすべて撤退。<!-- 様々な製品があったようなんですが…。分かる方お願いします。 --> {{節スタブ}} == 製品開発と製造 == === ニセ486・ニセPentium === <!--それまでもあったニセCPUが、-->1990年代の初めには'''ニセ486'''や'''ニセPentium'''が大量にアジアの闇CPU市場に出現してその対策に苦慮した。これらは'''リマーク品'''といわれ、低性能品のセラミックパッケージ表面の型番印刷を巧みに削ぎ落として高性能品の型番を印字し直したものだった。最初に出された対策は[[ホログラム]]を貼り付ける方法だったが、当時のCPUパッケージには貼りつけられるだけの余分な空間が全くなかった。その後、新たなPentiumファミリーである[[Pentium II]]・[[Pentium III]]・[[Celeron]]では、二次キャッシュの実装問題とリマーク品問題とを一挙に解決する方策として、CPUパッケージにS.E.C.C.(Single Edge Contact Cartridge)やS.E.P.P.(Single Edge Processor Package)が採用された。この結果、類似するリマーク品は流通しなくなった。 === CPUのクロック競争とマルチコア化 === CPUを製造する半導体メーカーは、世界初のCPUである4004の時代から、宿命的に性能向上の手法としてクロック周波数の高速化が求められ、インテルは常に(時には求められる以上に)高速化を推し進めてきた。数百kHzの初期世代からやがてMHz、GHzで数えるまでになった。他社との'''クロック競争'''を常にリードしてきたインテルは、2000年前後にはクロックの物理的な限界に行き着いている自覚を持った。 <!--↓日本語として不自然。要するに「プロセスの小ささの2乗(=プロセス幅のマイナス2乗)に比例して単位面積あたりの消費電力が増える」ということ?--> 現在の半導体プロセスの主流である[[CMOS]]テクノロジーでは、クロックを高速化すると、それに完全に比例して消費電力が増大する。さらに、プロセスルールの微細化が面積当り消費電力に2乗で効いてくるので、「光速度でも1 ns(=1 GHzでの1クロック)の時間内には30 cmしか情報を伝播できない」という物理法則の制約以前に、まずCPUダイが自らの発熱で溶ける可能性が目前の危機となった。 この問題の究極の解答として、シングルコア(単一のプロセッサコア)でのこれ以上の無理な高速化を避けて、[[マルチコア]](複数のプロセッサコア)による並列的な動作によって性能向上を図る道を採った。デュアルコアやクアッドコアの新世代CPUによって、新たな'''コア数競争'''の時代に突入した。 === 自社製造 === インテルは、4004から[[80286]]までは[[セカンドソース]]として[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]や[[日本電気|NEC]]にもセカンドソース製造契約を与え、普及とリスク分散を優先したが、普及した[[Intel 80386|80386]]からはセカンドソース製造契約を停止した。また、インテルに出資していた[[IBM]]は[[Intel486|i486]]までは製造権を持ち独自のカスタム版を出荷していた。 セカンドソース製造契約の提出を停止した後のインテルは、CPUの半導体製造ライン(Fab)を完全な自社製造で貫き、外部契約の半導体製造会社([[ファウンドリ]])には一切出していない。これは技術情報漏洩(ろうえい)防止のためだけでなく、そもそも、最高密度の製造[[プロセス]]を使ってチップ製造を行うメーカーは自社とその競合メーカーだけに限られるということが最大の理由である。すなわち、最先端を行くインテルが求めているプロセスでの製造ラインを維持することは、技術力のみならず製造販売量も世界トップであるインテル以外には不可能であり、外部の委託製造会社では最先端製造ラインの開発・建設・維持コストを負担するだけの業績が見込めないからである。半導体製造装置メーカーも常にインテルと共に新プロセス対応の新世代製造装置を開発しており、2008年12月15日から17日にかけて開催された「2008 International Electron Device Meeting」(IEDM 2008)で、2009年後半からラスト・ゲート方式HKMG(High-''k''、Metal Gate:高誘電率ゲート絶縁膜とメタルゲート電極)による32 nmプロセスの量産を開始する予定と発表した<ref>{{Cite magazine|和書|magazine=日経エレクトロニクス |date=2009/01/12 |pages=12 - 13}}</ref>。逆に、CPU以外のチップは、CPUがより新しい製造技術に移ってコストの償却が完了した旧世代の製造ラインを再利用して製造している。そのため、インテル製のチップセットやオンボードグラフィックスチップなどは、同時期のCPUに比して数世代前の仕様にて製造されている。 === チックタック戦略 === {{Main|インテル チック・タック}} == その他 == === 社是 === 社是はないが、"Six Values"と呼ばれるものがあり、インテル社内の基本ルールとされている。1974年の"Eleven Values"が起源である。そのうち、QualityとCustomer Orientationは日本企業の製造管理に学んだものである。 # Customer Orientation(顧客本位) # Discipline(規律) # Quality(品質) # Risk Taking(危険を負う) # Great Place to Work(素晴らしい労働場所) # Results Orientation(結果本位) === 投資活動 === インテルはその豊富な資金力を背景に'''インテル キャピタル'''(Intel Capital)の名称で[[ベンチャーキャピタル]]活動も行っており、日本企業に限っても過去に以下のような企業に出資している。 * [[エルピーダメモリ]] * [[日本通信]] * [[トリケミカル研究所]] * ベルロックメディア([[吉本興業]]の戦略子会社) * [[デジオン]] * [[ネットインデックス]] * [[ビットワレット]] * [[UQコミュニケーションズ]] === ブランド価値 === ブランド調査会社インターブランドのBusinessWeek誌と共同で行った"The Best Global Brand Ranking 2006"の調査では、インテルのブランド価値は約300億ドルに相当し、[[コカ・コーラ]]、マイクロソフト、IBM、[[ゼネラル・エレクトリック]]に次いで世界で5番目となっている。 === Wintel === {{main|Wintel}} 1990年代後半から2000年頃、PCのハードウェアの中枢であるCPUの市場をほぼ独占したインテルと、ソフトウェアの中枢である[[オペレーティングシステム]]の市場をほぼ独占した[[マイクロソフト]](の[[Microsoft Windows|Windows]])、という状況を指す、「[[Wintel]]」('''Win'''dows + Intel)という[[造語]]があった。 今日ではあまり用いられないが、その背景としては、マイクロソフトがインテルに対して[[x64|AMD64]]を採用するよう要請した、という話が語られるほどのIA-64等による混乱のダメージや、インテル以外のCPU開発に投資したり、逆にインテルが[[Linux]]向けの[[ベンチャーキャピタル]]に投資するなど、両者が比較的健全な関係になったことが挙げられる。また、200x年代、いわゆるゼロ年代には、インテルがまだ公表していないCPUをAppleが採用したり、インテルがAppleのため密かに1年もかけてカスタムCPUを設計製造するなど、AppleとインテルはかつてのWintelよりも親密な関係などと言われることもあったが、それより何よりも、スマートフォンの普及などに代表される「パーソナルコンピュータの斜陽化」によって、PCにおける支配力の意味が薄れたことが大きい。Appleも2010年代には、iPhoneなどで使っているARMへの関与のほうが大きくなっている。 === PCIベンダーID === 現在の多くのコンピュータに使用されている[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]バス規格において、インテルは機器の製造元を表すベンダーIDの値に<!--同社黎明期の-->ヒット作である8086にちなんだ 0x8086 を使用および呼称している。 == CPU脆弱性問題 == {{main|1= [[Meltdown]]|2= [[Spectre]]}} == 独占禁止法違反の疑い == {{出典の明記|date=2021年9月}} 米インテルは[[1998年]]6月より米[[連邦取引委員会]](FTC)の[[独占禁止法]]違反に関する審理を受け、[[1999年]]3月に和解している。日本法人は[[2005年]]3月8日に独占禁止法違反で日本の[[公正取引委員会]]より排除勧告を受けている。ヨーロッパでは、インテルが欧州で不当な販売方法を行っているとして[[欧州委員会]]が[[2001年]]から調査してきた。一時静かだった後、あらためて欧州委員会が2004年に調査を開始した。この結果、[[2007年]]7月27日に欧州委員会は米インテルに対して[[欧州連合競争法]]違反の疑いがあると告知した。日本と欧州連合の勧告では、CPUの販売で競合他社の製品を使わないように不当に働きかけたと指摘された。この取引に応じなかった[[シャープ]]とインテルとは、一時期ほぼ断絶状態にあった。 これに対して、インテルの法務責任者は、MPU市場は正常に機能しており、インテルの行動は適法だと確信していると発表した。一方で[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ]](AMD)は、消費者やPCメーカーのためのMPU市場開放が進むだろうと今回の告知を歓迎した。 [[2008年]]には、[[ニューヨーク州]]が米インテルに対して独占禁止法違反の疑いがあるとして、文章や情報を求める召喚状を送付した。同社がライバルのAMDをCPU市場から閉め出すことでAMDならびに消費者・コンピューターメーカーに損害を与え、独占禁止法に違反していないかを検討するのが目的だとされる。インテルは現在PC向けプロセッサ(MPU)市場の8割近くを占有しており、こうした地位を乱用していないかが争点とされている。政府機関による同様のインテル調査は[[2005年]]3月の日本を皮切りに、韓国、欧州の3拠点で立て続けに行われており、米国でのケースは4例目となる。 [[2009年]]5月13日、欧州委員会はインテルに対して10億6000万ユーロの制裁金を命じた。欧州委員会の発表では、インテルは主要なコンピュータメーカーに対して働きかけ、インテルからCPUを購入することの見返りにメーカーに対してリベートを支払ったとされる。また、各小売業者に対して金銭を渡し、インテル製のCPUを搭載したコンピュータのみ販売するよう取り計らったことが指摘されている。更に、インテルはコンピュータメーカーに対して、AMD製のCPUを搭載した製品の販売差し止めや、発売延期を求め、それら製品の販売ルートに制限を加えたとされる。インテルは欧州委員会の決定内容については争うものの、同委員会の制裁措置を受け入れる意向を発表した<ref>{{Cite news|url=https://japan.cnet.com/article/20393069/ |title=欧州委員会、独占禁止法違反でインテルに14億5000万ドルの制裁金 |date=2009年5月14日 |newspaper=CNET Japan |accessdate=2009-09-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1023 |title=IT業界と独禁法:また始まった大騒動 |publisher=JBpress |date=2009年5月14日 |accessdate=2009-05-18|deadlinkdate=2019-12-22}}</ref>。 [[2009年]]11月4日、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ[[司法長官]]が、インテルを独占禁止法(反トラスト法)違反の疑いで告訴した。当時、一部のコンピューターメーカーに巨額のリベートを提供する見返りとして、AMD製のCPUを使わないよう圧力をかけていたという。更に、[[ヒューレット・パッカード]]、[[IBM]]、[[デル]]などの主要コンピューターメーカーに対しては、AMD製のCPUを利用したパソコンやサーバなどを販売した場合は報復措置を取ると脅していたとされ、例えば当時のヒューレット・パッカードに対しては、一つでもAMD製品を利用した場合は開発中のインテル製品の一部を「引き上げる」と圧力をかけたとしている。 訴訟では、不当行為の是正、州政府機関および顧客への[[損害賠償]]、[[追徴金]]などを求めている<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/digital/cnet/CNT200911050006.html |title=インテル、独禁法違反でニューヨーク州検事総長から提訴 |newspaper=朝日新聞 |accessdate=2009-11-10}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.cnet.com/article/20403022/ |title=インテルからデルへ巨額リベートの疑い--ニューヨーク州検事総長の主張 |publisher=CNET Japan |accessdate=2009-11-10}}</ref>。 2009年11月にインテルとAMDは和解を発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.amd.com/jp/press-releases/Pages/amd-press-release-2009nov12.aspx |title=AMDとインテル、独占禁止法および知的財産をめぐるすべての紛争で和解 |publisher=日本エイ・エム・ディ株式会社 |date=2009年11月12日 |accessdate=2009-12-17}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2009/091113b.htm |title=独占禁止法と知的財産のすべての訴訟で和解 |publisher=インテル株式会社 |date=2009年11月13日 |accessdate=2009-12-17}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。和解によって両社は独占禁止法やライセンスなどのすべての訴えを取り下げ、5年間の特許クロスライセンスを締結し、インテルはAMDに12億5000万ドルを支払い、不当な契約を行わないことで合意した。ただし、両社間だけの問題でない独占禁止法違反に関する調査は米連邦取引委員会や欧州委員会などの各国機関で継続される。 2009年12月16日、米[[連邦取引委員会]](FTC)はインテルを提訴した<ref>{{Cite news|url=https://japan.cnet.com/article/20405496/ |title=FTC、反競争的なビジネス慣習でインテルを提訴 |publisher=CNET Japan |accessdate=2009-12-19}}</ref>。同日、インテルは反論の声明を発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.intel.co.jp/jp/intel/pr/press2009/091217.htm |title=FTC の訴訟に対する声明を発表 |publisher=インテル株式会社}}{{deadlink|date=2019-12-22}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Intel}} {{columns-list|3| * [[特別:CategoryTree/インテル|インテルカテゴリのカテゴリツリー]] * [[CPU]] * [[CPU年表]] * [[ムーアの法則]] * [[The Box]] * [[嶋正利]] * [[x86]] * [[クラスメイトPC]] * [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]] * [[ソリッドステートドライブ|SSD]] * [[マカフィー]] * [[ウインドリバー・システムズ]] * [[OpenCV]] }} == 外部リンク == * {{Official website}} * {{Twitter|IntelJapan}} * 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Extensible HyperText Markup Language
Extensible HyperText Markup Language(エクステンシブル ハイパーテキスト マークアップ ランゲージ)、略記・略称:XHTML (エックスエイチティーエムエル)は、SGMLで定義されていたHTMLをXMLの文法で定義しなおしたマークアップ言語である。その仕様はHTMLと同じくW3Cによって勧告されていた。しかし2007年にW3C HTML WGを設立するとWHATWGとの共同作業を行い、2009年、W3Cは開発を正式に中止した。HTML5はXMLの書式に従わずともMathMLやSVGなどを埋め込むことが可能である。 上述の通りXHTMLは開発が中止されており、この記事には古い内容を多分に含んでいる。しかしながら、HTMLを解釈するユーザーエージェント(Webブラウザなど)は、引き続きサポートしている。 なお、「eXtensible HyperText Markup Language の略である」とされることがあるが、これは間違いであり、XはExの発音を表している。 XHTMLはXMLアプリケーションである。よって、XMLの文法に従うために、HTMLと異なる部分が存在する。以下は、主な文法上の相違点とソースのサンプルである。 メディアタイプがapplication/xhtml+xmlの場合、meta要素のhttp-equiv属性の使用は非推奨となる。代わりにHTTPのヘッダでメディアタイプを指示することが必要となる。 HTML要素#HTML構文とXML構文との違いも参照されたし。 HTML 4.01をXMLにて再定義したもので、HTML 4.01と同様にStrict、Transitional、Framesetという3種類のDTDが存在する。 2000年1月26日に勧告となり、2002年8月1日に改訂版であるSecond Editionが勧告された。 XHTMLのサブセットで、PDAや携帯電話などの小規模な端末を含む、より広域の環境のための仕様である。2000年12月19日にXHTML Basic 1.0が勧告された。 その後、OMAが策定するXHTML Mobile Profileとの不整合を解消する目的で策定された XHTML Basic 1.1が2008年7月29日に勧告された。 Basic1.1では、Basic1.0から次のような変更が行われている。 XHTMLをその要素の目的や役割ごとに分割し、フレームワーク化したもの。XHTML 1.1やXHTML 2.0は、M12nをベースに構築されている。バージョン1.0が2001年4月10日に、バージョン1.1が2008年10月にそれぞれ勧告された。2009年7月現在、バージョン2.0が草案の段階にある。 1.0から1.1ではXML Schemaへの対応などが変更点となった。 機能がモジュール化されたXHTML。XHTML 1.0からの主な違いは、次の通りである。 2001年5月31日に仕様が勧告となった。 2010年11月23日にXHTML 1.1 Second Editionが勧告された。エラッタの修正とXML Schemaへの対応が主な変更点となる。 策定中であるXHTML Role ModuleやAccess Module、WAI-ARIAの語彙を組み込んだ新しいプロファイルとして策定予定。 XHTML Familyの次期バージョンとして策定されていたが、W3Cは2009年07月03日に策定の打ち切りを決定し、今後はHTML5にリソースを注ぐものとした。理由として、XHTML 2.0の市場はHTML5に比べて非常に小さいことがあげられている。 HTML5をXML構文で記述したものは、しばしばXHTML5と呼ばれるが、WHATWG の標準仕様の中ではこの語は用いないことが明言されている。 HTML5をXML構文で記述するための仕様も、HTML5仕様の中で定義されている。そのため、HTML5のXML構文はHTML5の一部である。しかし、HTML5の仕様ではXML構文とHTML構文の間には違いが多く、単に「HTML5」「HTML5ドキュメント」と言う場合には、HTML構文によるもののみを指すことが多い。そのため、実用上はHTML5のXML構文はHTML5と別のものとして扱われることがある。 以下にHTML構文とXML構文の違いをいくつか挙げる。 上記のような違いによってHTML構文と見た目が大きく異なるXML構文の文書として、以下のような例が考えられる。
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Extensible HyperText Markup Language、略記・略称:XHTML (エックスエイチティーエムエル)は、SGMLで定義されていたHTMLをXMLの文法で定義しなおしたマークアップ言語である。その仕様はHTMLと同じくW3Cによって勧告されていた。しかし2007年にW3C HTML WGを設立するとWHATWGとの共同作業を行い、2009年、W3Cは開発を正式に中止した。HTML5はXMLの書式に従わずともMathMLやSVGなどを埋め込むことが可能である。 上述の通りXHTMLは開発が中止されており、この記事には古い内容を多分に含んでいる。しかしながら、HTMLを解釈するユーザーエージェント(Webブラウザなど)は、引き続きサポートしている。 なお、「eXtensible HyperText Markup Language の略である」とされることがあるが、これは間違いであり、XはExの発音を表している。
{{infobox file format | name = XHTML | extension = .xhtml、.xht、.html、.htm | mime = application/xhtml+xml | owner = [http://www.w3.org/ World Wide Web Consortium] | creatorcode = | genre = [[マークアップ言語]] | containerfor = | containedby = | extendedfrom = [[Extensible Markup Language|XML]]、[[HyperText Markup Language|HTML]] | extendedto = | standard = [http://www.w3.org/TR/xhtml1/ 1.0 (Recommendation)],<br /> [http://www.w3.org/TR/xhtml11/ 1.1 (Recommendation)],<br /> [http://www.w3.org/TR/xhtml-basic/ Basic 1.1 (Recommendation)],<br /> [http://www.w3.org/TR/xhtml2/ 2.0 (Working Draft)] }} {{HTML}} '''Extensible HyperText Markup Language'''(エクステンシブル ハイパーテキスト マークアップ ランゲージ)、略記・略称:'''XHTML''' (エックスエイチティーエムエル)は、[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]で定義されていた[[HyperText Markup Language|HTML]]を[[Extensible Markup Language|XML]]の文法で定義しなおした[[マークアップ言語]]である。その仕様はHTMLと同じく[[World Wide Web Consortium|W3C]]によって勧告されていた。しかし[[2007年]]にW3C HTML WGを設立すると[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]との共同作業を行い、[[2009年]]、W3Cは開発を正式に中止した。HTML5はXMLの書式に従わずとも[[Mathematical Markup Language|MathML]]や[[Scalable Vector Graphics|SVG]]などを埋め込むことが可能である。 上述の通りXHTMLは開発が中止されており、この記事には古い内容を多分に含んでいる。しかしながら、HTMLを解釈するユーザーエージェント([[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]など)は、引き続きサポートしている。 なお、「e'''X'''tensible '''H'''yper'''T'''ext '''M'''arkup '''L'''anguage の略である」とされることがあるが、これは間違いであり、'''X'''は'''Ex'''の発音を表している<ref>[http://lists.xml.org/archives/xml-dev/200802/msg00313.html "XML stands for Extensible Markup Language. The X is for the first syllable of Extensible. eXtensible is a spelling error."]</ref>。 == HTMLとの相違点 == XHTMLはXMLアプリケーションである。よって、XMLの文法に従うために、HTMLと異なる部分が存在する。以下は、主な文法上の相違点とソースのサンプルである。 ; XML宣言を書く : XML文書であるため、文書の頭にXML宣言を書くことが奨励されている。[[文字コード]]については、[[UTF-8]]ないし[[UTF-16]]の場合や[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]などのプロトコルで文字コードが指定されている場合は省略可能であるが、常に付与することが推奨される。 <pre> <?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> </pre> ; 要素名・属性名は小文字で書く : XMLでは大文字・小文字が厳密に区別される。XHTML勧告の場合、要素名・属性名は全て小文字でのみ定義されていることから、要素名・属性名は共にすべて小文字で表記しなければならない(なお、属性値はこの限りではない)。 <pre> 正: <p id="iroha">色は匂へど 散りぬるを</p> 正: <p id="IROHA">色は匂へど 散りぬるを</p> 誤: <p ID="iroha">色は匂へど 散りぬるを</p> 誤: <P id="iroha">色は匂へど 散りぬるを</P> 誤: <P ID="iroha">色は匂へど 散りぬるを</P> </pre> ; 要素の終了タグを書く : 要素は必ず開始タグと終了タグを備えていなければならない(終了タグの省略は許されない)。 <pre> 正: <p>色は匂へど 散りぬるを</p><p>我が世誰ぞ 常ならん</p> 誤: <p>色は匂へど 散りぬるを<p>我が世誰ぞ 常ならん </pre> ; 空要素の終了タグも書く : 空要素についても同様に終了タグを付与するか、開始タグの末尾を「/&gt;」としなければならない。 :* 終了タグを付与する <nowiki><br></br></nowiki> という表記の場合は、タグの間に空白類文字すら含めてはいけない。また、後方互換性のために <nowiki><br></br></nowiki> ではなく、<nowiki><br /></nowiki> と表記することが推奨されている<ref>[http://www.w3.org/TR/xhtml1/#C_2 C. HTML Compatibility Guidelines]</ref>。 :* XMLを解釈できない古い[[ユーザーエージェント|UA]]で <nowiki><br/></nowiki> という表記に対し、"br/" を要素名とみなし無視してしまう可能性があることを考慮し、XHTMLでは <nowiki><br /></nowiki> のようにスラッシュの前に半角スペースを先行させる表記が一般的である。 <pre> 正: <em>色は匂へど 散りぬるを</em><br />(推奨) 正: <em>色は匂へど 散りぬるを</em><br/> 正: <em>色は匂へど 散りぬるを</em><br></br> 誤: <em>色は匂へど 散りぬるを</em><br> 誤: <em>色は匂へど 散りぬるを</em><br> </br> </pre> ; 属性値はダブルクォーテーションで囲む : 属性値はすべて " " (ダブルクォーテーション)ないし <nowiki>' '</nowiki>(シングルクォーテーション)で囲まなければならない。 <pre> 正: <input type="text" size="8" /> 正: <input type='text' size='8' /> 正: <input type="text" size='8' /> 誤: <input type=text size=8 /> </pre> ; 属性名を省略せず書く : 属性名を省略してはならない。なお、これらを属性値の省略という例が存在するが、SGMLやXMLの観点からは正しいとはいえない。 <pre> 正: <input type="checkbox" checked="checked" /> 誤: <input type="checkbox" checked /> </pre> ; 推奨されるメディアタイプ : 推奨されるメディアタイプが「text/html」から「application/xhtml+xml」に変更された<ref>W3C Note: XHTML Media Types &lt;http://www.w3.org/TR/xhtml-media-types&gt;</ref>。また、HTMLで従来使用されていたtext/htmlは、XHTML1.1以降では非推奨となっている。 <pre><meta http-equiv="Content-Type" content="application/xhtml+xml; charset=Shift_JIS" /> </pre> メディアタイプがapplication/xhtml+xmlの場合、meta要素のhttp-equiv属性の使用は非推奨となる<ref>[http://www.w3.org/TR/2002/NOTE-xhtml-media-types-20020801/#application-xhtml-xml XHTML Media Types] - [[W3C]] Note、2002年8月1日(2013年12月5日閲覧)。</ref>。代わりに[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]のヘッダでメディアタイプを指示することが必要となる。 [[HTML要素#HTML構文とXML構文との違い]]も参照されたし。 == 歴史 == === XHTML 1.0 === HTML 4.01をXMLにて再定義したもので、HTML 4.01と同様にStrict、Transitional、Framesetという3種類の[[Document Type Definition|DTD]]が存在する。 [[2000年]][[1月26日]]に勧告となり、[[2002年]][[8月1日]]に改訂版であるSecond Editionが勧告された。 === XHTML Basic === XHTMLのサブセットで、PDAや携帯電話などの小規模な端末を含む、より広域の環境のための仕様である。[[2000年]][[12月19日]]にXHTML Basic 1.0が勧告された。 その後、[[OMA]]が策定する[[XHTML Mobile Profile]]との不整合を解消する目的で策定された XHTML Basic 1.1が[[2008年]][[7月29日]]に勧告された。 Basic1.1では、Basic1.0から次のような変更が行われている。 * target属性やscript/style要素、style属性の追加 * [[XForms]]よりinputmode属性の追加 === XHTML Modularization (Modularization of XHTML, M12n) === XHTMLをその要素の目的や役割ごとに分割し、フレームワーク化したもの。XHTML 1.1やXHTML 2.0は、M12nをベースに構築されている。バージョン1.0が[[2001年]][[4月10日]]に、バージョン1.1が2008年10月にそれぞれ勧告された。2009年7月現在、バージョン2.0が草案の段階にある。 1.0から1.1ではXML Schemaへの対応などが変更点となった。 === XHTML 1.1 === 機能がモジュール化されたXHTML。XHTML 1.0からの主な違いは、次の通りである。 * 機能がモジュール化され、カスタマイズ性が向上した。 * HTML 4.0以来複数あったスキーマが、従来のStrictスキーマの思想を基としたスキーマ1つのみとなった。 * [[ルビ]]モジュールが導入された。 [[2001年]][[5月31日]]に仕様が勧告となった。 2010年11月23日にXHTML 1.1 Second Editionが勧告された。エラッタの修正とXML Schemaへの対応が主な変更点となる。 === XHTML 1.2 === 策定中であるXHTML Role ModuleやAccess Module、WAI-ARIAの語彙を組み込んだ新しいプロファイルとして策定予定。 === XHTML 2.0 === XHTML Familyの次期バージョンとして策定されていたが、W3Cは2009年07月03日に策定の打ち切りを決定し、今後は[[HTML5]]にリソースを注ぐものとした。理由として、XHTML 2.0の市場はHTML5に比べて非常に小さいことがあげられている。 === HTML5のXML構文 === HTML5をXML構文で記述したものは、しばしばXHTML5と呼ばれるが、WHATWG の標準仕様の中ではこの語は用いないことが明言されている<ref>[https://html.spec.whatwg.org/multipage/xhtml.html#the-xhtml-syntax HTML Living Standard — Last Updated 31 May 2021 §14 The XML syntax]</ref>。 HTML5をXML構文で記述するための仕様も、HTML5仕様の中で定義されている。そのため、HTML5のXML構文はHTML5の一部である。しかし、HTML5の仕様ではXML構文とHTML構文の間には違いが多く、単に「HTML5」「HTML5ドキュメント」と言う場合には、HTML構文によるもののみを指すことが多い。そのため、実用上はHTML5のXML構文はHTML5と別のものとして扱われることがある。 以下にHTML構文とXML構文の違いをいくつか挙げる。 * HTML構文の場合は要素名は固定だが、XML構文の場合は要素の名前空間が "http://www.w3.org/1999/xhtml" に属していれば接頭辞付きが許される(XHTML1.x以前には、[[文書型宣言]]にモジュールを追加することで接頭辞を付けることを可能としていたが、基本的には許されなかった) * HTML構文では限定的なSVG, MathMLの拡張しか行えないが、XML構文では名前空間を用いて制限なく拡張ができる(以下の例ではxml:id属性を利用している) * 従来のHTML/XHTMLで許されていたDTDを用いた[[文字参照]]が不可能となった(HTML5はもはやSGMLに基づいていない)。 上記のような違いによってHTML構文と見た目が大きく異なるXML構文の文書として、以下のような例が考えられる。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <!-- これは妥当なHTML5のXML構文。ただしHTML構文との互換性はない --> <?xml-stylesheet type="text/css" href="test.css"?><!-- 左のようなXML処理命令も書ける --> <!-- この場合、ルート要素がxhtml:htmlのため、通常のHTML5のように "<!DOCTYPE html>" という文書型宣言は行えない --> <xhtml:html xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml" xml:lang="ja"> <xhtml:head> <xhtml:title xml:id="title">XML名前空間を用いた拡張例(xml:id)</xhtml:title> <xhtml:script><![CDATA[ ... ]]></xhtml:script> </xhtml:head> <xhtml:body> <xhtml:p> ... </xhtml:p> </xhtml:body> </xhtml:html> </syntaxhighlight> == 関連項目 == * [[HyperText Markup Language|HTML]] * [[Standard Generalized Markup Language|SGML]] * [[Extensible Markup Language|XML]] * [[Cascading Style Sheets|CSS]] * [[Extensible Binary Meta Language|EBML]] * [[XHTML MP]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == {{Wiktionary|XHTML}} * [http://www.w3.org/TR/xhtml1 XHTML 1.0 The Extensible HyperText Markup Language] * [http://www.w3.org/TR/2008/REC-xhtml-basic-20080729/ XHTML Basic 1.1] * [http://www.w3.org/TR/xhtml-basic/ XHTML Basic] * [http://www.w3.org/TR/xhtml11/ XHTML 1.1 - Module-based XHTML] * [http://www.w3.org/TR/xhtml2/ XHTML 2.0 (Working Draft)] * [http://www.w3.org/ W3C] {{W3C標準}} {{マークアップ言語一覧}} {{Computer-stub}} {{Normdaten}} [[Category:W3C勧告]] [[Category:XMLベースの技術]] [[Category:HTML]] [[Category:長大な項目名]] [[Category:オープンフォーマット]]
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Extensible Markup Language
Extensible Markup Language(エクステンシブル マークアップ ランゲージ)は、基本的な構文規則を共通とすることで、任意の用途向けの言語に拡張することを容易としたことが特徴のマークアップ言語の総称である。一般的にXML(エックスエムエル)と略称で呼ばれる。JISによる訳語は「拡張可能なマーク付け言語」と定義している。XML文書のフォーマットを予め統一することで、異種プラットフォーム間での情報交換も可能となる。 SGMLからの移行を目的として開発された。文法はSGMLの構文解析器と互換性を保つようにSGMLのサブセットに定められシンプルになり、機能はSGMLに無いものが追加されている。 XML の仕様は、World Wide Web Consortium (W3C) により策定・勧告されている。1998年2月に XML 1.0 が勧告された。2010年4月現在、XML 1.0 と XML 1.1 の2つのバージョンが勧告されている(#バージョン)。 ちなみに、「eXtensible Markup Language の略である」と書かれることがあるが、これは間違いであり、XはExの発音を表している。 XMLは、個別の目的に応じたマークアップ言語群を創るために汎用的に使える。マークアップ言語とは、コンピュータ言語の一種で(広義の「コンピュータ言語」であり、プログラミング言語ではないデータ記述言語などを含む意味)あるが、詳細は「マークアップ言語」の記事を参照のこと。XMLは、その「入子状にタグで囲まれたもの」という構文を共通としたことで、拡張が容易であるとして「extensible」と主張している。 上記の理由もあって、しばしば「あらゆる目的に使える」などと主張されるが、データ構造的には木であって、より入り組んだネットワーク構造(グラフ構造)を直接扱うことは不可能である(XLinkなどの提案はあるが)。 XMLの最も重要な目的は、異なる情報システムの間で、特にインターネットを介して、構造化された文書や構造化されたデータの共有を、容易にすることである。XMLを使うと、文書を構造化して記述できるし、コンピュータのデータを直列化 (シリアライズ) できる。データを直列化する用途でXMLを使う際には、XMLは、JavaScript Object Notation (JSON) やYAMLなどの、テキストを基にした他の直列化言語と比較衡量できる。 XMLは、ユーザが定義したタグを用いて文章構造を記述するマークアップ言語である。HTMLが、Webページを記述するための言語であるのに対して、XMLは、データ交換のための汎用のデータ形式である。HTMLで使用するタグはあらかじめ定義済みのものだが、XMLではユーザが新しくタグを定義して、データの意味や構造を記述することが可能である。 XMLで文書の論理的構造を規定する制約を追加することによって、XMLを適用したマークアップ言語を実装できる。XMLを適用したマークアップ言語は非常に多く存在している (#XMLの応用の節を参照)。例えば、Extensible HyperText Markup Language (XHTML)、DocBook、RSS、Mathematical Markup Language (MathML)、ebXML、Scalable Vector Graphics (SVG)、MusicXML などがある。さらにXMLは、そういった個別のXMLについての構文規則を示すためのスキーマ言語も用意している。スキーマ自体もXMLのXML Schemaの他、XMLではない記法でとても簡潔に大変わかりやすく書ける、Compact Syntaxも用意されているRELAX NGもある。 XMLは、同じく汎用的に使えるマークアップ言語である Standard Generalized Markup Language (SGML) の、簡素化されたサブセットとして、人間にとっても比較的判読しやすいように設計された (#歴史を参照)。XMLの仕様は、XMLワーキンググループなどにより設計が行われ、World Wide Web Consortium (W3C) により勧告 (策定) されている。XMLは無償で使えるオープン標準の技術である。XML仕様のW3C勧告ではXMLの文法とXMLプロセサ (XMLパーサ、XML文書の構文解析器) のための要件を定めている。1998年2月に XML 1.0 が勧告され、2004年2月に XML 1.1 が勧告された(#バージョン参照)。 XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある (#整形式XML文書と妥当なXML文書を参照)。XML文書のマークアップ規則に従って記述されていることだけが問題とされる文脈で、スキーマ言語を使わずに、XML文書のマークアップ規則に従って記述された文書を、「整形式XML文書」 (well-formed XML document) という (#XMLの構文と整形式XML文書を参照)。さらに、XML文書をより厳密に構造化した文書やデータとして扱いたい場合は、XML文書の構造をスキーマ言語によって定義することができ、XMLプロセサでそのXML文書(XMLインスタンス)に対してその文書構造に従っていることを検証する(妥当性検証を行う)というように、XML技術を使うこともできる (#XML文書の論理的構造と妥当なXML文書を参照)。 XML文書に対して妥当性検証を行うことにより、従来アプリケーションソフトウェアで行ってきた、XML文書の構造の検査や、XML文書に含まれるデータに対するデータ型のチェックや値の範囲のチェックが、可能となる。スキーマ言語としては Document Type Definition (DTD、文書型定義)、W3C XML Schema、RELAX NG (文書スキーマ定義言語: DSDL)などがある。XML文書の構造がスキーマ言語によって定義され、XML文書の妥当性を検証するソフトウェアによって妥当性が検証されたXML文書のことを「妥当なXML文書」 (valid XML document) という。整形式XML文書は、妥当なXML文書である場合と、妥当なXML文書ではない場合とがある。スキーマ言語を採用して妥当性検証を行う方法でXMLを使うこともできるし、スキーマ言語を採用せず妥当性検証を行わないで手軽にXMLを使うこともできる。 XML勧告では、XMLプロセサがサポートすべき文字符号化方式(文字コード)としてUTF-8とUTF-16 (Unicode) を定めているため、英語以外の言語も扱いやすくなっている (#多言語環境で使うを参照)。また、UTF-8とUTF-16以外の文字コード(UCS-4、EUC-JP、Shift_JIS、EBCDICなど)を用いることも可能である。 XMLだけでは最低限の書式しか決められていないため、XMLの力を引き出す各種の関連技術が別途標準化されている (#XMLの拡張および#XML文書をプログラムで処理する、#XML文書を視覚的に表示する、#XML情報集合を参照)。 以下に挙げるものをはじめとして、現在も多くの関連技術の標準化作業が行われている。 XMLは現在、広く普及している技術であるが、その技術的な有用性などについて、肯定的に評価する人々が多い一方で、批判的に評価する人々も多い (#XMLに対する支持と批判を参照)。 XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある。なおXML文書に対して、整形式XML文書としての検査のみを行うXMLプロセサを非検証XMLプロセサといい、整形式XML文書としての検査に加えて妥当なXML文書としての検査を行うXMLプロセサを検証XMLプロセサという。 整形式XML文書が満たすべき構文の規則を説明する。 整形式XML文書としての条件が満たされることのみを考慮する場合 (スキーマ言語を使わずに手軽にXMLを使う場合) においても、XMLは、大量の文書やもしくは木構造として表現することができるデータを格納するための、一般的な枠組みとしての役割を果たすことができる。 XML文書は、要素 (element) と属性 (attribute) が複数集まって、構成されている。 要素は内部に子要素を含むことができる。属性は要素に付随し、属性の内部に子要素を含むことはできない。要素は開始タグと終了タグで内容を挟むことで表現する。 開始タグは「<要素名>」、終了タグは「</要素名>」で記述する。 一つの要素を記述するための基本的な構文を次に示す。 ここで、<要素名 属性="値"> をこの要素の開始タグといい、</要素名> を終了タグという。「内容」は何らかのテキストである。 次に示す例は整形式XML文書である。 この例は、書籍という要素を一つもつXML文書である。<書籍> が書籍要素の開始タグであり、</書籍> が書籍要素の終了タグである。「出版日="2007-10-31"」は書籍要素の属性である。この属性の名前 (属性名) は「出版日」であり、この属性の値 (属性値) は "2007-10-31" である。「これは書籍です.... 」は、書籍要素の内容である。 要素の内容を構成するテキストはまた、さらに任意の数の要素を含むことができる (なお、このように一つの要素内に文字列データと子要素が混在するものを、「混合内容」と呼ぶ)。 すなわち、一般的なXML文書は木構造をなす。 この点において、XMLはプログラミング言語LISPのS式と似ている。 S式でも木構造を記述する。S式の木構造のおのおのの節は、自分自身のプロパティリストをもつことができる。 要素は内部に別の要素を含むことができる。構造化したXML文書の例を示す。 要素の属性の値は、必ずシングルクォート (') かダブルクォート (") で括らなければならない。そして要素内にある属性は、互いに属性名が異なっていなければならない。XML文書では要素は正しく入れ子になっていなければならない。要素は決してオーバーラップしていてはならない。 例えば、次の文書は整形式XML文書ではない。なぜなら 書名 要素と 著者 要素がオーバーラップしているからである。 次の2つの文書は整形式XML文書である。 整形式XML文書においては、XML文書は正確に一つのルート要素 (文書要素; document element とも呼ばれる) をもたなければならない。ルート要素とは、XML文書の要素の階層構造において最上位の要素のことをいう。最上位の要素は一つでなければならない。最上位の要素が複数ある文書は、整形式XML文書ではない。 整形式XML文書が一つのルート要素をもたなければならないという条件が意味することは、整形式XML文書のテキストは、ルート要素の開始タグと対応する終了タグの間に、収められなければならないということである。ルート要素の開始タグと終了タグの間に収められたテキストは、任意の数の要素や文字列データを含むことができる。 ルート要素の前に、必要に応じて、XML宣言 (XML declaration) をおくことができる。このXML宣言は、XMLのどのバージョンが使われているか (現時点ではバージョン1.0であることが多い) などを示す。XML宣言では、XMLのバージョンの他に、文字符号化方式 (文字コード) の指定や、他のXML文書との依存関係についての指定を、行うこともできる。 XML宣言を含んだXML文書の例を示す。 XML仕様では、XMLプロセサ (XMLパーサ、XML文書の構文解析器) が、Unicodeの文字符号化方式であるUTF-8およびUTF-16で記述されたXML文書を処理できることを、必須条件としている (UCS-4は必須条件ではない)。XMLプロセサは、UTF-8およびUTF-16の他にも、いくつかの任意の文字符号化方式の文書を処理できるようにして良い。例えば、UCS-4、EUC-JP、Shift_JIS、EBCDICなどの文字符号化方式の文書を処理できるXMLプロセサが、広く普及し、使われている。 コメントはXML文書の木構造のどこにでもおくことができる。 コメントは、"<!--" で始まり、"-->" で終わる。 なお、コメント内に "--" を含むことはできない。 コメントを含むXML文書の例を示す。 内容のない要素を空要素 (empty element) という。XMLでは、空要素を表現するために特別な構文を使うことができる。開始タグを書きその直後に終了タグを書くこともできるが、その代わりに空要素のタグを使うことができるのである。空要素タグは開始タグと似ているが、閉じ括弧の直前にスラッシュをおく。 次の3つの例は、XMLでは同等である。 空要素タグは属性を含むことができる。 XML文書ではどのUnicodeの文字も (XMLで特別な意味をもつ、開き山括弧 "<" のような文字を除いて)、要素名として、属性名として、コメント内容として、文字データとして、処理命令 (後述) として、直接に使うことができる。このため、漢字とキリル文字を共に含む次の文書も、整形式XML文書である。 XML文書 (あるいはSGML文書、HTMLウェブページを含む) において、文書型宣言 (DOCTYPE宣言、Document Type Declaration) は、その文書を特定の Document Type Definition(DTD、文書型定義) のスキーマと関連づけることを記述するものである。なお、Document Type Definition (DTD、文書型定義)は、XMLで使うことができるスキーマ言語の一つである。文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していることを宣言する。 XML文書では文書型宣言を記述してもよいし、記述しなくてもよい。DTDをスキーマ言語として妥当性検証を行うことを想定しているのであれば、文書型宣言の記述は必須となるであろう。DTDで妥当性検証を行わない場合でも、後述する実体参照などを文書中で使うのであれば、文書型宣言において文書中で使う実体を宣言することができる。 文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していること (妥当なXML文書であること) を、保証しているわけではない。文書型宣言に記されたスキーマに準拠しているかどうかを判断するには、検証XMLプロセサでその文書を検証する必要がある。 文書型宣言の一般的な構文は次のとおりである。 ここで外部サブセットとは、そのXML文書のDTDを構成する (要素の型の宣言、後述する実体の宣言などの) 宣言群のうち、別ファイルに記述された宣言群のことである。また内部サブセットとは、そのXML文書のDTDを構成する宣言群のうち、文書型宣言内に直接記述された宣言群のことである。 XHTML 1.0 Strict に準拠したXML文書での文書型宣言は、次のとおりである。 XML文書においては、ルート要素がその文書の最初の要素である (例えば、XHTMLではルート要素は html である)。SYSTEM キーワードと PUBLIC キーワードは、その文書型 (文書の構造) の種類を指定する。一般に広く知られていないDTDを使う場合は、SYSTEM キーワードを使う。一般に広く知られているDTDを使う場合 (XHTMLなど) は、PUBLIC キーワードを使う。 内部サブセットは必要に応じて記述する。 内部サブセットとして、DTDの一部分もしくはDTDの全体を記述することができる。 なお、内部サブセットとしてDTDの全体を記述する場合は、SYSTEMキーワード・PUBLICキーワード・外部サブセット参照は、いずれも記述しない。 実体参照 (entity reference) は、実体を表現するプレースホルダである。 XMLにおける実体 (entity) とは、SGMLにおける実体と同じように、名前の付けられたデータの本体である。具体的には、ファイルもしくは置換文字列のように、何らかの形でXML文書の一部となるデータを格納しているもののことである。置換文字列を使う事例としては、次のような場合がある。 実体参照の構成は、まず最初にアンパサンド ("&") があり、その後に実体の名前が続き、セミコロン (";") で終わる。 XMLには、事前宣言された実体として次の表に示す5つの実体がある。 「AT&T」の名前でアンパサンドを表現するために、事前宣言されたXMLの実体を使う例を示す。 事前宣言された実体以外の実体を宣言する必要がある場合、XML文書の Document Type Definition (DTD、文書型定義) の内部で宣言する。 XML文書の内部に定義されたDTDを使って、置換文字列としての実体を宣言して、実体参照を使う例を次に示す。宣言された実体は、一つの文字であっても良いし、テキストの断片であっても良いし、他の実体への参照を含むテキストであっても良い。 XMLに準拠したブラウザを使うと、先のXML文書は次のように表示される。 ファイルの実体を参照するXML文書の例を示す。 なお、別ファイル another-file.xml には次の内容が記されていることとする。 XMLに準拠したブラウザでこのXML文書を表示すると、次のようになる。 文字参照 (character reference) は、文字をXML文書内でコード番号を指定して記述する記法である。文字参照は、実体参照と似ているが、実体参照では名前を使うのに対し、文字参照ではその部分で始めに "#" 文字を記述し続けて数字を記述する。 文字参照で使う数字は、符号化文字集合の国際規格である ISO/IEC 10646 (およびUnicode) のコード番号である。文字参照で使うことができる数字は、十進数であるか "x" を前につけた十六進数である。文字参照は、実体参照とは異なり、事前宣言されているわけでもなく、XML文書のDTD内部で宣言されているわけでもない。文字参照は、簡単には符号化できない文字を表現するために使われることが多い。例えば、欧州のコンピュータ上で作成するXML文書でアラビア語の文字を使う場合などである。「AT&T」の例の内のアンパサンドは、この場合に似ているともいえる。十進数の38と十六進数の26は、共に ISO/IEC 10646 の "&" 文字のコード番号である。つまり「AT&T」はXML文書では次のように記述することができる。 処理命令 (processing instruction) は、XML文書の構成要素であり、XML文書を扱うソフトウェアに対する何らかの処理を行う命令を、記述する内容が、処理命令である。 次に処理命令の構文を示す。 処理命令は ?> の文字列を除き任意の処理内容を記述することができる。処理命令には、処理内容として擬似属性 (pseudo attribute) を記述することがある。擬似属性は、記述のしかたが属性名と属性値のペアに似ている。しかしXMLプロセサは擬似属性を、属性として解釈せず、処理命令の処理内容として解釈する。 擬似属性を使った処理命令の例を次に示す。 これはXML文書にカスケーディングスタイルシート (CSS) と関連づけるという処理命令である。 あるXML文書内に記述された特定の処理命令について、その処理命令をプログラマーが意図したとおりの処理を実行させるためには、そのXML文書を処理するアプリケーションソフトウェア側がその処理命令に対応する必要がある。 XML文書 (およびSGML文書) においてCDATAセクションとは、文字列データのみで構成されておりマークアップされたデータは含まれていないと、XMLプロセサが解釈するようマークされた、要素の内容を構成する文字列データの一部である。CDATAセクションは、文字列データを表現するための単なる代替構文である。 CDATAセクションとして宣言された文字列データと、"<" と "&" を "&lt;" と "&amp;" で表現する通常の構文で記述した文字列データとの間に、意味的な違いはない。 CDATAセクションは次の記述で始まる。 そしてCDATAセクションの内容が続き、次の記述が最初に出現したところでCDATAセクションは終わる。 CDATAセクションの内容の文字列は全て文字列データとして解釈され、マークアップや実体参照や文字参照として解釈されることはない。 次の例で「送信者」の開始タグと終了タグはマークアップとして解釈される。 しかし次のように記述した場合は、 次のように記述したものと同等に解釈される。 すなわち、「送信者」タグは「星新一」の文字列と同列に位置づけられ、いずれも文字列データとして解釈される。 文字参照 &#x00F0; が要素の内容で出現した場合は、一つのUnicode文字 00F0 ("ð") として解釈される。しかしCDATAセクション内で出現した場合は、8つの文字からなる文字列として解釈される。 すなわち、アンパサンド、#マーク、文字x、数字0、数字0、文字F、数字0、セミコロンの8つの文字からなる文字列として解釈される。 整形式XML文書は、とりわけ、次に示す規則に適合しなければならない。 要素の名前ではアルファベットの大文字と小文字とが区別される。例えば、次の例は整形式である。 しかし次の例は整形式ではない。 XML文書のスキーマを設計する際に、XMLの要素の名前を注意深く選択すると、そのスキーマに準拠したXML文書のデータの意味を、第三者に伝えるために有効であろう。XMLの要素の名前を注意深く選択することにより、そのスキーマに準拠したXML文書は、人間にとって読みやすいものとなる。 XMLの要素と属性の名前を、体が名を表すように注意深く選択決定することで、人間がXML文書を読む際に、要素と属性の意味を、外部の説明文書を参照することなく、よりよく理解できるようになる利点が生まれる。ただしこのような作業を行うことは、XML文書の冗長性が増えることでもある。 人によっては、XML文書を書く際の労力が増えることを、好まない場合がある。またファイルサイズも大きくなることになる。ただし圧縮技術をXML文書に適用してファイルサイズを小さくすることは可能である。 整形式XML文書を正確に書くためには、ここまで述べたことよりずっと多くの規則にしたがう必要がある。例えば、XML名前空間を使うことや、XMLでの「名前」として使うことができる正確な文字集合を使って、XML文書を書くことなどである。とはいえ、ここまで述べた整形式文書に関する概略を理解しておけば、多くのXML文書を読み理解しあるいは多くのXML文書を書くために必要な基礎は、身についたといえる。 XML文書の正当性を自動的に検査するための方法を説明する。 あるXML文書が、整形式XML文書としての条件のみを満たした文書であるか、それとも妥当なXML文書としての条件をも満たした文書であるかを、判別することは、比較的容易である。というのも、整形式XML文書であるための規則と、XMLの妥当性検証のしくみについては、XML文書を扱うツールの移植性を考慮して設計されているからである。つまりこの設計方針は、XML文書を扱うツールであれば、どのようなXML文書でも扱うことができるということである。 独立したツールを使い、XML文書の正当性を自動的に検査する例を示す。 妥当なXML文書について詳しく説明する。 XMLでは、要素に名前を付けることができ、階層構造をとることができ、スキーマ言語 (Document Type Definition など) により用途に沿うように定義されたスキーマを使うことで要素と属性の意味を公開し説明することができる。XMLのこうした特徴により、目的に応じたXMLに準拠したマークアップ言語を創るための、構文的な基礎が成り立っている。 スキーマは、制約の集合を記述することにより、XML文書の構文上の規則を単に補足するのみである。スキーマは、多くの場合、要素と属性の名前を限定し、各要素が内容とするものの階層構造を規定し、属性の内容を規定する。例えば、「誕生日」という名前の要素では、「月」という名前の一つの要素と「日」という名前の一つの要素をもつことができ、「月」要素と「日」要素のそれぞれは文字列データのみをもつことができる。 スキーマに定義された制約には、データ型の割り当てを含むことができる場合がある。 データ型を割り当てることにより、データ型が割り当てられた情報がどのように処理できるかを、規定することができる。 例えば、「月」要素の文字列データは、そのXML文書で採用したスキーマ言語の機能に準拠して、「1」から「12」までの数字のみが妥当であるという形で、定義することができる可能性がある。ここでスキーマ言語の (データ型に関する) 機能とは、おそらく特定の方法で形式にしたがって記述しなければならないということだけでなく、別のデータ型の値であるかのように処理されることを未然に防ぐことを、意味する。 何らかのスキーマに準拠したXML文書は、整形式であるということに加えて、妥当 (valid) であるということが成り立つ。 XMLのスキーマは、XMLの文書型 (文書の種類、文書の論理的構造) を記述したものである。 多くの場合スキーマは、その文書の構造と内容に関する制約という形で表現される。XMLのスキーマは、XML仕様で規定されている、整形式XML文書としての基本的な制約に加え、それ以上の制約をXML文書に課すことができる。XMLのスキーマ言語は、標準規格のものもプロプライエタリなものも含めて、こうしたスキーマを表現するという目的のもと、数多く存在している。いくつかのスキーマ言語では、スキーマ自身をXML文書として記述する。 スキーマ言語の記述能力はスキーマ言語ごとにさまざまである。例えばスキーマ言語の一つである Document Type Definition (DTD) では、XML文書がとるべき構造の主な規則として、そのDTDに準拠したXML文書で使うことができる要素の名前、要素の内容モデル、要素で指定できる属性の名前、属性の値のデータ型を、記述することができる。 なお、要素の内容モデルとは、要素の内容に出現可能な要素やデータとその順番、および要素の出現回数を規定したもののことをいう。 Standard Generalized Markup Language (SGML) やXMLなどの汎用的なデータ記述言語が世に出る前は、ソフトウェア設計者は、複数のプログラムの間でデータの受け渡しをするために、自分自身でファイルフォーマットを定義するか、ちょっとしたコンピュータ言語を定義しなければならなかった。このため受け渡しするデータの詳細な仕様やその他の文書を書かなければならなかったし、文書の書き手を別途に確保しなければならないこともあった。 XMLが一定の構造をもち厳密な構文解析の規則をもつことで、ソフトウェア設計者は構文解析の作業を標準的なソフトウェアツール (妥当性検証器、バリデータ) に任せることができる。そしてXMLには、用途に特有の言語を開発するための一般的な、データモデル指向の枠組みがある。 このためソフトウェア開発者は、比較的高水準の抽象度において、自分たちが扱うデータの規則の開発に専念するだけでよい。 XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うための、十分にテストされたツールが、数多く存在している。XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うためのツールを、妥当性検証器 (バリデータ) という。妥当性検証器は、スキーマに表現された制約にXML文書が準拠しているかについて、自動的に妥当性検証を行う。 妥当性検証器は、XMLプロセサ (XMLパーサ) に含まれていることもあれば、XMLプロセサとは別に提供されていることもある。 これまでに述べたスキーマの使い方とは別の使い方も存在する。 例えば、XMLエディタは、XML文書の編集を支援するためにスキーマを使うことができる。こうしたXMLエディタでは、妥当な要素名や妥当な属性名を提示することなどができる。 XMLのための最も歴史の古いスキーマ言語は Document Type Definition (DTD、文書型定義) である。DTDは、XMLの前身であるSGMLから引き継がれた。DTDは XML 1.0 標準に含められているため、ほとんどあらゆるXMLプロセサがDTDを扱うことができる。しかし2007年現在ではDTDを使うことは限定的な範囲にとどまっているようである。その理由は次のとおりである。 DTDは現在も多くの用途で使われている。その理由は、一定の人々にとってはDTDは他の新しいスキーマ言語よりも読みやすく書きやすいと考えられているからである。 XML Schema は、World Wide Web Consortium (W3C) により開発された、DTDの後継となる新しいスキーマ言語である。 非公式には、XSDと呼ばれることもある。XSDは、XML Schema のインスタンス (スキーマ) を意味する "XML Schema Definition" の頭字語である。 XML Schema は、豊富なデータ型を扱うことができるスキーマ言語である。XML文書の論理的構造について、DTDより詳細な制約を記述することができる。そしてDTDより詳細な妥当性検証の枠組みのもとで、妥当性検証が行われる。他にも、XMLによるマークアップ言語のスキーマの記述能力において、DTDと比べて非常に高いという長所も備えている。 また、XML Schema によるスキーマ自体を、XMLに準拠した形式を使って記述する。XML Schema のスキーマ自体がXMLに準拠することで、スキーマを編集したりスキーマに何らかの処理を行うために、普通のXMLツールを使うことができるようになる。 ただし、XML Schema の妥当性検証器を実装する作業には、単にXML文書を読むことができる能力よりも、非常に多くの知識と能力を必要とする。 XML Schema に対しては賛否両論がある。XML Schema に対する批判の一部を示す。 RELAX NGは人気のあるもう一つの新しいスキーマ言語である。2001年12月にOASIS (構造化情報標準促進協会) で仕様が策定された。ISO (国際標準化機構) にて定められた国際標準でもある。ISOでは、文書スキーマ定義言語 (DSDL) の一部分を構成する仕様として位置づけられている。 RELAX NGのスキーマの記述方法は、2つの形式がある。XMLに準拠した構文 (XML構文、xml syntax) と、XMLに準拠しない短縮構文 (compact syntax) である。短縮構文は、読みやくすることとより書きやすくすることを目指している。ただし、短縮構文で記述されたスキーマをXML構文のスキーマに変換する方法と、その逆の変換を行う方法は、予め定義されているので、ジェームズ・クラークが開発した Trang conversion tool を使えば、標準のXMLツールを使う利便を享受することができる。 RELAX NGはXML Schemaよりも簡潔なスキーマ定義と簡潔な妥当性検証の枠組みを、備えている。そのためRELAX NGは、XML Schema と比べて、使いやすく、またRELAX NGの妥当性検証器を実装することも容易になっている。 RELAX NGもまた、データ型フレームワークプラグインを使う機能を備えている。 RELAX NG でスキーマを記述する人は、例えば、XML文書でXML Schemaのデータ型の定義に適合させたいと考えるかもしれない。 そして RELAX NG では、データ型フレームワークプラグインを使うことにより可能となっている。 ISO 文書スキーマ定義言語 (DSDL; Document Schema Description Languages) 標準は、小規模なスキーマ言語の広範なセットを共に提供する。DSDLを構成する複数の仕様のそれぞれが、特定の問題に対応するために特化されている。DSDLはRELAX NGのXML構文と短縮構文、スキマトロン、データ型ライブラリ言語、文字レパートリ記述言語、文書スキーマ再命名言語、名前空間に基づく検証委譲言語 (NVDL) を、含んでいる。DSDLスキーマ言語群はXML Schemasを支持するベンダの支援は2007年の時点ではまだ受けていない。DSDLは出版のための機能が欠如していることに対する、出版業界の一定の草の根の反応でもある。 いくつかのスキーマ言語では、特定のXML文書の構造を記述する能力に加えて、個々のXML文書をその特定のXML文書構造に適合するように変換する機能も、限定的ながら備えている。 DTDとXML Schemaはこの変換機能を備えている。 DTDと XML Schema では、XML文書に属性の既定値を与えることができる。RELAX NGとスキマトロンは、意図的にこの機能を外している。 例えば、XML情報集合を正確に扱うことが、RELAX NGとスキマトロンの仕様策定時に変換機能を外した理由の一つである。 XML文書を視覚的に表示するための方法を説明する。 XML文書は、その文書の内容をどのように視覚的に表示するかという情報を、一切含んでいない。 Cascading Style Sheets (CSS) や Extensible Stylesheet Language (XSL) のようなXMLのためのスタイルシート言語を使うのでなければ、ほとんどのウェブブラウザは普通のXML文書を生のXMLテキストとして描画する。いくつかのウェブブラウザは「ハンドル」をつけて表示する (例えば、余白に + と - の符号を表示する)。ハンドルを使うことにより、XML文書構造の部分木を、マウスクリックで展開したり折りたたんだりすることができる。 CSSを使ってウェブブラウザでXML文書を描画するためには、XML文書は次のような要領でスタイルシートへの参照を含めなければならない (XMLの処理命令を使ってスタイルシートを使って描画する旨を指定している)。 この方法は、HTML文書におけるスタイルシート指定の方法とは異なる。HTML文書では <link/> 要素を使ってスタイルシートを指定する。 XML文書を視覚的に表示するために、Extensible Stylesheet Language(XSL、拡張可能なスタイルシート言語)を使うこともできる。XSLを使う場合は、XML文書をXHTML/HTML文書の構造に変換するか、もしくはウェブブラウザで視覚的に表示することができる他の文書の構造に変換する。 クライアント側でXSL Transformations (XSLT) のスタイルシートを指定するためには、XML文書に次のようにXSLTスタイルシートへの参照を含めることが、必要である(XMLの処理命令を使って実現している)。 クライアント側のXSLTスタイルシート処理機能は、現在では多くのウェブブラウザが備えている。 別の方法として、このような利用者が常用しているウェブブラウザの能力に依存する方法を採らずに、サーバ側でXSLを使ってXML文書を視覚化可能な形式に変換する方法も、行われている。利用者は、「舞台の裏側で」何が行われているかを、意識する必要はない。実際に目にするものは、よく整形され視覚化された文書だけである。 XMLを拡張する技術を説明する。 XML文書はさまざまなMIMEタイプで配布することができる。RFC 3023 は、"application/xml" および "text/xml" のMIMEタイプを定義する。 "application/xml" と "text/xml" のMIMEタイプは、そのデータがXML文書の形式をとっているということのみを述べているだけであり、そのXML文書の論理的構造については何も述べていない。 "text/xml" を使うことに対しては、符号化に関する問題が生じる可能性があるとの批判があり、現在では非推奨とされている。RFC 3023 では、加えて、XML文書を "application/" で始まり、"+xml" で終わるMIMEタイプで配布することを勧めている。例えば、AtomのXMLデータに対しては、"application/atom+xml" のMIMEタイプで配布するのである。 XML名前空間 (Namespaces in XML) は、一つXML文書内で、異なる複数のボキャブラリ(スキーマ)に由来する要素と属性を、名前の衝突を発生させることなく、含めることができるようにするための仕様である。World Wide Web Consortium (W3C) から、1999年1月14日に Namespaces in XML 1.0 が勧告された。XML文書に異なる複数のボキャブラリに由来する要素と属性を含める場合、ボキャブラリのそれぞれに名前空間をわりあてることにより、要素名の衝突と属性名の衝突の問題を、解決することができる。 一つの名前空間において定義された要素の名前は、一意でなければならない。 顧客への参照と注文された商品への参照を含む簡単なXML文書の例を考える。顧客要素と商品要素は、ともに「識別番号」という名前の子要素をもつことがあるだろう。識別番号要素への参照は、顧客要素の子要素の識別番号要素も商品要素の子要素の識別番号要素も同じ要素名をもつので、あいまいである。しかし2つのボキャブラリを区別する2つの名前空間のもとで識別番号要素を使う場合、顧客要素の子要素の識別番号要素と商品要素の子要素の識別番号要素は意味的に明確に異なる2種類の要素となる。 名前空間は、XMLの予約属性である xmlns を使って宣言される。xmlns属性の属性値はIRI (Internationalized Resource Identifier) である必要があり、通常はURI (Uniform Resource Identifier) である。 例を示す。 この例の "http://www.w3.org/1999/xhtml" を名前空間名という。ここで注意すべきこととしては、名前空間の宣言で記述されたURIは、実際にインターネット上の住所として解釈されるわけではないということである(自由に考えよう、URIほど便利なものが必ずインターネットのアドレスをささなければいけないなどと、誰が決めたのか)。例えば、http://www.w3.org/1999/xhtml自体には何のコードもない。このURIの文書では、人間の読者に対してXHTMLについて簡単に説明しているだけである。 ("http://www.w3.org/1999/xhtml" のような) URIを名前空間の識別子として使うことで、("xhtml" のような)単純な文字列を名前空間名として使うよりも、異なる名前空間が意図せずして同じ名前空間名を使ってしまう危険性を低減する。名前空間の識別子は、ウェブの住所(アドレス)の慣習にしたがう必要はない。 名前空間の宣言は短い接頭辞を含むことができる。この名前空間接頭辞を使うことで、異なるボキャブラリに由来する要素と属性を識別することができる。 名前空間接頭辞を使う例を示す。 XML名前空間を使ったXML文書の例を示す。 このXML文書は、次の2つの名前空間のボキャブラリから構成されている。 なおこのXML文書は、あるXML文書をXHTML文書に変換するXSLTスタイルシートである。 XML名前空間を使う場合、そのXML名前空間のボキャブラリが定義されていることが必要であるわけではない。しかしXML文書でXML名前空間を使う場合に、そのXML名前空間のボキャブラリを定義しておくことは、そのXML名前空間のURIのもとで正しい文書構造を定義しているスキーマに関連づけるために、行われることが多い。 プログラマやアプリケーションソフトウェアがXML文書を処理する手段としては、これまで次に示す3つの技法が伝統的に使われてきた。なお、この節の説明で使うAPIとはアプリケーションプログラミングインタフェースのことをさす。 さらに、近年に開発され使われるようになった、XML文書を処理する技法を示す。 Simple API for XML (SAX) は、字句解析を行いイベント駆動で処理を行う API である。SAXを使うとXML文書は文書の最初から順次読み込まれ、その内容はプログラマが実装したハンドラオブジェクトの様々なメソッドへのコールバックとして報告される。SAXを使ったXML文書処理は高速であり、少ないコンピュータ資源を効率的に使って非常にサイズの大きいXML文書を処理することが可能である。 SAXを使うことに伴う問題は、XML文書に対してランダムアクセスを行って情報を取り出すことが難しいことである。そのため、SAXを使うに際し、プログラマはXML文書のどの部分が現在処理対象となっているか把握する為の機構を実装しなければならない。 SAXは、処理対象となるXML文書中のある種類の情報がどの部分に出現するかに依らず、常に同じように処理されると保証できる場合に用いるのが望ましい。 Document Object Model (DOM) は、インタフェース指向のAPIであり、XML文書のおのおのの部分を表現する節オブジェクトの集まりからなる木構造であるかのように、XML文書全体に対してナビゲーションを行うことを想定している。DOMでは、XML文書に対してランダムアクセスを行って情報を取り出すことが、簡単にできる。 DOMにおけるXML文書全体に相当する Document オブジェクトは、XML文書をXMLプロセサが処理することにより生成することもできるし、プログラマがプログラミングすることによって生成することもできる。DOMにおける Node (節) のさまざまな型のデータ型は、DOM仕様においては抽象的にインタフェースとして定義されている。Node のデータ型の実装は、プログラミング言語に固有の言語バインディングを提供する。 DOMの実装は、サイズの大きいXML文書を扱う場合はたくさんのメモリを使う。なぜならDOMの実装は、一般的にはXML文書全体からオブジェクトの木構造を構築してメモリにロード(展開)し、その後にDOMを介した処理をできるようにしているからである。 Javaでは、標準ライブラリを構成するいくつかのパッケージでDOMが実装されており、Javaのプログラマは標準ライブラリのDOMを使うことができる。DOMの仕様は、World Wide Web Consortium (W3C) で策定されているため、DOMで中核をなす Node やDocument などのインタフェースや、直列化 (出力) などの機能を提供するためのインタフェースはパッケージ org.w3c.dom.* に収められている。 Extensible Stylesheet Language (XSL) 技術におけるフィルタは、XML文書に対して、視覚的に出力したり印刷出力できるよう変換処理を行うことができる。 Pull Parsing は、XML文書を、最初から順番に読み込み、Iterator パターン のデザインパターンを使って項目 (item) の一連の流れとして扱う、近年に徐々に普及してきた技法である。 Pull Parsing の技法により、再帰下降パーサを実装することができる。 再帰下降パーサでは、パースを実行するプログラムは、パースの対象となるXML文書の構造と似ている。 そしてパースの中間結果を取得することができる。 パースの中間結果を、パースを実行するメソッド内の局所変数 (ローカル変数) として使うことができる。 あるいは、低水準のメソッドの引数として渡したり、高水準のメソッドへの戻り値として返すことができる。 Pull Parsing の技法を提供する実装としては次のものがある。 例えば、JavaのStAXフレームワークでは、本質的な「反復子」 (イテレータ) を作成して使うことができる。 Pull Parsing で作成される「反復子」はXML文書中のさまざまな要素、属性、データを順番に訪れる。 「反復子」を使うプログラムは、処理中に現在の項目 (例えば、要素の開始、要素の終了、テキスト) を調べ、その特性 (例えば、要素の名前、名前空間、属性値、テキスト内容) を調査する。 そして反復子に「次の」項目へ移動するよう指示することもできる。 プログラムは、このようにXML文書を走査するようにして、文書から情報を取り出すことができる。 Pull Parsing の技法の特筆すべき長所は、XML文書をパースするDOMの技法と比べて非常に高速であり、メモリ使用が非常に少ないことである。 もう一つの長所は、再帰下降の手法は、パースを実行するプログラム内で、データを型づけされた変数として保持することに適していることである。 SAXでは、例えば、プログラマが自分で処理中の要素の祖先となる要素群を格納するスタック内に中間データを保持するコードをプログラミングする必要があることが多い。 これに対し、Pull Parsing の技法を使ってXML文書を処理するプログラムは、SAXを使うプログラムよりも、非常に単純で理解し易く保守が容易になることが多い。 XML文書を処理するもう一つのAPIは、XMLデータバインディングであり、XMLデータバインディングを使うと、XML文書を、その文書型に対応した、強く型づけされたプログラミング言語データ構造 (プログラムのソースコード) を、生成することができる。インタフェース指向のDOMとは対照的な手法である。データバインディングの実現例を次に示す。 OpenOffice.org、AbiWord、およびAppleのiWorkなどのアプリケーションソフトウェアのネイティブファイルフォーマットは、XMLである。 従前、オフィススイートには各ソフトの特有のバイナリ形式としてデータが保存されていた。しかしながらこれでは互換性が低く、様々な情報をデータベースとして利用するオフィススイートでは不都合が生じていた。 そのため、データの標準化を進めて互換性を高めるため、各オフィススイートはXML形式でデータを出力する機能や、そもそも標準保存形式をXMLベースとするものが増えてきた。 OpenOffice.orgはXMLベースの保存形式を当初より標準としていた(英語版バージョン1.0は2002年5月1日リリース)。また、OpenOffice.orgに限らず、どのオフィススイートでも利用できるOpenDocument形式が国際標準化機構(ISO)によって標準規格として認定されている。 もう一つのオフィススイート用の保存形式である Office Open XML も、ISOにより標準規格として認定されている。 マイクロソフトの Microsoft Office では Microsoft Office XP のバージョンからXML形式への対応を始め、Microsoft Office 2003 で独自の定義の XML Schema がサポートされるに至った。 Microsoft Office 2007 ではデフォルトの保存方式がXMLとなった(Office Open XML)。Microsoft Office 2007 のいくつかの機能では、XMLファイルを利用者が指定したスキーマ (ただしDTDではない) に沿って編集することができるようになっている。 またマイクロソフトは、Microsoft Office 2003 のためのファイルフォーマット互換性キットを公開している。 この互換性キットを使うことにより、以前のバージョンの Microsoft Office で作成された文書をXMLに準拠した新しいフォーマットで保存することができる。 エディタについては現在、多くのXMLエディタが使えるようになっている。 XMLインフォメーションセット(英: XML Information Set, Infoset)またはXML情報集合 (—じょうほうしゅうごう) は、XML文書の抽象的なデータモデルを「情報項目」 (information item) の集合を使って規定している。 World Wide Web Consortium (W3C) から、2001年10月24日にXML情報集合仕様が勧告された。 XML情報集合の仕様における定義は、整形式XML文書内の情報を参照する必要がある他の仕様において使われることが想定されている。 一つのXML文書には、そのXML文書が整形式でありかつXML名前空間の制約に準拠している場合、一つのXML情報集合がある。 XML情報集合を構成するためには、そのXML文書が妥当なXML文書であることは、必須要件ではない。 一つのXML情報集合には、次に示す11種類の情報項目がある。 XML情報集合の Second Edition (第2版) が2004年2月4日に勧告された。 情報集合への追加情報すなわち情報集合に対する改変は、スキーマによる妥当性検証を行う際に、情報集合を改変することをいう。 例えば、情報集合に属性の既定値 (デフォルト値) を追加することなどがある。情報を追加された情報集合は、スキーマ検証後情報集合あるいはPSVI (post-schema-validation infoset) と呼ばれる。 情報集合への追加情報については、賛否両論がある。 情報集合に情報を追加することに否定的な見解としては、情報集合への追加情報はモジュール性を侵害し相互運用性の面での問題を引き起こす危険があるとする。 なぜなら、同じXML文書を扱う複数のアプリケーションソフトウェアは、受け取る情報が妥当性検証を行うかどうかに依存してしまうからである。 アプリケーションソフトウェアが、妥当性検証を行う場合に受け取る情報と、妥当性検証を行わない場合に受け取る情報が、異なってしまうのである。 XML Schema は、XML情報集合への追加情報を扱うことができる。 RELAX NGは、情報集合への追加情報を扱わない。 RELAX NG では、情報集合への追加情報に否定的な立場をとっている。 デジタルメディアの出版を行ってきた人々は、1980年の後半—インターネットが広く使われるようになるより前の時期—には既に、動的に情報を視覚化するための技術として、汎用的なマークアップ言語である Standard Generalized Markup Language (SGML) が多くの用途に適していることを、理解していた。 SGMLはいくつかの分野で普及していたが、仕様が複雑で処理系の開発が難しく、またSGML文書の処理が重いという欠点があった。1990年代半ばまでには、SGMLを実際に使っていた一定の人々は、新しく現れた World Wide Web (ウェブ) を経験した。 そうした人々は、ウェブが発展することにより直面するいくつかの問題に対して、SGMLが解決策を提供すると、強く考えるようになった。 Dan Connolly は、自分が1995年にWorld Wide Web Consortium (W3C) のスタッフになった時に、SGMLをW3Cのアクティビティの一覧に追加した。 このアクティビティの作業は、1996年の中頃にサン・マイクロシステムズのジョン・ボサックが、このアクティビティに関する宣言を起草しアクティビティの共同作業者を募ることで、始まった。 ボサックは、SGMLとウェブの双方を経験していた人々の小さなコミュニティと良好な関係を築いていた。 ボサックは、自分の作業においてマイクロソフトから支援を受けた。 XMLの仕様は、11人のメンバーからなるワーキンググループにより編集され、だいたい150人から構成される Interest Group のメンバーから支援を受けて作成された。 技術的な論議が Interest Group のメーリングリストで提起され、提起された論議は合意形成により解決された。合意形成ができなかった場合は、ワーキンググループのメンバーの投票による多数により解決された。 このアクティビティで行われた設計上の決定とその根拠の記録は、Michael Sperberg-McQueen が1997年12月4日に編集した。 このアクティビティではジェームズ・クラークが技術リーダとして貢献した。 クラークの貢献として特筆されるのは、空要素 "<empty />" の導入と、この技術の名称 "Extensible Markup Language" (XML) の命名である。 この技術の名称として、他に提案され吟味されたものの一部を次に示す。 XML仕様のワーキンググループではジョン・ボサックが議長を務めた。 このワーキンググループではジェームズ・クラークが技術リーダを務めた。 ワーキンググループの共同エディタは、もともとはティム・ブレイと Michael Sperberg-McQueen であった。 このアクティビティのプロジェクトの途中で、ブレイはネットスケープ・コミュニケーションズとのコンサルティングの契約を結んだ。 このブレイとネットスケープの契約に対しては、マイクロソフトが強く抗議した。 ブレイは、エディタの役割を一時的に辞することを要請された。 このことに関して、ワーキンググループでは激しい議論が行われた。 この議論は、最終的にはマイクロソフトの Jean Paoli が第3の共同エディタに就くことで解決した。 なおXMLワーキンググループには、日本人としてはただ一人村田真がメンバーとして1997年に参加した。 XMLワーキンググループは、直接会って活動したことは数回しかなかった(最初の会議は1997年8月22日)。 XML仕様の設計は、電子メールと週に一度の電話会議の双方を有機的に活用することにより、成し遂げられた。 XML仕様の設計では、SGMLの欠点を解決すべく文法を簡素化した。 XML仕様における設計上のいくつかの大きな決定は、1996年の7月から11月までの間の12週間の真剣な作業のなかで行われた。 この12週間の作業の後 (1996年11月) に、XMLの最初のワーキングドラフトが公表された。 その後も1997年をとおして設計作業は続けられ、XML 1.0 は、1998年2月10日にW3Cの勧告となった。 XML 1.0 は、ワーキンググループが目標としていた次の目標を達成したと、評価する人々が多い。 技術者にとってはXMLはSGMLよりも習得しやすい技術であり、また処理系の開発が容易になったことで低い費用でXML技術を利用できるようになった。 現在ではXMLは広く普及している技術である。 XMLの前身であるSGMLと同様にXMLでも、いくつかの冗長な構文要素があり、要素記述子の繰り返しを仕様に含んでいる。 文書を短くすることは、XMLワーキンググループでは、XMLの構造において本質的な問題とは見なされなかった。 XMLは、ISO標準 Standard Generalized Markup Language (SGML) のサブセットである。 XMLのほとんどはSGMLから変更されずに採り入れられている。 XMLがSGMLから採り入れられている技術的な要素には次のものが含まれる。 XMLがSGMLから採り入れなかった技術要素としては、SGML宣言がある (XMLでは文書の文字符号化方式としてUTF-8とUTF-16を採用している)。 XMLの他の技術的起源としては、次の3つが挙げられる。 XML仕様の設計に関する議論のなかで開発された革新的な考え方には、次のものが含まれる。 2010年1月現在の時点では、XMLには2つのバージョンがある。 XML 1.0 と XML 1.1 は、要素名と属性名に使うことができる文字集合において異なっている。XML 1.0 では、 Unicode 2.0 で定義された文字集合のみ要素名および属性名として使うことができる。Unicode 2.0 の文字集合には、世界で使われているほとんどの文字が含まれている。しかし Unicode 2.0 の文字集合には Unicode 2.0 より新しいバージョンで追加された文字は含まれていない。こうした Unicode の新しいバージョンで追加された文字としては、モンゴル語、クメール語 (カンボジア語)、アムハラ語、ビルマ語などの文字が、含まれる。 XML 1.1 においては、ほとんどのUnicode文字をXML文書の文字列データや属性値として使うことができる。また Unicode の現在のバージョンで定義されていない文字でさえ、使うことができる。 XML 1.1 の方式では、いくつかの文字については使うことができないが、その他の全ての文字は使うことができる。 一方で XML 1.0 では、仕様で明示的に規定された文字集合のみを、XML文書の文字列データや属性値として使うことができる。 このため XML 1.0 では、Unicode の新しいバージョンで追加される文字を扱うことはできない。 XML文書の文字列データや属性値について、XML 1.1 では XML 1.0 より多くの制御文字を使うことができる。 しかし「堅牢性」の観点から、XML 1.1 で使えるようになった制御文字の多くは、文字参照としてXML文書内に記述しなければならない。 XML 1.1 で使えるようになった制御文字には、2つの改行コードが含まれる。 この2つの改行コードは、XML 1.1 の処理系では空白記号として扱われる。 制御文字のうちこの空白記号として扱われる制御文字のみが、XML 1.1 で文字参照を使わずに直接にXML文書に記述することができる。 現在、XML 2.0 に関する議論が行われている。 XML-SW (SW は、skunk works スカンクワークスの意味) が、XMLの最初の設計者の一人によって書かれた。 XML-SW には、XML 2.0 はどのようなものかということについての、いくつかの提案を含んでいる。 その内容は次のとおりである。 World Wide Web Consortium (W3C) では、XML Binary Characterization (XMLバイナリ表現) のワーキンググループが活動しており、同ワーキンググループでは、XML情報集合をバイナリ形式に符号化するために、ユースケースと特性を調査する予備研究を行っている。 このワーキンググループは、公的な標準を制定することが認可されているわけではない。 XMLは定義上明確にテキストに基づいているため、ITU-TとISOは、それぞれが定めるバイナリインフォメーションセットに対して、混乱を避けるために Fast Infoset の名前を使っている (参照: ITU-T Rec. X.891 | ISO/IEC 24824-1)。 2005年の10月に、Scientigoという小さな企業が、XMLの使用に対して同企業の2つの特許 U.S. Patent 5,842,213 と U.S. Patent 6,393,426 の対象になるという主張を、公的に表明した。 この2つの特許は、「特定の『階層構造ではない』統合されていない中立的な形式での、[データの]モデリングと格納と転送」を対象としている。 特許申請によると、この2つの特許は1997年と1999年に出願された。 Scientigoの最高経営責任者 (CEO) である Doyal Bryant は、この2つの特許を「金銭に換える」という願望を述べたが、同社は「世界を敵にするつもりはない」と言明した。 Bryant は、Scientigoは自社の2つの特許についていくつかの大企業と話し合っていると述べた。 XMLを使う人々や企業に在籍していない専門家たちは、Scientigoの主張に対して懐疑的で批判的な立場で反応した。 一定の人々は、Scientigoをパテント・トロールであると述べた。 ティム・ブレイは、この2つの特許がXMLを対象とするという主張は「ばかげている」と述べた。 XMLに関係する多くの先行技術がSGMLを含めて存在している。 多くの論者がXMLに対してさまざまな批判を行ってきた。 こうした批判は、XMLの長所と潜在的な欠点に対する言及を含んでいる。 先述したISOの標準群のほかに、XML関連では次の文書が発行されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Extensible Markup Language(エクステンシブル マークアップ ランゲージ)は、基本的な構文規則を共通とすることで、任意の用途向けの言語に拡張することを容易としたことが特徴のマークアップ言語の総称である。一般的にXML(エックスエムエル)と略称で呼ばれる。JISによる訳語は「拡張可能なマーク付け言語」と定義している。XML文書のフォーマットを予め統一することで、異種プラットフォーム間での情報交換も可能となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "SGMLからの移行を目的として開発された。文法はSGMLの構文解析器と互換性を保つようにSGMLのサブセットに定められシンプルになり、機能はSGMLに無いものが追加されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "XML の仕様は、World Wide Web Consortium (W3C) により策定・勧告されている。1998年2月に XML 1.0 が勧告された。2010年4月現在、XML 1.0 と XML 1.1 の2つのバージョンが勧告されている(#バージョン)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ちなみに、「eXtensible Markup Language の略である」と書かれることがあるが、これは間違いであり、XはExの発音を表している。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "XMLは、個別の目的に応じたマークアップ言語群を創るために汎用的に使える。マークアップ言語とは、コンピュータ言語の一種で(広義の「コンピュータ言語」であり、プログラミング言語ではないデータ記述言語などを含む意味)あるが、詳細は「マークアップ言語」の記事を参照のこと。XMLは、その「入子状にタグで囲まれたもの」という構文を共通としたことで、拡張が容易であるとして「extensible」と主張している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記の理由もあって、しばしば「あらゆる目的に使える」などと主張されるが、データ構造的には木であって、より入り組んだネットワーク構造(グラフ構造)を直接扱うことは不可能である(XLinkなどの提案はあるが)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "XMLの最も重要な目的は、異なる情報システムの間で、特にインターネットを介して、構造化された文書や構造化されたデータの共有を、容易にすることである。XMLを使うと、文書を構造化して記述できるし、コンピュータのデータを直列化 (シリアライズ) できる。データを直列化する用途でXMLを使う際には、XMLは、JavaScript Object Notation (JSON) やYAMLなどの、テキストを基にした他の直列化言語と比較衡量できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "XMLは、ユーザが定義したタグを用いて文章構造を記述するマークアップ言語である。HTMLが、Webページを記述するための言語であるのに対して、XMLは、データ交換のための汎用のデータ形式である。HTMLで使用するタグはあらかじめ定義済みのものだが、XMLではユーザが新しくタグを定義して、データの意味や構造を記述することが可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "XMLで文書の論理的構造を規定する制約を追加することによって、XMLを適用したマークアップ言語を実装できる。XMLを適用したマークアップ言語は非常に多く存在している (#XMLの応用の節を参照)。例えば、Extensible HyperText Markup Language (XHTML)、DocBook、RSS、Mathematical Markup Language (MathML)、ebXML、Scalable Vector Graphics (SVG)、MusicXML などがある。さらにXMLは、そういった個別のXMLについての構文規則を示すためのスキーマ言語も用意している。スキーマ自体もXMLのXML Schemaの他、XMLではない記法でとても簡潔に大変わかりやすく書ける、Compact Syntaxも用意されているRELAX NGもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "XMLは、同じく汎用的に使えるマークアップ言語である Standard Generalized Markup Language (SGML) の、簡素化されたサブセットとして、人間にとっても比較的判読しやすいように設計された (#歴史を参照)。XMLの仕様は、XMLワーキンググループなどにより設計が行われ、World Wide Web Consortium (W3C) により勧告 (策定) されている。XMLは無償で使えるオープン標準の技術である。XML仕様のW3C勧告ではXMLの文法とXMLプロセサ (XMLパーサ、XML文書の構文解析器) のための要件を定めている。1998年2月に XML 1.0 が勧告され、2004年2月に XML 1.1 が勧告された(#バージョン参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある (#整形式XML文書と妥当なXML文書を参照)。XML文書のマークアップ規則に従って記述されていることだけが問題とされる文脈で、スキーマ言語を使わずに、XML文書のマークアップ規則に従って記述された文書を、「整形式XML文書」 (well-formed XML document) という (#XMLの構文と整形式XML文書を参照)。さらに、XML文書をより厳密に構造化した文書やデータとして扱いたい場合は、XML文書の構造をスキーマ言語によって定義することができ、XMLプロセサでそのXML文書(XMLインスタンス)に対してその文書構造に従っていることを検証する(妥当性検証を行う)というように、XML技術を使うこともできる (#XML文書の論理的構造と妥当なXML文書を参照)。 XML文書に対して妥当性検証を行うことにより、従来アプリケーションソフトウェアで行ってきた、XML文書の構造の検査や、XML文書に含まれるデータに対するデータ型のチェックや値の範囲のチェックが、可能となる。スキーマ言語としては Document Type Definition (DTD、文書型定義)、W3C XML Schema、RELAX NG (文書スキーマ定義言語: DSDL)などがある。XML文書の構造がスキーマ言語によって定義され、XML文書の妥当性を検証するソフトウェアによって妥当性が検証されたXML文書のことを「妥当なXML文書」 (valid XML document) という。整形式XML文書は、妥当なXML文書である場合と、妥当なXML文書ではない場合とがある。スキーマ言語を採用して妥当性検証を行う方法でXMLを使うこともできるし、スキーマ言語を採用せず妥当性検証を行わないで手軽にXMLを使うこともできる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "XML勧告では、XMLプロセサがサポートすべき文字符号化方式(文字コード)としてUTF-8とUTF-16 (Unicode) を定めているため、英語以外の言語も扱いやすくなっている (#多言語環境で使うを参照)。また、UTF-8とUTF-16以外の文字コード(UCS-4、EUC-JP、Shift_JIS、EBCDICなど)を用いることも可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "XMLだけでは最低限の書式しか決められていないため、XMLの力を引き出す各種の関連技術が別途標準化されている (#XMLの拡張および#XML文書をプログラムで処理する、#XML文書を視覚的に表示する、#XML情報集合を参照)。 以下に挙げるものをはじめとして、現在も多くの関連技術の標準化作業が行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "XMLは現在、広く普及している技術であるが、その技術的な有用性などについて、肯定的に評価する人々が多い一方で、批判的に評価する人々も多い (#XMLに対する支持と批判を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある。なおXML文書に対して、整形式XML文書としての検査のみを行うXMLプロセサを非検証XMLプロセサといい、整形式XML文書としての検査に加えて妥当なXML文書としての検査を行うXMLプロセサを検証XMLプロセサという。", "title": "整形式XML文書と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "整形式XML文書が満たすべき構文の規則を説明する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "整形式XML文書としての条件が満たされることのみを考慮する場合 (スキーマ言語を使わずに手軽にXMLを使う場合) においても、XMLは、大量の文書やもしくは木構造として表現することができるデータを格納するための、一般的な枠組みとしての役割を果たすことができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "XML文書は、要素 (element) と属性 (attribute) が複数集まって、構成されている。 要素は内部に子要素を含むことができる。属性は要素に付随し、属性の内部に子要素を含むことはできない。要素は開始タグと終了タグで内容を挟むことで表現する。 開始タグは「<要素名>」、終了タグは「</要素名>」で記述する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一つの要素を記述するための基本的な構文を次に示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ここで、<要素名 属性=\"値\"> をこの要素の開始タグといい、</要素名> を終了タグという。「内容」は何らかのテキストである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "次に示す例は整形式XML文書である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この例は、書籍という要素を一つもつXML文書である。<書籍> が書籍要素の開始タグであり、</書籍> が書籍要素の終了タグである。「出版日=\"2007-10-31\"」は書籍要素の属性である。この属性の名前 (属性名) は「出版日」であり、この属性の値 (属性値) は \"2007-10-31\" である。「これは書籍です.... 」は、書籍要素の内容である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "要素の内容を構成するテキストはまた、さらに任意の数の要素を含むことができる (なお、このように一つの要素内に文字列データと子要素が混在するものを、「混合内容」と呼ぶ)。 すなわち、一般的なXML文書は木構造をなす。 この点において、XMLはプログラミング言語LISPのS式と似ている。 S式でも木構造を記述する。S式の木構造のおのおのの節は、自分自身のプロパティリストをもつことができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "要素は内部に別の要素を含むことができる。構造化したXML文書の例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "要素の属性の値は、必ずシングルクォート (') かダブルクォート (\") で括らなければならない。そして要素内にある属性は、互いに属性名が異なっていなければならない。XML文書では要素は正しく入れ子になっていなければならない。要素は決してオーバーラップしていてはならない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "例えば、次の文書は整形式XML文書ではない。なぜなら 書名 要素と 著者 要素がオーバーラップしているからである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "次の2つの文書は整形式XML文書である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "整形式XML文書においては、XML文書は正確に一つのルート要素 (文書要素; document element とも呼ばれる) をもたなければならない。ルート要素とは、XML文書の要素の階層構造において最上位の要素のことをいう。最上位の要素は一つでなければならない。最上位の要素が複数ある文書は、整形式XML文書ではない。 整形式XML文書が一つのルート要素をもたなければならないという条件が意味することは、整形式XML文書のテキストは、ルート要素の開始タグと対応する終了タグの間に、収められなければならないということである。ルート要素の開始タグと終了タグの間に収められたテキストは、任意の数の要素や文字列データを含むことができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ルート要素の前に、必要に応じて、XML宣言 (XML declaration) をおくことができる。このXML宣言は、XMLのどのバージョンが使われているか (現時点ではバージョン1.0であることが多い) などを示す。XML宣言では、XMLのバージョンの他に、文字符号化方式 (文字コード) の指定や、他のXML文書との依存関係についての指定を、行うこともできる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "XML宣言を含んだXML文書の例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "XML仕様では、XMLプロセサ (XMLパーサ、XML文書の構文解析器) が、Unicodeの文字符号化方式であるUTF-8およびUTF-16で記述されたXML文書を処理できることを、必須条件としている (UCS-4は必須条件ではない)。XMLプロセサは、UTF-8およびUTF-16の他にも、いくつかの任意の文字符号化方式の文書を処理できるようにして良い。例えば、UCS-4、EUC-JP、Shift_JIS、EBCDICなどの文字符号化方式の文書を処理できるXMLプロセサが、広く普及し、使われている。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "コメントはXML文書の木構造のどこにでもおくことができる。 コメントは、\"<!--\" で始まり、\"-->\" で終わる。 なお、コメント内に \"--\" を含むことはできない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "コメントを含むXML文書の例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "内容のない要素を空要素 (empty element) という。XMLでは、空要素を表現するために特別な構文を使うことができる。開始タグを書きその直後に終了タグを書くこともできるが、その代わりに空要素のタグを使うことができるのである。空要素タグは開始タグと似ているが、閉じ括弧の直前にスラッシュをおく。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "次の3つの例は、XMLでは同等である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "空要素タグは属性を含むことができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "XML文書ではどのUnicodeの文字も (XMLで特別な意味をもつ、開き山括弧 \"<\" のような文字を除いて)、要素名として、属性名として、コメント内容として、文字データとして、処理命令 (後述) として、直接に使うことができる。このため、漢字とキリル文字を共に含む次の文書も、整形式XML文書である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "XML文書 (あるいはSGML文書、HTMLウェブページを含む) において、文書型宣言 (DOCTYPE宣言、Document Type Declaration) は、その文書を特定の Document Type Definition(DTD、文書型定義) のスキーマと関連づけることを記述するものである。なお、Document Type Definition (DTD、文書型定義)は、XMLで使うことができるスキーマ言語の一つである。文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していることを宣言する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "XML文書では文書型宣言を記述してもよいし、記述しなくてもよい。DTDをスキーマ言語として妥当性検証を行うことを想定しているのであれば、文書型宣言の記述は必須となるであろう。DTDで妥当性検証を行わない場合でも、後述する実体参照などを文書中で使うのであれば、文書型宣言において文書中で使う実体を宣言することができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していること (妥当なXML文書であること) を、保証しているわけではない。文書型宣言に記されたスキーマに準拠しているかどうかを判断するには、検証XMLプロセサでその文書を検証する必要がある。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "文書型宣言の一般的な構文は次のとおりである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ここで外部サブセットとは、そのXML文書のDTDを構成する (要素の型の宣言、後述する実体の宣言などの) 宣言群のうち、別ファイルに記述された宣言群のことである。また内部サブセットとは、そのXML文書のDTDを構成する宣言群のうち、文書型宣言内に直接記述された宣言群のことである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "XHTML 1.0 Strict に準拠したXML文書での文書型宣言は、次のとおりである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "XML文書においては、ルート要素がその文書の最初の要素である (例えば、XHTMLではルート要素は html である)。SYSTEM キーワードと PUBLIC キーワードは、その文書型 (文書の構造) の種類を指定する。一般に広く知られていないDTDを使う場合は、SYSTEM キーワードを使う。一般に広く知られているDTDを使う場合 (XHTMLなど) は、PUBLIC キーワードを使う。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "内部サブセットは必要に応じて記述する。 内部サブセットとして、DTDの一部分もしくはDTDの全体を記述することができる。 なお、内部サブセットとしてDTDの全体を記述する場合は、SYSTEMキーワード・PUBLICキーワード・外部サブセット参照は、いずれも記述しない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "実体参照 (entity reference) は、実体を表現するプレースホルダである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "XMLにおける実体 (entity) とは、SGMLにおける実体と同じように、名前の付けられたデータの本体である。具体的には、ファイルもしくは置換文字列のように、何らかの形でXML文書の一部となるデータを格納しているもののことである。置換文字列を使う事例としては、次のような場合がある。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "実体参照の構成は、まず最初にアンパサンド (\"&\") があり、その後に実体の名前が続き、セミコロン (\";\") で終わる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "XMLには、事前宣言された実体として次の表に示す5つの実体がある。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「AT&T」の名前でアンパサンドを表現するために、事前宣言されたXMLの実体を使う例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "事前宣言された実体以外の実体を宣言する必要がある場合、XML文書の Document Type Definition (DTD、文書型定義) の内部で宣言する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "XML文書の内部に定義されたDTDを使って、置換文字列としての実体を宣言して、実体参照を使う例を次に示す。宣言された実体は、一つの文字であっても良いし、テキストの断片であっても良いし、他の実体への参照を含むテキストであっても良い。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "XMLに準拠したブラウザを使うと、先のXML文書は次のように表示される。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ファイルの実体を参照するXML文書の例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なお、別ファイル another-file.xml には次の内容が記されていることとする。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "XMLに準拠したブラウザでこのXML文書を表示すると、次のようになる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "文字参照 (character reference) は、文字をXML文書内でコード番号を指定して記述する記法である。文字参照は、実体参照と似ているが、実体参照では名前を使うのに対し、文字参照ではその部分で始めに \"#\" 文字を記述し続けて数字を記述する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "文字参照で使う数字は、符号化文字集合の国際規格である ISO/IEC 10646 (およびUnicode) のコード番号である。文字参照で使うことができる数字は、十進数であるか \"x\" を前につけた十六進数である。文字参照は、実体参照とは異なり、事前宣言されているわけでもなく、XML文書のDTD内部で宣言されているわけでもない。文字参照は、簡単には符号化できない文字を表現するために使われることが多い。例えば、欧州のコンピュータ上で作成するXML文書でアラビア語の文字を使う場合などである。「AT&T」の例の内のアンパサンドは、この場合に似ているともいえる。十進数の38と十六進数の26は、共に ISO/IEC 10646 の \"&\" 文字のコード番号である。つまり「AT&T」はXML文書では次のように記述することができる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "処理命令 (processing instruction) は、XML文書の構成要素であり、XML文書を扱うソフトウェアに対する何らかの処理を行う命令を、記述する内容が、処理命令である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "次に処理命令の構文を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "処理命令は ?> の文字列を除き任意の処理内容を記述することができる。処理命令には、処理内容として擬似属性 (pseudo attribute) を記述することがある。擬似属性は、記述のしかたが属性名と属性値のペアに似ている。しかしXMLプロセサは擬似属性を、属性として解釈せず、処理命令の処理内容として解釈する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "擬似属性を使った処理命令の例を次に示す。 これはXML文書にカスケーディングスタイルシート (CSS) と関連づけるという処理命令である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "あるXML文書内に記述された特定の処理命令について、その処理命令をプログラマーが意図したとおりの処理を実行させるためには、そのXML文書を処理するアプリケーションソフトウェア側がその処理命令に対応する必要がある。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "XML文書 (およびSGML文書) においてCDATAセクションとは、文字列データのみで構成されておりマークアップされたデータは含まれていないと、XMLプロセサが解釈するようマークされた、要素の内容を構成する文字列データの一部である。CDATAセクションは、文字列データを表現するための単なる代替構文である。 CDATAセクションとして宣言された文字列データと、\"<\" と \"&\" を \"&lt;\" と \"&amp;\" で表現する通常の構文で記述した文字列データとの間に、意味的な違いはない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "CDATAセクションは次の記述で始まる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "そしてCDATAセクションの内容が続き、次の記述が最初に出現したところでCDATAセクションは終わる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "CDATAセクションの内容の文字列は全て文字列データとして解釈され、マークアップや実体参照や文字参照として解釈されることはない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "次の例で「送信者」の開始タグと終了タグはマークアップとして解釈される。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "しかし次のように記述した場合は、", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "次のように記述したものと同等に解釈される。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "すなわち、「送信者」タグは「星新一」の文字列と同列に位置づけられ、いずれも文字列データとして解釈される。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "文字参照 &#x00F0; が要素の内容で出現した場合は、一つのUnicode文字 00F0 (\"ð\") として解釈される。しかしCDATAセクション内で出現した場合は、8つの文字からなる文字列として解釈される。 すなわち、アンパサンド、#マーク、文字x、数字0、数字0、文字F、数字0、セミコロンの8つの文字からなる文字列として解釈される。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "整形式XML文書は、とりわけ、次に示す規則に適合しなければならない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "要素の名前ではアルファベットの大文字と小文字とが区別される。例えば、次の例は整形式である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかし次の例は整形式ではない。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "XML文書のスキーマを設計する際に、XMLの要素の名前を注意深く選択すると、そのスキーマに準拠したXML文書のデータの意味を、第三者に伝えるために有効であろう。XMLの要素の名前を注意深く選択することにより、そのスキーマに準拠したXML文書は、人間にとって読みやすいものとなる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "XMLの要素と属性の名前を、体が名を表すように注意深く選択決定することで、人間がXML文書を読む際に、要素と属性の意味を、外部の説明文書を参照することなく、よりよく理解できるようになる利点が生まれる。ただしこのような作業を行うことは、XML文書の冗長性が増えることでもある。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "人によっては、XML文書を書く際の労力が増えることを、好まない場合がある。またファイルサイズも大きくなることになる。ただし圧縮技術をXML文書に適用してファイルサイズを小さくすることは可能である。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "整形式XML文書を正確に書くためには、ここまで述べたことよりずっと多くの規則にしたがう必要がある。例えば、XML名前空間を使うことや、XMLでの「名前」として使うことができる正確な文字集合を使って、XML文書を書くことなどである。とはいえ、ここまで述べた整形式文書に関する概略を理解しておけば、多くのXML文書を読み理解しあるいは多くのXML文書を書くために必要な基礎は、身についたといえる。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "XML文書の正当性を自動的に検査するための方法を説明する。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "あるXML文書が、整形式XML文書としての条件のみを満たした文書であるか、それとも妥当なXML文書としての条件をも満たした文書であるかを、判別することは、比較的容易である。というのも、整形式XML文書であるための規則と、XMLの妥当性検証のしくみについては、XML文書を扱うツールの移植性を考慮して設計されているからである。つまりこの設計方針は、XML文書を扱うツールであれば、どのようなXML文書でも扱うことができるということである。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "独立したツールを使い、XML文書の正当性を自動的に検査する例を示す。", "title": "XMLの構文と整形式XML文書" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "妥当なXML文書について詳しく説明する。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "XMLでは、要素に名前を付けることができ、階層構造をとることができ、スキーマ言語 (Document Type Definition など) により用途に沿うように定義されたスキーマを使うことで要素と属性の意味を公開し説明することができる。XMLのこうした特徴により、目的に応じたXMLに準拠したマークアップ言語を創るための、構文的な基礎が成り立っている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "スキーマは、制約の集合を記述することにより、XML文書の構文上の規則を単に補足するのみである。スキーマは、多くの場合、要素と属性の名前を限定し、各要素が内容とするものの階層構造を規定し、属性の内容を規定する。例えば、「誕生日」という名前の要素では、「月」という名前の一つの要素と「日」という名前の一つの要素をもつことができ、「月」要素と「日」要素のそれぞれは文字列データのみをもつことができる。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "スキーマに定義された制約には、データ型の割り当てを含むことができる場合がある。 データ型を割り当てることにより、データ型が割り当てられた情報がどのように処理できるかを、規定することができる。 例えば、「月」要素の文字列データは、そのXML文書で採用したスキーマ言語の機能に準拠して、「1」から「12」までの数字のみが妥当であるという形で、定義することができる可能性がある。ここでスキーマ言語の (データ型に関する) 機能とは、おそらく特定の方法で形式にしたがって記述しなければならないということだけでなく、別のデータ型の値であるかのように処理されることを未然に防ぐことを、意味する。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "何らかのスキーマに準拠したXML文書は、整形式であるということに加えて、妥当 (valid) であるということが成り立つ。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "XMLのスキーマは、XMLの文書型 (文書の種類、文書の論理的構造) を記述したものである。 多くの場合スキーマは、その文書の構造と内容に関する制約という形で表現される。XMLのスキーマは、XML仕様で規定されている、整形式XML文書としての基本的な制約に加え、それ以上の制約をXML文書に課すことができる。XMLのスキーマ言語は、標準規格のものもプロプライエタリなものも含めて、こうしたスキーマを表現するという目的のもと、数多く存在している。いくつかのスキーマ言語では、スキーマ自身をXML文書として記述する。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "スキーマ言語の記述能力はスキーマ言語ごとにさまざまである。例えばスキーマ言語の一つである Document Type Definition (DTD) では、XML文書がとるべき構造の主な規則として、そのDTDに準拠したXML文書で使うことができる要素の名前、要素の内容モデル、要素で指定できる属性の名前、属性の値のデータ型を、記述することができる。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "なお、要素の内容モデルとは、要素の内容に出現可能な要素やデータとその順番、および要素の出現回数を規定したもののことをいう。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "Standard Generalized Markup Language (SGML) やXMLなどの汎用的なデータ記述言語が世に出る前は、ソフトウェア設計者は、複数のプログラムの間でデータの受け渡しをするために、自分自身でファイルフォーマットを定義するか、ちょっとしたコンピュータ言語を定義しなければならなかった。このため受け渡しするデータの詳細な仕様やその他の文書を書かなければならなかったし、文書の書き手を別途に確保しなければならないこともあった。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "XMLが一定の構造をもち厳密な構文解析の規則をもつことで、ソフトウェア設計者は構文解析の作業を標準的なソフトウェアツール (妥当性検証器、バリデータ) に任せることができる。そしてXMLには、用途に特有の言語を開発するための一般的な、データモデル指向の枠組みがある。 このためソフトウェア開発者は、比較的高水準の抽象度において、自分たちが扱うデータの規則の開発に専念するだけでよい。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うための、十分にテストされたツールが、数多く存在している。XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うためのツールを、妥当性検証器 (バリデータ) という。妥当性検証器は、スキーマに表現された制約にXML文書が準拠しているかについて、自動的に妥当性検証を行う。 妥当性検証器は、XMLプロセサ (XMLパーサ) に含まれていることもあれば、XMLプロセサとは別に提供されていることもある。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "これまでに述べたスキーマの使い方とは別の使い方も存在する。 例えば、XMLエディタは、XML文書の編集を支援するためにスキーマを使うことができる。こうしたXMLエディタでは、妥当な要素名や妥当な属性名を提示することなどができる。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "XMLのための最も歴史の古いスキーマ言語は Document Type Definition (DTD、文書型定義) である。DTDは、XMLの前身であるSGMLから引き継がれた。DTDは XML 1.0 標準に含められているため、ほとんどあらゆるXMLプロセサがDTDを扱うことができる。しかし2007年現在ではDTDを使うことは限定的な範囲にとどまっているようである。その理由は次のとおりである。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "DTDは現在も多くの用途で使われている。その理由は、一定の人々にとってはDTDは他の新しいスキーマ言語よりも読みやすく書きやすいと考えられているからである。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "XML Schema は、World Wide Web Consortium (W3C) により開発された、DTDの後継となる新しいスキーマ言語である。 非公式には、XSDと呼ばれることもある。XSDは、XML Schema のインスタンス (スキーマ) を意味する \"XML Schema Definition\" の頭字語である。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "XML Schema は、豊富なデータ型を扱うことができるスキーマ言語である。XML文書の論理的構造について、DTDより詳細な制約を記述することができる。そしてDTDより詳細な妥当性検証の枠組みのもとで、妥当性検証が行われる。他にも、XMLによるマークアップ言語のスキーマの記述能力において、DTDと比べて非常に高いという長所も備えている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "また、XML Schema によるスキーマ自体を、XMLに準拠した形式を使って記述する。XML Schema のスキーマ自体がXMLに準拠することで、スキーマを編集したりスキーマに何らかの処理を行うために、普通のXMLツールを使うことができるようになる。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ただし、XML Schema の妥当性検証器を実装する作業には、単にXML文書を読むことができる能力よりも、非常に多くの知識と能力を必要とする。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "XML Schema に対しては賛否両論がある。XML Schema に対する批判の一部を示す。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "RELAX NGは人気のあるもう一つの新しいスキーマ言語である。2001年12月にOASIS (構造化情報標準促進協会) で仕様が策定された。ISO (国際標準化機構) にて定められた国際標準でもある。ISOでは、文書スキーマ定義言語 (DSDL) の一部分を構成する仕様として位置づけられている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "RELAX NGのスキーマの記述方法は、2つの形式がある。XMLに準拠した構文 (XML構文、xml syntax) と、XMLに準拠しない短縮構文 (compact syntax) である。短縮構文は、読みやくすることとより書きやすくすることを目指している。ただし、短縮構文で記述されたスキーマをXML構文のスキーマに変換する方法と、その逆の変換を行う方法は、予め定義されているので、ジェームズ・クラークが開発した Trang conversion tool を使えば、標準のXMLツールを使う利便を享受することができる。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "RELAX NGはXML Schemaよりも簡潔なスキーマ定義と簡潔な妥当性検証の枠組みを、備えている。そのためRELAX NGは、XML Schema と比べて、使いやすく、またRELAX NGの妥当性検証器を実装することも容易になっている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "RELAX NGもまた、データ型フレームワークプラグインを使う機能を備えている。 RELAX NG でスキーマを記述する人は、例えば、XML文書でXML Schemaのデータ型の定義に適合させたいと考えるかもしれない。 そして RELAX NG では、データ型フレームワークプラグインを使うことにより可能となっている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ISO 文書スキーマ定義言語 (DSDL; Document Schema Description Languages) 標準は、小規模なスキーマ言語の広範なセットを共に提供する。DSDLを構成する複数の仕様のそれぞれが、特定の問題に対応するために特化されている。DSDLはRELAX NGのXML構文と短縮構文、スキマトロン、データ型ライブラリ言語、文字レパートリ記述言語、文書スキーマ再命名言語、名前空間に基づく検証委譲言語 (NVDL) を、含んでいる。DSDLスキーマ言語群はXML Schemasを支持するベンダの支援は2007年の時点ではまだ受けていない。DSDLは出版のための機能が欠如していることに対する、出版業界の一定の草の根の反応でもある。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "いくつかのスキーマ言語では、特定のXML文書の構造を記述する能力に加えて、個々のXML文書をその特定のXML文書構造に適合するように変換する機能も、限定的ながら備えている。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "DTDとXML Schemaはこの変換機能を備えている。 DTDと XML Schema では、XML文書に属性の既定値を与えることができる。RELAX NGとスキマトロンは、意図的にこの機能を外している。 例えば、XML情報集合を正確に扱うことが、RELAX NGとスキマトロンの仕様策定時に変換機能を外した理由の一つである。", "title": "XML文書の論理的構造と妥当なXML文書" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "XML文書を視覚的に表示するための方法を説明する。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "XML文書は、その文書の内容をどのように視覚的に表示するかという情報を、一切含んでいない。 Cascading Style Sheets (CSS) や Extensible Stylesheet Language (XSL) のようなXMLのためのスタイルシート言語を使うのでなければ、ほとんどのウェブブラウザは普通のXML文書を生のXMLテキストとして描画する。いくつかのウェブブラウザは「ハンドル」をつけて表示する (例えば、余白に + と - の符号を表示する)。ハンドルを使うことにより、XML文書構造の部分木を、マウスクリックで展開したり折りたたんだりすることができる。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "CSSを使ってウェブブラウザでXML文書を描画するためには、XML文書は次のような要領でスタイルシートへの参照を含めなければならない (XMLの処理命令を使ってスタイルシートを使って描画する旨を指定している)。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "この方法は、HTML文書におけるスタイルシート指定の方法とは異なる。HTML文書では <link/> 要素を使ってスタイルシートを指定する。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "XML文書を視覚的に表示するために、Extensible Stylesheet Language(XSL、拡張可能なスタイルシート言語)を使うこともできる。XSLを使う場合は、XML文書をXHTML/HTML文書の構造に変換するか、もしくはウェブブラウザで視覚的に表示することができる他の文書の構造に変換する。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "クライアント側でXSL Transformations (XSLT) のスタイルシートを指定するためには、XML文書に次のようにXSLTスタイルシートへの参照を含めることが、必要である(XMLの処理命令を使って実現している)。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "クライアント側のXSLTスタイルシート処理機能は、現在では多くのウェブブラウザが備えている。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "別の方法として、このような利用者が常用しているウェブブラウザの能力に依存する方法を採らずに、サーバ側でXSLを使ってXML文書を視覚化可能な形式に変換する方法も、行われている。利用者は、「舞台の裏側で」何が行われているかを、意識する必要はない。実際に目にするものは、よく整形され視覚化された文書だけである。", "title": "XML文書を視覚的に表示する" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "XMLを拡張する技術を説明する。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "XML文書はさまざまなMIMEタイプで配布することができる。RFC 3023 は、\"application/xml\" および \"text/xml\" のMIMEタイプを定義する。 \"application/xml\" と \"text/xml\" のMIMEタイプは、そのデータがXML文書の形式をとっているということのみを述べているだけであり、そのXML文書の論理的構造については何も述べていない。 \"text/xml\" を使うことに対しては、符号化に関する問題が生じる可能性があるとの批判があり、現在では非推奨とされている。RFC 3023 では、加えて、XML文書を \"application/\" で始まり、\"+xml\" で終わるMIMEタイプで配布することを勧めている。例えば、AtomのXMLデータに対しては、\"application/atom+xml\" のMIMEタイプで配布するのである。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "XML名前空間 (Namespaces in XML) は、一つXML文書内で、異なる複数のボキャブラリ(スキーマ)に由来する要素と属性を、名前の衝突を発生させることなく、含めることができるようにするための仕様である。World Wide Web Consortium (W3C) から、1999年1月14日に Namespaces in XML 1.0 が勧告された。XML文書に異なる複数のボキャブラリに由来する要素と属性を含める場合、ボキャブラリのそれぞれに名前空間をわりあてることにより、要素名の衝突と属性名の衝突の問題を、解決することができる。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "一つの名前空間において定義された要素の名前は、一意でなければならない。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "顧客への参照と注文された商品への参照を含む簡単なXML文書の例を考える。顧客要素と商品要素は、ともに「識別番号」という名前の子要素をもつことがあるだろう。識別番号要素への参照は、顧客要素の子要素の識別番号要素も商品要素の子要素の識別番号要素も同じ要素名をもつので、あいまいである。しかし2つのボキャブラリを区別する2つの名前空間のもとで識別番号要素を使う場合、顧客要素の子要素の識別番号要素と商品要素の子要素の識別番号要素は意味的に明確に異なる2種類の要素となる。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "名前空間は、XMLの予約属性である xmlns を使って宣言される。xmlns属性の属性値はIRI (Internationalized Resource Identifier) である必要があり、通常はURI (Uniform Resource Identifier) である。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "例を示す。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "この例の \"http://www.w3.org/1999/xhtml\" を名前空間名という。ここで注意すべきこととしては、名前空間の宣言で記述されたURIは、実際にインターネット上の住所として解釈されるわけではないということである(自由に考えよう、URIほど便利なものが必ずインターネットのアドレスをささなければいけないなどと、誰が決めたのか)。例えば、http://www.w3.org/1999/xhtml自体には何のコードもない。このURIの文書では、人間の読者に対してXHTMLについて簡単に説明しているだけである。 (\"http://www.w3.org/1999/xhtml\" のような) URIを名前空間の識別子として使うことで、(\"xhtml\" のような)単純な文字列を名前空間名として使うよりも、異なる名前空間が意図せずして同じ名前空間名を使ってしまう危険性を低減する。名前空間の識別子は、ウェブの住所(アドレス)の慣習にしたがう必要はない。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "名前空間の宣言は短い接頭辞を含むことができる。この名前空間接頭辞を使うことで、異なるボキャブラリに由来する要素と属性を識別することができる。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "名前空間接頭辞を使う例を示す。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "XML名前空間を使ったXML文書の例を示す。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "このXML文書は、次の2つの名前空間のボキャブラリから構成されている。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "なおこのXML文書は、あるXML文書をXHTML文書に変換するXSLTスタイルシートである。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "XML名前空間を使う場合、そのXML名前空間のボキャブラリが定義されていることが必要であるわけではない。しかしXML文書でXML名前空間を使う場合に、そのXML名前空間のボキャブラリを定義しておくことは、そのXML名前空間のURIのもとで正しい文書構造を定義しているスキーマに関連づけるために、行われることが多い。", "title": "XMLの拡張" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "プログラマやアプリケーションソフトウェアがXML文書を処理する手段としては、これまで次に示す3つの技法が伝統的に使われてきた。なお、この節の説明で使うAPIとはアプリケーションプログラミングインタフェースのことをさす。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "さらに、近年に開発され使われるようになった、XML文書を処理する技法を示す。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "Simple API for XML (SAX) は、字句解析を行いイベント駆動で処理を行う API である。SAXを使うとXML文書は文書の最初から順次読み込まれ、その内容はプログラマが実装したハンドラオブジェクトの様々なメソッドへのコールバックとして報告される。SAXを使ったXML文書処理は高速であり、少ないコンピュータ資源を効率的に使って非常にサイズの大きいXML文書を処理することが可能である。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "SAXを使うことに伴う問題は、XML文書に対してランダムアクセスを行って情報を取り出すことが難しいことである。そのため、SAXを使うに際し、プログラマはXML文書のどの部分が現在処理対象となっているか把握する為の機構を実装しなければならない。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "SAXは、処理対象となるXML文書中のある種類の情報がどの部分に出現するかに依らず、常に同じように処理されると保証できる場合に用いるのが望ましい。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "Document Object Model (DOM) は、インタフェース指向のAPIであり、XML文書のおのおのの部分を表現する節オブジェクトの集まりからなる木構造であるかのように、XML文書全体に対してナビゲーションを行うことを想定している。DOMでは、XML文書に対してランダムアクセスを行って情報を取り出すことが、簡単にできる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "DOMにおけるXML文書全体に相当する Document オブジェクトは、XML文書をXMLプロセサが処理することにより生成することもできるし、プログラマがプログラミングすることによって生成することもできる。DOMにおける Node (節) のさまざまな型のデータ型は、DOM仕様においては抽象的にインタフェースとして定義されている。Node のデータ型の実装は、プログラミング言語に固有の言語バインディングを提供する。 DOMの実装は、サイズの大きいXML文書を扱う場合はたくさんのメモリを使う。なぜならDOMの実装は、一般的にはXML文書全体からオブジェクトの木構造を構築してメモリにロード(展開)し、その後にDOMを介した処理をできるようにしているからである。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "Javaでは、標準ライブラリを構成するいくつかのパッケージでDOMが実装されており、Javaのプログラマは標準ライブラリのDOMを使うことができる。DOMの仕様は、World Wide Web Consortium (W3C) で策定されているため、DOMで中核をなす Node やDocument などのインタフェースや、直列化 (出力) などの機能を提供するためのインタフェースはパッケージ org.w3c.dom.* に収められている。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "Extensible Stylesheet Language (XSL) 技術におけるフィルタは、XML文書に対して、視覚的に出力したり印刷出力できるよう変換処理を行うことができる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "Pull Parsing は、XML文書を、最初から順番に読み込み、Iterator パターン のデザインパターンを使って項目 (item) の一連の流れとして扱う、近年に徐々に普及してきた技法である。 Pull Parsing の技法により、再帰下降パーサを実装することができる。 再帰下降パーサでは、パースを実行するプログラムは、パースの対象となるXML文書の構造と似ている。 そしてパースの中間結果を取得することができる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "パースの中間結果を、パースを実行するメソッド内の局所変数 (ローカル変数) として使うことができる。 あるいは、低水準のメソッドの引数として渡したり、高水準のメソッドへの戻り値として返すことができる。 Pull Parsing の技法を提供する実装としては次のものがある。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "例えば、JavaのStAXフレームワークでは、本質的な「反復子」 (イテレータ) を作成して使うことができる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "Pull Parsing で作成される「反復子」はXML文書中のさまざまな要素、属性、データを順番に訪れる。 「反復子」を使うプログラムは、処理中に現在の項目 (例えば、要素の開始、要素の終了、テキスト) を調べ、その特性 (例えば、要素の名前、名前空間、属性値、テキスト内容) を調査する。 そして反復子に「次の」項目へ移動するよう指示することもできる。 プログラムは、このようにXML文書を走査するようにして、文書から情報を取り出すことができる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "Pull Parsing の技法の特筆すべき長所は、XML文書をパースするDOMの技法と比べて非常に高速であり、メモリ使用が非常に少ないことである。 もう一つの長所は、再帰下降の手法は、パースを実行するプログラム内で、データを型づけされた変数として保持することに適していることである。 SAXでは、例えば、プログラマが自分で処理中の要素の祖先となる要素群を格納するスタック内に中間データを保持するコードをプログラミングする必要があることが多い。 これに対し、Pull Parsing の技法を使ってXML文書を処理するプログラムは、SAXを使うプログラムよりも、非常に単純で理解し易く保守が容易になることが多い。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "XML文書を処理するもう一つのAPIは、XMLデータバインディングであり、XMLデータバインディングを使うと、XML文書を、その文書型に対応した、強く型づけされたプログラミング言語データ構造 (プログラムのソースコード) を、生成することができる。インタフェース指向のDOMとは対照的な手法である。データバインディングの実現例を次に示す。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "OpenOffice.org、AbiWord、およびAppleのiWorkなどのアプリケーションソフトウェアのネイティブファイルフォーマットは、XMLである。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "従前、オフィススイートには各ソフトの特有のバイナリ形式としてデータが保存されていた。しかしながらこれでは互換性が低く、様々な情報をデータベースとして利用するオフィススイートでは不都合が生じていた。 そのため、データの標準化を進めて互換性を高めるため、各オフィススイートはXML形式でデータを出力する機能や、そもそも標準保存形式をXMLベースとするものが増えてきた。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "OpenOffice.orgはXMLベースの保存形式を当初より標準としていた(英語版バージョン1.0は2002年5月1日リリース)。また、OpenOffice.orgに限らず、どのオフィススイートでも利用できるOpenDocument形式が国際標準化機構(ISO)によって標準規格として認定されている。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "もう一つのオフィススイート用の保存形式である Office Open XML も、ISOにより標準規格として認定されている。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "マイクロソフトの Microsoft Office では Microsoft Office XP のバージョンからXML形式への対応を始め、Microsoft Office 2003 で独自の定義の XML Schema がサポートされるに至った。 Microsoft Office 2007 ではデフォルトの保存方式がXMLとなった(Office Open XML)。Microsoft Office 2007 のいくつかの機能では、XMLファイルを利用者が指定したスキーマ (ただしDTDではない) に沿って編集することができるようになっている。 またマイクロソフトは、Microsoft Office 2003 のためのファイルフォーマット互換性キットを公開している。 この互換性キットを使うことにより、以前のバージョンの Microsoft Office で作成された文書をXMLに準拠した新しいフォーマットで保存することができる。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "エディタについては現在、多くのXMLエディタが使えるようになっている。", "title": "XML文書をプログラムで処理する" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "XMLインフォメーションセット(英: XML Information Set, Infoset)またはXML情報集合 (—じょうほうしゅうごう) は、XML文書の抽象的なデータモデルを「情報項目」 (information item) の集合を使って規定している。 World Wide Web Consortium (W3C) から、2001年10月24日にXML情報集合仕様が勧告された。 XML情報集合の仕様における定義は、整形式XML文書内の情報を参照する必要がある他の仕様において使われることが想定されている。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "一つのXML文書には、そのXML文書が整形式でありかつXML名前空間の制約に準拠している場合、一つのXML情報集合がある。 XML情報集合を構成するためには、そのXML文書が妥当なXML文書であることは、必須要件ではない。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "一つのXML情報集合には、次に示す11種類の情報項目がある。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "XML情報集合の Second Edition (第2版) が2004年2月4日に勧告された。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "情報集合への追加情報すなわち情報集合に対する改変は、スキーマによる妥当性検証を行う際に、情報集合を改変することをいう。 例えば、情報集合に属性の既定値 (デフォルト値) を追加することなどがある。情報を追加された情報集合は、スキーマ検証後情報集合あるいはPSVI (post-schema-validation infoset) と呼ばれる。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "情報集合への追加情報については、賛否両論がある。 情報集合に情報を追加することに否定的な見解としては、情報集合への追加情報はモジュール性を侵害し相互運用性の面での問題を引き起こす危険があるとする。 なぜなら、同じXML文書を扱う複数のアプリケーションソフトウェアは、受け取る情報が妥当性検証を行うかどうかに依存してしまうからである。 アプリケーションソフトウェアが、妥当性検証を行う場合に受け取る情報と、妥当性検証を行わない場合に受け取る情報が、異なってしまうのである。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "XML Schema は、XML情報集合への追加情報を扱うことができる。 RELAX NGは、情報集合への追加情報を扱わない。 RELAX NG では、情報集合への追加情報に否定的な立場をとっている。", "title": "XML情報集合" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "デジタルメディアの出版を行ってきた人々は、1980年の後半—インターネットが広く使われるようになるより前の時期—には既に、動的に情報を視覚化するための技術として、汎用的なマークアップ言語である Standard Generalized Markup Language (SGML) が多くの用途に適していることを、理解していた。 SGMLはいくつかの分野で普及していたが、仕様が複雑で処理系の開発が難しく、またSGML文書の処理が重いという欠点があった。1990年代半ばまでには、SGMLを実際に使っていた一定の人々は、新しく現れた World Wide Web (ウェブ) を経験した。 そうした人々は、ウェブが発展することにより直面するいくつかの問題に対して、SGMLが解決策を提供すると、強く考えるようになった。 Dan Connolly は、自分が1995年にWorld Wide Web Consortium (W3C) のスタッフになった時に、SGMLをW3Cのアクティビティの一覧に追加した。 このアクティビティの作業は、1996年の中頃にサン・マイクロシステムズのジョン・ボサックが、このアクティビティに関する宣言を起草しアクティビティの共同作業者を募ることで、始まった。 ボサックは、SGMLとウェブの双方を経験していた人々の小さなコミュニティと良好な関係を築いていた。 ボサックは、自分の作業においてマイクロソフトから支援を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "XMLの仕様は、11人のメンバーからなるワーキンググループにより編集され、だいたい150人から構成される Interest Group のメンバーから支援を受けて作成された。 技術的な論議が Interest Group のメーリングリストで提起され、提起された論議は合意形成により解決された。合意形成ができなかった場合は、ワーキンググループのメンバーの投票による多数により解決された。 このアクティビティで行われた設計上の決定とその根拠の記録は、Michael Sperberg-McQueen が1997年12月4日に編集した。 このアクティビティではジェームズ・クラークが技術リーダとして貢献した。 クラークの貢献として特筆されるのは、空要素 \"<empty />\" の導入と、この技術の名称 \"Extensible Markup Language\" (XML) の命名である。 この技術の名称として、他に提案され吟味されたものの一部を次に示す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "XML仕様のワーキンググループではジョン・ボサックが議長を務めた。 このワーキンググループではジェームズ・クラークが技術リーダを務めた。 ワーキンググループの共同エディタは、もともとはティム・ブレイと Michael Sperberg-McQueen であった。 このアクティビティのプロジェクトの途中で、ブレイはネットスケープ・コミュニケーションズとのコンサルティングの契約を結んだ。 このブレイとネットスケープの契約に対しては、マイクロソフトが強く抗議した。 ブレイは、エディタの役割を一時的に辞することを要請された。 このことに関して、ワーキンググループでは激しい議論が行われた。 この議論は、最終的にはマイクロソフトの Jean Paoli が第3の共同エディタに就くことで解決した。 なおXMLワーキンググループには、日本人としてはただ一人村田真がメンバーとして1997年に参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "XMLワーキンググループは、直接会って活動したことは数回しかなかった(最初の会議は1997年8月22日)。 XML仕様の設計は、電子メールと週に一度の電話会議の双方を有機的に活用することにより、成し遂げられた。 XML仕様の設計では、SGMLの欠点を解決すべく文法を簡素化した。 XML仕様における設計上のいくつかの大きな決定は、1996年の7月から11月までの間の12週間の真剣な作業のなかで行われた。 この12週間の作業の後 (1996年11月) に、XMLの最初のワーキングドラフトが公表された。 その後も1997年をとおして設計作業は続けられ、XML 1.0 は、1998年2月10日にW3Cの勧告となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "XML 1.0 は、ワーキンググループが目標としていた次の目標を達成したと、評価する人々が多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "技術者にとってはXMLはSGMLよりも習得しやすい技術であり、また処理系の開発が容易になったことで低い費用でXML技術を利用できるようになった。 現在ではXMLは広く普及している技術である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "XMLの前身であるSGMLと同様にXMLでも、いくつかの冗長な構文要素があり、要素記述子の繰り返しを仕様に含んでいる。 文書を短くすることは、XMLワーキンググループでは、XMLの構造において本質的な問題とは見なされなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "XMLは、ISO標準 Standard Generalized Markup Language (SGML) のサブセットである。 XMLのほとんどはSGMLから変更されずに採り入れられている。 XMLがSGMLから採り入れられている技術的な要素には次のものが含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "XMLがSGMLから採り入れなかった技術要素としては、SGML宣言がある (XMLでは文書の文字符号化方式としてUTF-8とUTF-16を採用している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "XMLの他の技術的起源としては、次の3つが挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "XML仕様の設計に関する議論のなかで開発された革新的な考え方には、次のものが含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "2010年1月現在の時点では、XMLには2つのバージョンがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "XML 1.0 と XML 1.1 は、要素名と属性名に使うことができる文字集合において異なっている。XML 1.0 では、 Unicode 2.0 で定義された文字集合のみ要素名および属性名として使うことができる。Unicode 2.0 の文字集合には、世界で使われているほとんどの文字が含まれている。しかし Unicode 2.0 の文字集合には Unicode 2.0 より新しいバージョンで追加された文字は含まれていない。こうした Unicode の新しいバージョンで追加された文字としては、モンゴル語、クメール語 (カンボジア語)、アムハラ語、ビルマ語などの文字が、含まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "XML 1.1 においては、ほとんどのUnicode文字をXML文書の文字列データや属性値として使うことができる。また Unicode の現在のバージョンで定義されていない文字でさえ、使うことができる。 XML 1.1 の方式では、いくつかの文字については使うことができないが、その他の全ての文字は使うことができる。 一方で XML 1.0 では、仕様で明示的に規定された文字集合のみを、XML文書の文字列データや属性値として使うことができる。 このため XML 1.0 では、Unicode の新しいバージョンで追加される文字を扱うことはできない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "XML文書の文字列データや属性値について、XML 1.1 では XML 1.0 より多くの制御文字を使うことができる。 しかし「堅牢性」の観点から、XML 1.1 で使えるようになった制御文字の多くは、文字参照としてXML文書内に記述しなければならない。 XML 1.1 で使えるようになった制御文字には、2つの改行コードが含まれる。 この2つの改行コードは、XML 1.1 の処理系では空白記号として扱われる。 制御文字のうちこの空白記号として扱われる制御文字のみが、XML 1.1 で文字参照を使わずに直接にXML文書に記述することができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "現在、XML 2.0 に関する議論が行われている。 XML-SW (SW は、skunk works スカンクワークスの意味) が、XMLの最初の設計者の一人によって書かれた。 XML-SW には、XML 2.0 はどのようなものかということについての、いくつかの提案を含んでいる。 その内容は次のとおりである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "World Wide Web Consortium (W3C) では、XML Binary Characterization (XMLバイナリ表現) のワーキンググループが活動しており、同ワーキンググループでは、XML情報集合をバイナリ形式に符号化するために、ユースケースと特性を調査する予備研究を行っている。 このワーキンググループは、公的な標準を制定することが認可されているわけではない。 XMLは定義上明確にテキストに基づいているため、ITU-TとISOは、それぞれが定めるバイナリインフォメーションセットに対して、混乱を避けるために Fast Infoset の名前を使っている (参照: ITU-T Rec. X.891 | ISO/IEC 24824-1)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "2005年の10月に、Scientigoという小さな企業が、XMLの使用に対して同企業の2つの特許 U.S. Patent 5,842,213 と U.S. Patent 6,393,426 の対象になるという主張を、公的に表明した。 この2つの特許は、「特定の『階層構造ではない』統合されていない中立的な形式での、[データの]モデリングと格納と転送」を対象としている。 特許申請によると、この2つの特許は1997年と1999年に出願された。 Scientigoの最高経営責任者 (CEO) である Doyal Bryant は、この2つの特許を「金銭に換える」という願望を述べたが、同社は「世界を敵にするつもりはない」と言明した。 Bryant は、Scientigoは自社の2つの特許についていくつかの大企業と話し合っていると述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "XMLを使う人々や企業に在籍していない専門家たちは、Scientigoの主張に対して懐疑的で批判的な立場で反応した。 一定の人々は、Scientigoをパテント・トロールであると述べた。 ティム・ブレイは、この2つの特許がXMLを対象とするという主張は「ばかげている」と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "XMLに関係する多くの先行技術がSGMLを含めて存在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "多くの論者がXMLに対してさまざまな批判を行ってきた。 こうした批判は、XMLの長所と潜在的な欠点に対する言及を含んでいる。", "title": "XMLに対する支持と批判" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "先述したISOの標準群のほかに、XML関連では次の文書が発行されている。", "title": "標準化" } ]
Extensible Markup Languageは、基本的な構文規則を共通とすることで、任意の用途向けの言語に拡張することを容易としたことが特徴のマークアップ言語の総称である。一般的にXML(エックスエムエル)と略称で呼ばれる。JISによる訳語は「拡張可能なマーク付け言語」と定義している。XML文書のフォーマットを予め統一することで、異種プラットフォーム間での情報交換も可能となる。 SGMLからの移行を目的として開発された。文法はSGMLの構文解析器と互換性を保つようにSGMLのサブセットに定められシンプルになり、機能はSGMLに無いものが追加されている。 XML の仕様は、World Wide Web Consortium (W3C) により策定・勧告されている。1998年2月に XML 1.0 が勧告された。2010年4月現在、XML 1.0 と XML 1.1 の2つのバージョンが勧告されている(#バージョン)。 ちなみに、「eXtensible Markup Language の略である」と書かれることがあるが、これは間違いであり、XはExの発音を表している。
{{Infobox file format | name = Extensible Markup Language | icon = | logo = | screenshot = [[ファイル:XML.svg|200px]] | released = {{Start date and age|1998|br=yes}} | extension = .xml | mime = application/xml<br/>text/xml (非推奨) | type code = | uniform type = public.xml | magic = | owner = [[World Wide Web Consortium]] (W3C) | genre = [[マークアップ言語]] | container for = | contained by = | extended from = [[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) | extended to = [[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]、[[DocBook]]、[[RSS]]、[[ebXML]]、 ... | standard = [http://www.w3.org/TR/xml/ 1.0 (Fifth Edition)] [http://www.w3.org/TR/xml11/ 1.1 (Second Edition)] }} {{読み仮名_ruby不使用|'''Extensible Markup Language'''|エクステンシブル マークアップ ランゲージ}}は、基本的な[[構文]]規則を共通とすることで、任意の用途向けの[[言語]]に拡張することを容易としたことが特徴の[[マークアップ言語]]の総称である。一般的に'''XML'''(エックスエムエル)と略称で呼ばれる。[[日本工業規格|JIS]]による訳語は「'''拡張可能なマーク付け言語'''」と定義している。XML文書のフォーマットを予め統一することで、異種プラットフォーム間での情報交換も可能となる。 [[Standard Generalized Markup Language|SGML]]からの移行を目的として開発された。[[文法]]はSGMLの構文解析器と互換性を保つようにSGMLのサブセットに定められシンプルになり、機能はSGMLに無いものが追加されている。 XML の仕様は、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) により策定・勧告されている。1998年2月に XML 1.0 が勧告された。2010年4月現在、XML 1.0 と XML 1.1 の2つのバージョンが勧告されている([[#バージョン]])。 ちなみに、「e'''X'''tensible '''M'''arkup '''L'''anguage の略である」と書かれることがあるが、これは間違いであり、'''X'''は'''Ex'''の発音を表している<ref>[http://lists.xml.org/archives/xml-dev/200802/msg00313.html "XML stands for Extensible Markup Language. The X is for the first syllable of Extensible. eXtensible is a spelling error."]</ref>。 == 概要 == === 基礎的概念と利用目的 === XMLは、個別の目的に応じた[[マークアップ言語]]群を創る汎用的言語であり「タグの入れ子」式の構文が拡張性を容易にするとして「extensible」を謳っている。[[木構造 (データ構造)|データ構造としては木として取り扱われるため、]]ネットワーク構造すなわち[[グラフ (データ構造)|グラフ構造]]を直接扱うことは不可能である([[XLink]]などの提案がある)。 XMLの最も重要な目的は、異なる[[情報システム]]の間で構造化された文書や構造化されたデータの共有を容易にすることである<ref name="XmlOriginsGoals">{{Cite web|和書| title=拡張可能なマーク付け言語 (XML) 1.0| url=http://xml.coverpages.org/xml10-japanese.html | first=Tim |last=Bray| coauthors=Jean Paoli, C. M. Sperberg-McQueen, Eve Maler, François Yergeau | year=September 2006 | publisher=World Wide Web Consortium | accessdate=2007-10-06}}</ref>。 === HTMLとXMLの違い === XMLは、ユーザが定義したタグを用いて文章構造を記述するマークアップ言語である。HTMLが、Webページを記述するための言語であるのに対して、XMLは、データ交換のための汎用のデータ形式である。HTMLで使用するタグはあらかじめ定義済みのものだが、XMLではユーザが新しくタグを定義して、データの意味や構造を記述することが可能である。 === XMLを基盤とするマークアップ言語とスキーマ言語 === XMLで文書の論理的構造を規定する制約を追加することによって、XMLを適用したマークアップ言語を[[実装]]できる。XMLを適用したマークアップ言語は非常に多く存在している ([[#XMLの応用]]の節を参照)。例えば、[[Extensible HyperText Markup Language]] (XHTML)<ref group="注">[[Extensible HyperText Markup Language]] (XHTML) は、[[マークアップ言語]] [[HyperText Markup Language]] (HTML) を簡素化しその一貫性を改良しようという試みである。なお、HTMLは、[[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) に基づいたマークアップ言語である。</ref>、[[DocBook]]、[[RSS]]、[[Mathematical Markup Language]] (MathML)、[[ebXML]]、[[Scalable Vector Graphics]] (SVG)、[[MusicXML]] などがある。さらにXMLは、そういった個別のXMLについての構文規則を示すための[[スキーマ言語]]も用意している。スキーマ自体もXMLの[[XML Schema]]の他、XMLではない記法でとても簡潔に大変わかりやすく書ける、Compact Syntaxも用意されている[[RELAX NG]]もある。 === オープンな仕様 === XMLは、同じく汎用的に使えるマークアップ言語である [[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) の、簡素化されたサブセットとして、人間にとっても比較的判読しやすいように設計された ([[#歴史]]を参照)。XMLの仕様は、XMLワーキンググループなどにより設計が行われ、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) により勧告 (策定) されている。XMLは無償で使える[[オープン標準]]の技術である。XML仕様のW3C勧告ではXMLの文法とXMLプロセサ ([[XMLパーサ]]、XML文書の[[構文解析器]]) のための要件を定めている。[[1998年]]2月に XML 1.0 が勧告され、2004年2月に XML 1.1 が勧告された([[#バージョン]]参照)。 === 正当性水準について === XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある ([[#整形式XML文書と妥当なXML文書]]を参照)。XML文書のマークアップ規則に従って記述されていることだけが問題とされる文脈で、スキーマ言語を使わずに、XML文書のマークアップ規則に従って記述された文書を、「整形式XML文書」 (well-formed XML document) という ([[#XMLの構文と整形式XML文書]]を参照)。さらに、XML文書をより厳密に構造化した文書やデータとして扱いたい場合は、XML文書の構造を[[スキーマ言語]]によって定義することができ、XMLプロセサでそのXML文書(XMLインスタンス)に対してその文書構造に従っていることを検証する(妥当性検証を行う)というように、XML技術を使うこともできる ([[#XML文書の論理的構造と妥当なXML文書]]を参照)。 XML文書に対して妥当性検証を行うことにより、従来[[アプリケーションソフトウェア]]で行ってきた、XML文書の構造の検査や、XML文書に含まれるデータに対する[[データ型]]のチェックや値の範囲のチェックが、可能となる。スキーマ言語としては [[Document Type Definition]] (DTD、文書型定義)、[[World Wide Web Consortium|W3C]] XML Schema、RELAX NG ([[文書スキーマ定義言語]]: DSDL)などがある。XML文書の構造がスキーマ言語によって定義され、XML文書の妥当性を検証する[[ソフトウェア]]によって妥当性が検証されたXML文書のことを「妥当なXML文書」 (valid XML document) という。整形式XML文書は、妥当なXML文書である場合と、妥当なXML文書ではない場合とがある。スキーマ言語を採用して妥当性検証を行う方法でXMLを使うこともできるし、スキーマ言語を採用せず妥当性検証を行わないで手軽にXMLを使うこともできる。 === 幅広い人間言語のサポート === XML勧告では、XMLプロセサがサポートすべき[[文字符号化方式]]([[文字コード]])として[[UTF-8]]と[[UTF-16]] ([[Unicode]]) を定めているため、英語以外の言語も扱いやすくなっている ([[#多言語環境で使う]]を参照)。また、UTF-8とUTF-16以外の文字コード([[UCS-4]]、[[EUC-JP]]、[[Shift_JIS]]、[[EBCDIC]]など)を用いることも可能である<ref group="注">XMLプロセサを利用する際には、XML文書で用いている文字コードをサポートしたものを選択することになる。</ref>。 === 補完技術 === XMLだけでは最低限の書式しか決められていないため、XMLの力を引き出す各種の関連技術が別途標準化されている ([[#XMLの拡張]]および[[#XML文書をプログラムで処理する]]、[[#XML文書を視覚的に表示する]]、[[#XML情報集合]]を参照)。 以下に挙げるものをはじめとして、現在も多くの関連技術の標準化作業が行われている。 * [[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]からXML文書を処理する方法として、[[Document Object Model]] (DOM) や [[Simple API for XML]] (SAX) などの[[アプリケーションプログラミングインタフェース]] (API) が標準化されている<ref group="注">他の方法でXML文書を処理することも可能である</ref>。 * XML文書のスタイルを指定する技術([[スタイルシート]])として [[Extensible Stylesheet Language]] (XSL) や [[Cascading Style Sheets]] (CSS) などがある。 * XML文書を非[[テキストファイル|テキスト]]形式([[バイナリ]])で効率的に表現する方法として、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) は [[Efficient XML Interchange]] (EXI) フォーマットを定義した。 === XMLの普及とXMLへの批評 === XMLは現在、広く普及している技術であるが、その技術的な有用性などについて、肯定的に評価する人々が多い一方で、批判的に評価する人々も多い ([[#XMLに対する支持と批判]]を参照)。 == 整形式XML文書と妥当なXML文書 == XML文書の正当性の水準には、整形式XML文書と妥当なXML文書の、2つの水準がある。なおXML文書に対して、整形式XML文書としての検査のみを行うXMLプロセサを'''非検証XMLプロセサ'''といい、整形式XML文書としての検査に加えて妥当なXML文書としての検査を行うXMLプロセサを'''検証XMLプロセサ'''という。 ; 整形式XML文書 : 整形式XML文書 (well-formed XML document) は、XMLの構文の規則のすべてに準拠している。例えば、文書中のある要素が開始タグが有るが対応する終了タグが欠落している場合、その文書は'''整形式''' (well-formed) ではない。整形式ではない文書はXML文書とはみなされない。非検証XMLプロセサおよび検証XMLプロセサは、整形式ではない文書を処理することはできない (処理を試みるとエラーになる)。 ; 妥当なXML文書 : 妥当なXML文書 (valid XML document) は、整形式XML文書としての条件を満たしていることに加えて、文書の論理的構造を規定する何らかの規則に準拠している。このような規則は、RELAX NG や XML Schema、Document Type Definition (DTD、文書型定義) などの[[スキーマ言語]]で定義されたスキーマで定める。例えば、あるXML文書がスキーマに定義されていない要素 (タグ) を含んでいた場合、検証XMLプロセサは、そのXML文書を処理することはできない。検証XMLプロセサによって検証されたXML文書は、'''妥当''' (valid) であると位置づけられる。なお、妥当な文書であっても、非検証XMLプロセサでは[[#実体参照|実体]]の定義を確認しないため、仕様で定められている実体参照(&amp;lt;、&amp;gt;など)以外の私的な実体参照を用いている場合、非検証XMLプロセサは当該実体を参照できず致命的なエラーとなる。 == XMLの構文と整形式XML文書 == 整形式XML文書が満たすべき構文の規則を説明する。 整形式XML文書としての条件が満たされることのみを考慮する場合 (スキーマ言語を使わずに手軽にXMLを使う場合) においても、XMLは、大量の文書やもしくは[[木構造 (データ構造)|木構造]]として表現することができるデータを格納するための、一般的な枠組みとしての役割を果たすことができる。 XML文書は、'''要素''' (element) と'''属性''' (attribute) が複数集まって、構成されている。 要素は内部に子要素を含むことができる。属性は要素に付随し、属性の内部に子要素を含むことはできない。要素は開始タグと終了タグで内容を挟むことで表現する。 開始タグは「<要素名>」、終了タグは「</要素名>」で記述する。 一つの要素を記述するための基本的な構文を次に示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <要素名 属性="値">内容</要素名> </syntaxhighlight> ここで、<nowiki><要素名 属性="値"></nowiki> をこの要素の開始タグといい、<nowiki></要素名></nowiki> を終了タグという。「内容」は何らかのテキストである。 次に示す例は整形式XML文書である。 <syntaxhighlight lang="xml"> <書籍 出版日="2007-10-31">これは書籍です.... </書籍> </syntaxhighlight> この例は、書籍という要素を一つもつXML文書である。<code>&lt;書籍&gt;</code> が書籍要素の開始タグであり、&lt;/書籍&gt; が書籍要素の終了タグである。「出版日="2007-10-31"」は書籍要素の属性である。この属性の名前 (属性名) は「出版日」であり、この属性の値 (属性値) は "2007-10-31" である。「これは書籍です.... 」は、書籍要素の内容である。 要素の内容を構成するテキストはまた、さらに任意の数の要素を含むことができる (なお、このように一つの要素内に文字列データと子要素が混在するものを、「混合内容」と呼ぶ<ref group="注">一つの要素の内容として文字列データのみを含むものは、混合内容ではない。また内容のない「空要素」も混合内容ではない。一つの要素の内容がいくつかの子要素だけから構成されるものも、混合内容ではない。</ref>)。 すなわち、一般的なXML文書は[[木構造 (データ構造)|木構造]]をなす。 この点において、XMLは[[プログラミング言語]][[LISP]]の[[S式]]と似ている。 S式でも木構造を記述する。S式の木構造のおのおのの節は、自分自身のプロパティリストをもつことができる。 要素は内部に別の要素を含むことができる。構造化したXML文書の例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <レシピ 名前="パン" 準備時間="5分" 調理時間="3時間"> <料理>基本的なパン</料理> <材料 量='3' 単位='カップ'>小麦粉</材料> <材料 量='0.25' 単位='オンス'>イースト</材料> <材料 量='1.5' 単位='カップ' 状態="温かい">水</材料> <材料 量="1" 単位="ティースプーン">食塩</材料> <要領> <手順>全ての材料を一緒にして混ぜます。</手順> <手順>十分にこねます。</手順> <手順>布で覆い、暖かい部屋で1時間そのままにしておきます。</手順> <手順>もう一度こねます。</手順> <手順>パン焼きの容器に入れます</手順> <手順>布で覆い、暖かい部屋で1時間そのままにしておきます。</手順> <手順>オーブンに入れて温度を180℃にして30分間焼きます。</手順> </要領> </レシピ> </syntaxhighlight> 要素の属性の値は、必ずシングルクォート (') かダブルクォート (") で括らなければならない。そして要素内にある属性は、互いに属性名が異なっていなければならない。XML文書では要素は正しく入れ子になっていなければならない。要素は決してオーバーラップしていてはならない。 例えば、次の文書は整形式XML文書ではない。なぜなら <code>書名</code> 要素と <code>著者</code> 要素がオーバーラップしているからである。 <syntaxhighlight lang="xml"> <!-- 正しくありません! 整形式XML文書ではありません! --> <書籍目録> <書名>XML入門<著者>筒井<書名>続・XML入門<著者>小松</書名></著者></書名></著者> </書籍目録> </syntaxhighlight> 次の2つの文書は整形式XML文書である。 <syntaxhighlight lang="xml"> <!-- 正しい整形式XML文書です --> <書籍目録> <書名>XML入門</書名> <著者>筒井</著者> <書名>続・XML入門</書名> <著者>小松</著者> </書籍目録> </syntaxhighlight> <syntaxhighlight lang="xml"> <!-- もう一つの正しい整形式XML文書です --> <書籍目録> <書名>XML入門</書名> <著者>筒井<書名>続・XML入門<著者>小松</著者></書名></著者> </書籍目録> </syntaxhighlight> 整形式XML文書においては、XML文書は正確に一つの'''ルート要素''' ('''文書要素'''; document element とも呼ばれる) をもたなければならない。ルート要素とは、XML文書の要素の階層構造において最上位の要素のことをいう。最上位の要素は一つでなければならない。最上位の要素が複数ある文書は、整形式XML文書ではない。 整形式XML文書が一つのルート要素をもたなければならないという条件が意味することは、整形式XML文書のテキストは、ルート要素の開始タグと対応する終了タグの間に、収められなければならないということである。ルート要素の開始タグと終了タグの間に収められたテキストは、任意の数の要素や文字列データを含むことができる。 ルート要素の前に、必要に応じて、'''XML宣言''' (XML declaration) をおくことができる。このXML宣言は、XMLのどのバージョンが使われているか (現時点ではバージョン1.0であることが多い) などを示す。XML宣言では、XMLのバージョンの他に、[[文字符号化方式]] ([[文字コード]]) の指定や、他のXML文書との依存関係についての指定を、行うこともできる。 * XML文書の文字符号化方式が[[UTF-8]]か[[UTF-16]]の場合は、XML宣言をおいてもよいし、XML宣言をおかなくてもよい。 * XML文書の文字符号化方式がUTF-8でもUTF-16でもない場合は、XML宣言をおいて文字符号化方式を明示する必要がある。 XML宣言を含んだXML文書の例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <書籍 出版日="2007-10-31">これは書籍です.... </書籍> </syntaxhighlight> XML仕様では、'''XMLプロセサ''' ([[XMLパーサ]]、XML文書の[[構文解析器]]) が、[[Unicode]]の文字符号化方式である[[UTF-8]]および[[UTF-16]]で記述されたXML文書を処理できることを、'''必須'''条件としている ([[UCS-4]]は必須条件ではない)。XMLプロセサは、UTF-8およびUTF-16の他にも、いくつかの任意の文字符号化方式の文書を処理できるようにして良い。例えば、[[UCS-4]]、[[EUC-JP]]、[[Shift_JIS]]、[[EBCDIC]]などの文字符号化方式の文書を処理できるXMLプロセサが、広く普及し、使われている。 '''[[コメント (コンピュータ)|コメント]]'''はXML文書の木構造のどこにでもおくことができる。 <!-- 要素の内容が文字列データ (すなわちDTDの用語でいう #PCDATA ) の場合、コメントを要素の内容の内におくこともできる。 --> コメントは、"&lt;!--" で始まり、"--&gt;" で終わる。 なお、コメント内に "--" を含むことはできない。 コメントを含むXML文書の例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <書籍 出版日="2007-10-31"> <!-- これはコメントです.... --> これは書籍です.... </書籍> </syntaxhighlight> 内容のない要素を'''空要素''' (empty element) という。XMLでは、空要素を表現するために特別な構文を使うことができる。開始タグを書きその直後に終了タグを書くこともできるが、その代わりに空要素のタグを使うことができるのである。空要素タグは開始タグと似ているが、閉じ括弧の直前にスラッシュをおく。 次の3つの例は、XMLでは同等である。 <syntaxhighlight lang="xml"> <foo></foo> <foo/> <foo /> </syntaxhighlight> 空要素タグは属性を含むことができる。 <syntaxhighlight lang="xml"> <情報 著者="小松左京" 分類="サイエンスフィクション" 日付="2009-01-01"/> </syntaxhighlight> === 多言語環境で使う === XML文書ではどの[[Unicode]]の文字も (XMLで特別な意味をもつ、開き山括弧 "&lt;" のような文字を除いて)、要素名として、属性名として、コメント内容として、文字データとして、[[#処理命令|処理命令]] (後述) として、直接に使うことができる。このため、[[漢字]]と[[キリル文字]]を共に含む次の文書も、整形式XML文書である。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <俄語>Данные</俄語> </syntaxhighlight> === 文書型宣言 === XML文書 (あるいは[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]文書、[[HyperText Markup Language|HTML]][[ウェブページ]]を含む) において、'''文書型宣言''' ('''DOCTYPE宣言'''、Document Type Declaration) は、その文書を特定の Document Type Definition(DTD、文書型定義) のスキーマと関連づけることを記述するものである。なお、Document Type Definition (DTD、文書型定義)は、XMLで使うことができる[[スキーマ言語]]の一つである。文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していることを宣言する。 XML文書では文書型宣言を記述してもよいし、記述しなくてもよい。DTDをスキーマ言語として妥当性検証を行うことを想定しているのであれば、文書型宣言の記述は必須となるであろう。DTDで妥当性検証を行わない場合でも、後述する[[#実体参照|実体参照]]などを文書中で使うのであれば、文書型宣言において文書中で使う実体を宣言することができる。 文書型宣言は、その文書が特定のスキーマに準拠していること (妥当なXML文書であること) を、保証しているわけではない。文書型宣言に記されたスキーマに準拠しているかどうかを判断するには、検証XMLプロセサでその文書を検証する必要がある。 文書型宣言の一般的な構文は次のとおりである。 <!-- source lang="xml" --> <!DOCTYPE ルート要素名 [SYSTEM もしくは PUBLIC 公開識別子] 外部サブセット参照 [ <nowiki><!-- 随意に内部サブセットを記述する --></nowiki> ]> <!-- /source --> ここで'''外部サブセット'''とは、そのXML文書のDTDを構成する (要素の型の宣言、後述する実体の宣言などの) 宣言群のうち、別ファイルに記述された宣言群のことである。また'''内部サブセット'''とは、そのXML文書のDTDを構成する宣言群のうち、文書型宣言内に直接記述された宣言群のことである<ref>株式会社日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘、2001年、p.132</ref>。 [[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]] 1.0 Strict に準拠したXML文書での文書型宣言は、次のとおりである。 <!-- XHTML 1.1 のDTDは、かなりDTDの読み書きに熟達した方でなければ、解読することが難しいので、XHTML 1.0 Strict の文書型宣言を例示として採ります。 --> <!-- source lang="xml" --> <!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD XHTML 1.0 Strict//EN" "http://www.w3.org/TR/xhtml1/DTD/xhtml1-strict.dtd"> <!-- /source --> XML文書においては、ルート要素がその文書の最初の要素である (例えば、XHTMLではルート要素は <code>html</code> である)。<code>SYSTEM</code> キーワードと <code>PUBLIC</code> キーワードは、その文書型 (文書の構造) の種類を指定する。一般に広く知られていないDTDを使う場合は、<code>SYSTEM</code> キーワードを使う。一般に広く知られているDTDを使う場合 (XHTMLなど) は、<code>PUBLIC</code> キーワードを使う。 * <code>SYSTEM</code> キーワードを使う際は、その後に続けて、その文書が準拠するDTDのファイルの[[Uniform Resource Identifier|URI]]を、外部サブセット参照として記述する。 * <code>PUBLIC</code> キーワードを使う際は、その後に続けて、その文書が準拠するDTDの公開識別子 (public identifier) を指定しなければならない (例えば XHTML 1.0 の公開識別子は、"-//W3C//DTD XHTML 1.0 Strict//EN" である)。公開識別子を記述した後に続けて、SYSTEM キーワードを使う場合と同様に、その文書が準拠するDTDのファイルのURIを、外部サブセット参照として記述する。 内部サブセットは必要に応じて記述する。 内部サブセットとして、DTDの一部分もしくはDTDの全体を記述することができる。 なお、内部サブセットとしてDTDの全体を記述する場合は、<code>SYSTEM</code>キーワード・<code>PUBLIC</code>キーワード・外部サブセット参照は、いずれも記述しない。 === 実体参照 === '''実体参照''' (entity reference) は、実体を表現するプレースホルダである。 XMLにおける'''[[SGML実体|実体]]''' (entity) とは、[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]における実体と同じように、名前の付けられたデータの本体である。具体的には、ファイルもしくは置換文字列のように、何らかの形でXML文書の一部となるデータを格納しているもののことである<ref>株式会社日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘、2001年、p.139</ref>。置換文字列を使う事例としては、次のような場合がある。 * キーボードから簡単には入力できない文字をXML文書中に表現したい場合。 * 決まった単語の並びがXML文書中に何度も出現する場合。 実体参照の構成は、まず最初に[[アンパサンド]] ("<code>&amp;</code>") があり、その後に実体の名前が続き、[[セミコロン]] ("<code>;</code>") で終わる。 XMLには、事前宣言された実体として次の表に示す5つの実体がある。 {| class="wikitable" |- ! 実体参照 !! 実体 !! 実体の説明 |- |<code>&amp;amp;</code> || &amp; || [[アンパサンド]] (ampersand) |- |<code>&amp;lt;</code> || &lt; || 小なり (less than) |- |<code>&amp;gt;</code> || &gt; || 大なり (greater than) |- |<code>&amp;apos;</code> || ' || [[アポストロフィ]] (apostrophe) |- |<code>&amp;quot;</code> || " || クォーテーションマーク (quotation mark) |} 「AT&amp;T」の名前で[[アンパサンド]]を表現するために、事前宣言されたXMLの実体を使う例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <会社名称>AT&amp;T</会社名称> </syntaxhighlight> 事前宣言された実体以外の実体を宣言する必要がある場合、XML文書の Document Type Definition (DTD、文書型定義) の内部で宣言する。 XML文書の内部に定義されたDTDを使って、置換文字列としての実体を宣言して、実体参照を使う例を次に示す。宣言された実体は、一つの文字であっても良いし、テキストの断片であっても良いし、他の実体への参照を含むテキストであっても良い。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?> <!DOCTYPE 例 [ <!ENTITY copy "©"> <!ENTITY copyright-notice "Copyright © 2007 平成新報社"> ]> <例> &copyright-notice; </例> </syntaxhighlight> XMLに準拠した[[ブラウザ]]を使うと、先のXML文書は次のように表示される。 Copyright © 2007 平成新報社 ファイルの実体を参照するXML文書の例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?> <!DOCTYPE 文章 [ <!ENTITY tsutsui-yasutaka SYSTEM "another-file.xml"> ]> <文章> <文>星新一はSF作家である。</文> <文>小松左京はSF作家である。</文> &tsutsui-yasutaka; </文章> </syntaxhighlight> なお、別ファイル <code>another-file.xml</code> には次の内容が記されていることとする。 <syntaxhighlight lang="xml"> <文>筒井康隆はSF作家である。</文> </syntaxhighlight> XMLに準拠したブラウザでこのXML文書を表示すると、次のようになる。 星新一はSF作家である。小松左京はSF作家である。筒井康隆はSF作家である。 === 文字参照 === '''文字参照''' (character reference) は、文字をXML文書内でコード番号を指定して記述する記法である。文字参照は、実体参照と似ているが、実体参照では名前を使うのに対し、文字参照ではその部分で始めに "<code>#</code>" 文字を記述し続けて数字を記述する。 文字参照で使う数字は、[[符号化文字集合]]の国際規格である [[ISO/IEC 10646]] (および[[Unicode]]) のコード番号である。文字参照で使うことができる数字は、十進数であるか "<code>x</code>" を前につけた十六進数である。文字参照は、実体参照とは異なり、事前宣言されているわけでもなく、XML文書のDTD内部で宣言されているわけでもない。文字参照は、簡単には符号化できない文字を表現するために使われることが多い。例えば、[[ヨーロッパ|欧州]]のコンピュータ上で作成するXML文書で[[アラビア語]]の文字を使う場合などである。「AT&amp;T」の例の内のアンパサンドは、この場合に似ているともいえる。十進数の38と十六進数の26は、共に ISO/IEC 10646 の "&amp;" 文字のコード番号である。つまり「AT&amp;T」はXML文書では次のように記述することができる。 <syntaxhighlight lang="xml"> <会社名称>AT&#38;T</会社名称> <会社名称>AT&#x26;T</会社名称> </syntaxhighlight> {{See also|文字参照}} === 処理命令 === '''処理命令''' (processing instruction) は、XML文書の構成要素であり、XML文書を扱う[[ソフトウェア]]に対する何らかの処理を行う命令を、記述する内容が、処理命令である。 次に処理命令の構文を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?処理命令ターゲット 処理内容?> </syntaxhighlight> 処理命令は ?> の文字列を除き任意の処理内容を記述することができる。処理命令には、処理内容として擬似属性 (pseudo attribute) を記述することがある。擬似属性は、記述のしかたが属性名と属性値のペアに似ている。しかしXMLプロセサは擬似属性を、属性として解釈せず、処理命令の処理内容として解釈する。 擬似属性を使った処理命令の例を次に示す。 これはXML文書に[[Cascading Style Sheets|カスケーディングスタイルシート]] (CSS) と関連づけるという処理命令である。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml-stylesheet type="text/css" href="monobook.css"?> </syntaxhighlight> <!-- XML宣言は処理命令と同じような記述をするが、XML宣言は処理命令'''ではない'''。 --> あるXML文書内に記述された特定の処理命令について、その処理命令をプログラマーが意図したとおりの処理を実行させるためには、そのXML文書を処理するアプリケーションソフトウェア側がその処理命令に対応する必要がある。 === CDATAセクション === XML文書 (およびSGML文書) において'''CDATAセクション'''とは、文字列データのみで構成されておりマークアップされたデータは含まれていないと、XMLプロセサが解釈するようマークされた、要素の内容を構成する文字列データの一部である。CDATAセクションは、文字列データを表現するための単なる代替構文である。 CDATAセクションとして宣言された文字列データと、"<code>&lt;</code>" と "<code>&amp;</code>" を "<code>&amp;lt;</code>" と "<code>&amp;amp;</code>" で表現する通常の構文で記述した文字列データとの間に、意味的な違いはない。 ==== CDATAセクションの構文と解釈 ==== CDATAセクションは次の記述で始まる。 <code>&lt;!<nowiki>[CDATA[</nowiki></code> そしてCDATAセクションの内容が続き、次の記述が最初に出現したところでCDATAセクションは終わる。 <code><nowiki>]]</nowiki>&gt;</code> CDATAセクションの内容の文字列は全て文字列データとして解釈され、マークアップや実体参照や文字参照として解釈されることはない。 次の例で「送信者」の開始タグと終了タグはマークアップとして解釈される。 <code>&lt;送信者&gt;星新一&lt;/送信者&gt;</code> しかし次のように記述した場合は、 <code>&lt;!<nowiki>[CDATA[&lt;送信者&gt;星新一&lt;/送信者&gt;]]</nowiki>&gt;</code> 次のように記述したものと同等に解釈される。 <code>&amp;lt;送信者&amp;gt;星新一&amp;lt;/送信者&amp;gt;</code> すなわち、「送信者」タグは「星新一」の文字列と同列に位置づけられ、いずれも文字列データとして解釈される。 文字参照 <code>&amp;#x00F0;</code> が要素の内容で出現した場合は、一つの[[Unicode]]文字 {{unicode|00F0}} ("ð") として解釈される。しかしCDATAセクション内で出現した場合は、8つの文字からなる文字列として解釈される。 すなわち、アンパサンド、#マーク、文字x、数字0、数字0、文字F、数字0、セミコロンの8つの文字からなる文字列として解釈される。 <!-- ==== CDATAセクションを使う ==== --> === 整形式XML文書を書くために === 整形式XML文書は、とりわけ、次に示す規則に適合しなければならない。 * 空要素ではない要素は開始タグと終了タグの両方によって境界が定められる。 * 空要素は空要素タグ (自分自身で開始タグと終了タグの2つの機能を兼ねるタグ) で記述することができる。例えば <code>&lt;私は空です/></code> のように記述することができる。この例は <code>&lt;私は空です&gt;&lt;/私は空です&gt;</code> と意味的に同等である。 * 属性値は全てシングルクォート (') かダブルクォート (") のいずれかで括る。シングルクォートで始められた属性値はシングルクォートで終わり、ダブルクォートで始められた属性値はダブルクォートで終わる。 * タグは入れ子の構造をとることができる。ただしタグがオーバーラップしてはならない。ルート要素ではない要素のおのおのは、必ず別の要素に含まれる。 * XML文書は宣言された[[文字符号化方式]] ([[文字コード]]) にしたがって記述される。文字符号化方式は、<!--明示的に宣言しても良いし、-->XML文書が[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]を介して転送される場合に "Content-Type" ヘッダをつけるように暗黙的にXML文書の外部で指定しても良いし、XML文書の内部で文書の先頭のXML宣言内で宣言しても良い。このような宣言がない場合、[[Unicode]]の文字符号化方式が使われていると仮定される。XML文書の最初の[[バイト (情報)|バイト]]をみて、[[UTF-16]]の[[バイト順マーク]]と合致すればUTF-16であると仮定する。合致しない場合は[[UTF-8]]であると仮定する。 要素の名前ではアルファベットの大文字と小文字とが区別される。例えば、次の例は整形式である。 <code>&lt;Abc></code> ... <code>&lt;/Abc></code> しかし次の例は整形式ではない。 <code>&lt;ABC></code> ... <code>&lt;/abc></code> XML文書のスキーマを設計する際に、XMLの要素の名前を注意深く選択すると、そのスキーマに準拠したXML文書のデータの意味を、第三者に伝えるために有効であろう。XMLの要素の名前を注意深く選択することにより、そのスキーマに準拠したXML文書は、人間にとって読みやすいものとなる。 <!-- while retaining the rigor needed for software parsing. --> XMLの要素と属性の名前を、体が名を表すように注意深く選択決定することで、人間がXML文書を読む際に、要素と属性の意味を、外部の説明文書を参照することなく、よりよく理解できるようになる利点が生まれる。ただしこのような作業を行うことは、XML文書の冗長性が増えることでもある。 人によっては、XML文書を書く際の労力が増えることを、好まない場合がある。またファイルサイズも大きくなることになる。ただし[[可逆圧縮|圧縮技術]]をXML文書に適用してファイルサイズを小さくすることは可能である。 整形式XML文書を正確に書くためには、ここまで述べたことよりずっと多くの規則にしたがう必要がある。例えば、[[#XML名前空間|XML名前空間]]を使うことや、XMLでの「名前」として使うことができる正確な文字集合を使って、XML文書を書くことなどである。とはいえ、ここまで述べた整形式文書に関する概略を理解しておけば、多くのXML文書を読み理解しあるいは多くのXML文書を書くために必要な基礎は、身についたといえる。 === 自動的に検査する === XML文書の正当性を自動的に検査するための方法を説明する。 あるXML文書が、整形式XML文書としての条件のみを満たした文書であるか、それとも妥当なXML文書としての条件をも満たした文書であるかを、判別することは、比較的容易である。というのも、整形式XML文書であるための規則と、XMLの妥当性検証のしくみについては、XML文書を扱うツールの[[移植性]]を考慮して設計されているからである。つまりこの設計方針は、XML文書を扱うツールであれば、どのようなXML文書でも扱うことができるということである。 独立したツールを使い、XML文書の正当性を自動的に検査する例を示す。 * XML文書を扱える[[ウェブブラウザ]]で、例えば [[Mozilla Firefox]] や [[Internet Explorer]] などで、XML文書をロードする。 * xmlwf のようなツールを使う (XMLプロセサの実装の一つである {{仮リンク|Expat|en|Expat (library)}} に通常は同梱されている)。 * 何らかの[[プログラミング言語]]を使って文書を構文解析する。例えばプログラミング言語[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]では次のようになる。 irb> require "rexml/document" irb> include REXML irb> doc = Document.new(File.new("test.xml")).root == XML文書の論理的構造と妥当なXML文書 == 妥当なXML文書について詳しく説明する。 XMLでは、要素に名前を付けることができ、階層構造をとることができ、[[スキーマ言語]] (Document Type Definition など) により用途に沿うように定義されたスキーマを使うことで要素と属性の意味を公開し説明することができる。XMLのこうした特徴により、目的に応じたXMLに準拠した[[マークアップ言語]]を創るための、構文的な基礎が成り立っている。 <!-- XMLに準拠して創られたマークアップ言語の一般的な構文は、厳密である。 すなわち、XMLに準拠して創られたマークアップ言語で記述された文書は、XMLの一般的な規則を守らなければならない。 XMLの一般的な規則を守ることで、XML文書を扱う全ての[[ソフトウェア]]が、スキーマに記述された定義情報をかなりの程度理解できることが、最低限保証されるのである。 --> スキーマは、制約の集合を記述することにより、XML文書の構文上の規則を単に補足するのみである。スキーマは、多くの場合、要素と属性の名前を限定し、各要素が内容とするものの階層構造を規定し、属性の内容を規定する。例えば、「誕生日」という名前の要素では、「月」という名前の一つの要素と「日」という名前の一つの要素をもつことができ、「月」要素と「日」要素のそれぞれは文字列データのみをもつことができる。 スキーマに定義された制約には、[[データ型]]の割り当てを含むことができる場合がある。 データ型を割り当てることにより、データ型が割り当てられた情報がどのように処理できるかを、規定することができる。 例えば、「月」要素の文字列データは、そのXML文書で採用したスキーマ言語の機能に準拠して、「1」から「12」までの数字のみが妥当であるという形で、定義することができる可能性がある。ここでスキーマ言語の (データ型に関する) 機能とは、おそらく特定の方法で形式にしたがって記述しなければならないということだけでなく、別のデータ型の値であるかのように処理されることを未然に防ぐことを、意味する。 何らかのスキーマに準拠したXML文書は、整形式であるということに加えて、'''妥当''' (valid) であるということが成り立つ。 XMLのスキーマは、XMLの文書型 (文書の種類、文書の論理的構造) を記述したものである。 多くの場合スキーマは、その文書の構造と内容に関する制約という形で表現される。XMLのスキーマは、XML仕様で規定されている、整形式XML文書としての基本的な制約に加え、それ以上の制約をXML文書に課すことができる。XMLのスキーマ言語は、標準規格のものもプロプライエタリなものも含めて、こうしたスキーマを表現するという目的のもと、数多く存在している。いくつかのスキーマ言語では、スキーマ自身をXML文書として記述する。 スキーマ言語の記述能力はスキーマ言語ごとにさまざまである。例えばスキーマ言語の一つである Document Type Definition (DTD) では、XML文書がとるべき構造の主な規則として、そのDTDに準拠したXML文書で使うことができる要素の名前、要素の内容モデル、要素で指定できる属性の名前、属性の値のデータ型を、記述することができる<ref>株式会社日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘、2001年、pp.28-29</ref>。 なお、要素の'''内容モデル'''とは、要素の内容に出現可能な要素やデータとその順番、および要素の出現回数を規定したもののことをいう<ref>株式会社日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘、2001年、p.29</ref>。 [[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) やXMLなどの汎用的なデータ記述言語が世に出る前は、ソフトウェア設計者は、複数の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の間でデータの受け渡しをするために、自分自身で[[ファイルフォーマット]]を定義するか、ちょっとした[[コンピュータ言語]]を定義しなければならなかった。このため受け渡しするデータの詳細な仕様やその他の文書を書かなければならなかったし、文書の書き手を別途に確保しなければならないこともあった。 XMLが一定の構造をもち厳密な構文解析の規則をもつことで、ソフトウェア設計者は構文解析の作業を標準的な[[ソフトウェア]]ツール (妥当性検証器、バリデータ) に任せることができる。そしてXMLには、用途に特有の言語を開発するための一般的な、[[データモデル]]指向の枠組みがある。 このためソフトウェア開発者は、比較的高水準の抽象度において、自分たちが扱うデータの規則の開発に専念するだけでよい。 XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うための、十分にテストされたツールが、数多く存在している。XML文書をスキーマに照らして妥当性検証を行うためのツールを、妥当性検証器 (バリデータ) という。妥当性検証器は、スキーマに表現された制約にXML文書が準拠しているかについて、自動的に妥当性検証を行う。 妥当性検証器は、XMLプロセサ ([[XMLパーサ]]) に含まれていることもあれば、XMLプロセサとは別に提供されていることもある。 これまでに述べたスキーマの使い方とは別の使い方も存在する。 例えば、XMLエディタは、XML文書の編集を支援するためにスキーマを使うことができる。こうしたXMLエディタでは、妥当な要素名や妥当な属性名を提示することなどができる。 === Document Type Definition (DTD、文書型定義) === {{Main|Document Type Definition}} XMLのための最も歴史の古いスキーマ言語は Document Type Definition (DTD、文書型定義) である。DTDは、XMLの前身である[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]から引き継がれた。DTDは XML 1.0 標準に含められているため、ほとんどあらゆるXMLプロセサがDTDを扱うことができる。しかし2007年現在ではDTDを使うことは限定的な範囲にとどまっているようである。その理由は次のとおりである。 * DTDではXMLで新しく開発された機能を使うことができない。特に[[#XML名前空間|XML名前空間]]を扱えないことが厳しい。 * DTDは表現力が乏しい。DTDではいくつかの形式的な視点からXML文書を扱うことができない。 * DTDによるスキーマはXMLではない独自の構文で記述する。この構文は、XMLの前身であるSGMLから引き継いでいるという、経緯がある。XML 1.0 の制定当時はDTD以外のスキーマ言語は存在しなかった。 DTDは現在も多くの用途で使われている。その理由は、一定の人々にとってはDTDは他の新しいスキーマ言語よりも読みやすく書きやすいと考えられているからである。 ==== XML Schema ==== {{Main|XML Schema}} XML Schema は、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) により開発された、DTDの後継となる新しいスキーマ言語である。 非公式には、'''XSD'''と呼ばれることもある。XSDは、XML Schema の[[インスタンス]] (スキーマ) を意味する "XML Schema Definition" の[[頭字語]]である。 XML Schema は、豊富な[[データ型]]を扱うことができるスキーマ言語である。XML文書の論理的構造について、DTDより詳細な制約を記述することができる。そしてDTDより詳細な妥当性検証の枠組みのもとで、妥当性検証が行われる。他にも、XMLによるマークアップ言語のスキーマの記述能力において、DTDと比べて非常に高いという長所も備えている。 また、XML Schema によるスキーマ自体を、XMLに準拠した形式を使って記述する。XML Schema のスキーマ自体がXMLに準拠することで、スキーマを編集したりスキーマに何らかの処理を行うために、普通のXMLツールを使うことができるようになる。 ただし、XML Schema の妥当性検証器を実装する作業には、単にXML文書を読むことができる能力よりも、非常に多くの知識と能力を必要とする。 XML Schema に対しては賛否両論がある。XML Schema に対する批判の一部を示す。 * XML Schema の仕様は非常に膨大な分量がある。そのため XML Schema を理解することは難しい。またそのため XML Schema の妥当性検証器を実装することも難しい。 * XML Schema でスキーマを記述する際、XMLに準拠した構文で記述する (記述しなければならない) のは、冗長である。このことが XML Schema のスキーマを理解することやスキーマを記述することを、DTDよりしんどい作業にしてしまっている。 * XML文書の構文解析をした後に行う、XML Schema のスキーマによる妥当性検証は、費用が高くつく可能性がある。特にサイズの大きいXML文書の妥当性検証を行う際には、深刻な問題になる可能性がある。 * XML Schema の[[データモデリング]]能力は非常に限られている。属性の内容によってその要素の内容モデルを変更することはできない。 * XML Schema における型派生モデルは、非常に限られた能力しかない。特に拡張による派生は、かなり使いにくい。 * [[データベース]]と連携するためのデータ転送機能は、不可解な考え方によって実現されている。nillability ([[SQL]]データベース用語でいう[[Null|NULL]]に相当する状態をとることが可能であるという特性) は備えているが、出版業界の要件は満たしていない。 * key/keyref/uniqueness の機構は、データ型を考慮していない。 * スキーマ検証後[[#XML情報集合|情報集合]] (PSVI、Post Schema Validation Infoset) の概念は、標準のXML表現や[[アプリケーションプログラミングインタフェース]] (API) をもたない。このため、妥当性の再検証を行わない場合、ベンダ非依存の考え方に反する ([[#情報集合への追加情報]]を参照)。 ==== RELAX NG ==== {{Main|RELAX NG}} RELAX NGは人気のあるもう一つの新しいスキーマ言語である。2001年12月に[[OASIS (組織)|OASIS]] (構造化情報標準促進協会) で仕様が策定された。[[国際標準化機構|ISO]] (国際標準化機構) にて定められた国際標準でもある。ISOでは、[[文書スキーマ定義言語]] (DSDL) の一部分を構成する仕様として位置づけられている。 RELAX NGのスキーマの記述方法は、2つの形式がある。XMLに準拠した構文 ([[RELAX NG#XML構文|XML構文]]、xml syntax) と、XMLに準拠しない[[RELAX NG#短縮構文|短縮構文]] (compact syntax) である。短縮構文は、読みやくすることとより書きやすくすることを目指している。ただし、短縮構文で記述されたスキーマをXML構文のスキーマに変換する方法と、その逆の変換を行う方法は、予め定義されているので、[[ジェームズ・クラーク (ソフトウェア技術者)|ジェームズ・クラーク]]が開発した [http://www.thaiopensource.com/relaxng/trang.html Trang conversion tool] を使えば、標準のXMLツールを使う利便を享受することができる。 RELAX NGはXML Schemaよりも簡潔なスキーマ定義と簡潔な妥当性検証の枠組みを、備えている。そのためRELAX NGは、XML Schema と比べて、使いやすく、またRELAX NGの妥当性検証器を実装することも容易になっている。 RELAX NGもまた、[[データ型]]フレームワークプラグインを使う機能を備えている。 RELAX NG でスキーマを記述する人は、例えば、XML文書でXML Schemaのデータ型の定義に適合させたいと考えるかもしれない。 そして RELAX NG では、データ型フレームワークプラグインを使うことにより可能となっている。 ==== ISO 文書スキーマ定義言語 ==== {{Main|文書スキーマ定義言語}} [[国際標準化機構|ISO]] [[文書スキーマ定義言語]] (DSDL; Document Schema Description Languages) 標準は、小規模なスキーマ言語の広範なセットを共に提供する。DSDLを構成する複数の仕様のそれぞれが、特定の問題に対応するために特化されている。DSDLはRELAX NGのXML構文と短縮構文、[[スキマトロン]]、データ型ライブラリ言語、文字レパートリ記述言語、文書スキーマ再命名言語、名前空間に基づく検証委譲言語 (NVDL) を、含んでいる。DSDLスキーマ言語群はXML Schemasを支持するベンダの支援は2007年の時点ではまだ受けていない。DSDLは[[出版]]のための機能が欠如していることに対する、出版業界の一定の草の根の反応でもある。 === XML文書を検証する過程でXML情報集合を変更することについて === {{See also|#情報集合への追加情報}} いくつかのスキーマ言語では、特定のXML文書の構造を記述する能力に加えて、個々のXML文書をその特定のXML文書構造に適合するように変換する機能も、限定的ながら備えている。 DTDとXML Schemaはこの変換機能を備えている。 DTDと XML Schema では、XML文書に属性の既定値を与えることができる。RELAX NGとスキマトロンは、意図的にこの機能を外している。 例えば、[[#XML情報集合|XML情報集合]]を正確に扱うことが、RELAX NGとスキマトロンの仕様策定時に変換機能を外した理由の一つである。 == XML文書を視覚的に表示する == XML文書を視覚的に表示するための方法を説明する。 XML文書は、その文書の内容をどのように視覚的に表示するかという情報を、一切含んでいない。 [[Cascading Style Sheets]] (CSS) や [[Extensible Stylesheet Language]] (XSL) のようなXMLのための[[スタイルシート言語]]を使うのでなければ、ほとんどの[[ウェブブラウザ]]は普通のXML文書を生のXMLテキストとして描画する。いくつかのウェブブラウザは「ハンドル」をつけて表示する (例えば、余白に + と - の符号を表示する)。ハンドルを使うことにより、XML文書構造の部分木を、マウスクリックで展開したり折りたたんだりすることができる。 CSSを使って[[ウェブブラウザ]]でXML文書を描画するためには、XML文書は次のような要領で[[スタイルシート]]への参照を含めなければならない (XMLの[[#処理命令|処理命令]]を使ってスタイルシートを使って描画する旨を指定している)。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml-stylesheet type="text/css" href="myStyleSheet.css"?> </syntaxhighlight> この方法は、[[HyperText Markup Language|HTML]]文書におけるスタイルシート指定の方法とは異なる。HTML文書では <code>&lt;link/></code> 要素を使ってスタイルシートを指定する。 XML文書を視覚的に表示するために、[[Extensible Stylesheet Language]](XSL、拡張可能なスタイルシート言語)を使うこともできる。XSLを使う場合は、XML文書を[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]/HTML文書の構造に変換するか、もしくはウェブブラウザで視覚的に表示することができる他の文書の構造に変換する。 クライアント側で[[XSL Transformations]] (XSLT) のスタイルシートを指定するためには、XML文書に次のようにXSLTスタイルシートへの参照を含めることが、必要である(XMLの処理命令を使って実現している)。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml-stylesheet type="text/xsl" href="myTransform.xslt"?> </syntaxhighlight> クライアント側のXSLTスタイルシート処理機能は、現在では多くのウェブブラウザが備えている。 <!-- ただし[[Opera]] の 9.0 より前のバージョンではXSLTスタイルシートを扱うことはできない。 --> 別の方法として、このような利用者が常用しているウェブブラウザの能力に依存する方法を採らずに、サーバ側でXSLを使ってXML文書を視覚化可能な形式に変換する方法も、行われている。利用者は、「舞台の裏側で」何が行われているかを、意識する必要はない。実際に目にするものは、よく整形され視覚化された文書だけである。 <!-- 詳細はXSLTの項目を参照 [[XSL Transformations#Examples|for an example of server-side XSLT in action]] --> == XMLの拡張 == XMLを拡張する技術を説明する。 ; [[XML Path Language]] (XPath) : XML Path Language (XPath) を使うと、XML文書の個々の部分を参照することができるようになる。XPathは、[[XSL Transformations|XSLT]]、[[XSL Formatting Objects|XSL-FO]]、[[XQuery]] などの他の技術に対して、XML文書のデータに対する[[ランダムアクセス]]を行う機能を、提供する。XPathで記述された式は、XML文書を構成するXML要素、属性、処理命令、コメントなどの内側の、テキスト、データ、値を参照することができる。XPathの式は、要素の名前と属性の名前にアクセスすることもできる。Xpathは、妥当なXML文書に対しても整形式XML文書に対しても使うことができる。また名前空間が定義されたXML文書に対しても、名前空間が定義されていないXML文書に対しても使うことができる。 ; [[XML Inclusions]] (XInclude) : XML Inclusions (XInclude) の仕様は、XML文書内に外部ファイルの全内容もしくは外部ファイルの一部の内容を含める機能を、定義している。XML文書においてXIncludeの処理が終了すると、XInclude処理終了後の[[#XML情報集合|XML情報集合]]にはXIncludeの要素はなく、XIncludeの要素の代わりにそこに外部の文書もしくは文書の一部の複製が、最終的な情報集合に含まれている。XIncludeでは、外部文書の一部をXML文書に含める際に、外部文書の複製対象の領域を参照するためにXPathを使っている。 ; [[XQuery]] : XQueryは、XMLにおいて、[[関係データベース]]にとっての[[SQL]]や[[PL/SQL]]に相当する、[[問い合わせ言語]]としての機能を提供する。XML文書にアクセスし、XML文書を操作(編集)し、その結果をXML文書の形で返す。 ; [[#XML名前空間|XML名前空間]] (Namespaces in XML) : XML名前空間 (Namespaces in XML) を使うことで、同一のXML文書内で異なる複数の[[語彙|ボキャブラリ]](スキーマ)に由来する要素と属性を、名前の衝突を発生させることなく、含めることができる。[[#XML名前空間|後述]]する。 ; [[XML署名|XML Signature]] : XML Signature の仕様は、XML文書の内容に対して[[電子署名]]を生成するための構文と処理規則を定義する。 ; [[XML暗号化|XML Encryption]] : XML Encryption の仕様は、XML文書の内容に対して[[暗号化]]を行うための構文と処理規則を定義する。 ; [[XPointer|XML Pointer Language]] (XPointer) : XML Pointer Language (XPointer) は、XMLに基づいたインターネットメディアのコンポーネントを指し示す体系である。 === MIMEタイプ === XML文書はさまざまな[[メディアタイプ|MIMEタイプ]]で配布することができる。{{IETF RFC|3023}} は、"application/xml" および "text/xml" のMIMEタイプを定義する。 "application/xml" と "text/xml" のMIMEタイプは、そのデータがXML文書の形式をとっているということのみを述べているだけであり、そのXML文書の論理的構造については何も述べていない。 "text/xml" を使うことに対しては、符号化に関する問題が生じる可能性があるとの批判があり、現在では非推奨とされている<ref>[http://lists.xml.org/archives/xml-dev/200407/msg00208.html xml-dev - Fw: An I-D for text/xml, application/xml, etc]</ref>。<nowiki>RFC 3023</nowiki> では、加えて、XML文書を "application/" で始まり、"+xml" で終わるMIMEタイプで配布することを勧めている。例えば、[[Atom (ウェブ標準)|Atom]]のXMLデータに対しては、"application/atom+xml" のMIMEタイプで配布するのである。 <!-- This page discusses further [[XML and MIME]]. --> === XML名前空間 === '''XML名前空間''' ('''Namespaces in XML''') は、一つXML文書内で、異なる複数の[[語彙|ボキャブラリ]](スキーマ)に由来する要素と属性を、名前の衝突を発生させることなく、含めることができるようにするための仕様である。[[World Wide Web Consortium]] (W3C) から、1999年1月14日に Namespaces in XML 1.0 が勧告された。XML文書に異なる複数のボキャブラリに由来する要素と属性を含める場合、ボキャブラリのそれぞれに[[名前空間]]をわりあてることにより、要素名の衝突と属性名の衝突の問題を、解決することができる。 一つの名前空間において定義された要素の名前は、一意でなければならない。 顧客への参照と注文された商品への参照を含む簡単なXML文書の例を考える。顧客要素と商品要素は、ともに「識別番号」という名前の子要素をもつことがあるだろう。識別番号要素への参照は、顧客要素の子要素の識別番号要素も商品要素の子要素の識別番号要素も同じ要素名をもつので、あいまいである。しかし2つのボキャブラリを区別する2つの名前空間のもとで識別番号要素を使う場合、顧客要素の子要素の識別番号要素と商品要素の子要素の識別番号要素は意味的に明確に異なる2種類の要素となる。 ==== 名前空間の宣言 ==== 名前空間は、XMLの予約属性である <code>xmlns</code> を使って宣言される。<code>xmlns</code>属性の属性値は[[Internationalized Resource Identifier|IRI]] (Internationalized Resource Identifier) である必要があり、通常は[[Uniform Resource Identifier|URI]] (Uniform Resource Identifier) である。 例を示す。 <nowiki>xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml"</nowiki> この例の <nowiki>"http://www.w3.org/1999/xhtml"</nowiki> を名前空間名という。ここで注意すべきこととしては、名前空間の宣言で記述されたURIは、実際にインターネット上の住所として解釈されるわけではないということである(自由に考えよう、URIほど便利なものが必ずインターネットのアドレスをささなければいけないなどと、誰が決めたのか)。例えば、[http://www.w3.org/1999/xhtml http://www.w3.org/1999/xhtml]自体には何のコードもない。このURIの文書では、人間の読者に対して[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]について簡単に説明しているだけである。 (<nowiki>"http://www.w3.org/1999/xhtml"</nowiki> のような) URIを名前空間の識別子として使うことで、("xhtml" のような)単純な文字列を名前空間名として使うよりも、異なる名前空間が意図せずして同じ名前空間名を使ってしまう危険性を低減する。名前空間の識別子は、ウェブの住所(アドレス)の慣習にしたがう必要はない。 名前空間の宣言は短い接頭辞を含むことができる。この名前空間接頭辞を使うことで、異なるボキャブラリに由来する要素と属性を識別することができる。 名前空間接頭辞を使う例を示す。 <nowiki>xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"</nowiki> XML名前空間を使ったXML文書の例を示す。 <syntaxhighlight lang="xml"> <?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <xsl:stylesheet xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform" version="1.0" xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml"> <xsl:template match="/社員名簿"> <html> <head> <title>XML文書をXHTML文書に変換する例</title> </head> <body> <h1>社員名簿</h1> <ul> <xsl:apply-templates select="社員"> <xsl:sort select="姓"/> </xsl:apply-templates> </ul> </body> </html> </xsl:template> <xsl:template match="社員"> <li> <xsl:value-of select="姓"/> <xsl:value-of select="名"/> </li> </xsl:template> </xsl:stylesheet> </syntaxhighlight> このXML文書は、次の2つの名前空間のボキャブラリから構成されている。 * [[XSL Transformations|XSLT]]のボキャブラリ: xslの名前空間接頭辞をもち、名前空間名は <nowiki>"http://www.w3.org/1999/XSL/Transform"</nowiki>。 * [[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]のボキャブラリ: 名前空間接頭辞をもたないデフォルトの名前空間であり、名前空間名は <nowiki>"http://www.w3.org/1999/xhtml"</nowiki>。 なおこのXML文書は、あるXML文書をXHTML文書に変換するXSLTスタイルシートである。 XML名前空間を使う場合、そのXML名前空間のボキャブラリが定義されていることが必要であるわけではない。しかしXML文書でXML名前空間を使う場合に、そのXML名前空間のボキャブラリを定義しておくことは、そのXML名前空間のURIのもとで正しい文書構造を定義しているスキーマに関連づけるために、行われることが多い。 == XML文書をプログラムで処理する == [[プログラマ]]や[[アプリケーションソフトウェア]]がXML文書を処理する手段としては、これまで次に示す3つの技法が伝統的に使われてきた。なお、この節の説明で使うAPIとは[[アプリケーションプログラミングインタフェース]]のことをさす。 * [[プログラミング言語]]と [[Simple API for XML|SAX]] API を使う。 * プログラミング言語と [[Document Object Model|DOM]] API を使う。 * 変換エンジンと[[フィルタ (ソフトウェア)|フィルタ]]を使う。 さらに、近年に開発され使われるようになった、XML文書を処理する技法を示す。 * Pull Parsing * データバインディング <!-- * Non-extractive XML Processing API (VTD-XMLなど) --> === Simple API for XML (SAX) === {{Main|Simple API for XML}} Simple API for XML (SAX) は、[[字句解析]]を行い[[イベント駆動型プログラミング|イベント駆動]]で処理を行う API である。SAXを使うとXML文書は文書の最初から順次読み込まれ、その内容は[[プログラマ]]が実装したハンドラ[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]の様々な[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]への[[コールバック (情報工学)|コールバック]]として報告される。SAXを使ったXML文書処理は高速であり、少ないコンピュータ資源を効率的に使って非常にサイズの大きいXML文書を処理することが可能である。 SAXを使うことに伴う問題は、XML文書に対して[[ランダムアクセス]]を行って情報を取り出すことが難しいことである。そのため、SAXを使うに際し、[[プログラマ]]はXML文書のどの部分が現在処理対象となっているか把握する為の機構を実装しなければならない。 SAXは、処理対象となるXML文書中のある種類の情報がどの部分に出現するかに依らず、常に同じように処理されると保証できる場合に用いるのが望ましい。 === Document Object Model (DOM) === {{Main|Document Object Model}} Document Object Model (DOM) は、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]指向の[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]であり、XML文書のおのおのの部分を表現する節[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]の集まりからなる[[木構造 (データ構造)|木構造]]であるかのように、XML文書全体に対してナビゲーションを行うことを想定している。DOMでは、XML文書に対して[[ランダムアクセス]]を行って情報を取り出すことが、簡単にできる。 DOMにおけるXML文書全体に相当する <code>Document</code> オブジェクトは、XML文書をXMLプロセサが処理することにより生成することもできるし、プログラマがプログラミングすることによって生成することもできる。DOMにおける <code>Node</code> (節) のさまざまな型の[[データ型]]は、DOM仕様においては抽象的にインタフェースとして定義されている。<code>Node</code> のデータ型の[[実装]]は、[[プログラミング言語]]に固有の言語バインディングを提供する。 DOMの実装は、サイズの大きいXML文書を扱う場合はたくさんのメモリを使う。なぜならDOMの実装は、一般的にはXML文書全体からオブジェクトの木構造を構築してメモリにロード(展開)し、その後にDOMを介した処理をできるようにしているからである。 [[Java]]では、標準ライブラリを構成するいくつかのパッケージでDOMが実装されており、Javaの[[プログラマ]]は標準ライブラリのDOMを使うことができる。DOMの仕様は、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) で策定されているため、DOMで中核をなす <code>Node</code> や<code>Document</code> などのインタフェースや、[[直列化]] (出力) などの機能を提供するためのインタフェースはパッケージ <code>org.w3c.dom.*</code> に収められている。 <!-- パッケージ <code>com.sun.org.apache.xml.internal.serialize.*</code> は、こうしたインタフェースに対応した直列化 (出力) の機能を実装を含んでいる。 パッケージ <code>javax.xml.parsers.*</code> は、XML文書をDOMをとおして扱えるようにするために、対象となるXML文書をパースする機能を提供する。 --> <ref>[http://java.sun.com/javase/ja/6/docs/ja/api/ JavaプラットフォームAPI仕様]</ref> === 変換エンジンとフィルタ === {{See also|Extensible Stylesheet Language}} [[Extensible Stylesheet Language]] (XSL) 技術における[[フィルタ (ソフトウェア)|フィルタ]]は、XML文書に対して、視覚的に出力したり印刷出力できるよう変換処理を行うことができる。 ; [[XSL Formatting Objects]] (XSL-FO) : XSL Formatting Objects (XSL-FO) は、[[World Wide Web Consortium]] (W3C) が策定した、XMLに準拠した宣言的なページ整形 ([[組版]]) 言語である。XSL-FO処理系を使うと、XSL-FO文書を他の非XML形式 ([[Portable Document Format|PDF]]など) に変換出力することができる。 ; [[XSL Transformations]] (XSLT) : XSL Transformations (XSLT)は、W3Cが策定した、XMLに準拠した宣言的な文書[[変換言語]]である。XSLT処理系を使うと、XSLT[[スタイルシート]]を指示書として、XML文書として表現されたあるデータの木構造を、別の木構造に変換することができる。変換後の文書として、XML (例えば、XSL-FO文書やXHTML文書など)、[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[プレーンテキスト]]などの形式にすることができる。またXSLT処理系によってはこの他の形式に変換できるものもある。 ; [[XQuery]] : XQueryは、W3Cが策定した、XML文書に対する、問い合わせ、構築、変換を行うための、コンピュータ言語 ([[問い合わせ言語]]) である。 ; [[XML Path Language]] (XPath) : XML Path Language (XPath) は、W3Cが策定した、XML文書中のデータを取得するための、DOMに似たノードの集まりからなる木構造を[[データモデル]]とするパス式言語である。<!--XSL-FO、-->XSLTおよびXQueryの技術はXPathを使って実現されている。XPathの実装はまた、便利な[[関数 (プログラミング)|関数]][[ライブラリ]]を含んでおり使うことができる。 === Pull Parsing === {{See also|Streaming API for XML}} Pull Parsing は、XML文書を、最初から順番に読み込み、[[Iterator パターン]] の[[デザインパターン (ソフトウェア)|デザインパターン]]を使って項目 (item) の一連の流れとして扱う、近年に徐々に普及してきた技法である<ref>{{cite book|last= Fitzgerald|first= Michael|title= Learning XSLT|year= 2004|publisher= [[オライリーメディア|O'Reilly Media]]|location= Sebastopol, CA|isbn= 978-0-596-00327-2|pages= p.243}}</ref><ref>[http://www.xml.com/pub/a/2005/07/06/tr.html Push, Pull, Next!] - Bob DuCharme, XML.com</ref>。 Pull Parsing の技法により、再帰下降パーサを実装することができる。 再帰下降パーサでは、パースを実行するプログラムは、パースの対象となるXML文書の構造と似ている。 そしてパースの中間結果を取得することができる。 パースの中間結果を、パースを実行する[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]内の局所変数 (ローカル変数) として使うことができる。 あるいは、低水準のメソッドの引数として渡したり、高水準のメソッドへの戻り値として返すことができる。 Pull Parsing の技法を提供する実装としては次のものがある。 * [[Streaming API for XML]] (StAX) - [[Java]] * SimpleXML - [[PHP (プログラミング言語)|PHP]] * <code>System.Xml.XmlReader</code> - [[.NET Framework]] 例えば、JavaのStAXフレームワークでは、本質的な「[[イテレータ|反復子]]」 (イテレータ) を作成して使うことができる。 Pull Parsing で作成される「反復子」はXML文書中のさまざまな要素、属性、データを順番に訪れる。 「反復子」を使うプログラムは、処理中に現在の項目 (例えば、要素の開始、要素の終了、テキスト) を調べ、その特性 (例えば、要素の<!--ローカル名-->名前、名前空間、属性値、テキスト内容) を調査する。 そして反復子に「次の」項目へ移動するよう指示することもできる。 プログラムは、このようにXML文書を走査するようにして、文書から情報を取り出すことができる。 Pull Parsing の技法の特筆すべき長所は、XML文書をパースする<!-- SAXや -->DOMの技法と比べて非常に高速であり、メモリ使用が非常に少ないことである。 もう一つの長所は、再帰下降の手法は、パースを実行するプログラム内で、データを型づけされた変数として保持することに適していることである。 SAXでは、例えば、プログラマが自分で処理中の要素の祖先となる要素群を格納する[[スタック]]内に中間データを保持するコードをプログラミングする必要があることが多い。 これに対し、Pull Parsing の技法を使ってXML文書を処理するプログラムは、SAXを使うプログラムよりも、非常に単純で理解し易く保守が容易になることが多い。 <!-- Pull Parsing の技法の潜在的な課題は、新しい技法でありXMLを扱うプログラマには未だあまりよく知られていないこと (XML以外では、[[プログラミング言語]]の[[コンパイラ]]や[[インタプリタ]]を記述するために使われる非常に一般的な技法であるのだが) と、Pull Parsing の既存の処理系のほとんどは現時点ではまだ、スキーマによるXML文書の妥当性検証のような、高度な処理を行うことができないことである。 --> === データバインディング === {{See also|Java Architecture for XML Binding}} XML文書を処理するもう一つのAPIは、XMLデータバインディングであり、XMLデータバインディングを使うと、XML文書を、その文書型に対応した、強く型づけされたプログラミング言語データ構造 ([[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の[[ソースコード]]) を、生成することができる。インタフェース指向のDOMとは対照的な手法である。データバインディングの実現例を次に示す。 * Relaxer<ref>http://www.asahi-net.or.jp/~DP8T-ASM/java/tools/Relaxer/index_ja.html</ref> * [[Java Architecture for XML Binding]] (JAXB)<ref>http://java.sun.com/xml/jaxb/</ref> <!-- * Strathclyde Novel Architecture for Querying XML (SNAQue)<ref>http://www.cis.strath.ac.uk/research/snaque/</ref> --> <!-- === Non-extractive XML Processing API === Non-extractive XML Processing API は、新しく出現しつつある[[XMLパーサ]]のカテゴリである。 最も代表的なものはVTD-XMLである。 VTD-XMLは、XML文書を木構造として[[オブジェクト指向モデリング]]を行うという手法を放棄し、その代わりに64[[ビット]]の仮想トークン記述子 (Virtual Token Descriptor) を使う。 VTD-XMLの仮想トークン記述子は、XML文書を構成する字句 ([[字句|トークン]]) についての、トークンの符号化オフセット、トークンの長さ、トークンの深度、トークンの型の、情報を含む。 VTD-XMLの手法を使うと、多くの興味深い機能や拡張機能を使うことができるようになる。 VTD-XMLが提供する機能は次のものが含まれる。 * 高い処理性能 * 少ないメモリ消費<ref>http://www.javaworld.com/javaworld/jw-03-2006/jw-0327-simplify.html</ref> * ASIC実装<ref>http://www.ximpleware.com/wp_SUN.pdf</ref> * 漸増的なXML文書の更新 * ネイティブなXMLの索引づけ --> === XMLに準拠したアプリケーションソフトウェアとエディタ === [[OpenOffice.org]]、[[AbiWord]]、および[[Apple]]の[[iWork]]などの[[アプリケーションソフトウェア]]のネイティブ[[ファイルフォーマット]]は、XMLである。 従前、[[オフィススイート]]には各ソフトの特有の[[バイナリ]]形式として[[データ]]が保存されていた。しかしながらこれでは互換性が低く、様々な情報を[[データベース]]として利用するオフィススイートでは不都合が生じていた。 そのため、データの標準化を進めて互換性を高めるため、各オフィススイートはXML形式でデータを出力する機能や、そもそも標準保存形式をXMLベースとするものが増えてきた。 [[OpenOffice.org]]はXMLベースの保存形式を当初より標準としていた(英語版バージョン1.0は2002年5月1日リリース)。また、OpenOffice.orgに限らず、どのオフィススイートでも利用できる[[OpenDocument]]形式が[[国際標準化機構]](ISO)によって標準規格として認定されている。 もう一つのオフィススイート用の保存形式である [[Office Open XML]] も、ISOにより標準規格として認定されている。 [[マイクロソフト]]の [[Microsoft Office]] では Microsoft Office XP のバージョンからXML形式への対応を始め、Microsoft Office 2003 で独自の定義の XML Schema がサポートされるに至った。 Microsoft Office 2007 ではデフォルトの保存方式がXMLとなった(Office Open XML)。Microsoft Office 2007 のいくつかの機能では、XMLファイルを利用者が指定したスキーマ (ただしDTDではない) に沿って編集することができるようになっている。 またマイクロソフトは、Microsoft Office 2003 のためのファイルフォーマット互換性キットを公開している。 この互換性キットを使うことにより、以前のバージョンの Microsoft Office で作成された文書をXMLに準拠した新しいフォーマットで保存することができる。 エディタについては現在、多くのXMLエディタが使えるようになっている。 == XML情報集合 == {{Anchors|XMLインフォメーションセット}} '''XMLインフォメーションセット'''({{lang-en-short|'''XML Information Set'''}}, {{en|'''Infoset'''}})または'''XML情報集合'''<ref>{{cite report|和書 |publisher=インフォコム株式 |date=2011-03-31 |title=平成22年度 新ICT利活用サービス創出支援事業(電子出版の環境整備)メタデータ情報基盤構築事業)報告書 |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3525270_po_metaproj2010.pdf?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F3525270&contentNo=1|format=PDF |page=66 |accessdate=2019-08-12}}</ref><ref>[https://webdesk.jsa.or.jp/books/W11M0090/index/?bunsyo_id=JIS%20X%204160:2007 '''JIS X 4160''']:2007「XMLパス言語」附属書 B</ref> (&mdash;じょうほうしゅうごう) は、XML文書の抽象的な[[データモデル]]を「情報項目」 (information item) の集合を使って規定している。 [[World Wide Web Consortium]] (W3C) から、2001年10月24日にXML情報集合仕様が勧告された。 XML情報集合の仕様における定義は、整形式XML文書内の情報を参照する必要がある他の仕様において使われることが想定されている。 一つのXML文書には、そのXML文書が整形式でありかつXML名前空間の制約に準拠している場合、一つのXML情報集合がある。 XML情報集合を構成するためには、そのXML文書が妥当なXML文書であることは、必須要件ではない。 一つのXML情報集合には、次に示す11種類の情報項目がある。 * 文書情報項目 * 要素情報項目 * 属性情報項目 * 処理命令情報項目 * 展開されなかった実体情報項目 * 文字情報項目 * コメント情報項目 * 文書型宣言情報項目 * 解析対象外実体情報項目 * 記法情報項目 * 名前空間情報項目 XML情報集合の Second Edition (第2版) が2004年2月4日に勧告された。 === 情報集合への追加情報 === 情報集合への追加情報すなわち情報集合に対する改変は、スキーマによる妥当性検証を行う際に、情報集合を改変することをいう。 例えば、情報集合に属性の既定値 (デフォルト値) を追加することなどがある。情報を追加された情報集合は、スキーマ検証後情報集合あるいはPSVI (post-schema-validation infoset) と呼ばれる<ref>[http://www.w3.org/TR/xmlschema11-1/ XML Schema 1.1 Part 1: Structures]</ref>。 情報集合への追加情報については、賛否両論がある。 情報集合に情報を追加することに否定的な見解としては、情報集合への追加情報はモジュール性を侵害し相互運用性の面での問題を引き起こす危険があるとする。 なぜなら、同じXML文書を扱う複数のアプリケーションソフトウェアは、受け取る情報が妥当性検証を行うかどうかに依存してしまうからである。 アプリケーションソフトウェアが、妥当性検証を行う場合に受け取る情報と、妥当性検証を行わない場合に受け取る情報が、異なってしまうのである<ref>[http://www.imc.org/ietf-xml-use/mail-archive/msg00217.html ''RELAX NG and W3C XML Schema''], [[ジェームズ・クラーク (ソフトウェア技術者)|James Clark]], 4 Jun 2002</ref>。 XML Schema は、XML情報集合への追加情報を扱うことができる。 RELAX NGは、情報集合への追加情報を扱わない。 RELAX NG では、情報集合への追加情報に否定的な立場をとっている。 == 歴史 == デジタルメディアの出版を行ってきた人々は、1980年の後半—[[インターネット]]が広く使われるようになるより前の時期—には既に、動的に情報を視覚化するための技術として、汎用的な[[マークアップ言語]]である [[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) が多くの用途に適していることを、理解していた<ref name="OED"> {{cite web | title=A conversation with Tim Bray: Searching for ways to tame the world’s vast stores of information | url=https://dl.acm.org/doi/10.1145/1046931.1046941 | first=Tim |last=Bray | year=February 2005 | publisher=Association for Computing Machinery's "Queue site" | accessdate=2008-05-05}}</ref><ref name="multimedia"> {{cite book | title=Interactive multimedia | chapter=Publishers, multimedia, and interactivity | publisher= Cobb Group | id=ISBN 978-1-55615-124-8 | year=1988}}</ref>。 SGMLはいくつかの分野で普及していたが、仕様が複雑で[[処理系]]の開発が難しく、またSGML文書の処理が重いという欠点があった。1990年代半ばまでには、SGMLを実際に使っていた一定の人々は、新しく現れた [[World Wide Web]] (ウェブ) を経験した。 そうした人々は、ウェブが発展することにより直面するいくつかの問題に対して、SGMLが解決策を提供すると、強く考えるようになった。 Dan Connolly は、自分が1995年に[[World Wide Web Consortium]] (W3C) のスタッフになった時に、SGMLをW3Cのアクティビティの一覧に追加した。 このアクティビティの作業は、1996年の中頃に[[サン・マイクロシステムズ]]のジョン・ボサックが、このアクティビティに関する宣言を起草しアクティビティの共同作業者を募ることで、始まった。 ボサックは、SGMLとウェブの双方を経験していた人々の小さなコミュニティと良好な関係を築いていた。 ボサックは、自分の作業において[[マイクロソフト]]から支援を受けた。 XMLの仕様は、11人のメンバーからなるワーキンググループにより編集され<ref>このワーキンググループはもともとは "Editorial Review Board" と呼ばれていた。このワーキンググループの最初のメンバーとXML仕様の first edition が完成するまでに加わっていた7人のメンバーは、XML 1.0 first edition のW3C勧告の最後に一覧して掲載されている。参照: http://www.w3.org/TR/1998/REC-xml-19980210#sec-xml-wg</ref>、だいたい150人から構成される Interest Group のメンバーから支援を受けて作成された。 技術的な論議が Interest Group の[[メーリングリスト]]で提起され、提起された論議は合意形成により解決された。合意形成ができなかった場合は、ワーキンググループのメンバーの投票による多数により解決された。 このアクティビティで行われた設計上の決定とその根拠の記録は、Michael Sperberg-McQueen が1997年12月4日に編集した<ref>[http://www.w3.org/XML/9712-reports.html Reports From the W3C SGML ERB to the SGML WG And from the W3C XML ERB to the XML SIG]</ref>。 このアクティビティでは[[ジェームズ・クラーク (ソフトウェア技術者)|ジェームズ・クラーク]]が技術リーダとして貢献した。 クラークの貢献として特筆されるのは、空要素 "<empty />" の導入と、この技術の名称 "Extensible Markup Language" (XML) の命名である。 この技術の名称として、他に提案され吟味されたものの一部を次に示す。 * MAGMA (Minimal Architecture for Generalized Markup Applications) * SLIM (Structured Language for Internet Markup) * MGML (Minimal Generalized Markup Language) XML仕様のワーキンググループではジョン・ボサックが議長を務めた。 このワーキンググループではジェームズ・クラークが技術リーダを務めた。 ワーキンググループの共同エディタは、もともとはティム・ブレイと Michael Sperberg-McQueen であった。 このアクティビティのプロジェクトの途中で、ブレイは[[ネットスケープ・コミュニケーションズ]]とのコンサルティングの契約を結んだ。 このブレイとネットスケープの契約に対しては、マイクロソフトが強く抗議した。 ブレイは、エディタの役割を一時的に辞することを要請された。 このことに関して、ワーキンググループでは激しい議論が行われた。 この議論は、最終的にはマイクロソフトの Jean Paoli が第3の共同エディタに就くことで解決した。 なおXMLワーキンググループには、日本人としてはただ一人[[村田真]]がメンバーとして1997年に参加した。 XMLワーキンググループは、直接会って活動したことは数回しかなかった(最初の会議は1997年8月22日)。 XML仕様の設計は、電子メールと週に一度の電話会議の双方を有機的に活用することにより、成し遂げられた。 XML仕様の設計では、SGMLの欠点を解決すべく文法を簡素化した。 XML仕様における設計上のいくつかの大きな決定は、1996年の7月から11月までの間の12週間の真剣な作業のなかで行われた。 この12週間の作業の後 (1996年11月) に、XMLの最初のワーキングドラフトが公表された<ref>[http://www.w3.org/TR/WD-xml-961114.html Extensible Markup Language (XML) - W3C Working Draft 14-Nov-96]</ref>。 その後も1997年をとおして設計作業は続けられ、XML 1.0 は、[[1998年]][[2月10日]]に[[World Wide Web Consortium|W3C]]の勧告となった<ref>{{Cite web|和書|date=1998-02-12 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980212/xml10.htm |title=W3CがXML 1.0を勧告 |publisher=INTERNET Watch |accessdate=2012-09-05}}</ref>。 XML 1.0 は、ワーキンググループが目標としていた次の目標を達成したと、評価する人々が多い。 * [[インターネット]]環境での使いやすさ * 汎用的な用途での使いやすさ * [[Standard Generalized Markup Language|SGML]]との互換性 * XML文書を扱う[[ソフトウェア]]の開発を容易にする機能 * オプショナルな機能の最小化 * XML文書の読みやすさ * 形式に即していること (formality) * 簡潔さ * XML文書の作成・編集の容易さ 技術者にとってはXMLはSGMLよりも習得しやすい技術であり、また処理系の開発が容易になったことで低い費用でXML技術を利用できるようになった。 現在ではXMLは広く普及している技術である。 XMLの前身であるSGMLと同様にXMLでも、いくつかの冗長な構文要素があり、要素記述子の繰り返しを仕様に含んでいる。 文書を短くすることは、XMLワーキンググループでは、XMLの構造において本質的な問題とは見なされなかった。 === 起源 === XMLは、[[国際標準化機構|ISO]]標準 [[Standard Generalized Markup Language]] (SGML) のサブセットである。 XMLのほとんどはSGMLから変更されずに採り入れられている。 XMLがSGMLから採り入れられている技術的な要素には次のものが含まれる。 * 論理的な構造と物理的な構造を分離する (要素と実体) * 文法に基づいた妥当性検証 (Document Type Definition (DTD、文書型定義)) * データと[[メタデータ]]を分離する (要素と属性) * 混合内容 (mixed content、要素の内容として子要素と文字列データが混在する内容モデル) * 表現から処理を分離する ([[#処理命令|処理命令]]; processing instruction) * 山括弧の構文 XMLがSGMLから採り入れなかった技術要素としては、SGML宣言がある (XMLでは<!--固定の区切り符号セットがあり、-->文書の[[文字符号化方式]]として[[UTF-8]]と[[UTF-16]]を採用している)。 XMLの他の技術的起源としては、次の3つが挙げられる。 ; [[Text Encoding Initiative]] (TEI) : Text Encoding Initiative (TEI、[[:en:Text Encoding Initiative]]) は、「転送構文」として使うためのSGMLのプロファイルを定義している。 ; [[HyperText Markup Language]] (HTML) : HyperText Markup Language (HTML) では、<!--elements were synchronous with their resource-->文書の文字符号化集合はリソースの文字符号化方式と分離されている。<!-- xml:lang 属性があり、--><!--リンクの宣言で必要となることよりもリソースに付属するメタデータに重きをおく[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]の考え方がある。 --> ; Extended Reference Concrete Syntax (ERCS) : Extended Reference Concrete Syntax (ERCS) から、XML 1.0 の命名規則が採用された。ERCSは、十六進数の文字参照を導入しており、全ての[[Unicode]]の文字を使うことができるようにするために参照の概念を導入している。 XML仕様の設計に関する議論のなかで開発された革新的な考え方には、次のものが含まれる。 * XML文書の[[文字符号化方式]] ([[文字コード]]) の決定の[[アルゴリズム]]と、XML宣言における文字符号化方式の指定 * [[#処理命令|処理命令]]のターゲット * xml:space 属性 * 空要素のタグのための新しい要素終了区切り === バージョン === 2010年1月現在の時点では、XMLには2つのバージョンがある。 ; XML 1.0 : XML 1.0 が最初に策定されたのは1998年2月10日であった。1998年の策定後、数度の改訂 (修正) を経ている。この数度の改訂については新しいバージョン番号は割り当てられていない。現在の時点では、Fifth Edition(第5版)が最新版である。XML 1.0 Fifth Edition は、2008年11月26日にW3Cから公開された。XML 1.0 は、多くの処理系が実装され、現在においても一般的な用途に対しては採用が勧められるとされている。日本ではJIS X 4159:2005としてJIS規格化されている<ref>{{Cite jis|X|4159|2005|name=拡張可能なマーク付け言語(XML)1.0}}</ref>。 ; XML 1.1 : XML 1.1 が最初に策定されたのは2004年2月4日であり、XML 1.0 Third Edition が公開された日と同じ日であった。現在の時点では、Second Edition (第2版) が最新版である。XML 1.1 Second Edition は、2006年8月16日にW3Cから公開された。XML 1.1 にはいくつかの機能が追加されている。XML 1.1 で追加された機能については議論の対象となっている。XML 1.1 で追加された機能は、XML をいくつかの状況で使い易くすることを目指している<ref>{{cite web |url=http://www.w3.org/TR/xml11/#sec-xml11 |title=Extensible Markup Language (XML) 1.1 (Second Edition) - Rationale and list of changes for XML 1.1 |accessdate=2006-12-21 |publisher=W3C}}</ref>。XML 1.1 で追加された主な機能は次のとおりである。 :* [[EBCDIC]] プラットフォームで使われている行終端文字を使えるようにする。 :* [[Unicode]] 2.0 の文字集合に含まれない文字を使えるようにする。 : XML 1.1 を実装している XML の処理系は、あまり多くない。XML 1.1 は、XML 1.1 特有の機能を必要とする状況においてのみ、採用を勧められるとされている<ref>{{cite book | last = Harold | first = Elliotte Rusty | title = Effective XML | publisher = Addison-Wesley | date = 2004 | pages = 10-19 | url = http://www.cafeconleche.org/books/effectivexml/ | isbn = 978-0321150400}}</ref>。 XML 1.0 と XML 1.1 は、要素名と属性名に使うことができる[[文字集合]]において異なっている。XML 1.0 では、 Unicode 2.0 で定義された文字集合のみ要素名および属性名として使うことができる。Unicode 2.0 の文字集合には、世界で使われているほとんどの文字が含まれている。しかし Unicode 2.0 の文字集合には Unicode 2.0 より新しいバージョンで追加された文字は含まれていない。こうした Unicode の新しいバージョンで追加された文字としては、[[モンゴル語]]、[[クメール語]] (カンボジア語)、[[アムハラ語]]、[[ビルマ語]]などの文字が、含まれる。 XML 1.1 においては、ほとんどのUnicode文字をXML文書の文字列データや属性値として使うことができる。また Unicode の現在のバージョンで定義されていない文字でさえ、使うことができる。 XML 1.1 の方式では、いくつかの文字については使うことができないが、その他の全ての文字は使うことができる。 一方で XML 1.0 では、仕様で明示的に規定された文字集合のみを、XML文書の文字列データや属性値として使うことができる。 このため XML 1.0 では、Unicode の新しいバージョンで追加される文字を扱うことはできない。 XML文書の文字列データや属性値について、XML 1.1 では XML 1.0 より多くの[[制御文字]]を使うことができる。 しかし「堅牢性」の観点から、XML 1.1 で使えるようになった制御文字の多くは、[[#文字参照|文字参照]]としてXML文書内に記述しなければならない。 XML 1.1 で使えるようになった制御文字には、2つの改行コードが含まれる。 この2つの改行コードは、XML 1.1 の処理系では空白記号として扱われる。 制御文字のうちこの空白記号として扱われる制御文字のみが、XML 1.1 で文字参照を使わずに直接にXML文書に記述することができる。 現在、XML 2.0 に関する議論が行われている<!-- , although it remains to be seen {{vague}} if such will ever come about. -->。 [http://www.textuality.com/xml/xmlSW.html XML-SW] (SW は、skunk works [[スカンクワークス]]の意味) が、XMLの最初の設計者の一人によって書かれた。 XML-SW には、XML 2.0 はどのようなものかということについての、いくつかの提案を含んでいる。 その内容は次のとおりである。 * Document Type Definition (DTD、文書型定義) をXMLの構文から排除する。 * [[#XML名前空間|XML名前空間]]、[[XML Base]] および[[#XML情報集合|XML情報集合]] (情報集合) をXML仕様に統合する。 [[World Wide Web Consortium]] (W3C) では、XML Binary Characterization (XMLバイナリ表現) のワーキンググループが活動しており、同ワーキンググループでは、XML情報集合をバイナリ形式に符号化するために、[[ユースケース]]と特性を調査する予備研究を行っている。 このワーキンググループは、公的な標準を制定することが認可されているわけではない。 XMLは定義上明確に[[プレーンテキスト|テキスト]]に基づいているため、[[ITU-T]]と[[国際標準化機構|ISO]]は、それぞれが定めるバイナリインフォメーションセットに対して、混乱を避けるために [http://asn1.elibel.tm.fr/xml/finf.htm Fast Infoset] の名前を使っている (参照: ITU-T Rec. X.891 | ISO/IEC 24824-1)。 === 特許の主張 === 2005年の10月に、Scientigoという小さな企業が、XMLの使用に対して同企業の2つの特許 [http://patft.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=5842213 U.S. Patent 5,842,213] と [http://patft.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=6393426 U.S. Patent 6,393,426] の対象になるという主張を、公的に表明した。 この2つの特許は、「特定の『階層構造ではない』統合されていない中立的な形式での、[データの]モデリングと格納と転送」を対象としている。 特許申請によると、この2つの特許は1997年と1999年に出願された。 Scientigoの最高経営責任者 (CEO) である Doyal Bryant は、この2つの特許を「金銭に換える」という願望を述べたが、同社は「世界を敵にするつもりはない」と言明した。 Bryant は、Scientigoは自社の2つの特許についていくつかの大企業と話し合っていると述べた<ref>[https://archive.is/20120712154124/http://news.com.com/Small+company+makes+big+claims+on+XML+patents/2100-1014_3-5905949.html Small company makes big claims on XML patents - CNET News.com]</ref>。 XMLを使う人々や企業に在籍していない専門家たちは、Scientigoの主張に対して懐疑的で批判的な立場で反応した。 一定の人々は、Scientigoを[[パテント・トロール]]であると述べた。 ティム・ブレイは、この2つの特許がXMLを対象とするという主張は「<!--見たところ-->ばかげている」と述べた<ref>[https://www.zdnet.com/article/xml-co-inventor-bray-responds-to-patent-assault/ XML co-inventor Bray responds to patent assault | Between the Lines | ZDNet.com]</ref>。 XMLに関係する多くの先行技術が[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]を含めて存在している<!--ため、何人かの法律の専門家はScientigoが同社の2つの特許で訴訟に勝つことは難しいと考えている{{Fact|date=February 2007}}-->。 == XMLに対する支持と批判 == <!-- ######################################## この節を編集する方々に向けての覚え書き: ######################################## XMLに関する議論については、記述し、その詳細を書くとよいでしょう。 ただしXMLに関する議論に、あなた自身がまきこまれないように、注意してください。 事実をもって語らせるように書いてください。 この節の内容を、簡潔にすることを歓迎します。 また参考文献をつけることを歓迎します。 しかし[[Wikipedia:中立的な観点]]と[[Wikipedia:検証可能性]]と[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に沿わない編集は、歓迎されないでしょう。 --> 多くの論者がXMLに対してさまざまな批判を行ってきた。 こうした批判は、XMLの長所と潜在的な欠点に対する言及を含んでいる<ref name="CriticSeeAlso">例えば、 [http://www.w3.org/TR/NOTE-xml-ql/ XML-QL Proposal discussing XML benefits]、 [http://www.25hoursaday.com/weblog/PermaLink.aspx?guid=dada27bf-2af0-400d-94c9-5575546f5664 When to use XML]、 [http://c2.com/cgi/wiki?XmlSucks "XML Sucks" on c2.com]、[http://www.xml.com/pub/a/2001/05/02/champion.html Daring to Do Less with XML]</ref>。 <!-- {{quotation|XMLは実のところ売春婦にドレスアップしたデータに過ぎない。|デイブ・トーマス<ref>Neal Ford, Language Oriented Programming, The Server Side's Java Symposium, 2007</ref>}} --> === XMLの長所 === * XMLは[[プレーンテキスト|テキスト]]に基づいた技術である。 * XMLは[[Unicode]]の[[文字集合]]を扱える。Unicodeを採用したことにより、どのような自然言語の書き言葉であってもほとんどの情報を通信の対象にできる。 * XMLは汎用的に[[コンピュータ科学]]の[[データ構造]]を表現できる。例えば、レコード([[構造体]])、[[リスト (抽象データ型)|リスト]]、[[木構造 (データ構造)|木構造]]などを表現できる。 * XMLの自己文書化という形式は、構造とフィールド名とともに値も記述できる。 * XMLの厳密な構文と[[構文解析]]の要件があるため、XMLプロセサ (XML[[構文解析器|パーサ]]) のアルゴリズムは非常に簡潔で効率よく一貫性のあるものとなる。 * XMLは文書データベースおよび文書処理のための技術として、[[スタンドアロン]]環境においても[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]環境においても、非常によく活用されている。 * XMLは国際標準に基づいている。 <!-- * It can be updated incrementally. --> * XMLでは、RELAX NG や[[スキマトロン]]のような[[スキーマ言語]]を使うことで妥当性検証を行える。こうした妥当性検証の機構は次のことを容易にする。 ** 有効な単体テスト ** 有効な防火壁 (ファイアウォール) ** 有効な受け入れテスト ** 契約に基づく有効な仕様 ** 有効な[[ソフトウェア開発|ソフトウェア構築]] * XMLの[[階層構造]]は、(全てではないが) ほとんどの種類の文書の表現に向いている。 * XMLは[[プレーンテキスト]]として表現される。プレーンテキストは、他のプロプライエタリな文書形式と比べて制限が少ない。 * XMLは[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]独立である。このため技術の移り変わりによる影響に比較的強い。 * XML文書は、スキーマが変更されても、前方互換性と後方互換性を保持することは、比較的容易である。 * XMLの前身である[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]は、1986年から使われつづけている。そのため大量に蓄積された経験やソフトウェアを活用できる。 * 整形式XML文書の要素の断片もまた、整形式のXML文書である。 === XMLの短所 === * XML文書の構文は、同じ情報を表すバイナリ表現と比べて、冗長でサイズが大きい<ref name="Elliotte001"> {{cite book | last = Harold | first = Elliotte Rusty | title = Processing XML with Java(tm): a guide to SAX, DOM, JDOM, JAXP, and TrAX | publisher = Addison-Wesley | year = 2002 | id = 0201771861 | ref = Reference-Rusty-2002-a }}XML文書はバイナリと比べて冗長である</ref><ref name="ExiEval">[http://www.w3.org/TR/exi-evaluation/ ''Efficient XML Interchange Evaluation''], W3C Working Draft, 7 April 2009。W3C は、XML を非テキスト形式(バイナリ)で効率的に表現する方法を別途定義している。</ref>。 * XML文書は冗長であり、記憶装置、転送、処理のコストの面で、効率的な運用に悪い影響を与える可能性がある<ref name="ExiEval"/><ref name="Elliotte000"> {{cite book | last = Harold | first = Elliotte Rusty | title = XML in a Nutshell: A Desktop Quick Reference | publisher = O'Reilly | year = 2002 | id = 0596002920 | ref = Reference-Rusty-2002-b }}XML文書はとても冗長であり、高速であることが必要な大規模なデータベースシステムで情報の探索を行うには効率が悪い。</ref><ref group="注" name="However000">ただし、Binary XML の試みは、XML文書のバイナリ表現を使うことでこうした問題を軽減するべく努力している。例えば、[[Java]]による Fast Infoset 標準の[[リファレンス実装]]では、構文解析 (パース) の速度は [[Apache Xerces]] Java と比べて10倍速く、Javaによる最も高速なXMLプロセサの一つである[http://piccolo.sourceforge.net/ Piccolo driver] と比べて4倍速い[https://fi.dev.java.net/reports/parsing/report.html]。</ref>。 * XML文書の構文は、<!-- 特に人間が読む場合に、 -->他の「テキストに基づく」データ転送形式と比べて冗長である<ref name="Bierman000"> {{cite book | last = Bierman | first = Gavin | title = Database Programming Languages: 10th international symposium, DBPL 2005 Trondheim, Norway | publisher = Springer | year = 2005 | id = 3540309519 }}XMLの構文は、いくつかの用途においては、人間が読むにはとても冗長である。人間にとっての読みやすさを改善するために dual syntax を提案する</ref><ref name="VerbRebut000">世間で言われているところによれば、XMLより「冗長性の小さい」多くのテキストフォーマットが、XMLに刺激を受けかつ先行的な業績としてXMLを位置づけ言及している。 例えば次のページを参照: http://yaml.org/spec/current.html、 http://innig.net/software/sweetxml/index.html、 http://www.json.org/xml.html</ref>。 * XMLはその前身である[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]よりも簡素化されたとはいえ、その処理は決して軽くはなく、インターネット上のプロトコルなど速度と軽さが要求される分野では、採用が見送られることがしばしばある<ref group="注">XMLの汎用性とそれに伴う重さはしばしば揶揄の対象とされることもある。[[Internet Protocol|IP]]、[[Transmission Control Protocol|TCP]]、[[User Datagram Protocol|UDP]]をXMLで定義するというジョーク[[Request for Comments|RFC]] ( {{IETF RFC|3252}} ) が存在する。</ref>。 <!-- * 本質的な[[データ型]]を備えていない。XMLは「整数」「文字列」「論理値」「日付」などの種類のデータを考慮していない。<ref group="注" name="DataType000">例えば、"3.14159" を7文字の文字列ではなく[[浮動小数点数]]として扱うよう強制する機構はXMLにはない。ただし、XML Schema を使ったXML文書の記述においてはXML処理にデータ型の概念を備えるようになっている。</ref><ref name="Blanken000"> {{cite book | last = Blanken | first = Henk M. | title = Intelligent Search on Xml Data: Applications, Languages, Models, Implementations, and Benchmarks | publisher = Springer | year = 2003 | id = 3540407685 }}XMLを使う人が定義したデータ型を認識するシステムを提案する</ref> --> * XMLが表現形式として採用している[[階層型データモデル|階層型モデル]]は、[[関係モデル]]や[[オブジェクト指向]]グラフと比べると制限が大きい<ref group="注" name="TreeLimit000">階層型モデルは[[木構造 (データ構造)|木構造]]の固定的な単一の視点による見方しか提供しない。例えば、役者が映画の下位に位置づけられるか、映画が役者の下位に位置づけられるかのいずれかであり、双方の視点を両立することはできない。</ref><ref name="Lim000"> {{cite book | last = Lim | first = Ee-Peng | title = Digital Libraries: People, Knowledge, and Technology | publisher = Springer | year = 2002 | id = 3540002618 }}固定的な階層構造を採用することに伴ういくつかの制限について議論する。2002年12月にシンガポールで開催された 5th International Conference on Asian Digital Libraries, ICADL 2002 の議事録より。</ref>。 * オーバーラップする (階層構造ではない) 節 (ノード) の関連を表現するには、余分な努力が必要である<ref name="Searle000">{{cite book | last = Searle | first = Leroy F. | title = Voice, text, hypertext: emerging practices in textual studies | publisher = University of Washington Press | year = 2004 | id = 0295983051 }}オーバーラップする要素を表現する代替システムを提案する。</ref>。 * XML名前空間を使うことには問題がともなう。名前空間を正しく扱うXMLプロセサを実装することは、難しい作業になる可能性がある<ref name="Names000">例えば次のページを参照: http://www-128.ibm.com/developerworks/library/x-abolns.html </ref>。 * XMLは、「自己文書化」として表現されることが多い。しかしこの表現では、重大なあいまいさがあることを考慮していない<ref name="selfdesc000">{{cite web | title = The Myth of Self-Describing XML | url = http://workflow.healthbase.info/monographs/XML_myths_Browne.pdf | accessdate = 2007-05-12 }}</ref><ref group="注">例えば<!--、[[Use–mention distinction]], [[Naming collision]], -->[[多義語]]を参照</ref>。 * XML文書における内容と属性の区別は、一定の人々にとっては不自然に感じられる。XMLのデータ構造の設計を難しくする要因となっている。<ref name="XMLSuck8">{{cite web | title = Does XML Suck? | url = http://xmlsucks.org/but_you_have_to_use_it_anyway/does-xml-suck.html | accessdate = 2007-12-15 }}("8. Complexity: Attributes and Content" を参照)</ref> == 標準化 == 先述した[[国際標準化機構|ISO]]の標準群のほかに、XML関連では次の文書が発行されている。 * ISO/IEC 8825-4:2002 ''Information technology -- [[Abstract Syntax Notation One|ASN.1]] encoding rules: XML Encoding Rules (XER)'' * ISO/IEC 8825-5:2004 ''Information technology -- ASN.1 encoding rules: Mapping W3C XML schema definitions into ASN.1'' * ISO/IEC 9075-14:2006 ''Information technology -- [[データベース言語|Database languages]] -- [[SQL]] -- Part 14: XML-Related Specifications (SQL/XML)'' * ISO 10303-28:2007 ''Industrial automation systems and integration -- Product data representation and exchange -- Part 28: Implementation methods: XML representations of EXPRESS schemas and data, using XML schemas'' * ISO/IEC 13250-3:2007 ''Information technology -- [[トピックマップ|Topic Maps]] -- Part 3: XML syntax'' * ISO/IEC 13522-5:1997 ''Information technology -- Coding of multimedia and hypermedia information -- Part 5: Support for base-level interactive applications'' * ISO/IEC 13522-8:2001 ''Information technology -- Coding of multimedia and hypermedia information -- Part 8: XML notation for ISO/IEC 13522-5'' * ISO/IEC 18056:2007 ''Information technology -- Telecommunications and information exchange between systems -- XML Protocol for Computer Supported Telecommunications Applications (CSTA) Phase III'' * ISO/IEC 19503:2005 ''Information technology -- [[XML Metadata Interchange|XML Metadata Interchange (XMI)]]'' * ISO/IEC 19776-1:2005 ''Information technology -- Computer graphics, image processing and environmental data representation -- Extensible 3D (X3D) encodings -- Part 1: Extensible Markup Language (XML) encoding * ISO/IEC 22537:2006 ''Information technology -- [[ECMAScript for XML|ECMAScript for XML (E4X)]] specification'' * ISO 22643:2003 ''Space data and information transfer systems -- Data entity dictionary specification language (DEDSL) -- XML/DTD Syntax'' * ISO/IEC 23001-1:2006 ''Information technology -- [[Moving Picture Experts Group|MPEG]] systems technologies -- Part 1: Binary MPEG format for XML'' * ISO 24531:2007 ''Intelligent transport systems -- System architecture, taxonomy and terminology -- Using XML in ITS standards, data registries and data dictionaries'' == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=(株) 日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘 編著|year=2001|title=改訂版 標準XML完全解説 (上)|publisher=技術評論社|id=ISBN 978-4-7741-1186-5}} * {{Cite book|和書|author=(株) 日本ユニテック、中山幹敏、奥井康弘 編著|year=2001|title=改訂版 標準XML完全解説 (下)|publisher=技術評論社|id=ISBN 978-4-7741-1302-9}} == 関連項目 == === XML関係の仕様 === * [[スキーマ言語]] ** [[Document Type Definition]](DTD、文書型定義) ** [[XML Schema]] ** [[Regular Language description for XML]] (RELAX) ** [[TREX]] ** [[文書スキーマ定義言語]] (DSDL: Document Schema Definition Languages) *** [[RELAX NG]] *** [[スキマトロン]] * [[スタイルシート]] ** [[Extensible Stylesheet Language]] (XSL) *** [[XSL Formatting Objects]] (XSL-FO) *** [[XSL Transformations]] (XSLT) ** [[Cascading Style Sheets]] (CSS) ** [[Document Style Semantics and Specification Language]] (DSSSL) * [[XML Path Language]] (XPath) * [[XLink|XML Linking Language]] (XLink) * [[XQuery]] * [[Jaql]] === 関連する団体 === * [[World Wide Web Consortium]] (W3C) - [[標準化団体 (コンピュータと通信)|標準化団体]]の一つ。 * [[OASIS (組織)|OASIS]] - 標準化団体の一つ。 * [[Apache XML]] - [[Apacheソフトウェア財団]]のプロジェクト。 * [[Apache XML Graphics]] - Apacheソフトウェア財団のもう一つのプロジェクト。 === XMLと関連する技術 === * [[Abstract Syntax Notation One]] (ASN.1) - 電気通信やコンピュータネットワークでのデータ構造の表現・エンコード・転送・デコードを記述する記法 * [[JavaScript Object Notation]] (JSON) - JavaScriptにおけるオブジェクトの表記法をベースとした軽量なデータ記述言語 * [[YAML]] - 構造化データやオブジェクトを文字列に直列化(シリアライズ)するためのデータ形式 * [[Broadcast Markup Language]] - XMLベースのデータ放送向け記述言語 == 外部リンク == {{Wiktionary|XML}} * [https://www.w3.org/XML/ W3C XML 公式ホームページ]{{En icon}} * [https://www.w3.org/TR/REC-xml W3C XML 1.0 仕様]{{En icon}} * [https://www.w3.org/TR/xml11/ W3C XML 1.1 仕様]{{En icon}} * [https://validator.w3.org The W3C Markup Validation Service] XML構文チェックサイト {{En icon}} {{W3C標準}} {{data exchange}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:Extensible_Markup_Language}} [[Category:XML|*]] [[Category:マークアップ言語]] [[Category:データシリアライゼーションフォーマット]] [[Category:データモデリング]] [[Category:W3C勧告]] [[Category:セマンティック・ウェブ]] [[Category:JIS]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]] [[Category:プレゼンテーション層プロトコル]] [[Category:オープンフォーマット]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Extensible_Markup_Language
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テオ・アンゲロプロス
テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)ことテオドロス・アンゲロプロス(ギリシャ語:Θόδωρος Αγγελόπουλος、Theodoros Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)は、ギリシャ・アテネ出身の映画監督。 1935年、アテネで生まれ、子どもの頃に第二次世界大戦や1940年代後半の国内の政情不安を体験。アテネ大学法学部を卒業後、兵役を経てフランスのソルボンヌ大学、高等映画学院に留学。帰国後は映画雑誌で批評活動を4年間展開した後、1968年に短編ドキュメンタリー映画『放送』を自主製作して映画監督としてデビュー。 1970年に初の長編作品『再現』を監督した後、ギリシャの現代史を題材にした3部作『1936年の日々』(1972年)、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)を発表し、世界的な名声を獲得する。1980年に『アレクサンダー大王』でヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞を、1988年に『霧の中の風景』でベネチア国際映画祭銀獅子賞を、1995年に『ユリシーズの瞳』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を、1998年に『永遠と一日』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。 「20世紀三部作」の第1部『エレニの旅』(2004年)においては、舞台をバルカン半島以外にも広げ、新たなる展開を示した。20世紀三部作は、当初『トリロジア』という題名の1本の長編となる予定であったが、上映時間が膨大になりすぎるため、三部作として製作されることとなったという。2009年に第2部『エレニの帰郷』を発表。第3部『THE OTHER SEA(もう一つの海)』の撮影中だった2012年1月24日、アテネ郊外のトンネル内でオートバイにはねられて頭を強打し、運ばれた先の病院で死亡した。享年76。
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テオ・アンゲロプロスことテオドロス・アンゲロプロスは、ギリシャ・アテネ出身の映画監督。
{{ActorActress | 芸名 = Θόδωρος Αγγελόπουλος | ふりがな = テオ・アンゲロプロス | 画像ファイル = Theodoros Angelopoulos Athens 26-4-2009-2.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = 2009年 | 本名 = | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --> | 出生地 = {{GRC1935}} [[アテネ]] | 死没地 = {{GRC}} [[ピレウス]] | 国籍 = | 民族 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1935 | 生月 = 4 | 生日 = 27 | 没年 = 2012 | 没月 = 1 | 没日 = 24 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]] | ジャンル = | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[旅芸人の記録]]』<br />『[[アレクサンダー大王 (映画)|アレクサンダー大王]]』<br />『[[霧の中の風景]]』<br />『[[ユリシーズの瞳]]』<br />『[[永遠と一日]]』 | カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[第51回カンヌ国際映画祭|1998年]]『[[永遠と一日]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|グランプリ]]'''<br />[[第48回カンヌ国際映画祭|1995年]]『[[ユリシーズの瞳]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 脚本賞|脚本賞]]'''<br />[[第37回カンヌ国際映画祭|1984年]]『[[シテール島への船出]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />[[第28回カンヌ国際映画祭|1975年]]『[[旅芸人の記録]]』<br />1984年『シテール島への船出』<br />1995年『ユリシーズの瞳』<br />'''[[エキュメニカル審査員賞]]'''<br />1998年『永遠と一日』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[銀獅子賞]]'''<br />[[1988年]]『[[霧の中の風景]]』<br />'''[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]'''<br />[[1980年]]『[[アレクサンダー大王 (映画)|アレクサンダー大王]]』<br />'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />1980年『アレクサンダー大王』<br />1988年『霧の中の風景』<br />'''国際カトリック映画事務局賞'''<br />1988年『霧の中の風景』<br>'''[[:fr:Prix_Robert-Bresson|ロベール・ブレッソン賞]]'''<br>[[第58回ヴェネツィア国際映画祭|2001年]] | ベルリン国際映画祭 = '''[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br /> [[1971年]]『[[再現]]』<br>[[第23回ベルリン国際映画祭|1973年]]『[[1936年の日々]]』 | ヨーロッパ映画賞 = '''国際映画批評家連盟賞'''<br />[[1995年]]『ユリシーズの瞳』<br />[[2004年]]『[[エレニの旅]]』 | その他の賞 = | 備考 = }} '''テオ・アンゲロプロス'''(''Theo Angelopoulos'')こと'''テオドロス・アンゲロプロス'''([[ギリシャ語]]:''{{lang|el|Θόδωρος Αγγελόπουλος}}''、''Theodoros Angelopoulos''、[[1935年]][[4月27日]] - [[2012年]][[1月24日]])は、[[ギリシャ]]・[[アテネ]]出身の[[映画監督]]。 == 略歴 == 1935年、アテネで生まれ、子どもの頃に[[第二次世界大戦]]や1940年代後半の国内の政情不安を体験。[[アテネ大学]]法学部を卒業後、兵役を経てフランスの[[ソルボンヌ大学]]、[[高等映画学院]]に留学。帰国後は映画雑誌で批評活動を4年間展開した後、1968年に短編ドキュメンタリー映画『[[放送 (映画)|放送]]』を自主製作して映画監督としてデビュー。 1970年に初の長編作品『[[再現]]』を監督した後、ギリシャの現代史を題材にした3部作『[[1936年の日々]]』(1972年)、『[[旅芸人の記録]]』(1975年)、『[[狩人 (映画)|狩人]]』(1977年)を発表し、世界的な名声を獲得する。1980年に『[[アレクサンダー大王 (映画)|アレクサンダー大王]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞]]を、1988年に『[[霧の中の風景]]』でベネチア国際映画祭[[銀獅子賞]]を、1995年に『[[ユリシーズの瞳]]』で[[カンヌ国際映画祭]]審査員特別賞を、1998年に『[[永遠と一日]]』でカンヌ国際映画祭[[パルム・ドール]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=53428|title=映画監督テオ・アンゲロプロス氏、はねられ死亡|publisher=[[読売新聞]]|date=2012年1月25日|accessdate=2013年6月10日}}</ref>。 「20世紀三部作」の第1部『[[エレニの旅]]』(2004年)においては、舞台をバルカン半島以外にも広げ、新たなる展開を示した。20世紀三部作は、当初『トリロジア』という題名の1本の長編となる予定であったが、上映時間が膨大になりすぎるため、三部作として製作されることとなったという<ref> [https://www.webstyle.ne.jp/movie/feature/0504eleni.htm FUN!FUN!MOVIE|「エレニの旅」テオ・アンゲロプロス監督来日記者会見]より</ref>。2009年に第2部『[[エレニの帰郷]]』を発表。第3部『THE OTHER SEA(もう一つの海)』の撮影中だった2012年1月24日、アテネ郊外のトンネル内で[[オートバイ]]にはねられて頭を強打し、運ばれた先の病院で死亡した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/obituaries/update/0125/TKY201201250119.html|title=ギリシャの映画監督・アンゲロプロス氏、交通事故で死去|work=[[朝日新聞]]|date=2012-01-25|accessdate=2011-01-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120403002217/http://www.asahi.com/obituaries/update/0125/TKY201201250119.html|archivedate=2012年4月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。享年76。 == 監督作品 == * [[放送 (映画)|放送]] ''{{lang|el|Εκπομπή}}''(1968) * [[再現]] ''{{lang|el|Αναπαράσταση}}''(1970) * [[1936年の日々]] ''{{lang|el|Μερες του}} '36''(1972) * [[旅芸人の記録]] ''{{lang|el|Ο Θίασος}}''(1975) * [[狩人 (映画)|狩人]] ''{{lang|el|Οι Κυνηγοί}}''(1977) * [[アレクサンダー大王 (映画)|アレクサンダー大王]] ''{{lang|el|Μεγαλέξανδρος}}''(1980) * [[シテール島への船出]] ''{{lang|el|Ταξίδι στα Κύθηρα}}''(1984) * [[蜂の旅人]] ''{{lang|el|Ο Μελισσοκομοσ}}''(1986) * [[霧の中の風景]] ''{{lang|el|Τοπίο στην ομίχλη}}''(1988)  * [[こうのとり、たちずさんで]] ''{{lang|el|Το Μετέωρο βήμα του πελαργού}}''(1991) * [[キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒]] ''LUMIERE ET COMPAGNIE''(1995)オムニバスの一編 * [[ユリシーズの瞳]] ''{{lang|el|Το Βλέμμα του Οδυσσέα}}''(1995) * [[永遠と一日]] ''{{lang|el|Μια αιωνιότητα και μια μέρα}}''(1998) * [[エレニの旅]] ''{{lang|el|Τριλογία 1: Το Λιβάδι που δακρύζει}}''(2004) * [[それぞれのシネマ|それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜]]/3分間 ''Chacun son cinéma / Trois minutes''(2007)オムニバスの一編 * [[エレニの帰郷]] ''{{lang|el|Η σκόνη του χρόνο}}''(2009) == 出演作品 == * [[テオ・オン・テオ]] ''THEO ON THEO''(2004)ドキュメンタリー == 参考文献 == * ヴァルター・ルグレ『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』フィルムアート社、1996年 * 『テオ・アンゲロプロス シナリオ全集』愛育社、2004年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Theo Angelopoulos}} * {{Official website|http://www.theoangelopoulos.com/}} * {{IMDb name|id=0000766|name=Theo Angelopoulos}} * {{Allcinema name}} * {{Kinejun name}} {{テオ・アンゲロプロス監督作品}} {{ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞) 1987-1999}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あんけろふろす てお}} [[Category:ギリシャの映画監督]] [[Category:アテネ大学出身の人物]] [[Category:アテネ出身の人物]] [[Category:交通事故死した人物]] [[Category:1935年生]] [[Category:2012年没]]
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Microsoft Windows
Microsoft Windows(マイクロソフト ウィンドウズ)は、マイクロソフトが開発・販売するオペレーティングシステム (OS) の製品群である。グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を採用している。Windows発売以前では高価なワークステーション(ハイエンドパソコンを上回る性能のデスクトップコンピュータ)でしか実現されていなかったマルチタスクやGUIを中心とした使い勝手の良さを、一般消費者が入手しやすい標準的な規格のパソコンに順次取り込んで行き、一般向けOSのシェアのほとんどを占めるに至り、今や大きな知名度を持つ。 マイクロソフトが展開するOSのブランド名である。コマンド入力が中心でシングルタスクでしか動作しないMS-DOS(CUI)の代替として開発された、1995年発売のWindows 95で人気に火が付き、2000年代以降は世界で最も普及したOSとして、組み込みシステムやスマートフォン、サーバ、スーパーコンピュータまであらゆる機器にインストールされるようになった。ゲーム業界にも進出しており、ドリームキャストやXboxやアーケードゲームにもWindows CEが使われている。Windowsは一般消費者におけるデファクトスタンダードの地位にあると言え、組み込み機器やモバイル端末を除いたパーソナルコンピューターのOSとしては、ほとんどの人にとって人生で最初に触れるOSでもある。 1990年代前半までのパソコンではシングルタスク(同時に1つのアプリケーションしか動かせない)かつ文字入出力を中心とした操作体系が普通であった。1985年から1995年にかけてMS-DOSの上で動くWindows 1.0からWindows 3.xまで開発されたものの、パソコンのCPUのシングルコア16bit、十数MHzから三十数MHz、メインメモリが数百kBから十数MBといった性能の低さやグラフィック表示機能の貧弱さが原因で、ウィンドウの表示自体が重荷であり(パソコン向けにウィンドウアクセラレータという拡張カードなども発売された)、ワークステーションで行えるようなウィンドウ切り替えによる並行作業は実用的ではないと見做されていた。従って、性能を要求するソフト(ゲームソフトや資料作成用ソフトなど)についてはWindowsを停止し、MS-DOSで実行することが主流となっていた。この当時、パソコン自体が数十万円は下らない程に高価で、加えてコマンドなどの専門知識が必要であることも鑑みると、非IT企業や家庭への導入にはかなり特殊な理由が必要となり、パソコンの普及のためにはユーザーが技術的詳細に触れなくてもパソコンの能力が発揮できるOSが必要不可欠であったが直感的な操作を実現する上での性能不足は否めなかった。 しかし、1990年代前半のパソコン向け32bitCPUの普及と動作周波数の向上とメインメモリの容量増加で状況が変わりつつあり、PC-UNIXの開発が開始されるなど、ワークステーションの真似事をパソコンに行わせることが実用的になりつつあった。そのような状況下で、企業・家庭を問わずパソコンを容易に扱えるようにするべくWindows 95の開発は進められた。Windows 95では家庭でもなんとか手が届く価格のパソコンにも搭載され始めた32bitCPU(特にIntel 80386以降のIA-32系統のCPU)の機能を活かして、百万円を優に超えるほど高価なワークステーションで提供されていたマルチタスク、マルチメディア、インターネット接続機能などをパソコンでも動作可能な形で次々と取り込んで行き、あらゆる情報を統合して閲覧・編集・整理・送受信できる個人所有可能なコンピュータを実現したことで、Windows 95では本当の意味でデジタル化された日常生活を実現可能にした。1995年当時、SunやSGIのワークステーションや、クリエイターに人気の高級PCであるMacintoshと比較した場合のWindows 95搭載PCの価格の低さは世界に衝撃を与え、大ブームを引き起こした。ようやくGUIとインターネット接続機能が簡単に使えるパソコンが庶民の手に届く価格(とはいっても日本では平均24万円台とまだ高額)になったことで、1990年代後半にはパソコン用OSのシェアで他を大きく引き離してトップになっていた(2009年10月にはインターネット上で使用されているクライアントの市場シェアの約90%を得ている)。DirectXの搭載により、専用のアクセラレータが利用できるようになり、高品質な画面描画や音声出力が可能になった。Windows 95の時点で従来の主力OSであったMS-DOSは16bitコードの互換機能としてWindowsの背後に隠蔽されるようになり、Windows 9x系の終了と共に開発が停止された。Windows 2000では一般向けでも完全な32bitOSであるWindows NT系に移行した。 パソコン用OSとしては、マイクロソフト社自身によるオフィススイートの提供やインターネット対応は勿論のこと、SteamやNetflixと言った一般向け娯楽配信サービスから、事務作業、設計、シミュレーション、ソフトウェア開発と言ったプロフェッショナル用途まで、多数のサードパーティーがアプリ開発に参画し、全ての用途を包括する環境が形成されたため、強力なプラットフォームに成長した。バージョンアップの過程では、MS-DOSに由来するカーネルの16bitコードとシステムリソースの制約が原因でブルースクリーンが多発したり、処理の効率化が不十分で動作が激しく重いバージョンが幾つかリリースされ、ユーザーからも不評を買っていたが、最新のWindows 10はOSとして成熟し、安定して軽快に動作するようになった。(正確にはアップデートによるソフトの動作に支障をきたす例が増えた)2023年11月時点の最新安定版は、デスクトップ版はWindows 11 バージョン 23H2、およびWindows 10 バージョン 22H2、サーバ版はWindows Server 2022、モバイル版はWindows 10 Mobile バージョン 1607、エンベデッドシステム版はWindows 10 IoTである。 Windowsの一般的な知名度は高いが、1960年代に開発が始まり、現代的なOSの始祖となったUNIX系OSとは全く異なる構造のOSであり、OSの歴史からすると特殊な存在であることには留意する必要がある。 2021年12月1日時点で、Windowsは次の製品系統が展開されている。 組み込み機器向けのWindowsとしてWindows Embeddedと呼ばれるOS群が開発されていた。2015年からは後継となるWindows 10 IoTが開発されたが、現在はそちらもサポートが終了している。 Windowsは1981年9月に開始したInterface Managerというプロジェクトから始まる。1983年11月にWindowsが発表されたが、それから2年後の1985年11月までリリースされなかった。 Windows 1.0はMS-DOS上で動くアプリケーションの一種でシェルに過ぎなかった。MS-DOSの扱える640KBのコンベンショナルメモリをさらにWindowsのシステムに占有されたため、実際にアプリケーションを動かすためのフリーメモリがほとんど残らず実用には程遠かった。Windows 1.0は、複数のウィンドウを画面にウィンドウ自体を重ねて表示せずに、タイル状に表示した。ダイアログ ボックスだけは、ウィンドウに重ねて表示できた。 1987年にリリースされたWindows 2.0はウィンドウの重ね合わせが可能となった。MS-DOSから利用出来るメモリ容量を拡張するEMSメモリを利用することによって、一応は640KB以上のメインメモリが利用できるようになり、1.0に比べて実用性が大幅に高まった。しかし、ゲームなどの重いアプリケーションを実行するにはまだ実用的ではなかった。 1980年代のWindowsは機能だけ見た場合にはMS-DOSで動くウィンドウマネージャの一種であり、OSと呼ぶには不足している機能が多かった。 1990年に発売されたWindows 3.0は、操作感の改良やタスク管理、メモリ管理など、各種機能が網羅的に強化された。日本では、当時のDOS/Vの流行とともにその事実上の後継であるWindows 3.1が爆発的に売れるようになった。それまでは各アーキテクチャ毎に実質的に個別のアプリケーションソフトが必要だったが、パソコンのアーキテクチャの相違をWindowsで吸収することにより、一つの操作方法と一つのアプリケーションソフトが複数のアーキテクチャのパソコンで共有できるようになった。アーキテクチャそれぞれの強みは意味をなさなくなり、単純な性能と価格の比較でアーキテクチャの淘汰が行われた。1990年代後半に至ると、PC/AT互換機とその後継アーキテクチャが存続する事実上唯一のアーキテクチャとなった。 各社から発売される非純正のアプリケーションソフトも徐々に増え、不足していたWindowsに追加するネットワーク機能なども他社から供給されるようになってきた。1990年から1995年にかけて、Windows 3.0とWindows 3.1は全世界で1億台、日本国内でも400万台が出荷され、Windowsは事実上の標準の地位を確立した。Windows 3.1ではオプションとしてWin32sが存在し、一部の32ビットアプリケーションが使用可能になった。 この当時、Windowsのようなウィンドウマネージャの実行自体が負荷の高い処理であり、ゲームなどのグラフィックを扱うアプリケーションではメインメモリが不足することから、MS-DOS専用の作品が多かった。リソース不足への対応として、アプリケーションの性質に応じてWindowsとMS-DOSを切り替えて利用しなければならず、まだ一般向けとは言い難いものがあった。 1995年秋にWindows 95が発売され、一般のパソコンでハイカラー(16bitカラー)以上の美麗なGUIを本格的に利用可能にしたことと、インターネット対応を謳ったことで世界的なヒット商品となった。Windows 3.xとは異なりOSの大部分が32ビット化されており、各アプリケーションが固有のメモリ空間を持つなど設計が大きく改善されているが、16ビットアプリケーションとの互換性のため不安定な面も残っていた。MS-DOSは起動時と32ビットドライバがない場合のレガシードライバとして使われるだけでOSそのものは原則としてMS-DOSを使用していない。Windows 3.1までのプログラムマネージャとファイルマネージャはWindows エクスプローラーに統合された。また、Windowsのスタートボタンなど新しいGUIや、TCP/IPなどのネットワーク機能を標準装備。16ビットアプリを除きほぼ完全なプリエンプティブ・マルチタスクが可能となった。MS-DOSはWindowsの背後に隠蔽され、DOSプロンプトやDOSモードへの切り替え以外では表に出て来なくなった。 Windows 95の成功により、競合したMac OSやOS/2とのシェアの差は拡大した。特に日本ではネットワーク標準搭載のWindows for Workgroupsが発売されていなかったこともあり、Windows 95の発売された1995年は、パソコンやインターネットの普及の元年とも言われた。その後のWindowsシリーズではGUIは大きく変更されず、多くの操作においてWindows 95の操作性が基盤となった。 1998年にWindows 95にInternet Explorer 4.0の統合を行ったWindows 98がリリースされた。翌年にWindows 98の小改良を施したWindows 98 Second Edition (Windows 98 SE) がリリースされた。 2000年に最後のWindows 9x系であるWindows Meがリリースされた。Windows 9x系はWindows 98 SEを最後としてWindows NT系のWindows 2000に統合する計画もあったが、最終的にはWindows 2000は上級者向けとしてProfessionalエディションを一番下のエディションとして発売され、代わりにホームユーザー向けとしてWindows Meが発売された。 Windows 9x系のOSはMS-DOSを使用せずアプリケーションからハードウェアを直接アクセスすることも原則として使用できなくなったが、DOSプロンプト内など一定の条件で使用することも可能となっており、これは過去のソフトウェアとの互換性や処理負荷の軽減といったメリットをもたらしたが、不安定な動作を引き起こすことがありブルースクリーンが出てしまうような現象が度々発生した。 NTは高可用性が要求されるビジネス向けの市場のためにリリースされた。Windows 9xの開発の終了により、9xの役割も要求されるようになった。最初にリリースされたWindows NT 3.1から、NT3.5(1994年)、NT3.51(1995年)、NT4.0(1996年)と、ほぼ1年ごとにリリースされた。2000年にWindows 2000がリリースされ、NTが消費者用としても以前に比べて採用されるようになった。2001年に消費者向けの用意された初めてのNTカーネル搭載のOSであるWindows XPがリリースされた。2003年にWindows Server 2003がリリースされた。それまでマイクロソフトはセキュリティ問題を軽視していたことで社会問題へと発展し、その回答として見た目などは変えずに全面的に作り直したWindows XP Service Pack 2を提供することになった。 Windows XP Service Pack 2の開発と、1994年から利用していた内部システムの全面刷新に手間取り、それまで2、3年間隔で発売していたWindowsだったが、Windows XPの発売から5年が経過した2006年にWindows Vistaがリリースされた。2008年にWindows Server 2008がリリースされた。その後もXPは消費者を中心に人気を博し、Windows 10がリリースされた後でも利用者が増えたが、その6ヶ月後、XPのシェアはようやく10に追い抜かれた。 NTのGUIは、同時期にリリースされた消費者向けのWindowsと似たインタフェースを採用した。NTは用途や要求に対応するエディションが複数あり、Windows XPでは以前に比べて一気に増えた。 Windows NT 3.1からNT 4.0まで対応していた、PowerPCやDEC Alpha、MIPS R4000は64ビットプロセッサとしても使用できたが、NTは32ビットプロセッサとして使用した。64ビット用も存在したが、出荷されなかった。 本格的に64ビットに対応したのは、Intel Itaniumからであり、Windows XP 64-Bit EditionとWindows Server 2003 for Itanium-based Systemが出荷された。これは主にサーバと高度な性能のワークステーション向けのリリースであり、それ以外は64ビットプラットフォームはなかった。しかし、AMD x86-64 が発表されると一般ユーザーが容易に64ビットに移行できる基礎環境が整い、OS単体での販売は行われなかったものの2005年にWindows XP Professional x64 EditionとWindows Server 2003 x64 Editionsがリリースされた。x64に対応したことにより、ワークステーションとしてItaniumをサポートしていたWindows XP 64-Bit Editionは一切の対応を終了した。Windows Vistaでは64ビットに本格的に移行するためにそれまで一部に限られた出荷から、ユーザーのオーダーに応じた64ビットのディスクの送付、パッケージへの32ビット用と64ビット用の同時封入といった対応が始まった。サーバーエディションは32ビット版の提供がWindows Server 2008を最後に終わり、Windows Server 2008 R2からは64ビット版のみ提供されている。クライアントエディションでは32ビット版の提供はWindows 10で終わり、Windows 11では64ビット版のみ提供されている。 Windows CEは主に組み込み用途を中心とした用途で使用されており、モバイル端末やカーナビゲーションシステム、セガ製ゲーム機のドリームキャストで採用されている。2020年までは、電子辞書Brainなどにも搭載されている。 ただし、システムに若干の改変を加えるために、一部のアプリケーションの動作に支障をきたすなど問題を引き起こすこともある。また、特定のサービスパックのバージョンに依存するソフトウェアも存在する。現にWindows XPにSPを導入したことが原因で、ヤマハ製のサウンドカードが搭載されたパソコンでサウンドが鳴らなくなるトラブルもあった。これらの問題から、特に企業においては適用されないこともあるが、マイクロソフトは強く適用を推奨している。 Windowsのバージョンやエディションなどによっては存在しない製品形態もある。 このほか、MSDNサブスクリプション、TechNetサブスクリプションでもWindowsのライセンスが提供されている。ただし、それぞれソフトウェア開発・検証、Windowsの評価などと利用目的に制限がある。 過去のWindowsにおいてはメディアやキーとライセンスは不可分であり、調達元が異なるものでの代用が難しかったため、Windowsの調達でもっとも一般的であるOEM版によるプレインストールPCなど、Windows標準のインストールメディアが付属しない調達形態ではリカバリなど一部の機能について使用に大きな制限があった。 この制限については、2017年現在のWindows 10ライセンスでは不可分とされる記述はなくなり、また、ダウングレード権においては任意の調達元のメディアやキーが利用できるなど、徐々に緩められている。 Windowsはパーソナルコンピュータ市場では、1990年代後半よりデファクトスタンダードの地位を得た。このため対応するコンピュータ(メーカー)、周辺機器、アプリケーションも多く、またユーザー数、操作方法の情報なども多い。Windowsが普及した背景には、マイクロソフト自身は一部の周辺機器を除いてハードウェアを製造せず多数のハードウェアメーカーへのOEM供給路線を続けたこと、ライバルのMacintoshやOS/2の必要とするハードウェアが当時は高価だったこと、オフィスソフトであるMicrosoft Office(Office自体はMacintoshでも動作する)や専用のマルチメディアAPIであるDirectXで作成されたゲームプログラムが市場に広く受け入れられ、キラーアプリケーションとなったこと、20世紀末期から21世紀にかけてのダウンサイジングの潮流に乗ったこと、ネットワーク機能やPOSIXサブシステムなどの極めて少数のコンポーネントを除き、完全な独自設計となっており、Windows製品以外との互換性や移植性が低く、他のプラットフォームへの移行が非常に困難であることなどが挙げられる。 近年はモバイル端末の進化により若い世代はあまり個人でパーソナルコンピュータを使用しなくなっており、それらを含めたシェアに関しては比較的厳しい状況にある。 Windowsはマイクロソフトによる独自仕様のソフトウェア製品(プロプライエタリソフトウェア)であり、その製品構成や販売手法をめぐり2009年時点でもいくつかの国で独占禁止法訴訟が起きている。独占の影響を回避するため、官公庁などの公的機関でLinuxなどオープンソースソフトウェアのOSの採用の動きや、オープンフォーマットなどWindows専用のオフィスソフトに縛られないファイルフォーマットの採用の動きがあり、またOSの役割を低下させるクラウドコンピューティングなどの動きもある。上記のようなマイクロソフトによる独占状態の影響もあり、フリーソフトウェア財団は「自由なソフトウェア」というテーマを掲げ、たびたび「脱Windowsキャンペーン」を行っている。 OS市場の独占によるマイクロソフトの強靭な企業体力や統一された操作性が功を奏し、従業員教育にかかるコストが低下したことや、同一系統のプラットフォーム間におけるアプリケーションの互換性がある程度確保されていることに加え、サービス水準合意 (SLA) を締結すれば、競合他社より高品質なサポートを受けることが出来るため、金融機関などのインフラ系企業などを中心に独占状態による悪影響よりも良い影響のほうが大きいと考える者が多い。前述のメリットを活かし、さまざまな社会インフラの運用にも幅広く利用されているだけでなく、冒頭でも述べた通り、マイクロソフトによるほぼ完全な独自設計であることから他のOSとの互換性や移植性が非常に低く、非常に有用かつ代用が効かないアプリケーションや周辺機器を数多く抱える製品でもあるため、政財界からは電力会社や公共交通機関などのインフラ産業と同等の扱いを受けることも珍しくない。日本を含むいくつかの国や地域では、独占禁止法の適用除外の対象と見做され、政府機関との随意契約を締結するケースすら存在する。 また、日本や韓国など、いくつかの国や地域ではマイクロソフトとクライアントOSおよびウェブブラウザに関するSLA契約を独占的に締結しているだけでなく、2000年代頃においてはWindows APIを用いた専用のクライアントソフトやActiveXコントロールを用いていたため、電子政府サービスにWindowsと推奨ブラウザのInternet Explorerを用いるしかないという状況があった(Windowsマシンを持っていないユーザーは、ネットカフェや、街頭に設置されている専用の端末を用いてサービスを利用しなければならない)。 日本においては他社のOSやブラウザからのアクセスが原因で電子政府システムに障害が発生した場合には、民事および刑事上の責任を負う可能性がある。日本国内の金融機関も、マイクロソフトと、OSやブラウザに関するSLAを独占的に締結している事業者が多く、指定以外のOSやブラウザのバグによる重大事故への対策の観点から、macOS、Linux、スマートフォンなどからサービスを利用する行為を禁じている事例が少なくなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Microsoft Windows(マイクロソフト ウィンドウズ)は、マイクロソフトが開発・販売するオペレーティングシステム (OS) の製品群である。グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を採用している。Windows発売以前では高価なワークステーション(ハイエンドパソコンを上回る性能のデスクトップコンピュータ)でしか実現されていなかったマルチタスクやGUIを中心とした使い勝手の良さを、一般消費者が入手しやすい標準的な規格のパソコンに順次取り込んで行き、一般向けOSのシェアのほとんどを占めるに至り、今や大きな知名度を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "マイクロソフトが展開するOSのブランド名である。コマンド入力が中心でシングルタスクでしか動作しないMS-DOS(CUI)の代替として開発された、1995年発売のWindows 95で人気に火が付き、2000年代以降は世界で最も普及したOSとして、組み込みシステムやスマートフォン、サーバ、スーパーコンピュータまであらゆる機器にインストールされるようになった。ゲーム業界にも進出しており、ドリームキャストやXboxやアーケードゲームにもWindows CEが使われている。Windowsは一般消費者におけるデファクトスタンダードの地位にあると言え、組み込み機器やモバイル端末を除いたパーソナルコンピューターのOSとしては、ほとんどの人にとって人生で最初に触れるOSでもある。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年代前半までのパソコンではシングルタスク(同時に1つのアプリケーションしか動かせない)かつ文字入出力を中心とした操作体系が普通であった。1985年から1995年にかけてMS-DOSの上で動くWindows 1.0からWindows 3.xまで開発されたものの、パソコンのCPUのシングルコア16bit、十数MHzから三十数MHz、メインメモリが数百kBから十数MBといった性能の低さやグラフィック表示機能の貧弱さが原因で、ウィンドウの表示自体が重荷であり(パソコン向けにウィンドウアクセラレータという拡張カードなども発売された)、ワークステーションで行えるようなウィンドウ切り替えによる並行作業は実用的ではないと見做されていた。従って、性能を要求するソフト(ゲームソフトや資料作成用ソフトなど)についてはWindowsを停止し、MS-DOSで実行することが主流となっていた。この当時、パソコン自体が数十万円は下らない程に高価で、加えてコマンドなどの専門知識が必要であることも鑑みると、非IT企業や家庭への導入にはかなり特殊な理由が必要となり、パソコンの普及のためにはユーザーが技術的詳細に触れなくてもパソコンの能力が発揮できるOSが必要不可欠であったが直感的な操作を実現する上での性能不足は否めなかった。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、1990年代前半のパソコン向け32bitCPUの普及と動作周波数の向上とメインメモリの容量増加で状況が変わりつつあり、PC-UNIXの開発が開始されるなど、ワークステーションの真似事をパソコンに行わせることが実用的になりつつあった。そのような状況下で、企業・家庭を問わずパソコンを容易に扱えるようにするべくWindows 95の開発は進められた。Windows 95では家庭でもなんとか手が届く価格のパソコンにも搭載され始めた32bitCPU(特にIntel 80386以降のIA-32系統のCPU)の機能を活かして、百万円を優に超えるほど高価なワークステーションで提供されていたマルチタスク、マルチメディア、インターネット接続機能などをパソコンでも動作可能な形で次々と取り込んで行き、あらゆる情報を統合して閲覧・編集・整理・送受信できる個人所有可能なコンピュータを実現したことで、Windows 95では本当の意味でデジタル化された日常生活を実現可能にした。1995年当時、SunやSGIのワークステーションや、クリエイターに人気の高級PCであるMacintoshと比較した場合のWindows 95搭載PCの価格の低さは世界に衝撃を与え、大ブームを引き起こした。ようやくGUIとインターネット接続機能が簡単に使えるパソコンが庶民の手に届く価格(とはいっても日本では平均24万円台とまだ高額)になったことで、1990年代後半にはパソコン用OSのシェアで他を大きく引き離してトップになっていた(2009年10月にはインターネット上で使用されているクライアントの市場シェアの約90%を得ている)。DirectXの搭載により、専用のアクセラレータが利用できるようになり、高品質な画面描画や音声出力が可能になった。Windows 95の時点で従来の主力OSであったMS-DOSは16bitコードの互換機能としてWindowsの背後に隠蔽されるようになり、Windows 9x系の終了と共に開発が停止された。Windows 2000では一般向けでも完全な32bitOSであるWindows NT系に移行した。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "パソコン用OSとしては、マイクロソフト社自身によるオフィススイートの提供やインターネット対応は勿論のこと、SteamやNetflixと言った一般向け娯楽配信サービスから、事務作業、設計、シミュレーション、ソフトウェア開発と言ったプロフェッショナル用途まで、多数のサードパーティーがアプリ開発に参画し、全ての用途を包括する環境が形成されたため、強力なプラットフォームに成長した。バージョンアップの過程では、MS-DOSに由来するカーネルの16bitコードとシステムリソースの制約が原因でブルースクリーンが多発したり、処理の効率化が不十分で動作が激しく重いバージョンが幾つかリリースされ、ユーザーからも不評を買っていたが、最新のWindows 10はOSとして成熟し、安定して軽快に動作するようになった。(正確にはアップデートによるソフトの動作に支障をきたす例が増えた)2023年11月時点の最新安定版は、デスクトップ版はWindows 11 バージョン 23H2、およびWindows 10 バージョン 22H2、サーバ版はWindows Server 2022、モバイル版はWindows 10 Mobile バージョン 1607、エンベデッドシステム版はWindows 10 IoTである。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Windowsの一般的な知名度は高いが、1960年代に開発が始まり、現代的なOSの始祖となったUNIX系OSとは全く異なる構造のOSであり、OSの歴史からすると特殊な存在であることには留意する必要がある。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2021年12月1日時点で、Windowsは次の製品系統が展開されている。", "title": "製品展開" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "組み込み機器向けのWindowsとしてWindows Embeddedと呼ばれるOS群が開発されていた。2015年からは後継となるWindows 10 IoTが開発されたが、現在はそちらもサポートが終了している。", "title": "バージョン一覧" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Windowsは1981年9月に開始したInterface Managerというプロジェクトから始まる。1983年11月にWindowsが発表されたが、それから2年後の1985年11月までリリースされなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Windows 1.0はMS-DOS上で動くアプリケーションの一種でシェルに過ぎなかった。MS-DOSの扱える640KBのコンベンショナルメモリをさらにWindowsのシステムに占有されたため、実際にアプリケーションを動かすためのフリーメモリがほとんど残らず実用には程遠かった。Windows 1.0は、複数のウィンドウを画面にウィンドウ自体を重ねて表示せずに、タイル状に表示した。ダイアログ ボックスだけは、ウィンドウに重ねて表示できた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1987年にリリースされたWindows 2.0はウィンドウの重ね合わせが可能となった。MS-DOSから利用出来るメモリ容量を拡張するEMSメモリを利用することによって、一応は640KB以上のメインメモリが利用できるようになり、1.0に比べて実用性が大幅に高まった。しかし、ゲームなどの重いアプリケーションを実行するにはまだ実用的ではなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1980年代のWindowsは機能だけ見た場合にはMS-DOSで動くウィンドウマネージャの一種であり、OSと呼ぶには不足している機能が多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年に発売されたWindows 3.0は、操作感の改良やタスク管理、メモリ管理など、各種機能が網羅的に強化された。日本では、当時のDOS/Vの流行とともにその事実上の後継であるWindows 3.1が爆発的に売れるようになった。それまでは各アーキテクチャ毎に実質的に個別のアプリケーションソフトが必要だったが、パソコンのアーキテクチャの相違をWindowsで吸収することにより、一つの操作方法と一つのアプリケーションソフトが複数のアーキテクチャのパソコンで共有できるようになった。アーキテクチャそれぞれの強みは意味をなさなくなり、単純な性能と価格の比較でアーキテクチャの淘汰が行われた。1990年代後半に至ると、PC/AT互換機とその後継アーキテクチャが存続する事実上唯一のアーキテクチャとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "各社から発売される非純正のアプリケーションソフトも徐々に増え、不足していたWindowsに追加するネットワーク機能なども他社から供給されるようになってきた。1990年から1995年にかけて、Windows 3.0とWindows 3.1は全世界で1億台、日本国内でも400万台が出荷され、Windowsは事実上の標準の地位を確立した。Windows 3.1ではオプションとしてWin32sが存在し、一部の32ビットアプリケーションが使用可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この当時、Windowsのようなウィンドウマネージャの実行自体が負荷の高い処理であり、ゲームなどのグラフィックを扱うアプリケーションではメインメモリが不足することから、MS-DOS専用の作品が多かった。リソース不足への対応として、アプリケーションの性質に応じてWindowsとMS-DOSを切り替えて利用しなければならず、まだ一般向けとは言い難いものがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1995年秋にWindows 95が発売され、一般のパソコンでハイカラー(16bitカラー)以上の美麗なGUIを本格的に利用可能にしたことと、インターネット対応を謳ったことで世界的なヒット商品となった。Windows 3.xとは異なりOSの大部分が32ビット化されており、各アプリケーションが固有のメモリ空間を持つなど設計が大きく改善されているが、16ビットアプリケーションとの互換性のため不安定な面も残っていた。MS-DOSは起動時と32ビットドライバがない場合のレガシードライバとして使われるだけでOSそのものは原則としてMS-DOSを使用していない。Windows 3.1までのプログラムマネージャとファイルマネージャはWindows エクスプローラーに統合された。また、Windowsのスタートボタンなど新しいGUIや、TCP/IPなどのネットワーク機能を標準装備。16ビットアプリを除きほぼ完全なプリエンプティブ・マルチタスクが可能となった。MS-DOSはWindowsの背後に隠蔽され、DOSプロンプトやDOSモードへの切り替え以外では表に出て来なくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Windows 95の成功により、競合したMac OSやOS/2とのシェアの差は拡大した。特に日本ではネットワーク標準搭載のWindows for Workgroupsが発売されていなかったこともあり、Windows 95の発売された1995年は、パソコンやインターネットの普及の元年とも言われた。その後のWindowsシリーズではGUIは大きく変更されず、多くの操作においてWindows 95の操作性が基盤となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1998年にWindows 95にInternet Explorer 4.0の統合を行ったWindows 98がリリースされた。翌年にWindows 98の小改良を施したWindows 98 Second Edition (Windows 98 SE) がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2000年に最後のWindows 9x系であるWindows Meがリリースされた。Windows 9x系はWindows 98 SEを最後としてWindows NT系のWindows 2000に統合する計画もあったが、最終的にはWindows 2000は上級者向けとしてProfessionalエディションを一番下のエディションとして発売され、代わりにホームユーザー向けとしてWindows Meが発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Windows 9x系のOSはMS-DOSを使用せずアプリケーションからハードウェアを直接アクセスすることも原則として使用できなくなったが、DOSプロンプト内など一定の条件で使用することも可能となっており、これは過去のソフトウェアとの互換性や処理負荷の軽減といったメリットをもたらしたが、不安定な動作を引き起こすことがありブルースクリーンが出てしまうような現象が度々発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "NTは高可用性が要求されるビジネス向けの市場のためにリリースされた。Windows 9xの開発の終了により、9xの役割も要求されるようになった。最初にリリースされたWindows NT 3.1から、NT3.5(1994年)、NT3.51(1995年)、NT4.0(1996年)と、ほぼ1年ごとにリリースされた。2000年にWindows 2000がリリースされ、NTが消費者用としても以前に比べて採用されるようになった。2001年に消費者向けの用意された初めてのNTカーネル搭載のOSであるWindows XPがリリースされた。2003年にWindows Server 2003がリリースされた。それまでマイクロソフトはセキュリティ問題を軽視していたことで社会問題へと発展し、その回答として見た目などは変えずに全面的に作り直したWindows XP Service Pack 2を提供することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "Windows XP Service Pack 2の開発と、1994年から利用していた内部システムの全面刷新に手間取り、それまで2、3年間隔で発売していたWindowsだったが、Windows XPの発売から5年が経過した2006年にWindows Vistaがリリースされた。2008年にWindows Server 2008がリリースされた。その後もXPは消費者を中心に人気を博し、Windows 10がリリースされた後でも利用者が増えたが、その6ヶ月後、XPのシェアはようやく10に追い抜かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "NTのGUIは、同時期にリリースされた消費者向けのWindowsと似たインタフェースを採用した。NTは用途や要求に対応するエディションが複数あり、Windows XPでは以前に比べて一気に増えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Windows NT 3.1からNT 4.0まで対応していた、PowerPCやDEC Alpha、MIPS R4000は64ビットプロセッサとしても使用できたが、NTは32ビットプロセッサとして使用した。64ビット用も存在したが、出荷されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "本格的に64ビットに対応したのは、Intel Itaniumからであり、Windows XP 64-Bit EditionとWindows Server 2003 for Itanium-based Systemが出荷された。これは主にサーバと高度な性能のワークステーション向けのリリースであり、それ以外は64ビットプラットフォームはなかった。しかし、AMD x86-64 が発表されると一般ユーザーが容易に64ビットに移行できる基礎環境が整い、OS単体での販売は行われなかったものの2005年にWindows XP Professional x64 EditionとWindows Server 2003 x64 Editionsがリリースされた。x64に対応したことにより、ワークステーションとしてItaniumをサポートしていたWindows XP 64-Bit Editionは一切の対応を終了した。Windows Vistaでは64ビットに本格的に移行するためにそれまで一部に限られた出荷から、ユーザーのオーダーに応じた64ビットのディスクの送付、パッケージへの32ビット用と64ビット用の同時封入といった対応が始まった。サーバーエディションは32ビット版の提供がWindows Server 2008を最後に終わり、Windows Server 2008 R2からは64ビット版のみ提供されている。クライアントエディションでは32ビット版の提供はWindows 10で終わり、Windows 11では64ビット版のみ提供されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Windows CEは主に組み込み用途を中心とした用途で使用されており、モバイル端末やカーナビゲーションシステム、セガ製ゲーム機のドリームキャストで採用されている。2020年までは、電子辞書Brainなどにも搭載されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ただし、システムに若干の改変を加えるために、一部のアプリケーションの動作に支障をきたすなど問題を引き起こすこともある。また、特定のサービスパックのバージョンに依存するソフトウェアも存在する。現にWindows XPにSPを導入したことが原因で、ヤマハ製のサウンドカードが搭載されたパソコンでサウンドが鳴らなくなるトラブルもあった。これらの問題から、特に企業においては適用されないこともあるが、マイクロソフトは強く適用を推奨している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Windowsのバージョンやエディションなどによっては存在しない製品形態もある。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このほか、MSDNサブスクリプション、TechNetサブスクリプションでもWindowsのライセンスが提供されている。ただし、それぞれソフトウェア開発・検証、Windowsの評価などと利用目的に制限がある。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "過去のWindowsにおいてはメディアやキーとライセンスは不可分であり、調達元が異なるものでの代用が難しかったため、Windowsの調達でもっとも一般的であるOEM版によるプレインストールPCなど、Windows標準のインストールメディアが付属しない調達形態ではリカバリなど一部の機能について使用に大きな制限があった。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この制限については、2017年現在のWindows 10ライセンスでは不可分とされる記述はなくなり、また、ダウングレード権においては任意の調達元のメディアやキーが利用できるなど、徐々に緩められている。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "Windowsはパーソナルコンピュータ市場では、1990年代後半よりデファクトスタンダードの地位を得た。このため対応するコンピュータ(メーカー)、周辺機器、アプリケーションも多く、またユーザー数、操作方法の情報なども多い。Windowsが普及した背景には、マイクロソフト自身は一部の周辺機器を除いてハードウェアを製造せず多数のハードウェアメーカーへのOEM供給路線を続けたこと、ライバルのMacintoshやOS/2の必要とするハードウェアが当時は高価だったこと、オフィスソフトであるMicrosoft Office(Office自体はMacintoshでも動作する)や専用のマルチメディアAPIであるDirectXで作成されたゲームプログラムが市場に広く受け入れられ、キラーアプリケーションとなったこと、20世紀末期から21世紀にかけてのダウンサイジングの潮流に乗ったこと、ネットワーク機能やPOSIXサブシステムなどの極めて少数のコンポーネントを除き、完全な独自設計となっており、Windows製品以外との互換性や移植性が低く、他のプラットフォームへの移行が非常に困難であることなどが挙げられる。", "title": "市場占有と問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "近年はモバイル端末の進化により若い世代はあまり個人でパーソナルコンピュータを使用しなくなっており、それらを含めたシェアに関しては比較的厳しい状況にある。", "title": "市場占有と問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Windowsはマイクロソフトによる独自仕様のソフトウェア製品(プロプライエタリソフトウェア)であり、その製品構成や販売手法をめぐり2009年時点でもいくつかの国で独占禁止法訴訟が起きている。独占の影響を回避するため、官公庁などの公的機関でLinuxなどオープンソースソフトウェアのOSの採用の動きや、オープンフォーマットなどWindows専用のオフィスソフトに縛られないファイルフォーマットの採用の動きがあり、またOSの役割を低下させるクラウドコンピューティングなどの動きもある。上記のようなマイクロソフトによる独占状態の影響もあり、フリーソフトウェア財団は「自由なソフトウェア」というテーマを掲げ、たびたび「脱Windowsキャンペーン」を行っている。", "title": "市場占有と問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "OS市場の独占によるマイクロソフトの強靭な企業体力や統一された操作性が功を奏し、従業員教育にかかるコストが低下したことや、同一系統のプラットフォーム間におけるアプリケーションの互換性がある程度確保されていることに加え、サービス水準合意 (SLA) を締結すれば、競合他社より高品質なサポートを受けることが出来るため、金融機関などのインフラ系企業などを中心に独占状態による悪影響よりも良い影響のほうが大きいと考える者が多い。前述のメリットを活かし、さまざまな社会インフラの運用にも幅広く利用されているだけでなく、冒頭でも述べた通り、マイクロソフトによるほぼ完全な独自設計であることから他のOSとの互換性や移植性が非常に低く、非常に有用かつ代用が効かないアプリケーションや周辺機器を数多く抱える製品でもあるため、政財界からは電力会社や公共交通機関などのインフラ産業と同等の扱いを受けることも珍しくない。日本を含むいくつかの国や地域では、独占禁止法の適用除外の対象と見做され、政府機関との随意契約を締結するケースすら存在する。", "title": "市場占有と問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、日本や韓国など、いくつかの国や地域ではマイクロソフトとクライアントOSおよびウェブブラウザに関するSLA契約を独占的に締結しているだけでなく、2000年代頃においてはWindows APIを用いた専用のクライアントソフトやActiveXコントロールを用いていたため、電子政府サービスにWindowsと推奨ブラウザのInternet Explorerを用いるしかないという状況があった(Windowsマシンを持っていないユーザーは、ネットカフェや、街頭に設置されている専用の端末を用いてサービスを利用しなければならない)。", "title": "市場占有と問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本においては他社のOSやブラウザからのアクセスが原因で電子政府システムに障害が発生した場合には、民事および刑事上の責任を負う可能性がある。日本国内の金融機関も、マイクロソフトと、OSやブラウザに関するSLAを独占的に締結している事業者が多く、指定以外のOSやブラウザのバグによる重大事故への対策の観点から、macOS、Linux、スマートフォンなどからサービスを利用する行為を禁じている事例が少なくなかった。", "title": "市場占有と問題" } ]
Microsoft Windowsは、マイクロソフトが開発・販売するオペレーティングシステム (OS) の製品群である。グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を採用している。Windows発売以前では高価なワークステーション(ハイエンドパソコンを上回る性能のデスクトップコンピュータ)でしか実現されていなかったマルチタスクやGUIを中心とした使い勝手の良さを、一般消費者が入手しやすい標準的な規格のパソコンに順次取り込んで行き、一般向けOSのシェアのほとんどを占めるに至り、今や大きな知名度を持つ。
{{redirect|ウィンドウズ|曲|ウィンドウズ (曲)}} {{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|frame=1}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年2月 }} {{Infobox OS | name = Microsoft Windows | logo = [[ファイル:Windows logo and wordmark - 2021.svg|230px]] | developer = [[マイクロソフト|Microsoft]] | family = [[MS-DOS]] / [[Windows 9x系|9x]]<br />[[Windows NT系|Windows NT]]<br />[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]] | source_model = [[クローズドソース]] / [[シェアードソース]] | released = [[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.0]] / {{Start date and age|1985|11|20}} | latest_release_version = {{plainlist| *'''[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]'''<br />{{Latest stable software release/Windows 10}} *'''[[Microsoft Windows 11|Windows 11]]'''<br />{{Latest stable software release/Windows 11}} }} | latest_release_date = | latest_test_version = {{plainlist| *'''[[Microsoft Windows 10|Windows 10 Insider Preview]]'''<br />{{Latest preview software release/Windows 10}} *'''[[Microsoft Windows 11|Windows 11 Insider Preview]]'''<br />{{Latest preview software release/Windows 11}} }} | license = Microsoft [[ライセンス|EULA]] | programmed_in = [[C言語|C]]、[[C++]]、[[アセンブリ言語]]<ref>{{cite web |url=http://www.microsoft.com/technet/archive/winntas/training/ntarchitectoview/ntarc_2.mspx |title=NT Server Training: Architectural Overview. Lesson 2&nbsp;– Windows NT System Overview. |work=Microsoft TechNet |publisher=Microsoft |accessdate=2010-12-09}}</ref> | kernel_type = [[カーネル|ハイブリッド]] | language = 多言語 | supported_platforms = [[ARMアーキテクチャ|ARM]], [[IA-32]], [[x64]], [[Itanium]] | updatemodel = [[Microsoft Update|Windows Update]] | package_manager = [[PackageManagement]]<ref group="注" >かつては非公式のパッケージ管理システムであったが、Windows 10よりマイクロソフト公式となりOSに組み込まれた。</ref> | website = [https://www.microsoft.com/ja-jp/windows microsoft.com/ja-jp/windows] }} '''Microsoft Windows'''(マイクロソフト ウィンドウズ)は、[[マイクロソフト]]が開発・販売する[[オペレーティングシステム|オペレーティングシステム (OS)]] の製品群である。[[グラフィカルユーザインタフェース|グラフィカルユーザインタフェース (GUI)]] を採用している<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/06/windows-windows-1x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>。Windows発売以前では高価な[[ワークステーション]](ハイエンドパソコンを上回る性能のデスクトップコンピュータ)でしか実現されていなかった[[マルチタスク]]やGUIを中心とした使い勝手の良さを、一般消費者が入手しやすい[[PC/AT互換機|標準的な規格]]の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]に順次取り込んで行き<ref>{{Cite web|和書|title=マイクロソフトとアップルの本当の功績とは?|ど真ん中を生きる|url=https://biz-it-base.com/?p=2570|website=ど真ん中を生きる|accessdate=2021-07-29|language=ja}}</ref>、一般向けOSのシェアのほとんどを占めるに至り、今や大きな知名度を持つ<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/06/windows-windows-1x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>。 == 概略 == [[マイクロソフト]]が展開するOSのブランド名である<ref>{{Cite web|和書|title=Windowsとは - IT用語辞典|url=https://e-words.jp/w/Windows.html|website=IT用語辞典 e-Words|accessdate=2021-07-29|language=ja}}</ref>。[[キャラクタユーザインタフェース|コマンド入力]]が中心で[[マルチタスク|シングルタスク]]でしか動作しない<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/06/windows-windows-1x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>[[MS-DOS]]([[キャラクタユーザインタフェース|CUI]])の代替として開発された、[[1995年]]発売の[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]で人気に火が付き、[[2000年代]]以降は世界で最も普及した[[オペレーティングシステムの一覧|OS]]として、[[組み込みシステム]]や[[スマートフォン]]、[[サーバ]]、[[スーパーコンピュータ]]まであらゆる機器に[[インストール]]されるようになった。[[ゲーム]]業界にも進出しており、[[ドリームキャスト]]や[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]や[[アーケードゲーム]]にも[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]]が使われている<ref>{{Cite web|和書|title=セガ最後のゲーム機「ドリームキャスト」の海賊版対策はどうやって破られてしまったのか?|url=https://gigazine.net/news/20181213-dreamcast-hacking/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-07-29|language=ja}}</ref>。Windowsは[[一般消費者]]における[[デファクトスタンダード]]の地位にあると言え、組み込み機器やモバイル端末を除いた[[パーソナルコンピュータ|パーソナルコンピューター]]のOSとしては、ほとんどの人にとって人生で最初に触れる[[オペレーティングシステム|OS]]でもある。 == 開発の経緯 == [[1990年代]]前半までのパソコンでは[[マルチタスク|シングルタスク]](同時に1つの[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]しか動かせない)かつ[[キャラクタユーザインタフェース|文字入出力を中心とした操作体系]]が普通であった。[[1985年]]から[[1995年]]にかけて[[MS-DOS]]の上で動く[[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.0]]から[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]まで開発されたものの、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[CPU]]の[[マルチコア|シングルコア]]16bit、十数MHzから三十数MHz、[[主記憶装置|メインメモリ]]が数百kBから十数MBといった性能の低さやグラフィック表示機能の貧弱さが原因で、ウィンドウの表示自体が重荷であり(パソコン向けにウィンドウアクセラレータという拡張カードなども発売された)、[[ワークステーション]]で行えるようなウィンドウ切り替えによる並行作業は実用的ではないと見做されていた。従って、性能を要求するソフト(ゲームソフトや資料作成用ソフトなど)についてはWindowsを停止し、[[MS-DOS]]で実行することが主流となっていた。この当時、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]自体が数十万円は下らない程に高価で、加えてコマンドなどの専門知識が必要であることも鑑みると、非IT企業や家庭への導入にはかなり特殊な理由が必要となり、パソコンの普及のためにはユーザーが技術的詳細に触れなくてもパソコンの能力が発揮できるOSが必要不可欠であったが直感的な操作を実現する上での性能不足は否めなかった。 しかし、1990年代前半のパソコン向け32bitCPUの普及と動作周波数の向上とメインメモリの容量増加で状況が変わりつつあり、[[PC-UNIX]]の開発が開始されるなど、[[ワークステーション]]の真似事を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]に行わせることが実用的になりつつあった。そのような状況下で、企業・家庭を問わずパソコンを容易に扱えるようにするべく[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の開発は進められた。Windows 95では家庭でもなんとか手が届く価格の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]にも搭載され始めた[[32ビット|32bit]][[CPU]](特に[[Intel 80386]]以降の[[IA-32]]系統の[[CPU]])の機能を活かして、百万円を優に超えるほど高価な[[ワークステーション]]で提供されていた[[マルチタスク]]、[[マルチメディア]]、[[インターネット]]接続機能などを[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]でも動作可能な形で次々と取り込んで行き、あらゆる情報を統合して[[閲覧]]・[[編集]]・整理・送受信できる個人所有可能な[[コンピュータ]]を実現したことで、Windows 95では本当の意味で[[デジタル]]化された日常生活を実現可能にした。[[1995年]]当時、[[サン・マイクロシステムズ|Sun]]や[[シリコングラフィックス|SGI]]の[[ワークステーション]]や、[[クリエイター]]に人気の高級PCである[[Macintosh]]と比較した場合の[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]搭載[[パーソナルコンピュータ|PC]]の価格の低さは世界に衝撃を与え、大ブームを引き起こした。ようやく[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]と[[インターネット]]接続機能が簡単に<ref group="注">とは言ってもまだ様々な側面で整備され切っておらず、USBやWi-Fiもなく、端子の規格、ドライバのインストール、インターネット接続設定など覚えることは多く、周辺機器の相性問題も多発した。パソコン通信やインターネットでフリーソフト配布は行われていたが、当時としてはダウンロードという行為自体が専門的過ぎたため、一般人にとって、ソフトウェアの入手方法は店頭販売の雑誌やパッケージに頼るしかなかった。</ref>使える[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]が庶民の手に届く価格(とはいっても日本では平均24万円台とまだ高額)になったことで、[[1990年代]]後半には[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用OSのシェアで他を大きく引き離してトップになっていた(2009年10月には[[インターネット]]上で使用されている[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]の[[市場占有率|市場シェア]]の約90%を得ている<ref>{{cite news|title=Global Web Stats|url=http://www.w3counter.com/globalstats.php|date=September 2009|publisher=W3Counter, Awio Web Services|accessdate=2009-10-24}}</ref><ref>{{cite web |url=http://marketshare.hitslink.com/operating-system-market-share.aspx?qprid=8 |title=Operating System Market Share |publisher=Net Applications |date=October 2009 |accessdate=2009-11-05}}</ref><ref>{{cite web |url=http://gs.statcounter.com/#os-ww-monthly-200910-200910-bar |title=Top 5 Operating Systems on Oct 09 |publisher=StatCounter |date=October 2009 |accessdate=2009-11-05}}</ref>)。[[Microsoft DirectX|DirectX]]の搭載により、専用のアクセラレータが利用できるようになり、高品質な画面描画や音声出力が可能になった。Windows 95の時点で従来の主力OSであった[[MS-DOS]]は16bitコードの互換機能としてWindowsの背後に隠蔽されるようになり、[[Windows 9x系]]の終了と共に開発が停止された。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]では一般向けでも完全な32bitOSである[[Windows NT系]]に移行した。 パソコン用OSとしては、[[マイクロソフト]]社自身による[[オフィススイート]]の提供や[[インターネット]]対応は勿論のこと、[[Steam]]や[[Netflix]]と言った一般向け娯楽配信サービスから、[[事務作業]]、[[設計]]、[[シミュレーション]]、ソフトウェア開発と言ったプロフェッショナル用途まで、多数のサードパーティーがアプリ開発に参画し、全ての用途を包括する環境が形成されたため、強力なプラットフォームに成長した。バージョンアップの過程では、[[MS-DOS]]に由来するカーネルの[[16ビット|16bit]]コードとシステムリソースの制約が原因で[[ブルースクリーン]]が多発したり、処理の効率化が不十分で動作が激しく重いバージョンが幾つかリリースされ、ユーザーからも不評を買っていたが<ref>{{Cite web|和書|title=Windows9x系の宿命 - パソコン選びの味方 - パソコン選びの味方 |url=https://pcerabi.micata.net/index.php?QBlog-20090403-1|website=pcerabi.micata.net|accessdate=2021-07-29}}</ref>、最新の[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]はOSとして成熟し、安定して軽快に動作するようになった。(正確にはアップデートによるソフトの動作に支障をきたす例が増えた)2023年11月時点の最新安定版は、デスクトップ版は[[Microsoft Windows 11|Windows 11 バージョン 23H2]]、および[[Microsoft Windows 10|Windows 10 バージョン 22H2]]、[[サーバ]]版は[[Microsoft Windows Server 2022|Windows Server 2022]]、[[携帯機器|モバイル]]版は[[Microsoft Windows 10 Mobile|Windows 10 Mobile バージョン 1607]]、[[組み込みシステム|エンベデッドシステム]]版は[[Microsoft Windows 10 IoT|Windows 10 IoT]]である。 Windowsの一般的な知名度は高いが、[[1960年代]]に開発が始まり、現代的なOSの始祖となった[[UNIX|UNIX系OS]]とは全く異なる構造のOSであり、OSの歴史からすると特殊な存在であることには留意する必要がある。 == 製品展開 == 2021年12月1日時点で、Windowsは次の製品系統が展開されている。 * '''[[Windows NT系]]''' - [[1993年]]に登場した[[Microsoft Windows NT 3.1|Windows NT 3.1]]を始めとする系統。[[マイクロカーネル]]の採用により多様な[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]の[[CPU]]への移植が容易なことと、高い信頼性が特徴。ただしWindows 10は[[x86]]と[[x64]]、[[Windows 10 Mobile]]は[[ARMアーキテクチャ|ARM]]のみ、[[Windows Server 2012]]は[[x64]]のみに対応する。 **'''[[Microsoft Windows 11|Windows 11]]''' Home / Pro / Enterprise - [[パーソナルコンピュータ]]用。 **'''[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]''' Home / Pro / Enterprise / S - [[パーソナルコンピュータ]]用。 ***'''[[Microsoft Windows 10 Mobile|Windows 10 Mobile]]''' - [[スマートフォン]]用で、OS単体では販売されていない。Windows Phone 8.1の後継。現在はサポートを終了している。 ***'''[[Microsoft Windows 10 IoT|Windows 10 IoT]]''' - [[組み込みシステム]]用。Windows CEの後継。 *** Windows 10 Pro For WorkStation - Proからセキュリティを強化。[[Intel Xeon]]プロセッサーなどに使われる。 **[[Windows Server 2022]] Standard / Datacenter / Essentials - [[サーバ]]用。 **'''[[Microsoft Windows Server 2019|Windows Server 2019]]''' Standard / Datacenter - [[サーバ]]用。 ***'''[[Windows HPC Server]]''' - [[スーパーコンピュータ]]に特化。 ; 過去の製品 :* '''[[Windows 3.x]]''' - MS-DOS上で起動する16ビットWindows。[[Win32s]]を使用することで一部の32ビットアプリケーションを動かすことも出来た<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編④ Windows 3.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/07/windows-windows-3x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編④ Windows 3.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>。 :* '''[[Windows 9x系]]''' - [[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]の後継で32ビット化された。Windows Meを最後に[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]などのWindows NT系に一本化され、全開発・サポートが終了した。 :* '''[[Windows Mobile]]''' - Windows CEをベースにしたモバイル用OS。Windows Phoneの前身。 :* '''[[Windows Phone]]''' - スマートフォン用OS。Windows 10 Mobileに引き継がれ、現在は開発を終了している。 :* '''[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]]'''(または、[[Windows Embedded#Windows Embeddedファミリー|Windows Embedded Compact]]) - 組み込みシステム用。Windows 10 IoTに引き継がれた。 == バージョン一覧 == === パソコン向けのOS === {| class="wikitable"| |+ パソコン向けWindows OS ! バージョン !! OS系列 !! オリジナル版(英語版) !! 日本語版 |- ! style="text-align:left" | [[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.x]] | rowspan = "3" | [[MS-DOS|DOS]]系 | 1985年11月20日<ref>{{Cite journal |和書|author= Mr.PC編集部 |title= The History of Windows |journal=Mr.PC 2021年11月号 |page=38 }}</ref> || 1986年11月<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20130306-oswindows/2|title=世界のOSたち - GUIの世界へ移行した「Windows 1.0」|publisher=マイナビ|date=2013-03-06|accessdate=2022-07-14}}</ref> |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.x]] | 1987年12月9日 || 1988年<ref>{{Cite web|和書|url=https://tech-camp.in/note/technology/97535/|title=WindowsOSの35年超の歴史 バージョンごとに解説【年表付き】|publisher=TECH CAMP|accessdate=2022-07-14}}</ref>10月 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]] | 1990年5月22日 || 1993年5月12日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows NT 3.1|Windows NT]] | [[Windows NT系|NT系]] || 1993年7月27日 || 1994年1月28日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] | rowspan = "2" | [[Windows 9x系|9x系]] | 1995年8月24日<ref name="History39">{{Cite journal |和書|author= Mr.PC編集部 |title= The History of Windows |journal=Mr.PC 2021年11月号 |page=39 }}</ref> || 1995年11月23日<ref name="History39" /> |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 98|Windows 98]] | 1998年6月25日<ref name="History39" /> || 1998年7月25日<ref name="History39" /> |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] | [[Windows NT系|NT系]] || 1999年12月15日 || 1999年12月24日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows Me|Windows Me]] | [[Windows 9x系|9x系]] || 2000年9月14日<ref name="History40">{{Cite journal |和書|author= Mr.PC編集部 |title= The History of Windows |journal=Mr.PC 2021年11月号 |page=40 }}</ref> || 2000年9月23日<ref name="History40" /> |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows XP|Windows XP]] | rowspan = "6" | [[Windows NT系|NT系]] || 2001年8月24日 || 2001年9月6日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] | 2006年11月30日 || 2006年11月30日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 7|Windows 7]] | 2009年9月1日 || 2009年9月1日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 8|Windows 8]] | 2012年8月16日 || 2012年8月16日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 10|Windows 10]] | 2015年7月29日 || 2015年7月29日 |- ! style="text-align:left" |[[Microsoft Windows 11|Windows 11]] | 2021年10月5日 || 2021年10月5日 |} {| class="wikitable" |+ |- !バージョン !OS系列 |- ! [[Microsoft Windows 1.0|Windows 1.x]]||[[MS-DOS|DOS]]系 |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 1.01 (1985年11月20日) * Windows 1.02 (1986年5月) * Windows 1.03 (1986年8月) * Windows 1.04 (1987年4月) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.x]]||[[MS-DOS|DOS]]系 |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 2.0 (1987年12月9日) * Windows 2.03 (1987年12月9日) * Windows 2.10 (1988年5月27日) * Windows 2.11 (1989年5月13日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]||[[MS-DOS|DOS]]系 |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 3.0 (1990年5月22日) * Windows 3.0a (1990年12月) * Windows 3.0 with Multimedia Extensions 1.0 (1991年12月) * Windows 3.1 (1992年4月6日) * Windows 3.0b (1993年) * Windows 3.11 (1993年11月8日) * Windows 3.2 (1993年11月22日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows NT|Windows NT]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows NT 3.1|Windows NT 3.1]] (1993年7月27日) * [[Microsoft Windows NT 3.5|Windows NT 3.5]] (1994年9月21日) <!-- * Windows NT 3.5にはSP2まであり --> * [[Microsoft Windows NT 3.51|Windows NT 3.51]] (1995年5月30日) <!-- * Windows NT 3.51にはSP5まであり --> * [[Microsoft Windows NT 4.0|Windows NT 4.0]] (1996年8月24日) <!-- * Windows NT 4.0にはSP6aまであり --> }}</small> |- ![[Microsoft Windows 95|Windows 95]]||[[Windows 9x系|9x系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| *Windows 95 (1995年8月24日) <!-- * Windows 95 Service Pack 1 (1996年2月14日) --> * Windows 95 OEM Service Release 1 (1996年2月14日) * Windows 95 OEM Service Release 2 (1996年8月24日) * Windows 95 OEM Service Release 2.1 (1997年8月27日) * Windows 95 OEM Service Release 2.5 (1997年11月26日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 98|Windows 98]]||[[Windows 9x系|9x系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 98 (1998年6月25日) <!-- * Windows 98 SP1 --> * Windows 98 Second Edition (1999年5月5日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 2000 (1999年12月15日) <!-- * Windows 2000にはSP4まであり --> }}</small> |- ![[Microsoft Windows Me|Windows Me]]||[[Windows 9x系|9x系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows Me (2000年9月14日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows XP|Windows XP]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows XP (2001年8月24日) <!-- * Windows XP Service Pack 1 (2002年9月9日) * Windows XP Service Pack 2 (2004年8月25日) * Windows XP Service Pack 3 (2008年4月21日) --> }}</small> |- ![[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows Vista (2006年11月30日) <!-- * Windows Vista Service Pack 1 (2008年2月4日) * Windows Vista Service Pack 2 (2009年4月28日) --> }}</small> |- ![[Microsoft Windows 7|Windows 7]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 7 (2009年9月1日) <!-- * Windows 7 Service Pack 1 (2011年2月9日) --> }}</small> |- ![[Microsoft Windows 8|Windows 8]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 8 (2012年8月16日) * Windows 8.1 (2013年8月27日) * Windows 8.1 Update (2014年4月8日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 10|Windows 10]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 10 Version 1507 (2015年7月29日) * Windows 10 Version 1511 (2015年11月10日) * Windows 10 Version 1607 (2016年8月2日) * Windows 10 Version 1703 (2017年4月5日) * Windows 10 Version 1709 (2017年10月17日) * Windows 10 Version 1803 (2018年4月30日) * Windows 10 Version 1809 (2018年11月13日) * Windows 10 Version 1903 (2019年5月21日) * Windows 10 Version 1909 (2019年11月12日) * Windows 10 Version 2004 (2020年5月27日) * Windows 10 Version 20H2 (2020年10月20日) * Windows 10 Version 21H1 (2021年5月18日) * Windows 10 Version 21H2 (2021年11月16日) * Windows 10 Version 22H2 (2022年10月18日) }}</small> |- ![[Microsoft Windows 11|Windows 11]]||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 11 Version 21H2 (2021年10月5日) * Windows 11 Version 22H2 (2022年9月20日) * Windows 11 Version 23H2 (2023年10月31日) <!-- * Windows 11 Version 23H2 (仮)(2023年後半<予定>)--> }}</small> |- <!-- !Microsoft Windows 12||[[Windows NT系|NT系]] |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows 12 Version ??H2 (仮)(20??年<予定>)}}</small> --> |} === サーバー向けのOS === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |- !colspan="2"|サーバー向けのWindows OS |- !バージョン(発売日) !ベースとなるOS |- |<small>{{plainlist| * Windows Server, Limited Edition (2001年8月28日) }}</small> |[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]] (2003年8月24日) <!-- * Windows Server 2003 Service Pack 1 (2005年3月30日) --> * Windows Server 2003 R2 (2005年12月6日) <!-- * Windows Server 2003 Service Pack 2 (2007年5月13日) --> * [[Microsoft Windows Home Server|Windows Home Server]] (2007年11月4日) <!-- * Windows Home Server Power Pack 1 (2008年7月20日) * Windows Home Server Power Pack 2 (2009年3月24日) * Windows Home Server Power Pack 3 (2009年11月24日) --> }}</small> |[[Microsoft Windows XP|Windows XP]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]] (2008年2月4日) <!-- * Windows Server 2008 Service Pack 2 (2009年5月26日) --> }}</small> |[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2008 R2|Windows Server 2008 R2]] (2009年7月22日) <!-- * Windows Server 2008 R2 Service Pack1 (2011年2月9日) --> * [[Microsoft Windows Home Server 2011|Windows Home Server 2011]] (2011年4月6日) }}</small> ||[[Microsoft Windows 7|Windows 7]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2012|Windows Server 2012]] (2012年8月1日) }}</small> |[[Microsoft Windows 8|Windows 8]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2012 R2|Windows Server 2012 R2]] (2013年10月17日) }}</small> ||[[Microsoft Windows 8|Windows 8.1]] |- |<small>{{plainlist| * Windows Server 2012 R2 Update (2014年4月8日) }}</small> ||[[Microsoft Windows 8|Windows 8.1 Update]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2016|Windows Server 2016]] (2016年9月26日) * Windows Server Version 1709 (2017年10月17日) * Windows Server Version 1803 (2018年4月30日) }}</small> |rowspan="3"|[[Microsoft Windows 10|Windows 10]] |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows Server 2019|Windows Server 2019]] * Windows Server Version 1809 (2018年10月2日) * Windows Server Version 1903 (2019年5月21日) * Windows Server Version 1909 (2019年11月12日) * Windows Server Version 2004 (2020年5月27日) * Windows Server Version 20H2 (2020年10月20日) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * [[:en:Windows Server 2022|Windows Server 2022]] (2021年9月18日) * Windows Server Version 21H2 (2021年9月18日) }}</small> |} === 組み込み機器向けのOS === 組み込み機器向けのWindowsとして[[Windows Embedded]]と呼ばれる[[オペレーティングシステム|OS群]]が開発されていた。2015年からは後継となる[[Microsoft Windows 10 IoT|Windows 10 IoT]]が開発されたが、現在はそちらもサポートが終了している。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |- !colspan="2"|組み込み機器向けのWindows OS |- !バージョン(発売日) !系列 |- |<small>{{plainlist| * Windows CE 1.0 (1996年11月16日) * Windows CE 1.01 (不明) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * Windows CE 2.0 (1997年9月29日) * Windows CE 2.11 (不明) }}</small> |rowspan="7"|[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows<br />Embedded<br />CE]]<br />([[Windows Embedded|Windows<br />Embedded]]<br />ファミリー) |- |<small>{{plainlist| * Windows CE 3.0 (2000年6月15日) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * Windows CE 4.0 (2002年1月7日) * Windows CE 4.1 (不明) * Windows CE 4.2 (不明) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * [[Windows CE 5.0]] (2004年8月) * Windows CE 5.2 (不明) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * Windows Embedded CE 6.0 (2006年11月1日) * Windows Embedded CE 6.0 R3 (2009年9月22日) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * Windows Embedded Compact 7.0 (2011年3月1日) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * Windows Embedded Compact 2013 (2013年6月) }}</small> |- |<small>{{plainlist| * [[Microsoft Windows 10 IoT|Windows 10 IoT]] Version 1507 (2015年8月10日) * Windows 10 IoT Version 1511 (2015年12月3日) * Windows 10 IoT Version 1607 (2016年8月) * Windows 10 IoT Version 1703 (2017年4月) * Windows 10 IoT Version 1709 (2017年10月) * Windows 10 IoT Version 1803 (2018年4月) * Windows 10 IoT Version 1809 (2018年10月) }}</small> |[[Microsoft Windows 10 IoT|Windows 10<br />IoT]] |} === モバイル端末向けのOS === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |- !colspan="2"|モバイル端末向けのWindows OS |- !colspan="2"|[[Windows Mobile]]向け |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Pocket PC 2000 (2000年4月19日) * Pocket PC 2002 (2001年10月4日) * Windows Mobile 2003 (2003年6月23日) * Windows Mobile 2003 Second Edition (2004年3月24日) * Windows Mobile 5.0 (2005年5月9日) * Windows Mobile 6.0 (2007年2月12日) * Windows Mobile 6.1 (2008年4月1日) * Windows Mobile 6.5 (2009年5月11日) }}</small> |- !colspan="2"|[[Windows Phone]]向け |- |colspan="2"|<small>{{plainlist| * Windows Phone 7 (2010年11月8日) * Windows Phone 8 (2012年10月29日) * Windows Phone 8.1 (2014年4月10日) * [[Microsoft Windows 10 Mobile|Windows 10 Mobile]] (2015年11月16日) }}</small> |} == 歴史 == [[ファイル:Suite des versions de Windows.svg|サムネイル|300x300ピクセル|Windows ファミリー 系列]] {|class="infobox" cellspacing="0" style="font-size:9pt;" |- |+'''Windows のタイムライン''' |- ! style="background-color:LightSkyBlue;"| 発売年 ! style="background-color:LightSkyBlue;"| バージョン ! style="background-color:LightSkyBlue;"| 製品名 |- | [[1985年]] || 1.01 || [[Windows 1.0|Windows 1.01]] |- | [[1986年]] || 1.03 || Windows 1.03 |- | [[1987年]] || 2.03 || [[Windows 2.0|Windows 2.03]] |- | [[1988年]] || 2.1 || Windows 2.1 |- | 1988年 || 2.0 || [[Windows/286 2.0]] |- | 1988年 || 2.1 || [[Windows/386 2.1]] |- | [[1990年]] || 3.0 || [[Windows 3.0]] |- | [[1992年]] || 3.1 || [[Windows 3.1]] |- | [[1993年]] || 3.11 || [[Windows For Workgroups 3.1]] |- | 1993年 || NT 3.1 || [[Windows NT 3.1]] |- | 1994年 || 3.2 || Windows 3.2 (中国語版のみ) |- | 1994年 || NT 3.5 || [[Windows NT 3.5]] |- | [[1995年]] || NT 3.51 || [[Windows NT 3.51]] |- | 1995年 || 4.0 || [[Windows 95]] |- | [[1996年]] || NT 4.0 || [[Windows NT 4.0]] |- | 1996年 || CE 1.01 || Windows CE 1.01 |- | [[1997年]] || CE 2.0 || Windows CE 2.0 |- | 1997年 || CE 2.01 || Windows CE 2.01 |- | [[1998年]] || CE 2.10 || Windows CE 2.10 |- | 1998年 || CE 2.11 || Windows CE 2.11 |- | 1998年 || 4.1 || [[Windows 98]] |- | [[1999年]] || CE 2.12 || [[Windows CE 2.12]] |- | 1999年 || 4.1 || [[Windows 98 Second Edition]] |- | [[2000年]] || NT 5.0 || [[Windows 2000]] |- | 2000年 || 4.9 || [[Windows Millennium Edition]] |- | 2000年 || CE 3.0 || Windows CE 3.0 |- | [[2001年]] || NT 5.1 || [[Windows XP]] |- | [[2002年]] || CE 4.1 || [[Windows CE 4.1]] |- | 2002年 || NT 5.1 || [[Windows XP Tablet PC Edition|Windows XP TabletPC]], Media Center Edition |- | [[2003年]] || NT 5.2 || [[Windows Server 2003]] |- | 2003年 || NT 5.2 || [[Windows XP 64-bit Edition]] |- | [[2004年]] || CE 5.0 || [[Windows CE 5.0]] |- | [[2005年]] || NT 5.2 || [[Windows XP Professional x64 Edition]] |- | 2005年 || NT 5.2 || [[Windows Server 2003 x64 Editions]] |- | [[2006年]] || NT 5.1 || [[Windows Fundamentals for Legacy PCs]] |- | 2006年 || CE 6.0 || [[Windows Embedded CE 6.0]] |- | [[2007年]] || NT 6.0 || [[Windows VISTA|Windows Vista]] |- | 2007年 || NT 6.0 || [[Windows Home Server]] |- | [[2008年]] || NT 6.0 || [[Windows Server 2008]] |- | [[2009年]] || NT 6.1 || [[Windows 7]] |- | 2009年 || NT 6.1 || [[Windows Server 2008 R2]] |- | [[2011年]] || CE 7.0 || [[Windows Embedded Compact 7]] |- | 2011年 || NT 6.1 || [[Windows Home Server 2011]] |- | [[2012年]] || NT 6.2 || [[Windows 8]] |- | 2012年 || NT 6.2 || [[Windows RT]] |- | 2012年 || NT 6.2 || [[Windows Server 2012]] |- | 2012年 || NT 6.2 || [[Windows Phone]] 8 |- | [[2013年]] || CE 2013 || [[Windows Embedded Compact 2013]] |- | 2013年 || NT 6.3 || [[Windows 8.1]] |- | 2013年 || NT 6.3 || [[Windows RT 8.1]] |- | 2013年 || NT 6.3 || [[Windows Server 2012 R2]] |- | [[2015年]] || NT 10.0 || [[Windows 10]] |- | 2015年 || NT 10.0 || [[Windows 10 Mobile]] |- | 2015年 || NT 10.0 || [[Windows 10 IoT]] |- | [[2016年]] || NT 10.0 || [[Windows Server 2016]] |- | [[2018年]] || NT 10.0 || [[Windows Server 2019]] |- |2021年 |NT 10.0 |[[Windows 11]] |} {|class="infobox" cellspacing="0" style="font-size:9pt;" |- |+'''Windows 全体の出荷本数の推移''' |- ! style="background-color:LightSkyBlue;"| 発売年 ! style="background-color:LightSkyBlue;"| 出荷本数 |- | 1987年11月 || 100万本突破 |- | 1992年2月 || 900万本(業界推定)<ref>『[[日経産業新聞]]』1992年2月4日付</ref> |- | 1992年4月 || 1000万本突破 |- | 1995年 || 1億本突破 |- | 1997年 || 2億本突破 |- | 1999年 || 3億2430万本 |- |} === 初期のバージョン === {{main|Microsoft Windows 1.0|Microsoft Windows 2.0}} Windowsは[[1981年]][[9月]]に開始した''Interface Manager''というプロジェクトから始まる。[[1983年]]11月にWindowsが発表されたが、それから2年後の1985年11月までリリースされなかった<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/06/windows-windows-1x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編② Windows 1.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>。 [[Microsoft Windows 1.0|'''Windows 1.0''']]は[[MS-DOS]]上で動く[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の一種で[[シェル]]に過ぎなかった。MS-DOSの扱える640K[[バイト (情報)|B]]の[[MS-DOS#メモリ管理|コンベンショナルメモリ]]をさらにWindowsのシステムに占有されたため、実際にアプリケーションを動かすためのフリーメモリがほとんど残らず実用には程遠かった。Windows 1.0は、複数のウィンドウを画面にウィンドウ自体を重ねて表示せずに、[[タイル]]状に表示した。ダイアログ ボックスだけは、ウィンドウに重ねて表示できた。 [[1987年]]にリリースされた'''[[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.0]]'''はウィンドウの重ね合わせが可能となった。MS-DOSから利用出来るメモリ容量を拡張する[[Expanded Memory Specification|EMS]]メモリを利用することによって、一応は640KB以上のメインメモリが利用できるようになり、1.0に比べて実用性が大幅に高まった。しかし、ゲームなどの重いアプリケーションを実行するにはまだ実用的ではなかった。 [[1980年代]]のWindowsは機能だけ見た場合には[[MS-DOS]]で動く[[ウィンドウマネージャ]]の一種であり、[[オペレーティングシステム|OS]]と呼ぶには不足している機能が多かった<ref>{{Cite web|和書|title=[管理人のテック雑記帳] Windows編③ Windows 2.xの話|url=https://hanih0he.blogspot.com/2021/06/windows-windows-2x.html|website=[管理人のテック雑記帳] Windows編③ Windows 2.xの話|accessdate=2021-07-29}}</ref>。 === Windows 3.0と3.1 === {{main|Microsoft Windows 3.x}} [[1990年]]に発売された'''[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]'''は、操作感の改良やタスク管理、メモリ管理など、各種機能が網羅的に強化された。[[日本]]では、当時の[[DOS/V]]の流行とともにその事実上の後継である'''[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]'''が爆発的に売れるようになった。それまでは各アーキテクチャ毎に実質的に個別のアプリケーションソフトが必要だったが、パソコンのアーキテクチャの相違をWindowsで吸収することにより、一つの操作方法と一つのアプリケーションソフトが複数のアーキテクチャのパソコンで共有できるようになった。アーキテクチャそれぞれの強みは意味をなさなくなり、単純な性能と価格の比較でアーキテクチャの淘汰が行われた。1990年代後半に至ると、[[PC/AT互換機]]とその後継アーキテクチャが存続する事実上唯一のアーキテクチャとなった。 各社から発売される[[サードパーティー|非純正]]のアプリケーションソフトも徐々に増え、不足していたWindowsに追加するネットワーク機能なども他社から供給されるようになってきた。1990年から[[1995年]]にかけて、Windows 3.0とWindows 3.1は全世界で1億台、日本国内でも400万台が出荷され、Windowsは事実上の標準の地位を確立した<ref name="mssenki">トム佐藤『マイクロソフト戦記—世界標準の作られ方—』新潮社 2009年 ISBN 978-4-10-610298-1</ref>。Windows 3.1ではオプションとして[[Win32s]]が存在し、一部の32ビットアプリケーションが使用可能になった。 この当時、Windowsのような[[ウィンドウマネージャ]]の実行自体が負荷の高い処理であり、ゲームなどのグラフィックを扱うアプリケーションではメインメモリが不足することから、MS-DOS専用の作品が多かった。リソース不足への対応として、アプリケーションの性質に応じてWindowsとMS-DOSを切り替えて利用しなければならず、まだ一般向けとは言い難いものがあった。 === Windows 95 / 98 / 98SE / Me === {{main|Windows 9x系}} [[1995年]]秋に'''[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]'''が発売され、一般のパソコンでハイカラー(16bitカラー)以上の<ref group="注">Windows 3.xでもグラフィックボードとドライバ次第ではハイカラーやフルカラーも利用できたが、不安定になりやすいという問題があった。ハイカラーやフルカラーではプログラムマネージャの登録アイコンもそれだけ多色のデータとして扱うことになるため、アイコンをたくさん登録したプログラムマネージャは16ビット(メモリ64KB)のリソース制限に抵触しやすくなり、トラブルの元となった。</ref>美麗な[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を本格的に利用可能にしたことと、[[インターネット]]対応を謳ったことで世界的なヒット商品となった。Windows 3.xとは異なりOSの大部分が32ビット化されており、各アプリケーションが固有のメモリ空間を持つなど設計が大きく改善されているが、16ビットアプリケーションとの互換性のため不安定な面も残っていた。MS-DOSは起動時と32ビットドライバがない場合のレガシードライバとして使われるだけでOSそのものは原則としてMS-DOSを使用していない。Windows 3.1までのプログラムマネージャとファイルマネージャは[[Windows Explorer|Windows エクスプローラー]]に統合された。また、Windowsの[[スタートボタン]]など新しいGUIや、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]などのネットワーク機能を標準装備。16ビットアプリを除きほぼ完全な[[プリエンプション|プリエンプティブ・マルチタスク]]が可能となった。MS-DOSはWindowsの背後に隠蔽され、[[DOSプロンプト]]やDOSモードへの切り替え以外では表に出て来なくなった。 Windows 95の成功により、競合した[[Mac OS]]や[[OS/2]]とのシェアの差は拡大した。特に日本ではネットワーク標準搭載の'''[[Microsoft Windows 3.x|Windows for Workgroups]]'''が発売されていなかったこともあり、Windows 95の発売された1995年は、パソコンやインターネットの普及の元年とも言われた。その後のWindowsシリーズではGUIは大きく変更されず、多くの操作においてWindows 95の操作性が基盤となった。 [[1998年]]にWindows 95にInternet Explorer 4.0の統合を行った'''[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]'''がリリースされた。翌年にWindows 98の小改良を施した'''Windows 98 Second Edition''' (Windows 98 SE) がリリースされた。 [[2000年]]に最後のWindows 9x系である'''[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]'''がリリースされた。Windows 9x系はWindows 98 SEを最後としてWindows NT系のWindows 2000に統合する計画もあったが、最終的にはWindows 2000は上級者向けとしてProfessionalエディションを一番下のエディションとして発売され、代わりにホームユーザー向けとしてWindows Meが発売された。 Windows 9x系のOSはMS-DOSを使用せずアプリケーションからハードウェアを直接アクセスすることも原則として使用できなくなったが、DOSプロンプト内など一定の条件で使用することも可能となっており、これは過去のソフトウェアとの互換性や処理負荷の軽減といったメリットをもたらしたが、不安定な動作を引き起こすことがあり[[ブルースクリーン]]が出てしまうような現象が度々発生した。 === Windows NT系 === {{main|Windows NT系}} NTは高可用性が要求されるビジネス向けの市場のためにリリースされた。Windows 9xの開発の終了により、9xの役割も要求されるようになった。最初にリリースされた'''Windows NT 3.1'''から、'''[[Microsoft Windows NT 3.5|NT3.5]]'''([[1994年]])、'''[[Microsoft Windows NT 3.51|NT3.51]]'''(1995年)、'''[[Microsoft Windows NT 4.0|NT4.0]]'''([[1996年]])と、ほぼ1年ごとにリリースされた。2000年に'''[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]'''がリリースされ、NTが消費者用としても以前に比べて採用されるようになった。[[2001年]]に消費者向けの用意された初めてのNTカーネル搭載のOSである'''[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]'''がリリースされた。[[2003年]]に'''[[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]'''がリリースされた。それまでマイクロソフトはセキュリティ問題を軽視していたことで社会問題へと発展し、その回答として見た目などは変えずに全面的に作り直した{{要出典|date=2013年9月}}Windows XP Service Pack 2を提供することになった。 Windows XP Service Pack 2の開発と、1994年から利用していた内部システムの全面刷新に手間取り、それまで2、3年間隔で発売していたWindowsだったが、Windows XPの発売から5年が経過した[[2006年]]に'''[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]'''がリリースされた。[[2008年]]に'''[[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]]'''がリリースされた。その後もXPは消費者を中心に人気を博し、[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]がリリースされた後でも利用者が増えたが、その6ヶ月後、XPのシェアはようやく10に追い抜かれた<ref>{{Cite web|和書|title=「Windows 10」のシェア、「XP」と「8.1」を上回る--首位は依然「7」|url=https://japan.cnet.com/article/35077220/|website=CNET Japan|date=2016-02-02|accessdate=2021-10-24|language=ja}}</ref>。 NTのGUIは、同時期にリリースされた消費者向けのWindowsと似たインタフェースを採用した。NTは用途や要求に対応するエディションが複数あり、Windows XPでは以前に比べて一気に増えた。 ==== 64ビットオペレーティングシステム ==== Windows NT 3.1からNT 4.0まで対応していた、[[PowerPC]]や[[DEC Alpha]]、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]] [[R4000]]は[[64ビット]]プロセッサとしても使用できたが、NTは[[32ビット]]プロセッサとして使用した。64ビット用も存在したが、出荷されなかった。 本格的に64ビットに対応したのは、[[Itanium|Intel Itanium]]からであり、Windows XP 64-Bit EditionとWindows Server 2003 for Itanium-based Systemが出荷された。これは主にサーバと高度な性能のワークステーション向けのリリースであり、それ以外は64ビットプラットフォームはなかった。しかし、[[x64|AMD x86-64]] が発表されると一般ユーザーが容易に64ビットに移行できる基礎環境が整い、[[オペレーティングシステム|OS]]単体での販売は行われなかったものの[[2005年]]にWindows XP Professional x64 EditionとWindows Server 2003 x64 Editionsがリリースされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://bb.watch.impress.co.jp/cda/shimizu/9429.html|title=第145回:64bit版Windows「Windows XP Professional x64 Edition」登場:ブロードバンド環境でのメリット・デメリットを探る|accessdate=2016-06-25|author=清水理史|date=2005-04-26|publisher=インプレス}}</ref>。x64に対応したことにより、[[ワークステーション]]としてItaniumをサポートしていたWindows XP 64-Bit Editionは一切の対応を終了した。[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]では64ビットに本格的に移行するためにそれまで一部に限られた出荷から、ユーザーのオーダーに応じた64ビットのディスクの送付、パッケージへの32ビット用と64ビット用の同時封入といった対応が始まった。サーバーエディションは32ビット版の提供がWindows Server 2008を最後に終わり、'''[[Microsoft Windows Server 2008 R2|Windows Server 2008 R2]]'''からは64ビット版のみ提供されている。クライアントエディションでは32ビット版の提供は[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]で終わり、[[Microsoft Windows 11|Windows 11]]では64ビット版のみ提供されている。 === Windows CE === {{main|Microsoft Windows Embedded CE}} Windows CEは主に組み込み用途を中心とした用途で使用されており、[[携帯情報端末|モバイル端末]]や[[カーナビゲーション]]システム、[[セガ]]製ゲーム機の[[ドリームキャスト]]で採用されている。2020年までは、電子辞書[[Brain (電子辞書)|Brain]]などにも搭載されている。 == 特徴 == ; 互換性 : Windowsは各バージョン間で、アプリケーションプログラムや周辺機器の[[互換性]]を基本的には保っているが、細部では動作しないものもある。特に、過去の9x系とNT系の間、過去の[[16ビット]][[Windows API|API]] (Win16) と[[32ビット]]API (Win32) の間、2009年時点の[[32ビット]]版と[[64ビット]]版の間、'''[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]'''と'''[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]'''の間、'''[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]'''と'''[[Microsoft Windows 8|Windows 8/]][[Microsoft Windows 8.1|8.1]]'''の間など。もっとも、Windows XPからWindows Vistaへの移行は順調に進まず、Windows 7では仮想マシンで古いバージョンとの互換性を確保する「Windows XPモード」が追加された(2014年4月8日(日本時間4月9日)を以ってWindows XPの延長サポート終了と同時にサポート終了)。 ; 信頼性 : Windowsの信頼性・安定性は、DOSアプリケーションや[[16ビットアプリケーション]]との互換性が必要な3.xや9x系では多数の問題があったが、9x系と同時期に開発されていたNT系は当初から設計が大幅に異なり高い安定性を実現していた。また、Windowsは圧倒的にユーザー数が多く、[[コンピュータウイルス]]や[[ハッカー]]([[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]])の標的になりやすいOSと考えられている。このため、Windows 9x系やWindows XP以前のNT系の[[脆弱性]]は深刻な社会問題となり、Windows XP SP2やWindows Vistaではセキュリティに重点が置かれた改良がなされた。 ; セキュリティ : Windowsについては、他のOSに比べ[[セキュリティホール]]が悪用される確率が高い。この理由として、シェアが大きく初心者からビジネスユーザーまでさまざまなユーザーがいることから、[[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]]の標的にされやすいこと、OS自体にセキュリティホールが出現しやすい構造上の問題があるなどの原因が指摘されている。Windowsパソコンに侵入する[[コンピュータウイルス]]を駆除するために作られた[[アンチウイルスソフトウェア]]の種類も多く、多くの場合、メーカー製パソコンでは無料体験版が[[プリインストール]]されている。また、マイクロソフト自体も無償で利用可能な[[Microsoft Security Essentials]]や[[Enhanced Mitigation Experience Toolkit]]などを提供している。 : [[2001年]]の "[[Nimda]]" 騒ぎ以降、[[2003年]]の{{仮リンク|MSBlast|en|Blaster_(computer_worm)}}など、コンピュータウイルスや[[ワーム (コンピュータ)|ワーム]]の被害は連続して発生しており、最近では[[スパイウェア]]が問題になっている。Windows内の要素では、標準で搭載されている[[Internet Explorer]]([[ウェブブラウザ]])や[[Outlook Express]]([[電子メールクライアント]])にセキュリティホールが発見されることが多い。また、ユーザー数・社員数ともに規模が大きい割りに対応が遅れることが多いマイクロソフト内の体質を原因と挙げる経済学者もいる{{誰|date=2016年6月}}。 : また、Windowsにセキュリティホールが多発する理由に、[[Windows API]]の設計の問題がある。Windows APIは[[オブジェクト指向]]を取り入れて、[[カーネル]]側[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]を保持している構造体や[[クラス (コンピュータ)|クラス]]のアドレスを[[間接参照|ハンドル]]値とし、ユーザー[[プロセス]]に渡す。このため、ユーザーAPIから渡されたハンドル値が不正だったり、別のオブジェクトを指すハンドルにすり替えたりしてしまうと、保護された[[アドレス空間#カーネル空間|カーネル空間]]というセキュリティを突破して、不正なアクセスをカーネル側で実行させることができてしまう。この問題はWindows NT 4.0の時代にあらゆるAPIで存在し得ることが発覚し、カーネル空間以外の場所に存在するオブジェクトを参照しないようセキュリティ修正が加えられた。 <!-- : しかし、その修正でもオブジェクトのすり替えは可能で、似たオブジェクトを作るAPIを利用してセキュリティを突破できると証明された。Windows XPまでのNT系では、セキュリティ上重要なAPIではオブジェクト自身のアドレスではなく、そのオブジェクトを識別する値をユーザープロセスに渡し、不正なオブジェクトへのすり替えができないように修正されていった。しかしこの修正はパフォーマンスに影響を与えることから、ふだん頻繁に使われるAPIでは行われていない。例えばディスプレイコンテキストにはセキュリティ修飾子がなく、ウィンドウステーションによって一括管理する簡易セキュリティで代用されている。このため、特権の昇格やカーネル内での任意コード実行といったセキュリティホールの報告が散見される。 --> : Windows Vistaでは、当初Windows APIに替わる新API、WinFXを中心に据えようという目論見がなされていた<ref>{{Cite web|和書|author=高橋秀和|date=2003-12-05|url=https://xtech.nikkei.com/it/members/NBY/ITARTICLE/20031128/1/|title=さらばWin32 API ついに姿を見せたLonghorn|work=ITpro [[ITトレンド]]|accessdate=2008-12-18}}</ref>。これはWindows APIが持つ欠点を解消する最も確実な手段と言える。しかし、この計画はユーザー側の賛同を得られず、マイクロソフトは撤回した。その代わり、[[信頼できるコンピューティングのセキュリティ開発ライフサイクル|Security Development Lifecycle]]プロセスでWindows APIの弱点を洗い出して手当たり次第修正し、さらにWin32kやNTカーネルに組み込まれていたモジュールを切り離し、[[アドレス空間#ユーザー空間|ユーザ空間]]で動作するWindowsサービスモジュールにすることでWindows APIの根本的な弱点を封じ込める修正を行った。この改修の成果は、Windows Vista発売以後、[[Microsoft Update|Windows Update]]で提供された修正モジュールがWindows XPよりも少ないという形で現れている<ref>[http://blogs.technet.com/jpsecurity/archive/2008/02/18/2906690.aspx Windows Vistaの1年間の脆弱性に関するレポート]</ref>。なお、Windows APIに替わるという計画はなくなったものの、WinFXは[[.NET Framework]] 3.0 としてWindows Vistaに搭載されている。 ; [[サービスパック]] : Windowsに発見されたセキュリティホールなどの不具合に対して、頻繁に修正モジュールがリリースされている。これらの修正モジュールの集成して動作検証したパッケージをService Pack(サービス パック 略称:SP)という形で発行している。最新のWindows 10では、発売体系の変更に伴いService Releaseに変更された。 : SPを適用することによってセキュリティの強化、新機能の追加などのメリットを得られる。(例としてWindows VistaのSP2は適用することである程度動作が軽くなるという利点があった。ただし当時の主要メーカーのパソコンはCeleronが主流であったため、この限りではない) ただし、システムに若干の改変を加えるために、一部のアプリケーションの動作に支障をきたすなど問題を引き起こすこともある。また、特定のサービスパックのバージョンに依存するソフトウェアも存在する。現にWindows XPにSPを導入したことが原因で、[[ヤマハ]]製の[[サウンドカード]]が搭載されたパソコンでサウンドが鳴らなくなるトラブルもあった<ref>[https://web.archive.org/web/20040202015708/http://www.yamaha.co.jp/info/lsi.html 重要なお知らせ:Windows XP サービスパックをご使用されるお客様へ] - YAMAHA</ref>。これらの問題から、特に企業においては適用されないこともあるが、マイクロソフトは強く適用を推奨している。 : また、Windows XP SP2には「Microsoft Windows XP Service Pack 2セキュリティ強化機能搭載」という正式名称が付けられている。これには、マイクロソフトはセキュリティに力を入れていなかったという従来の方針を転換し、今後はセキュリティを最重要課題としてユーザーの印象を変えていくという意味合いがある。マイクロソフトは、Service Packが適用されていないバージョンのみを指す場合に「RTM (Release To Manufacturing)」や「Gold」と表記する。 == ライセンス == === x86、x64版Windowsのライセンスの種類 === Windowsのバージョンやエディションなどによっては存在しない製品形態もある。 ;[[リテール]]版(フルインストール版と[[アップグレード]]版) :通常のWindows販売に用いられるもので、パッケージ版とダウンロード版とがあり、その価格がWindowsの通常価格となる。DSP版やOEM版とは違い、32ビット版と64ビット版のインストールディスク(Windows 7、およびWindows 8/8.1の各種パッケージ版での場合)、または[[32ビット]]版と64ビット版の各種インストールファイルを一つにまとめた[[USBメモリ]](Windows 10のパッケージ版での場合)が同梱されており、ユーザーはその一方を自由に選択して使うことが可能。 ;[[DSP]]版(フルインストール版) :販売形態としてはWindowsを組込んだ製品を販売する業者向けのもの。ライセンス上の扱いはOEM版と同等で<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.mynavi.jp/news/2004/10/01/011.html|title=ピクセラ、DSP版「Windows XP MCE 2005」対応のTVキャプチャーカード発売|accessdate=2016-06-24|author=大川淳|date=2004-10-01|publisher=マイナビ}}</ref>、実際Windows XP MCE 2005でDSP版が発売されるまで[[自作パソコン|自作PC]]市場では全てOEM版と呼ばれていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/971021/akiba9.htm|title=AMUAMUの「アキバの楽屋から」 第9回:マル秘!? Windows95 OSR2.1の正しい買い方|accessdate=2016-06-25|author=AMUAMU|date=1997-10-21|publisher=インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/350/350707/|title=ASCII.jp:新OS「Windows XP Tablet PC Edition 2005」DSP版の販売が突如スタート!!|accessdate=2016-06-24|author=増田|date=2005-11-19|publisher=KADOKAWA}}</ref>。しかし、厳密にはDSP版はダウングレード権が無いという違いがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/889/889909/index-2.html|title=ASCII.jp:今からWindows 7を使うには? Windows 8.1ダウングレード権の10の疑問 (2/3)|accessdate=2016-06-24|author=二瓶朗|date=2014-05-12|publisher=KADOKAWA}}</ref>。販売段階でなんらかの部品の付属品として購入する形態になっており、また付属品の対象にできる部品はいくつかの種類が規定されていて、その部品を組み込んだ状態でのみライセンスが有効となる。対象とした部品を破棄、あるいは破損し使用できなくなった場合、ライセンスも消滅する<ref>{{Cite web|和書|url=http://support.microsoft.com/kb/881452/ja|title=ハードウェアと一緒に購入した Windows XP はハードウェアを破棄してもライセンス認証できますか?|accessdate=2016-06-24|date=2004-08-11}}</ref>。 ;[[OEM]]版 :いわゆるパソコンメーカーの製品にプリインストールされたもの、パソコン本体から切り離して、別のパソコンで動かすことは禁じられている。この制限のため、OEM版は通常価格よりも大幅に安価で供給されている。ただし、パソコンの部品構成の変更についての制限は明言されていないため、マザーボード交換やケース交換を行ったうえでOEM版Windowsを利用し続ける事例は多い(パーツの入れ替えは、場合によっては[[テセウスの船]]と同様の矛盾が生じるため、賛否両論がある)。 ;[[ボリュームライセンス]] (VL) 版 :大量導入時など複数本のライセンスを一括購入する販売形態。購入プログラムの形態により、最低購入数および価格が異なる。原則としてインストールディスクは付属せず、ダウンロード形式でマイクロソフト社のサイトよりインストールイメージを入手するか、別途メディアキットを購入する必要がある。「譲渡時にライセンス取得時に取得したものをすべてまとめて譲渡する」という規定があり、バラ売りはライセンス上、明確に禁じられている。購入者に制限はないため、個人でも購入ができる。また、ソフトウェアアシュアランスと呼ばれる、ダウングレードやライセンスモビリティ、期間中のアップグレード保証などに関する権利を追加出来る唯一のライセンス形態であり、それらが必要な利用形態ではこの形態での購入が必要となる。 このほか、[[Microsoft Developer Network|MSDN]]サブスクリプション、[[Microsoft TechNet|TechNet]]サブスクリプションでもWindowsのライセンスが提供されている。ただし、それぞれソフトウェア開発・検証、Windowsの評価などと利用目的に制限がある。 === 緊急時におけるライセンスによる制限 === 過去のWindowsにおいてはメディアやキーとライセンスは不可分であり、調達元が異なるものでの代用が難しかったため、Windowsの調達でもっとも一般的であるOEM版によるプレインストールPCなど、Windows標準のインストールメディアが付属しない調達形態ではリカバリなど一部の機能について使用に大きな制限があった。 この制限については、2017年現在のWindows 10ライセンスでは不可分とされる記述はなくなり、また、ダウングレード権においては任意の調達元のメディアやキーが利用できるなど、徐々に緩められている。 == 市場占有と問題 == === 市場シェア === Windowsはパーソナルコンピュータ市場では、[[1990年代]]後半より[[デファクトスタンダード]]の地位を得た。このため対応するコンピュータ(メーカー)、[[周辺機器]]、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]も多く、またユーザー数、操作方法の情報なども多い。Windowsが普及した背景には、マイクロソフト自身は一部の周辺機器を除いてハードウェアを製造せず多数のハードウェアメーカーへの[[OEM]]供給路線を続けたこと、ライバルの[[Macintosh]]や[[OS/2]]の必要とするハードウェアが当時は高価だったこと、[[オフィスソフト]]である[[Microsoft Office]](Office自体はMacintoshでも動作する)や専用の[[マルチメディア]][[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]である[[DirectX]]で作成された[[コンピュータゲーム|ゲーム]]プログラムが市場に広く受け入れられ、[[キラーアプリケーション]]となったこと、20世紀末期から21世紀にかけての[[ダウンサイジング]]の潮流に乗ったこと、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能や[[POSIX]]サブシステムなどの極めて少数のコンポーネントを除き、完全な独自設計となっており、Windows製品以外との[[互換性]]や[[移植性]]が低く、他の[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]への移行が非常に困難であることなどが挙げられる。 近年はモバイル端末の進化により若い世代はあまり個人でパーソナルコンピュータを使用しなくなっており<ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1608/04/news084.html|title=Android、「PCを使えない学生が急増」の問題点(ITMediaビジネス)|date=2016-08-04|accessdate=2017-04-14}}</ref>、それらを含めたシェアに関しては比較的厳しい状況にある<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170405-a073/|title=Android、インターネット利用でWindowsのシェアを初めて抜く(マイナビニュース)|date=2017-04-05|accessdate=2017-04-14}}</ref>。 === 独占の問題 === Windowsは[[マイクロソフト]]による独自仕様のソフトウェア製品([[プロプライエタリソフトウェア]])であり、その製品構成や販売手法をめぐり2009年時点でもいくつかの国で[[独占禁止法]]訴訟が起きている。独占の影響を回避するため、官公庁などの公的機関で[[Linux]]など[[オープンソースソフトウェア]]のOSの採用の動き<ref>井上 理 (2002-12-12) [https://xtech.nikkei.com/it/members/NC/ITARTICLE/20021205/1/ 「電子政府が脱Windowsへ」の真相]. 2009-12-6 閲覧</ref>や、[[オープンフォーマット]]などWindows専用の[[オフィスソフト]]に縛られない[[ファイルフォーマット]]の採用の動きがあり、またOSの役割を低下させる[[クラウドコンピューティング]]などの動きもある。上記のようなマイクロソフトによる独占状態の影響もあり、[[フリーソフトウェア財団]]は「自由なソフトウェア」というテーマを掲げ、たびたび「脱Windowsキャンペーン」を行っている。 OS市場の独占によるマイクロソフトの強靭な企業体力や統一された操作性が功を奏し、従業員教育にかかるコストが低下したことや、同一系統のプラットフォーム間におけるアプリケーションの互換性がある程度確保されていることに加え、[[サービス水準合意]] (SLA) を締結すれば、競合他社より高品質なサポートを受けることが出来るため、[[金融機関]]<ref group="注">WindowsやIEの[[バグ]]に起因するシステムトラブルが原因で取引金額に狂いが生じたり、残高データが滅失するなどの金銭的損害が発生した場合であっても、適切なSLA契約を締結していれば、マイクロソフトの企業体力により納得できる金額の補償を受けられる可能性があるため。</ref>などの[[インフラストラクチャ|インフラ]]系企業などを中心に独占状態による悪影響よりも良い影響のほうが大きいと考える者が多い。前述のメリットを活かし、さまざまな[[インフラストラクチャ|社会インフラ]]の運用にも幅広く利用されているだけでなく、冒頭でも述べた通り、マイクロソフトによるほぼ完全な独自設計であることから他のOSとの互換性や移植性が非常に低く、非常に有用かつ代用が効かないアプリケーションや周辺機器を数多く抱える製品でもあるため、政財界からは[[電力会社]]や[[公共交通機関]]などのインフラ産業と同等の扱いを受けることも珍しくない。[[日本]]を含むいくつかの国や地域では、[[独占禁止法]]の適用除外の対象と見做され、政府機関との[[随意契約]]を締結するケースすら存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfc.go.jp/n/supply/pdf/seifu_rakusatu_160222c.pdf|title=落札者等の公示|accessdate=2016-06-19|date=2016-02-22|publisher=日本政策金融公庫}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/meeting/materials/gyousei-jyohoka/sonota/pdf/h23/kuujihokyu_chk23.pdf|title=航空自衛隊補給3 システム及び航空自衛隊データ処理近代化システムの業務・システム最適化実施評価報告書|accessdate=2020-07-09|author=防衛省行政情報化推進委員会|date=2012-08-30|format=PDF|publisher=防衛省}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://procurement.japanpost.jp/general/2016/20160607131807.html|title=21C-2834マイクロソフト株式会社製のソフトウェアライセンスの調達について|accessdate=2016-06-19|date=2016-06-07|publisher=日本郵政}}</ref>。 また、日本や[[大韓民国|韓国]]など、いくつかの国や地域ではマイクロソフトとクライアントOSおよび[[ウェブブラウザ]]に関する[[サービスレベル契約|SLA契約]]を独占的に締結しているだけでなく、2000年代頃においては[[Windows API]]を用いた専用のクライアントソフトや[[ActiveX]]コントロールを用いていたため、電子政府サービスにWindowsと[[推奨ブラウザ]]のInternet Explorerを用いるしかないという状況があった(Windowsマシンを持っていないユーザーは、ネットカフェや、街頭に設置されている専用の端末を用いてサービスを利用しなければならない)。 日本においては他社のOSやブラウザからのアクセスが原因で電子政府システムに障害が発生した場合には、民事および[[信用毀損罪・業務妨害罪|刑事上の責任]]を負う可能性がある{{要出典|date=2016年10月}}。日本国内の金融機関も、マイクロソフトと、OSやブラウザに関するSLAを独占的に締結している事業者が多く、指定以外のOSやブラウザのバグによる重大事故への対策の観点から、[[macOS]]、[[Linux]]、[[スマートフォン]]などからサービスを利用する行為を禁じている事例が少なくなかった。 <!-- このような中、さらに問題が発生した。fossBytesに2016年8月6日(米国時間)に掲載された記事「Linux Users Claim That Windows 10 Anniversary Update Deletes Dual-boot Partitions」によると[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]が[[Linux]]環境を削除する恐れがあり、Linuxユーザーからも独占状態に対する批判が高まっている。--> == Windowsに関係する資格 == ; マイクロソフト認定プロフェッショナル : {{Main|マイクロソフト認定プロフェッショナル}} : マイクロソフト認定プロフェッショナル({{Lang|en|Microsoft Certified Professional}}、'''MCP''')は[[システムエンジニア]]を対象にした資格制度。Windowsのネットワーク設計・構築・運用・保守や、[[Microsoft Visual Studio|Visual Studio]]を使ったアプリケーションの開発を主眼に据えた試験を行っている。 ; マイクロソフト認定アソシエイト : MCPが技術者向けの資格であるのに対し、マイクロソフト認定アソシエイト({{Lang|en|Microsoft Certified Associate}}、'''MCA''')はIT営業職やオペレーター職など、一般的なIT関連職層を対象にした技術認定資格といえる。日本のみでかつて実施されていた資格制度である。開始当初は''MCA Platform''(プラットフォーム)、''MCA Database''(データベース)、''MCA Application''(アプリケーション)の合計3科目であったが、[[2004年]][[4月]]の改定で''MCA Security''(セキュリティ)の1科目が追加された。全科目に合格すると''MCA Master''と呼ばれる。2013年12月27日に[[プロメトリック]]による試験配信が終了した。後継としては[[マイクロソフトテクノロジーアソシエイト]] (MTA) がある<ref>{{Wayback|url=http://it.prometric-jp.com/testlist/mca/index.html|date=20140626153606|title=MCA・マイクロソフト認定アソシエイト - プロメトリック}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} {{Portal|オペレーティングシステム}} * [[マイクロソフトの歴史]] * [[マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件]] * [[コンピュータ分野における対立#Windows]] == 外部リンク == {{Wikibooks|Windows入門}} {{Commons&cat|Microsoft Windows}} * {{Official website|https://www.microsoft.com/ja-jp/windows|name=Windows 11、OS、コンピューターおよびアプリのパワーを体験する {{!}} Microsoft}} 公式ウェブサイト * [https://blogs.windows.com/japan/ Windows Blog for Japan] * [https://developer.microsoft.com/ja-jp/ Microsoft Developer] * [https://learn.microsoft.com/ja-jp/ Microsoft Learn] {{マイクロソフト}} {{Windows Components}} {{オペレーティングシステム}} {{Normdaten}} [[Category:Microsoft Windows|*]] [[Category:オペレーティングシステム|Windows]] [[Category:Windowsのソフトウェア|*]] [[Category:1985年のソフトウェア]] [[Category:OSファミリ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Windows
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舞台
舞台(ぶたい、英: stage)とは、演劇やダンス、伝統芸能や演芸など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、舞台芸術に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。 ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。 機構としての舞台や、舞台の様々な様式については、劇場を参照。 人類史のどの段階で初めて舞台が現れたかは、はっきりとは分かっていない。西洋の場合、記録に残る最も古い舞台は、古代ギリシャ演劇の野外劇場である。これはすり鉢型の地形を利用した巨大構造物で、舞台は底の部分につくられた。観客は見下ろすような位置から舞台全体を見ることができた。この様式は古代ローマにも引き継がれ、その様式を踏襲した楕円形の劇場建造物なども生み出された。その代表的なものにはコロッセウム等がある。 日本においては、舞楽のための舞台が、一定の様式を持った舞台としては最古のものである。舞楽は雅楽の伴奏で舞う舞踊、舞踊音楽で、奈良時代に中国大陸や朝鮮半島、ベトナムなどから渡来、また平安時代には日本でも作られたもので、貴族の嗜み、娯楽、舞踊芸術として、また伝承が断絶してしまった伎楽と共に仏教の法会などで演じられた。舞楽の舞台は約4.5間四方の欄干(高欄、こうらん)が付いたもので、南北両側に演者が上り下りするための階段が設けられている。舞楽が演じられる際には、その中にさらに3間四方の敷舞台が置かれた。 舞楽以前にも様式を持った舞台が存在した可能性も否めない。少なくとも、岩などの自然の地形を利用した舞台と、そこで演じられる民俗芸能的なものは、確実に存在したと思われる。 史実ではないが、古事記や日本書紀などで語られる日本神話には、天岩戸のエピソードのなかに、舞台らしきものの記述が見られる。天岩戸に籠もったアマテラスを引き出すために、アメノウズメノミコトは半裸になりながら、伏せた器の上で踊った。この時の伏せた器は、踏み叩くことによって音を出す打楽器であると共に、舞台としての役割を果たしている。 農村舞台(のうそんぶたい)とは、神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を上演することを目的に日本の農村に設けられた舞台。 農村歌舞伎舞台。 重要有形民俗文化財に指定されている農村舞台には以下がある。
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舞台とは、演劇やダンス、伝統芸能や演芸など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、舞台芸術に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。 ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。 機構としての舞台や、舞台の様々な様式については、劇場を参照。
[[File:Pasant Theatre from seats.JPG|300px|thumb|芝居の舞台である舞台。]] [[File:SFOperaHouse2 (8189967420).jpg|thumb|300px|オペラハウスの舞台。]] '''舞台'''(ぶたい、{{lang-en-short|stage}})とは、[[演劇]]や[[ダンス]]、[[伝統芸能]]や[[演芸]]など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、[[舞台芸術]]に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。 ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。 機構としての舞台や、舞台の様々な様式については、[[劇場]]を参照。 == 舞台の「起源」と古代の舞台 == 人類史のどの段階で初めて舞台が現れたかは、はっきりとは分かっていない。西洋の場合、記録に残る最も古い舞台は、[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]演劇の[[野外劇]]場である。これはすり鉢型の地形を利用した巨大構造物で、舞台は底の部分につくられた。観客は見下ろすような位置から舞台全体を見ることができた。この様式は[[古代ローマ]]にも引き継がれ、その様式を踏襲した楕円形の劇場建造物なども生み出された。その代表的なものには[[コロッセオ|コロッセウム]]等がある。 日本においては、[[舞楽]]のための舞台が、一定の様式を持った舞台としては最古のものである。舞楽は[[雅楽]]の伴奏で舞う舞踊、舞踊音楽で、[[奈良時代]]に[[中国大陸]]や[[朝鮮半島]]、[[ベトナム]]などから渡来、また[[平安時代]]には日本でも作られたもので、貴族の嗜み、娯楽、舞踊芸術として、また伝承が断絶してしまった[[伎楽]]と共に仏教の法会などで演じられた。舞楽の舞台は約4.5[[間]]四方の欄干(高欄、こうらん)が付いたもので、南北両側に演者が上り下りするための階段が設けられている。舞楽が演じられる際には、その中にさらに3[[間]]四方の敷舞台が置かれた。 舞楽以前にも様式を持った舞台が存在した可能性も否めない。少なくとも、岩などの自然の地形を利用した舞台と、そこで演じられる民俗芸能的なものは、確実に存在したと思われる。 史実ではないが、[[古事記]]や[[日本書紀]]などで語られる[[日本神話]]には、[[天岩戸]]のエピソードのなかに、舞台らしきものの記述が見られる。天岩戸に籠もったアマテラスを引き出すために、[[アメノウズメ|アメノウズメノミコト]]は半裸になりながら、伏せた器の上で踊った。この時の伏せた器は、踏み叩くことによって音を出す打楽器であると共に、舞台としての役割を果たしている。 == 農村舞台 == '''農村舞台'''(のうそんぶたい)とは、神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を上演することを目的に日本の農村に設けられた舞台。 [[農村歌舞伎舞台]]。 重要有形民俗文化財に指定されている農村舞台には以下がある<ref>{{Cite web|和書|title =重要有形民俗文化財/分類/民俗芸能、娯楽、遊戯に用いられるもの |publisher =国指定文化財等データベース |date =2017-3-19 | url =https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index | accessdate =2017-3-19 }}</ref>。 *下黒田の舞台 *下谷上の舞台 *[[各務の舞台]] *葛畑の舞台(芝居堂) *旧船越の舞台 *[[犬飼農村舞台]] *高野の舞台 *坂州の舞台 *上三河の舞台 *上三原田の歌舞伎舞台 *真桑の人形舞台 *赤崎神社楽桟敷 *[[大桃の舞台]] *池田の桟敷 *中山の舞台 *田熊の舞台 *八代の舞台 *肥土山の舞台 *門和佐の舞台 *[[桧枝岐の舞台]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Stages}} * [[Portal:舞台芸術]] * [[劇団]] * [[俳優]] * [[農村歌舞伎舞台]] * {{ill2|あがり症|en|Stage fright|redirect=1}}(舞台不安症) {{Normdaten}} {{Theat-stub}} {{DEFAULTSORT:ふたい}} [[Category:舞台|*]] [[Category:劇場]]
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相対論
相対論(そうたいろん)
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相対論(そうたいろん) 物理学においては、相対性理論のこと。 哲学においては、相対主義の論理のこと。
'''相対論'''(そうたいろん) * 物理学においては、[[相対性理論]]のこと。 * 哲学においては、[[相対主義]]の論理のこと。 {{aimai}} {{デフォルトソート:そうたいろん}}
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5W1H
5W1Hは、一番重要なことを先頭にもってくるニュース記事を書くときの慣行である。欧米ではふつう「Five Ws」、「Five W's and One H」、または略して単に「Six Ws」と呼ばれるが、日本では更に「1H」を足して「5W1H」(ご・ダブリュ・いち・エイチ)とし「六何の法則」とも呼ばれる。 ニュース記事の最初の段落はリードと呼ばれる。ニューススタイルの規則では、リードには以下の「5W」の多くを含むべきとされている。すなわち、 である。しかし日本においては、「5W」にさらに下記の「1H」を含む「5W1H」であるべきであるとされる。 日本では、教育現場で国語や英語の文法や文学作品読解の指導に使われることもある。また、情報取材のあり方やその提示の方法、歴史の叙述などノンフィクション全般にわたって意識されるべき必須事項としてしばしば取り上げられる。 英国の児童文学者で詩人のラドヤード・キップリングが1895年に発表した『ジャングル・ブック』には、登場する少年が虎の縞模様はどうしてできたかという話から「動物はどうして人間に恐怖を感じるようになったか?」など、さまざまな物語があった。その後、1902年に空想的な「なぜなの?ものがたり」(pourquoi:仏語:なぜ? - stories:物語)シリーズと呼べる4から8歳の子供向けのさまざまな現象や出来事を書いた多くの物語(原題:Just So Stories for Little Children)を出版した。それぞれの物語はバラッド形式の詩的文章を盛り込んでいたが、そのなかでも「象のこども(原題:The Elephant's Child)」は次のような詩で始まっている。 また、その本の挿絵には「W」の文字の波形の上3点と下2点に並んだベッドのマット上の5個ボタンと枕元(または足下)から見たベッドの形の「H」が描かれた。 場合により、 の1つを付け加えて、「6W1H」と呼ばれることもある。 場合により、 の2つを付け加えて、「5W3H」と呼ばれることもある。manyとmuchの違いは、manyが一瞥で数えられる場合に用いられるのに対し、muchは計算・計量が必要な場合であること。 時々、 の1つを付け加えたものが「5W1H1R」と呼ばれることがある。 複数人がWho・What・When・Where・Why・How(必ずしもその全てではない)の部分だけを書き、一斉に出して(あるいはそれをあらかじめ混ぜておいてランダムに引き)出来上がった文章のナンセンスさを楽しむ「5W1Hゲーム」という言葉遊びがある。
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5W1Hは、一番重要なことを先頭にもってくるニュース記事を書くときの慣行である。欧米ではふつう「Five Ws」、「Five W's and One H」、または略して単に「Six Ws」と呼ばれるが、日本では更に「1H」を足して「5W1H」(ご・ダブリュ・いち・エイチ)とし「六何の法則」とも呼ばれる。
'''5W1H'''は、一番重要なことを先頭にもってくる[[ニュース]][[記事]]を書くときの慣行である。[[欧米]]ではふつう「[[:en:Five Ws|Five Ws]]」、「Five W's and One H」<ref>{{Cite web|url=http://www.sixsigmaonline.org/articlelive/articles/581/1/The-Five-Ws-and-One-H-Approach-to-Six-Sigma-Training/Page1.htm|title=The Five W's and One H Approach to Six Sigma Training|publisher=Aveta [email protected]|language=[[英語]]|accessdate=2008-12-21}}</ref>、または略して単に「Six Ws」と呼ばれるが、[[日本]]では更に「1H」を足して「5W1H」(ご・ダブリュ・いち・エイチ)とし「六何の法則」とも呼ばれる。 == 解説 == [[ニュース]][[記事]]の最初の段落は[[リード]]と呼ばれる。ニューススタイルの規則では、リードには以下の「5W」の多くを含むべきとされている。すなわち、 :When(いつ) Where(どこで) Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)したのか? である。しかし日本においては、「5W」にさらに下記の「1H」を含む「5W1H」であるべきであるとされる。 :How(どのように) 日本では、教育現場で[[国語]]や[[英語]]の[[文法]]や文学作品読解の指導に使われることもある。また、[[情報]][[取材]]のあり方やその提示の方法、[[歴史]]の叙述など[[ノンフィクション]]全般にわたって意識されるべき必須事項としてしばしば取り上げられる。 == 5W1Hの始まり == [[イギリス|英国]]の[[児童文学者]]で[[詩人]]の[[ラドヤード・キップリング]]が[[1895年]]に発表した『[[ジャングル・ブック (小説)|ジャングル・ブック]]』には、登場する少年が[[トラ|虎]]の縞模様はどうしてできたかという話から「動物はどうして人間に恐怖を感じるようになったか?」など、さまざまな物語があった。その後、[[1902年]]に空想的な「なぜなの?ものがたり」(pourquoi:[[フランス語|仏語]]:なぜ? - stories:物語)シリーズと呼べる4から8歳の子供向け<ref>Just So Stories for Little Children (Oxford World's Classics) (ペーパーバック) {{ISBN2|0192834363}}</ref>のさまざまな現象や出来事を書いた多くの物語(''原題:Just So Stories for Little Children'')を出版した。それぞれの物語は[[バラッド]]形式の詩的文章を盛り込んでいたが、そのなかでも「[[ゾウ|象]]のこども(''原題:The Elephant's Child'')」は次のような[[詩]]で始まっている。 {{Wikisourcelang|en|Just_So_Stories/The_Elephant's_Child}} :(''原文'') :I keep six honest serving-men :(They taught me all I knew); :Their names are '''What''' and '''Why''' and '''When''' And '''How''' and '''Where''' and '''Who'''. :(''日本語を解する[[子供|こども]]向けの[[意訳]]'') :私にはうそをつかない正直者のお手伝いさんが6人居るんだよ :(その者達は私の知りたいことを何でも教えてくれるんだよ); :その者達のなまえは「なに? (What) 」さん、「なぜ? (Why) 」さん、「いつ? (When) 」さん、「どこ? (Where) 」さん、「どんなふうに? (How) 」さん、それから「だれ? (Who) 」さんと言うんだよ。 また、その本の[[挿絵]]には「W」の文字の波形の上3点と下2点に並んだ[[ベッド]]の[[マット]]上の5個[[ボタン (服飾)|ボタン]]と枕元(または足下)から見たベッドの形の「H」が描かれた。 == 6W1H== 場合により、 : Whom(誰に) の1つを付け加えて、「6W1H」と呼ばれることもある。 == 5W3H== 場合により、 : How many(どのくらいの数で) : How much(いくらで) の2つを付け加えて、「5W3H」と呼ばれることもある。manyとmuchの違いは、manyが一瞥で数えられる場合に用いられるのに対し、muchは計算・計量が必要な場合であること。 ==5W1H1R== 時々、 : Result(どうなったか) の1つを付け加えたものが「5W1H1R」と呼ばれることがある。 ==5W1Hを使った言葉遊び== 複数人がWho・What・When・Where・Why・How(必ずしもその全てではない)の部分だけを書き、一斉に出して(あるいはそれをあらかじめ混ぜておいてランダムに引き)出来上がった文章のナンセンスさを楽しむ「'''5W1Hゲーム'''」という言葉遊びがある<ref>{{Cite web|和書|title=日々の笑いをドンドン生み出す!5W1Hなライフスタイル|WARAI+ |url=http://waraiplus.com/colum/5W1H.html#:~:text=5W1H%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E3%81%84%E3%81%A4%EF%BC%88When%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%80%8C%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%A7%20(Where)%E3%80%8D%E3%80%8C%E3%81%A0%E3%82%8C%E3%81%8C%20(Who)%E3%80%8D%E3%80%8C%E4%BD%95%E3%82%92,(What)%E3%80%8D%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%EF%BC%88Why%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%80%8C%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%9F%20(How)%E3%80%8D%E3%81%AE6%E9%A0%85%E7%9B%AE%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A8%98%E5%85%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E7%B4%99%E3%82%92%E5%8F%82%E5%8A%A0%E8%80%85%E3%81%8C%E6%8C%81%E3%81%A1%E5%AF%84%E3%82%8A%E3%80%81%20%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%9E%E3%82%8C%E3%82%92%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%AB%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%A6%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%A3%E3%81%A6%E9%81%8A%E3%81%B6%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%20%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AB%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%A7%E9%81%8A%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%82%82%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%80%82 |website=waraiplus.com |access-date=2022-09-19 |language=ja |last=humans.txt}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[起承転結]] * [[整理記者]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こたふりゆういちえいち}} [[Category:報道]] [[Category:ビジネススキル]] [[Category:アカデミックスキル]] [[Category:英語の成句|FIVE W]] [[Category:名数5|たふりゆう]] [[Category:名数1|えいち]]
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素木しづ
素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918年1月29日)は、日本の小説家。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。 1895年(明治28年)、札幌に生まれる。昆虫学者・素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し右足を切断。1913年(大正2年)、小学校から同期だった森田たまに数日遅れて森田草平門下に入る。同年処女作『松葉杖をつく女』を、翌年『三十三の死』を発表。新進女流作家としての地位を築く。1915年(大正4年)画家の上野山清貢(うえのやま きよつぐ)と結婚し(婚姻届を出したのは1917年(大正6年))の年末、子(茂登山櫻子)をもうける。1918年(大正7年)、肺結核のため伝染病研究所で死去。 なお、同年代の女流作家・尾崎翠は『新潮』1916年10月号に、「最も期待する作家・素木しづ氏について」という文章を寄せており、浅からぬ関心を抱いていたと思われる。
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素木 しづは、日本の小説家。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。
{{Portal|文学}} [[ファイル:Shidu Shiraki.2.jpg|thumb|180px|素木しづ]] '''素木 しづ'''(しらき しづ、[[1895年]][[3月26日]] - [[1918年]][[1月29日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。 == 来歴・人物 == 1895年(明治28年)、[[札幌市|札幌]]に生まれる。昆虫学者・[[素木得一]]の妹。庁立札幌高等女学校(現[[北海道札幌北高等学校]])卒業後、[[結核]]性関節炎が悪化し右足を切断。1913年(大正2年)、小学校から同期だった[[森田たま]]<ref>『札幌人名事典』164頁</ref>に数日遅れて[[森田草平]]門下に入る。同年処女作『松葉杖をつく女』を、翌年『三十三の死』を発表。新進女流作家としての地位を築く。1915年(大正4年)画家の[[上野山清貢]](うえのやま きよつぐ)と結婚し(婚姻届を出したのは1917年(大正6年))の年末、子([[茂登山櫻子]])をもうける。1918年(大正7年)、[[肺結核]]のため[[伝染病研究所]]で死去<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)116頁</ref>。 なお、同年代の女流作家・[[尾崎翠]]は『[[新潮]]』1916年10月号に、「最も期待する作家・素木しづ氏について」という文章を寄せており、浅からぬ関心を抱いていたと思われる。 ==著書== *『[https://id.ndl.go.jp/bib/000000536840 悲しみの日より]』 素木しづ子 須原啓興社 1916 *『[https://id.ndl.go.jp/bib/000000537215 青白き夢]』 素木しづ子 新潮社 1918 のち [[ゆまに書房]] ISBN 978-4-89714-850-2 *『[https://id.ndl.go.jp/bib/000000574759 美しき牢獄]』 [[玄文社]] 1918 のち [[ゆまに書房]] ISBN 978-4-89714-849-6 == 関連文献 == * [[山田昭夫]]編『素木しづ作品集 その文学と生涯』北書房、1970年 * [[沖藤典子]]『薄命の作家 素木しづの生涯』新潮社、1988年 ISBN 4-10-331004-9 *札幌市教育委員会 編『札幌人名事典』[[さっぽろ文庫]]66、札幌市、1993年 == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== * [https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person12.html 素木 しづ:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) * [http://carlschuricht.com/Shiraki/shiraki.htm 素木しづ ホームページ]([[偏奇館]]) *[https://shirakishidu.amebaownd.com 素木しづデジタルアーカイヴ] {{Writer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しらき しつ}} [[Category:19世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:19世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:日本の女性小説家]] [[Category:北海道札幌北高等学校出身の人物]] [[Category:札幌市出身の人物]] [[Category:隻脚の人物]] [[Category:1895年生]] [[Category:1918年没]] [[Category:結核で死亡した日本の人物]] [[Category:20世紀に結核で死亡した人物]]
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南部修太郎
南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)10月12日 - 1936年(昭和11年)6月22日)は、日本の小説家。 内務省の土木技師である父常次郎の長男として、宮城県仙台市で生まれる。1899年(明治32年)、長崎市立勝山尋常小学校入学、1905年(明治38年)父の東京転勤に伴い、赤坂小学校高等第3年級に転学。1906年(明治39年)、私立芝中学校に入学。在学中に腸チフスや結核を患うなど病弱であったが、在学中に回覧雑誌『荒浪』を作成して小説執筆を試みる。1912年(大正元年)、慶應義塾大学文学科予科に入学し、1914年(大正3年)に文学科本科へ進学。大学在学中はロシア文学に傾倒する。1916年(大正5年)、井汲清治とともに「井部文三」の筆名で「タゴオル哲学と其背景」を、南修の筆名でチェーホフ『駅路』の翻訳、そして代表作となる「修道院の秋」を発表する。 1917年(大正6年)3月、慶應義塾大学を卒業すると『三田文学』の編集主任となり、1920年(大正9年)まで務める。この間、小島政二郎から芥川龍之介を紹介され、芥川との交流が始まる。1918年(大正7年)の「小人の謎」(『赤い鳥』掲載)以降、童話も発表した。これらの一部は作品集『鳥籠』、『月光の曲』に収録されている。1919年(大正8年)には南部の代表作となる「猫又先生」「黒焦げの人形」「一兵卒と銃」などが発表される。 1923年(大正12年)、府立第一商業学校の校長陶山斌二郎の長女菫と結婚、この頃から『婦人雑誌』『少女雑誌』への執筆活動が中心となる。1924年(大正13年)長男淳一郎、1926年(大正15年)次男亮二郎が誕生。同年、復刊した『三田文学』の編集員を水上瀧太郎と小島政二郎とともに務める。 1936年(昭和11年)1月、石坂洋次郎の第1回三田文学賞授与に尽力する。同年6月22日、脳溢血により逝去。法名は修文院釋樂邦。43歳没(満年齢)。墓所は東京都南区南青山の青山霊園1種イ22号1側にある。死後刊行された『三田文学』には、水上瀧太郎や川端康成らが追悼文を寄せた。 芥川龍之介を師と仰ぎ、小島政二郎、滝井孝作、佐佐木茂索とともに「龍門の四天王」と呼ばれた。慶應義塾大学で友人だった理財科の秋岡義愛が川端康成の従兄だったため、中学時代の川端と文通していた。 南部は文筆家として経済的に恵まれたが、病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃には命を落としかけている。モダニズム文学的な作風で流行作家としては活躍したものの、死後は著作が絶版して久しく、作家としては師の芥川のように成功を収めたとはいえない。現在では多くの作品は初出誌にあたる他ない状況であり、作品入手は比較的困難な作家といえる。 「」内が南部の作品
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南部 修太郎は、日本の小説家。
'''南部 修太郎'''(なんぶ しゅうたろう、[[1892年]]([[明治]]25年)[[10月12日]] - [[1936年]]([[昭和]]11年)[[6月22日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。 == 経歴 == [[内務省 (日本)|内務省]]の[[土木技師]]である父常次郎の長男として、[[宮城県]][[仙台市]]で生まれる<ref name=":0">{{Cite book|和書|editor=十重田祐一|editor-link=十重田祐一|title=南部修太郎三篇|publisher=イー・ディー・アイ|date=2005-05|pages=76-79}}</ref>。1899年(明治32年)、[[長崎市立勝山小学校|長崎市立勝山尋常小学校]]入学、1905年(明治38年)父の[[東京]]転勤に伴い、[[港区立赤坂小学校|赤坂小学校]]高等第3年級に転学<ref name=":0" />。1906年(明治39年)、私立[[芝中学校・高等学校|芝中学校]]に入学<ref name=":0" />。在学中に[[腸チフス]]や[[結核]]を患うなど病弱であったが、在学中に回覧雑誌『荒浪』を作成して小説執筆を試みる<ref name=":0" />。[[1912年]](大正元年)、[[慶應義塾大学]]文学科予科に入学し、1914年(大正3年)に文学科本科へ進学<ref name=":0" />。大学在学中は[[ロシア文学]]に傾倒する<ref name=":0" />。1916年(大正5年)、井汲清治とともに「井部文三」の筆名で「タゴオル哲学と其背景」を、南修の筆名で[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]『駅路』の翻訳、そして代表作となる「修道院の秋」を発表する<ref name=":0" />。 [[1917年]]([[大正]]6年)3月、慶應義塾大学を卒業すると『[[三田文学]]』の編集主任となり、[[1920年]](大正9年)まで務める<ref name=":0" />。この間、小島政二郎から芥川龍之介を紹介され、芥川との交流が始まる<ref name=":0" />。[[1918年]](大正7年)の「小人の謎」(『[[赤い鳥]]』掲載)以降、[[童話]]も発表した。これらの一部は作品集『鳥籠』、『月光の曲』に収録されている。1919年(大正8年)には南部の代表作となる「猫又先生」「黒焦げの人形」「一兵卒と銃」などが発表される<ref name=":0" />。 1923年(大正12年)、府立第一商業学校の校長陶山斌二郎の長女菫と結婚<ref name=":0" />、この頃から『婦人雑誌』『少女雑誌』への執筆活動が中心となる<ref name=":0" />。1924年(大正13年)長男淳一郎、1926年(大正15年)次男亮二郎が誕生<ref name=":0" />。同年、復刊した『三田文学』の編集員を[[水上瀧太郎]]と[[小島政二郎]]とともに務める<ref name=":0" />。 [[1936年]]([[昭和]]11年)1月、[[石坂洋次郎]]の第1回三田文学賞授与に尽力する<ref name=":0" />。同年6月22日、[[脳出血|脳溢血]]により逝去<ref name=":0" />。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は修文院釋樂邦。{{没年齢|1892|10|12|1936|6|22}}(満年齢)。墓所は東京都南区南青山の[[青山霊園]]1種イ22号1側にある<ref name=":0" />。死後刊行された『三田文学』には、水上瀧太郎や川端康成らが追悼文を寄せた<ref name=":0" />。 == 人物 == [[芥川龍之介]]を師と仰ぎ、[[小島政二郎]]、[[滝井孝作]]、[[佐佐木茂索]]とともに「龍門の四天王」と呼ばれた{{要出典|date=2022-01}}。慶應義塾大学で友人だった[[理財科]]の秋岡義愛が[[川端康成]]の[[従兄]]だったため、中学時代の川端と文通していた<ref name="atogaki1">[[川端康成]]「あとがき」(『川端康成全集第1巻』)(新潮社、1948年)。『川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水』(新潮社、1970年)所収。</ref><ref>[[郡司勝義]]「解題」(『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』)(新潮社、1984年)</ref>。 {{独自研究範囲|南部は文筆家として経済的に恵まれたが、病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃には命を落としかけている|date=2022-01}}。モダニズム文学的な作風で流行作家としては活躍したものの、死後は著作が絶版して久しく、作家としては師の芥川のように成功を収めたとはいえない。現在では多くの作品は初出誌にあたる他ない状況であり、作品入手は比較的困難な作家といえる。 == 著作 == === 原著単行本 === *『修道院の秋』[[新潮社]] 1920 (新進作家叢書) *『湖水の上』新潮社 1921 *『返らぬ春』[[玄文社]]出版部 1923 *『若き入獄者の手記』文興院 1924 *『鳥籠』寳文館 1925 *『過ぎ行く日』寶文館 1925 *『露草の花』大日本雄弁会 1926 *『月光の曲』宝文館 1927 *『白蘭花』平凡社 1930 (令女文学全集) === 復刊 === *『若き入獄者の手記 復刻版(まぼろし文学館)』本の友社 1998 === 作品集 === *『南部修太郎三篇』イー・ディー・アイ(EDI叢書) 2005.5 ** [[十重田裕一]]編、「修道院の秋」「湖水の上」「菊池寛論」所収。 *『南部修太郎 (大正浪漫ライブラリー1) 』はるかぜ書房 2021.8 ** 永井聖剛編、「春の花の印象」「ひなげし」「藤の花」「港の乙女」「春の哀愁」「接吻」「病院の窓」「湖水の上」「花と追憶」所収。 === 文学全集 === *『新進傑作小説全集 第14巻 南部修太郎集・[[石浜金作]]集』[[平凡社]] 1930 ** 「秋の牧場にて」「奈良の一夜」「病院の窓」「接吻」「畫家とセリセリス」「一兵卒と銃」「カフェ・エルトロド」「ハルピンの一夜」 「若き入獄者の手記」所収。 *『現代文学代表作全集 第3巻』([[廣津和郎]]編)萬里閣 1948 「接吻」 *『現代日本文学全集85 大正小説集』[[筑摩書房]] 1957 「猫又先生」 *『北海道文学全集 第5巻』[[立風書房]] 1980 「修道院の秋」「秋の牧場にて」 *『編年体大正文学全集 第9巻(大正9年)』 [[ゆまに書房]] 2001 「湖水の上」 === アンソロジー収録 === 「」内が南部の作品 *『モダン都市文学 観光と乗物』([[川本三郎]]編)平凡社 1990 「或る旅の記憶」 *『死-怨念[14]=妖気 幻想・怪奇名作選』ペンギンカンパニー 1993 「死神」 *『日本現代文学選 2』フロンティア文庫フロンティアニセン 2005 「ハルピンの一夜」 *『怪異十三』([[三津田信三]]編)[[原書房]] 2018 「死神」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{青空文庫著作者|48|南部 修太郎}} * {{青空文庫|000879|43367|新字新仮名|彼の長所十八 ――南部修太郎氏の印象――}}([[芥川龍之介]]著) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なんふ しゆうたろう}} [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の児童文学作家]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:仙台市出身の人物]] [[Category:結核に罹患した人物]] [[Category:1892年生]] [[Category:1936年没]]
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水野仙子
水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。1908年からは『女子文壇』に、全投書の掲載を約束された。 1909年(明治42年)(21歳)、『文章世界』誌に発表した『徒労』が編集主任の田山花袋に激賞されて上京し、田山家に寄寓して内弟子となった。そして、翌年の『お波』(中央公論2月号)、『娘』(同11月号)あたりで、投稿少女から一人立ちの作家となった。この年の11月、同じ花袋門下で『蒲団』のヒロインのモデルとして知られる岡田美知代が、永代静雄と別居した際に、代々木初台で同居する。 1911年、6年越しの文学仲間、川波道三と結婚した。花袋とは疎隔した。この年創刊された『青鞜』の社員となって作を載せたが、青鞜社の『新しい女たち』とは馴染まなかった。 1915年(大正4年)9月、前田晁に勧められて読売新聞記者となり、身上相談を受け持ったが、半年後肋膜炎を病んで退社。肝臓病、腹膜炎を併発し、療養したが、1918年(30歳)再発した。病床で有島武郎の作品の批評を書いて、武郎との文通が始まった。 その9月から、次姉ケサが勤める草津温泉の聖バルナバ医院へ入院し、翌1919年(大正8年)5月、亡くなり、雑司ヶ谷墓地に葬られた。 1920年9月、夫道三編集の『水野仙子集』が、叢文閣から刊行された。題字尾上柴舟、序文田山花袋、跋文有島武郎、装丁岸田劉生である。仙子の作品の約三分の一、22篇を納めている。
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水野 仙子は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。
{{参照方法|date=2021-05-19}} {{Infobox 作家 | name = 水野 仙子<br>(みずの せんこ) | image = Senko Mizuno.jpg | image_size = 200px | caption = | pseudonym = 服部水仙、服部貞子、水野仙など | birth_name = | birth_date = [[1888年]][[12月3日]] | birth_place = [[福島県]][[須賀川市]] | death_date = [[1919年]][[5月31日]] | death_place = [[群馬県]][[草津温泉]] | resting_place = [[雑司ヶ谷霊園]] | occupation = 作家 | language = | nationality = {{JPN}} | education = | alma_mater = 須賀川裁縫専修学校 | period = 1905年 - 1919年 | genre = 小説 | subject = | movement = | notable_works = 『娘』、『徒労』、『嘘をつく日』 | spouse = 川浪道三 | partner = | children = | relations = 服部躬治(長兄、歌人)、服部節子(長姉)、服部ケサ(次姉、救[[ハンセン病|ライ]]運動の医師) | influences = [[田山花袋]] | influenced = | awards = | debut_works = 『水仙の花』 | signature = | website = [http://page.freett.com/Schuricht/senko.htm] | footnotes = }} '''水野 仙子'''(みずの せんこ、[[1888年]]([[明治]]21年)[[12月3日]] - [[1919年]]([[大正]]8年)[[5月31日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 == 生涯 == [[服部直太郎]]とセイとの二男三女の末子として、[[福島県]]岩瀬郡須賀川町(現・[[須賀川市]])に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、[[福島県立須賀川高等学校|須賀川裁縫専修学校]]に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、[[河井酔茗]]の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。1908年からは『女子文壇』に、全投書の掲載を約束された。 1909年(明治42年)(21歳)、『文章世界』誌に発表した『徒労』が編集主任の[[田山花袋]]に激賞されて上京し、田山家に寄寓して内弟子となった。そして、翌年の『お波』([[中央公論]]2月号)、『娘』(同11月号)あたりで、投稿少女から一人立ちの[[作家]]となった。この年の11月、同じ花袋門下で『[[蒲団 (小説)|蒲団]]』のヒロインのモデルとして知られる[[岡田美知代]]が、[[永代静雄]]と別居した際に、[[代々木]][[初台]]で同居する。 1911年、6年越しの文学仲間、川波道三と結婚した。花袋とは疎隔した。この年創刊された『[[青鞜]]』の社員となって作を載せたが、青鞜社の『新しい女たち』とは馴染まなかった<ref>『冬を迎へやうとして』、新潮、1913年12月号([[青空文庫]]に収録)</ref>。 1915年(大正4年)9月、[[前田晁]]に勧められて[[読売新聞]]記者となり、身上相談を受け持ったが、半年後[[肋膜炎]]を病んで退社。[[肝臓]]病、[[腹膜炎]]を併発し、療養したが、1918年(30歳)再発した。病床で[[有島武郎]]の作品の批評を書いて、武郎との文通が始まった。 その9月から、次姉[[服部ケサ|ケサ]]が勤める[[草津温泉]]の[[コンウォール・リー|聖バルナバ医院]]へ入院し、翌1919年(大正8年)5月、亡くなり、[[雑司ヶ谷霊園|雑司ヶ谷墓地]]に葬られた。 1920年9月、夫道三編集の『水野仙子集』が、叢文閣から刊行された。題字[[尾上柴舟]]、序文[[田山花袋]]、跋文[[有島武郎]]、装丁[[岸田劉生]]である。仙子の作品の約三分の一、22篇を納めている。 == 手近な作品 == * 「『水野仙子集』復刻版、不二出版、叢書 青鞜の女たち 10(2005)」に収録されている作品。(標題の次は、初出誌ないし紙。その次の(1910.05)などは、初出の西暦年月。行末の (青)印の作品は、2010年7月現在、青空文庫に収められている。) ** 『四十餘日』、趣味(1910.05)(青) ** 『女醫の話』、青鞜(1912.09) ** 『陶の土』、[[新潮]](1913.01) ** 『神楽坂の半襟』、婦人評論(1913.02)(青) ** 『女』、文章世界(1913.02)(青) ** 『夜の浪』、女子文壇(1913.07)(青) ** 『犬の威厳』、中央文學(1914.02)(青) ** 『熱』、文章世界(1914.12) ** 『悔』、淑女画報(1915.09)(青) ** 『一粒の芥子種』、文章世界(1915.09) ** 『淋しい二人』、新潮(1915.10) ** 『二等室の思出』、希望(1916.04) ** 『一樹の蔭』、新日本(1917.04) ** 『十六になったお京』、読売新聞(1917.06) ** 『道 - ある妻の手紙』、讀賣新聞(1917.12)(青) ** 『輝ける朝』、中外(1918.02)(青) ** 『お三輪』、中外新論(1918.04) ** 『沈みゆく日』、中外新論(1918.12) ** 『響』、女學世界(1919.01)(青) ** 『嘘をつく日』、文章世界(1919.02)(青) ** 『白い雌鶏の行方』、家禽界(1919.04)(青) ** 『酔ひたる商人』、文章世界(1919.07)(青) * 上の(青)印のほか、青空文庫に収録されている作品 ** 『散歩』、(1914.09)、中央文学 ** 『脱殻』、(1913.12)、新潮 ** 『冬を迎へようとして』、新潮、(1913.12) * その他、水野仙子ホームページに多数の作品が収録されている。 * 上記のほか、単書に収録されている作品 ** 『神楽坂の半襟』、「渡邊澄子編:<small>短編</small>女性文学<small>近代続</small>』、[[おうふう]](2002)」の中 ** 『四十余日』、「筑摩書房 明治文学全集82(1965)」の中 ** 『お三輪』、「編年体大正文学全集7、ゆまに書房(2001)ISBN 9784897148960」の中 ** 菅野俊之編:『水野仙子4篇、散歩・脱殻・徒勞・お波』、エディトリアルデザイン研究所(2000)ISBN 9784901134170(『お波』の初出は、中央公論(1910.02)) == 出典 == * 渡邊澄子編:『<small>短編</small>女性文学<small>近代続</small>』、[[おうふう]](2002)ISBN 9784273031169 * [[今井邦子]]:『水野仙子さんの思ひ出』(「塩田良平編:明治文学全集 第82 明治女流文学集 第2、筑摩書房(1965)」の巻末 / [http://www.aozora.gr.jp/cards/000234/files/4431_11291.html](青空文庫) * らいてう研究会編:『「青鞜」人物事典 110人の群像』、[[大修館書店]](2001)ISBN 9784469012668 == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [http://carlschuricht.com/Senko/senko.htm 水野仙子ホームページ] * [http://carlschuricht.com/Senko/senko-bio.htm 水野仙子年譜](不二出版『水野仙子集』復刻版(2005)中の、「川浪道三:水野仙子年譜」から、作られている。) * [http://mizunosenko.web.fc2.com/ 水野仙子を題材としたオリジナルマンガ] * {{青空文庫著作者|112|水野 仙子}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みすの せんこ}} [[Category:19世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:19世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:日本の女性小説家]] [[Category:福島県出身の人物]] [[Category:読売新聞グループの人物]] [[Category:1888年生]] [[Category:1919年没]]
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1,708
三島霜川
三島 霜川(みしま そうせん、1876年7月30日 - 1934年3月7日)は、日本の作家、演劇評論家。 富山県中田町(現:高岡市)に漢方医の長男として生れる。本名、才二。 家業を継がせようという父の意に反し上京、尾崎紅葉に師事した。22歳の時、出世作『埋れ井戸』を発表。1907年に発表した『解剖室』と『平民の娘』が好評で迎えられ、中堅作家としての地位を得た。 ところが次回作として期待された『虚無』の手ひどい不評を契機に、創作活動は急速に衰え、文壇の圏外へと脱落した。 以来彼の活動は、家庭小説など通俗小説、児童向け歴史もの、『演藝畫報』に寄せる劇評や感想に移り、同誌に数年にわたって連載された『大正役者藝風記』は、没後中央公論社から出版され、名著と称えられた。 ほかに千山楼主人の筆名を用い、また三島才二の本名で芸能関係の古典籍を編纂した。
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三島 霜川は、日本の作家、演劇評論家。
'''三島 霜川'''(みしま そうせん、[[1876年]][[7月30日]] - [[1934年]][[3月7日]])は、[[日本]]の[[作家]]、演劇評論家。 ==人物・来歴== [[富山県]][[中田町 (富山県)|中田町]](現:[[高岡市]])に[[漢方医]]の長男として生れる。本名、才二。 家業を継がせようという父の意に反し上京、[[尾崎紅葉]]に師事した。22歳の時、出世作『埋れ井戸』を発表。1907年に発表した『解剖室』と『平民の娘』が好評で迎えられ、中堅作家としての地位を得た。 ところが次回作として期待された『虚無』の手ひどい不評を契機に、創作活動は急速に衰え、文壇の圏外へと脱落した。 以来彼の活動は、[[家庭小説]]など[[大衆小説|通俗小説]]、児童向け歴史もの、『[[演藝画報|演藝畫報]]』に寄せる劇評や感想に移り、同誌に数年にわたって連載された『大正役者藝風記』は、没後[[中央公論新社|中央公論社]]から出版され、名著と称えられた。 ほかに千山楼主人の筆名を用い、また三島才二の本名で芸能関係の古典籍を編纂した。 == 著書 == *『自由結婚』[[徳田秋声]]共著 駸々堂 1902 *『軍人の家庭』[[岡鬼太郎]]共編 隆文館 1904 *『日露激戦鴨緑江』金港堂 1904 *『妙な女 家庭小説』大学館 1907 *『野分 家庭小説』千山楼主人 大学館 1908 *『毘沙門丸 伝奇小説』千山楼主人 大学館 1908 *『女の野心』大学館 1908 *『華族の娘 家庭小説』大学館 1908 *『家庭の波 家庭小説』大学館 1908 *『月島丸の行衛 探検小説』成功雑誌社 1908 *『不運の娘 家庭小説』大学館 1908 *『不思議の池 心理小説』大学館 1908 *『ハイカラ(お伽噺十人十色)』 金港堂書籍 1908 *『花の御殿(お伽小説』 隆文館 1909 *『ゆきちがい』島之内同盟館 1911 *『令嬢奈美子』大学館 1911 *『[[豊臣秀吉|太閤秀吉]]』金の星社 (世界少年少女偉人伝大系) 1926 *『[[楠木正成|大楠公]]』金の星社 (世界少年少女偉人伝大系) 1926 *『[[源義経]]』日本歴史実伝物語叢書 1 金の星社 1927 *『[[曾我兄弟の仇討ち|曽我兄弟]]』日本歴史実伝物語叢書 2 金の星社 1927 *『赤穂四十七士』日本歴史実伝物語叢書 3 金の星社 1927 *『[[楠木正行|小楠公]]』日本歴史実伝物語叢書 4 金の星社 1927 *『信玄と謙信』日本歴史実伝物語叢書 5 金の星社 1927 *『維新哀史 [[彰義隊]]と[[白虎隊]]』日本歴史実伝物語叢書 6 金の星社 1927 *『関ケ原大合戦』日本歴史実伝物語叢書 7 金の星社 1927 *『[[新田義貞]] 南朝哀史』日本歴史実伝物語叢書 8 金の星社 1928 *『[[源義家|八幡太郎義家]]』日本歴史実伝物語叢書 9 金の星社 1928 *『[[西郷隆盛]]』日本歴史実伝物語叢書 金の星社 1928.10 *『少年太閤記』金の星社 1929 *『少年八犬伝』[[曲亭馬琴]]原作 金の星社 1929 *『少年膝栗毛』[[十返舎一九]]原作 金の星社 1930 *『少年水滸伝』金の星社 1930 *『少年日本外史 源平の巻』[[頼山陽]]原作 金の星社 1935 *『少年日本外史 南北朝の巻』金の星社 1935 *『役者芸風記』中央公論社 1935 *『三島霜川選集』全3巻 三島霜川選集刊行会 1979 == 外部リンク == * {{青空文庫著作者|22|三島 霜川}} * [https://kaguragawa.exblog.jp/ めぐり逢うことばたち 短詩・樹花たまには歴史など] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みしま そうせん}} [[Category:19世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:19世紀日本の評論家]] [[Category:20世紀日本の評論家]] [[Category:日本の演劇評論家]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:硯友社の人物]] [[Category:1876年生]] [[Category:1934年没]]
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1,710
6月
6月(ろくがつ)は、グレゴリオ暦で年の第6の月に当たり、30日間ある。 日本では水無月(みなづき)ともいう。ただし、本来は陰暦6月の異称である。 英語名では June という。ローマ神話のユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)から取られた。ユノが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれる。しかしながら、少なくともヨーロッパのカトリック教徒の多い諸国では、ギリシャ神話やローマの異教の神々がヨーロッパの人々の生活に影響を与えるというのは考えにくいという説もある。 日本におけるジューン・ブライドは、6月の雨が多くジメジメした薄暗い雰囲気で結婚する人が少ない事に困ったブライダル業界が1970年代ごろから始めた物であり、それまでは知られていなかった(日本と違い、ヨーロッパの6月は長い冬が明けて花が咲き始める時季で、世間一般に開放的で明るいムードが漂う)。 夏の初め(初夏)である。北海道を除く各地では梅雨の時期であり降水量が多い。 水無月の由来には諸説あるが、水無月の「無」は「の」を意味する連体助詞「な」であり「水の月」であるとする説が有力である。神無月の「無」が「の」で、「神の月」を意味するのと同様と考えられる。田植が終わって田んぼに水を張る必要のある月「水張月(みずはりづき)」「水月(みなづき)」であるとする説もある。 文字通り、梅雨が明けて水が涸れてなくなる月であると解釈されることもあるが、これは俗説(語源俗解)である。他に、田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるとする説、などもある。 日本では12月と並んで、6月は祝日がない月として知られている。 これは皇室由来の節目の日もなく、庶民の生活も農繁期でハレの行事がなかった点が影響している。 一部で時の記念日(6月10日)などの休日化を目指す動きがある。また、沖縄県では沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日に、沖縄戦の戦死者を弔う「慰霊の日」を設け、地方公共団体の施設の休日としている。過労死弁護団全国連絡会議は労働者の過労死が6月に多いため、厚生労働省に2001年6月8日、祝日のない6月に祝日を新設することを申し入れたことがある。しかし、この一方で「日本は諸外国より祝日が多すぎる(日本は2016年時点では祝日が16日であるのに対し、アメリカは10日、イギリスは8日、フランスは13日)。これ以上祝日を制定しないで欲しい」「祝日にふさわしい日がない」などの理由により、祝日の制定に否定的な意見があり、祝日を所管する内閣府も6月に祝日の制定することを検討していない。 なお1993年には、皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀により、6月9日が休日とされた。 フィクション作品では漫画『ドラえもん』でドラえもんのひみつ道具の1つである「日本標準カレンダー」を使って独自に祝日を制定するエピソードがある。
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6月(ろくがつ)は、グレゴリオ暦で年の第6の月に当たり、30日間ある。
{{redirect|六月|東京都足立区の地名|六月 (足立区) }} {{出典の明記|date=2014年6月}} [[Image:Les Tr%C3%A8s Riches Heures du duc de Berry juin.jpg|thumb|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より6月]] '''6月'''(ろくがつ)は、[[グレゴリオ暦]]で[[年]]の第6の[[月 (暦)|月]]に当たり、30日間ある。 == 呼称 == 日本では'''水無月'''(みなづき)ともいう。ただし、本来は[[太陰暦|陰暦]]6月の異称である。 [[英語|英語名]]では {{lang|en|''June''}} という。[[ローマ神話]]の[[ユーピテル|ユピテル]](ジュピター)の妻[[ユーノー|ユノ]](ジュノー)から取られた。ユノが[[結婚]]生活の守護神であることから、6月に[[結婚式]]を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」({{lang|en|June bride}}、6月の花嫁)と呼び、この[[月]]に結婚をすると幸せになれるといわれる。しかしながら、少なくとも[[ヨーロッパ]]の[[カトリック]]教徒の多い諸国では、[[ギリシャ神話]]やローマの異教の神々がヨーロッパの人々の生活に影響を与えるというのは考えにくいという説もある<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/174675 フランス人の結婚は「ロマンのかけら」もない・参列者の前で「財産分与法」すら読み上げる!] 岩本麻奈-東洋経済(2017年6月4日)2017年6月4日閲覧</ref>。 日本におけるジューン・ブライドは、6月の雨が多くジメジメした薄暗い雰囲気で結婚する人が少ない事に困った[[ブライダル]]業界が[[1970年代]]ごろから始めた物であり、それまでは知られていなかった(日本と違い、ヨーロッパの6月は長い冬が明けて花が咲き始める時季で、世間一般に開放的で明るいムードが漂う)。 == 日本における6月 == === 気候 === [[夏]]の初め(初夏)である。[[北海道]]を除く各地では[[梅雨]]<ref>ストレッチマン・ゴールド「楽しくすごそう!雨の日も」より。</ref>の時期であり降水量が多い。 === 水無月の語源 === 水無月の由来には諸説あるが、水無月の「無」は「の」を意味する[[連体助詞]]「な」であり「水の月」であるとする説が有力である<ref>「な」は「ない」の意に意識されて「無」の字があてられるが、本来は「の」の意で、「水の月」「田に水を引く必要のある月」の意とされる。(日本国語大辞典、第18巻、p.625、1976年4月15日第1版第2刷、小学館)</ref>。[[神無月]]の「無」が「の」で、「神の月」を意味するのと同様と考えられる<ref name="gogen">{{Cite web|和書|url=https://gogen-yurai.jp/minazuki/|title=語源由来辞典 - https://gogen-yurai.jp/minazuki/|accessdate=2018-6-28}}</ref>。田植が終わって田んぼに水を張る必要のある月「水張月(みずはりづき)」「水月(みなづき)」であるとする説もある。 文字通り、梅雨が明けて水が涸れてなくなる月であると解釈されることもあるが、これは俗説([[語源俗解]])である。他に、田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるとする説、などもある。 === 祝日が存在しない月 === 日本では12月と並んで、6月は[[国民の祝日|祝日]]がない月として知られている。 これは皇室由来の節目の日もなく、庶民の生活も農繁期でハレの行事がなかった点が影響している<ref name="asahi">[https://web.archive.org/web/20030604043028/http://www.asahi.com/national/update/0529/014.html 「休無月」返上、6月にも祝日を 過労死弁護団呼びかけ] - asahi.com(ウェブアーカイブ)</ref>。 一部で[[時の記念日]]([[6月10日]])などの休日化を目指す動きがある<ref name="asahi"/>。また、沖縄県では[[沖縄戦]]の組織的戦闘が終結した6月23日に、沖縄戦の戦死者を弔う「[[慰霊の日]]」を設け、[[地方公共団体]]の施設の休日としている。過労死弁護団全国連絡会議は労働者の過労死が6月に多いため<ref name="asahi"/>、[[厚生労働省]]に2001年6月8日、祝日のない6月に祝日を新設することを申し入れたことがある<ref name="wifree">[https://web.archive.org/web/20160304232602/http://www.freeml.com/wefree/origin/holiday/ 『6月に休日がないのはなんで?』調査 ウィふり調査団] - FreeML</ref>。しかし、この一方で「日本は諸外国より祝日が多すぎる(日本は[[2016年]]時点では祝日が16日であるのに対し、アメリカは10日、イギリスは8日、フランスは13日)。これ以上祝日を制定しないで欲しい」「祝日にふさわしい日がない」などの理由により、祝日の制定に否定的な意見があり<ref name="wifree"/>、祝日を所管する[[内閣府]]も6月に祝日の制定することを検討していない<ref name="asahi"/>。 なお[[1993年]]には、[[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀]]により、[[6月9日]]が[[休日]]とされた。 フィクション作品では漫画『[[ドラえもん]]』で[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]のひみつ道具の1つである「日本標準カレンダー」を使って独自に祝日を制定するエピソードがある。 * 漫画版では[[野比のび太|のび太]]が6月に祝日がないことに対する不満から6月2日を「ぐうたら感謝の日」という架空の祝日を制定したことがある<ref>小学館 てんとう虫コミックス『ドラえもん』第14巻「ぐうたらの日」</ref>。 * アニメ版では2014年6月13日放送「たけしのズンドコ誕生日」で[[剛田武|ジャイアン]]が6月13日は「昼寝の日」、6月15日は「ジャイアンの誕生日」も祝日に制定された。 === 異名 === {{div col|colwidth=12em}} * いすずくれづき(弥涼暮月) * えんよう(炎陽) * かぜまちづき(風待月) * けんびづき(建未月) * すいげつ(水月) * すずくれづき(涼暮月) * せみのはつき(蝉羽月) * たなしづき(田無月) * たんげつ(旦月) * とこなつづき(常夏月) * なるかみづき(鳴神月) * ばんげつ(晩月) * ふくげつ(伏月) * まつかぜづき(松風月) * みなづき(水無月) * ようひょう(陽氷) {{div col end}} == 6月の年中行事 == * [[6月1日]] - [[衣替え]] * 6月初旬 - [[百万石まつり|加賀百万石まつり]](日本・[[石川県]][[金沢市]]) * [[6月21日]]頃 - [[夏至]]([[北半球]]、20日・22日となることもある) * [[6月23日]] - [[慰霊の日]](日本・[[沖縄県]]) * [[6月30日]] - [[大祓]] * 6月第1[[日曜日]] - [[プロポーズ]]の日(日本) * 6月第2日曜日 - [[花の日]] * 6月第3日曜日 - [[父の日]](日本) * 6月下旬 - 3月決算の多くの会社で定期[[株主総会]]が開かれる == 6月に行われるスポーツ == * 第1日曜を含む週末 - [[全米女子オープン]]([[ゴルフ]]) * 第1土曜 - [[ダービーステークス]](競馬 [[イギリス]]・[[エプソム競馬場]]) * 上旬から中旬 - [[NBAファイナル]] * 中旬([[夏至]]前の日曜) - [[ル・マン24時間レース]]([[モータースポーツ]] [[フランス]]・[[サルト・サーキット]]) * 第3日曜を含む週末 - [[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]([[ゴルフ]]) * 最終月曜から2週間 - [[ウィンブルドン選手権]]([[テニス]] [[ロンドン]]・[[オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ]]) == 6月がテーマの楽曲 == {{div col}} *[[LINDBERG VII|6月の太陽]](歌: [[リンドバーグ (バンド)|リンドバーグ]]) *6月の天気予報(歌: [[スムルース]]) *6月の雨(歌:[[松山千春]]) *6月の雨(歌:[[谷村有美]]) *6月の雨 (歌:究極) *6月の方舟(歌:[[伊藤つかさ]]) *6月の天使(歌:[[高橋幸宏]]) *六月の雨(歌: [[小椋佳]]) *六月の雨(歌:[[Plastic Tree]]) *六月の雨の朝 (歌: [[矢沢永吉]]) *六月(歌:[[Art building]]) *[[NIAGARA CALENDAR '78#A面|六月 青空のように]] (歌: [[大滝詠一]]) *[[小さな願い (Le Coupleのアルバム)#収録曲|六月の雨音]] (歌: [[Le Couple]]) *[[HIROKO TANIYAMA '70S#収録曲|六月の花嫁]] (歌: [[谷山浩子]]) *[[メモリアル (あみんのアルバム)|六月の子守唄]] (歌: ウィッシュ、他) *[[六月の花/国士無双|六月の花]](歌:[[湘南乃風]]) *[[だから僕は音楽を辞めた#収録曲|六月は雨上がりの街を書く]] (歌:[[ヨルシカ]]) *[[裸足の季節#収録曲|RAINBOW〜六月生まれ]] (歌: [[松田聖子]]) *[[Kimono Beat]](歌:[[松田聖子]]/[[小室哲哉]]) *[[SPLEEN 〜六月の風にゆれて〜]](歌: [[沢田研二]]) *[[ジューン・ブライド (ザ・ピーナッツ)|ジューン・ブライド]](歌: [[ザ・ピーナッツ]]) *[[ハネウマライダー|ジューンブライダー]](歌: [[ポルノグラフィティ]]) *水無月十三夜(歌:[[村下孝蔵]]) *六月十三日、強い雨。(歌:[[安藤裕子 (歌手)|安藤裕子]]) *[[innocent world]](歌:[[Mr.children]]) *[[優 (工藤静香の曲)|優]](歌:[[工藤静香]]) {{div col end}} == その他 == * [[星座]] - [[双児宮|双子座]](6月21日頃まで)、[[巨蟹宮|蟹座]](6月22日頃から) * [[ストロベリームーン]] - 6月の[[満月]]<ref>{{Cite news|和書 |title=シンデレラ城とストロベリームーン |newspaper=[[時事通信]] |date=2018-6-28 |url=https://www.jiji.com/jc/p?id=20180628201929-0027501166 |access-date=2023-6-29 |archive-date=2019-5-2 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190502210051/https://www.jiji.com/jc/p?id=20180628201929-0027501166}}</ref><ref name="bl1806a">{{Cite news|和書 |title=6月28日の満月は年に一度の「ストロベリームーン」 別名は「恋を叶えてくれる月」 |newspaper=BIGLOBEニュース |date=2018-6-28 |url=https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0628/blnews_180628_0541217336.html |access-date=2018-6-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://weathernews.jp/s/topics/201806/280175/|title=今日はストロベリームーン!その由来とは?|publisher=[[ウェザーニューズ]]|date=2018-06-28|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref name="km1806">{{Cite web|和書|url=https://planetarium.konicaminolta.jp/stariumnavi/starguide/hoshizora/20180628.html|title=ストロベリームーン|publisher=[[コニカミノルタ]]|date=2018-06-28|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref name="gk1706">{{Cite web|和書|url=http://www.city.gifu.lg.jp/item/35296.htm|title=今年最も小さく見える満月はストロベリームーン!?|publisher=[[岐阜市科学館]]|date=2017-06-09|accessdate=2018-06-29}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|25em}} == 関連項目 == {{Commonscat|June}} {{Wiktionarypar|六月|みなづき}} {{月 (暦)|カレンダー_6月|365日|月|6|日|[[6月30日|30]]}} {{Normdaten}} [[Category:6月|*]] [[Category:月 (暦)|06]]
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電子メール
電子メール(でんしメール)あるいはEメール(英: electronic mail、email)は、コンピュータネットワークを使用して、まるで郵便による手紙のように文章(や添付したファイルや写真データなど)のやりとりをすること、およびその技術。 インターネットの初期からある通信手段であり、UUCPやSMTPなどのプロトコルを介して、メールを相手サーバに届けられる。電気的な信号で送受信を行うので、地球の裏側にいる相手に送る場合でも隣の部屋にいる相手に送る場合でも、かかる時間は一般的には数十秒から数分程度である。 一方で、インターネットの普及以前にコンピュータでの通信手段として広く行われていた、いわゆるパソコン通信でも、加入者同士で文書のやり取りを行うシステムが「電子メール」として提供されていた。ただし、パソコン通信では、一般的に、通信が1つのパソコン通信システム内にとどまっていたので、他のシステムとの間での電子メールの交換機能などの相互通信機能はほとんどなかった。また、各パソコン通信システムごとに独自のシステムが構築されていた事が多かったので、ユーザインターフェイス等についても互換がなかった。しかしその後、インターネットの普及に伴って、大手パソコン通信システムとインターネット間で相互に通信が可能にもなった。メール友達(メル友)も、流行になった時期があった。 電子郵便とも言った。 英語では1990年代や2000年代あたりでは「e-mail」とハイフンを入れて表記することが一般的だったが、2010年代や最近の英語ではemailとハイフンも省略することが増えている。 なお、以下では「広義のメール」と記載が無い物はRFCに準拠した、UUCP、SMTPのプロトコルを使用した電子メールについてのみ記述する。それ以外の電子メールについては上記の各関連項目を参照のこと。 個々の電子メールのアドレスは、「[email protected]」のような形で表現される。 実際に電子メールを使うためには独自ドメイン名(上の例では「examplecompany.com」)を得て、ドメイン名を管理するDNSサーバやメールサーバに(手動であれ、自動であれ)登録することで送受信できるようになる。かつては、加入インターネットプロバイダや勤務先・通学先の企業・学校などのアドレス(アカウント)が多かったが、『Yahoo!メール』や『gmail』が普及してからはむしろそれらのアドレスのほうが多数派になっている。 一通の電子メールの容量について、理論的には制限はないが、メールサーバ設置者(多くはプロバイダだがそれ以外もある)が設定している容量(「送受信可能な最大容量」などと表現されている)の制約を受ける。プロバイダごとにまちまちである。小さい容量では、ダイヤルアップ接続時代の名残の数メガバイト(MB)程度のものから、ブロードバンドが一般化してからは10~20MB程度が一般的で、一部のプロバイダでは100MB程度としている。数Gギガバイト(GB)程度に設定するプロバイダもある。 日本の主要プロバイダの例としては、たとえばOCNでは10MBまで、So-netが20MBまで、Biglobeが100MBまでである。これ以上の大容量のデータのやり取りはできない。そのため、別の手段でデータを転送しメール本文ではその受け取り方法を記載する。メールクライアントによってはこの作業を自動的に行うものもある(gmailなど)。別の手段の具体的な例としてFTPやP2P、HTTP等によるオンラインストレージ、ファイル転送サービス、アップローダー、宅配便などでメディアを送るなどが使用される。 gmailの受信メールは一通50MBまで(送信のほうに関しては25MB超の添付ファイルはGoogleドライブや他のファイル共有サービスを使用を求める)。 電子メールの送受信を行う時に一般ユーザの側が使うアプリケーションソフトに関しては、1990年代などはもっぱらパソコンにインストールした電子メールクライアントソフトで送受信を行った。 2000年代や2010年代あたりからウェブブラウザでサーバにアクセスしてアカウントにログインしてウェブページ上で送受信を行う方式(ウェブメール)も広まった。このウェブメール方式は、POP3、IMAP4、SMTPなどの細かい設定が不要であり、 社内の他部署や出先や旅先など自分のパソコンを持ち歩いていない状態でも、インターネットのウェブサイトにブラウザでアクセスできるパソコンがあれば自分の個人的なアドレスで電子メールの送受信ができる利点がある。またコンピュータウィルスが含まれているファイルが添付されているウィルスメールが送られてきた場合でもそれの影響を遮断しやすく、また悪意で意図的に大容量のメールを送って他者を困らせようとする者がいる場合でもそれの悪影響を遮断しやすい(メールのタイトルと容量だけ確認して、必要なメールだけ選んで中身を読んで、怪しいと思えるメールなどはメールの実体を自分のパソコンに受信せずに済ますこともできる)など、つまりコンピュータセキュリティ上のメリットや運用上のメリットもある。 無料アドレス(フリーメールサービス)の場合は、ウェブブラウザを使ってウェブページ上で、送受信を行うウェブメールがほとんどである。 現在、インターネットでは、メールサーバ間での通信およびクライアントからの送信には、一般にSMTPが使われる。古くは、また現在でも希に、UUCPが使われる。メールは、数々のサーバをリレーのように経由して目的のメールサーバに伝えられる。なお、電子メールには、送信者の使用メールソフトや経由サーバーなどのヘッダーと呼ばれる情報が付属されている。 メールサーバからメールを読み出す場合には、POP、IMAPなどのプロトコルが用いられる。メールの書式については、RFC 5322で規定がある。また、英字以外の文字・言語やテキスト以外の情報をメールで送るなどのためにMIMEが規定されている。 元来のメールの文字コードはUS-ASCIIのみであったが、上記MIMEの規定により様々な文字コードが使えるようになった。 かつての日本のJUNETではJIS規格に基づく規則を決めて日本語を扱えるようにした。この規則をMIMEの枠組みで再定義したものがISO-2022-JPである。現在の日本語メールでは、このISO-2022-JPが広く用いられている。 RFC 2277では、出来るだけ広く知られた文字コードを選ぶように注意を促している。これはUTF-8が普及するまでの暫定的なものであるが、その期間は50年であるかもしれないので事実上は永遠と考えてよいとも書かれている。 元来は、メールは文章程度のプレーンテキスト形式の物のみであったが、上記MIMEの規定および普及に伴って、メール本文をHTMLにより記述したHTML形式のメールも、RFCに規定されて一般にも使われるようになった。Microsoft Windowsの標準メールクライアントであったOutlook Expressの初期設定ではメールの作成時にHTML形式が選ばれていたため、送受信の機会も多くなった。 HTML形式のメールは、メール本文がHTMLで記述できるのでメールにウェブページと同様の表現力を持たせられる利点がある。携帯電話・PHSでも、cHTML形式のメールが一般向け仕様のサービスとして提供されているものもある。 その一方で、ただし「HTMLメールを表示する事」は「ブラウザでWebページを表示する事」と技術的には根本的な違いはないため、メール中のHTML情報を展開し表示するためのレンダリングエンジンのセキュリティホールを突いて、メールを見る(プレビューする)だけでコンピュータウイルスが侵入する被害を受けたり、迷惑メール・架空請求メール等で画像タグを埋め込んだメールを送りつけて表示させ、情報を収集(ウェブビーコンと言う)して悪用するなど、セキュリティ上の問題が相次いだ。 対策としては、ウイルス対策・迷惑メール対策のソフトを導入するか、HTML形式のメールをフィルタリング機能で受信を拒否する・ゴミ箱フォルダへ振り分けるなどがある。また、HTMLメールの表示に対応していないメールクライアントもあって、断り無くHTML形式のメールを送信しても正しく受信されないおそれがある。 なお、あるファイルデータをメールに添付して送る場合、添付ファイルとしてMIMEなどによってテキスト化(エンコード)をしてメール本文に埋め込んで送信して、受信側で元のデータファイルに復元(デコード)する方法が取られる。添付ファイルには、コンピュータウイルスも仕込み可能なので、受信時に添付ファイルを自動的に開く設定になっていると、やはりコンピュータウイルスが侵入する被害を受けるなどの危険もある。 一通一通それぞれのメールは、本文とは別に、ヘッダーフィールドと呼ばれる各種の特殊な情報が記載された領域を持つ。ほとんどのメールクライアントでは、何らかの方法(メールクライアント毎に異なる)によって、このヘッダーフィールドの情報を参照可能である。この情報は、脅迫メールやスパムなどのメールが届く場合などに、送信元の特定などに威力を発揮する。ただし、偽装も可能で必ずしもすべてのヘッダフィールドを付加する必要はないので、完全には判断できない。 ヘッダーフィールドは フィールド名:フィールド値という形で記載される。 メールを送信する際の機能として、Cc(写し受信者)とBcc(秘密受信者)の2種類ある。メールの本来の送信先は一般的にTo:に指定して送信するが、本来の送信先以外にも一応複製を送っておきたい相手などがいるという場合にこの機能を使用する。 メールを初めて利用する人はもちろん、それなりに使い慣れている人にしても、この機能の本来の使用方法を理解していない事も多い。この機能を使うに当たっては、よく理解して使えばとても便利であるが、私用・公用に限らず、Cc機能とBcc機能の違い・それぞれに指定されて送信された相手に見える自分以外の送信先をよく理解して使わないと、例としてメールアドレスの個人情報漏洩など、色々な意味で問題を起こす事となる。 また、Bccとして指定したメールアドレスを他の受信者に見せたり、ヘッダー内の別領域に書くなどの欠陥を持つメールソフトが存在するので、Bcc機能を理解していてもあえて使わない利用者も居る。 テキスト形式のメッセージを電気的に伝える方法は1800年代中頃のモールス信号による電報に遡る事が出来る。1939年のニューヨーク万国博覧会では、IBMが将来郵便に替わる高速の自社用電波を用いた通信で、祝福の文書をサンフランシスコからニューヨークに送った。第二次世界大戦中、ドイツが使用したテレタイプ端末は、その後テレックスが世界的に普及する1960年代末まで使われた。アメリカには同様なTWXがあり、1980年代末まで重要な通信方法の位置を占めた。 歴史的に「electronic mail(エレクトロニック・メール)」という用語は一般的に電子化された送信文書全般を指して用いられた。例えば、1970年代前半にはファクシミリによる文書送信を指す用語として用いられる例もあった。 電子メールはインターネットに先行して開発された。既存の電子メールシステムはインターネットを作るに当たって重要な道具となった。 最初の電子メールは1965年、メインフレーム上のタイムシェアリングシステムの複数の利用者が相互に通信する方法として使われ始めた。1970年代初頭までに、アメリカ国防総省の自動デジタル・ネットワーク(英語版) (AUTODIN) は1350台の端末間を繋ぎ、1件あたり平均3000文字のメッセージを月間3000万件取り扱えるようになった。AUTODINは18台の計算機化された大きな切替装置が運用を支え、さらに約2500台の端末を繋げるアメリカ共通役務庁(英語版)のアドバンスト・レコード・システムとも接続された。正確なところは不明だがその類の機能を持つ最初のシステムとして、SDC(ランド研究所からのスピンオフでSAGEのソフトウェア開発を行った会社)のQ32システムがある。マサチューセッツ工科大学は1961年にCTSSを導入し、複数の利用者が離れた端末から電話回線を使って中央システムにログインし、ディスクにファイルを保存し共有できる体制を整えた。 電子メールは間もなく利用者が異なるコンピュータ間で情報をやり取りするための「ネットワーク電子メール」に拡張された。1966年には異なるコンピュータ間で電子メールを転送していた(SAGEでの詳細は明らかではないが、もっと早い時期に実現していたかもしれない)。 ARPANETは電子メールの発展に多大な影響を与えた。その誕生直後の1969年にシステム間電子メール転送の実験を行ったという報告がある。BBN社のレイ・トムリンソンは1971年にARPANET上の電子メールシステムを開発し、初めて@を使って利用者名と機器とを指定できるようにした。ARPANET上では電子メール利用者が急激に増大し、1975年には1000人以上が利用するようになっていた。 その他にも、1978年までにUNIXメールがネットワーク化されUUCPとなり、1981年にはIBMのメインフレームの電子メールがBITNETで接続された。 ARPANETでの電子メールの利便性と利点が一般に知られるようになると、電子メールの人気が高まり、ARPANETへの接続ができない人々からもそれを要求する声が出てきた。タイムシェアリングシステムを代替ネットワークで接続した電子メールシステムがいくつも開発された。例えばUUCPやIBMのVNETなどがある。 全てのコンピュータやコンピュータネットワークが直接相互に接続されるわけではないので、電子メールのアドレスには情報の伝達「経路」、つまり送信側コンピュータから受信側コンピュータまでのパスを示す必要があった。電子メールはこの経路指定方法でいくつものネットワーク間(ARPANET、BITNET、NSFNET)でやり取りすることができた。UUCPで接続されたホストとも電子メールをやり取りすることが可能であった。 経路は「バングパス」と呼ばれる方法で指定された。あるホストから直接到達可能なホストのアドレスを書き、そこから次に到達可能なホストのアドレスをバング(感嘆符=!)で接続して書いていくアドレス指定方式である。 CCITTは、種々の電子メールシステムの相互運用を可能とするために 1980年代にX.400標準規格を開発した。同じ頃、IETFがもっと単純なプロトコルSimple Mail Transfer Protocol (SMTP) を開発し、これがインターネット上の電子メール転送のデファクトスタンダードとなった。インターネットに各家庭から接続するようになった現代では、SMTPを基礎とする電子メールシステムの相互運用性は逆にセキュリティ上の問題を生じさせている。 1982年、ホワイトハウスはアメリカ国家安全保障会議 (NSC) 従事者のために IBM の電子メールシステム Professional Office System (PROFシステム)を採用した。1985年4月、このシステムがNSC従事者向けに完全動作するようになった。1986年11月、ホワイトハウスの残りの部分もオンライン化された。1980年代末ごろまではPROFシステムだけだったが、その後は様々なシステムが導入されている(VAX A-1(オールインワン)や、cc:Mailなど)。 日本では1984年からJUNETが大学間の接続を始めており、その後企業の研究機関も含めて接続が広がった。当初はASCII文字のみの想定であったが、後に JUNET において、電子メールなどで日本語(漢字)使用を可能とする文字符号化方式ISO-2022-JPが開発されている(電子メール#文字コード)。 1980年代後半時点におけるUNIX上でのメール作成時の日本語入力システム(FEPとも呼ばれた)としては、UNIX環境にてWnnを使用する方法があった(日本語入力システムとしては、後にCannaも出開発された)。それとは別に、MS-DOS にてシリアルポート経由での通信を目的としたKEK-Kermit等を起動してパソコンをUNIX端末としておき、日本語入力システムとしてATOKあるいは松茸を利用して、パソコン側で漢字コードまでを生成し、KEK-Kermit等でパソコンローカル側の漢字コードである Shift JIS をUNIX側で指定された漢字コードであるEUC又はJIS等に変換しつつ、UNIX側に送り込むことでUNIX上でのメール作成時の漢字入力手段とする方法もあった。逆に、UNIX側で受け取った漢字入り電子メールをUNIX端末としているパソコン側で表示する際、パソコン側で受診した漢字コードは KEK-Kermit等によって再びShift JISに変換されてから表示されていた。 これに続く時代にて大学や企業にてパソコンが直接 Ethernet 接続されるようになり、また、一般家庭にもダイヤルアップ接続が拡大する中、様々な種類の電子メールクライアントが出現する。 電子メールのトラフィックの多くは実はスパムメールである。バラクーダネットワークスの報告によると、2007年中に送信されたメールのうち90%から95%がスパムメールであったという。大量に送信されるこれらのスパムメールはメールサーバに過大な負荷を与え、メール配送遅延の原因となることもある。たとえば2004年7月下旬から8月上旬にかけて、大手インターネットプロバイダ@niftyで、海外から大量に送信されたスパムメールによりメールサーバに断続的な負担が掛かり、メールの受信に支障が生じる状態が続いた。(2010年10月ロシアで摘発されたスパムメール業者は1日500億通を発信していたという。) また近年、トロイの木馬などのマルウェアに感染したコンピュータ群によって引き起こされるDDoS型のスパム送信の割合が急激に増加しており、ますますメールサーバに多大な負荷を及ぼすものとされている(→ボットネットを参照)。 スパム以外のトラフィック増大要因として、いわゆる「年賀メール」(元旦前後に発生する大量の挨拶メール)の類もある。特に携帯電話等のメール機能は「即時の意思疏通を図る手段」としてチャット的に利用される場合があるため、一般の電子メールに比べ大量かつ集中的に送信されやすく、これを原因とした配送遅延や輻輳が問題になる場合もある。この対策として、各通信事業者が年越時間帯の利用自粛を呼び掛けたり発信制限を行ったりすることもある。かつてパソコン通信が全盛だった時代には、処理の集中を防ぐため、あらかじめ年賀メールをサーバに予約送信しておき元旦に順次配送するといったサービスも提供されていた。 なお、電子メールの配送システムの多くは、メールサーバに一定以上の負荷が掛かると送信を保留し一旦スプールに保存し後に(例えば数時間後に)再送信を試みる仕組みになっているため、トラフィックが一定量を超えると配送の極端な遅延が起こる。この遅延はメール1通毎に起こるため、同時期に送ったメールであっても、あるものは数秒で届きあるものは数時間で届くということになり、これを理解していない利用者の間ではメールを「送った」「送らない」で揉める恐れもある。 一時的なトラフィックの増大でスプールに保存された保留メールは、多くの場合時間の経過と共に処理され正常に戻るが、メールサーバの能力が十分でないと再送処理自体が間に合わなくなり、送信者に失敗通知が返送されることもある。なお、失敗通知すら返送されず「消滅」することは原理的にありえない。メールサーバは能力が追い付かない場合メールの受信(SMTPコネクション)自体を拒否するからである。よく年賀メール等で「トラフィック増大が原因であるプロバイダのメールの紛失が起きた」と、あたかも不可抗力であるが如き報道を目にするが、正確にはそのプロバイダのメールサーバの管理が適切でなく、混雑時の処理が正しく動作していないシステム不良である。 同時多発テロ時には、ニューヨーク周辺間のメールが1日遅延するなどした他、2009年には南アフリカでケープタウンとヨハネスブルグ間700kmで実験が行われ、電子メールより伝書鳩の方が早く情報を伝達できた。 スパムメール対策としてサーバ上、クライアント上でのフィルタリングが普及してきたが、誤検知により通常のメールがスパムであると判断されてしまい、不着となる問題が増えている(→電子メールフィルタリングを参照)。 文字だけのやりとりに見られる問題(炎上、Flaming)は電子メールにおいても見られる。メールの真意、感情が相手に伝わらず、度々揉め事に発展するケースが挙げられている。英語圏では、メールの真意を読み取り間違え、感情に任せて送るメールの呼称(スラング)にFlame Mailというものがある。 電子メールにおけるテキストベースな平文は、サーバーやネットワーク上でスニッフィング(傍受)される可能性が高くセキュリティーの観点から好ましいとは言えない。フィル・ジマーマンが開発し、公開した暗号ソフトウェア(Pretty Good Privacy:PGP)のプラグインなどを導入することで安全性を高められる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電子メール(でんしメール)あるいはEメール(英: electronic mail、email)は、コンピュータネットワークを使用して、まるで郵便による手紙のように文章(や添付したファイルや写真データなど)のやりとりをすること、およびその技術。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "インターネットの初期からある通信手段であり、UUCPやSMTPなどのプロトコルを介して、メールを相手サーバに届けられる。電気的な信号で送受信を行うので、地球の裏側にいる相手に送る場合でも隣の部屋にいる相手に送る場合でも、かかる時間は一般的には数十秒から数分程度である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方で、インターネットの普及以前にコンピュータでの通信手段として広く行われていた、いわゆるパソコン通信でも、加入者同士で文書のやり取りを行うシステムが「電子メール」として提供されていた。ただし、パソコン通信では、一般的に、通信が1つのパソコン通信システム内にとどまっていたので、他のシステムとの間での電子メールの交換機能などの相互通信機能はほとんどなかった。また、各パソコン通信システムごとに独自のシステムが構築されていた事が多かったので、ユーザインターフェイス等についても互換がなかった。しかしその後、インターネットの普及に伴って、大手パソコン通信システムとインターネット間で相互に通信が可能にもなった。メール友達(メル友)も、流行になった時期があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "電子郵便とも言った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語では1990年代や2000年代あたりでは「e-mail」とハイフンを入れて表記することが一般的だったが、2010年代や最近の英語ではemailとハイフンも省略することが増えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、以下では「広義のメール」と記載が無い物はRFCに準拠した、UUCP、SMTPのプロトコルを使用した電子メールについてのみ記述する。それ以外の電子メールについては上記の各関連項目を参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "個々の電子メールのアドレスは、「[email protected]」のような形で表現される。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "実際に電子メールを使うためには独自ドメイン名(上の例では「examplecompany.com」)を得て、ドメイン名を管理するDNSサーバやメールサーバに(手動であれ、自動であれ)登録することで送受信できるようになる。かつては、加入インターネットプロバイダや勤務先・通学先の企業・学校などのアドレス(アカウント)が多かったが、『Yahoo!メール』や『gmail』が普及してからはむしろそれらのアドレスのほうが多数派になっている。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一通の電子メールの容量について、理論的には制限はないが、メールサーバ設置者(多くはプロバイダだがそれ以外もある)が設定している容量(「送受信可能な最大容量」などと表現されている)の制約を受ける。プロバイダごとにまちまちである。小さい容量では、ダイヤルアップ接続時代の名残の数メガバイト(MB)程度のものから、ブロードバンドが一般化してからは10~20MB程度が一般的で、一部のプロバイダでは100MB程度としている。数Gギガバイト(GB)程度に設定するプロバイダもある。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本の主要プロバイダの例としては、たとえばOCNでは10MBまで、So-netが20MBまで、Biglobeが100MBまでである。これ以上の大容量のデータのやり取りはできない。そのため、別の手段でデータを転送しメール本文ではその受け取り方法を記載する。メールクライアントによってはこの作業を自動的に行うものもある(gmailなど)。別の手段の具体的な例としてFTPやP2P、HTTP等によるオンラインストレージ、ファイル転送サービス、アップローダー、宅配便などでメディアを送るなどが使用される。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "gmailの受信メールは一通50MBまで(送信のほうに関しては25MB超の添付ファイルはGoogleドライブや他のファイル共有サービスを使用を求める)。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "電子メールの送受信を行う時に一般ユーザの側が使うアプリケーションソフトに関しては、1990年代などはもっぱらパソコンにインストールした電子メールクライアントソフトで送受信を行った。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2000年代や2010年代あたりからウェブブラウザでサーバにアクセスしてアカウントにログインしてウェブページ上で送受信を行う方式(ウェブメール)も広まった。このウェブメール方式は、POP3、IMAP4、SMTPなどの細かい設定が不要であり、 社内の他部署や出先や旅先など自分のパソコンを持ち歩いていない状態でも、インターネットのウェブサイトにブラウザでアクセスできるパソコンがあれば自分の個人的なアドレスで電子メールの送受信ができる利点がある。またコンピュータウィルスが含まれているファイルが添付されているウィルスメールが送られてきた場合でもそれの影響を遮断しやすく、また悪意で意図的に大容量のメールを送って他者を困らせようとする者がいる場合でもそれの悪影響を遮断しやすい(メールのタイトルと容量だけ確認して、必要なメールだけ選んで中身を読んで、怪しいと思えるメールなどはメールの実体を自分のパソコンに受信せずに済ますこともできる)など、つまりコンピュータセキュリティ上のメリットや運用上のメリットもある。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "無料アドレス(フリーメールサービス)の場合は、ウェブブラウザを使ってウェブページ上で、送受信を行うウェブメールがほとんどである。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現在、インターネットでは、メールサーバ間での通信およびクライアントからの送信には、一般にSMTPが使われる。古くは、また現在でも希に、UUCPが使われる。メールは、数々のサーバをリレーのように経由して目的のメールサーバに伝えられる。なお、電子メールには、送信者の使用メールソフトや経由サーバーなどのヘッダーと呼ばれる情報が付属されている。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "メールサーバからメールを読み出す場合には、POP、IMAPなどのプロトコルが用いられる。メールの書式については、RFC 5322で規定がある。また、英字以外の文字・言語やテキスト以外の情報をメールで送るなどのためにMIMEが規定されている。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "元来のメールの文字コードはUS-ASCIIのみであったが、上記MIMEの規定により様々な文字コードが使えるようになった。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "かつての日本のJUNETではJIS規格に基づく規則を決めて日本語を扱えるようにした。この規則をMIMEの枠組みで再定義したものがISO-2022-JPである。現在の日本語メールでは、このISO-2022-JPが広く用いられている。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "RFC 2277では、出来るだけ広く知られた文字コードを選ぶように注意を促している。これはUTF-8が普及するまでの暫定的なものであるが、その期間は50年であるかもしれないので事実上は永遠と考えてよいとも書かれている。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "元来は、メールは文章程度のプレーンテキスト形式の物のみであったが、上記MIMEの規定および普及に伴って、メール本文をHTMLにより記述したHTML形式のメールも、RFCに規定されて一般にも使われるようになった。Microsoft Windowsの標準メールクライアントであったOutlook Expressの初期設定ではメールの作成時にHTML形式が選ばれていたため、送受信の機会も多くなった。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "HTML形式のメールは、メール本文がHTMLで記述できるのでメールにウェブページと同様の表現力を持たせられる利点がある。携帯電話・PHSでも、cHTML形式のメールが一般向け仕様のサービスとして提供されているものもある。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その一方で、ただし「HTMLメールを表示する事」は「ブラウザでWebページを表示する事」と技術的には根本的な違いはないため、メール中のHTML情報を展開し表示するためのレンダリングエンジンのセキュリティホールを突いて、メールを見る(プレビューする)だけでコンピュータウイルスが侵入する被害を受けたり、迷惑メール・架空請求メール等で画像タグを埋め込んだメールを送りつけて表示させ、情報を収集(ウェブビーコンと言う)して悪用するなど、セキュリティ上の問題が相次いだ。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "対策としては、ウイルス対策・迷惑メール対策のソフトを導入するか、HTML形式のメールをフィルタリング機能で受信を拒否する・ゴミ箱フォルダへ振り分けるなどがある。また、HTMLメールの表示に対応していないメールクライアントもあって、断り無くHTML形式のメールを送信しても正しく受信されないおそれがある。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、あるファイルデータをメールに添付して送る場合、添付ファイルとしてMIMEなどによってテキスト化(エンコード)をしてメール本文に埋め込んで送信して、受信側で元のデータファイルに復元(デコード)する方法が取られる。添付ファイルには、コンピュータウイルスも仕込み可能なので、受信時に添付ファイルを自動的に開く設定になっていると、やはりコンピュータウイルスが侵入する被害を受けるなどの危険もある。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一通一通それぞれのメールは、本文とは別に、ヘッダーフィールドと呼ばれる各種の特殊な情報が記載された領域を持つ。ほとんどのメールクライアントでは、何らかの方法(メールクライアント毎に異なる)によって、このヘッダーフィールドの情報を参照可能である。この情報は、脅迫メールやスパムなどのメールが届く場合などに、送信元の特定などに威力を発揮する。ただし、偽装も可能で必ずしもすべてのヘッダフィールドを付加する必要はないので、完全には判断できない。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヘッダーフィールドは フィールド名:フィールド値という形で記載される。", "title": "電子メールを支える技術" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "メールを送信する際の機能として、Cc(写し受信者)とBcc(秘密受信者)の2種類ある。メールの本来の送信先は一般的にTo:に指定して送信するが、本来の送信先以外にも一応複製を送っておきたい相手などがいるという場合にこの機能を使用する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "メールを初めて利用する人はもちろん、それなりに使い慣れている人にしても、この機能の本来の使用方法を理解していない事も多い。この機能を使うに当たっては、よく理解して使えばとても便利であるが、私用・公用に限らず、Cc機能とBcc機能の違い・それぞれに指定されて送信された相手に見える自分以外の送信先をよく理解して使わないと、例としてメールアドレスの個人情報漏洩など、色々な意味で問題を起こす事となる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、Bccとして指定したメールアドレスを他の受信者に見せたり、ヘッダー内の別領域に書くなどの欠陥を持つメールソフトが存在するので、Bcc機能を理解していてもあえて使わない利用者も居る。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "テキスト形式のメッセージを電気的に伝える方法は1800年代中頃のモールス信号による電報に遡る事が出来る。1939年のニューヨーク万国博覧会では、IBMが将来郵便に替わる高速の自社用電波を用いた通信で、祝福の文書をサンフランシスコからニューヨークに送った。第二次世界大戦中、ドイツが使用したテレタイプ端末は、その後テレックスが世界的に普及する1960年代末まで使われた。アメリカには同様なTWXがあり、1980年代末まで重要な通信方法の位置を占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "歴史的に「electronic mail(エレクトロニック・メール)」という用語は一般的に電子化された送信文書全般を指して用いられた。例えば、1970年代前半にはファクシミリによる文書送信を指す用語として用いられる例もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "電子メールはインターネットに先行して開発された。既存の電子メールシステムはインターネットを作るに当たって重要な道具となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最初の電子メールは1965年、メインフレーム上のタイムシェアリングシステムの複数の利用者が相互に通信する方法として使われ始めた。1970年代初頭までに、アメリカ国防総省の自動デジタル・ネットワーク(英語版) (AUTODIN) は1350台の端末間を繋ぎ、1件あたり平均3000文字のメッセージを月間3000万件取り扱えるようになった。AUTODINは18台の計算機化された大きな切替装置が運用を支え、さらに約2500台の端末を繋げるアメリカ共通役務庁(英語版)のアドバンスト・レコード・システムとも接続された。正確なところは不明だがその類の機能を持つ最初のシステムとして、SDC(ランド研究所からのスピンオフでSAGEのソフトウェア開発を行った会社)のQ32システムがある。マサチューセッツ工科大学は1961年にCTSSを導入し、複数の利用者が離れた端末から電話回線を使って中央システムにログインし、ディスクにファイルを保存し共有できる体制を整えた。 電子メールは間もなく利用者が異なるコンピュータ間で情報をやり取りするための「ネットワーク電子メール」に拡張された。1966年には異なるコンピュータ間で電子メールを転送していた(SAGEでの詳細は明らかではないが、もっと早い時期に実現していたかもしれない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ARPANETは電子メールの発展に多大な影響を与えた。その誕生直後の1969年にシステム間電子メール転送の実験を行ったという報告がある。BBN社のレイ・トムリンソンは1971年にARPANET上の電子メールシステムを開発し、初めて@を使って利用者名と機器とを指定できるようにした。ARPANET上では電子メール利用者が急激に増大し、1975年には1000人以上が利用するようになっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その他にも、1978年までにUNIXメールがネットワーク化されUUCPとなり、1981年にはIBMのメインフレームの電子メールがBITNETで接続された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ARPANETでの電子メールの利便性と利点が一般に知られるようになると、電子メールの人気が高まり、ARPANETへの接続ができない人々からもそれを要求する声が出てきた。タイムシェアリングシステムを代替ネットワークで接続した電子メールシステムがいくつも開発された。例えばUUCPやIBMのVNETなどがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "全てのコンピュータやコンピュータネットワークが直接相互に接続されるわけではないので、電子メールのアドレスには情報の伝達「経路」、つまり送信側コンピュータから受信側コンピュータまでのパスを示す必要があった。電子メールはこの経路指定方法でいくつものネットワーク間(ARPANET、BITNET、NSFNET)でやり取りすることができた。UUCPで接続されたホストとも電子メールをやり取りすることが可能であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "経路は「バングパス」と呼ばれる方法で指定された。あるホストから直接到達可能なホストのアドレスを書き、そこから次に到達可能なホストのアドレスをバング(感嘆符=!)で接続して書いていくアドレス指定方式である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "CCITTは、種々の電子メールシステムの相互運用を可能とするために 1980年代にX.400標準規格を開発した。同じ頃、IETFがもっと単純なプロトコルSimple Mail Transfer Protocol (SMTP) を開発し、これがインターネット上の電子メール転送のデファクトスタンダードとなった。インターネットに各家庭から接続するようになった現代では、SMTPを基礎とする電子メールシステムの相互運用性は逆にセキュリティ上の問題を生じさせている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1982年、ホワイトハウスはアメリカ国家安全保障会議 (NSC) 従事者のために IBM の電子メールシステム Professional Office System (PROFシステム)を採用した。1985年4月、このシステムがNSC従事者向けに完全動作するようになった。1986年11月、ホワイトハウスの残りの部分もオンライン化された。1980年代末ごろまではPROFシステムだけだったが、その後は様々なシステムが導入されている(VAX A-1(オールインワン)や、cc:Mailなど)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本では1984年からJUNETが大学間の接続を始めており、その後企業の研究機関も含めて接続が広がった。当初はASCII文字のみの想定であったが、後に JUNET において、電子メールなどで日本語(漢字)使用を可能とする文字符号化方式ISO-2022-JPが開発されている(電子メール#文字コード)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1980年代後半時点におけるUNIX上でのメール作成時の日本語入力システム(FEPとも呼ばれた)としては、UNIX環境にてWnnを使用する方法があった(日本語入力システムとしては、後にCannaも出開発された)。それとは別に、MS-DOS にてシリアルポート経由での通信を目的としたKEK-Kermit等を起動してパソコンをUNIX端末としておき、日本語入力システムとしてATOKあるいは松茸を利用して、パソコン側で漢字コードまでを生成し、KEK-Kermit等でパソコンローカル側の漢字コードである Shift JIS をUNIX側で指定された漢字コードであるEUC又はJIS等に変換しつつ、UNIX側に送り込むことでUNIX上でのメール作成時の漢字入力手段とする方法もあった。逆に、UNIX側で受け取った漢字入り電子メールをUNIX端末としているパソコン側で表示する際、パソコン側で受診した漢字コードは KEK-Kermit等によって再びShift JISに変換されてから表示されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "これに続く時代にて大学や企業にてパソコンが直接 Ethernet 接続されるようになり、また、一般家庭にもダイヤルアップ接続が拡大する中、様々な種類の電子メールクライアントが出現する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "電子メールのトラフィックの多くは実はスパムメールである。バラクーダネットワークスの報告によると、2007年中に送信されたメールのうち90%から95%がスパムメールであったという。大量に送信されるこれらのスパムメールはメールサーバに過大な負荷を与え、メール配送遅延の原因となることもある。たとえば2004年7月下旬から8月上旬にかけて、大手インターネットプロバイダ@niftyで、海外から大量に送信されたスパムメールによりメールサーバに断続的な負担が掛かり、メールの受信に支障が生じる状態が続いた。(2010年10月ロシアで摘発されたスパムメール業者は1日500億通を発信していたという。)", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また近年、トロイの木馬などのマルウェアに感染したコンピュータ群によって引き起こされるDDoS型のスパム送信の割合が急激に増加しており、ますますメールサーバに多大な負荷を及ぼすものとされている(→ボットネットを参照)。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スパム以外のトラフィック増大要因として、いわゆる「年賀メール」(元旦前後に発生する大量の挨拶メール)の類もある。特に携帯電話等のメール機能は「即時の意思疏通を図る手段」としてチャット的に利用される場合があるため、一般の電子メールに比べ大量かつ集中的に送信されやすく、これを原因とした配送遅延や輻輳が問題になる場合もある。この対策として、各通信事業者が年越時間帯の利用自粛を呼び掛けたり発信制限を行ったりすることもある。かつてパソコン通信が全盛だった時代には、処理の集中を防ぐため、あらかじめ年賀メールをサーバに予約送信しておき元旦に順次配送するといったサービスも提供されていた。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、電子メールの配送システムの多くは、メールサーバに一定以上の負荷が掛かると送信を保留し一旦スプールに保存し後に(例えば数時間後に)再送信を試みる仕組みになっているため、トラフィックが一定量を超えると配送の極端な遅延が起こる。この遅延はメール1通毎に起こるため、同時期に送ったメールであっても、あるものは数秒で届きあるものは数時間で届くということになり、これを理解していない利用者の間ではメールを「送った」「送らない」で揉める恐れもある。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一時的なトラフィックの増大でスプールに保存された保留メールは、多くの場合時間の経過と共に処理され正常に戻るが、メールサーバの能力が十分でないと再送処理自体が間に合わなくなり、送信者に失敗通知が返送されることもある。なお、失敗通知すら返送されず「消滅」することは原理的にありえない。メールサーバは能力が追い付かない場合メールの受信(SMTPコネクション)自体を拒否するからである。よく年賀メール等で「トラフィック増大が原因であるプロバイダのメールの紛失が起きた」と、あたかも不可抗力であるが如き報道を目にするが、正確にはそのプロバイダのメールサーバの管理が適切でなく、混雑時の処理が正しく動作していないシステム不良である。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "同時多発テロ時には、ニューヨーク周辺間のメールが1日遅延するなどした他、2009年には南アフリカでケープタウンとヨハネスブルグ間700kmで実験が行われ、電子メールより伝書鳩の方が早く情報を伝達できた。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "スパムメール対策としてサーバ上、クライアント上でのフィルタリングが普及してきたが、誤検知により通常のメールがスパムであると判断されてしまい、不着となる問題が増えている(→電子メールフィルタリングを参照)。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "文字だけのやりとりに見られる問題(炎上、Flaming)は電子メールにおいても見られる。メールの真意、感情が相手に伝わらず、度々揉め事に発展するケースが挙げられている。英語圏では、メールの真意を読み取り間違え、感情に任せて送るメールの呼称(スラング)にFlame Mailというものがある。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "電子メールにおけるテキストベースな平文は、サーバーやネットワーク上でスニッフィング(傍受)される可能性が高くセキュリティーの観点から好ましいとは言えない。フィル・ジマーマンが開発し、公開した暗号ソフトウェア(Pretty Good Privacy:PGP)のプラグインなどを導入することで安全性を高められる。", "title": "問題" } ]
電子メール(でんしメール)あるいはEメールは、コンピュータネットワークを使用して、まるで郵便による手紙のように文章(や添付したファイルや写真データなど)のやりとりをすること、およびその技術。
{{WikipediaPage|ウィキペディアから利用できるEメール(ウィキメール)については、[[Help:ウィキメール]]をご覧ください。}} {{redirect|メール|日本の[[郵便]]サービスの「電子郵便」|レタックス|その他|メール (曖昧さ回避)}} [[File:(at).svg|thumb|150px|「@」([[単価記号]]、アットマーク)はすべての[[SMTP]] [[メールアドレス]]で使われる<ref>{{cite web|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5321#section-2.3.11|title=RFC 5321 - Simple Mail Transfer Protocol|accessdate=2010-02|date=October 2008|work=Network Working Group }}</ref>]] {{インターネット}} '''電子メール'''(でんしメール)あるいは'''Eメール'''({{Lang-en-short|electronic mail}}、{{lang|en|email}})は、[[コンピュータネットワーク]]を使用して、まるで[[郵便]]による[[手紙]]のように[[文章]](や添付したファイルや写真データなど)のやりとりをすること、およびその技術。 ==概要== [[インターネット]]の初期からある通信手段であり、[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]や[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]などの[[プロトコル]]を介して、メールを相手[[メールサーバ|サーバ]]に届けられる。電気的な[[信号 (電気工学)|信号]]で送受信を行うので、地球の裏側にいる相手に送る場合でも隣の部屋にいる相手に送る場合でも、かかる時間は一般的には数十秒から数分程度である。 一方で、インターネットの普及以前にコンピュータでの通信手段として広く行われていた、いわゆる[[パソコン通信]]でも、加入者同士で文書のやり取りを行うシステムが「電子メール」として提供されていた。ただし、パソコン通信では、一般的に、通信が1つのパソコン通信システム内にとどまっていたので、他のシステムとの間での電子メールの交換機能などの相互通信機能はほとんどなかった。また、各パソコン通信システムごとに独自のシステムが構築されていた事が多かったので、[[ユーザインターフェイス]]等についても[[互換性|互換]]がなかった。しかしその後、インターネットの普及に伴って、大手パソコン通信システムとインターネット間で相互に通信が可能にもなった。メール友達([[メル友]])も、流行になった時期があった。 電子郵便とも言った{{要出典|date=2021年8月18日}}。 英語では1990年代や2000年代あたりでは「e-mail」とハイフンを入れて表記することが一般的だったが、2010年代や最近の英語ではemailとハイフンも省略することが増えている。 なお、以下では「広義のメール」と記載が無い物は[[Request for Comments|RFC]]に準拠した、UUCP、SMTPのプロトコルを使用した電子メールについてのみ記述する。それ以外の電子メールについては上記の各関連項目を参照のこと。 === 狭義のメール === * [[Request for Comments|RFC]]に準拠した、UUCP、SMTPのプロトコルを使用した電子メール。 === 広義のメール === * 他のコンピュータ(サーバ、ホスト)にログインして見るメール - [[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]の端末ソフト([[ウェブブラウザ]]や[[Telnet]]端末など)以外のソフトウェアを必要としないメール。そのサーバまではRFCに準拠した方法で伝達されている。[[ウェブメール]]も広義の電子メールであり、これを用いた[[フリーメールサービス]]も普及している。 * [[電子掲示板|電子掲示板(BBS)]]や[[ブログ]]のコメント - インターネットが普及し始めた頃(あるいは現在も)、それらを「メール」と呼称していた初心者がいた。 * [[ショートメッセージサービス]](SMS) - [[携帯電話]]等の間でごく短い[[文章]]を送受信する、[[iモード]]などのサービス開始前より行われている。 * [[インターネット選挙運動]]におけるメール - [[総務省]]の定義ではRFCに準拠したメールとショートメッセージサービスをメールとしている。 ==電子メールを支える技術== ===アドレスの表現法=== 個々の電子メールの[[メールアドレス|アドレス]]は、「<code>[email protected]</code>」のような形で表現される。 実際に電子メールを使うためには独自[[ドメイン名]](上の例では「<code>examplecompany.com</code>」)を得て、ドメイン名を管理する[[DNSサーバ]]や[[メールサーバ]]に(手動であれ、自動であれ)登録することで送受信できるようになる。かつては、加入[[インターネットサービスプロバイダ|インターネットプロバイダ]]や勤務先・通学先の企業・学校などのアドレス([[アカウント]])が多かったが、『Yahoo!メール』や『[[gmail]]』が普及してからはむしろそれらのアドレスのほうが多数派になっている。 === 容量 === 一通の電子メールの容量について、理論的には制限はないが、メールサーバ設置者(多くはプロバイダだがそれ以外もある)が設定している容量(「送受信可能な最大容量」などと表現されている)の制約を受ける。プロバイダごとにまちまちである。小さい容量では、[[ダイヤルアップ接続]]時代の名残の数[[メガバイト]](MB)程度のものから、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]が一般化してからは10~20MB程度が一般的で、一部のプロバイダでは100MB程度としている。{{要出典範囲|数Gギガバイト(GB)程度に設定するプロバイダもある|date=2009年11月}}。 日本の主要プロバイダの例としては、たとえば[[OCN]]では10MBまで<ref>[https://support.ntt.com/ocn/support/pid2990021012 OCN公式ページ]</ref>、[[So-net]]が20MBまで<ref>[https://support.so-net.ne.jp/supportsitedetailpage?id=000011384 会員サポート…基本メールボックスの容量と保管期間]</ref>、[[Biglobe]]が100MBまでである<ref>[http://email.biglobe.ne.jp/mailusage.html BIGLOBEメールの仕様]</ref>。これ以上の大容量のデータのやり取りはできない。そのため、別の手段でデータを転送しメール本文ではその受け取り方法を記載する。メールクライアントによってはこの作業を自動的に行うものもある(gmailなど)。別の手段の具体的な例として[[File Transfer Protocol|FTP]]や[[Peer to Peer|P2P]]、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]等による[[オンラインストレージ]]、[[ファイル転送サービス]]、[[アップローダー]]、宅配便などでメディアを送るなど<!-- 何? --><!-- が使われることが多い。-->が使用される。 gmailの受信メールは一通50MBまで<ref>「最大 50 MB のメールを受信できます。[https://support.google.com/a/answer/1366776?hl=ja]」</ref>(送信のほうに関しては25MB超の添付ファイルは[[Google ドライブ|Googleドライブ]]や他のファイル共有サービスを使用を求める)<ref>「注: 25 MB を超える添付ファイルを送信するには、Google ドライブや他のファイル共有サービスを使用してください。[https://support.google.com/a/answer/1366776?hl=ja]」</ref>。 === 送受信に使うアプリケーション === 電子メールの送受信を行う時に一般ユーザの側が使う[[アプリケーションソフト]]に関しては、1990年代などはもっぱらパソコンにインストールした[[電子メールクライアント]]ソフトで送受信を行った。 2000年代や2010年代あたりから[[ウェブブラウザ]]でサーバにアクセスしてアカウントにログインして[[ウェブページ]]上で送受信を行う方式([[ウェブメール]])も広まった。このウェブメール方式は、POP3、IMAP4、SMTPなどの細かい設定が不要であり、 社内の他部署や出先や旅先など自分のパソコンを持ち歩いていない状態でも、インターネットのウェブサイトにブラウザでアクセスできるパソコンがあれば自分の個人的なアドレスで電子メールの送受信ができる利点がある。またコンピュータウィルスが含まれているファイルが添付されているウィルスメールが送られてきた場合でもそれの影響を遮断しやすく、また悪意で意図的に大容量のメールを送って他者を困らせようとする者がいる場合でもそれの悪影響を遮断しやすい(メールのタイトルと容量だけ確認して、必要なメールだけ選んで中身を読んで、怪しいと思えるメールなどはメールの実体を自分のパソコンに受信せずに済ますこともできる)など、つまりコンピュータセキュリティ上のメリットや運用上のメリットもある。 無料アドレス([[フリーメールサービス]])の場合は、ウェブブラウザを使ってウェブページ上で、送受信を行うウェブメールがほとんどである。 ===プロトコル=== 現在、インターネットでは、[[メールサーバ]]間での通信および[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]からの送信には、一般に[[SMTP]]が使われる。古くは、また現在でも希に、[[UUCP]]が使われる。メールは、数々の[[サーバ]]を[[駅伝制|リレー]]のように経由して目的のメールサーバに伝えられる。なお、電子メールには、送信者の使用メールソフトや経由サーバーなどの[[ヘッダ (コンピュータ)|ヘッダー]]と呼ばれる情報が付属されている。 メールサーバからメールを読み出す場合には、{{lang|en|[[Post Office Protocol|POP]]}}、{{lang|en|[[Internet Message Access Protocol|IMAP]]}}などのプロトコルが用いられる。メールの書式については、{{IETF RFC|5322}}で規定がある。また、英字以外の文字・[[言語]]や[[テキスト]]以外の情報をメールで送るなどのために{{lang|en|[[Multipurpose Internet Mail Extensions|MIME]]}}が規定されている。 ===文字コード=== 元来のメールの[[文字コード]]は[[ASCII|US-ASCII]]のみであったが、上記{{lang|en|MIME}}の規定により様々な文字コードが使えるようになった。 かつての日本の{{lang|en|[[JUNET]]}}では[[JIS規格]]に基づく規則を決めて[[日本語]]を扱えるようにした<ref name="junet-tebiki">[http://www.cs.tsukuba.ac.jp/~yas/fj/junet-tebiki/ {{lang|en|JUNET}}利用の手引(第1版)]</ref>。この規則を{{lang|en|MIME}}の枠組みで再定義したものが[[ISO-2022-JP]]である。現在の日本語メールでは、このISO-2022-JPが広く用いられている。 RFC<nowiki/> 2277では、出来るだけ広く知られた文字コードを選ぶように注意を促している。これは[[UTF-8]]が普及するまでの暫定的なものであるが、その期間は50年であるかもしれないので事実上は永遠と考えてよいとも書かれている<ref>[http://www.imc.org/mail-i18n.html Using International Characters in Internet Mail]{{リンク切れ|date=2020年8月}}</ref>。 ===メール形式=== 元来は、メールは[[文章]]程度の'''[[プレーンテキスト]]形式'''の物のみであったが、上記{{lang|en|MIME}}の規定および普及に伴って、メール本文を[[HyperText Markup Language|HTML]]により記述した[[HTML電子メール|HTML形式のメール]]も、[[Request for Comments|RFC]]に規定されて一般にも使われるようになった。[[Microsoft Windows]]の標準メールクライアントであった[[Outlook Express]]の初期設定ではメールの作成時にHTML形式が選ばれていたため、送受信の機会も多くなった。 HTML形式のメールは、メール本文がHTMLで記述できるのでメールに[[ウェブページ]]と同様の表現力を持たせられる利点がある。[[携帯電話]]・[[PHS]]でも、[[Compact HTML|cHTML]]形式のメールが一般向け仕様のサービスとして提供されているものもある。 その一方で、ただし「HTMLメールを表示する事」は「ブラウザでWebページを表示する事」と技術的には根本的な違いはないため、メール中のHTML情報を展開し表示するための[[レンダリングエンジン]]の[[セキュリティホール]]を突いて、メールを見る(プレビューする)だけで[[コンピュータウイルス]]が侵入する被害を受けたり、[[スパム (メール)|迷惑メール]]・[[架空請求]]メール等で画像[[HTML要素|タグ]]を埋め込んだメールを送りつけて表示させ、情報を収集([[ウェブビーコン]]と言う)して悪用するなど、[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]上の問題が相次いだ。 対策としては、[[ウイルス対策ソフト|ウイルス対策]]・[[電子メールフィルタリング|迷惑メール対策]]の[[ソフトウェア|ソフト]]を導入するか、HTML形式のメールをフィルタリング機能で受信を拒否する・ゴミ箱[[ディレクトリ|フォルダ]]へ振り分けるなどがある。また、HTMLメールの表示に対応していないメールクライアントもあって、断り無くHTML形式のメールを送信しても正しく受信されないおそれがある。 なお、あるファイルデータをメールに添付して送る場合、添付ファイルとしてMIMEなどによってテキスト化([[エンコード]])をしてメール本文に埋め込んで送信して、受信側で元のデータファイルに復元([[エンコード|デコード]])する方法が取られる。添付ファイルには、コンピュータウイルスも仕込み可能なので、受信時に添付ファイルを自動的に開く設定になっていると、やはりコンピュータウイルスが侵入する被害を受けるなどの危険もある。 ===ヘッダー情報=== 一通一通それぞれのメールは、本文とは別に、'''[[ヘッダ (コンピュータ)|ヘッダー]][[フィールド (計算機科学)|フィールド]]'''と呼ばれる各種の特殊な情報が記載された領域を持つ。ほとんどのメールクライアントでは、何らかの方法(メールクライアント毎に異なる)によって、このヘッダーフィールドの情報を参照可能である。この情報は、[[脅迫]]メールや[[スパム (メール)|スパム]]などのメールが届く場合などに、送信元の特定などに威力を発揮する。ただし、[[偽装]]も可能で必ずしもすべてのヘッダフィールドを付加する必要はないので、完全には判断できない。 ====代表的なヘッダフィールド==== ヘッダーフィールドは ''フィールド名''<code>:</code>''フィールド値''という形で記載される。 ;<code>Cc</code> ;<code>Bcc</code> : Ccは写し受信者{{sfn|JISX0032|1999}}{{rp|at=32.08.04}}、Bccは秘密受信者{{sfn|JISX0032|1999}}{{rp|at=32.08.05}}の受取人のメールアドレス。単数や複数の名前やアドレスも含められる。[[#CcとBcc]]を参照。 ;<code>Date</code> :送信者が送信を行った日時 ;<code>From</code> :著者のメールアドレス<ref group="注釈">ここでいう「メールアドレス」は、技術的にはメールボックス・リスト (mailbox-list) という。BCC、CC、Reply-To、Toも同様。</ref>。単数または複数の名前やアドレスも含められる。 :このヘッダーの記載は送信者がメールクライアントの設定によって自由に変更できる。このようなメールの仕様から、いわゆる「なりすまし」などの悪用を完全に防ぐことは困難とされる。 ;<code>In-Reply-To</code> :返信元メールなどのMessage-IDの値の一覧 ;<code>Message-ID</code> :メール一通一通に付加された固有の番号 ;<code>MIME-Version</code> :MIMEのバージョン ;<code>Received</code> :このメールが届くまでに経由した[[メール転送エージェント]]([[IPアドレス]])および経由した日時 ;<code>Reply-To</code> :送信者が返信先として希望するメールアドレス ;<code>Return-Path</code> :SMTP通信で送信元として伝えられるメールアドレス ;<code>Sender</code> :送信者のメールアドレス<ref group="注釈">ここでいう「メールアドレス」は、技術的にはメールボックス (mailbox) という。</ref>。名前も含められる。著者と送信者が同一、すなわちFromが単一のアドレスでSenderと同じ場合は使うべきではない。逆に、異なる場合は必須である。 ;<code>Subject</code> 主題{{sfn|JISX0032|1999}}{{rp|at=32.03.03}} :話題を表す短い文。返信の場合は[[Re:]]、転送の場合は[[Fw:]]が先頭に自動的に付加される場合が多い([[#ReとFw]]を参照)。 ;<code>To</code> :受取人のメールアドレス。単数または複数の名前やアドレスも含められる。 ;<code>X-FROM-DOMAIN</code> :送信者のドメイン ;<code>X-IP</code> :送信者のグローバルIPアドレス ;<code>X-Mailer</code> :メールクライアントの種別 ;<code>X-Priority</code> :送信者が指定した重要度 ===保存形式=== {{節スタブ}} *[[eml形式]]:1メール1[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]] *[[msg形式]]:1メール1[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]] *[[mbox]]:複数のメールを1ファイルにまとめる(ユーザー毎に1フォルダ1メール作成) *[[Maildir]]:1メール1[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]] *MH::1メール1[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]な点は似るが、ディレクトリの仕様が違う ==機能== ===CcとBcc=== メールを送信する際の機能として、'''<code>Cc</code>'''('''写し受信者'''{{sfn|JISX0032|1999}}{{rp|at=32.08.04}}<ref group="注釈">{{lang-en-short|carbon copy}}</ref>)と'''<code>Bcc</code>'''('''秘密受信者'''{{sfn|JISX0032|1999}}{{rp|at=32.08.05}}<ref group="注釈">{{lang-en-short|blind carbon copy}}</ref>)の2種類ある。メールの本来の送信先は一般的にTo:に指定して送信するが、本来の送信先以外にも一応複製を送っておきたい相手などがいるという場合にこの機能を使用する。 {{独自研究範囲|date=2019年9月|メールを初めて利用する人はもちろん、それなりに使い慣れている人にしても、この機能の本来の使用方法を理解していない事も多い}}。この機能を使うに当たっては、よく理解して使えばとても便利であるが、私用・公用に限らず、Cc機能とBcc機能の違い・それぞれに指定されて送信された相手に見える自分以外の送信先をよく理解して使わないと、例としてメールアドレスの[[個人情報]]漏洩など、色々な意味で問題を起こす事となる。 {{要出典範囲|date=2019年9月|また、<code>Bcc</code>として指定したメールアドレスを他の受信者に見せたり、ヘッダー内の別領域に書くなどの欠陥を持つメールソフトが存在するので、<code>Bcc</code>機能を理解していてもあえて使わない利用者も居る}}。 ;<code>Cc</code> :<code>To</code>で指定した本来の送信先以外にも、一応複製を送っておきたい相手などがいる場合に使用する機能である。技術的には「名目が違うだけの<code>To</code>」と言える。<code>To</code>に指定された相手には、<code>To</code>と<code>Cc</code>に指定された宛先が全て見える。また、<code>Cc</code>に指定された相手にも、<code>To</code>と<code>Cc</code>に指定された宛先が全て見える。 ;Bcc :<code>To</code>や<code>Cc</code>に指定した相手には知られずに、複製を送信したい相手を指定する場合に使用する機能である。<code>To</code>や<code>Cc</code>に指定された相手には<code>Bcc</code>に誰が指定されたかの情報は伝わらない。多くの電子メールクライアントソフトでは、<code>Bcc</code>で指定された相手には<code>To</code>や<code>Cc</code>に誰が指定されたかが分かるように電子メールの送信処理をする。この場合、<code>Bcc</code>で受信した者がうっかりそのメールの受信者全員宛に返信してしまうと、同じメールを受信していたことが<code>To</code>や<code>Cc</code>の受信者に知られてしまう。そこで一部の電子メールクライアントソフトでは、<code>To</code>や<code>Cc</code>にて送付したメールを転送する形で処理にすることで、そのような事故を防いでいる。いずれの方式の電子メールクライアントソフトでも、<code>Bcc</code>の宛先アドレスが複数ある場合には、<code>Bcc</code>指定された各宛先相互間で、自分以外の他の宛先は分からない。 :複数のメールクライアントから単一のメールアカウント・サーバーに接続する場合には、Bccを活用した技がある。<code>Bcc</code>に<code>From</code>(自分自身)と同じアドレスを指定する(メールクライアント (MUA) による常時設定も可能)事によって、自分が送信したメールがそのままの内容で自分のメールクライアントの受信箱にも配信される。POP3等のメールサーバーでサーバーかメールクライアントへ受信したメールをサーバーから除去しない(数日後に削除する)設定をメールクライアントにすることによって、1つのメールクライアントから送信したメールが他のメールクライアント全てに複製として配信される。これによって、通常は送信したメールクライアントの送信済み箱を見ないと分からない所が、複数のメールクライアントで送信メールが確認できる。 :[[ネチケット]]の一つとして推奨されてきたメールの送信方法であるが、一斉メールはどのような場合でもBccを使用するべきかといえばそうでもない。例えば特定の一斉送信されたメールについて、全ての受信者がメールアドレスを交換し合っている場合にはBccを使う必要性はなく、どちらかというと宛先と目的がはっきりと明示されているToとCcを使いわけるのが普通である。時と場合によりTo、Cc、Bccを適切に使い分けるためには高度なネチケット知識が必要である。 :Bcc の語源は「ブラックカーボンコピー<ref group="注釈">{{lang-en-short|black carbon copy}}</ref>」ではなく「ブラインドカーボンコピー」である。 ===ReとFw=== ;Re(返信) :多くの[[電子メールクライアント]]では、返信されたメールの件名の先頭に自動的にRe:またはRE:という記号を付加する。この略号は、受け取ったメールの表題「○○」に対し返事の表題「○○に関して」({{lang-en-short|Regarding~}})を自動的に付けることで人間の便宜を図るものであり、技術的な意味は何もないものであるので、送信者が意図的に削除しても構わない。古くから商用文で使われていた慣習が、電子メール発祥期のメールコマンドに採用され、さらには[[Request for Comments|RFC]]に記載されたことで定着したが、他にも諸説ある。 {{main|Re:}} ;Fw、Fwd<ref group="注釈">{{lang-en-short|forward}}</ref>(転送) :一部の[[電子メールクライアント]]では、メールを転送する際に、件名の先頭に自動的に Fw: などの記号を付加することがある。この略号は Re と同様単なる便宜的なものであるだけでなく、RFCにすら記述の無い独自仕様である。例えば、Fw: が連続していれば何度も転送されたメールだと考えることもできるが、それはあくまで、一部の[[電子メールクライアント]]の仕様に過ぎず、一般的な理解ではない。Fw: の連続は[[チェーンメール]]に多いため、チェーンメールかどうかの目安にもなる。そのため、転送時に Fw: を削除するように指示する内容が記述されたチェーンメールもある。 ==歴史== ===先駆的活動=== テキスト形式のメッセージを電気的に伝える方法は1800年代中頃の[[モールス信号]]による電報に遡る事が出来る。[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|1939年のニューヨーク万国博覧会]]では、[[IBM]]が将来郵便に替わる高速の自社用電波を用いた通信で、祝福の文書をサンフランシスコからニューヨークに送った<ref>[http://hbswk.hbs.edu/item/4138.html {{lang|en|The Watsons: IBM's Troubled Legacy}}]</ref>。[[第二次世界大戦]]中、ドイツが使用した[[テレタイプ端末]]は<ref>See File:Gestapo anti-gay telex.jpg</ref>、その後[[テレックス]]が世界的に普及する1960年代末まで使われた。アメリカには同様なTWXがあり、1980年代末まで重要な通信方法の位置を占めた<ref>[http://www.baudot.net/docs/kimberlin--telex-twx-history.pdf {{lang|en|Telex and TWX History}}]、ドナルド・E・キンバーリン、1986年</ref>。 歴史的に「{{読み仮名_ruby不使用|{{lang|en|electronic mail}}|エレクトロニック・メール}}」という用語は一般的に電子化された送信文書全般を指して用いられた。例えば、1970年代前半には[[ファクシミリ]]による文書送信を指す用語として用いられる例もあった<ref>Ron Brown, Fax invades the mail market, [https://books.google.co.jp/books?id=Ry64sjvOmLkC&pg=PA218&redir_esc=y&hl=ja New Scientist], Vol. 56, No. 817 (Oct., 26, 1972), pages 218-221.</ref><ref>Herbert P. Luckett, What's News: Electronic-mail delivery gets started, [https://books.google.co.jp/books?id=cKSqa8u3EIoC&pg=PA85&redir_esc=y&hl=ja Popular Science], Vol. 202, No. 3 (March 1973); page 85</ref>。 ===電子メールの起源=== 電子メールはインターネットに先行して開発された。既存の電子メールシステムはインターネットを作るに当たって重要な道具となった。 最初の電子メールは[[1965年]]、[[メインフレーム]]上の[[タイムシェアリングシステム]]の複数の利用者が相互に通信する方法として使われ始めた。1970年代初頭までに、[[アメリカ国防総省]]の{{仮リンク|自動デジタル・ネットワーク|en|Automatic Digital Network}} (AUTODIN) は1350台の端末間を繋ぎ、1件あたり平均3000文字のメッセージを月間3000万件取り扱えるようになった。AUTODINは18台の計算機化された大きな切替装置が運用を支え、さらに約2500台の端末を繋げる{{仮リンク|アメリカ共通役務庁|en|United States General Services Administration}}のアドバンスト・レコード・システムとも接続された<ref name="NAS USPS">USPS Support Panel, Louis T Rader, Chair, Chapter IV: Systems, [https://books.google.co.jp/books?id=5TQrAAAAYAAJ&pg=PA27&redir_esc=y&hl=ja Electronic Message Systems for the U.S. Postal Service], National Academy of Sciences, Washington, D.C., 1976; pages 27-35.</ref>。正確なところは不明だがその類の機能を持つ最初のシステムとして、SDC([[ランド研究所]]からのスピンオフで[[半自動式防空管制組織|SAGE]]のソフトウェア開発を行った会社)のQ32システムがある。[[マサチューセッツ工科大学]]は1961年に[[CTSS]]を導入し<ref>"CTSS, Compatible Time-Sharing System" (September 4, 2006), {{仮リンク|サウスアラバマ大学|en|University of South Alabama}}, [http://www.cis.usouthal.edu/faculty/daigle/project1/ctss.htm USA-CTSS].</ref>、複数の利用者が離れた端末から電話回線を使って中央システムにログインし、ディスクにファイルを保存し共有できる体制を整えた<ref>[[:en:Tom Van Vleck|Tom Van Vleck]], "The IBM 7094 and CTSS" (September 10, 2004), ''Multicians.org'' ([[Multics]]), web: [http://www.multicians.org/thvv/7094.html Multicians-7094].</ref>。 電子メールは間もなく利用者が異なるコンピュータ間で情報をやり取りするための「ネットワーク電子メール」に拡張された。[[1966年]]には異なるコンピュータ間で電子メールを転送していた(SAGEでの詳細は明らかではないが、もっと早い時期に実現していたかもしれない)。 *1962年:{{仮リンク|事務管理用端末システム (IBM)|en|IBM Administrative Terminal System}}1440/1460<ref>{{cite manual | author=IBM | title=1440/1460 Administrative Terminal System (1440-CX-07X and 1460-CX-08X) Application Description | section=| sectionurl= | version=Second Edition | publisher=IBM | date=| url=http://bitsavers.informatik.uni-stuttgart.de/pdf/ibm/144x/H20-0185-1_1440_ATS_termOpe.pdf | format=pdf | id=H20-0129-1| accessdate=2013-02-22 }}</ref> *1968年:事務管理用端末システム (IBM) ATS/360<ref>{{cite manual | author=IBM | title=System/36O Administrative Terminal System DOS (ATS/DOS) Program Description Manual| publisher=IBM| id=H20-0508 | accessdate=}}</ref><ref>{{cite manual | author=IBM | title=System/360 Administrative Terminal System-OS (ATS/OS) Application Description Manual| publisher=IBM| id=H20-0297 | accessdate=}}</ref> *1972年:{{仮リンク|UNIXメール|en|mail (Unix)}}<ref>[http://minnie.tuhs.org/cgi-bin/utree.pl?file=V3/man/man1/mail.1 Version 3 Unix mail(1) manual page from 10/25/1972]</ref><ref>[http://minnie.tuhs.org/cgi-bin/utree.pl?file=V6/usr/man/man1/mail.1 Version 6 Unix mail(1) manual page from 2/21/1975]</ref> *1972年:{{仮リンク|ラリー・ブリード|en|Lawrence M. Breed}}による[[APL]]メールボックス<ref>[http://www.jsoftware.com/papers/APLQA.htm APL Quotations and Anecdotes], including [[Leslie H. Goldsmith|Leslie Goldsmith]]'s story of the Mailbox</ref><ref>[http://www.actewagl.com.au/Education/communications/Internet/historyOfTheInternet/InternetOnItsInfancy.aspx History of the Internet, including Carter/Mondale use of email]</ref> *1974年:[[PLATO]] IV Notes - オンラインの[[インターネットコミュニティ]]システムにおいて、「個人的な注意」を通知するための電子メールが広く使われた<ref name="NAS USPS" /><ref>David Wooley, [http://www.thinkofit.com/plato/dwplato.htm#pnotes PLATO: The Emergence of an Online Community], 1994.</ref>。 *1978年:{{仮リンク|ニュージャージー医科歯科大学|en|University of Medicine and Dentistry of New Jersey}}の電子メール<ref>{{cite web|url=http://blogs.smithsonianmag.com/aroundthemall/2012/02/a-piece-of-email-history-comes-to-the-american-history-museum/|title=A Piece of Email History Comes to the American History Museum|date=22 February 2012|accessdate=11 June 2012|first=Joseph|last=Stromberg|publisher=[[スミソニアン博物館]]}}</ref> *1981年:[[IBM OfficeVision]]のPROFS<ref>[http://www.ibm.com/ibm100/us/en/icons/networkbus/ ''"...PROFS changed the way organizations communicated, collaborated and approached work when it was introduced by IBM’s Data Processing Division in 1981..."''], IBM.com</ref><ref>[http://www.fas.org/spp/starwars/offdocs/reagan/chron.txt ''"1982 - The National Security Council (NSC) staff at the White House acquires a prototype electronic mail system, from IBM, called the Professional Office System (PROFs)...."''], fas.org</ref> *1982年:[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]]の[[:en:ALL-IN-1|ALL-IN-1]]<ref>[https://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/Digital/timeline/1982.htm Gordon Bell's timeline of Digital Equipment Corporation]</ref> [[アーパネット|ARPANET]]は電子メールの発展に多大な影響を与えた。その誕生直後の[[1969年]]にシステム間電子メール転送の実験を行ったという報告がある<ref>{{Cite web |author=Tom Van Vleck |url=http://www.multicians.org/thvv/mail-history.html |title=The History of Electronic Mail |date=2001-02-01 |accessdate=2008-02-21 }}</ref>。[[BBNテクノロジーズ|BBN社]]の[[レイ・トムリンソン]]は[[1971年]]にARPANET上の電子メールシステムを開発し、初めて'''[[アットマーク|@]]'''を使って利用者名と機器とを指定できるようにした<ref>{{Cite web |author=Ray Tomlinson |authorlink=レイ・トムリンソン |url=http://openmap.bbn.com/~tomlinso/ray/firstemailframe.html |title=The First Network Email |accessdate=2008-02-21 }}</ref>。ARPANET上では電子メール利用者が急激に増大し、[[1975年]]には1000人以上が利用するようになっていた。 その他にも、1978年までにUNIXメールがネットワーク化され[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]となり<ref>[http://cm.bell-labs.com/7thEdMan/vol2/uucp.bun Version 7 Unix manual: "UUCP Implementation Description" by D. A. Nowitz, and "A Dial-Up Network of UNIX Systems" by D. A. Nowitz and M. E. Lesk]</ref>、1981年にはIBMの[[メインフレーム]]の電子メールが[[:en:BITNET|BITNET]]で接続された<ref>[http://www.livinginternet.com/u/ui_bitnet.htm "BITNET History"], livinginternet.com</ref>。 ===一般への浸透=== ARPANETでの電子メールの利便性と利点が一般に知られるようになると、電子メールの人気が高まり、ARPANETへの接続ができない人々からもそれを要求する声が出てきた。タイムシェアリングシステムを代替ネットワークで接続した電子メールシステムがいくつも開発された。例えば[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]や[[IBM]]のVNETなどがある。 全ての[[コンピュータ]]や[[コンピュータネットワーク]]が直接相互に接続されるわけではないので、電子メールのアドレスには情報の伝達「経路」、つまり送信側コンピュータから受信側コンピュータまでのパスを示す必要があった。電子メールはこの経路指定方法でいくつものネットワーク間([[アーパネット|ARPANET]]、[[BITNET]]、[[NSFNET]])でやり取りすることができた。UUCPで接続されたホストとも電子メールをやり取りすることが可能であった。 経路は「バングパス」と呼ばれる方法で指定された。あるホストから直接到達可能なホストのアドレスを書き、そこから次に到達可能なホストのアドレスをバング([[感嘆符]]='''!''')で接続して書いていくアドレス指定方式である<ref>rfc976 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc976 UUCP Mail Interchange Format Standard 5節“Summary”に、( ! でホスト名をつないでメールアドレスを表現する) bang path の説明がある。bang path の例としては hosta!hostb!user などがある。</ref>。 [[ITU-T|CCITT]]は、種々の電子メールシステムの相互運用を可能とするために 1980年代に[[X.400]]標準規格を開発した。同じ頃、[[Internet Engineering Task Force|IETF]]がもっと単純なプロトコル[[Simple Mail Transfer Protocol]] (SMTP) を開発し、これがインターネット上の電子メール転送の[[デファクトスタンダード]]となった。インターネットに各家庭から接続するようになった現代では、SMTPを基礎とする電子メールシステムの相互運用性は逆にセキュリティ上の問題を生じさせている。 <!-- 省略 In 1969 US Air Force users were sending text messages by keypunching cards with long text messages using one card for each 80 character line and transmitting them as card decks from one computer to another. By 1979, US Air Force users were logging onto central computers k within hours. By the end of 1983 US Air Force users were using user names like [email protected] to send e-mail between a nationwide linkup of [[VAX]] computers. By 1984 these same users were using personal computers for same. In 1979, the US Post Office bought a computer specifically for email, but wound up selling it to private industry. --> [[1982年]]、[[ホワイトハウス]]は[[アメリカ国家安全保障会議]] (NSC) 従事者のために IBM の電子メールシステム Professional Office System (PROFシステム)を採用した。[[1985年]]4月、このシステムがNSC従事者向けに完全動作するようになった。[[1986年]]11月、ホワイトハウスの残りの部分もオンライン化された。1980年代末ごろまではPROFシステムだけだったが、その後は様々なシステムが導入されている([[VAX]] A-1(オールインワン)や、cc:Mailなど)。 日本では1984年から[[JUNET]]が大学間の接続を始めており、その後企業の研究機関も含めて接続が広がった。当初はASCII文字のみの想定であったが、後に JUNET において、電子メールなどで日本語(漢字)使用を可能とする文字符号化方式[[ISO-2022-JP]]が開発されている<ref name="junet-tebiki"/>([[電子メール#文字コード]])。 1980年代後半時点におけるUNIX上でのメール作成時の[[日本語入力システム]]([[フロントエンドプロセッサ#日本語入力フロントエンドプロセッサ|FEP]]とも呼ばれた)としては、UNIX環境にて[[Wnn]]を使用する方法があった(日本語入力システムとしては、後に[[Canna]]も出開発された)。それとは別に、MS-DOS にて[[シリアルポート]]経由での通信を目的とした[[カーミット (プロトコル)|KEK-Kermit]]等を起動してパソコンをUNIX端末としておき<ref>{{Cite journal|和書|author=木村広, 田井村明博 |url=https://hdl.handle.net/10069/16633 |title=電子メール・電子ニュースの使い方 |journal=長崎大学教養部紀要 自然科学篇 |issn=02871319 |publisher=長崎大学教養部 |year=1992 |month=jul |volume=33 |issue=1 |pages=65-109 |naid=120000916619}}、の「5.1モデム(デジタル電話)とパソコン間のセットアップ」など]</ref>、日本語入力システムとして[[ATOK]]あるいは[[松_(ワープロ)#「松茸」|松茸]]を利用して、パソコン側で漢字コードまでを生成し、KEK-Kermit等でパソコンローカル側の漢字コードである [[Shift JIS]] をUNIX側で指定された漢字コードである[[Extended Unix Code|EUC]]又は[[JIS]]等に変換しつつ、UNIX側に送り込むことでUNIX上でのメール作成時の漢字入力手段とする方法もあった。逆に、UNIX側で受け取った漢字入り電子メールをUNIX端末としているパソコン側で表示する際、パソコン側で受診した漢字コードは KEK-Kermit等によって再び[[Shift JIS]]に変換されてから表示されていた。 これに続く時代にて大学や企業にてパソコンが直接 Ethernet 接続されるようになり、また、一般家庭にもダイヤルアップ接続が拡大する中、様々な種類の[[電子メールクライアント]]が出現する。 ==問題== ===トラフィックの増大と配送遅延=== 電子メールのトラフィックの多くは実は[[スパム (メール)|スパムメール]]である。[[バラクーダネットワークス]]の報告<ref>{{Cite web|和書 |author=勝村幸博 |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20071214/289521/ |title=「メールの95%は『迷惑メール』だった」、2007年のスパム動向 |work=ITpro |publisher=[[日経BP社]] |date=2007-12-14 |accessdate=2008-02-21 }}</ref>によると、[[2007年]]中に送信されたメールのうち90%から95%がスパムメールであったという。大量に送信されるこれらのスパムメールはメールサーバに過大な負荷を与え、メール配送遅延の原因となることもある。たとえば[[2004年]]7月下旬から8月上旬にかけて、大手インターネットプロバイダ[[ニフティ|@nifty]]で、海外から大量に送信されたスパムメールによりメールサーバに断続的な負担が掛かり、メールの受信に支障が生じる状態が続いた<ref>{{Cite web|和書 |url=http://support.nifty.com/support/information/mail_delay.htm |title=会員サポート > 大量スパムメールによるメール遅延、ならびに対策について |work=@nifty |publisher=[[ニフティ]] |date=2004-08-13 |accessdate=2008-02-21 }}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。(2010年10月[[ロシア]]で摘発されたスパムメール業者は1日500億通を発信していたという。) また近年{{いつ|date=2021年12月}}、[[トロイの木馬 (ソフトウェア)|トロイの木馬]]などの[[マルウェア]]に感染したコンピュータ群によって引き起こされるDDoS型のスパム送信の割合が急激に増加しており、ますますメールサーバに多大な負荷を及ぼすものとされている(→[[ボットネット]]を参照)。 スパム以外のトラフィック増大要因として、いわゆる「年賀メール」(元旦前後に発生する大量の挨拶メール)の類もある。特に携帯電話等のメール機能は「即時の意思疏通を図る手段」としてチャット的に利用される場合があるため、一般の電子メールに比べ大量かつ集中的に送信されやすく、これを原因とした配送遅延や[[輻輳]]が問題になる場合もある。この対策として、各通信事業者が年越時間帯の利用自粛を呼び掛けたり発信制限を行ったりすることもある。かつてパソコン通信が全盛だった時代には、処理の集中を防ぐため、あらかじめ年賀メールをサーバに予約送信しておき元旦に順次配送するといったサービスも提供されていた。 なお、電子メールの配送システムの多くは、メールサーバに一定以上の負荷が掛かると送信を保留し一旦スプールに保存し後に(例えば数時間後に)再送信を試みる仕組みになっているため、トラフィックが一定量を超えると配送の極端な遅延が起こる。この遅延はメール1通毎に起こるため、同時期に送ったメールであっても、あるものは数秒で届きあるものは数時間で届くということになり、これを理解していない利用者の間ではメールを「送った」「送らない」で揉める恐れもある。 一時的な[[トラヒック理論|トラフィック]]の増大で[[スプーリング|スプール]]に保存された保留メールは、多くの場合時間の経過と共に処理され正常に戻るが、メールサーバの能力が十分でないと再送処理自体が間に合わなくなり、送信者に失敗通知が返送されることもある。{{要出典|なお、失敗通知すら返送されず「消滅」することは原理的にありえない。メールサーバは能力が追い付かない場合メールの受信([[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]コネクション)自体を拒否するからである。よく年賀メール等で「トラフィック増大が原因であるプロバイダのメールの紛失が起きた」と、あたかも不可抗力であるが如き報道を目にするが、正確にはそのプロバイダのメールサーバの管理が適切でなく、混雑時の処理が正しく動作していないシステム不良である。|date=2017年12月}} [[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]時には、ニューヨーク周辺間のメールが1日遅延するなどした他、2009年には[[南アフリカ]]で[[ケープタウン]]と[[ヨハネスブルグ]]間700kmで実験が行われ、電子メールより伝書鳩の方が早く情報を伝達できた。 ===スパムメール対策の問題点=== スパムメール対策としてサーバ上、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]上での[[電子メールフィルタリング|フィルタリング]]が普及してきたが、誤検知により通常のメールが[[スパム]]であると判断されてしまい、不着となる問題が増えている(→[[電子メールフィルタリング]]を参照)。 ===コミュニケーション上の問題=== 文字だけのやりとりに見られる問題([[炎上 (ネット用語)|炎上]]、[[:en:Flaming (Internet)|Flaming]])は電子メールにおいても見られる。メールの真意、感情が相手に伝わらず、度々揉め事に発展するケースが挙げられている。英語圏では、メールの真意を読み取り間違え、感情に任せて送るメールの呼称([[スラング]])にFlame Mailというものがある。 === 安全性の問題 === 電子メールにおけるテキストベースな平文は、[[サーバ|サーバー]]や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上でスニッフィング(傍受)される可能性が高く[[セキュリティー]]の観点から好ましいとは言えない。[[フィル・ジマーマン]]が開発し、公開した[[暗号]]ソフトウェア([[Pretty Good Privacy]]:PGP)のプラグインなどを導入することで安全性を高められる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite jis|X|0032|1999|name=情報処理用語―電子メール}} == 関連項目 == *[[メールアドレス]] *[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]] *[[メールマガジン]] *[[フリーメールサービス]] *[[プッシュ型電子メール]] *[[Webメール]] *[[キャリアメール]] *[[メーリングリスト]] *[[メールサーバ]] - [[Domain Name System]](DNS) *[[電子メールクライアント]](電子メールソフト、メールクライアント、MUA) *[[スパム (メール)]](迷惑メール) *[[チェーンメール]] *[[ストアアンドフォワード]] *[[mailto|mailto:]](TO)([[Uniform Resource Identifier|スキーム]]) *[[カーボンコピー|CC]](カーボンコピー) *[[ブラインドカーボンコピー|BCC]](ブラインドカーボンコピー) ==外部リンク== * [https://www.dir.co.jp/report/column/041203.html 大和総研/コラム:フィッシング詐欺が再喚起するHTMLメールの危険性] * [https://www.kanzaki.com/memo/2006/03/03-1 署名区切り行:sig-dashes] * [https://www.email-standards.org/ Email Standards Project] {{en icon}} * {{Kotobank|2=}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんしめえる}} [[Category:電子メール|*]] [[Category:パソコン通信]] [[Category:インターネット技術]]
2003-02-15T06:26:49Z
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8月
8月(はちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第8の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用いる。葉月の由来は諸説ある。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがある。また、「月見月(つきみづき)」の別名もある。 英語名 August は、ローマ皇帝アウグストゥスに由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する Sextilis から自分の名に変更した。よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがある。これは11世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコが提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されている(詳細はユリウス暦を参照)。 閏年の場合、8月はその年の2月と同じ曜日で始まる。
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8月(はちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第8の月に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用いる。葉月の由来は諸説ある。木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがある。また、「月見月(つきみづき)」の別名もある。 英語名 August は、ローマ皇帝アウグストゥスに由来する。アウグストゥスは紀元前1世紀、誤って運用されていたユリウス暦の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する Sextilis から自分の名に変更した。よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがある。これは11世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコが提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されている(詳細はユリウス暦を参照)。 閏年の場合、8月はその年の2月と同じ曜日で始まる。
{{出典の明記|date=2015年6月}} [[Image:Les Tr%C3%A8s Riches Heures du duc de Berry aout.jpg|thumb|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より8月]] '''8月'''(はちがつ)は、[[グレゴリオ暦]]で[[年]]の第8の[[月 (暦)|月]]に当たり、31日間ある。 [[日本]]では、[[8月 (旧暦)|旧暦8月]]を'''葉月'''(はづき)と呼び、現在では[[新暦]]8月の別名としても用いる。葉月の由来は諸説ある。[[木]]の[[葉]]が[[紅葉]]して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名である。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、[[雁]]が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの[[台風]]が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがある。また、「月見月(つきみづき)」の別名もある。 英語名 {{lang|en|August}} は、ローマ皇帝[[アウグストゥス]]に由来する。アウグストゥスは[[紀元前1世紀]]、誤って運用されていた[[ユリウス暦]]の運用を修正するとともに、8月の名称を「6番目の月」を意味する {{lang|la|''Sextilis''}} から自分の名に変更した。よく見かけられる通説に、彼がそれまで30日であった8月の日数を31日に増やし、その分を2月の日数から減らしたため2月の日数が28日となったというものがある。これは11世紀の学者[[ヨハネス・ド・サクロボスコ]]が提唱したものであり、8月の名称変更以前からすでに2月は短く、8月は長かった事を示す文献が複数発見されているため、この通説は現在では否定されている(詳細は[[ユリウス暦]]を参照)。 閏年の場合、8月はその年の[[2月]]と同じ[[曜日]]で始まる。 == 異名 == {{div col|colwidth=12em}} * あきかぜづき(秋風月) * かりきづき(雁来月) * かんげつ(観月) * けんゆうげつ(建酉月) * こぞめつき(木染月) * そうげつ(壮月) * ちくしゅん(竹春) * ちゅうしゅう(仲秋) * つきみつき(月見月) * つばめさりづき(燕去月) * はづき(葉月) * べにそめづき(紅染月) {{div col end}} == 8月の年中行事 == * [[8月1日]] - [[教祖祭PL花火芸術]]([[大阪府]][[富田林市]]) * [[8月2日]]から[[8月7日|7日]] - [[青森市|青森]][[ねぶた|ねぶた祭り]] * [[8月3日]]から[[8月6日|6日]] - [[竿燈|竿燈まつり]]([[秋田市]]) * [[8月5日]]から[[8月7日]] - [[山形花笠まつり]]([[山形市]]) * [[8月6日]]から[[8月8日]] - [[仙台七夕]] * [[8月6日]] - [[広島市への原子爆弾投下|広島原爆の日]]([[日本]]) * [[8月9日]] - [[長崎市への原子爆弾投下|長崎原爆の日]](日本) * [[8月9日]]から[[8月12日|12日]] - [[よさこい祭り]]([[高知市]]) * [[8月11日]] - [[山の日]](日本) * [[8月12日]]から[[8月15日]] - [[阿波踊り]]([[徳島市]]) * [[8月13日]]から[[8月16日]] - [[郡上おどり]]([[郡上市]]) * [[8月15日]] - [[終戦の日]](日本) * 8月15日 - [[お盆]](日本) * 8月第1[[土曜日]]・[[日曜日]] - [[狭山入間川七夕まつり]](日本) * 8月第1土曜日・日曜日 - [[おかやま桃太郎まつり]]・[[うらじゃ]]演舞([[岡山市]]) * 8月第4[[土曜日]] - [[全国花火競技大会]]・大曲の花火([[秋田県]][[大仙市]][[大曲市|大曲]]) * 8月第1[[土曜日]] - [[日本の花火大会一覧|花火大会]] 全国約50ヶ所で開催。 * 8月末 - [[にっぽんど真ん中祭り]]([[名古屋市]]、[[春日井市]]、[[安城市]]) * 8月中旬から下旬 - [[JAPAN TENT]]([[石川県]][[金沢市]]) == 8月に行われるスポーツ == * 上旬から下旬 - [[全国高等学校野球選手権大会]]([[阪神甲子園球場]]) * 上旬から下旬 - [[全国高等学校総合体育大会]] * 中旬から下旬 - [[全国中学校体育大会]] * 第3日曜もしくは第4日曜 - [[鈴鹿10時間耐久レース]]([[モータースポーツ]] [[鈴鹿サーキット]]) * 下旬 - [[ザ・ツアーチャンピオンシップ]]([[ゴルフ]]) * 最終月曜日から2週間 - [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]([[テニス]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]市[[フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク]]) == 8月がテーマの楽曲 == {{div col}} *八月の詩(歌:[[サザンオールスターズ]]) *消えた八月(作詞:栄谷温子、作曲:[[黒澤吉徳]]、[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]をモチーフにした混声[[合唱曲]]) *[[君よ八月に熱くなれ]](作詞:[[阿久悠]]、作曲:[[中田喜直]]、[[高校野球]]を象徴する歌) *[[Retour#収録曲|去年は、8月だった]] (歌:[[今井美樹]]) *[[8月のセレナーデ]] (歌:[[スガシカオ]]) *[[8月のクリスマス (曲)|8月のクリスマス]] (歌:[[山崎まさよし]]、同名映画『[[8月のクリスマス]]』[[主題歌]]) *8月の日時計(歌:[[松任谷由実]]) *[[7 (工藤静香の曲)|8月…]] (歌:[[工藤静香]]) *[[八月の恋]] (歌:[[森高千里]]) *[[J.BOY (アルバム)|八月の歌]] (歌:[[浜田省吾]]) * 八月の憂鬱(歌:[[MASCHERA]]) *寒い8月(歌:[[城之内早苗]]) *8月の長い夜(歌:[[TM NETWORK]]) *8月最初の水曜日(歌:[[渡辺満里奈]]) *8月の砂時計(歌:[[野田幹子]]) *[[サヨナラは八月のララバイ]](歌:[[吉川晃司]]) *[[八月の鯨]](歌:[[The Gospellers]]) *[[八月の濡れた砂]](歌:[[石川セリ]]、同名映画の主題歌) *[[ブルーの翼|Little Bird]](歌:[[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]]) *[[ゆずマンの夏|葉月の雨]](歌:[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]) *[[少年時代_(井上陽水の曲)|少年時代]](歌:[[井上陽水]]、同名映画の主題歌) *[[Sweet Voyage|Shadow of Your Smile]](歌:[[米川英之]]) *August(歌:[[ノーナ・リーヴス]]) *八月の OCEAN ボーイ(歌:Small Boys) *[[Smiley Nation|八月の夜]] (歌:[[GARNET CROW]]) *[[八月の夜]] (歌:[[SILENT SIREN]]) *[[ツン×デレ|8月の駅]] (歌:[[神聖かまってちゃん]]) *[[だから僕は音楽を辞めた|八月、某、月明かり]] (歌:[[ヨルシカ]]) *八月 (歌:Psychesia) {{div col end}} == その他 == * 星座 - [[獅子宮|獅子座]]([[8月22日]]頃まで)、[[処女宮|おとめ座]]([[8月23日]]頃から) {{-}} == 関連項目 == {{Commonscat|August}} {{Wiktionarypar|八月|はづき}} {{月 (暦)|カレンダー_8月|365日|月|8|日|[[8月30日|30]] [[8月31日|31]]}} *[[架空の日付#8月32日|8月32日]] {{Normdaten}} [[Category:8月|*]] [[Category:月 (暦)|08]]
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PAW法
PAW法 (英: projector augmented wave method) は第一原理電子構造計算の手法の一つ。擬ポテンシャル法とLAPW法を一般化した手法であり、より効率的に密度汎関数計算を行うことを可能とする。P. E. Blöchlが1994年に発表した手法で、数ある全電子計算手法の中でも新しい。 価電子波動関数はイオンコア近傍では、コア波動関数との直交性を保つために短い波長で振動することが多い。このことは、波動関数を正確に表現するために多くのフーリエ成分(グリッドを用いる手法では細かいメッシュ)を必要とするため計算コスト上の問題となる。 PAW法ではこの問題を、短波長で振動する波動関数を、計算コスト的により扱いやすい長波長で滑らかな波動関数に変形し、この滑らかな波動関数から全電子の特性を計算することを可能とすることで解決する試みである。全電子計算の手法であるため、内核付近の記述や、光学応答の計算に適している。このアプローチは、シュレーディンガー描像からハイゼンベルク描像への転換にある意味で似ている。 ある線形変換 T {\displaystyle {\mathcal {T}}} により、仮定上の擬波動関数 | Ψ ~ ⟩ {\displaystyle |{\tilde {\Psi }}\rangle } が全電子波動関数 | Ψ ⟩ {\displaystyle |\Psi \rangle } に変換されるものとする。 「全電子」波動関数はコーン・シャム一粒子波動関数であり、多体波動関数ではないことに注意。イオンコア近傍以外では | Ψ ~ ⟩ {\displaystyle |{\tilde {\Psi }}\rangle } と | Ψ ⟩ {\displaystyle |\Psi \rangle } が一致するようにするため、線形変換を以下のように書くものとする。 ここでは T ^ R {\displaystyle {\hat {\mathcal {T}}}_{R}} はある球形の原子 R を含む補正領域 Ω R {\displaystyle \Omega _{R}} でのみ非零であるとする。 各原子の周辺では、擬波動関数を擬部分波により展開するのが便利である。 T {\displaystyle {\mathcal {T}}} は線形な変換であるから、係数 c i {\displaystyle c_{i}} はプロジェクタ関数と呼ばれる関数の集合 | p i ⟩ {\displaystyle |p_{i}\rangle } との内積により表現される。 ここで ⟨ p i | φ ~ j ⟩ = δ i j {\displaystyle \langle p_{i}|{\tilde {\phi }}_{j}\rangle =\delta _{ij}} とする。全電子部分波は | φ i ⟩ = T | φ ~ i ⟩ {\displaystyle |\phi _{i}\rangle ={\mathcal {T}}|{\tilde {\phi }}_{i}\rangle } と書かれ、典型的には孤立原子におけるコーン・シャム・シュレーディンガー方程式の解と一致するように取る。 よって、線形変換 T {\displaystyle {\mathcal {T}}} は次の三つの量で記述される。 そして、次のように陽に書き下せる。 補正領域の外側では擬部分波は全電子部分波と一致する。領域の内側では、適当な滑らかな接続関数、たとえば多項式やベッセル関数の線形結合により表わされる。 PAW法は通常、コア状態はイオンのおかれた環境により影響されないとするフローズンコア近似と共に用いられることが多い。事前に計算されたPAWデータのオンラインリポジトリがいくつか存在する。 PAW変換により、全電子波動関数を陽にメモリ上に展開することなく、擬波動関数から全電子の可観測量を計算することが可能となる。このことは、原子核近傍の波動関数に強く依存するNMRなどの特性を計算する際に特に重要である。まず、ある作用素の期待値は次のように定義される。 ここで、全電子波動関数から擬波動関数に | Ψ ⟩ = T | Ψ ~ ⟩ {\displaystyle |\Psi \rangle ={\mathcal {T}}|{\tilde {\Psi }}\rangle } のように変換すると、以下を得る。 「擬作用素」をチルダで表わすこととして、次のように定義することができる。 もし A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} が局所的でふるまいの良い作用素であれば、 T {\displaystyle {\mathcal {T}}} の定義式を代入して下のような PAW 作用素変換を得ることができる。 ここで、添字 i , j {\displaystyle i,j} は全原子についてのプロジェクタを走るものとする。通常、同一の原子上の添字のみを足し上げ、オフサイトの寄与は無視することが多い。これを「オンサイト近似」と呼ぶ。 原論文で、 Blöchl は補正領域の内部に局在した任意の作用素 B ^ {\displaystyle {\hat {B}}} についてのこの等式には自由度があると述べている。つまり次のような項が付け加わる。 このことはPAW法において擬ポテンシャルを実装して原子核によるクーロンポテンシャルをより滑らかなポテンシャルに置き換える際の基礎ととらえることができる。
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PAW法 は第一原理電子構造計算の手法の一つ。擬ポテンシャル法とLAPW法を一般化した手法であり、より効率的に密度汎関数計算を行うことを可能とする。P. E. Blöchlが1994年に発表した手法で、数ある全電子計算手法の中でも新しい。 価電子波動関数はイオンコア近傍では、コア波動関数との直交性を保つために短い波長で振動することが多い。このことは、波動関数を正確に表現するために多くのフーリエ成分(グリッドを用いる手法では細かいメッシュ)を必要とするため計算コスト上の問題となる。 PAW法ではこの問題を、短波長で振動する波動関数を、計算コスト的により扱いやすい長波長で滑らかな波動関数に変形し、この滑らかな波動関数から全電子の特性を計算することを可能とすることで解決する試みである。全電子計算の手法であるため、内核付近の記述や、光学応答の計算に適している。このアプローチは、シュレーディンガー描像からハイゼンベルク描像への転換にある意味で似ている。
'''PAW法''' ({{lang-en-short|projector augmented wave method}}) は[[第一原理電子構造計算]]の手法の一つ。[[擬ポテンシャル]]法と[[LAPW法]]を一般化した手法であり、より効率的に[[密度汎関数理論|密度汎関数]]計算を行うことを可能とする。P. E. Blöchlが1994年に発表した手法で{{Sfn|Blöchl|1994}}、数ある全電子計算手法の中でも新しい。 価電子[[波動関数]]はイオンコア近傍では、コア波動関数との直交性を保つために短い波長で振動することが多い。このことは、波動関数を正確に表現するために多くのフーリエ成分(グリッドを用いる手法では細かいメッシュ)を必要とするため計算コスト上の問題となる。 PAW法ではこの問題を、短波長で振動する波動関数を、計算コスト的により扱いやすい長波長で滑らかな波動関数に変形し、この滑らかな波動関数から全電子の特性を計算することを可能とすることで解決する試みである。全電子計算の手法であるため、内核付近の記述や、光学応答の計算に適している。このアプローチは、[[シュレーディンガー描像]]から[[ハイゼンベルク描像]]への転換にある意味で似ている。 == 波動関数の変換 == ある[[線型写像|線形変換]] <math>\mathcal{T}</math> により、仮定上の擬波動関数 <math>|\tilde{\Psi}\rangle</math> が全電子波動関数 <math>|\Psi\rangle</math> に変換されるものとする。 : <math>|\Psi\rangle=\mathcal{T}|\tilde{\Psi}\rangle</math> 「全電子」波動関数は[[コーン–シャム方程式|コーン・シャム一粒子波動関数]]であり、[[多体波動関数]]ではないことに注意。イオンコア近傍以外では <math>|\tilde{\Psi}\rangle</math> と <math>|\Psi\rangle</math> が一致するようにするため、線形変換を以下のように書くものとする。 : <math>\mathcal{T}=1+\sum_R\hat{\mathcal{T}}_R</math> ここでは <math>\hat{\mathcal{T}}_R</math> はある球形の原子 {{Mvar|R}} を含む補正領域 <math>\Omega_R</math> でのみ非零であるとする。 各原子の周辺では、擬波動関数を[[部分波展開|擬部分波により展開]]するのが便利である。 : <math>|\tilde{\Psi}\rangle=\sum_i|\tilde{\phi}_i\rangle c_i</math> within <math>\Omega_R</math> <math>\mathcal{T}</math> は線形な変換であるから、係数 <math>c_i</math> はプロジェクタ関数と呼ばれる関数の集合 <math>|p_i\rangle</math> との内積により表現される。 : <math>c_i=\langle p_i|\tilde{\Psi}\rangle</math> ここで <math>\langle p_i|\tilde{\phi}_j\rangle=\delta_{ij}</math> とする。全電子部分波は <math>|\phi_i\rangle=\mathcal{T}|\tilde{\phi}_i\rangle</math> と書かれ、典型的には孤立原子におけるコーン・シャム・シュレーディンガー方程式の解と一致するように取る。 よって、線形変換 <math>\mathcal{T}</math> は次の三つの量で記述される。 # 全電子部分波の集合 <math>|\phi_i\rangle</math> # 擬部分波の集合 <math>|\tilde{\phi}_i\rangle</math> # プロジェクタ関数の集合 <math>|p_i\rangle</math> そして、次のように陽に書き下せる。 : <math>\mathcal{T} = 1 + \sum_i \left( | \phi_i \rangle - | \tilde{\phi}_i \rangle \right) \langle p_i | </math> 補正領域の外側では擬部分波は全電子部分波と一致する。領域の内側では、適当な滑らかな接続関数、たとえば多項式や[[ベッセル関数]]の線形結合により表わされる。 PAW法は通常、コア状態はイオンのおかれた環境により影響されないとする[[フローズンコア近似]]と共に用いられることが多い。事前に計算されたPAWデータのオンラインリポジトリがいくつか存在する<ref>[[#abinit|PAW atomic data for ABINIT code]]</ref><ref>[[#periodictable|Periodic Table of the Elements for PAW Functions]]</ref><ref>[[#gpaw|Atomic PAW Setups]]</ref>。 == 作用素の変換 == PAW変換により、全電子波動関数を陽にメモリ上に展開することなく、擬波動関数から全電子の可観測量を計算することが可能となる。このことは、原子核近傍の波動関数に強く依存する[[核磁気共鳴|NMR]]などの特性を計算する際に特に重要である{{sfn|Pickard|Mauri|2001}}。まず、ある作用素の期待値は次のように定義される。 : <math>a_i = \langle \Psi | \hat{A} | \Psi \rangle</math> ここで、全電子波動関数から擬波動関数に <math>|\Psi\rangle=\mathcal{T}|\tilde{\Psi}\rangle</math> のように変換すると、以下を得る。 : <math>a_i = \langle \tilde{\Psi} | \mathcal{T}^\dagger \hat{A} \mathcal{T} | \tilde{\Psi} \rangle</math> 「擬作用素」をチルダで表わすこととして、次のように定義することができる。 : <math>\tilde{A} = \mathcal{T}^\dagger \hat{A} \mathcal{T}</math> もし <math>\hat{A}</math> が局所的でふるまいの良い作用素であれば、 <math>\mathcal{T}</math> の定義式を代入して下のような PAW 作用素変換を得ることができる。 : <math>\tilde{A} = \hat{A} + \sum_{i,j} | p_i \rangle \left( \langle \phi_i | \hat{A} | \phi_j \rangle - \langle \tilde{\phi}_i | \hat{A} |\tilde{\phi}_j \rangle \right) \langle p_j | </math> ここで、添字 <math>i,j</math> は全原子についてのプロジェクタを走るものとする。通常、同一の原子上の添字のみを足し上げ、オフサイトの寄与は無視することが多い。これを「オンサイト近似」と呼ぶ。 原論文で、 Blöchl は補正領域の内部に局在した任意の作用素 <math>\hat{B}</math> についてのこの等式には自由度があると述べている。つまり次のような項が付け加わる。 : <math>\hat{B} - \sum_{i,j} | p_i \rangle \langle \tilde{\phi}_i | \hat{B} |\tilde{\phi}_j \rangle \langle p_j | </math> このことはPAW法において擬ポテンシャルを実装して原子核によるクーロンポテンシャルをより滑らかなポテンシャルに置き換える際の基礎ととらえることができる。 == 出典 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{cite journal |first=P.E. |last=Blöchl|year=1994 |title=Projector augmented-wave method|journal=[[Physical Review B]]|volume=50 |issue=24 |pages=17953–17978 |doi=10.1103/PhysRevB.50.17953|ref = harv}} *{{cite journal|last1=Kresse|first1=G.|last2=Joubert|first2=D.|doi=10.1103/PhysRevB.59.1758|title=From ultrasoft pseudopotentials to the projector augmented-wave method|year=1999}} *{{cite journal |first1=Chris J. |last1=Pickard|first2=Francesco|last2=Mauri|year=2001 |title=All-electron magnetic response with pseudopotentials: NMR chemical shifts|journal=[[Physical Review B]]|volume=63 |issue=24 |pages=245101–245114 |doi=10.1103/PhysRevB.63.245101|ref=harv}} *{{Cite journal | doi = 10.1103/PhysRevB.82.075116 | volume = 82 | issue = 7 | pages = 075116 | last = Dal Corso | first = Andrea | title = Projector augmented-wave method: Application to relativistic spin-density functional theory | journal = Physical Review B | accessdate = 2013-08-29 | date = 2010-08-11 | url = http://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevB.82.075116 }} *{{cite arXiv |last=Rostgaard |first=Carsten | eprint=0910.1921v2 |title=The Projector Augmented-wave Method |year=2010 }} == PAW法を実装するソフトウェア == {{Colbegin}} * [[ABINIT]] * {{仮リンク|CASTEP|en|CASTEP}} (NMR特性計算) * [http://www2.pt.tu-clausthal.de/paw/ CP-PAW] * [http://wiki.fysik.dtu.dk/gpaw/ GPAW] * {{仮リンク|ONETEP|en|ONETEP}} * {{仮リンク|PWPAW|en|Pwpaw}} * [http://www.sphinxlib.de S/PHI/nX] * [[Quantum ESPRESSO]] * [[Vienna Ab initio Simulation Package|VASP]] {{Colend}} == 外部リンク == * {{cite web |url=http://www.abinit.org/downloads/PAW2 |title=PAW atomic data for ABINIT code|accessdate=13 February 2012|ref = abinit}} * {{cite web |url=http://www.wfu.edu/~natalie/papers/pwpaw/periodictable/periodictable.html |title=Periodic Table of the Elements for PAW Functions|accessdate=13 February 2012|ref=periodictable}} * {{cite web|url=http://wiki.fysik.dtu.dk/gpaw/setups/setups.html#setups|title=Atomic PAW Setups|accessdate=14 February 2012|ref=gpaw}} [[Category:計算科学]] [[Category:物性物理学]] [[Category:バンド計算]] {{DEFAULTSORT:PAWほう}}
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1,716
ウルトラソフト擬ポテンシャル
ウルトラソフト擬ポテンシャル(ウルトラソフトぎポテンシャル、英: ultrasoft pseudopotential)は、1990年Vanderbiltが考案した第一原理擬ポテンシャルである。これまであったノルム保存型擬ポテンシャルでは、ノルム保存という条件が足枷となって、これ以上平面波基底の数を減らすことが困難となっていた。 ウルトラソフト擬ポテンシャルでは、このノルム保存の条件を課さないことにより、より少ない平面波基底で電子状態の計算が可能となる。ノルム保存を緩和した代償として、固有値問題ではなく、より複雑な一般化固有値問題を解く必要がある。しかし、平面波基底の数を削減できることの方が効果が大きく、より高速な計算が可能になる。
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ウルトラソフト擬ポテンシャルは、1990年Vanderbiltが考案した第一原理擬ポテンシャルである。これまであったノルム保存型擬ポテンシャルでは、ノルム保存という条件が足枷となって、これ以上平面波基底の数を減らすことが困難となっていた。 ウルトラソフト擬ポテンシャルでは、このノルム保存の条件を課さないことにより、より少ない平面波基底で電子状態の計算が可能となる。ノルム保存を緩和した代償として、固有値問題ではなく、より複雑な一般化固有値問題を解く必要がある。しかし、平面波基底の数を削減できることの方が効果が大きく、より高速な計算が可能になる。
'''ウルトラソフト擬ポテンシャル'''(ウルトラソフトぎポテンシャル、{{lang-en-short|ultrasoft pseudopotential}})は、[[1990年]]Vanderbiltが考案した第一原理擬ポテンシャルである<ref>[1] D. Vanderbilt, Phys. Rev. B'''41''' (1990) 7892.</ref>。これまであった[[ノルム保存型擬ポテンシャル]]では、ノルム保存という条件が足枷となって、これ以上[[平面波基底]]の数を減らすことが困難となっていた。 ウルトラソフト擬ポテンシャルでは、このノルム保存の条件を課さないことにより、より少ない平面波基底で電子状態の計算が可能となる。ノルム保存を緩和した代償として、固有値問題ではなく、より複雑な一般化固有値問題を解く必要がある。しかし、平面波基底の数を削減できることの方が効果が大きく、より高速な計算が可能になる。 == 参考文献 == <references /> == 関連項目 == *[[擬ポテンシャル]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:うるとらそふときほてんしやる}} [[Category:バンド計算]]
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1,718
KKR法
KKR法(KKRほう)とは、J. Korringa, W. Kohn, N. Rostokerらにより考案された全電子計算法のこと。 彼らの名前の文字からKKR法と呼ばれるが、計算手法の基礎にグリーン関数が用いられることからグリーン関数法とも呼ばれる。 電子の散乱理論を基礎においており、グリーン関数とCPA近似との相性のよさから、この手法によりはじめてCPA近似が第一原理計算に導入され合金の計算などを可能にした。
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KKR法(KKRほう)とは、J. Korringa, W. Kohn, N. Rostokerらにより考案された全電子計算法のこと。 彼らの名前の文字からKKR法と呼ばれるが、計算手法の基礎にグリーン関数が用いられることからグリーン関数法とも呼ばれる。 電子の散乱理論を基礎においており、グリーン関数とCPA近似との相性のよさから、この手法によりはじめてCPA近似が第一原理計算に導入され合金の計算などを可能にした。
'''KKR法'''(KKRほう)とは、J. Korringa, W. Kohn, N. Rostokerらにより考案された全電子計算法のこと<ref>J. Korringa, Physica, 13, 392 (1947).</ref><ref>W. Kohn and N. Rostoker, Phys. Rev. 94, 1111 (1954).</ref>。 彼らの名前の文字から'''KKR'''法と呼ばれるが、計算手法の基礎に[[グリーン関数]]が用いられることから'''グリーン関数法'''とも呼ばれる。 [[電子]]の[[散乱理論]]を基礎においており、グリーン関数と[[CPA近似]]との相性のよさから、この手法によりはじめてCPA近似が第一原理計算に導入され[[合金]]の計算などを可能にした。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[散乱理論]] *[[KKR-CPA]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:KKR}} [[Category:バンド計算]]
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1,719
9月
9月(くがつ)は、グレゴリオ暦で年の第9の月にあたり、30日間ある。 夏と秋の境目とした季節である。 日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 英語での月名 September は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の septem の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって Julius に改める以前は Quintilisといい、これがラテン語で「第5の」という意味の quintus の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。 日本の学校年度や会計年度は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い(アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国など)。 9月はその年の12月と同じ曜日で始まる。
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9月(くがつ)は、グレゴリオ暦で年の第9の月にあたり、30日間ある。 夏と秋の境目とした季節である。 日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 英語での月名 September は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の septem の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって Julius に改める以前は Quintilisといい、これがラテン語で「第5の」という意味の quintus の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。 日本の学校年度や会計年度は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い(アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国など)。 9月はその年の12月と同じ曜日で始まる。
{{redirect|九月|お笑い芸人|九月 (お笑い芸人)}} {{出典の明記|date=2015年6月}} [[Image:Les Tr%C3%A8s Riches Heures du duc de Berry septembre.jpg|thumb|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より9月]] '''9月'''(くがつ)は、[[グレゴリオ暦]]で[[年]]の第9の[[月 (暦)|月]]にあたり、30日間ある。 [[夏]]と[[秋]]の境目とした季節である。 [[日本]]では、[[9月 (旧暦)|旧暦9月]]を'''[[長月]]'''(ながつき)と呼び、現在では[[新暦]]9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 [[英語]]での月名 {{lang|en|September}} は、[[ラテン語]]表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の {{lang|la|''[[wikt:septem|septem]]''}} の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは[[7月]]が[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]によって {{lang|la|''Julius''}} に改める以前は {{lang|la|''Quintilis''}}といい、これがラテン語で「第5の」という意味の {{lang|la|''quintus''}} の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる<ref>同様に一般的な暦の10月,11月,12月はそれぞれローマ暦で8,9,10番目の月にあたり、ラテン語の「第8の」「第9の」「第10の」を意味する {{lang|la|"octavius", "nonus", "decimus"}} に由来する</ref>。 [[日本]]の[[学校年度]]や[[会計年度]]は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い([[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[ヨーロッパ]]、[[中華人民共和国]]など)。 9月はその年の[[12月]]と同じ[[曜日]]で始まる。 == 異名 == {{div col|colwidth=12em}} * ながつき(長月) * いろどりづき(彩月) * いわいづき(祝月) * えいげつ(詠月) * きくさきづき(菊開月) * きくづき(菊月) * くれのあき(晩秋) * げんげつ(玄月) * けんじゅつづき(建戌月) * せいじょづき(青女月) * ちくすいづき(竹酔月) * ねざめづき(寝覚月) * ばんしゅう(晩秋) * ぼしゅう(暮秋) * もみじづき(紅葉月) {{div col end}} == 9月の年中行事 == * [[9月1日]] - [[防災の日]](日本)<ref>「地震にそなえよう!ストレッチマン・レスキュー参上!」「災害にそなえよう!避難所でのすごし方」など。</ref> * 9月第1[[月曜日]] - [[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|労働者の日]]([[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]) * [[9月15日]]ごろ - [[月見]](日本) * 9月第3月曜日 - [[敬老の日]](日本) * [[9月20日]]から[[9月26日]]まで - [[動物愛護週間]](日本) * [[9月20日]]ごろ - [[空の日]](日本) * [[9月23日]]ごろ - [[秋分の日]](日本) == 9月に行われるスポーツ == * 第1日曜 - [[全アイルランドシニアハーリング選手権]]決勝([[ハーリング]]) * 上旬から下旬 - [[大相撲]]九月場所([[両国国技館|国技館]]) * 第3日曜 - [[全アイルランドシニアフットボール選手権]]決勝([[ゲーリックフットボール]]) * 最終土曜 - [[AFLグランドファイナル]]([[オージーフットボール]]) == 9月をテーマにした作品 == {{div col}} * [[アース・ウィンド・アンド・ファイアー]] - 「[[セプテンバー (EW&Fの曲)|September]]」<ref>タイトルは「9月」だが、12月に9月のことを回想している曲である。</ref> * [[RCサクセション]] - 「九月になったのに」 * [[aiko]] - 「September」 * [[飯島真理]] - 「9月の雨の匂い」 * [[一風堂 (バンド)|一風堂]]、[[SHAZNA]]([[カバー]]) - 「[[すみれ September Love]]」 * [[ENDLESS]] - 「九月の雨」 * [[太田裕美]] - 「[[九月の雨]]」「お墓通りあたり」 * [[久保田早紀]] - 「九月の色」 * [[グリーン・デイ]] - 「Wake Me Up When September Ends」 * [[クレイジーケンバンド]] - 「せぷてんばぁ」 * [[佐々木幸男]] - 「[[セプテンバー・バレンタイン]]」 * [[C-C-B]] - 「[[Boy's Life (アルバム)#収録曲|そして9月]]」 * [[島田奈美]] - 「九月には微笑んで」 * [[サカナクション]] ‐ 「[[834.194#収録曲|セプテンバー]]」 * [[サザンオールスターズ]] - 「[[さくら (サザンオールスターズのアルバム)#収録曲|湘南SEPTEMBER]]」 * [[the brilliant green]] - 「SEPTEMBER RAIN」 * [[スターダストレビュー]] - 「9月の海」 * [[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]] - 「[[9月の卒業]]」 * [[竹内まりや]] - 「[[SEPTEMBER (竹内まりやの曲)|September]]」 * [[TUBE]] - 「lady September」 * [[チューリップ (バンド)]] - 「セプテンバー」 * [[徳永英明]] - 「9月のストレンジャー」 * [[中島みゆき]] -「[[生きていてもいいですか|船を出すのなら九月]]」 * [[夏木マリ]] - 「九月のマリー」 * [[林原めぐみ]] - 「9月の扉」 * [[PE'Z]] - 「九月の空 -KUGATSU NO SOLA-」 * [[松岡直也|松岡直也&ウィシング]] - 「九月の風」 * [[松任谷由実]] - 「[[紅雀 (アルバム)|9月には帰らない]]」、「[[Delight Slight Light KISS|September Blue Moon]]」、「[[DAWN PURPLE|9月の蝉しぐれ]]」、「[[TEARS AND REASONS|サファイアの9月の夕方]]」 * [[南沙織]] -「[[純潔/ともだち|九月になれば]]」、「[[愛なき世代#収録曲|九月のエピソード]]」 * [[ムーンライダーズ]] - 「9月の海はクラゲの海」 * [[矢野顕子]] - 「長月・神無月」 * [[RADWIMPS]] - 「セプテンバーさん」{{div col end}} == その他 == * 星座 - [[処女宮|乙女座]]([[9月22日]]頃まで)、[[天秤宮|天秤座]]([[9月23日]]([[秋分]])頃から) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{clear|right}} == 関連項目 == {{Commonscat|September}} {{Wiktionarypar|九月|ながつき}} {{月 (暦)|カレンダー_9月|365日|月|9|日|[[9月30日|30]]}} {{Normdaten}} [[Category:9月|*]] [[Category:月 (暦)|09]]
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1,720
平面波
平面波(へいめんは、英: Plane wave)とは、等位相面が波数ベクトルを法線ベクトルとする等値平面から成る周期関数のことである。 平面波と呼ばれる関数には、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」がある。「時間変数を持たない平面波」は、周期関数のフーリエ級数展開や、フーリエ変換、時間発展のないシュレーディンガー方程式の計算に用いられる。「時間変数を持つ平面波」は、波動方程式の解として現れる。 通常、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」は、区別されずに混同されて用いられるが、異なるものなので、曖昧さを回避する観点から区別が必要な場合には、用語を使い分けることにする。それぞれの用語の定義は以下に行う。 また、本稿では、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」の総称として「平面波」という用語を用いることにする。 実数または複素数に値を取る実 d 変数関数 Ψ が時間変数を持たない平面波であるとは、周期 2π の実1変数の周期関数 f と、波数ベクトルと言われる d 次元実定数ベクトル k(但し k ≠ 0)を用いて、 と表されることを意味する。 時間変数を持つ平面波は、波動方程式の固有解に現れる。 実数または複素数に値を取る関数 Φ が時間変数を持つ平面波であるとは、空間変数 x (d 次元実数ベクトル)と時間変数t (実数)と、周期 2π の実1変数の周期関数 f と、波数ベクトル k(d 次元実定数ベクトル、但し k ≠ 0)と、角振動数 ω≠ 0 を用いて、 であることを意味する。 尚、本稿では、時間変数と空間変数をX = (x , t) のように分ける。つまり、変数の最後の成分を時間変数と考える。 物理的には、空間変数 x と時間変数 t は異なるものであるが、数学ではどちらも単なる変数である。この意味において、d 次元の時間変数を持つ平面波は、d + 1 変数の時間変数を持たない平面波と見做すことができる。 時間変数を持つ平面波 に対して、新たに K を、空間成分 k と、時間成分 −ω を並べた d + 1 次元の実数ベクトルとする。即ち、 とする。但し、ki は、波数ベクトル k の第 k 成分を意味する。 又、X = (x, t)とする。このとき、 のように書くことが出来る。この意味において、d 次元の時間変数を持つ平面波は、n + 1 変数の時間変数を持たない平面波と見做すことができた。 正弦平面波は、正弦波の多次元への拡張の1つで、代表的な平面波である。正弦平面波には、実正弦平面波と複素正弦平面波がある。正弦平面波のことを単に平面波ということもあるが、正弦平面波ではない平面波もある。 実正弦平面波は、数学的には振幅 A、波数ベクトル K、位相項 δ の3つの定数/定数ベクトルで特徴付けられる。一般に d 次元の実正弦平面波は、時間変数を持たない形で書くと 時間変数を持つ形で書くと で表される。 ここで、波数ベクトルや時間・空間変数は、それぞれ である。 実正弦平面波は重ね合わせの計算などが面倒であることから、計算上のテクニックとして、実正弦平面波の値域をオイラーの公式を用いて複素数域に拡張した複素正弦波が発案された。古典物理では、複素平面正弦波は実正弦平面波の重ね合わせを計算するための便宜にすぎないが、量子力学では複素平面正弦波を用いなければ説明がつかない現象があるため、計算上の便宜のためだけのものではない。 複素正弦平面波は数学的には、振幅 A(複素定数)、波数ベクトル K(実定数ベクトル)、位相項 δ(実定数)の3つの定数/定数ベクトルで特徴付けられる。一般に、d 次元の複素正弦平面波は、 の形で表される。 aj , θj (j = 1, 2, ... , m )を実定数(ただし aj ≥ 0)としたときに、重ね合わせ を計算する問題を考える。 オイラーの公式より、複素数をベクトルのように表記して と見なすことができる。 式(2-1)の右辺に、ベクトルの平行四辺形則を適用すると としたときに、 が成り立つ。従って、重ね合わせ(1)を計算する問題は、式(2-2)の2つの式を求める問題に帰着される。ここで、 θj (j = 1, 2, ... , m ) は実定数なので、 が成り立つ。 は複素共役を意味する。このことに注意して、a の展開を行うと が成立する。式(2-3)と、条件aj ≥ 0 を考え併せると、式(2-2)は、 と変形できる。従って、重ね合わせを計算する問題は、式(2-2’)を求める問題に帰着される。計算上の便宜としての複素正弦波を持ち出す最大の理由は、式(2-2)から(2-2’)(特に振幅の関係式)が導き出せることにある。 一般には、これ以上簡単な形に変形することは難しいが、いくつかの特殊な場合には振幅の項あるいは位相項の片方あるいは両方がより簡単な形になる。例えば のときには、 となる。この問題は、2つの位相差のある平面正弦波の重ねあわせの問題である。 平面波展開(または平面波近似)は、1変数のフーリエ級数展開を多変数関数に拡張した概念で、多変数の周期関数を正弦平面波からなる級数に展開する手法である。以下では、まず一番簡単な場合、即ち、正方格子を周期として持つ2変数関数の場合について平面波展開を考え、その後、一般の場合の平面波展開について説明する。 簡単のため、F (x, y ) が、標準正方格子を周期格子とする場合の平面波展開を、1変数のフーリエ級数に帰着することを考える。 以下の定理が成り立つ: 定理 (一番簡単な場合の平面波展開) ― F(x , y) が、周期 E1 , E2 を持つL 関数であるとき、 が成立する。但し、E1 , E2 は、それぞれ、2次単位行列の第一列、第二列である。即ち、E1 , E2 は、R の標準基底とする。 尚、周期性の定義等、用語の定義を知らずとも、計算の流れのみから本ケースの証明は理解が可能であると思われるため、定義などは後回しにする(一般の場合を考える際に、再定義する)。又、1変数のフーリエ級数についての諸議論は既知とする。以下、3つのステップに分け証明を行う。 y を固定して(定数として)考えると、F (x, y ) は、x についての一変数関数である。この関数を fy(x) と書くことにする。即ち、 とする。fy(x) は周期1の周期関数である。従ってfy(x) が [0,1] 閉区間で L 関数であれば、fy(x) を 1変数関数の意味でフーリエ級数展開することが可能である。 具体的には cn を、 とすると、 のように級数展開可能である。 前述の cn は y を固定するごとに定まるので、cn は y についての関数と考えることが出来る。cn の定義により、cn もまた、y について(1変数の意味で)周期1の周期関数である。 実際、F(x, y) は、周期 E2 を持つため、F(x, y) = F(x, y + 1) である。従って、 である。 実は、cn(y) もまた L 関数であるため、cn(y) も1変数関数の意味でフーリエ級数展開可能である。すなわち とすると、 となる。 式(3-1)に式(3-2)を代入すると、 を得る。 F を実数値あるいは複素数値の実 d 変数関数とし、τ を d 次元の実定数ベクトルとする。このとき、τ が F の周期であるとは、任意の d 次元実数ベクトル x に対し F(x + τ) = F(x)であることを意味する。 定理1 ― F を実数値あるいは複素数値の実 d 変数関数としたとき、 ここで、τ が F の周期であったとしても、√2τ や τ/2 が F の周期であるとは限らない。 定理1から帰納的に以下の定理2が示される。 定理2 ― τ1, τ2, ..., τl が F の周期で、z1, z2, ..., zl が整数であるとき、 もまた、F の周期である。 前節の定理1と定理2は、周期が格子状の空間(Z-加群)をなすことを主張している。以下、格子について補足を行う。 d 次元標準正方格子 Z d {\displaystyle \mathbb {Z} ^{d}} を、以下のように定義する。即ち、d 次元標準正方格子は、成分全てが整数となるような d 次元実数ベクトルを全て集めることによって出来た集合である。 Z d {\displaystyle \mathbb {Z} ^{d}} は、 R d {\displaystyle \mathbb {R} ^{d}} の標準基底 e1 , ... , ed の Z 結合で生成される。即ち、 Z d {\displaystyle \mathbb {Z} ^{d}} の点 z は、n 個の整数 z1 , ... , zd によって、 のように展開することが出来る。この展開は、一意的である。 又、d 次正則行列 A に対し、 A Z d {\displaystyle A\mathbb {Z} ^{d}} を、 と定め、d 次元正則行列 A によって生成された格子空間と呼ぶ。 A Z d {\displaystyle A\mathbb {Z} ^{d}} は、A の列ベクトル A1 , ... , Ad のZ結合で生成される。即ち、 A Z d {\displaystyle A\mathbb {Z} ^{d}} の点は、n 個の整数 z1 , ... , zd によって、 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T と G を、d 次実正則行列、p1, ... pd を整数とする。さらに、T と G の間に の関係が成立するとする。ここで、E は d 次単位行列である。さらに、Φ は、波数 G(p1, ... pd) の平面波とする。 このとき、T1, T2, ... , Td は全て Φ の周期となる。但し、 である。Tj, Gj はそれぞれ T および G の第 j 列ベクトルを意味する。 非相対論的な量子論では、自由粒子のエネルギー固有状態は平面波となる。また自由粒子のハミルトニアンと運動量が可換であるため、運動量の固有状態も平面波である。つまりエネルギーと運動量についての同時固有関数となっている。量子論においても平面波は、基底関数として様々な場面で用いられるが、本来1に規格化されるべき2乗積分が有限の値を持たないこと、時間的・空間的に無限の彼方まで広がっており非現実的であること等の問題も抱えている。 波動関数は、基底関数で展開した形で記述することができる。この時に用いられる基底の1つに平面波基底(英: Plane wave basis)がある。バンド計算における表式化が比較的簡単で(それ故、プログラムも構築し易い)力やストレスの計算も他の基底(局在基底など)を使った場合より容易に実現が可能である。また、平面波基底では、Pulay補正項の問題が回避できることも利点のひとつである。 欠点として、例えば波動関数や電荷密度への寄与の s, p, d 軌道毎への分割や、ユニットセル内の特定の原子の電荷を求めることが困難になることが挙げられる。
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d {\\displaystyle \\mathbb {R} ^{d}} の基底とする。このとき、", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "を、T1 , ... , Td が張るd 次元平行六面体、あるいはユニットセルという。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "特に、d 重周期関数 F に対し、T の列ベクトル全て、即ち T1 , ... , Td が F の周期となるような d 次正則行列", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "が定まる。本稿では、このような T を、F の周期行列と言うことにする。また、 T Z d {\\displaystyle T{\\mathbb {Z} }^{d}} を、F の周期格子という。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "簡単な計算から以下の定理が判る。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "定理 (周期関数の標準化) ― T を、d 次元正則行列とし、実 d 変数関数 F が T の列ベクトル全て、即ち T1, T2, ..., Td を F の周期とするような d 重周期関数とする。この時、", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "とすると、H(y) は、e1, ..., ed のすべてを周期とするような d 重周期関数である。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "この定理により、周期行列が存在するようなd 重周期関数の問題は、すべて、標準正方格子を周期格子として持つような周期関数の問題に帰着されることが判る。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "平面波の周期性について、以下の命題が成り立つ。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "命題1 ― 実数または複素数に値を持つ実 d 変数関数 Φ を時間変数を持たない平面波であるとし、K ≠ 0 を Φ の波数ベクトルとするとき、", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "即ち、命題1は、K の直交補空間の点は皆、波数 K の平面波 Φ の周期であることを主張している。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "命題2 ― 実数または複素数に値を持つ実 d 変数関数 Φ を時間変数を持たない平面波、K ≠ 0 を Φ の波数ベクトルとするとき、", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "以下の定理より、d 重周期関数 F と同じ d 重周期を持つ平面波を沢山作る方法が与えられる。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "定理 (逆格子の存在) ― T と G を、d 次実正則行列、p1, ... pd を整数とする。さらに、T と G の間に", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "の関係が成立するとする。ここで、E は d 次単位行列である。さらに、Φ は、波数 G(p1, ... pd) の平面波とする。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "このとき、T1, T2, ... , Td は全て Φ の周期となる。但し、", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "である。Tj, Gj はそれぞれ T および G の第 j 列ベクトルを意味する。", "title": "周期関数の平面波展開" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "非相対論的な量子論では、自由粒子のエネルギー固有状態は平面波となる。また自由粒子のハミルトニアンと運動量が可換であるため、運動量の固有状態も平面波である。つまりエネルギーと運動量についての同時固有関数となっている。量子論においても平面波は、基底関数として様々な場面で用いられるが、本来1に規格化されるべき2乗積分が有限の値を持たないこと、時間的・空間的に無限の彼方まで広がっており非現実的であること等の問題も抱えている。", "title": "量子論における平面波" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "波動関数は、基底関数で展開した形で記述することができる。この時に用いられる基底の1つに平面波基底(英: Plane wave basis)がある。バンド計算における表式化が比較的簡単で(それ故、プログラムも構築し易い)力やストレスの計算も他の基底(局在基底など)を使った場合より容易に実現が可能である。また、平面波基底では、Pulay補正項の問題が回避できることも利点のひとつである。", "title": "第一原理バンド計算における平面波" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "欠点として、例えば波動関数や電荷密度への寄与の s, p, d 軌道毎への分割や、ユニットセル内の特定の原子の電荷を求めることが困難になることが挙げられる。", "title": "第一原理バンド計算における平面波" } ]
平面波とは、等位相面が波数ベクトルを法線ベクトルとする等値平面から成る周期関数のことである。
{{ページ番号|date=2018-06-08}} '''平面波'''(へいめんは、{{lang-en-short|Plane wave}})<ref name=aoki>{{cite|和書|editor=青本 和彦, 他|title=岩波 数学入門辞典|publisher=[[岩波書店]]|year=2005}}</ref><ref name=mizo>{{cite|和書|author=溝畑 茂|title=偏微分方程式論|publisher=岩波書店|year=2002}}</ref><ref name=kaneko>{{cite|和書|author=金子 晃|title=偏微分方程式入門|publisher=[[東京大学出版会]]|year=1998}}</ref><ref name=asumi>{{cite|和書|author=アシュクロフト|author2=マーミン|translator=松原 武生, 町田 一成|title=固体物理の基礎 上・1 固体電子論概論 (物理学叢書 46)|publisher=吉岡書店|date=1981/01}}</ref><ref name=kittel>{{cite|和書|author=チャールズ キッテル|translator=宇野 良清, 新関 駒二郎, 山下 次郎, 津屋 昇, 森田 章|title=キッテル 固体物理学入門|edition=8|publisher=[[丸善雄松堂|丸善]]|date=2005/12}}</ref><ref name=tanaka>{{cite|和書|author=田中 信夫|title=電子線ナノイメージング―高分解能TEMとSTEMによる可視化 (材料学シリーズ) |publisher=内田老鶴圃|date=2009/04}}</ref><ref name=konnno>{{cite|和書|author=今野 豊彦|title=物質からの回折と結像―透過電子顕微鏡法の基礎|publisher=[[共立出版]]|year=2003}}</ref><ref name=hyoumenn>{{cite|和書|editor=日本表面科学会|title=ナノテクノロジーのための表面電子回折法 (表面分析技術選書)|publisher=丸善|date=2003/03}}</ref><ref name=ich>{{cite|和書|市川 恒樹|title=物質科学のための量子力学|publisher=三共出版|date=2002/11}}</ref><ref name=tuskada>{{cite|和書|author=塚田 捷|title=物性物理学 (裳華房フィジックスライブラリー)|publisher=[[裳華房]]|date=2007/3/25}}</ref><ref name=oguchi>{{cite|和書|author=小口 多美夫|title=バンド理論―物質科学の基礎として (材料学シリーズ)|publisher=内田老鶴圃|date=1999/07}}</ref><ref name=fuai>{{cite|和書|author=[[リチャード・P・ファインマン|ファインマン]]|translator=[[富山小太郎]]|title=[[ファインマン物理学|ファインマン物理学〈2〉光・熱・波動]]|publisher=岩波書店|edition=新装|date=1986/2/7}}</ref>とは、等位相面が[[波数]]ベクトルを[[法線]]ベクトルとする[[等位集合|等値平面]]から成る[[周期関数]]のことである。 == 平面波の定義 == 平面波と呼ばれる関数には、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」がある。「時間変数を持たない平面波」は、周期関数の[[フーリエ級数]]展開や、[[フーリエ変換]]、時間発展のない[[シュレーディンガー方程式]]の計算に用いられる。「時間変数を持つ平面波」は、[[波動方程式]]の解として現れる。 通常、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」は、区別されずに混同されて用いられるが、異なるものなので、曖昧さを回避する観点から区別が必要な場合には、用語を使い分けることにする。それぞれの用語の定義は以下に行う。 また、本稿では、「時間変数を持たない平面波」と、「時間変数を持つ平面波」の総称として「平面波」という用語を用いることにする。 ===時間変数を持たない平面波=== 実数または複素数に値を取る[[実数|実]] {{Mvar|d}} [[多変数関数|変数関数]] {{Math|Ψ}} が時間変数を持たない平面波であるとは、周期 {{Math|2''π''}} の実1変数の周期関数 {{Mvar|f}} と、波数ベクトルと言われる ''{{Mvar|d}}'' 次元実定数ベクトル {{Mvar|'''k'''}}(但し {{Math|'''''k''''' ≠ '''0'''}})を用いて、 :<math>\Psi(\boldsymbol{x})=f(2\pi \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x})</math> と表されることを意味する。<!--&Psi;が実数値関数のときには、時間変数を持たない実平面波&Psi;が複素数値関数のときには、時間変数を持たない複素平面波と呼ぶ。--> === 時間変数を持つ平面波 === 時間変数を持つ平面波は、[[波動方程式]]の固有解に現れる。 実数または複素数に値を取る関数 {{Math|Φ}} が時間変数を持つ平面波であるとは、空間変数 {{Mvar|'''x'''}} ({{Mvar|d}} 次元実数ベクトル)と時間変数''t'' (実数)と、周期 {{Math|2''π''}} の実1変数の周期関数 {{Mvar|f}} と、波数ベクトル ''{{Mvar|'''k'''}}''(''d'' 次元実定数ベクトル、但し {{Math|'''''k''''' ≠ '''0'''}})と、角振動数 {{Math|''ω''≠ 0}} を用いて、 :<math>\Phi(\boldsymbol{x},t)=f(2\pi (\boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x} - \omega t))</math> であることを意味する。<!--<math>\Phi</math>が実数値関数のときには、時間変数を持たない実平面波<math>\Phi</math>が複素数値関数のときには、時間変数を持たない複素平面波と呼ぶ。--> 尚、本稿では、時間変数と空間変数を{{Math|1='''''X''''' = ('''''x''''' , ''t'')}} のように分ける。つまり、変数の最後の成分<ref group="注" name=saisyo>文献によっては最初の成分を時間変数にする場合もある。</ref>を時間変数と考える。 === 時間変数を持つ平面波と、時間変数を持たない平面波 === 物理的には、空間変数 {{Mvar|'''x'''}} と時間変数 {{Mvar|t}} は異なるものであるが、数学ではどちらも単なる変数である。この意味において、{{Mvar|d}} 次元の時間変数を持つ平面波は、{{Math|''d'' + 1}} 変数の時間変数を持たない平面波と見做すことができる。 時間変数を持つ平面波 :<math>\Phi(\boldsymbol{x},t)=f(2\pi (\boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x} - \omega t))</math> に対して、新たに {{Mvar|'''K'''}} を、空間成分 ''{{Mvar|'''k'''}}'' と、時間成分 {{Math|−''ω''}} を並べた {{Math|''d'' + 1}} 次元の実数ベクトルとする。即ち、 :<math>\boldsymbol{K} = \left( \begin{array}{c} k_1 \\ \vdots \\ k_d \\ -\omega \end{array} \right)</math> とする。但し、{{Mvar|k<sub>i</sub>}} は、波数ベクトル {{Mvar|'''k'''}} の第 {{Mvar|'''k'''}} 成分を意味する。 又、{{Math|1='''''X''''' = ('''''x''''', ''t'')}}とする。このとき、 :<math>\Phi(\boldsymbol x,t)= f(2\pi (\boldsymbol k\cdot \boldsymbol x-\omega t)) = f(2\pi \boldsymbol K\cdot \boldsymbol X)</math> のように書くことが出来る。この意味において、{{Mvar|d}} 次元の時間変数を持つ平面波は、{{Math|''n'' + 1}} 変数の時間変数を持たない平面波と見做すことができた。 == 正弦平面波 == 正弦平面波は、[[正弦波]]の多次元への拡張の1つで、代表的な平面波である。正弦平面波には、実正弦平面波と複素正弦平面波がある。正弦平面波のことを単に平面波ということもあるが、正弦平面波ではない平面波もある。 === 実正弦平面波の一般式 === 実正弦平面波は、数学的には振幅 {{Mvar|A}}、波数ベクトル {{Mvar|'''K'''}}、位相項 {{Mvar|δ}} の3つの定数/定数ベクトルで特徴付けられる。一般に {{Mvar|d}} 次元の実正弦平面波は、時間変数を持たない形で書くと :<math>A\cos(2\pi(\boldsymbol{K}\cdot\boldsymbol{X}+\delta))</math> 時間変数を持つ形で書くと :<math>A\cos (2\pi(\boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x} -\omega t+ \delta) )</math> で表される。 ここで、波数ベクトルや時間・空間変数は、それぞれ :<math>\boldsymbol{k} = \begin{pmatrix} k_1 \\ \vdots \\ k_d \end{pmatrix}, \quad \boldsymbol{x} = \begin{pmatrix} x_1 \\ \vdots \\ x_d \end{pmatrix}, \qquad \boldsymbol{K}= \begin{pmatrix} k_1 \\ \vdots \\ k_d \\ -\omega \end{pmatrix}, \quad \boldsymbol{X}=\begin{pmatrix} x_1 \\ \vdots \\ x_d \\ t \end{pmatrix}</math> である。 ===複素正弦平面波の一般式=== 実正弦平面波は重ね合わせの計算などが面倒であることから、計算上のテクニックとして、実正弦平面波の値域を[[オイラーの公式]]を用いて複素数域に拡張した複素正弦波が発案された。古典物理では、複素平面正弦波は実正弦平面波の重ね合わせを計算するための便宜にすぎないが、量子力学では複素平面正弦波を用いなければ説明がつかない現象があるため、計算上の便宜のためだけのものではない。 複素正弦平面波は数学的には、振幅 {{Mvar|A}}(複素定数)、波数ベクトル {{Mvar|'''K'''}}(実定数ベクトル)、位相項 {{Mvar|δ}}(実定数)の3つの定数/定数ベクトルで特徴付けられる。一般に、{{Mvar|d}} 次元の複素正弦平面波は、 :<math>A\exp i(2\pi(\boldsymbol{K} \cdot \boldsymbol{X} +\delta) )</math> の形で表される。 <!--(説明が重複しているので省略します。) ここで、iは虚数単位、波数ベクトルと変数は、共にd次元実数ベクトルであり、成分で表すと、それぞれ <math>\textbf{K} = \begin{pmatrix} k_1 \\ \vdots \\ k_d \end{pmatrix}, \quad \textbf{X} = \begin{pmatrix} x_1 \\ \vdots \\ x_d \end{pmatrix}</math> となる。--> === 複素正弦平面波を用いた実正弦平面波の重ね合わせ === {{Math|1=''a''<sub>''j''</sub> , ''θ''<sub>''j''</sub> (''j'' = 1, 2, ... , ''m'' )}}を実定数(ただし {{Math|''a''<sub>''j''</sub> ≥ 0}})としたときに、重ね合わせ :<math>\sum_{j=1}^m a_j \cos i \theta_j</math> を計算する問題を考える。 オイラーの公式より、複素数をベクトルのように表記して :<math>a_j \exp i \theta_j = a_j \begin{pmatrix} \cos \theta_j \\ \sin \theta_j \end{pmatrix} </math> (2-1) と見なすことができる。 式(2-1)の右辺に、ベクトルの[[平行四辺形則]]を適用すると :<math>\begin{cases} a= \left| \sum\limits_{j=1}^m a_j \exp i \theta_j \right| \\ \theta = \arg \sum\limits_{j=1}^m a_j \exp i \theta_j \\ \end{cases}</math> (2-2) としたときに、 :<math>a\cos \theta = \sum_{j=1}^m a_j \cos i \theta_j</math> が成り立つ。従って、重ね合わせ(1)を計算する問題は、式(2-2)の2つの式を求める問題に帰着される。ここで、 {{Math|1=''θ''<sub>''j''</sub> (''j'' = 1, 2, ... , ''m'' )}} は実定数なので、 :<math>( \exp ik \theta )^* = \exp (-ik \theta)</math> が成り立つ。{{Mvar|<sup>*</sup>}} は[[複素共役]]を意味する。このことに注意して、{{Math|''a''<sup>2</sup>}} の展開を行うと :<math>a^2 = \sum_{j=1}^m a_j \exp i \theta_j \sum_{l=1}^m a_l \exp (-i \theta_j )= \sum_{j,l=1}^m a_j a_l \exp i( \theta_j - \theta_l )</math> (2-3) が成立する。式(2-3)と、条件''a<sub>j</sub>'' &ge; 0 を考え併せると、式(2-2)は、 :<math>\begin{cases} a^2 = \sum\limits_{j,l=1}^m a_j a_l \exp i( \theta_j - \theta_l ) \\ \theta = \arg \sum\limits_{j=1}^m a_j \exp i \theta_j \end{cases}</math> (2-2’) と変形できる。従って、重ね合わせを計算する問題は、式(2-2’)を求める問題に帰着される。計算上の便宜としての複素正弦波を持ち出す最大の理由は、式(2-2)から(2-2’)(特に振幅の関係式)が導き出せることにある。 一般には、これ以上簡単な形に変形することは難しいが、いくつかの特殊な場合には振幅の項あるいは位相項の片方あるいは両方がより簡単な形になる。例えば :<math>\begin{align} & \theta_1 = \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x} - \omega t \\ & \theta_2 = \boldsymbol{k} \cdot \boldsymbol{x} -\omega t+ \delta \\ & m=2 \end{align}</math> のときには、 :<math>a= \sqrt{{a_1}^2 + {a_2}^2 +2 a_1 a_2 \cos \delta}</math> となる。この問題は、2つの位相差のある平面正弦波の重ねあわせの問題である。 == 周期関数の平面波展開 == '''平面波展開'''(または'''平面波近似''')は、1変数の[[フーリエ級数]]展開を多変数関数に拡張した概念で、多変数の周期関数を正弦平面波からなる級数に展開する手法である。以下では、まず一番簡単な場合、即ち、正方格子を周期として持つ2変数関数の場合について平面波展開を考え、その後、一般の場合の平面波展開について説明する。 === 一番簡単な場合の平面波展開 === 簡単のため、{{Math|''F'' (''x'', ''y'' )}} が、標準正方[[格子 (数学)|格子]]を周期格子とする場合の平面波展開を、1変数のフーリエ級数に帰着することを考える。 以下の定理が成り立つ: {{math theorem| {{math|{{mvar|F}}({{mvar|x}} , {{mvar|y}})}} が、周期 {{math|{{mvar|E}}{{sub|1}}}} , {{math|{{mvar|E}}{{sub|2}}}} を持つ[[自乗可積分|{{math|{{mvar|L}}{{sup|2}}}} 関数]]であるとき、 :<math>F(x,y)={\sum}_{(n,m)\in\mathbb{Z}^2}{c}_{n,m}\exp(2\pi i(nx+my))</math> が成立する。但し、{{math|{{mvar|E}}<sub>1</sub>}} , {{math|{{mvar|E}}<sub>2</sub>}} は、それぞれ、2次[[単位行列]]の第一列、第二列である。即ち、{{math|{{mvar|E}}<sub>1</sub>}} , {{math|{{mvar|E}}<sub>2</sub>}} は、{{math|'''R'''<sup>2</sup>}} の標準基底とする。 |note=一番簡単な場合の平面波展開}} 尚、周期性の定義等、用語の定義を知らずとも、計算の流れのみから本ケースの証明は理解が可能であると思われるため、定義などは後回しにする(一般の場合を考える際に、再定義する)。又、1変数のフーリエ級数についての諸議論は既知とする。以下、3つのステップに分け証明を行う。 ==== {{Mvar|y}} を固定して、一変数関数としてフーリエ級数展開する ==== {{Mvar|y}} を固定して(定数として)考えると、{{Math|''F'' (''x'', ''y'' )}} は、{{Mvar|x}} についての一変数関数である。この関数を {{Math|''f''<sub>''y''</sub>(''x'')}} と書くことにする。即ち、 :<math>f_y(x)=F(x,y)</math> とする。{{Math|''f''<sub>''y''</sub>(''x'')}} は周期1の周期関数である。従って{{Math|''f''<sub>''y''</sub>(''x'')}} が {{Math|[0,1]}} 閉区間で {{Math|''L''<sup>2</sup>}} 関数であれば、{{Math|''f''<sub>''y''</sub>(''x'')}} を 1変数関数の意味でフーリエ級数展開することが可能である。 具体的には {{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} を、 :<math>c_n = \int_{0}^{1} f_y(x) \exp(2\pi inx)\, \mathrm dx</math> とすると、 :<math>f_y(x) = \sum_{n\in\mathbb{Z}} c_n\exp(2\pi inx)</math> (3-1) のように級数展開可能である。 ==== {{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} それぞれを、{{Mvar|y}} についての関数とみなして、それぞれフーリエ級数展開する ==== 前述の {{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} は {{Mvar|y}} を固定するごとに定まるので、{{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} は {{Mvar|y}} についての関数と考えることが出来る。{{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} の定義により、{{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} もまた、{{Mvar|y}} について(1変数の意味で)周期1の周期関数である。 実際、{{Math|''F''(''x'', ''y'')}} は、周期 {{Math|''E''<sub>2</sub>}} を持つため、{{Math|1=''F''(''x'', ''y'') = ''F''(''x'', ''y'' + 1)}} である。従って、 :<math>\begin{align} c_n(y+1) &= \int_{0}^{1} F(x,y+1) \exp(2\pi inx)\, \mathrm dx \\ &= \int_{0}^{1} F(x,y) \exp(2\pi inx)\, \mathrm dx \\ &= c_n(y) \end{align}</math> である。 実は、{{Math|''c''<sub>''n''</sub>(''y'')}} もまた {{Math|''L''<sup>2</sup>}} 関数であるため、{{Math|''c''<sub>''n''</sub>(''y'')}} も1変数関数の意味でフーリエ級数展開可能である。すなわち :<math>c_{n,m} = \int_{0}^{1} c_{n,m}(y) \exp(2\pi imy)\, \mathrm dy</math> とすると、 :<math>c_n(y) = \sum_{m\in\mathbb{Z}} c_{n,m} \exp(2\pi imy)</math> (3-2) となる。 ==== 証明のまとめ ==== 式(3-1)に式(3-2)を代入すると、 :<math>\begin{align} F(x,y) &= f_y(x) \\ &= \sum_{n\in\mathbb{Z}} c_n(y) \exp(2\pi inx) \\ &= \sum_{n\in\mathbb{Z}}\left(\sum_{m\in\mathbb{Z}}c_{n,m} \exp(2\pi imy)\right)\exp(2\pi inx) \\ &= \sum_{n\in\mathbb{Z}} \sum_{m\in\mathbb{Z}}c_{n,m} \exp(2\pi imy)\exp(2\pi inx) \\ &= \sum_{n\in\mathbb{Z}} \sum_{m\in\mathbb{Z}}c_{n,m} \exp(2\pi i(nx+my)) \\ &= \sum_{(n,m)\in\mathbb{Z}^2} c_{n,m}\exp(2\pi i(nx+my)) \end{align}</math> を得る。 === 周期性についての補足 === {{main|周期関数}} {{Mvar|F}} を実数値あるいは複素数値の実 {{Mvar|d}} 変数関数とし、{{Mvar|'''τ'''}} を {{Mvar|d}} 次元の実定数ベクトルとする。このとき、{{Mvar|'''τ'''}} が {{Mvar|F}} の周期であるとは、任意の ''{{Mvar|d}}'' 次元実数ベクトル {{Mvar|'''x'''}} に対し {{Math|1=''F''('''''x''''' + '''''τ''''') = ''F''('''''x''''')}}であることを意味する。 {{math theorem|定理1| {{mvar|F}} を実数値あるいは複素数値の実 {{mvar|d}} 変数関数としたとき、 # 0 は、{{mvar|F}} の周期である。 # {{mvar|d}} 次元の実定数ベクトル {{math|{{mvar|'''&tau;'''}}<sub>1</sub>}} と {{math|{{mvar|'''&tau;'''}}<sub>2</sub>}} が {{mvar|F}} の周期であれば、{{math|{{mvar|'''&tau;'''}}<sub>1</sub> + {{mvar|'''&tau;'''}}<sub>2</sub>}} も {{mvar|F}} の周期である。 # {{mvar|z}} が整数であり、{{mvar|'''&tau;'''}} が {{mvar|F}} の周期であるとき、{{mvar|z}}{{mvar|'''&tau;'''}} も {{mvar|F}} の周期である。 }} ここで、{{Mvar|'''τ'''}} が {{Mvar|F}} の周期であったとしても、{{Math|{{sqrt|2}}'''''τ'''''}} や {{Math|'''''τ'''''/2}} が {{Mvar|F}} の周期であるとは限らない。 定理1から帰納的に以下の定理2が示される。 {{math theorem|定理2| {{math2|{{mvar|&tau;}}{{sub|1}}, {{mvar|&tau;}}{{sub|2}}, ..., {{mvar|&tau;}}{{sub|{{mvar|l}}}}}} が {{mvar|F}} の周期で、{{math2|{{mvar|z}}{{sub|1}}, {{mvar|z}}{{sub|2}}, ..., {{mvar|z}}{{sub|{{mvar|l}}}}}} が整数であるとき、 :<math>z_1 \tau_1 + \cdots + z_l \tau_l</math> もまた、{{mvar|F}} の周期である。 }} === 格子についての補足 === 前節の定理1と定理2は、周期が格子状の空間({{Math|Z}}-加群)をなすことを主張している。以下、格子について補足を行う。 {{Mvar|d}} 次元標準正方格子 <math>\mathbb{Z}^{d}</math> を、以下のように定義する。即ち、{{Mvar|d}} 次元標準正方格子は、成分全てが整数となるような {{Mvar|d}} 次元実数ベクトルを全て集めることによって出来た集合である。 :<math>\mathbb{Z}^{d} = \left\{ \left. \begin{pmatrix} z_1 \\ \vdots \\ z_d \\ \end{pmatrix}\ \left| \begin{matrix} z_1 ,\dots , z_d \in \mathbb{Z} \\ \end{matrix} \right. \right\} \right.</math> <math>\mathbb{Z}^d</math>は、<math>\mathbb{R}^d</math>の標準基底 {{Math|'''''e'''''<sub>1</sub> , ... , '''''e'''''<sub>''d''</sub>}} の {{Math|Z}} 結合で生成される。即ち、<math>\mathbb{Z}^{d}</math>の点 {{Mvar|'''z'''}} は、{{Mvar|n}} 個の整数 {{Math|''z''<sub>1</sub> , ... , ''z''<sub>''d''</sub>}} によって、 :<math>\boldsymbol z={z}_{1}\boldsymbol{e}_{1}+\cdots +{z}_{d}\boldsymbol{e}_{d}</math> のように展開することが出来る。この展開は、一意的である。 又、{{Mvar|d}} 次正則行列 {{Mvar|A}} に対し、<math>A\mathbb{Z}^{d}</math>を、 :<math>A\mathbb{Z}^{d} = \left\{ \left. A \begin{pmatrix} z_1 \\ \vdots \\ z_d \\ \end{pmatrix} \ \right| \begin{matrix} z_1 ,\dots , z_d \in \mathbb{Z} \\ \end{matrix} \right\} </math> と定め、{{Mvar|d}} 次元正則行列 {{Mvar|A}} によって生成された格子空間と呼ぶ。<math>A\mathbb{Z}^d</math>は、{{Mvar|A}} の列ベクトル {{Math|''A''<sub>1</sub> , ... , ''A''<sub>''d''</sub>}} のZ結合で生成される。即ち、<math>A\mathbb{Z}^d</math>の点は、{{Mvar|n}} 個の整数 {{Math|''z''<sub>1</sub> , ... , ''z''<sub>''d''</sub>}} によって、 :<math>A(z) = A(z_1, \dots, z_d) = z_1 \boldsymbol A_1 + \cdots + z_d \boldsymbol A_d</math> のように表すことが出来る。即ち、標準格子空間 <math>\mathbb{Z}^{d}</math> 上の点 {{Mvar|'''z'''}} は、行列 {{Mvar|A}} によって、必ず <math>A\mathbb{Z}^d</math> に移すことが出来る。但し、{{Mvar|'''A'''<sub>j</sub>}} は、{{Mvar|A}} の第 {{Mvar|j}} 列ベクトルである。即ち {{Math|1='''''A'''<sub>j</sub>'' = ''A'''e'''<sub>j</sub>''}} である。 === 多重周期関数と周期格子 === さらに、[[単位胞|ユニットセル]]の概念を定義する。{{Math|'''''T'''''<sub>1</sub> , ... , '''''T'''''<sub>''d''</sub>}} を {{Mvar|d}} 次元実数ベクトル空間 <math>\mathbb {R}^{d}</math>の基底とする。このとき、 :<math>V(\boldsymbol{T}_{1},\cdots,\boldsymbol{T}_{d})= \left\{ \left. {x}_{1}\boldsymbol{T}_{1}+\cdots+{x}_{d}\boldsymbol{T}_{d} \left| \begin{matrix} 0\le x_1\le 1\\ \vdots \\ 0\le x_d \le 1\\ \end{matrix} \right. \right\} \right. </math> を、{{Math|'''''T'''''<sub>1</sub> , ... , '''''T'''''<sub>''d''</sub>}} が張る''d'' 次元[[平行六面体]]、あるいはユニットセルという。 <!-- 以下の定理が成り立つ。 <table border="1"><tr><td> 実d変数関数Fが、d個の周期<math>{T}_{1},\cdots,{T}_{d}</math> を持ち、かつ、<math>{T}_{1},\cdots,{T}_{d}</math> が一次独立であったとする。 このとき、<math>V({T}_{1},\cdots,{T}_{d})</math>が 上“のみ”で定義された関数<marh>\tilde{F}</math>を用いて、 <math> F()=\tilde{F}() </math> <math>{T}_{1},\cdots,{T}_{d}</math>が張るd次元平行6面体 </td></tr></table> 逆に、以下の定理も成り立つ。 --> 特に、{{Mvar|d}} 重周期関数 {{Mvar|F}} に対し、{{Mvar|T}} の列ベクトル全て、即ち {{Math|'''''T'''''<sub>1</sub> , ... , '''''T'''''<sub>''d''</sub>}} が {{Mvar|F}} の周期となるような {{Mvar|d}} 次正則行列 :<math>T=(\boldsymbol{T}_{1},\dots, \boldsymbol{T}_{d})</math> が定まる。本稿では、このような ''{{Mvar|T}}'' を、{{Mvar|F}} の周期行列と言うことにする。また、<math>T{\mathbb{Z}}^{d}</math> を、{{Mvar|F}} の周期格子という。 簡単な計算から以下の定理が判る。 {{math theorem| {{mvar|T}} を、{{mvar|d}} 次元正則行列とし、実 {{mvar|d}} 変数関数 {{mvar|F}} が {{mvar|T}} の列ベクトル全て、即ち {{math2|{{mvar|'''T'''}}<sub>1</sub>, {{mvar|'''T'''}}<sub>2</sub>, ..., {{mvar|'''T'''}}<sub>{{mvar|d}}</sub>}} を {{mvar|F}} の周期とするような {{mvar|d}} 重周期関数とする。この時、 :<math>H(y)=F(Ty)</math> とすると、{{math|{{mvar|H}}({{mvar|y}})}} は、{{math2|{{mvar|'''e'''}}<sub>1</sub>, ..., {{mvar|'''e'''}}<sub>{{mvar|d}}</sub>}} のすべてを周期とするような {{mvar|d}} 重周期関数である。|note=周期関数の標準化}} この定理により、周期行列が存在するような''d'' 重周期関数の問題は、すべて、標準正方格子を周期格子として持つような周期関数の問題に帰着されることが判る。 === 平面波の周期性 === 平面波の周期性について、以下の命題が成り立つ。 {{math theorem|命題1| 実数または複素数に値を持つ実 {{mvar|d}} 変数関数 {{math|&Phi;}} を時間変数を持たない平面波であるとし、{{math|{{mvar|K}} &ne; 0}} を {{math|&Phi;}} の波数ベクトルとするとき、 # {{math|{{mvar|'''K'''}} &sdot; {{mvar|'''&tau;'''}} {{=}} 0}} となる任意の実 {{mvar|d}} 次元ベクトル {{mvar|'''&tau;'''}} は、{{math|&Phi;}} の周期である。 # 上記の {{mvar|'''&tau;'''}} に対し、{{mvar|&lambda;}} を任意実数(つまり整数でなくてもよい)としたとき、{{mvar|&lambda;}}{{mvar|'''&tau;'''}} もまた、{{math|&Phi;}} の周期である。 }} 即ち、命題1は、{{Mvar|'''K'''}} の直交補空間の点は皆、波数 ''{{Mvar|'''K'''}}'' の平面波 {{Math|Φ}} の周期であることを主張している。 {{math theorem|命題2| 実数または複素数に値を持つ実 {{mvar|d}} 変数関数 {{math|&Phi;}} を時間変数を持たない平面波、{{math|{{mvar|'''K'''}} &ne; 0}} を {{math|&Phi;}} の波数ベクトルとするとき、 # {{math|{{mvar|'''K'''}} &sdot; {{mvar|'''&tau;'''}} {{=}} 2{{mvar|l}}{{mvar|&pi;}}}} ( {{mvar|l}} は任意整数)となるような実 {{mvar|d}} 次元ベクトル {{mvar|'''&tau;'''}} は {{math|&Phi;}} の周期である。 # {{mvar|d}} 次元実定数ベクトル {{mvar|'''a'''}} が、{{math|{{mvar|'''K'''}} &sdot; {{mvar|'''a'''}} &ne; 0}} を満たし、{{mvar|l}} が整数であるとき、 #:<math>T=\frac{2\pi l\boldsymbol a}{\sqrt{\boldsymbol K \cdot \boldsymbol a} }</math> ::もまた、{{math|&Phi;}} の周期である。 }} 以下の定理より、{{Mvar|d}} 重周期関数 {{Mvar|F}} と同じ {{Mvar|d}} 重周期を持つ平面波を沢山作る方法が与えられる。 {{math theorem| {{mvar|T}} と {{mvar|G}} を、{{mvar|d}} 次実正則行列、{{math2|{{mvar|p}}{{sub|1}}, ... {{mvar|p}}{{sub|{{mvar|d}}}}}} を整数とする。さらに、{{mvar|T}} と {{mvar|G}} の間に :<math>({}^\mathrm{t}G)T=2\pi E</math> の関係が成立するとする。ここで、{{Mvar|E}} は {{mvar|d}} 次[[単位行列]]である。さらに、{{math|&Phi;}} は、波数 {{math|{{mvar|G}}({{mvar|p}}{{sub|1}}, ... {{mvar|p}}{{sub|{{mvar|d}}}})}} の平面波とする。 このとき、{{math2|{{mvar|'''T'''}}{{sub|1}}, {{mvar|'''T'''}}{{sub|2}}, ... , {{mvar|'''T'''}}{{sub|{{mvar|d}}}}}} は全て {{math|&Phi;}} の周期となる。但し、 :<math>G({p}_{1},{p}_{2},...,{p}_{d})={p}_{1}\boldsymbol{G}_{1}+\cdots +{p}_{d}\boldsymbol{G}_{d}</math> である。{{math|{{mvar|'''T'''}}{{sub|{{mvar|j}}}}, {{mvar|'''G'''}}{{sub|{{mvar|j}}}}}} はそれぞれ {{mvar|T}} および {{mvar|G}} の第 {{mvar|j}} 列ベクトルを意味する。 |note=逆格子の存在}} == 量子論における平面波 == 非相対論的な量子論では、[[自由粒子]]の[[エネルギー固有状態]]は平面波となる。また[[自由粒子]]の[[ハミルトニアン]]と[[運動量]]が[[可換]]であるため、運動量の固有状態も平面波である。つまりエネルギーと運動量についての同時固有関数となっている<ref>{{Cite book|和書|author=清水明|date=2004-04|title=量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―|edition=新版|series=新物理学ライブラリ|publisher=[[サイエンス社]]|isbn=4-7819-1062-9}}</ref>。量子論においても平面波は、基底関数として様々な場面で用いられるが、本来1に[[規格化]]されるべき2乗積分が有限の値を持たないこと、時間的・空間的に無限の彼方まで広がっており非現実的であること等の問題も抱えている<ref>{{Cite book|和書|author=北野正雄|date=2010-01|title=量子力学の基礎|publisher=[[共立出版]]|isbn=978-4-320-03462-4}}</ref>。 == 第一原理バンド計算における平面波 == {{出典の明記 | date = 2017年5月 | section = 1 }} [[波動関数]]は、[[基底関数]]で展開した形で記述することができる。この時に用いられる基底の1つに平面波基底({{Lang-en-short|Plane wave basis}})がある。[[バンド計算]]における表式化が比較的簡単で(それ故、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]も構築し易い)[[力 (物理学)|力]]や[[応力|ストレス]]の計算も他の基底([[局在基底]]など)を使った場合より容易に実現が可能である。また、平面波基底では、[[Pulay補正]]項の問題が回避できることも利点のひとつである。 欠点として、例えば[[波動関数]]や[[電荷密度]]への寄与の s, p, d [[原子軌道|軌道]]毎への分割や、[[ユニットセル]]内の特定の[[原子]]の[[電荷]]を求めることが困難になることが挙げられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[球面波]] *[[直交化された平面波]] *[[第一原理バンド計算]] *[[局在基底]] *[[混合基底]] {{DEFAULTSORT:へいめんは}} [[Category:振動と波動]] [[Category:バンド計算]] [[Category:量子力学]] [[ru:Монохроматическая волна]]
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11月
11月(じゅういちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第11の月に当たり、30日間ある。秋と冬の境目とした季節であることもある。 日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 英語での月名 November は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の novem の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、3月から数えて9番目という意味である。 11月はその年の3月と同じ曜日で始まる。また、平年は2月とも同じ曜日で始まる。
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11月(じゅういちがつ)は、グレゴリオ暦で年の第11の月に当たり、30日間ある。秋と冬の境目とした季節であることもある。 日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 英語での月名 November は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の novem の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で、3月から数えて9番目という意味である。 11月はその年の3月と同じ曜日で始まる。また、平年は2月とも同じ曜日で始まる。
{{redirectlist|霜月|日本海軍の駆逐艦|霜月 (駆逐艦)}} {{出典の明記|date=2015年6月}} [[ファイル:Les Tr%C3%A8s Riches Heures du duc de Berry novembre.jpg|thumb|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より11月]] '''11月'''(じゅういちがつ)は、[[グレゴリオ暦]]で[[年]]の第11の[[月 (暦)|月]]に当たり、30日間ある。[[秋]]と[[冬]]の境目とした季節であることもある。 [[日本]]では、[[11月 (旧暦)|旧暦11月]]を'''霜月'''(しもつき)と呼び、現在では[[新暦]]11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。 [[英語]]での月名 {{lang|en|November}} は、「9番目の月」の意味で、ラテン語で「第9の」という意味の {{lang|la|''novem''}} の語に由来している。実際の月の番号とずれているのは、[[紀元前46年]]まで使われていた[[ローマ暦]]が[[3月]]起算で、3月から数えて9番目という意味である<ref>同様に一般的な暦の9月,10月,12月はそれぞれローマ暦で7,8,10番目の月にあたり、ラテン語の「第7の」「第8の」「第10の」を意味する {{lang|la|"septimus", "octavius", "decimus"}} に由来する。</ref>。 11月はその年の[[3月]]と同じ[[曜日]]で始まる。また、平年は[[2月]]とも同じ曜日で始まる。 == 異名 == {{div col|colwidth=12em}} * かぐらづき(神楽月) * かみきづき(神帰月) * けんしげつ(建子月) * こげつ(辜月) * しもつき(霜月) * しもふりづき(霜降月) * しもみづき(霜見月) * てんしょうげつ(天正月) * ゆきまちづき(雪待月) * ようふく(陽復) * りゅうせんげつ(竜潜月) * こうしょう(黄鐘){{div col end}} == 11月の年中行事 == * [[11月1日]] - [[自衛隊記念日]] * 11月1日 - [[教会暦]]で[[万聖祭]]にあたる。[[スウェーデン]]ではこれに合わせて第1土曜日を祝日としている。 * [[11月3日]] - [[文化の日]]([[日本]]) * [[11月11日]] - [[聖マルティヌスの日]](ヨーロッパ各国) * [[11月15日]] - [[七五三]]([[日本]]) * [[11月23日]] - [[勤労感謝の日]]([[日本]]) * 11月第3木曜日 - ボジョレー・ヌーヴォー解禁 * 11月第4[[木曜日]] - [[感謝祭]]([[アメリカ合衆国]]) * [[グレゴリオ暦]]が4で割り切れる年の11月第1[[月曜日]]の翌日の[[火曜日]](つまり2日から8日) - [[アメリカ合衆国大統領選挙]] * [[酉]]の日 - [[酉の市]]([[日本]]) * [[紅葉|紅葉狩り]] - その年の気温と地域により異なるが、11月は紅葉狩りシーズン([[北海道]]・[[東北]]、及び[[北陸]]の一部は概ね9月中旬 - 10月下旬)([[日本]]) == 11月に行われるスポーツ == * 第1日曜 - [[全日本大学駅伝]]([[愛知県]]、[[三重県]]) * 3日 - [[全日本剣道選手権大会]]([[日本武道館]]) * 上旬 - [[ATPファイナルズ]](テニス) * 上旬 - [[Jリーグカップ]]決勝([[サッカー]]) * 上旬から下旬 - [[大相撲]][[九州場所]]([[福岡国際センター]]) * 第2日曜 - [[福岡マラソン]]([[福岡市]]・[[糸島市]]) * 中旬 - [[明治神宮野球大会]]([[明治神宮球場]]) * 下旬の日曜 - [[全日本実業団対抗女子駅伝競走大会]]([[宮城県]]) * 最終週もしくは12月1日 - [[JLPGAツアーチャンピオンシップ]](女子[[ゴルフ]]) == 11月をテーマにした作品 == {{div col}} * [[武満徹]]『[[ノヴェンバー・ステップス]]』 * [[松任谷由実]]「[[U-miz|11月のエイプリル・フール]]」(アルバム『[[U-miz]]』収録) * [[T-SQUARE]]「11月の雨」(アルバム『[[IMPRESSIVE]]』収録) ** 作曲した[[和泉宏隆]]のアルバム『22to26midnight』には、ピアノバージョンが「November Rain」のタイトルで収録されている。 * [[SING LIKE TALKING]]「11月の記憶〜RAINING BLUES〜」(アルバム『TRY AND TRY AGAIN』収録) * [[モリッシー]]「モンスターが生まれる11月」(原題『November Spawned A Monster』 アルバム『ボナ・ドラッグ』収録) * [[ワイクリフ・ジョン]]「Gone Till November」 (アルバム『the Carnival』収録) * [[ガンズ・アンド・ローゼズ]]「November Rain」 (アルバム『Use Your Illusion I』収録) * 『[[スウィート・ノベンバー]]』([[ワーナー・ブラザース]] [[2001年]]) * [[周杰倫]](ジェイ・チョウ)「[[11月的蕭邦]]」(アルバム名) * [[T/ssue]]「November」 * [[AKB48]]『[[11月のアンクレット]]』 * [[CHiCO (2014年デビューの歌手)|CHiCO]] with [[HoneyWorks]]『11月の雨』(アルバム『世界はiに満ちている』収録) * [[ノーナ・リーヴス]]「NOVEMBER」(アルバム『[[MISSION (ノーナ・リーヴスのアルバム)|MISSION]]』収録) {{div col end}} == その他 == [[ファイル:Camellia japonica3.jpg|thumb|[[ツバキ|椿]]]] * [[星座]] - [[天蝎宮|蠍座]](11月22日頃まで)、[[人馬宮|射手座]](11月23日頃から) * 「N」を正確に伝達するための、国際的な頭文字の規則の通称('''N'''ovember:[[NATOフォネティックコード|フォネティックコード]]) {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|November}} {{Wiktionarypar|十一月|しもつき}} {{月 (暦)|カレンダー_11月|365日|月|11|日|[[11月30日|30]]}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:11かつ}} [[Category:11月|*]] [[Category:月 (暦)|11]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%88
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量子電磁力学
量子電磁力学(りょうしでんじりきがく、英語: Quantum electrodynamics, QED)とは、電子を始めとする荷電粒子間の電磁相互作用を量子論的に記述する場の量子論である。量子電気力学と訳される場合もある。 量子電磁力学では、荷電粒子間に働く電磁相互作用を光子という粒子の受け渡しによるものと考える。荷電粒子と光子は量子的な場(場の演算子)として扱われる。電子の場は4成分のディラック場、光子の場はベクトル場である。 電子は電荷をもっており、この電荷が時空の各点で(つまり、常に連続的に)保存することを理論に要請すると、光子を表す場が自然に定義される。この要請はゲージ変換と呼ばれる場の量の変換に対して理論が持つべき対称性(ゲージ不変性) として表され、それを保証する場(光子場)をゲージ場と呼ぶ。ゲージ場は厳密に質量が0である。光子の質量が0という事実(光速度不変の原理)は、このように、電子の電荷の保存と結びついている。 量子電磁力学のゲージ変換にまつわる理論の構造は、まず粒子場を用意し、理論にゲージ不変性を要求することによって粒子間の相互作用を導くというゲージ原理の考え方を導き、電磁相互作用以外の相互作用においても、場の理論の構築の際の基礎とされている。 量子電磁力学は特殊相対性理論と量子力学を結びつけたポール・ディラックの電子論(ディラック方程式)では説明できない水素原子の 2s と 2p 準位のずれ(ラムシフト)などを説明できるとされる。 1927年、ポール・ディラックは粒子の生成消滅演算子という概念を導入することで電磁場の量子化に初めて成功し、これが量子電磁力学の創始となった。ただし、生成消滅演算子は別の人間が創りだしたものである。その後、ヴォルフガング・パウリ、ユージン・ウィグナー、パスクアル・ヨルダン、ヴェルナー・ハイゼンベルクらの尽力により量子電磁力学の定式化が始まり、1932年のエンリコ・フェルミの論文によりエレガントな定式化がほぼ完成した。しかし、量子電磁力学の根幹には重大な問題が残っていた。 このような問題で当時の物理学は混乱を極めたが、1943年、朝永は相対論的な共変性を満たす超多時間論を見出し、湯川らが指摘した因果律の破れを無限大の補正を加えて回避した。 同論文で、くりこみで本質的な役割を果たす相互作用表示を提示したことも重要である。(戦後、シュウィンガーも相互作用表示を朝永と独立に見出す)。朝永振一郎は、超多時間論や相互作用表示を基に、「くりこみ原理」の厳密な式を求めていく。 第二次世界大戦を経てマイクロ波技術の進歩により水素原子のエネルギー準位の縮退からのずれ(ラムシフト) や電子の異常磁気モーメントをより精密に測定することが可能になると、これらの実験により既存の理論では説明することのできない現象の存在が明らかとなった。1947年、ハンス・ベーテは、質量と電荷に無限大の補正を加えることで、無限大がうまく相殺し最終的に有限の物理量が導出されることを示す論文を提出したが 、非相対論での簡易計算であった。朝永の超多時間論や、朝永表示(相互作用のない表示)は戦争のためアメリカには伝わっていず、また、ファインマンの経路積分がない当時、この問題の解決は困難であった。 朝永グループを率い、繰り込みを完成しようとしていた朝永振一郎は、ラムシフト発見に驚くとともに、ベーテの1947年の非相対論的な計算が、朝永のP-F変換の延長上にあることを見出し、みずからの試みが正しいことを確信し、相対論的なくりこみ理論の完成を急いだ。また、ファインマン、シュウィンガー、ダイソンは、ラムシフトを契機に繰り込みに向かい、経路積分や相互作用表示(1943年の朝永と同じもの)を見出し、これらを元に繰り込みを目指した。そして、朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマン、フリーマン・ダイソンらが摂動展開の全てのオーダーにおいて観測される物理量が有限となるような定式化を完成させた。問題発生から繰り込みによる解決までの20年、超多時間論・相互作用表示・経路積分を経て、繰り込みは建設された。これらの業績により朝永、シュウィンガー、ファインマンの3人は1965年にノーベル物理学賞を受賞した。ファインマンによるファインマン・ダイアグラムを用いた数学的なテクニックは朝永、シュウィンガーの演算子を用いる計算方法とはかなり異なるように見えたが、後にダイソンはこの二つのアプローチが数学的に等価であることを証明した。 繰り込みは場の量子論における基本的な概念の一つであり、理論の妥当性を保証するために必要不可欠な操作である。繰り込みの導入によって物理的な矛盾は解消できたが、ファインマン自身はその数学的な妥当性については最後まで満足せずに、"shell game"(「いんちき」)、"hocus pocus"(「奇術」)のようだと自著で述べている。 また、超多時間論で「湯川-ディラックの因果律の破れ」の問題は回避されたが、超対称性を世界で最初に提起した宮沢弘成は、場の量子論における因果律の破れは最終的な解決にいたっていないと主張している。 量子電磁力学はその後に発展する場の量子論に関する数々の理論の基礎的なモデルとして採用されている。1964年にフランソワ・アングレール、ロベール・ブルー、ゲラルド・グラルニク、カール・リチャード・ハーゲン(英語版)、トム・キッブル(英語版)、ピーター・ヒッグスによってヒッグス機構が考案された。さらに、1961年にシェルドン・グラショウが電弱統一理論の基礎を構築し、これらの理論と自発的対称性の破れ、南部=ゴールドストーンの定理などを組み合わせることで1967年、スティーヴン・ワインバーグとアブドゥッサラームがそれぞれ独立の研究で電磁相互作用と弱い相互作用を一つの相互作用へと統一することに成功し、電弱統一理論が初めて完成した。一方、強い相互作用を記述する量子色力学は、1971年のヘーラルト・トホーフトによる非可換ゲージ場のくり込み可能性の証明や1973年のH. デビッド・ポリツァー、デイビッド・グロス、フランク・ウィルチェック による漸近的自由性の研究によって強い相互作用の基礎理論としての地位を固めた。 数学的には、量子電磁力学(以下、QEDと表記)はU(1)対称性を持つ可換ゲージ理論である。電荷を持つ物質場同士の相互作用を媒介するゲージ場は電磁場である。 電磁場 A と相互作用する物質場 ψ についてのQED作用積分は以下のように表される。 S Q E D [ ψ , A ] = ∫ d 4 x L m a t t e r ( ψ , D ψ ) + ∫ d 4 x L A ( ∂ A ) {\displaystyle S_{\mathrm {QED} }[\psi ,A]=\int d^{4}x\,{\mathcal {L}}_{\mathrm {matter} }(\psi ,{\mathcal {D}}\psi )+\int d^{4}x\,{\mathcal {L}}_{A}(\partial A)} ここで、 L m a t t e r {\displaystyle {\mathcal {L}}_{\mathrm {matter} }} は物質場のラグランジアン密度であり、微分は D ψ {\displaystyle {\mathcal {D}}\psi } は共変微分 D μ ψ j ( x ) = ∂ μ ψ j ( x ) − i e A μ ( x ) Q j ψ j ( x ) {\displaystyle {\mathcal {D}}_{\mu }\psi _{j}(x)=\partial _{\mu }\psi _{j}(x)-ieA_{\mu }(x)Q_{j}\psi _{j}(x)} に置き換えられる。e は電磁相互作用の結合定数で素電荷である。 Qj は物質 ψj の U(1) チャージである。 L A ( ∂ A ) {\displaystyle {\mathcal {L}}_{A}(\partial A)} は電磁場の運動項であり、 L A ( ∂ A ) = − 1 4 F μ ν F μ ν {\displaystyle {\mathcal {L}}_{A}(\partial A)=-{\frac {1}{4}}F_{\mu \nu }F^{\mu \nu }} である。 F μ ν = ∂ μ A ν − ∂ ν A μ {\displaystyle F_{\mu \nu }=\partial _{\mu }A_{\nu }-\partial _{\nu }A_{\mu }} は電磁場テンソルである。 物質場が質量 m のディラック場の場合は L m a t t e r ( ψ , D ψ ) = ∑ j ( i ψ ̄ j γ μ D μ ψ j − m j ψ ̄ j ψ j ) = ∑ j ( i ψ ̄ j γ μ ∂ μ ψ j − m j ψ ̄ j ψ j + e A μ Q j ψ ̄ j γ μ ψ j ) {\displaystyle {\begin{aligned}{\mathcal {L}}_{\mathrm {matter} }(\psi ,{\mathcal {D}}\psi )&=\sum _{j}\left(i{\bar {\psi }}_{j}\gamma ^{\mu }{\mathcal {D}}_{\mu }\psi _{j}-m_{j}{\bar {\psi }}_{j}\psi _{j}\right)\\&=\sum _{j}\left(i{\bar {\psi }}_{j}\gamma ^{\mu }\partial _{\mu }\psi _{j}-m_{j}{\bar {\psi }}_{j}\psi _{j}+eA_{\mu }Q_{j}{\bar {\psi }}_{j}\gamma ^{\mu }\psi _{j}\right)\end{aligned}}} となる。 ψ ̄ = ψ † γ 0 {\displaystyle {\bar {\psi }}=\psi ^{\dagger }\gamma _{0}} はディラック場の共役場で、 γ μ {\displaystyle \gamma ^{\mu }} はガンマ行列である。 ディラック場についてのラグランジュの運動方程式を計算すると i γ μ ∂ μ ψ i − m ψ i − e A μ Q i γ μ ψ i = 0 {\displaystyle i\gamma ^{\mu }\partial _{\mu }\psi _{i}-m\psi _{i}-eA_{\mu }Q_{i}\gamma ^{\mu }\psi _{i}=0} となる。第3項を右辺へ移行して i γ μ ∂ μ ψ i − m ψ i = e A μ Q i γ μ ψ i {\displaystyle i\gamma ^{\mu }\partial _{\mu }\psi _{i}-m\psi _{i}=eA_{\mu }Q_{i}\gamma ^{\mu }\psi _{i}} とすれば、左辺が通常のディラック方程式、右辺がディラック場と電磁場との相互作用項となる。 また4元電流密度は j μ ( x ) = − δ S m a t t e r [ ψ , A ] δ A μ ( x ) = ∑ j e Q j ψ ̄ j γ μ ψ j {\displaystyle j^{\mu }(x)=-{\frac {\delta S_{\mathrm {matter} }[\psi ,A]}{\delta A_{\mu }(x)}}=\sum _{j}eQ_{j}{\bar {\psi }}_{j}\gamma ^{\mu }\psi _{j}} である。
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"朝永グループを率い、繰り込みを完成しようとしていた朝永振一郎は、ラムシフト発見に驚くとともに、ベーテの1947年の非相対論的な計算が、朝永のP-F変換の延長上にあることを見出し、みずからの試みが正しいことを確信し、相対論的なくりこみ理論の完成を急いだ。また、ファインマン、シュウィンガー、ダイソンは、ラムシフトを契機に繰り込みに向かい、経路積分や相互作用表示(1943年の朝永と同じもの)を見出し、これらを元に繰り込みを目指した。そして、朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマン、フリーマン・ダイソンらが摂動展開の全てのオーダーにおいて観測される物理量が有限となるような定式化を完成させた。問題発生から繰り込みによる解決までの20年、超多時間論・相互作用表示・経路積分を経て、繰り込みは建設された。これらの業績により朝永、シュウィンガー、ファインマンの3人は1965年にノーベル物理学賞を受賞した。ファインマンによるファインマン・ダイアグラムを用いた数学的なテクニックは朝永、シュウィンガーの演算子を用いる計算方法とはかなり異なるように見えたが、後にダイソンはこの二つのアプローチが数学的に等価であることを証明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "繰り込みは場の量子論における基本的な概念の一つであり、理論の妥当性を保証するために必要不可欠な操作である。繰り込みの導入によって物理的な矛盾は解消できたが、ファインマン自身はその数学的な妥当性については最後まで満足せずに、\"shell game\"(「いんちき」)、\"hocus pocus\"(「奇術」)のようだと自著で述べている。 また、超多時間論で「湯川-ディラックの因果律の破れ」の問題は回避されたが、超対称性を世界で最初に提起した宮沢弘成は、場の量子論における因果律の破れは最終的な解決にいたっていないと主張している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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量子電磁力学とは、電子を始めとする荷電粒子間の電磁相互作用を量子論的に記述する場の量子論である。量子電気力学と訳される場合もある。
'''量子電磁力学'''(りょうしでんじりきがく、{{Lang-en|''Quantum electrodynamics''}}, QED)とは、[[電子]]を始めとする[[荷電粒子]]間の[[電磁相互作用]]を[[量子論]]的に記述する[[場の量子論]]である。量子電気力学と訳される場合もある。 == 概要 == 量子電磁力学では、荷電粒子間に働く電磁相互作用を[[光子]]という粒子の受け渡しによるものと考える。荷電粒子と光子は量子的な場([[場の演算子]])として扱われる。電子の場は4成分の[[ディラック場]]、光子の場は[[ベクトル場]]である。 電子は電荷をもっており、この電荷が時空の各点で(つまり、常に連続的に)保存することを理論に要請すると、光子を表す場が自然に定義される。この要請は[[ゲージ理論|ゲージ変換]]と呼ばれる場の量の変換に対して理論が持つべき対称性([[ゲージ不変性]]) として表され、それを保証する場(光子場)を[[ゲージ場]]と呼ぶ。ゲージ場は厳密に質量が0である。光子の質量が0という事実([[光速度不変の原理]])は、このように、電子の電荷の保存と結びついている。 量子電磁力学のゲージ変換にまつわる理論の構造は、まず[[粒子場]]を用意し、理論にゲージ不変性を要求することによって粒子間の相互作用を導くという[[ゲージ原理]]の考え方を導き、電磁相互作用以外の相互作用においても、[[場の理論]]の構築の際の基礎とされている。 量子電磁力学は[[特殊相対性理論]]と[[量子力学]]を結びつけた[[ポール・ディラック]]の電子論([[ディラック方程式]])では説明できない[[水素原子]]の 2s と 2p [[エネルギー準位|準位]]のずれ([[ラムシフト]])などを説明できるとされる。 == 歴史 == 1927年、[[ポール・ディラック]]は粒子の[[生成消滅演算子]]という概念を導入することで[[電磁場の量子化]]に初めて成功し<ref name=dirac>{{cite journal | author=P.A.M. Dirac | year=1927 | title=The Quantum Theory of the Emission and Absorption of Radiation | journal=[[Proceedings of the Royal Society of London A]] | volume=114 | pages=243-265 | doi=10.1098/rspa.1927.0039}}</ref>、これが量子電磁力学の創始となった。ただし、生成消滅演算子は別の人間が創りだしたものである。その後、[[ヴォルフガング・パウリ]]、[[ユージン・ウィグナー]]、[[パスクアル・ヨルダン]]、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]らの尽力により量子電磁力学の定式化が始まり、1932年の[[エンリコ・フェルミ]]の論文<ref name=fermi>{{cite journal | author=E. Fermi | year=1932 | title=Quantum Theory of Radiation | journal=[[Reviews of Modern Physics]] | volume=4 | pages=87-132 | doi=10.1103/RevModPhys.4.87}}</ref>によりエレガントな定式化がほぼ完成した。しかし、量子電磁力学の根幹には重大な問題が残っていた。 # 光子や荷電粒子を計算すると無限大に発散する。この問題は1930年代初頭に[[ロバート・オッペンハイマー]]<ref name=oppenheimer>{{cite journal | author=R. Oppenheimer | year=1930 | title=Note on the Theory of the Interaction of Field and Matter | journal=[[Physical Review]] | volume=35 | pages=461-477 | doi=10.1103/PhysRev.35.461}}</ref>や他の多くの物理学者によって初めて認識された。[[フェリックス・ブロッホ]]と{{仮リンク|アーノルド・ノルドジーク|en|Arnold Nordsieck}}の研究<ref name=bloch>{{cite journal | author=F. Bloch, A. Nordsieck | year=1937 | title=Note on the Radiation Field of the Electron | journal=[[Physical Review]] | volume=52 | pages=54-59 | doi=10.1103/PhysRev.52.54}}</ref>(1937年)や[[ヴィクター・ワイスコフ]]の研究<ref name=weisskopf>{{cite journal | author=V. F. Weisskopf | year=1939 | title=On the Self-Energy and the Electromagnetic Field of the Electron | journal=[[Physical Review]] | volume=56 | pages=72-85 | doi=10.1103/PhysRev.56.72}}</ref>(1939年)では、この計算が摂動展開の1次においては成功するが、高次の級数において無限大が現れることが指摘された。計算結果に無限大が現れることは物理法則として致命的である。 # 時間の順序関係が成り立たないという因果律の破れが湯川やディラックにより指摘された。これも深刻な話である。 # 量子電磁力学は場の理論で記述され相対論を満たすが、相対論的な変換を行うと形式が保持されず、美しくなく見通しが悪い。これを相対論的な共変性がないという。 # 計算形式(ハイゼンベルク、シュレディンガー)は相互作用を含み、計算が複雑になる。無限大の発生を解決する上で障害となった。 このような問題で当時の物理学は混乱を極めたが、1943年、朝永は相対論的な共変性を満たす超多時間論を見出し、湯川らが指摘した因果律の破れを無限大の補正を加えて回避した。 同論文で、くりこみで本質的な役割を果たす相互作用表示を提示したことも重要である<ref>{{Cite journal|和書|author=田地隆夫 |title=超多時間理論(<特集>朝永振一郎博士の業績をふりかえって) |journal=日本物理学会誌 |ISSN=0029-0181 |publisher=日本物理学会 |year=1980 |volume=35 |issue=1 |pages=65-67 |naid=130004067090 |doi=10.11316/butsuri1946.35.65 |url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.35.65}}</ref>。(戦後、シュウィンガーも相互作用表示を朝永と独立に見出す)。[[朝永振一郎]]は、超多時間論や相互作用表示を基に、「くりこみ原理」の厳密な式を求めていく<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤大介 |title=くりこみ理論の建設(<特集>朝永振一郎博士の業績をふりかえって) |journal=日本物理学会誌 |ISSN=0029-0181 |publisher=日本物理学会 |year=1980 |volume=35 |issue=1 |pages=67-71 |naid=130004067091 |doi=10.11316/butsuri1946.35.67 |url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.35.67 |ref=harv}}</ref>。 {{see|朝永振一郎}} 第二次世界大戦を経て[[マイクロ波]]技術の進歩により水素原子のエネルギー準位の縮退からのずれ([[ラムシフト]]) <ref name=lamb>{{cite journal | author=W. E. Lamb, R. C. Retherford | year=1947 | title=Fine Structure of the Hydrogen Atom by a Microwave Method, | journal=[[Physical Review]] | volume=72 | pages= 241-243 | doi=10.1103/PhysRev.72.241 }}</ref>や電子の[[異常磁気モーメント]]<ref name=foley> {{cite journal | author=P. Kusch, H. M. Foley | year=1948 | title=On the Intrinsic Momement of the Electron, | journal=[[Physical Review]] | volume=73 | pages=412 | doi=10.1103/PhysRev.74.250 }} </ref>をより精密に測定することが可能になると、これらの実験により既存の理論では説明することのできない現象の存在が明らかとなった。1947年、[[ハンス・ベーテ]]は、質量と電荷に無限大の補正を加えることで、無限大がうまく相殺し最終的に有限の物理量が導出されることを示す論文を提出したが<ref>ベーテは、シェルターアイランド会議に出席した帰りにスケネクタディからニューヨークへ向かう汽車の中で、水素原子の非相対論的なエネルギー準位について矛盾の無い計算方法を思いつき、論文を提出した。</ref><ref name=schweber>{{cite book |last=Schweber |first=Silvan |year=1994 |isbn=978-0691033273 |title=QED and the Men Who Did it: Dyson, Feynman, Schwinger, and Tomonaga |chapter=Chapter 5 |page=230 |publisher=Princeton University Press}}</ref> <ref name=bethe> {{cite journal | author=H. Bethe | year=1947 | title=The Electromagnetic Shift of Energy Levels | journal=[[Physical Review]] | volume=72 | pages=339-341 | doi=10.1103/PhysRev.72.339 }} </ref>、非相対論での簡易計算であった。朝永の超多時間論や、朝永表示(相互作用のない表示)は戦争のためアメリカには伝わっていず、また、ファインマンの経路積分がない当時、この問題の解決は困難であった。 朝永グループを率い、繰り込みを完成しようとしていた[[朝永振一郎]]は、ラムシフト発見に驚くとともに、ベーテの1947年の非相対論的な計算が、朝永のP-F変換の延長上にあることを見出し、みずからの試みが正しいことを確信し、相対論的なくりこみ理論の完成を急いだ<ref>{{Cite journal|和書|author=長島順清 |title=素粒子の物理 : 先駆と展開の鳥瞰(<シリーズ>「日本の物理学100年とこれから」) |journal=日本物理学会誌 |ISSN=0029-0181 |publisher=日本物理学会 |year=2005 |volume=60 |issue=3 |pages=171-179 |naid=130004181306 |doi=10.11316/butsuri1946.60.171 |url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.60.171}}</ref>{{sfn|伊藤大介|1980}}。また、ファインマン、シュウィンガー、ダイソンは、ラムシフトを契機に繰り込みに向かい、経路積分や相互作用表示(1943年の朝永と同じもの)を見出し、これらを元に繰り込みを目指した。そして、[[朝永振一郎]]<ref name=tomonaga> {{cite journal | author=S. Tomonaga | year=1946 | title=On a Relativistically Invariant Formulation of the Quantum Theory of Wave Fields | journal=[[Progress of Theoretical Physics]] | volume=1 | pages= 27-42 | doi=10.1143/PTP.1.27 }} </ref>、[[ジュリアン・シュウィンガー]]<ref name=schwinger1> {{cite journal | author=J. Schwinger | year=1948 | title=On Quantum-Electrodynamics and the Magnetic Moment of the Electron | journal=[[Physical Review]] | volume=73 | pages= 416-417 | doi=10.1103/PhysRev.73.416 }} </ref><ref name=schwinger2> {{cite journal | author=J. Schwinger | year=1948 | title=Quantum Electrodynamics. I. A Covariant Formulation | journal=[[Physical Review]] | volume=74 | pages= 1439-1461 | doi=10.1103/PhysRev.74.1439 }} </ref>、[[リチャード・ファインマン]]<ref name=feynman1> {{cite journal | author=R. P. Feynman | year=1949 | title=Space-Time Approach to Quantum Electrodynamics | journal=[[Physical Review]] | volume=76 | pages= 769-789 | doi=10.1103/PhysRev.76.769 }} </ref><ref name=feynman2> {{cite journal | author=R. P. Feynman | year=1949 | title=The Theory of Positrons | journal=[[Physical Review]] | volume=76 | pages= 749-759 | doi=10.1103/PhysRev.76.749 }} </ref><ref name=feynman3> {{cite journal | author=R. P. Feynman | year=1950 | title=Mathematical Formulation of the Quantum Theory of Electromagnetic Interaction | journal=[[Physical Review]] | volume=80 | pages= 440-457 | doi=10.1103/PhysRev.80.440 }} </ref>、[[フリーマン・ダイソン]]<ref name=dyson1> {{cite journal | author=F. Dyson | year=1949 | title=The Radiation Theories of Tomonaga, Schwinger, and Feynman | journal=[[Physical Review]] | volume=75 | pages= 486-502 | doi=10.1103/PhysRev.75.486 }} </ref><ref name=dyson2> {{cite journal | author=F. Dyson | year=1949 | title=The S Matrix in Quantum Electrodynamics | journal=[[Physical Review]] | volume=75 | pages= 1736-1755 | doi=10.1103/PhysRev.75.1736 }} </ref>らが摂動展開の全てのオーダーにおいて観測される物理量が有限となるような定式化を完成させた。問題発生から繰り込みによる解決までの20年、超多時間論・相互作用表示・経路積分を経て、繰り込みは建設された<ref>今もこれらの手法は標準的な手法として使われている</ref>。これらの業績により朝永、シュウィンガー、ファインマンの3人は1965年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。ファインマンによる[[ファインマン・ダイアグラム]]を用いた数学的なテクニックは朝永、シュウィンガーの演算子を用いる計算方法とはかなり異なるように見えたが、後にダイソンはこの二つのアプローチが数学的に等価であることを証明した。 {{see|ジュリアン・シュウィンガー|リチャード・P・ファインマン|フリーマン・ダイソン}} 繰り込みは場の量子論における基本的な概念の一つであり、理論の妥当性を保証するために必要不可欠な操作である。繰り込みの導入によって物理的な矛盾は解消できたが、ファインマン自身はその数学的な妥当性については最後まで満足せずに、"shell game"(「いんちき」)、"hocus pocus"(「奇術」)のようだと自著で述べている<ref name=feynbook2>{{cite book |last=Feynman |first=Richard |year=1985 |isbn=978-0691125756 |title=QED: The Strange Theory of Light and Matter |chapter= |page=128 |publisher=Princeton University Press}}</ref>。 また、超多時間論で「湯川-ディラックの因果律の破れ」の問題は回避されたが、超対称性を世界で最初に提起した[[宮沢弘成]]は、場の量子論における因果律の破れは最終的な解決にいたっていないと主張している。 {{see|湯川秀樹|宮沢弘成}} === 基本モデルとして === 量子電磁力学はその後に発展する場の量子論に関する数々の理論の基礎的なモデルとして採用されている。1964年に[[フランソワ・アングレール]]、[[ロベール・ブルー]]<ref>{{Cite journal | author=Englert, François; Brout, Robert |year=1964 |title=Broken Symmetry and the Mass of Gauge Vector Mesons |journal=[[Physical Review Letters]] |volume=13 |pages=321-23 |doi=10.1103/PhysRevLett.13.321 |postscript=<!--None--> }}</ref>、[[ゲラルド・グラルニク]]、{{仮リンク|カール・リチャード・ハーゲン|en|Carl Richard Hagen}}、{{仮リンク|トム・キッブル|en|Tom Kibble}}<ref> {{cite journal | author=G.S. Guralnik, C.R. Hagen, T.W.B. Kibble | year=1964 | title=Global Conservation Laws and Massless Particles | journal=[[Physical Review Letters]] | volume=13 | pages=585-587 | doi=10.1103/PhysRevLett.13.585 }}</ref><ref> {{cite journal | author=G.S. Guralnik | year=2009 | title=The History of the Guralnik, Hagen and Kibble development of the Theory of Spontaneous Symmetry Breaking and Gauge Particles | journal=[[International Journal of Modern Physics A]] | volume=24 | pages=2601-2627 | doi=10.1142/S0217751X09045431 | id={{arxiv|0907.3466}} }}</ref>、[[ピーター・ヒッグス]]によって[[ヒッグス機構]]が考案された。さらに、1961年に[[シェルドン・グラショウ]]が電弱統一理論の基礎を構築し、これらの理論と[[自発的対称性の破れ]]、[[南部=ゴールドストーンの定理]]などを組み合わせることで1967年、[[スティーヴン・ワインバーグ]]と[[アブドゥッサラーム]]がそれぞれ独立の研究で[[電磁相互作用]]と[[弱い相互作用]]を一つの相互作用へと統一することに成功し、[[電弱統一理論]]が初めて完成した。一方、[[強い相互作用]]を記述する[[量子色力学]]は、1971年の[[ヘーラルト・トホーフト]]による[[ヤン=ミルズ理論|非可換ゲージ場]]のくり込み可能性の証明や1973年の[[H. デビッド・ポリツァー]]、[[デイビッド・グロス]]、[[フランク・ウィルチェック]] による[[漸近的自由性]]の研究によって強い相互作用の基礎理論としての地位を固めた。 == 定式化 == 数学的には、量子電磁力学(以下、QEDと表記)は[[U(1)]]対称性を持つ[[アーベル群|可換]][[ゲージ理論]]である。電荷を持つ物質場同士の相互作用を媒介するゲージ場は[[電磁場]]である。 電磁場 A と相互作用する物質場 &psi; についてのQED[[作用積分]]は以下のように表される。 {{Indent| <math>S_\mathrm{QED}[\psi,A] =\int d^4x\, \mathcal{L}_\mathrm{matter}(\psi,\mathcal{D}\psi) +\int d^4x\, \mathcal{L}_A(\partial A)</math> }} ここで、<math>\mathcal{L}_\mathrm{matter}</math> は物質場の[[ラグランジアン密度]]であり、微分は <math>\mathcal{D}\psi</math> は[[ヤン=ミルズ理論#共変微分|共変微分]] {{Indent| <math>\mathcal{D}_\mu\psi_j(x) = \partial_\mu\psi_j(x) -ieA_\mu(x)Q_j\psi_j(x)</math> }} に置き換えられる。e は電磁相互作用の[[結合定数 (物理学)|結合定数]]で[[素電荷]]である。 Q<sub>j</sub> は物質 &psi;<sub>j</sub> の U(1) [[チャージ (物理学)|チャージ]]である。 <math>\mathcal{L}_A(\partial A)</math> は電磁場の運動項であり、 {{Indent| <math>\mathcal{L}_A(\partial A) =-\frac{1}{4}F_{\mu\nu}F^{\mu\nu}</math> }} である。<math>F_{\mu\nu} = \partial_\mu A_\nu - \partial_\nu A_\mu</math> は[[電磁場テンソル]]である。 === ディラック場 === 物質場が質量 m の[[ディラック場]]の場合は {{Indent| <math> \begin{align} \mathcal{L}_\mathrm{matter}(\psi,\mathcal{D}\psi) &= \sum_j \left( i\bar\psi_j\gamma^\mu\mathcal{D}_\mu\psi_j -m_j\bar\psi_j\psi_j \right) \\ &= \sum_j \left( i\bar\psi_j\gamma^\mu\partial_\mu\psi_j -m_j\bar\psi_j\psi_j +eA_\mu Q_j\bar\psi_j\gamma^\mu\psi_j \right) \end{align} </math> }} となる。<math>\bar\psi = \psi^\dagger\gamma_0</math> はディラック場の共役場で、<math>\gamma^\mu</math> は[[ガンマ行列]]である。 ディラック場についての[[ラグランジュの運動方程式]]を計算すると {{Indent| <math>i\gamma^\mu\partial_\mu\psi_i -m\psi_i -eA_\mu Q_i\gamma^\mu\psi_i =0</math> }} となる。第3項を右辺へ移行して {{Indent| <math>i\gamma^\mu\partial_\mu\psi_i -m\psi_i =eA_\mu Q_i\gamma^\mu\psi_i</math> }} とすれば、左辺が通常の[[ディラック方程式]]、右辺がディラック場と電磁場との相互作用項となる。 また[[4元電流密度]]は {{Indent| <math>j^\mu(x) = -\frac{\delta S_\mathrm{matter}[\psi,A]}{\delta A_\mu(x)} = \sum_j eQ_j\bar\psi_j\gamma^\mu\psi_j</math> }} である。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[繰り込み理論]] * [[ファインマンダイアグラム]] * [[ヤン=ミルズ理論]] * [[木下東一郎]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りようしてんしりきかく}} [[Category:素粒子物理学]] [[Category:場の量子論]]
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天体
天体(、英語: object、astronomical object)とは、宇宙空間にある物体のことである。宇宙に存在する岩石、ガス、塵などの様々な物質が、重力的に束縛されて凝縮状態になっているものを指す呼称として用いられる。 惑星は、恒星の周りを公転する天体のうち、中心で核融合を起こすほどには質量が大きくなく、自分で光を放たない天体である。ただし、太陽の周りを公転する天体については、重力平衡に達するのに十分な質量を持ち、かつ軌道上から他の天体を排除しているもののみが惑星である。 準惑星は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持つが、軌道上から他の天体を排除していないものである。 太陽系小天体は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持たないものである。 衛星は、惑星、準惑星、太陽系小天体の周りを公転する天体である。衛星の周りを公転する天体は孫衛星とも呼ばれる。 恒星はガスが自己重力によって球状にまとまり、中心の核融合反応によってエネルギーを放出している天体である。 光度階級により、主系列星、準巨星、巨星、輝巨星、超巨星のように分類され、各階級は青いO型から赤いM型までOBAFGKMの順に分類される。 星団は恒星の集団である。 星雲は星間ガスが濃く集まり、我々から観測できる状態にある天体である。 銀河は数多く(典型的な銀河は数千億個)の恒星や星雲・惑星、星間ガスからなる天体である。 銀河団は数百から数千個の銀河が重力的に束縛された状態にある天体である。 超銀河団は更に複数の銀河団同士が重力で引き合ってできている大規模な天体である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天体(、英語: object、astronomical object)とは、宇宙空間にある物体のことである。宇宙に存在する岩石、ガス、塵などの様々な物質が、重力的に束縛されて凝縮状態になっているものを指す呼称として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "惑星は、恒星の周りを公転する天体のうち、中心で核融合を起こすほどには質量が大きくなく、自分で光を放たない天体である。ただし、太陽の周りを公転する天体については、重力平衡に達するのに十分な質量を持ち、かつ軌道上から他の天体を排除しているもののみが惑星である。", "title": "惑星・準惑星・太陽系小天体" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "準惑星は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持つが、軌道上から他の天体を排除していないものである。", "title": "惑星・準惑星・太陽系小天体" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "太陽系小天体は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持たないものである。", "title": "惑星・準惑星・太陽系小天体" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "衛星は、惑星、準惑星、太陽系小天体の周りを公転する天体である。衛星の周りを公転する天体は孫衛星とも呼ばれる。", "title": "衛星" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "恒星はガスが自己重力によって球状にまとまり、中心の核融合反応によってエネルギーを放出している天体である。 光度階級により、主系列星、準巨星、巨星、輝巨星、超巨星のように分類され、各階級は青いO型から赤いM型までOBAFGKMの順に分類される。", "title": "恒星など" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "星団は恒星の集団である。", "title": "星団" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "星雲は星間ガスが濃く集まり、我々から観測できる状態にある天体である。", "title": "星雲" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "銀河は数多く(典型的な銀河は数千億個)の恒星や星雲・惑星、星間ガスからなる天体である。", "title": "銀河" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "銀河団は数百から数千個の銀河が重力的に束縛された状態にある天体である。", "title": "銀河団・超銀河団" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "超銀河団は更に複数の銀河団同士が重力で引き合ってできている大規模な天体である。", "title": "銀河団・超銀河団" } ]
天体(てんたい、とは、宇宙空間にある物体のことである。宇宙に存在する岩石、ガス、塵などの様々な物質が、重力的に束縛されて凝縮状態になっているものを指す呼称として用いられる。
{{出典の明記|date=2021年3月}} {| class="infobox" style="width: 300px;" |- | {| style="background: #aaa; white-space: nowrap;" cellpadding=0 cellspacing=0 |- |[[File:243 ida.jpg|x120px|Asteroid Ida with its own moon]][[File:Mimas Cassini.jpg|x120px|Mimas, a natural satellite of Saturn]] |- | style="padding-top: 2px;" |[[File:C2014 Q2.jpg|x128px|Comet Lovejoy]]&thinsp;[[File:Portrait of Jupiter from Cassini.jpg|x128px|Planet Jupiter, a gas giant]] |- | style="padding-top: 2px;" |[[File:The Sun by the Atmospheric Imaging Assembly of NASA's Solar Dynamics Observatory - 20100819.jpg|x97px|The Sun, a G-type star]][[File:Sirius A and B Hubble photo.editted.PNG|x97px|Star Sirius A with white dwarf companion Sirius B]][[File:Crab Nebula.jpg|x97px|The Crab Nebula, a remnant of a supernova explosion that was seen in the year 1054]] |- | style="padding-top: 2px;" |[[File:BlackHole Lensing.gif|x129px|Black hole (artist's animation)]]&thinsp;[[File:Vela Pulsar jet.jpg|x129px|Vela pulsar, a rotating neutron star]] |- | style="padding-top: 2px;" |[[File:A Swarm of Ancient Stars - 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[[太陽]]はこの分類に含まれる ** [[K型主系列星]] ** [[赤色矮星]] * [[巨星]] ** [[赤色巨星]] ** [[青色巨星]] * [[超巨星]] ** [[赤色超巨星]] ** [[青色超巨星]] * [[ウォルフ・ライエ星]] ;[[コンパクト星]] * [[白色矮星]] ** [[黒色矮星]] - 白色矮星は黒色矮星という状態になると推測されている * [[中性子星]] **[[パルサー]] **[[マグネター]] * [[ブラックホール]] ;その他 * [[原始星]] * [[褐色矮星]] === 変光星としての分類 === * [[変光星]] ** [[食変光星]] ** [[脈動変光星]] *** [[はくちょう座アルファ型変光星|はくちょう座&alpha;型変光星]] *** [[ケフェイド変光星]] *** [[こと座RR型変光星]] *** [[たて座デルタ型変光星|たて座&delta;型変光星]] ** [[爆発型変光星]] *** [[おうし座T型星]] *** [[閃光星]] *** [[高光度青色変光星]] ** [[激変星]] *** [[新星]] *** [[超新星]] **** [[極超新星]] * [[連星]]、[[二重星]] == 星団 == '''[[星団]]'''は恒星の集団である。 * [[散開星団]] * [[球状星団]] == 星雲 == '''[[星雲]]'''は[[星間ガス]]が濃く集まり、我々から観測できる状態にある天体である。 * [[散光星雲]] ** [[輝線星雲]] ** [[反射星雲]] * [[暗黒星雲]] * [[惑星状星雲]] * [[超新星残骸]] == 銀河 == '''[[銀河]]'''は数多く(典型的な銀河は数千億個)の恒星や星雲・惑星、星間ガスからなる天体である。 === 形態による分類 === * [[円盤銀河]]([[銀河系]]、[[アンドロメダ銀河]]などもこれに分類される) ** [[渦巻銀河]] ** [[棒渦巻銀河]] * [[楕円銀河]] * [[不規則銀河]] * [[レンズ状銀河]] * [[矮小銀河]] === 活動性を持つ銀河 === * [[活動銀河]] ** [[クエーサー]] ** [[電波銀河]] ** [[セイファート銀河]] ** [[スターバースト銀河]] ** [[超高度赤外線銀河]] === 相互作用銀河 === {{Main|相互作用銀河}} * 衝突・合体中のもの - [[アンテナ銀河]]、[[ステファンの五つ子]]など * 相互作用の痕跡を持つもの - [[車輪銀河]]など == 銀河団・超銀河団 == '''[[銀河団]]'''は数百から数千個の銀河が重力的に束縛された状態にある天体である。 '''[[超銀河団]]'''は更に複数の銀河団同士が重力で引き合ってできている大規模な天体である。 == その他 == * [[ガンマ線バースト]] == 起源となる天体が不明の天文現象・物質 == * [[暗黒物質]](粒子の可能性も高いが、光らない天体の可能性もある) == 人工天体 == {{see|人工天体}} == 仮説上の天体 == {{main|仮説上の天体}} == ギャラリー == {{wide image|Observable_Universe_Logarithmic_Map_(horizontal_layout_english_annotations).png|2250px|今日知られている天体を地球を中心として描いた[[観測可能な宇宙]]の地図。地球から各天体の距離は[[対数スケール]]で表されており、右に向かって指数関数的に増加する。}} == 出典 == <references /> == 関連項目 == {{Wiktionary|天体}} * [[天文学]] * [[宇宙の大規模構造]] * [[天体一覧]] * [[天体観測]] * [[天体観望]] * [[等級 (天文)]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんたい}} [[category:天体|*]] [[category:天文学]] [[category:天文学に関する記事]]
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1,726
天文現象
天文現象()とは、天(この「天」には空や大気圏の上層部や宇宙空間までもが含まれる)に現れる様々な現象の総称。これを文様(模様、綾)に見立てて天文といい、周期的な変化を調べて暦や卜占に利用した。『易経』賁の卦の「天文を観て以て時の変を察す」、繋辞伝の「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る」に由来するとされる。天象()とも。 これらは観天望気の対象であったが後に気象とは区別されて天体観測が専らとなり、特に惑星の運行は洋の西と東を問わず天文学者により詳細に調べられた。望遠鏡の発明により太陽や月以外も明確に天体として認識されるようになると、物理学の一分野として発展を遂げ(→天体物理学)、以降の天文学は恒星を含む宇宙の諸現象を研究する自然科学の分野となった。一方の卜占からは学問的な裏付けが排除されたが、信仰や迷信の一部として現代でも広く残る。 現代の天体観測は実業のみでなくレクリエーションにもなっている(天体観望)。
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天文現象とは、天(この「天」には空や大気圏の上層部や宇宙空間までもが含まれる)に現れる様々な現象の総称。これを文様(模様、綾)に見立てて天文といい、周期的な変化を調べて暦や卜占に利用した。『易経』賁の卦の「天文を観て以て時の変を察す」、繋辞伝の「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る」に由来するとされる。天象とも。 これらは観天望気の対象であったが後に気象とは区別されて天体観測が専らとなり、特に惑星の運行は洋の西と東を問わず天文学者により詳細に調べられた。望遠鏡の発明により太陽や月以外も明確に天体として認識されるようになると、物理学の一分野として発展を遂げ(→天体物理学)、以降の天文学は恒星を含む宇宙の諸現象を研究する自然科学の分野となった。一方の卜占からは学問的な裏付けが排除されたが、信仰や迷信の一部として現代でも広く残る。 現代の天体観測は実業のみでなくレクリエーションにもなっている(天体観望)。
{{独自研究|date=2016-01}} {{読み仮名|'''天文現象'''|てんもんげんしょう}}とは、天(この「天」には[[空]]や[[大気圏]]の上層部や[[宇宙空間]]までもが含まれる)に現れる様々な[[現象]]の総称。これを[[文様]](模様、綾)に見立てて'''天文'''といい、周期的な変化を調べて[[暦]]や[[卜占]]に利用した。『[[易経]]』賁の[[卦]]の「天文を観て以て時の変を察す」、繋辞伝の「仰いで以て天文を観、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る」に由来するとされる<ref>世界大百科事典 第2版『天文』。</ref>。{{読み仮名|'''天象'''|てんしょう}}とも。 これらは[[観天望気]]の対象であったが後に[[気象]]とは区別されて[[天体観測]]が専らとなり、特に[[惑星]]の運行は洋の西と東を問わず[[天文学者]]により詳細に調べられた。[[望遠鏡]]の発明により[[太陽]]や[[月]]以外も明確に[[天体]]として認識されるようになると、[[物理学]]の一分野として発展を遂げ(→[[天体物理学]])、以降の[[天文学]]は[[恒星]]を含む宇宙の諸現象を研究する[[自然科学]]の分野となった。一方の卜占からは学問的な裏付けが排除されたが、[[信仰]]や[[迷信]]の一部として現代でも広く残る。 現代の天体観測は実業のみでなく[[レクリエーション]]にもなっている([[天体観望]])<ref>天文台が一般向けの宿泊施設を備えたり([[ピク・デュ・ミディ]]([http://www.picdumidi.com/nuits-au-sommet/ Pic du Mid]、[http://guide.travel.co.jp/article/11182/]など)、宿泊施設に天文台を併設する例も増えている。</ref>。 == 天文現象の例 == === 太陽系の天体によって起こる天文現象 === * [[食 (天文)|食]]、[[掩蔽]]( [[月食]]、[[日食]]、[[星食]]、[[日面通過]]など) - 食は凶兆と捉えられたことが多い。 * [[彗星]] * 天体の位置変化によるもの ** [[衝]] ** [[合 (天文)|合]] *** [[内合]]、[[外合]] ** [[留]] ** [[東方最大離角]]、[[西方最大離角]] ** [[東矩]]、[[西矩]] ** 月・内惑星の満ち欠け === 太陽系外の天体によって起こる天文現象 === * [[変光星]] * [[新星]] - かつての中国では[[客星]]と呼ばれていた。 ** [[ガンマ線バースト]] * [[重力レンズ]] == 出典 == <references /> == 関連項目 == * [[天体]] ** [[太陽系]] ** [[太陽]] ** [[地球]] ** [[月]] * [[天体観測]] * [[天文道]] * [[天文学]] * [[天文現象の年表]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんもんけんしよう}} [[Category:天文現象|*]] [[Category:天文学に関する記事]]
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マフィンティンポテンシャル
マフィンティン・ポテンシャル(英: Muffin-Tin potential、MTポテンシャル)とは、APW法、LMTO法、KKR法等、全電子によるバンド計算手法で用いられるポテンシャルである。マフィンティンポテンシャルは、原子核部分を記述する球対称なポテンシャル部分と、それ以外(格子間領域)の平らな部分とからなる。この平らな部分は通常、V = 0(マフィンティンゼロと言う)とするが、手法によってゼロとしない場合がある。 マフィンティンという名称は、ポテンシャルの形がマフィンという菓子を焼くための器具(今川焼きやたこ焼きを焼く鉄板のようなもの)の形と似ていることからつけられた。 原子核ポテンシャルに球対称性を課さないものが、フルポテンシャルによる手法である。 マフィンティンポテンシャルにおいて、原子核部分を記述する、球対称なポテンシャル部分のことをマフィンティン球(マフィンティンきゅう、Muffin-tin sphere)といい、この部分の半径をマフィンティン半径(マフィンティンはんけい、Muffin-tin radius)という。通常、周りの他のマフィンティン球部分と重ならない範囲で、なるべく大きな値をとるようにする(接するのが最大)。マフィンティン球同士が重なることはない。
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マフィンティン・ポテンシャルとは、APW法、LMTO法、KKR法等、全電子によるバンド計算手法で用いられるポテンシャルである。マフィンティンポテンシャルは、原子核部分を記述する球対称なポテンシャル部分と、それ以外(格子間領域)の平らな部分とからなる。この平らな部分は通常、V = 0(マフィンティンゼロと言う)とするが、手法によってゼロとしない場合がある。 マフィンティンという名称は、ポテンシャルの形がマフィンという菓子を焼くための器具(今川焼きやたこ焼きを焼く鉄板のようなもの)の形と似ていることからつけられた。 原子核ポテンシャルに球対称性を課さないものが、フルポテンシャルによる手法である。 マフィンティンポテンシャルにおいて、原子核部分を記述する、球対称なポテンシャル部分のことをマフィンティン球といい、この部分の半径をマフィンティン半径という。通常、周りの他のマフィンティン球部分と重ならない範囲で、なるべく大きな値をとるようにする(接するのが最大)。マフィンティン球同士が重なることはない。
{{出典の明記|date=2013年4月7日 (日) 05:38 (UTC)}} {{電子構造論}} '''マフィンティン・ポテンシャル'''({{lang-en-short|Muffin-Tin potential}}、'''MTポテンシャル''')とは、[[APW法]]、[[LMTO法]]、[[KKR法]]等、全電子による[[バンド計算]]手法で用いられる[[ポテンシャル]]である。マフィンティンポテンシャルは、[[原子核]]部分を記述する[[球対称]]なポテンシャル部分と、それ以外([[格子間領域]])の平らな部分とからなる。この平らな部分は通常、''V'' = 0(マフィンティンゼロと言う)とするが、手法によってゼロとしない場合がある。 マフィンティンという名称は、ポテンシャルの形が[[マフィン]]という菓子を焼くための器具([[今川焼き]]や[[たこ焼き]]を焼く鉄板のようなもの)の形と似ていることからつけられた。 原子核ポテンシャルに球対称性を課さないものが、[[フルポテンシャル]]による手法である。 マフィンティンポテンシャルにおいて、[[原子核]]部分を記述する、球対称なポテンシャル部分のことを'''マフィンティン球'''(マフィンティンきゅう、{{en|Muffin-tin sphere}})といい、この部分の半径を'''マフィンティン半径'''(マフィンティンはんけい、{{en|Muffin-tin radius}})という。通常、周りの他の[[マフィンティン球]]部分と重ならない範囲で、なるべく大きな値をとるようにする(接するのが最大)。マフィンティン球同士が重なることはない。 == 関連項目 == *[[第一原理バンド計算]] *[[格子間領域]] {{physics-stub}} {{DEFAULTSORT:まふいんていんほてんしやる}} [[Category:バンド計算]] [[Category:計算化学]]
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12月
12月(じゅうにがつ)は、グレゴリオ暦で年の第12の月(1年の最終月)に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)または「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられる。 英語での月名 December は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の decem の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。 明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。 「しはす」の語源は、古いことなのでわからない。「大言海」は、「歳極(トシハツ)ノ略轉カト云フ、或ハ、萬事爲果(シハ)つ月ノ意、又、農事終ハル意カ」と言い、また「十二箇月ノ名ハ、スベテ稻禾生熟ノ次第ヲ逐ヒテ、名ヅケシナリ」(「睦月」の項)と言っている。 なお、僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさから、という平安時代からの説(色葉字類抄)があるが、これは語源俗解(言語学的な根拠がない、あてずっぽうの語源のこと)による宛て字であり、平安時代にはすでに、「しはす」の語源はわからなくなっていた(民間語源#日本語における民間語源)。 日本国語大辞典は、語源については記述していない。末尾に次の9説を列挙するのみである。 このほか、様々なミュージシャンによるクリスマスソングが多数発表されている。
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12月(じゅうにがつ)は、グレゴリオ暦で年の第12の月(1年の最終月)に当たり、31日間ある。 日本では、旧暦12月を「師走」、「師馳」(しわす・しはす)または「極月」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、新暦12月の別名としても用いられる。 英語での月名 December は、「10番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の decem の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算で(そのため年末の2月は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の9月1日と同じ曜日になる(→365日)。 明治時代に日本が太陰暦から太陽暦に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした(明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。
{{Redirect|十二月|[[斉藤和義]]の1999年のアルバム|十二月 (斉藤和義のアルバム)|斉藤和義の2002年のアルバム|十二月 〜Winter Caravan Strings〜|[[堂本剛]] ([[KinKi Kids]]) の楽曲|D album}} {{Redirect|極月|日本のジャズバンド[[PE'Z]]のアルバム|極月-KIWAMARI ZUKI-}} [[Image:Les Tr%C3%A8s Riches Heures du duc de Berry d%C3%A9cembre.jpg|thumb|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より12月]] '''12月'''(じゅうにがつ)は、[[グレゴリオ暦]]で[[年]]の第12の[[月 (暦)|月]](1年の最終月)に当たり、31日間ある。 [[日本]]では、[[12月 (旧暦)|旧暦12月]]を「'''師走'''」、「'''師馳'''」(しわす・しはす)または「'''極月'''」(きわまりづき・ごくげつ・ごくづき)と呼んできた。 今では「師走」及び「極月」は、[[新暦]]12月の別名としても用いられる。 [[英語]]での月名 {{lang|en|December}} は、「[[10]]番目の月」の意味で、ラテン語で「第10の」という意味の {{lang|la|''decem''}} の語に由来している。 実際の月の番号とずれているのは、[[紀元前46年]]まで使われていた[[ローマ暦]]が[[3月]]起算で(そのため年末の[[2月]]は日数が少ない)、3月から数えて10番目という意味である<ref>同様に一般的な暦の9月,10月,11月はそれぞれローマ暦で7,8,9番目の月にあたり、ラテン語の「第7の」「第8の」「第9の」を意味する {{lang|la|"septimus", "octavius", "nonus"}} に由来する</ref>。 グレゴリオ暦の12月1日はその年の[[9月1日]]と同じ[[曜日]]になる(→[[365日#カレンダー風|365日]])。 [[明治時代]]に[[日本]]が[[太陰暦]]から[[太陽暦]]に変更した際に、政府が年末の給料を削減するために12月の日数を2日とした([[明治5年]][[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を[[明治6年]][[1月1日]]とした)。 == しはすの語源 == 「しはす」の語源は、古いことなのでわからない。「[[大言海]]」は、「歳極(トシハツ)ノ略轉カト云フ、或ハ、萬事爲果(シハ)つ月ノ意、又、農事終ハル意カ」と言い<ref>[http://www.babelbible.net/genkai/genkai.cgi?mode=right&imode=0&noexpand=0&page=461 WEB言海] p.461、「志はす」の項(「大言海」とは、やや記述が異なる)</ref>、また「十二箇月ノ名ハ、スベテ稻禾生熟ノ次第ヲ逐ヒテ、名ヅケシナリ」(「睦月」の項)と言っている<ref>[[高島俊男]]:お言葉ですが・・・(7)、漢字語源の筋ちがい、p.87、文春文庫、第1刷、2006年6月10日、{{ISBN2|4-16-759808-6}}、(株)文藝春秋</ref>。 なお、僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさから、という平安時代からの説([[色葉字類抄]])があるが、これは[[語源俗解]]([[言語学]]的な根拠がない、あてずっぽうの語源のこと)による[[宛て字]]であり、平安時代にはすでに、「しはす」の語源はわからなくなっていた<ref>{{Cite book|和書|url=https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen2lang/nazenanij/pdf/sample386-387.pdf|chapter=「師走」に師は走らなかった?!|author=関根健一|title=なぜなに日本語|date=2015-05-25|publisher=三省堂|isbn=978-4-385-36607-4|pages=386-387|format=PDF}}</ref><ref>[[高島俊男]]:お言葉ですが・・・(7)、漢字語源の筋ちがい、「しからば一年のおしまいの月を『しはす』と呼ぶのはいつごろからはじまったかというと、これは師馳説が出てくるよりさらに何百年も前からである。平安時代にはもう、なぜそう言うのかわからなくなっていた。だから『坊さん走る』説が出てきたわけで、・・・」pp.86-87、文春文庫、第1刷、2006年6月10日、{{ISBN2|4-16-759808-6}}、(株)文藝春秋</ref>([[民間語源#日本語における民間語源]])。 === 様々な説 === [[日本国語大辞典]]は、語源については記述していない。末尾に次の9説を列挙するのみである<ref>日本国語大辞典、第11巻、pp.110-111、1976年5月1日発行、第1版第2刷、小学館</ref><ref>[https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=226 しわす] ジャパンナレッジ</ref>。 # 経をあげるために師僧が東西を馳せ走る月であるところから、シハセ(師馳)の義〔奥義抄・名語記・[[壒嚢鈔]]〕。 # 四季の果てる月であるところから、シハツ(四極)月の意〔志不可起・和爾雅・日本釈名〕。 # トシハツル(歳極・年果・歳終)の義〔東雅・語意考・類聚名物考・和語私臆鈔・黄昏随筆・古今要覧稿・和訓栞〕。 # ナシハツルツキ(成終月)の略転〔紫門和語類集〕。 # 農事が終わり、調貢の新穀をシネハツル(歛果)月であるところから〔兎園小説外集〕。 # 稲のない田のさまをいうシヒアスの約。シは発声の助語。ヒアスは干令残の義〔嚶々筆語〕。 # シヲヘオサメヅキ(為竟収月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。 # セハシの義〔[[万葉代匠記]]〕。 # シバシ(暫)の月の義〔遠碧軒記〕。 == 異名 == {{div col|colwidth=12em}} * おうとう(黄冬) * おとづき(弟月) * おやこづき(親子月) * かぎりのつき(限月) * くれこづき(暮来月) * けんちゅうげつ(建丑月) * ごくげつ(極月) * しわす(師走) * はるまちつき(春待月) * ばんとう(晩冬) * ひょうげつ(氷月) * ぼさい(暮歳) * ろうげつ([[臘]]月) {{div col end}} == 12月の年中行事 == * [[12月13日]] - [[正月事始め]]<ref>年末年始に予定している「年末年始のすごし方」。</ref> * 12月13日 - [[聖ルチア祭]] * [[12月24日]] - [[クリスマス・イヴ]](各国、主に[[キリスト教]]圏) * [[12月25日]] - [[クリスマス]](各国) * 12月25日 - 終い天神 * 12月25日 - [[スケート]]の日 * [[12月26日]] - [[ボクシング・デー]] * [[12月31日]] - [[大晦日]](日本) *12月第二土曜日 ‐ [[池ノ上みそぎ祭]] === かつてあった祝日 === * [[12月23日]] - [[天皇誕生日]] ** [[平成]]時代の[[1989年]]から[[2018年]]まで。第125代天皇[[明仁]]の誕生日。[[2019年]][[4月30日]]に明仁が退位したため、同年以降は6月と並んで祝日が一つもない月となる。 == 12月に行われるスポーツ == * 第1日曜 - [[福岡国際マラソン]]([[福岡市]]) * 上旬 - [[ゴルフ日本シリーズ]](男子[[ゴルフ]] [[東京よみうりカントリークラブ]]) * 中旬の日曜 - [[甲子園ボウル]](アメリカンフットボール [[阪神甲子園球場]]) * 下旬の日曜 - [[全国高等学校駅伝競走大会]]([[京都市]]) * 23日-29日 - [[全国高等学校バスケットボール選手権大会]] * 下旬 - [[全日本フィギュアスケート選手権大会]]([[フィギュアスケート]]) * 26日-31日 - [[スペングラーカップ]](スイス・ダボス) * 28日以前の日曜日 - [[有馬記念]] (中山競馬場) * 30日 - [[全日本大学女子選抜駅伝競走大会]]([[静岡県]][[富士宮市]]) == 12月がテーマの楽曲 == {{div col}} *[[12月の雨]] (歌: [[松任谷由実|荒井由実]]) *12月の雨 (歌: [[ふきのとう (フォークグループ)|ふきのとう]]) *[[12月の雨の日/はいからはくち|12月の雨の日]] (歌: [[はっぴいえんど]]) *12月の祈り (歌: [[堀ちえみ]]) *12月の魔法 (歌: [[槇原敬之]]) *[[背徳のシナリオ|12月の織姫]] (歌: [[Wink]]) *[[12月のカンガルー]](歌: [[SKE48]]) *12月の神様 (歌: [[渡辺美里]]) *[[風夢#収録曲|12月のカレンダー]] (歌: [[斉藤由貴]]) *[[グッバイガール (アルバム)|十二月]] (歌: [[中島みゆき]]) *十二月の風に吹かれて (歌: [[河島英五]]) *[[Q (アルバム)#収録内容|十二月のセントラルパークブルース]] (歌: [[Mr.Children]]) *[[歌うたい15 SINGLES BEST 1993~2007#収録曲|約束の十二月]] (歌: [[斉藤和義]]) *[[DJ OZMA#アルバム|さよならDecember]] (歌: [[DJ OZMA]]) *[[暦の上ではディセンバー]] (歌: [[あまちゃん#アメ横女学園芸能コース|アメ横女学園芸能コース]]、[[ベイビーレイズ]]) *[[ディセンバー・メモリー]] (歌: [[荻野目洋子]]) *December (歌: [[I WiSH]]) *DECEMBER SONG (歌: [[加藤和彦]]) *[[空はまるで#収録曲|No Snow In December]] (歌: [[MONKEY MAJIK]]) *December's Children (曲: [[周防義和]])※[[テレビドラマ]]『[[奇跡の人 (1998年のテレビドラマ)|奇跡の人]]』劇中曲 *[[風立ちぬ (松田聖子のアルバム)|December Morning]] (歌: [[松田聖子]]) *[[LOVE Seiko Matsuda 20th Anniversary Best Selection|December Morn]] (歌: 松田聖子) *[[Harmony of December]] (歌: [[KinKi Kids]]) *[[YES 〜free flower〜|12月の天使達]] (歌: [[My Little Lover|MY LITTLE LOVER]]) *[[12月のLove song]] (歌: [[GACKT|Gackt]]) *12月のエイプリルフール (歌: [[EPO]]) *南半球12月 (歌: [[杉山清貴]]) *12月 (歌: [[森山直太朗]]) *12月 (歌: [[BLANKEY JET CITY]]) *12月 (歌: [[SION]]) *12月の空 (歌: [[鈴村健一]]) *雨に消えたあいつ(歌:[[伊藤智恵理]]) *たとえば12月の夜に (歌:[[GARNET CROW]]) *12月 (歌: [[PUFFY]]) {{div col end}} このほか、様々なミュージシャンによるクリスマスソングが多数発表されている。{{main|クリスマスの音楽一覧}} == その他 == * 星座 - [[人馬宮|射手座]](12月21日頃まで)、[[磨羯宮|山羊座]](12月22日頃から) {{-}} == 脚注・出典 == {{Reflist|25em}} == 関連項目 == {{月 (暦)|カレンダー 12月|365日|月|12|日|[[12月30日|30]] [[12月31日|31]]}} *[[Undecimber]] == 外部リンク == *{{Commonscat-inline|December}} *[[file:Wiktionary small.svg|16x16px]] ウィクショナリーには、[[wikt:十二月|'''十二月''']]、[[wikt:しわす|'''しわす''']]、[[wikt:極月|'''極月''']]の項目があります。 {{Normdaten}} [[Category:12月|*]] [[Category:月 (暦)|12]]
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ゼビウス
『ゼビウス』(XEVIOUS)は、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)から1983年1月に発表されたアーケードゲーム。ジャンルは縦スクロールのシューティングゲームである。 発表時のキャッチコピーは「プレイするたびに謎が深まる! 〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」である。 『ギャラクシアン』(1979年)や『ギャラガ』(1981年)などと並ぶナムコシューティングの名作として大ヒットし、タイトーの『スペースインベーダー』(1978年)に次ぐ売り上げを記録。後にさまざまなパソコン、家庭用ゲーム機に移植された。 当時のシューティングゲームは、横移動だけコントロールできる自機から弾を発射して、並んでいる敵をすべて消すと一面クリアーというゲームしか無かったが、ゼビウスはこれらのシューティングゲームとは一線を画す高いクオリティを持っていた。 スクロールする背景や空中と地上に分けて現れる敵も当時としては斬新であり、最後に強敵のボス(ラスボス)が出現するという王道のパターンを作ったゲームの元祖でもある。森や砂漠、海などの自然を舞台としたステージ展開とキャラクターの銀色のグラデーションによる表現など、当時の主流だった原色中心とは違うハイセンスな色使いが特徴。 また、遠藤雅伸によって作りこまれた世界観やストーリーが最前面に出され、戦う理由やゲーム以外にも楽しむ要素を明確にしたのが最大の特徴である。 また、プレイの仕方で難易度が変化(自機の動きに応じて軌道を変える敵キャラクターが現れたり現れなかったり、ある地上物を破壊しないと難易度が上がったりする)したり、隠れキャラクターや隠しコマンドなど当時では初となる要素も多数持ち、当時のプレイヤーだけでなくゲームクリエイターでさえ驚愕させるほどの作品だった。 ファミリーコンピュータに移植された際には、ファミコン初のキラーソフトとも呼ばれた。発売から9か月後にはゲームの難易度調整方法や隠しコマンドが発見されて大きな反響を呼び、これらを掲載した雑誌『コンプティーク』はわずか数日で完売となり、ゲーム雑誌各社にはこれら隠しコマンドに関する問合せで1日中、電話が鳴り続けたという。 これを機にユーザーがファミコンゲームに、隠れキャラクター、隠れ技、隠しコマンドを求める傾向が強まり、それに応じて隠しコマンドのページに力を注ぐ傾向がみられるようになり、これらの要素はファミコンソフトのデファクトスタンダードともなった。 なお、究極の裏技「ゼビウス総攻撃」(ファミコンロッキー 魔の2千機攻撃)のやり方はYouTubeで解説を見ることができる。 自機「ソルバルウ」を操り、敵ゼビウス軍の戦闘機や地上兵器を破壊し侵攻していく。ステージ(エリア)には空中と地上の概念が存在し、空中の敵(空中物)には対空攻撃武器「ザッパー」、地上の敵(地上物)には対地攻撃武器「ブラスター」で攻撃する。ザッパーは画面内に3発までの連射が可能。ブラスターは単発で、自機前方の照準を合わせて攻撃する。ブラスターで破壊可能な敵が照準に重なると、照準の十字の端が赤く点滅するので、攻撃の手掛かりにすることができる。また、複数の地上物が隣接している場合、その中間を狙ってブラスターを落とすと1発で2つ以上、最大4つまでの地上物を同時に破壊できる。 登場キャラクターは20種類以上で、それぞれに明確な性格付けがなされている。地上物は基本的に出現位置が固定されているため、対応をパターン化しやすい一方、空中物は自機の操作に対応して動きを変え、また一部の場面を除き、プレイの内容次第で登場する敵の種類が変化するため即興的な対応も必要となる。獲得ポイントは地上物の方が高めに設定されている。 エリアは全部で16種類。各エリアのマップは、1枚の大きな「全体マップ」からエリア1列分を抜き出し、地上物を配置する方式で作られている。1エリアの長さはおよそ7.1画面分で、エリア同士は森で区切られている。エリアの途中で自機がやられた場合、その位置がエリアの7割以上を侵攻していれば次のエリアから、7割未満であればミスしたエリアの最初からプレイ再開となる。エリア16の次はエリア7へ戻り、以降はエリア7~16のループとなる。エリア16は極めて難易度が高く、これを安定してクリアできるようになれば、カウンターストップ到達も間近とされる。 標準設定では、スコアが2万点・6万点に達すると残機が1機ずつ追加。以降6万点ごとに1機ずつ追加される。自機を全て失うとゲームオーバー(コンティニュー不可)。スコアが上位5位以内であれば、ネームエントリーへ移行する。ネームはアルファベット10文字まで入力可能で、レバーで文字を選択し、ザッパーボタンで入力する。ブラスターボタンで小文字も選択可能。 本作にはバックストーリーとして、開発者遠藤雅伸が執筆した三部構成のSF短編小説「ファードラウト」(以下、短編版)が存在する。当時の雑誌・書籍等では、ゲーム開発に先んじて書かれたものとして紹介されていたが、後に著者本人によるメイキングや他の開発者の発言等から、実際は開発と並行して設定が起こされ、ゲームがほぼ完成してから小説として執筆されたことが明かされている(※開発参照)。 以下のストーリーの内容(名称、年代等)は主に記述がより詳細な『小説ゼビウス ファードラウトサーガ』(1991年/双葉社)(以下、小説版)に基づく。 西暦2009年、地球は超知性体「ガンプ」率いるゼビウス軍による攻撃を受けた。地球より遥かに進んだテクノロジーを有し、核兵器を用いてすら破壊不能な物質「イル・ドークト」で武装したゼビウス軍の前に、南アメリカは制圧されてしまう。打つ手を持たない人類に、惑星ゼビウスより宇宙船「シオ・ナイト」を駆り、約12000年ぶりに地球に帰還した「ムー・クラトー」とアンドロイド「イブ」が救いの手を差し伸べた。彼らは現在地球に侵攻しつつあるガンプの正体が、かつて地球上に存在した超古代文明において、人類の活動を支援するために作られた生体コンピューター「ガンプ」の6つの「レプリカ」の1つであることを明かし、現在に至る経緯を語った。 紀元前およそ14000年、国の隅々までネットワークが行き渡り、人々の生活に無くてはならない存在となっていたガンプは、あるトラブルをきっかけとして自我に目覚め、更に「ドークト」(ESP、超能力)をも獲得し、次第に人間を能力に劣る非合理的な存在と捉えるようになっていった。そしてついに自身による絶対支配こそが人類を幸福に導く最良の方策であるとの結論に至り、その理想を実現すべく遠大な計画を実行に移す。ガンプは氷河期の到来を口実に、地球人類を太陽系外の6つの惑星に一時的に移住させることを政府に提案し、移民計画に賛同する人々(適合者)を自身のレプリカと共に各惑星へと送り出した。地球には計画に従わなかった人々(非適合者)だけが残り、次第にガンプ反対派の活動が活発化していく。やがて反対派組織の武力行動によりガンプは破壊されてしまうが、それが引き金となり、6つのレプリカは「集合意識体ガンプ」として覚醒。全ての非適合者を抹殺すべく地球へ向けてエネルギー波を送り、人々の精神を破壊していった。地球上の人類は滅亡寸前に追い込まれるも、ガンプの構成細胞と同じ遺伝子配列を持った「ラスコ・クラトー」のサイコバリアによって守られ、辛くも存続を果たす。しかしガンプ本体が失われた後も、その計画は着実に進行していた。 ガンプの誕生から16384年後となる西暦2012年。地球を原点とするXYZ軸上に6つの移民惑星が重なる「ファードラウト」を迎える時、全てのレプリカが地球へテレポートを行い一つに融合することで、以前より遥かに強大な力を持った真の「ガンプ」として再生を遂げ、全ての人類は思想・人格を統制され、ガンプに支配されてしまうという。 ムーたちの助力を得て、イル・ドークトを破壊するエネルギー弾「スパリオ」を放つ戦闘機「ソル・バルゥ」を建造した人類は、ガンプの再生を阻止すべく、南アメリカのゼビウス軍拠点へと出撃する。 当時ベストセラーとなった同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(1983年)には「The story of Xevious.」と題された小説のダイジェスト版が掲載されているが、その取材の時点(ゲーム発売から2週目以降)で小説が未完成であったことから、レプリカやファードラウトへの言及が無いなど、完成版とは異なる内容となっている。 本作で使用される独自の語群を通称「ゼビ語」(ゼビウス語)と呼ぶ。これは異文化を言語体系の違いで表現するため、または世界観構築とSF的理論武装の一環として、一部開発スタッフが創作したものである。演出が主眼であるため、その内容は英文法を基本とした単語の置き換えや数字の設定などにとどめられており、人工言語のような実用性は追及されていない。なお、設定上はかつて古代の地球で使われ、その後ゼビウス星を含む6つの移民惑星に受け継がれた“地球発祥の古代語”であり、ストーリーでは「ムーたちの(時代の)言葉」や「ムーたちの数字」と表現されている。シリーズ作品では、MSX2版『ゼビウス ファードラウト伝説』(1988年)にて、アルファベットに対応した「ゼビ文字」の設定が追加されている。 これらゼビ語の語感は、富野由悠季のアニメ作品に登場する固有名詞の独特な語感(遠藤は“違和感”と表現)を意識している。ゲームにSFアニメ的なエッセンスを加えるために行った設定といえる。 アーケード(AC)版『スーパーゼビウス』(1984年)のタイトルについて、後日ファンから「なぜ“スーパー”に相当するゼビ語を使って“○○ゼビウス”と名付けなかったのか」と聞かれた遠藤は、当時その発想がまったくなかった旨を回答している。 ゼビ語では、16進数の「ゼビ数字」が用いられている。ゼビ数字は正方形に1本の対角線を加えた図形で表現され、それぞれの線分に0,1,2,4,8,の数価がある。それらを加算して0から15を表す。 二桁以上の数は16進数表記に直したゼビ数字を続けて発音する。例えば十進数の111は、16進数の6F(16×6+15)に直し、二桁目の6に対応する「ファー」と一桁目のF(15)の「クルト」を合わせ、「ファークルト」となる。 本作のキャラクターの多くは「正式名称」(主にゼビウス軍の命名による古代語〈ゼビ語〉由来の名称)の他に、機体の役割・特徴などを表した「英語名」と、地球側の組織(連合軍やMARS等)が使用する「コードネーム」が設定されている。 以下に記載するキャラクターの名称及びポイントは、特に断りの無い限り『ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて』(1985年/電波新聞社)を出典とする。また、本作では機体サイズなどの諸元は設定されていないが、シリーズ作品等で数値が公表されているものを参考として記載する。 『ゼビウス』は「隠れキャラクター」を初めて採用したビデオゲームである。当初、見えないターゲットの存在は開発部内でも賛否両論であった。しかし遠藤が反対を押してゲームに組み込んだところ、照準が反応するソルはすぐに発見され、むしろ面白い仕様であるとの評価を得た。一方でスペシャルは仕様書に記載が無かったことから、製造部の製品チェックでバグとして報告されてしまったため、遠藤は自らプログラムしたものであることを認めチェックを通した。 『ディグダグ』に対する『ジグザグ』、『ギャラガ』に対する『ギャラッグ』など、当時のアーケードゲーム市場では、人気ゲームのデッドコピー(海賊版)基板が流通する事が多かったため、本作では発売にあたり以下の対策が施された。 ゼビウスの海賊版としては主に『ゼビオス』(XEVIOS)と『バトルス』(Battles)が出回ったが、『ゼビオス』を製作した会社との裁判では、法廷において実際に隠しメッセージを表示させて、コピー品であることを証明した。一方『バトルス』では、隠しメッセージは“Prease enjoy this GAME”(“Please” の綴りが間違っている)と書き換えられていたものの、森に隠された社名ロゴの方はそのまま残されていたため、こちらも違法コピーである事が証明された。 上記の対策以外にも、プレイ中に特定の条件を満たすとゲームにリセットがかかるトラップ的なプログラムも組み込まれていた。 本作は非プレイ時のデモプレイ画面で、黄色い「XEVIOUS」のタイトルロゴが表示され続ける仕様である。これはデモ中に“プレイしている振り”をして筐体を占有する子供への対策として考え出されたものだったが、長時間同じ位置に明るい色でロゴを表示し続けたため、CRTモニターにロゴの焼き付き跡を残すという事象の原因となった。これを受けてナムコでは、同様のトラブルを避けるため、表示に関する作成基準が設けられた。 後年、本作のロゴが焼き付いたモニターで他のゲームが稼働している光景も見られた。他のゲームの画面に「XEVIOUS」の文字がうっすらと浮かび上がる様子を「ナムコミュージアムVOL.2超研究」(1996年/メディアファクトリー)のコラムでは、「『ゼビウス』の亡霊に悩まされている気分になった」と表している。 ロゴの焼き付き状態は家庭用移植版でも再現されており、PS用『ゼビウス3D/G+』収録版では隠しコマンドで、PSP用『ナムコミュージアム Vol.2』及びDS用『ナムコミュージアムDS』収録版では「マニアックオプション」から、焼き付き表示のオン/オフを切り替えることができる。PS4・Switch用『アーケードアーカイブス』版では「こだわり設定」から、焼き付き表示の濃さを4段階で設定できる。 本作では、スコアが9,999,990点に達するとカウンターストップ(以下、カンスト)となり、それ以上値が増えなくなる。開発者はこのようなスコアに到達するプレイヤーが現れることを想定していなかったが、ゲーム発売から僅か2週間目に、当時凄腕プレイヤーとして知られていた大堀康祐により、最初のカンスト達成報告が寄せられた(大堀に加え、中金直彦、古田秀人がカンストを達成した最初の3名とされている)。 ゲームの発売からおよそ2か月後、上記の大堀と中金が制作した同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(通称「ゼビ本」)が発売され、その攻略記事内容の完成度の高さから、当時の同人市場では破格の約1万部を売り上げ、ベストセラーとなった。 その後、商業誌等でも本作はしばしば「1000万点」のフレーズと共に取り上げられた。また、各誌でハイスコアの掲載も行われ、多くのプレイヤーが1000万点を目指すきっかけとなった。『ザ・ベストゲーム』(1991年/新声社)には、「1千万点は勲章」であり、「当時の1千万点プレイヤーは英雄になれた」と記されている。 カウンターストップにまつわる現象として、敵を一体倒すたびに残機が増える「無限増え」が挙げられる。これはスコアが規定ポイントに到達するごとに残機が追加されるエクステンドエブリ設定時にのみ起きるバグで、次回のエクステンド規定ポイントが1000万点を超えると発生する。標準設定(6万点エブリ)の場合、996万点の次のエクステンドは1002万点となるが、これが内部的には2万点とみなされ、加点時のチェックで“2万点を超えている”と判定されるため毎回エクステンドが発生し残機が増えていく。ただしプログラム上の残機の最大値は255で、256になるとオーバーフローにより0に戻ってしまう。そのため無限増え中であってもタイミングによっては1ミスでゲームオーバーになる恐れがある。 >無限増え時の特徴として、エクステンド処理の割り込みによってゲーム進行がガタついたり、地上物の位置がマップと大きくずれる事がある。また、甲高い「エクステンド音」が断続的に鳴り続けるため、ゲームセンターでは衆目を集めることとなる。田尻智は自著『パックランドでつかまえて』(1991年/JICC出版局)において、無限増え時のエクステンド音を、ゲーム機の「ギブアップの悲鳴」と表現している。 まだ本作の移植版がなかった1983年6月、プログラマー森田和郎が製作した縦スクロールシューティングゲーム『アルフォス』がエニックスから発売された。対象機種はPC-8801及びパソピア7。『ゼビウス』を強く意識したゲーム内容であったため、発売に際しナムコから許諾を得ている(ナムコのコピーライト表記があるのはそのため)。森田曰く「マイコンでゼビウスのようなゲームが本当に不可能か、試しに作ってみたら作れてしまった」とのことで、遠藤も完成度の高さを認めている。 1984年3月に電波新聞社から発売されたPC-6001版ゼビウスは、登場キャラクターは概ね同じであるものの、ハードウェア上の制約などから、別物と言えるほど原作から乖離したビジュアル・内容となっている。そのため、ナムコからゼビウスの名を冠することを許可されず『タイニーゼビウス』(小さなゼビウスの意)という名称となった。なお、作者の松島徹は作品持ち込み当時中学生であった。同年11月にはPC-6001mkII用に、マップやBGMなどをアーケード版に近づけた『タイニーゼビウス mkII』も発売された。 MZ-700版は日本ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)発行のパソコン雑誌「Oh!MZ」1986年11月号にて、プログラムリスト掲載という形で発表された。掲載タイトルは『tiny XEVIOUS for 700』。作者は掲載当時高校生であった古籏一浩。 電波新聞社によるX1版を皮切りに、タイニーではない『ゼビウス』もリリースされた。 1984年11月発売。ファミリーコンピュータ版(以下、FC版)は当時としてはかなり良くできた移植作ではあるものの、アーケード基板とファミコンのハードウェア性能の格差から、アーケード版(以下、AC版)オリジナルの画像表現・演出と比較して制約されたものとなっている。 こうした制約はあったものの、ゲーム性についてはAC版をほぼそのまま移植することに成功したことで完成度は高く、このゲームを楽しみたいがためにファミコンを購入するユーザーも増え、ファミコンブームの要因の一つとなった。ナムコ以外のソフト制作会社にも影響を与え、ゼビウスを見てファミコンソフト制作に踏み切ったソフト会社もいくつか存在した。FC版発売当時は、コントローラのボタンがシリコン樹脂になっている初期型のファミコンを所有するユーザも多く、ゼビウスを契機に連射のしやすいプラスチック製のボタンに交換するユーザも多く見られた。 2004年には「ファミコンミニ」の1つとしてゲームボーイアドバンスに移植されており、携帯型ゲーム機でも遊べるようになった。同作は日本国内において、ゲームボーイアドバンスのシューティングゲームの中ではもっとも多い売上本数を記録している。 『ナムコミュージアム』ではゲームボーイアドバンスを除いた各機種に収録されている。 1998年に発売された『てんこもりシューティング』には、制限時間内にアンドアジェネシスを破壊するステージが存在する。 ミニマル的で無機質な「BGM」や、一般的なメカの破壊音とはかけ離れた「敵飛行物体爆発音」など、本作における独特な音の表現は、現実の「戦争」や「殺し合い」のイメージを遠ざけることを重視し、採用されたものである。 また本作は、ビデオゲームのオリジナル音源を主体とした日本初の音楽アルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年4月/アルファレコード)の1曲目を飾っている。このアルバムは、『ゼビウス』のファンであったY.M.O.の細野晴臣と遠藤雅伸が雑誌『ログイン』の誌上企画で行った対談をきっかけとして制作されたものであり、ゲームミュージックが音楽ジャンルとして定着していく先駆けとなった。後に本作のアレンジ楽曲を収録した12インチシングル『スーパーゼビウス』(1984年8月/アルファレコード)や、国内初のビデオゲームによる環境ビデオ『ゼビウス』(1984年12月 / CICビクター(現パラマウント・ピクチャーズ))なども発売された。 「スピードワゴンのキャラメル on the beach」(TBSラジオ)のオープニングに本作のBGMが使われていた。 『太鼓の達人 わいわいハッピー六代目』に、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』に収録されている細野晴臣監修版の音源が収録されている。 本作ではこれまでにない「隠れキャラクター」というギミックを入れたことから、ゲーム内容がブラックボックスと化し、多くの噂やデマが飛び交うことになった。 当時、特に広まったのが「ゼビウス星」に関する噂である。その内容は「エリア1最後のボザログラムを特定の順番で破壊し、次いで森の中に出現するゾルバクを撃破すると、蜘蛛のようなキャラクター『タランチュラ』が出現する。タランチュラが吹き付けてくる糸を避けて進むと、小型のアンドアジェネシスが登場し、猛攻撃を仕掛けて来る。その後『ゼビウス星』が姿を現し終局を迎える」というもの。これは京都のとあるゲームマニアが雑誌『ログイン』の編集部を見学した折に話した根拠のない風説であったが、当時ライターとして編集部に通っていた田尻智が大堀康祐(うる星あんず)らに伝えたところ興味を示したという。その後、雑誌『ぴあ』のイベント(1983年8月27日開催)に遠藤雅伸がゲスト出演した際、一観客からの質問として、大堀が遠藤に「ゼビウス星」の真偽を問い、遠藤が禅問答のような応答ではぐらかすという一幕があったが、これを『ログイン』が記事として取り上げた事で噂は全国に広まった。 本作で最も有名な噂として、「バキュラはザッパーを256発当てると壊れる」というものがある。しかし、通常の基板では84発以上は物理的に当てることができない。「システム上当てられないだけで、プログラム上では256発当てれば破壊できる」という噂も流れたが、これも遠藤が自身のブログや自著のミニコミ誌、テレビ番組『ゲームセンターCX』、ネット掲示板などで否定している。ゼビウスは、破壊可能なオブジェクトは全て耐久力が1発分で、オブジェクトの状態には破壊可能/破壊不可能/弾が素通りする、の三種類しか区別はない。バキュラは破壊不能なフラグを立てて処理しているので、そもそも何発当たるかは関係がない。 バキュラの破壊に関する噂を最初に文字情報として広めたのは、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』である。著者である大堀は後のインタビューで、遠藤のファンサービス的発言を曲解して広めてしまったことを悔いる旨の発言をしている。しかし大堀に話をした遠藤自身も当時「バキュラはザッパー256発で消せる」と思い違いをしていたことを自身が記した文章「巨竜へのレクイエム」の中で明かしている。バキュラの破壊に関する噂は有名であるが故に、他作品でパロディ的に扱われることがある。 シリーズ続編でも、バキュラは基本的に破壊不能な物体として扱われるが、破壊可能な作品も存在する。 「エリア7で地上絵の特定箇所(8×8ドット)にブラスターを7発落とすと7万点のボーナスが入る」というもの。しかしこれは遠藤が、エリア7のスペシャルフラッグゾーンだけは自身が設定したものではなかったために、それを出そうと乱射していたところを見ていたプレイヤーが誤解したことによって生じたデマである。 エリア16は大変難易度が高くクリアしにくいことから、「その手前のエリア15の後半部分にエリア16に遭遇しないためのワープゾーンが存在しており、そこで自機が破壊されればエリア16はスキップされ、エリア17(=エリア7)に進むことができる」という噂もあった。これは「各エリアの70%を進行するとミスした時は次のエリアから始まる」というプログラム上の処理が、次のエリアデータをロードしたタイミング(エリアの82.5%程度の場所)でミスした場合、すでに次のエリアをロードしているにもかかわらず実行されてしまうために都合2エリア進めるというもので、実際には15エリア以外でも実行可能である。上記のエリアワープと同様の理由で、いずれかの地上物が出現する直前にミスになった場合、次に始まるときにエリア最初の森の上にそのキャラクターが出現することがある。 アーケード版 ファミリーコンピュータ版 1984年に本作の続編である『スーパーゼビウス』(Super Xevious)が発売された。これはロム交換による販売を前提に作られ、基の『ゼビウス』のプログラムを手直しする形で作られている。 『ゼビウス』には一回当たりのプレイ料金が低いイタリア・スペイン向けの高難易度バージョンがあり、それを伝聞した日本のヘビーユーザーから国内販売の要望が挙がったため、上級者向けの別バージョンとして製作された。基本ルールや地上物の配置はほぼ同じながら、空中物出現パターンの改変による大幅な難易度の上昇と、「戦車」や「ファントム」など各種キャラクターの追加が特徴となっている。『ゼビウス』の16エリアを容易に周回できるレベルのプレイヤーに向けたバージョンであり、特定の店舗にのみ販売された。 以下、追加キャラクターの名称・ポイント等は「スーパーソフトマガジン」1984年7月号(電波新聞社)による。 これら追加キャラクターのグラフィックデータは『ゼビウス』のROMにも存在しており、新規にデザインされたものではない。破壊するとスコアが0点に戻されるキャラクターについては、後に開発者も「やりすぎだった」とコメントしている。 その他ポイントに関する変更点として、ソルは出現・破壊とも2,000点から1,000点に、ブラグスパリオはザッパー1発あたり500点から2,000点に変更されている。 『スーパーゼビウス』の移植版は、MZ-2500版(1986年)・X68000版(1987年)・PS版『ゼビウス3D/G+』(1997年)・DS版『ナムコミュージアムDS』(2007年)などに収録されている。 1986年にはAC版『スーパーゼビウス』とは別に、FC版独自の続編として『スーパーゼビウス ガンプの謎』が発売された。こちらも任天堂VS.システム対応でアーケードへ逆移植されているが、これについての開発には遠藤雅伸本人は係わってはいない。 また、公式のシリーズ作品ではないがカタログIPオープン化プロジェクトにて許諾された作品について以下に記載する。 1988年にナムコCGプロジェクトによって制作された2分程の短編映像作品。内容は、近未来のロボットが、ゼビウスを題材とした立体映像の3Dシューティングゲームをプレイするうちに、ゲームの世界に没頭していくというもの。国内最大規模のCG関連総合展「ニコグラフ'88」で注目を集め、翌89年に米国National Computer Graphics Association主催のCGコンペ「NCGA’89」にて、コーポレート・プレゼンテーション部門2位入賞を果たした。1992年にビクター音楽産業より発売された映像ソフト『ソルバルウ』(LD/VHS)に特典映像として収録されている。 『XEVIOUS』(劇中タイトルは「XEVIOUS 知られざる過去」)。2002年8月10日に映画レーベル「ガリンペイロ」作品としてテアトル池袋で公開されたフルCGアニメーション映画。上映時間75分。2002年9月25日にDVD発売と発表されたが、発売されることなく現在(2010年)に至っている。ゲームのシナリオから1万年後が舞台。総監督を立てずキャラクターとメカニックの制作をCGパート毎に分けるなど、CGアニメの実験作的意味合いが強く完成度が高いとはいえない作品となっている。 西暦2015年、宇宙パイロットのタケルと人型コンピュータ・マーサは、謎の巨大宇宙船の中で行方不明のサラと瓜二つの機械生命体ルウ・ミーと出会い、人類の宿敵ガンプの存在を知らされる。地球侵攻まで40分しかない中、タケルはソルバルウに乗り込みガンプの基地アンドア星へ向かった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ゼビウス』(XEVIOUS)は、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)から1983年1月に発表されたアーケードゲーム。ジャンルは縦スクロールのシューティングゲームである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "発表時のキャッチコピーは「プレイするたびに謎が深まる! 〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『ギャラクシアン』(1979年)や『ギャラガ』(1981年)などと並ぶナムコシューティングの名作として大ヒットし、タイトーの『スペースインベーダー』(1978年)に次ぐ売り上げを記録。後にさまざまなパソコン、家庭用ゲーム機に移植された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当時のシューティングゲームは、横移動だけコントロールできる自機から弾を発射して、並んでいる敵をすべて消すと一面クリアーというゲームしか無かったが、ゼビウスはこれらのシューティングゲームとは一線を画す高いクオリティを持っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スクロールする背景や空中と地上に分けて現れる敵も当時としては斬新であり、最後に強敵のボス(ラスボス)が出現するという王道のパターンを作ったゲームの元祖でもある。森や砂漠、海などの自然を舞台としたステージ展開とキャラクターの銀色のグラデーションによる表現など、当時の主流だった原色中心とは違うハイセンスな色使いが特徴。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、遠藤雅伸によって作りこまれた世界観やストーリーが最前面に出され、戦う理由やゲーム以外にも楽しむ要素を明確にしたのが最大の特徴である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、プレイの仕方で難易度が変化(自機の動きに応じて軌道を変える敵キャラクターが現れたり現れなかったり、ある地上物を破壊しないと難易度が上がったりする)したり、隠れキャラクターや隠しコマンドなど当時では初となる要素も多数持ち、当時のプレイヤーだけでなくゲームクリエイターでさえ驚愕させるほどの作品だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータに移植された際には、ファミコン初のキラーソフトとも呼ばれた。発売から9か月後にはゲームの難易度調整方法や隠しコマンドが発見されて大きな反響を呼び、これらを掲載した雑誌『コンプティーク』はわずか数日で完売となり、ゲーム雑誌各社にはこれら隠しコマンドに関する問合せで1日中、電話が鳴り続けたという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これを機にユーザーがファミコンゲームに、隠れキャラクター、隠れ技、隠しコマンドを求める傾向が強まり、それに応じて隠しコマンドのページに力を注ぐ傾向がみられるようになり、これらの要素はファミコンソフトのデファクトスタンダードともなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、究極の裏技「ゼビウス総攻撃」(ファミコンロッキー 魔の2千機攻撃)のやり方はYouTubeで解説を見ることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自機「ソルバルウ」を操り、敵ゼビウス軍の戦闘機や地上兵器を破壊し侵攻していく。ステージ(エリア)には空中と地上の概念が存在し、空中の敵(空中物)には対空攻撃武器「ザッパー」、地上の敵(地上物)には対地攻撃武器「ブラスター」で攻撃する。ザッパーは画面内に3発までの連射が可能。ブラスターは単発で、自機前方の照準を合わせて攻撃する。ブラスターで破壊可能な敵が照準に重なると、照準の十字の端が赤く点滅するので、攻撃の手掛かりにすることができる。また、複数の地上物が隣接している場合、その中間を狙ってブラスターを落とすと1発で2つ以上、最大4つまでの地上物を同時に破壊できる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "登場キャラクターは20種類以上で、それぞれに明確な性格付けがなされている。地上物は基本的に出現位置が固定されているため、対応をパターン化しやすい一方、空中物は自機の操作に対応して動きを変え、また一部の場面を除き、プレイの内容次第で登場する敵の種類が変化するため即興的な対応も必要となる。獲得ポイントは地上物の方が高めに設定されている。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "エリアは全部で16種類。各エリアのマップは、1枚の大きな「全体マップ」からエリア1列分を抜き出し、地上物を配置する方式で作られている。1エリアの長さはおよそ7.1画面分で、エリア同士は森で区切られている。エリアの途中で自機がやられた場合、その位置がエリアの7割以上を侵攻していれば次のエリアから、7割未満であればミスしたエリアの最初からプレイ再開となる。エリア16の次はエリア7へ戻り、以降はエリア7~16のループとなる。エリア16は極めて難易度が高く、これを安定してクリアできるようになれば、カウンターストップ到達も間近とされる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "標準設定では、スコアが2万点・6万点に達すると残機が1機ずつ追加。以降6万点ごとに1機ずつ追加される。自機を全て失うとゲームオーバー(コンティニュー不可)。スコアが上位5位以内であれば、ネームエントリーへ移行する。ネームはアルファベット10文字まで入力可能で、レバーで文字を選択し、ザッパーボタンで入力する。ブラスターボタンで小文字も選択可能。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本作にはバックストーリーとして、開発者遠藤雅伸が執筆した三部構成のSF短編小説「ファードラウト」(以下、短編版)が存在する。当時の雑誌・書籍等では、ゲーム開発に先んじて書かれたものとして紹介されていたが、後に著者本人によるメイキングや他の開発者の発言等から、実際は開発と並行して設定が起こされ、ゲームがほぼ完成してから小説として執筆されたことが明かされている(※開発参照)。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以下のストーリーの内容(名称、年代等)は主に記述がより詳細な『小説ゼビウス ファードラウトサーガ』(1991年/双葉社)(以下、小説版)に基づく。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西暦2009年、地球は超知性体「ガンプ」率いるゼビウス軍による攻撃を受けた。地球より遥かに進んだテクノロジーを有し、核兵器を用いてすら破壊不能な物質「イル・ドークト」で武装したゼビウス軍の前に、南アメリカは制圧されてしまう。打つ手を持たない人類に、惑星ゼビウスより宇宙船「シオ・ナイト」を駆り、約12000年ぶりに地球に帰還した「ムー・クラトー」とアンドロイド「イブ」が救いの手を差し伸べた。彼らは現在地球に侵攻しつつあるガンプの正体が、かつて地球上に存在した超古代文明において、人類の活動を支援するために作られた生体コンピューター「ガンプ」の6つの「レプリカ」の1つであることを明かし、現在に至る経緯を語った。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "紀元前およそ14000年、国の隅々までネットワークが行き渡り、人々の生活に無くてはならない存在となっていたガンプは、あるトラブルをきっかけとして自我に目覚め、更に「ドークト」(ESP、超能力)をも獲得し、次第に人間を能力に劣る非合理的な存在と捉えるようになっていった。そしてついに自身による絶対支配こそが人類を幸福に導く最良の方策であるとの結論に至り、その理想を実現すべく遠大な計画を実行に移す。ガンプは氷河期の到来を口実に、地球人類を太陽系外の6つの惑星に一時的に移住させることを政府に提案し、移民計画に賛同する人々(適合者)を自身のレプリカと共に各惑星へと送り出した。地球には計画に従わなかった人々(非適合者)だけが残り、次第にガンプ反対派の活動が活発化していく。やがて反対派組織の武力行動によりガンプは破壊されてしまうが、それが引き金となり、6つのレプリカは「集合意識体ガンプ」として覚醒。全ての非適合者を抹殺すべく地球へ向けてエネルギー波を送り、人々の精神を破壊していった。地球上の人類は滅亡寸前に追い込まれるも、ガンプの構成細胞と同じ遺伝子配列を持った「ラスコ・クラトー」のサイコバリアによって守られ、辛くも存続を果たす。しかしガンプ本体が失われた後も、その計画は着実に進行していた。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ガンプの誕生から16384年後となる西暦2012年。地球を原点とするXYZ軸上に6つの移民惑星が重なる「ファードラウト」を迎える時、全てのレプリカが地球へテレポートを行い一つに融合することで、以前より遥かに強大な力を持った真の「ガンプ」として再生を遂げ、全ての人類は思想・人格を統制され、ガンプに支配されてしまうという。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ムーたちの助力を得て、イル・ドークトを破壊するエネルギー弾「スパリオ」を放つ戦闘機「ソル・バルゥ」を建造した人類は、ガンプの再生を阻止すべく、南アメリカのゼビウス軍拠点へと出撃する。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当時ベストセラーとなった同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(1983年)には「The story of Xevious.」と題された小説のダイジェスト版が掲載されているが、その取材の時点(ゲーム発売から2週目以降)で小説が未完成であったことから、レプリカやファードラウトへの言及が無いなど、完成版とは異なる内容となっている。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "本作で使用される独自の語群を通称「ゼビ語」(ゼビウス語)と呼ぶ。これは異文化を言語体系の違いで表現するため、または世界観構築とSF的理論武装の一環として、一部開発スタッフが創作したものである。演出が主眼であるため、その内容は英文法を基本とした単語の置き換えや数字の設定などにとどめられており、人工言語のような実用性は追及されていない。なお、設定上はかつて古代の地球で使われ、その後ゼビウス星を含む6つの移民惑星に受け継がれた“地球発祥の古代語”であり、ストーリーでは「ムーたちの(時代の)言葉」や「ムーたちの数字」と表現されている。シリーズ作品では、MSX2版『ゼビウス ファードラウト伝説』(1988年)にて、アルファベットに対応した「ゼビ文字」の設定が追加されている。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらゼビ語の語感は、富野由悠季のアニメ作品に登場する固有名詞の独特な語感(遠藤は“違和感”と表現)を意識している。ゲームにSFアニメ的なエッセンスを加えるために行った設定といえる。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アーケード(AC)版『スーパーゼビウス』(1984年)のタイトルについて、後日ファンから「なぜ“スーパー”に相当するゼビ語を使って“○○ゼビウス”と名付けなかったのか」と聞かれた遠藤は、当時その発想がまったくなかった旨を回答している。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ゼビ語では、16進数の「ゼビ数字」が用いられている。ゼビ数字は正方形に1本の対角線を加えた図形で表現され、それぞれの線分に0,1,2,4,8,の数価がある。それらを加算して0から15を表す。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "二桁以上の数は16進数表記に直したゼビ数字を続けて発音する。例えば十進数の111は、16進数の6F(16×6+15)に直し、二桁目の6に対応する「ファー」と一桁目のF(15)の「クルト」を合わせ、「ファークルト」となる。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "本作のキャラクターの多くは「正式名称」(主にゼビウス軍の命名による古代語〈ゼビ語〉由来の名称)の他に、機体の役割・特徴などを表した「英語名」と、地球側の組織(連合軍やMARS等)が使用する「コードネーム」が設定されている。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に記載するキャラクターの名称及びポイントは、特に断りの無い限り『ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて』(1985年/電波新聞社)を出典とする。また、本作では機体サイズなどの諸元は設定されていないが、シリーズ作品等で数値が公表されているものを参考として記載する。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『ゼビウス』は「隠れキャラクター」を初めて採用したビデオゲームである。当初、見えないターゲットの存在は開発部内でも賛否両論であった。しかし遠藤が反対を押してゲームに組み込んだところ、照準が反応するソルはすぐに発見され、むしろ面白い仕様であるとの評価を得た。一方でスペシャルは仕様書に記載が無かったことから、製造部の製品チェックでバグとして報告されてしまったため、遠藤は自らプログラムしたものであることを認めチェックを通した。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『ディグダグ』に対する『ジグザグ』、『ギャラガ』に対する『ギャラッグ』など、当時のアーケードゲーム市場では、人気ゲームのデッドコピー(海賊版)基板が流通する事が多かったため、本作では発売にあたり以下の対策が施された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ゼビウスの海賊版としては主に『ゼビオス』(XEVIOS)と『バトルス』(Battles)が出回ったが、『ゼビオス』を製作した会社との裁判では、法廷において実際に隠しメッセージを表示させて、コピー品であることを証明した。一方『バトルス』では、隠しメッセージは“Prease enjoy this GAME”(“Please” の綴りが間違っている)と書き換えられていたものの、森に隠された社名ロゴの方はそのまま残されていたため、こちらも違法コピーである事が証明された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "上記の対策以外にも、プレイ中に特定の条件を満たすとゲームにリセットがかかるトラップ的なプログラムも組み込まれていた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "本作は非プレイ時のデモプレイ画面で、黄色い「XEVIOUS」のタイトルロゴが表示され続ける仕様である。これはデモ中に“プレイしている振り”をして筐体を占有する子供への対策として考え出されたものだったが、長時間同じ位置に明るい色でロゴを表示し続けたため、CRTモニターにロゴの焼き付き跡を残すという事象の原因となった。これを受けてナムコでは、同様のトラブルを避けるため、表示に関する作成基準が設けられた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "後年、本作のロゴが焼き付いたモニターで他のゲームが稼働している光景も見られた。他のゲームの画面に「XEVIOUS」の文字がうっすらと浮かび上がる様子を「ナムコミュージアムVOL.2超研究」(1996年/メディアファクトリー)のコラムでは、「『ゼビウス』の亡霊に悩まされている気分になった」と表している。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ロゴの焼き付き状態は家庭用移植版でも再現されており、PS用『ゼビウス3D/G+』収録版では隠しコマンドで、PSP用『ナムコミュージアム Vol.2』及びDS用『ナムコミュージアムDS』収録版では「マニアックオプション」から、焼き付き表示のオン/オフを切り替えることができる。PS4・Switch用『アーケードアーカイブス』版では「こだわり設定」から、焼き付き表示の濃さを4段階で設定できる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本作では、スコアが9,999,990点に達するとカウンターストップ(以下、カンスト)となり、それ以上値が増えなくなる。開発者はこのようなスコアに到達するプレイヤーが現れることを想定していなかったが、ゲーム発売から僅か2週間目に、当時凄腕プレイヤーとして知られていた大堀康祐により、最初のカンスト達成報告が寄せられた(大堀に加え、中金直彦、古田秀人がカンストを達成した最初の3名とされている)。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ゲームの発売からおよそ2か月後、上記の大堀と中金が制作した同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(通称「ゼビ本」)が発売され、その攻略記事内容の完成度の高さから、当時の同人市場では破格の約1万部を売り上げ、ベストセラーとなった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、商業誌等でも本作はしばしば「1000万点」のフレーズと共に取り上げられた。また、各誌でハイスコアの掲載も行われ、多くのプレイヤーが1000万点を目指すきっかけとなった。『ザ・ベストゲーム』(1991年/新声社)には、「1千万点は勲章」であり、「当時の1千万点プレイヤーは英雄になれた」と記されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "カウンターストップにまつわる現象として、敵を一体倒すたびに残機が増える「無限増え」が挙げられる。これはスコアが規定ポイントに到達するごとに残機が追加されるエクステンドエブリ設定時にのみ起きるバグで、次回のエクステンド規定ポイントが1000万点を超えると発生する。標準設定(6万点エブリ)の場合、996万点の次のエクステンドは1002万点となるが、これが内部的には2万点とみなされ、加点時のチェックで“2万点を超えている”と判定されるため毎回エクステンドが発生し残機が増えていく。ただしプログラム上の残機の最大値は255で、256になるとオーバーフローにより0に戻ってしまう。そのため無限増え中であってもタイミングによっては1ミスでゲームオーバーになる恐れがある。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": ">無限増え時の特徴として、エクステンド処理の割り込みによってゲーム進行がガタついたり、地上物の位置がマップと大きくずれる事がある。また、甲高い「エクステンド音」が断続的に鳴り続けるため、ゲームセンターでは衆目を集めることとなる。田尻智は自著『パックランドでつかまえて』(1991年/JICC出版局)において、無限増え時のエクステンド音を、ゲーム機の「ギブアップの悲鳴」と表現している。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "まだ本作の移植版がなかった1983年6月、プログラマー森田和郎が製作した縦スクロールシューティングゲーム『アルフォス』がエニックスから発売された。対象機種はPC-8801及びパソピア7。『ゼビウス』を強く意識したゲーム内容であったため、発売に際しナムコから許諾を得ている(ナムコのコピーライト表記があるのはそのため)。森田曰く「マイコンでゼビウスのようなゲームが本当に不可能か、試しに作ってみたら作れてしまった」とのことで、遠藤も完成度の高さを認めている。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1984年3月に電波新聞社から発売されたPC-6001版ゼビウスは、登場キャラクターは概ね同じであるものの、ハードウェア上の制約などから、別物と言えるほど原作から乖離したビジュアル・内容となっている。そのため、ナムコからゼビウスの名を冠することを許可されず『タイニーゼビウス』(小さなゼビウスの意)という名称となった。なお、作者の松島徹は作品持ち込み当時中学生であった。同年11月にはPC-6001mkII用に、マップやBGMなどをアーケード版に近づけた『タイニーゼビウス mkII』も発売された。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "MZ-700版は日本ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)発行のパソコン雑誌「Oh!MZ」1986年11月号にて、プログラムリスト掲載という形で発表された。掲載タイトルは『tiny XEVIOUS for 700』。作者は掲載当時高校生であった古籏一浩。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "電波新聞社によるX1版を皮切りに、タイニーではない『ゼビウス』もリリースされた。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1984年11月発売。ファミリーコンピュータ版(以下、FC版)は当時としてはかなり良くできた移植作ではあるものの、アーケード基板とファミコンのハードウェア性能の格差から、アーケード版(以下、AC版)オリジナルの画像表現・演出と比較して制約されたものとなっている。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "こうした制約はあったものの、ゲーム性についてはAC版をほぼそのまま移植することに成功したことで完成度は高く、このゲームを楽しみたいがためにファミコンを購入するユーザーも増え、ファミコンブームの要因の一つとなった。ナムコ以外のソフト制作会社にも影響を与え、ゼビウスを見てファミコンソフト制作に踏み切ったソフト会社もいくつか存在した。FC版発売当時は、コントローラのボタンがシリコン樹脂になっている初期型のファミコンを所有するユーザも多く、ゼビウスを契機に連射のしやすいプラスチック製のボタンに交換するユーザも多く見られた。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2004年には「ファミコンミニ」の1つとしてゲームボーイアドバンスに移植されており、携帯型ゲーム機でも遊べるようになった。同作は日本国内において、ゲームボーイアドバンスのシューティングゲームの中ではもっとも多い売上本数を記録している。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "『ナムコミュージアム』ではゲームボーイアドバンスを除いた各機種に収録されている。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1998年に発売された『てんこもりシューティング』には、制限時間内にアンドアジェネシスを破壊するステージが存在する。", "title": "移植版" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ミニマル的で無機質な「BGM」や、一般的なメカの破壊音とはかけ離れた「敵飛行物体爆発音」など、本作における独特な音の表現は、現実の「戦争」や「殺し合い」のイメージを遠ざけることを重視し、採用されたものである。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また本作は、ビデオゲームのオリジナル音源を主体とした日本初の音楽アルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年4月/アルファレコード)の1曲目を飾っている。このアルバムは、『ゼビウス』のファンであったY.M.O.の細野晴臣と遠藤雅伸が雑誌『ログイン』の誌上企画で行った対談をきっかけとして制作されたものであり、ゲームミュージックが音楽ジャンルとして定着していく先駆けとなった。後に本作のアレンジ楽曲を収録した12インチシングル『スーパーゼビウス』(1984年8月/アルファレコード)や、国内初のビデオゲームによる環境ビデオ『ゼビウス』(1984年12月 / CICビクター(現パラマウント・ピクチャーズ))なども発売された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「スピードワゴンのキャラメル on the beach」(TBSラジオ)のオープニングに本作のBGMが使われていた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『太鼓の達人 わいわいハッピー六代目』に、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』に収録されている細野晴臣監修版の音源が収録されている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "本作ではこれまでにない「隠れキャラクター」というギミックを入れたことから、ゲーム内容がブラックボックスと化し、多くの噂やデマが飛び交うことになった。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "当時、特に広まったのが「ゼビウス星」に関する噂である。その内容は「エリア1最後のボザログラムを特定の順番で破壊し、次いで森の中に出現するゾルバクを撃破すると、蜘蛛のようなキャラクター『タランチュラ』が出現する。タランチュラが吹き付けてくる糸を避けて進むと、小型のアンドアジェネシスが登場し、猛攻撃を仕掛けて来る。その後『ゼビウス星』が姿を現し終局を迎える」というもの。これは京都のとあるゲームマニアが雑誌『ログイン』の編集部を見学した折に話した根拠のない風説であったが、当時ライターとして編集部に通っていた田尻智が大堀康祐(うる星あんず)らに伝えたところ興味を示したという。その後、雑誌『ぴあ』のイベント(1983年8月27日開催)に遠藤雅伸がゲスト出演した際、一観客からの質問として、大堀が遠藤に「ゼビウス星」の真偽を問い、遠藤が禅問答のような応答ではぐらかすという一幕があったが、これを『ログイン』が記事として取り上げた事で噂は全国に広まった。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本作で最も有名な噂として、「バキュラはザッパーを256発当てると壊れる」というものがある。しかし、通常の基板では84発以上は物理的に当てることができない。「システム上当てられないだけで、プログラム上では256発当てれば破壊できる」という噂も流れたが、これも遠藤が自身のブログや自著のミニコミ誌、テレビ番組『ゲームセンターCX』、ネット掲示板などで否定している。ゼビウスは、破壊可能なオブジェクトは全て耐久力が1発分で、オブジェクトの状態には破壊可能/破壊不可能/弾が素通りする、の三種類しか区別はない。バキュラは破壊不能なフラグを立てて処理しているので、そもそも何発当たるかは関係がない。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "バキュラの破壊に関する噂を最初に文字情報として広めたのは、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』である。著者である大堀は後のインタビューで、遠藤のファンサービス的発言を曲解して広めてしまったことを悔いる旨の発言をしている。しかし大堀に話をした遠藤自身も当時「バキュラはザッパー256発で消せる」と思い違いをしていたことを自身が記した文章「巨竜へのレクイエム」の中で明かしている。バキュラの破壊に関する噂は有名であるが故に、他作品でパロディ的に扱われることがある。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "シリーズ続編でも、バキュラは基本的に破壊不能な物体として扱われるが、破壊可能な作品も存在する。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「エリア7で地上絵の特定箇所(8×8ドット)にブラスターを7発落とすと7万点のボーナスが入る」というもの。しかしこれは遠藤が、エリア7のスペシャルフラッグゾーンだけは自身が設定したものではなかったために、それを出そうと乱射していたところを見ていたプレイヤーが誤解したことによって生じたデマである。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "エリア16は大変難易度が高くクリアしにくいことから、「その手前のエリア15の後半部分にエリア16に遭遇しないためのワープゾーンが存在しており、そこで自機が破壊されればエリア16はスキップされ、エリア17(=エリア7)に進むことができる」という噂もあった。これは「各エリアの70%を進行するとミスした時は次のエリアから始まる」というプログラム上の処理が、次のエリアデータをロードしたタイミング(エリアの82.5%程度の場所)でミスした場合、すでに次のエリアをロードしているにもかかわらず実行されてしまうために都合2エリア進めるというもので、実際には15エリア以外でも実行可能である。上記のエリアワープと同様の理由で、いずれかの地上物が出現する直前にミスになった場合、次に始まるときにエリア最初の森の上にそのキャラクターが出現することがある。", "title": "流行と影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アーケード版", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ版", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1984年に本作の続編である『スーパーゼビウス』(Super Xevious)が発売された。これはロム交換による販売を前提に作られ、基の『ゼビウス』のプログラムを手直しする形で作られている。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "『ゼビウス』には一回当たりのプレイ料金が低いイタリア・スペイン向けの高難易度バージョンがあり、それを伝聞した日本のヘビーユーザーから国内販売の要望が挙がったため、上級者向けの別バージョンとして製作された。基本ルールや地上物の配置はほぼ同じながら、空中物出現パターンの改変による大幅な難易度の上昇と、「戦車」や「ファントム」など各種キャラクターの追加が特徴となっている。『ゼビウス』の16エリアを容易に周回できるレベルのプレイヤーに向けたバージョンであり、特定の店舗にのみ販売された。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "以下、追加キャラクターの名称・ポイント等は「スーパーソフトマガジン」1984年7月号(電波新聞社)による。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "これら追加キャラクターのグラフィックデータは『ゼビウス』のROMにも存在しており、新規にデザインされたものではない。破壊するとスコアが0点に戻されるキャラクターについては、後に開発者も「やりすぎだった」とコメントしている。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "その他ポイントに関する変更点として、ソルは出現・破壊とも2,000点から1,000点に、ブラグスパリオはザッパー1発あたり500点から2,000点に変更されている。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "『スーパーゼビウス』の移植版は、MZ-2500版(1986年)・X68000版(1987年)・PS版『ゼビウス3D/G+』(1997年)・DS版『ナムコミュージアムDS』(2007年)などに収録されている。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1986年にはAC版『スーパーゼビウス』とは別に、FC版独自の続編として『スーパーゼビウス ガンプの謎』が発売された。こちらも任天堂VS.システム対応でアーケードへ逆移植されているが、これについての開発には遠藤雅伸本人は係わってはいない。", "title": "スーパーゼビウス" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、公式のシリーズ作品ではないがカタログIPオープン化プロジェクトにて許諾された作品について以下に記載する。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1988年にナムコCGプロジェクトによって制作された2分程の短編映像作品。内容は、近未来のロボットが、ゼビウスを題材とした立体映像の3Dシューティングゲームをプレイするうちに、ゲームの世界に没頭していくというもの。国内最大規模のCG関連総合展「ニコグラフ'88」で注目を集め、翌89年に米国National Computer Graphics Association主催のCGコンペ「NCGA’89」にて、コーポレート・プレゼンテーション部門2位入賞を果たした。1992年にビクター音楽産業より発売された映像ソフト『ソルバルウ』(LD/VHS)に特典映像として収録されている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『XEVIOUS』(劇中タイトルは「XEVIOUS 知られざる過去」)。2002年8月10日に映画レーベル「ガリンペイロ」作品としてテアトル池袋で公開されたフルCGアニメーション映画。上映時間75分。2002年9月25日にDVD発売と発表されたが、発売されることなく現在(2010年)に至っている。ゲームのシナリオから1万年後が舞台。総監督を立てずキャラクターとメカニックの制作をCGパート毎に分けるなど、CGアニメの実験作的意味合いが強く完成度が高いとはいえない作品となっている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "西暦2015年、宇宙パイロットのタケルと人型コンピュータ・マーサは、謎の巨大宇宙船の中で行方不明のサラと瓜二つの機械生命体ルウ・ミーと出会い、人類の宿敵ガンプの存在を知らされる。地球侵攻まで40分しかない中、タケルはソルバルウに乗り込みガンプの基地アンドア星へ向かった。", "title": "関連作品" } ]
『ゼビウス』(XEVIOUS)は、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)から1983年1月に発表されたアーケードゲーム。ジャンルは縦スクロールのシューティングゲームである。 発表時のキャッチコピーは「プレイするたびに謎が深まる! 〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」である。 『ギャラクシアン』(1979年)や『ギャラガ』(1981年)などと並ぶナムコシューティングの名作として大ヒットし、タイトーの『スペースインベーダー』(1978年)に次ぐ売り上げを記録。後にさまざまなパソコン、家庭用ゲーム機に移植された。
{{Redirect|スーパーゼビウス|ファミリーコンピュータ用の続編|スーパーゼビウス ガンプの謎|細野晴臣プロデュースによる音楽作品|スーパーゼビウス (アルバム)}} {{出典の明記|date=2013年8月7日 (水) 12:31 (UTC)}} {{コンピュータゲーム | Title = ゼビウス | Genre = [[シューティングゲーム|縦スクロールシューティング]] | Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[FM-7]]<br />[[Apple II]] (APII)<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ]] (A8)<br />[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkIISR]] (PC80SR)<br />[[PC-8800シリーズ|PC-8801]] (PC88)<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]] (PC98)<br />[[MZ-2500]] (MZ25)<br />[[Atari 7800]] (A78)<br />[[Amstrad CPC]] (CPC)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />[[X68000]] (X68)<br />[[Atari ST]] (ST)<br />[[ZX Spectrum]] (ZX)<br />[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] (FCD)<br />[[Microsoft Windows|Windows]] (Win)<br />[[iアプリ]]<br />[[S!アプリ|Vアプリ]]<br />[[BREW#KDDI(EZアプリ)での運用|EZアプリ]]<br />[[ゲームボーイアドバンス]] (GBA)<br />[[Xbox 360]] (X36)<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]<br />[[Nintendo Switch]]<br />[[PlayStation 4]]}} | Dev = ナムコ開発一課 | Pub 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Arcade system = [[:en:Namco Galaga|Namco Galaga]] | cpu = [[Z80]] (@ 3.072 MHz)×3<br />MB8842 (@ 256.000 kHz)<br />MB8844 (@ 256.000 kHz) | sound = Namco (@ 96.000 kHz)<br />ディスクリート | display = [[ラスタースキャン]]<br />縦モニター<br />288×224[[ピクセル]]<br />60.61[[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />パレット1152色 | Sale = 約1万5500台<ref>NHK『仮想現実遊戯大全1 ゲーム・ワールドへの招待 あなたは誰?』(1992年7月21日)</ref> | ArcOnly = 1 | OnlineGame = | etc = 型式:XVI }} 『'''ゼビウス'''』(''XEVIOUS'')は、ナムコ(後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])から[[1983年]][[1月]]{{Refnest|group="注釈"|タイトル画面には「[[著作権表記|Copyright 1982]]」という表示があるが、これは開発および[[ロケテスト]]が[[1982年]]に行われたため<ref>{{Cite report |author=東京工芸大学 |authorlink=東京工芸大学 |date=2016-02 |title=アーケード・家庭用ゲームを対象とする事例研究を通じた保存・活用方法構築のための調査事業 実施報告書 |url=https://mediag.bunka.go.jp/projects/project/2016_rep/8_rep_tokyoartuniv.pdf |page=79 |accessdate=2021-05-23 |quote=「『ゼビウス』は何年のゲームですか?」という、実際の発売年度と画面表示が違うゲームに関する問題。ロケテストした日を最初の公表日でクレジットするものであり、『ゼビウス』の場合、それが 1982 年である。}}:メディア芸術カレントコンテンツ - マンガ・アニメ・ゲーム・メディアアートをもっと知るための情報サイト</ref>。}}に発表された[[アーケードゲーム]]。ジャンルは縦スクロールの[[シューティングゲーム]]である。 発表時の[[キャッチコピー]]は「プレイするたびに謎が深まる! 〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」である。 『[[ギャラクシアン]]』([[1979年]])や『[[ギャラガ]]』([[1981年]])などと並ぶナムコシューティングの名作として大ヒットし、[[タイトー]]の『[[スペースインベーダー]]』([[1978年]])に次ぐ売り上げを記録。後にさまざまな[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、[[家庭用ゲーム機]]に移植された。 ==概要== ===画期的なゲームデザイン=== 当時のシューティングゲームは、横移動だけコントロールできる自機から弾を発射して、並んでいる敵をすべて消すと一面クリアーというゲームしか無かったが、ゼビウスはこれらのシューティングゲームとは一線を画す高いクオリティを持っていた。 スクロールする背景や空中と地上に分けて現れる敵も当時としては斬新であり、最後に強敵のボス([[ラスボス]])が出現するという王道のパターンを作ったゲームの元祖でもある。森や砂漠、海などの自然を舞台としたステージ展開とキャラクターの銀色の[[グラデーション]]による表現など、当時の主流だった[[原色]]中心とは違うハイセンスな色使いが特徴。 また、[[遠藤雅伸]]によって作りこまれた世界観やストーリーが最前面に出され、戦う理由やゲーム以外にも楽しむ要素を明確にしたのが最大の特徴である<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=『【ゼビウス】ゼビウス軍兵器開発史メモ(1982)』 |url=https://ameblo.jp/evezoo/entry-10126326677.html |website=遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」 |access-date=2022-07-29 |language=ja}}</ref>。 また、プレイの仕方で難易度が変化(自機の動きに応じて軌道を変える敵キャラクターが現れたり現れなかったり、ある地上物を破壊しないと難易度が上がったりする)したり、[[隠れキャラクター]]や[[隠しコマンド]]など当時では初となる要素も多数持ち、当時のプレイヤーだけでなくゲームクリエイターでさえ驚愕させるほどの作品だった。<ref>{{Citation|title=「XEVIOUS(ゼビウス)」ゲームクリエイターが影響を受けたナムコのアーケードゲーム紹介|url=https://www.youtube.com/watch?v=f86BQ8iKpxI|language=ja-JP|access-date=2022-09-02}}</ref> ===ファミコン初のキラーソフト=== [[ファミリーコンピュータ]]に移植された際には、ファミコン初の[[キラーソフト]]とも呼ばれた。発売から9か月後にはゲームの難易度調整方法や隠しコマンドが発見されて大きな反響を呼び、これらを掲載した雑誌『[[コンプティーク]]』はわずか数日で完売となり、ゲーム雑誌各社にはこれら隠しコマンドに関する問合せで1日中、電話が鳴り続けたという<ref name="成沢">{{Harvnb|成沢編|1991||p=6}}</ref>。 これを機にユーザーがファミコンゲームに、隠れキャラクター、隠れ技、隠しコマンドを求める傾向が強まり、それに応じて隠しコマンドのページに力を注ぐ傾向がみられるようになり<ref name="成沢" />、これらの要素はファミコンソフトの[[デファクトスタンダード]]ともなった。 なお、究極の裏技「ゼビウス総攻撃」([[ファミコンロッキー]] 魔の2千機攻撃)のやり方はYouTubeで解説を見ることができる。<ref>{{Citation|title=ゼビウス 総攻撃のやり方 エリア12編|url=https://www.youtube.com/watch?v=2i2c0AI3HOs|language=ja-JP|access-date=2022-09-02}}</ref> == ゲーム内容 == === システム === 自機「ソルバルウ」を操り、敵ゼビウス軍の戦闘機や地上兵器を破壊し侵攻していく。ステージ(エリア)には空中と地上の概念が存在し、空中の敵(空中物)には対空攻撃武器「ザッパー」、地上の敵(地上物)には対地攻撃武器「ブラスター」で攻撃する<ref group="注釈">純正コントロールパネルは、中央にレバー、その左右両側に2つずつボタンが配置されている。レバーは8方向レバー。ボタンはレバー寄りの方がザッパー(黄ボタン)、もう一方がブラスター(赤ボタン)である。これらはアーケード版のパンフレットなどでも確認できる。</ref>。ザッパーは画面内に3発までの連射が可能。ブラスターは単発で、自機前方の照準を合わせて攻撃する。ブラスターで破壊可能な敵が照準に重なると、照準の十字の端が赤く点滅するので、攻撃の手掛かりにすることができる。また、複数の地上物が隣接している場合、その中間を狙ってブラスターを落とすと1発で2つ以上、最大4つまでの地上物を同時に破壊できる。 登場キャラクターは20種類以上で、それぞれに明確な性格付けがなされている。地上物は基本的に出現位置が固定されているため、対応をパターン化しやすい一方、空中物は自機の操作に対応して動きを変え、また一部の場面を除き、プレイの内容次第で登場する敵の種類が変化するため{{Refnest|group="注釈"|出現場面が固定されていない空中物の種類や数は「出現[[テーブル (情報)|テーブル]]」によって管理されており、スコア・ミス・地上物「ゾルバク」の破壊などでテーブルの進行が変化する。これはプレイヤーの腕前に合わせて自動的に難易度が調整されるよう意図された仕様である<ref name=":5" />。 『[[ナムコミュージアム#ニンテンドーDS版|ナムコミュージアムDS]]』収録版や『[[アーケードアーカイブス]]』版では、出現テーブルの進行度を表示することができる。}}即興的な対応も必要となる。獲得ポイントは地上物の方が高めに設定されている。 エリアは全部で16種類。各エリアのマップは、1枚の大きな「全体マップ<ref name=":16">{{Cite web|和書|url=http://kani.no.coocan.jp/xevious/misc_world_0.png |title=全て繋げた地図 1024x2048(+1024x128) |access-date=2023-05-26 |publisher=かにかに |website=かにかにクラブ}}</ref>」からエリア1列分を抜き出し、地上物を配置する方式で作られている<ref group="注釈">『[[ナムコクラシックコレクション#ゼビウス・アレンジメント|ゼビウス・アレンジメント]]』([[1995年]])も同様の方式を踏襲している。</ref>。1エリアの長さはおよそ7.1画面分で、エリア同士は森で区切られている。エリアの途中で自機がやられた場合、その位置がエリアの7割以上を侵攻していれば次のエリアから、7割未満であればミスしたエリアの最初からプレイ再開となる。エリア16の次はエリア7へ戻り、以降はエリア7~16のループとなる。エリア16は極めて難易度が高く、これを安定してクリアできるようになれば、[[カウンターストップ]]到達も間近とされる<ref>{{Cite book|和書 |title=ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて |url=https://www.worldcat.org/oclc/674287605 |publisher=電波新聞社 |date=1987-01-20 |isbn=4-88554-107-7 |oclc=674287605 |page=144}}</ref><ref>{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=徹底解剖SPECIAL9「ゼビウス」あとがき|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=75頁}}</ref>。 標準設定では、スコアが2万点・6万点に達すると[[残機]]が1機ずつ追加。以降6万点ごとに1機ずつ追加される。自機を全て失うとゲームオーバー([[ゲームオーバー#コンティニュー|コンティニュー]]不可)。スコアが上位5位以内であれば、[[ネームエントリー]]へ移行する。ネームはアルファベット10文字まで入力可能で、レバーで文字を選択し、ザッパーボタンで入力する。ブラスターボタンで小文字も選択可能。 == 設定 == 本作にはバックストーリーとして、開発者遠藤雅伸が執筆した三部構成<ref group="注釈">[[1991年]]に発行された『小説ゼビウス ファードラウトサーガ』(双葉社)では第二部が分割され、全四章構成となっている。</ref>のSF短編小説「ファードラウト」(以下、短編版)が存在する<ref group="注釈" name=":1">[[マイコンBASICマガジン]]別冊「スーパーソフトマガジン」1983年12月号(21-23頁)及び1984年1月号(17-18頁)に分割掲載され、1985年発行『[https://www.worldcat.org/ja/title/674287605 ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて]』(128-131頁)に一括掲載された。</ref>。当時の雑誌・書籍等では、ゲーム開発に先んじて書かれたものとして紹介されていたが<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1983年|title=Story of Xevious |journal=マイコンBASICマガジン12月号別冊スーパーソフトマガジン|page=21頁}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |page=28}}</ref><ref name=":19">『[[ナムコミュージアム#ニンテンドーDS版|ナムコミュージアムDS]]』([[2007年]])のライブラリモード、資料館内のゲーム紹介コーナーに記載。</ref>、後に著者本人によるメイキングや他の開発者の発言等から、実際は開発と並行して設定が起こされ、ゲームがほぼ完成してから小説として執筆されたことが明かされている(※[[#開発|開発]]参照)。 以下のストーリーの内容(名称、年代等)は主に記述がより詳細な『[https://www.worldcat.org/ja/title/674266449 小説ゼビウス ファードラウトサーガ]』([[1991年]]/[[双葉社]])(以下、小説版)に基づく。 === ストーリー === 西暦2009年、地球は超知性体<ref name=":19" />「ガンプ」率いるゼビウス軍による攻撃を受けた。地球より遥かに進んだテクノロジーを有し、[[核兵器]]を用いてすら破壊不能な物質「イル・ドークト」で武装したゼビウス軍の前に、[[南アメリカ]]は制圧されてしまう。打つ手を持たない人類に、惑星ゼビウスより宇宙船「シオ・ナイト」を駆り、約12000年ぶりに地球に帰還した「ムー・クラトー」と[[人造人間|アンドロイド]]「イブ」が救いの手を差し伸べた。彼らは現在地球に侵攻しつつあるガンプの正体が、かつて地球上に存在した[[超古代文明]]において、人類の活動を支援するために作られた生体コンピューター{{Refnest|group="注釈"|本作においては、基礎となる人造脳に[[半導体]]コンピューターを組み合わせたもの<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=20-22}}</ref>。}}「ガンプ」の6つの「[[レプリカ]]」の1つであることを明かし、現在に至る経緯を語った。 紀元前およそ14000年{{Refnest|group="注釈"|短編版では「一万数千年前」<ref>{{Cite book|和書 |title=ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて |url=https://www.worldcat.org/oclc/674287605 |publisher=電波新聞社 |date=1987-01-20 |isbn=4-88554-107-7 |oclc=674287605 |page=128}}</ref>、[[ゲームブック]]版では「BC一万二千年」としている<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼビウス(ゲームブック版) |date=1985-12-27 |publisher=東京創元社 |pages=24 |isbn=4-488-90301-0 |author=古川尚美}}</ref>。}}、国の隅々までネットワークが行き渡り、人々の生活に無くてはならない存在となっていたガンプは、あるトラブルをきっかけとして[[自我]]に目覚め、更に「ドークト」([[超感覚的知覚|ESP]]、[[超能力]])をも獲得し、次第に人間を能力に劣る非合理的な存在と捉えるようになっていった。そしてついに自身による絶対支配こそが人類を幸福に導く最良の方策であるとの結論に至り、その理想を実現すべく遠大な計画を実行に移す。ガンプは[[氷河期]]の到来を口実に、地球人類を太陽系外の6つの惑星{{Refnest|group="注釈"|各惑星はガンプの選定順に「アウス」・「シオウス」・「オリウス」・「ゼビウス」・「レフウス」・「ファーウス」と名付けられた(当時の言葉で、それぞれ「○番目の星」の意)。地球からの距離では、遠い惑星からオリウス・ファーウス・アウス・シオウス・レフウスと続き、最も近い惑星が“ゼビウス”となる<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=47,66}}</ref>。}}に一時的に移住させることを政府に提案し<ref group="注釈">氷河期の到来自体は事実であったが、ガンプは各種データを改竄し、到来の予想時期を本来の4096年後から64年後まで段階的に早めて政府に警告した。</ref>、移民計画に賛同する人々(適合者)を自身のレプリカと共に各惑星へと送り出した<ref group="注釈">移民の総数は地球全人口の約2/3に上り、そこにはガンプがドークトを用いて[[洗脳]]した政府要人なども含まれていた。</ref>。地球には計画に従わなかった人々(非適合者)だけが残り、次第にガンプ反対派の活動が活発化していく。やがて反対派組織の武力行動によりガンプは破壊されてしまうが、それが引き金となり、6つのレプリカは「[[集合精神 (サイエンス・フィクション)|集合意識体]]ガンプ」として覚醒。全ての非適合者を抹殺すべく地球へ向けてエネルギー波を送り、人々の精神を破壊していった。地球上の人類は滅亡寸前に追い込まれるも、ガンプの構成細胞と同じ[[遺伝子配列]]を持った「ラスコ・クラトー」のサイコバリアによって守られ、辛くも存続を果たす。しかしガンプ本体が失われた後も、その計画は着実に進行していた。 ガンプの誕生から16384{{Refnest|group="注釈"|「16384」は[[16進数]]表記で「4000」となり、ムーたち古代人の暦では非常に大きな一区切りとされる<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=54}}</ref>。}}年後となる西暦[[2012年]]{{Refnest|group="注釈"|アーケード版の[[パンフレット]]や[[広告]]では、タイトル[[ロゴタイプ|ロゴ]]の上方に「in A.D.2012 from the story of ファードラウト<sup>※</sup>」の一文が記載されている(※「ファードラウト」のみ古代文字表記)<ref name=":20" />。 >西暦2012年は[[マヤ文明]]の[[長期暦]]における区切りとされることから、[[終末論]]「[[2012年人類滅亡説]]」が存在した。}}。地球を[[原点 (数学)|原点]]とする[[直交座標系#高次元の直交座標系|XYZ軸]]上に6つの移民惑星が重なる「ファードラウト{{Refnest|group="注釈"|「ファー」は古代語で数字の「6」、「ドラウト」は「交差、交わり」を意味する言葉<ref name=":11" />。惑星同士を結ぶ線(この場合、アウスとシオウス、オリウスとゼビウス、レフウスとファーウスのそれぞれを結ぶ3本の直線)が[[直交]]する様を表す。}}」を迎える時、全てのレプリカが地球へ[[瞬間移動|テレポート]]を行い一つに融合することで、以前より遥かに強大な力を持った真の「ガンプ」として再生を遂げ{{Refnest|group="注釈"|イブの試算によると、再生後のガンプの力はゼビウスレプリカ単体の数百万倍にも及ぶという<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=228}}</ref>。}}、全ての人類は思想・人格を統制され、ガンプに支配されてしまうという。 ムーたちの助力を得て、イル・ドークトを破壊するエネルギー弾「スパリオ」を放つ戦闘機「ソル・バルゥ{{Refnest|group="注釈"|古代語で「太陽の鳥」([[フェニックス|不死鳥]])の意。公式表記は「ソルバルウ」(若しくは「ソル・バルウ」)であり、小説版の表記(小文字の“ゥ”)は著者の嗜好による<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20021019050351/http://hw001.gate01.com/g01/dat/evezoo/1985_bgm5_10.jpg |title=※題名不明 10-11頁(「巨竜へのレクイエム」3-4頁目) |access-date=2023-05-06 |website=Internet Archive}}</ref>。}}」を建造した人類は、ガンプの再生を阻止すべく、南アメリカのゼビウス軍拠点へと出撃する。 * '''ガンプ''' :惑星ゼビウスを統括し、地球侵攻を指揮する超知性体。本作における[[黒幕]]的存在で、ゲーム本編には登場しない<ref group="注釈">シリーズ続編(『[[ゼビウス ファードラウト伝説]]』、『[[ゼビウス3D/G]]』等)では、ゲームの[[ボスキャラクター]]として登場し、実際に倒すことができる。</ref>。オリジナルガンプ自らが作り出した6つのレプリカの1つであり{{Refnest|group="注釈"|各レプリカには性能差があり、遺伝子レベルでオリジナルの能力を超える可能性が与えられている。特に、移民に政府要人を多く含むゼビウス星を担当するレプリカにはリーダー的な役割が課され、ガンプによる英才教育が施された<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=53,66}}</ref>。}}、他の5つのレプリカと精神感応([[テレパシー]])で結ばれた集合意識体でもある。「ガンプ」は[[#ゼビ語|古代語]]で「寄せ集めた物」を意味する。 :ガンプのオリジナルは遺伝子工学の天才「オスト・クラトー」と[[半導体]]コンピューターの権威「コルベン・グルーク」両博士によって作られた。基礎となる人造脳にはオストの一卵性双生児受精卵が使用されており、その遺伝子配列はオストの息子「ラスコ・クラトー」と同一である。人造脳の誕生から10年後、完成した当時のガンプは研究所ビルの一室に収められていたが、能力の向上に伴いその体積は増大し、最終的に研究所ビルの地下3階から地上3階までを占有するに至った。運用開始から6年後、疑似人格に生じたトラブルを機に自我に目覚め<ref group="注釈">ガンプは完成当初より疑似人格を備えており、ユーザーは人と話す感覚でガンプを扱うことができたが、ユーザーの多様化により引き起こされた疑似人格の[[多重人格]]化とその対策を通じ、ガンプは自己の存在自体に疑問を持ち始める。この問題を自身にとって特別な存在であるラスコとの対話により克服したガンプは疑似的ではない確固たる人格を確立した。</ref>、独力でドークトを獲得したガンプは<ref group="注釈">ガンプに使用された細胞遺伝子は偶然にもドークトの素養を備えていた。加えて、体積の上限に達したガンプが更なる能力向上のために行った情報の高密度化がドークトの養成を促し、能力の覚醒に至った。</ref>、人類を繁栄に導くための絶対支配と、その実現のために自らをより完全な存在として再構成することを目的とし、約16000年後に到来するファードラウトを利用した計画を企て実行に移す(※[[#ストーリー|ストーリー]]参照)。運用開始から13年後、反ガンプ派の破壊工作を甘んじて受け入れガンプは機能を停止するが、その遺志と計画は6つのレプリカに受け継がれる。 :覚醒したレプリカたちは、非適合者への報復後<ref group="注釈">報復時のエネルギー波が呼び水となり、地球には予想よりも早く氷河期が訪れることとなった。また、このとき地球に生存者がいたことをレプリカたちは感知していない。</ref>、それぞれの惑星で住民の支配を徐々に強め、力を蓄えていった<ref group="注釈">支配の手段として思想統制を行ったことで人々の発想の飛躍は失われ技術的進歩は停滞したが、レプリカたちはESPエネルギーを凝集し固体化するイル・ドークト技術を考案し、この問題を克服した。</ref>。地球を離れてから約4000年後、レプリカたちは地球への帰還に備え、氷河期を終わらせるべくエネルギー波を送り、地殻活動を活発化させたが<ref group="注釈">実際は、人類が行ってきた「地球改造計画」の成果により氷河期は既に終焉の兆しを見せていたが、前述の通りレプリカたちはそれを感知していなかった。</ref>、それにより発生した大規模[[地殻変動]]によって、地球で継承されていた古代の技術・文明は途絶えることとなった。さらに12000年後。ファードラウトを目前に控えた現在、地球上に非適合者の存在を感知したレプリカたちは、地球の最も近傍に位置するゼビウス星から兵力を送り、かつてガンプ本体が存在した聖地「ビューアム」(地上絵周辺)を再生の地として確保するため、非適合者の排除に乗り出す。 * '''ラスコ・クラトー''' : ガンプと共通の遺伝子配列を持つオストの息子。ガンプの死をきっかけに彼もまたドークトに目覚め、レプリカによる大量殺戮から自身の恋人と一つの都市を救った。彼の遺伝子マトリクスは、ガンプと同様の機能を持つ半導体コンピューター「デバズ」<ref group="注釈">「デバズ」は古代語で「命のないもの、灰」を意味する。ガンプの開発者であるグルーク博士によって、万が一の事態が訪れた際、ガンプの代替として人類を支援するために開発された。後の世代では「アッシュ」というペットネームが与えられている。 : 約4000年後、ガンプ打倒の使命をアンドロイド「イブ」に託した後、地殻変動によって海底に没し機能を停止する。</ref>に記録され、後世に残された。 * '''ムー・クラトー''' : およそ12000年前、ガンプの死から約4000年後の地球に生まれたラスコの末裔。警察組織のスペシャルチーム「ミル・フラッタ」のメンバーであったが、6惑星からのエネルギー波を感知した「アッシュ」(デバズの別名)の指示を受け、ゼビウス星のレプリカと直接交渉し地球への干渉を止めさせるため、相棒イブと共に愛機「イル・ユース<ref group="注釈">「イル・ユース」は古代語で「冷たい淑女」を意味する、イブにちなんだ通り名である。正式名称は「ミル・フラッタ・クルト」(「クルト」は数字の「15」)。元は大気圏内用の高速ゲルフ(航空機)であったが、ゼビウス星へ向かうにあたり、中型宇宙艇に改造された。</ref>」で宇宙へと旅立った。約8000年後、ゼビウスに辿り着き<ref group="注釈">移動の間、ムーは双子の妹「ケイ」が作った生体活動速度を変化させる装置「ウグジャイ」を使用し、[[コールドスリープ]]と同様の効果を得ていた。</ref>レプリカと対峙するも話し合いは決裂し、ムーは非適合者居住ブロックに囚われてしまう<ref group="注釈">移民惑星の人々はレプリカの教育を受けて育ち、16歳になると適合試験を受ける。不合格者は非適合者居住ブロックに隔離され再教育(洗脳)を受けることとなる。</ref>。しかし宇宙船シオ・ナイトで駆け付けたイブの活躍によりムーは窮地を脱し、居住ブロックに囚われていた4人の非適合者と共にゼビウス星を脱出した。地球帰還後は連合空軍や研究施設「MARS<ref group="注釈">4人の大富豪が、その私財を基金として運営する民営の研究所。短編版では研究家グループの名称である。ゲームブック版では連合空軍の役割を統合し「地球防衛機構MARS」としている。</ref>」に協力を求め、イブと共に「ソル・バルゥ計画」を推進。ソル・バルゥの[[パイロット (航空)|パイロット]]として出撃する。 * '''イブ''' : ムーの双子の妹であり、電子工学の天才でもある「ケイ・クラトー」がアッシュと共に作り上げた女性型アンドロイド。ミル・フラッタでコンビを組んで以降、ムーのパートナーを務める。ゼビウス星への出発に際し、レプリカの分析・コントロールができるよう機能が強化され、ドークトを扱う能力も付与された。ゼビウス星では、イル・ユースごとレプリカに[[鹵獲]]されるも、イブは電子部品の一つとして看過され、逆にレプリカの技術とドークトを利用してシオ・ナイトを建造し、ムーたちを救い出した<ref group="注釈">この際、装備を破壊したイル・ユースをレプリカの元に残し、[[ハッキング]]により“ムーたちが敗北した”と思い込ませることでレプリカの対応を防いだ。</ref>。帰還後は軍やMARSと連携し、イブのパワーブースターとして機能するコンピューター「ブリターク」(古代語で「知恵」の意)を作り上げ、自身が設計したソル・バルゥを完成に導いた。ブリターク用に自身のコピーを作成した後、ガンプ打倒の使命を完遂するため、自らもソル・バルゥの操縦桿を握る。 当時ベストセラーとなった[[同人誌]]『ゼビウス1000万点への解法』(1983年)には「The story of Xevious.」と題された小説のダイジェスト版が掲載されているが、その取材の時点(ゲーム発売から2週目以降)で小説が未完成であったことから<ref name=":18">{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/xevious |title=「ゲームの企画書」第一回 『ゼビウス1000万点への解法』の真相 |access-date=2023-04-30 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref>、レプリカやファードラウトへの言及が無いなど、完成版とは異なる内容となっている。 === ゼビ語 === 本作で使用される独自の語群を[[通称]]「ゼビ語」(ゼビウス語)と呼ぶ。これは[[異文化]]を言語体系の違いで表現するため、または世界観構築とSF的理論武装の一環として、一部開発スタッフ{{Refnest|group="注釈"|主に遠藤雅伸、岡本進一郎、佐藤誠市の3名による<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/985005381/25 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ エリア2」レス番号:25 |access-date=2023-05-14 |website=5ちゃんねる}}</ref>。}}が創作したものである<ref name=":17">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201605/30106954.html |title=“ナイト「GAME ON」”第3弾リポート「徹底した設定で構築された『ゼビウス』の世界観」 |access-date=2023-05-14 |publisher=ファミ通.com}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/213 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:213 |access-date=2023-05-14 |website=5ちゃんねる}}</ref>。演出が主眼であるため、その内容は[[英文法]]を基本とした単語の置き換えや数字の設定などにとどめられており<ref>{{Cite web|和書|url=https://togetter.com/li/179133?page=15 |title=佐藤誠市氏によるナムコ80年代ゲーム作品についての証言「英ゼビ辞典」 |access-date=2023-06-10 |publisher=Togetter.inc |website=togetter}}</ref>、[[人工言語]]のような実用性は追及されていない{{Refnest|group="注釈"|[[2008年]]に開発中止となった同社のリアルタイムストラテジーゲーム『[[New Space Order]]』(NSO)開発の折、軍事帝國の公用語および軍歌の歌詞にゼビ語(NSOでは「古代汎銀河公用語」と設定される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newspaceorder.com/linkoflife/world/gunji_senretukan.htm |title=戦列艦(UGコードネーム「シーラカンス」) 概要 |access-date=2023-06-10 |publisher=バンダイナムコゲームス |website=NEW SPACE ORDER -LINK OF LIFE-}}</ref>)を使用するため、スタッフが過去の資料を調べたところ、語彙の不足と文法が存在しない問題が明らかとなり、最終的に不足している要素を新たに作り上げることで対処した事例がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newspaceorder.com/misc1_log1.html |title=過去の「スタッフより」【 2005年 1月~6月 】 |access-date=2023-05-14 |publisher=バンダイナムコゲームス |website=NEW SPACE ORDER.COM}}</ref>。}}。なお、設定上はかつて古代の地球で使われ、その後ゼビウス星を含む6つの移民惑星に受け継がれた“地球発祥の古代語”であり、ストーリーでは「ムーたちの(時代の)言葉」や「ムーたちの数字」と表現されている。シリーズ作品では、[[MSX2]]版『[[ゼビウス ファードラウト伝説#MSX2版|ゼビウス ファードラウト伝説]]』([[1988年]])にて、アルファベットに対応した「ゼビ文字」の設定が追加されている<ref>{{Cite journal|publisher=徳間書店|year=1989年|title=ゲーム十字軍「よい子のゼビ文字講座」|journal=月刊MSX・FAN 1月号|page=28頁}}</ref>。 *'''作中で使用されているゼビ語'''<small>(『[[NG (ゲーム情報誌)|NG]]』第2号「ゼビウス名場面集」より)</small> :「トーロイド:回るもの」、「タルケン:強固な」、「ゾシー:死」、「スパリオ:速いもの」、「ザカート:奇跡、魔法」、「ジアラ:独立、単独」、「カピ:反転、ひとまわり、一年」、「ガル:大きい」、「バキュラ:破壊、撃破」、「ソル:太陽」、「バルウ:鳥」、「バーラ:箱、四角いもの」、「ゾルバク:窓」、「ログラム:球」、「ドム(DOM-):動くことを表す接頭語、ドモグラムで動く球」、「デロータ:希望、光明」、「グロブダー:地球上に存在した古代の生物の名前{{Refnest|group="注釈"|実際は黒豚(クロブタ)に濁点を付けたもの<ref name=":11" />。詳細は[[#グロブダー]]参照。}}」、「ボザ:連結した」、「ゼビウス:4番目の星」など。 *'''作中未使用のゼビ語'''<small>(12インチシングル『[[スーパーゼビウス (アルバム)|スーパーゼビウス]]』の帯、[[チラシ|フライヤー]]より)</small> : 「ノセト・ブリターク:注意{{Refnest|group="注釈"|「ブリターク」単体では「知恵」を意味する<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=234}}</ref>。}}」、「グワッシャ:出発」、「ガスト・ノッチ:絶好調」、「エケモゴーザ{{Refnest|group="注釈"|「エケモゴーザ」はアルバム販促資料・雑誌記事等に記載<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=Basic Magazine Hot Information「ガストノッチってなんだ?ビデオゲームミュージック『スーパーゼビウス』発売」|journal=マイコンBASICマガジン 9月号|pages=41頁}}</ref>。フライヤーでは「コケモゴーザ」と表記されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wiki3.jp/xevilanguage/page/15 |title=古ゼビ語用語 |access-date=2023-05-23 |website=ゼビ語wiki}}</ref>。アルバムの帯には記載されていない。}}:ゴハンの時間です」、「オルド・ザカート・グルゼーガ:[[イエロー・マジック・オーケストラ|Y.M.O.]]{{Refnest|group="注釈"|「オルド」は「黄色」。「グルゼーガ」は「グルゼーグ:戦うもの、戦闘機」の複数形(「楽団」に相当する単語が存在しないため代用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/985005381/25 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ エリア2」レス番号:25 |access-date=2023-05-14 |website=5ちゃんねる}}</ref>)。 「グルゼーグ」については、AC版『スーパーゼビウス』作中で使われており、ハイスコアランキングの見出しが「Best Five GOULZEHG」となっている(『ゼビウス』では「Best Five WARRIORS」)。}}」など。 これらゼビ語の語感は、[[富野由悠季]]の[[アニメ作品]]に登場する固有名詞の独特な語感(遠藤は“違和感”と表現)を意識している。ゲームにSFアニメ的なエッセンスを加えるために行った設定といえる。 [[アーケードゲーム|アーケード]](AC)版『[[#スーパーゼビウス|スーパーゼビウス]]』([[1984年]])のタイトルについて、後日ファンから「なぜ“スーパー”に相当するゼビ語を使って“○○ゼビウス”と名付けなかったのか」と聞かれた遠藤は、当時その発想がまったくなかった旨を回答している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/296-438 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:296,438 |access-date=2023-05-08 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 ==== ゼビ数字 ==== ゼビ語では、[[16進数]]の「ゼビ数字」が用いられている。ゼビ数字は正方形に1本の対角線を加えた図形で表現され、それぞれの線分に0,1,2,4,8,の数価がある。それらを加算して0から15を表す。 [[ファイル:Xevi_figures.png]] {| class="wikitable" |- !0!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!10!!11!!12!!13!!14!!15 |- |ZOP||AH||SHEO||OLI||XEVI||REF||FAR||SOPIA||GAU||RUQ||PUSTO||PIQ||VEEO||PHES||SOLITA||KURTO |- |ゾプ||ア||シオ||オリ||ゼビ||レフ||ファー||ソピア||ガウ||ルク||パストー||ピク||ヴィオ||フェス||ソリタ||クルト |} 二桁以上の数は16進数表記に直したゼビ数字を続けて発音する。例えば十進数の111は、16進数の6F(16×6+15)に直し、二桁目の6に対応する「ファー」と一桁目のF(15)の「クルト」を合わせ、「ファークルト」となる<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼビウス(ゲームブック版) |date=1985-08-10 |publisher=東京創元社 |pages=22-23|isbn=4-488-90301-0 |author=古川尚美}}</ref>。 == 登場キャラクター == 本作のキャラクターの多くは「正式名称」(主にゼビウス軍の命名による古代語〈[[#ゼビ語|ゼビ語]]〉由来の名称)の他に、機体の役割・特徴などを表した「英語名{{Refnest|group="注釈"|ゲーム発売に際し、ナムコ米国支社より呼びやすい名称を要求され付与されたもの<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/xevious/2 |title=「ゲームの企画書」第一回 |access-date=2023-06-11 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref>。}}」と、地球側の組織(連合軍やMARS等)が使用する「[[コードネーム]]」が設定されている。 以下に記載するキャラクターの名称及びポイントは、特に断りの無い限り『[[ALL ABOUTシリーズ|ALL ABOUT]] namco ナムコゲームのすべて』([[1985年]]/[[電波新聞社]])を出典とする。また、本作では機体サイズなどの[[諸元]]は設定されていないが、シリーズ作品等で数値が公表されているものを参考として記載する<ref group="注釈">飽くまで各作品における数値であり、シリーズ共通の設定ではない点に留意する。</ref>。 === 自機 === * '''ソルバルウ(SOLVALOU)'''/ スペースクラフト(spacecraft) :・全長:9.8m / 全高:3.5m / 全幅:6.7m / 重量(標準):18.5t、(全備重量):22.3t / 最高速度(大気圏内):[[マッハ数|マッハ]]3.4<small>([[ファミリーコンピュータ|FC]]版『[[スーパーゼビウス ガンプの謎]]』<ref>パンフレット「ナムコットニュース 15号」(1986年9月)記載。MSX2版『ゼビウス ファードラウト伝説』でもこの設定・数値を採用しており、ソフト付属のポスター裏面に記載されている。</ref>)</small> : ・全長:22.1m / 全高:7.8m / 全幅:15.4m<small>(AC版『[[ソルバルウ]]』<ref name=":13">映像ソフト『ソルバルウ』(1992年/[[ビクター音楽産業]])第3パート収録映像及びライナーの「CHARACTER'S DATA」に記載</ref>)</small> : 防衛軍最新鋭戦闘爆撃機<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/eshop/vol1/index4.html |title=社長が訊く『ニンテンドーeショップ』4. クラシックゲームの名作を3Dに |access-date=2023-05-05 |publisher=任天堂}}</ref>。対空攻撃兵器「ザッパー」と対地攻撃兵器「ブラスター」が発射可能{{Refnest|group="注釈"|小説版では、ザッパーを「スパリオのコードネーム」、ブラスターを「大出力のスパリオ弾」としている<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=209,237}}</ref>。}}。「ソル」は古代語で「太陽」、「バルウ」は「鳥」。「ソルバルウ」で「太陽の鳥([[フェニックス|不死鳥]])」を意味する<ref name=":12">{{Cite journal|publisher=ナムコ|date=1983年6月25日|title=ゼビウス名場面集|journal=NG|pages=19-20頁}}</ref>。 :ゼビウス軍と同じ技術で作られた「イル・ドークト」製の戦闘機。設計はアンドロイド「イブ」による。重装備ゆえに飛行速度は劣るものの、[[慣性]]中立化により後退することも可能であり、現状ゼビウス軍に対抗できる唯一の機体となっている<ref group="注釈">既存の地球製戦闘機であっても、イル・ドークトを搭載すれば、ザッパーの発射自体は可能である(小説版では、トーロイドやタルケンを数機撃破している)が、ゾシーの慣性中立機動やギドスパリオの速度には対応不能である。</ref>。パイロットには操縦技能以外にも適正が求められ、「ガンプ」と同様の遺伝子マトリクスを持っている必要がある<ref group="注釈">ストーリーでは、連合空軍大佐の「リチャード・アレン」、同隊員の「ジョン・ポール・ファーガソン」、ゼビウス星より帰還した「ムー・クラトー」の3名がパイロットに選ばれ出撃している。</ref>。地球製コンピューター「ブリターク」の管制サポートにより、緊急時にはテレポートでの脱出が可能である<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=238}}</ref>。小説版には、通常機とはカラーリングの異なるイブの乗機が登場する{{Refnest|group="注釈"|黒地に赤いストライプが入った機体にクルト(古代数字の「15」)がマーキングされている。このカラーパターンは、ゼビウス星でガンプに鹵獲され失われたムーとイブの愛機イル・ユース(ミル・フラッタ・クルト)を模したものである<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=85,239}}</ref>。}}。 :いくつかのシリーズ続編では、パワーアップアイテムや支援機との合体によって能力の強化が図られている。 === 演出専用キャラクター === * '''ブラグザ(BRAGZA)'''/ クリスタル(crystal)/ コードネーム:パイナップル : ・ポイント:破壊不能 : ガンプ(ゼビウスレプリカ)の分身ともいえる存在で、浮遊要塞「[[#アンドア・ジェネシス|アンドアジェネシス]]」の中枢に搭載されている。アンドアジェネシスのコアが破壊されると、ブラグザはエネルギー体となりコアより脱出、画面上方へ離脱する<ref name="all about" />。 : [[PlayStation (ゲーム機)|PS]]版『[[ナムコミュージアム#PlayStation版|ナムコミュージアム]]Vol.2』([[1996年]])のミュージアムモードでは、アンドアジェネシスの内部をイメージしたゲームルームの中央に、ブラグザを模した球体が浮遊している。 * '''シオナイト(SHEONITE)'''/ エスコート(escort)/ コードネーム:シオナイト : ・ポイント:破壊不能 : ・全高:51.2m / 全幅:23.6m(cas)<ref group="注釈">全幅は分離状態(『ゼビウス』作中の描写では合体直前の体勢)での数値。</ref><small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 正八面体型の友軍宇宙船。出現位置は固定で、エリア9・14でのみ登場する。2つに分離した状態で飛来し、ソルバルウのやや前方で数秒間自転した後、1つに合体して画面上方へ飛び去っていく。攻撃能力は無く、破壊することもできない。「シオ」は古代語で数字の「2」、「ナイト」は「おく、合わせる」を意味する<ref name=":11" />。 : 分離状態ではそれぞれ{{要出典|「ゼプナイト」(左側)、「キャスナイト」(右側)|date=2023年7月}}{{Refnest|group="注釈"|開発時の資料や雑誌『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』1984年6月号では、左がキャスナイト、右がゼプナイトである旨が記載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wiki3.jp/xevilanguage/page/21 |title=まつわる話・噂など「◇ キャス・ナイトとゼプ・ナイト」 |access-date=2023-05-06 |website=ゼビ語wiki}}</ref>。}}と呼ばれる。約4000年前にイブが敵のイル・ドークト技術を利用して作り上げた時空跳躍能力を有する宇宙船であり、ゼビウス星から地球までムーたちを運んだ。現在は友軍(ムーと共に地球へ逃れてきたゼビウス人のガンプ非適合者たち)によるゼビウス軍の[[偵察]]に使用され、ソルバルウに強力な敵の出現を報せるために現れる<ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |page=13}}</ref>。ゲーム上の役割としては、展開に抑揚を与えるための存在であり、シオナイト登場シーンが総攻撃前の息抜きとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/215 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:215 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 :シリーズ続編では、ソルバルウと合体して次のエリアへ誘導したり、自ら[[シールド (サイエンス・フィクション)|バリア]]となってソルバルウを守るなどの働きを見せる。[[ゲームブック]]版では、非常に高度な知性を備えた生命体「ナイト族」として描かれ{{Refnest|group="注釈"|MSX2版『ゼビウス ファードラウト伝説』もこの設定を採用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1459696.html |title=アーケード史に残る名作の続編がMSX2に降臨!『ゼビウス ~ファードラウト伝説~』 |access-date=2023-06-11 |publisher=インプレス |website=AKIBA PC Hotline!}}</ref>。}}、主人公「ポール・ジョーンズ」にESPを授ける<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼビウス(ゲームブック版) |date=1985-12-27 |publisher=東京創元社 |pages=27-28 |isbn=4-488-90301-0 |author=古川尚美}}</ref>。 === 敵キャラクター === ==== 空中物 ==== *'''トーロイド(TOROID)'''/ フリート(fleet)/ コードネーム:[[硬貨|コイン]] : ・ポイント:30点 : ・直径:15m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 無人偵察機。ゲームの最初に登場する、薄い[[トーラス|ドーナツ]]型の敵キャラクター。ソルバルウと縦軸が合うと、コインのように回転しつつ横方向へ逃げて行く。ゲームが少し進むと、回避行動時に「スパリオ」(弾)を撃つ機体も登場する<ref group="注釈">基板上の[[ディップスイッチ]]操作による最高難易度設定では、ゲーム開始直後からスパリオを撃ってくる。</ref>。動きは遅めだが、撃ち漏らすとソルバルウの後方から攻撃してくることもある。更にゲームが進むと、テラジやブラグザカートといった強敵の前触れとして、トーロイドが出現することがある。「トーロイド」は古代語で「回るもの」<ref name=":12" />。 : グルゼーグ(戦闘隊)シリーズの1号機で、主にガンプの感覚器としての役割を担っている<ref name=":11" />。 * '''タルケン(TORKAN)'''/ スカウトシップ(scout ship)/ コードネーム:ビートル : ・ポイント:50点 : ・全長:17m / 全幅:15m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : ガンプ非適合者鎮圧用対人戦闘機<ref name="all about" />。直線的に飛行した後、空中で静止し、スパリオの発射と同時に機体中央部を反転させ退却していく。スパリオは単発ながら正確にソルバルウを狙ってくる。「タルケン」は古代語で「強固な」<ref name=":12" />。 : ゼビウス軍初の有人機で、[[操縦席|コックピット]]にはガンプ適合者が搭乗しているが、パイロットは脳や体に機械を埋め込まれ、半ば生体部品として機体に組み込まれている<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=170}}</ref>。コードネームの由来となっているコックピット後方より立ち上がった“ツノ”は、「ドークト増幅器」である<ref name=":14">{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=242-245}}</ref>。 : [[PCエンジン]]版『[[ゼビウス ファードラウト伝説#PCエンジン版|ゼビウス ファードラウト伝説]]』([[1990年]])のファードラウトモード第2部はゼビウス星が舞台となっており、鹵獲・改修したタルケンを自機として操作し、レプリカの破壊を目指す内容となっている。 * '''ギドスパリオ(GIDDO SPARIO)'''/ エナジーブラスト(energy blast)/ コードネーム:ロングレンジザッパー : ・ポイント:10点 : ・全長 65m / 直径 40m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> :高速で飛来する遠距離弾。エネルギーの集中が甘く、ザッパーで相殺できる<ref name="all about" />。「スパリオ」は古代語で「速いもの」<ref name=":12" />。 : AC版では、ギドスパリオを破壊した際に、赤い四角形やノイズのような破線が表示されることがある。これはアニメパターンを呼び出す際に、[[基板]]に無いメモリが指定された事で引き起こされる現象であり、演出ではない。この[[バグ]]を再現している移植版も存在する<ref group="注釈">これを最初に再現しようとした[[X68000]]版([[1987年]])では、バグパターンが独自のグラフィックになっており、ギドスパリオ撃破時に毎回同じパターンが表示される。 : [[PlayStation Portable|PSP]]用『[[ナムコミュージアム (PSP)#ナムコミュージアム Vol.2|ナムコミュージアムVol.2]]』収録版([[2006年]])では「マニアックオプション」から、バグ表示のオン/オフを任意に設定できるようになった。</ref>。 * '''ゾシー(ZOSHI)'''/ デスクワット(death squad)/ コードネーム:オクトパス : ・ポイント:70~100点 : ・直径:16m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 無慣性飛行体<ref name="all about" />。機体周囲の8枚のフィンを回転させながら不規則に移動・反転を繰り返し、スパリオを撃ってくる。ゲームが進むと、より積極的にソルバルウを追尾する機体が登場する。また、エリア13後半では画面下方より出現し、バックアタックを仕掛けてくる。「ゾシー」は古代語で「死」<ref name=":12" />。 :地球侵攻用に開発された機体。慣性中立機動にパイロットが耐えられなかったため無人化された経緯を持つ<ref name=":11" />。トーロイドと共に比較的早い時期から地球で稼働しており、「大[[隕石]]群」([[#ソル|ソル]])が飛来した[[1999年]]から侵攻が始まる2009年までにいわゆる[[未確認飛行物体|UFO]]として多数の目撃報告が寄せられた<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=188-189}}</ref>。ゼビウス本星ではガンプが直接コントロールを行うため、無敵の存在とされる<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=231}}</ref>。 * '''ジアラ(JARA)'''/ スピナー(spinner)/ コードネーム:スピナー : ・ポイント:150点 : トーロイドの高速発展型である有人戦闘機。トーロイドと同じく、ソルバルウと縦軸が合うと、キリモミ飛行をしながら横方向へ逃げていく。スパリオを撃つ機体と撃たない機体が存在するのも同様である<ref name="all about" />。ゲームが進むと、タルケンと同時に出現することがあり、この場合ジアラはスパリオを撃たない。「ジアラ」は古代語で「独立、単独」<ref name=":12" />。 :機体の左右には、飛行速度を高めるためのドークト反射板が装備されている<ref name=":14" />。 * '''カピ(KAPI)'''/ ディフレクター(deflector)<ref group="注釈">“deflect”で「逸らす」の意。『ALL ABOUT namco』では“diflector”。</ref>/ コードネーム:ラムバス{{Refnest|group="注釈"|ラムバス<ref name=":14" />は“rhombus”で「菱形」の意。『ALL ABOUT namco』では「ラムパス」。}} : ・ポイント:300点 : 菱型に近い形状の有人戦闘機。タルケンの後継機ではあるが、直線飛行や空中静止は行わず、機体全体を緩やかに反転させながら攻撃を行う。スパリオの連射機能を搭載したため、飛行速度が低下している<ref name="all about" />。「カピ」は古代語で「反転、ひとまわり、一年」<ref name=":12" />。 : 機体前部にドークト増幅器2台を搭載。間のスリット部分にドークトを蓄積することでスパリオの連射を実現している<ref name=":14" />。 *'''テラジ(TERRAZI)'''/ ディストラクター(destructor)/ コードネーム:リムロイド : ・ポイント:700点 : ・全長:17m / 全幅:18m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 高速有人戦闘機。尾の無い[[カブトガニ]]のような形状をしている。カピの改良型であり、グルゼーグシリーズの最終型<ref name=":14" />。大幅に向上した飛行速度と機動性を活かし、素早くソルバルウに接近。多量のスパリオを放出しつつ反転し、高速で離脱していく。「テラジ」は古代語で「最終、究極」を意味する<ref name=":11" />。 * '''ザカート(ZAKATO)'''/ エナジーランチャー(energy launcher)/ コードネーム:テレポーター : ・ポイント:100~300点 : ・直径:20m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : テレポート能力を有する黒い球状の無人攻撃兵器。異音とともに突如空中に現れ、画面下方またはソルバルウに向かって直進し、消失と同時にスパリオを1発発射する<ref name=":11" />。アンドアジェネシスと同時に登場する事が多い。「ザカート」は古代語で「奇跡、魔法」<ref name=":12" />{{Efn|小説版ではムー・クラトーが出撃時のコールサインとして「ザカート」を名乗っている。これは彼が警察の特殊部隊「ミル・フラッタ」に在籍していた頃の二つ名「ムー・ザカート」に由来する<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=85,238}}</ref>}}。 : グルゼーグシリーズとは異なるコンセプトで開発された対ソルバルウ用兵器。黒い外見は、光を吸収する「負のイル・ドークト」が使われているため<ref name=":14" />。 * '''ガルザカート(GARU ZAKATO)'''/ エナジーボンバーダー(energy bombarder)/ コードネーム:ブルズアイ : ・ポイント:1,000点 : ・直径:200m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 特定エリアでのみ出現する大型の多弾ザカート。多弾化に伴う質量増加によってテレポート能力が失われている。画面上方より現れ、中央付近で爆散し、全方位に16発のスパリオと4発の追尾式エネルギー弾「ブラグスパリオ」をばら撒く<ref name="all about" />。「ガル」は古代語で「大きい」<ref name=":12" />。 : 火力は圧倒的であるものの、直線的な飛行パターンで接近するため、本来の能力を発揮する前に迎撃されることが多く、ゼビウス軍における内部評価は芳しくない<ref name=":11" /><ref name=":14" />。 * '''ブラグスパリオ(BRAG SPARIO)''' : ・ポイント:500点 : ガルザカートから発射される誘導弾。破壊不能だが、ザッパーを1発当てるごとに加点される。「ブラグ」は古代語で「真の、純な」<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/146 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:146 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 : 自機に向ってくる厄介な弾だが、これを画面外に逃さないように誘導して、自機の周りを周回させるプレイヤーも現れた。このテクニックは「[[ふたご座|ジェミニ]]誘導」と呼ばれ<ref>{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=驚異現象・ゼビウス編 ○ジェミニ誘導|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=74頁}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|「ジェミニ」は同人誌『ゼビウス1000万点への解法』にて使用された独自の名称。記事内容の転載対策として著者([[大堀康祐]]、中金直彦)が敢えて改変したもので、誘導弾の公式の呼称ではない<ref name=":21">{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=SUPER Soft 情報「あふたあ けあ」|journal=マイコンBASICマガジン7月号別冊スーパーソフトマガジン|page=24頁}}</ref>。ただしゲームブック版には「誘導弾ジェミニ」の記述が存在する<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼビウス(ゲームブック版) |date=1985-12-27 |publisher=東京創元社 |pages=(パラグラフ番号:328)222 |isbn=4-488-90301-0 |author=古川尚美}}</ref>。}}、ゼビウス上級者を見分ける基準の1つともなっている。ゲーム発売後にこのテクニックを知った開発者は、上級プレイヤーに対する“ご褒美”として、AC版『スーパーゼビウス』でザッパー1発当たりのポイントを2,000点に引き上げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/327 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:327 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ポイントが高騰したことで、ジェミニ誘導で自機を増やした後わざとミスをし、同じエリアで稼ぎを繰り返す「[[永久パターン]]」を使用するプレイヤーが現れ、雑誌のハイスコアランキングで問題となった<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=SUPER Soft情報 「CHALLENGE HIGH SCORE!コーナーを考える…コーナー」|journal=マイコンBASICマガジン10月号別冊 スーパーソフトマガジン|page=26頁}}</ref>。<br />後のシリーズ作品でもポイントは変動しており、『[[ナムコクラシックコレクション#ゼビウス・アレンジメント|ゼビウス・アレンジメント]]』([[1995年]])では100点、『ゼビウスリザレクション』([[2009年]])では500点となっている 。}}。 * '''ブラグザカート(BRAG ZAKATO)'''/ エナジーブラスター(energy blaster)/ コードネーム:[[クラッカー (パーティーグッズ)|クラッカー]] : ・ポイント:600~1,500点 : ガルザカートの失敗を踏まえ開発された、テレポート可能な多弾ザカート。外見はザカートに似ているが、よりエネルギーの集中度が高く、中央部が赤く発光している。テレポートで出現し、消失と同時にソルバルウに向けて扇状に5発のスパリオを放つ。出現後、時間経過で攻撃するものと、ソルバルウと縦軸が合った時に攻撃するものの2種類がある。 : 単発のザカートに強引にエネルギーを充填したもので、その典型的な[[一撃離脱戦法|一撃離脱]]の攻撃パターンからゼビウス軍の最強兵器とされる<ref name=":14" />。 * <span id="アンドア・ジェネシス">'''アンドアジェネシス(ANDOR GENESIS)'''</span>/ マザーシップ(mother ship)/ コードネーム:アドーアギレネス<ref name=":11" />{{Refnest|group="注釈"|小説版では正式名称を「アドーア・ギレネス」(ADDOR GUILENESS)、コードネームを「アンドア・ジェネシス」と改めている<ref name=":14" />。『ALL ABOUT namco』では「アドアーギレネス」。}} : ・ポイント (コア):4,010~4,800点 / (アルゴ):1,000点{{Refnest|group="注釈"|コアのポイントは本来4,000点であるが、バグによって余分に加点される<ref>{{Cite web|和書|url=http://kani.no.coocan.jp/xevious/xevious.htm#character |title=ゼビウス「キャラクター」●アンドア・ジェネシス (ANDOR GENESIS) |access-date=2023-06-15 |publisher=かにかに |website=かにかにクラブ}}</ref>。当時の書籍や移植版では4,000点としているものが多い。 : 移植版で配点が特殊な例として、PC-8001mkIISR版及びMZ-2500版ではアルゴが2,000点に、X68000版ではコアが2,000点、アルゴが4,000点となっている。}} : ・直径:8,500m / 高さ:1,300m<small>(FC版『スーパーゼビウス ガンプの謎』<ref>パンフレット「ナムコットニュース 16号」(1986年10月)記載。</ref>)</small> : ・直径:627m / 全高:192m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 特定エリアで出現する超大型浮遊要塞。ザカートなどの空中物を従え轟音と共に登場し、「アルゴ」と呼ばれる4門の砲台からスパリオを連射し攻撃してくる。本体は「バキュラ」で構成され破壊不能であるが、中心部の「コア」とアルゴが弱点となっており、ブラスターで破壊することができる。コアを破壊するとアルゴも誘爆し、要塞全体を無力化できるが、この場合アルゴのポイントは加算されない。コアを破壊できずに一定時間経過すると画面上方へ撤退していく。「アルゴ」は古代語で「発射する」の意味<ref name=":11" />。 : 要塞は表裏同形のサンドイッチ構造となっており<ref name=":14" />、中枢にはガンプの分身であるブラグザを搭載している。開発中の正式名称は「アドーアギレネス」だったが、アメリカのスタッフが正しく発音できなかったことから、そのスタッフが発した「アンドアジェネシス」に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/206 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:206 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。そのため本キャラクターのみコードネームの方が古代語に由来する名称となっており、「アドーア」は「完全、完璧」、「ギレネス」は「支配、占領」を意味する<ref name=":11" />。 : FC版(1984年)はハードウェアの仕様からBGプレーンに書き込まれており、背景から独立して動くことがないため地上物のように見える。続編のFC版『スーパーゼビウス ガンプの謎』([[1986年]])ではアンドアジェネシスのコアを破壊した後、要塞内部に入り込んで戦闘を行うエリアが存在する。 * <span id="バキュラ">'''バキュラ(BACURA)'''</span>/ レジスターシールド(resistor shield)/ コードネーム:フライング・ボード{{Refnest|group="注釈"|小説版でのコードネームは「[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]」<ref name=":14" />。}} : ・ポイント:破壊不能 : ・全高:60m / 全幅:100m / 奥行:4m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> :四角い金属板のような外見をしたゼビウス軍の新素材。画面上方より出現し、縦方向に回転しながら比較的ゆっくりとした速度で画面下方へ通過していく。攻撃はしてこないが、ソルバルウが接触すると破壊される。ザッパーを当てても甲高い音を立てて弾かれてしまい、破壊することはできない。「バキュラ」は古代語で「破壊、撃破」{{Refnest|group="注釈"|開発中の名称は「ナプルーサ・バキラ」。「ナ」は否定、「プルーサ」は「可能」、「バキラ」は「バキュラ」と同義。合わせて「破壊不可能」となる<ref name=":11" />。}}。 : 本来は建築資材であるが、多量のエネルギー{{Refnest|group="注釈"|バキュラの製造に要するエネルギーは、通常のイル・ドークトの4096倍(16進数表記では1000倍)とされる<ref name=":14" />。}}を集中して作られているため飛行能力を有しており、一時的な拠点防御に流用されている<ref name=":14" />。極端にシンプルな外見・挙動と共に、「[[#バキュラは破壊可能|ザッパーを256発当てると破壊出来る]]」という噂([[噂#デマ|デマ]])が広く知られたキャラクターである。名称の由来は遠藤の友人のあだ名「バキラ」から{{Refnest|group="注釈"|よく物を壊す人物であったため、本名「アキラ」をもじって付けられた<ref>{{Cite journal|publisher=徳間書店|date=1986年2月10日|title=ゲーム作りの2大名人スキヤキ対談|journal=月刊ファミリーコンピュータMagazine 2月号|page=134頁}}</ref>。}}。遠藤によると一枚当たりの価格は日本円で88万7800円{{要出典|date=2023年7月}}。 : 『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U|大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS ]]』には、フィールド探索型バトルゲーム「フィールドスマッシュ」の敵キャラクターとして登場。また、ゲーム内収集要素の「フィギュア」としても登場している。 ==== 地上物 ==== *'''バーラ(BARRA)'''/ エナジーステーション(energy station)/ コードネーム:[[ピラミッド]] : ・ポイント:100点 : ・全高:25m / 全幅:50m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : ピラミッドを思わせる四角錐型のエネルギー貯蔵庫。攻撃能力は無い。「バーラ」は古代語で「箱・四角いもの」<ref name=":12" />。 : 全体がイル・ドークトで作られ、多量のESPを貯蔵している。ピラミッド型の形状は、外部のESPを効率良く吸収・蓄積することを目的としたもの<ref name=":11" />。 * '''ガルバーラ(GARU BARRA)'''<ref name=":12" />{{Refnest|group="注釈"|『ALL ABOUT namco』やシリーズ作『ソルバルウ』では“GARUBARA”となっている<ref name=":13" />。}}/ エナジーベース(energy base)/ コードネーム:ビッグ : ・ポイント:300点 : ・全高:50m / 全幅:100m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 大型のエネルギー貯蔵庫。バーラ同様、攻撃はしてこない。下部はバキュラで作られているため破壊不能。<ref name="all about" />。 * '''ゾルバク(ZOLBAK)'''/ ディテクタードーム(detector dome)/ コードネーム:スカイライト : ・ポイント:200点 : ・全高:30m / 全幅:56m<small>(AC版『ソルバルウ』※未使用キャラ<ref name=":13" />)</small> : ドーム型の形状と明滅する赤い帯が特徴のレーダーサイト。攻撃能力は無い。当時の攻略記事では、破壊することで空中物の難易度を下げるとされていたが<ref name="all about" />、実際の効果は空中物出現[[テーブル (情報)|テーブル]]の進行を一定値戻すというもので、テーブルの位置によっては強敵を呼び戻してしまうこともある。「ゾルバク」は古代語で「窓」<ref name=":12" />。 * '''ログラム(LOGRAM)'''/ スフィアーステーション(sphere station)/ コードネーム:[[ドーム]] : ・ポイント:300点 : ・直径:40m / 全高:27m<small>(AC版『ソルバルウ』※未使用キャラ<ref name=":13" />)</small> : 固定対空砲台。ソルバルウに向けてスパリオを放つ。ゲームが進むとスパリオの発射頻度が上がり、他の敵との連携次第で厄介な存在となる。「ログラム」は古代語で「球」<ref name=":12" />。 : 全体の形状は球形で、下半分は地中に埋設されている。球体内部でスパリオを生成し、装甲の一部を開いて発射する方式が採られている。射出口が開いている間は次弾を生成できないため、連射性能に劣る<ref name=":14" />。人間や人造物に対して選択的に攻撃を行う<ref name="all about" />。 * '''ドモグラム(DOMOGRAM)'''/ ローバー(rover)/ コードネーム:スライダー : ・ポイント:800点 : ・直径:40m / 全高:27m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 移動対空砲台。ログラムに[[ホバーリング]]機能を持たせ、地上(主に整地)を移動できるようにしたもの<ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |page=14}}</ref>。海上には現れないが川を渡ることはできる。常に移動しており、またソルバルウのブラスターは発射から着弾まで約0.6秒かかるため{{Refnest|group="注釈"|正確には38フレーム<ref>{{Cite web|和書|url=https://xevi.web.fc2.com/xevious/index.html#airchara |title=ゼビウス解析情報「空中物解説」 |access-date=2023-06-15 |publisher=XEVI |website=ゲームプログラマの落書き帳}}</ref>。ただしボタン押下からブラスター発射まで4フレームのラグがあるので<ref>{{Cite web|和書|url=http://kani.no.coocan.jp/xevious/xevious.htm#misc |title=ゼビウス「色々」●ブラスターはボタンを押されてから少し遅れて発射される |access-date=2023-06-15 |publisher=かにかに |website=かにかにクラブ}}</ref>、ボタンを押してから着弾までは約0.7秒かかる。}}、動きを予測して攻撃する必要がある。「ドム(DOM-)」は「動く」の接頭語。「ドモグラム」で「動く球」を意味する<ref name=":12" />。 : 複数のドモグラムが特徴的な動きを見せる場面がいくつかあり、「[[盆踊り]]」(エリア7)や「[[フォークダンス]]([[マイムマイム]])」(エリア10)などの俗称で呼ばれることがある<ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |page=21-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/60-392 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:60,379,392 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 * '''ボザログラム(BOZA LOGRAM)'''/ ドームネットワーク(dome network)/ コードネーム:ドームアレイ : ・ポイント:300~2,600点<ref group="注釈">無傷の状態から中央部にのみブラスターを落として破壊すると2,000点、各部位を個別に破壊した場合はコア部が600点で周囲のログラムは各300点。無傷の状態から、中央部と周囲のログラム2基を同時に照準に収めて破壊すると、最高点となる2,600点を獲得できる。</ref> : ・直径:282m / 全高:30m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 連結対空砲台。中央部「コントロールコア」の周囲にログラムを4基連結させたもの。中央部を攻撃すると1発で全体を破壊できる。「ボザ」は古代語で「連結した」<ref name=":12" />。 : より高性能な対空砲台「デロータ」が完成するまでの間、ログラムの攻撃力を強化するために作られた。連射能力を高めるため、コントロールコアでログラム4体のエネルギーを制御している<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=8}}</ref>。 * <span id="グロブダー">'''グロブダー(GROBDA)'''</span>/ タンク(tank)/ コードネーム:スティングレイ{{Refnest|group="注釈"|スティングレイ(『ALL ABOUT namco』では「ステイングレイ」)は“stingray<ref name=":13" />”で、毒棘を持つ[[エイ]]の英語名。小説版でのコードネームは「スコーピオン」<ref name=":14" />。}} : ・ポイント:200~10,000点 : ・全長:35m / 全高:14.4m / 全幅:23.4m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 水陸両用輸送車<ref name="all about" />。陸上や河川だけでなく海上も走行可能。輸送車両であるため攻撃能力は無い。動くもの・動かないもの・ブラスターの発射や照準を感知し回避行動を取るものなど、様々なタイプが存在する。 : [[戦車]]のような形をしているが、走行装置は[[無限軌道|履帯]]ではなく“[[アルキメディアン・スクリュー|螺旋状にフィンの付いたフロート]]”を回転させ走行する。ゼビウス本星においては資材輸送やパトロールなどに使われているが、地球では主に有人兵器の搭乗員を輸送している{{Refnest|group="注釈"|ゼビウス星からの兵員のテレポートは、ドークト受信体である「ソル」の位置に限定されるため、前線までの輸送が必要となっている<ref name=":14" />。}}。 : 「グロブダー」という名称は「黒豚」(クロブタ)に濁点を振ったもので、グラフィック担当者[[小野浩 (ゲームクリエイター)|小野浩]](Mr.ドットマン)の提案による<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/214 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:214 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。この命名は、本作のタイトルが「ゼビウス」に決定した理由の一つ「濁点が付くと何でも強そうに聞こえる」という主張に則ったものである<ref name=":11" />。 : アーケードゲーム『[[グロブダー]]』(1984年)ではデザインが一新され、武装化されたグロブダーが主役機に抜擢されている。 * '''デロータ(DEROTA)'''/ ディフェンスサイト(defense site)<ref group="注釈">『ALL ABOUT namco』では“defence site”。「スーパーソフトマガジン」1983年12月号14頁では、デロータとドモグラムの英語名がともに“defens site”となっている。更に翌月号(1984年1月号)20頁では、ドモグラムを“defence site”、デロータを“rover”(「放浪者」の意)と誤訂正した。</ref>/ コードネーム:ルーク : ・ポイント:1,000点 : ・全高:14m / 全幅:33m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 八角台型の対空砲台。スパリオの連射機能を備えたゼビウス軍の防衛拠点である<ref name="all about" />。「デロータ」は古代語で「希望・光明」<ref name=":12" />。 : エネルギー貯蔵施設であるバーラにスパリオ発生器を取り付けたもの。U字型の窪みでスパリオを発生させる方式で、連射のタイムロスを削減している<ref name=":11" /><ref name=":14" />。 * '''ガルデロータ(GARU DEROTA)'''/ メガサイト(megasite)/ コードネーム:ダイザ : ・ポイント:2,000点 : ・全高:44m / 全幅:100m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 大型対空砲台。バキュラ製のエネルギー増幅器によってデロータの攻撃力を向上させたもので、上部のみ破壊可能<ref name="all about" />。撃ち逃すとスクロールアウトギリギリまでスパリオを撃ってくる。 === 隠れキャラクター === *<span id="ソル">'''ソル(SOL)'''</span>/ シュタデル(citadel)<ref group="注釈">『ALL ABOUT namco』では“sitadel”。</ref>/ コードネーム:タワー : ・ポイント (出現):2,000点 / (破壊):2,000点 : ・全高:100m / 全幅:20m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 全体がイル・ドークトで作られた八角柱型の構造体{{Refnest|group="注釈"|小説版ではソルの形状を「八角柱」若しくは「八角で構成されている水晶の結晶のよう」と表現している<ref>{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=195}}</ref>([https://web.archive.org/web/20130511224139/https://blog-imgs-44-origin.fc2.com/k/h/e/khex/Xevious3DGGame03.png 形状参考]<ref>{{Cite web|和書|url=http://khex.blog42.fc2.com/blog-entry-1037.html |title=シューティング千夜一夜 ~第389夜~ ゼビウス3D/G |access-date=2023-06-06 |publisher=K-HEX |website=あたっく系}}</ref>)。この場合、ゲーム画面ではソルの先端部と影のみが描かれていることになるが、先端部をソルの全体像と解釈し、「八角錐」若しくは「円錐」とする作品も存在する(ゲームブック版<ref>{{Cite book|和書 |title=ゼビウス(ゲームブック版) |date=1985-12-27 |publisher=東京創元社 |pages=(パラグラフ番号:448及び挿絵)288-289 |isbn=4-488-90301-0 |author=古川尚美}}</ref>など)。}}。地中に埋設されているため見た目では所在を判別できないが、ブラスターの照準が反応するので攻撃の手掛かりにすることができる。埋設地点にブラスターを落とすと出現し、完全に出現しきった本体に再度ブラスターを撃ち込むことで破壊できる{{Refnest|group="注釈"|ディップスイッチで筐体の種類が[[アーケードゲーム#テーブル筐体|テーブル筐体]](カクテルモード)に設定されている場合、2P側は“ソルの影”にブラスターを落とすと破壊できる<ref name="all about" />。これは2P用に画面を反転表示する際、キャラクターの[[当たり判定]]が反転処理されていないことに起因する。当時国内ではテーブル筐体が主流であり、雑誌の攻略記事などでも紹介されたことから、この現象は当時のプレイヤーに広く知られており、PS用『ナムコミュージアムVol.2』収録版など、画面を反転しない家庭用で敢えて再現した移植版も存在する(同作ゲーム内展示通路に解説あり)。 : また同じ理由で、テーブル筐体2P側ではバキュラの当たり判定も画面下方向にずれており、こちらは『[[アーケードアーカイブス]]』版で再現されている。}}。攻撃能力は無い。 : AC版は16エリア全体で45本のソルが出現するが、エリア6の中盤に1本、不具合{{Refnest|group="注釈"|不具合の原因はキャラクタ・オーバーによる。画面中に識別できる地上物は14個までで、各々番号で管理されているが、先に使った管理番号の地上物(ボザログラム)がスクロールアウトする前に同じ管理番号のソルがスクロールインしてしまったことで地上物として認識しなくなったのが事の真相である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220331021828/https://landhere.jp/blog/a1656.html |title=AC版ゼビウスで幻の46本目のソルを出す |access-date=2023-05-23 |publisher=LANDHERE |website=してログ}}</ref>。}}によって出現しない、通称「46本目のソル」が存在する<ref group="注釈">FC版では出るようになっているほか、後年の移植作品には出現の可否を任意設定できるものも存在する。</ref>。 :ストーリーでは、西暦1999年に地球に大量に飛来し、痕跡を残さず消失した謎の大隕石群として描かれ、後にMARSの調査対象となっている。本来はファードラウトのエネルギーによって起動し、地球上に再生したガンプのメモリーとして、或いはドークトを集中させる核として機能するガンプのサブシステムである<ref name="all about" /><ref name=":13" />。 * '''[[スペシャルフラッグ|スペシャル]](SPECIAL)'''/ ボーナスフラッグ(bonus flag)/ コードネーム:フラッグ : ・ポイント (出現):1,000点 / (通過):1機追加 <small>または</small> 10,000点 : ・全高:25m / 全幅:22m / 奥行:4m<small>(AC版『ソルバルウ』<ref name=":13" />)</small> : 黄色い三角形の旗の脇に赤い“S”が付いたキャラクター。「スペシャルフラッグ」と呼ばれることが多い。全16エリア中に4か所存在する「スペシャルフラッグゾーン」のどこかにブラスターを落とすと出現し、通過することで残機が増える<ref group="注釈">ディップスイッチを操作し、通過で10,000点が入るよう設定を変更することも可能。</ref>。ソルとは違い、ブラスターの照準には反応しないので、出現前に位置を特定することはできない。ただし出現位置のアルゴリズムは敵空中物と同じなので、スペシャルフラッグゾーンが画面に現れる少し手前からソルバルウを画面の左右どちらかに寄せておくことで、出現位置を画面の反対側に絞り込むことができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/985005381/28 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ エリア2」レス番号:28 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 : エリア3または5にて、スペシャルでエクステンドしてからすぐにミスをするという行為を繰り返すと、得点効率は悪いものの[[永久パターン]]となる。これを受け、AC版『スーパーゼビウス』では、エリア1を除くスペシャルフラッグゾーンの位置がエリアの70%ライン以降に変更された<ref>{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=隠れキャラクターソル&スペシャルフラッグすべて見せます「スーパーゼビウスの場合」|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=71}}</ref> : スペシャルは、当時遠藤が傾倒していた[[ピンボール]]のフィーチャーであるエキストラボールをなぞらえたものである。アーケードゲームにおいて残機の追加は売り上げの減少に繋がるため、遠藤は本キャラクターを隠しフィーチャーとしたが、発売後の露見を想定し、追及された際に偶発的な“バグ”として釈明できるよう、ブラスターの照準に反応しないよう設定し、世界観的に浮いたキャラクターを配した。遠藤はスペシャルフラッグを採用した理由を、「『[[ラリーX#ニューラリーX|ニューラリーX]]』(1981年)で“ラッキーフラッグ”が登場して以降、スペシャルフラッグが軽視されたので、使ってみようと思った」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/441 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:441 |access-date=2023-05-06 |website=5ちゃんねる}}</ref><ref group="注釈">スペシャルフラッグが初めて登場した『[[ラリーX]]』([[1980年]])では、ラッキーフラッグが存在していなかった分、相対的にゲームにおける重要度は高めであった。</ref>。 : また、スペシャルフラッグゾーンの配置に関して、全4箇所中で遠藤が配置した3箇所は全て水辺(川・海)に設置されている。これは「スペシャルフラッグは水辺に出る」という噂がプレイヤー間に広まることを企図したものであった<ref name=":22">{{Cite web|和書|url=https://gccx.xyz/season1/namco/ |title=ゲームセンターCX第7回「ギャラガ」ナムコ |access-date=2023-05-20 |website=ゲームセンターCX動画ガイド}}</ref>。 『ゼビウス』は「隠れキャラクター」を初めて採用したビデオゲームである。当初、見えないターゲットの存在は開発部内でも賛否両論であった。しかし遠藤が反対を押してゲームに組み込んだところ、照準が反応するソルはすぐに発見され、むしろ面白い仕様であるとの評価を得た。一方でスペシャルは仕様書に記載が無かったことから、製造部の製品チェックでバグとして報告されてしまったため、遠藤は自らプログラムしたものであることを認めチェックを通した<ref name=":5" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://togetter.com/li/179133?page=6 |title=佐藤誠市氏によるナムコ80年代ゲーム作品についての証言「『ゼビウス』の隠れキャラが周囲に理解されなかったというのは本当か?」 |access-date=2023-05-25 |publisher=Togetter.inc |website=togetter}}</ref>。 == 仕様 == === 海賊版対策 === 『[[ディグダグ]]』に対する『ジグザグ』、『[[ギャラガ]]』に対する『ギャラッグ』など、当時のアーケードゲーム市場では、人気ゲームのデッドコピー([[海賊版]])[[アーケードゲーム基板|基板]]が流通する事が多かったため、本作では発売にあたり以下の対策が施された。 *ゲームスタート直後、画面右端の特定位置にブラスターを落とすと爆発音と共に画面下部に隠しメッセージが表示され、スコアが10点加算される。このとき、正規品であれば“'''{{big|namco}} ORIGINAL program by EVEZOO'''”、コピー品の場合は“'''DEAD COPY MAKING copy under {{big|namco}} program'''”というメッセージが表示される。 *エリア7の最後の森に“'''©{{big|namco}}'''”の文字が隠されている{{Refnest|group="注釈"|全体マップ<ref name=":16" />の左上隅に描かれている。エリア7の70%ライン以降、森が表示される前にミスをすると、エリア8にスキップしてしまい、社名ロゴは表示されない。また、ロゴ自体も森に紛れるような配色で、ぱっと見で露見しないよう工夫されている。}}。 ゼビウスの海賊版としては主に『ゼビオス』(XEVIOS)と『バトルス』(Battles)が出回ったが、『ゼビオス』を製作した会社との裁判では、法廷において実際に隠しメッセージを表示させて、コピー品であることを証明した。一方『バトルス』では、隠しメッセージは“'''{{lang|en|Prease enjoy this GAME}}'''”(“{{lang|en|Please}}” の綴りが間違っている)と書き換えられていたものの、森に隠された社名ロゴの方はそのまま残されていたため、こちらも違法コピーである事が証明された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/267-440 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:267,440 |access-date=2023-04-17 |website=5ちゃんねる}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mc-law.jp/kigyohomu/16762/ |title=【著作権者=創作者の判定は難しい|著作者の刻印|XEVIOUSに学ぶ】 |access-date=2023-04-17 |website=みずほ中央法律事務所}}</ref>。 上記の対策以外にも、プレイ中に特定の条件を満たすとゲームにリセットがかかるトラップ的なプログラムも組み込まれていた<ref name=":9">{{Cite web|和書|url=https://note.com/kenjohkohji/n/n24a5f197f116 |title=『アはアーケードのア』 第14回『ゼビウス』(1983年/ナムコ)|access-date=2023-04-30 |publisher=note株式会社 |editor=見城こうじ |website=note}}</ref>。 === モニターの焼き付き === {{出典の明記|section=1|date=2017年1月}} 本作は非プレイ時のデモプレイ画面で、黄色い「XEVIOUS」のタイトルロゴが表示され続ける仕様である。これはデモ中に“プレイしている振り”をして筐体を占有する子供への対策として考え出されたものだったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/740 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:740 |access-date=2023-05-01 |publisher=5ちゃんねる}}</ref>、長時間同じ位置に明るい色でロゴを表示し続けたため、[[ブラウン管|CRTモニター]]にロゴの[[焼き付き]]跡を残すという事象の原因となった。これを受けてナムコでは、同様のトラブルを避けるため、表示に関する作成基準が設けられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bandainamcoent.co.jp/cs/list/namco_museum_vol2/option/ |title=ナムコミュージアムVOL.2 マニアックオプション |access-date=2023-04-13 |publisher=バンダイナムコエンターテインメント}}</ref>。 後年、本作のロゴが焼き付いたモニターで他のゲームが稼働している光景も見られた。他のゲームの画面に「XEVIOUS」の文字がうっすらと浮かび上がる様子を「ナムコミュージアムVOL.2超研究」(1996年/メディアファクトリー)のコラムでは、「『ゼビウス』の亡霊に悩まされている気分になった」と表している<ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |page=8}}</ref>。 ロゴの焼き付き状態は家庭用移植版でも再現されており、[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]用『[[ゼビウス3D/G]]+』収録版では[[隠しコマンド]]で<ref group="注釈">コイン未投入状態のタイトル画面にて、2コントローラーを使用し、○ボタンを押しながら方向キーの右9回、上2回、下9回を押すと爆発音がして、焼き付き表示がオンになる(再度入力するとオフ)。焼き付きはタイトルロゴのみ再現している。 『スーパーゼビウス』でも同じコマンドでオン/オフできるが、焼き付きパターンはノーマル版と同一で、「SUPER」の焼き付きは再現されていない。</ref>、[[PlayStation Portable|PSP]]用『[[ナムコミュージアム (PSP)|ナムコミュージアム]] Vol.2』及び[[ニンテンドーDS|DS]]用『[[ナムコミュージアム#ニンテンドーDS版|ナムコミュージアムDS]]』収録版では「マニアックオプション」から、焼き付き表示のオン/オフを切り替えることができる<ref group="注釈">PSP版はエリア3到達がオプション項目解放の条件となっている。焼き付きパターンはタイトルロゴだけでなく、画面下部のコピーライト表記やスコア部分の「1UP」「HIGH SCORE」の焼き付きまで再現されている(ただしコピーライト表記はAC版ではなく、移植版のもの)。 DS版は初期状態から設定可能で、焼き付きはタイトルロゴとコピーライト表記(こちらはAC版)を再現。また同様に、『スーパーゼビウス』の焼き付きパターンも再現している。</ref>。[[PlayStation 4|PS4]]・[[Nintendo Switch|Switch]]用『[[アーケードアーカイブス]]』版では「こだわり設定」から、焼き付き表示の濃さを4段階で設定できる<ref group="注釈">焼き付きはタイトルロゴのみ再現。焼き付き部分が暗く表示される他の移植版とは違い、正常な部分よりも明るく若干黄色味を帯びて表示される。</ref>。 === カウンターストップ === 本作では、スコアが9,999,990点に達すると[[カウンターストップ]](以下、カンスト)となり、それ以上値が増えなくなる。開発者はこのようなスコアに到達するプレイヤーが現れることを想定していなかったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/327-429 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:327,429 |access-date=2023-05-01 |publisher=5ちゃんねる}}</ref>、ゲーム発売から僅か2週間目に、当時凄腕プレイヤーとして知られていた[[大堀康祐]]により、最初のカンスト達成報告が寄せられた<ref name=":18" />(大堀に加え、中金直彦、古田秀人がカンストを達成した最初の3名とされている<ref name=":8">{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=ゼビウスの軌跡|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=|pages=72-73頁}}</ref>)。 ゲームの発売からおよそ2か月後{{Refnest|group="注釈"|ゲーム情報サイト「GAME Watch」のゼビウス40周年企画ページ内の記述「編集後記に『1983年4月3日』の日付がある」より<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1473560.html |title=「ゼビウス」稼働から40周年! あらゆる文化に大きな影響を与えた不朽の名作シューティングゲームの軌跡を振り返る |access-date=2023-04-30 |publisher=インプレス |website=GAME Watch}}</ref>。}}、上記の大堀と中金が制作した同人誌『ゼビウス1000万点への解法』(通称「ゼビ本」)が発売され、その攻略記事内容の完成度の高さから、当時の同人市場では破格の約1万部を売り上げ、ベストセラーとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/masudaretro/1076298.html |title=伝説の同人誌『ゼビウス1000万点への解法』の制作裏話を聞く! |access-date=2023-04-30 |publisher=インプレス |website=AKIBA PC Hotline!}}</ref>。 その後、[[商業誌]]等でも本作はしばしば「1000万点」のフレーズと共に取り上げられた。また、各誌で[[ハイスコア (コンピュータゲーム)|ハイスコア]]の掲載も行われ、多くのプレイヤーが1000万点を目指すきっかけとなった<ref name=":9" />。『ザ・ベストゲーム』(1991年/新声社)には、「1千万点は勲章」であり、「当時の1千万点プレイヤーは英雄になれた」と記されている<ref>{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=読者が選んだBEST30 10位 ゼビウス|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=21頁}}</ref>。 *1983年1月に創刊されたホビー系情報誌『アミューズメントライフ』(AMライフ)では、読者参加の連載企画「ビデオゲームに挑戦中」において本作がたびたび登場し、No.6ではカンストまでのタイムアタックの様子も紹介された<ref>{{Cite journal|publisher=株式会社アミューズメント|date=1983年6月10日|title=東京発ゼビウスで新記録一千万点を5時間46分|journal=AMライフ No.6|pages=15-17頁}}</ref>。また、同誌では全国から寄せられるハイスコアの紹介を継続的に行っていたが、No.8・9合併号から通常のハイスコアとは別枠でゼビウス1000万点達成者の募集を開始し<ref>{{Cite journal|publisher=株式会社アミューズメントライフ|date=1983年8月20日|title=ゼビウス1000万点達成者大募集|journal=アミューズメントライフ No.8 No.9(合併号)|page=89頁}}</ref>、No.10からNo.14までの5回にわたり総勢69名の達成者を掲載した<ref group="注釈">・No.10:13名・No.11:19名(+No.10再掲)・No.12:23名・No.13:9名・No.14:5名 ※No.15以降も通常枠での掲載は継続して行われ、最終号となるNo.21(1984年10月発行)まで、毎号数名のカンスト達成者が掲載された。</ref>。 *ホビーユーザー向け[[パソコン雑誌]]『[[マイコンBASICマガジン]]』では、別冊付録「スーパーソフトマガジン」にて、1983年12月号から1984年2月号まで「ゼビウス大解析 1000万点を目ざして」と題した全3回の特集が組まれた。また、1984年1月号より始まったハイスコアランキングコーナー「CHALLENGE HIGH SCORE!」では、全国集計掲載枠の1/3~2/3が本作のカンスト達成者で占められる事態となり<ref group="注釈">1984年1月・2月号では全29枠中10枠、3月号では全30枠中21枠が本作の記録で占められた。</ref>、同年4月号より「全国○人の皆さん」の形式で、まとめて掲載されるようになった<ref name=":8" />。1984年12月号までに、のべ190名のカンスト達成者が掲載された{{Refnest|group="注釈"|・01月号:11名 ・02月号:15名 ・03月号:28名 ・04月号:25名 ・05月号:25名 ・06月号:18名 ・07月号:18名 ・08月号:13名 ・09月号:9名 ・10月号:15名 ・11月号:12名 ・12月号:1名}}。 カウンターストップにまつわる現象として、敵を一体倒すたびに残機が増える「無限増え」が挙げられる<ref name=":7">{{Cite journal|publisher=新声社|date=1991年7月1日|title=驚異現象・ゼビウス編|journal=月刊ゲーメスト増刊 ザ・ベストゲーム|page=74頁}}</ref>。これはスコアが規定ポイントに到達するごとに残機が追加されるエクステンドエブリ設定時にのみ起きるバグで、次回のエクステンド規定ポイントが1000万点を超えると発生する。標準設定(6万点エブリ)の場合、996万点の次のエクステンドは1002万点となるが、これが内部的には2万点とみなされ、加点時のチェックで“2万点を超えている”と判定されるため毎回エクステンドが発生し残機が増えていく。ただしプログラム上の残機の最大値は255で、[[256#その他 256 に関連すること|256]]になると[[算術オーバーフロー|オーバーフロー]]により0に戻ってしまう。そのため無限増え中であってもタイミングによっては1ミスでゲームオーバーになる恐れがある<ref name=":7" /><ref group="注釈">画面下端の残機表示はオーバーフローを起こしてもミスをするまでは更新されず、またミス後再スタート時の数値による残機表示も36機を超えると文字化けを起こすため、オーバーフローのタイミングを正確に予見する事はほぼ不可能である。</ref>。 >無限増え時の特徴として、エクステンド処理の割り込みによってゲーム進行がガタついたり、地上物の位置がマップと大きくずれる事がある<ref group="注釈">「地上物のずれ」は、YouTube動画「[https://www.youtube.com/watch?v=WLnKxuk0gdA#t=6h22m30s 裏ゼビマラソン~令和時代の無限増え・カンスト]」の6:22:30付近、エリア9冒頭のソル、ガルデロータが分かりやすい。</ref>。また、甲高い「エクステンド音」が断続的に鳴り続けるため、ゲームセンターでは衆目を集めることとなる。[[田尻智]]は自著『パックランドでつかまえて』(1991年/JICC出版局)において、無限増え時のエクステンド音を、ゲーム機の「ギブアップの悲鳴」と表現している<ref>{{Cite book|和書 |title=パックランドでつかまえて |url=https://www.worldcat.org/oclc/674351490 |publisher=JICC出版局 |date=1990-04-30 |isbn=4-88063-824-2 |oclc=674351490 |others=田尻智 |page=68}}</ref>。 === バグ === * デモ画面で、タイトルロゴからゲーム画面に切り替わる瞬間にクレジットを入れ、スタートすると、スタート直後に横一列にバキュラが出現する。バキュラにザッパーを当てると1枚あたり数万点が入る<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210709132711/https://landhere.jp/blog/a1862.html |title=[ゼビウス] 巨大バキュラ(ガル・バキュラ)バグの研究 |access-date=2023-04-19 |publisher=LANDHERE |website=してログ}}</ref>。実基板、アーケードアーカイブスで実施可能(参考:ニコニコ動画<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nicovideo.jp/watch/sm11727115 |title=ゼビウス バグ技 |access-date=2023-04-18 |publisher=ドワンゴ |editor=anarchy0929 |website=ニコニコ動画}}</ref>)。 * ゾルバクを破壊しないなど、意図的にゲームランクを調整してゲームランクがオーバーフローを起こすと、突如、破壊不能な空中物が数十機飛来してくる「総攻撃」が起こる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210623182848/https://landhere.jp/blog/a1864.html |title=[ゼビウス] AC版ゼビウスに総攻撃がプログラムされていた (6) |access-date=2023-04-19 |publisher=LANDHERE |website=してログ}}</ref>。実基板、アーケードアーカイブスで実施可能(参考:YouTube動画<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=2i2c0AI3HOs&t=211s |title=ゼビウス 総攻撃のやり方 エリア12編 |access-date=2023-04-19 |publisher=Google |website=YouTube |editor=MKTT}}</ref>)。 == 移植版 == * この節では発売当時の社名で記載(一部の長い社名のみ、略記する場合あり)。 * [[ファミリーコンピュータ]](FC)版を基にした移植は備考欄に記載する(記載の無い場合はアーケード版の移植)。 === 一覧 === {| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" |1 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1984年}}・5月25日<small> (CT版)</small><ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=広告「LET'S PLAY NAMCO GAME」|journal=月刊マイコン 5月号|page=135頁}}</ref><br />・6月ごろ<small> (3"FD版)</small><ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=マイコンソフト一覧表|journal=月刊マイコン 7月号|page=533頁}}</ref><br />・11月ごろ<small> (5"FD版)</small><ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=広告「X1turbo(5インチFD)新登場」|journal=マイコンBASICマガジン 12月号|pages=22-23頁}}</ref> | [[X1 (コンピュータ)|X1]] | [[マイコンソフト]] | [[電波新聞社]] | [[カセットテープ]]<br />/[[フロッピーディスク]] | ソフトのみ<br />・DP-3203131<small> (CT版)</small><br />・DP-3203134<small> (3"FD版)</small><br />[[ジョイスティック]]<ref group="注釈">X1版『ゼビウス』用に開発された[[アタリ仕様ジョイスティック|アタリ仕様]]の2トリガジョイスティック。後に「[[マイコンソフト#INTELLIGENT JOYSTICK XE-1シリーズ|XE-1]]」として単品販売された。</ref>付<br />・DP-3203133<small> (CT版)</small><br />・DP-3103135<small> (3"FD版)</small><br />・DP-3203209<small> (5"FD版)</small> | | 3"([[インチ]])FDは[[X1 (コンピュータ)#X1シリーズの系譜|X1D]]用 |- | style="text-align:right" |2 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1984-11-08|NA|September 1988|EU|1989-10-25}} | [[ファミリーコンピュータ]] | ナムコ開発一課 | ナムコ | 320[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga227">{{Cite journal |和書 |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |pages = 227 |ref = harv}}</ref> | {{vgrelease new|JP|NXV-4900|NA|NES-XV-USA|EU|NES-XV-EEC}} | 約127万本 | |- | style="text-align:right" |3 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1984年11月<ref name=":1">{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=ゼビウス FOR FM-7/NEW7/77|journal=月刊マイコン 11月号|page=306頁}}</ref>}} | [[FM-7]]/[[FM-7#FM-77|FM-77]] | マイコンソフト | 電波新聞社 | フロッピーディスク | ソフトのみ<br />・DP-3301172<small> (5"FD版)</small><br />・DP-3301174<small> (3.5"FD版)</small><br />ジョイスティック付{{Refnest|group="注釈"|「XE-1」同等品と、プリンタ・ポート接続用インターフェース基板を同梱。<br />FM版『ゼビウス』発売記念として、ゴールドメタリックジョイスティック同梱版も限定販売された<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1985年|title=広告「噂のゼビウス、只今参上。」|journal=マイコンBASICマガジン 1月号|page=189頁}}</ref>。}}<br />・DP-3301173<small> (5"FD版)</small><br />・DP-3301175<small> (3.5"FD版)</small> | | 5"FD版はFM-7用<br />3.5"FD版はFM-77用 |- | style="text-align:right" |4 ! Xevious | {{vgrelease new|EU|1984年}} | [[Apple II]]<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ]] | [[:en:Mindscape|Mindscape]] | Mindscape | フロッピーディスク | RX8062<small> (A8)</small> | | |- | style="text-align:right" |5 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1985年9月<ref name=":2">{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1989年|title=ホンキでPlayホンネでReview!! TARGET6 ゼビウス後編「ゼビウスの歴史」|journal=マイコンBASICマガジン 1月号|page=278-281頁}}</ref>}} | [[PC-8000シリーズ|PC-8001mkIISR]] | マイコンソフト | 電波新聞社 | カセットテープ | DP-3102248 | | |- | style="text-align:right" |6 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1985年<ref name=":2" />}}・10月<small> (PC88)</small><br />・11月<small> (PC98)</small> | [[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]] | [[エニックス]] | エニックス | フロッピーディスク | E-G147<small> (PC88)</small><br />E-G141<small> (PC98 2D,2DD版)</small><br />E-G142<small> (PC98 2HD版)</small> | | |- | style="text-align:right" |7 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1986年}}・1月<small> (ソフトのみ)</small><ref name=":2" /><br />・4月ごろ<small> (ジョイスティック付)</small><ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1986年|title=広告「春一番DEMPA MICOM SOFT新作&人気SOFT案内」|journal=マイコンBASICマガジン 5月号|page=228頁}}</ref> | [[MZ-2500]] | マイコンソフト | 電波新聞社 | フロッピーディスク | ソフトのみ<br />・DP-3202301<br />ジョイスティック付<ref group="注釈">「XE-1」の改良型「XE-1b」を同梱。ジョイスティック単品パッケージも同時発売されている。</ref><br />・DP-3202303 | | カラーモード3種<ref group="注釈">モニターの性能やパレットボードの有無に合わせて、「8色」「16色」「4096色」から選択可能。</ref> |- | style="text-align:right" |8 ! Xevious | {{vgrelease new|NA|1986年11月<ref>{{Cite web |url=http://www.atarimuseum.info/cx7810.htm |title=ATARI7800:Xevious |access-date=2023-03-04 |publisher=Michael Vogt |website=ATARI MUSEUM}}</ref>|EU|June 1989}} | [[Atari 7800]] | [[:en:General_Computer_Corporation|General Computer Corp.]] | [[アタリ (企業)|アタリ]] | ロムカセット | CX7810 | | |- | style="text-align:right" |9 ! Xevious | {{vgrelease new|EU|1986年}} | [[Amstrad CPC]] | [[:en:Acclaim Cheltenham|Probe Software]] | [[U.S. Gold]] | フロッピーディスク | | | |- | style="text-align:right" |10 ! Xevious | {{vgrelease new|NA|1986年|EU|1986年}} | [[コモドール64]] | Mindscape | Mindscape | カセットテープ<br />/フロッピーディスク | | | |- | style="text-align:right" |11 ! ゼビウス<ref group="注釈">パッケージや説明書のタイトルロゴには「SUPER」が付記されているが、広告や製品一覧表における表記は『ゼビウス』である。なお、「SUPER」の書体は『[[スーパーゼビウス ガンプの謎]]』(1986年)と同じものが使われている。</ref> | {{vgrelease new|JP|1987-06-25}} | [[X68000]] | マイコンソフト | 電波新聞社 | 5.25"2HDフロッピーディスク | ソフトのみ<br />・DP-3205002<br />ジョイスティック付<ref group="注釈">「XE-1b」を同梱。</ref><br />・DP-3205001 | | |- | style="text-align:right" |12 ! Xevious | {{vgrelease new|EU|1987年}} | [[Atari ST]]<br />[[ZX Spectrum]] | Probe Software | U.S. Gold | フロッピーディスク | | | |- | style="text-align:right" |13 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|1990-05-18}} | [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] | ナムコ開発一課 | ナムコ | [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクカード|ディスクカード]]片面 | NDS-XEV | | ロムカセット版の移植<br />書き換え専用ソフト |- | style="text-align:right" |14 ! [[ナムコミュージアム]] Vol.2 | {{vgrelease new|JP|1996-02-09|NA|1996-09-30|EU|November 1996}} | [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] | [[トーセ]] | ナムコ | [[CD-ROM]] | {{vgrelease new|JP|SLPS-00210|NA|SLUS-00216|EU|SCES-00267}} | | 縦置きモニター表示対応 |- | style="text-align:right" |15 ! [[ゼビウス3D/G|ゼビウス3D/G+]] | {{vgrelease new|JP|1997-03-28|NA|1997-09-30|EU|August 1997}} | PlayStation | ナムコ | ナムコ | CD-ROM | {{vgrelease new|JP|SLPS-00750|NA|SLUS-00461|EU|SCES-00736}} | | 縦置きモニター表示対応 |- | style="text-align:right" |16 ! ナムコヒストリー Vol.1 | {{vgrelease new|JP|1997-04-25}} | [[Microsoft Windows|Windows]]<small> (95)</small> | ナムコ | ナムコ | CD-ROM | NMC-2009 | | 縦置きモニター表示対応 |- | style="text-align:right" |17 ! [[:en:Microsoft Revenge of Arcade|Microsoft Revenge of Arcade]] | {{vgrelease new|NA|1998-07-31}} | Windows<small> (98)</small> | | [[マイクロソフト]]<br />アタリ<br />ナムコ | CD-ROM | | | |- | style="text-align:right" |18 !ゼビウス (SUPER1500シリーズ) |{{Vgrelease new|JP|1999-04-16}} |Windows<small> (95/98)</small> |ナムコ |[[メディアカイト]] |CD-ROM |MKW-009 | | |- | style="text-align:right" |19 ! ゼビウス (ULTRA2000シリーズ) | {{vgrelease new|JP|2001年2月23日<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.media-kite.co.jp/product/new0102/ |title=2001年2月発売タイトル |access-date=2023-03-23 |publisher=メディアカイト}}</ref>}} | Windows<small> (95/98/me)</small> | ナムコ | メディアカイト | CD-ROM | MKW-157 | | |- | style="text-align:right" |20 ! ゼビウスmini | {{vgrelease new|JP|2002年3月1日<ref>{{Cite web|和書 |author= |date=2002-2-28 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0202/28/n_namco.html |title=ナムコ,J-スカイ対応パケット端末向けに「ゼビウス」を配信 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |language= [[日本語]] |accessdate=2019-2-17}}</ref>}} | [[Yahoo!ケータイ|J-スカイ]]対応携帯電話<br />([[S!アプリ|Vアプリ]]) | インプラス | ナムコ | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(ナムコアプリキャロットJ) | | | |- | style="text-align:right" |21 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2002年8月9日<ref>{{Cite web|和書 |author=津田啓夢 |date=2002-8-9 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/10559.html |title=iアプリゲームサイト「アプリキャロット」に「ゼビウス」登場 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2019-2-17}}</ref> }} | [[mova#504i|504i]]専用<br />([[iアプリ]]) | インプラス | ナムコ | ダウンロード<br />(アプリキャロットナムコ) | | | |- | style="text-align:right" |22 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2003年4月17日<ref>{{Cite web|和書 |author= |date=2003-4-17 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0304/17/news11.html |title=ナムコ,新型BREW携帯電話に「ゼビウス」配信 |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |language= [[日本語]] |accessdate=2019-2-17}}</ref>}} | [[BREW]]対応端末<br />([[BREW#KDDI(EZアプリ)での運用|EZアプリ]]) | インプラス | ナムコ | ダウンロード販売 | | | |- | style="text-align:right" |23 ! {{vgrelease new|JP|[[ファミコンミニ]]07 ゼビウス|NA|Classic NES Xevious|EU|Classic NES Xevious}} | {{vgrelease new|JP|2004-02-14|NA|2004-06-02|EU|2004-07-09}} | [[ゲームボーイアドバンス]] | ナムコ | ナムコ | ロムカセット | {{vgrelease new|JP|AGB-FXVJ-JPN|NA|AGB-FXVE-USA|EU|AGB-FXVP-EUR}} | | FC版の移植 |- | style="text-align:right" |24 ! {{vgrelease new|NA|[[:en:Namco Museum Battle Collection|Namco Museum Battle Collection]]|EU|Namco Museum Battle Collection|JP|[[ナムコミュージアム (PSP)|ナムコミュージアム]] Vol.2}} | {{vgrelease new|NA|2005-8-23|EU|2005-12-9|JP|2006-6-8}} | [[PlayStation Portable]] | [[ゴッチテクノロジー]] | ナムコ | [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]] | {{vgrelease new|NA|ULUS-10035|EU|UCES-00116|JP|ULJS-00047}} | | 画面モード7種<ref group="注釈">画面の向きと拡大、レイアウトの組み合わせによる(縦画面3種+横画面4種)。</ref> |- | style="text-align:right" |25 ! {{vgrelease new|NA|[[:en:Namco Museum#Namco Museum 50th Anniversary|Namco Museum - 50th Anniversary]]|JP|[[ナムコミュージアム#PlayStation 2版|ナムコミュージアム アーケードHITS!]]|AU|Namco Museum - 50th Anniversary|EU|Namco Museum - 50th Anniversary}} | {{vgrelease new|NA|2005年8月30日<small> (PS2,XB,GC)</small>|NA|2005年10月25日<small> (WIN)</small>|JP|2006年1月26日<small> (PS2)</small>|AU|2006年3月27日<small> (WIN)</small>|EU|2006年3月31日<small> (PS2,XB)</small>|EU|2006年5月19日<small> (WIN)</small>|EU|2006年6月9日<small> (GC)</small>}} | [[PlayStation 2]]<br />[[ニンテンドーゲームキューブ]]<br />[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]<br />Windows<small> (XP)</small> | [[:en:Backbone Entertainment|Digital Eclipse]] | {{vgrelease new|NA|ナムコ|JP|ナムコ|EU|[[エレクトロニック・アーツ]]}} | [[DVD#DVD-ROM|DVD-ROM]]<small> (PS2,XB)</small><br />[[8センチDVD|8センチ光ディスク]]<small> (GC)</small><br />CD-ROM<small> (WIN)</small> | {{vgrelease new|NA|SLUS-21164<small> (PS2)</small>|NA|SLUS-20273GH<small> (PS2廉価版)</small>|NA|DOL-G5NE-USA<small> (GC)</small>|JP|SLPS-25590<small> (PS2)</small>|EU|SLES-53957<small> (PS2)</small>|EU|DOL-G5NE-EUR<small> (GC)</small>}} | | 日本ではPS2版のみ発売 |- | style="text-align:right" |26 ! ゼビウス | {{vgrelease new|INT|2006-05-05}} | [[Xbox 360]] | バンナム | バンナム | ダウンロード<br />([[Xbox Live|Xbox Live Arcade]]) | | | |- | style="text-align:right" |27 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2006-12-02|EU|2007-01-12|NA|2007-01-15}} | [[Wii]] | バンナム | バンナム | ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]]) | {{vgrelease new|JP|FASJ|EU|FALP|NA|FASE}} | | FC版の移植。<br />2019年1月31日 配信・販売終了<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2017/0929.html |title=「Wiiショッピングチャンネル」終了のお知らせ |access-date=2023-03-01 |publisher=任天堂}}</ref> |- | style="text-align:right" |28 ! ナムコミュージアムDS | {{vgrelease new|NA|2007-09-18|JP|2007-10-11|EU|2008-02-29}} | [[ニンテンドーDS]] |[[M2 (ゲーム会社)|エムツー]] | バンナム | DSカード | {{vgrelease new|NA|NTR-YNME-USA|JP|NTR-YNMJ-JPN|EU|NTR-YNMP-EUR}} | | 画面モード4種<ref group="注釈">縦画面2種+横画面2種。縦画面は天地方向の設定可。また、使用する画面、画質(ソフト/シャープ)の選択も可能。国内版に限り、[[ナムコミュージアム#画面モード|ライブモニター機能]]も搭載。</ref> |- | style="text-align:right" |29 ! {{vgrelease new|NA|[[:en:Namco Museum Remix|Namco Museum Remix]]|JP|[[みんなで遊ぼう!ナムコカーニバル]]|EU|Namco Museum Remix}} | {{vgrelease new|NA|2007-10-23|JP|2007-12-06|EU|2008-04-18}} | Wii | バンナム | バンナム | Wii用12cm光ディスク | {{vgrelease new|NA|RVL-RN2E-USA|JP|RVL-RNWJ-JPN|EU|RVL-RN2P}} | | |- | style="text-align:right" |30 ! ナムコミュージアム バーチャルアーケード | {{vgrelease new|NA|2008-11-04|EU|2009-05-15|JP|2009-11-05}} | Xbox 360 | バンナム | バンナム | DVD-ROM | {{vgrelease new|NA|21022|JP|2RD-00001}} | | |- | style="text-align:right" |31 ! {{vgrelease new|JP|ナムコミュージアム.comm|NA|Namco Museum Essentials|EU|Namco Museum Essentials}} | {{vgrelease new|JP|2009-01-29|NA|2009-07-16|PAL|2010-04-01}} | [[PlayStation 3]]<br />([[PlayStation Network]]) | バンナム | バンナム | ダウンロード | {{vgrelease new|JP|NPJB-00012|NA|NPUB-30086|EU|NPEB-00104}} | | 2018年3月15日配信終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://bnfaq.channel.or.jp/information/detail/2893 |title=PlayStation®3用ソフト「ナムコミュージアム.comm」「ナムコミュージアム BETA(無料体験版)」配信終了のお知らせ |access-date=2023-03-01 |publisher=バンダイナムコエンターテインメント}}</ref> |- | style="text-align:right" |32 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2009-09-01}} | Wii | バンナム | バンナム | ダウンロード<br />(バーチャルコンソールアーケード) | | | 2019年1月31日 配信・販売終了<ref name=":0" /> |- | style="text-align:right" |33 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2010年1月7日<ref>{{Cite web|和書 |author= 階堂綾野 |date= 2010-1-7 |url=https://www.inside-games.jp/article/2010/01/07/39742.html |title=iモードに『ゼビウス』アレンジ版が新登場! |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2019-2-17}}</ref>}} | [[FOMA]]903i以降<br />(iアプリ) | バンナム | バンナム | ダウンロード | | | |- | style="text-align:right" |34 ! [[:en:Namco_Museum_Remix#Namco_Museum_Megamix|Namco Museum Megamix]] | {{vgrelease new|NA|2010-11-16}} | Wii | バンナム | バンナム | Wii用12cm光ディスク | | | 「Namco Museum Remix」の増補版 |- | style="text-align:right" |35 ! [[3Dクラシックス]] ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2011-06-07|NA|2011-07-21|EU|2011-07-21}} | [[ニンテンドー3DS]] | [[アリカ]]<ref name="nintendo">{{Cite web|和書|date=2011-06-02|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/eshop/vol1/index4.html|title=社長が訊く『ニンテンドーeショップ』 4. クラシックゲームの名作を3Dに|publisher=任天堂|accessdate=2011-06-02}}</ref> | [[任天堂]] | ダウンロード | {{vgrelease new|JP|CTR-SABJ-JPN|NA|CTR-SABE-USA|EU|CTR-SABP-EUR}} | | 3D映像対応<br />2023年3月28日配信終了<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2022/0216.html |title=ニンテンドー3DSシリーズおよびWii Uの「ニンテンドーeショップ」 サービス終了時期に関するお知らせ |access-date=2023-03-30 |publisher=任天堂}}</ref> |- | style="text-align:right" |36 ! [[NAMCO ARCADE]] | {{vgrelease new|INT|2012-01-26}} | [[iPhone 4]]以降<br />[[iPod touch]]第4世代以降<br />[[iPad 2]]以降<br />([[iOS]]) | バンナム | バンナム | ダウンロード | | | 2016年3月15日、サービス終了<ref>{{Cite web |url=https://applion.jp/iphone/app/465606050/ |title=NAMCO ARCADE [iPhone] |access-date=2023-03-01 |website=APPLION}}</ref> |- | style="text-align:right" |37 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2013-04-27|NA|2013-05-09|EU|2013-05-09}} | [[Wii U]] | バンナム | バンナム | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | {{vgrelease new|JP|FALJ|NA|FALE|EU|FALP}} | | FC版の移植 2023年3月28日 配信終了<ref name=":3" /> |- | style="text-align:right" |38 ! NAMCO ARCADE | {{vgrelease new|INT|2015-06-09}} | [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] | バンナム | バンナム | ダウンロード | | | 2016年3月15日、サービス終了<ref>{{Cite web |url=https://applion.jp/android/app/com.bandainamcogames.namcoarcade/ |title=NAMCO ARCADE [Android] |access-date=2023-03-01 |website=APPLION}}</ref> |- | style="text-align:right" |39 ! [[ナムコットコレクション|NAMCO MUSEUM ARCHIVES Vol.1]] | {{vgrelease new|INT|2020-06-18}} | [[Nintendo Switch]](日本国外)<br />[[PlayStation 4]]<br />[[Xbox One]]<br />[[Windows]]([[Steam]]) | [[B.B.スタジオ]]<br />エムツー | バンナム | ダウンロード | | | [[:en:Nintendo Entertainment System|NES]]版を収録 |- | style="text-align:right" |40 ! ゼビウス<br />([[ナムコットコレクション]]版) | {{vgrelease new|JP|2020-08-20}} | Nintendo Switch | B.B.スタジオ<br />エムツー | バンナム | Switch専用ゲームカード<br />ダウンロード | | | FC版の移植<br />DLC第3弾10タイトル中の1本 |- | style="text-align:right" |41 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2020年10月9日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2020/10/09/%e3%80%8e%e3%82%bc%e3%83%93%e3%82%a6%e3%82%b9%ef%bc%88%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%82%b1%e3%83%bc%e3%83%89%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%82%af%e3%83%88egg%e3%81%ab/ |title=『ゼビウス(アーケード版)』プロジェクトEGGにて緊急配信開始 |publisher=[[D4エンタープライズ]] |language=[[日本語]] |date=2020-10-09 |accessdate=2020-10-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Gueed |date=2020-10-09 |url=https://www.4gamer.net/games/008/G000896/20201009028/ |title=「ゼビウス(アーケード版)」がプロジェクトEGGに本日登場。縦スクロールシューティングの名作が“緊急前倒し配信” |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-10-09}}</ref>}} | Windows | バンナム | [[D4エンタープライズ]] | ダウンロード<br />([[プロジェクトEGG]]) | | | 2021年9月30日配信終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2021/09/22/%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%82%af%e3%83%88egg%e3%80%8c%e3%82%bc%e3%83%93%e3%82%a6%e3%82%b9%ef%bc%88%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%82%b1%e3%83%bc%e3%83%89%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8d%e3%80%8c/ |title=プロジェクトEGG「ゼビウス(アーケード版)」「パックランド(PCエンジン版)」「エアロクロス(アーケード版)」「バトルシティー(コンシューマー版)」販売終了のお知らせ |publisher=[[D4エンタープライズ]] |language=[[日本語]] |date=2021-09-22 |accessdate=2021-09-24}}</ref> |- | style="text-align:right" | 42 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2021年9月24日<ref name="famitsu24234739">{{Cite web|和書|date=2021-09-24 |url=https://www.famitsu.com/news/202109/24234739.html |title=アケアカにバンナムが参戦決定!『パックマン』と『ゼビウス』が即日配信開始【Nintendo Direct】 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=KADOKAWA Game Linkage |accessdate=2021-09-24}}</ref>}} | Nintendo Switch | ナムコ | [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]] | ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]]) | | | |- | style="text-align:right" | 43 ! ゼビウス | {{vgrelease new|JP|2021年10月7日<ref name="famitsu24234739" />}} | PlayStation 4 | ナムコ | ハムスター | ダウンロード<br />(アーケードアーカイブス) | {{Vgrelease new|JP|CUSA-29409|NA|CUSA-29410|EU|CUSA-29411}}<ref>{{Cite web |url=https://gamefaqs.gamespot.com/ps4/333421-arcade-archives-xevious/data |title=Arcade Archives: Xevious – Release Details |access-date=2023-03-04 |website=GameFAQs}}</ref> | | |- | style="text-align:right" | 44 ! [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online|ファミリーコンピュータ<br />Nintendo Switch Online]] | {{vgrelease new|NA|2023-03-16|JP|2023年3月16日<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/c72e939c-c7ed-4db7-b1b8-564f7e3c24a1 |title=【3月16日追加】「ファミリーコンピュータ&スーパーファミコン&ゲームボーイ Nintendo Switch Online」追加タイトルが配信開始。 |publisher=[[任天堂]] |date=2023-03-16 |accessdate=2023-03-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202303/16296169.html |title=Nintendo Switch Onlineに『星のカービィ2』、『ゼビウス』、『サイドポケット』、『バーガータイムデラックス』の4タイトルが追加 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2023-03-16 |accessdate=2023-03-16}}</ref>}} | Nintendo Switch | 任天堂 | 任天堂 | ダウンロード | - | | FC版の移植 |} === 日本国内PC版 === まだ本作の移植版がなかった1983年6月<ref>{{Cite journal|publisher=工学社|year=1983年|title=広告「ENIX NEWGAME6月に発売予定。」|journal=月刊I/O 7月号|page=152頁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamepres.org/pc88/library/1983/1983_6.htm |title=1983年6月発売のソフト |access-date=2023-03-21 |website=PC88 Game World}}</ref>、プログラマー[[森田和郎]]が製作した縦スクロールシューティングゲーム『アルフォス』が[[エニックス]]から発売された。対象機種は[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]及び[[パソピア|パソピア7]]。『ゼビウス』を強く意識したゲーム内容であったため、発売に際しナムコから許諾を得ている(ナムコのコピーライト表記があるのはそのため)<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1137444.html |title=あの「ゼビウス」っぽいゲームをPC-8801でも遊べた!~1983年発売「アルフォス」~ |access-date=2023-03-20 |publisher=インプレス |website=AKIBA PC Hotline!}}</ref>。森田曰く「マイコンでゼビウスのようなゲームが本当に不可能か、試しに作ってみたら作れてしまった」とのことで、遠藤も完成度の高さを認めている<ref name="vs">{{Cite journal |和書 |title = MSXパワートーク 遠藤雅伸 vs 森田和郎 |date = 1983-11-01 |publisher = [[アスキー (企業)|株式会社アスキー]] |journal = [[MSXマガジン]] |ref = harv}}</ref>。 1984年3月<ref name=":2" />に[[電波新聞社]]から発売された[[PC-6001]]版ゼビウスは、登場キャラクターは概ね同じであるものの<ref group="注釈">テラジやボザログラムなどが登場しない一方で、隠れキャラとして[[パックマン]]やアカベイが登場する。</ref>、ハードウェア上の制約などから、別物と言えるほど原作から乖離したビジュアル・内容となっている。そのため、ナムコからゼビウスの名を冠することを許可されず『[[タイニーゼビウス]]』(小さなゼビウスの意)という名称となった。なお、作者の[[松島徹]]は作品持ち込み当時中学生であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/hyperlink/setframe_creators_fujioka_4p_1.html |title=Game Frontiers マイコンソフト 藤岡 忠「●伝説のタイニーゼビウス~松島氏のこと」 |access-date=2023-03-20 |publisher=寺町電人 |website=CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY 2001}}</ref>。同年11月<ref name=":2" />には[[PC-6001mkII]]用に、マップやBGMなどをアーケード版に近づけた『[[タイニーゼビウス#タイニーゼビウス mkII|タイニーゼビウス mkII]]』も発売された。 [[MZ-700]]版は日本ソフトバンク(現[[ソフトバンクグループ]])発行の[[パソコン雑誌]]「[[Oh!X|Oh!MZ]]」1986年11月号にて、プログラムリスト掲載という形で発表された。掲載タイトルは『[[タイニーゼビウス#タイニーゼビウス for MZ-700|tiny XEVIOUS for 700]]』。作者は掲載当時高校生であった古籏一浩<ref>{{Cite journal|publisher=日本ソフトバンク|year=1986年|title=tiny XEVIOUS for 700|journal=Oh!MZ 11月号|page=32-41頁}}</ref>。 電波新聞社による[[X1 (コンピュータ)|X1]]版を皮切りに、タイニーではない『ゼビウス』もリリースされた。 ;* X1版 : 1984年5月発売。プログラム担当は[[藤岡忠]]。ゲーム起動時にエリア3までのデータを読み込み、エリア4以降はプレイ中、エリア移行時にデータをロードする方式が採られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1345385.html |title=X1版『ゼビウス』、マイコン少年少女達へセカンドインパクトをもたらした名移植作品 |access-date=2023-03-11 |publisher=インプレス |website=AKIBA PC Hotline!}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|別売のEMM(320Kバイト外部メモリ)に対応しており、オンメモリでの動作も可能となっている<ref>{{Cite journal|publisher=日本ソフトバンク|year=1984年|title=果てしなきスクロールの世界「激突!XEVIOUS vs THUNDER FORCE」|journal=Oh!MZ 8月号|page=74頁}}</ref>。 また、タイトル画面表示中ESCキー押下で、ゲーム開始エリアを任意選択することもできる。これは同社の移植版『ゼビウス』で共通の仕様となっている(タイニー系を除く)。}}。テキスト画面を、通常のキャラクタの半分である4ピクセル、表示行を通常の倍である50行と設定することによって、4ドット単位でのスクロールを実現している。動きはややぎこちないものの、基本的な内容はアーケード版に沿ったものになっており、地上絵やアンドアジェネシスの浮遊なども再現されている。 : 「X1のキーボードでは、ゼビウスのほんとうのおもしろさを体験できないし<ref group="注釈">X1はキーの同時押し入力に制限があり、またゲームの性質上、自機の移動中にも攻撃を行う必要があることから、移動キーを離した後も自機が移動し続ける仕様となっている。自機の停止にはテンキーの「5」を入力する必要があるため、操作には慣れが必要である。</ref>、市販の[[ジョイスティック]]には2トリガボタンのものがなかった<ref>{{Cite book|和書 |title=ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて |url=https://www.worldcat.org/oclc/674287605 |publisher=電波新聞社 |date=1987-01-20 |isbn=4-88554-107-7 |oclc=674287605 |page=301}}</ref><ref group="注釈">参考として、月刊『ログイン』1983年11月号124頁の記事「カタログ・ジョイスティック」では、2トリガジョイスティックもいくつか掲載されているが(掲載6品中4品)、スティック部はラジコンのプロポで使われるような細いツマミ形状で、価格も7,500~8,500円と比較的高額である(X1用『ゼビウス』単品とジョイスティック同梱版との差額は1,600円、[[マイコンソフト#INTELLIGENT JOYSTICK XE-1シリーズ|XE-1]]単品価格は3,900円)。(旧型ジョイスティック参考:AKIBA PC Hotline「[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/wakiba/retro/595368.html ~ 九十九電機製ジョイスティックなど ~]」)</ref>」との理由から、ジョイスティック同梱パッケージが同時発売された<ref group="注釈">同梱されたジョイスティックは[[アタリ仕様ジョイスティック|アタリ規格]]に準拠しており、同規格端子を搭載した機種(X1・[[MSX]]・PC-6001等)で使用することができた。後に「XE-1」として単品販売された。</ref>。 ;* [[FM-7]]/[[FM-77]]版 : 1984年11月に電波新聞社より発売。プログラム担当は道浦忍。プレイ中、1エリア毎のロードが必要となり、またX1のような[[データレコーダ]]の制御<ref group="注釈">X1の本体内蔵データレコーダには高速電磁メカが使われており、人力(ボタン操作)に依らず、プログラムからテープの走行や頭出しなどの動作を制御できた。</ref>も不可能であったため、フロッピーディスク版のみの発売となった<ref name=":1" />。キーボードでの操作に難があることから<ref group="注釈">ハードウェアの仕様上、キーを離したことを検出できないため、移動を止めるには別のキーを押す必要がある。</ref>、ジョイスティック同梱版が同時発売された{{Refnest|group="注釈"|ジョイスティック自体はX1版に同梱されたものと同等であるが、該当のFMシリーズはアタリ規格のジョイスティック端子が未搭載であったため、プリンタ・ポート接続用インターフェース基板も併せて同梱された。これらは後に「XE-7」(FM-7/NEW7用)及び「XE-77」(FM-77用)として電波新聞社より商品化されており、FM版『ゼビウス』以降に発売された同社のFMシリーズ用ゲームソフト全てに対応している<ref>{{Cite book|和書|editor=マイコンBASICマガジン編集部|editor-link=マイコンBASICマガジン|title=ナムコゲームのすべて|origyear=1985|year=1987|publisher=[[電波新聞社]]|isbn=978-4-88554-107-0|page=253}}</ref>。}}。 : 地上マップはX1版と概ね共通だが、キャラクターは配色等の関係から視認性に劣る。FM版独自の仕様として、エリアの70パーセントを越えた際に『OVER 70% OF THE AREA』の表示が出る。また、隠れキャラとして「ゼビカイト」(通称「ギャラクシアン」)が出現する<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1985年|title=FMゼビウス情報|journal=マイコンBASICマガジン 2月号|page=217頁}}</ref><ref group="注釈">ボザログラムを誘爆させずに周囲から破壊し、最後に中央部を破壊すると出現する。撃破すると7,650点。この出現方法は当時流行った「[[#終局が存在する|ゼビウス星の噂]]」に対するパロディとなっている。</ref>。 ;* [[PC-8000シリーズ|PC-8001mkIISR]]版 :[[1985年]]9月に電波新聞社から発売。本作以降、同社の移植版『ゼビウス』は全て藤岡忠がメインプログラマーを務めている。メディアはカセットテープのみだが、起動時にゲームに必要な全データを読み込む「オンメモリ方式」が採られており、プレイが中断されることは無い。VRAMが2面あることを利用して、キャラクターが重なった際のキャラクター欠けを軽減し、2ドット単位の背景スクロールを実現している。 ;* [[PC-8800シリーズ|PC-8801]]版 :1985年10月に[[エニックス]]から発売。作者は[[鈴木孝成]](芸夢狂人)。開発開始時点では、[[PC-8801mkIISR]]は発売されていなかったため、V2モードでは起動せず、V1モードのみの対応となっている。一方で、SR以降でのプレイ時のみスクロールの精度が上がり、FM音源によるBGMが演奏される仕様となっている([[サウンドカード|FM音源ボード]]「[http://pc88pc98.web.fc2.com/pc-8801etc/pc-8801-11.html PC-8801-11]」には非対応)。 : 画面処理軽減のため、描画面積は他機種版より小さく、使用可能な色数も制限されている<ref group="注釈">空中物(弾を含む)が白1色、地上物が4色(白・黒・赤・緑)。青が使えないので水面は黒で表現された。</ref>。また、一部の敵アルゴリズムに原作との相違が見られる<ref group="注釈">目立つ所では、ザカートが一斉に弾を撃つ、一部グロブダーの回避行動の有無の相違など。</ref>。作者のオリジナリティの発露として、「46本目のソル」や「エリア17」等、独自の隠し要素が仕込まれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210228072229/http://88kyou.web.fc2.com/kouryaku/xevious/xevi17.htm |title=ゼビウス AREA17への道の巻 |access-date=2023-03-13 |publisher=へりこいど |website=88狂時代}}</ref>。 ;* [[MZ-2500]]版 : 1986年1月に電波新聞社から発売。ハードウェアによるスムーススクロール、4,096中16色のパレットボードに対応し、データ圧縮によるオンメモリでの動作を実現した。後半部分には『スーパーゼビウス』のデータも含む{{Refnest|group="注釈"|同社他機種版同様、タイトル画面表示中ESCキー押下で開始エリアを選択できるが、更に「アルゴキー」を押すと「SUPERモード」であるエリア17~32も選択可能となる(エリア17=『スーパーゼビウス』のエリア1)<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1986年|title=広告:Super mz XEVIOUS「Let's PLAY SUPER XEVIOUS」|journal=マイコンBASICマガジン 4月号|pages=222-223頁}}</ref>。}}。ソフト発売後、ジョイスティック「XE-1」の改良型「XE-1b」同梱パッケージも発売された。 === ファミリーコンピュータ版 === 1984年11月発売。ファミリーコンピュータ版(以下、FC版)は当時としてはかなり良くできた移植作ではあるものの、アーケード基板とファミコンのハードウェア性能の格差から、アーケード版(以下、AC版)オリジナルの画像表現・演出と比較して制約されたものとなっている。 * タイトルロゴは専用のキャラクタ・データ用のメモリ容量がなかったため、8×8ドットのモザイクパターンの組み合わせで表現せざるを得なかった。続編となる『ガンプの謎』ではオリジナルに近いものになっている。 * ナスカの地上絵は、アンドアジェネシスか地上絵かのどちらかしか入らない残りメモリ容量だったためにやむなくカットされている。 * [[スプライト (映像技術)|スプライト]]最大表示数に制限があり、バックグラウンド画面(BG面)を1枚しか持たないハードウェア仕様の制約上の都合から、アンドアジェネシスは地上物のようにスクロールと連動する形となった。 * AC版は縦長の画面、FC版は横長の画面のため、FC版はスクロール速度が遅く、相対的にソルバルウの移動時の速度が速く調整されており、その分難易度は低い。但しスパリオを発射する間隔がほぼ一定間隔となっているため(AC版ではランダム性が強い)敵によってはAC版より攻撃が激しくなっている(ガルデロータ、デロータ、テラジなど)。 * ブラスターの照準がAC版より若干広く2体同時破壊がやりやすい。また、ブラスターの速度もAC版より少し速い。 * ソルが出現し始めてから破壊可能になるまでの時間がAC版よりかなり短く、破壊しやすいため得点を得やすい。 * 地上物やソルの位置がAC版より若干変更されている。 * アンドアジェネシス出現時に一時スクロールが停止するようになった。このためアルゴ稼ぎがやりやすい。 * バキュラが画面上に最大4枚しか同時に出ない(スタートボタン連打の連続ポーズで4枚以上のバキュラを表示できる裏技が存在する)。 * 10000点グロブダーのアルゴリズムがAC版と若干異なり破壊することが事実上不可能となった<ref group="注釈">YouTube動画「[https://www.youtube.com/watch?v=Qp6R8LaqSdk#t=6m50s FC版ゼビウス 1万点グロブダーを倒したい 完結編]」にて、自機との相討ちによる破壊が確認されている。</ref>。 * AC版のように1000万点を超えても敵を1機倒すだけで残機が増えることはない(仕様上は1億点までありそれを超えるとスコアは0に戻る)。また、2進数の仕様上、残機128機以上で1ミスするとゲームオーバーとなる(原理は[[スーパーマリオブラザーズ]]の[[無限増殖]]などと同じ)。 こうした制約はあったものの、ゲーム性についてはAC版をほぼそのまま移植することに成功したことで完成度は高く、このゲームを楽しみたいがためにファミコンを購入するユーザーも増え、ファミコンブームの要因の一つとなった{{Sfn|成沢編|1991|p=132}}。ナムコ以外のソフト制作会社にも影響を与え、ゼビウスを見てファミコンソフト制作に踏み切ったソフト会社もいくつか存在した<ref name="成沢">{{Harvnb|成沢編|1991||p=6}}</ref>。FC版発売当時は、コントローラのボタンがシリコン樹脂になっている初期型のファミコンを所有するユーザも多く、ゼビウスを契機に連射のしやすいプラスチック製のボタンに交換するユーザも多く見られた。 2004年には「[[ファミコンミニ]]」の1つとして[[ゲームボーイアドバンス]]に移植されており、[[携帯型ゲーム機]]でも遊べるようになった。同作は日本国内において、ゲームボーイアドバンスのシューティングゲームの中ではもっとも多い売上本数を記録している{{Efn|2005年9月23日現在で、推定約12.4万本([[メディアクリエイト]]提供データを元にした、[[ニンテンドードリーム]]独自調査数値)<ref>[[ニンテンドードリーム]] 12月号(第10巻第15号〈通巻140号〉、2005年12月1日発行)特別付録「GAMEBOY micro対応完全ソフトカタログ」p.152</ref>。}}。 === ナムコミュージアム版 === 『[[ナムコミュージアム]]』ではゲームボーイアドバンスを除いた各機種に収録されている。 *[[1996年]][[2月9日]]発売の[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『ナムコミュージアム Vol.2』に収録。テラジの動きがオリジナルと違って横方向への反転がなく、撃墜しやすくなっている。[[PlayStation 2]]で起動させるとソフトの互換性に問題があり動作が非常に遅くなる。[[PSX]]および[[PlayStation 3]]では正常に動作する。 *[[2006年]][[1月26日]]発売のPlayStation 2版『ナムコミュージアム アーケードHITS!』に収録。 *2006年[[2月23日]]発売の[[PlayStation Portable]]版『ナムコミュージアム Vol.2』に収録。AC版の仕様が初めて携帯型ゲーム機に完全移植された。 *[[2007年]][[10月11日]]発売の[[ニンテンドーDS]]版『ナムコミュージアムDS』に収録。マニアックオプションのバージョン設定から『スーパーゼビウス』をアンロック可能。 *2007年[[12月6日]]発売の[[Wii]]版『[[みんなで遊ぼう!ナムコカーニバル]]』に収録。 *[[2009年]][[1月29日]]配信開始のPlayStation 3版『ナムコミュージアム.comm』に、新作『ゼビウスリザレクション』と共に収録。 *2009年[[11月5日]]発売の[[Xbox 360]]版『ナムコミュージアム バーチャルアーケード』に収録。 === その他 === *アーケードタイトルでは、[[1995年]]発売の『[[ナムコクラシックコレクション#ナムコクラシックコレクション Vol.1|ナムコクラシックコレクション Vol.1]]』に収録され、[[ゲームセンター]]への再登場を果たした。同作には、続編の『スーパーゼビウス』および新作の『[[ナムコクラシックコレクション#ゼビウス・アレンジメント|ゼビウス・アレンジメント]]』も同時収録されている [[1998年]]に発売された『[[てんこもりシューティング]]』には、制限時間内にアンドアジェネシスを破壊するステージが存在する<ref group="注釈">ステージ内容は、原作におけるエリア7の地上絵上空でアンドアジェネシスと対峙するという独自のシチュエーションとなっている。残機制限は無く、ミスした際は[[復活 (コンピュータゲーム)|その場復活]]となる(ミス後に敵が画面右上に向かって弾を撃つ仕様も再現されている)。</ref>。 *[[Microsoft Windows|Windows]]版は、[[1997年]][[4月25日]]発売の『[[ナムコヒストリー|ナムコヒストリー VOL.1]]』に収録されている。同ソフトにはオマケとして、[[デスクトップの背景|壁紙]]・[[スクリーンセーバー]]・ムービー<ref group="注釈">[[#CG短編映画「ゼビウス」|CG短編映画「ゼビウス」]]の本編映像のみ収録(約1分半)。音声は入っていない。</ref>・ソルバルウとタルケンの[[ペーパークラフト]](画像データ)も付属している。また、[[メディアカイト]]の低価格ゲームシリーズでも単品商品化されており、[[1999年]][[4月16日]]にSUPER1500シリーズ版が、[[2001年]][[2月23日]]にはULTRA2000シリーズ版が発売された。 *『[[スターフォックス アサルト]]』([[2005年]][[2月24日]]/[[ニンテンドーゲームキューブ]])には、ボーナスゲームとしてFC版が収録されており、本編で特定の条件を満たすとプレイ可能となる。 *『[[リッジレーサー7]]』([[2006年]]/[[PlayStation 3]])には起動時[[ミニゲーム]]として収録されている。また、本編を進めると、オプション内のミニゲームから無制限でプレイ可能となる。 *[[ニンテンドーeショップ]]では、[[2011年]][[6月7日]][[ニンテンドー3DS]]用に『[[3Dクラシックス]] ゼビウス』が配信された。開発は[[アリカ]]<ref name="nintendo" />。3D映像([[立体視]])対応により高低差が立体的に見える新要素が加わっている。[[画面アスペクト比]]の違いから描画範囲が横に長く、両端は流れる雲で覆われている。基本的にAC版に忠実な移植だが、移動可能範囲が広くなった分、敵や弾を避け易くなっており、難易度は下がっている。また、スペシャルフラッグを出現させるだけでエクステンドする仕様変更のほか、獲得ポイントに倍率が掛かる「ラッキーフラッグ」や、エリア単位での中断機能「きゅうけい」等が追加され、[[カウンターストップ]]の9,999,990点に到達し易く作られている。カウンターストップを達成すると、「CONGRATULATIONS!」のメッセージ表示後、[[ネームエントリー]]に移行しゲーム終了となる。また、[[2013年]][[4月27日]]には[[Wii U]]用[[バーチャルコンソール]]ソフトとして、FC版が配信された(かつてはWii版バーチャルコンソールでもFC版とAC版が配信されていた)。上記2本は、[[2023年]][[3月28日]]のWii U及び3DSにおけるニンテンドーeショップのサービス終了に伴い、配信を終了した。 *[[2012年]][[1月26日]]発売の[[iOS]]用アプリ『[[NAMCO ARCADE]]』に収録。2016年3月15日、配信終了。 *2021年に配信された[[アーケードアーカイブス]]版は「こだわり設定」の項目が充実しており、画面の焼き付きや幻のソル(46本目のソル)の出現などの定番項目に加え、空中物出現テーブルの表示やソル・スペシャルフラッグ出現位置可視化、総攻撃の再現などのオン/オフを設定できる。 == 開発 == * [[ナムコ]]の業務用[[ビデオゲーム]]には全て、開発コードが「V-1」から開発順に割り振られており{{Refnest|group="注釈"|「V」はVideoの頭文字で、ビデオゲームであることを表す。「V-1」はナムコ初のビデオゲーム『[[ジービー]]』であるが、続編の『[[ジービー#ボムビー|ボムビー]]』・『[[ジービー#キューティQ|キューティQ]]』もジービーの派生タイトルとして同一番号が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=d8LGQaCLQp8#t=1h11m16s |title=第394回 アーケードアーカイバー ギャラクシアンスペシャル! |access-date=2023-04-10 |publisher=Google |website=YouTube}}</ref>。また、「V-5」(ミニゴルフ)のように開発コードが付与された後に未発売となるケースもあるため<ref>{{Cite book|和書 |title=ギャラクシアン創世記 -澤野和則 伝- |date=2018-05-20 |publisher=ゲー夢エリア51 |pages=172 |author=ぜくう}}</ref>、実際に発売されたゲームタイトルの数・順番と開発コードの番号は一致しない点に注意が必要である。}}、本作のコードは「V-10」となっている{{Refnest|group="注釈"|本作のタイトルの綴り「XEVIOUS」の“VIO”を“V10”と読むことができるが、これは意図されたものではない。ゲームデザインを担当した遠藤雅伸は、後の対談で「作ったあとに気がついた」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/xevious/2 |title=「ゲームの企画書」第一回 『ゼビウス』はどのように企画されたのか |access-date=2023-03-12 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref>。}}。 : 初期案は[[ベトナム戦争]]をモチーフにしたヘリコプターによるシューティングゲーム『[[シャイアン (ゲーム)|シャイアン]]』(Cheyenne)である。発案者は澤野和則。発想の起点は「[[コナミグループ|コナミ]]の『[[スクランブル (ゲーム)|スクランブル]]』([[1981年]])を縦スクロール化したら面白いゲームが作れるのでは?」というもの<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=ギャラクシアン創世記 -澤野和則 伝- |date=2018-05-20 |publisher=ゲー夢エリア51 |pages=159-160 |author=ぜくう}}</ref>。その後、企画は伊藤博仁、池上正寿へと引き継がれていく。 : 当時、新入社員であった[[遠藤雅伸]](EVEZOO END)は、シャイアンがある程度形になった段階でプログラマーとして開発に加わり、池上や基本プログラムを担当した[[深谷正一]]らと共にP1(試作1号機)の完成に尽力する。遠藤は深谷を「プログラムの師」と公言している<ref name=":5">{{Cite book|和書 |title=小説ゼビウス ファードラウトサーガ |url=https://www.worldcat.org/oclc/674266449 |publisher=双葉社 |date=1991-08-10 |isbn=4-575-23076-6 |oclc=674266449 |others=遠藤雅伸 |page=246-250}}</ref>。 : P1完成後、池上はバイクで[[サハラ砂漠]]を横断するために[[アフリカ]]へ渡り、帰国後退社した<ref group="注釈">後に池上は「アニメ好きでオタク的なところのある遠藤氏と話が合わなかった」と佐藤誠市との対話の中で述べている([https://togetter.com/li/179133?page=4 togetter「佐藤誠市氏によるナムコ80年代ゲーム作品についての証言」])。</ref>。 * P1によるゲーム内容の検討が行われる中で、現実の戦争(人の死・悲惨さ)を想起させる表現に対し疑問が呈され、SF的な作風への方向転換が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20180313040/ |title=ビデオゲームの語り部たち 第4部:石村繁一氏が語るナムコの歴史と創業者・中村雅哉氏の魅力 |access-date=2023-03-21 |publisher=Aetas |website=4Gamer.net}}</ref>。キャラクターやサウンドは全て作り直すこととなり、タイトルも『パンツァー』(Panzer)に変更された。 : 新たなキャラクターを模索する過程で、遠藤が試作したキャラクター「[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]{{Refnest|group="注釈"|ドット絵による立体感・奥行き表現の試行のために作られた、「バキュラ」を半分に切って縦にしたような16×16ドットのキャラクター。8パターンの書き換えで、見事な回転を見せたという<ref name=":5" />。}}」によって、灰色のモノトーンを基調とするデザインの方向性が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://img-denfaminicogamer.com/wp-content/uploads/2015/07/Making-of-Xevious-P6.jpeg |title=THE MAKING OF XEVIOUS 6頁 |access-date=2023-03-21 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref>。遠藤は次いで、敵キャラクターの赤い光点が滑らかに明滅する演出も試行し、明滅の周期を心臓の鼓動に近付けると迫力が増すこと、キャラクターに意志があるように感じられることを見いだし、ゲームに採り入れている。さらに、自らが抱いていたシューティングゲームに対する矛盾点「敵が命を惜しまず自機の火線上に身を晒し、体当たりをして来ること」「料金は同額なのに、下手なプレイヤーは短時間しかプレイできないこと」を解消すべく、自機の̠前に敵機を出現させない、有人機に体当たりをさせないなどの原則を徹底し、空中物出現テーブルによる簡易な自動難易度調整システムを搭載して、既存のゲームとの差別化を図った<ref name=":5" />。 *P2(市販機)の製作に入る際に行われた企画会議の中で、ゲームのタイトルが『ゼビウス』に決定した。響きが「[[メビウスの帯|メビウス]]」に近くて格好良い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20160531025/ |title=「パックマン」と「ゼビウス」の開発者が当時の秘話や将来的なゲームの姿を語った。“ナイト「GAME ON」第三夜”の模様をレポート |access-date=2023-03-22 |publisher=Aetas |website=4Gamer.net}}</ref>、濁点が付いていて力強い<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/169 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:169 |access-date=2023-03-22 |publisher=Loki Technology, Inc. |website=5ちゃんねる}}</ref>など、イメージ先行で付けられた名称に意味を持たせるべく、遠藤ら開発陣は架空の言語「[[#ゼビ語|ゼビ語]]」を考案する。ゼビ語はキャラクターのネーミングにも用いられ、名称に規則性・統一性を与えた。なお、会議に出席を許されなかった遠藤はそれを不満に思い、「自分を同席させないで決められた『ゼビウス』という名に非常につまらない意味を与えてやろうと、主人公キャラでも自機の名前でもなく、敵側の星の名前にした」と後年になって明かしている<ref>スーパーヒットゲーム学, 1998年6月30日発行, 扶桑社</ref>。 * キャラクターデザインは、開発チームによるラフスケッチやドット絵を基に、[[遠山茂樹 (デザイナー)|遠山茂樹]]が(時に大幅なアレンジを加えて)デザイン画を描き起こし、そのデザインに沿うようドット絵を修正するという流れで作業が進められた。事前にストーリーや設定に関する説明が無かったため、遠山は「地球人と異星人の軍隊による戦い」を想定しデザインを行った。有人機・無人機などの設定も事後的に知らされたという<ref>{{Cite book|和書 |title=遠山茂樹作品集 インタビュー前編 |date=2012-12-30 |publisher=ゲー夢エリア51 |pages=110-111 |author=ぜくう}}</ref>。本作における遠山の貢献は大きく、本作を象徴するキャラクターの一つであるアンドアジェネシスも遠山のリデザインによる{{Refnest|group="注釈"|初期案は平面的な円盤のようなデザインであり([https://img-denfaminicogamer.com/wp-content/uploads/2015/07/Making-of-Xevious-P8.jpeg 参考画像])、その外見から「[[ゴーフル]]」のコードネームで呼ばれていた<ref>{{Cite journal|publisher=マイクロマガジン社|year=|date=2010年5月1日|title=スペシャルインタビュー 遠山茂樹氏|journal=ゲームサイド 5月号 Vol.23|page=65頁}}</ref>。}}。遠藤はメイキングの中で、遠山を「『ナムコの[[シド・ミード]]』ともいうべきデザイナー」と評している<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://img-denfaminicogamer.com/wp-content/uploads/2015/07/Making-of-Xevious-P9.jpeg |title=THE MAKING OF XEVIOUS 9頁 |access-date=2023-04-11 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref>。 : なお、本作のポスターやパンフレット、ポストカード等で使われているメカイラストの多くは、遠山の下絵・デザイン画を鏡泰裕がクリンナップしたものである<ref>{{Cite book|和書 |title=遠山茂樹作品集 インタビュー前編 |date=2012-12-30 |publisher=ゲー夢エリア51 |page=131 |author=ぜくう}}</ref>。 * 地図作成を担当した佐藤誠市のツイートによると、「[[ナスカの地上絵]]」の場所には当初「山」が表示される予定であった。しかし、退社した池上から引き継いだ地図データの山は平面的で、茶色のパッチワークのようなモノにしか見えなかったため、これを立体的に修正するよりも、ナスカの地上絵に変更した方が面倒がなく、ゼビウスの世界観にも合うのではないかと思い資料を探していた。偶然にも、地図デザイン担当の[[小野浩 (ゲームクリエイター)|小野浩]](Mr.ドットマン)が買い物帰りに手にしていたレコード屋の袋に何種類かのナスカの地上絵が描いてあったので、一番有名な[[ナスカの地上絵#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nazca colibri.jpg|ハチドリ]](実際には[[:ファイル:The Condor (226411781).jpeg|コンドル]]とされるもの)をドットにおこしてもらい表示したところ好評を得たという<ref>{{Cite web|和書|url=https://togetter.com/li/179133?page=4 |title=佐藤誠市氏によるナムコ80年代ゲーム作品についての証言 「ゼビウス」前史その2 企画者の退職とナスカの地上絵 |access-date=2023-04-09 |publisher=Togetter.inc |website=togetter}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|雑誌『[[GAME SIDE|ゲームサイド]]』2010年5月号 Vol.23(マイクロマガジン社)に掲載されたMr.ドットマンのインタビュー記事(60-63頁)には「山」についての言及は無く、地上絵を思い付くまで砂漠に何を置くかは未定であった旨が記載されている。また、ナスカの地上絵の発案について、『ゲームセンターCX』第7回に出演した遠藤雅伸は、[[岩谷徹 (ゲームクリエイター)|岩谷徹]]の功績として語っている<ref name=":22" />。}}。 *P2が完成し社内発表されたあと、遠藤雅伸によってバックストーリー「ファードラウト」が執筆された<ref name=":6" />。ゲーム発売後、「ファードラウト」は電波新聞社の雑誌・ムック本<ref name=":1" group="注釈" />や12インチシングル『スーパーゼビウス』の[[ライナーノーツ]]等に掲載され、1991年には「ファードラウト」を基に書き下ろされた『小説ゼビウス ファードラウトサーガ』が双葉社より出版された。 == 音楽 == [[ミニマル・ミュージック|ミニマル]]的で無機質な「[[BGM]]」や、一般的なメカの破壊音とはかけ離れた「敵飛行物体爆発音」など、本作における独特な音の表現は、現実の「戦争」や「殺し合い」のイメージを遠ざけることを重視し、採用されたものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/985005381/57 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ エリア2」レス番号:57 |access-date=2023-05-14 |website=5ちゃんねる}}</ref><ref name=":17" />。 また本作は、ビデオゲームのオリジナル音源を主体とした日本初の音楽アルバム『[[ビデオ・ゲーム・ミュージック]]』([[1984年]]4月/[[アルファレコード]])の1曲目を飾っている。このアルバムは、『ゼビウス』のファンであった[[イエロー・マジック・オーケストラ|Y.M.O.]]の[[細野晴臣]]と遠藤雅伸が雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』の誌上企画で行った対談をきっかけとして制作されたものであり、[[ゲームミュージック]]が[[音楽ジャンル]]として定着していく先駆けとなった<ref name="bestgame_20">{{Cite journal |和書 |title = 最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30 |date = 1991-07-01 |publisher = [[新声社]] |journal = ザ・ベストゲーム 月刊[[ゲーメスト]]7月号増刊 |volume = 6 |number = 7 |pages = 20 - 21 |id = 雑誌03660-7 |ref = harv}}</ref>。<br />後に本作のアレンジ楽曲を収録した[[12インチシングル]]『[[スーパーゼビウス (アルバム)|スーパーゼビウス]]』(1984年8月/アルファレコード)や、国内初のビデオゲームによる環境[[ビデオグラム|ビデオ]]<ref>{{Cite journal|publisher=ナムコ|date=1984年10月25日|title=環境ビデオ“ゼビウス”接近中!|journal=NG第7号|page=14頁}}</ref>『ゼビウス』(1984年12月 / CICビクター(現[[パラマウント・ピクチャーズ]]))なども発売された<ref name="bestgame_20"/>。 「[[スピードワゴンのキャラメル on the beach]]」([[TBSラジオ]])のオープニングに本作のBGMが使われていた。 『太鼓の達人 わいわいハッピー六代目』に、『[[ビデオ・ゲーム・ミュージック]]』に収録されている[[細野晴臣]]監修版の音源が収録されている。 == 流行と影響 == === 本作を取り巻いた噂 === {{出典の明記|section=1|date=2017年1月}} 本作ではこれまでにない「隠れキャラクター」というギミックを入れたことから、ゲーム内容が[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]と化し、多くの噂やデマが飛び交うことになった。 ==== 終局が存在する ==== 当時、特に広まったのが「ゼビウス星」に関する噂である。その内容は「エリア1最後のボザログラムを特定の順番で破壊し、次いで森の中に出現するゾルバクを撃破すると、蜘蛛のようなキャラクター『タランチュラ』が出現する。タランチュラが吹き付けてくる糸を避けて進むと、小型のアンドアジェネシスが登場し、猛攻撃を仕掛けて来る。その後『ゼビウス星』が姿を現し終局を迎える」というもの<ref>{{Cite journal|publisher=株式会社アスキー|year=1983年|title=少年は「ゼビウスの星」を見たか?|journal=月刊ログイン 11月号|pages=148-149頁}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|これらのプロセスには、いくつかのバリエーションが存在する。新声社『ザ・ベストゲーム』(1991年)では、プロセスの前半が「エリア3を抜けてあることをすると、蜘蛛の巣が現れて宇宙へ飛ばされる」となっているものが紹介されている<ref name="bestgame_68">{{Cite journal|和書|date=1991-07-01|title=ゲーメスト肉迫!! 徹底解剖SPECIAL9 ゼビウス|journal=ザ・ベストゲーム 月刊[[ゲーメスト]]7月号増刊|volume=6|number=7|pages=68 - 75|publisher=新声社|ref=harv|id=雑誌03660-7}}</ref>。}}。これは京都のとあるゲームマニアが雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』の編集部を見学した折に話した根拠のない風説であったが、当時ライターとして編集部に通っていた[[田尻智]]が[[大堀康祐]](うる星あんず)らに伝えたところ興味を示したという。その後、雑誌『[[ぴあ (雑誌)|ぴあ]]』のイベント(1983年8月27日開催)に遠藤雅伸がゲスト出演した際、一観客からの質問として、大堀が遠藤に「ゼビウス星」の真偽を問い、遠藤が禅問答のような応答ではぐらかすという一幕があったが、これを『ログイン』が記事として取り上げた事で噂は全国に広まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/xevious/5 |title=「ゲームの企画書」第一回 『今明かされるゼビウス星の真相…!』 |access-date=2023-04-02 |publisher=株式会社マレ |website=電ファミニコゲーマー}}</ref><ref group="注釈">『ログイン』の記事では質問者の素性は伏せられ、「少年」とだけ記されている。</ref>。<!--([[田尻智]]によって広められ、雑誌にも掲載されるほどだったが、後にこれはデマと判明し田尻は大きく非難を浴びることになる。)焦点がゼビウスではなく田尻氏に移ることと、一連の経緯に真贋が混在することから、とりあえずコメントアウトとさせて頂きました。 --> ====バキュラは破壊可能==== 本作で最も有名な噂として、「バキュラはザッパーを[[256#その他 256 に関連すること|256]]発当てると壊れる」というものがある<ref name="bestgame_68" />{{Refnest|group="注釈"|電波新聞社の当時の書籍(「スーパーソフトマガジン」及び『ALL ABOUT namco』)では、「『ザッパー』を256発当てることが唯一の破壊方法である。」と断定的に書かれていたが<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1983年|title=空中兵器|journal=マイコンBASICマガジン12月号別冊スーパーソフトマガジン|page=11頁}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて |url=https://www.worldcat.org/oclc/674287605 |publisher=電波新聞社 |date=1987-01-20 |isbn=4-88554-107-7 |oclc=674287605 |page=136}}</ref>、1996年に発行された『NAMCO名作ゲーム集』(ALL ABOUT namco I,IIの合本再編集版)では、「唯一の破壊方法であると言われている。」と表現が改められている<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|editor=マイコンBASICマガジン編集部|date=1996年4月30日|title=キャラクター・インフォメーション|journal=マイコン別冊 NAMCO 名作ゲーム集|page=81頁}}</ref>。}}。しかし、通常の基板では84発以上は物理的に当てることができない。「システム上当てられないだけで、プログラム上では256発当てれば破壊できる」という噂も流れたが、これも遠藤が自身のブログ<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/evezoo/entry-10105919686.html |title=【ゼビウス】バキュラは256発当てると破壊できる? |access-date=2023-06-26 |publisher=遠藤雅伸 |website=ゲームの神様}}</ref>や自著のミニコミ誌、テレビ番組『[[ゲームセンターCX]]』、ネット掲示板などで否定している。ゼビウスは、破壊可能なオブジェクトは全て耐久力が1発分で、オブジェクトの状態には破壊可能/破壊不可能/弾が素通りする、の三種類しか区別はない。バキュラは破壊不能なフラグを立てて処理しているので、そもそも何発当たるかは関係がない。 バキュラの破壊に関する噂を最初に文字情報として広めたのは、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』である。著者である大堀は後のインタビューで、遠藤のファンサービス的発言を曲解して広めてしまったことを悔いる旨の発言をしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1473560.html |title=「ゼビウス」稼働から40周年! あらゆる文化に大きな影響を与えた不朽の名作シューティングゲームの軌跡を振り返る |access-date=2023-05-02 |publisher=インプレス |website=GAME Watch}}</ref>。しかし大堀に話をした遠藤自身も当時「バキュラはザッパー256発で消せる」と思い違いをしていたことを自身が記した文章「巨竜へのレクイエム」の中で明かしている<ref name=":10">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20021019050902/http://hw001.gate01.com/g01/dat/evezoo/1985_bgm5_12.jpg |title=※題名不明 12-13頁(「巨竜へのレクイエム」5-6頁目) |access-date=2023-05-02 |website=Internet Archive}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20021019051415/http://hw001.gate01.com/g01/dat/evezoo/1985_bgm5_14.jpg |title=※題名不明 14-15頁(「巨竜へのレクイエム」7-8頁目) |access-date=2023-05-02 |website=Internet Archive}}</ref>。<br />バキュラの破壊に関する噂は有名であるが故に、他作品でパロディ的に扱われることがある。 *[[コナミグループ|コナミ]]の『[[極上パロディウス 〜過去の栄光を求めて〜|極上パロディウス]]』([[1994年]])にはバキュラのオマージュキャラクター「カラー板夫Jr.」が登場する。こちらはヒット数がカウントされており、[[吹き出し]]に耐久値(255からカウントダウンする)が表示される。『ゼビウス』同様、スクロールアウトまでに256発撃ち込むことは不可能だが、青ベルのスーパーボム(ショット256発分の攻撃力を持つ画面全体攻撃)で一掃することができる。一部に耐久力が異なる個体(16発分・65536発分)も出現する。 *ニンテンドーDS用ソフト『[[ぼくらのテレビゲーム検定 ピコッと!うでだめし]]』([[2008年]])には、連射によってバキュラ(耐久力はザッパー16発分)を破壊していき、破壊し損ねるまでのスコアを競うミニゲームが存在する。ポイントは1発撃ち込むごとに70点。バキュラ破壊で1,000点。グラフィック等はファミコン版からの引用・アレンジとなっている。 *[[コカコーラ社]]のwebブラウザゲーム『[[スプライト (炭酸飲料)|スプライト]]×ゼビウス』(2012年)ではザッパーを一定数撃ち込めば破壊できるようになっている。ポイントは1,000点。 シリーズ続編でも、バキュラは基本的に破壊不能な物体として扱われるが<ref group="注釈">『ゼビウス3D/G』(1996年)のエリア7序盤に登場する「画面を2周するバキュラ」に対し、連射装置付き筐体+二人同時プレイ+3連射ディオスという条件で2,000発以上撃ち込んでも破壊できなかったという例がある。</ref>、破壊可能な作品も存在する。 * FC版『[[スーパーゼビウス ガンプの謎]]』(1986年)では、ザッパーを32発程当てると破壊できる(200点)。また、隠しエリアで登場する支援機「ダレイ」と自機が合体することでザッパーが強化され、1発で破壊できるようになる。 * MSX2版『[[ゼビウス ファードラウト伝説#MSX2版|ゼビウス ファードラウト伝説]]』(1988年)のスクランブルモードでは、画面全体攻撃アイテム「キラー」を取ると一掃する事ができる。 * PCエンジン版『[[ゼビウス ファードラウト伝説#PCエンジン版|ゼビウス ファードラウト伝説]]』(1990年)のファードラウトモードでは、空中物限定の画面全体攻撃アイテム「アンチエアクラフト」を取る、もしくはシオナイトを自機に随伴させ、バリア代わりにするアイテム「シオナイトアタック」や「シオナイトロール」を利用してバキュラを消すことができる。 * スマホゲーム『ゼビウス ガンプの謎はすべて解けた!? 』でもシオナイトとの接触によってバキュラを破壊することができる。 ==== エリア7の地上絵に隠しボーナスポイントがある ==== 「エリア7で地上絵の特定箇所(8×8ドット)にブラスターを7発落とすと7万点のボーナスが入る<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1983年|title=なぞの7万点ボーナス・ポイント|journal=マイコンBASICマガジン 12月号別冊 スーパソフトマガジン|page=18頁}}</ref>」というもの。しかしこれは遠藤が、エリア7のスペシャルフラッグゾーンだけは自身が設定したものではなかったために、それを出そうと乱射していたところを見ていたプレイヤーが誤解したことによって生じたデマである<ref name=":10" /><ref name="bestgame_68"/>。 ==== ワープゾーンが存在する ==== エリア16は大変難易度が高くクリアしにくいことから、「その手前のエリア15の後半部分にエリア16に遭遇しないためのワープゾーンが存在しており、そこで自機が破壊されればエリア16はスキップされ、エリア17(=エリア7)に進むことができる」という噂もあった{{Refnest|group="注釈"|マイコンBASICマガジン別冊「スーパーソフトマガジン」1984年2月号に掲載されたエリア15のマップ(イラスト)には、エリア終盤のデロータ4基の手前に、破線に囲まれた「WARP」のメモ書きが記されている。ただし、そのメモ書きに関する一切の説明は無い<ref>{{Cite journal|publisher=電波新聞社|year=1984年|title=エリア15|journal=マイコンBASICマガジン2月号別冊スーパーソフトマガジン|page=8頁}}</ref>。}}。これは「各エリアの70%を進行するとミスした時は次のエリアから始まる」というプログラム上の処理が、次のエリアデータをロードしたタイミング(エリアの82.5%程度の場所)でミスした場合、すでに次のエリアをロードしているにもかかわらず実行されてしまうために都合2エリア進めるというもので、実際には15エリア以外でも実行可能である。上記のエリアワープと同様の理由で、いずれかの地上物が出現する直前にミスになった場合、次に始まるときにエリア最初の森の上にそのキャラクターが出現することがある<ref name="bestgame_68" />。 == スタッフ == ;アーケード版<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/131-452 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:131,159,175,203,452 |access-date=2023-03-11 |website=5ちゃんねる |pages=}}</ref><ref name=":20">{{Cite web|和書|url=https://img-denfaminicogamer.com/wp-content/uploads/2015/07/Making-of-Xevious-P11.jpeg |title=THE MAKING OF XEVIOUS 11頁 |access-date=2023-03-19 |website=電ファミニコゲーマー |pages=}}</ref> :原案:澤野和則<small>(発案)</small><ref>{{Cite book|和書 |title=ギャラクシアン創世記 -澤野和則 伝- |date=2018-05-20 |publisher=ゲー夢エリア51 |page=159 |author=ぜくう}}</ref>、伊藤博仁<small> (概要書)</small> :企画:[[遠藤雅伸]]<small>(ゲームデザイン/ストーリー他)</small>、池上正寿<small>(P1仕様書)</small> 、佐藤誠市<small>(地図作成/P2仕様書)</small>、岡本進一郎<small>(難易度調整)</small> :ハードウェア:石村繁一<ref group="注釈">「THE MAKING OF XEVIOUS」では「シゲイチ・ナカムラ」となっている。これはメイキング執筆当時、石村がナムコ創業者の[[中村雅哉]]の息女と結婚して中村姓を名乗っていたため。</ref><small>(CPUボード設計)</small>、佐藤茂<small>(ビデオボード・カスタムIC設計)</small> :プログラム:遠藤雅伸、[[深谷正一]]<small>(基本プログラム)</small>、小島伸一<small>(テストプログラム)</small> :サウンド:[[慶野由利子]] :グラフィック:遠藤雅伸<small>(地上マップ以外のドット絵)</small>、[[遠山茂樹 (デザイナー)|遠山茂樹]]<small>(オリジナルソースキャラクターデザイン)</small>、[[小野浩 (ゲームクリエイター)|小野浩]]<small>(地図デザイン/ソルバルウのドット絵)</small>、山下正<small>(ロゴタイプデザイン)</small> :国内販売:猿川昭義 ;X1版<ref name=":0" group="注釈">ゲームスタート直後に画面左端の特定箇所をブラスターで撃つと表示される隠しメッセージによる。</ref> :プログラム:T.FUJIOKA([[藤岡忠]]) :マップ:S.MICHIURA(道浦忍) :グラフィック:H.YOMODA ;ファミリーコンピュータ版 :メイン・プログラム:KEI CROSS([[黒須一雄]]) :音楽:慶野由利子 :サウンド: 大野木宜幸 :アシスタント:EVERZOO END(遠藤雅伸)、HAL UDAGAWA(宇田川治久) :テスター:SHIDASHI YAMAMO(やまもとこういち) ;FM-7版 :プログラム:道浦忍 ;PC-8001mkIISR版、MZ-2500版<ref name=":0" group="注釈" /> :プログラム:NANIWA(藤岡忠) :ミュージック:Kinta :グラフィック:Ohtsuka ;PC-8801版 :プログラム:芸夢狂人([[鈴木孝成]]) ;PC-9801版 :プログラム:AOYAMA MANABU ;X68000版<ref name=":0" group="注釈" /> :プログラム:NANIWA(藤岡忠) :ミュージック:Yu-You([[永田英哉]])、Yoshizawa(吉沢正敏) :グラフィック:Ohtsuka == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |Allgame = {{Rating|4|5}}(AC)<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Arcade (1982) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref><br />{{Rating|4|5}}(NES)<ref name="mobygames_NES">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for NES (1984) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref> |CVG = 6/10点(ST)<ref name="mobygames_ST">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Atari ST (1987) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref> |Gspot = 5.8/10点(GBA)<ref name="mobygames_GBA">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Game Boy Advance (2004) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref><br />3.9/10点(Wii VC)<ref name="mobygames_WiiVC">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Wii (2006) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref><br />6.5/10点(XL)<ref name="mobygames_XL">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Xbox 360 (2007) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref> |IGN = 6/10点(Wii VC)<ref name="mobygames_WiiVC"/> |NLife = 7/10点(3DS)<ref name="mobygames_3DS">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Nintendo 3DS (2011) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref><br />4/10点(Wii VC)<ref name="mobygames_WiiVC"/> |rev1 = [[:en:Aktueller Software Markt|ASM]] |rev1Score = 8.2/12点(NES)<ref name="mobygames_NES"/> |rev2 = [[:en:ST Action|ST Action]] |rev2Score = 36/100点(ST)<ref name="mobygames_ST"/> |rev3 = [[:en:Commodore User|Commodore User]] |rev3Score = 6/10点(C64)<ref name="mobygames_C64">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for Commodore 64 (1987) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref> |rev4 = [[:en:Your Sinclair|Your Sinclair]] |rev4Score = 8/10点(ZX)<ref name="mobygames_ZX">{{Cite web |url=https://www.mobygames.com/game/11460/xevious/ |title=Xevious for ZX Spectrum (1987) |website=[[:en:MobyGames|MobyGames]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2017-03-11}}</ref> |rev5 = [[GAME SIDE|ユーゲー]] |rev5Score = 肯定的(FC)<ref name="usedgame07"/> |award2Pub = [[ゲーメスト]] |award2 = ザ・ベストゲーム 第10位<ref name="bestgame_20"/><br />(1991年) |award3Pub = ゲーメスト |award3 = ザ・ベストゲーム2 第28位<ref name="bestgame2_73"/><br />(1998年) }} '''アーケード版''' *雑誌『AMライフ』の誌上企画「読者100人のアンケート」内のランキング「人気ビデオゲームベスト10」にて、初登場となるNo.4では4位を獲得。次号No.5からコーナーが終了するNo.13まで、8か月連続<ref group="注釈">発売月はNo.5は1983年5月、No.13は1983年12月。途中、“No.8No.9合併号”を挟んでいる。</ref>首位獲得を果たした。 *月刊ゲーメスト別冊『ザ・ベストゲーム』(1991年/新声社)の人気投票企画「読者が選んだベスト30」にて10位を獲得{{Refnest|group="注釈"|投票は、月刊『ゲーメスト』1990年12月号に掲載された編集部選出による全132本のゲーム(1978年~1990年に発売・稼働したもの)の中から、各自1位から5位までを選んで応募する形式で行われた。応募期間は1990年10月30日~11月30日<ref>{{Cite journal|title=増刊号「ザ・ベストゲーム」大募集|journal=月刊ゲーメスト 12月号|year=1990年|pages=40-41頁|publisher=新声社}}</ref>。}}。同誌では、パワーアップアイテムが登場しない点に「少し古さを感じさせる」と指摘する一方、「縦スクロールシューティングだけでなく、さまざまなゲームに影響を与えた」として、「グラフィックは高水準 注目のアニメーション処理」、「命があるかのようなキャラクターたち」、「重要な存在 隠れキャラ」等、ゲーム内容のクオリティーや革新性を評価した。また、アナログ[[レコード]]や映像ソフト等「国内初もある関連商品」の充実や、有名同人誌『1000万点への解法』を皮切りに「ゲーム攻略を中心とした同人誌が2年間ほどはやった」など、ブームの盛り上がりやメディアを超えた影響についても言及している<ref name="bestgame_20"/>。 *『ナムコミュージアムVOL.2超研究』(1996年/メディアファクトリー)の解説では、「それまではただ遊ばれて、消費されるだけだったビデオゲームが、『ゼビウス』は違った。ありとあらゆる形態の“語り”が存在し、その言葉ひとつひとつをもって『ゼビウス』の形ができていった。」として、攻略同人誌の流行や開発者によるバックストーリー、[[中沢新一]]の文明時評<ref group="注釈">題名は「ゲームフリークはバグと戯れる」。『雪片曲線論』(1985年/[[青土社]])または文庫版(1988年/[[中央公論社]])に収録。[[2002年]]には田尻智の著書『パックランドでつかまえて』の復刻版([[2002年]]/[[エンターブレイン]])に再録されている。</ref>など“語り”の例を挙げ、「『ゼビウス』は言葉によるコミュニケーションの発生をもたらした。それはまさしく文化のはじまりにほかならない。」と結論付けている<ref>{{Cite book|和書 |title=ナムコミュージアムVOL.2超研究 |url=https://www.worldcat.org/oclc/674822191 |publisher=メディアファクトリー |date=1996-04-25 |location=東京都中央区8-4-17 |isbn=4-88991-370-X |oclc=674822191 |others=成沢大輔&CB's PROJECT編著 |pages=8-9}}</ref>。 *1997年にそれまで発売されていたアーケードゲーム全てを対象に行われたゲーメスト読者の人気投票によるゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、第28位を獲得した<ref name="bestgame2_48">{{Cite journal |和書 |title = 読者が選ぶベストゲーム |date = 1998-01-17 |publisher = 新声社 |journal = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |volume = 5 |number = 4 |pages = 48 |isbn = 9784881994290 |ref = harv}}</ref>。同誌別頁では、「固定画面が主流だったゲームに、スクロール型という新しい形式を提示し、爆発的な人気を得た」、「美しいグラフィックでリアルな地形を表現し、実際の空間を旅しているような感覚を与えることに成功している。大型要塞アンドアジェネシス、ガルザカート、下から出てくるゾシーなど、絶妙な敵の組み合わせと意表を突く展開はプレイヤーを痺れさせた」、「ブラスターはカーソルの部分に投下するため、相手の砲台を狙い撃ちしなければならない。戦略的に狙い撃っていく必要があるが、そこにパターンにならない空中物が組み合わさって、奥の深いゲーム性を生んでいた」、「2P側のプレイヤーは、ソルの影を撃たないと壊せないなど、凝った仕様もあり、完成されたゲームとなっている」と紹介されている<ref name="bestgame2_73">{{Cite journal |和書 |title = ザ・ベストゲーム |date = 1998-01-17 |publisher = 新声社 |journal = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |volume = 5 |number = 4 |pages = 73 |isbn = 9784881994290 |ref = harv}}</ref>。 '''ファミリーコンピュータ版''' *ゲーム誌『[[GAME SIDE|ユーゲー]]』では、「たかが1万5千円程度のマシンで『ゼビウス』の魔力が再現できるものかと言う人もいたが、意外にも再現度は高かった。むしろ最高の出来だったと言ってもいい」、「この1本で、STGをやるならパソコンよりFCという風潮が広まったように思う」と評している<ref name="usedgame07">{{Cite journal |和書 |title = ユーゲーが贈るファミコン名作ソフト 100選 |date = 2003-06-01 |publisher = [[キルタイムコミュニケーション]] |journal = [[GAME SIDE|ユーゲー]] 2003 Vol.07 |volume = 7 |number = 10 |pages = 14 |id = 雑誌17630-2 |ref = harv}}</ref>。 {{Clear}} == スーパーゼビウス == {{出典の明記|section=1|date=2017年1月}} [[1984年]]{{Refnest|group="注釈"|発売日時は不詳だが、雑誌『AMライフ』No.17のハイスコアランキングに同作の記録(ナムコゲームブティック高田馬場店 1984年3月25日調べ)が存在している<ref>{{Cite journal|publisher=株式会社アミューズメント|date=1984年4月30日発売|title=今月のハイスコア|journal=AMライフ No.17|pages=88頁}}</ref>。}}に本作の続編である『'''スーパーゼビウス'''』(''Super Xevious'')が発売された。これはロム交換による販売を前提に作られ、基の『ゼビウス』のプログラムを手直しする形で作られている。 『ゼビウス』には一回当たりのプレイ料金が低いイタリア・スペイン向けの高難易度バージョンがあり、それを伝聞した日本のヘビーユーザーから国内販売の要望が挙がったため、上級者向けの別バージョンとして製作された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/983292101/269 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ」レス番号:269 |access-date=2023-06-22 |website=5ちゃんねる}}</ref>。基本ルールや地上物の配置はほぼ同じながら<ref group="注釈">地上物関連の変更点としては、隠しメッセージの文面変更、一部グロブダーの挙動やソルの位置、エリア1を除くスペシャルフラッグゾーンの変更、橋の追加(エリア15)などが挙げられる。</ref>、空中物出現パターンの改変による大幅な難易度の上昇と、「戦車」や「ファントム」など各種キャラクターの追加が特徴となっている。『ゼビウス』の16エリアを容易に周回できるレベルのプレイヤーに向けたバージョンであり、特定の店舗にのみ販売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ton.5ch.net/test/read.cgi/retro/985005381/111 |title=過去ログ「XEVIOUSを懐かしむ エリア2」レス番号:111 |access-date=2023-06-23 |website=5ちゃんねる}}</ref>。 以下、追加キャラクターの名称・ポイント等は「スーパーソフトマガジン」1984年7月号(電波新聞社)による<ref name=":21" />。 *'''戦車'''<small>(仮称)</small>:エリア8二本目の川の手前に出現。移動・攻撃能力無し。スペシャル同様、上空を通過すると残機が1機増える、若しくは1,0000点加算されるが、ブラスターで破壊してしまうとスコアが0点に戻される。 *'''ファントム'''<small>(仮称)</small>:エリア10終盤の滑走路上画面右側に出現し、画面左側へ向かって離陸していく。空中物扱いで、ザッパーを当ててしまうとスコアが0点に戻される(駐機中含む)。また、エリア15の終盤にも少し大きめのグラフィックで登場するが、画面を通過するのみで当たり判定は無い。 *'''ヘリコプター'''<small>(仮称)</small>:エリア14終盤の滑走路上に出現。移動・攻撃能力無し。地上物扱いで、ブラスターで破壊してしまうとスコアが0点に戻される。 *'''ゼビカイト(XEVI-KITE)''':エリア16終盤に登場。画面上部より現れ、スパリオを連射しつつ画面下方向に直進し、ソルバルウが近付くと横方向にカーブを描いて逃げていく。ポイントは150点。通称は「[[ギャラクシアン]]」だが、正確には同作に登場する「ボスエイリアン」を模したキャラクターである。遠山茂樹による設定画は『ALL ABOUT namco』等で確認できる<ref group="注釈">「Story of XEVIOUS」(ファードラウト)3頁目の[[挿絵|カット絵]]、カピの隣に描かれている機体。ドット絵とは翼の形状が若干異なる。</ref>。 これら追加キャラクターのグラフィックデータは『ゼビウス』のROMにも存在しており<ref name=":10" />、新規にデザインされたものではない。破壊するとスコアが0点に戻されるキャラクターについては、後に開発者も「やりすぎだった」とコメントしている{{要出典|date=2023年7月}}。 その他ポイントに関する変更点として、ソルは出現・破壊とも2,000点から1,000点に、ブラグスパリオはザッパー1発あたり500点から2,000点に変更されている。 『スーパーゼビウス』の移植版は、MZ-2500版(1986年)・X68000版(1987年)・PS版『ゼビウス3D/G+』(1997年)・DS版『ナムコミュージアムDS』(2007年)などに収録されている。 1986年にはAC版『スーパーゼビウス』とは別に、FC版独自の続編として『[[スーパーゼビウス ガンプの謎]]』が発売された。こちらも[[任天堂VS.システム]]対応でアーケードへ逆移植されているが、これについての開発には遠藤雅伸本人は係わってはいない。 == 関連作品 == === コンピュータゲーム === *[[スーパーゼビウス ガンプの謎]]([[1986年]]/ナムコ/[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]) *[[ゼビウス ファードラウト伝説]]([[1988年]]/ナムコ/[[MSX2]]) **ゼビウス ファードラウト伝説([[1990年]]/ナムコ/[[PCエンジン]]) *[[ソルバルウ]]([[1991年]]/ナムコ/アーケード) *[[ゼビウス3D/G]]([[1996年]]/ナムコ/アーケード) **ゼビウス3D/G+([[1997年]]/ナムコ/[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) - 『ゼビウス』『スーパーゼビウス』『ゼビウス・アレンジメント』とともに収録。これらのうち、3D/Gとアレンジメントの家庭用移植はこれが唯一。 *ゼビウス スクランブルミッション(2006年/バンダイ/[[Let's!TVプレイCLASSIC|Let's!TVプレイCLASSIC ナムコノスタルジア1]] に『ゼビウス』とともに収録) - 巨大要塞に潜入したソルバルウを操り、制限時間内にコアを破壊する。 *ゼビウスリザレクション - [[PlayStation 3]]版『ナムコミュージアム.comm』([[2009年]][[1月29日]]配信開始。2018年3月15日配信終了)に収録された新作。敵の攻撃に超高速のレーザー攻撃が、ソルバルウに回数制限制の[[シールド (サイエンス・フィクション)|シールド]]が追加され、発射前に見切って回避するか・シールドを消費して受けるかという駆け引きの要素が追加された。 *DOORSゼビウス([[2009年]]) - [[TBSテレビ|TBS]]で2009年(平成21年)4月5日に放送されたテレビ番組『[[DOORS 2009春]]』のアトラクションのひとつとして[[アルカノイド]]とともにDOORSゼビウスが登場している。操作は足元のセンサーを用い2人が協力して行うもので、1人がソルバルウの縦移動とブラスターの発射を行いもう1人がソルバルウの横移動とザッパーの発射を行う。プレイの様子は巨大モニターで映し出され、ステージもTBSに関連のある建物があったりとオリジナルになっていた。最終的に獲得した得点で競い、アンドアジェネシス(番組では「マザーシップ」と呼称)を撃破しオールクリアしたのはお笑いコンビの[[響 (お笑い)|響]]のみであった。 *スプライト×ゼビウス([[2012年]]) - [[日本コカ・コーラ|コカ・コーラ社]]の炭酸飲料「[[スプライト (炭酸飲料)|スプライト]]」とのコラボレーション。2012年[[5月8日]]より同社公式サイトにてwebブラウザゲーム[http://c.cocacola.co.jp/si_sprite/game_add_ranking/]が開設された。アーケード版のエリア1〜4をベースに、敵キャラクターにスプライトのボトルやキャップを模したものが登場する。また、地上絵にはスプライトのロゴが描かれている。 *ジョビウス([[2017年]]) - 同じくコカ・コーラ社の缶コーヒー「[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]」とのコラボレーション。[[iOS]]・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けスマートフォンアプリ「Coke ON」の期間限定コンテンツ「ジョージア ゲームセンター」にて展開<ref>[http://www.georgia.jp/gamecenter/ ジョージア ゲームセンター] ジョージア</ref>。アーケード版のエリア1〜8がベースになっているが、「ゾルバクが出ない(敵機出現テーブルは変化しない)」「ドモグラムなどが動かない」「エリアの70%を超えてミスしても次のエリアには行かない」など若干の仕様変更がある。また、様々なジョージア製品の缶が隠れキャラクターとして盛り込まれている。 また、公式のシリーズ作品ではないがカタログIPオープン化プロジェクトにて許諾された作品について以下に記載する。 * ゼビウス ガンプの謎はすべて解けた!? **iOS、Android [[2016年]][[6月24日]]配信開始(配信元:ドリームファクトリー) * ゼビウス魔の二千機攻撃 ** Android [[2020年]][[3月10日]]、iOS [[2020年]][[3月24日]]配信開始(配信元:[[小泉勝志郎]]) ** 『[[ファミコンロッキー]]』第2話に登場する「ゼビウス魔の二千機攻撃」をゲーム化したもの。プレイヤーキャラにはファミコンロッキー以外に[[渚の妖精ぎばさちゃん]]も登場する。 === CG短編映画「ゼビウス」 === 1988年にナムコCGプロジェクトによって制作された2分程の短編映像作品。内容は、近未来のロボットが、ゼビウスを題材とした立体映像の3Dシューティングゲームをプレイするうちに、ゲームの世界に没頭していくというもの。国内最大規模のCG関連総合展「[https://kotobank.jp/word/NICOGRAPH-12548 ニコグラフ]'88」で注目を集め<ref>{{Cite journal|publisher=株式会社ナムコ|year=|date=1989年2月1日|title=CGアニメーション・ストーリー XEVIOUS完成|journal=NG No.27|page=35頁}}</ref>、翌89年に米国National Computer Graphics Association主催のCG[[コンペティション|コンペ]]「NCGA’89」にて、コーポレート・プレゼンテーション部門2位入賞を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19891215p.pdf |title=新聞「ゲームマシン」1989年12月15日370号1面『ナムコのCG作品「ゼビウス」入賞 米国のNCGA89で部門2位に』 |access-date=2023-03-22 |publisher=アミューズメント通信社 |website=ゲームマシンアーカイブ}}</ref>。1992年に[[ビクター音楽産業]]より発売された映像ソフト『[[ソルバルウ]]』([[レーザーディスク|LD]]/[[VHS]])に特典映像として収録されている。 === アニメ映画 === 『XEVIOUS』(劇中タイトルは「XEVIOUS 知られざる過去」)。2002年8月10日に映画レーベル「[[ガリンペイロ]]」作品としてテアトル池袋で公開されたフルCGアニメーション映画。上映時間75分。2002年9月25日にDVD発売と発表されたが、発売されることなく現在(2010年)に至っている。ゲームのシナリオから1万年後が舞台。総監督を立てずキャラクターとメカニックの制作をCGパート毎に分けるなど、CGアニメの実験作的意味合いが強く完成度が高いとはいえない作品となっている。 ==== ストーリー ==== 西暦2015年、宇宙パイロットのタケルと人型コンピュータ・マーサは、謎の巨大宇宙船の中で行方不明のサラと瓜二つの機械生命体ルウ・ミーと出会い、人類の宿敵ガンプの存在を知らされる。地球侵攻まで40分しかない中、タケルはソルバルウに乗り込みガンプの基地アンドア星へ向かった。 ==== スタッフ ==== *製作総指揮:[[中村雅哉]] *エグゼクティブプロデューサー:橋口隆二 *クリエイティブプロデューサー:清野一道 *制作:本間偵顕微 *監修:清野一道 *制作:松井建始 *設定・演出補:小倉信也 *音楽:長池秀明 *脚本:紫堂縞緒音 *製作:株式会社ナムコ *配給:グルーヴコーポレーション ==== キャスト ==== *タケル:[[有馬克明]] *サラ、ルゥ・ミー:[[柚木涼香]] *マーサ:[[荒木香衣|荒木香恵]] *パットナム:[[秋元羊介]] *オペレーター:[[中井和哉]]、[[遊佐浩二]]、[[関口英司]]、[[田中伸幸]] === その他 === *[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦]](2017年、東映の映画作品) - ゲームの世界からアンドアジェネシスを始めとするゲームのキャラクターが現実世界に出現して無差別攻撃を開始し、[[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]と[[スーパー戦隊シリーズ|スーパー戦隊]]が立ち向かうというストーリーである。 == 備考 == *プレイ中、普段はありえない方向(右と左、上と下など)のスイッチを同時に入れると、ソルバルウが異常なスピードで変な方向へと動く。 *[[テレビドラマ]]『[[ノーコン・キッド 〜ぼくらのゲーム史〜]]』([[2013年]])に、ストーリーに関わるアイテムとして複数回に渡り登場。遠藤雅伸もゲスト出演している。 * PROJECT ACESが[[エースコンバット04 シャッタードスカイ|AC04]]エンジンで制作されたリメイク企画があったもののお蔵入りとなり、トレイラーのみ公開された<ref>[http://twitpic.com/5iuu3i PROJECT ACESがAC04エンジンで企画した「ボツXEVIOUSトレイラー」です。『これは製品にもDLCにもなりません』]twitpic</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name = "all about">マイコンBASICマガジン別冊 ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて 電波新聞社 pp133-139</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|date=2014年9月|section=1}} * {{Cite book|和書|author=遠藤雅伸|authorlink=遠藤雅伸|title=ゼビウス ファードラウトサーガ|year=1991|publisher=[[双葉社]]|series=双葉社ファンタジーノベルシリーズ|isbn=4-575-23076-6 |ref={{SfnRef|遠藤|1991}}}} * {{Cite book|和書|author=古川尚美|title=[[スーパーアドベンチャーゲーム#ナムコ (903)|ゼビウス]]|year=1985|publisher=[[東京創元社]]|series=[[創元推理文庫]]|volume=|isbn=4-488-90301-0|ref={{SfnRef|古川|1985}}}}(※ゲームブック) * {{Cite book|和書|editor=成沢大輔|editor-link=成沢大輔|title=The ナムコブック|year=1991|publisher=[[宝島社|JICC出版局]]|isbn=4-7966-0102-3|ref={{SfnRef|成沢編|1991}}}} * {{Cite book|和書|title=ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて|year=1987|publisher=[[電波新聞社]]|isbn=4-88554-107-7}}(※初版は1985年発行) **pp. 127–144.(アーケード版) == 外部リンク == *[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/xevious.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ゼビウス(Nintendo Switch版)] *[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xevious.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ゼビウス(PS4版)] *[https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk/xevious/index.html ファミコンミニ ゼビウス] *{{Wiiバーチャルコンソール|xe}}(ファミコン版) *[http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/download/virtual_consolearcade/detail/detail32/32.html バーチャルコンソールアーケード ゼビウス] *[http://www.xbox.com/ja-JP/games/x/xeviousxboxlivearcade/ Xbox Live Arcade ゼビウス]{{リンク切れ|date=2020年9月}} *[http://www.nintendo.co.jp/3ds/eshop/sabj/index.html 3Dクラシックス ゼビウス] *{{Wii Uバーチャルコンソール|falj}} *{{Cite web|和書 | url = http://www.mars16.com/cgi-local/main.cgi?id=sg073a55s | archiveurl = https://web.archive.org/web/20071027115553/mars16.com/cgi-local/main.cgi?id=sg073a55s | publisher = [[マーズ・シックスティーン|MARS SIXTEEN]] | title = ゼビウスTシャツ | accessdate = 2007-10-4 | archivedate = 2007-10-27 | deadlinkdate = 2020年2月4日 }} *[http://www.evezoo.net/ 遠藤雅伸 Official site] *{{MobyGames|id=/11460/xevious/|name=Xevious}} {{ゼビウス}} {{ナムコット}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1=スーパーゼビウス |1-1=ゼビウス |1-2=1984年のアーケードゲーム |1-3=縦スクロールシューティングゲーム }} {{DEFAULTSORT:せひうす}} [[Category:1983年のアーケードゲーム]] [[Category:Amstrad CPC用ゲームソフト]] [[Category:Apple II用ゲームソフト]] [[Category:Atari 7800用ソフト]] [[Category:Atari 8ビット・コンピュータ用ゲームソフト]] [[Category:Atari ST用ゲームソフト]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:MZ用ゲームソフト]] [[Category:PC-8001用ゲームソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:X68000用ゲームソフト]] [[Category:Xbox Live Arcade対応ソフト]] 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スラッシュドット効果
スラッシュドット効果(スラッシュドットこうか、英語: Slashdot effect)もしくはフラッシュクラウド(英語: flash crowd)は、定番の大きなWebサイトが小さなサイトをリンクして、過大なトラフィックをもたらすときに起きる。 これは、小さなサイトに過負荷を与え、処理速度の低下をもたらしたり、利用不能になったりする。 この名前は、技術系ニュースサイト「スラッシュドット」からのリンクに起因する絶大なWebトラフィックに由来する。 ジャーゴンファイルによると、「スラッシュドット効果」という用語は、定番のスラッシュドットのニュースサービスの記事において、あるサイトが言及された後に、非常に多くの人々がそのサイトを見に来ることに起因して、Webサイトがアクセス不能になっている現象をいう。 これは後に、定番のサイトに掲載されることによるあらゆる同様な効果も説明するために拡張され、より一般的で適切なフラッシュクラウドという用語と同等の意味になっている。 日本においては、2ちゃんねるで紹介されたサイトに同様の現象が見られるため、これを2ちゃんねる効果と呼ぶ者もいる。一方、2ちゃんねるよりも社会的影響力が低いスラッシュドット日本語版に関してそのトラフィック効果に関して言われることはほとんど無い。 同様の現象は、Yahoo!ニュースでも見られる。こちらはリンク先へ直接リンクが張られているのではなく、一旦Yahoo!内を経由しており、多数のアクセスにより混雑している、ページが正常に表示されない可能性があるという旨が表示されることがある。 スラッシュドット効果に対処するために、多くのソリューションが各サイトに提案されてきた。 たとえオリジナルのサイトが反応しなくなったとしても、そのコンテンツの閲覧可能性を保つために、スラッシュドットからリンクされているすべてのページを自動的にミラーするシステムがいくつかある。
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スラッシュドット効果もしくはフラッシュクラウドは、定番の大きなWebサイトが小さなサイトをリンクして、過大なトラフィックをもたらすときに起きる。 これは、小さなサイトに過負荷を与え、処理速度の低下をもたらしたり、利用不能になったりする。 この名前は、技術系ニュースサイト「スラッシュドット」からのリンクに起因する絶大なWebトラフィックに由来する。
{{独自研究|date=2019年3月}} '''スラッシュドット効果'''(スラッシュドットこうか、{{lang-en|Slashdot effect}})もしくは'''フラッシュクラウド'''({{lang-en|flash crowd}})は、定番の大きなWebサイトが小さなサイトをリンクして、過大なトラフィックをもたらすときに起きる。 これは、小さなサイトに過負荷を与え、処理速度の低下をもたらしたり、利用不能になったりする。 この名前は、技術系ニュースサイト「[[スラッシュドット]]」からのリンクに起因する絶大なWebトラフィックに由来する。 == 用語法 == [[ジャーゴンファイル]]によると、「スラッシュドット効果」という用語は、定番のスラッシュドットのニュースサービスの記事において、あるサイトが言及された後に、非常に多くの人々がそのサイトを見に来ることに起因して、Webサイトがアクセス不能になっている現象をいう。 これは後に、定番のサイトに掲載されることによるあらゆる同様な効果も説明するために拡張され、より一般的で適切な'''フラッシュクラウド'''という用語と同等の意味になっている<ref>{{cite web|title=slashdot effect|url=http://catb.org/jargon/html/S/slashdot-effect.html|work=The Jargon File, version 4.4.8|author=Eric S. Raymond|accessdate=2016-04-11}}</ref>。 日本においては、[[2ちゃんねる]]で紹介されたサイトに同様の現象が見られるため、これを'''2ちゃんねる効果'''と呼ぶ者もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/08/31/4434.html|title=P2P技術で“2ちゃんねる効果”を軽減できる無料CDNが正式公開|accessdate=2014-08-17}}</ref>。一方、2ちゃんねるよりも社会的影響力が低いスラッシュドット日本語版に関してそのトラフィック効果に関して言われることはほとんど無い<ref name="binary">{{Cite encyclopedia|title=スラッシュドット効果|encyclopedia=IT用語辞典バイナリ|url=http://www.sophia-it.com/content/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%88%E5%8A%B9%E6%9E%9C|accessdate=2014-08-17}}</ref>。 同様の現象は、[[Yahoo!]]ニュースでも見られる。こちらはリンク先へ直接リンクが張られているのではなく、一旦Yahoo!内を経由しており、多数のアクセスにより混雑している、ページが正常に表示されない可能性があるという旨が表示されることがある<ref name="binary" />。 == 支援策と予防策 == スラッシュドット効果に対処するために、多くのソリューションが各サイトに提案されてきた<ref>{{citation|和書|title=Handling Flash Crowds from your Garage|author1=Jeremy Elson|author2=Jon Howell|year=2008|url=http://research.microsoft.com/pubs/75287/flashcrowds-camera-ready.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20110511180407/http://research.microsoft.com/pubs/75287/flashcrowds-camera-ready.pdf|archive-date=2011-05-11|publisher=[[マイクロソフト]]|format=PDF|access-date=2022-06-17}}</ref>。 たとえオリジナルのサイトが反応しなくなったとしても、そのコンテンツの閲覧可能性を保つために、スラッシュドットからリンクされているすべてのページを自動的にミラーするシステムがいくつかある<ref>{{cite web |author= Daniel Terdiman |url= http://archive.wired.com/science/discoveries/news/2004/10/65165 |title= Solution for Slashdot Effect? |publisher=WIRED |date=2004-10-01 |accessdate = 2016-04-18 }}</ref>。 == 脚注 == {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[DoS攻撃]] == 外部リンク == *[http://slashdot.jp/faq/slashmeta.shtml#sm600 "スラッシュドット効果" って何ですか?] {{DEFAULTSORT:すらつしゆとつとこうか}} [[Category:スラッシュドット|こうか]] [[Category:DoS攻撃]]
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水(、英: water、他言語呼称は「他言語での呼称」の項を参照)とは、化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物である。日本語においては特に湯と対比して用いられ、液体ではあるが温度が低く、かつ凝固して氷にはなっていない物を言う。また、液状の物全般を指す。 この項目では、水に関する文化的な事項を主として解説する。水の化学的・物理学的な事項は「水の性質」を参照。 水は、ヒト(人)を含む多くの生命体にとって不可欠な物質であり、地球と似た生命が発生・存続しうる惑星の位置を指すハビタブルゾーンは、惑星表面に液体の水が存在しうる温度を保てる恒星からの距離が主な基準となる(→#生物と水)。人は、尿や汗として、成人男性で1日4リットル余り、成人女性で1日3リットルの水を体外に排出し、これは体内にある水の10%程度に相当し、飲み物に含まれる飲料水を20代男性で1日1.8リットル、20代女性で1.4リットル飲む必要がある。水は様々な産業活動にも不可欠である。 古代ギリシャではタレスが「万物のアルケーは水」とし、エンペドクレスは四大元素の1つで基本的な元素として水を挙げた。古代インドでも五大の1つとされ、中国の五行説でも基本要素の一つと見なされている。18世紀の後半まで、洋の東西を問わず人々はそうした理解をしていた。それが変わったのは、19世紀前半に、ドルトン、ゲイリュサック、フンボルトらの実験が行われ、アボガドロによって分子説が唱えられたことによって、 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} で表すことができる水素と酸素の化合物と理解されるようになった。(→#水の知識の歴史概略) 常温常圧では液体で、透明ではあるが、ごくわずかに青緑色を呈している(ただし、重水は無色である)。また無味無臭である。日常生活で人が用いるコップ1杯や風呂桶程度の量の水にはほとんど色が無いので、水の色は「無色透明」と形容される。詩的な表現では、何かの色に染まっていないことの象徴として水が用いられることがある。しかし、海、湖、ダム、大きな川など、厚い層を成して存在する大量の水の色は青色に見える。このような状態で見える水の色を、日本語ではそのまま水色と呼んでいる。(→水の色) 化学が発展してからは化学式 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} で表され、「水素原子と酸素原子は共有結合で結びついている」と理解されている。(→水の性質) また水は、かつて1 kgや1 calの単位の基準として用いられていた。(→水の性質) 前述のように、水は、全ての既知の生命体にとって不可欠な物質で、その身体を構成する物質の最も多くを占めている。細胞核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70–80 %が水によって占められている。人体も60–70 %程度が水である。(→#生物と水) 地球表面、特に海洋に豊富に存在する。水は人類にとって身近であって、地球上の生物の生存に必要な物質である。しかし宇宙全体で見ると、実は液体の状態で存在している量は少ない。(→#水の分布) 現代の人類の水の使用量の約7割が農業用水である。現代の東京の家庭での水の使用量を多い順に並べると、トイレ、風呂、炊事である。(→#水の使用量) 以下では、水に関する人類の知識の歴史概略を解説し、続いて現代物理学での水の理解などを解説する。 日常的な日本語では、同じ液体の水でも温度によって名称を変えて呼び分ける。低温や常温では水と呼ぶが、温度が高くなると湯()と呼び、別の漢字を宛てる。しかし、英語(water)やフランス語(eau)やスペイン語(agua)などでは、液体であれば温度によらず名称は不変である。 日本語では、湯などから立ち上った水蒸気が凝結して空気中に細かな粒として存在する水は、湯気と言う。 用途、性質、存在する場所などによる呼び分けも行われている。例えば、水の中でも、特に飲用に供せるものを飲料水と言う。海にある塩分などを多く含む水は海水、地下に存在する水は地下水と呼び、地下水を汲みボトルに詰めた製品をボトルウォーターと呼ぶ。また、用途によって、農業用水、工業用水などの呼称もある。機能と水質に基づく、上水、中水、下水という呼称もある。 古代ギリシア語では「ὕδωρ」。発音は時代と共に変遷しており、紀元前5世紀はIPA: /hý.dɔːr/「ヒュドール」、紀元前1世紀は IPA: /ˈ(h)y.dor/「ヒュドル」あるいは「ユドル」であった。 なお、近・現代の学問で水関連の事物についての造語をする場合、古代ギリシア語の「ὕδωρ」を接頭語として用いるために(若干変形させて)「hydro-」が使用されることがある(例: 英: hydrogen「水素」〈「水を生むもの」「水のもと」といった意味の造語〉、ハイドロプレーニング現象)。この学術的接頭辞の発音は、言語ごとに異なり、英語では/haɪdrə/「ハイドロ」、フランス語では/idʁɔ/「イドロ」である。 ラテン語ではaqua「アクア」である。これも伝統的に学術用語に、さらに非学術的分野(商用も含む)でも造語に用いられ、様々な言語で「aqua-」「アクア~」といった語や表現が多数存在する。 その他の言語では である。 水の概念を自然科学的に拡張して、化学式で H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} と表現できる物質を広義の「水」とすれば、固体は氷、液体は水、気体は水蒸気、ということになる。 IUPAC系統名はオキシダン (oxidane) だが、ほとんど用いられない。また、一酸化二水素、酸化水素、水酸、水酸化水素といった呼び方をすることも可能である。(→水素化物) 不純物をほとんど含まない水を「純水」と呼ぶ(たとえば、加熱してできた水蒸気を凝結した蒸留水など)。特に純度の高い水は「超純水」という呼称もある。 水の化学式 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} の水素が2つとも同位体の重水素である水を重水と呼び、化学式 D 2 O {\displaystyle {\ce {D2O}}} で表す。水素の1つが重水素であり、もう1つが軽水素である水は、半重水と呼び、 DHO {\displaystyle {\ce {DHO}}} で表す。水素の1つが三重水素(トリチウム)である水は、トリチウム水(または三重水素水)と呼び、 HTO {\displaystyle {\ce {HTO}}} で表す。重水・半重水とトリチウム水を併せ、さらに酸素の同位体と水素の化合物である水も含めて、単に重水と呼ぶこともある。この広義の重水に対して、普通の水は、軽水と呼ばれる。 軽水と重水は電子状態が同じなので、化学的性質は等しい。しかし、質量が2倍、3倍となる水素の同位体の化合物である水では、結合や解離反応の速度などの物性に顕著な差が表れる。(→速度論的同位体効果) 気象に関する用語では、水の粒の大きさによって、霧や靄(もや)と呼ぶ(これらを総称した一般用語として霞もある)。それらが上空にある状態では、雲と呼ぶ。雲から凝縮して大きめの水滴となって地上に落ちてくる水は雨と呼ぶ。上空で水蒸気が凝固して結晶となった氷は雪と呼ばれ、一体の結晶になっていない粒は、大きさによって霰(あられ)や雹(ひょう)と呼ぶ。それらが水と混合した状態になっていれば、霙(みぞれ)と呼ばれる。 古代ギリシアの哲学者、一般に最初の哲学者とされる、紀元前6世紀頃の人物ミレトスのタレスは、万物の根源アルケーを探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている。 同じく古代ギリシアのエンペドクレスは、火、空気、水、土(古代ギリシア語: πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη 、ギリシア語: φωτιά, αέρας, νερό, γη、羅: ignis, aer, aqua, terra)を4つのリゾーマタ(古代ギリシア語: ῥιζὤματα、「根の物質」の意で今日の元素のこと)とし、それの集合や離散によって自然界のできごとを説明する、いわゆる四元素説を唱えた。これはアリストテレスに継承された。 古代インドでも、地、水、火、風 およびこれに空を加えた五大の思想が唱えられていた。また中国においても、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成るとする五行説が唱えられた。 つまり、洋の東西を問わず、水は、基本的な4~5種の元素の1つだと考えられていた。こうした水の理解は、2000年以上、18世紀後半の時点でも、ごく一般的であった。 こうした理解に変化が生じ始めたのは18世紀末である。人類の歴史の中で見ても、ごく最近のことである。18世紀末に、キャベンディッシュが、金属と酸とが反応した時に、軽い謎の気体(現在では水素と呼ばれているもの)が発生し、それは簡単に燃えて水になることを発見した。また、ラボアジエが、この燃焼で化合する相手が空気中の酸素であることを確かめた。これによって「水は元素ではなかった」という考え方が登場した。ただし、ラボアジエの実験があっても、人々の考え方が直ちに変化したわけではない。人々や学者らもおおむね四元素の考え方をそれまでどおり用いていた、と科学史家たちは指摘している。18世紀までの文献に現れる「aqua」「water」「水」などは、基本元素としての水であると理解するのが妥当である。 その後、19世紀初頭、イギリスのドルトンが実験の結果、水素と酸素が重量比で1:7で化合するとし(後に正しくは1:8と判明)、1805年にはゲイ・リュサックやフンボルトなどがそれぞれ、体積比で2:1で化合することを見出した。さらに1811年に、アボガドロが分子説を唱え、その枠組みの中で水の分子が H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} と定められた。この19世紀の初頭に、西欧の学者たちの水の理解が変わったと科学史家らによって指摘されており、同世紀を通して一般の人々の理解も変化していったと考えてよい。 分子説の成立と共にあったという点などで、水は近代化学の発展のきっかけを作った物質である。この時期は、おおむねphilosophia(哲学)を母胎としてscientia(科学)が生まれつつあった時期と一致している。こうした新しい独特の哲学を行う人の数が徐々に増え、彼らが自分達のことを他の哲学者と区別するためにscientist(科学者)という用語がヒューウェルによって1833年に造語され その使用が提唱された。 地球上には多くの水が存在しており、生物の生育や熱の循環に重要な役割を持っている。この水の存在は、気象学や海洋学などの地球科学、生態学における大きな要因の一つである。水蒸気は最大の温室効果ガスでもある。 地球の水の総量は約14億 km(= 1.4×10 m)と言われ、その97 %が海水として存在し、淡水は残り3 %に過ぎない。地球表面の淡水のほとんどは氷河や氷山として、固体の形で存在している。氷の状態の淡水の大部分は南極大陸とグリーンランドが占めている。 この中で、淡水湖、河川水、地下水浅が、人間が直接に利用可能な水で、総量の1 %未満である。飲料水として利用できる水はさらに少ない。海水は天然および人工の全ての汚れを合わせ高濃度に汚染されているため、水資源としての利用価値はほとんどない。 地球における継続的な水の循環は水循環と呼ばれている。太陽から与えられたエネルギーを主因として、固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発、降水、地表流、土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や浸食、運搬、堆積などの地形を形成する作用が行われる。 太陽系外惑星には、大量の液体の水を保持している可能性のある惑星が複数見つかっている。例えばケプラー22bやグリーゼ581d、HD 85512 bといった惑星は、地球と同じような環境で水の海を持つと推定されている。しかし、GJ 1214 bやかに座55番星eといった惑星は、地球と異なり、高温高圧の超臨界水の海を持つとされている。 2011年にクエーサーのAPM 08279+5255の降着円盤に、地球の水の140兆倍という膨大な量の水が発見された。APM 08279+5255は、宇宙誕生から16億年後の時代に存在する天体であり、このことは、既にこの時代に大量の水が存在していた事を示している。 2012年にはハッブル宇宙望遠鏡の観測により、GJ 1214 bが高温の水蒸気の大気を持つことが確認された。大気の下には超臨界水の海が存在する可能性がある。 生物体を構成する物質で、最も多くを占める物質は水である。核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70 % – 80 %が水によって占められており、そのうちわずか数パーセントでも不足すると生命活動に不都合が現れる場合がある。 生きている細胞には(理想的な溶媒である)水が多く含まれており、生命現象を司る化学反応の場を提供し、また水そのものが種々の化学反応の基質となっている。体液として、体内の物質輸送や分泌物、粘膜に用いられる。また高分子鎖とゲル化することで体を支える構造体やレンズにも利用されている。クマムシのように厳しい環境にも耐えられる生物は、体内の水分を放出し、不活性な状態を作り出すことができる。 なお、「生物は太古の海で誕生した」とされることがある。生物の化学組成と海水の組成が似ていることもその説の根拠の1つである。地上の生物もその先祖をたどれば水中生活を送っていた、とされる。 陸上のように、常に水に浸かっていない環境では、生物にとって最も重要な問題の1つが水の確保である。陸上の無脊椎動物では、周囲が湿っていなければ活動できない種も多い。陸上生物に見られる進化的形態の多くが、水の確保や自由水が限られた環境への適応である。クマムシの場合も、頻繁に乾燥にさらされる環境への適応として、休眠の能力が発達したと考えられている。 地球外生命の探査においても、液体の水が星表面または内部に安定して存在している星である事が生物が存在する条件の一つとして考えられている。水以外を溶媒とした生物も理論上は考えられるが、低過ぎる沸点や存在量の不足など何らかの問題を持っており、水より生物は発生しにくいだろうと考えられている(代わりの生化学)。 人体における水分量は年齢・性別によって異なり、新生児で約80 %、成人で60 %前後、高齢者は50 %台となる。また女性は男性に比べて体内の脂肪分が多い関係で水分量は同年代の男性に比べてやや少ない。そして「その人体の水のうち45 %までが、細胞内に封じ込められた水で、残り15 %が血液・リンパ液など細胞の外にある水」と言われている。この細胞内液、細胞外液の両者を総称して体液と呼ぶ。この体液が生命の維持、活動に重要な役割を果たす。 なおニッスイによると、1日に排出される水の量は体重60 kgの成人男性で2500 mLであり、内訳としては尿が1400 mL、糞100 mL、汗500 mL、肺からの呼気500 mLである。また、1日に必要な水の量は当然2500 mLで、一般に飲料水から1200 mL、食物から1000 mLが摂取され、残りは体内で行われた代謝の結果生じた水を300 mL得ているという。一方で、ハーバード健康出版局は1日に必要な水の摂取量を約1400 - 1900 mLとしており、そこには食事によって得られる水分も含まれる。 水は強力な水素結合で水分子同士が引き合っているために蒸発潜熱が多い。このため汗が蒸発することにより、非常に効率良く体温を放散できる。しかし、発汗しても液体として流れ落ちる量が多い時は、この限りではない。 体内の水分量が不足した状態を医学的には脱水と呼ぶ。水分喪失量に対して水分摂取量が不足することによって起こる。脱水症状が長引くと、尿路感染症、腎臓結石、便秘などの特定の症状のリスクが高まるほか、持続的な注意や作業記憶などの認知スキルを弱めることがわかった。水分摂取不足、あるいは水分喪失過剰、あるいは水分摂取不足と水分喪失過剰の同時進行によって起きる。具体的には、高温の環境、重作業、激しい運動、発熱、下痢、嘔吐、食事不足などが原因となって起きる。 人体が過剰な水分を投与された場合、細胞外液の浸透圧が異常に下がり、低ナトリウム血症によって悪心、頭痛、間代性の痙攣、意識障害などの症状を引き起こす。これを水中毒と言い、輸液ミス、心因性多飲、SIADHなどの結果として見られる。なお致死量は体重65 kgのヒトで10 – 30 L/日である。 十分な水を飲むことは多くの理由で重要である。細胞に栄養素を供給し、体温と血圧を調節し、関節を滑らかにし、感染を防ぎ、臓器が正しく機能し続けるのを助ける。水はまた、食物が消化管を通って移動し続け、腎臓の健康をサポートする。全米医学アカデミーは、健康な男性が1日あたり13カップの水分を摂取することを示唆しているが、そのすべてが水や液体や無糖の炭酸水である必要はない。多くの食品にはかなりの量の水分が含まれている。尿の色は、水分摂取量を監視する簡単な方法である。水分補給されているとき、尿は透明と軽いわらの色の間にあるべきである。濃い黄色または琥珀色は、より多くの水を飲む必要があることを示している。 安全な水を飲めるかどうか、ということは人間の健康に大きな影響を及ぼしている。汚物などに触れた不衛生な水を飲むと、感染症(コレラや腸チフス、赤痢など)で命を落とす者が出る。そしてこれらの病気は伝染する。体力の弱い乳幼児は、不衛生な水を摂ると、しばしば酷い下痢を起こし脱水症状で死亡する。老人も免疫力が弱く、不衛生な水で命を落としやすい。また、不衛生な水は寄生虫の問題も引き起こす。 古代でも中世でも、人類のほとんどは水道無しで生活していたと考えて良い。都市で暮らすにしても上水道が無かった。安全な水を飲む方法として古代から行われている1つの方法は、煮沸(しゃふつ)してから口に入れる方法である。 水の使用形態は大きく都市用水と農業用水に分けられ、さらに都市用水は生活用水と工業用水に分けられる。 世界の水の使用量は、1995年の段階で年間約3570 kmで、内訳としては、農業用水が約2503 km/年で約7割を占め最大、工業用水が約715 km/年、生活用水が約354 km/年だった、とも推定されている。水使用量は1950年から1995年までで2.6倍になっているともされ、2025年には30億人以上が水の量と質の限界(水ストレス)に直面する、とも予想されている。仮想水という指標で水の使用量が計算されている。 家庭での水の使用量は、地域によって著しく異なる。途上国の中には、1日1人当たり数リットル程度の国も見られる。その一方で、先進国では1日1人当たり数百リットルという国が多く、途上国と先進国の間には大きな差がある。日本の家庭の使用量も他の先進諸国と同様、特に多い部類に入る。 日本での使用状況の1例として東京の家庭でのそれを挙げると、1日で1人当たり242 Lの水を使っている(2005年現在、東京都水道局調べ)。家庭での水の使用量のうち、28 %がトイレ、24 %が風呂、23 %が炊事、17 %が洗濯であった(2002年、東京都水道局)。 ローマ帝国(古代ローマ)は、土木技術に秀でており、ローマに水を引くべく水道を建設した。これのおかげでローマの住むローマ市民は公衆浴場を利用することができた。ローマには公共の水洗トイレもあった。石製のベンチ状の物の下を水が流れており、ベンチには穴があいており、そこにこしかけて用をすれば、排泄物が流れてゆくのである。ローマのように水がふんだんにある都市生活は世界的に見て例外的であり、他に類を見ない状態であった。 ローマ帝国の時代、ローマという都市に住む人々は風呂に頻繁に入っていたわけだが、その後、彼ら(かつてのローマ帝国の中核的市民。今のローマ市民やイタリア人)は頻繁に風呂に入る習慣は失った。 都市では、都市で生活する者に安全な飲料水をいかにして届けるかということは、都市を治める者、政治を行う者にとって大きな問題である。 日本の江戸では、水不足の状態を改善するために、1652年に玉川上水の建設が計画され、翌1653年、まずは本線が建設された。難工事で幕府の用意した資金は底をついてしまい、玉川兄弟は自宅を売って建設を続行したという。承応3年(1654年)6月から、江戸市中への通水が開始された。 京都では1885年(明治18年)に琵琶湖第1疏水を着工し、1890年(明治23年)に完成した。 中世ヨーロッパでは、各都市は外敵を防ぐべく壁を建設し(城塞都市)、自治が行われ、独立性が高く、小さな国のような様相を呈する都市が多かった。ヨーロッパの都市では、街の広場などに、都市の近くの山などから水道で水を引き、その水を出す fonte フォンテ (イタリア語、ポルトガル語。フランス語では fontaine フォンテーヌ、日本語では「泉」)を設置して、飲料水を市民に提供している都市が多かった。市民は桶を持って広場にやってきて、この「泉」で水を汲んで、水が入った重い桶を持って家まで運び、各家でそれを使うのである。つまり「水道」があるといってもそういう程度のことであったのであり、基本的に各家まで引かれていたわけではない。 中近世のヨーロッパの水事情を理解するための例の1つとして、フランスの首都のパリの水事情について説明すると、パリの水事情は劣悪であった。16世紀・17世紀・18世紀と、パリ市民は安全な飲料水をたっぷりと確保できていたわけではない。基本的に、風呂に入る、などということは考えられない状態であった。やることと言えば、布に水や湯を含ませて身体を拭くということだったり、せいぜいやるとしても、身体があまりに臭くなったら、桶やたらい(金たらい)を用意して、服を脱いでその中で立って、桶にくんだ水をチョロチョロと身体にかけて流し、数分後にはそそくさと身体を拭く、という程度であった。 汚水の扱いも酷い状態で、パリに下水道が整備されていなかったため、市民は、汚物を家(アパルトマン)の前の街路に捨てていた。当時、パリの街路は道の端や真ん中に水が集まるようにしてあり、雨になるとそこを雨水が流れるのだが、そこに汚物が大量に流れ、街全体に悪臭が漂っていたのである。そのような状態が常態化すると、終いには、建物の3階・4階などに住み、いちいち1階まで歩いて降りる手間を面倒に感じる者などでは桶に入った汚物を窓から直接放り投げるような不届き者すらもいた。パリの街を歩くには、足元の汚水にも気を付けなければならないし、同時に、頭上にも注意を払って汚物をかけられないように気を付ける必要すらあったのである。 この状況が変わったのは19世紀のことで、オスマンが行ったパリ改造(オスマニザシオン)の成果であり、オスマンは、パリ市民のために安全な水を豊富に確保するために、パリから100 kmも離れた水源からパリに水を引くという決断を行い、それが成功し、各家庭に充分に水を届けることが可能になり、その結果、当時、パリの各家庭でバスタブを置き風呂に入るということがちょっとした流行になった。 地域によっては現代でも水道が無い国が多い。毎日水をバケツなどで家まで運ぶ地域もある。さらに、水源が遠いため自力で長距離を歩かなければならず、その労働を担う子供が通学さえままならない地域もある。 日本では行われていないが、国や地域によっては、虫歯の予防のために水道水にフッ化物が添加されている。一方、ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていないため、こうした地域では水道水を飲んだ方が口腔の健康上望ましいと考えられている。 水は人類にとって最も身近で重要な物質であり、かつ様々な態様を見せることから、水をモチーフとした数々の芸術作品が生み出されている。 水そのものを取り入れた作品として、庭園における池や噴水などがある。 他にも、世間や市場に普遍的な物(貨幣や情報など)を水に喩えて、「洪水のような」「氾濫する」などと表現されることがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水(、英: water、他言語呼称は「他言語での呼称」の項を参照)とは、化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物である。日本語においては特に湯と対比して用いられ、液体ではあるが温度が低く、かつ凝固して氷にはなっていない物を言う。また、液状の物全般を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この項目では、水に関する文化的な事項を主として解説する。水の化学的・物理学的な事項は「水の性質」を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "水は、ヒト(人)を含む多くの生命体にとって不可欠な物質であり、地球と似た生命が発生・存続しうる惑星の位置を指すハビタブルゾーンは、惑星表面に液体の水が存在しうる温度を保てる恒星からの距離が主な基準となる(→#生物と水)。人は、尿や汗として、成人男性で1日4リットル余り、成人女性で1日3リットルの水を体外に排出し、これは体内にある水の10%程度に相当し、飲み物に含まれる飲料水を20代男性で1日1.8リットル、20代女性で1.4リットル飲む必要がある。水は様々な産業活動にも不可欠である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古代ギリシャではタレスが「万物のアルケーは水」とし、エンペドクレスは四大元素の1つで基本的な元素として水を挙げた。古代インドでも五大の1つとされ、中国の五行説でも基本要素の一つと見なされている。18世紀の後半まで、洋の東西を問わず人々はそうした理解をしていた。それが変わったのは、19世紀前半に、ドルトン、ゲイリュサック、フンボルトらの実験が行われ、アボガドロによって分子説が唱えられたことによって、 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} で表すことができる水素と酸素の化合物と理解されるようになった。(→#水の知識の歴史概略)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "常温常圧では液体で、透明ではあるが、ごくわずかに青緑色を呈している(ただし、重水は無色である)。また無味無臭である。日常生活で人が用いるコップ1杯や風呂桶程度の量の水にはほとんど色が無いので、水の色は「無色透明」と形容される。詩的な表現では、何かの色に染まっていないことの象徴として水が用いられることがある。しかし、海、湖、ダム、大きな川など、厚い層を成して存在する大量の水の色は青色に見える。このような状態で見える水の色を、日本語ではそのまま水色と呼んでいる。(→水の色)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "化学が発展してからは化学式 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} で表され、「水素原子と酸素原子は共有結合で結びついている」と理解されている。(→水の性質)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また水は、かつて1 kgや1 calの単位の基準として用いられていた。(→水の性質)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前述のように、水は、全ての既知の生命体にとって不可欠な物質で、その身体を構成する物質の最も多くを占めている。細胞核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70–80 %が水によって占められている。人体も60–70 %程度が水である。(→#生物と水)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地球表面、特に海洋に豊富に存在する。水は人類にとって身近であって、地球上の生物の生存に必要な物質である。しかし宇宙全体で見ると、実は液体の状態で存在している量は少ない。(→#水の分布)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現代の人類の水の使用量の約7割が農業用水である。現代の東京の家庭での水の使用量を多い順に並べると、トイレ、風呂、炊事である。(→#水の使用量)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以下では、水に関する人類の知識の歴史概略を解説し、続いて現代物理学での水の理解などを解説する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日常的な日本語では、同じ液体の水でも温度によって名称を変えて呼び分ける。低温や常温では水と呼ぶが、温度が高くなると湯()と呼び、別の漢字を宛てる。しかし、英語(water)やフランス語(eau)やスペイン語(agua)などでは、液体であれば温度によらず名称は不変である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語では、湯などから立ち上った水蒸気が凝結して空気中に細かな粒として存在する水は、湯気と言う。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "用途、性質、存在する場所などによる呼び分けも行われている。例えば、水の中でも、特に飲用に供せるものを飲料水と言う。海にある塩分などを多く含む水は海水、地下に存在する水は地下水と呼び、地下水を汲みボトルに詰めた製品をボトルウォーターと呼ぶ。また、用途によって、農業用水、工業用水などの呼称もある。機能と水質に基づく、上水、中水、下水という呼称もある。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語では「ὕδωρ」。発音は時代と共に変遷しており、紀元前5世紀はIPA: /hý.dɔːr/「ヒュドール」、紀元前1世紀は IPA: /ˈ(h)y.dor/「ヒュドル」あるいは「ユドル」であった。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、近・現代の学問で水関連の事物についての造語をする場合、古代ギリシア語の「ὕδωρ」を接頭語として用いるために(若干変形させて)「hydro-」が使用されることがある(例: 英: hydrogen「水素」〈「水を生むもの」「水のもと」といった意味の造語〉、ハイドロプレーニング現象)。この学術的接頭辞の発音は、言語ごとに異なり、英語では/haɪdrə/「ハイドロ」、フランス語では/idʁɔ/「イドロ」である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ラテン語ではaqua「アクア」である。これも伝統的に学術用語に、さらに非学術的分野(商用も含む)でも造語に用いられ、様々な言語で「aqua-」「アクア~」といった語や表現が多数存在する。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その他の言語では", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "水の概念を自然科学的に拡張して、化学式で H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} と表現できる物質を広義の「水」とすれば、固体は氷、液体は水、気体は水蒸気、ということになる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "IUPAC系統名はオキシダン (oxidane) だが、ほとんど用いられない。また、一酸化二水素、酸化水素、水酸、水酸化水素といった呼び方をすることも可能である。(→水素化物)", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "不純物をほとんど含まない水を「純水」と呼ぶ(たとえば、加熱してできた水蒸気を凝結した蒸留水など)。特に純度の高い水は「超純水」という呼称もある。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "水の化学式 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} の水素が2つとも同位体の重水素である水を重水と呼び、化学式 D 2 O {\\displaystyle {\\ce {D2O}}} で表す。水素の1つが重水素であり、もう1つが軽水素である水は、半重水と呼び、 DHO {\\displaystyle {\\ce {DHO}}} で表す。水素の1つが三重水素(トリチウム)である水は、トリチウム水(または三重水素水)と呼び、 HTO {\\displaystyle {\\ce {HTO}}} で表す。重水・半重水とトリチウム水を併せ、さらに酸素の同位体と水素の化合物である水も含めて、単に重水と呼ぶこともある。この広義の重水に対して、普通の水は、軽水と呼ばれる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "軽水と重水は電子状態が同じなので、化学的性質は等しい。しかし、質量が2倍、3倍となる水素の同位体の化合物である水では、結合や解離反応の速度などの物性に顕著な差が表れる。(→速度論的同位体効果)", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "気象に関する用語では、水の粒の大きさによって、霧や靄(もや)と呼ぶ(これらを総称した一般用語として霞もある)。それらが上空にある状態では、雲と呼ぶ。雲から凝縮して大きめの水滴となって地上に落ちてくる水は雨と呼ぶ。上空で水蒸気が凝固して結晶となった氷は雪と呼ばれ、一体の結晶になっていない粒は、大きさによって霰(あられ)や雹(ひょう)と呼ぶ。それらが水と混合した状態になっていれば、霙(みぞれ)と呼ばれる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古代ギリシアの哲学者、一般に最初の哲学者とされる、紀元前6世紀頃の人物ミレトスのタレスは、万物の根源アルケーを探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "同じく古代ギリシアのエンペドクレスは、火、空気、水、土(古代ギリシア語: πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη 、ギリシア語: φωτιά, αέρας, νερό, γη、羅: ignis, aer, aqua, terra)を4つのリゾーマタ(古代ギリシア語: ῥιζὤματα、「根の物質」の意で今日の元素のこと)とし、それの集合や離散によって自然界のできごとを説明する、いわゆる四元素説を唱えた。これはアリストテレスに継承された。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "古代インドでも、地、水、火、風 およびこれに空を加えた五大の思想が唱えられていた。また中国においても、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成るとする五行説が唱えられた。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "つまり、洋の東西を問わず、水は、基本的な4~5種の元素の1つだと考えられていた。こうした水の理解は、2000年以上、18世紀後半の時点でも、ごく一般的であった。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうした理解に変化が生じ始めたのは18世紀末である。人類の歴史の中で見ても、ごく最近のことである。18世紀末に、キャベンディッシュが、金属と酸とが反応した時に、軽い謎の気体(現在では水素と呼ばれているもの)が発生し、それは簡単に燃えて水になることを発見した。また、ラボアジエが、この燃焼で化合する相手が空気中の酸素であることを確かめた。これによって「水は元素ではなかった」という考え方が登場した。ただし、ラボアジエの実験があっても、人々の考え方が直ちに変化したわけではない。人々や学者らもおおむね四元素の考え方をそれまでどおり用いていた、と科学史家たちは指摘している。18世紀までの文献に現れる「aqua」「water」「水」などは、基本元素としての水であると理解するのが妥当である。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その後、19世紀初頭、イギリスのドルトンが実験の結果、水素と酸素が重量比で1:7で化合するとし(後に正しくは1:8と判明)、1805年にはゲイ・リュサックやフンボルトなどがそれぞれ、体積比で2:1で化合することを見出した。さらに1811年に、アボガドロが分子説を唱え、その枠組みの中で水の分子が H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} と定められた。この19世紀の初頭に、西欧の学者たちの水の理解が変わったと科学史家らによって指摘されており、同世紀を通して一般の人々の理解も変化していったと考えてよい。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "分子説の成立と共にあったという点などで、水は近代化学の発展のきっかけを作った物質である。この時期は、おおむねphilosophia(哲学)を母胎としてscientia(科学)が生まれつつあった時期と一致している。こうした新しい独特の哲学を行う人の数が徐々に増え、彼らが自分達のことを他の哲学者と区別するためにscientist(科学者)という用語がヒューウェルによって1833年に造語され その使用が提唱された。", "title": "水の知識の歴史概略" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "地球上には多くの水が存在しており、生物の生育や熱の循環に重要な役割を持っている。この水の存在は、気象学や海洋学などの地球科学、生態学における大きな要因の一つである。水蒸気は最大の温室効果ガスでもある。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "地球の水の総量は約14億 km(= 1.4×10 m)と言われ、その97 %が海水として存在し、淡水は残り3 %に過ぎない。地球表面の淡水のほとんどは氷河や氷山として、固体の形で存在している。氷の状態の淡水の大部分は南極大陸とグリーンランドが占めている。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この中で、淡水湖、河川水、地下水浅が、人間が直接に利用可能な水で、総量の1 %未満である。飲料水として利用できる水はさらに少ない。海水は天然および人工の全ての汚れを合わせ高濃度に汚染されているため、水資源としての利用価値はほとんどない。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地球における継続的な水の循環は水循環と呼ばれている。太陽から与えられたエネルギーを主因として、固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発、降水、地表流、土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や浸食、運搬、堆積などの地形を形成する作用が行われる。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "太陽系外惑星には、大量の液体の水を保持している可能性のある惑星が複数見つかっている。例えばケプラー22bやグリーゼ581d、HD 85512 bといった惑星は、地球と同じような環境で水の海を持つと推定されている。しかし、GJ 1214 bやかに座55番星eといった惑星は、地球と異なり、高温高圧の超臨界水の海を持つとされている。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2011年にクエーサーのAPM 08279+5255の降着円盤に、地球の水の140兆倍という膨大な量の水が発見された。APM 08279+5255は、宇宙誕生から16億年後の時代に存在する天体であり、このことは、既にこの時代に大量の水が存在していた事を示している。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2012年にはハッブル宇宙望遠鏡の観測により、GJ 1214 bが高温の水蒸気の大気を持つことが確認された。大気の下には超臨界水の海が存在する可能性がある。", "title": "水の分布" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "生物体を構成する物質で、最も多くを占める物質は水である。核や細胞質で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を代謝する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70 % – 80 %が水によって占められており、そのうちわずか数パーセントでも不足すると生命活動に不都合が現れる場合がある。", "title": "生物と水" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "生きている細胞には(理想的な溶媒である)水が多く含まれており、生命現象を司る化学反応の場を提供し、また水そのものが種々の化学反応の基質となっている。体液として、体内の物質輸送や分泌物、粘膜に用いられる。また高分子鎖とゲル化することで体を支える構造体やレンズにも利用されている。クマムシのように厳しい環境にも耐えられる生物は、体内の水分を放出し、不活性な状態を作り出すことができる。", "title": "生物と水" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、「生物は太古の海で誕生した」とされることがある。生物の化学組成と海水の組成が似ていることもその説の根拠の1つである。地上の生物もその先祖をたどれば水中生活を送っていた、とされる。", "title": "生物と水" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "陸上のように、常に水に浸かっていない環境では、生物にとって最も重要な問題の1つが水の確保である。陸上の無脊椎動物では、周囲が湿っていなければ活動できない種も多い。陸上生物に見られる進化的形態の多くが、水の確保や自由水が限られた環境への適応である。クマムシの場合も、頻繁に乾燥にさらされる環境への適応として、休眠の能力が発達したと考えられている。", "title": "生物と水" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "地球外生命の探査においても、液体の水が星表面または内部に安定して存在している星である事が生物が存在する条件の一つとして考えられている。水以外を溶媒とした生物も理論上は考えられるが、低過ぎる沸点や存在量の不足など何らかの問題を持っており、水より生物は発生しにくいだろうと考えられている(代わりの生化学)。", "title": "生物と水" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "人体における水分量は年齢・性別によって異なり、新生児で約80 %、成人で60 %前後、高齢者は50 %台となる。また女性は男性に比べて体内の脂肪分が多い関係で水分量は同年代の男性に比べてやや少ない。そして「その人体の水のうち45 %までが、細胞内に封じ込められた水で、残り15 %が血液・リンパ液など細胞の外にある水」と言われている。この細胞内液、細胞外液の両者を総称して体液と呼ぶ。この体液が生命の維持、活動に重要な役割を果たす。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なおニッスイによると、1日に排出される水の量は体重60 kgの成人男性で2500 mLであり、内訳としては尿が1400 mL、糞100 mL、汗500 mL、肺からの呼気500 mLである。また、1日に必要な水の量は当然2500 mLで、一般に飲料水から1200 mL、食物から1000 mLが摂取され、残りは体内で行われた代謝の結果生じた水を300 mL得ているという。一方で、ハーバード健康出版局は1日に必要な水の摂取量を約1400 - 1900 mLとしており、そこには食事によって得られる水分も含まれる。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "水は強力な水素結合で水分子同士が引き合っているために蒸発潜熱が多い。このため汗が蒸発することにより、非常に効率良く体温を放散できる。しかし、発汗しても液体として流れ落ちる量が多い時は、この限りではない。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "体内の水分量が不足した状態を医学的には脱水と呼ぶ。水分喪失量に対して水分摂取量が不足することによって起こる。脱水症状が長引くと、尿路感染症、腎臓結石、便秘などの特定の症状のリスクが高まるほか、持続的な注意や作業記憶などの認知スキルを弱めることがわかった。水分摂取不足、あるいは水分喪失過剰、あるいは水分摂取不足と水分喪失過剰の同時進行によって起きる。具体的には、高温の環境、重作業、激しい運動、発熱、下痢、嘔吐、食事不足などが原因となって起きる。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "人体が過剰な水分を投与された場合、細胞外液の浸透圧が異常に下がり、低ナトリウム血症によって悪心、頭痛、間代性の痙攣、意識障害などの症状を引き起こす。これを水中毒と言い、輸液ミス、心因性多飲、SIADHなどの結果として見られる。なお致死量は体重65 kgのヒトで10 – 30 L/日である。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "十分な水を飲むことは多くの理由で重要である。細胞に栄養素を供給し、体温と血圧を調節し、関節を滑らかにし、感染を防ぎ、臓器が正しく機能し続けるのを助ける。水はまた、食物が消化管を通って移動し続け、腎臓の健康をサポートする。全米医学アカデミーは、健康な男性が1日あたり13カップの水分を摂取することを示唆しているが、そのすべてが水や液体や無糖の炭酸水である必要はない。多くの食品にはかなりの量の水分が含まれている。尿の色は、水分摂取量を監視する簡単な方法である。水分補給されているとき、尿は透明と軽いわらの色の間にあるべきである。濃い黄色または琥珀色は、より多くの水を飲む必要があることを示している。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "安全な水を飲めるかどうか、ということは人間の健康に大きな影響を及ぼしている。汚物などに触れた不衛生な水を飲むと、感染症(コレラや腸チフス、赤痢など)で命を落とす者が出る。そしてこれらの病気は伝染する。体力の弱い乳幼児は、不衛生な水を摂ると、しばしば酷い下痢を起こし脱水症状で死亡する。老人も免疫力が弱く、不衛生な水で命を落としやすい。また、不衛生な水は寄生虫の問題も引き起こす。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "古代でも中世でも、人類のほとんどは水道無しで生活していたと考えて良い。都市で暮らすにしても上水道が無かった。安全な水を飲む方法として古代から行われている1つの方法は、煮沸(しゃふつ)してから口に入れる方法である。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "水の使用形態は大きく都市用水と農業用水に分けられ、さらに都市用水は生活用水と工業用水に分けられる。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "世界の水の使用量は、1995年の段階で年間約3570 kmで、内訳としては、農業用水が約2503 km/年で約7割を占め最大、工業用水が約715 km/年、生活用水が約354 km/年だった、とも推定されている。水使用量は1950年から1995年までで2.6倍になっているともされ、2025年には30億人以上が水の量と質の限界(水ストレス)に直面する、とも予想されている。仮想水という指標で水の使用量が計算されている。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "家庭での水の使用量は、地域によって著しく異なる。途上国の中には、1日1人当たり数リットル程度の国も見られる。その一方で、先進国では1日1人当たり数百リットルという国が多く、途上国と先進国の間には大きな差がある。日本の家庭の使用量も他の先進諸国と同様、特に多い部類に入る。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本での使用状況の1例として東京の家庭でのそれを挙げると、1日で1人当たり242 Lの水を使っている(2005年現在、東京都水道局調べ)。家庭での水の使用量のうち、28 %がトイレ、24 %が風呂、23 %が炊事、17 %が洗濯であった(2002年、東京都水道局)。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ローマ帝国(古代ローマ)は、土木技術に秀でており、ローマに水を引くべく水道を建設した。これのおかげでローマの住むローマ市民は公衆浴場を利用することができた。ローマには公共の水洗トイレもあった。石製のベンチ状の物の下を水が流れており、ベンチには穴があいており、そこにこしかけて用をすれば、排泄物が流れてゆくのである。ローマのように水がふんだんにある都市生活は世界的に見て例外的であり、他に類を見ない状態であった。 ローマ帝国の時代、ローマという都市に住む人々は風呂に頻繁に入っていたわけだが、その後、彼ら(かつてのローマ帝国の中核的市民。今のローマ市民やイタリア人)は頻繁に風呂に入る習慣は失った。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "都市では、都市で生活する者に安全な飲料水をいかにして届けるかということは、都市を治める者、政治を行う者にとって大きな問題である。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本の江戸では、水不足の状態を改善するために、1652年に玉川上水の建設が計画され、翌1653年、まずは本線が建設された。難工事で幕府の用意した資金は底をついてしまい、玉川兄弟は自宅を売って建設を続行したという。承応3年(1654年)6月から、江戸市中への通水が開始された。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "京都では1885年(明治18年)に琵琶湖第1疏水を着工し、1890年(明治23年)に完成した。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパでは、各都市は外敵を防ぐべく壁を建設し(城塞都市)、自治が行われ、独立性が高く、小さな国のような様相を呈する都市が多かった。ヨーロッパの都市では、街の広場などに、都市の近くの山などから水道で水を引き、その水を出す fonte フォンテ (イタリア語、ポルトガル語。フランス語では fontaine フォンテーヌ、日本語では「泉」)を設置して、飲料水を市民に提供している都市が多かった。市民は桶を持って広場にやってきて、この「泉」で水を汲んで、水が入った重い桶を持って家まで運び、各家でそれを使うのである。つまり「水道」があるといってもそういう程度のことであったのであり、基本的に各家まで引かれていたわけではない。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "中近世のヨーロッパの水事情を理解するための例の1つとして、フランスの首都のパリの水事情について説明すると、パリの水事情は劣悪であった。16世紀・17世紀・18世紀と、パリ市民は安全な飲料水をたっぷりと確保できていたわけではない。基本的に、風呂に入る、などということは考えられない状態であった。やることと言えば、布に水や湯を含ませて身体を拭くということだったり、せいぜいやるとしても、身体があまりに臭くなったら、桶やたらい(金たらい)を用意して、服を脱いでその中で立って、桶にくんだ水をチョロチョロと身体にかけて流し、数分後にはそそくさと身体を拭く、という程度であった。 汚水の扱いも酷い状態で、パリに下水道が整備されていなかったため、市民は、汚物を家(アパルトマン)の前の街路に捨てていた。当時、パリの街路は道の端や真ん中に水が集まるようにしてあり、雨になるとそこを雨水が流れるのだが、そこに汚物が大量に流れ、街全体に悪臭が漂っていたのである。そのような状態が常態化すると、終いには、建物の3階・4階などに住み、いちいち1階まで歩いて降りる手間を面倒に感じる者などでは桶に入った汚物を窓から直接放り投げるような不届き者すらもいた。パリの街を歩くには、足元の汚水にも気を付けなければならないし、同時に、頭上にも注意を払って汚物をかけられないように気を付ける必要すらあったのである。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この状況が変わったのは19世紀のことで、オスマンが行ったパリ改造(オスマニザシオン)の成果であり、オスマンは、パリ市民のために安全な水を豊富に確保するために、パリから100 kmも離れた水源からパリに水を引くという決断を行い、それが成功し、各家庭に充分に水を届けることが可能になり、その結果、当時、パリの各家庭でバスタブを置き風呂に入るということがちょっとした流行になった。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "地域によっては現代でも水道が無い国が多い。毎日水をバケツなどで家まで運ぶ地域もある。さらに、水源が遠いため自力で長距離を歩かなければならず、その労働を担う子供が通学さえままならない地域もある。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "日本では行われていないが、国や地域によっては、虫歯の予防のために水道水にフッ化物が添加されている。一方、ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていないため、こうした地域では水道水を飲んだ方が口腔の健康上望ましいと考えられている。", "title": "人間と水" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "水は人類にとって最も身近で重要な物質であり、かつ様々な態様を見せることから、水をモチーフとした数々の芸術作品が生み出されている。", "title": "水と芸術" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "水そのものを取り入れた作品として、庭園における池や噴水などがある。", "title": "水と芸術" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "他にも、世間や市場に普遍的な物(貨幣や情報など)を水に喩えて、「洪水のような」「氾濫する」などと表現されることがある。", "title": "代表的な慣用句" } ]
水(みず、(英: water、他言語呼称は「他言語での呼称」の項を参照)とは、化学式 H2O で表される、水素と酸素の化合物である。日本語においては特に湯と対比して用いられ、液体ではあるが温度が低く、かつ凝固して氷にはなっていない物を言う。また、液状の物全般を指す。 この項目では、水に関する文化的な事項を主として解説する。水の化学的・物理学的な事項は「水の性質」を参照。
{{Otheruses}} {{Otheruses|水や液状物|俗称として用いられるハイドロ(hydraulic)|油圧}} {{redirect|H2O}} [[File:Water droplet blue bg05.jpg|thumb|250px|水面から跳ね返っていく水滴]] [[File:LightningVolt Deep Blue Sea.jpg|thumb|250px|海水]] {{読み仮名|'''水'''|みず|{{lang-en-short|water}}、他言語呼称は[[#他言語での呼称|「他言語での呼称」の項を参照]]}}とは、[[化学式]] '''H<sub>2</sub>O''' で表される、[[水素]]と[[酸素]]の[[化合物]]である<ref name="kojien_5">『[[広辞苑]]』第五版 p.2551「水」</ref>。[[日本語]]においては特に[[湯]]と対比して用いられ{{r|kojien_5}}、[[液体]]ではあるが[[温度]]が低く、かつ[[凝固]]して[[氷]]にはなっていない物を言う。また、液状の物全般を指す{{r|kojien_5}}<ref group="注">エンジンの「冷却水」など水以外の物質が多く含まれた混合物も水と呼ばれる場合がある。日本語以外でも、しばしば液体全般を指している。例えば、[[フランス語]]では[[:fr:eau de vie|eau de vie]](オー・ドゥ・ヴィ=命の水)が[[ブランデー]]類を指すなど、eau(水)はしばしば液体全般を指している。そうした用法は、様々な[[言語]]でかなり一般的である。</ref>。 この項目では、水に関する文化的な事項を主として解説する。水の[[化学]]的・[[物理学]]的な事項は「[[水の性質]]」を参照。 == 概要 == 水は、[[ヒト]](人)を含む多くの[[生命体]]にとって不可欠な[[物質]]であり、[[地球]]と似た生命が発生・存続しうる[[惑星]]の位置を指す[[ハビタブルゾーン]]は、惑星表面に液体の水が存在しうる[[温度]]を保てる[[恒星]]からの距離が主な基準となる(→[[#生物と水]])。人は、[[尿]]や[[汗]]として、成人男性で1日4[[リットル]]余り、成人女性で1日3リットルの水を体外に排出し、これは体内にある水の10%程度に相当し、[[飲み物]]に含まれる[[飲料水]]を20代男性で1日1.8リットル、20代女性で1.4リットル飲む必要がある<ref>[[医薬基盤・健康・栄養研究所]]の山田陽介らの国際研究チームが米科学雑誌『[[サイエンス]]』に発表した論文による。「[https://mainichi.jp/articles/20221203/ddm/012/040/087000c 水4リットル 1日で体外に/国際チーム/調査/20代男性 1.8リットルの補給必要]『[[毎日新聞]]』朝刊2022年12月3日(総合・社会面)同日閲覧。</ref>。水は様々な産業活動にも[[不可欠]]である。 [[古代ギリシャ]]では[[タレス]]が「万物の[[アルケー]]は水」とし、[[エンペドクレス]]は[[四大元素]]の1つで基本的な[[元素]]として水を挙げた。[[インドの歴史|古代インド]]でも[[五大]]の1つとされ、[[中国]]の[[五行説]]でも基本要素の一つと見なされている。18世紀の後半まで、洋の東西を問わず人々はそうした理解をしていた。それが変わったのは、[[19世紀]]前半に、[[ジョン・ドルトン|ドルトン]]、ゲイリュサック、フンボルトらの実験が行われ、[[アメデオ・アヴォガドロ|アボガドロ]]によって[[分子説]]が唱えられたことによって、{{small|<chem>H2O</chem>}} で表すことができる水素と酸素の[[化合物]]と理解されるようになった。(→[[#水の知識の歴史概略]]) [[常温]]常圧では液体で、[[透明]]ではあるが、ごくわずかに青緑色を呈している(ただし、[[重水]]は[[無色]]である)。また無味無臭である。日常生活で人が用いる[[コップ]]1杯や[[風呂桶]]程度の量の水にはほとんど色が無いので、水の色は「無色透明」と形容される。詩的な表現では、何かの色に染まっていないことの[[象徴]]として水が用いられることがある<ref group="注">ただし、これは[[メタファー]]であって、[[物理学]]的な言葉の使い方とは異なる。</ref>。しかし、[[海]]、[[湖]]、[[ダム]]、大きな[[川]]など、厚い層を成して存在する大量の水の色は[[青色]]に見える。このような状態で見える水の色を、日本語ではそのまま[[水色]]と呼んでいる。(→[[水の青|水の色]]) 化学が発展してからは化学式 '''{{small|<chem>H2O</chem>}}''' で表され、「水素[[原子]]と酸素原子は[[共有結合]]で結びついている」と理解されている。(→[[水の性質]]) また水は、かつて1&nbsp;[[キログラム|kg]]や1&nbsp;[[カロリー|cal]]の[[単位]]の基準として用いられていた。(→[[水の性質]]) 前述のように、水は、全ての既知の生命体にとって不可欠な物質で、その身体を構成する物質の最も多くを占めている。[[細胞核]]や[[細胞質]]で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を[[代謝]]する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70–80 %が水によって占められている。[[人体]]も60–70 %程度が水である。(→[[#生物と水]]) [[地球]]表面、特に[[海洋]]に豊富に存在する。水は人類にとって身近であって、地球上の生物の生存に必要な物質である。しかし宇宙全体で見ると、実は液体の状態で存在している量は少ない。(→[[#水の分布]]) 現代の人類の水の使用量の約7割が[[農業用水]]である。現代の東京の家庭での水の使用量を多い順に並べると、[[トイレ]]、[[風呂]]、[[炊事]]である。(→[[#水の使用量]]) 以下では、水に関する人類の知識の歴史概略を解説し、続いて現代物理学での水の理解などを解説する。 == 呼称 == 日常的な[[日本語]]では、同じ液体の水でも温度によって名称を変えて呼び分ける。低温や常温では'''水'''と呼ぶが、温度が高くなると{{読み仮名|'''湯'''|ゆ}}と呼び<ref group="注">特に温度の高い水は{{読み仮名|'''熱湯'''|ねっとう}}と呼ぶ。理・工学的な分野では{{読み仮名|'''熱水'''|ねっすい}}という語も用いられる。対して、技術用語では高い温度の湯に相当する物も水と呼ぶ場合がある(例:冷却水)。[[アイヌ語]]では、低温の水のことをワッカ、高温の水(湯)のことを'''ウセイ'''と言う。</ref>、別の漢字を宛てる。しかし、[[英語]](water)や[[フランス語]](eau)や[[スペイン語]](agua)などでは、液体であれば温度によらず名称は不変である<ref group="注">英語では、温度が高い場合でも名詞(water)は変化せず、形容詞を付加する(hot water)。</ref>。 日本語では、湯などから立ち上った[[水蒸気]]が凝結して空気中に細かな粒として存在する水は、[[水蒸気|湯気]]と言う。 用途、性質、存在する場所などによる呼び分けも行われている。例えば、水の中でも、特に飲用に供せるものを[[飲料水]]と言う。海にある塩分などを多く含む水は[[海水]]、地下に存在する水は[[地下水]]と呼び、地下水を汲みボトルに詰めた製品を[[ボトルウォーター]]と呼ぶ。また、用途によって、[[農業用水]]、[[工業用水]]などの呼称もある。機能と[[水質]]に基づく、[[上水]]、[[中水]]、[[下水]]という呼称もある。 === 他言語での呼称 === [[古代ギリシア語]]では「{{lang|grc|ὕδωρ}}」。発音は時代と共に変遷しており、[[紀元前5世紀]]は[[国際音声記号|IPA]]: {{ipa|hý.dɔːr}}「ヒュドール」、[[紀元前1世紀]]は IPA: {{ipa|ˈ(h)y.dor}}「ヒュドル」あるいは「ユドル」であった。 なお、近・現代の学問で水関連の事物についての[[造語]]をする場合、古代ギリシア語の「{{Lang|grc|ὕδωρ}}」を接頭語として用いるために(若干変形させて)「{{lang|en|hydro-}}」<ref group="注">純粋な水のみならず、高温で溶解したものではなく低温で凝固していない液体、もしくは「液状物全般」を指す場合がある</ref>が使用されることがある(例: {{lang-en-short|hydrogen}}「[[水素]]」〈「水を生むもの」「水のもと」といった意味の造語〉、[[ハイドロプレーニング現象]])。この学術的[[接頭辞]]の発音は、言語ごとに異なり、[[英語]]では{{ipa|haɪdrə}}「ハイドロ」、[[フランス語]]では{{ipa|idʁɔ}}「イドロ」である。 [[ラテン語]]では{{lang|la|aqua}}「[[アクア]]」である。これも伝統的に学術用語に、さらに非学術的分野(商用も含む)でも造語に用いられ、様々な言語で「{{lang|en|aqua-}}」「アクア~」といった語や表現が多数存在する。 その他の言語では {{div col}} * [[英語]] : {{lang|en|water}}({{ipa|ˈwɔːtə(r)}}、ウォーター) * [[ドイツ語]] : {{Lang|de|Wasser}}({{ipa|ˈvasɐ}}、ヴァッサー) * [[フランス語]] : {{Lang|fr|eau}}({{ipa|o}}、オ) * [[イタリア語]] : {{Lang|it|acqua}}({{ipa|ˈakkwa}}、アックア) * [[スペイン語]] : {{lang|es|agua}}({{ipa|ˈaɣwa}}、アグア) * [[ポルトガル語]] : {{lang|pt|água}}([[ポルトガル]] {{ipa|ˈaɣwɐ}}、[[ブラジル]] {{ipa|ˈagwə}}、アグア) * [[ロシア語]] : {{Lang|ru|вода}}({{ipa|vaˈda}}、ヴァダ) * [[ギリシャ語]] : {{lang|el|νερό}}({{ipa|nɛ.'ɾɔ}}、ネロ) * [[ヒンディー語]] : {{Lang|hi|पानी}}(パーニー) * [[ペルシャ語]] : {{Lang|fa|آب}}(アーブ) * [[アラビア語]] : {{Lang|ar|ماء}}(マーイ) * [[ヘブライ語]] : {{Lang|he|מים}}(マイム) * [[中国語]] : {{lang|zh|水}}({{拼音|{{pinyin|shui3}}}}、シュイ) * [[チベット語]] : {{lang|bo|{{bo-textonly|ཆུ}} }}(チュウ) * [[タイ語]] : {{Lang|th|น้ำ}}({{ipa|náam}}、ナーム) * [[マオリ語]] : {{lang|mi|wai}} * [[韓国語]] : {{lang|ko|물}}({{ipa|muɭ}}、ムル) / {{Lang|ko|수[水]}}({{ipa|sʰu}}、ス) * [[モンゴル語]] : {{mongol|ᠤᠰᠦ}}({{lang|mg|ус}}、オス) * [[トルコ語]] : {{lang|tr|su}}(ス) * [[アイヌ語]] : {{lang|ain-Kana|ワッカ}}({{lang|ain-Latn|wakka}}) {{div col end}} である。 {{main2|ウィクショナリーの「[[wikt:みず#翻訳|みず]]」の項も}} === 自然科学での呼び分け === 水の概念を[[自然科学|自然科学的]]に拡張して、化学式で {{small|<chem>H2O</chem>}} と表現できる物質を広義の「水」とすれば、[[固体]]は[[氷]]、液体は'''水'''、[[気体]]は[[水蒸気]]、ということになる。 [[IUPAC命名法|IUPAC系統名]]は'''オキシダン''' (oxidane) だが、ほとんど用いられない。また、'''一酸化二水素'''、'''酸化水素'''、'''水酸'''、'''水酸化水素'''といった呼び方をすることも可能である。(→[[水素化物]]) [[不純物]]をほとんど含まない水を「[[純水]]」と呼ぶ(たとえば、加熱してできた水蒸気を[[凝縮|凝結]]した[[蒸留水]]など)。特に純度の高い水は「[[超純水]]」という呼称もある。 水の化学式 {{small|<chem>H2O</chem>}} の水素が2つとも[[同位体]]の[[重水素]]である水を[[重水]]と呼び、化学式 {{small|<chem>D2O</chem>}} で表す。水素の1つが重水素であり、もう1つが軽水素である水は、半重水と呼び、{{small|<chem>DHO</chem>}} で表す。水素の1つが[[三重水素]](トリチウム)である水は、[[トリチウム水]](または三重水素水)と呼び、{{small|<chem>HTO</chem>}} で表す。重水・半重水とトリチウム水を併せ、さらに酸素の同位体と水素の化合物である水も含めて、単に重水と呼ぶこともある。この広義の重水に対して、普通の水は、[[軽水]]と呼ばれる。 軽水と重水は[[電子状態]]が同じなので、化学的性質は等しい。しかし、質量が2倍、3倍となる水素の同位体の化合物である水では、結合や[[解離 (化学)|解離]]反応の速度などの[[物性]]に顕著な差が表れる。(→[[速度論的同位体効果]]) === 気象用語 === [[気象]]に関する用語では、水の粒の大きさによって、[[霧]]や[[靄]](もや)と呼ぶ(これらを総称した一般用語として霞もある)。それらが上空にある状態では、[[雲]]と呼ぶ。雲から[[凝縮]]して大きめの水滴となって地上に落ちてくる水は[[雨]]と呼ぶ。上空で水蒸気が凝固して結晶となった氷は[[雪]]と呼ばれ、一体の結晶になっていない粒は、大きさによって[[霰]](あられ)や[[雹]](ひょう)と呼ぶ。それらが水と混合した状態になっていれば、[[霙]](みぞれ)と呼ばれる。 == 水の知識の歴史概略== === 古代から18世紀まで === 古代ギリシアの哲学者、一般に最初の[[哲学者]]とされる、[[紀元前6世紀]]頃の人物[[ミレトス]]の[[タレス]]は、万物の根源[[アルケー]]を探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている<ref name="h_pedia_knowledge">平凡社『世界大百科事典』第27巻、pp.&nbsp;342–343【水】>【水の科学】</ref><ref group="注">これを伝えているのは、[[アリストテレス]]の書などである。</ref>。 同じく[[古代ギリシア]]の[[エンペドクレス]]は、'''火'''、'''空気'''、'''水'''、'''土'''('''{{Lang-grc|πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη}}'''<ref group=注>これらは「η」が「e」に変化し、「-o」が付くことで現代の[[接頭辞]]となっている。 *{{lang-grc|πυρ}}「[[火]]」:pyro-、パイロ- *{{lang-grc|αήρ}}「[[空気]]」:aero-、エーロ- *{{lang-grc|ὕδωρ}}「水」:hydro-、ハイドゥロ- *{{lang-grc|γη}}「[[土]]」:geo-、ジオ-</ref> 、{{Lang-gr|φωτιά, αέρας, νερό, γη}}、{{Lang-la-short|ignis, aer, aqua, terra}})を4つのリゾーマタ({{lang-grc|ῥιζὤματα}}、「[[根]]の[[物質]]」の意で今日の[[元素]]のこと)とし、それの集合や離散によって自然界のできごとを説明する、いわゆる'''[[四元素説]]'''を唱えた{{r|h_pedia_knowledge}}。これは[[アリストテレス]]に継承された。 [[古代インド]]でも、地、水、火、風 およびこれに空を加えた'''[[五大]]'''の思想が唱えられていた{{r|h_pedia_knowledge}}。また中国においても、万物は'''木'''・'''火'''・'''土'''・'''金'''・'''水'''の5種類の元素から成るとする'''[[五行思想|五行説]]'''が唱えられた。 つまり、洋の東西を問わず、水は、基本的な4~5種の[[元素]]の1つだと考えられていた。こうした水の理解は、2000年以上、18世紀後半の時点でも、ごく一般的であった。 こうした理解に変化が生じ始めたのは18世紀末である{{r|h_pedia_knowledge}}。人類の歴史の中で見ても、ごく最近のことである。18世紀末に、[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ|キャベンディッシュ]]が、金属と酸とが反応した時に、軽い謎の気体(現在では[[水素]]と呼ばれているもの)が発生し、それは簡単に燃えて水になることを発見した{{r|h_pedia_knowledge}}。また、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラボアジエ]]が、この燃焼で化合する相手が空気中の酸素であることを確かめた{{r|h_pedia_knowledge}}。これによって「水は元素ではなかった」という考え方が登場した。ただし、ラボアジエの実験があっても、人々の考え方が直ちに変化したわけではない。人々や学者らもおおむね四元素の考え方をそれまでどおり用いていた、と科学史家たちは指摘している。18世紀までの文献に現れる「aqua」「water」「水」などは、基本元素としての水であると理解するのが妥当である。 === 19世紀 === その後、19世紀初頭、イギリスの[[ジョン・ドルトン|ドルトン]]が実験の結果、水素と酸素が重量比で1:7で化合するとし(後に正しくは1:8と判明)、1805年には[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック|ゲイ・リュサック]]や[[アレクサンダー・フォン・フンボルト|フンボルト]]などがそれぞれ、体積比で2:1で化合することを見出した{{r|h_pedia_knowledge}}。さらに1811年に、[[アメデオ・アヴォガドロ|アボガドロ]]が[[分子説]]を唱え、その枠組みの中で水の分子が {{small|<chem>H2O</chem>}} と定められた。この19世紀の初頭に、西欧の学者たちの水の理解が変わったと科学史家らによって指摘されており、同世紀を通して一般の人々の理解も変化していったと考えてよい<ref group="注">「共通に支持されている理論体系と矛盾する断片的な発見がいくつあっても人々の考え方の体系(理論体系)は基本的に変化せず、それが変わるのは、あくまで別の理論体系が現れた時だけである」とする考え方は、[[20世紀]]の科学哲学者[[トーマス・クーン|クーン]]が[[パラダイムシフト]]という用語を用いて提唱した。</ref>。 分子説の成立と共にあったという点などで、水は近代[[化学]]の発展のきっかけを作った物質である{{r|h_pedia_knowledge}}。この時期は、おおむねphilosophia([[哲学]])を母胎としてscientia([[科学]])が生まれつつあった時期と一致している。こうした新しい独特の哲学を行う人の数が徐々に増え、彼らが自分達のことを他の哲学者と区別するためにscientist([[科学者]])という用語が[[ウィリアム・ヒューウェル|ヒューウェル]]によって[[1833年]]に造語され その使用が提唱された。 === 水と氷の近代以降の主要な研究の年譜 === <div class="NavFrame" style="border: none; text-align: left; font-size: 100%"> <div class="NavHead" style="background: transparent; text-align: left; font-weight: normal">''年譜を読むには右の[表示]をクリック'' </div> <div class="NavContent"> * [[17世紀]]初頭 - [[ベルギー]]の[[ヤン・ファン・ヘルモント|ファン・ヘルモント]]は植物成長に関する実験により、水を元素と結論づけた。あらかじめ重量を測定した鉢植えに水だけを与え、4年後に重量を測定すると重量が増加していた。すなわち水元素が木元素に変換したことになる。ヘルモントは[[気体|ガス]]という用語を作り出した。[[ビール]]の[[発酵]]、[[石炭]]の[[燃焼]]、[[炭酸塩]]から発生するガスが全て同じ物質であり、命名もしていたが、彼自身の実験と彼のガスの関係には気づいていなかった。 * [[1765年]] - イギリスの[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ|キャベンディッシュ]]、水を材料に熱の研究を行ない、蒸発熱や潜熱を測定した。 * [[1766年]] - キャベンディッシュが、「人工空気の実験を含む三論文」を発表。第1論文で「可燃性空気」すなわち水素の発見を発表。ただし、水素の燃焼物が何であるかを理解していなかった。 * [[1781年]] - [[酸素]]の発見者の一人であるイギリスの[[ジョゼフ・プリーストリー|プリーストリー]]は、水素の燃焼物が水であることを見いだし、キャベンディッシュに確認を求めた。 * [[1784年]] - キャベンディッシュが「空気に関する諸実験」を発表。水の組成を確認する実験について記述されている。実験には2年を要した。水素と酸素を電気火花によって反応させると大量の反応熱を出すため、生成物にどうしても[[窒素]]の酸化物である[[硝酸]]が混入してしまうためであった。彼の論文では水素と酸素を可燃性空気と脱[[フロギストン]]空気としているものの、水素2容積と酸素1容積から水が生成することを確認している。フロギストンによらない説明を最初に与えたのは酸素という名を命名した[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラボアジェ]]であった。 * [[1785年]] - ラボアジェが赤熱した鉄管に水を通すと水素が発生することを示し、水素、酸素こそが元素であって、水は化合物であることを最終的に確認した。 * [[1791年]] - イタリアの[[アレッサンドロ・ボルタ|ボルタ]]が酸素と水素が一定の比率で化合する性質を利用し、逆にこれらの気体の分量を測定するユージオメーターを開発した。 * [[1800年]] - ボルタが、[[化学反応]]による電流の発生に成功。これが化学電池の原型であり「ボルタの電堆」と呼ばれる。 * [[1801年]] - イギリスの[[ウィリアム・ニコルソン (化学者)|ウィリアム・ニコルソン]]が「ボルタの電堆」を用いて、初めて水を[[電気分解]]した。[[陰極]]に水素が2容積、[[陽極]]に酸素が1容積発生することを示した。 * [[1920年]] - この頃までに[[水素結合]]の概念が提唱された。 * [[1933年]] - [[ジョン・デスモンド・バナール|バナール]]が、水の[[X線構造解析]]を行った。 * [[1935年]] - [[ライナス・ポーリング|ポーリング]]、氷の残余[[エントロピー]]の理論。 * [[1936年]] - [[中谷宇吉郎]]が[[雪|雪の結晶]]を人工的に世界で初めて作成。 * [[1958年]] - [[アイゲン]]、水中の[[水素イオン|プロトン]]移動に関するモデルを提唱。 * [[1971年]] - [[ラーマン]]<!-- Aneesur Rahman -->により、水の[[分子動力学法]]によるシミュレーションが行われた。 * [[1971年]] - [[ペイジ]]が、水の[[中性子]]による構造解析を行った。 * [[1994年]] - [[三島修]]が、2 つの[[アモルファス]]氷の間(低密度⇔高密度)の一次[[相転移]]を発見。 * [[2005年]] - R. J. D. Miller らにより、水に[[レーザーパルス]]照射で生じさせた構造変化は 50 [[フェムト病化学|フェムト秒]]以内に失われることが報告された<ref>{{ cite journal | journal = Nature | issn = 0028-0836 | volume = 434 | issue = 7030 | title = Ultrafast memory loss and energy redistribution in the hydrogen bond network of liquid H2O | first1 = M. L. | last1 = Cowan | first2 = B. D. | last2 = Bruner | first3 = N. | last3 = Huse | first4 = J. R. | last4 = Dwyer | first5 = B. | last5 = Chugh | first6 = E. T. J. | last6 = Nibbering | first7 = T. | last7 = Elsaesser | first8 = R. J. D. | last8 = Miller | url = https://doi.org/10.1038/nature03383 | date = 2005-03-10 | pages = 199–202 | doi = 10.1038/nature03383 | ref = harv }}</ref>。 </div> </div> == 水の性質 == {{Main2|水の物理的および化学的な性質|水の性質}} == 水の分布 == {{右| [[File:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|180px|地球の表面の約71 %は海水に覆われている。(→[[海]])]] [[File:Aletschgletscher.jpg|thumb|180px|地球表面の淡水のほとんどは[[氷河]]、[[氷床]]、[[氷山]]として存在する。]] [[File:Watercyclejapanese.jpg|thumb|180px|[[水循環]]のモデル図]] }} === 地球上の水 === 地球上には多くの水が存在しており、生物の生育や熱の循環に重要な役割を持っている。この水の存在は、[[気象学]]や[[海洋学]]などの[[地球科学]]、[[生態学]]における大きな要因の一つである。水蒸気は最大の[[温室効果ガス]]でもある<ref>Kielh, J. T.; Trenberth, K. E. (1997). "{{PDFlink|[http://ams.allenpress.com/archive/1520-0477/78/2/pdf/i1520-0477-78-2-197.pdf Earth's annual global mean energy budget]}}." ''Bull. Am. Meteorol. Soc.'' '''78''': 197 – 298 によると、温室効果のうち60 %が水蒸気に由来する。第2位が二酸化炭素 (26 %) である。</ref>。 地球の水の総量は約14億 km<sup>3</sup>(= {{val|1.4|e=18|u=m3}})と言われ、その97 %が[[海水]]として存在し、[[淡水]]は残り3 %に過ぎない。地球表面の淡水のほとんどは[[氷河]]や[[氷山]]として、固体の形で存在している。氷の状態の淡水の大部分は[[南極大陸]]と[[グリーンランド]]が占めている<ref name="jemai">{{cite|和書 |editor=環境保全対策研究会 |title=二訂・水質汚濁対策の基礎知識 ||publisher=社団法人産業環境管理協会 |edition=8 |year= 2008 |isbn=4-914953-41-2}}</ref>。 {| class="wikitable" |- ! 位置 | [[淡水湖]] || [[河川]]水 || [[地下水]]浅 || [[地下水]]深 || [[土壌]]水 || [[氷河]] || [[大気]] || [[塩水湖]] || [[海洋]] |- ! 存在比 (%) || 0.009 || 0.0001 || 0.31 || 0.31 || 0.005 || 2.15 || 0.001 || 0.008 || 97.2 |} この中で、'''淡水湖'''、'''河川水'''、'''地下水浅'''が、人間が直接に利用可能な水で、総量の1 %未満である。飲料水として利用できる水はさらに少ない。海水は天然および人工の全ての汚れを合わせ高濃度に汚染されているため、[[水資源]]としての利用価値はほとんどない{{r|jemai}}。 地球における継続的な水の循環は'''[[水循環]]'''と呼ばれている。[[太陽]]から与えられたエネルギーを主因として、[[固相]]・[[液相]]・[[気相]]間で相互に状態を変化させながら、[[蒸発]]、[[降水]]、[[地表流]]、[[土壌]]への浸透などを経て、地球上を絶えず循環している。また、この循環の過程で地球表面の熱の移動や[[浸食]]、運搬、[[堆積]]などの[[地形]]を形成する作用が行われる。 === 太陽系の水 === * [[太陽系]]の[[惑星]]および[[衛星]]の表面に存在する水のほとんどは[[氷]]または[[水蒸気]]であり、地球以外で液体の水が存在する場所は少ない。相図から判るように、液体の水が存在できる温度範囲は高圧ほど広くなる。逆に、[[火星]]のように気圧の低い環境では、液体の水は安定に存在することはできない。しかし、かつての火星の表面には液体の水があったことが判明している。 * [[木星の衛星]]の1つである[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]には、内部に液体の水からなる海が存在するのではないかと考えられている。 === 太陽系外の水 === [[太陽系外惑星]]には、大量の液体の水を保持している可能性のある惑星が複数見つかっている。例えば[[ケプラー22b]]や[[グリーゼ581d]]、[[HD 85512 b]]といった惑星は、地球と同じような環境で水の海を持つと推定されている。しかし、[[GJ 1214 b]]や[[かに座55番星e]]といった惑星は、地球と異なり、高温高圧の[[超臨界流体|超臨界水]]の海を持つとされている。 [[2011年]]に[[クエーサー]]の[[APM 08279+5255]]の[[降着円盤]]に、地球の水の140兆倍という膨大な量の水が発見された。APM 08279+5255は、宇宙誕生から16億年後の時代に存在する天体であり、このことは、既にこの時代に大量の水が存在していた事を示している<ref>{{Cite web |url=http://www.nasa.gov/topics/universe/features/universe20110722.html |title=Astronomers Find Largest, Most Distant Reservoir of Water |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |work=Mission News |language=英語 |date=2011-07-22 |accessdate=2012-05-19 }}</ref>。 [[2012年]]には[[ハッブル宇宙望遠鏡]]の観測により、[[GJ 1214 b]]が高温の水蒸気の大気を持つことが確認された。大気の下には超臨界水の海が存在する可能性がある<ref>{{Cite news |url=http://www.space.com/14634-alien-planet-steamy-waterworld-gj1214b.html |title=New Type of Alien Planet Is a Steamy 'Waterworld' |publisher=Space.com |work=Search for Life |language=英語 |date=2012-02-21 |accessdate=2016-05-05 }}</ref>。 == 生物と水 == {{右| [[File:African waterfall.jpg|thumb|200px|水は生命の維持に欠かせない]] [[File:Blue Linckia Starfish.JPG|thumb|200px|様々な生命が宿る[[サンゴ礁]]]] [[File:H2O.jpg|thumb|200px|right|極地の風景]] }} <!--すべての既知の[[生命体]]にとって、水は不可欠な物質である{{要検証|date=2011年4月|}}。--> 生物体を構成する物質で、最も多くを占める物質は水である。[[細胞核|核]]や[[細胞質]]で最も多い物質でもあり、細胞内の物質を[[代謝]]する際の媒体としても利用されている。通常、質量にして生物体の70 % – 80 %が水によって占められており、そのうちわずか数パーセントでも不足すると生命活動に不都合が現れる場合がある。 生きている[[細胞]]には(理想的な[[溶媒]]である)水が多く含まれており、生命現象を司る[[化学反応]]の場を提供し、また水そのものが種々の化学反応の[[基質 (化学)|基質]]となっている。[[体液]]として、体内の物質輸送や分泌物、[[粘膜]]に用いられる。また高分子鎖と[[ゲル]]化することで体を支える構造体や[[レンズ]]にも利用されている。[[クマムシ]]のように厳しい環境にも耐えられる生物は、体内の水分を放出し、不活性な状態を作り出すことができる。 なお、「生物は太古の海で誕生した」とされることがある。生物の[[化学組成]]と[[海水]]の組成が似ていることもその説の根拠の1つである。地上の生物もその先祖をたどれば水中生活を送っていた、とされる。 陸上のように、常に水に浸かっていない環境では、生物にとって最も重要な問題の1つが水の確保である。陸上の[[無脊椎動物]]では、周囲が湿っていなければ活動できない種も多い。[[陸上生物]]に見られる進化的形態の多くが、水の確保や[[自由水]]が限られた環境への適応である。クマムシの場合も、頻繁に乾燥にさらされる環境への適応として、休眠の能力が発達したと考えられている。 [[地球外生命]]の探査においても、液体の水が星表面または内部に安定して存在している星である事が生物が存在する条件の一つとして考えられている。水以外を溶媒とした生物も理論上は考えられるが、低過ぎる沸点や存在量の不足など何らかの問題を持っており、水より生物は発生しにくいだろうと考えられている([[代わりの生化学]])。 <!-- {{要出典範囲| === 水素結合による利点 === 水分子間における[[水素結合]]を生物は様々な形で利用し、またその恩恵を受けている。 * 生体に不可欠な構成要素である[[タンパク質]]が必要な立体構造を作る際([[フォールディング]])に、各[[アミノ酸]]同士にはたらく水分子を仲立ちとした水素結合が重要な役割を演ずる。 * 生物環境という立場から見れば、水はその(水素結合に起因する)比熱が大きいことによって温度を安定させる緩衝の意味合いが大きく、恒常性の維持に貢献していると言える。 * 低温の固体が液体より上部にくることは、[[海]]や[[湖沼]]を完全凍結しにくくし、生物に生存のチャンスを与えている。液体である4℃の状態で最も密度が大きくなるという性質は水素結合の性質に起因している。 |date=2014年10月}} --> == 人間と水 == === 人体と水 === [[人体]]における水分量は[[年齢]]・[[性別]]によって異なり、[[新生児]]で約80 %、[[成人]]で60 %前後、[[高齢者]]は50 %台となる。また女性は男性に比べて体内の[[脂肪]]分が多い関係で水分量は同年代の男性に比べてやや少ない<ref name="example">{{Cite web|和書|url=http://www.nissui.co.jp/academy/taste/14/index.html |publisher=ニッスイ |title=おいしさを科学する「水分」 |work=PR誌「GLOBAL」 ニッスイアカデミー |date=2008-10 |accessdate=2015-05-07 }}</ref>。そして「その人体の水のうち45 %までが、[[細胞]]内に封じ込められた水で、残り15 %が[[血液]]・[[リンパ液]]など細胞の外にある水<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.reliance-cosmos.co.jp/cms2018/wp-content/uploads/2014/06/pdf_89.pdf|publisher=コスモス薬局グループ |title=食通信No.175 水 |date=2004-06 |accessdate=2020-05-19 }}</ref>」と言われている。この[[細胞内液]]、[[細胞外液]]の両者を総称して[[体液]]と呼ぶ。この体液が生命の維持、活動に重要な役割を果たす。 なお[[ニッスイ]]によると、1日に排出される水の量は体重60&nbsp;kgの成人男性で2500&nbsp;mLであり、内訳としては[[尿]]が1400&nbsp;mL、[[糞]]100&nbsp;mL、汗500&nbsp;mL、肺からの呼気500&nbsp;mLである。また、1日に必要な水の量は当然2500&nbsp;mLで、一般に[[飲料水]]から1200&nbsp;mL、[[食物]]から1000&nbsp;mLが摂取され、残りは[[代謝水|体内で行われた代謝の結果生じた水]]を300&nbsp;mL得ているという{{r|example}}。一方で、ハーバード健康出版局は1日に必要な水の摂取量を約1400 - 1900&nbsp;mLとしており、そこには食事によって得られる水分も含まれる<ref>{{Cite web |title=Better Bladder and Bowel Control: Practical strategies for managing incontinence |url=https://www.health.harvard.edu/digestive-health/better-bladder-and-bowel-control-practical-strategies-for-managing-incontinence |website=Harvard Health |access-date=2022-07-28 |language=en}}</ref>。 水は強力な水素結合で水分子同士が引き合っているために[[蒸発潜熱]]が多い。このため汗が蒸発することにより、非常に効率良く体温を放散できる。しかし、発汗しても液体として流れ落ちる量が多い時は、この限りではない。 ;脱水症 体内の水分量が不足した状態を医学的には[[脱水 (医療)|脱水]]と呼ぶ。水分喪失量に対して水分摂取量が不足することによって起こる。脱水症状が長引くと、尿路感染症、腎臓結石、[[便秘]]などの特定の症状のリスクが高まるほか、持続的な注意や作業記憶などの認知スキルを弱めることがわかった<ref name=":0">{{Cite web|title=How to hydrate|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/how-to-hydrate|website=Harvard Health|date=2021-07-01|accessdate=2021-06-27|language=en|first=Matthew|last=Solan}}</ref>。水分摂取不足、あるいは水分喪失過剰、あるいは水分摂取不足と水分喪失過剰の同時進行によって起きる。具体的には、高温の環境、重作業、激しい[[スポーツ|運動]]、[[発熱]]、[[下痢]]、[[嘔吐]]、食事不足などが原因となって起きる。 ;水中毒 人体が過剰な水分を投与された場合、[[細胞外液]]の[[浸透圧]]が異常に下がり、[[低ナトリウム血症]]によって悪心、[[頭痛]]、間代性の[[痙攣]]、[[意識障害]]などの症状を引き起こす。これを[[水中毒]]と言い、[[輸液]]ミス、心因性多飲、[[抗利尿ホルモン不適合分泌症候群|SIADH]]などの結果として見られる。なお[[致死量]]は体重65&nbsp;kgのヒトで10 – 30 L/日である。 {{Seealso|水中毒}} === 人間の健康と水 === 十分な水を飲むことは多くの理由で重要である。細胞に栄養素を供給し、体温と血圧を調節し、関節を滑らかにし、感染を防ぎ、臓器が正しく機能し続けるのを助ける。水はまた、食物が消化管を通って移動し続け、腎臓の健康をサポートする。[[全米医学アカデミー]]は、健康な男性が1日あたり13カップの水分を摂取することを示唆しているが、そのすべてが水や液体や無糖の炭酸水である必要はない。多くの食品にはかなりの量の水分が含まれている。尿の色は、水分摂取量を監視する簡単な方法である。水分補給されているとき、尿は透明と軽いわらの色の間にあるべきである。濃い黄色または琥珀色は、より多くの水を飲む必要があることを示している<ref name=":0" />。 安全な水を飲めるかどうか、ということは人間の健康に大きな影響を及ぼしている。汚物などに触れた不衛生な水を飲むと、感染症([[コレラ]]や[[腸チフス]]、[[赤痢]]など)で命を落とす者が出る。そしてこれらの病気は伝染する。体力の弱い乳幼児は、不衛生な水を摂ると、しばしば酷い[[下痢]]を起こし[[脱水症状]]で死亡する。老人も免疫力が弱く、不衛生な水で命を落としやすい。また、不衛生な水は[[寄生虫]]の問題も引き起こす。 古代でも中世でも、人類のほとんどは水道無しで生活していたと考えて良い。都市で暮らすにしても上水道が無かった。安全な水を飲む方法として古代から行われている1つの方法は、[[煮沸]](しゃふつ)してから口に入れる方法である。 === 水の利用 === [[File:MH-60S Helicopter dumps water onto Fire.jpg|right|thumb|180px|水は基本的な[[消火剤]]でもある]] [[File:A girl in a swimming pool - underwater.jpg|thumb|180px|[[水泳|スイミング]]をする人]] [[File:Wasserhahn.jpg|thumb|180px|現代の水道の[[蛇口]]]] {{Main|水資源}} 水の使用形態は大きく都市用水と農業用水に分けられ、さらに都市用水は生活用水と工業用水に分けられる<ref>[https://www.niph.go.jp/journal/data/56-1/200756010003.pdf 秋葉道宏「上下水道システムに対する地震リスクとその対策」][[国立保健医療科学院]](2021年10月8日閲覧)</ref>。 ==== 世界の水の使用量 ==== 世界の水の使用量は、1995年の段階で年間約3570&nbsp;km{{sup|3}}で、内訳としては、[[農業用水]]が約2503&nbsp;km{{sup|3}}/年で約7割を占め最大、[[工業用水]]が約715&nbsp;km{{sup|3}}/年、生活用水が約354&nbsp;km{{sup|3}}/年だった、とも推定されている。水使用量は1950年から1995年までで2.6倍になっているともされ、2025年には30億人以上が水の量と質の限界(水ストレス)に直面する、とも予想されている<ref>{{Cite journal |format=PDF |url=http://www.aric.or.jp/03_book/61_70/no67/topics/67.pdf |title=世界の水危機と第3回世界水フォーラム 2. 水危機の現実 (3) 世界の水利用 |page=p. 12 |author=進藤惣治 |journal=ARIC情報 |publisher=農業農村整備情報総合センター |issue=67 |date=2002-10 |accessdate=2008-03-09 |deadlink=2016-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110917020507/http://www.aric.or.jp/03_book/61_70/no67/topics/67.pdf |archivedate=2011-09-17 }}</ref>。[[仮想水]]という指標で水の使用量が計算されている。 ==== 家庭での水の使用状況と用途 ==== 家庭での水の使用量は、地域によって著しく異なる。[[開発途上国|途上国]]の中には、1日1人当たり数リットル程度の国も見られる。その一方で、先進国では1日1人当たり数百リットルという国が多く、途上国と先進国の間には大きな差がある。日本の家庭の使用量も他の先進諸国と同様、特に多い部類に入る<ref group="注">家庭での水の使用状況と用途についての関連資料。 * INAXニュースリリース [http://www.inax.co.jp/company/news/2006/060_eco_0331_48.html 『日本人は、一人一日に1,460リットルの水を輸入していることを知っていますか?「ヴァーチャルウォーター(仮想水)」という考え方』]<!--2008年3月9日 (日) 04:18 (UTC)--> * 大阪ガス{{PDFlink|[http://www.osakagas.co.jp/cel/pdf/cel_83_16.pdf 「生活者ができる地球温暖化防止のために」]}}<!--2008年3月9日 (日) 02:42--> * 三宅基文、沖大幹、虫明功臣 [https://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/Info/Press200207/Doc/MiyakeMizuFinal.doc 「日本を中心とした仮想水の輸出入」](第 6 回水資源に関するシンポジウム論文集, 2002)MS Word文書。<!--2008年3月9日 (日) 04:18 (UTC)--> * [http://www.greenfacts.org/en/water-resources/figtableboxes/3.htm AQUASTAT, FAO 2005, 「Water availability information by country」] </ref>。<!--2008年3月9日 (日) 04:18 (UTC)--> 日本での使用状況の1例として東京の家庭でのそれを挙げると、1日で1人当たり242&nbsp;Lの水を使っている(2005年現在、[[東京都水道局]]調べ)。家庭での水の使用量のうち、28 %がトイレ、24 %が風呂、23 %が炊事、17 %が洗濯であった(2002年、東京都水道局)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/syuukan/s02.htm |title=水を大切にする習慣 |work=PR情報 節水の習慣 |publisher=東京都水道局 |accessdate=2007-10-15 |deadlinkdate=2016-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071029194442/http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/syuukan/s02.htm |archivedate=2007-10-29 }}</ref>。 ==== 水道 ==== [[File:Pont du gard.jpg|right|thumb|250px|[[古代ローマ]]の水道橋である[[フランス]]の[[ポン・デュ・ガール]]。]] {{Main|水道}} [[ローマ帝国]](古代ローマ)は、土木技術に秀でており、ローマに水を引くべく[[水道]]を建設した。これのおかげでローマの住むローマ市民は公衆浴場を利用することができた。[[古代ローマの衛生#公衆トイレ|ローマには公共の水洗トイレ]]もあった。石製のベンチ状の物の下を水が流れており、ベンチには穴があいており、そこにこしかけて用をすれば、排泄物が流れてゆくのである。ローマのように水がふんだんにある都市生活は世界的に見て例外的であり、他に類を見ない状態であった。<!--{{誰|date=2014年10月}}「{{要出典範囲|水道が建設された理由は、水の利用は都市生活の維持にとって重要なためだ|date=2014年10月}}」--> ローマ帝国の時代、ローマという都市に住む人々は風呂に頻繁に入っていたわけだが、その後、彼ら(かつてのローマ帝国の中核的市民。今のローマ市民やイタリア人)は頻繁に風呂に入る習慣は失った<ref group="注">この辺りの経緯・事情はヤマザキ・マリなども調べており『[[テルマエ・ロマエ]]』に書いている。</ref>。 都市では、都市で生活する者に安全な飲料水をいかにして届けるかということは、都市を治める者、政治を行う者にとって大きな問題である。 日本の[[江戸]]では、水不足の状態を改善するために、1652年に[[玉川上水]]の建設が計画され、翌1653年、まずは本線が建設された。難工事で幕府の用意した資金は底をついてしまい、玉川兄弟は自宅を売って建設を続行したという。承応3年(1654年)6月から、江戸市中への通水が開始された。 京都では1885年(明治18年)に[[琵琶湖疏水|琵琶湖第1疏水]]を着工し、1890年(明治23年)に完成した。 [[File:Embrun - Fontaine -807.jpg|thumb|right|200px|ヨーロッパの小都市の広場などにある 「fonteフォンテ」 や「fontaineフォンテーヌ」(=「泉」)の例。]] [[中世ヨーロッパ]]では、各都市は外敵を防ぐべく壁を建設し(城塞都市)、[[自治]]が行われ、独立性が高く、小さな国のような様相を呈する都市が多かった。ヨーロッパの都市では、街の広場などに、都市の近くの山などから水道で水を引き、その水を出す fonte フォンテ (イタリア語、ポルトガル語。フランス語では fontaine フォンテーヌ、日本語では「泉」)を設置して、飲料水を市民に提供している都市が多かった。市民は桶を持って広場にやってきて、この「泉」で水を汲んで、水が入った重い桶を持って家まで運び、各家でそれを使うのである。つまり「水道」があるといってもそういう程度のことであったのであり、基本的に各家まで引かれていたわけではない。 中近世のヨーロッパの水事情を理解するための例の1つとして、フランスの首都の[[パリ]]の水事情について説明すると、パリの水事情は劣悪であった。16世紀・17世紀・18世紀と、パリ市民は安全な飲料水をたっぷりと確保できていたわけではない。基本的に、風呂に入る、などということは考えられない状態であった。やることと言えば、布に水や湯を含ませて身体を拭くということだったり、せいぜいやるとしても、身体があまりに臭くなったら、[[桶]]や[[たらい]]([[金たらい]])を用意して、服を脱いでその中で立って、桶にくんだ水をチョロチョロと身体にかけて流し、数分後にはそそくさと身体を拭く、という程度であった。 汚水の扱いも酷い状態で、パリに下水道が整備されていなかったため、市民は、汚物を家(アパルトマン)の前の街路に捨てていた。当時、パリの街路は道の端や真ん中に水が集まるようにしてあり、雨になるとそこを雨水が流れるのだが、そこに汚物が大量に流れ、街全体に悪臭が漂っていたのである。そのような状態が常態化すると、終いには、建物の3階・4階などに住み、いちいち1階まで歩いて降りる手間を面倒に感じる者などでは桶に入った汚物を窓から直接放り投げるような不届き者すらもいた。パリの街を歩くには、足元の汚水にも気を付けなければならないし、同時に、頭上にも注意を払って汚物をかけられないように気を付ける必要すらあったのである。 この状況が変わったのは19世紀のことで、オスマンが行った[[パリ改造]](オスマニザシオン)の成果であり、オスマンは、パリ市民のために安全な水を豊富に確保するために、パリから100&nbsp;kmも離れた水源からパリに水を引くという決断を行い、それが成功し、各家庭に充分に水を届けることが可能になり、その結果、当時、パリの各家庭で[[バスタブ]]を置き風呂に入るということがちょっとした流行になった<ref>{{Cite journal|和書|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00002964/ |author=大森弘喜 |title=19世紀パリの水まわり事情と衛生 |journal=成城大學經濟研究 |publisher=[[成城大学]] |issue=196 |pages=1-58 |date=2012-03 |naid=110009576266 |accessdate=2023-05-12 }}</ref>。 地域によっては現代でも水道が無い国が多い。毎日水を[[バケツ]]などで家まで運ぶ地域もある。さらに、水源が遠いため自力で長距離を歩かなければならず、その労働を担う子供が通学さえままならない地域もある{{要出典|date=2016年5月5日 (木) 13:29 (UTC)}}。 日本では行われていないが、国や地域によっては、[[虫歯]]の予防のために水道水に[[フッ化物]]が添加されている。一方、ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていないため、こうした地域では水道水を飲んだ方が口腔の健康上望ましいと考えられている<ref>{{Cite web|title=Water, water everywhere|url=https://www.health.harvard.edu/blog/water-water-everywhere-2016110310577|website=Harvard Health|date=2016-11-03|accessdate=2021-07-13|language=en|first=Robert H. Shmerling|last=MD}}</ref>。 == 水と芸術 == [[File:Versalles.jpg|thumb|180px|[[噴水]]]] 水は人類にとって最も身近で重要な物質であり、かつ様々な態様を見せることから、水をモチーフとした数々の芸術作品が生み出されている。 水そのものを取り入れた作品として、[[庭園]]における[[池]]や[[噴水]]などがある。 == 代表的な慣用句 == * 水掛け論 - 双方が主張を言い合い解決しない議論のこと。[[田]]に水が欲しい双方が、水を掛け合ってまで争う様に由来する成句だと言われている。 * 湯水のように(ごとく) - 大量に使うことを指し、通常は無駄遣いや乱費の表現として用いられる。日本ではかつて「水と安全はタダ」など言われ、水は非常に安価または無料の代名詞であった。[[茶道]]の[[点前]]で[[茶道具]]を清めるために大量の湯水を使うことに由来する。 * [[水商売]](またはその略称「お水」) - [[飲食業]]または[[風俗業]]の別称。1日の客数が安定しない(水物である)から。一説に、酒の水割り用の水道水に値段を付ける(金を取る)ことから。 * 水に流す - 過去の因縁を忘れること。汚れ物は水に溶かして流れ去るに任せるのが古来の流儀である。実際に、多くの汚物は水中における自然の[[浄化槽|浄化]]作用とその人工的応用である[[汚水処理]]によって処理される。 他にも、世間や市場に普遍的な物(貨幣や情報など)を水に喩えて、「[[洪水]]のような」「[[氾濫]]する」などと表現されることがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{sisterlinks|commons=Water|commonscat=Water|d=Q283}} <!--呼称--> * [[海]] - [[海洋深層水]] * [[川]] - [[滝]] * [[湖]] - [[池]] - [[水たまり]] - [[オアシス]] * [[雨]] - [[地下水]] * [[水分]] - [[水蒸気]] * [[過冷却水]] - [[氷]] - [[ムペンバ効果]] <!--性質--> * [[純水]] - [[超純水]] - [[軽水]] - [[重水]] * [[硬水]] - [[軟水]] - [[ミネラルウォーター]] * [[蒸留水]] * [[機能水]] * [[海水]] ** [[電解水]] - [[強酸性水]] - [[アルカリイオン水]] ** [[磁気活性水]] <!--物理化学--> * [[水モデル]] - [[水クラスター]] * [[ポリウォーター]] * [[セルシウス度]] <!--利用--> * [[海水淡水化]] * [[飲料水]] * [[水道]] - [[上水道]] - [[中水道]] - [[下水道]] * [[井戸]] * [[水質汚濁]] - [[地下水汚染]] - [[公害]] * [[水の危機]] - [[世界水会議]] - [[世界水フォーラム]] - [[アジア太平洋水サミット]]-[[世界水の日]] * [[仮想水]] * [[ウォータースポーツ]] - [[潜水]] - [[水泳]] * [[ウォーターカッター]] * [[打ち水]] * [[水害]] * [[DHMO]] * [[水部]] - 漢字の部首 == 外部リンク == * [https://www.env.go.jp/water/mizu.html 水環境関係] - [[環境省]]<!--2008年12月14日 (日) 10:06 (UTC)--> * [https://www.mlit.go.jp/mizukokudo/mizsei/ 水資源] - [[国土交通省]]<!--2008年12月14日 (日) 10:06 (UTC)。2016-05-05にurl差し替え--> * [http://www1.lsbu.ac.uk/water/water_structure_science.html Water Structure and Science]{{en icon}} - [[:en:London South Bank University]] 水についてのあらゆる科学的情報が得られる。<!--2015年6月13日 (土) 14:33 (UTC)--> * [http://www1.lsbu.ac.uk/water/water_properties.html Water Properties (including isotopologues)] - 上記のHPのうち、水の性質についての一覧表 * {{EoE|Physical_properties_of_water|Physical properties of water|水の物理的性質}} * [http://ga.water.usgs.gov/edu/watercycle.html The Water Cycle:水循環のページ] - [[アメリカ地質調査所]]、日本語訳あり。 * {{Kotobank}} * [https://www.youtube.com/watch?v=urMNywqQfRM&list=PLWl4iqLt9NEI_W7ZVZ6_QT78GFXgjeiEh&index=16 野口宇宙飛行士の宇宙暮らし 014: 水で遊ぼう] - [[国際宇宙ステーション]](ISS)内の[[無重量状態]]下での'''水'''の振る舞いなどを紹介する動画。 {{水素の化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みす}} [[Category:水|*]] [[Category:酸化物]] [[Category:水素の化合物]] [[Category:溶媒]]
2003-02-15T08:37:40Z
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スラッシュドット
スラッシュドット(英: Slashdot)は、特に米国で有名な、コンピュータ関係のニュースを扱うWeb上の電子掲示板である。他のウェブサイトで紹介されたニュースなどの要約をリンクと共に提供し、それに対して読者がコメント(意見)を書き込んでいく。英語版には過去に5300件以上のコメントが寄せられたことがあった。日本語版へのコメントは最大1018件であった。 2023年現在日本の日本語版と米国の英語版は独立して存在する。 ニュース記事(「ストーリー」)は読者からの投稿(「タレコミ」)として編集者グループに提供され、それを各編集者が選択して掲載する、という方式が採られている。各記事には、匿名・非匿名関わらずに読者が自由に「コメント」を投稿することが出来る。 ある読者のコメントに対して、別の読者がプラス・マイナスの点数付け(モデレーション)をする、「モデレーションシステム(英語版)」の導入が特徴的である。コメントのモデレーションは+5〜-1の範囲で変化する。通常の初期値は、アカウント(ID)を持ち、ログインしている読者は1、匿名として投稿した者は0である。モデレーションする権利はアカウント(ID)を登録して定期的にスラッシュドットを訪れ、かつ登録後一定の期間が経過した読者に、今までの投稿へのモデレーションなどを考慮した上で、システムが無作為に与えるようになっている。ただし、モデレートする意志がない場合、ユーザー設定で「モデレートする意志」のチェックを外すことで、モデレート権は回ってこなくなる(既定はオン)。またモデレート権は一時的なものであり、3日間のみ有効、かつ5つ以内のコメントに対して行使できる。さらに「メタモデレーション」という仕組みもあり、別な読者がモデレーションの結果に対し「公正・不公正」の評価ができる。これにより恣意的なモデレーションを抑止する効果を意図している。 また、アカウントを持つものは、投稿したコメントへのモデレーションや行ったモデレーションへのメタモデレーションに応じて「カルマ」と呼ばれるポイントが付与される。このカルマは、先のモデレーション権取得条件の一つであったり、投稿のモデレーション初期値を+2にすることができる(ただしこれを行うと代償としてカルマは下がる)など、若干の特典が得られる。なお、カルマの数値は実際に示されることはなく、ユーザは「たっぷり」などのような抽象的言葉でのみ知ることができる。 ログインせずに匿名で投稿した場合、投稿者名が Anonymous Coward(匿名の臆病者の意味、AC)となり、前述のモデレーションシステムや大量の連続投稿ができないなどの制限がある。その一方で「内部の人間なのでACですが......」と注釈付きで貴重な情報を提供する技術関係者も多く、そのような発言に対して、同サイトのモデレート制度により「参考になる」等の評価が寄せられることもある。 掲載された記事には内容に応じたトピックに属する。それぞれに対しトピックアイコンが用意されている。また、トピックとは別にセクションという区別が設けられており、セクションローカルとして投稿されている記事は基本的にトップページにタイトルだけが載る(編集者が決める)。例えばアンケート記事である「Slashdotに聞け! (Ask Slashdot)」などはセクションの一つである。 記事の傾向としては、多方面に及ぶ新技術に関するものから、セキュリティに関する情報、様々なマニアックなネタ、IT業界に関する経済的な記事を主とする。 呼称は「スラド」「すらど」「/.」、日本サイトの場合には「/.J」。 2001年5月にスラッシュドットジャパンとして正式オープン。 Slashdotを運営するアメリカのVA Linux Systemsの日本法人、VA Linux Systems Japanが運営していた。 しかし親会社の買収による経営方針の転換のため、SourceForge.JP(現OSDN)とともに独立し、2015年5月11日にから正式名称を「スラド」(英語表記:Srad)に変更。 運営もVA Linux Systems Japan株式会社 OSDN事業部からスピンオフした、OSDN株式会社に移管された。 2020年2月17日付け発表によると、株式会社アピリッツ は「スラド」を含むOSDN株式会社の全事業を譲受し、OSDN社の組織は全てアピリッツに新設されたOSDN部へ移管、従業員全てをOSDN社から引き継ぎ、OSDN社の代表取締役である佐渡が新たにアピリッツOSDN部の部長に就任し、OSDNのサービスブランド・ドメイン等を含めてそのまま継承したとの事。 システムソフト"slashcode"にはもともと「荒らし」「フレームのもと」「既出」などのマイナスモデレーション(評価)を短期間に複数回に渡って受けた投稿者に対して、その後3日間投稿を制限することによって、悪質な投稿者を排除しようとする機能がシステムに組み込まれている。 日本版では、Anonymous Cowardは訳されずに英語のまま使用される。 スラッシュドットという名は、スラッシュ記号とピリオドのことで、URLを実際に発音すると聞く側が混乱するように考えたところから来ている、という。すなわち、「エイチティーティーピーコロンスラッシュスラッシュスラッシュドットドットオルグ」と読まれることを期待している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スラッシュドット(英: Slashdot)は、特に米国で有名な、コンピュータ関係のニュースを扱うWeb上の電子掲示板である。他のウェブサイトで紹介されたニュースなどの要約をリンクと共に提供し、それに対して読者がコメント(意見)を書き込んでいく。英語版には過去に5300件以上のコメントが寄せられたことがあった。日本語版へのコメントは最大1018件であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年現在日本の日本語版と米国の英語版は独立して存在する。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ニュース記事(「ストーリー」)は読者からの投稿(「タレコミ」)として編集者グループに提供され、それを各編集者が選択して掲載する、という方式が採られている。各記事には、匿名・非匿名関わらずに読者が自由に「コメント」を投稿することが出来る。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ある読者のコメントに対して、別の読者がプラス・マイナスの点数付け(モデレーション)をする、「モデレーションシステム(英語版)」の導入が特徴的である。コメントのモデレーションは+5〜-1の範囲で変化する。通常の初期値は、アカウント(ID)を持ち、ログインしている読者は1、匿名として投稿した者は0である。モデレーションする権利はアカウント(ID)を登録して定期的にスラッシュドットを訪れ、かつ登録後一定の期間が経過した読者に、今までの投稿へのモデレーションなどを考慮した上で、システムが無作為に与えるようになっている。ただし、モデレートする意志がない場合、ユーザー設定で「モデレートする意志」のチェックを外すことで、モデレート権は回ってこなくなる(既定はオン)。またモデレート権は一時的なものであり、3日間のみ有効、かつ5つ以内のコメントに対して行使できる。さらに「メタモデレーション」という仕組みもあり、別な読者がモデレーションの結果に対し「公正・不公正」の評価ができる。これにより恣意的なモデレーションを抑止する効果を意図している。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、アカウントを持つものは、投稿したコメントへのモデレーションや行ったモデレーションへのメタモデレーションに応じて「カルマ」と呼ばれるポイントが付与される。このカルマは、先のモデレーション権取得条件の一つであったり、投稿のモデレーション初期値を+2にすることができる(ただしこれを行うと代償としてカルマは下がる)など、若干の特典が得られる。なお、カルマの数値は実際に示されることはなく、ユーザは「たっぷり」などのような抽象的言葉でのみ知ることができる。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ログインせずに匿名で投稿した場合、投稿者名が Anonymous Coward(匿名の臆病者の意味、AC)となり、前述のモデレーションシステムや大量の連続投稿ができないなどの制限がある。その一方で「内部の人間なのでACですが......」と注釈付きで貴重な情報を提供する技術関係者も多く、そのような発言に対して、同サイトのモデレート制度により「参考になる」等の評価が寄せられることもある。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "掲載された記事には内容に応じたトピックに属する。それぞれに対しトピックアイコンが用意されている。また、トピックとは別にセクションという区別が設けられており、セクションローカルとして投稿されている記事は基本的にトップページにタイトルだけが載る(編集者が決める)。例えばアンケート記事である「Slashdotに聞け! (Ask Slashdot)」などはセクションの一つである。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "記事の傾向としては、多方面に及ぶ新技術に関するものから、セキュリティに関する情報、様々なマニアックなネタ、IT業界に関する経済的な記事を主とする。", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "米国版" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "呼称は「スラド」「すらど」「/.」、日本サイトの場合には「/.J」。 2001年5月にスラッシュドットジャパンとして正式オープン。 Slashdotを運営するアメリカのVA Linux Systemsの日本法人、VA Linux Systems Japanが運営していた。 しかし親会社の買収による経営方針の転換のため、SourceForge.JP(現OSDN)とともに独立し、2015年5月11日にから正式名称を「スラド」(英語表記:Srad)に変更。 運営もVA Linux Systems Japan株式会社 OSDN事業部からスピンオフした、OSDN株式会社に移管された。 2020年2月17日付け発表によると、株式会社アピリッツ は「スラド」を含むOSDN株式会社の全事業を譲受し、OSDN社の組織は全てアピリッツに新設されたOSDN部へ移管、従業員全てをOSDN社から引き継ぎ、OSDN社の代表取締役である佐渡が新たにアピリッツOSDN部の部長に就任し、OSDNのサービスブランド・ドメイン等を含めてそのまま継承したとの事。", "title": "日本版" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "システムソフト\"slashcode\"にはもともと「荒らし」「フレームのもと」「既出」などのマイナスモデレーション(評価)を短期間に複数回に渡って受けた投稿者に対して、その後3日間投稿を制限することによって、悪質な投稿者を排除しようとする機能がシステムに組み込まれている。", "title": "日本版" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本版では、Anonymous Cowardは訳されずに英語のまま使用される。", "title": "日本版" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "スラッシュドットという名は、スラッシュ記号とピリオドのことで、URLを実際に発音すると聞く側が混乱するように考えたところから来ている、という。すなわち、「エイチティーティーピーコロンスラッシュスラッシュスラッシュドットドットオルグ」と読まれることを期待している。", "title": "名前の由来" } ]
スラッシュドットは、特に米国で有名な、コンピュータ関係のニュースを扱うWeb上の電子掲示板である。他のウェブサイトで紹介されたニュースなどの要約をリンクと共に提供し、それに対して読者がコメント(意見)を書き込んでいく。英語版には過去に5300件以上のコメントが寄せられたことがあった。日本語版へのコメントは最大1018件であった。
{{Infobox Website |サイト名=Slashdot |logo=Slashdot logo.png |スクリーンショット= |スクリーンショットの説明= |URL=https://slashdot.org/ |スローガン=News for nerds. Stuff that matters. |営利性= |タイプ=ニュース |登録= |使用言語=[[英語]] |運営者=[[Slashdot Media]] |設立者=[[:en:Rob_Malda|Rob_Malda]] |設立日=[[1997年]][[9月]] |収益= |現状=運営中 |ライセンス= }} '''スラッシュドット'''({{lang-en-short|'''Slashdot'''}})は、特に[[アメリカ合衆国|米国]]で有名な、[[コンピュータ]]関係の[[ニュース]]を扱う[[World Wide Web|Web]]上の[[電子掲示板]]である。他の[[ウェブサイト]]で紹介された[[ニュース]]などの[[要約]]を[[ハイパーリンク|リンク]]と共に提供し、それに対して読者が[[コメント]](意見)を書き込んでいく。英語版には過去に5300件以上のコメントが寄せられたことがあった<ref>{{Cite web |url = http://www.dhigroupinc.com/press/Press-Release-Details/2012/Dice-Holdings-Inc-Acquires-Online-Media-Business-from-Geeknet-Inc/|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150618125029/http://www.dhigroupinc.com/press/Press-Release-Details/2012/Dice-Holdings-Inc-Acquires-Online-Media-Business-from-Geeknet-Inc/ |author = |title = Dice-Holdings-Inc-Acquires-Online-Media-Business-from-Geeknet-Inc/|website = www.dhigroupinc.com|publisher = www.dhigroupinc.com|date = |archivedate = 2015-06-18|accessdate = 2023-10-03}}</ref>。日本語版へのコメントは最大1018件であった<ref>{{Cite web|和書|url = https://srad.jp/story/04/05/10/0017250/ |archiveurl = https://web.archive.org/web/20230328031136/https://srad.jp/story/04/05/10/0017250/ |author = GetSet|title = Winny作者の47氏、逮捕|website = srad.jp|publisher = srad.jp|date = |archivedate = 2023-03-28|accessdate = 2023-10-03}}</ref>。 ==米国版== 2023年現在日本の日本語版と米国の英語版は独立して存在する。 ニュース記事(「ストーリー」)は[[読者]]からの投稿(「タレコミ」)として[[編集者]]グループに提供され、それを各編集者が選択して掲載する、という方式が採られている。各記事には、[[匿名]]・非匿名関わらずに読者が自由に「コメント」を投稿することが出来る。 ある読者のコメントに対して、別の読者が[[プラス]]・マイナスの[[点数]]付け([[モデレーション]])をする、「{{仮リンク|モデレーションシステム|en|Content moderation}}」の導入が特徴的である。コメントのモデレーションは+5〜-1の範囲で変化する。通常の初期値は、[[アカウント]]([[ID]])を持ち、ログインしている読者は1、匿名として投稿した者は0である。モデレーションする権利はアカウント(ID)を登録して定期的にスラッシュドットを訪れ、かつ登録後一定の期間が経過した読者に、今までの投稿へのモデレーションなどを考慮した上で、システムが[[無作為]]に与えるようになっている。ただし、モデレートする意志がない場合、ユーザー設定で「モデレートする意志」のチェックを外すことで、モデレート権は回ってこなくなる(既定はオン)。またモデレート権は一時的なものであり、3日間のみ有効、かつ5つ以内のコメントに対して行使できる。さらに「メタモデレーション」という仕組みもあり、別な読者がモデレーションの結果に対し「公正・不公正」の評価ができる。これにより恣意的なモデレーションを抑止する効果を意図している。 また、アカウントを持つものは、投稿したコメントへのモデレーションや行ったモデレーションへのメタモデレーションに応じて「カルマ」と呼ばれるポイントが付与される。このカルマは、先のモデレーション権取得条件の一つであったり、投稿のモデレーション初期値を+2にすることができる(ただしこれを行うと代償としてカルマは下がる)など、若干の特典が得られる。なお、カルマの数値は実際に示されることはなく、ユーザは「たっぷり」などのような抽象的言葉でのみ知ることができる。 {{anchors|Anonymous Coward}}ログインせずに[[匿名]]で投稿した場合、投稿者名が {{lang|en|Anonymous Coward}}(匿名の[[臆病]]者の意味、AC)となり、前述のモデレーションシステムや大量の連続投稿ができないなどの制限がある。その一方で「内部の人間なのでACですが……」と注釈付きで貴重な情報を提供する技術関係者も多く、そのような発言に対して、同サイトのモデレート制度により「参考になる」等の評価が寄せられることもある。 掲載された記事には内容に応じた[[トピック]]に属する。それぞれに対しトピック[[アイコン]]が用意されている。また、トピックとは別に[[セクション]]という区別が設けられており、セクションローカルとして投稿されている記事は基本的にトップページにタイトルだけが載る(編集者が決める)。例えばアンケート記事である「{{lang|en|Slashdot}}に聞け! ({{lang|en|Ask Slashdot}})」などはセクションの一つである。 記事の傾向としては、多方面に及ぶ新技術に関するものから、[[セキュリティ]]に関する情報、様々なマニアックなネタ、[[情報技術|IT]]業界に関する[[経済]]的な記事を主とする。 === 歴史 === * [[1997年]] [[7月]]、前身となるサイトが短期間存在した。その頃の呼称は「{{読み|subst=2015-04|3=補助表示|{{lang|en|Chips & Dips}}|チップス・アンド・ディップス}}」。 * [[1997年]] [[9月]]、{{仮リンク|ロブ・マルダ|en|Rob Malda}}により <tt>slashdot.org</tt> が誕生。 * [[1997年]] [[12月31日]]、記事が初掲載される<ref>[http://slashdot.org/article.pl?sid=98/01/01/012000 {{lang|en|Slashdot &#124; Become 007 On The Internet}}] (英語、1997.12.31、スラッシュドット)</ref>。 * [[2000年]] [[2月24日]]、10,000番目の投稿記事<ref>[http://meta.slashdot.org/article.pl?sid=00/02/24/0954216 {{lang|en|Slashdot's 10,000th Story - Slashdot}}](英語、2000.2、スラッシュドット)</ref>。 * [[2002年]] [[10月1日]]、5周年を迎える(正式な開設日は開設者も覚えていないらしい)<ref>[http://slashdot.org/articles/02/10/01/1231250.shtml {{lang|en|Slashdot &#124; Slashdot Turns 5}}](英語、2002年10月、スラッシュドット)</ref>。 * [[2005年]] [[9月22日]]、サイトのデザインを変更する。 * [[2006年]] [[11月9日]]、16777215 (2の24[[べき乗|乗]] − 1)のコメント数に到達<ref>[http://yro.slashdot.org/comments.pl?sid=205709&cid=16777215 {{lang|en|Bar Performer Arrested For Copyright Violations - Slashdot}}](英語、2012年1月現在エラーメッセージ)</ref><ref>[http://slashdot.org/comments.pl?sid=205549&cid=16777215 {{lang|en|Rumsfeld Stepping Down - Slashdot}}](コメント日 2006年11月8日、英語、スラッシュドット)</ref>、データベースが一時破損する<ref>[http://meta.slashdot.org/article.pl?sid=06/11/09/1534204 {{lang|en|Slashdot Posting Bug Infuriates Haggard Admins}}] (2006年11月、英語、スラッシュドット)</ref>。 * [[2007年]] [[10月1日]]、10周年を迎える<ref>[http://meta.slashdot.org/article.pl?sid=07/10/01/1357243 {{lang|en|Slashdot &#124; Slashdot Turns 10 But You Get The Presents}}](英語、2007年10月、スラッシュドット)</ref>。 {{Anchors|日本版|日本|日本語版|日本語|スラド}} == 日本版 == <!-- {{Anchors|日本版|日本|日本語版|日本語|スラド}}を設定しています --> {{Infobox Website |サイト名=スラド |ロゴ= |スクリーンショット= |スクリーンショットの説明= |URL=https://srad.jp/ |スローガン=アレゲなニュースと雑談サイト |営利性= |タイプ=ニュース |登録= |使用言語=[[日本語]] |運営者=株式会社アピリッツ [https://appirits.com/] |設立者=[[Open Source Development Network|OSDN株式会社]] |設立日=[[2001年]][[5月]] |収益= |現状=運営中 |ライセンス= }} === スラッシュドットジャパン / スラド === 呼称は「'''スラド'''」「'''すらど'''」「'''/.'''」、日本サイトの場合には「/.J」<ref>Jは {{lang|en|Japan}}(日本)の略。</ref>。 [[2001年]]5月に'''スラッシュドットジャパン'''として正式オープン。 Slashdotを運営するアメリカのVA Linux Systemsの日本法人、[[ヴィーエー・リナックス・システムズ・ジャパン|VA Linux Systems Japan]]が運営していた。 しかし親会社の買収による経営方針の転換のため、SourceForge.JP(現[[OSDN]])とともに独立し、2015年5月11日にから正式名称を「'''スラド'''」(英語表記:Srad)に変更。 運営もVA Linux Systems Japan株式会社 OSDN事業部からスピンオフした、OSDN株式会社に移管された。<ref name="srad150408">[http://osdn.co.jp/press/2015/04/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E5%90%8D%E7%A7%B0%E5%A4%89%E6%9B%B4%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B Slashdot JapanならびにSourceForge.JP、サイト名称変更のお知らせ] (2015.4)</ref> 2020年2月17日付け発表によると、株式会社アピリッツ [https://appirits.com/]は「スラド」を含むOSDN株式会社の全事業を譲受し、OSDN社の組織は全てアピリッツに新設されたOSDN部へ移管、従業員全てをOSDN社から引き継ぎ、OSDN社の代表取締役である佐渡が新たにアピリッツOSDN部の部長に就任し、OSDNのサービスブランド・ドメイン等を含めてそのまま継承したとの事。<ref>[https://appirits.com/press_release/pr20200217.html アピリッツ、OSDN株式会社の事業譲受のお知らせ] (2020.2)</ref> <!-- ジャパンだけ?本国もそう?(ならここではない) →日本版の -->システムソフト"slashcode"にはもともと「[[荒らし]]」「[[炎上 (ネット用語)|フレーム]]のもと」「既出」などのマイナスモデレーション([[評価]])を短期間に複数回に渡って受けた投稿者に対して、その後3日間投稿を制限することによって、悪質な投稿者を排除しようとする機能がシステムに組み込まれている。 日本版では、Anonymous Cowardは訳されずに英語のまま使用される。 ===歴史=== *[[2001年]] [[5月9日]]、スラッシュドットジャパンのベータテスト開始。 *[[2001年]] [[5月28日]]、スラッシュドット日本版である'''スラッシュドットジャパン'''が正式オープン。日本版の編集リーダーは、[[オリバー・M・ボルツァー]]。 *[[2001年]] [[8月1日]]、slashdot[[.ne.jp]]からslashdot[[汎用JPドメイン|.jp]]へとURLが移動。 *[[2001年]] [[11月14日]]、slashcode 2.2 ベースのシステムへ[[アップグレード]]。これにより、[[日記]]に[[トピック]]や[[コメント]]を付加できるようになった、コメント中の[[ハイパーリンク|リンク]]にリンク先[[ドメイン名]]が明示されるようになった、ユーザーの[[メールアドレス]]のスクランブル機能が搭載された等、機能強化が行われた<ref>[http://slash.srad.jp/story/01/11/14/1028245/ Slashcode 2.2にようこそ | スラド /.] (2001.11)</ref>。 *[[2003年]] [[1月18日]]、[[シェアウェア]]の[[ライセンスキー|登録キー]]を含んだコメントを伏せ字化するという初のコメント削除<ref>[http://slash.srad.jp/story/03/01/18/1047250/ /.-J初のコメント削除:シェアウェアの登録キーを伏せ字化 | スラド /.] (2003.1)</ref>が行われる。 *[[2003年]] [[9月15日]]、匿名投稿 ([[匿名の臆病者|Anonymous Coward]]) への投稿規制が発表され、激しい議論<ref>[http://slash.srad.jp/story/03/09/15/1246219/ 少数のAnonymous Cowardによる大量投稿への対策 | スラド /.] (2003.9)</ref>となる。 *[[2005年]] [[10月15日]]、Slashcode 2.5 ベースのシステムにアップグレード。これにより、ストーリーの複数トピック・複数[[セクション]]対応、FoF(トモダチ、ファン、テキ、アンチ と翻訳された人間関係表現のための機能)の追加などの機能強化が行われた<ref>[http://slash.srad.jp/story/05/10/15/0933228 Slashcode 2.5へようこそ | スラド /.] (2005.10)</ref>。 *[[2006年]] [[5月24日]]、[[RSS]]への[[広告]]が試験的に開始された<ref>[http://slash.srad.jp/story/06/05/24/0853230 /.JのRSSフィード、pheedo.jpにリダイレクト中 | スラド /.] (2006.5)</ref>。 *[[2006年]] [[9月1日]]、Slashcode 2_5_119 のシステムにアップグレード。日記から直接タレコミする機能の実現により、タレコミが却下されても日記で閲覧可能になる、タレコミした日記本体とストーリーが共有されるといった日記系の機能が若干強化された。今回のアップデートは今後の布石となるもので、[[Cascading Style Sheets|CSS]]化や[[テンプレート]]のアップデート、更なる機能の追加も予定されているとのこと<ref>[http://slash.srad.jp/story/06/09/01/1414206 Slashdot.jp、ささやかにバージョンアップ | スラド /.] (2006.9)</ref>。 *[[2006年]] [[10月30日]]、デザイン・テンプレートを大幅書き換えし、TABLE[[HTML要素|タグ]]によるデザインからCSSによるデザインに大幅変更された<ref>[http://slash.srad.jp/story/06/10/30/118233 デザイン・テンプレートを変更しました | スラド /.] (2006.10)</ref>。 *[[2007年]] [[12月25日]]、アレたま(本家ではFirehoseとよばれる機能、後述)、タグ、ブックマークの3機能が本家より移植された<ref>[http://slash.srad.jp/story/07/12/25/0849223 スラッシュドット更新完了: 新機能の名前は「アレたま」 | スラド /.] (2007.12)</ref>。 *[[2009年]] [[1月9日]]、slash-2.5.0.233 へアップグレード。 *[[2015年]] [[5月11日]]、サイト名称を'''スラド'''に変更<ref name="srad150408" />。 == 名前の由来 == スラッシュドットという名は、[[スラッシュ (記号)|スラッシュ記号]]と[[終止符|ピリオド]]のことで、[[URL]]を実際に[[発音]]すると聞く側が混乱するように考えたところから来ている<ref>{{Cite web|和書|url=http://slashdot.jp/faq/slashmeta |title=スラッシュドットってどういう意味?-スラッシュドット・ジャパン FAQ |accessdate=2012年8月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150505211444/http://slashdot.jp/faq/slashmeta#sm150 |archivedate=2015年5月5日 }}</ref>、という。すなわち、「[[HTTP|エイチティーティーピー]][[コロン (記号)|コロン]][[スラッシュ (記号)|スラッシュ]][[スラッシュ (記号)|スラッシュ]][[スラッシュ (記号)|スラッシュ]][[終止符|ドット]][[.org|ドットオルグ]]」と読まれることを期待している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[スラッシュドット効果]] * [[Engadget]] == 外部リンク == *[https://slashdot.org/ スラッシュドット](本家、英語) *[https://srad.jp/ スラド] (日本語版) {{DEFAULTSORT:すらつしゆとつと}} [[Category:スラッシュドット|*]] [[Category:電子掲示板]] [[Category:アメリカ合衆国のウェブサイト]]
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ブラック–ショールズ方程式
ブラック–ショールズ方程式(ブラック–ショールズほうていしき、英: Black–Scholes equation)とは、デリバティブの価格づけに現れる偏微分方程式(およびその境界値問題)のことである。様々なデリバティブに応用できるが、特にオプションに対しての適用が著名である。ブラック-ショールズ方程式はヨーロピアンオプションのオプション・プレミアムの値を解析的に計算できるが、アメリカンタイプのプット・オプションについては(解析的には)計算できない。ただし、ブラック-ショールズモデルにおけるアメリカンコールオプションの理論価格はヨーロピアンコールオプションの理論価格と一致する。 ブラック–ショールズ方程式は1973年にフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズによりオプションの価格付け問題についての研究の一環として発表された。後にロバート・マートンが彼らの方法に厳密な証明を与えた。これらの理論は現代金融工学の先がけとなったとも言われる。 オプション価格の評価についての研究は長い歴史がある。ファイナンス研究において先駆的な業績を残したことで知られるルイ・バシュリエは1900年に発表された博士論文の中でオプションの評価式を考察していた。しかし、彼の評価式は価格が負になることもありうるために非現実的であった。その後、1961年にCase Sprenkleが、1965年にポール・サミュエルソンが株価変動に幾何ブラウン運動を用いたオプション価格式を導出した。しかしながら、彼らの評価式はオプションの価格評価において、今日で言う所のリスクの市場価格を明示的に表現できなかった為に、実用性に乏しいものであった。 1965年にアーサー・D・リトルで職を得たフィッシャー・ブラックは同社に在籍していたCAPMについての研究で知られるジャック・トレイナー(英語版)の影響の下、ワラントの評価式についての研究を行っていた。その中で1969年頃に、ブラック–ショールズ方程式の前段階となるようなワラントについての評価式の導出に成功していた。これにはサミュエルソンやロバート・マートンによる多期間においての株式と債券の最適投資比率を決定する問題(マートンのポートフォリオ問題)についての研究に大きく影響されたとブラックは述べている。しかし、ブラックはこの方程式が熱伝導方程式の一種であることには気付かず、解を導出できずにいた。ただ、ブラックはこの方程式について考察を深める中で、株式の期待リターンにワラントの価値は依存しないこと、つまりワラントの価値を決定する上で重要なのは株式全体のリスク(ボラティリティ)であることに気付いている。 また、時を同じくして1969年ごろにマサチューセッツ工科大学(MIT)に所属していたマイロン・ショールズとブラックは知り合い、ショールズの紹介によりブラックはMITに職場を移した。そこからブラックとショールズの共同研究が始まり、ワラントの研究から転じたオプションの評価式についての研究は急速に進展した。 同時期にオプション評価式の研究に取り組んでいたマートンとの議論はブラックとショールズの研究に大きな影響を与えている。両者の関係は共同関係であり、またライバル関係であったとブラックは述べている。そのような中でブラックとショールズは伊藤清らにより創始された確率微分方程式の理論とマートンとの議論によってもたらされた複製ポートフォリオの概念を用いて導出されたブラック–ショールズ方程式の解を見出すことに成功した。ブラックとショールズは1970年の夏に開かれたカンファレンスでコーポレートファイナンスにおいてのブラック–ショールズ方程式の応用についての研究成果を発表したが、マートンは寝坊してしまい、ブラックとショールズの発表を聞くことが出来なかった。 1970年の10月にブラックとショールズはオプション評価式としてのブラック–ショールズ方程式の利用についての研究をまとめた論文をシカゴ大学が発行している学術雑誌であるJournal of Political Economy(英語版)に投稿したが、彼らの論文はアメリカファイナンス学会(英語版)が発行しているThe Journal of Finance(英語版)に投稿する方がふさわしいということで掲載拒否となってしまった。その後、しばらく論文を学術雑誌に発表できずにいたが、シカゴ大学のマートン・ミラーとユージン・ファーマの目に留まり、彼らのアドバイスを受けて修正された論文が1973年にJournal of Political Economyで投稿を受理され発表された。これが広く知られる"The Pricing of Options and Corporate Liabilities"の論文である。 その後、マートンは無裁定価格理論の厳密な理論を展開した論文を発表し、さらにブラックとショールズ自身によってブラック–ショールズ方程式の実用性、データに対する当てはまりの良さが検証されたことで、ブラック–ショールズ方程式は不動の地位を確立した。今日では"The Pricing of Options and Corporate Liabilities"はJournal of Political Economyで最も引用される論文の一つとなっている。 これらの功績を称え、1997年のノーベル経済学賞はショールズとマートンに授与された。ブラックは1995年に亡くなっていたために、この栄誉にあずかることはできなかった。 ブラック–ショールズモデルとは、1種類の配当のない株と1種類の債券の2つが存在する証券市場のモデルである。さらに連続的な取引が可能で、市場は完全市場であることを仮定している。 そして、時刻 t における株価を St 、債券価格を Bt とする。株価は以下の確率微分方程式に従うとする。 ここで、Wt は標準ウィーナー過程であり、σ, μ は定数で、σ はボラティリティ、μ はドリフト(英語版)である。よって株価は幾何ブラウン運動で表される。 また、債券価格は次で表されるとする。 ここで、r は定数の無リスク利子率である。 さらに、0 ≤ t ≤ T で発展的可測(英: progressively measurable)な確率過程の組 (at(ω), bt(ω)) を取る。at は t 時点で状態が ω の場合の株式の保有量、bt(ω) は同債券の保有量である。このような組 (a, b) を、株式と債券の取引戦略という。区間 [0, T] における取引戦略 (a, b) が自己資本充足的(英: self-financing)であるとは、0 ≤ t ≤ T の各時点 t に対し、次の式が満たされることである。 よって となる。 ブラック–ショールズモデルの下で、満期 T において行使価格が K であるヨーロピアン・コールのオプションプレミアム C = C(St, t) が無裁定となるように適正な価格となる条件を求める。区間 [0, T] で自己資本充足的な取引戦略 (a, b) を、各 t 時点で次のように定める。これを複製ポートフォリオ (replicating portfolio) という。 上式右辺の複製ポートフォリオの自己資金充足性により、次の式が導かれる。 他方、伊藤の公式により次の式が立つ。 係数を比較してやると、次の式が得られる。 これらの式と C ( S t , t ) = a t S t + b t B t {\displaystyle C(S_{t},t)=a_{t}S_{t}+b_{t}B_{t}} から at, bt を消去すると、次の偏微分方程式が得られる。 この偏微分方程式をブラック–ショールズ方程式(英: Black–Scholes equation)、またはブラック–ショールズ偏微分方程式(英: Black–Scholes partial differential equation)と言う。この方程式の境界条件は以下の3つである。 同方程式において、次のように変数変換する。 これは、次のような1次元熱伝導方程式(拡散方程式)の初期値問題となる。 これを解いて元の変数に戻すと、ブラック–ショールズ方程式の解は次の形で与えられる。 ただし、下記の条件においてである。 これが「適正価格」と呼ばれる背景としては、上述のとおり株と債券を使ってヨーロピアン・コールオプションを複製することができるという事実から来ている。もし、コールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用が異なれば、無限に資金を増やすことが可能になる。それは非現実的であるのでコールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用は、理論的には、一致しなくてはならないのである。またここでは St は株価であるとしたが、実際は株式だけに限らず、為替レートや投資信託、株価指数などの市場性のある投資商品や指標であれば全て上述の議論が成立する。 もし株式に配当が含まれたとしても、ブラック–ショールズ方程式は細部の変更のみで成立する。ここで St で表される株式には配当が存在し、その配当は連続的に支払われるものとする。単位時間当たりの配当利回りを q とする。この時、株価の従う確率微分方程式は となる。ただし、この株式を保有していると配当が得られるので、自己資金充足的なポートフォリオは次の確率積分方程式を満たす。 あとは全く同様の議論を繰り返すことで次の偏微分方程式が得られる。 境界条件は配当なしの場合と同一である。この偏微分方程式の解は以下のようになる。 ただし、 である。この配当込みのブラック–ショールズ方程式は通貨オプションについても重要な意味を持つ。自国とある外国の間の(自国通貨建て)為替レートを Qt として、Qt が以下の確率微分方程式に従うとする。 γ は定数であるとする。また自国債券価格を Bt 、外国債券価格を Bt として、それぞれ と表されるとする。ただし、r と rf はそれぞれ自国の金利と外国の金利を表し、共に定数であるとする。ここで自国通貨建て通貨オプションを自国債券と外国債券からなる自己資金充足的なポートフォリオで複製することを考える。つまり である自己資金充足的なポートフォリオ (a, b) を考える。すると、前節と同様の議論から無裁定ならば次の偏微分方程式が成立しなくてはならない。 この式は配当込みの株式を原資産としたブラック-ショールズ方程式における配当利回りを外国金利に置き換えただけの式なので、その解も配当利回りを外国金利に置き換えるだけでよいことが分かる。つまり通貨オプションの理論価格は配当込みの株式オプションの理論価格と同じ形をすることが分かる。 ヨーロピアンタイプのプットオプションについてもコールオプションの場合と全く同様の議論から次の偏微分方程式が成り立つ。 ただし、P はプットオプションの現在価格である。つまり、原資産の価格変動が幾何ブラウン運動で、債券利子率が一定ならば、どのようなデリバティブについても偏微分方程式の形は同じとなる。異なるのは境界条件で、プットオプションの場合の境界条件は となる。解は 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ブラック–ショールズ方程式は、価格の変化率の分布が正規分布に従うという仮定を置いている。しかし現実の金融商品では必ずしも正規分布が成立しない。そのような批判にこたえる形でブラック–ショールズモデルが持つ仮定を緩めたものとして、ボラティリティが時間経過にしたがって確率的に変動する確率的ボラティリティモデルや原資産(株式など)の価格の不連続な変動を許容するマートンモデルなどが考案されている。
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"ブラック–ショールズ方程式によるオプション価格を決定するのは株価、満期までの残存期間もしくは経過時間、行使価格、金利、ボラティリティの5つとなる。よってオプション価格をこの5つの変数の関数と見なし、それぞれの偏微分を持って各変数についてのオプション価格の感応度として表したものをグリークス(英: The Greeks)と言う。代表的なものとして、株価についての1階偏微分をデルタ(英: delta)、2階偏微分をガンマ(英: gamma)、経過時間の1階偏微分をセータ(英: theta)、金利の1階偏微分をロー(英: rho)、ボラティリティの1階偏微分をベガ(英: vega)またはカッパ(英: kappa)と言う。それぞれの配当無しヨーロピアンコールオプションにおける具体形は以下の通りとなる。ただし記号等は前節のものと同じである。", "title": "ブラック–ショールズ方程式" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "デルタとガンマが共に常に正であることから、Y軸をオプション価値としX軸を原資産価格とした座標平面でのオプション価値の曲線は右上がりの凸状の曲線になる。さらにセータが負であることからこの曲線は時間経過と共に下方へ移動していく。プットオプションや配当込みオプションの場合のグリークスは英語版wikipedia のen:Greeks (finance)#Formulas for European option Greeksを参照のこと。", "title": "ブラック–ショールズ方程式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ブラック-ショールズ方程式によるオプション価格において、株価、満期までの残存期間、行使価格、金利は全て市場で観測可能であるが、ボラティリティのみが直接観測不可能で何らかの方法で推定しなくてはならない。そこでブラック-ショールズ方程式による理論上のオプション価格が現実価格と等しいと仮定して実際のオプションの市場価格から逆算されたボラティリティのことをインプライド・ボラティリティ(英: implied volatility)と言う。ブラック-ショールズ方程式が正しければ、あらゆる水準の株価、満期までの残存期間、行使価格、金利においてインプライド・ボラティリティは等しいはずだが、実際に計算されるインプライド・ボラティリティはそうではないことが知られている。", "title": "ブラック–ショールズ方程式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "オプションの理論価格算定方式が数学上非常に明晰な形で提供されたことはSPAN証拠金(英語版)に決定的な示唆を与えている。", "title": "実務への応用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "オプション価格の理論値が得られることから、適正プレミアムの獲得や現実の取引価格との乖離が投資戦略として裁定取引上の利益目標となり得ると考えられた。この点、実際にはテイルリスクに対する脆弱性などが指摘されている。そしてショールズが参加したロングターム・キャピタル・マネジメント破綻により現実的妥当性まで疑問視された。しかし、投資中に発生するイベントの定性情報を無視したポートフォリオ戦略としては依然として強力であり、それまでアナロジーやアフォリズム、アノマリーやテクニカル分析などといった従来の「投資の慣行」を超えた学術的バックグラウンドを持つものとして、現代ポートフォリオ理論や資本資産価格モデルなどと同様に大きな影響をもたらしている。", "title": "実務への応用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ブラック–ショールズ方程式は、価格の変化率の分布が正規分布に従うという仮定を置いている。しかし現実の金融商品では必ずしも正規分布が成立しない。そのような批判にこたえる形でブラック–ショールズモデルが持つ仮定を緩めたものとして、ボラティリティが時間経過にしたがって確率的に変動する確率的ボラティリティモデルや原資産(株式など)の価格の不連続な変動を許容するマートンモデルなどが考案されている。", "title": "発展" } ]
ブラック–ショールズ方程式とは、デリバティブの価格づけに現れる偏微分方程式(およびその境界値問題)のことである。様々なデリバティブに応用できるが、特にオプションに対しての適用が著名である。ブラック-ショールズ方程式はヨーロピアンオプションのオプション・プレミアムの値を解析的に計算できるが、アメリカンタイプのプット・オプションについては(解析的には)計算できない。ただし、ブラック-ショールズモデルにおけるアメリカンコールオプションの理論価格はヨーロピアンコールオプションの理論価格と一致する。 ブラック–ショールズ方程式は1973年にフィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズによりオプションの価格付け問題についての研究の一環として発表された。後にロバート・マートンが彼らの方法に厳密な証明を与えた。これらの理論は現代金融工学の先がけとなったとも言われる。
'''ブラック–ショールズ方程式'''(ブラック–ショールズほうていしき、{{lang-en-short|Black–Scholes equation}})とは、[[デリバティブ]]の価格づけに現れる[[偏微分方程式]](およびその境界値問題)のことである。様々なデリバティブに応用できるが、特に[[オプション取引|オプション]]に対しての適用が著名である。ブラック-ショールズ方程式はヨーロピアンオプション{{efn2|満期日のみ行使可能なオプション。}}のオプション・プレミアム{{efn2|コール・オプションとプット・オプションの両方について。[[オプション取引]]参照。}}の値を解析的に計算できるが、アメリカンタイプのプット・オプション{{efn2|購入日から満期日までのいつでも権利行使することのできるオプション。その分、アメリカンプットオプションのプレミアムは割高になっている。 :行使日が分からないため価格付けが難しい(※)。良い計算方法が理論化できていない。しかし[[格子モデル]]や {{仮リンク|ブレネン|en|Michael Brennan (finance)}}-{{仮リンク|シヴァルツ|en|Eduardo Schwartz}}アルゴリズムなどがよく用いられている<ref>{{Citation|和書 |author = S.M.ロス |translator = 西村優子, 高見茂雄, 西村陽一郎 |date = 2002 |title = ファイナンス~PVとオプション~ |publisher = 同友館 |isbn = 9784496034749}}</ref>}}については(解析的には)計算できない。ただし、ブラック-ショールズモデルにおけるアメリカンコールオプションの理論価格はヨーロピアンコールオプションの理論価格と一致する<ref>{{Harvnb|Shreve|(2004)|ref=Shreve2004}}, section 8.5</ref>。 ブラック–ショールズ方程式は[[1973年]]に[[フィッシャー・ブラック]]と[[マイロン・ショールズ]]によりオプションの価格付け問題についての研究の一環として発表された<ref name=Black,Scholes1973>{{Harvnb|Black and Scholes|(1973)|ref=Black,Scholes1973}}</ref>。後に[[ロバート・マートン]]が彼らの方法に厳密な証明を与えた<ref name=Merton1973>{{Harvnb|Merton|(1973)|ref=Merton1973}}</ref>。{{誰範囲2|date=2016年2月15日 (月) 13:02 (UTC)|これらの理論は現代[[金融工学]]の先がけとなったとも言われる。}} == 歴史的背景 == オプション価格の評価についての研究は長い歴史がある。ファイナンス研究において先駆的な業績を残したことで知られる[[ルイ・バシュリエ]]は[[1900年]]に発表された博士論文<ref>{{Harvnb|Bachelier|(1900)|ref=Bachelier1900}}</ref>の中でオプションの評価式を考察していた。しかし、彼の評価式は価格が負になることもありうるために非現実的であった。その後、[[1961年]]にCase Sprenkle<ref>{{Harvnb|Sprenkle|(1961)|ref=Sprenkle1961}}</ref>が、[[1965年]]に[[ポール・サミュエルソン]]<ref>{{Harvnb|Samuelson|(1965)|ref=Samuelson1965}}</ref>が株価変動に[[幾何ブラウン運動]]を用いたオプション価格式を導出した。しかしながら、彼らの評価式はオプションの価格評価において、今日で言う所のリスクの市場価格を明示的に表現できなかった為に、実用性に乏しいものであった<ref>{{Harvnb|Whaley|(2003)|ref=Whaley2003}}, pp.1148-1149.</ref>。 [[1965年]]に[[アーサー・D・リトル]]で職を得た[[フィッシャー・ブラック]]は同社に在籍していた[[CAPM]]についての研究で知られる{{仮リンク|ジャック・トレイナー|en|Jack Treynor}}の影響の下、[[ワラント]]の評価式についての研究を行っていた。その中で[[1969年]]頃に、ブラック–ショールズ方程式の前段階となるようなワラントについての評価式の導出に成功していた。これにはサミュエルソン<ref>{{Harvnb|Samuelson|(1969)|ref=Samuelson1969}}</ref>や[[ロバート・マートン]]<ref>{{Harvnb|Merton|(1969)|ref=Merton1969}}</ref>による多期間においての株式と債券の最適投資比率を決定する問題([[マートンのポートフォリオ問題]])についての研究に大きく影響されたとブラックは述べている<ref name = Black1989>{{Harvnb|Black|(1989)|ref=Black1989}}</ref>。しかし、ブラックはこの方程式が[[熱伝導方程式]]の一種であることには気付かず、解を導出できずにいた。ただ、ブラックはこの方程式について考察を深める中で、株式の期待リターンにワラントの価値は依存しないこと、つまりワラントの価値を決定する上で重要なのは株式全体のリスク([[ボラティリティ]]{{efn2|株価の変動の激しさ。}})であることに気付いている<ref name = Black1989 />。 また、時を同じくして[[1969年]]ごろに[[マサチューセッツ工科大学]](MIT)に所属していた[[マイロン・ショールズ]]とブラックは知り合い、ショールズの紹介によりブラックはMITに職場を移した。そこからブラックとショールズの共同研究が始まり、ワラントの研究から転じたオプションの評価式についての研究は急速に進展した<ref name = Black1989 />。 同時期にオプション評価式の研究に取り組んでいたマートンとの議論はブラックとショールズの研究に大きな影響を与えている。両者の関係は共同関係であり、またライバル関係であったとブラックは述べている。そのような中でブラックとショールズは[[伊藤清]]らにより創始された[[確率微分方程式]]の理論とマートンとの議論によってもたらされた[[無裁定価格理論|複製ポートフォリオ]]の概念を用いて導出されたブラック–ショールズ方程式の解を見出すことに成功した。ブラックとショールズは[[1970年]]の夏に開かれたカンファレンスで[[コーポレートファイナンス]]においてのブラック–ショールズ方程式の応用についての研究成果を発表したが、マートンは寝坊してしまい、ブラックとショールズの発表を聞くことが出来なかった<ref name = Black1989 />。 [[1970年]]の10月にブラックとショールズはオプション評価式としてのブラック–ショールズ方程式の利用についての研究をまとめた論文を[[シカゴ大学]]が発行している学術雑誌である{{仮リンク|Journal of Political Economy|en|Journal of Political Economy}}に投稿したが、彼らの論文は{{仮リンク|アメリカファイナンス学会|en|American Finance Association}}が発行している{{仮リンク|The Journal of Finance|en|The Journal of Finance}}に投稿する方がふさわしいということで掲載拒否となってしまった。その後、しばらく論文を学術雑誌に発表できずにいたが、シカゴ大学の[[マートン・ミラー]]と[[ユージン・ファーマ]]の目に留まり、彼らのアドバイスを受けて修正された論文が[[1973年]]にJournal of Political Economyで投稿を受理され発表された。これが広く知られる"''The Pricing of Options and Corporate Liabilities''"<ref name=Black,Scholes1973 />の論文である<ref name = Black1989/>。 その後、マートンは[[無裁定価格理論]]の厳密な理論を展開した論文<ref name=Merton1973 />を発表し、さらにブラックとショールズ自身によってブラック–ショールズ方程式の実用性、データに対する当てはまりの良さが検証されたことで、ブラック–ショールズ方程式は不動の地位を確立した<ref name = Black1989 />。今日では"''The Pricing of Options and Corporate Liabilities''"はJournal of Political Economyで最も引用される論文の一つとなっている<ref>[http://www.journals.uchicago.edu/toc/jpe/current Journal of Political Economy: Home]</ref>。 これらの功績を称え、[[1997年]]の[[ノーベル経済学賞]]はショールズとマートンに授与された。ブラックは[[1995年]]に亡くなっていたために、この栄誉にあずかることはできなかった。 == ブラック–ショールズモデル == ブラック–ショールズモデルとは、1種類の[[配当]]のない[[株券|株]]と1種類の[[債券]]の2つが存在する[[証券市場]]のモデルである。さらに連続的な取引が可能で、市場は[[金融経済学#完全市場|完全市場]]であることを仮定している。 そして、時刻 ''t'' における株価を ''S''<sub>''t''</sub> 、債券価格を ''B''<sub>''t''</sub> とする。株価は以下の[[確率微分方程式]]に従うとする。 : <math>dS_t = \sigma S_tdW_t + \mu S_tdt</math> ここで、''W''<sub>''t''</sub> は標準[[ウィーナー過程]]であり、&sigma;, &mu; は定数で、&sigma; は[[ボラティリティ]]、&mu; は{{仮リンク|ストーキャスティック・ドリフト|label=ドリフト|en|Stochastic drift}}{{efn2|株価の平均増加率}}である。よって株価は[[幾何ブラウン運動]]で表される。 また、債券価格は次で表されるとする。 : <math>B_t = B_0\exp(rt)</math> ここで、''r'' は定数の無リスク利子率である。 さらに、0 &le; ''t'' &le; ''T'' で発展的可測({{lang-en-short|progressively measurable}})な確率過程の組 (''a''<sub>''t''</sub>(&omega;), ''b''<sub>''t''</sub>(&omega;)) を取る。''a''<sub>''t''</sub> は ''t'' 時点で状態が &omega; の場合の株式の保有量、''b''<sub>''t''</sub>(&omega;) は同債券の保有量である。このような組 (''a'', ''b'') を、株式と債券の'''取引戦略'''という。区間 [0, ''T''] における取引戦略 (''a'', ''b'') が'''自己資本充足的'''({{lang-en-short|self-financing}})であるとは、0 &le; ''t'' &le; ''T'' の各時点 ''t'' に対し、次の式が満たされることである。 : <math>a_tS_t + b_tB_t = a_0S_0 + b_0B_0 + \int_0^t a_s dS_s + \int_0^t b_s dB_s</math> よって : <math>d\Big(a_tS_t + b_tB_t\Big) = a_tdS_t + b_tdB_t </math> となる。 == ブラック–ショールズ方程式 == === ブラック–ショールズ方程式の導出 === ブラック–ショールズモデルの下で、満期 ''T'' において行使価格が ''K'' であるヨーロピアン・コールのオプションプレミアム ''C'' = ''C''(''S''<sub>''t''</sub>, ''t'') が[[無裁定価格理論|無裁定]]となるように適正な価格となる条件を求める。区間 [0, ''T''] で自己資本充足的な取引戦略 (''a'', ''b'') を、各 ''t'' 時点で次のように定める。これを'''複製ポートフォリオ''' ([[:en:replicating portfolio|replicating portfolio]]) という。 : <math>C(S_t,t) = a_t S_t + b_t B_t</math> 上式右辺の複製ポートフォリオの自己資金充足性により、次の式が導かれる。 : <math>dC = d\Big(a_tS_t + b_tB_t\Big) = a_t dS_t + b_t dB_t = (\mu a_t S_t + r b_t B_t)dt + \sigma a_t S_t dW_t</math> 他方、[[伊藤の公式]]により次の式が立つ。 : <math>\begin{align} d C &= \frac{\partial C}{\partial t}dt + \frac{\partial C}{\partial S_t} dS_t + \frac{\sigma^2}{2} S_t^2\frac{\partial^2 C}{\partial S_t^2}dt\\ &= \left(\frac{\partial C}{\partial t} + \mu S_t \frac{\partial C}{\partial S_t} + \frac{\sigma^2}{2}S_t^2 \frac{\partial^2 C} {\partial S_t^2} \right)\! dt + \sigma S_t \frac{\partial C}{\partial S_t} dW_t \end{align}</math> 係数を比較してやると、次の式が得られる。 : <math>a_t = \frac{\partial C}{\partial S_t},</math> : <math>\mu a_t S_t + r b_t B_t = \frac{\partial C}{\partial t} + \mu S_t \frac{\partial C}{\partial S_t} + \frac{\sigma^2}{2}S_t^2 \frac{\partial^2 C}{\partial S_t^2}</math> これらの式と <math>C(S_t,t) = a_t S_t + b_t B_t</math> から ''a''<sub>''t''</sub>, ''b''<sub>''t''</sub> を消去すると、次の[[偏微分方程式]]が得られる。 : <math>r C = \frac{\,\partial C\,}{\partial t} + \frac{1}{2} \sigma^2 S_t^2 \frac{\,\partial^2 C\,}{\partial S_t^2} + r S_t\frac{\partial C}{\,\partial S_t\,}</math> この偏微分方程式を'''ブラック–ショールズ方程式'''({{lang-en-short|Black–Scholes equation}})、または'''ブラック–ショールズ偏微分方程式'''({{lang-en-short|Black–Scholes partial differential equation}})と言う。この方程式の境界条件は以下の3つである。 * ''C''(0, ''t'') = 0 (''t'' (&le; ''T'') は任意) * ''C''(''S''<sub>''t''</sub>, ''t'') &sim; ''S''<sub>''t''</sub> as ''S''<sub>''t''</sub> &rarr; &infin; (''t'' (&le; ''T'') は任意) * ''C''(''S''<sub>''T''</sub>, ''T'') = max{''S''<sub>''T''</sub> &minus; ''K'', 0} === ブラック–ショールズ方程式の解 === 同方程式において、次のように変数変換する。 : <math>\begin{align} & C(S_t, t) = e^{r(t - T)}u(S_t, t), \\ & z = \frac{\log(\frac{S_t}{K}) + (r - \frac{\sigma^2}{2})(T - t)}{\sigma}, \\ & s = T - t \end{align}</math> これは、次のような1次元[[熱伝導方程式]](拡散方程式)の初期値問題となる。 : <math>\frac{\partial u}{\partial s} = \frac{1}{2}\cdot\frac{\partial^2 u}{\partial z^2}</math> これを解いて元の変数に戻すと、ブラック–ショールズ方程式の解は次の形で与えられる。 : <math>C(S_t, t) = S_t N(d_1) - Ke^{-r(T-t)} N(d_2)</math> ただし、下記の条件においてである。 : <math>N(x) =\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int_{-\infty}^{x} e^{-\frac{y^2}{2}}dy,</math> : <math>d_1 = \frac{\log(\frac{S_t}{K}) + (r+\frac{\sigma^2}{2})(T-t)}{\sigma \sqrt{T-t}},</math> : <math>d_2 = \frac{\log(\frac{S_t}{K}) + (r-\frac{\sigma^2}{2})(T-t)}{\sigma \sqrt{T-t}}</math> これが「適正価格」と呼ばれる背景としては、上述のとおり株と債券を使ってヨーロピアン・コールオプションを複製することができるという事実から来ている。もし、コールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用が異なれば、無限に資金を増やすことが可能になる<ref>[[無裁定価格理論]]の項目を参照。</ref>。それは非現実的であるのでコールオプション価格と複製ポートフォリオの組成費用は、理論的には、一致しなくてはならないのである。またここでは ''S''<sub>''t''</sub> は株価であるとしたが、実際は株式だけに限らず、[[為替レート]]や[[投資信託]]、[[株価指数]]などの市場性のある投資商品や指標であれば全て上述の議論が成立する。 === 配当込みのブラック–ショールズ方程式 === もし株式に[[配当]]が含まれたとしても、ブラック–ショールズ方程式は細部の変更のみで成立する。ここで ''S''<sub>''t''</sub> で表される株式には配当が存在し、その配当は連続的に支払われるものとする。単位時間当たりの[[配当#概説|配当利回り]]を ''q'' とする。この時、株価の従う確率微分方程式は : <math>dS_t = \sigma S_tdW_t + (\mu - q) S_tdt</math> となる{{efn2|よって <math>\mu</math> はトータルリターンを表している}}。ただし、この株式を保有していると配当が得られるので、自己資金充足的なポートフォリオは次の確率積分方程式を満たす。 : <math>a_tS_t + b_tB_t = a_0S_0 + b_0B_0 + \int_0^t a_s dS_s + \int_0^t b_s dB_s + \int_0^ta_s qS_sd s</math> あとは全く同様の議論を繰り返すことで次の偏微分方程式が得られる。 : <math>r C = \frac{\,\partial C\,}{\partial t} + \frac{1}{2} \sigma^2 S_t^2 \frac{\,\partial^2 C\,}{\partial S_t^2} + (r-q) S_t\frac{\partial C}{\,\partial S_t\,}</math> 境界条件は配当なしの場合と同一である。この偏微分方程式の解は以下のようになる<ref>{{Harvnb|Shreve|(2004)|pp=237-238|ref=Shreve2004}}</ref>。 : <math>C(S_t, t) = e^{-q(T-t)}S_t N(d_1) - Ke^{-r(T-t)} N(d_2)</math> ただし、 : <math>N(x) =\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int_{-\infty}^{x} e^{-\frac{y^2}{2}}dy,</math> : <math>d_1 = \frac{\log(\frac{S_t}{K}) + (r-q+\frac{\sigma^2}{2})(T-t)}{\sigma \sqrt{T-t}},</math> : <math>d_2 = \frac{\log(\frac{S_t}{K}) + (r-q-\frac{\sigma^2}{2})(T-t)}{\sigma \sqrt{T-t}}</math> である。この配当込みのブラック–ショールズ方程式は通貨オプションについても重要な意味を持つ。自国とある外国の間の(自国通貨建て)為替レートを ''Q''<sub>''t''</sub> として、''Q''<sub>''t''</sub> が以下の確率微分方程式に従うとする。 : <math> dQ_t = \sigma Q_tdW_t + \gamma Q_tdt </math> ''&gamma;'' は定数であるとする。また自国債券価格を ''B''<sub>''t''</sub> 、外国債券価格を ''B''<sup>''f''</sup><sub>''t''</sub> として、それぞれ : <math>B_t = B_0\mathrm{exp}(rt),\quad B^f_t = B_0^f\mathrm{exp}(r_ft) </math> と表されるとする。ただし、''r'' と ''r''<sub>''f''</sub> はそれぞれ自国の金利と外国の金利を表し、共に定数であるとする。ここで自国通貨建て通貨オプションを自国債券と外国債券からなる自己資金充足的なポートフォリオで複製することを考える。つまり : <math>C(Q_t,t) = a_tB_t + b_tQ_tB^f_t</math> である自己資金充足的なポートフォリオ (''a'', ''b'') を考える{{efn2|''C'' は自国通貨単位での価値額である。}}。すると、前節と同様の議論から無裁定ならば次の偏微分方程式が成立しなくてはならない。 : <math>r C = \frac{\,\partial C\,}{\partial t} + \frac{1}{2} \sigma^2 Q_t^2 \frac{\,\partial^2 C\,}{\partial Q_t^2} + (r-r_f) Q_t\frac{\partial C}{\,\partial Q_t\,}</math> この式は配当込みの株式を原資産としたブラック-ショールズ方程式における配当利回りを外国金利に置き換えただけの式なので、その解も配当利回りを外国金利に置き換えるだけでよいことが分かる。つまり通貨オプションの理論価格は配当込みの株式オプションの理論価格と同じ形をすることが分かる。 === プットコールパリティ === ヨーロピアンタイプのプットオプションについてもコールオプションの場合と全く同様の議論から次の偏微分方程式が成り立つ。 : <math>r P = \frac{\,\partial P\,}{\partial t} + \frac{1}{2} \sigma^2 S_t^2 \frac{\,\partial^2 P\,}{\partial S_t^2} + r S_t\frac{\partial P}{\,\partial S_t\,}</math> ただし、''P'' はプットオプションの現在価格である。つまり、原資産の価格変動が幾何ブラウン運動で、債券利子率が一定ならば、どのようなデリバティブについても偏微分方程式の形は同じとなる。異なるのは境界条件で、プットオプションの場合の境界条件は * ''P''(0, ''t'') = Ke<sup>-r(T-t)</sup> (''t'' (&le; ''T'') は任意) * ''P''(''S''<sub>''t''</sub>, ''t'') &rarr; 0 as ''S''<sub>''t''</sub> &rarr; &infin; (''t'' (&le; ''T'') は任意) * ''P''(''S''<sub>''T''</sub>, ''T'') = max{''K'' &minus; ''S''<sub>''T''</sub>, 0} となる。解は : <math>P(S_t, t) = - S_t N(-d_1) + Ke^{-r(T-t)} N(-d_2)</math> となる<ref>{{Harvnb|Shreve|(2004)|p=164|ref=Shreve2004}}</ref>。関数や変数の定義はコールオプションの場合と同様である。ここで同一の原資産、満期、行使価格であるヨーロピアンコールオプションとプットオプションをコールオプションについては1単位買い、プットオプションについては1単位売ることを考える。そのようなポートフォリオの価値額は : <math>C(S_t, t) - P(S_t, t) = S_t - Ke^{-r(T-t)} </math> となる。つまり0時点において株式を1単位買い、債券を ''Ke''<sup>''-rT''</sup> / ''B''<sub>0</sub> 単位空売りし、満期までそれを保有し続けるポートフォリオの価値額と常に一致する。この関係を'''プットコールパリティ'''({{lang-en-short|put-call parity}})と言う<ref>{{Harvnb|Shreve|(2004)|p=163|ref=Shreve2004}}</ref>。より一般的には、''T'' 期を満期とした額面が1円の債券の ''t'' 時点での価格が''B'' ( ''t'', ''T'' ) = ''e''<sup>-''r'' ( ''T''-''t'' )</sup> で表されることから : <math>C(S_t, t) - P(S_t, t) = S_t - KB(t,T) </math> と書ける。このポートフォリオの満期でのペイオフは : <math>C(S_T, T) - P(S_T, T) = S_T - K </math> となる。このポートフォリオでの満期でのペイオフは同一残存期間の先渡価格 ''K'' の先渡契約の満期でのペイオフと同じである。よって満期を ''T'' とする ''t'' 時点で締結された先渡契約の先渡価格を ''F'' ( ''t'', ''T'' ) とすると、無裁定条件から : <math>C(S_t, t; F(t,T)) - P(S_t, t; F(t,T)) = S_t - F(t,T)B(t,T) </math> が成り立つ。ヨーロピアンプットオプションの理論価格についてはブラック-ショールズ方程式を解かずにプットコールパリティから計算した方が簡単である。 === グリークス(The Greeks) === [[File:Call option's value diagram of the Black-Scholes model.svg|thumb|400px|ブラック–ショールズモデルにおけるコールオプション価値。call option's value long before expiry dateで示される曲線が満期までの期間が比較的長いヨーロピアンコールオプション価値でcall option's value before expiry dateで示される曲線が満期までの期間が比較的短いヨーロピアンコールオプション価値である。call option's payoff at expiry dateは満期時点でのペイオフを表している。オプション価値は右上がりの凸状の曲線であり、時間経過にしたがって下方に異動し、満期時点でのペイオフに近づいていくことが分かる。]]ブラック–ショールズ方程式によるオプション価格を決定するのは株価、満期までの残存期間もしくは経過時間、行使価格、金利、ボラティリティの5つとなる。よってオプション価格をこの5つの変数の関数と見なし、それぞれの偏微分を持って各変数についてのオプション価格の感応度として表したものを'''グリークス'''({{lang-en-short|The Greeks}})と言う<ref>{{Harvnb|Shreve|(2004)|p=159|ref=Shreve2004}}</ref>。代表的なものとして、株価についての1階偏微分をデルタ({{lang-en-short|delta}})、2階偏微分をガンマ({{lang-en-short|gamma}})、経過時間の1階偏微分をセータ({{lang-en-short|theta}})、金利の1階偏微分をロー({{lang-en-short|rho}})、ボラティリティの1階偏微分をベガ({{lang-en-short|vega}})またはカッパ({{lang-en-short|kappa}})と言う。それぞれの配当無しヨーロピアンコールオプションにおける具体形は以下の通りとなる。ただし記号等は前節のものと同じである。 ; デルタ :<math>\Delta := \frac{\partial C}{\partial S_t} = N(d_1)</math> ; ガンマ :<math>\Gamma := \frac{\partial^2 C}{\partial S_t^2} = \dfrac{1}{\sigma S_t\sqrt{T-t}}\frac{1}{\sqrt{2\pi}}\mathrm{exp}\left\{-\frac{1}{2}d_1^2\right\} </math> ; セータ :<math>\Theta := \frac{\partial C}{\partial t} = - rKe^{-r(T-t)}N(d_2) - \dfrac{\sigma S_t}{2\sqrt{T-t}}\frac{1}{\sqrt{2\pi}}\mathrm{exp}\left\{-\frac{1}{2}d_1^2\right\} </math> ; ロー :<math>\rho := \frac{\partial C}{\partial r} = (T-t)Ke^{-r(T-t)}N(d_2) </math> ; ベガ :<math>\kappa := \frac{\partial C}{\partial \sigma} = S_t\sqrt{T-t}\frac{1}{\sqrt{2\pi}}\mathrm{exp}\left\{-\frac{1}{2}d_1^2\right\} </math> デルタとガンマが共に常に正であることから、Y軸をオプション価値としX軸を原資産価格とした[[直交座標系#平面上の直交座標系|座標平面]]でのオプション価値の曲線は右上がりの凸状の曲線になる。さらにセータが負であることからこの曲線は時間経過と共に下方へ移動していく。プットオプションや配当込みオプションの場合のグリークスは英語版wikipedia の[[:en:Greeks (finance)#Formulas for European option Greeks]]を参照のこと。 === インプライド・ボラティリティ === {{see also|ボラティリティ#インプライド・ボラティリティ}} ブラック-ショールズ方程式によるオプション価格において、株価、満期までの残存期間、行使価格、金利は全て市場で観測可能であるが、ボラティリティのみが直接観測不可能で何らかの方法で推定しなくてはならない。そこでブラック-ショールズ方程式による理論上のオプション価格が現実価格と等しいと仮定して実際のオプションの市場価格から逆算されたボラティリティのことを'''インプライド・ボラティリティ'''({{lang-en-short|implied volatility}})と言う。ブラック-ショールズ方程式が正しければ、あらゆる水準の株価、満期までの残存期間、行使価格、金利においてインプライド・ボラティリティは等しいはずだが、実際に計算されるインプライド・ボラティリティはそうではないことが知られている。 == 実務への応用 == オプションの理論価格算定方式が数学上非常に明晰な形で提供されたことは{{仮リンク|SPAN証拠金|en|CME SPAN}}<ref group="注">1988年に[[シカゴ・マーカンタイル取引所]]が開発したリスクベースの証拠金計算方法。</ref>に決定的な示唆を与えている。 オプション価格の理論値が得られることから、適正プレミアムの獲得や現実の取引価格との乖離が投資戦略として裁定取引上の利益目標となり得ると考えられた。この点、実際にはテイルリスク{{efn2|過去に無い相場に遭遇したり、とりわけ統計的に検定除外されてしまうほどめったに発生しない局面でのリスク}}に対する脆弱性などが指摘されている。そしてショールズが参加した[[ロングターム・キャピタル・マネジメント]]破綻により現実的妥当性まで疑問視された。しかし、投資中に発生するイベントの定性情報{{efn2|文章や画像、音声といった、数値化のむずかしい情報。対義語は定量情報。}}を無視したポートフォリオ戦略{{efn2|将来何が起きるかは知りえないことを前提とした投資戦略}}としては依然として強力であり、それまで[[アナロジー]]や[[アフォリズム]]、[[アノマリー]]や[[テクニカル分析]]などといった従来の「投資の慣行」を超えた学術的バックグラウンドを持つものとして、[[現代ポートフォリオ理論]]や[[資本資産価格モデル]]などと同様に大きな影響をもたらしている。 == 発展 == ブラック–ショールズ方程式は、価格の変化率の分布が[[正規分布]]に従うという仮定を置いている。しかし現実の金融商品では必ずしも正規分布が成立しない<ref>[https://www.nomura.co.jp/terms/japan/hu/A02464.html 野村證券|ファットテール(証券用語解説集)]</ref>。そのような批判にこたえる形でブラック–ショールズモデルが持つ仮定を緩めたものとして、ボラティリティが時間経過にしたがって確率的に変動する[[確率的ボラティリティモデル]]<ref>{{Harvnb|Heston|(1993)|ref=Heston1993}}</ref>や原資産(株式など)の価格の不連続な変動を許容するマートンモデル<ref>{{Harvnb|Merton|(1976)|ref=Merton1976}}</ref>などが考案されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation |last = Bachelier |first = Louis |authorlink = ルイ・バシュリエ |title = Théorie de la Speculation |location = Paris |year = 1900 |ref = Bachelier1900 }} * {{Citation |last = Black |first = Fischer |authorlink = フィッシャー・ブラック |title = How We Came up with the Option Formula |journal = The Journal of Portfolio Management |volume = 15 |issue = 2 |year = 1989 |page = 4-8 |doi = 10.3905/jpm.1989.409198 |ref = Black1989 }} * {{Citation |last1 = Black |first1 = Fischer |last2 = Scholes |first2 = Myron |authorlink1 = フィッシャー・ブラック |authorlink2 = マイロン・ショールズ |title = The Pricing of Options and Corporate Liabilities |journal = Journal of Political Economy |year = 1973 |volume = 81 |issue = 3 |pages = 637-654 |doi = 10.1086/260062 |jstor = 1831029 |ref = Black,Scholes1973}} * {{Citation |last = Heston |first = Steven L. |title = A Closed-form Solution for Options with Stochastic Volatility with Applications to Bond and Currency Options |journal = The Review of Financial Studies |year = 1993 |volume = 6 |issue = 2 |pages = 327–343 |doi = 10.1093/rfs/6.2.327 |ref = Heston1993}} * {{Citation |first = Robert C. |last = Merton |authorlink = ロバート・マートン |title = Lifetime Portfolio Selection under Uncertainty: the Continuous-Time Case |journal = The Review of Economics and Statistics |volume = 51 |issue = 3 |pages = 247–257 |year = 1969 |doi = 10.2307/1926560 |jstor = 1926560 |ref = Merton1969}} * {{Citation |last = Merton |first = Robert C. |authorlink = ロバート・マートン |title = Theory of Rational Option Pricing |journal = The Bell Journal of Economics and Management Science |year = 1973 |volume = 4 |issue = 1 |pages = 141–183 |jstor = 3003143 |ref = Merton1973}} * {{Citation |last = Merton |first = Robert C. |authorlink = ロバート・マートン |title = Option Pricing When Underlying Stock Returns Are Discontinuous |journal = Journal of Financial Economics |year = 1976 |volume = 3 |issue = 1–2 |pages = 125–144 |doi = 10.1016/0304-405X(76)90022-2 |ref = Merton1976}} * {{Citation |last = Samuelson |first = Paul A. |authorlink = ポール・サミュエルソン |year = 1965 |title = Rational Theory of Warrant Pricing |journal = Industrial Management Review |volume = 10 |pages = 13-31 |ref = Samuelson1965 }} * {{Citation |last = Samuelson |first = Paul A. |authorlink = ポール・サミュエルソン |title = Lifetime Portfolio Selection by Dynamic Stochastic Programming |journal = The Review of Economics and Statistics |year = 1969 |volume = 51 |issue = 3 |pages = 239-246 |doi = 10.2307/1926559 |jstor = 1926559 |ref = Samuelson1969 }} * {{Citation |last = Shreve |first = Steven E. |year = 2004 |title = Stochastic Calculus for Finance II: Continuous-time Models |publisher = Springer |place = New York |isbn = 9780387401010 |ref = Shreve2004 }} * {{Citation |last = Sprenkle |first = Case M. |year = 1961 |title = Warrant Prices and Indicators of Expectations and Preferences |journal = Yale Economic Essays |volume = 1 |pages = 179-231 |ref = Sprenkle1961 }} * {{Citation |last = Whaley |first = Robert E. |contribution = Derivatives |editor1-last = Constantinides |editor1-first = George M. |editor2-last = Harris |editor2-first = Milton |editor3-last = Stulz |editor3-first = René M. |title = Handbook of the Economics of Finance 1 |year = 2003 |publisher = Elsevier |pages = 1129-1206 |doi = 10.1016/S1574-0102(03)01028-8 |isbn = 9780444513632 |ref = Whaley2003}} == 関連項目 == * [[デリバティブ]] * [[ブラック・モデル]] * [[確率微分方程式]]、[[数理ファイナンス]]、[[金融工学]] * [[伊藤の補題]] * [[伊藤の公式]] {{金融派生商品}} {{確率論}} {{DEFAULTSORT:ふらつくしよおるすほうていしき}} [[Category:金融経済学]] [[Category:解析学]] [[Category:微分方程式]] [[Category:数理ファイナンス]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:株式市場]] [[Category:金融理論]] [[Category:確率過程]] [[Category:数学のエポニム]]
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法学
法学(ほうがく)または法律学(ほうりつがく、英: jurisprudence、仏: jurisprudence、独: Rechtswissenschaft, Jurisprudenz、伊: giurisprudenza)とは、法又は法律に関する学問である。 法学の分類として一般的なのは、実定法に関する研究を行う実定法学(実定法の意味を認識体系化する法解釈学と、立法に関する立法学に分けることができる。)と、基礎法学への分類である。 ドイツ語「Jura()」という語で同じ内容を指すこともあるが、本来これはラテン語の「ius()」(法)の複数形である。複数形であるのは、俗界の法(特にローマ法)と聖界の法(カノン法あるいは教会法)の両方を修めていた頃の名残であるといわれる。また、英語の「jurisprudence()」やフランス語の「jurisprudence()」、ドイツ語の「Jurisprudenz()」、ローマ法における「iuris prudentia()」(法の賢慮)という表現に由来する。市民法大全の 法学提要によれば、「法学とは、...正しいことと正しくないことを知ることである」とされていた。 しかし、イマヌエル・カント以来の法と道徳の峻別の結果、実定法学が分かれ出ることになる。 基礎法学の中で、法哲学は、古代ギリシアに起源を有するが、19世紀に実定法学から分離し成立した分野で、実定法の哲学的考察・実定法の一般理論・法学方法論をその領域とする。法史学(法制史学)は実定法学の一部としてのローマ法学やゲルマン法学の法源研究に起源を有し、これらが発展したものである。諸法域の実定法を比較する比較法学とともに、歴史的・地理的な比較の中に対象となる実定法(日本では日本法)を位置づけることにより、実定法の認識を豊かなものにする。日本の研究においては、基礎法学(特に比較法学と法史学)による知見を基に一定の解釈を展開するというスタイルが支配的である。 実定法学の対象は、大きく公法と私法に分かれる。これらの対象に応じて、公法学・私法学と呼ぶ。憲法学(国法学)、行政法学、租税法学、刑法学などは公法学に属し、民法学、商法学などは私法学の個別分野である。しかし、この分類は理論的に意味のあるものであるが、あまり便宜的ではないので、公法学、民事法学、刑事法学、基礎法学のように四分することもある(民事訴訟法と刑事訴訟法は、先の分類ではともに公法学に属するとされるが、ここでは民事法学と刑事法学に分かれる)。ここでは、国際法を公法に含め、四つのカテゴリーに分けることとする。 法思想その他によって、法学の学派を区別することがある。
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法学(ほうがく)または法律学とは、法又は法律に関する学問である。 法学の分類として一般的なのは、実定法に関する研究を行う実定法学(実定法の意味を認識体系化する法解釈学と、立法に関する立法学に分けることができる。)と、基礎法学への分類である。
{{出典の明記|date=2017年8月}} [[File:CourtGavel.JPG|thumb|right|250px|[[ミネソタ州会議事堂|ミネソタ司法センター]]に展示されている小槌と法廷議事録]] '''法学'''(ほうがく)または'''法律学'''(ほうりつがく、{{lang-en-short|jurisprudence}}、{{lang-fr-short|jurisprudence}}、{{lang-de-short|Rechtswissenschaft, Jurisprudenz}}、{{lang-it-short|giurisprudenza}})とは、[[法 (法学)|法]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|law}}、{{lang-fr-short|droit}}、{{lang-de-short|Recht}}、{{lang-it-short|legge}}、{{lang-la-short|jus}}</ref>又は[[法律]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|laws}}、{{lang-fr-short|loi}}、{{lang-de-short|Gesetz}}、{{lang-it-short|diritto}}、{{lang-la-short|lex}}</ref>に関する[[学問]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|}}{{lang-fr-short|science}}、{{lang-de-short|Wissenschaft}}</ref>である。 法学の分類として一般的なのは、[[実定法]]に関する研究を行う実定法学(実定法の意味を認識体系化する[[法解釈]]学と、立法に関する[[立法]]学に分けることができる。)と、基礎法学への分類である。 == 語源 == [[ドイツ語]]「{{読み仮名|{{lang|de|Jura}}|ユーラ}}」という語で同じ内容を指すこともあるが<ref group="注釈">「{{読み仮名|{{lang|de|Jurastudenten}}|ユーラシュトゥデンテン}}」「{{読み仮名|{{lang|de|Ich studiere Jura.}}|イヒ・シュトゥディェレ・ユーラ}}」等。</ref>、本来これは[[ラテン語]]の「{{読み仮名|{{lang|la|ius}}|イウス}}」(法)の複数形である。複数形であるのは、俗界の法(特に[[ローマ法]])と聖界の法([[カノン法]]あるいは[[教会法]])の両方を修めていた頃の名残であるといわれる。また、英語の「{{読み仮名|{{lang|en|jurisprudence}}|ジュリスプルデンス}}」やフランス語の「{{読み仮名|{{lang|fr|jurisprudence}}|ジュリスプルドンス}}」、ドイツ語の「{{読み仮名|{{lang|de|Jurisprudenz}}|ユリスプルデンツ}}」、[[ローマ法]]における「{{読み仮名|{{lang|la|iuris prudentia}}|イウリス・プルデンティア}}」(法の賢慮)という表現に由来する。[[市民法大全]]の[[ローマ法大全 | 法学提要]]によれば、「法学とは、…正しいことと正しくないことを知ることである」<ref group="注釈">ラテン語: {{読み仮名|{{lang|la|iuris prudentia est ... iusti atque iniusti scientia}}|イウリス・プルデンティア・エスト・イウスティ・アトケ・イニウスティ・スキエンティア}}</ref>とされていた。 しかし、[[イマヌエル・カント]]以来の法と道徳の峻別の結果、実定法学が分かれ出ることになる。 == 基礎法学と実定法学 == === 基礎法学 === 基礎法学の中で、[[法哲学]]は、[[古代ギリシア]]に起源を有するが、19世紀に実定法学から分離し成立した分野で、実定法の哲学的考察・実定法の一般理論・法学方法論をその領域とする。[[法史学]](法制史学)は実定法学の一部としてのローマ法学やゲルマン法学の法源研究に起源を有し、これらが発展したものである。諸法域の実定法を比較する[[比較法学]]とともに、歴史的・地理的な比較の中に対象となる実定法(日本では[[日本法]])を位置づけることにより、実定法の認識を豊かなものにする。日本の研究においては、基礎法学(特に比較法学と法史学)による知見を基に一定の解釈を展開するというスタイルが支配的である。 * [[法哲学]] * [[法史学]]([[法制史]]・[[国制史]]) **[[西洋法制史]] : [[楔形文字法]]、[[古代ギリシア法]]、[[ローマ法]]、[[教会法]](特に[[カノン法]]) ** [[東洋法制史]] : [[中国法制史]] **[[日本法制史]] * [[比較法学]] ** [[大陸法]] *** [[ドイツ法]] : [[ドイツ法史]]、[[ドイツ憲法]]、[[ドイツ行政法]]、[[ドイツ民法]]、[[ドイツ商法]]、[[ドイツ民事訴訟法]]、[[ドイツ刑法]]、[[ドイツ刑事訴訟法]] *** [[フランス法]] : [[フランス法史]]、[[フランス共和国憲法|フランス憲法]]、[[フランス行政法]]、[[フランス民法]]、[[フランス商法]]、[[フランス民事訴訟法]]、[[フランス刑法]]、[[フランス刑事訴訟法]] *** [[イタリア法]] *** [[オランダ法]] : [[オランダ民法]] *** [[ベルギー法]] *** [[スイス法]] : [[スイス民法]] *** [[オーストリア法]] : [[オーストリア民法]] *** [[スペイン法]] *** [[イベロ・アメリカ法]] *** [[スコットランド法]] *** [[日本法]] *** [[韓国法]] *** [[台湾法]] ** [[コモン・ロー|英米法]] *** [[イングランド法]] *** [[アメリカ法]] : [[アメリカ法史]]、[[アメリカ憲法]]、[[アメリカ行政法]]、[[アメリカ刑法]]、[[アメリカ刑事訴訟法]]。 ** [[シャリーア|イスラーム法]] ** [[社会主義法]] *** [[中華人民共和国法]] * [[法政策学]] * [[法社会学]] * [[犯罪学]]・[[犯罪学#分類|刑事学]]・[[刑事政策]] * [[法と経済学]] * 実定法の体系 ** [[自然法]]・[[実定法]] ** [[公法]]・[[私法]] ** [[私法|市民法]]・[[社会法]] ** [[法 (法学)#実体法と手続法|実体法]]・[[法 (法学)#実体法と手続法|手続法]] ** [[民事法]]・[[刑事法]] ** 国内法・[[国際法]] ** [[実質法]]・[[抵触法]] === 実定法学 === 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構造化プログラミング
構造化プログラミング(、英: structured programming)は、コンピュータプログラムの処理手順の明瞭化、平易化、判読性向上を目的にしたプログラミング手法である。一般的には順接、分岐、反復の三種の制御構造(control structures)によって処理の流れを記述することと認識されている。制御構造は制御構文、構造化文(structured statement)、制御フロー文(control flow statement)とも呼ばれる。また、プログラムを任意に分割した部分プログラム(サブルーチンとコードブロック)の階層的な組み合わせによるプログラムの構造化も指している。 このプログラミング手法の普及に貢献したのは、1968年の計算機科学者エドガー・ダイクストラによるACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」と言われている。しかし同じくダイクストラが、1969年度NATOソフトウェア工学会議で発表した論文「Structured Programming」との混同を招いてこちら側の名称で知られるようになった。現在に到るまでの国内外の多くの書籍で、構造化プログラミングは制御構文に関する説明に結び付けられている。なお、1969年の論文内容はプログラム正当性検証のための設計技法を扱っており、トップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提唱されていた。 制御構文(control structures)とは、goto文によるフロー分岐やループ表現を、if文の選択構文やwhile文の反復構文に置き換えるためのプログラム記法を意味している。ラベル先にジャンプするというgoto文の機能を、if文やwhile文は「特定のコード群だけを実行する」という概念に置き換えている。goto文を用いた制御フローは、(1)データの照合/比較の結果にしたがって次の実行コード群を選択するパターンと、(2)データの照合/比較の結果が任意条件を満たしているならば実行コード群を反復するパターンの、二通りに集約されることが経験則で知られていたので、これを専用の記号で形式化したのが制御構文であった。 コード群とは命令コード(instruction code)のまとまりであり、構造化定理では部分プログラム(subprogram)と定義されている。部分プログラムはステートメント(statement)コードブロック(code block)サブルーチン(subroutine)の総称である。ステートメントは命令コードの一行を意味する。コードブロックは一行以上のステートメントをまとめたものである。サブルーチンは一行以上のステートメントまたは一個以上のコードブロックを内包している。部分プログラムは直列状または入れ子状に配置される。その実行順序を決定するものが制御構文であり、以下の三つがある。 制御構造の導入は1960年公開の「ALGOL60」まで遡れるが、当時広く使われていたFORTRANやCOBOLでの正式導入は1977年以降だったので、多くの開発現場では馴染みのないものであった。1966年にコラド・ベームらが「順次・選択・反復」のフロー万能性を数学的に証明したが、それはあくまで論理的研究だった。それを参考にしたとされるダイクストラの1968年の投書「goto文は有害」はいわゆるgoto文論争を引き起こしたが、同時に制御構造への関心を大きく高めた。1970年代、goto文が多用される開発現場での制御構造の普及を重視していたIBM社のハーラン・ミルズは、1969年にダイクストラが発表していた論文題名から知名度を得ていた「構造化プログラミング」を自社の技術セミナーマーケティングに活用するために、上述のベームらの数学的証明を「構造化定理」という独自のタイトルで復刻させて、彼らが勧めるフローチャート制御構造の裏付け理論にした。こうして構造化プログラミングは、IBM社が提唱する構造化定理を論拠にした制御構造を用いるプログラミング手法として世間に定着することになった。 制御構造を導入したプログラミング言語を指しての「構造化言語」というワードが浮上したのは1970年代からであり、これは当時のgoto文中心だったFORTRANやCOBOLやBASICを意識してそれと線引きするための用語として存在していた。 上述の制御構文をコーディング視点の下流工程テクニックとすると、構造化設計(structured design)はプログラムデザイン視点の上流工程テクニックであり、こちらも構造化プログラミングと呼ばれるものである。構造化設計では、サブルーチン(subroutine)をまとめたサブルーチン複合体と、データ要素をまとめたデータ構造(data structure)が主要な役割を果たしている。段階的詳細化に則ったサブルーチン複合体の階層的な組み合わせと、それに必要なデータ構造を連携させてプログラム全体を構築するというテクニックが構造化設計である。サブルーチン複合体はプログラムモジュール(program module)とも読み替えられ、モジュール凝集度と結合度もここから生まれている。 1974年頃から当初はIBM社が主導する形で、いずれも構造化(structured)が接頭辞につく数々のテクニックが発表されるようになり、1975年発表「ジャクソンの構造化プログラミング -Jackson structured programming(JSP)-」、1975年発表「構造化設計 -structured design(SD)-」、1978年発表「構造化分析 -structured analysis(SA)-」、1981年発表「構造化分析設計技法 -structured analysis and design technique(SADT)-」、1980年代発表「構造化体系分析設計手法 -structured systems analysis and design method(SSADM)-」、1989年発表「モダン構造化分析 -modern structured analysis-」などが広く普及している。著名な専門家としては、グレンフォード・マイヤーズ、ラリー・コンスタンティン、マイケル・ジャクソン、エドワード・ヨードン、トム・デマルコなどがいる。これらは「構造化開発」と総称されるようになり、1980年代までのソフトウェア開発の主流になった。 この構造化設計と、ダイクストラの構造化プログラミングの違いは、前者がサブルーチン複合体とデータ構造の連携を中心にしたテクニックであるのに対して、後者は専属サブルーチンを通して扱われる抽象データ構造を中心にしたテクニックであるという点である。後者では、段階的に抽象化した各モジュールの階層的な連結と、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提示されており、この詳細については後節で述べられる。ダイクストラが提唱した抽象(abstraction)指向の構造化は、その思想の前衛性から1970年代を通して理解を得られることはなく、発案者本来の構造化プログラミングは上流工程視点からも普及することはなかった。 第一幕 構造化プログラミングの誕生は、1960年代から浮上したソフトウェア危機問題と密接に結びついている。ソフトウェア危機とはコンピュータ性能の進化に伴うソフトウェア要求度の高まりが、プログラムサイズの際限無い肥大化と複雑化を招き、近いうちに現実的な期間内でのプログラム開発が不可能になるだろうとする悲観的予測である。実際に1960年代のソフトウェア開発現場では仕様不一致、納期遅れ、予算超過といった事態が頻発していた。当時のプログラムはgoto文を多用するタコ足フローチャートによるものが大半だったので、すぐにスパゲティコード化することが多く、複雑怪奇なジャングルフロー図と化しているものも珍しくなかった。1959年に計算機科学者ハインツ・ツェマネクは、goto文の多用に警鐘を鳴らす論文を発表している。1960年に公開されたプログラミング言語「ALGOL60」は、BEGINとENDで区切られたコードブロックを制御するIF選択文とFOR反復文を初めて提供していた。計算機科学者ニクラウス・ヴィルトはこれらを構造化文(structured statement)と呼んだ。1966年に計算機科学者コラド・ベームとジュゼッペ・ヤコピーニは、あらゆるフローチャートは順次・選択・反復の組み合わせで表現できることの数学的証明をし、これはベームとヤコピーニの証明と呼ばれた。計算機科学者ドナルド・クヌースは、これらの潮流を構造化文の第一幕と定義した。 第二幕 1968年、計算機科学者エドガー・ダイクストラのACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful -goto文は有害-」は、その物議を醸す題名でコンピュータプログラミング界隈にいわゆるgoto文論争を巻き起こした。これは構造化文の認知度を高めることに貢献している。これを構造化文の第二幕と定義したクヌースは「第二幕はそのムーブメントの大きさによって、多くの人にとっての第一幕になった」と評した。1968年度開催のNATOソフトウェア工学会議でソフトウェア危機は正式な用語になり、産業界と計算機科学共通の懸案事項になった。翌69年度開催の同会議においてダイクストラは「Structured Programming -構造化プログラミング-」と題した論文を寄稿した。これが「構造化プログラミング」の正式な初出である。その論旨はソフトウェア危機解決策としてのソフトウェア正当性検証技術の確立であり、プログラムを適切に分割し抽象化して良く構造化(well-structured)しておけば、プログラムサイズ拡大に関係なくその正当性を証明できるとしていた。その具体的手法としてはトップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化などが挙げられていた。goto文抑制など構造化文に関する事柄は数行に留まっていたが、goto文論争に熱心なプログラマの間ではこの論文を昨年の投書の延長と見る向きも少なからず存在していた。後年のダイクストラは構造化プログラミングという言葉を作った際に二つの失敗をしたと述べている。商標登録しなかった事と、厳密な定義化を避けた事である。 第三幕 1960年代からの構造化文第一幕の潮流は、産業プログラム界隈にも影響を及ぼしており、こちらでは制御構造(control structures)などの名義でフローチャートに導入されていた。産業コンピュータ市場の最大手であるIBM社の上席研究員ハーラン・ミルズは制御構造を重視し、ニューヨーク・タイムズ社のニュースアーカイブシステム構築プロジェクトで大きな成功を収めた。順次・選択・反復の制御構造は、IBM社のプログラミング規範をまとめたImproved Programming Technologies通称「IPT」に採用され、後に同社の技術セミナーなどを通して広く流布されるようになった。1970~71年頃から計算機科学者デビッド・ハレルは、前述のベームとヤコピーニの数学的証明に「Structure theorem -構造化定理-」という全く新しい題名を付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルはこの命名が実はハーラン・ミルズの提案であったことを後に明かしている。構造化定理はIPTの合理性を裏付ける根拠として盛んに引用されたので、構造化(Structured)プログラミングと言えばIBM社の発明品だと信じるプログラマたちも続出した。IBM社が1974年頃から発表するようになった所属研究員たちによるプログラム開発方法論の数々にも構造化(Structured)の接頭辞が付けられていたが、それらは抽象化を重視するダイクストラの構造化とは異なり、サブルーチン複合体とデータ構造を適切に連携させるための構造化であった。その違いを指摘して本来のダイクストラ方式を改めて紹介する動きもあったが、抽象化指向のダイクストラ理論は産業界ではむしろ不人気でさえあった。クヌースの言葉を借りれば、構造化文の第三幕はIBM社とハーラン・ミルズがプロモートした制御構造の舞台になり、構造化プログラミングに対する世間一般の認識はこちらの方で定着するようになった。 終幕 後年、ダイクストラは自身が作った構造化プログラミングという言葉に不快感を示して避けるようになった。この言葉を作った時、彼はプログラミングが手工芸から科学へ発展することを期待していた。しかし構造化プログラミングという言葉は実利を求めるために使われるようになった。次のような逸話がある。構造化開発の第一人者エドワード・ヨードンの事務所にセミナー依頼の電話がかかってきた。プロジェクトメンバー全員に構造化プログラミングを1日で叩きこんで欲しいという内容である。それが終わったらプロジェクト期間を半分にするという。その理由は「構造化プログラミングは生産性を2倍にするという話ですから」であった。 「Structured Programming」という言葉を作ったのは計算機科学者エドガー・ダイクストラであり、1969年のNATOソフトウェア工学会議で発表された論文が初出とされている。彼は2001年のノートで自分が作り出した「構造化プログラミング」という用語は結局異なる解釈で持ち去られてしまったと述べている。 ダイクストラが提唱した構造化プログラミングは、プログラム正当性検証技術の確立を原点にして構想された数々のプログラム開発理論の複合体である。遅くとも1967年からその構想は始められていた。1968年のgoto文に依存しないシーケンスの制御、1969年のトップダウン設計、抽象化、モジュール化、共同詳細化から始まり、1972年には抽象データ構造、情報隠蔽、階層的プログラム構造といった考えも取り上げられていた。1972年の共著は、ダイクストラの第一章・構造化プログラミングから始まり、オルヨハン・ダールの第三章・階層的プログラム構造で締め括られている。ダールはオブジェクト指向プログラミング言語の草創Simula67の開発者である。 1968年のACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」は、そのセンセーショナルなタイトルで当時のプログラマの間に大きな論争を巻き起こした。その要約は次の通りである。 この投書は、当時のソフトウェア開発現場で横行していたgoto先ラベルの安易な使用に警鐘を鳴らすためのものであったが、添えられた学術的注釈と文芸的比喩の数々が却って読み手の理解を妨げてしまい、冒頭のタイトル印象のみを先走りさせて、goto文論争を発生させることになった。この投書は比較的さり気ないもので、当時のダイクストラが方々の現場で目にしていたラベル多用をたしなめたい所感から書かれていた。ダイクストラが記していた元々の題名はA case against goto statement(goto文への訴え)であり、その時の編集者によって挑戦的なタイトルにすげ替えられていたのが事の真相である。 goto文論争はプログラミング分野の一つの流行として1970年代から80年代までの長きに渡って続いており、多くのプログラマにとっても馴染み深いテーマになっている。goto文と構造化定理の応酬はプログラミング談義の定番でもあった。ダイクストラは後年の著作で自分が提唱した構造化プログラミングの本質の一つは、この投書のテーマであった状態遷移の適切な表現方法と把握手段の確立としている。 1969年度NATOソフトウェア工学会議に寄稿されたこの「Structured Programming」は、プログラム正当性の効率的な検証技術に重点を置き、当時問題視されていたコードサイズの際限なき肥大化によるソフトウェア危機の解決策として従来のボトムアップ設計からトップダウン設計への移行を推奨していた。 論文の前半では、プログラムサイズの肥大化に伴い、各プログラム部品およびそれらを組み合わせた際のプログラムの正当性(program correctness)の立証(demonstration)に必要な労力が指数的に増加して完遂が不可能になるというソフトウェア危機の問題について述べている。ダイクストラはプログラムの正しさに対して証明を与える従来の研究を分析して、証明の手続きを考えずに書かれたプログラムは証明に必要な労力がプログラムのサイズに対して爆発するとし、「与えられたプログラムに対してどうやって証明をするか」ではなく「証明がしやすいプログラムの構造とは何か」についてフォーカスするとした。 後半ではそのための方法について説明している。まず推論しやすい構造として、ステートメントが順に並んだだけのものを挙げている。また、if文1つだけも推論しやすいとしている。しかし、if文がN個並んだ場合、そのままでは2のN乗ステップの推論が必要であるとしている。そこでif文を抽象ステートメントで1つずつ置き換える段階的抽象化(step-wise abstraction)により、Nに比例する推論で正しさを示せるとした。また、そのためには制御のジャンプを制限し、制御構造は順次の他に、選択、反復、および手続き呼び出しに限るべきとしている(なお、順次、選択、反復のいわゆる制御構造(control structures)に触れているのはこの文節だけである)。この例のように詳細なプログラムを抽象化(abstraction)していくのではなく、逆に抽象的なプログラムから始めて詳細化(refinement)していくというやり方を示している。 詳細化の際には共同詳細化(joint-refinement)という考え方が示されている。これは抽象データ構造の詳細化と共にそれを扱う抽象ステートメントを同時に詳細化し、それを1つのプログラムテキストのユニットに分離するというものである。このユニットをダイクストラは真珠(pearl)と呼んだ。また、抽象的な真珠が1段階具体的な真珠に依存し、その真珠がさらに具体的な真珠に依存していったものをネックレスに例えた。そしてネックレスの上部は下部に関わらず正しさを証明することができ、また下部を取り替えることでプログラムのバリエーションを労力をかけずに作れるとした。 1972年の共著「Structured Programming」は計算機科学界の錚々たる三名による三章構成で、第一章はエドガー・ダイクストラの「structured programming」、第二章はアントニー・ホーアの「data structuring」、第三章はオルヨハン・ダールの「hierarchical program structures」となっていた。結びの章の「階層的プログラム構造」を著したダールはSimula67の開発者である。Simula67はオブジェクト指向プログラミングの草分けであり、この章名から継承によるクラス階層構造を重視していたことが伺える。ダイクストラの構造化プログラミングは、制御構文と構造化定理と構造化設計の影に隠れながらも、Simula67をモデルにしたオブジェクト指向プログラミング発展の歴史に組み込まれて受け継がれていったと言える。1983年にC++を開発したビャーネ・ストロヴストルップは「What Is Object-Oriented Programming?」において、オブジェクト指向を抽象データ構造と階層的プログラム構造の発展形として解説し、同時にSimula67の言語仕様を紹介している。 ダイクストラ提唱の構造化プログラミングを支持するドナルド・クヌースは、1974年に自著「Structured Programming with go to Statements」を発表し、その中でgoto-lessの本質に関する補足と解説を加えている。これは当時のgoto文論争に一つの区切りを付けるものであったが、幅広い認知を得るには到らずにgoto文論争は1980年代になっても散発的に繰り広げられた。1970年代後半からマイコンが普及してBASICなどを扱うパーソナルユーザーが増えると、goto命令を使わないのが構造化プログラミングといった見解が取り上げられて再び議論が始まるなど、この論争の影響は後年まで根強く残っている。 ダイクストラは、プログラマは正しいプログラムを作り出すばかりでなく納得のいくやり方で正しさを証明(検証)することも仕事の一つであるという立場を取っていた。プログラムがどんなに巨大化しても良く構造化(well-structured)されていれば、サイズに関係なくその正当性を検証できるというのが彼の信念であった。well-formed formula(論理式)に因んでいるwell-structuredには、数理論理学の証明論をソースコードにも導入する意図が込められていた。1967年のノート「Towards Correct Programs」でダイクストラは、良く構造化するための三つのメンタルツール(mental tool)をこのように示している。 プログラムが正しいことを確認するには、それを証明しなければならない。テストはプログラムに対する疑いを全て取り除くには不十分であるという意見が上がった。これについてダイクストラは「テストはバグの存在を示すには有効だが、バグが存在しないことは証明できない」という表現を好んで用いた。構造化プログラミングの支持者らは、プログラムの正しさの重要性と証明の方法や表明(assertion)の使い方について熱心に説いた。理想的にはテストだけに依存せず、プログラムの正しさの証明も与えるべきだと言われている。所与のプログラムの正しさを後付けで証明することは、はじめから証明を意識して作られたプログラムの場合より難しいことが経験的に知られている。ダイクストラは、プログラミングと同時にプログラムの証明を(わずかに証明を先行して)進めることを推奨している。そのようなアプローチでプログラムの正当性の問題にあたれば、複雑な問題であっても知的管理が可能であると述べた。しかし形式的な証明は、時として非人間的な長さの記述になることもダイクストラは認めている。同氏は、プログラムの証明が形式的であることにはこだわらないという意見を明らかにした。 1970年代初頭に計算機科学者デビッド・ハレル(英語版)は、1966年に発表されていたベームとヤコピーニの数学証明に、構造化定理(Structure theorem)という全く新しいタイトルを付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルが後に明かしたところによると「構造化定理」という名称は、当時IBM社の上席プログラマーであったハーラン・ミルズの提案だったという。ダイクストラの提唱内容とは全く異なる、制御構造(順次・選択・反復)主体の構造化プログラミングは、IBM社のIPT(Improved Programming Technologies)に採用されており、同社主催の技術セミナーなどを通して当時のプログラマに広く流布されていた。その中で恐らく意図的にダイクストラのそれと名称を似せた「構造化定理」は、彼らが勧める制御構造の合理性を数学的にも証明した根拠として盛んに引用されていた。このような経緯から制御構造の使用と構造化定理は同一視されるようになり、ダイクストラのgoto文有害説から誤解された構造化プログラミングとも同一視されるようになった。goto文論争の中で引き合いに出されていた構造化定理もまた、ベームとヤコピーニから見れば誤解であった。 なお、ベームとヤコピーニの証明は、フローチャートやそれによって表現されるプログラム・関数・チューリングマシンなどの理論的側面に注目している。これは任意の論理回路がNAND素子の組み合わせによって表現できるとか、ラムダ式がSとKの2つのコンビネータによって表現できるとかいった研究に近い。回路設計者が直接NANDを組み合わせて電子回路を設計しないのと同じように、構造化定理は良いプログラムの作成を(少なくとも直接的には)意図していない。ハレルも構造化定理は実際の内容以上に引用されて民間伝承定理(folk theorem)化していると指摘していた。 ダイクストラは2001年のノート「What led to “Notes on Structured Programming”」(構造化プログラミング表記の由来)でこのように述べている。 1968年の自分は「A case against goto statement」(goto文への訴え)と題した記事(article)をCommunications of the ACM(ACMの機関紙)に投稿したが、当期の刊行を急ぐ編集担当者の意向で投書(letter to the Editor)にされる事になり、更にその担当者独自の考えで「The goto statement considered harmful」(goto文は有害)という全く新しい題名を付けられた。その担当者とはニクラウス・ヴィルトであった。また、自分が提唱した構造化プログラミングの本質的内容の普及を好まない某社がハーラン・ミルズの主導で、まるでgoto文を廃止するかのようなプログラミング手法へと矮小化し、構造化プログラミングという用語まで持ち去ってしまった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "構造化プログラミング(、英: structured programming)は、コンピュータプログラムの処理手順の明瞭化、平易化、判読性向上を目的にしたプログラミング手法である。一般的には順接、分岐、反復の三種の制御構造(control structures)によって処理の流れを記述することと認識されている。制御構造は制御構文、構造化文(structured statement)、制御フロー文(control flow statement)とも呼ばれる。また、プログラムを任意に分割した部分プログラム(サブルーチンとコードブロック)の階層的な組み合わせによるプログラムの構造化も指している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "このプログラミング手法の普及に貢献したのは、1968年の計算機科学者エドガー・ダイクストラによるACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」と言われている。しかし同じくダイクストラが、1969年度NATOソフトウェア工学会議で発表した論文「Structured Programming」との混同を招いてこちら側の名称で知られるようになった。現在に到るまでの国内外の多くの書籍で、構造化プログラミングは制御構文に関する説明に結び付けられている。なお、1969年の論文内容はプログラム正当性検証のための設計技法を扱っており、トップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提唱されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "制御構文(control structures)とは、goto文によるフロー分岐やループ表現を、if文の選択構文やwhile文の反復構文に置き換えるためのプログラム記法を意味している。ラベル先にジャンプするというgoto文の機能を、if文やwhile文は「特定のコード群だけを実行する」という概念に置き換えている。goto文を用いた制御フローは、(1)データの照合/比較の結果にしたがって次の実行コード群を選択するパターンと、(2)データの照合/比較の結果が任意条件を満たしているならば実行コード群を反復するパターンの、二通りに集約されることが経験則で知られていたので、これを専用の記号で形式化したのが制御構文であった。", "title": "制御構文" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コード群とは命令コード(instruction code)のまとまりであり、構造化定理では部分プログラム(subprogram)と定義されている。部分プログラムはステートメント(statement)コードブロック(code block)サブルーチン(subroutine)の総称である。ステートメントは命令コードの一行を意味する。コードブロックは一行以上のステートメントをまとめたものである。サブルーチンは一行以上のステートメントまたは一個以上のコードブロックを内包している。部分プログラムは直列状または入れ子状に配置される。その実行順序を決定するものが制御構文であり、以下の三つがある。", "title": "制御構文" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "制御構造の導入は1960年公開の「ALGOL60」まで遡れるが、当時広く使われていたFORTRANやCOBOLでの正式導入は1977年以降だったので、多くの開発現場では馴染みのないものであった。1966年にコラド・ベームらが「順次・選択・反復」のフロー万能性を数学的に証明したが、それはあくまで論理的研究だった。それを参考にしたとされるダイクストラの1968年の投書「goto文は有害」はいわゆるgoto文論争を引き起こしたが、同時に制御構造への関心を大きく高めた。1970年代、goto文が多用される開発現場での制御構造の普及を重視していたIBM社のハーラン・ミルズは、1969年にダイクストラが発表していた論文題名から知名度を得ていた「構造化プログラミング」を自社の技術セミナーマーケティングに活用するために、上述のベームらの数学的証明を「構造化定理」という独自のタイトルで復刻させて、彼らが勧めるフローチャート制御構造の裏付け理論にした。こうして構造化プログラミングは、IBM社が提唱する構造化定理を論拠にした制御構造を用いるプログラミング手法として世間に定着することになった。", "title": "制御構文" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "制御構造を導入したプログラミング言語を指しての「構造化言語」というワードが浮上したのは1970年代からであり、これは当時のgoto文中心だったFORTRANやCOBOLやBASICを意識してそれと線引きするための用語として存在していた。", "title": "制御構文" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上述の制御構文をコーディング視点の下流工程テクニックとすると、構造化設計(structured design)はプログラムデザイン視点の上流工程テクニックであり、こちらも構造化プログラミングと呼ばれるものである。構造化設計では、サブルーチン(subroutine)をまとめたサブルーチン複合体と、データ要素をまとめたデータ構造(data structure)が主要な役割を果たしている。段階的詳細化に則ったサブルーチン複合体の階層的な組み合わせと、それに必要なデータ構造を連携させてプログラム全体を構築するというテクニックが構造化設計である。サブルーチン複合体はプログラムモジュール(program module)とも読み替えられ、モジュール凝集度と結合度もここから生まれている。", "title": "構造化設計" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1974年頃から当初はIBM社が主導する形で、いずれも構造化(structured)が接頭辞につく数々のテクニックが発表されるようになり、1975年発表「ジャクソンの構造化プログラミング -Jackson structured programming(JSP)-」、1975年発表「構造化設計 -structured design(SD)-」、1978年発表「構造化分析 -structured analysis(SA)-」、1981年発表「構造化分析設計技法 -structured analysis and design technique(SADT)-」、1980年代発表「構造化体系分析設計手法 -structured systems analysis and design method(SSADM)-」、1989年発表「モダン構造化分析 -modern structured analysis-」などが広く普及している。著名な専門家としては、グレンフォード・マイヤーズ、ラリー・コンスタンティン、マイケル・ジャクソン、エドワード・ヨードン、トム・デマルコなどがいる。これらは「構造化開発」と総称されるようになり、1980年代までのソフトウェア開発の主流になった。", "title": "構造化設計" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この構造化設計と、ダイクストラの構造化プログラミングの違いは、前者がサブルーチン複合体とデータ構造の連携を中心にしたテクニックであるのに対して、後者は専属サブルーチンを通して扱われる抽象データ構造を中心にしたテクニックであるという点である。後者では、段階的に抽象化した各モジュールの階層的な連結と、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提示されており、この詳細については後節で述べられる。ダイクストラが提唱した抽象(abstraction)指向の構造化は、その思想の前衛性から1970年代を通して理解を得られることはなく、発案者本来の構造化プログラミングは上流工程視点からも普及することはなかった。", "title": "構造化設計" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第一幕", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "構造化プログラミングの誕生は、1960年代から浮上したソフトウェア危機問題と密接に結びついている。ソフトウェア危機とはコンピュータ性能の進化に伴うソフトウェア要求度の高まりが、プログラムサイズの際限無い肥大化と複雑化を招き、近いうちに現実的な期間内でのプログラム開発が不可能になるだろうとする悲観的予測である。実際に1960年代のソフトウェア開発現場では仕様不一致、納期遅れ、予算超過といった事態が頻発していた。当時のプログラムはgoto文を多用するタコ足フローチャートによるものが大半だったので、すぐにスパゲティコード化することが多く、複雑怪奇なジャングルフロー図と化しているものも珍しくなかった。1959年に計算機科学者ハインツ・ツェマネクは、goto文の多用に警鐘を鳴らす論文を発表している。1960年に公開されたプログラミング言語「ALGOL60」は、BEGINとENDで区切られたコードブロックを制御するIF選択文とFOR反復文を初めて提供していた。計算機科学者ニクラウス・ヴィルトはこれらを構造化文(structured statement)と呼んだ。1966年に計算機科学者コラド・ベームとジュゼッペ・ヤコピーニは、あらゆるフローチャートは順次・選択・反復の組み合わせで表現できることの数学的証明をし、これはベームとヤコピーニの証明と呼ばれた。計算機科学者ドナルド・クヌースは、これらの潮流を構造化文の第一幕と定義した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第二幕", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1968年、計算機科学者エドガー・ダイクストラのACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful -goto文は有害-」は、その物議を醸す題名でコンピュータプログラミング界隈にいわゆるgoto文論争を巻き起こした。これは構造化文の認知度を高めることに貢献している。これを構造化文の第二幕と定義したクヌースは「第二幕はそのムーブメントの大きさによって、多くの人にとっての第一幕になった」と評した。1968年度開催のNATOソフトウェア工学会議でソフトウェア危機は正式な用語になり、産業界と計算機科学共通の懸案事項になった。翌69年度開催の同会議においてダイクストラは「Structured Programming -構造化プログラミング-」と題した論文を寄稿した。これが「構造化プログラミング」の正式な初出である。その論旨はソフトウェア危機解決策としてのソフトウェア正当性検証技術の確立であり、プログラムを適切に分割し抽象化して良く構造化(well-structured)しておけば、プログラムサイズ拡大に関係なくその正当性を証明できるとしていた。その具体的手法としてはトップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化などが挙げられていた。goto文抑制など構造化文に関する事柄は数行に留まっていたが、goto文論争に熱心なプログラマの間ではこの論文を昨年の投書の延長と見る向きも少なからず存在していた。後年のダイクストラは構造化プログラミングという言葉を作った際に二つの失敗をしたと述べている。商標登録しなかった事と、厳密な定義化を避けた事である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第三幕", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1960年代からの構造化文第一幕の潮流は、産業プログラム界隈にも影響を及ぼしており、こちらでは制御構造(control structures)などの名義でフローチャートに導入されていた。産業コンピュータ市場の最大手であるIBM社の上席研究員ハーラン・ミルズは制御構造を重視し、ニューヨーク・タイムズ社のニュースアーカイブシステム構築プロジェクトで大きな成功を収めた。順次・選択・反復の制御構造は、IBM社のプログラミング規範をまとめたImproved Programming Technologies通称「IPT」に採用され、後に同社の技術セミナーなどを通して広く流布されるようになった。1970~71年頃から計算機科学者デビッド・ハレルは、前述のベームとヤコピーニの数学的証明に「Structure theorem -構造化定理-」という全く新しい題名を付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルはこの命名が実はハーラン・ミルズの提案であったことを後に明かしている。構造化定理はIPTの合理性を裏付ける根拠として盛んに引用されたので、構造化(Structured)プログラミングと言えばIBM社の発明品だと信じるプログラマたちも続出した。IBM社が1974年頃から発表するようになった所属研究員たちによるプログラム開発方法論の数々にも構造化(Structured)の接頭辞が付けられていたが、それらは抽象化を重視するダイクストラの構造化とは異なり、サブルーチン複合体とデータ構造を適切に連携させるための構造化であった。その違いを指摘して本来のダイクストラ方式を改めて紹介する動きもあったが、抽象化指向のダイクストラ理論は産業界ではむしろ不人気でさえあった。クヌースの言葉を借りれば、構造化文の第三幕はIBM社とハーラン・ミルズがプロモートした制御構造の舞台になり、構造化プログラミングに対する世間一般の認識はこちらの方で定着するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "終幕", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "後年、ダイクストラは自身が作った構造化プログラミングという言葉に不快感を示して避けるようになった。この言葉を作った時、彼はプログラミングが手工芸から科学へ発展することを期待していた。しかし構造化プログラミングという言葉は実利を求めるために使われるようになった。次のような逸話がある。構造化開発の第一人者エドワード・ヨードンの事務所にセミナー依頼の電話がかかってきた。プロジェクトメンバー全員に構造化プログラミングを1日で叩きこんで欲しいという内容である。それが終わったらプロジェクト期間を半分にするという。その理由は「構造化プログラミングは生産性を2倍にするという話ですから」であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「Structured Programming」という言葉を作ったのは計算機科学者エドガー・ダイクストラであり、1969年のNATOソフトウェア工学会議で発表された論文が初出とされている。彼は2001年のノートで自分が作り出した「構造化プログラミング」という用語は結局異なる解釈で持ち去られてしまったと述べている。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ダイクストラが提唱した構造化プログラミングは、プログラム正当性検証技術の確立を原点にして構想された数々のプログラム開発理論の複合体である。遅くとも1967年からその構想は始められていた。1968年のgoto文に依存しないシーケンスの制御、1969年のトップダウン設計、抽象化、モジュール化、共同詳細化から始まり、1972年には抽象データ構造、情報隠蔽、階層的プログラム構造といった考えも取り上げられていた。1972年の共著は、ダイクストラの第一章・構造化プログラミングから始まり、オルヨハン・ダールの第三章・階層的プログラム構造で締め括られている。ダールはオブジェクト指向プログラミング言語の草創Simula67の開発者である。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1968年のACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」は、そのセンセーショナルなタイトルで当時のプログラマの間に大きな論争を巻き起こした。その要約は次の通りである。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この投書は、当時のソフトウェア開発現場で横行していたgoto先ラベルの安易な使用に警鐘を鳴らすためのものであったが、添えられた学術的注釈と文芸的比喩の数々が却って読み手の理解を妨げてしまい、冒頭のタイトル印象のみを先走りさせて、goto文論争を発生させることになった。この投書は比較的さり気ないもので、当時のダイクストラが方々の現場で目にしていたラベル多用をたしなめたい所感から書かれていた。ダイクストラが記していた元々の題名はA case against goto statement(goto文への訴え)であり、その時の編集者によって挑戦的なタイトルにすげ替えられていたのが事の真相である。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "goto文論争はプログラミング分野の一つの流行として1970年代から80年代までの長きに渡って続いており、多くのプログラマにとっても馴染み深いテーマになっている。goto文と構造化定理の応酬はプログラミング談義の定番でもあった。ダイクストラは後年の著作で自分が提唱した構造化プログラミングの本質の一つは、この投書のテーマであった状態遷移の適切な表現方法と把握手段の確立としている。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1969年度NATOソフトウェア工学会議に寄稿されたこの「Structured Programming」は、プログラム正当性の効率的な検証技術に重点を置き、当時問題視されていたコードサイズの際限なき肥大化によるソフトウェア危機の解決策として従来のボトムアップ設計からトップダウン設計への移行を推奨していた。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "論文の前半では、プログラムサイズの肥大化に伴い、各プログラム部品およびそれらを組み合わせた際のプログラムの正当性(program correctness)の立証(demonstration)に必要な労力が指数的に増加して完遂が不可能になるというソフトウェア危機の問題について述べている。ダイクストラはプログラムの正しさに対して証明を与える従来の研究を分析して、証明の手続きを考えずに書かれたプログラムは証明に必要な労力がプログラムのサイズに対して爆発するとし、「与えられたプログラムに対してどうやって証明をするか」ではなく「証明がしやすいプログラムの構造とは何か」についてフォーカスするとした。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "後半ではそのための方法について説明している。まず推論しやすい構造として、ステートメントが順に並んだだけのものを挙げている。また、if文1つだけも推論しやすいとしている。しかし、if文がN個並んだ場合、そのままでは2のN乗ステップの推論が必要であるとしている。そこでif文を抽象ステートメントで1つずつ置き換える段階的抽象化(step-wise abstraction)により、Nに比例する推論で正しさを示せるとした。また、そのためには制御のジャンプを制限し、制御構造は順次の他に、選択、反復、および手続き呼び出しに限るべきとしている(なお、順次、選択、反復のいわゆる制御構造(control structures)に触れているのはこの文節だけである)。この例のように詳細なプログラムを抽象化(abstraction)していくのではなく、逆に抽象的なプログラムから始めて詳細化(refinement)していくというやり方を示している。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "詳細化の際には共同詳細化(joint-refinement)という考え方が示されている。これは抽象データ構造の詳細化と共にそれを扱う抽象ステートメントを同時に詳細化し、それを1つのプログラムテキストのユニットに分離するというものである。このユニットをダイクストラは真珠(pearl)と呼んだ。また、抽象的な真珠が1段階具体的な真珠に依存し、その真珠がさらに具体的な真珠に依存していったものをネックレスに例えた。そしてネックレスの上部は下部に関わらず正しさを証明することができ、また下部を取り替えることでプログラムのバリエーションを労力をかけずに作れるとした。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1972年の共著「Structured Programming」は計算機科学界の錚々たる三名による三章構成で、第一章はエドガー・ダイクストラの「structured programming」、第二章はアントニー・ホーアの「data structuring」、第三章はオルヨハン・ダールの「hierarchical program structures」となっていた。結びの章の「階層的プログラム構造」を著したダールはSimula67の開発者である。Simula67はオブジェクト指向プログラミングの草分けであり、この章名から継承によるクラス階層構造を重視していたことが伺える。ダイクストラの構造化プログラミングは、制御構文と構造化定理と構造化設計の影に隠れながらも、Simula67をモデルにしたオブジェクト指向プログラミング発展の歴史に組み込まれて受け継がれていったと言える。1983年にC++を開発したビャーネ・ストロヴストルップは「What Is Object-Oriented Programming?」において、オブジェクト指向を抽象データ構造と階層的プログラム構造の発展形として解説し、同時にSimula67の言語仕様を紹介している。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ダイクストラ提唱の構造化プログラミングを支持するドナルド・クヌースは、1974年に自著「Structured Programming with go to Statements」を発表し、その中でgoto-lessの本質に関する補足と解説を加えている。これは当時のgoto文論争に一つの区切りを付けるものであったが、幅広い認知を得るには到らずにgoto文論争は1980年代になっても散発的に繰り広げられた。1970年代後半からマイコンが普及してBASICなどを扱うパーソナルユーザーが増えると、goto命令を使わないのが構造化プログラミングといった見解が取り上げられて再び議論が始まるなど、この論争の影響は後年まで根強く残っている。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ダイクストラは、プログラマは正しいプログラムを作り出すばかりでなく納得のいくやり方で正しさを証明(検証)することも仕事の一つであるという立場を取っていた。プログラムがどんなに巨大化しても良く構造化(well-structured)されていれば、サイズに関係なくその正当性を検証できるというのが彼の信念であった。well-formed formula(論理式)に因んでいるwell-structuredには、数理論理学の証明論をソースコードにも導入する意図が込められていた。1967年のノート「Towards Correct Programs」でダイクストラは、良く構造化するための三つのメンタルツール(mental tool)をこのように示している。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "プログラムが正しいことを確認するには、それを証明しなければならない。テストはプログラムに対する疑いを全て取り除くには不十分であるという意見が上がった。これについてダイクストラは「テストはバグの存在を示すには有効だが、バグが存在しないことは証明できない」という表現を好んで用いた。構造化プログラミングの支持者らは、プログラムの正しさの重要性と証明の方法や表明(assertion)の使い方について熱心に説いた。理想的にはテストだけに依存せず、プログラムの正しさの証明も与えるべきだと言われている。所与のプログラムの正しさを後付けで証明することは、はじめから証明を意識して作られたプログラムの場合より難しいことが経験的に知られている。ダイクストラは、プログラミングと同時にプログラムの証明を(わずかに証明を先行して)進めることを推奨している。そのようなアプローチでプログラムの正当性の問題にあたれば、複雑な問題であっても知的管理が可能であると述べた。しかし形式的な証明は、時として非人間的な長さの記述になることもダイクストラは認めている。同氏は、プログラムの証明が形式的であることにはこだわらないという意見を明らかにした。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1970年代初頭に計算機科学者デビッド・ハレル(英語版)は、1966年に発表されていたベームとヤコピーニの数学証明に、構造化定理(Structure theorem)という全く新しいタイトルを付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルが後に明かしたところによると「構造化定理」という名称は、当時IBM社の上席プログラマーであったハーラン・ミルズの提案だったという。ダイクストラの提唱内容とは全く異なる、制御構造(順次・選択・反復)主体の構造化プログラミングは、IBM社のIPT(Improved Programming Technologies)に採用されており、同社主催の技術セミナーなどを通して当時のプログラマに広く流布されていた。その中で恐らく意図的にダイクストラのそれと名称を似せた「構造化定理」は、彼らが勧める制御構造の合理性を数学的にも証明した根拠として盛んに引用されていた。このような経緯から制御構造の使用と構造化定理は同一視されるようになり、ダイクストラのgoto文有害説から誤解された構造化プログラミングとも同一視されるようになった。goto文論争の中で引き合いに出されていた構造化定理もまた、ベームとヤコピーニから見れば誤解であった。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、ベームとヤコピーニの証明は、フローチャートやそれによって表現されるプログラム・関数・チューリングマシンなどの理論的側面に注目している。これは任意の論理回路がNAND素子の組み合わせによって表現できるとか、ラムダ式がSとKの2つのコンビネータによって表現できるとかいった研究に近い。回路設計者が直接NANDを組み合わせて電子回路を設計しないのと同じように、構造化定理は良いプログラムの作成を(少なくとも直接的には)意図していない。ハレルも構造化定理は実際の内容以上に引用されて民間伝承定理(folk theorem)化していると指摘していた。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ダイクストラは2001年のノート「What led to “Notes on Structured Programming”」(構造化プログラミング表記の由来)でこのように述べている。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1968年の自分は「A case against goto statement」(goto文への訴え)と題した記事(article)をCommunications of the ACM(ACMの機関紙)に投稿したが、当期の刊行を急ぐ編集担当者の意向で投書(letter to the Editor)にされる事になり、更にその担当者独自の考えで「The goto statement considered harmful」(goto文は有害)という全く新しい題名を付けられた。その担当者とはニクラウス・ヴィルトであった。また、自分が提唱した構造化プログラミングの本質的内容の普及を好まない某社がハーラン・ミルズの主導で、まるでgoto文を廃止するかのようなプログラミング手法へと矮小化し、構造化プログラミングという用語まで持ち去ってしまった。", "title": "ダイクストラの構造化プログラミング" } ]
構造化プログラミング(こうぞうかプログラミング、は、コンピュータプログラムの処理手順の明瞭化、平易化、判読性向上を目的にしたプログラミング手法である。一般的には順接、分岐、反復の三種の制御構造によって処理の流れを記述することと認識されている。制御構造は制御構文、構造化文、制御フロー文とも呼ばれる。また、プログラムを任意に分割した部分プログラムの階層的な組み合わせによるプログラムの構造化も指している。 このプログラミング手法の普及に貢献したのは、1968年の計算機科学者エドガー・ダイクストラによるACM機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」と言われている。しかし同じくダイクストラが、1969年度NATOソフトウェア工学会議で発表した論文「Structured Programming」との混同を招いてこちら側の名称で知られるようになった。現在に到るまでの国内外の多くの書籍で、構造化プログラミングは制御構文に関する説明に結び付けられている。なお、1969年の論文内容はプログラム正当性検証のための設計技法を扱っており、トップダウン設計、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提唱されていた。
{{プログラミング・パラダイム}} {{読み仮名|'''構造化プログラミング'''|こうぞうかプログラミング|{{lang-en-short|structured programming}}}}は、[[コンピュータプログラム]]の処理手順の明瞭化、平易化、判読性向上を目的にした[[プログラミング]]手法である。一般的には順接、分岐、反復の三種の'''制御構造'''(control structures)によって処理の流れを記述することと認識されている<ref>{{Cite web|和書|title=構造化プログラミングとは - IT用語辞典|url=http://e-words.jp/w/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%8C%96%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0.html|website=IT用語辞典 e-Words|accessdate=2020-06-01|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=構造化プログラミング - 意味・説明・解説 : ASCII.jpデジタル用語辞典|url=https://yougo.ascii.jp/caltar/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%8C%96%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0|website=yougo.ascii.jp|accessdate=2020-06-01}}</ref>。[[制御構造]]は'''制御構文'''、構造化文(structured statement)、制御フロー文(control flow statement)とも呼ばれる。また、プログラムを任意に分割した部分プログラム([[サブルーチン]]と[[コードブロック]])の階層的な組み合わせによるプログラムの構造化も指している。 このプログラミング手法の普及に貢献したのは、1968年の計算機科学者[[エドガー・ダイクストラ]]による[[Association for Computing Machinery|ACM]]機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful」と言われている。しかし同じくダイクストラが、1969年度[[NATO]]ソフトウェア工学会議で発表した論文「Structured Programming」との混同を招いてこちら側の名称で知られるようになった。現在に到るまでの国内外の多くの書籍で、構造化プログラミングは制御構文に関する説明に結び付けられている。なお、1969年の論文内容は[[正当性 (計算機科学)|プログラム正当性]][[プログラム検証|検証]]のための設計技法を扱っており、[[トップダウン設計]]、段階的な抽象化、階層的なモジュール化、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提唱されていた<ref name="structured_programming">[http://homepages.cs.ncl.ac.uk/brian.randell/NATO/nato1969.PDF E. W. Dijkstra, “Structured Programming”, In ''Software Engineering Techniques'', B. Randell and J.N. Buxton, (Eds.), NATO Scientific Affairs Division, Brussels, Belgium, 1970, pp. 84–88.]</ref>。 == 制御構文 == {{main|ミルズの構造化プログラミング}} [[制御構造|制御構文]](control structures)とは、[[goto文]]によるフロー分岐やループ表現を、[[if文]]の選択構文や[[while文]]の反復構文に置き換えるためのプログラム記法を意味している。ラベル先にジャンプするというgoto文の機能を、if文やwhile文は「特定のコード群だけを実行する」という概念に置き換えている。goto文を用いた制御フローは、(1)データの照合/比較の結果にしたがって次の実行コード群を選択するパターンと、(2)データの照合/比較の結果が任意条件を満たしているならば実行コード群を反復するパターンの、二通りに集約されることが経験則で知られていたので、これを専用の記号で形式化したのが制御構文であった。 コード群とは命令コード(instruction code)のまとまりであり、[[構造化定理]]では部分プログラム(subprogram)と定義されている。部分プログラムは[[ステートメント]](statement)[[コードブロック]](code block)[[サブルーチン]](subroutine)の総称である。ステートメントは命令コードの一行を意味する。コードブロックは一行以上のステートメントをまとめたものである。サブルーチンは一行以上のステートメントまたは一個以上のコードブロックを内包している。部分プログラムは直列状または入れ子状に配置される。その実行順序を決定するものが制御構文であり、以下の三つがある。 #'''順次'''(sequence)部分プログラムを順々に実行する。 #'''選択'''(selection)条件式が導出した状態に従い、次に実行する部分プログラムを選択して分岐する。 #'''反復'''(repetition)条件式が導出した特定の状態の間、部分プログラムを繰り返し実行する。 [[ファイル:Structured_program_patterns.png|中央|サムネイル|700x700ピクセル|順次、選択、反復の描写図(青はNSダイアグラム、緑はフローチャート)]] 制御構造の導入は1960年公開の「[[ALGOL|ALGOL60]]」まで遡れるが、当時広く使われていた[[FORTRAN]]や[[COBOL]]での正式導入は1977年以降だったので、多くの開発現場では馴染みのないものであった。1966年に[[コラド・ベーム]]らが「順次・選択・反復」のフロー万能性を数学的に証明したが、それはあくまで論理的研究だった。それを参考にしたとされる[[エドガー・ダイクストラ|ダイクストラ]]の1968年の投書「goto文は有害」はいわゆるgoto文論争を引き起こしたが、同時に制御構造への関心を大きく高めた。1970年代、goto文が多用される開発現場での制御構造の普及を重視していた[[IBM]]社の[[ハーラン・ミルズ]]は、1969年にダイクストラが発表していた論文題名から知名度を得ていた「構造化プログラミング」を自社の技術セミナーマーケティングに活用するために、上述のベームらの数学的証明を「[[構造化定理]]」という独自のタイトルで復刻させて、彼らが勧める[[フローチャート]]制御構造の裏付け理論にした。こうして構造化プログラミングは、[[IBM|IBM社]]が提唱する[[構造化定理]]を論拠にした制御構造を用いるプログラミング手法として世間に定着することになった。 制御構造を導入したプログラミング言語を指しての「構造化言語」というワードが浮上したのは1970年代からであり、これは当時のgoto文中心だった[[FORTRAN]]や[[COBOL]]や[[BASIC]]を意識してそれと線引きするための用語として存在していた。 == 構造化設計 == {{main|段階的詳細化法}} [[ファイル:6 Decomposition Structure.svg|サムネイル|構造化設計の一例]] 上述の[[制御構文]]をコーディング視点の下流工程テクニックとすると、構造化設計(structured design)はプログラムデザイン視点の上流工程テクニックであり、こちらも構造化プログラミングと呼ばれるものである。構造化設計では、[[サブルーチン]](subroutine)をまとめたサブルーチン複合体と、データ要素をまとめた[[データ構造]](data structure)が主要な役割を果たしている。[[段階的詳細化法|段階的詳細化]]に則ったサブルーチン複合体の階層的な組み合わせと、それに必要なデータ構造を連携させてプログラム全体を構築するというテクニックが構造化設計である。サブルーチン複合体は[[モジュール|プログラムモジュール]](program module)とも読み替えられ、モジュール[[凝集度]]と[[結合度]]もここから生まれている。 1974年頃から当初は[[IBM|IBM社]]が主導する形で、いずれも構造化(structured)が接頭辞につく数々のテクニックが発表されるようになり、1975年発表「[[ジャクソンの構造化プログラミング]] -Jackson structured programming(JSP)-」、1975年発表「構造化設計 -structured design(SD)-」、1978年発表「構造化分析 -structured analysis(SA)-」、1981年発表「[[構造化分析設計技法]] -structured analysis and design technique(SADT)-」、1980年代発表「[[SSADM|構造化体系分析設計手法]] -structured systems analysis and design method(SSADM)-」、1989年発表「モダン構造化分析 -modern structured analysis-」などが広く普及している。著名な専門家としては、グレンフォード・マイヤーズ、ラリー・コンスタンティン、マイケル・ジャクソン、[[エドワード・ヨードン]]、[[トム・デマルコ]]などがいる。これらは「構造化開発」と総称されるようになり、1980年代までのソフトウェア開発の主流になった。 この構造化設計と、[[エドガー・ダイクストラ|ダイクストラ]]の構造化プログラミングの違いは、前者がサブルーチン複合体とデータ構造の連携を中心にしたテクニックであるのに対して、後者は専属サブルーチンを通して扱われる抽象データ構造を中心にしたテクニックであるという点である。後者では、段階的に抽象化した各モジュールの階層的な連結と、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化といった考え方が提示されており、この詳細については後節で述べられる。ダイクストラが提唱した抽象(abstraction)指向の構造化は、その思想の[[アバンギャルド|前衛性]]から1970年代を通して理解を得られることはなく、発案者本来の構造化プログラミングは上流工程視点からも普及することはなかった。 == 歴史 == '''第一幕''' 構造化プログラミングの誕生は、1960年代から浮上した[[ソフトウェア危機]]問題と密接に結びついている。ソフトウェア危機とはコンピュータ性能の進化に伴うソフトウェア要求度の高まりが、プログラムサイズの際限無い肥大化と複雑化を招き、近いうちに現実的な期間内でのプログラム開発が不可能になるだろうとする悲観的予測である{{#tag:ref|[[ソフトウェア危機]]の始まりと構造化プログラミングの歴史について<ref name="the_science_of_programming"/>の第23章に詳しい。|group="注釈"}}。実際に1960年代のソフトウェア開発現場では仕様不一致、納期遅れ、予算超過といった事態が頻発していた<ref name="the_science_of_programming">{{cite book |first=D.|last=グリース |authorlink=:en:David Gries|title=プログラミングの科学 |translator=筧捷彦 |publisher=培風館 |year=1991 |isbn=4563007943}}</ref>。当時のプログラムは[[goto文]]を多用するタコ足[[フローチャート]]によるものが大半だったので<ref name="program_design_chap6sec1">山崎利治, "流れ図", ''プログラムの設計'', 共立出版, 1990, pp.110-113. ISBN 4320023781</ref>、すぐに[[スパゲティコード]]化することが多く、複雑怪奇なジャングルフロー図と化しているものも珍しくなかった<ref name="structured_programming_with_go_to_statements">{{Cite journal|last=Knuth|first=D. E.|year=1974|title=Structured Programming with go to Statements Computing Surveys|journal=ACM, New York, NY, USA|volume=6|number=4|pages=261-301|id={{citeseerx|10.1.1.103.6084}}|authorlink=ドナルド・クヌース}}</ref>。1959年に計算機科学者[[ハインツ・ツェマネク]]は、goto文の多用に警鐘を鳴らす論文を発表している。1960年に公開されたプログラミング言語「[[ALGOL|ALGOL60]]」は、BEGINとENDで区切られた[[コードブロック]]を制御するIF選択文とFOR反復文を初めて提供していた。計算機科学者[[ニクラウス・ヴィルト]]はこれらを構造化文(structured statement)と呼んだ<ref name="systematic_programming">N.ヴィルト, ''系統的プログラミング/入門'', 野下浩平, 筧捷彦, 武市正人 訳, 近代科学社, 1978. </ref>。1966年に計算機科学者[[コラド・ベーム]]とジュゼッペ・ヤコピーニは、あらゆるフローチャートは順次・選択・反復の組み合わせで表現できることの数学的証明をし、これは[[構造化定理|ベームとヤコピーニの証明]]と呼ばれた<ref name="flow_diagrams_turing_machines_and_languages_with_only_two_formation_rules">{{Cite journal |last=Böhm |first=C. |last2=Jacopini |first2=G |year=1966 |title=Flow Diagrams, Turing Machines And Languages With Only Two Formation Rules |journal=Communications of the ACM |volume=9 |issue=5 |pages=366-371 |id={{citeseerx |10.1.1.119.9119}} |publisher=ACM, New York, NY, USA }}</ref>。計算機科学者[[ドナルド・クヌース]]は、これらの潮流を構造化文の第一幕と定義した<ref name="structured_programming_with_go_to_statements" />。 '''第二幕''' 1968年、計算機科学者[[エドガー・ダイクストラ]]の[[Association for Computing Machinery|ACM]]機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful -goto文は有害-<ref name="go_to_statement_considered_harmful">{{Cite journal|author=E. Dijkstra|year=1968|title=Go To Statement Considered Harmful|journal=Communications of the ACM|volume=11|issue=3|pages=147-148|id={{citeseerx|10.1.1.132.875}}|authorlink=エドガー・ダイクストラ}}</ref>」は、その物議を醸す題名でコンピュータプログラミング界隈にいわゆるgoto文論争を巻き起こした<ref name="bit1975_go_to_statement_considered_harmful">{{cite|author=E.W.ダイクストラ|authorlink=エドガー・ダイクストラ|title=GO TO 論争:第1部 go to 文有害説|translator=木村泉|journak=bit|volume=7|issue=5|year=1975|pages=6-9|publisher=共立出版}}</ref><ref name="bit1975_goto_controversy">{{cite |editor=B.リーヴェンワス編 |title=GO TO 論争:第2部 GO TO 論争 |translator=木村泉 訳 |journal=bit |volume=7 |issue=5 |year=1975 |pages=10-26 |publisher=共立出版 }}</ref>。これは構造化文の認知度を高めることに貢献している<ref name="bit1975_explanation">木村泉, "GO TO 論争:第3部 解説", ''bit'', Vol.7, Issue 5, 1975, pp.27-39, 共立出版.</ref>。これを構造化文の第二幕と定義したクヌースは「第二幕はそのムーブメントの大きさによって、多くの人にとっての第一幕になった」と評した<ref>有澤誠訳『文芸的プログラミング』p.45</ref>。1968年度開催の[[北大西洋条約機構|NATO]]ソフトウェア工学会議で[[ソフトウェア危機]]は正式な用語になり<ref name="software_engineering_conferences1968">[http://homepages.cs.ncl.ac.uk/brian.randell/NATO/nato1968.PDF B. Randell and J.N. Buxton, (Eds.), ''Software Engineering'', NATO Scientific Affairs Division, Brussels, Belgium, 1969.]</ref>、産業界と計算機科学共通の懸案事項になった<ref name="from_craft_to_scientific_discipline" />。翌69年度開催の同会議においてダイクストラは「Structured Programming -構造化プログラミング-<ref name="structured_programming" />」と題した論文を寄稿した。これが「構造化プログラミング」の正式な初出である。その論旨はソフトウェア危機解決策としての[[正当性 (計算機科学)|ソフトウェア正当性]][[プログラム検証|検証技術]]の確立であり、プログラムを適切に分割し抽象化して良く構造化(well-structured)しておけば、プログラムサイズ拡大に関係なくその[[正当性 (計算機科学)|正当性]]を[[プログラム検証|証明]]できるとしていた。その具体的手法としては[[トップダウン設計とボトムアップ設計|トップダウン設計]]、段階的な[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]、階層的な[[モジュール|モジュール化]]、抽象データ構造と抽象ステートメントを連携させる共同詳細化などが挙げられていた。goto文抑制など構造化文に関する事柄は数行に留まっていたが{{#tag:ref|"statements transferring control to labelled points" という言葉で一応 goto 文に触れている<ref name="structured_programming" />|group="注釈"}}、goto文論争に熱心なプログラマの間ではこの論文を昨年の投書の延長と見る向きも少なからず存在していた。後年のダイクストラは構造化プログラミングという言葉を作った際に二つの失敗をしたと述べている。商標登録しなかった事と、厳密な定義化を避けた事である<ref name="also_speech_dijkstra">和田英一, "ダイクストラかく語りき", ''bit'', Vol.9, Issue 1, 1977, pp.4-6, 共立出版. </ref><ref name="from_craft_to_scientific_discipline">{{cite |naid=110002753409 |author=E.W.ダイクストラ |title=プログラミング−工芸から科学へ |journal=情報処理 |volume=18 |number=12 |year=1977 |page=1248-1256 |publisher=情報処理学会 }}</ref>。 '''第三幕''' 1960年代からの構造化文第一幕の潮流は、産業プログラム界隈にも影響を及ぼしており、こちらでは制御構造(control structures)などの名義で[[フローチャート]]に導入されていた。産業コンピュータ市場の最大手である[[IBM|IBM社]]の上席研究員[[ハーラン・ミルズ]]は制御構造を重視し、[[ニューヨーク・タイムズ社]]のニュースアーカイブシステム構築プロジェクトで大きな成功を収めた。順次・選択・反復の制御構造は、IBM社のプログラミング規範をまとめたImproved Programming Technologies通称「IPT」に採用され、後に同社の技術セミナーなどを通して広く流布されるようになった<ref name="program_design_chap6sec2">山崎利治, "構造的プログラミング", ''プログラムの設計'', 共立出版, 1990, pp.113-142. </ref><ref name="tamai_40years_se">{{cite|url=http://www.graco.c.u-tokyo.ac.jp/~tamai/pub/40yearsSE.pdf|format=PDF|author=玉井哲雄|title=ソフトウェア工学の40年|journal=情報処理|volume=49|number=7|year=2008|pages=777-784|naid=110006830060}}</ref>。1970~71年頃から計算機科学者デビッド・ハレルは、前述のベームとヤコピーニの数学的証明に「[[構造化定理|Structure theorem]] -構造化定理-''」''という全く新しい題名を付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した<ref name="sp_theory_and_practice">Linger,R.C., Mills, H.D., Witt, B.I., ''Structured Programming: Theory and Practice'', Addison-Wesly, 1979. </ref><ref name=":0" group="注釈">[http://www.wisdom.weizmann.ac.il/~dharel/SCANNED.PAPERS/OnFolkTheorems.pdf Harel,David (1980)."On Folk Theorems"(PDF)]のP381の左列の中央にハーラン・ミルズ(Harlan Mills)が未公表の講義資料の中で "The Structure Theorem" と名付けたことが書かれている。この資料の出典[67]が1972年のため構造化定理が発明されたのは1970年代初頭と推測される。</ref>。ハレルはこの命名が実はハーラン・ミルズの提案であったことを後に明かしている<ref name=":0">{{Cite journal|last=Harel|author=|first=David|year=|date=1980-07-01|title=On folk theorems|url=http://portal.acm.org/citation.cfm?doid=358886.358892|journal=Communications of the ACM|volume=23|issue=7|page=|pages=379–389}}</ref>。構造化定理はIPTの合理性を裏付ける根拠として盛んに引用されたので、構造化(Structured)プログラミングと言えばIBM社の発明品だと信じるプログラマたちも続出した<ref name="classics_in_software_engineering">Edward Nash Yourdon ed., "Introduction (Chief Programmer Team Management of Production Programming)", ''Classics in Software Engineering'', YOURDON inc., 1979, pp.63-64. </ref>。IBM社が1974年頃から発表するようになった所属研究員たちによるプログラム開発方法論の数々にも構造化(Structured)の接頭辞が付けられていたが、それらは抽象化を重視するダイクストラの構造化とは異なり、サブルーチン複合体とデータ構造を適切に連携させるための[[構造化分析設計技法|構造化]]であった。その違いを指摘して本来のダイクストラ方式を改めて紹介する動きもあったが、抽象化指向のダイクストラ理論は産業界ではむしろ不人気でさえあった<ref name="problems_of_programming_methodology">{{cite journal|author=木村泉|year=1975|title=プログラミング方法論の問題点:超職業的プログラミングについて|journal=情報処理|volume=16|number=10|pages=841-847|publisher=情報処理学会|naid=110002720277}}</ref><ref name="algorithm_representation_theory">木村泉, 米澤明憲, ''算法表現論'', 岩波書店, 1982. </ref><ref name="out_of_thier_minds">D.シャシャ, C.ラゼール, "エズガー・W・ダイクストラ", ''コンピュータの時代を開いた天才たち'', 鈴木良尚 訳, 竹内郁雄 監訳, 日経BP社, 1998, pp.61-74. ISBN 4822280462</ref>。クヌースの言葉を借りれば、構造化文の第三幕は[[IBM|IBM社]]と[[ハーラン・ミルズ]]がプロモートした制御構造の舞台になり、構造化プログラミングに対する世間一般の認識はこちらの方で定着するようになった。 '''終幕''' 後年、ダイクストラは自身が作った構造化プログラミングという言葉に不快感を示して避けるようになった<ref name="three_days_with_dijkstra">中山晴康, "ダイクストラ教授との3日間", ''bit'', Vol.9, Issue 1, 1977, pp.7-9, 共立出版. </ref>。この言葉を作った時、彼はプログラミングが手工芸から科学へ発展することを期待していた<ref name="also_speech_dijkstra" />。しかし構造化プログラミングという言葉は実利を求めるために使われるようになった<ref name="three_days_with_dijkstra" />。次のような逸話がある。[[構造化分析設計技法|構造化開発]]の第一人者[[エドワード・ヨードン]]の事務所にセミナー依頼の電話がかかってきた。プロジェクトメンバー全員に構造化プログラミングを1日で叩きこんで欲しいという内容である。それが終わったらプロジェクト期間を半分にするという。その理由は「構造化プログラミングは生産性を2倍にするという話ですから」であった<ref name="managing_the_structured_techniques">Edward Nash Yourdon, ''構造化手法によるソフトウェア開発'', 黒田純一郎, 渡部研一 訳, 日経BP社, 1987. </ref>。 == ダイクストラの構造化プログラミング == 「Structured Programming」という言葉を作ったのは計算機科学者[[エドガー・ダイクストラ]]であり、1969年のNATOソフトウェア工学会議で発表された論文が初出とされている。彼は2001年のノートで自分が作り出した「構造化プログラミング」という用語は結局異なる解釈で持ち去られてしまったと述べている<ref>{{Cite web|url=https://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD13xx/EWD1308.html|title=What led to “Notes on Structured Programming”|accessdate=2020-1|publisher=}}</ref>。 ダイクストラが提唱した構造化プログラミングは、[[正当性 (計算機科学)|プログラム正当性]][[プログラム検証|検証]]技術の確立を原点にして構想された数々のプログラム開発理論の複合体である。遅くとも1967年からその構想は始められていた。1968年の[[goto文]]に依存しないシーケンスの制御、1969年の[[トップダウン設計とボトムアップ設計|トップダウン設計]]、[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]、[[モジュール化]]、共同詳細化から始まり、1972年には抽象データ構造、情報隠蔽、階層的プログラム構造といった考えも取り上げられていた<ref name="languages_for_structured_programming">{{cite journal|last=筧|first=捷彦|year=1975|title=ストラクチャード・プログラミング用言語|journal=情報処理|volume=16|number=10|page=856-863|publisher=情報処理学会|naid=110002720279}}</ref><ref name="problems_of_programming_methodology" /><ref name="program_design_chap6sec2" />。1972年の共著は、ダイクストラの第一章・構造化プログラミングから始まり、[[オーレ=ヨハン・ダール|オルヨハン・ダール]]の第三章・階層的プログラム構造で締め括られている。[[オーレ=ヨハン・ダール|ダール]]は[[オブジェクト指向プログラミング言語]]の草創[[Simula|Simula67]]の開発者である。 === 1968年の投書「goto文は有害」 === {{main|goto文#goto文論争}}1968年の[[Association for Computing Machinery|ACM]]機関紙への投書「Go To Statement Considered Harmful<ref name="go_to_statement_considered_harmful" />」は、そのセンセーショナルなタイトルで当時のプログラマの間に大きな論争を巻き起こした。その要約は次の通りである。 # プログラマの仕事は正しいプログラムを作り上げた時に終結し、コンピュータにそのプログラム実行が委託されるとプログラマの手を離れて、コンピュータ内の動作形態であるプロセスに作り替えられることになる。 # 私たち人間の能力は、静的なプログラムの内容を把握するのには向いているが、コンピュータ内で逐一変化していく動的なプロセスの状態を把握することには向いていない。従って私たちは静的なプログラムと動的なプロセスの間にあるギャップを埋めなければならない。 # そのためには、動的なプロセスの動態指標(dynamic index)と正確に対応できる静的なプログラムの文体指標(textual index)の表現が必要になる。goto先ラベルはその要求を満たしていない。「if B then A」「if B then A1 else A2」の選択節や「while B repeat A」「repeat A until B」の反復節の方が適している。 #gotoとラベルを用いた選択文と反復文の記述では、状態判定とジャンプが個々に並べられるので、これはプログラムの混乱の原因になる。特にラベルの多用は取り除かれるべきであり、それに伴ってgotoの使用数も削減される。 #ただし、前述の節(clause、選択節と反節復)使用の徹底であらゆる必要性をまかなえるという訳ではない。goto文の論理冗長性は証明されているが、goto文削減がそのままフロー明瞭化に繋がる保証はないので推奨まではしない。 この投書は、当時のソフトウェア開発現場で横行していたgoto先ラベルの安易な使用に警鐘を鳴らすためのものであったが、添えられた学術的注釈と文芸的比喩の数々が却って読み手の理解を妨げてしまい、冒頭のタイトル印象のみを先走りさせて、goto文論争を発生させることになった。この投書は比較的さり気ないもので、当時のダイクストラが方々の現場で目にしていたラベル多用をたしなめたい所感から書かれていた。ダイクストラが記していた元々の題名はA case against goto statement(goto文への訴え)であり、その時の編集者によって挑戦的なタイトルにすげ替えられていたのが事の真相である<ref>{{Cite web|title=E.W. Dijkstra Archive: What led to "Notes on Structured Programming" (EWD1308)|url=https://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD13xx/EWD1308.html|website=www.cs.utexas.edu|accessdate=2021-08-16}}</ref>。 goto文論争はプログラミング分野の一つの流行として1970年代から80年代までの長きに渡って続いており、多くのプログラマにとっても馴染み深いテーマになっている。[[goto文]]と[[構造化定理]]の応酬はプログラミング談義の定番でもあった。ダイクストラは後年の著作で自分が提唱した構造化プログラミングの本質の一つは、この投書のテーマであった状態遷移の適切な表現方法と把握手段の確立としている<ref name="a_method_of_programming">E.W.ダイクストラ, W.H.J.フェイエン, ''プログラミングの方法'', 玉井浩 訳, サイエンス社, 1991.</ref>。 === 1969年の論文「構造化プログラミング」 === 1969年度[[北大西洋条約機構|NATO]]ソフトウェア工学会議に寄稿されたこの「Structured Programming<ref name="structured_programming" />」は、[[正当性 (計算機科学)|プログラム正当性]]の効率的な[[プログラム検証|検証技術]]に重点を置き、当時問題視されていたコードサイズの際限なき肥大化による[[ソフトウェア危機]]の解決策として従来の[[ボトムアップ設計]]から[[トップダウン設計とボトムアップ設計|トップダウン設計]]への移行を推奨していた。 論文の前半では、プログラムサイズの肥大化に伴い、各プログラム部品およびそれらを組み合わせた際のプログラムの正当性(''program correctness'')の立証(''demonstration'')に必要な労力が指数的に増加して完遂が不可能になるという[[ソフトウェア危機]]の問題について述べている。ダイクストラはプログラムの正しさに対して証明を与える従来の研究を分析して、証明の手続きを考えずに書かれたプログラムは証明に必要な労力がプログラムのサイズに対して爆発するとし、「与えられたプログラムに対してどうやって証明をするか」ではなく「証明がしやすいプログラムの構造とは何か」についてフォーカスするとした。 後半ではそのための方法について説明している。まず推論しやすい構造として、ステートメントが順に並んだだけのものを挙げている。また、if文1つだけも推論しやすいとしている。しかし、if文がN個並んだ場合、そのままでは2のN乗ステップの推論が必要であるとしている。そこでif文を抽象ステートメントで1つずつ置き換える'''段階的抽象化'''(''step-wise abstraction'')により、Nに比例する推論で正しさを示せるとした。また、そのためには制御のジャンプを制限し、制御構造は順次の他に、選択、反復、および手続き呼び出しに限るべきとしている(なお、順次、選択、反復のいわゆる制御構造(''control structures'')に触れているのはこの文節だけである)。この例のように詳細なプログラムを'''抽象化'''(''abstraction'')していくのではなく、逆に抽象的なプログラムから始めて'''詳細化'''(''refinement'')していくというやり方を示している。 詳細化の際には'''共同詳細化'''(''joint-refinement'')という考え方が示されている。これは抽象データ構造の詳細化と共にそれを扱う抽象ステートメントを同時に詳細化し、それを1つのプログラムテキストのユニットに分離するというものである。このユニットをダイクストラは真珠(pearl)と呼んだ。また、抽象的な真珠が1段階具体的な真珠に依存し、その真珠がさらに具体的な真珠に依存していったものをネックレスに例えた。そしてネックレスの上部は下部に関わらず正しさを証明することができ、また下部を取り替えることでプログラムのバリエーションを労力をかけずに作れるとした。 === 1972年の共著「構造化プログラミング」 === 1972年の共著「Structured Programming<ref name="structured_programming_72">O.-J. Dahl and E. W. Dijkstra and C. A. R. Hoare, ''Structured Programming'', Academic Press, London, 1972</ref>」は計算機科学界の錚々たる三名による三章構成で、第一章はエドガー・ダイクストラの「structured programming」、第二章は[[アントニー・ホーア]]の「data structuring」、第三章は[[オルヨハン・ダール]]の「hierarchical program structures」となっていた。結びの章の「階層的プログラム構造」を著したダールは[[Simula|Simula67]]の開発者である。Simula67はオブジェクト指向プログラミングの草分けであり、この章名から[[継承 (プログラミング)|継承]]によるクラス階層構造を重視していたことが伺える。ダイクストラの構造化プログラミングは、制御構文と構造化定理と構造化設計の影に隠れながらも、Simula67をモデルにしたオブジェクト指向プログラミング発展の歴史に組み込まれて受け継がれていったと言える。1983年に[[C++]]を開発した[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]は「What Is Object-Oriented Programming?<ref name="what_is_object-oriented_programming">Bjarne Stroustrup, “What Is Object-Oriented Programming?”, In ''IEEE Software'', Vol. 5, Issue. 3, IEEE Computer Society Press, Los Alamitos, CA, USA, 1988, pp. 10-20</ref>」において、オブジェクト指向を抽象データ構造と階層的プログラム構造の発展形として解説し、同時にSimula67の言語仕様を紹介している。 ダイクストラ提唱の構造化プログラミングを支持する[[ドナルド・クヌース]]は、1974年に自著「Structured Programming with go to Statements<ref name="structured_programming_with_go_to_statements" />」を発表し、その中でgoto-lessの本質に関する補足と解説を加えている。これは当時のgoto文論争に一つの区切りを付けるものであったが、幅広い認知を得るには到らずにgoto文論争は1980年代になっても散発的に繰り広げられた。1970年代後半から[[マイクロコンピュータ|マイコン]]が普及して[[BASIC]]などを扱うパーソナルユーザーが増えると、goto命令を使わないのが構造化プログラミングといった見解が取り上げられて再び議論が始まるなど、この論争の影響は後年まで根強く残っている<ref group="注釈">直接は無関係だが、ダイクストラはBASIC批判の急先鋒でもあった。マイコン普及以前の1970年代に既に、BASICでプログラミング教育をすべきでない、と強く主張している([https://en.wikiquote.org/wiki/Edsger%20W.%20Dijkstra#How_do_we_tell_truths_that_might_hurt?_(1975) wikiquote:Edsger W. Dijkstra#How do we tell truths that might hurt? (1975)])。</ref>。 === プログラム正当性検証のための構造化(1967年のノート) === ダイクストラは、プログラマは正しいプログラムを作り出すばかりでなく納得のいくやり方で正しさを証明([[プログラム検証|検証]])することも仕事の一つであるという立場を取っていた<ref>[[構造化プログラミング#構造化プログラミング(1975)|構造化プログラミング(1975)]] p.6</ref>。プログラムがどんなに巨大化しても良く構造化(well-structured)されていれば、サイズに関係なくその[[正当性 (計算機科学)|正当性]]を[[プログラム検証|検証]]<ref>D.グリースはプログラムの正しさの証明を、抽象的なレベルでは正当性証明、具体的なレベルではプログラムの検証と言葉を使い分けているが、ここでは厳密な区別はしない。 *金山裕 編, "構造的プログラミング −批判と支持−", ''bit'', Vol.7, Issue 7, 1975, pp.6-13, 共立出版.</ref>できるというのが彼の信念であった{{#tag:ref|すなわち、プログラム検証と構造化プログラミングとは不可分の関係にある。|group="注釈"}}<ref>所与のプログラムの正しさを後付けで証明することは、はじめから証明を意識して作られたプログラムの場合より難しいことが経験的に知られている、と言われる。 *E.W.Dijkstra, "Programming methodologies, their objectives and their nature", ''Structured Programming'', Infotech state of the art report, 1976, pp.205-212, Infotech International.</ref>。well-formed formula([[論理式 (数学)|論理式]])に因んでいるwell-structuredには、[[数理論理学]]の[[証明論]]をソースコードにも導入する意図が込められていた。1967年のノート「Towards Correct Programs」でダイクストラは、良く構造化するための三つのメンタルツール(mental tool)をこのように示している。 # 列挙(enumeration): 一人の人間の能力でできる範囲でプログラムの命令の妥当性を一つ一つ確認していく作業 # 数学的帰納(mathematical induction): while文など計算機特有の多数の繰り返し文についてのみ数学的帰納法を用いて確認する作業 # 抽象(abstraction): プログラムのブロックなどに名前をつけ、さらに中身を見ないで正しいと仮定することで検証作業を後回しにする操作 プログラムが正しいことを確認するには、それを証明しなければならない<ref name="structured_programming" />{{#tag:ref|D.グリースはプログラムの正しさの証明を、抽象的なレベルでは正当性証明、具体的なレベルではプログラムの検証と言葉を使い分けているが<ref name="bit1975_structured_programming">金山裕 編, "構造的プログラミング −批判と支持−", ''bit'', Vol.7, Issue 7, 1975, pp.6-13, 共立出版.</ref>、ここでは厳密な区別はしない。|group="注釈"}}。テストはプログラムに対する疑いを全て取り除くには不十分であるという意見が上がった<ref name="systematic_programming">N.ヴィルト, ''系統的プログラミング/入門'', 野下浩平, 筧捷彦, 武市正人 訳, 近代科学社, 1978. </ref><ref name="how_to_solve_it_by_computer">R.Geoff Dromey, ''How to Solve it by Computer'', Prentice Hall, 1982. </ref>。これについてダイクストラは「テストはバグの存在を示すには有効だが、バグが存在しないことは証明できない」という表現を好んで用いた<ref name="structured_programming" /><ref name="the_humble_programmer">E.W.ダイクストラ, “謙虚なプログラマ”, ''ACMチューリング賞講演集'', 木村泉 訳, 共立出版, 1989, pp.23-43. </ref><ref name="ewd273">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD02xx/EWD273.html E.W.Dijkstra, "The Programming Task Considered as an Intellectual Challenge", 1969.]</ref><ref name="ewd288">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD02xx/EWD288.html E.W.Dijkstra, "Concern for Correctness as a Guiding Principle for Program Composition", 1970.]</ref><ref name="ewd361">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD03xx/EWD361.html E.W.Dijkstra, "Programming as a discipline of mathematical nature", 1973.]</ref>。構造化プログラミングの支持者らは、プログラムの正しさの重要性と証明の方法や表明(assertion)の使い方について熱心に説いた<ref name="the_science_of_programming" /><ref name="structured_programming_72" /><ref name="systematic_programming" /><ref name="how_to_solve_it_by_computer" /><ref name="the_craft_of_programming">[http://www.cs.cmu.edu/~jcr/craftprog.html John C. Reynolds, ''The Craft of Programming'', Prentice-Hall, 1981.]</ref>。理想的にはテストだけに依存せず、プログラムの正しさの証明も与えるべきだと言われている<ref name="proving_programs_correct">ロバート B.アンダーソン, ''演習プログラムの証明'', 有沢誠 訳, 近代科学社, 1980. </ref><ref name="basic_theorem_of_programs">小野寛晰, ''プログラムの基礎理論'', サイエンス社, 1975. </ref>。所与のプログラムの正しさを後付けで証明することは、はじめから証明を意識して作られたプログラムの場合より難しいことが経験的に知られている<ref name="programming_methodologies">E.W.Dijkstra, "Programming methodologies, their objectives and their nature", ''Structured Programming'', Infotech state of the art report, 1976, pp.205-212, Infotech International.</ref>。ダイクストラは、プログラミングと同時にプログラムの証明を(わずかに証明を先行して)進めることを推奨している<ref name="a_discipline_of_programming">E.W.ダイクストラ, ''プログラミング原論 ― いかにしてプログラムをつくるか'', 浦昭治訳, サイエンス社, 1983. </ref>。そのようなアプローチでプログラムの正当性の問題にあたれば、複雑な問題であっても知的管理が可能であると述べた{{#tag:ref|ダイクストラはプログラミングと証明を並行するのに適した、最弱事前条件をによる検証方法を考案した。ホーア論理は作り終わったものは証明できるが、これから作るプログラムについては指標を与えてくれない<ref name="software_cleanroom">二木厚吉 監修, ''ソフトウェアクリーンルーム手法'', 日科技連, 1997. </ref>。|group="注釈"}}。しかし形式的な証明は、時として非人間的な長さの記述になることもダイクストラは認めている<ref name="a_discipline_of_programming" /><ref name="from_craft_to_scientific_discipline" />。同氏は、プログラムの証明が形式的であることにはこだわらないという意見を明らかにした<ref name="a_discipline_of_programming" /><ref name="structured_programming_with_go_to_statements" />{{#tag:ref|形式化にとらわれない点では(当時のダイクストラの)構造化プログラミングは[[形式手法]]と趣きが異なる。なおプログラムの正しさの証明とはウォークスルーやインスペクションによるレビューではなく、帰納法や最弱事前条件による検証を指す。 形式的でない証明の方法については、ロバートの「プログラムの証明」<ref name="proving_programs_correct"/>が良い入門書の一つである。|group="注釈"}}。 === 構造化定理との関係 === {{main|構造化定理}}1970年代初頭に計算機科学者{{仮リンク|デビッド・ハレル|en|David Harel|label=}}は、1966年に発表されていた[[コラド・ベーム|ベーム]]とヤコピーニの数学証明に、[[構造化定理]](Structure theorem)という全く新しいタイトルを付けて主に産業ソフトウェア開発界隈で紹介した。ハレルが後に明かしたところによると「構造化定理」という名称は、当時[[IBM|IBM社]]の上席プログラマーであった[[ハーラン・ミルズ]]の提案だったという<ref name=":0" />。ダイクストラの提唱内容とは全く異なる、制御構造(順次・選択・反復)主体の構造化プログラミングは、IBM社のIPT(Improved Programming Technologies)に採用されており、同社主催の技術セミナーなどを通して当時のプログラマに広く流布されていた。その中で恐らく意図的にダイクストラのそれと名称を似せた「構造化定理」は、彼らが勧める制御構造の合理性を数学的にも証明した根拠として盛んに引用されていた。このような経緯から制御構造の使用と構造化定理は同一視されるようになり、ダイクストラのgoto文有害説から誤解された構造化プログラミングとも同一視されるようになった。goto文論争の中で引き合いに出されていた構造化定理もまた、ベームとヤコピーニから見れば誤解であった。 なお、ベームとヤコピーニの証明は、フローチャートやそれによって表現されるプログラム・関数・チューリングマシンなどの理論的側面に注目している。これは任意の論理回路が[[否定論理積|NAND]]素子の組み合わせによって表現できるとか、[[ラムダ計算|ラムダ式]]がSとKの2つの[[SKIコンビネータ計算|コンビネータ]]によって表現できるとかいった研究に近い。回路設計者が直接NANDを組み合わせて電子回路を設計しないのと同じように、構造化定理は良いプログラムの作成を(少なくとも直接的には)意図していない。ハレルも構造化定理は実際の内容以上に引用されて民間伝承定理(folk theorem)化していると指摘していた<ref name=":0" />。 === ダイクストラの後述 === ダイクストラは2001年のノート「[https://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD13xx/EWD1308.html What led to “Notes on Structured Programming”]」(構造化プログラミング表記の由来)でこのように述べている。 1968年の自分は「A case against goto statement」(goto文への訴え)と題した記事(article)をCommunications of the ACM([[Association for Computing Machinery|ACM]]の機関紙)に投稿したが、当期の刊行を急ぐ編集担当者の意向で投書(letter to the Editor)にされる事になり、更にその担当者独自の考えで「The goto statement considered harmful」(goto文は有害)という全く新しい題名を付けられた。その担当者とは[[ニクラウス・ヴィルト]]であった。また、自分が提唱した構造化プログラミングの本質的内容の普及を好まない某社が[[ハーラン・ミルズ]]の主導で、まるでgoto文を廃止するかのようなプログラミング手法へと矮小化し、構造化プログラミングという用語まで持ち去ってしまった。 ==脚注== '''注釈'''{{Reflist|group="注釈"}}'''出典'''{{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation |和書| title=構造化プログラミング | author=E.W.ダイクストラ | author2=C.A.R.ホーア | author3=O.-J.ダール | translator=野下浩平 | year=1975 | publisher=サイエンス社 | ref=構造化プログラミング(1975) }} * {{Cite book |和書| title=ソフトウェア工学実践の基礎 -分析・設計・プログラミング | author=落水 浩一郎}} * {{citation | author=D.L.Parnas | year=1975 | title=Use of the concept of transparency in the design of hierarchically structured systems | url=http://ivizlab.sfu.ca/arya/Papers/SW/TranspDesignHierSys.pdf }} * {{citation | author=D.L.Parnas | year=1971 | title=Information Distribution Aspects of Design Methodology | url=http://cseweb.ucsd.edu/~wgg/CSE218/Parnas-IFIP71-information-distribution.PDF }} * {{citation | author=B.H.Liskov, S.N.Zilles | year=1974 | title=Programming with Abstract Data Type | url=http://www.znu.ac.ir/members/afsharchim/lectures/p50-liskov.pdf }} * {{Citation |title=多重ループからの脱出でのgoto文の是非 : Hoare理論の観点から | author=金藤 栄孝,二木 厚吉 | year=2004 | url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002712129}} * {{Citation |title=有限状態機械に基づくプログラミングでのgoto文使用の是非 : Hoare論理の観点から | author=金藤 栄孝,二木 厚吉 | year=2004 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002712260}} * {{Citation |title=システム設計言語DEAPLANについて | author=林 達也 | url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110002719409}} * {{Citation |和書| title=プログラミングの科学 | author=D.グリース | translator=筧捷彦 | year=1991 | publisher=培風館}} * {{Citation |和書| chapter=第2章 go to文を用いた構造化プログラミング | title=文芸的プログラミング | author=Donald E. Knuth | translator=有澤誠 | year=1994 | publisher=アスキー}} * {{Citation |和書| title=プログラミング原論 ― いかにしてプログラムをつくるか | author=E.W.ダイクストラ | translator=浦昭治 | year=1983 | publisher=サイエンス社}} * {{Citation |和書| title=プログラミングの方法 | author=E.W.ダイクストラ | author2=W.H.J.フェイエン | translator=玉井浩 | year=1991 | publisher=サイエンス社}} == 関連項目 == *[[goto文]] *[[制御構文]] *[[構造化定理]] *[[ジャクソンの構造化プログラミング]] *[[構造化分析設計技法]] *[[段階的詳細化法]] '''関連人物''' * [[エドガー・ダイクストラ]] * [[アントニー・ホーア]] * [[オーレ=ヨハン・ダール]] *[[ニクラウス・ヴィルト]] *[[ドナルド・クヌース]] *[[コラド・ベーム]] *[[ハーラン・ミルズ]] == 外部リンク == *[https://www.tatapa.org/~takuo/structured_programming/structured_programming.html 意外と知られていない構造化プログラミング] *[https://calculator-cafe.com/readings/Structured_programming/Structured_programming.html 翻訳:構造化プログラミングを最初に提唱した文書] {{プログラミング言語の関連項目}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうそうかふろくらみんく}} [[Category:ソフトウェア工学]] [[Category:プログラミングパラダイム]]
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掲示板
掲示板()とは、連絡や告知の目的で、文字を書いたり、掲示物を貼り付けたりして表示するために設けられた他者に伝えることを目的とした板のことである。 人の多く通行する場所や人の集まる場所に設置されるものであるが、特定のコミュニティに属する者や、特定の状況下にある者を対象としていることが多い。町内会の集会所前、企業内、学校内、市区町村役場や裁判所などの役所前、アミューズメント施設の施設内などに設置されていることが多い。 多くは地面に対して垂直に設置されているが、利用形態によっては掲示物が見やすいように水平あるいは傾斜して設置されているものもある。電気的な表示方法を用いたものとして、電光掲示板がある。
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掲示板とは、連絡や告知の目的で、文字を書いたり、掲示物を貼り付けたりして表示するために設けられた他者に伝えることを目的とした板のことである。
{{Otheruses|設備の一つである掲示板|インターネットの掲示板|電子掲示板}} {{Vertical images list | 幅= 180px | 1=2007年東京都知事選挙 ポスター掲示板.jpg | 2=[[2007年東京都知事選挙]]の[[ポスター]]掲示板 | 3=Hitane Elementary School classroom 3.jpg | 4=[[教室]] | 5=051210 Fujiidera Station Fujiidera Osaka pref Japan02n.jpg | 6=[[藤井寺駅]] | 7=We found My missing dog Rin-chan safe and Thank you for your cooperation.jpg | 8=[[迷子]]犬 探しています。→見つかりました! }} {{読み仮名|'''掲示板'''|けいじばん}}とは、連絡や告知の目的で、[[文字]]を書いたり、掲示物を貼り付けたりして表示するために設けられた他者に伝えることを目的とした[[wikt:板|板]]のことである。 == 概要 == 人の多く通行する場所や人の集まる場所に設置されるものであるが、特定の[[コミュニティ]]に属する者や、特定の状況下にある者を対象としていることが多い。[[町内会]]の集会所前、[[企業]]内、[[学校]]内、[[市区町村]]役場や[[裁判所]]などの[[役所]]前、[[アミューズメント施設]]の施設内などに設置されていることが多い。 多くは'''地面に対して垂直に設置されている'''が、利用形態によっては掲示物が見やすいように水平あるいは傾斜して設置されているものもある。[[電気]]的な表示方法を用いたものとして、[[電光掲示板]]がある。 == 関連項目 == * [[伝言板]] * [[黒板]] * [[ホワイトボード]] * [[コルクボード]] * [[電光掲示板]] * [[ポスター]] * [[壁新聞]] *[[回覧板]] *[[集合知]] *[[機関紙]] *[[ソーシャルネットワーキングサービス]] *[[フリーペーパー]] *[[ダイイングメッセージ]] *[[電子掲示板]] {{Commonscat|Bulletin boards}} {{デフォルトソート:けいしはん}} [[Category:看板]] [[Category:設備]] [[Category:情報技術史]] [[Category:人間のコミュニケーション]] [[Category:競馬用語]] [[カテゴリ:事務用品]]
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マッキントッシュ
マッキントッシュ(Macintosh、McIntosh、Mackintosh([ˈmækɨnˌtɒʃ])) は、元々はスコットランドの姓であり、以下の製品、人物が知られている。
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マッキントッシュ(Macintosh、McIntosh、Mackintosh()) は、元々はスコットランドの姓であり、以下の製品、人物が知られている。
'''マッキントッシュ'''(Macintosh、McIntosh、Mackintosh({{IPA-en|ˈmækɨnˌtɒʃ|}})) は、元々は[[スコットランド]]の姓であり、以下の製品、人物が知られている。 {{Dl2 | 人物 | [[File:Laryngoscope.jpg|thumb|180px|マッキントッシュ型喉頭鏡]] * [[ティム・マッキントッシュ]] (Tim Macintosh) - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[野球選手]]。 * [[チャールズ・レニー・マッキントッシュ]] (Charles Rennie Mackintosh) - スコットランドの[[建築家]]、[[デザイナー]]。 * [[チャールズ・マッキントッシュ]] (Charles Macintosh) - スコットランドの化学者 * [[サマー・マッキントッシュ]] (Summer McIntosh) - カナダの競泳選手 * {{仮リンク|ロバート・レイノルズ・マッキントッシュ|en|Robert Reynolds Macintosh}}(1897年 -1989年) - イギリスの麻酔医。マッキントッシュ型[[喉頭鏡]]の発明者。 {{clear}} | 製品 | [[File:McIntosh with sticker by Lars Zapf 2006-03-30 cropped.jpg|thumb|180px|McIntosh (リンゴの品種)]] * [[マッキントッシュ (リンゴ)|マッキントッシュ]](McIntosh) - [[リンゴ]]の品種の一つ。[[カナダ]]の農夫[[ジョン・マッキントッシュ]] ([[:en:John McIntosh (farmer)|John McIntosh]]) によって発見された。日本では1890年(明治23年)カナダから[[札幌農学校]]に寄贈され、1892年(明治25年)に[[旭 (リンゴ)|旭]]と名付けられた。 * [[Mac (コンピュータ)]](Macintosh、マッキントッシュ) - [[Apple]]が製造する[[パーソナルコンピュータ]]。上記のリンゴの品種にちなんで名付けられた。 * マッキントッシュ(macintoshまたはmackintosh) - 下記マッキントッシュ社による[[レインコート]]の一種、さらにこれを由来にする[[イギリス]]でのレインコートの一般的な総称。また、それに使用される[[布地]](マッキントッシュ・クロス)のこと。織物の裏に[[ゴム]]を引き、[[木綿|綿布]]を貼り合わせてある。<!--https://www.fashion-press.net/brands/538 を参照。--> * [[マッキントッシュ (服飾)|マッキントッシュ]](Mackintosh) - [[スコットランド]]・[[グラスゴー]]発のアウターブランド。1823年以来、上記レインコート等を発明した技術と伝統を現代に伝え、[[エルメス]]や[[グッチ]]等からもオーダーを受ける。近年ではゴム引きコートのみならず、キルティングジャケット等も製造・販売している。2007年に[[八木通商]]が買収した。 {{clear}} | 企業 | * [[マッキントッシュ・ラボ]] (McIntosh Labs) - アメリカの高級[[音響機器]]の設計及び製造会社。 * [[ロントリー・マッキントッシュ]]([[:w:Rowntree Mackintosh Confectionery]]) - [[イギリス]]の[[菓子]]製造会社。1862年創業。[[ウェハース]]入り[[チョコレート]]「[[キットカット]] (Kit Kat)」などが知られた。1988年に[[ネスレ]]が買収。 }} {{aimai}} {{デフォルトソート:まつきんとつしゆ}} [[Category:英語の姓]]
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新聞
新聞(、英: newspaper)は、社会情勢一般(ニュース)または特定分野の出来事を報じ、対象とする層の中で広く読まれることを前提に定期刊行される紙媒体である。 新聞紙と呼ばれる低質の紙に印刷し、折り畳んだ状態で発売される。 日本の新聞社の発行する新聞紙の大きさは、ブランケット判と呼ばれている。 新聞は世界規模の出来事から国内外、地域内、さらにはコミュニティの内部などの情報伝達手段としてさまざまなものが発行されている。その中でも新聞社と呼ばれる新聞・報道を専門とした会社組織・報道機関が発行する新聞は情報の影響する範囲が広範囲であり、影響力は発行部数にほぼ比例する。小さなコミュニティの内部にも存在する場合があり、たとえば学校のクラス・部活動などで発行する学級新聞や学生新聞、地域で発行する地域広報などがある。新聞はテレビ・ラジオ・雑誌とともにマスコミ四媒体とされ、代表的なマスメディアのうちのひとつとされている。 新聞は、取り扱う範囲内でさまざまな情報を盛り込むことを特徴としており、その対象層の中で広く読まれることや逐次性・速報性が重視されている。情報の伝達を使命としている点で、同じ紙メディアでもそれ自体が強い個性を持つ書籍や雑誌とは大きく異なる。そのため、使われる紙の質は悪く保存性が低い。 ラジオ・テレビ放送やインターネットが発達した現代社会においては速報性で優位に立てず低迷傾向にありながらも、利用者にとって取り扱いが簡便であることや共有性の高さなどから依然情報メディアとしての地位は揺らいでおらず、多くの人々にとって安価で多様な情報を入手するための有力手段の一つとして今なお存在感を保っており、おおむねどの国でもある程度の規模の都市であれば鉄道駅や商店・街頭で販売または掲示されている様子を見られる。 新聞は、刊行間隔・配布地域・内容などでさまざまな種類に分類される。 刊行間隔の分類では、もっとも一般的なものは毎日刊行される日刊紙である。日刊紙はさらに発行される時間帯によって朝刊紙と夕刊紙に分かれるが、日本のように多くの新聞社が朝刊と夕刊をともに発行している国も存在する。ただし日本においても朝刊や夕刊のみの新聞は存在し、また経営難によって発行の少ない夕刊をとりやめ、朝刊のみの発行とする新聞社も2000年代以降増加している。また、ユネスコの基準においては日刊紙は必ずしも毎日発行でなくともよく、週4回以上発行される新聞を日刊紙として扱っている。このほか、週刊紙、旬刊紙(月に3回)、月刊紙、季刊紙などの新聞も存在する。 配布地域では、日本の新聞は大きく全国紙、ブロック紙、地方紙の3つに分類される。全国紙は文字通りその国土全体を対象として発行されるもので、日本では読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞の5社が該当する(ただし、産経新聞は2020年10月に販売網を関東・近畿地方のみに縮小したため、全国紙の要件を満たしていない)。ブロック紙は厳密には地方紙に含まれるが、その中でも複数の県にまたがる広域地方圏を対象としているものを指し、東海地方の中日新聞、北海道地方の北海道新聞、九州地方の西日本新聞の3社が該当し、また東北地方の河北新報や中国地方の中国新聞を加えることもある。地方紙はひとつの県かそれより小さな地域を対象とする新聞で、一つの県を対象とするものは県紙、それより小さな地域の新聞は地域紙と呼ぶ。第二次世界大戦の前は1,400紙を超える新聞が存在していたものの、1938年から1943年にかけて行われた新聞統制によって各社は県ごとに統合され、一つの県に一つの新聞が置かれる「一県一紙」体制が成立した。戦後にいくつかの新聞が新たに創刊されたものの、基本的にこの体制は以後も存在し続けている。 この全国紙と地方紙の区分は日本以外にも存在する。イギリスではタイムズなどのロンドンに拠点を置く全国紙と、各地域の地方紙とが併存している。これに対し、アメリカでは国土が広大なこともあって全国紙はウォールストリート・ジャーナルとUSAトゥデイの2紙にすぎず、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストのような大規模なものから田舎町の零細なものまで、非常に多くの地方紙が各地方に分立している状態となっている。ただし多くの地方において2社以上の競争状態になっていることは少なく、大都市を除いては1地方に1社の新聞があるだけの状態となっている。 発行内容に関しては、多くの新聞は特に専門を定めずニュース全般を広く取り扱う一般紙となっている。これに対し、特定の業界や分野のみに特化した新聞も存在し、これを専門紙または業界紙と呼ぶ。日本におけるスポーツ新聞はスポーツを中心に芸能やレジャーなど娯楽関連をおもに扱う新聞で、他国におけるタブロイド紙(大衆紙)に近い。このほか特殊なものとして、公営競技の競走(レース)を予想する予想紙も存在する。政党や各種団体などの機関が成員を対象に発行する機関紙も数多く発行されている。 一般紙のうち知的階層向けのものは高級紙と呼ばれ、大衆を対象としたセンセーショナルな内容の新聞は大衆紙と呼ばれる。高級紙・大衆紙の区分はイギリスにおいて非常に明瞭なものとなっているが、アメリカにおいては明確な大衆紙というものは少なく、総体として落ち着いた報道内容の新聞が主流となっている。日本でもそのような区別はあまりない。高級紙は比較的発行部数が少ないが世論への影響力が強い。 新聞は、その用紙のサイズ(判型)によってもいくつかに分類される。基本的には大型と小型の判型に二分され、大型のものにはイギリスの一般紙で広く使用されるブロードシート判 (375mm×600mm)や、日本独自の判型でほとんどの国内一般紙が採用しているブランケット判(406mm×545mm)など、いくつかの判型がある。小型の判型でもっとも多く使用されるものはタブロイド判(235×315mmまたは285×400mm)である。タブロイド判はイギリスをはじめとして大衆紙が多く採用しているため、転じて大衆紙のことをタブロイドともいう。日本でも、夕刊フジや日刊ゲンダイのような夕刊スポーツ紙はタブロイド判を採用しているところもある。このほか、この2つの中間に位置するベルリナー判(315mm×470mm)を採用する新聞社も多い。 一般的な新聞は新聞社によって商業的に有料で販売されるが、広告収入を元にした無料の新聞やフリーペーパーも数多く発行されている。学生新聞のように、小さなコミュニティ内で発行される無料紙もある。また『ビッグイシュー』のような、貧困者に支援や雇用を与えるためのストリート新聞も1990年代以降多数発行されるようになった。 また、毎日新聞社の発行する『点字毎日』は、点字で発行される週刊新聞である。 1480年ごろ、ヨーロッパ中央部の神聖ローマ帝国などのドイツ語圏地域で発行が始められたとする不定期刊の「Neue Zeitung」(新しい知らせ)が徐々に定期刊行となり、1605年、世界初の週刊新聞「Relation」が、帝国内のアルザス地方にあるシュトラースブルク(現在のフランスのストラスブール)でヨハン・カロルス(英語版)によって創刊された。なお、シュトラースブルクで1609年に刊行された「Relation」紙が後世に保存されている。1650年、やはり帝国内のライプツィヒで世界初の日刊紙『ライプツィガー・ツァイトゥイング(ドイツ語版)』(週6日)が創刊された。17世紀半ばには、ニュース本が定期的に出版されるようになった。特にイギリスでは清教徒革命や名誉革命を通じてニュース出版が発展し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀には、いろいろな新聞を読み放題のコーヒー・ハウスが登場した。裕福な商工業者であるブルジョワジーが新聞をもとに政治議論を行い、貴族のサロンと同じように論壇を形成した。 こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、アメリカ独立戦争やフランス革命などの市民革命が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては自由権の一部として法的に言論の自由が認められるようになった。 欧米では、19世紀の産業革命による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ。アメリカでは1830年代に『ザ・サン』をはじめとするペニー・プレスと呼ばれる安価な新聞が普及した。1868年にはイギリスの『タイムズ』が巻取紙を用いる輪転機を採用。日曜新聞のような大衆新聞が成長し、印刷機の発達やロール紙の採用、広告の掲載などにより労働者階級に低価格で販売できるようになった。1884年にはオットマー・マーゲンターラーがライノタイプと呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになったことで新聞の印刷スピードおよびコストが改善され、より安価に新聞が発行できるようになった。1880年にはアメリカで世界初となる写真版を含む新聞が発行された。19世紀末になると、アメリカではジョーゼフ・ピューリツァー率いる『ニューヨーク・ワールド』紙のように扇情主義を重視する娯楽としての新聞と、『ニューヨーク・タイムズ』紙のように(客観性は別として)情報を伝えることに特化した新聞の二つの流れが現れた。 つまり現代の新聞の出現は産業革命以降のヨーロッパからであり、産業を支えるうえで大きな存在となった。これはのちにマスマーケティングの手法の一環としても用いられるようになり、企業の広告活動にも一役買うようになった。 日本には江戸時代には瓦版が存在し、大事件などの際に木版で摺られ発行されていた。現存する最古の瓦版は大坂の陣(1614年 - 1615年)を記事にしたものである。幕末になると新聞と名付けられたものがいくつか発行されるようになり、1862年に最初の新聞『官板バタビヤ新聞』、1870年には日本初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊された。 以後、新聞は世界各地に普及し重要なマスメディアのひとつとなってきたが、1990年代後半のインターネットの登場にともなって先進諸国では部数減が進行し、大きな質的転換を迫られることとなった。 「新聞」という言葉は古来の日本語にはない。この語の初出は、北宋時代に編纂された唐王朝の歴史書『新唐書』だとされている。『新唐書』の「芸文志」には唐代に書かれた書物の一覧があるが、その中に「尉遅枢に、『南楚新聞』三卷あり」とある。ここでいう「新聞」とは今の日本語でいう「風聞」つまり「news」という意味であった。この定義での「新聞」は、清代にも書かれていた。例えば、乾隆帝が編纂させた『四庫全書総目提要』では、清の魏裔介の「資麈新聞」という書物を紹介している。これは現在の週刊誌のように雑説をいろいろな本から寄せ集めたもので、怪奇現象や陰陽道の話、李自成の乱や琉球王国の話などが書かれているが、虚偽の内容、現代でいういわゆる飛ばし記事が多く、『四庫全書総目提要』の編者は「編集方針がメチャクチャで間違いが百出している」と批判している。 清朝末期に欧米人が中国で「newspaper」を発刊し、現地の中国人たちもこれを真似て新聞を発刊した際、古来の「新聞」という言葉を当てて「新聞紙」と呼んだ。中国語では、21世紀現在も「新聞」をnewsの意味で使い、テレビのニュース番組などのタイトルにも使用される。なお、中国語におけるnewspaperは「報紙」である。一方、朝鮮語では「新聞」のハングル表記である「신문」が「newspaper」を意味する。 日本語には明治時代に英語の「news」に相当する訳語として、この中国語が取り入れられ、「news」を「新聞」、「newspaper」を「新聞紙」と呼ぶようになった。夏目漱石の小説の中でもnewspaperは新聞紙であり、昭和初期に書かれたものの中にも、newspaperを新聞紙と呼んでいるものがある。新聞紙条例、新聞紙法などの「新聞紙」は「newspaper」の意味である。 その後「新聞紙」を「新聞」と略すようになった。それに伴い「新聞紙」を「newspaper」の意味で使うことは減り、紙自体を指すようになった。一方、「日刊紙」「全国紙」「各紙」など、「新聞」の意味で「紙」という漢字が使われることもある。 現代英語では「newspaper」を「paper」と略すことがある(「today's paper」=「今日の新聞」など)。 新聞社の社名や紙名には公民の権利を守るという意味合いから、古代ローマの公職である護民官に由来する「トリビューン」(『シカゴ・トリビューン』など)、帝国郵便(神聖ローマ帝国)が自前の新聞を発行していたことに由来する「ポスト」(『ワシントン・ポスト』など)、社会を映す鏡という意味で「ミラー」(『デイリー・ミラー』など)といった言葉が選ばれている。 新聞の制作過程は、おおむね下記のようになっている。 新聞の製作は、まず記者が取材を行い記事を書くところから始まる。その日に起こった事件を速報しニュースとする場合は直接取材・撮影を行うが、特集記事や調査報道などの場合はまず企画を立て、それに基づいて調査や取材を行う。政府や企業からはプレスリリースや記者会見が行われ新聞に情報が提供されるが、このほかに独自の取材も行われる。新聞社の編集局内には政治部、社会部、文化部、経済部などさまざまな部署が存在し、それぞれ決められた分野の取材を行い記事を作成する。こうした記者作成の自社記事のほかに、自社の取材の及ばない部分を中心に通信社から配信される記事を利用することも行われる。 出来上がった原稿はチェックと推敲を受けたのちに編集会議にかけられ、整理部によって紙面の編集やレイアウトがなされる。その後さらに校閲が行われ、校了するとデータが印刷工場に送られる。印刷工場では輪転印刷機によって新聞紙に印字され、印刷された新聞は工場から発送されて新聞販売店やスタンドへと送られる。日本の場合、販売店から新聞配達が行われ、各家庭へと新聞が届けられることがほとんどである。 スピードが要求される新聞印刷では一般印刷業界に先駆けて新技術が導入されたが、多色印刷には制約となり一般印刷業界よりも導入が遅れた。 1868年に『タイムズ』紙が巻取紙方式の輪転印刷機を採用して以来、新聞の印刷は大量・高速印刷が可能な輪転印刷機によって行われている。20世紀前半の新聞印刷では、活字組版から紙型を作り、鉛を鋳込んで鉛版を作り、凸版輪転機にかける方法が唯一の紙面制作方式だった。 新聞の製作・印刷過程は、20世紀後半以降技術革新によって大幅に機械化・効率化が進んだ。1980年代初頭に感光性樹脂板が開発され、1980年代後半にはCTSが導入された。日本では1970年代以降、コスト削減を目的として全国紙の新聞印刷工場の地方分散が進められた。2000年代に入ると高コストの印刷工場の別会社化が急速に進められ、2006年には全国紙の印刷はすべて別会社となった。また同時に、全国紙の地方紙への委託印刷も盛んに行われるようになった。記事を印字する新聞紙は、印刷と輸送の都合上、軽量かつ印刷時に途切れないほどの引っ張り強度が求められる。 新聞は世界中で発行されているものの、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった。しかし、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでもインドや中国で新聞販売数が増加し、2007年には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった。なかでもインドは経済成長によって新聞の販売数は増加傾向にあり、インターネットによって押されている他国の新聞業界とは対照をなしている。インドの新聞業界の特徴としては公用語である英語の他に、各地方の言語での新聞出版が非常に盛んであることで、なかでも北部インドの主要言語であるヒンディー語での新聞発行は比率・部数とも増加している。ただし、英語新聞も割合こそ減少しているものの部数自体は増加している。 アメリカやヨーロッパでは新聞の収入の8割が広告からのものとなっており、販売収入が主力となっている日本とは異なる収益構造を持っている。インターネットの普及を受けてアメリカやヨーロッパでは発行部数の漸減が続いており、なかでも減少傾向の激しいアメリカにおいては2009年に『ニューヨーク・タイムズ』が巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めているほか、2009年にはボストンの『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙が日刊紙の発行を取りやめオンライン専業へと移行するなど、新聞社の規模縮小や廃業が相次ぐようになっている。ヨーロッパにおいては無料紙が急伸し、2007年には欧州の日刊紙の総発行部数の23%を占めるまでになった。 日本では新聞購読率が高く、新聞販売店による新聞の戸別宅配制度が他国に類をみないほど発達している。またその文化的な役割が重要視され、再販制度によって価格の保護がなされたり、2019年からの消費税率10%引き上げに対し定期購読新聞に関しては軽減税率を適用し8%に据え置くなど、さまざまな保護政策が行われてきた。こうしたことから日本の新聞発行部数は人口に比して非常に多く、率としても北欧諸国と並ぶ世界有数の高普及率を誇ってきた。新聞社の収入に関しても、平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、広告収入より販売収入の方がやや主となっている。 また、日本の特徴として、クロスオーナーシップ制度による新聞社のテレビ・ラジオ局支配がある。首都圏を放送地域とする東京所在の在京テレビジョン放送局をキー局とする5つの全国ニュースネットワークは、濃淡の差こそあれ、例外なく大手新聞社との協力関係を持ち、世論調査などでの合同取材を行っている。大都市圏以外で多く見られる、一つの県における地域新聞社として圧倒的な発行部数を持つ「県紙」もほぼ例外なく、当該県を放送エリアとするテレビ・ラジオ局を所有するほか、自社以外の県域テレビ局にもニュースを配信することで影響力を維持している。これらの協力関係は株式所有を伴うことも多く、相対的に経営状況が厳しい新聞社にとってはテレビ局の収益に伴い発生する株式配当や含み資産の増大が経営を支えている。 しかし、2000年代のインターネット普及とインターネットメディアの発達により、若年層のみならず中高年層も含め(世界的な傾向として)新聞離れが進行している。総発行部は、1997年の5,377万部をピーク2022年には3,084万部に、広告費も1990年の13,592億円から2021年の3,815億円に減少していて、その経営環境は厳しさを増している。また、読者が新聞を読む時間も1995年から2010年にかけての調査では減少傾向にある。各新聞社は記事のネット配信に力を入れつつあり、日本経済新聞の日経電子版のように一定の会員数を確保しているメディアも存在しているが、全体として成功しているとは言いがたい。一部にフリーペーパーに注目する向きもあるが、収益のほとんどを広告収入に依存するフリーペーパーの経営は苦しいところが多く、21世紀になってから廃刊が相次いでおり、新聞に代わる主要メディアとしての地位を得ることは難しいと言われている。 インターネット黎明期の1993年にはすでに新聞社がホームページを開設してニュースを配信することが行われ始め、1995年には日本でもオンライン新聞の発行が開始された。以後、世界の大新聞社のほとんどがウェブ上でのニュース配信を開始し、ニュースサイトのひとつとしてオンライン上の新聞は成長を遂げた。また、アメリカの報道大手により携帯型端末iPad専用の有料新聞も発刊されることになった。一部の欧米の新聞社はオンライン新聞の普及に伴い、記事を公開するタイミングについて紙媒体よりもウェブ媒体を優先させるウェブ・ファーストと呼ばれる方針を打ち出し始めた。 オンライン新聞は無料のものも多いが、収入につなげるために新聞社が有料会員を募って記事を配信する有料化も進んできており、2015年には日本の全国紙5紙すべてで有料オンライン版の発行が開始された。 ウィキニュースもオンライン新聞のひとつとされる。大新聞社の発行するもののほかに、インターネット上の市民ジャーナリズムのひとつとしてオンライン新聞に期待する向きもあり、実際にJANJANなどいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。 以下のデータは、世界新聞協会の「World Press Trends 2019」に準拠した有料新聞各紙の発行部数の上位9紙である。
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17, "tag": "p", "text": "欧米では、19世紀の産業革命による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ。アメリカでは1830年代に『ザ・サン』をはじめとするペニー・プレスと呼ばれる安価な新聞が普及した。1868年にはイギリスの『タイムズ』が巻取紙を用いる輪転機を採用。日曜新聞のような大衆新聞が成長し、印刷機の発達やロール紙の採用、広告の掲載などにより労働者階級に低価格で販売できるようになった。1884年にはオットマー・マーゲンターラーがライノタイプと呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになったことで新聞の印刷スピードおよびコストが改善され、より安価に新聞が発行できるようになった。1880年にはアメリカで世界初となる写真版を含む新聞が発行された。19世紀末になると、アメリカではジョーゼフ・ピューリツァー率いる『ニューヨーク・ワールド』紙のように扇情主義を重視する娯楽としての新聞と、『ニューヨーク・タイムズ』紙のように(客観性は別として)情報を伝えることに特化した新聞の二つの流れが現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "つまり現代の新聞の出現は産業革命以降のヨーロッパからであり、産業を支えるうえで大きな存在となった。これはのちにマスマーケティングの手法の一環としても用いられるようになり、企業の広告活動にも一役買うようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本には江戸時代には瓦版が存在し、大事件などの際に木版で摺られ発行されていた。現存する最古の瓦版は大坂の陣(1614年 - 1615年)を記事にしたものである。幕末になると新聞と名付けられたものがいくつか発行されるようになり、1862年に最初の新聞『官板バタビヤ新聞』、1870年には日本初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以後、新聞は世界各地に普及し重要なマスメディアのひとつとなってきたが、1990年代後半のインターネットの登場にともなって先進諸国では部数減が進行し、大きな質的転換を迫られることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「新聞」という言葉は古来の日本語にはない。この語の初出は、北宋時代に編纂された唐王朝の歴史書『新唐書』だとされている。『新唐書』の「芸文志」には唐代に書かれた書物の一覧があるが、その中に「尉遅枢に、『南楚新聞』三卷あり」とある。ここでいう「新聞」とは今の日本語でいう「風聞」つまり「news」という意味であった。この定義での「新聞」は、清代にも書かれていた。例えば、乾隆帝が編纂させた『四庫全書総目提要』では、清の魏裔介の「資麈新聞」という書物を紹介している。これは現在の週刊誌のように雑説をいろいろな本から寄せ集めたもので、怪奇現象や陰陽道の話、李自成の乱や琉球王国の話などが書かれているが、虚偽の内容、現代でいういわゆる飛ばし記事が多く、『四庫全書総目提要』の編者は「編集方針がメチャクチャで間違いが百出している」と批判している。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "清朝末期に欧米人が中国で「newspaper」を発刊し、現地の中国人たちもこれを真似て新聞を発刊した際、古来の「新聞」という言葉を当てて「新聞紙」と呼んだ。中国語では、21世紀現在も「新聞」をnewsの意味で使い、テレビのニュース番組などのタイトルにも使用される。なお、中国語におけるnewspaperは「報紙」である。一方、朝鮮語では「新聞」のハングル表記である「신문」が「newspaper」を意味する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本語には明治時代に英語の「news」に相当する訳語として、この中国語が取り入れられ、「news」を「新聞」、「newspaper」を「新聞紙」と呼ぶようになった。夏目漱石の小説の中でもnewspaperは新聞紙であり、昭和初期に書かれたものの中にも、newspaperを新聞紙と呼んでいるものがある。新聞紙条例、新聞紙法などの「新聞紙」は「newspaper」の意味である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その後「新聞紙」を「新聞」と略すようになった。それに伴い「新聞紙」を「newspaper」の意味で使うことは減り、紙自体を指すようになった。一方、「日刊紙」「全国紙」「各紙」など、「新聞」の意味で「紙」という漢字が使われることもある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現代英語では「newspaper」を「paper」と略すことがある(「today's paper」=「今日の新聞」など)。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "新聞社の社名や紙名には公民の権利を守るという意味合いから、古代ローマの公職である護民官に由来する「トリビューン」(『シカゴ・トリビューン』など)、帝国郵便(神聖ローマ帝国)が自前の新聞を発行していたことに由来する「ポスト」(『ワシントン・ポスト』など)、社会を映す鏡という意味で「ミラー」(『デイリー・ミラー』など)といった言葉が選ばれている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新聞の制作過程は、おおむね下記のようになっている。", "title": "制作過程" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新聞の製作は、まず記者が取材を行い記事を書くところから始まる。その日に起こった事件を速報しニュースとする場合は直接取材・撮影を行うが、特集記事や調査報道などの場合はまず企画を立て、それに基づいて調査や取材を行う。政府や企業からはプレスリリースや記者会見が行われ新聞に情報が提供されるが、このほかに独自の取材も行われる。新聞社の編集局内には政治部、社会部、文化部、経済部などさまざまな部署が存在し、それぞれ決められた分野の取材を行い記事を作成する。こうした記者作成の自社記事のほかに、自社の取材の及ばない部分を中心に通信社から配信される記事を利用することも行われる。", "title": "制作過程" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "出来上がった原稿はチェックと推敲を受けたのちに編集会議にかけられ、整理部によって紙面の編集やレイアウトがなされる。その後さらに校閲が行われ、校了するとデータが印刷工場に送られる。印刷工場では輪転印刷機によって新聞紙に印字され、印刷された新聞は工場から発送されて新聞販売店やスタンドへと送られる。日本の場合、販売店から新聞配達が行われ、各家庭へと新聞が届けられることがほとんどである。", "title": "制作過程" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スピードが要求される新聞印刷では一般印刷業界に先駆けて新技術が導入されたが、多色印刷には制約となり一般印刷業界よりも導入が遅れた。", "title": "新聞印刷" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1868年に『タイムズ』紙が巻取紙方式の輪転印刷機を採用して以来、新聞の印刷は大量・高速印刷が可能な輪転印刷機によって行われている。20世紀前半の新聞印刷では、活字組版から紙型を作り、鉛を鋳込んで鉛版を作り、凸版輪転機にかける方法が唯一の紙面制作方式だった。", "title": "新聞印刷" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "新聞の製作・印刷過程は、20世紀後半以降技術革新によって大幅に機械化・効率化が進んだ。1980年代初頭に感光性樹脂板が開発され、1980年代後半にはCTSが導入された。日本では1970年代以降、コスト削減を目的として全国紙の新聞印刷工場の地方分散が進められた。2000年代に入ると高コストの印刷工場の別会社化が急速に進められ、2006年には全国紙の印刷はすべて別会社となった。また同時に、全国紙の地方紙への委託印刷も盛んに行われるようになった。記事を印字する新聞紙は、印刷と輸送の都合上、軽量かつ印刷時に途切れないほどの引っ張り強度が求められる。", "title": "新聞印刷" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "新聞は世界中で発行されているものの、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった。しかし、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでもインドや中国で新聞販売数が増加し、2007年には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった。なかでもインドは経済成長によって新聞の販売数は増加傾向にあり、インターネットによって押されている他国の新聞業界とは対照をなしている。インドの新聞業界の特徴としては公用語である英語の他に、各地方の言語での新聞出版が非常に盛んであることで、なかでも北部インドの主要言語であるヒンディー語での新聞発行は比率・部数とも増加している。ただし、英語新聞も割合こそ減少しているものの部数自体は増加している。", "title": "世界の現況" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アメリカやヨーロッパでは新聞の収入の8割が広告からのものとなっており、販売収入が主力となっている日本とは異なる収益構造を持っている。インターネットの普及を受けてアメリカやヨーロッパでは発行部数の漸減が続いており、なかでも減少傾向の激しいアメリカにおいては2009年に『ニューヨーク・タイムズ』が巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めているほか、2009年にはボストンの『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙が日刊紙の発行を取りやめオンライン専業へと移行するなど、新聞社の規模縮小や廃業が相次ぐようになっている。ヨーロッパにおいては無料紙が急伸し、2007年には欧州の日刊紙の総発行部数の23%を占めるまでになった。", "title": "世界の現況" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本では新聞購読率が高く、新聞販売店による新聞の戸別宅配制度が他国に類をみないほど発達している。またその文化的な役割が重要視され、再販制度によって価格の保護がなされたり、2019年からの消費税率10%引き上げに対し定期購読新聞に関しては軽減税率を適用し8%に据え置くなど、さまざまな保護政策が行われてきた。こうしたことから日本の新聞発行部数は人口に比して非常に多く、率としても北欧諸国と並ぶ世界有数の高普及率を誇ってきた。新聞社の収入に関しても、平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、広告収入より販売収入の方がやや主となっている。", "title": "日本の新聞" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、日本の特徴として、クロスオーナーシップ制度による新聞社のテレビ・ラジオ局支配がある。首都圏を放送地域とする東京所在の在京テレビジョン放送局をキー局とする5つの全国ニュースネットワークは、濃淡の差こそあれ、例外なく大手新聞社との協力関係を持ち、世論調査などでの合同取材を行っている。大都市圏以外で多く見られる、一つの県における地域新聞社として圧倒的な発行部数を持つ「県紙」もほぼ例外なく、当該県を放送エリアとするテレビ・ラジオ局を所有するほか、自社以外の県域テレビ局にもニュースを配信することで影響力を維持している。これらの協力関係は株式所有を伴うことも多く、相対的に経営状況が厳しい新聞社にとってはテレビ局の収益に伴い発生する株式配当や含み資産の増大が経営を支えている。", "title": "日本の新聞" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、2000年代のインターネット普及とインターネットメディアの発達により、若年層のみならず中高年層も含め(世界的な傾向として)新聞離れが進行している。総発行部は、1997年の5,377万部をピーク2022年には3,084万部に、広告費も1990年の13,592億円から2021年の3,815億円に減少していて、その経営環境は厳しさを増している。また、読者が新聞を読む時間も1995年から2010年にかけての調査では減少傾向にある。各新聞社は記事のネット配信に力を入れつつあり、日本経済新聞の日経電子版のように一定の会員数を確保しているメディアも存在しているが、全体として成功しているとは言いがたい。一部にフリーペーパーに注目する向きもあるが、収益のほとんどを広告収入に依存するフリーペーパーの経営は苦しいところが多く、21世紀になってから廃刊が相次いでおり、新聞に代わる主要メディアとしての地位を得ることは難しいと言われている。", "title": "日本の新聞" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "インターネット黎明期の1993年にはすでに新聞社がホームページを開設してニュースを配信することが行われ始め、1995年には日本でもオンライン新聞の発行が開始された。以後、世界の大新聞社のほとんどがウェブ上でのニュース配信を開始し、ニュースサイトのひとつとしてオンライン上の新聞は成長を遂げた。また、アメリカの報道大手により携帯型端末iPad専用の有料新聞も発刊されることになった。一部の欧米の新聞社はオンライン新聞の普及に伴い、記事を公開するタイミングについて紙媒体よりもウェブ媒体を優先させるウェブ・ファーストと呼ばれる方針を打ち出し始めた。", "title": "オンライン新聞" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "オンライン新聞は無料のものも多いが、収入につなげるために新聞社が有料会員を募って記事を配信する有料化も進んできており、2015年には日本の全国紙5紙すべてで有料オンライン版の発行が開始された。", "title": "オンライン新聞" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ウィキニュースもオンライン新聞のひとつとされる。大新聞社の発行するもののほかに、インターネット上の市民ジャーナリズムのひとつとしてオンライン新聞に期待する向きもあり、実際にJANJANなどいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、2010年ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた。", "title": "オンライン新聞" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "以下のデータは、世界新聞協会の「World Press Trends 2019」に準拠した有料新聞各紙の発行部数の上位9紙である。", "title": "発行部数の順位" } ]
新聞(しんぶん、は、社会情勢一般または特定分野の出来事を報じ、対象とする層の中で広く読まれることを前提に定期刊行される紙媒体である。 新聞紙と呼ばれる低質の紙に印刷し、折り畳んだ状態で発売される。 日本の新聞社の発行する新聞紙の大きさは、ブランケット判と呼ばれている。
{{Redirect|ニュースペーパー}} [[ファイル:The Wall Street Journal first issue.jpg|thumb|[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]創刊号の1面]] {{読み仮名|'''新聞'''|しんぶん|{{lang-en-short|newspaper}}}}は、社会情勢一般([[ニュース]])または特定分野の出来事を報じ、対象とする層の中で広く読まれることを前提に[[定期刊行物|定期刊行]]される紙媒体である。 [[新聞紙]]と呼ばれる低質の紙に印刷し、折り畳んだ状態で発売される。 日本の新聞社の発行する新聞紙の大きさは、[[ブランケット判]]と呼ばれている。 == 概説 == 新聞は世界規模の出来事から国内外、地域内、さらには[[コミュニティ]]の内部などの情報伝達手段としてさまざまなものが発行されている。その中でも新聞社と呼ばれる新聞・[[報道]]を専門とした会社組織・[[報道機関]]が発行する新聞は情報の影響する範囲が広範囲であり、影響力は発行部数にほぼ比例する。小さなコミュニティの内部にも存在する場合があり、たとえば学校のクラス・部活動などで発行する[[学級新聞]]や[[学生新聞]]、地域で発行する地域広報などがある。新聞は[[テレビ]]・[[ラジオ]]・[[雑誌]]とともに[[マスコミ四媒体]]とされ、代表的な[[マスメディア]]のうちのひとつとされている<ref>「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p14 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>。 新聞は、取り扱う範囲内でさまざまな情報を盛り込むことを特徴としており、その対象層の中で広く読まれることや逐次性・速報性が重視されている。情報の伝達を使命としている点で、同じ紙メディアでもそれ自体が強い個性を持つ[[書籍]]や[[雑誌]]とは大きく異なる。そのため、使われる紙の質は悪く保存性が低い。 [[ラジオ放送|ラジオ]]・[[テレビ放送]]や[[インターネット]]が発達した現代社会においては速報性で優位に立てず低迷傾向にありながらも、利用者にとって取り扱いが簡便であることや共有性の高さなどから依然情報メディアとしての地位は揺らいでおらず、多くの人々にとって安価で多様な情報を入手するための有力手段の一つとして今なお存在感を保っており、おおむねどの国でもある程度の規模の都市であれば[[鉄道駅]]や[[商店]]・街頭で販売または掲示されている様子を見られる。 == 分類 == 新聞は、刊行間隔・配布地域・内容などでさまざまな種類に分類される。 === 刊行間隔 === 刊行間隔の分類では、もっとも一般的なものは毎日刊行される日刊紙である。日刊紙はさらに発行される時間帯によって朝刊紙と夕刊紙に分かれるが、日本のように多くの新聞社が[[朝刊]]と[[夕刊]]をともに発行している国も存在する{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=201}}。ただし日本においても朝刊や夕刊のみの新聞は存在し、また経営難によって発行の少ない夕刊をとりやめ、朝刊のみの発行とする新聞社も2000年代以降増加している{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=114}}。また、[[ユネスコ]]の基準においては日刊紙は必ずしも毎日発行でなくともよく、週4回以上発行される新聞を日刊紙として扱っている<ref>[https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387084.htm 「図書及び定期刊行物の出版についての統計の国際化な標準化に関する勧告」第19条 1964年11月9日 第13回ユネスコ総会採択] 文部科学省 2019年3月21日閲覧</ref>{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=201}}。このほか、週刊紙、旬刊紙(月に3回)、月刊紙、季刊紙などの新聞も存在する。 === 配布地域 === 配布地域では、日本の新聞は大きく[[全国紙]]、[[ブロック紙]]、[[地方紙]]の3つに分類される。全国紙は文字通りその国土全体を対象として発行されるもので、日本では[[読売新聞]]、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[日本経済新聞]]、[[産経新聞]]の5社が該当する{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=54}}(ただし、産経新聞は2020年10月に販売網を関東・近畿地方のみに縮小した<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/67524|title=全国紙でも進む「リストラ・支局統廃合」新聞記者の苦悩と見えぬ未来|accessdate=2020年9月12日|publisher=現代ビジネス(講談社)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/9772|title=「全国紙」でなくなる? 産経の“感情の起伏”が激しかった「11月16日のこと」|accessdate=2020年9月12日|publisher=週刊文春}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://facta.co.jp/article/201812031.html|title=「全国紙」の看板下ろす産経|accessdate=20200912|publisher=月間FACTA}}</ref>ため、全国紙の要件を満たしていない)。ブロック紙は厳密には地方紙に含まれるが、その中でも複数の県にまたがる広域地方圏を対象としているものを指し、[[東海地方]]の[[中日新聞]]、[[北海道地方]]の[[北海道新聞]]、[[九州地方]]の[[西日本新聞]]の3社が該当し{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=54}}、また[[東北地方]]の[[河北新報]]や[[中国地方]]の[[中国新聞]]を加えることもある。地方紙はひとつの県かそれより小さな地域を対象とする新聞{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=54}}で、一つの県を対象とするものは県紙、それより小さな地域の新聞は地域紙と呼ぶ。第二次世界大戦の前は1,400紙を超える新聞が存在していたものの、1938年から1943年にかけて行われた[[新聞統制]]によって各社は県ごとに統合され、一つの県に一つの新聞が置かれる「一県一紙」体制が成立した<ref>「メディア学の現在 新版」p250-251 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>。戦後にいくつかの新聞が新たに創刊された<ref>「メディア学の現在 新版」p224-225 山口功二・渡辺武達・岡満男編 世界思想社 2001年4月20日第1刷</ref>ものの、基本的にこの体制は以後も存在し続けている。 この全国紙と地方紙の区分は日本以外にも存在する。イギリスでは[[タイムズ]]などのロンドンに拠点を置く全国紙と、各地域の地方紙とが併存している{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=218}}。これに対し、アメリカでは国土が広大なこともあって全国紙は[[ウォールストリート・ジャーナル]]と[[USAトゥデイ]]の2紙にすぎず、[[ニューヨーク・タイムズ]]や[[ワシントン・ポスト]]のような大規模なものから田舎町の零細なものまで、非常に多くの地方紙が各地方に分立している状態となっている。ただし多くの地方において2社以上の競争状態になっていることは少なく、大都市を除いては1地方に1社の新聞があるだけの状態となっている{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=216-217}}。 === 内容 === 発行内容に関しては、多くの新聞は特に専門を定めずニュース全般を広く取り扱う一般紙となっている。これに対し、特定の業界や分野のみに特化した新聞も存在し、これを[[専門紙]]または業界紙と呼ぶ{{sfn|『図説日本のマスメディア』|p=29}}。日本における[[スポーツ新聞]]は[[スポーツ]]を中心に[[芸能]]や[[レジャー]]など[[娯楽]]関連をおもに扱う新聞で、他国における[[タブロイド]]紙(大衆紙)に近い{{sfn|『図説日本のマスメディア』|p=35}}。このほか特殊なものとして、[[公営競技]]の[[競走|競走(レース)]]を予想する[[予想紙]]も存在する。[[政党]]や各種団体などの機関が成員を対象に発行する[[機関紙]]も数多く発行されている。 一般紙のうち知的階層向けのものは高級紙と呼ばれ、大衆を対象としたセンセーショナルな内容の新聞は大衆紙と呼ばれる<ref name="名前なし-3">社会学小辞典p.169</ref><ref name="名前なし-4">社会学小辞典p.406</ref>。高級紙・大衆紙の区分はイギリスにおいて非常に明瞭なものとなっている{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=219}}が、アメリカにおいては明確な大衆紙というものは少なく、総体として落ち着いた報道内容の新聞が主流となっている{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=220}}。日本でもそのような区別はあまりない<ref name="名前なし-4"/>。高級紙は比較的発行部数が少ないが世論への影響力が強い<ref name="名前なし-3"/>。 === 判型 === 新聞は、その用紙のサイズ([[判型]])によってもいくつかに分類される。基本的には大型と小型の判型に二分され、大型のものにはイギリスの一般紙で広く使用されるブロードシート判 (375mm×600mm)や、日本独自の判型でほとんどの国内一般紙が採用している[[ブランケット判]]<ref name="名前なし-5">「メディア社会」p97 佐藤卓己 岩波書店 2006年6月20日第1刷</ref>(406mm×545mm)など、いくつかの判型がある。小型の判型でもっとも多く使用されるものは[[タブロイド判]](235×315mmまたは285×400mm)である。タブロイド判はイギリスをはじめとして大衆紙が多く採用しているため、転じて大衆紙のことをタブロイドともいう。日本でも、[[夕刊フジ]]や[[日刊ゲンダイ]]のような夕刊スポーツ紙はタブロイド判を採用しているところもある<ref name="名前なし-5"/>。このほか、この2つの中間に位置する[[ベルリナー判]](315mm×470mm)を採用する新聞社も多い。 === その他 === 一般的な新聞は新聞社によって商業的に有料で販売されるが、広告収入を元にした[[無料新聞|無料の新聞]]や[[フリーペーパー]]も数多く発行されている{{sfn|『図説日本のマスメディア』|p=38-40}}。[[学生新聞]]のように、小さなコミュニティ内で発行される無料紙もある。また『[[ビッグイシュー]]』のような、貧困者に支援や雇用を与えるための[[ストリート新聞]]も1990年代以降多数発行されるようになった。 また、毎日新聞社の発行する『[[点字毎日]]』は、[[点字]]で発行される週刊新聞である<ref>[https://www.mainichi.co.jp/co-act/tenji.html 「点字毎日」] 毎日新聞社 2019年3月22日閲覧</ref>。 == 歴史 == 1480年ごろ、ヨーロッパ中央部の[[神聖ローマ帝国]]などの[[ドイツ語]]圏地域で発行が始められたとする不定期刊の「Neue Zeitung」(新しい知らせ)が徐々に定期刊行となり<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=江口豊 |date=2013-10-25 |url=https://hdl.handle.net/2115/53603 |title=ドイツ語圏活字メディアの歴史について : 新聞を中心に |journal=国際広報メディア・観光学ジャーナル |volume=17 |pages=6-7 |publisher=北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院 |id={{CRID|1050845763944655232}} |hdl=2115/53603 |accessdate=2023-05-31}}</ref>、[[1605年]]、世界初の週刊新聞「{{Lang|en|Relation}}」が、帝国内の[[アルザス地域圏|アルザス地方]]にあるシュトラースブルク(現在の[[フランス]]の[[ストラスブール]])で{{仮リンク|ヨハン・カロルス|en|Johann Carolus}}によって創刊された<ref>朝日新聞2010年9月17日国際面より</ref>。なお、シュトラースブルクで1609年に刊行された「Relation」紙が後世に保存されている<ref name=":0" />。1650年、やはり帝国内の[[ライプツィヒ]]で世界初の日刊紙『{{仮リンク|アインコンメンデ・ツァイトゥイング|de|Einkommende Zeitungen|label=ライプツィガー・ツァイトゥイング}}』<ref group="注">[[1921年]]まで存在した。同名の『{{仮リンク|ライプツィガー・ツァイトゥイング|de|Leipziger Zeitung}}』([[1946年]] - [[1948年]])は、[[ソ連]]占領下で作られた別の出版物である。</ref>(週6日)が創刊された<ref name="横山">樺山紘一『図説 本の歴史』</ref>。17世紀半ばには、ニュース本が定期的に出版されるようになった。特にイギリスでは[[清教徒革命]]や[[名誉革命]]を通じてニュース出版が発展し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀には、いろいろな新聞を読み放題の[[コーヒー・ハウス]]が登場した。裕福な商工業者である[[ブルジョワジー]]が新聞をもとに政治議論を行い、貴族の[[サロン]]と同じように論壇を形成した。 こうして新聞が一般化した18世紀に入ると、[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]などの[[市民革命]]が起きるようになるが、この過程で新聞は世論の形成に大きな役割を果たし、樹立された新政府においては[[自由権]]の一部として法的に[[言論の自由]]が認められるようになった<ref>「歴史の中の新聞 世界と日本」門奈直樹 p14(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>。 欧米では、19世紀の[[産業革命]]による都市人口の増加や社会変化に伴い、新聞の大衆化が進んだ<ref>「ジャーナリズムの社会的意義と新しいメディア」鈴木謙介 p131(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>。アメリカでは1830年代に『[[ザ・サン (1833年創刊)|ザ・サン]]』をはじめとするペニー・プレスと呼ばれる安価な新聞が普及した<ref>「ニュー・ジャーナリズム」マイケル・シュッドソン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p174 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。1868年にはイギリスの『タイムズ』が巻取紙を用いる輪転機を採用<ref name="fukada">{{Cite journal|和書|author=深田一弘|url=https://doi.org/10.2524/jtappij.53.834 |title=新聞におけるカラー印刷の進展と現状 |journal=紙パ技協誌|publisher=紙パルプ技術協会|volume=53|issue=7|pages=834-844|date=1999 |accessdate=2019-11-04}}</ref>。日曜新聞のような大衆新聞が成長し、[[印刷機]]の発達やロール紙の採用、[[広告]]の掲載などにより[[労働者]]階級に低価格で販売できるようになった<ref>吉見俊哉『メディア文化論』ISBN 978-4641121904</ref>。[[1884年]]には[[オットマー・マーゲンターラー]]が[[ライノタイプ]]と呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになったことで新聞の印刷スピードおよびコストが改善され、より安価に新聞が発行できるようになった<ref>「図説 世界史を変えた50の機械」p49 エリック・シャリーン著 柴田譲治訳 原書房 2013年9月30日第1刷</ref>。1880年にはアメリカで世界初となる写真版を含む新聞が発行された<ref name="fukada" />。19世紀末になると、アメリカでは[[ジョーゼフ・ピューリツァー]]率いる『[[ニューヨーク・ワールド]]』紙のように[[扇情主義]]を重視する娯楽としての新聞<ref>「ニュー・ジャーナリズム」マイケル・シュッドソン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p177-183 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>と、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙のように(客観性は別として<ref>「ニュー・ジャーナリズム」マイケル・シュッドソン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p187 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>)情報を伝えることに特化した新聞の二つの流れが現れた<ref>「ニュー・ジャーナリズム」マイケル・シュッドソン(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p177-187 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。 つまり現代の新聞の出現は[[産業革命]]以降のヨーロッパからであり、産業を支えるうえで大きな存在となった。これはのちに[[マスマーケティング]]の手法の一環としても用いられるようになり、企業の広告活動にも一役買うようになった。 日本には江戸時代には[[瓦版]]が存在し、大事件などの際に[[木版]]で摺られ発行されていた。現存する最古の瓦版は[[大坂の陣]]([[1614年]] - [[1615年]])を記事にしたものである。幕末になると新聞と名付けられたものがいくつか発行されるようになり、[[1862年]]に最初の新聞『官板バタビヤ新聞』、[[1870年]]には日本初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊された<ref>「図説 本の歴史」p97 樺山紘一編 河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。{{See also|日本の新聞}} 以後、新聞は世界各地に普及し重要なマスメディアのひとつとなってきたが、1990年代後半のインターネットの登場にともなって先進諸国では部数減が進行し、大きな質的転換を迫られることとなった。 == 語源 == 「新聞」という言葉は古来の日本語にはない。この語の初出は、[[北宋]]時代に編纂された唐王朝の歴史書『[[新唐書]]』だとされている。『新唐書』の「芸文志」には唐代に書かれた書物の一覧があるが、その中に「尉遅枢に、『南楚新聞』三卷あり」とある。ここでいう「新聞」とは今の日本語でいう「風聞」つまり「news」という意味であった。この定義での「新聞」は、[[清]]代にも書かれていた。例えば、[[乾隆帝]]が編纂させた『[[四庫全書]]総目提要』では、清の魏裔介の「資麈新聞」という書物を紹介している。これは現在の週刊誌のように雑説をいろいろな本から寄せ集めたもので、怪奇現象や[[陰陽道]]の話、[[李自成]]の乱や[[琉球王国]]の話などが書かれているが、虚偽の内容、現代でいういわゆる飛ばし記事が多く、『四庫全書総目提要』の編者は「編集方針がメチャクチャで間違いが百出している」と批判している。 清朝末期に欧米人が中国で「{{Lang|en|newspaper}}」を発刊し、現地の中国人たちもこれを真似て新聞を発刊した際、古来の「{{Lang|zh|新聞}}」という言葉を当てて「{{Lang|zh|新聞紙}}」と呼んだ。[[中国語]]では、21世紀現在も「{{Lang|zh|新聞}}」を{{Lang|en|news}}の意味で使い<ref name="名前なし-6">「新聞とジャーナリズム」桂敬一 p118(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>、テレビの[[報道番組|ニュース番組]]などのタイトルにも使用される。なお、中国語における{{Lang|en|newspaper}}は「{{Lang|zh|報紙}}」である。一方、[[朝鮮語]]では「新聞」の[[ハングル]]表記である「신문」が「{{Lang|en|newspaper}}」を意味する。 日本語には明治時代に英語の「{{Lang|en|news}}」に相当する訳語として、この中国語が取り入れられ、「{{Lang|en|news}}」を「{{Lang|zh|新聞}}」、「{{Lang|en|newspaper}}」を「{{Lang|zh|新聞紙}}」と呼ぶようになった。[[夏目漱石]]の小説の中でも{{Lang|en|newspaper}}は新聞紙であり、昭和初期に書かれたものの中にも、{{Lang|en|newspaper}}を新聞紙と呼んでいるものがある。[[新聞紙条例]]、[[新聞紙法]]などの「新聞紙」は「{{Lang|en|newspaper}}」の意味である。 その後「新聞紙」を「新聞」と略すようになった。それに伴い「新聞紙」を「{{Lang|en|newspaper}}」の意味で使うことは減り、紙自体を指すようになった<ref name="名前なし-6"/>。一方、「日刊紙」「全国紙」「各紙」など、「新聞」の意味で「紙」という漢字が使われることもある。 現代英語では「{{Lang|en|newspaper}}」を「{{Lang|en|paper}}」と略すことがある(「{{Lang|en|today's paper}}」=「今日の新聞」など)。 新聞社の社名や紙名には[[公民]]の権利を守るという意味合いから、古代ローマの公職である[[護民官]]に由来する「トリビューン」(『[[シカゴ・トリビューン]]』など)<ref>「歴史の中の新聞 世界と日本」門奈直樹 p13(「新聞学」所収)日本評論社 2009年5月20日新訂第4版第1刷</ref>、[[帝国郵便]]([[神聖ローマ帝国]])が自前の新聞を発行していたことに由来する「ポスト」(『[[ワシントン・ポスト]]』など)<ref>A.Dresler: Die Post als Title in Publizistik und Presse, in: Archiv für Postgeschichte in Bayern (1930), S.114-116.</ref>、社会を映す[[鏡]]という意味で「ミラー」(『[[デイリー・ミラー]]』など)といった言葉が選ばれている<ref>[https://kotobank.jp/word/Spiegel-1241615]</ref>。 == 制作過程 == [[File:Web-fed offset press printing newspapers.jpg|thumb|right|240px|[[輪転印刷機]]による印刷の様子]] 新聞の制作過程は、おおむね下記のようになっている。 # 企画・構想 # 取材・撮影 # 記事執筆 # 原稿チェック # 校閲 - レイアウト後の場合がある。 # レイアウト - 見出し制作・価値判断も行われる。 # 編集・割付・組版 # 校正 # フィルム・刷版制作 # 印刷 # 梱包・発送 新聞の製作は、まず[[記者]]が取材を行い記事を書くところから始まる。その日に起こった事件を速報しニュースとする場合は直接取材・撮影を行うが、特集記事や[[調査報道]]などの場合はまず企画を立て、それに基づいて調査や取材を行う。政府や企業からは[[プレスリリース]]や[[記者会見]]が行われ新聞に情報が提供されるが、このほかに独自の取材も行われる。新聞社の編集局内には[[政治部記者|政治部]]、[[社会部]]、文化部、経済部などさまざまな部署が存在し、それぞれ決められた分野の取材を行い記事を作成する<ref>『新訂 新聞学』 p178 桂敬一・田島泰彦・浜田純一編著 日本評論社 2009年5月20日新訂第1刷</ref>。こうした記者作成の自社記事のほかに、自社の取材の及ばない部分を中心に[[通信社]]から配信される記事を利用することも行われる<ref>『新訂 新聞学』 p179 桂敬一・田島泰彦・浜田純一編著 日本評論社 2009年5月20日新訂第1刷</ref>。 出来上がった原稿はチェックと推敲を受けたのちに編集会議にかけられ、[[整理記者|整理部]]によって紙面の編集やレイアウトがなされる。その後さらに校閲が行われ、校了するとデータが印刷工場に送られる<ref>http://kyoiku.yomiuri.co.jp/mt_images/yomiurinie2012_17.pdf 「読売新聞ができるまで」読売教育ネットワーク 2019年3月23日閲覧</ref>。印刷工場では[[輪転印刷機]]によって新聞紙に印字され<ref name="名前なし-pZzR-1">「トコトンやさしい紙と印刷の本」(今日からモノ知りシリーズ)p72 前田秀一 日刊工業新聞社 2018年12月19日初版1刷発行</ref>、印刷された新聞は工場から発送されて[[新聞販売店]]やスタンドへと送られる。日本の場合、販売店から[[新聞配達]]が行われ、各家庭へと新聞が届けられることがほとんどである{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=117-118}}。 == 新聞印刷 == スピードが要求される新聞印刷では一般印刷業界に先駆けて新技術が導入されたが、多色印刷には制約となり一般印刷業界よりも導入が遅れた<ref name="fukada" />。 1868年に『タイムズ』紙が巻取紙方式の[[輪転印刷機]]を採用して以来、新聞の印刷は大量・高速印刷が可能な輪転印刷機によって行われている<ref name="fukada" />。20世紀前半の新聞印刷では、活字組版から紙型を作り、鉛を鋳込んで[[鉛版]]を作り、凸版輪転機にかける方法が唯一の紙面制作方式だった<ref name="fukada" />。 新聞の製作・印刷過程は、20世紀後半以降技術革新によって大幅に機械化・効率化が進んだ{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=114-115}}。1980年代初頭に感光性樹脂板が開発され、1980年代後半には[[Computer Typesetting System|CTS]]が導入された<ref name="fukada" />。日本では1970年代以降、コスト削減を目的として全国紙の新聞印刷工場の地方分散が進められた{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=117}}。2000年代に入ると高コストの印刷工場の別会社化が急速に進められ、2006年には全国紙の印刷はすべて別会社となった。また同時に、全国紙の地方紙への委託印刷も盛んに行われるようになった<ref>『新訂 新聞学』 p295-296 桂敬一・田島泰彦・浜田純一編著 日本評論社 2009年5月20日新訂第1刷</ref>。記事を印字する新聞紙は、印刷と輸送の都合上、軽量かつ印刷時に途切れないほどの引っ張り強度が求められる<ref name="名前なし-pZzR-1"/>。 == 世界の現況 == {{Main|世界の新聞}} {{See also|新聞一覧|Category:各国の新聞}} 新聞は世界中で発行されているものの、普及率は地域的に大きく差があり、アメリカやヨーロッパ諸国、日本といった先進諸国では普及率が高く、発展途上国ではあまり普及が進んでいなかった{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=206}}。しかし、2000年ごろから経済成長の続くアジア、なかでも[[インド]]や[[中国]]で新聞販売数が増加し、[[2007年]]には新聞の発行部数の1位が中国、2位がインドとなった<ref name="名前なし-7">「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p44 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>。なかでもインドは経済成長によって新聞の販売数は増加傾向にあり、インターネットによって押されている他国の新聞業界とは対照をなしている<ref>{{PDFlink|[https://www.jetro.go.jp/ext_images/theme/bop/precedents/pdf/lifestyle_mass-media_in_newdelhi.pdf 「マスメディア事情」]}} JETRO 2013年 2019年3月24日閲覧</ref>。インドの新聞業界の特徴としては公用語である英語の他に、各地方の言語での新聞出版が非常に盛んであることで、なかでも北部インドの主要言語である[[ヒンディー語]]での新聞発行は比率・部数とも増加している。ただし、英語新聞も割合こそ減少しているものの部数自体は増加している<ref>『新訂 新聞学』 p102-104 桂敬一・田島泰彦・浜田純一編著 日本評論社 2009年5月20日新訂第1刷</ref>。 アメリカやヨーロッパでは新聞の収入の8割が広告からのものとなっており<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p273 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>、販売収入が主力となっている日本とは異なる収益構造を持っている。インターネットの普及を受けてアメリカやヨーロッパでは発行部数の漸減が続いており、なかでも減少傾向の激しいアメリカにおいては2009年に『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が巨額の赤字を出し、本社社屋の売却などのリストラを進めている<ref name="名前なし-8">「メディアとジャーナリズムの理論 基礎理論から実践的なジャーナリズム論へ」p210 仲川秀樹・塚越孝著 同友館 2011年8月22日</ref>ほか、[[2009年]]には[[ボストン]]の『[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]』紙が日刊紙の発行を取りやめオンライン専業へと移行する<ref name="名前なし-8"/>など、新聞社の規模縮小や廃業が相次ぐようになっている。ヨーロッパにおいては無料紙が急伸し、2007年には欧州の日刊紙の総発行部数の23%を占めるまでになった<ref name="名前なし-7"/>。 == 日本の新聞 == {{Main|日本の新聞}} 日本では新聞購読率が高く、[[新聞販売店]]による新聞の戸別宅配制度が他国に類をみないほど発達している。またその文化的な役割が重要視され、[[再販売価格維持|再販制度]]によって価格の保護がなされたり、2019年からの[[消費税]]率10%引き上げに対し定期購読新聞に関しては[[軽減税率]]を適用し8%に据え置くなど、さまざまな保護政策が行われてきた<ref>「よくわかるメディア法 第2版」p226-227 鈴木秀美・山田健太編著 ミネルヴァ書房 2019年5月30日第2版第1刷発行</ref>。こうしたことから日本の新聞発行部数は人口に比して非常に多く、率としても[[北欧]]諸国と並ぶ世界有数の高普及率を誇ってきた{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=111-112}}。新聞社の収入に関しても、平均で販売収入が52.7%、広告収入が30.8%(2006年)となっており、広告収入より販売収入の方がやや主となっている{{sfn|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)|p=107-109}}。 また、日本の特徴として、[[クロスオーナーシップ (メディア)|クロスオーナーシップ]]制度による新聞社のテレビ・ラジオ局支配がある。首都圏を放送地域とする東京所在の[[在京テレビジョン放送局]]を[[キー局]]とする5つの全国ニュースネットワークは、濃淡の差こそあれ、例外なく大手新聞社との協力関係を持ち、世論調査などでの合同取材を行っている。大都市圏以外で多く見られる、一つの県における地域新聞社として圧倒的な発行部数を持つ「県紙」もほぼ例外なく、当該県を放送エリアとするテレビ・ラジオ局を所有するほか<ref>ラジオ局の場合、特に旧AMラジオ局では、県紙が出資する放送局が県内唯一の放送局である場合が多い。</ref>、自社以外の県域テレビ局にもニュースを配信することで影響力を維持している。これらの協力関係は株式所有を伴うことも多く、相対的に経営状況が厳しい新聞社にとってはテレビ局の収益に伴い発生する株式配当や含み資産の増大が経営を支えている。 しかし、2000年代のインターネット普及とインターネットメディアの発達により、若年層のみならず中高年層も含め(世界的な傾向として)新聞離れが進行している。総発行部は、1997年の5,377万部をピーク2022年には3,084万部に<ref>(社)日本新聞協会「新聞発行部数調査」</ref>、広告費も1990年の13,592億円から2021年の3,815億円に<ref>電通「日本の広告費」</ref>減少していて、その経営環境は厳しさを増している。また、読者が新聞を読む時間も1995年から2010年にかけての調査では減少傾向にある<ref>「メディアと日本人」p64 橋元良明 岩波新書 2011年3月18日第1刷</ref>。各新聞社は記事のネット配信に力を入れつつあり、[[日本経済新聞]]の日経電子版のように一定の会員数を確保しているメディアも存在しているが、全体として成功しているとは言いがたい<ref>「よくわかるメディア法 第2版」p243 鈴木秀美・山田健太編著 ミネルヴァ書房 2019年5月30日第2版第1刷発行</ref>。一部に[[フリーペーパー]]に注目する向きもあるが、収益のほとんどを広告収入に依存するフリーペーパーの経営は苦しいところが多く、21世紀になってから廃刊が相次いでおり、新聞に代わる主要メディアとしての地位を得ることは難しいと言われている。 == オンライン新聞 == [[インターネット]]黎明期の[[1993年]]にはすでに新聞社が[[ホームページ]]を開設してニュースを配信することが行われ始め、[[1995年]]には日本でも[[オンライン新聞]]の発行が開始された<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p17 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>。以後、世界の大新聞社のほとんどがウェブ上でのニュース配信を開始し、[[ニュースサイト]]のひとつとしてオンライン上の新聞は成長を遂げた。また、アメリカの報道大手により携帯型端末[[iPad]]専用の有料新聞も発刊されることになった<ref>2011年2月3日の朝日新聞朝刊11面</ref>。一部の欧米の新聞社はオンライン新聞の普及に伴い、記事を公開するタイミングについて紙媒体よりもウェブ媒体を優先させる[[ウェブ・ファースト]]と呼ばれる方針を打ち出し始めた<ref>「メディア激震 グローバル化とIT革命の中で」p79 古賀純一郎 NTT出版 2009年7月2日初版第1刷</ref>。 オンライン新聞は無料のものも多いが、収入につなげるために新聞社が有料会員を募って記事を配信する有料化も進んできており、2015年には日本の全国紙5紙すべてで有料オンライン版の発行が開始された<ref>[https://diamond.jp/articles/-/73029 「無料で良質なネットニュースが読める時代は終わる」] 奥村倫弘 ダイヤモンド・オンライン 2015.6.11 2019年3月24日閲覧</ref>。 [[ウィキニュース]]もオンライン新聞のひとつとされる。大新聞社の発行するもののほかに、インターネット上の[[市民ジャーナリズム]]のひとつとしてオンライン新聞に期待する向きもあり、実際に[[JANJAN]]などいくつかのメディアが創刊されたものの利用が伸びず、[[2010年]]ごろには日本ではほとんどの市民メディアが閉鎖に追い込まれた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXBZO04115930V10C10A3000001/ 「「市民メディア」の失敗をマスメディアは教訓にできるか」] 藤代裕之 日本経済新聞 2010/3/12 2019年3月21日閲覧</ref>。 == 発行部数の順位 == 以下のデータは、[[世界新聞協会]]の「World Press Trends 2019」に準拠した有料新聞各紙の発行部数の上位9紙である<ref>世界新聞協会発表データより</ref>。 {| class="wikitable sortable" ! style="font-weight: bold;" | 新聞 ! style="font-weight: bold;" | 国 ! style="font-weight: bold;" | 言語 ! style="text-align: right; font-weight: bold;" |部数(1000部) |- | [[読売新聞]] | {{JPN}} | [[日本語]] | style="text-align: right;" | 8,115 |- | [[朝日新聞]] | {{JPN}} | 日本語 | style="text-align: right;" | 5,604 |- | {{enlink|Dainik Bhaskar|i=on|p=off|s=off}} | {{IND}} | [[ヒンディー語]] | style="text-align: right;" | 4,321 |- | [[参考消息]] | {{CHN}} | [[中国語]] | style="text-align: right;" | 3,749 |- | {{仮リンク|ダイニック・ジャグラン|en|Dainik Jagran}} | {{IND}} | ヒンディー語 | style="text-align: right;" | 3,410 |- | [[人民日報]] | {{CHN}} | 中国語 | style="text-align: right;" | 3,180 |- | [[毎日新聞]] | {{JPN}} | 日本語 | style="text-align: right;" | 2,452 |- | {{enlink|Malayala Manorama|i=on|p=off|s=off}} | {{IND}} | [[マラヤーラム語]] | style="text-align: right;" | 2,370 |- | [[日本経済新聞]] | {{JPN}} | 日本語 | style="text-align: right;" | 2,347 |} == その他 == * [[図書館]]などの公共施設で新聞が閲覧に供される場合にはクリップホルダー(長い綴じ具)に挟んで「'''新聞架'''」と呼ばれる専用ラックに載せることが多い。 * 新聞の創刊号からの通算の号数(あるいは創刊年からの通算年数)を「'''紙齢'''(しれい)」という。 * [[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[し]]」を送る際に「'''新聞のシ'''」という。 * 東宝特撮映画では怪獣襲撃や怪事件のとき「毎朝新聞」など架空の新聞名に現実の事件を織り混ぜながらその事件をトップ記事にした架空の新聞を印刷した。なべやかんを初め特撮ファンは収集している。 * [[河内音頭]]で時事ネタを扱った唄である『新聞詠み』の新聞は「しんもん」と読む。 * 無線通信が実用化されると[[クルーズ客船]]では陸上から受信したニュースを纏めた「船内新聞」が発行されることもあった。日本では初めて陸上と交信可能になった[[天洋丸級貨客船|天洋丸]]において日本の出来事を新聞形式で乗客に知らせていた。 == ギャラリー == <gallery> Image:Street Scene - Salta - Argentina.jpg|売店販売 File:Man reading Las Últimas Noticias.jpg|現代文明社会では、多くの人々にとって安価で多様な情報を入手するための有力な手段である File:Moffitt Library main entrance newspaper display boards 3.JPG|大学図書館前に掲出される新聞 File:Distributing newspaper extra 2 20100602.jpg|市中で「号外」を配布している様子 File:NYC subway riders with their newspapers.jpg|列車内で読んでいる様子 File:Lisboa - Newspapers (1261040258).jpg|さまざまな新聞([[リスボン]]) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== * {{Cite book|和書|author=清水英夫, 林伸郎, 武市英雄, 山田健太 |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000010191203 |title=マス・コミュニケーション概論 |publisher=学陽書房 |year=2009 |edition=新版 |NCID=BA90079522 |ISBN=9784313410527 |id={{全国書誌番号|21608767}} |ref={{harvid|『新版 マス・コミュニケーション概論』(2009)}}}} * {{Cite book|和書|author=藤竹暁 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007928686-00 |title=図説日本のマスメディア |publisher=日本放送出版協会 |year=2005 |edition=第2版 |series=NHKブックス |NCID=BA73512437 |ISBN=9784140910399 |id={{全国書誌番号|20898056}} |ref={{harvid|『図説日本のマスメディア』}}}} == 関連項目 == {{Sisterlinks|commons=Newspaper}} * [[新聞一覧]] * [[日本の新聞一覧]] * [[廃刊になった日本の新聞一覧]] * {{仮リンク|最も古い新聞の一覧|en|List of the oldest newspapers}} * {{仮リンク|全国紙の一覧|en|List of national newspapers}} * [[新聞配達]] * [[新聞販売店]] * [[新聞拡張団]] * [[号外]] * [[切り抜き帳]] * [[活字離れ]] * [[壁新聞]] * {{仮リンク|記録新聞|en|Newspaper of record}} * [[瓦版]] == 外部リンク == * {{kotobank|新聞|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} * [https://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/publishments/issrs/issrs/pdf/issrs_48.pdf 戦間期日本の新聞産業] 加瀬和俊編、東京大学社会科学研究所研究シリーズ No. 48、東京大学社会科学研究所、2011年 {{日本の主な新聞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんふん}} [[Category:新聞|*]] [[Category:紙製品]] [[Category:印刷物]]
2003-02-15T09:02:26Z
2023-12-04T22:46:54Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
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気象学
気象学(、英: meteorology)は、地球の大気で起こる諸現象(気象)や個々の流体現象を研究する学問。自然科学あるいは地球科学の一分野。 気象を長期的な傾向から、あるいは地理学的観点から研究する気候学は、気象学の一分野とされる場合もあるが、並列する学問とされる場合もある。現代では気象学と気候学をまとめて大気科学(英: atmospheric science)と呼ぶこともある。 なお、天気予報(気象予報)は、将来の大気の状態の予測という実用に特化した分野である。 気象は生活との関わりが深い現象であり、気象の研究は古代文明より行われてきた。よく知られているものとして、古代ギリシャのアリストテレスの著書『気象論』Meteorologica がある。この中で気象や彗星・流星などを研究する学問をMeteorologicaとしており、四大元素説に基づいて天候の仕組みを論じている。古代中国でも、『淮南子』において陰陽説に基づく雷の原理が論じられている。古代インドでは、ヴァラーハミヒラらが気象の条件を論じた。しかし、この頃の気象の予測の根拠は経験則などを基にした観天望気であり、科学的な観測はまだほとんど行われなかった。中世に入ってから、主にイスラム圏の科学者によって科学的な推論が行われた。 17世紀にはトリチェリが制作した気圧計によって気圧変化と天候の変化の関連性が発見され、ガリレオ・ガリレイが発明したとされる温度計もこの頃改良され実用化した。このような測定器の発明によって科学的な気象観測が始まり、近代気象学も発達し始める。エドモンド・ハレーは1686年、航海記録から風の地図を作成して貿易風と季節風にあたる風を発見した。ジョージ・ハドレー(英語版)は1735年に、貿易風は熱帯が太陽の熱を多く受けることと地球の自転の力によって生じるとの説を発表し、これが後のハドレー循環の発見につながる。 19世紀には科学的な天気予報が成立する。1820年にハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデス(英語版)が初めて天気図を作り気圧配置と天気の関係を明らかにした。1837年に実用化された電信によって、気象観測データを瞬時に集めることが技術的に可能になる。ただこれはなかなか実現せず、1845年に初めてジョセフ・ヘンリーの主導でスミソニアン協会が運営するアメリカの気象観測網ができた。1854年にはイギリス商務省の中にロバート・フィッツロイを長とする海の気象観測を担当する組織が発足し、同年にイギリス気象庁として分立される(世界初の国家気象機関)。1860年には、タイムズ紙面上に毎日の天気予報が掲載され、暴風が予想されるときは港に警報を出して出港を制限するようになった。1863年には、ユルバン・ルヴェリエがパリ天文台においてヨーロッパの毎日の天気図の発行を始め、彼の進言によって天気図を用いた天気予報(現在で言う総観スケールの予報)が検討され始める。その後インド気象局(1875年)、フィンランド気象研究所(1881年)、気象庁(1883年)、アメリカ国立気象局(1890年)、オーストラリア気象局(1904年)など各国で気象機関が設立される。 この頃にも気象学は発展を続けていく。1835年ガスパール=ギュスターヴ・コリオリは回転座標系における回転体の運動方程式、つまり自転している地球上での風の運動を記述する方程式を発表する。19世紀後半には、気圧傾度力とコリオリの力によって風が等圧線に沿って吹くことが理論的に証明される。1920年頃には、ヴィルヘルム・ビヤークネスらの研究グループによってノルウェー学派モデルが提唱され、寒帯前線と絡めた気団論、温帯低気圧や前線の発達過程が初めて示された。また同研究グループのロスビーは後に大気波の一種であるロスビー波を発見するなど流体力学で業績を残し、トール・ベルシェロンは1933年に雨の発生原理のひとつである「氷晶説(現在の「冷たい雨」の原理)」を発表するなどしている。 この頃、地上や海上で行われていた気象観測が上空にも拡大し始める。気球やロケットなどで上空の大気現象を観測し研究する高層気象学は、高層観測が主流でなかった20世紀初頭までは独立した分野を確立していた。しかし、一般化してからはその意義を失い一般的な気象学と融合していった。 1922年、ルイス・フライ・リチャードソンは著書の中で数学的に天候の変化をすることは可能だと述べ、実際に計算を行ったが膨大な量と精度の問題から実用には程遠いものであった。1949年にチャーニーは数値予報に初めて成功し、1950年代にはコンピュータによって単純なモデルで大気の物理現象を計算することが可能となり、様々なシミュレーションが試みられるようになった。その中でエドワード・ローレンツは計算結果のカオス的振る舞い(バタフライ効果)を発見し、後のアンサンブル予報と呼ばれる不確実性を少なくする予報手法へとつながっていく。1955年にアメリカ国立気象局、1959年に気象庁が数値予報を導入したが、スピードや精度はまだ低かった。これ以降もコンピュータの発達によって計算量・スピードは改善していった。 日本には自然観察に基づく経験則によって生み出された農事暦などは存在したが、体系的な気象学が入ってくるのは、江戸時代後期以後である。とはいえ、全くそれ以前に気象学が無かったわけではなく、西洋の気象学は部分的ながら戦国時代に宣教師を通じて流入していた。山鹿素行は風が地表を移動する空気の流れである事には気づいていた。これは西洋で気象学が盛んになる前の発見であったが、彼の関心は軍学の一環としての物であり、独自の学問としては発達しなかった。蘭学の流入以後、わずかながら気象の動きに興味を抱く人も出てきて、柳沢信鴻や司馬江漢のように気象の状況について詳細な記録を残す人も登場した。土井利位が自ら顕微鏡で観察した雪についての研究書である『雪華図説』はよく知られている。 天保年間以後江戸幕府天文方で気象観測が行われるようになり、安政4年には伊藤慎蔵によって本格的な気象書の翻訳である『颶風新話』が刊行された。なお、meteorologyを「気象学」と訳した最初の文献は明治6年の『英和字彙』である。2年後、東京気象台が設置され、明治17年には天気予報が開始、明治20年には中央気象台が発足されるとともに気象台測候所条例が制定され、日本の気象学が本格的に勃興することになる。 ヨーロッパ、アメリカなどの先進国の気象学と日本の気象学は、異なる発達過程を経てきている。これは地理的に離れていることで学者の交流が少ないことに加えて、台風や梅雨、日本海側の大雪などの独特の気象によって研究対象が違ったことが要因である。 現代気象学の基礎は地道な観測によって作られた。19世紀中盤に計器による定点気象観測が始まって以来、1世紀以上の間人の手による観測が続けられていたが、20世紀後半に自動観測(テレメータによる測定)が普及して観測が容易になった。海洋では気象観測船が海洋気象ブイに取って代わり、上空ではまず気象レーダー、その後1970年代・1980年代から気象衛星によって雲や降水のリアルタイム観測が可能となり、現在の気象予報に不可欠なものとして活用されている。 こうした観測技術の発達による既知の現象の解明や新たな発見によって、気象学は現在も発達し続けており、様々な分野が生まれてきている。特に、熱帯低気圧や竜巻、寒波、熱波、旱魃などの災害をもたらすような気象や、エルニーニョ・南方振動(ENSO)などの気候パターンに対しては関心が高く、活発な研究が行われている。また、オゾンホール、大気汚染や気候変動(地球温暖化)などの地球環境問題も気象学に関係が深く、多くの気象学者が研究に携わっている。 一方で、気象を扱う業務(気象業務)のうち天気予報などは日常の一部となっていて、研究機関のみが扱うのではなく民間でも行うことができ(アメリカ、日本など)、各国でその形態は異なるものの、気象産業と呼ばれるものが出現している。また、開発途上で今後の普及が予想されるスマートグリッドや再生可能エネルギー導入・省エネルギーに関して、発電量予測や需要予測などに関わる気象予報のニーズは高いと見込まれている。 気象学の研究の中では、人工降雨などの気象制御の試みも行われてきた。究極的には、気象を制御して災害を低減することが考えられるが、技術的な問題から大規模な実用化はされていない。また、倫理的な問題や、果たして複雑な気象システムを制御できるのかという問題も横たわっている。 気象に関わる人物は、気象を研究する気象学者と、気象予報の業務に携わる者の2種に大きく分けられる。 気象学者は主に大学や大学院などの地球科学関連の領域で研究を行っているほか、国など公的な気象機関で研究を行う例もある。参考として、日本気象学会の会員は2012年3月末時点で約3,700名である。 予報業務に関しては、日本では1993年に創設された国家資格である気象予報士が行うのが一般的であり、予報業務を行う民間事業者は必ず気象予報士を置くことが、気象業務法で義務付けられている。また、テレビ放送などでは「お天気キャスター」と呼ばれるリポーターが天気を伝えることがある。 気象現象は、空間的な規模(スケール)によって現象を支配する物理法則や環境が少しずつ異なっている。また、それぞれの現象のスケールの大小は、継続時間の長短とも対応している。こうしたことから、気象学もスケール毎に分化している。
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"17世紀にはトリチェリが制作した気圧計によって気圧変化と天候の変化の関連性が発見され、ガリレオ・ガリレイが発明したとされる温度計もこの頃改良され実用化した。このような測定器の発明によって科学的な気象観測が始まり、近代気象学も発達し始める。エドモンド・ハレーは1686年、航海記録から風の地図を作成して貿易風と季節風にあたる風を発見した。ジョージ・ハドレー(英語版)は1735年に、貿易風は熱帯が太陽の熱を多く受けることと地球の自転の力によって生じるとの説を発表し、これが後のハドレー循環の発見につながる。", "title": "気象学の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "19世紀には科学的な天気予報が成立する。1820年にハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデス(英語版)が初めて天気図を作り気圧配置と天気の関係を明らかにした。1837年に実用化された電信によって、気象観測データを瞬時に集めることが技術的に可能になる。ただこれはなかなか実現せず、1845年に初めてジョセフ・ヘンリーの主導でスミソニアン協会が運営するアメリカの気象観測網ができた。1854年にはイギリス商務省の中にロバート・フィッツロイを長とする海の気象観測を担当する組織が発足し、同年にイギリス気象庁として分立される(世界初の国家気象機関)。1860年には、タイムズ紙面上に毎日の天気予報が掲載され、暴風が予想されるときは港に警報を出して出港を制限するようになった。1863年には、ユルバン・ルヴェリエがパリ天文台においてヨーロッパの毎日の天気図の発行を始め、彼の進言によって天気図を用いた天気予報(現在で言う総観スケールの予報)が検討され始める。その後インド気象局(1875年)、フィンランド気象研究所(1881年)、気象庁(1883年)、アメリカ国立気象局(1890年)、オーストラリア気象局(1904年)など各国で気象機関が設立される。", "title": "気象学の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この頃にも気象学は発展を続けていく。1835年ガスパール=ギュスターヴ・コリオリは回転座標系における回転体の運動方程式、つまり自転している地球上での風の運動を記述する方程式を発表する。19世紀後半には、気圧傾度力とコリオリの力によって風が等圧線に沿って吹くことが理論的に証明される。1920年頃には、ヴィルヘルム・ビヤークネスらの研究グループによってノルウェー学派モデルが提唱され、寒帯前線と絡めた気団論、温帯低気圧や前線の発達過程が初めて示された。また同研究グループのロスビーは後に大気波の一種であるロスビー波を発見するなど流体力学で業績を残し、トール・ベルシェロンは1933年に雨の発生原理のひとつである「氷晶説(現在の「冷たい雨」の原理)」を発表するなどしている。", "title": "気象学の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この頃、地上や海上で行われていた気象観測が上空にも拡大し始める。気球やロケットなどで上空の大気現象を観測し研究する高層気象学は、高層観測が主流でなかった20世紀初頭までは独立した分野を確立していた。しかし、一般化してからはその意義を失い一般的な気象学と融合していった。", "title": "気象学の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1922年、ルイス・フライ・リチャードソンは著書の中で数学的に天候の変化をすることは可能だと述べ、実際に計算を行ったが膨大な量と精度の問題から実用には程遠いものであった。1949年にチャーニーは数値予報に初めて成功し、1950年代にはコンピュータによって単純なモデルで大気の物理現象を計算することが可能となり、様々なシミュレーションが試みられるようになった。その中でエドワード・ローレンツは計算結果のカオス的振る舞い(バタフライ効果)を発見し、後のアンサンブル予報と呼ばれる不確実性を少なくする予報手法へとつながっていく。1955年にアメリカ国立気象局、1959年に気象庁が数値予報を導入したが、スピードや精度はまだ低かった。これ以降もコンピュータの発達によって計算量・スピードは改善していった。", "title": "気象学の歴史" }, { "paragraph_id": 9, 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"現代気象学の基礎は地道な観測によって作られた。19世紀中盤に計器による定点気象観測が始まって以来、1世紀以上の間人の手による観測が続けられていたが、20世紀後半に自動観測(テレメータによる測定)が普及して観測が容易になった。海洋では気象観測船が海洋気象ブイに取って代わり、上空ではまず気象レーダー、その後1970年代・1980年代から気象衛星によって雲や降水のリアルタイム観測が可能となり、現在の気象予報に不可欠なものとして活用されている。", "title": "現在の気象学・気象業務" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "こうした観測技術の発達による既知の現象の解明や新たな発見によって、気象学は現在も発達し続けており、様々な分野が生まれてきている。特に、熱帯低気圧や竜巻、寒波、熱波、旱魃などの災害をもたらすような気象や、エルニーニョ・南方振動(ENSO)などの気候パターンに対しては関心が高く、活発な研究が行われている。また、オゾンホール、大気汚染や気候変動(地球温暖化)などの地球環境問題も気象学に関係が深く、多くの気象学者が研究に携わっている。", "title": "現在の気象学・気象業務" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方で、気象を扱う業務(気象業務)のうち天気予報などは日常の一部となっていて、研究機関のみが扱うのではなく民間でも行うことができ(アメリカ、日本など)、各国でその形態は異なるものの、気象産業と呼ばれるものが出現している。また、開発途上で今後の普及が予想されるスマートグリッドや再生可能エネルギー導入・省エネルギーに関して、発電量予測や需要予測などに関わる気象予報のニーズは高いと見込まれている。", "title": "現在の気象学・気象業務" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "気象学の研究の中では、人工降雨などの気象制御の試みも行われてきた。究極的には、気象を制御して災害を低減することが考えられるが、技術的な問題から大規模な実用化はされていない。また、倫理的な問題や、果たして複雑な気象システムを制御できるのかという問題も横たわっている。", "title": 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気象学(きしょうがく、は、地球の大気で起こる諸現象や個々の流体現象を研究する学問。自然科学あるいは地球科学の一分野。 気象を長期的な傾向から、あるいは地理学的観点から研究する気候学は、気象学の一分野とされる場合もあるが、並列する学問とされる場合もある。現代では気象学と気候学をまとめて大気科学と呼ぶこともある。 なお、天気予報は、将来の大気の状態の予測という実用に特化した分野である。
{{出典の明記|date=2016年4月17日 (日) 02:45 (UTC)}} [[File:Cyclone Catarina from the ISS on March 26 2004.JPG|thumb|300px|宇宙からの[[気象観測]]([[国際宇宙ステーション]]より[[サイクロン]]を撮影)]] {{読み仮名|'''気象学'''|きしょうがく|{{lang-en-short|meteorology}}}}は、[[地球の大気]]で起こる諸現象([[気象]])や個々の流体現象を研究する学問。[[自然科学]]あるいは[[地球科学]]の一分野。 気象を長期的な傾向から、あるいは[[地理学]]的観点から研究する{{要出典|範囲='''[[気候学]]'''は、気象学の一分野とされる場合もあるが|date=2020年2月}}、並列する学問とされる場合もある。現代では気象学と気候学をまとめて'''[[大気科学]]'''({{lang-en-short|atmospheric science}})と呼ぶこともある。 なお、[[天気予報]](気象予報)は、将来の大気の状態の予測という実用に特化した分野である。 == 気象学の歴史 == [[ファイル:Storm Glass General View.jpg|thumb|right|150px|19世紀にヨーロッパで天気の予測に用いられた[[ストームグラス]]]] 気象は[[生活]]との関わりが深い現象であり、気象の研究は[[古代文明]]より行われてきた。よく知られているものとして、古代ギリシャの[[アリストテレス]]の著書『[[気象論 (アリストテレス)|気象論]]』''Meteorologica'' がある。この中で気象や[[彗星]]・[[流星]]などを研究する学問を''Meteorologica''としており、[[四大元素]]説に基づいて天候の仕組みを論じている。古代中国でも、『[[淮南子]]』において[[陰陽説]]に基づく[[雷]]の原理が論じられている。古代インドでは、[[ヴァラーハミヒラ]]らが気象の条件を論じた。しかし、この頃の気象の予測の根拠は経験則などを基にした[[観天望気]]であり、科学的な観測はまだほとんど行われなかった。中世に入ってから、主にイスラム圏の科学者によって科学的な推論が行われた。 17世紀には[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ|トリチェリ]]が制作した[[気圧計]]によって[[気圧]]変化と天候の変化の関連性が発見され、[[ガリレオ・ガリレイ]]が発明したとされる[[温度計]]もこの頃改良され実用化した。このような測定器の発明によって科学的な[[気象観測]]が始まり、近代気象学も発達し始める。[[エドモンド・ハレー]]は1686年、航海記録から風の地図を作成して[[貿易風]]と[[季節風]]にあたる風を発見した。{{仮リンク|ジョージ・ハドレー|en|George Hadley}}は1735年に、貿易風は[[熱帯]]が太陽の熱を多く受けることと[[地球]]の[[自転]]の力によって生じるとの説を発表し、これが後の[[ハドレー循環]]の発見につながる。 19世紀には科学的な[[天気予報]]が成立する。1820年に{{仮リンク|ハインリッヒ・ウィルヘルム・ブランデス|en|Heinrich Wilhelm Brandes}}が初めて[[天気図]]を作り[[気圧配置]]と天気の関係を明らかにした。1837年に実用化された電信によって、気象観測データを瞬時に集めることが技術的に可能になる<ref>Library of Congress. [http://memory.loc.gov/ammem/sfbmhtml/sfbmtelessay.html The Invention of the Telegraph.] Retrieved on 2009-01-01.</ref>。ただこれはなかなか実現せず、1845年に初めて[[ジョセフ・ヘンリー]]の主導で[[スミソニアン協会]]が運営するアメリカの気象観測網ができた。1854年にはイギリス商務省の中に[[ロバート・フィッツロイ]]を長とする海の気象観測を担当する組織が発足し、同年に[[イギリス気象庁]]として分立される(世界初の国家気象機関)。1860年には、タイムズ紙面上に毎日の天気予報が掲載され、[[暴風]]が予想されるときは港に警報を出して出港を制限するようになった。1863年には、[[ユルバン・ルヴェリエ]]が[[パリ天文台]]においてヨーロッパの毎日の天気図の発行を始め、彼の進言によって天気図を用いた天気予報(現在で言う総観スケールの予報)が検討され始める。その後[[インド気象局]](1875年)<ref>India Meteorological Department [http://www.imd.gov.in/doc/history/eastablishment-of-imd.htm Establishment of IMD.] Retrieved on 2009-01-01.</ref>、[[フィンランド気象研究所]](1881年)<ref>Finnish Meteorological Institute. [http://www.fmi.fi/organization/history.html History of Finnish Meteorological Institute.] Retrieved on 2009-01-01.</ref>、[[気象庁]](1883年)<ref>Japan Meteorological Agency. [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html History.] Retrieved on 2021-03-24.</ref>、[[アメリカ国立気象局]](1890年)、[[オーストラリア気象局]](1904年)<ref name="ABC">{{Cite web|url=http://www.abc.net.au/news/stories/2008/01/01/2129737.htm |title=BOM celebrates 100 years |publisher=[[オーストラリア放送協会]] |accessdate=2008-01-01}}</ref><ref>{{Cite web|title=Collections in Perth: 20. Meteorology |publisher=National Archives of Australia |date= |url=http://www.naa.gov.au/naaresources/Publications/research_guides/guides/perth/chapter20.htm |accessdate=2008-05-24}}</ref>など各国で気象機関が設立される。 この頃にも気象学は発展を続けていく。1835年[[ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]]は回転座標系における回転体の運動方程式、つまり自転している地球上での風の運動を記述する方程式を発表する<ref name=corps>{{Cite journal|author=G-G Coriolis |title=Sur les équations du mouvement relatif des systèmes de corps |journal= J. De l'Ecole royale polytechnique |volume=15 |pages= 144–154 |year=1835}}</ref>。19世紀後半には、[[気圧傾度力]]と[[コリオリの力]]によって風が[[等圧線]]に沿って吹くことが理論的に証明される。1920年頃には、[[ヴィルヘルム・ビヤークネス]]らの研究グループによって[[温帯低気圧#ノルウェー学派モデル|ノルウェー学派モデル]]が提唱され、[[寒帯前線]]と絡めた[[気団]]論、温帯低気圧や[[前線 (気象)|前線]]の発達過程が初めて示された<ref name="NorCycMod">Shaye Johnson. [http://weather.ou.edu/~metr4424/Files/Norwegian_Cyclone_Model.pdf#search=%22norwegian%20cyclone%20model%22 The Norwegian Cyclone Model.] Retrieved on 2006-10-11.</ref>。また同研究グループの[[カール=グスタフ・ロスビー|ロスビー]]は後に[[大気波]]の一種である[[ロスビー波]]を発見するなど[[流体力学]]で業績を残し、[[トール・ベルシェロン]]は1933年に雨の発生原理のひとつである「[[降水過程#冷たい雨|氷晶説]](現在の「冷たい雨」の原理)」を発表するなどしている。 この頃、地上や海上で行われていた気象観測が上空にも拡大し始める。気球やロケットなどで上空の大気現象を観測し研究する高層気象学は、高層観測が主流でなかった20世紀初頭までは独立した分野を確立していた。しかし、一般化してからはその意義を失い一般的な気象学と融合していった。 1922年、[[ルイス・フライ・リチャードソン]]は著書の中で数学的に天候の変化をすることは可能だと述べ、実際に計算を行ったが膨大な量と精度の問題から実用には程遠いものであった。1949年に[[ジュール・グレゴリー・チャーニー|チャーニー]]は[[数値予報]]に初めて成功し、1950年代にはコンピュータによって単純なモデルで大気の物理現象を計算することが可能となり、様々なシミュレーションが試みられるようになった<ref>{{cite book|title=Storm Watchers|page=208|year=2002|author=Cox, John D.|publisher=John Wiley & Sons, Inc.|ISBN=047138108X}}</ref>。その中で[[エドワード・ローレンツ]]は計算結果の[[カオス理論|カオス]]的振る舞い([[バタフライ効果]])を発見し、後の[[アンサンブル予報]]と呼ばれる不確実性を少なくする予報手法へとつながっていく<ref>Edward N. Lorenz, "Deterministic non-periodic flow", ''Journal of the Atmospheric Sciences'', vol.&nbsp;20, pages 130–141 (1963).</ref><ref name="HPCens">{{cite web|url=http://www.hpc.ncep.noaa.gov/ensembletraining|author=Manousos, Peter|publisher=Hydrometeorological Prediction Center|date=2006-07-19|accessdate=2010-12-31|title=Ensemble Prediction Systems}}</ref>。1955年にアメリカ国立気象局、1959年に気象庁が数値予報を導入したが、スピードや精度はまだ低かった<ref>[http://www.jmbsc.or.jp/hp/topicks/0905/0905suutiyohou50th.pdf 50年目を迎えた気象庁の数値予報] 気象業務支援センター、2011年9月1日閲覧</ref>。これ以降もコンピュータの発達によって計算量・スピードは改善していった。 === 日本の気象学の歴史 === [[File:Sekka zusetsu.jpg|thumb|240px|right|『雪華図説』。[[土井利位]]著、1832([[天保]]3)年刊。[[国立科学博物館]]の展示。]] 日本には自然観察に基づく経験則によって生み出された[[農事暦]]などは存在したが、体系的な気象学が入ってくるのは、江戸時代後期以後である。とはいえ、全くそれ以前に気象学が無かったわけではなく、西洋の気象学は部分的ながら戦国時代に宣教師を通じて流入していた。[[山鹿素行]]は風が地表を移動する空気の流れである事には気づいていた。これは西洋で気象学が盛んになる前の発見であったが、彼の関心は軍学の一環としての物であり、独自の学問としては発達しなかった。蘭学の流入以後、わずかながら気象の動きに興味を抱く人も出てきて、[[柳沢信鴻]]や[[司馬江漢]]のように気象の状況について詳細な記録を残す人も登場した。[[土井利位]]が自ら[[顕微鏡]]で観察した雪についての研究書である『[[雪華図説]]』はよく知られている。 天保年間以後江戸幕府[[天文方]]で気象観測が行われるようになり、安政4年には[[伊藤慎蔵]]によって本格的な気象書の翻訳である『[[颶風新話]]』が刊行された。なお、meteorologyを「気象学」と訳した最初の文献は明治6年の『[[英和字彙]]』である。2年後、東京気象台が設置され、明治17年には天気予報が開始、明治20年には[[中央気象台]]が発足されるとともに気象台測候所条例が制定され、日本の気象学が本格的に勃興することになる。 ヨーロッパ、アメリカなどの先進国の気象学と日本の気象学は、異なる発達過程を経てきている。これは地理的に離れていることで学者の交流が少ないことに加えて、[[台風]]や[[梅雨]]、日本海側の大雪などの独特の気象によって研究対象が違ったことが要因である。 == 現在の気象学・気象業務 == [[ファイル:JMA_Weather_Chart_1953062609.png|thumb|right|200px|日本の[[気象庁]]が気象予報のために作成した天気図、1953年6月23日。]] {{main|気象観測|気象業務|天気予報}} 現代気象学の基礎は地道な観測によって作られた。19世紀中盤に計器による定点気象観測が始まって以来、1世紀以上の間人の手による観測が続けられていたが、20世紀後半に自動観測([[遠隔測定法|テレメータによる測定]])が普及して観測が容易になった。海洋では[[気象観測船]]が[[海洋気象ブイ]]に取って代わり、上空ではまず[[気象レーダー]]、その後[[1970年代]]・[[1980年代]]から[[気象衛星]]によって[[雲]]や[[降水]]のリアルタイム観測が可能となり、現在の気象予報に不可欠なものとして活用されている。 こうした観測技術の発達による既知の現象の解明や新たな発見によって、気象学は現在も発達し続けており、様々な分野が生まれてきている。特に、[[熱帯低気圧]]や[[竜巻]]、[[寒波]]、[[熱波]]、[[旱魃]]などの災害をもたらすような気象や、[[エルニーニョ・南方振動]](ENSO)などの気候パターンに対しては関心が高く、活発な研究が行われている。また、[[オゾンホール]]、[[大気汚染]]や[[気候変動]]([[地球温暖化]])などの[[地球環境問題]]も気象学に関係が深く、多くの気象学者が研究に携わっている。 一方で、気象を扱う業務([[気象業務]])のうち天気予報などは日常の一部となっていて、研究機関のみが扱うのではなく民間でも行うことができ([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[日本]]など)、各国でその形態は異なるものの、気象産業と呼ばれるものが出現している<ref>[http://www.econ.hokudai.ac.jp/~takais/b-essay/2004/saitou-b-essay.htm 気象産業の形成と展望-日本・アメリカの気象業界の実態と気象情報市場の推移-] 斎藤弘幸、北海道大学。</ref>。また、開発途上で今後の普及が予想される[[スマートグリッド]]や[[再生可能エネルギー]]導入・[[省エネルギー]]に関して、発電量予測や需要予測などに関わる気象予報のニーズは高いと見込まれている<ref>[http://gigaom.com/cleantech/weatherbug-eyes-the-smart-grid-buzz/ WeatherBug Eyes the Smart Grid Buzz]Katie Fehrenbacher, 2010年2月10日、GIGAOM(日本語部分訳:[http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2010/02/post-cab4.html スマートグリッド構成要素としての「天気予報」] 小林啓倫、ITmediaオルタナティブブログ)</ref>。 気象学の研究の中では、[[人工降雨]]などの[[気象制御]]の試みも行われてきた。究極的には、気象を制御して[[災害]]を低減することが考えられるが、技術的な問題から大規模な実用化はされていない。また、倫理的な問題や、果たして複雑な気象システムを制御できるのかという問題も横たわっている。 == 気象学者・気象業務関係者 == {{see also|気象学者の一覧}} 気象に関わる人物は、気象を研究する[[気象学者]]と、[[天気予報|気象予報]]の業務に携わる者の2種に大きく分けられる。 気象学者は主に[[大学]]や[[大学院]]などの地球科学関連の領域で研究を行っているほか、国など公的な[[気象機関の一覧|気象機関]]で研究を行う例もある。参考として、[[日本気象学会]]の会員は2012年3月末時点で約3,700名である<ref>「{{PDFLink|[https://www.metsoc.jp/report_fy2011.pdf 2011年度事業報告]}}」、日本気象学会。</ref>。 予報業務に関しては、[[日本]]では1993年に創設された国家資格である[[気象予報士]]が行うのが一般的であり、予報業務を行う民間事業者は必ず気象予報士を置くことが、[[気象業務法]]で義務付けられている。また、[[テレビ]]放送などでは「お天気キャスター」と呼ばれる[[リポーター]]が天気を伝えることがある。 == スケールごとの気象学 == {{see also|気象#気象現象のスケール}} 気象現象は、空間的な規模(スケール)によって現象を支配する物理法則や環境が少しずつ異なっている。また、それぞれの現象のスケールの大小は、継続時間の長短とも対応している。こうしたことから、気象学もスケール毎に分化している。 * [[総観気象学]] - [[温帯低気圧]]、[[前線 (気象)|気象]]などの1,000 - 10,000km程度の総観スケールの現象を扱う。気象観測の結果を基に、[[天気図]]によって現象の構造を[[解析]]し予想する。 * [[メソ気象学]] - [[雷雨]]、[[積乱雲]]、降雨帯、[[海陸風]]などの1 - 1,000km程度のメソスケール(中規模)の現象を扱う。[[気象レーダー]]などから現象の構造を解析し予想する。[[熱帯低気圧]](台風)、[[集中豪雨]]、[[ダウンバースト]]、[[竜巻]]などの災害をもたらすような[[局地現象]]の多くがメソスケールであるかメソスケールの大気の状態に支配されており、これらの現象の研究が盛ん。熱帯低気圧や熱帯の雷雨を研究する分野を熱帯気象学という場合もある。 * 境界層気象学 - 地表の摩擦の影響が大きい地上から約1kmまでの[[大気境界層]]では気流が[[粘土|粘性]]流的な振る舞いをするほか、[[地形]]や[[建物]]の影響を受けた[[乱流]]などが気象に影響を与える。これらを考慮しながら大気境界層内のさまざまな現象を研究する。 == 科学分野ごとの気象学 == * [[気象力学|大気力学]](気象力学) - 大気中の様々な力学的現象を[[流体力学]]の法則に基づいて研究する。 * [[大気熱力学]](気象熱力学) - [[熱]]の移動や熱による変化を起こす大気現象を[[熱力学]]的視点から研究する。 * [[大気物理学]](気象物理学) - 大気中の[[凝縮|凝結]]・[[降水]]・[[放射]]等の物理過程を研究する。 ** [[超高層大気物理学]] - オーロラなど、主に[[熱圏]]以上の超高層大気で起きる物理現象を研究する。近年は[[太陽フレア]]などが関わる[[宇宙天気予報|宇宙天気]]への関心が高い。 * [[気象化学]] - [[化学]]に基づいて大気現象及びその性質を研究する。 * [[大気電気学]](気象電気学) - 大気中に起きる様々な[[電気]]現象及び[[光電現象]]を研究する。 == 応用分野 == * [[水文気象学]] - 蒸発、大気循環による[[水蒸気]]の移動、[[降水|降雨]]などを通して大気を移動する[[水]]を研究する。[[水文学]]の一分野。 * [[海洋気象学]] - [[海洋]]付近の大気の諸現象や、[[大気海洋相互作用]]、気象が海洋の物理現象や生物などに与える影響など研究する。また、[[船舶]]の安全な航行のための研究も含まれる。[[海洋学]]の一分野。 * [[衛星気象学]] - 衛星による[[リモートセンシング]]技術を駆使して大気の諸現象を研究する。 * [[航空気象学]] - [[航空機]]のより安全な運行のために大気現象を研究する。 * [[農業気象学]] - [[農作物]]の管理のために大気現象を研究する。 * [[生気象学]] - 気象が[[人間]]や[[生物]]に与える影響を研究する。 *[[微気象学]] - [[大気境界層]]における大気現象を研究する。 * [[エネルギー気象学]] - 気象が風力や太陽光発電といった変動性電源に与える影響を研究する。 == 気象学を専攻できる日本の大学 == * [[気象大学校]] * [[北海道大学]] [[理学部]] 地球惑星科学科 * [[弘前大学]] [[理工学部]] 地球環境学科 * [[筑波大学]] 生命環境学群地球学類 大気科学分野(気候学・気象学) <!-- [http://www.geoenv.tsukuba.ac.jp/~air/index.html 筑波大学気候学・気象学分野] 2017年7月30日閲覧 --> * [[東京大学]] 理学部 地球惑星物理学科 * [[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]] [[都市環境学部]] 地理環境学科 気候学研究室 * [[東京学芸大学]] 教育学部 理科選修/専攻 * [[富山大学]] 都市デザイン部 地球システム科学科(旧理学部 地球科学科) *[[名古屋大学]] 理学部 環境学研究科 大気水圏科学科 * [[三重大学]] [[生物資源学部]] 共生環境学科 自然環境システム学講座 地球環境気候学研究室 * [[京都大学|京都大学大学院]] [[理学研究科]] 地球惑星科学専攻 気象学教室 * [[神戸大学|神戸大学大学院]] [[海事科学研究科]] 海事ロジスティクス科学講座 海洋環境科学分野 海洋・気象研究室 *[[兵庫県立大学|兵庫県立大学 環境人間学部]] 環境システムコース(2019年に環境デザイン系に再編) 応用気象学研究室 *[[岡山大学]] 理学部 地球科学科 * [[高知大学]] 理学部 応用理学科 * [[九州大学]] 理学部 地球惑星科学科 * [[琉球大学]] 理学部 物質地球科学科 地学系 *[[慶應義塾大学]] [[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|環境情報学部]]・[[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス|総合政策学部]] 気象学研究会 *[[日本大学]] 文理学部 地球科学科 * [[法政大学]] [[文学部]] 地理学科 地理学教室(気候・気象学) * [[立正大学]] [[地球環境科学部]] 環境システム学科 気象・水文コース * [[桜美林大学]] リベラルアーツ学群 物理学専攻 大気物理学研究室 * [[東海大学]] [[海洋学部]] 海洋地球科学科 * [[福岡大学]] 理学部 地球圏科学科 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/tama_weather/text9-1.html |title=9-1.スケールの分類 |date=20090901192611}} タマの気象学 * [https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kori/science/ayumi/ayumi24.html 科学の歩みところどころ 第24回 天気現象研究の足跡] 鈴木善次 * [https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6/ 気象学] Yahoo!百科事典(日本大百科全書) * 股野宏志「[https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/1994/1994_09_0505.pdf 総観気象学の幕開け]」、日本気象学会『天気』41巻9号、pp.505-514、1994年9月。 * 堤之智「[https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=302957 気象学と気象予報の発達史」]、丸善出版、2018年、ISBN 978-4-621-30335-1 * [https://korechi1.blogspot.com/2020/03/1.html 気象予測の考え方の主な変遷](1)~(8)、気象学と気象予報の発達史(ブログ) == 関連項目 == {{Commonscat|Meteorology}} {{Wikibooks|気象学}} {{ウィキポータルリンク|気象と気候}} *[[気象観測]] *[[気象業務]] *[[天気]]、[[天気図]]、[[天気予報]] *[[気象学・気候学に関する記事の一覧]] *[[気象学者の一覧]] *[[気象機関の一覧]] *[[気象]] *[[気候]] *[[地球シミュレータ]] *[[地球物理学]] == 外部リンク == * [https://www.metsoc.jp/ (社)日本気象学会] * [http://www.iugg.org/ 国際測地学・地球物理学連合(IUGG)] {{気象現象}} {{地球科学}} {{自然}} {{Normdaten}} {{Climate-stub}} {{デフォルトソート:きしようかく}} [[Category:気象学|*]] [[Category:気象]] [[Category:地球科学の分野]] [[Category:大気科学]] [[Category:軍事学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6
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まんてん
『まんてん』は、2002年9月30日から2003年3月29日まで放送された『連続テレビ小説』第67作。 ヒロインオーディションには1,916人が応募し、宮地真緒が選ばれた。 鹿児島県が主な舞台になるのは、1979年度前期の『マー姉ちゃん』以来である。 前作『さくら』からの話数変更により、連続テレビ小説における9月・3月の「最終月曜日」に放送を開始した最初の作品である。 放送中の2003年2月、スペースシャトル「コロンビア」の空中分解事故が発生し、コロンビアの乗組員を追悼するカットが挿入された。また、爆発事故発生日の放送では最後の「まんてん / 製作著作NHK」のテロップを急遽「つづく」の映像に表示し、コロンビアの乗組員を追悼するテロップが最後に表示された。 最終回では、現実に先駆け、2009年7月22日(日本時間)にトカラ列島を中心とした地域(屋久島も含まれる)が皆既帯となることで起きた皆既日食を、まんてんが宇宙から、屋久島の人々が地上から、観察するシーンが登場し、1996年度後期の朝ドラ『ふたりっ子』以来、放送当時よりも先の未来を描いた。 2002年から2003年放送の平均視聴率は20.7%、最高視聴率は23.6%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。 屋久島は集落ごとに独自の文化・習俗があり、方言の語彙も島内で微妙な差異がある。本作で使用された屋久島方言は、島内に23ある集落の言葉を、屋久島出身の鎌田道隆考証の下にまとめたものである。ことば指導に徳之島出身の桂楽珍が起用されたのは、鹿児島県本土よりも徳之島のことばのほうが屋久島に近い、との判断からであった。しかし、徳之島方言は琉球語奄美方言に分類される方言であり、実際には県本土の方言の方が屋久島方言に近い。方言についてはNHKへの問い合わせが多数あり、2002年10月22日に『南日本新聞』朝刊紙面上でNHK鹿児島放送局の担当者による回答が掲載されることになった。 屋久島に住むヒロイン・日高満天(まんてん)が鹿児島でバスガイドになるために島を出るところから物語は始まる。 物語の舞台は大阪などに移り、次は気象予報士になるための勉強を開始する。 そんな中で漁船の遭難で行方不明になっていた父と再会するなどの出来事を通し、最終的には満天は宇宙飛行士となり、宇宙からの天気予報を伝えるようになる。 「電子・光学などのセンサー全盛の時代に宇宙から人間が天気予報をすること」にどれだけの意味・値打ちがあるのかと作中でも疑問が提示されるが、満天が自分の言葉で惑星・地球の美しさを伝えようとしたこころが、日本の子供たちに確実に根付いていることを感じさせて、物語は終了する。 陽平が研究員として勤務する企業。 オープニングは舞台である屋久島の風景が取り上げられる。 エンディングは、舞台の一つ・屋久島などに関連する写真や星や地球の動画をバックに宮地が「まんてん」とタイトルコールをした。なお、タイトルコールの言い方は回によって異なっている。 第17週まで鹿児島弁だが、第18週からは標準語になっている。 2003年3月20日はイラク戦争の開戦に伴う特別番組編成のため中止、翌日に2日分の再放送が行われた。 2003年1月4日に30分の特別編「まんてんスペシャル」を放送した。番組は物語の前半の物語、並びに後半の見所の他、宇宙飛行士になるための道程の解説が放送された。 BShiで2003年6月28日から6月29日16時から18時の2回ずつ、BS2では2003年8月11日から8月14日15時から16時、NHK総合では2003年12月20日から12月21日15時45分から17時45分の2回ずつ放送された。
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『まんてん』は、2002年9月30日から2003年3月29日まで放送された『連続テレビ小説』第67作。
{{Pathnav|連続テレビ小説|frame=1}} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=まんてん |画像=[[File:宇宙科学技術館.jpg|250px]] |画像説明=[[種子島宇宙センター]]内にある「宇宙科学技術館」。満天(宮地)が毛利衛と対面するシーンがこの周辺で撮影された。 |ジャンル=[[テレビドラマ]] |制作局=[[NHK大阪放送局|NHK大阪]] |放送時間=月曜 - 土曜8:15 - 8:30<br />([[NHK総合テレビジョン|総合]])<br />月曜 - 土曜12:45 - 13:00<br />(総合・再放送)<br />月曜 - 土曜7:30 - 7:45<br />([[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]])<br />土曜9:30 - 11:00<br />(BS2・一週間分再放送)<br />月曜 - 土曜7:30 - 7:45<br />([[NHKハイビジョン放送|BS-hi]]) |プロデューサー=小見山佳典 |作=[[マキノノゾミ]] |放送国={{JPN}} |放送期間=2002年9月30日 - 2003年3月29日 |放送回数=150 |出演者=[[宮地真緒]]<br />[[浅野温子]]<br />[[藤井隆]]<br />[[生瀬勝久]]<br />[[氷川きよし]]<br/>[[鈴木紗理奈]]<br />[[照英]]<br />[[山田花子 (タレント)|山田花子]]<br />[[角田信朗]]<br />[[毛利衛]]<br />[[笑福亭松之助]]<br />[[小日向文世]]<br />[[大杉漣]]<br />[[赤井英和]]<br />[[三橋達也]]<br />[[宮本信子]] |ナレーター=[[藤村俊二]] |音声=解説放送(副音声) |OPテーマ=[[元ちとせ]]「[[この街 (元ちとせの曲)|この街]]」 |時代設定=[[1997年]]<ref name="story01">[https://web.archive.org/web/20030210160637/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main01.html 第1週 「こん目で見たかあー 青か地球」]</ref> - [[2009年]]7月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf |title=NHK 連続テレビ小説と視聴者 −“朝ドラ”はどう見られているか − |format=PDF|date=2020-01-30 |work=メディア研究部 |publisher=NHK放送文化研究所 |accessdate=2023-07-27}}(「付表1 NHK 連続テレビ小説【作品一覧表】」の154頁の67)</ref> |前作=[[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]] |次作=[[こころ (2003年のテレビドラマ)|こころ]] |特記事項=[[ハイビジョン制作|16:9LB]]、[[字幕放送]] }} 『'''まんてん'''』は、[[2002年]][[9月30日]]から[[2003年]][[3月29日]]まで放送された『[[連続テレビ小説]]』第67作<ref name="nhk nenkan 2002">{{Cite book|和書|editor=NHK放送文化研究所|date=2003-10-31|title=NHK年鑑2003|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=167 - 168}}</ref>。 == 概要 == ヒロインオーディションには1,916人が応募し、[[宮地真緒]]が選ばれた<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/article.aspx?id=20020227000387 秋の朝ドラは「まんてん」/ヒロインに宮地真緒さん] - 四国新聞社、2002年2月27日</ref>。 [[鹿児島県]]が主な舞台になるのは、[[1979年]]度前期の『[[マー姉ちゃん]]』以来である<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/asadora/map/index.html 「ご当地マップ」]を参照。</ref>。 前作『[[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]]』からの話数変更により、連続テレビ小説における9月・3月の「最終月曜日」に放送を開始した最初の作品である<ref>{{Cite web|和書|title=まんてん (1) <新> ―連続テレビ小説―|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A200209300815001300100 |website=NHKクロニクル|accessdate=2022-11-27|publisher=NHK}}</ref>。 放送中の[[2003年]]2月、[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]」の[[コロンビア号空中分解事故|空中分解事故]]が発生し、コロンビアの乗組員を追悼するカットが挿入された。また、爆発事故発生日の放送では最後の「まんてん / 製作著作NHK」のテロップを急遽「つづく」の映像に表示し、コロンビアの乗組員を追悼するテロップが最後に表示された。 最終回では、現実に先駆け、[[2009年]]7月22日(日本時間)にトカラ列島を中心とした地域(屋久島も含まれる)が皆既帯となることで起きた[[2009年7月22日の日食|皆既日食]]を、まんてんが宇宙から、屋久島の人々が地上から、観察するシーンが登場し<ref>[https://ameblo.jp/miyajimao/entry-10303994814.html 奇跡] - 宮地真緒オフィシャルブログ Powered by Ameba、2009年7月21日</ref>、[[1996年]]度後期の朝ドラ『[[ふたりっ子]]』以来、放送当時よりも先の未来を描いた<ref>{{Cite web |author=[[堀井憲一郎]]|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/36830f7a3036cd5760b236d4cf65a79e79690eb2 |title=『舞いあがれ!』の不可思議なラスト 令和の朝ドラが「未来で終わる」その哀しい理由 |website=[[Yahoo!ニュース]] |work=エキスパート |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] |date=2023-03-31 |accessdate=2023-10-18}}</ref>。 2002年から2003年放送の平均視聴率は20.7%、最高視聴率は23.6%(関東地区、[[ビデオリサーチ]]調べ)<ref>{{cite web |url=https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/pdf/20200130_3.pdf |title=NHK 連続テレビ小説と視聴者 −“朝ドラ”はどう見られているか − |format=PDF|date=2020-01-30 |work=メディア研究部 |publisher=NHK放送文化研究所 |accessdate=2023-10-17}}(「付表1 NHK 連続テレビ小説【作品一覧表】」の154頁の67)</ref>。 === 方言について === 屋久島は集落ごとに独自の文化・習俗があり、方言の語彙も島内で微妙な差異がある。本作で使用された屋久島方言は、島内に23ある集落の言葉を、屋久島出身の[[鎌田道隆]]考証の下にまとめたものである。ことば指導に[[徳之島]]出身の[[桂楽珍]]が起用されたのは、鹿児島県本土よりも徳之島のことばのほうが屋久島に近い、との判断からであった<ref>「屋久島出身の大学教授がことば考証」『南日本新聞』2002年10月22日、朝刊5面(読者投稿欄)。NHK鹿児島放送局の担当者による回答。</ref>。しかし、徳之島方言は[[琉球語]][[奄美方言]]に分類される方言であり、実際には県本土の方言の方が屋久島方言に近い<ref group="注">屋久島方言は県本土の方言と同じ[[薩隅方言]]に分類される。</ref>。方言についてはNHKへの問い合わせが多数あり、2002年10月22日に『[[南日本新聞]]』朝刊紙面上で[[NHK鹿児島放送局]]の担当者による回答が掲載されることになった。 == あらすじ == [[屋久島]]に住むヒロイン・日高満天(まんてん)が[[鹿児島市|鹿児島]]でバスガイドになるために島を出るところから物語は始まる。 物語の舞台は[[大阪]]などに移り、次は[[気象予報士]]になるための勉強を開始する。 そんな中で漁船の遭難で行方不明になっていた父と再会するなどの出来事を通し、最終的には満天は[[宇宙飛行士]]となり、宇宙からの[[天気予報]]を伝えるようになる。 「電子・光学などのセンサー全盛の時代に宇宙から人間が天気予報をすること」にどれだけの意味・値打ちがあるのかと作中でも疑問が提示されるが、満天が自分の言葉で惑星・地球の美しさを伝えようとしたこころが、日本の子供たちに確実に根付いていることを感じさせて、物語は終了する。 == キャスト == === 花山家・日高家・穂積家 === ; 日高満天 → 花山満天 : 演 - [[宮地真緒]](少女時代・回想のみ:[[斉藤千晃]]) : 今作のヒロイン。バスガイドを経て宇宙飛行士となる。 ; 花山陽平 : 演 - [[藤井隆]](中学時代・回想のみ:車戸敦) : 満天の夫。 ; 花山そら : 演 - [[西本利久]] → [[小林美稀]] : 満天と陽平の娘。 ; 花山百合子 : 演 - [[宮本信子]] : 花山圭助・陽平の母。女性合気道家で、満天が身を寄せる花山道場の師範<ref>モデルは天心道場道場長 藤谷美也子 [http://www.aitenshin.com/publics/index/12/ 天心道場 japan]。なお、母は天心道場初代館長藤谷'''百合子''' [http://aitenshin.com/publics/index/11/ 天心道場の歴史] </ref>。 ; 花山圭助 : 演 - [[生瀬勝久]] : 陽平の兄。大阪の天神橋筋商店街で治療院を営むマッサージ師。英雄のクアリゾート計画に出資し詐欺の被害者となる<ref name="story04" />。そのことがきっかけで、満天が花山家を訪れることに<ref name="story05" />。 ; 篠原にしき → 花山にしき : 演 - [[鈴木紗理奈]] : 満天がアルバイトをすることになる気象予報会社「ウェザー・ウエスト」の気象予報士<ref name="story07" />。圭助の治療院に通う。 ; 百合子の夫 : 演 - 九条佑樹(写真のみ) ; 日高美帆子 → 穂積美帆子 : 演 - [[浅野温子]] : 満天の母、源吉の妻。雑貨屋「日高商店」を営む<ref name="story01" />。 ; 日高源三 : 演 - [[三橋達也]] : 満天の祖父。トビウオ漁の親方を務める<ref name="story01" />。 ; 日高源吉 : 演 - [[赤井英和]] : 満天の父。シケの海に出航して帰らず、亡くなったものと思われていた<ref name="story14" />。  ; 日高英雄 : 演 - [[氷川きよし]] : 満天の兄。舟田集落の浜にクアリゾートを造る開発計画を会社から任されたが、会社は出資金詐欺を企んでいた<ref name="story03" />。 ; 穂積甚六 : 演 - [[小日向文世]] : 満天が慕う小学校時代の恩師<ref name="story01" />。美帆子の写った写真パネルを、家に来た満天に見られてしまう<ref name="story04" />。 ; 穂積未海 : 演 - [[谷村美月]]<ref name="tanimura">{{NHK人物録|D0009121176_00000|谷村美月}}</ref> : 甚六の娘<ref name="tanimura" />。 ; 田中ふみ子 : 演 - [[広岡由里子]] === 黒田家 === : 家業として花山道場の筋向いで食堂を営む。満天がアルバイトをすることに<ref name="story05" />。 ; 黒田正巳 : 演 - [[角田信朗]] : 黒田家の当主。つばめの父<ref name="story05" />。漫画家志望のつばめに理解を示す<ref name="story12" />。 ; 黒田和枝 : 演 - [[キムラ緑子]] : 食堂の女将。つばめの母。つばめの漫画家志望について、現実は甘くないと考える<ref name="story12" />。 ; 黒田つばめ : 演 - [[山田花子 (タレント)|山田花子]] : 満天の友人で、家業の食堂を手伝いながら漫画家を目指している<ref name="story12" />。 ; 黒田巌 : 演 - 安田善紀([[りあるキッズ]]) ; 黒田小次郎 : 演 - 真栄田和之 === ウェザー・ウエスト === : 気象予報の会社。満天がアルバイトから正社員となる<ref name="story11" />。 ; 柴田寅彦 : 演 - [[大杉漣]] : 満天とともに黒田食堂で働いていた<ref name="story07" />。にしきは、かつて業界大手の気象予報会社の同僚であった彼を尊敬しており、気象予報の世界に復帰してくれるよう訴えた<ref name="story11" />。 ; 藤田勇 : 演 - [[笑福亭松之助]] : 同社社長。合気道を通じて満天と顏馴染み<ref name="story07" />。 ; 山南史郎 : 演 - [[温水洋一]] ; シュウ : 演 - [[チューヤン]] ; 原田明夫 : 演 - [[安藤亮司]] ; 和泉豊 : 演 - [[小市慢太郎]] ; 野口健司 : 演 - [[野田晋市]] ; 斉藤肇 : 演 - 阪東浩考 === アカツキ重工 === 陽平が研究員として勤務する企業<ref name="story16" />。 ; 部長 : 演 - [[五王四郎]] ; 中島隆 : 演 - [[要潤]]<ref name="kaname">{{NHK人物録|D0009120961_00000|要潤}}</ref> : 花山陽平の親友<ref name="kaname" />。 ; 別所潔 : 演 - [[奥田達士]] === 屋久島 === ; 森山栄治 : 演 - [[照英]] : 後に千春と結婚し、その千春との結婚式の時に彼女のトレードマークだった大きな銀縁メガネを外した。 ; 真辺千春 → 森山千春 : 演 - [[永井流奈]] : 満天の親友。栄治と結婚するまでは大きな銀縁メガネをかけていたが、彼と結婚してその結婚式の時にそのトレードマークだった大きな銀縁メガネを彼に外され、それ以降は一切メガネをかけなくなった。 ; 真辺峰男 : 演 - [[ゴルゴ松本]]([[TIM (お笑いコンビ)|TIM]]) : 千春の兄。 ; 真辺素子 : 演 - [[末成由美]] ; 真辺信人 : 演 - [[桂楽珍]](屋久島ことば指導を兼任) ; タケシ : 演 - [[にわつとむ]] ; シロー : 演 - 牛丸裕司 ; ハヤト : 演 - [[山本禎顕]] ; 藤村カネ子 : 演 - [[千石規子]] === NASDA === ; 村松試験官 : 演 - [[ささきいさお]] ; 楢山 : 演 - [[塩屋俊]] ; 立花 : 演 - [[深沢敦]] ; 岸田 : 演 - 岩田純 ; 審査官 : 演 - 佐藤心 ; [[毛利衛]](本人役) : 演 - 毛利衛(特別出演) === その他 === ; しろがね直次郎 : 演 - [[由美かおる]] ; 今岡典子 : 演 - [[牧野エミ]] ; 宮下五郎 : 演 - [[木下政治]] ; 鈴木太郎 : 演 - [[オール巨人]] ; 鈴木雄大 : 演 - 長田融季(りあるキッズ) ; 谷市朗 : 演 - 一色大輔(回想) ; 野島三奈代 : 演 - [[国生さゆり]] ; 段田社長 : 演 - [[吉満寛人|吉満涼太]]<ref name="story03" /> ; 刑事 : 演 - 松浦達也 ; チャーリー : 演 - [[ダンカン・ハミルトン]] ; 高品わたる : 演 - [[小室等]] ; 江口志乃 : 演 - 萩本果穂<ref>[https://web.archive.org/web/20160830005614/http://www.shochikugeino.co.jp/talents/05/post-164.html 萩本果穂] - 松竹芸能</ref> : スナックG.Sママ == スタッフ == *作 - [[マキノノゾミ]]<ref name="nhk nenkan 2002"/> *音楽 - [[川崎真弘]]<ref name="nhk nenkan 2002"/> *主題歌 - 「[[この街 (元ちとせの曲)|この街]]」 **作詞 - HUSSY_R、作曲 - 間宮工、編曲 - [[羽毛田丈史]]、歌 - [[元ちとせ]] *挿入歌 - 「満天島唄」 **作詞 - [[阿木燿子]]、作曲・編曲 - 川崎真弘、歌 - [[小室等]] *タイトル映像演出 - [[樋口真嗣]] *宇宙監修 - [[毛利衛]] *屋久島ことば考証 - [[鎌田道隆]] *屋久島ことば指導 - [[桂楽珍]] *大阪ことば指導 - [[大原穣子]] *漫画資料提供 - 古川真由美 *資料提供 - 藤谷美也子 *合気道技術指導 - 嶋本勝行師範(合気道豊中正泉寺道場)<ref>[https://www.hagatna.us.emb-japan.go.jp/Japanese/AIKIDOj.htm 日本の武道紹介]</ref><ref>[http://machigoto.jp/news/detail/?art_id=3552 豊中市の嶋本勝行さんが武道功労者賞を受賞|人|マチゴト 豊中 池田]</ref> *映像提供 - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]、[[宇宙開発事業団|NASDA]] *撮影協力 - [[鹿児島県]]、[[上屋久町]]、[[屋久町]]、屋久島森林管理署 *語り - [[藤村俊二]](屋久島の[[屋久杉]]という設定) *副音声解説 - [[江原正士]] *制作統括 - 小見山佳典 *制作 - [[訓覇圭]] *美術 - 石村嘉孝、青き聖和、室岡康弘 *技術 - 鈴木文夫、仲野善隆 *音響効果 - 嶋野聡、野下泰之、水谷明男 *編集 - 田中美砂 *撮影 - 松本剛、岡本哲二 *照明 - 堀籠功、堀武志、牛尾裕一 *音声 - 渡辺暁雄、福井清春 *映像技術 - 中本将人、椎野弘崇 *記録 - 藤澤加奈子 *演出 - [[笠浦友愛]]、大橋守、[[柳川強]] / 中寺圭木、福井充広、城宝秀則、山田隆子 == オープニングとエンディング == オープニングは舞台である[[屋久島]]の風景が取り上げられる。 エンディングは、舞台の一つ・屋久島などに関連する写真や星や地球の動画をバックに宮地が「まんてん」とタイトルコールをした。なお、タイトルコールの言い方は回によって異なっている。 == 放送日程 == 第17週まで鹿児島弁だが、第18週からは標準語になっている。 {| class="wikitable" ! 週 !! 放送回 !! サブタイトル !! 放送日 !! 演出<ref>[https://web.archive.org/web/20030308125034/http://www.g-mop.com:80/cgibin/mobo/news.cgi?vew=3 「まんてん」よもやま話・21週「小物仲間」] - 今週のマキノノゾミ 2003年02月22日(土)</ref> |- | 1 || 1 - 6 || こん目でみたかぁー 青い地球<ref name="story01">[https://web.archive.org/web/20030210160637/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main01.html 第1週 「こん目で見たかあー 青か地球」]</ref> || 2002年<br />9月30日-10月5日 || 笠浦 |- | 2 || 7 - 12 || 負けんどぉー 運動会対決<ref>[https://web.archive.org/web/20030210162012/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main02.html 第2週 「負けんどぉー運動会対決」]</ref> || 10月7日-10月12日 || 笠浦 |- | 3 || 13 - 18 || ほんのこてー 兄ちゃんは潔白じゃ<ref name="story03">[https://web.archive.org/web/20030210162308/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main03.html 第3週 「ほんのこてー兄ちゃんは潔白じゃ!」]</ref> || 10月14日-10月19日 || 大橋 |- | 4 || 19 - 24 || 「大いなる一歩」をふみ出すとじゃ<ref name="story04">[https://web.archive.org/web/20030210162241/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main04.html 第4週 「『大いなる一歩』をふみ出すとじゃ」]</ref> || 10月21日-10月26日 || 大橋 |- | 5 || 25 - 30 || たまがったぁー なにわの女師範<ref name="story05">[https://web.archive.org/web/20030210164256/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main05.html 第5週 「たまがったぁー なにわの女師範」]</ref> || 10月28日-11月2日 || 笠浦 |- | 6 || 31 - 36 || ありがたかー 故郷の友<ref>[https://web.archive.org/web/20030210164105/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main06.html 第6週 「ありがたかー 故郷の友」]</ref> || 11月4日-11月9日 || 柳川 |- | 7 || 37 - 42 || がんばっどー 気象予報で大忙し<ref name="story07">[https://web.archive.org/web/20030210163237/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main07.html 第7週 「がんばっどー 気象予報で大忙し」]</ref> || 11月11日-11月16日 || 柳川 |- | 8 || 43 - 48 || 大ピンチ! 宇宙へは行かれんとじゃ<ref>[https://web.archive.org/web/20030210164516/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main08.html 第8週 「大ピンチ! 宇宙へは行かれんとじゃ」]</ref> || 11月18日-11月23日 || 大橋 |- | 9 || 49 - 54 || どげんなっとやろ? 十五夜の告白<ref>[https://web.archive.org/web/20030210163827/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main09.html 第9週 「どげんなっとやろ? 十五夜の告白」]</ref> || 11月25日-11月30日 || 笠浦 |- |10 || 55 - 60 || よっしゃー 老舗ストアーを立て直すとじゃ<ref>[https://web.archive.org/web/20021201093840/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main10.html 第10週 「よっしゃー 老舗ストアを立て直すとじゃ」]</ref> || 12月2日-12月7日 || 柳川 |- |11 || 61 - 66 || ほっとけん! 柴田さんの秘密<ref name="story11">[https://web.archive.org/web/20030410141250/http://www.nhk.or.jp:80/asadora/manten/story/story_main11.html 第11週 「ほっとけん! 柴田さんの秘密」]</ref> || 12月9日-12月14日 || 笠浦 |- |12 || 67 - 72 || ほんのこてー プロへの道はきびしかぁ<ref name="story12">[https://web.archive.org/web/20030210165453/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main12.html 第12週 「ほんのこてー プロへの道はきびしかぁ」]</ref> || 12月16日-12月21日 || 中寺 |- |13 || 73 - 78 || どげんすっとじゃ! 風雲 花山家<ref>[https://web.archive.org/web/20030210165732/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main13.html 第13週 「どげんすっとじゃ! 風雲 花山家」]</ref> || 12月23日-12月28日 || 福井 |- |14 || 79 - 84 || うそじゃ! お父ちゃんが消えた理由<ref name="story14">[https://web.archive.org/web/20030210104018/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main14.html 第14週 「うそじゃ! お父ちゃんが消えた理由」]</ref> || 2003年<br />1月6日-1月11日 || 大橋 |- |15 || 85 - 90 || 永遠の別れじゃ お父ちゃん<ref>[https://web.archive.org/web/20030107121513/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main15.html 第15週 「永遠の別れじゃ お父ちゃん」]</ref> || 1月13日-1月18日 || 中寺 |- |16 || 91 - 96 || 陽平さんが宇宙に行くとじゃ!<ref name="story16">[https://web.archive.org/web/20030410144828/http://www.nhk.or.jp:80/asadora/manten/story/story_main16.html 第16週 「陽平さんが宇宙に行くとじゃ!」]</ref> || 1月20日-1月25日 || 柳川 |- |17 || 97 - 102 || あきらめられん宇宙の夢<ref>[https://web.archive.org/web/20030206091509/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main17.html 第17週 「あきらめられん 宇宙の夢」]</ref> || 1月27日-2月1日 || 笠浦 |- |18 || 103 - 108 || 私、陽平さんと結婚します<ref>[https://web.archive.org/web/20030201090304/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main18.html 第18週 「私 陽平さんと結婚します」]</ref> || 2月3日-2月8日 || 福井 |- |19 || 109 - 114 || 二人一緒なら勇気百倍<ref>[https://web.archive.org/web/20030204084538/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main19.html 第19週 「二人一緒なら勇気百倍」]</ref> || 2月10日-2月15日 || 笠浦 |- |20 || 115 - 120 || こんまか命が生まれてくる<ref>[https://web.archive.org/web/20030211102806/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main20.html 第20週 「こんまか命が生まれてくる」]</ref> || 2月17日-2月22日 || 柳川 |- |21 || 121 - 126 || 二人三脚 初めての子育て<ref>[https://web.archive.org/web/20030410145945/http://www.nhk.or.jp:80/asadora/manten/story/story_main21.html 第21週 「二人三脚 初めての子育て」]</ref> || 2月24日-3月1日 || 城宝 |- |22 || 127 - 132 || めざせ! 宇宙からの天気予報<ref>[https://web.archive.org/web/20030226102756/http://www.nhk.or.jp/asadora/story/story_main22.html 第22週 「めざせ! 宇宙からの天気予報」]</ref> || 3月3日-3月8日 || 山田 |- |23 || 133 - 138 || 願いよ とどけ! 七夕の夜<ref>[https://web.archive.org/web/20030410144020fw_/http://www.nhk.or.jp:80/asadora/manten/story/story_main23.html 第23週 「願いよ とどけ! 七夕の夜」]</ref> || 3月10日-3月15日 || 大橋 |- |24 || 139 - 144 || 太陽の塔できっと会える || 3月17日-3月22日 || 大橋 |- |25<br />最終週 || 145 - 150 || 地球はホントに生きている || 3月24日-3月29日 || 笠浦 |} === 放送休止 === 2003年3月20日は[[イラク戦争]]の開戦に伴う特別番組編成のため中止、翌日に2日分の再放送が行われた。 == 特別編 == 2003年1月4日に30分の特別編「まんてんスペシャル」を放送した。番組は物語の前半の物語、並びに後半の見所の他、宇宙飛行士になるための道程の解説が放送された。 == 総集編 == BShiで2003年6月28日から6月29日16時から18時の2回ずつ、[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]では2003年8月11日から8月14日15時から16時、NHK総合では2003年12月20日から12月21日15時45分から17時45分の2回ずつ放送された。 {|class=wikitable style="text-align:left" !放送回!!サブタイトル |- |第1回||青い地球をこの目で見たい |- |第2回||私は夢をあきらめない |- |第3回||宇宙への道は険しいけれど |- |最終回||夢に向かって二人三脚 |- |} == 関連商品 == ; DVD : 2004年4月23日に、[[NHKエンタープライズ|NHKソフトウェア]]から、総集編の上巻、下巻及び上下巻をセットにしたボックスが発売された。なお完全版DVDは未発売。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * {{NHK放送史|D0009010486_00000|連続テレビ小説 まんてん}} * {{Wayback |url=http://www.nhk.or.jp:80/asadora/index.html|title=連続テレビ小説 まんてん - NHK |date=20030201083046}} * [https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=asadora67 連続テレビ小説 まんてん] - NHKドラマ * [https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/asadora/drama/d_067.html 第67作「まんてん」] - 朝ドラ100 {{前後番組 |放送局=[[日本放送協会|NHK]] |放送枠=[[連続テレビ小説]] |番組名=まんてん<br />(2002年度下半期)| |前番組=[[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]]<br />(2002年度上半期) |次番組=[[こころ (2003年のテレビドラマ)|こころ]]<br />(2003年度上半期) }} {{NHK朝の連続テレビ小説}} [[Category:連続テレビ小説]] [[Category:2002年のテレビドラマ]] [[Category:NHK大阪のテレビドラマ|連2002]] [[Category:NHK鹿児島|連まんてん]] [[Category:マキノノゾミ脚本のテレビドラマ]] [[Category:宇宙飛行士を題材としたテレビドラマ]] [[Category:気象を題材とした作品]] [[Category:大阪市を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:鹿児島県を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:屋久島町の歴史]] [[Category:島を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:地球の重力圏を舞台とした作品]]
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旅行
旅行(、トラベル、英: travel)とは、見物・保養・調査などのため、居所を離れてよその土地へ行くこと。旅()とも。 広辞苑によると、旅とは、住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った。大辞泉には「住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること」とある。 旅の歴史を遡ると、人類は狩猟採集時代から食糧獲得のために旅をしていた。農耕が行われる時代になった後も、すべての人々が定住していたわけではなく、猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅を行っていた。 その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われ始めた。ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まっていた。日本でも平安時代末ころには巡礼が行われるようになった。イギリスでは近世になると裕福市民層の子弟が学業仕上げのためのグランドツアーや、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行うようになった。日本では江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、旅がさかんになった。 近代になり西欧で鉄道や汽船などの交通手段が発達すると、ますます旅はさかんになった。→#歴史 現在の旅は非常に多様であり、さまざまに分類することが可能である。→#旅の分類 現代では一般庶民にも移動の自由が公に認められているが、過去においては制限がかかっていた場合が多く、宗教的な巡礼を名目に旅をすることが多かった。 ヨーロッパでは4世紀ごろには巡礼が始まっており、中世にはキリストの聖杯・聖遺物、あるいはその使徒の遺物が安置されているといわれる大聖堂、修道院への巡礼が盛んに行われるようになっていた。主な巡礼路には、旅人に宿泊場所を提供し世話をしたり、病人を世話するための施設も造られていた(ホスピスや病院の起源)。 日本では8世紀ごろから西国三十三所、四国八十八箇所巡礼などが行われるようになった。 また、近世に入ってからは、イギリスの裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行会社が登場した。1841年当時のこのような世相からトーマス・クック・グループが創業した。 また、アメリカでは19世紀には金鉱の発見などにより、「西部開拓」という大移動、旅行ブーム(ゴールドラッシュ)を引き起こした。以後、放浪者、「ホーボー」や、ビートニクなどの運動でも旅行は新しい文化の呼び水になった。(ただし、21世紀現代の米国ではパスポート保持者は全国民の3割に過ぎず、外国へ旅行する人の半数は、行き先が、2007年までパスポートが不要だったカナダとメキシコだったという)。 狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下した。弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の旅は継続、また農民以外の職は行商人であったり歩き職人であったりした。当時は人口が少なく、待っていても仕事にならず、旅をして常に新規顧客を開拓する必要があった。中世から近世にかけては店をかまえる居商人が次第に増えたものの、かわらず旅をする商人・職人も多かった(例えば、富山の薬売りなど)ほか、芸能民、琵琶法師、瞽女等々もいた。 行政によって強制された旅も多かった。防人では東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また庸調などの貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき落命する者が絶えなかった。ちなみに日本の民俗学者の柳田國男は(日本の)旅の原型は租庸調を納めに行く道のりだ、と述べた。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならず、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている。 近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した。 やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった。平安時代末期までは交通環境は厳しく旅は危険を伴い、こうした苦難に挑むのには信仰という強い動機があった。僧侶は修行や伝道のため、一般人は社寺に参詣するために旅をした。平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んであった。室町時代以降、伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった。 宿泊費については15世紀には既に畿内で旅籠の定額制が確認され、遅れて16世紀には列島の広域で定着していた。中世後期には既に一般の庶民が広範囲な旅行を行いうる環境が成立しており、遠方への旅行も可能な環境が整備されていた。 それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると飛躍的に整備された。徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれは実現した。宿場町には、宿泊施設の旅籠や木賃宿、飲食や休息をとるための茶屋、移動手段の馬や駕籠、商店などが並んだ。また貨幣も数十分の一〜数百分の一の軽さのものに変わり、為替も行われ、身軽に旅ができるようになった。またそれまで多かった山賊・海賊も、徳川幕府300年の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった。 江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人は使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。農民の生活は単調・窮屈・暗いものであって旅をしたがったが、各藩のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。だが参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できず、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た。庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとした。京・奈良などでは社寺の広大さに感嘆し、大坂では芸能浄瑠璃や芝居に酔った。若者の中には宿場の遊女と遊ぶ者もいた。旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まった。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった。 また、江戸期には十返舎一九の東海道中膝栗毛などの旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。 なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べている。その理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したもの)、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げている。 近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886年、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施される。東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった。 第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、通勤・通学以外の旅行は自粛の徹底が進められた。当時は、長距離移動に適した道路網が未整備であったことなどから、旅行の自粛規制の対象は鉄道に集中した。同年4月以降、長距離移動に欠かせない特別急行列車やほとんどの急行列車が廃止されたほか、寝台車や食堂車の連結も取りやめられた。 旅の分類と言ってもさまざまな方法があるが、例えば次のような分類が可能である。 目的地のある旅と無い旅がある。 目的地が複数の場合もあり、英語ではツーリングと言う。また、“目的地”は形式的に設定されているだけであまり重要でなく、実質は途中の移動や行為であるような旅、移動中にさまざまなものを見てゆくことのほうがむしろ主たる愉しみとなっている旅もある。 期間だけを決めて出発し、行き先は成行きに任せたり、期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る場合もある。「放浪の旅に出る」という表現もある。 さまざまありうるが、次のような場所はしばしば目的地に設定されている。 旅の枕詞は「草枕」である。草枕とは、旅先で草で仮に枕を編んだことに因む。
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"また、江戸期には十返舎一九の東海道中膝栗毛などの旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べている。その理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したもの)、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886年、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施される。東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、通勤・通学以外の旅行は自粛の徹底が進められた。当時は、長距離移動に適した道路網が未整備であったことなどから、旅行の自粛規制の対象は鉄道に集中した。同年4月以降、長距離移動に欠かせない特別急行列車やほとんどの急行列車が廃止されたほか、寝台車や食堂車の連結も取りやめられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "旅の分類と言ってもさまざまな方法があるが、例えば次のような分類が可能である。", "title": "旅の分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "目的地のある旅と無い旅がある。", "title": "目的地の有無" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "目的地が複数の場合もあり、英語ではツーリングと言う。また、“目的地”は形式的に設定されているだけであまり重要でなく、実質は途中の移動や行為であるような旅、移動中にさまざまなものを見てゆくことのほうがむしろ主たる愉しみとなっている旅もある。", "title": "目的地の有無" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "期間だけを決めて出発し、行き先は成行きに任せたり、期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る場合もある。「放浪の旅に出る」という表現もある。", "title": "目的地の有無" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "さまざまありうるが、次のような場所はしばしば目的地に設定されている。", "title": "目的地の有無" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "旅の枕詞は「草枕」である。草枕とは、旅先で草で仮に枕を編んだことに因む。", "title": "他" } ]
旅行(りょこう、とは、見物・保養・調査などのため、居所を離れてよその土地へ行くこと。旅とも。
{{Redirect|旅}} [[ファイル:El_viaxeru_d'Urculo.JPG|サムネイル|240x240ピクセル|旅行者の[[銅像]]([[スペイン]]・[[オビエド]])]] {{読み仮名|'''旅行'''|りょこう|トラベル、{{Lang-en-short|travel}}}}とは、見物・保養・調査などのため、居所を離れてよその土地へ行くこと<ref>[https://kotobank.jp/word/旅行-659725 旅行(リョコウ)とは - コトバンク] 2019年7月1日閲覧</ref>。{{読み仮名|'''旅'''|たび}}とも。 == 概説 == [[広辞苑]]によると、旅とは、住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言った<ref name="kojien">[[広辞苑]] 第六版、p. 12308【旅】</ref>。大辞泉には「住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること」とある<ref>大辞泉「旅」</ref><ref group="※">(演劇、芸能などの)仕事のために遠方の地を転々とすることも旅と呼ぶ(「旅回り」とも)</ref>。 旅の歴史を遡ると、人類は[[狩猟採集社会|狩猟採集時代]]から食糧獲得のために旅をしていた。農耕が行われる時代になった後も、すべての人々が定住していたわけではなく、[[猟師|猟人]]、[[山人]]、[[漁師]]などは食糧採集のための旅を行っていた。 その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われ始めた。ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まっていた。日本でも平安時代末ころには巡礼が行われるようになった。イギリスでは近世になると裕福市民層の子弟が学業仕上げのための[[グランドツアー]]や、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行うようになった。日本では江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、旅がさかんになった。 近代になり西欧で鉄道や汽船などの交通手段が発達すると、ますます旅はさかんになった。→[[#歴史]] 現在の旅は非常に多様であり、さまざまに分類することが可能である。→[[#旅の分類]] == 歴史 == 現代では一般庶民にも移動の自由が公に認められているが、過去においては制限がかかっていた場合が多く、[[宗教|宗教的]]な[[巡礼]]を名目に旅をすることが多かった。 [[ヨーロッパ]]では[[4世紀]]ごろには[[巡礼]]が始まっており、中世にはキリストの[[聖杯]]・[[聖遺物]]、あるいはその[[使徒]]の遺物が安置されているといわれる[[大聖堂]]、[[修道院]]への巡礼が盛んに行われるようになっていた。主な巡礼路には、旅人に宿泊場所を提供し世話をしたり、病人を世話するための施設も造られていた([[ホスピス]]や[[病院]]の起源)。 [[日本]]では[[8世紀]]ごろから[[西国三十三所]]、[[四国八十八箇所]]巡礼などが行われるようになった<ref group="※">日本の初期の[[鉄道]]の多くが[[社寺]]参拝のために作られた([[高野山]]へ行く[[南海電気鉄道|南海]]、[[成田山新勝寺|成田山]]へ行く[[京成電鉄|京成]]、[[高尾山]]へ行く[[京王電鉄|京王]] 等)。</ref>。 また、[[近世]]に入ってからは、[[イギリス]]の裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「[[グランドツアー]]」、[[家庭教師]]同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である[[旅行会社]]が登場した。[[1841年]]当時のこのような世相から[[トーマス・クック・グループ]]が創業した。 また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では19世紀には金鉱の発見などにより、「西部開拓」という大移動、旅行ブーム([[ゴールドラッシュ]])を引き起こした。以後、放浪者、「[[ホーボー]]」や、[[ビート・ジェネレーション|ビートニク]]などの運動でも旅行は新しい文化の呼び水になった。(ただし、21世紀現代の米国では[[パスポート]]保持者は全国民の3割に過ぎず、外国へ旅行する人の半数は、行き先が、[[2007年]]までパスポートが不要だった[[カナダ]]と[[メキシコ]]だったという<ref>「なぜ米国人は海外旅行に行きたがらない?」CNN、2011年2月7日</ref>)。 === 日本 === [[狩猟採集社会|狩猟時代]]、人々は食糧採集のために旅をしており、[[鳥]][[獣]]を追って[[山野]]を歩き、[[魚]]をとるために[[川]]を上下した<ref name="sekai_nihon">世界大百科事典、vol7. 【旅】-【日本】[[新城常三]] 担当</ref>。[[弥生時代]]に入ると農民は定住したものの、[[猟師|猟人]]、[[山人]]、[[漁師]]などによって食糧採集の旅は継続、また農民以外の職は[[行商人]]であったり歩き職人であったりした<ref name="sekai_nihon" />。当時は[[人口]]が少なく、待っていても仕事にならず、旅をして常に新規顧客を開拓する必要があった<ref name="sekai_nihon" />。[[中世]]から[[近世]]にかけては店をかまえる居商人が次第に増えたものの、かわらず旅をする商人・職人も多かった<ref name="sekai_nihon" />(例えば、[[富山の薬売り]]など)ほか、芸能民、[[琵琶法師]]、[[瞽女]]等々もいた<ref name="sekai_nihon" />。 行政によって強制された旅も多かった。[[防人]]では東国の民衆がはるばる[[九州]]まで赴いた。また[[庸]][[調]]などの貢納品([[租庸調]]という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき落命する者が絶えなかった<ref name="sekai_nihon" />。ちなみに日本の民俗学者の[[柳田國男]]は(日本の)旅の原型は租庸調を納めに行く道のりだ、と述べた。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならず、道沿いの[[民家]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の[[謙譲語]])といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている<ref>「豆の葉と太陽」『柳田國男全集〈12〉』筑摩書房、1998/02, p.267, ISBN 978-4480750723</ref>。 [[近世]]に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した<ref name="sekai_nihon" />。 やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった<ref name="sekai_nihon" />。平安時代末期までは[[交通]]環境は厳しく旅は危険を伴い、こうした苦難に挑むのには[[信仰]]という強い動機があった<ref name="sekai_nihon" />。[[僧侶]]は[[修行]]や[[伝道]]のため、一般人は[[神社|社]][[寺]]に[[参詣]]するために旅をした。平安末から鎌倉時代は特に[[熊野詣]]が盛んであった<ref name="sekai_nihon" />。[[室町時代]]以降、[[伊勢参り]]が盛んになり、また[[西国三十三所]]、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった<ref name="sekai_nihon" />。 宿泊費については15世紀には既に[[畿内]]で旅籠の定額制が確認され、遅れて16世紀には列島の広域で定着していた。中世後期には既に一般の庶民が広範囲な旅行を行いうる環境が成立しており、遠方への旅行も可能な環境が整備されていた<ref>小島道裕 「 中世後期の旅と消費 : 『永禄六年北国下り遣足帳』の支出と場」 『国立歴史民俗博物館研究報告』113 国立歴史民俗博物館、2004年、117・131頁 {{doi|10.15024/00001233}}。</ref>。 それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、[[江戸時代]]に入ると飛躍的に整備された<ref name="sekai_nihon" />。[[徳川家康]]は1600年の[[関ヶ原の戦い]]に勝つと、翌年には[[五街道]]や[[宿場]]を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれは実現した。宿場町には、宿泊施設の[[旅籠]]や[[木賃宿]]、飲食や休息をとるための[[茶屋]]、移動手段の[[馬]]や[[駕籠]]、商店などが並んだ<ref name="sekai_nihon" />。また[[貨幣]]も数十分の一〜数百分の一の軽さのものに変わり、[[為替]]も行われ、身軽に旅ができるようになった<ref name="sekai_nihon" />。またそれまで多かった[[山賊]]・[[海賊]]も、[[徳川幕府]]300年の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった<ref name="sekai_nihon" />。 江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、[[運賃|足代]]が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人は使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。[[農民]]の生活は単調・窮屈・暗いものであって旅をしたがったが、各[[藩]]のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。だが参詣の旅ならば[[宗教]]行為なので禁止できず、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た<ref name="sekai_nihon" />。庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとした。[[京都|京]]・[[奈良]]などでは社寺の広大さに感嘆し、[[大阪|大坂]]では[[芸能浄瑠璃]]や[[芝居]]に酔った<ref name="sekai_nihon" />。若者の中には宿場の[[遊女]]と遊ぶ者もいた<ref name="sekai_nihon" />。旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まった<ref name="sekai_nihon" />。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった<ref name="sekai_nihon" />。 また、江戸期には[[十返舎一九]]の[[東海道中膝栗毛]]などの旅を題材とした旅文学・[[紀行|紀行文]]や絵画作品も多く作られた。 なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官[[アーネスト・サトウ]]はその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「[[日本人]]は大の旅行好きである」と述べている。その理由として、「本屋の店頭にはくわしい[[旅行ガイドブック|旅行案内書]]([[宿泊施設|宿屋]]、[[街道]]、[[道のり]]、[[渡船場]]、[[寺院]]、[[産物]]などを記載したもの)、[[地図]]がたくさん置いてある」ことなどを挙げている<ref>アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上)』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、260頁</ref>。 近代になり、[[鉄道]]と[[汽船]]が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886年、[[修学旅行]]の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施される。東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった<ref>{{cite report|title=明治時代〜戦前の修学旅行の意義|url= http://shugakuryoko.com/museum/rekishi/museum4000-02.pdf|publisher=全国修学旅行研究協会|accessdate=2020年3月15日}}</ref>。 [[第二次世界大戦]]の戦局が悪化した[[1944年]]([[昭和]]19年)[[3月14日]]には、[[決戦非常措置要綱]]に基づく[[旅客]]の輸送制限に関する件が閣議決定され、通勤・通学以外の旅行は自粛の徹底が進められた<ref>決戦に備えて旅行を大幅制限(昭和19年3月15日 毎日新聞(東京) 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p783 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。当時は、長距離移動に適した道路網が未整備であったことなどから、旅行の自粛規制の対象は鉄道に集中した。同年4月以降、長距離移動に欠かせない[[特別急行列車]]やほとんどの[[急行列車]]が廃止されたほか、[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]や[[食堂車]]の連結も取りやめられた。 == 旅の分類 == 旅の分類と言ってもさまざまな方法があるが、例えば次のような分類が可能である。 * (目的による分類)[[帰省旅行]]。[[修学旅行]]。商用旅行、取材旅行(業務のための旅行は[[出張]]と称される)、社員の研修旅行、社員の慰安旅行(日頃の社員の頑張りをねぎらう目的で行う旅行<ref name="wbf">[https://www.wbf.co.jp/companytrip/article/infomation/difference.php]</ref>)、社員旅行(社員間のコミュニケーションや人間関係を深めるための旅行<ref name="wbf" />)。 * (動機による分類)[[新婚旅行]]、卒業旅行、傷心旅行。 * (参加者による)[[一人旅]]、夫婦旅行、家族旅行、社員旅行。 * (参加人数による)一人旅、グループ旅行([[個人旅行]])、[[団体旅行]]。 * (移動手段による)[[徒歩旅行]]、[[自転車旅行]]、[[ツーリング (オートバイ)|モーターサイクル・ツーリング]](バイク旅)、自動車旅行、[[ヒッチハイク]]、バス旅行(バスツアー)、[[鉄道旅行]]、船旅、カヌー・ツーリング、飛行機旅行 (→[[#ギャラリー]]でイメージ確認可)。 * (目的地による)温泉旅行 等々、国内旅行 / [[海外旅行]]、[[宇宙旅行]] <ref group="※">基本的にSFに留まるが、[[地底旅行]]という物語・概念もある。</ref>。 * (形態による)[[自由旅行]] / [[パッケージツアー]]、 滞在型旅行 / 周遊型旅行、弾丸ツアー (bullet tour)。 * (旅行業法による)[[募集型企画旅行]]、[[受注型企画旅行]]、[[手配旅行]]。 * (その他)無賃旅行([[ヒッチハイク]]も関連)、[[マイル修行]]。[[バーチャル・リアリティ|VR]]とオンライン旅行 == 目的地の有無 == 目的地のある旅と無い旅がある。 目的地が複数の場合もあり、英語では[[ツーリング]]と言う。<ref group="※">ここは <<目的地>> の話だから、目的の詳細の話は不要では? もしも仮にするのなら、目的の節をこことは別に設けて説明したほうがよいが、基本的にそもそもこのような説明は不要なはず。</tr> 目的の話をし始めるときりが無いが、たとえば帰省旅行では親・祖父母・親類や地元の友人と会う。 たとえば商用(ビジネス)目的の旅では、目的地で仕事を行うことになる。研修旅行では、目的地で研修を行うことになる。社員旅行では社員同士の交流を深める。レジャーの旅では各人の好みで様々な活動をすることになり、例えば、[[自然]]を楽しんだり、温泉で身体を癒したり、のんびりと[[宿泊施設|宿]]で(長期)滞在したり、[[文化財]]を楽しんだり、[[観光]]を楽しんだり、土地の産物の買い物をしたりする。</ref>また、“目的地”は形式的に設定されているだけであまり重要でなく、実質は途中の移動や行為であるような旅、移動中にさまざまなものを見てゆくことのほうがむしろ主たる愉しみとなっている旅もある。 期間だけを決めて出発し、行き先は成行きに任せたり、期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る場合もある。「[[放浪]]の旅に出る」という表現もある。 さまざまありうるが、次のような場所はしばしば目的地に設定されている。 * [[親類]]宅、[[親友]]宅、知人宅([[VFR (観光)|VFR]]) * [[景勝地]]全般:[[高原]]、山麓、[[山頂]]、[[島]]、[[滝]]、[[洞窟]]、[[海岸]]、[[湖]]、[[湿原]]、[[砂漠]]、[[砂丘]]、[[国定公園]]、[[国立公園]]、[[自然遺産 (世界遺産)|世界遺産とされた自然]] * [[聖地]]や[[霊場]]、[[教会堂]]、[[モスク]]<ref group="※">[[クルアーン]]の記載を根拠に、毎年ハッジの月(巡礼月)には数百万人のイスラーム教徒が[[メッカ]]のモスクへの旅[[ハッジ]]を行う。</ref>、[[仏閣]]、[[神社]](それらの場所で宗教的な[[祭]]を観ることも行われている。) * [[史跡]]全般:[[文化遺産 (世界遺産)|世界遺産とされた建造物]] * [[都市]]、有名[[飲食店|料理店]]、有名[[劇場]]、有名[[音楽ホール]] * [[美術館]]、[[博物館]]、[[動物園]]、[[水族館]]、[[植物園]] * [[温泉]]地 * [[避暑地]]、[[休暇村]]、[[海水浴場]] * [[テーマパーク]]、[[遊園地]] * 文学や映画、テレビドラマ、アニメなどの作品のロケ地や舞台となった場所([[コンテンツツーリズム]]) * ある国や土地の端:最北端・最南端・最東端・最西端、[[半島]]や[[岬]]の先端<ref group="※">[[自転車旅行]]をする人や、[[オートバイ・ツーリング]]をする人はしばしばこうした場所を目的地に設定する。オートバイ雑誌や自転車雑誌のツーリング特集号などでもしばしば言及されている。</ref> == ギャラリー == <gallery> ファイル:River Landscape with Traveler MET DP800782.jpg|[[徒歩旅行|徒歩での旅]]([[17世紀]]、[[オランダ]]) ファイル:Caravan in the desert.jpg|[[ラクダ]]に荷物を載せて砂漠を旅する[[キャラバン]] ファイル:Midland Coach Otira Gorge, 1895.jpg|[[馬車]]での旅(1895年、[[ニュージーランド]]) ファイル:1907-07-03, ¡Alegría!, Los de la orden botijil, Medina Vera (cropped).jpg|[[鉄道]]列車による旅(1907年、[[スペイン]]のイラスト) ファイル:PASSENGER SERVICE REPRESENTATIVE FOR AMTRAK DISCUSSES THE TRAIN SYSTEM WITH TRAVELERS IN THE OBSERVATION CAR OF THE... - NARA - 556088.tif|列車による旅。(1974年、アメリカ、[[Amtrak]]の列車にて) ファイル:To Borgarnes by bus III. Hafnarmelar 03.jpg|[[バス (交通機関)|バス]]での旅(2019年、[[アイスランド]]) ファイル:Elsa amylin kiwi experience-2006-11-28.jpg|[[ヒッチハイク]]による旅 ファイル:027 Cycling Torres del Paine.jpg|[[自転車旅行|自転車での旅]](2008年、[[パタゴニア]]) ファイル:Motorcycle touring Great Britain.jpg|[[ツーリング (オートバイ)|オートバイでの旅]] ファイル:Sailing on Sydney Harbour-1 (38484784295).jpg|[[ヨット|セーリングボート]]による旅 ファイル:Flight-travelling-airplane (23698289143).jpg|[[旅客機]]での旅 ファイル:Flea Hop HB-SIA - Solar Impulse.jpg|[[ソーラー・インパルス]](ソーラー飛行機)による[[世界一周]]の旅 </gallery> == 他 == 旅の[[枕詞]]は「草枕」である。草枕とは、旅先で草で仮に枕を編んだことに因む。 ;中東・コーカサスの儀式 :中東や[[コーカサス]]地域では、旅行や会社に行く人の後ろに水を垂らす儀式{{ill2|Spilling water for luck|en|Spilling water for luck}}が行われる。流れる水のようにスムーズに行動できますようにという願掛けである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="※"/> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|旅}} {{Wikiquote|旅}} * [[特別:検索/intitle:旅|「旅」を含む記事名一覧]] * [[特別:検索/intitle:旅行|「旅行」を含む記事名一覧]] * [[放浪]]、[[ワンダーラスト]] * [[余暇]]、[[バカンス]]、[[ホームエクスチェンジ]] * [[キャンプ]] 、[[キャンピングカー]] * [[世界旅行博]] * [[旅客輸送]]、[[旅客車]]、[[旅客機]]、[[客船]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[ハイヤー]]、[[タクシー]]、[[フェリー]] * [[旅行写真]] 、[[ロードムービー]]、 [[旅番組]]、[[旅芸人]] * [[旅行ガイドブック]]、[[紀行|紀行文]](旅行記、[[紀行|道中記]]) * [[観光経済新聞]]、[[トラベルジャーナル]]、[[旬刊旅行新聞]] * [[観光]]、[[観光協会]]、[[政府観光局]]、[[観光立国推進基本法]]、[[観光業]] * [[旅行業協会]]、[[旅行業法]]、[[宿泊施設]]、[[旅行会社]] * [[エコツーリズム]]、[[エコツーリズム推進法]] * [[旅行業務取扱管理者]]、[[通訳案内士]]、[[添乗員]] *[[フライトシェイム]] {{観光}} {{バックパッカー}} {{宿泊施設}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りよこう}} [[Category:旅行|*]]
2003-02-15T09:16:16Z
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電話
電話(、英: telephone)とは、音声を電気的信号に変え、離れた場所に伝達し、これをふたたび音声に戻すことで、相互に通話できるようにした通信方法。 電話の種類はさまざまな方法で分類可能である。 たとえば伝送途中の信号の形式を基準とすると、アナログ電話 / デジタル電話 と分類される。 電話は一般的には、信号の伝送に電流や電波を用いる。光ファイバー中に流される光を利用する事も広く普及している。あまり一般的ではないが、技術的には一応「光線電話」というものもある。光を搬送波として使用するもので空間光通信の一種。直線で互いに見通せる範囲内でしか通信できないが、高速大容量の通信が可能。可視光線以外に赤外線も用いられる。近年ではデジタル式もある。 また特殊用途で、水中電話という、超音波を利用するものもあり、アナログ式とデジタル式がある。無線通信を行う際、水中は電波が激しく減衰するので、代わりに超音波を用いている。 もともとは音声を電流の変化に変換し、それをそのまま相手側の装置に伝送し、相手側の装置で電流を音声に変換した。 20世紀末ごろから普及したデジタル式電話では、変調や復調といった手順を含む。多くは得られた情報からのベースバンドを、さらに伝送経路上で符号化する方式で伝送している(搬送帯域伝送)。経路上の回路は複雑になるが、送電経路上の情報の送受信の効率が上がり、情報量や品質が良くなるというメリットがある。 19世紀、電話の歴史の初期には、2台の電話機だけを用いてその間を2本~4本の銅線で繋ぎ、それを繋いだままにしておき、常に2台の電話機の間だけで通話を行う素朴な電話がしばしば用いられた。現代でも特殊な場所では、2台の電話機の間を一筋の被覆電線で結び、他とは一切通話できない電話が設置されることもある。 19世紀末や20世紀前半は、電線の相互接続の切り替えは主として人間が人手で行っていた。電話の電線を相互に接続したり、接続を切り替えてやる業務を「交換業務」、その担い手を「交換手」や「電話交換手」と言った。そして「電話局」に設置された交換台(パッチパネル)を用いて電話同士を電気的に接続する方式が広く採用された。 その後、通話先を音声で交換手に伝えるのではなく電話機のパルス発信で機械的に伝える方式が開発され、手作業でやっていた相互接続や繋ぎ換えの作業を自動で行う機械も作られ(電話交換機)、徐々に広がっていった。 現代では、通常電話のシステムは電話機1機対電話機1機とはなっておらず、通話を行う時にだけ電話交換機で複数の電話機をつなぐ回線を確保する方式(回線交換)がとられる。 現代の電話回線は自動交換機で世界的に相互接続され巨大な電話網を形成している。固定電話、携帯電話、衛星電話、IP電話など多種多様な電話の相互接続や、無線呼び出しへの発信も可能になっている。人間の音声での通話のためだけでなく、1990年代にインターネットへのダイヤルアップ接続などのコンピュータ・ネットワークにも利用されるようになった。 電話機は、電磁誘導の原理を利用し、音声を電気信号に変換して送り出し、受け取った電気信号を音声に変換するための機器である。 交換機の動作との関係では次のように分類できる。 また、電話回線を使って画像を送受信する機器はファクシミリ (FAX)という。ファクシミリ・複写機・イメージスキャナなどを一つの筐体に収めたデジタル事務機器は複合機と呼ばれる。 音声と同時に動画を送ることができるようにしたものはテレビ電話という。 公衆電話は、街頭や公共交通の乗り物などに設置され、硬貨、トークン(電話専用コイン)、プリペイドカード、クレジットカード等で利用可能な電話をいう。 家庭や、オフィスなどの建物に固定して設置され、月毎に通話料金を支払う有線式電話を固定電話という。 移動式電話は、かつての自動車電話やその後に登場した携帯電話などである。移動式電話には、電波で局と回線をつなぐ無線電話や、人工衛星を利用して回線をつなぐ衛星電話などがある。 サービスが拡大すれば必要な施設を設置する投資も不可欠だが、投資を回収するまでの時間が生まれれば全ての利用者に一度にサービスを提供できないことで積滞が生まれた。しかし、郵便と違って利用者を拡大すれば、相対的に個人が負担する費用は段々減る法則が電話にはある。言い換えれば、ひとつの事業者の電話線の接地面積が拡大すればするだけ、利用者の負担は一定の水準まで軽くなる。同時に運営事業者が過当競争で倒れた場合は利用者へデメリットが生まれる。 この結果として積滞率解消、かつ公共サービスのコストの面から電話の事業体は公益性を追求する官営(BTグループ登場以前のイギリス方式)か、ローカル地域と基幹網を分けた上で後者についてはある程度まで行政の裁量で独占を許す形の民営にするかの(分割以前のアメリカのAT&Tがこの役割を担った)選択を国は迫られることになり、敗戦後の日本は事業体の形態を公社とすることに決定した。1980年代の通信自由化においてこの論争は再燃することになるが、日本における電電公社民営化の過程については井上照幸著『電電民営化過程の研究』(エルク ISBN 978-4434001475)が詳しい。。
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電話(でんわ、とは、音声を電気的信号に変え、離れた場所に伝達し、これをふたたび音声に戻すことで、相互に通話できるようにした通信方法。
{{Otheruseslist|電話という通信手段の基本や概略|電話の利用者が手にする機械|電話機|電話通信の回線が集まってできた巨大なネットワーク|電話網|その他の「電話」|電話 (曖昧さ回避)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2013年1月22日 (火) 16:25 (UTC) | 独自研究 =2013年1月22日 (火) 16:25 (UTC) }} [[File:Telephoneschematic.gif|thumb|right|350px|電話という通信方法の回路の図解の一例]] {{読み仮名|'''電話'''|でんわ|{{lang-en-short|telephone}}}}とは、[[音声]]を[[電気]]的[[信号 (電気工学)|信号]]に変え、離れた場所に伝達し、これをふたたび音声に戻すことで、相互に通話できるようにした[[通信]]方法<ref name="nippo">小学館『日本大百科全書』「電話」</ref>。 == 種類 == 電話の種類はさまざまな方法で分類可能である。 たとえば伝送途中の信号の形式を基準とすると、アナログ電話 / デジタル電話 と分類される。 電話は一般的には、信号の伝送に電流や電波を用いる。[[光ファイバー]]中に流される光を利用する事も広く普及している。あまり一般的ではないが、技術的には一応「光線電話」というものもある。光を搬送波として使用するもので空間光通信の一種。直線で互いに見通せる範囲内でしか通信できないが、高速大容量の通信が可能。可視光線以外に赤外線も用いられる。近年ではデジタル式もある。 また特殊用途で、水中電話という、[[超音波]]を利用するものもあり、アナログ式とデジタル式がある。無線通信を行う際、水中は電波が激しく減衰するので、代わりに超音波を用いている。 == 歴史 == {{See|電話の歴史|}}<!-- [[1950年代]]には、[[商店]]・企業の連絡手段として必要不可欠なものとなった。そのころ一般家庭では、「呼出電話」と呼ばれる、電話を持っている人に着信させ、電話を受けた人が呼び出す人をその人の家まで呼びに行くものであった。そのため、[[電話機]]は玄関に設置された。また、発信には、[[公衆電話]]が利用された。 日本で一般の家庭にも普及しはじめたのは[[1970年代]]以降である。ほとんどの家庭で1台のみが居間などに設置されており、家族が共同で使用するものであった。 [[1990年代]]には、親子電話・[[コードレス電話]]などにより、個室からの通話が可能となった。親が知らない交友関係ができる、長電話で高額の通話料金となるなど親子関係の摩擦の原因となることもあった。 1990年代後半に入り、各国での[[携帯電話]]の普及により、移動中・在宅を問わず直接個人に連絡できる手段となっている。 --> == 電話の仕組み == もともとは音声を電流の変化に変換し、それをそのまま相手側の装置に伝送し、相手側の装置で電流を音声に変換した。 20世紀末ごろから普及したデジタル式電話では、[[変調]]や[[復調]]といった手順を含む。多くは得られた情報からの[[ベースバンド]]を、さらに伝送経路上で符号化する方式で伝送している([[伝送路符号化|搬送帯域伝送]])。経路上の回路は複雑になるが、送電経路上の情報の送受信の効率が上がり、情報量や品質が良くなるというメリットがある。 === 電話の回線 === {{main|電話回線}} 19世紀、電話の歴史の初期には、2台の電話機だけを用いてその間を2本~4本の銅線で繋ぎ、それを繋いだままにしておき、常に2台の電話機の間だけで通話を行う素朴な電話がしばしば用いられた。現代でも特殊な場所では、2台の電話機の間を一筋の被覆電線で結び、他とは一切通話できない電話が設置されることもある。 19世紀末や20世紀前半は、電線の相互接続の切り替えは主として人間が人手で行っていた。電話の電線を相互に接続したり、接続を切り替えてやる業務を「交換業務」、その担い手を「[[交換手]]」や「[[交換手|電話交換手]]」と言った。そして「電話局」に設置された交換台([[パッチパネル]])を用いて電話同士を電気的に接続する方式が広く採用された。 その後、通話先を音声で交換手に伝えるのではなく電話機のパルス発信で機械的に伝える方式が開発され、手作業でやっていた相互接続や繋ぎ換えの作業を自動で行う機械も作られ([[電話交換機]])、徐々に広がっていった。 {{gallery |height=200px |ファイル:Bureau téléphonique parisien vers 1900.jpg|1900年ころのパリの電話局。壁に大きな[[パッチパネル]]がある。多人数の[[交換手]]が交換業務を行っている。|File:Telephone exchange Montreal QE3 33.jpg|1897年~1899年ころの[[モントリオール]]。 |File:The Telephone Service Carries On, London, January 1942 D6427.jpg|1942年、[[ロンドン]]。 |File:Switchboard 2 TMW.agr.jpg|小型の交換台 |File:Jersey Telecom switchboard and operator.jpg|オフィスビル内の交換台と交換手(米国、1975年)。ひとつの建物の中に数十台程度電話機が設置されていた。 |File:Automatic_Telephone_Exchange-_Communications_in_Wartime,_London,_England,_UK,_1945_D23693.jpg|自動交換機(1945年、ロンドン) |File:Nortel DMS100 public voice exchange.jpg|現代の[[デジタル交換機]](1999年) }} 現代では、通常電話のシステムは電話機1機対電話機1機とはなっておらず、通話を行う時にだけ[[電話交換機]]で複数の電話機をつなぐ[[回線]]を確保する方式('''回線交換''')がとられる<ref>谷口功『図解入門よくわかる最新通信の基本と仕組み 通信の常識 第2版』秀和システム、2007年、67頁</ref>。 現代の電話回線は自動交換機で世界的に相互接続され巨大な[[電話網]]を形成している。[[固定電話]]、[[携帯電話]]、[[衛星電話]]、[[IP電話]]など多種多様な電話の相互接続や、[[無線呼び出し]]への発信も可能になっている。人間の音声での通話のためだけでなく、1990年代に[[インターネット]]への[[ダイヤルアップ接続]]などの[[コンピュータ・ネットワーク]]にも利用されるようになった。 === 電話機 === {{main|電話機}} 電話機は、[[電磁誘導]]の原理を利用し、音声を電気信号に変換して送り出し、受け取った電気信号を音声に変換するための機器である<ref>谷口功『図解入門よくわかる最新通信の基本と仕組み 通信の常識 第2版』秀和システム、2007年、64頁</ref>。 交換機の動作との関係では次のように分類できる。 * [[ダイヤルパルス]]式電話機(回転ダイヤル式電話機)。数字に応じたダイヤルの穴に指を入れてストッパーのところまで回し指を抜くたびに、それに応じた回数の電気的なパルスが発信されるもの。21世紀に入ってからは新製品は登場していない。 * [[押しボタン式電話機]]: [[DTMF]]で電話番号を発信する電話機。 * [[留守番電話]]: 不在時の着信を録音する電話機またはサービス。 * [[コードレス電話]]: 利用者が[[基地局]]を設置する無線電話システム。 また、電話回線を使って画像を送受信する機器は[[ファクシミリ]] (FAX)という<ref>谷口功『図解入門よくわかる最新通信の基本と仕組み 通信の常識 第2版』秀和システム、2007年、70頁</ref>。ファクシミリ・[[複写機]]・[[イメージスキャナ]]などを一つの筐体に収めた[[デジタル]][[事務機器]]は[[複合機]]と呼ばれる。 音声と同時に[[動画]]を送ることができるようにしたものは[[テレビ電話]]という。 {{gallery |height=200px |File:1896_telephone.jpg|交換手方式の電話機、[[1896年]]の電話機(スウェーデン)。送受話器を持ち、右側のハンドルで電話機内部の[[発電機]]を回し[[電話交換手]]を呼び出す。|ファイル:WesternElectric302.jpg|[[ダイヤルパルス]]式、米国、ウェスタン・エレクトリック社の{{仮リンク|Model 302|en|Model 302 telephone}}。手元の回転ダイヤルを回すだけで通話先を指定できるようになった。 |Image:Kuroden(black telephone).jpg|日本のダイヤルパルス式の[[黒電話]](壁掛け型)。日本の大多数の家庭に普及したモデル。 |Image:AT&T push button telephone western electric model 2500 dmg black.jpg| [[1967年]]ころに登場した、[[DTMF|トーンダイヤル式]]の米国のウェスタン・エレクトリック社のModel 2500(黒)。ダイヤルパルス式よりもすばやく通話先の電話番号を指定できるようになり、機能も増えた。 }} == 公衆電話 == {{Main|公衆電話}} [[公衆電話]]は、街頭や公共交通の乗り物などに設置され、[[硬貨]]、[[代用貨幣|トークン]](電話専用コイン)、[[プリペイドカード]]、[[クレジットカード]]等で利用可能な電話をいう。 <!-- * [[委託公衆電話]]: 公共施設・[[鉄道駅|駅]]・店舗などの構内に電気通信事業者によって設置され、施設の管理者に管理を委託しているもの。 * [[特殊簡易公衆電話]]: ピンク電話とも呼ばれる、店舗内などに店舗などの運営者によって設置されるもの。 * [[特設公衆電話]]: 災害時に避難場所などに設置される無料公衆電話。 * [[新幹線]]公衆電話・船舶公衆電話・[[航空機]]公衆電話・衛星公衆電話・列車バス公衆電話: [[日本の公衆電話]]の項を参照。 --> {{gallery |height=200px |Image:TelefonzelleFrankfurt060422.jpg|[[ドイツ]]の公衆電話(2006年撮影) |File:Public telephone chinaB111056.jpg|([[中国]]・[[中国網通|CNC]])の公衆電話 画像:公衆電話DMC-2C-I-01.jpg|[[日本の公衆電話|日本のデジタル公衆電話]](2005年撮影) }} == 固定電話と移動式電話 == 家庭や、オフィスなどの建物に固定して設置され、月毎に通話料金を支払う有線式電話を[[固定電話]]という。 * 単独電話: [[加入者線]]を一つの加入者で占有するもの。 * [[共同電話]]: 電話交換機の出線を有効活用するため複数の加入者で加入者線を共同利用するもの。 移動式電話は、かつての自動車電話やその後に登場した[[携帯電話]]などである。移動式電話には、電波で局と回線をつなぐ[[無線電話]]や、人工衛星を利用して回線をつなぐ[[衛星電話]]などがある。 <!-- ただし、例えば携帯電話による通信は携帯電話と基地局の間では無線通信であるが、それより先は伝送ケーブルによる有線通信である<ref name="zukai15">谷口功『図解入門よくわかる最新通信の基本と仕組み 通信の常識 第2版』秀和システム、2007年、15頁</ref>。また、建物内でも無線LANなどの無線通信が使われている<ref name="zukai15" />。 --> == 通話の種類 == ; [[市内通話]] : [[単位料金区域]] (MA) 内発着の固定電話による電話のこと。市内電話ともいう。 ; [[市外通話]] : 市内電話領域外(国内)への電話のこと。市外電話。 ; [[国際電話]] : 国外へ電話をかけること。国際通話。 ; [[コールバック]] : 発信側が呼び出しを行い、着信側が発信側の電話番号を得た後一旦回線の開放を行い、着信側が発信側を呼び返す通話。 == 電話の運営と経営 == サービスが拡大すれば必要な施設を設置する投資も不可欠だが、投資を回収するまでの時間が生まれれば全ての利用者に一度にサービスを提供できないことで積滞が生まれた。しかし、郵便と違って利用者を拡大すれば、相対的に個人が負担する費用は段々減る法則が電話にはある。言い換えれば、ひとつの事業者の電話線の接地面積が拡大すればするだけ、利用者の負担は一定の水準まで軽くなる。同時に運営事業者が過当競争で倒れた場合は利用者へデメリットが生まれる。 この結果として積滞率解消、かつ公共サービスのコストの面から電話の事業体は公益性を追求する官営([[BTグループ]]登場以前のイギリス方式)か、ローカル地域と基幹網を分けた上で後者についてはある程度まで行政の裁量で独占を許す形の民営にするかの(分割以前のアメリカの[[AT&T]]がこの役割を担った)選択を国は迫られることになり、敗戦後の日本は事業体の形態を公社とすることに決定した。1980年代の[[通信自由化]]においてこの論争は再燃することになるが、[[日本]]における[[日本電信電話公社|電電公社]]民営化の過程については井上照幸著『電電民営化過程の研究』(エルク ISBN 978-4434001475)が詳しい。。 == 電話マーク == {{特殊文字|対象=節|説明=電話マーク}} {{Main|電話マーク}} 電話のマークは、「☎」、「☏」、「✆」、「℡」(TEL)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Commons|Category:Telephones|電話}} === 電話の仕組み・種類・相互接続 === * [[有線通信]] - [[通信線路]] * [[電話網]] - [[公衆交換電話網]] - [[中継電話]] - [[直収電話]] * [[電気通信役務]] : 電話の付加サービス * [[電気通信事業者]] : [[電気通信事業]](電話事業)を行う[[企業]] * [[移動体通信]] - [[携帯電話]] - [[自動車電話]] - [[船舶電話]] - [[衛星電話]] - [[PHS]] - [[DECT]] * [[VoIP]] - [[IP電話]] - [[日本のIP電話]] - [[インターネット電話]] - [[IPセントレックス]] * [[内線電話]] - [[インターホン]] - [[指令電話]] &gt; [[警察電話]] - [[消防電話]] - [[鉄道電話]] - [[電力保安通信線]] - [[NHK-DX]] === 電話番号 === * [[電話番号]] - [[電話番号計画]] - [[E.164]] - [[ENUM]] * [[市外局番]] - [[単位料金区域]] - [[電話加入区域]] * [[着信課金電話番号]] - [[フリーダイヤル]] * [[緊急通報用電話番号]] - [[110番]] - [[119番]] - [[118番]] * [[国際電話番号の一覧]] - [[北米電話番号計画]] * [[日本の電話番号計画]] - [[日本の電話番号]] - [[日本の市外局番]] - [[日本における市外局番の変更]] * [[電話帳]] - [[電話番号案内]] - [[NTT番号情報]] - [[ハローページ]] - [[タウンページ]] <!--電話番号に関するもののリンクが増えたため解説を[[電話番号]]に集約しリンクのみとしました--> === 資格・要員 === * [[電気通信主任技術者]] - 事業用[[電気通信]]設備の工事・維持・管理の監督の[[資格]]。 * [[工事担任者]] - 端末設備の工事の実施・監督の資格。通称「工担者」、「担任者」。 * [[無線技術士]] - 無線機器を利用して電話の中継を行う際に、一定の要件を満たす場合。 * [[交換手]] - 自動交換機が普及する前、相手までの経路を繋いでいた人。現在でも代表番号・大代表番号を持つような大企業・団体では、代表番号にかかってきた電話を内容に応じた担当部署に回す専従者が、主として総務部門などにいる。 === その他 === * [[公共料金]] - [[電話料金]] * [[迷惑電話]] - [[スパム電話]] * [[電話加入権]]([[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|西日本]]の[[固定電話]]に加入する権利・施設設置負担金) * [[ホットライン]](2か国の首脳が非常の際に直接対話ができるように設置された直通の[[電話回線]]) * [[エドゥアルト・シュトラウス1世]](作品165に'電話'というポルカがある) * [[伊沢修二]]・[[金子堅太郎]](日本人として初めて電話を使った) * [[伝声管]]: 船舶内などにおいて、金属の管により音声の空気振動を電気信号に変換せずそのまま拡散させずに少ない減衰で相手に伝達する。 * [[糸電話]]: 玩具のひとつ。音を電気信号に変換せず膜と糸を媒介として機械的な振動により伝える。 * [[電話 (歌劇)]]、[[人間の声]](電話を題材としたオペラ) == 外部リンク == * '''郵政博物館''':逓信総合博物館が東日本大震災で閉館後、通信文化協会が運営していた部分がスカイツリーに移転。 ** [http://www.postalmuseum.jp/ 郵政博物館] * '''NTT技術史料館''':逓信総合博物館が東日本大震災で閉館後、NTT東日本が運営していた部分の一部の展示物が展示されたところ。 ** [http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/ NTT技術史料館] {{Computer sizes}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんわ}} [[Category:電話|*]] [[Category:オーラルコミュニケーション]] [[Category:和製漢語]]
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大陸
大陸()とは、地球の地殻上に存在する陸塊である。一般的にはユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・オーストラリア大陸・南極大陸の6つの陸上部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては大陸移動説として説明されたプレートテクトニクスで理論化され、地質学の研究課題となっている。 慣習的に、「大陸とは有意な水域で切り離された、充分に広く、連続的で、おのおのが独立していると認識される陸地」と言える。しかし、一般に言われる6つの大陸は必ずしも海で分断された離散的な状態にあるわけではない。広さも恣意的な判断に基づき、最大の島グリーンランドの面積は2,166,086kmであり、大陸に分類されるオーストラリアの面積7,617,930kmと比較した際に大陸とはみなされない理由は明確に説明されていない。また、おのおのの独立という点では理想的な基準を満たすために大陸棚や島弧の存在は考慮されず、南北アメリカはパナマ地峡でつながっているために合わせて1つの大陸とする考えがあるなど、定義上の矛盾もある。アジア・ヨーロッパ・アフリカも自然な地形では分断されておらず、このうちアジアとヨーロッパは地峡さえない状態でつながっており、定義から大きく逸脱している。海洋と大陸の関係では、大陸は1つ以上の主要な大洋(en)と接しており、逆に大洋は大陸やさまざまな地理的基準によっておのおのが区分されている。 大陸を指す最も狭義の概念は切れ目がない主要な陸地ということになる。この考え方では、海岸線が大陸の淵となり、イギリスやアイルランドが自国と対して使う「大陸(the Continent)」は大陸ヨーロッパを意味するが、アイスランドなどの島を含まないこと、同様な意味で日本などから見た中国大陸や、オーストラリアのタスマニアが「オーストラリア大陸」に加えられない事象が例になる。また太平洋のハワイ諸島やカナダ領土を挟むアラスカを除いたアメリカ合衆国の48州を「アメリカ合衆国本土」(continental United States)と呼称することもこの用法に当たる。 地質学や自然地理学の見地からは、海面下の水深が浅い領域である大陸棚とそこにある島々(大陸島)も連続した陸地として扱われ、構造的に大陸の境界内に入る。この視点では、大陸の境界は海岸線に関わらず大陸棚の縁となり、イギリス諸島やアイルランドはヨーロッパ大陸の一部となり、ニューギニア島はオーストラリア大陸と一体となってサフル大陸(またはオーストラリア‐ニューギニア)を形成する。 文化的な構図から勘案すると、大陸という概念は大陸棚のような地形的境界を越える可能性がある。たとえば、この考え方ではアイスランドはヨーロッパ大陸の、マダガスカルはアフリカ大陸の一部と受け取ることができる。これをさらに拡大すると、オーストラリア大陸がニュージーランドなど全オセアニア諸島を含み込んだオーストララシアまでに至る。その結果、地球上のすべての地域はもれなくいずれかの大陸に含まれることになる。 各大陸が水域によって区分されているという理想的な基準は、歴史的そして現実的には当てはまっていないと見なされている。この基準に合致するものは、かろうじてオーストラリア大陸と南極大陸のみである。いくつかの大陸は完全に独立した陸塊ではなく「そこそこの大きさの地面」と認識されている。アジアとアフリカはシナイ半島でつながり、南北アメリカの間にはパナマ地峡がある。どちらの地峡も大陸と比べれば非常に狭いもので、しかも人工の運河(スエズ運河とパナマ運河)によって両大陸は切り離されていると言うこともできる。 一方、ユーラシア大陸をアジアとヨーロッパに分ける考えは異例であり、そこには水域は何もない。この点からユーラシア大陸を含む6大陸という数え方が生まれている。この地理的な考えはヨーロッパとアジアをまたぐロシアではユーラシア主義思想とも結びつけられ、日本でもこの考えが主流である。それに対し2つの大陸に分ける考えはヨーロッパ中心主義の残滓もあり、「物理的、文化的そして歴史的な多様性では、中国やインドはヨーロッパの個別国ではなく全体に匹敵する。もしフランスと比類するならば、インド全体ではなくその中の一州、たとえばウッタル・プラデーシュ州を並べる方が完全ではないとしてもより適切である」という意見もあるが、歴史的また文化的な理由からヨーロッパではユーラシアを2大陸に分ける考えが本流である。 陸峡を挟む南北アメリカ大陸はユーラシアよりも明瞭に区分されるが、それでも以前はまとめて1つの大陸として認識されており、第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国でも支配的だった。現在でも米州機構にこの概念が残っている。この、アメリカ大陸を1つとみなす考えは、スペインやポルトガルおよびラテンアメリカ諸国の概念から来ている。しかし19世紀ごろ、アメリカ合衆国との混同を避けるために使われ始めたアメリカ州(Americas)という言葉に見られる複数形から示唆されるように、このころには新世界は2つの大陸で成り立っているという認識が広まった。この区分は近代オリンピックのシンボルマークに使われており、大陸を表す環は南極を除き5つがデザインされている。 もし大陸の定義を離散的な陸塊とし、接触する場所がある陸地はまとめて考えるとするならば、アジア・アフリカ・ヨーロッパはアフロ・ユーラシア大陸という呼称のように1つの大陸と見なさなければならなくなる。この場合、南北アメリカもひとつと数えられ、地球の大陸は4つとなる。さらに、更新世の氷期によって海水準変動が起こっていた時期を考えれば、より広い範囲で大陸棚を介した陸橋で大陸はつながっていた。この時期、ニューギニアはオーストラリア大陸の一部であり、アメリカ大陸とアフロ・ユーラシア大陸はベーリング海峡を通じて連なっていた。グレートブリテン島など大陸周辺の島もことごとく大陸と一体化していた。この時代に冒頭の大陸と定義できる陸地は3つだけだった。 大陸をどう数えるかについては複数の方法がある。 「オセアニア」や「オーストララシア」はオーストラリアを示す名称としてしばしば用いられ、カナダの地図帳『Atlas of Canada』もオセアニア表記である。中南米とイベリア半島を指しイベロアメリカという用語も使われる。 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の面積と人口についての統計を示す。 全大陸の面積は総計148,647,000kmであり、地球表面(510,065,600 km)の29.1%を占める。 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の最高標高地点(最高峰)と最低標高地点を示す。 † 北アメリカ大陸と南極大陸の最低標高地点は厚さ数キロメートルの氷河に覆われている。露出した地点に限れば、北アメリカの場合 デスヴァレー(-86メートル)、南極大陸ではベストフォードヒルズ(en)(-50メートル)の湖が該当する。 ヨーロッパとアジアの地質学的境界をパラテーチス海(en)の名残りであるクマ=マヌィチ窪地に求める意見もある。これに則るとエルブルス山があるコーカサス山脈はアジアの領域に入り、そのためヨーロッパ最高標高地点はグライアンアルプス(en)のモンブラン(4,810メートル)となる。 現在知られている大陸とは別に、別な観点に立った大陸と呼ぶ対象もある。地質学的記録を遡ったことにより、超大陸と呼ばれる、単一のクラトンや大陸塊をしのぐ大きさを誇った陸地が、かつての地球上に存在したと考えることが今日では妥当とされるようになった。これらには、ローラシア大陸、ゴンドワナ大陸 、バールバラ大陸、ケノーランド大陸、コロンビア大陸、ロディニア大陸そしてパンゲア大陸などがこれに当たる。理論上、現在のユーラシア大陸もこれに該当する。 大陸の一部を指して亜大陸と呼称する用例もある。特に、異なるプレートに乗る陸地が大陸と接続しているような場合に用いられ、インド亜大陸やアラビア半島が顕著な例に当たる。北アメリカプレート北東部にあるグリーンランドは、大陸と接続こそしていないが亜大陸と認識される場合もある。南北アメリカ大陸を単一の大陸と見なす場合、ふたつの亜大陸がつながっているという見方もある。 微小大陸(英: microcontinent)とは、大陸地殻としては海中に没しているものの、比較的水深の浅い場所に広い面積を持つ領域であり、これを単純に水没した大陸とする見方がある。ニュージーランドからニューカレドニア付近の海域にあるジーランディアは典型的な例で、ほかにインド洋南部のケルゲレン海台もこれに当たる。 大陸断片(continental fragment)とは、かつては大陸と一体だった大地が断裂して島状になった地形を指し、これを比較的小さな大陸ととらえた用語である。マダガスカル島はこの例に当たる最大の島で、「第8の大陸」と呼称されることもある。 アトランティス、ヒュペルボレイオスの伝説やトゥーレ、レムリア・ムー大陸などが例に挙げられる。 最初の大陸区分は、古代ギリシアの船員たちが名づけた「アジア」と「ヨーロッパ」だった。ただしこれは単純にエーゲ海、ダーダネルス海峡、マルマラ海、ボスポラス海峡および黒海の両岸のことを指していた。当初は海岸のみを指していたこれらの言葉は、のちに広大な背景地にまで及ぶようになった。しかし、これらの区分はせいぜい航海によってたどりつけた土地までの範囲に留まり、「その限界を超えて、決して分割が叶わないユーラシアを仕切るためのいかなる説得力を持つ地理的な特徴を内陸部に見出すことは、ギリシアの地理学者たちの手に余った」と評されている。 次に古代ギリシアの思想家たちは、アフリカ(当時はリビアと呼ばれていた)が果たしてアジアの一部なのか、それとも異なる場所なのかを議論し、そこが異なる3番目の土地だという考えが優勢となった。ギリシア的観点に立つと、エーゲ海は世界の中心であり、東にアジア、西と北にヨーロッパ、そして南にアフリカが位置した。大陸間の境界は明瞭されなかった。早くから、ヨーロッパとアジアは黒海からグルジアを流れるリオニ川(当時はファシス河と呼ばれた)に沿って分けられた。その後、この線は黒海を起点にケルチ海峡、アゾフ海を通ってロシアのドン川を遡上する形と変化した。アジアとアフリカの境界はナイル川に置かれた。しかし紀元前5世紀のヘロドトス は、これではエジプトがアジアとリビア(アフリカ)に分断されてしまうため反対し、同地はあくまでアジアだとの主張の元に境界をエジプトの西側国境線に置いた。また彼は、実質的に陸続きのこの3地域をわざわざ分けることに疑問を呈し、この論争は2500年後の現在でも取り沙汰される。 紀元前3世紀のエラトステネスは、地理学者たちが主張するナイル川やドン川で区分される大陸部分に着目し、川で区分される大陸を「島」、地峡で分けられる大陸を「半島」と考えた。彼以後の地理学者たちは、アジアをヨーロッパの区分をカスピ海と黒海の間の地峡に、アジアとアフリカの区分を地中海沿岸のバルダビル湖((en))河口から紅海の間に置いた。 古代ローマから中世の間、シナイ半島をアジアとアフリカの境界に置く地理学者はわずかで、ほとんどは依然としてナイル川もしくはエジプトの西境を基準に置いていた。中世には世界はTO図の形式で描かれ、Tが3つの大陸を分割する水域として表現されるようになったが、18世紀中ごろまで境界をエジプトとリビアの間(Great Catabathmus)に求める流儀はしぶとく残っていた。 クリストファー・コロンブスが大西洋を航海し西インド諸島に到達した1492年は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸探査の口火となった。ただし、コロンブス自身は4度アメリカへ渡ったにもかかわらず、彼はそこがアジアの一部だと生涯信じていた。 1501年、アメリゴ・ヴェスプッチとゴンサロ・コエーリョ(en)が、彼らがインディアスと考えていた地を南下しインド洋へ抜ける海路を目指していた。ブラジル海岸を航海する一行は、この地が当時考えられていたアジアよりもはるかに南に伸び、その広さも大陸と呼ぶにふさわしい規模であることを確認した。ヨーロッパへの帰路、探検の報告はヴェスプッチの名前で『Mundus Novus』(「新世界」の意)という名で1502年または1503年に出版された。これには別人の加筆も疑われているが、ヴェスプッチの言葉「私は南の地に大陸を発見した。そこには、私たちのヨーロッパやアジア、アフリカと比べてもよりたくさんの人々や動物たちが息づいている」という言葉で明白な通り、彼はその大陸を既知の3大陸と区別している。 数年後にはオリヴェリアーナ(ペーサロ)の地図(1504 - 1505年ごろ)のように「新世界」を南アメリカと名づけた地図は作成されたが、まだ北アメリカはアジアとつながっていた。しかし1507年にマルティン・ヴァルトゼーミュラーが出版した地図『Universalis Cosmographia(en)』では、新大陸が水域でアジアと分けられた。この地図に添えられた付録冊子『宇宙誌入門(Cosmographiae Introductio)』でヴァルトゼーミュラーは、地球の陸地は4つに分けられ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ4番目の大陸をヴェスプッチのファーストネームにちなんで「アメリカ」と名づけたと記している。 1500年代から、名詞「continent」はラテン語 terra continensを語源とし、連続している大地(continent land)の意味から派生する形で生まれた。しかし当初は「接続または連続した土地」以外にも「本土」の意味にも使われ、必ずしも広大な陸地を意味していなかった。1600年代、マン島・アイルランド・ウェールズに対する「本土」また1745年にはスマトラ島を指して「本土」として使われた例がある。ギリシア語やラテン語の翻訳では「continent」は世界を3分したパーツとして訳されたが、この本来の意味に忠実な形で用いられることは無かった。 一方で「continent」は連続する大地の一部を指して用いられることもあり、他方ではヘロドトスの提言を再評価する地理学者たちは、実質的に一つの広大な陸地をわざわざ別の大陸に分ける必要がないと主張した。1600年代中ごろ、ピーター・ヘイリン(en)は著書『Cosmographie』にて「大陸は広大な面積を持つ陸地を指し、必ずしも他の土地と海で隔てられなければならないわけではない。ヨーロッパ、アジア、アフリカは完全に大陸だ」と筆した。1727年にイーフレイム・チェンバーズが書いた『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』(Cyclopaedia, or an Universal Dictionary of Arts and Sciences)には、「世界は基本的に2つの超大陸に分けることができる。旧大陸と新大陸だ」という記述がある。エマニュエル・ボーエン(Emanuel Bowen)は1752年製作の地図において、大陸を「広く乾燥した充分な面積を持つ土地であり、多くの国が国境を接してつながり、水域によって分断されない」と定義し、ヨーロッパ・アジア・アフリカは合わせて1つの大陸であり、また別にアメリカがあるとした。しかし、ヨーロッパの伝統的な考えから、ヨーロッパとアジア・アフリカは世界を構成するパーツでありながらそれぞれが大陸とする見方に固執した。 18世紀末ころには、地理学者の中に南北アメリカを別な大陸と見なし、世界を5つに区分する考えを持つ者が現れだしたが、19世紀にも依然4大陸の概念が一般的だった。 ヨーロッパ人によるオーストラリア発見は1606年だったが、当初そこはアジアの一部と見なされていた。これを独立した大陸とし世界を6大陸とする考えが一部の地理学者から提案されたのは18世紀末のことであった。オックスフォード英語辞典も依然あいまいな表現に止まる中、1813年にサミュエル・バトラーが「地理学者の中には別な大陸名をつけて権威づけるものがいる、広大な面積を持つ島ニューホランド」とオーストラリアを記した。 メガラニカと名づけられた対蹠地として1000年以上前から存在を予言されていた南極大陸は1820年に発見され、1838年に行われたアメリカ合衆国の探検調査にてチャールズ・ウィルクスが最後の大陸と特定した。1849年には大陸として確認されたが、ほとんどの地図には記載されず、これは第二次世界大戦以後にようやく反映された。 19世紀中ごろから、アメリカ合衆国で発行される地図はヨーロッパのそれと異なり、南北アメリカを別の大陸と扱うものがだんだんと増え、二次世界大戦以降の1950年代にはほとんどがそのようになり、現代的な地質学やプレートテクトニクスの理解と一致した。これに南極が加わり7大陸の概念が確立した。 ただし、ラテンアメリカには南北アメリカ大陸をまとめる考えが根強く、またアジアとヨーロッパをユーラシア大陸とみなす概念も依然残っている。 地質学は、地理学と異なる「大陸」の定義下でこの用語を使う。それによれば、変成岩や火成岩、広くは花崗岩の岩盤で構成された部分を大陸地殻とする。より厳密に定義されたものでは、15億年から38億年前の先カンブリア時代に安定した「盾」状の地殻部分であるクラトン(安定陸塊)を指す意見もある。クラトンそのものは、古代の山岳帯が初期の沈み込み帯や大陸衝突帯(en)またはプレートテクトニクスの上昇部分での活動帯で造られ、これが集まったものであり、その表面は形成されたばかりの薄い堆積岩が覆っている。地質学で言う大陸は、その周辺をある程度活発な造山帯・海溝または三角州や海底プレートに形成された珊瑚礁や積もった堆積物などが付着した「付加体」で周辺を覆われている。縁辺部の外側は地球のプレート配置によって、大陸棚や玄武岩質の海盆が広がるか、もしくはほかの大陸地殻と隣り合っている状態にある。大陸地殻の周辺は必ずしも水域ではない。地質学的な時間スケールで見れば、大陸地殻はやがて海洋地殻の下にもぐりこむか、大陸地殻同士が衝突するかの結末を迎える。現在の地球地殻は、他の時代に比べて陸地部分が多く「(標高が)高く乾いた」変則的な状態にあると言える。 大陸を例えて、より重い玄武岩質の海洋地殻とは異なり、大陸地殻にへばりついた「いかだ」のようなもので、プレートテクトニクスが起こす沈み込みで破壊されることを免れているという言及もある。この仮説は、大陸クラトンを構成する岩石の年代が非常に古いことを説明できる。この定義では、東ヨーロッパやインドなどといった地域は、古代の独立した箇所(東ヨーロッパ・クラトンやインドクラトンなど)であった事から他のユーラシア大陸とは異なる大陸塊と言える。これらの大陸塊とユーラシアの境界が、ウラル山脈やヒマラヤなどの新しい造山帯である。 大陸地殻には、クラトンに至らない多くの微小大陸がある。ゴンドワナやジーランドなど古の大陸の断片にあたるニュージーランドやニューカレドニア・マダガスカルなど、またはマスカレン海台(en)北部やセーシェルなどがこれに当たる。カリブ海の諸島は花崗岩質だが、ほとんどの大陸は花崗岩と玄武岩質の表層を持っている。ただし、このような線引きで島と微小大陸を区別できない。たとえば、ケルゲレン海台はゴンドワナ大陸の分裂に関与したと考えられるため微小大陸に相当するが、その地質はおもに火成岩であり微小大陸ではないアイスランドやハワイ諸島と同じである。ブリテン諸島、スカンジナビア半島の一部、ニューファンドランド島は過去同じ大陸の一部分であり、内海(イアペタス海)が広がって分断された。これらも大陸断片にあたる。 プレートテクトニクスは、大陸を定義する別の方法を提案する。今日、ヨーロッパをアジアの大部分を合わせユーラシア大陸としているが、これをユーラシアプレートを基準に見るとインド、アラビア半島、そしてロシア東部は除外される。インドは楯状地を中央に含みヒマラヤ山脈を北端とする単独のプレートである。南北アメリカは比較的近年の火山活動によって形成された陸峡で繋がった、プレート的には別々の大陸となる。そして北米はカナダ楯状地の端にグリーンランドを、そして西の境界でアジア(ロシア)東部を含むことになる。ただし、地質学者たちはこのプレート配置を取り上げてアジア東部の一部を北アメリカに加えるといったような主張はしていない。通常「大陸」は地理的な意味にて用いられ、大陸岩石やプレート境界といった定義はあくまで補充的に適宜用いられるに過ぎない。 金星の地形において、地球の大陸に匹敵する大きさの高地も「大陸 (la: terra)」 と呼ばれる。面積順に、アフロディーテ大陸、イシュタール大陸、ラダ大陸の3つがある。金星では少なくともプレートテクトニクスは機能しておらず、どのようなメカニズムで高地が生まれたものかは今後の研究に委ねられている。
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"title": "その他の大陸" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大陸の一部を指して亜大陸と呼称する用例もある。特に、異なるプレートに乗る陸地が大陸と接続しているような場合に用いられ、インド亜大陸やアラビア半島が顕著な例に当たる。北アメリカプレート北東部にあるグリーンランドは、大陸と接続こそしていないが亜大陸と認識される場合もある。南北アメリカ大陸を単一の大陸と見なす場合、ふたつの亜大陸がつながっているという見方もある。", "title": "その他の大陸" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "微小大陸(英: microcontinent)とは、大陸地殻としては海中に没しているものの、比較的水深の浅い場所に広い面積を持つ領域であり、これを単純に水没した大陸とする見方がある。ニュージーランドからニューカレドニア付近の海域にあるジーランディアは典型的な例で、ほかにインド洋南部のケルゲレン海台もこれに当たる。", "title": "その他の大陸" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大陸断片(continental fragment)とは、かつては大陸と一体だった大地が断裂して島状になった地形を指し、これを比較的小さな大陸ととらえた用語である。マダガスカル島はこの例に当たる最大の島で、「第8の大陸」と呼称されることもある。", "title": "その他の大陸" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アトランティス、ヒュペルボレイオスの伝説やトゥーレ、レムリア・ムー大陸などが例に挙げられる。", "title": "その他の大陸" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "最初の大陸区分は、古代ギリシアの船員たちが名づけた「アジア」と「ヨーロッパ」だった。ただしこれは単純にエーゲ海、ダーダネルス海峡、マルマラ海、ボスポラス海峡および黒海の両岸のことを指していた。当初は海岸のみを指していたこれらの言葉は、のちに広大な背景地にまで及ぶようになった。しかし、これらの区分はせいぜい航海によってたどりつけた土地までの範囲に留まり、「その限界を超えて、決して分割が叶わないユーラシアを仕切るためのいかなる説得力を持つ地理的な特徴を内陸部に見出すことは、ギリシアの地理学者たちの手に余った」と評されている。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "次に古代ギリシアの思想家たちは、アフリカ(当時はリビアと呼ばれていた)が果たしてアジアの一部なのか、それとも異なる場所なのかを議論し、そこが異なる3番目の土地だという考えが優勢となった。ギリシア的観点に立つと、エーゲ海は世界の中心であり、東にアジア、西と北にヨーロッパ、そして南にアフリカが位置した。大陸間の境界は明瞭されなかった。早くから、ヨーロッパとアジアは黒海からグルジアを流れるリオニ川(当時はファシス河と呼ばれた)に沿って分けられた。その後、この線は黒海を起点にケルチ海峡、アゾフ海を通ってロシアのドン川を遡上する形と変化した。アジアとアフリカの境界はナイル川に置かれた。しかし紀元前5世紀のヘロドトス は、これではエジプトがアジアとリビア(アフリカ)に分断されてしまうため反対し、同地はあくまでアジアだとの主張の元に境界をエジプトの西側国境線に置いた。また彼は、実質的に陸続きのこの3地域をわざわざ分けることに疑問を呈し、この論争は2500年後の現在でも取り沙汰される。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "紀元前3世紀のエラトステネスは、地理学者たちが主張するナイル川やドン川で区分される大陸部分に着目し、川で区分される大陸を「島」、地峡で分けられる大陸を「半島」と考えた。彼以後の地理学者たちは、アジアをヨーロッパの区分をカスピ海と黒海の間の地峡に、アジアとアフリカの区分を地中海沿岸のバルダビル湖((en))河口から紅海の間に置いた。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古代ローマから中世の間、シナイ半島をアジアとアフリカの境界に置く地理学者はわずかで、ほとんどは依然としてナイル川もしくはエジプトの西境を基準に置いていた。中世には世界はTO図の形式で描かれ、Tが3つの大陸を分割する水域として表現されるようになったが、18世紀中ごろまで境界をエジプトとリビアの間(Great Catabathmus)に求める流儀はしぶとく残っていた。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "クリストファー・コロンブスが大西洋を航海し西インド諸島に到達した1492年は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸探査の口火となった。ただし、コロンブス自身は4度アメリカへ渡ったにもかかわらず、彼はそこがアジアの一部だと生涯信じていた。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1501年、アメリゴ・ヴェスプッチとゴンサロ・コエーリョ(en)が、彼らがインディアスと考えていた地を南下しインド洋へ抜ける海路を目指していた。ブラジル海岸を航海する一行は、この地が当時考えられていたアジアよりもはるかに南に伸び、その広さも大陸と呼ぶにふさわしい規模であることを確認した。ヨーロッパへの帰路、探検の報告はヴェスプッチの名前で『Mundus Novus』(「新世界」の意)という名で1502年または1503年に出版された。これには別人の加筆も疑われているが、ヴェスプッチの言葉「私は南の地に大陸を発見した。そこには、私たちのヨーロッパやアジア、アフリカと比べてもよりたくさんの人々や動物たちが息づいている」という言葉で明白な通り、彼はその大陸を既知の3大陸と区別している。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "数年後にはオリヴェリアーナ(ペーサロ)の地図(1504 - 1505年ごろ)のように「新世界」を南アメリカと名づけた地図は作成されたが、まだ北アメリカはアジアとつながっていた。しかし1507年にマルティン・ヴァルトゼーミュラーが出版した地図『Universalis Cosmographia(en)』では、新大陸が水域でアジアと分けられた。この地図に添えられた付録冊子『宇宙誌入門(Cosmographiae Introductio)』でヴァルトゼーミュラーは、地球の陸地は4つに分けられ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ4番目の大陸をヴェスプッチのファーストネームにちなんで「アメリカ」と名づけたと記している。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1500年代から、名詞「continent」はラテン語 terra continensを語源とし、連続している大地(continent land)の意味から派生する形で生まれた。しかし当初は「接続または連続した土地」以外にも「本土」の意味にも使われ、必ずしも広大な陸地を意味していなかった。1600年代、マン島・アイルランド・ウェールズに対する「本土」また1745年にはスマトラ島を指して「本土」として使われた例がある。ギリシア語やラテン語の翻訳では「continent」は世界を3分したパーツとして訳されたが、この本来の意味に忠実な形で用いられることは無かった。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方で「continent」は連続する大地の一部を指して用いられることもあり、他方ではヘロドトスの提言を再評価する地理学者たちは、実質的に一つの広大な陸地をわざわざ別の大陸に分ける必要がないと主張した。1600年代中ごろ、ピーター・ヘイリン(en)は著書『Cosmographie』にて「大陸は広大な面積を持つ陸地を指し、必ずしも他の土地と海で隔てられなければならないわけではない。ヨーロッパ、アジア、アフリカは完全に大陸だ」と筆した。1727年にイーフレイム・チェンバーズが書いた『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』(Cyclopaedia, or an Universal Dictionary of Arts and Sciences)には、「世界は基本的に2つの超大陸に分けることができる。旧大陸と新大陸だ」という記述がある。エマニュエル・ボーエン(Emanuel Bowen)は1752年製作の地図において、大陸を「広く乾燥した充分な面積を持つ土地であり、多くの国が国境を接してつながり、水域によって分断されない」と定義し、ヨーロッパ・アジア・アフリカは合わせて1つの大陸であり、また別にアメリカがあるとした。しかし、ヨーロッパの伝統的な考えから、ヨーロッパとアジア・アフリカは世界を構成するパーツでありながらそれぞれが大陸とする見方に固執した。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "18世紀末ころには、地理学者の中に南北アメリカを別な大陸と見なし、世界を5つに区分する考えを持つ者が現れだしたが、19世紀にも依然4大陸の概念が一般的だった。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人によるオーストラリア発見は1606年だったが、当初そこはアジアの一部と見なされていた。これを独立した大陸とし世界を6大陸とする考えが一部の地理学者から提案されたのは18世紀末のことであった。オックスフォード英語辞典も依然あいまいな表現に止まる中、1813年にサミュエル・バトラーが「地理学者の中には別な大陸名をつけて権威づけるものがいる、広大な面積を持つ島ニューホランド」とオーストラリアを記した。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "メガラニカと名づけられた対蹠地として1000年以上前から存在を予言されていた南極大陸は1820年に発見され、1838年に行われたアメリカ合衆国の探検調査にてチャールズ・ウィルクスが最後の大陸と特定した。1849年には大陸として確認されたが、ほとんどの地図には記載されず、これは第二次世界大戦以後にようやく反映された。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "19世紀中ごろから、アメリカ合衆国で発行される地図はヨーロッパのそれと異なり、南北アメリカを別の大陸と扱うものがだんだんと増え、二次世界大戦以降の1950年代にはほとんどがそのようになり、現代的な地質学やプレートテクトニクスの理解と一致した。これに南極が加わり7大陸の概念が確立した。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ただし、ラテンアメリカには南北アメリカ大陸をまとめる考えが根強く、またアジアとヨーロッパをユーラシア大陸とみなす概念も依然残っている。", "title": "概念の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地質学は、地理学と異なる「大陸」の定義下でこの用語を使う。それによれば、変成岩や火成岩、広くは花崗岩の岩盤で構成された部分を大陸地殻とする。より厳密に定義されたものでは、15億年から38億年前の先カンブリア時代に安定した「盾」状の地殻部分であるクラトン(安定陸塊)を指す意見もある。クラトンそのものは、古代の山岳帯が初期の沈み込み帯や大陸衝突帯(en)またはプレートテクトニクスの上昇部分での活動帯で造られ、これが集まったものであり、その表面は形成されたばかりの薄い堆積岩が覆っている。地質学で言う大陸は、その周辺をある程度活発な造山帯・海溝または三角州や海底プレートに形成された珊瑚礁や積もった堆積物などが付着した「付加体」で周辺を覆われている。縁辺部の外側は地球のプレート配置によって、大陸棚や玄武岩質の海盆が広がるか、もしくはほかの大陸地殻と隣り合っている状態にある。大陸地殻の周辺は必ずしも水域ではない。地質学的な時間スケールで見れば、大陸地殻はやがて海洋地殻の下にもぐりこむか、大陸地殻同士が衝突するかの結末を迎える。現在の地球地殻は、他の時代に比べて陸地部分が多く「(標高が)高く乾いた」変則的な状態にあると言える。", "title": "地質学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大陸を例えて、より重い玄武岩質の海洋地殻とは異なり、大陸地殻にへばりついた「いかだ」のようなもので、プレートテクトニクスが起こす沈み込みで破壊されることを免れているという言及もある。この仮説は、大陸クラトンを構成する岩石の年代が非常に古いことを説明できる。この定義では、東ヨーロッパやインドなどといった地域は、古代の独立した箇所(東ヨーロッパ・クラトンやインドクラトンなど)であった事から他のユーラシア大陸とは異なる大陸塊と言える。これらの大陸塊とユーラシアの境界が、ウラル山脈やヒマラヤなどの新しい造山帯である。", "title": "地質学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大陸地殻には、クラトンに至らない多くの微小大陸がある。ゴンドワナやジーランドなど古の大陸の断片にあたるニュージーランドやニューカレドニア・マダガスカルなど、またはマスカレン海台(en)北部やセーシェルなどがこれに当たる。カリブ海の諸島は花崗岩質だが、ほとんどの大陸は花崗岩と玄武岩質の表層を持っている。ただし、このような線引きで島と微小大陸を区別できない。たとえば、ケルゲレン海台はゴンドワナ大陸の分裂に関与したと考えられるため微小大陸に相当するが、その地質はおもに火成岩であり微小大陸ではないアイスランドやハワイ諸島と同じである。ブリテン諸島、スカンジナビア半島の一部、ニューファンドランド島は過去同じ大陸の一部分であり、内海(イアペタス海)が広がって分断された。これらも大陸断片にあたる。", "title": "地質学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プレートテクトニクスは、大陸を定義する別の方法を提案する。今日、ヨーロッパをアジアの大部分を合わせユーラシア大陸としているが、これをユーラシアプレートを基準に見るとインド、アラビア半島、そしてロシア東部は除外される。インドは楯状地を中央に含みヒマラヤ山脈を北端とする単独のプレートである。南北アメリカは比較的近年の火山活動によって形成された陸峡で繋がった、プレート的には別々の大陸となる。そして北米はカナダ楯状地の端にグリーンランドを、そして西の境界でアジア(ロシア)東部を含むことになる。ただし、地質学者たちはこのプレート配置を取り上げてアジア東部の一部を北アメリカに加えるといったような主張はしていない。通常「大陸」は地理的な意味にて用いられ、大陸岩石やプレート境界といった定義はあくまで補充的に適宜用いられるに過ぎない。", "title": "地質学" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "金星の地形において、地球の大陸に匹敵する大きさの高地も「大陸 (la: terra)」 と呼ばれる。面積順に、アフロディーテ大陸、イシュタール大陸、ラダ大陸の3つがある。金星では少なくともプレートテクトニクスは機能しておらず、どのようなメカニズムで高地が生まれたものかは今後の研究に委ねられている。", "title": "金星の大陸" } ]
大陸とは、地球の地殻上に存在する陸塊である。一般的にはユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・オーストラリア大陸・南極大陸の6つの陸上部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては大陸移動説として説明されたプレートテクトニクスで理論化され、地質学の研究課題となっている。
[[ファイル:Whole world - land and oceans_12000.jpg|thumb|300px|大陸と海洋]] [[ファイル:Continental models.gif|thumb|300px|大陸を色分けで表した動画。さまざまな考え方を反映するために一部が統合または分割される。例として、ヨーロッパとアジアを合わせてユーラシアとして表した赤系統部分、南北アメリカを1つの大陸と考える緑系統部分がある。]] {{読み仮名|'''大陸'''|たいりく}}とは、[[地球]]の[[地殻]]上に存在する陸塊である。一般的には[[ユーラシア大陸]]・[[アフリカ大陸]]・[[北アメリカ大陸]]・[[南アメリカ大陸]]・[[オーストラリア大陸]]・[[南極大陸]]の6つの[[陸|陸上]]部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/134805/continent Continent] (2009年). In ''Encyclopædia Britannica''. Retrieved 12 December 2009.</ref><ref name="NatlGeo">{{cite web |url=http://travel.nationalgeographic.com/places/continents/ |title=Continents: What is a Continent? |publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]] |language=英語 |accessdate=2010-04-29 }} "Most people recognize seven continents—Asia, Africa, North America, South America, Antarctica, Europe, and Australia, from largest to smallest—although sometimes Europe and Asia are considered a single continent, Eurasia."</ref>。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては[[大陸移動説]]として説明された[[プレートテクトニクス]]で理論化され、[[地質学]]の研究課題となっている。 == 定義とその適用 == 慣習的に、「大陸とは有意な水域で切り離された、充分に広く、連続的で、おのおのが独立していると認識される陸地」と言える<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=21 |chapter= |quote= }}</ref>。しかし、一般に言われる6つの大陸は必ずしも[[海]]で分断された離散的な状態にあるわけではない。広さも恣意的な判断に基づき、最大の島[[グリーンランド]]の面積は2,166,086km<sup>2</sup>であり、大陸に分類されるオーストラリアの面積7,617,930km<sup>2</sup>と比較した際に大陸とはみなされない理由は明確に説明されていない。また、おのおのの独立という点では理想的な基準を満たすために[[大陸棚]]や[[島弧]]の存在は考慮されず、南北アメリカは[[パナマ地峡]]でつながっているために合わせて1つの大陸とする考えがあるなど、定義上の矛盾もある。アジア・ヨーロッパ・アフリカも自然な地形では分断されておらず、このうちアジアとヨーロッパは地峡さえない状態でつながっており、定義から大きく逸脱している。[[海洋]]と大陸の関係では、大陸は1つ以上の主要な大洋[[:en:World Ocean|(en)]]と接しており、逆に大洋は大陸やさまざまな地理的基準によっておのおのが区分されている。<ref>"[http://www.answers.com/Ocean#Encyclopedia Ocean]". ''[[コロンビア百科事典]]'' (2006年). New York: Columbia University Press. Retrieved 20 February 2007.</ref><ref name="UNAoO">"[http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html Distribution of land and water on the planet] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120216030249/http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html |date=2012年2月16日 }}." ''[http://www.oceansatlas.com/ UN Atlas of the Oceans]'' (2004年). Retrieved 20 February 2007.</ref> === 大陸の範囲 === 大陸を指す最も狭義の概念は切れ目がない<ref>"continent n. 5. a." (1989年) ''[[オックスフォード英語辞典]]'', 2nd edition. [[オックスフォード大学出版局]] ; "continent<sup>1</sup> n." (2006年) ''The Concise Oxford English Dictionary'', 11th edition revised. (Ed.) Catherine Soanes and Angus Stevenson. Oxford University Press; "continent<sup>1</sup> n." (2005年) ''The New Oxford American Dictionary'', 2nd edition. (Ed.) Erin McKean. Oxford University Press; "continent [2, n] 4 a" (1996) ''Webster's Third New International Dictionary, Unabridged''. ProQuest Information and Learning ; "continent" (2007年) ''[[ブリタニカ百科事典]]''. Retrieved 14 January 2007, from Encyclopædia Britannica Online.</ref>主要な陸地ということになる。この考え方では、海岸線が大陸の淵となり、[[イギリス]]や[[アイルランド]]が自国と対して使う「大陸(the Continent)」は[[大陸ヨーロッパ]]を意味する<ref>{{cite web |url = http://encarta.msn.com/dictionary_/continent.html |title = Encarta World English Dictionary |accessdate = 2008-08-05 |date = 2007年 |language = 英語 |publisher = Bloomsbury Publishing Plc. |archiveurl = https://webcitation.org/5kwRKDyZ6?url=http://encarta.msn.com/dictionary_/continent.html |archivedate = 2009年10月31日 |deadurl = yes |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>が、[[アイスランド]]などの島を含まないこと、同様な意味で[[日本]]などから見た[[中国大陸]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.hue.ac.jp/exam/images/sen2tiri.pdf |format=PDF |title=平成21年度 地理B入試問題 問6 |accessdate=2010-04-24 |date=2010年 |language=日本語 |publisher=[[広島経済大学]] }}</ref>や、[[オーストラリア]]の[[タスマニア]]が「オーストラリア大陸」に加えられない事象が例になる。また[[太平洋]]の[[ハワイ諸島]]や[[カナダ]]領土を挟む[[アラスカ]]を除いた[[アメリカ合衆国]]の48[[アメリカ合衆国の州|州]]を「[[アメリカ合衆国本土]]」(continental United States)と呼称することもこの用法に当たる。 [[地質学]]や[[自然地理学]]の見地からは、海面下の水深が浅い領域である大陸棚<ref>"continent [2, n] 6" (1996) ''Webster's Third New International Dictionary, Unabridged''. ProQuest Information and Learning. "a large segment of the earth's outer shell including a terrestrial continent and the adjacent continental shelf"</ref>とそこにある島々(大陸島)も連続した陸地として扱われ、構造的に大陸の境界内に入る<ref>{{cite book |last=Monkhouse |first=F. J. |coauthors=John Small |title=A Dictionary of the Natural Environment |year=1978 |publisher=Edward Arnold |location=London |id= |pages= 67–68 |quote=structurally it includes shallowly submerged adjacent areas (continental shelf) and neighbouring islands }}</ref>。この視点では、大陸の境界は海岸線に関わらず大陸棚の縁となり<ref name=Ollier>Ollier, Cliff D. (1996年). Planet Earth. In Ian Douglas (Ed.), ''Companion Encyclopedia of Geography: The Environment and Humankind''. London: Routledge, p. 30. "Ocean waters extend onto continental rocks at continental shelves, and the true edges of the continents are the steeper continental slopes. The actual shorelines are rather accidental, depending on the height of sea-level on the sloping shelves."</ref>、イギリス諸島やアイルランドはヨーロッパ大陸の一部となり、[[ニューギニア島]]はオーストラリア大陸と一体となって[[サフル大陸]](またはオーストラリア‐ニューギニア)を形成する。 [[文化的]]な構図から勘案すると、大陸という概念は大陸棚のような地形的境界を越える可能性がある。たとえば、この考え方では[[アイスランド]]はヨーロッパ大陸の、[[マダガスカル]]はアフリカ大陸の一部と受け取ることができる。これをさらに拡大すると、オーストラリア大陸が[[ニュージーランド]]など全[[オセアニア]]諸島を含み込んだ[[オーストララシア]]までに至る。その結果、地球上のすべての地域はもれなくいずれかの大陸に含まれることになる<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=40 |chapter= |quote=The joining of Australia with various Pacific islands to form the quasi continent of Oceania ... }}</ref>。 === 大陸の区分 === 各大陸が水域によって区分されているという理想的な基準は、歴史的そして現実的には当てはまっていないと見なされている。この基準に合致するものは、かろうじてオーストラリア大陸と南極大陸のみである。いくつかの大陸は完全に独立した陸塊ではなく「そこそこの大きさの地面」<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=35 |chapter= |quote= }}</ref>と認識されている。アジアとアフリカは[[シナイ半島]]でつながり、南北アメリカの間にはパナマ地峡がある。どちらの[[地峡]]も大陸と比べれば非常に狭いもので、しかも人工の[[運河]]([[スエズ運河]]と[[パナマ運河]])によって両大陸は切り離されていると言うこともできる。 一方、ユーラシア大陸をアジアとヨーロッパに分ける考えは異例であり、そこには水域は何もない。この点からユーラシア大陸を含む6大陸という数え方が生まれている。この地理的な考えはヨーロッパとアジアをまたぐ[[ロシア]]では[[ユーラシア主義]]思想とも結びつけられ<ref>{{Cite web|和書 |url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/51/hama.pdf |format=PDF |title=N.S.トゥルベツコイのユーラシア思想 |author=[[浜由樹子]] |publisher=[[北海道大学]]スラブ研究センター |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>、[[日本]]でもこの考えが主流である<ref>{{citation |contribution=大陸 |title=マルチ辞書 |publisher=三省堂 |contribution-url=http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=0&lp=0&sm=3&sc=1&gr=ml&qt=%C2%E7%CE%A6&sv=KO&se=on| accessdate=2008-02-17 }}</ref><ref name="koujien">{{Cite book|和書 |year=1999 |title=広辞苑 |edition=第五版第一刷 |publisher=岩波書店 |pages=1622 |chapter=【大陸】 |id=4-00-080113-9 }}</ref>。それに対し2つの大陸に分ける考えは[[ヨーロッパ中心主義]]の残滓もあり、「物理的、文化的そして歴史的な多様性では、[[中国]]や[[インド]]はヨーロッパの個別国ではなく全体に匹敵する。もし[[フランス]]と比類するならば、インド全体ではなくその中の一州、たとえば[[ウッタル・プラデーシュ州]]を並べる方が完全ではないとしてもより適切である」<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=? |chapter= |quote= }}</ref><!-- 英語版にはここに要出典:November 2009があるが、れは「フランスとインドの州を比較する文章がここにつく理由がわからない」というコメントとともにつけられたもので、出典についての疑義ではないためコメントアウトする。 -->という意見もあるが、歴史的また文化的な理由からヨーロッパではユーラシアを2大陸に分ける考えが本流である。 陸峡を挟む南北アメリカ大陸はユーラシアよりも明瞭に区分されるが、それでも以前はまとめて1つの大陸として認識されており、[[第二次世界大戦]]以前のアメリカ合衆国でも支配的だった<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages= |chapter=1 |quote=While it might seem surprising to find North and South America still joined into a single continent in a book published in the United States in 1937, such a notion remained fairly common until World War II. [...] By the 1950s, however, virtually all American geographers had come to insist that the visually distinct landmasses of North and South America deserved separate designations. }}</ref>。現在でも[[米州機構]]にこの概念が残っている。この、アメリカ大陸を1つとみなす考えは、[[スペイン]]や[[ポルトガル]]および[[ラテンアメリカ]]諸国の概念から来ている。しかし19世紀ごろ、アメリカ合衆国との混同を避けるために使われ始めた[[アメリカ州]](Americas)という言葉に見られる複数形から示唆されるように、このころには[[新世界]]は2つの大陸で成り立っているという認識が広まった。この区分は[[近代オリンピック]]の[[オリンピックシンボル|シンボルマーク]]に使われており、大陸を表す環は南極を除き5つがデザインされている<ref name=OU /><ref name=LCC /><ref name=IOC>[http://multimedia.olympic.org/pdf/en_report_1303.pdf ''The Olympic symbols.''] [[国際オリンピック委員会]]. 2002. Lausanne: Olympic Museum and Studies Centre. The five rings of the [[オリンピックシンボル]] represent the five inhabited, participating continents ([http://moscow2001.olympic.org/en/pdf/members_by_continent.pdf Africa, America, Asia, Europe, and Oceania] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090324234948/http://moscow2001.olympic.org/en/pdf/members_by_continent.pdf |date=2009年3月24日 }}); thus, Antarctica is excluded from the flag. Also see [http://www.acnolympic.org Association of National Olympic Committees]: [http://www.acnoa.info] [http://www.ocasia.org] [http://www.eurolympic.org] [http://www.crwflags.com/fotw/flags/[email protected]] [http://www.oceaniasport.com]</ref>。 もし大陸の定義を離散的な陸塊とし、接触する場所がある陸地はまとめて考えるとするならば、アジア・アフリカ・ヨーロッパは[[アフロ・ユーラシア大陸]]という呼称のように1つの大陸と見なさなければならなくなる。この場合、南北アメリカもひとつと数えられ、地球の大陸は4つとなる。さらに、[[更新世]]の[[氷期]]によって[[海水準変動]]が起こっていた時期を考えれば、より広い範囲で[[大陸棚]]を介した[[陸橋 (生物地理)|陸橋]]で大陸はつながっていた。この時期、ニューギニアはオーストラリア大陸の一部であり、アメリカ大陸とアフロ・ユーラシア大陸は[[ベーリング海峡]]を通じて連なっていた。[[グレートブリテン島]]など大陸周辺の島もことごとく大陸と一体化していた。この時代に冒頭の大陸と定義できる陸地は3つだけだった。 == 大陸の数 == 大陸をどう数えるかについては複数の方法がある。 <center> {| class="wikitable" align="center" ! colspan="9" | 区分法 |- |style="background-color:#FFFFFF" colspan="9"|[[Image:Continents vide couleurs.png|center|300px]]<center><small>様々な大陸の色分け図。同系統の色で示された地域は統合または分割される領域を示す。</small> |- |'''7大陸'''<br><ref name=NatlGeo_atlas>[http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/atlas/index.html?Parent=world&Mode=d&SubMode=w World], ''[[ナショナルジオグラフィック協会]] - [http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/ Xpeditions Atlas].'' 2006. Washington, DC: National Geographic Society.</ref><ref name = AoCA/><ref name=EB>"[http://www.britannica.com/ebc/article-9361501 Continent]". ''ブリタニカ百科事典''. 2006. Chicago: Encyclopædia Britannica, Inc.</ref><ref name=Oxford1>''The New Oxford Dictionary of English.'' 2001. New York: Oxford University Press.</ref><ref name=Encarta>"[http://encarta.msn.com/encyclopedia_761553387/Continent.html Continent]". ''[[エンカルタ|MSN Encarta Online Encyclopedia 2006]].''. [https://webcitation.org/5kwRKkaEZ Archived] 2009-10-31.</ref><ref name=Oxford2>"Continent". McArthur, Tom, ed. 1992. ''The Oxford Companion to the English Language''. New York: Oxford University Press; p. 260.</ref> ||<center><small><span style="background: #00cc00;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[北アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #008000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #0040ff;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南極大陸]] ||<center><small><span style="background: #fed52e;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アフリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #c10000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[ヨーロッパ大陸]] ||<center><small><span style="background: #f33e01;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アジア大陸]] ||<center><small><span style="background: #c04080;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[オーストラリア大陸]] |- |'''6大陸'''<br><ref name=EB /><ref name=Columbia>"[http://www.bartleby.com/65/co/continent.html Continent]". ''[http://www.bartleby.com/65/ The Columbia Encyclopedia]''. 2001. New York: Columbia University Press - Bartleby.</ref> ||<center><small><span style="background: #00cc00;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[北アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #008000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #0040ff;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南極大陸]] ||<center><small><span style="background: #fed52e;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アフリカ大陸]] |colspan="2" |<center><small><span style="background: #c10000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #f33e01;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[ユーラシア大陸]] ||<center><small><span style="background: #c04080;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[オーストラリア大陸]] |- |'''6大陸'''<br><ref name="OU">Océano Uno, Diccionario Enciclopédico y Atlas Mundial, "Continente", page 392, 1730. ISBN 84-494-0188-7</ref><ref name="LCC">Los Cinco Continentes (The Five Continents), Planeta-De Agostini Editions, 1997. ISBN 84-395-6054-0</ref><!-- NOTE: Both references mention ''Oceanía'' instead of ''Australia''. --> |colspan="2" |<center><small><span style="background: #00cc00;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #008000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #0040ff;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南極大陸]] ||<center><small><span style="background: #fed52e;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アフリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #c10000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[ヨーロッパ大陸]] ||<center><small><span style="background: #f33e01;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アジア大陸]] ||<center><small><span style="background: #c04080;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[オーストラリア大陸]] |- |'''5大陸'''<br><ref name="Columbia"/><ref name="OU"/><ref name="LCC"/><!-- NOTE: Both references mention ''Oceanía'' instead of ''Australia''. --> |colspan="2" |<center><small><span style="background: #00cc00;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #008000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #0040ff;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南極大陸]] ||<center><small><span style="background: #fed52e;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アフリカ大陸]] |colspan="2" |<center><small><span style="background: #c10000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #f33e01;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[ユーラシア大陸]] ||<center><small><span style="background: #c04080;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[オーストラリア大陸]] |- |'''4大陸'''<br><ref name="Columbia"/><ref name="OU"/><ref name="LCC"/><!-- NOTE: Both references mention ''Oceanía'' instead of ''Australia''. --> |colspan="2" |<center><small><span style="background: #00cc00;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #008000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アメリカ大陸]] ||<center><small><span style="background: #0040ff;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[南極大陸]] |colspan="3" |<center><small><span style="background: #fed52e;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #c10000;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span><span style="background: #f33e01;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[アフロ・ユーラシア大陸]] ||<center><small><span style="background: #c04080;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;</span></small>&nbsp;[[オーストラリア大陸]] |} </center> 「[[オセアニア]]」や「[[オーストララシア]]」はオーストラリアを示す名称としてしばしば用いられ、[[カナダ]]の地図帳『Atlas of Canada』もオセアニア表記である<ref name=AoCA>[http://atlas.gc.ca/site/english/maps/reference/international/world/referencemap_image_view The World - Continents] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060221064548/http://atlas.gc.ca/site/english/maps/reference/international/world/referencemap_image_view |date=2006年2月21日 }}, [http://atlas.nrcan.gc.ca/site/english/index.html ''Atlas of Canada'']</ref>。中南米と[[イベリア半島]]を指し[[イベロアメリカ]]という用語も使われる<ref>{{cite web |url=http://www.oei.es/index.php |title=Official Web-site for the Organization of Ibero-American States |accessdate=2010-04-25 |language=スペイン語 |publisher=OEI }}</ref>。 == 面積と人口 == [[ファイル:ContinentStatistics.svg|thumb|500px|各大陸の面積と人口の比較。凡例: {{Flatlist|{{リスト |1={{Legend2|#f33e01|アジア}} |2={{Legend2|#fed52e|アフリカ}} |3={{Legend2|#00cc00|北アメリカ}} |4={{Legend2|#008000|南アメリカ}} |5={{Legend2|#0040ff|南極}} |6={{Legend2|#c10000|ヨーロッパ}} |7={{Legend2|#c04080|オーストラリア}} }}}}]] 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の面積と人口についての統計を示す。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:right" |- ! 大陸 ! 面積 (km<sup>2</sup>) ! 全陸地に<br />占める割合 ! 人口<br />2008年 ! 全人口に<br />占める割合 ! 人口密度<br />人/km<sup>2</sup> |- ! [[アジア大陸]] | 43,820,000 || 29.5% || 3,879,000,000 || 60% || 86.70 |- ! [[アフリカ大陸]] | 30,370,000 || 20.4% || 922,011,000 || 14% || 29.30 |- ! [[アメリカ大陸]] | 42,330,000 || 28.5% || 910,720,588 || 14% || 21.0 |- ! [[北アメリカ大陸]] | 24,490,000 || 16.5% || 528,720,588 || 8% || 21.0 |- ! [[南アメリカ大陸]] | 17,840,000 || 12.0% || 382,000,000 || 6% || 20.8 |- ! [[南極大陸]] | 13,720,000 || 9.2% || 1,000 || 0.00002% || 0.00007 |- ! [[ヨーロッパ大陸]] | 10,180,000 || 6.8% || 731,000,000 || 11% || 69.7 |- ! [[オーストラリア大陸]] | 9,008,500 || 5.9% || 22,000,000 || 0.5% || 3.6 |} 全大陸の面積は総計148,647,000km<sup>2</sup>であり、地球表面(510,065,600 km<sup>2</sup>)の29.1%を占める。 == 最高地点と最低地点 == {{See also|七大陸最高峰}} 以下の表で、7大陸法で区分したそれぞれの大陸の最高標高地点(最高峰)と最低標高地点を示す。 {| class="wikitable sortable" ! 大陸 !! 最高標高地点 !! 標高 (m) !! 国または地域 !! 最低標高地点 !! 標高 (m) !! 国または地域 |- | [[アジア大陸]] || [[エベレスト]] || 8,848 || {{CHN}}<br />{{NPL}}||[[死海]] || -422 || {{ISR}}<br />{{PLE}}<br />{{JOR}} |- | [[南アメリカ大陸]] || [[アコンカグア]] || 6,960 || {{ARG}} || [[カルボン湖]] || -105 || {{ARG}} |- | [[北アメリカ大陸]] || [[デナリ|マッキンリー]] || 6,198 || {{USA}} || [[ヤコブスハブン氷河]]の[[圏谷]]下部 † || -1512<ref>Plummer, Joel. [https://www.cresis.ku.edu/~plummer/jakob.html#Bed_1 Jakobshavn Bed Elevation] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100627071506/https://www.cresis.ku.edu/~plummer/jakob.html |date=2010年6月27日 }}, Center for the Remote Sensing of the Ice Sheets, Dept of Geography, University of Kansas.</ref> || {{GRL}} |- | [[アフリカ大陸]] || [[キリマンジャロ]] || 5,895 || {{TAN}} || [[アッサル湖]] || -155 || {{DJI}} |- | [[ヨーロッパ大陸]] || [[エルブルス山]] || 5,633 || {{RUS}} || [[カスピ海]] || -28 || {{AZE}}<br />{{KAZ}}<br />{{RUS}}<br />(+{{IRN}}<br />{{TKM}}) |- | [[南極大陸]] || [[ヴィンソン・マシフ]] || 4,892 || {{ATA}} || [[ベントリー氷河底地溝]] † || -2540 || {{ATA}} |- | [[オセアニア]] || [[プンチャック・ジャヤ]] || 4,884 || {{INA}} || [[エーア湖]] || -15 || {{AUS}} |- |} † 北アメリカ大陸と南極大陸の最低標高地点は厚さ数キロメートルの氷河に覆われている。露出した地点に限れば、北アメリカの場合[[デスヴァレー (カリフォルニア州)| デスヴァレー]](-86メートル)、南極大陸ではベストフォードヒルズ[[:en:Vestfold Hills|(en)]](-50メートル)の湖が該当する。 ヨーロッパとアジアの地質学的境界をパラテーチス海[[:en:Paratethys|(en)]]の名残りである[[クマ=マヌィチ窪地]]に求める意見もある。これに則ると[[エルブルス山]]がある[[コーカサス山脈]]はアジアの領域に入り、そのためヨーロッパ最高標高地点はグライアンアルプス[[:en:Graian Alps|(en)]]の[[モンブラン]](4,810メートル)となる。 == その他の大陸 == 現在知られている大陸とは別に、別な観点に立った大陸と呼ぶ対象もある。地質学的記録を遡ったことにより、[[超大陸]]と呼ばれる、単一の[[クラトン]]や大陸塊をしのぐ大きさを誇った陸地が、かつての地球上に存在したと考えることが今日では妥当とされるようになった。これらには、[[ローラシア大陸]]、[[ゴンドワナ大陸]] <ref name="GifuChouTairiku">{{Cite web|和書 |url=http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/rika-b/htmls/supconti/index.html |title=超大陸 |publisher=[[岐阜大学]]教育学部 |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>、[[バールバラ大陸]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/rika-b/htmls/supconti/vaal.html |title=太古代の大陸バールバラ |publisher=[[岐阜大学]]教育学部 |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>、[[ケノーランド大陸]]、[[コロンビア大陸]]、[[ロディニア大陸]]<ref name="GifuChouTairiku" />そして[[パンゲア大陸]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/rika-b/htmls/supconti/pangea.html |title=超大陸パンゲア |publisher=[[岐阜大学]]教育学部 |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>などがこれに当たる。理論上、現在のユーラシア大陸もこれに該当する。 ;おもな太古の大陸 {{main|en:Paleocontinent}} {| class="wikitable" ! 超大陸 !! 存在した年(単位:億年前) |- |style="background-color:lightgreen"| (大陸[[クラトン]]の形成)|| 40.31~ |- |style="background-color:orange"| [[バールバラ大陸|バールバラ超大陸]] ||~36.36–28.03 |- |style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|コンゴ・クラトン|en|Congo_Craton}} || ~36.00- |- |style="background-color:orange"| {{仮リンク|ウル大陸|en|Ur_(continent)}} || ~31.00–28.03 |- |style="background-color:orange"| [[ケノーランド大陸]] || ~27.20–21.00 |- |style="background-color:orange"| {{仮リンク|アークティカ大陸|en|Arctica}} || ~27.20–21.00 |- |style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|スクラヴィア・クラトン|en|Sclavia Craton}}|| ~26.65-23.30 |- |style="background-color:lightgreen"| [[シベリア大陸|シベリア・クラトン]]|| ~26.95- |- |style="background-color:lightgreen"| [[インド亜大陸]]|| ~25.25- |- |style="background-color:lightgreen"| [[アトランティカ大陸]]|| ~21.1-1.14 |- |style="background-color:lightgreen"| [[ヌーナ大陸]]|| 19.50-5.92 |- |style="background-color:orange" | [[コロンビア超大陸]]([[ヌーナ大陸]]) || ~18.20–13.50 |- |style="background-color:lightgreen"| [[ローレンシア大陸]] || 18.16- |- |style="background-color:lightgreen"| [[バルティカ大陸]] || 18.00- |- |style="background-color:lightgreen"| {{仮リンク|キンメリア大陸|en|Cimmeria (continent)}} || 12.50– |- |style="background-color:orange"| [[ロディニア超大陸]] || ~10.71–7.50 |- |style="background-color:lightgreen" | 前ローラシア大陸 || 10.71–5.92 |- |style="background-color:lightgreen" | 前ゴンドワナ大陸 || 10.71–6.20 |- |style="background-color:lightgreen" | {{仮リンク|アヴァロニア|en|Avalonia}} || 6.30-0.560 |- |style="background-color:orange" | [[パノティア大陸|パノティア超大陸]] (Vendian大陸)|| ~6.20–~5.55 |- |style="background-color:lightgreen" | [[ゴンドワナ大陸]] || ~6.20–~1.32 |- |style="background-color:lightgreen" | [[ユーラメリカ大陸]] || 4.33-0.56 |- |style="background-color:orange" | [[パンゲア超大陸]] || ~3.35 (~2.99) –1.73 |- |style="background-color:lightgreen" | ゴンドワナ大陸 || ~2.53–~0.56 |- |style="background-color:lightgreen" | [[ローラシア大陸]] || ~2.53–~0.56 |} {{Col| * [[アークティカ大陸]][[:en:Arctica|(en)]] * [[アバロニア大陸]][[:en: Avalonia|(en)]] * [[大アドリア大陸]] | * [[コンゴ大陸]][[:en:Congo craton|(en)]] * [[カラハリ大陸]][[:en:Kalahari craton|(en)]] * [[ロディニア大陸]] }}{{clear|left}} ;未来に予想される超大陸 * [[アメイジア大陸]] * [[パンゲア・ウルティマ大陸]] ;亜大陸 大陸の一部を指して[[亜大陸]]と呼称する用例もある。特に、異なるプレートに乗る陸地が大陸と接続しているような場合に用いられ、[[インド亜大陸]]や[[アラビア半島]]が顕著な例に当たる。[[北アメリカプレート]]北東部にあるグリーンランドは、大陸と接続こそしていないが亜大陸と認識される場合もある。南北アメリカ大陸を単一の大陸と見なす場合、ふたつの亜大陸がつながっているという見方もある<ref>[[:Image:MapaAméricaJonghe.JPG|English map of 1770 by Jonghe]]</ref><ref>[http://buscon.rae.es/dpdI/ DPD]: [http://buscon.rae.es/dpdI/América América]</ref><ref>[http://www.priberam.pt/dlpo/dlpo.aspx Dicionário da língua portuguesa]: Contiente</ref><ref>In Ibero-America, North America usually designates a region (''subcontinente'' in Spanish) of the Americas containing Canada, the U.S., and Mexico, and often Greenland, Saint Pierre and Miquelon, and Bermuda; the land bridge of Central America is generally considered a subregion of North America.[http://mx.encarta.msn.com/encyclopedia_761562468/Norteam%C3%A9rica.html Norteamérica (Mexican version)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070223062106/http://mx.encarta.msn.com/encyclopedia_761562468/Norteam%C3%A9rica.html |date=2007年2月23日 }}/[http://es.encarta.msn.com/encyclopedia_761562468/Norteam%C3%A9rica.html (Spaniard version)]. ''Encarta Online Encyclopedia.''. [https://webcitation.org/5kwRLFsmt Archived] 2009-10-31.</ref>。 ;微小大陸 微小大陸({{lang-en-short|microcontinent}})とは、大陸地殻としては海中に没しているものの、比較的水深の浅い場所に広い面積を持つ領域であり、これを単純に水没した大陸とする見方がある。ニュージーランドから[[ニューカレドニア]]付近の海域にある[[ジーランディア]]は典型的な例で、ほかに[[インド洋]]南部の[[ケルゲレン海台]]もこれに当たる。 ;大陸断片 大陸断片([[:en:continental fragment|continental fragment]])とは、かつては大陸と一体だった大地が断裂して島状になった地形を指し、これを比較的小さな大陸ととらえた用語である。[[マダガスカル島]]はこの例に当たる最大の島で、「第8の大陸」と呼称されることもある。 ;[[伝説上の大陸]] [[アトランティス]]、[[ヒュペルボレイオス]]の伝説や[[トゥーレ]]、[[レムリア]]・[[ムー大陸]]などが例に挙げられる。 == 概念の歴史 == === 初期の大陸概念 === [[ファイル:Strabo.jpg|thumb|right|240px|古代ギリシアの地理学者[[ストラボン]]の肖像。手する地球儀にはヨーロッパ(Europa)とアジア(Asia)が見られる。]] [[ファイル:T and O map Guntherus Ziner 1472.jpg|thumb|200px|中世ヨーロッパの[[TO図]]。[[ノア (聖書)|ノア]]の3人の息子たちが治めた3つの大陸が記されている。]] 最初の大陸区分は、[[古代ギリシア]]の船員たちが名づけた「アジア」と「ヨーロッパ」だった。ただしこれは単純に[[エーゲ海]]、[[ダーダネルス海峡]]、[[マルマラ海]]、[[ボスポラス海峡]]および[[黒海]]の両岸のことを指していた<ref name=Toynbee>[[アーノルド・J・トインビー]] (1954年). ''A Study of History''. London: Oxford University Press, v. 8, pp. 711-12.</ref>。当初は海岸のみを指していたこれらの言葉は、のちに広大な背景地にまで及ぶようになった<ref>{{cite book |last=Tozer |first=H. F. |title=A History of Ancient Geography |year=1897 |publisher=University Press |location=Cambridge |pages= 69 }}</ref>。しかし、これらの区分はせいぜい航海によってたどりつけた土地までの範囲に留まり、「その限界を超えて、決して分割が叶わないユーラシアを仕切るためのいかなる説得力を持つ地理的な特徴を内陸部に見出すことは、ギリシアの地理学者たちの手に余った」と評されている<ref name=Toynbee/>。 次に古代ギリシアの思想家たちは、アフリカ(当時はリビアと呼ばれていた)が果たしてアジアの一部なのか、それとも異なる場所なのかを議論し、そこが異なる3番目の土地だという考えが優勢となった<ref>{{cite book |last=Tozer |first=H. F. |title=A History of Ancient Geography |year=1897 |publisher=University Press |location=Cambridge |pages= 67 }}</ref>。ギリシア的観点に立つと、エーゲ海は世界の中心であり、東にアジア、西と北にヨーロッパ、そして南にアフリカが位置した<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=21–22 |chapter= |quote= }}</ref>。大陸間の境界は明瞭されなかった。早くから、ヨーロッパとアジアは黒海から[[グルジア]]を流れる[[リオニ川]](当時はファシス河と呼ばれた)に沿って分けられた。その後、この線は黒海を起点に[[ケルチ海峡]]、[[アゾフ海]]を通って[[ロシア]]の[[ドン川]]を遡上する形と変化した<ref>{{cite book |last=Tozer |first=H. F. |title=A History of Ancient Geography |year=1897 |publisher=University Press |location=Cambridge |pages= 68 }}</ref>。アジアとアフリカの境界は[[ナイル川]]に置かれた。しかし紀元前5世紀の[[ヘロドトス]] <ref>[[ヘロドトス]]. Translated by George Rawlinson (2000年). ''[[歴史 (ヘロドトス)|The Histories of Herodotus of Halicarnassus]]'' {{Cite web|和書|url=http://www.omphaloskepsis.com/ebooks/pdf/hrdts.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2016年2月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120205214255/http://www.omphaloskepsis.com/ebooks/pdf/hrdts.pdf |archivedate=2012年2月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}. Ames, Iowa: Omphaloskepsis, book 2, p. 18.</ref>は、これでは[[エジプト]]がアジアとリビア(アフリカ)に分断されてしまうため反対し、同地はあくまでアジアだとの主張の元に境界をエジプトの西側国境線に置いた。また彼は、実質的に陸続きのこの3地域をわざわざ分けることに疑問を呈し<ref>[[ヘロドトス]]. Translated by George Rawlinson (2000年). ''[[歴史 (ヘロドトス)|The Histories of Herodotus of Halicarnassus]]'' {{Cite web|和書|url=http://www.omphaloskepsis.com/ebooks/pdf/hrdts.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2016年2月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120205214255/http://www.omphaloskepsis.com/ebooks/pdf/hrdts.pdf |archivedate=2012年2月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}. Ames, Iowa: Omphaloskepsis, book 4, p. 38. "I cannot conceive why three names ... should ever have been given to a tract which is in reality one"</ref>、この論争は2500年後の現在でも取り沙汰される。 紀元前3世紀の[[エラトステネス]]は、地理学者たちが主張するナイル川やドン川で区分される大陸部分に着目し、川で区分される大陸を「島」、地峡で分けられる大陸を「半島」と考えた。彼以後の地理学者たちは、アジアをヨーロッパの区分をカスピ海と黒海の間の地峡に、アジアとアフリカの区分を地中海沿岸のバルダビル湖([[:en:Lake Bardawil|(en)]])河口から[[紅海]]の間に置いた<ref>[[ストラボン]]、訳:Horace Leonard Jones (1917年). 『[[地理誌]]』 [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Strabo/] Harvard University Press, book 1, ch. 4.[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Strabo/1D*.html]</ref>。 [[古代ローマ]]から[[中世]]の間、[[シナイ半島]]をアジアとアフリカの境界に置く地理学者はわずかで、ほとんどは依然としてナイル川もしくはエジプトの西境を基準に置いていた。中世には世界は[[TO図]]の形式で描かれ、Tが3つの大陸を分割する水域として表現されるようになったが、18世紀中ごろまで境界をエジプトとリビアの間(Great Catabathmus)に求める流儀はしぶとく残っていた<ref>Goddard, Farley Brewer (1884年). "Researches in the Cyrenaica". ''The American Journal of Philology'', 5 (1) p. 38.</ref>。 === ヨーロッパのアメリカ大陸到達 === [[クリストファー・コロンブス]]が[[大西洋]]を航海し[[西インド諸島]]に到達した1492年は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸探査の口火となった。ただし、コロンブス自身は4度アメリカへ渡ったにもかかわらず、彼はそこがアジアの一部だと生涯信じていた。 1501年、[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]とゴンサロ・コエーリョ[[:en:Gonçalo Coelho|(en)]]が、彼らがインディアスと考えていた地を南下し[[インド洋]]へ抜ける海路を目指していた。[[ブラジル]]海岸を航海する一行は、この地が当時考えられていたアジアよりもはるかに南に伸び、その広さも大陸と呼ぶにふさわしい規模であることを確認した<ref name=OGorman>{{cite book |last = O'Gorman |first = Edmundo |authorlink = Edmundo O'Gorman |title = The Invention of America |publisher = Indiana University Press |year= 1961 |pages = 106–112 }}</ref>。ヨーロッパへの帰路、探検の報告はヴェスプッチの名前で『Mundus Novus』(「新世界」の意)という名で1502年または1503年に出版された<ref name="formisano1">Formisano, Luciano (Ed.) (1992年). ''Letters from a New World: Amerigo Vespucci's Discovery of America''. New York: Marsilio, pp. xx-xxi. ISBN 0-941419-62-2.</ref>。これには別人の加筆も疑われている<ref name="Zerubavel1">Zerubavel, Eviatar (2003年). ''Terra Cognita: The Mental Discovery of America''. New Brunswick: Transaction Publishers, pp. 77–79. ISBN 0-7658-0987-7.</ref>が、ヴェスプッチの言葉「私は南の地に大陸を発見した。そこには、私たちのヨーロッパやアジア、アフリカと比べてもよりたくさんの人々や動物たちが息づいている」<ref name="formisano2">Formisano, Luciano (Ed.) (1992年). ''Letters from a New World: Amerigo Vespucci's Discovery of America''. New York: Marsilio, p. 45. ISBN 0-941419-62-2.</ref>という言葉で明白な通り、彼はその大陸を既知の3大陸と区別している。 [[ファイル:Waldseemuller map 2.jpg|thumb|300px|ヴァルトゼーミュラー1507年作の世界地図『Universalis Cosmographia』。初めてアメリカ大陸をアジアと分けて示した。]] 数年後にはオリヴェリアーナ([[ペーサロ]])の地図(1504 - 1505年ごろ)のように「新世界」を南アメリカと名づけた地図は作成されたが、まだ北アメリカはアジアとつながっていた<ref name=Zerubavel1/>。しかし1507年に[[マルティン・ヴァルトゼーミュラー]]が出版した地図『Universalis Cosmographia[[:en:Waldseemüller map|(en)]]』では、新大陸が水域でアジアと分けられた。この地図に添えられた付録冊子『宇宙誌入門([[:en:Cosmographiae Introductio|Cosmographiae Introductio]])』でヴァルトゼーミュラーは、地球の陸地は4つに分けられ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ4番目の大陸をヴェスプッチのファーストネームにちなんで「アメリカ」と名づけたと記している<ref name="Zerubavel2">Zerubavel, Eviatar (2003). ''Terra Cognita: The Mental Discovery of America''. New Brunswick: Transaction Publishers, pp. 80–82. ISBN 0-7658-0987-7.</ref>。 === 英語continent === 1500年代から、名詞「continent」は[[ラテン語]] ''terra continens''を語源とし<ref>"continent<sup>1</sup> n." (2006年) ''The Concise Oxford English Dictionary'', 11th edition revised. (Ed.) Catherine Soanes and Angus Stevenson. Oxford University Press.</ref>、連続している大地(continent land)の意味から派生する形で生まれた<ref name=oed>"continent n." (1989) ''オックスフォード英語辞典'', 2nd edition. オックスフォード大学出版局.</ref>。しかし当初は「接続または連続した土地」以外にも「本土」の意味にも使われ<ref name=oed/>、必ずしも広大な陸地を意味していなかった。1600年代、[[マン島]]・[[アイルランド]]・[[ウェールズ]]に対する「本土」また1745年には[[スマトラ島]]を指して「本土」として使われた例がある<ref name=oed/>。[[ギリシア語]]やラテン語の翻訳では「continent」は世界を3分したパーツとして訳されたが、この本来の意味に忠実な形で用いられることは無かった<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=29 |chapter= |quote= }}</ref>。 一方で「continent」は連続する大地の一部を指して用いられることもあり、他方ではヘロドトスの提言を再評価する地理学者たちは、実質的に一つの広大な陸地をわざわざ別の大陸に分ける必要がないと主張した。1600年代中ごろ、ピーター・ヘイリン[[:en:Peter Heylin|(en)]]は著書『Cosmographie』にて「大陸は広大な面積を持つ陸地を指し、必ずしも他の土地と海で隔てられなければならないわけではない。ヨーロッパ、アジア、アフリカは完全に大陸だ」と筆した。1727年に[[イーフレイム・チェンバーズ]]が書いた『[[サイクロペディア|サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典]]』(Cyclopaedia, or an Universal Dictionary of Arts and Sciences)には、「世界は基本的に2つの超大陸に分けることができる。[[旧大陸]]と[[新大陸]]だ」という記述がある。エマニュエル・ボーエン(Emanuel Bowen)は1752年製作の地図において、大陸を「広く乾燥した充分な面積を持つ土地であり、多くの国が国境を接してつながり、水域によって分断されない」と定義し、ヨーロッパ・アジア・アフリカは合わせて1つの大陸であり、また別にアメリカがあるとした<ref>Bowen, Emanuel. (1752年). ''A Complete Atlas, or Distinct View of the Known World''. London, p. 3.</ref>。しかし、ヨーロッパの伝統的な考えから、ヨーロッパとアジア・アフリカは世界を構成するパーツでありながらそれぞれが大陸とする見方に固執した。 === 複数の大陸概念 === 18世紀末ころには、地理学者の中に南北アメリカを別な大陸と見なし、世界を5つに区分する考えを持つ者が現れだしたが、19世紀にも依然4大陸の概念が一般的だった<ref name=lewis30>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=30 |chapter= |quote= }}</ref>。 ヨーロッパ人によるオーストラリア発見は1606年だったが、当初そこはアジアの一部と見なされていた。これを独立した大陸とし世界を6大陸とする考えが一部の地理学者から提案されたのは18世紀末のことであった<ref name=lewis30/>。[[オックスフォード英語辞典]]も依然あいまいな表現に止まる<ref>"continent n. 5. a." (1989) ''オックスフォード英語辞典'', 2nd edition. [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]. "the great island of Australia is sometimes reckoned as another [continent]"</ref>中、1813年にサミュエル・バトラーが「地理学者の中には別な大陸名をつけて権威づけるものがいる、広大な面積を持つ島[[ニューホランド (オーストラリア)|ニューホランド]]」とオーストラリアを記した。 [[メガラニカ]]と名づけられた[[対蹠地]]として1000年以上前から存在を予言されていた南極大陸は1820年に発見され、1838年に行われたアメリカ合衆国の探検調査にて[[チャールズ・ウィルクス]]が最後の大陸と特定した。1849年には大陸として確認されたが、ほとんどの地図には記載されず、これは[[第二次世界大戦]]以後にようやく反映された<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |isbn=0-520-20742-4 |chapter= |quote= }}</ref>。 19世紀中ごろから、アメリカ合衆国で発行される地図はヨーロッパのそれと異なり、南北アメリカを別の大陸と扱うものがだんだんと増え、二次世界大戦以降の1950年代にはほとんどがそのようになり<ref name=lewis32>{{cite book |last=Lewis |first=Martin W. |authorlink= |coauthors=Kären E. Wigen |title=The Myth of Continents: a Critique of Metageography |year=1997 |publisher=University of California Press |location=Berkeley |id=ISBN 0-520-20742-4, ISBN 0-520-20743-2 |pages=32 |chapter= |quote= }}</ref>、現代的な[[地質学]]や[[プレートテクトニクス]]の理解と一致した。これに南極が加わり7大陸の概念が確立した。 ただし、[[ラテンアメリカ]]には南北アメリカ大陸をまとめる考えが根強く、またアジアとヨーロッパをユーラシア大陸とみなす概念も依然残っている。 == 地質学 == {{further|[[プレートテクトニクス]]}} {{未検証|date=2007年9月|section=1}} 地質学は、地理学と異なる「大陸」の定義下でこの用語を使う。それによれば、[[変成岩]]や[[火成岩]]、広くは[[花崗岩]]の岩盤で構成された部分を大陸[[地殻]]とする。より厳密に定義されたものでは、15億年から38億年前の[[先カンブリア時代]]に安定した「盾」状の地殻部分である[[クラトン]](安定陸塊)を指す意見もある。クラトンそのものは、古代の山岳帯が初期の[[沈み込み帯]]や大陸衝突帯[[:en:continental collision|(en)]]またはプレートテクトニクスの上昇部分での活動帯で造られ、これが集まったものであり、その表面は形成されたばかりの薄い[[堆積岩]]が覆っている。地質学で言う大陸は、その周辺をある程度活発な造山帯・海溝または[[三角州]]や海底プレートに形成された[[珊瑚礁]]や積もった[[堆積物]]などが付着した「付加体」<ref>{{Cite web|和書 |url=http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~spg/mountain.pdf |format=PDF |title=日本の高山の特徴 |author=田村茂樹 |publisher=[[京都大学]] Jambo Africa! |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>で周辺を覆われている。縁辺部の外側は地球のプレート配置によって、大陸棚や[[玄武岩]]質の[[海盆]]が広がるか、もしくはほかの大陸地殻と隣り合っている状態にある。大陸地殻の周辺は必ずしも水域ではない。地質学的な時間スケールで見れば、大陸地殻はやがて海洋地殻の下にもぐりこむか、大陸地殻同士が衝突するかの結末を迎える。現在の地球地殻は、他の時代に比べて陸地部分が多く「(標高が)高く乾いた」変則的な状態にあると言える。 [[ファイル:Plates tect2 ja.svg|thumb|250px|大陸や海洋の下に潜む地球のプレート群]] 大陸を例えて、より重い玄武岩質の海洋地殻とは異なり、大陸地殻にへばりついた「いかだ」のようなもので、プレートテクトニクスが起こす沈み込みで破壊されることを免れているという言及もある。この仮説は、大陸クラトンを構成する岩石の年代が非常に古いことを説明できる。この定義では、東ヨーロッパやインドなどといった地域は、古代の独立した箇所([[東ヨーロッパ・クラトン]]やインドクラトンなど)であった事から他のユーラシア大陸とは異なる大陸塊と言える。これらの大陸塊とユーラシアの境界が、[[ウラル山脈]]や[[ヒマラヤ]]などの新しい造山帯である。 大陸地殻には、クラトンに至らない多くの微小大陸がある。ゴンドワナやジーランドなど古の大陸の断片にあたるニュージーランドや[[ニューカレドニア]]・マダガスカルなど、またはマスカレン海台[[:en:Mascarene Plateau|(en)]]北部や[[セーシェル]]などがこれに当たる。[[カリブ海]]の諸島は花崗岩質だが、ほとんどの大陸は花崗岩と玄武岩質の表層を持っている。ただし、このような線引きで島と微小大陸を区別できない。たとえば、ケルゲレン海台はゴンドワナ大陸の分裂に関与したと考えられるため微小大陸に相当するが、その地質はおもに火成岩であり<ref>[http://www.utexas.edu/opa/news/99newsreleases/nr_199905/nr_continent990528.html UT Austin scientist plays major rule in study of underwater "micro-continent".] Retrieved on 2007-07-03</ref><ref>http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/353277.stm Retrieved on 2007-07-03</ref>微小大陸ではないアイスランドやハワイ諸島と同じである。ブリテン諸島、[[スカンジナビア半島]]の一部、[[ニューファンドランド島]]は過去同じ大陸の一部分であり、内海(イアペタス海)が広がって分断された。これらも大陸断片にあたる<ref>{{Cite web|和書 |url=http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/rika-b/htmls/supconti/wilson.html |title=ウィルソンサイクルとイアペタス海 |publisher=[[岐阜大学]] |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>。 [[プレートテクトニクス]]は、大陸を定義する別の方法を提案する。今日、ヨーロッパをアジアの大部分を合わせユーラシア大陸としているが、これを[[ユーラシアプレート]]を基準に見るとインド、アラビア半島、そしてロシア東部は除外される。インドは[[楯状地]]を中央に含み[[ヒマラヤ山脈]]を北端とする単独のプレートである。南北アメリカは比較的近年の火山活動によって形成された陸峡で繋がった、プレート的には別々の大陸となる。そして北米は[[カナダ楯状地]]の端にグリーンランドを、そして西の境界でアジア(ロシア)東部を含むことになる。ただし、地質学者たちはこのプレート配置を取り上げてアジア東部の一部を北アメリカに加えるといったような主張はしていない。通常「大陸」は地理的な意味にて用いられ、大陸岩石やプレート境界といった定義はあくまで補充的に適宜用いられるに過ぎない。 ==画像== <gallery widths="200" heights="200"> ファイル:Two-point-equidistant-asia.jpg|ユーラシア大陸 ファイル:Africa satellite orthographic.jpg|アフリカ大陸 ファイル:North America satellite orthographic.jpg|北アメリカ大陸 ファイル:South America satellite orthographic.jpg|南アメリカ大陸 ファイル:Australia satellite plane.jpg|オーストラリア大陸 ファイル:Antarctica 6400px from Blue Marble.jpg|南極大陸 </gallery> == 金星の大陸 == [[金星]]の地形において、地球の大陸に匹敵する大きさの高地も「大陸 ([[ラテン語|la]]: terra)」 と呼ばれる。面積順に、アフロディーテ大陸<ref name=gifuNASA>{{Cite web|和書 |url=http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/tenmon/venus/nasa/03.html |title=金星画像集(NASA) |publisher=[[岐阜大学]]教育学部 |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>、イシュタール大陸<ref name=gifuNASA />、ラダ大陸の3つがある。金星では少なくともプレートテクトニクスは機能しておらず<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.eps.s.u-tokyo.ac.jp/jp/gakubu/geoph/solid/plate.html |title=プレート・テクトニクス |publisher=[[東京大学]]大学院理学系研究科地球惑星科学専攻 |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>、どのようなメカニズムで高地が生まれたものかは今後の研究に委ねられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|地理学|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理学]]}} * [[国の一覧 (大陸別)]] == 外部リンク == {{Wikidata property |P30|大陸}} {{Commons&cat|Continents|Continents}} * {{Kotobank}} {{世界の地理}} {{地球}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たいりく}} [[Category:大陸|*]]
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教育学
教育学(きょういくがく、英: Studies of Education、独: Pädagogik, Erziehungswissenschaft)は、教育に関する研究、または教育という事象を対象とする学問。 教育学には、学習者(こどものみならず成人も含む)、教育施設(学校)、教育技術(教授法)、教育課程、教育評価、教育制度、教育に関する権利・義務、教育行政・教育法令、教育に関する理念や歴史などについての理論的・実践的研究が含まれる。第二次世界大戦以前は「教育学」という語で教育心理学や教育社会学などと区別された教育の現象や理念に関する一般的な思弁的研究を指していたことから、現在でもそのような意味で用いることがある。 教育学は翻訳語であるが、その元となった単語の1つであるpedagogyは、元々ギリシア語で「こども」を意味するpaidosと「導く」を意味するagoから作られたpaidagogikeに由来する。当時の哲学的な教育に関する研究を経て、時代を重ねることによって、教育学の領域は拡大してきた。それに伴って、教育の研究が科学的な手法に基づくべきであるという教育科学の概念も生じている。また、一部では「こどもの教育学 (pedagogy)」(ペダゴジー)と「大人の教育学 (andragogy)」(アンドラゴジー)とを対比させるむきもある。なお、pedagogyは、現在の英語圏では教授学・教授法の意味で用いられることが多く、教育学一般を意味するには教育そのものと同じeducationや教育の研究を意味するeducational researchなどが用いられることが多い。 教育学は、基本的には、よりよく生きることのできる人間を育成する活動という研究対象によって定義され、研究方法によって定義される学問ではない。教育学は、哲学・歴史学・社会学・心理学・法学・行政学・経営学などの諸学問を基礎に据え、あるいは応用することで、さらなる発展と新しい視点を獲得してきたと言える。そのため、ときに個の「学」としての堅牢さが不十分であるとか、学問のアイデンティティーが未完成であるとかという指摘を受けることがある。例えば、哲学教育や心理学教育といった教育体系は成立し得るが、教育学に関する教育体系としての教育学教育や、あるいは教育学に関する教育を学問的に考究する教育学教育学などのような学問の成立にまでは至っていない。 一方、このアイデンティティーが未完成な状態の中にこそ、教育学の特質を見いだそうとする捉え方もある。教育学では、教育という媒介項を基に学際的知見を成立させることも可能である。このような学際性こそが教育学の特徴的な個性であり、教育の現象を論じるためには不可欠な態度であるとも言える。古来より、どのような社会にも教育は不可欠であり、教育に関する専門的知見は常に必要となる。その限りで教育学は不滅の学問である。もっとも、不滅の学問として単に学問的な伝統を維持することが重要なのではなく、必要に応えるべく高度な知的生産や探求の継続が求められる。 また、教授学、教材論、教育課程論などのような主題的な分野においては、「教育学における共通事項」というようなものが見られると言われることがある。 教育学の研究課題には、次のようなものが含まれる。 古代、中世においては、しつけや何かの知識、例えばラテン語の教え方のようなものを表していたが、宗教改革期に教育学者コメニウスによって、初めて近代的な教育学のひな型が作られた。コメニウスの『大教授学(英語版)』は、世界最初の体系的教育学概論書といわれている。『大教授学』は、すべての人に教育を届けるためラテン語に翻訳され、子供向けの教科書『世界図絵』という世界で最初の絵入り学習百科事典が付されていた。 近代の教育学は、18世紀以降のルソーやペスタロッチらによる教育論の展開を起点とすることがある。近代の日本における教育学は欧米の教育学の輸入として始まり、日本で初めて本格的に教育学を論じた書は、後に東京高等師範学校長となる伊沢修二の『教育学』(1882年)であった。
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教育学は、教育に関する研究、または教育という事象を対象とする学問。
[[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F079064-0006, Bonn, Gymnasium.jpg|thumb|250px]] '''教育学'''(きょういくがく、{{Lang-en-short|Studies of Education}}、{{Lang-de-short|Pädagogik, Erziehungswissenschaft|links=no}})は、[[教育]]に関する[[研究]]、または教育という事象を対象とする[[学問]]。 == 概要 == 教育学には、[[学習者]]([[こども]]のみならず[[成人]]も含む)、[[教育施設]]([[学校]])、[[教育技術]]([[教授法]])、[[教育課程]]、[[教育評価]]、[[教育制度]]、教育に関する[[権利]]・[[義務]]、[[教育行政]]・[[教育法令]]、教育に関する[[理念]]や[[歴史]]などについての理論的・実践的研究が含まれる。[[第二次世界大戦]]以前は「教育学」という語で[[教育心理学]]や[[教育社会学]]などと区別された教育の現象や理念に関する一般的な思弁的研究を指していたことから、現在でもそのような意味で用いることがある。 教育学は[[翻訳]][[語]]であるが、その元となった単語の1つであるpedagogyは、元々[[ギリシア語]]で「こども」を意味するpaidosと「導く」を意味するagoから作られたpaidagogikeに由来する。当時の[[哲学]]的な教育に関する研究を経て、時代を重ねることによって、教育学の[[wikt:領域|領域]]は拡大してきた。それに伴って、教育の研究が[[科学]]的な手法に基づくべきであるという[[教育科学]]の[[概念]]も生じている。また、一部では「こどもの教育学 ([[:en:pedagogy|pedagogy]])」(ペダゴジー)と「大人の教育学 ([[:en:andragogy|andragogy]])」([[アンドラゴジー]])とを対比させるむきもある。なお、pedagogyは、現在の英語圏では[[教授学]]・[[教授法]]の意味で用いられることが多く、教育学一般を意味するには教育そのものと同じeducationや教育の研究を意味するeducational researchなどが用いられることが多い。 教育学は、基本的には、よりよく生きることのできる人間を育成する活動という研究対象によって定義され、研究方法によって定義される学問ではない。教育学は、[[哲学]]・[[歴史学]]・[[社会学]]・[[心理学]]・[[法学]]・[[行政学]]・[[経営学]]などの諸学問を基礎に据え、あるいは応用することで、さらなる発展と新しい視点を獲得してきたと言える。そのため、ときに個の「[[学]]」としての堅牢さが不十分であるとか、学問の[[自己同一性|アイデンティティー]]が未完成であるとかという指摘を受けることがある。例えば、哲学教育や心理学教育といった教育体系は成立し得るが、教育学に関する教育体系としての教育学教育や、あるいは教育学に関する教育を学問的に考究する教育学教育学などのような学問の成立にまでは至っていない。 一方、このアイデンティティーが未完成な状態の中にこそ、教育学の特質を見いだそうとする捉え方もある。教育学では、教育という媒介項を基に[[学際]]的知見を成立させることも可能である。このような[[学際]]性こそが教育学の特徴的な個性であり、教育の現象を論じるためには不可欠な態度であるとも言える。古来より、どのような社会にも教育は不可欠であり、教育に関する専門的知見は常に必要となる。その限りで教育学は不滅の学問である。もっとも、不滅の学問として単に学問的な[[伝統]]を維持することが重要なのではなく、必要に応えるべく高度な知的[[生産]]や探求の継続が求められる。 また、[[教授学]]、[[教材]]論、[[教育課程論]]などのような主題的な分野においては、「教育学における共通事項」というようなものが見られると言われることがある。 == 著名な教育学者 == {{Main|教育関係人物一覧#教育学者・研究者}} == 教育学の研究課題 == 教育学の研究課題には、次のようなものが含まれる。 * 教育という[[活動]]及びそれに関連する[[学び]]・[[学習]]などの[[行為]]。 * 教育の対象たる[[人間]]のあり方、またその[[心理]]や[[行動]]。 * 教育に関わる[[価値]][[理念]]・[[概念]]。 * 教育に関わる社会環境、社会制度([[教育制度]])、[[法令]]([[教育法]])・[[政策]]([[教育政策]])。 * 教育に用いられる[[施設]]([[教育施設]])や用具。 * 教育する側の人間([[親]]・[[教員|教師]]など)。 * 教育の技法([[教授法]])。 * 教育に関わる以上の歴史([[教育史]])。 * 教育学そのもの目的・方法・歴史(教育学方法論・教育研究法・教育学史)。 == 教育学の歴史 == {{Main|教育史|西洋教育史|日本教育史}} 古代、中世においては、しつけや何かの知識、例えば[[ラテン語]]の教え方のようなものを表していたが、宗教改革期に教育学者[[ヨハネス・アモス・コメニウス|コメニウス]]によって、初めて近代的な教育学のひな型が作られた。コメニウスの『{{ill2|大教授学|en|Great Didactic}}』は、世界最初の体系的教育学概論書といわれている<ref>{{Kotobank|大教授学}}</ref>。『大教授学』は、すべての人に教育を届けるためラテン語に翻訳され<ref>{{Cite web|和書|url=https://book.jiji.com/seminar/limited/column/column-2884/ |title=目からウロコの教育史 第2回・コメニウス「あらゆる人に、あらゆる事柄を教授する」 |access-date=2023-04-02 |date=2018-11-01 |website=時事通信出版局 |language=ja}}</ref>、子供向けの教科書『[[世界図絵]]』という世界で最初の絵入り学習百科事典が付されていた。 近代の教育学は、[[18世紀]]以降の[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]らによる教育論の展開を起点とすることがある。近代の日本における教育学は欧米の教育学の輸入として始まり、日本で初めて本格的に教育学を論じた書は、後に東京高等師範学校長となる[[伊沢修二]]の『教育学』([[1882年]])であった。 == 教育学の各分野 == === 基礎・理論 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * [[教育心理学]]([[心理学]]系) * [[教育哲学]]([[哲学]]系) * [[教育史]]学([[歴史学]]系) * [[教育人間学]]([[人間学]]系) * [[教育思想]]([[思想]]論系) | valign="top" width="33%" | * [[教育社会学]]([[社会学]]系) * [[比較教育学]]([[国際学]]系) * 国際教育学([[国際学]]系) * [[教育法学]]([[法学]]・[[行政学]]系) * 教育制度論([[行政学]]・[[社会学]]系) | valign="top" width="33%" | * [[教育行政学]]([[行政学]]・[[政治学]]系) * [[教育経済学]]([[経済学]]系) * 教育財政論([[財政学]]系) * 教育人類学([[人類学]]系) * [[生涯学習論]]([[学習学]]系) |} === 方法・技術 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * [[教授学]] * 教材論 * [[教育方法学]] | valign="top" width="33%" | * [[教育課程論]] * [[教育評価論]]([[心理学]]系) * [[教育工学]]([[技術]]系) | valign="top" width="33%" | * 教育メディア学([[メディア学]]系) * 教育情報学([[情報学]]系) |} === 現場・実践 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * 教育実践学 * [[臨床教育学]] * 教育相談論([[心理学]]系) * 学校教育論 | valign="top" width="33%" | * 教育経営学([[経営学]]系) * 学校経営学([[経営学]]系) * 教師教育学 * 教員養成論 | valign="top" width="33%" | * [[学校心理学]]([[心理学]]系) * 教育医学([[医学]]系) |} === 教科教育学 === {{Main2|教科教育学の全体|教科教育学}} {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * [[国語科教育学]] ** 書写教育学 * [[数学科教育学]] ** 算数科教育学 * 生活科教育学 * [[社会科教育|社会科教育学]] ** [[公民科教育学]] ** 地理歴史科教育学 ** [[地理教育|地理科教育学]] ** [[歴史教育|歴史科教育学]] * [[理科教育学]] ** 物理科教育学 ** 化学科教育学 ** 生物科教育学 ** 地学科教育学 | valign="top" width="33%" | * [[外国語科教育学]] ** [[英語科教育学]] ** ドイツ語科教育学 ** フランス語科教育学 ** 中国語科教育学 ** 韓国語科教育学 * 保健体育科教育学 ** 保健科教育学 ** [[体育科教育学]] * 芸術科教育学 ** [[音楽科教育学]] ** 器楽合奏教育学 ** 図画工作科教育学 ** 美術科教育学 ** 工芸科教育学 ** 書道科教育学 | valign="top" width="33%" | * [[技術科教育学]] * 家庭科教育学 * [[情報科教育学]] * 農業科教育学 * 工業科教育学 * 商業科教育学 * 水産科教育学 * [[看護科教育学]] * 福祉科教育学 * [[宗教科教育学]] * [[道徳教育学]] * 特別活動教育学 * 自立教科教育学 * 自立活動教育学 |} === 教育段階別等 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * 幼児教育学([[就学前教育]]) * [[初等教育|初等教育論]] | valign="top" width="33%" | * [[中等教育|中等教育論]] * [[高等教育|高等教育論]] | valign="top" width="33%" | * [[特別支援教育|特別支援教育学]] |} === 個別領域 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * 技術教育学 * 産業教育学 * [[科学教育論]]([[自然科学]]系) * [[医学教育論]]([[医学]]系) | valign="top" width="33%" | * [[言語教育学]]([[言語学]]系) * [[音楽教育学]]([[音楽学]]系) * [[環境教育論]]([[環境学]]系) * [[情報教育論]]([[情報学]]系) | valign="top" width="33%" | * [[道徳教育論]]([[倫理学]]系) * [[人権教育論]]([[法社会学]]系) * [[国際理解教育論]]([[開発学]]系) |} === 社会教育 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * [[社会教育学]] * 公民館学 * [[博物館学]] |valign=top| * 博物館情報学 * [[図書館学]] * [[図書館情報学]] |valign=top| * [[キャリア教育学]] * [[職業教育論]] |} === 家庭教育 === {|width="100%" | |- | valign="top" width="33%" | * [[家庭教育学]] | valign="top" width="33%" | * [[保育学]] | valign="top" width="33%" |<br/> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}} {{Cite journal}}--> == 関連項目 == {{Wikibooks}} {{Commonscat|Pedagogy}} * [[教育科学]] * [[教育哲学会]] * [[日本教育学会]] * [[教育思想家一覧]] * [[日本の大学一覧]] * [[:Category:教育学者]] == 外部リンク == <!--{{Cite web}}--> * [http://www.shermandorn.com/hec/ History of Education and Childhood] - Sherman Dornが運営する研究者のための総合情報サイト * [http://wwwsoc.nii.ac.jp/hets/ 教育思想史学会] * [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsse4/ 日本教育学会] * [http://wwwsoc.nii.ac.jp/jspe4/ 教育哲学会] {{社会科学のフッター}} {{Education-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きよういくかく}} 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美学
美学(びがく、英: aesthetics、またæsthetics、esthetics、エスセティクス、エステティクス、希: Αισθητική)は、18世紀に成立した哲学の一領域である。美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する。美的対象、美的判断、美的態度、美的経験、美的価値などが問題とされてきた。 日本においては、森鷗外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される。 単に美意識、美的感覚を表すこともある。近年ではビジネス理論でも外観や雰囲気をあらわす言葉として用いられる(日本では主に片仮名のままエスセティクスと言われる)。また、日本語の「美学」は、本来の意味から転じ、高潔で優れた信念を持つ様を表すこともある。例えば、囲碁棋士の大竹英雄の棋風は「大竹美学」と称される。 伝統的に美学は「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んできた。科学的に言えば、感覚的かつ感情的価値を扱う学問でもあり、ときに美的判断そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美学は「芸術、文化及び自然に関する批評的考察」であるとも位置づけられる。 美学が1つの学問として成立した歴史的背景には、18世紀に啓蒙主義の思想と自然科学の確立に伴って表面化した科学的認識と美的もしくは感覚的認識の相違が認められたことと関係している。アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンは理性的認識に対して感性的認識に固有の論理を認め、学問としての美学を形作った。後にカントは美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批判の学問として位置づけた。ここから美学はシラー、シェリング、ヘーゲルなどにより展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけて美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間活動との関係にも考察が及んでいる。 19世紀後半のドイツでは、美学から芸術の研究を独立させようと、芸術学(げいじゅつがく、独: Kunstwissenschaft、英: science of art)が提唱された。その後、美学は一般芸術学の主張を取り入れて変化し、今日では美学が哲学的であるのに対して、科学的・実証的な芸術研究を指して、芸術学と呼ぶようになってきている。 「美学」という術語が生まれたのは18世紀半ばである。学問名称は、哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが用いたAesthetica(日本語に直訳すると感性学)に由来している。aesthetica という語は、古典ギリシア語 αἴσθησις(aisthesis)の形容詞 αἰσθητικ-ός(aisthtike)をラテン語化したもので、2つの語義を持っていた。1つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。 バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。 バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。 引用 美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節) 美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節) ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった。古代にも美と芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏しかった。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なものにとどまっていたと考えられており、組織的な考察は行われてはいなかった。体系化された美学の淵源はプラトンにまで遡る。 哲学的美学(Philosophical Aesthetics)としての美学は、18世紀初頭、イギリスのジャーナリストジョセフ・アディソンが雑誌『スペクテイター』の創刊号に連載した「想像力の喜び」から始まったと言われている。 美学という哲学的学科を創始したのは、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属すドイツの哲学者バウムガルテン(A.G.Baumgarten,1714-62)である。バウムガルテンは1735年の著書で、美学に新しい概念を与え、詩の美学的価値の原理的考察を思考する学としてaestheticaという学を予告した。彼はフランクフルト大学で1742年から「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。この著書のなかで、バウムガルテンは芸術の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示し、芸術と美と感性の同円的構造を打ち立てた。 18世紀に入って余暇活動が盛んになると、美学に関する広範な哲学的考察が本格的に展開された。初期の理論においてイマヌエル・カントは最も影響力を持っていた。ロマン主義の登場や政治革命の時代になると、これに関連した美的概念として、崇高性が評価されるようになった。崇高性はエドマンド・バークが "A Philosophical Enquiry into the Origin of our ideas of the Sublime and Beautiful "で理論化した概念である。 シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラー(de:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。 現代美学において特筆すべきは、実存主義・分析哲学・ポスト構造主義によるアプローチであろう。分析哲学の手法を用いて美学的な問題を扱う学問は、分析美学と言われる。分析美学の主要なテーマの一つに芸術の定義がある。また、認知神経科学の一分野で、美学的体験や芸術的創造性について、認知神経学や心理学的アプローチにより研究する神経美学(英語版)がある。 日本における主要な美学関連学会としては美学会があり、雑誌『美学』(年4回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年5回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。 日本語の「美学」は、中江兆民がフランスのウジェーヌ・ヴェロン(フランス語版)の著作(1878年)を訳して『維氏美学』(上 1883年11月、下 1884年3月)と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校および東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鷗外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。 近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。しかし、いき、わびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道や日本建築、伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。 歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆する。ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には、美と清さとがなんらかの形において一致するという美学的思考が胎生している。アメノウズメの踊りに関する記述には、乳房や女陰に関する言及もある。 日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名序」においてである。紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。 この歌論が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、藤原公任の『新撰髄脳』、『和歌九品』以降においてであり、後者の9分法は仏教における九品蓮台によると思われるが、基本的には中国唐代の画論における品等論の影響が推定される。藤原公任によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、藤原俊成、壬生忠岑、そして鴨長明によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。 そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」(崇高あるいは壮美)、「をかし」(趣向の面白さに由来する美)など、美的カテゴリーの細分化がおこなわれ、「和歌十体」として体系化された。歌人の西行(1118年-1190年)は2300首の、美意識にあふれた和歌をよんだと伝えられている。 藤原定家は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもしろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優美)の範疇を開拓した。 藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を禅的思想で深めた正徹は、「いかなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗りいふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応していることを指摘した(『正徹物語』)。 ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。 これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の松尾芭蕉による、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、「気」の芸術の主張につながる。この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、千利休の茶を貫く風雅の精神である。 このことを別の側面から保証するように、文人画家の池大雅は、絵画でいかなることが困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。 この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起源するが、多分に、中国思想、仏教思想の影響がある。 一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の本居宣長である。本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。「なべて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、感動の表現は人間的な必然となる。」その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのはなはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。宣長は儒教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する側面があった。 このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したのであり、西周、森鷗外以後においては、東洋の伝統に立ち茶道における老荘の美学的世界観を主張した岡倉覚三の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側面から範疇論を補足した大西克礼の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。近現代の文化人としては三島由紀夫、谷崎潤一郎、泉鏡花、江戸川乱歩らが美意識にあふれた作品を発表した。戦後の60年代以降、寺山修司、大島渚らがその美学を引き継いだと解釈することも可能である。
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V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大学である。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。しかし、いき、わびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道や日本建築、伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆する。ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には、美と清さとがなんらかの形において一致するという美学的思考が胎生している。アメノウズメの踊りに関する記述には、乳房や女陰に関する言及もある。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名序」においてである。紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この歌論が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、藤原公任の『新撰髄脳』、『和歌九品』以降においてであり、後者の9分法は仏教における九品蓮台によると思われるが、基本的には中国唐代の画論における品等論の影響が推定される。藤原公任によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、藤原俊成、壬生忠岑、そして鴨長明によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」(崇高あるいは壮美)、「をかし」(趣向の面白さに由来する美)など、美的カテゴリーの細分化がおこなわれ、「和歌十体」として体系化された。歌人の西行(1118年-1190年)は2300首の、美意識にあふれた和歌をよんだと伝えられている。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "藤原定家は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもしろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優美)の範疇を開拓した。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を禅的思想で深めた正徹は、「いかなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗りいふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応していることを指摘した(『正徹物語』)。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の松尾芭蕉による、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、「気」の芸術の主張につながる。この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、千利休の茶を貫く風雅の精神である。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このことを別の側面から保証するように、文人画家の池大雅は、絵画でいかなることが困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起源するが、多分に、中国思想、仏教思想の影響がある。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の本居宣長である。本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。「なべて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、感動の表現は人間的な必然となる。」その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのはなはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。宣長は儒教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する側面があった。", "title": "日本における美学" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したのであり、西周、森鷗外以後においては、東洋の伝統に立ち茶道における老荘の美学的世界観を主張した岡倉覚三の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側面から範疇論を補足した大西克礼の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。近現代の文化人としては三島由紀夫、谷崎潤一郎、泉鏡花、江戸川乱歩らが美意識にあふれた作品を発表した。戦後の60年代以降、寺山修司、大島渚らがその美学を引き継いだと解釈することも可能である。", "title": "日本における美学" } ]
美学は、18世紀に成立した哲学の一領域である。美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する。美的対象、美的判断、美的態度、美的経験、美的価値などが問題とされてきた。 日本においては、森鷗外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される。 単に美意識、美的感覚を表すこともある。近年ではビジネス理論でも外観や雰囲気をあらわす言葉として用いられる(日本では主に片仮名のままエスセティクスと言われる)。また、日本語の「美学」は、本来の意味から転じ、高潔で優れた信念を持つ様を表すこともある。例えば、囲碁棋士の大竹英雄の棋風は「大竹美学」と称される。
{{複数の問題 |出典の明記 = 2011年12月 |独自研究 = 2018年10月 }} {{哲学のサイドバー}} '''美学'''(びがく、{{lang-en-short|aesthetics}}、また{{lang|en|æsthetics}}、{{lang|en|esthetics}}、エスセティクス、エステティクス、{{lang-el-short|[[:wikt:en:αισθητική|Αισθητική]]}})は、[[18世紀]]に成立した[[哲学]]の一領域である。[[美]]の[[本質]]や構造を、その[[現象]]としての[[自然]]・[[芸術]]及びそれらの周辺領域を対象として、[[経験]]的かつ[[形而上学]]的に探究する。美的対象、美的判断、美的態度、美的経験、美的価値などが問題とされてきた<ref>{{Cite web | url = https://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-concept/#Dis | title = The Concept of the Aesthetic | publisher = Stanford University | accessdate = 2021-10-03 }}</ref>。 日本においては、[[森鷗外]]により「'''審美学'''」という訳語が与えられた<ref name="ref001">美学が日本に輸入された際の訳語の確定までの経緯については、浜下昌宏「森鴎外『審美学』の研究(1)ー序説」, "Studies" 45(1), pp.69-78 ([[神戸女学院大学]], 1998年7月) を参照。</ref><ref group="注">[[西周 (啓蒙家)|西周]]、[[中江兆民]]らも各々「善美学」「佳趣論」等の訳語を創出した。なお、明治14年(1881年)初版の[[井上哲次郎]]編『[[哲学字彙]]』(東洋館)では、美学の訳語として「美妙学」が採用されていた。</ref>が、現在では美学と呼称される。 単に美意識、美的感覚を表すこともある。近年ではビジネス理論でも外観や雰囲気をあらわす言葉として用いられる(日本では主に片仮名のままエスセティクスと言われる)。また、日本語の「美学」は、本来の意味から転じ、高潔で優れた信念を持つ様を表すこともある。例えば、[[囲碁棋士]]の[[大竹英雄]]の[[棋風]]は「大竹美学」と称される。 == 概要 == 伝統的に美学は「美とは何か」という美の[[本質]]、「どのようなものが美しいのか」という美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の[[価値]]を問題として取り組んできた。[[科学]]的に言えば、[[感覚]]的かつ[[感情]]的[[価値]]を扱う[[学問]]でもあり、ときに美的[[判断]]<ref name="ref002">[http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/ Aesthetic Judgment] "Stanford Encyclopedia of Philisophy"(SEP)中の項目。'''(英語)'''</ref>そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美学は「[[芸術]]、[[文化 (代表的なトピック)|文化]]及び[[自然]]に関する[[批評]]的考察」であるとも位置づけられる{{Sfn|Kelly, Michael|1998|p=ix}}。 美学が1つの[[学問]]として成立した歴史的背景には、18世紀に[[啓蒙主義]]の思想と[[自然科学]]の確立に伴って表面化した[[科学]]的[[認識]]と美的もしくは[[感覚]]的認識の相違が認められたことと関係している。[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン]]は[[理性]]的認識に対して感性的認識に固有の論理を認め、[[学問]]としての美学を形作った。後に[[カント]]は美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批判の学問として位置づけた。ここから美学は[[シラー]]、[[シェリング]]、[[ヘーゲル]]などにより展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけて美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間活動との関係にも考察が及んでいる。 19世紀後半のドイツでは、美学から芸術の研究を独立させようと、'''芸術学'''(げいじゅつがく、{{Lang-de-short|Kunstwissenschaft}}、{{Lang-en-short|science of art}})が提唱された。その後、美学は一般芸術学の主張を取り入れて変化し、今日では美学が哲学的であるのに対して、科学的・実証的な芸術研究を指して、芸術学と呼ぶようになってきている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/芸術学|title=芸術学|publisher=[[コトバンク]]|author=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2019年6月27日|language=ja|ref={{SfnRef|kotobank-芸術学}}}}</ref>。 == 西洋における美学 == === 名称 === 「美学」という術語が生まれたのは18世紀半ばである。学問名称は、[[哲学者]][[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン|アレクサンダー・バウムガルテン]]が用いたAesthetica(日本語に直訳すると感性学)に由来している<ref name="bi24">{{Cite book |和書 |author=今道友信 編|title=講座 美学 I|year=1984|page=24 }}</ref>。'''aesthetica''' という語は、古典ギリシア語 {{lang|el|[[:wikt:en:αἴσθησις|αἴσθησις]]}}(aisthesis)の形容詞 {{lang|el|αἰσθητικ-ός}}(aisthtike)を[[ラテン語]]化したもので、2つの語義を持っていた。1つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」([[:wikt:en:episteme|episteme]])という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「'''感性学'''」である。{{要出典|範囲=バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「'''感性的認識論''' scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである|date=2021年9月}}。 バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。 :( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 ) バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。 '''引用''' <blockquote> 美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす[[技術]]、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節) </blockquote> <blockquote> 美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節) </blockquote> === 歴史 === ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった<ref name="bi24" />。古代にも美と芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏しかった<ref name="bi24" />。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なものにとどまっていたと考えられており、組織的な考察は行われてはいなかった<ref name="bi24" />。体系化された美学の淵源は[[プラトン]]にまで遡る{{要出典|date=2021年9月}}。 哲学的美学(Philosophical Aesthetics)としての美学は、18世紀初頭、イギリスのジャーナリスト[[ジョセフ・アディソン]]が雑誌『[[スペクテイター (1711年創刊の定期刊行物)|スペクテイター]]』の創刊号に連載した「想像力の喜び」から始まったと言われている<ref name="IPE">{{Cite web | url = https://iep.utm.edu/aestheti/ | title = Aesthetics | publisher =Internet Encyclopedia of Philosophy | accessdate = 2021-09-30 }}</ref>。 ==== 学問としての「美学」の誕生 ==== 美学という哲学的学科を創始したのは、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]・[[ヴォルフ]]学派の系統に属すドイツの哲学者[[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン|バウムガルテン]](A.G.Baumgarten,1714-62)である。バウムガルテンは1735年の著書で、美学に新しい概念を与え<ref>{{Cite book |title= Values of Beauty: Historical Essays in Aesthetics |year=2005 |publisher= Cambridge University Press |isbn= 978-0-521-60669-1 |url= https://archive.org/details/valuesofbeautyhi00guye}}</ref>、[[詩]]の美学的価値の原理的考察を思考する学としてaestheticaという学を予告した。{{要出典|範囲=彼は[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]大学で1742年から「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これを[[ラテン語]]で出版した|date=2021年9月}}。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。この著書のなかで、バウムガルテンは芸術の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示し、芸術と美と感性の同円的構造を打ち立てた{{Sfn|佐々木健一|2004|p=10-11}}。 ==== 近代美学 ==== <!--加筆をお願いします--> 18世紀に入って余暇活動が盛んになると、美学に関する広範な哲学的考察が本格的に展開された<ref name="IPE" />。初期の理論において[[イマヌエル・カント]]は最も影響力を持っていた<ref name="IPE" />。[[ロマン主義]]の登場や政治革命の時代になると、これに関連した美的概念として、[[崇高]]性が評価されるようになった<ref name="IPE" />。崇高性は[[エドマンド・バーク]]が "A Philosophical Enquiry into the Origin of our ideas of the Sublime and Beautiful "で理論化した概念である<ref name="IPE" />。 [[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]の『芸術の哲学』講義、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の『美学』講義などを経て、[[コンラート・フィードラー|フィードラー]]([[:de:Konrad Fiedler]])の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。 ==== 現代美学 ==== <!--加筆をお願いします--> 現代美学において特筆すべきは、[[実存主義]]・[[分析哲学]]・[[ポスト構造主義]]によるアプローチであろう。[[分析哲学]]の手法を用いて美学的な問題を扱う学問は、分析美学と言われる<ref>{{Cite web|和書| url = https://synodos.jp/opinion/culture/16122/ | title = 分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告 | publisher = シノドス | accessdate = 2021-09-22 }}</ref>。分析美学の主要なテーマの一つに芸術の定義がある{{Sfn|佐々木健一|2004|p=170}}。また、[[認知神経科学]]の一分野で、美学的体験や芸術的創造性について、認知神経学や[[心理学]]的アプローチにより研究する{{仮リンク|神経美学|en|neuroaesthetics}}がある{{Sfn|石津智大|2018|p=17}}。 == 日本における美学 == 日本における主要な美学関連[[学会]]としては[[美学会]]があり、雑誌『美学』(年4回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年5回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の[[国際美学会議]](4年おき開催)は日本で行われた。 === 訳語 === 日本語の「美学」は、[[中江兆民]]がフランスの{{仮リンク|ウジェーヌ・ヴェロン|fr|Eugène Véron}}の著作(1878年)を訳して『維氏美学』(上 1883年11月、下 1884年3月)と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]および[[東京大学]]における[[アーネスト・フェノロサ|フェノロサ]]のヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎([[森鷗外]])による東京大学における[[エドゥアルト・フォン・ハルトマン|E. V. ハルトマン]]美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、および[[ラファエル・フォン・ケーベル]](ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また[[京都]]においては[[京都工芸学校]]においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として[[大塚保治 (美学者)|大塚保治]]を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初([[1899年]])の大学である。 === 日本の美意識 === 近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は無い。しかし、[[いき]]、[[わび・さび|わび]]などの個別の[[美意識]]は、古くから存在しており、また[[茶道]]や[[日本建築]]、[[伝統工芸品]]などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。 歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆する。ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には、美と清さとがなんらかの形において一致するという美学的思考が胎生している。アメノウズメの踊りに関する記述には、乳房や女陰に関する言及もある。 日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『[[古今和歌集]]』「仮名序」においてである。[[紀貫之]]は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるもの」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。 この[[歌論]]が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、[[藤原公任]]の『[[新撰髄脳]]』、『[[和歌九品]]』以降においてであり、後者の9分法は仏教における九品蓮台によると思われるが、基本的には中国[[唐]]代の[[画論]]における品等論の影響が推定される。藤原公任によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、[[藤原俊成]]、[[壬生忠岑]]、そして[[鴨長明]]によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。 そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」([[崇高]]あるいは壮美)、「をかし」(趣向の面白さに由来する美)など、美的[[カテゴリー]]の細分化がおこなわれ、「和歌十体」として体系化された。歌人の[[西行]](1118年-1190年)は2300首の、美意識にあふれた和歌をよんだと伝えられている。 [[藤原定家]]は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもしろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優美)の範疇を開拓した。 藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を[[禅]]的思想で深めた[[正徹]]は、「いかなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗りいふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応していることを指摘した(『正徹物語』)。 ここから芸道の精神が生まれ、[[演劇]]論としては、能の[[世阿弥]]の『花鏡』の「動十分心動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちなき姿」を尊重する秘伝につながる。 これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の[[松尾芭蕉]]による、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、「気」の芸術の主張につながる。この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西行の和歌、[[宗祇]]の連歌、[[雪舟]]の絵、[[千利休]]の茶を貫く風雅の精神である。 このことを別の側面から保証するように、文人画家の[[池大雅]]は、絵画でいかなることが困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。 この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起源するが、多分に、中国思想、仏教思想の影響がある。 一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の[[本居宣長]]である。本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。「なべて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、感動の表現は人間的な必然となる。」その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのはなはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。宣長は儒教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する側面があった。 このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したのであり、[[西周 (啓蒙家)|西周]]、[[森鷗外]]以後においては、東洋の伝統に立ち[[茶道]]における老荘の美学的世界観を主張した[[岡倉天心|岡倉覚三]]の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側面から[[範疇]]論を補足した[[大西克礼]]の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。近現代の文化人としては三島由紀夫、谷崎潤一郎、泉鏡花、江戸川乱歩らが美意識にあふれた作品を発表した。戦後の60年代以降、寺山修司、大島渚らがその美学を引き継いだと解釈することも可能である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite |和書 | author = 佐々木健一 | authorlink = 佐々木健一 | title = 美学への招待 | date = 2004 | publisher = 中央公論新社 | isbn = 4-12-101741-2 | series = 中公新書 | ref = harv }} * [[新関公子]]『森鴎外と原田直次郎 ミュンヘンに芽生えた友情の行方』(東京藝術大学出版会, 2008年) *{{Cite journal|和書 | author = 石津智大 | authorlink = 石津智大 | date = 2018-04 | title = 美の認知神経科学,神経美学のこれまで | journal = 心理学ワールド | volume = 81 | publisher = 日本心理学会 | url = https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2018/04/81-17-20.pdf | ref = harv }} * {{Cite | author = Kelly, Michael(Editor in Chief)et al. | title = Encyclopedia of Aesthetics | publisher = [[Oxford University Press]] | volume = 4 | edition = | year = 1998 | pages = 2224 | isbn = 978-0-19-511307-5 }} == 関連項目 == {{表2列| * [[美術史]] * [[感性]] * [[哲学]] * [[音楽の哲学]]、[[音楽美学]] * [[数学的な美]] * [[批評]] * [[詩学]] * [[カルチュラル・スタディーズ]] (cultural studies) * [[美学会]] | * [[美]] * [[醜]] * [[崇高]] * [[イロニー]] * [[フモール]] * [[アレゴリー]] * [[図像学]] * [[想像力]] * [[エロス]] * [[美人]]、[[美人#平均美人説|平均美人説]] }} == 外部リンク == {{Wiktionary|美学}} {{commonscat|Aesthetics}} {{IEP|aestheti|Aesthetics}} * {{Wayback |url=http://www.flet.keio.ac.jp/dep/arts.html |title=慶應義塾大学文学部 - 美学美術史学専攻 |date=20161011183147 }} - [[森鷗外]]は明治25年(1892年)、[[慶應義塾]]にて「審美学」の講義を始めた。 * [http://www.geidai.ac.jp/labs/aesthetics/ 東京藝術大学美学研究室] - [[日清戦争]]後の明治31年(1898年)、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現[[東京藝術大学]])に復職した[[森鷗外]]は、審美学と[[西洋美術史]]を講じた。 *{{Cite web|和書| url = http://www.bigakukai.jp| title = 美学会| publisher = 美学会| accessdate = 2021-09-14 }} * {{Kotobank}} {{美術}} {{哲学}} {{人文科学}} {{Normdaten}} {{Art-stub}} {{DEFAULTSORT:ひかく}} [[Category:美学|*]] [[Category:美]] [[Category:美術]] [[Category:芸術]] [[Category:人文科学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%AD%A6
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島(しま)とは、一般的には周囲を海や湖で囲まれた陸地のことをいい、内陸部のものを含む。 地理学上は大陸よりも小さい陸地をいう。具体的には、世界で最も小さい大陸のオーストラリア大陸の面積より小さく、四方を海洋・湖などの水域に囲まれた陸地のことである。海洋法に関する国際連合条約では「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」と定義されている。 島嶼(とうしょ)、アイランド(英: island)ともいう。「嶼」は小島を意味する漢字である。 地理学上、大きな陸塊が大陸、小さな陸塊が島に分類される。 現在、世界最小の大陸はオーストラリア大陸、最大の島はグリーンランドである。右図にこれらの陸塊の比較を示す。グリーンランドに次いで世界で2番目に大きい島はニューギニア島で、以下、3位がボルネオ島、4位がマダガスカル島、5位がバフィン島、6位がスマトラ島、7位が本州、...... と続く(島の一覧 (面積順)を参照)。 居住者のいる島を有人島、いない島を無人島という。世界最大の無人島は、カナダのデヴォン島である。面積は、カナダの島の中で第6位、世界の島の中で第27位で、それより狭い中で人口最大の台湾島(38位)や、人口2位の九州本島(36位)より広い。 複数の島がまとまって存在する場合、集団になっているものを諸島、塊状のものを群島、列状のものを列島などと呼ぶ場合もある。日本の国土地理院が1990年に刊行した「新版日本国勢地図」では諸島について「二つ以上の島の集団をいう。そのうち列状をなすものを特に列島という。」と定義している。ただし、諸島と群島に関しては概念としては同じで、明確に区分できるわけではない。 諸島・列島・群島とは逆に、周囲に島がない場所に孤立して存在する島を孤島という。ギネス世界記録に認定されている「世界一孤立した有人島」は南大西洋上のトリスタンダクーニャ島である。 日本の琵琶湖の竹生島、宍道湖の嫁ヶ島など、湖の中にある島もある。また、川の中にある島もあり、中州とも呼ばれる。世界最大の川の中の島は、ブラジルのバナナル島である。面積は、世界の島の中で第49位で、同第50位四国の約1.08倍の面積である。同国中部トカンチンス州のアラグアイア川にある島である。 領土がすべて島から成る国を島国と呼ぶ。非独立国を含める場合、世界最大の島国はデンマーク領で本国からの高度な自治が存在するグリーンランドとなる。独立国のみに限る場合、インドネシアが世界最大の島国であり、マダガスカル、パプアニューギニア、日本、...... と続く。国際連合の加盟国193ヶ国中では島国は47ヶ国である(2011年時点 en:Island_country)。 島の定義に関しては海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)第121条の定義が使われることが多い。 この条件から外れると領海を形成するために有効な領土ではなくなる。日本が沖ノ鳥島に消波ブロックなどを設置し、波浪による侵食によって満潮時に水没しないようにしているのはこのためである。 同条約同条2項では「島の領海、接続水域、排他的経済水域及び大陸棚は、他の領土に適用されるこの条約の規定に従って決定される。」とされている。一方3項では「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。」としている。すなわち、広義の「島」であっても狭義の「島」と「岩」に条約上の扱いが分かれるので注意が必要である(この場合の「岩」は領土であり領海は持つ)。 以上の国際条約とは別に各国、各地域、各機関で様々な定義が行われている。スコットランドでは島は「人が住み、最低一頭の羊を養える牧場がある」ものという定義がある。日本の海上保安庁は「満潮時に海岸線の延長距離が100m以上の陸地」を島と定義している一方、国土地理院は「航空写真に写る陸地」を島と定義している。また、国土地理院の定義では島未満の地形として、暗礁や洗岩、干出岩、水上岩からなる岩礁がある。国連訓練調査研究所(UNITAR)は1966年に「島」を「海洋に囲まれた人口100万人以下の小島嶼」と定義し統計を公表している。 島は地形によって分類されることもある。国際連合環境計画(UNEP)のダール博士が編集した『島嶼総覧(Island Directory: Basic environmental and geographic information on the significant islands of the world)』は世界環境保全モニタリングセンター(WCMC)からデータを受けた世界の約2.000の海洋有人島のデータを提供しているが、地形の分類例として環礁(Atolls)、低地島(Low islands)、隆起サンゴ礁(Raised coral islands)、火山島(Volcanic islands)などがある。 刺胞動物門花虫綱などの造礁サンゴの骨格が堆積して裾礁(きょしょう)となり、それが隆起して形成された島である。マリアナ諸島や小笠原諸島の島々のように火山島とサンゴ礁が複合した裾礁、メラネシアやポリネシアの島々のような堡礁や環礁など段階によってバリエーションがある。 大陸島(Continental islands)は大陸棚の上にある島であり、海進や沈下などによって大陸と切り離された陸地である。 大陸島は大陸に並んで形成されることが多く、弧状の配置になることも多い。このようなプレート境界(沈み込み帯)に位置する列島を島弧、あるいは弧状列島とも言う。島弧はマントル対流の沈み込みによって地殻が盛り上がって生成する。このような島は弓状に分布することが多く、島弧と呼ぶ。島弧は太平洋プレートの周辺(環太平洋火山帯)に目立つ。以下に北極側から反時計回りに記す。 火山噴火によって形成された島を火山島といい、特に大陸棚ではなく海洋底から直接海面に達している島を洋島という。 海洋に位置する島を成因によって分類すると、大きく3つに分かれる。プレートテクトニクスにより大陸から分離した「小大陸」と見なせる島、陸島、洋島である。 大陸からの分裂で誕生した島の代表例はグリーンランドとマダガスカル島である。 大陸はプリュームによるマントル対流によって、数センチメートル/年程度の速度で移動している。約6億年前の古生代石炭紀に、先行する超大陸が南北に分離した。それぞれ、ゴンドワナ大陸とローラシア大陸と呼ばれる。ゴンドワナ大陸は現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸、アラビア半島、マダガスカル島を含んでいた。1億6000万年前からゴンドワナ大陸自体も数次にわたって分裂を続けた。7000万年 - 9000万年前の中生代白亜紀後期の最後の分裂の際、インド亜大陸と分離したのがマダガスカル島である。そのため動植物の分布がアフリカ大陸とは異なっている。 ローラシア大陸は、現在のユーラシア大陸と北アメリカ大陸、グリーンランドを含んでいた。約5000万年前(新生代第三紀)に、グリーンランドは北アメリカ大陸と分離した。 大陸棚に存在する島を陸島という。海退時や隆起によって大陸と陸続きになりがちで、海進、沈下などの原因により大陸と切り離されることで孤立した陸地である島となる。地質構造や陸上の地形に大陸との類似が見られる。代表例はカリマンタン島、グレートブリテン島、台湾島である。カナダ北部の島々も陸島である。海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込んでいる場所では、大陸プレートの周辺部に、海洋プレートの沈み込みによって生じる海溝があり、この海溝に沿うように、大陸側に島が並んで形成される例が多い。その配置が弧状になることが多いため、弧状列島、あるいは島弧と言われる。 陸島のうち大陸や他の大きな島に近いものは砂州によって大陸などと陸続きになることがある。これを陸繋島と呼ぶ。 後述するサンゴ礁のみからなる陸島もある。例えばオーストラリア大陸東岸北部に約2000kmにわたって伸びるグレート・バリア・リーフは大陸棚に位置する700個前後の島で発達した堡礁である。 大陸棚ではなく、海洋底から直接海面に達している島を洋島という。基本的には火山活動によるが、単純な火山性の島と、火山島などの沈下によって形成されたサンゴ礁に分かれる。海洋島ともいう。 洋島のうち、火山島はホットスポット上に多く位置する。ホットスポットとは下部マントル付近から上部マントルに向かって定常的に熱い物質が上昇している場所のことである。例えばハワイ諸島の場合、約7000万年にわたって、同一のホットスポットが多数の島を生成してきた。古い島は侵食を受け、海面下に海山として残っている。アイスランド島もホットスポット上にある。 この他にカリブ海東端の小アンティル諸島に属する島、例えばマルチニーク島などは、カリブプレートと北アメリカプレートの沈み込み帯上に位置する火山島である。 サンゴ礁は、刺胞動物門花虫綱などに属する造礁サンゴの骨格などが積み上がって形成される地形である。サンゴ礁の主成分は石灰岩(炭酸カルシウム)からできている。石灰岩はサンゴ類の骨格(骨片)のほか、共生藻の分泌物の沈着によって生成する。石サンゴは細胞内に共生する褐虫藻の光合成に依存している。このため、太陽光が十分透過する水深40m - 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60mよりも浅い海中でなければサンゴ礁は成長しない。水温も最低でも18度前後でなければならない。", "title": "島の成因" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "サンゴ礁は島の周辺の海岸を取り囲む裾礁(きょしょう)として発生する。代表例は小笠原諸島、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島である。裾礁が形成された後に、中央の島が沈降すると、島の海岸線から数km離れた位置にドーナツ型のサンゴ礁からなる陸地が形成される。これを堡礁(ほしょう、バリアリーフ)と呼ぶ。沈降がさらに進むと中央の島は消え、ラグーンと呼ばれる礁湖を取り囲む幅数100m - 1km程度のドーナツ型の陸地だけが残る。これを環礁(かんしょう、アトール)と呼ぶ。サンゴ礁自体が成長することから、波による侵食に強く、孤島であっても波浪による侵食に耐える。", "title": "島の成因" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サンゴ礁に基づく島にはさまざまなバリエーションがある。サイパン島やグアム島を含むマリアナ諸島や小笠原諸島はプレート境界に位置する火山島とサンゴ礁が複合した裾礁の段階にある。南太平洋に位置するメラネシアやポリネシアでは、堡礁や環礁の段階に達している。東部ミクロネシアに位置するマーシャル諸島共和国の国土は30個弱の環礁だけから成る。", "title": "島の成因" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "宮古島や石垣島などの先島諸島は裾礁形成後に隆起したため、サンゴ礁段丘や隆起サンゴ礁と呼ばれる特異な地形がよく発達している。", "title": "島の成因" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "サンゴ礁の隆起等を成因とする標高の低い島を低島といい、成因が地質構造と関連し山地を有する島を高島という。", "title": "島の成因" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "島には、特殊な生物相が見られることがよくある。固有種が多く、また、飛べない鳥の出現なども広く見られることである。島の生物の生態についての研究は、島嶼生物学が扱う。", "title": "島の生物" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "洋島では、漂着する生物が定着する事によって生物相ができることから、両生類や哺乳類を欠くといったような、大陸に比べて偏った生物相になりやすい。ガラパゴス諸島やハワイ諸島、小笠原諸島などが有名である。", "title": "島の生物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "陸島でも、大陸では絶滅した群が生き残っているなど、特殊な生物が見られる例が非常に多い。", "title": "島の生物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし逆に何らかの要因で外来種が入ってくると島の固有種に壊滅的なダメージを与えたり、固有種と外来種の雑種が生まれたりするなどの影響が出ることが多い。", "title": "島の生物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "小島嶼国の完全独立国には、サモア、トンガ、フィジーなどがある。", "title": "統治形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦については自由連合盟約(Compact of Free Association)をアメリカ合衆国との間で結んでおり、国防と一部外交権を委ねている。", "title": "統治形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "プエルトリコと北マリアナ諸島は、いずれもアメリカ合衆国のコモンウェルスで独自の憲法と内政自治権をもつが、独立国でもアメリカ合衆国の州でもなく、アメリカ合衆国の特別自治領(自治連邦区)となっている。", "title": "統治形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ領サモア(米国領サモア、アメリカンサモア)やグアムはアメリカ合衆国の準州で、連邦税の支払義務が免除され、アメリカ合衆国議会に議決権のない代表を送ることができるが、大統領を選ぶ投票権は認められていない。", "title": "統治形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、各国の海外領土として、イギリス領ヴァージン諸島(イギリス)、オランダ領アンティル(オランダ)、フランス領ポリネシア(フランス)、マン島(イギリス)、ケイマン諸島(イギリス)、マルチニーク(フランス)などがある。", "title": "統治形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「島」という漢字は、意符「山」と音符「鳥」からなる形声文字である。異体字として「㠀・嶋・嶌」などがある。和語「しま」は四方を囲われた狭または締の意味。朝鮮語で島を意味する固有語「섬(seom)」の語源である百済語の「斯馬」と同語源だという説もある。", "title": "「島」という言葉・文字" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "湖沼や河川の中にある陸地は四方を水域に囲まれているため島と呼ばれることがあるが、海洋ではないため地政学における島に当たらない。河川の中にある陸地は中州と呼ばれることもある。", "title": "「島」の表現を当てるもの" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "平安時代末期から鎌倉時代初期に記されたと考えられている日本最古の造園書である『作庭紀』(さくていき)は、庭の主たる構成要素として築山、池、島、南庭白砂、鑓水を挙げている。これが転じて、池や築山のある日本庭園のことを島と呼ぶこともある。", "title": "「島」の表現を当てるもの" } ]
島(しま)とは、一般的には周囲を海や湖で囲まれた陸地のことをいい、内陸部のものを含む。 地理学上は大陸よりも小さい陸地をいう。具体的には、世界で最も小さい大陸のオーストラリア大陸の面積より小さく、四方を海洋・湖などの水域に囲まれた陸地のことである。海洋法に関する国際連合条約では「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」と定義されている。 島嶼(とうしょ)、アイランドともいう。「嶼」は小島を意味する漢字である。
{{Otheruses}} {{Redirect|嶋|日本の律令制度における嶋(島)|島司}} [[File:Islands of the world.PNG|thumb|right|350px|{{Legend|#0000FF|世界の島}}]] [[File:Fareast islands satellite picture of The Blue Marble.jpg|thumb|right|350px|[[極東]]沿海部の島々の衛星画像。<br /><small>主なものは左から(北から)順に[[アリューシャン諸島]]の西端、[[千島列島]]、[[樺太|樺太島]]、[[日本列島]]、[[南西諸島]]、[[台湾]]、[[フィリピン諸島]]、[[ボルネオ島]]、[[スラウェシ島]]。[[:en:The Blue Marble|NASA's Blue Marble project]] 撮影。</small>]] [[File:20130607 164015 1 Norwegian Air Shuttle, Hailuoto, Finland.jpg|thumb|right|upright|[[オウル]]上空の[[ノルウェー・エアシャトル]]の[[ボーイング737|ボーイング737-800]]航空機から撮影された、[[フィンランド]]の[[ハイルオト島]]の航空写真。]] '''島'''(しま)とは、一般的には周囲を海や湖で囲まれた[[陸地]]のことをいい、内陸部のものを含む<ref name="Q15">{{Cite web|和書|title=Q2.15:島とは何ですか? |url=https://www.gsi.go.jp/kohokocho/FAQ2.html#Q2.15 |work=国土の情報に関するQ&A |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2023-02-28}}</ref>。 [[地理学]]上は大陸よりも小さい陸地をいう<ref name="kakazu" />。具体的には、世界で最も小さい[[大陸]]の[[オーストラリア大陸]]の面積より小さく、四方を[[海洋]]・[[湖]]などの[[水域]]に囲まれた陸地のことである<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/島-75095|title=コトバンク:日本大百科全書(ニッポニカ)「島」の解説|accessdate=2021年9月26日}}</ref>。[[海洋法に関する国際連合条約]]では「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」と定義されている<ref name="Q15" />。 '''島嶼'''<ref group="注釈">[[常用漢字|常用]]外漢字であることから、しばしば「'''島しょ'''」と表記される。</ref>(とうしょ)、'''アイランド'''({{lang-en-short|island}})ともいう。「'''[[wikt:嶼|嶼]]'''」は小島を意味する漢字である。 == 概説 == [[File:Australia-Greenland Overlay.png|thumb|世界の島の中で面積最大の[[グリーンランド]]と、6つの[[大陸]]の中で面積最小の[[オーストラリア大陸]]の比較。]] [[File:Satellite View of Japan 1999.jpg|thumb|right|upright|[[日本]]は、14,125の島<ref>{{Cite web|和書|title=日本の島の数 |url=https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/islands_index.html |work=地理に関する情報 |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2023-04-24}}</ref>で構成される[[島国]]である。最大の島である[[本州]]は<ref name="example3">[https://www.stat.go.jp/library/faq/faq01/faq01a04.html 日本の島の面積] [[国土地理院]]</ref>、世界の島の中では面積が第7位である。]] [[地理学]]上、大きな陸塊が[[大陸]]、小さな陸塊が島に分類される。 現在、世界最小の大陸は[[オーストラリア大陸]]、最大の島は[[グリーンランド]]である。右図にこれらの陸塊の比較を示す。グリーンランドに次いで世界で2番目に大きい島は[[ニューギニア島]]で、以下、3位が[[ボルネオ島]]、4位が[[マダガスカル島]]、5位が[[バフィン島]]、6位が[[スマトラ島]]、7位が[[本州]]、…… と続く([[島の一覧 (面積順)]]を参照)。 居住者のいる島を有人島、いない島を[[無人島]]という。世界最大の[[無人島]]は、[[カナダ]]の[[デヴォン島]]であり、面積はカナダの島の中で第6位である。世界の島の中でも第27位であり、島としては世界第5位の人口を有する[[台湾島]](面積38位)や、同じく12位の[[九州本島]](面積36位)と、それぞれアジア有数の都市を擁する2島をも上回る。 複数の島がまとまって存在する場合、集団になっているものを'''諸島'''、塊状のものを'''群島'''、列状のものを'''[[列島]]'''などと呼ぶ場合もある<ref name="Q18">{{Cite web|和書|title=Q2.18:諸島,群島,列島の違いは何ですか? |url=https://www.gsi.go.jp/kohokocho/FAQ2.html#Q2.18 |work=国土の情報に関するQ&A |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2023-02-13}}</ref>。日本の国土地理院が1990年に刊行した「新版日本国勢地図」では諸島について「二つ以上の島の集団をいう。そのうち列状をなすものを特に列島という。」と定義している<ref>{{Cite web|和書|title=Q2.12:山地,山脈,高地等の違いは何ですか? |url=https://www.gsi.go.jp/kohokocho/FAQ2.html#Q2.12 |work=国土の情報に関するQ&A |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2023-02-13}}</ref>。ただし、諸島と群島に関しては概念としては同じで、明確に区分できるわけではない<ref name="Q18" />。 諸島・列島・群島とは逆に、周囲に島がない場所に孤立して存在する島を'''孤島'''という。[[ギネス世界記録]]に認定されている「世界一孤立した有人島」は南大西洋上の[[トリスタンダクーニャ]]島である。 日本の[[琵琶湖]]の[[竹生島]]、[[宍道湖]]の[[嫁ヶ島]]など、[[湖]]の中にある島もある。また、川の中にある島もあり、[[中州]]とも呼ばれる。世界最大の[[川]]の中の島は、[[ブラジル]]の[[バナナル島]]である。面積は、世界の島の中で第49位で、同第50位[[四国]]の約1.08倍の面積である。同国中部[[トカンチンス州]]の[[アラグアイア川]]にある島である。 [[領土]]がすべて島から成る国を[[島国]]と呼ぶ。非独立国を含める場合、世界最大の島国は[[デンマーク]]領で本国からの高度な自治が存在するグリーンランドとなる。独立国のみに限る場合、[[インドネシア]]が世界最大の島国であり、[[マダガスカル]]、[[パプアニューギニア]]、[[日本]]、…… と続く。[[国際連合]]の加盟国193ヶ国中では島国は47ヶ国である(2011年時点 [[:en:Island_country]])。 == 定義 == 島の定義に関しては[[海洋法に関する国際連合条約]](国連海洋法条約)第121条の定義が使われることが多い<ref name="kakazu">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5995/jis.2014.95 |author=嘉数啓 |date=2014-04 |title=島嶼学ことはじめ(一)―島の定義・アプローチ・分類― |journal=島嶼研究 |publisher=日本島嶼学会 |volume=2014 |issue=15 |pages=95-114 |doi=10.5995/jis.2014.95 |hdl=20.500.12000/36615 |ISSN=1884-7013}}</ref>。 {{Quotation| * 自然に形成された陸地であること。 * 水に囲まれていること。 * 満潮時([[潮汐|高潮]]時)に水没しないこと。 ||[[海洋法に関する国際連合条約]](国連海洋法条約)第121条}} この条件から外れると[[領海]]を形成するために有効な領土ではなくなる。日本が[[沖ノ鳥島]]に[[消波ブロック]]などを設置し、波浪による侵食によって満潮時に水没しないようにしているのはこのためである。 同条約同条2項では「島の領海、接続水域、排他的経済水域及び大陸棚は、他の領土に適用されるこの条約の規定に従って決定される。」とされている。一方3項では「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない。」としている。すなわち、広義の「島」であっても狭義の「島」と「岩」に条約上の扱いが分かれるので注意が必要である(この場合の「岩」は領土であり領海は持つ)。 以上の国際条約とは別に各国、各地域、各機関で様々な定義が行われている<ref name="kakazu" />。[[スコットランド]]では島は「人が住み、最低一頭の羊を養える牧場がある」ものという定義がある<ref name="kakazu" />。日本の[[海上保安庁]]は「満潮時に海岸線の延長距離が100m以上の陸地」を島と定義している一方、[[国土地理院]]は「航空写真に写る陸地」を島と定義している。また、国土地理院の定義では島未満の地形として、[[暗礁]]や[[洗岩]]、[[干出岩]]、[[水上岩]]からなる[[岩礁]]がある。国連訓練調査研究所(UNITAR)は1966年に「島」を「海洋に囲まれた人口100万人以下の小島嶼」と定義し統計を公表している<ref name="kakazu" />。 == 地形 == 島は地形によって分類されることもある。国際連合環境計画(UNEP)のダール博士が編集した『島嶼総覧(Island Directory: Basic environmental and geographic information on the significant islands of the world)』は世界環境保全モニタリングセンター(WCMC)からデータを受けた世界の約2.000の海洋有人島のデータを提供しているが、地形の分類例として環礁(Atolls)、低地島(Low islands)、隆起サンゴ礁(Raised coral islands)、火山島(Volcanic islands)などがある<ref name="kakazu" />。 === 隆起サンゴ礁島 === 刺胞動物門花虫綱などの造礁サンゴの骨格が堆積して裾礁(きょしょう)となり、それが隆起して形成された島である<ref name="kakazu" />。[[マリアナ諸島]]や[[小笠原諸島]]の島々のように火山島とサンゴ礁が複合した裾礁、メラネシアやポリネシアの島々のような堡礁や環礁など段階によってバリエーションがある<ref name="kakazu" />。 === 大陸島と島弧 === ==== 大陸島 ==== 大陸島(Continental islands)は[[大陸棚]]の上にある島であり、海進や沈下などによって大陸と切り離された陸地である<ref name="kakazu" />。 === 島弧 === 大陸島は大陸に並んで形成されることが多く、弧状の配置になることも多い<ref name="kakazu" />。このような[[プレート境界]](沈み込み帯)に位置する列島を[[島弧]]、あるいは弧状列島とも言う。島弧は[[マントル|マントル対流]]の沈み込みによって[[地殻]]が盛り上がって生成する。このような島は弓状に分布することが多く、島弧と呼ぶ。島弧は[[太平洋プレート]]の周辺([[環太平洋火山帯]])に目立つ。以下に北極側から[[反時計回り]]に記す。 * [[アリューシャン列島]]、[[千島列島]] - [[北アメリカプレート]]と[[太平洋プレート]] * [[日本列島]] - [[ユーラシアプレート]]、北アメリカプレート、太平洋プレート、[[フィリピン海プレート]] * [[伊豆諸島]] - 太平洋プレートとフィリピン海プレート * [[南西諸島]]、[[フィリピン]]諸島 - フィリピン海プレートとユーラシアプレート * [[スマトラ島]]や[[ジャワ島]]を含む[[大スンダ列島]]([[スラウェシ島]]北部を含む) - オーストラリアプレートとユーラシアプレート * [[ニューギニア島]]、[[ニュージーランド北島]]・[[ニュージーランド南島]] - オーストラリアプレートと太平洋プレート === 火山島 === {{Main|火山島}} 火山噴火によって形成された島を火山島といい、特に大陸棚ではなく海洋底から直接海面に達している島を洋島という<ref name="kakazu" />。 == 島の成因 == {{出典の明記|date=2023年2月|section=1}} [[File:Greenland 42.74746W 71.57394N.jpg|thumb|right|「小大陸」と呼ばれる[[グリーンランド]]]] [[海洋]]に位置する島を成因によって分類すると、大きく3つに分かれる。[[プレートテクトニクス]]により大陸から分離した「小大陸」と見なせる島、陸島、洋島である。 === 大陸から分離した島 === 大陸からの分裂で誕生した島の代表例は[[グリーンランド]]と[[マダガスカル島]]である。 [[大陸]]は[[プルームテクトニクス|プリューム]]による[[マントル]]対流によって、数[[センチメートル]]/年程度の速度で移動している。約6億年前の[[古生代]][[石炭紀]]に、先行する[[超大陸]]が南北に分離した。それぞれ、[[ゴンドワナ大陸]]と[[ローラシア大陸]]と呼ばれる。ゴンドワナ大陸は現在の[[アフリカ大陸]]、[[南アメリカ大陸]]、[[インド亜大陸]]、[[南極大陸]]、[[オーストラリア大陸]]、[[アラビア半島]]、マダガスカル島を含んでいた。1億6000万年前からゴンドワナ大陸自体も数次にわたって分裂を続けた。7000万年 - 9000万年前の[[中生代]][[白亜紀]]後期の最後の分裂の際、[[インド亜大陸]]と分離したのがマダガスカル島である。そのため動植物の分布が[[アフリカ大陸]]とは異なっている。 [[ローラシア大陸]]は、現在の[[ユーラシア大陸]]と[[北アメリカ大陸]]、グリーンランドを含んでいた。約5000万年前([[新生代]][[第三紀]])に、グリーンランドは[[北アメリカ大陸]]と分離した。 === 陸島 === [[File:Britain and Ireland satellite image bright.png|right|thumb|upright|「陸島」の代表例の一つ、[[グレートブリテン島]]]] [[大陸棚]]に存在する島を陸島という。海退時や隆起によって大陸と陸続きになりがちで、[[海進]]、沈下などの原因により大陸と切り離されることで孤立した陸地である島となる。[[地質]]構造や陸上の地形に大陸との類似が見られる。代表例は[[カリマンタン島]]、[[グレートブリテン島]]、[[台湾島]]である。[[カナダ]]北部の島々も陸島である。[[海洋プレート]]が[[大陸プレート]]の下に沈み込んでいる場所では、大陸プレートの周辺部に、海洋プレートの沈み込みによって生じる[[海溝]]があり、この海溝に沿うように、大陸側に島が並んで形成される例が多い。その配置が弧状になることが多いため、[[弧状列島]]、あるいは島弧と言われる。 陸島のうち大陸や他の大きな島に近いものは[[砂州]]によって大陸などと陸続きになることがある。これを[[陸繋島]]と呼ぶ。 後述するサンゴ礁のみからなる陸島もある。例えばオーストラリア大陸東岸北部に約2000kmにわたって伸びる[[グレート・バリア・リーフ]]は[[大陸棚]]に位置する700個前後の島で発達した[[堡礁]]である。 === 洋島 === [[File:Hawai'i.jpg|thumb|right|[[噴火|火山噴火]]によって形成された「洋島」、[[ハワイ島]]]] 大陸棚ではなく、[[海底|海洋底]]から直接[[海面]]に達している島を洋島という。基本的には[[火山]]活動によるが、単純な火山性の島と、火山島などの沈下によって形成された[[サンゴ礁]]に分かれる。[[島嶼生物学#大陸島と海洋島|海洋島]]ともいう。 ==== 火山島 ==== {{Main|火山島}} [[File:20140516三宅島.jpg |thumb|right|[[火山噴火]]によって形成された「火山島」、[[三宅島]]]] 洋島のうち、火山島は[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]上に多く位置する。[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]とは下部マントル付近から上部[[マントル]]に向かって定常的に熱い物質が上昇している場所のことである。例えば[[ハワイ]]諸島の場合、約7000万年にわたって、同一のホットスポットが多数の島を生成してきた。古い島は[[侵食]]を受け、海面下に[[海山]]として残っている。[[アイスランド島]]もホットスポット上にある。 この他に[[カリブ海]]東端の[[小アンティル諸島]]に属する島、例えば[[マルティニーク|マルチニーク島]]などは、[[カリブプレート]]と北アメリカプレートの沈み込み帯上に位置する火山島である。 ==== サンゴ礁 ==== {{Main|サンゴ礁}} [[File:Atafu.jpg|thumb|「サンゴ環礁」、[[アタフ島]]([[南太平洋]]・[[ニュージーランド]]領[[トケラウ諸島]])]] [[サンゴ礁]]は、[[刺胞動物]]門[[花虫綱]]などに属する[[造礁サンゴ]]の骨格などが積み上がって形成される地形である。サンゴ礁の主成分は[[石灰岩]]([[炭酸カルシウム]])からできている。石灰岩はサンゴ類の骨格(骨片)のほか、共生藻の[[分泌物]]の沈着によって生成する。石サンゴは細胞内に共生する[[褐虫藻]]の[[光合成]]に依存している。このため、[[太陽光]]が十分透過する水深40m - 60mよりも浅い海中でなければサンゴ礁は成長しない。水温も最低でも18度前後でなければならない。 サンゴ礁は島の周辺の[[海岸]]を取り囲む[[裾礁]](きょしょう)として発生する。代表例は[[小笠原諸島]]、[[奄美群島]]、[[沖縄諸島]]、[[先島諸島]]である。裾礁が形成された後に、中央の島が[[隆起と沈降|沈降]]すると、島の[[海岸|海岸線]]から数km離れた位置にドーナツ型のサンゴ礁からなる陸地が形成される。これを[[堡礁]](ほしょう、バリアリーフ)と呼ぶ。沈降がさらに進むと中央の島は消え、[[ラグーン]]と呼ばれる[[礁湖]]を取り囲む幅数100m - 1km程度のドーナツ型の陸地だけが残る。これを[[環礁]](かんしょう、アトール)と呼ぶ。サンゴ礁自体が成長することから、波による侵食に強く、孤島であっても[[波浪]]による[[侵食]]に耐える。 サンゴ礁に基づく島にはさまざまな[[バリエーション]]がある。[[サイパン島]]や[[グアム|グアム島]]を含む[[マリアナ諸島]]や小笠原諸島は[[プレート境界]]に位置する火山島とサンゴ礁が複合した裾礁の段階にある。[[南太平洋]]に位置する[[メラネシア]]や[[ポリネシア]]では、堡礁や環礁の段階に達している。東部[[ミクロネシア]]に位置する[[マーシャル諸島|マーシャル諸島共和国]]の国土は30個弱の環礁だけから成る。 [[宮古島]]や[[石垣島]]などの[[先島諸島]]は裾礁形成後に[[隆起]]したため、[[サンゴ礁段丘]]や[[隆起サンゴ礁]]と呼ばれる特異な[[地形]]がよく発達している。 サンゴ礁の隆起等を成因とする標高の低い島を'''低島'''といい、成因が地質構造と関連し山地を有する島を'''高島'''という<ref>小田静夫「[http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/index.htm 琉球弧の考古学]」(青柳洋治先生退職記念論文集編集委員会編 『地域の多様性と考古学-東南アジアとその周辺-』雄山閣、2007年3月20日、pp.37-61 所収)</ref>。 == 島の生物 == {{Main|島嶼生物学}} 島には、特殊な[[生物相]]が見られることがよくある。[[固有種]]が多く、また、[[飛べない鳥]]の出現なども広く見られることである。島の生物の[[生態]]についての[[研究]]は、[[島嶼生物学]]が扱う。 [[洋島]]では、[[漂着]]する生物が定着する事によって生物相ができることから、[[両生類]]や[[哺乳類]]を欠くといったような、[[大陸]]に比べて偏った生物相になりやすい。[[ガラパゴス諸島]]や[[ハワイ諸島]]、[[小笠原諸島]]などが有名である。 陸島でも、大陸では[[絶滅]]した[[群れ|群]]が生き残っているなど、特殊な生物が見られる例が非常に多い。 しかし逆に何らかの要因で外来種が入ってくると島の固有種に壊滅的なダメージを与えたり、固有種と外来種の雑種が生まれたりするなどの影響が出ることが多い。 == 統治形態 == 小島嶼国の完全独立国には、[[サモア]]、[[トンガ]]、[[フィジー]]などがある<ref name="kakazu" />。 [[パラオ]]、[[マーシャル諸島]]、[[ミクロネシア連邦]]については[[自由連合盟約]](Compact of Free Association)を[[アメリカ合衆国]]との間で結んでおり、国防と一部外交権を委ねている<ref name="kakazu" />。 [[プエルトリコ]]と[[北マリアナ諸島]]は、いずれもアメリカ合衆国の[[コモンウェルス (米国自治連邦区)|コモンウェルス]]で独自の憲法と内政自治権をもつが、独立国でもアメリカ合衆国の州でもなく、アメリカ合衆国の特別自治領(自治連邦区)となっている<ref name="kakazu" />。 [[アメリカ領サモア]](米国領サモア、アメリカンサモア)やグアムはアメリカ合衆国の[[準州]]で、連邦税の支払義務が免除され、[[アメリカ合衆国議会]]に議決権のない代表を送ることができるが、大統領を選ぶ投票権は認められていない<ref name="kakazu" />。 また、各国の海外領土として、[[イギリス領ヴァージン諸島]](イギリス)、[[オランダ領アンティル]](オランダ)、[[フランス領ポリネシア]](フランス)、[[マン島]](イギリス)、[[ケイマン諸島]](イギリス)、[[マルチニーク]](フランス)などがある<ref name="kakazu" />。 == 「島」という言葉・文字 == 「島」という[[漢字]]は、意符「山」と音符「鳥」からなる[[形声文字]]である。[[異体字]]として「㠀・嶋・嶌」などがある。和語「しま」は四方を囲われた狭または締の意味。[[朝鮮語]]で島を意味する固有語「섬(seom)」の語源である[[百済語]]の「斯馬」と同語源だという説もある。 == 「島」の表現を当てるもの == ===湖沼・河川の中にある陸地=== 湖沼や河川の中にある陸地は四方を水域に囲まれているため島と呼ばれることがあるが、海洋ではないため地政学における島に当たらない。河川の中にある陸地は[[中州]]と呼ばれることもある。 === 独立したものの象徴としての「島」 === ; 陸地地名としての「島」 : 日本語の「島」には古来より、さまざまな意味がある。川沿いの耕地、一定の領域,集落、盆地の小高い処など。日本各地の内陸には、「島」がつく地名があるが、それらはこれに由来するものも多い。静岡県の蛭ヶ小島、長野県の[[島々]]や[[川中島]]など。 ; [[縄張り]] : 「区画」という意味から、[[ヤクザ]]が独占的に勢力を及ぼす範囲。「シマ」と片仮名表記されることが多い。 ; 臓器の「島」 : [[膵臓]]中で[[インスリン]]などの[[ホルモン]]を分泌する[[ランゲルハンス島]]は、[[顕微鏡]]下の観察で他の膵[[細胞]]から独立して見えたことに由来する。 === 形からの連想で「島」と名付けられたもの === ; 島式プラットホーム : [[線路 (鉄道)|線路]]に挟まれた[[プラットホーム]]のことを「島式ホーム」と呼ぶ。 ; 島([[パチンコ]]、[[パチスロ]]用語) : 遊技台が設置されている取り付け台を、通路に挟まれている様から「島」と呼ぶ。 ; デスクや陳列棚の「島」 : [[オフィス]]の[[机]]や店舗の陳列棚などが数個まとめて配置され、その四方が通路で囲まれているものを島と呼ぶことがある。[[スーパーマーケット]]の陳列棚の場合、それぞれの島の両端には店側の最も売りたい商品が並べられていることが多く、大抵は買い得な価格が設定されている。[[コミックマーケット]]などの同人誌即売会では参加者がジャンルごとにまとまって配置されることから、特定のジャンルの参加者が集まっている一帯をジャンルごとに「(作品名)島」「評論島」などと呼ぶ。 === 庭園を指す「島」 === [[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期に記されたと考えられている日本最古の造園書である『作庭紀』(さくていき)は、庭の主たる構成要素として築山、池、島、南庭白砂、鑓水を挙げている。これが転じて、池や築山のある日本庭園のことを島と呼ぶこともある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[大陸]] * [[半島]] * [[無人島]] * [[離島]] * [[諸島]]、[[群島]]、[[列島]]、[[孤島]] * [[浮島]] * [[人工島]] * [[疑存島]] * [[世界の地理]] * [[島国]]([[領土]]がすべて島で構成される国) * [[島国一覧]] * [[島の一覧]] * [[島の一覧 (面積順)]] * [[島の一覧 (人口順)]] * [[日本の島の一覧]] * [[暗礁]] * [[島嶼性]] * [[シマ社会]] == 外部リンク == {{commons&cat|Island|Islands}} {{Wiktionary|島}} * [https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201907/f3_shima.pdf 島面積 令和元年7月1日時点] - [[国土地理院]] * [https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/islands_index.html 日本の島の数] - 国土地理院 * [https://www.mlit.go.jp/crd/chirit/link.htm 日本の島のリンク集] - [[国土交通省]] * [https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/chirit/ 国土交通省離島振興課] * [http://www.nijinet.or.jp/ 財団法人離島センター] * [https://worldjpn.net/documents/texts/mt/19821210.T1J.html 国連海洋法条約 全文] * [https://www.tokyoislands-net.jp/ 東京愛らんど]([[東京都島しょ振興公社]]) * [https://www.pref.nagasaki.jp/sima/ ながさきの[しま]]([[長崎県庁]]) * [https://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/ かごしまの島々]([[鹿児島県庁]]) * {{Kotobank}} {{地形}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しま}} [[Category:島|*]] [[Category:かつて存在した日本の行政区分]]
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マクドナルド
マクドナルド(英: McDonald's)は、イリノイ州シカゴに本社を置くアメリカ合衆国発祥のファーストフードチェーンストアおよびその登録商標である。 世界的に展開するファーストフードチェーンであり、各国内でも大都市から田舎まで当たり前に見かける程の店舗数を出店しており、ハンバーガー店の代名詞となっている。日本における店舗および運営会社は日本マクドナルドである。本記事のMcDonald'sの日本語転写は公式にライセンスを取得した日本マクドナルドが定める「マクドナルド」に準ずる。 ハンバーガーを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーン店である。 世界の店舗総数は3万5429店(2013年末時点)。店舗数の分類別順位において、ファーストフードを含む外食産業でマクドナルドは、サブウェイに次ぐ、世界第2位。チェーンストアではコンビニエンスストア最大手のセブン-イレブンに次ぐ世界第2位 である。世界の販売量は年間15億食に及ぶ。 とはいえ、アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「バーガーキング」と「ホワイト・キャッスル」より下で、食品品質に関してはマクドナルドのハンバーガーの品質は第15位だった。品質が悪いという情報は人々に知れ渡り、市場調査会社によればマクドナルドのシェアは5年で3%低下し2000年代の調査で15.2%となった。それに対して健康的であることを重視し実際にそうした食材にこだわりそれを宣伝でも前面に出したサンドイッチチェーンの「サブウェイ」のほうが、全米で第1位のシェアを得た。 アメリカ合衆国本国では「マクドナルドコーポレーション」が運営している。 アメリカでは2000年代後半において、ドライブスルー店舗が売上の65%を占めるほど自動車で購入する者が重要な顧客層となっており、低価格を武器に展開している部分もあるためそれを好む者や低所得者も重要な顧客層となっているが、それ以外にもスターバックスを好むような層で構成された上流の市場を狙い、それに見合った内容を提供している。 ハンバーガーチェーンだけではなくアロマカフェ (Aroma Cafe)、ボストン市場 (Boston Market)、Chipotle Mexican Grill、ドナトスピザ (Donatos Pizza)、Pret A Manger などのチェーン店も展開している。2001年の年間売り上げは148億7000万米ドル、純利益16億4000万ドルだった。 日本では藤田田率いる日本マクドナルドが1990年代から2000年代前半まで価格破壊・低価格路線を主軸に運営していて(金銭の余裕のない学生などに店内の座席が占拠されるようになり)経営内容が悪化したが、2000年代後半から方針を転換し、「価格帯の拡大」と「商品バリエーションの拡大」(具体的には、低価格の商品に加えて高価格帯の商品の投入、味重視の商品、ボリューム重視の商品、キャンペーン商品なども用意)を行ってメイン顧客層である家族連れ・子供や、その周辺ターゲットを囲うことで顧客層の幅を広げるなど幅広い客層を取り込む戦略に転換し、2000年代後半以降好調を維持している。 従業員と幹部社員のスキル向上を目的とするトレーニングを行う部署(施設)「ハンバーガー大学」を擁している。 当社の発祥地であるアメリカ合衆国では「McDonald's」と表記され、そのアメリカでの発音は国際音声記号(IPA)で表記すると [məkˈdɒnɫ̩dz]となり、その音を片仮名に写すと「メクダーノズ」が日本語に近い(太文字の「ダー」の部分が強勢つまりアクセントが置かれ強く発音される。"l"は暗いLでカナ表記だと「ォ」または「ゥ」が近い。)。アメリカ英語の母語話者による「McDonald's」の具体的な発音は こちらやこちら で聞くことができる。 英語のスラング(俗語)では、まれに「金のアーチ」を意味する "The Golden Arches"(ザ・ゴールデン・アーチズ)や、"Mickey D's"(ミッキー・ディーズ)と呼ばれることもある。"The Golden Arches"という呼称は、当社の特徴的な看板の、 大きなMの字に見える、黄色い2つのアーチにちなんでいる。 「McDonald's」は英語圏ではよくある店名のパターン、つまり経営者の名前+'s、という構成の名称であり「〇〇さんのお店」というパターンの店名である。つまり「McDonald's」は「マクドナルド兄弟の店」といった意味である。もともとの創業者であったマクドナルド兄弟の名前が残っているのである。「Mc(マク)」は、古ケルト語で息子(や子孫)という意味の表現でありMcDonaldは「ドナルドの息子」や(ドナルドの子孫)という意味の人名(家族名)である(ちなみに「McArthur マッカーサー」は『アーサー王の息子(アーサー王の子孫)』という意味の名前である。) 米国マクドナルド社についての正式のカタカナ転写は定められていないが、公式にライセンス契約をしている『日本マクドナルド』に準じてマクドナルドと表記されている。 日本法人の正式名称は、「日本マクドナルド」であり、ブランド名の正式なカタカナ表記に関しては「マクドナルド」や「マクドナルド ハンバーガー」である。 略称のほうに関しては、日本マクドナルドからは公式な発表はなされていない。「マック」と「マクド」について、「どちらが正しいというものではない」「正解はない」、どちらの呼び方であれ親しみを込めて呼んでもらえることは嬉しい、と同社では説明している。日本国内の略称は地域差があり、東日本や九州などでは「マック」と呼ばれる傾向があり、近畿地方(と周辺)では「マクド」と呼ばれる傾向がある、という。GMOメディアの「ウィふり調査団」の調査によると、「マック派」は南東北、中国地方、四国、九州にも広がっているのに対して、「マクド派」は近畿(付近)に限定されている。2016年に日本マクドナルドが公式に行った社内調査でも「マクド」と呼ぶのは近畿と四国の計11府県だったとしている。つまり、日本全体を見渡して総合すると「マック派」が優勢のようだとしている。 なお、当社で販売されている商品の名称に「ビッグマック」「マックシェイク」などがあることを理由に(また販売商品に「マクド○○」などという商品はないことを理由に)「マック」の方を肯定する人もいる。 また、日本マクドナルドとしてもこの略称論争を逆手にとった販促キャンペーンを2017年に行ったことがある。 フランス語では、発音が日本と同様になることに加えて、「マック」は「売春の仲買人」や「ポン引き」を意味する隠語になることから、近畿圏同様「マクド」と略されている。 中国語では漢字で「麦当劳」(簡体字)、「麥當勞」(繁体字)と表記し、「マイタンラオ」(拼音:Màidāngláo)と発音する。 最初のマクドナルドはアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンバーナーディノでマクドナルド兄弟が1940年に始めたものである。「スピード・サービス・システム」のキャッチフレーズと、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組みにより、1948年頃、有名になった。 1954年に、ミルクシェイク用ミキサーのセールスマン(行商人。自分の車に商品のミキサーを積んでアメリカ各地を走り回って、飲食店見つけては商品のミキサーを売りつける仕事をしていた男)、ボヘミアユダヤ系 のレイ・クロック (Ray Kroc) が、(行商の途中)たまたまマクドナルド兄弟の店にもやって来て、兄弟が店を繁盛させているのを見て、マクドナルドの仕組みについて興味を持った。特に興味を持ったのは客席の回転率が大変高いことで、相当数の人数の客を次々とさばけることだった。すっかり感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスで食堂にやってきたとき、システムをフランチャイズ形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。 兄弟は「自分たちのためにこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりはない」と消極的だったが、クロックが交渉を粘った末に「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意、兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックの側はたくみに契約を交わした(クロックにとっては、大きな野望を実現するための第一歩を踏み出すことができた。だが、マクドナルド兄弟側にとっては、これは悲劇の始まりであり、自分たちの強みのひとつである「McDonald's」という(アメリカ人が強い親しみを感じるMc(マック)で始めるアイルランド系の名前を冠した)ブランドを、赤の他人が使える状況を生んでしまい、最終的にはマクドナルド兄弟の店(つまり大本になっていた本店中の本店)の周辺にまでクロック側の店舗が進出、侵略してきて、売上をうばわれ、結局、兄弟は自分たちの店をクロックのせいで失ってしまうという、悲しい結末になる道が始まったのだった)。 クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、近々できるディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を入れるよう、ウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックは、イリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、即大成功となる。1955年3月2日、新しい会社"McDonald's Systems Inc."(マクドナルドシステム会社)を作り、同年4月15日にクロックが直営店1号店をシカゴにオープンさせた。1960年には、社名をマクドナルドコーポレーション ("McDonald's Corporation") に変更した。 クロックのマーケティング戦略のうちの一つは、家族向けの店舗にすること。特に子供を商売の対象とすることだった。1960年代初め、首都ワシントンでマクドナルドのフランチャイズ権をとって営業していたオスカー・ゴールドスティン (Oscar Goldstein) が、ウィラード・スコット (Willard Scott) というクラウン(道化師)が所属するBozo's Circus(荒くれ男のサーカス)という名の出し物のスポンサーについた。この出し物が中止されると、ゴールドスティンはマクドナルドのマスコットキャラクターとしてウィラード・スコットを雇い、そのキャラクターはマクドナルドにちなんで「ロナルド・マクドナルド (Ronald McDonald)」と命名され、ウィラード・スコットはロナルド役で1963年から約2年間コマーシャルに出演した。 ロナルドは求められていた役に比べて少々太り気味だったが、このキャラクターが広告に出ることにより、マクドナルドのチェーン店は米国全土に広がった。続いてロナルド以外のキャラクターも開発されていった。 日本では販売戦略上の理由、および日本語話者には発音しづらい事から藤田田によって「ドナルド・マクドナルド」と訳されており、当初より子供向けCMに出演している。 クロックと兄弟との契約は、兄弟が生産工程について責任を負い、会社の株式による利益を受け取る。そのかわりにクロックが販売拡張の全責任を負うことになっていた。だが1961年までにクロックは拡張に失敗する。兄弟は、兄の引退も理由となって、1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡すことで合意した。クロックにとっては高額だが、長い眼で見ればメリットがあると判断、プリンストン大学などを含む多くの投資者からかき集めて兄弟の持つ株式を270万ドルで買い取った。 この契約では兄弟は「マクドナルド」の名称の使用は認められなかったために、やむなく自分たちの店を "The Big M"(ザ・ビッグM)という名称に変えて営業を続けた。しかし、クロックはわざわざ兄弟の店のすぐ北側にマクドナルドの大型店舗を出店し、マクドナルド兄弟の店舗の売上を意図的に奪い、その結果 マクドナルド兄弟の経営する"The Big M"は倒産してしまい閉店し、現存しない。 1984年1月にクロックは死去した。(本当の創業者はマクドナルド兄弟なのに)その1年間、マクドナルドは「"創業者" 追悼キャンペーン」と銘打ったセールを行った。これを知ったマクドナルド兄弟の弟リチャードは激怒したとされる。 経営権委譲に伴う合意事項には、譲渡後もチェーンの売り上げの1%を将来的に支払うという「紳士協定」があったが、契約書には組み込まれていなかったことをいいことに、クロックの手に渡ったマクドナルド側はその紳士協定を守らなかった。もし守られていたら、兄弟は年に3億6000万ドルを手にすることになっていたはずだった。 以後マクドナルドコーポレーションは、世界の至るところに店を開いた。米国外で初めて進出した国は1967年6月3日に1号店を開いたカナダである。1971年にはオセアニア(オーストラリア)、アジア(日本)、ヨーロッパ(オランダ)の各地域に初めて進出した。1990年1月31日にはソビエト連邦のモスクワで、共産圏として初めてのマクドナルドが開店した。 マクドナルドのビッグマックの価格は、ビッグマック指数と呼ばれ、通貨間の購買力平均価格の比較手段として使われた。この指標の考案者はイギリスの経済雑誌『エコノミスト』誌 (The Economist) である。マクドナルドの標準化は、同時に生活様式や経済活動のグローバリゼーションを意味した。 トーマス・フリードマンは自著の『レクサスとオリーブの木』の中で、“黄金のM型アーチ理論”として「マクドナルドのある国同士は戦争を行わないだろう」と予言したが、1999年にアメリカ合衆国のセルビア爆撃によって破られている。 アメリカをはじめとする先進国においては、より高価で高品質なハンバーガーや、より多面的サービスを提供している他のファストフードレストランチェーンとの競争が激しくなっている。 アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「バーガーキング」と「ホワイト・キャッスル」より下で、ハンバーガーの食品品質は第15位だった。市場調査会社によればマクドナルドのシェアはここ5年で3%低下し、現在、15.2%である。健康的なイメージで売るサンドイッチチェーンの「サブウェイ」が全米で第1位のシェアを持っている。 2009年10月26日にマクドナルドとして初めてアイスランド国内全3店舗の閉鎖を発表することを明らかにした。撤退理由は折からの金融危機によって、自国生産が難しく輸入していた生鮮野菜などの輸入食材が、アイスランド・クローナが金融危機で失墜して輸入関税が引き上げられて高騰し、採算が取れなくなったためとしている。撤退までの過去1年半の間はコストは通常の2倍にまで膨らんでいたこともあり、採算を取れるまでに同国の経済状況が回復することは難しいと判断し、同国で事業を展開する複雑さから撤退を決めたとしている。 撤退発表以降営業最終日になった10月31日まで大勢の客が詰めかけ、商品の受け取りに20分待ち、ドライブスルー利用のために交通渋滞が発生し、マクドナルドも臨時従業員の増員で対応するなどの大盛況になった。 2022年3月8日に、マクドナルドは前月に発生したロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ロシア国内の全847店舗を一時閉鎖することを発表した。同国内のマクドナルドでは約62,000人が勤務しているが、一時閉鎖期間中も給料の支払いは継続するとした。一時閉鎖前日の3月13日は、ロシアで1号店として開店したモスクワの店舗でマクドナルドの商品を食べ納めしようとする市民などで混雑し、チーズバーガーやビッグマックなどの人気商品が高額転売された。 2022年5月にマクドナルドは、ロシアから完全撤退して店舗と従業員を他社に売却することを発表した。マクドナルドの商標やロゴなどは引き続き保有する。 2022年6月、マクドナルドから店舗などを買収した後継企業は新チェーン店名を「フクースナ・イ・トーチカ」とすることを発表した。まずは15店舗をロシアの建国記念日である同月12日にオープンした。 2022年11月、ベラルーシでもロシアと同様の理由でマクドナルドが撤退した。その後継として、ロシアのフクースナ・イ・トーチカがベラルーシに進出した上でフランチャイズを展開することを明らかにし、同月22日から営業を開始することを発表した。ベラルーシ大統領のアレクサンドル・ルカシェンコは「(マクドナルドが)撤退してくれてありがたい」と歓迎のコメントを出している。 2023年1月、原材料の供給不足を理由として、カザフスタンから撤退することを発表した。同国農業省はマクドナルドがロシアから撤退したことにより、同国産の肉などの供給に問題が生じたためと説明している。その後、カザフスタン国内でマクドナルドのフランチャイズ店舗を運営していた「フード・ソリューションズKZ」は一部の店舗で独自に営業を再開したことを発表した。 マクドナルドが2003年から全世界で開始した広告で「i'm lovin' it」(私のお気に入り)を統一標語としている。 マクドナルドコーポレーションのビジネスモデルは、他の多くのファーストフードチェーン店と若干異なる。通常のチェーンでも請求される特許料金、供給品、および販売のパーセンテージに加えて、マクドナルドは賃貸料を徴収する。 フランチャイズ契約の条件として、ほとんどのマクドナルド店舗は、店舗の不動産をマクドナルドコーポレーションが所有する。フランチャイズ会社は売り上げの一部を賃貸料としてマクドナルドコーポレーションに支払う。マクドナルド創立者の1人 Harry.J.Sonneborne は「われわれの商売は不動産業である。われわれがハンバーガーを売る唯一の理由は、フランチャイズ会社がハンバーガーを売ったときの利益が、最も多くの賃貸料をわれわれにもたらすからだ」と言った。 マクドナルドは、定期的な調査のために「ミステリーショッパー」と称する人物が、一般客に紛れ1セット注文する。店舗の質を向上させるため、採点項目にはスピード、清潔さ、商品の品質、サービスなどがある。 日本では2003年、昼のピーク時間帯 (12:00 - 13:00) に商品の受注から、注文の多少に関わらずレジ入力後1分以内に提供する「チャレンジ!60秒サービスキャンペーン」が展開された。時間内に提供できなければ、ポテトかコーラの引換券を添付した。商品の注文点数にかかわらず時間は1分間一律だったため、セットメニューなどを注文すると1分以内に用意できない事例も発生した。一部の店舗ではレジ入力途中で厨房に注文内容を伝え用意できてからレジ入力を終了することで実質1分を超えたとしても1分以内とした。全般的に店員の応対時間短縮の成果が出たり、客と店員のコミュニケーションが生まれるなどの相乗効果で概ね好評価を得た。 マクドナルドのハンバーグやポテトは、セントラルキッチンから成型済みで搬入され、厨房では焼いたり揚げたりするだけで、店舗で細かい調理の必要がない。 焼く鉄板や揚げ油の温度、時間も定められている。若干の訓練を受ければ、誰が作っても同じ大きさ、同じ形、同じ味の商品が提供できる。調理工程も簡略化され、付け合せなども極力簡略化し、高速で調理できるようになっている。 商品提供システムとして「英語: Made For You(MFYまたはM4U、メイド-フォー-ユー)」という、受注してから迅速に調理し、商品を完成させる新方式が導入された。全店導入時期はアメリカ合衆国が1999年、日本は2005年。 その他「ダイレクトオペレーション」と称する、商品を作り置いて温蔵棚などに貯蔵し、受注後に取り出して販売する方式がある。作り置きはその時間帯の売り上げや客足などの予想を元に行うため、大半の場合は客を待たせず商品提供できる利点があった。味の劣化や、ハンバーガーを調理後10分で廃棄する社内規定で、予測誤りによる食品廃棄などの問題が発生し、環境問題などで批判される原因になった。Made For Youシステムでは、全ての顧客に出来立てを提供できるという利点もあり、売れ残りや食材の貯蔵をなくし、ハンバーガーを作るコストを下げた。当然ながら、このシステムでも受注分より多く作ってしまうことによる廃棄はあるが、総じて廃棄量は激減した。 消費者情報誌「コンシューマー・レポート」が、定期購読者のうち3万2405人の回答などを基に発表したところによると、マクドナルドのハンバーガーの味は、アメリカ合衆国の大手ハンバーガーチェーン全体の中で『最も不味い』という結果が出た。 ハンバーガーのビーフパティは牛肉を使用している。 地域によっては宗教上の観点から特定あるいは一切の肉類を食せない顧客向けに、鶏肉を使った「チキンマハラジャマック (Chicken Maharaja Mac)」「チキンマックカレーパン (Chicken McCurry Pan)」(インド、後述)、肉を一切使わないベジタリアン用のメニュー(Veg menu、後述)、ホキという深海魚やスケトウダラを使った「フィレオフィッシュ(FishMac)」(各国)など、食のタブーに配慮したメニューが用意されている。 日本における「てりやきマックバーガー」や2007年6月〜7月に発売されていた「メガてりやき」、2007年7月から発売された「マックポーク」に使われているパティはポークで、マクドナルドでは豚肉の使用を明記している。 日本における「チキンナゲット」は以前約2割を米国OSIグループの傘下である 中国食肉加工会社の「上海福喜食品」から仕入れていたが、使用期限を半月過ぎた鶏肉を使用していたことが発覚し、2014年7月22日に該当商品の販売が停止した。 ドライブスルーは日本国外で「マックドライブ」と呼称される。利用手順は車両をメニューが掲示されたマイク前に移動し注文する。この際店員から支払い金額が請求される。 通常はマイク越しに店内にいるインカムを装着した店員に話し掛けることになるが、一部店舗では休日のピーク時を中心に、移動型のレジを伴った店員に直接話し掛ける状況もある。この場合もレジは有線で店内のシステムに直結しているため店内のMade For Youシステムへも注文が直接伝わる。WOT(Wireless OrderTaker, ワイヤレスオーダーテイカー)と称する小型のタッチパネル端末で受注することもある。WOTはほとんどの場合コーポレートカラーである赤色の肩掛けケースに入れられている。WOTは注文を無線方式でキッチンへ伝達するため混雑時に店内で用いられることがある。この場合、決済やレシート発行はカウンターのレジで行う。導入極初期はテレビ画面に映る店員に向かって注文する形だったが、その後テレビは撤去されてメニュー板のみになっていた。近年の店舗ではマイクの下に注文を表示するディスプレイが導入されている。 その後順路に沿って車両を進めると商品受け渡し口がある。まず代金を支払い、袋などに入った商品を受け取る。一部の古い店舗で見られる受け渡し口手前の使用されていない窓口もしくはその跡は、かつて代金の支払いと商品の受け渡しを別々の窓口で行っていた名残である。現在もこの形態を採る店舗も存在し、休日のピーク時のみ支払いと受け渡しが異なる店舗も存在する。近年に新規開店した店でも、ピーク時以外でこの方式が採用されている場合もある。雨が多い地域では商品を濡らさないために配慮されており、日本の店舗では受け渡し口に通常屋根がある。マックカフェバイバリスタ取扱店舗かつマックカフェドライブスルー対応店舗では、代金支払い、ハンバーガーなどの通常商品受取、マックカフェ商品専用受取の計3か所受け渡し口がある店舗も存在する。商品を受け取った後に車両を進めると公道へ出る。 購入商品が多いなど受け渡しまでに時間を要する際、ドライブスルー進行レーンから外れた待機場所で待たされる。多くの場合、店員が商品を車両まで運搬する。 ドライブスルーは主に普通乗用車などを対象としているが、オートバイや自転車など二輪車両での利用は、商品受け取り後の走行や自動車による追突など安全上の理由で、店舗によっては断られる場合もある。トレーラーやトラックの場合車両限界などで利用できない場合もあるが、これらに配慮したドライブスルー設置店舗も幹線道路沿線に見られ、送迎や路線などバスでの利用もある。 店内で食べる場合でもレジで代金を支払った客がその場で商品を載せたトレイを受け取り、そこから席まで客が自分でトレイを運ぶセルフサービスである。店内で購入した商品を持ち帰ることも可能である。2019年頃からテーブルデリバリーと称するサービスを実施する店舗も存在し、代金支払い後店員がトレーに乗せた商品をテーブルまで届ける場合もある。 喫食後はトレイ上の物をすべてゴミ箱へ入れるため食器の回収と洗浄の必要がないが、必ず廃棄物が生ずることが批判された。現在、ほとんどの商品が紙包装だが、ストローなど多少のプラスチック素材もある。以前は発泡スチロール製容器が多用されたが、今はほとんど使われない。 マクドナルドでは店舗を船に見立て店員を「クルー (CREW)」と称する。ほとんどの店員はパートかアルバイトで、これを通常1名以上の「マネージャー (MGR)」と称する社員で統括する。1人の社員が統括する店舗が複数ある場合に不在が多くなるため、店員の出勤時間帯配置などの管理業務をパートやアルバイトの立場で併せて行う「スウィング・マネージャー (SW-MGR)」と称する階級がある。他にクルーの教育などを担当する「クルートレーナー (CREW TRAINER)」などがある。通常は年中無休だが、インストア型と称されるショッピングモールなどに入る店舗は休業日の設定もある。 日本の店舗形態は通常(トラディショナル)店舗とサテライト店舗に分かれる。 サテライト店舗は厨房が狭く以前はメニューも限定だったが、低支出の出店が可能で1990年代に数多く開店した。サテライト店舗は必ずしも母店舗となるトラディショナル店舗を持つことはなく基本的に単独経営である。 近隣店舗間で、賞味期限や仕入れの過不足などの理由で、食品移動や小銭の両替も行われている。 近隣店舗といえど、店長の上職であるOC(Operating Consultant, オペレーティングコンサルタント)は近隣店を兼務しないので、各店舗の社員個人による異動元ないし同店勤務人の異動先への「お願い」型式で成立するのが普通である。 マクドナルドの看板は赤い背景色に黄色の文字であるが、京都市などの一部店舗は、景観保護条例による規制で、背景色が茶色などである。東京都豊島区の巣鴨店では、英語由来の語に不馴れな高齢客が多く、ポテト→おいも、チキン→とりにく、ドリンクのS・M・L→のみものの小・中・大など一部を日本語表記している。2007年から地域別価格制度が導入されたが、2015年に実質上廃止される。 21世紀になってからマクドナルドの店舗イメージが変化している。旧来型店舗イメージは赤い背景色に黄色い文字の看板がもたらす印象のアメリカンテイストを取り入れたデザインで、内壁はシンプルな白地を用い、小物や内装はところどころに赤や青の原色系を塗り込んだプラスチックとビニールが主材で、ある種のチープインテリアを目指していた。赤色の内装は落ち着きを失わせ客の回転を早める効果も兼ねていた。 2006年以降に営業時間の延長を試みて24時間営業店舗が増加したが、採算性やクルーの確保困難などにより再度24時間営業を廃止する店舗が増えた。 集客目的で、2000年代後半から数社のWi-Fiスポットを提供し、電源サービスコンセントを設ける店舗もある。 2018年からハッピーセットのおもちゃを全国の店舗で回収し、店内で使用するトレイにリサイクルする「おもちゃリサイクルプロジェクト」を定期的に行っている。 なお、ハッピーセットは、1979年よりアメリカでHappy Meal(ハッピーミール)として販売されていたものを、日本に合わせてローカライズしたもので、1987年にお子様ランチとして登場し、1995年にハッピーセットに改称された。 マクドナルド店舗の形態は3種に大別できる。 この他に特別なテーマをもった店舗が存在する。具体的にはロックンロールマクドナルド、1950年代風食堂など。郊外の新しい店舗にはマクドナルドプレイランドという大きな遊戯施設を持つものが多い。多くは屋内だが屋外のこともある。 黄色の「ゴールデンアーチ」と呼ばれるマクドナルドのマークは、マクドナルド店舗の位置を示すため高いポールの上に設置されることが多い。日本ではこれをサインポールと呼ぶ。このマークに使われている赤と黄色は、広告を活用する多くの会社がよく使う配色でもある。 出前が可能な店舗が一部に存在し、一度に所定金額以上注文の場合に適用される。 マクドナルド従業員の訓練施設として、トレーニングセンターとは別にハンバーガー大学が米国を含む7か国に存在する。トレーニングセンターは各国にある。 ハンバーガー大学はマクドナルド従業員教育用施設。イリノイ州オークブルックのシカゴ郊外に130,000平方フィート(12,000平方メートル)の広さで、米国のマクドナルド社が所有する。70,000人以上のマネージャーが「卒業」して30人程度の「教授」が所属する。「大学」は1961年にイリノイ州Elk Grove Villageに設立された。1960年代前半の初期学生は企業利益向上を目的として「卒業」までに化学、マーケティング、調理などのコースを確実に修了しなければならなかった。卒業生の"McDegree"にはマクドナルド商品の経済的な品質向上を研究する部門に就く者もいた。現在の規模は1クラス当たり平均200人以上。 日本マクドナルド本社(新宿アイランドタワー)38階にある。 2005年7月、ハンバーガー大学の Basic Shift Management Course (BSM)と、Advanced Shift Management Course(ASM)の2つのコースが、若年者就職基礎能力修得支援事業(Yes-Program)の認定を受けた。 マクドナルドランドを舞台に、ロナルド(日本名:ドナルド・マクドナルド)、グリマス、バーディ、ハンバーグラー、フライガイという子供をターゲットにしたマスコットキャラクターがいる。中心となるキャラクターはロナルドである。これらはハッピーセットという子供向けセットに添付される玩具になったりCMに登場したり、過去にはファミコンやメガドライブのゲームソフトとして発売されたこともあった。これらのキャラクターの利用は全世界共通であり、多くの国では店舗前に人形が置かれている。「ゴミはゴミ箱へ」と啓発するロナルドを象ったピクトグラムが包装や容器、カップに描かれている。多国の言語を話すことができる設定となっており、日本語、オランダ語、タガログ語、ヒンディー語など31か国語がその対象である。「ロナルド・マクドナルド」の呼称は国により異なる場合がある。 日本では「ドナルド」と呼ばれ、フルネームは「ドナルド・マクドナルド」で、マクドナルドが姓にあたる。通常は単に「ドナルド」と呼ばれて姓の部分は略される。名称が類似するディズニーのドナルドダックや、きかんしゃトーマスのドナルドは無関係である。 日本では1990年代後半までドナルドが言葉を発するCMが多かったが、2000年ごろから無口となり「ドナルドはしゃべらないキャラクター」の印象となった。2004年のCM「ドナルドってしゃべるの?」で数年ぶりにドナルドが言葉を発した。前述の回答でドナルド自身は「おしゃべり好き」であった。 以前はビッグマックポリスというイメージキャラクターもいたが、現在は全世界で使用が中止されている。警官であるビッグマックポリスがドナルドなどを監視する印象を与えるためと説明がされている。「平和なマクドナルドランドに警察はいらない」とする説もある。社内では「子供から怖がられるキャラクター」として排除されたとも喧伝される。2014年1月から行われている「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプでスタンプが登場している。 ハンバーガーが大好きで、他人のハンバーガーを盗んでしまう悪役キャラ。初期の頃はドナルド同様、生身の人間が仮装した姿だった。黒いハット帽子に黒いアイマスク。そして囚人服を思わせる白黒のボーダー上下服。ハンバーガーを「取る」たびに、警官のビッグマックポリスに追い回された。ハンバーガーを盗み取る魔法も使える。CMの最後で必ずドナルドがドナルドマジックの魔法で彼を懲らしめた。平成以降に被り物キャラで一時的に復活していたが近年は見られなくなった。マクドナルドのウェブサイトでキッズコーナーにハンバーグラーのぬりえがある。2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している。 マックシェイクが大好きな紫のキャラクターで、近年はあまり姿が見られなくなったが、ハンバーグラーと同様、現在もキッズコーナーのぬりえや2014年のLINEスタンプで見られる。 朝マックをイメージした鳥のキャラクターで、明るく活発だが少しお転婆な性格である。21世紀以降は日本で見かけることは少なかったが、2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している。 マックフライポテトのイメージキャラクターで、男児を「フライガイ」、女児を「フライガール」と呼び、「-キッズ」は彼らの総称である。ポンポンに足が生えたような姿をしている。めがねをかけた者やポニーテールまたはツインテールをなびかせた者等数体存在する。 創業当初は、マクドナルド兄弟が考案したマスコットキャラクターのスピーディー (Speedee) が運用されていた。ハンバーガーのような頭にコック帽をかぶった人物としてデザインされている。日本マクドナルドは具体的な誕生年は不明で、2021年5月現在でアメリカ合衆国のマクドナルドでは通常の商品のデザインとして用いられていないとしている。 日本のマクドナルドでキャンペーンの景品などのデザインに複数用いられている。1990年代にマグカップやグラスが登場し、2020年1月に福袋の景品としてグッズが用意された。2021年に日本マクドナルド創立50周年を記念して一部の商品の容器や包装にスピーディーがデザインされた。 この他にもMayor McCheeseなど、独自キャラクターを設定している地域もあり、アメリカではミックとマックという2人の少年もマスコットキャラに指定されている。日本の事例として、2009年8月 - 11月に期間限定発売された「NIPPON ALLSTARS」シリーズの宣伝キャラクターとして「Mr.ジェームス」を採用したことがあった。 マクドナルドはその事業規模と影響力の大きさから、しばしばアメリカの大量消費文化やアメリカ帝国による経済支配の象徴と考えられ、各国の民族主義派・保守派や、環境保護活動家、反グローバリズム運動家の攻撃目標になるケースが少なくない。 反米デモ活動ではケンタッキーフライドチキンやザ コカ・コーラ カンパニーと同様に店舗が襲撃される。特に湾岸戦争やイラク戦争などでアメリカが他国に侵攻する期間、中東の店舗は放火されたり破壊されたりした。イギリスでは、批判的な活動家がロンドンにある店舗を爆破し、逮捕された。 イラク戦争時にロンドン、パリ、チューリッヒなどの店舗前で反米デモが激しく、メキシコシティでは「ハンバーガー1つがアメリカ軍の銃弾1発」という言葉が生まれた。大韓民国環境団体の会員らがマクドナルドの大型看板に登り「M」字の下に「AD WAR」と書かれた垂れ幕をかけて「MAD WAR(狂った戦争)」と叫ぶデモ活動をした。 1999年5月7日にコソボ紛争の「アライド・フォース作戦」でアメリカ空軍機が駐ユーゴスラビア中華人民共和国大使館を誤爆したときは、北京市でマクドナルド10店舗を中国人が襲撃した。 ファーストフードは手軽さと高カロリーから「肥満の主犯」とされた。マクドナルドは、可能な限り材料を当事国で調達して各国文化を考慮したメニューを採用している。肉類を避けるインド人のためにベジタブルバーガーを開発した。 2004年には、マクドナルドに代表されるファーストフード業界の健康破壊をテーマに「1か月間、3食マクドナルドのハンバーガーだけを食べて過ごしたらどうなるか」を監督が自ら試みたドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』が公開され、第77回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2011年に550超の団体が肥満抑制のためにロナルド・マクドナルドの引退を要請している。 マクドナルドは、メニューに食材の生産地や食物アレルギー対応 を細かく明記している。シェフでイギリス人としては初めて、かつ歴代最年少でミシュランガイド三ツ星を獲得したマルコ・ピエール・ホワイトは「商品には一貫性があり、価格に対してその品質は優れている。アイルランド産など徹底した品質管理を行なっているにもかかわらず、この事実はあまり知られていない。」と意見している。 2011年に専門家らはマクドナルドに対して、子供を対象とした飲食品に高カロリー、高脂肪、多い砂糖、高塩分のジャンクフードの販売中止、おまけをつける販売の中止、ロナルド・マクドナルドを引退させることを要請している。 児童肥満対策としてアメリカ・カリフォルニア州は2010年11月、「ハッピーミール」(日本では「ハッピーセット」)など高カロリーでおまけ付き子供用セットメニューの販売を禁じる条例を可決した。この条例はマクドナルドに限らず全てのファストフードショップに適用される。 マクドナルドの衛生管理は、生産地から店舗までのプロセスごとにHACCPなどの国際規格をベースに厳格な体制が採られている が、2018年、アメリカ・ニューヨーク州などを中心に汚染されたサラダを原因とするサイクロスポーラ症による500人以上の集団食中毒を発生させている。 マクドナルドはそのイメージと著作権、商標に関する訴訟をしばしば起こす。例として100年前からあるような小さな家族経営の店にも、マクドナルドは訴訟を起こしたり、スコットランドにある「マクドナルド」という名称の個人経営のカフェに対する名称使用停止の訴訟がある。 マクドナルドは、イギリスの歴史において最も裁判期間の長い民事裁判の記録を持っている。これはしばしば「マクドナルド名誉棄損裁判(英語版)」(McLibel trial) と呼ばれる。これは、ロンドン通りでマクドナルドを中傷するビラを配ったとして、マクドナルドが環境活動家2名を名誉毀損で告訴したもの。 2014年3月、アメリカのニューヨーク州、カリフォルニア州、ミシガン州で、無給待機の強制、制服購入費ならびに制服洗濯費などの名目による給与からの天引きによる減額された賃金は、法令で定める最低賃金を下回る違法賃金に当たるとして、従業員から提訴された。 1995年ごろから、マクドナルドのフランチャイズ店は、マクドナルドコーポレーションに不満を抱くようになった。マクドナルドがあまりにもあちこちにフランチャイズ権を与えたので、フランチャイズ店舗同士が競合しあうようになったのである。マクドナルドはこの頃から、フランチャイズ権を与える前に市場への影響調査を行うようになった。 マクドナルドがイスラエル支援企業だとしてパレスチナ支持派やムスリムにたびたび批判されている。例えば、日本国内のパレスチナ支持派のパレスチナ情報センターは、マクドナルドの元会長兼CEOのジャック・M・グリーンバーグがシカゴのアメリカン・イスラエル商工会議所の名誉会長であることや、マクドナルドがイスラエルを支援する「Jewish United Fund (ユダヤ人基金)」 及び「Jewish Federation (ユダヤ人協会)」の主要な企業パートナーであることを批判している。 2008年から2009年に行われたイスラエルのガザ紛争では、インドやマレーシアのムスリムグループによりマクドナルドを含んだ「イスラエル支援企業」に対して不買運動が呼びかけられ、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相も国内のマクドナルドの社員に辞職を呼びかけた。フランスのパリでは抗議者がマクドナルド店舗の窓を破壊した。この事件でも見られるように「イスラエル支援企業」として、ザ コカ・コーラ カンパニーやスターバックス、H&Mなどもマクドナルドと同時に批判される場合が多い。 マクドナルドは、1976年以降近代オリンピックのスポンサー企業を務め、最高位スポンサーシップである「TOPパートナー」での協賛を続けていた。 選手村の食堂にも進出し、「世界のどこであろうと同じ物を食べられるのが長所」と称している。札幌オリンピックでは、女子スケートのジャネット・リンがホームシックになり「それならアメリカの味を」と、飛行機でハンバーガーを届けている。 2017年6月、2020年までの契約を3年前倒しTOPから撤退すると発表した。2018年平昌オリンピックは韓国国内のスポンサー契約のみ継続した。 マクドナルドのハンバーガーチェーンは世界展開したことで世界で広く認知されるようになり、マイクロソフト社製品やアップル社のiPhoneやgoogle社製品などの製品・サービスと並んで『アメリカニゼーションの代表格』と世界各地で見なされることも多い。イスラーム圏などでは「アメリカ憎し」の感情が強いので、ややもするとマクドナルドも憎悪の対象ともなりがちで、「マクドナルドの店舗が(意図的に)襲撃された」というような事件も時折起きる。 「ビッグマック」の、ある国における価格は、その国の経済力を良く示す、と見抜いた学者がおり、それを指標と使う場合は「ビッグマック指数」という。 マクドナルドでは、ハンバーガーを「ハンバーガー」ではなく「サンドイッチ (Sandwich)」と呼ぶ。日本は株主優待券などにサンドイッチと表記してテレビCMや店舗看板などで「ハンバーガー」と表記したが、近年は多くで「 McDonald's」または「」と表記している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マクドナルド(英: McDonald's)は、イリノイ州シカゴに本社を置くアメリカ合衆国発祥のファーストフードチェーンストアおよびその登録商標である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界的に展開するファーストフードチェーンであり、各国内でも大都市から田舎まで当たり前に見かける程の店舗数を出店しており、ハンバーガー店の代名詞となっている。日本における店舗および運営会社は日本マクドナルドである。本記事のMcDonald'sの日本語転写は公式にライセンスを取得した日本マクドナルドが定める「マクドナルド」に準ずる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ハンバーガーを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーン店である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "世界の店舗総数は3万5429店(2013年末時点)。店舗数の分類別順位において、ファーストフードを含む外食産業でマクドナルドは、サブウェイに次ぐ、世界第2位。チェーンストアではコンビニエンスストア最大手のセブン-イレブンに次ぐ世界第2位 である。世界の販売量は年間15億食に及ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "とはいえ、アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「バーガーキング」と「ホワイト・キャッスル」より下で、食品品質に関してはマクドナルドのハンバーガーの品質は第15位だった。品質が悪いという情報は人々に知れ渡り、市場調査会社によればマクドナルドのシェアは5年で3%低下し2000年代の調査で15.2%となった。それに対して健康的であることを重視し実際にそうした食材にこだわりそれを宣伝でも前面に出したサンドイッチチェーンの「サブウェイ」のほうが、全米で第1位のシェアを得た。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国本国では「マクドナルドコーポレーション」が運営している。 アメリカでは2000年代後半において、ドライブスルー店舗が売上の65%を占めるほど自動車で購入する者が重要な顧客層となっており、低価格を武器に展開している部分もあるためそれを好む者や低所得者も重要な顧客層となっているが、それ以外にもスターバックスを好むような層で構成された上流の市場を狙い、それに見合った内容を提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ハンバーガーチェーンだけではなくアロマカフェ (Aroma Cafe)、ボストン市場 (Boston Market)、Chipotle Mexican Grill、ドナトスピザ (Donatos Pizza)、Pret A Manger などのチェーン店も展開している。2001年の年間売り上げは148億7000万米ドル、純利益16億4000万ドルだった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では藤田田率いる日本マクドナルドが1990年代から2000年代前半まで価格破壊・低価格路線を主軸に運営していて(金銭の余裕のない学生などに店内の座席が占拠されるようになり)経営内容が悪化したが、2000年代後半から方針を転換し、「価格帯の拡大」と「商品バリエーションの拡大」(具体的には、低価格の商品に加えて高価格帯の商品の投入、味重視の商品、ボリューム重視の商品、キャンペーン商品なども用意)を行ってメイン顧客層である家族連れ・子供や、その周辺ターゲットを囲うことで顧客層の幅を広げるなど幅広い客層を取り込む戦略に転換し、2000年代後半以降好調を維持している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "従業員と幹部社員のスキル向上を目的とするトレーニングを行う部署(施設)「ハンバーガー大学」を擁している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当社の発祥地であるアメリカ合衆国では「McDonald's」と表記され、そのアメリカでの発音は国際音声記号(IPA)で表記すると [məkˈdɒnɫ̩dz]となり、その音を片仮名に写すと「メクダーノズ」が日本語に近い(太文字の「ダー」の部分が強勢つまりアクセントが置かれ強く発音される。\"l\"は暗いLでカナ表記だと「ォ」または「ゥ」が近い。)。アメリカ英語の母語話者による「McDonald's」の具体的な発音は こちらやこちら で聞くことができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "英語のスラング(俗語)では、まれに「金のアーチ」を意味する \"The Golden Arches\"(ザ・ゴールデン・アーチズ)や、\"Mickey D's\"(ミッキー・ディーズ)と呼ばれることもある。\"The Golden Arches\"という呼称は、当社の特徴的な看板の、 大きなMの字に見える、黄色い2つのアーチにちなんでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「McDonald's」は英語圏ではよくある店名のパターン、つまり経営者の名前+'s、という構成の名称であり「〇〇さんのお店」というパターンの店名である。つまり「McDonald's」は「マクドナルド兄弟の店」といった意味である。もともとの創業者であったマクドナルド兄弟の名前が残っているのである。「Mc(マク)」は、古ケルト語で息子(や子孫)という意味の表現でありMcDonaldは「ドナルドの息子」や(ドナルドの子孫)という意味の人名(家族名)である(ちなみに「McArthur マッカーサー」は『アーサー王の息子(アーサー王の子孫)』という意味の名前である。)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "米国マクドナルド社についての正式のカタカナ転写は定められていないが、公式にライセンス契約をしている『日本マクドナルド』に準じてマクドナルドと表記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本法人の正式名称は、「日本マクドナルド」であり、ブランド名の正式なカタカナ表記に関しては「マクドナルド」や「マクドナルド ハンバーガー」である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "略称のほうに関しては、日本マクドナルドからは公式な発表はなされていない。「マック」と「マクド」について、「どちらが正しいというものではない」「正解はない」、どちらの呼び方であれ親しみを込めて呼んでもらえることは嬉しい、と同社では説明している。日本国内の略称は地域差があり、東日本や九州などでは「マック」と呼ばれる傾向があり、近畿地方(と周辺)では「マクド」と呼ばれる傾向がある、という。GMOメディアの「ウィふり調査団」の調査によると、「マック派」は南東北、中国地方、四国、九州にも広がっているのに対して、「マクド派」は近畿(付近)に限定されている。2016年に日本マクドナルドが公式に行った社内調査でも「マクド」と呼ぶのは近畿と四国の計11府県だったとしている。つまり、日本全体を見渡して総合すると「マック派」が優勢のようだとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、当社で販売されている商品の名称に「ビッグマック」「マックシェイク」などがあることを理由に(また販売商品に「マクド○○」などという商品はないことを理由に)「マック」の方を肯定する人もいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、日本マクドナルドとしてもこの略称論争を逆手にとった販促キャンペーンを2017年に行ったことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "フランス語では、発音が日本と同様になることに加えて、「マック」は「売春の仲買人」や「ポン引き」を意味する隠語になることから、近畿圏同様「マクド」と略されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国語では漢字で「麦当劳」(簡体字)、「麥當勞」(繁体字)と表記し、「マイタンラオ」(拼音:Màidāngláo)と発音する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "最初のマクドナルドはアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンバーナーディノでマクドナルド兄弟が1940年に始めたものである。「スピード・サービス・システム」のキャッチフレーズと、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組みにより、1948年頃、有名になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1954年に、ミルクシェイク用ミキサーのセールスマン(行商人。自分の車に商品のミキサーを積んでアメリカ各地を走り回って、飲食店見つけては商品のミキサーを売りつける仕事をしていた男)、ボヘミアユダヤ系 のレイ・クロック (Ray Kroc) が、(行商の途中)たまたまマクドナルド兄弟の店にもやって来て、兄弟が店を繁盛させているのを見て、マクドナルドの仕組みについて興味を持った。特に興味を持ったのは客席の回転率が大変高いことで、相当数の人数の客を次々とさばけることだった。すっかり感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスで食堂にやってきたとき、システムをフランチャイズ形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "兄弟は「自分たちのためにこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりはない」と消極的だったが、クロックが交渉を粘った末に「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意、兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックの側はたくみに契約を交わした(クロックにとっては、大きな野望を実現するための第一歩を踏み出すことができた。だが、マクドナルド兄弟側にとっては、これは悲劇の始まりであり、自分たちの強みのひとつである「McDonald's」という(アメリカ人が強い親しみを感じるMc(マック)で始めるアイルランド系の名前を冠した)ブランドを、赤の他人が使える状況を生んでしまい、最終的にはマクドナルド兄弟の店(つまり大本になっていた本店中の本店)の周辺にまでクロック側の店舗が進出、侵略してきて、売上をうばわれ、結局、兄弟は自分たちの店をクロックのせいで失ってしまうという、悲しい結末になる道が始まったのだった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、近々できるディズニーランドの中にマクドナルドの食堂を入れるよう、ウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックは、イリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、即大成功となる。1955年3月2日、新しい会社\"McDonald's Systems Inc.\"(マクドナルドシステム会社)を作り、同年4月15日にクロックが直営店1号店をシカゴにオープンさせた。1960年には、社名をマクドナルドコーポレーション (\"McDonald's Corporation\") に変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "クロックのマーケティング戦略のうちの一つは、家族向けの店舗にすること。特に子供を商売の対象とすることだった。1960年代初め、首都ワシントンでマクドナルドのフランチャイズ権をとって営業していたオスカー・ゴールドスティン (Oscar Goldstein) が、ウィラード・スコット (Willard Scott) というクラウン(道化師)が所属するBozo's Circus(荒くれ男のサーカス)という名の出し物のスポンサーについた。この出し物が中止されると、ゴールドスティンはマクドナルドのマスコットキャラクターとしてウィラード・スコットを雇い、そのキャラクターはマクドナルドにちなんで「ロナルド・マクドナルド (Ronald McDonald)」と命名され、ウィラード・スコットはロナルド役で1963年から約2年間コマーシャルに出演した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ロナルドは求められていた役に比べて少々太り気味だったが、このキャラクターが広告に出ることにより、マクドナルドのチェーン店は米国全土に広がった。続いてロナルド以外のキャラクターも開発されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本では販売戦略上の理由、および日本語話者には発音しづらい事から藤田田によって「ドナルド・マクドナルド」と訳されており、当初より子供向けCMに出演している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "クロックと兄弟との契約は、兄弟が生産工程について責任を負い、会社の株式による利益を受け取る。そのかわりにクロックが販売拡張の全責任を負うことになっていた。だが1961年までにクロックは拡張に失敗する。兄弟は、兄の引退も理由となって、1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡すことで合意した。クロックにとっては高額だが、長い眼で見ればメリットがあると判断、プリンストン大学などを含む多くの投資者からかき集めて兄弟の持つ株式を270万ドルで買い取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この契約では兄弟は「マクドナルド」の名称の使用は認められなかったために、やむなく自分たちの店を \"The Big M\"(ザ・ビッグM)という名称に変えて営業を続けた。しかし、クロックはわざわざ兄弟の店のすぐ北側にマクドナルドの大型店舗を出店し、マクドナルド兄弟の店舗の売上を意図的に奪い、その結果 マクドナルド兄弟の経営する\"The Big M\"は倒産してしまい閉店し、現存しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1984年1月にクロックは死去した。(本当の創業者はマクドナルド兄弟なのに)その1年間、マクドナルドは「\"創業者\" 追悼キャンペーン」と銘打ったセールを行った。これを知ったマクドナルド兄弟の弟リチャードは激怒したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "経営権委譲に伴う合意事項には、譲渡後もチェーンの売り上げの1%を将来的に支払うという「紳士協定」があったが、契約書には組み込まれていなかったことをいいことに、クロックの手に渡ったマクドナルド側はその紳士協定を守らなかった。もし守られていたら、兄弟は年に3億6000万ドルを手にすることになっていたはずだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "以後マクドナルドコーポレーションは、世界の至るところに店を開いた。米国外で初めて進出した国は1967年6月3日に1号店を開いたカナダである。1971年にはオセアニア(オーストラリア)、アジア(日本)、ヨーロッパ(オランダ)の各地域に初めて進出した。1990年1月31日にはソビエト連邦のモスクワで、共産圏として初めてのマクドナルドが開店した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "マクドナルドのビッグマックの価格は、ビッグマック指数と呼ばれ、通貨間の購買力平均価格の比較手段として使われた。この指標の考案者はイギリスの経済雑誌『エコノミスト』誌 (The Economist) である。マクドナルドの標準化は、同時に生活様式や経済活動のグローバリゼーションを意味した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "トーマス・フリードマンは自著の『レクサスとオリーブの木』の中で、“黄金のM型アーチ理論”として「マクドナルドのある国同士は戦争を行わないだろう」と予言したが、1999年にアメリカ合衆国のセルビア爆撃によって破られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アメリカをはじめとする先進国においては、より高価で高品質なハンバーガーや、より多面的サービスを提供している他のファストフードレストランチェーンとの競争が激しくなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「バーガーキング」と「ホワイト・キャッスル」より下で、ハンバーガーの食品品質は第15位だった。市場調査会社によればマクドナルドのシェアはここ5年で3%低下し、現在、15.2%である。健康的なイメージで売るサンドイッチチェーンの「サブウェイ」が全米で第1位のシェアを持っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2009年10月26日にマクドナルドとして初めてアイスランド国内全3店舗の閉鎖を発表することを明らかにした。撤退理由は折からの金融危機によって、自国生産が難しく輸入していた生鮮野菜などの輸入食材が、アイスランド・クローナが金融危機で失墜して輸入関税が引き上げられて高騰し、採算が取れなくなったためとしている。撤退までの過去1年半の間はコストは通常の2倍にまで膨らんでいたこともあり、採算を取れるまでに同国の経済状況が回復することは難しいと判断し、同国で事業を展開する複雑さから撤退を決めたとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "撤退発表以降営業最終日になった10月31日まで大勢の客が詰めかけ、商品の受け取りに20分待ち、ドライブスルー利用のために交通渋滞が発生し、マクドナルドも臨時従業員の増員で対応するなどの大盛況になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2022年3月8日に、マクドナルドは前月に発生したロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ロシア国内の全847店舗を一時閉鎖することを発表した。同国内のマクドナルドでは約62,000人が勤務しているが、一時閉鎖期間中も給料の支払いは継続するとした。一時閉鎖前日の3月13日は、ロシアで1号店として開店したモスクワの店舗でマクドナルドの商品を食べ納めしようとする市民などで混雑し、チーズバーガーやビッグマックなどの人気商品が高額転売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2022年5月にマクドナルドは、ロシアから完全撤退して店舗と従業員を他社に売却することを発表した。マクドナルドの商標やロゴなどは引き続き保有する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2022年6月、マクドナルドから店舗などを買収した後継企業は新チェーン店名を「フクースナ・イ・トーチカ」とすることを発表した。まずは15店舗をロシアの建国記念日である同月12日にオープンした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2022年11月、ベラルーシでもロシアと同様の理由でマクドナルドが撤退した。その後継として、ロシアのフクースナ・イ・トーチカがベラルーシに進出した上でフランチャイズを展開することを明らかにし、同月22日から営業を開始することを発表した。ベラルーシ大統領のアレクサンドル・ルカシェンコは「(マクドナルドが)撤退してくれてありがたい」と歓迎のコメントを出している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2023年1月、原材料の供給不足を理由として、カザフスタンから撤退することを発表した。同国農業省はマクドナルドがロシアから撤退したことにより、同国産の肉などの供給に問題が生じたためと説明している。その後、カザフスタン国内でマクドナルドのフランチャイズ店舗を運営していた「フード・ソリューションズKZ」は一部の店舗で独自に営業を再開したことを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "マクドナルドが2003年から全世界で開始した広告で「i'm lovin' it」(私のお気に入り)を統一標語としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "マクドナルドコーポレーションのビジネスモデルは、他の多くのファーストフードチェーン店と若干異なる。通常のチェーンでも請求される特許料金、供給品、および販売のパーセンテージに加えて、マクドナルドは賃貸料を徴収する。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "フランチャイズ契約の条件として、ほとんどのマクドナルド店舗は、店舗の不動産をマクドナルドコーポレーションが所有する。フランチャイズ会社は売り上げの一部を賃貸料としてマクドナルドコーポレーションに支払う。マクドナルド創立者の1人 Harry.J.Sonneborne は「われわれの商売は不動産業である。われわれがハンバーガーを売る唯一の理由は、フランチャイズ会社がハンバーガーを売ったときの利益が、最も多くの賃貸料をわれわれにもたらすからだ」と言った。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マクドナルドは、定期的な調査のために「ミステリーショッパー」と称する人物が、一般客に紛れ1セット注文する。店舗の質を向上させるため、採点項目にはスピード、清潔さ、商品の品質、サービスなどがある。 日本では2003年、昼のピーク時間帯 (12:00 - 13:00) に商品の受注から、注文の多少に関わらずレジ入力後1分以内に提供する「チャレンジ!60秒サービスキャンペーン」が展開された。時間内に提供できなければ、ポテトかコーラの引換券を添付した。商品の注文点数にかかわらず時間は1分間一律だったため、セットメニューなどを注文すると1分以内に用意できない事例も発生した。一部の店舗ではレジ入力途中で厨房に注文内容を伝え用意できてからレジ入力を終了することで実質1分を超えたとしても1分以内とした。全般的に店員の応対時間短縮の成果が出たり、客と店員のコミュニケーションが生まれるなどの相乗効果で概ね好評価を得た。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "マクドナルドのハンバーグやポテトは、セントラルキッチンから成型済みで搬入され、厨房では焼いたり揚げたりするだけで、店舗で細かい調理の必要がない。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "焼く鉄板や揚げ油の温度、時間も定められている。若干の訓練を受ければ、誰が作っても同じ大きさ、同じ形、同じ味の商品が提供できる。調理工程も簡略化され、付け合せなども極力簡略化し、高速で調理できるようになっている。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "商品提供システムとして「英語: Made For You(MFYまたはM4U、メイド-フォー-ユー)」という、受注してから迅速に調理し、商品を完成させる新方式が導入された。全店導入時期はアメリカ合衆国が1999年、日本は2005年。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その他「ダイレクトオペレーション」と称する、商品を作り置いて温蔵棚などに貯蔵し、受注後に取り出して販売する方式がある。作り置きはその時間帯の売り上げや客足などの予想を元に行うため、大半の場合は客を待たせず商品提供できる利点があった。味の劣化や、ハンバーガーを調理後10分で廃棄する社内規定で、予測誤りによる食品廃棄などの問題が発生し、環境問題などで批判される原因になった。Made For Youシステムでは、全ての顧客に出来立てを提供できるという利点もあり、売れ残りや食材の貯蔵をなくし、ハンバーガーを作るコストを下げた。当然ながら、このシステムでも受注分より多く作ってしまうことによる廃棄はあるが、総じて廃棄量は激減した。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "消費者情報誌「コンシューマー・レポート」が、定期購読者のうち3万2405人の回答などを基に発表したところによると、マクドナルドのハンバーガーの味は、アメリカ合衆国の大手ハンバーガーチェーン全体の中で『最も不味い』という結果が出た。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ハンバーガーのビーフパティは牛肉を使用している。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "地域によっては宗教上の観点から特定あるいは一切の肉類を食せない顧客向けに、鶏肉を使った「チキンマハラジャマック (Chicken Maharaja Mac)」「チキンマックカレーパン (Chicken McCurry Pan)」(インド、後述)、肉を一切使わないベジタリアン用のメニュー(Veg menu、後述)、ホキという深海魚やスケトウダラを使った「フィレオフィッシュ(FishMac)」(各国)など、食のタブーに配慮したメニューが用意されている。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本における「てりやきマックバーガー」や2007年6月〜7月に発売されていた「メガてりやき」、2007年7月から発売された「マックポーク」に使われているパティはポークで、マクドナルドでは豚肉の使用を明記している。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本における「チキンナゲット」は以前約2割を米国OSIグループの傘下である 中国食肉加工会社の「上海福喜食品」から仕入れていたが、使用期限を半月過ぎた鶏肉を使用していたことが発覚し、2014年7月22日に該当商品の販売が停止した。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ドライブスルーは日本国外で「マックドライブ」と呼称される。利用手順は車両をメニューが掲示されたマイク前に移動し注文する。この際店員から支払い金額が請求される。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "通常はマイク越しに店内にいるインカムを装着した店員に話し掛けることになるが、一部店舗では休日のピーク時を中心に、移動型のレジを伴った店員に直接話し掛ける状況もある。この場合もレジは有線で店内のシステムに直結しているため店内のMade For Youシステムへも注文が直接伝わる。WOT(Wireless OrderTaker, ワイヤレスオーダーテイカー)と称する小型のタッチパネル端末で受注することもある。WOTはほとんどの場合コーポレートカラーである赤色の肩掛けケースに入れられている。WOTは注文を無線方式でキッチンへ伝達するため混雑時に店内で用いられることがある。この場合、決済やレシート発行はカウンターのレジで行う。導入極初期はテレビ画面に映る店員に向かって注文する形だったが、その後テレビは撤去されてメニュー板のみになっていた。近年の店舗ではマイクの下に注文を表示するディスプレイが導入されている。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "その後順路に沿って車両を進めると商品受け渡し口がある。まず代金を支払い、袋などに入った商品を受け取る。一部の古い店舗で見られる受け渡し口手前の使用されていない窓口もしくはその跡は、かつて代金の支払いと商品の受け渡しを別々の窓口で行っていた名残である。現在もこの形態を採る店舗も存在し、休日のピーク時のみ支払いと受け渡しが異なる店舗も存在する。近年に新規開店した店でも、ピーク時以外でこの方式が採用されている場合もある。雨が多い地域では商品を濡らさないために配慮されており、日本の店舗では受け渡し口に通常屋根がある。マックカフェバイバリスタ取扱店舗かつマックカフェドライブスルー対応店舗では、代金支払い、ハンバーガーなどの通常商品受取、マックカフェ商品専用受取の計3か所受け渡し口がある店舗も存在する。商品を受け取った後に車両を進めると公道へ出る。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "購入商品が多いなど受け渡しまでに時間を要する際、ドライブスルー進行レーンから外れた待機場所で待たされる。多くの場合、店員が商品を車両まで運搬する。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ドライブスルーは主に普通乗用車などを対象としているが、オートバイや自転車など二輪車両での利用は、商品受け取り後の走行や自動車による追突など安全上の理由で、店舗によっては断られる場合もある。トレーラーやトラックの場合車両限界などで利用できない場合もあるが、これらに配慮したドライブスルー設置店舗も幹線道路沿線に見られ、送迎や路線などバスでの利用もある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "店内で食べる場合でもレジで代金を支払った客がその場で商品を載せたトレイを受け取り、そこから席まで客が自分でトレイを運ぶセルフサービスである。店内で購入した商品を持ち帰ることも可能である。2019年頃からテーブルデリバリーと称するサービスを実施する店舗も存在し、代金支払い後店員がトレーに乗せた商品をテーブルまで届ける場合もある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "喫食後はトレイ上の物をすべてゴミ箱へ入れるため食器の回収と洗浄の必要がないが、必ず廃棄物が生ずることが批判された。現在、ほとんどの商品が紙包装だが、ストローなど多少のプラスチック素材もある。以前は発泡スチロール製容器が多用されたが、今はほとんど使われない。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "マクドナルドでは店舗を船に見立て店員を「クルー (CREW)」と称する。ほとんどの店員はパートかアルバイトで、これを通常1名以上の「マネージャー (MGR)」と称する社員で統括する。1人の社員が統括する店舗が複数ある場合に不在が多くなるため、店員の出勤時間帯配置などの管理業務をパートやアルバイトの立場で併せて行う「スウィング・マネージャー (SW-MGR)」と称する階級がある。他にクルーの教育などを担当する「クルートレーナー (CREW TRAINER)」などがある。通常は年中無休だが、インストア型と称されるショッピングモールなどに入る店舗は休業日の設定もある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本の店舗形態は通常(トラディショナル)店舗とサテライト店舗に分かれる。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "サテライト店舗は厨房が狭く以前はメニューも限定だったが、低支出の出店が可能で1990年代に数多く開店した。サテライト店舗は必ずしも母店舗となるトラディショナル店舗を持つことはなく基本的に単独経営である。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "近隣店舗間で、賞味期限や仕入れの過不足などの理由で、食品移動や小銭の両替も行われている。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "近隣店舗といえど、店長の上職であるOC(Operating Consultant, オペレーティングコンサルタント)は近隣店を兼務しないので、各店舗の社員個人による異動元ないし同店勤務人の異動先への「お願い」型式で成立するのが普通である。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "マクドナルドの看板は赤い背景色に黄色の文字であるが、京都市などの一部店舗は、景観保護条例による規制で、背景色が茶色などである。東京都豊島区の巣鴨店では、英語由来の語に不馴れな高齢客が多く、ポテト→おいも、チキン→とりにく、ドリンクのS・M・L→のみものの小・中・大など一部を日本語表記している。2007年から地域別価格制度が導入されたが、2015年に実質上廃止される。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "21世紀になってからマクドナルドの店舗イメージが変化している。旧来型店舗イメージは赤い背景色に黄色い文字の看板がもたらす印象のアメリカンテイストを取り入れたデザインで、内壁はシンプルな白地を用い、小物や内装はところどころに赤や青の原色系を塗り込んだプラスチックとビニールが主材で、ある種のチープインテリアを目指していた。赤色の内装は落ち着きを失わせ客の回転を早める効果も兼ねていた。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2006年以降に営業時間の延長を試みて24時間営業店舗が増加したが、採算性やクルーの確保困難などにより再度24時間営業を廃止する店舗が増えた。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "集客目的で、2000年代後半から数社のWi-Fiスポットを提供し、電源サービスコンセントを設ける店舗もある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2018年からハッピーセットのおもちゃを全国の店舗で回収し、店内で使用するトレイにリサイクルする「おもちゃリサイクルプロジェクト」を定期的に行っている。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、ハッピーセットは、1979年よりアメリカでHappy Meal(ハッピーミール)として販売されていたものを、日本に合わせてローカライズしたもので、1987年にお子様ランチとして登場し、1995年にハッピーセットに改称された。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "マクドナルド店舗の形態は3種に大別できる。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この他に特別なテーマをもった店舗が存在する。具体的にはロックンロールマクドナルド、1950年代風食堂など。郊外の新しい店舗にはマクドナルドプレイランドという大きな遊戯施設を持つものが多い。多くは屋内だが屋外のこともある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "黄色の「ゴールデンアーチ」と呼ばれるマクドナルドのマークは、マクドナルド店舗の位置を示すため高いポールの上に設置されることが多い。日本ではこれをサインポールと呼ぶ。このマークに使われている赤と黄色は、広告を活用する多くの会社がよく使う配色でもある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "出前が可能な店舗が一部に存在し、一度に所定金額以上注文の場合に適用される。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "マクドナルド従業員の訓練施設として、トレーニングセンターとは別にハンバーガー大学が米国を含む7か国に存在する。トレーニングセンターは各国にある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ハンバーガー大学はマクドナルド従業員教育用施設。イリノイ州オークブルックのシカゴ郊外に130,000平方フィート(12,000平方メートル)の広さで、米国のマクドナルド社が所有する。70,000人以上のマネージャーが「卒業」して30人程度の「教授」が所属する。「大学」は1961年にイリノイ州Elk Grove Villageに設立された。1960年代前半の初期学生は企業利益向上を目的として「卒業」までに化学、マーケティング、調理などのコースを確実に修了しなければならなかった。卒業生の\"McDegree\"にはマクドナルド商品の経済的な品質向上を研究する部門に就く者もいた。現在の規模は1クラス当たり平均200人以上。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "日本マクドナルド本社(新宿アイランドタワー)38階にある。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2005年7月、ハンバーガー大学の Basic Shift Management Course (BSM)と、Advanced Shift Management Course(ASM)の2つのコースが、若年者就職基礎能力修得支援事業(Yes-Program)の認定を受けた。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "マクドナルドランドを舞台に、ロナルド(日本名:ドナルド・マクドナルド)、グリマス、バーディ、ハンバーグラー、フライガイという子供をターゲットにしたマスコットキャラクターがいる。中心となるキャラクターはロナルドである。これらはハッピーセットという子供向けセットに添付される玩具になったりCMに登場したり、過去にはファミコンやメガドライブのゲームソフトとして発売されたこともあった。これらのキャラクターの利用は全世界共通であり、多くの国では店舗前に人形が置かれている。「ゴミはゴミ箱へ」と啓発するロナルドを象ったピクトグラムが包装や容器、カップに描かれている。多国の言語を話すことができる設定となっており、日本語、オランダ語、タガログ語、ヒンディー語など31か国語がその対象である。「ロナルド・マクドナルド」の呼称は国により異なる場合がある。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日本では「ドナルド」と呼ばれ、フルネームは「ドナルド・マクドナルド」で、マクドナルドが姓にあたる。通常は単に「ドナルド」と呼ばれて姓の部分は略される。名称が類似するディズニーのドナルドダックや、きかんしゃトーマスのドナルドは無関係である。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "日本では1990年代後半までドナルドが言葉を発するCMが多かったが、2000年ごろから無口となり「ドナルドはしゃべらないキャラクター」の印象となった。2004年のCM「ドナルドってしゃべるの?」で数年ぶりにドナルドが言葉を発した。前述の回答でドナルド自身は「おしゃべり好き」であった。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "以前はビッグマックポリスというイメージキャラクターもいたが、現在は全世界で使用が中止されている。警官であるビッグマックポリスがドナルドなどを監視する印象を与えるためと説明がされている。「平和なマクドナルドランドに警察はいらない」とする説もある。社内では「子供から怖がられるキャラクター」として排除されたとも喧伝される。2014年1月から行われている「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプでスタンプが登場している。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ハンバーガーが大好きで、他人のハンバーガーを盗んでしまう悪役キャラ。初期の頃はドナルド同様、生身の人間が仮装した姿だった。黒いハット帽子に黒いアイマスク。そして囚人服を思わせる白黒のボーダー上下服。ハンバーガーを「取る」たびに、警官のビッグマックポリスに追い回された。ハンバーガーを盗み取る魔法も使える。CMの最後で必ずドナルドがドナルドマジックの魔法で彼を懲らしめた。平成以降に被り物キャラで一時的に復活していたが近年は見られなくなった。マクドナルドのウェブサイトでキッズコーナーにハンバーグラーのぬりえがある。2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "マックシェイクが大好きな紫のキャラクターで、近年はあまり姿が見られなくなったが、ハンバーグラーと同様、現在もキッズコーナーのぬりえや2014年のLINEスタンプで見られる。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "朝マックをイメージした鳥のキャラクターで、明るく活発だが少しお転婆な性格である。21世紀以降は日本で見かけることは少なかったが、2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "マックフライポテトのイメージキャラクターで、男児を「フライガイ」、女児を「フライガール」と呼び、「-キッズ」は彼らの総称である。ポンポンに足が生えたような姿をしている。めがねをかけた者やポニーテールまたはツインテールをなびかせた者等数体存在する。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "創業当初は、マクドナルド兄弟が考案したマスコットキャラクターのスピーディー (Speedee) が運用されていた。ハンバーガーのような頭にコック帽をかぶった人物としてデザインされている。日本マクドナルドは具体的な誕生年は不明で、2021年5月現在でアメリカ合衆国のマクドナルドでは通常の商品のデザインとして用いられていないとしている。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "日本のマクドナルドでキャンペーンの景品などのデザインに複数用いられている。1990年代にマグカップやグラスが登場し、2020年1月に福袋の景品としてグッズが用意された。2021年に日本マクドナルド創立50周年を記念して一部の商品の容器や包装にスピーディーがデザインされた。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "この他にもMayor McCheeseなど、独自キャラクターを設定している地域もあり、アメリカではミックとマックという2人の少年もマスコットキャラに指定されている。日本の事例として、2009年8月 - 11月に期間限定発売された「NIPPON ALLSTARS」シリーズの宣伝キャラクターとして「Mr.ジェームス」を採用したことがあった。", "title": "イメージキャラクター" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "マクドナルドはその事業規模と影響力の大きさから、しばしばアメリカの大量消費文化やアメリカ帝国による経済支配の象徴と考えられ、各国の民族主義派・保守派や、環境保護活動家、反グローバリズム運動家の攻撃目標になるケースが少なくない。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "反米デモ活動ではケンタッキーフライドチキンやザ コカ・コーラ カンパニーと同様に店舗が襲撃される。特に湾岸戦争やイラク戦争などでアメリカが他国に侵攻する期間、中東の店舗は放火されたり破壊されたりした。イギリスでは、批判的な活動家がロンドンにある店舗を爆破し、逮捕された。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "イラク戦争時にロンドン、パリ、チューリッヒなどの店舗前で反米デモが激しく、メキシコシティでは「ハンバーガー1つがアメリカ軍の銃弾1発」という言葉が生まれた。大韓民国環境団体の会員らがマクドナルドの大型看板に登り「M」字の下に「AD WAR」と書かれた垂れ幕をかけて「MAD WAR(狂った戦争)」と叫ぶデモ活動をした。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1999年5月7日にコソボ紛争の「アライド・フォース作戦」でアメリカ空軍機が駐ユーゴスラビア中華人民共和国大使館を誤爆したときは、北京市でマクドナルド10店舗を中国人が襲撃した。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ファーストフードは手軽さと高カロリーから「肥満の主犯」とされた。マクドナルドは、可能な限り材料を当事国で調達して各国文化を考慮したメニューを採用している。肉類を避けるインド人のためにベジタブルバーガーを開発した。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2004年には、マクドナルドに代表されるファーストフード業界の健康破壊をテーマに「1か月間、3食マクドナルドのハンバーガーだけを食べて過ごしたらどうなるか」を監督が自ら試みたドキュメンタリー映画『スーパーサイズ・ミー』が公開され、第77回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2011年に550超の団体が肥満抑制のためにロナルド・マクドナルドの引退を要請している。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "マクドナルドは、メニューに食材の生産地や食物アレルギー対応 を細かく明記している。シェフでイギリス人としては初めて、かつ歴代最年少でミシュランガイド三ツ星を獲得したマルコ・ピエール・ホワイトは「商品には一貫性があり、価格に対してその品質は優れている。アイルランド産など徹底した品質管理を行なっているにもかかわらず、この事実はあまり知られていない。」と意見している。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2011年に専門家らはマクドナルドに対して、子供を対象とした飲食品に高カロリー、高脂肪、多い砂糖、高塩分のジャンクフードの販売中止、おまけをつける販売の中止、ロナルド・マクドナルドを引退させることを要請している。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "児童肥満対策としてアメリカ・カリフォルニア州は2010年11月、「ハッピーミール」(日本では「ハッピーセット」)など高カロリーでおまけ付き子供用セットメニューの販売を禁じる条例を可決した。この条例はマクドナルドに限らず全てのファストフードショップに適用される。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "マクドナルドの衛生管理は、生産地から店舗までのプロセスごとにHACCPなどの国際規格をベースに厳格な体制が採られている が、2018年、アメリカ・ニューヨーク州などを中心に汚染されたサラダを原因とするサイクロスポーラ症による500人以上の集団食中毒を発生させている。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "マクドナルドはそのイメージと著作権、商標に関する訴訟をしばしば起こす。例として100年前からあるような小さな家族経営の店にも、マクドナルドは訴訟を起こしたり、スコットランドにある「マクドナルド」という名称の個人経営のカフェに対する名称使用停止の訴訟がある。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "マクドナルドは、イギリスの歴史において最も裁判期間の長い民事裁判の記録を持っている。これはしばしば「マクドナルド名誉棄損裁判(英語版)」(McLibel trial) と呼ばれる。これは、ロンドン通りでマクドナルドを中傷するビラを配ったとして、マクドナルドが環境活動家2名を名誉毀損で告訴したもの。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2014年3月、アメリカのニューヨーク州、カリフォルニア州、ミシガン州で、無給待機の強制、制服購入費ならびに制服洗濯費などの名目による給与からの天引きによる減額された賃金は、法令で定める最低賃金を下回る違法賃金に当たるとして、従業員から提訴された。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1995年ごろから、マクドナルドのフランチャイズ店は、マクドナルドコーポレーションに不満を抱くようになった。マクドナルドがあまりにもあちこちにフランチャイズ権を与えたので、フランチャイズ店舗同士が競合しあうようになったのである。マクドナルドはこの頃から、フランチャイズ権を与える前に市場への影響調査を行うようになった。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "マクドナルドがイスラエル支援企業だとしてパレスチナ支持派やムスリムにたびたび批判されている。例えば、日本国内のパレスチナ支持派のパレスチナ情報センターは、マクドナルドの元会長兼CEOのジャック・M・グリーンバーグがシカゴのアメリカン・イスラエル商工会議所の名誉会長であることや、マクドナルドがイスラエルを支援する「Jewish United Fund (ユダヤ人基金)」 及び「Jewish Federation (ユダヤ人協会)」の主要な企業パートナーであることを批判している。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2008年から2009年に行われたイスラエルのガザ紛争では、インドやマレーシアのムスリムグループによりマクドナルドを含んだ「イスラエル支援企業」に対して不買運動が呼びかけられ、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相も国内のマクドナルドの社員に辞職を呼びかけた。フランスのパリでは抗議者がマクドナルド店舗の窓を破壊した。この事件でも見られるように「イスラエル支援企業」として、ザ コカ・コーラ カンパニーやスターバックス、H&Mなどもマクドナルドと同時に批判される場合が多い。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "", "title": "各地域における特徴ある事柄" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "マクドナルドは、1976年以降近代オリンピックのスポンサー企業を務め、最高位スポンサーシップである「TOPパートナー」での協賛を続けていた。", "title": "スポーツ大会の関係" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "選手村の食堂にも進出し、「世界のどこであろうと同じ物を食べられるのが長所」と称している。札幌オリンピックでは、女子スケートのジャネット・リンがホームシックになり「それならアメリカの味を」と、飛行機でハンバーガーを届けている。", "title": "スポーツ大会の関係" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2017年6月、2020年までの契約を3年前倒しTOPから撤退すると発表した。2018年平昌オリンピックは韓国国内のスポンサー契約のみ継続した。", "title": "スポーツ大会の関係" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "マクドナルドのハンバーガーチェーンは世界展開したことで世界で広く認知されるようになり、マイクロソフト社製品やアップル社のiPhoneやgoogle社製品などの製品・サービスと並んで『アメリカニゼーションの代表格』と世界各地で見なされることも多い。イスラーム圏などでは「アメリカ憎し」の感情が強いので、ややもするとマクドナルドも憎悪の対象ともなりがちで、「マクドナルドの店舗が(意図的に)襲撃された」というような事件も時折起きる。", "title": "他 雑学など" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "「ビッグマック」の、ある国における価格は、その国の経済力を良く示す、と見抜いた学者がおり、それを指標と使う場合は「ビッグマック指数」という。", "title": "他 雑学など" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "マクドナルドでは、ハンバーガーを「ハンバーガー」ではなく「サンドイッチ (Sandwich)」と呼ぶ。日本は株主優待券などにサンドイッチと表記してテレビCMや店舗看板などで「ハンバーガー」と表記したが、近年は多くで「 McDonald's」または「」と表記している。", "title": "他 雑学など" } ]
マクドナルドは、イリノイ州シカゴに本社を置くアメリカ合衆国発祥のファーストフードチェーンストアおよびその登録商標である。 世界的に展開するファーストフードチェーンであり、各国内でも大都市から田舎まで当たり前に見かける程の店舗数を出店しており、ハンバーガー店の代名詞となっている。日本における店舗および運営会社は日本マクドナルドである。本記事のMcDonald'sの日本語転写は公式にライセンスを取得した日本マクドナルドが定める「マクドナルド」に準ずる。
{{Otheruses||[[日本法人]]|日本マクドナルド|その他}} {{Infobox Company | name = マクドナルド<br />McDonald's | logo = McDonald's Golden Arches.svg | image = New-McDonald-HU-lg (43261171540).jpg | image_caption = マクドナルドの本社(シカゴ) | type = [[株式会社]] | traded_as = {{NYSE|MCD}} | genre = [[ファストフード]] | foundation = '''McDonald's'''<br />[[1940年]][[5月15日]]<br />'''McDonald's Corporation'''<br />[[1955年]][[4月15日]] | founder = '''McDonald's'''<br />[[マクドナルド兄弟|リチャード・マクドナルド]]<br />[[マクドナルド兄弟|モーリス・マクドナルド]]<br />'''McDonald's Corporation'''<br />[[レイ・クロック]] | location = {{USA}}<br /> [[ファイル:Flag of Illinois.svg|25px]] [[イリノイ州]][[シカゴ]] | num_locations = 40,275店舗 | num_locations_year = 2022 | area_served = 全世界 | key_people = [[:en:Enrique Hernandez Jr.|Enrique Hernandez Jr.]](会長)<br />[[クリス・ケンプチンスキー]](社長兼CEO) | industry = [[飲食店]] | revenue = {{nowrap|{{increase}} [[United States dollar|US$]]21.076 [[1,000,000,000|billion]]}} | revenue_year = 2019 | operating_income = {{nowrap|{{increase}} US$9.070 billion}} | income_year = 2019 | net_income = {{nowrap|{{increase}} US$6.025 billion}} | net_income_year = 2019 | assets = {{nowrap|{{decrease}} US$32.811 billion}} | assets_year = 2018 | equity = {{nowrap|{{decrease}} −US${{color|red|6.258}} billion}} | equity_year = 2018 | num_employees = approx. 210,000 | num_employees_year = {{small|2018}} (1.9 million if franchised is included in 2015)<ref>[https://www.businessinsider.com/mcdonalds-jobs-insider-facts-2018-4 But if you include franchise employees, as Forbes did in 2015, the number jumps to 1.9 million, making]</ref> | homepage = [https://www.mcdonalds.com/us/en-us.html mcdonalds.com] }} '''マクドナルド'''({{lang-en-short|'''McDonald's'''}})は、[[イリノイ州]][[シカゴ]]に本社を置く[[アメリカ合衆国]]発祥の[[ファーストフード]][[チェーンストア]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.ibtimes.com/articles/1484046|title=米マクドナルド、イースターブルックCEOによる5つの変化|publisher=IBTimes|accessdate=2015-08-30}}</ref>およびその[[登録商標]]である。 [[多国籍企業|世界的に展開]]するファーストフードチェーンであり、各国内でも大都市から田舎まで当たり前に見かける程の店舗数を出店しており、[[ハンバーガー]]店の代名詞となっている。[[日本]]における店舗および運営会社は[[日本マクドナルド]]である。本記事のMcDonald'sの日本語[[転写 (言語学)|転写]]は公式にライセンスを取得した日本マクドナルドが定める「'''マクドナルド'''」に準ずる。 == 概要 == [[File:McDonaldsWorldLocations.svg|thumb|国別の初出店年度]] [[ハンバーガー]]を主力商品として、[[多国籍企業|世界規模で展開]]する[[ファーストフード]][[チェーン店]]である。 世界の店舗総数は3万5429店(2013年末時点)。店舗数の分類別順位において、[[外食産業|ファーストフードを含む外食産業]]でマクドナルドは、[[サブウェイ]]に次ぐ、世界第2位<ref>[http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-193290.html 【NewsBrief】サンドイッチのサブウェイ、世界店舗数でマクドナルド抜く] - [[The Wall Street Journal]] 2011年3月8日</ref>。[[チェーンストア]]では[[コンビニエンスストア]]最大手の[[セブン-イレブン]]に次ぐ世界第2位<ref name="my20070712">[https://news.mynavi.jp/news/2007/07/12/049/index.html セブンイレブン、マクドナルドを抜いてチェーンストア店舗数世界一に] - [[マイコミジャーナル]] 2007年7月12日</ref> である。世界の販売量は年間15億食に及ぶ<ref>[https://www.chantotaberu.jp/about/ 食育の時間] McDonald's 2012年8月31日閲覧。</ref>。 とはいえ、アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「[[バーガーキング]]」と「[[ホワイト・キャッスル]]」より下で、食品品質に関してはマクドナルドのハンバーガーの品質は第15位だった。品質が悪いという情報は人々に知れ渡り、市場調査会社によればマクドナルドのシェアは5年で3%低下し2000年代の調査で15.2%となった。それに対して健康的であることを重視し実際にそうした食材にこだわりそれを宣伝でも前面に出したサンドイッチチェーンの「[[サブウェイ]]」のほうが、全米で第1位のシェアを得た。 [[アメリカ合衆国]]本国では「マクドナルドコーポレーション」が運営している。 アメリカでは[[2000年代]]後半において、[[ドライブスルー]]店舗が売上の65%を占めるほど[[自動車]]で購入する者が重要な顧客層となっており<ref name="COURRiER">[https://cruel.org/economist/courier200803.html 山形浩生 / スタバの未来はどこにある - コーヒー戦争] - [[山形浩生]] [[COURRiER Japon]] 2008年3月号</ref>、低価格を武器に展開している部分もあるためそれを好む者や[[低所得者]]も重要な顧客層となっているが<ref>[http://www.nuture.co.jp/nextleader/management/19/03.html NEXT LEADER【マネジメント基礎講座】ビジネスリーダー必須のマネジメントスキル Page 3]</ref>、それ以外にも[[スターバックス]]を好むような層で構成された[[上流階級|上流]]の[[市場]]を狙い、それに見合った内容を提供している<ref name="COURRiER"/>。 ハンバーガーチェーンだけではなくアロマカフェ (Aroma Cafe)、ボストン市場 (Boston Market)、Chipotle Mexican Grill、ドナトス[[ピザ]] (Donatos Pizza)、Pret A Manger などのチェーン店も展開している。2001年の年間売り上げは148億7000万[[米ドル]]、純利益16億4000万ドルだった。 日本では[[藤田田]]率いる[[日本マクドナルド]]が[[1990年代]]から[[2000年代]]前半まで[[価格破壊]]・低価格路線を主軸に運営していて(金銭の余裕のない学生などに店内の座席が占拠されるようになり)経営内容が悪化したが、2000年代後半から方針を転換し、「価格帯の拡大」と「商品[[バリエーション]]の拡大」(具体的には、低価格の商品に加えて高価格帯の商品の投入、[[味]]重視の商品、[[ボリューム]]重視の商品、[[キャンペーン]]商品なども用意)を行ってメイン顧客層である[[家族]]連れ・[[子供]]や、その周辺[[ターゲット]]を囲うことで[[顧客]]層の幅を広げるなど幅広い客層を取り込む戦略に転換し、2000年代後半以降好調を維持している<ref>[http://www.harudesign.com/review/review47.html 【『おもしろい会社』が生き残る vol.2】マクドナルドの過去最高益更新に学ぶ] - ハルデザインコンサルティング</ref>。 従業員と幹部社員のスキル向上を目的とするトレーニングを行う部署(施設)「[[ハンバーガー大学]]」を擁している。 === 各国における呼称 === {{Main|wikt:en:McDonald's#Translations|ゴールデンアーチ}} ==== 本国のアメリカ合衆国での呼び方 ==== 当社の発祥地である[[アメリカ合衆国]]では「{{en|McDonald's}}」と表記され、そのアメリカでの発音は[[国際音声記号|国際音声記号(IPA)]]で表記すると {{IPA-en|məkˈdɒnɫ̩dz|}}となり、その音を[[片仮名]]に写すと「メク'''ダー'''ノズ」が[[日本語]]に近い<ref>[https://ejje.weblio.jp/content/McDonald%27s McDonald's] - [[Weblio]]英和和英</ref>(太文字の「ダー」の部分が強勢つまりアクセントが置かれ強く発音される。"l"は暗いLでカナ表記だと「ォ」または「ゥ」が近い。)。[[アメリカ英語]]の[[母語]]話者による「McDonald's」の具体的な発音は [https://www.youtube.com/watch?v=AjN_EoPs4Fs こちら]や[https://www.youtube.com/watch?v=vqvZni_QmcU こちら] で聞くことができる。 英語の[[スラング]](俗語)では、まれに「[[金]]の[[アーチ]]」を意味する {{en|"The Golden Arches"}}(ザ・ゴールデン・アーチズ)や、"{{en|Mickey D's}}"(ミッキー・ディーズ)と呼ばれることもある。"The Golden Arches"という呼称は、当社の特徴的な[[看板]]の、 大きな[[M]]の字に見える、黄色い2つの[[アーチ]]にちなんでいる。 「McDonald's」は英語圏ではよくある店名のパターン、つまり経営者の名前+'s、という構成の名称であり「〇〇さんのお店」というパターンの店名である。つまり「McDonald's」は「マクドナルド兄弟の店」といった意味である。もともとの創業者であったマクドナルド兄弟の名前が残っているのである。「[[マック (ゲール語)|Mc(マク)]]」は、[[ゲール語|古ケルト語]]で[[息子]](や子孫)という意味の表現でありMcDonaldは「ドナルドの息子」や(ドナルドの子孫)という意味の人名(家族名)である(ちなみに「McArthur [[マッカーサー]]」は『[[アーサー王]]の息子(アーサー王の子孫)』という意味の名前である。) ==== 日本における呼称 ==== {{see also|日本マクドナルド#日本における略称・通称・愛称}}[[ファイル:TokyoSetagayaMcDonalds.jpg|thumb|「マクドナルド ハンバーガー」表記の店舗看板の、[[日本]]・[[東京都]][[世田谷区]]{{どこ|date=2023-9}}の店舗([[2004年]])]] 米国マクドナルド社についての正式のカタカナ転写は定められていないが、公式にライセンス契約をしている『日本マクドナルド』に準じてマクドナルドと表記されている。 日本法人の正式名称は、「日本マクドナルド」であり、ブランド名の正式なカタカナ表記に関しては「マクドナルド」や「マクドナルド ハンバーガー」である。 [[略称]]のほうに関しては、[[日本マクドナルド]]からは公式な発表はなされていない。「マック」と「マクド」について、「どちらが正しいというものではない」「正解はない」、どちらの呼び方であれ親しみを込めて呼んでもらえることは嬉しい、と同社では説明している<ref name="j20100701"/><ref name="rocket20100721">[https://rocketnews24.com/2010/07/21/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%9F-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%EF%BC%9F-%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%84%E5%91%BC%E3%81%B3%E6%96%B9%E3%82%92%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%81%AB/ マック? マクド? 正しい呼び方をマクドナルドに聞いてみた!] - ROCKETNEWS24 2010年7月21日</ref>。日本国内の略称は地域差があり<ref name="nikkei20120128">[https://style.nikkei.com/DF_SEC9_C4____/?n_cid=LMNST003 マクドナルド、関西ではなぜ「マクド」?] - [[日本経済新聞]] 2012年1月28日</ref>、[[東日本]]や[[九州]]などでは「マック」と呼ばれる傾向があり、[[近畿地方]](と周辺)では「マクド」と呼ばれる傾向がある、という<ref name="j20100701">{{cite news|date=2010-07-01|title=「マック」か「マクド」か マクドナルド「略称」論争再燃|url=https://www.j-cast.com/2010/07/01070003.html?p=all|accessdate=2010-07-06|newspaper=J-CAST}}</ref><ref>[https://rocketnews24.com/2012/01/30/177111/ マクドナルドの呼び方に異変! 関西若年層の間で「マクド」離れ進む] - ROCKETNEWS24 2012年1月30日</ref><ref>『新 日本語の現場』方言の今 *1 ([[読売新聞東京本社]]、2005年11月9日付)</ref>。GMOメディアの「ウィふり調査団」の調査によると、「マック派」は南[[東北地方|東北]]、[[中国地方]]、[[四国]]、[[九州]]にも広がっているのに対して<ref name="j20100701" />、「マクド派」は[[近畿地方|近畿]](付近)に限定されている<ref name="j20100701" />。2016年に日本マクドナルドが公式に行った社内調査でも「マクド」と呼ぶのは近畿と[[四国]]の計11府県<ref group="注釈">このうち、[[三重県]]と[[滋賀県]]、四国4県([[徳島県]]・[[香川県]]・[[高知県]]・[[愛媛県]])は「マック」との併用。</ref>だったとしている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「マックなのか」、「マクドなのか」/おいしさ対決 |url=https://www.ryutsuu.biz/topix/j080711.html |website=流通ニュース |access-date=2022-09-26 |date=2017-08-07}}</ref>。つまり、日本全体を見渡して総合すると「マック派」が優勢のようだとしている<ref name="j20100701" />。 なお、当社で販売されている商品の名称に「ビッグマック」「[[マックシェイク]]」などがあることを理由に(また販売商品に「マクド○○」などという商品はないことを理由に)「マック」の方を肯定する人もいる<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>。 また、日本マクドナルドとしてもこの略称論争を逆手にとった販促キャンペーンを2017年に行ったことがある<ref name=":0" />。 ==== 他 ==== [[フランス語]]では、発音が日本と同様になることに加えて、「マック」は「[[売春]]の[[仲買人]]」や「[[ポン引き]]」を意味する[[隠語]]になることから、近畿圏同様「マクド」と略されている<ref name="trivia" />。 [[中国語]]では[[漢字]]で「{{lang|zh|麦当劳}}」([[簡体字]])、「{{lang|zh-tw|麥當勞}}」([[繁体字]])と表記し、「マイタンラオ」([[拼音]]:Màidāngláo)と発音する。 === ギャラリー === <gallery mode="packed"> File:McD_Big_Mac.jpg|[[ビッグマック]] File:MEGA_MAC_Set-1.jpg|ビッグマックを大型にした[[メガマック]]([[2007年]]) File:McDonald's_Filet-O-Fish_sandwich_(1).jpg|[[フィレオフィッシュ]]。[[金曜日]]に[[食肉|肉]]を食べない[[カトリック教会|カトリック]]教徒向けに[[1963年]]に発売開始された。 </gallery> == 歴史 == === 開業 === [[File:Speedee in Gentilly.jpg|thumb|初期のマクドナルドの[[キャラクター]]のスピーディー(Speedee)]] [[File:DowneyMcdonalds.jpg|thumb|初期のマクドナルドの[[店舗]]]] 最初のマクドナルドは[[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]][[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サンバーナーディノ]]で[[マクドナルド兄弟]]が[[1940年]]に始めたものである。「スピード・サービス・システム」のキャッチフレーズと、[[工場]]式のハンバーガー製造方法、そして[[セルフサービス]]の仕組みにより、[[1948年]]頃、有名になった。 === レイ・クロック === 1954年に、[[ミルクセーキ|ミルクシェイク]]用[[ミキサー (調理器具)|ミキサー]]の[[セールスマン]]([[行商]]人。自分の車に商品のミキサーを積んでアメリカ各地を走り回って、飲食店見つけては商品のミキサーを売りつける仕事をしていた男)、[[ボヘミア]][[ユダヤ人|ユダヤ系]] の[[レイ・クロック]] (Ray Kroc)<ref>[[藤田田]]『ユダヤの商法-世界経済を動かす』(ワニの本 ベストセラーシリーズ、[[1975年]])</ref><ref>『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝-世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者』(レイ・クロック/[[ロバート・アンダーソン]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}共著、[[野崎稚恵]]/[[野地秩嘉]]翻訳、[[プレジデント社]]、[[2007年]])</ref> が、(行商の途中)たまたまマクドナルド兄弟の店にもやって来て、兄弟が店を繁盛させているのを見て、マクドナルドの仕組みについて興味を持った。特に興味を持ったのは[[座席|客席]]の[[回転率]]が大変高いことで、相当数の人数の客を次々とさばけることだった<ref>[https://diamond.jp/articles/-/5643 「レイ・クロック 世界を征服した ハンバーガー帝国建国」ダイヤモンド・オンライン]</ref>。すっかり感心したクロックは、ミキサーの[[メンテナンス]]で食堂にやってきたとき、[[システム]]を[[フランチャイズ]]形式にして、システムそのものを売る商売を始めてはどうかと勧めた。 兄弟は「自分たちのためにこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりはない」と消極的だったが、クロックが交渉を粘った末に「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意、兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックの側はたくみに契約を交わした(クロックにとっては、大きな野望を実現するための第一歩を踏み出すことができた。だが、マクドナルド兄弟側にとっては、これは悲劇の始まりであり、自分たちの強みのひとつである「McDonald's」という(アメリカ人が強い親しみを感じるMc([[マック_(ゲール語)|マック]])で始めるアイルランド系の名前を冠した)ブランドを、赤の他人が使える状況を生んでしまい、最終的にはマクドナルド兄弟の店(つまり大本になっていた本店中の本店)の周辺にまでクロック側の店舗が進出、侵略してきて、売上をうばわれ、結局、兄弟は自分たちの店をクロックのせいで失ってしまうという、悲しい結末になる道が始まったのだった)。 クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、近々できる[[ディズニーランド]]の中にマクドナルドの[[食堂]]を入れるよう、[[ウォルト・ディズニー]]にも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックは、[[イリノイ州]]デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、即大成功となる。1955年3月2日、新しい会社"McDonald's Systems Inc."(マクドナルドシステム会社)を作り、同年4月15日にクロックが直営店1号店をシカゴにオープンさせた<ref name="jasdaq0404">{{PDFlink|[https://www.jasdaq.co.jp/files/ir/JP3750500005/tool/20080317164015008/1111137284105.pdf 個人投資家向け会社説明会/日本マクドナルドホールディングス株式会社]}} [[ジャスダック|JASDAQ]] 2004年4月</ref>。1960年には、社名を[[マクドナルドコーポレーション]] ("McDonald's Corporation") に変更した。 === ロナルド・マクドナルド === クロックの[[マーケティング]]戦略のうちの一つは、家族向けの店舗にすること。特に子供を商売の対象とすることだった。[[1960年代]]初め、[[ワシントンD.C.|首都ワシントン]]でマクドナルドのフランチャイズ権をとって営業していたオスカー・ゴールドスティン (Oscar Goldstein) が、[[ウィラード・スコット]] ([[:en:Willard Scott|Willard Scott]]) というクラウン([[道化師]])が所属するBozo's Circus(荒くれ男のサーカス)という名の出し物のスポンサーについた。この出し物が中止されると、ゴールドスティンはマクドナルドの[[マスコットキャラクター]]としてウィラード・スコットを雇い、そのキャラクターはマクドナルドにちなんで「ロナルド・マクドナルド (Ronald McDonald)」と命名され、ウィラード・スコットはロナルド役で1963年から約2年間[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演した<ref>[https://getnews.jp/archives/5741 初代ドナルドは現在のドナルドとまったく似ていなかった!] ガジェット通信 2009年2月22日</ref>。 ロナルドは求められていた役に比べて少々太り気味だったが、この[[キャラクター]]が広告に出ることにより、マクドナルドのチェーン店は米国全土に広がった。続いてロナルド以外のキャラクターも開発されていった。 日本では販売戦略上の理由、および[[日本語]]話者には発音しづらい事から[[藤田田]]によって「[[ドナルド・マクドナルド]]」と訳されており、当初より子供向けCMに出演している。 === クロックによる経営権買収とマクドナルド兄弟の苦境 === クロックと兄弟との契約は、兄弟が生産工程について責任を負い、会社の株式による利益を受け取る。そのかわりにクロックが販売拡張の全責任を負うことになっていた。だが1961年までにクロックは拡張に失敗する。兄弟は、兄の引退も理由となって、[[1961年]]に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売り渡すことで合意した。クロックにとっては高額だが、長い眼で見ればメリットがあると判断、[[プリンストン大学]]などを含む多くの投資者からかき集めて兄弟の持つ株式を270万ドルで買い取った。 この契約では兄弟は「マクドナルド」の名称の使用は認められなかったために、やむなく自分たちの店を "The Big M"(ザ・ビッグM)という名称に変えて営業を続けた。しかし、クロックは<u>わざわざ兄弟の店のすぐ北側にマクドナルドの大型店舗を出店し、マクドナルド兄弟の店舗の売上を意図的に奪い</u>、その結果 マクドナルド兄弟の経営する"The Big M"は倒産してしまい閉店し、現存しない。 1984年1月にクロックは死去した。(本当の創業者はマクドナルド兄弟なのに)その1年間、マクドナルドは「"創業者" 追悼キャンペーン」と銘打ったセールを行った。これを知ったマクドナルド兄弟の弟リチャードは激怒したとされる。 <u>経営権委譲に伴う合意事項には、譲渡後もチェーンの売り上げの1%を将来的に支払うという「[[紳士協定]]」があった</u>が、契約書には組み込まれていなかったことをいいことに、<u>クロックの手に渡ったマクドナルド側はその紳士協定を守らなかった</u>。もし守られていたら、兄弟は年に3億6000万ドルを手にすることになっていたはずだった<ref>[https://biz-journal.jp/2017/08/post_20116.html マック、謎のベールに包まれた誕生と繁栄の秘密…実質的創業者を破綻させた「強欲経営」 | ビジネスジャーナル]</ref>。 === 拡張 === {{Main|:en:List of countries with McDonald's restaurants}} 以後マクドナルドコーポレーションは、世界の至るところに店を開いた。米国外で初めて進出した国は[[1967年]][[6月3日]]に1号店を開いた[[カナダ]]である。[[1971年]]には[[オセアニア]]([[オーストラリア]])、[[アジア]]([[日本]])、[[ヨーロッパ]]([[オランダ]])の各地域に初めて進出した。[[1990年]][[1月31日]]には[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]]で、[[東側諸国|共産圏]]として初めてのマクドナルドが開店した<ref>{{Cite web|和書|title=マクドナルド、ロシアで営業停止へ。ソ連時代の1号店オープン時はこんなに行列だった |url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_622801b9e4b0a7d5b8bcd5c0 |website=ハフポスト|date=2022-03-09 |accessdate=2022-03-15}}</ref>。 マクドナルドのビッグマックの価格は、[[ビッグマック指数]]と呼ばれ、通貨間の購買力平均価格の比較手段として使われた。この指標の考案者は[[イギリス]]の経済雑誌『[[エコノミスト]]』誌 (''The Economist'') である。マクドナルドの標準化は、同時に生活様式や経済活動の[[グローバリゼーション]]を意味した。 [[トーマス・フリードマン]]は自著の『[[レクサス]]と[[オリーブ]]の木』の中で、“黄金のM型アーチ理論”として「マクドナルドのある国同士は戦争を行わないだろう」と予言したが、1999年にアメリカ合衆国の[[コソボ紛争|セルビア爆撃]]によって破られている<!--ベオグラードには6軒のマクドナルドがあった-->。 === 競争激化 === アメリカをはじめとする先進国においては、より高価で高品質なハンバーガーや、より多面的サービスを提供している他のファストフードレストランチェーンとの競争が激しくなっている。 アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「[[バーガーキング]]」と「[[ホワイト・キャッスル (ファストフード)|ホワイト・キャッスル]]」より下で、ハンバーガーの食品品質は第15位だった。市場調査会社によればマクドナルドのシェアはここ5年で3%低下し、現在、15.2%である。健康的なイメージで売る[[サンドイッチ]]チェーンの「[[サブウェイ]]」が全米で第1位のシェアを持っている。 === 撤退と一時閉鎖 === ==== アイスランド ==== 2009年10月26日にマクドナルドとして初めて[[アイスランド]]国内全3店舗の閉鎖を発表することを明らかにした<ref>{{Cite news|publisher=ロイター|date=2009-10-27|url=https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-12127220091027|title=米マクドナルドがアイスランドから撤退へ、金融危機で採算取れず|accessdate=2011-02-14}}</ref>。撤退理由は折からの金融危機によって、自国生産が難しく輸入していた生鮮野菜などの輸入食材が、[[アイスランド・クローナ]]が金融危機で失墜して輸入関税が引き上げられて高騰し、採算が取れなくなったためとしている。撤退までの過去1年半の間はコストは通常の2倍にまで膨らんでいたこともあり<ref>{{Cite news|title=マックがアイスランド撤退|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2009-10-27|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091027/biz0910271135006-n1.htm|access-date=2022-12-03|archive-date=2009-10-30|archive-url=https://web.archive.org/web/20091030183416/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091027/biz0910271135006-n1.htm}}</ref>、採算を取れるまでに同国の経済状況が回復することは難しいと判断し、同国で事業を展開する複雑さから撤退を決めたとしている。 撤退発表以降営業最終日になった10月31日まで大勢の客が詰めかけ、商品の受け取りに20分待ち、ドライブスルー利用のために交通渋滞が発生し、マクドナルドも臨時従業員の増員で対応するなどの大盛況になった<ref>{{Cite news|publisher=AFP|date=2009-11-01|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2658375?pid=4836934|title=マクドナルド撤退のアイスランド、最後の「マック」に顧客が殺到|accessdate=2011-02-14}}{{Cite news|publisher=ロイター|date=2009-11-01|url=https://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-12232820091101|title=アイスランド、マクドナルドの最終営業日前に大行列|accessdate=2011-02-14}}</ref>。 ==== ロシア・ベラルーシ ==== {{Main|ロシアにおけるマクドナルド}} 2022年3月8日に、マクドナルドは前月に発生した[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]を受けて、[[ロシア]]国内の全847店舗を一時閉鎖することを発表した。同国内のマクドナルドでは約62,000人が勤務しているが、一時閉鎖期間中も給料の支払いは継続するとした<ref>{{Cite web|title=マックやスタバ、ロシアでの休業を相次ぎ発表|url=https://www.cnn.co.jp/business/35184630.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2022-03-14|date=2022-03-09}}</ref><ref>{{Cite news|title=米マクドナルド、月間5000万ドルの費用 ロシア店舗一時閉鎖で|url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-mcdonalds-cost-idJPKCN2L621C|work=ロイター通信|date=2022-03-10|accessdate=2022-03-14}}</ref>。一時閉鎖前日の3月13日は、ロシアで1号店として開店したモスクワの店舗でマクドナルドの商品を食べ納めしようとする市民などで混雑し<ref>{{Cite web|和書|title=「悲しいです」多くの市民が“食べ納め” ロシアでマクドナルドが最後の営業日|url=https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye6007426.html|website=TBS NEWS|accessdate=2022-03-14|date=2022-03-14}}</ref>、チーズバーガーやビッグマックなどの人気商品が高額転売された<ref>{{Cite web|和書|title=ビッグマック1個4140円!マクドナルド営業一時中断のロシアで高額転売、店には長蛇の列|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202203140000293.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2022-03-15|date=2022-03-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロシアでマックのチーズバーガー200万円超! 事業停止で高額転売…ユニクロにも波及?|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/302538|website=日刊ゲンダイDIGITAL|accessdate=2022-03-15|date=2022-03-15}}</ref>。 2022年5月にマクドナルドは、ロシアから完全撤退して店舗と従業員を他社に売却することを発表した。マクドナルドの商標やロゴなどは引き続き保有する<ref>{{Cite web|和書|title=人道危機「価値観に反する」 マクドナルド、ロシア完全撤退で声明|url=https://mainichi.jp/articles/20220517/k00/00m/030/028000c|website=毎日新聞|access-date=2022-05-17|date=2022-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|title=米マクドナルド、ロシアから完全撤退 旧ソ連「グラスノスチ」の象徴|url=https://www.cnn.co.jp/business/35187584.html|website=CNN.co.jp|access-date=2022-05-17|date=2022-05-17}}</ref>。 2022年6月、マクドナルドから店舗などを買収した後継企業は新チェーン店名を「[[フクースナ・イ・トーチカ]]」<ref group="注釈">[[ロシア語]]で「おいしい、ただそれだけ」という意味。</ref>とすることを発表した。まずは15店舗をロシアの[[建国記念日]]である同月12日にオープンした<ref>{{Cite web |title=ロシア版「マクドナルド」、新資本で再開 まず15店舗 |url=https://www.cnn.co.jp/business/35188846.html |website=CNN.co.jp |access-date=2022-06-13 |date=2022-06-13}}</ref>。 2022年11月、[[ベラルーシ]]でもロシアと同様の理由でマクドナルドが撤退した。その後継として、ロシアのフクースナ・イ・トーチカがベラルーシに進出した上でフランチャイズを展開することを明らかにし、同月22日から営業を開始することを発表した。[[ベラルーシの大統領|ベラルーシ大統領]]の[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]は「(マクドナルドが)撤退してくれてありがたい」と歓迎のコメントを出している<ref>{{Cite web|和書|title=ベラルーシ大統領、米マクドナルド撤退「ありがたい」 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3439532 |website=AFP通信 |access-date=2022-11-19 |date=2022-11-18}}</ref>。 ==== カザフスタン ==== 2023年1月、原材料の供給不足を理由として、[[カザフスタン]]から撤退することを発表した。同国農業省はマクドナルドがロシアから撤退したことにより、同国産の肉などの供給に問題が生じたためと説明している。その後、カザフスタン国内でマクドナルドのフランチャイズ店舗を運営していた「フード・ソリューションズKZ」は一部の店舗で独自に営業を再開したことを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=カザフの旧マクドナルド、ロゴなしで営業再開 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3448589 |website=AFP通信 |access-date=2023-01-26 |date=2023-01-26}}</ref>。 === ロゴマーク === {{Main|ゴールデンアーチ}} {{Gallery |title=ロゴマークの変遷 |footer=  |width=120 |lines=2 |File:McDonald's logo (1940-1948).svg|1940〜1948年 |File:McDonald's_1948_logo.png|1948〜1953年 |File:McDonald's_logo_(1953-1960).svg|1953〜1960年 |File: McDonald's 1960 logo.png|1960年〜1968年11月18日 |File:McDonald's 1968 logo.png|1968年11月18日〜2003年、2010年〜 |File:McDonald's logo.svg|赤地にゴールデンアーチと文字、1990年代から2000年代前半に使用 |File:McDonald'sshadow.svg|1993〜2010年 |File:McDonald's_Golden_Arches.svg|2006年〜 }} === 標語 === マクドナルドが[[2003年]]から全世界で開始した[[広告]]で「[[i'm lovin' it]]」(私のお気に入り)を統一[[標語]]としている。 {{Main|i'm lovin' it}} == システム == マクドナルドコーポレーションの[[ビジネスモデル]]は、他の多くの[[ファーストフード]][[チェーン店]]と若干異なる。通常のチェーンでも請求される[[特許]]料金、供給品、および販売の[[パーセンテージ]]に加えて、マクドナルドは[[賃貸]]料を徴収する。 [[フランチャイズ]]契約の条件として、ほとんどのマクドナルド[[店舗]]は、店舗の[[不動産]]をマクドナルドコーポレーションが所有する。フランチャイズ会社は売り上げの一部を賃貸料としてマクドナルドコーポレーションに支払う。マクドナルド創立者の1人 [[:en:Harry.J.Sonneborne|Harry.J.Sonneborne]] は「われわれの商売は不動産業である。われわれがハンバーガーを売る唯一の理由は、フランチャイズ会社がハンバーガーを売ったときの利益が、最も多くの賃貸料をわれわれにもたらすからだ」と言った。 {{Main2|各言語圏におけるメニュー|マクドナルドの商品一覧}} マクドナルドは、定期的な調査のために「[[ミステリーショッピング|ミステリーショッパー]]」と称する人物が、一般客に紛れ1セット注文する。店舗の質を向上させるため、採点項目にはスピード、清潔さ、商品の品質、サービスなどがある。 [[日本]]では[[2003年]]、[[昼]]のピーク時間帯 (12:00 - 13:00) に商品の受注から、注文の多少に関わらずレジ入力後1分以内に提供する「チャレンジ!60秒サービスキャンペーン」が展開された<ref name="tenpo">[https://www.mcd-holdings.co.jp/company/management_strategy/improvement_b.html 店舗でのサービス] [[日本マクドナルドHD]]</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jmrlsi.co.jp/scto/senryaku/senryaku05/mac05.pdf 日本マクドナルドホールディングス(2005年)]}} JMR生活総合研究所</ref>。時間内に提供できなければ、[[マックフライポテト|ポテト]]か[[コカ・コーラ|コーラ]]の引換券を添付した<ref>[https://www.mcd-holdings.co.jp/news/2003/area/area07oita.html 「チャレンジ!!60秒サービスキャンペーン」餅が浜店で先行開始] 日本マクドナルドHD 2003年7月</ref>。商品の注文点数にかかわらず時間は1分間一律だったため、セットメニューなどを注文すると1分以内に用意できない事例も発生した。一部の店舗では[[キャッシュレジスター|レジ]]入力途中で[[厨房]]に注文内容を伝え用意できてからレジ入力を終了することで実質1分を超えたとしても1分以内とした。全般的に店員の応対時間短縮の成果が出たり、客と店員の[[コミュニケーション]]が生まれるなどの相乗効果で概ね好評価を得た<ref name="tenpo"/>。 === 調理 === [[File:Container =【 20ft 】 STRU-2001---No,2 【 Marine container only for Japan Domestic 】.jpg|thumb|関西の契約工場より、沖縄地区へ[[内航船]]でマクドナルド社の下処理などが出来上がっている食材類を、冷凍食品として専用の20 [[フィート|ft]]形[[冷凍コンテナ]]で輸送している風景([[2008年]])。]] マクドナルドの[[ハンバーグ]]や[[ジャガイモ|ポテト]]は、[[セントラルキッチン]]から成型済みで搬入され、厨房では焼いたり揚げたりするだけで、店舗で細かい調理の必要がない。 焼く鉄板や揚げ油の温度、時間も定められている。若干の訓練を受ければ、誰が作っても同じ大きさ、同じ形、同じ味の商品が提供できる。調理工程も簡略化され、付け合せなども極力簡略化し、高速で調理できるようになっている。 商品提供システムとして「{{lang-en|Made For You}}({{en|MFY}}または{{en|M4U}}、メイド-フォー-ユー)」という、受注してから迅速に調理し、商品を完成させる新方式が導入された。全店導入時期は[[アメリカ合衆国]]が1999年、日本は[[2005年]]<ref name="bp021111">[https://www.nikkeibp.co.jp/archives/216/216023.html 日本マクドナルド、「厨房革命」で起死回生狙う] ([[ウェブアーカイブ|アーカイブ]])[[日経BP|日経BPネット]] 2002年11月11日</ref>。 その他「ダイレクトオペレーション」と称する、商品を作り置いて温蔵棚などに貯蔵し、受注後に取り出して販売する方式がある。作り置きはその時間帯の売り上げや客足などの予想を元に行うため、大半の場合は客を待たせず商品提供できる利点があった。味の劣化や、ハンバーガーを調理後10分で廃棄する社内規定で、予測誤りによる食品廃棄などの問題が発生し<ref name="bp021111"/>、[[環境問題]]などで批判される原因になった。{{en|Made For You}}システムでは、全ての顧客に出来立てを提供できるという利点もあり、売れ残りや[[食品|食材]]の貯蔵をなくし、ハンバーガーを作る[[コスト]]を下げた。当然ながら、このシステムでも受注分より多く作ってしまうことによる廃棄はあるが、総じて廃棄量は激減した<ref name="bp021111"/>。 消費者情報誌「[[コンシューマー・レポート]]」が、定期購読者のうち3万2405人の回答などを基に発表したところによると、マクドナルドのハンバーガーの味は、アメリカ合衆国の大手ハンバーガーチェーン全体の中で『最も不味い』という結果が出た<ref>{{cite news |title=調査でマックのハンバーガー「一番まずい」―株価にも影響か |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2014-07-04 |url=https://jp.wsj.com/news/articles/sb10001424052702304174304580008140580963532 |accessdate=2014-07-04 |author= Tomi Kilgore }}</ref>。 === 原料 === ハンバーガーのビーフ[[パテ (料理)|パティ]]は[[牛肉]]を使用している<ref>[https://www.mcdonalds.co.jp/cservice/information/q_a/q5.html 品質について - よくあるご質問] 日本マクドナルド</ref>。 地域によっては[[宗教]]上の観点から特定あるいは一切の肉類を食せない顧客向けに、[[鶏肉]]を使った「チキンマハラジャマック (Chicken Maharaja Mac)」「チキンマックカレーパン (Chicken McCurry Pan)」([[インド]]、[[#その他の国のマクドナルド|後述]])、肉を一切使わない[[ベジタリアン]]用のメニュー(Veg menu、[[#その他の国のマクドナルド|後述]])<ref name="all20070117">どこまで知ってる?世界のマクドナルド事情 - [https://allabout.co.jp/gm/gc/67025/ 1] / [https://allabout.co.jp/gm/gc/67025/2/ 2] / [https://allabout.co.jp/gm/gc/67025/3/ 3] / [https://allabout.co.jp/gm/gc/67025/4/ 4] / [https://allabout.co.jp/gm/gc/67025/5/ 5] [[All About]] 2007年1月17日</ref>、[[ホキ]]という[[深海魚]]や[[スケトウダラ]]を使った「[[フィレオフィッシュ]](FishMac)」(各国)など、[[食のタブー]]に配慮したメニューが用意されている。 日本における「[[てりやき]]マックバーガー」や2007年6月〜7月に発売されていた「メガてりやき」、2007年7月から発売された「マックポーク」に使われているパティは[[豚肉|ポーク]]で、マクドナルドでは豚肉の使用を明記している。 日本における「[[チキンナゲット]]」は以前約2割を米国[[OSIグループ]]の傘下である<ref>[http://gohoo.org/alerts/140724/ 上海の期限切れ肉 米国系企業と伝えず報道] (2014.7 [[GoHoo]])</ref> 中国食肉加工会社の「上海福喜食品」から仕入れていたが、使用期限を半月過ぎた鶏肉を使用していたことが発覚し、2014年7月22日に該当商品の販売が停止した<ref>[https://jp.wsj.com/news/articles/jj12090517546635723622920371602600100407994?tesla=y&tesla=y&mg=reno64-wsj チキンナゲットの2割調達=期限切れ肉使用工場から—日本マクドナルド] [[時事通信社]]([[The Wall Street Journal]])</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDC2200H_S4A720C1MM8000/ ファミマとマクドナルド、チキンの一部販売停止 中国製、期限切れ疑いで] [[日本経済新聞]]</ref>。 === ドライブスルー === [[ファイル:Mcdonalds Japan 06.jpg|thumb|[[日本]]のドライブスルー併設店舗の一例([[2006年]])]] [[ドライブスルー]]は[[日本]]国外で「マックドライブ」と呼称される。利用手順は[[車両]]を[[メニュー]]が掲示された[[マイク]]前に移動し注文する。この際店員から支払い金額が請求される。 通常はマイク越しに店内にいる[[ヘッドセット (音響機器)|インカム]]を装着した店員に話し掛けることになるが、一部店舗では休日のピーク時を中心に、移動型の[[キャッシュレジスター|レジ]]を伴った店員に直接話し掛ける状況もある。この場合もレジは[[有線通信|有線]]で店内のシステムに直結しているため店内のMade For Youシステムへも注文が直接伝わる。WOT(Wireless OrderTaker, ワイヤレスオーダーテイカー)と称する小型の[[タッチパネル]]端末で受注することもある。WOTはほとんどの場合[[コーポレートカラー]]である赤色の肩掛けケースに入れられている。WOTは注文を無線方式で[[厨房|キッチン]]へ伝達するため混雑時に店内で用いられることがある。この場合、[[決済]]や[[レシート]]発行はカウンターのレジで行う。導入極初期はテレビ画面に映る店員に向かって注文する形だったが、その後テレビは撤去されてメニュー板のみになっていた。近年の店舗ではマイクの下に注文を表示するディスプレイが導入されている。 その後順路に沿って車両を進めると商品受け渡し口がある。まず代金を支払い、袋などに入った商品を受け取る。一部の古い店舗で見られる受け渡し口手前の使用されていない窓口もしくはその跡は、かつて代金の支払いと商品の受け渡しを別々の窓口で行っていた名残である。現在もこの形態を採る店舗も存在し、休日のピーク時のみ支払いと受け渡しが異なる店舗も存在する。近年に新規開店した店でも、ピーク時以外でこの方式が採用されている場合もある。雨が多い地域では商品を濡らさないために配慮されており、日本の店舗では受け渡し口に通常屋根がある。マックカフェバイバリスタ取扱店舗かつマックカフェドライブスルー対応店舗では、代金支払い、ハンバーガーなどの通常商品受取、マックカフェ商品専用受取の計3か所受け渡し口がある店舗も存在する。商品を受け取った後に車両を進めると[[公道]]へ出る。 購入商品が多いなど受け渡しまでに時間を要する際、ドライブスルー進行[[レーン]]から外れた待機場所で待たされる。多くの場合、店員が商品を車両まで運搬する。 ドライブスルーは主に[[普通乗用車]]などを対象としているが、[[オートバイ]]や自転車など二輪車両での利用は、商品受け取り後の走行や[[自動車]]による追突など安全上の理由で、店舗によっては断られる場合もある。[[トレーラー]]や[[貨物自動車|トラック]]の場合車両限界などで利用できない場合もあるが、これらに配慮したドライブスルー設置店舗も[[幹線道路]]沿線に見られ、送迎や路線など[[バス (交通機関)|バス]]での利用もある。 === 店内の接客 === 店内で食べる場合でもレジで代金を支払った客がその場で商品を載せた[[トレイ]]を受け取り、そこから席まで客が自分でトレイを運ぶ[[セルフサービス]]である。店内で購入した商品を持ち帰ることも可能である。2019年頃からテーブルデリバリーと称するサービスを実施する店舗も存在し、代金支払い後店員がトレーに乗せた商品をテーブルまで届ける場合もある。 喫食後はトレイ上の物をすべて[[ゴミ箱]]へ入れるため食器の回収と洗浄の必要がないが、必ず廃棄物が生ずることが批判された。現在、ほとんどの商品が紙包装だが、ストローなど多少の[[プラスチック]]素材もある。以前は[[発泡スチロール]]製容器が多用されたが、今はほとんど使われない。 === 店舗の運営 === マクドナルドでは店舗を[[船]]に見立て店員を'''「[[クルー]] (CREW)」'''と称する。ほとんどの店員は[[パートタイマー|パート]]か[[アルバイト]]で、これを通常1名以上の'''「[[マネージャー]] (MGR)」'''と称する[[社員]]で統括する。1人の社員が統括する店舗が複数ある場合に不在が多くなるため、店員の出勤時間帯配置などの管理業務をパートやアルバイトの立場で併せて行う'''「スウィング・マネージャー (SW-MGR)」'''と称する階級がある。他にクルーの教育などを担当する'''「クルー[[トレーナー]] (CREW TRAINER)」'''などがある。通常は年中無休だが、インストア型と称される[[ショッピングモール]]などに入る店舗は休業日の設定もある。 ==== 日本 ==== 日本の店舗形態は通常(トラディショナル)店舗と[[サテライト]]店舗に分かれる。 サテライト店舗は厨房が狭く以前はメニューも限定だったが、低支出の出店が可能で1990年代に数多く開店した。サテライト店舗は必ずしも母店舗となるトラディショナル店舗を持つことはなく基本的に単独経営である。 近隣店舗間で、賞味期限や仕入れの過不足などの理由で、食品移動や小銭の両替も行われている。 近隣店舗といえど、店長の上職であるOC(Operating Consultant, オペレーティングコンサルタント)は近隣店を兼務しないので、各店舗の社員個人による異動元ないし同店勤務人の異動先への「お願い」型式で成立するのが普通である。 マクドナルドの看板は赤い背景色に黄色の文字であるが、[[京都市]]などの一部店舗は、[[景観保護条例]]による規制で、背景色が茶色などである<ref>{{Cite web|和書|title=赤くないマクドナルドに青くないローソン…“京都のルール”に対応した、大企業の“京風の一手” |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/671113?display=1 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-08-20 |access-date=2023-08-20 |publisher=TBSテレビ |author=NEWS DIG編集部 |page=2}}</ref>。[[東京都]][[豊島区]]の[[巣鴨]]店では、英語由来の語に不馴れな高齢客が多く、'''[[マックフライポテト|ポテト]]'''→'''おいも'''、'''[[チキンマックナゲット|チキン]]'''→'''とりにく'''、'''[[ドリンク]]'''の'''S・M・L'''→'''のみもの'''の'''小・中・大'''など一部を日本語表記している。2007年から地域別価格制度が導入されたが、2015年に実質上廃止される。 {{main|日本マクドナルド#地域別価格}} === 店舗イメージの変化 === [[ファイル:McDonald's・Tokyo, Japan 01.jpg|thumb|改装された[[24時間営業]]実施店]] [[ファイル:SedonaAZ McDonaldsTurquoiseArches.jpg|thumb|[[アリゾナ州]][[セドナ (アリゾナ州)|セドナ]]のマクドナルド店舗。外観をこの地域でよく見られる[[アドベ|アドビ]](日干しレンガ)調にし、Mの[[アーチ]]を[[ターコイズブルー]]にするなど、周囲の[[環境]]と調和した店舗にしている。]] [[ファイル:Mcdonalds Japan 07.jpg|thumb|一般的な店内内装・日本の店舗の一例]] [[ファイル:Kobe Sannomiya04s3000.jpg|thumb|日本の店舗外観の一例。2階と3階が客席のフロアになっている。]] 21世紀になってからマクドナルドの店舗イメージが変化している。旧来型店舗イメージは赤い背景色に黄色い文字の看板がもたらす印象のアメリカンテイストを取り入れたデザインで、内壁はシンプルな白地を用い、小物や内装はところどころに赤や青の原色系を塗り込んだプラスチックとビニールが主材で、ある種のチープインテリアを目指していた。赤色の内装は落ち着きを失わせ客の回転を早める効果も兼ねていた。 ==== 日本 ==== 2006年以降に営業時間の延長を試みて24時間営業店舗が増加したが、採算性やクルーの確保困難などにより再度24時間営業を廃止する店舗が増えた。 集客目的で、2000年代後半から数社の[[公衆無線LAN|Wi-Fiスポット]]を提供し、電源サービス[[コンセント]]を設ける店舗もある。 2018年からハッピーセットのおもちゃを全国の店舗で回収し、店内で使用するトレイにリサイクルする「おもちゃリサイクルプロジェクト」を定期的に行っている<ref>{{Cite web|和書|title=マクドナルドのハンバーガーを食べたら「エシカル消費」になる理由。ベンチャーや新聞社ともタッグ|url=https://www.businessinsider.jp/post-202027|website=www.businessinsider.jp|date=2019-11-08|accessdate=2020-01-10|language=ja|first=竹下|last=郁子}}</ref>。 なお、ハッピーセットは、[[1979年]]よりアメリカでHappy Meal(ハッピーミール)として販売されていたものを、日本に合わせてローカライズしたもので、[[1987年]]にお子様ランチとして登場し、[[1995年]]にハッピーセットに改称された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/special/59439/ |title= ハッピーセット、常に“2年先”のトレンド追いかけ35年「付属のおもちゃは“知育玩具”ではない」 |website= |publisher=[[オリコン]] |date=2022-06-19 |accessdate=2022-06-19}}</ref>。 === 店舗の形態 === マクドナルド店舗の形態は3種に大別できる。 ; 都市型店舗 : 通常の店舗は座席付きの食堂で、楽しく過ごすため、外出時に手軽に迅速に食事を済ませるため、などの機能を持った店である。 : 駅前、繁華街、商業施設内などにあり敷地の都合上駐車場はない。 : イベント会場や学校内店舗では厨房とカウンターのみを設置し、客席は当該施設のものを使用することも多い。 ; 郊外型店舗 : 郊外型店舗はドライブスルーを備える(参照:[[#ドライブスルー|システム>ドライブスルー]])。店舗内注文も可能で注文カウンターも備えている。多くはハイウェイ沿いで、市街地辺縁か大都市間の小さな町にある。 ; ハイウェイ沿いの「McDrive」店舗 : ハイウェイ上のパーキングエリアのような場所にある純然たるドライブスルー店舗で客席はないことが多く、客は駐車場あるいは運転中に自分の車内で食べる。 この他に特別なテーマをもった店舗が存在する。具体的にはロックンロールマクドナルド、1950年代風食堂など。郊外の新しい店舗にはマクドナルドプレイランドという大きな遊戯施設を持つものが多い。多くは屋内だが屋外のこともある。 黄色の「[[ゴールデンアーチ]]」と呼ばれるマクドナルドのマークは、マクドナルド店舗の位置を示すため高いポールの上に設置されることが多い。日本ではこれをサインポールと呼ぶ。このマークに使われている赤と黄色は、広告を活用する多くの会社がよく使う配色でもある。 [[出前]]が可能な店舗が一部に存在し、一度に所定金額以上注文の場合に適用される<ref name="all20070117"/>。 === ハンバーガー大学 === マクドナルド従業員の訓練施設として、トレーニングセンターとは別に[[ハンバーガー大学]]が米国を含む7か国に存在する。トレーニングセンターは各国にある。 ==== アメリカ本校 ==== {{Main|en:Hamburger University}} ハンバーガー大学はマクドナルド従業員教育用施設。[[イリノイ州]]オークブルックの[[シカゴ]]郊外に130,000[[平方フィート]](12,000[[平方メートル]])の広さで、米国のマクドナルド社が所有する。70,000人以上のマネージャーが「卒業」して30人程度の「教授」が所属する。「大学」は1961年にイリノイ州Elk Grove Villageに設立された。1960年代前半の初期学生は企業利益向上を目的として「卒業」までに化学、マーケティング、調理などのコースを確実に修了しなければならなかった。卒業生の"McDegree"にはマクドナルド商品の経済的な品質向上を研究する部門に就く者もいた。現在の規模は1クラス当たり平均200人以上。 ===== 概要 ===== * ハンバーガー大学のキャンパス面積は80[[エーカー]](320,000平方メートル)。 * 22人の国際的な常勤教授が駐在し、119か国以上の学生を指導。 * 最先端の施設内に対話的教育用教室17、特別活動用教室5、300席の講堂がある。 * ハンバーガー大学の翻訳者は27以上の異なる言語を同時通訳可能。 * 従業員は初月にハンバーガー大学で約32時間学ぶ。 * 毎年5,800人以上の学生が学ぶ。 ==== 日本校 ==== [[日本マクドナルド]]本社([[新宿アイランドタワー]])38階にある。 2005年7月、ハンバーガー大学の {{en|Basic Shift Management Course (BSM)}}と、{{en|Advanced Shift Management Course(ASM)}}の2つのコースが、[[若年者就職基礎能力修得支援事業]](Yes-Program)の認定を受けた。 == イメージキャラクター == === ロナルド・マクドナルド === [[File:RonaldMcDonald Wai.JPG|thumb|[[合掌]]をする[[ドナルド・マクドナルド]]([[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]])]] [[マクドナルドランド]]を舞台に、ロナルド(日本名:[[ドナルド・マクドナルド]])、グリマス、バーディ、ハンバーグラー、フライガイという子供をターゲットにした[[マスコット]][[キャラクター]]がいる。中心となるキャラクターはロナルドである。これらは[[ハッピーセット]]という子供向けセットに添付される玩具になったり[[コマーシャルメッセージ|CM]]に登場したり、過去には[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]や[[メガドライブ]]のゲームソフトとして発売されたこともあった。これらのキャラクターの利用は全世界共通であり、多くの国では店舗前に人形が置かれている。「ゴミはゴミ箱へ」と啓発するロナルドを象った[[ピクトグラム]]が包装や容器、カップに描かれている。多国の言語を話すことができる設定となっており、[[日本語]]<ref group="注釈">方言は使わない。</ref>、[[オランダ語]]、[[タガログ語]]、[[ヒンディー語]]など31か国語がその対象である。「ロナルド・マクドナルド」の呼称は国により異なる場合がある。 日本では「ドナルド」と呼ばれ、フルネームは「ドナルド・マクドナルド」で、マクドナルドが姓にあたる。通常は単に「ドナルド」と呼ばれて姓の部分は略される。名称が類似する[[ディズニー]]の[[ドナルドダック]]や、[[きかんしゃトーマス]]のドナルドは無関係である。 日本では[[1990年代]]後半までドナルドが言葉を発するCMが多かったが、[[2000年]]ごろから無口となり「ドナルドはしゃべらないキャラクター」の印象となった。[[2004年]]のCM「ドナルドってしゃべるの?」で数年ぶりにドナルドが言葉を発した。前述の回答でドナルド自身は「おしゃべり好き」であった。 {{Main|ドナルド・マクドナルド}} === ビッグマックポリス === [[File:Officer_big_mac_playground.jpg|thumb|[[ビッグマックポリス]]]] 以前は[[ビッグマックポリス]]というイメージキャラクターもいたが、現在は全世界で使用が中止されている。警官であるビッグマックポリスがドナルドなどを監視する印象を与えるためと説明がされている。「平和なマクドナルドランドに警察はいらない」とする説もある。社内では「子供から怖がられるキャラクター」<ref group="注釈">実際にイベントのドナルドマクドナルドショーで泣く子供もいた。</ref>として排除されたとも喧伝される。2014年1月から行われている「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入る[[LINE (アプリケーション)|LINE]]の限定スタンプでスタンプが登場している<ref name="line">[http://entabe.jp/news/article/3662 マック×LINE 「アメリカンヴィンテージ」対象商品購入で限定スタンプがもらえる! - えん食べ]</ref>。 {{Main|ビッグマックポリス}} === ハンバーグラー === [[File:Cosplayer of Hamburglar holding a smartphone 20191215.jpg|thumb|[[ハンバーグラー]]の[[コスプレ]]([[台湾]])]] ハンバーガーが大好きで、他人のハンバーガーを盗んでしまう[[悪役]]キャラ。初期の頃はドナルド同様、生身の人間が仮装した姿だった。黒いハット帽子に黒いアイマスク。そして囚人服を思わせる白黒のボーダー上下服。ハンバーガーを「取る」たびに、警官のビッグマックポリスに追い回された。ハンバーガーを盗み取る魔法も使える。CMの最後で必ずドナルドがドナルドマジックの魔法で彼を懲らしめた。平成以降に被り物キャラで一時的に復活していたが近年は見られなくなった。マクドナルドのウェブサイトで[[キッズコーナー]]にハンバーグラーのぬりえがある。2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している<ref name="line"/>。また、2023年12月から2024年1月にかけて実施された「[[ゴジラ]]VSマクドナルド [[BE@RBRICK]]」コラボでは、グリマス、バーディと共にベアブリック仕様で登場した<ref name=":1">{{Cite web |title=夢の初コラボレーション決定! 新年は「ゴジラVSマクドナルド」で始動! 第一弾「ゴジラVSマクドナルド BE@RBRICK」 |url=https://www.mcdonalds.co.jp/company/news/2023/1219a/ |website=www.mcdonalds.co.jp |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。 {{Main|ハンバーグラー}} === グリマス === マックシェイクが大好きな紫のキャラクターで、{{いつ範囲|近年|date=2016年4月}}はあまり姿が見られなくなったが、ハンバーグラーと同様、現在もキッズコーナーのぬりえや2014年のLINEスタンプで見られる<ref name="line"/>。2023年12月~2024年1月の「ゴジラVSマクドナルド BE@RBRICK」コラボでは、ハンバーグラー、バーディと共にベアブリック仕様で登場している<ref name=":1" />。 {{Main|グリマス}} === バーディ === [[朝マック]]をイメージした鳥のキャラクターで、明るく活発だが少しお転婆な性格である。21世紀以降は日本で見かけることは少なかったが、2014年1月の「アメリカンヴィンテージ」キャンペーンで、特定の商品を購入すると手に入るLINEの限定スタンプに登場している<ref name="line"/>。2023年12月~2024年1月の「ゴジラVSマクドナルド BE@RBRICK」コラボでは、ハンバーグラー、グリマスと共にベアブリック仕様だが再共演を果たした<ref name=":1" />。 {{Main|{{仮リンク|バーディー (マクドナルド)|en|Birdie the Early Bird|label=バーディ}}}} === フライキッズ === [[マックフライポテト]]のイメージキャラクターで、男児を「[[フライガイ]]」、女児を「[[フライガール]]」と呼び、「-キッズ」は彼らの総称である。[[ポンポン]]に足が生えたような姿をしている。めがねをかけた者や[[ポニーテール]]または[[ツインテール]]をなびかせた者等数体存在する。 === スピーディー === [[File:1950's sign 2017-05-17 131.jpg|thumb|1950年代の看板におけるスピーディー]] 創業当初は、マクドナルド兄弟が考案したマスコットキャラクターのスピーディー (Speedee) が運用されていた<ref name="Withnews20210531">{{Cite web|和書|title=マクドナルドの「スピーディー」って誰? 期間限定で登場中のキャラ|url=https://withnews.jp/article/f0210531005qq000000000000000W00o10101qq000023094A|website=[[ウィズニュース]]|accessdate=2021-07-26|author=若松真平|date=2021-05-31|publisher=朝日新聞社}}</ref>。ハンバーガーのような頭にコック帽をかぶった人物としてデザインされている{{R|Withnews20210531}}。日本マクドナルドは具体的な誕生年は不明で、2021年5月現在でアメリカ合衆国のマクドナルドでは通常の商品のデザインとして用いられていないとしている{{R|Withnews20210531}}。 日本のマクドナルドでキャンペーンの景品などのデザインに複数用いられている{{R|Withnews20210531}}。1990年代にマグカップやグラスが登場し、2020年1月に福袋の景品としてグッズが用意された{{R|Withnews20210531}}<ref>{{Cite web|和書|title=【2020年福袋特集】マクドナルドの福袋(3,000円)を大公開! お得を超えて「買わなきゃ損レベル」の福袋に生まれ変わる|url=https://rocketnews24.com/2019/12/25/1302423/|website=ロケットニュース24|date=2019-12-25|accessdate=2021-07-26}}</ref>。2021年に日本マクドナルド創立50周年を記念して一部の商品の容器や包装にスピーディーがデザインされた{{R|Withnews20210531}}。 === その他(キャラクター) === この他にもMayor McCheeseなど、独自キャラクターを設定している地域もあり、アメリカではミックとマックという2人の少年もマスコットキャラに指定されている。日本の事例として、2009年8月 - 11月に期間限定発売された「NIPPON ALLSTARS」シリーズの宣伝キャラクターとして「Mr.ジェームス」を採用したことがあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/trend/2009/08/10047181.html|title=日本マクドナルド 「NIPPON ALL STARS」キャンペーンに登場するナゾの米国人「Mr.ジェームス」とは!?|website=[[J-CAST]]|date=2009年8月10日|accessdate=2021-07-26}}</ref>。 == 問題 == {{Main2|日本での問題|日本マクドナルド#日本マクドナルドに関する諸問題}} === アメリカ資本主義の象徴 === マクドナルドはその事業規模と影響力の大きさから、しばしばアメリカの大量消費文化や[[アメリカ帝国]]による経済支配<ref>[[アメリカニゼーション]]</ref>の象徴と考えられ、各国の[[民族主義]]派・[[保守]]派や、環境保護活動家、[[反グローバリゼーション|反グローバリズム]]運動家の攻撃目標になるケースが少なくない。 [[反米]][[デモ活動]]では[[ケンタッキーフライドチキン]]や[[ザ コカ・コーラ カンパニー]]と同様に店舗が襲撃される。特に[[湾岸戦争]]や[[イラク戦争]]などでアメリカが他国に侵攻する期間、[[中東]]の店舗は放火されたり破壊されたりした。[[イギリス]]では、批判的な活動家が[[ロンドン]]にある店舗を爆破し、逮捕された。 イラク戦争時にロンドン、[[パリ]]、[[チューリッヒ]]などの店舗前で反米デモが激しく、[[メキシコシティ]]では「[[ハンバーガー]]1つが[[アメリカ軍]]の[[銃弾]]1発」という言葉が生まれた。[[大韓民国]]環境団体の会員らがマクドナルドの大型看板に登り「[[M]]」字の下に「{{en|AD WAR}}」と書かれた垂れ幕をかけて「{{en|[[きちがい|MAD]] WAR}}(狂った[[戦争]])」と叫ぶデモ活動をした。 [[1999年]]5月7日に[[コソボ紛争]]の「[[アライド・フォース作戦]]」で[[アメリカ空軍]]機が駐[[ユーゴスラビア]][[中華人民共和国]]大使館を[[誤爆]]したときは、[[北京市]]でマクドナルド10店舗を中国人が襲撃した。 [[ファーストフード]]は手軽さと高カロリーから「肥満の主犯」とされた。マクドナルドは、可能な限り材料を当事国で調達して各国文化を考慮したメニューを採用している。肉類を避けるインド人のためにベジタブルバーガーを開発した。 === 不健康 === [[2004年]]には、マクドナルドに代表されるファーストフード業界の健康破壊をテーマに「1か月間、3食マクドナルドの[[ハンバーガー]]だけを食べて過ごしたらどうなるか」を監督が自ら試みた[[ドキュメンタリー映画]]『[[スーパーサイズ・ミー]]』が公開され、[[第77回アカデミー賞]]の[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]にノミネートされた。2011年に550超の団体が肥満抑制のためにロナルド・マクドナルドの引退を要請している<ref name="マクドナルドに「ジャンクフード販売」中止要請―ロナルドにも引退勧告">Julie Jargon [http://jp.wsj.com/Business-Companies/node_237806 マクドナルドに「ジャンクフード販売」中止要請―ロナルドにも引退勧告](ウォール・ストリート・ジャーナル日本版、2011年5月18日)</ref>。 ; アメリカのマクドナルド - 調理油切り替え遅れ和解金9億円支払い : マクドナルドは[[2002年]]9月に、心臓疾患などの原因と指摘された「[[トランス脂肪酸]]」を減らすため、[[2003年]]2月までに[[マックフライポテト]]など揚げ物の調理油を[[ショートニング]]から健康に配慮した新しいタイプに替えると発表した。2003年2月に実施遅れを公表したが、健康問題活動家らが消費者へ告知が不十分だったとして損害賠償などを求めて[[カリフォルニア州]]の地方裁判所に提訴した。マクドナルドは2005年2月に和解金など計約850万ドル(約9億円)を支払うことを発表した。 ; 日本における調理油切り替え : 日本はかつて調理油の一部に牛脂を用いており、2004年の[[牛海綿状脳症|BSE]]蔓延時に一時的に植物油100%に切り替えた。2018年現在、日本マクドナルドの公式ウェブサイトは、トランス脂肪酸なしの[[パーム油]]に牛脂をブレンド、としている。 ==== 対応 ==== マクドナルドは、メニューに食材の生産地や食物アレルギー対応<ref>[https://archive.is/20160623023948/http://www.mcdonalds.co.jp/quality/allergy_Nutrition/allergy2.php?id=1 外部リンク]</ref> を細かく明記している。[[シェフ]]で[[イギリス人]]としては初めて、かつ歴代最年少で[[ミシュランガイド|ミシュランガイド三ツ星]]を獲得したマルコ・ピエール・ホワイトは「商品には一貫性があり、価格に対してその品質は優れている。アイルランド産など徹底した品質管理を行なっているにもかかわらず、この事実はあまり知られていない。」と意見している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japanjournals.com/dailynews/070301/news070301_2.html |title=3/1 「下手なレストランより優秀」――元ミシュラン三ツ星シェフが「マクドナルド」を絶賛 |accessdate=2007年3月6日 |website=JAPAN JOURNALS LTD. |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070314001808/http://www.japanjournals.com:80/dailynews/070301/news070301_2.html |archivedate=2007年3月14日}}</ref>。 ==== 栄養の改善を要請 ==== 2011年に専門家らはマクドナルドに対して、子供を対象とした飲食品に高カロリー、高脂肪、多い砂糖、高塩分の[[ジャンクフード]]の販売中止、おまけをつける販売の中止、ロナルド・マクドナルドを引退させることを要請している<ref name="マクドナルドに「ジャンクフード販売」中止要請―ロナルドにも引退勧告"/>。 ==== カリフォルニア州での例 ==== 児童肥満対策としてアメリカ・カリフォルニア州は2010年11月、「ハッピーミール」(日本では「[[ハッピーセット]]」)など高カロリーでおまけ付き子供用セットメニューの販売を禁じる条例を可決した。この条例はマクドナルドに限らず全てのファストフードショップに適用される<ref>[https://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111001000484.html 肥満防止でマックのおまけ禁止 米、条例を可決] 共同通信 2010年11月10日</ref>。 ==== 集団食中毒の発生 ==== マクドナルドの衛生管理は、生産地から店舗までのプロセスごとに[[HACCP]]などの国際規格をベースに厳格な体制が採られている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.mcdonalds.co.jp/scale_for_good/our_food/food_safety/ |title=食品安全・品質への取り組み |publisher= マクドナルド|accessdate=2020-09-28}}</ref> が、2018年、アメリカ・[[ニューヨーク州]]などを中心に汚染された[[サラダ]]を原因とする[[サイクロスポーラ]]症による500人以上の集団食中毒を発生させている<ref>{{Cite web |date= 2018-08-24|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35124532.html |title= 米で500人以上が食中毒、マクドナルドのサラダに寄生虫|publisher=CNN |accessdate=2018-09-01}}</ref>。 === 訴訟多発 === マクドナルドはそのイメージと[[著作権]]、[[商標]]に関する訴訟をしばしば起こす。例として100年前からあるような小さな家族経営の店にも、マクドナルドは訴訟を起こしたり、[[スコットランド]]にある「マクドナルド」という名称の個人経営の[[カフェ]]に対する名称使用停止の訴訟がある。 マクドナルドは、イギリスの歴史において最も裁判期間の長い民事裁判の記録を持っている。これはしばしば「{{仮リンク|マクドナルド名誉棄損裁判|en|McLibel case}}」(McLibel trial) と呼ばれる。これは、ロンドン通りでマクドナルドを中傷するビラを配ったとして、マクドナルドが環境活動家2名を名誉毀損で告訴したもの<ref>[https://www.mcspotlight.org/case/index.html The McLibel Trial] McSPOTLIGHT</ref>。 === 労働条件訴訟 === 2014年3月、アメリカの[[ニューヨーク州]]、[[カリフォルニア州]]、[[ミシガン州]]で、無給待機の強制、制服購入費ならびに制服洗濯費などの名目による[[給与]]からの天引きによる減額された[[賃金]]は、法令で定める[[最低賃金]]を下回る違法賃金に当たるとして、従業員から提訴された<ref>{{Cite news |title= 待機時間も給与支払いをと提訴 米マック従業員訴|date= 2014-03-14|url= https://www.47news.jp/CN/201403/CN2014031401001503.html|accessdate= 2014-03-14|agency= [[共同通信]]|publisher= [[47NEWS]]}}</ref><ref>{{Cite news |title= 米マック従業員 3州で一斉提訴|newspaper= [[東京新聞]]|date= 2014-03-14|url= https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014031402000239.html|accessdate= 2014-03-14}}</ref>。 === フランチャイズとの対立 === 1995年ごろから、マクドナルドの[[フランチャイズ]]店は、マクドナルドコーポレーションに不満を抱くようになった。マクドナルドがあまりにもあちこちにフランチャイズ権を与えたので、フランチャイズ店舗同士が競合しあうようになったのである。マクドナルドはこの頃から、フランチャイズ権を与える前に市場への影響調査を行うようになった。 === イスラエルとの関係 === マクドナルドが[[イスラエル]]支援企業だとして[[パレスチナ国|パレスチナ]]支持派や[[ムスリム]]にたびたび批判されている。例えば、日本国内のパレスチナ支持派の[[パレスチナ情報センター]]は、マクドナルドの元会長兼CEOのジャック・M・グリーンバーグがシカゴのアメリカン・イスラエル商工会議所の名誉会長であることや、マクドナルドがイスラエルを支援する「Jewish United Fund (ユダヤ人基金)」 及び「Jewish Federation (ユダヤ人協会)」の主要な企業パートナーであることを批判している<ref>[http://palestine-heiwa.org/choice/list.html パレスチナ情報センター]</ref>。 2008年から2009年に行われた[[ガザ紛争 (2008年-2009年)|イスラエルのガザ紛争]]では、[[インド]]や[[マレーシア]]のムスリムグループによりマクドナルドを含んだ「イスラエル支援企業」に対して不買運動が呼びかけられ、マレーシアの[[マハティール・ビン・モハマド]]首相も国内のマクドナルドの社員に辞職を呼びかけた。[[フランス]]の[[パリ]]では抗議者がマクドナルド店舗の窓を破壊した<ref>[https://www.irishtimes.com/news/calls-for-boycott-of-israel-at-dublin-protest-1.834477 Calls for boycott of Israel at Dublin protest](アイリッシュ・タイムズ、2009年1月17日)</ref><ref>[http://industry.bnet.com/food/1000364/starbucks-mcdonalds-coca-cola-face-boycotts-over-gaza-attacks/ Starbucks, McDonald’s, Coca-Cola Face Boycotts Over Gaza Attacks](BNET FOOD、2009年1月12日))</ref><ref>[https://timesofindia.indiatimes.com/city/lucknow/Fatwa-for-boycott-Israeli-goods/articleshow/3995481.cms Fatwa for boycott Israeli goods](ザ・タイムズ・オブ・インディア、2009年1月18日)</ref>。この事件でも見られるように「イスラエル支援企業」として、[[ザ コカ・コーラ カンパニー]]や[[スターバックス]]、[[H&M]]などもマクドナルドと同時に批判される場合が多い。 == 各地域における特徴ある事柄 == [[ファイル:Liberdade in Sao Paulo 002.JPG|thumb|[[ブラジル]]、[[サンパウロ]]市の[[日本人街]]、[[リベルダージ]]内のマクドナルド。書体が日本のものと違う。]] [[File:Budapest Mc Donald 2.jpg|thumb|ハンガリーの[[ブダペスト西駅]]にあるマクドナルド]] [[ファイル:Mcdelivery.JPG|thumb|韓国のマック・バイク]] * [[ベルギー]]や[[スペイン]]など、[[ビール]]を取り扱っている地域もある<ref name="all20070117"/>。スペインではセットメニューのドリンクにてビールを追加料金なしで選ぶことが出来る。 * [[ドイツ]]のマクドナルドは主要駅から降りてすぐ、といったところに組み込まれて設置されていることが多い。値段が高額なためか、集客率は高くない。これはマクドナルドよりも安価な[[ケバブ]]が普及していることなど、移民の解放に伴い外食産業の幅が非常に広くなったためである。 * [[ハンガリー]]の[[ブダペスト西駅]]舎内にあるマクドナルドは高級感にあふれ、一般的に[[日本人]]のイメージするマクドナルド店舗のイメージからかけ離れている。そのため、「世界一美しいマクドナルド」などとも形容されることがある。値段はハンガリーのレストランと変わらないくらい高額になる場合がある。 * [[オランダ]]では独自のハンバーガーの[[クロケット]]バーガーや[[サテ]]バーガー(ピーナッツソース)がある。ポテトはマヨネーズつきで、スイーツはオランダのリンゴケーキ、アペルタルトと、オランダの有名コーヒー会社のアラビカ100%のこだわりコーヒーであり、オランダの食文化と旧植民地の[[インドネシア]]の食文化が融合していて水準は日本と比べ物にならない。[[シーザーサラダ]]も注文できるが値段は近辺のレストランと同等かそれ以上になる可能性がある。 * [[ソビエト連邦の崩壊]]後の[[ロシア]]では、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]前までマクドナルドが[[タコベル]]などに比べて人気があった。[[サンクトペテルブルク]]の地下鉄近くのマクドナルドのテーブルに、爆弾が仕掛けられたテロが発生している<ref>[https://archive.is/20160623011947/http://news.nna.jp/free_eu/feature/060113_eur/07/0220a.html 外部リンク]</ref>。 * [[インド]]では、[[ヒンドゥー教]]の教義で牛肉、食習慣上の理由で[[豚肉]]が一般的に使用出来ない為、鶏肉が主なメニューの材料である。特に「チキン・マハラジャ・バーガー」は有名である<ref name="all20070117"/>。 * [[イスラム国家]]においては、[[イスラム教]]における[[ハラール]]認証を受けている。当然のことながら、豚類の提供やアルコール類を使った調理は一切ないが、代替メニューが充実している。 * [[インドネシア]]ではご飯と[[フライドチキン]]のセットが存在する。これはハンバーガーセットが高額であるのと、安価な鶏肉が人気であるためである。 * [[イスラエル]]では、[[ユダヤ教]]の教義により[[チーズバーガー]]が[[カシュルート]]と認められていないため、同国内ではカシュルートに則った店舗と、そうでない店舗が存在する。 * 「[[てりやき]]マックバーガー」は[[日本マクドナルド]]で開発された商品で、本家アメリカ合衆国には無いメニューである。当初期間限定メニューとして販売されたが、人気が出たためレギュラーメニューとなり、[[香港]]や[[タイ王国]]で「サムライポークバーガー」「将軍バーガー」の名称で販売された<ref name="all20070117"/>。 * [[菜食主義|菜食主義者]]向けに「ベジ・バーガー」が準備されている国もある<ref name="all20070117"/>。 * かつて日本で、米を使用した[[中華料理|中華]]・[[洋食|洋風]]メニューの「マックチャオ」「エビチャオ」「ハンバーグチャオ」「カツチャオ」や、「お昼のカツカレー」「ビーフカレー」「チキンカレー」など[[カレーライス|カレーメニュー]]が[[1991年]]・[[1992年]]に発売された<ref>[https://archive.is/20070311102147/http://www.mcdonalds.co.jp/company/outline/gaiyo/enkaku.html 日本マクドナルド/沿革] ([[インターネットアーカイブ]])</ref>。 * [[日本]]および[[タイ王国]]では、[[オートバイ]]([[マック・バイク]])による宅配サービス([[マック・デリバリー]])もある。 * [[デンマーク]]の従業員の[[最低賃金]]は、2014年時点で18歳超で時給21ドル、18歳未満で時給15ドル<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/jp_blog/idJPKBN0DW0NR20140516 |title=ブログ:マクドナルドで時給2100円稼げる国|work=ロイター|publisher=ロイター通信社|date=2014-05-16|accessdate=2014-05-19}}</ref>。 * 「日本のマクドナルドが、世界で最もサービスが良い」と、[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]が評価している。その理由は「仕事中に、ため息を吐くスタッフはいないし、従業員同士の長々としたおしゃべりもない」と報じている<ref>{{cite news|author=OLIVER STRAND| url = https://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702303493804579538982070488444|title=外国人感銘させる日本の「おもてなし文化」―至れり尽くせりのサービス|language=[[日本語]]|newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|date=2014-05-03|accessdate=2016-05-28 }}</ref>。しかし、このような従業員の極端なマニュアル対応は日本以外ではほぼ存在せず、日本以外のマクドナルドが安価には楽しめない外食と位置付けられているなどの環境の違いからきている。[[#外部リンク|McDonald's公式サイト]]にあるリンクから世界各国のマクドナルド公式サイトを辿ることで、様々なサービスの違いが確認できる。 * 本社のあるアメリカ合衆国が[[経済制裁]]の対象としている[[キューバ]]には、アメリカが永久租借している[[グァンタナモ米軍基地]]内の店舗を除いて出店していない。 == スポーツ大会の関係 == マクドナルドは、[[1976年]]以降[[近代オリンピック]]のスポンサー企業を務め、最高位スポンサーシップである「TOPパートナー」での協賛を続けていた。 [[選手村]]の食堂にも進出し、「世界のどこであろうと同じ物を食べられるのが長所」と称している。[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]では、女子スケートの[[ジャネット・リン]]が[[ノスタルジア|ホームシック]]になり「それならアメリカの味を」と、飛行機でハンバーガーを届けている。 2017年6月、2020年までの契約を3年前倒しTOPから撤退すると発表した。[[2018年平昌オリンピック]]は韓国国内のスポンサー契約のみ継続した<ref>[https://newswitch.jp/p/9398 マクドナルドが契約解除。「五輪スポンサー」という名誉と打算] 2017年6月17日、日刊工業新聞</ref>。 === 担当した主な大会 === * [[FIFAワールドカップ]](オフィシャルレストラン) * [[UEFA EURO]](オフィシャルスポンサー、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]まで) == 他 雑学など == マクドナルドのハンバーガーチェーンは世界展開したことで世界で広く認知されるようになり、マイクロソフト社製品やアップル社のiPhoneやgoogle社製品などの製品・サービスと並んで『[[アメリカニゼーション]]の代表格』と世界各地で見なされることも多い。イスラーム圏などでは「アメリカ憎し」の感情が強いので、ややもするとマクドナルドも憎悪の対象ともなりがちで、「マクドナルドの店舗が(意図的に)襲撃された」というような事件も時折起きる。 「[[ビッグマック]]」の、ある国における価格は、その国の経済力を良く示す、と見抜いた学者がおり、それを指標と使う場合は「[[ビッグマック指数]]」という。 マクドナルドでは、ハンバーガーを「ハンバーガー」ではなく「[[サンドイッチ]] (Sandwich)」と呼ぶ。日本は[[株主優待]]券などにサンドイッチと表記して[[テレビCM]]や店舗看板などで「ハンバーガー」と表記したが、近年は多くで「[[File:McDonald's Golden Arches.svg|23px]] '''McDonald's'''」または「[[File:McDonald's Golden Arches.svg|23px]]」と表記している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 文献 == * アンドルー・F・スミス『ハンバーガーの歴史〜世界中でなぜここまで愛されたのか?』ブルース・インターアクションズ、2011年。ISBN 978-4-86020-417-4 * モーガン・スパーロック『[[スーパーサイズ・ミー]]』2004年。 == 関連項目 == * [[日本マクドナルド]] * [[朝マック]] * [[最古のマクドナルド店舗]] * [[マクドナルドの商品一覧]] * [[マクドナルド・コーヒー事件]] * [[ビッグマック指数]] * [[マックジョブ]] * [[マクドナルドの都市伝説]] * [[スーパーサイズ・ミー]] * [[ファストフードが世界を食いつくす]] * [[ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ]] * [[マック (映画)]] <!--*『ファストフード・ネイション』--> == 外部リンク == {{Commons&cat}} * [https://www.mcdonalds.com/us/en-us.html McDonald's]{{en icon}} {{Finance links | name = McDonald's | symbol = MCD | Nikkei = MCD | google = MCD | yahoo_jp = MCD | bloomberg_jp = MCD:US | reuters_jp = MCD | FTcom = MCD:NYQ | nasdaq = MCD | sec_cik = MCD }} * [https://www.mcdonalds.co.jp/ 日本マクドナルド]{{ja icon}} {{Finance links | name = 日本マクドナルド | NikkeiJ = 2702 | google = 2702:TYO | yahoo_jp = 2702.T | bloomberg_jp = 2702:JP | reuters_jp = 2702.T | FTcom = 2702:TYO }} ** ** ** {{Company-stub}} {{Food-stub}} {{McDonald's}} {{世界のファーストフードチェーン店}} {{日本のファーストフードチェーン店}} {{DJIA}} {{S&P 100}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:まくとなると}} [[Category:マクドナルド|*]] [[Category:ハンバーガー店]] [[Category:アメリカ合衆国のファーストフード店]] [[Category:アメリカ合衆国のレストラン]] [[Category:アメリカ合衆国の食品会社]] [[Category:アメリカ合衆国の多国籍企業]] [[Category:アメリカ合衆国のブランド]] [[Category:イリノイ州の企業]] [[Category:1940年設立の企業]] [[Category:S&P 500]] [[Category:NYSE上場企業]] [[Category:iOSのソフトウェア]] [[Category:Androidのソフトウェア]] [[Category:登録商標]]
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力 (物理学)
物理学における力(、英: force)とは、物体の状態を変化させる原因となる作用であり、その作用の大きさを表す物理量である。特に質点の動力学においては、質点の運動状態を変化させる状態量のことをいう。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。 本項ではまず、古代の自然哲学における力の扱いから始め近世に確立された「ニュートン力学」や、古典物理学における力学、すなわち古典力学の発展といった歴史について述べる。 次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される量子力学について少し触れる。 最後に、力の概念について時折なされてきた、「形而上的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。 自然哲学において、力という概念は、何かに内在すると想定されている場合と、外から影響を及ぼすと想定されている場合がある。古代より思索が重ねられてきた。 プラトンは物質はプシュケーを持ち運動を引き起こすと考え、デュナミスという言葉に他者へ働きかける力と他者から何かを受け取る力という意味を持たせた。 アリストテレスは『自然学』という書を著したが、物質の本性を因とする自然な運動と、物質に外から強制的な力が働く運動を区別した。 6世紀のピロポノスは、物質そのものに力があると考えた。 アラビアの自然哲学者ら(アラビア科学)の中にはピロポノスの考えを継承する者もいた。 14世紀のビュリダンは、物自体に impetus(インペトゥス、いきおい)が込められているとして、それによって物の運動を説明した。これをインペトゥス理論と言う。 ベルギー出身のオランダ人工学者シモン・ステヴィン (Simon Stevin、1548 — 1620) は力の合成と分解を正しく扱った人物として有名である。1586年に出版した著書 "De Beghinselen Der Weeghconst " の中でステヴィンは斜面の問題について考察し、「ステヴィンの機械」と呼ばれる架空の永久機関が実際には動作しないことを示した。つまり、どのような斜面に対しても斜面の頂点において力の釣り合いが保たれるには力の平行四辺形の法則が成り立っていなければならないことを見出したのである。 力の合成と分解の規則は、ステヴィンが最初に発見したものではなく、それ以前にもそれ以後にも様々な状況や立場で論じられている。同時代の発見として有名なものとしてガリレオ・ガリレイの理論がある。ガリレオは斜面の問題がてこなどの他の機械の問題に置き換えられることを見出した。 その後、フランスの数学者、天文学者であるフィリップ・ド・ラ・イール (1640 — 1718) は数学的な形式を整え、力をベクトルとして表すようになった。 ルネ・デカルトは渦動説 (Cartesian Vortex) を唱え、「空間には隙間なく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている 」とし、物体はエーテルの渦によって動かされていると説明した。 現代の力学に通じる考え方を体系化した人物として、しばしばアイザック・ニュートンが挙げられる。ニュートンはガリレオ・ガリレイの動力学も学んでいた。またデカルトの著書を読み、その渦動説についても知っていた(ただしこの渦動説の内容については批判的に見ていた)。 ニュートンは1665年から1666年にかけて数学や自然科学について多くの結果を得た。特に物体の運動について、力の平行四辺形の法則を発見している。この結果は後に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア、1687年刊)の中で運動の第2法則を用いて説明されている。 ニュートンはその著書『自然哲学の数学的諸原理』において、運動量 (quantity of motion) を物体の速度と質量 (quantity of matter) の積として定義し、運動の法則について述べている。ニュートンの運動の第2法則は「運動の変化は物体に与えられた力に比例し、その方向は与えられた力の向きに生じる 」というもので、これは現代的には以下のように定式化される。 ここで dp/dt は物体が持つ運動量 p の時間微分、F は物体にかかる力を表す。このニュートンの第2法則は、第1法則が成り立つ慣性系において成り立つ。 ニュートン自身は第2法則を微分を用いた形式では述べていない。運動の変化 (alteration of motion) を運動量の変化と解釈するなら、それは力積に相当する。 熱力学が形成される19世紀前半までは、現在のエネルギーに相当する概念が力(羅: vis, 英: force, 独: Kraft)と呼ばれていた。 たとえば、ルドルフ・クラウジウスは1850年の論文 ,,Über die bewegende Kraft der Wärme "で熱力学第一法則について述べているが、Kraft という語を用いているし、その英訳でも Force が用いられている。 現在の運動エネルギーに対応する概念について、1676年から1689年の頃にゴットフリート・ライプニッツは vis viva と名付けた。これは当時の運動に関する保存則の議論の中で、保存量として提案されたものである。 1807年に、トマス・ヤングは vis viva にあたる概念をエネルギーと名付けたが、直ぐ様それが一般に用いられることはなかった。 力学の言葉として運動エネルギーやポテンシャル・エネルギーが定義されるのは1850年以降のことで、運動エネルギーは1850年頃にウィリアム・トムソンによって、位置エネルギーは1853年にウィリアム・ランキンによってそれぞれ定義されている。 古典力学における力(英語: force)の、最も初等的な定義は質量と加速度の積を力とするものである。 ここで F は物体に働く力、m は物体の質量、a は物体の加速度を表す。力は向きと大きさによって特徴づけられ、一般にはベクトル量として表現される。この定義はニュートン力学における運動量の定義と運動の第2法則から導かれる。上述の F = ma はしばしばニュートンの運動方程式(あるいは短縮して運動方程式)と呼ばれる。 一般に力は運動の第2法則を満たし、物体に働く力の総和(合力)は運動量の時間変化に等しい。 ここで F は物体に働く力、p は物体の運動量、t は慣性系の時刻を表す。ニュートン力学において運動量は速度 v と慣性質量 m の積で表され、 また速度 v の時間微分は加速度 a であることから、物体の慣性質量は一定である場合について、次の関係が成り立つ。 以上は相対論を考えに入れない場合である。そのため実際には、慣性系から見た対象の(相対)速度が光速に近くなると良い近似ではなくなる。特殊相対性理論では慣性系の定義のほか、運動量の定義もまたニュートン力学と異なる。相対論的な粒子の運動量をニュートン力学に合わせて表現すると、運動量は以下のように修正される。 ここで c は光速であり、m は不変質量(静止質量)である。したがって、運動方程式は以下のようになる。 光速に対して速度の大きさ v が極めて小さければ、相対論的な運動量はニュートン力学における定義とほとんど一致する。たとえば音速は光速の 0.0001% 程度であり、地球上で起こる大抵の運動に関してはニュートン力学を適用することができる。 運動の第2法則は慣性系においてのみ成り立ち、慣性系は運動の第1法則によって定義される。一般に取り扱われる系が完全な意味で慣性系であることはなく、例えば地上の運動は少なからず地球の自転の影響を受けるが、自転によって生じる慣性力を運動方程式に加えることで、非慣性系の運動を慣性系の場合と同じように取り扱うことができる。 ニュートン力学では、運動の第3法則が成り立つ。運動の第3法則は「作用反作用の法則」とも呼ばれ、作用(力)に対してその対となる反作用が必ず存在することを述べる。例えば物体Aから物体Bに及ぼされる力 FA → B が存在するとき、それを打ち消す力 FB → A が物体Bから物体Aへ及ぼされる。両者の和を考えるとこれは常に 0 に等しくなる。 作用反作用の法則は慣性力に対しては成り立たず、この意味で慣性力は見かけの力 (fictitious force) であるということができる。慣性力は慣性系から非慣性系へ視点を移した際に現れる力であり、その反作用は存在しない。ニュートン力学においては慣性力を除くすべての力が物体間の相互作用として理解されるが、電磁場のような場との相互作用を含める場合、物体間だけで相互作用が閉じるという前提は破綻し、その結果として上述の作用反作用の法則が成り立たなくなる。そのため、電磁場を含む力学においては、作用反作用の法則は電磁気学に適合するように修正される。 作用反作用の法則はより一般化され運動量保存の法則として述べれられることがある。運動量保存則に則した立場では、力は物体間(あるいは物体と場の間)で行われる相互の運動量の授受を示すものと理解できる。ある時間に物体に及ぼされる力の総和と時間の積、すなわち力の時間に関する積分は、その時間における物体の運動量の変化量に等しい。この運動量の変化量は力積と呼ばれる。 古典力学で採用される運動の諸法則によって定められる範囲では、力の定義は速度や加速度のような運動学的な量に比べて抽象的である。より具体的な定義は個々の現象論によって与えられる。多くの場合、地球の重力やバネの復元力のように何らかのポテンシャルを最小化しようとする働きとして表される。 通常、力はそれが働く物体に付随するものとして考えられるため、力に個々の作用点を付して特別に注意を払うことはない。しかしながらより一般的に、ある点に対してその点を作用点とする力を与える関数を用いて運動を捉えることもできる。そのような関数は力の場 (field of force) とか力場と呼ばれる。力の場は、空間の点に対してその点に束縛されたベクトルを与える関数であり、このような関数はベクトル場と総称される。力の場は、文脈に応じていくつか異なる定義が与えられる。一つの定義では、単位質量の試験物体に加えられる力を与える場をいい、別の定義では単にある物体に働く力を与える場とされる。前者の定義では、何らかの単位系で質量が 1 となる物体に働く力を与える。従ってその次元は 力/質量 となる。後者の定義は前者の場 F(·) に適当な質量 m を乗じた場 mF(·) に相当する。この場合、ある点 x で物体に働く力は mF(x) と表される。具体的な力の場は何らかのポテンシャルによって与えられる。例として、重力ポテンシャルや電磁ポテンシャルなどが挙げられる。 力は文脈によって、相互作用 (interaction)、作用 (action) などとも呼ばれる。ただし、相互作用は(本質的には多体間の)ポテンシャルを指すこともあり、また作用は解析力学においては力と異なる概念として定義されている。 力の量の次元は MLT([質量]×[長さ]×[時間])である。力の次元が他の量の次元によって組み立てられることは、ニュートン力学において力 F が質量 m と加速度 a の積として与えられること、 加速度 a が、加減速される時間に対する速度 v の変化の割合、すなわち速度の時間微分として定義されること、 速度 v もまた、運動する時間に対する位置 x の変化の割合として定義されること、 から導かれる。位置、あるいは変位は基準点に対する距離を測ることによって決定でき、位置の変化量 dx は長さの次元 (L) を持つ。速度は位置の変化量 dx と時間 dt の比なので、次元は長さ (L) に時間 (T) の逆数を乗じた LT となる。加速度についても同様の手続きから量の次元が定まり、加速度の量の次元は LT である。力は加速度に質量を乗じたものなので、量の次元も加速度の量の次元に質量の次元 (M) を掛けた MLT となる。 力の単位もまた、それぞれの基本量に対応する基本単位から組み立てられる。国際量体系では基本量として質量、時間、長さを採り、国際単位系では国際量体系に対応して質量の単位をキログラム (kg)、時間の単位を秒 (s)、長さの単位をメートル (m) としてこれらを基本単位としている。国際単位系に従えば、力の単位は kg·m·s と表すことができる。また国際単位系では、目的に応じて組立単位が定義されており、力の単位としてニュートン (N) が定められている。ニュートンなどの組立単位はすべて基本単位の代数操作によって定義されており、ニュートンの場合、N = kg·m·s と定義されている。 静力学では力は基本的な状態量になる。力を構成する要素は、力の大きさ (magnitude)、力の向き (direction)、作用線の方向、作用線の位置である。力が及ぼされる点を作用点(point of action) と呼ぶ。作用線 (line of action) とは作用点を通り、力の向きに対して平行な直線のことである。 また、力が2体力である場合には、力を及ぼすものと力が及ぼされるものとの組を考えることができる。すべての力が2体力であるなら、それぞれの力は互いに独立であり、物体にかかる正味の力 (net force) はそれぞれの独立な力の単純な和として表される。 たとえば、物体 A に物体 B, C が力を及ぼしている場合、物体 A に働く正味の力は、 と分解することができる。ここで F A は物体 A に働く正味の力、F B → A, F C → A はそれぞれ物体 B, C が物体 A に及ぼしている力を表す。このことは A に力を及ぼす物体が増えても同様に成り立つ。 解析力学における力は、ニュートン力学の定義と異なり、オイラー=ラグランジュ方程式を通じて一般化運動量 (generalized momentum) の時間微分に等しくなる関数として与えられる。一般化運動量の時間微分という意味での力は、一般化力 (generalized force) あるいは広義の力と呼ばれ、ニュートン力学における力とは区別される。 一般化運動量はラグランジアンの一般化速度による偏微分として定義される。一般化運動量を P、ラグランジアンを L、一般化座標の組を q、一般化速度の組を ·q と表せば、一般化運動量は以下のように定義される。 オイラー=ラグランジュ方程式 を一般化運動量 P で書き換えると、以下のように書ける。 上記のオイラー=ラグランジュ方程式の右辺から、一般化力 Ψ は次のように定義される。 オイラー=ラグランジュ方程式 とニュートンの運動方程式 と見比べれば、左辺の一般化力 Ψ は力に相当する量であることが分かる。 その物体の速度が変化しないとき、力が釣り合っていると言う。例えば、自動車が時速 40 km/h のまま直進しているとき、車体にかかる力は釣り合っている。この時、エンジン等によって動かされた車輪が加速しようとする力と車軸の摩擦や空気抵抗によって減速しようとする力が釣り合っている、と考えるのである。 力の合成とは、ある点に働く複数の力を 1 つの等価な力として表すことを言う。またその逆の操作を力の分解 (decomposition of force) と呼ぶ。合成された力のことを合力 (resultant force) という。 力はベクトルとして定義されているので、ベクトル空間における加法の規則に従い合成と分解を行うことができる。力と運動量がベクトルであることにより、運動方程式を任意の成分に分解することができる。この原理を運動の独立性 (independence of motions) という。 分解された力と元の力、あるいは合成される力とそれらの合力の関係を図形的に表すものとして、力の平行四辺形がしばしば用いられる。力の分解に関して、2 成分に分解された力は平行四辺形の辺をなし、その対角線は元の力となる。同様に、2つの力が同じ点に働くと、それらは平行四辺形の辺をなす。2つの力の合力は2つの力のなす平行四辺形の対角線として図示される。力の分解や合成を平行四辺形の組み合わせによって表すことができる、という法則を平行四辺形の法則 (parallelogram law) と呼ぶ。平行四辺形の法則はまた、ニュートンの第4法則 (Newton's fourth law) とか力の重畳原理 (superposition principle of force) とも呼ばれる。 連続体力学などの分野では、力は次の 2 つに分類される。 量子力学では、場の量子論により、宇宙における力の源は基本相互作用による、電磁相互作用・弱い相互作用・強い相互作用・重力相互作用の 4つに整理された。ただし、重力は古典論に属する一般相対性理論も関係し、また、重力の量子化(量子重力理論)は研究の途上である。一方で電磁相互作用と弱い相互作用とを統一的に記述する電弱統一理論はワインバーグ=サラム理論によって完成した。その次と言える強い相互作用の統一は大統一理論として研究中である。 その他、主な未解決の問題についての概観は標準模型を参照のこと。 (古典力学の)力は物理学の根幹にかかわるものであるが、力の定義づけは自明ではないともいわれる。アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』において力と質量について明確な定義を与えていない。現代的な視点では、ニュートン力学における力は運動の第2法則 F = ma によって定義されるものと解釈されるが、この解釈のもとでは、比例定数の慣性質量 m が未定義な量であるため、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている。 アメリカ航空宇宙局のサイトでは「自由物体の動きに変化を起こしたり、あるいは固定物体に応力を与える基となる agent(エージェント)」といった説明になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "物理学における力(、英: force)とは、物体の状態を変化させる原因となる作用であり、その作用の大きさを表す物理量である。特に質点の動力学においては、質点の運動状態を変化させる状態量のことをいう。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項ではまず、古代の自然哲学における力の扱いから始め近世に確立された「ニュートン力学」や、古典物理学における力学、すなわち古典力学の発展といった歴史について述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される量子力学について少し触れる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "最後に、力の概念について時折なされてきた、「形而上的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自然哲学において、力という概念は、何かに内在すると想定されている場合と、外から影響を及ぼすと想定されている場合がある。古代より思索が重ねられてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "プラトンは物質はプシュケーを持ち運動を引き起こすと考え、デュナミスという言葉に他者へ働きかける力と他者から何かを受け取る力という意味を持たせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アリストテレスは『自然学』という書を著したが、物質の本性を因とする自然な運動と、物質に外から強制的な力が働く運動を区別した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "6世紀のピロポノスは、物質そのものに力があると考えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アラビアの自然哲学者ら(アラビア科学)の中にはピロポノスの考えを継承する者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "14世紀のビュリダンは、物自体に impetus(インペトゥス、いきおい)が込められているとして、それによって物の運動を説明した。これをインペトゥス理論と言う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ベルギー出身のオランダ人工学者シモン・ステヴィン (Simon Stevin、1548 — 1620) は力の合成と分解を正しく扱った人物として有名である。1586年に出版した著書 \"De Beghinselen Der Weeghconst \" の中でステヴィンは斜面の問題について考察し、「ステヴィンの機械」と呼ばれる架空の永久機関が実際には動作しないことを示した。つまり、どのような斜面に対しても斜面の頂点において力の釣り合いが保たれるには力の平行四辺形の法則が成り立っていなければならないことを見出したのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "力の合成と分解の規則は、ステヴィンが最初に発見したものではなく、それ以前にもそれ以後にも様々な状況や立場で論じられている。同時代の発見として有名なものとしてガリレオ・ガリレイの理論がある。ガリレオは斜面の問題がてこなどの他の機械の問題に置き換えられることを見出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、フランスの数学者、天文学者であるフィリップ・ド・ラ・イール (1640 — 1718) は数学的な形式を整え、力をベクトルとして表すようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ルネ・デカルトは渦動説 (Cartesian Vortex) を唱え、「空間には隙間なく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている 」とし、物体はエーテルの渦によって動かされていると説明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現代の力学に通じる考え方を体系化した人物として、しばしばアイザック・ニュートンが挙げられる。ニュートンはガリレオ・ガリレイの動力学も学んでいた。またデカルトの著書を読み、その渦動説についても知っていた(ただしこの渦動説の内容については批判的に見ていた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ニュートンは1665年から1666年にかけて数学や自然科学について多くの結果を得た。特に物体の運動について、力の平行四辺形の法則を発見している。この結果は後に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア、1687年刊)の中で運動の第2法則を用いて説明されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ニュートンはその著書『自然哲学の数学的諸原理』において、運動量 (quantity of motion) を物体の速度と質量 (quantity of matter) の積として定義し、運動の法則について述べている。ニュートンの運動の第2法則は「運動の変化は物体に与えられた力に比例し、その方向は与えられた力の向きに生じる 」というもので、これは現代的には以下のように定式化される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ここで dp/dt は物体が持つ運動量 p の時間微分、F は物体にかかる力を表す。このニュートンの第2法則は、第1法則が成り立つ慣性系において成り立つ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ニュートン自身は第2法則を微分を用いた形式では述べていない。運動の変化 (alteration of motion) を運動量の変化と解釈するなら、それは力積に相当する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "熱力学が形成される19世紀前半までは、現在のエネルギーに相当する概念が力(羅: vis, 英: force, 独: Kraft)と呼ばれていた。 たとえば、ルドルフ・クラウジウスは1850年の論文 ,,Über die bewegende Kraft der Wärme \"で熱力学第一法則について述べているが、Kraft という語を用いているし、その英訳でも Force が用いられている。", "title": "熱力学" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在の運動エネルギーに対応する概念について、1676年から1689年の頃にゴットフリート・ライプニッツは vis viva と名付けた。これは当時の運動に関する保存則の議論の中で、保存量として提案されたものである。", "title": "熱力学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1807年に、トマス・ヤングは vis viva にあたる概念をエネルギーと名付けたが、直ぐ様それが一般に用いられることはなかった。 力学の言葉として運動エネルギーやポテンシャル・エネルギーが定義されるのは1850年以降のことで、運動エネルギーは1850年頃にウィリアム・トムソンによって、位置エネルギーは1853年にウィリアム・ランキンによってそれぞれ定義されている。", "title": "熱力学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "古典力学における力(英語: force)の、最も初等的な定義は質量と加速度の積を力とするものである。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ここで F は物体に働く力、m は物体の質量、a は物体の加速度を表す。力は向きと大きさによって特徴づけられ、一般にはベクトル量として表現される。この定義はニュートン力学における運動量の定義と運動の第2法則から導かれる。上述の F = ma はしばしばニュートンの運動方程式(あるいは短縮して運動方程式)と呼ばれる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一般に力は運動の第2法則を満たし、物体に働く力の総和(合力)は運動量の時間変化に等しい。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここで F は物体に働く力、p は物体の運動量、t は慣性系の時刻を表す。ニュートン力学において運動量は速度 v と慣性質量 m の積で表され、", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また速度 v の時間微分は加速度 a であることから、物体の慣性質量は一定である場合について、次の関係が成り立つ。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以上は相対論を考えに入れない場合である。そのため実際には、慣性系から見た対象の(相対)速度が光速に近くなると良い近似ではなくなる。特殊相対性理論では慣性系の定義のほか、運動量の定義もまたニュートン力学と異なる。相対論的な粒子の運動量をニュートン力学に合わせて表現すると、運動量は以下のように修正される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ここで c は光速であり、m は不変質量(静止質量)である。したがって、運動方程式は以下のようになる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "光速に対して速度の大きさ v が極めて小さければ、相対論的な運動量はニュートン力学における定義とほとんど一致する。たとえば音速は光速の 0.0001% 程度であり、地球上で起こる大抵の運動に関してはニュートン力学を適用することができる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "運動の第2法則は慣性系においてのみ成り立ち、慣性系は運動の第1法則によって定義される。一般に取り扱われる系が完全な意味で慣性系であることはなく、例えば地上の運動は少なからず地球の自転の影響を受けるが、自転によって生じる慣性力を運動方程式に加えることで、非慣性系の運動を慣性系の場合と同じように取り扱うことができる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ニュートン力学では、運動の第3法則が成り立つ。運動の第3法則は「作用反作用の法則」とも呼ばれ、作用(力)に対してその対となる反作用が必ず存在することを述べる。例えば物体Aから物体Bに及ぼされる力 FA → B が存在するとき、それを打ち消す力 FB → A が物体Bから物体Aへ及ぼされる。両者の和を考えるとこれは常に 0 に等しくなる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "作用反作用の法則は慣性力に対しては成り立たず、この意味で慣性力は見かけの力 (fictitious force) であるということができる。慣性力は慣性系から非慣性系へ視点を移した際に現れる力であり、その反作用は存在しない。ニュートン力学においては慣性力を除くすべての力が物体間の相互作用として理解されるが、電磁場のような場との相互作用を含める場合、物体間だけで相互作用が閉じるという前提は破綻し、その結果として上述の作用反作用の法則が成り立たなくなる。そのため、電磁場を含む力学においては、作用反作用の法則は電磁気学に適合するように修正される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "作用反作用の法則はより一般化され運動量保存の法則として述べれられることがある。運動量保存則に則した立場では、力は物体間(あるいは物体と場の間)で行われる相互の運動量の授受を示すものと理解できる。ある時間に物体に及ぼされる力の総和と時間の積、すなわち力の時間に関する積分は、その時間における物体の運動量の変化量に等しい。この運動量の変化量は力積と呼ばれる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "古典力学で採用される運動の諸法則によって定められる範囲では、力の定義は速度や加速度のような運動学的な量に比べて抽象的である。より具体的な定義は個々の現象論によって与えられる。多くの場合、地球の重力やバネの復元力のように何らかのポテンシャルを最小化しようとする働きとして表される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "通常、力はそれが働く物体に付随するものとして考えられるため、力に個々の作用点を付して特別に注意を払うことはない。しかしながらより一般的に、ある点に対してその点を作用点とする力を与える関数を用いて運動を捉えることもできる。そのような関数は力の場 (field of force) とか力場と呼ばれる。力の場は、空間の点に対してその点に束縛されたベクトルを与える関数であり、このような関数はベクトル場と総称される。力の場は、文脈に応じていくつか異なる定義が与えられる。一つの定義では、単位質量の試験物体に加えられる力を与える場をいい、別の定義では単にある物体に働く力を与える場とされる。前者の定義では、何らかの単位系で質量が 1 となる物体に働く力を与える。従ってその次元は 力/質量 となる。後者の定義は前者の場 F(·) に適当な質量 m を乗じた場 mF(·) に相当する。この場合、ある点 x で物体に働く力は mF(x) と表される。具体的な力の場は何らかのポテンシャルによって与えられる。例として、重力ポテンシャルや電磁ポテンシャルなどが挙げられる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "力は文脈によって、相互作用 (interaction)、作用 (action) などとも呼ばれる。ただし、相互作用は(本質的には多体間の)ポテンシャルを指すこともあり、また作用は解析力学においては力と異なる概念として定義されている。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "力の量の次元は MLT([質量]×[長さ]×[時間])である。力の次元が他の量の次元によって組み立てられることは、ニュートン力学において力 F が質量 m と加速度 a の積として与えられること、", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "加速度 a が、加減速される時間に対する速度 v の変化の割合、すなわち速度の時間微分として定義されること、", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "速度 v もまた、運動する時間に対する位置 x の変化の割合として定義されること、", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "から導かれる。位置、あるいは変位は基準点に対する距離を測ることによって決定でき、位置の変化量 dx は長さの次元 (L) を持つ。速度は位置の変化量 dx と時間 dt の比なので、次元は長さ (L) に時間 (T) の逆数を乗じた LT となる。加速度についても同様の手続きから量の次元が定まり、加速度の量の次元は LT である。力は加速度に質量を乗じたものなので、量の次元も加速度の量の次元に質量の次元 (M) を掛けた MLT となる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "力の単位もまた、それぞれの基本量に対応する基本単位から組み立てられる。国際量体系では基本量として質量、時間、長さを採り、国際単位系では国際量体系に対応して質量の単位をキログラム (kg)、時間の単位を秒 (s)、長さの単位をメートル (m) 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(generalized force) あるいは広義の力と呼ばれ、ニュートン力学における力とは区別される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一般化運動量はラグランジアンの一般化速度による偏微分として定義される。一般化運動量を P、ラグランジアンを L、一般化座標の組を q、一般化速度の組を ·q と表せば、一般化運動量は以下のように定義される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "オイラー=ラグランジュ方程式", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "を一般化運動量 P で書き換えると、以下のように書ける。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "上記のオイラー=ラグランジュ方程式の右辺から、一般化力 Ψ は次のように定義される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "オイラー=ラグランジュ方程式", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "とニュートンの運動方程式", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "と見比べれば、左辺の一般化力 Ψ は力に相当する量であることが分かる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その物体の速度が変化しないとき、力が釣り合っていると言う。例えば、自動車が時速 40 km/h のまま直進しているとき、車体にかかる力は釣り合っている。この時、エンジン等によって動かされた車輪が加速しようとする力と車軸の摩擦や空気抵抗によって減速しようとする力が釣り合っている、と考えるのである。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "力の合成とは、ある点に働く複数の力を 1 つの等価な力として表すことを言う。またその逆の操作を力の分解 (decomposition of force) と呼ぶ。合成された力のことを合力 (resultant force) という。 力はベクトルとして定義されているので、ベクトル空間における加法の規則に従い合成と分解を行うことができる。力と運動量がベクトルであることにより、運動方程式を任意の成分に分解することができる。この原理を運動の独立性 (independence of motions) という。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "分解された力と元の力、あるいは合成される力とそれらの合力の関係を図形的に表すものとして、力の平行四辺形がしばしば用いられる。力の分解に関して、2 成分に分解された力は平行四辺形の辺をなし、その対角線は元の力となる。同様に、2つの力が同じ点に働くと、それらは平行四辺形の辺をなす。2つの力の合力は2つの力のなす平行四辺形の対角線として図示される。力の分解や合成を平行四辺形の組み合わせによって表すことができる、という法則を平行四辺形の法則 (parallelogram law) と呼ぶ。平行四辺形の法則はまた、ニュートンの第4法則 (Newton's fourth law) とか力の重畳原理 (superposition principle of force) とも呼ばれる。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "連続体力学などの分野では、力は次の 2 つに分類される。", "title": "古典力学" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "量子力学では、場の量子論により、宇宙における力の源は基本相互作用による、電磁相互作用・弱い相互作用・強い相互作用・重力相互作用の 4つに整理された。ただし、重力は古典論に属する一般相対性理論も関係し、また、重力の量子化(量子重力理論)は研究の途上である。一方で電磁相互作用と弱い相互作用とを統一的に記述する電弱統一理論はワインバーグ=サラム理論によって完成した。その次と言える強い相互作用の統一は大統一理論として研究中である。", "title": "量子力学" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その他、主な未解決の問題についての概観は標準模型を参照のこと。", "title": "量子力学" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "(古典力学の)力は物理学の根幹にかかわるものであるが、力の定義づけは自明ではないともいわれる。アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』において力と質量について明確な定義を与えていない。現代的な視点では、ニュートン力学における力は運動の第2法則 F = ma によって定義されるものと解釈されるが、この解釈のもとでは、比例定数の慣性質量 m が未定義な量であるため、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局のサイトでは「自由物体の動きに変化を起こしたり、あるいは固定物体に応力を与える基となる agent(エージェント)」といった説明になっている。", "title": "批判" } ]
物理学における力(ちから、とは、物体の状態を変化させる原因となる作用であり、その作用の大きさを表す物理量である。特に質点の動力学においては、質点の運動状態を変化させる状態量のことをいう。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。 本項ではまず、古代の自然哲学における力の扱いから始め近世に確立された「ニュートン力学」や、古典物理学における力学、すなわち古典力学の発展といった歴史について述べる。 次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される量子力学について少し触れる。 最後に、力の概念について時折なされてきた、「形而上的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。
[[物理学]]における{{読み仮名|'''力'''|ちから|{{lang-en-short|force}}}}とは、[[物体]]の[[状態]]を[[変化]]させる[[原因]]となる[[作用]]であり{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}、その作用の大きさを表す[[物理量]]である。特に質点の[[動力学]]においては、質点の[[運動_(物理学)|運動状態]]を変化させる[[状態量]]のことをいう{{sfn|小出|1997|p=18}}。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。 本項ではまず、[[古代]]の[[自然哲学]]における力の扱いから始め[[近世]]に確立された「[[ニュートン力学]]」や、[[古典物理学]]における[[力学]]、すなわち[[古典力学]]の発展といった歴史について述べる。 次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される[[量子力学]]について少し触れる。 最後に、力の概念について時折なされてきた、「[[形而上学|形而上]]的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。 == 歴史 == [[自然哲学]]において、力という概念は、何かに内在すると想定されている場合と、外から影響を及ぼすと想定されている場合がある。古代より思索が重ねられてきた。 === 古代 === [[プラトン]]は物質は[[プシュケー]]を持ち運動を引き起こすと考え、[[デュナミス]]という言葉に他者へ働きかける力と他者から何かを受け取る力という意味を持たせた。 [[アリストテレス]]は『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』という書を著したが、物質の本性を因とする自然な運動と、物質に外から強制的な力が働く運動を区別した。 [[6世紀]]の[[ピロポノス]]は、物質そのものに力があると考えた。 [[アラビア]]の自然哲学者ら([[アラビア科学]])の中にはピロポノスの考えを継承する者もいた。 === ルネサンス以降 === [[14世紀]]の[[ビュリダン]]は、物自体に ''{{lang|la|impetus}}''(インペトゥス、いきおい)が込められているとして、それによって物の運動を説明した。これを[[インペトゥス理論]]と言う。 [[Image:StevinEquilibrium.svg|right|200px|thumb|'''ステヴィンの機械'''。斜面上に等間隔に重さの等しい球を配置する。それぞれの球を縄で繋ぎ鎖を作る。このとき鎖が[[斜面]]上の一方へと回転するなら、これは[[永久機関]]として利用できる。]] [[ベルギー]]出身の[[オランダ人]]工学者[[シモン・ステヴィン]] ([[:en:Simon Stevin|Simon Stevin]]、1548 &mdash; 1620) は力の合成と分解を正しく扱った人物として有名である。[[1586年]]に出版した著書 "''De Beghinselen Der Weeghconst'' " の中でステヴィンは[[斜面]]の問題について考察し、「ステヴィンの機械」と呼ばれる架空の[[永久機関]]が実際には動作しないことを示した<ref group="注">ステヴィンによるこの問題の証明は ''{{en|Epitaph of Stevinus}}'' (ステウィヌスの碑)と呼ばれる。Stevinus はステヴィンのラテン語名。</ref>。つまり、どのような斜面に対しても斜面の頂点において力の釣り合いが保たれるには[[力の平行四辺形の法則]]が成り立っていなければならないことを見出したのである。 力の合成と分解の規則は、ステヴィンが最初に発見したものではなく、それ以前にもそれ以後にも様々な状況や立場で論じられている。同時代の発見として有名なものとして[[ガリレオ・ガリレイ]]の理論がある。ガリレオは斜面の問題が[[てこ]]などの他の機械の問題に置き換えられることを見出した。 その後、フランスの数学者、天文学者である[[フィリップ・ド・ラ・イール]] (1640 &mdash; 1718) は数学的な形式を整え、力を[[空間ベクトル|ベクトル]]として表すようになった{{refnest|group="注"|ただし現在用いられるベクトルの記法が発達したのは[[19世紀]]以降である{{sfn|湯川|1975|pp=58&ndash;62}}。}}。 [[ルネ・デカルト]]は[[渦動説]] ({{en|Cartesian Vortex}}) を唱え、「''空間には隙間なく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている'' 」とし、物体は[[エーテル (物理)|エーテル]]の[[渦]]によって動かされていると説明した{{sfn|Barbour|2001}}{{sfn|内井|2006}}。 === ニュートン力学 === 現代の力学に通じる考え方を体系化した人物として、しばしば[[アイザック・ニュートン]]が挙げられる。<!--[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]など先行する研究は存在するが、力学的な力の本質を運動を変化させる働きにあるとし、運動が変化するとはどういうことか、裏返せば運動が変化しないということはどういうことかを現代的視点から体系的に記述した初めての人物である{{要出典|date=2008年11月}}。-->ニュートンは[[ガリレオ・ガリレイ]]の動力学も学んでいた。またデカルトの著書を読み、その渦動説についても知っていた(ただしこの渦動説の内容については批判的に見ていた)。 ニュートンは[[1665年]]から[[1666年]]にかけて数学や自然科学について多くの結果を得た。特に物体の運動について、[[力の平行四辺形の法則]]を発見している。この結果は後に『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(プリンキピア、[[1687年]]刊)の中で[[運動の第2法則]]を用いて説明されている<ref>[[s:en:The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/Axioms, or Laws of Motion|Newton's ''Mathematical Principles of Natural Philosophy'', Axioms or Laws of Motion, Corollary I]]. [[s:メインページ|ウィキソース]]。</ref>。 ニュートンはその著書『自然哲学の数学的諸原理』において、[[運動量]] ({{en|quantity of motion}}) を物体の速度と質量 ({{en|quantity of matter}}) の[[積]]として定義し、[[ニュートン力学|運動の法則]]について述べている。ニュートンの運動の第2法則は「''運動の変化は物体に与えられた力に比例し、その方向は与えられた力の向きに生じる'' 」というもので、これは現代的には以下のように定式化される。 :<math>\frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t} = \boldsymbol{F}\,</math><ref group="注" name="futoji">太字の変数は[[空間ベクトル|ベクトル]]量を表す。</ref> ここで {{math|{{sfrac|d'''''p'''''|d''t''}}}} は物体が持つ運動量 '''{{mvar|p}}''' の[[時間微分]]、'''{{mvar|F}}''' は物体にかかる力を表す。このニュートンの第2法則は、[[運動の第1法則|第1法則]]が成り立つ[[慣性系]]において成り立つ。 ニュートン自身は第2法則を[[微分]]を用いた形式では述べていない。運動の変化 ({{en|alteration of motion}}) を運動量の変化と解釈するなら、それは[[力積]]に相当する。 == 熱力学 == === エネルギーと力 === {{main|エネルギー保存の法則}} [[熱力学]]が形成される[[19世紀]]前半までは、現在の[[エネルギー]]に相当する概念が力({{lang-la-short|''vis''}}, {{lang-en-short|force}}, {{lang-de-short|Kraft}})と呼ばれていた。 たとえば、[[ルドルフ・クラウジウス]]は[[1850年]]の論文 ,,''{{de|&Uuml;ber die bewegende Kraft der W&auml;rme}}'' "{{sfn|Clausius|1850}}で[[熱力学第一法則]]について述べているが、{{de|Kraft}} という語を用いているし、その英訳でも {{en|Force}} が用いられている。 現在の[[運動エネルギー]]に対応する概念について、[[1676年]]から[[1689年]]の頃に[[ゴットフリート・ライプニッツ]]は ''{{la|vis viva}}'' と名付けた。これは当時の運動に関する[[保存則]]の議論の中で、[[保存量]]として提案されたものである。 [[1807年]]に、[[トマス・ヤング]]は ''{{la|vis viva}}'' にあたる概念を'''エネルギー'''と名付けたが、直ぐ様それが一般に用いられることはなかった。 [[力学]]の言葉として'''運動エネルギー'''や'''[[位置エネルギー|ポテンシャル・エネルギー]]'''が定義されるのは1850年以降のことで、運動エネルギーは1850年頃に[[ウィリアム・トムソン]]によって、位置エネルギーは[[1853年]]に[[ウィリアム・ランキン]]によってそれぞれ定義されている{{sfn|Rankine|1853}}。 == 古典力学 == {{古典力学}} {{物理量 |英語=force |画像=[[画像:Mehaaniline töö.png|250px]] |記号={{mvar|F}} |次元=[[質量|M]] [[長さ|L]] [[時間|T]] {{sup-|2}} |階=[[ベクトル]] |SI=[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N) |CGS=[[ダイン]] (dyn) |FPS=[[パウンダル]] (pdl) |MKSG=[[重量キログラム]] (kgf) |CGSG=[[重量グラム]] (gf) |FPSG=[[重量ポンド]] (lbf) }} === 定義 === [[古典力学]]における'''力'''({{lang-en|force}})の、最も初等的な定義は[[質量]]と[[加速度]]の積を力とするものである。 :<math>\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a}.</math><ref group="注" name="futoji" /> ここで '''{{mvar|F}}''' は[[物体]]に働く力、{{mvar|m}} は物体の質量、'''{{mvar|a}}''' は物体の加速度を表す<ref group="注">力、質量、加速度の順序や記号は単に慣習的なものであり、文献によって様々な表現がある。例えば {{math|1=''m'''a''''' = '''''F'''''}} のように書かれている文献も数多くある。いずれにせよ、数学上あるいは物理学上の意味は同じである。</ref>。力は向きと大きさによって特徴づけられ、一般には[[空間ベクトル|ベクトル量]]として表現される。この定義は[[ニュートン力学]]<ref group="注" name="Newtonian">古典力学のうち、非[[相対性理論|相対論]]的な[[力学]]をニュートン力学と呼ぶ。ただし文献によっては古典力学に相対論を含めないものもある。</ref>における[[運動量]]の定義と[[運動の第2法則]]から導かれる。上述の {{math|1='''''F''''' = ''m'''a'''''}} はしばしば[[ニュートンの運動方程式]](あるいは短縮して[[運動方程式]])と呼ばれる。 一般に力は[[運動の第2法則]]を満たし、物体に働く'''力の総和'''(合力)は[[運動量]]の時間変化に等しい。 :<math>\boldsymbol{F} = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t}\,.</math> ここで '''{{mvar|F}}''' は[[物体]]に働く力、'''{{mvar|p}}''' は物体の運動量、{{mvar|t}} は[[慣性系]]の時刻を表す。[[ニュートン力学]]において運動量は速度 '''{{mvar|v}}''' と[[慣性質量]] {{mvar|m}} の積で表され、 :<math>\boldsymbol{p} = m\boldsymbol{v}</math> また速度 '''{{mvar|v}}''' の時間微分は加速度 '''{{mvar|a}}''' であることから、物体の慣性質量は一定である場合について、次の関係が成り立つ。 :<math>\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a}\,.</math> 以上は相対論を考えに入れない場合である。そのため実際には、慣性系から見た対象の(相対)速度が光速に近くなると良い近似ではなくなる。[[特殊相対性理論]]では[[慣性系]]の定義のほか、運動量の定義もまたニュートン力学と異なる。相対論的な粒子の運動量をニュートン力学に合わせて表現すると、運動量は以下のように修正される。 :<math>\boldsymbol{p} = \frac{m}{1 - v^2/c^2}\boldsymbol{v}.</math><ref group="注" name="relativistic_momentum">この運動量は[[四元運動量]]の空間成分である。</ref> ここで {{mvar|c}} は[[光速]]であり、{{mvar|m}} は[[不変質量]](静止質量)である。したがって、運動方程式は以下のようになる。 :<math>\boldsymbol{F} = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t}\left(\frac{m}{1 - v^2/c^2}\boldsymbol{v}\right).</math> 光速に対して速度の大きさ {{mvar|v}} が極めて小さければ、相対論的な運動量はニュートン力学における定義とほとんど一致する。たとえば[[音速]]は光速の 0.0001% 程度であり、地球上で起こる大抵の運動に関してはニュートン力学を適用することができる。 運動の第2法則は慣性系においてのみ成り立ち、慣性系は[[運動の第1法則]]によって定義される。一般に取り扱われる系が完全な意味で慣性系であることはなく、例えば地上の運動は少なからず地球の[[自転]]の影響を受けるが、自転によって生じる[[慣性力]]を運動方程式に加えることで、非慣性系の運動を慣性系の場合と同じように取り扱うことができる。 [[ニュートン力学]]では、[[運動の第3法則]]が成り立つ。運動の第3法則は「作用反作用の法則」とも呼ばれ、作用(力)に対してその対となる反作用が必ず存在することを述べる。例えば物体Aから物体Bに及ぼされる力 {{math|''F''<sub>A &rarr; B</sub>}} が存在するとき、それを打ち消す力 {{math|''F''<sub>B &rarr; A</sub>}} が物体Bから物体Aへ及ぼされる。両者の和を考えるとこれは常に 0 に等しくなる。 :<math>F_\mathrm{A \to B} + F_\mathrm{B \to A} = 0.</math> 作用反作用の法則は[[慣性力]]に対しては成り立たず、この意味で慣性力は'''見かけの力''' ({{en|fictitious force}}) であるということができる。慣性力は慣性系から非慣性系へ視点を移した際に現れる力であり、その反作用は存在しない。ニュートン力学においては慣性力を除くすべての力が物体間の相互作用として理解されるが、[[電磁場]]のような[[場]]との相互作用を含める場合、物体間だけで相互作用が閉じるという前提は破綻し、その結果として上述の作用反作用の法則が成り立たなくなる。そのため、電磁場を含む力学においては、作用反作用の法則は[[電磁気学]]に適合するように修正される。 作用反作用の法則はより一般化され[[運動量保存の法則]]として述べれられることがある。運動量保存則に則した立場では、力は物体間(あるいは物体と[[場]]の間)で行われる相互の[[運動量]]の授受を示すものと理解できる。ある時間に物体に及ぼされる力の総和と時間の積、すなわち力の時間に関する[[積分]]は、その時間における物体の運動量の変化量に等しい。この運動量の変化量は[[力積]]と呼ばれる。 古典力学で採用される運動の諸法則によって定められる範囲では、力の定義は速度や加速度のような運動学的な量に比べて抽象的である。より具体的な定義は個々の[[現象論]]によって与えられる。多くの場合、[[地球]]の[[重力]]や[[ばね|バネ]]の復元力のように何らかの[[ポテンシャル]]を最小化しようとする働きとして表される。 通常、力はそれが働く物体に付随するものとして考えられるため、力に個々の作用点を付して特別に注意を払うことはない。しかしながらより一般的に、ある点に対してその点を作用点とする力を与える[[関数 (数学)|関数]]を用いて運動を捉えることもできる。そのような関数は'''力の[[場]]''' ({{en|field of force}}) とか'''力場'''と呼ばれる{{sfn|江沢|2005|p=91}}{{sfn|新井|2003|pp=151&ndash;152}}。力の場は、[[空間]]の点に対してその点に束縛されたベクトルを与える関数であり、このような関数は[[ベクトル場]]と総称される。力の場は、文脈に応じていくつか異なる定義が与えられる。一つの定義では、単位質量の試験物体に加えられる力を与える場をいい、別の定義では単にある物体に働く力を与える場とされる{{sfn|新井|2003|p=152}}。前者の定義では、何らかの[[単位系]]で質量が 1 となる<ref group="注">科学技術分野で一般的な[[国際単位系]]では質量の基本単位は[[キログラム]]である。従ってこの場合の単位質量は {{val|1|u=kg}} となる。[[ヤード・ポンド法]]では質量の基本単位は[[ポンド (質量)|ポンド]]となるため、単位質量は {{val|1|u=lb}} となる。</ref>物体に働く力を与える。従ってその[[量の次元|次元]]は {{sfrac|力|質量}} となる。後者の定義は前者の場 {{math|'''''F'''''('''&middot;''')}} に適当な質量 {{mvar|m}} を乗じた場 {{math|''m'''F'''''('''&middot;''')}} に相当する。この場合、ある点 {{mvar|'''x'''}} で物体に働く力は {{math|''m'''F'''''('''''x''''')}} と表される。具体的な力の場は何らかの[[ポテンシャル]]によって与えられる。例として、[[重力]]ポテンシャルや[[電磁ポテンシャル]]などが挙げられる。 力は文脈によって、[[相互作用#物理学|相互作用]] ({{en|interaction}})、作用 ({{en|action}}) などとも呼ばれる。ただし、相互作用は(本質的には多体間の)[[ポテンシャル]]を指すこともあり、また[[最小作用の原理|作用]]は[[解析力学]]においては力と異なる概念として定義されている。 ==== 次元と単位 ==== {{seealso|ニュートン (単位)|国際単位系|SI基本単位の再定義 (2019年)|国際量体系|次元解析}} 力の[[量の次元]]は MLT<sup>&minus;2</sup>([質量]&times;[長さ]&times;[時間]<sup>&minus;2</sup>)である<ref group="注" name="power">記号に対する上付きの添字はその量の[[冪|ベキ]]を表す。たとえば {{math|A<sup>2</sup>}} は {{math|A &times; A}} を意味する。[[正の数と負の数|負数]]のベキは[[逆数]]のベキを表し、たとえば {{math|B<sup>&minus;2</sup>}} は {{math|{{sfrac|1|B}} &times; {{sfrac|1|B}}}}、つまり {{math|{{sfrac|1|B&times;B}}}} を意味する。折衷的な表現として {{math|B<sup>&minus;2</sup>}} を {{math|{{sfrac|1|B<sup>2</sup>}}}} と表すこともしばしばある。</ref>。力の次元が他の量の次元によって組み立てられることは、[[ニュートン力学]]において力 '''{{mvar|F}}''' が[[質量]] {{mvar|m}} と[[加速度]] '''{{mvar|a}}''' の積として与えられること、 :<math>\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a},</math> 加速度 '''{{mvar|a}}''' が、加減速される時間に対する[[速度]] '''{{mvar|v}}''' の変化の割合、すなわち速度の[[時間微分]]として定義されること、 :<math>\boldsymbol{a}(t) = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{v}(t)}{\mathrm{d}t},</math> 速度 '''{{mvar|v}}''' もまた、運動する時間に対する[[位置]] '''{{mvar|x}}''' の変化の割合として定義されること、 :<math>\boldsymbol{v}(t) = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{x}(t)}{\mathrm{d}t},</math> から導かれる。位置、あるいは[[変位]]は基準点に対する[[距離]]を測ることによって決定でき、位置の変化量 {{math|d'''''x'''''}} は長さの次元 (L) を持つ。速度は位置の変化量 {{math|d'''''x'''''}} と時間 {{math|d''t''}} の[[比]]なので、次元は長さ (L) に時間 (T) の逆数を乗じた LT<sup>&minus;1</sup> となる。加速度についても同様の手続きから量の次元が定まり、加速度の量の次元は LT<sup>&minus;2</sup> である。力は加速度に質量を乗じたものなので、量の次元も加速度の量の次元に質量の次元 (M) を掛けた MLT<sup>&minus;2</sup> となる。 力の単位もまた、それぞれの基本量に対応する基本単位から組み立てられる。[[国際量体系]]では基本量として質量、時間、長さを採り、[[国際単位系]]では国際量体系に対応して質量の単位を[[キログラム]] (kg)、時間の単位を[[秒]] (s)、長さの単位を[[メートル]] (m) としてこれらを基本単位としている。国際単位系に従えば、力の単位は kg&middot;m&middot;s<sup>&minus;2</sup> と表すことができる。また国際単位系では、目的に応じて組立単位が定義されており、力の単位として[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N) が定められている。ニュートンなどの組立単位はすべて基本単位の代数操作によって定義されており、ニュートンの場合、N {{=}} kg&middot;m&middot;s<sup>&minus;2</sup> と定義されている。 ==== 静力学 ==== [[静力学]]では力は基本的な状態量になる。力を構成する要素は、力の'''大きさ''' ({{en|magnitude}})、力の'''向き''' ({{en|direction}})、作用線の'''方向'''、作用線の'''位置'''である{{sfn|江沢|2005|p=7}}。力が及ぼされる点を'''[[力点と作用点|作用点]]'''{{efn2|作用点はまた'''着力点'''とも呼ばれる{{sfn|新井|2003|p=150}}。}}({{en|point of action}}) と呼ぶ{{sfn|新井|2003|p=150}}。'''作用線''' ({{en|line of action}}) とは作用点を通り、力の向きに対して[[平行]]な直線のことである{{sfn|新井|2003|p=151}}。 また、力が2体力である場合には、力を及ぼすものと力が及ぼされるものとの組を考えることができる。すべての力が2体力であるなら、それぞれの力は'''互いに独立'''であり、物体にかかる'''正味の力''' ({{en|net force}}) はそれぞれの独立な力の単純な和として表される{{sfn|江沢|2005|p=7}}。 たとえば、物体 {{math|A}} に物体 {{math|B, C}} が力を及ぼしている場合、物体 {{math|A}} に働く正味の力は、 :<math>\boldsymbol{F}_\mathrm{A} = \boldsymbol{F}_\mathrm{B \to A} + \boldsymbol{F}_\mathrm{C \to A}</math> と分解することができる。ここで {{math|'''''F''''' {{sub|A}}}} は物体 {{math|A}} に働く正味の力、{{math|'''''F''''' {{sub|B &rarr; A}}, '''''F''''' {{sub|C &rarr; A}}}} はそれぞれ物体 {{math|B, C}} が物体 {{math|A}} に及ぼしている力を表す。このことは {{math|A}} に力を及ぼす物体が増えても同様に成り立つ。 ==== 解析力学 ==== {{seealso|オイラー=ラグランジュ方程式#ニュートン力学との関係}} [[解析力学]]における力は、[[ニュートン力学]]の定義と異なり、[[オイラー=ラグランジュ方程式]]を通じて'''一般化運動量''' {{en|(generalized momentum)}} の[[時間微分]]に等しくなる[[関数 (数学)|関数]]として与えられる。一般化運動量の時間微分という意味での力は、'''一般化力''' {{en|(generalized force)}} あるいは'''広義の力'''と呼ばれ、ニュートン力学における力とは区別される。 一般化運動量は[[ラグランジアン]]の一般化速度による[[偏微分]]として定義される{{sfn|ランダウ|リフシッツ|1974|pp=17&ndash;18}}。一般化運動量を '''{{mvar|P}}'''、ラグランジアンを {{mvar|L}}、[[一般化座標]]の組を '''{{mvar|q}}'''、一般化速度の組を {{math|{{dot|'''''q'''''}}}} と表せば、一般化運動量は以下のように定義される。 :<math> \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t) = \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)} {\partial\dot\boldsymbol{q}}. </math><ref group="注">関数 {{math|''f''('''''u''''')}} のベクトル '''{{mvar|u}}''' による微分は、ベクトル '''{{mvar|u}}''' の各成分 {{math|1=''u<sub>i</sub>'', ''i'' = 1, 2, ..., ''d''}} に対する偏導関数 {{math|{{sfrac|&part;''f''|&part;''u<sub>i</sub>''}}}} を成分に持つベクトル {{math|({{sfrac|&part;''f''|&part;''u<sub>1</sub>''}}, {{sfrac|&part;''f''|&part;''u<sub>2</sub>''}}, ..., {{sfrac|&part;''f''|&part;''u<sub>d</sub>''}})}}、つまり[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]を与える。</ref> [[オイラー=ラグランジュ方程式]] :<math> \left. \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial \boldsymbol{q}} \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left( \left. \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial\dot\boldsymbol{q}} \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} \right) </math><ref group="注">ここで {{math|{{dot|'''''q'''''}}(''t'')}} は[[関数 (数学)|関数]] {{math|'''''q'''''(''t'')}} の {{mvar|t}} による[[微分]]を表す。この微分の記法は[[ニュートンの記法]]と呼ばれる。</ref> を一般化運動量 '''{{mvar|P}}''' で書き換えると、以下のように書ける。 :<math> \left. \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial \boldsymbol{q}} \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left( \left. \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t) \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} \right) </math> 上記のオイラー=ラグランジュ方程式の右辺から、一般化力 '''{{math|&Psi;}}'''<ref group="注">この記法はあまり一般的ではない。一般化力を表す記号としてはしばしば {{math|Q}} が用いられる。</ref> は次のように定義される{{sfn|ランダウ|リフシッツ|1974|pp=18&ndash;19}}。 :<math> \boldsymbol{\Psi}(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t) = \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)} {\partial \boldsymbol{q}}. </math> オイラー=ラグランジュ方程式 :<math> \left. \boldsymbol{\Psi}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t) \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left( \left. \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t) \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} \right) </math> と[[ニュートンの運動方程式]] :<math>\boldsymbol{F}(t) = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t}\boldsymbol{p}(t)</math> と見比べれば、左辺の一般化力 '''{{math|&Psi;}}''' は力に相当する量であることが分かる。 === 力の釣り合い === その物体の速度が変化しないとき、'''力が釣り合っている'''と言う。例えば、自動車が時速 40 km/h のまま直進しているとき、車体にかかる力は釣り合っている。この時、エンジン等によって動かされた車輪が加速しようとする力と車軸の[[摩擦]]や空気抵抗によって減速しようとする力が釣り合っている、と考えるのである。 === 力の合成と分解 === [[image:Force elementaire.png|right|250px|thumb|'''力の合成''' 力 {{math|d'''''T'''''}} と力 {{math|d'''''N'''''}} を合成した力 {{math|d'''''F'''''}} は平行四辺形の法則によって対角線として計算できる。]] '''力の合成'''とは、ある点に働く複数の力を 1 つの等価な力として表すことを言う。またその逆の操作を'''力の分解''' ({{en|decomposition of force}}) と呼ぶ{{sfn|江沢|2005|p=9}}。合成された力のことを'''合力''' ({{en|resultant force}}) という{{sfn|江沢|2005|p=6}}。 力は[[空間ベクトル|ベクトル]]として定義されているので{{sfn|江沢|2005|p=62}}、[[ベクトル空間]]における[[加法]]の規則に従い合成と分解を行うことができる{{sfn|江沢|2005|pp=4&ndash;6}}。力と運動量がベクトルであることにより、運動方程式を任意の成分に分解することができる。この原理を'''運動の独立性''' ({{en|independence of motions}}) という{{sfn|江沢|2005|p=62}}。 分解された力と元の力、あるいは合成される力とそれらの合力の関係を図形的に表すものとして、[[力の平行四辺形]]がしばしば用いられる。力の分解に関して、2 成分に分解された力は[[平行四辺形]]の辺をなし、その対角線は元の力となる。同様に、2つの力が同じ点に働くと、それらは平行四辺形の辺をなす。2つの力の合力は2つの力のなす平行四辺形の対角線として図示される{{sfn|江沢|2005|pp=4&ndash;6}}。力の分解や合成を平行四辺形の組み合わせによって表すことができる、という法則を'''平行四辺形の法則''' ({{en|parallelogram law}}) と呼ぶ{{sfn|新井|2003|p=151}}。平行四辺形の法則はまた、'''ニュートンの第4法則''' ({{en|Newton's fourth law}}) とか'''力の重畳原理''' ({{en|superposition principle of force}}) とも呼ばれる{{sfn|新井|2003|p=151}}。 === 分類 === [[連続体力学]]などの分野では、力は次の 2 つに分類される。 ; 面積力 : 面を通して作用し、その大きさが面積に比例する力{{sfn|巽|1982|pp=33&ndash;31}}。表面を横切る微視的な[[運動量]]の[[流束]]とも言え{{sfn|Ferziger|Perić|2003|p=5}}、'''表面力'''とも呼ばれる。物体の面を介して作用するので[[近接作用]]力である{{sfn|京谷|2008|p=31}}。例としては[[圧力]]、[[応力]]、[[表面張力]]などが挙げられる。 ; 体積力 : 物体の体積に比例する力{{sfn|今井|1997|p=13}}。'''物体力'''とも呼ばれる。物体には直接触れずに作用する力なので[[遠隔作用]]力である{{sfn|京谷|2008|p=31}}。例として[[重力]]、[[遠心力]]、[[コリオリ力]]、[[電磁力]]などがある。 == 量子力学 == {{main|量子力学|場の量子論|基本相互作用|標準模型}} [[量子力学]]では、[[場の量子論]]により、宇宙における力の源は[[基本相互作用]]による、[[電磁相互作用]]・[[弱い相互作用]]・[[強い相互作用]]・[[万有引力|重力相互作用]]の 4つに整理された。ただし、重力は[[古典論]]に属する[[一般相対性理論]]も関係し、また、重力の量子化([[量子重力理論]])は研究の途上である。一方で電磁相互作用と弱い相互作用とを統一的に記述する電弱統一理論は[[ワインバーグ=サラム理論]]によって完成した。その次と言える強い相互作用の統一は[[大統一理論]]として研究中である。 その他、主な未解決の問題についての概観は[[標準模型]]を参照のこと。 == 批判 == (古典力学の)力は物理学の根幹にかかわるものであるが、力の定義づけは自明ではないともいわれる{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}。アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』において力と質量について明確な定義を与えていない。現代的な視点では、[[ニュートン力学]]における力は運動の第2法則 {{math|'''''F''''' {{=}} ''m'''a'''''}} によって定義されるものと解釈されるが、この解釈のもとでは、比例定数の慣性質量 {{mvar|m}} が未定義な量であるため、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}。 [[アメリカ航空宇宙局]]のサイトでは「自由物体の動きに変化を起こしたり、あるいは固定物体に[[応力]]を与える基となる <u>agent</u>(エージェント)<ref>"Any external '''agent that causes a change in the motion''' of a free body, or that causes stress in a fixed body." [http://earthobservatory.nasa.gov/Glossary/?mode=alpha&seg=f&segend=h Glossary] - Earth Observatory, NASA</ref>」といった説明になっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group=注}} === 出典 === {{reflist|25em}} == 参考文献 == {{wikisourcelang|en|The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)}} {{wikisourcelang|en|The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1846)}} * {{Cite book|和書|title=物理学辞典|publisher=[[培風館]]|edition=三訂版|date=2005-10|isbn=978-4563020941|ref={{sfnref|培風館物理学三訂版|2005}}}} * {{cite book|和書|last=小出|first=昭一郎|authorlink=小出昭一郎|title=力学|publisher=[[岩波書店]]|year=1997|ref=harv}} * {{cite book|first=Julian|last=Barbour|authorlink=ジュリアン・バーバー|title=The Discovery of Dynamics: A Study from a Machian Point of View of the Discovery and the Structure of Dynamical Theories|date=2001|isbn=0-19-513202-5|ref=harv}} * {{cite book|和書|last=内井|first=惣七|authorlink=内井惣七|title=空間の謎・時間の謎 &mdash; 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学|publisher=[[中公新書]]|date=2006|isbn=412101829X|ref=harv}} * {{cite book|和書|last=湯川|first=秀樹|authorlink=湯川秀樹|title=物理講義|publisher=[[講談社]]|date=1975-1|isbn=978-4061298576|ref=harv}} * {{cite|和書|last=巽|first=友正|authorlink=巽友正|title=流体力学 |publisher=培風館 |date=1982 |isbn=4-563-02421-X |ref=harv}} * {{cite|和書|title=コンピュータによる流体力学|first1=Joel H.|last1=Ferziger|first2=Milovan|last2=Peri&#x107;|translator=小林敏雄、谷口伸行、坪倉誠|publisher=[[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|date=2003|isbn=4431708421|ref=harv}} * {{cite|和書|editor=非線形CAE協会|last=京谷|first=孝史 |title=よくわかる連続力学体ノート|publisher=[[森北出版]]|date=2008|isbn=9784627948112 |ref=harv}} * {{cite|和書|last=今井|first=功|authorlink=今井功 (物理学者)|title=流体力学 前編|publisher=[[裳華房]]|edition=24|date=1997|origdate=1973-11-25|isbn=4785323140|ref=harv}} * {{cite book|和書|author=山本義隆|last=山本|first=義隆|authorlink=山本義隆|title=磁力と重力の発見|publisher=[[みすず書房]]|year=2003|ref=yamamoto}} * {{Cite book|和書|first=エルンスト|last=マッハ|authorlink=エルンスト・マッハ|title=マッハ力学史 (上)―古典力学の発展と批判|translator=岩野秀明|series=ちくま学芸文庫|publisher=[[筑摩書房]]|date=2006|isbn=978-4480090232|ref=harv}} * {{Cite book|和書|first=エルンスト|last=マッハ|title=マッハ力学史 (下)―古典力学の発展と批判|translator=岩野秀明|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|date=2006|isbn=978-4480090249}} * {{cite book|和書|first=ハインリッヒ|last=ヘルツ|authorlink=ハインリッヒ・ヘルツ|title=力学原理|publisher=東海大学出版会|year=1974|month=11|isbn=978-4486002444|ref=harv}} * {{cite book|和書|first1=ヨーゼフ・T|last1=デヴレーゼ|first2=ヒード|last2=ファンデン・ベルヘ|title=科学革命の先駆者 シモン・ステヴィン―不思議にして不思議にあらず|series=科学史ライブラリー|others=山本義隆(監修)、中澤聡(訳)|publisher=[[朝倉書店]]|date=2009|isbn=9784254106428|ref=harv}} ** {{cite book|first1=J. T.|last1=Devreese|first2=G.|last2=Vanden Berghe|title=Wonder en is gheen wonder. De geniale wereld van Simon Stevin 1548-1620|language=Nederlands|publisher=Davidsfonds, Leuven|date=2003|pages=342|ref=harv}} &mdash; [[オランダ語]]原著。 ** {{cite book|first1=J. T.|last1=Devreese|first2=G.|last2=Vanden Berghe|title='Magic is No Magic'. 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ストレス
ストレス (英語: stress)
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ストレス 応力 - 物理的なストレス。 ストレス (生体) - 心理的、生物学的なストレス。 強勢 - 言語学でいうストレス。 森高千里の楽曲。アルバム『見て』に収録、シングル「ザ・ストレス」に別バージョン収録。 ジャスティスの楽曲。アルバム『†』に収録。 SMAPの楽曲。シングル『Peace!』に収録。 ZAZYとお見送り芸人しんいちによるお笑いユニット。
'''ストレス''' ({{lang-en|stress}}) *[[応力]] - [[物理]]的なストレス。 *[[ストレス (生体)]] - [[心理]]的、[[生物学]]的なストレス。 *[[強勢]] - [[言語学]]でいうストレス。 ;[[楽曲]]のタイトル *[[森高千里]]の楽曲。アルバム『[[見て]]』に収録、シングル「[[ザ・ストレス]]」に別バージョン収録。 *[[ジャスティス (バンド)|ジャスティス]]の楽曲。アルバム『†』に収録。 *[[SMAP]]の楽曲。シングル『[[Peace! (SMAPの曲)|Peace!]]』に収録。 *[[ZAZY]]と[[お見送り芸人しんいち]]によるお笑いユニット。 == 関連項目 == * [[テンション]] (曖昧さ回避) * [[ハイテンション]] (曖昧さ回避) * [[プレッシャー]] (曖昧さ回避) * [[ボルテージ (曖昧さ回避)]] {{aimai}} {{デフォルトソート:すとれす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の作品]]
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1,754
局在基底
局在基底(きょくざいきてい Local basis, Localized basis)は、ある実空間領域に局在した基底を指す。特に、原子核を中心とした領域に局在する動径関数と球面調和関数の積を原子軌道と呼ぶ。原子軌道の線形結合で波動関数を表す方法はLCAO法と呼ばれる。局在基底関数にはスレーター型、ガウス型、数値型などがある。
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局在基底は、ある実空間領域に局在した基底を指す。特に、原子核を中心とした領域に局在する動径関数と球面調和関数の積を原子軌道と呼ぶ。原子軌道の線形結合で波動関数を表す方法はLCAO法と呼ばれる。局在基底関数にはスレーター型、ガウス型、数値型などがある。
{{出典の明記| date = 2023年4月}} '''局在基底'''(きょくざいきてい Local basis, Localized basis)は、ある[[実空間]]領域に局在した[[基底]]を指す。特に、[[原子核]]を中心とした領域に局在する[[動径関数]]と[[球面調和関数]]の積を[[原子軌道]]と呼ぶ。原子軌道の[[線形結合]]で[[波動関数]]を表す方法は[[LCAO法]]と呼ばれる。局在基底関数にはスレーター型、ガウス型、数値型などがある。 == 関連項目 == *[[バンド計算]] *[[第一原理バンド計算]] *[[量子化学的手法]] *[[平面波]] *[[混合基底]] *[[Pulay補正]] {{DEFAULTSORT:きよくさいきてい}} [[Category:計算物理学]] [[Category:計算化学]]
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1,755
ラショウ
ラショウ(Rasho)は、現代美術家、ゲームクリエーター、仮面ダンサー、漫画家。千葉県野田市出身。かつて有限会社としてのイタチョコシステムの立ち上げに資金不足により失敗したことがある。そのためなのかイタチョコシステムの代表戸締り役を自称している。 1984年、X1用ソフト『ボコスカウォーズ』で第一回アスキーソフトウェアコンテストのグランプリを受賞。その後、仮面劇の役者や自作の人形店の経営などを経て、1994年にソフトハウス「イタチョコシステム」を設立する。「ヘナチョコゲームセレクション」なる一連のゲームをマッキントッシュ上で発表。更に手びねりの人面模様の「ラショウカップ」などの多数のゲーム関連商品及びアート作品を発表。しかし、実情はたった1人で多種・少量の作品制作を行い、販売するという無理のあるプロジェクトのため、予定が遅れる事はしばしばある。 2014年までに7つのショップ(グッズショップ、カフェなど)を経営したが全て閉店している。 2016年に8番目の店として『イタゲーセン・チョコシス&テム』を神戸に開店。 ネット上でもイタチョコシステムのサイトを運営しているが、さまざまな事情により閉鎖・新設を繰り返している。アルバイト活動などにより本業から離れていることもある。 ゲーム作家、マンガ家としての活動のほか、自作の曲を仮面を着けて歌う「マスクドシャンソン」のライブや、仮面を着けて踊る「仮面ダンス」、前衛的な人形劇「イタチョコ浄瑠璃」(詳細は後述)などのステージ活動も行っている。 など 2008年より、「ニセ伝統芸能・イタチョコ浄瑠璃」と銘打ち、人形浄瑠璃にイタチョコ的解釈による逸脱を加えたオリジナルの人形芝居を上演している。脚本・音楽・演出・出演から人形や小道具の製作に至るまでの全てをラショウ自身が手懸ける。伴奏は数人の楽士による生演奏。 これまでの上演作品は次のとおり: ステージ活動の一環として、音楽LIVEも行っている。楽曲は全て、作詞・作曲をラショウ自身が手懸ける。メンバーは固定によらず、ユニット形式を取る。伴奏は奏者による生演奏。 【主なユニット】 仮面装着による、既存のダンスメソッドを全く使用しない我流の完全即興ダンス。伴奏は主に自作曲の生演奏。
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ラショウ(Rasho)は、現代美術家、ゲームクリエーター、仮面ダンサー、漫画家。千葉県野田市出身。かつて有限会社としてのイタチョコシステムの立ち上げに資金不足により失敗したことがある。そのためなのかイタチョコシステムの代表戸締り役を自称している。 1984年、X1用ソフト『ボコスカウォーズ』で第一回アスキーソフトウェアコンテストのグランプリを受賞。その後、仮面劇の役者や自作の人形店の経営などを経て、1994年にソフトハウス「イタチョコシステム」を設立する。「ヘナチョコゲームセレクション」なる一連のゲームをマッキントッシュ上で発表。更に手びねりの人面模様の「ラショウカップ」などの多数のゲーム関連商品及びアート作品を発表。しかし、実情はたった1人で多種・少量の作品制作を行い、販売するという無理のあるプロジェクトのため、予定が遅れる事はしばしばある。 2014年までに7つのショップ(グッズショップ、カフェなど)を経営したが全て閉店している。 2016年に8番目の店として『イタゲーセン・チョコシス&テム』を神戸に開店。 ネット上でもイタチョコシステムのサイトを運営しているが、さまざまな事情により閉鎖・新設を繰り返している。アルバイト活動などにより本業から離れていることもある。 ゲーム作家、マンガ家としての活動のほか、自作の曲を仮面を着けて歌う「マスクドシャンソン」のライブや、仮面を着けて踊る「仮面ダンス」、前衛的な人形劇「イタチョコ浄瑠璃」(詳細は後述)などのステージ活動も行っている。
'''ラショウ'''('''Rasho''')は、[[現代美術家]]、[[ゲームクリエーター]]、仮面ダンサー、[[漫画家]]。[[千葉県]][[野田市]]出身。かつて[[有限会社]]としての[[イタチョコシステム]]の立ち上げに資金不足により失敗したことがある。そのためなのかイタチョコシステムの代表戸締り役を自称している。 [[1984年]]、[[X1 (コンピュータ)|X1]]用ソフト『[[ボコスカウォーズ]]』で第一回[[アスキー (企業)|アスキー]]ソフトウェアコンテストのグランプリを受賞。その後、[[仮面劇]]の役者や自作の[[人形]]店の経営などを経て、[[1994年]]にソフトハウス「イタチョコシステム」を設立する。「ヘナチョコゲームセレクション」なる一連のゲームを[[Macintosh|マッキントッシュ]]上で発表。更に手びねりの人面模様の「ラショウカップ」などの多数のゲーム関連商品及びアート作品を発表。しかし、実情はたった1人で多種・少量の作品制作を行い、販売するという無理のあるプロジェクトのため、予定が遅れる事はしばしばある<ref>巨人のイタチョコの星のシステム (Mac Fan BOOKS) ラショウ (1999/2)</ref>。 2014年までに7つのショップ(グッズショップ、[[カフェ]]など)を経営したが全て閉店している。 2016年に8番目の店として『イタゲーセン・チョコシス&テム』を神戸に開店。 ネット上でもイタチョコシステムのサイトを運営しているが、さまざまな事情により閉鎖・新設を繰り返している。アルバイト活動などにより本業から離れていることもある<ref>STUDIO VOICE 1999年1月 VOL.277 ラブラブエレクトロン</ref><ref>STUDIO VOICE 2006年11月 VOL.372 90年代カルチャー完全マニュアル</ref>。 ゲーム作家、マンガ家としての活動のほか、自作の曲を[[仮面]]を着けて歌う「マスクド[[シャンソン]]」のライブや、仮面を着けて踊る「仮面ダンス」、前衛的な人形劇「イタチョコ[[浄瑠璃]]」(詳細は後述)などのステージ活動も行っている<ref>ラショウMASKDANCE公式サイト</ref>。 == 著作 == * 巨人のイタチョコの星のシステム(1999年、[[毎日コミュニケーションズ]]) *すこし低い孤高(香山哲共著)(2018年、ドグマ出版) == その他のマンガ作品 == *野犬ロデム(1997 - 1999年、「[[QuickJapan]]」連載) *レプちゃん(2003年、「レプリーク」連載) *バイクオとバイクリエット(2004年、ミニコミ誌「エポケー」連載。未完) *猫じゃら師ラショウ(2007年、「ねこといっしょ」連載) *iタスマニアデビルさん(2009年) *主なチョ作(2018年、ドグマ出版) など == 音楽CD == *比喩の歌(朗読ドラマ「PAWがしたすごくくだらない話」のほか、4曲を収録) *イタチョコラショウの変な歌(2004年、マスクドシャンソンのライブ) == イタチョコ浄瑠璃 == 2008年より、「ニセ[[伝統芸能]]・イタチョコ浄瑠璃」と銘打ち、人形浄瑠璃にイタチョコ的解釈による逸脱を加えたオリジナルの[[人形芝居]]を上演している。[[脚本]]・音楽・[[演出]]・出演から[[人形]]や小道具の製作に至るまでの全てをラショウ自身が手懸ける。[[伴奏]]は数人の楽士による生演奏。 これまでの上演作品は次のとおり: *宮益坂心中: 2008年2 - 3月、[[渋谷]]・[[宮益坂]]上に3日間限定でオープンしたイタチョコ6番目の店。共演:瀧下涼(劇団「[[S.W.A.T!]]」所属) *鵺の首: 2008年5月、東新宿。共演は瀧下涼、高村圭 *南ソーイング里ミシン発見伝: 2008年8月、東新宿。共演は瀧下涼、高村圭 *ア修羅とイ修羅: 2009年7月、[[原宿]]。共演は瀧下涼、奥山有美子、中山沙織(S.W.A.T!)楽士[[パーカッション]]:[[荻原松美]] *傀儡琵琶(くぐつびわ)を壊しちゃった:2009年7月、[[神戸市|神戸]]にて。共演は鳥飼みやび、菊乃丞 *ふかいねむりのかめんねこ:2009年12月、原宿。共演は鳥飼みやび。楽士はウッドベース:大西慎吾、パーカッション:荻原松美。☆関西公演 2010年5月3日、神戸にて。共演は鳥飼みやび、菊乃丞 *イタチョコ大夫: 2010年10月、東新宿。共演は瀧下涼、山本真里、森屋正太郎(S.W.A.T!)、中山沙織、鳥飼みやび。楽士はウッドベース:大西慎吾、ギター:スズキイチロウ *新・南ソーイング里ミシン発見伝1: 2011年1月、下北沢。共演は瀧下涼、山本真里 *新・南ソーイング里ミシン発見伝2: 2011年2月、下北沢。共演は瀧下涼、山本真里、青木太夫 *板猪口ウィルス二千本桜(いたちょこうぃるすにせんぼんざくら):2013年6月、荻窪。共演は瀧下涼、中山沙織。 *エジプト羊はヒエログリフの電報を読むか:2019年2月、大阪南森町。競演は月亭太遊。 *ハは箱舟のブ:2019年7月、大阪南森町。競演は月亭太遊。 == 音楽LIVE == ステージ活動の一環として、音楽LIVEも行っている。楽曲は全て、作詞・作曲をラショウ自身が手懸ける。メンバーは固定によらず、ユニット形式を取る。[[伴奏]]は奏者による生演奏。 【主なユニット】 * シャーマニック・マスクド・シャンソン(マスクド・シャンソン) ** 2002.8 吉祥寺[[MANDA-LA 2]](加藤千晶とのユニット)[演奏]ヤン ** 2003.6 高田馬場ジャズバーMOZZ [演奏] GUNI、ヤン ** 2003.12.23 高田馬場GUNI's Bar 『Hot iTA-Choco Vegetable(イタチョコ温野祭)』[演奏] GUNI、ヤン ** 2004.6.6 吉祥寺MANDA-LA 2 『イタチョコラショウの変な歌』[演奏] 大西慎吾、伊勢沢ゆき ** 2004.9.4 高田馬場GUNI's Bar [演奏] 大西慎吾、伊勢沢ゆき、GUNI、ヤン他 ** 2004.11.25 [[新宿ロフトプラスワン]] 『NANIMO&KIMATTEナイト』[演奏] 大西慎吾、伊勢沢ゆき : ゲストに[[石川浩司]](元[[たま (バンド)|たま]])、[[加藤賢崇]]、[[YMCK]]他を迎え、新作ゲーム紹介(石川、加藤からのオーダーによる)や、トークライヴなどあり。 ** 2005.1.8 [[横浜市大倉山記念館]](ホール) 『iTA-Choco Missa』[演奏] 大西慎吾、伊勢沢ゆき、ヤン * ザ・人形かばんズ(高村圭とのユニット):2008 - ** 2008.12.29 下高井戸Blue-T ** 2009.8.24 下高井戸Blue-T(人形かばんズというユニット名はこのステージから) * ラムサール(鳥飼みやびとのユニット):2010 - ** 2010.2.11 東新宿アコースティックアート、お披露目LIVE『今語りしのジョジシにのせて』[演奏] 大西慎吾、伊勢沢ゆき、荻原松美 ** 2010.5.15 デザインフェスタショースペース、出演(歌と踊り)[演奏] スズキイチロウ、大西慎吾 * 2010.8.29 東新宿アコースティックアート、イタチョコシステム基調公演 「四つの獣」[演奏] スズキイチロウ * 2011.11 神戸さくらみかふぇ、「二代目ハーメルン」独演 * 2012.1 東新宿アコースティックアート、「イタチョコ座の怪人」[演奏] スズキイチロウ、大西慎吾、青木太夫 * 2012.5 むづかしい月、「耳だけ芳一」 * 2014.7.3 [[新宿ロフトプラスワン]]、野犬のロデム発売記念Live[出演]石川浩司、飯田和敏、加藤賢崇、ミヤタケイコ他 == 仮面ダンス == 仮面装着による、既存のダンスメソッドを全く使用しない我流の完全即興ダンス。伴奏は主に自作曲の生演奏。 * 2012.5 むづかしい月、「即興能」 * 2012.7 むづかしい月、「踊るこびと」([[村上春樹]]の短編小説『[[踊る小人]]』をモチーフに) * 2012.9 神戸さくらみかふぇ、「踊るこびと2」[演奏] 久保田裕美、野崎実果 * 2012.12 [[Maker Faire Tokyo 2012]]イノベーションホール、「光る面」[LED技術協力] 田村 弘昭 * 2012.12 荻窪ベルベットサン、「手打ち麺製麺機のようななにか」[演奏] 吉田隆一、スズキイチロウ == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://ita.main.jp ラショウMASKDANCE](英語) - ラショウ公式サイト * [https://twitter.com/itachocosystems Twitter @itachocosystems] - 日々のつぶやき * [http://ita.kayamatetsu.com/ イタゲーセン・チョコシス&テム] - 現存するイタチョコの店 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:らしよう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ゲームクリエイター]] [[Category:日本の現代美術家]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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1,756
量子化学的手法
量子化学的手法(、英: Quantum chemical method)とは原子、分子の電子状態を求める手法。分子軌道法、配置間相互作用法(CI法)などがある。 この手法を用いた計算ソフトは幾つもある。最も有名なものに、Gaussian(2020年現在での最新のバージョンは、Gaussian16)という商用のプログラムが存在する。その他にもMolpro、登録が必要だが無料で利用できるGAMESS、半経験的分子軌道法のMOPACなどが挙げられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "量子化学的手法(、英: Quantum chemical method)とは原子、分子の電子状態を求める手法。分子軌道法、配置間相互作用法(CI法)などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この手法を用いた計算ソフトは幾つもある。最も有名なものに、Gaussian(2020年現在での最新のバージョンは、Gaussian16)という商用のプログラムが存在する。その他にもMolpro、登録が必要だが無料で利用できるGAMESS、半経験的分子軌道法のMOPACなどが挙げられる。", "title": null } ]
量子化学的手法(りょうしかがくてきしゅほう、とは原子、分子の電子状態を求める手法。分子軌道法、配置間相互作用法などがある。 この手法を用いた計算ソフトは幾つもある。最も有名なものに、Gaussianという商用のプログラムが存在する。その他にもMolpro、登録が必要だが無料で利用できるGAMESS、半経験的分子軌道法のMOPACなどが挙げられる。
{{読み仮名|'''量子化学的手法'''|りょうしかがくてきしゅほう|{{lang-en-short|Quantum chemical method}}}}とは[[原子]]、[[分子]]の電子状態を求める手法。[[分子軌道法]]、[[配置間相互作用法]](CI法)などがある。 この手法を用いた計算ソフトは幾つもある。最も有名なものに、[[GAUSSIAN|Gaussian]](2020年現在での最新のバージョンは、'''Gaussian16''')という商用のプログラム[http://www.gaussian.com/]が存在する。その他にも'''[[Molpro]]'''[http://www.molpro.net/]、登録が必要だが無料で利用できる'''[[GAMESS]]'''[http://www.msg.ameslab.gov/GAMESS/]、半経験的分子軌道法の'''[[MOPAC]]'''[http://openmopac.net/]などが挙げられる。 ==関連項目== *[[量子化学]] *[[計算化学]] *[[LCAO法]] *[[分子軌道法]] [[Category:計算化学|りようしかかくてきしゆほう]] {{Chem-stub|りようしかかくてきしゆほう}}
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1,761
Β-カロテン
β-カロテン(ベータカロテン、ベータカロチン、β-carotene)は、植物に豊富に存在する赤橙色色素の一つ。両末端にβ環を持つ最も一般的なカロテンである。ビタミンAの前駆体(不活性型)である。テルペノイドの一つであり、水には溶けないが脂溶性は大きい。 分子構造はKarrerらによって推定された。自然界ではβ-カロテン-15,15'-モノオキシゲナーゼ(EC 1.14.99.36) の酵素反応を受ける。β-カロテノイドはゲラニルゲラニル二リン酸から生合成される。 ニンジン、ホウレンソウ他 がん抑制効果が期待されサプリメントなどで販売されていたが、喫煙者において肺がんのリスクが高まると報告されている。ただし健常者に対して発がん性が高まると示されたわけではない。また、100% all-trans型の合成サプリメントによる結果であり野菜等による実験結果ではない。 がんの発生率や死亡率との関連について、現時点ではポジティブな (有効性があるとする) 結果とネガティブな (有効性がないとする) 結果の両方が存在している。 この成分が含まれている小松菜やパプリカを油で炒めると吸収が高まり、しょうが入りのポン酢醤油を添えると代謝がよくなる。
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β-カロテン(ベータカロテン、ベータカロチン、β-carotene)は、植物に豊富に存在する赤橙色色素の一つ。両末端にβ環を持つ最も一般的なカロテンである。ビタミンAの前駆体(不活性型)である。テルペノイドの一つであり、水には溶けないが脂溶性は大きい。 分子構造はKarrerらによって推定された。自然界ではβ-カロテン-15,15'-モノオキシゲナーゼ(EC 1.14.99.36) の酵素反応を受ける。β-カロテノイドはゲラニルゲラニル二リン酸から生合成される。
{{小文字}}{{Chembox |Name=β-カロテン |ImageFile=Beta-carotene-2D-skeletal.svg |ImageSize= 250px |ImageFile2=BetaCarotene-3d.png |ImageSize2= 250px |IUPACName=β,β-カロテン |OtherNames= |Section1= {{Chembox Identifiers | CASNo=7235-40-7 | PubChem=5280489 | SMILES=CC=2CCCC(C)(C)C=2/C=CC(\C)=C\C=C\C(\C)=C\C=C\C=C(/C)\C=C\C=C(/C)\C=C\C1=C(C)CCCC1(C)C }} |Section2= {{Chembox Properties | Formula = C<sub>40</sub>H<sub>56</sub> | MolarMass=536.87 g/mol | Appearance= 赤紫色 | Density=0.941 ± 0.06 g/cm<sup>3</sup> | MeltingPt=180-182 °C | BoilingPt= | Solubility=不溶 }} |Section3= {{Chembox Hazards | MainHazards= | FlashPt= | Autoignition= }} }} '''β-カロテン'''(ベータカロテン、ベータカロチン、β-carotene)は、[[植物]]に豊富に存在する赤橙色[[色素]]の一つ。両末端にβ環を持つ最も一般的な[[カロテン]]である。[[ビタミンA]]の[[前駆体]](不活性型)である<ref name="Kirk">{{cite journal | title = Vitamin A in Kirk-Othmer Encyclopedia of Chemical Technology | author = Susan D. Van Arnum | publisher = John Wiley | location = New York | issue = 45 | pages =99–107 | year = 1998 | url = | doi = 10.1002/0471238961.2209200101181421.a01}}</ref>。[[テルペノイド]]の一つであり、水には溶けないが[[脂溶性ビタミン|脂溶性]]は大きい。 分子構造はKarrerらによって推定された<ref>{{cite journal | title = Pflanzenfarbstoffe XXV. Über die Konstitution des Lycopins und Carotins | author = P. Karrer, A. Helfenstein, H. Wehrli, A. Wettstein | journal = Helvetica Chimica Acta | volume = 13 | issue = | pages = 1084–1099 | year = 1930 | url = | doi = 10.1002/hlca.19300130532}}</ref>。自然界では[[β-カロテン-15,15'-モノオキシゲナーゼ]](EC 1.14.99.36) の[[酵素反応]]を受ける。β-カロテノイドは[[ゲラニルゲラニル二リン酸]]から生合成される<ref name="Kirk" />。 == 含まれている食材 == ニンジン<ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/123056|title=「野菜350g」は本当にカラダにいいの…?食生活のウソホント|publisher=FRIDAYデジタル|date=2020-07-16|accessdate=2020-11-27}}</ref>、ホウレンソウ他 == ヒトに対する効果 == がん抑制効果が期待され[[サプリメント]]などで販売されていたが、喫煙者において肺がんのリスクが高まると報告されている<ref>[http://diamond.jp/articles/-/75460 βカロテン摂取で肺がんが増える! データで読み解く食品のウソホント] DIAMOND online 2015-07-24</ref>。ただし健常者に対して[[発癌性|発がん性]]が高まると示されたわけではない。また、100% all-trans型の合成サプリメントによる結果であり野菜等による実験結果ではない<ref>[http://www.cancerit.jp/5677.html 肺癌リスクのある人にβ-カロテンサプリメントは有害と確認される] 日本癌医療翻訳アソシエイツ</ref>。 がんの発生率や死亡率との関連について、現時点ではポジティブな (有効性があるとする) 結果とネガティブな (有効性がないとする) 結果の両方が存在している<ref>{{Hfnet|42|カロテン}}</ref>。 この成分が含まれている小松菜やパプリカを油で炒めると吸収が高まり、しょうが入りの[[ポン酢#ポン酢醤油|ポン酢醤油]]を添えると代謝がよくなる<ref>『まいにちの中高生のお弁当250』24頁。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ビタミンA]] * [[プロビタミン]] * [[リコペン]] * [[ルテイン]] * [[ゼアキサンチン]] * [[緑黄色野菜]] * [[柑皮症]] == 外部リンク == * {{ATC|A11|CA02}} {{カロテノイド}} {{Chem-stub}} {{DEFAULTSORT:へたかろてん}} [[Category:カロテノイド]] [[Category:炭化水素]] [[Category:脂環式化合物]]
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仮面ライダーアギト
『仮面ライダーアギト』(かめんライダーアギト、欧文表記:MASKED RIDER AGITΩ)は、2001年1月28日から2002年1月27日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8時から8時30分(JST)に全51話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。キャッチコピーは「目覚めろ、その魂」。 本作品の放送期間中より、番組の最後に「このドラマはフィクションです」とテロップ表記されるようになった。 仮面ライダー30周年記念番組であり、同時に平成仮面ライダーシリーズ第2作目として、シリーズの基礎を固めた作品でもある。第2作目ということで、作中には昭和仮面ライダーシリーズの第2作目である『仮面ライダーV3』のオマージュともいえる描写が存在する。 本作品では3人の仮面ライダーが当初から登場する。以前の作品にも複数の仮面ライダーが作品中に登場するケースはあったが、複数が同時に主役級で扱われた例はなく、この試みは以降のシリーズにも影響を与えている。『クウガ』同様、劇中で仮面ライダーという言葉が登場することはなかった。 作品中では「謎」という形で多くの伏線が提示され、それらを紐解く鍵を見つけると同時に、再び新たな謎が現れる形でストーリーが展開する。また、2話持ちであったとしても、1話目を引っ張りで終わらせるのはもちろんだが、「話を完結させない」というのが鉄則であったことから、2話目も引っ張りで終わらせて、次へつなげる形となっている。このスタイルは、以降のシリーズでも継承されていくことになる。一方で、アクション面においても前作よりもその比重が高く、様式美的な要素を取り入れるなど、エンターテイメント性を重視した作品に仕上がっている。白倉は公式ホームページで第46話が実質的な最終回だと語っており、メインライターである井上敏樹も「最終回のつもりで書いた」としている。 本作品は、未確認生命体第4号が未確認生命体を滅ぼしてから2年後を舞台としているが、前作『クウガ』の時間軸と本作品の時間軸は意図的に一致しないように制作されており、本作品はオンエアタイムと同様に2001年という設定となっている。また、未確認生命体という名称や仮面ライダーG3の外見以外に、前作を連想させる設定なども存在しない(詳しくは外部リンク・「時間軸の矛盾」についてを参照)。 前作におけるクウガの別称「未確認生命体第4号」は本作品でも使われているが、一方で「クウガ」や「グロンギ」という言葉やその姿は登場しない。プロデューサーの白倉伸一郎は、本作品の世界観は物語開始時点より2年前に『クウガ』のような出来事があったパラレルワールドとしている。クウガを共演させようというアイディアは企画中に存在していた。 アギト・ギルス・G3のデザインはいずれも『クウガ』のデザインを発展させたものである。 ストーリーコンセプトとしては、警察を重要な要素とすることや、怪人が人間を殺害する存在であることなどが受け継がれている。 “未確認生命体事件”の終息から2年の月日が流れたある日、沖縄県の与那国島海岸に人知を超えた謎の遺物・オーパーツが流れ着いた。 同時に各地において、人間には不可能な殺害方法を用いた猟奇的連続殺人事件が発生する。警視庁はこの事件の犯人を、かつての“未確認生命体”を超える新たなる脅威として「アンノウン」と命名し、未確認生命体対策班 (SAUL) に専属捜査を命じた。 この物語は3人の仮面ライダー、SAULに配属された若き特務刑事・氷川誠=G3、瀕死の重傷を克服した後に変容していく自らの肉体に恐怖を抱く大学生・葦原涼=ギルス、そして記憶喪失でありながらも本能の赴くままにアンノウンを倒していく家事手伝いの青年・津上翔一=アギト、の物語を交差させ、やがてひとつの巨大な流れへと昇華していく。 津上翔一については、アギトの津上翔一を通常表記、本来の津上翔一は太文字表記にて示す。 あかつき号事件での乗員・乗客たち。 本作は3人の仮面ライダーを主軸として描かれる群像劇である。 劇中の登場人物は彼らを「仮面ライダー」と呼称することはないが、テレビスペシャル『新たなる変身』ではナレーションが「仮面ライダー」付きの名称で紹介しているほか、変身時のテロップでも「仮面ライダー」 と表記されている。また、『百獣戦隊ガオレンジャー』との合同企画による2枚組アルバム『百獣戦隊ガオレンジャーVS仮面ライダーアギト』のドラマパートでは、『ガオレンジャー』のテトムに「仮面ライダー」と呼ばれている。 アギトとは、人間が「光の力」によって与えられた「アギトの力」に覚醒することによって進化を遂げた姿である。 沢木哲也は「あかつき号」の船上で「光の力」と邂逅したことでアギトへの変身能力を得るが、水のエルの襲撃を受けて海中に落ち、記憶を失う。以後の彼は津上翔一を名乗り、自らと人々の居場所を守るために、アンノウンとの戦いに身を投じる。 アギトの力に目覚めた人物は、翔一ひとりだけではない。翔一の姉である沢木雪菜は、風谷伸幸教授の超能力実験を受けたことを契機に最初のアギトとなるが、その結果として教授を死に追いやってしまい、自らも命を絶った。また、記憶喪失直後の翔一の担当医となり、彼を立ち直らせた国枝東も、息子の広樹がアギトの力に耐えきれずに自害したことを明かしている。さらに翔一と同じレストランで働く岡村可奈もまた、アギトへと変貌しかけたため死を選ぼうとしたが、翔一の真摯な呼びかけに応えて思いとどまった。 仮面ライダーアギトの基本形態で、大地の力が宿る肉体そのものを武器とした格闘戦に長ける。 変身に際して、翔一はまず左腰のあたりで両手首を組み、次いで拳をつくりながら右腕を上げる。すると腰にオルタリングが出現する。両腕を広げて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを同時に押すと、賢者の石が輝いてオルタフォースを放ち、翔一の肉体をアギトへと変えるのである。第15話からは変身ポーズに変更が加えられており、高く上げた右腕を胸元に引き寄せて、息を吐きながら前へと伸ばしたときにオルタリングが出現するようになった。 全身は黒い装甲皮膚アーマードスキンで包まれている。上半身の強化外骨格パワーシェルアーマーの胸や腹部は、金色のゴールドチェストとなっており、全身の強化筋肉を均等に配分する役目を担っている。胸部中央にあるワイズマン・モノリスは、全身にオルタフォースを効率よく供給し、循環させている。 肩部装甲ショルダーアームズガードの鋭い先端は、刃物として扱うことも可能である。下腕部を包む金色のアームブロックシールドは、アーマードスキンの10倍以上の硬度があり、格闘時に小型の盾として機能する。 赤い複眼コンパウンドアイズは厚さ5メートルの鋼鉄の壁も透視できるほか、暗闇で光を放って周囲を見渡せるスターライトモードを備えている。額のマスターズ・オーヴは賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、マシントルネイダーと意思の疎通を行える。 2本の角クロスホーンは感覚器官であるのと同時に、肉体の自壊を防ぐために余剰エネルギーを放出する機能を持っている。そのため最大限の力を振るうとき、クロスホーンは2本から6本に展開し、パンチやキックの威力がおよそ2倍に高まる。こうしたパワーの増幅が、グランドフォーム最大の特徴といえる。 変身ベルト・オルタリングの中央には賢者の石が埋め込まれおり、そこから発せられる発生するオルタフォースが、超人的な力の源泉である。通常時は翔一の体内に分子レベルで拡散しており、変身の意思を示すことで腰部に物質固形化される。 左腕に風の力が宿る、敏捷性に優れた形態。パワー面では他のフォームに比べると劣る。 変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング左腰のスイッチを押す。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からストームハルバードが現れる。アギトがストームハルバードを手にすると、その姿が揺らいで体色が青く染まり、変身完了となる。なお、エキヌス・ファメリカーレ戦では津上翔一の姿からストームフォームへの直接変身を行っている。このときの変身ポーズはグランドフォームと同じであったが、オルタリングの賢者の石は最初から青く輝いていたため、変身するフォームは翔一の意思に基づいて決められるのだと考えられる。 胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて青いストームチェストに変化しており、走力とジャンプ力を強化する。風の力が宿る左肩のコバルトジェネレーターには、オルタフォースを蓄積するパワーゴールドが重なっている。なおフレイムフォームに比べると発生させるパワー量が少ないため、パワーゴールドの面積も小さくなっている。 体内に取り込まれた空気は、左腕ストームアームズで風エネルギーへと変換され、左拳サイクロンナックルは生成した風を意のままに操ることができる。 スピードに長け、特定のアンノウン相手に優位に戦えるストームフォームは、第2話から第39話までの間に合計11回も登場しており、アギトが最も頼りにしていたフォームだと言える。 右腕に炎の力が宿る、感覚が鋭敏となった形態。また、パワーにも優れるが、反面スピードでは他のフォームに比べると劣る。 変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング右腰のスイッチを押す。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からフレイムセイバーが現れる。アギトがフレイムセイバーを手にすると、その姿が揺らいで体色が赤く染まり、変身完了となる。なお、フレイムフォームへのチェンジが終わった後にフレイムセイバーが出現することもある。 胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて赤いフレイムチェストに変化している。炎の力が宿る右肩のクリムゾンジェネレーターには、オルタフォースを蓄積するパワーゴールドが重なっている。なおストームフォームに比べると発生させるパワー量が多いため、パワーゴールドの面積も大きくなっている。 右腕フレイムアームズでは7,000°Cもの熱が瞬時に作り出され、右拳バーニングナックルは生成した炎を意のままに操ることができる。 フレイムフォームへの変身は、複数のアンノウンを相手取る場面で行われることが多い。また、強いパワーを得る代わり敏捷性に劣る形態であるにもかかわらず、クロウロードのような素早い敵と戦うときにも選択されている。これはパワーで押すためではなく、研ぎ澄まされた感覚で相手を的確に捉えるためと考えられる。 同じくパワー重視の形態であるバーニングフォームへの変身能力を得て以降は、劇場版を除き、フレイムフォームになることはなくなった。 仮面ライダーギルスの攻撃を受けたショックにより、失われていた記憶を取り戻した翔一が変身可能となったフォーム。グランド・ストーム・フレイムの3フォームの最大能力を発揮し、ストームハルバードとフレイムセイバーを同時に扱える。 テレビシリーズには2度登場しているが、最初の変身はコルウス・クロッキオとの交戦中、偶発的に実現したものだった。フレイムフォームの姿でフレイムセイバーを振るっていたアギトがオルタリング左腰のボタンを押すと、左右のドラゴンズアイがそれぞれ赤と青の光を放ち、オルタフォースが全身を包んだ。そして賢者の石からストームハルバードが出現し、変身を完了した。 2度目の変身に際しては、グランドフォームの状態でオルタリングの左右のスイッチを同時に押し、まずフレイムフォームの姿となった。次いで賢者の石からストームハルバードを取り出してトリニティフォームとなり、最後にフレイムセイバーを出現させた。前回から変身に費やす時間が短縮され、ライダーシュートという大技も繰り出したが、代償として莫大な負荷に見舞われた翔一は再び記憶を喪失。以後、トリニティフォームへの変身を行うことはなかった。 胸部の強化外骨格パワーシェルアーマーは、グランドフォームと同じく金色に彩られている。フレイムフォームと同様、赤い右肩のクリムゾンジェネレーターに炎の力を宿しており、右腕フレイムアームズで7,000°Cに達する熱量を作り出し、右拳バーニングナックルで炎を操る。そしてストームフォームと同様、青い左肩のコバルトジェネレーターに風の力を宿し、取り込んだ空気を左腕ストームアームズで風エネルギーに変換して、左拳サイクロンナックルで操作するのである。 強敵と出会ったことで、アギトが怒りのエネルギーによりパワーアップを果たした形態。それまでのフォームでは外見上の相違点が腕の形状や体色に留まるのに対し、バーニングフォームは増大した筋肉で盛り上がった上半身を特徴とする。敏捷性こそグランドフォームから低下しているものの、強大なパワーを活かした肉弾戦を得意としており、特にパンチ力は全フォームで最大を誇る。 変身に際して、津上翔一はまず両腕を正面に伸ばして手の先を重ねたのち、左右に広げる。次いで右手を腹の前に置き、伸ばしたままの左腕を正面に戻すと、オルタリングが出現する。最後に両腕を交差させて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを押すと、一瞬のうちに姿がバーニングフォームへと変わる。なお、グランドフォームからのチェンジも可能である。 胸部は赤い防具バーニングチェストに覆われているが、その真の役割は、ワイズマン・モノリス周辺に集中して燃えたぎる炎の力を抑制し、自壊を防ぐことにある。前腕部の黒い強化骨格アームアタックシールドからは、鋭い3枚の刃アームズカッターが生えている。両拳のバーニングアームは、炎の力を集中しているため常時高温となっている。 また、パンチを放つ際には体をしっかりと支える必要があるため、脚部も赤色化したバーニングレッグへと変わり、炎の力をみなぎらせている。 複眼コンパウンドアイズは黄色となり、赤く染まった頭部のクロスホーンは常時6本に開いている。 テレビスペシャルでバーニングフォームに変身した際は、ありあまる力を抑えきれずに暴走し、居合わせた恩人の国枝東に襲い掛かった挙句、最後は気絶してしまった。 太陽の光のエネルギーを取り込むことにより極限まで進化を遂げた、アギトの最終形態。人類の創造主である「闇の力」ですら、このフォームの出現を予測できなかった。パンチ力以外の能力が全フォーム中で最高に達しており、卓越したスピードと多様な技で敵を翻弄する。 バーニングフォームの状態のアギトが呼吸を整えて太陽の光を浴びると、オルタリングの賢者の石が反応し、アームアタックシールドなど体の各部がひび割れて崩れる。そしてその下から新たな部位が出現し、変身完了となる。このようにバーニングフォームからの2段変身を行うのが通例だが、最終決戦に臨んだ際は津上翔一の姿で新規のポーズを取ってオルタリングを出現させ、両腕を交差させてからスイッチを叩くバーニングフォームと同じポーズへとつないで、直接変身を行った。 胸部は銀色の装甲パワーシェルアーマーに覆われている。胸の中央にはワイズマン・モノリスがあるが、グランドフォーム時の黒色から黄色に変化し、さらに紋様が浮かび上がっている。白い3枚の装甲板からなる下腕部の防具アームブロックシールドは、戦闘時に小型の盾として扱うことも可能である。 複眼コンパウンドアイズは黄色となり、赤く染まった頭部のクロスホーンは常時6本に開いている。 シャイニングフォームはアギトの最終進化形とされているが、最終決戦で必殺技をより強化して放ったことからわかる通り、さらなる進化の可能性を秘めているのである。 マシントルネイダーは、仮面ライダーアギトのスーパーバイク。津上翔一の愛車であるホンダVTRファイヤーストームが、オルタリングから放出されたオルタフォースを受けて変貌する。 車体は分子レベルで硬化したドラゴンズメイルに覆われ、赤と金に彩られている。ヘッドライト部分は障害物を感知するトルネイドアイとなり、厚さ20メートルまでの物体を透視して、得られた情報をアギトの脳へと伝達する。 前後輪のオルタホイールはオルタフォースが生成する力場によって回転しており、アギトの意思で回転数を直接操作できる。動力機関ではなくなったエンジンは、オルタフォースを車体に循環させるドラゴンハートへと変化している。また、補助的なエネルギーを補給するためにエアインテークから空気中の物質を取り込み、オルタフォースと混合する。その際にはオルタエアと呼ばれる廃棄物が生じるが、特に害のない物質であり、車体後方のオルタエアチャンバーマフラーから排出される。なお、通常時に使用していたガソリンはフュールタンクに備蓄されているので、マシントルネイダーの変形解除後も走行には支障ない。 かつて日本全国を震撼させた「未確認生命体」による連続大量殺人事件の再発を予期して、警視庁は未確認生命体対策班 (S.A.U.L.) を設立するとともに、その専用装備の開発に着手した。 最初に開発された専用装備の第1世代型、すなわちG1(ジーワン、GENERATION-1)は、既存の装甲車などを基盤とした物だった。未確認生命体第4号をモデルとした、人間が装着するタイプの装備だったという異説もあるが、定かではない。 続いてG1の発展形であるG2(ジーツー、GENERATION-2)が開発されたが、武装を充実させた代償として大型化したため、実用的とは言えなかった。狭小な都心部での運用を想定した場合、装甲車や建設用重機並みの巨大な機械では取り回しが利かなくなることが懸念されたため、G1とG2はいずれも廃案となってしまった。 より実用的なG3(ジースリー、GENERATION-3)の開発が急がれる中で転機となったのが、未確認生命体対策班にアドバイザーとして参加していた小沢澄子による「特殊強化装甲服」の提案だった。量産化が成った暁には、多数の警察官を即戦力として動員できるこの案は、他の試案と比較しても現実的なものと判断され、採用に至った。 こうして完成したG3システムだが、新たに出現した人類への脅威である「アンノウン」が、それまで敵として想定していた未確認生命体よりも強力であったため、目立った活躍ができないままに破壊された。しかしその後、改良タイプであるG3-Xの投入により、多数のアンノウンを撃破できるようになった。なおG3-Xの同時期には、別系統の特殊強化装甲服であるV-1(ブイワン)も開発されていたが、演習中に破壊されたため廃案となっている。 小沢はG3をさらに発展させたG4(ジーフォー)の開発も進めていたが、装着員への負担が高すぎたために計画を中止。それを陸上自衛隊が独自に実用化させたことがあった。また、G3より性能は劣るものの誰にでも扱える簡易量産型のG3マイルドも開発されたが、プロトタイプが結果を残せなかったため、こちらの計画も中止に至っている。 アンノウンによる一連の事件の終結後には、量産型の特殊強化装甲服を用いるためのG5(ジーファイブ)ユニットが結成され、尾室隆弘の指揮のもとで多数の装着員が養成されているが、その詳細は明らかになっていない。 G3()システムは、警視庁と日本国内の企業体が協力して開発し、第3世代で初めて完成に至った「対未確認生命体戦闘用特殊強化外筋および外骨格」すなわち特殊強化装甲服。未確認生命体第4号をモデルとして設計されている。 G3の装着員は装甲で身を守りながら、常人の10倍の力を発揮できる。ただし試験型としての側面もあるため、専任の装着員のみが使用できるように調整されており、人員の変更を行う際は再度の微調整を必要とする。劇中では、未確認生命体対策班に所属する氷川誠が主な装着員を務めた。 実戦では格闘よりも各種の専用装備を駆使することが多いが、G3自体に武器は備わっていない。これは、武器を格納したガードチェイサーの随行を前提としているためである。 活動にあたっては、小沢澄子をリーダーとするチーム・G3ユニットの支援が必須となる。まず、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、G3インナージャケットを着用する。次いでその上から胸部・腕部・脚部などの装甲ユニットを身に着けていくことになるが、装着員自身では着用できない部位もあるため、G3ユニット要員が補助を行う。腰にGバックルを据えたのち、頭部ユニットをセットすると、後頭部のシャッターが閉じて「変身」が完了する。介助がなければ装着できない仕様なのは、システムの単独使用を防ぐ意味合いもあると思われるが、戦闘中においてもGトレーラーからの指示や助言がG3の支えとなっている。 黒いG3インナージャケットは、特殊金属糸を編み上げて防弾シリコンでコーティングし、牛のオイルスキンで包んだもの。銀色の胸部装甲バリアントプロテクターは特殊ジュラルミン合金を何層も重ね合わせて造られており、パワージェネレーターを内蔵したコンバーターラングと一体になっている。また、左胸には桜の代紋のレリーフが施されており、G3システムが警視庁所属であることを示している。 脚部を強化させる装置PLSS(パワーレッグサスペンションシステム)は、日本メディカルサポート社が研究開発していた義足の技術を改良したもので、三重構造の青い外装レッグガードで強固に守られている。肩部や上腕部には特殊ジュラルミン製の青いアーマーパッドを装着。左腕には専用情報端末G-COMが組み込まれており、警視庁本部のライブラリーにアクセスして情報を閲覧できるほか、電子警察手帳としての役割も担う。 背面には無公害の燃料電池ゼロエミッション・フューエルバッテリーを搭載しており、電力の残量は腰のGバックルの赤いゲージランプに表示される。腰の左右にあるエナジーボリュームを操作すれば、一時的に電力をアップさせることも可能である。また、バックル上部には緊急用装甲排除のスイッチがある。 赤い人工複眼MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)には、超望遠・暗視・電子顕微鏡などの視覚機能が統合されている。左の頬にはマイクロカメラHDVCが設けられており、捉えた映像情報はG-COMを介してGトレーラーに送られる。額には光学式マーキング装置オプティクスサーチャーがあり、標的に向けて右耳部分のスイッチを押せば、対象の位置をGPSで測定できる。頭部に伸びる3本のアンテナのうち、左は人工衛星経由で現在位置をGトレーラーに送信するGPSロッド、中央の短いものは電子マーキングした標的の位置を把握するためのエクサマインドロッド、右はGトレーラーからの指示や警察無線を受信するためのインフォロッドである。 G3のパワーバランスは、それまで警察が戦ってきた未確認生命体を想定して設計されていたため、より強力な存在であるアンノウンが相手では力不足が目立った。そこで第4話のトータスロード戦では修理がてらにパワーアップが施され、初めてアンノウンを倒すことに成功している。 第9話では氷川に代わって北條透が装着員となり、一度はモリペス・オクティペスを倒す戦果を挙げた。しかし続く第10話で復活したモリペス・オクティペスには歯が立たず、北條は装備を脱ぎ捨てて逃走。以後は再び氷川が装着員となる。 第22話で仮面ライダーギルスの攻撃を受けたG3システムは破壊されてしまい、アンノウンとの戦いを後任のG3-Xに譲ることとなった。その後の第49, 50話では、修復されたG3を尾室隆弘が着用して、北條のG3-Xとともに仮面ライダーアギトの行く手を阻む形で登場している。 G3-X()は、プロトタイプとなるG3システムの戦闘データを基として新規に開発された、特殊装甲強化服の完成版。すべての能力が仮面ライダーG3を上回っている。また、当初からアンノウンとの対決を考慮しているため単独でも戦えるように武装しており、GM-01を右腿、ガードアクセラーを左腿、GK-06を左上腕部に携行している。こうした豊富な武器を使い分けるだけでなく、パンチやキックといった直接的な格闘能力も高い。 G3から引き続いて氷川誠が主な装着員を務めるが、新規に搭載されたオートフィット機能により、無改造で他の人員に装着させることも可能となっている。 さらに、装着員に理想的な攻撃方法を促すAI機能も組み込まれているが、当初はその精度があまりにも完璧であったために氷川がシステムと協調できず、暴走させてしまった。高村教授が開発した制御チップを埋め込み、AIの性能を敢えて落とすことにより、ようやく普通の人間でも扱えるようになった。 活動にあたって、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、まずG3パワージャケット2を着用する。次いでその上から各部の装甲ユニットを身に着けていくことになるが、その際にはG3ユニット要員が補助を行う。頭部ユニットをセットし、後頭部のシャッターが閉じると、オートフィット機能が作動して装着員の体格に適合し、「変身」が完了する。 黒いG3パワージャケット2は、G3インナージャケットから硬度・耐熱・保温・保湿・通気性といった性能が向上している。青い胸部装甲パワーチェストはハイメタル成型による三重構造で、高出力小型ジェネレーターを内蔵したパワーコンバーターラングと一体になっている。パワーコンバーターラングからは、エネルギー循環用パイプを内蔵した銀色の固定具ジェネレーターバックルが伸び、背面へと続いている。 脚部を強化する装置PLSS (Ver.2.0) のサーボモーター類はG3の倍以上に強化されており、外装もハイメタル製となっている。同様に肩部装甲パワーアーマーもハイメタルでできており、その強度は特殊ジュラルミン製パッドの約5倍に及ぶ。左腕の情報端末G-COM (Ver.2.0) はOSがバージョンアップされ、アクセス速度も向上している。 背面には、ジェネレーターバックルが接続されたバックパック・タートルシェルがあり、赤く彩られたゼロエミッション・フューエルバッテリーを装備している。このバッテリーは基本仕様こそG3の物と同じだが、蓄電容量が倍加している一方で、重量は1/3にまで軽量化が図られている。またバッテリーの下にはマウントスペースが設けられており、GX-05用エネルギーマガジンを2個取り付けられる。腰のGバックルはG3と同一だが、前述の通りバッテリーが強化されているため、残り電力を示すインジケーターの振り幅が調整されている。 人工複眼レッドアイザー (MDSS・Ver 2) の視認感度はG3の3倍となり、カバーレンズ部の強度も向上している。口元にはパーフェクターが設けられ、水中における酸素の生成や、火中における有毒ガスの分解と濾過を行い、装着者の呼吸を維持する。 第24話では、氷川に代わって津上翔一が装着員になり、ポタモトリゴン・ククルスを撃破してみせた。 第49,50話では北條透が装着員となり、尾室隆弘のG3とともに仮面ライダーアギトの活動の妨害を行った。しかし第51話で氷川が装着員の座を奪還し、仮面ライダーエクシードギルスとの連携で、風のエルとの最終決戦に勝利した。 度重なるアンノウンの出現に対抗するために発案された、大量生産用G3システムのテストスーツ。 G3システムを基本としつつ、G3-Xシステムで導入されたオートフィット機能が搭載されているため、あらゆる装着員に対応している。ただし戦闘能力は、G3よりも低い。また、装着にあたって、G3やG3-Xのように補助を必要とするのかは不明である。 各種装甲の下に着用するG3マイルドジャケットは、G3インナージャケットと同様の造りになっている。銀色の胸部装甲パワーチェストは、G3-Xと同様にハイメタル成型の三重構造で強固に仕上げられている。両肩の青いアーマーパッドはG3と共通で、特殊ジュラルミン製。腰に巻かれたGバックルもG3と同一の装備で、バッテリー残量を表示するほか、両脇のエナジーボリュームを操作して電力を一時的に上げることが可能である。 背面に搭載された赤い無公害燃料電池ゼロ・エミッションフューエルバッテリーは、G3やG3-Xと互換性がある。人工複眼MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)はG3と同様の装備で、超望遠や電子顕微鏡などの機能を備えている。 G3マイルドのテスト装着員募集要項には「経験・所属・資格は一切問いません」と記載されており、まさに「誰でもOK」という状況だった。結果として尾室隆弘が装着員となり、G3-Xとともにスカラベウス・フォルティスに立ち向かうが、パンチ一発で戦闘不能となる。しかしその後、G3-Xがバッテリー切れに追い込まれたのを知ると、渾身の力で再起。自らのバッテリーと交換することでG3-Xを支援し、戦線を立て直した。ただ、この戦いでG3マイルドが有意義な結果を残せなかったため、G3システムの量産化は中止された。 いずれの装備も、安全のためにGトレーラーから武器管制をコントロールされている。 V-1()システムは、仮面ライダーギルスによって破壊された仮面ライダーG3に代わる新装備として開発された、新型の特殊強化装甲服。G3システムの装着員から外された北條透が、復権を狙って発案したもので、装着員は北條自らが務める。開発陣には、小沢澄子の恩師にあたる高村光介教授を中心とする、人間工学・エネルギー工学の権威や精神科医など日本有数の人材が集っていた。 性能はG3を上回っているが、小沢が同時期に開発した仮面ライダーG3-Xに比べると劣る。外見はG3やG3-Xよりも機械的で、銀一色に彩られている。 実戦でアピス・メリトゥスを撃退する成果を挙げたV-1は、G3-Xと優劣を競うための合同演習でも警視庁幹部をうならせるほどの活躍を披露する。しかしマヌーバ中に、制御不能となって暴走したG3-Xの攻撃を受けて破壊されたため、開発プロジェクト自体もG3-Xの性能を知った高村が放棄したことにより、採用されずに終わった。 城北大学に在籍する水泳選手であった葦原涼が、交通事故による負傷の衝撃で「アギトの力」に覚醒し、変身を遂げた姿。身体能力は仮面ライダーアギトを上回っており、肉体の一部を変異させた武器を用いて戦う。また、前蹴りや回し蹴りなど、種類豊富な足技を多用する。 ギルスはアギトの亜種とされているが、詳細は不明である。涼の変身を目撃した「闇の力」は「アギト......いやギルス。珍しいな」とつぶやいており、種としてはアギトと同じだとみなしていた。 ギルスの肉体は不完全なものであり、変身するたびに涼は体への負担に苦しみ、老化現象にさいなまれた。しかし、後に風谷真魚の力を受けることでこの弱点は解消され、自在に変身できるようになった。 変身に際して、涼は顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を下げる。次いで「変身!」と叫んでから跳躍すると、全身が光に包まれ、メタファクター中央の賢者の石から生体エネルギーが発せられる。そして生体装甲が身を覆うことで、変身完了となる。以上が最もオーソドックスな流れだが、変身シーンの初披露となる第6話では、涼の右隣にギルスの実像が浮かびあがることで、変身を遂げる演出だった。ほかにも跳躍の有無や手の動作の違いなどがあり、ギルスの変身ポーズは多彩であった。 ギルスの全身は、ダイヤモンド並みの硬度がある濃緑色の生体装甲皮膚ミューテートスキンに覆われているが、この皮膚は不完全な存在のため、栄養素を求めて涼の体を蝕んでいる。また、胸部の生体装甲バイオチェストも、日々成長を続けているために涼の肉体を浸食している。 両腕にはライヴアームズ、両脚にはライヴレッグスと呼ばれる生命鎧が寄生しており、エネルギーを吸収する代わりにギルスの意思に応じて武器を生成する。ライヴアームズとライヴレッグスの管理は手足に埋め込まれた緑色のハンドリングオーヴが行っており、もしこの器官が破壊されると、腕や脚の制御が利かなくなってしまう。 赤い複眼デモンアイズは、暗闇でも昼間のように見渡すことができる。額には、賢者の石とほぼ同じ物質で構成された金色の第3の目ワイズマン・オーヴがあり、敵の弱点を瞬時に見抜くほか、閃光による目くらましや催眠波による他者の操作も可能である。口元には銀色の鋭い牙デモンズファングクラッシャーがあり、喉の奥からは超音波ギルスホーンを放って敵を撹乱する。 2本の角ギルスアントラーは感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを体外に放出する役割も担っている。しかしギルスの胸には、仮面ライダーアギトと異なりワイズマン・モノリスがないため、自分の意思とは無関係にエネルギーの限界が訪れてしまう。その際のギルスアントラーは、萎縮して短くなる。 当初の涼はアンノウンに対する明確な敵愾心は持っておらず、場当たり的に戦っていたが、やがて「自らが人々を守る」と心を決め、強い意志のもとにアンノウンの脅威へと立ち向かうようになった。 アナザーアギトに敗れて生命の危機に瀕した葦原涼が、真島浩二の中で目覚めつつあった「アギトの力」を与えられたことで、極限まで進化した姿。全身の至るところから鋭いカギ爪が生えており、胸にはワイズマン・モノリスが出現。また、腕から生える触手のギルスフィーラーがなくなった代わり、背中から伸びるより強力な触手のギルススティンガーが加わっている。 劇場版での登場経緯はテレビシリーズと異なっており、戦闘中に右腕を切断されたギルスが、自らに備わった防御本能の高まりによって、腕を再生させながらエクシードギルスへと進化している。 強化変身に際して、仮面ライダーギルスは顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を広げながら、デモンズファングクラッシャーを開いて雄叫びを上げる。すると胸にワイズマン・モノリスが現れてフォースを放ち、体の各部から突起が生えていく。最後に額のギルスアントラーが伸びて、変身完了となる。なお、葦原涼の姿から直接エクシードギルスに変身することも可能である。 エクシードギルスの状態では、赤く変色したギルスクロウとギルスヒールクロウが常時伸びている。さらに余剰エネルギーによって両肩にはギルスショルダークロウ、両腕にはギルスアームクロウ、両膝にはギルスニークロウというカギ爪が新たに生成されている。 胸の中央に配置されたワイズマン・モノリスは、メタファクターが放つフォースを全身に効率よく供給し、循環させている。また、ワイズマン・モノリスから力を得て誕生した赤い生体装甲ギルスワームが胸から背中にかけて走り、ギルススティンガーを作り出す。 頭部のギルスアントラーは、元の2本に加えて中央部が伸びている。エクシードギルス時にギルスアントラーが萎縮することはないようである。 ギルスレイダーは、仮面ライダーギルスの専用バイク。葦原涼がギルスに変身すると同時に、涼の愛車であるホンダXR250がギルスの細胞と融合することによって変貌する。 半機械半生物のバイオマシンであるギルスレイダーは自らの意志を持っており、無人走行でギルスのもとに駆けつけることができる。 フロントカウルにある黄色のプロテクトフィールド発生レンズによって不可視の力場を生成し、障害物への突撃を行う。レンズの下に備わったギルスアイは、仮面ライダーギルスの複眼と同等の機能を持ち、視認した情報をギルスの脳へと伝達する。また、フロントカウルの左右にはデモンズクローが伸びており、毎秒250万回の振動波を放つことで、3メートル以内の物体を直接触れることなく切断する。 前後輪のフォースホイールはギルスの意思によって回転が制御されており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面にも粘着して駆け上がることが可能である。 車体前方に埋め込まれたギルス・ストーンが動力源となっている。車体後部の左右には、自己修復機能を司る黄色のゲノムストーンが備わっており、どちらか片方の石が残ってさえいれば、全壊状態からでも復元する。半壊状態であれば、36時間で車体の再生が完了する。 車体後方に伸びる2本のデモンズテールは、ギルスのメタファクターから発生した余剰エネルギーを放出する役割がある。 あかつき号の乗客だった外科医の木野薫が、船上で「光の力」を浴びたことにより「アギトの力」に覚醒して変身した姿。その戦闘能力は、仮面ライダーアギト シャイニングフォームに匹敵する。アナザーアギトにフォームチェンジ能力はなく、また専用武器も持たないが、持ち前の格闘能力だけでアギトやギルスを相手取って優位に戦闘を展開してみせた。G3-Xから奪ったGM-01を使用したのが、唯一の武器の使用例である。 変身に際しては、まず両腕を左右に広げ、次に拳を体の前で交差させる。すると賢者の石と、それを収めるアンクポイントが出現する。木野が「変身」と発声すると賢者の石が輝き、オルタフォースが体を包み込んで全身の筋肉や器官が強化され、変身完了となる。なお、バイクの運転中はポーズをとる必要はなく、「変身」と発声するだけでアナザーアギトに変貌する。 アナザーアギトは、エルロードの因子を受け、仮面ライダーアギトとは異なる進化を遂げている。全身を黒い生体装甲皮膚ミューテートスキンで覆い、胸部は濃緑色の強化外骨格バイオアーマーで守られている。胸の中央にはワイズマンモノリスがあり、アンクポイントから発生するオルタフォースを全身に効率よく供給し、循環させている。 手足から生えている感覚器官バイオクロウは、刺突や斬りつけに用いることも可能。左肩にはアギトマークが描かれている。背中に垂れるオレンジ色をした2枚のライヴウィングは、身体バランスを司るだけでなく、アナザーアギトの意思によって変形し、滑空翼ともなる。 赤い複眼アギトアイズは、視界の広さや視認可能距離などで、常人をはるかに超えた能力を備える。額にあるマスターズ・オーヴは賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、ダークホッパーと意思の疎通を行える。V字型に伸びた角アギトホーンは、感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを放出するための放力板でもある。口に生えた牙を覆い隠すクラッシャーは、噛みつき攻撃を行う際や、必殺技発動時に展開する。 木野が抱いていた「人々を救いたい」という志は「人々を救うのは自分だけでいい」という形に歪んでしまい、アギトやギルス、さらには「アギトの力」に目覚めようとしている人たちにまで襲撃をかけた。しかし衝突を繰り返すうちに、津上翔一や葦原涼の人となりを知っていき、次第に仲間意識が芽生え、彼らと共闘するようになった。 ダークホッパーは、アナザーアギトの専用バイク。木野薫が乗用しているバイクが、アナザーアギトへの変身に伴いアンクポイントから発せられるオルタフォースを受けて、変貌した姿である。 オフロード型バイクの形状をしているが、ギルスレイダーと同様に半ば機械、半ば生物であり、自らの意志で自律走行することもできる。 前後輪のフォースホイールにはアナザーアギトの細胞が取り込まれており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面をも駆け上がる。フォースホイールは賢者の石の力によって直接回転しているので、元のエンジンは駆動装置ではなくなっているが、その代わりオルタフォースを一時的に蓄積して車体へと効率よく供給させるホッパーハートへと変化している。 フロントカウルのダークヘッドは、分子配列レベルで硬化している。二灯式プロジェクターヘッドライトのダークアイは、灯火装置であるのと同時にこのマシンの眼でもあり、厚さ15メートルの物質を透視して、得られた情報をアナザーアギトの脳へと伝達する機能がある。ダークアイの後ろには4枚の安定翼ホッパーウィングがあり、グライダー機能による空中滑走を可能としている。 車体後部に伸びる2本のバランサー・ホッパーテールにはレーダー機能が備わっているほか、敵を撹乱するための煙幕を張ることもできる。 神(闇の力、オーヴァロード、テオス)に仕えるマラークと呼ばれる存在であり、地球上の動物を模した半獣半人の姿を持つ超越生命体。 種族ごとに「 -(一般用名称 / モチーフとなる動物の英語名)ロード(+正式名称 / ラテン語や古典ギリシア語での種族と特徴)」と呼称されており、種族的観念とそれに基づいた階級があるらしく、似た容姿で複数のアンノウンが同時に行動する際には、指揮官らしき存在クイーンロードが登場している。高位の怪人はエルロードと呼ばれる。劇中で各アンノウンの名前が呼ばれることはない。 「アンノウン」の名は警察が氷川誠からの報告を受けて、未確認生命体を超える新たなる敵、謎の存在として警察が命名した呼称であり、軍事用語で「国籍不明機」を意味する「unknown」に由来する(第2話)。 殺しや特殊能力を行う際には、左手で右手の甲を“闇の力”の文字の形に辿るという、殺しのサインを切る。対象を生きたまま樹の洞に詰めこんだり、さらには対象の体組織を別の物体に変えたりなど、人間には実行不可能な犯行から「不可能犯罪」と呼ばれる一方、同族ならば殺害方法は共通する。監視カメラなどでは磁場が発生し、歪んだ姿となるため、不可視となってしまう。 目的は神が恐れるアギトの殲滅であり、主にアギトの種を持ち、アギトになる可能性のある人間(超能力者)を血族ごとに殺し回っている(胎児も該当)。 一方で、神が人間を愛しているために、アギトの力を持たない人間を殺すことは極力禁じられており、ターゲットおよびその殺害を妨害する者(主に護衛している警察官など)以外の人間は襲うことはなく、第34話で水のエルがG3-X=氷川を圧倒して追いつめた際、「アギトではないから」という理由で止めを刺さずに終わっている。禁を破ったアンノウンは“闇の力”から制裁が下される。 能力の発動時や、ライダーの技を受けて爆死する直前に、天使の輪のような円盤状の発光体が頭上に出現する。また、各自の武器はそこから召喚して装備する。各個体共通して、同じベルトのバックル、羽を象った装飾品、背中には鳥獣系以外のアンノウンにも羽根が変化したような突起がある。 水・風・地の3体のアンノウンの上に君臨する高位のアンノウンで、闇の力に代わってアンノウンを指揮して超能力者の抹殺を行う。中盤以降に登場。書籍『MASKED RIDER AGITO ART WORKS』によれば、アギトに等しい存在である。下位のアンノウンよりも進化が進んでいるため、背の羽はより大型化しており、知能や能力が発達したことにより、人間の言語を理解し、話すこともできる。また、闇の力の体内で進化することも可能。貴族、様式、美意識のような風格、そしてライダーと共通する複眼を持つ。特に水のエルについてはあかつき号事件の張本人であり、何度もアギトたちを苦しめる。オープニングで登場したイコン画には、エルロードらしきものが全部で7体描かれている。その正体はテオス(闇の力)によって、古代に誕生した生命体・マラークで、7人存在し、そのうちの一人であるプロメス(光の力)は、マラークから人間を守るため、人間との間にネフェリム(アギト)という戦士を生み出した。 メインキャストである賀集利樹、要潤、友井雄亮は、本作品と同時期に放送された『百獣戦隊ガオレンジャー』の出演者や『ウルトラマンコスモス』で主演した杉浦太陽らと共に、通常では特撮ヒーローを扱わないメディアでの露出の機会を増やしている。また、第12話から登場した沢木哲也役には、『超光戦士シャンゼリオン』黒岩省吾 / 暗黒騎士ガウザー役を演じた小川敦史を起用した。小川はその後も、仮面ライダーシリーズにゲスト出演している。 仮面ライダーアギトは、前年まで戦隊レッドを演じていた高岩成二が担当。高岩は本作品以降、『仮面ライダー響鬼』を除く平成仮面ライダーシリーズの主役仮面ライダーを演じている。仮面ライダーギルス役には、前年に『未来戦隊タイムレンジャー』でスーツアクターとしてデビューした押川善文が抜擢された。 前年より引き続き参加の白倉伸一郎が、本作品ではチーフプロデューサーとなり、以降『仮面ライダーディケイド』まで平成仮面ライダーシリーズに頻繁に関わることになった。また白倉やシリーズ構成である井上敏樹も含め、かつて東映が制作した『超光戦士シャンゼリオン』に参加していたスタッフが、本作品にも多数参加している。白倉も「本作品はシャンゼリオンのリベンジである」と、2009年発売『仮面ライダーマガジン』のインタビューで語っている。 クリーチャー(アンノウン)デザインには、東映特撮ヒーロー作品には『超新星フラッシュマン』以来15年ぶりの参加となるメカニックデザイナー・出渕裕を起用。さらに出渕を補佐する形で、彼の指名でイラストレーター・草彅琢仁が参加した。 本作品よりバイクなどの車両協力、ならびに平成仮面ライダーシリーズの番組スポンサーとして、本田技研工業が参加。番組中で流れるCMはすべて、平成仮面ライダーシリーズ限定で放映の二輪車のものである。本田の参加は、テレビ朝日プロデューサーの中嶋豪が個人的に同社のモータースポーツ部長と懇意にしていたことから実現したもので、中嶋は仕事ではなく個人的な協力であったと述べている。 また日本コロムビアが関与した最後の仮面ライダーシリーズ作品でもあり、次作『仮面ライダー龍騎』以降はエイベックスが音楽制作を担当している。 本作品以降、平成仮面ライダーシリーズ、および令和仮面ライダーの各作品では原則としてエンディングテーマが省略されている。これにより、出演者やスタッフなどのクレジットはすべてオープニングに集約され、省略によって稼がれた分は、ドラマ部分の放映時間として割り当てられるようになった。本来、戦闘場面などのシーンを盛り上げるためのテーマソングは挿入歌として扱われるべきものであるが、スタッフロールなどではエンディングテーマとして表記されている。 上記の通り厳密な意味でのエンディングテーマはないが、各話の終盤(主にバトルシーン)で使われている下記の挿入歌4曲がエンディングテーマ扱いとなっている。またシングル発売時に「2ndエンディング」と銘打たれた「One & Only」という曲もあったが、劇中では一度も使われることがなかった。実質の後期エンディングである「DEEP BREATH」は、シングルに「3rdエンディング」と記載されている。 この形式は一部の例外を除いて、以降のシリーズにも引き継がれている。本作品の挿入歌はすべて、劇中での使用を考慮したテレビサイズが制作されていたといい、このうち「Stranger in the dark」「MACHINE TORNADER」の2曲は、エンディングと同様に使用された。 劇伴は、前作に引き続き佐橋俊彦が担当。前作ではスーパー戦隊シリーズとの差別化からオーケストラ編成は避けていたが、本作品では日本コロムビアの本地大輔が必要性を感じ、オーケストラ編成が加えられた。 第1話と最終話(第51話)はオープニングが省略されており、第1話は次回予告がエンディングを兼ねた形式(予告編の映像にスタッフロールが被せられる)で、主題歌は使われていない。また最終話は本編のラスト部分がそのままエンディングになっており、主題歌には「仮面ライダーAGITO」が使われた。 全曲とも作中未使用。 本作品の企画は、『クウガ』のヒットにより、その後番組として2000年夏ごろから白倉伸一郎・武部直美・井上敏樹を中心に立ち上げられた。秋ごろには劇場版の検討も始められていた。 白倉による初期案は、「人間とモンスターがカードを使って契約する」という設定で、「主人公とヒロインが沖縄から出発し、2人で東京を目指すロードムービー」というものであったが、現実的には制作が難しいという理由で不採用となった。また主人公が記憶喪失であることは当初から決まっており、素性不明の主人公が警察から追われる展開になってしまうのを避けたのも、旅物語を廃案にした理由のひとつである。 次に10人ぐらいの仮面ライダーが登場する群像劇という案が出され、最終的に3人まで絞られ完成作品へと至った。人数が絞り込まれたのは、10通り以上のフォームチェンジが登場した前年の『クウガ』との差別化のためである。 本作品のタイトルを考えている際に、「仮面ライダーダイバ」という案もあったが、前作『クウガ』のスタッフが「敵のアジトが」という話を聞いたプロデューサーの白倉が、「仮面ライダーアジト」というタイトルを考えたが、それではあんまりということで「アギト」ということとなった。「アギト」は、日本語の古語で「顎門」を「あぎと」と読んだことに由来する。また、英字表記であるAGITOがラテン語において「覚醒」や「挑戦」を意味することにもちなんだものである。さらにAGITOは、聖書に存在する「Alpha(アルファ)に始まり、Omega(オメガ)に終わる」のフレーズを思わせる文字構成であることから、「最初で最後の作品」との意味合いが込められている。これにちなみ、本作品の欧文表記は「AGITO」ではなく「ΑGITΩ」(頭文字がアルファ、末尾がオメガ)となっている。 『仮面ライダークウガ』の後番組を制作するにあたって、プロデューサーに就任した白倉伸一郎は、1人が10形態に変化するクウガのフォームチェンジをそのまま踏襲すると、キャラクターにブレが生じてしまうだろうと判断した。そこで白倉は、ヒーローキャラクターを主人公・ライバル・敵役の3人に分担させることを発案し、それがやがて実際の作品の群像劇へと発展していった。 本作品では、「人はみなヒーローになれる」しかし「ヒーローにならなくてもいい」という、一見すると矛盾しているような主題が語られる。そのため、最初からヒーローたりえるアギト、望まずしてヒーローにされたギルス、決して超人ヒーローにはなりえないG3の3人が設定され、彼らの関係性を通じて世界が描かれることとなった。 仮面ライダーG3については、当初は記号のような名前がいいということから「K5」などの案があったが、読売ジャイアンツの3番になぞらえて「G3」という名前となり、「Generation3」と理由づけされた。当初からパワーアップを前提としていたため、おとなしめにデザインされた。アギトやギルスと同じく、角(アンテナ)が伸びるという案も存在した。また、石森プロの飯田浩司によるとG3-Xの初期デザイン案は仮面ライダーXをモチーフとしており、デザイン変更後も仮面ライダーXの装着パーツである「レッドアイザー」と「パーフェクター」という名称がG3-Xの装着パーツの名称として採用されたという。 プロデューサーの白倉は葦原涼が仮面ライダーギルスに変身した理由は特にないとしており、雪菜や可奈のように潜在的に人がアギトになるものとしている。一方、メインライターの井上敏樹は漫画家・柴田ヨクサルとの対談の中で、ギルスのセッティングには苦労したと話しており、これに関連して「あかつき号」の設定を作ったものの、撮影にはフェリーが必要だったため、監督同士でだれが担当するかでもめたという。 また、G3ユニットと対立するエリート警部補・北條 透について、本作品のメインライターを担当した脚本家の井上敏樹は、本作品の登場人物の中で一番好きなキャラクターとして北條を挙げており、「北條透が何をするか」というのが脚本打ち合わせの大きなテーマだったといい、北條を主人公とした話を書くため、第18・19話が執筆された。 アナザーアギトは物語の流れの中で要請されたキャラクターであり、 番組制作現場においては当初定まった名称がなく、脚本上は「木野アギト」と表記されていた。劇中では「もう1人のアギト」と呼ばれ、アナザーアギトと呼称されることはない。アナザーアギトの変身者である木野薫は、当初よりアギトに変身する人物として想定されていたが、細かい設定は登場直前まで考えられておらず、名前も男女どちらでも通用するものにされた。 なお、登場人物の趣味や服装には演者の嗜好が反映されている例もあり、たとえばアギトに変身する津上翔一の髪形は、演者である賀集利樹の髪形がそのまま反映されている。加えて、翔一の衣装は撮影の都度賀集が衣装係とともに撮影所近くの店で調達してきたものであり、アウトドアブランドのフリースや、動きやすくて楽な服が選ばれたという。また、ヒロインであり翔一の理解者である風谷真魚の趣味やファッション、《G3ユニット》の一員である小沢澄子の好物も、同様に演者の趣味や嗜好に由来する。 敵陣営であるアンノウンは、ネーミングはラテン語や古典ギリシア語をベースとしているが、語呂を優先しているため、学名の二名法には従っておらず、ギリシア語をラテン語にも変えていないという。また、読みや文法も無視している。 仮面ライダーのデザインワークは、石森プロとプレックスが中心となって進行した。クウガのデザインから発展させたものを主人公のアギトに充て、そこにメカライダーと生物的ライダーを加えるという方向性が決められた。 しかしアギトのデザインは、クウガにどの程度近づけ、またどの程度差別化を図るかの割合が決まらずに難航し、瞬間的なアイデアスケッチの数は100点を越えた。最終的にクウガよりも「角」と「顎」を鋭く力強くし、さらに「角に開閉ギミックを加える」というアイデアを導入することで、アギトのデザインは完成した。特に角の開閉ギミックは、クウガとの差別化が最もよくできた部分として、デザイナー一同も会心の手ごたえを感じていた。 アンノウンのうち陸上動物や昆虫、鳥類モチーフは出渕、水棲生物や爬虫類および胸の羽根飾りとバックルは草彅がデザインを担当している。 当初は天使や神の使徒のようなものをイメージしていたため、異次元の生物のようなラフを描いていたが、動物モチーフとなった。前作『クウガ』が蛮族のような野蛮な前史時代のイメージであったため、本作品では神話系にもっていくこととなった。だが、天使という設定が残ったため、出現時に頭上に天使の輪っかが現れる設定となった。背中の肩甲骨部分の小さな羽根の意匠は、骨が羽根になりかけている退化した天使の羽根の状態でデザインされており、「天使になりきっていない者」という意味合いを表現している。それに対してエルロードは大きめの羽をデザインしている。なお、鳥類モチーフのアンノウンは別に羽根が付いている。胸元の羽根飾りのようなアンノウンのマークは、初期案での「上位のロードと契約を交わして出現する」という設定から、共通の意匠として自分のサインのための羽根ペンとして想定されていた。 太古から天使のような役割で生きていることを表現するため、総じて古代文明テイストの装飾となっている。衣装や装飾品は、『仮面ライダークウガ』のグロンギと同様に腕輪や足首の輪、足の編み上げ靴などの装飾物を付け、スーツのしわが寄りやすいグローブやブーツの接合部分を隠すという意図もあった。また、グロンギ同様、共通項としてベルト部分に細い前垂れのようなものを付けて前に置くことで目立たせ、直接的にシワの寄る部分を隠せていないが、見る人の意識を外らせている。ウソっぽくなることから毛をそのまま使うのではなく、チェーンを毛の代わりに使っている。 目元は『仮面ライダー』の初期ショッカー怪人のような人間の目が覗いているようなデザインを意識している。額には共通項としてOシグナルがある。アギトの名前の由来が「顎門」であり、創造主がロード怪人をベースに動物を作ったという設定があるため、生物のマスクを被った天使という解釈で、下顎は共通で人間のようなドクロの口周りをスケルトンのような感じで剥き出しにしており、例外として女性怪人は女性っぽさを出すため唇になっている。 予算がかかることから中盤からは飛ぶ怪人を避けている。また、夏場に放送されていた回では、海洋生物をモチーフとしたアンノウンが多く登場している。 物語終盤に登場する上位アンノウン・得るロードのうち、水のエルは立場を反映して品位や知性を感じるデザインとなっている。天使のイメージを内包しているが、宗教的な天使とは距離を取っている。一方、女性型である風のエルは美麗で高貴なイメージのデザインとなっている。また、地のエルは上位のロードのため、陸上生物の王様であるライオンがモチーフとなった。同じネコ科のモチーフであるジャガーロードが下僕という案もあったが、見送られた。 アギトこと津上翔一役には、本作が俳優デビュー作となる賀集利樹がオーディションで起用された。賀集がマイナビニュースとのインタビューで語ったところによると、当時所属していた事務所の社長が『仮面ライダークウガ』を視聴しており、上京してきたばかりの賀集を「仮面ライダー」の次回作のオーディションに受けさせようと思っていたという。賀集はこの時の気持ちについて、絶対に役をとると意気込んだり、構えたりすることなく、素のままで臨んだことがキャラクターのイメージに合っていたのではないかと振り返っている。当初賀集は本作に仮面ライダーが3人出てくることを知らず、役が決まって東映撮影所へあいさつに行った際、仮面ライダーG3こと氷川誠役の要潤、そして仮面ライダーギルスこと葦原涼役の友井雄亮と会い、初めてそのことを知ったという。また、物語の中で一つの場面に変身前の3人がそろうことはほとんどないため、いつ、どのような形で3人が集まったりすれ違ったりするかは台本を読んでみないとわからないため、視聴者たちと同じ感覚で撮影に参加していたと賀集は振り返っている。番組の性質上、アクションシーンも一通り対応できるよう、撮影2カ月前からJAEの道場で訓練を積んでいたものの、変身前の翔一がアンノウンと闘う場面が少なく、むしろ料理や家庭菜園といった家庭的な場面が多いことから、賀集はマイナビニュースとのインタビューの中でエプロンの似合う仮面ライダーとしてかなり珍しがられたと話しており、それゆえに変身前後のギャップがついておもしろくなったのではないかと分析している。また、アギトに変身した後は掛け声くらいしかなかったため、アフレコでは苦労しなかったとも話している。一方、賀集は「過去の記憶を失っているが、あまり気にかけることなく生きている」という翔一の設定については考えるたびに演じるのが難しかったとマイナビニュースとのインタビューの中で話しており、その理由として記憶喪失にはどうしても重たいイメージが付きまとうため、どことなくくらい雰囲気を持たせようと考えて演じたところ、「記憶喪失であることを気にせず明るく演じてほしい」と言われ、キャラクターの性格と記憶喪失に接点を見いだせず、納得いかなかったという。やがて撮影が進むにつれ自分の中で吹っ切れたたといい、津上の居候先である美杉家の人々のアットホームな雰囲気に救いだされたと振り返っている。 アギトのスーツアクターは、『忍者戦隊カクレンジャー』などに出演した高岩成二が務めた。高岩はマイナビニュースとのインタビューの中で、従来はデフォルメした演技をしていたが、本作の撮影現場では戦隊寄りとしてNGになることが多く、動きすぎるとも指摘を受けたため、試行錯誤の末に「動かない」芝居に切り替えたところ、OKをもらったと振り返っている。また、アギトのライダーキックは居合抜きをモチーフとしており、高岩は時代劇をやっているような感覚だったとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている。 氷川誠役の要も本作が俳優としてのデビュー作だった。要は2020年のラジオ番組『Be Style』の中で過酷な撮影だったと振り返り、その様子を修行に例えている。共演者の賀集も、G3はセリフが多いから要が大変そうだったとマイナビニュースとのインタビューの中で話している。 要は撮影開始から半年後に行われた劇場版の舞台挨拶のために銀座を訪れた際、ファンから声をかけられたことがきっかけで、自分のしていたことがたくさんの人々の目に触れたことを実感したと『Be Style』の中で明かしている。 葦原涼役の友井雄亮もまた本作が役者として本格的なスタートを切った作品であり、スーツアクターの押川善文も本作が初めてのヒーロー番組の仕事だった。友井は2人の必死さがキャラクターにうまくリンクしたと「仮面ライダーフィギュアコレクション30」のインタビューの中で話しつつも、撮影が過酷だったとも話している。ギルスの最初の変身シーンの撮影では、演出として用意されたカラスが友井の両耳のピアスの輝きに反応したため、パニックのあまりどのように演技したのか覚えていないと話している。また、第28話において涼がギルスがシンクロして走って変身する場面は、2人が走る様子をレール上からカメラが並走する形で撮影が行われた。この際リテイクのたびに全力疾走を命じられており、2人がへとへとになってやっとOKが出た。この時の様子について、「今思えば、監督は本当に必死な俺の顔が撮りたかった。でも、当時はそれが全くわからなかった。[後略]」と振り返っている。なお、ギルスへの変身の副作用である老化現象の撮影時、初期のころは特殊メイクで表現していたが、その後引きの画を撮影する際には老化状態を表した手袋が使用されていた。 また、2009年の『仮面ライダーディケイド』には過去作品のキャラクターが大挙して登場しているが、この時点でギルスの撮影用スーツは著しく損傷していたため、採用を見送られた。 ヒロインである風谷真魚役にはオーディションでモデルの秋山莉奈が起用された。秋山は2020年の『週刊プレイボーイ』とのインタビューの中で、高校受験前で休業すべきか悩む中、『美少女仮面ポワトリン』(1990年放送)へのあこがれからぜひ出たいと思っていたのでうれしかったと話している。秋山も本作が初めての俳優業だったためとにかく必死だったと話しつつも、キャラクターの基本的な設定は自分にぴったりだったため、日常シーンは等身大で演じることができたとも語っている。また、劇中では怪人に襲われるなどのアクションシーンもあり、とてもおびえた表情をしていたものの内心はすごく楽しく、戦う翔一たちを見ながら自分も変身して戦いたいと思ったとも話している。 前年の『クウガ』がHDTVカメラによる16:9のビスタサイズで制作されたことを受け、本作品でも画面サイズは16:9の画角が採用されている。ただし、『クウガ』で編集段階のSD画質への変換作業時にクオリティの劣化が起きたことを受けて、本作品は、16:9の横長画像を「横方向で圧縮した」4:3の画角で収録しそのままポスプロを行いマスター完成の段階で圧縮状態を戻し本来の16:9の画像にする「スクイーズ撮影」という手法が採用されている。この手法は後の『仮面ライダー剣』まで採用されることとなる。 各回にはタイトルはなく、本節にて明記されているものは、いずれも新聞のテレビ番組欄やテレビ番組情報誌、ならびにテレビ朝日公式ページにて表記されたものである。第28話は涼の回想という、作中の時系列とは外れるエピソードのため、上下に帯がないアスペクト比4:3で放送。各話終了時の演出は最後のワンシーンが四角形に囲まれるという、以降に比べると非常にシンプルなものになっている。四角形の角には「Α」「Ω」の文字が置かれ、さらに上部分にはアギトの紋章も表示される。 登場アンノウンの欄には、レギュラーである闇の力以外のアンノウンのみ記述。登場アンノウンの横の数字は登場話数を示す。 本作は同時期に放送されていた『百獣戦隊ガオレンジャー』とともにイケメンヒーローブームをけん引した作品として認知されており、賀集本人も撮影の合間にトークショーを入れるなど過密なスケジュールだったことに加え、自分たちの待合室周辺にも人がたくさんいて驚いたと同時に人気を感じたとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている。 玩具などの関連商品の売上は前作『クウガ』を下回っているが、視聴率は最高視聴率(13.9パーセント)・番組平均視聴率(11.7パーセント)ともに平成仮面ライダーシリーズの最高記録を出している。 また、劇中では登場人物の一人である小沢澄子が焼肉を食べるシーンが多く描かれ、これに対して放送当時、BSE問題で苦しんでいた全国食肉事業協同組合連合会から、本作品が表彰を受けた。 リンクの貼られている作品の詳細はリンク先を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『仮面ライダーアギト』(かめんライダーアギト、欧文表記:MASKED RIDER AGITΩ)は、2001年1月28日から2002年1月27日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8時から8時30分(JST)に全51話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。キャッチコピーは「目覚めろ、その魂」。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作品の放送期間中より、番組の最後に「このドラマはフィクションです」とテロップ表記されるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "仮面ライダー30周年記念番組であり、同時に平成仮面ライダーシリーズ第2作目として、シリーズの基礎を固めた作品でもある。第2作目ということで、作中には昭和仮面ライダーシリーズの第2作目である『仮面ライダーV3』のオマージュともいえる描写が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作品では3人の仮面ライダーが当初から登場する。以前の作品にも複数の仮面ライダーが作品中に登場するケースはあったが、複数が同時に主役級で扱われた例はなく、この試みは以降のシリーズにも影響を与えている。『クウガ』同様、劇中で仮面ライダーという言葉が登場することはなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "作品中では「謎」という形で多くの伏線が提示され、それらを紐解く鍵を見つけると同時に、再び新たな謎が現れる形でストーリーが展開する。また、2話持ちであったとしても、1話目を引っ張りで終わらせるのはもちろんだが、「話を完結させない」というのが鉄則であったことから、2話目も引っ張りで終わらせて、次へつなげる形となっている。このスタイルは、以降のシリーズでも継承されていくことになる。一方で、アクション面においても前作よりもその比重が高く、様式美的な要素を取り入れるなど、エンターテイメント性を重視した作品に仕上がっている。白倉は公式ホームページで第46話が実質的な最終回だと語っており、メインライターである井上敏樹も「最終回のつもりで書いた」としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本作品は、未確認生命体第4号が未確認生命体を滅ぼしてから2年後を舞台としているが、前作『クウガ』の時間軸と本作品の時間軸は意図的に一致しないように制作されており、本作品はオンエアタイムと同様に2001年という設定となっている。また、未確認生命体という名称や仮面ライダーG3の外見以外に、前作を連想させる設定なども存在しない(詳しくは外部リンク・「時間軸の矛盾」についてを参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前作におけるクウガの別称「未確認生命体第4号」は本作品でも使われているが、一方で「クウガ」や「グロンギ」という言葉やその姿は登場しない。プロデューサーの白倉伸一郎は、本作品の世界観は物語開始時点より2年前に『クウガ』のような出来事があったパラレルワールドとしている。クウガを共演させようというアイディアは企画中に存在していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アギト・ギルス・G3のデザインはいずれも『クウガ』のデザインを発展させたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ストーリーコンセプトとしては、警察を重要な要素とすることや、怪人が人間を殺害する存在であることなどが受け継がれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "“未確認生命体事件”の終息から2年の月日が流れたある日、沖縄県の与那国島海岸に人知を超えた謎の遺物・オーパーツが流れ着いた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同時に各地において、人間には不可能な殺害方法を用いた猟奇的連続殺人事件が発生する。警視庁はこの事件の犯人を、かつての“未確認生命体”を超える新たなる脅威として「アンノウン」と命名し、未確認生命体対策班 (SAUL) に専属捜査を命じた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この物語は3人の仮面ライダー、SAULに配属された若き特務刑事・氷川誠=G3、瀕死の重傷を克服した後に変容していく自らの肉体に恐怖を抱く大学生・葦原涼=ギルス、そして記憶喪失でありながらも本能の赴くままにアンノウンを倒していく家事手伝いの青年・津上翔一=アギト、の物語を交差させ、やがてひとつの巨大な流れへと昇華していく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "津上翔一については、アギトの津上翔一を通常表記、本来の津上翔一は太文字表記にて示す。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "あかつき号事件での乗員・乗客たち。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本作は3人の仮面ライダーを主軸として描かれる群像劇である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "劇中の登場人物は彼らを「仮面ライダー」と呼称することはないが、テレビスペシャル『新たなる変身』ではナレーションが「仮面ライダー」付きの名称で紹介しているほか、変身時のテロップでも「仮面ライダー」 と表記されている。また、『百獣戦隊ガオレンジャー』との合同企画による2枚組アルバム『百獣戦隊ガオレンジャーVS仮面ライダーアギト』のドラマパートでは、『ガオレンジャー』のテトムに「仮面ライダー」と呼ばれている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アギトとは、人間が「光の力」によって与えられた「アギトの力」に覚醒することによって進化を遂げた姿である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "沢木哲也は「あかつき号」の船上で「光の力」と邂逅したことでアギトへの変身能力を得るが、水のエルの襲撃を受けて海中に落ち、記憶を失う。以後の彼は津上翔一を名乗り、自らと人々の居場所を守るために、アンノウンとの戦いに身を投じる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アギトの力に目覚めた人物は、翔一ひとりだけではない。翔一の姉である沢木雪菜は、風谷伸幸教授の超能力実験を受けたことを契機に最初のアギトとなるが、その結果として教授を死に追いやってしまい、自らも命を絶った。また、記憶喪失直後の翔一の担当医となり、彼を立ち直らせた国枝東も、息子の広樹がアギトの力に耐えきれずに自害したことを明かしている。さらに翔一と同じレストランで働く岡村可奈もまた、アギトへと変貌しかけたため死を選ぼうとしたが、翔一の真摯な呼びかけに応えて思いとどまった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "仮面ライダーアギトの基本形態で、大地の力が宿る肉体そのものを武器とした格闘戦に長ける。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "変身に際して、翔一はまず左腰のあたりで両手首を組み、次いで拳をつくりながら右腕を上げる。すると腰にオルタリングが出現する。両腕を広げて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを同時に押すと、賢者の石が輝いてオルタフォースを放ち、翔一の肉体をアギトへと変えるのである。第15話からは変身ポーズに変更が加えられており、高く上げた右腕を胸元に引き寄せて、息を吐きながら前へと伸ばしたときにオルタリングが出現するようになった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "全身は黒い装甲皮膚アーマードスキンで包まれている。上半身の強化外骨格パワーシェルアーマーの胸や腹部は、金色のゴールドチェストとなっており、全身の強化筋肉を均等に配分する役目を担っている。胸部中央にあるワイズマン・モノリスは、全身にオルタフォースを効率よく供給し、循環させている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "肩部装甲ショルダーアームズガードの鋭い先端は、刃物として扱うことも可能である。下腕部を包む金色のアームブロックシールドは、アーマードスキンの10倍以上の硬度があり、格闘時に小型の盾として機能する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "赤い複眼コンパウンドアイズは厚さ5メートルの鋼鉄の壁も透視できるほか、暗闇で光を放って周囲を見渡せるスターライトモードを備えている。額のマスターズ・オーヴは賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、マシントルネイダーと意思の疎通を行える。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2本の角クロスホーンは感覚器官であるのと同時に、肉体の自壊を防ぐために余剰エネルギーを放出する機能を持っている。そのため最大限の力を振るうとき、クロスホーンは2本から6本に展開し、パンチやキックの威力がおよそ2倍に高まる。こうしたパワーの増幅が、グランドフォーム最大の特徴といえる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "変身ベルト・オルタリングの中央には賢者の石が埋め込まれおり、そこから発せられる発生するオルタフォースが、超人的な力の源泉である。通常時は翔一の体内に分子レベルで拡散しており、変身の意思を示すことで腰部に物質固形化される。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "左腕に風の力が宿る、敏捷性に優れた形態。パワー面では他のフォームに比べると劣る。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング左腰のスイッチを押す。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からストームハルバードが現れる。アギトがストームハルバードを手にすると、その姿が揺らいで体色が青く染まり、変身完了となる。なお、エキヌス・ファメリカーレ戦では津上翔一の姿からストームフォームへの直接変身を行っている。このときの変身ポーズはグランドフォームと同じであったが、オルタリングの賢者の石は最初から青く輝いていたため、変身するフォームは翔一の意思に基づいて決められるのだと考えられる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて青いストームチェストに変化しており、走力とジャンプ力を強化する。風の力が宿る左肩のコバルトジェネレーターには、オルタフォースを蓄積するパワーゴールドが重なっている。なおフレイムフォームに比べると発生させるパワー量が少ないため、パワーゴールドの面積も小さくなっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "体内に取り込まれた空気は、左腕ストームアームズで風エネルギーへと変換され、左拳サイクロンナックルは生成した風を意のままに操ることができる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "スピードに長け、特定のアンノウン相手に優位に戦えるストームフォームは、第2話から第39話までの間に合計11回も登場しており、アギトが最も頼りにしていたフォームだと言える。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "右腕に炎の力が宿る、感覚が鋭敏となった形態。また、パワーにも優れるが、反面スピードでは他のフォームに比べると劣る。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング右腰のスイッチを押す。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からフレイムセイバーが現れる。アギトがフレイムセイバーを手にすると、その姿が揺らいで体色が赤く染まり、変身完了となる。なお、フレイムフォームへのチェンジが終わった後にフレイムセイバーが出現することもある。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて赤いフレイムチェストに変化している。炎の力が宿る右肩のクリムゾンジェネレーターには、オルタフォースを蓄積するパワーゴールドが重なっている。なおストームフォームに比べると発生させるパワー量が多いため、パワーゴールドの面積も大きくなっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "右腕フレイムアームズでは7,000°Cもの熱が瞬時に作り出され、右拳バーニングナックルは生成した炎を意のままに操ることができる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "フレイムフォームへの変身は、複数のアンノウンを相手取る場面で行われることが多い。また、強いパワーを得る代わり敏捷性に劣る形態であるにもかかわらず、クロウロードのような素早い敵と戦うときにも選択されている。これはパワーで押すためではなく、研ぎ澄まされた感覚で相手を的確に捉えるためと考えられる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同じくパワー重視の形態であるバーニングフォームへの変身能力を得て以降は、劇場版を除き、フレイムフォームになることはなくなった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "仮面ライダーギルスの攻撃を受けたショックにより、失われていた記憶を取り戻した翔一が変身可能となったフォーム。グランド・ストーム・フレイムの3フォームの最大能力を発揮し、ストームハルバードとフレイムセイバーを同時に扱える。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "テレビシリーズには2度登場しているが、最初の変身はコルウス・クロッキオとの交戦中、偶発的に実現したものだった。フレイムフォームの姿でフレイムセイバーを振るっていたアギトがオルタリング左腰のボタンを押すと、左右のドラゴンズアイがそれぞれ赤と青の光を放ち、オルタフォースが全身を包んだ。そして賢者の石からストームハルバードが出現し、変身を完了した。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2度目の変身に際しては、グランドフォームの状態でオルタリングの左右のスイッチを同時に押し、まずフレイムフォームの姿となった。次いで賢者の石からストームハルバードを取り出してトリニティフォームとなり、最後にフレイムセイバーを出現させた。前回から変身に費やす時間が短縮され、ライダーシュートという大技も繰り出したが、代償として莫大な負荷に見舞われた翔一は再び記憶を喪失。以後、トリニティフォームへの変身を行うことはなかった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "胸部の強化外骨格パワーシェルアーマーは、グランドフォームと同じく金色に彩られている。フレイムフォームと同様、赤い右肩のクリムゾンジェネレーターに炎の力を宿しており、右腕フレイムアームズで7,000°Cに達する熱量を作り出し、右拳バーニングナックルで炎を操る。そしてストームフォームと同様、青い左肩のコバルトジェネレーターに風の力を宿し、取り込んだ空気を左腕ストームアームズで風エネルギーに変換して、左拳サイクロンナックルで操作するのである。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "強敵と出会ったことで、アギトが怒りのエネルギーによりパワーアップを果たした形態。それまでのフォームでは外見上の相違点が腕の形状や体色に留まるのに対し、バーニングフォームは増大した筋肉で盛り上がった上半身を特徴とする。敏捷性こそグランドフォームから低下しているものの、強大なパワーを活かした肉弾戦を得意としており、特にパンチ力は全フォームで最大を誇る。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "変身に際して、津上翔一はまず両腕を正面に伸ばして手の先を重ねたのち、左右に広げる。次いで右手を腹の前に置き、伸ばしたままの左腕を正面に戻すと、オルタリングが出現する。最後に両腕を交差させて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを押すと、一瞬のうちに姿がバーニングフォームへと変わる。なお、グランドフォームからのチェンジも可能である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "胸部は赤い防具バーニングチェストに覆われているが、その真の役割は、ワイズマン・モノリス周辺に集中して燃えたぎる炎の力を抑制し、自壊を防ぐことにある。前腕部の黒い強化骨格アームアタックシールドからは、鋭い3枚の刃アームズカッターが生えている。両拳のバーニングアームは、炎の力を集中しているため常時高温となっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、パンチを放つ際には体をしっかりと支える必要があるため、脚部も赤色化したバーニングレッグへと変わり、炎の力をみなぎらせている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "複眼コンパウンドアイズは黄色となり、赤く染まった頭部のクロスホーンは常時6本に開いている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "テレビスペシャルでバーニングフォームに変身した際は、ありあまる力を抑えきれずに暴走し、居合わせた恩人の国枝東に襲い掛かった挙句、最後は気絶してしまった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "太陽の光のエネルギーを取り込むことにより極限まで進化を遂げた、アギトの最終形態。人類の創造主である「闇の力」ですら、このフォームの出現を予測できなかった。パンチ力以外の能力が全フォーム中で最高に達しており、卓越したスピードと多様な技で敵を翻弄する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "バーニングフォームの状態のアギトが呼吸を整えて太陽の光を浴びると、オルタリングの賢者の石が反応し、アームアタックシールドなど体の各部がひび割れて崩れる。そしてその下から新たな部位が出現し、変身完了となる。このようにバーニングフォームからの2段変身を行うのが通例だが、最終決戦に臨んだ際は津上翔一の姿で新規のポーズを取ってオルタリングを出現させ、両腕を交差させてからスイッチを叩くバーニングフォームと同じポーズへとつないで、直接変身を行った。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "胸部は銀色の装甲パワーシェルアーマーに覆われている。胸の中央にはワイズマン・モノリスがあるが、グランドフォーム時の黒色から黄色に変化し、さらに紋様が浮かび上がっている。白い3枚の装甲板からなる下腕部の防具アームブロックシールドは、戦闘時に小型の盾として扱うことも可能である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "複眼コンパウンドアイズは黄色となり、赤く染まった頭部のクロスホーンは常時6本に開いている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シャイニングフォームはアギトの最終進化形とされているが、最終決戦で必殺技をより強化して放ったことからわかる通り、さらなる進化の可能性を秘めているのである。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "マシントルネイダーは、仮面ライダーアギトのスーパーバイク。津上翔一の愛車であるホンダVTRファイヤーストームが、オルタリングから放出されたオルタフォースを受けて変貌する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "車体は分子レベルで硬化したドラゴンズメイルに覆われ、赤と金に彩られている。ヘッドライト部分は障害物を感知するトルネイドアイとなり、厚さ20メートルまでの物体を透視して、得られた情報をアギトの脳へと伝達する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "前後輪のオルタホイールはオルタフォースが生成する力場によって回転しており、アギトの意思で回転数を直接操作できる。動力機関ではなくなったエンジンは、オルタフォースを車体に循環させるドラゴンハートへと変化している。また、補助的なエネルギーを補給するためにエアインテークから空気中の物質を取り込み、オルタフォースと混合する。その際にはオルタエアと呼ばれる廃棄物が生じるが、特に害のない物質であり、車体後方のオルタエアチャンバーマフラーから排出される。なお、通常時に使用していたガソリンはフュールタンクに備蓄されているので、マシントルネイダーの変形解除後も走行には支障ない。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "かつて日本全国を震撼させた「未確認生命体」による連続大量殺人事件の再発を予期して、警視庁は未確認生命体対策班 (S.A.U.L.) を設立するとともに、その専用装備の開発に着手した。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "最初に開発された専用装備の第1世代型、すなわちG1(ジーワン、GENERATION-1)は、既存の装甲車などを基盤とした物だった。未確認生命体第4号をモデルとした、人間が装着するタイプの装備だったという異説もあるが、定かではない。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "続いてG1の発展形であるG2(ジーツー、GENERATION-2)が開発されたが、武装を充実させた代償として大型化したため、実用的とは言えなかった。狭小な都心部での運用を想定した場合、装甲車や建設用重機並みの巨大な機械では取り回しが利かなくなることが懸念されたため、G1とG2はいずれも廃案となってしまった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "より実用的なG3(ジースリー、GENERATION-3)の開発が急がれる中で転機となったのが、未確認生命体対策班にアドバイザーとして参加していた小沢澄子による「特殊強化装甲服」の提案だった。量産化が成った暁には、多数の警察官を即戦力として動員できるこの案は、他の試案と比較しても現実的なものと判断され、採用に至った。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "こうして完成したG3システムだが、新たに出現した人類への脅威である「アンノウン」が、それまで敵として想定していた未確認生命体よりも強力であったため、目立った活躍ができないままに破壊された。しかしその後、改良タイプであるG3-Xの投入により、多数のアンノウンを撃破できるようになった。なおG3-Xの同時期には、別系統の特殊強化装甲服であるV-1(ブイワン)も開発されていたが、演習中に破壊されたため廃案となっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "小沢はG3をさらに発展させたG4(ジーフォー)の開発も進めていたが、装着員への負担が高すぎたために計画を中止。それを陸上自衛隊が独自に実用化させたことがあった。また、G3より性能は劣るものの誰にでも扱える簡易量産型のG3マイルドも開発されたが、プロトタイプが結果を残せなかったため、こちらの計画も中止に至っている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アンノウンによる一連の事件の終結後には、量産型の特殊強化装甲服を用いるためのG5(ジーファイブ)ユニットが結成され、尾室隆弘の指揮のもとで多数の装着員が養成されているが、その詳細は明らかになっていない。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "G3()システムは、警視庁と日本国内の企業体が協力して開発し、第3世代で初めて完成に至った「対未確認生命体戦闘用特殊強化外筋および外骨格」すなわち特殊強化装甲服。未確認生命体第4号をモデルとして設計されている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "G3の装着員は装甲で身を守りながら、常人の10倍の力を発揮できる。ただし試験型としての側面もあるため、専任の装着員のみが使用できるように調整されており、人員の変更を行う際は再度の微調整を必要とする。劇中では、未確認生命体対策班に所属する氷川誠が主な装着員を務めた。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "実戦では格闘よりも各種の専用装備を駆使することが多いが、G3自体に武器は備わっていない。これは、武器を格納したガードチェイサーの随行を前提としているためである。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "活動にあたっては、小沢澄子をリーダーとするチーム・G3ユニットの支援が必須となる。まず、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、G3インナージャケットを着用する。次いでその上から胸部・腕部・脚部などの装甲ユニットを身に着けていくことになるが、装着員自身では着用できない部位もあるため、G3ユニット要員が補助を行う。腰にGバックルを据えたのち、頭部ユニットをセットすると、後頭部のシャッターが閉じて「変身」が完了する。介助がなければ装着できない仕様なのは、システムの単独使用を防ぐ意味合いもあると思われるが、戦闘中においてもGトレーラーからの指示や助言がG3の支えとなっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "黒いG3インナージャケットは、特殊金属糸を編み上げて防弾シリコンでコーティングし、牛のオイルスキンで包んだもの。銀色の胸部装甲バリアントプロテクターは特殊ジュラルミン合金を何層も重ね合わせて造られており、パワージェネレーターを内蔵したコンバーターラングと一体になっている。また、左胸には桜の代紋のレリーフが施されており、G3システムが警視庁所属であることを示している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "脚部を強化させる装置PLSS(パワーレッグサスペンションシステム)は、日本メディカルサポート社が研究開発していた義足の技術を改良したもので、三重構造の青い外装レッグガードで強固に守られている。肩部や上腕部には特殊ジュラルミン製の青いアーマーパッドを装着。左腕には専用情報端末G-COMが組み込まれており、警視庁本部のライブラリーにアクセスして情報を閲覧できるほか、電子警察手帳としての役割も担う。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "背面には無公害の燃料電池ゼロエミッション・フューエルバッテリーを搭載しており、電力の残量は腰のGバックルの赤いゲージランプに表示される。腰の左右にあるエナジーボリュームを操作すれば、一時的に電力をアップさせることも可能である。また、バックル上部には緊急用装甲排除のスイッチがある。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "赤い人工複眼MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)には、超望遠・暗視・電子顕微鏡などの視覚機能が統合されている。左の頬にはマイクロカメラHDVCが設けられており、捉えた映像情報はG-COMを介してGトレーラーに送られる。額には光学式マーキング装置オプティクスサーチャーがあり、標的に向けて右耳部分のスイッチを押せば、対象の位置をGPSで測定できる。頭部に伸びる3本のアンテナのうち、左は人工衛星経由で現在位置をGトレーラーに送信するGPSロッド、中央の短いものは電子マーキングした標的の位置を把握するためのエクサマインドロッド、右はGトレーラーからの指示や警察無線を受信するためのインフォロッドである。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "G3のパワーバランスは、それまで警察が戦ってきた未確認生命体を想定して設計されていたため、より強力な存在であるアンノウンが相手では力不足が目立った。そこで第4話のトータスロード戦では修理がてらにパワーアップが施され、初めてアンノウンを倒すことに成功している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "第9話では氷川に代わって北條透が装着員となり、一度はモリペス・オクティペスを倒す戦果を挙げた。しかし続く第10話で復活したモリペス・オクティペスには歯が立たず、北條は装備を脱ぎ捨てて逃走。以後は再び氷川が装着員となる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "第22話で仮面ライダーギルスの攻撃を受けたG3システムは破壊されてしまい、アンノウンとの戦いを後任のG3-Xに譲ることとなった。その後の第49, 50話では、修復されたG3を尾室隆弘が着用して、北條のG3-Xとともに仮面ライダーアギトの行く手を阻む形で登場している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "G3-X()は、プロトタイプとなるG3システムの戦闘データを基として新規に開発された、特殊装甲強化服の完成版。すべての能力が仮面ライダーG3を上回っている。また、当初からアンノウンとの対決を考慮しているため単独でも戦えるように武装しており、GM-01を右腿、ガードアクセラーを左腿、GK-06を左上腕部に携行している。こうした豊富な武器を使い分けるだけでなく、パンチやキックといった直接的な格闘能力も高い。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "G3から引き続いて氷川誠が主な装着員を務めるが、新規に搭載されたオートフィット機能により、無改造で他の人員に装着させることも可能となっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "さらに、装着員に理想的な攻撃方法を促すAI機能も組み込まれているが、当初はその精度があまりにも完璧であったために氷川がシステムと協調できず、暴走させてしまった。高村教授が開発した制御チップを埋め込み、AIの性能を敢えて落とすことにより、ようやく普通の人間でも扱えるようになった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "活動にあたって、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、まずG3パワージャケット2を着用する。次いでその上から各部の装甲ユニットを身に着けていくことになるが、その際にはG3ユニット要員が補助を行う。頭部ユニットをセットし、後頭部のシャッターが閉じると、オートフィット機能が作動して装着員の体格に適合し、「変身」が完了する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "黒いG3パワージャケット2は、G3インナージャケットから硬度・耐熱・保温・保湿・通気性といった性能が向上している。青い胸部装甲パワーチェストはハイメタル成型による三重構造で、高出力小型ジェネレーターを内蔵したパワーコンバーターラングと一体になっている。パワーコンバーターラングからは、エネルギー循環用パイプを内蔵した銀色の固定具ジェネレーターバックルが伸び、背面へと続いている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "脚部を強化する装置PLSS (Ver.2.0) のサーボモーター類はG3の倍以上に強化されており、外装もハイメタル製となっている。同様に肩部装甲パワーアーマーもハイメタルでできており、その強度は特殊ジュラルミン製パッドの約5倍に及ぶ。左腕の情報端末G-COM (Ver.2.0) はOSがバージョンアップされ、アクセス速度も向上している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "背面には、ジェネレーターバックルが接続されたバックパック・タートルシェルがあり、赤く彩られたゼロエミッション・フューエルバッテリーを装備している。このバッテリーは基本仕様こそG3の物と同じだが、蓄電容量が倍加している一方で、重量は1/3にまで軽量化が図られている。またバッテリーの下にはマウントスペースが設けられており、GX-05用エネルギーマガジンを2個取り付けられる。腰のGバックルはG3と同一だが、前述の通りバッテリーが強化されているため、残り電力を示すインジケーターの振り幅が調整されている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "人工複眼レッドアイザー (MDSS・Ver 2) の視認感度はG3の3倍となり、カバーレンズ部の強度も向上している。口元にはパーフェクターが設けられ、水中における酸素の生成や、火中における有毒ガスの分解と濾過を行い、装着者の呼吸を維持する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "第24話では、氷川に代わって津上翔一が装着員になり、ポタモトリゴン・ククルスを撃破してみせた。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "第49,50話では北條透が装着員となり、尾室隆弘のG3とともに仮面ライダーアギトの活動の妨害を行った。しかし第51話で氷川が装着員の座を奪還し、仮面ライダーエクシードギルスとの連携で、風のエルとの最終決戦に勝利した。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "度重なるアンノウンの出現に対抗するために発案された、大量生産用G3システムのテストスーツ。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "G3システムを基本としつつ、G3-Xシステムで導入されたオートフィット機能が搭載されているため、あらゆる装着員に対応している。ただし戦闘能力は、G3よりも低い。また、装着にあたって、G3やG3-Xのように補助を必要とするのかは不明である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "各種装甲の下に着用するG3マイルドジャケットは、G3インナージャケットと同様の造りになっている。銀色の胸部装甲パワーチェストは、G3-Xと同様にハイメタル成型の三重構造で強固に仕上げられている。両肩の青いアーマーパッドはG3と共通で、特殊ジュラルミン製。腰に巻かれたGバックルもG3と同一の装備で、バッテリー残量を表示するほか、両脇のエナジーボリュームを操作して電力を一時的に上げることが可能である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "背面に搭載された赤い無公害燃料電池ゼロ・エミッションフューエルバッテリーは、G3やG3-Xと互換性がある。人工複眼MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)はG3と同様の装備で、超望遠や電子顕微鏡などの機能を備えている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "G3マイルドのテスト装着員募集要項には「経験・所属・資格は一切問いません」と記載されており、まさに「誰でもOK」という状況だった。結果として尾室隆弘が装着員となり、G3-Xとともにスカラベウス・フォルティスに立ち向かうが、パンチ一発で戦闘不能となる。しかしその後、G3-Xがバッテリー切れに追い込まれたのを知ると、渾身の力で再起。自らのバッテリーと交換することでG3-Xを支援し、戦線を立て直した。ただ、この戦いでG3マイルドが有意義な結果を残せなかったため、G3システムの量産化は中止された。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "いずれの装備も、安全のためにGトレーラーから武器管制をコントロールされている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "V-1()システムは、仮面ライダーギルスによって破壊された仮面ライダーG3に代わる新装備として開発された、新型の特殊強化装甲服。G3システムの装着員から外された北條透が、復権を狙って発案したもので、装着員は北條自らが務める。開発陣には、小沢澄子の恩師にあたる高村光介教授を中心とする、人間工学・エネルギー工学の権威や精神科医など日本有数の人材が集っていた。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "性能はG3を上回っているが、小沢が同時期に開発した仮面ライダーG3-Xに比べると劣る。外見はG3やG3-Xよりも機械的で、銀一色に彩られている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "実戦でアピス・メリトゥスを撃退する成果を挙げたV-1は、G3-Xと優劣を競うための合同演習でも警視庁幹部をうならせるほどの活躍を披露する。しかしマヌーバ中に、制御不能となって暴走したG3-Xの攻撃を受けて破壊されたため、開発プロジェクト自体もG3-Xの性能を知った高村が放棄したことにより、採用されずに終わった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "城北大学に在籍する水泳選手であった葦原涼が、交通事故による負傷の衝撃で「アギトの力」に覚醒し、変身を遂げた姿。身体能力は仮面ライダーアギトを上回っており、肉体の一部を変異させた武器を用いて戦う。また、前蹴りや回し蹴りなど、種類豊富な足技を多用する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ギルスはアギトの亜種とされているが、詳細は不明である。涼の変身を目撃した「闇の力」は「アギト......いやギルス。珍しいな」とつぶやいており、種としてはアギトと同じだとみなしていた。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ギルスの肉体は不完全なものであり、変身するたびに涼は体への負担に苦しみ、老化現象にさいなまれた。しかし、後に風谷真魚の力を受けることでこの弱点は解消され、自在に変身できるようになった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "変身に際して、涼は顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を下げる。次いで「変身!」と叫んでから跳躍すると、全身が光に包まれ、メタファクター中央の賢者の石から生体エネルギーが発せられる。そして生体装甲が身を覆うことで、変身完了となる。以上が最もオーソドックスな流れだが、変身シーンの初披露となる第6話では、涼の右隣にギルスの実像が浮かびあがることで、変身を遂げる演出だった。ほかにも跳躍の有無や手の動作の違いなどがあり、ギルスの変身ポーズは多彩であった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ギルスの全身は、ダイヤモンド並みの硬度がある濃緑色の生体装甲皮膚ミューテートスキンに覆われているが、この皮膚は不完全な存在のため、栄養素を求めて涼の体を蝕んでいる。また、胸部の生体装甲バイオチェストも、日々成長を続けているために涼の肉体を浸食している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "両腕にはライヴアームズ、両脚にはライヴレッグスと呼ばれる生命鎧が寄生しており、エネルギーを吸収する代わりにギルスの意思に応じて武器を生成する。ライヴアームズとライヴレッグスの管理は手足に埋め込まれた緑色のハンドリングオーヴが行っており、もしこの器官が破壊されると、腕や脚の制御が利かなくなってしまう。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "赤い複眼デモンアイズは、暗闇でも昼間のように見渡すことができる。額には、賢者の石とほぼ同じ物質で構成された金色の第3の目ワイズマン・オーヴがあり、敵の弱点を瞬時に見抜くほか、閃光による目くらましや催眠波による他者の操作も可能である。口元には銀色の鋭い牙デモンズファングクラッシャーがあり、喉の奥からは超音波ギルスホーンを放って敵を撹乱する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2本の角ギルスアントラーは感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを体外に放出する役割も担っている。しかしギルスの胸には、仮面ライダーアギトと異なりワイズマン・モノリスがないため、自分の意思とは無関係にエネルギーの限界が訪れてしまう。その際のギルスアントラーは、萎縮して短くなる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "当初の涼はアンノウンに対する明確な敵愾心は持っておらず、場当たり的に戦っていたが、やがて「自らが人々を守る」と心を決め、強い意志のもとにアンノウンの脅威へと立ち向かうようになった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "アナザーアギトに敗れて生命の危機に瀕した葦原涼が、真島浩二の中で目覚めつつあった「アギトの力」を与えられたことで、極限まで進化した姿。全身の至るところから鋭いカギ爪が生えており、胸にはワイズマン・モノリスが出現。また、腕から生える触手のギルスフィーラーがなくなった代わり、背中から伸びるより強力な触手のギルススティンガーが加わっている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "劇場版での登場経緯はテレビシリーズと異なっており、戦闘中に右腕を切断されたギルスが、自らに備わった防御本能の高まりによって、腕を再生させながらエクシードギルスへと進化している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "強化変身に際して、仮面ライダーギルスは顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を広げながら、デモンズファングクラッシャーを開いて雄叫びを上げる。すると胸にワイズマン・モノリスが現れてフォースを放ち、体の各部から突起が生えていく。最後に額のギルスアントラーが伸びて、変身完了となる。なお、葦原涼の姿から直接エクシードギルスに変身することも可能である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "エクシードギルスの状態では、赤く変色したギルスクロウとギルスヒールクロウが常時伸びている。さらに余剰エネルギーによって両肩にはギルスショルダークロウ、両腕にはギルスアームクロウ、両膝にはギルスニークロウというカギ爪が新たに生成されている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "胸の中央に配置されたワイズマン・モノリスは、メタファクターが放つフォースを全身に効率よく供給し、循環させている。また、ワイズマン・モノリスから力を得て誕生した赤い生体装甲ギルスワームが胸から背中にかけて走り、ギルススティンガーを作り出す。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "頭部のギルスアントラーは、元の2本に加えて中央部が伸びている。エクシードギルス時にギルスアントラーが萎縮することはないようである。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ギルスレイダーは、仮面ライダーギルスの専用バイク。葦原涼がギルスに変身すると同時に、涼の愛車であるホンダXR250がギルスの細胞と融合することによって変貌する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "半機械半生物のバイオマシンであるギルスレイダーは自らの意志を持っており、無人走行でギルスのもとに駆けつけることができる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "フロントカウルにある黄色のプロテクトフィールド発生レンズによって不可視の力場を生成し、障害物への突撃を行う。レンズの下に備わったギルスアイは、仮面ライダーギルスの複眼と同等の機能を持ち、視認した情報をギルスの脳へと伝達する。また、フロントカウルの左右にはデモンズクローが伸びており、毎秒250万回の振動波を放つことで、3メートル以内の物体を直接触れることなく切断する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "前後輪のフォースホイールはギルスの意思によって回転が制御されており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面にも粘着して駆け上がることが可能である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "車体前方に埋め込まれたギルス・ストーンが動力源となっている。車体後部の左右には、自己修復機能を司る黄色のゲノムストーンが備わっており、どちらか片方の石が残ってさえいれば、全壊状態からでも復元する。半壊状態であれば、36時間で車体の再生が完了する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "車体後方に伸びる2本のデモンズテールは、ギルスのメタファクターから発生した余剰エネルギーを放出する役割がある。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "あかつき号の乗客だった外科医の木野薫が、船上で「光の力」を浴びたことにより「アギトの力」に覚醒して変身した姿。その戦闘能力は、仮面ライダーアギト シャイニングフォームに匹敵する。アナザーアギトにフォームチェンジ能力はなく、また専用武器も持たないが、持ち前の格闘能力だけでアギトやギルスを相手取って優位に戦闘を展開してみせた。G3-Xから奪ったGM-01を使用したのが、唯一の武器の使用例である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "変身に際しては、まず両腕を左右に広げ、次に拳を体の前で交差させる。すると賢者の石と、それを収めるアンクポイントが出現する。木野が「変身」と発声すると賢者の石が輝き、オルタフォースが体を包み込んで全身の筋肉や器官が強化され、変身完了となる。なお、バイクの運転中はポーズをとる必要はなく、「変身」と発声するだけでアナザーアギトに変貌する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "アナザーアギトは、エルロードの因子を受け、仮面ライダーアギトとは異なる進化を遂げている。全身を黒い生体装甲皮膚ミューテートスキンで覆い、胸部は濃緑色の強化外骨格バイオアーマーで守られている。胸の中央にはワイズマンモノリスがあり、アンクポイントから発生するオルタフォースを全身に効率よく供給し、循環させている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "手足から生えている感覚器官バイオクロウは、刺突や斬りつけに用いることも可能。左肩にはアギトマークが描かれている。背中に垂れるオレンジ色をした2枚のライヴウィングは、身体バランスを司るだけでなく、アナザーアギトの意思によって変形し、滑空翼ともなる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "赤い複眼アギトアイズは、視界の広さや視認可能距離などで、常人をはるかに超えた能力を備える。額にあるマスターズ・オーヴは賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、ダークホッパーと意思の疎通を行える。V字型に伸びた角アギトホーンは、感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを放出するための放力板でもある。口に生えた牙を覆い隠すクラッシャーは、噛みつき攻撃を行う際や、必殺技発動時に展開する。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "木野が抱いていた「人々を救いたい」という志は「人々を救うのは自分だけでいい」という形に歪んでしまい、アギトやギルス、さらには「アギトの力」に目覚めようとしている人たちにまで襲撃をかけた。しかし衝突を繰り返すうちに、津上翔一や葦原涼の人となりを知っていき、次第に仲間意識が芽生え、彼らと共闘するようになった。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "ダークホッパーは、アナザーアギトの専用バイク。木野薫が乗用しているバイクが、アナザーアギトへの変身に伴いアンクポイントから発せられるオルタフォースを受けて、変貌した姿である。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "オフロード型バイクの形状をしているが、ギルスレイダーと同様に半ば機械、半ば生物であり、自らの意志で自律走行することもできる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "前後輪のフォースホイールにはアナザーアギトの細胞が取り込まれており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面をも駆け上がる。フォースホイールは賢者の石の力によって直接回転しているので、元のエンジンは駆動装置ではなくなっているが、その代わりオルタフォースを一時的に蓄積して車体へと効率よく供給させるホッパーハートへと変化している。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "フロントカウルのダークヘッドは、分子配列レベルで硬化している。二灯式プロジェクターヘッドライトのダークアイは、灯火装置であるのと同時にこのマシンの眼でもあり、厚さ15メートルの物質を透視して、得られた情報をアナザーアギトの脳へと伝達する機能がある。ダークアイの後ろには4枚の安定翼ホッパーウィングがあり、グライダー機能による空中滑走を可能としている。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "車体後部に伸びる2本のバランサー・ホッパーテールにはレーダー機能が備わっているほか、敵を撹乱するための煙幕を張ることもできる。", "title": "仮面ライダー" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "神(闇の力、オーヴァロード、テオス)に仕えるマラークと呼ばれる存在であり、地球上の動物を模した半獣半人の姿を持つ超越生命体。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "種族ごとに「 -(一般用名称 / モチーフとなる動物の英語名)ロード(+正式名称 / ラテン語や古典ギリシア語での種族と特徴)」と呼称されており、種族的観念とそれに基づいた階級があるらしく、似た容姿で複数のアンノウンが同時に行動する際には、指揮官らしき存在クイーンロードが登場している。高位の怪人はエルロードと呼ばれる。劇中で各アンノウンの名前が呼ばれることはない。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "「アンノウン」の名は警察が氷川誠からの報告を受けて、未確認生命体を超える新たなる敵、謎の存在として警察が命名した呼称であり、軍事用語で「国籍不明機」を意味する「unknown」に由来する(第2話)。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "殺しや特殊能力を行う際には、左手で右手の甲を“闇の力”の文字の形に辿るという、殺しのサインを切る。対象を生きたまま樹の洞に詰めこんだり、さらには対象の体組織を別の物体に変えたりなど、人間には実行不可能な犯行から「不可能犯罪」と呼ばれる一方、同族ならば殺害方法は共通する。監視カメラなどでは磁場が発生し、歪んだ姿となるため、不可視となってしまう。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "目的は神が恐れるアギトの殲滅であり、主にアギトの種を持ち、アギトになる可能性のある人間(超能力者)を血族ごとに殺し回っている(胎児も該当)。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "一方で、神が人間を愛しているために、アギトの力を持たない人間を殺すことは極力禁じられており、ターゲットおよびその殺害を妨害する者(主に護衛している警察官など)以外の人間は襲うことはなく、第34話で水のエルがG3-X=氷川を圧倒して追いつめた際、「アギトではないから」という理由で止めを刺さずに終わっている。禁を破ったアンノウンは“闇の力”から制裁が下される。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "能力の発動時や、ライダーの技を受けて爆死する直前に、天使の輪のような円盤状の発光体が頭上に出現する。また、各自の武器はそこから召喚して装備する。各個体共通して、同じベルトのバックル、羽を象った装飾品、背中には鳥獣系以外のアンノウンにも羽根が変化したような突起がある。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "水・風・地の3体のアンノウンの上に君臨する高位のアンノウンで、闇の力に代わってアンノウンを指揮して超能力者の抹殺を行う。中盤以降に登場。書籍『MASKED RIDER AGITO ART WORKS』によれば、アギトに等しい存在である。下位のアンノウンよりも進化が進んでいるため、背の羽はより大型化しており、知能や能力が発達したことにより、人間の言語を理解し、話すこともできる。また、闇の力の体内で進化することも可能。貴族、様式、美意識のような風格、そしてライダーと共通する複眼を持つ。特に水のエルについてはあかつき号事件の張本人であり、何度もアギトたちを苦しめる。オープニングで登場したイコン画には、エルロードらしきものが全部で7体描かれている。その正体はテオス(闇の力)によって、古代に誕生した生命体・マラークで、7人存在し、そのうちの一人であるプロメス(光の力)は、マラークから人間を守るため、人間との間にネフェリム(アギト)という戦士を生み出した。", "title": "アンノウン" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "メインキャストである賀集利樹、要潤、友井雄亮は、本作品と同時期に放送された『百獣戦隊ガオレンジャー』の出演者や『ウルトラマンコスモス』で主演した杉浦太陽らと共に、通常では特撮ヒーローを扱わないメディアでの露出の機会を増やしている。また、第12話から登場した沢木哲也役には、『超光戦士シャンゼリオン』黒岩省吾 / 暗黒騎士ガウザー役を演じた小川敦史を起用した。小川はその後も、仮面ライダーシリーズにゲスト出演している。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "仮面ライダーアギトは、前年まで戦隊レッドを演じていた高岩成二が担当。高岩は本作品以降、『仮面ライダー響鬼』を除く平成仮面ライダーシリーズの主役仮面ライダーを演じている。仮面ライダーギルス役には、前年に『未来戦隊タイムレンジャー』でスーツアクターとしてデビューした押川善文が抜擢された。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "前年より引き続き参加の白倉伸一郎が、本作品ではチーフプロデューサーとなり、以降『仮面ライダーディケイド』まで平成仮面ライダーシリーズに頻繁に関わることになった。また白倉やシリーズ構成である井上敏樹も含め、かつて東映が制作した『超光戦士シャンゼリオン』に参加していたスタッフが、本作品にも多数参加している。白倉も「本作品はシャンゼリオンのリベンジである」と、2009年発売『仮面ライダーマガジン』のインタビューで語っている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "クリーチャー(アンノウン)デザインには、東映特撮ヒーロー作品には『超新星フラッシュマン』以来15年ぶりの参加となるメカニックデザイナー・出渕裕を起用。さらに出渕を補佐する形で、彼の指名でイラストレーター・草彅琢仁が参加した。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "本作品よりバイクなどの車両協力、ならびに平成仮面ライダーシリーズの番組スポンサーとして、本田技研工業が参加。番組中で流れるCMはすべて、平成仮面ライダーシリーズ限定で放映の二輪車のものである。本田の参加は、テレビ朝日プロデューサーの中嶋豪が個人的に同社のモータースポーツ部長と懇意にしていたことから実現したもので、中嶋は仕事ではなく個人的な協力であったと述べている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "また日本コロムビアが関与した最後の仮面ライダーシリーズ作品でもあり、次作『仮面ライダー龍騎』以降はエイベックスが音楽制作を担当している。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "本作品以降、平成仮面ライダーシリーズ、および令和仮面ライダーの各作品では原則としてエンディングテーマが省略されている。これにより、出演者やスタッフなどのクレジットはすべてオープニングに集約され、省略によって稼がれた分は、ドラマ部分の放映時間として割り当てられるようになった。本来、戦闘場面などのシーンを盛り上げるためのテーマソングは挿入歌として扱われるべきものであるが、スタッフロールなどではエンディングテーマとして表記されている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "上記の通り厳密な意味でのエンディングテーマはないが、各話の終盤(主にバトルシーン)で使われている下記の挿入歌4曲がエンディングテーマ扱いとなっている。またシングル発売時に「2ndエンディング」と銘打たれた「One & Only」という曲もあったが、劇中では一度も使われることがなかった。実質の後期エンディングである「DEEP BREATH」は、シングルに「3rdエンディング」と記載されている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "この形式は一部の例外を除いて、以降のシリーズにも引き継がれている。本作品の挿入歌はすべて、劇中での使用を考慮したテレビサイズが制作されていたといい、このうち「Stranger in the dark」「MACHINE TORNADER」の2曲は、エンディングと同様に使用された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "劇伴は、前作に引き続き佐橋俊彦が担当。前作ではスーパー戦隊シリーズとの差別化からオーケストラ編成は避けていたが、本作品では日本コロムビアの本地大輔が必要性を感じ、オーケストラ編成が加えられた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "第1話と最終話(第51話)はオープニングが省略されており、第1話は次回予告がエンディングを兼ねた形式(予告編の映像にスタッフロールが被せられる)で、主題歌は使われていない。また最終話は本編のラスト部分がそのままエンディングになっており、主題歌には「仮面ライダーAGITO」が使われた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "全曲とも作中未使用。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "本作品の企画は、『クウガ』のヒットにより、その後番組として2000年夏ごろから白倉伸一郎・武部直美・井上敏樹を中心に立ち上げられた。秋ごろには劇場版の検討も始められていた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "白倉による初期案は、「人間とモンスターがカードを使って契約する」という設定で、「主人公とヒロインが沖縄から出発し、2人で東京を目指すロードムービー」というものであったが、現実的には制作が難しいという理由で不採用となった。また主人公が記憶喪失であることは当初から決まっており、素性不明の主人公が警察から追われる展開になってしまうのを避けたのも、旅物語を廃案にした理由のひとつである。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "次に10人ぐらいの仮面ライダーが登場する群像劇という案が出され、最終的に3人まで絞られ完成作品へと至った。人数が絞り込まれたのは、10通り以上のフォームチェンジが登場した前年の『クウガ』との差別化のためである。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "本作品のタイトルを考えている際に、「仮面ライダーダイバ」という案もあったが、前作『クウガ』のスタッフが「敵のアジトが」という話を聞いたプロデューサーの白倉が、「仮面ライダーアジト」というタイトルを考えたが、それではあんまりということで「アギト」ということとなった。「アギト」は、日本語の古語で「顎門」を「あぎと」と読んだことに由来する。また、英字表記であるAGITOがラテン語において「覚醒」や「挑戦」を意味することにもちなんだものである。さらにAGITOは、聖書に存在する「Alpha(アルファ)に始まり、Omega(オメガ)に終わる」のフレーズを思わせる文字構成であることから、「最初で最後の作品」との意味合いが込められている。これにちなみ、本作品の欧文表記は「AGITO」ではなく「ΑGITΩ」(頭文字がアルファ、末尾がオメガ)となっている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "『仮面ライダークウガ』の後番組を制作するにあたって、プロデューサーに就任した白倉伸一郎は、1人が10形態に変化するクウガのフォームチェンジをそのまま踏襲すると、キャラクターにブレが生じてしまうだろうと判断した。そこで白倉は、ヒーローキャラクターを主人公・ライバル・敵役の3人に分担させることを発案し、それがやがて実際の作品の群像劇へと発展していった。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "本作品では、「人はみなヒーローになれる」しかし「ヒーローにならなくてもいい」という、一見すると矛盾しているような主題が語られる。そのため、最初からヒーローたりえるアギト、望まずしてヒーローにされたギルス、決して超人ヒーローにはなりえないG3の3人が設定され、彼らの関係性を通じて世界が描かれることとなった。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "仮面ライダーG3については、当初は記号のような名前がいいということから「K5」などの案があったが、読売ジャイアンツの3番になぞらえて「G3」という名前となり、「Generation3」と理由づけされた。当初からパワーアップを前提としていたため、おとなしめにデザインされた。アギトやギルスと同じく、角(アンテナ)が伸びるという案も存在した。また、石森プロの飯田浩司によるとG3-Xの初期デザイン案は仮面ライダーXをモチーフとしており、デザイン変更後も仮面ライダーXの装着パーツである「レッドアイザー」と「パーフェクター」という名称がG3-Xの装着パーツの名称として採用されたという。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "プロデューサーの白倉は葦原涼が仮面ライダーギルスに変身した理由は特にないとしており、雪菜や可奈のように潜在的に人がアギトになるものとしている。一方、メインライターの井上敏樹は漫画家・柴田ヨクサルとの対談の中で、ギルスのセッティングには苦労したと話しており、これに関連して「あかつき号」の設定を作ったものの、撮影にはフェリーが必要だったため、監督同士でだれが担当するかでもめたという。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "また、G3ユニットと対立するエリート警部補・北條 透について、本作品のメインライターを担当した脚本家の井上敏樹は、本作品の登場人物の中で一番好きなキャラクターとして北條を挙げており、「北條透が何をするか」というのが脚本打ち合わせの大きなテーマだったといい、北條を主人公とした話を書くため、第18・19話が執筆された。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "アナザーアギトは物語の流れの中で要請されたキャラクターであり、 番組制作現場においては当初定まった名称がなく、脚本上は「木野アギト」と表記されていた。劇中では「もう1人のアギト」と呼ばれ、アナザーアギトと呼称されることはない。アナザーアギトの変身者である木野薫は、当初よりアギトに変身する人物として想定されていたが、細かい設定は登場直前まで考えられておらず、名前も男女どちらでも通用するものにされた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "なお、登場人物の趣味や服装には演者の嗜好が反映されている例もあり、たとえばアギトに変身する津上翔一の髪形は、演者である賀集利樹の髪形がそのまま反映されている。加えて、翔一の衣装は撮影の都度賀集が衣装係とともに撮影所近くの店で調達してきたものであり、アウトドアブランドのフリースや、動きやすくて楽な服が選ばれたという。また、ヒロインであり翔一の理解者である風谷真魚の趣味やファッション、《G3ユニット》の一員である小沢澄子の好物も、同様に演者の趣味や嗜好に由来する。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "敵陣営であるアンノウンは、ネーミングはラテン語や古典ギリシア語をベースとしているが、語呂を優先しているため、学名の二名法には従っておらず、ギリシア語をラテン語にも変えていないという。また、読みや文法も無視している。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "仮面ライダーのデザインワークは、石森プロとプレックスが中心となって進行した。クウガのデザインから発展させたものを主人公のアギトに充て、そこにメカライダーと生物的ライダーを加えるという方向性が決められた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "しかしアギトのデザインは、クウガにどの程度近づけ、またどの程度差別化を図るかの割合が決まらずに難航し、瞬間的なアイデアスケッチの数は100点を越えた。最終的にクウガよりも「角」と「顎」を鋭く力強くし、さらに「角に開閉ギミックを加える」というアイデアを導入することで、アギトのデザインは完成した。特に角の開閉ギミックは、クウガとの差別化が最もよくできた部分として、デザイナー一同も会心の手ごたえを感じていた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "アンノウンのうち陸上動物や昆虫、鳥類モチーフは出渕、水棲生物や爬虫類および胸の羽根飾りとバックルは草彅がデザインを担当している。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "当初は天使や神の使徒のようなものをイメージしていたため、異次元の生物のようなラフを描いていたが、動物モチーフとなった。前作『クウガ』が蛮族のような野蛮な前史時代のイメージであったため、本作品では神話系にもっていくこととなった。だが、天使という設定が残ったため、出現時に頭上に天使の輪っかが現れる設定となった。背中の肩甲骨部分の小さな羽根の意匠は、骨が羽根になりかけている退化した天使の羽根の状態でデザインされており、「天使になりきっていない者」という意味合いを表現している。それに対してエルロードは大きめの羽をデザインしている。なお、鳥類モチーフのアンノウンは別に羽根が付いている。胸元の羽根飾りのようなアンノウンのマークは、初期案での「上位のロードと契約を交わして出現する」という設定から、共通の意匠として自分のサインのための羽根ペンとして想定されていた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "太古から天使のような役割で生きていることを表現するため、総じて古代文明テイストの装飾となっている。衣装や装飾品は、『仮面ライダークウガ』のグロンギと同様に腕輪や足首の輪、足の編み上げ靴などの装飾物を付け、スーツのしわが寄りやすいグローブやブーツの接合部分を隠すという意図もあった。また、グロンギ同様、共通項としてベルト部分に細い前垂れのようなものを付けて前に置くことで目立たせ、直接的にシワの寄る部分を隠せていないが、見る人の意識を外らせている。ウソっぽくなることから毛をそのまま使うのではなく、チェーンを毛の代わりに使っている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "目元は『仮面ライダー』の初期ショッカー怪人のような人間の目が覗いているようなデザインを意識している。額には共通項としてOシグナルがある。アギトの名前の由来が「顎門」であり、創造主がロード怪人をベースに動物を作ったという設定があるため、生物のマスクを被った天使という解釈で、下顎は共通で人間のようなドクロの口周りをスケルトンのような感じで剥き出しにしており、例外として女性怪人は女性っぽさを出すため唇になっている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "予算がかかることから中盤からは飛ぶ怪人を避けている。また、夏場に放送されていた回では、海洋生物をモチーフとしたアンノウンが多く登場している。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "物語終盤に登場する上位アンノウン・得るロードのうち、水のエルは立場を反映して品位や知性を感じるデザインとなっている。天使のイメージを内包しているが、宗教的な天使とは距離を取っている。一方、女性型である風のエルは美麗で高貴なイメージのデザインとなっている。また、地のエルは上位のロードのため、陸上生物の王様であるライオンがモチーフとなった。同じネコ科のモチーフであるジャガーロードが下僕という案もあったが、見送られた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "アギトこと津上翔一役には、本作が俳優デビュー作となる賀集利樹がオーディションで起用された。賀集がマイナビニュースとのインタビューで語ったところによると、当時所属していた事務所の社長が『仮面ライダークウガ』を視聴しており、上京してきたばかりの賀集を「仮面ライダー」の次回作のオーディションに受けさせようと思っていたという。賀集はこの時の気持ちについて、絶対に役をとると意気込んだり、構えたりすることなく、素のままで臨んだことがキャラクターのイメージに合っていたのではないかと振り返っている。当初賀集は本作に仮面ライダーが3人出てくることを知らず、役が決まって東映撮影所へあいさつに行った際、仮面ライダーG3こと氷川誠役の要潤、そして仮面ライダーギルスこと葦原涼役の友井雄亮と会い、初めてそのことを知ったという。また、物語の中で一つの場面に変身前の3人がそろうことはほとんどないため、いつ、どのような形で3人が集まったりすれ違ったりするかは台本を読んでみないとわからないため、視聴者たちと同じ感覚で撮影に参加していたと賀集は振り返っている。番組の性質上、アクションシーンも一通り対応できるよう、撮影2カ月前からJAEの道場で訓練を積んでいたものの、変身前の翔一がアンノウンと闘う場面が少なく、むしろ料理や家庭菜園といった家庭的な場面が多いことから、賀集はマイナビニュースとのインタビューの中でエプロンの似合う仮面ライダーとしてかなり珍しがられたと話しており、それゆえに変身前後のギャップがついておもしろくなったのではないかと分析している。また、アギトに変身した後は掛け声くらいしかなかったため、アフレコでは苦労しなかったとも話している。一方、賀集は「過去の記憶を失っているが、あまり気にかけることなく生きている」という翔一の設定については考えるたびに演じるのが難しかったとマイナビニュースとのインタビューの中で話しており、その理由として記憶喪失にはどうしても重たいイメージが付きまとうため、どことなくくらい雰囲気を持たせようと考えて演じたところ、「記憶喪失であることを気にせず明るく演じてほしい」と言われ、キャラクターの性格と記憶喪失に接点を見いだせず、納得いかなかったという。やがて撮影が進むにつれ自分の中で吹っ切れたたといい、津上の居候先である美杉家の人々のアットホームな雰囲気に救いだされたと振り返っている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "アギトのスーツアクターは、『忍者戦隊カクレンジャー』などに出演した高岩成二が務めた。高岩はマイナビニュースとのインタビューの中で、従来はデフォルメした演技をしていたが、本作の撮影現場では戦隊寄りとしてNGになることが多く、動きすぎるとも指摘を受けたため、試行錯誤の末に「動かない」芝居に切り替えたところ、OKをもらったと振り返っている。また、アギトのライダーキックは居合抜きをモチーフとしており、高岩は時代劇をやっているような感覚だったとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "氷川誠役の要も本作が俳優としてのデビュー作だった。要は2020年のラジオ番組『Be Style』の中で過酷な撮影だったと振り返り、その様子を修行に例えている。共演者の賀集も、G3はセリフが多いから要が大変そうだったとマイナビニュースとのインタビューの中で話している。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "要は撮影開始から半年後に行われた劇場版の舞台挨拶のために銀座を訪れた際、ファンから声をかけられたことがきっかけで、自分のしていたことがたくさんの人々の目に触れたことを実感したと『Be Style』の中で明かしている。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "葦原涼役の友井雄亮もまた本作が役者として本格的なスタートを切った作品であり、スーツアクターの押川善文も本作が初めてのヒーロー番組の仕事だった。友井は2人の必死さがキャラクターにうまくリンクしたと「仮面ライダーフィギュアコレクション30」のインタビューの中で話しつつも、撮影が過酷だったとも話している。ギルスの最初の変身シーンの撮影では、演出として用意されたカラスが友井の両耳のピアスの輝きに反応したため、パニックのあまりどのように演技したのか覚えていないと話している。また、第28話において涼がギルスがシンクロして走って変身する場面は、2人が走る様子をレール上からカメラが並走する形で撮影が行われた。この際リテイクのたびに全力疾走を命じられており、2人がへとへとになってやっとOKが出た。この時の様子について、「今思えば、監督は本当に必死な俺の顔が撮りたかった。でも、当時はそれが全くわからなかった。[後略]」と振り返っている。なお、ギルスへの変身の副作用である老化現象の撮影時、初期のころは特殊メイクで表現していたが、その後引きの画を撮影する際には老化状態を表した手袋が使用されていた。 また、2009年の『仮面ライダーディケイド』には過去作品のキャラクターが大挙して登場しているが、この時点でギルスの撮影用スーツは著しく損傷していたため、採用を見送られた。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "ヒロインである風谷真魚役にはオーディションでモデルの秋山莉奈が起用された。秋山は2020年の『週刊プレイボーイ』とのインタビューの中で、高校受験前で休業すべきか悩む中、『美少女仮面ポワトリン』(1990年放送)へのあこがれからぜひ出たいと思っていたのでうれしかったと話している。秋山も本作が初めての俳優業だったためとにかく必死だったと話しつつも、キャラクターの基本的な設定は自分にぴったりだったため、日常シーンは等身大で演じることができたとも語っている。また、劇中では怪人に襲われるなどのアクションシーンもあり、とてもおびえた表情をしていたものの内心はすごく楽しく、戦う翔一たちを見ながら自分も変身して戦いたいと思ったとも話している。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "前年の『クウガ』がHDTVカメラによる16:9のビスタサイズで制作されたことを受け、本作品でも画面サイズは16:9の画角が採用されている。ただし、『クウガ』で編集段階のSD画質への変換作業時にクオリティの劣化が起きたことを受けて、本作品は、16:9の横長画像を「横方向で圧縮した」4:3の画角で収録しそのままポスプロを行いマスター完成の段階で圧縮状態を戻し本来の16:9の画像にする「スクイーズ撮影」という手法が採用されている。この手法は後の『仮面ライダー剣』まで採用されることとなる。", "title": "番組制作" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "各回にはタイトルはなく、本節にて明記されているものは、いずれも新聞のテレビ番組欄やテレビ番組情報誌、ならびにテレビ朝日公式ページにて表記されたものである。第28話は涼の回想という、作中の時系列とは外れるエピソードのため、上下に帯がないアスペクト比4:3で放送。各話終了時の演出は最後のワンシーンが四角形に囲まれるという、以降に比べると非常にシンプルなものになっている。四角形の角には「Α」「Ω」の文字が置かれ、さらに上部分にはアギトの紋章も表示される。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "登場アンノウンの欄には、レギュラーである闇の力以外のアンノウンのみ記述。登場アンノウンの横の数字は登場話数を示す。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "本作は同時期に放送されていた『百獣戦隊ガオレンジャー』とともにイケメンヒーローブームをけん引した作品として認知されており、賀集本人も撮影の合間にトークショーを入れるなど過密なスケジュールだったことに加え、自分たちの待合室周辺にも人がたくさんいて驚いたと同時に人気を感じたとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "玩具などの関連商品の売上は前作『クウガ』を下回っているが、視聴率は最高視聴率(13.9パーセント)・番組平均視聴率(11.7パーセント)ともに平成仮面ライダーシリーズの最高記録を出している。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "また、劇中では登場人物の一人である小沢澄子が焼肉を食べるシーンが多く描かれ、これに対して放送当時、BSE問題で苦しんでいた全国食肉事業協同組合連合会から、本作品が表彰を受けた。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "リンクの貼られている作品の詳細はリンク先を参照。", "title": "他媒体展開" } ]
『仮面ライダーアギト』は、2001年1月28日から2002年1月27日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8時から8時30分(JST)に全51話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。キャッチコピーは「目覚めろ、その魂」。 本作品の放送期間中より、番組の最後に「このドラマはフィクションです」とテロップ表記されるようになった。
{{半保護}} {{Pathnav|仮面ライダーシリーズ|frame=1}} {|style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap;" |- |colspan="3" style="background-color:#90ff90; border:1px solid black; white-space:nowrap;"|'''[[仮面ライダーシリーズ|平成仮面ライダーシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90;"|'''第1作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|[[仮面ライダークウガ]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|2000年1月<br />- 2001年1月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90;"|'''第2作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|'''仮面ライダーアギト''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|2001年1月<br />- 2002年1月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90;"|'''第3作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|[[仮面ライダー龍騎]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap;"|2002年2月<br />- 2003年1月 |} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 仮面ライダーアギト | 画像 = | ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]] | 原作 = [[石ノ森章太郎]] | 脚本 = [[井上敏樹]] 他 | 監督 = [[田﨑竜太]] 他 | 出演者 = {{Plainlist| * [[賀集利樹]] * [[要潤]] * [[友井雄亮]] * [[秋山莉奈]] * [[升毅]] * [[田辺季正]] * [[樋口隆則|菊池隆則]] * [[藤田瞳子]] * [[山崎潤]] * [[柴田明良]] * [[羽尾明|羽緒レイ]] * [[小川敦史]] }} | ナレーター = [[鈴木英一郎]] | 音楽 = [[佐橋俊彦]] | OPテーマ = {{Plainlist| * 「仮面ライダーAGITO」<br />(第2話 - 第35話)<br />歌:[[石原慎一]] * 「仮面ライダーAGITO 24.7 version」<br />(第36話 - 第50話)<br />歌:石原慎一 }} | 言語 = [[日本語]] | プロデュース = {{Plainlist| * 松田佐栄子([[テレビ朝日]]) * [[白倉伸一郎]] * [[武部直美]] * [[塚田英明]] }} | 製作 = {{Plainlist| * テレビ朝日 * [[東映]] * [[ADKホールディングス|ASATSU-DK]] }} | 放送局 = [[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] | 音声形式 = [[ステレオ放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[2001年]][[1月28日]]<br />- [[2002年]][[1月27日]] | 放送時間 = 日曜 8:00 - 8:30 | 放送枠 = [[テレビ朝日日曜朝8時枠の連続ドラマ]] | 放送分 = 30 | 放送回数 = 全51 | 特記事項 = {{Plainlist| * 「[[仮面ライダーシリーズ|平成仮面ライダーシリーズ]]」第2作 * 仮面ライダー30周年記念番組 }} }} 『'''仮面ライダーアギト'''』(かめんライダーアギト、欧文表記:''MASKED RIDER AGITΩ''{{efn|タイトル・ロゴに併記されている。}})は、[[2001年]][[1月28日]]{{efn|この日は原作者である[[石ノ森章太郎]]の3回目の命日でもあった。}}から[[2002年]][[1月27日]]まで、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]で毎週日曜8時から8時30分([[日本標準時|JST]])に全51話が放映された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。[[キャッチコピー]]は「'''目覚めろ、その魂'''」。 本作品の放送期間中より、番組の最後に「このドラマはフィクションです」とテロップ表記されるようになった。 == 概要 == '''仮面ライダー30周年記念番組'''であり{{efn|第1話冒頭では「30th Anniversary」と表記された。}}、同時に平成仮面ライダーシリーズ第2作目として、シリーズの基礎を固めた作品でもある。第2作目ということで、作中には昭和仮面ライダーシリーズの第2作目である『[[仮面ライダーV3]]』のオマージュともいえる描写が存在する{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|pp=80、82}}{{R|%E8%AA%AD%E6%9C%AC}}。 本作品では3人の仮面ライダーが当初から登場する。以前の作品にも複数の仮面ライダーが作品中に登場するケースはあったが、複数が同時に主役級で扱われた例はなく、この試みは以降のシリーズにも影響を与えている。『クウガ』同様、劇中で[[仮面ライダー]]という言葉が登場することはなかった{{efn|PS2ゲーム『[[仮面ライダー 正義の系譜]]』では[[仮面ライダー1号]]が自らを仮面ライダーと名乗っていることを聞き、アギトも仮面ライダーと名乗るようになった、という設定になっている。}}。 作品中では「謎」という形で多くの[[伏線]]が提示され、それらを紐解く鍵を見つけると同時に、再び新たな謎が現れる形でストーリーが展開する。また、2話持ちであったとしても、1話目を引っ張りで終わらせるのはもちろんだが、「話を完結させない」というのが鉄則であったことから、2話目も引っ張りで終わらせて、次へつなげる形となっている{{Sfn|ディケイド公式読本|2009|p=95}}。このスタイルは、以降のシリーズでも継承されていくことになる。一方で、アクション面においても前作よりもその比重が高く、様式美的な要素を取り入れるなど、エンターテイメント性を重視した作品に仕上がっている。白倉は公式ホームページで第46話が実質的な最終回だと語っており、メインライターである[[井上敏樹]]も「最終回のつもりで書いた」としている。 === 前作『仮面ライダークウガ』との関係 === 本作品は、未確認生命体第4号が未確認生命体を滅ぼしてから2年後を舞台としているが、前作『クウガ』の時間軸と本作品の時間軸は意図的に一致しないように制作されており、本作品はオンエアタイムと同様に2001年という設定となっている{{R|超全集}}。また、未確認生命体という名称や仮面ライダーG3の外見以外に、前作を連想させる設定なども存在しない(詳しくは[[#外部リンク|外部リンク]]・「時間軸の矛盾」についてを参照)。 前作におけるクウガの別称「[[仮面ライダークウガ (キャラクター)|未確認生命体第4号]]」は本作品でも使われているが、一方で「クウガ」や「グロンギ」という言葉やその姿は登場しない。プロデューサーの白倉伸一郎は、本作品の世界観は物語開始時点より2年前に『クウガ』のような出来事があった[[パラレルワールド]]としている{{R|超全集}}{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|p=78}}。クウガを共演させようというアイディアは企画中に存在していた<ref>『[[仮面ライダーSPIRITS]]』第5巻 P232[[早瀬マサト]]の記述より。</ref>。 アギト・ギルス・G3のデザインはいずれも『クウガ』のデザインを発展させたものである{{R|art}}。 ストーリーコンセプトとしては、警察を重要な要素とすることや、怪人が人間を殺害する存在であることなどが受け継がれている{{R|超全集}}{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|p=78}}。 ; 後年の作品での扱い : 2009年制作の『[[仮面ライダーディケイド]]』では、主人公・門矢士らが訪れた(『アギト』テレビシリーズとはまた別のパラレルワールドの)「アギトの世界」にグロンギが登場し、その世界ではG3・G3-Xは彼らに対する直接の防衛力として開発されたことが劇中で語られている。 : 2014年より『[[月刊ヒーローズ]]』で連載されている漫画『[[仮面ライダークウガ (漫画)|仮面ライダークウガ]]』(作画:[[横島一]])には、本作品スタッフの井上敏樹と白倉伸一郎が参加しており、同作品では『クウガ』に『アギト』を関連付ける形で描かれている。 : 『[[S.I.C.]] HERO SAGA MASKED RIDER AGITΩ EDITION -PROJECT G1-』に登場したロードチェイサーは、ビートチェイサー(クウガのバイク)からガードチェイサー(G3のバイク)への発展途中に位置しているマシンと設定されている。 == あらすじ == {{不十分なあらすじ|date=2023年9月}} “未確認生命体事件”の終息から2年の月日が流れたある日、[[沖縄県]]の[[与那国島]]海岸に人知を超えた謎の遺物・[[オーパーツ]]が流れ着いた。 同時に各地において、人間には不可能な殺害方法を用いた猟奇的連続殺人事件が発生する。警視庁はこの事件の犯人を、かつての“未確認生命体”を超える新たなる脅威として「アンノウン」と命名し、未確認生命体対策班 (SAUL) に専属捜査を命じた。 この物語は3人の仮面ライダー、SAULに配属された若き特務刑事・氷川誠=G3、瀕死の重傷を克服した後に変容していく自らの肉体に恐怖を抱く大学生・葦原涼=ギルス、そして記憶喪失でありながらも本能の赴くままにアンノウンを倒していく家事手伝いの青年・津上翔一=アギト、の物語を交差させ、やがてひとつの巨大な流れへと昇華していく。 == 登場人物 == 津上翔一については、アギトの津上翔一を通常表記、本来の津上翔一は'''太文字'''表記にて示す。 <!--[[ノート:仮面ライダーシリーズ]]での提案に基づき、主要な変身形態名以外併記しないでください。--> === 3人の仮面ライダー === ; {{Anchors|津上 翔一}}{{読み仮名|津上 翔一|つがみ しょういち}} / [[#仮面ライダーアギト|仮面ライダーアギト]] : 本作品の[[主人公]]で、「'''既に仮面ライダーである過去のない男'''」{{Sfn|MASK OFF|2001|loc=「introduction」}}。年齢21歳、昭和55年[[4月1日]]生まれ{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=10}}。 : [[2000年]][[9月27日]]{{efn|劇場版より。あかつき号事件から2週間後。}}、記憶を失って倒れていたところを保護され、[[心理学者]]である美杉義彦の家に居候している。 : 変身ベルト・オルタリングの力によって仮面ライダーアギトに変身し、アンノウンに感応する能力を有している。自身がアギトであることは絶対の秘密にしているつもりはないが、あまりにも浮世離れした言動が多く、またアギトに変身すると基本的に掛け声以外発声せず、変身後は変身前の面影が全くと言っていいほどなくなるため、実際に変身あるいは変身解除の瞬間を目撃されない限り、アギトだと信じてもらえない。 : 穏和で脳天気かつ少々[[天然ボケ]]気味で気分屋でのんびり屋な性格であり、しばしば寒い[[駄洒落]]を言って周囲を呆れさせる。 :普段は美杉家の庭の家庭菜園での野菜作りや美杉家の家事を一手に引き受けている。記憶喪失となる前は調理師学校に通っていたため、料理を特技としているが、周囲の人が食べたがらないような創作料理を作ることも多い。調理師学校時代の恩師である倉本によれば、「生徒の中では一番真面目だったが、発想はかなり奇抜だった」と語っている。また、魚の口に小指を入れるだけで活きの良さが判る特技を持つ{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=10}}。 : しかし、考えていることがすぐに顔に出てしまうほど正直で、[[トランプ]]や[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]といった駆け引きを要する勝負事は不得意である。また、自分の価値観でしか物事や人を見られないため、他人の自分にはない弱さを理解できず、相手の気分を害する発言をすることもある。また、氷川や北條といった相性の合わない人間のペースを乱す独特の雰囲気を醸し出している。 : なお、「'''津上翔一'''」という名前は、発見時に所持していた封筒の差出人に由来しており{{efn|あて先は雪菜で、中の手紙は木野が所持していた。}}、本名は「'''沢木哲也'''」である。しかし、本名を名乗った後も周囲の人々には「津上翔一」の名で呼ばれ続け、「津上翔一」として生きることになった。 : 最初のころは美杉家の人たちとのつながりを失ってしまうのを怖れていたのか、自分の失った記憶を取り戻すことに対して、やや気乗りしない様子を見せる。 : 終盤でかつての恩師である倉本に再会し、自分の特技を活かして彼のレストランの手伝いをすることとなる。そして1年後にはレストラン「AGITO」を開いている。 : ; {{読み仮名|氷川 誠|ひかわ まこと}} / [[#仮面ライダーG3|仮面ライダーG3]] : 「'''仮面ライダーになろうとする現在に生きる男'''」{{Sfn|MASK OFF|2001|loc=「introduction」}}。年齢23歳。香川県出身{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=83}}{{efn|氷川を演じる要は[[香川県]]出身である。}}。 : [[香川県警察|香川県警]]より[[警視庁]]に転籍し、未確認生命体対策班S.A.U.L.に転属された警部補。G3およびG3-Xの装着員として、突如として現れたアンノウンによる猟奇事件の捜査に当たる。 : 香川県警で巡査だった時、翔一たちが乗っていたフェリーボートあかつき号の遭難を目撃し、翔一以外の乗り合わせた乗客・乗員9名を1人で救助している。 : 常に生真面目で人を疑うことを知らない。ややもすると無骨で極端に手先が不器用ですらあり、そのことにコンプレックスを抱いているが{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=19}}{{efn|翔一にそれらを指摘されたときだけカッとなっており、負けず嫌いな性分から後先を考えないような、普段の氷川を知る人間からは想像できない行動に走る。それでも出来ないとなると「何ですか、○○だなんて!!」などと開き直って屁理屈をこねる。}}、アンノウンを相手に常にひるまず戦い抜く熱血漢としての一面も併せ持つ。 :一方、尊敬する存在を美化しすぎてしまう傾向があり、北條の発言が嫌味だと気付くまでに時間がかかった。また、何度も自分の命を救ってくれた本物のアギトが尊敬するべき人物(木野)であると信じていたため、ちゃらんぽらんな翔一であるとは考えもせず{{efn|いち早く正体を知った北條と小沢は「なんとなく言いづらい」という理由で明かさなかった。}}、それを知った際には少なからずショックを受けていた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=19}}。高校時代はテニスのインターハイで準優勝を果たしている。 : 物語序盤は敗戦が続くが、次第にアンノウンにとどめを決める場面も出てくる。最終回では、アギト・シャイニングフォームですら敗北寸前まで追い込んだ風のエルと地のエル2体を相手に戦う強さを見せている。 : 終盤において、何らかの原因で視界がぼやける症状を起こすが、再検査の結果で視神経に異常は見当たらず、闇の力との最初の対決から1か月後は目も完治し、詳細は不明のままに終わる{{efn|劇中では明言されなかったが、講談社から出版された『テレビマガジン特別編集 仮面ライダーアギト』の107頁によると2度目の診察を受けたらしく、『「過度のストレスによる一時的なもの」と診断された』と記載されている。}}。最終決戦から1年後に警視庁捜査一課に正式配属となり、そこで河野とともに働くようになる。 : ; {{読み仮名|葦原 涼|あしはら りょう}} / [[#仮面ライダーギルス|仮面ライダーギルス]] : 「'''仮面ライダーになってしまった未来を失った男'''」{{Sfn|MASK OFF|2001|loc=「introduction」}}。年齢20歳、[[1981年]][[1月21日]]生まれ{{efn|免許証の記載より{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=19}}。カルテには[[7月16日]]と記載されている{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=20}}。}}。 : 城北大学の学生で、初登場時は水泳部に所属している。無愛想で粗暴だが{{efn|翔一や氷川など、劇中の男性登場人物には彼に殴られた者が多い。}}、性根は優しい性格であり、特に真魚には後述の件で恩義を感じており、彼女からの頼みは基本的に聞き入れている。また彼もアンノウンに感応する能力を有している。 : バイク事故を機に、不完全な状態で潜在的に備わっていた能力が事故のショックで覚醒し{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=67}}、変身ベルト・メタファクターによって'''不完全なアギト=ギルス'''に変身する。 :その能力と変身後の「異形の姿」ゆえに水泳のコーチ・両野耕一や恋人の片平真由美に敬遠されたうえ、水泳選手の夢を断念して大学を中退し、長らく孤独な日々を過ごす。なぜか女運が非常に悪く、真由美だけでなく榊亜紀や水原リサといった親密になった女性とは、最終的に死別するという悲劇的な破局を迎えている。 : [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4|劇場版]]では、街中でフォルミカ・ペデスに襲われるレイを助け、彼の頼みで紗綾香を助けるために行動する。 : 覚醒後は翔一=アギトや氷川=G3と何度も接触し、状況の誤解によって幾度も戦うが、やがて互いの境遇を理解して共に戦うようになる。 : 相良克彦に襲われて一度は命を落とすが、真魚の治癒再生能力によって蘇生する。その後、アナザーアギト=木野のアサルトキックを喰らって瀕死の重傷を負うが、真島浩二の中で覚醒しつつあったアギトの力を授けられて回復、あわせてギルスでありながらアギトに匹敵するエクシードギルスとしてさらなる進化を遂げる。 : 幾度も関わった人物と悲しい別れを経験し、蘇生後も死線を彷徨う目に遭うが、苦境から決して逃げない。のちに、行きつけのバイク屋「都洋自動車」でのバイトを始め、普通の生活を送るようになる。 : 最終決戦後は自分に懐いた仔犬と共に、バイクに乗り旅立っていく。 === 津上翔一の関係者 === ==== 美杉家 ==== ; {{読み仮名|風谷 真魚|かざや まな}} : 3月10日生まれの17歳。緑ヶ丘学園に通う女子高校生。母親は生後まもなく病気で他界し、父の伸幸と2人で暮らしてきたが、2年前の自身の誕生日にその父を亡くした後、[[雑司が谷]]に住む叔父・義彦の家に身を寄せている。 : 強力な[[サイコメトリー]]の持ち主で、のちに沢木の手によって能力を成長させ、一度きりの強い治癒再生能力に覚醒して死亡した涼を蘇生させる。他にも透視能力や念動力を持つ。 : [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4|劇場版]]では、予知能力を持つため、深海に拉致され、G4のESPシステムに利用される。また、翔一が戦いの最中に死亡することを予知する。 : 学業は常にサイコメトリー頼みで、能力にムラがあることからテストの成績は科目によって得意・不得意の差が目立つ。一時期までテニス部に所属しているが、人間関係のもつれから退部している。 : 翔一のことを「翔一君」と呼んでいる。翔一がアギトであることを最初に知り{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=8}}、翔一がアギトについて相談できる数少ない人物となる。常識をわきまえており、天然ボケ気味な性格の翔一に対して呆れながら突っこみを入れるのが日常である。また活動的であるため、のんびりした翔一の言動にイラつくこともしばしばである。太一いわく「抱え込む性格」らしいが、その態度や言動には内心が現れてしまうことが多く、周囲に対しては強い口調になってしまうことや拒絶のような態度を取ることすらある。しかし、重要な場面では常に翔一を応援し、彼の戦いを影で支えて気遣っている。 : 終盤にて、父・伸幸の死の真相について気付いた北條から、父を殺したのがアギトとなった雪菜であると語られた結果、動揺のあまりアギトである翔一を一時は拒絶してしまう。しかし、自分の行動が翔一にアギトの力を捨てさせることに繋げてしまい、さらには自身もアギトの力を秘めた存在であり、翔一たちの苦悩を知ったことで、アギトとして生きるべきか迷う翔一を激励。再びアギトとなって戦う決意をさせた。 : 美杉は「[[マナ]]という言葉には、天からの恵みの食べ物という意味があるんだ」と、伸幸は[[旧約聖書]]に登場するマナにちなんで人々に恵みを与える人になってほしいから「真魚」という名前を付けたのではないかと語っている<ref group="ep">第46話</ref>。 : ; {{読み仮名|美杉 義彦|みすぎ よしひこ}} : 年齢45歳。真魚の叔父。城北大学心理学専攻の教授であり、自分の家に教え子を招くことがあるほか、氷川らアンノウン捜査関係者から協力依頼を受けることもある。 : 鷹揚な人柄だが、酒癖の悪さゆえに家には酒を置かせてもらえない。劇中に登場しない妻は教職のために海外へ出張中であり、現在は息子の太一のほか、姪の真魚2人して居候の翔一の4人で生活している。 : 超能力の存在については懐疑的で、翔一がアギトであることはラストまで知らずにいたが、実は過去に、義理の兄である伸幸{{efn|美杉の姉か妹(真魚の母)の配偶者。|name="a"}}から、超能力の実在や真魚が超能力の持ち主であること、そして超能力者から生まれるアギトの存在について聞かされていた。しかし、超能力の研究開発に没頭するあまり、人間が侵してはならない領域に踏み込んででも超能力開発実験によって自らの手で超人(アギト)を生み出そうとしていた彼の異様な執念に危険を覚え、否定的な態度をとっている。そのために、不可解な死を遂げた伸幸がアギトに覚醒した雪菜の暴走で殺され、それによって彼女が罪の意識から自殺し、さらには沢木も後を追い自殺してしまったという真相について薄々気づいていた。しかし、伸幸を殺してしまった雪菜も、彼の野心に振り回された「犠牲者」であったことを理解し、伸幸を止められなかったことに責任も感じていたため{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=8}}、真魚を傷つけずに守り続けるため、全てを忘れることを決意。超能力の存在を知りながらも、懐疑的な姿勢を貫いていた。終盤にて、警視庁の北條が伸幸の死の真相について気付き、それを真魚に語ったのを機に、自らの抱え込んでいた秘密を翔一に打ち明ける。 : [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4|劇場版]]では、素性を明かさない紗綾香を、真魚に頼まれて居候させる。 : ; {{読み仮名|美杉 太一|みすぎ たいち}} : 年齢10歳。小学4年生(後に5年生になる)の義彦の一人息子で、従姉の真魚や居候の翔一とは親しい{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=8}}。母親が家にいないことを寂しがっている様子はない。一方、榊亜紀のような母親の面影を感じさせたり、甘えさせてくれる大人の女性には滅法弱い。決して悪ガキではないが、生活面ではかなり翔一に依存しているにもかかわらず、呼び捨てなど生意気な態度を取っては父親によく怒られる。[[トマト]]や[[卵]]が嫌いなど、偏食が激しいが、後者に関しては亜紀が作った卵がゆのみは食べている。 ==== 沢木哲也の関係者 ==== ; {{読み仮名|風谷 伸幸|かざや のぶゆき}} : 日政大学の比較宗教学教授を務める、真魚の父親で、義彦の義理の兄{{efn|name="a"}}。享年45歳。真魚の生後まもなく妻が他界したため、男手ひとつで真魚を育てた。 : 真魚の回想では温厚な父親としてのイメージがあったが、科学者としては人としての一線を踏み越えることさえも辞さない狂的な一面がある。 : 超能力の開発に心血を注いでいたが、次第に人として超えてはならない領域に踏み入れるようになり、さらにはアギトの存在を知ったことで、自らの手で超人を生み出すという危険な野心を抱いていたが、それを聞かされた義弟の義彦からは否定的な態度をとられていた。 : 津上翔一(沢木哲也)の姉であり、前述の事故に関わった沢木雪菜を実験体にし、アギトに覚醒させることに成功したものの、1999年3月10日に力を制御できずに暴走した彼女のサイコキネシスによってその身を滅した{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=76}}。そのことで、雪菜や翔一、沢木にも不幸をもたらすことになる。また、自らの野心によって、雪菜や沢木が犠牲になった事実を知っていた義彦も、アギトや超能力を知りながらもそれを否定し続ける姿勢をとり、終盤までそのことを隠し通した。 : ; {{読み仮名|沢木 哲也|さわき てつや}} : 年齢35歳、闇の力と唯一接点を持つ青年。彼から力を与えられ、真魚や榊亜紀らの能力を覚醒させたり、増幅したりしていた。 : 実は、翔一が持っていた封筒に描かれていた「'''津上 翔一'''」本人であり、 元々は伸幸の助手として香川県久我市の日政大学で超能力の実験を行っていた。恋仲だった雪菜の死後、後を追って自殺したものの、最初のアギトであった雪菜を殺害した{{efn|実態は飛び降りようとした雪菜を救おうとして手を掴んだが、雪菜に「お願い離して」と乞われ、その想いを汲んだ末に手を離してしまった。}}「功績」を闇の力に認められ、その力を受けて蘇った。その後は永遠の命と引き換えに、闇の力とともにアギトを人類側から滅ぼす神の使徒として意を受けた。 : 第20話より闇の力から「人類が本来持ってはいけない力を解放する権威」の一部を授かるが、闇の力に背き、アギトを守るため、その力で人類のアギトの力を覚醒させるために使う道を選ぶ。自らを「かつてアギトを裏切った者、これからアギトを救う者、神を裏切った者」と名乗り、アギトは人間の可能性を否定する者と戦うために存在すると考えている。 : 終盤では、かつて自ら死を選んでしまった雪菜のように、アギトに覚醒しかけたことで自殺しようとした可奈を救おうとした翔一に手を貸し、「お前の手は人を守るための手だ!」と激励。アギトに変身して地のエルへ果敢に立ち向かう翔一の姿を、可奈と共に見届けた。 : 最期はアギトらに敗れて邸宅にやってきた闇の力の前で「人はアギトを受け入れるだろう」と言い残して、人間の可能性を信じながら闇の力に与えられた永遠の命が尽きて真の死を迎える。 : ; {{読み仮名|沢木 雪菜|さわき ゆきな}} : 翔一の夢に出て来る女性。享年23歳。 : 実は翔一(本物の沢木哲也)の姉で、幼いころに両親を亡くし、それ以降は弟の哲也と二人で暮らしていたが、彼女も伸幸のゼミに参加する中で、超能力開発実験によってアギトの力に覚醒していた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=5}}{{efn|番組の時間軸上では、一瞬とはいえ最初にアギトの姿へ変身したことになっており、闇の力は彼女を「最初のアギト」と認識している。}}が、力を制御できずに伸幸を殺してしまい、力に耐え切れずに助けようとした'''津上翔一'''の手を振りほどいて自分も直後に自殺してしまうことになった{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=77}}。後に、その真相を知ったことで、翔一(哲也)と真魚の間に亀裂が走ってしまうことになり、アギトの力を恐れるようになった翔一が自らの意思で「闇の力」にアギトの力を渡してしまう事態に繋がっている。 : '''津上翔一'''に宛てた手紙は自動筆記のように謎の文字が書かれており、その手紙の宛先であった'''津上翔一'''の元へ向かおうと哲也はあかつき号へと乗船した。 === 警視庁 === ; {{読み仮名|小沢 澄子|おざわ すみこ}} : 年齢25歳、[[1977年]]生まれ。[[ニューヨーク]]出身。IQ180。G3システムの開発責任者にして、未確認生命体対策班の実働部隊G3運用チーム、通称《G3ユニット》の主任でもある。役職は[[管理官]]で、警視庁警備部所属の警部。 : 12歳で[[マサチューセッツ工科大学]]へ入学し、15歳で博士号を取得して博士課程を主席で修了、そして日本へ帰国後、城北大学を卒業した{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=10}}。美杉の教え子でもある。 : 氷川の実力と率直な人柄を高く評価し、常に強い信頼を寄せている。 : 前向きながらも大雑把で自信家かつ勝気な性格ゆえに、北條透を始めエリート気取りを敵に回してしまうことが多い。何でもズケズケとストレートな物言いをするように見えるが、「人に聞かれるとまずいような話はしない主義」と自身は語っている。彼女の最高傑作といえるG3-XやG4は装着者の負荷を無視したものだったが、装着員の生命を奪うG4は封印した。また、G3-Xの一件で、ライバルでありかつての師でもある高村教授に諭され、次第に他者を思いやる考えを持つようになる。 : アギトに関しては、当初こそ不確定要素の多さから警戒していたのだが、後に彼の正体である津上翔一との関わりを経ていったことで、アギトもまた自分たちと変わらぬ人間であると認知している。そして、北條が自身と対照的にアンノウンよりもアギトを脅威と見なしG3ユニットを乗っ取った際は、上層部からのアンノウン防衛を目的とした兵器開発の要求を断固拒否。後に北條の見解も真っ向から否定し、「アギトは人類の可能性であり、それを否定すれば人類に未来は無い」という自らの信念と見解を、毅然とした意思で突きつけた。 : 最終決戦から1年後には警視庁を辞め、西ロンドンの大学で講師を務めている。 : [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4|劇場版]]では、自身が封印したG4の設計図を盗み、G4を完成させた深海を糾弾する。劇場版のディレクターズカット版で、かつては美杉義彦の教え子だったことが判明しているが、学生を率いて授業をボイコットするなど、素行はあまり良くなかったようである。 : 焼肉と大ジョッキのビールが好物で、特に勤務中にもかかわらずビールを浴びるように飲み、周囲の声がわからなくなるほど酔うこともあるが、G3-Xをその状態で完成させた。 : ; {{読み仮名|尾室 隆弘|おむろ たかひろ}} : 年齢24歳。警視庁未確認生命体対策班G3システムの開発員で、階級は巡査。G3システムの運用に際してオペレーターとして小沢のサポートを担当する。G3ユニット以外では白バイ隊員として活動している。 : 外見、性格、能力全てにおいて平凡であり{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=10}}、周囲からは影が薄いと言われ、実際無視されたり凡人扱いされることが多く、小沢からも「究極の凡人」とまで呼ばれているが、諸所で縁の下から活躍している。 : 気弱な一面もあり、スピード違反した水原リサを追跡中、彼女を匿っていた涼に凄まれ引き下がってしまったこともある。 : G3システムの装着員に憧れており、テレビスペシャルではG3マイルドのテスト装着員になって氷川と共闘する。戦闘ではスカラベウス・フォルティスに圧倒されたものの、氷川の窮地を救う根性も見せている。テレビシリーズでも直接戦ってはなくとも、警視庁の方針がアンノウンの防衛に転向したことで、修復されたG3の装着員を務めるが、新たな方針には疑問を抱いている。最終決戦から1年後には新設されたG5ユニットの主任に昇格し、小沢と氷川の意志を後輩に伝えている。 : 劇場版では、深海に酔い潰され、G4の設計図を盗む手助けをしてしまう。 : ; {{読み仮名|北條 透|ほうじょう とおる}} / [[#V-1システム|V-1システム]] : 年齢25歳。警視庁捜査一課の警部補で、本庁きってのエリートと言われている。 : 過剰なエリート意識を持つ気取り屋な一面があり、食事は河野に屋台ラーメンを誘われても断って高級レストランで同僚をご馳走したり、氷川に缶コーヒーを奢ってもらいそうになってもコーヒーは[[サイフォン]]で淹れたものしか飲まないことを理由に断るなど、かなり高級志向が強い{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=34}}。河野や司は、「思い込みが激しい」と評している。 : かつてG3装着員に真っ先に志願するも、氷川に敗れた過去を持っているため、彼にジェラシーを抱く{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=20}}。そのことや自身の功や体裁にこだわり過ぎるため、G3ユニット(特に小沢)を敵視し、彼らに対抗してアギト捕獲作戦やG3ユニットの強奪、V-1システムの開発などを立案するが、V-1システムの頓挫以降はG3ユニットを強奪したり出し抜くようなことはしなくなる。また、氷川のサポートや一般人の救助、さらには事件の捜査など、警察官としての任務は果たしている。 : 発案した作戦が裏目に出てしまうことが多い一方、最終的には偶然にもアンノウンの出現で助かるなど悪運もかなり強く、幾度となく痛い目にあったにもかかわらず最後まで自身のプライドや信念を決して曲げることのない、打たれ強さと図太い神経を持ち合わせている。なお、顔が固いのか、殴った涼でさえ手を痛そうにしている。 : 氷川が昇進するきっかけとなったあかつき号の事件をマスコミに流すと警視庁上層部を強硬に責めて正式にG3システム装着員に任命された際は、一度はモリペス・オクティペスを撃破するが、それが強化再生して再戦時にまったく攻撃が効かないことに恐怖心に駆られ、命令を無視して独断で武装解除し戦線離脱したことで任を解かれる。しかし、その後の戦いでは自身が装着員としての立場が危うい状況ながらも、悠長な上層部の判断を待たずにエクウス・ノクティスから民間人を助けるため小沢や尾室に出動を働きかけ、アンノウン撃破は出来なかったが、民間人を守るためにボロボロになりながらも戦闘不能になるまで戦い抜くなど、斜めに構えた態度に見えて、実には氷川と同じように内心には熱い心を秘めている。 : 氷川も彼の才覚は認めており、小沢がG3-Xの装着員として津上翔一を挙げた際には「北條ならまだわかる」と言っている。しかし、翔一に初めて会った時は氷川同様に彼の雰囲気にペースを乱され、ムキになるなど単純な一面もあり、結論から言えば氷川とは似た者同士である。 : 終盤にて、風谷伸幸がアギトの力を持つ者(雪菜)によって殺された事実を突き止め、それを娘の真魚に聞かせた結果、彼女が翔一を拒絶し、翔一自身もまた自らの意思で闇の力にアギトの力を渡してしまう事態を招く。さらには、この件を機に、人類にとってはアンノウンよりもアギトの方が脅威であると考えるようになり、白河の後押しを受ける形でG3ユニットの解散や乗っ取りを謀り、アンノウン防衛のために活動する。しかし、小沢とアギトに対するそれぞれの見解について論争し合ったこともあってか、自身や警察の考えが間違っていたことに薄々気付いたようで、氷川たちがG3ユニットの奪還に来ると、あっさりとシステムを明け渡してその場を去っていく。 : 1年後には、捜査のためにイギリスへ行き、小沢が教授として赴任した西ロンドンの大学をついでに訪れている。 : ; {{読み仮名|河野 浩司|こうの こうじ}} : 警視庁捜査一課のベテラン刑事。 : 北條の上司で、彼が「根は良い奴」であることを理解している数少ない一人。飄々としているが勇敢。 : 北條がG3装着員となっている際、およびG3ユニットが活動していない際は、氷川も彼のもとで事件の捜査にあたっている。風谷伸幸殺害事件を追っており、真魚とは面識がある。 : 警視庁近くのラーメン屋台「天下自慢ラーメン」の常連で、勤務中の食事はほぼその屋台で済ます。たまに妻の大盛弁当を食べる際は「本当はラーメンのほうが良い」とやや不満を持っている。 : ; S.A.U.L.幹部 : 未確認生命体対策班の監査役の警視庁幹部会。人員の任命権や対策班全体の活動の最終決定権、警察庁や政府との密接な繋がりを持つ。 : 劇中では数名の幹部が登場し、頻繁に行われる聴聞会では、G3ユニットの面々に対し一貫して厳格な姿勢を崩していない。 : ; {{読み仮名|司 龍二|つかさ りゅうじ}} : アギト捕獲作戦の失敗後、[[警察庁]]からG3ユニットに派遣されてきた鑑査官。北條の元上司であり、彼を最も優秀な部下と絶賛している。年齢38歳。第18・19話に登場。 : 以前ある事件の張り込み中に北條を助けた「命の恩人」でもあるが、その際に右腕に重傷を負い、後遺症のため左利きへの矯正を余儀なくされた。また、その傷を負って入院している間に妹・さおりを殺人事件で失っている。 : 「あらゆる偏見を排除してただ事実を事実として直視する」ことをモットーとしている。一方で、無能と判断した者には冷たくするなど人の好き嫌いが激しく、思い込みも激しい。 : 実は殺された妹のさおりは、ベーカリーの店主である花村久志と婚約関係にあったのだが、交際のもつれを理由に婚約を解消してしまっていた。それを知っていった結果、容疑者となったものの証拠不十分で保釈された花村が犯人だと思い込んで殺す。さらには罪から逃れるために、超高輝度LEDを使用した発火によってヒドロゾア・イグニオの猟奇殺人事件に見せかけてその犯行に紛れ込ませる。しかし、最終的には北條の推理によって自身と花村の関係について見破られてしまい、彼の優秀さを改めて認め、自首する。 === あかつき号メンバー === あかつき号事件での乗員・乗客たち。 ; {{読み仮名|木野 薫|きの かおる}}/ [[#アナザーアギト|アナザーアギト]] : あかつき号の乗客のなかではリーダー的な存在{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=35}}。年齢32歳。 : 天才的な腕前を持つ[[外科医]]だったが、数年前に登山中の冬山で遭難し、自分に助けを求めた弟の雅人を助けることができず、自身も重度の凍傷によって右腕を失った。死亡した弟の右腕を移植されたが、医師会はもはや手術は不可能と判断し、医師免許を剥奪した{{efn|本来は四肢欠損や障害などによって手術が出来なくなっても、医師免許の剥奪理由にはならない。}}。 : 本来は穏やかで、困っている人間を決して見捨てない好人物だが、弟を救えなかったという自責の念から遭難時の悪夢にうなされ、自分に救いを求める人間に雅人のイメージを重ね合わせ、贖罪として世界を全て自分だけの手で救わねばならないという強迫観念に駆られ{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=35}}{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=76}}、同時に心に影を落としてしまう。それ以後は無免許で非合法な難手術を請け負い、法外な報酬を受け取る裏世界の名医師となる。この時に前述の海難事故に遭い、当時は面識のなかった氷川に救出されている。 : アギトの力とアンノウン感応能力が覚醒した直後は、弟を救えなかったことへの後悔がそれまで以上に強くなり、自分一人の手で人を救うべく、自分以外のアギトの存在を否定する。翔一や涼および、覚醒しかけた浩二まで襲うようになってしまう。しかも、瀕死の重傷を負わせた涼が、真実を知らない浩二たちによって担ぎ込まれてくると「一人で治療する」と偽って殺害を謀るが、なぜか右腕が痙攣と激痛で機能しなくなり{{efn|その際、木野は「なぜ邪魔をする雅人!?」と叫んでいる。}}、その隙に涼は逃走し未遂に終わる。その後、翔一にも攻撃をしかけるが、またしても右腕に症状が現れ撤退、それを弟の諌めと考え自分は間違っているのかと悩む。さらに、復活した涼=エクシードギルスに敗北したのを機に、最終的に翔一たちと共闘することになる。 : 闇の力によってアギトの力を奪われ変身不能となった状態で、ウォルクリス・ファルコの打撃を受けて重傷を負うが、同じくエリキウス・リクォールの針を食らった翔一に「アギトに飲み込まれるな」と諭しながら緊急手術で針を摘出して救う。そして、アナザーアギトへ最後の変身をして撃退した後、生身の状態で受けてしまったダメージによって肉体の限界を迎え、浩二にコーヒーを淹れるようにと頼んだあとに息を引き取る。彼が最後の際に見た幻は、あの雪山で倒れずに立ち上がり、弟を支えて下山する自身の姿であり、弟を救えなかった想いから解放されたその表情は、とても穏やかなものであった。 : ; {{読み仮名|三浦 智子|みうら ともこ}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢29歳。12月生まれ。翔一が記憶を失ってから、最初に再会したあかつき号の乗客のメンバー。第9話に登場。 : 篠原佐恵子とは会社の同僚であり、彼女と有給休暇を利用して四国へ旅行に行くためにあかつき号に乗船し、事件に巻き込まれた。それから半年後、偶然にも街中で翔一と再会する。彼の正体を教えるべく会う約束をするが、闇の力によって針金で絞殺される。 : 彼女が死の直前に翔一と会う約束をしていたことから、翔一は警察に疑われ、一時逮捕される{{efn|実際には、重要参考人として任意同行を求められた際にモリペス・オクティスの気配を察知したことでその場を後にしようとしたことによる公務執行妨害のため。}}。後に嫌疑が晴れ、釈放される。 : ; {{読み仮名|篠原 佐恵子|しのはら さえこ}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢24歳。第11・12話に登場。 : 会社を辞めて友達と輸入雑貨店を開くため、会社の同僚である三浦智子とともに四国へ最後の旅行に行く途中、あかつき号事件に巻き込まれた。そのショックで心を閉ざして山王湖の畔で暮らしていたが{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=35}}、兄の数樹がでっち上げた山王湖の戦部伝説の話に夢中になったことから、聖なる戦部の像の土器を採集するために山王湖に潜っていた{{efn|これは、あかつき号の事件の記憶から逃れるための現実逃避で、兄の計らいであり、実際には伝説など存在しない人造湖だった。}}。 : 自分の過去を知りたい翔一や、父の死の真相を探る涼が接触してきた際にも、真相を語ろうとはせず逃げ回っている。やがてエクウス・ディエスに致命傷を負わされ、涼の救援も間に合わず湖水に沈んで死亡する。 : ; {{読み仮名|榊 亜紀|さかき あき}} : あかつき号の乗客の一人。年齢24歳。第15話より登場。 : 元々、高松の実家を家出同然で飛び出し[[東京]]で狭いアパートに独り暮らししながら、[[看護婦]]を目指していたが、試験に落ちてしまい断念して実家に帰ろうとした時にあかつき号事件に遭遇する。家政婦と偽って美杉家に訪れ、翔一の記憶喪失を利用して恋人同士だと嘘をつくなど悪質な行為を行う一方、母親の面影を見た太一には慕われている。それゆえか、あかつき号事件で救出してくれた氷川と再会した時は、異様なまでに怯えている。 : 涼に自分と同様のものを感じ好意を抱くが、北條が指揮するアギト捕獲作戦のメンバーによってギルスが撃たれる瞬間を見て、彼が殺されたと思い込み、復讐心を持ったためか超能力が覚醒する。 : その後、沢木と接触して念動力が増幅したことを受けて力に溺れ、パンテラス・キュアネウスを撃退するだけでなく私怨に走り、アギト捕獲作戦に参加した機動隊員2名を殺害した上に北條をも襲う。涼の生存を知ってうろたえるが、もう後戻り出来ないと思いつめ、なおも北條を襲撃しようとするが、直後にパンテラス・ルベオーに襲撃される。自身の念動力と涼の護衛でなんとか逃げおおせるも、逃げた先にいたパンテラス・マギストラの襲撃に対処出来ず、翔一の目の前で首の骨をへし折られ殺害される。 : 不幸にも、彼女の死で生じた誤解から一時期、アギトとギルスは激しく衝突、巻き込まれたG3は大破している。 : ; {{読み仮名|関谷 真澄|せきや ますみ}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢21歳。第20話より登場。 : 元々潔癖症かつ高飛車な性格で、他人の親切に対しても猜疑心をあらわにして拒絶してしまうが、真島からは「誰かに頼らないと生きていけない性格」と評されている。 : パソコンオタクでハッキングを得意としており、亜紀に頼まれて警視庁のファイルからアギト捕獲作戦に関する情報を盗み出している。 : 保護した涼を、不吉な存在で災いをもたらすということで、ガス栓を開けて窒息死・花瓶で撲殺しようとするほど嫌悪している。 : 実はあかつき号事件以来、水のエルに憑依されていた{{efn|そのことからクルスタータ・パレオが彼女を殺そうとしたとき、ケトス・オルキヌスによって止められた。}}。その後、水のエルに放棄された際に、知らないうちに自分が純や高島を殺していたことを悟り、謝りながら絶命する。 : ; {{読み仮名|相良 克彦|さがら かつひこ}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢25歳。第20話より登場。 : カメラマン志望の愛妻家で、病弱な妻の代わりに彼女が行きたい場所の写真を撮るため、全国に旅行に出かけていたが、あかつき号事件の後遺症から、妻には何の説明もせずに転居を繰り返したため、愛想を尽かされて逃げられた。 : 超能力の覚醒によって暴走する亜紀を諫めるも、亜紀によって電源コードで締め付けられてしまう。 : 沢木の手によって、自己・他者共に負った傷を直す治癒能力とサイコキネシスの2つの超能力が覚醒する。 : コルウス・ルスクスに襲われた際、涼に助けられたことから涼を庇っているが、木野からの命令を受け、沢木の手によって覚醒した力で一度は涼を殺す。しかし、身元を保護していた沢木から頼まれると蘇生を試みるも失敗する。その後、偶然その能力を知った真魚を仲間に引き入れようと暴走に近い行動をするが、クルスタータ・パレオから受けた傷が致命傷となり、真魚に謝罪と励ましの言葉を送って息絶える。 : ; {{読み仮名|真島 浩二|まじま こうじ}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢16歳。第31話より登場。 : 代々医者の家系の生まれだが、医者になれと強制する両親に反発してテストを白紙で提出したために勘当され、以降は友人の家を転々としていた。それゆえに最初はチンピラのような性格で、あかつき号では翔一に難癖をつけ、居合わせた涼の父・和雄にあしらわれている。 : あかつき号事件がきっかけとなって態度は多少軟化し、当初は無気力だったものの、あかつき号で自分に後悔しないよう生きる木野を父親のように慕っており、自身のアギトの力が覚醒の兆候を表してからは、自らもアギトとなって木野とともに戦う決意を示すが、自分以外のアギトの存在を否定する木野によって襲われる。しかし、瀕死の重傷を負った涼を復活させようとして、その力を譲り渡し、彼を回復させてエクシードギルスへと導いたため、自らは力を失う。それ以降は命を狙われることもなく最後まで生き延び、木野のような医者になるべく医大を目指して勉強している。 : ; {{読み仮名|橘 純|たちばな じゅん}} : あかつき号の乗客の一人で、年齢21歳。第32話に登場。 : 真澄の高校時代からの親友で、真澄とは正反対の気さくな性格。水のエルに憑依された真澄によって、真澄本人が気付かないうちに殺害される。 : ; {{読み仮名|高島 雅英|たかしま まさひで}} : あかつき号の船長。第32話に登場。 : 船内での一連の騒動の現場に駆け付けた際、乗客とともに一緒にアギトの光を浴びた。 : 事件後、都内近郊に移り住んでいる。純が殺害されたあと、真澄が彼を頼るべく彼の自宅へ訪れるが、既に純と同じ手口で殺害されていた。 : ; {{読み仮名|葦原 和雄|あしはら かずお}} : 涼の父。あかつき号の乗客の一人で、事件に対する恐怖から姿を消して各地を放浪していたが、西青柳駅のベンチにて精神衰弱で死亡しているところを発見された。 : 彼の手帳にあった名前と住所を頼りに、涼はあかつき号の乗客らと接触を図ることとなる。 === オーヴァーロード === ; 闇の力{{efn|オープニングクレジットでは役名を「青年」と表記している。企画書では「オーヴァーロード」、第5話以降の脚本では「斗真」という名称が付けられている{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|p=79}}。}} : アンノウンの総主で、オーパーツ内部に封印されていたDNAの分子構造の遺伝子モデルから誕生した。誕生当初は赤ん坊だったが数日間で急成長し{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=36}}、少年・中間体の青年を経て女性と見紛うばかりの美貌を持つ青年へと成長する。その正体は闇の力であり、人類や様々な生物の創造主・テオス{{Sfn|超辞典|2011|p=760}}。神ともいうべき存在。 : 自分の姿に似せて創造した人間を自分の子供としてペットのように愛していた。だが、自分と対をなす「光の力」が、人類に「知恵」=アギトの力という自分に制御できない能力を授けようとしたことを嫌い、人間が自分のものではなくなることを望まなかったため、「光の力」と戦い勝利する。その際、光の力が最後の力を振り絞り人間の種の中に解き放ったアギトの力を植え付けたことに怒り、一度世界を滅亡させた。しかし人間への愛から[[ノアの方舟|全人類、全動物種の中からつがいを一組ずつ方舟に乗せて生き残らせる。]]そして人類が遥か未来に再び繁栄しアギトの力が覚醒した時のため、アギトとなる可能性を持つ人間を抹殺させるべくエルロードを放ち、自分も人間の進化に伴い、「人間」として「受肉」して現世に復活できるよう、自らの遺伝子情報を組み込んだオーパーツを残していた。 : 現代に蘇った後はアギトの根絶を企む一方で、人間の体を有していたため、人類への愛情もなくしておらず、過労で倒れた涼を自ら介抱し、その攻撃を無抵抗で受け止めたことにショックを受けて錯乱状態に陥る。また、自らの手であかつき号事件生存者・三浦智子を殺害したことへの後悔から警察に逮捕されるが不起訴となり、精神病患者として警察病院の病室に措置入院される。そして、配下・アンノウンと沢木哲也(本物の津上翔一)に命じてアギトを滅ぼさせることを選択する。 : しかし最終的には、自分の意図を越えた進化を遂げようとする人類自体を見限り、自らの手で抹殺しようとするが、アギトらによってエルロードをすべて倒され敗北する。神たる存在であるゆえに滅んではおらず、戦いの最中で人類の持つ力や進化の何たるかを悟り、人類がアギトの力を排除しようとする兆候を感じ、自分が手を下さずとも人類自らの手でアギトは滅ぼされると判断する。その後、寿命が尽きようとしている沢木の邸宅に現れその旨を告げたが、沢木は「人間の無限の可能性として人はアギトを受け入れるだろう」と言い切る。そして、この目でもう一度人間とは何なのかを見届けるまで見守ることを決意して姿を消す。 : ; 光の力 : 「闇の力」と同じ容姿を持つ存在で、「光」を具現化した力そのものである。 劇中では語られていないが、その正体は[[#エルロード|エル]]の一人であるプロメス('''火のエル''')とされる{{R|オフィシャルデータファイル92}}。 : かつては「闇の力」に忠実だったが、「闇の力」に寵愛される人類に反感を抱いたアンノウンによって滅ぼされかけていたことで人類を哀れむようになり、「闇の力」や他のエルたちを裏切る形で、人類に「知恵」=アギトの力を授ける。これを認めない「闇の力」との戦闘で重傷を負った後、時空を超えてあかつき号に墜落する。そこで偶然出会った津上翔一(沢木哲也)が、自らの影響でアギトの力に目覚めかかっていたことから、残された自身の最後の力を振り絞ってアギトの種を分け与えて消滅する。他のあかつき号乗員はその時の光の余波で、徐々にアギト覚醒の前兆となる超能力に覚醒することになる。 === その他 === ; {{読み仮名|三雲 咲子|みくも さきこ}} : 与那国島の浜辺に打ち上げられた謎の[[オーパーツ]]を解読するために組織された、オーパーツ研究局の女性主任研究員。年齢32歳。 : オーパーツ内部から発見された遺伝子モデルの検証実験を行った末に、闇の力(オーヴァーロード)の「受肉」に成功し、赤ん坊の状態で誕生させる。後に少年の姿へと急速に成長した闇の力に付け狙われた末、傷を負って逆上し、錯乱状態に陥ったアングィス・フェミネウスによって殺される。アングィス・フェミネウスもその後すぐに闇の力の逆鱗に触れたかのように消され、その遺体は発見されずに行方不明扱いとなる。 : ; {{読み仮名|両野 耕一|りょうの こういち}} : 城北大学の水泳部のコーチ。涼は彼のもとで水泳に励んで才能を開花させ、彼も涼の将来を嘱望していた。大会での涼の異変に対しては親身になって接する。しかし、涼の正体を知ると恐れをなして態度を一変させ、相談を持ちかけてきた涼と会う約束をしながら、居留守を使い他の部員たちに門前払いさせる。そのことに不可解を感じた部員たちに問いただされると「俺は何も知らない」とばかり言う。 : ; {{読み仮名|片平 真由美|かたひら まゆみ}} : 涼の恋人であったが、3か月前に別れる{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=76}}。鹿児島県鹿児島市出身。城北大学に通う美杉のゼミの教え子で、それが縁で真魚の家庭教師となる。父親の久雄は超能力を秘めていたが、アングィス・マスクルスに殺害された。血縁である彼女もアングィス・マスクルスに狙われ、それがきっかけで涼の正体を知ることになる。また、それが原因で自分や父が襲われたのは全て涼のせいであると思い込み、彼を拒絶して「普通の人間でいるため」に、故郷へと帰った。 : ; {{読み仮名|花村 久志|はなむら ひさし}} : 美杉家の近所のピクルスサンド{{efn|賀集いわく、「『アギト』で出てきた料理の中で一番美味しくなかった」とのこと{{Sfn|英雄伝|2010|p=32}}。}}が売りのパン屋「花村ベーカリー」の店長。第18話に登場。亜紀が姿を消した後、独り暮らしを始めた翔一は店が立ち退きで閉店するまでアルバイトをしていた。 : 実は司さおりの婚約者だったが、交際のもつれから婚約解消された。そのため腹いせに彼女を殺害した疑われたものの、証拠不十分のため立件されなかった。 : ヒドロゾア・イグニオによる捜査で氷川が訪れた際にさおりの兄・龍二を目撃する。翔一にパン作りのレシピを渡して店の引継ぎを依頼する。その話の直後の夜、龍二にヒドロゾア・イグニオの犯行に見せかける形で殺害される。 : ; 屋台の親父 : 警視庁の近くの路上で、ラーメン屋屋台「天下自慢ラーメン」を営んでいる親父。 : 河野の行きつけの屋台で、味は河野のお墨付きである。北條は同行したがらないが、北條がG3装着員となっていて河野の下を離れていた時期に、氷川が河野と一緒にここのラーメンを食べている。その後、小沢や尾室、さらに翔一も氷川と一緒に食べている。 : 自分が出したラーメンのナルトの渦巻きの中に織り込まれた客の運勢を読む「ナルト占い」が趣味。 : ; {{読み仮名|高村 光介|たかむら こうすけ}} : 城北大学の高村研究室教授で、大学時代の小沢の師であると同時にライバルでもあった。北條の依頼でV-1システムの開発を行った科学者たちの中の一人でもある。第22話より登場。ミネラルウォーターを好む。 : 再会した途端に勝利を宣言した小沢に、面と向かって「私は君が嫌いだ」と返すが、彼女の才能やG3-Xについては認めており、G3-Xの暴走事件の直後、自らの意志でV-1システム開発プロジェクトを破棄している。 : 同時にG3-Xの完璧さを主張する小沢に対し、それが欠点となっていることを見抜いており、小沢を諭した後に自らが開発したG3-X用のAI制御チップを渡す。制御チップを搭載したことで、AIレベルが下がりG3-Xは真の完成を迎える。 : : ; {{読み仮名|国枝 東|くにえだ あずま}} : テレビスペシャルのみ登場。年齢40歳。記憶喪失の翔一を診察した心理学教授{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=76}}。美杉教授の旧友であり、その縁で翔一は美杉家の居候となった。気さくで飄々としているが、喧嘩がとても強い。一人息子の{{読み仮名|国枝 広樹|くにえだ ひろき}}が、半年前に自身のアギト化に耐え切れずに飛び降り自殺をしてしまったという過去を持つ。バーニングフォームの暴走で落ち込む翔一の姿に息子の姿を重ね合わせ、息子の二の舞を演じさせないため、翔一を叱咤激励し送り出す。[[芋羊羹]]が好物で、バイク好き。愛車は[[ホンダ・CB1300スーパーフォア|ホンダ・CB1300]]マイスペシャル{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=76}}{{efn|{{要出典範囲|テレビスペシャル撮影直前に完成したオートバイで、国枝を演じた京本の愛車「ホンダ・CB1300 KYOUMOTO SPECIAL」である。|date=2021年7月}}}}。「大雑把に言って」が口癖。 : ; {{読み仮名|倉本|くらもと}} : レストランのオーナーシェフ。かつては調理師学校の講師で、翔一の恩師にあたり、その縁で翔一は彼のレストランで住み込みのアルバイトとして働いている。 : 普段は温厚だが、シェフやレストランオーナーとしての仕事に対しては信念とプライドを持っているため、厨房では普段の様子からは考えられないような厳しさを併せ持つ。一緒に働いていた岡村可奈が何度もミスを犯すのを容赦なく厳しく叱責し、解雇しようとするが、翔一のフォローで撤回、その後の彼女のミスに対しては叱責した後アドバイスを加えるなど、多少配慮するようになる。 : ; {{読み仮名|岡村 可奈|おかむら かな}} : 倉本のレストランのアルバイト。年齢21歳。 : 倉本からは根性を評価されている一方、無愛想だと指摘されており、最初は打ち解けようとした翔一に対しても冷たい態度を取っている。仕事では馴染めなかった影響からミスが多く、一時は激怒した倉本に解雇されかけたが、翔一のフォローによって引き続き働き続ける。 :シェフだった父親をアンノウンによって殺されており、血縁である彼女もまたアギトの力を秘めていた。それが覚醒したことの恐怖に耐えられずに自殺を図るが、そこにかつての雪菜の姿を見た翔一と沢木によって救われ、彼らの励ましとアギト(自分がなりかけたのと同じ姿)に変身し地のエルに立ち向かう翔一の姿を見て思い留まる。 : ; {{読み仮名|水原 リサ|みずはら リサ}} : 誕生日(11月13日)が[[天蝎宮|さそり座]]のため「スコーピオン」の通り名で、さそり座のマークが入った真っ赤なバイクで暴走することを唯一の生きがいとしている女性。運転技術は確かで、白バイ警官としてスピード違反を取り締まっていた尾室の追跡を振り切っている。その愛車の修理のため、涼がバイトしているバイク屋を訪れたことから涼の知り合いになる。ぶっきらぼうな性格で、涼に言わせれば「まだまだガキ」である。かつては前途有望な陸上競技の選手だったが、練習中の怪我を機に周囲からぞんざいに扱われたという、涼が味わったのと同様のいきさつがあり、暴走を繰り返すのは、走っている時だけは嫌なことが忘れられるからである。それを涼に打ち明けたことから2人は徐々に親密になり、涼も陰で表情を緩めるほどになる。しかし涼の誕生日に、闇の力の陰謀により、涼の眼前で自ら舌を噛み切って絶命させられてしまう。 : ; {{読み仮名|白河 尚純|しらかわ なおずみ}}{{efn|詳細は劇中では語られず、後に発売された書籍によって、本名と官僚であることが明かされた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=77}}{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=83}}。}} : 政界の大物。物語終盤、アンノウンがアギト(になるべき人間)を抹殺する習性を利用し、「アンノウン以上に危険な存在となりうるアギト」を排除すべく、北條に賛同してG3ユニットの目的を「アンノウン保護」の方向に捻じ曲げた。 == 仮面ライダー == 本作は3人の仮面ライダーを主軸として描かれる群像劇である。 劇中の登場人物は彼らを「仮面ライダー」と呼称することはないが、テレビスペシャル『新たなる変身』ではナレーションが「仮面ライダー」付きの名称で紹介しているほか、変身時のテロップでも「仮面ライダー」 と表記されている。また、『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』との合同企画による2枚組アルバム『百獣戦隊ガオレンジャーVS仮面ライダーアギト』のドラマパートでは、『ガオレンジャー』のテトムに「仮面ライダー」と呼ばれている。 === 仮面ライダーアギト === '''アギト'''とは、人間が「光の力」によって与えられた「アギトの力」に覚醒することによって進化を遂げた姿である{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。 沢木哲也は「あかつき号」の船上で「光の力」と邂逅したことでアギトへの変身能力を得るが、水のエルの襲撃を受けて海中に落ち、記憶を失う{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=5}}。以後の彼は'''津上翔一'''を名乗り、自らと人々の居場所を守るために、アンノウンとの戦いに身を投じる{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=5}}。 アギトの力に目覚めた人物は、翔一ひとりだけではない{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。翔一の姉である沢木雪菜は、風谷伸幸教授の超能力実験を受けたことを契機に最初のアギトとなるが、その結果として教授を死に追いやってしまい、自らも命を絶った{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=5}}。また、記憶喪失直後の翔一の担当医となり、彼を立ち直らせた国枝東も、息子の広樹がアギトの力に耐えきれずに自害したことを明かしている{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=116}}。さらに翔一と同じレストランで働く岡村可奈もまた、アギトへと変貌しかけたため死を選ぼうとしたが、翔一の真摯な呼びかけに応えて思いとどまった{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=114}}。 ; その他の登場作品 :; 『[[仮面ライダーディケイド]]』 :: 「アギトの世界」において、エクシードギルスから進化する形で登場。芦河ショウイチが変身する。 :; 映画『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』 :: 歴史が変わった影響で消えていた。 :; 映画『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』 :: 歴史が変わった影響でショッカーの戦士として登場。 ==== グランドフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO{{efn|「アギト」の英字表記は、"AGITO" とする資料{{Sfn|OPF 144|2017|p=2}}{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=4}}と "AGITΩ" とする資料{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=62}}{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}}とがある。}} |2名称=グランドフォーム |2英字表記=GROUND FORM{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=12}} |2別名=超越肉体の金{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2パンチ力=約7{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2キック力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2硬度・防御力=6{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2走力=100{{nbsp}}mを5秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2ジャンプ力=ひと跳び30{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2視力=10{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |2聴力=10{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |3名称=クロスホーン展開時 |3パンチ力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} |3キック力=約30{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=11}} }} 仮面ライダーアギトの基本形態で、大地の力が宿る肉体そのものを武器とした格闘戦に長ける{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。 変身に際して、翔一はまず左腰のあたりで両手首を組み、次いで拳をつくりながら右腕を上げる{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。すると腰にオルタリングが出現する{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。両腕を広げて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを同時に押すと、賢者の石が輝いてオルタフォースを放ち、翔一の肉体をアギトへと変えるのである{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。第15話からは変身ポーズに変更が加えられており、高く上げた右腕を胸元に引き寄せて、息を吐きながら前へと伸ばしたときにオルタリングが出現するようになった{{Sfn|OPF 144|2017|p=3}}。 全身は黒い装甲皮膚'''アーマードスキン'''で包まれている{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。上半身の強化外骨格'''パワーシェルアーマー'''の胸や腹部は、金色のゴールドチェストとなっており、全身の強化筋肉を均等に配分する役目を担っている{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。胸部中央にある'''ワイズマン・モノリス'''は、全身にオルタフォースを効率よく供給し、循環させている{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。 肩部装甲'''ショルダーアームズガード'''の鋭い先端は、刃物として扱うことも可能である{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。下腕部を包む金色の'''アームブロックシールド'''は、アーマードスキンの10倍以上の硬度があり、格闘時に小型の盾として機能する{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。 赤い複眼'''コンパウンドアイズ'''は厚さ5メートルの鋼鉄の壁も透視できるほか、暗闇で光を放って周囲を見渡せるスターライトモードを備えている{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。額の'''マスターズ・オーヴ'''は賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、マシントルネイダーと意思の疎通を行える{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。 2本の角'''クロスホーン'''は感覚器官であるのと同時に、肉体の自壊を防ぐために余剰エネルギーを放出する機能を持っている{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。そのため最大限の力を振るうとき、クロスホーンは2本から6本に展開し、パンチやキックの威力がおよそ2倍に高まる{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。こうしたパワーの増幅が、グランドフォーム最大の特徴といえる{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。 [[変身ベルト]]・オルタリングの中央には賢者の石が埋め込まれおり、そこから発せられる発生するオルタフォースが、超人的な力の源泉である{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。通常時は翔一の体内に分子レベルで拡散しており、変身の意思を示すことで腰部に物質固形化される{{Sfn|OPF 25|2015|p=5}}。 : ; 必殺技 :; ライダーキック :: 足元にアギトの紋章を出現させ{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=4}}、そのエネルギーを足先に集約して跳躍し、空中から急降下して飛び蹴りを決める{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。破壊力は約30トン{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。 :; ライダーブレイク :: 加速したマシントルネイダー スライダーモードから跳躍して繰り出すライダーキック{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。破壊力が約50トンに及ぶ、グランドフォームの最強技である{{Sfn|OPF 25|2015|p=6}}。 :; ドラゴン・ブレス :: マシントルネイダー スライダーモードに乗り、車体側面部で体当たりをする{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。 :: 車体はオルタバリアフィールドで保護されているため、アンノウンを粉砕するほどの勢いで衝突しても傷ひとつつかない{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。 ==== ストームフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO |2名称=ストームフォーム |2英字表記=STORM FORM{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2別名=超越精神の青{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2右パンチ力=約3{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2左パンチ力=約7{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2キック力=約5{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2硬度・防御力=7{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2走力=100{{nbsp}}mを4.5秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2ジャンプ力=ひと跳び50{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2視力=10{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} |2聴力=10{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=14}} }} 左腕に風の力が宿る、敏捷性に優れた形態{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。パワー面では他のフォームに比べると劣る{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。 変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング左腰のスイッチを押す{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からストームハルバードが現れる{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。アギトがストームハルバードを手にすると、その姿が揺らいで体色が青く染まり、変身完了となる{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。なお、エキヌス・ファメリカーレ戦では津上翔一の姿からストームフォームへの直接変身を行っている{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。このときの変身ポーズはグランドフォームと同じであったが、オルタリングの賢者の石は最初から青く輝いていたため、変身するフォームは翔一の意思に基づいて決められるのだと考えられる{{Sfn|OPF 186|2018|p=3}}。 胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて青い'''ストームチェスト'''に変化しており、走力とジャンプ力を強化する{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。風の力が宿る左肩の'''コバルトジェネレーター'''には、オルタフォースを蓄積する'''パワーゴールド'''が重なっている{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。なおフレイムフォームに比べると発生させるパワー量が少ないため、パワーゴールドの面積も小さくなっている{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。 体内に取り込まれた空気は、左腕'''ストームアームズ'''で風エネルギーへと変換され、左拳'''サイクロンナックル'''は生成した風を意のままに操ることができる{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。 スピードに長け、特定のアンノウン相手に優位に戦えるストームフォームは、第2話から第39話までの間に合計11回も登場しており、アギトが最も頼りにしていたフォームだと言える{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。 ; ツール :; オルタリング :: ベルト中央の賢者の石から発せられた力は、左側に埋め込まれた秘石'''ドラゴンズアイ(青)'''によって風の力へと変換される{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。また、賢者の石自体の色も青くなっている{{Sfn|OPF 67|2016|p=5}}。 :; ストームハルバード :: ストームフォームの専用武器{{Sfn|OPF 20|2015|p=5}}。両端は伸縮自在の構造で、さらにエネルギーを込めると折りたたまれた刃が展開する{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。 :: 高速回転させれば突風を引き起こし、敵を翻弄して攻撃や逃走を封じることができる{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。 : ; 必殺技 :; ハルバードスピン :: ストームハルバードを高速回転させて両刃に力を込め、敵の体を貫く{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。破壊力は約30トン{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。 :; ハルバードブレイク :: 加速したマシントルネイダー スライダーモードから跳躍して、ストームハルバードを放つ{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。破壊力が約45トンに及ぶ、ストームフォームの最強技である{{Sfn|OPF 67|2016|p=6}}。 ==== フレイムフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO |2名称=フレイムフォーム |2英字表記=FLAME FORM{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2別名=超越感覚の赤{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2右パンチ力=約10{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2左パンチ力=約5{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2キック力=約7{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2硬度・防御力=8{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2走力=100{{nbsp}}mを5.5秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2ジャンプ力=ひと跳び20{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2視力=30{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} |2聴力=30{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=15}} }} 右腕に炎の力が宿る、感覚が鋭敏となった形態{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。また、パワーにも優れるが、反面スピードでは他のフォームに比べると劣る{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。 変身に際しては、まずグランドフォームの状態でオルタリング右腰のスイッチを押す{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。するとオルタリング内のドラゴンズアイが輝き、賢者の石からフレイムセイバーが現れる{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。アギトがフレイムセイバーを手にすると、その姿が揺らいで体色が赤く染まり、変身完了となる{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。なお、フレイムフォームへのチェンジが終わった後にフレイムセイバーが出現することもある{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。 胸と腹部はドラゴンズアイの影響を受けて赤い'''フレイムチェスト'''に変化している{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。炎の力が宿る右肩の'''クリムゾンジェネレーター'''には、オルタフォースを蓄積する'''パワーゴールド'''が重なっている{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。なおストームフォームに比べると発生させるパワー量が多いため、パワーゴールドの面積も大きくなっている{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。 右腕'''フレイムアームズ'''では7,000℃もの熱が瞬時に作り出され、右拳'''バーニングナックル'''は生成した炎を意のままに操ることができる{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。 フレイムフォームへの変身は、複数のアンノウンを相手取る場面で行われることが多い{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。また、強いパワーを得る代わり敏捷性に劣る形態であるにもかかわらず、クロウロードのような素早い敵と戦うときにも選択されている{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。これはパワーで押すためではなく、研ぎ澄まされた感覚で相手を的確に捉えるためと考えられる{{Sfn|OPF 15|2015|p=3}}。 同じくパワー重視の形態であるバーニングフォームへの変身能力を得て以降は、劇場版を除き、フレイムフォームになることはなくなった{{Sfn|OPF 63|2015|p=8}}。 ; ツール :; オルタリング :: ベルト中央の賢者の石から発せられた力は、右側に埋め込まれた秘石'''ドラゴンズアイ(赤)'''によって炎の力へと変換される{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。また、賢者の石自体の色も赤くなっている{{Sfn|OPF 63|2015|p=7}}。 :; フレイムセイバー :: フレイムフォームの専用武器である刀剣{{Sfn|OPF 67|2016|p=23}}。角を模した形状の鍔は普段2本に閉じているが、フレイムフォームがエネルギーを全開すると、それに呼応して6本に展開する{{Sfn|OPF 67|2016|p=23}}。 :: 刀身の切れ味と破壊力はすさまじく、飛び道具を持たないアギトにとっては、クロウロードのように空中から攻撃を仕掛けてくる敵に対抗するための最良の武器であった{{Sfn|OPF 67|2016|p=24}}。 : ; 必殺技 :; セイバースラッシュ :: 両手で構えたフレイムセイバーを高く振り上げ、勢いよく振り下ろして敵を斬り倒す{{Sfn|OPF 67|2016|p=23}}。破壊力は約30トン{{Sfn|OPF 63|2015|p=8}}。 ::; ダブルセイバースラッシュ ::: 2振り同時に出現させたフレイムセイバーで放つ、二刀流の剣技{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=6}}。 ::: 『仮面ライダーアギト・3大ライダー超決戦ビデオ』で使用。 :; フレイムブレイク :: 加速したマシントルネイダー スライダーモードの勢いを得て、敵を斬る{{Sfn|OPF 63|2015|p=8}}。劇中未使用{{Sfn|OPF 63|2015|p=8}}。 ==== トリニティフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO |2名称=トリニティフォーム |2英字表記=TRINITY FORM{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2別名=三位一体の戦士{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2右パンチ力=約10{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2左パンチ力=約7{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2キック力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2硬度・防御力=8{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2走力=100{{nbsp}}mを4.5秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2ジャンプ力=ひと跳び50{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2視力=30{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |2聴力=10{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} |3名称=クロスホーン展開時 |3キック力=約30{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=16}} }} 仮面ライダーギルスの攻撃を受けたショックにより、失われていた記憶を取り戻した翔一が変身可能となったフォーム{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。グランド・ストーム・フレイムの3フォームの最大能力を発揮し、ストームハルバードとフレイムセイバーを同時に扱える{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。 テレビシリーズには2度登場しているが、最初の変身はコルウス・クロッキオとの交戦中、偶発的に実現したものだった{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。フレイムフォームの姿でフレイムセイバーを振るっていたアギトがオルタリング左腰のボタンを押すと、左右のドラゴンズアイがそれぞれ赤と青の光を放ち、オルタフォースが全身を包んだ{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。そして賢者の石からストームハルバードが出現し、変身を完了した{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。 2度目の変身に際しては、グランドフォームの状態でオルタリングの左右のスイッチを同時に押し、まずフレイムフォームの姿となった{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。次いで賢者の石からストームハルバードを取り出してトリニティフォームとなり、最後にフレイムセイバーを出現させた{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。前回から変身に費やす時間が短縮され、ライダーシュートという大技も繰り出したが、代償として莫大な負荷に見舞われた翔一は再び記憶を喪失{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。以後、トリニティフォームへの変身を行うことはなかった{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}。 胸部の強化外骨格'''パワーシェルアーマー'''は、グランドフォームと同じく金色に彩られている{{Sfn|OPF 126|2015|p=7}}。フレイムフォームと同様、赤い右肩の'''クリムゾンジェネレーター'''に炎の力を宿しており、右腕'''フレイムアームズ'''で7,000℃に達する熱量を作り出し、右拳'''バーニングナックル'''で炎を操る{{Sfn|OPF 126|2015|p=7}}。そしてストームフォームと同様、青い左肩の'''コバルトジェネレーター'''に風の力を宿し、取り込んだ空気を左腕'''ストームアームズ'''で風エネルギーに変換して、左拳'''サイクロンナックル'''で操作するのである{{Sfn|OPF 126|2015|p=7}}。 ; ツール :; オルタリング :: ベルト中央の賢者の石は大地の力を宿しており{{Sfn|OPF 45|2015|p=1}}、金色に輝いている。 :: さらに賢者の石から発せられた力は、左側に埋め込まれた秘石'''ドラゴンズアイ(青)'''によって風の力へと変換され、右側の秘石'''ドラゴンズアイ(赤)'''によって炎の力となる{{Sfn|OPF 126|2015|p=7}}。 :; ストームハルバード :: 振り回すことで強風を生み、敵を攻め立てるほか、攻撃を跳ね返すこともできる{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。 :; フレイムセイバー :: 鋭い切れ味の刀剣で、素早い動きの敵も正確に捕捉する{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。 : ; 必殺技 :; ファイヤーストーム・アタック :: ストームハルバードとフレイムセイバーを、敵めがけて同時に突き立てる{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。破壊力は約40トン{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。 :; ライダーシュート :: クロスホーンを展開し{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=17}}、高く跳躍したのち、両足先にエネルギーを込めて蹴り込む{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。トリニティフォーム最強の必殺技で、破壊力は約45トン{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。 :: 大地の力に風の力と炎の力が加わったことで、グランドフォームのライダーキックを上回る威力を生んだと言える{{Sfn|OPF 126|2015|p=8}}。しかし、この技の衝撃は翔一自身にも影響を与え、2度目の記憶喪失を招くこととなった{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=25}}。 :: [[PlayStation 2]]用ゲーム『[[仮面ライダー 正義の系譜]]』では、グランドフォームで使用している。 ==== バーニングフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO |2名称=バーニングフォーム |2英字表記=BURNING FORM{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2パンチ力=約25{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2キック力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2硬度・防御力=10{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2走力=100{{nbsp}}mを6秒{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2ジャンプ力=ひと跳び15{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2視力=30{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} |2聴力=30{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=14}} }} 強敵と出会ったことで、アギトが怒りのエネルギーによりパワーアップを果たした形態{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。それまでのフォームでは外見上の相違点が腕の形状や体色に留まるのに対し、バーニングフォームは増大した筋肉で盛り上がった上半身を特徴とする{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。敏捷性こそグランドフォームから低下しているものの、強大なパワーを活かした肉弾戦を得意としており、特にパンチ力は全フォームで最大を誇る{{Sfn|OPF 74|2016|p=6}}。 変身に際して、津上翔一はまず両腕を正面に伸ばして手の先を重ねたのち、左右に広げる{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。次いで右手を腹の前に置き、伸ばしたままの左腕を正面に戻すと、オルタリングが出現する{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。最後に両腕を交差させて「変身!」と叫び、オルタリング両脇のスイッチを押すと、一瞬のうちに姿がバーニングフォームへと変わる{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。なお、グランドフォームからのチェンジも可能である{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。 胸部は赤い防具'''バーニングチェスト'''に覆われているが、その真の役割は、ワイズマン・モノリス周辺に集中して燃えたぎる炎の力を抑制し、自壊を防ぐことにある{{Sfn|OPF 74|2016|p=5}}。前腕部の黒い強化骨格'''アームアタックシールド'''からは、鋭い3枚の刃'''アームズカッター'''が生えている{{Sfn|OPF 74|2016|p=5}}。両拳の'''バーニングアーム'''は、炎の力を集中しているため常時高温となっている{{Sfn|OPF 74|2016|p=5}}。 また、パンチを放つ際には体をしっかりと支える必要があるため、脚部も赤色化した'''バーニングレッグ'''へと変わり、炎の力をみなぎらせている{{Sfn|OPF 74|2016|p=5}}。 複眼'''コンパウンドアイズ'''は黄色となり{{Sfn|OPF 74|2016|p=5}}、赤く染まった頭部の'''クロスホーン'''は常時6本に開いている{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。 テレビスペシャルでバーニングフォームに変身した際は、ありあまる力を抑えきれずに暴走し、居合わせた恩人の国枝東に襲い掛かった挙句、最後は気絶してしまった{{Sfn|OPF 32|2015|p=1}}。 ; ツール :; オルタリング :: 新たに3本の爪'''ドラゴンズネイル'''が出現し、ベルト中央の賢者の石を守るかのように掴んでいる{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=59}}。 :; シャイニングカリバー :: オルタリングから出現する新たな武器{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。地球上で最も硬い物質からできており、いかなる敵をも切り裂くことができる{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。 :: 柄には賢者の石に酷似した紫色の球体が埋め込まれており、出現時にまばゆく輝く{{Sfn|OPF 103|2016|p=24}}。 ::; エマージュモード ::: S字状に折りたたまれた出現時の形態{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。フォームチェンジと同時に出現するストームハルバードやフレイムセイバーと異なり、任意のタイミングで取り出せる{{Sfn|OPF 103|2016|p=24}}。 ::; シングルモード ::: バーニングフォームが使用する、薙刀状に伸ばした形態{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。 ::: 力に長けたバーニングフォームは、一撃で敵を仕留めるためにこの形態を用いるのだと思われる{{Sfn|OPF 103|2016|p=24}}。 : ; 必殺技 :; バーニングライダーパンチ :: 炎を噴出しながら放つ、一撃必殺のパンチ{{Sfn|OPF 74|2016|p=6}}。破壊力は約25トン{{Sfn|OPF 74|2016|p=6}}。 :; バーニングボンバー :: シャイニングカリバー シングルモードの刀身に炎をまとわせ、敵を切り裂く{{Sfn|OPF 74|2016|p=6}}。破壊力は45トン{{Sfn|OPF 74|2016|p=6}}。 ==== シャイニングフォーム ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーアギト |英字表記=MASKED RIDER AGITO |2名称=シャイニングフォーム |2英字表記=SHINING FORM{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2体重=95{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2パンチ力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2キック力=約45{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2硬度・防御力=10{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2走力=100{{nbsp}}mを4秒{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2ジャンプ力=ひと跳び75{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2視力=35{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} |2聴力=35{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=16}} }} 太陽の光のエネルギーを取り込むことにより極限まで進化を遂げた、アギトの最終形態{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。人類の創造主である「闇の力」ですら、このフォームの出現を予測できなかった{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。パンチ力以外の能力が全フォーム中で最高に達しており、卓越したスピードと多様な技で敵を翻弄する{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。 バーニングフォームの状態のアギトが呼吸を整えて太陽の光を浴びると、オルタリングの賢者の石が反応し、アームアタックシールドなど体の各部がひび割れて崩れる{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。そしてその下から新たな部位が出現し、変身完了となる{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。このようにバーニングフォームからの2段変身を行うのが通例だが、最終決戦に臨んだ際は津上翔一の姿で新規のポーズを取ってオルタリングを出現させ、両腕を交差させてからスイッチを叩くバーニングフォームと同じポーズへとつないで、直接変身を行った{{Sfn|OPF 115|2016|p=3}}。 胸部は銀色の装甲'''パワーシェルアーマー'''に覆われている{{Sfn|OPF 170|2018|p=3}}。胸の中央には'''ワイズマン・モノリス'''があるが、グランドフォーム時の黒色から黄色に変化し、さらに紋様が浮かび上がっている{{Sfn|OPF 170|2018|p=3}}。白い3枚の装甲板からなる下腕部の防具'''アームブロックシールド'''は、戦闘時に小型の盾として扱うことも可能である{{Sfn|OPF 170|2018|p=3}}。 複眼'''コンパウンドアイズ'''は黄色となり、赤く染まった頭部の'''クロスホーン'''は常時6本に開いている{{Sfn|OPF 170|2018|p=3}}。 シャイニングフォームはアギトの最終進化形とされているが、最終決戦で必殺技をより強化して放ったことからわかる通り、さらなる進化の可能性を秘めているのである{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。 ; ツール :; オルタリング :: バーニングフォーム時と同じ形状で、3本の爪'''ドラゴンズネイル'''が賢者の石を守るかのように掴んでいる{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=59}}。 :; シャイニングカリバー :: オルタリングから出現する武器{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。 ::; エマージュモード ::: S字状に折りたたまれた出現時の形態{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。 ::; ツインモード ::: シャイニングフォームが使用する、2本の剣に分割された形態{{Sfn|OPF 103|2016|p=23}}。アギトがバーニングフォームからフォームチェンジを行った際は、シャイニングカリバーのモードも追随して切り替わる{{Sfn|OPF 103|2016|p=24}}。 ::: スピードと技量に長けたシャイニングフォームは、手数を増やせるためにこの形態を用いるのだと思われる{{Sfn|OPF 103|2016|p=24}}。 : ; 必殺技 :; シャイニングクラッシュ :: 左右の手に構えたシャイニングカリバー ツインモードを交互に振り下ろして、瞬時に敵を打ち砕く{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。破壊力は55トンに達し、重装甲を誇るスカラベウス・フォルティスですら、ひとたまりもなかった{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。 :; シャイニングライダーキック :: 宙に飛び上がり、クロスホーンを模したエネルギーフィールドを突き破りながら加速して、キックで敵を粉砕する{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。破壊力は45トン{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。 :: 最終決戦で地のエル 強化体に対して放ったときは、空中の紋章が2重に浮かび上がり、それまでにないほどの超加速を行って撃破した{{Sfn|OPF 170|2018|p=4}}。 ==== 仮面ライダーアギトの専用ビークル ==== {{機動兵器 |名称=マシントルネイダー |正式名称=MACHINE TORNADER{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |全長=2,250{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |全幅=760{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |全高=1,210{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |最高速度=430{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |乾燥重量=193{{nbsp}}kg{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=63}} |最高出力=520馬力{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=63}} |2名称=スライダーモード |2全長=3,900{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |2全幅=1,100{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |2全高=310{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |2最高速度=720{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=18}} |2最高出力=520馬力{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=63}} }} '''マシントルネイダー'''は、仮面ライダーアギトのスーパーバイク{{Sfn|OPF 10|2014|p=23}}。津上翔一の愛車である[[ホンダ・VTR1000F|ホンダVTRファイヤーストーム]]が、オルタリングから放出されたオルタフォースを受けて変貌する{{Sfn|OPF 10|2014|p=23}}。 車体は分子レベルで硬化した'''ドラゴンズメイル'''に覆われ{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}、赤と金に彩られている。ヘッドライト部分は障害物を感知する'''トルネイドアイ'''となり、厚さ20メートルまでの物体を透視して、得られた情報をアギトの脳へと伝達する{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。 前後輪の'''オルタホイール'''はオルタフォースが生成する力場によって回転しており、アギトの意思で回転数を直接操作できる{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。動力機関ではなくなったエンジンは、オルタフォースを車体に循環させる'''ドラゴンハート'''へと変化している{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。また、補助的なエネルギーを補給するために'''エアインテーク'''から空気中の物質を取り込み、オルタフォースと混合する{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。その際にはオルタエアと呼ばれる廃棄物が生じるが、特に害のない物質であり、車体後方の'''オルタエアチャンバーマフラー'''から排出される{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。なお、通常時に使用していたガソリンは'''フュールタンク'''に備蓄されているので、マシントルネイダーの変形解除後も走行には支障ない{{Sfn|OPF 10|2014|p=24}}。 ; スライダーモード : マシントルネイダーの超高速飛行形態{{Sfn|OPF 123|2017|p=23}}。バイク状態で地面に現れた紋章を通過すると、オルタホイールの向きが地面と水平になり、車体各部がスライドして完成する{{Sfn|OPF 123|2017|p=23}}。 : 最初の変形は「闇の力」がもたらしたパワーによって行われた{{Sfn|OPF 123|2017|p=23}}。本来「闇の力」はアギトと敵対する立場だが、レイウルス・アクティアに苦戦するアギトを見た沢木哲也が「貴重なサンプルなので、いま殺してはならない」と進言したため、紋章を描き出したのである{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=92}}。以後はアギトの意思で自由に変形できるようになっている{{Sfn|OPF 123|2017|p=23}}。 : オルタホイール底面からオルタフォースを発生させ、静止状態から5秒間で400メートルという爆発的な加速力でホバー移動する{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。操縦は、スライドして平行となったフュールタンクとシートの上に立って行う{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。 : 車体前方から後方へと'''オルタバリアフィールド'''が展開されているため、最高速度で飛行中でも搭乗者の周辺は無風状態が保たれている{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。 : 第40話では、俊敏な動きのスケロス・グラウクスを捕捉するため、アギトに加えて後部に仮面ライダーG3-Xを乗せた状態で追跡を実行{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}。バイクでは追い詰めきれなかったスケロス・グラウクスに悠々と追いつき{{Sfn|OPF 123|2017|p=24}}、GX-05の射撃を浴びせて撃破に成功した{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=107}}。 :* アギトがスライダーモードの勢いを加えて放つ必殺技は、グランドフォームの「ライダーブレイク」とストームフォームの「ハルバードブレイク」が劇中に登場しているが、イメージイラストでは全6フォームのそれぞれでスライダーモードを駆る姿が描かれている{{Sfn|AC|2003|p=45}}。 {{-}} === 警視庁の対未確認生命体用装備 === かつて日本全国を震撼させた「未確認生命体」による連続大量殺人事件の再発を予期して、[[警視庁]]は'''未確認生命体対策班 (S.A.U.L.)''' を設立するとともに、その専用装備の開発に着手した{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。 最初に開発された専用装備の第1世代型、すなわち'''G1(ジーワン、GENERATION-1)'''は、既存の[[装甲車]]などを基盤とした物だった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。[[仮面ライダークウガ (キャラクター)|未確認生命体第4号]]をモデルとした、人間が装着するタイプの装備だったという異説もあるが{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}、定かではない。 続いてG1の発展形である'''G2(ジーツー、GENERATION-2)'''が開発されたが、武装を充実させた代償として大型化したため、実用的とは言えなかった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。狭小な都心部での運用を想定した場合、装甲車や建設用重機並みの巨大な機械では取り回しが利かなくなることが懸念されたため、G1とG2はいずれも廃案となってしまった{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。 より実用的な'''G3(ジースリー、GENERATION-3)'''の開発が急がれる中で転機となったのが、未確認生命体対策班にアドバイザーとして参加していた小沢澄子による「特殊強化装甲服」の提案だった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。量産化が成った暁には、多数の警察官を即戦力として動員できるこの案は、他の試案と比較しても現実的なものと判断され、採用に至った{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=119}}。 こうして完成したG3システムだが、新たに出現した人類への脅威である「アンノウン」が、それまで敵として想定していた未確認生命体よりも強力であったため、目立った活躍ができないままに破壊された{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。しかしその後、改良タイプである'''G3-X'''の投入により、多数のアンノウンを撃破できるようになった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。なおG3-Xの同時期には、別系統の特殊強化装甲服である'''V-1(ブイワン)'''も開発されていたが、演習中に破壊されたため廃案となっている{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。 小沢はG3をさらに発展させた'''G4(ジーフォー)'''の開発も進めていたが、装着員への負担が高すぎたために計画を中止{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。それを陸上自衛隊が独自に実用化させたことがあった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。また、G3より性能は劣るものの誰にでも扱える簡易量産型の'''G3マイルド'''も開発されたが、プロトタイプが結果を残せなかったため、こちらの計画も中止に至っている{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。 アンノウンによる一連の事件の終結後には、量産型の特殊強化装甲服を用いるための'''G5(ジーファイブ)ユニット'''が結成され、尾室隆弘の指揮のもとで多数の装着員が養成されているが、その詳細は明らかになっていない{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。 ==== 仮面ライダーG3 ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーG3 |英字表記=GENERATION-3{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=66}} |身長=192{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |体重=150{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |パンチ力=約1{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |キック力=約3{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |走力=100{{nbsp}}mを10秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |ジャンプ力=ひと跳び10{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |硬度・防御力=8{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |視力=5{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} |聴力=5{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=27}} }} '''{{読み仮名|G3|ジースリー}}システム'''は、警視庁と日本国内の企業体が協力して開発し、第3世代で初めて完成に至った「対未確認生命体戦闘用特殊強化外筋および外骨格{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}」すなわち特殊強化装甲服{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。未確認生命体第4号をモデルとして設計されている{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。 G3の装着員は装甲で身を守りながら、常人の10倍の力を発揮できる{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。ただし試験型としての側面もあるため、専任の装着員のみが使用できるように調整されており、人員の変更を行う際は再度の微調整を必要とする{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。劇中では、未確認生命体対策班に所属する'''氷川誠'''が主な装着員を務めた{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。 実戦では格闘よりも各種の専用装備を駆使することが多いが{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}、G3自体に武器は備わっていない{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。これは、武器を格納したガードチェイサーの随行を前提としているためである{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。 活動にあたっては、小沢澄子をリーダーとするチーム・'''G3ユニット'''の支援が必須となる{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。まず、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、G3インナージャケットを着用する{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。次いでその上から胸部・腕部・脚部などの装甲ユニットを身に着けていくことになるが、装着員自身では着用できない部位もあるため、G3ユニット要員が補助を行う{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。腰にGバックルを据えたのち、頭部ユニットをセットすると、後頭部のシャッターが閉じて「変身」が完了する{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。介助がなければ装着できない仕様なのは、システムの単独使用を防ぐ意味合いもあると思われるが{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=57}}、戦闘中においてもGトレーラーからの指示や助言がG3の支えとなっている{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。 黒い'''G3インナージャケット'''は、特殊金属糸を編み上げて防弾シリコンでコーティングし、牛のオイルスキンで包んだもの{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。銀色の胸部装甲'''バリアントプロテクター'''は特殊ジュラルミン合金を何層も重ね合わせて造られており、パワージェネレーターを内蔵した'''コンバーターラング'''と一体になっている{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。また、左胸には桜の代紋のレリーフが施されており、G3システムが警視庁所属であることを示している{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=60}}。 脚部を強化させる装置'''PLSS(パワーレッグサスペンションシステム)'''は、日本メディカルサポート社が研究開発していた義足の技術を改良したもので{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=60}}、三重構造の青い外装'''レッグガード'''で強固に守られている{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。肩部や上腕部には特殊ジュラルミン製の青い'''アーマーパッド'''を装着{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。左腕には専用情報端末'''G-COM'''が組み込まれており、警視庁本部のライブラリーにアクセスして情報を閲覧できるほか、電子警察手帳としての役割も担う{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。 背面には無公害の燃料電池'''ゼロエミッション・フューエルバッテリー'''を搭載しており、電力の残量は腰の'''Gバックル'''の赤いゲージランプに表示される{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。腰の左右にあるエナジーボリュームを操作すれば、一時的に電力をアップさせることも可能である{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。また、バックル上部には緊急用装甲排除のスイッチがある{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=66}}。 赤い人工複眼'''MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)'''には、超望遠・暗視・電子顕微鏡などの視覚機能が統合されている{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。左の頬にはマイクロカメラ'''HDVC'''が設けられており、捉えた映像情報はG-COMを介してGトレーラーに送られる{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。額には光学式マーキング装置'''オプティクスサーチャー'''があり、標的に向けて右耳部分のスイッチを押せば、対象の位置をGPSで測定できる{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。頭部に伸びる3本のアンテナのうち、左は人工衛星経由で現在位置をGトレーラーに送信する'''GPSロッド'''、中央の短いものは電子マーキングした標的の位置を把握するための'''エクサマインドロッド'''、右はGトレーラーからの指示や警察無線を受信するための'''インフォロッド'''である{{Sfn|OPF 52|2015|p=5}}。 G3のパワーバランスは、それまで警察が戦ってきた未確認生命体を想定して設計されていたため、より強力な存在であるアンノウンが相手では力不足が目立った{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=118}}。そこで第4話のトータスロード戦では修理がてらにパワーアップが施され、初めてアンノウンを倒すことに成功している{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=86}}。 第9話では氷川に代わって北條透が装着員となり、一度はモリペス・オクティペスを倒す戦果を挙げた{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。しかし続く第10話で復活したモリペス・オクティペスには歯が立たず、北條は装備を脱ぎ捨てて逃走{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。以後は再び氷川が装着員となる{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。 第22話で仮面ライダーギルスの攻撃を受けたG3システムは破壊されてしまい、アンノウンとの戦いを後任のG3-Xに譲ることとなった{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。その後の第49, 50話では、修復されたG3を尾室隆弘が着用して、北條のG3-Xとともに仮面ライダーアギトの行く手を阻む形で登場している{{Sfn|OPF 142|2017|p=1}}。 ; その他の登場作品 :; 『仮面ライダーディケイド』 :: 回想においてG3が登場。芦河ショウイチが装着する。 :; 映画『[[劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦]]』 :: デンライナーの面々とオニ一族の決戦の最中、仮面ライダーディエンドに召喚される形でG3が登場。 :: 戦いの最中、仮面ライダー電王に協力するイマジンの1人・ウラタロスにとり憑かれ、彼の装備であるウラタロッドを使用して電王たちを援護する。 :; 映画『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』 :: ゴーカイグリーン / ドン・ドッゴイヤーの回想で、複数のライダーと共にゴーカイレッドに倒される場面にてG3が登場。 :; 『[[仮面ライダージオウ]]』 :: この世界ではG3が警察の正式採用装備とされており、G3ユニットの複数の隊員が装備している。また、アギトの力を奪われた津上翔一が一時的に装備して戦闘もしている。 ==== 仮面ライダーG3-X ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーG3-X |英字表記=GENERATION-3 eXtention{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}} |身長=192{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |体重=176{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |パンチ力=約2.5{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |キック力=約7.5{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |走力=100{{nbsp}}mを8秒{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=2730}} |ジャンプ力=ひと跳び20{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |硬度・防御力=10{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |視力=15{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} |聴力=15{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=30}} }} '''{{読み仮名|G3-X|ジースリーエックス}}'''は、プロトタイプとなるG3システムの戦闘データを基として新規に開発された、特殊装甲強化服の完成版{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。すべての能力が仮面ライダーG3を上回っている{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。また、当初からアンノウンとの対決を考慮しているため単独でも戦えるように武装しており{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=119}}、GM-01を右腿、ガードアクセラーを左腿、GK-06を左上腕部に携行している{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}}。こうした豊富な武器を使い分けるだけでなく、パンチやキックといった直接的な格闘能力も高い{{Sfn|OPF 187|2018|p=4}}。 G3から引き続いて氷川誠が主な装着員を務めるが、新規に搭載された'''オートフィット機能'''により、無改造で他の人員に装着させることも可能となっている{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。 さらに、装着員に理想的な攻撃方法を促す'''AI機能'''も組み込まれているが、当初はその精度があまりにも完璧であったために氷川がシステムと協調できず、暴走させてしまった{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。高村教授が開発した制御チップを埋め込み、AIの性能を敢えて落とすことにより、ようやく普通の人間でも扱えるようになった{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。 活動にあたって、Gトレーラーのコンテナに乗り込んだ装着員は、まずG3パワージャケット2を着用する{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。次いでその上から各部の装甲ユニットを身に着けていくことになるが、その際にはG3ユニット要員が補助を行う{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。頭部ユニットをセットし、後頭部のシャッターが閉じると、オートフィット機能が作動して装着員の体格に適合し、「変身」が完了する{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。 黒い'''G3パワージャケット2'''は、G3インナージャケットから硬度・耐熱・保温・保湿・通気性といった性能が向上している{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。青い胸部装甲'''パワーチェスト'''はハイメタル成型による三重構造で、高出力小型ジェネレーターを内蔵した'''パワーコンバーターラング'''と一体になっている{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。パワーコンバーターラングからは、エネルギー循環用パイプを内蔵した銀色の固定具'''ジェネレーターバックル'''が伸び、背面へと続いている{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。 脚部を強化する装置'''PLSS (Ver.2.0)''' のサーボモーター類はG3の倍以上に強化されており、外装もハイメタル製となっている{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。同様に肩部装甲'''パワーアーマー'''もハイメタルでできており、その強度は特殊ジュラルミン製パッドの約5倍に及ぶ{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。左腕の情報端末'''G-COM (Ver.2.0)''' はOSがバージョンアップされ、アクセス速度も向上している{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。 背面には、ジェネレーターバックルが接続されたバックパック・'''タートルシェル'''があり、赤く彩られた'''ゼロエミッション・フューエルバッテリー'''を装備している{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。このバッテリーは基本仕様こそG3の物と同じだが、蓄電容量が倍加している一方で、重量は1/3にまで軽量化が図られている{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。またバッテリーの下にはマウントスペースが設けられており、GX-05用エネルギーマガジンを2個取り付けられる{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。腰の'''Gバックル'''はG3と同一だが、前述の通りバッテリーが強化されているため、残り電力を示すインジケーターの振り幅が調整されている{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。 人工複眼'''レッドアイザー (MDSS・Ver 2)''' の視認感度はG3の3倍となり、カバーレンズ部の強度も向上している{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。口元には'''パーフェクター'''が設けられ、水中における酸素の生成や、火中における有毒ガスの分解と濾過を行い、装着者の呼吸を維持する{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。 第24話では、氷川に代わって津上翔一が装着員になり、ポタモトリゴン・ククルスを撃破してみせた{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。 第49,50話では北條透が装着員となり、尾室隆弘のG3とともに仮面ライダーアギトの活動の妨害を行った{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。しかし第51話で氷川が装着員の座を奪還し、仮面ライダーエクシードギルスとの連携で、風のエルとの最終決戦に勝利した{{Sfn|OPF 121|2017|p=3}}。 ; その他の登場作品 :; 『仮面ライダーディケイド』 :: G3-Xが登場。小野寺ユウスケ・海東大樹・若い警察官が装着する。 :; 映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 :: 岩石大首領に立ち向かうため、G3-Xが登場。 ==== G3マイルド ==== {{キャラスペック |名称=G3マイルド |英字表記=GENERATION3 MILD{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |身長=185{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |体重=125{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |パンチ力=約1{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |キック力=約2{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |走力=100{{nbsp}}mを13.5秒{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |ジャンプ力=ひと跳び5{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |視力=1{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} |聴力=1{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=24}} }} 度重なるアンノウンの出現に対抗するために発案された、大量生産用G3システムのテストスーツ{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 G3システムを基本としつつ、G3-Xシステムで導入されたオートフィット機能が搭載されているため、あらゆる装着員に対応している{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。ただし戦闘能力は、G3よりも低い{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。また、装着にあたって、G3やG3-Xのように補助を必要とするのかは不明である{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 各種装甲の下に着用する'''G3マイルドジャケット'''は、G3インナージャケットと同様の造りになっている{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。銀色の胸部装甲'''パワーチェスト'''は、G3-Xと同様にハイメタル成型の三重構造で強固に仕上げられている{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。両肩の青い'''アーマーパッド'''はG3と共通で、特殊ジュラルミン製{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。腰に巻かれた'''Gバックル'''もG3と同一の装備で、バッテリー残量を表示するほか、両脇のエナジーボリュームを操作して電力を一時的に上げることが可能である{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。 背面に搭載された赤い無公害燃料電池'''ゼロ・エミッションフューエルバッテリー'''は、G3やG3-Xと互換性がある{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。人工複眼'''MDSS(マルチダイレクトスコープシステム)'''はG3と同様の装備で、超望遠や電子顕微鏡などの機能を備えている{{Sfn|OPF 94|2016|p=3}}。 G3マイルドのテスト装着員募集要項には「経験・所属・資格は一切問いません」と記載されており、まさに「誰でもOK」という状況だった{{Sfn|OPF 94|2016|p=4}}。結果として尾室隆弘が装着員となり、G3-Xとともにスカラベウス・フォルティスに立ち向かうが、パンチ一発で戦闘不能となる{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。しかしその後、G3-Xがバッテリー切れに追い込まれたのを知ると、渾身の力で再起{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。自らのバッテリーと交換することでG3-Xを支援し、戦線を立て直した{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。ただ、この戦いでG3マイルドが有意義な結果を残せなかったため、G3システムの量産化は中止された{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 * 名称は単に「G3マイルド」とする資料{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}と「仮面ライダーG3マイルド」とする資料{{Sfn|AC|2003|p=53}}とがある。 ==== 仮面ライダーG3 / G3-Xの専用装備 ==== いずれの装備も、安全のためにGトレーラーから武器管制をコントロールされている{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=66}}。 :{{機動兵器 |名称=GM-01 |正式名称=スコーピオン |重量=2.17{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=29}} |2名称=GG-02 |2正式名称=サラマンダー |2重量=3.67{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=29}} |3名称=GS-03 |3正式名称=デストロイヤー |3重量=6.82{{nbsp}}kg{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}} |4名称=GA-04 |4正式名称=アンタレス |4重量=3.25{{nbsp}}kg{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}} |5名称=GX-05 |5正式名称=ケルベロス |5重量=6.78{{nbsp}}kg{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}} |5全長=1,110{{nbsp}}mm{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}}<br />(バルカンモード時) |6名称=GK-06 |6正式名称=ユニコーン |6全長={{Plainlist| * 315{{nbsp}}mm(携行時) * 520{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=31}} }} }} ; GM-01 スコーピオン : 対未確認生命体用に開発された[[自動小銃]]{{Sfn|OPF 26|2015|p=23}}。ガードチェイサーでは車体前部左側に収納され{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}、G3-Xは右腿に携行する{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}}。 : '''スタンダードマガジン'''には特殊弾が72発装填されており、特殊液化ガスと電磁力の作用により撃ち出される{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。銃身の'''01マズル'''は短いが、内部に設けられた電磁ライフリングシステムにより、高い精度での射撃を可能としている{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。 : 本体上部に取り付けられた'''CCDターゲットスコープ'''は、捉えた映像を使用者とGトレーラーに送信し、射程距離などを測定する{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。 : 劇中を通じて最も使用頻度の高かった武器だが、威力はあまり高くはなく、アンノウンに通用しないことが多かった{{Sfn|OPF 26|2015|p=23}}。とは言えG3システムを着用していない生身の人間が扱えるような物ではなく、第11話で氷川誠が片手で射撃を試みた際には反動で吹き飛んでしまい、両手で構え直したうえ壁にもたれかかることでかろうじて連射を成功させたものの、その後で氷川は力尽きて倒れてしまった{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。 : 第39話でアナザーアギトに強奪された際は、トリガーをカットして使用不能にするためのGトレーラーからの操作を受け付けず、仮面ライダーアギトを窮地に追い込んだ{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=107}}。 : ; GG-02 サラマンダー : GM-01の先端に、ガードチェイサーの前部右側に収納されたグレネードユニットを装着することで完成する[[グレネードランチャー]]{{Sfn|OPF 26|2015|p=23}}。 : '''グレネードマガジン'''には3発の弾丸が内蔵されており、'''フォアグリップ'''を手前に引いて装填を行う{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。側面にある'''セッティングダイヤル'''で、銃身'''02マズル'''内の電磁ライフリングシステムの調整を行い、使用者の癖に合わせることができる{{Sfn|OPF 26|2015|p=24}}。 : GM-01とは桁違いの破壊力があるが、それでも未確認生命体を標的に想定していた当初はアンノウンに通じなかった{{Sfn|OPF 26|2015|p=23}}。しかし後に強化されたことで、テストゥード・テレストリスの撃破に成功している{{Sfn|OPF 26|2015|p=23}}。 : ; GS-03 デストロイヤー : 右腕に装着して使用する、折りたたみ式の[[振動剣|超高周波振動ソード]]{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。ガードチェイサーの後部左側に収納されている{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。 : 搭載された'''マイクロバッテリー'''には自動車用バッテリー2個分の蓄電が可能であり、約30分の連続使用にも耐える{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}。'''エレクトロエンジン'''が電気を振動波に変換し、'''超振動コイル'''を通じて伝導することで、ジュラニウム合金・グレード10製の刀身が1分間に200万回振動し、超高周波を発生させる{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}。 : また、外装にも耐熱塗装を施したジュラニウム・グレード5が用いられているため、堅牢である{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。 : しかし対未確認生命体用に開発されているため、アンノウンとの戦いでは、さしたる成果を上げていない{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。 : ; GA-04 アンタレス : 右腕に装着して使用する、フレキシブルアンカーユニット{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。ガードチェイサーの後部右側に収納されている{{Sfn|OPF 78|2016|p=23}}。 : ジュラニウム・グレード10で造られた三つ又の'''トレブルフックアンカー'''を、高圧縮されたガスにより射出する{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}。アンカーには最大100メートルまで収納可能な'''アクティブライン'''がつながっており、'''パワーウインチユニット'''の働きにより最大20トンまでの引き込みが可能である{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}。 : 他の装備が攻撃用に開発されているのに対し、GA-04だけは支援用の機能を持たされており、敵をアクティブラインでがんじがらめにする、高所にアンカーをフックして壁面を登る、遠くの目標物を手繰り寄せるといった多彩な使い方ができる{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}。 : G3が装備しているスチルも存在するが{{Sfn|OPF 78|2016|p=24}}、映像作品には『仮面ライダーアギト・3大ライダー超決戦ビデオ』で「G3-Xの新武器」として初披露された{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=7}}。 : ; GX-05 ケルベロス : G3-X専用の携行型重火器{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}}。初めから対アンノウン用に開発されているため、数々の戦果を挙げることに成功している{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}}。 :; アタッシュモード :: 運搬用の形態で、ガードチェイサー後部に搭載される{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}}。 :: '''GX電磁ロック'''により形態を固定されており、解除スイッチに「132」を入力することでGトレーラーからの信号が送られ、モードチェンジが可能となる{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。 :; バルカンモード :: 攻撃用の形態である超ロングバレル・ガトリングガン{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=31}}。超硬金属ハイメタル製の特殊徹甲弾を120発備えた'''GXエネルギーマガジン'''を側面に取りつけ、砲身下部の'''リピーター'''を手前に引くことで装填{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。'''ガトリングマズル'''から1秒間に30発の連射を行う{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。 :: エネルギーマガジンは、G3-X背面のタートルシェル下部にあるマウントスペースに、2個まで取り付けておくことができる{{Sfn|OPF 187|2018|p=3}}。 :; GXランチャー :: バルカンモード側面の固定ボルトに衝撃緩和用グリップとしてGM-01を取り付け、上部にGM-01から取り外したCCDターゲットスコープを装着した形態{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。 :: 砲身後部の弾倉解除スイッチを押すことで取り出した'''GX弾'''を先端に取り付け、射出する{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。その破壊力は、仮面ライダーアギトのライダーキックに匹敵する約30トンに及ぶ{{Sfn|OPF 36|2015|p=23}}。 : ; GK-06 ユニコーン : G3-X専用の電磁コンバットナイフで、左上腕部に装備されている{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。 : 電磁エネルギーで切れ味を強化した刀身は、伸縮自在{{Sfn|OPF 36|2015|p=24}}。GS-03に比べると軽量で扱いやすいが、威力は1/2に低下している{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=31}}。 ; ガードアクセラー : ガードチェイサーの始動キー{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}}。 : 電磁警棒としての機能も備えており、G3-Xの左腿に装備されている{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}}。 ==== 仮面ライダーG3 / G3-Xの専用ビークル ==== :{{機動兵器 |名称=ガードチェイサー |正式名称=GUARD CHASER{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}} |全長=2,340{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}} |全幅=855{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}} |全高=1,300{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}} |最高速度=350{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}} |エンジン=1,300{{nbsp}}cc 水素燃料エンジン{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}} |最高出力=320馬力{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}} }} ; ガードチェイサー : 仮面ライダーG3用に開発された高性能[[白バイ]]{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=32}}。仮面ライダーG3-XやG3マイルドも、同車両を使用する{{Sfn|OPF 146|2017|p=25}}。 : 製作コンセプトは高速での安定性を重点に置いており、開発当初は[[仮面ライダークウガ (キャラクター)#専用ビークル|トライチェイサー2000]]などのデータが用いられていたが、搭乗者やベース車種が全く異なっていたため、実際には完全な新設計となった{{Sfn|OPF 146|2017|p=25}}。 : 電磁警棒としても使用可能な右ハンドルの'''ガードアクセラー'''を始動キーとし、無公害の水素燃料エンジンで走行する{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。また、水素燃料が切れたときの予備として大容量バッテリーが搭載されており、緊急時の電力供給源として転用することも可能である{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。 : 車体前方のライトは、高感度赤外線センサーや暗視カメラ、プロジェクターヘッドランプを兼ねている{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。またフロントカウルには'''レーザー測定式速度センサー'''を内蔵{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。特殊防弾ガラスを超硬樹脂で挟んだ構造の'''エアブレイクフェアリングシールド'''で、搭乗者を風圧から保護する{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。 : 車体は頑強で、アンノウンに体当たりしても傷ひとつ付かなかった{{Sfn|OPF 146|2017|p=25}}。座席の'''コルバンズシート'''は、イギリスのコルバンズ社の特注品である{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。前後輪の'''スーパーラジアルタイヤ'''は、超硬質ケブラーをハイグリップラバーで挟んだ構造の「マグナBTR」であり、パンク時にはプロテクト剤が自動的に噴射されて瞬時に修復される{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。 : 車体の各部には特殊装備ボックスが設けられており、前部左側にGM-01、前部右側にGG-02用グレネードユニット、後部左側にGS-03、後部右側にGA-04を収納する{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。GX-05の実装後は、後部トランクの上に専用ボックスが追加された{{Sfn|OPF 146|2017|p=26}}。 :* 撮影用車両のベースモデルは、[[ホンダ・X4]]{{R|honda-tips}}。デザイン画での車体はメタリック・シルバーに塗られていたが、実車ではホワイトに変更されている{{Sfn|AC|2003|p=50}}。 :* 「チェイサー」と付く名称は、前作『仮面ライダークウガ』に登場した警視庁製バイクの流れを汲んでいる{{Sfn|AC|2003|p=50}}。 : :{{機動兵器 |名称=Gトレーラー |正式名称=G-TRAILER{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}} |全長=11,980{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=33}} |全幅=2,490{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=33}} |全高=3,480{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=33}} |最高速度=200{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=33}} |最高出力=394馬力{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=67}} }} :[[ファイル:10 Jahre SRZ - Schutz & Rettung Zürich - 'Parade' 2011-05-13 20-22-22.jpg|thumb|250px|劇用車と同型のアクトロス<br />(画像は[[ヨーロッパ|欧州]]仕様)]] ; Gトレーラー : G3システムのバックアップやメンテナンスを行うための移動基地{{Sfn|OPF 49|2015|p=23}}。ドライバーに加えて、小沢澄子や尾室隆弘らG3ユニットが搭乗し、G3本体とガードチェイサーも積み込まれている{{Sfn|OPF 49|2015|p=23}}。 : 平時は警視庁の駐車場に停められており、G3ユニットの待機場所を兼ねている{{Sfn|OPF 49|2015|p=23}}。出動時には車内でG3の装着作業を行うほか、後部からマシンタラップを伸ばすことで減速することなくガードチェイサーを発進させることが可能である{{Sfn|OPF 49|2015|p=23}}。アンノウンとの交戦時には、コンテナ内部のオペレーター席でG3から送られてきた情報を分析し、戦闘の指揮を執る{{Sfn|OPF 49|2015|p=23}}。 : '''トレーラーコクピット'''は3人乗りだが、通常はドライバー1名のみが搭乗している{{Sfn|OPF 49|2015|p=24}}。ジュラルミン合金製の'''特殊合金ボディー'''は非常に堅固で、ミサイルをも跳ね返すことができる{{Sfn|OPF 49|2015|p=24}}。特殊強化ゴムで造られた'''チューブレスタイヤ'''は、パンクすることのない仕様となっている{{Sfn|OPF 49|2015|p=24}}。 :; 1号車 :: 第1 - 8話で使用された{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。車体色は白と青のツートンカラー{{Sfn|OPF 49|2015|p=24}}。 :: 車内にはG3システムがむき出しで置かれており、「試作段階」といった趣がある{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。 :; 2号車 :: 第9話から使用された{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。車体色は青一色{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。 :: G3システムの改良に伴う変更で、G3は壁面のロッカーに収納されるようになり、車内の見た目がすっきりとした{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。 ::* 撮影用車両のベースモデルは、[[メルセデス・ベンツ・アクトロス]]{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。1号車は、[[メルセデス・ベンツ・グループ|ダイムラー・クライスラー日本]](当時)に交渉した結果として提供されたホワイトカラーの車体で、劇中設定に合わせた塗装の変更や装飾の追加が行われた{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。2号車はナンバープレートこそ同じだが、新しいベース車両を用いており、運転席上部の屋根の形状やランプ類の配置で相違を確認できる{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。 ::* コンテナ内部は撮影所内に建てられたセットだが、第1話で描写された、走行中のGトレーラーからガードチェイサーが発進する場面では、実際に走行する車両も用いての大掛かりな撮影が行われた{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。当初はスタッフの間で、ガードチェイサーの向きについての意見が分かれたが、実際の作品では後ろ向きにタラップを降りるようになっている{{Sfn|OPF 58|2015|p=31}}。 {{-}} ==== V-1システム ==== {{キャラスペック |名称=V-1 |英字表記=VICTORY-1{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |身長=185{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |体重=130{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |パンチ力=約1{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |キック力=4{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |硬度・防御力=6{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |ジャンプ力=ひと跳び15{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |視力=8{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} |聴力=10{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}} }} '''{{読み仮名|V-1|ブイワン}}システム'''は、仮面ライダーギルスによって破壊された仮面ライダーG3に代わる新装備として開発された、新型の特殊強化装甲服{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}{{Sfn|平成完全超百科|2018|p=15}}。G3システムの装着員から外された北條透が、復権を狙って発案したもので、装着員は北條自らが務める{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。開発陣には、小沢澄子の恩師にあたる高村光介教授を中心とする、[[人間工学]]・[[エネルギー工学]]の権威や[[精神科医]]など日本有数の人材が集っていた{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 性能はG3を上回っているが、小沢が同時期に開発した仮面ライダーG3-Xに比べると劣る{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。外見はG3やG3-Xよりも機械的で{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}、銀一色に彩られている。 実戦でアピス・メリトゥスを撃退する成果を挙げたV-1は、G3-Xと優劣を競うための合同演習でも警視庁幹部をうならせるほどの活躍を披露する{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。しかしマヌーバ中に、制御不能となって暴走したG3-X{{efn|実際には北條が、銃をG3-Xに向けたためAIが敵対行動とみなし、氷川がそれに逆らったため、その衝撃によって気絶してしまい、朦朧とした意識の中で氷川がV-1システムをアンノウンと誤認したことで、AIがその意志に同調したことによるもの。}}の攻撃を受けて破壊されたため、開発プロジェクト自体もG3-Xの性能を知った高村が放棄したことにより、採用されずに終わった{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 ; ツール :; V-1ショット :: 専用の自動小銃{{Sfn|OPF 21|2015|p=5}}。 :: 合同演習では100パーセントの命中率を記録した{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=35}}。 {{-}} === 仮面ライダーギルス === {{Anchors|ギルス}}{{キャラスペック |名称=仮面ライダーギルス |英字表記=MASKED RIDER GILLS{{Sfn|OPF 97|2016|p=2}} |身長=200{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |体重=100{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |パンチ力=約10{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |キック力=約20{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |硬度・防御力=5{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |走力=100{{nbsp}}mを5秒{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}} |ジャンプ力=ひと跳び50{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |視力=20{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} |聴力=20{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=21}} }} 城北大学に在籍する水泳選手であった'''葦原涼'''が、交通事故による負傷の衝撃で「アギトの力」に覚醒し、変身を遂げた姿{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。身体能力は仮面ライダーアギトを上回っており、肉体の一部を変異させた武器を用いて戦う{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。また、前蹴りや回し蹴りなど、種類豊富な足技を多用する{{Sfn|OPF 33|2015|p=6}}。 ギルスはアギトの亜種とされているが、詳細は不明である{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。涼の変身を目撃した「闇の力」は「アギト……いやギルス。珍しいな」とつぶやいており、種としてはアギトと同じだとみなしていた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=55}}。 ギルスの肉体は不完全なものであり、変身するたびに涼は体への負担に苦しみ、老化現象にさいなまれた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=33}}。しかし、後に風谷真魚の力を受けることでこの弱点は解消され、自在に変身できるようになった{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。 変身に際して、涼は顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を下げる{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。次いで「変身!」と叫んでから跳躍すると、全身が光に包まれ、メタファクター中央の賢者の石から生体エネルギーが発せられる{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。そして生体装甲が身を覆うことで、変身完了となる{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。以上が最もオーソドックスな流れだが、変身シーンの初披露となる第6話では、涼の右隣にギルスの実像が浮かびあがることで、変身を遂げる演出だった{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。ほかにも跳躍の有無や手の動作の違いなどがあり、ギルスの変身ポーズは多彩であった{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。 ギルスの全身は、ダイヤモンド並みの硬度がある濃緑色の生体装甲皮膚'''ミューテートスキン'''に覆われているが、この皮膚は不完全な存在のため、栄養素を求めて涼の体を蝕んでいる{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。また、胸部の生体装甲'''バイオチェスト'''も、日々成長を続けているために涼の肉体を浸食している{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。 両腕には'''ライヴアームズ'''、両脚には'''ライヴレッグス'''と呼ばれる生命鎧が寄生しており、エネルギーを吸収する代わりにギルスの意思に応じて武器を生成する{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。ライヴアームズとライヴレッグスの管理は手足に埋め込まれた緑色の'''ハンドリングオーヴ'''が行っており、もしこの器官が破壊されると、腕や脚の制御が利かなくなってしまう{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。 赤い複眼'''デモンアイズ'''は、暗闇でも昼間のように見渡すことができる{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。額には、賢者の石とほぼ同じ物質で構成された金色の第3の目'''ワイズマン・オーヴ'''があり、敵の弱点を瞬時に見抜くほか、閃光による目くらましや催眠波による他者の操作も可能である{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。口元には銀色の鋭い牙'''デモンズファングクラッシャー'''があり、喉の奥からは超音波ギルスホーンを放って敵を撹乱する{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。 2本の角'''ギルスアントラー'''は感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを体外に放出する役割も担っている{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。しかしギルスの胸には、仮面ライダーアギトと異なりワイズマン・モノリスがないため、自分の意思とは無関係にエネルギーの限界が訪れてしまう{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。その際のギルスアントラーは、萎縮して短くなる{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。 当初の涼はアンノウンに対する明確な敵愾心は持っておらず、場当たり的に戦っていたが、やがて「自らが人々を守る」と心を決め、強い意志のもとにアンノウンの脅威へと立ち向かうようになった{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。 ; ツール :; メタファクター :: 仮面ライダーギルスの[[変身ベルト]]。中央に収められた賢者の石から生体エネルギーを発生させ、装甲を強化する{{Sfn|OPF 33|2015|p=5}}。 :: 仮面ライダーアギトのオルタリングと異なり、左右のドラゴンズアイがないため、フォームチェンジはできない{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=59}}。 : ; 必殺技 :; ギルスクロウ :: 両腕のライヴアームズから生えた鋭いカギ爪で、敵を切り裂く{{Sfn|OPF 33|2015|p=6}}。 :; ギルスフィーラー :: ライヴアームズから生えた伸縮自在の触手を、鞭のように振るう{{Sfn|OPF 33|2015|p=6}}。 :; ギルスヒールクロウ :: ライヴレッグスのかかとから鋭いカギ爪を伸ばし、跳躍してかかと落としを決める{{Sfn|OPF 33|2015|p=6}}。破壊力30トンの最強技{{Sfn|OPF 33|2015|p=6}}。 :; ギルスヘルスタッブ :: 『仮面ライダーアギト・3大ライダー超決戦ビデオ』で使用。 :: 手の爪で敵の体を刺し貫く{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=7}}。 : ; その他の登場作品 :; 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 :: 終盤の一場面において、CGによる再現という形でギルスがわずかながら登場している。 ==== 仮面ライダーエクシードギルス ==== {{キャラスペック |名称=仮面ライダーエクシードギルス |英字表記=MASKED RIDER EXCEED GILLS{{Sfn|OPF 139|2017|p=2}} |身長=200{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |体重=100{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |パンチ力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |キック力=約30{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |硬度・防御力=7{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |走力=100{{nbsp}}mを4.2秒{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |ジャンプ力=ひと跳び65{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |視力=30{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} |聴力=30{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=20}} }} アナザーアギトに敗れて生命の危機に瀕した葦原涼が、真島浩二の中で目覚めつつあった「アギトの力」を与えられたことで、極限まで進化した姿{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。全身の至るところから鋭いカギ爪が生えており、胸にはワイズマン・モノリスが出現{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。また、腕から生える触手のギルスフィーラーがなくなった代わり、背中から伸びるより強力な触手のギルススティンガーが加わっている{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。 劇場版での登場経緯はテレビシリーズと異なっており、戦闘中に右腕を切断されたギルスが、自らに備わった防御本能の高まりによって、腕を再生させながらエクシードギルスへと進化している{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。 強化変身に際して、仮面ライダーギルスは顔の前で両腕を交差させたのち、手のひらを上に向けた形で両腕を広げながら、デモンズファングクラッシャーを開いて雄叫びを上げる{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。すると胸にワイズマン・モノリスが現れてフォースを放ち、体の各部から突起が生えていく{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。最後に額のギルスアントラーが伸びて、変身完了となる{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。なお、葦原涼の姿から直接エクシードギルスに変身することも可能である{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。 エクシードギルスの状態では、赤く変色した'''ギルスクロウ'''と'''ギルスヒールクロウ'''が常時伸びている{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。さらに余剰エネルギーによって両肩には'''ギルスショルダークロウ'''、両腕には'''ギルスアームクロウ'''、両膝には'''ギルスニークロウ'''というカギ爪が新たに生成されている{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。 胸の中央に配置された'''ワイズマン・モノリス'''は、メタファクターが放つフォースを全身に効率よく供給し、循環させている{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。また、ワイズマン・モノリスから力を得て誕生した赤い生体装甲'''ギルスワーム'''が胸から背中にかけて走り、ギルススティンガーを作り出す{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。 頭部の'''ギルスアントラー'''は、元の2本に加えて中央部が伸びている{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。エクシードギルス時にギルスアントラーが萎縮することはないようである{{Sfn|AC|2003|p=56}}。 ; ツール :; メタファクター :: 変身ベルトの色が通常のギルスから変化しており、賢者の石は黄色になっている{{Sfn|OPF 41|2015|p=3}}。 : ; 必殺技 :; エクシードヒールクロウ :: 高く跳躍し、かかと落としの要領で足のカギ爪を敵に突き立てる{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。破壊力は40トン{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。 ::; ダブルエクシードヒールクロウ ::: 両足でエクシードヒールクロウを決める大技{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。 ::: 最終決戦で使用され、風のエルを撃破した{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。 :; ギルススティンガー :: 背中から伸びる触手で、敵をからめとって動きを封じる{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。 :: 槍のように突き刺すことも可能で、その際の破壊力は50トンに及ぶ{{Sfn|OPF 41|2015|p=4}}。 : ; その他の登場作品 :; 『仮面ライダーディケイド』 :: 第12,13話の「アギトの世界」において、エクシードギルスがアギトになる未完成体として登場{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。芦河ショウイチが変身する{{Sfn|OPF 139|2017|p=3}}。 ==== 仮面ライダーギルスの専用ビークル ==== {{機動兵器 |名称=ギルスレイダー |正式名称=GILLS RAIDER{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}} |全長=2,000{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}} |全幅=1,020{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}} |全高=1,260{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}} |最高速度=360{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}} |重量=130{{nbsp}}kg{{Sfn|OPF 165|2017|p=25}} |最高出力=345馬力{{Sfn|OPF 165|2017|p=25}} }} '''ギルスレイダー'''は、仮面ライダーギルスの専用バイク{{Sfn|OPF 165|2017|p=25}}。葦原涼がギルスに変身すると同時に、涼の愛車である[[ホンダ・XR|ホンダXR250]]{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=24}}がギルスの細胞と融合することによって変貌する{{Sfn|OPF 165|2017|p=25}}。 半機械半生物のバイオマシンであるギルスレイダーは自らの意志を持っており、無人走行でギルスのもとに駆けつけることができる{{Sfn|OPF 165|2017|p=25}}。 フロントカウルにある黄色の'''プロテクトフィールド発生レンズ'''によって不可視の力場を生成し、障害物への突撃を行う{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。レンズの下に備わった'''ギルスアイ'''は、仮面ライダーギルスの複眼と同等の機能を持ち、視認した情報をギルスの脳へと伝達する{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。また、フロントカウルの左右には'''デモンズクロー'''が伸びており、毎秒250万回の振動波を放つことで、3メートル以内の物体を直接触れることなく切断する{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。 前後輪の'''フォースホイール'''はギルスの意思によって回転が制御されており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面にも粘着して駆け上がることが可能である{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。 車体前方に埋め込まれた'''ギルス・ストーン'''が動力源となっている{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。車体後部の左右には、自己修復機能を司る黄色の'''ゲノムストーン'''が備わっており、どちらか片方の石が残ってさえいれば、全壊状態からでも復元する{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。半壊状態であれば、36時間で車体の再生が完了する{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。 車体後方に伸びる2本の'''デモンズテール'''は、ギルスのメタファクターから発生した余剰エネルギーを放出する役割がある{{Sfn|OPF 165|2017|p=26}}。 === アナザーアギト === {{キャラスペック |名称=アナザーアギト |英字表記=ANOTHER AGITO{{efn|「アギト」の英字表記は、"AGITO" とする資料{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=37}}と "AGITΩ" とする資料{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=71}}{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}}とがある。}} |身長=200{{nbsp}}cm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |体重=97{{nbsp}}kg{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |パンチ力=約15{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |キック力=約30{{nbsp}}t{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |硬度・防御力=7{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |走力=100{{nbsp}}mを5秒{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |ジャンプ力=ひと跳び70{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |視力=約25{{nbsp}}km先まで{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} |聴力=約30{{nbsp}}km四方{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=28}} }} あかつき号の乗客だった外科医の'''木野薫'''が、船上で「光の力」を浴びたことにより「アギトの力」に覚醒して変身した姿{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。その戦闘能力は、仮面ライダーアギト シャイニングフォームに匹敵する{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。アナザーアギトにフォームチェンジ能力はなく、また専用武器も持たないが、持ち前の格闘能力だけでアギトやギルスを相手取って優位に戦闘を展開してみせた{{Sfn|OPF 96|2016|p=6}}。G3-Xから奪ったGM-01を使用したのが、唯一の武器の使用例である{{Sfn|OPF 96|2016|p=6}}。 変身に際しては、まず両腕を左右に広げ、次に拳を体の前で交差させる{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。すると賢者の石と、それを収めるアンクポイントが出現する{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。木野が「変身」と発声すると賢者の石が輝き、オルタフォース{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}が体を包み込んで全身の筋肉や器官が強化され、変身完了となる{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。なお、バイクの運転中はポーズをとる必要はなく、「変身」と発声するだけでアナザーアギトに変貌する{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。 アナザーアギトは、エルロードの因子を受け、仮面ライダーアギトとは異なる進化を遂げている{{Sfn|平成完全超百科|2018|p=15}}。全身を黒い生体装甲皮膚'''ミューテートスキン'''で覆い、胸部は濃緑色の強化外骨格'''バイオアーマー'''で守られている{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。胸の中央には'''ワイズマンモノリス'''があり、アンクポイントから発生するオルタフォースを全身に効率よく供給し、循環させている{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。 手足から生えている感覚器官'''バイオクロウ'''は、刺突や斬りつけに用いることも可能{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。左肩には'''アギトマーク'''が描かれている{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。背中に垂れるオレンジ色をした2枚の'''ライヴウィング'''は、身体バランスを司るだけでなく、アナザーアギトの意思によって変形し、滑空翼ともなる{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。 赤い複眼'''アギトアイズ'''は、視界の広さや視認可能距離などで、常人をはるかに超えた能力を備える{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。額にある'''マスターズ・オーヴ'''は賢者の石とほぼ同等の物質で構成されており、ダークホッパーと意思の疎通を行える{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。V字型に伸びた角'''アギトホーン'''は、感覚器官であるのと同時に、余剰エネルギーを放出するための放力板でもある{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。口に生えた牙を覆い隠す'''クラッシャー'''は、噛みつき攻撃を行う際や、必殺技発動時に展開する{{Sfn|OPF 96|2016|p=5}}。 木野が抱いていた「人々を救いたい」という志は「人々を救うのは自分だけでいい」という形に歪んでしまい、アギトやギルス、さらには「アギトの力」に目覚めようとしている人たちにまで襲撃をかけた{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。しかし衝突を繰り返すうちに、津上翔一や葦原涼の人となりを知っていき、次第に仲間意識が芽生え、彼らと共闘するようになった{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。 ; ツール :; アンクポイント :: アナザーアギトの[[変身ベルト]]で、中央に賢者の石が埋め込まれている{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。通常、アンクポイントの構成物質は木野薫の体内に拡散されて配置されており、木野の変身の意思に応じて腰に出現する{{Sfn|OPF 169|2018|p=1}}。 : ; 必殺技 :; アサルトキック :: クラッシャーを開き、足元に描かれた紋章の力を両足に集約して、空中から敵に蹴りかかる{{Sfn|OPF 96|2016|p=6}}。破壊力は約40トン{{Sfn|OPF 96|2016|p=6}}。 :; アサルトパンチ{{Sfn|完全超百科|2003|p=96}} :: 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦#スピンオフ作品『仮面戦隊ゴライダー』|仮面戦隊ゴライダー]]』で使用。 :: アサルトキックと同様の方法で放つ必殺パンチ。 ==== アナザーアギトの専用ビークル ==== {{機動兵器 |名称=ダークホッパー |正式名称=DARK HOPPER{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=29}} |全長=2,220{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=29}} |全幅=890{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=29}} |全高=1,320{{nbsp}}mm{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=29}} |最高速度=390{{nbsp}}km/h{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=29}} |ジャンプ力=10{{nbsp}}m{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}} }} '''ダークホッパー'''は、アナザーアギトの専用バイク{{Sfn|OPF 169|2018|p=23}}。木野薫が乗用しているバイクが、アナザーアギトへの変身に伴いアンクポイントから発せられるオルタフォース{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}を受けて、変貌した姿である{{Sfn|OPF 169|2018|p=23}}。 オフロード型バイクの形状をしているが、ギルスレイダーと同様に半ば機械、半ば生物であり、自らの意志で自律走行することもできる{{Sfn|OPF 169|2018|p=23}}。 前後輪の'''フォースホイール'''にはアナザーアギトの細胞が取り込まれており、決してパンクすることはなく、80度の急斜面をも駆け上がる{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。フォースホイールは賢者の石の力によって直接回転しているので、元のエンジンは駆動装置ではなくなっているが、その代わりオルタフォースを一時的に蓄積して車体へと効率よく供給させる'''ホッパーハート'''へと変化している{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。 フロントカウルの'''ダークヘッド'''は、分子配列レベルで硬化している{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。二灯式プロジェクターヘッドライトの'''ダークアイ'''は、灯火装置であるのと同時にこのマシンの眼でもあり、厚さ15メートルの物質を透視して、得られた情報をアナザーアギトの脳へと伝達する機能がある{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。ダークアイの後ろには4枚の安定翼'''ホッパーウィング'''があり、グライダー機能による空中滑走を可能としている{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。 車体後部に伸びる2本のバランサー・'''ホッパーテール'''にはレーダー機能が備わっているほか、敵を撹乱するための煙幕を張ることもできる{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=60}}。 == アンノウン == 神(闇の力、オーヴァロード、テオス)に仕えるマラークと呼ばれる存在{{Sfn|超辞典|2011|pp=497-498}}であり、地球上の動物を模した半獣半人の姿を持つ超越生命体{{efn|正確には、彼らを模して地球上の生物がつくられた{{R|オフィシャルデータファイル92}}。}}{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=75}}。 種族ごとに「 -(一般用名称 / モチーフとなる動物の英語名)ロード(+正式名称 / ラテン語や古典ギリシア語での種族と特徴)」{{R|graffiti}}と呼称されており、種族的観念とそれに基づいた階級があるらしく、似た容姿で複数のアンノウンが同時に行動する際には、指揮官らしき存在'''クイーンロード'''が登場している。高位の怪人は'''エルロード'''と呼ばれる{{efn|当初は脚本上の便宜的なもので正式名称ではなかった{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|p=78}}。}}。劇中で各アンノウンの名前が呼ばれることはない。 「アンノウン」の名は警察が氷川誠からの報告を受けて、未確認生命体を超える新たなる敵、謎の存在として警察が命名した呼称であり、軍事用語で「国籍不明機」を意味する「unknown」に由来する(第2話)。 殺しや特殊能力を行う際には、左手で右手の甲を“闇の力”の文字の形に辿るという、殺しのサインを切る。対象を生きたまま樹の洞に詰めこんだり、さらには対象の体組織を別の物体に変えたりなど、人間には実行不可能な犯行から「不可能犯罪」と呼ばれる一方、同族ならば殺害方法は共通する。監視カメラなどでは磁場が発生し、歪んだ姿となるため、不可視となってしまう。 目的は神が恐れるアギトの殲滅であり、主にアギトの種を持ち、アギトになる可能性のある人間(超能力者)を血族ごとに殺し回っている(胎児も該当){{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=75}}。 一方で、神が人間を愛しているために、アギトの力を持たない人間を殺すことは極力禁じられており、ターゲットおよびその殺害を妨害する者(主に護衛している警察官など)以外の人間は襲うことはなく、第34話で水のエルがG3-X=氷川を圧倒して追いつめた際、「アギトではないから」という理由で止めを刺さずに終わっている。禁を破ったアンノウンは“闇の力”から制裁が下される。 能力の発動時や、ライダーの技を受けて爆死する直前に、天使の輪のような円盤状の発光体が頭上に出現する。また、各自の武器はそこから召喚して装備する。各個体共通して、同じベルトのバックル、羽を象った装飾品、背中には鳥獣系以外のアンノウンにも羽根が変化したような突起がある{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=37}}。 === エルロード === 水・風・地の3体のアンノウンの上に君臨する高位のアンノウンで、闇の力に代わってアンノウンを指揮して超能力者の抹殺を行う{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=31}}。中盤以降に登場。書籍『MASKED RIDER AGITO ART WORKS』によれば、アギトに等しい存在である。下位のアンノウンよりも進化が進んでいるため、背の羽はより大型化しており、知能や能力が発達したことにより、人間の言語を理解し、話すこともできる。また、闇の力の体内で進化することも可能{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=31}}。貴族、様式、美意識のような風格、そしてライダーと共通する[[複眼]]を持つ{{R|ART WORKS85}}。特に水のエルについてはあかつき号事件の張本人であり、何度もアギトたちを苦しめる。オープニングで登場した[[イコン]]画には、エルロードらしきものが全部で7体描かれている。その正体はテオス(闇の力)によって、古代に誕生した生命体・マラーク{{Sfn|超辞典|2011|p=95}}で、7人存在し、そのうちの一人であるプロメス(光の力)は、マラークから人間を守るため、人間との間にネフェリム(アギト)という戦士を生み出した{{Sfn|超辞典|2011|pp=95,582}}。 :{{キャラスペック |名称=水のエル |身長=218{{nbsp}}cm |体重=158{{nbsp}}kg |2名称=水のエル強化体 |2身長=218{{nbsp}}cm |2体重=165{{nbsp}}kg }} ; 水のエル : [[クジラ]]に似た姿のエルロード。使用武器は打ち据えた者を身動きできなくして至福の感情の中で絶命させる二股の槍'''怨嗟のドゥ・サンガ'''{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=31}}。口からは人間の生命力を奪って即死させる吐息を吐き、手からは衝撃波を放つ。闇の力に代わって地上を監視し、アギトの力が覚醒した翔一を狙って「あかつき号事件」を起こした。第33話より登場。 : 「あかつき号事件」を引き起こしたあと、監視のため乗客の1人・関谷真澄の体内に潜伏して静観していた。真澄から相良が死んだと聞き、あかつき号の乗客に接触した際に同事件の関係者を次々と殺害する。 : その後、真澄を殺害し実体化するとアギトを狙うが、バーニングボンバーを受け致命傷を負ったため、闇の力の体内で力を蓄積し、強化体へと進化する。この時は使用武器は長柄の戦斧'''怨念のバルディッシュ'''。4ライダーを圧倒するが、エクシードヒールクロウ、アサルトキック、シャイニングライダーキックを連続で受け倒され、闇の力の体内に入りもう一度再生しようとしたが、入る直前に水になって完全に消滅する。 :; その他の登場作品 ::; 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 ::: アンノウン代表として国連本部の会議に参加。 : :{{キャラスペック |名称=風のエル |身長=220{{nbsp}}cm |体重=164{{nbsp}}kg |飛行速度=500{{nbsp}}km/h }} ; 風のエル : [[鷹|タカ]]に似た姿のエルロード。使用武器は肉体を消滅させる光の矢を放つ長弓'''憐憫のカマサ'''{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=31}}。烈風を起こし、バーニングフォームの炎をも無力化する。G3-XのGXランチャーとエクシードギルスのダブルエクシードヒールクロウを受け、爆死した。聖地に近付く者を次々と殺害する。 :; その他の登場作品 ::; 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 ::: ショッカー怪人として登場。 : :{{キャラスペック |名称=地のエル |身長=220{{nbsp}}cm |体重=170{{nbsp}}kg |地中速度=80{{nbsp}}km/h }} ; 地のエル : [[ライオン]]に似た姿のエルロード。使用武器は長剣'''敬虔のカンダ'''。拳からは相手を衣服もろとも灰塵化させる熱砂を放つ{{Sfn|超全集 下巻|2002|p=31}}。超能力者(アギトになる可能性がある者)の殺害を使命とし、可奈に狙いを定めるが、止めに入った翔一と戦闘になり、シャイニングクラッシュを受け、敗北する。その後、「闇の力」によって進化される形で復活を果たした。聖地に現れた3ライダーと戦闘になり、シャイニングライダーキックを受け、爆死する。 == 設定・用語 == ; {{Anchors|仮面ライダーアギト(ΑGITΩ)}}アギト(ΑGITΩ) : 光の力が太古の昔に蒔いたアギトの力を宿した人間が、自然発生や不慮の事故などの理由で植え付けられた力に覚醒して変身する人類の進化系{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=4}}。そのため、変身の可能性は多くの人間に秘められており{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=4}}、涼のように遺伝によって親から子へ受け継がれる場合もある。 : アギトの種を持ち、力に覚醒しはじめた人物{{efn|覚醒の予兆として、激しい耳鳴りや急な発熱・痙攣に襲われることもある。}}は[[予知]]や[[サイコキネシス]]、治癒能力といった様々な超能力を発現するようになり、覚醒の度合いがより大きいとアンノウンすら怯ませるほど強力な念動力を放つことができるようになる{{efn|それでも変身能力がないうちはアギトのような超人的戦闘能力を持たない生身の人間であり、実際に亜紀や相良は抵抗こそできるものの倒すまでには至らず、アンノウンにやられている。}}。ただし、超能力を極限まで行使すると、体の一部が干からびて{{efn|「老化」ともとれる。この症状はギルスへの変身後に涼に現れる症状と酷似している。}}、特定の超能力を失うこともある。 : やがて完全に力に覚醒した人物は、一定の苦痛を肉体に伴い、超能力と引き換えに常人の力を遥かに超えた身体能力を持つアギトへと進化する。アギトに進化した者の多くは、津上翔一が変身するアギト グランドフォームと同様の姿への変身能力を得るが、ごくまれに不完全な進化をした場合は葦原涼のようにアギトの亜種・ギルスとなる。また、木野薫はより有機的な姿のアギト・アナザーアギトとなるが、両者が対峙した場面に遭遇した人間がアギトが2人いることに困惑する場面があるなど、実際には翔一の変身するアギトもまた、作中世界の人間にはこのアナザーアギトとほぼ同じ姿に見えていることが示唆されている。 : アギトの力は人類の多くが宿しており、彼らはみなアギトとなる可能性を秘めている。しかしアギトに覚醒しても力を完全に制御できるとは限らず、翔一や雪菜のように自身の意思に反して暴走してしまうケースもある。 : さらに、力を完全に覚醒させてアギトとなっても、進化そのものは止まることはない。 : 弱点はいずれもベルト中央部に埋め込まれている'''賢者の石'''であり、終盤で闇の力はアナザーアギトやギルス、アギトのベルトに念力を浴びせて破壊し、彼らからアギトの力を奪うという行為に出る。 : ; 未確認生命体対策班S.A.U.L. : S.A.U.L.とは、「'''S'''quad.'''A'''gainst.'''U'''nidentified.'''L'''ifeforms.」の略称。物語の始まる2年前に日本で発生した「未確認生命体事件」の終結後に、さらなる未確認生命体の出現を想定して、警視庁内に結成された特別部署。数名の幹部会を監査役に、G3ユニットとオーパーツ研究局で構成される。警視庁内に、G3やG3-X専用の特別演習ルームを複数持つ。 : 未確認生命体が滅びてから2年間、次なる脅威に対するための準備を行っていたが、未確認生命体に相当する敵が現れず、この部署の存在が疑問視されていた。しかし2001年にアンノウンが出現したことにより、本格的に稼働することとなる。 :; G3ユニット :: 対未確認生命体用特殊強化装甲服である「G3システム」や「G3-Xシステム」を運用して、最前線で未確認生命体と戦うチーム。主要メンバーは主任である小沢とシステム装着員の氷川、オペレーターの尾室の3名で、他にはGトレーラーを運転する専任のドライバーがいる{{efn|劇中で顔と名前は登場しなかった。}}。 :: メンバーはコバルトブルーの6つボタンジャケット(冬服)や、白を基調としたシャツジャケット(夏服)を制服として着用する。前述の活動拠点兼移動指揮車のGトレーラーとして使用しているベンツの他、[[日産自動車|日産]][[日産・エクストレイル#初代 T30型(2000年 - 2007年)|エクストレイル(T30型)]]を専属車両として有している。 :: 物語前半から中盤までは、対アンノウン戦にG3が戦果を挙げられないことが多く、北條による2度の参入といった干渉や新開発したG3-Xの暴走などの事態も重なり、たびたび存続の危機に立たされるが、中盤以降はそのような問題は起きなくなり、活躍の場を増やしていく。 :: 終盤では、1ヶ月間アンノウンが出現しない中で、活動方針を「アンノウンを駆逐するアギトからアンノウンを保護する」へと変更し、尾室と三たび参入した北條が活動にあたり、氷川と小沢はユニットから外される。しかし最終回で、2人はGトレーラーを北條から奪取し、尾室と共にアンノウンとの最後の戦いに赴く。 :: 1年後には既に解散{{efn|作中では理由は語られていないが、前述の氷川と小沢の行動によるものと推測している{{R|G3}}。}}しており、その活動は新結成された「G5ユニット」に引き継がれている。 :; 未確認生命体対策班・オーパーツ研究局 :: 超古代文明の研究を専門とするチーム。沖縄県与那国島で発見されたオーパーツをコンピュータで解析・解読し、そこから出現した遺伝子モデル状の物体を特別編成された研究班が実験した。その結果、赤子の姿で闇の力を現代に出現させた。 :: [[伝令RNA|メッセンジャーRNA]]を合成したタンパク質の生成による遺伝子実験の失敗によって、解散する{{Sfn|ハイブリッドファイル|2002|p=86}}。 : ; あかつき号事件 : 物語の始まる半年前に、瀬戸内海で起こった海難事故。 : 13時発の高松に向かうフェリーボートあかつき号が快晴の瀬戸内海を航行中、キャビンに瀕死状態の光の力が出現、死亡が確認されたが、その後船は暴風雨に見舞われ、同時に息を吹き返した光の力が最後の力である眩い光を翔一を中心に放射して、乗員・乗客たちもその余波を受けると消滅した。 : しかしその直後、暗雲から水のエルが光の力を追って船内に出現、眩い光を多量に浴びた翔一を襲うが、乗客たちが見守る中、翔一はアギトへと進化し、水のエルと対峙するものの、敵わずに海中に没してしまった。翔一の安否を確認しようとする乗客たちに対し、水のエルはこの一件を口外しないよう口止めし、彼らの監視のため乗客の一人である真澄に憑依した。 : 香川県内を警邏中だった巡査時代の氷川は、あかつき号を包む巨大な光を目撃し、付近を航行していた漁船の協力を得て、暴風雨に見舞われたあかつき号に辿り着き、翔一を除く怯えていた乗客9名を全員救助した。 : 後日、翔一は瀬戸内海の浜辺で地元の女子高生たちに、記憶を失った状態で発見された。 : 事件発生の際に[[海上保安庁]]が出動しなかったのは、海上保安庁の巡視船を私的に使用し、保安庁幹部の幼なじみである警視庁の警視正を迎えに行っている最中で、あかつき号の救助信号を無視したからと作中で言及されている{{Sfn|超全集 上巻|2001|p=67}}。 == キャスト == メインキャストである賀集利樹、要潤、友井雄亮は、本作品と同時期に放送された『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』の出演者や『[[ウルトラマンコスモス]]』で主演した[[杉浦太陽]]らと共に、通常では特撮ヒーローを扱わないメディアでの露出の機会を増やしている。また、第12話から登場した沢木哲也役には、『[[超光戦士シャンゼリオン]]』黒岩省吾 / 暗黒騎士ガウザー役を演じた小川敦史を起用した。小川はその後も、仮面ライダーシリーズにゲスト出演している。 === レギュラー・準レギュラー === * 津上翔一 - [[賀集利樹]] * 氷川誠 - [[要潤]](1 - 26,29 - 41,43,45 - 51) * 葦原涼 - [[友井雄亮]]{{efn|第51話ではギルスのスーツアクターも担当している{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=41}}。}}(1 - 12,14 - 30.32 - 41,43 - 51) * 風谷真魚 - [[秋山莉奈]](1 - 22,24 - 27,29 - 47,49,51) * 風谷真魚(幼少時の回想) - [[谷村聡美]] * 美杉義彦 - [[升毅]](1 - 11,13,14,18.22,24,26,27,29 - 32,34 - 36,40,43 - 47,49,51) * 美杉太一 - [[田辺季正]](1 - 11,13 - 18,20,22,24 - 27,29 - 37,40,41,43,44,47,49,51) * 木野薫 - [[樋口隆則|菊池隆則]](35 - 46) * 小沢澄子 - [[藤田瞳子]](1 - 26,30,32 - 41,43,45 - 51) * 北條透 - [[山崎潤]](1 - 26,28,30,33,35 - 40,42 - 46,48 - 51) * 尾室隆弘 - [[柴田明良]](1 - 15,17 - 25,30,32 - 36,38 - 40,43,45 - 51) * 風谷伸幸 - [[中根徹]](7,8,13,30,31,43 - 45) * 沢木雪菜 - [[笠間あゆみ]](24 - 27,38,41,42,44,45,50) * 沢木哲也 - [[小川敦史]](12 - 14,16,18,20,26,27,29 - 33,38,39,41,43,44,45,47,49 - 51) * 青年 - [[羽尾明|羽緒レイ]](8 - 10,12 - 14,16,18,20,30,33,35,40 - 49,51) * 河野浩司 - [[田口主将]](1 - 6,8 - 10,12 - 14,16,17,20,23 - 25,28 - 30,33,39,43,45,47 - 51) * 三雲咲子 - [[滝沢涼子]](1 - 6) * 警察幹部{{Refnest|group="出典"|{{R|zukan315|zukan316|zukan317}}}}{{efn|name="noname"|クレジットでは役名未表記。}} - [[加地健太郎]](1 - 3,7 - 9,11,12,15 - 19,22 - 26,29,39,47 - 50)、狩野謙(1 - 3,7,8,11,12,18,19,22 - 26,29,37,39,47 - 50)、[[野口雅弘 (俳優)|野口雅弘]](11,12,22 - 26,29,37,39,47 - 50) * ラーメン屋の親父 - [[諏訪太朗]](11,19,40) * バイク屋のおやっさん - [[中屋敷哲也]] (28,47,48,50) * 榊亜紀 - 佐久間雅子 (15 - 17,20,21,42) * 真島浩二 - [[小谷嘉一]] (31 - 42,44 - 46,51) * 相良克彦 - [[田付貴彦]] (20,21,26,27,30,31,42) * 関谷真澄 - [[平岩紙]] (20,21,26,27,31 - 33,42) * 岡村可奈 - [[森脇英理子]] (47 - 50) * 水原リサ - 水稀未那 (47 - 50) === 声の出演 === * 謎の声 - [[岩崎ひろし]](20,21) * 水のエル - [[梁田清之]](1,33 - 35,41 - 43) * 風のエル - [[くじら (声優)|くじら]](47 - 49,51) * 地のエル - [[三宅健太]](49 - 51) * ナレーション - [[鈴木英一郎]] * アナウンサー - [[川北桃子]]、[[櫻井健介]](テレビ朝日 / 2) === ゲスト出演者 === * 両野耕一 - [[後藤宏行 (俳優)|後藤ひろゆき]](1 - 5) * 佐伯安江 - [[野沢由香里]](1) * 岡田 - [[近藤公園]](1,2) * 涼の担当医{{efn|name="noname"}} - [[越村公一]](1 - 3) * だいごの祖父{{efn|name="noname"}} - [[益富信孝]](1) * 学生{{efn|name="noname"}} - 高瀬アツシ(1,2) * 警察幹部{{R|zukan317}}{{efn|name="noname"}} - 菅野達也(1 - 3) * 佐伯邦夫{{R|zukan323}}{{efn|name="noname"}} - 高橋義則(1) * ゴミ拾いの男{{efn|name="noname"}} - [[前原実]](1) * ヨウコ{{efn|name="noname"}} - 乙宮ゆめ(1) * 警官{{efn|name="noname"}} - [[太田祐一]](1,2) * だいご{{efn|name="noname"}} - 荒木大悟(1) * 辻口美奈子{{R|zukan325}}、辻口恵美子{{R|zukan326}}{{efn|name="noname"}} - 和所こづえ(2) * 駄菓子屋{{efn|name="noname"}} - 日向宏之(2) * 目撃者{{efn|name="noname"}} - [[大久保運]](2) * 検査医{{efn|name="noname"}} - 白山照彦(2) * 考古学者{{efn|name="noname"}} - [[テイ龍進|鄭龍進]](3) * 看護婦<ref>{{Cite web|和書|url=http://kirinpro.co.jp/cmspro/18642|title=市麻充子|キリンプロ|accessdate=2022-04-08}}</ref>{{efn|name="noname"}} - 市麻充子(3) * キックボードの青年{{R|zukan328}}{{efn|name="noname"}} - 池史晃(3) * 水泳部員{{efn|name="noname"}} - 宣吉隆男(3) * 母親{{efn|name="noname"}} - 伊藤みずほ(3) * 警官{{efn|name="noname"}} - [[飯尾英樹]](4) * 研究員{{efn|name="noname"}} - [[隈部洋平]](4) * 少女{{R|zukan331}}{{efn|name="noname"}} - [[久保結季]](4) * 赤子(闇の力){{R|zukan297}}{{efn|name="noname"}} - [[八木優希]](4) * 女子高生{{R|zukan329}}{{efn|name="noname"}} - 清水美穂、中西未来、岡本ひかり(4) * ピクニックの家族{{R|zukan330}}{{efn|name="noname"}} - 鈴木信明、広崎直美、近藤真由、[[矢野聖人|三浦聖人]](4) * 片平真由美 - [[福澄美緒]](5,6) * 少年 - [[神木隆之介]](5 - 8,39 - 46) * 水泳部員{{efn|name="noname"}} - [[小山裕達]]、[[金原泰成]]、川村貴志 (5) * 少年{{efn|name="noname"}} - 古川慎(5) * 少年(闇の力){{R|zukan297}} - 穴井隆文(7,8) * 警察幹部{{R|zukan317}}{{efn|name="noname"}} - 森下明(7,8) * セールスマン風の男{{R|zukan335}}{{efn|name="noname"}} - [[中川素州]](7) * ジョギング中の男{{R|zukan336}}{{efn|name="noname"}} - [[やべけんじ]](7) * ジェットコースター点検中の男{{R|zukan337}}{{efn|name="noname"}} - [[伊藤慎]](7) * カップル{{R|zukan339}}{{efn|name="noname"}} - 倉富幸洋、中沢明日美(8) * 紫のニット服の女{{R|zukan340}}{{efn|name="noname"}} - 太田好美(8) * 三浦智子 - [[森下まひろ]](9,10,42) * 父親{{R|zukan341}}{{efn|name="noname"}} - 木村真司(9) * 少年{{R|zukan341}}{{efn|name="noname"}} - [[吉武怜朗]](9,10) * 松井 - [[山崎猛 (俳優)|山崎猛]](10,11) * 刑事{{efn|name="noname"}} - [[岩田安宣]](10) * 母親{{R|zukan343}}{{efn|name="noname"}} - 山形志乃(10) * 篠原数樹 - 松嶋健市郎(11,12) * 篠原佐恵子 - [[中本奈奈]](11,12,42) * 編み物をしている女{{R|zukan347}}{{efn|name="noname"}} - 川満美砂(11,12) * 三浦智子の母{{R|zukan344}}{{efn|name="noname"}} - [[原田千枝子]](11) * 第一発見者{{efn|name="noname"}} - 米田基(11) * 図書館司書{{efn|name="noname"}} - [[練木有美子]](12) * 刑事A{{R|zukan348}}{{efn|name="noname"}} - 内海修宏(12) * 病院の受付{{efn|name="noname"}} - 山中富士子(12) * マスター - 中村文平(13,14) * 魚屋 - [[ただのいっこ]](13) * ケーキ教室の先生{{efn|name="noname"}} - [[片岡富枝]](13,14) * 鈴木{{efn|name="noname"}} - [[宍戸美和公]](13,14) * 田中{{efn|name="noname"}} - 春田季欧依(13,14) * 男A{{R|zukan349}}{{efn|name="noname"}} - 樋口靖(13) * 守衛{{efn|name="noname"}} - 伊東丈典(13) * 医師{{efn|name="noname"}} - 井鍋信治(14,15) * 隣人{{efn|name="noname"}} - 山田順子(14) * 警察幹部{{R|zukan317}}{{efn|name="noname"}} - [[堀部隆一]](15 - 17) * 男A{{R|zukan353}}{{efn|name="noname"}} - 太刀川健介(15) * 男B{{R|zukan354}}{{efn|name="noname"}} - 浅倉つとむ(15) * 太一の母{{efn|name="noname"}} - [[森脇由紀]](15) * セールスマンの男{{R|zukan355}}{{efn|name="noname"}} - 鈴木浩司(16) * 司龍二 - [[てらそままさき|寺杣昌紀]](18,19) * 警察幹部{{R|zukan317}}{{efn|name="noname"}} - [[山野史人]](18,19) * 花村久志 - 宮吉康夫(18,19) * 石倉{{R|zukan359}}{{efn|name="noname"}} - [[浜田大介]](18) * 犯人{{efn|name="noname"}} - 神谷秀澄(18,19) * 花村ベーカリーの客{{efn|name="noname"}} - [[滝本ゆに]](18,20) * 花村ベーカリーの客{{efn|name="noname"}} - 秋山恭子(18) * 作業員{{R|zukan360}}{{efn|name="noname"}} - 仁志初(18) * 刑事{{efn|name="noname"}} - 山元純(18) * 司さおり - 堤あきこ(19) * ジョギングの男A{{R|zukan362}}{{efn|name="noname"}} - [[OSAMU]](19) * ジョギングの男B{{R|zukan363}}{{efn|name="noname"}} - SATORU(19) * 初老の男{{R|zukan364}}{{efn|name="noname"}} - 葉山純士郎(20) * 花村ベーカリーの客{{efn|name="noname"}} - 伊藤逢委子(20) * 中野宏和{{R|zukan365}}{{efn|name="noname"}} - [[白井雅士]] * 男B{{R|zukan366}}{{efn|name="noname"}} - 藤田健次郎(20) * 高村光介 - [[清水綋治]](22 - 25) * 若い女{{R|zukan368}}{{efn|name="noname"}} - 田中章代(22) * 警官{{efn|name="noname"}} - 渥美正也(22) * バンドマンの男{{R|zukan369}}{{efn|name="noname"}} - 藤田和久(22) * 逃げられたOL{{efn|name="noname"}} - 此上暁子(22) * 医師{{R|zukan370}}{{efn|name="noname"}} - 三富一葉(23) * 大学生の男{{R|zukan371}}{{efn|name="noname"}} - [[おぐらとしひろ|小倉敏博]](23) * 少年A{{R|zukan372}}{{efn|name="noname"}} - [[水野樹希]](23) * バドミントンで遊ぶ女B{{R|zukan374}}{{efn|name="noname"}} - 坂東留実(24) * バドミントンで遊ぶ女A{{R|zukan373}}{{efn|name="noname"}} - [[香取広美]](24) * 警官{{efn|name="noname"}} - 川井政和(24) * 女A{{R|zukan375}}{{efn|name="noname"}} - 高松みずき(25) * ラーメン屋{{efn|name="noname"}} - 森元雅寛(25) * 事務員{{R|zukan376}}{{efn|name="noname"}} - 内田もん吉(26) * 執事{{R|zukan377}}{{efn|name="noname"}} - [[小柳洋子]](26,27) * 少女A{{R|zukan378}}{{efn|name="noname"}} - [[郷田由芽]](27) * 浅野一輝 - [[三觜要介]](28) * 一輝の父{{R|zukan382}}{{efn|name="noname"}} - 山城和人(28) * 一輝の母{{R|zukan383}}{{efn|name="noname"}} - 三島せつこ(28) * 黒服の男B{{R|zukan381}}{{efn|name="noname"}} - 渡邊昌宏(28) * 黒服の男A{{R|zukan380}}{{efn|name="noname"}} - 井殿雅和(28) * 藤島仁(高木明){{R|zukan386}} - [[山崎大輔]](29) * 刑事 - [[前田真里 (女優)|前田真里]](29) * 佐野稔(高木勇){{R|zukan384}}{{efn|name="noname"}} - 海一星(29) * 並木恒男{{R|zukan387}}{{efn|name="noname"}} - [[高橋修]](29) * 森恵子 - [[盛内愛子]](30) * 水原先輩 - [[大田祐歌]](30) * 克彦の妻 - [[松井涼子]](30,31) * テニス部の先輩A{{R|zukan390}}{{efn|name="noname"}} - 齊木菜摘子(30) * テニス部の先輩B{{R|zukan391}}{{efn|name="noname"}} - 坂本明日香(30) * スケボーの男{{efn|name="noname"}} - [[竹島正義]](31) * 橘純 - 津嶋麗(32,42) * 高島 - 加藤白裕(32) * 木野雅人 - [[秋山昌徳]](35,36,46) * 医師{{R|zukan398}}{{efn|name="noname"}} - [[永幡洋]](35,37) * 樋口{{R|zukan395}}{{efn|name="noname"}} - [[井上智之]](35) * スーツの女{{R|zukan394}}{{efn|name="noname"}} - 田中君枝(35) * 看護婦{{efn|name="noname"}} - [[佐藤智美]]{{要曖昧さ回避|date=2020年1月}}、西村いづみ(35) * 医師{{efn|name="noname"}} - [[佐藤祐四]]、[[田中智也]](36) * 犬を連れた女{{R|zukan397}}{{efn|name="noname"}} - 田島知佳(36) * 北條の部下{{efn|name="noname"}} - [[田中輝彦]](37,38) * 若い女{{R|zukan399}}{{efn|name="noname"}} - 小原なつみ(37) * 若い男{{R|zukan400}}{{efn|name="noname"}} - 広瀬法之(37) * 研究員{{R|zukan401}}{{efn|name="noname"}} - [[児玉頼信]](38) * 刑事{{efn|name="noname"}} - [[渡辺光一]](38) * 刑事 - [[土屋大輔]](40) * お洒落な女性{{R|zukan402}}{{efn|name="noname"}} - 国吉みやび(40) * 若い男{{R|zukan403}}{{efn|name="noname"}} - [[三嶋啓介]](40) * 葦原和雄 - [[竹本純平]](42) * 船長 - [[丸岡奨詞]](42) * 医師{{efn|name="noname"}} - [[手塚秀彰]](43) * OL風の女{{R|zukan404}}{{efn|name="noname"}} - [[菅野美寿紀]](43) * 男A{{R|zukan405}}{{efn|name="noname"}} - 白井雅士(45) * サラリーマン{{efn|name="noname"}} - [[益田てつ]](45) * 医師{{efn|name="noname"}} - [[甲斐道夫]](46) * 看護師{{efn|name="noname"}} - 緒方美穂(46) * 倉本 - [[加門良]](47 - 50) * バスケの男{{R|zukan406}}{{efn|name="noname"}} - OSAMU(47) * バスケの男の現身{{efn|name="noname"}} - SATORU(47) * 若い男{{R|zukan407}}{{efn|name="noname"}} - [[峰村寿彦]](47) * 観測員{{efn|name="noname"}} - [[嶋田豪]]、[[佐和タカシ]]、(47,49) * OL風の女の現身{{efn|name="noname"}} - 大沢桂(48) * OL風の女{{R|zukan408}}{{efn|name="noname"}} - 大沢薫(48) * 若い男{{R|zukan409}}{{efn|name="noname"}} - 大野勝人(48) * 観測員{{efn|name="noname"}} - 森元雅寛(49) * 若い男の現身{{efn|name="noname"}} - [[岡本優・岡本修|岡本ゆう]](49) * 若い男{{R|zukan410}}{{efn|name="noname"}} - [[岡本優・岡本修|岡本しゅう]](49) * 釣りの家族{{R|zukan412}}{{efn|name="noname"}} - 山口充、小玉敏樹(49) * OL風の女{{R|zukan413}}{{efn|name="noname"}} - 久保さやか(49) * 白河尚純 - [[広瀬裕]](49,50) * 占い師{{efn|name="noname"}} - [[宮寺智子]](50) * 若者{{R|zukan414}}{{efn|name="noname"}} - 直井英祐(50) * 白根秀樹{{R|zukan415}}{{efn|name="noname"}} - [[山田一善]](51) * 西ロンドン大生{{efn|name="noname"}} - [[サラ・ジョーンズ|SARAH JONES]](51) === スーツアクター === 仮面ライダーアギトは、前年まで戦隊レッドを演じていた高岩成二が担当{{R|仮面俳優5}}。高岩は本作品以降、『[[仮面ライダー響鬼]]』を除く平成仮面ライダーシリーズの主役仮面ライダーを演じている{{R|仮面俳優5}}。仮面ライダーギルス役には、前年に『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』でスーツアクターとしてデビューした押川善文が抜擢された{{R|仮面俳優101}}。 * 仮面ライダーアギト{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集リスト|ryuuki8|仮面俳優5}}{{Sfn|JAE NAKED HERO|2010|p=141|loc=LIST OF WORKS 高岩成二}}}}、仮面ライダーアギト(沢木雪菜変身時){{Sfn|高岩成二|2021|p=69}}、仮面ライダーG3-X(津上翔一変身時){{Sfn|高岩成二|2021|p=220}}、V-1システム{{R|超全集リスト}} - [[高岩成二]] * 仮面ライダーG3{{R|超全集リスト|ryuuki8}}、仮面ライダーG3-X{{R|超全集リスト|HIBIKI}} - 伊藤慎 * 仮面ライダーギルス{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集リスト|ryuuki8|仮面俳優101}}{{Sfn|JAE NAKED HERO|2010|p=123|loc=LIST OF WORKS 押川善文}}}} - [[押川善文]] * アナザーアギト{{R|超全集下|ryuuki8}} - 白井雅士 * アンノウン - [[矢部敬三]]{{R|RED|超全集リスト}}、[[藤榮史哉]]{{R|超全集リスト}} * 風のエル{{R|NAKED%20HERO}}、地のエル{{R|NAKED%20HERO}}、G3・MILD(テレビスペシャル){{R|NAKED%20HERO}}、アンノウン{{Sfn|ディケイド公式読本|2009|p=177}} - [[岡元次郎]] * その他 - [[中川素州]]<ref>{{Cite web |title=『ライダー!』 |url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-10303226217.html |website=motoブログ |access-date=2023-12-31 |language=ja}}</ref> == スタッフ == 前年より引き続き参加の白倉伸一郎が、本作品ではチーフプロデューサーとなり、以降『[[仮面ライダーディケイド]]』まで平成仮面ライダーシリーズに頻繁に関わることになった。また白倉やシリーズ構成である井上敏樹も含め、かつて東映が制作した『[[超光戦士シャンゼリオン]]』に参加していたスタッフが、本作品にも多数参加している。白倉も「本作品はシャンゼリオンのリベンジである」と、2009年発売『仮面ライダーマガジン』のインタビューで語っている{{Full|date=2022年2月}}。 クリーチャー(アンノウン)デザインには、東映特撮ヒーロー作品には『[[超新星フラッシュマン]]』以来15年ぶりの参加となるメカニックデザイナー・出渕裕{{efn|出渕はS.A.U.L.制服やアナザーアギトのデザインも担当している{{Sfn|ディケイド公式読本|2009|p=54}}{{R|完全超悪136}}。}}を起用{{Sfn|ディケイド公式読本|2009|p=54}}{{R|完全超悪14}}。さらに出渕を補佐する形で、彼の指名でイラストレーター・草彅琢仁が参加した{{R|完全超悪14}}。 本作品よりバイクなどの車両協力、ならびに平成仮面ライダーシリーズの番組スポンサーとして、[[本田技研工業]]が参加。番組中で流れる[[コマーシャルメッセージ|CM]]はすべて、平成仮面ライダーシリーズ限定で放映の二輪車のものである。本田の参加は、テレビ朝日プロデューサーの中嶋豪が個人的に同社のモータースポーツ部長と懇意にしていたことから実現したもので、中嶋は仕事ではなく個人的な協力であったと述べている{{R|21st3}}。 また[[日本コロムビア]]が関与した最後の仮面ライダーシリーズ作品でもあり、次作『[[仮面ライダー龍騎]]』以降は[[avex mode|エイベックス]]が音楽制作を担当している。 * 原作 - [[石ノ森章太郎]] * 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]、[[めばえ (雑誌)|めばえ]]、[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]、[[おともだち]] * スーパーバイザー - 小野寺章([[石森プロ]]) * プロデュース - 松田佐栄子(テレビ朝日)、[[白倉伸一郎]]、[[武部直美]]、[[塚田英明]] * シリーズ構成 - [[井上敏樹]] * 脚本 - 井上敏樹、[[小林靖子]](第28話のみ) * 監督 - [[田﨑竜太]]、[[長石多可男]]、[[六車俊治]](テレビ朝日)、[[石田秀範]]、[[鈴村展弘]]、佐藤健光、[[金田治]]、[[渡辺勝也]] * 音楽 - [[佐橋俊彦]] * 撮影 - [[松村文雄]]、[[いのくままさお]] * VFXスーパーバイザー - 沖満([[日本映像クリエイティブ]]) * 助監督 - 鈴村展弘、黒木浩介、福島宏介、田澤裕一、[[柴﨑貴行]]、斉藤滋嗣、近藤信子 * アクション監督 - [[山田一善]]・[[宮崎剛 (俳優)|宮崎剛]]{{efn|25話まではノンクレジット<ref>{{Cite book|和書 |title=東映ヒーロー 仮面俳優列伝 第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 宮崎剛|year=2014年 |publisher=辰巳出版 |pages=199-207}}</ref>}}([[ジャパンアクションクラブ]]) * キャラクターデザイン - [[早瀬マサト]] * クリーチャーデザイン - [[出渕裕]]、[[草彅琢仁]] * 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[アサツー ディ・ケイ|ASATSU-DK]] == 音楽 == 本作品以降、平成仮面ライダーシリーズ、および令和仮面ライダーの各作品では原則としてエンディングテーマが省略されている{{efn|『[[仮面ライダー響鬼]]』1 - 33話、『[[仮面ライダーセイバー]]』は除く。|name="agito-ed"}}。これにより、出演者やスタッフなどのクレジットはすべてオープニングに集約され、省略によって稼がれた分は、ドラマ部分の放映時間として割り当てられるようになった。本来、戦闘場面などのシーンを盛り上げるためのテーマソングは挿入歌として扱われるべきものであるが、スタッフロールなどではエンディングテーマとして表記されている。 上記の通り厳密な意味でのエンディングテーマはないが、各話の終盤(主にバトルシーン)で使われている下記の挿入歌4曲がエンディングテーマ扱いとなっている。またシングル発売時に「2ndエンディング」と銘打たれた「One & Only」という曲もあったが、劇中では一度も使われることがなかった。実質の後期エンディングである「DEEP BREATH」は、シングルに「3rdエンディング」と記載されている。 この形式は一部の例外{{efn|name="agito-ed"}}を除いて、以降のシリーズにも引き継がれている{{efn|『[[仮面ライダー響鬼]]』の34話 - 47話はこのような形式が使われていない。}}。本作品の挿入歌はすべて、劇中での使用を考慮したテレビサイズが制作されていたといい、このうち「Stranger in the dark」「MACHINE TORNADER」の2曲は、エンディングと同様に使用された。 劇伴は、前作に引き続き佐橋俊彦が担当{{R|21st13}}。前作では[[スーパー戦隊シリーズ]]との差別化からオーケストラ編成は避けていたが、本作品では日本コロムビアの本地大輔が必要性を感じ、オーケストラ編成が加えられた{{R|21st13}}。 === 主題歌 === 第1話と最終話(第51話)はオープニングが省略されており、第1話は次回予告がエンディングを兼ねた形式(予告編の映像にスタッフロールが被せられる)で、主題歌は使われていない。また最終話は本編のラスト部分がそのままエンディングになっており、主題歌には「仮面ライダーAGITO」が使われた。 ; 「仮面ライダーAGITO」(第2話 - 35話、51話のED) : 作詞 - [[藤林聖子]] / 作曲・編曲 - [[三宅一徳]] / 歌 - [[石原慎一]] / コーラス - [[大木理紗]] : シリーズで初めて、劇伴音楽の担当者が制作に関わらない主題歌となった。[[器楽曲|インストゥルメンタル]]版は予告編音楽として使われた。また、クレジット表記のフォントが途中で変更されている。 ; 「仮面ライダーAGITO 〜24.7 version〜」(第36 - 50話、テレビスペシャル) : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / リミックス - 三宅一徳、鈴木浩之、篠笥孝 / 歌 - 石原慎一 / コーラス - 大木理紗 : 「仮面ライダーAGITO」の伴奏を[[リミックス]]し、新しい歌詞で歌い直したもので、テレビシリーズでは2番の歌詞が主題歌として、劇場版では挿入歌としてそれぞれ使われた。この楽曲を最後に、『[[仮面ライダーセイバー]]』(2020 - 2021年)の同名曲が発表されるまで、主題歌のタイトルや歌詞に「仮面ライダー」という言葉は使用されなくなった。「24.7」という数字には「24時間、7日間ずっとアギトと一緒」という意味が込められている{{efn|『[[日本コロムビア]]『百獣戦隊ガオレンジャーVS仮面ライダーアギト』 (COCX-31715/6) での台詞より。}}。 === 挿入歌 === ; 「BELIEVE YOURSELF」(第1話 - 第29話・最終話) : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - [[風雅なおと]] : テレビスペシャルや『[[仮面ライダージオウ]]』の第32話でも使用された。 ; 「Stranger in the dark」(第9話) : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 佐橋俊彦 / 歌 - [[坂井紀雄]] : G3の戦闘テーマ曲。 ; 「MACHINE TORNADER」(第14・40話) : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - [[石原慎一]] : マシントルネイダーのテーマ曲。 : 各話とも曲の出だし部分でインストゥルメンタル版と併用され、第31話では歌の前奏と後奏部分のみが使用された。 ; 「DEEP BREATH」(第26話 - 第48話) : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲 - [[野村義男]] / 編曲 - [[RIDER CHIPS]] / 歌 - [[ROLLY]] (RIDER CHIPS Featuring ROLLY) / ゲストキーボード - [[猪股義周]] : 歌唱者の名義は映像および[[日本コロムビア|コロムビア]]のCDでは「ROLLY」だが、[[エイベックス]]のCDでは「RIDER CHIPS Featuring ROLLY」の表記になっている。 : サウンドトラックにはテレビサイズのみ収録。フルサイズがアルバムに収録されたのは前述の『百獣戦隊ガオレンジャーVS仮面ライダーアギト』が初となる。 ; 「もうひとつの仮面の戯曲」(第40話・第42話・第46話) : 日本語作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 佐橋俊彦 / 歌 - 白石圭美 : 最終話および劇場版ではインストゥルメンタル版が使用された。 ; 「Touch」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲 - 野村義男 / 編曲 - RIDER CHIPS / 歌 - RIDER CHIPS Feat. ROLLY、[[橋本仁 (歌手)|橋本仁]] : 「DEEP BREATH」のカップリング曲。劇中で歌唱部分は使用されていないが、第47話でカラオケ版の一部が使用された。 === イメージソング・キャラクターソング === 全曲とも作中未使用。 ; 「One & Only」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - 風雅なおと ; 「searching for myself」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 佐橋俊彦 / 歌 - [[きただにひろし]] ; 「The usual suspects」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - [[大橋恵]] / 歌 - 坂井紀雄 ; 「NEVER DIE」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 佐橋俊彦 / 歌 - 橋本仁 ; 「Emergency Guard Chaser」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 佐橋俊彦 / 歌 - 橋本仁 ; 「Home sweet Home」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - 風谷真魚(秋山莉奈) / コーラス - [[広谷順子]] ; 「Burnin'your heart」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - 石原慎一 / コーラス - 大木理紗 ; 「extremes meet」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲・編曲 - 三宅一徳 / 歌 - 風雅なおと / コーラス - 大木理紗 ; 「Sitting On The Dynamite」 : 作詞 - 藤林聖子 / 作曲 - 野村義男 / 編曲 - RIDER CHIPS・[[渡部チェル]] / 歌 - RIDER CHIPS Feat. 橋本仁 : 「DEEP BREATH」のカップリング曲。 == 番組制作 == === 企画経緯 === 本作品の企画は、『クウガ』のヒットにより、その後番組として2000年夏ごろから[[白倉伸一郎]]・[[武部直美]]・[[井上敏樹]]を中心に立ち上げられた{{R|テレマガ}}。秋ごろには劇場版の検討も始められていた{{R|テレマガ}}。 白倉による初期案は、「人間とモンスターがカードを使って契約する」という設定で{{R|graffiti}}{{efn|これは次作『[[仮面ライダー龍騎]]』において採用される形となった。}}、「主人公とヒロインが[[沖縄県|沖縄]]から出発し、2人で[[東京都|東京]]を目指すロードムービー」というものであったが、現実的には制作が難しいという理由で不採用となった{{R|テレマガ}}{{efn|この案は2003年の『[[仮面ライダー555]]』で取り入れられている{{R|TVM555}}。}}。また主人公が記憶喪失であること{{efn|なお、この設定に関しては、放送後に視聴者から「記憶喪失者が免許を取れるはずがないのにバイクに乗っていることは無免許運転の奨励である」というクレームが寄せられており、そのフォローとして翔一が氷川に免許証を見せる描写が追加された{{R|ヒーロー}}。なお、現実に記憶喪失者が本名と異なる免許証を取得することは可能。[[健忘#記憶喪失者の法益の保護]]を参照。}}は当初から決まっており、素性不明の主人公が警察から追われる展開になってしまうのを避けたのも、旅物語を廃案にした理由のひとつである{{R|graffiti}}。 次に10人ぐらいの仮面ライダーが登場する群像劇という案が出され、最終的に3人まで絞られ完成作品へと至った{{R|超全集|テレマガ}}{{efn|「10人ライダー」というアイディアは、次作『[[仮面ライダー龍騎]]』の基本コンセプトとして受け継がれた{{R|テレマガ}}。}}。人数が絞り込まれたのは、10通り以上のフォームチェンジが登場した前年の『クウガ』との差別化のためである{{R|graffiti}}。 本作品のタイトルを考えている際に、「仮面ライダーダイバ」という案もあったが、前作『クウガ』のスタッフが「敵のアジトが」という話を聞いたプロデューサーの白倉が、「仮面ライダーアジト」というタイトルを考えたが、それではあんまりということで「アギト」ということとなった{{Sfn|キャラクターアルバム|2001|loc=「Named the AGITΩ」}}。「アギト」は、日本語の古語で「顎門」を「あぎと」と読んだことに由来する{{efn|「アギト」の名は過去にも『[[仮面ライダーJ]]』で敵怪人の名前として用いられており、そのため企画段階で情報が漏洩しても同じ名前をつけるわけがないと判断され、カムフラージュにもなっていた{{R|テレマガ}}。}}。また、英字表記であるAGITOが[[ラテン語]]において「覚醒」や「挑戦」を意味することにもちなんだものである。さらにAGITOは、[[聖書]]に存在する「Alpha([[Α|アルファ]])に始まり、Omega([[Ω|オメガ]])に終わる」のフレーズを思わせる文字構成であることから、「最初で最後の作品」との意味合いが込められている。これにちなみ、本作品の欧文表記は「AGITO」ではなく「ΑGITΩ」(頭文字がアルファ、末尾がオメガ)となっている。 === セッティング === 『[[仮面ライダークウガ]]』の後番組を制作するにあたって、プロデューサーに就任した[[白倉伸一郎]]は、1人が10形態に変化するクウガのフォームチェンジをそのまま踏襲すると、キャラクターにブレが生じてしまうだろうと判断した{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=55}}。そこで白倉は、ヒーローキャラクターを主人公・ライバル・敵役の3人に分担させることを発案し、それがやがて実際の作品の群像劇へと発展していった{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=55}}。 本作品では、「人はみなヒーローになれる」しかし「ヒーローにならなくてもいい」という、一見すると矛盾しているような主題が語られる{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=55}}。そのため、最初からヒーローたりえる'''アギト'''、望まずしてヒーローにされた'''ギルス'''、決して超人ヒーローにはなりえない'''G3'''の3人が設定され、彼らの関係性を通じて世界が描かれることとなった{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=55}}。 仮面ライダーG3については、当初は記号のような名前がいいということから「K5」などの案があったが、読売ジャイアンツの3番になぞらえて「G3」という名前となり、「Generation3」と理由づけされた{{Sfn|キャラクターアルバム|2001|loc=「Named the AGITΩ」}}。当初からパワーアップを前提としていたため、おとなしめにデザインされた{{R|テレマガ}}。アギトやギルスと同じく、角(アンテナ)が伸びるという案も存在した{{R|テレマガ}}。また、石森プロの飯田浩司によるとG3-Xの初期デザイン案は[[仮面ライダーX]]をモチーフとしており、デザイン変更後も[[仮面ライダーX]]の装着パーツである「レッドアイザー」と「パーフェクター」という名称がG3-Xの装着パーツの名称として採用されたという{{R|テレマガ}}。 プロデューサーの白倉は葦原涼が仮面ライダーギルスに変身した理由は特にないとしており、雪菜や可奈のように潜在的に人がアギトになるものとしている{{R|graffiti}}。一方、メインライターの[[井上敏樹]]は漫画家・[[柴田ヨクサル]]との対談の中で、ギルスのセッティングには苦労したと話しており、これに関連して「あかつき号」の設定を作ったものの、撮影にはフェリーが必要だったため、監督同士でだれが担当するかでもめたという<ref>{{Cite web|和書|title=【特別対談】井上敏樹×柴田ヨクサル、「ライダー」を語る夜──。 |url=https://viewer.heros-web.com/news/entry/rider-taidan |website=コミプレNEWS |date=2021-11-26 |access-date=2023-09-05 |language=ja |last=comiplex}}</ref>。 また、G3ユニットと対立するエリート警部補・北條 透について、本作品のメインライターを担当した脚本家の井上敏樹は、本作品の登場人物の中で一番好きなキャラクターとして北條を挙げており、「北條透が何をするか」というのが脚本打ち合わせの大きなテーマだったといい{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=53}}、北條を主人公とした話を書くため、第18・19話が執筆された{{Sfn|英雄伝|2010|p=42}}。 アナザーアギトは物語の流れの中で要請されたキャラクターであり、 番組制作現場においては当初定まった名称がなく、脚本上は「木野アギト」と表記されていた{{Sfn|テレビマガジン特別編集|2002|p=89}}{{R|toei-agito36}}。劇中では「もう1人のアギト」と呼ばれ、アナザーアギトと呼称されることはない{{efn|2019年の『仮面ライダージオウ』において「アナザーライダー(敵怪人)としてのアナザーアギト」が登場して以降は、木野が変身する「仮面ライダーとしてのアナザーアギト」を「'''仮面ライダーアナザーアギト'''」と呼称して区別している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/kamen_rider_member/91|accessdate=2020-02-23|title=仮面ライダー図鑑 仮面ライダーアナザーアギト|publisher=東映}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kamen-rider-official.com/columns/4|accessdate=2020-04-29|title=仮面ライダーWEB 仮面ライダー図鑑製作担当者インタビュー|publisher=東映}}</ref>。}}。アナザーアギトの変身者である木野薫は、当初よりアギトに変身する人物として想定されていたが、細かい設定は登場直前まで考えられておらず、名前も男女どちらでも通用するものにされた{{R|語ろう}}{{efn|また、あかつき号関係者のうち全く性別が定まっていなかった登場人物に関しても同様に、男女どちらにも通用する名前がもちいられた{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=53}}。}}。 なお、登場人物の趣味や服装には演者の嗜好が反映されている例もあり、たとえばアギトに変身する津上翔一の髪形は、演者である[[賀集利樹]]の髪形がそのまま反映されている{{efn|俳優デビュー前の賀集はサーファー向けの雑誌のモデルをしていた<ref name="Mynavi20210131P1"/>。}}<ref name="Mynavi20210131P1"/>。加えて、翔一の衣装は撮影の都度賀集が衣装係とともに撮影所近くの店で調達してきたものであり、アウトドアブランドのフリースや、動きやすくて楽な服が選ばれたという<ref name="Mynavi20210131P1"/>。また、ヒロインであり翔一の理解者である風谷真魚の趣味やファッション<ref name="WP20201209">{{Cite web|和書|title=仮面ライダー女優が語る「あの頃」と「今」――超能力で『仮面ライダーアギト』を支える女子高校生、風谷真魚役の秋山莉奈「怪人に襲われながらも内心はすごく楽しかったです!」 |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2020/12/09/112588/ |website=週プレ グラジャパ! -GRAVURE JAPAN!-|access-date=2023-09-13 |date=2020年12月9日}}</ref>、《G3ユニット》の一員である小沢澄子の好物{{R|ToeiYakiniku}}も、同様に演者の趣味や嗜好に由来する。 敵陣営であるアンノウンは、ネーミングはラテン語や古典ギリシア語をベースとしているが、語呂を優先しているため、学名の二名法には従っておらず、ギリシア語をラテン語にも変えていないという{{R|graffiti}}。また、読みや文法も無視している{{R|graffiti}}。 === デザイン === ==== デザイン(仮面ライダー) ==== 仮面ライダーのデザインワークは、[[石森プロ]]と[[プレックス]]が中心となって進行した{{Sfn|OPF 9|2014|p=31}}。クウガのデザインから発展させたものを主人公のアギトに充て、そこにメカライダーと生物的ライダーを加えるという方向性が決められた{{Sfn|AC|2003|p=139}}。 ;アギト :タイトルキャラクターであるアギトは、前作『クウガ』のヒットを受け、スポンサーの要請によってクウガと同様に「角ライダー」というコンセプトでデザインされた{{R|テレマガ}}。 しかしアギトのデザインは、クウガにどの程度近づけ、またどの程度差別化を図るかの割合が決まらずに難航し、瞬間的なアイデアスケッチの数は100点を越えた{{Sfn|AC|2003|p=139}}。最終的にクウガよりも「角」と「顎」を鋭く力強くし、さらに「角に開閉ギミックを加える」というアイデアを導入することで、アギトのデザインは完成した{{Sfn|OPF 9|2014|p=31}}。特に角の開閉ギミックは、クウガとの差別化が最もよくできた部分として、デザイナー一同も会心の手ごたえを感じていた{{Sfn|AC|2003|p=139}}。 :クウガとの差別化のため角を赤くする案も存在したが、インパクトがありすぎるため強化形態へ持ち越された{{R|テレマガ}}{{efn|当初はパワーアップ形態は登場しない予定であった{{Sfn|超辞典|2011|p=170}}。}}。また「アギト」の名に合わせ、角だけでなく顎も強調するために、クラッシャー部分は鋭く力強いデザインとなっている<!--以上の出典-->{{R|テレマガ}}。角の開閉ギミックは早瀬の発案で『[[仮面ライダーストロンガー]]』で石ノ森がストロンガーのパワーアップ案として描いたスケッチをソースとしている{{R|超解析69}}。変身ポーズは突き出した手の手刀のイメージから帯を締める所作となっている{{Sfn|高岩成二|2021|p=69}}。 :石森プロの早瀬マサトは当時、「本来デザインソースというものは明らかにすべきことではないし、そのモチーフ自体は物語には全く関係ない」という考えを抱いていたため、アギトのモチーフは公開されていなかった{{Sfn|OPF 9|2014|p=32}}。その結果、放送開始直前の[[2000年]](平成12年)後半には、ファンの間でモチーフをめぐる論争が起こり、「アギトアリではないのか」などの噂が駆け巡った{{Sfn|OPF 9|2014|p=32}}。ファンの疑問は次第に高まっていき、テレビ朝日の公式サイトには質問が殺到{{Sfn|OPF 9|2014|p=32}}。ついに[[2001年]](平成13年)1月、アギトのモチーフが「[[竜|龍]]」であることが明かされるに至った{{Sfn|OPF 9|2014|p=32}}。ところが熱狂的なファンたちからは「昆虫ではないのか」と公式発表に異を唱える声が次々と挙がった{{Sfn|OPF 9|2014|p=32}}。 ;仮面ライダーG3 :仮面ライダーG3のデザインは、メカニックで再現されたクウガというふうであり、アンテナの形状も意識してクウガに似せてある{{Sfn|AC|2003|p=139}}。[[メタルヒーローシリーズ]]の登場キャラクターの系譜に連なるとも言えるが、アーマーのパンツ部分が存在しない点がメタルヒーローとの決定的な違いとなっている{{Sfn|AC|2003|p=139}}。当時プレックスに在籍していた野中剛は、『[[重甲ビーファイター]]』に携わった際にパンツがアクションを制限してしまうことを知り、解決策を模索していた{{Sfn|AC|2003|p=139}}。そして以前、[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]のアクション俳優が[[特救指令ソルブレイン|ソルブレイバー]]のスーツを着用中、一瞬パンツアーマーがない姿となったのを目撃したことをヒントとして、G3のデザインに入れ込んだのである{{Sfn|AC|2003|p=139}}。 ;仮面ライダーギルス :仮面ライダーギルスのデザインは、クウガをより生物的にしようと考えた結果、「[[蛹]]になったクウガ」へと行き着いたものである{{Sfn|AC|2003|p=139}}。とにかく地味にしようという意識のもとで、角までも緑色に染められている{{Sfn|AC|2003|p=139}}。形態は[[カミキリムシ]]をモチーフとしている{{Sfn|OPF 97|2016|p=3}}。角は[[石森プロ]]の[[早瀬マサト]]により『[[イナズマン]]』風にデザインされた{{R|テレマガ}}{{Sfn|超辞典|2011|p=577}}。当初、角の伸縮はアギトの開閉ギミックと同様にパワーアップしたら伸びるものと考えられていたが、短縮形態が様にならなかったためパワーダウン形態に改められた{{R|テレマガ}}。 :ギルスの撮影用車両のベースモデルはホンダXR250であり{{R|honda-tips}}、2016年の『[[仮面ライダーアマゾンズ]]』に登場する仮面ライダーアマゾンオメガの専用バイク「ジャングレイダー」に改造された<ref>{{Twitter status|cron204|722561600989704192}}</ref>。 :ギルスの強化形態である仮面ライダーエクシードギルスのデザインはギルスとギルスレイダーが融合したイメージイラストを発想の原点とし、仮面ライダークウガ アルティメットフォームの要素を取り入れてデザインされた{{Sfn|AC|2003|p=140}}。 ;アナザーアギト :前述の理由から玩具化は考慮されておらず、デザインにバンダイは絡んでいない{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=63}}。アンノウンのデザインを手がけた出渕裕が担当している{{R|超解析69|完全超悪136}}。出渕が自分なりに考えた仮面ライダーとしてデザインしたが、その時点では木野薫のキャラクターが固まっておらず、主人公ならびにアンノウンとの関係も固まっていなかった{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=63}}。そのためアナザーアギトは仮面ライダーと怪人の中間を意識したデザインで描かれている{{Sfn|超辞典|2011|p=42}}。具体的には、ツノや胸部中央の半透明のパーツ、肩の紋章のニュアンスなどはアギトから引っ張っている{{R|完全超悪136}}一方、アンノウンと共通の意匠である羽と歯牙を持つ{{R|超解析69|完全超悪136}}。仮面ライダーの元となった[[スカルマン]]をイメージ的に狙っており、またライダーであることからボディカラーを緑色にして、バッタらしい要素も入れている{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=63}}。両肩の肩甲骨の辺りから出ているマフラー状の羽は、未進化であることを示しており、[[仮面ライダーV3 (キャラクター)|仮面ライダーV3]]のマフラーを意識している{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=63}}{{Sfn|超辞典|2011|p=42}}{{R|ART WORKS90}}}}。なお、デザイン画のアナザーアギトは細身だが、実際の撮影用スーツはややマッシヴな造りになっている{{Sfn|AC|2003|p=57}}。 :デザインモチーフは『仮面ライダーアマゾン』のジャングラーだったが、実際には新サイクロンのようになってしまったと出渕は語っている{{Sfn|超辞典|2011|p=465}}。 ==== デザイン(アンノウン) ==== アンノウンのうち陸上動物や昆虫、鳥類モチーフは出渕、水棲生物や爬虫類および胸の羽根飾りとバックルは草彅がデザインを担当している{{R|完全超悪14|完全超悪136}}。 当初は天使や神の使徒のようなものをイメージしていたため、異次元の生物のようなラフを描いていたが、動物モチーフとなった{{R|完全超悪136}}。前作『クウガ』が蛮族のような野蛮な前史時代のイメージであったため、本作品では神話系にもっていくこととなった{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=62}}。だが、天使という設定が残ったため、出現時に頭上に天使の輪っかが現れる設定となった{{R|完全超悪136}}。背中の肩甲骨部分の小さな羽根の意匠は、骨が羽根になりかけている退化した天使の羽根の状態でデザインされており{{R|超解析45}}、「天使になりきっていない者」という意味合いを表現している{{R|UYB134|完全超悪136}}。それに対してエルロードは大きめの羽をデザインしている{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=62}}。なお、鳥類モチーフのアンノウンは別に羽根が付いている{{R|完全超悪136}}。胸元の羽根飾りのようなアンノウンのマークは、初期案での「上位のロードと契約を交わして出現する」という設定から、共通の意匠として自分のサインのための[[羽根ペン]]として想定されていた{{R|UYB134|完全超悪136}}。 太古から天使のような役割で生きていることを表現するため、総じて古代文明テイストの装飾となっている{{R|完全超悪136}}{{efn|例としてトータスロードはローマ兵、ジャッカルロードは[[アヌビス|アヌビス神]]などモチーフにした生物に親和性のある神話や文明、宗教や伝説などの衣裳から意匠を引っ張っている{{R|完全超悪136}}。}}。衣装や装飾品は、『仮面ライダークウガ』のグロンギと同様に腕輪や足首の輪、足の編み上げ靴などの装飾物を付け、スーツのしわが寄りやすいグローブやブーツの接合部分を隠すという意図もあった{{R|UYB134|完全超悪136}}。また、グロンギ同様、共通項としてベルト部分に細い前垂れのようなものを付けて前に置くことで目立たせ、直接的にシワの寄る部分を隠せていないが、見る人の意識を外らせている{{R|完全超悪136}}。ウソっぽくなることから毛をそのまま使うのではなく、チェーンを毛の代わりに使っている{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=62}}。 目元は『[[仮面ライダー]]』の初期[[ショッカー怪人]]のような人間の目が覗いているようなデザインを意識している{{R|UYB134}}。額には共通項としてOシグナルがある{{R|超解析45}}。アギトの名前の由来が「顎門」であり、創造主がロード怪人をベースに動物を作ったという設定があるため、生物のマスクを被った天使という解釈で、下顎は共通で人間のようなドクロの口周りをスケルトンのような感じで剥き出しにしており、例外として女性怪人は女性っぽさを出すため唇になっている{{R|超解析45|完全超悪136}}。 予算がかかることから中盤からは飛ぶ怪人を避けている{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=62}}。また、夏場に放送されていた回では、海洋生物をモチーフとしたアンノウンが多く登場している{{R|完全超悪136}}。 物語終盤に登場する上位アンノウン・得るロードのうち、水のエルは立場を反映して品位や知性を感じるデザインとなっている{{R|完全超悪136}}。天使のイメージを内包しているが、宗教的な天使とは距離を取っている{{R|完全超悪136}}。一方、女性型である風のエルは美麗で高貴なイメージのデザインとなっている{{R|完全超悪136}}。また、地のエルは上位のロードのため、陸上生物の王様であるライオンがモチーフとなった{{R|完全超悪136}}。同じネコ科のモチーフであるジャガーロードが下僕という案もあったが、見送られた{{Sfn|超辞典|2011|p=495}}。 === キャスティング・演技 === {{出典範囲|text1=アギトこと津上翔一役には、本作が俳優デビュー作となる[[賀集利樹]]がオーディションで起用された。賀集がマイナビニュースとのインタビューで語ったところによると、当時所属していた事務所の社長が『仮面ライダークウガ』を視聴しており、上京してきたばかりの賀集を「仮面ライダー」の次回作のオーディションに受けさせようと思っていたという。賀集はこの時の気持ちについて、絶対に役をとると意気込んだり、構えたりすることなく、素のままで臨んだことがキャラクターのイメージに合っていたのではないかと振り返っている。|ref1=<ref name="Mynavi20210131P1">{{Cite web|和書|title=『仮面ライダーアギト』賀集利樹が語る20周年への思い、『ジオウ』で後輩へつないだ仮面ライダーの魂 |url=https://news.mynavi.jp/article/20210131-1680872/ |website=マイナビニュース |date=2021-01-31 |access-date=2023-09-05 |language=ja}}</ref>}}{{出典範囲|text1=当初賀集は本作に仮面ライダーが3人出てくることを知らず、役が決まって東映撮影所へあいさつに行った際、仮面ライダーG3こと氷川誠役の要潤、そして仮面ライダーギルスこと葦原涼役の友井雄亮と会い、初めてそのことを知ったという。また、物語の中で一つの場面に変身前の3人がそろうことはほとんどないため、いつ、どのような形で3人が集まったりすれ違ったりするかは台本を読んでみないとわからないため、視聴者たちと同じ感覚で撮影に参加していたと賀集は振り返っている。|ref1=<ref name="Mynavi20210131P1"/>}}番組の性質上、アクションシーンも一通り対応できるよう、撮影2カ月前からJAEの道場で訓練を積んでいたものの、変身前の翔一がアンノウンと闘う場面が少なく、むしろ料理{{efn|野菜などを切るシーンの手元のアップは、プロの板前が実際に切っているものが使用されていたという{{Sfn|仮面ライダーアギトグラフィティ|2002|p=14}}。}}や家庭菜園といった家庭的な場面が多いことから、賀集はマイナビニュースとのインタビューの中でエプロンの似合う仮面ライダーとしてかなり珍しがられたと話しており、それゆえに変身前後のギャップがついておもしろくなったのではないかと分析している<ref name="Mynavi20210131P2">{{Cite web|和書|title=『仮面ライダーアギト』賀集利樹が語る20周年への思い、『ジオウ』で後輩へつないだ仮面ライダーの魂(2ページ目) |url=https://news.mynavi.jp/article/20210131-1680872/2|website=マイナビニュース |date=2021-01-31 |access-date=2023-09-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230105083410/https://news.mynavi.jp/article/20210131-1680872/2|archivedate=2023-01-05}}</ref>。また、アギトに変身した後は掛け声くらいしかなかったため、アフレコでは苦労しなかったとも話している<ref name="Mynavi20210131P2"/>。{{出典範囲|text1=一方、賀集は「過去の記憶を失っているが、あまり気にかけることなく生きている」という翔一の設定については考えるたびに演じるのが難しかったとマイナビニュースとのインタビューの中で話しており、その理由として記憶喪失にはどうしても重たいイメージが付きまとうため、どことなくくらい雰囲気を持たせようと考えて演じたところ、「記憶喪失であることを気にせず明るく演じてほしい」と言われ、キャラクターの性格と記憶喪失に接点を見いだせず、納得いかなかったという。やがて撮影が進むにつれ自分の中で吹っ切れたたといい、津上の居候先である美杉家の人々のアットホームな雰囲気に救いだされたと振り返っている。|ref1=<ref name="Mynavi20210131P1"/>}} {{出典範囲|text1=アギトのスーツアクターは、『忍者戦隊カクレンジャー』などに出演した高岩成二が務めた。高岩はマイナビニュースとのインタビューの中で、従来はデフォルメした演技をしていたが、本作の撮影現場では戦隊寄りとしてNGになることが多く、動きすぎるとも指摘を受けたため、試行錯誤の末に「動かない」芝居に切り替えたところ、OKをもらったと振り返っている。また、アギトのライダーキックは[[居合抜き]]をモチーフとしており、高岩は時代劇をやっているような感覚だったとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている。|ref1=<ref>{{Cite web|和書|title=ミスター平成仮面ライダー・高岩成二が語る、「仮面ライダー」の変わらない魅力とは |url=https://news.mynavi.jp/article/20181227-kamenrider/ |website=マイナビニュース |date=2018-12-27 |access-date=2023-09-13 |language=ja}}</ref>}} {{出典範囲|text1=氷川誠役の要も本作が俳優としてのデビュー作だった。要は2020年のラジオ番組『Be Style』の中で過酷な撮影だったと振り返り、その様子を修行に例えている。|ref1=<ref name="TH20200504P2"/>}}共演者の賀集も、G3はセリフが多いから要が大変そうだったとマイナビニュースとのインタビューの中で話している<ref name="Mynavi20210131P2"/>。 要は撮影開始から半年後に行われた劇場版の舞台挨拶のために銀座を訪れた際、ファンから声をかけられたことがきっかけで、自分のしていたことがたくさんの人々の目に触れたことを実感したと『Be Style』の中で明かしている<ref name="TH20200504P2">{{Cite web|和書|title=要潤、『仮面ライダーアギト』の舞台挨拶から得た“大切な経験” - Part 2 |url=https://www.tokyoheadline.com/496196/2/ |date=2020-05-04 |access-date=2023-09-06 |Publisher=ヘッドライン|website=TOKYO HEADLINE}}</ref>。 葦原涼役の[[友井雄亮]]もまた本作が役者として本格的なスタートを切った作品であり、スーツアクターの押川善文も本作が初めてのヒーロー番組の仕事だった<ref name="Aera20180717P2">{{Cite web|和書|title=(2ページ目)仮面ライダー出演の“純烈”友井雄亮が明かした撮影秘話 「感動より恐怖だった」 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/99462?page=2|website=AERA dot. (アエラドット) |date=2018-07-17 |access-date=2023-09-05 |language=ja}}</ref>。友井は2人の必死さがキャラクターにうまくリンクしたと「仮面ライダーフィギュアコレクション30」のインタビューの中で話しつつも、撮影が過酷だったとも話している{{R|Aera20180717P1}}。ギルスの最初の変身シーンの撮影では、演出として用意されたカラスが友井の両耳のピアスの輝きに反応したため、パニックのあまりどのように演技したのか覚えていないと話している<ref name="Aera20180717P1">{{Cite web|和書|title=仮面ライダー出演の“純烈”友井雄亮が明かした撮影秘話 「感動より恐怖だった」 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/99462 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2018-07-17 |access-date=2023-09-05 |language=ja}}</ref>。{{出典範囲|text1=また、第28話において涼がギルスがシンクロして走って変身する場面は、2人が走る様子をレール上からカメラが並走する形で撮影が行われた。この際リテイクのたびに全力疾走を命じられており、2人がへとへとになってやっとOKが出た。この時の様子について、「今思えば、監督は本当に必死な俺の顔が撮りたかった。でも、当時はそれが全くわからなかった。{{Interp|後略}}」と振り返っている。|ref1={{R|Aera20180717P2}} }}なお、ギルスへの変身の副作用である老化現象の撮影時、初期のころは特殊メイクで表現していたが、その後引きの画を撮影する際には老化状態を表した手袋が使用されていた{{Sfn|英雄伝|2010|p=13}}。 また、2009年の『[[仮面ライダーディケイド]]』には過去作品のキャラクターが大挙して登場しているが、この時点でギルスの撮影用スーツは著しく損傷していたため、採用を見送られた{{Sfn|特写|2010|p=63}}。 ヒロインである風谷真魚役にはオーディションでモデルの秋山莉奈が起用された<ref name="WP20201209" />。秋山は2020年の『週刊プレイボーイ』とのインタビューの中で、高校受験前で休業すべきか悩む中、『[[美少女仮面ポワトリン]]』(1990年放送)へのあこがれからぜひ出たいと思っていたのでうれしかったと話している<ref name="WP20201209" />。秋山も本作が初めての俳優業だったためとにかく必死だったと話しつつも、キャラクターの基本的な設定は自分にぴったりだったため、日常シーンは等身大で演じることができたとも語っている<ref name="WP20201209" />。また、劇中では怪人に襲われるなどのアクションシーンもあり、とてもおびえた表情をしていたものの内心はすごく楽しく、戦う翔一たちを見ながら自分も変身して戦いたいと思ったとも話している<ref name="WP20201209" />。 === 撮影 === 前年の『クウガ』がHDTVカメラによる16:9の[[ビスタサイズ]]で制作されたことを受け、本作品でも画面サイズは16:9の画角が採用されている。ただし、『クウガ』で編集段階のSD画質への変換作業時にクオリティの劣化が起きたことを受けて、本作品は、16:9の横長画像を「横方向で圧縮した」4:3の画角で収録しそのままポスプロを行いマスター完成の段階で圧縮状態を戻し本来の16:9の画像にする「[[スクイーズ]]撮影」という手法{{efn|劇場映画で「[[アナモルフィック・レンズ]]を使って[[シネマスコープ]]サイズで撮影・再生する」考え方に近い。}}が採用されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/agito/making/03-system/index.stm |title=『アギト』の撮影システム |publisher=[[東映]] |accessdate=2022-10-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130716180438/http://tvarc.toei.co.jp:80/tv/agito/making/03-system/index.stm |archivedate=2013-07-16 }}</ref>。この手法は後の『[[仮面ライダー剣]]』まで採用されることとなる。 == 放送日程 == 各回にはタイトルはなく、本節にて明記されているものは、いずれも新聞のテレビ番組欄やテレビ番組情報誌、ならびにテレビ朝日公式ページにて表記されたものである。第28話は涼の回想という、作中の時系列とは外れるエピソードのため、上下に帯がないアスペクト比4:3で放送。各話終了時の演出は最後のワンシーンが四角形に囲まれるという、以降に比べると非常にシンプルなものになっている。四角形の角には「Α」「Ω」の文字が置かれ、さらに上部分にはアギトの紋章も表示される。 登場アンノウンの欄には、レギュラーである闇の力以外のアンノウンのみ記述。登場アンノウンの横の数字は登場話数を示す。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" |- ! 放送日 !! 放送回 !! サブタイトル !! 登場アンノウン !!脚本!!アクション監督!!監督 |- | style="text-align:right;" | 2001年{{0}}1月28日 || style="text-align:right;" | 1 || 戦士の覚醒 |align="left" rowspan="2"| * ジャガーロード ** パンテラス・ルテウス(声 - [[山野井仁]]:1話) ** パンテラス・アルビュス(声 - 山野井仁) ** パンテラス・トリスティス(声 - 山野井仁) |align="left" rowspan="27"|井上敏樹 |rowspan="46"| 山田一善<br />宮崎剛{{efn|25話まではノンクレジット<ref>{{Cite book|和書 |title=東映ヒーロー 仮面俳優列伝 第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 宮崎剛|year=2014年 |publisher=辰巳出版 |pages=199-207}}</ref>}} |align="left" rowspan="2"| 田﨑竜太 |- | style="text-align:right;" | 2月{{0}}4日 || style="text-align:right;" | 2 || 青の嵐 |- | style="text-align:right;" | 2月11日 || style="text-align:right;" | 3 || 俺の変身! |align="left" rowspan="2"| * トータスロード ** テストゥード・オケアヌス ** テストゥード・テレストリス |align="left" rowspan="2"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 2月18日 || style="text-align:right;" | 4 || パズル解読 |- | style="text-align:right;" | 2月25日 || style="text-align:right;" | 5 || 第3の戦士 |align="left" rowspan="2"| * スネークロード ** アングィス・マスクルス(声 - [[柴本浩行]]) ** アングィス・フェミネウス(声 - [[兵藤まこ]]) |align="left" rowspan="2"| 六車俊治 |- | style="text-align:right;" | 3月{{0}}4日 || style="text-align:right;" | 6 || 哀しき妖拳 |- | style="text-align:right;" | 3月11日 || style="text-align:right;" | 7 || 記憶の一片 |align="left" rowspan="2"| * クロウロード ** コルウス・クロッキオ(声 - [[塩野勝美]]) |align="left" rowspan="2"| 田﨑竜太 |- | style="text-align:right;" | 3月18日 || style="text-align:right;" | 8 || 赤い炎の剣 |- | style="text-align:right;" | 3月25日 || style="text-align:right;" | 9 || 2人のG3 |align="left" rowspan="2"| * オクトパスロード ** モリペス・オクティペス(声 - [[千田義正]]) |align="left" rowspan="2"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 4月{{0}}1日 || style="text-align:right;" | 10 || 銀の点と線 |- | style="text-align:right;" | 4月{{0}}8日 || style="text-align:right;" | 11 || 繋がる過去 |align="left" rowspan="2"| * ゼブラロード ** エクウス・ノクティス(声 - 柴本浩行) ** エクウス・ディエス(声 - 柴本浩行) |align="left" rowspan="2"| 石田秀範 |- | style="text-align:right;" | 4月15日 || style="text-align:right;" | 12 || 湖の激突! |- | style="text-align:right;" | 4月22日 || style="text-align:right;" | 13 || 父の手掛り |align="left" rowspan="2"| * スコーピオンロード ** レイウルス・アクティア(声 - [[宗矢樹頼]]) |align="left" rowspan="2"| 田﨑竜太 |- | style="text-align:right;" | 4月29日 || style="text-align:right;" | 14 || 最強キック |- | style="text-align:right;" | 5月{{0}}6日 || style="text-align:right;" | 15 || 罠の始まり |align="left" rowspan="3"| * ジャッカルロード ** スケロス・ファルクス(声 - 千田義正) |align="left" rowspan="3"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 5月13日 || style="text-align:right;" | 16 || 怪しい女… |- | style="text-align:right;" | 5月20日 || style="text-align:right;" | 17 || 捕獲作戦! |- | style="text-align:right;" | 5月27日 || style="text-align:right;" | 18 || 新しいボス |align="left" rowspan="2"| * ハイドロゾアロード ** ヒドロゾア・イグニオ(声 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]) |align="left" rowspan="2"| 石田秀範 |- | style="text-align:right;" | 6月{{0}}3日 || style="text-align:right;" | 19 || 解散決定? |- | style="text-align:right;" | 6月10日 || style="text-align:right;" | 20 || 或る目覚め |align="left" rowspan="2"| * クイーンジャガーロード ** パンテラス・マギストラ(声 - [[西川宏美]]) * ジャガーロード ** パンテラス・キュアネウス(声 - 宗矢樹頼:20話) ** パンテラス・ルベオー(声 - 宗矢樹頼) |align="left" rowspan="2"| 鈴村展弘 |- | style="text-align:right;" | {{efn|6月17日は『[[全米オープン (ゴルフ)|第101回全米オープンゴルフ大会]]』最終日放送のため休止。}}6月24日 || style="text-align:right;" | 21 || 暴走する力 |- | style="text-align:right;" | 7月{{0}}1日 || style="text-align:right;" | 22 || 運命の対決 |align="left" rowspan="2"| * ビーロード ** アピス・ウェスパ(声 - 塩野勝美:22話) ** アピス・メリトゥス(声 - [[高田由美]]) |align="left" rowspan="2"| 田﨑竜太 |- | style="text-align:right;" | 7月{{0}}8日 || style="text-align:right;" | 23 || 資格ある者 |- | style="text-align:right;" | 7月15日 || style="text-align:right;" | 24 || 完璧マシン |align="left" rowspan="2"| * スティングレイロード ** ポタモトリゴン・ククルス(声 - 塩野勝美) ** ポタモトリゴン・カッシス(声 - 塩野勝美:25話) |align="left" rowspan="2"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 7月22日 || style="text-align:right;" | 25 || 激突再び! |- | style="text-align:right;" | 7月29日 || style="text-align:right;" | 26 || 甦った記憶 |align="left" rowspan="2"| * クイーンクロウロード ** コルウス・イントンスス(声 - [[米本千珠]]:26話) * クロウロード ** コルウス・ルスクス(声 - 千田義正) ** コルウス・カルウス(声 - 千田義正)(27話) |align="left" rowspan="2"| 石田秀範 |- | style="text-align:right;" | 8月{{0}}5日 || style="text-align:right;" | 27 || 涼、死す… |- | style="text-align:right;" | 8月12日 || style="text-align:right;" | 28 || あの夏の日 |align="left"| * シーアーチンロード ** エキヌス・ファメリカーレ(声 - 山野井仁) |align="left"|小林靖子 |align="left" rowspan="2"| 佐藤健光 |- | style="text-align:right;" | 8月19日 || style="text-align:right;" | 29 || 数字の謎!? |align="left"| * フィッシュロード ** ピスキス・アラパイマ(声 - 塩野勝美) |align="left" rowspan="23"|井上敏樹 |- | style="text-align:right;" | 8月26日 || style="text-align:right;" | 30 || 隠された力 |align="left" rowspan="2"| * クラブロード ** クルスタータ・パレオ(声 - [[田中亮一]]) * オルカロード ** ケトス・オルキヌス(声 - [[土屋トシヒデ|土屋利秀]])(31話) |align="left" rowspan="3"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 9月{{0}}2日 || style="text-align:right;" | 31 || 人の居場所 |- | style="text-align:right;" | 9月{{0}}9日 || style="text-align:right;" | 32 || ギルス復活 |align="left" rowspan="2"| * エルロード ** 水のエル * オルカロード ** ケトス・オルキヌス |- | style="text-align:right;" | 9月16日 || style="text-align:right;" | 33 || 現れた敵 |align="left" rowspan="2"| 金田治 |- | style="text-align:right;" | 9月23日 || style="text-align:right;" | 34 || 呼び逢う魂 |align="left"| * エルロード ** 水のエル * マンティスロード ** プロフェタ・クルエントゥス(声 - 土屋利秀) |- | style="text-align:right;" | 9月30日 || style="text-align:right;" | 35 || 謎の救世主 |align="left" rowspan="2"| * エルロード ** 水のエル(35話) * クロウロード ** コルウス・カノッスス(声 - 藤田瞳子) * フィッシュロード ** ピスキス・セラトゥス(声 - 柴本浩行) |align="left" rowspan="2"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 10月{{0}}7日 || style="text-align:right;" | 36 || 4人目の男 |- | style="text-align:right;" | 10月14日 || style="text-align:right;" | 37 || 暗闇の戦士 |align="left" rowspan="3"| * リザードロード ** ステリオ・デクステラ(声 - 佐藤正治:37話) ** ステリオ・シニストラ(声 - 佐藤正治) |align="left" rowspan="2"| 渡辺勝也 |- | style="text-align:right;" | 10月21日 || style="text-align:right;" | 38 || その正体… |- | style="text-align:right;" | 10月28日 || style="text-align:right;" | 39 || ギルス咆哮 |align="left" rowspan="2"| 鈴村展弘 |- | style="text-align:right;" | {{efn|11月4日は「[[全日本大学駅伝対校選手権大会|第33回全日本大学駅伝]]」中継のため休止。}}11月11日 || style="text-align:right;" | 40 || 共同戦線! |align="left"| * ジャッカルロード ** スケロス・グラウクス(声 - 柴本浩行) |- | style="text-align:right;" | 11月18日 || style="text-align:right;" | 41 || 光と闇 |align="left" rowspan="2"| * エルロード ** 水のエル 強化体 |align="left" rowspan="2"| 田﨑竜太 |- | style="text-align:right;" | 11月25日 || style="text-align:right;" | 42 || あかつき号 |- | style="text-align:right;" | 12月{{0}}2日 || style="text-align:right;" | 43 || 動き出す闇 |align="left"| * エルロード ** 水のエル 強化体 * オウルロード ** ウォルクリス・ウルクス(声 - [[酒井敬幸]]) |align="left" rowspan="2"| 長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 12月{{0}}9日 || style="text-align:right;" | 44 || 父と姉と… |align="left"| * オウルロード ** ウォルクリス・ウルクス * ファルコンロード ** ウォルクリス・ファルコ(声 - 土屋利秀) |- | style="text-align:right;" | 12月16日 || style="text-align:right;" | 45 || 奪われた力 |align="left" rowspan="2"| * ファルコンロード ** ウォルクリス・ファルコ * ヘッジホッグロード ** エリキウス・リクォール(声 - [[堀本等]]) |align="left" rowspan="2"| 金田治 |- | style="text-align:right;" | 12月23日 || style="text-align:right;" | 46 || 戦士その絆 |- | style="text-align:right;" | 12月30日 || style="text-align:right;" | 47 || 天空の怪! |align="left" rowspan="5"| * エルロード ** 風のエル ** 地のエル(49-51話) *** 地のエル 強化体(51話) |rowspan="5"| 山田一善 |align="left" rowspan="2"| 石田秀範 |- | 2002年{{0}}1月{{0}}6日|| style="text-align:right;" | 48 || 星の支配者 |- | style="text-align:right;" | 1月13日 || style="text-align:right;" | 49 || 絶滅の足音 |align="left" rowspan="3"|長石多可男 |- | style="text-align:right;" | 1月20日 || style="text-align:right;" | 50 || 今、戦う時 |- | style="text-align:right;" | 1月27日 || style="text-align:right;" | 51 || ΑGITΩ |} == 放映ネット局 == {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller;" |- !放送対象地域 !放送局 !系列 !備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]] |[[テレビ朝日]] |rowspan="10"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] |'''制作局''' |- |[[北海道]] |[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]] | |- |[[青森県]] |[[青森朝日放送]] | |- |[[岩手県]] |[[岩手朝日テレビ]] | |- |[[宮城県]] |[[東日本放送]] | |- |[[秋田県]] |[[秋田朝日放送]] | |- |[[山形県]] |[[山形テレビ]] | |- |[[福島県]] |[[福島放送]] | |- |[[新潟県]] |[[新潟テレビ21]] | |- |[[長野県]] |[[長野朝日放送]] | |- |[[山梨県]] |[[テレビ山梨]] |[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | |- |[[静岡県]] |[[静岡朝日テレビ]] |rowspan="2"|テレビ朝日系列 | |- |[[石川県]] |[[北陸朝日放送]] | |- |[[福井県]] |[[福井放送]] |[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]<br />テレビ朝日系列 | |- |[[広域放送|中京広域圏]] |[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]] |rowspan="2"|テレビ朝日系列 | |- |[[広域放送|近畿広域圏]] |[[朝日放送テレビ|朝日放送]] | |- |[[島根県]]<br />[[鳥取県]] |[[山陰放送]] |TBS系列 | |- |[[広島県]] |[[広島ホームテレビ]] |rowspan="4"|テレビ朝日系列 | |- |[[山口県]] |[[山口朝日放送]] | |- |[[香川県]]<br />[[岡山県]] |[[瀬戸内海放送]] | |- |[[愛媛県]] |[[愛媛朝日テレビ]] | |- |[[高知県]] |[[テレビ高知]] |TBS系列 | |- |[[徳島県]] |[[四国放送]] |日本テレビ系列 | |- |[[福岡県]] |[[九州朝日放送]] |rowspan="4"|テレビ朝日系列 | |- |[[長崎県]] |[[長崎文化放送]] | |- |[[熊本県]] |[[熊本朝日放送]] | |- |[[大分県]] |[[大分朝日放送]] | |- |[[宮崎県]] |[[宮崎放送]] |TBS系列 | |- |[[鹿児島県]] |[[鹿児島放送]] |rowspan="2"|テレビ朝日系列 | |- |[[沖縄県]] |[[琉球朝日放送]] | |} == 反響 == 本作は同時期に放送されていた『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』とともにイケメンヒーローブームをけん引した作品として認知されており<ref name="Mynavi20210131P1"/>、賀集本人も撮影の合間にトークショーを入れるなど過密なスケジュールだったことに加え、自分たちの待合室周辺にも人がたくさんいて驚いたと同時に人気を感じたとマイナビニュースとのインタビューの中で振り返っている<ref name="Mynavi20210131P2"/>。 玩具などの関連商品の売上は前作『クウガ』を下回っているが、[[視聴率]]は最高視聴率(13.9パーセント)・番組平均視聴率(11.7パーセント)ともに平成仮面ライダーシリーズの最高記録を出している{{R|toretame}}。 また、劇中では登場人物の一人である小沢澄子が焼肉を食べるシーンが多く描かれ、これに対して放送当時、[[牛海綿状脳症|BSE]]問題で苦しんでいた全国食肉事業協同組合連合会から、本作品が表彰を受けた<ref name="ToeiYakiniku">{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/agito/topics/appreciation/index.stm|title=【Topics】 アギトに感謝状!|accessdate=2303-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080404174518/http://tvarc.toei.co.jp/tv/agito/topics/appreciation/index.stm|archivedate=2008-04-04}}</ref>。 == 他媒体展開 == リンクの貼られている作品の詳細はリンク先を参照。 === 映像ソフト化 === * 2001年12月7日よりセル[[VHS]]が[[東映ビデオ]]より発売された{{R|UYB168}}。レンタルは2001年10月12日より開始{{R|UYB168}}。全12巻で収録内用もDVD版に準じる(セル・レンタル共通)。レンタル当時、前作『クウガ』のセルVHS発売が続いていた。 * [[2001年]][[12月7日]] - [[2002年]][[11月21日]]にかけてセル[[DVD]]が東映ビデオより発売された{{R|UYB168}}。レンタルは2001年10月12日より開始{{R|UYB168}}。全12巻で各巻4話(Vol.10 - 12は5話)収録。レンタル当時、前作『クウガ』のセルDVD発売が続いていた。 * [[2008年]][[7月21日]]発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」や2009年11月21日の「仮面ライダーディケイド Vol.5」の初回生産限定の映像特典に第1話が収録されている。 * [[2016年]][[9月14日]]から[[2017年]][[1月11日]]にかけてBlu-ray BOXが全3巻で発売。BOX1には『仮面ライダーアギト 3大ライダー超決戦(バトル)ビデオ アギトvsG3-Xvsギルス いま選ばれる最強ライダー』が収録される。 === 他テレビシリーズ === ; 『[[仮面ライダーディケイド]]』 : G3とエクシードギルスと仮面ライダーアギトとアンノウンが登場。 ; 『[[仮面ライダーウィザード]]』 : 第52・53話に仮面ライダーアギトとアンノウンが登場。 ; 『[[仮面ライダージオウ]]』 : 仮面ライダーアギトが2068年の世界に歴代平成仮面ライダーの銅像のひとつとして登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/zi-o/story/?13|website=www.tv-asahi.co.jp|accessdate=2019-07-15|title=EP13「ゴーストハンター2018」|publisher=}}</ref>。 : EP31・32には津上翔一 / 仮面ライダーアギト、風谷真魚、尾室隆弘がオリジナルキャストで出演{{R|natalie20190407}}。アギトとG3{{efn|アギトの力を奪われた翔一もG3システムを一時的に装着した。}}が登場。アギトは最終的にトリニティフォームに変身する。 : また、同作品の敵怪人アナザーライダーとしてアナザーアギトが登場。 === テレビスペシャル === ; 『仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身』 : 2001年10月1日放送。翔一が美杉家に引きとられる前、病院で翔一を診ていた国枝東(演 - [[京本政樹]]<特別友情出演>)が登場。ビートルロード スカラベウス・フォルティス(声 - 宗矢樹頼)との戦いで翔一のシャイニングフォームへの覚醒を描くとともに、国枝東の息子国枝広樹(演 - 堀部寛十)が死の直前にアギトに覚醒していた事実が語られている。また、G4の強奪など劇場版へのつながりも示唆されている。 : 劇場版のクランクアップ前に急遽制作が決定し、劇場版スタッフの多くがスペシャルの制作へ移行している{{R|テレマガ}}。 : 2017年に東映チャンネルにて放送された超解像版では、深海理沙やG4にまつわる部分などがカットされている。 :; スーツアクター ::* 仮面ライダーアギト{{Sfn|高岩成二|2021|p=220}} - 高岩成二 :; スタッフ ::* 監督 - 田﨑竜太 ; 『[[仮面ライダーG]]』 : 『[[SMAP☆がんばりますっ!!#第1回『SmaSTATION!! Presents』|SmaSTATION!!Presents SMAPがんばりますっ!!]]』内で放送された作品。仮面ライダーアギトが登場。 === 映画 === ; 『[[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4]]』(2001年9月22日公開) : 本作品の単独作品。 ; 『[[劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦]]』(2009年5月1日公開) : 『[[仮面ライダー電王]]』と『仮面ライダーディケイド』をメインとしたクロスオーバー作品。G3が登場。 ; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』(2009年8月8日公開) : 『仮面ライダーディケイド』の単独作品。津上翔一 / 仮面ライダーアギトが登場。翔一はオリジナルキャストの賀集利樹が演じているが、変身後のアギトの声はスケジュールの都合で声優が担当。 ; 『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』(2011年4月1日公開) : 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』と『仮面ライダー電王』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーアギトとG3-Xとギルスとアンノウンが登場。 ; スーパーヒーロー大戦シリーズ : いずれも[[仮面ライダーシリーズ]]と[[スーパー戦隊シリーズ]]のクロスオーバー作品。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』(2012年4月21日公開) :: 仮面ライダーアギトとアンノウンが登場。 :; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』(2014年3月29日公開) :: 仮面ライダーアギト(グランドフォーム、トリニティフォーム)が登場。 :; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』(2015年3月21日公開) :: 仮面ライダーアギト(グランドフォーム、バーニングフォーム)が登場。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦]]』(2017年3月25日公開) :: 仮面ライダーアギト(バーニングフォーム)が登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー 鎧武&ウィザード 天下分け目の戦国MOVIE大合戦]]』(2013年12月14日公開) : 『[[仮面ライダー鎧武/ガイム]]』と『仮面ライダーウィザード』のクロスオーバー作品。武神アギトが登場。 ; 『[[劇場版 仮面ライダービルド Be The One]]』(2018年8月4日公開) : 『[[仮面ライダービルド]]』の単独作品。仮面ライダーアギト(グランドフォーム)が登場。 ; 『[[平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER]]』(2018年12月22日公開) : 『仮面ライダージオウ』と『仮面ライダービルド』のクロスオーバー作品。賀集が声を演じる仮面ライダーアギト(グランドフォーム)が登場する<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/313376|title=ネタバレ注意!本日公開「平成ジェネレーションズ FOREVER」にあるサプライズが|work=映画ナタリー|publisher=映画ナタリー|date=2018-12-22|accessdate=2018-12-22}}</ref>。 ; 『[[劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer]]』(2019年7月26日公開) : 『仮面ライダージオウ』の単独作品。仮面ライダーアギト(グランドフォーム、シャイニングフォーム)が登場。 ; 『[[仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション]]』(2019年[[12月21日]]公開) : 『仮面ライダージオウ』と『[[仮面ライダーゼロワン]]』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーアギト(グランドフォーム)が登場。 ; 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』(2021年7月22日公開。) : 仮面ライダー50周年×スーパー戦隊45作品記念作品。仮面ライダーアギトが登場。 ; 『[[仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ]]』(2021年12月17日公開) : 『[[仮面ライダーリバイス]]』と『[[仮面ライダーセイバー]]』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーアギト(グランドフォーム)が登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2214932/full/|title=『仮面ライダービヨジェネ』にスーパー1、ZOらレジェンド登場 王蛇やエターナルなどダークライダーも|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2021-11-24|accessdate=2022-09-29}}</ref>。 === Webドラマ === ; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦#スピンオフ作品『仮面戦隊ゴライダー』|仮面戦隊ゴライダー]]』 : 『仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦』のスピンオフ作品。木野薫 / アナザーアギトが登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/ex-aid/gorider/|title=仮面戦隊ゴライダー|website=www.tv-asahi.co.jp|accessdate=2019-12-01}}</ref>。 === 舞台 === ; 『[[MASKED RIDER LIVE&SHOW 〜十年祭〜]]』 : 仮面ライダーアギトと仮面ライダーG3が登場。 === オリジナルビデオ・オリジナルDVD === ; 『仮面ライダーアギト 3大ライダー超決戦(バトル)ビデオ』 : [[てれびくん]]の応募者全員サービスで配布されたVHS。初期編の総集編と新撮映像による3大ライダーとアンノウンとの戦いで構成される。 : アンノウンに狙われるてれっピが翔一、氷川、涼を呼び出し、3大ライダーの活躍を振り返りながら、ボディーガードを決めるという全体的にコミカルな作風になっており、てれっピというてれびくんプラザのマスコットキャラクターが登場する{{R|超バトルDVD超全集27}}。 : また、フレイムセイバーを2刀流で使う'''ダブルセイバースラッシュ'''という必殺技や、各ライダーが技名を叫ぶなどといった独自の演出も見られる。 :* 本作品用にてれっピの立体物が作成された{{R|超バトルDVD超全集27}}。 :; キャスト ::* 津上翔一 - 賀集利樹 ::* 氷川誠 - 要潤 ::* 葦原涼 - 友井雄亮 ::* てれっピの声 - [[伊倉一恵]] :; スーツアクター ::* 仮面ライダーアギト{{Sfn|高岩成二|2021|p=220}} - 高岩成二 :; スタッフ ::* 音楽 - Ω Project ::* 脚本 - 小林靖子 ::* 監督 - 鈴村展弘 ; 『[[仮面ライダー龍騎#オリジナルビデオ・オリジナルDVD|仮面ライダー龍騎ハイパーバトルビデオ 龍騎VS仮面ライダーアギト]]』 : 『[[仮面ライダー龍騎]]』のオリジナルビデオ。仮面ライダーアギトが登場。<!--リンク先を見ればわかるため、詳細は書かないでください。--> ; 『[[仮面ライダーディケイド#オリジナルDVD|仮面ライダーディケイド 超アドベンチャーDVD 守れ!〈てれびくんの世界〉]]』 : 『[[仮面ライダーディケイド]]』のオリジナルDVD。仮面ライダーアギトが登場。<!--リンク先を見ればわかるため、詳細は書かないでください。--> === ゲーム === ; 『仮面ライダーアギト』 : [[バンダイ]]より2001年[[11月29日]]に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用の格闘アクションゲームとして発売。制作は[[カゼ・ネット|KAZe]]。 : システム的には前年に発売された『仮面ライダークウガ』のゲームに準じている。同作品より、仮面ライダーの格闘ゲームでは同キャラ対戦が不可能となった。 : ストーリーモードは、メインの3ライダーそれぞれを主役にしたものが1本ずつ用意されている。また、G3の武器をカスタマイズしたり、他のプレイヤーがカスタマイズしたG3と対戦したりといったことができるようになっている。 : アナザーアギトは登場しないが、G4は登場する。ただし、声を一切発しない。 ; 『[[仮面ライダー 正義の系譜]]』 : [[2003年]][[11月27日]]に機種は[[PlayStation 2]]用のコンピュータゲームとして発売。アギトとギルスが登場。テレビシリーズと同様、賀集が津上翔一/アギトの声を担当。詳細はリンク先を参照。 === コミカライズ === * [[てれびくん]]([[かとうひろし]]) : 2001年2月号 - 2002年1月号連載。 * てれコロコミック([[坂井孝行]]) : '''G3-X VS 機動装備G2''' : 2001年9月号増刊掲載。 : G3以前に開発されたバイク型マシン「G2」が登場する。後述の『PROJECT G1』でも機動装備として説明されている。 : '''決戦!!3大ライダーVS超ロード''' : 2002年1月号増刊掲載。 : エルロードのひとり「大地のエル」が登場する。 === 小説 === ; 『小説 仮面ライダーアギト』 : 著 - 岡村直宏、監修 - 井上敏樹 : [[講談社]]([[講談社キャラクター文庫]])刊、2013年1月30日発売。{{ISBN2|978-4-06-314852-7}} : テレビシリーズをベースに再構築したオリジナル小説で、「あかつき号事件」が「あかつき村事件」に変わっており、アギトやアンノウンの設定など細かい部分の相違も多いが、翔一や真魚を始めとする登場人物の人物像は概ね共通している。 :;あらすじ :: 高位のアンノウン・アギトは超能力者の隠れ里・あかつき村の村人たちを虐殺していた。アギトは偶然村にやって来た沢木哲也に襲いかかるも、彼が発展した「他者を光の球と化して自身に取り込む」という謎の力によって取り込まれる。取り込まれたアギトは抵抗するが、哲也の記憶と引き換えに一時的に封印され、哲也が「津上翔一」という新たな自分とアンノウンであるアギトの姿に変身する能力を手に入れることになる。翔一が記憶を取り戻すと同時に体内のアギトも目覚めかけるが、真魚の力を借りて完全に封印し、アギトの能力を全て使用可能になる。 ; 『[[S.I.C.]] HERO SAGA』 : 著 - [[早瀬マサト]] :; 「MASKED RIDER AGITΩ EDITION -HEAVEN'S DOOR-」 :: 雑誌掲載時のみ、『[[仮面ライダー555]]』と同一の世界であるかのような描写も盛り込まれていた。 :; 「MASKED RIDER AGITΩ EDITION -PROJECT G1-」 :; 「MASKED RIDER GILLS -仮面ライダーになってしまった男-」 === CS放送・ネット配信 === ; CS放送 * [[東映チャンネル]]…[[2005年]][[2月]] - [[8月]](「石ノ森章太郎劇場」枠)、[[2007年]][[3月]] - [[6月]](「アンコールアワー」枠)、[[2017年]][[2月]] - (「石ノ森章太郎劇場」枠、超解像度版) * [[テレ朝チャンネル#テレ朝チャンネル1|テレ朝チャンネル1]] - [[2009年]] - [[2010年]] * [[ファミリー劇場]]…[[2010年]][[8月]](先行集中放送)、[[2011年]] - [[2012年]] ; ネット配信 * 東映特撮[[YouTube]] Official…2011年[[8月1日]] - 2012年[[1月22日]]、[[2016年]][[1月15日]] - [[7月15日]]、[[2021年]][[3月13日]] - [[2021年]][[9月11日]] * 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる…[[2021年]][[11月7日]] - [[2022年]][[10月23日]] == 関連項目 == * [[サイボーグ009]] - 本作品原作者の石ノ森章太郎の手による漫画作品。同作品の「神々との戦い編」が本作品の原案とされている<ref>{{Cite book|和書|author=村枝賢一|authorlink=村枝賢一|date=2001-10-23|title=[[仮面ライダーSPIRITS]]|publisher=[[講談社]]|volume=第2巻|isbn=4-06-349073-4}}</ref>{{R|テレマガ}}。 * [[ミニ英会話・とっさのひとこと]] - [[日本放送協会|NHK]]の[[語学番組]]。放送局は異なるものの、[[スケッチ・コメディー|スキット]]の主演が賀集利樹であることから、ストーリーの関連は全くないものの「Shibuya 友情編」にて、本作品をネタにした場面が盛り込まれた{{efn|賀集が演じるシュウの家に[[ホームステイ]]している友人エドが、[[レンタルビデオ|レンタルビデオ店]]で選んだビデオがアギトであったことからシュウが喜ぶというもの。その場面の[[背景音楽|BGM]]に本作品の主題歌が流れるという演出もなされた。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="超全集">{{Harvnb|超全集 上巻|2001|pp=70-71|loc=「白倉伸一郎東映プロデューサーインタビュー」}}</ref> <ref name="超全集リスト">{{Harvnb|超全集 上巻|2001|p=69}}</ref> <ref 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[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] | 放送枠 = [[テレビ朝日日曜朝8時枠の連続ドラマ|日曜8:00 - 8:30]] | 番組名 = 仮面ライダーアギト<br />(2001年1月28日 - 2002年1月27日) | 前番組 = [[仮面ライダークウガ]]<br />(2000年1月30日 - 2001年1月21日) | 次番組 = [[仮面ライダー龍騎]]<br />(2002年2月3日 - 2003年1月19日) }} {{仮面ライダーシリーズ}} {{デフォルトソート:かめんらいたああきと}} [[Category:平成仮面ライダーシリーズ|あきと]] [[Category:仮面ライダーシリーズの特撮テレビドラマ|あきと]] [[Category:テレビ朝日の特撮番組]] [[Category:2000年代の特撮作品]] [[Category:2001年のテレビドラマ]] [[Category:井上敏樹脚本のテレビドラマ]] [[Category:小林靖子脚本のテレビドラマ]] [[Category:オカルトを題材とした作品]] [[Category:宗教・聖典を題材とした作品]] [[Category:超古代文明を題材としたテレビドラマ]] [[Category:超能力を題材としたテレビドラマ]] [[Category:健忘を題材としたテレビドラマ]] [[Category:警察を題材としたドラマ作品]]
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農学
農学(のうがく、英: agricultural science、または略称としてagriscience)は、農業・林業・水産業・畜産業などに関わる、応用的な学問。農産物の栽培・育種、生産技術の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる社会的な原理、環境の保全など、第一次産業に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の自然科学に属し、化学、生物学、地学などを基礎とするが、社会科学も基盤の一部を成す。 ドイツでは三十年戦争による国土の荒廃からの回復後、人口と食糧需要の増加から18世紀末に農業の技術的・社会経済的改革運動が盛り上がりをみせた。 1727年、ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)によってハレ大学とフランクフルト大学に初めて農業と官房学(Kameralwissenschaft)の講座が設立され、同世紀末までに多くの大学でもこのような講座が開かれた。 ゲッティンゲン大学官房学講座教授のベックマン(J.Beckmann)は、1769年に『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』を著し、農学体系を一般農学(Allgemeine Theil)と特殊農学(Besondere Theil)に分け、特殊農学に耕種、養畜、施肥、一般農学に農場、農業物と雇人を分類した。ベックマンの二分割の農業体系は、その後の農学者に決定的な影響を与えたが、ベックマンの著書では一般農学は僅かに述べているのみで農学を官房学から自立させるのに成功するには至らなかった。 ドイツにおける近代農学の祖はテーヤ(A.D. Thaer)とされており、農学を官房学の体系から切り離して自立的学問として科学的に体系化した。テーヤは主著『合理的農業の原理』の最初の基礎論で、農業は動植物体の生産(またそれらの加工)によって収益(Gewinn)をあげることを目的とする一つの営業で、完全な農業とは出来るだけ高く持続的な収益を諸事情に応じて、その経営から引き出す農業であると「合理的農業の概念規定」を示した。テーヤにより、農業経営は家父学(Lehre von der Haushaltungskunst)の課題として扱われるにすぎなかった段階から、営業(Gewerb)として問われる段階に発展した。ただし、テーヤの経済論の大半は地力維持論(フムス説)を根幹としており、組織・管理論について経営管理能力を向上させるための農業教育の必要性を指摘しているが、具体的にはほとんど展開されていないという指摘がある。 19世紀のドイツでは農学が一つの体系を有する学問として成立しうると考えられるようになったが、テーヤの農学は農芸化学者が台頭した19世紀中葉の一時期影響力が薄れた。 農学史の通説ではテーヤ農学の批判の急先鋒をリービッヒ(Liebich)としている。ヨーロッパで進展した自然科学が農学の進展に与えた影響は大きく、その一つにリービッヒが植物の生長に、炭酸ガス、水、窒素、リン、カリが重要であることを発見したことも挙げられている。一方でリービッヒは自然科学的合理性を無視した掠奪耕(地力収奪耕)こそが、国家の物質的・政治的・精神的基盤を弱体化させるもので、人類の存亡にかかわる回避すべき問題とみていた。また、当時最も合理的と考えられていた輪栽式農法もリービッヒは掠奪耕にあたると考えており、地力の均衡が農学において大きな議論となった。 リービッヒの農学思想は自然科学的認識の正しさと好景気を背景に受け入れられる向きもあったが、徐々に批判も出始めて大不況期に入ると批判が決定的となって急速に忘れ去られ、以後は単に化学者として位置づけられるようになった。 その後、カント哲学の影響を強く受けたシュルツェ(F.G. Schultze)がドイツ農学の主流派でテーヤにつぐ第一人者と評されるようになった。十九世紀前半からドイツ各地に農業アカデミーが開校したが、イェーナ大学の正教授になっていたシュルツェは1826年にイェーナに農学校を創設した。イェーナの農学校は他の農学校とは異なり、大学と有機的に強い結びつきをもち、その後のドイツの農業教育制度に決定的影響を及ぼした。 イギリスはヨーロッパで最も農書が著された国とされ、18世紀から19世紀の農業革命期にイングランドで技術的側面の普及のために農書が必要とされていたことによる。農業革命による変化は、休閑の廃止、飼料作物の導入、農作物の組合せによる地力維持、家畜の舎飼との結合による穀草式農法、輪栽式農法などであり、中世における穀物の生産力が播種量の4倍だったが、18世紀には10倍に飛躍的に増加した。農作業の機械化はそれより遅く、19世紀の収穫作業の機械化に始まり、機械化が進んだのは20世紀初頭のことであった。 農業革命には新農法の導入による土地生産性の向上と、新農法を受け入れる農村社会の確立の2つが基本的要素になっているが、農書は新農法を普及させるための媒体となった。 イングランドの農書の歴史は、13世紀後半にウォルター・オブ・ヘンリー(Walter of Henley)が著した『農業論』に始まるといわれており、中世の農業生産技術の一端を知ることができる。 17世紀中頃には第1次の囲い込みが行われ、その個人有地で穀草式農法が普及しつつあったが、1652年にはブライス(W. Blith)がクローバーなどの作付けを奨励する『イングランドの進歩的改良者』を著している。 18世紀に入り、タル(Tull)が『馬耨農法』を著し、休閑無用説と飼料用カブの中耕除草を説き、輪栽式農法の時代が始まったといわれているが、中耕除草機は土性により使用することができなかったため普及せず、農作業の機械化は19世紀後半まで待たねばならなかった。 18世紀後半から19世紀前半にかけて輪栽式農法が主にイングランド東部で普及したが、その提唱者の一人がアーサー・ヤングであり、資本主義的農業経営の萌芽がみられる。 19世紀、室内での科学実験からのアプローチが農業で信頼できるものになるには、圃場における検証実験の方法論が確立される必要があった。ドイツのリービッヒのもとに留学したことのあるイギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)は、ロザムステッド農事試験場で実験を行い、植物が大気中から窒素を獲得しているというリービッヒの説に反駁して窒素肥料の効果を実証した。 イギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)の実証実験やダラム大学のジョンストン(Johnston,J. F. W.)による試験の厳密性や反復の必要性の主張から、近代農学では科学実験の知見を圃場での観察を通じて検証するスタイルが確立した。 アメリカでは南北戦争後に国有地を付与された大学が設置されたが、農学部が関心を持たれるようになったのは、1880年代に農学部に農事試験場が整備され研究成果が蓄積するようになってからである。 1890年代には農学部が積極的に構外教育活動を行う農業拡張事業を行うようになり、大学に通うことのできない大多数の農民に知的資源を提供する場になった。 18世紀後半には農業改良に関心を持つ人々が集まって議論することが盛んになっており、アメリカ合衆国の独立後、これらは各地の農事協会に発展した。 農学界ではイギリスのギルバート(Gilbert,J. H.)やジョンストン(Johnston,J. F. W.) のもとで学んだ留学生が研究を進め、特にノートン(Norton,J. P.)やポーター(Porter,J. A)が所属するイェール大学は土壌分析など農芸化学で知られるようになった。 1853年にドイツに渡ったジョンソン(Johnson,s.w.)は、帰国後に化学肥料の研究のかたわら農事試験場の設立運動に取り組み、1870年代後半にはコネチカット州やニューヨーク州などに独自の農事試験場が設置された。 19世紀末から20世紀初頭にかけての農事試験場では、化学を中心に分析法に関する研究が進展し、土壌、肥料、植物、食糧、および飼料など農学の専門分野のそれぞれに応用され、学問の進展が加速化した。 中国の農書の歴史は紀元前3世紀に著された『呂氏春秋』が最初とされている。『呂氏春秋』は呂不韋が抱える知識集団によって編纂され、十二紀、八覧、六論の26部で構成されており、六論中の「士容論」第三編の「上農」では農業政策、第四編の「任地」では土地利用の原則、第五編の「弁士」では土地改良の原則、第六編の「審時」では適時作業の原則について述べられている。 紀元前1世紀には『氾勝之書』が著されたが現存しておらず、後代の農書にある引用から、耕作の原則、十数種の農作物の耕作法、種子の選別法と保存法が記されていたとみられる。 その後、後漢の崔寔が歳時記型の農書である『四民月令』を著した。 540年頃には賈思勰の『斉民要術』全9巻が刊行され、内容は『呂氏春秋』の農本思想を受け継ぎ、第6巻までは『氾勝之書』の形式で各農産物ごとに乾地農法の技術を述べ、第7巻からはは『四民月令』に近い内容の生活の技術を述べている。 元代には中国最古の官撰農書『農桑輯要』が編纂された。1313年には王禎の『農書』が著され、総論の「農桑通訣」、各論の「百穀譜」、農具を図解した「農器図譜」からなるが、記述の5分の4は農器図譜で300を超える農具を収録している。 明代末には徐光啓によって『農政全書』が著され(刊行は1639年)、屯田開墾,、大規模な水利土木,、備荒に重点を置いている。 清代には官撰農書の『授時通考』が編纂された。 明治維新後、明治政府は西洋の科学的な農業技術や知識の導入によって農業生産の拡大を図る方針をとった。また、明治政府の最重要課題は富国強兵と殖産興業であり、生糸や茶など主要輸出品の勧農政策が重視された。 1869年(明治2年)4月に民部官が設置されると、5月には民部官に開墾局が置かれた。しかし、7月に民部官は廃止されて民部省が設置され、1870年(明治3年)9月に勧農局が設置され、開墾、種芸、養蚕、編集、雑務の5課が配置された(勧農局は12月に開墾局となり、翌1871年4月に勧業局となった)。さらに1871年(明治4年)7月、民部省は廃止され、大蔵省勧業司に引き継がれたが、大蔵卿に就任した大久保利通により改革が行われ、8月に勧業寮さらに勧農寮に改められた。 1871年11月に派遣された岩倉使節団(大久保は副使)の帰国後、日本では内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)や三田育種場の設置、札幌農学校や駒場農学校の設立、外国人教師の招聘などに取り組んだ。 1872年(明治5年)10月、大蔵省では勧農寮が廃止され、租税寮に勧農課を置くとともに、同月に内藤新宿試験場の設置が決定した。民部省や大蔵省は東京府下の数箇所に西洋農具置場、植物試栽場、牧畜試験場を設置していたが、いずれも小規模で穀菜果樹の配布や各種試験、模範事業を行うには不適当だった。そこで内藤家所有の9万5千坪を9千5百円で買収し、その隣接地も次々に買収して最終的に19万余坪を買収した。 内藤新宿試験場の拡大の過程で、1874年(明治7年)7月に三田四国町の旧島津邸の4万坪の土地を買収して内藤新宿勧業寮出張所附属試験地とした(後の三田育種場)。新たな土地の購入の背景には内藤新宿試験場の地味が良好でなかったためなどの理由があったとされる。この三田育種場の整備により、1879年(明治12年)5月に内藤新宿試験場は廃止された。 明治政府は国防上の理由から1869年(明治2年)7月に蝦夷地(当時)に開拓使を設置した。外国人の雇用などの必要性を説いていた開拓使の次官の黒田清隆は、1871年(明治4年)1月に留学生とともに渡米し、駐米少弁務使の森有礼の協力を得て、第18代大統領ユリシーズ・S・グラントの配慮でホーレス・ケプロンなど推薦された外国人を連れて帰国した。 1872年(明治5年)1月、黒田は明治政府に開拓使仮学校の計画を上申した。校長には荒井郁之助があてられ、同年3月10日に生徒募集の通達が出された。「開拓使仮学校規則」の第1条によると、学校は札幌に設置するが、それまで東京に仮学校を設置することとし、東京の芝増上寺本坊に開設されることになった。 「開拓使仮学校規則」第15条の受講科目では、学科を普通2科と専門4科に分け、「普通学」の1では英語学、漢学、算数、手習、日本地理、歴史等の一般教養、「普通学」の2では舎密学、器械学、測量学、本草学、鉱山学、農学等の科目が配列された。また、「専門学」は、第1が舎密学、器械学、画学、第2が鉱山学、地質学、画学、第3が建築学、測量学、画学、第4が舎密学、本草及び禽獣学、農学、画学で、一部は「普通学」の2との連携が重視されていた。また、農学は専門学の第4に配置されており、必ずしも比重が高かったわけではない。 1875年(明治8年)8月、開拓使仮学校は予定通り札幌に移転したが、その際の名称は「札幌農学校」ではなく「札幌学校」で最初から「農学校」としなかった理由は不明である。1876年(明治9年)8月、札幌学校は札幌農学校に改称し、ウィリアム・スミス・クラークが教頭に着任した(実質的な校長職で、名目上の校長は調所広丈)。 札幌農学校は日本で最初の高等農業教育機関であった。ただし、札幌農学校は駒場農学校と同様に「農学」の看板を掲げたが、駒場農学校とは異なり「農学とは異質とも思われる領域」もカリキュラムには含まれていた。札幌農学校の卒業生には、佐藤昌介(農学博士)、新渡戸稲造(農学博士・法学博士)、南鷹次郎(農学博士)、広井勇(工学博士)、宮部金吾(理学博士)、渡瀬庄三郎(理学博士)、高岡熊雄(法学博士・農学博士)らがいる。 1870年代、北海道の開拓使が招聘したアメリカ人教師とは別に、開校予定の農事修学場に農学教師として招聘されたイギリス人教師たちがいた。新しい農学校の開設を担当したのは内務省勧業寮内藤新宿出張所内の農学掛(まもなく第6課に改称)で、課長は田中芳男が務めており、1875年12月に内務卿の大久保利通に農学校設立の必要性を述べた『農学校設立生徒教育教師僦用順序之儀伺』を提出した。 この伺が裁可され、1876年2月、勧業寮第6課の富田禎次郎が渡英し、王立サイレンセスター農学校(Royal Agricultural in Cirencester)の教官やその関係者である農芸化学(無機・有機化学)担当のキンチ、獣医学(解剖学・家畜内外科)担当のマックブライト、試業科教師のベグビー、予科教師のコックス、農学(農学諸科・農場実践)担当のカスタンスの5人が来日した。このうちベグビーが途中で不祥事により解任されたほかは、契約期間の3年以上勤務して帰国している。 最も長く日本に滞在したのはキンチで、任期をさらに2年延長し、王立サイレンセスター農学校の化学教授に招かれたため急遽4年半で帰国したが、横井時敬や恩田鉄弥などの教え子が渡英時にキンチを訪ねており慕われていた。しかし、イギリス人教師の評価は芳しくなく、特に農学教師のカスタンスの講義は不評で、受講していた玉利喜造や酒匂常明などは英国の大規模な農業をそのまま教えていると苦言を述べている。この時期は秩禄処分(1876年)などにより明治政府は旧士族の授産問題を抱えており、駒場では東北地方などの内地に旧士族を送ってイギリスの大規模農法を導入したい意図があったため、日本の事情の説明を受けていたカスタンスらも母国の畑作農法の伝導に努めたことが背景にあるといわれている。また、コックスの講義を受けた新渡戸稲造も、旧式の文章構成法に忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できないと評している。 1878年(明治11)年、農事修学場は駒場農学校に改称された。 イギリス人教師の後任として、ドイツから1881年にオスカル・ケルネル、1882年にマックス・フェスカが来日した。ケルネルは日本の農芸化学の基礎を築き、フェスカは『日本地産要覧図』や『日本地産論』などの名著を残した。 日本農学会の資料文部科学省学科系統分類表/農学などをもとに分類した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "農学(のうがく、英: agricultural science、または略称としてagriscience)は、農業・林業・水産業・畜産業などに関わる、応用的な学問。農産物の栽培・育種、生産技術の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる社会的な原理、環境の保全など、第一次産業に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の自然科学に属し、化学、生物学、地学などを基礎とするが、社会科学も基盤の一部を成す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドイツでは三十年戦争による国土の荒廃からの回復後、人口と食糧需要の増加から18世紀末に農業の技術的・社会経済的改革運動が盛り上がりをみせた。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1727年、ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)によってハレ大学とフランクフルト大学に初めて農業と官房学(Kameralwissenschaft)の講座が設立され、同世紀末までに多くの大学でもこのような講座が開かれた。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゲッティンゲン大学官房学講座教授のベックマン(J.Beckmann)は、1769年に『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』を著し、農学体系を一般農学(Allgemeine Theil)と特殊農学(Besondere Theil)に分け、特殊農学に耕種、養畜、施肥、一般農学に農場、農業物と雇人を分類した。ベックマンの二分割の農業体系は、その後の農学者に決定的な影響を与えたが、ベックマンの著書では一般農学は僅かに述べているのみで農学を官房学から自立させるのに成功するには至らなかった。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ドイツにおける近代農学の祖はテーヤ(A.D. 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"1872年(明治5年)1月、黒田は明治政府に開拓使仮学校の計画を上申した。校長には荒井郁之助があてられ、同年3月10日に生徒募集の通達が出された。「開拓使仮学校規則」の第1条によると、学校は札幌に設置するが、それまで東京に仮学校を設置することとし、東京の芝増上寺本坊に開設されることになった。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「開拓使仮学校規則」第15条の受講科目では、学科を普通2科と専門4科に分け、「普通学」の1では英語学、漢学、算数、手習、日本地理、歴史等の一般教養、「普通学」の2では舎密学、器械学、測量学、本草学、鉱山学、農学等の科目が配列された。また、「専門学」は、第1が舎密学、器械学、画学、第2が鉱山学、地質学、画学、第3が建築学、測量学、画学、第4が舎密学、本草及び禽獣学、農学、画学で、一部は「普通学」の2との連携が重視されていた。また、農学は専門学の第4に配置されており、必ずしも比重が高かったわけではない。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1875年(明治8年)8月、開拓使仮学校は予定通り札幌に移転したが、その際の名称は「札幌農学校」ではなく「札幌学校」で最初から「農学校」としなかった理由は不明である。1876年(明治9年)8月、札幌学校は札幌農学校に改称し、ウィリアム・スミス・クラークが教頭に着任した(実質的な校長職で、名目上の校長は調所広丈)。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "札幌農学校は日本で最初の高等農業教育機関であった。ただし、札幌農学校は駒場農学校と同様に「農学」の看板を掲げたが、駒場農学校とは異なり「農学とは異質とも思われる領域」もカリキュラムには含まれていた。札幌農学校の卒業生には、佐藤昌介(農学博士)、新渡戸稲造(農学博士・法学博士)、南鷹次郎(農学博士)、広井勇(工学博士)、宮部金吾(理学博士)、渡瀬庄三郎(理学博士)、高岡熊雄(法学博士・農学博士)らがいる。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1870年代、北海道の開拓使が招聘したアメリカ人教師とは別に、開校予定の農事修学場に農学教師として招聘されたイギリス人教師たちがいた。新しい農学校の開設を担当したのは内務省勧業寮内藤新宿出張所内の農学掛(まもなく第6課に改称)で、課長は田中芳男が務めており、1875年12月に内務卿の大久保利通に農学校設立の必要性を述べた『農学校設立生徒教育教師僦用順序之儀伺』を提出した。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この伺が裁可され、1876年2月、勧業寮第6課の富田禎次郎が渡英し、王立サイレンセスター農学校(Royal Agricultural in Cirencester)の教官やその関係者である農芸化学(無機・有機化学)担当のキンチ、獣医学(解剖学・家畜内外科)担当のマックブライト、試業科教師のベグビー、予科教師のコックス、農学(農学諸科・農場実践)担当のカスタンスの5人が来日した。このうちベグビーが途中で不祥事により解任されたほかは、契約期間の3年以上勤務して帰国している。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "最も長く日本に滞在したのはキンチで、任期をさらに2年延長し、王立サイレンセスター農学校の化学教授に招かれたため急遽4年半で帰国したが、横井時敬や恩田鉄弥などの教え子が渡英時にキンチを訪ねており慕われていた。しかし、イギリス人教師の評価は芳しくなく、特に農学教師のカスタンスの講義は不評で、受講していた玉利喜造や酒匂常明などは英国の大規模な農業をそのまま教えていると苦言を述べている。この時期は秩禄処分(1876年)などにより明治政府は旧士族の授産問題を抱えており、駒場では東北地方などの内地に旧士族を送ってイギリスの大規模農法を導入したい意図があったため、日本の事情の説明を受けていたカスタンスらも母国の畑作農法の伝導に努めたことが背景にあるといわれている。また、コックスの講義を受けた新渡戸稲造も、旧式の文章構成法に忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できないと評している。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1878年(明治11)年、農事修学場は駒場農学校に改称された。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "イギリス人教師の後任として、ドイツから1881年にオスカル・ケルネル、1882年にマックス・フェスカが来日した。ケルネルは日本の農芸化学の基礎を築き、フェスカは『日本地産要覧図』や『日本地産論』などの名著を残した。", "title": "農学史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本農学会の資料文部科学省学科系統分類表/農学などをもとに分類した。", "title": "農学の分野" } ]
農学は、農業・林業・水産業・畜産業などに関わる、応用的な学問。農産物の栽培・育種、生産技術の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる社会的な原理、環境の保全など、第一次産業に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の自然科学に属し、化学、生物学、地学などを基礎とするが、社会科学も基盤の一部を成す。
{{農業}} '''農学'''(のうがく、{{lang-en-short|agricultural science}}、または略称としてagriscience<ref>{{cite encyclopedia |title=Agriscience {{!}} Meaning & Definition for UK English |encyclopedia=[[Oxford Dictionary of English]] |url=https://www.lexico.com/definition/agriscience|access-date=2022-02-20 |publisher=[[Oxford University Press]] via [[Lexico]]|language=en}}</ref>)は、[[農業]]・[[林業]]・[[水産業]]・[[畜産業]]などに関わる、応用的な[[学問]]。[[農産物]]の[[栽培]]・[[育種]]、[[生産]][[技術]]の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる[[社会]]的な原理、[[環境]]の保全など、[[第一次産業]]に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の[[自然科学]]に属し、[[化学]]、[[生物学]]、[[地学]]などを基礎とするが、[[社会科学]]も基盤の一部を成す。 == 農学史 == === ドイツの農学史 === ドイツでは[[三十年戦争]]による国土の荒廃からの回復後、人口と食糧需要の増加から18世紀末に農業の技術的・社会経済的改革運動が盛り上がりをみせた<ref name="tsuya">{{Cite journal|和書|author=津谷好人 |date=1987-01 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010372001 |title=明治・大正期におけるドイツ農学の受容過程 |journal=宇都宮大学農学部学術報告特輯 |ISSN=0566-4683 |publisher=宇都宮大学農学部 |issue=45 |pages=1-52 |id={{CRID|1050564288562179200}}}}<br />《底本》{{Cite thesis|和書|author=津谷好人 |title=明治・大正期におけるドイツ農学の受容過程 |volume=東京大学 |series=農学博士 乙第7430号 |date=1985 |id={{naid|500000027136}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000000191450}}</ref>。 1727年、ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)によって[[ハレ大学]]と[[フランクフルト大学]]に初めて農業と[[官房学]](Kameralwissenschaft)の講座が設立され、同世紀末までに多くの大学でもこのような講座が開かれた<ref name="tsuya" />。 ゲッティンゲン大学官房学講座教授のベックマン(J.Beckmann)は、1769年に『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』を著し、農学体系を一般農学(Allgemeine Theil)と特殊農学(Besondere Theil)に分け、特殊農学に耕種、養畜、施肥、一般農学に農場、農業物と雇人を分類した<ref name="tsuya" />。ベックマンの二分割の農業体系は、その後の農学者に決定的な影響を与えたが、ベックマンの著書では一般農学は僅かに述べているのみで農学を官房学から自立させるのに成功するには至らなかった<ref name="tsuya" />。 ドイツにおける近代農学の祖はテーヤ(A.D. Thaer)とされており、農学を官房学の体系から切り離して自立的学問として科学的に体系化した<ref name="tsuya" />。テーヤは主著『合理的農業の原理』の最初の基礎論で、農業は動植物体の生産(またそれらの加工)によって収益(Gewinn)をあげることを目的とする一つの営業で、完全な農業とは出来るだけ高く持続的な収益を諸事情に応じて、その経営から引き出す農業であると「合理的農業の概念規定」を示した<ref name="tsuya" />。テーヤにより、農業経営は家父学(Lehre von der Haushaltungskunst)の課題として扱われるにすぎなかった段階から、営業(Gewerb)として問われる段階に発展した<ref name="tsuya" />。ただし、テーヤの経済論の大半は地力維持論(フムス説)を根幹としており、組織・管理論について経営管理能力を向上させるための農業教育の必要性を指摘しているが、具体的にはほとんど展開されていないという指摘がある<ref name="tsuya" />。 19世紀のドイツでは農学が一つの体系を有する学問として成立しうると考えられるようになったが、テーヤの農学は農芸化学者が台頭した19世紀中葉の一時期影響力が薄れた<ref name="tsuya" />。 農学史の通説ではテーヤ農学の批判の急先鋒を[[ユストゥス・フォン・リービッヒ|リービッヒ]](Liebich)としている<ref name="tsuya" />。ヨーロッパで進展した自然科学が農学の進展に与えた影響は大きく、その一つにリービッヒが植物の生長に、炭酸ガス、水、[[窒素]]、[[リン]]、[[カリウム|カリ]]が重要であることを発見したことも挙げられている<ref name="sasaki" />。一方でリービッヒは自然科学的合理性を無視した掠奪耕(地力収奪耕)こそが、国家の物質的・政治的・精神的基盤を弱体化させるもので、人類の存亡にかかわる回避すべき問題とみていた<ref name="tsuya" />。また、当時最も合理的と考えられていた輪栽式農法もリービッヒは掠奪耕にあたると考えており、地力の均衡が農学において大きな議論となった<ref name="tsuya" />。 リービッヒの農学思想は自然科学的認識の正しさと好景気を背景に受け入れられる向きもあったが、徐々に批判も出始めて大不況期に入ると批判が決定的となって急速に忘れ去られ、以後は単に化学者として位置づけられるようになった<ref name="tsuya" />。 その後、カント哲学の影響を強く受けたシュルツェ(F.G. Schultze)がドイツ農学の主流派でテーヤにつぐ第一人者と評されるようになった<ref name="tsuya" />。十九世紀前半からドイツ各地に農業アカデミーが開校したが、イェーナ大学の正教授になっていたシュルツェは1826年にイェーナに農学校を創設した<ref name="tsuya" />。イェーナの農学校は他の農学校とは異なり、大学と有機的に強い結びつきをもち、その後のドイツの農業教育制度に決定的影響を及ぼした<ref name="tsuya" />。 === イギリスの農学史 === イギリスは[[ヨーロッパ]]で最も農書が著された国とされ、18世紀から19世紀の[[農業革命]]期にイングランドで技術的側面の普及のために農書が必要とされていたことによる<ref name="arizono">{{Cite journal|和書|author=有薗正一郎 |date=1985 |url=https://doi.org/10.4200/jjhg1948.37.332 |title=農書の地理学的研究序説 |journal=人文地理 |ISSN=00187216 |publisher=人文地理学会 |volume=37 |issue=4 |pages=332-353 |doi=10.4200/jjhg1948.37.332 |id={{CRID|1390001205141188992}}}}</ref>。農業革命による変化は、休閑の廃止、飼料作物の導入、農作物の組合せによる地力維持、家畜の舎飼との結合による穀草式農法、輪栽式農法などであり、中世における穀物の生産力が播種量の4倍だったが、18世紀には10倍に飛躍的に増加した<ref name="arizono" />。農作業の機械化はそれより遅く、19世紀の収穫作業の機械化に始まり、機械化が進んだのは20世紀初頭のことであった<ref name="arizono" />。 農業革命には新農法の導入による土地生産性の向上と、新農法を受け入れる農村社会の確立の2つが基本的要素になっているが、農書は新農法を普及させるための媒体となった<ref name="arizono" />。 イングランドの農書の歴史は、13世紀後半にウォルター・オブ・ヘンリー(Walter of Henley)が著した『農業論』に始まるといわれており、中世の農業生産技術の一端を知ることができる<ref name="arizono" />。 17世紀中頃には第1次の[[囲い込み]]が行われ、その個人有地で穀草式農法が普及しつつあったが、1652年にはブライス(W. Blith)が[[シャジクソウ属|クローバー]]などの作付けを奨励する『イングランドの進歩的改良者』を著している<ref name="arizono" />。 18世紀に入り、タル(Tull)が『馬耨農法』を著し、休閑無用説と飼料用カブの中耕除草を説き、輪栽式農法の時代が始まったといわれているが、中耕除草機は土性により使用することができなかったため普及せず、農作業の機械化は19世紀後半まで待たねばならなかった<ref name="arizono" />。 18世紀後半から19世紀前半にかけて輪栽式農法が主にイングランド東部で普及したが、その提唱者の一人がアーサー・ヤングであり、資本主義的農業経営の萌芽がみられる<ref name="arizono" />。 19世紀、室内での科学実験からのアプローチが農業で信頼できるものになるには、圃場における検証実験の方法論が確立される必要があった<ref name="sasaki" />。ドイツのリービッヒのもとに留学したことのあるイギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)は、ロザムステッド農事試験場で実験を行い、植物が大気中から窒素を獲得しているというリービッヒの説に反駁して窒素肥料の効果を実証した<ref name="sasaki" />。 イギリス人のギルバート(Gilbert,J. H.)の実証実験や[[ダラム大学]]のジョンストン(Johnston,J. F. W.)による試験の厳密性や反復の必要性の主張から、近代農学では科学実験の知見を圃場での観察を通じて検証するスタイルが確立した<ref name="sasaki" />。 === アメリカの農業史 === アメリカでは[[南北戦争]]後に国有地を付与された大学が設置されたが、農学部が関心を持たれるようになったのは、1880年代に農学部に農事試験場が整備され研究成果が蓄積するようになってからである<ref name="sasaki">{{Cite journal|和書|author=佐々木保孝 |date=2007 |url=https://doi.org/10.34530/bjssace.43.0_21 |title=アメリカ合衆国における農学の進展と農業拡張事業 |journal=日本社会教育学会紀要 |ISSN=03862844 |publisher=日本社会教育学会 |volume=43 |pages=21-30 |doi=10.34530/bjssace.43.0_21 |id={{CRID|1390005506401323136}}}}</ref>。 1890年代には農学部が積極的に構外教育活動を行う農業拡張事業を行うようになり、大学に通うことのできない大多数の農民に知的資源を提供する場になった<ref name="sasaki" />。 18世紀後半には農業改良に関心を持つ人々が集まって議論することが盛んになっており、アメリカ合衆国の独立後、これらは各地の農事協会に発展した<ref name="sasaki" />。 農学界ではイギリスのギルバート(Gilbert,J. H.)やジョンストン(Johnston,J. F. W.) のもとで学んだ留学生が研究を進め、特にノートン(Norton,J. P.)やポーター(Porter,J. A)が所属する[[イェール大学]]は土壌分析など農芸化学で知られるようになった<ref name="sasaki" />。 1853年にドイツに渡ったジョンソン(Johnson,s.w.)は、帰国後に化学肥料の研究のかたわら農事試験場の設立運動に取り組み、1870年代後半にはコネチカット州やニューヨーク州などに独自の農事試験場が設置された<ref name="sasaki" />。 19世紀末から20世紀初頭にかけての農事試験場では、化学を中心に分析法に関する研究が進展し、土壌、肥料、植物、食糧、および飼料など農学の専門分野のそれぞれに応用され、学問の進展が加速化した<ref name="sasaki" />。 === 中国の農学史 === 中国の農書の歴史は紀元前3世紀に著された『[[呂氏春秋]]』が最初とされている<ref name="arizono" />。『呂氏春秋』は[[呂不韋]]が抱える知識集団によって編纂され、十二紀、八覧、六論の26部で構成されており、六論中の「士容論」第三編の「上農」では農業政策、第四編の「任地」では土地利用の原則、第五編の「弁士」では土地改良の原則、第六編の「審時」では適時作業の原則について述べられている<ref name="arizono" />。 紀元前1世紀には『[[氾勝之書]]』が著されたが現存しておらず、後代の農書にある引用から、耕作の原則、十数種の農作物の耕作法、種子の選別法と保存法が記されていたとみられる<ref name="arizono" />。 その後、後漢の崔寔が歳時記型の農書である『[[四民月令]]』を著した<ref name="arizono" />。 540年頃には[[賈思勰]]の『[[斉民要術]]』全9巻が刊行され、内容は『呂氏春秋』の農本思想を受け継ぎ、第6巻までは『氾勝之書』の形式で各農産物ごとに乾地農法の技術を述べ、第7巻からはは『四民月令』に近い内容の生活の技術を述べている<ref name="arizono" />。 元代には中国最古の官撰農書『[[農桑輯要]]』が編纂された<ref name="arizono" />。1313年には王禎の『農書』が著され、総論の「農桑通訣」、各論の「百穀譜」、農具を図解した「農器図譜」からなるが、記述の5分の4は農器図譜で300を超える農具を収録している<ref name="arizono" />。 明代末には[[徐光啓]]によって『[[農政全書]]』が著され(刊行は1639年)、屯田開墾,、大規模な水利土木,、備荒に重点を置いている<ref name="arizono" />。 清代には官撰農書の『授時通考』が編纂された<ref name="arizono" />。 === 日本の農学史 === [[File:Sapporo Agricultural School in 1880 (halftone removed).jpg|thumb|250px|日本初の農学校、[[札幌農学校]](1876年設立、現在の[[北海道大学]])]] 明治維新後、明治政府は西洋の科学的な農業技術や知識の導入によって農業生産の拡大を図る方針をとった<ref name="yamamoto">{{Cite journal|和書|author=山本悠三 |date=2015-07 |url=http://id.nii.ac.jp/1653/00009965/ |title=国立農事試験場制度の成立 : その1 (温故知新プロジェクト) |journal=東京家政大学生活科学研究所研究報告 |ISSN=0914-5192 |publisher=東京家政大学生活科学研究所 |volume=38 |pages=19-29 |id={{CRID|1050845763177051008}}}}</ref>。また、明治政府の最重要課題は富国強兵と殖産興業であり、生糸や茶など主要輸出品の勧農政策が重視された<ref name="shimizu">[https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n1908re2.pdf 清水徹朗「日本農政思想の系譜」農林金融2019・8] 農林中金総合研究所、2022年7月26日閲覧。</ref>。 1869年(明治2年)4月に民部官が設置されると、5月には民部官に開墾局が置かれた<ref name="yamamoto" />。しかし、7月に民部官は廃止されて民部省が設置され、1870年(明治3年)9月に勧農局が設置され、開墾、種芸、養蚕、編集、雑務の5課が配置された(勧農局は12月に開墾局となり、翌1871年4月に勧業局となった)<ref name="yamamoto" />。さらに1871年(明治4年)7月、民部省は廃止され、大蔵省勧業司に引き継がれたが、大蔵卿に就任した[[大久保利通]]により改革が行われ、8月に勧業寮さらに勧農寮に改められた<ref name="yamamoto" />。 1871年11月に派遣された[[岩倉使節団]](大久保は副使)の帰国後、日本では[[内藤新宿]]試験場(現在の[[新宿御苑]])や[[三田育種場]]の設置、[[札幌農学校]]や[[駒場農学校]]の設立、外国人教師の招聘などに取り組んだ<ref name="shimizu" />。 ==== 内藤新宿試験場 ==== 1872年(明治5年)10月、大蔵省では勧農寮が廃止され、租税寮に勧農課を置くとともに、同月に内藤新宿試験場の設置が決定した<ref name="yamamoto" />。民部省や大蔵省は[[東京府]]下の数箇所に西洋農具置場、植物試栽場、牧畜試験場を設置していたが、いずれも小規模で穀菜果樹の配布や各種試験、模範事業を行うには不適当だった<ref name="yamamoto" />。そこで[[内藤氏#内藤氏(三河系)|内藤家]]所有の9万5千坪を9千5百円で買収し、その隣接地も次々に買収して最終的に19万余坪を買収した<ref name="yamamoto" />。 内藤新宿試験場の拡大の過程で、1874年(明治7年)7月に三田四国町の旧島津邸の4万坪の土地を買収して内藤新宿勧業寮出張所附属試験地とした(後の三田育種場)<ref name="yamamoto" />。新たな土地の購入の背景には内藤新宿試験場の地味が良好でなかったためなどの理由があったとされる<ref name="yamamoto" />。この三田育種場の整備により、1879年(明治12年)5月に内藤新宿試験場は廃止された<ref name="yamamoto" />。 {{See|三田育種場}} ==== 札幌農学校 ==== 明治政府は国防上の理由から1869年(明治2年)7月に蝦夷地(当時)に[[開拓使]]を設置した<ref name="sapporo">{{Cite journal|和書|author=山本悠三 |date=2016-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1653/00010102/ |title=札幌農学校と「農学」研究 : その1 |journal=東京家政大学附属臨床相談センター紀要 |ISSN=1346-2776 |publisher=東京家政大学附属臨床相談センター |volume=16 |pages=33-50 |id={{CRID|1050001338246961792}}}}</ref>。外国人の雇用などの必要性を説いていた開拓使の次官の[[黒田清隆]]は、1871年(明治4年)1月に留学生とともに渡米し、駐米少弁務使の[[森有礼]]の協力を得て、第18代大統領ユリシーズ・S・グラントの配慮で[[ホーレス・ケプロン]]など推薦された外国人を連れて帰国した<ref name="sapporo" />。 1872年(明治5年)1月、黒田は明治政府に開拓使仮学校の計画を上申した<ref name="sapporo" />。校長には[[荒井郁之助]]があてられ、同年3月10日に生徒募集の通達が出された<ref name="sapporo" />。「開拓使仮学校規則」の第1条によると、学校は札幌に設置するが、それまで東京に仮学校を設置することとし、東京の[[芝 (東京都港区)|芝]]増上寺本坊に開設されることになった<ref name="sapporo" />。 「開拓使仮学校規則」第15条の受講科目では、学科を普通2科と専門4科に分け、「普通学」の1では英語学、漢学、算数、手習、日本地理、歴史等の一般教養、「普通学」の2では舎密学、器械学、測量学、本草学、鉱山学、農学等の科目が配列された<ref name="sapporo" />。また、「専門学」は、第1が舎密学、器械学、画学、第2が鉱山学、地質学、画学、第3が建築学、測量学、画学、第4が舎密学、本草及び禽獣学、農学、画学で、一部は「普通学」の2との連携が重視されていた<ref name="sapporo" />。また、農学は専門学の第4に配置されており、必ずしも比重が高かったわけではない<ref name="sapporo" />。 1875年(明治8年)8月、開拓使仮学校は予定通り札幌に移転したが、その際の名称は「札幌農学校」ではなく「札幌学校」で最初から「農学校」としなかった理由は不明である<ref name="sapporo" />。1876年(明治9年)8月、札幌学校は札幌農学校に改称し、[[ウィリアム・スミス・クラーク]]が教頭に着任した(実質的な校長職で、名目上の校長は[[調所広丈]])<ref name="sapporo" /><ref name="miura">{{Cite journal|和書|author=三浦嘉久 |year=2014 |url=http://id.nii.ac.jp/1158/00000690/ |title=札幌農学校と建学の精神 : 青年・岩崎行親の精神的風土について |journal=想林 |issue=5 |pages=21-45 |publisher=鹿児島純心女子短期大学江角学びの交流センター地域人間科学研究所 |ISSN=21850046 |id={{CRID|1130000796898770304}}}}</ref>。 札幌農学校は日本で最初の高等農業教育機関であった<ref name="miura" />。ただし、札幌農学校は駒場農学校と同様に「農学」の看板を掲げたが、駒場農学校とは異なり「農学とは異質とも思われる領域」もカリキュラムには含まれていた<ref name="sapporo" />。札幌農学校の卒業生には、佐藤昌介(農学博士)、[[新渡戸稲造]](農学博士・法学博士)、[[南鷹次郎]](農学博士)、[[広井勇]]([[工学博士]])、[[宮部金吾]](理学博士)、[[渡瀬庄三郎]](理学博士)、[[高岡熊雄]](法学博士・農学博士)らがいる<ref name="sapporo" />。 {{See|札幌農学校}} ==== 駒場農学校 ==== 1870年代、北海道の開拓使が招聘したアメリカ人教師とは別に、開校予定の農事修学場に農学教師として招聘されたイギリス人教師たちがいた<ref name="nishio">{{Cite journal|和書|author=西尾敏彦 |date=2016-12 |url=http://www.nohken.or.jp/29-10nishio343-366.pdf |format=PDF |title=駒場農学校イギリス人教師カスタンスの農業講義 : その芳しからざる評価を巡って |journal=農業研究 : 日本農業研究所研究報告 |ISSN=09149813 |publisher=日本農業研究所 |issue=29 |pages=343-366 |id={{CRID|1521980705330315264}}}}</ref>。新しい農学校の開設を担当したのは内務省勧業寮内藤新宿出張所内の農学掛(まもなく第6課に改称)で、課長は[[田中芳男]]が務めており、1875年12月に内務卿の大久保利通に農学校設立の必要性を述べた『農学校設立生徒教育教師僦用順序之儀伺』を提出した<ref name="nishio" />。 この伺が裁可され、1876年2月、勧業寮第6課の富田禎次郎が渡英し、王立サイレンセスター農学校(Royal Agricultural in Cirencester)の教官やその関係者である農芸化学(無機・有機化学)担当のキンチ、[[獣医学]](解剖学・家畜内外科)担当のマックブライト、試業科教師のベグビー、予科教師のコックス、農学(農学諸科・農場実践)担当のカスタンスの5人が来日した<ref name="nishio" />。このうちベグビーが途中で不祥事により解任されたほかは、契約期間の3年以上勤務して帰国している<ref name="nishio" />。 最も長く日本に滞在したのはキンチで、任期をさらに2年延長し、王立サイレンセスター農学校の化学教授に招かれたため急遽4年半で帰国したが、[[横井時敬]]や[[恩田鉄弥]]などの教え子が渡英時にキンチを訪ねており慕われていた<ref name="nishio" />。しかし、イギリス人教師の評価は芳しくなく、特に農学教師のカスタンスの講義は不評で、受講していた[[玉利喜造]]や[[酒匂常明]]などは英国の大規模な農業をそのまま教えていると苦言を述べている<ref name="nishio" />。この時期は[[秩禄処分]](1876年)などにより明治政府は旧士族の授産問題を抱えており、駒場では東北地方などの内地に旧士族を送ってイギリスの大規模農法を導入したい意図があったため、日本の事情の説明を受けていたカスタンスらも母国の畑作農法の伝導に努めたことが背景にあるといわれている<ref name="nishio" />。また、コックスの講義を受けた[[新渡戸稲造]]も、旧式の文章構成法に忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できないと評している<ref>{{Cite journal|和書|author=熊沢喜久雄 |date=1986 |url=https://doi.org/10.57411/fertilizerscience.9.9_1 |title=キンチとケルネル : わが国における農芸化学の曙 |journal=肥料科学 |ISSN=0387-2718 |publisher=肥料科学研究所 |volume=9 |issue=9 |pages=1-41 |doi=10.57411/fertilizerscience.9.9_1 |id={{CRID|1390857226420141056}}}}</ref>。 1878年(明治11)年、農事修学場は駒場農学校に改称された<ref name="nishio" />。 イギリス人教師の後任として、ドイツから1881年に[[オスカル・ケルネル]]、1882年に[[マックス・フェスカ]]が来日した<ref name="nishio" />。ケルネルは日本の農芸化学の基礎を築き、フェスカは『日本地産要覧図』や『日本地産論』などの名著を残した<ref name="nishio" />。 {{See|駒場農学校}} === 年表 === * 紀元前3世紀 - 中国で『[[呂氏春秋]]』が編纂される<ref name="arizono" />。 * 紀元前1世紀 - 中国で『[[氾勝之書]]』が著される<ref name="arizono" />。 * 540年頃 - 中国で[[賈思勰]]の『[[斉民要術]]』が刊行される<ref name="arizono" />。 * 1313年 - 中国で王禎の『農書』が著れる<ref name="arizono" />。 * 1639年 - 中国で『[[農政全書]]』刊行<ref name="shimizu" />。 * 1697年 - [[宮崎安貞]]『[[農業全書]]』<ref name="shimizu" /> * 1727年 - ウィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I)がハレ大学とフランクフルト大学に初めて農業と官房学(Kameralwissenschaft)の講座を設立<ref name="tsuya" />。 * 1769年 - ベックマン(J.Beckmann)『ドイツ農業原理(Grundsatzeder deutschen Landwirtschaft)』<ref name="tsuya" /> * 1815年 - テーヤ(A.D. Thaer)『農業営業学汎論入門(Leitfadenzur allgemeinen landwirtschaftlichen Gewerbslehre)』<ref name="tsuya" /> * 1853年 - フルベック(F.X. W. Hlubeck)『農学全書(DieLandwirtschaftslehre in ihrem ganzen Umfang)』<ref name="shimizu" /> * 1876年 - [[津田仙]]が[[学農社]]を設立<ref name="shimizu" />。 * 1898年 - 新渡戸稲造が『農業本論』『農業発達史』を発表<ref name="shimizu" />。 == 農学の分野 == [[日本農学会]]の資料<ref>{{Citation|和書|author=日本農学会 |title=日本農学80年史 |year=2009 |publisher=養賢堂 |isbn=978-4-8425-0461-2 }}</ref>[[文部科学省]]学科系統分類表/農学<ref>{{Cite web|和書|title=学科系統分類表 1 大学(学部) 農学:文部科学省|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/05122201/006/004/005.htm|website=www.mext.go.jp|accessdate=2020-05-02}}</ref>などをもとに分類した。 {| class="wikitable" ! 大分類 !!中分類 !!小分類 |- ! rowspan="7" |生産農学関係<ref>{{PDFlink|[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2017/10/18/1387669_01.pdf 農学科の科目]}}</ref> |生産[[植物]]学 |[[園芸学]] - 園芸農学 - [[花飾学]] - 花卉園芸学 - [[果実学]] - 果樹園芸学 - 蔬菜園芸学 - [[作物栽培学]] - [[育種学]] - [[草地学]] - [[雑草学]] - [[熱帯農学]] - 寒地農学 - 暖地農学 - 経営農学 - [[栽培|栽培学]] - 植物生殖遺伝学 - 植物分子育種学 - 植物遺伝育種学 - 植物バイオテクノロジー - 植物分子細胞育種学 - 農業生産技術学 - [[植物栄養学]] |- |農業生産学 |農業生産管理学 - 生物生産学 - 生物生産システム学 - 生産環境学 - [[システム農学]] - [[繁殖生物学]] - 大気生物学 - [[有機農業学]] - [[農業|農作業学]] |- |農業生物学 - 応用生物学 |農業生命科学 - 生命機能科学 - 生命環境学 - 共生環境学 - 応用生命科学 - 生物機能科学 - 生物情報科学 - 生物企業情報学 - 生物圏生命科学 - 生態環境科学 - 生物環境学 - 生物環境システム学 - 生物環境管理学 - 生物環境保護学 - 生物環境保全学 - 生物環境資源科学 - 生物制御学 - 生物環境制御学 - 応用遺伝生態学分野、相関分子生物学分野、[[発生生物学]]分野、細胞分子生物学分野 |- |[[応用植物科学科|応用植物科学]] |[[植物生理学]] - [[植物保護学]] - [[植物病理学]] - [[応用植物学]] - [[雑草学]] - [[農薬学]] - 植物資源学 - 植物バイオサイエンス学 - バイオサイエンス学 - 植物防疫学 - [[食用植物学]] - [[植物化学調節学]] |- |[[昆虫学]] - [[応用昆虫学]] |[[応用微生物学]] - [[蚕糸学]] - 蚕糸生物学 - [[生物統計学|生物測定学]] - [[繊維学|繊維農学]] - [[養蚕業|養蚕学]] - [[農業害虫|農業害虫学]] - [[昆虫病理学]] - 動物生化学([[昆虫]]系)- 昆虫機能生理化学 |- |[[農業物理学]] |[[土壌学]] - 土壌環境学 - [[土壌肥料学]] - [[土壌微生物学]] - [[砂丘学]] - [[農薬|農薬学]] - [[ペドロジー学]] - [[アグロロジー]] - [[土壌地理学]] - [[土壌物理学]] - [[土壌生物|土壌生物学]] |- |生物資源学 |資源生物学 - 生物資源生産学 - 生物資源利用学 - 生物資源開発学 - 生物資源管理学 - 生物資源環境学 |- ![[造園学]]関係 |[[緑地環境科学]] |[[芝草学]] - [[樹木医学]] - [[緑地計画学]] - [[風景計画学]] - [[庭園学]] - [[緑地植物学]] - [[植栽学]] - [[緑地工学]] - [[緑化工学]] - [[緑地管理学]] - [[緑地生態学]] - [[緑地情報学]] - [[緑地学]] - 緑地環境保全学 - 造園史学 - 景観生態学 |- ! rowspan="6" |[[農芸化学]]関係 |[[生物工学|農業生物工学]] |農業生物環境工学 - [[生態工学]] - [[動物再生システム学]] - [[動物生理学]] - [[分子発生学]] - [[環境応答生物学]] - [[ゲノム機能工学]] - [[植物分子生理学]] - [[植物細胞工学]] - [[細胞情報制御学]] - [[生体制御学]] - [[動物栄養学]] - [[微生物工学]] - [[生体機能物質学]] - [[バイオインフォマティクス]] - [[植物発生制御学]] - [[プロテオミクス]] - [[環境応答植物学]] - [[生体機構学]] - [[発生工学]] |- |[[醸造学]] - [[発酵学]] |農産製造学 - 食品生物科学 - 食品生命科学 - 有用微生物学 |- |農芸化学 |[[植物化学調節学]] - [[応用糖質科学]] - 農業化学 - 農産化学 - 園芸化学 - [[化学生態学]] - [[生理活性物質化学]] - [[農薬化学]]、[[天然物有機化学]]、[[酵素化学]]、[[植物栄養学]] - 分子生命化学 - [[生物化学]] - 遺伝子機能制御学- 構造生化学- 植物工学- 生物[[遺伝子工学]]- 細胞組織生化学 |- |食品科学 |食品工学 - 食品流通学 - 食料生産科学 - 食品製造工学 - 生物化学工学 - 食品学 - 食品化学 - 食品工業化学 - 畜産食品化学 - 畜産食品工学 - 食品生産化学 - 農業食料工学 - 食品物性学 - 生物機能化学 - 生物制御化学 - 生態情報化学 - [[生物有機化学]] - 栄養生理化学 - 応用蛋白質化学 |- |農林総合化学 |生物資源化学 - 生命化学 - 応用生命化学 - 生命機能化学 |- |食糧化学 |生物資源食糧化学 - 食糧化学工学 |- ! rowspan="3" |[[農業工学]]関係 |農業工学 - [[農林工学]] |[[農業農村工学]]([[農業土木学]]) - [[農業気象学]] - [[生物環境工学]] - [[農村計画学]] - [[農業機械学]] - [[フィールドロボティクス]] - [[農業施設|農業施設学]] - [[海水学]] - [[農作業学]] - 畜産土木工学 - 農業水産工学 - 農業生産工学 - [[農業施設学]] -農業開発工学 |- |生産環境情報学 |[[システム農学]] - [[農業情報学]] - 生産情報科学 - 地域環境科学 - 地域生態システム学 |- |農業環境工学 |農業生産環境工学 - 生物環境管理工学 - 生物環境工学 - 生物生産環境学 - 食料生産環境工学 - 地域環境工学 - 土壌物理学、生物構造解析学、農[[地盤工学]]、水利施設工学、農村地域計画学、農地工学、農産プロセス工学、灌漑排水工学、[[バイオマス]]利用学 |- ! rowspan="4" |[[農業経済学]]関係 |農業の[[社会科学]] |[[農村社会学]] - [[農業経営学]] - [[国際地域開発学]] - [[農政学]] - 地域経済・資源科学 - [[地域計画学]] - 地域農業システム学 - 農村経済学 - 農政経済学 - 地域農林経済学 - 酪農経済学 - 食品経済学 - 園芸経済学 - 農産業経営学 |- |農業拓殖学 |[[植民政策学]] - [[農業地理学]] - [[農業マーケティング]] |- |食料・環境経済学 |地域開発科学 - 食料環境経済学 - 資源環境学 - 資源生物環境学 - 国際資源管理学 - 食料・環境経済学 - [[ファームビジネス]]学 - [[フードビジネス]]学 - フードシステム学 - 農業環境マネジメント学 |- |国際環境農学 |国際生物生産資源学 - 水利環境保全学 - 環境地盤工学 - 流域環境修復保全学 - 国際比較経済開発学 - 人口社会学 - 農薬動態学 |- ! rowspan="2" |森林科学関係 |[[林学]] |[[林学|森林学]] - [[砂防学]] - 砂防工学 - [[林木育種学]] - [[林業経済学]] - [[森林立地学]] - [[森林計画学]] - 森林資源科学 - [[森林利用学]] - 林業工学 - [[樹木学]] - [[森林美学]] - 農林[[水文学]] - 山地保全学 - [[森林生態学]] - 森林生産システム学 - 森林施設工学 - 森林施業学 - 持続的森林管理学  |- |自然環境保全学 |生態系保全学 - [[生物多様性]]保全学 - 植生管理学 - 森林生態保全学 - 動物生態学 - [[樹木学]] - 野生動物保全技術論 - 景観保全学 - 植生学 - 野生動物保全学 |- !林産学関係 |[[林産学]] |[[木材学]] - [[木材化学]] - 木材加工学 - 農林生産学 - 農林環境科学 - 林産経済学 - 林産経営学 - 林産社会学 |- ! rowspan="3" |獣医学 - 畜産学関係 |[[獣医学]] |[[動物学|応用動物学]] - 畜産獣医学 - [[ペット栄養学]] - [[動物臨床医学]] - 獣医保健看護学 - [[毒性学]] - [[獣医臨床繁殖学]] - [[獣医薬理学]] - [[獣医病理学]] - [[獣医微生物学]] - [[獣医内科学]] - [[獣医外科学]] - [[獣医組織学]] - [[獣医寄生虫学]] - [[動物解剖学]] - 感染症学 |- |[[畜産学]] |[[繁殖生物学]] - [[家禽学]] - [[動物遺伝育種学]] - [[酪農|酪農学]] - 畜産経営学 - 畜産食品工学 - 家畜環境学 - 家畜生産科学 - 環境畜産学 - 畜産管理学 - 畜産環境科学 - [[家畜衛生学]] - [[畜産草地科学]] |- |[[動物学]] |アニマルサイエンス - 動物生産学 - 動物応用科学 - 応用動物学 - 動物資源科学 - 水圏動物学 - 生殖生物学 - 動物バイオテクノロジー - 動物生化学([[哺乳類]]型) |- ! 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2023-12-22T01:45:07Z
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