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森下裕美
森下 裕美(もりした ひろみ、1962年9月7日 - )は、日本の女性漫画家。奈良県出身。奈良県立山辺高等学校卒業。漫画家の山科けいすけは夫。血液型AB型。 1982年、「少年は青春を好きだった」で第36回フレッシュジャンプ賞佳作受賞(『週刊少年ジャンプ』(集英社)1982/05/24号に掲載・”森下ひろみ”名義)。「英語教師」で第6回ヤングジャンプ青年漫画大賞準入選。前後して、「少年」(『ガロ』4月号)でデビュー。まもなく『週刊少年ジャンプ』(集英社)に「JUN」を連載(1982年33号より42号。森下ひろみ名義)。その後は次第に4コマ漫画中心となる。2005年執筆開始の『大阪ハムレット』は、久々のページ物のシリアス作品だが、絵柄をはじめギャグ風味も残している。 ひさうちみちおに師事したわけではなく、ひさうちのところに遊びに来た時に一度少し仕事を手伝った程度である。 代表作に『少年アシベ』(週刊ヤングジャンプ)、『ここだけのふたり!!』(まんがくらぶ)など。『少年アシベ』はTVアニメ化もされた。4コマ作品は3頭身のかわいらしいキャラクターが登場するほのぼのとした雰囲気の中にある種の世知辛さや、時に冷徹とも言える人間描写が差し挟まれるのが特徴である。「顔はかわいいが心は黒い」「顔はブサイクで心も黒い」キャラクター設定を好み、「顔も心もかわいい」主役は影が薄くなっていったり、「顔はブサイクだが心はまとも」な脇役がたびたび悲惨な目に遭う展開も多い。基本的には日常生活ものが多いが、夫・山科の作を連想させるようなぶっ飛んだナンセンスギャグも好み、近作『黒トカゲ』などはその傾向が強い。 2002年より毎日新聞夕刊にて『ウチの場合は』を連載中。全国紙での連載であるだけに、上記の突出嗜好は抑えめで比較的万人受けする内容となっている。 1992年、『ここだけのふたり!!』により第21回日本漫画家協会賞優秀賞を、『大阪ハムレット』(漫画アクション連載)により2006年に第10回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を、2007年に第11回手塚治虫文化賞短編賞を受賞している。
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森下 裕美は、日本の女性漫画家。奈良県出身。奈良県立山辺高等学校卒業。漫画家の山科けいすけは夫。血液型AB型。
{{Infobox 漫画家 |名前=森下 裕美 |画像=ファイル:Morishita Hiromi 20180421.jpg |画像サイズ=200 px |脚注= |本名= |生年={{生年月日と年齢|1962|9|7}} |生地=[[奈良県]] |没年= |没地= |国籍=<!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1982年]] - |ジャンル=[[4コマ漫画]] |代表作=『[[少年アシベ]]』<br />『[[ここだけのふたり!!]]』<br />『[[ウチの場合は]]』<br />『[[大阪ハムレット]]』 他 |受賞=第6回[[ヤングジャンプ]]青年漫画大賞準入選(1982年)<br />第21回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞([[1992年]])<br />第10回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞([[2006年]])<br />第11回[[手塚治虫文化賞]]短編賞([[2007年]]) |サイン= |公式サイト= }} '''森下 裕美'''(もりした ひろみ、[[1962年]][[9月7日]] - )は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]。[[奈良県]]出身。[[奈良県立山辺高等学校]]卒業。漫画家の[[山科けいすけ]]は夫。[[ABO式血液型|血液型]]AB型。 == 経歴 == [[1982年]]、「少年は青春を好きだった」で第36回[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#フレッシュジャンプ賞|フレッシュジャンプ賞]]佳作受賞(『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])1982/05/24号に掲載・”森下ひろみ”名義)。「英語教師」で第6回ヤングジャンプ青年漫画大賞準入選。前後して、「少年」(『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』4月号)でデビュー。まもなく『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])に「JUN」を連載(1982年33号より42号。'''森下ひろみ'''名義)。その後は次第に[[4コマ漫画]]中心となる。2005年執筆開始の『[[大阪ハムレット]]』は、久々のページ物のシリアス作品だが、絵柄をはじめギャグ風味も残している。 [[ひさうちみちお]]に師事したわけではなく、ひさうちのところに遊びに来た時に一度少し仕事を手伝った程度である<ref>『[[BSマンガ夜話]]』「ここだけのふたり!!」の回(2001年5月31日放送)にゲスト出演したひさうち自身が語っている。</ref>。 代表作に『[[少年アシベ]]』([[週刊ヤングジャンプ]])、『[[ここだけのふたり!!]]』([[まんがくらぶ]])など。『少年アシベ』は[[テレビアニメ|TVアニメ]]化もされた。4コマ作品は3頭身のかわいらしいキャラクターが登場するほのぼのとした雰囲気の中にある種の世知辛さや、時に冷徹とも言える人間描写が差し挟まれるのが特徴である。「顔はかわいいが心は黒い」「顔はブサイクで心も黒い」キャラクター設定を好み、「顔も心もかわいい」主役は影が薄くなっていったり、「顔はブサイクだが心はまとも」な脇役がたびたび悲惨な目に遭う展開も多い。基本的には日常生活ものが多いが、夫・山科の作を連想させるようなぶっ飛んだナンセンスギャグも好み、近作『黒トカゲ』などはその傾向が強い。 [[2002年]]より[[毎日新聞]]夕刊にて『[[ウチの場合は]]』を連載中。[[全国紙]]での連載であるだけに、上記の突出嗜好は抑えめで比較的万人受けする内容となっている。 [[1992年]]、『ここだけのふたり!!』により第21回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を、『[[大阪ハムレット]]』([[漫画アクション]]連載)により[[2006年]]に第10回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞を、[[2007年]]に第11回[[手塚治虫文化賞]]短編賞を受賞している。 == 作品リスト == * JUN([[集英社]]『[[週刊少年ジャンプ]]』1982年33号 - 42号) * 荒野のペンギン(集英社『[[週刊ヤングジャンプ]]』1984年 - 1986年) * 金魚のまくら([[青林堂]]) - 短編作品集 * SS〈サイボーグサラリーマン〉(集英社『[[ビジネスジャンプ]]』) * 恋人のいる街([[河出書房新社]]) - 短編作品集 * あっ にてる(集英社) - 短編作品集 * 23のさかな([[双葉社]]) - 短編作品集 * [[少年アシベ]](集英社『週刊ヤングジャンプ』1988年24号 - 1994年3・4合併号) ** [[少年アシベ#COMAGOMA|COMAGOMA]](集英社『週刊ヤングジャンプ』2000年46号 - 2004年17号) ** 青少年アシベ(双葉社『[[月刊アクション]]』2017年9月号 - 連載中、原作・構成) ** 小3アシベ QQゴマちゃん(双葉社『[[漫画アクション]]』2020年No.7 - 連載中) * [[ここだけのふたり!!]]([[竹書房]]『[[まんがくらぶ]]』1988年 - 2002年12月号) ** ここだけのふたり!(双葉社『[[漫画アクション]]』2008年5号 - 19号) * [[ひまわり武芸帖]](双葉社『COMICアクションキャラクター』1988年 - 1990年) * カッパ天国(竹書房) - 短編作品集 * スーパーまるでん(集英社『[[スーパージャンプ]]』1995年6号 - 2002年3号) * [[エンヤ KODOMO忍法帖]]([[小学館]]『[[週刊少年サンデー]]』1995年21・22合併号 - 1998年20号) * ライオン帝王([[ぶんか社]]『ヤングテイオー』1995年) * 仕事でおさる([[光文社]]『[[女性自身]]』) * ナゾナゾ謎のお友達(小学館『[[コミックGOTTA]]』2000年2月号 - 2001年6月号) * [[ウチの場合は]]([[毎日新聞社]]『[[毎日新聞|毎日新聞夕刊]]』2002年 - 連載中) * かわうそ3きょうだい([[新潮社]]『[[週刊コミックバンチ]]』2003年36・37合併号) - 読切 * [[大阪ハムレット]](双葉社『漫画アクション』2005年10号 - 2010年) * 夜、海へ還るバス(双葉社『漫画アクション』) * [[トモちゃんはすごいブス]](双葉社『漫画アクション』2010年21号 - 2013年12号) * なのな フォト ゴロー(双葉社『[[WEBコミックアクション]]』2013年8月 - 2015年9月) * 36寿司(サブロクズシ)(双葉社『カラフル』2013年8月 - 2016年1月) * 黒トカゲ(双葉社『カラフル』2018年5月 - 2019年4月、原作:[[江戸川乱歩]]) == ゲーム == * [[マイライフ マイラブ ぼくの夢わたしの願い]] == その他 == * [[宝島社]]「このミステリーがすごい! 2000年版」表紙イラスト(1999年) * 奈良弁護士会マスコットキャラクター「こまちゃん」デザイン<ref>[https://web.archive.org/web/20200521011152/http://www.naben.or.jp/room/ こまちゃんの部屋 | 奈良弁護士会]</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連人物 == * [[山科けいすけ]] - 夫 * [[ほぶらきん|森下太朗]] - 従兄弟 * [[ひさうちみちお]] * [[かずといずみ]] * 森々れもん([[大倉第]]) == 外部リンク == * [https://www.morishitahiromi.store/ GOMACHAN HONPO 森下裕美公式Web] - 公式サイト * {{Twitter|Morishita_oop|森下裕美}} * {{Facebook|morishitahiromioop|森下裕美}} * {{Instagram|morishita_oop|森下裕美}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:もりした ひろみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:奈良県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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森園みるく
森園 みるく(もりぞの みるく、英: Milk Morizono 、1957年12月25日 - )は、日本の漫画家、写真家。山口県徳山市(現・周南市)出身。本名:溝口 比呂子。 『アナザー・パートナー』に収録 Rachel Matt Thorn 代表作は『キアラ』(原作:桐野夏生)、『ほんとうに怖い童話』(原作:村崎百郎)など。
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森園 みるくは、日本の漫画家、写真家。山口県徳山市(現・周南市)出身。本名:溝口 比呂子。 『アナザー・パートナー』に収録 Rachel Matt Thorn
{{存命人物の出典明記|date=2016年3月9日 (水) 16:13 (UTC)}} {{Expand English|Milk Morizono|date=2021年5月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 森園 みるく | ふりがな = もりぞの みるく<br />Milk Morizono | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 別名義 = <!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1957|12|25}} | 生地 = [[日本]]・[[山口県]][[徳山市]](現・[[周南市]]) | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]、[[写真家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1981年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]、[[成人向け漫画]]、[[女性漫画]] | 代表作 = 『[[キアラ (森園みるくの漫画)|キアラ]]』<br />『ほんとうに怖い童話』<br />『[[欲望の聖女 令嬢テレジア]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = {{Official website|http://morizono.babymilk.jp/}} }} '''森園 みるく'''(もりぞの みるく、[[英語|英]]: ''Milk Morizono'' 、[[1957年]]<ref name="morizonoprofile">{{Cite web |url=http://morizono.babymilk.jp/profile.html |title=Profile |work=森園みるく公式ホームページ |accessdate=2016-12-17}}</ref>[[12月25日]]<ref name="morizonoabout">{{Cite web |url=http://morizono.babymilk.jp/about.html |title=ABOUT MILK |work=森園みるく公式ホームページ |publisher= |accessdate=2016-12-17}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[写真家]]。[[山口県]][[徳山市]](現・[[周南市]])出身<ref name="morizonoabout" />。本名:溝口 比呂子<ref name="morizonoprofile" />。 『アナザー・パートナー』に収録 Rachel Matt Thorn == 来歴 == * デザイン会社勤務を経て、[[1981年]]に[[小学館]]の『[[別冊少女コミック]]』で[[少女漫画|少女漫画家]]としてデビュー<ref name="morizonoabout" />。 * [[1987年]]頃から、活動の場を[[レディースコミック]]に移し<ref name="morizonoabout" />、濃厚な筆致と過激なセックス描写で人気を博す。 * [[2003年]]に[[エミ・エレオノーラ]]を被写体としたポストカード集『音楽芸者 エミ・エレオノーラ』を発表。 代表作は『キアラ』(原作:[[桐野夏生]])、『ほんとうに怖い童話』(原作:[[村崎百郎]])など。 == 作品 == === 単行本コミック === * 勝手に専科(小学館)〈フラワーコミックス〉全3巻 :: 1. 1983年4月 {{ISBN2|4-09-131161-X}}、2. 1983年10月 {{ISBN2|4-09-131162-8}}、3. 1983年12月 {{ISBN2|4-09-131163-6}} * 今夜もセクシャル(小学館)〈フラワーコミックス〉1984年12月、森園みるく傑作集1、{{ISBN2|4-09-131691-3}} * 不死鳥ドールズ(小学館)〈フラワーコミックス〉1985年7月、森園みるく傑作集2、{{ISBN2|4-09-132081-3}} * なにかいいことしない?子猫ちゃん(小学館)〈フラワーコミックス〉全2巻 :: 1. 1986年3月 {{ISBN2|4-09-132241-7}}、2. 1986年6月 {{ISBN2|4-09-132242-5}} * 銀幕の恋人たち(小学館)〈フラワーコミックス〉1986年5月、{{ISBN2|4-09-139051-X}} * あぶない恋人たち([[大陸書房]])(ルージュ・コミックス)1987年12月、{{ISBN2|4-8033-1289-3}} * オールナイトロング(大陸書房)(ルージュ・コミックス)1988年2月、{{ISBN2|4-8033-1907-3}} * 抱かれたい女([[秋田書店]])〈Akita lady's comics〉1989年6月、{{ISBN2|4-253-12080-6}} * ミルキィピンク(大陸書房)〈Menuett comics〉1989年7月、{{ISBN2|4-8033-2305-4}} * ミルキィポップ(大陸書房)〈Menuett comics〉1989年7月、{{ISBN2|4-8033-2306-2}} * ミルキィパーティー(大陸書房)〈Menuett comics〉1989年8月、{{ISBN2|4-8033-2316-X}} * ミルキィパニック(大陸書房)〈Menuett comics〉1989年8月、{{ISBN2|4-8033-2317-8}} * Feel So Bad([[双葉社]])1989年10月、{{ISBN2|4-575-33091-4}} * カクテル・ストーリーズ([[祥伝社]])1989年10月、{{ISBN2|4-396-76002-7}} * [[スレーブ・トゥ・ラブ]](祥伝社)1989年11月、{{ISBN2|4-396-76004-3}} * デザイアー(祥伝社)1989年12月、{{ISBN2|4-396-76007-8}} * [[香港遊戯]](祥伝社)Feel comics gold)1990年3月、{{ISBN2|4-396-76009-4}} * [[ニューヨークストーリーズ]] New York stories(祥伝社)Feel comics gold)1990年3月、{{ISBN2|4-396-76008-6}} * [[ヴィーナス・パーティー]](祥伝社)Feel comics gold)上下全2巻 :: 1. 1990年8月 {{ISBN2|4-396-76015-9}}、2. 1990年8月 {{ISBN2|4-396-76016-7}} * [[ミルキィパッション]](大陸書房)〈Menuett comics)1990年9月、{{ISBN2|4-8033-3057-3}} * ミルキィP.S.(大陸書房)〈Menuett comics)1990年9月、{{ISBN2|4-8033-3058-1}} * [[デジャヴュ (森園みるくの漫画)|デジャヴュ]] Déjà vu(祥伝社)Feel comics gold)1990年12月、{{ISBN2|4-396-76018-3}} * クリスタル・ローズ(祥伝社)Feel comics 1991年3月、{{ISBN2|4-396-76022-1}} * さぶとJUNE(双葉社)アクションコミックス 1991年4月、{{ISBN2|4-575-93252-3}} * [[神々の黄昏 (森園みるくの漫画)|神々の黄昏]](祥伝社)Feel comics gold)1991年8月、{{ISBN2|4-396-76028-0}} * [[LUST]](祥伝社)Feel comics 1991年10月、{{ISBN2|4-396-76031-0}} * [[ハイ・ライフ (桐野夏生・森園みるくの漫画)|ハイ・ライフ]](祥伝社)Feel young comics)上下全2巻、桐野夏生:原案 :: 1. 1992年4月 {{ISBN2|4-396-76041-8}}、2. 1992年4月 {{ISBN2|4-396-76042-6}} * [[HIMIKO]](祥伝社)Feel comics 1992年5月、{{ISBN2|4-396-76043-4}} * [[キアラ (森園みるくの漫画)|キアラ]](祥伝社)Feel comics)全6巻 :: 1. 1992年10月 {{ISBN2|4-396-76052-3}}、2. 1993年5月 {{ISBN2|4-396-76071-X}}、3. 1993年7月 {{ISBN2|4-396-76075-2}} :: 4. 1992年3月 {{ISBN2|4-396-76091-4}}、5. 1994年5月 {{ISBN2|4-396-76095-7}}、6. 1994年7月 {{ISBN2|4-396-76102-3}} * [[華鏡]](祥伝社)Feel young comics 1992年12月、{{ISBN2|4-396-76060-4}} * [[幸福を売る男]](祥伝社)Feel comics 1993年3月、{{ISBN2|4-396-76067-1}} * パートナー(祥伝社)Feel young comics 1993年4月、{{ISBN2|4-396-76068-X}} * [[ボンデージ・ファンタジー]](祥伝社)Feel young comics 1993年7月、{{ISBN2|4-396-76077-9}} * トップ・シークレット(祥伝社) 1993年8月、{{ISBN2|4-396-68006-6}} * デイジー・ブルース(祥伝社) 1993年11月、{{ISBN2|4-396-76084-1}} * ワイルド・フラワーズ(祥伝社)Feel young comics 上下全2巻 :: 1. 1993年12月 {{ISBN2|4-396-76086-8}}、2. 1993年12月 {{ISBN2|4-396-76087-6}} * アナザー・パートナー(祥伝社) 1994年2月、{{ISBN2|4-396-76088-4}} * ノーメイク(祥伝社) 1994年2月、{{ISBN2|4-396-76089-2}} * Let’s go to Bed(祥伝社) 1994年4月、{{ISBN2|4-396-76093-0}} * ミッドサマー・ナイト(祥伝社) 1994年6月、{{ISBN2|4-396-76100-7}} * シーサイド・ラバーズ(祥伝社) 1994年8月、{{ISBN2|4-396-76105-8}} * [[殉教者 (森園みるくの漫画)|殉教者]](祥伝社) 1994年9月、{{ISBN2|4-396-76108-2}} * そして伝えて、日々の終わりに(祥伝社)Feel young comics 上下全2巻 :: 1. 1994年10月 {{ISBN2|4-396-76110-4}} 、2. 1994年10月 {{ISBN2|4-396-76111-2}} * [[アトラスの風]](祥伝社) 1994年11月、{{ISBN2|4-396-76113-9}}、有栖川寧 原作 * ミルキィ・ラブ : 正しいオトコのつかまえ方(学習研究社)1994年11月、{{ISBN2|4-05-400282-X}} * Pinkコネクション(祥伝社) 1995年1月、{{ISBN2|4-396-76118-X}} * スイート・ハート(祥伝社) 1995年3月、{{ISBN2|4-396-76124-4}} * ライオンの中庭(双葉社)ジュールコミックス 1995年3月、{{ISBN2|4-575-33199-6}} ** ライオンの中庭(双葉社)双葉文庫 2004年1月、{{ISBN2|4-575-72497-1}} * [[ヴェルヴェット (森園みるくの漫画)|ヴェルヴェット]](祥伝社) 1995年4月、{{ISBN2|4-396-76126-0}} * ロンリー・ハーツ・クラブ(祥伝社) 1995年5月、{{ISBN2|4-396-76128-7}}、桐野夏生 原作 * ヴィオレッタ(祥伝社) 1995年6月、{{ISBN2|4-396-76130-9}} * エクスタシー(祥伝社) 1995年7月、{{ISBN2|4-396-76133-3}} * [[あなたのKISSが一番いい]](祥伝社) 1995年8月、{{ISBN2|4-396-76134-1}} * ベジタブル・ラブ(祥伝社) 1995年11月、{{ISBN2|4-396-76139-2}} * [[ミスター・キューピット]](祥伝社)1995年12月、{{ISBN2|4-396-76142-2}} * 嵐が丘([[世界文化社]])マンガ世界の文学8、1996年5月、{{ISBN2|4-418-96206-9}} 、E.ブロンテ:原作 ** 嵐が丘(双葉社) 双葉文庫 2001年11月 {{ISBN2|4-575-7235-41}} * モンロー伝説 : ただ愛が欲しいだけ(祥伝社)Feel comics gold 上下全2巻、桐野夏生 原作 :: 上巻 1996年6月 {{ISBN2|4-396-76151-1}}、下巻 1996年6月 {{ISBN2|4-396-76152-X}} :* マンガ マリリン・モンロー : 愛に飢えた魂の伝説([[講談社]])講談社+α文庫 2003年11月 {{ISBN2|4-06-256793-8}} * プレッシャーゲーム([[スコラ]])スコラレディースコミックス 1996年6月 {{ISBN2|4-7962-8733-7}} * BODY Shooting 1(スコラ)スコラレディースコミックス全2巻、 :: 1996年10月 {{ISBN2|4-7962-8751-5}}、1997年2月 {{ISBN2|4-7962-8782-5}} * [[DRAG]](祥伝社)Feel comics gold、 1997年1月、{{ISBN2|4-396-76160-0}}、エミ・エレオノーラ 原作 * 天使の誘惑(スコラ)スコラレディースコミックス 1997年3月 {{ISBN2|4-7962-8789-2}} * Beehive : 蜜蜂の巣(小学館)Big comics special 1997年7月 {{ISBN2|4-09-184851-6}}、鈴木瑶子 原作 * B.P.D 1([[リイド社]])SPコミックス 全2巻、有栖川寧:原作 :: 1. 1997年7月 {{ISBN2|4-8458-1398-X}}、2.1997年10月 {{ISBN2|4-8458-1399-8}} * Feel so bad(双葉社)双葉文庫 1997年8月 {{ISBN2|4-575-72077-1}} * 森園みるく : 自選傑作集(双葉社)日本漫画家大全 1998年2月 {{ISBN2|4-575-28811-X}} * 楽園(ペヨトル工房) 1998年2月 {{ISBN2|4-89342-235-9}}、霧島恵里子 原作 * 悪魔の帰還 : サターン・リターン([[太田出版]])1998年10月 {{ISBN2|4-87233-415-9}} * プラチナ・フィンガー1(スコラ)スコラレディースコミックス 全1巻未完、1998年11月 {{ISBN2|4-7962-8900-3}} 南智子:原作 ** プラチナ・フィンガー(マイクロマガジン社)全1巻、2003年6月 {{ISBN2|4-89637-147-X}} 南智子:原作 * メランコリア(ソフトバンククリエイティブ)SB comics 1999年3月 {{ISBN2|4-7973-0835-4}} 村崎百郎:原作 * フィータス : 人間未満([[筑摩書房]])2000年7月 {{ISBN2|4-480-88802-0}} 村崎百郎:原作 ** フィータス : 人間未満(双葉社)双葉文庫 2004年8月 {{ISBN2|4-575-72526-9}} * クレオパトラ 氷の微笑([[ぶんか社]])ぶんか社コミックス 全4巻、村崎百郎:原作 :: 1. 2001年12月 {{ISBN2|4-8211-9912-2}}、2. 2002年6月 {{ISBN2|4-8211-9961-0}} :: 3. 2003年1月 {{ISBN2|4-8211-9997-1}}、4. 2003年2月 {{ISBN2|4-8211-8003-0}} :* クレオパトラ 氷の微笑(ぶんか社)まんがグリム童話 文庫版 全5巻、村崎百郎:原作 :: 1. 2005年2月 {{ISBN2|4-8211-8128-2}}、2. 2005年2月 {{ISBN2|4-8211-8129-0}} :: 3. 2005年2月 {{ISBN2|4-8211-8130-4}}、4. 2005年2月 {{ISBN2|4-8211-8131-2}}、5. 2005年2月 {{ISBN2|4-8211-8132-0}} * シンデレラ―世界一美しい残酷童話(双葉社)双葉文庫 2002年11月 {{ISBN2|4-575-72431-9}} * 欲望の迷宮(双葉社)双葉文庫 2002年12月 {{ISBN2|4-575-72437-8}} * 黒衣のヴィーナス : 森園みるくミステリー選集1(双葉社)双葉文庫 2003年5月 {{ISBN2|4-575-72460-2}} * Miss,judge―篠宮陽子弁護ファイル([[徳間書店]])トクマコミックス 2003年9月 {{ISBN2|4-19-780202-1}} 小早川浩 原作 * 氷の涯 : 森園みるくミステリー選集2(双葉社)双葉文庫 2003年10月 {{ISBN2|4-575-72482-3}} * 新・残酷の眠るグリム童話(双葉社)双葉文庫 2004年2月 {{ISBN2|4-575-72499-8}} * まぼろしの街 : 廃墟をめぐる闇と恐怖 森園みるくミステリー選集3(双葉社)双葉文庫 2004年4月 {{ISBN2|4-575-72506-4}} * ドン・ジョヴァンニ—マンガで楽しむ傑作オペラ([[自由国民社]])2006年6月 {{ISBN2|4-426-32400-9}} * 女囚刑事黒アゲハ(ぶんか社)まんがグリム童話 2006年7月 {{ISBN2|4-8211-8319-6}} 阿曾恵海 原作 * 極妻母ちゃんドタバタ日記(ぶんか社) 2006年7月 {{ISBN2|4-8211-8317-X}} * 親ゆび姫(ぶんか社)まんがグリム童話 2007年2月 {{ISBN2|978-4-8211-8398-2}} 阿曾恵海, 西魚リツコ 原作 * [[欲望の聖女 令嬢テレジア]](小学館)フラワーコミックス・スペシャル 全12巻 藤本ひとみ 原作 :: 1. 2007年3月26日 {{ISBN2|978-4-09-131117-7}}、2. 2007年6月26日 {{ISBN2|978-4-09-131246-4}} :: 3. 2007年9月26日 {{ISBN2|978-4-09-131399-7}}、4. 2007年12月21日 {{ISBN2|978-4-09-131576-2}} :: 5. 2008年4月25日 {{ISBN2|978-4-09-131719-3}}、6. 2008年7月10日 {{ISBN2|978-4-09-132039-1}} :: 7. 2008年11月10日 {{ISBN2|978-4-09-132190-9}}、8. 2009年2月10日 {{ISBN2|978-4-09-132329-3}} :: 9. 2009年6月10日 {{ISBN2|978-4-09-132639-3}}、10. 2009年9月10日 {{ISBN2|978-4-09-132805-2}} :: 11. 2010年1月8日 {{ISBN2|978-4-09-133129-8}}、12. 2010年4月9日 {{ISBN2|978-4-09-133269-1}} * 極妻母ちゃんドタバタ日記 2(ぶんか社)2007年4月 {{ISBN2|978-4-8211-8411-8}} 椿みさを 体験・構成、村崎百郎 シナリオ * 実録!銀座ホステス物語(ぶんか社)2007年10月 {{ISBN2|978-4-8211-8498-9}} 金沢京子 取材・構成、村崎百郎 構成 * 強精捜査!セックスポリス([[青林堂]])2008年8月 {{ISBN2|978-4-79260411-0}} 村崎百郎 原作 * 殺しのヴィーナス(ぶんか社)まんがグリム童話 2008年12月 {{ISBN2|978-4-8211-8717-1}} 村崎百郎 原作 * [[カクテル・ストーリーズ]] * 夜の果ての旅 * KISS MY ASS * ワイルドガーデン === 未収録作品 === * だって私、クレオパトラですから! === イラスト === * 恋したら危機(MOE出版) * トパーズ色のBAND伝説 * 恋したら危機(クライシス)!〈パート2〉 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://morizono.babymilk.jp/ 森園みるく公式ホームページ] * {{twitter|noritakamilkmor}} * {{facebook|milk.morizono}} * {{マンガ図書館Z作家|448}} * {{Mediaarts-db|name=森園みるく}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:もりその みるく}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:21世紀日本の写真家]] [[Category:山口県立徳山高等学校出身の人物]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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森秀樹
森 秀樹(もり ひでき)
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森 秀樹 森秀樹 (哲学者) - 日本の中国哲学の研究者。 森秀樹 (漫画家) - 日本の漫画家。
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森藤よしひろ
森藤 よしひろ(もりとう よしひろ、1944年8月14日 - 2000年11月3日)は、日本の漫画家。本名:森藤嘉宏、静岡県出身。 タツノコプロを退職後、『ウルトラQ・SOS富士山』でデビュー(森ひろし名義)。
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森藤 よしひろは、日本の漫画家。本名:森藤嘉宏、静岡県出身。
'''森藤 よしひろ'''(もりとう よしひろ、[[1944年]][[8月14日]] - [[2000年]][[11月3日]])は、日本の[[漫画家]]。本名:森藤嘉宏、[[静岡県]]出身。 == 略歴 == [[タツノコプロ]]を退職後、『[[ウルトラQ]]・SOS富士山』でデビュー(森ひろし名義)。 == 作品リスト == * ウルトラQ・SOS富士山([[少年ブック]] 1966年夏休み増刊号別冊付録 ) * [[戦え!マイティジャック]](少年ブック 1968年5月号 - 12月号) * [[キャプテンスカーレット]]([[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]] 1967年12月号 - 1968年7月号) * [[怪奇大作戦]](小学二年生 1968年11月号 - 1969年3月号,森藤嘉宏名義) * [[ミラーマン]]([[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]] 1969年10月号 - 1970年3月号) * ビッグ野郎(小学六年生 1971年1月号 - 2月号) * [[帰ってきたウルトラマン]](小学五年生 1971年8月号 - 1972年4月号、小学六年生 1971年7月号 - 1972年4月号) * [[シルバー仮面]]([[よいこ (雑誌)|よいこ]] 1972年1月号 - 6月号) * [[ウルトラマンA]](小学五年生 1972年5月号 - 1973年3月号、小学六年生 1972年5月号 - 1973年3月号) * [[ウルトラマンタロウ]](幼稚園 1973年6月号 - 12月号、小学六年生 1973年4月号 - 9月号) * [[鉄人タイガーセブン]]([[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] 1973年) * [[ダイヤモンド・アイ]](小学二年生 1973年7月号 - 1974年4月号、小学五年生 1973年7月号 - 1974年2月号) * [[流星人間ゾーン]] * [[電人ザボーガー]](たのしい幼稚園 1974年) * [[勇者ライディーン]](たのしい幼稚園 1975年) * [[宇宙の騎士テッカマン]]([[テレビマガジン]] 1975年7月号 - 1976年2月号) * [[大空魔竜ガイキング]](テレビマガジン 1976年4月号 - 1977年2月号) * [[惑星ロボ ダンガードA]](たのしい幼稚園 1977年) * [[ミクロマン]] (テレビマガジン) * [[無敵鋼人ダイターン3]](たのしい幼稚園 1978年) * [[機動戦士ガンダム]](たのしい幼稚園 1979年5月号、連載第1回のみ) * [[ザ☆ウルトラマン]](たのしい幼稚園 1979年) * [[ウルトラマン80]](たのしい幼稚園 1980年) * [[太陽の牙ダグラム]]([[コミックボンボン]] 1981年11月号 - 1983年4月号) * [[六神合体ゴッドマーズ]](たのしい幼稚園 1982年) * [[ウルトラマングレート]]([[ヒーローマガジン]]) * [[日本公文教育研究会|くもん出版]]と[[集英社]]の[[学習漫画]](歴史系) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:もりとう よしひろ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:タツノコプロの人物]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:1944年生]] [[Category:2000年没]]
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森本梢子
森本 梢子(もりもと こずえこ、2月27日 - )は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。真和高等学校、佐賀大学教育学部卒業。血液型O型。女性。 1985年、『YOU増刊 VIVID YOU』(集英社)掲載の『抱き寄せてプロポーズ』でデビュー。以後、『YOU』などで執筆。代表作に『研修医なな子』、『ごくせん』など。2007年6月、『週刊少年ジャンプ』において読み切り作品『必殺動物部』を掲載、初の少年誌での掲載となる。
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森本 梢子は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。真和高等学校、佐賀大学教育学部卒業。血液型O型。女性。 1985年、『YOU増刊 VIVID YOU』(集英社)掲載の『抱き寄せてプロポーズ』でデビュー。以後、『YOU』などで執筆。代表作に『研修医なな子』、『ごくせん』など。2007年6月、『週刊少年ジャンプ』において読み切り作品『必殺動物部』を掲載、初の少年誌での掲載となる。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 森本 梢子 | ふりがな = もりもと こずえこ | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 別名義 = <!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢||02|27}} | 生地 = [[日本]]・[[熊本県]][[熊本市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1985年]] - | ジャンル = {{Unbulleted list| [[女性漫画]]|[[少年漫画]]}} | 代表作 = {{Unbulleted list|『[[研修医なな子]]』{{R|booklive}}|『[[ごくせん]]』{{R|booklive}}}} | 受賞 = <!-- 出版社の賞など。新人賞については基本的に記載しません --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''森本 梢子'''(もりもと こずえこ、[[2月27日]]{{R|booklive}} - )は、日本の[[漫画家]]<ref name="booklive">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/focus/author/a_id/15380|title=森本梢子の一覧 プロフィール|website=BookLive!|publisher=凸版印刷グループ|accessdate=2023-04-11}}</ref>。[[熊本県]]{{R|booklive}}[[熊本市]]出身。[[真和中学校・高等学校|真和高等学校]]、[[佐賀大学]][[教育学部]]卒業{{R|booklive}}。血液型O型。女性{{R|booklive}}。 [[1985年]]、『[[YOU (雑誌)|YOU]]増刊 VIVID YOU』([[集英社]])掲載の『抱き寄せてプロポーズ』でデビュー。以後、『YOU』などで執筆。代表作に『[[研修医なな子]]』{{R|booklive}}、『[[ごくせん]]』など{{R|booklive}}。[[2007年]]6月、『[[週刊少年ジャンプ]]』において読み切り作品『[[必殺動物部]]』を掲載、{{要出典範囲|date=2023-04-11|初の少年誌での掲載となる。}} == 作品リスト == === 書籍 === * [[研修医なな子]](『[[オフィスユー]]』、[[創美社]]、全7巻) - テレビドラマ化 * [[ごくせん]](『[[YOU (雑誌)|YOU]]』、[[集英社]]、全15巻) - テレビドラマ化、テレビアニメ化、映画化 * [[デカワンコ]](『YOU』、集英社、既刊12巻) - テレビドラマ化 * [[必殺動物部]](『[[週刊少年ジャンプ]]』、集英社) * わたしがママよ(『YOU』、集英社、全5巻) * ミステリー・ママ(『YOU』、集英社) * おとなりの家庭事情(『YOU』、集英社) * ママときどき子ども(『YOU』、集英社) * こちらレディー・ママ(『YOU』、集英社) * [[アシガール]](『[[Cocohana|ココハナ]]』、集英社、全16巻) - テレビドラマ化 * [[高台家の人々]](『YOU』、集英社、全6巻) - 映画化、WEB配信ドラマ化 * じゃのめのめ(『ココハナ』2022年4月号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/467406|title=森本梢子がココハナで新連載、“睨み”で妖怪退治する娘を描く「じゃのめのめ」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-28|accessdate=2022-02-28}}</ref> - 2023年2月号<ref name="co202303">{{Cite journal|和書|date = 2022-12-27|journal =ココハナ|volume=2023年2月号|publisher = 集英社|page=129|asin = B00AN571WM}}</ref>、集英社、既刊1巻)※休載中{{R|co202303}} == 脚注 == {{Reflist}} <!--== 外部リンク ==--> {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:もりもと こすえこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:熊本市出身の人物]] [[Category:佐賀大学出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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大乗仏教
大乗仏教(だいじょうぶっきょう、梵: महायान, サンスクリット語ラテン翻字: Mahāyāna、英: Mahāyāna Buddhism、タイ語: พุทธศาสนาฝ่ายมหายาน, タイ語ラテン翻字: Phuthṭh ṣ̄ās̄nā f̄̀āy mh̄āyān)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称であり、単一の派を指しているわけではない。日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は釈迦の死後、500年以降に成立しており、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判(大乗非仏説)にあった。 大乗仏教は、出家による自力救済を説く初期仏教(阿含経に色濃く反映)の世界観・救済観を乗り越える形で形成・発展されてきたという経過があるため、釈迦の教えそのものから(少なくとも言語表現上)変容している面があり、その特色は初期仏教(阿含経)の内容と対比することでより鮮明になる。大乗仏教に分類される代表的な仏教経典としては、般若経(般若心経はその核心を簡潔に記したもの)、法華経、浄土三部経、華厳経、(大乗の)涅槃経、大日経、金剛頂経などが挙げられる。 日本の仏教の主な宗派は、いずれも大乗仏教に分類される。 大乗はサンスクリットのmahā-yānaの訳。大乗とは、偉大な教え・優れた教えを意味している。パーリ上座部の文献やスリランカの史書に出てくる方等部(ほうとうぶ)あるいは方広部(ほうこうぶ、巴: Vetulla, Vetullavādin, Vetulyaka, 梵: Vaitulyavādin, Vaitulika)という言葉は大乗を指していたと推定されている。小乗という訳語は部派仏典には瞿曇僧伽提婆(ゴータマ・サンガデーヴァ)による漢訳『増一阿含経』に一例だけ見られる。 大乗仏教をさらに に分ける場合もある。「五時八教説」「権実相対」「三一権実諍論」なども参照のこと。 大乗仏教は紀元前後に起こり、1世紀末にはほぼその姿がはっきりとしていたことが通説となっている。 大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられている。大衆部から生まれたという説、ヘレニズム思想が流入したという説、仏塔を崇拝する部派仏教と全く異なる在家集団から生まれたとする説(平川彰『初期大乗仏教の研究』による)、逆に平川説に対して部派仏教と連続したものとして捉える説などである。下田正弘のエクリチュール説では、紀元前1世紀ごろ書記経典の誕生とともに書物のなかで形成されたとする 。 その発端は部派仏教への批判的見地から起こった側面があるとされている。つまり、自らが悟りを開いて「阿羅漢」になることを目的とした姿勢を「利己的」と批判し、「(少数しか救われない)小乗」とさげすんだのである。大乗仏教は普通名詞としての「仏」(buddha、「めざめた人」の意味)を目指したともいわれる。「小乗」の言葉は現代でも侮辱用語にあたるため注意が必要である。 大乗仏教を体系化したのは、2世紀から3世紀に活躍した龍樹であり、大乗仏教の基盤となる般若経で強調される「空」の概念を説明し、諸宗派に影響を与えた。龍樹の思想をもとに形成されたのが「中観派」である。さらに、4世紀に入ると、瞑想(ヨーガ)を通じて心の本質を見る、瑜伽行唯識学派が登場、中観派とともにインド大乗仏教の二大流派を形成する。瑜伽行唯識学派は弥勒を祖とし、無著と世親が教学を大成した。 大乗仏教運動に伴って、新しい思想・概念やエピソードを含む大乗経典が次々と出現し、大乗仏教徒はこれに依拠するようになった。また文明の東西交流によりガンダーラなどで仏像が生まれ、仏塔に代わって崇拝されるようになった。玄奘は『大唐西域記』で、大乗を学ぶ寺24、小乗を学ぶ寺60、大小兼学の寺15と記している。 大乗仏教では特に般若波羅蜜(智度)が、空の思想や菩薩の在り方とともに重要な用語として位置づけられ教説されたこと、如来蔵説が唱えられたことなどがある。 これは、衆生皆菩薩・一切衆生悉有仏性・生死即涅槃・煩悩即菩提などの如来蔵思想や、釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づいて、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって六波羅蜜の概念の理解を通じ善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という修行仮説や死生観(地獄や空色を含む大千世界観)へと発展していった。そうした教義を明確に打ち出した経典として『華厳経』、『法華経』、『浄土三部経』、『涅槃経』などがある。 自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、大乗の求道者は、阿羅漢ではなく他者を救済するブッダに成ることを主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創り出していった。 また、ブッダとは歴史上に現れた釈迦だけに限らず、過去にも現れたことがあるし、未来にも現れるだろうという考えはすでに大乗仏教以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。三法印などすべての宗派に共通する教義も多々ある。 智顗(538年-597年)を実質的な開祖とし、『法華経』を根本経典とする宗派。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを説いている。『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の「浄土三部経」を根本経典とする。 座禅を中心においた修行によって、内観・自省によって心性の本源を悟ろうとする。 唐開元年間に善無畏、金剛智、不空三蔵によって伝わったのはインド中期密教に相当する純密、また唐密と言う。 大日如来を本尊とする深遠秘密の教え。加持・祈祷を重んじる。根本経典は『大日経』と『金剛頂経』。天台密教では『蘇悉地羯羅経』も重視する 紀元前3世紀、インド初の統一国家となったマウリヤ朝の最盛期を築いたアショーカ王の時代、その保護の下でインド全域に広がった仏教は、やがて西北インドから中央アジアを経由して、紀元1世紀には中国まで伝播した。そして、さらに朝鮮、日本、ベトナムに伝わっている(北伝仏教)。北伝仏教は大乗仏教と同義ではなく、西北インドや西域諸国では部派仏教も盛んで、中国にもその経典が伝えられたが、受容は限定的だったという。またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後、チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)。 7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教(Tantra または Tantrism)と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(すぐれた素質の者は今生で(即身成仏)、劣った素質の者でも十六生のうちに成仏)できるとする。密教は、仏教圏全域に流布したが、東南アジア諸国では上座部仏教を国教と定めた各王朝が大乗仏教を排斥するのにともない消滅、インド本国では仏教自体が消滅、現存するのはインドからネパールに伝わったサンスクリット語の経典を用いる系統、インドから中国・朝鮮半島を経由して日本に伝わった漢訳経典を用いる系統、インドからチベットを経由してモンゴルにも伝わったチベット語経典を用いる系統が残存するのみで、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。 考古学的には、スリランカ、そして東南アジアなど、現在の上座部仏教圏への伝播も確認されている。スリランカでは東南部において遺跡が確認されており、上座部仏教と併存した後に12世紀までには消滅したようである。また、東南アジアではシュリーヴィジャヤなどが大乗仏教を受入れ、その遺跡は王国の領域であったタイ南部からスマトラ、ジャワなどに広がっている。インドネシアのシャイレーンドラ朝のボロブドゥール遺跡なども著名である。しかしながら東南アジアにおいては衰退過程を辿り、インド本土と同様にヒンドゥー教へと吸収されたり、上座部仏教に敗れたりしていった。
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大乗仏教は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称であり、単一の派を指しているわけではない。日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は釈迦の死後、500年以降に成立しており、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判(大乗非仏説)にあった。 大乗仏教は、出家による自力救済を説く初期仏教(阿含経に色濃く反映)の世界観・救済観を乗り越える形で形成・発展されてきたという経過があるため、釈迦の教えそのものから(少なくとも言語表現上)変容している面があり、その特色は初期仏教(阿含経)の内容と対比することでより鮮明になる。大乗仏教に分類される代表的な仏教経典としては、般若経(般若心経はその核心を簡潔に記したもの)、法華経、浄土三部経、華厳経、(大乗の)涅槃経、大日経、金剛頂経などが挙げられる。 日本の仏教の主な宗派は、いずれも大乗仏教に分類される。
{{複数の問題|出典の明記=2017年8月7日 (月) 01:15 (UTC)|独自研究=2017年8月7日 (月) 01:15 (UTC)}} [[File:Buddhist_sects.png|thumb|350px|right|大乗仏教の内、後期密教を含まないもの(黄)含むもの(橙)、上座部仏教(赤)の分布図。経典言語の違いに着目した場合は、赤:[[パーリ語]]、黄:漢訳、橙:[[チベット語]]{{efn2|図では漢訳仏典に基づく東アジア仏教圏は大乗に、チベット仏教は金剛乗([[密教]])にラベリングされている。チベット仏教とは密教であると誤解されることがあるが、実際のところチベットの仏教観では、金剛乗は釈尊が段階的に説いた教えのひとつであり、声聞乗・大乗・金剛乗のすべての教えの完備が尊重されている<ref>吉村均「チベット・ネパール仏教の実践」『仏教の事典』 末木文美士・下田正弘・堀内伸二編、朝倉書店、2014年。</ref>。}}にほぼ対応する。<small>この地図には図示されていないが、インド仏教とネパールのネワール仏教では[[サンスクリット]]語の仏典が用いられている。</small>]] {{大乗仏教}} '''大乗仏教'''(だいじょうぶっきょう、{{lang-sa-short|महायान}}, {{lang-*-latn|sa|Mahāyāna}}、{{lang-en-short|Mahāyāna Buddhism}}、{{翻字併記|th|พุทธศาสนาฝ่ายมหายาน|{{transl|th|Phuthṭh ṣ̄ās̄nā f̄̀āy mh̄āyān}}}})は、伝統的に[[ユーラシア#ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]の中央部から東部にかけて信仰されてきた[[仏教]]の[[宗派]]。[[出家]]者に限らず[[在家]]者を含めた一切の[[衆生]]の救済を掲げる仏教[[宗派]]の総称であり、単一の派を指しているわけではない<ref name="hosaka">保坂俊司監修 『決定版 よくわかる世界三大宗教―キリスト教・イスラム教・仏教』 学研パブリッシング、2012年、118頁。</ref>。日本の仏教は全て大乗仏教であるが、大乗仏教の経典は[[釈迦]]の死後、500年以降に成立しており、[[仏陀]]([[ゴータマ・シッダッタ]])の直説ではなく、後世に成立した偽経という批判([[大乗非仏説]])にあった。 大乗仏教は、[[出家]]による自力救済を説く[[初期仏教]]([[阿含経]]に色濃く反映)の世界観・救済観を乗り越える形で形成・発展されてきたという経過があるため、[[釈迦]]の教えそのものから(少なくとも言語表現上)変容している面があり、その特色は[[初期仏教]]([[阿含経]])の内容と対比することでより鮮明になる<ref>佐々木閑『別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版)</ref>。大乗仏教に分類される代表的な仏教経典としては、[[般若経]]([[般若心経]]はその核心を簡潔に記したもの)、[[法華経]]、[[浄土三部経]]、[[華厳経]]、(大乗の)[[涅槃経]]、[[大日経]]、[[金剛頂経]]などが挙げられる。 [[日本の仏教]]の主な[[宗派]]は、いずれも大乗仏教に分類される。 == 名称 == '''大乗'''は[[サンスクリット]]のmahā-yānaの訳。大乗とは、偉大な教え・優れた教えを意味している{{efn2|[[アルダマーガディー語]]に近縁する[[プラークリット]]であるパーリ語では mahā jana は「大勢の人々(大衆)」という意味。{{refnest|name="村上パーリ"|『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社)1487頁。}}。}}。パーリ[[上座部]]の文献や[[スリランカ]]の史書に出てくる'''[[方等経|方等]]部'''(ほうとうぶ)あるいは'''方広部'''(ほうこうぶ、{{lang-pi-short|Vetulla, Vetullavādin, Vetulyaka}}, {{lang-sa-short|Vaitulyavādin, Vaitulika}})という言葉は大乗を指していたと推定されている{{efn2|[http://www.wisdomlib.org/definition/vetullavada Vetullavada - Wisdom Library]}}{{efn2|[[平川彰]]は Vetullavāda を方広派、Vetulyaka を方広部と翻訳している<ref>平川彰 『インド仏教史 上』 春秋社、新版2011年(初版1974年)、170頁、322頁。</ref>。[[パーリ語]] vetulla はパーリ語文献では異端という否定的意味で用いられ、これに対応する[[サンスクリット]]の vaipulya (方広)、vaidalya (広破)、vaitulya (無比)は大乗側では自称として用いられたものである<ref>馬場紀寿「上座部仏教と大乗仏教」『シリーズ大乗仏教2 大乗仏教の誕生』高崎直道監修、桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士編著、春秋社、2011年、167頁・註(20)、169頁・註(44)。</ref>。cf. [http://www.saisyo.org/EnTyYu/eh3.php 付録3 「大乗」のニュアンス─世親、親鸞に通づるもの - 真宗大谷派 西照寺]}}。[[小乗]]という訳語は部派仏典には[[瞿曇僧伽提婆]](ゴータマ・サンガデーヴァ)による漢訳『[[増一阿含経]]』に一例だけ見られる<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%B0%8F%E4%B9%97&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 小乗 (阿含部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>。 大乗仏教をさらに :「権大乗」(ごんだいじょう。仮の大乗仏教、すなわち衆生の機根にあわせて説いた[[方便]]の教説の意) :「実大乗」(じつだいじょう。本物の大乗仏教、すなわち仏の悟りを説いた真実の教説の意)<br> に分ける場合もある。「[[教相判釈#五時八教説_(天台)|五時八教説]]」「[[五重相対#権実相対_(ごんじつそうたい)|権実相対]]」「[[三一権実諍論]]」なども参照のこと。 == 形成 == 大乗仏教は紀元前後に起こり、1世紀末にはほぼその姿がはっきりとしていたことが通説となっている<ref name="hirayama">{{Cite journal|和書|author=平山朝治 |title=大乗仏教の誕生とキリスト教 |journal=筑波大学経済学論集 |issn=03858049 |publisher=筑波大学社会科学系 (経済学) |year=2007 |month=mar |issue=57 |pages=139-185 |naid=120000833674 |doi=10.15068/00137861 |url=https://doi.org/10.15068/00137861}}</ref>。 {{Seealso|仏典|大乗非仏説}}{{Quote box|text=(引用開始)釈迦(前463-前383)によって創始された仏教は、その開祖の入滅後、三、四百年のあいだは、口頭伝承のみによって教えを継承した。ところが、紀元前一世紀頃に文字が導入されると、教えのことばが存在する地平は、写本へと移し替えられはじめた。このとき、'''経師と呼ばれる経典伝承の専門家'''たちは、書写された経典を口頭伝承のための補助手段としてもちいるにとどめるものと、'''書記言語として結実するテクストの重要性に気づき、伝承された知識全体の見なおしにかかる'''ものとに分岐した。前者は「伝統経典」の継承をつづけ、後者は'''大乗仏典'''を生み出した――'''教説伝承の媒体の変化'''をめぐって、およそこうした歴史が浮かびあがってくるのである。(引用終了)|author=[[下田正弘]]|source=『仏教とエクリチュール』(東大出版会、2020年)p.321|title=エクリチュール説|width=35%}} 大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられている。[[大衆部]]から生まれたという説、[[ヘレニズム]]思想が流入したという説<ref name="hirayama"/>、[[仏塔]]を崇拝する部派仏教と全く異なる在家集団から生まれたとする説([[平川彰]]『初期大乗仏教の研究』による)<ref name="pak">{{Cite journal|和書|author=朴点淑 |date=2000-07 |url=https://doi.org/10.15054/00001068 |title=大乗仏教起源に関する一考察 (特集 : 日本における韓国仏教思想の研究の成果と展望) |journal=韓国仏教学 |publisher=韓国留学生印度学仏教学研究会 |volume=8 |pages=283-299 |doi=10.15054/00001068 |id={{CRID|1390290699513740032}}}}</ref>、逆に平川説に対して部派仏教と連続したものとして捉える説などである<ref name="moriyama">[https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/prof/moriyama_1/2011/12/100793.php シリーズ大乗仏教 第2巻 第3巻 | ブログ | 護山 真也 | 教員紹介 | 信州大学 人文学部]</ref>。[[下田正弘]]の[[エクリチュール (哲学)|エクリチュール]]説では、紀元前1世紀ごろ書記経典の誕生とともに書物のなかで形成されたとする <ref name="下田正弘2020">下田正弘『仏教とエクリチュール』(東京大学出版会、2020年)</ref>。 その発端は[[部派仏教]]への批判的見地から起こった側面があるとされている<ref name="hosaka" />。つまり、自らが悟りを開いて「[[阿羅漢]]」になることを目的とした姿勢を「利己的」と批判し、「(少数しか救われない)小乗」とさげすんだのである<ref name="hosaka" />。大乗仏教は普通名詞としての「仏」(buddha、「めざめた人」の意味)を目指したともいわれる<ref name="ueki2019">植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年pp.180-250)</ref>。「小乗」の言葉は現代でも侮辱用語にあたるため注意が必要である<ref>{{Cite journal|和書|author=山口益 |date=1965-05 |url=https://otani.repo.nii.ac.jp/records/7885 |title=大乗仏教について -- その精神史観への一試考 -- |journal=佛教学セミナー |ISSN=0287-1556 |publisher=大谷大学佛教学会 |volume=1 |pages=2-10 |id={{CRID|1050564288453574912}}}}</ref>。 大乗仏教を体系化したのは、2世紀から3世紀に活躍した[[龍樹]]であり、大乗仏教の基盤となる[[般若経]]で強調される「空」の概念を説明し、諸宗派に影響を与えた<ref name="hosaka" />。龍樹の思想をもとに形成されたのが「[[中観派]]」である。さらに、4世紀に入ると、瞑想([[ヨーガ]])を通じて心の本質を見る、[[瑜伽行唯識学派]]が登場<ref name="hosaka" />、中観派とともにインド大乗仏教の二大流派を形成する<ref name="コトバンク唯識派">[https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E8%AD%98%E6%B4%BE-144550 唯識派] - コトバンク</ref>。瑜伽行唯識学派は[[弥勒_(僧)|弥勒]]を祖とし、[[無著]]と[[世親]]が教学を大成した<ref name="コトバンク唯識派" />。 大乗仏教運動に伴って、新しい思想・概念やエピソードを含む大乗経典が次々と出現し、大乗仏教徒はこれに依拠するようになった<ref>東京大学仏教青年会 [https://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/07.html 再考仏教伝来7 大乗仏教の展開]</ref>。また文明の東西交流により[[ガンダーラ]]などで[[仏像]]が生まれ、仏塔に代わって崇拝されるようになった<ref name="pak"/>。[[玄奘]]は『[[大唐西域記]]』で、大乗を学ぶ寺24、小乗を学ぶ寺60、大小兼学の寺15と記している<ref name="pak"/>。 == 教義 == 大乗仏教では特に[[般若波羅蜜]](智度)が、[[空 (仏教)|空]]の思想や[[菩薩]]の在り方とともに重要な用語として位置づけられ教説されたこと<ref>『バウッダ』 中村元・三枝充悳著. 小学館. 337-339頁。</ref>{{efn2|[[波羅蜜]]という用語が現れたのは、かなり後に編纂された部派仏典のわずかな経論や<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C&mode=search&uop=1&tall=1&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8&uarsers%5B1569%5D=%E6%AF%98%E6%9B%87%E9%83%A8&nm=&np=&smode=search 波羅蜜 (阿含部・毘曇部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>[[ジャータカ]]系・仏伝系の経典から<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C&mode=search&uarnums%5B0152_03%5D=0152_03&uarnums%5B0153_03%5D=0153_03&uarnums%5B0156_03%5D=0156_03&uarnums%5B0205_04%5D=0205_04&uarnums%5B0206_04%5D=0206_04&uarnums%5B0207_04%5D=0207_04 波羅蜜 (本縁部)] ※鳩摩羅什以前の漢訳で訳者が明白な経典のみ表示。- 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>。}}、[[如来蔵]]説が唱えられたこと<ref name="コトバンク如来蔵">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E8%94%B5-110692|title=如来蔵(にょらいぞう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-07}}</ref>などがある。 これは、衆生皆菩薩・一切衆生悉有仏性・[[生死即涅槃]]・[[煩悩即菩提]]などの[[如来蔵思想]]や、釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たという[[ジャータカ]]伝説に基づいて、自分たちもこの釈尊の精神([[菩提心]])にならって[[六波羅蜜]]の概念の理解を通じ善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という修行仮説や[[死生観]]([[地獄]]や空色を含む大千世界観)へと発展していった。そうした教義を明確に打ち出した経典として『[[華厳経]]』、『[[法華経]]』、『[[浄土三部経]]』、『[[涅槃経]]』などがある。 自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、大乗の求道者は、阿羅漢ではなく他者を救済するブッダに成ることを主張し、自らを[[菩薩|菩薩摩訶薩]]と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創り出していった。 また、ブッダとは歴史上に現れた釈迦だけに限らず、過去にも現れたことがあるし、未来にも現れるだろうという考えはすでに大乗仏教以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、[[娑婆]]世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方[[極楽|極楽浄土]]の[[阿弥陀如来]]や東方[[浄瑠璃]]世界の[[阿閦如来]]・[[薬師如来]]などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。[[三法印]]などすべての宗派に共通する教義も多々ある。 == 発展の諸相 == === 顕教=== ==== インド==== {{節スタブ}} ==== ネパール==== {{Main|ネワール仏教}}{{節スタブ}} ==== チベット==== {{節スタブ}} ==== 中国・日本 ==== ; [[天台宗]] [[智顗]]([[538年]]-[[597年]])を実質的な開祖とし、『[[法華経]]』を根本経典とする宗派。 {{Main|天台宗}} ; [[浄土教]] [[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の[[極楽]][[浄土]]に[[往生]]することを説いている<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/109570/m0u/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99/ デジタル大辞泉「浄土教」]</ref>。『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の「浄土三部経」を根本経典とする{{efn2|融通念仏宗では、『華厳経』・『法華経』を正依とし、「浄土三部経」を傍依とする。}}。 {{see|浄土教|浄土宗|浄土真宗|時宗|融通念仏宗}} ; [[禅宗]] [[座禅]]を中心においた修行によって、内観・自省によって心性の本源を悟ろうとする<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/126404/m0u/ デジタル大辞泉「禅宗」]</ref><ref>『大辞林』第三版「禅宗」</ref>。 {{see|臨済宗|曹洞宗}} ===[[密教]]=== ==== インド==== {{節スタブ}} ==== ネパール==== {{節スタブ}} ==== チベット==== {{節スタブ}} ==== 中国==== 唐開元年間に善無畏、金剛智、不空三蔵によって伝わったのはインド中期密教に相当する純密、また唐密と言う。{{節スタブ}} ==== 日本==== [[大日如来]]を本尊とする[[wikt:深遠|深遠]]秘密の教え。[[加持]]・[[祈祷]]を重んじる<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/212364/m0u/%E5%AF%86%E6%95%99/ デジタル大辞泉「密教」]</ref>。根本経典は『[[大日経]]』と『[[金剛頂経]]』。天台密教では『[[蘇悉地羯羅経]]』も重視する {{See|密教|真言宗}} ==伝播== 紀元前3世紀、インド初の統一国家となった[[マウリヤ朝]]の最盛期を築いた[[アショーカ王]]の時代、その保護の下でインド全域に広がった仏教は、やがて西北インドから[[中央アジア]]を経由して、紀元1世紀には[[中国]]まで伝播した<ref name=Sonoda>{{cite journal |和書|author=薗田香融 |title=東アジアにおける仏教の伝来と受容 : 日本仏教の伝来とその史的前提|journal=関西大学東西学術研究所紀要 |issue=22 |publisher=関西大学東西学術研究所 |date=1989 |page=1-36 |issn=02878151 |url=https://hdl.handle.net/10112/16008 }}</ref>。そして、さらに[[朝鮮半島|朝鮮]]、日本、[[ベトナム]]に伝わっている(北伝仏教)。北伝仏教は大乗仏教と同義ではなく、西北インドや西域諸国では[[部派仏教]]も盛んで、中国にもその経典が伝えられたが、受容は限定的だったという<ref name=Sonoda />。また[[チベット]]は8世紀より[[僧伽]]の設立や[[仏典]]の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後、チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰は[[モンゴル]]や南[[シベリア]]にまで拡大されていった([[チベット仏教]])。 7世紀ごろベンガル地方で、[[ヒンドゥー教]]の[[神秘主義]]の一潮流である[[タントラ教]]([[w:Tantra|Tantra]] または Tantrism)と深い関係を持った[[密教]]が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ[[仏]]となること(すぐれた素質の者は今生で([[即身成仏]])、劣った素質の者でも十六生のうちに成仏)できるとする。[[密教]]は、仏教圏全域に流布したが、東南アジア諸国では上座部仏教を国教と定めた各王朝が大乗仏教を排斥するのにともない消滅、インド本国では仏教自体が消滅、現存するのはインドからネパールに伝わった[[サンスクリット語]]の経典を用いる系統、インドから中国・朝鮮半島を経由して日本に伝わった[[漢訳]]経典を用いる系統、インドから[[チベット]]を経由して[[モンゴル]]にも伝わった[[チベット語]]経典を用いる系統が残存するのみで、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。 考古学的には、[[スリランカ]]、そして[[東南アジア]]など、現在の[[上座部仏教]]圏への伝播も確認されている。スリランカでは東南部において遺跡が確認されており、[[上座部仏教]]と併存した後に12世紀までには消滅したようである。また、東南アジアでは[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]などが大乗仏教を受入れ、その遺跡は王国の領域であった[[タイ王国|タイ]]南部から[[スマトラ]]、[[ジャワ島|ジャワ]]などに広がっている。インドネシアの[[シャイレーンドラ朝]]の[[ボロブドゥール]]遺跡なども著名である。しかしながら東南アジアにおいては衰退過程を辿り、インド本土と同様に[[ヒンドゥー教]]へと吸収されたり、[[上座部仏教]]に敗れたりしていった。 *紀元前5世紀頃 : インドで原始仏教が開かれる([[インドの仏教]]) <!--*紀元前3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる--> *紀元前後 : 大乗仏教が興る *紀元後1世紀 : 中国に伝わる([[中国の仏教]]) *2世紀 : ベトナム北部に伝わる([[ベトナムの仏教]])<ref>[https://history-maps.com/ja/story/History-of-Buddhism/event/Buddhism-in-Vietnam ベトナムの仏教]</ref> *3世紀頃:スリランカに伝わる([[スリランカの仏教]])<ref>{{Cite journal|和書|author=森祖道 |year=1989 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.38.425 |title=スリランカの大乗仏教について |journal=印度學佛教學研究 |ISSN=00194344 |publisher=日本印度学仏教学会 |volume=38 |issue=1 |pages=425-420 |doi=10.4259/ibk.38.425 |CRID=1390001205376930432}}</ref> * 4世紀 : 朝鮮半島に伝わる([[朝鮮の仏教]]) * 538年 : 日本に伝わる([[日本の仏教]]) *[[パガン王朝]]成立前: [[ミャンマー|ビルマ]]に伝わる([[ミャンマーの仏教]]) * 7世紀前半 : チベットに伝わる([[チベット仏教]]) * 7世紀頃: [[カンボジア]]に伝わる([[カンボジアの仏教]])<ref>{{Cite journal|和書|author=ペン・セタリン |date=2009-03 |url=https://doi.org/10.15002/00022607 |title=カンボジアと日本の仏教説話にみる布施 |journal=国際日本学 |ISSN=1883-8596 |publisher=法政大学国際日本学研究所 |volume=6 |pages=151-164 |doi=10.15002/00022607 |hdl=10114/00022607 |CRID=1390290699807226496}}</ref> * 13-16世紀 : [[モンゴル]]にチベット仏教が伝わる * 17世紀 : [[カスピ海]]北岸にチベット仏教が伝わる * 18世紀 : 南[[シベリア]]にチベット仏教が伝わる == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==関連項目== {{wikiquote|大乗仏教}} * [[唯識]] * [[六波羅蜜]] * [[大乗非仏説]] * [[出定後語]] * [[教相判釈]] * [[葬式仏教]] * [[山岳仏教]] * [[般若心経]] == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/watch?v=HRa8QKX8jGM&list=PLmwYOQLkF8YgbfZR6Qf4UwzUC3vScyeis&index=21 佐々木閑「仏教再発見の旅21」(動画)] - 大乗仏教の誕生・伝播について、[[アショーカ王]]による[[仏塔]]([[ストゥーパ]])建立や、これと表裏の関係にある[[仏塔]]([[ストゥーパ]])信仰の果たした役割の観点から解説 {{Buddhism2}} {{仏教典籍}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいしようふつきよう}} [[Category:大乗仏教|*]] [[Category:ナースティカ]]
2003-02-15T18:26:49Z
2023-11-27T10:28:43Z
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歴史
歴史(、ギリシア語: ιστορία: historia、英: history)は、何らかの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。 ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している。また、現在に至る歴史を「来歴」という。 「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存されることは無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」ということができる。 歴史と時間は概念として密接不可分な関係にあるが、全く同意義であれば別異の概念として存立する必要がないはずである。この歴史における時間の問題について、例えば三木清は歴史的時間を自然的時間や自然科学的時間と区別している。歴史的時間においては歴史的出来事の現在性、一回性、不可逆性があり、特に歴史における「現在」は物理学の理論のように単に四次元時空の時間軸の任意の一点ではなく特権性を持つとしている。三木は歴史的時間には方向性があるとし、「過去」から「未来」への因果論的見方という方向性と、「未来」から「過去」への目的論的見方という二つの方向性を示している。 フランスの社会学者モーリス・アルヴァックス(1877‒1945年)は記憶は個人にだけでなく、それぞれの集団(家族、友人、学校、宗教的集団、国民など)にも存在すると考えた。アルヴァックスはこのような集合的記憶を歴史記述と対立するものと捉え、歴史が関心を持つのが過去であるのに対して、集合的記憶は「現在の集団の需要や利益」に応じて選択的かつ再構成的であるとした。 アルヴァックスは集合的記憶は集団の同一性と密接にかかわっており、宗教上の伝説のようにフィクションが混入することもあるのに対し、歴史は歴史家が営々と積みあげた過去の情報の総体で中立的であるとした。しかし、アルヴァックスのように歴史を中立とする見解は、アライダ・アスマンなどから疑問視され「すべての歴史記述は同時に記憶の作業でもあり、意味付与、党派性、アイデンティティの確立という諸条件と避け難く絡まり合っている」と指摘を受けた。アルヴァックスの集合的記憶論は集合的記憶と歴史の関係を排除する立場で提唱されたものだったが、アライダ・アスマンはその集合的記憶論を応用しそれぞれ「機能的記憶」と「蓄積的記憶」に分けて互いに補完するものと再構成している。 日本語の歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。前漢の武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』などが編纂される動機となった。 「歴史」という単語自体は、『三国志』の47巻呉主伝の裴松之の注釈に「雖有餘閒,博覽書傳歷史」とあるのが現在確認できる最古の例であり、『南斉書』四十巻武十七王伝に「積代用之爲美,歷史不以云非」と登場している。しかしながら、中国では「歴史」という単語は、ほとんど普及せず、書籍の題名に用いられたのは、明の袁黄が著した『歴史網鑑補』である。『歴史網鑑補』は、司馬光以下の通鑑に類する諸書をあわせた書籍であり、これが日本に移入され、江戸時代の日本で「歴史」という用語が普及し始めた。林鵞峰は弟読耕斎への書簡で「古今を商量し、歴史を可否す」と記し(1660年)、その後、日本では、「歴史」という用語を用いた書籍が登場しはじめる(巨勢彦仙『本朝歴史評註』(1690年)、岡本東陽『歴史小鑒』(1781年)、松崎祐之『歴史徴』(1799年)、川関惟光『本朝歴史要略』(1813年)等、「歴史」を書名に含む書籍は江戸時代に20点出版されている。 このような背景のもと、江戸時代末期に西洋語の辞書や翻訳書を作成する時に、historyの訳語として、縁起・記録・史書など様々な訳語とともに、「歴史」も用いられるようになる。早くは堀達之助『英和對譯辞書』(1862年)でhistoryに「歴史、記録」を当て、J.C.Henpburnの『和英語林集成』(1867年)でもrekishiの見出しが登場、フランス語の辞書でも1871年『官許佛語辞典』でhistorieは「歴史、記録」、ドイツ語辞書でも1872年『孛和袖珍字書』でGeschichtsbuchが「歴史本」、Geschichtshkundeが「歴史学」となり、西洋語のhistoryの訳語としての「歴史」が定着し、その後、日本でのhistoryの訳語としての「歴史」は清朝・現代中国にも取り入れられていった。 英語の "history" やフランス語の "histoire" はラテン語の historia を中立ちとして、古典ギリシア語で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "ἱστορία (historia)" に由来する(現代ギリシア語では ιστορία (istoria))。ヘロドトスの著書名にも見える Ἱστορίαι (Historiai) は、その複数形。 ヘロドトスはリディア王国以降のペルシア地方の発展を中心に、プラタイアの戦いにおいてギリシアがペルシア帝国の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。 「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これをE・H・カーは著書『歴史とは何か』で指摘している。陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」と述べている。 歴史認識は形成に時間がかかるため、外交文書などを積極的に情報公開する国は自国に有利な情報を後世に伝えることが可能となり、長い時間で見れば「歴史記録による覇権(アーカイバル・ヘゲモニー)」を得られるという意見もある。 人類の歴史記録は、時代と地域によって文明、支配者、宗教、政治経済などの切り口が複合的に組み合わさり、今日の歴史記述が成り立っているといえる。 ただその中には、当時の支配者が自らの政権や文化を正当化するために、事実と異なるあるいは脚色された記述もある。また歴史認識に重要な影響を与える史料が現代まで残されていない場合がある。 このため、様々な史料を歴史学、科学的に多面的に分析しながら仮説・検証を重ねていく作業が継続的に行われている。 歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、税や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名・人名なども加わるようになった。また古代エジプトの呪詛文書は、敵対する部族などの名称や首長の名前、また居住する地名などを記している。 このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。 しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる時間に対する認識が影響した。インドを中心としたヒンドゥー文明やサーサーン朝などアーリア人の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、中国は膨大な歴史記述を残しており、梁啓超は、中国は歴史学が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。 このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかったインドの時間感覚は「循環的」に分類され、『マヌ法典』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが劫(カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では43億2000万年に相当する。これに輪廻や業(カルマ)の概念が加われば、人間界のできごとなど一瞬でしかなく、これらを体系的に記述することに意味を見出さなかったものと推測されている。 ただし、「循環的時間感覚」を持つ文明がすべて「歴史記述」を残さなかった訳ではない。古代ギリシアにも循環的時間論は存在し、ピタゴラスの言葉「また将来、この杖を持って私はお前たちを教えているだろう」は、循環する時間の中でピタゴラスや弟子ら人間がまた生まれ、同じ生涯を歩む事を示唆している。エンペドクレスは四元素のせめぎ合いが巡りながら歴史が循環するという説(歴史循環論 - 神山四郎『歴史入門』講談社現代新書、1965年)を唱えた。このような時間感覚の中、トゥキディデスは『戦史』にてペロポネソス戦争の詳細を書き残しているが、これは循環的時間論の概念に基づき将来同じ事象が起こった時のために記述したのだとしている(第1巻、第22節)。 文明の発展に伴い、社会にもさまざまな事件やできごとを記録するようになった。その初期は、できごと名で年を表す方法が採られ、古代エジプトやウル第三王朝のメソポタミア以降では一般的な歴史記述方法となっていた。例えばハンムラビ43年の治世には全ての年に名称が付けられており、第37年目は、「(ハンムラビが)マルドゥクの威光を得てトゥルック、カクム、スパルトゥの国々を打倒した(年)」と記録されている。古代エジプトも同様に年ごとのできごとを記した象牙や木製の牌を作り、ファラオが替わるとパピルスに転記して記録に残していた。このような歴史記述はアメリカ州の先住民族にも見られ、ラコタ族が一年毎にできごとを絵文字で水牛の皮などに残した「ウインター・カウント」(en)もこの例に当たる。 この一年が独立した歴史記述は、特記すべき事件が起こらなかった年は空白となる。しかし、歴史記述はやがて王名とその在位年度を記録し前王との系譜が添付されることで作られる「王名表」に沿って記録されることで、連続的なものへと変化した。バビロニアではカッシート時代から、エジプトでも王名表石碑「パレルモ・ストーン」(en)が作られた古王国の第五王朝時代(紀元前2350年頃)にはこの王名表を基準とした歴史記述が始まっている。
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歴史(れきし、は、何らかの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。 ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している。また、現在に至る歴史を「来歴」という。
{{Otheruses}} {{Redirect|来歴|後漢の官僚|来歴 (後漢)}} [[ファイル:The Parthenon in Athens.jpg|thumb|[[ギリシャ]]・[[アテネ]]の[[パルテノン神殿]]]] [[ファイル:Herodotus Massimo Inv124478.jpg|thumb|[[古代ギリシア]]の歴史家・[[ヘロドトス]]。「歴史の父」とも呼ばれる。]] {{読み仮名|'''歴史'''|れきし|{{lang-el|ιστορία}}: historia、{{lang-en-short|history}}}}は、何らかの事物が時間的に変遷したありさま<ref>{{Cite book|和書|author=|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一版|publisher=[[講談社]]|page=2102|chapter=【歴史】|id= }}</ref>、あるいはそれに関する[[文書]]や[[記録]]のことをいう。主に[[国家]]や[[文明]]など[[人間]]の[[社会]]を[[対象]]とする<ref>[[広辞苑]]「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」</ref><ref>[[大辞林]]「人間社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程と、その中でのできごと。また、それをある秩序・観点のもとにまとめた記録・文書」</ref>。記述されたことを念頭に置いている。 [[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]の[[科学]]分類に拠れば、「[[自然科学]]が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している<ref>{{Cite book|和書|author=|year=|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=2832|chapter=【歴史科学】|id= }}</ref>。また、現在に至る歴史を「[[wikt:来歴|来歴]]」という<ref>{{Cite book|和書|author=|year=|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=2832|chapter=【歴史】|id= }}</ref>。 == 意義 == 「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存されることは無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」ということができる。 === 歴史と時間 === 歴史と[[時間]]は概念として密接不可分な関係にあるが、全く同意義であれば別異の概念として存立する必要がないはずである<ref name="Core Ethics Vol.15" />。この歴史における時間の問題について、例えば[[三木清]]は歴史的時間を自然的時間や自然科学的時間と区別している<ref name="Core Ethics Vol.15">{{Cite journal|url=https://www.r-gscefs.jp/wp-content/uploads/2019/04/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B915%E5%8F%B7_10_%E6%A4%BF%E4%BA%95%EF%BC%88%E8%AB%96%E6%96%87%EF%BC%89.pdf |title=歴史的時間の固有性について |author=椿井 真也|publisher=立命館大学大学院 先端総合学術研究科 |year=2019}}</ref>。歴史的時間においては歴史的出来事の現在性、一回性、不可逆性があり、特に歴史における「現在」は物理学の理論のように単に四次元時空の時間軸の任意の一点ではなく特権性を持つとしている<ref name="Core Ethics Vol.15" />。三木は歴史的時間には方向性があるとし、「過去」から「未来」への因果論的見方という方向性と、「未来」から「過去」への目的論的見方という二つの方向性を示している<ref name="Core Ethics Vol.15" />。 === 歴史と記憶 === [[フランス]]の社会学者モーリス・アルヴァックス(1877‒1945年)は記憶は個人にだけでなく、それぞれの集団(家族、友人、学校、宗教的集団、国民など)にも存在すると考えた<ref name="mizoi">{{Cite journal|url=https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/42/61mizoi.pdf |title=伝説と集合的記憶|author=溝井 裕一|publisher=関西大学 |year=2009}}</ref>。アルヴァックスはこのような集合的記憶を歴史記述と対立するものと捉え、歴史が関心を持つのが過去であるのに対して、集合的記憶は「現在の集団の需要や利益」に応じて選択的かつ再構成的であるとした<ref name="mizoi" />。 アルヴァックスは集合的記憶は集団の[[同一性]]と密接にかかわっており、宗教上の伝説のようにフィクションが混入することもあるのに対し、歴史は歴史家が営々と積みあげた過去の情報の総体で中立的であるとした<ref name="mizoi" />。しかし、アルヴァックスのように歴史を中立とする見解は、アライダ・アスマンなどから疑問視され「すべての歴史記述は同時に記憶の作業でもあり、意味付与、党派性、アイデンティティの確立という諸条件と避け難く絡まり合っている」と指摘を受けた<ref name="mizoi" />。アルヴァックスの集合的記憶論は集合的記憶と歴史の関係を排除する立場で提唱されたものだったが、アライダ・アスマンはその集合的記憶論を応用しそれぞれ「機能的記憶」と「蓄積的記憶」に分けて互いに補完するものと再構成している<ref name="mizoi" />。 == 語源 == === 歴史 === [[日本語]]の'''歴史'''は、[[司馬遷]]の『[[史記]]』に由来する。[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]時代、[[太史令]]であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「'''史記'''」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は[[黄帝]]から武帝までの[[皇帝]]の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として[[古代]][[中国]]の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺[[アジア]]地域においても影響を与え、『[[日本書紀]]』などが編纂される動機となった。 「歴史」という単語自体は、『[[三国志]]』の47巻呉主伝の裴松之の注釈に「雖有餘閒,博覽書傳歷史」とあるのが現在確認できる最古の例であり、『[[南斉書]]』四十巻武十七王伝に「積代用之爲美,歷史不以云非」と登場している。しかしながら、中国では「歴史」という単語は、ほとんど普及せず、書籍の題名に用いられたのは、[[明]]の[[袁黄]]が著した『歴史網鑑補』である。『歴史網鑑補』は、司馬光以下の通鑑に類する諸書をあわせた書籍であり、これが日本に移入され、[[江戸時代]]の日本で「歴史」という用語が普及し始めた。[[林鵞峰]]は弟読耕斎への書簡で「古今を商量し、歴史を可否す」と記し([[1660年]])、その後、[[日本]]では、「歴史」という用語を用いた書籍が登場しはじめる(巨勢彦仙『本朝歴史評註』([[1690年]])、岡本東陽『歴史小鑒』([[1781年]])、松崎祐之『歴史徴』([[1799年]])、川関惟光『本朝歴史要略』([[1813年]])等、「歴史」を書名に含む書籍は江戸時代に20点出版されている<ref>佐藤正幸『歴史認識の時空』pp4-5,知泉書館,2004年</ref>。 このような背景のもと、[[江戸時代末期]]に西洋語の辞書や翻訳書を作成する時に、historyの訳語として、縁起・記録・史書など様々な訳語とともに、「歴史」も用いられるようになる。早くは堀達之助『英和對譯辞書』([[1862年]])でhistoryに「歴史、記録」を当て、J.C.Henpburnの『和英語林集成』([[1867年]])でもrekishiの見出しが登場、[[フランス語]]の辞書でも[[1871年]]『官許佛語辞典』でhistorieは「歴史、記録」、ドイツ語辞書でも[[1872年]]『孛和袖珍字書』でGeschichtsbuchが「歴史本」、Geschichtshkundeが「歴史学」となり、西洋語のhistoryの訳語としての「歴史」が定着し<ref>佐藤正幸『歴史認識の時空』pp8-10,知泉書館,2004年</ref>、その後、日本でのhistoryの訳語としての「歴史」は清朝・現代中国にも取り入れられていった。 ===historia, history=== [[英語]]の "'''history'''" や[[フランス語]]の "'''histoire'''" は[[ラテン語]]の {{lang|la|historia}} を中立ちとして、古典[[ギリシア語]]で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "{{lang|el|ἱστορία}} (historia)" に由来する(現代ギリシア語では {{lang|grc|ιστορία}} (istoria))。[[ヘロドトス]]の著書名にも見える [[歴史 (ヘロドトス)|''{{lang|el|Ἱστορίαι}}'' (''Historiai'')]] は、その[[複数形]]。 ヘロドトスは[[リディア王国]]以降のペルシア地方の発展を中心に、[[プラタイアの戦い]]において[[古代ギリシア|ギリシア]]が[[アケメネス朝|ペルシア帝国]]の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。 == 歴史認識 == {{see_also|歴史認識}} 「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これを[[E・H・カー]]は著書『[[歴史とは何か]]』で指摘している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/carr.htm |publisher=塩川伸明|title=E・H・カー『歴史とは何か』|language=日本語|accessdate=2009年6月5日}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。[[陳舜臣]]は「歴史は勝者によって書かれる」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=陳舜臣|year=1989|title=中国五千年(下)|volume=|publisher=講談社|page=49|id=ISBN 4-06-184562-4}}</ref>。 歴史認識は形成に時間がかかるため、外交文書などを積極的に[[情報公開]]する国は自国に有利な情報を後世に伝えることが可能となり、長い時間で見れば「歴史記録による[[覇権]](アーカイバル・ヘゲモニー)」を得られるという意見もある<ref>[https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/3792.html?utm_int=detail_contents_news-link_002 イースターが日本領土に? 外交“公”文書が歴史を作る] - [[NHK]]</ref>。 == 歴史記述 == 人類の歴史記録は、時代と地域によって[[文明]]、支配者、[[宗教]]、政治経済などの切り口が複合的に組み合わさり、今日の歴史記述が成り立っているといえる。 ただその中には、当時の支配者が自らの政権や文化を正当化するために、事実と異なるあるいは脚色された記述もある。また歴史認識に重要な影響を与える史料が現代まで残されていない場合がある。 このため、様々な史料を[[歴史学]]、[[科学]]的に多面的に分析しながら仮説・検証を重ねていく作業が継続的に行われている。 === リストとしての歴史記述 === 歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代[[メソポタミア]]文明の[[楔形文字]]が刻まれた[[粘土]]板は、[[税]]や戦利品など収入や配給または役人の[[給与]]など、[[行政]]上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて[[人口]]調査や[[地名]]・[[人名]]なども加わるようになった。また古代[[エジプト]]の[[呪詛]]文書は、敵対する[[部族]]などの名称や[[首長]]の名前、また居住する地名などを記している。 このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。 === 時間感覚 === しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる[[時間]]に対する認識が影響した。インドを中心とした[[ヒンドゥー文明]]や[[サーサーン朝]]など[[アーリア人]]の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、[[中国]]は膨大な歴史記述を残しており、[[梁啓超]]は、中国は[[歴史学]]が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。 このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかった[[インド]]の時間感覚は「循環的」に分類され、『[[マヌ法典]]』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが[[劫]](カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では[[1 E17 s|43億2000万年]]に相当する。これに[[輪廻]]や[[業]](カルマ)の[[概念]]が加われば、人間界のできごとなど一瞬でしかなく、これらを体系的に記述することに意味を見出さなかったものと推測されている。 [[ファイル:History-Dielman-Highsmith.jpeg|thumb|''History''<br />フレドリック・ディールマン[[:en:Frederick Dielman|(en)]] (1896年)]] ただし、「循環的時間感覚」を持つ文明がすべて「歴史記述」を残さなかった訳ではない。[[古代ギリシア]]にも循環的時間論は存在し、[[ピタゴラス]]の言葉「また将来、この杖を持って私はお前たちを教えているだろう」は、循環する時間の中でピタゴラスや弟子ら人間がまた生まれ、同じ生涯を歩む事を示唆している。[[エンペドクレス]]は四元素のせめぎ合いが巡りながら歴史が循環するという説(歴史循環論 - 神山四郎『歴史入門』[[講談社]]現代新書、1965年)を唱えた。このような時間感覚の中、[[トゥキディデス]]は『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』にて[[ペロポネソス戦争]]の詳細を書き残しているが、これは循環的時間論の概念に基づき将来同じ事象が起こった時のために記述したのだとしている(第1巻、第22節)<ref>{{cite book |和書|author=岡崎勝世|authorlink=岡崎勝世 |title=世界史とヨーロッパ |publisher=[[講談社]]現代新書|year=2003 |isbn=4-06-149687-5 |pages=020-024}}</ref>。 === 王名表 === 文明の発展に伴い、社会にもさまざまな事件やできごとを記録するようになった。その初期は、できごと名で年を表す方法が採られ、古代エジプトや[[ウル第三王朝]]のメソポタミア以降では一般的な歴史記述方法となっていた。例えば[[ハンムラビ]]43年の治世には全ての年に名称が付けられており、第37年目は、「(ハンムラビが)[[マルドゥク]]の威光を得てトゥルック、カクム、スパルトゥの国々を打倒した(年)」と記録されている。古代エジプトも同様に年ごとのできごとを記した[[象牙]]や[[木]]製の牌を作り、ファラオが替わると[[パピルス]]に転記して記録に残していた。このような歴史記述は[[アメリカ州の先住民族]]にも見られ、[[ラコタ|ラコタ族]]が一年毎にできごとを絵文字で[[水牛]]の皮などに残した「ウインター・カウント」[[:en:Winter count|(en)]]もこの例に当たる。 この一年が独立した歴史記述は、特記すべき事件が起こらなかった年は空白となる。しかし、歴史記述はやがて王名とその在位年度を記録し前王との系譜が添付されることで作られる「王名表」に沿って記録されることで、連続的なものへと変化した。[[バビロニア]]では[[カッシート]]時代から、エジプトでも王名表石碑「[[パレルモ石|パレルモ・ストーン]]」[[:en:Palermo stone|(en)]]が作られた[[エジプト古王国|古王国]]の第五王朝時代(紀元前2350年頃)にはこの王名表を基準とした歴史記述が始まっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=蔀勇造|year=2004|title=歴史意識の芽生え歴史記述の始まり|volume=|publisher=[[山川出版社]]|id=ISBN 4-634-34570-6}} * {{Cite book|和書|author=佐藤正幸|year=2004|title=歴史認識の時空|volume=|publisher=[[知泉書館]]|id=ISBN 4901654276}} == 関連文献 == * [http://edurss.ru/cgi-bin/db.pl?cp=&page=Book&id=53185&lang=en&blang=en&list=Found History & Mathematics: Historical Dynamics and Development of Complex Societies]. Moscow: KomKniga, 2006. ISBN 5-484-01002-0 * {{gutenberg author| id=Arnold+Joseph+Toynbee | name=Arnold J. Toynbee}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|歴史|break=yes|}} {{ウィキプロジェクトリンク|歴史|break=yes|}} {{Sisterlinks|歴史 |wikibooks=Category:歴史 |commons=Category:History |wikinews=Category:歴史 |wikisource=Category:歴史 |wikiversity=Category:歴史 |d=Q309 }} * [[:Category:歴史の画像|歴史の画像一覧]] * [[世界の歴史]] * [[歴史学]] - [[歴史哲学]] - [[史学史]] - [[歴史教育学]] * [[歴史の一覧]] * [[歴史書一覧]] * [[年表]] * [[消滅した政権一覧]] == 外部リンク == * [http://macao.softvision.co.jp/dbpwww/ 歴史データベース(年表ほか)] * [http://www.tabiken.com/ 世界歴史事典データベース - 旅研] * {{Kotobank}} {{Time topics}} {{Chronology}} {{科学技術研究}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れきし}} [[Category:歴史|*]]
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ステレオ放送
ステレオ放送()とは音声多重放送の一種で、一般的に左右2チャンネルの音声信号の放送のことである。チャンネル数が多いマルチサラウンドステレオ放送もある。 テレビ番組表では○、□、の中に「S」「ス」「立」などと表示される。 日本のテレビ地上波アナログ放送の拡張規格は、FM - FM方式で主音声と副音声を送信して2chステレオ音声を実現していた。 地上アナログ放送のテレビ番組では、先ずNHK総合テレビの東京地区のみにて、実験放送が行われた。先ず、1970年8月9日『NHKコンサートホール』の番組にて行われたのを皮切りに、同番組にてその後2回(同年8月23日と翌年9月12日)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分(1971年9月11日と1973年9月23日放送分)行われた。しかし当時は、テレビ番組の全面カラー化とカラーテレビ受像機の普及の方が優先された為、この後実験は途切れたものの、1978年に再開。その時は実用化試験局となり、先ず日本テレビが1978年9月28日に同免許を日本で初めて取得し、その日の『ミセス&ミセス』の放送枠内で、それとしては初めてのステレオ放送を実施。同日の後楽園球場からのプロ野球中継「巨人対広島」戦もステレオ化された、その後、レギュラー番組に於いても、9月29日放送の『金曜10時!うわさのチャンネル!!』からステレオ化を順次開始。当初は音楽番組やスポーツ中継などがステレオ放送されて番組中に「ステレオ放送」のテロップを数回表示していた。衛星放送は当初より非表示だったが、ドラマなどがステレオ化されるとテロップ表示は激減した。5.1chサラウンド放送は「5.1サラウンド」と画面左下に表示している。NHKも1994年度以降はテロップの表示を取りやめたが『クイズ日本人の質問』は編集時に挿入していた。 当初はゴールデンタイムでもモノラル放送が多く、バラエティ番組は当初スタジオやホール内の音声のみがステレオで収録された。番組にモノラルが多くコマーシャルにステレオが多い特性を使って、原始的なCMスキップ機能を持つビデオデッキも存在した。ステレオ放送される番組が増加すると、ロケ現場や観客の拍手や声などのスタジオ内音声はモノラル音源で収録してBGMや効果音などをステレオで放送する、『北野ファンクラブ』、『とぶくすり』、『ムーブ 島田弁護協会』、『爆!爆!爆笑問題』などの番組が増えた。『メッセ弾』、『水10!ワンナイR&R』、『やじうまプラス』、『スーパーモーニング』など、モノラルで収録して音声信号のみステレオへ切り替えて放送した番組もある。こうした制作体制を「モノステレオ放送」と呼んでいた。 なお、札幌地区以外の北海道の民間放送では地上波アナログ放送停波まで、それ以外の地域でも1990年代までステレオ放送を行うための機材が無かった局では対応番組であってもステレオ放送がされなかった。そのため、上記のステレオ放送のテロップは制作キー局のマスターから全国送出せず、各系列局にてローカルで表示していた。 2011年7月24日に東日本大震災の被災三県を除いて地上波アナログ放送が終了し、再放送番組などモノラル放送の番組はNHKと一部放送局を除いてモノステレオ放送となった。 日本テレビ系列局は、地上デジタル放送完全移行に伴い2011年10月3日より編成上の全番組をステレオ放送化を発表して実施した。フジテレビは『知りたがり!』『すぽると!』『新報道2001』『Mr.サンデー』以外の生放送報道・情報番組は全てモノラル放送(モノステレオ放送)だったが、2011年10月31日にステレオ放送へ変更した。 デジタル放送は音声信号が大部分ステレオであることから、新聞やテレビ情報誌などのステレオ表記は7月23日で廃止されたが、5.1サラウンドステレオ放送は表記(「5.1」・「SS」など)を継続している。テレビ埼玉は電子番組表で「S」を表記している。 主に超短波放送で実施。AMステレオ放送やデジタルラジオも試みられたが普及しなかった。
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ステレオ放送とは音声多重放送の一種で、一般的に左右2チャンネルの音声信号の放送のことである。チャンネル数が多いマルチサラウンドステレオ放送もある。 テレビ番組表では○、□、の中に「S」「ス」「立」などと表示される。
{{Pathnav|音声多重放送|frame=1}} {{読み仮名|'''ステレオ放送'''|ステレオほうそう}}とは[[音声多重放送]]の一種で、一般的に左右2チャンネルの音声信号の放送のことである。チャンネル数が多いマルチサラウンドステレオ放送もある。 テレビ[[番組表]]では○、□、の中に「S」「ス」「立」<ref name="ja-bangumihyo">「[[番組表]]」の項目参照。</ref>などと表示される。 == 日本のテレビ放送 == {{see also|音声多重放送}} === 地上アナログ放送 === [[日本]]の[[NTSC|テレビ地上波アナログ放送]]の拡張規格は、[[周波数変調#FM-FM方式|FM - FM方式]]で主音声と副音声を送信して2ch[[ステレオ]]音声を実現していた。 地上アナログ放送のテレビ番組では、先ず[[NHK総合テレビ]]の東京地区のみにて、実験放送が行われた。先ず、[[1970年]][[8月9日]]『[[NHKコンサートホール]]』の番組にて行われた<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197008092210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1970年8月9日]</ref>のを皮切りに、同番組にてその後2回(同年[[8月23日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197008232210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1970年8月23日]</ref>と翌年[[9月12日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197109122210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1971年9月12日]</ref>)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分([[1971年]][[9月11日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197109111930001300100 NHKクロニクル「NHKイタリア歌劇公演 歌劇『リゴレット』(ヴェルディ作曲) 1971年9月11日]</ref>と[[1973年]][[9月23日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197309232130001300100 NHKクロニクル「NHKイタリア歌劇公演 歌劇『椿姫』(ヴェルディ作曲) 1973年9月23日]</ref>放送分)行われた。しかし当時は、テレビ番組の全面カラー化とカラーテレビ受像機の普及の方が優先された為、この後実験は途切れたものの、[[1978年]]に再開。その時は実用化試験局となり、先ず[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が[[1978年]]9月28日に同免許を日本で初めて取得し、その日の『[[ミセス&ミセス]]』の放送枠内で、それとしては初めてのステレオ放送を実施。同日の後楽園球場からのプロ野球中継「巨人対広島」戦もステレオ化された、その後、レギュラー番組に於いても、9月29日放送の『[[金曜10時!うわさのチャンネル!!]]』からステレオ化を順次開始。当初は音楽番組やスポーツ中継などがステレオ放送されて番組中に「ステレオ放送」の[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]を数回表示していた<ref>{{Cite journal|和書|title=NHKトピックス|journal=放送教育|volume=41|issue=6|publisher=日本放送教育協会|date=1986-09-01|pages=96 - 97|id={{NDLJP|2341052/49}}}}</ref>。衛星放送は当初より非表示だったが、[[テレビドラマ|ドラマ]]などがステレオ化されるとテロップ表示は激減した。[[ドルビーデジタル|5.1chサラウンド]]放送は「5.1サラウンド」と画面左下に表示している。[[日本放送協会|NHK]]も[[1994年]]度以降はテロップの表示を取りやめたが『[[クイズ日本人の質問]]』は編集時に挿入していた。 当初は[[ゴールデンタイム]]でもモノラル放送が多く、バラエティ番組は当初スタジオやホール内の音声のみがステレオで収録された。番組にモノラルが多くコマーシャルにステレオが多い特性を使って、原始的なCMスキップ機能を持つ[[ビデオデッキ]]も存在した。ステレオ放送される番組が増加すると、ロケ現場や観客の拍手や声などのスタジオ内音声はモノラル音源で収録して[[背景音楽|BGM]]や効果音などをステレオで放送する、『[[北野ファンクラブ]]』<ref group="注">初回から[[1993年]]10月29日放送分まで。</ref>、『[[とぶくすり]]』、『[[ムーブ (バラエティー)|ムーブ]] [[島田弁護協会]]』、『[[爆!爆!爆笑問題]]』などの番組が増えた。『[[メッセ弾]]』、『[[水10!]][[ワンナイR&R]]』、『[[やじうまプラス]]』<ref group="注" name="yajiplus">地上アナログ放送では[[2010年]]3月29日放送分から番組最終回まで実施。</ref>、『[[スーパーモーニング]]』<ref group="注" name="yajiplus" />など、モノラルで収録して音声信号のみステレオへ切り替えて放送した番組もある。こうした制作体制を「'''モノステレオ放送'''」と呼んでいた。 なお、札幌地区以外の北海道の民間放送では地上波アナログ放送停波まで、それ以外の地域でも1990年代までステレオ放送を行うための機材が無かった局では対応番組であってもステレオ放送がされなかった。そのため、上記のステレオ放送のテロップは制作キー局のマスターから全国送出せず、各系列局にてローカルで表示していた。 === 地上デジタル放送 === [[2011年]]7月24日に[[東日本大震災]]の被災三県<ref group="注">[[東日本大震災]]で被災した[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[福島県]]では、[[東日本大震災に伴う地上デジタル放送に係る電波法の特例に関する法律|特例法]]により、2011年7月24日時点で[[アナログ放送|地上アナログ放送]]の終了が見送られていたが、先般の3県(岩手県、宮城県、福島県)でも2012年3月31日をもって地上アナログ放送は終了した。</ref>を除いて地上波アナログ放送が終了し、[[再放送]]番組などモノラル放送の番組はNHKと一部放送局を除いてモノステレオ放送となった。 日本テレビ系列局は、地上デジタル放送完全移行に伴い2011年10月3日より編成上の全番組をステレオ放送化を発表して実施した<ref>『[[あなたと日テレ]]』[[2011年]]9月4日放送 [http://www.ntv.co.jp/anata/prog.html あなたと日テレ 放送内容 2011年9月4日]</ref><ref group="注">[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作や[[日テレNEWS24]]制作の番組も2011年10月3日から編成上の全番組をステレオ放送化した。</ref>。フジテレビは『[[知りたがり!]]』<ref group="注">2013年3月29日番組終了。</ref>『[[すぽると!]]』<ref group="注">2016年4月1日番組終了。</ref>『[[新報道2001]]』『[[Mr.サンデー]]』以外の生放送報道・情報番組は全てモノラル放送(モノステレオ放送)だったが、2011年10月31日にステレオ放送へ変更した。 デジタル放送は音声信号が大部分ステレオであることから、新聞や[[テレビ情報誌]]などのステレオ表記は7月23日で廃止されたが、5.1サラウンドステレオ放送は表記(「5.1」・「SS」など)を継続している。[[テレビ埼玉]]は電子番組表で「S」を表記している。 == 日本のラジオ放送 == {{main|ラジオ#ステレオ放送}} 主に[[超短波放送]]で実施。[[AMステレオ放送]]や[[デジタルラジオ]]も試みられたが普及しなかった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ステレオ]] *[[音声多重放送]] *[[二重音声放送]] **[[2か国語放送]] **[[解説放送]] **[[副音声付放送]] *[[文字多重放送|字幕放送]] *[[モノラル放送]] {{DEFAULTSORT:すてれおほうそう}} [[Category:放送]] [[Category:ステレオ]] [[Category:音響工学]] [[en:Stereophonic_sound#Broadcasting]]
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中華人民共和国
中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中国語: 中华人民共和国; 繁体字: 中華人民共和國; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó)、通称中国(ちゅうごく、拼音: Zhōngguó)は、東アジアに位置する社会主義共和制国家。首都は北京市。 中華ソビエト共和国としてはじまった中華人民共和国は、中華民国統治下の中国で1921年7月に結党された中国共産党がソビエト連邦の支援を受けながら、国共合作・日中戦争・国共内戦を経て中華民国政府を台湾へ放逐 し、1949年10月1日に毛沢東中国共産党主席が北京市天安門広場で建国宣言を行ったことで成立した。 1949年10月の建国以来中国共産党による一党独裁体制が続いている。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界153位という下位であり独裁政治体制に分類されている(2019年度)。また、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは下から4番目の177位に位置付けられており、最も深刻な状況にある国の1つに分類されている(2020年度)。 中華人民共和国の人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは「中国は依然として一党独裁国家であり、基本的人権を体系的に抑圧している」「人権擁護の弁護士や活動家が恣意的に拘留され、起訴されている」「非政府組織、活動家、メディア、そしてインターネットに対する統制は強化されている」と報告している。2010年の劉暁波のノーベル平和賞受賞問題、2016年に政府が香港などで批判者を拉致して強制的に失踪させた事件、2020年の新型コロナ問題での人民の言論監視 などに見られたように近年は言論統制や弾圧が一段と強化されている傾向がある。チベット問題やウイグル問題など少数民族に対する人権侵害問題も深刻で国際社会から憂慮されている。特にアメリカ合衆国政府、カナダの下院、オランダの議会、イギリスの下院、フランスの下院、リトアニア共和国議会などは、ウイグル人強制収容所などについてジェノサイド(大量虐殺)政策と認定している。2019年以降は一国二制度下の香港への統制を強めている。南沙諸島や中華民国への軍備増強や威嚇行為が年々激しさを増している。 大清、中華民国の時代では、分裂や暴動、他国との戦争での敗戦が続き、諸外国による間接的な支配が長年続いた。1978年以前までの中華人民共和国においても内乱と紛争、混乱が続いていため、経済や軍事が長期間低迷し、貧困が200年以上続いていた。 1978年12月における改革開放の導入以来、「社会主義市場経済」と称して「経済特区」や「沿岸開放都市」などの設置を行い、社会主義経済体制からの根本的な転換を行った。その結果外資流入の勢いが増し、20年以上に渡って年平均9%以上の実質GDP成長率を達成し、2010年にはGDP規模で日本を追い抜いてアメリカ合衆国に次ぐ世界第2位の経済力を有する国となった。中国共産党総書記習近平は2012年に「中華民族の偉大なる復興」を発表した。 発展途上国に有利に出る購買力平価では世界第1位であり、世界最大の輸出国と製造国、第2位の輸入国である。同国は経済・軍事・技術・外交・ソフト・パワーの影響力において、世界の新興超大国とみなされている。 しかし、経済発展に伴い経済格差の拡大・環境問題など各種の社会問題も深刻化している。エネルギー使用による二酸化炭素(CO2)排出量は世界最大、条約で規制されているフロンも中華人民共和国では未だ大量放出されている。大気汚染は深刻で特に首都北京は風次第でしばしばスモッグに覆われる。長江をはじめとする河川の水質汚染も深刻な状況にある(中国の水危機)。 中華人民共和国の環境問題については中国の環境問題を参照。 建国以来ソビエト連邦に並ぶ東側の大国として影響力を持ったが、ソ連でスターリン批判が起きるとスターリン主義の立場からソ連と仲違いし、中ソ対立が武力衝突にまで及ぶに至って1970年代以降はアメリカ合衆国や日本など西側諸国に接近し、日米と国交して中華民国と断交させた。1971年10月に国連総会で中国代表権を認められて国際連合に加盟し、追放された中華民国の後任として国際連合安全保障理事会常任理事国となった。1989年6月に六四天安門事件を起こして国際社会から強い非難を受けたが、1991年12月のソ連崩壊後も共産党独裁体制維持に成功し、「全方位外交」と称して1992年には米中・日中国交後も中華民国との関係を維持していたイスラエルや韓国に接近して国交を樹立し、中華民国と断交させた。その後も中華民国と国交を結ぶ国に対して様々な圧力をかけることで中華人民共和国との国交、中華民国との断交を促し、中華民国を孤立化させる外交を推進している。 現在の中華人民共和国は多数の公式及び非公式の多国間機構に加盟しており、WTO、APEC、BRICs、上海協力機構、BCIM、G20がこれに該当する。中華人民共和国はアジアの地域大国であり、多数の解説者により潜在的な超大国として特徴付けられてきた。しかし習近平体制になってから「戦狼外交」と呼ばれる好戦的で強硬な外交姿勢を強めており、国際社会との摩擦が目立ってきている。また香港問題やウイグル問題などの人権問題をめぐる国際的批判が強まっている。 1964年10月に最初の核実験を実施しており、核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つとなった。21世紀以降は急速な軍拡が行われ、アジアでは最大の、世界ではアメリカ合衆国に次ぐ軍事支出を行う軍事大国となっている。その軍隊である中国人民解放軍の兵力は200万人を超えると見られており、世界最大人数の常備軍である。軍事大国としてアジア周辺諸国に対するプレゼンスも強めており、尖閣諸島をめぐって日本と、南沙群島をめぐってはフィリピンやベトナムなどとの間に緊張関係を作り出している。南シナ海、台湾海峡及び東シナ海を当面の目標にした海軍力増強、中華民国に対するミサイル体制強化など、中華人民共和国の軍事膨張に対する国際社会、とりわけアメリカ合衆国の警戒感は根強い。 人口は世界第2位の約14億人であり、うち92%以上を漢族が占める。他にモンゴル族、チベット族、ウイグル族、朝鮮族、満洲族、回族、チワン族、ミャオ族、ヤオ族など55の少数民族が存在する。言語は漢語が大部分を占め、北京語を元にした中国語の普通話が共通語であるが、各地域では数多くの方言と少数民族の言語が併用されている。 宗教はイスラム教やキリスト教、チベット仏教などが少数存在するが、政府により制限が課されている。特に近年では政府が「宗教の中国化」の方針を掲げ、あらゆる宗教への国家統制を強化している。 公式には23の省、5つの自治区、4つの直轄市と2つの特別行政区から構成され、総面積は約960万平方キロメートルで世界第3位、ロシア連邦と並び世界で最も隣国が多い国(14か国)である。 計測方法によるが陸地面積では世界第2位とされ、総面積では世界第3位又は第4位である。同国の地形は、乾燥した北の森林ステップ、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠から、多湿な南の亜熱帯の森林まで広大かつ多様である。ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、パミール高原、天山山脈により、同国は南及び中央アジアから切り離されている。長さ世界第3位の長江及び同世界第6位の黄河は、チベット高原から人口密度の高い東の沿岸地域に流れ、古代には黄河文明や長江文明を興してきた。同国の太平洋に沿った海岸線は1万4500キロメートルの長さで、渤海、黄海、東シナ海、南シナ海に囲まれている。同国の国土は、22省級行政区、5自治区、北京市・天津市・上海市・重慶市の4直轄市、大部分が自治的な香港・マカオの2特別行政区によって構成されている。なお2017年7月現在、中華人民共和国の世界遺産はイタリアについで56件ある。国内には文化遺産が38件、自然遺産が14件、複合遺産が4件存在する。 現在の公式国名は中華人民共和国 (簡体字中国語: 中华人民共和国; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó) 発音である。一般には中国 (簡体字中国語: 中国; 拼音: Zhōngguó) 、あるいは中華 (簡体字中国語: 中华; 拼音: Zhōnghuá) と呼称される。 「中国」という言葉は、紀元前6世紀の書経・詩経で既に記述されており、中華帝国以前の時代には華夏族を四夷と区別するため、文化的概念として頻繁に用いられた。その後、中華帝国の変遷と共に様々な古文書で用いられる「中国」の意味も変化して行ったが、近代的な主権国家全体の名称として用いられるようになったは19世紀半ばからである(詳細は「中国」の項目参照のこと)。 中国と同義で用いられる支那は、帝国主義のイメージと結びついて中華人民共和国では侮蔑的な呼称と認識されているが、その原型が古くから印欧語族の諸国で用いられてきたために派生形が多く残っている。たとえば英名の"China"は、サンスクリット語のCīna (चीन) を由来とするペルシア語のChīn (چین)が由来と考えられる。"China"という言葉は、ポルトガルの探検家Duarte Barbosaの日誌において1516年に初めて記録された。1555年、同日誌はイングランドにおいて翻訳及び出版された。17世紀にマルティノ・マルティニにより提唱された伝統的理論では、Cīnaは周において中国最西の国である"Qin" (秦) が由来である。また、Cīnaはマハーバーラタ (紀元前5世紀) 及びマヌ法典 (紀元前2世紀) を含む初期のヒンドゥー教の聖典において用いられていた。 「中国」の国名を巡っては、中華人民共和国の前に中国大陸を統治した中華民国との間で軋轢がある。1971年10月のアルバニア決議以降、中華人民共和国が「中国」の議席および関連する地位を獲得し、「中国」は徐々に国際社会において中華人民共和国を指すようになった 。この他、「日中関係」「駐華大使」のように「中」も「華」も中華人民共和国の略称として用いられている現状がある。台湾海峡を挟んで「二つの中国」が分断する現況から、中華人民共和国は中華民国(台湾地区)に対応する場合は「中国大陸」 と呼ばれることがある。中華人民共和国政府は中華民国(台湾)からは「大陸当局」「北京当局」、「北京」または「中共」 とも呼ばれる。中華民国憲法では「大陸地区」とされる。 英語圏では"People's Republic of China"(中華人民共和国)を略して"PRC"と表記することがある。 中華人民共和国が樹立された時点で、蔣介石率いる中華民国政府は未だ中国大陸の華南三省と西南部三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって1949年12月に中国国民党は接収していた台湾に逃れ、人民解放軍は翌1950年5月までに福建省・浙江省 の一部島嶼を除く中国大陸と海南島を制圧した。ただし、台湾に政府機能を移転した中華民国政府は存続し、台湾とその他島嶼からなる地域(台湾地区)は2021年現在に至るまで中華民国政府の実効支配下にある。 毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。中華人民共和国の建国後、毛沢東は毛沢東思想に基づき、中国共産党を軸にした世界革命路線を推進した。ソビエト連邦と中華民国間で締結された中ソ友好同盟条約(1945年8月)によって、ソ連が中華民国から租借していた旅順港・大連港・南満洲鉄道について、1950年の中ソ友好同盟相互援助条約と同日締結した協定により中華人民共和国へ編入。1952年には朝鮮戦争に参戦し、韓国軍とアメリカ軍を主体とする国連軍を阻止した。1954年9月の第1期全国人民代表大会において、ソ連のスターリン憲法を範とする「中華人民共和国憲法」(略称:54年憲法)を採択し、それまでの人民民主統一戦線体制の「共同綱領」ではなく一党独裁制へ移行した。中華人民共和国は、毛沢東の指導の下で大躍進政策と核開発を行った。1959年のチベット蜂起を鎮圧し、1962年にはインドと武力衝突した(中印国境紛争)。 1949年の中華人民共和国成立後、「向ソ一辺倒」の下で中ソ両国は友好関係を保っていたが、1956年のフルシチョフ第一書記によるスターリン批判後、西側諸国との平和共存路線を図る修正主義的なソ連と自由主義世界との妥協を拒否する教条主義的な中華人民共和国との間で中ソ対立が生じ、ソ連と対立。1969年には両国の国境地帯に位置した珍宝島/ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争が勃発した。また、内政では大躍進政策の失敗によって失脚していた毛沢東が、1966年より経済の立て直しを巡る対立からプロレタリア文化大革命(文革)を発動し、官僚化した中国共産党を打倒しようと呼びかけた毛沢東の訴えに紅衛兵が呼応したため、「造反有理」、「革命無罪」の呼号の下、宗教関係者などの「反革命」派と目された人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱に等しい状態となった。内モンゴルの先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った。 外交では1971年の第26回国際連合総会にて採択されたアルバニア決議の結果、それまで国際連合常任理事国だった中華民国に代わって国連安全保障理事会常任理事国となり、中華民国は自ら国連を脱退した。また、ソ連との関係では中ソ対立が継続していたため、1972年2月21日のリチャード・ニクソン大統領訪中を契機にソビエトと対立するアメリカ合衆国との関係が緩和され、同年9月29日には日本の田中角栄首相と日中国交正常化を果たし、ソ連の影響から離れて資本主義諸国との関係を改善した。以後、西側諸国から経済支援を受け、3つの世界論により中国は主に第三世界において大きな影響力を保つことに成功した。1974年には南シナ海に侵攻し、当時の南ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。文化大革命は1976年の毛沢東の死と共に終結した。その後、「二つのすべて」を掲げた華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会で鄧小平が実権を掌握した。 1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、鄧小平理論に基づいて政治体制は中国共産党による一党体制を堅持しつつも、市場経済導入などの改革開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた(中国特色社会主義)。中ソ対立の文脈の中で、1979年2月には親ソ派のベトナムに侵攻した(中越戦争)。その後もベトナムとの関係は悪く、1984年には再びベトナムと中越国境紛争を戦い、1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。一方、アメリカなど西側諸国に接近し、モスクワオリンピックの不参加とロサンゼルスオリンピックの参加というおおよそ西側に歩調を合わせる行動を行うようになる。 1980年代以来の経済の改革開放の進展により、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件での対応などはその一例である。 天安門事件から江沢民が台頭した。2003年3月ごろから中華人民共和国広東省を起点する重症急性呼吸器症候群(SARSコロナウイルス)の大流行の兆しを見せ始めたが、これはごく短期間で終息している。 2012年11月15日、習近平が中国共産党中央委員会総書記、中央軍事委員会主席に選ばれた。 2019年末より、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が武漢市で確認され、その後新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が全世界で流行する事になった。世界的なパンデミックにより未曽有の事態に突入し、特にアメリカのトランプ政権は中国の対応を強く批判し、これに伴い米中関係は大きく悪化。世界は新冷戦と呼ばれる時代に突入した。 コロナ禍の2022年2月、北京冬季オリンピックを開催した。 中国共産党政府はゼロコロナ政策により感染の防止に務めたが、2022年には再び国内でコロナウイルスが蔓延した。そのため上海などの経済都市に対して政府はロックダウンの措置をとった。また、ほぼ同時期に香港民主化運動を強権的に封殺するも、これは却って世界各国における対中感情の悪化を招いた。一方、厳格なゼロコロナ政策により政府当局への国民の不満が高まり、同年11月には白紙革命が勃発。共産党政府への批判がタブーな中国では異例の政府批判が起きる事態となった。政府はこれを受けてゼロコロナ政策の転換を余儀なくされた。 2022年ロシアのウクライナ侵攻以降は中国は、表面上は対アメリカという観点からロシア寄りの立場を取っているが、他方ではプーチンが失脚した場合の「シナリオ」を模索しての行動を行っているという見方もある。 中華人民共和国は、2023年8月、日本産の水産物の輸入を禁じた。 中華人民共和国はアジア大陸の東部、太平洋の西海岸に位置し、国土は963万4057平方キロメートルとロシアとカナダに次ぐ面積であり、世界第3の大きさである。領土は北は漠河以北の黒竜江(アムール川)の中軸線から、南は南沙諸島の一部まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から、西はパミール高原まで広がっている。主要河川として黄河や長江があり、それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。陸地の国境線は2万2800キロメートルで、東は朝鮮民主主義人民共和国、北はモンゴル、北東はロシア、北西はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、西と南西はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、南はミャンマー、ラオス、ベトナムと接している。なお、インドとの間ではアルナーチャル・プラデーシュ州、アクサイチンの領有権をめぐって、国境が確定していない。 東部と東南部は韓国、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシアと海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロメートルで、中国大陸の東部は渤海、黄海、東シナ海に、南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。これらの島嶼では南沙諸島や西沙諸島、台湾地区、尖閣諸島の領有権を主張しており、その一部は既に実効支配している。 中国における交通機関は運河と海路を長大な歴史にわたり活用し発展してきた。中国の国道は経済格差を反映し東部で密に整備されている。中華人民共和国の高速道路は2003年から整備が進んだ。 中国では、政府の行政区分を地理に基づいて大別した中国地理大区(中国語版)が用いられており、現行の地理大区は中国全土を東北、華北、華東、中南、西南、西北の6つに区分している。 中華民国時代には、中国本土を華北、華中と華南に区分し、熱河省以外の南満洲を「東北」、内蒙古と外蒙古、熱河省を「塞北」、チベット(アムド、カム、ウー・ツァン全域)と新疆(東トルキスタン)を「西部」に区分していた。しかし、中華人民共和国になって地域の区分が変わり、華中・華南が地理大区としては用いられなくなった。 国土の形はその形からニワトリの形と例えられている。 民国期(1912年-1949年)のチベットは、アムド地方(=青海省,甘粛省の西南部など )を抑える馬一族の回族政権、カム地方の東部(=西康省)を抑える劉文輝政権、中央チベット(=西蔵,ウー・ツアン地方とカム地方西部)を抑えるガンデンポタンなどが割拠する状況であった。馬歩芳は人民解放軍に逐われて1949年8月に地盤の甘粛・青海を放棄し、重慶・香港経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。 1950年に中国政府は人民解放軍を中央チベットに向けて派兵、チャムド戦役を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌1951年、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「十七ヶ条協定」を締結(「西蔵和平解放」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。 この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された青海省・甘粛省の甘南州・四川省のガパ州(=アムド地方)、四川省のカンゼ州・雲南省のデチェン州(=カム地方の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一掃されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとでまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。 1959年に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「チベット動乱」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、ダライ・ラマ14世は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府が中国共産党に対してチベットの独立を要求している。 2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察(中国人民武装警察部隊)などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表され、同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。 アメリカのバラク・オバマ大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つであるダライ・ラマ14世と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した。6月26日には、レディー・ガガがダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した。 新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の分離・独立を目指す組織勢力が国内外に多数存在しており、アメリカで東トルキスタン亡命政府を樹立するなど活動を行っている。2009年ウイグル騒乱では、約200人の住民(新華社によると主に漢族)が殺害された。ウイグル独立団体の主張によると、2014年7月に発生した暴動でもウイグル人が大量に殺害されている 当局は情報統制を敷いており事件の真相は不明だが、当局側は59人の射殺を認めている。2015年12月1日には、政府系メディアなどが対ウイグル人政策で批判的記事を書いた外国人記者に対して個人攻撃をおこなったことについて、中国外国人記者会が深い懸念を表明した。12月26日には、この外国人記者が国外退去処分となった。 2015年7月9日、 タイ政府が中国からの保護を求めて2014年3月に入国した300人以上のウイグル人のうち約100人を中国に強制送還したことが国際問題となった。保護を求めたウイグル人は、タイやマレーシアなどを経由してトルコへ渡ることを目指しており、国連はタイ政府の対応を非難。亡命したウイグル人が多く暮らすトルコでは、イスタンブールで抗議デモが発生した。また、アメリカ政府は中国に対して「国際的な人権基準に基づいて適切に対応するよう求める」と牽制した。また、エジプトでもウイグル人の中国への強制送還が相次いでることも問題となっている。 2016年末から「職業訓練」と称してウイグル人の強制収容所を設置するようになり、衛星写真で確認できる限りでは年々収容所の規模が大きくなっている。2018年時に収容者数は89万人以上という内部データもある。2021年1月にアメリカ政府は中国のウイグル政策についてジェノサイド(大量虐殺)政策と認定した。これに続いて、カナダの下院とオランダの議会がそれぞれ、2021年2月に中国のウイグル政策をジェノサイドと認める非拘束性の動議を可決した。2021年4月にイギリスの下院はジェノサイドと認定する決議を可決した。2021年5月、リトアニア共和国議会もジェノサイドと認定する決議を可決した。2022年1月20日にはフランスの国民議会(下院)もジェノサイドと認定し、拘束性はないがフランス政府にウイグル族の救出のための行動を求める決議を出した。 中華人民共和国は憲法前文で、孫文が指揮する辛亥革命と中華民国創立の意義は認めつつ、中華民国が帝国主義と封建主義に反対する任務を達成できなかった為に、中国の諸民族人民を率いる中国共産党が新民主主義革命によって官僚資本主義の支配(蔣介石政権)を覆し、同国を建国したとしている。そのため同国は、中国旧来の政治的実体である中華民国が1955年(大陳島撤退)以降も引き続き残存している台湾(台湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖島及びその他島々)も「中華人民共和国の神聖な領土の一部」とみなし、台湾を実効支配下に置くこと(祖国統一)を「台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務」であると憲法前文で規定している。 憲法より上位の存在である中国共産党と憲法を拠り所とするその衛星政党(「民主党派」)以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がない。 立法機関として全国人民代表大会が置かれ、行政機関として、国務院が、司法機関として、最高人民法院と最高人民検察院が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。この他に衛星政党や各団体、各界の代表なども参加する中国人民政治協商会議が存在するが、「国政助言機関」 であって法律の制定権などは持っていない。三権分立の相互抑制メカニズムは存在しない(民主集中制)。 実際には国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっている、実権は中国共産党中央委員会総書記が握っていた、中華人民共和国主席(国家主席)の権限は儀礼的・名誉的なもので、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の総書記職であった。現行の中華人民共和国憲法には国家元首の規定がなく、外交慣例上では国家主席は元首と同様の待遇を受けている。 2022年10月現在の最高指導グループである第20期の中国共産党中央政治局常務委員は以下の通り。 1997年にイギリス統治から返還された香港、1999年にポルトガル統治から返還されたマカオは、一国二制度(一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。香港基本法により、高度な自治、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。間接選挙であるが、行政長官選挙が行われ、立法会では一部議員を直接選挙で選出している。さらに、参加資格を主権国家に限定していない国際組織への加盟や国際会議への参加も可能。 2023年現在、22の省、5つの自治区、4つの直轄市、及び2つの特別行政区から成る。中国政府は地方政府独自の旗を禁止しており特別行政区の香港、マカオを除き独自の旗を持っていない。 中国の治安状況は全体としては安定しており、過去に比べると大きな変化を見せている。中国政府の統計によると2019年の各種刑事事件の立件数は、合計約486.2万件で、前年比で約4%減少している。 だがその一方、詐欺事件の立件数は約143.4万件で、前年比約24%増と大幅に増加していて振り込め詐欺も多発している。窃盗事件の立件数は約225.8万件となっていて、前年比で約19%減少しているものの、日本人が旅券・貴重品の窃盗・盗難などの被害に遭うケースが報告されている実状がある。他には金融被害(偽札、カードのスキミングなど)の報告も確認されている。 中華人民共和国憲法によれば、形式的には、国家中央軍事委員会は中国人民解放軍(現役部隊、予備役部隊)、中国人民武装警察部隊、中国民兵など全国の武力を指導するとある。しかし現実は、中国共産党の党中央軍事委員会がほぼ国家中央軍事委員会のメンバーを兼ねており、実質的には中国共産党の指導の下、軍・警察を支配しており「中国共産党傘下の軍隊」となっている。 軍隊近代化のため、兵力20万人削減を、2015年9月3日の「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」で習近平党総書記が表明し、総兵力は約150万人となった。 中華人民共和国には兵役制度が存在するが志願者で賄っている。青年らは何らかの形で武装警察、あるいは現役の正規軍に任務につき、任務後は民兵の任務に就くことが可能である。こうした準軍事組織は150万人の武装警察、600万人の民兵があり、削減された解放軍兵士の受け皿にもなっている。 また、中華人民共和国は核兵器を保有している。 ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2020年の中華人民共和国の軍事費は為替レートベースで2520億ドル で、アメリカ合衆国に次いで世界で2位(世界シェア12.7%)であり、2011年比で76%増加した。 中華人民共和国の軍事費の増加をアメリカ合衆国が非難をしており、中華人民共和国は「中国の国防は防御的なものであるし、今までの歴史に他国を侵略したこともない」と覇権目的ではないと反論している。 中華人民共和国は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などで、アメリカ合衆国軍の軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新による軍事的成果に影響されて、軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新に力を入れている。 軍備近代化を印象付ける出来事として2007年1月18日、中華人民共和国が過去に打ち上げ廃棄処分となっていた人工衛星を弾道ミサイルによって破壊する実験を行い成功した。この実験に対しアメリカ航空宇宙局は、宇宙開発への危険性は無いものの、スペースデブリが発生するこの手の実験に関する懸念を表明した。2007年2月21日には、国際連合の宇宙空間平和利用委員会で、宇宙空間での人工衛星破壊を禁止する法案が採択された。 2011年までの中国国防白書には「中国は、いつ、いかなる状況下であっても、核兵器を先制的に使用しない」と核保有国で唯一核の先制不使用を表明していたが、2013年から記述が削除された。 なお2022年、核保有5ヶ国の共同声明では「核戦争に勝者はいない。核戦争を絶対に始めてはならない」と発表、新華社通信で馬朝旭外務次官は「中国は先制不使用を掲げている」と答えている。 中華人民共和国の国際関係において特筆すべきことは、同国政府が中華民国政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であると主張している点である。 中華人民共和国は、冷戦構造の下、建国当初は完全に東側陣営に組み込まれていた(向ソ一辺倒)。しかし、1956年のスターリン批判後の中ソ対立で決裂した。1968年のプラハの春におけるソ連の軍事介入を「社会帝国主義」と批判し、同じく共産圏でソ連と距離を取るルーマニアやユーゴスラビア、北朝鮮、アルバニアなどとの関係を深めた。このころの中華人民共和国は、アジア・アフリカ会議や非同盟運動に関わるなど第三世界と連携しており、人民戦争理論など第三世界の左派に与えた影響は大きい。 東側諸国や第三世界の支持も集めた国際連合総会に於けるアルバニア決議によって国連安保理の常任理事国となって中華民国を国連から追放し、さらにアルバニア決議に反対した日米にも接近して1972年のニクソン大統領の中国訪問と日中共同声明採択によってアメリカ合衆国と日本を始めとする西側諸国との関係の回復を果たした。 また、3つの世界論を掲げて冷戦下における西側諸国と東側諸国との微妙なバランスをとりつつ、「中国を代表する正当な政府は中華民国ではなく、中華人民共和国である」とする一つの中国政策を東側だけでなく、西側諸国の多くに確認させることも成功を収めた。 1978年から始まる改革開放路線以降、経済面での資本主義諸国との関係も強め、2001年には世界貿易機関(WTO)にも加盟した。冷戦終結後は北大西洋条約機構に対抗してロシア、中央アジア諸国と連携を強化し(上海協力機構、SCO)、また、東南アジア諸国ともASEAN自由貿易地域でFTAを締結、かつては戦火を交えた大韓民国やさらには中華民国ともFTAを締結するなど、経済活動を絡めた積極的な地域外交を展開している。韓国とともに同じASEAN+3でもある日本に対しては胡錦涛政権は、対日新思考を打ち出した。 区分としては開発途上国に含まれるため、国際会議などで「開発途上国の代表」と表現されることはあるも、G77では中華人民共和国はG77の支持国を自任してるため、公式声明や国連の決議文書などでGroup 77 and China(G77プラス中国)を使用してきた。また、開発途上国であることを理由に、日本などの先進国から長年に渡り膨大な開発援助を受けているが、一方で他のさらに貧しい国に対して、国際的影響力を確保することを目的として開発援助を行っている。例えば、アフリカ連合本部は中国政府の全額負担で建設された。 急速な経済成長を遂げ、中国人民解放軍の軍備拡張を続ける中華人民共和国に対して、周辺諸国やアメリカは警戒感を持ち(中国脅威論)、また、人権問題・両岸問題・国境問題など、中華人民共和国の国際関係は緊張をはらむ。 BBCワールドサービスやピュー・リサーチ・センターやユーロバロメーター(英語版)が定期的に実施している世界各国を対象とした対他国感情に関する調査によれば、調査対象国における対中・対中国人感情は否定的な回答を示しており、中国は、世界に対して悪影響を与えていると評価されている。なかでも人権意識が強い欧米諸国は、チベット問題やウイグル問題や香港問題の影響から、中国に対する悪感情が形成されており、中国を否定的にとらえる回答が多い傾向にある。さらに、2020年にパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症が主要因となり、中華人民共和国国家安全部のシンクタンクである現代国際関係研究院(英語版)は、反中感情が天安門事件以来の高まりとなっていると結論づけており、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、欧州連合などの欧米諸国に限らず、係争地域で死者の出る衝突が起きたインド、韓国、日本、南シナ海問題を抱える東南アジア諸国連合関係国などのアジア諸国を含む国際社会での反中感情は過去最悪。 2020年にシンガポールのシンクタンクであるISEASユソフ・イサーク研究所(英語版)がASEAN諸国の政府高官、学者、専門家など1300人を対象に実施した調査によると、ASEAN諸国では中国の政治・経済的影響力への警戒感が広がっており、中国に不信感があるという割合は、2019年の52%弱から2020年には60%強に上昇し、また40%近くが「中国は現状の秩序を打ち壊そうとする勢力で、東南アジアを自らの影響圏に入れようとしている」との認識を示した。ISEASユソフ・イサーク研究所(英語版)は、「中国の著しい影響力に対する地域懸念は、強大なパワーの使い方に不透明感があるからだ」とし、中国の台頭が平和的ではないとの懸念を高めていると指摘しており、特に中国に対する不信感は、南シナ海問題で中国と争っているベトナムとフィリピンで際立っている。 2021年5月、習近平総書記(最高指導者)は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国のイメージづくりに努力しなければいけない」と語り、外国から「愛される中国のイメージづくり」を指示し、中国共産党が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、親中的な国際世論の拡大」を実現するよう対外情報発信の強化を図るよう訴えた。これは近年の中国外交は批判に対して攻撃的に反論する戦狼外交を展開してきたが、戦狼外交は中国内では支持を得ているが、国際社会では反中感情を高めており、高圧的な対外発信で中国の好感度が下がっていることへの反省があるとみられる。 インドとはバンドン会議などで成立当初関わってきた。しかし1955年に中国が独立していたチベットを併合。ダライ・ラマ14世がインドへ亡命するなど、印中関係は悪化した。またインドとパキスタンの係争地であるカシミールへ中国は介入を行い、インドとの関係は険悪した。その後も印中は衝突などがおこる。中国はインド洋を一帯一路のもと影響下におこうとしている。そのため、インドは日米豪と連携しQuadを結成している。 一方パキスタンは、ニクソン大統領の中国訪問を仲介した経緯などもあり関係が良好であり、近年はパキスタンが背後に居るとされているアフガニスタンのターリバーンへの影響を強めている。 中国はアメリカ合衆国を最大の諜報活動の対象としているとみられ、国家安全省の他に中国共産党や中国人民解放軍、国有企業もその活動に加わることがある。アメリカ合衆国政府の国家情報会議のジョエル・ブレナー(Joel F. Brenner)専門官は「米国を標的として活動する140カ国ほどの諜報機関でも、中国が最も活発」と述べた。また中国のスパイ活動研究の権威として知られるデービッド・ワイズは、軍事面でも超大国を目指す中国は、アメリカ合衆国を追い越すために、軍事機密を標的にしていると指摘し、近年ではF-35戦闘機の機密や核弾頭の軽量化技術を奪取したと述べた。また、2005年7月、中国人民解放軍の朱成虎少将は「米国が台湾海峡での武力紛争に介入し中国を攻撃した場合、中国は対米核攻撃に踏み切る用意がある」と発言した。 2015年5月、中国が南沙諸島で建設中の人工島を米偵察機が偵察した。この事件をめぐって、両国は2001年4月に米中両軍機が南シナ海上空で衝突して以来の緊張状態となった。アメリカ合衆国政府は、スプラトリー諸島(南沙諸島)の12海里以内に米軍機を進入させる可能性を表明しており、中国外務省は「言動を慎むよう求める。私たちは関係地域に対する監視を密にし、必要に応じて適切な措置を取る」と反発した。なお、7月末にマレーシア航空370便墜落事故の残骸の一部が発見された。 以前はパナマは台湾と外交関係があり中国とは国交がなかったが、中国は、アメリカ合衆国の「裏庭」ともいわれるカリブ海に出ることを念頭に国交を樹立し、パナマ最大のマルゲリータ島港を99年租借する契約を交わした。 トランプ政権後期ごろから米中関係が本格的に悪化しはじめ、アメリカの対中姿勢の硬化は後任のバイデン政権にも引き継がれ、2021年3月にバイデン大統領は米中関係を「21世紀における民主主義と専制主義の闘い」と定義づけた。 「両岸」とは台湾海峡を挟んだ中国本土と台湾の海岸を指しており、そこから「両岸関係」は台湾を実効支配する中華民国と中華人民共和国との関係を指す言葉となっている(二つの中国)。 1946年から激化した第二次国共内戦に勝利した中国共産党が1949年に中華人民共和国を中国大陸に建国、同年中に中華民国政府は、1945年の日本の降伏に伴い接収していた台湾に移った。それ以来、中華人民共和国は中華民国と「中国における正統政府」の座を巡って対立し、両国共に互いの統治する地域の支配権を主張して譲らなかった(台湾問題)。 国共内戦の延長で1954年に「台湾解放宣言」 を出し、第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)と金門砲戦(1958年 - 1979年)を起こしたが武力による台湾占領には至らなかった。 中華人民共和国政府は国際連合における「中国」代表権を求めて諸外国に外交的に働きかけた他、「中華民国政府が実効統治している台湾は中華人民共和国の領土」と見なして領有権を主張し、「台湾解放」の名の元に金門島への砲撃を度々行った。その後、冷戦下におけるアメリカとソ連の間の対立や、ソ連と中華人民共和国の対立の激化などの政治バランスの変化に伴い、中華民国が国連の「中国」代表権を喪失して国際的に孤立し、中華人民共和国も改革・開放を推進するようになると、中華人民共和国政府は「一国二制度」といった統一の枠組みの提案や「三通政策」といった穏健的な統一政策を通じて両岸関係の改善を図った。1992年には両国政府関係者が「一国共識、各自表述(「一つの中国」を共通認識とするが、解釈はそれぞれが行う)」の統一原則を確認するまでに至った。 だが、1990年代に入ると、中華民国では李登輝中華民国総統による政治体制の民主化が進められ、それに伴い中華民国では、中華民国とは別個の「台湾」という国家を創り上げる台湾独立運動(台独運動)が活発化し始めた。このような動きに対し、中華人民共和国は総統選挙(1996年から実施)における台独派(泛緑連盟)候補者の当選阻止を目指して軍事演習で威嚇するなど強硬姿勢をとった。しかし、いずれの選挙においても阻止するには至らなかった。 このことを教訓としてか、2005年3月14日には中華人民共和国で反国家分裂法が成立した。この法律は中華人民共和国による中華民国の武力併合に法的根拠を与えることを名目とする。こうした経緯で、今日の中華民国と中華人民共和国の関係は、台湾問題として東アジア地域の不安定要素と見る見方も一部で存在する。中華民国にも「台独」に反対する「中国派」の人々(泛藍連盟)が存在している。こうした動きにおいては、中国国民党が有力な存在である。国民党党首・連戦は、2005年4月26日〜5月3日にかけて中華人民共和国を訪問、共産党党首・胡錦濤と60年ぶりの国共首脳会談を実施した。 2010年に台湾との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)が締結されたが、サービス貿易協定は4年後批准を拒まれた(ひまわり学生運動)。 2010年代に入ると一つの中国による台湾問題の解決を「(自国の)核心的利益の一つ」と規定するようになり、基本的には九二共識の合意に基づいた平和的な中国統一を目指しているが、一方で中国人民解放軍の武力による台湾制圧の可能性も指摘されている。 中華民国海軍の元軍艦長で軍事評論家の呂礼詩は、中華人民共和国の習近平総書記(最高指導者)は自身のレガシーのためにも台湾統一にこだわると分析している。 成立当初、「向ソ一辺倒」を掲げソ連とは密接な関係となり、経済支援も受けていた。しかしニキータ・フルシチョフによるスターリン批判に対し、中国は「修正主義」と強く批判した。一方ソ連は毛沢東による文化大革命などを批判。両国の関係は悪化し、中ソ国境紛争もおこる。ソビエト連邦の崩壊後にはロシアと良好な関係となる。2022年ロシアのウクライナ侵攻でロシアは欧州連合や日本などの親米に経済制裁を行われ、中露の関係は緊密化した。しかし、中国は近年中央アジアへの介入を実施しており、ロシアが警戒感を抱く可能性がある。 日中関係史は古代からのものであるが、現在の日本国と中華人民共和国の外交は1972年9月29日の日中共同声明に始まる。その後両国は1978年8月12日、日中平和友好条約を締結した。日本国と中華人民共和国はサンフランシスコ平和条約に署名していないため日中平和友好条約が両国にとってのはじめての条約締結となる。 両岸関係がシーレーンの安否に関わる。中国産食品の安全性は輸入量と後述の環境汚染と関係して問題となる。 インドとブータンを除く12カ国(ロシアなど)とは陸上国境の画定が完了しているものの、島嶼部を巡っては中国の海洋進出に伴い、領土問題を複数抱えている。 世界銀行の統計によると、2018年時点での中国のGDPは13兆8948.2億ドル であり、アメリカに次ぐ世界第2位である。なお、当時世界第2位だった日本のGDPを中国が抜いたのは2010年のことである。2014年はIMF・世銀・CIAによると、購買力平価換算でアメリカを超えて世界最大のGDPとなり、2015年には購買力平価で欧州連合を超えて世界初の20兆ドル以上のGDPに達した国となった。ミリオネアは440万人、中流層は約4億人とどちらも世界最多だが世界銀行によって発展途上国に分類されている。1日2ドル以下の絶対貧困人口は改善されており2019年は551万人と6年間で10分の1以下になった。2022年、人工衛星を通じて入手した夜のライト量から測定した結果、中国のGDPは政府発表の6割でしかないというシカゴ大学の研究結果をタイム誌は発表した。 人民元改革のとき証券化で生じた過剰流動性が、中国版シャドー・バンキング・システムと呼べるような金融系統を発達させた。そして実際の資金運用が、不動産や株式といった金融資産の市場価格を乱高下させたり、財源を中央政府に独占された自治体をして償還の目途が立たない地方債を発行させたり、福祉制度の破綻を救わずに宇宙産業や通信産業を振興したりしている。これら市場の混乱、地方債リスク、傾斜した産業構造といった社会問題は、預金を国外へ流出させたり、あるいは国外証券を買わせたりしており、国際経済に影響を出している。 人民間の経済格差は深刻であり、CEICによると2019年時点でのジニ係数は0.465となっており、アメリカや日本などを大きく上回っている。 2021年、中華人民共和国の陽江原子力発電所は福島第一原子力発電所の5倍以上のトリチウムを放出した。 国家成立後、1970年代中半までの経済は大躍進政策の失敗や文化大革命によって立ち遅れていた。農業を志向した社会主義経済の非効率性も経済発展の障害となっていた。このため、鄧小平の主導によって1978年に「改革開放」政策が採用され、社会主義市場経済の導入、国営企業の民営化や不採算企業の閉鎖、人民公社の廃止と生産責任制の実施、外資導入など、経済政策の方針を、市場経済原理による資本主義体制を大幅に取り入れたものに転換した。その結果、1980年代以降の経済は経済特区を中心として長年にわたり成長を持続している。特に香港へ人材が流出し、また経済格差も広がった。それまで中国人民銀行によるモノバンク体制であった中国は、1984年に四大商業銀行体制(中国銀行・中国建設銀行・中国農業銀行・中国工商銀行)を形式上整備した。依然として国有銀行だったので、融資は中国共産党の計算で行われ、不良債権を積み上げた。これを公債市場の開放につなげるため、中央と地方の税収を分けた(中国1994年分税制改革, 2018年3月から再統合開始)。すると歳入に占める中央政府と全自治体の割合がほぼ半々になった。この比率は現在まで維持されている。そしてこの改革以降は自治体が歳出の8割以上を負担している。地方債は公認の有無に関係なく発行された。現在もそれは変わらない。21世紀に入ると、他に経済成長の著しいブラジル、ロシア、インド、南アフリカとともに、ゴールドマン・サックスからBRICSと呼ばれた。2010年のGDP成長率は3年ぶりに2桁増の10.3% となり、「世界第2位の経済大国」となった。 2008年1月1日から法人税は国内企業と外資企業の基本法人税率が共に25%に統一された。国税には関税、消費税、国営企業の企業所得税などがあり、地方税は営業税、地方企業の企業所得税などがある。資源税や証券印紙税から構成される「国・地方共通税」は、国と地方で税収が75%:25%に配分される。この配分比は1994年の「分税制改革」による。 主な間接税には消費税、増値税、営業税の3種類がある。消費税は特定の嗜好品や贅沢品にのみ工場出荷時か輸入時に一度だけ品目によって3%〜45%が課税され、その後の流通段階ではあらゆる商品と役務提供に対して増値税が基本税率17%が適用されて各流通段階で課税される。各流通段階ではインボイスに当たる「増値税専用領収書」によってそれまでの増値税額が控除を受けることでそれぞれの付加価値に対して課税されることになる。ただし、贅沢からは縁遠い、穀物、食用油、水道などの特定の品目への増値税には低減税率13%が適用される。営業税は交通運送業、建設業、金融保険業、郵便電気通信業、文化体育業、サービス業、不動産販売業、無形資産の譲渡に対して3%〜5%、娯楽業は5%〜20%の税率で営業利益から規定額が控除された額に課税されていた。 増値税は常に外税表示であり、消費税と営業税はその性質上、内税であるため、増値税が日本での消費税に相当すると理解できる。 2016年5月1日、中国政府は国内景気の下支えと産業高度化のため、減税規模5000億元(約8兆2000億円)超の減税を行った。1994年の税制改正後、モノには増値税、サービスには営業税を課してきたが、似た2つの税金が並立してわかりにくく、モノとサービスの境目が曖昧であるため、2012年から増値税を課する対象を広げてきていた。さらに2016年には増値税を課する対象に不動産、建設、サービスを加えて、営業税を廃止した。不動産にあっては、これまで営業税3パーセントの税率が増値税11パーセントにかわり、金融にあっては営業税5パーセントが増値税6パーセントにかわる。しかし、課税対象が売り上げから粗利(売上から仕入れを引いた額)にかわるため実質的な税負担は減額となる。これまで営業税は生産、流通、販売の各段階で売り上げに課税され、取引回数が多いほど税負担が重くなり、外部取引より社内調達の方が有利になり、分業化や専門化を妨げていた。増値税は仕入れの税負担が控除されるため、外部の専門業者による高度なサービスを利用することを促し、製造業の専門化などにつながる。 香港は一国二制度が継続されており、基本的には返還以前の税制が維持されて中国本土側の税制とは異なっている。 1970年代以降から活発に長征ロケットシリーズを開発していたが、その後の開発は順調に進み、2003年には有人宇宙船神舟5号によって楊利偉中佐を乗せ、初の有人宇宙飛行を行った。2008年の神舟7号では3人の宇宙飛行士を乗せて、ソ連、アメリカに続いて世界で三番目、中国としては初の宇宙空間での船外作業(飛行士1名)を行った。 今後の動向として、月面探査プロジェクト「嫦娥計画」や、2020年の宇宙ステーション計画などがある。 現在中国は自力で宇宙開発技術を向上させている。 成果は中国における携帯電話サービスが充実したことに現れている。 日本の国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構では、中国の宇宙開発を「国家の経済発展と国民の生活水準向上に貢献することを主要な目的とする実益重視型」と評価している。 地方政府の役人(共産党員に限らず)の腐敗や職権の濫用が多いことが問題となっている。地方政府の対応に不満を持った農民や労働者は中央政府へ訴え出たり、場合によっては暴動を起こしたりしており、大きな社会問題となっている。また、政府高官でも汚職を行なった者に対しては死刑が適用・執行されており、2000年には成克傑(元全国人民代表大会常務副委員長)が収賄罪で、2007年には鄭篠萸(元国家食品薬品監督管理局長)が収賄罪でそれぞれ死刑が執行されている。 改革開放が進んで以降の中国ではアメリカに勝るとも劣らない拝金主義、物質主義が進行しているという指摘が多くある。たとえば、大規模な工場を建設する際に、周囲の住民の意見には聞く耳も持たず、「金にならない」というだけで工場の存在から出るリスク(汚水、悪臭、排煙など)を無視しているケースが散見される。また、食品製造では、安全性よりコストを優先するがゆえに無視し、危険な食品であっても生産するケースもある。また、多国籍企業の下請けになっている中国企業では、従業員を過酷な労働環境かつ安い賃金で使い、末端従業員の過労死、過労自殺を引き起こしている。そういったことを本来取り締まるべきなのは政府役人だが、金によって腐敗している者も少なくない。こうした問題の深刻な実態は2010年代に入って以降、国内外の調査団体や有志の調査により表面化しつつある。 中華人民共和国の司法に関してはいくつかの問題が内外から指摘されている。控訴する権利は与えられてはいるものの実際に控訴で逆転できるパターンはわずかである。 テロの首謀者から汚職といった他人に暴力を振るったり生命の危機に直面させない罪などでも、死刑判決即執行に該当する。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルでの報告によると、2004年で全世界で執行された死刑囚の数の9割以上(約3400人)が中華人民共和国であり、同団体に非難されている。 特に地方の人民法院の裁判官について、質に難があるという指摘がある。賄賂を要求することも多く、断ったら会社の設備を破壊され営業不能となった上、押収品を勝手に他者に渡す、といった事例まである。 2015年12月、中国のグローバル企業である復星集団の会長で支配株主でもある郭広昌が当局から身柄を拘束された。中国では党幹部や政府高官、国営企業のトップなど広範囲で取り締まりが強化されており、12月下旬には、言論の自由を擁護する活動家である弁護士も有罪判決を受けた。 農薬の使い過ぎなどにより、中国では食品の安全性の悪さが大きな社会問題になっている。 中華人民共和国では、報道は新華社通信、人民日報、環球時報、中国中央電視台『新聞聯播』などの報道機関が世界的に知られている。改革開放以後は新聞はタブロイドが爆発的に増え、テレビは地方局が多数開設された(キー局は中国中央電視台だけである)。しかし政府の統制下にある事には変わりなくメディアの規制も強化されている。 中国政府は、検閲での情報操作(一国二制度適用の香港・マカオは除く)を行っている。共産党・政府に対して、マイナスと認識した報道を規制している。 2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典において、国際刑事裁判所(ICC)から虐殺などの疑いで逮捕状が出ているスーダン大統領のオマル・アル=バシールが招待されることもあった。 中国の憲法には第33条に「国家は人権を尊重し、保障する」と書き込まれている。六四天安門事件に対して、国際世論の風当たりが強まったことから2004年に付け加えられた。第37条には「公民の人身の自由は、侵犯を受けない」ともある。 国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では、180ヶ国中177位にランク付けされている。 中国国内では、インターネット上のウェブページで、反政府や同盟国の北朝鮮を中傷するページを閉鎖、または回線を切断させたりしていることが多い(中国のネット検閲)。 2004年11月には検閲されていない違法なインターネットカフェ1600店余りを摘発し、更にはネット上で政府を非難する自国人を逮捕しメールの文章も検閲内容として規制されている。Yahoo!などのアメリカ企業も政府の検閲に協力している。こうした企業に対しては、国際的に多くの人々が、中華人民共和国国内での言論の自由を奪っていると非難している。 こうしたネット文化の進展に伴い、中華人民共和国政府はネット規制システム「グレート・ファイアウォール」をバージョンアップさせた。傲游など検閲、規制を回避するためのシステムも一部で配布されていると見られている。 中国は環境問題が最も深刻な国の一つである。中国のエネルギー使用による二酸化炭素(CO2)排出量は世界の3割を占め、世界最大のCO2排出国になっている。オゾン層を破壊するとしてモントリオール議定書で全廃されているはずのフロンも中国では未だに大量放出されているのが確認されている。大気汚染は深刻であり、特に首都北京は風が止まってしまうとPM2.5などの汚染物質が飛んでいかなくなり、しばしばスモッグに覆われる。長江の水質汚染が深刻な状況にあり(中国の水危機)、漁獲量も激減しているため、2020年12月1日には10年間禁漁になり、30万人の失業者が出る見通しとなった。 2018年時点で北京や上海で公立教師は平均的に月給6000元(約10万円)で、内陸部はその半分以下である。そのため、2018年4月から5月末にかけて内陸部の陝西省、湖南省、安徽省などで教師待遇の地域格差・未払賃金を理由に教師たちのデモがあったが鎮圧された。中国では都市と農村の格差が依然として問題であり、景気停滞によって地方政府の財政難が背景にあって、賃上げに対応出来ない理由がある。 中国の出身地差別は大きく分けて3つ。「都市在住者から農村在住者」「省内出身者(地元民)から省外出身者(地方出身者)」「首都出身者からその他地域の出身者」への差別である。中国青年報社会調査センターの最近の調査によると、回答者の30%が「自分の生活圏には何らかの出身地差別がある」と回答している。 最大の民族集団は漢族で人口の92%を占め、その他の55の少数民族が残りの8%を占める。少数民族のなかではチワン族(1,610万人)、満洲族(1,000万人)、回族(980万人)、ミャオ族(890万人)、ウイグル族(830万人)、イ族(770万人)、モンゴル族(580万人)、チベット族(540万人)、プイ族(300万人)、朝鮮族(190万人)が比較的大きな民族集団である。中華人民共和国では漢族だけでなく、これらの中華人民共和国国内に居住する少数民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定し、中華民族は一体であるという意味合いを持たせている。 中華人民共和国の民族の分類は、中華人民共和国政府が実施する「民族識別工作」によって決定される。また、「未識別民族」も存在している。 中華人民共和国中央政府の成立後、急激な人口増加が進んだことにより、食糧問題、エネルギー問題などが発生した。人口増加に危機感を抱いた政府は、対策として1979年から一人っ子政策を実施し、出生率の統制による人口抑制を展開した結果、人口増加率は低下した。 しかし一方で、戸籍上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、統計上では総人口は約13億人であるが、黒孩子や盲民と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているともいわれる。 急激な出産制限は全人口に占める若年層の割合を低下させた。そのため、少子高齢化が問題になると指摘されている。その状況に対し、政府は2015年に行った第18期5中全会で、一人っ子政策を廃止し、二人っ子政策に移行。2021年には3人までに緩和された。 また、中華人民共和国の人口統計は、1990年代から正確性に疑問があり、大幅に水増しされているという研究がある。ウィスコンシン大学マディソン校の人口学者である易富賢は、2018年時点で、中華人民共和国は、出生数が死亡数を下回る人口減少時代に入ったという研究を発表している。易の研究によれば、2018年、中華人民共和国の出生数は前年より250万人減少し、死者数は1158万人で、総人口は127万人減少しているという。北京大学の蘇剣の研究では、中華人民共和国の人口は13億を超えておらず、2017年の12億8130万人をピークに減少しているという。また、2018年の出生数は、国家統計局(中国語版)発表の1523万人に対し、国家衛生健康委員会の年鑑では1362万人と、公式な統計でも、調査機関によって差がある。 国家統計局によれば2021年末の14億1260万人が人口のピークで、国際連合では2023年にインドの人口増加によって2位に後退すると報告されている。 中華人民共和国史学者の朴漢濟(ソウル大学)は、中華人民共和国の人口は公式統計では13億人であるが、実際は17億人であり、世界人口(約70億人)の4人に1人が中華人民共和国人であると指摘している。一方、ウィスコンシン大学の易富賢(中国語版)は、2018年から中国の人口は減少し始め、2020年時点で12億8000万人ほどであり、1億3000万人の水増しがあるという研究を発表している。 2023年1月17日、中華人民共和国国家統計局は、2022年末の中華人民共和国の総人口は21年末比85万人減の14億1175万人だったと発表した。中華人民共和国では過去に人口が減ったのは、60年と61年の2度だけ。急速に少子高齢化が進んでおり、人口減少が始まったとみられる。 国内では、沿岸部など経済発展の著しい地域と、内陸部の発展に取り残された地域との格差が拡大しているため、沿岸の都市部に出稼ぎするために流入する農民(民工)が増え、その数は2021年時点で2億9251万人。2021年の農民工の平均月収は4432元(約8万6867円)である。 北中国の言語に代表される北方語を基礎として若干の改訂を加えた普通話 を標準語としている。同じ中国語であっても、呉語、粤語、閩語などの異なる言語があり、かけ離れているため、標準語を理解できない者も多かった。しかし、建国以来の教育および放送などの普及により2020年時点で普通語の普及率は8割程に上昇した。 なお、イギリスの植民地であった香港では、普通話と共に広東語 および英語 も公用語となっている。実際現在も標準語を使用するものは少なく、その上に1990年代初頭ごろまでは大陸から移住した者を除いては北京語のできる者はほとんどいなかった。1997年の主権返還から徐々に普及しており人口の半分ほどが標準語を話すことが出来る。またマカオでは広東語のほかに、ポルトガル語 も使われる。 チベット族、ウイグル族などの各少数民族はそれぞれの固有の言語も使用しているが公用語は中国語である。政府は少数民族の言語を尊重する姿勢を示しながら、中学校以上の高等教育は原則として少数民族の言語は使用せず、中国語のみで教育を行うことや、ウイグル族に対しては子供を漢民族地域に居住させて中国語で教育することなどにより、中国語を普及させる政策を取っている。 義務教育期間は9年間で、一般に小学6年と日本の中学校に当たる初級中学(初中)3年(地域によって小学5年・初級中学4年)からなる。高等学校に当たる高級中学(高中)は3年。学年は9月に始まる。 また、2006年6月から陝西省呉起県で十二年義務教育(小学校から高校三年生まで)が実施し、2007年には広東省の珠海市、深圳市でも実施しはじまった。また、2010年10月17日には福州の馬尾区をはじめとして12年義務教育を本格的に実行させ、2012年には内モンゴル自治区では12年義務教育がすでに全自治区範囲内に普及された。それ以外は陝西省のように13年義務教育を実行している地域もある。義務教育の期間は市、區によって異なっている。 高等教育に関しては、2016年時点で中国の大学進学率は42.7%に達し、過去最高を記録した。中国の学問の中心の一つとして国内外に名を知られる国家重点大学に北京大学がある。現在では、清華大学が国内のトップ大学であるとする評価が定着しており、北京大学は2番目の位置づけとなっている。清華大学は朱鎔基前総理、胡錦濤党総書記、習近平党総書記の出身校でもあり、2万5000人の学生が理学部、工学部、文学部、法学部、経済学部、経営管理学部、芸術学部などに学ぶ。中国の国内において大学に関する985工程、211工程、副部級大学、国家重点学科などコンセプトもよく使われる。 学術論文の質という点では、オランダの厳密な学術誌のメタ分析によれば、中国の学術論文において通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの質は、米国と変わらない。厳密性という点では、中国も米国も、通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの厳密性という点では違いはなく、どちらも学術論文の厳密性を向上させるという使命を持っている。 2000年以来、医師へ対しての暴力が続いており、この問題は現地の医療関係者の安全に対する重大な脅威となっている。中華人民共和国衛生部の統計によると、病院及び医療従事者に対する暴力事件の数は、2005年の約10,000件から2010年には17,000件以上に増加している。現在も医師に対する暴力事件が多発しており、事態は深刻なものとなっている。 中国の宗教 (CGSS's average 2012) 国教は無く、九割近くの国民は無宗教で、主な宗教は仏教・キリスト教・道教・イスラム教・儒教となる。 宗教信者は総計1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りといわれる。欧米では国民の多くは宗教信者であるが、現在の中華人民共和国の宗教信者数の1億人余りは総人口12億人に比して非常に少ない。これは中国大陸における宗教の歴史と中国共産党政府による宗教弾圧の影響が大きい。 特に2018年ごろからは政府が「宗教の中国化」という方針を掲げるようになり、あらゆる宗教に対する国家統制を強めている。 アメリカは自国の国際宗教自由委員会の調査に基づき、信教の自由の侵害度合いが強い国であるとして独自に「特に懸念される国」に指定している。 国民の大半を占める漢族は現世利益的である。道教は漢族固有の宗教である。信者数の統計はなく、道宮・道観(寺院)が1500余カ所、道士と道姑が2万5000余人といわれる。漢族は、複数の宗教の良いところをそれなりに信仰する傾向がある。改革開放以降、「紅白産業」と呼ばれる「冠婚葬祭業」が飛躍的に発展した。 仏教に関しては仏教の寺院が1万3000余カ所、僧と尼は約20万人といわれる。「漢族仏教」、「チベット仏教(ラマ教)」、「南仏教(巴利語系)」の3種類がある。「漢民族仏教」の信徒数の統計はない。「チベット仏教」の信徒数は、チベット族やモンゴル族などの900万人、ラマ僧、尼僧は約12万人、活仏は1700余人、寺院は3000余カ所。「南仏教」はタイ族などの100万人、比丘、長老は1万人近く、寺院が1600余カ所といわれる。 文化大革命の時期に徹底的な弾圧を受けたチベット仏教はかなり復興したとはいえ、まだ最盛期にはほど遠く寺院数は10分の1以下に激減している。また、現在も中華人民共和国政府によるチベット仏教への弾圧は続いており、僧院には、中華人民共和国当局の「工作隊」が駐在し、強制的に、僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」を行っている。1996年から1998年の間に、中華人民共和国当局による「厳打」キャンペーンにより約500名の僧尼が逮捕され、約1万人が僧籍を剥奪されたといわれる。2007年、中華人民共和国政府は輪廻転生を続けるとされるチベットの高僧(活仏)が転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した(国営新華社通信)。 儒教は共産主義や毛沢東思想に真っ向から敵対するものとして文化大革命時に徹底弾圧され、熊十力などの新儒家の名士が自殺に追い込まれるなど徹底的に迫害され宗教としては事実上絶滅した。しかし、孔子生誕2555周年となった2004年以降、毎年9月28日に孔子の生誕を祝う祝典「孔子祭」が国家行事として執り行われ、『論語』を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。また、中国政府が海外で運営する孔子学院など、孔子の名を冠した施設も存在する(但し、孔子学院は儒教の教育機関ではない)。 孔子の故郷の山東省の曲阜三孔(孔府、孔廟、孔林)の古建築群はユネスコの世界遺産に登録されている。文化大革命期に破壊された儒教関連の史跡及び施設(夫子廟など)も近年になって修復作業が急ピッチで行われている。また、北京オリンピックの開会式では『論語』が取り上げられた。 イスラム教は、回族、ウイグル族、カザフ族など主に少数民族の間で信仰されている。信仰者数は1,800万人、イマーム、アホン(回教布教師)が4万余人。中華人民共和国のイスラム教徒はスンナ派に属している。イスラム教は古代から中国にとり経済と切り離せない存在である。 キリスト教のうち、カトリック教会は1958年から本来ローマ教皇だけに認められている主教・司祭ら聖職者任命を中国共産党傘下の中国天主教愛国会が任命することから中国政府の統制下にあるため、聖座(バチカン市国)との国交は断絶している。 プロテスタントは、信徒は約1000万人、聖職者が1万8000人おり、教会堂が1万2000カ所、簡素な宗教活動の場所(会所)が2万5000カ所ある。 中国には、上記のほか多数の地下教会信者がいるとされており、ブリタニカ国際年鑑の最新データによると、現代の中国のキリスト教徒は、当局の監督下にある国家公認教会信徒と地下教会信徒を合わせ9100-9750万人程度と記録されている。 習近平政権になって以降、キリスト教への抑圧が強まっており、2016年2月には浙江省でキリスト教教会の屋根に取り付けられた十字架を強制撤去したり、撤去に抗議する信徒を相次ぎ拘束する事件が発生した。 チベット地域ではボン教も広く信仰されている。ただし、現在のボン教はチベット仏教の体系を広く取り入れており、一見しただけではチベット仏教との区別がつきにくいが、マニ車を反時計回りに回すなどの相違がある。 民間信仰には、民衆道教、シャーマン・シャーマニズム的信仰、アニミズム的信仰がある。また幾つかの新宗教が存在し、1999年7月には法輪功が天安門広場で信者の集団的焼身自殺事件を起こした(天安門焼身自殺事件)。同教団は政府に邪教認定され、一切の活動を禁止された。 書聖として王羲之、顔真卿、北宋の徽宗帝の名が挙げられる。 漢から唐の陶淵明を代表とする「漢詩」・李白、杜甫、白居易を代表とする「唐詩」、宋の「詞」、元の「曲」、明と清の「小説」(白話小説、武侠小説など)が存在する。辛亥革命後の20世紀前半には日本に留学した経験を持ち、『故郷』、『阿Q正伝』、『狂人日記』、『藤野先生』で知られる魯迅が活躍した。また、毛沢東も『沁園春・長沙』などの漢詩を遺している。 中国における舞踊は形式が非常に多様で、カテゴリーに分けた場合はモダンダンスなどの近代的なものを含めると10種類以上も存在する。 対人関係に於いて「自己人」(自分の味方)、「熟人」(知り合う人)、「外人」という独特の概念が中国にあり、日本では中国人との国際結婚などでトラブルになるケースが多い。ポルノの規制は厳しく、ポルノ雑誌の類は販売されておらず、隠語を使った官能小説のみ販売している。インターネットのポルノサイトも同様で、2007年に行った反ポルノキャンペーンで44000件のサイトを取り締った。また、サイト運営者が終身刑になったケースもある。家庭用ゲーム機の販売も2000年から禁止されてきたが、2015年に完全に解禁され、ハードウェアではソニー・インタラクティブエンタテインメントとマイクロソフト、任天堂がある。家庭用ゲームソフトの販売も、ソフトウェアメーカーが検閲(中国にはコンピュータゲームのレイティングシステムは存在しない)を受けた上で販売することになる。 民族衣装においては漢服やチャイナドレスなど、独自の被服文化を確立している。 1995年に国家プロジェクトでもある「全民健身計画」が打ち出されたことや、スポーツの多様化に伴い中国のスポーツ市場は数年で急激に拡大し、2005年には500億ドルに達しており、競技人口は4億人にまでのぼった。その中でも卓球は伝統的に強く、オリンピックの卓球競技では他国を全く寄せ付けず圧倒的なメダルの獲得数を誇っている。アメリカのバスケットボールリーグの最高峰であるNBAに2011年まで所属していた姚明の活躍を受け、中国国内ではバスケットボールの人気が高まり競技人口は3億人にまで達したとも言われている。 その他にもサッカー、バレーボール、バドミントン、テニス、体操、陸上競技、競泳、飛込競技、アーティスティックスイミング、テコンドー、トランポリン、射撃競技、フェンシング、テニス、重量挙げ、レスリング、MMA、キックボクシング、フィギュアスケート、スピードスケート、ショートトラックスピードスケート、カーリング、エアリアルの人気が高い。 2008年8月8日から8月24日にかけて、首都の北京で中国初の北京オリンピックが開催された。さらに2022年2月4日には、同じく北京で中国初の冬季オリンピックとなる2022年北京オリンピックが開催された。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった。なお、中国はパラリンピックにおいても毎大会メダル獲得数は上位である。 2004年にプロサッカーリーグの『中国足球協会超級リーグ』が創設された。国内リーグを代表する名門クラブの広州(旧:広州恒大)が、7連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。さらに広州はAFCチャンピオンズリーグにおいても、2013年大会と2015年大会でアジア制覇を成し遂げている。 サッカー中国代表の武磊が、2019年1月28日にスペイン1部のRCDエスパニョールへ移籍した事により、中国国内でのサッカーの人気が非常に高まっており、武磊の欧州リーグデビュー戦でのテレビ視聴者数は約4,000万人にものぼった。さらに2020年1月4日に行われたバルセロナダービーでは、1-2の劣勢の場面から後半43分に途中出場し、中国人選手として初めてFCバルセロナから得点を記録している。 サッカー中国女子代表はアジアを代表する強豪国として知られ、AFC女子アジアカップでは大会最多9度の優勝を誇る。アジア競技大会でも大会最多3度の優勝を達成しており、アルガルヴェ・カップでは2度の優勝経験を有する。FIFA女子ワールドカップでは1999年大会、オリンピックでも1996年のアトランタ大会でそれぞれ準優勝に輝いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中国語: 中华人民共和国; 繁体字: 中華人民共和國; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó)、通称中国(ちゅうごく、拼音: Zhōngguó)は、東アジアに位置する社会主義共和制国家。首都は北京市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中華ソビエト共和国としてはじまった中華人民共和国は、中華民国統治下の中国で1921年7月に結党された中国共産党がソビエト連邦の支援を受けながら、国共合作・日中戦争・国共内戦を経て中華民国政府を台湾へ放逐 し、1949年10月1日に毛沢東中国共産党主席が北京市天安門広場で建国宣言を行ったことで成立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1949年10月の建国以来中国共産党による一党独裁体制が続いている。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界153位という下位であり独裁政治体制に分類されている(2019年度)。また、国境なき記者団による世界報道自由度ランキングは下から4番目の177位に位置付けられており、最も深刻な状況にある国の1つに分類されている(2020年度)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは「中国は依然として一党独裁国家であり、基本的人権を体系的に抑圧している」「人権擁護の弁護士や活動家が恣意的に拘留され、起訴されている」「非政府組織、活動家、メディア、そしてインターネットに対する統制は強化されている」と報告している。2010年の劉暁波のノーベル平和賞受賞問題、2016年に政府が香港などで批判者を拉致して強制的に失踪させた事件、2020年の新型コロナ問題での人民の言論監視 などに見られたように近年は言論統制や弾圧が一段と強化されている傾向がある。チベット問題やウイグル問題など少数民族に対する人権侵害問題も深刻で国際社会から憂慮されている。特にアメリカ合衆国政府、カナダの下院、オランダの議会、イギリスの下院、フランスの下院、リトアニア共和国議会などは、ウイグル人強制収容所などについてジェノサイド(大量虐殺)政策と認定している。2019年以降は一国二制度下の香港への統制を強めている。南沙諸島や中華民国への軍備増強や威嚇行為が年々激しさを増している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大清、中華民国の時代では、分裂や暴動、他国との戦争での敗戦が続き、諸外国による間接的な支配が長年続いた。1978年以前までの中華人民共和国においても内乱と紛争、混乱が続いていため、経済や軍事が長期間低迷し、貧困が200年以上続いていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1978年12月における改革開放の導入以来、「社会主義市場経済」と称して「経済特区」や「沿岸開放都市」などの設置を行い、社会主義経済体制からの根本的な転換を行った。その結果外資流入の勢いが増し、20年以上に渡って年平均9%以上の実質GDP成長率を達成し、2010年にはGDP規模で日本を追い抜いてアメリカ合衆国に次ぐ世界第2位の経済力を有する国となった。中国共産党総書記習近平は2012年に「中華民族の偉大なる復興」を発表した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "発展途上国に有利に出る購買力平価では世界第1位であり、世界最大の輸出国と製造国、第2位の輸入国である。同国は経済・軍事・技術・外交・ソフト・パワーの影響力において、世界の新興超大国とみなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし、経済発展に伴い経済格差の拡大・環境問題など各種の社会問題も深刻化している。エネルギー使用による二酸化炭素(CO2)排出量は世界最大、条約で規制されているフロンも中華人民共和国では未だ大量放出されている。大気汚染は深刻で特に首都北京は風次第でしばしばスモッグに覆われる。長江をはじめとする河川の水質汚染も深刻な状況にある(中国の水危機)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の環境問題については中国の環境問題を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "建国以来ソビエト連邦に並ぶ東側の大国として影響力を持ったが、ソ連でスターリン批判が起きるとスターリン主義の立場からソ連と仲違いし、中ソ対立が武力衝突にまで及ぶに至って1970年代以降はアメリカ合衆国や日本など西側諸国に接近し、日米と国交して中華民国と断交させた。1971年10月に国連総会で中国代表権を認められて国際連合に加盟し、追放された中華民国の後任として国際連合安全保障理事会常任理事国となった。1989年6月に六四天安門事件を起こして国際社会から強い非難を受けたが、1991年12月のソ連崩壊後も共産党独裁体制維持に成功し、「全方位外交」と称して1992年には米中・日中国交後も中華民国との関係を維持していたイスラエルや韓国に接近して国交を樹立し、中華民国と断交させた。その後も中華民国と国交を結ぶ国に対して様々な圧力をかけることで中華人民共和国との国交、中華民国との断交を促し、中華民国を孤立化させる外交を推進している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在の中華人民共和国は多数の公式及び非公式の多国間機構に加盟しており、WTO、APEC、BRICs、上海協力機構、BCIM、G20がこれに該当する。中華人民共和国はアジアの地域大国であり、多数の解説者により潜在的な超大国として特徴付けられてきた。しかし習近平体制になってから「戦狼外交」と呼ばれる好戦的で強硬な外交姿勢を強めており、国際社会との摩擦が目立ってきている。また香港問題やウイグル問題などの人権問題をめぐる国際的批判が強まっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1964年10月に最初の核実験を実施しており、核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つとなった。21世紀以降は急速な軍拡が行われ、アジアでは最大の、世界ではアメリカ合衆国に次ぐ軍事支出を行う軍事大国となっている。その軍隊である中国人民解放軍の兵力は200万人を超えると見られており、世界最大人数の常備軍である。軍事大国としてアジア周辺諸国に対するプレゼンスも強めており、尖閣諸島をめぐって日本と、南沙群島をめぐってはフィリピンやベトナムなどとの間に緊張関係を作り出している。南シナ海、台湾海峡及び東シナ海を当面の目標にした海軍力増強、中華民国に対するミサイル体制強化など、中華人民共和国の軍事膨張に対する国際社会、とりわけアメリカ合衆国の警戒感は根強い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "人口は世界第2位の約14億人であり、うち92%以上を漢族が占める。他にモンゴル族、チベット族、ウイグル族、朝鮮族、満洲族、回族、チワン族、ミャオ族、ヤオ族など55の少数民族が存在する。言語は漢語が大部分を占め、北京語を元にした中国語の普通話が共通語であるが、各地域では数多くの方言と少数民族の言語が併用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "宗教はイスラム教やキリスト教、チベット仏教などが少数存在するが、政府により制限が課されている。特に近年では政府が「宗教の中国化」の方針を掲げ、あらゆる宗教への国家統制を強化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "公式には23の省、5つの自治区、4つの直轄市と2つの特別行政区から構成され、総面積は約960万平方キロメートルで世界第3位、ロシア連邦と並び世界で最も隣国が多い国(14か国)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "計測方法によるが陸地面積では世界第2位とされ、総面積では世界第3位又は第4位である。同国の地形は、乾燥した北の森林ステップ、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠から、多湿な南の亜熱帯の森林まで広大かつ多様である。ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、パミール高原、天山山脈により、同国は南及び中央アジアから切り離されている。長さ世界第3位の長江及び同世界第6位の黄河は、チベット高原から人口密度の高い東の沿岸地域に流れ、古代には黄河文明や長江文明を興してきた。同国の太平洋に沿った海岸線は1万4500キロメートルの長さで、渤海、黄海、東シナ海、南シナ海に囲まれている。同国の国土は、22省級行政区、5自治区、北京市・天津市・上海市・重慶市の4直轄市、大部分が自治的な香港・マカオの2特別行政区によって構成されている。なお2017年7月現在、中華人民共和国の世界遺産はイタリアについで56件ある。国内には文化遺産が38件、自然遺産が14件、複合遺産が4件存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在の公式国名は中華人民共和国 (簡体字中国語: 中华人民共和国; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó) 発音である。一般には中国 (簡体字中国語: 中国; 拼音: Zhōngguó) 、あるいは中華 (簡体字中国語: 中华; 拼音: Zhōnghuá) と呼称される。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「中国」という言葉は、紀元前6世紀の書経・詩経で既に記述されており、中華帝国以前の時代には華夏族を四夷と区別するため、文化的概念として頻繁に用いられた。その後、中華帝国の変遷と共に様々な古文書で用いられる「中国」の意味も変化して行ったが、近代的な主権国家全体の名称として用いられるようになったは19世紀半ばからである(詳細は「中国」の項目参照のこと)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国と同義で用いられる支那は、帝国主義のイメージと結びついて中華人民共和国では侮蔑的な呼称と認識されているが、その原型が古くから印欧語族の諸国で用いられてきたために派生形が多く残っている。たとえば英名の\"China\"は、サンスクリット語のCīna (चीन) を由来とするペルシア語のChīn (چین)が由来と考えられる。\"China\"という言葉は、ポルトガルの探検家Duarte Barbosaの日誌において1516年に初めて記録された。1555年、同日誌はイングランドにおいて翻訳及び出版された。17世紀にマルティノ・マルティニにより提唱された伝統的理論では、Cīnaは周において中国最西の国である\"Qin\" (秦) が由来である。また、Cīnaはマハーバーラタ (紀元前5世紀) 及びマヌ法典 (紀元前2世紀) を含む初期のヒンドゥー教の聖典において用いられていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「中国」の国名を巡っては、中華人民共和国の前に中国大陸を統治した中華民国との間で軋轢がある。1971年10月のアルバニア決議以降、中華人民共和国が「中国」の議席および関連する地位を獲得し、「中国」は徐々に国際社会において中華人民共和国を指すようになった 。この他、「日中関係」「駐華大使」のように「中」も「華」も中華人民共和国の略称として用いられている現状がある。台湾海峡を挟んで「二つの中国」が分断する現況から、中華人民共和国は中華民国(台湾地区)に対応する場合は「中国大陸」 と呼ばれることがある。中華人民共和国政府は中華民国(台湾)からは「大陸当局」「北京当局」、「北京」または「中共」 とも呼ばれる。中華民国憲法では「大陸地区」とされる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "英語圏では\"People's Republic of China\"(中華人民共和国)を略して\"PRC\"と表記することがある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中華人民共和国が樹立された時点で、蔣介石率いる中華民国政府は未だ中国大陸の華南三省と西南部三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって1949年12月に中国国民党は接収していた台湾に逃れ、人民解放軍は翌1950年5月までに福建省・浙江省 の一部島嶼を除く中国大陸と海南島を制圧した。ただし、台湾に政府機能を移転した中華民国政府は存続し、台湾とその他島嶼からなる地域(台湾地区)は2021年現在に至るまで中華民国政府の実効支配下にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。中華人民共和国の建国後、毛沢東は毛沢東思想に基づき、中国共産党を軸にした世界革命路線を推進した。ソビエト連邦と中華民国間で締結された中ソ友好同盟条約(1945年8月)によって、ソ連が中華民国から租借していた旅順港・大連港・南満洲鉄道について、1950年の中ソ友好同盟相互援助条約と同日締結した協定により中華人民共和国へ編入。1952年には朝鮮戦争に参戦し、韓国軍とアメリカ軍を主体とする国連軍を阻止した。1954年9月の第1期全国人民代表大会において、ソ連のスターリン憲法を範とする「中華人民共和国憲法」(略称:54年憲法)を採択し、それまでの人民民主統一戦線体制の「共同綱領」ではなく一党独裁制へ移行した。中華人民共和国は、毛沢東の指導の下で大躍進政策と核開発を行った。1959年のチベット蜂起を鎮圧し、1962年にはインドと武力衝突した(中印国境紛争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1949年の中華人民共和国成立後、「向ソ一辺倒」の下で中ソ両国は友好関係を保っていたが、1956年のフルシチョフ第一書記によるスターリン批判後、西側諸国との平和共存路線を図る修正主義的なソ連と自由主義世界との妥協を拒否する教条主義的な中華人民共和国との間で中ソ対立が生じ、ソ連と対立。1969年には両国の国境地帯に位置した珍宝島/ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争が勃発した。また、内政では大躍進政策の失敗によって失脚していた毛沢東が、1966年より経済の立て直しを巡る対立からプロレタリア文化大革命(文革)を発動し、官僚化した中国共産党を打倒しようと呼びかけた毛沢東の訴えに紅衛兵が呼応したため、「造反有理」、「革命無罪」の呼号の下、宗教関係者などの「反革命」派と目された人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱に等しい状態となった。内モンゴルの先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "外交では1971年の第26回国際連合総会にて採択されたアルバニア決議の結果、それまで国際連合常任理事国だった中華民国に代わって国連安全保障理事会常任理事国となり、中華民国は自ら国連を脱退した。また、ソ連との関係では中ソ対立が継続していたため、1972年2月21日のリチャード・ニクソン大統領訪中を契機にソビエトと対立するアメリカ合衆国との関係が緩和され、同年9月29日には日本の田中角栄首相と日中国交正常化を果たし、ソ連の影響から離れて資本主義諸国との関係を改善した。以後、西側諸国から経済支援を受け、3つの世界論により中国は主に第三世界において大きな影響力を保つことに成功した。1974年には南シナ海に侵攻し、当時の南ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。文化大革命は1976年の毛沢東の死と共に終結した。その後、「二つのすべて」を掲げた華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会で鄧小平が実権を掌握した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、鄧小平理論に基づいて政治体制は中国共産党による一党体制を堅持しつつも、市場経済導入などの改革開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた(中国特色社会主義)。中ソ対立の文脈の中で、1979年2月には親ソ派のベトナムに侵攻した(中越戦争)。その後もベトナムとの関係は悪く、1984年には再びベトナムと中越国境紛争を戦い、1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。一方、アメリカなど西側諸国に接近し、モスクワオリンピックの不参加とロサンゼルスオリンピックの参加というおおよそ西側に歩調を合わせる行動を行うようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1980年代以来の経済の改革開放の進展により、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件での対応などはその一例である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "天安門事件から江沢民が台頭した。2003年3月ごろから中華人民共和国広東省を起点する重症急性呼吸器症候群(SARSコロナウイルス)の大流行の兆しを見せ始めたが、これはごく短期間で終息している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2012年11月15日、習近平が中国共産党中央委員会総書記、中央軍事委員会主席に選ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2019年末より、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が武漢市で確認され、その後新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が全世界で流行する事になった。世界的なパンデミックにより未曽有の事態に突入し、特にアメリカのトランプ政権は中国の対応を強く批判し、これに伴い米中関係は大きく悪化。世界は新冷戦と呼ばれる時代に突入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "コロナ禍の2022年2月、北京冬季オリンピックを開催した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中国共産党政府はゼロコロナ政策により感染の防止に務めたが、2022年には再び国内でコロナウイルスが蔓延した。そのため上海などの経済都市に対して政府はロックダウンの措置をとった。また、ほぼ同時期に香港民主化運動を強権的に封殺するも、これは却って世界各国における対中感情の悪化を招いた。一方、厳格なゼロコロナ政策により政府当局への国民の不満が高まり、同年11月には白紙革命が勃発。共産党政府への批判がタブーな中国では異例の政府批判が起きる事態となった。政府はこれを受けてゼロコロナ政策の転換を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻以降は中国は、表面上は対アメリカという観点からロシア寄りの立場を取っているが、他方ではプーチンが失脚した場合の「シナリオ」を模索しての行動を行っているという見方もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中華人民共和国は、2023年8月、日本産の水産物の輸入を禁じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "中華人民共和国はアジア大陸の東部、太平洋の西海岸に位置し、国土は963万4057平方キロメートルとロシアとカナダに次ぐ面積であり、世界第3の大きさである。領土は北は漠河以北の黒竜江(アムール川)の中軸線から、南は南沙諸島の一部まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から、西はパミール高原まで広がっている。主要河川として黄河や長江があり、それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。陸地の国境線は2万2800キロメートルで、東は朝鮮民主主義人民共和国、北はモンゴル、北東はロシア、北西はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、西と南西はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、南はミャンマー、ラオス、ベトナムと接している。なお、インドとの間ではアルナーチャル・プラデーシュ州、アクサイチンの領有権をめぐって、国境が確定していない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東部と東南部は韓国、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシアと海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロメートルで、中国大陸の東部は渤海、黄海、東シナ海に、南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。これらの島嶼では南沙諸島や西沙諸島、台湾地区、尖閣諸島の領有権を主張しており、その一部は既に実効支配している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中国における交通機関は運河と海路を長大な歴史にわたり活用し発展してきた。中国の国道は経済格差を反映し東部で密に整備されている。中華人民共和国の高速道路は2003年から整備が進んだ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "中国では、政府の行政区分を地理に基づいて大別した中国地理大区(中国語版)が用いられており、現行の地理大区は中国全土を東北、華北、華東、中南、西南、西北の6つに区分している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "中華民国時代には、中国本土を華北、華中と華南に区分し、熱河省以外の南満洲を「東北」、内蒙古と外蒙古、熱河省を「塞北」、チベット(アムド、カム、ウー・ツァン全域)と新疆(東トルキスタン)を「西部」に区分していた。しかし、中華人民共和国になって地域の区分が変わり、華中・華南が地理大区としては用いられなくなった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国土の形はその形からニワトリの形と例えられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "民国期(1912年-1949年)のチベットは、アムド地方(=青海省,甘粛省の西南部など )を抑える馬一族の回族政権、カム地方の東部(=西康省)を抑える劉文輝政権、中央チベット(=西蔵,ウー・ツアン地方とカム地方西部)を抑えるガンデンポタンなどが割拠する状況であった。馬歩芳は人民解放軍に逐われて1949年8月に地盤の甘粛・青海を放棄し、重慶・香港経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1950年に中国政府は人民解放軍を中央チベットに向けて派兵、チャムド戦役を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌1951年、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「十七ヶ条協定」を締結(「西蔵和平解放」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された青海省・甘粛省の甘南州・四川省のガパ州(=アムド地方)、四川省のカンゼ州・雲南省のデチェン州(=カム地方の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一掃されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとでまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1959年に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「チベット動乱」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、ダライ・ラマ14世は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府が中国共産党に対してチベットの独立を要求している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察(中国人民武装警察部隊)などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表され、同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アメリカのバラク・オバマ大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つであるダライ・ラマ14世と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した。6月26日には、レディー・ガガがダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の分離・独立を目指す組織勢力が国内外に多数存在しており、アメリカで東トルキスタン亡命政府を樹立するなど活動を行っている。2009年ウイグル騒乱では、約200人の住民(新華社によると主に漢族)が殺害された。ウイグル独立団体の主張によると、2014年7月に発生した暴動でもウイグル人が大量に殺害されている 当局は情報統制を敷いており事件の真相は不明だが、当局側は59人の射殺を認めている。2015年12月1日には、政府系メディアなどが対ウイグル人政策で批判的記事を書いた外国人記者に対して個人攻撃をおこなったことについて、中国外国人記者会が深い懸念を表明した。12月26日には、この外国人記者が国外退去処分となった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2015年7月9日、 タイ政府が中国からの保護を求めて2014年3月に入国した300人以上のウイグル人のうち約100人を中国に強制送還したことが国際問題となった。保護を求めたウイグル人は、タイやマレーシアなどを経由してトルコへ渡ることを目指しており、国連はタイ政府の対応を非難。亡命したウイグル人が多く暮らすトルコでは、イスタンブールで抗議デモが発生した。また、アメリカ政府は中国に対して「国際的な人権基準に基づいて適切に対応するよう求める」と牽制した。また、エジプトでもウイグル人の中国への強制送還が相次いでることも問題となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2016年末から「職業訓練」と称してウイグル人の強制収容所を設置するようになり、衛星写真で確認できる限りでは年々収容所の規模が大きくなっている。2018年時に収容者数は89万人以上という内部データもある。2021年1月にアメリカ政府は中国のウイグル政策についてジェノサイド(大量虐殺)政策と認定した。これに続いて、カナダの下院とオランダの議会がそれぞれ、2021年2月に中国のウイグル政策をジェノサイドと認める非拘束性の動議を可決した。2021年4月にイギリスの下院はジェノサイドと認定する決議を可決した。2021年5月、リトアニア共和国議会もジェノサイドと認定する決議を可決した。2022年1月20日にはフランスの国民議会(下院)もジェノサイドと認定し、拘束性はないがフランス政府にウイグル族の救出のための行動を求める決議を出した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中華人民共和国は憲法前文で、孫文が指揮する辛亥革命と中華民国創立の意義は認めつつ、中華民国が帝国主義と封建主義に反対する任務を達成できなかった為に、中国の諸民族人民を率いる中国共産党が新民主主義革命によって官僚資本主義の支配(蔣介石政権)を覆し、同国を建国したとしている。そのため同国は、中国旧来の政治的実体である中華民国が1955年(大陳島撤退)以降も引き続き残存している台湾(台湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖島及びその他島々)も「中華人民共和国の神聖な領土の一部」とみなし、台湾を実効支配下に置くこと(祖国統一)を「台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務」であると憲法前文で規定している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "憲法より上位の存在である中国共産党と憲法を拠り所とするその衛星政党(「民主党派」)以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "立法機関として全国人民代表大会が置かれ、行政機関として、国務院が、司法機関として、最高人民法院と最高人民検察院が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。この他に衛星政党や各団体、各界の代表なども参加する中国人民政治協商会議が存在するが、「国政助言機関」 であって法律の制定権などは持っていない。三権分立の相互抑制メカニズムは存在しない(民主集中制)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "実際には国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっている、実権は中国共産党中央委員会総書記が握っていた、中華人民共和国主席(国家主席)の権限は儀礼的・名誉的なもので、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の総書記職であった。現行の中華人民共和国憲法には国家元首の規定がなく、外交慣例上では国家主席は元首と同様の待遇を受けている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2022年10月現在の最高指導グループである第20期の中国共産党中央政治局常務委員は以下の通り。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1997年にイギリス統治から返還された香港、1999年にポルトガル統治から返還されたマカオは、一国二制度(一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。香港基本法により、高度な自治、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。間接選挙であるが、行政長官選挙が行われ、立法会では一部議員を直接選挙で選出している。さらに、参加資格を主権国家に限定していない国際組織への加盟や国際会議への参加も可能。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2023年現在、22の省、5つの自治区、4つの直轄市、及び2つの特別行政区から成る。中国政府は地方政府独自の旗を禁止しており特別行政区の香港、マカオを除き独自の旗を持っていない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "中国の治安状況は全体としては安定しており、過去に比べると大きな変化を見せている。中国政府の統計によると2019年の各種刑事事件の立件数は、合計約486.2万件で、前年比で約4%減少している。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "だがその一方、詐欺事件の立件数は約143.4万件で、前年比約24%増と大幅に増加していて振り込め詐欺も多発している。窃盗事件の立件数は約225.8万件となっていて、前年比で約19%減少しているものの、日本人が旅券・貴重品の窃盗・盗難などの被害に遭うケースが報告されている実状がある。他には金融被害(偽札、カードのスキミングなど)の報告も確認されている。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "中華人民共和国憲法によれば、形式的には、国家中央軍事委員会は中国人民解放軍(現役部隊、予備役部隊)、中国人民武装警察部隊、中国民兵など全国の武力を指導するとある。しかし現実は、中国共産党の党中央軍事委員会がほぼ国家中央軍事委員会のメンバーを兼ねており、実質的には中国共産党の指導の下、軍・警察を支配しており「中国共産党傘下の軍隊」となっている。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "軍隊近代化のため、兵力20万人削減を、2015年9月3日の「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」で習近平党総書記が表明し、総兵力は約150万人となった。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "中華人民共和国には兵役制度が存在するが志願者で賄っている。青年らは何らかの形で武装警察、あるいは現役の正規軍に任務につき、任務後は民兵の任務に就くことが可能である。こうした準軍事組織は150万人の武装警察、600万人の民兵があり、削減された解放軍兵士の受け皿にもなっている。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、中華人民共和国は核兵器を保有している。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2020年の中華人民共和国の軍事費は為替レートベースで2520億ドル で、アメリカ合衆国に次いで世界で2位(世界シェア12.7%)であり、2011年比で76%増加した。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の軍事費の増加をアメリカ合衆国が非難をしており、中華人民共和国は「中国の国防は防御的なものであるし、今までの歴史に他国を侵略したこともない」と覇権目的ではないと反論している。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "中華人民共和国は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などで、アメリカ合衆国軍の軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新による軍事的成果に影響されて、軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新に力を入れている。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "軍備近代化を印象付ける出来事として2007年1月18日、中華人民共和国が過去に打ち上げ廃棄処分となっていた人工衛星を弾道ミサイルによって破壊する実験を行い成功した。この実験に対しアメリカ航空宇宙局は、宇宙開発への危険性は無いものの、スペースデブリが発生するこの手の実験に関する懸念を表明した。2007年2月21日には、国際連合の宇宙空間平和利用委員会で、宇宙空間での人工衛星破壊を禁止する法案が採択された。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2011年までの中国国防白書には「中国は、いつ、いかなる状況下であっても、核兵器を先制的に使用しない」と核保有国で唯一核の先制不使用を表明していたが、2013年から記述が削除された。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお2022年、核保有5ヶ国の共同声明では「核戦争に勝者はいない。核戦争を絶対に始めてはならない」と発表、新華社通信で馬朝旭外務次官は「中国は先制不使用を掲げている」と答えている。", "title": "治安と軍事・防諜" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の国際関係において特筆すべきことは、同国政府が中華民国政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であると主張している点である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "中華人民共和国は、冷戦構造の下、建国当初は完全に東側陣営に組み込まれていた(向ソ一辺倒)。しかし、1956年のスターリン批判後の中ソ対立で決裂した。1968年のプラハの春におけるソ連の軍事介入を「社会帝国主義」と批判し、同じく共産圏でソ連と距離を取るルーマニアやユーゴスラビア、北朝鮮、アルバニアなどとの関係を深めた。このころの中華人民共和国は、アジア・アフリカ会議や非同盟運動に関わるなど第三世界と連携しており、人民戦争理論など第三世界の左派に与えた影響は大きい。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "東側諸国や第三世界の支持も集めた国際連合総会に於けるアルバニア決議によって国連安保理の常任理事国となって中華民国を国連から追放し、さらにアルバニア決議に反対した日米にも接近して1972年のニクソン大統領の中国訪問と日中共同声明採択によってアメリカ合衆国と日本を始めとする西側諸国との関係の回復を果たした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、3つの世界論を掲げて冷戦下における西側諸国と東側諸国との微妙なバランスをとりつつ、「中国を代表する正当な政府は中華民国ではなく、中華人民共和国である」とする一つの中国政策を東側だけでなく、西側諸国の多くに確認させることも成功を収めた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1978年から始まる改革開放路線以降、経済面での資本主義諸国との関係も強め、2001年には世界貿易機関(WTO)にも加盟した。冷戦終結後は北大西洋条約機構に対抗してロシア、中央アジア諸国と連携を強化し(上海協力機構、SCO)、また、東南アジア諸国ともASEAN自由貿易地域でFTAを締結、かつては戦火を交えた大韓民国やさらには中華民国ともFTAを締結するなど、経済活動を絡めた積極的な地域外交を展開している。韓国とともに同じASEAN+3でもある日本に対しては胡錦涛政権は、対日新思考を打ち出した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "区分としては開発途上国に含まれるため、国際会議などで「開発途上国の代表」と表現されることはあるも、G77では中華人民共和国はG77の支持国を自任してるため、公式声明や国連の決議文書などでGroup 77 and China(G77プラス中国)を使用してきた。また、開発途上国であることを理由に、日本などの先進国から長年に渡り膨大な開発援助を受けているが、一方で他のさらに貧しい国に対して、国際的影響力を確保することを目的として開発援助を行っている。例えば、アフリカ連合本部は中国政府の全額負担で建設された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "急速な経済成長を遂げ、中国人民解放軍の軍備拡張を続ける中華人民共和国に対して、周辺諸国やアメリカは警戒感を持ち(中国脅威論)、また、人権問題・両岸問題・国境問題など、中華人民共和国の国際関係は緊張をはらむ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "BBCワールドサービスやピュー・リサーチ・センターやユーロバロメーター(英語版)が定期的に実施している世界各国を対象とした対他国感情に関する調査によれば、調査対象国における対中・対中国人感情は否定的な回答を示しており、中国は、世界に対して悪影響を与えていると評価されている。なかでも人権意識が強い欧米諸国は、チベット問題やウイグル問題や香港問題の影響から、中国に対する悪感情が形成されており、中国を否定的にとらえる回答が多い傾向にある。さらに、2020年にパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症が主要因となり、中華人民共和国国家安全部のシンクタンクである現代国際関係研究院(英語版)は、反中感情が天安門事件以来の高まりとなっていると結論づけており、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、欧州連合などの欧米諸国に限らず、係争地域で死者の出る衝突が起きたインド、韓国、日本、南シナ海問題を抱える東南アジア諸国連合関係国などのアジア諸国を含む国際社会での反中感情は過去最悪。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2020年にシンガポールのシンクタンクであるISEASユソフ・イサーク研究所(英語版)がASEAN諸国の政府高官、学者、専門家など1300人を対象に実施した調査によると、ASEAN諸国では中国の政治・経済的影響力への警戒感が広がっており、中国に不信感があるという割合は、2019年の52%弱から2020年には60%強に上昇し、また40%近くが「中国は現状の秩序を打ち壊そうとする勢力で、東南アジアを自らの影響圏に入れようとしている」との認識を示した。ISEASユソフ・イサーク研究所(英語版)は、「中国の著しい影響力に対する地域懸念は、強大なパワーの使い方に不透明感があるからだ」とし、中国の台頭が平和的ではないとの懸念を高めていると指摘しており、特に中国に対する不信感は、南シナ海問題で中国と争っているベトナムとフィリピンで際立っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2021年5月、習近平総書記(最高指導者)は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国のイメージづくりに努力しなければいけない」と語り、外国から「愛される中国のイメージづくり」を指示し、中国共産党が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、親中的な国際世論の拡大」を実現するよう対外情報発信の強化を図るよう訴えた。これは近年の中国外交は批判に対して攻撃的に反論する戦狼外交を展開してきたが、戦狼外交は中国内では支持を得ているが、国際社会では反中感情を高めており、高圧的な対外発信で中国の好感度が下がっていることへの反省があるとみられる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "インドとはバンドン会議などで成立当初関わってきた。しかし1955年に中国が独立していたチベットを併合。ダライ・ラマ14世がインドへ亡命するなど、印中関係は悪化した。またインドとパキスタンの係争地であるカシミールへ中国は介入を行い、インドとの関係は険悪した。その後も印中は衝突などがおこる。中国はインド洋を一帯一路のもと影響下におこうとしている。そのため、インドは日米豪と連携しQuadを結成している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一方パキスタンは、ニクソン大統領の中国訪問を仲介した経緯などもあり関係が良好であり、近年はパキスタンが背後に居るとされているアフガニスタンのターリバーンへの影響を強めている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "中国はアメリカ合衆国を最大の諜報活動の対象としているとみられ、国家安全省の他に中国共産党や中国人民解放軍、国有企業もその活動に加わることがある。アメリカ合衆国政府の国家情報会議のジョエル・ブレナー(Joel F. Brenner)専門官は「米国を標的として活動する140カ国ほどの諜報機関でも、中国が最も活発」と述べた。また中国のスパイ活動研究の権威として知られるデービッド・ワイズは、軍事面でも超大国を目指す中国は、アメリカ合衆国を追い越すために、軍事機密を標的にしていると指摘し、近年ではF-35戦闘機の機密や核弾頭の軽量化技術を奪取したと述べた。また、2005年7月、中国人民解放軍の朱成虎少将は「米国が台湾海峡での武力紛争に介入し中国を攻撃した場合、中国は対米核攻撃に踏み切る用意がある」と発言した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2015年5月、中国が南沙諸島で建設中の人工島を米偵察機が偵察した。この事件をめぐって、両国は2001年4月に米中両軍機が南シナ海上空で衝突して以来の緊張状態となった。アメリカ合衆国政府は、スプラトリー諸島(南沙諸島)の12海里以内に米軍機を進入させる可能性を表明しており、中国外務省は「言動を慎むよう求める。私たちは関係地域に対する監視を密にし、必要に応じて適切な措置を取る」と反発した。なお、7月末にマレーシア航空370便墜落事故の残骸の一部が発見された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "以前はパナマは台湾と外交関係があり中国とは国交がなかったが、中国は、アメリカ合衆国の「裏庭」ともいわれるカリブ海に出ることを念頭に国交を樹立し、パナマ最大のマルゲリータ島港を99年租借する契約を交わした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "トランプ政権後期ごろから米中関係が本格的に悪化しはじめ、アメリカの対中姿勢の硬化は後任のバイデン政権にも引き継がれ、2021年3月にバイデン大統領は米中関係を「21世紀における民主主義と専制主義の闘い」と定義づけた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "「両岸」とは台湾海峡を挟んだ中国本土と台湾の海岸を指しており、そこから「両岸関係」は台湾を実効支配する中華民国と中華人民共和国との関係を指す言葉となっている(二つの中国)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1946年から激化した第二次国共内戦に勝利した中国共産党が1949年に中華人民共和国を中国大陸に建国、同年中に中華民国政府は、1945年の日本の降伏に伴い接収していた台湾に移った。それ以来、中華人民共和国は中華民国と「中国における正統政府」の座を巡って対立し、両国共に互いの統治する地域の支配権を主張して譲らなかった(台湾問題)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "国共内戦の延長で1954年に「台湾解放宣言」 を出し、第一次台湾海峡危機(1954年 - 1955年)と金門砲戦(1958年 - 1979年)を起こしたが武力による台湾占領には至らなかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "中華人民共和国政府は国際連合における「中国」代表権を求めて諸外国に外交的に働きかけた他、「中華民国政府が実効統治している台湾は中華人民共和国の領土」と見なして領有権を主張し、「台湾解放」の名の元に金門島への砲撃を度々行った。その後、冷戦下におけるアメリカとソ連の間の対立や、ソ連と中華人民共和国の対立の激化などの政治バランスの変化に伴い、中華民国が国連の「中国」代表権を喪失して国際的に孤立し、中華人民共和国も改革・開放を推進するようになると、中華人民共和国政府は「一国二制度」といった統一の枠組みの提案や「三通政策」といった穏健的な統一政策を通じて両岸関係の改善を図った。1992年には両国政府関係者が「一国共識、各自表述(「一つの中国」を共通認識とするが、解釈はそれぞれが行う)」の統一原則を確認するまでに至った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "だが、1990年代に入ると、中華民国では李登輝中華民国総統による政治体制の民主化が進められ、それに伴い中華民国では、中華民国とは別個の「台湾」という国家を創り上げる台湾独立運動(台独運動)が活発化し始めた。このような動きに対し、中華人民共和国は総統選挙(1996年から実施)における台独派(泛緑連盟)候補者の当選阻止を目指して軍事演習で威嚇するなど強硬姿勢をとった。しかし、いずれの選挙においても阻止するには至らなかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "このことを教訓としてか、2005年3月14日には中華人民共和国で反国家分裂法が成立した。この法律は中華人民共和国による中華民国の武力併合に法的根拠を与えることを名目とする。こうした経緯で、今日の中華民国と中華人民共和国の関係は、台湾問題として東アジア地域の不安定要素と見る見方も一部で存在する。中華民国にも「台独」に反対する「中国派」の人々(泛藍連盟)が存在している。こうした動きにおいては、中国国民党が有力な存在である。国民党党首・連戦は、2005年4月26日〜5月3日にかけて中華人民共和国を訪問、共産党党首・胡錦濤と60年ぶりの国共首脳会談を実施した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2010年に台湾との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)が締結されたが、サービス貿易協定は4年後批准を拒まれた(ひまわり学生運動)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2010年代に入ると一つの中国による台湾問題の解決を「(自国の)核心的利益の一つ」と規定するようになり、基本的には九二共識の合意に基づいた平和的な中国統一を目指しているが、一方で中国人民解放軍の武力による台湾制圧の可能性も指摘されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "中華民国海軍の元軍艦長で軍事評論家の呂礼詩は、中華人民共和国の習近平総書記(最高指導者)は自身のレガシーのためにも台湾統一にこだわると分析している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "成立当初、「向ソ一辺倒」を掲げソ連とは密接な関係となり、経済支援も受けていた。しかしニキータ・フルシチョフによるスターリン批判に対し、中国は「修正主義」と強く批判した。一方ソ連は毛沢東による文化大革命などを批判。両国の関係は悪化し、中ソ国境紛争もおこる。ソビエト連邦の崩壊後にはロシアと良好な関係となる。2022年ロシアのウクライナ侵攻でロシアは欧州連合や日本などの親米に経済制裁を行われ、中露の関係は緊密化した。しかし、中国は近年中央アジアへの介入を実施しており、ロシアが警戒感を抱く可能性がある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日中関係史は古代からのものであるが、現在の日本国と中華人民共和国の外交は1972年9月29日の日中共同声明に始まる。その後両国は1978年8月12日、日中平和友好条約を締結した。日本国と中華人民共和国はサンフランシスコ平和条約に署名していないため日中平和友好条約が両国にとってのはじめての条約締結となる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "両岸関係がシーレーンの安否に関わる。中国産食品の安全性は輸入量と後述の環境汚染と関係して問題となる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "インドとブータンを除く12カ国(ロシアなど)とは陸上国境の画定が完了しているものの、島嶼部を巡っては中国の海洋進出に伴い、領土問題を複数抱えている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "世界銀行の統計によると、2018年時点での中国のGDPは13兆8948.2億ドル であり、アメリカに次ぐ世界第2位である。なお、当時世界第2位だった日本のGDPを中国が抜いたのは2010年のことである。2014年はIMF・世銀・CIAによると、購買力平価換算でアメリカを超えて世界最大のGDPとなり、2015年には購買力平価で欧州連合を超えて世界初の20兆ドル以上のGDPに達した国となった。ミリオネアは440万人、中流層は約4億人とどちらも世界最多だが世界銀行によって発展途上国に分類されている。1日2ドル以下の絶対貧困人口は改善されており2019年は551万人と6年間で10分の1以下になった。2022年、人工衛星を通じて入手した夜のライト量から測定した結果、中国のGDPは政府発表の6割でしかないというシカゴ大学の研究結果をタイム誌は発表した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "人民元改革のとき証券化で生じた過剰流動性が、中国版シャドー・バンキング・システムと呼べるような金融系統を発達させた。そして実際の資金運用が、不動産や株式といった金融資産の市場価格を乱高下させたり、財源を中央政府に独占された自治体をして償還の目途が立たない地方債を発行させたり、福祉制度の破綻を救わずに宇宙産業や通信産業を振興したりしている。これら市場の混乱、地方債リスク、傾斜した産業構造といった社会問題は、預金を国外へ流出させたり、あるいは国外証券を買わせたりしており、国際経済に影響を出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "人民間の経済格差は深刻であり、CEICによると2019年時点でのジニ係数は0.465となっており、アメリカや日本などを大きく上回っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2021年、中華人民共和国の陽江原子力発電所は福島第一原子力発電所の5倍以上のトリチウムを放出した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "国家成立後、1970年代中半までの経済は大躍進政策の失敗や文化大革命によって立ち遅れていた。農業を志向した社会主義経済の非効率性も経済発展の障害となっていた。このため、鄧小平の主導によって1978年に「改革開放」政策が採用され、社会主義市場経済の導入、国営企業の民営化や不採算企業の閉鎖、人民公社の廃止と生産責任制の実施、外資導入など、経済政策の方針を、市場経済原理による資本主義体制を大幅に取り入れたものに転換した。その結果、1980年代以降の経済は経済特区を中心として長年にわたり成長を持続している。特に香港へ人材が流出し、また経済格差も広がった。それまで中国人民銀行によるモノバンク体制であった中国は、1984年に四大商業銀行体制(中国銀行・中国建設銀行・中国農業銀行・中国工商銀行)を形式上整備した。依然として国有銀行だったので、融資は中国共産党の計算で行われ、不良債権を積み上げた。これを公債市場の開放につなげるため、中央と地方の税収を分けた(中国1994年分税制改革, 2018年3月から再統合開始)。すると歳入に占める中央政府と全自治体の割合がほぼ半々になった。この比率は現在まで維持されている。そしてこの改革以降は自治体が歳出の8割以上を負担している。地方債は公認の有無に関係なく発行された。現在もそれは変わらない。21世紀に入ると、他に経済成長の著しいブラジル、ロシア、インド、南アフリカとともに、ゴールドマン・サックスからBRICSと呼ばれた。2010年のGDP成長率は3年ぶりに2桁増の10.3% となり、「世界第2位の経済大国」となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2008年1月1日から法人税は国内企業と外資企業の基本法人税率が共に25%に統一された。国税には関税、消費税、国営企業の企業所得税などがあり、地方税は営業税、地方企業の企業所得税などがある。資源税や証券印紙税から構成される「国・地方共通税」は、国と地方で税収が75%:25%に配分される。この配分比は1994年の「分税制改革」による。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "主な間接税には消費税、増値税、営業税の3種類がある。消費税は特定の嗜好品や贅沢品にのみ工場出荷時か輸入時に一度だけ品目によって3%〜45%が課税され、その後の流通段階ではあらゆる商品と役務提供に対して増値税が基本税率17%が適用されて各流通段階で課税される。各流通段階ではインボイスに当たる「増値税専用領収書」によってそれまでの増値税額が控除を受けることでそれぞれの付加価値に対して課税されることになる。ただし、贅沢からは縁遠い、穀物、食用油、水道などの特定の品目への増値税には低減税率13%が適用される。営業税は交通運送業、建設業、金融保険業、郵便電気通信業、文化体育業、サービス業、不動産販売業、無形資産の譲渡に対して3%〜5%、娯楽業は5%〜20%の税率で営業利益から規定額が控除された額に課税されていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "増値税は常に外税表示であり、消費税と営業税はその性質上、内税であるため、増値税が日本での消費税に相当すると理解できる。 2016年5月1日、中国政府は国内景気の下支えと産業高度化のため、減税規模5000億元(約8兆2000億円)超の減税を行った。1994年の税制改正後、モノには増値税、サービスには営業税を課してきたが、似た2つの税金が並立してわかりにくく、モノとサービスの境目が曖昧であるため、2012年から増値税を課する対象を広げてきていた。さらに2016年には増値税を課する対象に不動産、建設、サービスを加えて、営業税を廃止した。不動産にあっては、これまで営業税3パーセントの税率が増値税11パーセントにかわり、金融にあっては営業税5パーセントが増値税6パーセントにかわる。しかし、課税対象が売り上げから粗利(売上から仕入れを引いた額)にかわるため実質的な税負担は減額となる。これまで営業税は生産、流通、販売の各段階で売り上げに課税され、取引回数が多いほど税負担が重くなり、外部取引より社内調達の方が有利になり、分業化や専門化を妨げていた。増値税は仕入れの税負担が控除されるため、外部の専門業者による高度なサービスを利用することを促し、製造業の専門化などにつながる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "香港は一国二制度が継続されており、基本的には返還以前の税制が維持されて中国本土側の税制とは異なっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1970年代以降から活発に長征ロケットシリーズを開発していたが、その後の開発は順調に進み、2003年には有人宇宙船神舟5号によって楊利偉中佐を乗せ、初の有人宇宙飛行を行った。2008年の神舟7号では3人の宇宙飛行士を乗せて、ソ連、アメリカに続いて世界で三番目、中国としては初の宇宙空間での船外作業(飛行士1名)を行った。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "今後の動向として、月面探査プロジェクト「嫦娥計画」や、2020年の宇宙ステーション計画などがある。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "現在中国は自力で宇宙開発技術を向上させている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "成果は中国における携帯電話サービスが充実したことに現れている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "日本の国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構では、中国の宇宙開発を「国家の経済発展と国民の生活水準向上に貢献することを主要な目的とする実益重視型」と評価している。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "地方政府の役人(共産党員に限らず)の腐敗や職権の濫用が多いことが問題となっている。地方政府の対応に不満を持った農民や労働者は中央政府へ訴え出たり、場合によっては暴動を起こしたりしており、大きな社会問題となっている。また、政府高官でも汚職を行なった者に対しては死刑が適用・執行されており、2000年には成克傑(元全国人民代表大会常務副委員長)が収賄罪で、2007年には鄭篠萸(元国家食品薬品監督管理局長)が収賄罪でそれぞれ死刑が執行されている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "改革開放が進んで以降の中国ではアメリカに勝るとも劣らない拝金主義、物質主義が進行しているという指摘が多くある。たとえば、大規模な工場を建設する際に、周囲の住民の意見には聞く耳も持たず、「金にならない」というだけで工場の存在から出るリスク(汚水、悪臭、排煙など)を無視しているケースが散見される。また、食品製造では、安全性よりコストを優先するがゆえに無視し、危険な食品であっても生産するケースもある。また、多国籍企業の下請けになっている中国企業では、従業員を過酷な労働環境かつ安い賃金で使い、末端従業員の過労死、過労自殺を引き起こしている。そういったことを本来取り締まるべきなのは政府役人だが、金によって腐敗している者も少なくない。こうした問題の深刻な実態は2010年代に入って以降、国内外の調査団体や有志の調査により表面化しつつある。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の司法に関してはいくつかの問題が内外から指摘されている。控訴する権利は与えられてはいるものの実際に控訴で逆転できるパターンはわずかである。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "テロの首謀者から汚職といった他人に暴力を振るったり生命の危機に直面させない罪などでも、死刑判決即執行に該当する。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルでの報告によると、2004年で全世界で執行された死刑囚の数の9割以上(約3400人)が中華人民共和国であり、同団体に非難されている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "特に地方の人民法院の裁判官について、質に難があるという指摘がある。賄賂を要求することも多く、断ったら会社の設備を破壊され営業不能となった上、押収品を勝手に他者に渡す、といった事例まである。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2015年12月、中国のグローバル企業である復星集団の会長で支配株主でもある郭広昌が当局から身柄を拘束された。中国では党幹部や政府高官、国営企業のトップなど広範囲で取り締まりが強化されており、12月下旬には、言論の自由を擁護する活動家である弁護士も有罪判決を受けた。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "農薬の使い過ぎなどにより、中国では食品の安全性の悪さが大きな社会問題になっている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "中華人民共和国では、報道は新華社通信、人民日報、環球時報、中国中央電視台『新聞聯播』などの報道機関が世界的に知られている。改革開放以後は新聞はタブロイドが爆発的に増え、テレビは地方局が多数開設された(キー局は中国中央電視台だけである)。しかし政府の統制下にある事には変わりなくメディアの規制も強化されている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "中国政府は、検閲での情報操作(一国二制度適用の香港・マカオは除く)を行っている。共産党・政府に対して、マイナスと認識した報道を規制している。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典において、国際刑事裁判所(ICC)から虐殺などの疑いで逮捕状が出ているスーダン大統領のオマル・アル=バシールが招待されることもあった。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "中国の憲法には第33条に「国家は人権を尊重し、保障する」と書き込まれている。六四天安門事件に対して、国際世論の風当たりが強まったことから2004年に付け加えられた。第37条には「公民の人身の自由は、侵犯を受けない」ともある。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では、180ヶ国中177位にランク付けされている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "中国国内では、インターネット上のウェブページで、反政府や同盟国の北朝鮮を中傷するページを閉鎖、または回線を切断させたりしていることが多い(中国のネット検閲)。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2004年11月には検閲されていない違法なインターネットカフェ1600店余りを摘発し、更にはネット上で政府を非難する自国人を逮捕しメールの文章も検閲内容として規制されている。Yahoo!などのアメリカ企業も政府の検閲に協力している。こうした企業に対しては、国際的に多くの人々が、中華人民共和国国内での言論の自由を奪っていると非難している。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "こうしたネット文化の進展に伴い、中華人民共和国政府はネット規制システム「グレート・ファイアウォール」をバージョンアップさせた。傲游など検閲、規制を回避するためのシステムも一部で配布されていると見られている。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "中国は環境問題が最も深刻な国の一つである。中国のエネルギー使用による二酸化炭素(CO2)排出量は世界の3割を占め、世界最大のCO2排出国になっている。オゾン層を破壊するとしてモントリオール議定書で全廃されているはずのフロンも中国では未だに大量放出されているのが確認されている。大気汚染は深刻であり、特に首都北京は風が止まってしまうとPM2.5などの汚染物質が飛んでいかなくなり、しばしばスモッグに覆われる。長江の水質汚染が深刻な状況にあり(中国の水危機)、漁獲量も激減しているため、2020年12月1日には10年間禁漁になり、30万人の失業者が出る見通しとなった。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2018年時点で北京や上海で公立教師は平均的に月給6000元(約10万円)で、内陸部はその半分以下である。そのため、2018年4月から5月末にかけて内陸部の陝西省、湖南省、安徽省などで教師待遇の地域格差・未払賃金を理由に教師たちのデモがあったが鎮圧された。中国では都市と農村の格差が依然として問題であり、景気停滞によって地方政府の財政難が背景にあって、賃上げに対応出来ない理由がある。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "中国の出身地差別は大きく分けて3つ。「都市在住者から農村在住者」「省内出身者(地元民)から省外出身者(地方出身者)」「首都出身者からその他地域の出身者」への差別である。中国青年報社会調査センターの最近の調査によると、回答者の30%が「自分の生活圏には何らかの出身地差別がある」と回答している。", "title": "社会問題" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "最大の民族集団は漢族で人口の92%を占め、その他の55の少数民族が残りの8%を占める。少数民族のなかではチワン族(1,610万人)、満洲族(1,000万人)、回族(980万人)、ミャオ族(890万人)、ウイグル族(830万人)、イ族(770万人)、モンゴル族(580万人)、チベット族(540万人)、プイ族(300万人)、朝鮮族(190万人)が比較的大きな民族集団である。中華人民共和国では漢族だけでなく、これらの中華人民共和国国内に居住する少数民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定し、中華民族は一体であるという意味合いを持たせている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の民族の分類は、中華人民共和国政府が実施する「民族識別工作」によって決定される。また、「未識別民族」も存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "中華人民共和国中央政府の成立後、急激な人口増加が進んだことにより、食糧問題、エネルギー問題などが発生した。人口増加に危機感を抱いた政府は、対策として1979年から一人っ子政策を実施し、出生率の統制による人口抑制を展開した結果、人口増加率は低下した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "しかし一方で、戸籍上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、統計上では総人口は約13億人であるが、黒孩子や盲民と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているともいわれる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "急激な出産制限は全人口に占める若年層の割合を低下させた。そのため、少子高齢化が問題になると指摘されている。その状況に対し、政府は2015年に行った第18期5中全会で、一人っ子政策を廃止し、二人っ子政策に移行。2021年には3人までに緩和された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "また、中華人民共和国の人口統計は、1990年代から正確性に疑問があり、大幅に水増しされているという研究がある。ウィスコンシン大学マディソン校の人口学者である易富賢は、2018年時点で、中華人民共和国は、出生数が死亡数を下回る人口減少時代に入ったという研究を発表している。易の研究によれば、2018年、中華人民共和国の出生数は前年より250万人減少し、死者数は1158万人で、総人口は127万人減少しているという。北京大学の蘇剣の研究では、中華人民共和国の人口は13億を超えておらず、2017年の12億8130万人をピークに減少しているという。また、2018年の出生数は、国家統計局(中国語版)発表の1523万人に対し、国家衛生健康委員会の年鑑では1362万人と、公式な統計でも、調査機関によって差がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "国家統計局によれば2021年末の14億1260万人が人口のピークで、国際連合では2023年にインドの人口増加によって2位に後退すると報告されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "中華人民共和国史学者の朴漢濟(ソウル大学)は、中華人民共和国の人口は公式統計では13億人であるが、実際は17億人であり、世界人口(約70億人)の4人に1人が中華人民共和国人であると指摘している。一方、ウィスコンシン大学の易富賢(中国語版)は、2018年から中国の人口は減少し始め、2020年時点で12億8000万人ほどであり、1億3000万人の水増しがあるという研究を発表している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2023年1月17日、中華人民共和国国家統計局は、2022年末の中華人民共和国の総人口は21年末比85万人減の14億1175万人だったと発表した。中華人民共和国では過去に人口が減ったのは、60年と61年の2度だけ。急速に少子高齢化が進んでおり、人口減少が始まったとみられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "国内では、沿岸部など経済発展の著しい地域と、内陸部の発展に取り残された地域との格差が拡大しているため、沿岸の都市部に出稼ぎするために流入する農民(民工)が増え、その数は2021年時点で2億9251万人。2021年の農民工の平均月収は4432元(約8万6867円)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "北中国の言語に代表される北方語を基礎として若干の改訂を加えた普通話 を標準語としている。同じ中国語であっても、呉語、粤語、閩語などの異なる言語があり、かけ離れているため、標準語を理解できない者も多かった。しかし、建国以来の教育および放送などの普及により2020年時点で普通語の普及率は8割程に上昇した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "なお、イギリスの植民地であった香港では、普通話と共に広東語 および英語 も公用語となっている。実際現在も標準語を使用するものは少なく、その上に1990年代初頭ごろまでは大陸から移住した者を除いては北京語のできる者はほとんどいなかった。1997年の主権返還から徐々に普及しており人口の半分ほどが標準語を話すことが出来る。またマカオでは広東語のほかに、ポルトガル語 も使われる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "チベット族、ウイグル族などの各少数民族はそれぞれの固有の言語も使用しているが公用語は中国語である。政府は少数民族の言語を尊重する姿勢を示しながら、中学校以上の高等教育は原則として少数民族の言語は使用せず、中国語のみで教育を行うことや、ウイグル族に対しては子供を漢民族地域に居住させて中国語で教育することなどにより、中国語を普及させる政策を取っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "義務教育期間は9年間で、一般に小学6年と日本の中学校に当たる初級中学(初中)3年(地域によって小学5年・初級中学4年)からなる。高等学校に当たる高級中学(高中)は3年。学年は9月に始まる。 また、2006年6月から陝西省呉起県で十二年義務教育(小学校から高校三年生まで)が実施し、2007年には広東省の珠海市、深圳市でも実施しはじまった。また、2010年10月17日には福州の馬尾区をはじめとして12年義務教育を本格的に実行させ、2012年には内モンゴル自治区では12年義務教育がすでに全自治区範囲内に普及された。それ以外は陝西省のように13年義務教育を実行している地域もある。義務教育の期間は市、區によって異なっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "高等教育に関しては、2016年時点で中国の大学進学率は42.7%に達し、過去最高を記録した。中国の学問の中心の一つとして国内外に名を知られる国家重点大学に北京大学がある。現在では、清華大学が国内のトップ大学であるとする評価が定着しており、北京大学は2番目の位置づけとなっている。清華大学は朱鎔基前総理、胡錦濤党総書記、習近平党総書記の出身校でもあり、2万5000人の学生が理学部、工学部、文学部、法学部、経済学部、経営管理学部、芸術学部などに学ぶ。中国の国内において大学に関する985工程、211工程、副部級大学、国家重点学科などコンセプトもよく使われる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "学術論文の質という点では、オランダの厳密な学術誌のメタ分析によれば、中国の学術論文において通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの質は、米国と変わらない。厳密性という点では、中国も米国も、通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの厳密性という点では違いはなく、どちらも学術論文の厳密性を向上させるという使命を持っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2000年以来、医師へ対しての暴力が続いており、この問題は現地の医療関係者の安全に対する重大な脅威となっている。中華人民共和国衛生部の統計によると、病院及び医療従事者に対する暴力事件の数は、2005年の約10,000件から2010年には17,000件以上に増加している。現在も医師に対する暴力事件が多発しており、事態は深刻なものとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "中国の宗教 (CGSS's average 2012)", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "国教は無く、九割近くの国民は無宗教で、主な宗教は仏教・キリスト教・道教・イスラム教・儒教となる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "宗教信者は総計1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りといわれる。欧米では国民の多くは宗教信者であるが、現在の中華人民共和国の宗教信者数の1億人余りは総人口12億人に比して非常に少ない。これは中国大陸における宗教の歴史と中国共産党政府による宗教弾圧の影響が大きい。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "特に2018年ごろからは政府が「宗教の中国化」という方針を掲げるようになり、あらゆる宗教に対する国家統制を強めている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "アメリカは自国の国際宗教自由委員会の調査に基づき、信教の自由の侵害度合いが強い国であるとして独自に「特に懸念される国」に指定している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "国民の大半を占める漢族は現世利益的である。道教は漢族固有の宗教である。信者数の統計はなく、道宮・道観(寺院)が1500余カ所、道士と道姑が2万5000余人といわれる。漢族は、複数の宗教の良いところをそれなりに信仰する傾向がある。改革開放以降、「紅白産業」と呼ばれる「冠婚葬祭業」が飛躍的に発展した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "仏教に関しては仏教の寺院が1万3000余カ所、僧と尼は約20万人といわれる。「漢族仏教」、「チベット仏教(ラマ教)」、「南仏教(巴利語系)」の3種類がある。「漢民族仏教」の信徒数の統計はない。「チベット仏教」の信徒数は、チベット族やモンゴル族などの900万人、ラマ僧、尼僧は約12万人、活仏は1700余人、寺院は3000余カ所。「南仏教」はタイ族などの100万人、比丘、長老は1万人近く、寺院が1600余カ所といわれる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "文化大革命の時期に徹底的な弾圧を受けたチベット仏教はかなり復興したとはいえ、まだ最盛期にはほど遠く寺院数は10分の1以下に激減している。また、現在も中華人民共和国政府によるチベット仏教への弾圧は続いており、僧院には、中華人民共和国当局の「工作隊」が駐在し、強制的に、僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」を行っている。1996年から1998年の間に、中華人民共和国当局による「厳打」キャンペーンにより約500名の僧尼が逮捕され、約1万人が僧籍を剥奪されたといわれる。2007年、中華人民共和国政府は輪廻転生を続けるとされるチベットの高僧(活仏)が転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した(国営新華社通信)。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "儒教は共産主義や毛沢東思想に真っ向から敵対するものとして文化大革命時に徹底弾圧され、熊十力などの新儒家の名士が自殺に追い込まれるなど徹底的に迫害され宗教としては事実上絶滅した。しかし、孔子生誕2555周年となった2004年以降、毎年9月28日に孔子の生誕を祝う祝典「孔子祭」が国家行事として執り行われ、『論語』を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。また、中国政府が海外で運営する孔子学院など、孔子の名を冠した施設も存在する(但し、孔子学院は儒教の教育機関ではない)。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "孔子の故郷の山東省の曲阜三孔(孔府、孔廟、孔林)の古建築群はユネスコの世界遺産に登録されている。文化大革命期に破壊された儒教関連の史跡及び施設(夫子廟など)も近年になって修復作業が急ピッチで行われている。また、北京オリンピックの開会式では『論語』が取り上げられた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "イスラム教は、回族、ウイグル族、カザフ族など主に少数民族の間で信仰されている。信仰者数は1,800万人、イマーム、アホン(回教布教師)が4万余人。中華人民共和国のイスラム教徒はスンナ派に属している。イスラム教は古代から中国にとり経済と切り離せない存在である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "キリスト教のうち、カトリック教会は1958年から本来ローマ教皇だけに認められている主教・司祭ら聖職者任命を中国共産党傘下の中国天主教愛国会が任命することから中国政府の統制下にあるため、聖座(バチカン市国)との国交は断絶している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "プロテスタントは、信徒は約1000万人、聖職者が1万8000人おり、教会堂が1万2000カ所、簡素な宗教活動の場所(会所)が2万5000カ所ある。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "中国には、上記のほか多数の地下教会信者がいるとされており、ブリタニカ国際年鑑の最新データによると、現代の中国のキリスト教徒は、当局の監督下にある国家公認教会信徒と地下教会信徒を合わせ9100-9750万人程度と記録されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "習近平政権になって以降、キリスト教への抑圧が強まっており、2016年2月には浙江省でキリスト教教会の屋根に取り付けられた十字架を強制撤去したり、撤去に抗議する信徒を相次ぎ拘束する事件が発生した。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "チベット地域ではボン教も広く信仰されている。ただし、現在のボン教はチベット仏教の体系を広く取り入れており、一見しただけではチベット仏教との区別がつきにくいが、マニ車を反時計回りに回すなどの相違がある。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "民間信仰には、民衆道教、シャーマン・シャーマニズム的信仰、アニミズム的信仰がある。また幾つかの新宗教が存在し、1999年7月には法輪功が天安門広場で信者の集団的焼身自殺事件を起こした(天安門焼身自殺事件)。同教団は政府に邪教認定され、一切の活動を禁止された。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "書聖として王羲之、顔真卿、北宋の徽宗帝の名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "漢から唐の陶淵明を代表とする「漢詩」・李白、杜甫、白居易を代表とする「唐詩」、宋の「詞」、元の「曲」、明と清の「小説」(白話小説、武侠小説など)が存在する。辛亥革命後の20世紀前半には日本に留学した経験を持ち、『故郷』、『阿Q正伝』、『狂人日記』、『藤野先生』で知られる魯迅が活躍した。また、毛沢東も『沁園春・長沙』などの漢詩を遺している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "中国における舞踊は形式が非常に多様で、カテゴリーに分けた場合はモダンダンスなどの近代的なものを含めると10種類以上も存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "対人関係に於いて「自己人」(自分の味方)、「熟人」(知り合う人)、「外人」という独特の概念が中国にあり、日本では中国人との国際結婚などでトラブルになるケースが多い。ポルノの規制は厳しく、ポルノ雑誌の類は販売されておらず、隠語を使った官能小説のみ販売している。インターネットのポルノサイトも同様で、2007年に行った反ポルノキャンペーンで44000件のサイトを取り締った。また、サイト運営者が終身刑になったケースもある。家庭用ゲーム機の販売も2000年から禁止されてきたが、2015年に完全に解禁され、ハードウェアではソニー・インタラクティブエンタテインメントとマイクロソフト、任天堂がある。家庭用ゲームソフトの販売も、ソフトウェアメーカーが検閲(中国にはコンピュータゲームのレイティングシステムは存在しない)を受けた上で販売することになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "民族衣装においては漢服やチャイナドレスなど、独自の被服文化を確立している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "1995年に国家プロジェクトでもある「全民健身計画」が打ち出されたことや、スポーツの多様化に伴い中国のスポーツ市場は数年で急激に拡大し、2005年には500億ドルに達しており、競技人口は4億人にまでのぼった。その中でも卓球は伝統的に強く、オリンピックの卓球競技では他国を全く寄せ付けず圧倒的なメダルの獲得数を誇っている。アメリカのバスケットボールリーグの最高峰であるNBAに2011年まで所属していた姚明の活躍を受け、中国国内ではバスケットボールの人気が高まり競技人口は3億人にまで達したとも言われている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "その他にもサッカー、バレーボール、バドミントン、テニス、体操、陸上競技、競泳、飛込競技、アーティスティックスイミング、テコンドー、トランポリン、射撃競技、フェンシング、テニス、重量挙げ、レスリング、MMA、キックボクシング、フィギュアスケート、スピードスケート、ショートトラックスピードスケート、カーリング、エアリアルの人気が高い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "2008年8月8日から8月24日にかけて、首都の北京で中国初の北京オリンピックが開催された。さらに2022年2月4日には、同じく北京で中国初の冬季オリンピックとなる2022年北京オリンピックが開催された。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった。なお、中国はパラリンピックにおいても毎大会メダル獲得数は上位である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "2004年にプロサッカーリーグの『中国足球協会超級リーグ』が創設された。国内リーグを代表する名門クラブの広州(旧:広州恒大)が、7連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。さらに広州はAFCチャンピオンズリーグにおいても、2013年大会と2015年大会でアジア制覇を成し遂げている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "サッカー中国代表の武磊が、2019年1月28日にスペイン1部のRCDエスパニョールへ移籍した事により、中国国内でのサッカーの人気が非常に高まっており、武磊の欧州リーグデビュー戦でのテレビ視聴者数は約4,000万人にものぼった。さらに2020年1月4日に行われたバルセロナダービーでは、1-2の劣勢の場面から後半43分に途中出場し、中国人選手として初めてFCバルセロナから得点を記録している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "サッカー中国女子代表はアジアを代表する強豪国として知られ、AFC女子アジアカップでは大会最多9度の優勝を誇る。アジア競技大会でも大会最多3度の優勝を達成しており、アルガルヴェ・カップでは2度の優勝経験を有する。FIFA女子ワールドカップでは1999年大会、オリンピックでも1996年のアトランタ大会でそれぞれ準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" } ]
中華人民共和国、通称中国は、東アジアに位置する社会主義共和制国家。首都は北京市。
{{Otheruses|<u>1949年に建国された「中国」と通称される社会主義共和国</u>|その他の中国の用法|中国 (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = 中国 | 日本語国名 = 中華人民共和国 | 公式国名 = {{lang|zh-hans|中华人民共和国}} | 国旗画像 = Flag of the People's Republic of China.svg | 国章画像 = [[File:National Emblem of the People's Republic of China (2).svg|100px|中華人民共和国の国章]] | 国章リンク = ([[中華人民共和国の国章|国章]]) | 標語 = [[人民に奉仕する|{{lang|zh|为人民服务}}]]{{zh icon}}<br>''人民に奉仕する'' | 国歌 = [[義勇軍進行曲|{{lang|zh|义勇军进行曲}}]]{{zh icon}}<br/>''義勇軍進行曲''<br/> [[File:March of the Volunteers instrumental.ogg]] | 位置画像 = People's Republic of China (orthographic projection).svg | 公用語 = [[中国語]]([[普通話]]) | 首都 = [[北京市]] | 最大都市 = [[上海市]](市区人口による)<br />[[重慶市]](行政人口による)<ref group="注釈">中国における「行政区分としての市」([[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]]、または[[地級市]])と「市区」の違いについては、[[中華人民共和国の都市]]を参照のこと。</ref> | 最高指導者等肩書 = {{nowrap|[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]]}}<ref group="注釈">中華人民共和国では支配政党[[中国共産党]]が国家を指導していくことが謳われているため、同国では同党の党首が[[デ・ファクト|事実上]]の党と国家の最高指導者となっている。</ref> | 最高指導者等氏名 = [[習近平]] | 元首等肩書 = [[中華人民共和国主席|国家主席]]<ref group="注釈">中華人民共和国の代表で、儀礼的な存在。現行の中華人民共和国憲法で、国家元首に関する憲法の規定がない為。</ref> | 元首等氏名 = 習近平 | 首相等肩書 = [[国務院総理]]<ref group="注釈">中国政府の長で、[[首相]]的な存在。</ref> | 首相等氏名 = [[李強 (政治家)|李強]] | 他元首等肩書1 = [[全国人民代表大会常務委員会|全人代常務委員長]]<ref group="注釈">他国における国会議長に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名1 = [[趙楽際]] | 他元首等肩書2 = [[中国人民政治協商会議|全国政協主席]]<ref group="注釈">他国における[[統一戦線]]議長に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名2 = [[王滬寧]] | 他元首等肩書3 = [[中国共産党中央弁公庁|党中央弁公庁主任]]<ref group="注釈">他国における[[幹事長]]に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名3 = [[蔡奇]] | 他元首等肩書4 = [[国務院副総理]]<ref group="注釈">他国における[[副首相]]に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名4 = [[丁薛祥]] | 他元首等肩書5 = [[中華人民共和国副主席|国家副主席]]<ref group="注釈">他国における[[副大統領]]に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名5 = [[韓正]]<ref group="注釈">[[中国共産党|共産党]]における[[韓正]]国家副主席の序列は[[李希]][[中国共産党中央紀律検査委員会|中央紀委]]書記に次ぐ第8位。詳細は[[中華人民共和国#政治]]を参照</ref> | 他元首等肩書6 = [[最高人民法院|最高人民法院院長]]<ref group="注釈">他国における最高裁判所長官に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名6 = {{仮リンク|張軍 (政治家)|label=張軍|zh|Zhang Jun (politician)}} | 他元首等肩書7 = [[最高人民検察院|最高人民検察院検察長]] <ref group="注釈">他国における検事総長に相当する職である。</ref> | 他元首等氏名7 = [[応勇]] | 面積順位 = 4 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 9,479,198 | 水面積率 = 2.8% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 2 | 人口大きさ = 1 E9 | 人口値 = 14億1177万8724<ref>中国国家统计局. "[http://www.gov.cn/guoqing/2021-05/13/content_5606149.htm 第七次全国人口普查公报]". 中国政府网. 2021年5月11日.</ref><ref name=population>香港、マカオ、台湾を含まない</ref> | 人口密度値 = 153.3<ref name=population/><ref>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cn.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 102兆5916億6000万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=924,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|date = 2021-10|accessdate=2021-10-29}}</ref> |GDP統計年MER = 2020 |GDP順位MER = 2 |GDP値MER = 14兆8667億4100万<ref name="imf202110" /> |GDP MER/人 = 1万511.335<ref name="imf202110" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = 1 |GDP値 = 24兆1913億100万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 1万7104.144<ref name="imf202110" /> | 確立形態1 = 中華人民共和国成立 | 確立年月日1 = [[1949年]][[10月1日]] | 通貨 = [[人民元]] | 通貨コード = CNY | 時間帯 = +8 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = CN / CHN | ccTLD = [[.cn]] | 国際電話番号 = 86 | 注記 = <references group="注釈"/>註1: 人口、及び各種GDPの数値には、特別行政区(香港、マカオ)及び中華人民共和国が領有権を主張しているものの施政権が及ばない地域(台湾、カシミールなど)を含まない。<br/>註2: 面積順位第4位とされる中華人民共和国と、第3位とされるが[[アメリカ合衆国]]の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがある。<br/>註3:中華民国(台湾)と中華人民共和国は本来互いに隷属していない。 |建国年月日=1949年10月1日}} {{Infobox Chinese |s=中华人民共和国 |t=中華人民共和國 |p=Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó<small><br> <small>{{audio|Pronunciation of Zhonghuarenmingongheguo.ogg|聞く|help=no}}</small> |bpmf=ㄓㄨㄥㄏㄨㄚˊ ㄖㄣˊㄇㄧㄣˊ ㄍㄨㄥˋㄏㄜˊㄍㄨㄛˊ |mi=/ʈʂʊŋ˥˥ xwa˧˥ ʐən˧˥ mɪn˧˥ kʊŋ˥˩ xɤ˧˥ kuɔ˧˥/ |j=Zung1Waa4 Jan4Man4 Gung6Wo4Gwok3 |h=Chûng-fà Ngìn-mìn Khiung-fò-koet |poj=Tiong-hôa Jîn-bîn Kiōng-hô-kok |mong=ᠪᠦᠭᠦᠳᠡ<br>ᠨᠠᠶᠢᠷᠠᠮᠳᠠᠬᠤ<br>ᠬᠢᠲᠠᠳ<br>ᠠᠷᠠᠳ<br>ᠤᠯᠤᠰ |tib=ཀྲུང་ཧྭ་མི་དམངས་སྤྱི་མཐུན་རྒྱལ་ཁབ། |uig=جۇڭخۇا خەلق جۇمھۇرىيىتى |zha=Cunghvaz Yinzminz Gunghozgoz |en= People's Republic of China |hangul=중화인민공화국 |lang1=日本語 |lang1_content=中華人民共和国<br>'''日本語読み''':<br>ちゅうかじんみんきょうわこく<br>'''原音読み''':<br>ジョンフワ レンミン ゴンホーグオ |kana=ちゅうかじんみんきょうわこ |vie=Cộng hòa Nhân dân Trung Hoa }} {{中華人民共和国}} '''中華人民共和国'''(ちゅうかじんみんきょうわこく、{{Lang-zh|c=中华人民共和国|t=中華人民共和國|p=Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó}}<sup>{{audio|Pronunciation of Zhonghuarenmingongheguo.ogg|聞く|help=no}}</sup>)、通称'''中国'''(ちゅうごく、{{Lang-zh|p=Zhōngguó}})は、[[東アジア]]に位置する[[社会主義国|社会主義共和制国家]]。[[首都]]は[[北京市]]。 == 概要 == === 成立 === '''[[中華ソビエト共和国]]'''としてはじまった中華人民共和国は、[[中華民国の歴史|中華民国統治下]]の中国で[[1921年]]7月に結党された[[中国共産党]]が[[ソビエト連邦]]の支援を受けながら、[[国共合作]]・[[日中戦争]]<ref group="注釈">中国側の呼称は[[抗日]]戦争、[[中国人民解放軍]]の前身である[[八路軍]]・[[新四軍]]が組織される。</ref>・[[国共内戦]]を経て[[中華民国]]政府を[[台湾]]へ放逐<ref group="注釈">ただし、中華人民共和国建国の時点で[[国共内戦#中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失|第二次国共内戦は未だ継続中]]で、国民政府は[[華南]]3省と[[中国西南部|西南部]]3省の広範囲を支配し、[[広州市]]を[[臨時首都]]としていた。最終的に国民政府が[[中国大陸]]から[[台湾島]]へと転戦したのは同年[[12月7日]]で、中国大陸における大規模な戦闘は[[1950年]][[5月1日]]の{{仮リンク|海南戦役|zh|海南戰役}}終結まで続いた。</ref> し、[[1949年]][[10月1日]]に[[毛沢東]][[中国共産党中央委員会主席|中国共産党主席]]が北京市[[天安門広場]]で[[中華人民共和国開国大典|建国宣言]]を行ったことで成立した。 === 体制 === {{Bar chart|title=[[民主主義指数]](2022年)|float=right|data_max=10|label_type=国 |data_type=民主主義指数 |label1=日本|data1=8.33|label2=インド|data2=7.04|label3=インドネシア|data3=6.71|label4=世界平均|data4=5.29|label5=中華人民共和国|data5=1.94}} {{Bar chart|title=[[世界報道自由度ランキング]](2023年)|float=right|data_max=100|label_type=国 |data_type=世界報道自由度 |label1=日本|data1=63.95|label2=インドネシア|data2=54.83|label3=インド|data3=36.62|label4=中華人民共和国|data4=22.97}} 1949年10月の建国以来[[中国共産党]]による[[一党独裁制|一党独裁]]体制<ref group="注釈">他にも共産党の指導を受ける[[衛星政党]]が複数存在し、[[北朝鮮]]と共に代表的な[[ヘゲモニー政党制]]の国に分類される。</ref>が続いている。[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は世界153位という下位であり独裁政治体制に分類されている(2019年度)<ref>[https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。また、[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]は下から4番目の177位に位置付けられており、最も深刻な状況にある国の1つに分類されている(2020年度)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58344020S0A420C2000000/ 日本経済新聞 報道自由度、日本66位 国境なき記者団、1つ上昇]</ref><ref>[https://rsf.org/en/ranking/ World Press Freedom Index]</ref>。 中華人民共和国の[[人権]]状況について[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は「中国は依然として一党独裁国家であり、[[基本的人権]]を体系的に抑圧している」「人権擁護の[[弁護士]]や活動家が恣意的に拘留され、[[起訴]]されている」「[[非政府組織]]、活動家、[[メディア (媒体)|メディア]]、そして[[インターネット]]に対する統制は強化されている」と報告している<ref name="hrw">{{Cite web|和書|title=中国とチベット {{!}} Country Page {{!}} World {{!}} Human Rights Watch|url=https://www.hrw.org/ja/asia/zhong-guo-totibetuto|work=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|accessdate=2021-01-14}}</ref>。[[2010年]]の[[劉暁波]]の[[ノーベル平和賞]]受賞問題<ref name="mypedia" />、[[2016年]]に政府が[[香港]]などで批判者を拉致して強制的に失踪させた事件<ref name="hrw"/>、[[2020年]]の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナ]]問題での人民の言論監視<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210102/k00/00m/030/041000c 毎日新聞 中国で空前の情報統制 独裁維持狙い、武漢の記録消し去る習指導部]</ref> などに見られたように近年は言論統制や弾圧が一段と強化されている傾向がある<ref name="mypedia" />。[[チベット問題]]や[[東トルキスタン独立運動|ウイグル問題]]など少数民族に対する人権侵害問題も深刻で国際社会から憂慮されている<ref name="hrw"/><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO67588660S0A221C2FF8000/ 日本経済新聞 米のチベット人権法案、議会通過]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65878520V01C20A1EA1000/ 日本経済新聞 中国ウイグル弾圧に制裁圧力 人権目配り、企業に迫る]</ref><ref>[https://www.bbc.com/japanese/53468404 BBC 英外相、中国がウイグル人に「おぞましい」人権侵害と非難]</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3296138 AFP 仏外相、「ウイグルに国連人権監視団を」 中国批判強める]</ref>。特に[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]、[[庶民院 (カナダ)|カナダの下院]]、[[スターテン・ヘネラール|オランダの議会]]、[[庶民院 (イギリス)|イギリスの下院]]、[[国民議会 (フランス)|フランスの下院]]、[[セイマス|リトアニア共和国議会]]などは、[[新疆ウイグル再教育収容所|ウイグル人強制収容所]]などについて[[ウイグル人大量虐殺|ジェノサイド]](大量虐殺)政策と認定している<ref name="mainichi.com"/><ref name="産経新聞0223">{{Cite news|author=|url=https://www.sankei.com/article/20210223-W7Z323WU4RORDGVCPAXHF7PVRE/|title=カナダ下院 中国のウイグル弾圧は「ジェノサイド」 動議採択|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=|date=2021-02-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210614111938/https://www.sankei.com/article/20210223-W7Z323WU4RORDGVCPAXHF7PVRE/|archivedate=2021-06-14|deadlinkdate=}}</ref><ref name="Reuters">{{Cite news|date=2021-02-25|title=Dutch parliament: China's treatment of Uighurs is genocide|newspaper=[[Reuters]]|url=https://www.reuters.com/article/us-netherlands-china-uighurs-idUSKBN2AP2CI|accessdate=2021-06-14}}</ref><ref name="Sky News">{{Cite web|last=Hefffer|first=Greg|date=2021-04-22|title=House of Commons declares Uighurs are being subjected to genocide in China|url=https://news.sky.com/story/house-of-commons-declares-uighurs-are-being-subjected-to-genocide-in-china-12283995|url-status=live|access-date=2021-06-14|website=Sky News}}</ref><ref name="Axios">{{Cite news|last=Basu|first=Zachary|date=2021-05-20|title=Lithuanian parliament becomes latest to recognize Uyghur genocide|work=[[Axios (website)|Axios]]|url=https://www.axios.com/lithuania-parliament-china-uyghur-genocide-ef0382b4-6fec-44a5-80b4-793d2618e094.html|access-date=2021-06-14}}</ref><ref name="nikkei">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR20DWS0Q2A120C2000000/ 日経新聞フランス議会、ウイグル人権弾圧「大量虐殺」認定]</ref>。[[2019年]]以降は[[一国二制度]]下の[[香港]]への統制を強めている<ref>{{Cite news|author=|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201226/k10012785821000.html|title=「香港国家安全維持法」施行から半年 中国の統制強まる|newspaper=[[日本放送協会|NHK]]|publisher=|date=2020-12-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210112193644/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201226/k10012785821000.html|archivedate=2021-01-12|deadlinkdate=}}</ref>。南沙諸島や中華民国への軍備増強や威嚇行為が年々激しさを増している。 === 経済 === [[清|大清]]、[[中華民国]]の時代では、分裂や暴動、他国との戦争での敗戦が続き、諸外国による間接的な支配が長年続いた。1978年以前までの中華人民共和国においても内乱と紛争、混乱が続いていため、経済や軍事が長期間低迷し、貧困が200年以上続いていた。 1978年12月における[[改革開放]]の導入以来、「[[社会主義市場経済]]」と称して「[[経済特区]]」や「沿岸開放都市」などの設置を行い、社会主義経済体制からの根本的な転換を行った。その結果外資流入の勢いが増し、20年以上に渡って年平均9%以上の実質GDP成長率を達成し、[[2010年]]にはGDP規模で[[日本]]を追い抜いて[[アメリカ合衆国]]に次ぐ世界第2位の経済力を有する国となった。[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]][[習近平]]は2012年に「[[中華民族の偉大なる復興]]」を発表した。 発展途上国に有利に出る[[購買力平価]]では[[各国の実質GDPリスト|世界第1位]]であり、世界最大の輸出国と製造国、第2位の輸入国である<ref>[https://data.worldbank.org/indicator/BX.GSR.GNFS.CD "Exports of goods and services (BoP, current US$)"], The World Bank Group, 2019.</ref><ref>[https://data.worldbank.org/indicator/NV.IND.MANF.CD "Manufacturing, value added (current US$)"], The World Bank Group, 2019.</ref><ref>[https://data.worldbank.org/indicator/NE.IMP.GNFS.CD "Imports of goods and services (current US$)"], The World Bank Group, 2019.</ref>。同国は経済・[[核保有国の一覧|軍事]]・[[中華人民共和国の科学技術|技術]]・[[中華人民共和国の在外公館の一覧|外交]]・[[ソフト・パワー]]の影響力において、世界の[[超大国|新興超大国]]とみなされている<ref>[https://www.usnews.com/news/best-countries/power-rankings "Most Powerful Countries"]. U.S. News Best Countries.</ref><ref>[https://www.state.gov/wp-content/uploads/2020/11/20-02832-Elements-of-China-Challenge-508.pdf "The Elements of the China Challenge"]. The Policy Planning Staff, Office of the Secretary of State. December, 2020.</ref><ref>[https://china.usembassy-china.org.cn/united-states-strategic-approach-to-the-peoples-republic-of-china/ "United States Strategic Approach to the People’s Republic of China"]. Embassy of the United States, Beijing. June 21, 2020.</ref><ref>Anthony H. Cordesman. [https://www.csis.org/analysis/china-and-united-states-cooperation-competition-andor-conflict "China and the United States: Cooperation, Competition, and/or Conflict"]. Center for Strategic and International Studies. October 1, 2019.</ref><ref>Graham Allison. [https://nationalinterest.org/feature/china-now-world%E2%80%99s-largest-economy-we-shouldn%E2%80%99t-be-shocked-170719 "China Is Now the World's Largest Economy. We Shouldn't Be Shocked"]. The National Interest. October 15, 2020.</ref><ref>天児慧 [https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB18104732 『超大国・中国のゆくえ』] 東京大学出版会、2015年2月</ref>。 しかし、経済発展に伴い経済格差の拡大・環境問題など各種の社会問題も深刻化している<ref name="mypedia">[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD-97087 百科事典マイペディア「中華人民共和国」]</ref>。エネルギー使用による[[二酸化炭素]](CO<sub>2</sub>)排出量は世界最大<ref name=":0">[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO68377270R20C21A1X12000/ 日本経済新聞 中国、60年CO2ゼロは可能か 「人口減・コロナ・貿易」対応カギ]</ref>、条約で規制されている[[フロン]]も中華人民共和国では未だ大量放出されている<ref name=":1">[https://mainichi.jp/articles/20190523/k00/00m/040/016000c 毎日新聞 条約規制で全廃のフロン、中国東部で大量放出 新規に製造可能性]</ref>。大気汚染は深刻で特に首都[[北京]]は風次第でしばしば[[スモッグ]]に覆われる<ref name="nikkei.com">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55576660T10C20A2FF8000/ 日本経済新聞 北京の大気汚染 経済停滞でも再び悪化]</ref>。[[長江]]をはじめとする河川の水質汚染も深刻な状況にある([[中国の水危機]])<ref name="sankei.com">{{Cite news|author=|url=https://www.sankei.com/photo/story/news/210101/sty2101010002-n1.html|title=中国、長江で10年間禁漁 資源保護、漁師30万人失業|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=|date=2021-01-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210417141356/https://www.sankei.com/photo/story/news/210101/sty2101010002-n1.html|archivedate=2021-04-17|deadlinkdate=}}</ref>。 中華人民共和国の環境問題については[[中国の環境問題]]を参照。 === 外交 === 建国以来[[ソビエト連邦]]に並ぶ[[東側諸国|東側]]の大国として影響力を持ったが、ソ連で[[スターリン批判]]が起きると[[スターリン主義]]の立場からソ連と仲違いし、[[中ソ対立]]が武力衝突にまで及ぶに至って[[1970年代]]以降はアメリカ合衆国や日本など[[西側諸国]]に接近し、日米と国交して中華民国と断交させた<ref name="obun">[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD-97087#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 旺文社世界史事典 三訂版]</ref>。[[1971年]]10月に国連総会で中国代表権を認められて[[国際連合]]に加盟し、追放された中華民国の後任として[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]となった。[[1989年]]6月に[[六四天安門事件]]を起こして国際社会から強い非難を受けたが、[[1991年]]12月の[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]後も共産党独裁体制維持に成功し、「全方位外交」と称して[[1992年]]には米中・日中国交後も中華民国との関係を維持していた[[イスラエル]]や[[大韓民国|韓国]]に接近して国交を樹立し、中華民国と断交させた<ref name="obun"/>。その後も中華民国と国交を結ぶ国に対して様々な圧力をかけることで中華人民共和国との国交、中華民国との断交を促し、中華民国を孤立化させる外交を推進している<ref>[https://web.archive.org/web/20210205051606/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020500808&g=int ガイアナ、事務所開設を破棄 「中国が圧力」と台湾 時事通信]</ref><ref>[https://www.sankei.com/world/news/210514/wor2105140012-n1.html 台湾との断交促す「ワクチン外交」、米国務省が非難 産経新聞]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20180822/k00/00m/030/130000c 中国エルサルバドル国交 中国、台湾の孤立化狙う 毎日新聞]</ref>。 現在の中華人民共和国は多数の公式及び非公式の多国間機構に加盟しており、[[世界貿易機関|WTO]]、[[アジア太平洋経済協力|APEC]]、[[BRICs]]、[[上海協力機構]]、[[w:Bangladesh–China–India–Myanmar Forum for Regional Cooperation|BCIM]]、[[G20]]がこれに該当する。中華人民共和国はアジアの[[地域大国]]であり、多数の解説者により[[w:Potential superpowers|潜在的な超大国]]として特徴付けられてきた<ref>{{cite web |url=http://www.carnegieendowment.org/events/index.cfm?fa=eventDetail&id=851&prog=zch |title=From Rural Transformation to Global Integration: The Environmental and Social Impacts of China's Rise to Superpower |last=Muldavin |first=Joshua |date=9 February 2006 |publisher=Carnegie Endowment for International Peace |accessdate=17 January 2010 }}</ref><ref name="ChinaFuture">{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/magazine-19995218|title=A Point Of View: What kind of superpower could China be?|publisher=BBC|date=19 October 2012|accessdate=21 October 2012}}</ref>。しかし[[習体制|習近平体制]]になってから「[[戦狼外交]]」と呼ばれる好戦的で強硬な外交姿勢を強めており、国際社会との摩擦が目立ってきている<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/52203|title=週のはじめに考える 中国「戦狼外交」の誤算|newspaper=[[東京新聞]]|publisher=|date=2020-08-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200902170121/https://www.tokyo-np.co.jp/article/52203|archivedate=2020-09-02|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://mainichi.jp/articles/20200708/ddm/003/070/091000c|title=中国の「戦狼外交」って何? 過激で好戦的な姿勢 コロナ契機に強まる=回答・岡崎英遠|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=|date=2020-07-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210215011557/https://mainichi.jp/articles/20200708/ddm/003/070/091000c|archivedate=2021-02-15|deadlinkdate=}}</ref>。また香港問題やウイグル問題などの人権問題をめぐる国際的批判が強まっている。 === 軍事 === [[1964年]]10月に最初の核実験を実施しており、[[核拡散防止条約]]により[[核兵器]]の保有を認められた5つの[[核保有国の一覧|公式核保有国]]の1つとなった<ref name="mypedia"/>。[[21世紀]]以降は急速な軍拡が行われ、アジアでは最大の、世界ではアメリカ合衆国に次ぐ軍事支出を行う軍事大国となっている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3280472 AFP 世界の軍事費、過去10年で最大の伸び トップ3に初めてアジアの2か国]</ref>。その軍隊である[[中国人民解放軍]]の兵力は200万人を超えると見られており<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/data.html#03 外務省 中国基礎データ]</ref>、[[w: List of countries by number of military and paramilitary personnel|世界最大人数の常備軍]]である。軍事大国としてアジア周辺諸国に対するプレゼンスも強めており、[[尖閣諸島]]をめぐって[[日本]]と、[[南沙群島]]をめぐっては[[フィリピン]]や[[ベトナム]]などとの間に緊張関係を作り出している<ref name="mypedia" />。[[南シナ海]]、[[台湾海峡]]及び[[東シナ海]]を当面の目標にした海軍力増強、中華民国に対するミサイル体制強化など、中華人民共和国の軍事膨張に対する国際社会、とりわけアメリカ合衆国の警戒感は根強い<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D-82597 知恵蔵「人民解放軍」]</ref>。 === 民族と宗教 === 人口は世界第2位の約14億人であり、うち92%以上を[[漢民族|漢族]]が占める。他に[[モンゴル民族|モンゴル族]]、[[チベット民族|チベット族]]、[[ウイグル|ウイグル族]]、[[朝鮮族]]、[[満洲民族|満洲族]]、[[回族]]、[[チワン族]]、[[ミャオ族]]、[[ヤオ族]]など55の少数民族が存在する<ref name="mypedia" /><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/data.html#01 外務省 中華人民共和国(People's Republic of China)基礎データ]</ref>。言語は[[中国語|漢語]]が大部分を占め、北京語を元にした中国語の[[普通話]]が共通語であるが<ref name="mypedia" />、各地域では数多くの方言と[[中国の少数民族|少数民族]]の言語が併用されている<ref>[http://www.muturzikin.com/cartesasie/9.htm "Language Maps of China"]. MuturZikin.</ref>。 宗教は[[イスラム教]]や[[キリスト教]]、[[チベット仏教]]などが少数存在するが、政府により制限が課されている<ref name="mypedia" />。特に近年では政府が「宗教の中国化」の方針を掲げ、あらゆる宗教への国家統制を強化している<ref name="chunichi2020">{{Cite news|author=|url=https://www.chunichi.co.jp/article/124334|title=中国、教会の弾圧強める 住民8割カトリック、河北省の村ルポ|newspaper=[[中日新聞]]|publisher=|date=2020-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201007210139/https://www.chunichi.co.jp/article/124334|archivedate=2020-10-07|deadlinkdate=}}</ref>。 === 地理 === 公式には23の[[省 (行政区画)|省]]<ref group="注釈">[[台湾]]を省として領有権を主張するが、[[実効支配]]はしていない。</ref>、5つの[[民族区域自治#区域自治単位の種類|自治区]]、4つの[[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]]と2つの[[特別行政区]]から構成され、総面積は約960万平方キロメートルで[[国の面積順リスト|世界第3位]]、[[ロシア連邦]]と並び世界で最も隣国が多い国(14か国)である<ref>[https://www.worldatlas.com/articles/countries-bordering-the-highest-number-of-other-countries.html "Countries Bordering The Highest Number Of Other Countries"]. WorldAtlas.</ref>。 計測方法によるが[[国の面積順リスト|陸地面積では世界第2位]]とされ<ref name="listofcountriesoftheworld.com">{{cite web |url=http://www.listofcountriesoftheworld.com/area-land.html |title=Countries of the world ordered by land area|publisher=Listofcountriesoftheworld.com |accessdate=27 April 2010}}</ref>、[[国の面積順リスト|総面積では世界第3位又は第4位]]である。同国の地形は、乾燥した北の[[w: Mongolian-Manchurian grassland|森林ステップ]]、[[ゴビ砂漠]]、[[タクラマカン砂漠]]から、多湿な南の[[亜熱帯]]の森林まで広大かつ多様である。[[ヒマラヤ山脈]]、[[カラコルム山脈]]、[[パミール高原]]、[[天山山脈]]により、同国は[[南アジア|南]]及び[[中央アジア]]から切り離されている。[[長さ順の川の一覧|長さ世界第3位]]の[[長江]]及び[[長さ順の川の一覧|同世界第6位]]の[[黄河]]は、[[チベット高原]]から人口密度の高い東の沿岸地域に流れ、古代には[[黄河文明]]や[[長江文明]]を興してきた。同国の[[太平洋]]に沿った海岸線は1万4500キロメートルの長さで、[[渤海 (海域)|渤海]]、[[黄海]]、[[東シナ海]]、[[南シナ海]]に囲まれている。同国の国土は、22[[w:Provinces of China|省級行政区]]、5[[w:Autonomous regions of China|自治区]]、北京市・[[天津市]]・[[上海市]]・[[重慶市]]の4[[直轄市 (中華人民共和国)|直轄市]]、大部分が自治的な[[香港]]・[[マカオ]]の2[[特別行政区]]によって構成されている。なお2017年7月現在、[[中華人民共和国の世界遺産]]は[[イタリア]]についで56件ある。国内には[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が38件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が14件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が4件存在する。 == 国名 == 現在の公式国名は'''中華人民共和国''' ({{Lang-zh-Hans|中华人民共和国}}; {{ピン音|Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó}}) {{Audio|Zh-Zhonghua renmin gongheguo.ogg|発音}}である。一般には'''[[中国]]''' ({{Lang-zh-Hans|中国}}; {{ピン音|Zhōngguó}}) 、あるいは'''[[中華]]''' ({{Lang-zh-Hans|中华}}; {{ピン音|Zhōnghuá}}) と呼称される。 「中国」という言葉は、[[紀元前6世紀]]の[[書経]]・[[詩経]]で既に記述されており、[[秦|中華帝国]]以前の時代には[[華夏族]]を[[四夷]]と区別するため、文化的概念として頻繁に用いられた。その後、中華帝国の変遷と共に様々な[[古文書]]で用いられる「中国」の意味も変化して行ったが、近代的な[[主権国家]]全体の名称として用いられるようになったは[[19世紀]]半ばからである(詳細は「[[中国]]」の項目参照のこと)。 中国と同義で用いられる'''[[支那]]'''は、[[帝国主義]]のイメージと結びついて中華人民共和国では侮蔑的な呼称と認識されているが、その原型が古くから[[印欧語族]]の諸国で用いられてきたために派生形が多く残っている。たとえば英名の"China"は、[[サンスクリット|サンスクリット語]]の''[[w:Chinas|Cīna]]'' ({{lang|sa|चीन}}) を由来とする[[ペルシア語]]の''Chīn'' ({{lang|fa|چین}})が由来と考えられる<ref name="AmHer">"[http://dictionary.reference.com/browse/China?qsrc=2888 China]". ''The American Heritage Dictionary of the English Language'' (2000). Boston and New York: Houghton-Mifflin.</ref>。"China"という言葉は、[[ポルトガル]]の探検家[[w:Duarte Barbosa|Duarte Barbosa]]の日誌において1516年に初めて記録された<ref>"China". ''Oxford English Dictionary'' (1989). ISBN 0-19-957315-8.<br /> ''[https://books.google.com.vn/books?id=edzW9fuOF-cC&pg=PA211&dq=#v=onepage&q=%22Very%20Great%20Kingdom%20of%20China%22&f=false The Book of Duarte Barbosa]'' (chapter title "The Very Great Kingdom of China"). ISBN 81-206-0451-2. In the [http://purl.pt/435/ Portuguese original], the chapter is titled "O Grande Reino da China".</ref>。1555年、同日誌は[[イングランド]]において翻訳及び出版された<ref>[[w:Richard Eden|Eden, Richard]] (1555). ''Decades of the New World'': "The great China whose kyng is thought the greatest prince in the world."<br />{{cite book | title=Western Views of China and the Far East, Volume 1 | publisher=Asian Research Service | year=1984 | page=34 |first=Henry Allen |last=Myers}}</ref>。17世紀に[[マルティノ・マルティニ]]により提唱された伝統的理論では、''Cīna''は[[周]]において中国最西の国である"Qin" ([[秦]]) が由来である<ref name="Martini">Martino, Martin, ''Novus Atlas Sinensis'', Vienna 1655, Preface, p. 2.</ref>。また、''Cīna''は[[マハーバーラタ]] (紀元前5世紀) 及び[[マヌ法典]] (紀元前2世紀) を含む初期の[[ヒンドゥー教]]の聖典において用いられていた<ref>{{cite book|title=The Clash of Empires: the invention of China in modern world making|last=Liu|first=Lydia He|publisher=[[w:Harvard University Press|Harvard University Press]]|year=2009|pages=77–78|isbn=9780674040298|quote=[[w:Patrick Olivelle|Olivelle]]'s evidence affirms that ''cīna'' is related to the Qin dynasty but leaves the precise nature of that linkage open to speculation.}}</ref><ref>Wade, Geoff. "[http://www.sino-platonic.org/complete/spp188_yelang_china.pdf The Polity of Yelang and the Origin of the Name 'China']". ''[[w:Sino-Platonic Papers|Sino-Platonic Papers]]'', No. 188, May 2009, p. 20.</ref>。 「中国」の国名を巡っては、中華人民共和国の前に中国大陸を統治した[[中華民国]]との間で軋轢がある。[[1971年]]10月の[[アルバニア決議]]以降、中華人民共和国が「中国」の議席および関連する地位を獲得し、「中国」は徐々に国際社会において中華人民共和国を指すようになった<ref>{{Cite web|title=洪健昭 {{!}} Taiwan, Taipei — What’s in a name? {{!}} 國家政策研究基金會 {{!}} 公共政策的理性思辯與對話平台!|url=https://www.npf.org.tw/1/6572|website=國家政策研究基金會|accessdate=2020-11-19|language=zh-tw}}</ref> 。この他、「日中関係」「駐華大使」のように「'''中'''」も「'''華'''」も中華人民共和国の略称として用いられている現状がある。[[台湾海峡]]を挟んで「[[二つの中国]]」が分断する現況から、中華人民共和国は[[中華民国]]([[台湾地区]])に対応する場合は「'''[[中国大陸]]'''」<ref group="注釈">中華人民共和国の法律では「大陸」は香港、マカオ、台湾地区(中華民国)を除いた地区を指す。中華民国の法律では「大陸」 は香港とマカオを含む。</ref> と呼ばれることがある。[[中華人民共和国国務院|中華人民共和国政府]]は中華民国(台湾)からは「'''大陸当局'''」「'''北京当局'''」、「'''北京'''」または「'''中共'''」<ref group="注釈">[[:s:zh:中共黨政軍機關企業學術機構團體旗歌及人員職銜統一稱謂實施要點|中共黨政軍機關企業學術機構團體旗歌及人員職銜統一稱謂實施要點]]などに使用例。</ref> とも呼ばれる。[[中華民国憲法]]では「'''大陸地区'''」とされる。 英語圏では"People's Republic of China"(中華人民共和国)を略して"PRC"と表記することがある<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:beGbbmWJwH8J:https:%2F%2Fwww.tokyo-cci.or.jp%2Fshomei%2Fpdf%2Fkokumei_asia.pdf&cd=28&hl=ja&ct=clnk&gl=jp |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231002035031/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:beGbbmWJwH8J:https:%2F%2Fwww.tokyo-cci.or.jp%2Fshomei%2Fpdf%2Fkokumei_asia.pdf&cd=28&hl=ja&ct=clnk&gl=jp |author = 東尾優衣|title = 国名及び地域名表記記載例一覧|website = webcache.googleusercontent.com|publisher = www.tokyo-cci.or.jp|date = 2021-09-22|archivedate = 2023-10-02|accessdate = 2023-10-02}}</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記|date=2022年6月|section=1}}{{中国の歴史}} {{Main|中国の歴史}} {{Main|中華人民共和国の歴史}} 中華人民共和国が樹立された時点で、蔣介石率いる中華民国政府は未だ[[中国大陸]]の[[華南]]三省と[[中国西南部|西南部]]三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって[[1949年]]12月に[[中国国民党]]は[[台湾光復|接収]]していた[[台湾]]に逃れ、人民解放軍は翌[[1950年]]5月までに[[福建省]]・[[浙江省]]<ref group="注釈">浙江省内の中華民国統治地域は、[[1955年]]の[[大陳島撤退作戦]]によって消滅した。</ref> の一部島嶼を除く中国大陸と[[海南島]]を制圧した。ただし、[[中華民国政府の台湾への移転|台湾に政府機能を移転]]した中華民国政府は存続し、台湾とその他島嶼からなる地域([[台湾地区]])は[[2021年]]現在に至るまで中華民国政府の[[実効支配]]下にある。 === 毛沢東の時代 === {{see also|向ソ一辺倒|大躍進政策|中ソ対立|文化大革命}} [[毛沢東]]時代の中華人民共和国は、社会の[[共産主義]]化を推進した。中華人民共和国の建国後、毛沢東は[[毛沢東思想]]に基づき、中国共産党を軸にした世界革命路線を推進した。[[ソビエト連邦]]と中華民国間で締結された[[中ソ友好同盟条約]]([[1945年]]8月)によって、ソ連が中華民国から租借していた[[旅順港]]・[[大連港]]・[[南満洲鉄道]]について、[[1950年]]の[[中ソ友好同盟相互援助条約]]と同日締結した協定により中華人民共和国へ編入。[[1952年]]には[[朝鮮戦争]]に参戦し、韓国軍とアメリカ軍を主体とする[[国連軍]]を阻止した。[[1954年]]9月の第1期[[全国人民代表大会]]において、ソ連のスターリン憲法を範とする「中華人民共和国憲法」(略称:54年憲法)を採択し、それまでの人民民主統一戦線体制の「共同綱領」ではなく[[一党独裁制]]へ移行した。中華人民共和国は、毛沢東の指導の下で[[大躍進政策]]と[[核開発]]を行った。[[1959年のチベット蜂起]]を鎮圧し、[[1962年]]には[[インド]]と武力衝突した([[中印国境紛争]])。 [[1949年]]の中華人民共和国成立後、「[[向ソ一辺倒]]」の下で中ソ両国は友好関係を保っていたが、[[1956年]]の[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]第一書記による[[スターリン批判]]後、[[西側諸国]]との[[平和共存]]路線を図る[[修正主義]]的なソ連と[[自由主義]]世界との妥協を拒否する[[教条主義]]的な中華人民共和国との間で[[中ソ対立]]が生じ、ソ連と対立。[[1969年]]には両国の国境地帯に位置した[[珍宝島]]/[[ダマンスキー島]]を巡って[[中ソ国境紛争]]が勃発した。また、内政では[[大躍進政策]]の失敗によって失脚していた毛沢東が、[[1966年]]より経済の立て直しを巡る対立から[[文化大革命|プロレタリア文化大革命]](文革)を発動し、官僚化した中国共産党を打倒しようと呼びかけた毛沢東の訴えに[[紅衛兵]]が呼応したため、「[[造反有理]]」、「[[革命無罪]]」の呼号の下、宗教関係者などの「[[反革命]]」派と目された人々の多くがつるし上げや[[殺害]]を受け、国内は内乱に等しい状態となった。[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]の先住民族に対しては[[内モンゴル人民革命党粛清事件]]などの粛清を行った<ref name="sakurai20080619">{{Cite web|和書 |url = https://yoshiko-sakurai.jp/2008/06/19/719 |title = 「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」 |work = [[週刊新潮]]2008年6月19日号 |publisher = [[櫻井よしこ]] |author = [[櫻井よしこ]] |date = 2008年06月19日 |accessdate = 2010-12-31 }}</ref>。 外交では[[1971年]]の第26回[[国際連合総会]]にて採択された[[アルバニア決議]]の結果、それまで国際連合常任理事国だった中華民国に代わって[[国際連合安全保障理事会理事国の一覧|国連安全保障理事会常任理事国]]となり、中華民国は自ら国連を脱退した。また、ソ連との関係では[[中ソ対立]]が継続していたため、[[1972年]][[2月21日]]の[[リチャード・ニクソン]]大統領[[ニクソン大統領の中国訪問|訪中]]を契機にソビエトと対立する[[アメリカ合衆国]]との関係が緩和され、同年[[9月29日]]には[[日本]]の[[田中角栄]]首相と[[日中国交正常化]]を果たし、ソ連の影響から離れて[[資本主義]]諸国との関係を改善した。以後、西側諸国から経済支援を受け、[[3つの世界論]]により中国は主に[[第三世界]]において大きな影響力を保つことに成功した。[[1974年]]には[[南シナ海]]に侵攻し、当時の[[ベトナム共和国|南ベトナム]]支配下の[[西沙諸島]]を占領した([[西沙諸島の戦い]])。文化大革命は[[1976年]]の毛沢東の死と共に終結した。その後、「[[二つのすべて]]」を掲げた[[華国鋒]]が毛沢東の後を継いだが、[[1978年]]12月の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]で[[鄧小平]]が実権を掌握した。 === 鄧小平の時代 === 1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、[[鄧小平理論]]に基づいて政治体制は[[中国共産党]]による一党体制を堅持しつつも、[[市場経済]]導入などの[[改革開放]]政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた([[中国特色社会主義]])。[[中ソ対立]]の文脈の中で、[[1979年]]2月には親ソ派の[[ベトナム]]に侵攻した([[中越戦争]])。その後もベトナムとの関係は悪く、[[1984年]]には再びベトナムと[[中越国境紛争]]を戦い、[[1988年]]にベトナム支配下の[[ジョンソン南礁]]を制圧した([[南沙諸島海戦]])。一方、アメリカなど[[西側諸国]]に接近し、[[モスクワオリンピック]]の不参加と[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]の参加というおおよそ西側に歩調を合わせる行動を行うようになる。 [[1980年代]]以来の経済の[[改革開放]]の進展により、「[[世界の工場]]」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。[[1989年]]の[[六四天安門事件]]での対応などはその一例である。 === 江沢民の時代 === {{節stub}} 天安門事件から[[江沢民]]が台頭した。[[2003年]]3月ごろから中華人民共和国[[広東省]]を起点する[[重症急性呼吸器症候群]]([[SARSコロナウイルス]])の大流行の兆しを見せ始めたが、これはごく短期間で終息している。 === 胡錦濤の時代 === {{節stub}} {{See also|2008年北京オリンピック|上海万博}} === 習近平の時代 === {{See also|習体制|一帯一路|戦狼外交|米中貿易戦争|新冷戦|新型コロナウイルス感染症の世界的流行_(2019年-)|2022年北京オリンピック}} [[2012年]][[11月15日]]、[[習近平]]が[[中国共産党中央委員会総書記]]、[[中国共産党中央軍事委員会|中央軍事委員会]]主席に選ばれた。 [[2019年]]末より、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)]]が[[武漢市]]で確認され、その後[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]が全世界で流行する事になった。世界的な[[パンデミック]]により未曽有の事態に突入し、特にアメリカの[[ドナルド・トランプ|トランプ]]政権は中国の対応を強く批判し<ref>{{cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/54260712|title=国連総会、アメリカと中国が対立 新型ウイルスめぐり批判|newspaper=[[英国放送協会|BBC]] NEWS JAPAN|date=2020-09-23|accessdate=2023-10-13}}</ref>、これに伴い[[米中関係]]は大きく悪化。世界は[[新冷戦]]と呼ばれる時代に突入した。 [[コロナ禍]]の[[2022年]]2月、[[2022年北京オリンピック|北京冬季オリンピック]]を開催した。 中国共産党政府は[[ゼロコロナ]]政策により感染の防止に務めたが、2022年には再び国内でコロナウイルスが蔓延した。そのため上海などの経済都市に対して政府は[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]の措置をとった<ref>{{Cite web|和書|title=上海 ロックダウン1カ月 市民の外出制限続く |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000252971.html |website=テレ朝news |access-date=2022-04-28 |language=ja}}</ref>。また、ほぼ同時期に[[2019年-2020年香港民主化デモ|香港民主化運動]]を強権的に封殺するも、これは却って世界各国における対中感情の悪化を招いた。一方、厳格なゼロコロナ政策により政府当局への国民の不満が高まり、同年11月には[[白紙革命]]が勃発。共産党政府への批判がタブーな中国では異例の政府批判が起きる事態となった。政府はこれを受けてゼロコロナ政策の転換を余儀なくされた。 [[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]以降は中国は、表面上は対アメリカという観点からロシア寄りの立場を取っているが<ref>{{cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-64716127|title=【解説】中国はロシアにどんな支援をしているのか? ウクライナ侵攻|newspaper=[[英国放送協会|BBC]] NEWS JAPAN|date=2023-02-23|accessdate=2023-10-13}}</ref>、他方では[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]が失脚した場合の「[[脚本|シナリオ]]」を模索しての行動を行っているという見方もある<ref>{{cite web|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_622b146ee4b0fe0944d3f772|title=「プーチン氏を切り離せ」中国の政治学者が異例の警告。「永遠の友はいない」と一刻も早い行動促す|publisher=[[ハフポスト]]|date=2022-03-14|accessdate=2023-10-13}}</ref>。 中華人民共和国は、2023年8月、日本産の水産物の輸入を禁じた<ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230825/k10014173631000.html |title=「やっていけなくなる」中国 全面禁輸 漁を取りやめた漁業者も |publisher=日本放送協会 |accessdate=2023-10-29}}</ref>。 == 地理 == === 国土の外観 === [[ファイル:China 100.78713E 35.63718N.jpg|thumb|250px|中国の地形を示す合成衛星画像]] {{Main|中華人民共和国の地理}} 中華人民共和国は[[アジア大陸]]の東部、[[太平洋]]の西海岸に位置し、国土は963万4057平方キロメートルと[[ロシア]]と[[カナダ]]に次ぐ面積であり、世界第3の大きさである<ref group="注釈">水面積の統計上の処理の方法によっては[[アメリカ合衆国]]の面積の方がわずかに中華人民共和国を上回るとされることもある。</ref>。領土は北は[[漠河]]以北の[[アムール川|黒竜江(アムール川)]]の中軸線から、南は[[南沙諸島]]の一部まで。東は黒竜江と[[ウスリー川]]の合流する地点から、西は[[パミール高原]]まで広がっている。主要河川として[[黄河]]や[[長江]]があり、それぞれ[[黄河文明]]、[[長江文明]]を育んだ自然の恵みでもある。陸地の国境線は2万2800キロメートルで、東は[[朝鮮民主主義人民共和国]]、北は[[モンゴル国|モンゴル]]、北東は[[ロシア]]、北西は[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、西と南西は[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]]、[[インド]]、[[ネパール]]、[[ブータン]]、南は[[ミャンマー]]、[[ラオス]]、[[ベトナム]]と接している。なお、インドとの間では[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]、[[アクサイチン]]の領有権をめぐって、国境が確定していない。 東部と東南部は[[大韓民国|韓国]]、[[日本]]、[[フィリピン]]、[[ブルネイ]]、[[マレーシア]]、[[インドネシア]]と海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロメートルで、中国大陸の東部は[[渤海 (海域)|渤海]]、[[黄海]]、[[東シナ海]]に、南部は[[南シナ海]]に臨んでいる。海域には5400の島が点在する。これらの島嶼では[[南沙諸島]]や[[西沙諸島]]、[[台湾地区]]、[[尖閣諸島]]の領有権を主張しており、その一部は既に実効支配している。 === 交通機関 === {{Main|中国の交通}} 中国における交通機関は[[運河]]と[[海路]]を長大な歴史にわたり活用し発展してきた。[[中国の国道]]は経済格差を反映し東部で密に整備されている。[[中華人民共和国の高速道路]]は2003年から整備が進んだ。 === 中国地理大区 === [[ファイル:Regions of China Names Chinese Trad.svg|サムネイル|250x250ピクセル|中国の地理大区]] {{See|内モンゴル独立運動}} 中国では、[[中華人民共和国の行政区分|政府の行政区分]]を地理に基づいて大別した{{仮リンク|中国地理大区|zh|中國地理大區}}が用いられており、現行の地理大区は中国全土を[[中国東北部|東北]]、[[華北]]、[[華東]]、[[中南]]、[[中国西南部|西南]]、[[中国西北部|西北]]の6つに区分している。 [[中華民国の歴史|中華民国時代]]には、[[中国本土]]を[[華北]]、[[華中]]と[[華南]]に区分し、[[熱河省 (中華民国)|熱河省]]以外の[[南満洲]]を「東北」、[[内蒙古]]と[[外蒙古]]、熱河省を「塞北」、[[チベット]]([[アムド]]、[[カム (チベット)|カム]]、[[ウー・ツァン]]全域)と新疆([[東トルキスタン]])を「西部」に区分していた。しかし、中華人民共和国になって地域の区分が変わり、華中・華南が地理大区としては用いられなくなった。 国土の形はその形からニワトリの形と例えられている。 === チベット自治区・青海省その他のチベット東部 === {{出典の明記|date=2018年2月|section=1}} {{See|チベット独立運動|チベット問題}} [[中華民国の歴史|民国期(1912年-1949年)]]のチベットは、[[アムド地方]]<small>(=[[青海省]],[[甘粛省]]の西南部など )</small>を抑える[[馬歩芳|馬一族]]の[[回族]]政権、[[カム地方]]の東部<small>(=[[西康省]])</small>を抑える[[劉文輝]]政権、中央チベット<small>(=[[西蔵]],ウー・ツアン地方と[[カム地方]]西部)</small>を抑える[[ガンデンポタン]]などが割拠する状況であった。馬歩芳は[[人民解放軍]]に逐われて1949年8月に地盤の[[甘粛]]・[[青海]]を放棄し、[[重慶]]・[[香港]]経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。 [[1950年]]に中国政府は[[人民解放軍]]を中央チベットに向けて派兵、[[チャムド戦役]]を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌[[1951年]]、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「[[十七ヶ条協定]]」を締結(「[[西蔵和平解放]]」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。 この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された[[青海省]]・[[甘粛省]]の[[甘南州]]・[[四川省]]の[[ガパ州]](=[[アムド]]地方)、四川省の[[カンゼ州]]・雲南省の[[デチェン州]](=[[カム地方]]の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一掃されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとでまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。 [[1959年]]に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「[[チベット動乱]]」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、[[ダライ・ラマ14世]]は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在[[ダライ・ラマ14世|ダライ・ラマ]]率いる[[ガンデンポタン|チベット亡命政府]]が中国共産党に対して[[チベット自治区|チベット]]の独立を要求している。 [[2008年]]3月14日には、チベット自治区[[ラサ市|ラサ]]で、[[中華人民共和国国務院|中国政府]]に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察([[中国人民武装警察部隊]])などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表され<ref>{{Cite news|author=|url=https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-30849620080316|title=チベット暴動での死者数は80人・負傷者は72人=亡命政府|newspaper=[[ロイター]]|publisher=|date=2008-03-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201022074535if_/https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-30849620080316|archivedate=2020-10-22|deadlinkdate=}}</ref>、同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた<ref>{{Cite news|author=|url=http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20080317k0000e030060000c.html|title=チベット暴動:欧州各国で抗議行動|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=|date=2008-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080319021224/http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20080317k0000e030060000c.html|archivedate=2008-03-19|deadlinkdate=}}</ref>。 {{clear}} アメリカの[[バラク・オバマ]]大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つである[[ダライ・ラマ14世]]と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35084381.html オバマ米大統領、ダライ・ラマと会談 中国が抗議] - CNN 2016年6月16日</ref>。6月26日には、[[レディー・ガガ]]がダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.asahi.com/articles/ASJ6X5WYWJ6XUHBI02D.html|title=中国、レディー・ガガさんに不快感 ダライ・ラマと対談|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2016-06-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113175547/https://www.asahi.com/articles/ASJ6X5WYWJ6XUHBI02D.html|archivedate=2020-11-13|deadlinkdate=}}</ref>。 === 新疆ウイグル自治区 === {{ external media | align=right | image1 = [[:en:File:Xinjiang_Re-education_Camp_Lop_County.jpg|新疆ウイグル自治区ロプ県の強制労働施設に収容されている少数民族ウイグル族の男性達]] }} {{Main|東トルキスタン独立運動}} [[新疆ウイグル自治区]]([[東トルキスタン]])の分離・独立を目指す組織勢力が国内外に多数存在しており、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[東トルキスタン共和国亡命政府|東トルキスタン亡命政府]]を樹立するなど活動を行っている。[[2009年ウイグル騒乱]]では、約200人の住民([[新華社]]によると主に[[漢民族|漢族]])が殺害された<ref>[https://web.archive.org/web/20091005041212/http://news.xinhuanet.com/english/2009-07/18/content_11727782.htm Xinjiang riot hits regional anti-terror nerve](2009年10月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 新華網 2009年7月18日</ref><ref name="shink">[http://business.nikkeibp.co.jp/welcome/welcome.html?http%3A%2F%2Fbusiness.nikkeibp.co.jp%2Fatcl%2Freport%2F15%2F224217%2F070100008%2F 中国の「テロとの戦い」は国際社会の支持を得るか] - 日経BP 2015年7月3日</ref>。ウイグル独立団体の主張によると、2014年7月に発生した暴動でも[[ウイグル|ウイグル人]]が大量に殺害されている<ref>[http://www.sankei.com/world/news/140806/wor1408060007-n1.html 新疆暴動、死者「2千人以上」か 米放送伝える] - 産経新聞 2014年8月6日</ref> 当局は情報統制を敷いており事件の真相は不明だが、当局側は59人の射殺を認めている<ref name="shink"/><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06025_W4A800C1FF1000/ 新疆暴動「治安当局が2000人殺害」、亡命ウイグル団体主張 ] - 日本経済新聞 2014年8月6日</ref>。2015年12月1日には、政府系メディアなどが対[[ウイグル|ウイグル人]]政策で批判的記事を書いた外国人記者に対して個人攻撃をおこなったことについて、中国外国人記者会が深い懸念を表明した<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM01H6V_R01C15A2FF2000/|title=仏記者への個人攻撃「懸念」 中国外国人記者会|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=|date=2015-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201026143718/https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM01H6V_R01C15A2FF2000/|archivedate=2020-10-26|deadlinkdate=}}</ref>。12月26日には、この外国人記者が国外退去処分となった<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.asahi.com/articles/ASHDT7GBWHDTUHBI034.html|title=中国、政策批判の仏誌記者に記者証発給せず 国外退去へ|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2015-12-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190608112748/https://www.asahi.com/articles/ASHDT7GBWHDTUHBI034.html|archivedate=2019-06-08|deadlinkdate=}}</ref>。 {{clear}} 2015年7月9日、 [[タイ王国|タイ]]政府が中国からの保護を求めて2014年3月に入国した300人以上の[[ウイグル|ウイグル人]]のうち約100人を中国に[[強制送還]]したことが国際問題となった。保護を求めた[[ウイグル|ウイグル人]]は、タイや[[マレーシア]]などを経由してトルコへ渡ることを目指しており、国連はタイ政府の対応を非難<ref>{{Cite news|author=|url=https://jp.wsj.com/articles/SB11807971170009143901604581099112564228834|title=タイ、ウイグル族100人を中国送還 トルコではデモ発生|newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]|publisher=|date=2015-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150711060720/https://jp.wsj.com/articles/SB11807971170009143901604581099112564228834|archivedate=2015-07-11|deadlinkdate=}}</ref>。[[亡命]]したウイグル人が多く暮らす[[トルコ]]では、[[イスタンブール]]で抗議デモが発生した。また、[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]は中国に対して「国際的な人権基準に基づいて適切に対応するよう求める」と牽制した<ref>{{Cite news|author=|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150710/k10010145741000.html|title=米 ウイグル族強制送還でタイ政府を非難|newspaper=[[日本放送協会|NHK]]|publisher=|date=2015-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150712211903/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150710/k10010145741000.html|archivedate=2015-07-12|deadlinkdate=}}</ref>。また、[[エジプト]]でも[[ウイグル|ウイグル人]]の中国への強制送還が相次いでることも問題となっている<ref>{{Cite news|url= https://mainichi.jp/articles/20170722/k00/00m/030/097000c |title=ウイグル族の拘束相次ぐ 中国の要請か|work= [[毎日新聞]]|date=2017-07-21|accessdate=2017-08-17}}</ref>。 2016年末から「[[職業訓練]]」と称してウイグル人の[[新疆ウイグル再教育収容所|強制収容所]]を設置するようになり、衛星写真で確認できる限りでは年々収容所の規模が大きくなっている。2018年時に収容者数は89万人以上という内部データもある。2021年1月に[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]は中国のウイグル政策について[[ウイグル人大量虐殺|ジェノサイド]](大量虐殺)政策と認定した<ref name="mainichi.com">{{Cite news|author=|url=https://mainichi.jp/articles/20210201/k00/00m/050/055000c|title=中国は五輪憲章違反? コロナだけではない北京冬季五輪の課題|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=|date=2021-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210202021605/https://mainichi.jp/articles/20210201/k00/00m/050/055000c|archivedate=2021-02-02|deadlinkdate=}}</ref>。これに続いて、[[庶民院 (カナダ)|カナダの下院]]と[[スターテン・ヘネラール|オランダの議会]]がそれぞれ、2021年2月に中国のウイグル政策をジェノサイドと認める非拘束性の動議を可決した<ref name="産経新聞0223"/><ref name="Reuters"/>。2021年4月に[[庶民院 (イギリス)|イギリスの下院]]はジェノサイドと認定する決議を可決した<ref name="Sky News"/>。2021年5月、[[セイマス|リトアニア共和国議会]]もジェノサイドと認定する決議を可決した<ref name="Axios"/>。2022年1月20日にはフランスの[[国民議会 (フランス)|国民議会]](下院)もジェノサイドと認定し、拘束性はないがフランス政府にウイグル族の救出のための行動を求める決議を出した<ref name="nikkei"/>。 == 政治 == {{Main|中華人民共和国の政治|中華人民共和国法}} 中華人民共和国は[[中華人民共和国憲法|憲法]]前文で、[[孫文]]が指揮する[[辛亥革命]]と[[中華民国]]創立の意義は認めつつ、中華民国が[[帝国主義]]と[[封建主義]]に反対する任務を達成できなかった為に、中国の諸民族人民を率いる中国共産党が[[新民主主義革命]]によって[[官僚]][[資本主義]]の支配([[蔣介石政権]])を覆し、同国を建国したとしている。そのため同国は、中国旧来の政治的実体である中華民国が[[1955年]]([[大陳島撤退作戦|大陳島撤退]])以降も引き続き残存している[[台湾地区|台湾]]<ref group="注釈">1955年以降も引き続き中華民国が[[実効統治]]している地域の名称として、中華人民共和国は憲法前文や政府の組織名称([[国務院台湾事務弁公室]]など)にて「台湾」を用いているが、中華民国は憲法などの法律や[[世界貿易機関]](WTO)の加盟名称にて[[台湾地区#同義語の使用状況|「台湾地区」または「台澎金馬」など]]を用いている。</ref>([[台湾|台湾島]]、[[澎湖諸島]]、[[金門県|金門島]]、[[馬祖島]]及びその他島々<ref>{{cite web|url=http://history.cultural-china.com/en/34History7320.html|title=Chinese Civil War|publisher=Cultural-China.com|quote=To this day, since no armistice or peace treaty has ever been signed, there is controversy as to whether the Civil War has legally ended.|accessdate=16 June 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130912132339/http://history.cultural-china.com/en/34History7320.html|archivedate=2013年9月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>)も「中華人民共和国の神聖な領土の一部」とみなし、台湾を実効支配下に置くこと([[中国統一|祖国統一]])を「[[台湾人|台湾の同胞]]を含む全中国人民の神聖な責務」であると憲法前文で規定している。 === 国家の統治体制 === {{Main|中華人民共和国憲法}} [[ファイル:Great Hall Of The People At Night.JPG|thumb|[[全国人民代表大会]]議事堂である北京市の[[人民大会堂]]]] 憲法より上位の存在である[[中国共産党]]と憲法を拠り所とするその[[衛星政党]](「民主党派」)以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がない。 {{Main|中華人民共和国の政党一覧}} [[立法府|立法機関]]として[[全国人民代表大会]]が置かれ、[[行政機関]]として、[[中華人民共和国国務院|国務院]]が、[[司法]]機関として、[[最高人民法院]]と[[最高人民検察院]]が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。この他に衛星政党や各団体、各界の代表なども参加する[[中国人民政治協商会議]]が存在するが、「国政助言機関」<ref>[http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/2017NLHJP/t1442890.htm 政協第12期全国委第5回会議は3日から13日まで 王国慶報道官]([[駐日中華人民共和国大使館]] 2017年3月3日)</ref> であって法律の制定権などは持っていない。[[権力分立|三権分立]]の相互抑制メカニズムは存在しない([[民主集中制]])。 {{See also|全国人民代表大会|中華人民共和国国務院|中華人民共和国中央軍事委員会}} 実際には国政を動かすのは[[中国共産党]]であり、共産党の最高指導集団である[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員会]]が権力を掌握する構造となっている、実権は[[中国共産党中央委員会総書記]]が握っていた、[[中華人民共和国主席]](国家主席)の権限は儀礼的・名誉的なもので、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の総書記職であった。現行の[[中華人民共和国憲法]]には[[元首|国家元首]]の規定がなく、外交慣例上では国家主席は元首と同様の待遇を受けている。 [[ファイル:Xi_Jinping_with_Macron_and_Von_der_Leyen_2023.jpg|thumb|upright|習近平主席]] 2022年10月現在の最高指導グループである[[中国共産党中央政治局常務委員会#第20期中央政治局常務委員(2022年10月)|第20期]]の[[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]は以下の通り。 # [[習近平]] - 序列第1位 [[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]]、[[中華人民共和国主席|国家主席]]、[[中華人民共和国中央軍事委員会|中央軍事委員会]]主席 # [[李強 (政治家)|李強]] - 序列第2位 [[国務院総理]](首相) # [[趙楽際]] - 序列第3位 [[全国人民代表大会常務委員会|全人代委員長]](国会議長) # [[王滬寧]] - 序列第4位 [[中国人民政治協商会議|全国政協主席]](統一戦線議長) # [[蔡奇]] - 序列第5位 [[中国共産党中央書記処|中央書記処]]書記、[[中国共産党中央弁公庁|党中央弁公庁]]主任(党幹事長) # [[丁薛祥]] - 序列第6位 [[国務院副総理]](副首相) # [[李希]] - 序列第7位 [[中国共産党中央規律検査委員会|中央規律検査委員会]]書記(党紀委員会委員長) {{See also|中華人民共和国の最高指導者一覧|中国共産党中央委員会総書記}} === 一国二制度 === [[ファイル:Hong Kong Night Skyline non-HDR.jpg|thumb|[[中国]]の[[国際金融中心]][[香港]]]] {{Main|香港の政治#一国二制度|香港独立運動|香港民主化デモ|マカオの政治}} [[1997年]]に[[イギリス]]統治から返還された[[香港]]、[[1999年]]に[[ポルトガル]]統治から返還された[[マカオ]]は、[[一国二制度]](一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。[[香港特別行政区基本法|香港基本法]]により、高度な自治、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。[[間接選挙]]であるが、[[香港行政長官|行政長官]]選挙が行われ、[[香港立法会|立法会]]では一部議員を[[直接選挙]]で選出している。さらに、参加資格を[[主権国家体制|主権国家]]に限定していない[[国際機関|国際組織]]への加盟や国際会議への参加も可能。 === 地方行政区分 === {{Main|中華人民共和国の行政区分|中華人民共和国の都市|中国行政区分の面積一覧}} [[2023年]]現在、22の省、5つの[[民族区域自治|自治区]]、4つの[[直轄市]]、及び2つの[[特別行政区]]から成る。中国政府は地方政府独自の旗を禁止しており特別行政区の香港、マカオを除き独自の旗を持っていない<ref>{{Cite book|和書|ref=|author=刈安望|authorlink=刈安望|editor=|title=世界地方旗図鑑|url=|edition=初版第一刷|series=|date=2015年2月10日|year=2015|publisher=[[えにし書房]]|isbn=978-4908073151|page=36|chapter=アジア編|translator=|volume=|location=|others=}}</ref>。 ==== 省 ==== {{columns-list|colwidth=10em| *[[安徽省]] *[[福建省]] *[[甘粛省]] *[[広東省]] *[[貴州省]] *[[海南省]] *[[河北省]] *[[黒竜江省]] *[[河南省]] *[[湖北省]] *[[湖南省]] *[[江蘇省]] *[[江西省]] *[[吉林省]] *[[遼寧省]] *[[青海省]] *[[陝西省]] *[[山東省]] *[[山西省]] *[[四川省]] *[[雲南省]] *[[浙江省]] }} ==== 自治区 ==== {{columns-list|colwidth=13em| *[[広西チワン族自治区]] *[[内モンゴル自治区]] *[[寧夏回族自治区]] *[[新疆ウイグル自治区]] *[[チベット自治区]] }} ==== 直轄市 ==== {{columns-list|colwidth=10em| *[[北京市]] *[[重慶市]] *[[上海市]] *[[天津市]] }} ==== 特別行政区 ==== *[[香港|香港特別行政区]] *[[マカオ|マカオ特別行政区]] {{中華人民共和国の行政区分 imagemap}} [[ファイル:中國(中華人民共和國)地圖.png|中央|サムネイル|934x934px|中華人民共和国の実際の支配地域の地図]] {{clear}} == 治安と軍事・防諜 == {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国の法執行機関|en|Law enforcement in China}}}} === 治安 === 中国の治安状況は全体としては安定しており、過去に比べると大きな変化を見せている。中国政府の統計によると2019年の各種刑事事件の立件数は、合計約486.2万件で、前年比で約4%減少している。 だがその一方、[[詐欺]]事件の立件数は約143.4万件で、前年比約24%増と大幅に増加していて[[振り込め詐欺]]も多発している。[[窃盗]]事件の立件数は約225.8万件となっていて、前年比で約19%減少しているものの、日本人が[[旅券]]・貴重品の窃盗・[[盗難]]などの被害に遭うケースが報告されている実状がある。他には金融被害([[偽札]]、カードの[[スキミング]]など)の報告も確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_009.html|title=中華人民共和国(中国) 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2022-1-29|publisher=外務省}}</ref>。{{See also|{{仮リンク|中華人民共和国における犯罪|en|Crime in China}}}} {{節スタブ}} === 警察 === [[ファイル:ForbiddenCity MaoZedongPortrait (pixinn.net).jpg|thumb|[[毛沢東]]の肖像画が掲げられた[[天安門]]における[[中国人民武装警察部隊|中国人民武装警察部隊員]]]] ;公安部 {{Main|中華人民共和国公安部}} ;武装警察部隊 {{Main|中国人民武装警察部隊}} ;その他 * [[中国共産党中央弁公庁警衛局]] - 共産党による中国版[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレットサービス]] === 情報機関 === ;国家安全部 {{Main|中華人民共和国国家安全部}} ;中国人民解放軍 [[File:Chinese honor guard in column 070322-F-0193C-014.JPEG|thumb|400px|中国人民解放軍]] * [[中国人民解放軍総政治部]]連絡部 - 傘下組織に中国国際友好連絡会(友連会) * [[中国人民解放軍総参謀部]] ** [[中国人民解放軍総参謀部第二部]]([[総参謀部情報部]]) - [[ヒューミント]]系の情報活動 ** [[中国人民解放軍総参謀部第二部|中国人民解放軍総参謀部第三部]]([[総参謀部技術偵察部]]) - [[シギント]]系の情報活動 ** [[中国人民解放軍総参謀部第四部]](総参謀部電子部) - ハッカー攻撃など {{See|中国人民解放軍#人民解放軍による諜報活動}} ;公安部 * [[:zh:中华人民共和国公安部|公安部一局]](国内安全保衛局) * [[:zh:公共信息网络安全监察|公安部十一局]](公共信息網絡安全監察局) {{See|中国のネット検閲}} ;網絡警察 * [[:zh:网络警察|網絡警察]] - [[中国のネット検閲|インターネットポリス]](国家安全部と公安部の合同機関) ;共産党 * [[中国共産党中央対外連絡部]] * [[中国共産党中央統一戦線工作部]] * [[中国共産党中央政法委員会]] * {{仮リンク|610弁公室|zh|610办公室}} ;国務院 * [[新華社|新華社通信]] - [[中華人民共和国国務院|国務院]]直属の[[通信社]]<!-- 「新華社通信」はあくまで「情報機関」としてで、「諜報機関」という意味ではなく。--> === 軍隊 === [[ファイル:Zhang_Youxia_(2017-12-07)_3.jpg|125px|thumb|副主席: [[張又侠]]]] {{Main|中国人民解放軍}} <!--[[ファイル:J-10a zhas.png|thumb|[[中国人民解放軍空軍|空軍]]の[[J-10 (航空機)|J-10]]戦闘機]]--> <!--[[ファイル:Luyang II (Type 052C) Class Destroyer.JPG|thumb|[[中国人民解放軍海軍|海軍]]の[[蘭州級駆逐艦]]]]--> [[中華人民共和国憲法]]によれば、形式的には、[[中華人民共和国中央軍事委員会|国家中央軍事委員会]]は[[中国人民解放軍]](現役部隊、[[予備役]]部隊)、[[中国人民武装警察部隊]]、[[中国民兵]]など全国の武力を指導するとある。しかし現実は、[[中国共産党]]の[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会]]がほぼ国家中央軍事委員会のメンバーを兼ねており、実質的には中国共産党の指導の下、軍・警察を支配しており「中国共産党傘下の軍隊」となっている。 軍隊近代化のため、兵力20万人削減を、[[2015年]][[9月3日]]の「[[中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典]]」で習近平党総書記が表明し、総兵力は約150万人となった。 中華人民共和国には[[徴兵制度|兵役制度]]が存在するが志願者で賄っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3330344 |title=「中国軍が兵士の給与40%アップ」の報道 人材確保、流出防止に苦心? |accessdate=2022年3月25日 |publisher=AFP通信}}</ref>。青年らは何らかの形で武装警察、あるいは現役の正規軍に任務につき、任務後は[[民兵]]の任務に就くことが可能である。こうした[[準軍事組織]]は150万人の武装警察、600万人の民兵があり、削減された解放軍兵士の受け皿にもなっている。 * [[中国人民解放軍]] - 事実上、党が所有する軍隊 ** [[中国人民解放軍陸軍|陸軍]] ** [[中国人民解放軍海軍|海軍]] *** [[中国人民解放軍海軍陸戦隊]] ** [[中国人民解放軍空軍|空軍]] ** [[中国人民解放軍ロケット軍|ロケット軍]] - [[ミサイル#対地ミサイル|戦略ミサイル]]部隊兼[[宇宙軍]] ** [[中国人民解放軍戦略支援部隊|戦略支援部隊]] * [[中国人民武装警察部隊|武装警察部隊]] - 党所有の[[準軍事組織]] * [[中国民兵]] - 党所有の[[準軍事組織]] また、中華人民共和国は[[核兵器]]を保有している。 {{See also|中華人民共和国の大量破壊兵器}} ;軍事費 [[ストックホルム国際平和研究所]]の統計によると、2020年の中華人民共和国の軍事費は為替レートベースで2520億ドル で、アメリカ合衆国に次いで世界で2位(世界シェア12.7%)であり、2011年比で76%増加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP4V45H8P4VUHBI006.html |title=世界の軍事支出、過去最多 コロナ禍でも2兆ドル |accessdate=2022年3月25日 |publisher=朝日新聞}}</ref>。 中華人民共和国の軍事費の増加をアメリカ合衆国が非難をしており、中華人民共和国は「中国の国防は防御的なものであるし、今までの歴史に他国を侵略したこともない」と覇権目的ではないと反論している<ref>2006年6月7日付 人民網日本語版</ref>。 中華人民共和国は[[湾岸戦争]]、[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン戦争]]、[[イラク戦争]]などで、アメリカ合衆国軍の軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新による軍事的成果に影響されて、軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新に力を入れている。 軍備近代化を印象付ける出来事として[[2007年]][[1月18日]]、中華人民共和国が過去に打ち上げ廃棄処分となっていた[[人工衛星]]を[[弾道ミサイル]]によって破壊する実験を行い成功した。この実験に対し[[アメリカ航空宇宙局]]は、宇宙開発への危険性は無いものの、[[スペースデブリ]]が発生するこの手の実験に関する懸念を表明した。[[2007年]][[2月21日]]には、国際連合の宇宙空間平和利用委員会で、宇宙空間での人工衛星破壊を禁止する法案が採択された。 ;核先制不使用 2011年までの中国国防白書には「中国は、いつ、いかなる状況下であっても、核兵器を先制的に使用しない」と核保有国で唯一核の先制不使用を表明していたが、2013年から記述が削除された<ref>{{Cite news|author=[[北村淳 (軍事評論家)|北村淳]]|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37646|title=中国は核先制不使用ドクトリンを放棄したのか?|newspaper=[[JBpress]]|publisher=[[日本ビジネスプレス]]|date=2013-04-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180820074726/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37646|archivedate=2018-08-20|deadlinkdate=}}</ref>。 なお2022年、核保有5ヶ国の共同声明では「核戦争に勝者はいない。核戦争を絶対に始めてはならない」と発表、新華社通信で馬朝旭外務次官は「中国は先制不使用を掲げている」と答えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/arms-nuclear-russia-idJPKBN2JD0XE |title=「核戦争に勝者いない」、米中など核保有5大国が共同声明 |accessdate=2022年1月20日 |publisher=ロイター}}</ref>。 == 国際関係 == [[ファイル:Diplomatic relations of the People's Republic of China.svg|thumb|444px|中華人民共和国の外交関係一覧図。緑色で塗られた諸国は中華人民共和国と国交を有し、赤色で塗られた諸国とは国交を有してない。黄土色で塗られた地域は係争地。]] === 概要 === [[中華人民共和国の国際関係]]において特筆すべきことは、同国政府が[[中華民国]]政府と同時に自らを「『[[中国]]』の正統な政府」であると主張している点である。 中華人民共和国は、[[冷戦]]構造の下、建国当初は完全に[[東側諸国|東側陣営]]に組み込まれていた([[向ソ一辺倒]])。しかし、[[1956年]]の[[スターリン批判]]後の[[中ソ対立]]で決裂した。[[1968年]]の[[プラハの春]]におけるソ連の軍事介入を「[[社会帝国主義]]」と批判し、同じく共産圏でソ連と距離を取る[[ルーマニア]]や[[ユーゴスラビア]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[アルバニア]]などとの関係を深めた。このころの中華人民共和国は、[[アジア・アフリカ会議]]や[[非同盟運動]]に関わるなど[[第三世界]]と連携しており、[[人民戦争理論]]など第三世界の左派に与えた影響は大きい。 東側諸国や第三世界の支持も集めた[[国際連合総会]]に於ける[[アルバニア決議]]によって[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]の常任理事国となって中華民国を国連から追放し、さらにアルバニア決議に反対した日米にも接近して[[1972年]]の[[ニクソン大統領の中国訪問]]と[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]採択によってアメリカ合衆国と日本を始めとする[[西側諸国]]との関係の回復を果たした。 また、[[3つの世界論]]を掲げて冷戦下における西側諸国と東側諸国との微妙なバランスをとりつつ、「中国を代表する正当な政府は中華民国ではなく、中華人民共和国である」とする[[一つの中国]]政策を東側だけでなく、西側諸国の多くに確認させることも成功を収めた。 [[1978年]]から始まる[[改革開放]]路線以降、経済面での資本主義諸国との関係も強め、2001年には[[世界貿易機関]](WTO)にも加盟した。冷戦終結後は[[北大西洋条約機構]]に対抗して[[ロシア]]、[[中央アジア]]諸国と連携を強化し([[上海協力機構]]、SCO)、また、[[東南アジア]]諸国とも[[ASEAN自由貿易地域]]で[[自由貿易協定|FTA]]を締結、かつては戦火を交えた[[大韓民国]]やさらには中華民国ともFTAを締結するなど、経済活動を絡めた積極的な地域外交を展開している。韓国とともに同じ[[ASEAN+3]]でもある日本に対しては[[胡錦涛]]政権は、[[対日新思考]]を打ち出した。 区分としては[[開発途上国]]に含まれるため、国際会議などで「開発途上国の代表」と表現されることはあるも、[[77ヶ国グループ|G77]]では中華人民共和国はG77の支持国を自任してるため<ref>{{cite web |url = http://www.fmprc.gov.cn/web/wjb_673085/zzjg_673183/gjjjs_674249/gjzzyhygk_674253/qsqg_674549/gk_674551/ |title = 七十七国集团(Group of 77, G77) |publisher = [[中国外交部]] |date = July 2016 |quote = 中国不是77国集团成员,但一贯支持其正义主张和合理要求,与其保持良好合作关系,在经社领域一般以“77国集团加中国”的模式表达共同立场。中国自1994年开始每年向其捐款,2014年起捐款每年5万美元。|accessdate=2018-07-28}}</ref>、公式声明や国連の決議文書などで'''Group 77 and China'''(G77プラス中国)を使用してきた<ref>{{cite web|title=Statement on behalf of the Group of 77 and China by H.E. Mr. Horacio Sevilla Borja, Permanent Representative of the Republic of Ecuador to the United Nations, at the opening session of the 4th Prepcom established by General Assembly resolution 69/292: Development of an international legally binding instrument under UNCLOS on the conservation and sustainable use of marine biological diversity of areas beyond national jurisdiction (New York, 10 July 2017)|url=http://www.g77.org/statement/getstatement.php?id=170710|website=www.g77.org|quote=Mr. Chair, I have the honour to deliver this statement on behalf of the Group of 77 and China.|accessdate=2018-07-28}}</ref>。また、開発途上国であることを理由に、日本などの先進国から長年に渡り膨大な開発援助を受けているが、一方で他のさらに貧しい国に対して、国際的影響力を確保することを目的として開発援助を行っている。例えば、[[アフリカ連合]]本部は中国政府の全額負担で建設された。 急速な経済成長を遂げ、[[中国人民解放軍]]の軍備拡張を続ける中華人民共和国に対して、周辺諸国やアメリカは警戒感を持ち([[中国脅威論]])、また、人権問題・[[台湾問題|両岸問題]]・国境問題など、中華人民共和国の国際関係は緊張をはらむ。 === 中国に対するグローバルな認識 === <div style="font-size: 90%"> {| class="wikitable sortable floatright" style="width:390px; border:1px black; float:right; margin-left:1em;" |+ style="background:#f99;" colspan="2"|[[2020年]] [[ピュー研究所|ピュー・リサーチ・センター]]の国際世論調査<br />中国に対する印象<ref>{{cite web|url=https://www.pewresearch.org/global/2020/10/06/unfavorable-views-of-china-reach-historic-highs-in-many-countries/|title=Unfavorable Views of China Reach Historic Highs in Many Countries|publisher=[[ピュー研究所|ピュー・リサーチ・センター]]|date=2020-10-06|accessdate=2021-06-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210615000451/https://www.pewresearch.org/global/2020/10/06/unfavorable-views-of-china-reach-historic-highs-in-many-countries/ |archivedate=2021-06-15 |language=en}}</ref> !調査対象国 !! <small>肯定</small> !! <small>否定</small> !! <small>どちらでもない</small> !! <small>肯定-否定</small> |- | {{flagcountry|Japan}} || {{Percentage bar|9|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|86|c=#FF8080|width=50}} || 5 ||<span style="color:red;">-77</span> |- | {{flagcountry|Sweden}} || {{Percentage bar|14|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|85|c=#FF8080|width=50}} || 1 || <span style="color:red;">-71</span> |- | {{flagcountry|Australia}} || {{Percentage bar|15|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|81|c=#FF8080|width=50}} || 4 || <span style="color:red;">-66</span> |- | {{flagcountry|Denmark}} || {{Percentage bar|22|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|75|c=#FF8080|width=50}} || 3 || <span style="color:red;">-53</span> |- | {{flagcountry|United Kingdom}} || {{Percentage bar|22|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|74|c=#FF8080|width=50}} || 4 || <span style="color:red;">-52</span> |- | {{flagcountry|United States}} || {{Percentage bar|22|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|73|c=#FF8080|width=50}} || 5 || <span style="color:red;">-51</span> |- | {{flagcountry|South Korea}} || {{Percentage bar|24|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|75|c=#FF8080|width=50}} || 1 || <span style="color:red;">-51</span> |- | {{flagcountry|Canada}} || {{Percentage bar|23|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|73|c=#FF8080|width=50}} || 4 || <span style="color:red;">-50</span> |- | {{flagcountry|Netherlands}} || {{Percentage bar|25|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|73|c=#FF8080|width=50}} || 2 || <span style="color:red;">-48</span> |- | {{flagcountry|Belgium}} || {{Percentage bar|24|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|71|c=#FF8080|width=50}} || 5 || <span style="color:red;">-47</span> |- | {{flagcountry|Germany}} || {{Percentage bar|25|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|71|c=#FF8080|width=50}} || 4 || <span style="color:red;">-46</span> |- | {{flagcountry|France}} || {{Percentage bar|26|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|70|c=#FF8080|width=50}} || 4 || <span style="color:red;">-44</span> |- | {{flagcountry|Spain}} || {{Percentage bar|36|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|63|c=#FF8080|width=50}} || 1 || <span style="color:red;">-27</span> |- | {{flagcountry|Italy}} || {{Percentage bar|38|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|62|c=#FF8080|width=50}} || 0 || <span style="color:red;">-24</span> |- |}</div> <div style="font-size: 90%"> {| class="wikitable sortable floatright" style="width:390px; border:1px black; float:right; margin-left:1em;" |+ style="background:#f99;" colspan="2"|[[2017年]] [[BBCワールドサービス]]の国際世論調査<br />調査対象国別の対中国観<ref>{{cite web |url=https://globescan.com/images/images/pressreleases/bbc2017_country_ratings/BBC2017_Country_Ratings_Poll.pdf |title=2017 BBC World Service poll |publisher=[[BBCワールドサービス]] |date=2017-07-04|page=36 |accessdate=2021-06-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210608143515/https://globescan.com/images/images/pressreleases/bbc2017_country_ratings/BBC2017_Country_Ratings_Poll.pdf |archivedate=2021-06-08|language=en|format=PDF }}</ref> !調査対象国 !! <small>肯定</small> !! <small>否定</small> !! <small>肯定-否定</small> |- | {{flag|Spain}} || {{Percentage bar|15|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|68|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–53</span> |- | {{flagcountry|US}} || {{Percentage bar|22|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|70|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–48</span> |- | {{flag|India}} || {{Percentage bar|19|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|60|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–41</span> |- | {{flag|Turkey}} || {{Percentage bar|29|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|54|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–25</span> |- | {{flag|France}} || {{Percentage bar|35|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|60|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–25</span> |- | {{flag|Indonesia}} || {{Percentage bar|28|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|50|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–22</span> |- | {{flagcountry|UK}} || {{Percentage bar|37|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|58|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–21</span> |- | {{flag|Germany}} || {{Percentage bar|20|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|35|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–15</span> |- | {{flag|Canada}} || {{Percentage bar|37|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|51|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–14</span> |- | {{flag|Australia}} || {{Percentage bar|46|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|47|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–1</span> |- | {{flag|Brazil}} || {{Percentage bar|45|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|38|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">7</span> |- | {{flag|Greece}} || {{Percentage bar|37|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|25|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">12</span> |- | {{flag|Peru}} || {{Percentage bar|49|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|34|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">15</span> |- | {{flag|Russia}} || {{Percentage bar|44|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|23|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">21</span> |- | {{flag|Mexico}} || {{Percentage bar|55|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|26|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">29</span> |- | {{flag|Kenya}} || {{Percentage bar|63|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|27|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">36</span> |- | {{flag|Pakistan}} || {{Percentage bar|63|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|12|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">51</span> |- | {{flag|Nigeria}} || {{Percentage bar|83|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|9|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">74</span> |- | {{flag|People's Republic of China}} || {{Percentage bar|88|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|10|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">78</span> |- |}</div> <div style="font-size: 90%"> {| class="wikitable sortable floatright" style="width:390px; border:1px black; float:right; margin-left:1em;" |+ style="background:#f99;" colspan="2"|[[2017年]] {{仮リンク|ユーロバロメーター|en|Eurobarometer}}の国際世論調査<br />調査対象国別の対中国観<ref>{{cite web |url=http://idos.gr/wp-content/uploads/2018/10/China-Image-in-Greece_9-10-2018.pdf |title=China's Image in Greece (page 33)|date=2018-10|page=33 |accessdate=2021-06-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210603061033/https://idos.gr/wp-content/uploads/2018/10/China-Image-in-Greece_9-10-2018.pdf |archivedate=2021-06-03 |language=en |format=PDF |publisher={{仮リンク|ユーロバロメーター|en|Eurobarometer}}}}</ref> !調査対象国 !! <small>肯定</small> !! <small>否定</small> !! <small>肯定-否定</small> |- | {{flag|Czech Republic}} || {{Percentage bar|25|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|69|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–44</span> |- | {{flag|France}} || {{Percentage bar|21|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|63|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–42</span> |- | {{flagcountry|LUX}} || {{Percentage bar|24|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|61|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–37</span> |- | {{flag|Germany}} || {{Percentage bar|26|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|61|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–35</span> |- | {{flag|Sweden}} || {{Percentage bar|31|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|64|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–33</span> |- | {{flag|Italy}} || {{Percentage bar|29|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|60|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–31</span> |- | {{flag|Spain}} || {{Percentage bar|29|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|59|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–30</span> |- | {{flagcountry|NED}} || {{Percentage bar|32|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|60|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–28</span> |- | {{flag|Denmark}} || {{Percentage bar|32|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|59|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–27</span> |- | {{flag|Belgium}} || {{Percentage bar|34|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|61|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–27</span> |- | {{flag|Austria}} || {{Percentage bar|34|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|57|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–23</span> |- | {{flag|Finland}} || {{Percentage bar|36|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|55|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–19</span> |- | {{flag|Malta}} || {{Percentage bar|30|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|47|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–17</span> |- | {{flag|Slovenia}} || {{Percentage bar|41|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|53|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–12</span> |- | {{flag|Poland}} || {{Percentage bar|37|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|48|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–11</span> |- | {{flag|Hungary}} || {{Percentage bar|40|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|50|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–10</span> |- | {{flag|Portugal}} || {{Percentage bar|36|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|45|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–9</span> |- | {{flag|Slovakia}} || {{Percentage bar|36|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|44|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–8</span> |- | {{flag|Ireland}} || {{Percentage bar|39|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|47|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–8</span> |- | {{flag|Greece}} || {{Percentage bar|45|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|49|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–4</span> |- | {{flagcountry|UK}} || {{Percentage bar|39|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|41|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:red;">–2</span> |- | {{flag|Estonia}} || {{Percentage bar|43|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|35|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">8</span> |- | {{flag|Lithuania}} || {{Percentage bar|49|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|36|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">13</span> |- | {{flag|Croatia}} || {{Percentage bar|54|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|39|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">15</span> |- | {{flag|Bulgaria}} || {{Percentage bar|47|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|31|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">16</span> |- | {{flag|Romania}} || {{Percentage bar|56|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|34|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">22</span> |- | {{flag|Latvia}} || {{Percentage bar|51|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|29|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">22</span> |- | {{flag|Cyprus}} || {{Percentage bar|58|c=#80FF80|width=50}} || {{Percentage bar|27|c=#FF8080|width=50}} || <span style="color:green;">31</span> |- |}</div> [[BBCワールドサービス]]や[[ピュー研究所|ピュー・リサーチ・センター]]や{{仮リンク|ユーロバロメーター|en|Eurobarometer}}が定期的に実施している世界各国を対象とした対他国感情に関する調査によれば、調査対象国における対中・対中国人感情は否定的な回答を示しており、中国は、世界に対して悪影響を与えていると評価されている。なかでも[[人権|人権意識]]が強い[[欧米|欧米諸国]]は、[[チベット問題]]や[[ウイグル人大量虐殺|ウイグル問題]]や[[中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法|香港問題]]の影響から、中国に対する悪感情が形成されており、中国を否定的にとらえる回答が多い傾向にある。さらに、[[2020年]]に[[パンデミック]]となった[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症]]が主要因となり、[[中華人民共和国国家安全部]]の[[シンクタンク]]である{{仮リンク|現代国際関係研究院|en|China Institutes of Contemporary International Relations}}は、[[反中|反中感情]]が[[六四天安門事件|天安門事件]]以来の高まりとなっていると結論づけており<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200505/k00/00m/030/189000c |title=コロナ受け「反中感情は天安門事件以来の高まり」 中国が報告書 ロイター報道 |newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=|date=2020-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210226135413/https://mainichi.jp/articles/20200505/k00/00m/030/189000c |archivedate=2021-02-26 |website= |deadurldate=}}</ref>、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[欧州連合]]などの[[欧米|欧米諸国]]に限らず、[[2020年中印国境紛争|係争地域で死者の出る衝突]]が起きた[[インド]]、[[大韓民国|韓国]]、[[日本]]、[[南沙諸島海域における中華人民共和国の人工島建設|南シナ海問題]]を抱える[[東南アジア諸国連合]]関係国などの[[アジア|アジア諸国]]を含む[[国際社会]]での[[反中|反中感情]]は過去最悪<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/china-trade-breakingviews-idJPKBN2400GV |title=コラム:中国、世界で最も「扱いにくい貿易相手国」に |newspaper=[[ロイター]] |publisher=|date=2020-06-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200915211232if_/https://jp.reuters.com/article/china-trade-breakingviews-idJPKBN2400GV |archivedate=2020-09-15 |website= |deadurldate=}}</ref>。 [[2020年]]に[[シンガポール]]の[[シンクタンク]]である{{仮リンク|ISEASユソフ・イサーク研究所|en|ISEAS–Yusof Ishak Institute}}が[[東南アジア諸国連合|ASEAN諸国]]の政府高官、学者、専門家など1300人を対象に実施した調査によると、[[東南アジア諸国連合|ASEAN諸国]]では中国の政治・経済的影響力への警戒感が広がっており、中国に不信感があるという割合は、[[2019年]]の52%弱から[[2020年]]には60%強に上昇し、また40%近くが「中国は現状の秩序を打ち壊そうとする勢力で、[[東南アジア]]を自らの影響圏に入れようとしている」との認識を示した<ref name="ロイター">{{Cite news|author=|url=https://jp.reuters.com/article/china-southeast-asia-idJPKBN1ZF062 |title=東南アジア諸国、米の後退に伴う中国台頭に警戒感増大=調査 |newspaper=[[ロイター]] |publisher= |year=|month=|date=2020-01-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200325105138/https://jp.reuters.com/article/china-southeast-asia-idJPKBN1ZF062 |archivedate=2020-03-25 |deadurldate=|page=}}</ref>。{{仮リンク|ISEASユソフ・イサーク研究所|en|ISEAS–Yusof Ishak Institute}}は、「中国の著しい影響力に対する地域懸念は、強大なパワーの使い方に不透明感があるからだ」とし、中国の台頭が平和的ではないとの懸念を高めていると指摘しており、特に中国に対する不信感は、[[南沙諸島海域における中華人民共和国の人工島建設|南シナ海問題]]で中国と争っている[[ベトナム]]と[[フィリピン]]で際立っている<ref name="ロイター"/>。 [[2021年]][[5月]]、[[習近平]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]([[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]])は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国の[[イメージ]]づくりに努力しなければいけない」と語り、外国から「愛される中国のイメージづくり」を指示し、[[中国共産党]]が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、[[親中派|親中的]]な国際世論の拡大」を実現するよう対外情報発信の強化を図るよう訴えた<ref name="時事通信">{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060500299 |title=「愛される中国」目指せ 習氏、イメージアップ指示 |newspaper=[[時事通信社|時事通信]] |publisher=|date=2021-06-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210605230524/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060500299 |archivedate=2021-06-05 |website= |deadurldate=}}</ref>。これは近年の中国外交は批判に対して攻撃的に反論する[[戦狼外交]]を展開してきたが、戦狼外交は中国内では支持を得ているが、[[国際社会]]では[[反中|反中感情]]を高めており、高圧的な対外発信で中国の好感度が下がっていることへの反省があるとみられる<ref name="時事通信"/>。 ===インド、パキスタン=== インドとは[[バンドン会議]]などで成立当初関わってきた。しかし1955年に中国が独立していた[[チベット]]を併合。[[ダライ・ラマ14世]]がインドへ[[亡命]]するなど、印中関係は悪化した。また[[インド]]と[[パキスタン]]の係争地である[[カシミール]]へ中国は介入を行い、インドとの関係は険悪した。その後も印中は衝突などがおこる。中国は[[インド洋]]を[[一帯一路]]のもと影響下におこうとしている。そのため、インドは[[日]][[米]][[オーストラリア|豪]]と連携し[[Quad]]を結成している。 一方パキスタンは、[[ニクソン大統領の中国訪問]]を仲介した経緯などもあり関係が良好であり、近年はパキスタンが背後に居るとされている[[アフガニスタン]]の[[ターリバーン]]への影響を強めている。 === アメリカ合衆国 === {{main|米中関係}} 中国はアメリカ合衆国を最大の[[諜報]]活動の対象としているとみられ、国家安全省の他に[[中国共産党]]や[[中国人民解放軍]]、国有企業もその活動に加わることがある。アメリカ合衆国政府の[[国家情報会議]]のジョエル・ブレナー(Joel F. Brenner)専門官は「米国を標的として活動する140カ国ほどの諜報機関でも、中国が最も活発」と述べた。また中国のスパイ活動研究の権威として知られる[[デービッド・ワイズ]]は、軍事面でも超大国を目指す中国は、アメリカ合衆国を追い越すために、軍事機密を標的にしていると指摘し、近年では[[F-35 (戦闘機)|F-35]]戦闘機の機密や核弾頭の軽量化技術を奪取したと述べた<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130206/chn13020611080002-n1.htm |title=中国の最大の標的は米軍事機密 第2部インテリジェンスなき国(4) |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2013-02-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130206030045/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130206/chn13020611080002-n1.htm |archivedate=2013-02-06}}</ref>。また、2005年7月、中国人民解放軍の[[朱成虎]]少将は「米国が台湾海峡での武力紛争に介入し中国を攻撃した場合、中国は対米核攻撃に踏み切る用意がある」と発言した<ref>{{Cite news|author=[[阿部純一]]|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37015|title=人民解放軍暴走の不安が消えない理由|newspaper=[[JBpress]]|publisher=[[日本ビジネスプレス]]|date=2013-01-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210508091423/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37015|archivedate=2021-05-08|deadlinkdate=}}</ref>。 2015年5月、中国が[[南沙諸島]]で建設中の人工島を米偵察機が偵察した。この事件をめぐって、両国は2001年4月に米中両軍機が南シナ海上空で衝突して以来の緊張状態となった。アメリカ合衆国政府は、スプラトリー諸島(南沙諸島)の12海里以内に米軍機を進入させる可能性を表明しており、中国外務省は「言動を慎むよう求める。私たちは関係地域に対する監視を密にし、必要に応じて適切な措置を取る」と反発した<ref>[https://web.archive.org/web/20150522170412/http://www.sankei.com/world/news/150522/wor1505220035-n2.html 中国、米に猛反発 「言動慎め」「適切措置取る」 南シナ海監視強化に](2015年5月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 産経新聞 2015年5月22日</ref>。なお、7月末に[[マレーシア航空370便墜落事故]]の残骸の一部が発見された。 以前は[[パナマ]]は台湾と外交関係があり中国とは国交がなかったが、中国は、アメリカ合衆国の「裏庭」ともいわれる[[カリブ海]]に出ることを念頭に国交を樹立し、パナマ最大のマルゲリータ島港を99年租借する契約を交わした<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.bbc.com/japanese/40256748|title=パナマが台湾と断交 中国と国交樹立|newspaper=[[BBCニュース]]|publisher=|date=2017-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210301135955/https://www.bbc.com/japanese/40256748|archivedate=2021-03-01|deadlinkdate=}}</ref>。 [[ドナルド・トランプ|トランプ]]政権後期ごろから米中関係が本格的に悪化しはじめ、アメリカの対中姿勢の硬化は後任の[[バイデン政権]]にも引き継がれ、2021年3月に[[ジョー・バイデン|バイデン]]大統領は米中関係を「21世紀における民主主義と専制主義の闘い」と定義づけた<ref name="NHK20210326">{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210326/k10012936801000.html|title=バイデン大統領 就任後初会見 “民主主義と専制主義の闘い”|agency=[[日本放送協会]]|date=2021-03-26|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 === 台湾(中華民国) === 「両岸」とは[[台湾海峡]]を挟んだ[[中国本土]]と[[台湾]]の海岸を指しており、そこから「[[中台関係|両岸関係]]」は台湾を実効支配する[[中華民国]]と中華人民共和国との関係を指す言葉となっている([[二つの中国]])。 [[1946年]]から激化した[[国共内戦|第二次国共内戦]]に勝利した[[中国共産党]]が[[1949年]]に中華人民共和国を中国大陸に建国、同年中に中華民国政府は、[[1945年]]の[[日本の降伏]]に伴い接収していた台湾に移った。それ以来、中華人民共和国は中華民国と「中国における正統政府」の座を巡って対立し、両国共に互いの統治する地域の支配権を主張して譲らなかった([[台湾問題]])。 国共内戦の延長で[[1954年]]に「台湾解放宣言」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%A7%A3%E6%94%BE%E5%AE%A3%E8%A8%80-92330 台湾解放宣言]([[コトバンク]])</ref> を出し、[[第一次台湾海峡危機]](1954年 - [[1955年]])と[[金門砲戦]]([[1958年]] - [[1979年]])を起こしたが武力による台湾占領には至らなかった。 中華人民共和国政府は[[国際連合]]における「中国」代表権を求めて諸外国に外交的に働きかけた他、「中華民国政府が実効統治している台湾は中華人民共和国の領土」と見なして領有権を主張し、「台湾解放」の名の元に[[金門県|金門島]]への砲撃を度々行った。その後、冷戦下におけるアメリカとソ連の間の対立や、ソ連と中華人民共和国の対立の激化などの政治バランスの変化に伴い、中華民国が国連の「中国」代表権を喪失して国際的に孤立し、中華人民共和国も改革・開放を推進するようになると、中華人民共和国政府は「[[一国二制度]]」といった統一の枠組みの提案や「[[三通]]政策」といった穏健的な統一政策を通じて両岸関係の改善を図った。1992年には両国政府関係者が「一国共識、各自表述(「[[一つの中国]]」を共通認識とするが、解釈はそれぞれが行う)」の統一原則を確認するまでに至った。 だが、1990年代に入ると、中華民国では[[李登輝]][[中華民国総統]]による政治体制の民主化が進められ、それに伴い中華民国では、中華民国とは別個の「台湾」という国家を創り上げる[[台湾独立運動]](台独運動)が活発化し始めた。このような動きに対し、中華人民共和国は[[中華民国総統選挙|総統選挙]]([[1996年]]から実施)における台独派([[泛緑連盟]])候補者の当選阻止を目指して[[軍事演習]]で威嚇するなど強硬姿勢をとった。しかし、いずれの選挙においても阻止するには至らなかった。 このことを教訓としてか、[[2005年]][[3月14日]]には中華人民共和国で[[反国家分裂法]]が成立した。この法律は中華人民共和国による中華民国の武力併合に法的根拠を与えることを名目とする。こうした経緯で、今日の中華民国と中華人民共和国の関係は、台湾問題として[[東アジア]]地域の不安定要素と見る見方も一部で存在する。中華民国にも「台独」に反対する「中国派」の人々([[泛藍連盟]])が存在している。こうした動きにおいては、[[中国国民党]]が有力な存在である。国民党党首・[[連戦]]は、[[2005年]][[4月26日]]〜[[5月3日]]にかけて中華人民共和国を訪問、共産党党首・[[胡錦濤]]と60年ぶりの国共首脳会談を実施した。 [[2010年]]に台湾との間で[[両岸経済協力枠組協議]](ECFA)が締結されたが、[[海峡両岸サービス貿易協定|サービス貿易協定]]は4年後批准を拒まれた([[ひまわり学生運動]])。 [[2010年代]]に入ると[[一つの中国]]による[[台湾問題]]の解決を「(自国の)[[核心的利益]]の一つ」と規定するようになり、基本的には[[九二共識]]の合意に基づいた平和的な[[中国統一]]を目指しているが、一方で[[中国人民解放軍]]の武力による台湾制圧の可能性も指摘されている<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20171118-4FACDWSFL5ODFCFTAWUYBQ3HGU/|title=「中国が2020年までに台湾侵攻の準備を終える」暴かれた習近平指導部の計画 「尖閣諸島奪還は2040{{~}}45年」|work=産経新聞|date=2017-11-18|accessdate=2018-09-14}}</ref>。 [[中華民国海軍]]の元軍艦長で軍事評論家の呂礼詩は、中華人民共和国の[[習近平]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]([[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]])は自身の[[遺産|レガシー]]のためにも[[中国統一|台湾統一]]にこだわると分析している<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP645F9MP5MUHBI03G.html|title=「過去最悪」の中台関係 危機に備える台湾、日米に期待|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2021-06-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210609073301/https://www.asahi.com/articles/ASP645F9MP5MUHBI03G.html|archivedate=2021-06-09|deadurldate=}}</ref>。 ===ロシア連邦=== 成立当初、「[[向ソ一辺倒]]」を掲げ[[ソ連]]とは密接な関係となり、経済支援も受けていた。しかし[[ニキータ・フルシチョフ]]による[[スターリン批判]]に対し、中国は「[[修正主義]]」と強く批判した。一方ソ連は[[毛沢東]]による[[文化大革命]]などを批判。両国の関係は悪化し、[[中ソ国境紛争]]もおこる。[[ソビエト連邦の崩壊]]後には[[ロシア]]と良好な関係となる。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]でロシアは[[欧州連合]]や日本などの[[親米]]に経済制裁を行われ、中露の関係は緊密化した。しかし、中国は近年[[中央アジア]]への介入を実施しており、ロシアが警戒感を抱く可能性がある。 === 日本 === {{See also|反日|反日主義|反日感情|反日教育}} [[日中関係史]]は古代からのものであるが、現在の日本国と中華人民共和国の外交は1972年9月29日の[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に始まる。その後両国は1978年8月12日、[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]を締結した。日本国と中華人民共和国は[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]に署名していないため日中平和友好条約が両国にとってのはじめての条約締結となる。 両岸関係が[[シーレーン]]の安否に関わる。[[中国産食品の安全性]]は輸入量と後述の環境汚染と関係して問題となる。 === 領土問題 === [[インド]]と[[ブータン]]を除く12カ国([[ロシア]]など)とは陸上国境の画定が完了しているものの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b39322-s0-c70-d0000.html |title=12か国との国境画定が完了、残るはインドとブータンのみ=海上防衛の強化も進む―中国紙 |publisher=[[Record China]]|date=2010-01-31|accessdate=2016-07-12}}</ref>、島嶼部を巡っては中国の海洋進出に伴い、[[領土問題]]を複数抱えている。 * [[台湾本島]]・[[澎湖諸島]]・[[金門島]]・[[馬祖島]]・[[烏坵郷]]・[[東沙諸島]]([[中華民国]]) * [[西沙諸島]](パラセル諸島)([[ベトナム]]、中華民国) * [[南沙諸島]](スプラトリー諸島)(中華民国、[[フィリピン]]、ベトナム、[[マレーシア]]、[[ブルネイ]]) * [[マクマホンライン]]([[アルナーチャル・プラデーシュ州]])([[インド]]) * [[カシミール]]([[アクサイチン]])(インド) * [[間島]]・[[蘇岩礁]](離於島)([[大韓民国|韓国]]) == 経済 == {{Main|中華人民共和国の経済}} <div class="floatright"> {| cellpadding="2" cellspacing="0" |- | <timeline> ImageSize = width:300 height:140 PlotArea = left:60 bottom:20 top:10 right:0 AlignBars = justify DateFormat = yyyy Period = from:0 till:16000 TimeAxis = orientation:horizontal Colors = id:gray value:gray(0.5) id:line1 value:gray(0.9) id:line2 value:gray(0.7) ScaleMajor = unit:year increment:5000 start:0 gridcolor:line2 ScaleMinor = unit:year increment:1000 start:0 gridcolor:line1 BarData = bar:USA text:USA bar:China text:China bar:Japan text:Japan bar:Germany text:Germany bar:France text:France PlotData= color:tan1 width:10 bar:USA from:start till:15684 text:15,684 color:yellow width:10 bar:China from:start till:8227 text:8,227 color:tan1 width:10 bar:Japan from:start till:5963 text:5,963 bar:Germany from:start till:3400 text:3,400 bar:France from:start till:2608 text:2,608 TextData = pos:(5,1) textcolor:gray fontsize:S text:US$ bn </timeline> |- | style="text-align:left; font-size:85%;" |[[国際通貨基金|IMF]]のデータに基づく、2012年時点での<br />主要経済大国の名目GDP比較図 (単位:10億米ドル)<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2013/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=81&pr.y=16&sy=2011&ey=2018&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=924%2C132%2C134%2C158%2C111&s=NGDPD&grp=0&a=|title=Nominal GDP comparison of China, Germany, France, Japan and USA|publisher=IMF World Economic Outlook|date=April 2013 data|accessdate=26 April 2013}}</ref> |} </div> [[世界銀行]]の統計によると、[[2018年]]時点での中国の[[国内総生産|GDP]]は13兆8948.2億ドル<ref>{{Cite web|title=CountryProfile|url=https://databank.worldbank.org/views/reports/reportwidget.aspx?Report_Name=CountryProfile&Id=b450fd57&tbar=y&dd=y&inf=n&zm=n&country=CHN|website=databank.worldbank.org|accessdate=2021-03-23}}</ref> であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に次ぐ世界第2位である<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=38&pr.y=8&sy=2000&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=924&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMF World Economic Outlook Database 2012]</ref>。なお、当時世界第2位だった日本のGDPを中国が抜いたのは2010年のことである。[[2014年]]はIMF・世銀・[[ザ・ワールド・ファクトブック|CIA]]によると、[[購買力平価説|購買力平価]]換算でアメリカを超えて世界最大のGDPとなり<ref name="china1">{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/01/weodata/weorept.aspx?sy=2014&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=subject&ds=.&br=1&pr1.x=65&pr1.y=8&c=512%2C668%2C914%2C672%2C612%2C946%2C614%2C137%2C311%2C962%2C213%2C674%2C911%2C676%2C193%2C548%2C122%2C556%2C912%2C678%2C313%2C181%2C419%2C867%2C513%2C682%2C316%2C684%2C913%2C273%2C124%2C868%2C339%2C921%2C638%2C948%2C514%2C943%2C218%2C686%2C963%2C688%2C616%2C518%2C223%2C728%2C516%2C558%2C918%2C138%2C748%2C196%2C618%2C278%2C624%2C692%2C522%2C694%2C622%2C142%2C156%2C449%2C626%2C564%2C628%2C565%2C228%2C283%2C924%2C853%2C233%2C288%2C632%2C293%2C636%2C566%2C634%2C964%2C238%2C182%2C662%2C453%2C960%2C968%2C423%2C922%2C935%2C714%2C128%2C862%2C611%2C135%2C321%2C716%2C243%2C456%2C248%2C722%2C469%2C942%2C253%2C718%2C642%2C724%2C643%2C576%2C939%2C936%2C644%2C961%2C819%2C813%2C172%2C199%2C132%2C733%2C646%2C184%2C648%2C524%2C915%2C361%2C134%2C362%2C652%2C364%2C174%2C732%2C328%2C366%2C258%2C734%2C656%2C144%2C654%2C146%2C336%2C463%2C263%2C528%2C268%2C923%2C532%2C738%2C944%2C578%2C176%2C537%2C534%2C742%2C536%2C866%2C429%2C369%2C433%2C744%2C178%2C186%2C436%2C925%2C136%2C869%2C343%2C746%2C158%2C926%2C439%2C466%2C916%2C112%2C664%2C111%2C826%2C298%2C542%2C927%2C967%2C846%2C443%2C299%2C917%2C582%2C544%2C474%2C941%2C754%2C446%2C698%2C666&s=PPPGDP&grp=0&a= |title= Report for Selected Country Groups and Subjects (PPP valuation of country GDP)|publisher=IMF|accessdate=2015-08-02 }} </ref><ref name="china2">{{cite web|author=Data |url=http://databank.worldbank.org/data/download/GDP_PPP.pdf |title="Gross domestic product 2014, PPP", World Bank, accessed on 2 July 2015|publisher=Data.worldbank.org |date=July 2, 2015|accessdate=Aug 2, 2015}}; European Union calculated by sum of individual countries. </ref><ref name="china3">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2001rank.html Field listing - GDP (PPP exchange rate)], CIA</ref>、2015年には購買力平価で[[欧州連合]]を超えて世界初の20兆ドル以上のGDPに達した国となった。ミリオネアは440万人<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/30387|title=中国人富裕層の数、初の米国抜き 世界の格差も浮き彫りに|accessdate=2022年1月1日|publisher=フォーブス}}</ref>、中流層は約4億人とどちらも世界最多だが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3344804|title=中間所得層を増やせ! 中国の消費経済発展のカギ|accessdate=2022年1月1日|publisher=AFP}}</ref>世界銀行によって[[発展途上国]]に分類されている<ref>[http://data.worldbank.org/about/country-classifications/country-and-lending-groups 世界銀行による国の分類]</ref>。1日2ドル以下の絶対貧困人口は改善されており2019年は551万人と6年間で10分の1以下になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/357314?page=2|title=中国に衝撃「月収1.5万円が6億人」の貧しさ|accessdate=2022年1月1日|publisher=東洋経済}}</ref>。2022年、人工衛星を通じて入手した夜のライト量から測定した結果、中国のGDPは政府発表の6割でしかないという[[シカゴ大学]]の研究結果を[[タイム (雑誌)|タイム誌]]は発表した<ref>{{cite news |url=https://president.jp/articles/-/68588 |title=中国の本当のGDPは当局発表の6割しかない…人工衛星で光の量を測定してわかった中国経済の真の実力 |publisher=プレジデントオンライン |date=2023-04-20 |accessdate=2023-06-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230420060550/https://president.jp/articles/-/68588 |archivedate=2023-04-20}}</ref>。 人民元改革のとき[[証券化]]で生じた過剰流動性が、中国版[[シャドー・バンキング・システム]]と呼べるような金融系統を発達させた。そして実際の資金運用が、不動産や株式といった金融資産の市場価格を乱高下させたり、財源を中央政府に独占された自治体をして償還の目途が立たない地方債を発行させたり、福祉制度の破綻を救わずに宇宙産業や通信産業を振興したりしている。これら市場の混乱、地方債リスク、傾斜した産業構造といった社会問題は、預金を国外へ流出させたり、あるいは国外証券を買わせたりしており、国際経済に影響を出している<ref>三尾幸吉郎 [http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=54876&pno=3?site=nli 図表でみる中国経済(国際収支編)~資金流出を分析した上で人民元の行方を探る] ニッセイ基礎研究所 2017年01月24日</ref>。 人民間の経済格差は深刻であり、CEICによると2019年時点でのジニ係数は0.465となっており<ref>https://www.ceicdata.com/en/china/resident-income-distribution/gini-coefficient</ref>、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[日本]]などを大きく上回っている。 2021年、中華人民共和国の[[陽江原子力発電所]]は[[福島第一原子力発電所]]の5倍以上のトリチウムを放出した<ref>{{Cite web|url=https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/shirou_alps/no2/ |title=トリチウムって何?ALPS処理水 |publisher=経済産業省 |accessdate=2023-11-28}}</ref>。 === 改革開放政策の成果 === [[ファイル:Graph of Major Developing Economies by Real GDP per capita at PPP 1990-2013.png|thumb|325px|1990年から2013年までの[[国の国内総生産順リスト (一人当り購買力平価)|一人当りの購買力平価GDP]]による中国及び主要新興国。中国 (青) の急速な経済成長が顕著である<ref>{{cite web|title=World Bank World Development Indicators|url=http://data.worldbank.org/data-catalog/world-development-indicators|publisher=World Bank|accessdate=8 December 2014}}</ref>]] 国家成立後、[[1970年代]]中半までの経済は[[大躍進政策]]の失敗や[[文化大革命]]によって立ち遅れていた。農業を志向した社会主義経済の非効率性も経済発展の障害となっていた。このため、[[鄧小平]]の主導によって[[1978年]]に「[[改革開放]]」政策が採用され、[[社会主義市場経済]]の導入、国営企業の民営化や不採算企業の閉鎖、[[人民公社]]の廃止と[[生産責任制]]の実施、外資導入など、経済政策の方針を、[[市場経済]]原理による[[資本主義]]体制を大幅に取り入れたものに転換した。その結果、[[1980年]]代以降の経済は[[経済特区]]を中心として長年にわたり成長を持続している。特に[[香港]]へ人材が流出し、また経済格差も広がった。それまで[[中国人民銀行]]によるモノバンク体制であった中国は、1984年に四大商業銀行体制([[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]・[[中国建設銀行]]・[[中国農業銀行]]・[[中国工商銀行]])を形式上整備した。依然として国有銀行だったので、融資は中国共産党の計算で行われ、不良債権を積み上げた。これを公債市場の開放につなげるため、中央と地方の税収を分けた([[:zh:中国1994年分税制改革|中国1994年分税制改革]], 2018年3月から再統合開始)。すると歳入に占める中央政府と全自治体の割合がほぼ半々になった。この比率は現在まで維持されている。そしてこの改革以降は自治体が歳出の8割以上を負担している<ref>甘長青 「中国の経済成長減速と財政の持続可能性」 九州情報大学研究論集 (15) 2013年3月 43頁</ref>。地方債は公認の有無に関係なく発行された。現在もそれは変わらない<ref>[https://www.caixinglobal.com/2018-05-09/local-governments-given-more-options-for-issuing-bonds-101246502.html Local Governments Given More Options for Issuing Bonds], May 09, 2018</ref>。21世紀に入ると、他に経済成長の著しいブラジル、ロシア、[[インド]]、[[南アフリカ]]とともに、[[ゴールドマン・サックス]]からBRICSと呼ばれた<ref>太田2010年 148頁</ref>。[[2010年]]のGDP成長率は3年ぶりに2桁増の10.3%<ref>{{cite web |url = http://www.stats.gov.cn/tjfx/jdfx/t20110120_402699441.htm |title = 2010年国民経済運行態勢総体良好 |publisher = [[中華人民共和国国家統計局]] |date = 2011-01-20 |accessdate = 2011-01-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110123155130/http://www.stats.gov.cn/tjfx/jdfx/t20110120_402699441.htm |archivedate=2011-01-23 }}{{zh icon}}</ref> となり、「'''世界第2位の経済大国'''」となった<ref>日本経済新聞 2011年1月21日</ref>。 <!-- === 証券化のはじまり === 建国以来、中国の金融機関は[[中国人民銀行]]だけであって、仕事も間接金融が主流であった。その本店が支店に対して強制的な指標を提示して、地方ごとに、また業界ごとに貸出額・貸出先・預金などをコントロールしていた<ref name=aizawa>相沢幸悦 「中国の資本市場の現状及び改革の動向」 (資本市場研究会 『国際資本市場の新たな動向』 財経詳報社 1996年 第2章)</ref>。 1965-1971年に、中国は[[モーリタニア]]、[[イエメン]]、[[カナダ]]、[[赤道ギニア]]、[[イタリア]]、[[エチオピア]]、[[チリ]]、[[ナイジェリア]]、[[クウェート]]、[[カメルーン]]、[[サンマリノ]]、[[オーストリア]]と国交を樹立し、[[国際連合]]加盟も果した<ref>三宅康之 "中国の「国交樹立外交」、1965~1971年" 愛知県立大学外国語学部紀要 地域研究・国際学編 第43号 2011年 83-111頁</ref>。翌年には[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]を発した。このようなとき[[文化大革命]]が社会保険制度を破壊した。1969年、財政省が「国営企業財務管理制度における改革意見書(草案)」を公表し、国営企業における社会保険給付を一律停止して、企業が保険費用を負担するようになった<ref name=pension />。 もはや中国人民銀行だけでは資金需給の変化に対応しきれなくなった。そこで1979年に金融制度改革がスタートした。まずは同行に集中されていた各種金融機能が専門銀行に分割された([[中国工商銀行]]・[[中国農業銀行]]・[[中国建設銀行]]・[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]など)。中国人民銀行の支配対象がフローだけとなり、その分行は決められたフローの範囲内で間接金融を担った。1979年は[[郷鎮]]企業が[[社債]]発行を認められた。民間では闇で株式類似証書による[[直接金融]]も行われた。1981年、政府米などの購入が響き48億6600万元の赤字国債を発行した。12月に[[中国投資銀行]]が新設された。これを通じて[[世界銀行|世銀]]などから借款を受けた。1983年、銀行に利潤留保制度が導入された。1985年、各専門銀行が貸付計画の中に組み込まれ、そこで節約された貸付額の穴埋めとして専門銀行間の[[銀行間取引市場]]が整備された。1988年、オーバーローンを廃して、代わりに政策金利設定や公開市場操作といった方法がとられるようになった。貸付をしぶったせいで景気低迷が起こった。それまで中国の証券業は純粋に発行市場だけであったが、不況下で資本調達を可能とするため流通市場が育成されていった。1990年までに発行国債は604億元に達したが、それは半ば強制的に消化されていた。財政部からトップダウンで各自治体の企業に割り当て、各企業が社員の給料から天引きして購入させていたのである<ref name=aizawa />。 === 甦る上海 === [[ファイル:Shanghaistockexchange.jpg|thumb|[[上海市]]・[[w:Lujiazui|陸家嘴]]の金融街における[[上海証券取引所]]。2011年時点で、上海市のGDPは総計30億4千万米ドルで[[域内総生産順リスト|世界第25位]]の都市である<ref>[http://www.chinadaily.com.cn/china/2012-01/20/content_14484614.htm "Shanghai's GDP grows 8.2% in 2011"]. ''China Daily''. 20 January 2012. Retrieved 15 April 2012.</ref>]] 1991年11月、中国人民銀行は、上海真空電子部品株式会社(1987年から民営化)が外国人向けの人民元特殊株式(いわゆるB株式)を発行することを初めて認め、これが翌年1月に発行された。額面総額は1億元(100万株)で、そのうち80%は[[サンフンカイ]]、[[ソロモン・ブラザーズ]]、[[スイス銀行コーポレイション]]が国外で販売することになった。売買・利子・売却益の計算はUSドルで行われた。1992年後半から中国経済は加熱したので、10月に国務院証券管理委員会が設置された。1993年4月、[[米国証券取引委員会]]がアメリカの[[機関投資家]]に対してB株式への直接投資を許可した。同年の中国では株式上場が多く、相応の資金が吸収された。同年、中国人民銀行が全支店を直轄し金融引き締めを断行した。1993年12月、第8期[[全国人民代表大会]]常務委員会第5回会議で「中華人民共和国会社法」が採択された(翌年7月施行)。もっとも、国の受権する投資機構が保有する株式は、ちがう法律または行政法規で制限された。1994年初頭の調査によると、全国371社の株式会社を対象とした株式保有状況は、国家株が33.8%、法人化株が45.2%、個人株が19.4%、外資株が1.6%であった<ref name=aizawa />。 1993年9月には財政部が300億円の[[ユーロ債|ユーロ円債]]を発行していた。1994年1月1日から二重為替相場制が一本化され、4月に全国的な為替スワップ市場が上海にオープンした<ref name=aizawa />。 === 世界資本の集まる工場 === 香港返還までに当地の経済はダイナミズムを示した。まず本土企業が香港企業を買収し上場させるという「借殻上市」あるいは裏口上場が進んだ。1992年7月、海虹集団(現[[招商局港口控股]])が香港で上場した。これをはじめとして本土企業が次々と香港で上場するようになった。これは中国証券監督管理委員会と[[香港証券取引所]]との合意によるものである。1993年7月に[[青島ビール]]がH株上場第1号となった。翌月には[[広船国際]]、11月には[[馬鞍山鋼鉄]]が1次で上場した。2次の上場予定は往時で[[武漢鋼鉄]]、[[中国南方航空]]、[[華能国際電力]]、[[大唐国際発電]]など。このような中国化と並行し、脱英国化が進んだ。[[ジャーディン・マセソン]]の系列企業5社は香港上場を廃止し、第2上場先を[[シンガポール]]に切り替えた。[[香港上海銀行]]はロンドンへ移転した。この脱イギリス化に並行してUSドル連動化も進んだ。前節の上海真空電子部品株が一例となるが、香港の場合1994年1USドル=7.80香港ドルでリンクしていた<ref>資本市場研究会 『国際資本市場の新たな動向』 財経詳報社 1996年 13-15頁</ref>。 安い人件費と膨大な人口を背景にした潜在消費需要を当て込んだ外資が中国に投入された。中国産業は、安い人件費を強みとして安価な製品[[輸出]]を拡大した。中国は「世界の工場」と呼ばれるようになった。[[世界貿易機関]](WTO)の発表によれば、[[2003年]]の対中[[直接投資]]は535億ドルとなり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を抜いて実質的に世界最大の直接投資受入国となった([[ルクセンブルク]]の特例を除く)。輸出については、[[自由貿易協定|FTA]]相手国の日本、韓国、東南アジア諸国、アメリカなどへの輸出拡大が目覚しく、大幅な貿易黒字を記録している。一方で内陸の貧困が放置されており、個人消費の割合が20世紀から低いままである。このことが、投資効率性低下や資源浪費、環境破壊そして過剰貯蓄を通じて貿易摩擦に繋がっている。2006年に入ってからは個人消費と内需による経済成長を図る方針へ転換した。3年後に労働力が不足するなどという楽観的観測もなされた<ref name="20060901nna">2006年9月1日付配信 NNA</ref>。[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]がおこると理由をつけて資本が逃避するのであった。それが「[[チャイナリスク]]」であった<ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130221/biz13022111260008-n1.htm |title=食材でもチャイナリスク回避 アジア・アフリカと広がる調達先 |publisher=産経新聞 |date=2013-02-21 |accessdate=2013-02-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130221170702/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130221/biz13022111260008-n1.htm |archivedate=2013-02-21}}</ref><ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121229/biz12122912010005-n1.htm |title=【回顧・激動経済】中国リスク 「チャイナ+1」加速へ |publisher=産経新聞 |date=2012年12月26日 |accessdate=2013年2月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121229175315/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121229/biz12122912010005-n1.htm |archivedate=2012年12月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/130104/trd13010412400009-n1.htm |title=【25〜ニッポン未来予測(3)】「やっと中国から解放された」…インドが「世界の工場」に |publisher=産経新聞 |date=2013-01-04 |accessdate=2013-02-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130104042001/http://sankei.jp.msn.com/life/news/130104/trd13010412400009-n1.htm |archivedate=2013-01-04}}</ref>。著名な例では、[[多国籍企業]]の[[Google]]が中国のネット検閲を理由に撤退した。外資だけでなく、国有企業に対する民間の活力が小さいという産業構造の問題もある([[国進民退]])。 === 外資の津波で機関化 === [[香港返還]]の前後(1994年から2002年まで)に、政府は銀行の基本的なルールや規制を作った。銀行業の商業化をさらに進め、1997年から不良債権処理にも取り組み始めた。1998年、政府は四大商業銀行の不良債権比率を32%としていたが、実際は50%近いとみられていた。政府は同年、四大商業銀行に合計2700億元の公的資金を投入した。1999年には四大銀行の不良債権のうち1.4兆元分を不良債権の管理会社に移した。2003年以降は[[コーポレート・ガバナンス]]が見直され、銀行システムが再構築された。同年末、中国銀行と中国建設銀行に、外貨準備を活用して合計450億ドルを注入し、健全化をうながした<ref>太田2010年 147頁</ref>。 政府は[[2000年]]ごろから[[西部大開発]]や[[:zh:振興東北老工業基地|振興東北老工業基地]]を重点政策とし、これら後発地域の開発に乗り出した。しかし、沿海部と内陸部との格差は解消されず、依然として内陸部よりも沿海部の方が経済成長率が高く、格差は拡大している。[[胡錦濤]]は格差の解消を政策目標の一つに掲げたが、目に見える成果を出せなかった。 2003年4月[[シティグループ]]が[[上海浦東発展銀行]]と戦略提携。2004年[[HSBCホールディングス|HSBC]]が[[交通銀行]]に出資した。[[2005年]]3月、[[INGグループ]]が[[北京銀行]]へ2.15億ドルを出資、19.9%を支配した。同年6月16日、[[バンク・オブ・アメリカ|バンカメ]]が中国建設銀行株を9%取得すると発表。同年[[7月21日]]より中国は[[管理フロート]]制と[[通貨バスケット制]]を採用した([[人民元改革]])。同年8月18日、[[ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド]]、[[メリルリンチ]]、[[李嘉誠]]基金が中国銀行に31億ドル(10%)を出資することが明らかとなった。同年10月17日、[[ドイツ銀行]]がオッペンハイム([[:en:Sal. Oppenheim|Sal. Oppenheim]])と共同で[[首鋼集団]]から[[華夏銀行]]株2.7億ユーロ(議決権14%)を買い入れた。同年から政府は中国建設銀行などを香港市場に上場させた。2006年1月27日、[[ゴールドマン・サックス]]、[[アリアンツ]]、[[アメリカン・エキスプレス]]が中国工商銀行へ出資して、やはり10%を支配することとなった。同年10月、[[モルガン・スタンレー]]が南通銀行を買収したことを発表した。それまで南通銀行は、広東省の珠海市を地盤とする、中国銀行の完全子会社であった。2007年8月[[インテーザ・サンパオロ]]が山東省の青島市商業銀行に1.35億ドルを出資して19.9%を支配した。[[イタリア]]資本で初めて中国の銀行へ資本参加した<ref>太田2010年 149-155頁</ref>。 2004年末に外貨準備高は6000億USドルを突破した<ref name=shukuwa>宿輪純一 『アジア金融システムの経済学』 日本経済新聞社 2006年 114頁</ref>。中国の為替介入は2005年だけで1000億ドルに迫る勢いで、増えた外貨準備を[[米国債]]へ向けているが(同年7月末で2400億ドル強)、実は[[国際決済銀行]]が通常業務として運用している<ref>『アジア金融システムの経済学』 115、175頁</ref>。 2007年、[[中国国家開発銀行]]が[[バークレイズ]]へ24億ユーロを出資した。中国国家開発銀行は、バークレイズが[[ABNアムロ銀行]]を買収することができた場合に、先の出資額を最大で98億ユーロまで拡大することを約束した。バークレイズは[[帝国主義]]の時代からアフリカでのビジネスに強かったので、出資により開発銀行のアフリカ進出にバークレイズから便宜を図ってもらおうという腹であった。2007年10月25日、中国工商銀行は[[スタンダードチャータード銀行]]株を20%も取得し、役員を派遣し、業務提携を進めた。この目的は開発銀行がバークレイズへ出資したのと全く同じである<ref>太田2010年 158-160頁</ref>。 2008年、中国銀行は[[エドモン・ドゥ・ロスチャイルドグループ|エドモンド・ロスチャイルド銀行]]へ20%資本参加すると発表した<ref>''Hoover's Handbook of World Business'', Reference Press, 2011, p.60. "BOC announced plans in 2008 to acquire 20% of French private bank La Compagnie Fi- nanciere Edmond de Rothschild"</ref>。 2009年9月、中国工商銀行はタイのACL銀行の株式公開買付を実施すると発表した。ACLはバンコクを拠点とする中堅銀行だが、大株主に[[バンコク銀行]]やタイ財務省がいる。工商銀行はバンコク銀行から19.3%を買い入れることで合意し、さらに全株取得をめざしていた。工商銀行は[[1マレーシア・デベロップメント・ブルハド|アセアン地域での金融業務展開]]をねらっていた<ref>太田2010年 160-161頁</ref>。 === シャドーバンキング問題 === [[人民元改革]]は、海外機関投資家の巨額取引による人民元高である。これを受けた[[外国為替平衡操作|為替介入]]で外貨準備は増加した。それが[[特別目的事業体]]で[[証券化]]されて、具体的には海外機関投資家の人民元を借りるときの担保になって、公共事業などに用いられた(4兆元規模のマネタリーベース機関化)<ref>烏谷一生 「構造調整に直面する中国の金融経済と国際金融政策の展開 軋む金融経済システムと対外収支の悪化の中で」 現代社会研究科論集 京都女子大学大学院現代社会研究科博士後期課程研究紀要 (10), 2016年3月 27頁</ref><ref>Hui Jin and Isabel Rial, [https://www.imf.org/external/pubs/ft/wp/2016/wp16187.pdf Regulating Local Government Financing Vehicles and Public-Private Partnerships in China], IMF, September 2016</ref><ref>柴田真一、 陳茜 『金融中国語入門』 東洋経済新報社 2014年 「地方政府は、これまで直接債券を発行したり、銀行借り入れをしたりすることはできませんでした。この規制が特別目的会社を通した不透明な資金調達を加速させたという反省もあり、2014年5月には、地方政府が直接債権を発行できる制度の創設が発表されました。」</ref>。[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]の2008年7月以降は1USドル=6.83人民元あたりへ実質的に固定した(為替介入)。 [[華南]]などでは大気や土壌における[[中国の環境問題|環境問題]]が深刻化している。そのため、国務院は[[中華人民共和国環境保護部|環境保護部]](国務院の「部」は他国政府でいう「省」に相当)を設立して、更なる環境問題への取り組みに乗り出している<ref>[https://web.archive.org/web/20080914045633/http://eco.nikkei.co.jp/column/eco-china/article.aspx?id=MMECcj000004092008 「環境保護省の組織固まる」](2008年9月14日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 日経エコノミー,2008年9月8日</ref>。2013年初頭からは通称「[[粒子状物質#PM2.5(微小粒子状物質)|PM2.5]]」と呼ばれる深刻な大気汚染が中国国内のみならず、日本にも影響を及ぼす事態となっている。[[中国の水供給と衛生状態]]も決してよくなかったが、先の大気汚染をきっかけに調査がすすみ、[[水銀]]の垂れ流しが日本側で指摘されるようになった<ref>染野憲治 「中国における水銀問題と中国政府の動き」 環境省 2013年9月2日</ref>。 2014年、[[アリババグループ]]がロスチャイルドを財務アドバイザーに起用してニューヨーク証券取引所に上場した。その準備段階で[[フィデリティ・インベストメンツ]]を自社の金融仲介に参加させ、ファンドマネージャーに不当な利益をもたらした問題をロイターが大きく報じた。この投信会社は米大統領とも関係しており、米中の緊密な政治経済関係を表現した。中国政府は過剰債務を抱えた企業を救済し2010年代前半から叫ばれたシャドーバンキング問題を乗り切った<ref>{{Cite web |url=https://jp.wsj.com/articles/evergrande-is-only-the-latest-in-a-chain-of-chinese-debt-crises-11632449164 |title=中国恒大問題、債務危機の連鎖と歴史の教訓 |accessdate=2022年3月25日 |publisher=ウォール・ストリート・ジャーナル}}</ref>。 中国政府はこのようなバブルに対し企業の救済、規制の強化など強権的な力でコントロールしている<ref>{{Cite web |url=https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2021/09/post-158_2.php |title=中国バブルは崩壊する、だがそれは日本人が思うバブル崩壊ではない |accessdate=2022年3月25日 |publisher=ニューズウィーク}}</ref>。 --> === 税制 === 2008年1月1日から法人税は国内企業と外資企業の基本法人税率が共に25%に統一された。国税には関税、消費税、国営企業の企業所得税などがあり、地方税は営業税、地方企業の企業所得税などがある。資源税や証券印紙税から構成される「国・地方共通税」は、国と地方で税収が75%:25%に配分される。この配分比は1994年の「分税制改革」による。 主な間接税には消費税、増値税、営業税の3種類がある。消費税は特定の嗜好品や贅沢品にのみ工場出荷時か輸入時に一度だけ品目によって3%〜45%が課税され、その後の流通段階ではあらゆる商品と役務提供に対して増値税が基本税率17%が適用されて各流通段階で課税される。各流通段階ではインボイスに当たる「増値税専用領収書」によってそれまでの増値税額が控除を受けることでそれぞれの付加価値に対して課税されることになる。ただし、贅沢からは縁遠い、穀物、食用油、水道などの特定の品目への増値税には低減税率13%が適用される。営業税は交通運送業、建設業、金融保険業、郵便電気通信業、文化体育業、サービス業、不動産販売業、無形資産の譲渡に対して3%〜5%、娯楽業は5%〜20%の税率で営業利益から規定額が控除された額に課税されていた。 増値税は常に外税表示であり、消費税と営業税はその性質上、内税であるため、増値税が日本での消費税に相当すると理解できる。 2016年5月1日、中国政府は国内景気の下支えと産業高度化のため、減税規模5000億元(約8兆2000億円)超の減税を行った<ref name="nikkei20160502m7">{{Cite news|author=|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32610280U8A700C1910M00/|title=中国、8兆円減税始動 不動産など非製造業の負担減 景気の下支えや産業高度化狙う|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=|date=2016-05-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160504175524/http://www.nikkei.com/article/DGKKZO00310810S6A500C1FF8000/|archivedate=2016-05-04|deadlinkdate=}}</ref>。1994年の税制改正後、モノには増値税、サービスには営業税を課してきたが、似た2つの税金が並立してわかりにくく、モノとサービスの境目が曖昧であるため、2012年から増値税を課する対象を広げてきていた<ref name="nikkei20160502m7"/>。さらに2016年には増値税を課する対象に不動産、建設、サービスを加えて、営業税を廃止した<ref name="nikkei20160502m7"/>。不動産にあっては、これまで営業税3パーセントの税率が増値税11パーセントにかわり、金融にあっては営業税5パーセントが増値税6パーセントにかわる<ref name="nikkei20160502m7"/>。しかし、課税対象が売り上げから粗利(売上から仕入れを引いた額)にかわるため実質的な税負担は減額となる<ref name="nikkei20160502m7"/>。これまで営業税は生産、流通、販売の各段階で売り上げに課税され、取引回数が多いほど税負担が重くなり、外部取引より社内調達の方が有利になり、分業化や専門化を妨げていた<ref name="nikkei20160502m7"/>。増値税は仕入れの税負担が控除されるため、外部の専門業者による高度なサービスを利用することを促し、製造業の専門化などにつながる<ref name="nikkei20160502m7"/>。 香港は一国二制度が継続されており、基本的には返還以前の税制が維持されて中国本土側の税制とは異なっている<ref>監査法人トーマツ編 「アジア諸国の税法」 第四版 ISBN 4-502-91370-7</ref>。 == 科学技術 == {{main|中華人民共和国の科学技術}} {{See also|中華人民共和国科学技術部}} === 宇宙開発 === [[ファイル:The Launch of Long March 3B Rocket.jpg|thumb|upright|right|[[長征3号B|長征3B]]ロケット発射の様子]] {{Main|中国の宇宙開発}} 1970年代以降から活発に[[長征 (ロケット)|長征ロケットシリーズ]]を開発していたが、その後の開発は順調に進み、[[2003年]]には有人宇宙船[[神舟5号]]によって[[楊利偉]]中佐を乗せ、初の有人宇宙飛行を行った。[[2008年]]の[[神舟7号]]では3人の宇宙飛行士を乗せて、ソ連、アメリカに続いて世界で三番目、中国としては初の宇宙空間での船外作業(飛行士1名)を行った。 今後の動向として、[[月探査|月面探査プロジェクト]]「'''[[嫦娥計画]]'''」や、2020年の宇宙ステーション計画などがある。 現在中国は自力で宇宙開発技術を向上させている。 成果は[[中国における携帯電話]]サービスが充実したことに現れている。 日本の[[宇宙航空研究開発機構|国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構]]では、中国の宇宙開発を「国家の経済発展と国民の生活水準向上に貢献することを主要な目的とする実益重視型」と評価している<ref>{{Cite news|author=[[辻野照久]]|url=http://crds.jst.go.jp/CRC/monthly-report/200809/toku_tsuji.html|title=特集・宇宙科学~中国有人宇宙船「神舟7号」打上げに寄せて~|newspaper=|publisher=[[科学技術振興機構]]|date=2008-09-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090113032850/http://crds.jst.go.jp/CRC/monthly-report/200809/toku_tsuji.html|archivedate=2009-01-13|deadlinkdate=}}</ref>。 <!--== 社会 ==--> == 社会問題 == === 汚職問題 === {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国における汚職|en|Corruption in China}}}} 地方政府の役人(共産党員に限らず)の腐敗や職権の濫用が多いことが問題となっている。地方政府の対応に不満を持った農民や労働者は中央政府へ訴え出たり、場合によっては暴動を起こしたりしており、大きな社会問題となっている。また、政府高官でも[[汚職]]を行なった者に対しては[[死刑]]が適用・執行されており、[[2000年]]には[[成克傑]](元[[全国人民代表大会]]常務副委員長)が収賄罪で、[[2007年]]には[[:zh:郑筱萸|鄭篠萸]](元国家食品薬品監督管理局長)が収賄罪でそれぞれ死刑が執行されている。 改革開放が進んで以降の中国では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に勝るとも劣らない[[拝金主義]]、[[物質主義]]が進行しているという指摘が多くある。たとえば、大規模な工場を建設する際に、周囲の住民の意見には聞く耳も持たず、「金にならない」というだけで工場の存在から出るリスク(汚水、悪臭、排煙など)を無視しているケースが散見される。また、食品製造では、安全性よりコストを優先するがゆえに無視し、危険な食品であっても生産するケースもある。また、[[多国籍企業]]の下請けになっている中国企業では、従業員を過酷な労働環境かつ安い賃金で使い、末端従業員の[[過労死]]、[[過労死|過労自殺]]を引き起こしている。そういったことを本来取り締まるべきなのは政府役人だが、金によって腐敗している者も少なくない。こうした問題の深刻な実態は2010年代に入って以降、国内外の調査団体や有志の調査により表面化しつつある。 === 司法問題 === {{See also|中華人民共和国における死刑}} 中華人民共和国の[[司法]]に関してはいくつかの問題が内外から指摘されている。[[控訴]]する権利は与えられてはいるものの実際に控訴で逆転できるパターンはわずかである。 テロの首謀者から汚職といった他人に暴力を振るったり生命の危機に直面させない罪などでも、死刑判決即執行に該当する。人権擁護団体[[アムネスティ・インターナショナル]]での報告によると、[[2004年]]で全世界で執行された死刑囚の数の9割以上(約3400人)が中華人民共和国であり、同団体に非難されている。 特に地方の[[中華人民共和国法#司法組織、裁判制度|人民法院]]の[[裁判官]]について、質に難があるという指摘がある。[[賄賂]]を要求することも多く、断ったら会社の設備を破壊され営業不能となった上、押収品を勝手に他者に渡す、といった事例まである<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080409-OYT1T00044.htm|title=中国裁判官が日系企業にわいろ強要、断ったら設備破壊|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=|date=2008-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080409225756/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080409-OYT1T00044.htm|archivedate=2008-04-09|deadlinkdate=}}</ref>。 2015年12月、中国のグローバル企業である[[復星集団]]の会長で支配株主でもある郭広昌が当局から身柄を拘束された。中国では党幹部や政府高官、国営企業のトップなど広範囲で取り締まりが強化されており、12月下旬には、言論の自由を擁護する活動家である弁護士も有罪判決を受けた<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45642 中国企業と国家:一段と厳しくなる締め付け] - The Economist 2015年12月25日</ref>。 === 中国産食品の安全性 === {{Main|中国産食品の安全性}} 農薬の使い過ぎなどにより、中国では食品の安全性の悪さが大きな社会問題になっている。 === 人権・報道問題 === {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国における人権|en|Human rights in China}}|中国の人権問題|{{仮リンク|中国のメディア|en|Mass media in China}}}} [[ファイル:2010-07-25 Guangzhou mass assembly.jpg|thumb|2010年[[広州市]]にて、[[広東語]]によるメディア現地語化支持者の抗議運動]] 中華人民共和国では、報道は[[新華社|新華社通信]]、[[人民日報]]、[[環球時報]]、[[中国中央電視台]]『[[新聞聯播]]』などの[[報道機関]]が[[世界]]的に知られている。改革開放以後は新聞は[[タブロイド]]が爆発的に増え、テレビは地方局が多数開設された([[キー局]]は中国中央電視台だけである)。しかし政府の統制下にある事には変わりなくメディアの規制も強化されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/821496/ |title=独自報道のSNS転載禁止…中国当局がネット報道統制を強める理由 |accessdate=2022年3月25日 |publisher=西日本新聞}}</ref>。 [[中華人民共和国国務院|中国政府]]は、[[検閲]]での情報操作([[一国二制度]]適用の[[香港]]・[[マカオ]]は除く)を行っている。共産党・政府に対して、マイナスと認識した報道を規制している。 {{See also|{{仮リンク|香港のメディア|en|Media of Hong Kong}}|{{仮リンク|マカオのメディア|en|Media of Macau}}}} [[2015年]][[9月3日]]の[[中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典]]において、[[国際刑事裁判所]](ICC)から虐殺などの疑いで逮捕状が出ているスーダン大統領の[[オマル・アル=バシール]]が招待されることもあった<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5374 朴槿恵訪中と歴史トラウマ 中韓蜜月の背後にあるもの] wedge 2015年9月17日</ref>。 中国の憲法には第33条に「国家は人権を尊重し、保障する」と書き込まれている。[[六四天安門事件]]に対して、国際世論の風当たりが強まったことから2004年に付け加えられた。第37条には「公民の人身の自由は、侵犯を受けない」ともある。 国境なき記者団による「[[世界報道自由度ランキング]]」では、180ヶ国中177位にランク付けされている。 === インターネットへの検閲行為 === {{Main|中国のネット検閲|中国大陸におけるWikipediaへのアクセス封鎖}} 中国国内では、[[インターネット]]上のウェブページで、反政府や同盟国の北朝鮮を中傷するページを閉鎖、または回線を切断させたりしていることが多い([[中国のネット検閲]])。 [[2004年]][[11月]]には検閲されていない違法な[[インターネットカフェ]]1600店余りを摘発し、更にはネット上で政府を非難する自国人を逮捕し[[電子メール|メール]]の文章も検閲内容として規制されている。[[Yahoo!]]などのアメリカ企業も政府の検閲に協力している。こうした企業に対しては、国際的に多くの人々が、中華人民共和国国内での言論の自由を奪っていると非難している。 こうしたネット文化の進展に伴い、中華人民共和国政府はネット規制システム「[[グレート・ファイアウォール]]」をバージョンアップさせた。[[Maxthon|傲游]]など検閲、規制を回避するためのシステムも一部で配布されていると見られている。 === 環境問題 === {{Main|中国の環境問題}} 中国は環境問題が最も深刻な国の一つである。中国のエネルギー使用による[[二酸化炭素]](CO2)排出量は世界の3割を占め、世界最大のCO2排出国になっている<ref name=":0"/>。[[オゾン層]]を破壊するとして[[モントリオール議定書]]で全廃されているはずの[[フロン類|フロン]]も中国では未だに大量放出されているのが確認されている<ref name=":1"/>。大気汚染は深刻であり、特に首都[[北京市|北京]]は風が止まってしまうとPM2.5などの汚染物質が飛んでいかなくなり、しばしば[[スモッグ]]に覆われる<ref name="nikkei.com"/>。[[長江]]の水質汚染が深刻な状況にあり([[中国の水危機]])、漁獲量も激減しているため、2020年12月1日には10年間禁漁になり、30万人の失業者が出る見通しとなった<ref name="sankei.com"/>。 === 地域格差と地方財政問題 === 2018年時点で北京や上海で公立教師は平均的に月給6000元(約10万円)で、内陸部はその半分以下である。そのため、2018年4月から5月末にかけて内陸部の[[陝西省]]、[[湖南省]]、[[安徽省]]などで教師待遇の地域格差・未払賃金を理由に教師たちのデモがあったが鎮圧された。中国では都市と農村の格差が依然として問題であり、景気停滞によって地方政府の財政難が背景にあって、賃上げに対応出来ない理由がある<ref>{{Cite news|author=|url=https://mainichi.jp/articles/20180603/k00/00m/030/042000c|title=農村部の教師らデモ 報道容認、地方へ警告か|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=|date=2018-06-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190503060530/https://mainichi.jp/articles/20180603/k00/00m/030/042000c|archivedate=2019-05-03|deadlinkdate=}}</ref>。 === 地域差別 === {{See also|{{仮リンク|中華人民共和国における地域差別|en|Regional discrimination in China}}}} 中国の出身地差別は大きく分けて3つ。「都市在住者から農村在住者」「省内出身者(地元民)から省外出身者(地方出身者)」「首都出身者からその他地域の出身者」への差別である。中国青年報社会調査センターの最近の調査によると、回答者の30%が「自分の生活圏には何らかの出身地差別がある」と回答している<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.recordchina.co.jp/b119767-s0-c60-d0037.html|title=出身地差別が世界一深刻な中国、それでも“差別は理にかなっている”?―中国メディア|newspaper=[[Record China]]|date=2015-09-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181028074113/https://www.recordchina.co.jp/b119767-s0-c60-d0037.html|archivedate=2018-10-28|accessdate=}}</ref>。 == 国民 == [[ファイル:Population and Natural Increase Rate of PRC.jpg|thumb|right|1949年から2008年の中国の人口]] === 民族 === {{出典の明記|section=1|date=2015年11月}} {{Main|中華民族|中国行政区分の人口一覧|中国の少数民族}} 最大の民族集団は[[漢民族|漢族]]で人口の92%を占め、その他の55の[[少数民族]]が残りの8%を占める。少数民族のなかでは[[チワン族]](1,610万人)、[[満洲族]](1,000万人)、[[回族]](980万人)、[[ミャオ族]](890万人)、[[ウイグル|ウイグル族]](830万人)、[[イ族]](770万人)、[[モンゴル民族|モンゴル族]](580万人)、[[チベット民族|チベット族]](540万人)、[[プイ族]](300万人)、[[朝鮮族]](190万人)が比較的大きな民族集団である。中華人民共和国では[[漢民族|漢族]]だけでなく、これらの中華人民共和国国内に居住する[[少数民族]]を含む全ての民族を「[[中華民族]]」と規定し、中華民族は一体であるという意味合いを持たせている<ref>{{Cite book|和書|title=中国年間2021|date=2021年5月25日|year=2021|publisher=一般社団法人中国研究所|page=297}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|中国史の民族|en|Ethnic groups in Chinese history}}}} 中華人民共和国の民族の分類は、中華人民共和国政府が実施する「[[民族区域自治|民族識別工作]]」によって決定される。また、「未識別民族」も存在している。 === 人口 === {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国の人口統計|en|Demographics of China}}}} 中華人民共和国中央政府の成立後、急激な人口増加が進んだことにより、食糧問題、エネルギー問題などが発生した。人口増加に危機感を抱いた政府は、対策として[[1979年]]から[[一人っ子政策]]を実施し、[[出生率]]の統制による人口抑制を展開した結果、[[国の人口増加率順リスト|人口増加率]]は低下した。 しかし一方で、[[戸籍]]上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって[[黒孩子]](ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが[[人身売買]]のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、[[統計]]上では[[人口|総人口]]は約13億人であるが、黒孩子や[[盲民]]と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているともいわれる<ref>{{Cite book|和書|author=副島隆彦|authorlink=副島隆彦|date=2009-08-28|title=あと5年で中国が世界を制覇する|series=|publisher=[[ビジネス社]]|ISBN=978-4828415284|page=}}</ref>。 急激な出産制限は全人口に占める若年層の割合を低下させた。そのため、[[少子高齢化]]が問題になると指摘されている。その状況に対し、政府は2015年に行った第18期5中全会で、一人っ子政策を廃止し、[[二人っ子政策]]に移行。2021年には3人までに緩和された<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/451967|title=「第3子容認」の中国と日本の少子化対策の共通点|accessdate=2021年9月11日|publisher=東洋経済}}</ref>。 また、中華人民共和国の人口統計は、[[1990年代]]から正確性に疑問があり、大幅に水増しされているという研究がある。[[ウィスコンシン大学マディソン校]]の[[人口統計学|人口学者]]である易富賢は、2018年時点で、中華人民共和国は、出生数が死亡数を下回る[[人口減少社会|人口減少時代]]に入ったという研究を発表している<ref>{{cite news |title=中国の少子化深刻 一人っ子政策撤廃も、出生数2年連続減少予測 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2019-01-05 |url=https://mainichi.jp/articles/20190105/k00/00m/030/149000c |accessdate=2019-01-13|author=河津啓介 }}</ref>。易の研究によれば、2018年、中華人民共和国の出生数は前年より250万人減少し、死者数は1158万人で、総人口は127万人減少しているという<ref>{{cite news |title=中国、70年ぶりに人口減少 「人口動態上の危機」 専門家|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2019-01-04|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3204966|accessdate=2019-01-20|author=Poornima WEERASEKARA }}</ref>。[[北京大学]]の蘇剣の研究では、中華人民共和国の人口は13億を超えておらず、2017年の12億8130万人をピークに減少しているという<ref name="jiji2019102500786">{{cite news |title=出生数に水増し疑惑=北京大教授「18年から人口減」-中国|newspaper=[[時事通信社|時事通信]] |date=2019-10-25 |url=https://web.archive.org/web/20191026135521/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019102500786&g=int| accessdate=2019-11-16 }}</ref>。また、2018年の出生数は、{{仮リンク|国家統計局 (中華人民共和国)|label=国家統計局|zh|国家统计局 (中华人民共和国)}}発表の1523万人に対し、{{仮リンク|国家衛生健康委員会|zh|中华人民共和国国家卫生和计划生育委员会}}の年鑑では1362万人と、公式な統計でも、調査機関によって差がある<ref name="jiji2019102500786"/>。 国家統計局によれば2021年末の14億1260万人が人口のピークで<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/idJPT9N2QC02F|title=中国の2022年末人口、1961年以来初めて減少=国家統計局|agency=[[ロイター]]|date=2023-01-17|accessdate=2023-01-17}}</ref>、国際連合では2023年に[[インド]]の人口増加によって2位に後退すると報告されている<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220712/k10013712811000.html|title=インドの人口 来年世界最多に 中国を上回る推計を国連が発表|work=NHK NEWSWEB|agency=[[日本放送協会|NHK]]|date=2022-07-12|accessdate=2023-01-17}}</ref>。 中華人民共和国史学者の[[朴漢濟]]([[ソウル大学校|ソウル大学]])は、中華人民共和国の人口は公式統計では13億人であるが、実際は17億人であり、世界人口(約70億人)の4人に1人が中華人民共和国人であると指摘している<ref>{{Cite news|author=[[朴漢濟]]|date=2020-09-18|title=《大唐帝國的遺產》:中華人民共和國的繼承與「中華民族」的真相|publisher=[[関鍵評論網]]|newspaper=|url=https://www.thenewslens.com/article/140587|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211218203414/https://www.thenewslens.com/article/140587|format=|archivedate=2021-12-18|page=|quote=}}</ref>。一方、[[ウィスコンシン大学]]の{{仮リンク|易富賢|zh|易富賢}}は、2018年から中国の人口は減少し始め、2020年時点で12億8000万人ほどであり、1億3000万人の水増しがあるという研究を発表している<ref>{{cite news |title=中国、3年前から減少 |newspaper=[[日経新聞]] |date=2021-08-27 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO75149750W1A820C2M11000/ |accessdate=2023-03-28 }}</ref>。 2023年1月17日、中華人民共和国国家統計局は、2022年末の中華人民共和国の総人口は21年末比85万人減の14億1175万人だったと発表した。中華人民共和国では過去に人口が減ったのは、60年と61年の2度だけ。急速に少子高齢化が進んでおり、人口減少が始まったとみられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASR1K3RWCR1JULFA024.html|title=中国で61年ぶり人口減少 前年比85万人減 急速に進む少子高齢化:朝日新聞デジタル|accessdate=2023-01-17|publisher=朝日新聞}}</ref>。 ==== 農民工 ==== 国内では、沿岸部など経済発展の著しい地域と、内陸部の発展に取り残された地域との[[経済格差|格差]]が拡大しているため、沿岸の都市部に[[出稼ぎ]]するために流入する農民([[民工]])が増え、その数は2021年時点で2億9251万人。2021年の農民工の平均月収は4432元(約8万6867円)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/05/b392838d9ae633d7.html |title=農民工人口、再び増加に転じる、高齢化も進展 |accessdate=2022年6月13日 |publisher=JETRO}}</ref>。 === 言語 === {{出典の明記|section=1|date=2015年11月}} 北中国の言語に代表される[[北方語]]を基礎として若干の改訂を加えた[[普通話]]<ref>{{コトバンク|普通話}}</ref> を[[標準語]]としている<ref>{{コトバンク|中華人民共和国}}</ref>。同じ[[中国語]]であっても、[[呉語]]、[[広東語|粤語]]、[[閩語]]などの異なる[[言語]]があり、かけ離れているため、標準語を理解できない者も多かった。しかし、建国以来の教育および放送などの普及により2020年時点で普通語の普及率は8割程に上昇した<ref>{{Cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3304762|title=標準中国語、普及率約8割に 極度貧困地域では約6割|accessdate=2021-03-28|publisher=AFP}}</ref>。 なお、イギリスの[[植民地]]であった[[香港]]では、普通話と共に[[広東語]]<ref>{{コトバンク|ホンコン特別行政区}}</ref> および[[英語]]<ref>{{コトバンク|英語}}</ref> も公用語となっている。実際現在も標準語を使用するものは少なく、その上に[[1990年代]]初頭ごろまでは大陸から移住した者を除いては北京語のできる者はほとんどいなかった。[[1997年]]の主権返還から徐々に普及しており人口の半分ほどが標準語を話すことが出来る<ref>{{Cite web |url=https://www.bycensus2016.gov.hk/tc/Snapshot-08.html |title=香港人口(1)的語言使用情況 |accessdate=2022年3月25日}}</ref>。また[[マカオ]]では広東語のほかに、[[ポルトガル語]]<ref>{{コトバンク|ポルトガル語}}</ref> も使われる。 [[チベット民族|チベット族]]、[[ウイグル|ウイグル族]]などの各少数民族はそれぞれの固有の言語も使用しているが公用語は中国語である。政府は少数民族の言語を尊重する姿勢を示しながら、中学校以上の高等教育は原則として少数民族の言語は使用せず、中国語のみで教育を行うことや、[[ウイグル|ウイグル族]]に対しては子供を漢民族地域に居住させて中国語で教育することなどにより、中国語を普及させる政策を取っている。 {{clear}} === 教育 === {{Main|中華人民共和国の教育}} [[ファイル:Tsinghua Observatory.jpg|thumb|[[w:Chinese university ranking (Wu Shulian)|中国において一流大学]]のうちの1つである北京市の[[清華大学]]]] [[ファイル:CUHK LionsPavilion.jpg|right|thumb|香港特区の[[香港中文大学]]]] [[義務教育]]期間は9年間で、一般に小学6年と日本の中学校に当たる初級中学(初中)3年(地域によって小学5年・初級中学4年)からなる。高等学校に当たる高級中学(高中)は3年。学年は9月に始まる。 また、2006年6月から陝西省呉起県で'''十二年義務教育'''(小学校から高校三年生まで)が実施し、2007年には広東省の珠海市、深圳市でも実施しはじまった。また、2010年10月17日には福州の馬尾区をはじめとして12年義務教育を本格的に実行させ、2012年には内モンゴル自治区では12年義務教育がすでに全自治区範囲内に普及された。それ以外は陝西省のように'''13年義務教育'''を実行している地域もある。義務教育の期間は市、區によって異なっている<ref>http://news.xinhuanet.com/legal/2016-01/04/c_128593401.htm</ref><ref>http://henan.163.com/16/0128/09/BEDIG3P602270ILJ.html</ref><ref>http://sc.sina.com.cn/news/b/2015-10-31/detail-ifxkhcfk7468641-p6.shtml</ref>。 [[高等教育]]に関しては、2016年時点で中国の[[大学]]進学率は42.7%に達し<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.recordchina.co.jp/b184113-s10-c30-d0035.html|title=中国の大学進学率は40%超、4年間で12.7ポイント増―教育部|newspaper=[[Record China]]|date=2017-07-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210614160806/https://www.recordchina.co.jp/b184113-s10-c30-d0035.html|archivedate=2021-06-14|accessdate=}}</ref>、過去最高を記録した<ref>{{Cite news|author=|url=http://japanese.china.org.cn/life/txt/2008-11/12/content_16754234.htm|title=大学進学率23%、中国の高等教育が大衆化段階に|newspaper=[[中国網]]|date=2008-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180621194439/http://japanese.china.org.cn/life/txt/2008-11/12/content_16754234.htm|archivedate=2018-06-21|accessdate=}}</ref>。中国の学問の中心の一つとして国内外に名を知られる[[国家重点大学]]に[[北京大学]]がある。現在では、[[清華大学]]が国内のトップ大学であるとする評価が定着しており、北京大学は2番目の位置づけとなっている。清華大学は[[朱鎔基]]前総理、[[胡錦濤]]党総書記、[[習近平]]党総書記の出身校でもあり、2万5000人の学生が理学部、工学部、文学部、法学部、経済学部、経営管理学部、芸術学部などに学ぶ。中国の国内において大学に関する[[985工程]]、[[211工程]]、[[副部級大学|副部級大学、]][[国家重点学科]]などコンセプトもよく使われる。 [[学術論文]]の質という点では、オランダの厳密な学術誌のメタ分析によれば、中国の学術論文において通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの質は、米国と変わらない。厳密性という点では、中国も米国も、通常証拠の質が最も高いとされる系統的レビューの厳密性という点では違いはなく、どちらも学術論文の厳密性を向上させるという使命を持っている<ref>{{Cite journal|last=Tian|first=Jinhui|last2=Zhang|first2=Jun|last3=Ge|first3=Long|last4=Yang|first4=Kehu|last5=Song|first5=Fujian|date=2017-05|title=The methodological and reporting quality of systematic reviews from China and the USA are similar|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0895435616308162|journal=Journal of Clinical Epidemiology|volume=85|pages=50–58|language=en|doi=10.1016/j.jclinepi.2016.12.004}}</ref>。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国の保健|en|Health in China}}}} 2000年以来、医師へ対しての暴力が続いており、この問題は現地の医療関係者の安全に対する重大な脅威となっている<ref name=BMJ2012>{{cite journal|last=Hesketh|first=T.|author2=Wu, D. |author3=Mao, L. |author4= Ma, N. |title=Violence against doctors in China|journal=BMJ|date=7 September 2012|volume=345|issue=sep07 1|pages=e5730–e5730|doi=10.1136/bmj.e5730|pmid=22960376}}</ref>。[[中華人民共和国衛生部]]の統計によると、[[病院]]及び[[医療従事者]]に対する暴力事件の数は、2005年の約10,000件から2010年には17,000件以上に増加している<ref name=ECONOMIST2012>{{cite web|title=Violence against doctors: Heartless attacks|url=http://www.economist.com/node/21559377|access-date=11 February 2022|work=[[The Economist]]|date=Jul 21, 2012}}</ref>。現在も医師に対する暴力事件が多発しており、事態は深刻なものとなっている。 {{節スタブ}} {{See also|中華人民共和国国家衛生健康委員会|{{仮リンク|中国の医療改革|en|Healthcare reform in China}}}} == 宗教 == {{Main|[[中国の宗教]]}} {{Pie chart |caption = 中国の宗教 <small>(CGSS's average 2012)</small><ref name="CFPS2012-013CGSS">[[w:Chinese Family Panel Studies]]'s survey of 2012. Published in ''The World Religious Cultures'' issue 2014: {{PDF|[https://web.archive.org/web/20140715015656/http://iwr.cass.cn/zjwh/201403/W020140303370398758556.pdf 卢云峰:当代中国宗教状况报告——基于CFPS(2012)调查数据]}}(2014年7月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]). p. 13, reporting the results of the Renmin University's Chinese General Social Survey (CGSS) for the years 2006, 2008, 2010 and 2011, and their average. '''Note''': according to the researchers of CFPS, only 6.3% of the Chinese are not religious in the sense of [[w:atheism|atheism]]; the others are not religious in the sense that they do not belong to an organised religion, while they pray to or worship gods and ancestors in the manner of the traditional popular religion.</ref> |label1 = [[無宗教]] |value1 = 89.56 |color1 = AntiqueWhite |label2 = [[仏教]] |value2 = 6.75 |color2 = Gold |label3 = [[キリスト教]]([[カトリック]]・[[プロテスタント]]を含む) |value3 = 2.30 |color3 = DodgerBlue |label4 = [[道教]]、[[中国の民俗宗教|伝統崇拝]]又は[[w:Chinese salvationist religions|民族信仰の宗派]] |value4 = 0.54 |color4 = GreenYellow |label5 = [[イスラム教]] |value5 = 0.46 |color5 = Green |label6 = その他の信仰 |value6 = 0.40 |color6 = HotPink }} [[国教]]は無く、九割近くの国民は無宗教で、主な宗教は[[仏教]]・[[キリスト教]]・[[道教]]・[[イスラム教]]・[[儒教]]となる。 宗教信者は総計1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りといわれる。欧米では国民の多くは宗教信者であるが、現在の中華人民共和国の宗教信者数の1億人余りは総人口12億人に比して非常に少ない。これは中国大陸における宗教の歴史と中国共産党政府による宗教弾圧の影響が大きい。 特に2018年ごろからは政府が「宗教の中国化」という方針を掲げるようになり、あらゆる宗教に対する国家統制を強めている<ref name="chunichi2020"/>。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]は自国の国際宗教自由委員会の調査に基づき、[[信教の自由]]の侵害度合いが強い国であるとして独自に「特に懸念される国」に指定している<ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-09 |url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/20815/20160509/uscirf.htm |title=「信教の自由」の抑圧が世界規模で強まる |publisher=クリスチャン・トゥデイ |accessdate=2021-01-03}}</ref>。 === 道教 === 国民の大半を占める[[漢民族|漢族]]は[[現世#現世利益|現世利益的]]である。道教は漢族固有の宗教である。信者数の統計はなく、道宮・[[道観]]([[寺院]])が1500余カ所、[[道士]]と道姑が2万5000余人といわれる。[[漢民族|漢族]]は、複数の宗教の良いところをそれなりに信仰する傾向がある。改革開放以降、「紅白産業」と呼ばれる「[[冠婚葬祭|冠婚葬祭業]]」が飛躍的に発展した。 === 仏教 === {{Main|中国の仏教}} [[仏教]]に関しては仏教の寺院が1万3000余カ所、僧と尼は約20万人といわれる。「漢族仏教」、「チベット仏教(ラマ教)」、「南仏教(巴利語系)」の3種類がある。「漢民族仏教」の信徒数の統計はない。「チベット仏教」の信徒数は、チベット族やモンゴル族などの900万人、ラマ僧、尼僧は約12万人、活仏は1700余人、寺院は3000余カ所。「南仏教」はタイ族などの100万人、比丘、長老は1万人近く、寺院が1600余カ所といわれる。 文化大革命の時期に徹底的な弾圧を受けたチベット仏教はかなり復興したとはいえ、まだ最盛期にはほど遠く寺院数は10分の1以下に激減している。また、現在も中華人民共和国政府によるチベット仏教への弾圧は続いており、僧院には、中華人民共和国当局の「工作隊」が駐在し、強制的に、僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」を行っている<ref>[http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080329_report14.html 「チベット亡命政府発表 ー チベットからのレポート(14)」, ダライ・ラマ法王日本代表部事務所] (2008.3)</ref>。1996年から1998年の間に、中華人民共和国当局による「厳打」キャンペーンにより約500名の僧尼が逮捕され、約1万人が僧籍を剥奪されたといわれる<ref>[http://www.tibethouse.jp/about/information/situation/ 「現在のチベットの状況」, ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]</ref>。[[2007年]]、中華人民共和国政府は輪廻転生を続けるとされるチベットの高僧(活仏)が転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した([[新華社|国営新華社通信]])<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2263352|title=中国政府、チベット高僧の転生に事前申請を要求|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]]|publisher=|date=2007-08-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150201203920/https://www.afpbb.com/articles/-/2263352|archivedate=2015-02-01|deadlinkdate=}}</ref>。 === 儒教 === {{Main|儒教}} [[儒教]]は[[共産主義]]や[[毛沢東思想]]に真っ向から敵対するものとして[[文化大革命]]時に徹底弾圧され、[[熊十力]]などの[[新儒家]]の名士が自殺に追い込まれるなど徹底的に迫害され宗教としては事実上絶滅した。しかし、孔子生誕2555周年となった[[2004年]]以降、毎年9月28日に[[孔子]]の生誕を祝う祝典「孔子祭」が国家行事として執り行われ、『[[論語]]』を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。また、中国政府が海外で運営する[[孔子学院]]など、孔子の名を冠した施設も存在する(但し、孔子学院は儒教の教育機関ではない)。 孔子の故郷の[[山東省]]の[[曲阜三孔]](孔府、孔廟、孔林)の古建築群は[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている<ref>[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/yichan/200305/yichan.htm 「孔府、孔林、孔廟 儒家思想はぐくんだ孔子の里」, 人民中国, 2003年5月号]</ref>。文化大革命期に破壊された儒教関連の史跡及び施設(夫子廟など)も近年になって修復作業が急ピッチで行われている。また、[[2008年北京オリンピックの開会式|北京オリンピックの開会式]]では『論語』が取り上げられた。 === イスラム教 === [[イスラム教]]は、[[回族]]、[[ウイグル|ウイグル族]]、[[カザフ人|カザフ族]]など主に少数民族の間で信仰されている。信仰者数は1,800万人、[[イマーム]]、[[アホン]](回教布教師)が4万余人。中華人民共和国のイスラム教徒は[[スンナ派]]に属している。イスラム教は古代から中国にとり経済と切り離せない存在である。 === キリスト教 === {{Main|中国のキリスト教}} [[キリスト教]]のうち、[[カトリック教会]]は[[1958年]]から本来[[教皇|ローマ教皇]]だけに認められている主教・[[司祭]]ら聖職者任命を[[中国共産党]]傘下の[[中国天主教愛国会]]が任命することから中国政府の統制下にあるため、[[聖座]]([[バチカン|バチカン市国]])との国交は断絶している。 [[プロテスタント]]は、信徒は約1000万人、聖職者が1万8000人おり、教会堂が1万2000カ所、簡素な宗教活動の場所(会所)が2万5000カ所ある。 中国には、上記のほか多数の[[地下教会 (中国カトリック)|地下教会]]信者がいるとされており、[[ブリタニカ国際年鑑]]の最新データによると、現代の中国のキリスト教徒は、当局の監督下にある国家公認教会信徒と地下教会信徒を合わせ9100-9750万人程度と記録されている。 [[習体制|習近平政権]]になって以降、キリスト教への抑圧が強まっており<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/articles/17369/20151020/china.htm 中国、宗教統制に本腰か 習近平政権成立3年迎え] クリスチャントゥデイ 2015年10月20日</ref>、2016年2月には[[浙江省]]でキリスト教教会の屋根に取り付けられた[[十字架]]を強制撤去したり、撤去に抗議する信徒を相次ぎ拘束する事件が発生した<ref>{{Cite news|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016022600751&g=int|title=キリスト教へ抑圧強化=弁護士に「ざんげ」迫る-十字架撤去に抗議・中国|newspaper=時事通信|date=2016-2-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305051309/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016022600751&g=int|archivedate=2016-3-5|accessdate=2021-9-10}}</ref>。 === ボン教 === チベット地域では[[ボン教]]も広く信仰されている。ただし、現在のボン教はチベット仏教の体系を広く取り入れており、一見しただけではチベット仏教との区別がつきにくいが、[[マニ車]]を反時計回りに回すなどの相違がある。 === その他 === 民間信仰には、民衆道教、シャーマン・[[シャーマニズム]]的信仰、[[アニミズム]]的信仰がある。また幾つかの[[新宗教]]が存在し、1999年7月には[[法輪功]]が[[天安門広場]]で信者の集団的焼身自殺事件を起こした([[天安門焼身自殺事件]])。同教団は政府に[[邪教]]認定され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/65633/|title=中国狂気の宗教弾圧 靖国も"邪教"扱い|newspaper=東京スポーツ|date=2012年12月26日|accessdate=2017-04-23}}</ref>、一切の活動を禁止された。 == 文化 == {{main|中華文化}} [[ファイル:Pekin przedstawienie tradycjnego teatru chinskiego 7.JPG|thumb|伝統的な[[京劇]]の様子]] [[ファイル:20090528 Beijing Forbidden City 7727.jpg|thumb|[[w:Chinese architecture|古典的な中国の建築様式]]を示す北京市の[[紫禁城]]]] [[ファイル:Tianjin lunch of Goubuli.jpg|thumb|[[天津市]]における伝統料理である[[餃子]]、[[包子]]、[[w:Cuisine of Tianjin#Guobacai|鍋巴菜]]]] * [[中華街]] - [[中国の漫画]] - [[華人]] - [[華僑]] === 食文化 === {{Main|中華料理|中国茶|中国酒}} === 書道 === {{Main|書道|中国の書道史}} [[書聖]]として[[王羲之]]、[[顔真卿]]、[[北宋]]の[[徽宗]]帝の名が挙げられる。 === 文学 === {{Main|漢文学|中国文学|漢籍|}} [[漢]]から[[唐]]の[[陶淵明]]を代表とする「[[漢詩]]」・[[李白]]、[[杜甫]]、[[白居易]]を代表とする「[[近体詩|唐詩]]」、[[宋 (王朝)|宋]]の「[[詞]]」、[[元 (王朝)|元]]の「[[元曲|曲]]」、[[明]]と[[清]]の「[[小説]]」([[白話小説]]、[[武侠小説]]など)が存在する。辛亥革命後の[[20世紀]]前半には[[日本]]に留学した経験を持ち、『[[故郷 (魯迅)|故郷]]』、『[[阿Q正伝]]』、『[[狂人日記 (魯迅の小説)|狂人日記]]』、『[[藤野先生]]』で知られる[[魯迅]]が活躍した。また、[[毛沢東]]も『[[沁園春・長沙]]』などの漢詩を遺している。 ;代表的な中国文学の作品 {{See also|四大奇書|}} * 『[[史記]]』 * 『[[三国志演義]]』 * 『[[水滸伝]]』 * 『[[西遊記]]』 * 『[[金瓶梅]]』 * 『[[紅楼夢]]』 * 『[[封神演義]]』 * 『[[聊斎志異]]』 === 哲学 === {{Main|中国哲学}} * [[中華思想]] * [[諸子百家]] * [[玄学]] * [[朱子学]] * [[陽明学]] * [[考証学]] * [[三民主義]] * [[毛沢東思想]] * [[鄧小平理論]] * [[三つの代表]] * [[科学的発展観]] * [[習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想|習近平思想]] === 音楽 === {{Main|中国の音楽}} ==== 舞踊 ==== {{Main|{{仮リンク|中国の舞踊|en|Dance in China}}}} 中国における舞踊は形式が非常に多様で、カテゴリーに分けた場合はモダンダンスなどの近代的なものを含めると10種類以上も存在する。 {{See also|{{仮リンク|中国の舞踊の歴史|en|History of Chinese dance}}|{{仮リンク|中国の舞踊の一覧|en|List of dance in China}}}} === 美術 === {{Main|中国美術}} ;絵画 {{Main|中国の絵画}} * [[山水画]] * [[花鳥画]] * [[年画]] ;陶芸 {{Main|中国の陶磁器}} * [[唐三彩]] * [[宋磁]]([[青磁]]、[[白磁]]) * [[七宝]] * [[万暦赤絵]] * [[華南三彩]] === 大衆文化 === [[人間関係|対人関係]]に於いて「自己人」(自分の味方)、「熟人」(知り合う人)、「外人」という独特の概念が中国にあり、日本では中国人との[[国際結婚]]などでトラブルになるケースが多い。[[ポルノグラフィ|ポルノ]]の規制は厳しく、[[ポルノ雑誌]]の類は販売されておらず、[[隠語]]を使った[[官能小説]]のみ販売している。インターネットのポルノサイトも同様で、2007年に行った反ポルノキャンペーンで44000件のサイトを取り締った<ref>[http://www.86to81.net/index.php?LangType=ja&BasePage=9&article_id=720 上海でポルノサイト4000近く閉鎖] 中日之窓 2008年01月16日 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110723000827/http://www.86to81.net/index.php?LangType=ja&BasePage=9&article_id=720 |date=2011年7月23日 }}</ref>。また、サイト運営者が終身刑になったケースもある<ref>[https://web.archive.org/web/20090113002429/http://www.afpbb.com/article/1120210 ポルノサイトの運営者に終身刑 - 中国](2009年1月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - AFPBB News 2006年11月24日 10:15</ref>。[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]の販売も2000年から禁止されてきたが、2015年に完全に解禁され、ハードウェアでは[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]]と[[マイクロソフト]]、任天堂がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52943390U9A201C1TJ1000/|title=任天堂、中国でスイッチ12月10日発売 成長市場3つの壁|accessdate=2021年7月29日|publisher=日本経済新聞}}</ref>。家庭用ゲームソフトの販売も、ソフトウェアメーカーが[[検閲]](中国には[[コンピュータゲームのレイティングシステム]]は存在しない)を受けた上で販売することになる<ref>[https://www.sankei.com/article/20150728-XWMF7ZRWNVJCTNVAP74Y4GTPUU/ 15年越しの夢 中国全土で家庭用ゲーム機「全面解禁」] 産経ニュース 2015年7月28日</ref><ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-12-06/P0IVQE6S972901 任天堂がエヌビディアのゲーム機で中国に参入、マリオなど配信開始] Bloomberg 2017年12月6日</ref>。 === 映画 === {{Main|中国映画}} === 服飾 === {{Main|{{仮リンク|中国の衣服|en|Chinese clothing}}}} [[民族服|民族衣装]]においては[[漢服]]や[[チャイナドレス]]など、独自の被服文化を確立している。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|中国におけるパッチワーク|en|Chinese patchwork}}}} === 建築 === {{Main|中国の建築}} === 世界遺産 === {{Main|中華人民共和国の世界遺産}} === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|中国の祝日|en|Public holidays in China}}}} {|class="wikitable" style="margin: auto" |- !日付 !! 日本語表記(括弧内は略称) !! 由来・行事 !! 休暇期間 |- |[[1月1日]] || [[元旦]]||西暦の新年||1日(前後の週末に含まれて3日間になる) |- |[[3月8日]] || [[国際女性デー|国際婦女節]](婦女節)||女性の社会、政治、経済などへの貢献を祝う。||女性のみ半日 |- |[[3月12日]] || 植樹節||[[孫中山]]の逝世記念日。植樹や造林活動を行う。[[1979年]]に[[全国人民代表大会]]で決定。||なし |- |[[5月1日]]||[[メーデー|国際労働節]](労働節)||働く人の社会及び経済への貢献を祝う。||2日(前後の週末に含まれて4日間になる) |- |[[5月4日]] || 五四青年節(青年節)||[[1919年]]5月4日に[[五四運動|反帝国主義運動]]を行った学生を記念する。||青年(14歳以上)のみ半日 |- |[[6月1日]] || [[子供の日|国際児童節]](児童節)||子供の福祉の促進を祝う。||子供(14歳以下)のみ1日 |- |[[7月1日]] || 中国共産党建立記念日(建党節)||[[1921年]]7月23日の[[中国共産党]]の設立を記念する。||なし |- |[[8月1日]] || 中国人民解放軍建軍節(建軍節、八一建軍節)||[[1927年]]8月1日の[[南昌起義]]を記念する。||現役の軍人のみ半日 |- |[[9月3日]] || [[対日戦勝記念日|抗日戦争勝利記念日]]||[[1945年]]9月2日[[日本]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の降伏文書に調印したことを記念する。||なし |- |[[9月10日]] || [[教師の日|教師節]]||教師の社会への貢献を祝う。[[1985年]]1月に全国人民代表会議で設立された。現在、9月28日([[孔子]]の誕生日)に改める議論が有力。||教師及びその学生のみ半日 |- |[[10月1日]] || 中華人民共和国[[国慶節]](国慶節)||[[1949年]]10月1日、中華人民共和国中央人民政府設立を祝う。||3日間(10月1日、10月2日、10月3日。前後の二つの週末に含まれて7日間になる) |- |[[中国暦]][[1月1日 (旧暦)|1月1日]] || [[春節]]||中国暦の新年。中国暦の12月末日(前年)、1月1日、1月2日をそれぞれ除夕、年初一、年初二という。|| 7日間(中国暦の12月末日、1月1日、1月2日、1月3日、1月4日、1月5日、1月6日。既に前後の二つの週末に含まれた) |- |中国暦[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] || [[元宵節]]||[[小正月]]。灯篭を観て楽しんだり、元宵(甘いスープの中に餡を包んだ餅を浮かべた食べ物)を食す。||なし |- |中国暦[[2月2日 (旧暦)|2月2日]] || 春農節、または[[龍擡頭]] || “龍頭説”とも呼ばれる。2月2日に龍が頭をもたげた伝説から。||なし |- |[[4月5日]]または[[4月4日]],[[4月6日]]|| [[清明節]]||墓参り。先祖を祭る。||1日(前後の週末に含まれて3日間になる) |- |中国暦[[5月5日 (旧暦)|5月5日]] || [[端午節]] || [[端午の節句]]。[[屈原]]が祖国の行く末を嘆き[[汨羅江]]に身を投じたのが始まりと言われる。[[ちまき|粽]]を食べたり、[[ドラゴンボート]]レースをする。||1日(前後の週末に含まれて3日間になる) |- |中国暦[[7月7日 (旧暦)|7月7日]] || [[七夕]] || “乞巧節”或いは“七巧節”、“七姐誕”とも呼ばれる。[[織女]]と[[牽牛]]が天の川の橋の上で会った伝説から。||なし |- |中国暦[[7月15日 (旧暦)|7月15日]] || 中元節||“鬼節”、“[[盂蘭盆]]節”、“七月半”とも呼ばれる(但し、“鬼節”で[[ハロウィン]]を指す場合が多い)。お盆。||なし |- |中国暦[[8月15日 (旧暦)|8月15日]] || [[中秋節]]||お月見。家族が集まり、月見をしたり、[[月餅]]を食べる。||1日(前後の週末に含まれて3日間になる) |- |中国暦[[9月9日 (旧暦)|9月9日]] || [[重陽]]節 ||[[重陽]]。[[敬老の日]]。高いところに登る。||なし |- |中国暦[[節気]][[冬至]] || 冬節||“過冬”或いは“長至節”、“亜歳”とも呼ばれる。北部では[[餃子]]を食べることが多い。南部では[[湯円]](元宵)を食べる。||なし |- |中国暦[[12月8日 (旧暦)|12月8日]] || [[臘八節]]||祖先の霊を祭る。豊作、吉祥を祈る。臘八粥を飲む。||なし |- |中国暦[[12月23日 (旧暦)|12月23日]](北のほう、南のほうは[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])|| [[小年]]、または[[祭竈節]]||[[かまど神#中国のかまど神|かまどの神]]を祭る。かまど王を天に送り、神様にかまど王の善悪を判断してもらう言い伝えから。||なし |- |中国暦[[12月30日 (旧暦)|12月30日]](或いは12月29日) || 除夕||おおみそか。年越し料理を食べたり、[[爆竹]]を鳴らす。||1日(既に春節の休暇に含まれた) |- |[[ヒジュラ暦]][[10月1日]] || 開斎節||“肉孜節”とも呼ばれる。[[ラマダーン]]の終わり。[[イスラム教]]の祭日||なし |- |ヒジュラ暦[[12月10日]] || 宰牲節||“クルバン節”とも呼ばれる。[[犠牲祭]]。巡礼の次の日。イスラム教の祭日||なし |} *少数民族の祝祭(例えば、上記の開斎節、宰牲節)はその地方人民政府によって制定されている。香港特別行政区の休暇期間はその関連法規に規定されている。 == スポーツ == {{Main|中華人民共和国のスポーツ}} [[ファイル:Dragon boat racing.jpg|thumb|中国で人気の伝統的スポーツ、[[ドラゴンボート|龍舟]]レース]] ; 伝統的スポーツ * [[中国武術]]([[少林拳]]、[[太極拳]]、[[洪家拳]]、[[詠春拳]]) * [[シュアイジャオ|角力]]、[[ダーカウ|鍵子]]、[[ドラゴンボート|龍舟]] ; 近代的スポーツ [[1995年]]に[[国家プロジェクト]]でもある「'''全民健身計画'''」が打ち出されたことや、[[スポーツ]]の多様化に伴い中国のスポーツ市場は数年で急激に拡大し、[[2005年]]には500億ドルに達しており、競技人口は4億人にまでのぼった。その中でも[[卓球]]は伝統的に強く、[[オリンピックの卓球競技]]では他国を全く寄せ付けず圧倒的なメダルの獲得数を誇っている。アメリカのバスケットボールリーグの最高峰である[[NBA]]に[[2011年]]まで所属していた'''[[姚明]]'''の活躍を受け、中国国内では[[バスケットボール]]の人気が高まり競技人口は3億人にまで達したとも言われている。 その他にも<!-- 競技を適当に載せないで下さい。削除します -->[[サッカー]]、[[バレーボール]]、[[バドミントン]]、[[テニス]]、[[体操]]、[[陸上競技]]、[[競泳]]、[[飛込競技]]、[[アーティスティックスイミング]]、[[テコンドー]]、[[トランポリン]]、[[射撃競技]]、[[フェンシング]]、[[テニス]]、[[重量挙げ]]、[[レスリング]]、[[総合格闘技|MMA]]、[[キックボクシング]]、[[フィギュアスケート]]、[[スピードスケート]]、[[ショートトラックスピードスケート]]、[[カーリング]]、[[エアリアル]]<!-- 中国国内で人気のスポーツに限る -->の人気が高い。 === オリンピック === {{Main|オリンピックの中華人民共和国選手団}} [[2008年]][[8月8日]]から[[8月24日]]にかけて、首都の北京で中国初の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]が開催された。さらに[[2022年]][[2月4日]]には、同じく北京で中国初の[[冬季オリンピック]]となる[[2022年北京オリンピック]]が開催された<ref>{{cite news |url= https://www.olympic.org/news/beijing-named-host-city-of-olympic-winter-games-2022 |title=Beijing named host city of Olympic Winter Games 2022 |work=[[国際オリンピック委員会|International Olympic Committee]] |date=31 July 2015 |accessdate=2018-01-01}}</ref>。この大会は、五輪史上初となる夏・冬オリンピックの同一都市での開催となった<ref>{{cite news|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=6715 |title=北京で22年冬季五輪 史上初の夏冬両大会開催 |publisher=[[日本オリンピック委員会]] |date=2015-07-31 |accessdate=2018-01-01}}</ref>。なお、中国は[[パラリンピック]]においても毎大会メダル獲得数は上位である。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|中華人民共和国のサッカー|en|Football in China}}}} [[2004年]]にプロサッカーリーグの『[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国足球協会超級リーグ]]』が創設された。国内リーグを代表する名門クラブの'''[[広州足球倶楽部|広州]]'''<ref>[http://j.people.com.cn/94475/7972166.html 広州のサッカースクール始業 校長に伊マルチェロ・リッピ氏]people.com 2012年10月10日</ref>(旧:広州恒大)が、7連覇を含むリーグ最多8度の優勝を達成している。さらに広州は[[AFCチャンピオンズリーグ]]においても、[[AFCチャンピオンズリーグ2013|2013年大会]]と[[AFCチャンピオンズリーグ2015|2015年大会]]でアジア制覇を成し遂げている<ref>{{cite news|url=http://web.gekisaka.jp/news/detail/?123583-128044-fl|title=決勝第2戦:広州恒大が中国勢初のACL王者に輝く…FCソウルとドローもAGで上回る|publisher=ゲキサカ|accessdate=2013-11-9}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.the-afc.com/afc-champions-league-2015/guangzhou-evergrande-win-2015-afc-champions-league |title=GUANGZHOU EVERGRANDE WIN 2015 AFC CHAMPIONS LEAGUE |publisher=AFC |date=2015-11-21 |accessdate=2015-11-22 }}</ref>。 [[サッカー中華人民共和国代表|サッカー中国代表]]の'''[[武磊]]'''が、[[2019年]][[1月28日]]に[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン1部]]の[[RCDエスパニョール]]へ移籍した事により<ref>{{Cite web|和書|url=https://sport-japanese.com/news/id/21804|title=エスパニョール 中国代表FWウー・レイの獲得を発表|publisher=SPORT.es|accessdate=2019年1月28日|date=2019年1月28日}}</ref>、中国国内でのサッカーの人気が非常に高まっており、武磊の欧州リーグデビュー戦でのテレビ視聴者数は約4,000万人にものぼった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2019/02/10/post308996/|title=中国代表FW、スペインで評価急上昇。「素晴らしい才能」「リーガでもスターに」|publisher=footballchannel|accessdate=2019年2月10日|date=2019年2月10日}}</ref>。さらに[[2020年]][[1月4日]]に行われた[[バルセロナダービー]]では<ref>{{Cite web|和書|url= https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=367571|title= 白熱のバルセロナ・ダービーはドロー決着! デ・ヨング退場にウー・レイが劇的同点弾!《ラ・リーガ》|publisher=超ワールドサッカー|accessdate=2020年1月5日|date=2020年1月5日}}</ref>、1-2の劣勢の場面から後半43分に途中出場し、中国人選手として初めて[[FCバルセロナ]]から得点を記録している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20200105/1018186.html?cx_cat=page1|title= バルサが一時逆転も…ウー・レイの同点弾で”バルセロナ・ダービー”はドロー |publisher=サッカーキング|accessdate=2020年1月5日|date=2020年1月5日}}</ref>。 [[サッカー中華人民共和国女子代表|サッカー中国女子代表]]はアジアを代表する強豪国として知られ、[[AFC女子アジアカップ]]では大会最多9度の優勝を誇る。[[アジア競技大会サッカー競技|アジア競技大会]]でも大会最多3度の優勝を達成しており、[[アルガルヴェ・カップ]]では2度の優勝経験を有する。[[FIFA女子ワールドカップ]]では[[1999 FIFA女子ワールドカップ|1999年大会]]、[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]でも[[1996年]]の[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|アトランタ大会]]でそれぞれ準優勝に輝いている。 {{See also|中国FAカップ|中国サッカー・スーパーカップ}} === プロリーグ === * [[中国サッカー・スーパーリーグ]] - 1部 * [[中国サッカー・甲級リーグ]] - 2部 * [[中国サッカー・乙級リーグ]] - 3部 * [[中国プロバスケットボールリーグ]] * [[中国卓球スーパーリーグ]] * [[中国バレーボールリーグ]] {{See also|{{仮リンク|中華人民共和国が開催する総合競技大会の一覧|en|List of multi-sport events held by China}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * 太田康夫『グローバル金融攻防三十年』[[日本経済新聞出版社]]、[[2010年]] == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[中国関係記事の一覧]] * [[中華人民共和国の経済|中国経済]] * [[一党独裁制]] * [[ヘゲモニー政党制]] * [[中国共産党]] * [[中国人民解放軍]] * [[中華人民共和国法]](中国法) ** [[中国の人権問題]] ** [[中国の知的財産権問題]] * [[中華人民共和国におけるLGBTの権利]] * [[中華人民共和国老年人権益保障法]] * [[中華人民共和国の科学技術]] * [[中華文明]] * [[中華思想]] * [[ウイグル人大量虐殺]] * [[チベット問題]] * [[台湾問題]] * [[親中派]] * [[チャイナスクール]] * [[チャイナリスク]] * [[中国脅威論]] * [[中国化]] * [[天安門事件]] * [[中国民主化運動]] * [[中国のネット検閲]] ** [[グレート・ファイアウォール]] * [[中国製品の安全性問題]] * [[中国の環境問題]] - [[中国産食品の安全性]] * [[中国の少数民族]] * [[一人っ子政策]] - [[黒孩子]] - [[小皇帝]] * [[太子党]] - [[上海幇]] - [[中国共産主義青年団]] * [[法輪功]] * [[蟻族]] - [[憤青]] * [[光棍節]] {{colend}} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|中国|[[ファイル:National Emblem of the People's Republic of China (2).svg|36px|Portal:中国]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|中国|[[ファイル:National Emblem of the People's Republic of China (2).svg|36px]]}} {{Sisterlinks|wikiquote=Category:中国人|wikisource=Category:中華人民共和国|commons=China|commonscat=China|wikinews=Category:中華人民共和国|voy=China|d=Q148}} ; 政府 * [https://www.gov.cn 中華人民共和国中央人民政府] {{zh icon}}{{en icon}} * [http://www.china-embassy.or.jp/jpn/ 在日中華人民共和国大使館] {{ja icon}}{{zh icon}} * {{Twitter|ChnEmbassy_jp|中華人民共和国駐日本国大使館}}{{Ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/index.html 日本外務省 - 中華人民共和国] {{ja icon}} * [https://www.cn.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在中国日本国大使館] {{ja icon}}{{zh icon}} ; 観光その他 * {{Wayback |url=http://www.cnta.jp/ |title=中国国家観光局 |date=20141231181903}} {{ja icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/ JETRO - 中華人民共和国] {{ja icon}} * {{Curlie|Regional/Asia/China}} {{en icon}} * {{CIA World Factbook link|ch|China}} {{en icon}} * {{Wikivoyage-inline|ja:中華人民共和国|中華人民共和国}} * {{Wikivoyage-inline|zh:中国|中華人民共和国{{zh-cn icon}}}} * {{Wikivoyage-inline|en:China|中華人民共和国{{en icon}}}} * {{Wikiatlas|the People's Republic of China}} {{en icon}} * {{OSM relation|270056}} * {{Googlemap|中華人民共和国}} * {{Kotobank}} {{アジア}} {{国連安全保障理事会理事国}} {{G8}} {{G20}} {{東アジアサミット}} {{上海協力機構}} {{南アジア地域協力連合}} {{各国の社会主義}} {{Coord|35|N|103|E|region:CN_type:country|display=title|name=中華人民共和国}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちゆうかしんみんきようわこく}} [[Category:中華人民共和国|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:社会主義国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:G20加盟国]] [[Category:中国社会主義]] [[Category:冷戦]]
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DVD-Video
DVD-Video(ディー ブイ ディー ビデオ)とはDVDフォーラムで制定されたDVDに複数の映像、音声、字幕を記録するアプリケーションフォーマット(規格)である。 1996年に製品の発売が始まり、以後世界的に幅広く普及している。それまで映像パッケージソフトの主流だったVHS、ビデオCD等に比べて高画質(解像感が高く、DVDの草創期にはプレーヤーのカタログなどでBETACAMなどの放送局用VTRに迫る画質と謳われる事もあった)であること、コンパクトディスクと同じようなメディアの扱いやすさ、DVD再生機能を標準搭載したゲーム機「PlayStation 2」のヒットや映画「マトリックス」のDVD初ミリオンセラー達成の他、対応機器の低価格化などにより特に2000年代に入ってから再生専用ソフトに関してはVHSを置き換えるほど普及した。 DVD-Videoは一般的にはDVD-Videoフォーマット規格で映像データが記録されたディスクを指すものとして用いられ、「DVDに記録されたデジタルビデオ」全般を表すものではない(詳細はDVD#DVD-Videoを参照)。記録フォーマット名として明確に区分する目的で表現する場合は「DVD-VF」 (DVD Video Format) が用いられる場合もある。一方、本来は単に "DVD" という場合はDVD-Videoディスク自体のことを表す言葉になるので解説・説明をする際には紛らわしさを避けるように注意する必要がある。 解像度は同じ720×480であっても、縦横比は4:3か16:9にソフト側で指定されている。ただしシネマスコープ・ビスタサイズなど16:9よりも横長な映像は垂直480本の解像度の一部しか利用できない(NTSCの場合。PALは576本)。詳細は画面サイズを参照。 ディスクが指定するアスペクト比と再生環境を合わせるため、DVDプレーヤーにはレターボックスやスクイーズの機能が搭載されており、スクイーズするかどうかはDVDに記録されている。16:9のテレビで映画を再生する場合、上下に黒帯を付加して全体を表示する(レターボックス)かスクイーズかを選択する。ただし映像ソフト側でパンスキャンを許可しないものが多く、これらは強制的にレターボックス表示となる。 16:9型のテレビ等で4:3の映像を再生することはDVD-Video規格の上では考慮されておらず、プレーヤーとテレビ等のどちらかで左右の端に黒帯を付加する処理(ピラーボックス)を行う必要がある。 標準でPCM、ドルビーデジタル (AC-3)、オプションでDTSやMPEG Audio Layer-2 (MP2) なども利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。 PCMの量子化ビット数は16bit/24bit、サンプリング周波数は48kHz/96kHzが利用可能であるためCD(16bit・44.1kHz)より高音質となる。ただし24bit・96kHzはほとんど利用されていない。 複数の音声を同時に収録することができるマルチ音声収録が可能、ただし非圧縮PCM音声でステレオを超えるマルチチャンネルを収録することはできない。 再生時にユーザーが好みの音声1種類を選ぶ。規格上は8ストリームまで利用可能でそれぞれのストリームに1ch、2ch、5.1chなどの音声を割り当てられる。例えば2チャンネルステレオをPCM、5.1チャンネルのサラウンド音声をドルビーデジタルまたはdtsで収録する。また海外の映画作品などの場合、 といったものが多い。これにより海外の映画作品がVHSでは「字幕スーパー版」「日本語吹き替え版」と2種類のソフトを発売しなければならなかったのが、DVDなら1本に両方とも収録できるようになった。Blu-ray Disc以降ではプレイヤー側の設定地域(リージョンとは異なる)により設定に使用できる字幕・音声・アングルの数を制限したり、ディズニーの映画のように言語設定を変更すると映像の一部箇所が変更されたり、DVD以上に大量の言語の字幕を収録することが可能となった。 市販のDVDレコーダーでは、DVD-Videoフォーマットでのマルチ音声収録に対応したものは2009年現在発売されていない。加えて、DVD-Videoフォーマット規格では再生専用機でも含めて音声チャンネルの左右切り替え再生を許容していないことからDVDレコーダーを用いた場合、テレビ放送の二ヶ国語放送(多重音声放送)をDVD-Videoフォーマットで二ヶ国語再生が可能な形式の記録は不可能になっている(DVD-VRフォーマットでは可能。後述も参照のこと)。 映像データとは別に字幕専用のデータを収録し、映像と重ね合わせて表示する(再生機器側の機能)ことが可能である。再生機器のリモコンなどで字幕表示のON/OFFの切り替えが可能。ただし収録コンテンツの製作過程で映像データと一緒にデジタルデータ化されているテロップ・字幕の場合はこの機能を用いていないので、ON/OFFは不可能(日本語字幕を参照のこと)。 1つの場面に対して複数の映像を収録し、ユーザーが切り替えて楽しむことができる。例えば音楽ライブ映像でカメラの位置を切り替えながら鑑賞するといったことが可能になる。しかし現在の市販ソフトではGOP構造の制限やビットレートの制限による画質の低下や製作コストの問題もありマルチアングルを採用したタイトルは極めて少なく、十分に活用されていない。 シーンの区切りにチャプターを設定することが可能。リモコンのチャプタースキップボタンやメニュー(後述)で好きな位置に移動することができ、VHSやレーザーディスクなどに比べて高い操作性を持つ。 また、1枚のDVDに複数のタイトルを収録することができる。例えば特典映像には本編とは別のタイトル番号が割り当てられる場合が多い。 チャプターを一覧表示し、好きな場面に瞬時に移動できるといった機能を持つメニュー画面を組み込むことができる。メニューには静止画だけでなく動画(モーションメニュー)を使うことも可能。メニューが適切かつ便利でなければソフトの魅力を大きく損なう場合があり、DVD-Videoの重要な要素の一つである。 メニューの双方向機能をさらに発展させてゲームブックのような構造を用いたDVD-Video形式のゲームソフトを制作することも可能であり、主にアダルトゲームの分野でDVD PlayersGameと呼ばれるソフトが市場に出回っている。また、アニメDVDのおまけ要素として3択クイズを再現して収録したものも存在する。Blu-ray Disc、Ultra HD Blu-rayではメニュー画面のUIがさらに高度かつ高画質なものに改良されている。 一部のレーザーディスクですでにドルビーデジタルの再生は可能となっていたが、ドルビーデジタルが再生できるLDプレイヤー・アンプは一部機種のみとなっていたため再生難易度が高かった。しかし、DVDによってさらに手軽にドルビーデジタル信号の音声採用できるようになったため、ついに映画の音声と全く同じクオリティの信号をそのまま記録できるようになった。そのため、DVDプレイヤーのうち、ドルビーデジタルに対応しているものはS/PDIF端子、のちに出たプレイヤーにはHDMI端子が搭載されている。最初からサラウンド音声が使用されていない場合でも、ドルビーデジタルを使用した2ch音声の記録が可能である。DTSを使う場合はドルビーデジタルよりも音質が向上する。DTSは一部ソフト・機種のみの対応となっているため、DTSに非対応の機器でDTS用の音声信号を再生すると機器に不具合や故障が発生するリスクがある。DTSも同様にS/PDIF、HDMI端子で伝送できる。 アクセスコントロール技術としてContent Scramble System (CSS) による暗号化が可能であり、ほとんどの市販ソフトで導入されている。その際、コピーコントロール技術としてアナログコピーガード(マクロビジョン)が施されるのが一般的である。 その一方で、CSSやマクロビジョンを解除して複製を可能にするソフトウェアも存在する。 なお、日本では、2012年6月20日に、DVDなどに用いられる「CSS」などの暗号型技術を、著作権法上の対象となる「技術的保護手段」に追加するDVDのリッピングの違法化を盛り込んだ著作権改正法案が可決されている。これに伴い、CSS等の保護技術を回避してのDVDのリッピングは私的複製の対象外となり違法行為となる(ただし、CSS等の保護技術が使われていないDVDのリッピングについては、改正後も従来と変わりはない)。CSSを回避するプログラム・装置を提供することについても規制され、刑罰の対象となる。 世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクのリージョンコードが異なると再生することができない。ただしDVDプレーヤーのリージョンコードの設定を変更することによって再生できるものがあるが、ほとんどの機種では変更できる回数に上限(多くは5回、ドライブを最初に接続したときにリージョンが決まる場合を考慮すると4回)が設けられている。しかし、現在のPC用DVDプレイヤーのソフトウェアのほとんどやPCSX2はリージョンコードを無視して再生できるように設計されているため、PC用ドライブのリージョンコードを変更してもほとんど意味がない場合もある。 また、リージョンコードが合っていてもテレビ方式(NTSCやPALなど)が合わないと再生できない。例えば日本とヨーロッパ・中近東・南アフリカは同じリージョン2であるが、テレビ方式が異なるために通常は再生できない。しかし日本国内でPAL方式に対応したDVDプレーヤーも存在し、またNTSC規格に縛られない機器では再生できる場合が多い。なお香港とマカオおよび台湾(NTSC方式)のDVDはリージョンコードが中国とは違うため再生できない。 手持ちのDVD-Videoがどのリージョンあるいはテレビ方式であるかは、DVDのレーベル面やケースの裏表紙に記載されている。マークは地球を模した図の中にリージョンコードが書かれている。 リージョンコードとそれに対応する地域は下記の通り。 暴力や性描写などがあるシーンを子供に見せないため、DVDプレーヤーにパスワードを設定して、ロックをかけ該当シーンを再生できないようにする機能がある。なお英語のparentalの発音は「パレンタル」であるが、日本では名詞のparent(ペアレント)からの誤類推で「ペアレンタル」と片仮名表記されるのが一般的である。一部シーンのロックはほとんど採用されず、ディスクの映像全てを年齢制限でロックする場合が多い。 但し、設定していると、内容(ストーリー)が分からなくなると言う弊害もある。 DVDの規格上は両面2層まで可能であるが、歩留まりの問題やパッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なお、両面再生型が存在するLDプレーヤーと異なり、DVDプレーヤーには両面自動連続再生可能なものが存在しないため、2枚組でも両面1/2層でも入れ替えの手間はあまり変わらず、ケースへの出し入れの手間が省けるだけである。むしろ、オートチェンジャー型の場合は2枚組の方が入れ替えの手間がかからない。記録面が汚れる可能性があることを考えると、ユーザーからすれば片面ディスクの方が扱いやすい。初期のDVD(~2000年)までは主にワーナーブラザーズのみがDVDを製造していたため、片面二層にすればいい作品を、レーザーディスクと同じ製造プロセスに近づけたために両面一層として販売されるディスクも製造した。 両面2層は『心の旅路』(特別版)等、極少数に留まり、両面1層も『風と共に去りぬ』(通常正規盤)、『陽気な踊子』(正規版)、『燃えよドラゴン』、『アマデウス』(通常版)、『戦え!!イクサー1』等、少数に留まる。ワーナーの主にテレビシリーズに集中し、ワーナー以外では極めて珍しい。DVDの普及後期には両面使用で発売されたソフトも片面2層仕様で再発売されるものも多かった。。 ディスクを入れ始めた直後などに映る注意書きやロゴアニメーションの部分では、早送り・早戻し・一時停止、もしくはその一部の操作が出来ない(禁止されている)ことがある。Xbox、Xbox 360の初期のディスクはこの仕様が使われ、Xbox以外で再生したときに専用の演出が流れた後、警告画面が表示された後はどの操作やチャプター飛ばしも不可能になる。 注1:日本などNTSC方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタルが標準で他はオプション扱いとなっている。PAL方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタルとともに標準になっているMPEG-1 Audio Layer-IIなどの音声は日本製のプレイヤーやソフトでは音声が出ない場合もある。 DVDプレーヤーやDVDレコーダー等、ほとんどのDVD対応機器での再生が可能。PC搭載のDVDドライブでも再生が可能である事が多い。また、一部のDVDドライブ搭載ゲーム機でも再生できる。
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"なお、日本では、2012年6月20日に、DVDなどに用いられる「CSS」などの暗号型技術を、著作権法上の対象となる「技術的保護手段」に追加するDVDのリッピングの違法化を盛り込んだ著作権改正法案が可決されている。これに伴い、CSS等の保護技術を回避してのDVDのリッピングは私的複製の対象外となり違法行為となる(ただし、CSS等の保護技術が使われていないDVDのリッピングについては、改正後も従来と変わりはない)。CSSを回避するプログラム・装置を提供することについても規制され、刑罰の対象となる。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクのリージョンコードが異なると再生することができない。ただしDVDプレーヤーのリージョンコードの設定を変更することによって再生できるものがあるが、ほとんどの機種では変更できる回数に上限(多くは5回、ドライブを最初に接続したときにリージョンが決まる場合を考慮すると4回)が設けられている。しかし、現在のPC用DVDプレイヤーのソフトウェアのほとんどやPCSX2はリージョンコードを無視して再生できるように設計されているため、PC用ドライブのリージョンコードを変更してもほとんど意味がない場合もある。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、リージョンコードが合っていてもテレビ方式(NTSCやPALなど)が合わないと再生できない。例えば日本とヨーロッパ・中近東・南アフリカは同じリージョン2であるが、テレビ方式が異なるために通常は再生できない。しかし日本国内でPAL方式に対応したDVDプレーヤーも存在し、またNTSC規格に縛られない機器では再生できる場合が多い。なお香港とマカオおよび台湾(NTSC方式)のDVDはリージョンコードが中国とは違うため再生できない。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "手持ちのDVD-Videoがどのリージョンあるいはテレビ方式であるかは、DVDのレーベル面やケースの裏表紙に記載されている。マークは地球を模した図の中にリージョンコードが書かれている。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "リージョンコードとそれに対応する地域は下記の通り。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "暴力や性描写などがあるシーンを子供に見せないため、DVDプレーヤーにパスワードを設定して、ロックをかけ該当シーンを再生できないようにする機能がある。なお英語のparentalの発音は「パレンタル」であるが、日本では名詞のparent(ペアレント)からの誤類推で「ペアレンタル」と片仮名表記されるのが一般的である。一部シーンのロックはほとんど採用されず、ディスクの映像全てを年齢制限でロックする場合が多い。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "但し、設定していると、内容(ストーリー)が分からなくなると言う弊害もある。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "DVDの規格上は両面2層まで可能であるが、歩留まりの問題やパッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なお、両面再生型が存在するLDプレーヤーと異なり、DVDプレーヤーには両面自動連続再生可能なものが存在しないため、2枚組でも両面1/2層でも入れ替えの手間はあまり変わらず、ケースへの出し入れの手間が省けるだけである。むしろ、オートチェンジャー型の場合は2枚組の方が入れ替えの手間がかからない。記録面が汚れる可能性があることを考えると、ユーザーからすれば片面ディスクの方が扱いやすい。初期のDVD(~2000年)までは主にワーナーブラザーズのみがDVDを製造していたため、片面二層にすればいい作品を、レーザーディスクと同じ製造プロセスに近づけたために両面一層として販売されるディスクも製造した。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "両面2層は『心の旅路』(特別版)等、極少数に留まり、両面1層も『風と共に去りぬ』(通常正規盤)、『陽気な踊子』(正規版)、『燃えよドラゴン』、『アマデウス』(通常版)、『戦え!!イクサー1』等、少数に留まる。ワーナーの主にテレビシリーズに集中し、ワーナー以外では極めて珍しい。DVDの普及後期には両面使用で発売されたソフトも片面2層仕様で再発売されるものも多かった。。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ディスクを入れ始めた直後などに映る注意書きやロゴアニメーションの部分では、早送り・早戻し・一時停止、もしくはその一部の操作が出来ない(禁止されている)ことがある。Xbox、Xbox 360の初期のディスクはこの仕様が使われ、Xbox以外で再生したときに専用の演出が流れた後、警告画面が表示された後はどの操作やチャプター飛ばしも不可能になる。", "title": "規格概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "注1:日本などNTSC方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタルが標準で他はオプション扱いとなっている。PAL方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタルとともに標準になっているMPEG-1 Audio Layer-IIなどの音声は日本製のプレイヤーやソフトでは音声が出ない場合もある。", "title": "規格仕様" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "DVDプレーヤーやDVDレコーダー等、ほとんどのDVD対応機器での再生が可能。PC搭載のDVDドライブでも再生が可能である事が多い。また、一部のDVDドライブ搭載ゲーム機でも再生できる。", "title": "対応機器" } ]
DVD-VideoとはDVDフォーラムで制定されたDVDに複数の映像、音声、字幕を記録するアプリケーションフォーマット(規格)である。
{{出典の明記|date=2023年3月}} [[ファイル:DVD-Video bottom-side.jpg|thumb|220px|DVD-Video メディア]] '''DVD-Video'''(ディー ブイ ディー ビデオ)とは[[DVDフォーラム]]で制定された[[DVD]]に複数の映像、[[音声]]、[[字幕]]を[[記録]]する[[フォーマット (ストレージ)#アプリケーションフォーマット|アプリケーションフォーマット]]([[標準化|規格]])である。 == 概要 == [[1996年]]に[[東芝]]が中心となって開発が完了した後、製品の発売が始まり、以後世界的に幅広く普及している。それまで映像パッケージソフトの主流だった[[VHS]]、[[ビデオCD]]等に比べて高画質(解像感が高く、[[DVD]]の草創期には[[DVDプレーヤー|プレーヤー]]の[[カタログ]]などで[[BETACAM]]などの[[放送局]]用[[ビデオテープレコーダ|VTR]]に迫る画質と謳われる事もあった)であること、[[コンパクトディスク]]と同じようなメディアの扱いやすさで親しまれるようになった。ただし、登場直後から2000年まではそこまで普及せず、ディスクケースのサイズ規格もばらつきがあったが、DVD再生機能を標準搭載したゲーム機「[[PlayStation 2]]」のヒットによるディスクケースの統一や映画「[[マトリックス (映画)|マトリックス]]」のDVD初[[ミリオンセラー]]達成の他、対応機器の低価格化などにより特に[[2000年代]]に入ってから再生専用ソフトに関しては[[VHS]]を置き換えるほど普及した。 DVD-Videoは一般的にはDVD-Videoフォーマット規格で映像データが記録されたディスクを指すものとして用いられ、「DVDに記録されたデジタルビデオ」全般を表すものではない(詳細は[[DVD#DVD-Video]]を参照)。記録フォーマット名として明確に区分する目的で表現する場合は「DVD-VF」 (DVD Video Format)<ref group="注釈">DVD Video Formatを表記する際に「DVD-VF」が用いられ場合、DVD Video Recording Formatに関しては「[[DVD-VR|DVD-VRF]]」と表記される。</ref> が用いられる場合もある。一方、本来は単に "DVD" という場合はDVD-Videoディスク自体のことを表す言葉になるので解説・説明をする際には紛らわしさを避けるように注意する必要がある。 == 規格概要 == === 映像 === ;[[MPEG-2]] :DVDで使用する際は本来のMPEG-2の規格に若干の変更や制限が加えられており、映像[[ビットレート]]は最大約9.8Mbpsで同時に再生する音声のビットレートや字幕データを含めて10.08Mbpsを超えてはならない。また、マルチアングル使用時は映像ストリームの上限は8Mbpsになる。 :*[[NTSC]]においては[[解像度]]は横720×縦480[[ピクセル]]・[[インターレース]] (480i) 、および29.97fpsが標準でありVHS(水平240本程度)、[[S-VHS]]や[[レーザーディスク]]など(400本程度)に比べて高精細であるとされているが、[[ブロックノイズ]]や[[モスキートノイズ]]などとの兼ね合いもあり実視聴上は[[S-VHS]]や[[レーザーディスク]]の[[CAV]]方式などとあまり変わらない画質ではないかといった意見もある。なお欧州で使われる[[PAL]]規格のDVD-Videoは576iとなるが、fpsが25に制限される上に、画面端が再生時にやや乱れる場合がある。 :*標準解像度の他に、横352×縦480ピクセルと横352×縦288ピクセル([[Common Intermediate Format|CIF]])が許容されている。 : ;[[MPEG-1]] :MPEG-1方式の映像ストリームも使用可能である。解像度については、[[ビデオCD]]と同じCIFである。映像の最大ビットレートは1.859Mbpsを超えてはならない。 === アスペクト比 === 解像度は同じ720×480であっても、縦横比は4:3か16:9にソフト側で指定されている。ただしシネマスコープ・ビスタサイズなど16:9よりも横長な映像は垂直480本の解像度の一部しか利用できない(NTSCの場合。PALは576本)。詳細は[[画面サイズ]]を参照。 ディスクが指定するアスペクト比と再生環境を合わせるため、DVDプレーヤーには[[レターボックス (映像技術)|レターボックス]]や[[スクイーズ]]の機能が搭載されており、スクイーズするかどうかはDVDに記録されている。16:9のテレビで映画を再生する場合、上下に黒帯を付加して全体を表示する(レターボックス)かスクイーズかを選択する。ただし映像ソフト側でパンスキャンを許可しないものが多く、これらは強制的にレターボックス表示となる。 16:9型のテレビ等で4:3の映像を再生することはDVD-Video規格の上では考慮されておらず、プレーヤーとテレビ等のどちらかで左右の端に黒帯を付加する処理([[ピラーボックス (映像技術)|ピラーボックス]])を行う必要がある。 === 音声 === '''標準で[[ドルビーデジタル]] (AC-3)2chおよび5.1ch信号'''、オプションで[[デジタル・シアター・システムズ|PCM]][[デジタル・シアター・システムズ|、DTS]]や[[MPEG]] Audio Layer-2 ([[MP3|MP2]]) なども利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。全てのプレイヤー上で再生できる音声コーデックはドルビーデジタルとPCMのみである。 PCMの[[量子化]]ビット数は16bit/24bit、[[サンプリング周波数]]は48kHz/96kHzが利用可能であるため[[コンパクトディスク|CD]](16bit・44.1kHz)より高音質となる。{{要出典範囲|ただし24bit・96kHzはほとんど利用されていない。|date=2017年9月}} 複数の音声を同時に収録することができるマルチ音声収録が可能、ただし非圧縮PCM音声でステレオを超えるマルチチャンネルを収録することはできない。 再生時にユーザーが好みの音声1種類を選ぶ。規格上は8ストリームまで利用可能でそれぞれのストリームに1ch、2ch、5.1chなどの音声を割り当てられる。例えば2チャンネルステレオをPCM、5.1チャンネルのサラウンド音声をドルビーデジタルまたはdtsで収録する。また海外の映画作品などの場合、 #原語 #日本語[[吹き替え]] #コメンタリー音声(出演者・スタッフなどによる場面解説) といったものが多い。これにより海外の映画作品がVHSでは「[[字幕]]スーパー版」「日本語吹き替え版」と2種類のソフトを発売しなければならなかったり、「字幕対応版VHS」を字幕受信に対応したビデオデッキで再生する必要があったが、DVDなら1本に両方とも収録できるようになった。Blu-ray Disc以降ではプレイヤー側の設定地域(リージョンとは異なる)により設定に使用できる字幕・音声・アングルの数を制限したり、音声信号を最初に設定した言語で制御したりすることが可能となった。 市販のDVDレコーダーでは、DVD-Videoフォーマットでのマルチ音声収録に対応したものは2009年現在発売されていない。加えて、DVD-Videoフォーマット規格では再生専用機でも含めて音声チャンネルの左右切り替え再生を許容していないことからDVDレコーダーを用いた場合、テレビ放送の二ヶ国語放送([[音声多重放送|多重音声放送]])をDVD-Videoフォーマットで二ヶ国語再生が可能な形式の記録は不可能になっている(DVD-VRフォーマットでは可能。後述も参照のこと)。 === 字幕(サブタイトル) === 映像データとは別に字幕専用のデータを収録し、映像と重ね合わせて表示する(再生機器側の機能)ことが可能である。再生機器のリモコンなどで字幕表示のON/OFFの切り替えが可能。ただし収録コンテンツの製作過程で映像データと一緒にデジタルデータ化されているテロップ・字幕の場合はこの機能を用いていないので、ON/OFFは不可能([[日本語字幕]]を参照のこと)。字幕は画像データであり、DVDの中のデータの画像を表示する機能でありため、実装時はDVDの容量を負担することになる。 === マルチアングル === 1つの場面に対して複数の映像を収録し、ユーザーが切り替えて楽しむことができる。例えば音楽ライブ映像でカメラの位置を切り替えながら鑑賞するといったことが可能になる。ただしこの機能は莫大なディスク容量が必要になることから、日本のアニメ映画でラフ画と実際の放映時の映像を交互に切り替えながら視聴する際などに用いられる場合がある。[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]]では[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]作品で音声設定を変更したときに自動でアングルが変更されるので頻繁に用いられる。 === チャプター、タイトル === シーンの区切りにチャプターを設定することが可能。[[リモコン]]のチャプタースキップボタンやメニュー(後述)で好きな位置に移動することができ、VHSやレーザーディスクなどに比べて高い操作性・ランダムアクセス性を持つ。 また、1枚のDVDに複数のタイトルを収録することができる。例えば特典映像には本編とは別のタイトル番号が割り当てられる場合が多い。 === メニュー === チャプターを一覧表示し、好きな場面に瞬時に移動できるといった機能を持つメニュー画面を組み込むことができる。メニューには静止画だけでなく動画(モーションメニュー)を使うことも可能。メニューが適切かつ便利でなければソフトの魅力を大きく損なう場合があり、DVD-Videoの重要な要素の一つである。全てのDVDメニューは無音のメニューである場合も、一定時間が経過するとメニュー画面が自動的にリロードされる。 メニューの双方向機能をさらに発展させて[[ゲームブック]]のような構造を用いたDVD-Video形式の[[ゲームソフト]]を制作することも可能であり、主に[[アダルトゲーム]]の分野で[[DVD PlayersGame]]と呼ばれるソフトが市場に出回っている。また、アニメDVDのおまけ要素として3択クイズを再現して収録したものも存在する。[[Blu-ray Disc]]、[[Ultra HD Blu-ray]]ではメニュー画面のUIがさらに高度かつ高画質なものに改良されている。 === ドルビーデジタル、DTSデジタルサラウンド === 一部のレーザーディスクですでにドルビーデジタルの再生は可能となっていたが、[[ドルビーデジタル]]が再生できるLDプレイヤー・アンプは一部機種のみとなっていたため再生難易度が高かった。しかし、DVDによってさらに手軽にドルビーデジタル信号の音声採用できるようになったため、ついに映画の音声と全く同じクオリティの信号をそのまま記録できるようになった。そのため、DVDプレイヤーのうち、ドルビーデジタルに対応しているものは[[S/PDIF]]端子、のちに出たプレイヤーには[[HDMI]]端子が搭載されている。最初からサラウンド音声が使用されていない場合でも、ドルビーデジタルを使用した2ch音声の記録が可能である。[[DTS (サウンドシステム)|DTS]]を使う場合はドルビーデジタルよりも音質が向上する。DTSは一部ソフト・機種のみの対応となっているため、DTSに非対応の機器でDTS用の音声信号を再生すると機器に不具合や故障が発生するリスクがある。DTSも同様にS/PDIF、HDMI端子で伝送できる。 === 複製防止技術 === <!--[[複製防止技術]]として[[Content Scramble System]] (CSS) という[[暗号化]]をすることが可能。ほとんどの市販ソフトで導入されている。また[[Content Scramble System]] (CSS) と同時にアナログコピーガード(マクロビジョン)が施されるのが一般的。--> アクセスコントロール技術として[[Content Scramble System]] (CSS) による[[暗号化]]が可能であり、ほとんどの市販ソフトで導入されている。その際、コピーコントロール技術としてアナログコピーガード(マクロビジョン)が施されるのが一般的である。 その一方で、CSSやマクロビジョンを解除して複製を可能にするソフトウェアも存在する。 なお、日本では、2012年6月20日に、DVDなどに用いられる「CSS」などの暗号型技術を、著作権法上の対象となる「技術的保護手段」に追加するDVDの[[リッピング]]の違法化を盛り込んだ著作権改正法案が可決されている。これに伴い、CSS等の保護技術を回避してのDVDのリッピングは私的複製の対象外となり違法行為となる(ただし、CSS等の保護技術が使われていないDVDのリッピングについては、改正後も従来と変わりはない)。CSSを回避するプログラム・装置を提供することについても規制され、刑罰の対象となる。 === リージョンコード === [[ファイル:DVD-Regions with key.png|thumb|200px|リージョンコードの分布]] 世界をいくつかの地域に分け、'''[[リージョンコード]]'''(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクのリージョンコードが異なると再生することができない。ただしDVDプレーヤーのリージョンコードの設定を変更することによって再生できるものがあるが、ほとんどの機種では変更できる回数に上限(多くは5回、ドライブを最初に接続したときにリージョンが決まる場合を考慮すると4回)が設けられている。しかし、現在のPC用DVDプレイヤーのソフトウェアのほとんどや[[PCSX2]]はリージョンコードを無視して再生できるように設計されているため、PC用ドライブのリージョンコードを変更してもほとんど意味がない場合もある。 また、リージョンコードが合っていても[[世界の放送方式|テレビ方式]]([[NTSC]]や[[PAL]]など)が合わないと再生できない。例えば日本とヨーロッパ・中近東・南アフリカは同じリージョン2であるが、テレビ方式が異なるために通常は再生できない。しかし日本国内でPAL方式に対応したDVDプレーヤーも存在し、またNTSC規格に縛られない機器では再生できる場合が多い。{{Efn|ゲーム機では[[Xbox360]],[[XboxOne]],[[Xbox Series X]],[[PS4]],[[PS5]]がPAL映像の自動変換に対応。一方で、市販のプレイヤーはほとんどが対応していない。}}なお[[香港]]と[[マカオ]]および[[中華民国|台湾]](NTSC方式)のDVDはリージョンコードが[[中華人民共和国|中国]]とは違うため再生できない。 手持ちのDVD-Videoがどのリージョンあるいはテレビ方式であるかは、DVDのレーベル面やケースの裏表紙に記載されている。マークは地球を模した図の中にリージョンコードが書かれている。 リージョンコードとそれに対応する地域は下記の通り。 {| class="wikitable" !コード!!地域 |- |0||制限なし(パッケージには「ALL」と記載されることが多い) |- |1||米国、カナダ、米国領域 |- |2||ヨーロッパ、中近東、南アフリカ、日本 |- |3||韓国、台湾、香港、マカオ、東南アジア |- |4||オーストラリア、中南米 |- |5||アフリカ、アジア、東ヨーロッパ、ロシア |- |6||中華人民共和国 |- |7||未定義 |- |8||航空機内等 |} === ペアレンタルロック === 暴力や性描写などがあるシーンを子供に見せないため、[[DVDプレーヤー]]に[[パスワード]]を設定して、ロックをかけ該当シーンを再生できないようにする機能がある。なお英語の{{en|parental}}の発音は「パレンタル」であるが、日本では名詞の{{en|parent}}(ペアレント)からの誤類推で「ペアレンタル」と[[片仮名]]表記されるのが一般的である。一部シーンのロックはほとんど採用されず、ディスクの映像全てを年齢制限でロックする場合が多い。 但し、設定していると、内容(ストーリー)が分からなくなると言う弊害もある。 === 片面/両面、1層/2層 === DVDの規格上は両面2層まで可能であるが、歩留まりの問題や[[パッケージソフト]]として販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なお、両面再生型が存在する[[レーザーディスク|LD]]プレーヤーと異なり、DVDプレーヤーには両面自動連続再生可能なものが存在しないため、2枚組でも両面1/2層でも入れ替えの手間はあまり変わらず、ケースへの出し入れの手間が省けるだけである。むしろ、オートチェンジャー型の場合は2枚組の方が入れ替えの手間がかからない。記録面が汚れる可能性があることを考えると、ユーザーからすれば片面ディスクの方が扱いやすい。初期のDVD(~2000年)までは主に[[ワーナー・ブラザース|ワーナーブラザーズ]]のみがDVDを製造していたため、片面二層にすればいい作品を、[[レーザーディスク]]と同じ製造プロセスに近づけたために両面一層として販売されるディスクも製造した。 両面2層は『[[心の旅路 (映画)|心の旅路]]』(特別版)等、極少数に留まり、両面1層も『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(通常正規盤)、『[[陽気な踊子]]』(正規版)、『[[燃えよドラゴン]]』、『[[アマデウス (映画)|アマデウス]]』(通常版)、『[[戦え!!イクサー1]]』等、少数に留まる。ワーナーの主にテレビシリーズに集中し、ワーナー以外では極めて珍しい。DVDの普及後期には両面使用で発売されたソフトも片面2層仕様で再発売されるものも多かった。[https://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&c2coff=1&q=%22%E4%B8%A1%E9%9D%A21%E5%B1%A4%22+site%3Awhv.jp&lr=]。 === 操作の制限 === ディスクを入れ始めた直後などに映る注意書きやロゴアニメーションの部分では、早送り・早戻し・一時停止、もしくはその一部の操作が出来ない(禁止されている)ことがある。[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]、[[Xbox 360]]の初期のディスクはこの仕様が使われ、Xbox以外で再生したときに専用の演出が流れた後、警告画面が表示された後はどの操作やチャプター飛ばしも不可能になる。 == 規格仕様 == *'''解像度''' **NTSC ***Full D1:720×480 ***Cropped Full D1:704×480 ***[[1/2|Half]] D1:352×480 ***SIF:352×240 **PAL ***Full D1:720×576 ***Cropped Full D1:704×576 ***Half D1:352×576 ***CIF:352×288 *'''[[多重化]][[ストリーム]]''' **[[符号化方式]]:MPEG-2プログラムストリーム **最大多重化レート:10.08Mbps *'''映像ストリーム''' **ストリーム数:1 **符号化方式:MPEG-1/MPEG-2 **最大レート ***MPEG-1:1.859kbps以下 ***MPEG-2:9.80Mbps以下 *'''音声ストリーム''' **ストリーム数:8 **符号化方式:リニアPCM/[[ドルビーデジタル]] (AC-3) /MPEG-1オーディオ/MPEG-2オーディオ **詳細([[サンプリング周波数]]/[[量子化]]bit/レート/ch数)※すべて最大値 ***[[リニアPCM]]:96kHz/24bits/非圧縮/6.144Mbps/8ch ***ドルビーデジタル (AC-3) :48kHz/圧縮/488kbps/5.1ch ***[[MPEG-1]][[オーディオ]]:48kHz/圧縮/384kbps/2ch(注1) ***[[MPEG-2]]オーディオ※:48kHz/圧縮/912kbps/7.1ch(注1) ***[[デジタル・シアター・システムズ|dts]]:(注1) *'''副映像(サブピクチャ)ストリーム''' **ストリーム数:32 **符号化方式:ランレングス符号化ビットマップ(2bit/[[ピクセル]]) **最大データサイズ:52kB **最大[[画素]]数 ***525/60システム:720×478 ***625/50システム:720×537 注1:日本など[[NTSC]]方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタル2.0chが全てのデバイス上で再生できる仕様となっていて、他はオプション扱いとなっている。[[PAL]]方式準拠ではリニアPCM、ドルビーデジタルとともに標準になっているMPEG-1 Audio Layer-IIなどの音声は日本製のプレイヤーやソフトでは音声が出ない場合もある。 == 対応機器 == [[DVDプレーヤー]]や[[DVDレコーダー]]等、ほとんどのDVD対応機器での再生が可能。[[パーソナルコンピュータ|PC]]搭載のDVDドライブでも再生が可能である事が多い。また、一部のDVDドライブ搭載[[ゲーム]]機でも再生できる。 == DVDレコーダーにおけるDVD-Videoモード == [[ファイル:Sony RDZ-D700.jpg|thumb|HDD & DVDレコーダー]] *[[DVDレコーダー]]での記録型DVDへの記録形式には主に「ビデオモード」('''DVD-Video'''フォーマット準拠)と「VRモード」(DVD-VRフォーマット)があり、前者はDVD-Videoにほぼ準拠している。[[DVD-R]]や[[DVD-RW]]がまだ開発されていなかった時代に発売された初期のDVDプレーヤーでは再生できなかったりまた[[地上デジタルテレビジョン放送]]などが受信、録画可能な最新機種であっても記録状態や機器とメディアの相性によっては再生できない場合もありメーカー各社では完全な[[互換性]]を保証していない。 *DVD-Videoはインタレース映像を記録するため、[[TiVo (企業)|マクロビジョン]]との共存が可能である。マクロビジョンで記録された映像はHDMI返還を経由してもプロテクトが消去されることはない。 *ほとんどの[[HDMI]]が取り付けられていない機器ではDVDのRGB信号出力、アップコンバート出力は不可能。ただし、480p出力はアナログ映像ケーブルしか取り付けられていないプレイヤーでも可能な場合がある。(例:PS2のSCPH-50000以降のモデル) *DVD-Videoモードはオーサリング後のカット編集ができない(オーサリングのやり直しという作業をふめば可能)など自由度が低いが、VRモード非対応のDVD-Videoプレーヤーで再生できる互換性の高さが特長である。[[コピーガード]]のかかった[[デジタル放送の一覧|デジタル放送]]はDVD-Videoモードでは記録できない(記録する際にコピーガードの解除を伴うので、日本では[[著作権法]]第30条の2に抵触する)。 *DVD-Videoモードでは、市販の各種記録型DVD(DVD-R、DVD-R DL、DVD-RW、DVD+R、DVD+R DL、DVD+RW)に機器が対応している場合に録画可能である。なお[[DVD-RAM]]にも規格上は録画可能となっているが、現在記録・再生に正式対応した専用アプリケーションは一般市場には提供されていない。一般的なDVDプレーヤーやDVDレコーダーでは、たとえDVD-RAM対応機であっても規格外のディスクとして機械が再生を拒む。 *DVD-Videoフォーマットは後発規格であるDVD-VRフォーマットでは可能となっている音声トラック(音声ストリーム)内のチャンネル選択による音声切換は出来ない仕様になっていて、別な音声ストリームとして記録されているマルチ音声収録の場合のみ音声の切り替えが可能になっている。 *音声の章で前述したように市販の民生DVDレコーダーではDVD-Videoモードで2つ以上の音声トラックに対応した製品が皆無なのと同一音声トラック内のチャンネル切換が規格上で制限されている関係でテレビ放送の二ヶ国語音声を同時に収録することが出来ず、どちらか一方のみを記録前に指定して録画する。PCなどでのDVD-Videoオーサリングソフトでは同時収録が可能(マルチ音声記録対応)になっているものがある。 *アスペクト比16:9の映像を記録・再生([[スクイーズ]]記録)できるのはDVD-VRモードでは各解像度で可能であるが、DVD-VideoモードではFull D1のみである<ref group="注釈">DVD-Videoモードの規格上では、画面アスペクト比16:9の映像([[スクィーズ]]記録に因る)を保証しなくてはならないのはFull D1解像度の場合のみであるが、実際の機器では、Full D1とは異なるその他の解像度についてもアスペクト比16:9の映像の再生が可能となっているものが多い。但しこのような場合でも、DVD-Videoモードにおいては本来規格外のコンテンツであるため、機器の仕様上は動作保証を謳ってはいない。</ref>。 == 販売・流通 == *[[#概要|概要]]の項で挙げたメリットやVHSソフトに比べて[[流通]][[費用|コスト]]が安い(メディア製造コストが格段に安い、パッケージを小型軽量に抑えられ輸送コストや陳列在庫スペースを節減できる、外国映画の字幕版と吹き替え版を同じパッケージで兼用できるなど)こと、VHSでは出来なかった新しい機能を搭載した(例えば日本語で制作された作品であっても[[聴覚障害者]]向けに日本語の字幕を収録し再生の際に[[DVDプレーヤー|プレーヤー]]で字幕の有無を自由に設定できるので、DVD-Videoは[[福祉]]の面でも優れている)ことなどにより販売本数が増加した。全世界では『[[ファインディング・ニモ]]』が2800万本<ref>[[:en:Finding Nemo|Finding Nemo(Wikipedia英語版)]]</ref>、日本国内では『[[千と千尋の神隠し]]』が222万本([[オリコンチャート|オリコン]]調べ)を売り上げて歴代トップとなっている。 *一方、複製や[[海賊版]]製造のしやすさから違法な海賊版DVDを製造・販売する業者・個人の摘発が後を絶たない。 *2000年頃から[[レンタルビデオ]]店でDVDの貸し出しが始まった。また[[オンラインDVDレンタル]]という新たなビジネスモデルも登場した。 *製造コストの低下により[[雑誌]]などの書籍にDVD-Videoが付属することが多くなった。 *日本国内では、[[再販売価格維持制度]]に縛られる書籍や音楽CDなどと異なり、DVDは値引き販売が可能である。[[ECサイト]]では、主に新作ソフトで25%前後の値引きをしている店舗がある。 *2003年頃から、日本では音楽[[CD-DA|CD]]([[シングル]]・[[アルバム]])に[[プロモーションビデオ]]等のDVDを付属した商品が登場した。[[2004年]]に[[公正取引委員会]]が『CD+DVDの形態は再販制度の対象外である』という通達を出したため、主にECサイトで値引き販売が行われている(値引率はDVD単品に比べて低い)。値引き後は、CDのみの同一製品と価格差が僅かであるため割安感があり、CDのみの同一製品に比べて、よく売れる傾向にある。海外でも同様の商品が見られる。 *オリジナルビデオの一部の作品にDVDドラマ<ref group="注釈">例に[[東京フレンズ]]。</ref>、DVDアニメ<ref group="注釈">略称はOADは、Blu-ray(例に[[のんのんびより (アニメ)|のんのんびより]])やネット配信(例に[[FAIRY TAIL]])でそのまま使われていた。</ref>が少数ぐらい用いられることがある。 *[[映画]]の公開から数ヶ月後にはDVDが発売・レンタル開始されるため劇場に足を運ばない人が多くなり、映画興行収入が低下した要因のひとつになったと言われている。また[[2000年代]]半ばにはDVDの総売上も低下傾向となった。 *2000年代後半になって、[[動画共有サイト]]や[[ネット配信]]や[[第3世代光ディスク]]([[Blu-ray Disc]]・[[HD DVD]])が登場し、徐々にDVDを置き換えるのではないかと言われているが、最終的にBlu-ray Discが市場のDVDをすべて置き換えることはなかった。BDプレイヤーは基本的に[[PlayStation 3|PlayStation3]]の初期型などの数少ない例外を除き、高価になる傾向があったことが原因である。BDプレイヤーは[[Advanced Access Content System|AACS]]の都合上、ほとんど使用しない場合でもプレイヤー単体でオンライン回線に接続でき、かつ内部に記録ストレージを作る必要があるか、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]のA端子を搭載させる必要があったこと、また[[HDMI]]の搭載は必須であることから、レコーダーを搭載しない純粋なプレイヤーを製造しにくくしている。また、日本アニメや[[アダルトビデオ]]はBDよりもDVDのほうが高速で流通・製造できる上に、商機を過ぎた商品を手っ取り早く廃棄することができるためである。[[2015年]]に登場した[[Ultra HD Blu-ray]]はさらに流通が少なく、現状[[ブックオフコーポレーション|ブックオフ]]などの数少ない系列店以外ではめったに購入できなくなっている。 ** 現在は、ケースのジャケットを黄色に統一し、通常よりも安い価格でDVDの新作を販売する会社も増えている。また、ディズニーは「MovieNEX」ロゴを全面に押し出し、DVDやブルーレイディスクのロゴを目立つ箇所に記載せずに、二枚のディスクを同時に一つのケースに入れて販売することで混乱を防ごうとする動きも見られる。 *2000年代後半以降、[[コピーガード|RipGuard]]を採用しているメーカー<ref group="注釈">[[ウォルト・ディズニー・ジャパン|Disney]]や[[TBSテレビ|TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[ポニーキャニオン]]など。</ref>が増えてきている。そのため、一部の古いDVDプレイヤーやパソコンでは正常に再生できない場合がある。<ref> https://www.disney.co.jp/studio/information_title/20070000072501.html</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == {{Commons|DVD|DVD}} *[[DVD]] *[[S-VHS]] *[[EDBeta]] *[[レーザーディスク]] *[[VHD]] *[[RCA端子]] *[[DVD-VR]] *[[miniDVD]] *[[第3世代光ディスク]] **[[Blu-ray Disc]] **[[HD DVD]] *[[BDMV]] (BD-Video) *[[オリジナルビデオ]] - VHS廃止後、DVDが主要な媒体として用いられている。 *[[パブリックドメインDVD]] {{光ディスク}} {{Video storage formats}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていいふいていいていすく}} [[Category:DVD|VIDEO]] [[Category:デジタルオーディオストレージ]] [[Category:映像作品]] [[bg:DVD#DVD-Video]]
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仮面ライダー
『仮面ライダー』(かめんライダー)は、1971年4月3日から1973年2月10日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全98話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 本作品の基本線は、等身大のヒーローと怪人が対決する痛快SF怪奇アクションドラマである。従来の実写ヒーロー物とは一線を画した「異形」のヒーロー像と、人間ドラマとしての側面を極力抑えた勧善懲悪劇、怪奇ドラマ的な演出、そして颯爽とオートバイを駆って「ライダーキック」などのダイナミックなアクションを繰り広げる格闘シーンや、多彩な動植物をモチーフとした特異でグロテスクな怪人の登場が特徴。 漫画版は石森章太郎が担当し、少年向け雑誌『週刊ぼくらマガジン』(のちに『週刊少年マガジン』に連載誌を変更)に連載した。 本作品の終了後にも登場人物や敵対組織、または時系列や世界観そのものを変えた多くの作品が制作されており、それぞれの番組は基本的に、主人公となる「ライダー」(=仮面ライダー)の名称をタイトルとしている。一般にこれらを仮面ライダーシリーズと呼ぶ。 なお、1979年の第6作のテレビ番組名も同じく『仮面ライダー』だが、新聞や文献などでは「(新)」を番組名に付記する方法で本作品とは区別されていた。現在では同作品の主役ライダーである「スカイライダー」を番組名に付記する方法で区別されることがある。この第6作については『仮面ライダー (スカイライダー)』を参照のこと。 優秀な科学者にしてオートレーサーの大学生・本郷猛は、世界征服を企てる悪の秘密結社・ショッカーに捕われる。本郷の能力に着目していたショッカーは、アジトで1週間かけて彼をバッタの能力を持つ改造人間に改造する。しかし、本郷は脳改造される寸前、ショッカーに協力させられていた恩師・緑川博士に助けられてアジトから脱出する。以降、仮面ライダーとなった本郷は、ショッカーが送り出す怪人たちを次々に倒していく。 ショッカーは仮面ライダー打倒のため、フリーカメラマン・一文字隼人を仮面ライダー同様の改造人間に改造する。だが、一文字も脳改造の直前に本郷に救出され、もう1人の仮面ライダーとなる。 こうして誕生した2人の仮面ライダーは日本と海外に別れ、時には共闘しながら、オートレーサーとしての師・立花藤兵衛、FBI捜査官・滝和也、自分たちに憧れる少年仮面ライダー隊などの多くの仲間たちの協力を得てショッカーと戦う。普通の人間に戻れなくなった悲しみを仮面の下に隠し、「人間の自由」を守るために。 第1話 - 第79話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。メンバーは知力体力に優れた人間に改造手術を施し洗脳した怪人を中心に構成されており、その怪人たちを正体不明の首領が操って様々な犯罪や破壊工作を行っている。 第80話 - 第98話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。暗黒組織・ゲルダム団と自身の組織ショッカーを合併・再編成した新組織。 ショッカーによって改造された戦闘用改造人間。2人とも脳改造を免れてショッカーのアジトから脱出し、人間の自由を守るためにショッカーと戦った。 第40話以降、2人の仮面ライダーが共演するエピソードでは、本郷の変身するライダーを仮面ライダー1号、一文字の変身するライダーを仮面ライダー2号と区別して呼ばれるようになったが、本作品の劇中での呼称とクレジットは仮面ライダーで統一されている。なお、2人の仮面ライダーは互いを「本郷」「一文字」と本名で呼び合っていた。 基本スペックは両者とも同一であるが、1号は多彩な必殺技、2号は高い格闘能力と破壊力をそれぞれ持つことから、雑誌展開などでは「技の1号・力の2号」と称された。 ライダーの特徴として、その名の通り高性能の専用オートバイを使用することが挙げられる。 ※参考文献:『宇宙船別冊・仮面ライダー怪人大画報2016』(ホビージャパン・2016年)、『仮面ライダー 昭和 (vol.1&vol.2)』(講談社・2016年) 本作品の歌曲ならびに劇伴は全て菊池俊輔が作曲・編曲した。BGMの録音は6回にわたって行われた。第5回録音分はその多くが挿入歌のカラオケへのメロ被せである。第6回録音分は2020年現在音源の所在が1曲しか確認されておらず、詳細不明。BGMには『キイハンター』からの流用曲もあるほか、第1話における本郷の変身シーンに使われた曲のように出典不明の流用曲も存在する。菊池は本作品から『仮面ライダースーパー1』まで、シリーズの全ての音楽を1人で作曲し、ほとんどの編曲も行った。 なお、本作品のために作られた楽曲のうち音源の現存が確認されているものは、2002年にコロムビアミュージックエンタテインメントから発売された『仮面ライダー ETERNAL EDITION File No.1,2,3』に全曲収録された。 本作品の大ヒットとともに、藤浩一(のちの子門真人)が歌うオープニング曲「レッツゴー!! ライダーキック」も、130万枚の大ヒットとなった。経営悪化で一度は傾きかかった日本コロムビアは、同時期にヒットした「女のみち」「喝采」「レッツゴー!! ライダーキック」の大ヒットシングルによって完全に立ち直り、あまりの売れ行きにレコードの生産が追いつかないほどだった。 また、日本の特撮ヒーロー番組としては初めて、歌のみで構成されたアルバム「仮面ライダー ヒットソング集」(全12曲)が制作され、LPレコードと8トラックで発売された。収録曲の一部は挿入歌として劇中で使われ、特に「ライダーアクション」は第72話からエンディングテーマ、第89話以降はオープニングテーマとして採用された。第89話以降のエンディングテーマとして使われた「ロンリー仮面ライダー」もヒットソング集が初出である。さらに、「レッツゴー!! ライダーキック」「ライダーアクション」「ロンリー仮面ライダー」「かえってくるライダー」の4曲が収録されたEPレコード「たたかえ!仮面ライダー」も発売された。この種の楽曲集は以後の特撮ヒーロー番組でも発売される定番アイテムとなった。 「ヒットソング集」では伊上ら脚本家陣が挿入歌の作詞を手掛けたが、いずれも多忙なためその後はプロデューサー陣が変名で作詞を担当した。当時の日本コロムビア学芸部長であった木村英俊は、収入を現場に還元する意図もあったと述べている。 藤浩一は「ヒットソング集」の発売時にはすでに「子門真人」と名乗っており、挿入歌は子門名義で録音したため、同一アルバムに2つの異なる名義で参加することになった。なお、「ヒットソング集」には藤岡弘版「レッツゴー!! ライダーキック」は含まれなかった。 「ライダーアクション」はオープニング主題歌となった後もシングル化はされなかった。これについて日本コロムビアの木村英俊は、抱える作曲家・作詞家への印税を均等化するための配慮であったと述べている。 オープニングとエンディング同様、挿入歌の作曲・編曲はすべて菊池俊輔。本編でボーカル入り・インスト版の両方が流れたことがあるのは「たたかえ!サイクロン」のみである。 本作品は土曜日の19時台後半で、朝日放送の『部長刑事』(関西地区)やTBSテレビの『お笑い頭の体操』(関東地区)に低視聴率を強いられていた毎日放送(MBS)テレビ営業局から編成局次長の廣瀬隆一を通じて発足間もない映画部に東映と組んでの子供番組制作が提案されたのが発端とされる。映画部長の庄野至は、東映の三由重夫から紹介を受け、1970年6月に1971年4月開始の新番組企画を東映テレビ部長の渡邊亮徳へと依頼した。渡邊は、系列の東映動画(現・東映アニメーション)で制作中だった『タイガーマスク』(読売テレビ)の人気に着目して人気要因を分析する一方で、東映テレビ部プロデューサーの平山亨や、石森章太郎のマネージャーで企画プランナーだった加藤昇も招集して度重なる打ち合わせの結果、『月光仮面』に代表される1950年代後半にブームを呼んだ仮面ヒーロー物を再構築するに至った。低視聴率を打破するには「周囲をみまわして、無いものをやればいい」という毎日放送の庄野プロデューサーの意見をもとに、二番煎じとなるアニメは避け、「実写」の「変身もの」として企画が練られた。 本作品の企画は、1970年9月ごろに平山が加藤の協力を得て作成した『マスクマンK』の企画書が第1案とされ、この企画書では「仮面のヒーローが日本征服を企むクロード黒原率いる組織・ショッカーと戦う」という大まかな筋書きが作られていた。しかし、その内容は『タイガーマスク』に言及し、「自分も仮面を被ればヒーローになれる」という児童の願望を指摘していること、主人公・九条剛が普通の体育教師で鍛錬によってヒーローの力を得ているなど、当時流行していたスポーツ根性ものの影響が強い内容であった。この企画書は、平山による「叩き台」的なもので、MBS側には提出されておらず、東映社内と石森プロ用のものだった。平山は本作品の前に『妖術武芸帳』で「謎の鉄仮面」という「仮面物」の設定を創案しており、その際に石森をアイディア協力者候補に挙げていたが、企画がTBSの橋本洋二に渡って実現しなかった。このため、平山にとっては「仮面物」であるこの『マスクマンK』は念願の設定だった。 次に起草された『仮面天使()』が、MBSに提出された最初の企画書となる。平山が『柔道一直線』の流れで市川森一と上原正三を招き、平山とコンビの長い伊上勝との3人の脚本家体制で、設定などの企画打ち合わせに入った。ここで主人公の名が本郷猛に決まり、市川によって「恩師・緑川教授殺害の容疑をかけられた逃亡者」という設定になった。この時点でスポ根要素は薄められ、主人公は30万ボルトの高圧電流を浴びる事故で特異体質となり、人間以上の力を得るというSF的な設定が加味されたが、ヒーローのデザイン画などは起こされなかった。本郷役には千葉治郎が候補に挙がっていた。 1970年9月上旬ごろ、廣瀬から「オートバイに乗るスーパーヒーロー物」という注文が追加され、『十字仮面()』の企画に到る。ここで構想されたストーリーは、本郷を父の仇と疑うヒロインや、殺人者・本郷を追う刑事などの登場人物が配され、主人公の逃亡者としての苦悩も付加された。主人公の仮面については、怒りの感情が高まると顔に感電事故による十字形の傷跡が浮かび上がるため、それを隠すために被っているという設定が加えられている。『サイボーグ009』や『佐武と市捕物控』などの数多くのヒット作を送り出してきた石森が原作者として本格的に参加するのはこの段階からで、彼の起用は石森プロマネージャーの加藤から渡邊へ熱心な売り込みがあったためだった。10月上旬に、伊上によって執筆された検討台本「怪奇蜘蛛男」と「謎の恐怖屋敷」がMBS側で検討され、予算案とともに「題名を日本語にしてほしい」との要望が出された。10月15日に石森側が『ファイヤー十字(クロス)』『十字仮面』『クロス火面』などの題名案を提出している。 10月以降になり、東映側は平山の補佐として阿部征司がプロデューサーに参加する。石森が参加した後、MBS側は「雑誌で漫画連載をしてほしい」と放送開始の条件を出した。漫画連載の実現には難航したが、平山と阿部、石森プロマネージャーの3人が『週刊少年マガジン』(講談社)の編集長だった内田勝に掛け合い、年末に了承を得た。 11月上旬には主人公ヒーローである「クロスファイヤー」のデザイン画も石森によって起こされ、平山やMBS映画課長の引野芳照もクロスファイヤーのデザインに「カッコいい」と絶賛し、題名も正式に『十字仮面』に決定、11月になってMBS側は『十字仮面クロスファイヤー』の企画書を起稿した。当初は本郷役に近藤正臣、ルリ子役に島田陽子を予定していた。クロスファイヤーの検討用デザインには、十字をモチーフとしたものとライオンをモチーフとしたものが存在する。 12月に入ると、企画書題名を『十字仮面 仮面ライダー』に変更。藤岡弘と森川千恵子(真樹千恵子)が本郷とルリ子役に選ばれ、藤兵衛役には高品格が予定され、放映開始は1971年4月と決定された。しかし企画がMBS側を通った矢先、同年末に市川と上原は『帰ってきたウルトラマン』をやりたいから」と願い出て急遽降板し、以後の企画や本編脚本は伊上主導で進められることとなった。市川は自らの代わりとして、同じ脚本家仲間の島田真之と滝沢真理を連れてきて、以後両人ともに本作品の主筆脚本家となっている。 翌1971年1月、石森は「もっとグロテスクなリアリティのある奴にしたい」と、自身の作品の髑髏をモチーフにした仮面のヒーローである『スカルマン』(『週刊少年マガジン』1970年1月11日号に掲載)をこの企画に応用した、「仮面ライダースカルマン」のキャラクターを提案。ここで主人公が敵対する怪人と同じく改造人間であるという設定がなされ、逃亡者であることや一部のキャラクターが整理され、藤兵衛は主人公の専属トレーナーとなり、よりシンプルな物語となった。しかし、渡邊はこのキャラクターを「以前に描かれた作品じゃないか。大勝負に出るんだから、新しいキャラクターじゃないと駄目だ」と却下した。MBSテレビ営業局副部長の箱崎賞からも「モチーフが髑髏では営業上の支障がある」と注文が出され、企画はさらなる検討を求められる。 これらの注文に対して石森は非常に落胆したが、50枚以上のデザイン画を描き、この中に加藤マネージャーの持ち込んだ昆虫図鑑のバッタをモチーフにした、強烈なインパクトのあるデザイン画があった。バッタの顔が「スカルマン」に共通する不気味さと髑髏に似た形であること、昆虫は「自然を破壊する悪と闘うヒーローにふさわしい」という思いもあった。石森は「子どもに聞いてみよう」と、この50枚以上のデザイン画を当時幼稚園児だった息子の小野寺丈に見せたところ、彼は即座にバッタをモチーフにしたデザイン画を選んだ。このデザイン画は平山によって渡邊に手渡され、「これだ、今度こそいける」と大喜びした渡邊は、即座にゴーサインを出している。 企画していた1971年当時の日本はイタイイタイ病などの公害問題に揺れており、環境庁が発足したばかりであった。藤岡弘によれば、仮面ライダーはこうした時代の空気を嗅ぎ取り、「環境破壊から地球を守る」というコンセプトで登場したのだという。それは石森の下記の言葉にも現れている バッタは自然の象徴だ。バッタの能力を持った主人公が自然破壊に立ち向かうなんていうのはどうかな?そうだ。エネルギーは風だ。風力エネルギーが彼の原動力なんだよ。彼のベルトのバックルに風車の機構があって、そこでエネルギーを獲得するんだ。 そして、仮面ライダーはバッタ本来のジャンプ力と体力をそのまま武器として戦い、ライダーキックやライダー投げといった必殺技もそこから必然的に生まれてきた。また当時アメリカで流行していた『ハルク』が怒りで変身するのを参考に、主人公が仮面をかぶって変身するのではなく、自然に変身して身体から力がみなぎってくるという平山の案が採用された。 このバッタのデザイン画をMBS東京支社に持ち込んだところ、箱崎は髑髏でなくなったことで安堵したものの、庄野は「バッタは握れば潰れるあのバッタですか?」と非力な昆虫をモチーフにすることに異議を唱えた。これに対し、平山は「バッタは小さいから強く見えないだけで、昆虫の跳躍能力などが人のサイズになれば強いものになりますよ」と説得した。翌日、MBS大阪本社の編成会議に出席した平山と加藤マネージャーは、「バッタ」とは伏せて「昆虫人間」としてセールス。加藤が「子どもでも描けるわかりやすさ」として黒板に仮面を描くなどした結果、最終的に承認が降りた。 前述の「少年マガジン」誌連載の折衝も進められていたが、MBSの社内ではまだこのヒーローのデザインを危ぶむ声が強かった。これに対し、廣瀬は「私の息子もオートバイに乗ったバッタのヒーローを面白いと言っている。ここはひとつ、子どもの感覚に賭けてみましょう」と社内を説得した結果、番組企画は推進されることになった。 「敵対組織によって改造人間にされてしまった」という設定があるため、マスクには泣いているように見えるデザインが施されている。 こうして「バッタ」をモチーフにしたヒーロー番組企画は、バイクに乗って戦うバッタのヒーロー『仮面ライダーホッパーキング』と仮題されたが、「長すぎる」とのMBS側の意向により『仮面ライダー』と短縮され、2月1日からの制作決定が下された。 元々、本作品は『ウルトラマン』のような「巨大ヒーローと怪獣が戦う作品」にしようという案もあったという。しかし、石森は等身大ヒーローにこだわり、敵キャラクターも人間形態としてタイツ主体で造形され、徹底して怪獣とは差別化する方向で、「怪人」と呼称された。ただしこれには制作費の違いもあったようで、何倍もの制作費がかけられているウルトラマンとは違い、仮面ライダーでは金のかかるセットやミニチュアを使わず、ほとんど特撮もなしで撮影され、「金はかけないけど身体は酷使する」アクションとして作成されたのである。 企画立案と平行して撮影拠点の準備が進められていた。当時、東映の労使関係は泥沼化していたため、春闘による番組制作への影響が懸念され、大泉撮影所以外に撮影拠点を用意する必要があったためである。平山や斎藤頼照とともに組合問題で東映京都撮影所を追われた内田有作が所長となり、急遽神奈川県川崎市多摩区(現麻生区)郊外の貸しスタジオを東映生田スタジオとして機能させ、そこでの制作が決まった。 主要スタッフは、内田が制作担当を務めていた『柔道一直線』の監督・助監督・制作担当らが参加。生田スタジオをフリーランスの寄り合い所帯にはしたくないという内田の考えから制作・演出を担当する東京映像企画という会社が設立され、東映社員以外はそこへ所属する形となった。アクションも『柔道一直線』から大野剣友会が参加した。キャラクター制作と美術全般は大映特撮などを手掛けたエキスプロダクションが担当。照明班や撮影班は、経営が悪化していた大映東京撮影所のスタッフが集められ、S.Kプロ(後にプロダクション・ショットと改名)として参加した。このようにして、東映の生え抜きではない異例のスタッフ編成が行われた。6日にスタッフの顔合わせがあり、撮影に入ったのは2月7日であった。 企画段階で紆余曲折を経た本作品は、番組制作が開始されても順風満帆とはいかなかった。元々貸しスタジオである東映生田スタジオには満足な撮影設備もなく、撮影用の平台が1つあるのみで、プレハブ造りのバラックの建物は雨が降ると反響音によってアフレコもできない状況だったという。 こうして放送が開始された第1話の視聴率はキー局・NETの放送エリアである関東地区において8.1パーセントと厳しいものであったが、MBSの放送エリアである関西地区では20.8パーセントと関東地区に比べて高視聴率をマークしており、MBSの庄野部長は「関東もいずれ上がって20パーセントを超えますよ。今バタバタして番組をいじるのは止めましょう」と平山に伝えた。 本作品は放送開始前、のちに多大な影響を与えることになったアクシデントが発生していた。第9話・第10話の撮影中に藤岡がオートバイで転倒して全治3 - 6か月の重傷を負い、撮影に参加できなくなったのである。このため、未完成分については、本郷の登場シーンなどを前話までの映像から流用した藤岡の姿に声優・納谷六朗によるアフレコを挿入する、仮面ライダーの登場シーンを増やす、ヒロイン・緑川ルリ子や新キャラクター・滝和也の活躍を繋ぎ合わせるなどの措置で完成させ、急場を凌いだ。 この間、方向性の再検討と新たな主役について討議された。本郷役の交替案や内容の一新など、様々な展開が検討されている。関連書籍に再録された当時の議事録によれば、MBSの局長や脚本家の「仮面ライダー1号は殺してしまってもよいのではないか」「外遊よりも殺してしまったほうが書きやすいのだが」といった意見に対し、平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を潰すことになり、主人公を殺してしまうのはよくない」と強硬に反対した。同時期に『宇宙猿人ゴリ』や『帰ってきたウルトラマン』などの巨大ヒーロー番組が多かったせいか、「仮面ライダーを巨大化させよう」という案も出た。 上記の事態を受けての討議の結果、「本郷は海外のショッカー支部との戦いに赴き、そのあとを継ぐ新しい仮面ライダーが登場する」という形での新展開が決定した。 急遽新たに登場する仮面ライダー2号=一文字隼人役には、最初はその候補として三浦友和が選ばれ、毎日放送の了承も得ていたが、結局この話は三浦の所属事務所側から断りが入ったため無くなり、最終的にこの役には『柔道一直線』に出演しスタッフらと旧知であった佐々木剛が選ばれた。佐々木は出演依頼を受けた当初、劇団NLTで同期だった藤岡の役を奪うことになると難色を示していたが、「藤岡が復帰するまでの代役」という条件で引き受けた。 また、この主役交代を機にそれまでの番組上の問題点を修正し、刷新することになった。 脚を開いて両腕を大きく動かしながら「変身!!」と掛け声を叫ぶ変身ポーズは、1号編のころから監督の山田稔より抽象的な変身描写に変わるダイナミックなものとして要望されていたものだが、当時の佐々木が自動二輪の免許を持っていなかったことから、藤岡のように「バイクで加速しながら変身」が不能となったための苦肉の策という面もあった。しかし、この変身ポーズは子供たちの間で大流行となり、「変身ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。このような変身時のアクションは、のちの仮面ライダーシリーズや他の変身ヒーロー・ヒロインものでも重要なシーンとして受け継がれた。 そのほか、地方ロケによる舞台の拡充や大幹部の投入によるショッカー側の強化などが行われ、番組の人気も上昇していった。毎日放送が担当する関西地区でも視聴率は20パーセント台を維持し、第3クール以降の継続はスムーズに決定した。 なお、第14話から第26話までは、「ストーリーのスケールの拡大化」と「怪人のイメージの定着化」という制作スタッフの意図から、前後編の2話で構成されるストーリーが多く見られた。 7月に退院して3か月間リハビリに励んでいた藤岡が、自ら庄野に復帰を申し出てきた。これがきっかけで藤岡の復帰が決定したが、佐々木を代役に据えたことで予想以上の大人気を博していたため、第4クールでは「1号ライダー」がゲスト出演する「ダブルライダー編」がイベント的に挿入された。 藤岡の復帰を祝い、復帰作である第40話・第41話は、正月のビッグイベントとして九州の桜島・えびの高原でのロケとなった。撮影は藤岡の回復を待って9月から一文字単独回が先に行われ、11月から年末にかけてダブルライダー編と劇場版の撮影が行われた。第41話は最高視聴率30.1パーセントを獲得するなど、ダブルライダー編により第4クールは好評を博し、毎日放送と東映はこのままダブルライダーの定着を考えていたが、このオファーに対して佐々木は「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、当然、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは彼が付録のようになってしまう」と頑なに固辞した結果、第5クールから再び藤岡の単独主演で番組を継続することになった。2号編最後の撮影となった第46話での草津ロケは、佐々木やスタッフに対する慰労も兼ねたものであった。 そして、藤岡の傷が完治した後の第52話で「一文字が南米のショッカー勢力を追って旅立った」という設定のもと、本郷が変身する新1号ライダーが第53話で主役に復帰した。この際に外観を一新し、「ライダー、変身!」と名乗る新しい変身ポーズが追加された。藤岡によれば、新1号の変身ポーズを考案したのは大野剣友会の高橋一俊であり、藤岡自身は『眠狂四郎』の円月殺法と空手の型、および歌舞伎の見得を意識したという。また、旧1号編の本郷が常にダブルのブレザー姿の「科学者然」としたスタイルだったのに対し、復帰した本郷は一文字のような明るさや男性的な野性味を増し、デザインジャケットの上下や革ジャンにジーンズなど、ファッションも多彩になった(その多くは藤岡の私物だった)。それに加え、事故前はバイクヘルメットの着用義務がなかったために本郷はノーヘルスタイルだったが、1972年に道路交通法が改正されて「時速40キロメートルを越える道路」での着用が義務化されたため、復帰後にはヘルメットを常用するようになった。 変身ブームの真っ只中となった『新1号編』では、人気を維持すべく様々な強化策が検討された。視聴率が低下気味となる夏場には新サイクロン号の登場を皮切りに、六甲ロケ編、紀伊ロケ編での仮面ライダー2号の再登場などのイベント編が盛り込まれ、番組後半では掲載雑誌『テレビマガジン』と連動した少年仮面ライダー隊の結成、ショッカーに代わり敵対する新組織ゲルショッカーの出現、仮面ライダー3号の誕生という3つの強化策が掲げられた。このうち仮面ライダー3号は本作品内では登場せず、次作『仮面ライダーV3』へと発展していった。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに『V3』へ移行することとなった。 社会現象「変身ブーム」の発生源として、マスコミの注目を浴びる番組となった。2021年現在においても、全仮面ライダーシリーズで最長の期間にわたって放送された作品でもある。 第1話の放送の関東での視聴率は8.1パーセントだったが、関西では20.8パーセントを記録。事故による主役俳優の交代を機に行われた種々の強化策によって、着実に視聴率を伸ばしていった。9月末ごろには平均して関東でも15パーセント、関西では20パーセントの視聴率を超えるようになった。新1号編に突入後は視聴率が2号編より低下したが、第80話から回復して19パーセント - 25パーセントを維持全98話の平均視聴率は関東が21.2パーセント、関西が25.9パーセント、最高視聴率は関東が30.1パーセント(1972年1月8日放送)、関西が35.5パーセント(1973年2月10日放送。ビデオリサーチ調べによる)。 子供への影響力は大きく、ライダーになり切る遊びが子供たちの間で流行した。1972年9月17日には、熊本県の幼稚園児が3階建てのビルの屋上からライダージャンプと称して飛び降り、重体のちに死亡する事故も発生した。 「仮面ライダースナック」(カルビー製菓)の付録である「仮面ライダーカード」、「ドレミサイクロン」(ブリヂストン自転車)、「仮面ライダー変身ベルト」(タカトクトイス、ポピー / 現バンダイ・ボーイズトイ事業部)といったキャラクター商品も大ヒットし、その商品化権料は12億円に達した。それ以前のヒットキャラクターである『鉄腕アトム』、『オバケのQ太郎』、『ウルトラマン』などの商品化権料を凌駕し、当時の過去最高のキャラクターになった。カード欲しさに買った菓子本体を捨てる事象は社会問題となったが、仮面ライダースナックは後年に復刻版として再発売されている。 講談社では、本作品を特集した幼児向け雑誌『たのしい幼稚園』が販売部数を上げたことから、『仮面ライダー』を中心とした児童向けテレビ雑誌『テレビマガジン』を創刊した。その後、秋田書店の『冒険王』や黒崎出版の『テレビランド』など追随する競合誌も現れ、一大ジャンルを築いていった。 子供向け商品以外にも、JALの海外旅行ツアーやトヨタ自動車の新型車発表会など、ファミリー層向けの販売戦略にも『仮面ライダー』が起用された。 当時の東映テレビ部は、斜陽産業となった映画から流れてきたスタッフで溢れており、予算管理もルーズで赤字を出し続けていたが、本作品を契機にキャラクタービジネスを確立することに成功した。 仮面ライダーは、のちの東映特撮ヒーローの基本となった。一方、平成仮面ライダーシリーズを手掛けた白倉伸一郎は「『仮面ライダー』という従来の作品のやり方だと、たとえ正義のためにおこなっても『虐め』になっていく危険性があるため悪を倒すこと(を描くこと)はできない」と評している。 企画書『十字仮面』の段階では『柔道一直線』などに出演していた近藤正臣が配役されていたが、最終的には東映制作のテレビドラマ『ゴールドアイ』に出演していた藤岡弘が起用された。 ルリ子役の真樹千恵子、藤兵衛役の小林昭二、大野剣友会の起用は平山によるものである。平山によると『ウルトラマン』から『キャプテンウルトラ』へのTBSの番組引き継ぎ催事で、ムラマツキャップ役の小林と知り合い、若い俳優たちに対する配慮やその人格に惚れ込んで、今回の起用となったという。真樹は、出演したエメロンシャンプー(ライオン)のCMを平山が観て清楚なイメージに惚れ込み、起用された。ひろみ役の島田陽子は、『十字仮面』の企画書で緑川ルリ子役として名前は上がっていたが、藤岡と同じ事務所に所属していたことから、藤岡のマネージャーから「一緒に使ってくれ」と言われて起用したが、ルリ子役に真樹が決定していたこともあり、プロデューサーの阿部は、島田をルリ子の友達役として出演させた。 滝役の千葉治郎は阿部と内田で決めたという。千葉を仮面ライダー2号として出演させる案も存在したが、兄の千葉真一が難色を示し、実現には至らなかった。千葉兄弟と内田は、内田が興行部に在籍していたときから親交があり、治郎は本作品の出演に際し「内田さんのためならば」とこれを快諾したという。千葉治郎は『マスクマンK』の時点でも主演候補に挙がっていた。 そのほか、ショッカー幹部や「ライダーガールズ」の面々の起用は、すべて阿部による。このうち山本リンダは既に歌手として活動しており知名度もあったが、所属事務所を移籍するために歌の仕事を控えていたためオファーが快諾されたという。山本以降、高見エミリー・ミミーらハーフやクォーターの女性が必ず起用されているが、阿部は「特に意識はしておらず、キャストのバランスから自然とそうなったのかもしれない」としている。五郎役の三浦康晴は、ゲストの林寛子と併せ、阿部が懇意だった養成所からの起用。 ショッカー側の怪人の声がテアトル・エコー所属俳優に統一されていたのは、阿部が以前担当した映画『ガンマー第3号 宇宙大作戦』からの繋がりだった。所属声優の1人である沢りつおは、普通の俳優では怪人役を引き受けないため、喜劇専門のテアトル・エコーに声がかかったと述べている。声優のローテーションは、録音担当の太田克己とテアトル・エコーマネージャーの田寺尚和が協議して決定していた。 アクションは『柔道一直線』からの流れで大野剣友会が担当した。殺陣師は同作品に引き続き高橋一俊が務めたが、後半は負傷した高橋の代役を経て岡田勝が担当した。第1話は『柔道一直線』の撮影が残っていた高橋に代わり、大野剣友会主宰の大野幸太郎が殺陣をつけた。第19話・第23話の北海道ロケは高橋一俊がロケに参加できなかったため、飯塚実が殺陣を担当した。 仮面ライダーのスーツアクターは、当初は専門的なアクションを除き藤岡弘自身が務めていたが、藤岡の負傷降板後は岡田勝が主に担当した。続く2号編では岡田と中村文弥が中心となって2号を演じた。新1号編では、中屋敷鉄也が新1号を演じたが、中屋敷が『超人バロム・1』へ異動した後は大杉雄太郎が起用された。その後、大杉の移籍により終盤は再び中屋敷が1号を演じた。 バイクスタントはカースタントチームの室町レーシングが担当した。当初は同チーム代表の室町健三が仮面ライダーのスタントを務める予定であったが、オープニング映像のみ参加した後、多忙のため大橋春雄に交代した。大橋は1年目終了まで担当したが、2年目はメインスタントマンが明らかになっておらず、室町レーシングのスタッフが交替で担当していたとされる。バイクの運転に長けていたことからメイクの小山英夫が手伝うこともあった。 監督・助監督は『柔道一直線』から多く参加し、撮影・照明は大映出身者が担当したが、当初は東映と大映の撮影方法の違いから衝突が多かった。東映では殺陣を移動しながら撮影したり、カット割りが多いなどの特徴があったが、大映ではカメラを固定しながらの撮影や時間をかけて長い1カットを撮影することを得意としており、大映で撮影監督を務めていた山本修右はカメラを動かす指示に憤慨したという。また東映では照明は画面に映るものすべてを照らし、暗いシーンでもスターの表情をはっきり見せるという方向性であったが、大映出身の太田耕治は大映では雰囲気優先であったことや照明を用意する予算が不足していたことなどから人物だけに照明を当てるという方法をとった。夜間シーンも太田の意向により「ツブシ」と呼ばれるブルーのフィルターを用いて昼間に撮影する手法は可能な限り用いず、夜間に撮影を行っている。こうした太田の照明は結果的に怪奇性を醸し出すことに成功するなど、従来の東映作品とは異なる雰囲気の作風となり、本作品の人気に繋がる要因になったとされる。 パイロット版である第1話と第3話は当時『キイハンター』を担当していた竹本弘一が監督を務めた。生田スタジオ所長の内田有作は、当時ヒットしていた『キイハンター』で活躍していた竹本を起用することで、毎日放送へ東映の本気度をアピールする意図もあったと述べている。 『柔道一直線』から参加した折田至は、番組開始前には内田有作とともにスタジオ探しも行っていた。折田はオープニング・エンディングの演出をほぼすべて手がけたが、これは外部の他の監督ではギャランティが別に発生するため、番組開始当初は唯一の東映社員監督であった折田が選ばれたためであった。また唯一の東映社員監督であったため、番組序盤では大映出身者らとは特に折り合わず苦労したという。 第3クールから参加した田口勝彦は、番組初期から東映生田スタジオ所長の内田有作に呼びかけられていたが、宣弘社制作の『ガッツジュン』(TBS系)へ参加していたため、当初は山崎久名義で脚本を担当した。 同じく第3クールから参加した内田一作は内田有作の実兄であり、有作からの誘いにより日活を退社して本作品へ参加した。 監督がほぼローテーションであったのに対し、脚本家は30人近い人数が参加した。特に第4クールでは、マンネリ防止のため新しい脚本家が積極的に登用された。 メインライターの伊上勝は、『仮面の忍者 赤影』や『ジャイアントロボ』など平山亨のプロデュース作品でメインライターを歴任しており、本作品でも企画段階から参加していた。伊上は重要話数を中心に全体の1/3以上を担当したが、後半では『超人バロム・1』や『変身忍者 嵐』なども兼任していたため多忙になり、多数の脚本家が参加する要因になった。プロデューサーの阿部征司は多忙になるにつれ執筆も遅れるようになったと証言している。本作品では、人物や事象の説明にそれまでの伊上の作品よりもリアリティを感じさせる形容を用いるようになった。これについてライターの赤星政尚は、『妖術武芸帳』の失敗と石ノ森章太郎の存在が影響したものと考察している。 島田真之は参加した時点では経験が浅く、初担当した第4話は当初は島田が執筆したが、阿部が使い物にならないと判断し、師匠に当たる市川に執筆を指示した。 女性脚本家の滝沢真理は、初担当した第8話を筆頭に蜂女などの女性怪人や女性が被害者となる回を担当することが多かった。 第4クール後半から参加した石森史郎は、息子からせがまれたため、大学時代の同期であった田口勝彦に懇願し本作品に参加した。同時期には同様の理由で『ウルトラマンA』でも執筆している。 第70話の脚本を担当した桶谷五郎は、後にテレビ朝日ドラマ部部長を務める関口恭司の変名である。当時、別名で小説家としても活動していた関口は、大学時代の阿部に売り込みをかけて本作品に参加したが、執筆は1本のみに留まった。 平山は、脚本の方向性についてあえてヒーロードラマのセオリーは外し、『ウルトラマン』のように最後だけヒーローが登場するのではなく、スポ根ものの第1ラウンド・第2ラウンドなどのように早い段階でも仮面ライダーが登場することを意識したと述べている。 本作品の脚本で完全なNGになった作品はほとんどない。阿部は、NGになった場合でも脚本家への執筆料は支払わなければならないため、毎日放送側から面白くないと言われた脚本でも良いところを伸ばせば成立するとして、ほとんど採用していたことを証言している。 美術・造形は、造形会社「エキスプロダクション」が全面担当した。東映生田スタジオ所長の内田有作が映像美術の重鎮である大映の間野重雄に同社を紹介され、代表取締役の八木正夫は海外作品の仕事が一段落した時期であったことからこの仕事を引き受けた。 準備段階ではエキスプロ役員であった三上陸男を中心に、同社造形チーフの藤崎幸雄と大映の矢野友久らが参加し、三上がサイクロン号のデザインやショッカーアジトのセットと怪人の造形など、藤崎が仮面ライダーの造形、矢野がスナックアミーゴのセットをそれぞれ担当した。立ち上げ作業を終えると三上は『魔神ガロン』への参加などのために現場を離れ、旧知の高橋章に後を託した。高橋は助手として八木功を呼び、以後の美術を担当した。 高橋らが東映生田スタジオに常駐し、セットのデザインや衣装の補修も合わせ、すべてをこなしている。怪人のデザインは初期の蜘蛛男・蝙蝠男・さそり男は石森章太郎によるデザインが用意されたが、さそり男は三上により造形用デザインに直され、第4話のサラセニアン以降のデザインは高橋による。三上が造形を手掛けた初期3体は型抜きで作られたが、映画と同様のこの手法では時間がかかるため、以降はタイツに直付けする方法に変更された。 後に平山によると、MBS側から東映に支払われる制作費は1話につき400万円で、美術予算が足りず、苦肉の策として機械パネルのイメージを予定していたショッカーのアジト内は、エキスプロの高橋章が描くおどろおどろしい模様を描いたものとなった。同プロの三上陸男は、「おかげで生物感のある不気味なものになった」とコメントしている。 1973年2月15日に東京プリンスホテルにて、100話記念と3号ライダーとなる仮面ライダーV3誕生を祝した『仮面ライダー放送100回記念パーティー』が毎日放送の主催で開催され、スタッフ間で『われらの仮面ライダー』が上映された。内容は中江真司のナレーションによる総集編だが、配役紹介や視聴率紹介がなされ、スタッフ向けになっている。後年、東映ビデオから『仮面ライダースペシャル2』として発売され(『ZX』とのカップリング)、初めて視聴者の元に提供された。ただし、『仮面ライダースペシャル』のDVD化の際、同作品は未収録となっている。 アイキャッチ間には「V3の変身ベルト(ダブルタイフーン)」のCMと「マジンガーZのジャンボマシンダー」のCMが挿入されているが、ジャンボマシンダーのCMは映像ソフトで加えられたものである。 すべて東映ビデオより発売 発売元はバンダイナムコゲームス(旧バンダイおよび旧バンプレストの各レーベル)による。 東映ビデオより1994年にMicrosoft Windows 3.1用CD-ROMゲームとして『仮面ライダー作戦ファイル1』が発売された。全98話を基にしたストーリー解説、怪人の名称とスペックならびにライダーに倒される場面の映像のデータベース、悪の新組織がオリジナル怪人を用いてダブルライダーを倒すまたは世界征服のための新たな作戦を展開するゲームが1枚のCD-ROMに収められた体裁を採っている。首領の声は納谷悟朗による新録の音声が用いられている。Macintosh用ソフトも後に販売され、1997年にはセガからもセガサターン用ソフトとして再発売された。続編として『仮面ライダーV3作戦ファイル』が発売された。 戦闘員日記シリーズが、メガバックスコレクションによる舞台として公演されている。佐々木剛や千波丈太郎・中屋敷哲也など、仮面ライダーシリーズに出演した多くの俳優が出演しており、石森プロなどのサイトでも宣伝されていた。また、ポスターは、当時講談社の月刊マガジンZで『仮面ライダーSPIRITS』を連載していた村枝賢一による描き下ろしとなっている。 本郷猛(仮面ライダー1号)、一文字隼人(仮面ライダー2号)、立花藤兵衛、ショッカー・ゲルショッカーに所属する怪人などの登場作品は、仮面ライダー1号・仮面ライダー2号・立花藤兵衛・ショッカーの項目をそれぞれ参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『仮面ライダー』(かめんライダー)は、1971年4月3日から1973年2月10日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全98話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作品の基本線は、等身大のヒーローと怪人が対決する痛快SF怪奇アクションドラマである。従来の実写ヒーロー物とは一線を画した「異形」のヒーロー像と、人間ドラマとしての側面を極力抑えた勧善懲悪劇、怪奇ドラマ的な演出、そして颯爽とオートバイを駆って「ライダーキック」などのダイナミックなアクションを繰り広げる格闘シーンや、多彩な動植物をモチーフとした特異でグロテスクな怪人の登場が特徴。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漫画版は石森章太郎が担当し、少年向け雑誌『週刊ぼくらマガジン』(のちに『週刊少年マガジン』に連載誌を変更)に連載した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作品の終了後にも登場人物や敵対組織、または時系列や世界観そのものを変えた多くの作品が制作されており、それぞれの番組は基本的に、主人公となる「ライダー」(=仮面ライダー)の名称をタイトルとしている。一般にこれらを仮面ライダーシリーズと呼ぶ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、1979年の第6作のテレビ番組名も同じく『仮面ライダー』だが、新聞や文献などでは「(新)」を番組名に付記する方法で本作品とは区別されていた。現在では同作品の主役ライダーである「スカイライダー」を番組名に付記する方法で区別されることがある。この第6作については『仮面ライダー (スカイライダー)』を参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "優秀な科学者にしてオートレーサーの大学生・本郷猛は、世界征服を企てる悪の秘密結社・ショッカーに捕われる。本郷の能力に着目していたショッカーは、アジトで1週間かけて彼をバッタの能力を持つ改造人間に改造する。しかし、本郷は脳改造される寸前、ショッカーに協力させられていた恩師・緑川博士に助けられてアジトから脱出する。以降、仮面ライダーとなった本郷は、ショッカーが送り出す怪人たちを次々に倒していく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ショッカーは仮面ライダー打倒のため、フリーカメラマン・一文字隼人を仮面ライダー同様の改造人間に改造する。だが、一文字も脳改造の直前に本郷に救出され、もう1人の仮面ライダーとなる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうして誕生した2人の仮面ライダーは日本と海外に別れ、時には共闘しながら、オートレーサーとしての師・立花藤兵衛、FBI捜査官・滝和也、自分たちに憧れる少年仮面ライダー隊などの多くの仲間たちの協力を得てショッカーと戦う。普通の人間に戻れなくなった悲しみを仮面の下に隠し、「人間の自由」を守るために。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第1話 - 第79話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。メンバーは知力体力に優れた人間に改造手術を施し洗脳した怪人を中心に構成されており、その怪人たちを正体不明の首領が操って様々な犯罪や破壊工作を行っている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第80話 - 第98話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。暗黒組織・ゲルダム団と自身の組織ショッカーを合併・再編成した新組織。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ショッカーによって改造された戦闘用改造人間。2人とも脳改造を免れてショッカーのアジトから脱出し、人間の自由を守るためにショッカーと戦った。", "title": "仮面ライダー1号・2号" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第40話以降、2人の仮面ライダーが共演するエピソードでは、本郷の変身するライダーを仮面ライダー1号、一文字の変身するライダーを仮面ライダー2号と区別して呼ばれるようになったが、本作品の劇中での呼称とクレジットは仮面ライダーで統一されている。なお、2人の仮面ライダーは互いを「本郷」「一文字」と本名で呼び合っていた。", "title": "仮面ライダー1号・2号" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "基本スペックは両者とも同一であるが、1号は多彩な必殺技、2号は高い格闘能力と破壊力をそれぞれ持つことから、雑誌展開などでは「技の1号・力の2号」と称された。", "title": "仮面ライダー1号・2号" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ライダーの特徴として、その名の通り高性能の専用オートバイを使用することが挙げられる。", "title": "仮面ライダー1号・2号" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "※参考文献:『宇宙船別冊・仮面ライダー怪人大画報2016』(ホビージャパン・2016年)、『仮面ライダー 昭和 (vol.1&vol.2)』(講談社・2016年)", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "本作品の歌曲ならびに劇伴は全て菊池俊輔が作曲・編曲した。BGMの録音は6回にわたって行われた。第5回録音分はその多くが挿入歌のカラオケへのメロ被せである。第6回録音分は2020年現在音源の所在が1曲しか確認されておらず、詳細不明。BGMには『キイハンター』からの流用曲もあるほか、第1話における本郷の変身シーンに使われた曲のように出典不明の流用曲も存在する。菊池は本作品から『仮面ライダースーパー1』まで、シリーズの全ての音楽を1人で作曲し、ほとんどの編曲も行った。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、本作品のために作られた楽曲のうち音源の現存が確認されているものは、2002年にコロムビアミュージックエンタテインメントから発売された『仮面ライダー ETERNAL EDITION File No.1,2,3』に全曲収録された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "本作品の大ヒットとともに、藤浩一(のちの子門真人)が歌うオープニング曲「レッツゴー!! ライダーキック」も、130万枚の大ヒットとなった。経営悪化で一度は傾きかかった日本コロムビアは、同時期にヒットした「女のみち」「喝采」「レッツゴー!! ライダーキック」の大ヒットシングルによって完全に立ち直り、あまりの売れ行きにレコードの生産が追いつかないほどだった。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、日本の特撮ヒーロー番組としては初めて、歌のみで構成されたアルバム「仮面ライダー ヒットソング集」(全12曲)が制作され、LPレコードと8トラックで発売された。収録曲の一部は挿入歌として劇中で使われ、特に「ライダーアクション」は第72話からエンディングテーマ、第89話以降はオープニングテーマとして採用された。第89話以降のエンディングテーマとして使われた「ロンリー仮面ライダー」もヒットソング集が初出である。さらに、「レッツゴー!! ライダーキック」「ライダーアクション」「ロンリー仮面ライダー」「かえってくるライダー」の4曲が収録されたEPレコード「たたかえ!仮面ライダー」も発売された。この種の楽曲集は以後の特撮ヒーロー番組でも発売される定番アイテムとなった。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「ヒットソング集」では伊上ら脚本家陣が挿入歌の作詞を手掛けたが、いずれも多忙なためその後はプロデューサー陣が変名で作詞を担当した。当時の日本コロムビア学芸部長であった木村英俊は、収入を現場に還元する意図もあったと述べている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "藤浩一は「ヒットソング集」の発売時にはすでに「子門真人」と名乗っており、挿入歌は子門名義で録音したため、同一アルバムに2つの異なる名義で参加することになった。なお、「ヒットソング集」には藤岡弘版「レッツゴー!! ライダーキック」は含まれなかった。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「ライダーアクション」はオープニング主題歌となった後もシングル化はされなかった。これについて日本コロムビアの木村英俊は、抱える作曲家・作詞家への印税を均等化するための配慮であったと述べている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "オープニングとエンディング同様、挿入歌の作曲・編曲はすべて菊池俊輔。本編でボーカル入り・インスト版の両方が流れたことがあるのは「たたかえ!サイクロン」のみである。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "本作品は土曜日の19時台後半で、朝日放送の『部長刑事』(関西地区)やTBSテレビの『お笑い頭の体操』(関東地区)に低視聴率を強いられていた毎日放送(MBS)テレビ営業局から編成局次長の廣瀬隆一を通じて発足間もない映画部に東映と組んでの子供番組制作が提案されたのが発端とされる。映画部長の庄野至は、東映の三由重夫から紹介を受け、1970年6月に1971年4月開始の新番組企画を東映テレビ部長の渡邊亮徳へと依頼した。渡邊は、系列の東映動画(現・東映アニメーション)で制作中だった『タイガーマスク』(読売テレビ)の人気に着目して人気要因を分析する一方で、東映テレビ部プロデューサーの平山亨や、石森章太郎のマネージャーで企画プランナーだった加藤昇も招集して度重なる打ち合わせの結果、『月光仮面』に代表される1950年代後半にブームを呼んだ仮面ヒーロー物を再構築するに至った。低視聴率を打破するには「周囲をみまわして、無いものをやればいい」という毎日放送の庄野プロデューサーの意見をもとに、二番煎じとなるアニメは避け、「実写」の「変身もの」として企画が練られた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "本作品の企画は、1970年9月ごろに平山が加藤の協力を得て作成した『マスクマンK』の企画書が第1案とされ、この企画書では「仮面のヒーローが日本征服を企むクロード黒原率いる組織・ショッカーと戦う」という大まかな筋書きが作られていた。しかし、その内容は『タイガーマスク』に言及し、「自分も仮面を被ればヒーローになれる」という児童の願望を指摘していること、主人公・九条剛が普通の体育教師で鍛錬によってヒーローの力を得ているなど、当時流行していたスポーツ根性ものの影響が強い内容であった。この企画書は、平山による「叩き台」的なもので、MBS側には提出されておらず、東映社内と石森プロ用のものだった。平山は本作品の前に『妖術武芸帳』で「謎の鉄仮面」という「仮面物」の設定を創案しており、その際に石森をアイディア協力者候補に挙げていたが、企画がTBSの橋本洋二に渡って実現しなかった。このため、平山にとっては「仮面物」であるこの『マスクマンK』は念願の設定だった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "次に起草された『仮面天使()』が、MBSに提出された最初の企画書となる。平山が『柔道一直線』の流れで市川森一と上原正三を招き、平山とコンビの長い伊上勝との3人の脚本家体制で、設定などの企画打ち合わせに入った。ここで主人公の名が本郷猛に決まり、市川によって「恩師・緑川教授殺害の容疑をかけられた逃亡者」という設定になった。この時点でスポ根要素は薄められ、主人公は30万ボルトの高圧電流を浴びる事故で特異体質となり、人間以上の力を得るというSF的な設定が加味されたが、ヒーローのデザイン画などは起こされなかった。本郷役には千葉治郎が候補に挙がっていた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1970年9月上旬ごろ、廣瀬から「オートバイに乗るスーパーヒーロー物」という注文が追加され、『十字仮面()』の企画に到る。ここで構想されたストーリーは、本郷を父の仇と疑うヒロインや、殺人者・本郷を追う刑事などの登場人物が配され、主人公の逃亡者としての苦悩も付加された。主人公の仮面については、怒りの感情が高まると顔に感電事故による十字形の傷跡が浮かび上がるため、それを隠すために被っているという設定が加えられている。『サイボーグ009』や『佐武と市捕物控』などの数多くのヒット作を送り出してきた石森が原作者として本格的に参加するのはこの段階からで、彼の起用は石森プロマネージャーの加藤から渡邊へ熱心な売り込みがあったためだった。10月上旬に、伊上によって執筆された検討台本「怪奇蜘蛛男」と「謎の恐怖屋敷」がMBS側で検討され、予算案とともに「題名を日本語にしてほしい」との要望が出された。10月15日に石森側が『ファイヤー十字(クロス)』『十字仮面』『クロス火面』などの題名案を提出している。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "10月以降になり、東映側は平山の補佐として阿部征司がプロデューサーに参加する。石森が参加した後、MBS側は「雑誌で漫画連載をしてほしい」と放送開始の条件を出した。漫画連載の実現には難航したが、平山と阿部、石森プロマネージャーの3人が『週刊少年マガジン』(講談社)の編集長だった内田勝に掛け合い、年末に了承を得た。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "11月上旬には主人公ヒーローである「クロスファイヤー」のデザイン画も石森によって起こされ、平山やMBS映画課長の引野芳照もクロスファイヤーのデザインに「カッコいい」と絶賛し、題名も正式に『十字仮面』に決定、11月になってMBS側は『十字仮面クロスファイヤー』の企画書を起稿した。当初は本郷役に近藤正臣、ルリ子役に島田陽子を予定していた。クロスファイヤーの検討用デザインには、十字をモチーフとしたものとライオンをモチーフとしたものが存在する。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "12月に入ると、企画書題名を『十字仮面 仮面ライダー』に変更。藤岡弘と森川千恵子(真樹千恵子)が本郷とルリ子役に選ばれ、藤兵衛役には高品格が予定され、放映開始は1971年4月と決定された。しかし企画がMBS側を通った矢先、同年末に市川と上原は『帰ってきたウルトラマン』をやりたいから」と願い出て急遽降板し、以後の企画や本編脚本は伊上主導で進められることとなった。市川は自らの代わりとして、同じ脚本家仲間の島田真之と滝沢真理を連れてきて、以後両人ともに本作品の主筆脚本家となっている。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "翌1971年1月、石森は「もっとグロテスクなリアリティのある奴にしたい」と、自身の作品の髑髏をモチーフにした仮面のヒーローである『スカルマン』(『週刊少年マガジン』1970年1月11日号に掲載)をこの企画に応用した、「仮面ライダースカルマン」のキャラクターを提案。ここで主人公が敵対する怪人と同じく改造人間であるという設定がなされ、逃亡者であることや一部のキャラクターが整理され、藤兵衛は主人公の専属トレーナーとなり、よりシンプルな物語となった。しかし、渡邊はこのキャラクターを「以前に描かれた作品じゃないか。大勝負に出るんだから、新しいキャラクターじゃないと駄目だ」と却下した。MBSテレビ営業局副部長の箱崎賞からも「モチーフが髑髏では営業上の支障がある」と注文が出され、企画はさらなる検討を求められる。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらの注文に対して石森は非常に落胆したが、50枚以上のデザイン画を描き、この中に加藤マネージャーの持ち込んだ昆虫図鑑のバッタをモチーフにした、強烈なインパクトのあるデザイン画があった。バッタの顔が「スカルマン」に共通する不気味さと髑髏に似た形であること、昆虫は「自然を破壊する悪と闘うヒーローにふさわしい」という思いもあった。石森は「子どもに聞いてみよう」と、この50枚以上のデザイン画を当時幼稚園児だった息子の小野寺丈に見せたところ、彼は即座にバッタをモチーフにしたデザイン画を選んだ。このデザイン画は平山によって渡邊に手渡され、「これだ、今度こそいける」と大喜びした渡邊は、即座にゴーサインを出している。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "企画していた1971年当時の日本はイタイイタイ病などの公害問題に揺れており、環境庁が発足したばかりであった。藤岡弘によれば、仮面ライダーはこうした時代の空気を嗅ぎ取り、「環境破壊から地球を守る」というコンセプトで登場したのだという。それは石森の下記の言葉にも現れている", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "バッタは自然の象徴だ。バッタの能力を持った主人公が自然破壊に立ち向かうなんていうのはどうかな?そうだ。エネルギーは風だ。風力エネルギーが彼の原動力なんだよ。彼のベルトのバックルに風車の機構があって、そこでエネルギーを獲得するんだ。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "そして、仮面ライダーはバッタ本来のジャンプ力と体力をそのまま武器として戦い、ライダーキックやライダー投げといった必殺技もそこから必然的に生まれてきた。また当時アメリカで流行していた『ハルク』が怒りで変身するのを参考に、主人公が仮面をかぶって変身するのではなく、自然に変身して身体から力がみなぎってくるという平山の案が採用された。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "このバッタのデザイン画をMBS東京支社に持ち込んだところ、箱崎は髑髏でなくなったことで安堵したものの、庄野は「バッタは握れば潰れるあのバッタですか?」と非力な昆虫をモチーフにすることに異議を唱えた。これに対し、平山は「バッタは小さいから強く見えないだけで、昆虫の跳躍能力などが人のサイズになれば強いものになりますよ」と説得した。翌日、MBS大阪本社の編成会議に出席した平山と加藤マネージャーは、「バッタ」とは伏せて「昆虫人間」としてセールス。加藤が「子どもでも描けるわかりやすさ」として黒板に仮面を描くなどした結果、最終的に承認が降りた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "前述の「少年マガジン」誌連載の折衝も進められていたが、MBSの社内ではまだこのヒーローのデザインを危ぶむ声が強かった。これに対し、廣瀬は「私の息子もオートバイに乗ったバッタのヒーローを面白いと言っている。ここはひとつ、子どもの感覚に賭けてみましょう」と社内を説得した結果、番組企画は推進されることになった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「敵対組織によって改造人間にされてしまった」という設定があるため、マスクには泣いているように見えるデザインが施されている。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "こうして「バッタ」をモチーフにしたヒーロー番組企画は、バイクに乗って戦うバッタのヒーロー『仮面ライダーホッパーキング』と仮題されたが、「長すぎる」とのMBS側の意向により『仮面ライダー』と短縮され、2月1日からの制作決定が下された。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "元々、本作品は『ウルトラマン』のような「巨大ヒーローと怪獣が戦う作品」にしようという案もあったという。しかし、石森は等身大ヒーローにこだわり、敵キャラクターも人間形態としてタイツ主体で造形され、徹底して怪獣とは差別化する方向で、「怪人」と呼称された。ただしこれには制作費の違いもあったようで、何倍もの制作費がかけられているウルトラマンとは違い、仮面ライダーでは金のかかるセットやミニチュアを使わず、ほとんど特撮もなしで撮影され、「金はかけないけど身体は酷使する」アクションとして作成されたのである。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "企画立案と平行して撮影拠点の準備が進められていた。当時、東映の労使関係は泥沼化していたため、春闘による番組制作への影響が懸念され、大泉撮影所以外に撮影拠点を用意する必要があったためである。平山や斎藤頼照とともに組合問題で東映京都撮影所を追われた内田有作が所長となり、急遽神奈川県川崎市多摩区(現麻生区)郊外の貸しスタジオを東映生田スタジオとして機能させ、そこでの制作が決まった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "主要スタッフは、内田が制作担当を務めていた『柔道一直線』の監督・助監督・制作担当らが参加。生田スタジオをフリーランスの寄り合い所帯にはしたくないという内田の考えから制作・演出を担当する東京映像企画という会社が設立され、東映社員以外はそこへ所属する形となった。アクションも『柔道一直線』から大野剣友会が参加した。キャラクター制作と美術全般は大映特撮などを手掛けたエキスプロダクションが担当。照明班や撮影班は、経営が悪化していた大映東京撮影所のスタッフが集められ、S.Kプロ(後にプロダクション・ショットと改名)として参加した。このようにして、東映の生え抜きではない異例のスタッフ編成が行われた。6日にスタッフの顔合わせがあり、撮影に入ったのは2月7日であった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "企画段階で紆余曲折を経た本作品は、番組制作が開始されても順風満帆とはいかなかった。元々貸しスタジオである東映生田スタジオには満足な撮影設備もなく、撮影用の平台が1つあるのみで、プレハブ造りのバラックの建物は雨が降ると反響音によってアフレコもできない状況だったという。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "こうして放送が開始された第1話の視聴率はキー局・NETの放送エリアである関東地区において8.1パーセントと厳しいものであったが、MBSの放送エリアである関西地区では20.8パーセントと関東地区に比べて高視聴率をマークしており、MBSの庄野部長は「関東もいずれ上がって20パーセントを超えますよ。今バタバタして番組をいじるのは止めましょう」と平山に伝えた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "本作品は放送開始前、のちに多大な影響を与えることになったアクシデントが発生していた。第9話・第10話の撮影中に藤岡がオートバイで転倒して全治3 - 6か月の重傷を負い、撮影に参加できなくなったのである。このため、未完成分については、本郷の登場シーンなどを前話までの映像から流用した藤岡の姿に声優・納谷六朗によるアフレコを挿入する、仮面ライダーの登場シーンを増やす、ヒロイン・緑川ルリ子や新キャラクター・滝和也の活躍を繋ぎ合わせるなどの措置で完成させ、急場を凌いだ。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この間、方向性の再検討と新たな主役について討議された。本郷役の交替案や内容の一新など、様々な展開が検討されている。関連書籍に再録された当時の議事録によれば、MBSの局長や脚本家の「仮面ライダー1号は殺してしまってもよいのではないか」「外遊よりも殺してしまったほうが書きやすいのだが」といった意見に対し、平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を潰すことになり、主人公を殺してしまうのはよくない」と強硬に反対した。同時期に『宇宙猿人ゴリ』や『帰ってきたウルトラマン』などの巨大ヒーロー番組が多かったせいか、「仮面ライダーを巨大化させよう」という案も出た。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "上記の事態を受けての討議の結果、「本郷は海外のショッカー支部との戦いに赴き、そのあとを継ぐ新しい仮面ライダーが登場する」という形での新展開が決定した。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "急遽新たに登場する仮面ライダー2号=一文字隼人役には、最初はその候補として三浦友和が選ばれ、毎日放送の了承も得ていたが、結局この話は三浦の所属事務所側から断りが入ったため無くなり、最終的にこの役には『柔道一直線』に出演しスタッフらと旧知であった佐々木剛が選ばれた。佐々木は出演依頼を受けた当初、劇団NLTで同期だった藤岡の役を奪うことになると難色を示していたが、「藤岡が復帰するまでの代役」という条件で引き受けた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、この主役交代を機にそれまでの番組上の問題点を修正し、刷新することになった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "脚を開いて両腕を大きく動かしながら「変身!!」と掛け声を叫ぶ変身ポーズは、1号編のころから監督の山田稔より抽象的な変身描写に変わるダイナミックなものとして要望されていたものだが、当時の佐々木が自動二輪の免許を持っていなかったことから、藤岡のように「バイクで加速しながら変身」が不能となったための苦肉の策という面もあった。しかし、この変身ポーズは子供たちの間で大流行となり、「変身ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。このような変身時のアクションは、のちの仮面ライダーシリーズや他の変身ヒーロー・ヒロインものでも重要なシーンとして受け継がれた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "そのほか、地方ロケによる舞台の拡充や大幹部の投入によるショッカー側の強化などが行われ、番組の人気も上昇していった。毎日放送が担当する関西地区でも視聴率は20パーセント台を維持し、第3クール以降の継続はスムーズに決定した。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、第14話から第26話までは、「ストーリーのスケールの拡大化」と「怪人のイメージの定着化」という制作スタッフの意図から、前後編の2話で構成されるストーリーが多く見られた。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "7月に退院して3か月間リハビリに励んでいた藤岡が、自ら庄野に復帰を申し出てきた。これがきっかけで藤岡の復帰が決定したが、佐々木を代役に据えたことで予想以上の大人気を博していたため、第4クールでは「1号ライダー」がゲスト出演する「ダブルライダー編」がイベント的に挿入された。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "藤岡の復帰を祝い、復帰作である第40話・第41話は、正月のビッグイベントとして九州の桜島・えびの高原でのロケとなった。撮影は藤岡の回復を待って9月から一文字単独回が先に行われ、11月から年末にかけてダブルライダー編と劇場版の撮影が行われた。第41話は最高視聴率30.1パーセントを獲得するなど、ダブルライダー編により第4クールは好評を博し、毎日放送と東映はこのままダブルライダーの定着を考えていたが、このオファーに対して佐々木は「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、当然、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは彼が付録のようになってしまう」と頑なに固辞した結果、第5クールから再び藤岡の単独主演で番組を継続することになった。2号編最後の撮影となった第46話での草津ロケは、佐々木やスタッフに対する慰労も兼ねたものであった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "そして、藤岡の傷が完治した後の第52話で「一文字が南米のショッカー勢力を追って旅立った」という設定のもと、本郷が変身する新1号ライダーが第53話で主役に復帰した。この際に外観を一新し、「ライダー、変身!」と名乗る新しい変身ポーズが追加された。藤岡によれば、新1号の変身ポーズを考案したのは大野剣友会の高橋一俊であり、藤岡自身は『眠狂四郎』の円月殺法と空手の型、および歌舞伎の見得を意識したという。また、旧1号編の本郷が常にダブルのブレザー姿の「科学者然」としたスタイルだったのに対し、復帰した本郷は一文字のような明るさや男性的な野性味を増し、デザインジャケットの上下や革ジャンにジーンズなど、ファッションも多彩になった(その多くは藤岡の私物だった)。それに加え、事故前はバイクヘルメットの着用義務がなかったために本郷はノーヘルスタイルだったが、1972年に道路交通法が改正されて「時速40キロメートルを越える道路」での着用が義務化されたため、復帰後にはヘルメットを常用するようになった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "変身ブームの真っ只中となった『新1号編』では、人気を維持すべく様々な強化策が検討された。視聴率が低下気味となる夏場には新サイクロン号の登場を皮切りに、六甲ロケ編、紀伊ロケ編での仮面ライダー2号の再登場などのイベント編が盛り込まれ、番組後半では掲載雑誌『テレビマガジン』と連動した少年仮面ライダー隊の結成、ショッカーに代わり敵対する新組織ゲルショッカーの出現、仮面ライダー3号の誕生という3つの強化策が掲げられた。このうち仮面ライダー3号は本作品内では登場せず、次作『仮面ライダーV3』へと発展していった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに『V3』へ移行することとなった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "社会現象「変身ブーム」の発生源として、マスコミの注目を浴びる番組となった。2021年現在においても、全仮面ライダーシリーズで最長の期間にわたって放送された作品でもある。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第1話の放送の関東での視聴率は8.1パーセントだったが、関西では20.8パーセントを記録。事故による主役俳優の交代を機に行われた種々の強化策によって、着実に視聴率を伸ばしていった。9月末ごろには平均して関東でも15パーセント、関西では20パーセントの視聴率を超えるようになった。新1号編に突入後は視聴率が2号編より低下したが、第80話から回復して19パーセント - 25パーセントを維持全98話の平均視聴率は関東が21.2パーセント、関西が25.9パーセント、最高視聴率は関東が30.1パーセント(1972年1月8日放送)、関西が35.5パーセント(1973年2月10日放送。ビデオリサーチ調べによる)。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "子供への影響力は大きく、ライダーになり切る遊びが子供たちの間で流行した。1972年9月17日には、熊本県の幼稚園児が3階建てのビルの屋上からライダージャンプと称して飛び降り、重体のちに死亡する事故も発生した。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「仮面ライダースナック」(カルビー製菓)の付録である「仮面ライダーカード」、「ドレミサイクロン」(ブリヂストン自転車)、「仮面ライダー変身ベルト」(タカトクトイス、ポピー / 現バンダイ・ボーイズトイ事業部)といったキャラクター商品も大ヒットし、その商品化権料は12億円に達した。それ以前のヒットキャラクターである『鉄腕アトム』、『オバケのQ太郎』、『ウルトラマン』などの商品化権料を凌駕し、当時の過去最高のキャラクターになった。カード欲しさに買った菓子本体を捨てる事象は社会問題となったが、仮面ライダースナックは後年に復刻版として再発売されている。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "講談社では、本作品を特集した幼児向け雑誌『たのしい幼稚園』が販売部数を上げたことから、『仮面ライダー』を中心とした児童向けテレビ雑誌『テレビマガジン』を創刊した。その後、秋田書店の『冒険王』や黒崎出版の『テレビランド』など追随する競合誌も現れ、一大ジャンルを築いていった。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "子供向け商品以外にも、JALの海外旅行ツアーやトヨタ自動車の新型車発表会など、ファミリー層向けの販売戦略にも『仮面ライダー』が起用された。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "当時の東映テレビ部は、斜陽産業となった映画から流れてきたスタッフで溢れており、予算管理もルーズで赤字を出し続けていたが、本作品を契機にキャラクタービジネスを確立することに成功した。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "仮面ライダーは、のちの東映特撮ヒーローの基本となった。一方、平成仮面ライダーシリーズを手掛けた白倉伸一郎は「『仮面ライダー』という従来の作品のやり方だと、たとえ正義のためにおこなっても『虐め』になっていく危険性があるため悪を倒すこと(を描くこと)はできない」と評している。", "title": "番組の沿革" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "企画書『十字仮面』の段階では『柔道一直線』などに出演していた近藤正臣が配役されていたが、最終的には東映制作のテレビドラマ『ゴールドアイ』に出演していた藤岡弘が起用された。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ルリ子役の真樹千恵子、藤兵衛役の小林昭二、大野剣友会の起用は平山によるものである。平山によると『ウルトラマン』から『キャプテンウルトラ』へのTBSの番組引き継ぎ催事で、ムラマツキャップ役の小林と知り合い、若い俳優たちに対する配慮やその人格に惚れ込んで、今回の起用となったという。真樹は、出演したエメロンシャンプー(ライオン)のCMを平山が観て清楚なイメージに惚れ込み、起用された。ひろみ役の島田陽子は、『十字仮面』の企画書で緑川ルリ子役として名前は上がっていたが、藤岡と同じ事務所に所属していたことから、藤岡のマネージャーから「一緒に使ってくれ」と言われて起用したが、ルリ子役に真樹が決定していたこともあり、プロデューサーの阿部は、島田をルリ子の友達役として出演させた。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "滝役の千葉治郎は阿部と内田で決めたという。千葉を仮面ライダー2号として出演させる案も存在したが、兄の千葉真一が難色を示し、実現には至らなかった。千葉兄弟と内田は、内田が興行部に在籍していたときから親交があり、治郎は本作品の出演に際し「内田さんのためならば」とこれを快諾したという。千葉治郎は『マスクマンK』の時点でも主演候補に挙がっていた。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "そのほか、ショッカー幹部や「ライダーガールズ」の面々の起用は、すべて阿部による。このうち山本リンダは既に歌手として活動しており知名度もあったが、所属事務所を移籍するために歌の仕事を控えていたためオファーが快諾されたという。山本以降、高見エミリー・ミミーらハーフやクォーターの女性が必ず起用されているが、阿部は「特に意識はしておらず、キャストのバランスから自然とそうなったのかもしれない」としている。五郎役の三浦康晴は、ゲストの林寛子と併せ、阿部が懇意だった養成所からの起用。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ショッカー側の怪人の声がテアトル・エコー所属俳優に統一されていたのは、阿部が以前担当した映画『ガンマー第3号 宇宙大作戦』からの繋がりだった。所属声優の1人である沢りつおは、普通の俳優では怪人役を引き受けないため、喜劇専門のテアトル・エコーに声がかかったと述べている。声優のローテーションは、録音担当の太田克己とテアトル・エコーマネージャーの田寺尚和が協議して決定していた。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アクションは『柔道一直線』からの流れで大野剣友会が担当した。殺陣師は同作品に引き続き高橋一俊が務めたが、後半は負傷した高橋の代役を経て岡田勝が担当した。第1話は『柔道一直線』の撮影が残っていた高橋に代わり、大野剣友会主宰の大野幸太郎が殺陣をつけた。第19話・第23話の北海道ロケは高橋一俊がロケに参加できなかったため、飯塚実が殺陣を担当した。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "仮面ライダーのスーツアクターは、当初は専門的なアクションを除き藤岡弘自身が務めていたが、藤岡の負傷降板後は岡田勝が主に担当した。続く2号編では岡田と中村文弥が中心となって2号を演じた。新1号編では、中屋敷鉄也が新1号を演じたが、中屋敷が『超人バロム・1』へ異動した後は大杉雄太郎が起用された。その後、大杉の移籍により終盤は再び中屋敷が1号を演じた。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "バイクスタントはカースタントチームの室町レーシングが担当した。当初は同チーム代表の室町健三が仮面ライダーのスタントを務める予定であったが、オープニング映像のみ参加した後、多忙のため大橋春雄に交代した。大橋は1年目終了まで担当したが、2年目はメインスタントマンが明らかになっておらず、室町レーシングのスタッフが交替で担当していたとされる。バイクの運転に長けていたことからメイクの小山英夫が手伝うこともあった。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "監督・助監督は『柔道一直線』から多く参加し、撮影・照明は大映出身者が担当したが、当初は東映と大映の撮影方法の違いから衝突が多かった。東映では殺陣を移動しながら撮影したり、カット割りが多いなどの特徴があったが、大映ではカメラを固定しながらの撮影や時間をかけて長い1カットを撮影することを得意としており、大映で撮影監督を務めていた山本修右はカメラを動かす指示に憤慨したという。また東映では照明は画面に映るものすべてを照らし、暗いシーンでもスターの表情をはっきり見せるという方向性であったが、大映出身の太田耕治は大映では雰囲気優先であったことや照明を用意する予算が不足していたことなどから人物だけに照明を当てるという方法をとった。夜間シーンも太田の意向により「ツブシ」と呼ばれるブルーのフィルターを用いて昼間に撮影する手法は可能な限り用いず、夜間に撮影を行っている。こうした太田の照明は結果的に怪奇性を醸し出すことに成功するなど、従来の東映作品とは異なる雰囲気の作風となり、本作品の人気に繋がる要因になったとされる。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "パイロット版である第1話と第3話は当時『キイハンター』を担当していた竹本弘一が監督を務めた。生田スタジオ所長の内田有作は、当時ヒットしていた『キイハンター』で活躍していた竹本を起用することで、毎日放送へ東映の本気度をアピールする意図もあったと述べている。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "『柔道一直線』から参加した折田至は、番組開始前には内田有作とともにスタジオ探しも行っていた。折田はオープニング・エンディングの演出をほぼすべて手がけたが、これは外部の他の監督ではギャランティが別に発生するため、番組開始当初は唯一の東映社員監督であった折田が選ばれたためであった。また唯一の東映社員監督であったため、番組序盤では大映出身者らとは特に折り合わず苦労したという。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "第3クールから参加した田口勝彦は、番組初期から東映生田スタジオ所長の内田有作に呼びかけられていたが、宣弘社制作の『ガッツジュン』(TBS系)へ参加していたため、当初は山崎久名義で脚本を担当した。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "同じく第3クールから参加した内田一作は内田有作の実兄であり、有作からの誘いにより日活を退社して本作品へ参加した。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "監督がほぼローテーションであったのに対し、脚本家は30人近い人数が参加した。特に第4クールでは、マンネリ防止のため新しい脚本家が積極的に登用された。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "メインライターの伊上勝は、『仮面の忍者 赤影』や『ジャイアントロボ』など平山亨のプロデュース作品でメインライターを歴任しており、本作品でも企画段階から参加していた。伊上は重要話数を中心に全体の1/3以上を担当したが、後半では『超人バロム・1』や『変身忍者 嵐』なども兼任していたため多忙になり、多数の脚本家が参加する要因になった。プロデューサーの阿部征司は多忙になるにつれ執筆も遅れるようになったと証言している。本作品では、人物や事象の説明にそれまでの伊上の作品よりもリアリティを感じさせる形容を用いるようになった。これについてライターの赤星政尚は、『妖術武芸帳』の失敗と石ノ森章太郎の存在が影響したものと考察している。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "島田真之は参加した時点では経験が浅く、初担当した第4話は当初は島田が執筆したが、阿部が使い物にならないと判断し、師匠に当たる市川に執筆を指示した。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "女性脚本家の滝沢真理は、初担当した第8話を筆頭に蜂女などの女性怪人や女性が被害者となる回を担当することが多かった。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "第4クール後半から参加した石森史郎は、息子からせがまれたため、大学時代の同期であった田口勝彦に懇願し本作品に参加した。同時期には同様の理由で『ウルトラマンA』でも執筆している。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "第70話の脚本を担当した桶谷五郎は、後にテレビ朝日ドラマ部部長を務める関口恭司の変名である。当時、別名で小説家としても活動していた関口は、大学時代の阿部に売り込みをかけて本作品に参加したが、執筆は1本のみに留まった。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "平山は、脚本の方向性についてあえてヒーロードラマのセオリーは外し、『ウルトラマン』のように最後だけヒーローが登場するのではなく、スポ根ものの第1ラウンド・第2ラウンドなどのように早い段階でも仮面ライダーが登場することを意識したと述べている。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "本作品の脚本で完全なNGになった作品はほとんどない。阿部は、NGになった場合でも脚本家への執筆料は支払わなければならないため、毎日放送側から面白くないと言われた脚本でも良いところを伸ばせば成立するとして、ほとんど採用していたことを証言している。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "美術・造形は、造形会社「エキスプロダクション」が全面担当した。東映生田スタジオ所長の内田有作が映像美術の重鎮である大映の間野重雄に同社を紹介され、代表取締役の八木正夫は海外作品の仕事が一段落した時期であったことからこの仕事を引き受けた。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "準備段階ではエキスプロ役員であった三上陸男を中心に、同社造形チーフの藤崎幸雄と大映の矢野友久らが参加し、三上がサイクロン号のデザインやショッカーアジトのセットと怪人の造形など、藤崎が仮面ライダーの造形、矢野がスナックアミーゴのセットをそれぞれ担当した。立ち上げ作業を終えると三上は『魔神ガロン』への参加などのために現場を離れ、旧知の高橋章に後を託した。高橋は助手として八木功を呼び、以後の美術を担当した。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "高橋らが東映生田スタジオに常駐し、セットのデザインや衣装の補修も合わせ、すべてをこなしている。怪人のデザインは初期の蜘蛛男・蝙蝠男・さそり男は石森章太郎によるデザインが用意されたが、さそり男は三上により造形用デザインに直され、第4話のサラセニアン以降のデザインは高橋による。三上が造形を手掛けた初期3体は型抜きで作られたが、映画と同様のこの手法では時間がかかるため、以降はタイツに直付けする方法に変更された。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "後に平山によると、MBS側から東映に支払われる制作費は1話につき400万円で、美術予算が足りず、苦肉の策として機械パネルのイメージを予定していたショッカーのアジト内は、エキスプロの高橋章が描くおどろおどろしい模様を描いたものとなった。同プロの三上陸男は、「おかげで生物感のある不気味なものになった」とコメントしている。", "title": "制作体制" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1973年2月15日に東京プリンスホテルにて、100話記念と3号ライダーとなる仮面ライダーV3誕生を祝した『仮面ライダー放送100回記念パーティー』が毎日放送の主催で開催され、スタッフ間で『われらの仮面ライダー』が上映された。内容は中江真司のナレーションによる総集編だが、配役紹介や視聴率紹介がなされ、スタッフ向けになっている。後年、東映ビデオから『仮面ライダースペシャル2』として発売され(『ZX』とのカップリング)、初めて視聴者の元に提供された。ただし、『仮面ライダースペシャル』のDVD化の際、同作品は未収録となっている。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "アイキャッチ間には「V3の変身ベルト(ダブルタイフーン)」のCMと「マジンガーZのジャンボマシンダー」のCMが挿入されているが、ジャンボマシンダーのCMは映像ソフトで加えられたものである。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "すべて東映ビデオより発売", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "発売元はバンダイナムコゲームス(旧バンダイおよび旧バンプレストの各レーベル)による。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "東映ビデオより1994年にMicrosoft Windows 3.1用CD-ROMゲームとして『仮面ライダー作戦ファイル1』が発売された。全98話を基にしたストーリー解説、怪人の名称とスペックならびにライダーに倒される場面の映像のデータベース、悪の新組織がオリジナル怪人を用いてダブルライダーを倒すまたは世界征服のための新たな作戦を展開するゲームが1枚のCD-ROMに収められた体裁を採っている。首領の声は納谷悟朗による新録の音声が用いられている。Macintosh用ソフトも後に販売され、1997年にはセガからもセガサターン用ソフトとして再発売された。続編として『仮面ライダーV3作戦ファイル』が発売された。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "戦闘員日記シリーズが、メガバックスコレクションによる舞台として公演されている。佐々木剛や千波丈太郎・中屋敷哲也など、仮面ライダーシリーズに出演した多くの俳優が出演しており、石森プロなどのサイトでも宣伝されていた。また、ポスターは、当時講談社の月刊マガジンZで『仮面ライダーSPIRITS』を連載していた村枝賢一による描き下ろしとなっている。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "本郷猛(仮面ライダー1号)、一文字隼人(仮面ライダー2号)、立花藤兵衛、ショッカー・ゲルショッカーに所属する怪人などの登場作品は、仮面ライダー1号・仮面ライダー2号・立花藤兵衛・ショッカーの項目をそれぞれ参照。", "title": "他の仮面ライダーシリーズとの関連" } ]
『仮面ライダー』(かめんライダー)は、1971年4月3日から1973年2月10日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全98話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。
{{半保護}} {{Otheruses|シリーズ第1作|その他|仮面ライダー (曖昧さ回避)}} {{Pathnav|仮面ライダーシリーズ|frame=1}} {|style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#90ff90; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[仮面ライダーシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第1作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''仮面ライダー''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1971年4月<br />- 1973年2月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第2作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダーV3]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1973年2月<br/>- 1974年2月 |} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 仮面ライダー | 画像 = | ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]] | 原作 = [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] | 企画 = [[平山亨]]・[[阿部征司]]<br />(第1 - 52話) | 脚本 = [[伊上勝]] 他 | 監督 = [[竹本弘一]] 他 | 出演者 = {{Plainlist| * [[藤岡弘、|藤岡弘]] * [[佐々木剛]] * [[矢吹二朗|千葉治郎]] * [[宮口二郎|宮口二朗]] * [[天本英世]] * [[潮健児]] * [[丹羽又三郎]] * [[小林昭二]] }} | 声の出演 = [[納谷悟朗]] | ナレーター = [[中江真司]] | 音楽 = [[菊池俊輔]] | OPテーマ = {{Plainlist| * 「[[レッツゴー!! ライダーキック]]」<br />歌:藤岡弘、メール・ハーモニー(第1 - 13話) * 「レッツゴー!! ライダーキック」<br />歌:[[子門真人|藤浩一]]、メール・ハーモニー(第14 - 88話) * 「ライダーアクション」<br />歌:[[子門真人]](第89 - 98話) }} | EDテーマ = {{Plainlist| * 「[[レッツゴー!! ライダーキック|仮面ライダーのうた]]」<br />歌:藤浩一、メール・ハーモニー(第1 - 71話) * 「ライダーアクション」<br />歌:藤浩一(第72 - 88話) * 「ロンリー仮面ライダー」<br />歌:子門真人(第89 - 98話) }} | 言語 = [[日本語]] | プロデューサー = 平山亨・阿部征司<br />(第53 - 98話) | 製作 = [[毎日放送]]<br />[[東映]] | 放送局 = [[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]] | 音声形式 = [[モノラル放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[1971年]][[4月3日]]<br />- [[1973年]][[2月10日]] | 放送時間 = 土曜 19:30 - 20:00 | 放送枠 = [[テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ]] | 放送分 = 30 | 放送回数 = 98 | 次作 = 仮面ライダーV3 | 特記事項 = 「[[仮面ライダーシリーズ]]」 第1作 }} 『'''仮面ライダー'''』(かめんライダー)は、[[1971年]][[4月3日]]から[[1973年]][[2月10日]]まで、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]]で毎週土曜19時30分から20時([[日本標準時|JST]])に全98話が放送された、[[毎日放送]]・[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 == 概要 == 本作品の基本線は、等身大のヒーローと怪人が対決する'''痛快SF怪奇アクションドラマ'''である。従来の実写ヒーロー物とは一線を画した「異形」のヒーロー像と、人間ドラマとしての側面を極力抑えた勧善懲悪劇、[[スリラー|怪奇ドラマ]]的な演出、そして颯爽とオートバイを駆って「[[ライダーキック]]」{{efn|[[読売新聞]][[1993年]][[3月16日]]夕刊によると、これはスポ根ブームの影響で格闘技に徹したためだとされている。}}などのダイナミックなアクションを繰り広げる格闘シーンや、多彩な動植物をモチーフとした特異で[[グロ|グロテスク]]な怪人の登場が特徴。 [[仮面ライダー (漫画)|漫画版]]は石森章太郎が担当し、少年向け雑誌『[[週刊ぼくらマガジン]]』(のちに『[[週刊少年マガジン]]』に連載誌を変更)に連載した。 本作品の終了後にも登場人物や敵対組織、または時系列や世界観そのものを変えた多くの作品が制作されており、それぞれの番組は基本的に、主人公となる「ライダー」(=仮面ライダー)の名称をタイトルとしている。一般にこれらを[[仮面ライダーシリーズ]]と呼ぶ。 なお、[[1979年]]の第6作のテレビ番組名も同じく『仮面ライダー』だが、新聞や文献などでは「'''(新)'''」を番組名に付記する方法で本作品とは区別されていた{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=82}}{{Sfn|超辞典|2011|p=21}}{{Sfn|語れ!|2013|pp=48,55}}}}。現在では同作品の主役ライダーである「'''スカイライダー'''」を番組名に付記する方法で区別されることがある。この第6作については『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』を参照のこと。 == ストーリー == 優秀な科学者にしてオートレーサーの大学生・'''[[仮面ライダー1号|本郷猛]]'''は、世界征服を企てる悪の秘密結社・'''[[ショッカー]]'''に捕われる。本郷の能力に着目していたショッカーは、アジトで1週間かけて彼を[[バッタ]]の能力を持つ[[サイボーグ|改造人間]]に改造する。しかし、本郷は脳改造される寸前、ショッカーに協力させられていた恩師・'''緑川博士'''に助けられてアジトから脱出する。以降、'''仮面ライダー'''となった本郷は、ショッカーが送り出す怪人たちを次々に倒していく。 ショッカーは仮面ライダー打倒のため、フリーカメラマン・'''[[仮面ライダー2号|一文字隼人]]'''を仮面ライダー同様の改造人間に改造する。だが、一文字も脳改造の直前に本郷に救出され、もう1人の仮面ライダーとなる。 こうして誕生した2人の仮面ライダーは日本と[[海外]]に別れ、時には共闘しながら、オートレーサーとしての師・'''[[立花藤兵衛]]'''、[[連邦捜査局|FBI]]捜査官・'''滝和也'''、自分たちに憧れる'''少年仮面ライダー隊'''などの多くの仲間たちの協力を得てショッカーと戦う。普通の人間に戻れなくなった悲しみを仮面の下に隠し、「'''人間の自由'''」{{efn|[[市川森一]]が企画時に考えたものが、テーマとして取り入れられた文言である。}}を守るために。 == 登場人物 == === 仮面ライダー === ; [[仮面ライダー1号|{{読み仮名|本郷 猛|ほんごう たけし}} / 仮面ライダー]] : 第1 - 13、40・41、49、51 - 98話に登場{{efn|ただし藤岡弘は第11 - 13話、66、67話には出演せず。}}。 : 本作品の主人公。城南大学{{efn|第1話のみ城北大学と呼称。}}生化学研究室所属の科学者で、優秀な[[オートレーサー]]でもある。 : [[知能指数|IQ]]600・スポーツ万能の超人的な才能を持つがゆえに、ショッカーに拉致され改造人間にされてしまうが、脳改造寸前に脱出し、正義のためにショッカーと戦うことを決意する。 : 第13話を最後に海外へ渡り、主にヨーロッパ支部のショッカーと戦っていたが、第40話で死神博士を追って一時帰国する。その後も何度か帰国して一文字隼人と共闘し、第53話から再び日本でのショッカーの戦いに身を投じる。 ; [[仮面ライダー2号|{{読み仮名|一文字 隼人|いちもんじ はやと}} / 仮面ライダー]] : 第14 - 52、72・73、93・94、98話に登場。 : 本作品のもう1人の主人公。フリーの[[カメラマン]]であり、同時に[[柔道]]6段・[[空手道|空手]]5段の腕前を持つ格闘技の達人でもある。その能力と素性をショッカーに見込まれ、第2の仮面ライダーとして改造されるが、脳改造前に本郷に救出され、ショッカーとの戦いを決意する。 : 第14話より、海外に渡った本郷に代わって日本の守りにつくが、第52話以降は再び本郷と交代して南米へ旅立った。その後も何度か帰国し、ダブルライダーとして戦っている。 === 仮面ライダーの協力者たち === ; [[立花藤兵衛|{{読み仮名|立花 藤兵衛|たちばな とうべえ}}]] : 全話に登場。本郷、隼人、滝和也からは親称として「おやっさん」と呼ばれている。本郷のオートレーサーとしての師。本郷の秘密をもっとも早く知った人物で、仮面ライダーの協力者として物心両面から支援する一方、トレーナーとして戦闘訓練にも立ち会ってライダーの実力を引き出した。当初はスナック・アミーゴを経営していたが、本郷が一時的に日本を離れるのと同時期にオートバイ用品店「立花オートコーナー」を開業し、立花レーシングクラブを立ち上げた。隼人や滝、レーシングクラブの女性メンバーたちに対しても父親のように接し、少年仮面ライダー隊を組織するとその会長に就任し、ライダーへの支援にいっそうの力を入れるようになる。 :<!--立花藤兵衛のゲルショッカー壊滅後の情報について、本記事では書かないでください。書きたければ、立花藤兵衛の個別記事に書いてください。--> ; {{読み仮名|滝 和也|たき かずや}} : 第11、13 - 19、21 - 82、84 - 98話に登場。本郷の全日本モトクロス選手権大会におけるライバルに当たるオートレーサーで、ショッカーを追っていた[[連邦捜査局|FBI]]の特命捜査官。本郷と並ぶライディングテクニックを持つ。 : 自分の結婚式がゲバコンドルに襲われたのを機に戦いに参加する。シナリオによれば結婚式もショッカーを追うための偽装結婚であったとされているが、劇中ではその後も既婚者とされている。 : 隼人の登場とともに本格的にライダーと共闘するようになり、ショッカーによる犯罪の捜査や公的機関とのパイプ役などの役割を担う一方、戦闘やライダーの訓練でも本郷と一文字のパートナーを務めた。改造人間ではないが、捜査官としては優秀であり、戦闘員数人を相手に互角に渡り合う格闘力と優れた情報収集能力を持ってゲルショッカーの壊滅までライダーを支え続けた。少年ライダー隊結成後はその隊長を務め、子供たちの良き兄貴分にもなっていた。 : 第98話でゲルショッカー壊滅によって日本での使命を終え、アメリカに帰還した。 :* 藤岡の負傷による番組主役不在の穴を埋めるために急遽創られたキャラクターであり、藤岡の復帰が遅れたためにそのままレギュラー化した。所属組織は当時の人気テレビドラマ『[[FBIアメリカ連邦警察]]』が着想元である{{R|taki}}。 : 平山亨の小説によれば、 :* 「アメリカ南部・オクラホマシティ出身の日系3世。幼少時代はいじめを受けていたが、負けん気の強さから腕っ節を鍛えて地元の不良少年のボスになる。しかし黒人運転手ジャッキーに一蹴されて鼻っ柱を折られ、彼を追って世界各地を旅するうちに心身ともに成長。[[東南アジア]]でジャッキーと再会し、彼の師ジン・ルンから拳法を学ぼうとするが、ベトナム戦争に巻き込まれて成り行きで米兵と戦ってしまう。その後は本郷と一文字、風見志郎(仮面ライダーV3)とともに[[パリ・ダカールラリー]]に参加。帰国後、ベトナムでの反逆行為でFBIに捕まるが、[[ジョン・エドガー・フーヴァー|フーバー長官]]に見込まれてFBIの一員となった」 :という{{R|taki}}。 :* 演じた[[矢吹二朗|千葉治郎]]によると、アクションシーンでは滝が本郷より強く見えてしまうため、平山から「戦闘員を3人倒したら4人目にはやられる」と指示されていたという{{Sfn|怪人大全集|1986|p=216|loc=「仮面ライダーSTAFF CAST SPONSORインタビュー CAST編」}}。 :* 実現には至らなかったが、番組後半で登場が予定されていた仮面ライダー3号になるという案{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=126-127|loc=「3号ライダー誕生 手書きストーリー案」}}や次作『[[仮面ライダーV3]]』にて[[ライダーマン]]となって再登場する案{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=193|loc=「ライダーマンの初期設定」}}などの展開も検討されていた。 :; その他の登場作品 ::; 漫画作品『[[仮面ライダーSPIRITS]]』 ::: ライダーたちと並んで主人公格として扱われており、「仮面ライダー」として戦っている。 ::; ゲーム『[[ガイアセイバー ヒーロー最大の作戦]]』 ::: FBI捜査官として[[カイ・シデン]]や[[仮面ライダーZX]]らと共に諜報活動を行う。 : ; {{読み仮名|緑川 弘|みどりかわ ひろし}} : 第1話のみ登場。本郷の恩師で生化学の権威で、本郷の通う城北大学生化学研究所の教授。ショッカーに拉致されて改造人間の研究に携わっていたが、組織の真の目的を知って、脳改造寸前の本郷を救出した。本郷を被験体に推薦したことに負い目を持ち、ショッカーへの反逆についても恐怖心から迷い続けていたが、脱出行の途中で蜘蛛男に蜘蛛の糸を絡まれ、暗殺されてしまい、泡となって消える。 :* 劇中でははっきりと描かれていないが、設定上は仮面ライダーを開発した中心人物である。平山亨の短編小説では、 :** 「本郷の前に仮面ライダー0号とでも呼ぶべきプロトタイプを製作したが、その能力に耐え切れずに死亡してしまった。激しい良心の呵責に苦しんだ結果、ショッカーへの疑問を募らせていき、後に脱走した。その一方、首領の激しい責任追及に耐えかね、愛弟子の本郷を被験体に推薦してしまった」 : と述べられている{{R|hiwa}}。 :* 雑誌設定ではあるが{{Full|date=2015年6月}}、『[[仮面ライダーX]]』の神啓太郎博士、『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』の志度敬太郎博士がライダーに改造できる技術を持っていたのは、彼と関係があったからとされている。 :; その他の登場作品 ::; 小説作品『[[S.I.C.]] HERO SAGA MASKED RIDER EDITION SPECIAL EPISODE -脱出-』 ::: 本郷猛の改造・脱出の経緯が、緑川博士の視点で描かれ、本郷猛を選んだ理由についても語られている。 ::; 小説作品『S.I.C. HERO SAGA MASKED RIDER X EDITION -ゼウスの息子-』 ::: 『仮面ライダーX』の後日譚にあたる小説作品に名前のみ登場。神啓太郎や呪博士は城北大学で教鞭をふるう親友とされ、ショッカーと繋がりのあった呪博士が緑川博士を推薦したことになっている。 : ; {{読み仮名|緑川 ルリ子|みどりかわ ルリこ}} : 第1 - 13話に登場。緑川博士の一人娘で、城北大学文学部に通いながら立花の経営するアミーゴでアルバイトをしていた。緑川が暗殺された際、居合わせた本郷を犯人と誤解していた。第2話で誤解が解けてからは本郷の協力者となり、パートナーとしてショッカーとの戦いに貢献したが、本郷がライダーとは知らなかった。本郷に想いを寄せていた節があり、第13話で後を追ってヨーロッパに渡る{{efn|平山亨による設定文書では、ルリ子は本郷が受け取った旅券から本郷のヨーロッパ行きを知り後を追ったと記されている{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=80-81|loc=「平山亨氏手書き設定文書」}}。}}。 : その後の消息は劇中では描写されなかったが、番組のプロデューサー[[平山亨]]が後年執筆した小説では、[[オーストリア]]で本郷がルリ子の想いを振り切るべく、ルリ子の幼なじみである青年科学者・カールとその一家にルリ子を託したとされている{{R|hiwa}}。 :* ルリ子を演じた[[森川千恵子|真樹千恵子]]は、第11話でゲバコンドルをおびき寄せるための偽装結婚のシーンで、生まれて初めてウエデイングドレスを着用した。しかし、怪人ゲバコンドルに追いかけられるというシーンであり、{{要出典範囲|「若い女の子の夢をめちゃくちゃにしてくれて」とコメントしている|date=2015年6月}}。 :* 企画段階ではルリ子の弟として中学1年生の正夫がレギュラーキャラクターに設定されていたが、企画の変遷により改造人間の悲哀を描く大人の物語が志向されたため不採用となった{{R|大全集130|71-84制2-4}}。 :; その他の登場作品 ::; 『[[仮面ライダーSPIRITS|新仮面ライダーSPIRITS]]』 ::: 本作品の時期を描いた作品(一文字の改造を描いた番外編)にテレビ版当時の姿で登場した後、本編にも年月を経た姿で登場。科学者としてSPIRITSに協力し、バダンシンドローム撃破の糸口を探そうとする。 : ; {{読み仮名|野原 ひろみ|のはら ひろみ}} : 第1、2、4 - 25、34話に登場。ルリ子と同じ城北大学文学部に通う級友で、アミーゴでアルバイトしていたことから事件に巻き込まれ、以後本郷たちの戦いに協力するようになる。本郷とルリ子が日本を去った後も立花レーシングクラブに残り、隼人に協力した。 : ; {{読み仮名|史郎|しろう}} : 第2、4 - 15話に登場。アミーゴの[[バーテン]]。気は弱いが善良な青年で、本郷たちに休息の場を与えていた。立花オートコーナーとレーシングクラブの開業に関わったのを最後に姿を消している。 : ; ライダーガールズ : ライダーの戦いを支援した女性たちの総称。劇中でこの呼称は使われていないが、商業誌などで彼女たちを総称する際にこの名称が使われている。 :* キャスティングを担当した阿部征司は、「いついなくなってもいいように個性を持たせなかった」と述べている{{R|OFM4}}。 :; その他の登場作品 ::; 『[[仮面ライダーSPIRITS]]』 ::: 石倉育英会の職員として、ユリ、マリ、ミチが五郎とともに登場。五郎からは「姉ちゃん先生」と呼ばれ慕われている。 ::: エミ、ミカ、トッコ、ヨッコ、チョコは石倉育英会の炊き出しを手伝っていた。 :; ユリ :: 第14 - 59、61 - 64、66、67、69 - 98話に登場。ひろみの友人でライダーガールズの中では最長期に渡って登場した。一文字の助手を自認しており、空手初段(後に3段)の使い手。当初は他のライダーガールズ同様に軽い調子の女性だったが、後半はガールズのリーダー格的存在として、滝や藤兵衛とともにライダーの戦いをサポートした。 ::* メンバーのほとんどが説明なく姿を消す中で、彼女だけは最終話まで活躍を続けた。プロデューサーの阿部は「特に降板させる理由がなかった」と述べている{{R|OFM4}}。 :; マリ :: 第14 - 25、29 - 38話に登場。ひろみの友人。[[フェンシング]]が得意で、プロポーションを良くするために入会した。好奇心旺盛で、カメラマンである隼人に写真モデルにするように熱心にアピールしていた。 :; ミチ :: 第14 - 18、20、21、24、25話に登場。ひろみの友人。合気道が得意な男勝りの女性。90ccのバイクなら乗りこなせる。 ::* プロデューサーの阿部は「『仮面ライダー』なんだから1人ぐらいはバイクに乗れる娘を」という理由で設定したと述べている{{R|OFM4}}。 :; エミ :: 第40 - 66、68話に登場。本郷の助手としてスイスで活動。死神博士を追って来日し、そのまま日本に残った。暗号解読と合気道が得意。 ::* 当初はミカとともに退場する予定であったが、コンビで登場する予定であった新ライダーガールズが1人のみとなったため、暫定的に登場が継続された{{R|怪人大画報176}}。 :; ミカ :: 第40 - 52話に登場。エミ同様、本郷の助手としてスイスで活動していた。エミとともに来日し、そのまま日本に残った。トランプ占いやトランプ手裏剣が得意。 :; トッコ :: 第53 - 69話に登場。[[多摩動物公園]]でジャガーマンに襲われていた際に本郷たちと出会い、事件解決後は立花レーシングを手伝うことになる。勘が鋭い。 :: 明確なキャラクター設定はなく、書籍などではレーシングクラブの炊事係と紹介されている{{R|OFM4}}。 ::* 第59話のクレジットまでは'''ミツコ'''と誤記されていたが、これは本来トッコとミツコのコンビで登場する予定であったものがミツコ役が決まらず1人のみとなったため、スタッフ内で役名に混乱が生じたものとされる{{R|怪人大画報176}}。 :; ヨッコ :: 第70 - 98話に登場。ユリの紹介で登場。少年ライダー隊発足後は通信係や事務を担当。おとなしい性格で、口数も少ない。 ::* キャラクター設定は阿部が以前より知っていた[[中田喜子]]に合わせて設定された{{R|OFM4}}。 :; チョコ :: 第70 - 98話に登場。ユリの紹介で登場した。のんき者で、「チョコレートが好き」との設定で、いつも何かを食べており、周囲を呆れさせていた。少年ライダー隊発足後は通信係や事務を担当。 ::* キャラクター設定はヨッコと正反対に派手でミーハーな性格とされた{{R|OFM4}}。 : ; {{読み仮名|石倉 五郎|いしくら ごろう}} : 第14 - 62、65話に登場。立花レーシングクラブの発足と同時にクラブに出入りするようになった少年。両親は既に亡くなっている。 : 他の大人たちとともによく事件に巻き込まれるが、情報提供などで事件解決に貢献することも多い。腕白少年だが、クラスで成績トップを争う秀才。本郷・一文字・滝・ライダーガールズとは兄弟のような間柄であり、彼らのことを「○○○兄ちゃん(本郷の場合は猛兄ちゃん、隼人の場合は隼人兄ちゃん)」や「○○○姉さん」と呼んでいる。本郷と隼人がライダーとは知らず、ライダーに憧れている。 : ナオキとミツルをレーシングクラブに紹介した後、彼らにその役割を譲るように第65話を最後に降板した。 :* 演じる[[三浦康晴]]の中学校進学により、レギュラーを降板した{{Sfn|超辞典|2011|p=64}}{{R|怪人大画報176}}。 :; その他の登場作品 ::; 『新仮面ライダーSPIRITS』 ::: ショッカーやデルザー軍団に支配された東京都に、大きく成長した姿で現れる。ライダーガールズとともに悪の組織のテロ活動による被害から子供たちを守る組織「石倉育英会」を設立している。子供たちとともにショッカーに拉致されてしまった1号を追い、ZXとともにショッカーのアジトへと乗り込む。 : ; 少年仮面ライダー隊 : 第74話で、藤兵衛がライダーに協力する全国の少年少女を集めて結成した私設の支援組織。藤兵衛が会長、滝が隊長、ユリ・チョコ・ヨッコが通信係を務める。ショッカーの行動が公然となり、事件に巻き込まれる子供が増える中での自衛組織的な意味合いもある。ライダーのマスクを模したヘルメットと赤いネクタイの制服(作中では2度変更されている)がトレードマークで、専用の自転車で行動しながらショッカーやゲルショッカーの情報を収集(集めた情報は、ペンダント型の通信機や個々の会員番号が登録された連絡用伝書鳩を使って本部に通報し、ライダーに伝えられるシステムになっている)。本部は東京近郊の3階建てビルに置かれ、立花レーシングクラブの女性メンバーが本部要員として情報収集や事務に当たっており、各種通信機器や地図、会員名簿を完備する。隊員は全国規模で組織され、ショッカーやゲルショッカーと戦う上での大きな力となった。 :* 元々は五郎役の三浦康晴の演技が高く評価されていたことから、五郎を中心に据えることを前提に検討されていた{{R|怪人大画報176}}。登場にあたっては掲載誌『[[テレビマガジン]]』にて隊員の募集が行われ、大きな反響を得た{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=118-119|loc=「少年仮面ライダー隊の発足」}}。 :; ナオキ、ミツル :: 第62 - 64、68 - 70、72 - 98話に登場。五郎の紹介で第62話よりレーシングクラブに出入りするようになった。2人で行動することが多く、そのキャラクターは五郎ほど描き分けられていなかった。ミツルは歳の離れた姉が第87話に登場。少年ライダー隊結成後はリーダー格として活躍し、ゲルショッカーとの最終決戦までその役割を全うした。 ::* 五郎役の三浦康晴の降板により、それに代わる少年レギュラーとして創作された{{R|怪人大画報176}}。 === ショッカー === 第1話 - 第79話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。メンバーは知力体力に優れた人間に改造手術を施し洗脳した'''[[ショッカー怪人|怪人]]'''を中心に構成されており、その怪人たちを正体不明の首領が操って様々な犯罪や破壊工作を行っている。 {{Main|ショッカー}} ; [[ショッカー首領]] : 全話に登場。ショッカーの支配者。 ; [[ゾル大佐]] : 日本支部初代大幹部。 :{{Main|ゾル大佐#昭和仮面ライダーシリーズ}} ; [[死神博士]] : 日本支部2代目大幹部。 :{{Main|死神博士#昭和仮面ライダーシリーズ}} ; [[地獄大使]] : 日本支部3代目大幹部。 :{{Main|地獄大使#昭和仮面ライダーシリーズ}} === ゲルショッカー === 第80話 - 第98話に登場した、世界征服を企む謎の国際的秘密組織。暗黒組織・ゲルダム団と自身の組織ショッカーを合併・再編成した新組織。 {{Main|ゲルショッカー}} ; [[ショッカー首領|ゲルショッカー首領]] : ゲルショッカーの支配者であり、ショッカー首領と同一人物。 ; [[ブラック将軍]] : ゲルショッカー日本支部大幹部。 ; [[ショッカーライダー]] : 仮面ライダー1号・2号と同様の容姿をした6体の改造人間。 == 仮面ライダー1号・2号 == {{Main|仮面ライダー1号|仮面ライダー2号}} ショッカーによって改造された戦闘用改造人間。2人とも脳改造を免れてショッカーのアジトから脱出し、人間の自由を守るためにショッカーと戦った。 第40話以降、2人の仮面ライダーが共演するエピソードでは、本郷の変身するライダーを'''仮面ライダー1号'''、一文字の変身するライダーを'''仮面ライダー2号'''と区別して呼ばれるようになった{{efn|「仮面ライダー1号」「仮面ライダー2号」のクレジットが行なわれるようになったのは、次作『[[仮面ライダーV3]]』からである。}}が、本作品の劇中での呼称とクレジットは'''仮面ライダー'''で統一されている。なお、2人の仮面ライダーは互いを「本郷」「一文字」と本名で呼び合っていた。 基本スペックは両者とも同一であるが、1号は多彩な必殺技、2号は高い格闘能力と破壊力をそれぞれ持つことから、雑誌展開などでは「技の1号・力の2号」と称された{{efn|本作品の劇中では語られることはなかった。語られたのはテレビスペシャル『[[全員集合!7人の仮面ライダー!!]]』のみだが、「力の1号・技の2号」と称されている。}}。 === 専用マシン === ライダーの特徴として、その名の通り高性能の専用[[オートバイ]]を使用することが挙げられる。 {{Main|サイクロン号}} == キャスト == === レギュラー・準レギュラー === * 本郷猛 / 仮面ライダー<!--クレジット表記に準拠。。--> - [[藤岡弘、|藤岡弘]](1 - 10、40、41、49、51 - 65、68 - 98{{efn|第9 - 13話は藤岡の負傷による影響で[[納谷六朗]]、66・67話は藤岡の「[[仮面ライダー対じごく大使#藤岡弘の失踪と制作中断|失踪騒動]]」の影響で[[市川治]]が[[アフレコ]]を行っている。第11話から13話は全てライブラリーフィルムでの出演のため、藤岡は実際には出演していない。}}) * 一文字隼人 / 仮面ライダー<!--クレジット表記に準拠。。--> - [[佐々木剛]](14 - 52、72、73、93、94、98) * 滝和也<ref group="C">役名表記は第14話から。</ref> - [[矢吹二朗|千葉治郎]](11、13 - 19、21 - 82、84 - 98) * 立花藤兵衛<ref group="C">「藤兵'''ヱ'''」(「ぎょうにんべん」に「ヱ」で「'''彳ヱ'''」というような「衛」の略字表記のときも)とクレジットされる回もある。</ref> - [[小林昭二]](1 - 98) * 緑川ルリ子 - [[森川千恵子|真樹千恵子]](1 - 13) * 野原ひろみ<ref group="C">第14話以降のクレジットは'''ひろみ'''。</ref> - [[島田陽子]](1、2、3〈クレジットのみ〉、4 - 25、34) * 史郎<ref group="C">役名表記は第14、15話のみ。</ref> - 本田じょう(2、3〈クレジットのみ〉、4 - 15<ref group="C">第6 - 8話と第11 - 13話はノンクレジット。</ref>) * ユリ - [[沖わか子]](14 - 59、61 - 64、65〈クレジットのみ〉、66、67、69 - 98) * マリ - [[山本リンダ]](14 - 25、29 - 38、39〈クレジットのみ〉) * ミチ - [[中島かつみ]](14 - 18<ref group="C">第16、17話はノンクレジット。</ref>、20、21、24、25) * 石倉五郎<ref group="C">役名クレジットは'''五郎'''。第16、17、19、22、23、28、34話は役名表記なし。</ref> - [[三浦康晴]](14、15〈クレジットのみ〉、16 - 19、21 - 37、38〈クレジットのみ〉、39 - 62、65) * エミ - [[鳩山エミリー|高見エミリー]](40 - 66、67〈クレジットのみ〉、68) * ミカ - [[杉林陽子]](40 - 52) * トッコ<ref group="C" name="ミツコ">第59話までのクレジットは'''ミツコ'''。</ref> - [[中島真智子]]<ref group="C">第64話では「中島'''まち子'''」、第68・69話では「中島'''マチ子'''」とクレジット。</ref>(53 - 69) * ナオキ<ref group="C" name="naoki_mitsuru">役名表記は第63話から。</ref> - [[矢崎知紀]](62 - 64、68 - 70、72 - 78、79〈クレジットのみ〉、81 - 98<ref group="C" name="naoki_mitsuru2">第64話と第97話はノンクレジット。</ref>) * ミツル<ref group="C" name="naoki_mitsuru" /> - [[山田芳一]](62 - 64、68 - 70、72 - 78、79〈クレジットのみ〉、81 - 98<ref group="C" name="naoki_mitsuru2" />) * ヨッコ - [[中田喜子]](70 - 98) * チョコ - [[ミミ萩原|ミミー]](70 - 98) * ゾル大佐 - [[宮口二郎|宮口二朗]](26 - 39) * 死神博士 - [[天本英世]](40 - 52、61、63、68) * 地獄大使 - [[潮健児]]<ref group="C">第66・67話のオープニングクレジットは「'''潮健二'''」</ref>(53 - 62、64 - 67、69 - 79) * ブラック将軍 - [[丹羽又三郎]](80 - 98) === 声の出演 === * ショッカー首領<ref group="C">第39話までのオープニングクレジットは「'''ショッカーの声'''」、ゲルショッカー編となる第80話以降も「'''ショッカー首領'''」と表記。</ref> - [[納谷悟朗]](1 - 98) * ナレーター{{efn|劇中のナレーションに加え、オープニングの最後および次回予告も担当している。ただし、第72話分以降の次回予告については中江以外にも納谷悟朗、潮や丹羽、怪人役の声優、藤岡、塚田など様々な演者が回替わりで担当した。}} - [[中江真司]](1 - 98<ref group="C">第11 - 13話はノンクレジット。</ref>) === 主なゲスト出演者 === ※参考文献:『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊・仮面ライダー怪人大画報2016』([[ホビージャパン]]・2016年)、『仮面ライダー 昭和 (vol.1&vol.2)』(講談社・2016年) * 緑川博士{{efn|name="noname"|クレジットでは役名未表記。}} - [[野々村潔]] (1) * ショッカー科学者{{efn|name="noname"}} - 植田灯孝(チーフ)、[[石丸博也]]、[[丸山詠二]] (1) * 山野美穂{{efn|name="noname"}} - [[小林千枝]] (2) * 岸森助手{{efn|name="noname"}} - 巽治郎 (2、5) * 保(マンションの住人){{efn|name="noname"}} - 永井譲滋 (2) * 伊藤老人 - [[美川陽一郎]] (3) * 宮下雪江 - [[太田きよみ|篠雪子]] (4) * 宮下健二 - 五島義秀 (4) * 戦闘員No.3 - [[石橋雅史]] (4) * 雨宮ちか子 - [[水上竜子]] (5) * 砂田辰夫 - [[神田隆 (俳優)|神田隆]] (6、7) * 砂田ユキ - 荒井久二江<ref group="C">オープニング表記は「荒井久二子」</ref> (6・7) * ハインリッヒ博士(演) - A・ウンガン (6・7) * ハインリッヒ博士(声) - [[市川治]]<ref group="C">オープニング表記は「市川修」</ref> (6・7) * 阿部直樹 - 西城健二 (6) * 池田隆三 - [[高津住男]] (8) * 赤戦闘員・影村 - [[岩城力也]] (8) * 池田サチコ - 川崎純子 (8) * 近藤和雄 - [[守田比呂也]] (9) * 近藤武彦 - 石井政幸 (9) * 警備員 - [[加藤正之]] 、松永五郎 (9) * 綾小路律子 - [[新井茂子]] (10) * 古賀警部 - [[奥村公延]] (10) * 古賀透 - 辻直之 (10) * 日本金保管所所長 - [[山岡徹也]] (10) * 滝洋子 - 桂ルミ (11、13) * 少年 - 矢崎知紀 (11) * 城南大学研究員A - [[滝波錦司]] (11) * 白川保 - [[吉田輝雄]] (12) * 白川マチ子 - [[渡辺やよい (女優)|渡辺弥生]] (12) * 白川博士の助手 - [[森烈]] (12) * 女幹部マヤ - [[真理アンヌ]] (16・17) * リングアナウンサー - [[大泉滉]] (16・17) * ハリケーンジョー - 原田力 (16・17) * 草鹿清 - 渡辺一矢<ref group="C">オープニング表記は「渡辺一也」</ref> (16・17) * 田所大助 - 西郷次郎 (18) * 田所まさる - [[高野浩幸]] (18) * 神田 - [[宮浩之]] (19) * 吉岡一彦 - 鶴見丈二 (20・21) * 小泉教授 - [[野々浩介]] (20) * 吉岡ミキ - 池田浩子 (21) * エリナ杉崎 - 水木正子 (22) * 青柳昇 - [[杉浦真三雄]] (22) * 青柳美雪 - [[斉藤浩子]] (22) * 大隅博士 - [[伊豆肇]] (23) * 研究員A - [[三上左京]] (23) * 小池助手 - [[中田博久]] (24・25) * 松本宏 - 中村光男 (24・25) * 小泉キミ子 - [[林寛子 (タレント)|林寛子]]<ref group="C">オープニング表記は「林宏子」</ref> (24・25) * 看守 - 石丸博也<ref group="C">オープニングではノンクレジット。</ref> (24) * 警官 - 平島正一、[[有本欽隆]]、林弘、武田一彦 (26) * 生沢ナミ江 - 新井名津江(27) * 子供たち - ピーターみのわ、[[飯塚仁樹]] ほか (27) * 愛川豊 - 大和学 (28) * 愛川慎二 - 鈴木浩実 (28) * 川本浩太 - 山内友宗 (29) * 川本文江 - [[上田みゆき (声優)|上田みゆき]] (29) * 志村高一郎 - [[北原義郎]] (30) * 志村なつ江 - 磯野千鳥 (30) * 志村ワタル - 石原光真 (30) * 井崎 - [[大下哲矢]]<ref group="C">オープニング表記は「大下哲也」</ref> (31) * 井崎武夫 - [[佐久田脩|佐久田修]] (31) * 小田切千秋 - 杉本マチ子 (32) * 小田切アツ子 - [[佐久間真由美|佐久間まゆみ]] (32) * 後藤 - [[滝川潤]] (32) * コニー山田 - 三枝美恵子 (33) * 尾形進 - 石井政幸(33) * 折口清張 - [[村上不二夫]] (34) * 門前絹子 - 水上竜子 (34) * ショッカー幹部連絡員 - [[飯塚実 (大野剣友会)|飯塚実]] (34) * 剛田兼造 - [[奥野匡]] (36) * 剛田裕二 - [[長谷川ほまれ|長谷川誉]] (36) * 大野博士 - 丸山修 (36) * 木元ミツル - [[梅地徳彦]] (37) * 木元紀子 - [[真木沙織]] (37) * 関俊彦 - [[河野秋武]] (38) * 関明美 - 関口昭子 (38) * 早苗 - [[鷲尾真知子]] (39) * ショッカー幹部連絡員 - エンベル・アルテンバイ (39) * 早瀬久美子 - 茂木みゆき (39) * 達治 - 磯谷剛 (41) * 達治の母・マキ - 大坪日出代 (41) * 岡野弘 - 五島義秀<ref group="C">オープニング表記は「'''後藤良英'''」</ref> (42) * 並川博士 - [[水村泰三]] (43) * 刑事部長 - [[山田禅二]] (43) * 安藤医師 - 巽千太郎 (43) * 並木ジュンコ - 真田圭子 (44) * 並木マコ - 真田昇子 (44) * 矢島博士 - [[池田忠夫]]<ref group="C">オープニング表記は「池田'''唯夫'''」</ref>(45) * こそ泥 - [[神弘無|川中弘]](源治)、 [[花巻五郎]](鉄) (45) * 矢島みどり - 川崎麻里 (45) * 美川三郎 - 守田比呂也 (46) * 美川タダシ - [[佐野伸寿]] (46) * 和泉保雄 - 山崎亮一 (47) * 和泉ふき - 小畑通子 (47) * 山崎秀夫 - [[長沢大]] (48) * 山崎英子 - [[新草恵子]] (48) * 山崎ヒサシ - 石原光真 (48) * 中山健造 - [[青野平義]] (49) * 金尾為吉 - [[安藤三男]] (49) * 中山弘 - 高野浩幸 (49) * 宮下サクラ - 荒井久二江 (49) * 清水医師 - [[北町嘉朗|北町史朗]] (50) * 大下博士 - [[細川俊夫 (俳優)|細川俊夫]] (51) * 小林助手 - 西城健二 (51) * 美子 - 相沢史子 (52) * 美子の父 - [[守屋俊志]] (52) * 美子の母 - [[下川江那|下川清子]] (52) * 小鳥屋の店主 - 岩城力也 (52) * アナウンサーの声 - [[鈴木泰明]] (53) * 警官 - [[塚田正昭]] (54) * 井川 - [[高島稔]] (55) * 山本アナウンサー - 鈴木泰明 (55) * 正子 - 斉藤浩子 (55) * 片山俊作 - 北原義郎 (56) * 沢田行彦 - 宍井況二 (57) * 大田黒博士 - [[三島耕]] (58) * 橋本良子 - 牧まさみ (58) * 野上辰三 - [[三角八朗|三角八郎]] (59) * 三郎 - [[土屋靖雄]] (59) * 戦闘員(コバルト120運搬人) - 内田嵐、中原正之 (59) * 警官 - [[団巌]]<ref group="C">オープニング表記は「田巌」</ref> (60) * 田代 - 西城健二 (60) * 野沢桃子 - [[星野みどり]] (60) * 松山トリ子 - 大木智子 (60) * 雪夫 - 石井政幸 (62) * 自衛隊機操縦士 - 布田康博 (61) * 勝丸功 - [[成川哲夫]] (63) * 瀬能サナエ - [[藤山律子]] (63) * 勝丸ミキ - 大森不二香 (63) * セミ捕りの男 - 平井正志 (64) * バスの男 - 滝波錦司 (65) * 浩一 - 池田義彦 (65) * 来島 - 高田裕史 (66) * ピエール・アンドレ - エンベル・アルテンバイ (67) * ショッカーモロッコ支部長・モハメッド - [[ウイリー・ドーシー|ウィリー・ドーシー]] (67) * ショッカーシンガポール支部長・ヤン - A・モロズ (67) * 熊木 - [[高木二朗]] (68) * 小川信二 - 倉島襄 (69) * 水泳コーチ - [[大山高男]]、佐藤明美 (70) * 木原通俊 - [[徳大寺伸]] (71) * ジョージ - 大神信 (71) * キャッシー - ルース・ボール{{efn|当時の大阪アメリカンセンター館長の娘。本作品の大ファンだったことから、毎日放送の計らいで出演が実現した<ref>『よみがえるヒーロー!仮面ライダー大研究』([[二見書房]]・2000年)p.204</ref>。「'''特別出演'''」とクレジット。}}{{efn|書籍『仮面ライダー大全』では、キャッシー役をグレース・ボールと記載している{{Sfn|大全|2001|p=171}}。}} (71) * キャッシーの母 - グレース・ボール<ref group="C">「'''特別出演'''」とクレジット。</ref> (71) * ホテルの支配人・北沢 - 大泉滉 (72・73) * 番頭 - [[畠山麦]] (72) * 坂井博士 - 村上不二夫 (73) * 坂井圭子 - 新草恵子 (73) * 坂井マサオ - 佐藤一臣 (73) * 伊藤達也 - [[穂積隆信]] (74) * 看護婦 - [[松尾悦子]] (74) * 浩一 - 山崎亮一 (75) * 玩具屋の女主人 - [[由起艶子]] (76) * 三上茂一 - 加藤正之 (77) * 三上ヒロコ - [[京春上]](77) * 三上ひとみ - 茂木みゆき (77) * 透 - 佐藤栄介 (77) * 池田邦夫 - 石井政幸 (78) * 貯水湖管理人 - 石田英二 (79) * キャンプの娘 - [[松井紀美江]]、村松美枝子、[[早川絵美|菅沢恵美子]]、相良光子 (80) * 峰信太郎 - [[ささきいさお|佐々木功]] (81) * 峰芳子 - 糸見愛 (81) * 山崎トオル - 青沼一彦 (82) * 中村 - [[梅津栄]](82) * 院長 - 山田禅二 (83) * 桂木マキ - [[丘野かおり|山田圭子]] (84) * 釣人 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]]<ref group="C">演者としてはノンクレジット</ref> (84) * 岡崎 - 宮浩之 (85) * 桜井圭太 - [[簾内滋之]] (86) * 桜井大作 - 守屋俊志 (86) * ハイカー - 内田嵐 (86) * 死亡通知配達人 - [[芹川洋]] (87) * 青野清 - 北原義郎 (87) * 細谷勉 - 山岡徹也 (87) * 今井冷子 - 山口京子 (87) * 田中輝夫 - [[大橋一元]] (88) * 田中サトル - [[高橋仁]] (88) * ゲルショッカー工作員 - [[園田裕久]] (88) * ゲルショッカー戦闘員 - [[松坂雅治]] (90) * 山辺由美 - [[水沢有美]] (91) * 山辺達治 - 栗嶋宏 (91) * 木暮精一郎 - [[上野山功一]] (92 - 94) * 石神千恵 - [[小野恵子]] (92 - 94) * 勝彦 - [[三井恒]] (95) * サナエ - 岡田奈津子 (95) * 松田善一郎 - [[小山源喜]] (96) * 鈴木英夫 - [[川上大輔]] (96) * 安岡元一郎博士 - 美川陽一郎 (96) * アベック - [[山崎純資]]、松尾悦子 (97) * 実験用の虜囚 - [[東隆明|東龍明]]、[[土屋靖雄]] (97) === スーツアクター === * 仮面ライダー旧1号{{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno|大全集154}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.samurai-hiroshi.com/raider_ph.html|title=仮面ライダー/写真館|publisher=藤岡弘、オフィシャルサイト|accessdate=2011-05-05}}</ref>}} - 藤岡弘 * 仮面ライダー旧1号{{R|Ohno|大全集154}}、仮面ライダー旧2号(代役){{R|Ohno|大全集154}}、仮面ライダー新2号(一部){{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=205}}、怪人(蜘蛛男 ほか){{R|Ohno|大全集154}} - [[岡田勝]] * 仮面ライダー旧1号(一部){{R|Ohno|大全集154}}、仮面ライダー旧2号(メイン){{R|Ohno|大全集154}}、怪人{{R|Ohno|大全集154}}、戦闘員{{R|大全集154}} - [[中村文弥]] * 仮面ライダー旧1号(一部){{R|Ohno}}、仮面ライダー旧2号(代役){{R|Ohno}}、怪人(サボテグロン ほか){{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno}}{{Sfn|受け継がれる魂|2002|p=196}}{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=186}}}}、戦闘員{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=186}} - [[瀬島達佳]] * 仮面ライダー旧1号(一部){{R|Ohno}}、仮面ライダー旧2号(代役){{R|Ohno}}、ヒトデンジャー{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=130}}、コブラ男(一部){{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=130}}、赤戦闘員(第1話){{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=130}} - 甘利健二 * 仮面ライダー旧1号(一部){{R|Niibori}}、仮面ライダー新2号{{R|Niibori}}、怪人{{R|Niibori}}、ショッカーライダー{{R|20th}} - [[新堀和男]] * 仮面ライダー旧1号(桜島1号){{R|Ohno}}、仮面ライダー旧2号(第46話代役{{efn|2号編最終ロケのため、新1号を務めた中屋敷が入った。}}{{R|大全集154|Masked Rider}})、仮面ライダー新1号{{R|Ohno|大全集154}}、仮面ライダー新2号(93話・94話){{R|大全集154}} - [[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]] * 仮面ライダー旧1号(トランポリン){{Sfn|大全集|1986|p=19}}、ゲルショッカー戦闘員(第84話){{Sfn|大全集|1986|p=2}} - [[春田純一|春田三三夫]] * 仮面ライダー旧2号(第14、15、25話の一部{{efn|佐々木の『一文字隼人 - 仮面ライダー2号伝説』 -(1998年、白夜書房) ISBN 4893675702 によれば左利きとなっているシーンが該当する。}}) - [[佐々木剛]] * ピラザウルス(第16・17話){{Sfn|怪人大全集|1986|p=19|loc=「ショッカー(第14話-第20話)」}}、仮面ライダー旧2号(代役){{R|Ohno}} - 飯塚実 * 仮面ライダー新1号( - 94話){{R|Ohno|大全集154}}、怪人(トカゲロン ほか){{Sfn|怪人大全集|1986|pp=17、21、23}} - [[大杉雄太郎]] * 仮面ライダー新2号(一部){{efn|第72話の[[那智滝]]でのアクションシーンを担当{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=205}}。}}、戦闘員{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=205}} - 千代田恵介 * 仮面ライダー新2号(第98話){{Sfn|大全集|1986|pp=49、51、156}} - [[河原崎洋央|河原崎洋夫]] * 怪人{{R|Ohno}}、戦闘員{{R|Ohno|大全集154}} - 石丸強志 * 怪人(蝙蝠男 ほか){{Refnest|group="出典"|{{R|Ohno|大全集154}}{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|pp=134-135}}}}、戦闘員{{R|大全集154}}{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=154}} - 佐野房信 * 怪人(ジャガーマン ほか){{R|Ohno}}{{Sfn|受け継がれる魂|2002|p=203}} - 滑川広志 == スタッフ == * 原作 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] * 連載 - [[週刊ぼくらマガジン]]、[[週刊少年マガジン]]、[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]、[[テレビマガジン]]、[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]] * 脚本 - [[伊上勝]]、[[市川森一]]、[[島田真之]]、[[滝沢真里|滝沢真理]]、[[田口勝彦 (テレビドラマ監督)|山崎久]]、[[長石多可男]]、[[塚田正煕|塚田正熙]]、[[鈴木生朗]]、[[大野武雄]]、[[石森史郎]]、[[長谷川公之]]、平山公夫、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、桶谷五郎(関口恭司)、石森章太郎、[[丸山文櫻]] * 企画{{efn|第53話 - 第69話までは「プロデューサー」と表記。}} - [[平山亨]]、[[阿部征司]] * 音楽 - [[菊池俊輔]] * 撮影 - 山本修右、篠原征夫、川崎龍治、原秀夫 * 照明 - 太田耕治 * 美術 - [[三上陸男]]・[[高橋章]]・[[八木功]]([[エキスプロダクション]]) * 仕上制作 - [[映広]]音響 * 録音 - [[太田克己]] * 編集 - [[菅野順吉]]、辻井正則、池原文雄、祖田富美夫 * 選曲 - 武田正彦 * 助監督 - 塚田正熙、長石多可男、梅田味伸、近藤一美、福島孔道、平山公夫、前川洋之、鈴木隆志 * 記録 - 紀志一子、黒丸よし子、原益子、藤山久美子、宮瀬淳子、島田はる、佐久間淑子、中町真弓、矢野幸子 * 技斗 - [[高橋一俊]](第1 - 67話、第97話、第98話)、飯塚実(第19話・第23話){{efn|name="飯塚"|クレジットは高橋一俊のみ。}}{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=197}}、岡田勝(第68 - 96話) * 進行主任 - 伊東暉雄、大里俊博、西川忠邦、古泉雅、佐久間正光、大竹昭男、伊藤隆造 * オートバイ演技 - 大橋春雄 * 衣裳 - 東京衣裳 * トランポリン - 三隅修・[[金田治]]・三隅健二・[[春田三三夫]]([[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ]]) * 制作担当 - 的野屋宗平、河野正俊 * 現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]] * 協力 - 館山シーサイドホテル、兵庫県有馬観光協会、和歌山県勝浦観光協会、伊東観光協会 * オートバイ協力 - 室町レーシンググループ、[[スズキ (企業)|鈴木自動車工業]] * 監督 - [[竹本弘一]]、[[折田至]]、北村秀敏、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、[[内田一作]]、[[田口勝彦 (テレビドラマ監督)|田口勝彦]]、塚田正熙、石森章太郎、[[奥中惇夫]] * 制作 - [[毎日放送]]、[[東映]] * [[広告代理店]] - [[電通]]東京本社{{Sfn|キャラクター大全1号・2号編|2014|pp=145、152}} == 音楽 == 本作品の歌曲ならびに劇伴は全て菊池俊輔が作曲・編曲した。BGMの録音は6回にわたって行われた。第5回録音分はその多くが挿入歌のカラオケへのメロ被せである。第6回録音分は2020年現在音源の所在が1曲しか確認されておらず、詳細不明。BGMには『[[キイハンター]]』からの流用曲もあるほか、第1話における本郷の変身シーンに使われた曲のように出典不明の流用曲も存在する。菊池は本作品から『[[仮面ライダースーパー1]]』まで、シリーズの全ての音楽を1人で作曲し、ほとんどの編曲も行った。 なお、本作品のために作られた楽曲のうち音源の現存が確認されているものは、2002年に[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]から発売された『仮面ライダー ETERNAL EDITION File No.1,2,3』に全曲収録された{{efn|主題歌・挿入歌のカラオケを除く。カラオケは『[[仮面ライダー COMPLETE SONG COLLECTION SERIES]] 1 仮面ライダー』(日本コロムビア、1992年)に収録されている。}}{{efn|オープニングテーマのテレビサイズは、オリジナル音源に加えて、放送用フィルムのサウンドトラックからSEやナレーションが入った音源も収録しているが、「ライダーアクション」は後者のみの収録となっている。ただし、この曲のテレビサイズはフルサイズを編集して作られたものなので、素材の音自体は収録されている。『TVサイズ! 仮面ライダー全主題歌集』(日本コロムビア、2001年)などには、フルサイズを新たに編集して再現したものが収録されている。}}。 === 主題歌 === 本作品の大ヒットとともに、藤浩一(のちの[[子門真人]])が歌うオープニング曲「レッツゴー!! ライダーキック」も、130万枚<ref>『THEアニメ・ソング―ヒットはこうして作られた』174頁。</ref>{{efn|資料によっては85万枚強<ref>[[池田憲章]]、[[高橋信之 (出版プロデューサー)|高橋信之]]『ウルトラマン対仮面ライダー―メガヒーロー 光と影の神話』文藝春秋、1993年、237頁。ISBN 4-16-347170-7</ref>、90万枚{{R|OFM530}}。}}{{efn|これは1972年の日本コロムビアのシングルレコード売上では第3位(1位は[[ぴんからトリオ]]の「[[女のみち]]」の400万枚、2位は[[ちあきなおみ]]の「[[喝采 (ちあきなおみの曲)|喝采]]」の130万枚。いずれも数字は公称)。日本コロムビアのテレビ主題歌としては『[[オバケのQ太郎 (アニメ)|オバケのQ太郎]]』以来のヒットであり{{R|OFM530}}、当時の日本のテレビドラマ主題歌シングルでは最大のヒット曲となったとも<ref>大下英治『日本 (ジャパニーズ) ヒーローは世界を制す』角川書店、1995年、25 - 26頁。ISBN 9784048834162。</ref>。}}の大ヒットとなった。経営悪化で一度は傾きかかった[[日本コロムビア]]は、同時期にヒットした「女のみち」「喝采」「レッツゴー!! ライダーキック」の大ヒットシングルによって完全に立ち直り、あまりの売れ行きにレコードの生産が追いつかないほどだった。 また、日本の特撮ヒーロー番組としては初めて、歌のみで構成されたアルバム「仮面ライダー ヒットソング集」(全12曲)が制作され、LPレコードと[[8トラック]]で発売された{{R|OFM530}}。収録曲の一部は挿入歌として劇中で使われ、特に「ライダーアクション」は第72話からエンディングテーマ、第89話以降はオープニングテーマとして採用された。第89話以降のエンディングテーマとして使われた「ロンリー仮面ライダー」もヒットソング集が初出である。さらに、「レッツゴー!! ライダーキック」「ライダーアクション」「ロンリー仮面ライダー」「かえってくるライダー」の4曲が収録された[[コンパクト盤|EPレコード]]「たたかえ!仮面ライダー」も発売された。この種の楽曲集は以後の特撮ヒーロー番組でも発売される定番アイテムとなった{{R|OFM530}}。 「ヒットソング集」では伊上ら脚本家陣が挿入歌の作詞を手掛けたが、いずれも多忙なためその後はプロデューサー陣が変名で作詞を担当した{{R|OFM430}}。当時の日本コロムビア学芸部長であった[[木村英俊]]は、収入を現場に還元する意図もあったと述べている{{R|OFM530}}。 藤浩一は「ヒットソング集」の発売時にはすでに「子門真人」と名乗っており、挿入歌は子門名義で録音したため、同一アルバムに2つの異なる名義で参加することになった。なお、「ヒットソング集」には藤岡弘版「レッツゴー!! ライダーキック」は含まれなかった。 「ライダーアクション」はオープニング主題歌となった後もシングル化はされなかった{{R|OFM530}}。これについて日本コロムビアの木村英俊は、抱える作曲家・作詞家への印税を均等化するための配慮であったと述べている{{R|OFM530}}。 ==== オープニングテーマ ==== ; 「[[レッツゴー!! ライダーキック]]」(第1 - 88話) : 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:藤岡弘(第1 - 13話)、藤浩一(第14 - 88話)、メール・ハーモニー : 番組開始以前から藤岡弘と藤浩一の両ヴァージョンが録音され、当初は藤岡ヴァージョンが使用されたが、藤岡の一時降板に伴って藤ヴァージョンに変更となった。これを受けてシングル・レコードも藤ヴァージョンに差し替えられ、番組の人気向上とともに大ヒットとなった{{efn|当時日本コロムビアのディレクターであった木村英俊は著書の中で、「藤岡の歌ったテープを聴いたのち、藤(子門)の歌唱で録りなおした」という旨を述べている<ref>{{Cite book |和書 |author=木村英俊 |year=1999 |title=THEアニメ・ソング―ヒットはこうして作られた |publisher=角川書店 |pages=60-61 |isbn=4-04-853152-2 }}</ref>が、記録では藤のレコーディングが1971年2月16日、藤岡のレコーディングが同年2月22日とされており{{R|eternal}}、作曲の菊池俊輔も藤岡の方が後であったことを証言している{{Sfn|OFM1|2004|loc=早川優「仮面ライダー音楽考 第1回 SF怪奇アクション・ミュージックの創造」}}。}}。 :{{Main|レッツゴー!! ライダーキック}} : 第55、57、59、60、63、64、67 - 70、72 - 76、78、82、83、86、89、90、92、94 - 96、98話では挿入歌として使用された。 ; 「ライダーアクション」(第89 - 98話) : 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : エンディング用とは異なる編集になっている。 : 第53、55、56、66、67、71、87、88話では挿入歌として使用された。 ==== エンディングテーマ ==== ; 「[[レッツゴー!! ライダーキック#収録曲|仮面ライダーのうた]]」<ref group="C">エンディング映像での表記は「仮面ライダー」</ref>(第1 - 71話) : 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:藤浩一、メール・ハーモニー : 第77、79話では挿入歌として使用された。 ; 「ライダーアクション」(第72 - 88話) : 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人<ref group="C">エンディング映像での表記は「藤浩一」</ref> ; 「ロンリー仮面ライダー」(第89 - 98話) : 作詞:[[平山亨|田中守]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : 映画『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』および『[[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX]]』の特番では、劇中に登場する[[ライダーマン]]のイメージソングに使用される。 === 挿入歌 === オープニングとエンディング同様、挿入歌の作曲・編曲はすべて菊池俊輔。本編で[[ボーカル]]入り・[[器楽曲|インスト]]版の両方が流れたことがあるのは「たたかえ!サイクロン」のみである。 ; 「ぼくらの仮面ライダー」(第53話) : 作詞:[[伊上勝]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] : ; 「たたかえ!サイクロン」(第68話) : 作詞:[[島田真之]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : 第84話ではインスト版が使用された。 : ; 「怪人のうた」 : 作詞:土井信 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:サニー・シンガーズ : 第46話ではインスト版が使用された。 : ; 「かえってくるライダー」 : 作詞:[[滝沢真里]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 : 第53、58、72、83話ではインスト版が使用された。 : ; 「オー!ショッカー」 : 作詞:田中守 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:幹和之、サニー・シンガーズ : 第71、92話ではインスト版が使用された。 : ; 「仮面ライダー数えうた」 : 作詞:[[阿部征司|中瀬当一]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人、コロムビアゆりかご会 : 作詞の中瀬当一は、東映プロデューサー阿部征司の変名である{{R|OFM430}}。 : 第72話ではインスト版が使用された。 : ; 「ライダーの子守うた」 : 作詞:滝沢真里 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:[[かおりくみこ|小野木久美子]] : 第92話ではインスト版が使用された。 : ; 「悪魔のショッカー」 : 作詞:伊上勝 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:サニー・シンガーズ : 『[[仮面ライダー対じごく大使]]』、『[[全員集合!7人の仮面ライダー!!]]』、『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』でインスト版が使用された。 : ; 「仮面ライダークリスマス」 : 作詞:田中守、[[丘灯至夫]] / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:[[水木一郎]]、コロムビアゆりかご会 : クリスマス企画盤の[[コンパクト盤|オムニバスEP]]『みんなのクリスマス』(1972年11月発売、C-517)に「[[ムーミン (アニメ)|ムーミン]]のクリスマス」「[[樫の木モック]]のクリスマス」「[[超人バロム・1|超人バロム1]]のクリスマス」とともに収録された楽曲。同EPでは曲名が「仮面ライダー'''の'''クリスマス」になっている。『仮面ライダー ヒットソング集』(1971年発売)には収録されておらず、歌手も本作品としては珍しく水木一郎が起用された。本編未使用。 == 番組の沿革 == === 企画 === 本作品は土曜日の19時台後半で、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]の『[[部長刑事]]』(関西地区)や[[TBSテレビ]]の『[[お笑い頭の体操]]』(関東地区)に低視聴率を強いられていた毎日放送(MBS)テレビ営業局から編成局次長の廣瀬隆一を通じて発足間もない映画部に[[東映]]と組んでの子供番組制作が提案されたのが発端とされる{{R|OFM7MBS}}。映画部長の庄野至は、東映の三由重夫{{efn|三由は、庄野の小学校時代の同級生であり、渡邊とはほぼ同期であった{{R|OFM7MBS}}。}}から紹介を受け、1970年6月に1971年4月開始の新番組企画を東映テレビ部長の[[渡邊亮徳]]へと依頼した{{R|OFM7MBS}}。渡邊は、系列の東映動画(現・[[東映アニメーション]])で制作中だった『[[タイガーマスク]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])の人気に着目して人気要因を分析{{Refnest|group="出典"|<ref>[[読売新聞]][[1993年]][[3月15日]]夕刊より。</ref>{{Sfn|超人画報|1995|pp=82 - 83}}<ref>{{Cite book|和書|author= 大下英治|authorlink=大下英治||year = 1995|title = 日本(ジャパニーズ)ヒーローは世界を制す|publisher = 角川書店|page = 10 |isbn = 978-4-04-883416-2|chapter=第一章 メガヒット紆余曲折}}</ref>}}する一方で、東映テレビ部プロデューサーの[[平山亨]]や、[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]のマネージャーで企画プランナーだった加藤昇も招集して度重なる打ち合わせの結果、『[[月光仮面]]』に代表される1950年代後半にブームを呼んだ仮面ヒーロー物を再構築するに至った{{Sfn|キャラクター大全1号・2号編|2004|p=145}}{{R|特撮全史}}{{efn|平山は、強力な裏番組に対して勝算のない仮面ヒーロー物をぶつけるという渡邊の提案は「奇跡を起こせ」と言われているのに等しく感じたが、渡邊の企画に対する勘を信じたと述べている{{R|怪人大画報62}}。}}。低視聴率を打破するには「周囲をみまわして、無いものをやればいい」という毎日放送の庄野プロデューサーの意見をもとに、二番煎じとなるアニメは避け、「実写」の「変身もの」として企画が練られた。 本作品の企画は、1970年9月ごろに平山が加藤の協力を得て作成した『'''マスクマンK'''』の企画書が第1案とされ、この企画書では「'''仮面のヒーローが日本征服を企むクロード黒原率いる組織・ショッカーと戦う'''」という大まかな筋書きが作られていた{{R|大全集130|71-84序}}。しかし、その内容は『タイガーマスク』に言及し<ref>池田憲章、高橋信之「第1章 誕生 空前のスーパーヒーロー像 ■スカルマンから仮面ライダーへ」『ウルトラマン対仮面ライダー メガヒーロー 光と影の神話』[[文藝春秋]]、ISBN 4-16-347170-7、1993年2月1日、22-23頁。</ref>{{R|71-84序}}、「自分も仮面を被ればヒーローになれる」という児童の願望を指摘していること、主人公・九条剛が普通の体育教師で鍛錬によってヒーローの力を得ているなど、当時流行していたスポーツ根性ものの影響が強い内容であった{{R|大全集130}}{{Sfn|扶桑社|2008|pp=14-15}}。この企画書は、平山による「叩き台」的なもので、MBS側には提出されておらず、東映社内と石森プロ用のものだった{{R|OFM7MBS}}。平山は本作品の前に『[[妖術武芸帳]]』で「謎の鉄仮面」という「仮面物」の設定を創案しており、その際に石森をアイディア協力者候補に挙げていたが、企画が[[TBSテレビ|TBS]]の[[橋本洋二 (プロデューサー)|橋本洋二]]に渡って実現しなかった。このため、平山にとっては「仮面物」であるこの『マスクマンK』は念願の設定だった{{efn|翌年に制作された『[[変身忍者 嵐]]』も、企画当初は「謎の鉄仮面」が活躍するという趣向だった。}}。 次に起草された『{{読み仮名|'''仮面天使'''|マスク・エンジェル}}』が、MBSに提出された最初の企画書となる{{Sfn|扶桑社|2008|p=16}}。平山が『[[柔道一直線]]』の流れで[[市川森一]]と[[上原正三]]を招き、平山とコンビの長い[[伊上勝]]との3人の[[脚本家]]体制で、設定などの企画打ち合わせに入った{{R|71-84序}}。ここで主人公の名が本郷猛に決まり、市川によって「恩師・緑川教授殺害の容疑をかけられた逃亡者」という設定になった{{R|大全集130|71-84平山1}}。この時点でスポ根要素は薄められ、主人公は30万ボルトの高圧電流を浴びる事故で特異体質となり、人間以上の力を得るというSF的な設定が加味されたが、ヒーローのデザイン画などは起こされなかった{{R|71-84序}}。本郷役には[[矢吹二朗|千葉治郎]]が候補に挙がっていた。 [[1970年]]9月上旬ごろ、廣瀬から「オートバイに乗るスーパーヒーロー物」という注文が追加され{{R|71-84平山1}}、『{{読み仮名|'''十字仮面'''|クロスファイヤー}}』の企画に到る{{efn|廣瀬は戦時中に陸軍の自動車隊に学徒兵として所属し「[[陸王 (オートバイ)|陸王]]」という日本製[[オートバイ]]を乗り回していた経験があり、若いころから自動車・機械好きであった{{R|OFM7MBS}}。}}。ここで構想されたストーリーは、本郷を父の仇と疑うヒロインや、殺人者・本郷を追う刑事などの登場人物が配され、主人公の逃亡者としての苦悩も付加された。主人公の仮面については、怒りの感情が高まると顔に感電事故による十字形の傷跡が浮かび上がるため、それを隠すために被っているという設定が加えられている。『[[サイボーグ009]]』や『[[佐武と市捕物控]]』などの数多くのヒット作を送り出してきた石森が原作者として本格的に参加するのはこの段階からで{{R|71-84序}}、彼の起用は石森プロマネージャーの加藤から渡邊へ熱心な売り込みがあったためだった。10月上旬に、伊上によって執筆された検討台本「怪奇蜘蛛男」と「謎の恐怖屋敷」がMBS側で検討され{{R|71-84序}}、予算案とともに「題名を日本語にしてほしい」との要望が出された。[[10月15日]]に石森側が『ファイヤー十字(クロス)』『十字仮面』『クロス火面』などの題名案を提出している{{R|71-84平山1}}。 10月以降になり、東映側は平山の補佐として[[阿部征司]]がプロデューサーに参加する{{R|71-84序}}。石森が参加した後、MBS側は「雑誌で漫画連載をしてほしい」と放送開始の条件を出した{{R|71-84序}}。漫画連載の実現には難航したが、平山と阿部、石森プロマネージャーの3人が『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)の編集長だった[[内田勝]]に掛け合い、年末に了承を得た{{R|71-84序}}。 11月上旬には主人公ヒーローである「クロスファイヤー」のデザイン画も石森によって起こされ<ref>『[[仮面ライダーをつくった男たち]]』の第1話「泣き虫プロデューサー」より。</ref>、平山やMBS映画課長の引野芳照もクロスファイヤーのデザインに「カッコいい」と絶賛し、題名も正式に『十字仮面』に決定、11月になってMBS側は『十字仮面クロスファイヤー』の企画書を起稿した{{R|71-84序}}。当初は本郷役に[[近藤正臣]]、ルリ子役に[[島田陽子]]を予定していた{{Sfn|扶桑社|2008|p=17}}。クロスファイヤーの検討用デザインには、[[十字]]をモチーフとしたものと[[ライオン]]をモチーフとしたものが存在する{{Sfn|変身ヒーロー画集|2004|p=55}}{{R|OFM7MBS}}。 12月に入ると、企画書題名を『'''十字仮面 仮面ライダー'''』に変更。[[藤岡弘、|藤岡弘]]と森川千恵子([[真樹千恵子]])が本郷とルリ子役に選ばれ{{R|71-84序}}、藤兵衛役には[[高品格]]が予定され、放映開始は[[1971年]]4月と決定された。しかし企画がMBS側を通った矢先、同年末に市川と上原は「『[[帰ってきたウルトラマン]]』をやりたいから」と願い出て急遽降板し{{R|71-84序}}、以後の企画や本編脚本は伊上主導で進められることとなった。市川は自らの代わりとして、同じ脚本家仲間の[[島田真之]]{{efn|もともと劇作家で、テレビ番組の脚本は初めてだったため、初期の島田の担当脚本のほとんどは阿部との共同作業で執筆されたという。}}と[[滝沢真里|滝沢真理]]を連れてきて、以後両人ともに本作品の主筆脚本家となっている{{R|怪人大画報168}}。 翌1971年1月、石森は「もっとグロテスクなリアリティのある奴にしたい」と、自身の作品の髑髏をモチーフにした仮面のヒーローである『[[スカルマン]]』(『週刊少年マガジン』1970年1月11日号に掲載)をこの企画に応用した、「'''仮面ライダースカルマン'''」のキャラクターを提案{{R|大全集130}}{{Sfn|変身ヒーロー画集|2004|p=84}}{{efn|庄野は石森から最初に見せられたデザインが「ドクロ仮面」であったとも証言している{{R|OFM7MBS}}。}}。ここで主人公が敵対する怪人と同じく改造人間であるという設定がなされ、逃亡者であることや一部のキャラクターが整理され、藤兵衛は主人公の専属トレーナーとなり、よりシンプルな物語となった。しかし、渡邊はこのキャラクターを「以前に描かれた作品じゃないか。大勝負に出るんだから、新しいキャラクターじゃないと駄目だ」と却下した。MBSテレビ営業局副部長の箱崎賞からも「モチーフが[[髑髏]]では営業上の支障がある」と注文が出され、企画はさらなる検討を求められる。 これらの注文に対して石森は非常に落胆したが、50枚以上のデザイン画を描き、この中に加藤マネージャーの持ち込んだ昆虫図鑑のバッタをモチーフにした、強烈なインパクトのあるデザイン画があった。バッタの顔が「スカルマン」に共通する不気味さと髑髏に似た形であること、昆虫は「自然を破壊する悪と闘うヒーローにふさわしい」という思いもあった。石森は「子どもに聞いてみよう」と、この50枚以上のデザイン画を当時幼稚園児だった息子の[[小野寺丈]]に見せたところ、彼は即座にバッタをモチーフにしたデザイン画を選んだ{{R|71-84序}}。このデザイン画は平山によって渡邊に手渡され、「これだ、今度こそいける」と大喜びした渡邊は、即座にゴーサインを出している。 企画していた1971年当時の日本は[[イタイイタイ病]]などの[[公害問題]]に揺れており、[[環境省|環境庁]]が発足したばかりであった{{R|:1}}。藤岡弘によれば、仮面ライダーはこうした時代の空気を嗅ぎ取り、「環境破壊から地球を守る」というコンセプトで登場したのだという{{R|:1}}。それは石森の下記の言葉にも現れている{{R|:1}}<blockquote>バッタは自然の象徴だ。バッタの能力を持った主人公が自然破壊に立ち向かうなんていうのはどうかな?そうだ。エネルギーは[[風]]だ。風力エネルギーが彼の原動力なんだよ。彼のベルトのバックルに風車の機構があって、そこでエネルギーを獲得するんだ<ref>『仮面ライダー名人列伝』。{{Harvnb|本郷猛の真実|1999|p=93|pp=|loc=}}より重引。</ref>。</blockquote> そして、仮面ライダーはバッタ本来のジャンプ力と体力をそのまま武器として戦い、ライダーキックやライダー投げといった必殺技もそこから必然的に生まれてきた{{R|:1}}。また当時アメリカで流行していた『[[ハルク (マーベル・コミック)|ハルク]]』が怒りで変身するのを参考に、主人公が仮面をかぶって変身するのではなく、自然に変身して身体から力がみなぎってくるという平山の案が採用された{{R|:0}}。 このバッタのデザイン画をMBS東京支社に持ち込んだところ、箱崎は髑髏でなくなったことで安堵したものの、庄野は「バッタは握れば潰れるあのバッタですか?」と非力な昆虫をモチーフにすることに異議を唱えた。これに対し、平山は「バッタは小さいから強く見えないだけで、昆虫の跳躍能力などが人のサイズになれば強いものになりますよ」と説得した{{R|71-84序}}。翌日、MBS大阪本社の編成会議に出席した平山と加藤マネージャーは、「バッタ」とは伏せて「昆虫人間」としてセールス。加藤が「子どもでも描けるわかりやすさ」として黒板に仮面を描くなどした結果、最終的に承認が降りた。 前述の「少年マガジン」誌連載の折衝も進められていたが、MBSの社内ではまだこのヒーローのデザインを危ぶむ声が強かった。これに対し、廣瀬は「私の息子もオートバイに乗ったバッタのヒーローを面白いと言っている。ここはひとつ、子どもの感覚に賭けてみましょう」と社内を説得した結果、番組企画は推進されることになった。 「敵対組織によって改造人間にされてしまった」という設定があるため、マスクには泣いているように見えるデザインが施されている。 こうして「バッタ」をモチーフにしたヒーロー番組企画は、バイクに乗って戦うバッタのヒーロー『'''仮面ライダーホッパーキング'''』と仮題されたが、「長すぎる」とのMBS側の意向により『'''仮面ライダー'''』と短縮され{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集130|OFM7MBS|71-84序}}}}、2月1日からの制作決定が下された。 元々、本作品は『ウルトラマン』のような「巨大ヒーローと怪獣が戦う作品」にしようという案もあったという。しかし、石森は等身大ヒーローにこだわり、敵キャラクターも人間形態として[[タイツ]]主体で造形され、徹底して怪獣とは差別化する方向で{{R|TOWNMOOK}}、「[[怪人]]」と呼称された{{efn|『超人画報』では、[[江戸川乱歩]]の小説や1950 - 1960年代の海外モンスター映画の影響を指摘している{{Sfn|超人画報|1995|pp=77、83}}。}}。ただしこれには制作費の違いもあったようで、何倍もの制作費がかけられている{{R|:2}}ウルトラマンとは違い、仮面ライダーでは金のかかるセットやミニチュアを使わず{{R|:2}}、ほとんど特撮もなしで撮影され{{R|:2}}、「金はかけないけど身体は酷使する」{{R|:2}}アクションとして作成されたのである。 === 東映生田スタジオの設立 === {{See also|東映生田スタジオ}} 企画立案と平行して撮影拠点の準備が進められていた{{Sfn|OFM1|2004|pp=17、27}}。当時、東映の労使関係は泥沼化していたため、[[春闘]]による番組制作への影響が懸念され、[[東映東京撮影所|大泉撮影所]]以外に撮影拠点を用意する必要があったためである{{R|OFM1生田|怪人大画報172}}{{efn|その後、実際に1971年4月17日から27日にかけて銀座の東映本社で賃上げ交渉に伴う[[ロックアウト]]が実施された{{R|OFM1生田}}。また、翌1972年も労働争議の影響で大泉撮影所が使用不能になっており、[[東映テレビ・プロダクション]]制作の『[[人造人間キカイダー]]』で撮影に支障が出ている{{Sfn|変身ヒーロー大全集|1995|p=162|loc=「人造人間キカイダー 作品解説」}}。}}。平山や斎藤頼照とともに組合問題で[[東映京都撮影所]]を追われた内田有作が所長となり、急遽[[神奈川県]][[川崎市]]多摩区(現[[麻生区]])郊外の貸しスタジオを[[東映生田スタジオ]]<ref>[http://www.takurama.net/riderstudio.html 特撮スタジオ探訪録 仮面ライダー] タクラマネット 2014年1月17日閲覧。</ref>として機能させ、そこでの制作が決まった{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集130|OFM1生田|怪人大画報172|特撮全史}}}}。 主要スタッフは、内田が制作担当を務めていた『[[柔道一直線]]』の監督・助監督・制作担当らが参加{{R|OFM1生田|怪人大画報172}}。生田スタジオをフリーランスの寄り合い所帯にはしたくないという内田の考えから制作・演出を担当する東京映像企画という会社が設立され、東映社員以外はそこへ所属する形となった{{R|OFM1生田|怪人大画報172}}。アクションも『柔道一直線』から[[大野剣友会]]が参加した{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集130|OFM1生田|怪人大画報172}}}}。キャラクター制作と美術全般は大映特撮などを手掛けた[[エキスプロダクション]]が担当{{Refnest|group="出典"|{{R|OFM1生田|OFM6|怪人大画報172}}}}。照明班や撮影班は、経営が悪化していた[[大映]]東京撮影所のスタッフが集められ、S.Kプロ(後にプロダクション・ショットと改名)として参加した{{R|OFM1生田|怪人大画報172}}。このようにして、東映の生え抜きではない異例のスタッフ編成が行われた{{R|OFM1生田}}{{efn|エキスプロダクションの[[八木功]]は、生田スタジオは[[制作プロダクション|独立プロ]]のようなものであったと述べている{{R|OFM6}}。}}。6日にスタッフの顔合わせがあり、撮影に入ったのは2月7日であった。 企画段階で紆余曲折を経た本作品は、番組制作が開始されても順風満帆とはいかなかった。元々貸しスタジオである東映生田スタジオには満足な撮影設備もなく、撮影用の平台が1つあるのみで、[[プレハブ]]造りの[[バラック]]の建物は雨が降ると反響音によって[[アフレコ]]もできない状況だったという。 === 藤岡弘の事故負傷とその影響 === こうして放送が開始された第1話の[[視聴率]]は[[キー局]]・NETの放送エリアである関東地区において8.1パーセントと厳しいものであったが、MBSの放送エリアである関西地区では20.8パーセントと関東地区に比べて高視聴率をマークしており{{R|大全集134|怪人大画報62}}、MBSの庄野部長は「関東もいずれ上がって20パーセントを超えますよ。今バタバタして番組をいじるのは止めましょう」と平山に伝えた<ref>平山亨著「仮面ライダー名人列伝」P92-95。風塵社、1998年1月20日発行</ref>。 本作品は放送開始前、のちに多大な影響を与えることになった[[アクシデント]]が発生していた。第9話・第10話の撮影中{{efn|日付は資料によって「3月30日{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=48|loc=「平山亨氏秘蔵台本収録」}}」「4月1日{{R|C大全}}」「4月2日{{R|怪人大画報172}}」「4月3日(第1話放映日){{Sfn|大研究|2007|p=38|loc=「11 藤岡弘負傷!窮余の策が産んだスタッフの知恵」}}」など異なっている。}}に藤岡がオートバイで転倒して全治3 - 6か月の重傷を負い、撮影に参加できなくなったのである{{efn|藤岡は第1話の放送を病院のベッドの上で見ていた{{R|71-8411-12}}。}}。このため、未完成分については、本郷の登場シーンなどを前話までの映像から流用した藤岡の姿に[[声優]]・[[納谷六朗]]{{efn|ショッカー首領役の[[納谷悟朗]]の弟。}}によるアフレコを挿入する、仮面ライダーの登場シーンを増やす、ヒロイン・緑川ルリ子や新キャラクター・滝和也の活躍を繋ぎ合わせるなどの措置で完成させ、急場を凌いだ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集134|71-8411-12|怪人大画報172}}}}。 この間、方向性の再検討と新たな主役について討議された。本郷役の交替案や内容の一新など、様々な展開が検討されている{{R|大全集134|C大全}}。関連書籍に再録された当時の議事録によれば、MBSの局長や脚本家の「仮面ライダー1号は殺してしまってもよいのではないか」「外遊よりも殺してしまったほうが書きやすいのだが」といった意見に対し、平山亨は「子供たちのオールマイティーの夢を潰すことになり、主人公を殺してしまうのはよくない」と強硬に反対した{{Sfn|仮面ライダー大全|2000|pp=35,36}}。同時期に『[[スペクトルマン|宇宙猿人ゴリ]]』や『帰ってきたウルトラマン』などの巨大ヒーロー番組が多かったせいか、「仮面ライダーを巨大化させよう」という案も出た{{R|大全集136}}{{sfn|昭和特撮大全|2008|p=106}}{{efn|美術を担当した[[三上陸男]]は、仮面ライダーの巨大化のコスチュームを真剣に考えたと述べている{{R|大全集238}}。また第13話に登場する怪人トカゲロンは、[[怪獣]]を意識して造形された{{R|大全集238}}。}}。 === 一文字隼人(仮面ライダー2号)の登場 === 上記の事態を受けての討議の結果、「本郷は海外のショッカー支部との戦いに赴き、そのあとを継ぐ新しい仮面ライダーが登場する」という形での新展開が決定した{{R|71-8482}}。 急遽新たに登場する'''仮面ライダー2号=一文字隼人'''役には、最初はその候補として[[三浦友和]]が選ばれ、毎日放送の了承も得ていたが、結局この話は三浦の所属事務所側から断りが入ったため無くなり<ref>大下英治『日本 (ジャパニーズ) ヒーローは世界を制す』角川書店、1995年、22 - 23頁。ISBN 9784048834162</ref>、最終的にこの役には『柔道一直線』に出演しスタッフらと旧知であった[[佐々木剛]]が選ばれた{{R|怪人大画報62}}。佐々木は出演依頼を受けた当初、[[劇団NLT]]で同期だった藤岡の役を奪うことになると難色を示していたが、「藤岡が復帰するまでの代役」という条件で引き受けた<ref>村枝賢一、鶯谷五郎『魂の仮面ライダー爆談!! [COMPLETE+]』辰巳出版、2011年4月、p.123。ISBN 978-4-7778-0905-9</ref>{{R|怪人大画報62}}。 また、この主役交代を機にそれまでの番組上の問題点を修正し、刷新することになった。 * 舞台を[[スナックバー (飲食店)|スナック]]からレーシングクラブに移し、女性レギュラーを増やすなどでドラマパートの雰囲気を明るくした{{R|71-8482}}。 * 一文字を本郷よりもユーモラスで都会派のキャラクターに設定し、ヒーロー性を強化した{{R|大全集136}}。 * 仮面ライダーのデザインをやや派手なものにしてキャラクター性を強化するとともに、夜間撮影時の困難を回避しようと、暗闇に溶け込みにくい配色にした{{efn|第2話の段階で、夜間撮影時にまったく仮面ライダーのスーツが見えない事態が発生していた。平山によると、この時点でライダースーツの身体に銀のラインを付けるなどの変更が決定していた{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=471|loc=[[大沼弘幸]]「『仮面ライダー』ロケ地探訪」}}。}}。 * 「主役が見栄を切る華やかな見せ場」として'''変身ポーズ'''を設定し、一文字に自らの意思による能動的な変身を取り入れた{{R|大全集136}}。 脚を開いて両腕を大きく動かしながら「'''変身!!'''」と掛け声を叫ぶ変身ポーズは、1号編のころから監督の[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]より抽象的な変身描写に変わるダイナミックなものとして要望されていたものだが、当時の佐々木が[[自動二輪]]の免許を持っていなかったことから、藤岡のように「バイクで加速しながら変身」が不能となったための苦肉の策という面もあった{{R|大全集226}}{{efn|佐々木自身は、免許を所持していなかったから変身ポーズに変更されたという説明は受けていないと述べている{{R|71-84佐々木}}。}}。しかし、この変身ポーズは子供たちの間で大流行となり、「'''[[第二次怪獣ブーム|変身ブーム]]'''」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。このような変身時のアクションは、のちの仮面ライダーシリーズや他の変身ヒーロー・ヒロインものでも重要なシーンとして受け継がれた。 そのほか、地方ロケによる舞台の拡充や大幹部の投入によるショッカー側の強化などが行われ、番組の人気も上昇していった{{R|大全集136}}。毎日放送が担当する関西地区でも視聴率は20パーセント台を維持し、第3クール以降の継続はスムーズに決定した{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=86|loc=「大幹部ゾル大佐日本に着任」}}。 なお、第14話から第26話までは、「ストーリーのスケールの拡大化」と「怪人のイメージの定着化」という制作スタッフの意図から、前後編の2話で構成されるストーリーが多く見られた{{Sfn|超辞典|2011|p=350}}。 === 本郷猛(仮面ライダー1号 / 新1号)の復帰 === 7月に退院して3か月間リハビリに励んでいた藤岡が、自ら庄野に復帰を申し出てきた<ref>「仮面ライダー OFFCIAL DATA FILE」No.34より{{要ページ番号|date=2015年7月}}。</ref>。これがきっかけで藤岡の復帰が決定したが、佐々木を代役に据えたことで予想以上の大人気を博していたため、第4クールでは「1号ライダー」がゲスト出演する「'''ダブルライダー編'''」がイベント的に挿入された。 藤岡の復帰を祝い、復帰作である第40話・第41話は、[[正月]]のビッグイベントとして九州の[[桜島]]・[[えびの高原]]でのロケとなった{{efn|阿部は正月の放送としたのは毎日放送側からの要望によるものであったと証言している{{R|怪人大画報168}}。}}{{efn|しかし、この時点でまだ藤岡の負傷した左脚の骨には、粉砕した骨片を繋ぐための金属パイプが入ったままだった{{R|大全集226}}。主治医からは「これが撮影で曲がったら抜けなくなるどころか一生歩けなくなる」と猛反対されたが、藤岡はこれをスタッフに隠してロケに参加{{R|大全集226}}。撮影中には足からパイプが出かかって出血するなどしていたが、東京へ戻ってすぐレントゲン撮影で曲がっていないことが確認され、無事に除去手術が行われた{{R|大全集226}}。}}。撮影は藤岡の回復を待って9月から一文字単独回が先に行われ、11月から年末にかけてダブルライダー編と劇場版の撮影が行われた{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=90|loc=「ダブルライダー編の撮影に関して」}}。第41話は最高視聴率30.1パーセントを獲得するなど、ダブルライダー編により第4クールは好評を博し{{R|大全集136}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=87、111}}、毎日放送と東映はこのままダブルライダーの定着を考えていたが、このオファーに対して佐々木は「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、当然、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは彼が[[付録]]のようになってしまう」と頑なに固辞した結果、第5クールから再び藤岡の単独主演で番組を継続することになった<ref>堤哲哉編「仮面ライダー 仮面ライダー登場!(堤哲哉)」『僕らのスーパーヒーロー伝説 昭和40年代アニメ・特撮ヒーロー大研究』扶桑社、2002年4月30日、ISBN 4-594-03488-8、16頁。</ref>{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=95、111}}。2号編最後の撮影となった第46話での草津ロケは、佐々木やスタッフに対する慰労も兼ねたものであった{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=91|loc=「最後の撮影となる草津ロケ」}}。 そして、藤岡の傷が完治した後の第52話で「一文字が南米のショッカー勢力を追って旅立った」という設定のもと、本郷が変身する'''新1号'''ライダーが第53話で主役に復帰した。この際に外観を一新し、「'''ライダー、変身!'''」と名乗る新しい変身ポーズが追加された{{efn|初めて変身ポーズを披露したのは、劇場版『[[仮面ライダー対ショッカー]]』である。ただし、この時は掛け声が「変身!」とエコーのかかった掛け声が入れられた。}}。藤岡によれば、新1号の変身ポーズを考案したのは大野剣友会の[[高橋一俊]]であり、藤岡自身は『[[眠狂四郎]]』の円月殺法と空手の型、および[[歌舞伎]]の見得を意識したという{{Sfn|藤岡弘、インタビュー|2021}}。また、旧1号編の本郷が常にダブルのブレザー姿の「科学者然」としたスタイルだったのに対し、復帰した本郷は一文字のような明るさや男性的な野性味を増し、デザインジャケットの上下や革ジャンにジーンズなど、ファッションも多彩になった{{Sfn|大全集|1986|p=42|loc=「本郷猛」}}(その多くは藤岡の私物だった)。それに加え、事故前は[[ヘルメット (オートバイ)|バイクヘルメット]]の着用義務がなかったために本郷はノーヘルスタイルだったが、1972年に[[道路交通法]]が改正されて「時速40キロメートルを越える道路」での着用が義務化されたため{{efn|ただし、[[1975年]]まで罰則規定はなく、全面義務化は[[1986年]]からである。}}、復帰後にはヘルメットを常用するようになった。 [[第二次怪獣ブーム|変身ブーム]]の真っ只中となった『新1号編』では、人気を維持すべく様々な強化策が検討された{{R|大全集138}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=112、114}}。視聴率が低下気味となる夏場には[[サイクロン号#新サイクロン号|新サイクロン号]]の登場を皮切りに、六甲ロケ編、紀伊ロケ編での仮面ライダー2号の再登場などのイベント編が盛り込まれ{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=122|loc=「平山亨氏手書き予定表」}}、番組後半では掲載雑誌『[[テレビマガジン]]』と連動した少年仮面ライダー隊の結成、ショッカーに代わり敵対する新組織ゲルショッカーの出現、仮面ライダー3号の誕生という3つの強化策が掲げられた{{R|大全集138}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=122-123}}。このうち仮面ライダー3号は本作品内では登場せず、次作『[[仮面ライダーV3]]』へと発展していった{{Sfn|大全集|1986|pp=138-140}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=126、184}}。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに『V3』へ移行することとなった{{R|怪人大画報168}}。 === 社会現象 === 社会現象「変身ブーム」の発生源として、マスコミの注目を浴びる番組となった。2021年現在においても、全仮面ライダーシリーズで最長の期間にわたって放送された作品でもある。 第1話の放送の関東での視聴率は8.1パーセントだったが、関西では20.8パーセントを記録{{R|大全集134}}。事故による主役俳優の交代を機に行われた種々の強化策によって、着実に視聴率を伸ばしていった。9月末ごろには平均して関東でも15パーセント、関西では20パーセントの視聴率を超えるようになった。新1号編に突入後は視聴率が2号編より低下したが、第80話から回復して19パーセント - 25パーセントを維持<ref> 「2年目の跳躍へ」『仮面ライダーoffcial mook 仮面ライダー昭和vol.2 仮面ライダー1号・2号(後編)』講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2018年、p8 - 9。ISBN 978-4-06-353575-4</ref>全98話の平均視聴率は関東が21.2パーセント、関西が25.9パーセント{{efn|プロ野球中継のため、翌週の金曜19時30分 - 20時に振り替えて放送された第69話(1972年[[7月28日]]放送)を除く。}}、最高視聴率は関東が30.1パーセント(1972年[[1月8日]]放送)、関西が35.5パーセント(1973年[[2月10日]]放送。[[ビデオリサーチ]]調べによる)。 子供への影響力は大きく、ライダーになり切る遊びが子供たちの間で流行した。[[1972年]][[9月17日]]には、[[熊本県]]の幼稚園児が3階建てのビルの屋上からライダージャンプと称して飛び降り、重体のちに死亡する事故も発生した<ref>「坊やライダージャンプ ビルから飛降り重体」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月18日朝刊、13版、23面</ref><ref>「柳の下に変身番組」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月20日朝刊、13版、22面</ref>。 「[[仮面ライダースナック]]」([[カルビー|カルビー製菓]])の付録である「仮面ライダーカード」、「ドレミサイクロン」([[ブリヂストンサイクル|ブリヂストン自転車]])、「仮面ライダー変身ベルト」([[タカトクトイス]]、[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]] / 現[[バンダイ]]・ボーイズトイ事業部)といったキャラクター商品も大ヒットし、その商品化権料は12億円に達した。それ以前のヒットキャラクターである『[[鉄腕アトム]]』、『[[オバケのQ太郎]]』、『ウルトラマン』などの商品化権料を凌駕し、当時の過去最高のキャラクターになった。カード欲しさに買った菓子本体を捨てる事象は社会問題となった{{sfn|昭和特撮大全|2008|p=109}}{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=148|loc=「仮面ライダースナック」}}{{efn|漫画『[[ちびまる子ちゃん]]』でもこの社会問題を取り上げたエピソードがあった。類似の現象は『[[ビックリマンチョコ]]』でも起きている。}}が、仮面ライダースナックは後年に復刻版として再発売されている。 講談社では、本作品を特集した幼児向け雑誌『[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]』が販売部数を上げたことから、『仮面ライダー』を中心とした児童向けテレビ雑誌『[[テレビマガジン]]』を創刊した{{R|71-84テレマガ}}。その後、[[秋田書店]]の『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』や[[黒崎出版]]の『[[テレビランド]]』など追随する競合誌も現れ、一大ジャンルを築いていった{{R|71-84テレマガ}}。 子供向け商品以外にも、[[日本航空|JAL]]の海外旅行ツアーや[[トヨタ自動車]]の新型車発表会など、ファミリー層向けの販売戦略にも『仮面ライダー』が起用された{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=147、150}}。 当時の東映テレビ部は、斜陽産業となった映画から流れてきたスタッフで溢れており、予算管理もルーズで赤字を出し続けていたが、本作品を契機にキャラクタービジネスを確立することに成功した{{Sfn|鈴木|2018|p=16}}。 仮面ライダーは、のちの東映特撮ヒーローの基本となった。一方、平成仮面ライダーシリーズを手掛けた[[白倉伸一郎]]は「『仮面ライダー』という従来の作品のやり方だと、たとえ正義のためにおこなっても『虐め』になっていく危険性があるため悪を倒すこと(を描くこと)はできない」と評している<ref>吉沢晃一・樹想社編「EXTRA STAGE 白倉伸一郎インタビュー」『仮面ライダー {{ruby|悪|ショッカー}}の系譜』樹想社、2003年5月8日、ISBN 4-87777-049-6、168-169頁。</ref>。 == 制作体制 == === 配役 === 企画書『十字仮面』の段階では『柔道一直線』などに出演していた[[近藤正臣]]が配役されていたが、最終的には東映制作のテレビドラマ『[[ゴールドアイ]]』に出演していた[[藤岡弘、|藤岡弘]]が起用された{{R|大全集130}}。 ルリ子役の真樹千恵子、藤兵衛役の[[小林昭二]]、[[大野剣友会]]の起用は平山によるものである。平山によると『ウルトラマン』から『[[キャプテンウルトラ]]』へのTBSの番組引き継ぎ催事で、ムラマツキャップ役の小林と知り合い、若い俳優たちに対する配慮やその人格に惚れ込んで、今回の起用となったという{{R|TOWNMOOK|大全集130}}。真樹は、出演した[[エメロン]]シャンプー([[ライオン (企業)|ライオン]])のCMを平山が観て清楚なイメージに惚れ込み、起用された{{R|OFM4}}{{Sfn|扶桑社|2008|p=24}}。ひろみ役の島田陽子は、『十字仮面』の企画書で緑川ルリ子役として名前は上がっていたが{{R|大全集130}}、藤岡と同じ事務所に所属していたことから、藤岡のマネージャーから「一緒に使ってくれ」と言われて起用したが、ルリ子役に真樹が決定していたこともあり、プロデューサーの阿部は、島田をルリ子の友達役として出演させた{{R|OFM4}}{{Sfn|扶桑社|2008|p=105}}。 滝役の千葉治郎は阿部と内田で決めたという。千葉を仮面ライダー2号として出演させる案も存在したが、兄の[[千葉真一]]が難色を示し、実現には至らなかった{{Sfn|OFM1|2004|p=33|loc=杉田篤彦「匠たちの肖像 『仮面ライダー』を支えたスタッフたち 第1回 平山亨」}}。千葉兄弟と内田は、内田が興行部に在籍していたときから親交があり、治郎は本作品の出演に際し「内田さんのためならば」とこれを快諾したという{{R|怪人大画報176}}。千葉治郎は『マスクマンK』の時点でも主演候補に挙がっていた{{Sfn|大全集|1986|pp=131、135}}。 そのほか、{{要出典範囲|ショッカー幹部や|date=2016年1月}}「ライダーガールズ」の面々の起用は、すべて阿部による{{R|OFM4}}。このうち[[山本リンダ]]は既に歌手として活動しており知名度もあったが{{efn|北海道ロケの際には宿泊先のホテルに「山本リンダ様御一行」と掲げられたこともあった{{R|OFM4}}。[[山本リンダ#『仮面ライダー』]]を参照。}}、所属事務所を移籍するために歌の仕事を控えていたためオファーが快諾されたという{{R|OFM4}}。山本以降、[[鳩山エミリ|高見エミリー]]・[[ミミ萩原|ミミー]]らハーフやクォーターの女性が必ず起用されているが、阿部は「特に意識はしておらず、キャストのバランスから自然とそうなったのかもしれない」としている{{R|OFM4}}。五郎役の三浦康晴は、ゲストの[[林寛子 (タレント)|林寛子]]と併せ、阿部が懇意だった養成所からの起用{{Sfn|扶桑社|2008|pp=111-112}}。 ショッカー側の怪人の声が[[テアトル・エコー]]所属俳優に統一されていたのは、阿部が以前担当した映画『[[ガンマー第3号 宇宙大作戦]]』からの繋がりだった{{Sfn|扶桑社|2008|pp=109-110}}。所属声優の1人である[[沢りつお]]は、普通の俳優では怪人役を引き受けないため、喜劇専門のテアトル・エコーに声がかかったと述べている{{Sfn|OFM3|2004|p=30|loc=「仮面劇の主役たち ライダーを支えた10人の声優 第3回 沢りつおの巻」}}。声優のローテーションは、録音担当の太田克己とテアトル・エコーマネージャーの田寺尚和が協議して決定していた{{R|怪人大画報176}}。 === アクション === アクションは『柔道一直線』からの流れで大野剣友会が担当した{{R|大全集130|OFMKR9大野}}。殺陣師は同作品に引き続き[[高橋一俊]]が務めたが、後半は負傷した高橋の代役を経て[[岡田勝]]が担当した{{R|OFMKR9大野}}。第1話は『柔道一直線』の撮影が残っていた高橋に代わり、大野剣友会主宰の大野幸太郎が殺陣をつけた{{R|OFMKR9大野}}。第19話・第23話の北海道ロケは高橋一俊がロケに参加できなかったため、[[飯塚実 (大野剣友会)|飯塚実]]が殺陣を担当した{{Sfn|受け継がれる魂II|2003|p=197}}。 仮面ライダーのスーツアクターは、当初は専門的なアクションを除き藤岡弘自身が務めていたが、藤岡の負傷降板後は岡田勝が主に担当した{{R|大全集154|OFMKR9大野}}。続く2号編では岡田と[[中村文弥]]が中心となって2号を演じた{{R|大全集154|OFMKR9大野}}。新1号編では、[[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]]が新1号を演じたが、中屋敷が『[[超人バロム・1]]』へ異動した後は[[大杉雄太郎]]が起用された{{R|大全集154|OFMKR9大野}}。その後、大杉の移籍により終盤は再び中屋敷が1号を演じた{{R|大全集154}}。 バイクスタントはカースタントチームの室町レーシングが担当した{{R|OFM3RM}}。当初は同チーム代表の室町健三が仮面ライダーのスタントを務める予定であったが、オープニング映像のみ参加した後、多忙のため大橋春雄に交代した{{R|OFM3RM}}。大橋は1年目終了まで担当したが、2年目はメインスタントマンが明らかになっておらず、室町レーシングのスタッフが交替で担当していたとされる{{R|OFM3RM}}。バイクの運転に長けていたことからメイクの小山英夫が手伝うこともあった{{R|OFM3RM}}。 === 演出 === 監督・助監督は『柔道一直線』から多く参加し、撮影・照明は大映出身者が担当したが、当初は東映と大映の撮影方法の違いから衝突が多かった{{R|OFM1生田}}。東映では殺陣を移動しながら撮影したり、カット割りが多いなどの特徴があったが、大映ではカメラを固定しながらの撮影や時間をかけて長い1カットを撮影することを得意としており、大映で撮影監督を務めていた山本修右はカメラを動かす指示に憤慨したという{{Refnest|group="出典"|{{R|OFM1生田|OFM3折田|怪人大画報172}}}}。また東映では照明は画面に映るものすべてを照らし、暗いシーンでもスターの表情をはっきり見せるという方向性であったが、大映出身の太田耕治は大映では雰囲気優先であったことや照明を用意する予算が不足していたことなどから人物だけに照明を当てるという方法をとった{{Refnest|group="出典"|{{R|OFM1生田|OFM3折田|OFM6太田}}}}。夜間シーンも太田の意向により「ツブシ」と呼ばれるブルーのフィルターを用いて昼間に撮影する手法は可能な限り用いず、夜間に撮影を行っている{{R|OFM6太田}}。こうした太田の照明は結果的に怪奇性を醸し出すことに成功するなど、従来の東映作品とは異なる雰囲気の作風となり、本作品の人気に繋がる要因になったとされる{{Refnest|group="出典"|{{R|OFM1生田|OFM3折田|OFM5田口}}}}。 パイロット版である第1話と第3話は当時『[[キイハンター]]』を担当していた[[竹本弘一]]が監督を務めた{{R|OFM1竹本}}。生田スタジオ所長の内田有作は、当時ヒットしていた『キイハンター』で活躍していた竹本を起用することで、毎日放送へ東映の本気度をアピールする意図もあったと述べている{{R|OFM1竹本}}。 『柔道一直線』から参加した[[折田至]]は、番組開始前には内田有作とともにスタジオ探しも行っていた{{R|怪人大画報176}}。折田はオープニング・エンディングの演出をほぼすべて手がけたが、これは外部の他の監督ではギャランティが別に発生するため、番組開始当初は唯一の東映社員監督であった折田が選ばれたためであった{{R|怪人大画報176}}。また唯一の東映社員監督であったため、番組序盤では大映出身者らとは特に折り合わず苦労したという{{R|怪人大画報176}}。 第3クールから参加した[[田口勝彦 (テレビドラマ監督)|田口勝彦]]は、番組初期から[[東映生田スタジオ]]所長の内田有作に呼びかけられていたが、[[宣弘社]]制作の『[[ガッツジュン]]』(TBS系)へ参加していたため、当初は山崎久名義で脚本を担当した{{R|OFM5田口}}。 同じく第3クールから参加した[[内田一作]]は内田有作の実兄であり、有作からの誘いにより日活を退社して本作品へ参加した{{R|怪人大画報176}}。 === 脚本 === 監督がほぼローテーションであったのに対し、脚本家は30人近い人数が参加した{{R|OFM2阿部}}。特に第4クールでは、マンネリ防止のため新しい脚本家が積極的に登用された{{R|怪人大画報176}}。 メインライターの[[伊上勝]]は、『[[仮面の忍者 赤影]]』や『[[ジャイアントロボ]]』など[[平山亨]]のプロデュース作品でメインライターを歴任しており、本作品でも企画段階から参加していた{{R|OFM5脚本}}。伊上は重要話数を中心に全体の1/3以上を担当したが、後半では『超人バロム・1』や『変身忍者 嵐』なども兼任していたため多忙になり、多数の脚本家が参加する要因になった{{R|OFM2阿部|OFM5脚本}}{{efn|伊上が平山のプロデュース作品を兼任する傾向は『[[仮面ライダーX]]』のころまで続いた{{R|OFM5脚本}}。}}。プロデューサーの[[阿部征司]]は多忙になるにつれ執筆も遅れるようになったと証言している{{R|OFM5脚本}}。本作品では、人物や事象の説明にそれまでの伊上の作品よりもリアリティを感じさせる形容を用いるようになった{{R|OFM5脚本}}。これについてライターの[[赤星政尚]]は、『[[妖術武芸帳]]』の失敗と石ノ森章太郎の存在が影響したものと考察している{{R|OFM5脚本}}。 島田真之は参加した時点では経験が浅く、初担当した第4話は当初は島田が執筆したが、阿部が使い物にならないと判断し、師匠に当たる市川に執筆を指示した{{R|71-84制2-4}}。 女性脚本家の[[滝沢真里|滝沢真理]]は、初担当した第8話を筆頭に蜂女などの女性怪人や女性が被害者となる回を担当することが多かった{{Sfn|キャラクター大全1号・2号編|2014|p=154|loc=「仮面ライダー証言集3 滝沢真里」}}。 第4クール後半から参加した[[石森史郎]]は、息子からせがまれたため、大学時代の同期であった田口勝彦に懇願し本作品に参加した{{R|怪人大画報176}}。同時期には同様の理由で『[[ウルトラマンA]]』でも執筆している。 第70話の脚本を担当した桶谷五郎は、後にテレビ朝日ドラマ部部長を務める関口恭司の変名である{{R|U153|怪人大画報176}}。当時、別名で小説家としても活動していた関口は、大学時代の阿部に売り込みをかけて本作品に参加したが、執筆は1本のみに留まった{{R|怪人大画報176}}。 平山は、脚本の方向性についてあえてヒーロードラマのセオリーは外し、『ウルトラマン』のように最後だけヒーローが登場するのではなく、スポ根ものの第1ラウンド・第2ラウンドなどのように早い段階でも仮面ライダーが登場することを意識したと述べている{{R|怪人大画報62}}。 本作品の脚本で完全なNGになった作品はほとんどない{{R|OFM2阿部|怪人大画報168}}。阿部は、NGになった場合でも脚本家への執筆料は支払わなければならないため、毎日放送側から面白くないと言われた脚本でも良いところを伸ばせば成立するとして、ほとんど採用していたことを証言している{{R|OFM2阿部|怪人大画報168}}。 === 美術・造形 === 美術・造形は、造形会社「エキスプロダクション」が全面担当した{{R|大全集134|OFM6}}。東映生田スタジオ所長の内田有作が映像美術の重鎮である大映の間野重雄に同社を紹介され、代表取締役の[[八木正夫]]は海外作品の仕事が一段落した時期であったことからこの仕事を引き受けた{{R|OFM6}}。 準備段階ではエキスプロ役員であった[[三上陸男]]を中心に、同社造形チーフの藤崎幸雄と大映の矢野友久らが参加し、三上がサイクロン号のデザインやショッカーアジトのセットと怪人の造形など、藤崎が仮面ライダーの造形、矢野がスナックアミーゴのセットをそれぞれ担当した{{R|OFM6}}。立ち上げ作業を終えると三上は『[[魔神ガロン]]』への参加などのために現場を離れ、旧知の[[高橋章]]に後を託した{{R|OFM6}}。高橋は助手として[[八木功]]を呼び、以後の美術を担当した{{R|OFM6}}。 高橋らが東映生田スタジオに常駐し、セットのデザインや衣装の補修も合わせ、すべてをこなしている。怪人のデザインは初期の蜘蛛男・蝙蝠男・さそり男は石森章太郎によるデザインが用意されたが、さそり男は三上により造形用デザインに直され、第4話のサラセニアン以降のデザインは高橋による{{Sfn|仮面ライダー総特集|2015|pp=96-103|loc=鴬谷五郎「ショッカー/ゲルショッカー怪人 造形用デザイン博覧会」}}。三上が造形を手掛けた初期3体は型抜きで作られたが、映画と同様のこの手法では時間がかかるため、以降はタイツに直付けする方法に変更された{{R|OFM6}}。 後に平山によると、MBS側から東映に支払われる制作費は1話につき400万円で<ref>平山亨「第4章 新ヒーローの誕生 『仮面ライダー』」『泣き虫プロデューサーの遺言状〜TVヒーローと共に歩んだ50年〜』講談社、ISBN 978-4-06-364900-0、124頁。</ref>、美術予算が足りず、苦肉の策として機械パネルのイメージを予定していたショッカーの[[秘密基地|アジト]]内は、エキスプロの高橋章が描くおどろおどろしい模様を描いたものとなった{{要出典|date=2018年9月|}}。同プロの[[三上陸男]]は、「おかげで生物感のある不気味なものになった」とコメントしている{{R|TOWNMOOK}}。 ; 仮面ライダーの造型 : 仮面ライダーのマスクは上下二分割形式となっており、粘土原型をFRP樹脂で複製して作られている{{R|大全集182}}。粘土原型は藤崎が制作し、三上が仕上げた{{R|OFM6}}{{efn|過去の書籍で三上によるデザイン画として紹介されたイラストが存在するが{{Sfn|映画大全集|1993|p=158|loc=「仮面ライダー デザイン画集 ACT4 エキスプロ 造形デザイン画」}}、三上は2016年のインタビューで自身の手によるものではないと述べている{{Sfn|怪人大画報|2016|pp=50-61|loc=「『仮面ライダー』美術監督対談 [[三上陸男]]×[[高橋章]]」}}。}}。 : アクション用の「Aタイプ」と、電飾を仕込んだ超アップ撮影用の「Bタイプ」の2種が用意されたが、第1話でAタイプの「クラッシャー」(鼻下から顎へかけての牙状の部分)が破損し、修復跡を残しての撮影となっている{{R|71-84梅田}}。それ以降、補修を繰り返しながらの撮影にはアップ用のはずだったBタイプも駆り出され、常に2種が画面に登場することとなった。2種の明確な違いは、Cアイ(複眼部分)の下の「覗き窓」に付けられた、透明カバーの留めネジの位置である。全98話で使用されたマスクは、すべて同じ型から複製された。FRP製のほか、[[ラテックス]]ゴムで抜かれた軟らかいアクション用のマスクも使われている{{R|大全集182}}。 : 触角にはラジオアンテナが使われた。付け根は第1話では同じ材質だったが撮影中に折れてしまったので、それ以降は自転車のブレーキ用ワイヤーが使われている。Cアイには、型に流した透明のポリエステル樹脂がまだ軟らかいうちに裏側から角棒を押しつけ、段差パターンをつけた。この手法は[[東宝]]映画『[[モスラ]]』(1961年、[[本多猪四郎]]監督)で怪獣[[モスラ (初代および昭和ゴジラシリーズ)|モスラ]]の複眼の表現に使われた技法である{{efn|エキスプロ社長の[[八木正夫]]は東宝特美課にいた八木勘寿の実子でもあり、スタッフは東宝と縁が深かった。}}。 : 仮面ライダーの衣裳は、三上の提案によりウルトラマンで用いられている[[ウェットスーツ]]を避け、[[オートバイ用品|ライダースーツ]]が選択された{{R|OFM6}}。当初、鹿革素材で制作された上下のスーツ{{R|大全集182}}はアクションで裂けてしまい、第1話の時点ですでに左ひざには補修跡が確認できる。このため、ビニールレザー素材となり、新1号以降はジャージ素材となった。第1話の撮影は開始時点でマスクの制作が間に合わなかった{{efn|もともとMBS側の制作ゴーサインが遅れたため、生田スタジオの内田所長が「パーになったら俺が制作費を払う」と、独断でエキスプロに仮面の制作発注をしたもので、それでも完成は遅れた。}}ため、マスクを使用しないショッカーの手術室シーンから開始され、2月10日にようやくマスクが完成し、11日の[[奥多摩湖|小河内ダム]]ロケから仮面ライダーのアクション撮影が行われた。 : 当初、緑色だった仮面の基調は、渡邊の「緑色のヒーローなどあるか」との意見で黒に近い暗緑色となったが{{Sfn|扶桑社|2008|pp=36-37}}、暗いシーンでは判別できなくなるため、パール粉を加えた塗装が施された。このAとBの2種は、色を塗り替えてそのまま2号ライダーとして使われている。新1号編に入ると緑色が鮮やかになっていくが、これは塗装に使ったカラースプレーが季節ごとの乾燥度や日照条件で発色が異なるためでもあった。また、ロケ地やキャラショーなどのイベント先での補修を想定し、[[アサヒペン]]のカラースプレーなど、全国どこでも誰でも入手して塗れる色を優先したという配慮もある{{Sfn|仮面ライダー大全|2000|p=116}}。 == 放送日程 == * 1972年[[7月22日]]は、[[1972年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|プロ野球オールスターゲーム第1戦]]中継のために休止{{R|大全集138}}。1週放送を延ばすことはせず、1972年[[7月28日]](翌週[[金曜日]])に第69話の放送を行い{{R|大全集138}}、その翌日の[[7月29日]]に第70話の放送を通常通り行っている。 * 中京広域圏は[[名古屋テレビ放送]]が遅れネットで毎週日曜19時から放映していたが、[[10月7日]]の第80話のみNET・毎日放送と同時ネットでの放映となった。この異例の同時ネットのいきさつについては、[[名古屋テレビ放送#沿革]]の項を参照のこと。 * サブタイトルは第1話から第17話までは表示のみ。第18話以降はナレーター(第33話のみアルマジロング:池水通洋)の読み上げが加わった。 * アイキャッチは「黒ベースのバックに黄色でバイクのライトらしきが表示され、直後バイクの前後を青白くぼかしたサイクロンに乗るライダー」が現れるもの(第1話のみ)、「赤バックで横向きにサイクロンでジャンプしている様子のライダー」(第2話から第13話)、「青バックで斜め正面向きにサイクロンでジャンプしているライダー」(第14話から第52話)、「横に流れるような緑のバックに疾走するサイクロンに乗るライダー」(第53話から第68話)、「赤バックで横やや正面向きにサイクロンでジャンプしているアップのライダー」(第69話から第98話【終】) * 予告は第1話からの大半が「我らが仮面ライダーを狙うショッカー本部が送った次なる使者は怪人〇〇。・・・次回仮面ライダー(サブタイトル)にご期待ください」という件をナレーターが行ってきたが、第71・75~78・81・86話の怪人や第72~74話の地獄大使、第79・84・85・88~90話のゲルショッカー首領、第80・82・83話のブラック将軍も行った。第70話では突然予告のナレーションが子ども向きにシフトし、第87話では映像は話しているブラック将軍のアップではあるが本郷猛が司会進行のように話し出し、監督の塚田正煕に次回を尋ね、それを受けた塚田が視聴者に向かってお知らせする内容であった。第92・93・96話は敵ではない通常のナレーションだが中江ではない。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" |- !放送日!!放送回!!制作No.<br /><ref>「ファンタスティックコレクションNO.9 仮面ライダー<総集版>」([[朝日ソノラマ]]・[[1978年]])のp42-44</ref>!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!技斗!!監督!!視聴率<br/><small>([[ビデオリサーチ]])</small>{{R|怪人大画報}}!!視聴率<br/><small>([[エーシーニールセン|ニールセン]])</small>{{R|怪人大画報}} |- |align="right"|'''1971年'''{{0}}4月{{0}}3日 ||1|||1|| 怪奇蜘蛛男 |align="left"| * 蜘蛛男(声 - [[槐柳二]]) |rowspan="3"|伊上勝 | rowspan="18" |高橋一俊 |竹本弘一 |20.5%(関西)<br/>8.1%(関東) |16.5%(関西)<br/>8.9%(関東) |- |align="right"|4月10日 ||2||2|| 恐怖蝙蝠男{{efn|予告では、恐怖の蝙蝠男とナレーションされていた。}} |align="left"| * 蝙蝠男{{efn|劇中では「人間蝙蝠」とも呼ばれる。}}(人間体 - 佐野房信 / 声 - [[峰恵研]]) |折田至 |17.1%(関西)<br/>11.7%(関東) |19.6%(関西)<br/>8.7%(関東) |- |align="right"|4月17日 ||3||4|| 怪人さそり男 |align="left"| * さそり男(人間体(早瀬五郎) - [[渚健二]] / 声 - [[池水通洋]]<ref group="C" name="Ikemizu">オープニング表記は'''池永'''通洋。</ref>) |竹本弘一 |17.3%(関西)<br/>10.6%(関東) |15.8%(関西)<br/>8.3%(関東) |- |align="right"|4月24日 ||4||3|| 人喰いサラセニアン |align="left"| * サラセニアン{{efn|劇中では「サラセニア人間」と呼ばれる。}}(声 - [[梶哲也]]<ref group="C">オープニング表記は、スーツアクターの中村文弥。</ref>) |市川森一<br />島田真之 |折田至 |17.5%(関西)<br/>11.3%(関東) |21.9%(関西)<br/>13.8%(関東) |- |align="right"|5月{{0}}1日 ||5||6|| 怪人かまきり男 |align="left"| * かまきり男(声 - [[辻村真人]]) |滝沢真理 |北村秀敏 |17.6%(関西)<br/>12.4%(関東) |17.0%(関西)<br/>11.6%(関東) |- |align="right"|5月{{0}}8日 ||6||7|| 死神カメレオン |align="left" rowspan="2"| * 死神カメレオン(声 - [[沢りつお]]) |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|折田至 |20.5%(関西)<br/>11.7%(関東) |19.4%(関西)<br/>12.6%(関東) |- |align="right"|5月15日 ||7||8|| 死神カメレオン {{ruby|決斗|けっとう}}!万博跡 |17.8%(関西)<br/>9.6%(関東) |17.8%(関西)<br/>12.4%(関東) |- |align="right"|5月22日 ||8||5|| 怪異!蜂女 |align="left"| * 蜂女(演 - [[岩本良子]] / 声 - [[沼波輝枝]]) |滝沢真理 |北村秀敏 |20.6%(関西)<br/>12.6%(関東) |22.5%(関西)<br/>11.6%(関東) |- |align="right"|5月29日 ||9||9|| 恐怖コブラ男{{efn|予告では、怪人コブラ男とナレーションされていた。}} |align="left"| * コブラ男(声 - [[水島晋]]) |rowspan="2"|山崎久 |rowspan="2"|山田稔 |21.6%(関西)<br/>14.2%(関東) |20.5%(関西)<br/>14.1%(関東) |- |align="right"|6月{{0}}5日 ||10||10|| よみがえるコブラ男 |align="left"| * 改造コブラ男(声 - 水島晋) |20.8%(関西)<br/>13.1%(関東) |20.5%(関西)<br/>12.2%(関東) |- |align="right"|6月12日 ||11||11|| 吸血怪人ゲバコンドル |align="left"| * ゲバコンドル(声 - [[谷津勲]]<ref group="C" name="none">オープニング表記なし。</ref>) |長石多可男 |rowspan="2"|折田至 |25.2%(関西)<br/>14.3%(関東) |21.3%(関西)<br/>15.1%(関東) |- |align="right"|6月19日 ||12||12|| 殺人ヤモゲラス |align="left"| * ヤモゲラス(人間体(柴田助手) - 藤沢陽二郎 / 声 - 水島晋{{R|group="C"|none}}) |滝沢真理 |21.4%(関西)<br/>16.8%(関東) |22.7%(関西)<br/>14.6%(関東) |- |align="right"|6月26日 ||13||13|| トカゲロンと怪人大軍団 |align="left"| * トカゲロン(人間体(野本健)・声 - [[堀田眞三|堀田真三]]) * 再生怪人{{efn|蜘蛛男、さそり男、サラセニア人間、かまきり男は水島晋、人間蝙蝠、改造コブラ男、ゲバコンドル、ヤモゲラスは市川治、カメレオン男は中村文弥が声を担当。}} |rowspan="5"|伊上勝 |北村秀敏 |23.7%(関西)<br/>18.0%(関東) |24.0%(関西)<br/>16.7%(関東) |- |align="right"|7月{{0}}3日 ||14||14|| 魔人サボテグロンの襲来 |align="left" rowspan="2"| * サボテグロン(人間態(FBI捜査員56) - ジョン・エアーズ / 声 - [[鈴木利秋]]) |rowspan="4"|折田至 |22.0%(関西)<br/>15.6%(関東) |20.4%(関西)<br/>12.5%(関東) |- |align="right"|7月10日 ||15||15|| 逆襲サボテグロン |21.0%(関西)<br/>15.7%(関東) |25.9%(関西)<br/>15.6%(関東) |- |align="right"|7月17日 ||16||18|| 悪魔のレスラー ピラザウルス |align="left" rowspan="2"| * 実験用ピラザウルス * ピラザウルス(人間ピラザウルス)(人間体(草鹿昇(サタンマスク)) - 藤木卓 / 声 - 谷津勲{{R|group="C"|none}}) |20.7%(関西)<br/>16.0%(関東) |17.6%(関西)<br/>12.7%(関東) |- |align="right"|7月24日 ||17||19|| リングの死闘 倒せ!ピラザウルス |25.5%(関西)<br/>14.6%(関東) |22.8%(関西)<br/>12.8%(関東) |- |align="right"|7月31日 ||18||22|| 化石男ヒトデンジャー |align="left"| * ヒトデンジャー<ref group="C">オープニング表記では「ヒトデンヂャー」。</ref>(声 - 池水通洋<ref group="C">オープニング表記は、スーツアクターの甘利健二。</ref>) |滝沢真理 |山田稔 |20.5%(関西)<br/>15.4%(関東) |20.5%(関西)<br/>10.8%(関東) |- |align="right"|8月{{0}}7日 ||19||23|| 怪人カニバブラー北海道に現る |align="left"| * カニバブラー(人間態、怪人体の声 - 梶哲也) |島田真之 |高橋一俊<br/>飯塚実{{efn|name="飯塚"}} |折田至 |22.3%(関西)<br/>15.1%(関東) |17.7%(関西)<br/>10.8%(関東) |- |align="right"|8月14日 ||20||20|| 火を吹く毛虫怪人ドクガンダー |align="left"| * ドクガンダー幼虫(人間態(フロックコートの男) - 打越正八 / 声 - 辻村真人<ref group="C">オープニング表記は岡田勝。</ref>) |rowspan="2"|山崎久 | rowspan="3" |高橋一俊 |rowspan="3"|山田稔 |18.3%(関西)<br/>11.9%(関東) |16.6%(関西)<br/>11.5%(関東) |- |align="right"|8月21日 ||21||21|| ドクガンダー大阪城の対決! |align="left"| * ドクガンダー成虫(声 - 辻村真人) |27.7%(関西)<br/>17.0%(関東) |25.9%(関西)<br/>13.1%(関東) |- |align="right"|8月28日 ||22||25|| 怪魚人アマゾニア |align="left"| * アマゾニア(声 - [[八代駿]]) |塚田正煕 |28.4%(関西)<br/>16.4%(関東) |25.4%(関西)<br/>16.7%(関東) |- |align="right"|9月{{0}}4日 ||23||24|| 空飛ぶ怪人ムササビードル |align="left"| * ムササビードル(声 - 辻村真人) |島田真之 |高橋一俊<br/>飯塚実{{efn|name="飯塚"}} |折田至 |29.1%(関西)<br/>21.6%(関東) |25.8%(関西)<br/>14.8%(関東) |- |align="right"|9月11日 ||24||16|| 猛毒怪人キノコモルグの出撃! |align="left" rowspan="2"| * キノコモルグ(人間体(無期懲役囚13号) - [[富士野幸夫|富士乃幸夫]] / 声 - 八代駿) |rowspan="2"|滝沢真理 | rowspan="44" |高橋一俊 |rowspan="2"|山田稔 |30.9%(関西)<br/>22.2%(関東) |26.9%(関西)<br/>18.2%(関東) |- |align="right"|9月18日 ||25||17|| キノコモルグを倒せ! |29.5%(関西)<br/>21.5%(関東) |25.2%(関西)<br/>19.7%(関東) |- |align="right"|9月25日 ||26||27|| 恐怖のあり地獄 |align="left"| * 地獄サンダー(声 - [[山下啓介]]) |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|折田至 |28.0%(関西)<br/>23.1%(関東) |25.1%(関西)<br/>19.3%(関東) |- |align="right"|10月{{0}}2日 ||27||28|| ムカデラス怪人教室 |align="left"| * ムカデラス(声 - 沢りつお) * 再生怪人{{efn|ゲバコンドルとサラセニアン。}} |34.6%(関西)<br/>22.7%(関東) |20.8%(関西)<br/>17.1%(関東) |- |align="right"|10月{{0}}9日 ||28||31|| 地底怪人モグラング |align="left"| * モグラング(声 - 峰恵研) * モグラ人間 |島田真之 |内田一作 |30.2%(関西)<br/>23.0%(関東) |24.9%(関西)<br/>20.5%(関東) |- |align="right"|10月16日 ||29||30|| 電気怪人クラゲダール |align="left"| * クラゲダール(声 - 沼波輝枝) |rowspan="2"|滝沢真理 |田口勝彦 |17.5%(関西)<br/>11.3%(関東) |21.9%(関西)<br/>13.8%(関東) |- |align="right"|10月23日 ||30||32|| よみがえる化石 吸血三葉虫 |align="left"| * ザンブロンゾ(声 - 池水通洋) |内田一作 |27.5%(関西)<br/>24.1%(関東) |26.8%(関西)<br/>19.7%(関東) |- |align="right"|10月30日 ||31||34|| {{ruby|死斗|しとう}}!ありくい魔人アリガバリ |align="left"| * アリガバリ(声 - [[村越伊知郎]]) |伊上勝 |田口勝彦 |29.8%(関西)<br/>25.6%(関東) |26.8%(関西)<br/>20.0%(関東) |- |align="right"|11月{{0}}6日 ||32||36|| 人喰い花ドクダリアン |align="left"| * ドクダリアン(人間態 - 中曽根公子 / 声 - 沼波輝枝) |滝沢真理 |折田至 |27.3%(関西)<br/>26.1%(関東) |23.2%(関西)<br/>22.3%(関東) |- |align="right"|11月13日 ||33||29|| 鋼鉄怪人アルマジロング |align="left"| * アルマジロング(声 - 池水通洋) |島田真之 |田口勝彦 |28.3%(関西)<br/>24.5%(関東) |26.1%(関西)<br/>21.6%(関東) |- |align="right"|11月20日 ||34||26|| 日本危うし!ガマギラーの侵入 |align="left"| * ガマギラー(声 - 沢りつお) |滝沢真理 |山田稔 |27.1%(関西)<br/>26.0%(関東) |27.3%(関西)<br/>19.1%(関東) |- |align="right"|11月27日 ||35||33|| 殺人女王蟻アリキメデス |align="left"| * アリキメデス(声 - [[由起艶子]]) |伊上勝 |rowspan="2"|田口勝彦 |29.0%(関西)<br/>27.7%(関東) |26.6%(関西)<br/>21.7%(関東) |- |align="right"|12月{{0}}4日 ||36||37|| いきかえったミイラ怪人エジプタス |align="left"| * エジプタス(声 - [[トミー関|関富也]]) |rowspan="2"|島田真之 |28.9%(関西)<br/>27.5%(関東) |26.3%(関西)<br/>21.9%(関東) |- |align="right"|12月11日 ||37||35|| 毒ガス怪人トリカブトのG作戦 |align="left"| * トリカブト(声 - 沢りつお) * 再生怪人{{efn|カニバブラー、ムカデラス、モグラング、アルマジロングの4体。}} |折田至 |29.1%(関西)<br/>26.1%(関東) |28.3%(関西)<br/>20.7%(関東) |- |align="right"|12月18日 ||38||38|| 稲妻怪人エイキングの世界暗黒作戦 |align="left"| * エイキング(声 - 谷津勲) |rowspan="4"|伊上勝 |田口勝彦 |29.7%(関西)<br/>26.8%(関東) |22.2%(関西)<br/>19.7%(関東) |- |align="right"|12月25日 ||39||39|| 怪人狼男の殺人大パーティー |align="left"| * [[ゾル大佐#実験用狼男|実験用狼男]](人間体 - 富士乃幸夫 / 声 - 市川治) * [[ゾル大佐#狼男|狼男]](声 - 宮口二郎 / 鳴き声 - 池水通洋) |rowspan="4"|山田稔 |27.6%(関西)<br/>25.8%(関東) |25.1%(関西)<br/>20.7%(関東) |- |align="right"|'''1972年'''{{0}}1月{{0}}1日 ||40||46|| 死斗! 怪人スノーマン対二人のライダー{{efn|[[元日]]イベントとしてオンエアされ、視聴率は30%に達した。}} |align="left"| * スノーマン(声 - 池水通洋<ref group="C">オープニング表記は辻村真人。</ref>) |19.8%(関西)<br/>20.2%(関東) |20.3%(関西)<br/>17.3%(関東) |- |align="right"|1月{{0}}8日 ||41||47|| マグマ怪人ゴースター 桜島大決戦 |align="left"| * ゴースター(声 - 八代駿) * 再生怪人{{efn|モグラングとアルマジロングの2体。}} |26.8%(関西)<br/>30.1%(関東) |25.7%(関西)<br/>25.4%(関東) |- |align="right"|1月15日 ||42||42|| 悪魔の使者 怪奇ハエ男 |align="left"| * ハエ男(人間体(加納修) - [[根岸一正]] / 声 - 八代駿) |島田真之 |29.8%(関西)<br/>26.9%(関東) |23.6%(関西)<br/>20.0%(関東) |- |align="right"|1月22日 ||43||40|| 怪鳥人プラノドンの襲撃 |align="left"| * プラノドン(声 - 沢りつお) |鈴木生朗 |rowspan="2"|田口勝彦 |28.6%(関西)<br/>29.2%(関東) |22.4%(関西)<br/>23.9%(関東) |- |align="right"|1月29日 ||44||41|| 墓場の怪人カビビンガ |align="left"| * カビビンガ(声 - 山下啓介) |滝沢真理 |28.5%(関西)<br/>26.5%(関東) |21.9%(関西)<br/>18.7%(関東) |- |align="right"|2月{{0}}5日 ||45||43|| 怪人ナメクジラのガス爆発作戦 |align="left"| * ナメクジラ(声 - 辻村真人) |大野武雄 |山田稔 |30.1%(関西)<br/>25.4%(関東) |20.8%(関西)<br/>23.0%(関東) |- |align="right"|2月12日 ||46||51|| 対決!! 雪山怪人ベアーコンガー |align="left"| * ベアーコンガー(人間態(マタギの老人) - [[依田英助]] / 声 - [[阪脩]]) |島田真之 |塚田正煕 |29.2%(関西)<br/>27.4%(関東) |21.5%(関西)<br/>21.3%(関東) |- |align="right"|2月19日 ||47||44|| 死を呼ぶ氷魔人トドギラー |align="left"| * トドギラー(声 - 池水通洋) |石森史郎 |田口勝彦 |27.2%(関西)<br/>25.3%(関東) |22.7%(関西)<br/>26.1%(関東) |- |align="right"|2月26日 ||48||48|| 吸血沼のヒルゲリラ |align="left"| * ヒルゲリラ(声 - 山下啓介) |鈴木生朗 |rowspan="2"|内田一作 |26.5%(関西)<br/>26.2%(関東) |27.2%(関西)<br/>22.5%(関東) |- |align="right"|3月{{0}}4日 ||49||49|| 人喰い怪人イソギンチャック |align="left"| * イソギンチャック(声 - 沢りつお) |長谷川公之 |26.3%(関西)<br/>29.1%(関東) |22.9%(関西)<br/>27.8%(関東) |- |align="right"|3月11日 ||50||45|| 怪人カメストーンの殺人オーロラ計画 |align="left"| * カメストーン(人間態(ロバート田中) - [[中井啓輔]] / 声 - 辻村真人) |石森史郎 |田口勝彦 |27.0%(関西)<br/>24.7%(関東) |28.0%(関西)<br/>24.2%(関東) |- |align="right"|3月18日 ||51||50|| 石怪人ユニコルノス対ダブルライダーキック |align="left"| * ユニコルノス(人間体 - 富士乃幸夫 / 声 - 八代駿) |長谷川公之 |山田稔 |28.1%(関西)<br/>26.1%(関東) |21.4%(関西)<br/>26.1%(関東) |- |align="right"|3月25日 ||52||52|| おれの名は怪鳥人ギルガラスだ! |align="left"| * ギルガラス(声 - [[上田耕一]]) |rowspan="3"|伊上勝 |内田一作 |28.4%(関西)<br/>26.6%(関東) |23.6%(関西)<br/>25.6%(関東) |- |align="right"|4月{{0}}1日 ||53||57|| 怪人ジャガーマン 決死のオートバイ戦 |align="left"| * ジャガーマン(声 - 池水通洋) |山田稔 |32.0%(関西)<br/>24.4%(関東) |28.0%(関西)<br/>20.0%(関東) |- |align="right"|4月{{0}}8日 ||54||56|| ユウレイ村の海蛇男 |align="left"| * 海蛇男(声 - 市川治) |田口勝彦 |29.4%(関西)<br/>26.7%(関東) |25.0%(関西)<br/>26.8%(関東) |- |align="right"|4月15日 ||55||58|| ゴキブリ男!! 恐怖の細菌アドバルーン |align="left"| * ゴキブリ男(人間体(黒木) - [[平松慎吾]] / 声 - 峰恵研) |rowspan="3"|滝沢真理 |rowspan="3"|山田稔 |26.4%(関西)<br/>27.3%(関東) |25.8%(関西)<br/>25.3%(関東) |- |align="right"|4月22日 ||56||54|| アマゾンの毒蝶ギリーラ |align="left"| * ギリーラ(人間体(九条みわ)・声 - [[建部道子]]) |28.9%(関西)<br/>27.5%(関東) |26.5%(関西)<br/>24.7%(関東) |- |align="right"|4月29日 ||57||53|| 土ぐも男ドクモンド |align="left"| * ドクモンド(人間体(病院長) - 石垣守一 / 声 - 辻村真人) |27.3%(関西)<br/>24.6%(関東) |24.6%(関西)<br/>20.9%(関東) |- |align="right"|5月{{0}}6日 ||58||55|| 怪人毒トカゲ おそれ谷の決斗!! |align="left"| * 毒トカゲ男(人間態(老人) - [[里木佐甫良]] / 声 - 関富也) |rowspan="2"|島田真之 |田口勝彦 |26.5%(関西)<br/>25.5%(関東) |25.3%(関西)<br/>22.6%(関東) |- |align="right"|5月13日 ||59||59|| 底なし沼の怪人ミミズ男! |align="left"| * ミミズ男(声 - 八代駿) |塚田正煕 |27.1%(関西)<br/>26.2%(関東) |24.9%(関西)<br/>22.9%(関東) |- |align="right"|5月20日 ||60||60|| 怪奇フクロウ男の殺人レントゲン |align="left"| * フクロウ男(声 - 山下啓介) |滝沢真理 |内田一作 |27.7%(関西)<br/>26.4%(関東) |24.2%(関西)<br/>26.1%(関東) |- |align="right"|5月27日 ||61||63|| 怪人ナマズギラーの電気地獄 |align="left"| * ナマズギラー(声 - 関富也) |平山公夫<br />山田稔 |rowspan="2"|山田稔 |28.1%(関西)<br/>22.6%(関東) |23.5%(関西)<br/>21.9%(関東) |- |align="right"|6月{{0}}3日 ||62||62|| 怪人ハリネズラス 殺人どくろ作戦 |align="left"| * ハリネズラス(人間態(漁師) - 吉原正皓 / 声 - 沢りつお) |伊上勝 |27.2%(関西)<br/>24.3%(関東) |25.5%(関西)<br/>21.1%(関東) |- |align="right"|6月10日 ||63||65|| 怪人サイギャング 死のオートレース |align="left"| * サイギャング(人間態A - 富士乃幸夫、B - [[岡田勝]] / 声 - 山下啓介) |島田真之 |rowspan="2"|塚田正煕 |25.2%(関西)<br/>20.6%(関東) |24.0%(関西)<br/>24.6%(関東) |- |align="right"|6月17日 ||64||64|| 怪人セミミンガ みな殺しのうた! |align="left"| * セミミンガ(声 - 槐柳二) |rowspan="5"|伊上勝 |26.8%(関西)<br/>22.7%(関東) |23.5%(関西)<br/>19.3%(関東) |- |align="right"|6月24日 ||65||61|| 怪人昆虫博士とショッカースクール |align="left"| * カブトロング(声 - 池水通洋{{R|group="C"|Ikemizu}}) |内田一作 |22.9%(関西)<br/>21.4%(関東) |21.4%(関西)<br/>20.5%(関東) |- |align="right"|7月{{0}}1日 ||66||66|| ショッカー墓場 よみがえる怪人たち |align="left"| * カミキリキッド(人間態(加藤) - 島映二 / 声 - [[二見忠男]]) * 再生怪人{{efn|ザンジオー(声 - 峰恵研)、ジャガーマン(声 - 谷津勲)、毒トカゲ男(声 - 関富也)、ハリネズラス(声 - 八代駿)、サイギャング(声 - 山下啓介)の5体。}} |rowspan="2"|塚田正煕 |23.4%(関西)<br/>19.9%(関東) |23.4%(関西)<br/>22.0%(関東) |- |align="right"|7月{{0}}8日 ||67||67|| ショッカー首領出現!! ライダー危し |align="left"| * ギリザメス(声 - 八代駿) |24.4%(関西)<br/>18.3%(関東) |23.9%(関西)<br/>20.7%(関東) |- |align="right"|7月15日 ||68||68|| 死神博士 恐怖の正体? |align="left"| * [[死神博士#イカデビル|イカデビル]](声 - 二見忠男<ref group="C">オープニング表記では「ギリザメスの声」。</ref>) * 再生怪人{{efn|サイギャングとカブトロングの2体。}} |rowspan="29"|岡田勝 |rowspan="2"|山田稔 |25.3%(関西)<br/>23.9%(関東) |24.8%(関西)<br/>22.0%(関東) |- |align="right"|7月28日 ||69||69|| 怪人ギラーコオロギ せまる死のツメ |align="left"| * ギラーコオロギ(声 - 八代駿) |島田真之 |17.0%(関西)<br/>15.1%(関東) |16.9%(関西)<br/>12.1%(関東) |- |align="right"|7月29日 ||70||70|| 怪人エレキボタル 火の玉攻撃!! |align="left"| * エレキボタル(声 - 市川治<ref group="C">オープニング表記は峰恵研。</ref>) |桶谷五郎 |rowspan="2"|塚田正煕 |18.4%(関西)<br/>18.0%(関東) |19.1%(関西)<br/>15.1%(関東) |- |align="right"|8月{{0}}5日 ||71||71|| 怪人アブゴメス 六甲山大ついせき! |align="left"| * アブゴメス(人間態(サングラスの男) - [[佐藤京一]] / 人間態・怪人体の声 - 八代駿<ref group="C">オープニング表記は市川治。</ref>) |伊上勝 |17.5%(関西)<br/>15.6%(関東) |17.3%(関西)<br/>11.1%(関東) |- |align="right"|8月12日 ||72||72|| 吸血モスキラス対二人ライダー{{efn|予告では、吸血モスキラスと二人のライダーとナレーションされていた。}} |align="left"| * モスキラス(人間態(怪僧) - 岩上瑛 / 声 - 八代駿) * シオマネキング(声 - 沢りつお) |rowspan="2"|鈴木生朗 |rowspan="2"|山田稔 |22.6%(関西)<br/>16.9%(関東) |16.9%(関西)<br/>15.6%(関東) |- |align="right"|8月19日 ||73||73|| ダブルライダー 倒せ!! シオマネキング |align="left"| * シオマネキング |24.2%(関西)<br/>15.5%(関東) |16.8%(関西)<br/>19.7%(関東) |- |align="right"|8月26日 ||74||74|| 死の吸血魔 がんばれ!! ライダー少年隊 |align="left"| * シラキュラス(声 - 池水通洋) |伊上勝 |rowspan="2"|塚田正煕 |23.4%(関西)<br/>21.0%(関東) |16.1%(関西)<br/>18.2%(関東) |- |align="right"|9月{{0}}2日 ||75||75|| 毒花怪人バラランガ 恐怖の家の秘密 |align="left"| * バラランガ(人間体(バラ子) - 松沢のの / 声 - 沼波輝枝) |鈴木生朗 |27.3%(関西)<br/>19.5%(関東) |20.6%(関西)<br/>19.7%(関東) |- |align="right"|9月{{0}}9日 ||76||76|| 三匹の発電怪人シードラゴン!! |align="left"| * シードラゴン(声 - 村越伊知郎 / 予告編の声 - 市川治) |石森史郎 |rowspan="2"|山田稔 |25.8%(関西)<br/>19.5%(関東) |18.7%(関西)<br/>20.5%(関東) |- |align="right"|9月16日 ||77||77|| 怪人イモリゲス じごく牧場の決斗!{{efn|予告では、じごく牧場の決斗!とナレーションされていた。}} |align="left"| * イモリゲス(声 - 山下啓介 / 予告編の声 - 辻村真人) |山崎 久 |23.7%(関西)<br/>22.5%(関東) |21.2%(関西)<br/>20.4%(関東) |- |align="right"|9月23日 ||78||78|| 恐怖ウニドグマ+ゆうれい怪人 |align="left"| * ウニドグマ(声 - 辻村真人) * ガニコウモル(声 - 池水通洋{{efn|池水は第78・79話のみ、ガニコウモルの声を担当した。}}) |rowspan="4"|伊上勝 |rowspan="2"|塚田正煕 |20.6%(関西)<br/>20.6%(関東) |17.7%(関西)<br/>20.8%(関東) |- |align="right"|9月30日 ||79||79|| 地獄大使!! 恐怖の正体? |align="left"| * [[地獄大使#ガラガランダ|ガラガランダ]]{{efn|黄色い目をしているが、予告では青い目と紹介されていた}}(声 - 峰恵研) * ガニコウモル |29.1%(関西)<br/>23.0%(関東) |21.6%(関西)<br/>22.8%(関東) |- |align="right"|10月{{0}}7日 ||80||80|| ゲルショッカー出現!仮面ライダー最後の日!! |align="left"| * ガニコウモル(声 - [[西崎章治]]) |rowspan="2"|山田稔 |30.0%(関西)<br/>24.4%(関東) |26.8%(関西)<br/>25.9%(関東) |- |align="right"|10月14日 ||81||81|| 仮面ライダーは二度死ぬ!! |align="left"| * サソリトカゲス(人間態 - [[大杉雄太郎]] / 声 - 八代駿) |33.1%(関西)<br/>25.5%(関東) |22.7%(関西)<br/>23.3%(関東) |- |align="right"|10月21日 ||82||82|| 怪人クラゲウルフ 恐怖のラッシュアワー |align="left"| * クラゲウルフ(憑依体(中村) - [[梅津栄]] / 声 - 沢りつお<ref group="C">オープニング表記は沢りつ'''夫'''。</ref>) |島田真之 |rowspan="2"|塚田正煕 |25.4%(関西)<br/>23.0%(関東) |22.3%(関西)<br/>20.9%(関東) |- |align="right"|10月28日 ||83||83|| 怪人イノカブトン 発狂ガスでライダーを倒せ |align="left"| * イノカブトン(人間体(イノカブトンに改造される死刑囚) - 飛世賛治<ref group="C">オープニング表記は「飛世'''賛二'''」</ref> / 声 - 市川治) |石森史郎 |24.6%(関西)<br/>22.2%(関東) |21.9%(関西)<br/>21.9%(関東) |- |align="right"|11月{{0}}4日 ||84||84|| 危うしライダー!イソギンジャガーの地獄罠 |align="left"| * イソギンジャガー(人間体(桂木良助) - 大神信 / 声 - 辻村真人) |石森章太郎<br />島田真之 |石森章太郎{{efn|第83話の予告ではブラック将軍のナレーションで二人の打ち合わせシーンも放送された}} |25.0%(関西)<br/>22.9%(関東) |20.5%(関西)<br/>18.5%(関東) |- |align="right"|11月11日 ||85||86|| ヘドロ怪人 恐怖の殺人スモッグ |align="left"| * ウツボガメス(人間体(ウツボガメスに改造されるギャング) - 富士乃幸夫 / 声 - 西崎章治) |島田真之 |rowspan="2"|山田稔 |26.4%(関西)<br/>24.3%(関東) |25.3%(関西)<br/>24.3%(関東) |- |align="right"|11月18日 ||86||85|| 怪人ワシカマギリの人間狩り |align="left"| * ワシカマギリ(声 - 谷津勲<ref group="C">オープニング表記は関富也。</ref>) |滝沢真理 |24.6%(関西)<br/>22.3%(関東) |24.6%(関西)<br/>21.1%(関東) |- |align="right"|11月25日 ||87||87|| ゲルショッカー死の配達人! |align="left"| * クモライオン(声 - 辻村真人) |伊上勝 |rowspan="2"|塚田正煕 |22.9%(関西)<br/>22.9%(関東) |23.3%(関西)<br/>22.1%(関東) |- |align="right"|12月{{0}}2日 ||88||88|| 怪奇 血を呼ぶ黒猫の絵! |align="left"| * ネコヤモリ(人間体(田中輝夫) - [[大橋一元]] / 声 - 山下啓介) |島田真之 |29.4%(関西)<br/>19.5%(関東) |24.3%(関西)<br/>24.9%(関東) |- |align="right"|12月{{0}}9日 ||89||89|| 恐怖のペット作戦 ライダーを地獄へおとせ! |align="left"| * カナリコブラ(声 - 辻村真人) * ネズコンドル(声 - 西崎章治) |rowspan="2"|石森史郎 |rowspan="2"|山田稔 |22.7%(関西)<br/>19.2%(関東) |21.7%(関西)<br/>23.0%(関東) |- |align="right"|12月16日 ||90||90|| 恐怖のペット作戦 ライダーS・O・S!{{efn|予告では、恐怖のペット作戦第2弾ライダーS・O・S!とナレーションされていた。}} |align="left"| * ネズコンドル ** 改造ネズコンドル(声 - 西崎章治) |21.1%(関西)<br/>19.0%(関東) |18.6%(関西)<br/>21.3%(関東) |- |align="right"|12月23日 ||91||91|| ゲルショッカー恐怖学校へ入学せよ!! |align="left"| * ムカデタイガー(声 - [[倉口佳三]]) |rowspan="4"|伊上勝 |rowspan="2"|塚田正煕 |30.9%(関西)<br/>20.6%(関東) |23.1%(関西)<br/>24.2%(関東) |- |align="right"|12月30日 ||92||92|| 兇悪!にせ仮面ライダー |align="left"| * ハエトリバチ(声 - 山下啓介) * [[ショッカーライダー]]NO.1(声 - 池水通洋) |26.8%(関西)<br/>21.6%(関東) |24.8%(関西)<br/>22.5%(関東) |- |align="right"|'''1973年'''{{0}}1月{{0}}6日 ||93||93|| 8人の仮面ライダー |align="left" rowspan="2"| * ショッカーライダーNO.1(声 - 池水通洋) * ショッカーライダーNO.2(声 - 市川治) * ショッカーライダーNO.3(声 - 大野剣友会{{R|group="C"|none}}) * ショッカーライダーNO.4(声 - 倉口佳三{{R|group="C"|none}}) * ショッカーライダーNO.5(声 - 大野剣友会{{R|group="C"|none}}) * ショッカーライダーNO.6(声 - 富士乃幸夫) * ハエトリバチ(第93話) * エイドクガー(声 - 倉口佳三) * ナメクジキノコ(声 - 辻村真人)(第94話) |rowspan="2"|山田稔 |25.9%(関西)<br/>21.9%(関東) |25.3%(関西)<br/>24.6%(関東) |- |align="right"|1月13日 ||94||94|| ゲルショッカー首領の正体!! |29.7%(関西)<br/>25.9%(関東) |26.2%(関西)<br/>27.3%(関東) |- |align="right"|1月20日 ||95||95|| 怪人ガラオックスの空とぶ自動車!! |align="left"| * ガラオックス(声 - 池水通洋) |島田真之 |rowspan="2"|奥中惇夫 |28.2%(関西)<br/>21.4%(関東) |26.6%(関西)<br/>24.6%(関東) |- |align="right"|1月27日 ||96||96|| 本郷猛 サボテン怪人にされる!? |align="left"| * サボテンバット(人間体(松田善一郎) - [[小山源喜]] / 声 - 八代駿) |丸山文櫻 |30.7%(関西)<br/>23.8%(関東) |26.3%(関西)<br/>24.0%(関東) |- |align="right"|2月{{0}}3日 ||97||97|| 本郷猛 変身不可能!! |align="left"| * ヒルカメレオン(声 - 辻村真人) * 再生怪人{{efn|ガニコウモル(声 - 八代駿)。}} |rowspan="2"|伊上勝 |rowspan="2"|高橋一俊 |rowspan="2"|塚田正煕 |32.3%(関西)<br/>24.1%(関東) |28.1%(関西)<br/>24.6%(関東) |- |align="right"|2月10日 ||98||98|| ゲルショッカー全滅!首領の最後!! |align="left"| * [[ショッカー首領|ゲルショッカー首領]] * ヒルカメレオン * 再生怪人{{efn|クラゲウルフとイノカブトンは[[安原義人]]、ウツボガメス、クモライオン、ムカデタイガー、サボテンバットは八代駿、ハエトリバチ、エイドクガー、ガラオックスは倉口佳三が声を担当。クラゲウルフ、ウツボガメス、クモライオン、ガラオックスは後半の戦闘シーンには参加していない。}} |35.5%(関西)<br/>25.4%(関東) |29.4%(関西)<br/>25.9%(関東) |} === 関連映像 === 1973年2月15日に[[東京プリンスホテル]]にて、100話記念と3号ライダーとなる仮面ライダーV3誕生を祝した『仮面ライダー放送100回記念パーティー』が毎日放送の主催で開催され、[[スタッフ]]間で『'''われらの仮面ライダー'''』が上映された{{R|71-84われら}}。内容は中江真司のナレーションによる総集編だが、配役紹介や視聴率紹介がなされ、スタッフ向けになっている{{R|71-84われら}}。後年、[[東映ビデオ]]から『仮面ライダースペシャル2』として発売され(『ZX』との[[カップリング]])、初めて視聴者の元に提供された{{R|71-84われら}}。ただし、『仮面ライダースペシャル』のDVD化の際、同作品は未収録となっている。 [[アイキャッチ]]間には「V3の変身ベルト(ダブルタイフーン)」のCMと「[[マジンガーZ]]のジャンボマシンダー」のCMが挿入されているが、ジャンボマシンダーのCMは映像ソフトで加えられたものである{{R|71-84われら}}。 == ネット局・放送時刻 == === 同時ネット局 === * [[毎日放送]]('''制作局''') * [[テレビ朝日|NETテレビ]] * [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]] * [[広島ホームテレビ]] * [[九州朝日放送]] === 時差ネット === * [[青森放送]]:月曜 18時 - 18時30分(1972年12月まで) → 金曜 18時 - 18時30分(1973年1月から)<ref>『[[河北新報]]』1971年8月2日 - 1973年3月2日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[IBC岩手放送|岩手放送]]:土曜 18時 - 18時30分<ref>『河北新報』1971年11月13日 - 1973年9月22日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[秋田放送]]:金曜 18時 - 18時30分(1972年3月まで) → 金曜 19時 - 19時30分(1972年4月から)<ref>『河北新報』1971年9月3日 - 1973年7月13日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形放送]]:金曜 17時30分 - 18時(1971年9月まで) → 月曜 17時30分 - 18時(1971年10月から)<ref>『河北新報』1971年4月9日 - 1973年3月5日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[東北放送]]:日曜 9時 - 9時30分<ref>『河北新報』1971年4月25日 - 1973年3月4日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福島テレビ]]:木曜 18時 - 18時30分(第13話まで) → 木曜 17時45分 - 18時15分(第14話 - 第39話) → 土曜 19時 - 19時30分(第40話 - 第91話) → 木曜 19時 - 19時30分(第92話から)<ref>『[[福島民報]]』1971年7月8日 - 1973年5月17日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山梨放送]]:土曜 18時 - 18時30分<ref name="y72415">『[[読売新聞]]』山梨・静岡版 1972年4月15日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[新潟放送]]:日曜 10時 - 10時30分<ref>『新潟放送四十年のあゆみ』(1992年10月15日、新潟放送発行)122pより。</ref> * [[長野放送]]:水曜 18時 - 18時30分 * [[テレビ静岡]]:土曜 19時 - 19時30分<ref name="y72415" /> * [[石川テレビ放送|石川テレビ]]:火曜 18時 - 18時30分<ref>『[[北國新聞]]』1972年2月22日付朝刊テレビ欄。</ref> * [[北日本放送]]:水曜 17時15分 - 17時45分(1971年10月20日放送開始から)<ref>『[[北日本新聞]]』1971年10月20日付朝刊テレビ欄より。</ref>→金曜 17時15分 - 17時45分(1972年)<ref>『富山新聞』1972年11月3日付テレビ欄。</ref> * [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]:月曜 18時 - 18時30分<ref>『北國新聞』1974年3月4日付朝刊テレビ欄。</ref> * [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]:日曜 19時 - 19時30分{{efn|この時間は本来、『[[アップダウンクイズ]]』(毎日放送制作)の時間帯であるが、中京広域圏では、同局で一旦打ち切られた後、[[中京テレビ放送|中京テレビ]](当時名古屋テレビと共に日本テレビ系列・NET系列に並列加盟)にもネットされていなかったが、同番組は1973年、中京広域圏のネット整理時に名古屋テレビにて同時ネットで再開されている。}} * [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]:木曜 18時 - 18時30分 * [[山陰放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[瀬戸内海放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[岡山放送]]:土曜 17時 - 17時30分 * [[山口放送]]:木曜 18時 - 18時30分 * [[四国放送]]:木曜 18時 - 18時30分 * [[テレビ愛媛|愛媛放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[高知放送]]:土曜 18時 - 18時30分 * [[長崎放送]]:火曜 18時 - 18時30分 * [[熊本放送]]:月曜 18時 - 18時30分 * [[テレビ大分]]:日曜 9時 - 9時30分 * [[宮崎放送]]:水曜 18時 - 18時30分 * [[南日本放送]]:月曜 18時 - 18時30分 * [[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]:火曜 19時30分 - 20時 == 関連商品 == ; {{Anchors|k_snack}}仮面ライダースナック : カルビー製菓 (現[[カルビー]]) から発売。詳細は[[仮面ライダースナック]]を参照。 :* 参考書籍 :** 堤哲哉 ・編 『仮面ライダーカード』([[日本文芸社]]・1993年) ISBN 9784537023862 :** 木下正信『仮面ライダー・仮面ライダーV3カード 完全図鑑 Media Books Special』([[竹書房]]・1997年) ISBN 9784812403006 ; {{Anchors|h_belt}}仮面ライダー[[変身ベルト]] : 1971年末、[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]] (現[[バンダイ]]) から「変身ベルト」が1,500円で発売され、約380万個<ref>[http://www.bandai.co.jp/releases/J2006013101.html コンプリートセレクション 仮面ライダー新1号 変身ベルト]</ref>を売り上げる大ヒットとなった。キャッチコピーは『'''光る!回る!'''』。変身ベルトは次作『仮面ライダーV3』でも関連玩具のラインアップの1つとして発売され、以後の仮面ライダーシリーズの玩具のラインアップには欠かせない物になった。モーターで回る風車の羽に発火石が埋め込まれており、これが内蔵のヤスリと接触することで火花が散り“光る”構造、これは先行して[[タカトクトイス]]から発売されたギミックなしの500円の変身ベルトとの版権を切り分ける意味のためである{{Sfn|マガジン2020|2020|p=76|loc=「オモチャの現場から 語る! 暴く!? 変身ベルト」}}。 : もともとポピーでは、タカトクトイスが先行して発売していたため、変身ベルトを製造・販売する計画はなかった。しかし、当時のポピーの常務である杉浦幸昌が自分の3歳の長男のために、風車が光って回転するようにタカトクのライダーベルトを改造したところ、近所の評判になった。ここに商機があるとみて、社内の反対を押し切り販売された経緯がある。この際、1,000円で十分な利益が出るベルトを、版権元がタカトクの500円ベルトとあまり差がないという理由で1,000円では許諾せず、1,500円とした。この差額500円分の付加価値をつけるため、ポピーは水野プロダクションにパッケージのデザインを依頼、蛍光色を多用した派手なデザインになった{{Sfn|仮面ライダー大全|2000|p=185}}。 : 本放送の開始から35年目の2006年3月には、成人向けサイズで撮影用実物を意識した造形の「仮面ライダー新1号変身ベルト」がバンダイから発売され、仮面ライダーファンの話題を呼んだ。同年5月末までに8,000個以上を販売した<ref>[[日本経済新聞]]2006年6月24日 夕刊</ref>。 ; {{Anchors|d_bicycle}}ドレミ : 1971年末に、番組スポンサーの[[ブリヂストンサイクル|ブリヂストン自転車]]から発売された幼児向け自転車{{R|怪人大全集214|OFM9DM}}。当初は[[サイクロン号]]を模した風防付きのカウリングと、ブザーを組み込んだ巨大なパトランプが特徴の12[[インチ]]「DM-3B」と16インチ「DM-5B」の2種類であった{{R|怪人大全集214|OFM9DM}}。初期の2タイプは1972年から1973年に年間30万台以上が販売され、発売が終了した1976年までに累計100万台以上の売り上げを記録した{{R|OFM9DM}}。 : 売れ行きが好調だったことから新たに発売された「ドレミ7(DM-7B、20インチ)」では本格的にタイアップを行ない、少年仮面ライダー隊が乗る劇中車として登場させたほか、少年仮面ライダー隊メインのCMも放送された{{R|OFM9DM}}。ドレミ7は次作『[[仮面ライダーV3]]』でも引き続き使用された{{R|怪人大全集214}}。 : 本商品のヒットにより子供向け自転車でのキャラクタータイアップの重要性が認識され、以後もアニメや芸能人などのタイアップモデルが多数発売された{{R|OFM9DM}}。また未就学児童はそれまで[[三輪車]]を使用するのが一般的であったが、ドレミの登場により[[補助輪]]付き自転車の使用が広まったとされる{{R|怪人大全集214}}。 ; {{Anchors|popinika}}[[ポピニカ]] : 「変身ベルト」とならんで、ポピーが発売した「サイクロン」の[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]{{efn|1973年7月までは「ポピニカ」のブランド名はなく、「ミニミニサイクロン号」の商品名で販売されていた。『V3』の「ハリケーン」も同様。}}で、シリーズ長期に渡って制作された。番組で仮面ライダーの容姿が変わると、それに合わせて塗装が変更されたが、基本的には同型の商品である。「新サイクロン」は未発売。続くシリーズも制作され、最後はバンダイから発売された『[[仮面ライダー龍騎]]』の「烈火龍ドラグランザー」と「疾風の翼ダークレイダー」までが確認されている。 ; {{Anchors|h_saibogu}}[[変身サイボーグ]] : この商品は、ポピーではなく[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]] (現[[タカラトミー]]) が発売した玩具。同シリーズにラインナップされたのは新1号のみである。 ; [[プラモデル]] : [[バンダイ|バンダイ模型]]が発売{{R|OFM432|C大全130}}。仮面ライダーとサイクロン号のセットや仮面ライダーと怪人の対決セットなど多種発売された{{R|OFM432|C大全130}}。シリーズ全体で第6回モデル大賞プロフィット賞を受賞{{R|OFM432}}。 ; {{Anchors|kapuseru_t}}[[カプセルトイ]] : [[タカトクトイス|タカトク]]が製造・販売した2メートル大のキャラクター型カプセル自販機「ジャンボキャラクター」。1回100円で、右ひざ部分からカプセルが取り出せるようになっていた。「ライダー」以外にもさまざまなヒーローが、玩具店やスーパーマーケットの店頭、デパートの屋上遊園地などに設置されていた。 ; {{Anchors|menko}}[[めんこ]](メンコ) : [[駄菓子屋]]で売られていた。形・タイプとしては、円形・長方形・蝋メンコ([[十円硬貨|10円玉]]サイズで縁に蝋が塗ってあるもの)があり、柄も写真と絵のものがあった。ただし、仮面のデザインが微妙に違う[[コピー商品|贋物]](『仮面ライダー』と明記されていないが、絵が似ているもの)もあった。 ; 5円ブロマイド : 山勝から発売された1枚5円の[[ブロマイド]]{{R|71-845円}}。2年間で全12弾が発売された{{R|71-845円}}。 : 駄菓子屋で売られるブロマイドは子供向けの定番アイテムであったが、仮面ライダースナックの発売以降は次第に衰退していった{{R|71-845円}}。第11弾から無地だった裏面に文章が加わり、値段も10円に変更され、第12弾では図版から縁取りをなくし、大判ブロマイドと引き換えられる当たり券が導入されるなど、仮面ライダーカードを意識した作りになっていった{{R|71-845円}}。 == 他媒体展開 == === 映像ソフト化 === すべて[[東映ビデオ]]より発売 * ビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通)は、[[1984年]]より全26巻が発売された。全話収録だが、当初は傑作選の予定だったため、収録順は放送順と一致していない。 * [[1992年]][[8月25日]]に[[レーザーディスク|LD]]-BOXが発売された。 * [[1999年]][[4月21日]]から[[2000年]]4月21日にかけて単品のLDが発売された<ref>{{Cite book|和書|date = 2000-04-20|title = 宇宙船YEAR BOOK 2000|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 62 |chapter = '99TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref><ref>{{Cite book|和書|date = 2001-04-30|title = 宇宙船YEAR BOOK 2001|series = 宇宙船別冊|publisher = 朝日ソノラマ |page = 66 |chapter = 2000TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref>。全13巻の各2枚組で各巻8話(Vol.13のみ1枚・2話)収録。 * [[2002年]][[7月21日]]に[[DVD]]-BOXが発売された。シリアルナンバー入りのメタルアタッシュケースに収納されており、シリアルナンバーの001と002は藤岡弘、と佐々木剛にそれぞれ贈呈されている<ref>{{Cite journal |和書|date=2002-05-01 |title=DVD & VIDEO Selection COLOR |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.100 |issue=(2002年5月号) |pages=40 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>。 * [[2005年]][[10月21日]]から[[2006年]][[2月21日]]にかけて2005年11月公開の『仮面ライダー THE FIRST』の公開を記念して単品のDVDが発売された。全16巻で各巻6話 (Vol. 1、Vol. 16は7話) 収録。1 - 4、5 - 7、8 - 10、11 - 13、14 - 16はそれぞれ同時リリースされた。 * [[2008年]]7月21日発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている。 * [[2015年]][[12月9日]]から[[2016年]][[6月8日]]にかけてBlu-ray BOXが全4巻で発売。 * [[2019年]][[6月11日]]創刊の「仮面ライダーDVDコレクション」の創刊号 - 第21号にかけて、テレビシリーズ全話と劇場版2作が収録された<ref>{{Cite book|和書|date = 2019-06-11|title = 仮面ライダーDVDコレクション 創刊号|publisher = [[デアゴスティーニ・ジャパン]] |page = シリーズガイド9 |id = 雑誌コード:34632-7/9}}</ref>。テレビシリーズは第20号までで全話収録となり、各号5話収録(第20号のみ3話収録)。第21号は『仮面ライダーV3』第1 - 4話が収録されている。また、劇場版はDVD1枚に1作ずつ収録となったため、第20号と第21号は2枚組となっている。 * [[2023年]][[8月2日]]に「仮面ライダー4K リマスターBOX」BOX1、[[11月8日]]にBOX2、[[2024年]][[2月14日]]にBOX3、 [[5月8日]]にBOX4が発売される<ref>[https://natalie.mu/eiga/news/519165 「仮面ライダー」4K版BOXのCM公開、藤岡弘、と佐々木剛が掛け合い](2023年4月3日)</ref>。 === CS放送・ネット配信 === ; CS放送 * [[東映チャンネル]]…[[2003年]][[8月]] - [[2004年]]8月、[[2005年]][[5月]] - [[10月]]、[[2009年]][[10月]] - [[2010年]][[9月]]、2010年[[11月]] - [[2011年]]10月、2011年11月 - [[2012年]]9月、[[2016年]][[3月]] - [[2017年]][[2月]] ** 2、4回目の放送のみ「アンコールアワー」枠での放送。それ以外は「石ノ森章太郎劇場」枠での放送となる。 *[[ファミリー劇場]]…[[1999年]]5月 - [[2001年]]3月 ; ネット配信 * 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる…[[2014年]][[3月16日]] - 2016年[[1月24日]] * 東映特撮[[YouTube]] Official…[[2018年]][[4月21日]] - [[2019年]][[3月30日]]、[[2022年]][[6月1日]] - [[2023年]][[5月10日]] === 映画 === ; 『ゴーゴー仮面ライダ―』(1971年7月18日公開) : [[東映まんがまつり]]の一編として第13話を上映。 : テレビ用に [[16mmフィルム|16mm]]スタンダードサイズで撮影された画面の上下をトリミングして、[[35mmフィルム|35mm]]シネスコサイズにブローアップして上映された{{R|映画大全集130}}。 : 本作品の公開は、東映テレビ事業部長の[[渡邊亮徳]]がテレビシリーズを宣伝する意図からラインナップに組み込んだものであり、再生怪人が登場することから第13話が選ばれた{{R|映画大全集130}}。 : 本作品が東映まんがまつりの劇場アンケートで1位となったことから、次作は完全新作となった{{R|映画大全集130}}。 ; 『[[仮面ライダー対ショッカー]]』(1972年3月18日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。 ; 『[[仮面ライダー対じごく大使]]』(1972年7月16日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。 : 上3作品(『ゴーゴー仮面ライダー』から『仮面ライダー対じごく大使』まで)は、『仮面ライダーTHE MOVIE BOX』(2003年12月5日発売)、単品では『仮面ライダーTHE MOVIE VOl. 1』(2006年3月21日発売)、『仮面ライダーTHE MOVIE BD BOX』(2011年5月21日発売)に収録されている。 ; 『[[仮面ライダーV3#映画|仮面ライダーV3]]』(1973年3月17日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『[[仮面ライダーV3]]』の映画作品。 : 本郷猛 / 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『[[仮面ライダーV3対デストロン怪人]]』(1973年7月18日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダーV3』の映画作品。 : 本郷猛 / 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『[[五人ライダー対キングダーク]]』(1974年7月25日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『[[仮面ライダーX]]』の劇場作品。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『[[仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王]]』(1980年3月15日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』の劇場作品。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダースーパー1#劇場版|仮面ライダースーパー1]]』(1981年3月14日公開) : 東映まんがまつりの一編として公開。『[[仮面ライダースーパー1]]』の劇場作品。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダー THE FIRST]]』(2005年11月5日公開) : 新解釈による作品。新解釈の仮面ライダー1号と仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『[[仮面ライダー THE NEXT]]』(2007年10月27日公開) : 新解釈による『仮面ライダーV3』の作品。新解釈の仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』(2009年8月8日公開) : 『[[仮面ライダーディケイド]]』の劇場作品。 : 大ショッカーと仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010]]』(2009年12月12日公開) : 『[[仮面ライダーW]]』と『仮面ライダーディケイド』をメインとしたクロスオーバー作品。 : スーパーショッカーが登場。 ; 『[[仮面ライダーW#プラネタリウム映画|仮面ライダー 恐怖の地球温暖化計画]]』 : プラネタリウム映画。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号とショッカーが登場。 ; 『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』(2011年4月1日公開) : 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』と『[[仮面ライダー電王]]』をメインとしたクロスオーバー作品。 : 仮面ライダー1号(声 - [[藤岡弘、]])と仮面ライダー2号(声 - [[佐々木剛]])とショッカーが登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX]]』(2011年12月10日公開) : 『[[仮面ライダーフォーゼ]]』と『仮面ライダーオーズ/OOO』をメインとしたクロスオーバー作品。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; スーパーヒーロー大戦シリーズ : いずれも[[仮面ライダーシリーズ]]と[[スーパー戦隊シリーズ]]のクロスオーバー作品。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』(2012年4月21日公開) :: 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号と大ショッカーが登場。 :: 仮面ライダーディケイドが変身したディケイド1号が登場。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z]]』(2013年4月27日公開) :: 先の2シリーズと[[メタルヒーローシリーズ]]のクロスオーバー作品。 :: 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号とスペースショッカーが登場。 :; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』(2014年3月29日公開) :: 本郷猛 / 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 :; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』(2015年3月21日公開) :: ショッカーと立花藤兵衛と仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。他に本作品第98話(最終回)の映像も一部使用されている。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦]]』(2017年3月25日公開) :: ショッカーが登場。 ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム]]』(2012年12月8日公開) : 『[[仮面ライダーウィザード]]』と『仮面ライダーフォーゼ』をメインとしたクロスオーバー作品。 : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が名前と写真のみ登場。 ; 『[[仮面ライダー1号 (映画)|仮面ライダー1号]]』(2016年3月26日公開<ref>[http://www.toei.co.jp/release/movie/1206954_979.html 地獄大使が再び!?映画『仮面ライダー1号』ポスタービジュアル&キャスト解禁!]</ref>) : 本郷猛 / 仮面ライダー1号が主人公として登場<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0080491 本郷猛、これが最後の変身!?藤岡弘、主演『仮面ライダー1号』衝撃の予告編! - シネマトゥデイ]</ref>。ショッカーも登場。 ; 『[[仮面ライダー電王 プリティ電王とうじょう!]]』(2020年8月14日公開<ref>{{Cite web|和書|title=「仮面ライダー電王」10年ぶり新作、映像公開!変身シーンも収録|シネマトゥデイ|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0117870|website=シネマトゥデイ|accessdate=2020-11-29|language=ja}}</ref>) : 『仮面ライダー電王』の劇場作品。ショッカー<ref>{{Cite web|和書|title=「仮面ライダー電王」10年ぶり新作は「プリティ電王とうじょう!」“平成元年”を舞台にイカデビル現る!?|url=https://animeanime.jp/article/2020/03/22/52361.html|website=アニメ!アニメ!|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref>が登場。 ; 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』(2021年7月22日公開) : 仮面ライダー50周年×スーパー戦隊45作品記念。本郷猛 / 仮面ライダー1号が登場<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/436462|title=「スーパーヒーロー戦記」仮面ライダー1号役・藤岡弘、が出演|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-12|accessdate=2021-10-17}}</ref>。 ; 『[[仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ]]』(2021年12月17日公開) : 仮面ライダー50周年記念。『[[仮面ライダーリバイス]]』と『[[仮面ライダーセイバー]]』をメインとしたクロスオーバー作品。本郷猛 / 仮面ライダー1号(演 - [[藤岡真威人]]{{efn|藤岡弘、の長男<ref>{{Cite news |date=2021-11-30 |title=藤岡真威人:藤岡弘、の長男が仮面ライダー1号/本郷猛役に 「宿命だと思っている」50年の時を超え、一子相伝|url=https://mantan-web.jp/article/20211130dog00m200002000c.html |publisher=MANTAN |newspaper=MANTANWEB |accessdate=2021-11-30 }}</ref>。}})とショッカーが登場。 ; 『[[シン・仮面ライダー]]』(2023年3月18日公開) : 仮面ライダー生誕50周年企画作品<ref>{{Cite web|和書|title=『シン・仮面ライダー』公式サイト|url=https://shin-kamen-rider.jp/|website=『シン・仮面ライダー』公式サイト|accessdate=2021-04-04}}</ref>。本作と[[仮面ライダー (漫画)|漫画版]]を参照にしながら描かれる[[リブート (作品展開)|リブート作品]]。 === 他テレビシリーズ === ; 『仮面ライダーV3』 : 本作品の続編。本郷猛 / 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『仮面ライダーX』 : 立花藤兵衛が登場。 : 第33・34話に一文字隼人 / 仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダーアマゾン]]』 : 立花藤兵衛が登場。 ; 『[[仮面ライダーストロンガー]]』 : 本郷猛 / 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『仮面ライダー(新)』 : 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号が登場。放送前特番『[[不滅の仮面ライダースペシャル]]』のみ立花藤兵衛が登場。 ; 『[[仮面ライダーBLACK RX]]』 : 『[[仮面ライダーBLACK]]』の続編。終盤に仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』 : 第27・28話にショッカー戦闘員が登場。 ; 『春休み合体ヒーロー祭り』 : 映画『仮面ライダー1号』に関連した『[[動物戦隊ジュウオウジャー]]』と『[[仮面ライダーゴースト]]』の連動企画。『ジュウオウジャー』第7話にシオマネキングが、『ゴースト』第24話にショッカー戦闘員が登場。 === テレビスペシャル === ; 『[[全員集合!7人の仮面ライダー!!]]』 : 『仮面ライダーストロンガー』放送終了の翌週、1976年1月3日に放送されたテレビスペシャル。本郷猛 / 仮面ライダー1号と一文字隼人 / 仮面ライダー2号と立花藤兵衛が登場。 ; 『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』 : 1984年1月3日に放送された、『[[仮面ライダーZX]]』のテレビスペシャル。仮面ライダー1号と仮面ライダー2号(声 - 佐々木剛{{efn|当時は自宅の火災で負った大火傷によって顔出し出演が不可能となっていたため、VTRで初登場時のシーンが使用された以外は声のみの出演となった{{R|71-84佐々木}}。}})が登場。 === ネットムービー === ; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号#dビデオスペシャル 仮面ライダー4号|dビデオスペシャル 仮面ライダー4号]]』 : ショッカーが登場。 ; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦#スピンオフ作品『仮面戦隊ゴライダー』|仮面戦隊ゴライダー]]』 : ショッカー戦闘員が登場。 === 漫画 === ==== 放映当時の連載 ==== ; [[週刊ぼくらマガジン]] : 1971年16号-23号 石森章太郎 ; [[週刊少年マガジン]] : 1971年23号-53号 石森章太郎 :{{Main|仮面ライダー (漫画)}} ; [[テレビマガジン]] : 1971年12月号-1973年3月号 [[すがやみつる]] ; [[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]] : 1971年6月号-1973年3月号 すがやみつる ; [[別冊冒険王]] : 1972年夏季号-冬季号 すがやみつる :{{Main|新・仮面ライダー}} ; [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1971年 5月号 | rowspan="4"|不記載 ||くもおとこ | rowspan="8"|石森章太郎 |- ||1971年 6月号 ||こうもりおとこ |- ||1971年 7月号 ||へびおとこ |- ||1971年 8月号 ||うしおとこ |- ||1971年 8月増刊号 ||デビルエイのまき ||デビルエイ |- ||1971年 9月号 ||かにおとこのまき ||かにおとこ |- ||1971年10月号 ||モゲラマンのまき ||モゲラマン |- ||1971年11月号 ||かせきにんじゃディプロカウルスのまき ||ディプロカウルス |- ||1971年12月号 ||レッツゴー!仮面ライダー ドクダリアンのまき ||ドクダリアン ||卓プロダクション |- ||1972年 1月号 ||ガマギラーのまき ||ガマギラー | rowspan="2"|[[野口竜|のぐち竜]] |- ||1972年 2月号 ||いなずまかいじんエイキングのまき ||エイキング |- ||1972年 3月号 ||かいじんマンドリラーのまき ||マンドリラー ||石森章太郎 |- ||1972年 4月号 ||ベンガルのわにおとこのまき ||わにおとこ ||[[石川森彦|石川宣彦]] |- ||1972年 5月号 ||ガリガリはかせドブネズラーのまき ||ドブネズラー | rowspan="2"|[[石川森彦|石川のりひこ]] |- ||1972年 6月号 ||不記載 ||タイガー |- ||1972年 7月号付録 ||仮面ライダーたいジャガーマン ||ジャガーマン ||[[成田マキホ]] |- ||1972年 8月号 | rowspan="3"|不記載 ||タガメマン | rowspan="5"|石川のりひこ |- ||1972年 9月号 ||スカラベ |- ||1972年10月号 ||しかおとこ |- ||1972年11月号 ||どくばなかいじんバラランガのまき ||バラランガ |- ||1972年12月号 ||かいじんイソギンジャガー ||イソギンジャガー |- |} ; 別冊たのしい幼稚園 : 1972年10月号「3ごうライダーたいブラックしょうぐんのまき」で、頭や肩、手袋、腰、ブーツに赤ラインが入った'''仮面ライダー3号'''が登場し、'''ゴーストショッカー'''の怪人カニコウモリを倒した。 :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1972年 9月号 ||かせきうおかいじんシーラカンスのまき ||シーラカンス | rowspan="2"|石川のりひこ |- ||1972年10月号 ||3ごうライダーたいブラックしょうぐんのまき ||カニコウモリ |- ||1972年10月号付録 ||ふたりの仮面ライダー || ||[[細井雄二]] |- ||1973年 1月号 ||不記載 ||うしピラニアン ||石川のりひこ |- |} ; [[おともだち]] :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年 1月号 | rowspan="2"|不記載 ||アブゴメス | rowspan="2"|石森プロ(細井雄二) |- ||1973年 2月号 ||イソギンジャガー |- |} ; [[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]] :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1971年12月号 ||みんなのすきな仮面ライダー || | rowspan="2"|石森章太郎 |- ||1972年 1月号 ||エイキングのまき ||エイキング |- ||1972年 2月号 ||ナメクジラのまき ||ナメクジラ ||石森プロ |- ||1972年 3月号 ||カメストーンのまき ||カメストーン | rowspan="4"|すがやみつる |- ||1972年 4月号 ||イソギンチャックのまき ||イソギンチャック |- ||1972年 5月号 ||どくちょうおんなギリーラのまき ||ギリーラ |- ||1972年 6月号 ||うみへびおとこのまき ||うみへびおとこ |- ||1972年 7月号 ||はさみおとこクワガッターのまき ||クワガッター | rowspan="8"|[[石川森彦|石川巨人]] |- ||1972年 8月号 ||てんとうむしばくだんのまき || |- ||1972年 9月号 ||かいじんサイギャングのまき ||サイギャング |- ||1972年10月号 ||ギラーコオロギのまき ||ギラーコオロギ |- ||1972年11月号 ||アブゴメスのまき ||アブゴメス |- ||1972年12月号 ||かいじんイモリギャランのまき ||イモリギャラン |- ||1973年 1月号 ||かいじんイソギンジャガーのまき ||イソギンジャガー |- ||1973年 2月号 ||ふたりのライダーたいゲル・ショッカー || |- |} ; 後楽園遊園地仮面ライダーショー有料パンフレット : すがやみつる ==== 放映終了後の連載 ==== ; 『仮面ライダー』テレビランド掲載版([[山田ゴロ]]) : 1978年より徳間書店「テレビランド」誌で『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』までのストーリーが新作漫画として連載された{{R|OFM6山田}}。『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』の制作決定に伴い連載されたもので、その後も『スカイライダー』から『仮面ライダーZX』まで連載が続いた{{R|OFM6山田}}。1号、2号編は、1978年10月号付録、11月号に連載。 :{| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人 |- ||1978年10月号付録 ||仮面ライダー誕生!! ||くも男、こうもり男、カブトロング |- ||1978年11月号 ||戦えWライダー!! ||ハチ女、ゲバコンドル、他 |- |} ; 『[[仮面ライダーSPIRITS]]』([[村枝賢一]]) : 2001年より講談社「月刊マガジンZ」で連載。テレビシリーズの設定などを踏まえ、『仮面ライダー』から『仮面ライダースーパー1』の最終話から続く形で、『仮面ライダーZX』へつながる漫画。 === 小説 === ; 『[[仮面ライダー (小説)|仮面ライダー]]』 : 2000年代に刊行された。藤岡弘が降板せず、本郷猛のみが仮面ライダーとして戦い続けた想定となっている。 === ゲーム === <!--いずれの作品もリンク先を見ればわかるため、本作品から誰が登場するかだけ書いてください。技や声の情報は書かないでください。--> 発売元は[[バンダイナムコゲームス]](旧[[バンダイ]]および旧[[バンプレスト]]の各レーベル)による。 ==== 単独で題材としたもの ==== ; 『仮面ライダー』([[スーパーファミコン]]、1993年11月12日発売) : [[ベルトスクロールアクションゲーム]]として発売。ストーリーは復活を遂げ再び世界制覇を目論むショッカーに、仮面ライダーが立ち向かうというゲームオリジナル。プレイヤーが操作できるのは本郷猛=1号ライダー(1P側)と一文字隼人=2号ライダー(2P側)だが、各ステージの最初や途中に挿入される[[島本和彦]]が原画を担当したビジュアルシーンでは立花藤兵衛や滝和也も登場する。 : 各ステージは、いくつかの任意スクロール型の小さなステージで構成されている。例えば、ステージ開始は路上でそこに登場する敵をすべて倒すと、次は廃ビルへと舞台が移る。そこで敵を倒すと次はショッカー基地に舞台が移り、そこで待ち受けるステージボスの怪人を倒すとステージクリアという具合である。 : タイトル画面は実写取り込みされた旧1号のアップにタイトルロゴが被るという初代オープニングのタイトルカットを模している。またプレイヤーが任意のタイミングで行える変身の際にはキャラクターが変身ポーズを取ると同時に藤岡弘や佐々木剛のボイスが出力され、続いて変身ベルトがアップとなって画面が切り替わると変身が完了しているシークエンスを踏んでいる。 : ; 『[[仮面ライダー (プレイステーション版)|仮面ライダー]]』([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、1998年10月1日発売) : 本郷猛(仮面ライダー1号)と一文字隼人(仮面ライダー2号)をはじめとする、本作品のキャラクターが登場。 ==== クロスオーバー作品 ==== ; 『[[仮面ライダー倶楽部 激突ショッカーランド]]』([[ファミリーコンピュータ]]、1988年2月3日発売) : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; [[コンパチヒーローシリーズ]](1990年 - 2003年、2012年 - 。機種は作品によって異なる) : 本作品を始めとする『仮面ライダー』、『[[ウルトラシリーズ|ウルトラマン]]』、『[[SDガンダム|ガンダム]]』と共に共演するクロスオーバー作品シリーズ。『グレイトバトル』シリーズやスポーツ系など、多くの作品に登場。また、『[[仮面ライダーBLACK RX]]』も数多くの作品に登場した。 : {{Main|コンパチヒーローシリーズ}} ; 『[[仮面ライダー (プレイステーション版)#仮面ライダーV3|仮面ライダーV3]]』(PlayStation、[[2000年]][[9月14日]]) : 『[[仮面ライダーV3]]』のゲーム作品。本郷猛 /仮面ライダー1号と一文字隼人 /仮面ライダー2号をはじめとする本作品のキャラクターが登場。 ; 『SIMPLEキャラクター2000シリーズ Vol.3 仮面ライダー THE バイクレース』(PlayStation、2001年10月25日発売) : 「[[SIMPLEシリーズ]]」の一環として発売。多数の仮面ライダーが登場する3D視点の[[レースゲーム]]。仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダー 正義の系譜]]』([[PlayStation 2]]、2003年11月27日発売) : 本郷猛 /仮面ライダー1号と一文字隼人 /仮面ライダー2号が登場。 ; 『[[仮面ライダー クライマックスヒーローズ|仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ]]』([[Wii]]/[[PlayStation Portable]]、2011年12月1日発売) : 仮面ライダー1号と仮面ライダー2号が登場。 ==== PC用ソフト ==== [[東映ビデオ]]より1994年に[[Microsoft Windows 3.x|Microsoft Windows 3.1]]用CD-ROMゲームとして『仮面ライダー作戦ファイル1』が発売された。全98話を基にしたストーリー解説、怪人の名称とスペックならびにライダーに倒される場面の映像のデータベース、悪の新組織がオリジナル怪人を用いてダブルライダーを倒すまたは世界征服のための新たな作戦を展開するゲームが1枚のCD-ROMに収められた体裁を採っている。首領の声は[[納谷悟朗]]による新録の音声が用いられている。[[Macintosh]]用ソフトも後に販売され、1997年にはセガからも[[セガサターン]]用ソフトとして再発売された。続編として『仮面ライダーV3作戦ファイル』が発売された。 === オリジナルDVD === ; 『[[仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX#超バトルDVD|仮面ライダーフォーゼ 超バトルDVD 友情のロケットドリルステイツ]]』 : [[小学館]]の幼児向け雑誌「[[てれびくん]]」の応募者全員サービスとして制作された、『仮面ライダーフォーゼ』の超バトルDVD(オリジナルDVD)。仮面ライダー1号と仮面ライダー2号とショッカーの改造人間が写真のみ登場。 === 舞台版 === 戦闘員日記シリーズが、メガバックスコレクション<ref>[https://web.archive.org/web/20150618083957/http://www5a.biglobe.ne.jp/~MEGABUCK/ メガバックスコレクション](インターネットアーカイブ2015年6月18日分キャッシュ)</ref><ref>{{Twitter|me_ga_ba|メガバックスコレクション}}</ref>による舞台として公演されている。佐々木剛や[[千波丈太郎]]・中屋敷哲也など、仮面ライダーシリーズに出演した多くの俳優が出演しており{{R|famitsu_20010830n06}}、石森プロなどのサイトでも宣伝されていた。また、ポスターは、当時[[講談社]]の[[月刊マガジンZ]]で『[[仮面ライダーSPIRITS]]』を連載していた[[村枝賢一]]による描き下ろしとなっている{{R|famitsu_20010830n06}}。 ; 仮面ライダー 戦闘員日記 : 2001年2月8日から同年2月12日まで築地ブディストホールにて公演{{R|MEGABUCK_kako}}。[[ショッカー戦闘員]]を主人公にした[[スピンオフ]]作品{{R|famitsu_20010830n06}}。 ; 仮面ライダー 戦闘員日記2 : 2001年9月14日から同年9月16日まで築地ブディストホールにて公演{{R|MEGABUCK_kako}}。ショッカー日本海支部を舞台としている{{R|famitsu_20010830n06}}。 === その他映像作品 === ; 『[[ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語]]』 : 2018年8月25日放送。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』内で放送された単発ドラマ。本作品の原作者・石森章太郎が主人公としての物語。本作品は劇中で放送されている番組という扱いで登場。企画の経緯が一部フィクションを交えながら描かれているほか、漫画版の単行本や、本作品の撮影現場と本郷猛を演じた俳優・藤岡弘(演 - 藤岡弘、)も登場する。 == 他の仮面ライダーシリーズとの関連 == 本郷猛(仮面ライダー1号)、一文字隼人(仮面ライダー2号)、立花藤兵衛、ショッカー・ゲルショッカーに所属する怪人などの登場作品は、[[仮面ライダー1号]]・[[仮面ライダー2号]]・[[立花藤兵衛]]・[[ショッカー]]の項目をそれぞれ参照。 * 『[[仮面ライダーZX]]』 - [[仮面ライダーSPIRITS|漫画版(『仮面ライダーSPIRITS』)]]に滝和也が登場。続編の『新仮面ライダーSPIRITS』に滝和也と緑川ルリ子と石倉五郎が登場。 * 『[[仮面ライダーEVE-MASKED RIDER GAIA-]]』 - 漫画版『[[仮面ライダー (漫画)|仮面ライダー]]』の続編。[[仮面ライダーV3]]から[[仮面ライダーZX]]までのライダーも登場し、テレビシリーズに準じた形で歴代ライダーの戦いが続いていたことが簡単に語られている。 * 『[[仮面ライダー (小説)|仮面ライダー1971 - 1973]]』 - 本作品を新解釈で小説化した作品。 == 関連作品 == * [[柔道一直線]] - スタッフの多くが本作品に参加している{{R|OFM1生田}}。 * [[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]] - 監督が一部共通している。 * [[変身忍者 嵐]] - 時代劇版仮面ライダーを目指した作品。第25 - 27話にかけて仮面ライダー1・2号と滝和也をゲスト出演させる案もあったが、実現には至らなかった。1972年5月3日には合同特番『へんしん!変身!あらしとライダー』が放送された。 * [[さすらいの狼]] - 同作品に主演していた[[萬屋錦之介|中村錦之助]]が、本作品のファンであった息子のために藤岡弘・千葉治郎・阿部征司を自宅に招き、その礼として第13話のゲストとして藤岡と千葉を出演させた{{R|OFM2阿部}}。 * [[ウルトラマン]] - 国産テレビヒーローとして本作品と対比されるほか、本作品との競演作として『[[ウルトラマンVS仮面ライダー]]』が後年制作された。 * [[仮面ノリダー]] - 『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』内にて放送された、お笑いコンビ「[[とんねるず]]」による本作品のパロディ。 == 本作品に由来する事物 == * [[2015年]]に[[和歌山県]]で[[ダイズ|大豆]]の代わりに[[イナゴ]]を使った[[醤油]]風調味料が発売された際には、開発者が仮面ライダー1号・2号にあやかって2種類の製品を「和歌山の魅力を伝える新しいヒーローに」との思いから、「1号醤油(しょうゆ)麹」「2号米麹(こめこうじ)」とそれぞれ名付けている<ref>[https://www.sankei.com/article/20151201-RHUL6BA6ANO4ZCHIZ2EBZ4GFSE/ 【若手記者が行く】ついに完成「昆虫ソース」 イナゴのほかトノサマバッタも使用 焼き魚やコロッケに合う不思議な味(1/4ページ) - 産経WEST]</ref>。 * 元プロサッカー選手の[[山根巌]]は[[柏レイソル]]時代に「レッツゴー!! ライダーキック」を基にした応援歌を用いられていた。 == 関連項目 == * [[特撮]] * [[栗本慎一郎]] - 初期にテコ入れに参加。著作、『経済人類学の眼』『俺たちはノイズだ』参照{{efn|他方で、栗本の意見が採用されたとする第7話は、放映開始前に制作された作品であり、栗本の証言と時系列が合わない。また、栗本の証言を裏付ける制作スタッフ側の証言も確認されていない。}}。 * [[奥多摩湖|小河内ダム]] - 第1話にて撮影が行われ、その後も度々登場したロケ地。 * [[お化けマンション]] - 第5、8話、劇場版第2作など数回にわたって撮影が行われている。 * [[エキスポランド]] - 初期のオープニングテーマの映像の一部と第7話「死神カメレオン・決斗! 万博跡」で撮影が行われている。 * [[リクルートホールディングス|リクルート]] - 転職情報誌「ビーイング」テレビCMキャラクターである。 * [[日清食品]] - 「太麺堂々」ショッカー戦闘員のラーメンレボリューション編にて、ショッカー戦闘員(骨戦闘員)が登場。[[モーニング娘。]]の楽曲「[[恋愛レボリューション21]]」の替え歌に乗せて踊っている。 * [[加山雄三]] - [[1986年]]の「[[第37回NHK紅白歌合戦]]」で[[少年隊]]の「仮面舞踏会」を言い間違えた。 * [[京楽産業.]] - 1号・2号をモチーフにした[[パチンコ]]台「[[CRぱちんこ仮面ライダー ショッカー全滅大作戦|CRぱちんこ仮面ライダー 〜ショッカー全滅大作戦〜]]」を発売。また、CMとしても放映されていた。 * [[東洋水産]] - 「マルちゃん・麺づくり」迫る食感編 * [[浜名湖パルパル]] - 最終回(第98話)で撮影が行われた。当時は「遊園地パルパル」と看板が出ている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|3}} === クレジットに関する注釈 === {{Reflist|group="C"|3}} === 出典 === {{Reflist|3 |refs= <ref name="hiwa">平山亨「二人ライダー・秘話」『仮面ライダー 変身ヒーローの誕生』、『仮面ライダーコレクターズ・ボックス』第1巻、朝日ソノラマ〈宇宙船文庫 特別版〉、1998年5月。ISBN 4-257-76459-7{{要ページ番号|date=2017年4月}}</ref> <ref name="taki">平山亨「FBI特命捜査官・滝和也」『仮面ライダー 青春アルバム』、『仮面ライダーコレクターズ・ボックス』第2巻{{要ページ番号|date=2017年4月}}</ref> <ref name="TOWNMOOK">『TOWNMOOK増刊 仮面ライダー』([[徳間書店]]・1981年)より{{要ページ番号|date=2017年4月}}。</ref> <ref name="大全集130">{{Harvnb|大全集|1986|pp=130-133|loc=「仮面ライダーは、こうして誕生した」}}</ref> <ref name="大全集134">{{Harvnb|大全集|1986|pp=134-135|loc=「仮面ライダー[本郷ライダー]」}}</ref> <ref name="大全集136">{{Harvnb|大全集|1986|pp=136-137|loc=「仮面ライダー[一文字ライダー]」}}</ref> <ref name="大全集138">{{Harvnb|大全集|1986|pp=138-139|loc=「仮面ライダー一号[再改造]」}}</ref> <ref name="大全集154">{{Harvnb|大全集|1986|pp=154-157|loc=「仮面ライダーの影 大野剣友会」}}</ref> <ref name="大全集182">{{Harvnb|大全集|1986|pp=182-185|loc=「仮面ライダー造型の世界」}}</ref> <ref name="大全集226">{{Harvnb|大全集|1986|pp=226-231|loc=「スペシャルSTAFF CAST座談会 仮面ライダーを語る」}}</ref> <ref name="大全集238">{{Harvnb|大全集|1986|p=238|loc=「仮面ライダーSTAFF CASTインタビュー [[三上陸男]]」}}</ref> <ref name="怪人大全集214">{{Harvnb|怪人大全集|1986|pp=214-215|loc=「仮面ライダーブロマイド&自転車」}}</ref> <ref name="映画大全集130">{{Harvnb|映画大全集|1993|p=130|loc=「仮面ライダー劇場用映画作品研究」}}</ref> <ref name=":0">{{Harvnb|本郷猛の真実|1999|p=|pp=117-119|loc=ライダーのヘルメットはこうして作られた}}</ref> <ref 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[COMPLETE+]|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-0905-9}}など</ref> <ref name="C大全130">{{Harvnb|キャラクター大全1号・2号編|2014|p=130|loc=「仮面ライダー関連商材一覧 プラスチックモデル」}}</ref> <ref name="C大全">{{Harvnb|キャラクター大全1号・2号編|2014|pp=145-149|loc=「仮面ライダー 考察と研究」}}</ref> <ref name="71-84序">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=10-14|loc=「序章「仮面ライダー誕生まで」」}}</ref> <ref name="71-84平山1">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=15-17|loc=「平山亨氏番組制作用ノート1」}}</ref> <ref name="71-84梅田">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=37-39|loc=「梅田氏の書き込み台本」}}</ref> <ref name="71-84制2-4">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=42-45|loc=「制作代2話-第4話」}}</ref> <ref name="71-8411-12">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=54-57|loc=「制作第11話-第12話」}}</ref> <ref name="71-8482">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=82-83|loc=「一文字隼人編」}}</ref> <ref name="71-84佐々木">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=94-97|loc=「INTERVIEW 佐々木剛」}}</ref> <ref name="71-84われら">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=136-137|loc=「『われらの仮面ライダー』」}}</ref> <ref 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|issue=(SUMMER 2016.夏)|publisher=[[ホビージャパン]] |pages=124-125 |title=特別対談 [[梶淳]]×[[野中剛]] |isbn=978-4-7986-1261-4 }}</ref> <ref name="eternal">{{Cite album-notes |和書|title=ETERNAL EDITION 仮面ライダー File No.1 |year=2002 |page=5 |type=CDライナー |publisher=日本コロムビア |id=COCX-31903}}</ref> <ref name="Niibori">{{Cite web|和書|url=http://www.redactionclub.com/member/KazuoNiibori.html|title=新堀和男|publisher=株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー|accessdate=2011-04-27}}</ref> <ref name="famitsu_20010830n06">[http://www.famitsu.com/entertainment/news/2001/08/30/n06.html ファミ通.com エンターテイメント/主役は戦闘員!? 『仮面ライダー』の舞台劇が登場]</ref> <ref name="MEGABUCK_kako">[https://web.archive.org/web/20101231111736/http://www5a.biglobe.ne.jp/~MEGABUCK/kako/kako.html メガバックスコレクション 過去の公演(一部)](インターネットアーカイブ2010年12月31日分キャッシュ)</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2014年2月|section=1}} * 『日本ヒーローは世界を制す』(角川書店) * 大全集シリーズ([[講談社]]) ** {{Cite book|和書|title=創刊十五周年記念 [[テレビマガジン]]特別編集 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|publisher=[[BANDAI SPIRITS]] |accessdate=2021-08-04 |ref={{SfnRef|藤岡弘、インタビュー|2021}} }} == 外部リンク == * [https://s.mxtv.jp/drama/kamen-rider/ 東京MX版公式ホームページ] * [https://www.kamen-rider-official.com/riders/23/ 仮面ライダー] 仮面ライダーWEB {{前後番組 | 放送局 = [[毎日放送]]制作・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NET系列]] | 放送枠 = [[テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ|土曜19:30 - 20:00]] | 番組名 = 仮面ライダー<br />(1971年4月3日 - 1973年2月10日) | 備考スタイル = white-space:nowrap; font-size:smaller | 番組名備考 = 本番組より[[仮面ライダーシリーズ]] | 前番組 = [[魔女はホットなお年頃]]<br />(1970年10月31日 - 1971年3月27日) | 次番組 = [[仮面ライダーV3]]<br />(1973年2月17日 - 1974年2月9日) }} {{仮面ライダーシリーズ}} {{DEFAULTSORT:かめんらいたあ}} [[Category:仮面ライダー|*1]] [[Category:仮面ライダーシリーズの特撮テレビドラマ|1]] [[Category:テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ]] [[Category:毎日放送の特撮番組]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:1971年のテレビドラマ]]<!--年代カテは開始年のみ--> [[Category:伊上勝脚本のテレビドラマ]] [[Category:市川森一脚本のテレビドラマ]] [[Category:漫画を原作とするテレビドラマ]]
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特撮映画
特撮映画()は、特撮(特殊撮影)を主眼にした映画のこと。主にそういう技術を目玉にした怪獣映画、SF映画、戦争映画を指す。ジャンルを問わず特撮を用いた作品全般の総称として幻想映画という呼称も存在した。 ただ、この呼称は次第に使われなくなっている。現在、ほぼ全ての商業映画において映像素材に手が加えられており、こうした技術を前面に出した呼称で作品を売ることは少なくなっている。 また、特撮という言葉が技術よりもジャンルとして定着した事で、着ぐるみやミニチュア撮影を使った作品という偏見が定着しており、SFXを使用した海外の大作映画を特撮映画と呼ぶ事は慣例として少なくなった(特撮の項参照)。 戦前の『ロストワールド』や『キング・コング』に始まり、CG(コンピュータグラフィックス)映像作品に取って代わられるまではアナログな手作り作業で多くの作品が作られた。多くの特撮技術や特撮映画を生み出した特撮監督レイ・ハリーハウゼンは「特撮の神様」と呼ばれ、後の世界中の作品に大きな影響を与えた。 日本の特撮映画は、円谷英二が創始したと見てよい。円谷は第二次世界大戦前に映画界でカメラマンとして働いていたが、映画『キング・コング』に出会い、同作に使用されている特殊撮影技術に興味を惹かれ、その研究に没頭した。戦時中はその経験を活かし、戦争映画とくに空戦ものを多数制作した。そのため彼は戦後に公職追放の処分を受けたが、公職追放が解けると映画『ゴジラ』の制作に特撮監督として参加し、その後のSF映画・怪獣映画・特撮テレビシリーズといった日本の特撮の礎を築いた。 怪獣映画などの怪獣を主に扱った作品
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特撮映画は、特撮(特殊撮影)を主眼にした映画のこと。主にそういう技術を目玉にした怪獣映画、SF映画、戦争映画を指す。ジャンルを問わず特撮を用いた作品全般の総称として幻想映画という呼称も存在した。 ただ、この呼称は次第に使われなくなっている。現在、ほぼ全ての商業映画において映像素材に手が加えられており、こうした技術を前面に出した呼称で作品を売ることは少なくなっている。 また、特撮という言葉が技術よりもジャンルとして定着した事で、着ぐるみやミニチュア撮影を使った作品という偏見が定着しており、SFXを使用した海外の大作映画を特撮映画と呼ぶ事は慣例として少なくなった(特撮の項参照)。 戦前の『ロストワールド』や『キング・コング』に始まり、CG(コンピュータグラフィックス)映像作品に取って代わられるまではアナログな手作り作業で多くの作品が作られた。多くの特撮技術や特撮映画を生み出した特撮監督レイ・ハリーハウゼンは「特撮の神様」と呼ばれ、後の世界中の作品に大きな影響を与えた。 日本の特撮映画は、円谷英二が創始したと見てよい。円谷は第二次世界大戦前に映画界でカメラマンとして働いていたが、映画『キング・コング』に出会い、同作に使用されている特殊撮影技術に興味を惹かれ、その研究に没頭した。戦時中はその経験を活かし、戦争映画とくに空戦ものを多数制作した。そのため彼は戦後に公職追放の処分を受けたが、公職追放が解けると映画『ゴジラ』の制作に特撮監督として参加し、その後のSF映画・怪獣映画・特撮テレビシリーズといった日本の特撮の礎を築いた。
{{読み仮名|'''特撮映画'''|とくさつえいが}}は、[[特撮]]([[SFX|特殊撮影]])を主眼にした[[映画]]のこと。主にそういう技術を目玉にした[[怪獣映画]]、[[SF映画]]、[[戦争映画]]を指す。ジャンルを問わず特撮を用いた作品全般の総称として'''幻想映画'''という呼称も存在した{{R|大ゴジラ}}。 ただ、この呼称は次第に使われなくなっている。現在、ほぼ全ての商業映画において映像素材に手が加えられており、こうした技術を前面に出した呼称で作品を売ることは少なくなっている。 また、特撮という言葉が技術よりもジャンルとして定着した事で、[[着ぐるみ]]や[[ミニチュア撮影]]を使った作品という偏見が定着しており、SFXを使用した海外の大作映画を特撮映画と呼ぶ事は慣例として少なくなった([[特撮]]の項参照)。 戦前の『[[ロスト・ワールド (1925年の映画)|ロストワールド]]』や『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』に始まり、CG(コンピュータグラフィックス)映像作品に取って代わられるまではアナログな手作り作業で多くの作品が作られた。多くの特撮技術や特撮映画を生み出した特撮監督[[レイ・ハリーハウゼン]]は「特撮の神様」と呼ばれ、後の世界中の作品に大きな影響を与えた<ref>{{cite news|title=「特撮の神様」レイ・ハリーハウゼンさん死去 92歳|publisher=[[J-CAST]] ニュース|date=2013-5-8|accessdate=2021-7-14|url=https://www.j-cast.com/2013/05/08174643.html}}</ref><ref>{{cite news|title=レイ・ハリーハウゼン追悼上映 PFFで海外特撮の名作3作品 シンドバットからアルゴまで|publisher=アニメ!アニメ!|date=2013-09-07|accessdate=2013-11-07|url=https://animeanime.jp/article/2013/09/07/15475.html}}</ref>。 日本の特撮映画は、[[円谷英二]]が創始したと見てよい。円谷は[[第二次世界大戦]]前に映画界でカメラマンとして働いていたが、映画『キング・コング』に出会い、同作に使用されている特殊撮影技術に興味を惹かれ、その研究に没頭した。戦時中はその経験を活かし、戦争映画とくに空戦ものを多数制作した。そのため彼は戦後に[[公職追放]]の処分を受けたが、公職追放が解けると映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』の制作に[[特撮監督]]として参加し、その後のSF映画・怪獣映画・特撮テレビシリーズといった日本の特撮の礎を築いた。 == 代表的な日本の特撮映画 == [[怪獣映画]]などの[[怪獣]]を主に扱った作品 * [[ゴジラ]]シリーズ * [[ガメラ]]シリーズ * [[モスラ (架空の怪獣)#平成モスラ三部作のモスラ|モスラ]]シリーズ * [[大魔神]]シリーズ * [[ウルトラシリーズ]] * [[空の大怪獣ラドン]] * [[大怪獣バラン]] * [[宇宙大怪獣ドゴラ]] * [[妖星ゴラス]] * [[大巨獣ガッパ]] * [[フランケンシュタイン対地底怪獣]] * [[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]] * [[キングコングの逆襲]] * [[宇宙大怪獣ギララ]] - [[ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発]] * [[ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣]] * [[怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス]] * [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]] * [[宇宙からのメッセージ]] ; 変身ヒーローなどのヒーローを主に扱った作品 * [[仮面ライダーシリーズ]] * [[スーパー戦隊シリーズ]] * [[東映スーパーヒーローフェア]] ; SF映画、パニック映画 * [[海底大戦争]] * [[ガンマー第3号 宇宙大作戦]] * [[白夫人の妖恋]] * [[日本誕生]] * [[大坂城物語]] * [[世界大戦争]] * [[妖星ゴラス]] * [[怪竜大決戦]] * [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]] * [[士魂魔道 大龍巻]] * [[緯度0大作戦]] * [[新幹線大爆破]] * [[ノストラダムスの大予言 (映画)|ノストラダムスの大予言]] * [[エスパイ]] * [[宇宙からのメッセージ]] * [[火の鳥 (漫画)#映画(実写版)|火の鳥]] * [[日本沈没]] * [[東京湾炎上]] * [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]シリーズ * [[復活の日]] * [[さよならジュピター]] * [[惑星大戦争]] * [[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]] * [[ガンヘッド]] * 暴風圏 * [[SPACE BATTLESHIP ヤマト]] * [[電人ザボーガー (映画)]] ; [[戦争映画]] * [[ハワイ・マレー沖海戦]] * [[太平洋の鷲]] * [[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]] * [[太平洋の翼]] * [[青島要塞爆撃命令]] * [[太平洋奇跡の作戦 キスカ]] * [[日本海大海戦]] ; [[怪人]]、[[怪物]]を主に扱った作品 * [[電送人間]] * [[ガス人間第一号]] * [[美女と液体人間]] * [[獣人雪男]] * [[透明人間 (1954年の映画)|透明人間]] * [[透明人間と蝿男]] * [[透明人間現わる]] * [[マタンゴ]] * [[吸血鬼ゴケミドロ]] * [[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]] * [[怪猫トルコ風呂]] ; [[妖怪]]を主に扱った作品 * [[妖怪百物語]] * [[妖怪大戦争 (1968年の映画)|妖怪大戦争]] * [[さくや妖怪伝]] * [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争 (2005年版)]] * [[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)|ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画シリーズ)]] * [[妖怪大戦争 ガーディアンズ]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist |refs= <ref name="大ゴジラ">{{Cite book|和書|title=幻想映画美術体系 大ゴジラ図鑑|others=[監修]西村祐次 [構成]ヤマダマサミ|publisher=[[ホビージャパン]]|date=1995-01-27|page=28|chapter=用語解説|isbn=4-89425-059-4}}</ref> }} == 関連項目 == * [[特撮]] * [[SFX]] * [[操演]] * [[日本映画]] * [[SF映画]] * [[ホラー映画]](怪奇映画) * [[特撮テレビ番組一覧]] * [[特撮関連人名一覧]] * [[特撮監督]] [[Category:特撮映画|*]] [[Category:映画のジャンル|とくさつえいか]]
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連結リスト
連結リスト(、英語: Linked list)は、最も基本的なデータ構造の1つであり、他のデータ構造の実装に使われる。リンクリスト、リンクトリストとも表記される。 一連のノードが、任意のデータフィールド群を持ち、1つか2つの参照(リンク)により次(および前)のノードを指している。連結リストの主な利点は、リスト上のノードを様々な順番で検索可能な点である。連結リストは自己参照型のデータ型であり、同じデータ型の別のノードへのリンク(またはポインタ)を含んでいる。連結リストは場所が分かっていれば、ノードの挿入や削除を定数時間で行うことができる(場所を探すのにかかる時間はリスト上の順番の条件などにも依存するし、後述する片方向リストなのか双方向リストなのかにも依存する)。連結リストにはいくつかの種類があり、片方向リスト、双方向リスト、線形リスト、循環リストなどがある。 連結リストは多くのプログラミング言語で実装可能である。LISP や Scheme 、Prologといった言語は組み込みでこのデータ構造を持っていて、連結リストにアクセスするための操作も組み込まれている。 線形リストは、1955年から1956年ごろ、ランド研究所にてアレン・ニューウェル、Cliff Shaw、ハーバート・サイモンが Information Processing Language (IPL) の主要データ構造として開発したのが最初である。IPL はいくつかの初期の人工知能プログラム(General Problem Solver など)で使われた。線形リストを箱と矢印で表すという今ではお馴染みの記法は、1957年2月の "Proceedings of the Western Joint Computer Conference" に掲載されたニューウェルと Shaw の "Programming the Logic Theory Machine" という論文で使われている。ニューウェルとサイモンは1975年、「人工知能、認知心理学、リスト処理の基盤を築いた」ことに対してチューリング賞を受賞した。 マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Victor Yngve は、自然言語処理、特に機械翻訳向けに開発した COMIT という言語学向けのプログラミング言語で線形リストをデータ構造として使っている。これに関する論文は1958年、"Mechanical Translation" に "A programming language for mechanical translation" と題して掲載された。 1958年、ジョン・マッカーシーが MIT で開発したLISPは "list processor" の略であり、1960年に "Communications of the ACM" にその設計に関する論文 "Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine, Part I" が掲載された。LISP の主要なデータ構造の一つとして線形リストが採用されている。 1960年代初期までに、線形リストやそれを基本的なデータ構造とする言語が一般化した。MIT リンカーン研究所の Bert Green は1961年3月、"IRE Transactions on Human Factors in Electronics" に "Computer languages for symbol manipulation" という論文を書き、線形リストを使った手法の利点をまとめている。同様の論文は1964年4月、Communications of the ACM に Bobrow と Raphael の "A Comparison of list-processing computer languages" が掲載されている。 Technical Systems Consultants (TSC) 社は、片方向リストをファイル構造に利用したオペレーティングシステム FLEXを開発した。ディレクトリがファイルの第一セクターを指し、その後のファイルの中身も線形リストのポインタを辿ることで得られるようになっていた。FLEX から派生したオペレーティングシステムとして Smoke Signal Broadcasting社が開発したものがあるが、こちらは双方向リストを同じ用途に使っていた。 IBM社が System/360やSystem/370向けに開発したTSSでも、ファイルシステムに双方向リストを使っていた。そのディレクトリ構造は UNIX のものと似ており、ディレクトリはファイルや他のディレクトリを格納でき、任意の深さまで階層構造を作ることができた。システムがクラッシュしたとき、このファイルシステム構造の一部がディスクに書き戻されていない場合があり、これを修復するためのユーティリティ "flea" が開発された。これは双方リストの前方リンクと後方リンクの一貫性をチェックすることで問題を検出する。 線形リストには、片方向リストと双方向リストがあり、どちらも任意の位置でデータの追加・削除が"O(1)"時間でできるのが特長である。しかし、ソートされた配列や木構造と違い、データの検索はO(n)時間かかってしまうという欠点がある(ソートされていない配列は線形リストと同じ"O(n)"の検索時間である)。 片方向リスト(singly-linked list)は、最も単純な連結リストであり、ノード毎に1つのリンクを持つ。このリンクはリスト上の次のノードを指し、リストの最後尾ならNull値を格納するか、空のリストを指す。 双方向リスト(doubly-linked list)は、より洗練された連結リスト。各ノードには2つのリンクがあり、1つが次のノード(前方リンク)、もう1つが後ろのノード(後方リンク)を指す。リストの先頭のノードには後ろのノードがないので、後方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。リストの最後尾のノードには次のノードがないので、前方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。 低レベルの言語の中には、XOR連結リストを使って双方向リストの2つのリンクを1つのワードで表せるようにしたものもあるが、この技法は一般には使われない。 循環リスト(circularly-linked list)では、先頭と最後尾のノードを相互に連結する。循環リストには片方向のものも双方向のものもある。循環リストを辿る場合、任意のノードから出発して、好きな方向にたどっていき、最初のノードに戻ってくるまで続ける。つまり、循環リストは先頭や最後尾といったものが存在しないリストと考えることもできる。循環リストはデータ格納用バッファの管理によく使われ、1つのノードを使っているスレッド(やプロセス)が他のノードを全て参照したい場合などに便利である。 リスト全体を指すポインタは、アクセスポインタと呼ばれることがある。 片方向循環リスト(singly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の片方向リストと同じように1つのリンクを持つが、最後尾のノードは先頭のノードをリンクしている。片方向リストと同様、新たなノードを挿入する場合、既に参照を持っているノードの次の位置にのみ挿入できる。このため、片方向循環リストでは、最後尾のノードを指している参照を保持しておくことが多く、それによって、先頭位置に高速に挿入可能とするだけでなく、先頭ノードから最後尾のノードまでを順に辿ることも可能にしている。 双方向循環リスト(doubly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の双方向リストと同じように2つのリンクを持つが、先頭ノードの後方リンクは最後尾ノードを指し、最後尾ノードの前方リンクは先頭ノードを指す。双方向リストと同様、挿入も削除もその位置に隣接するノードへの参照が1つあれば、高速に行える。構造的には双方向循環リストには先頭も最後尾もないが、一般に外部のアクセスポインタを用意して、先頭または最後尾のノードを指しておくことが多い。そして、双方向リストでの番兵ノードのように順序を把握するのに使われる。 線形リストには「ダミーノード」または「番兵ノード; sentinel node」と呼ばれるものが、リストの先頭や最後尾に置かれることがある。番兵ノードにはデータは格納されない。その目的は、全てのノードのリンクが常にノードのデータ構造を指していることを保証して、いくつかの操作を高速化することである。LISPではそのような設計がされており、nil と呼ばれる特別な値は片方向リストの最後尾を示すと決められている。nil は CAR 操作でも CDR 操作でも nil を返すため、一部の操作を高速化できる。最後尾が nil でないリストは不適切(improper)である(不適切とは言っても使えないということではない)。 連結リストは他のデータ構造の構成要素として使われる。例えば、スタック、キューなどである。 ノードのデータ部が別の連結リスト(へのポインタ)という構成も可能である。これを応用すると様々なデータ構造をリストで構成できる。これはLISPを起源とする方法であり、LISP では連結リストは主要なデータ構造とされ、今では関数型言語で一般に使われている。 連結リストを使って連想配列を実装することもあり、これを連想リスト(association list)と呼ぶ。このような連結リストの応用にはあまり利点がない。平衡2分探索木などのデータ構造の方が、ごく小さいデータ量であっても性能的に優れている。しかし、木構造のサブセットという範囲を超えて連結リストを動的に生成することもあり、より効率的にそのような構成のデータを扱うのに使われる。 コンピュータプログラミングと設計におけるほとんどの選択と同様、あらゆる状況に適した方法は存在しない。連結リストというデータ構造も状況によってはうまく機能するが、別の状況には適さない。以下では、連結リスト構造に関するトレードオフについて説明する。一般に動的に変化するデータの集まりがあって、要素の追加・削除が頻繁に行われ、新たな要素を追加する位置が重要となる場合、連結リストが適しているといえる。 連結リストは配列と比較したとき、いくつかの利点を持つ。リストでは要素の挿入は無制限に可能であるが、配列はサイズが決まっているために限界があり、配列を大きくしようとしても、メモリのフラグメンテーションによって不可能なこともある。同様に、配列から要素の多くを削除すると領域の無駄となったり、サイズを小さくする必要が生じる。 複数のリストが尾部を共有することで、さらにメモリを節約できる場合もある。つまり、先頭が複数あって、末尾が1つになっている構造が可能である。これを使って、何らかのデータの古いバージョンと新しいバージョンを同時に保持することが可能であり、簡単な永続データ構造の例となっている。 一方、配列はランダムアクセス性に優れており、連結リストがシーケンシャルアクセスを得意とするのと対照的である。片方向リストは一方向にしか辿れない。従って、ヒープソートのようにインデックスによって高速に要素を参照する必要がある場合、連結リストは不向きである。シーケンシャルアクセスも多くのマシン上では、連結リストよりも配列の方が高速である。これは、キャッシュメモリの効果と参照の局所性によるものである。連結リストはキャッシュメモリからはほとんど何も恩恵を受けない。 連結リストの別の欠点は、参照のための余分な領域を必要とする点である。このため、キャラクタやブーリアン型のような小さなデータ要素を連結リストで操作するのは(1文字ごとにノードを割り当てて文字列操作を実現するなど)、速度の面でもメモリ消費の面でも無駄が多く、現実的でない。 これらの問題の一部を改善する連結リストの派生データ構造がいくつか存在する。Unrolled linked list は各ノードに複数の要素を格納するもので、キャッシュ性能を向上させ、参照時のメモリのオーバヘッドを低減させる。CDRコーディングも参照を参照すべき実データと置換することで同様の効果が得られる。 配列との比較で利点と欠点を明確にする好例として、ジョセファスの問題を解くプログラムの実装がある。ジョセファスの問題とは、人間が輪になって並んでいる状況で、そこから1人を選ぶというものである。ある人を開始点として、特定の方向に n 人を数えていく。n 番目の人に到達したら、その人を輪から外して、残りの人間で一回り小さい輪を作る。そして再び n 番目まで数えていく。これを1人だけが残るまで繰り返し、最後に残った人が選ばれた人ということになる。これを循環リストを使って表すのは直接的で分かり易いし、ノードの削除も簡単である。しかし、循環リストでは、現在のノードから n 番目のノードを見つけるには、リストを順に辿っていくしかない。配列であればインデックスの計算で即座に見つけられる。一方、配列では要素(ノード)の削除は容易ではなく、n 番目のノードを即座に見つけるという利点を生かすには、ノードを削除したときに残った要素を詰めてやる必要がある。 双方向リストはノード毎に要するメモリ量が多くなるし、基本的な操作にかかる手間が多くなる。しかし、どちらの方向にもシーケンシャルアクセス可能であるため、扱いやすくなることが多い。特に、あるノードの削除をする場合、そのノードのアドレスさえ分かっていれば、定数時間でそれが可能である。挿入の場合も、挿入する位置(そのノードの前に新たなノードを挿入する)が判っていれば、双方向リストでは定数時間で挿入が可能である。片方向リストでは、挿入・削除の際に1つ前のノードのアドレスも知る必要がある。アルゴリズムによっては双方向のアクセスが必須な場合もある。一方、双方向リストでは尾部の共有はできないので、永続データ構造としては使えない。 循環リストは、本質的に環状の構造を表すのに適している。また、どのノードからでもリスト全体をたどることが可能である。また、(最後尾のノードを指す)ポインタを1つ保持しておけば、先頭と最後尾を同時に効率的にアクセス可能である。主な欠点は、繰り返し処理をする際に、微妙に複雑な配慮を要する点である。 番兵ノードを使えば、全てのノードに次のノードや前のノードが存在することを保証でき、特定のリスト操作を単純化できる。しかし、(特に小さなリストを多数使用する場合)余分な領域を必要とするという欠点があり、他のリスト操作は逆に複雑化する。余分な領域を消費するのを防ぐため、番兵ノードはリストの先頭あるいは最後尾のノードへの参照として再利用されることがある。 連結リストを操作する場合、無効化され使われなくなった値の扱いに注意する必要がある。そのため、連結リストでの挿入・削除のアルゴリズムはある意味で巧妙である。ここでは、片方向リスト、双方向リスト、循環リストでのノードの追加と削除に関する擬似コードを示す。リストの終端を表すマーカー(あるいは番兵)としては "null" を使うが、その実装は様々なものが考えられる。 ここでのノードのデータ構造には2つのフィールドがある。また、List の "firstNode" というフィールドがリストの先頭ノード(空のリストの場合は "null")を指すとする。 片方向リストを辿るのは単純で、先頭ノードから各ノードの "next" リンクを最後まで辿っていく。 次のコードは片方向リスト上のあるノードの次に新たにノードを挿入する。あるノードの前にノードを挿入することはできない。その場合は挿入位置の前のノードを見つける必要がある。 リストの先頭にノードを追加する場合、別の関数が必要である。この場合、firstNode を更新しなければならない。 同様に、指定されたノードの次のノードを削除する関数と、リストの先頭のノードを削除する関数を示す。特定のノードを探して削除する場合、その前のノードを覚えておく必要がある。 removeBeginning() は、削除するノードが最後のノードだった場合、"list.firstNode" を "null" にする。 逆方向に繰り返すことができないので、"insertBefore" や "removeBefore" といった操作を効率的に実装することはできない。 2つの片方向リストを連結したい場合、リストの最後尾を常に保持していないと効率的に処理できない。2つのリストがそれぞれ長さ n {\displaystyle n} である場合、連結にかかる時間は O ( n ) {\displaystyle O(n)} となる。LISP 系言語では、リストの連結には append を使う。 片方向リストの操作は先頭ノードの扱いが特殊であるが、先頭にダミー要素を追加することでこれを排除できる。これによって、"insertBeginning()" や "removeBeginning()" が不要となる。この場合、最初のデータを持ったノードは "list.firstNode.next" で参照可能である。 双方向リストでは更新すべきポインタが増えるが、逆方向のポインタでリスト上の前の要素を参照できるため、操作に必要な情報は少なくて済む。これにより、新たな操作が可能となり、特殊ケースの関数が不要になる。ノードには前の要素を指す "prev" フィールドが追加される。また リスト構造の "lastNode" が最後尾のノードを指す。空のリストの場合、"list.firstNode" も "list.lastNode" も "null" である。 双方向リストでは双方向に繰り返しが可能である。方向は必要に応じて何度でも変えられる。 順方向 逆方向 指定したノードの次に新たなノードを挿入する関数と、前に挿入する関数を示す。 空のリストを含むリストの先頭に新たなノードを挿入する関数が必要となる。 同様に、最後尾にノードを挿入する関数を示す。 ノードの削除は簡単で、firstNode と lastNode にだけ注意すればよい。 この手続きで、リストから1つだけ残っているノードを削除する場合、"firstNode" と "lastNode" が "null" に設定され、正しく処理が行われる。また、"removeBefore" や "removeAfter" といった手続きは不要であり、単に "remove(node.prev)" や "remove(node.next)" を呼び出せばよい。 循環リストには、片方向のものと双方向のものがある。循環リストでは環状にノードが連結されているので、"null" は使わない。キューのような前後関係のあるリストでは、リストの最後尾ノードへの参照を保持する必要がある。循環リストでは最後尾ノードの次のノードは先頭ノードである。要素の最後尾への追加や先頭からの削除は定数時間で可能である。 循環リストの利点は、任意のノードから開始してリスト全体をたどることができる点である。このため、"firstNode" や "lastNode" も保持する必要がないことが多いが、空のリストを表すには何らかの特別な表現が必要である。ここでは "lastNode" に "null" を格納することで空のリストを表す。これにより空でないリストでの追加・削除は大幅に単純化されるが、空のリストを特殊ケースとして扱う必要がある。 someNode は空でないリストにある何らかのノードであるとする。ここでは任意の "someNode" から繰り返しを開始するものとしている。 順方向 逆方向 ループの最後で終了条件のチェックをしている点に注意されたい。これは、リストに "someNode" という1つのノードしかない場合に重要である。 次の関数は双方向循環リスト上のノードの次に新たなノードを追加する。 "insertBefore" を実現したければ、単に "insertAfter(node.prev, newNode)" を行えばよい。空のリストへのノードの追加は次の特殊関数が必要となる。 先頭に挿入したければ、"insertAfter(list.lastNode, node)" を実行すればよい。ノードの削除では空のリストにうまく対処する必要がある。 双方向リストと同様、"removeAfter" と "removeBefore" は "remove(list, node.prev)" と "remove(list, node.next)" で実現可能である。 参照型をサポートしていない言語でも、ポインタの代わりに配列にインデックスを使うことでリンクを実現できる。構造体の配列を用意し、リンク用フィールドには配列のインデックスを表す整数を保持することで次(あるいは前)のノードを指すものとする。配列にある全ノードを使う必要はない。構造体がサポートされていない場合、並列配列を代替として使うことができる。 例として、次の構造体を示す。ポインタの代わりに配列にインデックスを使っている。 この構造体の配列を生成し、リストの先頭のインデックスを保持する整数変数を用意すれば、連結リストを構築できる。 要素間のリンクはリスト上の次(または前)の要素の配列インデックスを Next あるいは Prev フィールドに格納することでなされる。例えば、次のようになる。 この例で、ListHead は 2 になっており、そこがリストの先頭ノードである。3番と5から7番のエントリはリスト上に含まれていない。これらのセルはリストに新たに追加することが可能である。ListFree という整数変数を用意してフリーリストを構成しておくと扱いやすくなる。全てのエントリが使われている場合、配列の大きさを拡張するか、一部要素を削除して空きを作らないと、新たな要素をリストに追加できなくなる。 次のコードは、リストを辿って、name と balance を表示するものである。 この手法の利点は次の通りである。 ただし、この方式にはノード群のためのメモリ領域管理を独自に行わなければならないという欠点がある。このため、次のような問題が生じる。 以上のような理由から、この手法は動的メモリ確保をサポートしていない言語で主に利用される。問題の多くは、配列生成時にリストの最大サイズが分かっている場合には問題ではなくなる。 LISPやScheme、Prologといったプログラミング言語は、片方向リストを組み込みで装備している。多くの関数型言語では、リストを構成するノードを「consセル」と呼ぶ。consセルには "car" 部分と "cdr" 部分があり、"car" 部はそのノードのデータへの参照、"cdr" 部は次のノードへの参照を格納している。consセルは他のデータ構造にも使われるが、主な用途はリストを構成することである。 抽象データ型やテンプレートをサポートする言語では、連結リストの抽象データ型やテンプレートを使って、連結リストを構築できる。 オブジェクト指向プログラミング言語では、次のようなクラスが連結リスト用に用意されている。 以下に、C言語での片方向リストの例を示す。 連結リストを構築する際、データをノードそのものに格納するか、別のデータ構造への参照のみを格納するかという選択を迫られる。前者を「内部収納; internal storage」、後者を「外部収納; external storage」と呼ぶ。内部収納の方がデータアクセスが効率化され、全体としてメモリ使用量が低減され、参照の局所性が向上し、リストに関するメモリ管理も簡素化される(データはノードと共に確保・解放される)。 一方、外部収納はより汎用的だという利点がある。データの内容に依存しないデータ構造とリスト操作コードを形成可能である。また、複数のノードで同じデータを共有することも容易に実現できる。内部収納の場合も、通常のリンクとは別に、同じ内容のデータを保持するノードを連結するフィールドを持てば、同様のことが可能になるが、リスト操作にあたってそれも考慮する必要が出てくる。 一般に、データ構造を複数の連結リストに属させる必要がある場合、外部収納が最善の手法である。データ構造が1つの連結リストにしか属さない場合、内部収納の方が若干良いが、外部収納の汎用リスト操作パッケージが利用可能なら、それを利用するほうがよい場合もある。 いくつかの言語で採用されている別の手法として、いくつかの種類のデータ構造があって、それらの先頭部分の同じ位置にリストのための "next" および "prev" のフィールドが存在する場合がある。この場合、リスト操作は汎用的なルーチンを使い、個々のノード内のデータは個別のルーチンで処理する。様々な種類のメッセージを受信する際の構文解析などでよく使われる。メッセージのキューへの追加と削除は汎用的なルーチンで行われる。メッセージの種類がメッセージの先頭にあり、それを見て適切なメッセージ処理ルーチンを呼び出す。 ここでは、家族とその構成員の連結リストを処理するコードを例として示す。内部収納の場合、構造体は次のようになる。 家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、内部収納の場合、次のようになる。 外部収納を使うと、構造体は次のようになる。 家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、外部収納の場合、次のようになる。 外部収納を使った場合、データ構造体を取り出して型変換するという余分なステップが必要になる。これは、2種類の連結リストが同じデータ構造(node)を使っているためである。 あるメンバーがいくつの家族に属することができるかがコンパイル時に分かっている場合、内部収納の方が適している。しかし、1人のメンバーが任意の個数の家族に属する可能性がある場合、かつその数が実行時にならないと分からない場合、外部収納にする必要がある。 連結リストで特定の要素を探す場合、たとえそれがソート済みであっても一般に O(n) の時間を要する(線型探索)。これは連結リストの重大な欠点である。これを改善するいくつかの方法が存在する。 ソートされていないリストでは、平均検索時間を短縮する単純なヒューリスティックとして "Move To Front" と呼ばれる手法がある。これは、1度検索して見つかったノードをリストの先頭に移動させるという方式である。これは一種の簡単なキャッシュ構成法であり、最も後に検索したノードを再度検索する場合に高速化される。 もう1つの一般的な手法は、より効率的な外部のデータ構造を使ってノードにインデックスを付けるというものである。例えば、赤黒木やハッシュテーブルを構築し、その要素が連結リストの各ノードへの参照を持つようにする。1つのリストに対して、そのようなインデックスを複数構築できる。この手法の欠点は、ノードの追加や削除の度にインデックス側の更新が必要となる点である。少なくともインデックスを再利用する前に更新が必要である。
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"片方向リスト(singly-linked list)は、最も単純な連結リストであり、ノード毎に1つのリンクを持つ。このリンクはリスト上の次のノードを指し、リストの最後尾ならNull値を格納するか、空のリストを指す。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "双方向リスト(doubly-linked list)は、より洗練された連結リスト。各ノードには2つのリンクがあり、1つが次のノード(前方リンク)、もう1つが後ろのノード(後方リンク)を指す。リストの先頭のノードには後ろのノードがないので、後方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。リストの最後尾のノードには次のノードがないので、前方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "低レベルの言語の中には、XOR連結リストを使って双方向リストの2つのリンクを1つのワードで表せるようにしたものもあるが、この技法は一般には使われない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "循環リスト(circularly-linked list)では、先頭と最後尾のノードを相互に連結する。循環リストには片方向のものも双方向のものもある。循環リストを辿る場合、任意のノードから出発して、好きな方向にたどっていき、最初のノードに戻ってくるまで続ける。つまり、循環リストは先頭や最後尾といったものが存在しないリストと考えることもできる。循環リストはデータ格納用バッファの管理によく使われ、1つのノードを使っているスレッド(やプロセス)が他のノードを全て参照したい場合などに便利である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "リスト全体を指すポインタは、アクセスポインタと呼ばれることがある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "片方向循環リスト(singly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の片方向リストと同じように1つのリンクを持つが、最後尾のノードは先頭のノードをリンクしている。片方向リストと同様、新たなノードを挿入する場合、既に参照を持っているノードの次の位置にのみ挿入できる。このため、片方向循環リストでは、最後尾のノードを指している参照を保持しておくことが多く、それによって、先頭位置に高速に挿入可能とするだけでなく、先頭ノードから最後尾のノードまでを順に辿ることも可能にしている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "双方向循環リスト(doubly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の双方向リストと同じように2つのリンクを持つが、先頭ノードの後方リンクは最後尾ノードを指し、最後尾ノードの前方リンクは先頭ノードを指す。双方向リストと同様、挿入も削除もその位置に隣接するノードへの参照が1つあれば、高速に行える。構造的には双方向循環リストには先頭も最後尾もないが、一般に外部のアクセスポインタを用意して、先頭または最後尾のノードを指しておくことが多い。そして、双方向リストでの番兵ノードのように順序を把握するのに使われる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "線形リストには「ダミーノード」または「番兵ノード; sentinel node」と呼ばれるものが、リストの先頭や最後尾に置かれることがある。番兵ノードにはデータは格納されない。その目的は、全てのノードのリンクが常にノードのデータ構造を指していることを保証して、いくつかの操作を高速化することである。LISPではそのような設計がされており、nil と呼ばれる特別な値は片方向リストの最後尾を示すと決められている。nil は CAR 操作でも CDR 操作でも nil を返すため、一部の操作を高速化できる。最後尾が nil でないリストは不適切(improper)である(不適切とは言っても使えないということではない)。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "連結リストは他のデータ構造の構成要素として使われる。例えば、スタック、キューなどである。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ノードのデータ部が別の連結リスト(へのポインタ)という構成も可能である。これを応用すると様々なデータ構造をリストで構成できる。これはLISPを起源とする方法であり、LISP では連結リストは主要なデータ構造とされ、今では関数型言語で一般に使われている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "連結リストを使って連想配列を実装することもあり、これを連想リスト(association list)と呼ぶ。このような連結リストの応用にはあまり利点がない。平衡2分探索木などのデータ構造の方が、ごく小さいデータ量であっても性能的に優れている。しかし、木構造のサブセットという範囲を超えて連結リストを動的に生成することもあり、より効率的にそのような構成のデータを扱うのに使われる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コンピュータプログラミングと設計におけるほとんどの選択と同様、あらゆる状況に適した方法は存在しない。連結リストというデータ構造も状況によってはうまく機能するが、別の状況には適さない。以下では、連結リスト構造に関するトレードオフについて説明する。一般に動的に変化するデータの集まりがあって、要素の追加・削除が頻繁に行われ、新たな要素を追加する位置が重要となる場合、連結リストが適しているといえる。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "連結リストは配列と比較したとき、いくつかの利点を持つ。リストでは要素の挿入は無制限に可能であるが、配列はサイズが決まっているために限界があり、配列を大きくしようとしても、メモリのフラグメンテーションによって不可能なこともある。同様に、配列から要素の多くを削除すると領域の無駄となったり、サイズを小さくする必要が生じる。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "複数のリストが尾部を共有することで、さらにメモリを節約できる場合もある。つまり、先頭が複数あって、末尾が1つになっている構造が可能である。これを使って、何らかのデータの古いバージョンと新しいバージョンを同時に保持することが可能であり、簡単な永続データ構造の例となっている。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、配列はランダムアクセス性に優れており、連結リストがシーケンシャルアクセスを得意とするのと対照的である。片方向リストは一方向にしか辿れない。従って、ヒープソートのようにインデックスによって高速に要素を参照する必要がある場合、連結リストは不向きである。シーケンシャルアクセスも多くのマシン上では、連結リストよりも配列の方が高速である。これは、キャッシュメモリの効果と参照の局所性によるものである。連結リストはキャッシュメモリからはほとんど何も恩恵を受けない。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "連結リストの別の欠点は、参照のための余分な領域を必要とする点である。このため、キャラクタやブーリアン型のような小さなデータ要素を連結リストで操作するのは(1文字ごとにノードを割り当てて文字列操作を実現するなど)、速度の面でもメモリ消費の面でも無駄が多く、現実的でない。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これらの問題の一部を改善する連結リストの派生データ構造がいくつか存在する。Unrolled linked list は各ノードに複数の要素を格納するもので、キャッシュ性能を向上させ、参照時のメモリのオーバヘッドを低減させる。CDRコーディングも参照を参照すべき実データと置換することで同様の効果が得られる。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "配列との比較で利点と欠点を明確にする好例として、ジョセファスの問題を解くプログラムの実装がある。ジョセファスの問題とは、人間が輪になって並んでいる状況で、そこから1人を選ぶというものである。ある人を開始点として、特定の方向に n 人を数えていく。n 番目の人に到達したら、その人を輪から外して、残りの人間で一回り小さい輪を作る。そして再び n 番目まで数えていく。これを1人だけが残るまで繰り返し、最後に残った人が選ばれた人ということになる。これを循環リストを使って表すのは直接的で分かり易いし、ノードの削除も簡単である。しかし、循環リストでは、現在のノードから n 番目のノードを見つけるには、リストを順に辿っていくしかない。配列であればインデックスの計算で即座に見つけられる。一方、配列では要素(ノード)の削除は容易ではなく、n 番目のノードを即座に見つけるという利点を生かすには、ノードを削除したときに残った要素を詰めてやる必要がある。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "双方向リストはノード毎に要するメモリ量が多くなるし、基本的な操作にかかる手間が多くなる。しかし、どちらの方向にもシーケンシャルアクセス可能であるため、扱いやすくなることが多い。特に、あるノードの削除をする場合、そのノードのアドレスさえ分かっていれば、定数時間でそれが可能である。挿入の場合も、挿入する位置(そのノードの前に新たなノードを挿入する)が判っていれば、双方向リストでは定数時間で挿入が可能である。片方向リストでは、挿入・削除の際に1つ前のノードのアドレスも知る必要がある。アルゴリズムによっては双方向のアクセスが必須な場合もある。一方、双方向リストでは尾部の共有はできないので、永続データ構造としては使えない。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "循環リストは、本質的に環状の構造を表すのに適している。また、どのノードからでもリスト全体をたどることが可能である。また、(最後尾のノードを指す)ポインタを1つ保持しておけば、先頭と最後尾を同時に効率的にアクセス可能である。主な欠点は、繰り返し処理をする際に、微妙に複雑な配慮を要する点である。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "番兵ノードを使えば、全てのノードに次のノードや前のノードが存在することを保証でき、特定のリスト操作を単純化できる。しかし、(特に小さなリストを多数使用する場合)余分な領域を必要とするという欠点があり、他のリスト操作は逆に複雑化する。余分な領域を消費するのを防ぐため、番兵ノードはリストの先頭あるいは最後尾のノードへの参照として再利用されることがある。", "title": "トレードオフ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "連結リストを操作する場合、無効化され使われなくなった値の扱いに注意する必要がある。そのため、連結リストでの挿入・削除のアルゴリズムはある意味で巧妙である。ここでは、片方向リスト、双方向リスト、循環リストでのノードの追加と削除に関する擬似コードを示す。リストの終端を表すマーカー(あるいは番兵)としては \"null\" を使うが、その実装は様々なものが考えられる。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ここでのノードのデータ構造には2つのフィールドがある。また、List の \"firstNode\" というフィールドがリストの先頭ノード(空のリストの場合は \"null\")を指すとする。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "片方向リストを辿るのは単純で、先頭ノードから各ノードの \"next\" リンクを最後まで辿っていく。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "次のコードは片方向リスト上のあるノードの次に新たにノードを挿入する。あるノードの前にノードを挿入することはできない。その場合は挿入位置の前のノードを見つける必要がある。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "リストの先頭にノードを追加する場合、別の関数が必要である。この場合、firstNode を更新しなければならない。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同様に、指定されたノードの次のノードを削除する関数と、リストの先頭のノードを削除する関数を示す。特定のノードを探して削除する場合、その前のノードを覚えておく必要がある。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "removeBeginning() は、削除するノードが最後のノードだった場合、\"list.firstNode\" を \"null\" にする。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "逆方向に繰り返すことができないので、\"insertBefore\" や \"removeBefore\" といった操作を効率的に実装することはできない。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2つの片方向リストを連結したい場合、リストの最後尾を常に保持していないと効率的に処理できない。2つのリストがそれぞれ長さ n {\\displaystyle n} である場合、連結にかかる時間は O ( n ) {\\displaystyle O(n)} となる。LISP 系言語では、リストの連結には append を使う。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "片方向リストの操作は先頭ノードの扱いが特殊であるが、先頭にダミー要素を追加することでこれを排除できる。これによって、\"insertBeginning()\" や \"removeBeginning()\" が不要となる。この場合、最初のデータを持ったノードは \"list.firstNode.next\" で参照可能である。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "双方向リストでは更新すべきポインタが増えるが、逆方向のポインタでリスト上の前の要素を参照できるため、操作に必要な情報は少なくて済む。これにより、新たな操作が可能となり、特殊ケースの関数が不要になる。ノードには前の要素を指す \"prev\" フィールドが追加される。また リスト構造の \"lastNode\" が最後尾のノードを指す。空のリストの場合、\"list.firstNode\" も \"list.lastNode\" も \"null\" である。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "双方向リストでは双方向に繰り返しが可能である。方向は必要に応じて何度でも変えられる。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "順方向", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "逆方向", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "指定したノードの次に新たなノードを挿入する関数と、前に挿入する関数を示す。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "空のリストを含むリストの先頭に新たなノードを挿入する関数が必要となる。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "同様に、最後尾にノードを挿入する関数を示す。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ノードの削除は簡単で、firstNode と lastNode にだけ注意すればよい。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この手続きで、リストから1つだけ残っているノードを削除する場合、\"firstNode\" と \"lastNode\" が \"null\" に設定され、正しく処理が行われる。また、\"removeBefore\" や \"removeAfter\" といった手続きは不要であり、単に \"remove(node.prev)\" や \"remove(node.next)\" を呼び出せばよい。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "循環リストには、片方向のものと双方向のものがある。循環リストでは環状にノードが連結されているので、\"null\" は使わない。キューのような前後関係のあるリストでは、リストの最後尾ノードへの参照を保持する必要がある。循環リストでは最後尾ノードの次のノードは先頭ノードである。要素の最後尾への追加や先頭からの削除は定数時間で可能である。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "循環リストの利点は、任意のノードから開始してリスト全体をたどることができる点である。このため、\"firstNode\" や \"lastNode\" も保持する必要がないことが多いが、空のリストを表すには何らかの特別な表現が必要である。ここでは \"lastNode\" に \"null\" を格納することで空のリストを表す。これにより空でないリストでの追加・削除は大幅に単純化されるが、空のリストを特殊ケースとして扱う必要がある。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "someNode は空でないリストにある何らかのノードであるとする。ここでは任意の \"someNode\" から繰り返しを開始するものとしている。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "順方向", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "逆方向", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ループの最後で終了条件のチェックをしている点に注意されたい。これは、リストに \"someNode\" という1つのノードしかない場合に重要である。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "次の関数は双方向循環リスト上のノードの次に新たなノードを追加する。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "\"insertBefore\" を実現したければ、単に \"insertAfter(node.prev, newNode)\" を行えばよい。空のリストへのノードの追加は次の特殊関数が必要となる。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "先頭に挿入したければ、\"insertAfter(list.lastNode, node)\" を実行すればよい。ノードの削除では空のリストにうまく対処する必要がある。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "双方向リストと同様、\"removeAfter\" と \"removeBefore\" は \"remove(list, node.prev)\" と \"remove(list, node.next)\" で実現可能である。", "title": "連結リストの操作" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "参照型をサポートしていない言語でも、ポインタの代わりに配列にインデックスを使うことでリンクを実現できる。構造体の配列を用意し、リンク用フィールドには配列のインデックスを表す整数を保持することで次(あるいは前)のノードを指すものとする。配列にある全ノードを使う必要はない。構造体がサポートされていない場合、並列配列を代替として使うことができる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "例として、次の構造体を示す。ポインタの代わりに配列にインデックスを使っている。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この構造体の配列を生成し、リストの先頭のインデックスを保持する整数変数を用意すれば、連結リストを構築できる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "要素間のリンクはリスト上の次(または前)の要素の配列インデックスを Next あるいは Prev フィールドに格納することでなされる。例えば、次のようになる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この例で、ListHead は 2 になっており、そこがリストの先頭ノードである。3番と5から7番のエントリはリスト上に含まれていない。これらのセルはリストに新たに追加することが可能である。ListFree という整数変数を用意してフリーリストを構成しておくと扱いやすくなる。全てのエントリが使われている場合、配列の大きさを拡張するか、一部要素を削除して空きを作らないと、新たな要素をリストに追加できなくなる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "次のコードは、リストを辿って、name と balance を表示するものである。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "この手法の利点は次の通りである。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ただし、この方式にはノード群のためのメモリ領域管理を独自に行わなければならないという欠点がある。このため、次のような問題が生じる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "以上のような理由から、この手法は動的メモリ確保をサポートしていない言語で主に利用される。問題の多くは、配列生成時にリストの最大サイズが分かっている場合には問題ではなくなる。", "title": "ノードの配列を使った連結リスト" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "LISPやScheme、Prologといったプログラミング言語は、片方向リストを組み込みで装備している。多くの関数型言語では、リストを構成するノードを「consセル」と呼ぶ。consセルには \"car\" 部分と \"cdr\" 部分があり、\"car\" 部はそのノードのデータへの参照、\"cdr\" 部は次のノードへの参照を格納している。consセルは他のデータ構造にも使われるが、主な用途はリストを構成することである。", "title": "言語サポート" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "抽象データ型やテンプレートをサポートする言語では、連結リストの抽象データ型やテンプレートを使って、連結リストを構築できる。", "title": "言語サポート" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "オブジェクト指向プログラミング言語では、次のようなクラスが連結リスト用に用意されている。", "title": "言語サポート" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "以下に、C言語での片方向リストの例を示す。", "title": "言語サポート" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "連結リストを構築する際、データをノードそのものに格納するか、別のデータ構造への参照のみを格納するかという選択を迫られる。前者を「内部収納; internal storage」、後者を「外部収納; external storage」と呼ぶ。内部収納の方がデータアクセスが効率化され、全体としてメモリ使用量が低減され、参照の局所性が向上し、リストに関するメモリ管理も簡素化される(データはノードと共に確保・解放される)。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "一方、外部収納はより汎用的だという利点がある。データの内容に依存しないデータ構造とリスト操作コードを形成可能である。また、複数のノードで同じデータを共有することも容易に実現できる。内部収納の場合も、通常のリンクとは別に、同じ内容のデータを保持するノードを連結するフィールドを持てば、同様のことが可能になるが、リスト操作にあたってそれも考慮する必要が出てくる。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "一般に、データ構造を複数の連結リストに属させる必要がある場合、外部収納が最善の手法である。データ構造が1つの連結リストにしか属さない場合、内部収納の方が若干良いが、外部収納の汎用リスト操作パッケージが利用可能なら、それを利用するほうがよい場合もある。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "いくつかの言語で採用されている別の手法として、いくつかの種類のデータ構造があって、それらの先頭部分の同じ位置にリストのための \"next\" および \"prev\" のフィールドが存在する場合がある。この場合、リスト操作は汎用的なルーチンを使い、個々のノード内のデータは個別のルーチンで処理する。様々な種類のメッセージを受信する際の構文解析などでよく使われる。メッセージのキューへの追加と削除は汎用的なルーチンで行われる。メッセージの種類がメッセージの先頭にあり、それを見て適切なメッセージ処理ルーチンを呼び出す。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ここでは、家族とその構成員の連結リストを処理するコードを例として示す。内部収納の場合、構造体は次のようになる。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、内部収納の場合、次のようになる。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "外部収納を使うと、構造体は次のようになる。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、外部収納の場合、次のようになる。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "外部収納を使った場合、データ構造体を取り出して型変換するという余分なステップが必要になる。これは、2種類の連結リストが同じデータ構造(node)を使っているためである。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "あるメンバーがいくつの家族に属することができるかがコンパイル時に分かっている場合、内部収納の方が適している。しかし、1人のメンバーが任意の個数の家族に属する可能性がある場合、かつその数が実行時にならないと分からない場合、外部収納にする必要がある。", "title": "内部収納と外部収納" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "連結リストで特定の要素を探す場合、たとえそれがソート済みであっても一般に O(n) の時間を要する(線型探索)。これは連結リストの重大な欠点である。これを改善するいくつかの方法が存在する。", "title": "検索の高速化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ソートされていないリストでは、平均検索時間を短縮する単純なヒューリスティックとして \"Move To Front\" と呼ばれる手法がある。これは、1度検索して見つかったノードをリストの先頭に移動させるという方式である。これは一種の簡単なキャッシュ構成法であり、最も後に検索したノードを再度検索する場合に高速化される。", "title": "検索の高速化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "もう1つの一般的な手法は、より効率的な外部のデータ構造を使ってノードにインデックスを付けるというものである。例えば、赤黒木やハッシュテーブルを構築し、その要素が連結リストの各ノードへの参照を持つようにする。1つのリストに対して、そのようなインデックスを複数構築できる。この手法の欠点は、ノードの追加や削除の度にインデックス側の更新が必要となる点である。少なくともインデックスを再利用する前に更新が必要である。", "title": "検索の高速化" } ]
連結リスト(れんけつリスト、は、最も基本的なデータ構造の1つであり、他のデータ構造の実装に使われる。リンクリスト、リンクトリストとも表記される。 一連のノードが、任意のデータフィールド群を持ち、1つか2つの参照により次のノードを指している。連結リストの主な利点は、リスト上のノードを様々な順番で検索可能な点である。連結リストは自己参照型のデータ型であり、同じデータ型の別のノードへのリンクを含んでいる。連結リストは場所が分かっていれば、ノードの挿入や削除を定数時間で行うことができる。連結リストにはいくつかの種類があり、片方向リスト、双方向リスト、線形リスト、循環リストなどがある。 連結リストは多くのプログラミング言語で実装可能である。LISP や Scheme 、Prologといった言語は組み込みでこのデータ構造を持っていて、連結リストにアクセスするための操作も組み込まれている。
{{読み仮名|'''連結リスト'''|れんけつリスト|{{lang-en|Linked list}}}}は、最も基本的な[[データ構造]]の1つであり、他のデータ構造の実装に使われる。'''リンクリスト'''、'''リンクトリスト'''とも表記される。 一連の[[ノード]]{{要曖昧さ回避|date=2021年10月}}が、任意の[[データ]][[フィールド (計算機科学)|フィールド]]群を持ち、1つか2つの[[参照 (情報工学)|参照]](リンク)により次(および前)のノードを指している。連結リストの主な利点は、リスト上のノードを様々な順番で検索可能な点である。連結リストは[[自己参照]]型の[[データ型]]であり、同じデータ型の別のノードへのリンク(または[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]])を含んでいる。連結リストは場所が分かっていれば、ノードの挿入や削除を定数時間で行うことができる(場所を探すのにかかる時間はリスト上の順番の条件などにも依存するし、後述する片方向リストなのか双方向リストなのかにも依存する)。連結リストにはいくつかの種類があり、'''片方向リスト'''、'''双方向リスト'''、'''線形リスト'''、'''循環リスト'''などがある。 連結リストは多くの[[プログラミング言語]]で実装可能である。[[LISP]] や [[Scheme]] 、[[Prolog]]といった言語は組み込みでこのデータ構造を持っていて、連結リストにアクセスするための操作も組み込まれている。 == 歴史 == 線形リストは、1955年から1956年ごろ、[[ランド研究所]]にて[[アレン・ニューウェル]]、Cliff Shaw、[[ハーバート・サイモン]]が [[Information Processing Language]] (IPL) の主要データ構造として開発したのが最初である。IPL はいくつかの初期の[[人工知能]]プログラム([[General Problem Solver]] など)で使われた。線形リストを箱と矢印で表すという今ではお馴染みの記法は、1957年2月の "Proceedings of the Western Joint Computer Conference" に掲載されたニューウェルと Shaw の "Programming the Logic Theory Machine" という論文で使われている。ニューウェルとサイモンは1975年、「人工知能、認知心理学、リスト処理の基盤を築いた」ことに対して[[チューリング賞]]を受賞した。 [[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) の Victor Yngve は、[[自然言語処理]]、特に[[機械翻訳]]向けに開発した COMIT という[[言語学]]向けのプログラミング言語で線形リストをデータ構造として使っている。これに関する論文は1958年、"Mechanical Translation" に "A programming language for mechanical translation" と題して掲載された。 1958年、[[ジョン・マッカーシー]]が MIT で開発した[[LISP]]は "list processor" の略であり、1960年に "Communications of the ACM" にその設計に関する論文 "Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine, Part I" が掲載された。LISP の主要なデータ構造の一つとして線形リストが採用されている。 1960年代初期までに、線形リストやそれを基本的なデータ構造とする言語が一般化した。MIT [[リンカーン研究所]]の Bert Green は1961年3月、"IRE Transactions on Human Factors in Electronics" に "Computer languages for symbol manipulation" という論文を書き、線形リストを使った手法の利点をまとめている。同様の論文は1964年4月、''Communications of the ACM'' に Bobrow と Raphael の "A Comparison of list-processing computer languages" が掲載されている。 Technical Systems Consultants (TSC) 社は、片方向リストをファイル構造に利用した[[オペレーティングシステム]] [[FLEX (オペレーティングシステム)|FLEX]]を開発した。[[ディレクトリ]]が[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]の第一セクターを指し、その後のファイルの中身も線形リストのポインタを辿ることで得られるようになっていた。FLEX から派生したオペレーティングシステムとして Smoke Signal Broadcasting社が開発したものがあるが、こちらは双方向リストを同じ用途に使っていた。 [[IBM]]社が [[System/360]]や[[System/370]]向けに開発した[[タイムシェアリングシステム|TSS]]でも、[[ファイルシステム]]に双方向リストを使っていた。そのディレクトリ構造は [[UNIX]] のものと似ており、ディレクトリはファイルや他のディレクトリを格納でき、任意の深さまで階層構造を作ることができた。システムがクラッシュしたとき、このファイルシステム構造の一部がディスクに書き戻されていない場合があり、これを修復するためのユーティリティ "flea" が開発された。これは双方リストの前方リンクと後方リンクの一貫性をチェックすることで問題を検出する。 == 種類 == === 線形リスト === 線形リストには、片方向リストと双方向リストがあり、どちらも任意の位置でデータの追加・削除が"[[ランダウの記号|O]](1)"時間でできるのが特長である。しかし、[[ソート]]された[[配列]]や[[木構造 (データ構造)|木構造]]と違い、データの検索は''O(n)''時間かかってしまうという欠点がある(ソートされていない配列は線形リストと同じ"O(n)"の検索時間である)。 ==== 片方向リスト ==== '''片方向リスト'''(singly-linked list)は、最も単純な連結リストであり、ノード毎に1つのリンクを持つ。このリンクはリスト上の次のノードを指し、リストの最後尾なら[[Null]]値を格納するか、空のリストを指す。 <div class="center">[[ファイル:Singly-linked-list.svg]]<br /><span style="font-size:90%;">''3つの整数値を格納した片方向リスト''</span></div> ==== 双方向リスト ==== '''双方向リスト'''(doubly-linked list)は、より洗練された連結リスト。各ノードには2つのリンクがあり、1つが次のノード(前方リンク)、もう1つが後ろのノード(後方リンク)を指す。リストの先頭のノードには後ろのノードがないので、後方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。リストの最後尾のノードには次のノードがないので、前方リンクにはヌル値を格納するか、空のリストを指す。 <div class="center">[[File:Doubly-linked-list.svg]]<br /><span style="font-size:90%;">''3つの整数値を格納した双方向リスト''</span></div> 低レベルの言語の中には、[[XOR連結リスト]]を使って双方向リストの2つのリンクを1つのワードで表せるようにしたものもあるが、この技法は一般には使われない。 === 循環リスト === '''循環リスト'''(circularly-linked list)では、先頭と最後尾のノードを相互に連結する。循環リストには片方向のものも双方向のものもある。循環リストを辿る場合、任意のノードから出発して、好きな方向にたどっていき、最初のノードに戻ってくるまで続ける。つまり、循環リストは先頭や最後尾といったものが存在しないリストと考えることもできる。循環リストはデータ格納用[[バッファ]]の管理によく使われ、1つのノードを使っているスレッド(やプロセス)が他のノードを全て参照したい場合などに便利である。 リスト全体を指すポインタは、アクセスポインタと呼ばれることがある。 <div class="center">[[File:Circularly-linked-list.svg]]<br /><span style="font-size:90%;">''3つの整数値を格納した循環リスト''</span></div> ==== 片方向循環リスト ==== '''片方向循環リスト'''(singly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の片方向リストと同じように1つのリンクを持つが、最後尾のノードは先頭のノードをリンクしている。片方向リストと同様、新たなノードを挿入する場合、既に参照を持っているノードの次の位置にのみ挿入できる。このため、片方向循環リストでは、最後尾のノードを指している参照を保持しておくことが多く、それによって、先頭位置に高速に挿入可能とするだけでなく、先頭ノードから最後尾のノードまでを順に辿ることも可能にしている。 <ref name="bruno99">{{Citation | title=Data Structures and Algorithms with Object-Oriented Design Patterns in Java | url=http://www.brpreiss.com/books/opus5/html/page97.html | first=Bruno R. | last=Preiss | isbn=0471-34613-6 | publisher=Wiley | date=1999年 | page= page 97, 165 }} </ref> ==== 双方向循環リスト ==== '''双方向循環リスト'''(doubly-circularly-linked list)では、各ノードは線形の双方向リストと同じように2つのリンクを持つが、先頭ノードの後方リンクは最後尾ノードを指し、最後尾ノードの前方リンクは先頭ノードを指す。双方向リストと同様、挿入も削除もその位置に隣接するノードへの参照が1つあれば、高速に行える。構造的には双方向循環リストには先頭も最後尾もないが、一般に外部のアクセスポインタを用意して、先頭または最後尾のノードを指しておくことが多い。そして、双方向リストでの[[番兵]]ノードのように順序を把握するのに使われる<ref name="bruno99" />。 === 番兵ノード === 線形リストには「ダミーノード」または「[[番兵]]ノード; sentinel node」と呼ばれるものが、リストの先頭や最後尾に置かれることがある。番兵ノードにはデータは格納されない。その目的は、全てのノードのリンクが常にノードのデータ構造を指していることを保証して、いくつかの操作を高速化することである。[[LISP]]ではそのような設計がされており、nil と呼ばれる特別な値は片方向リストの最後尾を示すと決められている。nil は CAR 操作でも CDR 操作でも nil を返すため、一部の操作を高速化できる。最後尾が nil でないリストは不適切(improper)である(不適切とは言っても使えないということではない)。 == 応用 == 連結リストは他のデータ構造の構成要素として使われる。例えば、[[スタック]]、[[キュー (コンピュータ)|キュー]]などである。 ノードのデータ部が別の連結リスト(へのポインタ)という構成も可能である。これを応用すると様々なデータ構造をリストで構成できる。これは[[LISP]]を起源とする方法であり、LISP では連結リストは主要なデータ構造とされ、今では[[関数型言語]]で一般に使われている。 連結リストを使って[[連想配列]]を実装することもあり、これを'''連想リスト'''(association list)と呼ぶ。このような連結リストの応用にはあまり利点がない。[[平衡2分探索木]]などのデータ構造の方が、ごく小さいデータ量であっても性能的に優れている。しかし、木構造のサブセットという範囲を超えて連結リストを動的に生成することもあり、より効率的にそのような構成のデータを扱うのに使われる。 == トレードオフ == コンピュータプログラミングと設計におけるほとんどの選択と同様、あらゆる状況に適した方法は存在しない。連結リストというデータ構造も状況によってはうまく機能するが、別の状況には適さない。以下では、連結リスト構造に関するトレードオフについて説明する。一般に動的に変化するデータの集まりがあって、要素の追加・削除が頻繁に行われ、新たな要素を追加する位置が重要となる場合、連結リストが適しているといえる。 === 連結リストと配列 === {|style="float: right" class="wikitable" ! !! 配列 !! 連結リスト |- | 検索 || O(1) || O(''n'') |- | 最後尾での挿入/削除 || O(1) || O(1) or O(''n'')<ref>最後尾へのリンクを保持していれば O(1) だが、最後尾を探すために先頭から辿る必要がある場合は O(n)</ref> |- | 途中での挿入/削除(位置指定あり) || O(''n'') || O(1) |- | [[永続性 (計算機科学)|永続性]] || なし || 片方向で有り |- | [[参照の局所性|局所性]] || 大 || 小 |} 連結リストは[[配列]]と比較したとき、いくつかの利点を持つ。リストでは要素の挿入は無制限に可能であるが、配列はサイズが決まっているために限界があり、配列を大きくしようとしても、メモリの[[フラグメンテーション]]によって不可能なこともある。同様に、配列から要素の多くを削除すると領域の無駄となったり、サイズを小さくする必要が生じる。 複数のリストが尾部を共有することで、さらにメモリを節約できる場合もある。つまり、先頭が複数あって、末尾が1つになっている構造が可能である。これを使って、何らかのデータの古いバージョンと新しいバージョンを同時に保持することが可能であり、簡単な[[永続データ構造]]の例となっている。 一方、配列は[[ランダムアクセス]]性に優れており、連結リストが[[シーケンシャルアクセス]]を得意とするのと対照的である。片方向リストは一方向にしか辿れない。従って、[[ヒープソート]]のようにインデックスによって高速に要素を参照する必要がある場合、連結リストは不向きである。シーケンシャルアクセスも多くのマシン上では、連結リストよりも配列の方が高速である。これは、[[キャッシュメモリ]]の効果と[[参照の局所性]]によるものである。連結リストはキャッシュメモリからはほとんど何も恩恵を受けない。 連結リストの別の欠点は、参照のための余分な領域を必要とする点である。このため、[[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクタ]]や[[ブーリアン型]]のような小さなデータ要素を連結リストで操作するのは(1文字ごとにノードを割り当てて文字列操作を実現するなど)、速度の面でもメモリ消費の面でも無駄が多く、現実的でない。 これらの問題の一部を改善する連結リストの派生データ構造がいくつか存在する。[[Unrolled linked list]] は各ノードに複数の要素を格納するもので、キャッシュ性能を向上させ、参照時のメモリのオーバヘッドを低減させる。[[CDRコーディング]]も参照を参照すべき実データと置換することで同様の効果が得られる。 配列との比較で利点と欠点を明確にする好例として、[[ジョセファスの問題]]を解くプログラムの実装がある。ジョセファスの問題とは、人間が輪になって並んでいる状況で、そこから1人を選ぶというものである。ある人を開始点として、特定の方向に ''n'' 人を数えていく。''n'' 番目の人に到達したら、その人を輪から外して、残りの人間で一回り小さい輪を作る。そして再び ''n'' 番目まで数えていく。これを1人だけが残るまで繰り返し、最後に残った人が選ばれた人ということになる。これを循環リストを使って表すのは直接的で分かり易いし、ノードの削除も簡単である。しかし、循環リストでは、現在のノードから ''n'' 番目のノードを見つけるには、リストを順に辿っていくしかない。配列であればインデックスの計算で即座に見つけられる。一方、配列では要素(ノード)の削除は容易ではなく、''n'' 番目のノードを即座に見つけるという利点を生かすには、ノードを削除したときに残った要素を詰めてやる必要がある。 === 双方向と片方向 === 双方向リストはノード毎に要するメモリ量が多くなるし、基本的な操作にかかる手間が多くなる。しかし、どちらの方向にもシーケンシャルアクセス可能であるため、扱いやすくなることが多い。特に、あるノードの削除をする場合、そのノードのアドレスさえ分かっていれば、[[定数時間]]でそれが可能である。挿入の場合も、挿入する位置(そのノードの前に新たなノードを挿入する)が判っていれば、双方向リストでは定数時間で挿入が可能である。片方向リストでは、挿入・削除の際に1つ前のノードのアドレスも知る必要がある。[[アルゴリズム]]によっては双方向のアクセスが必須な場合もある。一方、双方向リストでは尾部の共有はできないので、永続データ構造としては使えない。 === 循環と線形 === 循環リストは、本質的に環状の構造を表すのに適している。また、どのノードからでもリスト全体をたどることが可能である。また、(最後尾のノードを指す)ポインタを1つ保持しておけば、先頭と最後尾を同時に効率的にアクセス可能である。主な欠点は、繰り返し処理をする際に、微妙に複雑な配慮を要する点である。 === 番兵ノード === 番兵ノードを使えば、全てのノードに次のノードや前のノードが存在することを保証でき、特定のリスト操作を単純化できる。しかし、(特に小さなリストを多数使用する場合)余分な領域を必要とするという欠点があり、他のリスト操作は逆に複雑化する。余分な領域を消費するのを防ぐため、番兵ノードはリストの先頭あるいは最後尾のノードへの参照として再利用されることがある。 == 連結リストの操作 == 連結リストを操作する場合、無効化され使われなくなった値の扱いに注意する必要がある。そのため、連結リストでの挿入・削除のアルゴリズムはある意味で巧妙である。ここでは、片方向リスト、双方向リスト、循環リストでのノードの追加と削除に関する[[擬似コード]]を示す。リストの終端を表すマーカー(あるいは番兵)としては "null" を使うが、その実装は様々なものが考えられる。 === 線形リスト === ==== 片方向リスト ==== ここでのノードのデータ構造には2つのフィールドがある。また、List の "firstNode" というフィールドがリストの先頭ノード(空のリストの場合は "null")を指すとする。 '''record''' ''Node'' { data // ノードに格納されるデータ next // 次のノードへの[[参照 (情報工学)|参照]](最後尾の場合は null) } '''record''' ''List'' { ''Node'' firstNode // リストの先頭ノードを指す(空のリストの場合は null) } 片方向リストを辿るのは単純で、先頭ノードから各ノードの "next" リンクを最後まで辿っていく。 node := list.firstNode '''while''' node ≠ null { ''(node.data に何かをする)'' node := node.next } 次のコードは片方向リスト上のあるノードの次に新たにノードを挿入する。あるノードの前にノードを挿入することはできない。その場合は挿入位置の前のノードを見つける必要がある。 [[File:CPT-LinkedLists-addingnode.svg|center]] '''function''' insertAfter(''Node'' node, ''Node'' newNode) { // newNode を node の次に挿入 newNode.next := node.next node.next := newNode } リストの先頭にノードを追加する場合、別の関数が必要である。この場合、firstNode を更新しなければならない。 '''function''' insertBeginning(''List'' list, ''Node'' newNode) { // 現在の先頭ノードの前にノードを挿入 newNode.next := list.firstNode list.firstNode := newNode } 同様に、指定されたノードの次のノードを削除する関数と、リストの先頭のノードを削除する関数を示す。特定のノードを探して削除する場合、その前のノードを覚えておく必要がある。 [[File:CPT-LinkedLists-deletingnode.svg|center]] '''function''' removeAfter(''Node'' node) { // このノードの次のノードを削除 obsoleteNode := node.next node.next := node.next.next destroy obsoleteNode } '''function''' removeBeginning(''List'' list) { // 先頭ノードを削除 obsoleteNode := list.firstNode list.firstNode := list.firstNode.next // 削除されるノードの次を指す destroy obsoleteNode } removeBeginning() は、削除するノードが最後のノードだった場合、"list.firstNode" を "null" にする。 逆方向に繰り返すことができないので、"insertBefore" や "removeBefore" といった操作を効率的に実装することはできない。 2つの片方向リストを連結したい場合、リストの最後尾を常に保持していないと効率的に処理できない。2つのリストがそれぞれ長さ <math>n</math> である場合、連結にかかる時間は <math>O(n)</math> となる。LISP 系言語では、リストの連結には <code>append</code> を使う。 片方向リストの操作は先頭ノードの扱いが特殊であるが、先頭にダミー要素を追加することでこれを排除できる。これによって、"insertBeginning()" や "removeBeginning()" が不要となる。この場合、最初のデータを持ったノードは "list.firstNode.next" で参照可能である。 ==== 双方向リスト ==== 双方向リストでは更新すべきポインタが増えるが、逆方向のポインタでリスト上の前の要素を参照できるため、操作に必要な情報は少なくて済む。これにより、新たな操作が可能となり、特殊ケースの関数が不要になる。ノードには前の要素を指す "prev" フィールドが追加される。また リスト構造の "lastNode" が最後尾のノードを指す。空のリストの場合、"list.firstNode" も "list.lastNode" も "null" である。 '''record''' ''Node'' { data // ノードに格納されるデータ next // 次のノードへの[[参照 (情報工学)|参照]](最後尾の場合は null) prev // 前のノードへの参照(先頭の場合は null) } '''record''' ''List'' { ''Node'' firstNode // リストの先頭ノードを指す(空のリストの場合は null) ''Node'' lastNode // リストの最後尾ノードを指す(空のリストの場合は null) } 双方向リストでは双方向に繰り返しが可能である。方向は必要に応じて何度でも変えられる。 ''順方向'' node := list.firstNode '''while''' node ≠ '''null''' <node.data に対して何か行う> node := node.next ''逆方向'' node := list.lastNode '''while''' node ≠ '''null''' <node.data に対して何か行う> node := node.prev 指定したノードの次に新たなノードを挿入する関数と、前に挿入する関数を示す。 '''function''' insertAfter(''List'' list, ''Node'' node, ''Node'' newNode) newNode.prev := node newNode.next := node.next '''if''' node.next = '''null''' list.lastNode := newNode '''else''' node.next.prev := newNode node.next := newNode '''function''' insertBefore(''List'' list, ''Node'' node, ''Node'' newNode) newNode.prev := node.prev newNode.next := node '''if''' node.prev is null list.firstNode := newNode '''else''' node.prev.next := newNode node.prev := newNode 空のリストを含むリストの先頭に新たなノードを挿入する関数が必要となる。 '''function''' insertBeginning(''List'' list, ''Node'' newNode) '''if''' list.firstNode = '''null''' list.firstNode := newNode list.lastNode := newNode newNode.prev := null newNode.next := null '''else''' insertBefore(list, list.firstNode, newNode) 同様に、最後尾にノードを挿入する関数を示す。 '''function''' insertEnd(''List'' list, ''Node'' newNode) '''if''' list.lastNode = '''null''' insertBeginning(list, newNode) '''else''' insertAfter(list, list.lastNode, newNode) ノードの削除は簡単で、''firstNode'' と ''lastNode'' にだけ注意すればよい。 '''function''' remove(''List'' list, ''Node'' node) '''if''' node.prev = '''null''' list.firstNode := node.next '''else''' node.prev.next := node.next '''if''' node.next = '''null''' list.lastNode := node.prev '''else''' node.next.prev := node.prev destroy node この手続きで、リストから1つだけ残っているノードを削除する場合、"firstNode" と "lastNode" が "null" に設定され、正しく処理が行われる。また、"removeBefore" や "removeAfter" といった手続きは不要であり、単に "remove(node.prev)" や "remove(node.next)" を呼び出せばよい。 === 循環リスト === 循環リストには、片方向のものと双方向のものがある。循環リストでは環状にノードが連結されているので、"null" は使わない。キューのような前後関係のあるリストでは、リストの最後尾ノードへの参照を保持する必要がある。循環リストでは最後尾ノードの次のノードは先頭ノードである。要素の最後尾への追加や先頭からの削除は定数時間で可能である。 循環リストの利点は、任意のノードから開始してリスト全体をたどることができる点である。このため、"firstNode" や "lastNode" も保持する必要がないことが多いが、空のリストを表すには何らかの特別な表現が必要である。ここでは "lastNode" に "null" を格納することで空のリストを表す。これにより空でないリストでの追加・削除は大幅に単純化されるが、空のリストを特殊ケースとして扱う必要がある。 ==== 双方向循環リスト ==== ''someNode'' は空でないリストにある何らかのノードであるとする。ここでは任意の "someNode" から繰り返しを開始するものとしている。 ''順方向'' node := someNode '''do''' node.value について何か行う node := node.next '''while''' node ≠ someNode ''逆方向'' node := someNode '''do''' node.value について何か行う node := node.prev '''while''' node ≠ someNode ループの最後で終了条件のチェックをしている点に注意されたい。これは、リストに "someNode" という1つのノードしかない場合に重要である。 次の関数は双方向循環リスト上のノードの次に新たなノードを追加する。 '''function''' insertAfter(''Node'' node, ''Node'' newNode) newNode.next := node.next newNode.prev := node node.next.prev := newNode node.next := newNode "insertBefore" を実現したければ、単に "insertAfter(node.prev, newNode)" を行えばよい。空のリストへのノードの追加は次の特殊関数が必要となる。 '''function''' insertEnd(''List'' list, ''Node'' node) '''if''' list.lastNode = '''null''' node.prev := node node.next := node '''else''' insertAfter(list.lastNode, node) list.lastNode := node 先頭に挿入したければ、"insertAfter(list.lastNode, node)" を実行すればよい。ノードの削除では空のリストにうまく対処する必要がある。 '''function''' remove(''List'' list, ''Node'' node) '''if''' node.next = node list.lastNode := '''null''' '''else''' node.next.prev := node.prev node.prev.next := node.next '''if''' node = list.lastNode list.lastNode := node.prev; destroy node 双方向リストと同様、"removeAfter" と "removeBefore" は "remove(list, node.prev)" と "remove(list, node.next)" で実現可能である。 == ノードの配列を使った連結リスト == [[参照 (情報工学)|参照]]型をサポートしていない言語でも、ポインタの代わりに配列にインデックスを使うことでリンクを実現できる。[[構造体]]の[[配列]]を用意し、リンク用フィールドには配列のインデックスを表す整数を保持することで次(あるいは前)のノードを指すものとする。配列にある全ノードを使う必要はない。構造体がサポートされていない場合、[[並列配列]]を代替として使うことができる。 例として、次の構造体を示す。ポインタの代わりに配列にインデックスを使っている。 '''record''' ''Entry'' { ''integer'' next; // 次のエントリの配列インデックス ''integer'' prev; // 前のエントリ(双方向の場合) ''string'' name; ''real'' balance; } この構造体の配列を生成し、リストの先頭のインデックスを保持する整数変数を用意すれば、連結リストを構築できる。 ''integer'' listHead; ''Entry'' Records[1000]; 要素間のリンクはリスト上の次(または前)の要素の配列インデックスを Next あるいは Prev フィールドに格納することでなされる。例えば、次のようになる。 {| class="wikitable" !インデックス!!Next!!Prev!!Name!!Balance |- |0||1||4||Jones, John||123.45 |- |1|| -1||0||Smith, Joseph||234.56 |- |2 (listHead)||4|| -1||Adams, Adam||0.00 |- |3|| || ||Ignore, Ignatius||999.99 |- |4||0||2||Another, Anita||876.54 |- |5|| || || || |- |6|| || || || |- |7|| || || || |} この例で、<code>ListHead</code> は 2 になっており、そこがリストの先頭ノードである。3番と5から7番のエントリはリスト上に含まれていない。これらのセルはリストに新たに追加することが可能である。<code>ListFree</code> という整数変数を用意してフリーリストを構成しておくと扱いやすくなる。全てのエントリが使われている場合、配列の大きさを拡張するか、一部要素を削除して空きを作らないと、新たな要素をリストに追加できなくなる。 次のコードは、リストを辿って、name と balance を表示するものである。 i := listHead; '''while''' i >= 0 { // リスト上をループする print i, Records[i].name, Records[i].balance // エントリの印字 i = Records[i].next; } この手法の利点は次の通りである。 * リンクとしてアドレスを使っていないので、リロケータブル(メモリ上でコピー可能)である。また、直接[[シリアライズ]]してディスクやネットワークに転送可能である。 * 小さいリストの場合、配列インデックスの方がポインタよりも小さくて済むことが多い。 * ノードがメモリ上に連続して存在するため、[[参照の局所性]]が向上する可能性がある。 * 素朴な[[動的メモリ確保]]でノード用にメモリを割り当てると無駄が生じる可能性があるが、この方式ではノード毎のオーバーヘッドはほとんどない。 * 事前に配列として確保されている範囲では、動的メモリ確保よりもノードの生成が高速化される。 ただし、この方式にはノード群のためのメモリ領域管理を独自に行わなければならないという欠点がある。このため、次のような問題が生じる。 * 実装が複雑になる。 * 全ノードを使い切ったとき、配列の拡張が困難か不可能な場合がある。汎用のメモリプールからノード用にメモリを確保するほうが容易である。 * 動的配列に要素を追加しようとすると、予期しないタイミングで定数時間ではなく線形時間([[ランダウの記号|O]](n))がかかってしまう(平均すれば定数時間と言える)。 * 予想したよりもノード数の使用量が少ないと、メモリを無駄に確保することになる。 以上のような理由から、この手法は動的メモリ確保をサポートしていない言語で主に利用される。問題の多くは、配列生成時にリストの最大サイズが分かっている場合には問題ではなくなる。 == 言語サポート == [[LISP]]や[[Scheme]]、[[Prolog]]といった[[プログラミング言語]]は、片方向リストを組み込みで装備している。多くの[[関数型言語]]では、リストを構成するノードを「[[Cons (Lisp)|cons]]セル」と呼ぶ。consセルには [[CARとCDR|"car" 部分と "cdr" 部分]]があり、"car" 部はそのノードのデータへの参照、"cdr" 部は次のノードへの参照を格納している。consセルは他のデータ構造にも使われるが、主な用途はリストを構成することである。 [[抽象データ型]]やテンプレートをサポートする言語では、連結リストの抽象データ型やテンプレートを使って、連結リストを構築できる。 [[オブジェクト指向プログラミング]]言語では、次のようなクラスが連結リスト用に用意されている。 * [[C++]]([[Standard Template Library|STL]]) - <tt>std::list<T></tt>クラス(<tt><list></tt>) * [[Java]] - <tt>java.util.{{Javadoc:SE|java/util|LinkedList}}</tt>クラス * [[.NET Framework|.NET]] - <tt>System.Collections.Generic.LinkedList<T></tt>クラス 以下に、[[C言語]]での片方向リストの例を示す。 <syntaxhighlight lang='C'> #include <stdio.h> /* for printf */ #include <stdlib.h> /* for malloc */ typedef struct ns { int data; struct ns *next; } node; node *list_add(node **p, int i) { /* add head */ node *n = malloc(sizeof(node)); /* you normally don't cast a return value for malloc */ n->next = *p; *p = n; n->data = i; return n; } node *list_add_tail(node **p, int i) { /* add tail */ node *n; node *ptr; if (*p == NULL) { n = list_add(p, i); } else { ptr = *p; while (ptr->next != NULL) { ptr = ptr->next; } n = malloc(sizeof(node)); n->next = NULL; n->data = i; ptr->next = n; } return n; } void list_remove(node **p) { /* remove head */ if (*p != NULL) { node *n = *p; *p = (*p)->next; free(n); } } void list_remove_tail(node **p) { /* remove tail */ if (*p != NULL) { if( (*p)->next == NULL ) { list_remove(p); } else { node *ptr = *p; node *pre; while (ptr->next != NULL) { pre = ptr; ptr = ptr->next; } pre->next = NULL; free(ptr); } } } void list_remove_all(node **p) { /* remove all node */ while (*p != NULL) { list_remove(p); } } node **list_search(node **n, int i) { while (*n != NULL) { if ((*n)->data == i) { return n; } n = &(*n)->next; } return NULL; } void list_print(node *n) { if (n == NULL) { printf("list is empty\n"); } while (n != NULL) { printf("print %p %p %d\n", n, n->next, n->data); n = n->next; } } int main(void) { node *n = NULL; list_add(&n, 0); /* list: 0 */ list_add(&n, 1); /* list: 1 0 */ list_add(&n, 2); /* list: 2 1 0 */ list_add(&n, 3); /* list: 3 2 1 0 */ list_add(&n, 4); /* list: 4 3 2 1 0 */ list_print(n); list_remove(&n); /* remove first (4) */ list_remove(&n->next); /* remove new second (2) */ list_remove(list_search(&n, 1)); /* remove cell containing 1 (first) */ list_remove(&n->next); /* remove second to last node (0) */ list_remove(&n); /* remove last (3) */ list_print(n); return 0; } </syntaxhighlight> == 内部収納と外部収納 == {{出典の明記|section=1|date=2019-04}} <!-- コンピュータサイエンスの分野では、storage は通例「記憶域」と訳す。英語版Wikipediaからの直訳らしいが、そもそもの出典が不明。英語版の定義の時点で怪しい。 --> 連結リストを構築する際、データをノードそのものに格納するか、別のデータ構造への参照のみを格納するかという選択を迫られる。前者を「{{要出典範囲|date=2019-04|内部収納; internal storage}}」、後者を「{{要出典範囲|date=2019-04|外部収納; external storage}}」と呼ぶ。内部収納の方がデータアクセスが効率化され、全体としてメモリ使用量が低減され、[[参照の局所性]]が向上し、リストに関するメモリ管理も簡素化される(データはノードと共に確保・解放される)。 一方、外部収納はより汎用的だという利点がある。データの内容に依存しないデータ構造とリスト操作コードを形成可能である。また、複数のノードで同じデータを共有することも容易に実現できる。内部収納の場合も、通常のリンクとは別に、同じ内容のデータを保持するノードを連結するフィールドを持てば、同様のことが可能になるが、リスト操作にあたってそれも考慮する必要が出てくる。 一般に、データ構造を複数の連結リストに属させる必要がある場合、外部収納が最善の手法である。データ構造が1つの連結リストにしか属さない場合、内部収納の方が若干良いが、外部収納の汎用リスト操作パッケージが利用可能なら、それを利用するほうがよい場合もある。 いくつかの言語で採用されている別の手法として、いくつかの種類のデータ構造があって、それらの先頭部分の同じ位置にリストのための "next" および "prev" のフィールドが存在する場合がある。この場合、リスト操作は汎用的なルーチンを使い、個々のノード内のデータは個別のルーチンで処理する。様々な種類のメッセージを受信する際の[[構文解析]]などでよく使われる。メッセージのキューへの追加と削除は汎用的なルーチンで行われる。メッセージの種類がメッセージの先頭にあり、それを見て適切なメッセージ処理ルーチンを呼び出す。 === 内部収納と外部収納の例 === ここでは、家族とその構成員の連結リストを処理するコードを例として示す。内部収納の場合、構造体は次のようになる。 '''record''' ''member'' { // 家族のメンバー ''member'' next ''string'' firstName ''integer'' age } '''record''' ''family'' { // 家族 ''family'' next ''string'' lastName ''string'' address ''member'' members // この家族のメンバーのリストの先頭 } 家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、内部収納の場合、次のようになる。 aFamily := Families // 家族リストの先頭から開始 '''while''' aFamily ≠ '''null''' { // 家族リスト上でループ 家族に関する情報を印字 aMember := aFamily.members // その家族のメンバーのリストの先頭を得る '''while''' aMember ≠ '''null''' { // メンバーのリスト上でループ メンバーに関する情報を印字 aMember := aMember.next } aFamily := aFamily.next } 外部収納を使うと、構造体は次のようになる。 '''record''' ''node'' { // 汎用リンク構造体 ''node'' next ''pointer'' data // ノードに付属するデータを指す汎用ポインタ } '''record''' ''member'' { // 家族構成員に関する構造体 ''string'' firstName ''integer'' age } '''record''' ''family'' { // 家族に関する構造体 ''string'' lastName ''string'' address ''node'' members // この家族のメンバーのリストの先頭 } 家族のリストと各家族のメンバーを表示するルーチンは、外部収納の場合、次のようになる。 famNode := Families // 家族リストの先頭から開始 '''while''' famNode ≠ '''null''' { // 家族リスト上でループ aFamily = (family)famNode.data // ノードから家族データ構造体を取り出す 家族に関する情報を印字 memNode := aFamily.members // その家族のメンバーのリストの先頭を得る '''while''' memNode ≠ '''null''' { // メンバーのリスト上でループ'' aMember := (member)memNode.data // ノードからメンバーデータ構造体を取り出す メンバーに関する情報を印字 memNode := memNode.next } famNode := famNode.next } 外部収納を使った場合、データ構造体を取り出して型変換するという余分なステップが必要になる。これは、2種類の連結リストが同じデータ構造(node)を使っているためである。 あるメンバーがいくつの家族に属することができるかがコンパイル時に分かっている場合、内部収納の方が適している。しかし、1人のメンバーが任意の個数の家族に属する可能性がある場合、かつその数が実行時にならないと分からない場合、外部収納にする必要がある。 == 検索の高速化 == 連結リストで特定の要素を探す場合、たとえそれが[[ソート]]済みであっても一般に O(n) の時間を要する([[線型探索]])。これは連結リストの重大な欠点である。これを改善するいくつかの方法が存在する。 ソートされていないリストでは、平均検索時間を短縮する単純なヒューリスティックとして "[[Move To Front]]" と呼ばれる手法がある。これは、1度検索して見つかったノードをリストの先頭に移動させるという方式である。これは一種の簡単なキャッシュ構成法であり、最も後に検索したノードを再度検索する場合に高速化される。 もう1つの一般的な手法は、より効率的な外部のデータ構造を使ってノードにインデックスを付けるというものである。例えば、[[赤黒木]]や[[ハッシュテーブル]]を構築し、その要素が連結リストの各ノードへの参照を持つようにする。1つのリストに対して、そのようなインデックスを複数構築できる。この手法の欠点は、ノードの追加や削除の度にインデックス側の更新が必要となる点である。少なくともインデックスを再利用する前に更新が必要である。 == 関連するデータ構造 == * [[スタック]]と[[キュー (コンピュータ)|キュー]]は連結リストを使って実装されることが多く、単にリストで許されている操作を制限するだけでよい。 * [[スキップリスト]]は、ポインタが階層化された連結リストであり、多数のノードを高速に飛ばして検索可能である。 * [[二分木]]は、データ部も同じような連結リストへのリンクになっている連結リストと見なすこともできる。各ノードは2つのノードへのリンクになっており、それぞれが部分木の頂点を指している。 * [[unrolled linked list]] は、各ノードに配列が置かれている形式の連結リストである。主に[[参照の局所性]]を高め、性能を向上させる目的で使われる。 * [[ハッシュテーブル]]は、ハッシュ値が衝突しているデータを保持する際に連結リストの構造を使うことがある。 ==特許問題== * [http://yro.slashdot.org/article.pl?sid=07/03/19/112247 Linked List Patented in 2006] (Slashdot) * [https://srad.jp/story/07/03/20/0942255/ リンクトリストが2006年に特許承認] (スラッシュドット ジャパン) {{節スタブ}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Antonakos, James L. and Mansfield, Kenneth C., Jr. ''Practical Data Structures Using C/C++'' (1999). Prentice-Hall. ISBN 0-13-280843-9, pp. 165&ndash;190 * Collins, William J. ''Data Structures and the Java Collections Framework'' (2002,2005) New York, NY: McGraw Hill. ISBN 0-07-282379-8, pp. 239&ndash;303 * Cormen, Thomas H.; Leiserson, Charles E.; Rivest, Ronald L.; Stein, Clifford ''Introductions to Algorithms'' (2003). MIT Press. ISBN 0-262-03293-7, pp. 205&ndash;213, 501&ndash;505 * Green, Bert F. Jr. (1961). Computer Languages for Symbol Manipulation. ''IRE Transactions on Human Factors in Electronics.'' '''2''' pp. 3-8. *[[ジョン・マッカーシー|McCarthy, John]] (1960). Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine, Part I. ''Communications of the ACM''. <span style="font-size:90%;">[http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.html] [http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive/recursive.html HTML] [http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.dvi DVI] [http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.pdf PDF] [http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.ps PostScript]</span> * [[ドナルド・クヌース|Donald Knuth]]. ''Fundamental Algorithms'', Third Edition. Addison-Wesley, 1997. ISBN 0-201-89683-4. Sections 2.2.3&ndash;2.2.5, pp.254&ndash;298. * Thomas H. Cormen, Charles E. Leiserson, [[ロナルド・リベスト|Ronald L. Rivest]], and Clifford Stein. ''Introduction to Algorithms'', Second Edition. MIT Press and McGraw-Hill, 2001. ISBN 0-262-03293-7. Section 10.2: Linked lists, pp.204&ndash;209. * [[アレン・ニューウェル|Newell, Allen]] and Shaw, F. C. (1957). Programming the Logic Theory Machine. ''Proceedings of the Western Joint Computer Conference.'' pp. 230-240. *Parlante, Nick (2001). Linked list basics. ''Stanford University''. <span style="font-size:90%;">[http://cslibrary.stanford.edu/103/LinkedListBasics.pdf PDF]</span> * Sedgewick, Robert ''Algorithms in C'' (1998). Addison Wesley. ISBN 0-201-31452-5, pp. 90&ndash;109 * Shaffer, Clifford A. ''A Practical Introduction to Data Structures and Algorithm Analysis'' (1998). NJ: Prentice Hall. ISBN 0-13-660911-2, pp. 77&ndash;102 * [[モーリス・ウィルクス|Wilkes, Maurice Vincent]] (1964). An Experiment with a Self-compiling Compiler for a Simple List-Processing Language. ''Annual Review in Automatic Programming'' '''4''', 1. Published by Pergamon Press. * [[モーリス・ウィルクス|Wilkes, Maurice Vincent]] (1964). Lists and Why They are Useful. ''Proceeds of the ACM National Conference, Philadelphia 1964'' (ACM Publication P-64 page F1-1); Also ''Computer Journal'' '''7''', 278 (1965). * Kulesh Shanmugasundaram ([[2005年]][[4月4日]]). [http://isis.poly.edu/kulesh/stuff/src/klist/ Linux Kernel Linked List Explained]. == 関連項目 == * [[番兵]] * [[データ構造]] * [[グラフ理論]] == 外部リンク == * [http://nist.gov/dads/HTML/linkedList.html Description] Dictionary of Algorithms and Data Structures より * [[スタンフォード大学]] 計算機科学科: ** [http://cslibrary.stanford.edu/103/ Introduction to Linked Lists] ** [http://cslibrary.stanford.edu/105/ Linked List Problems] * [http://mij.oltrelinux.com/devel/simclist/ SimCList, an open source C library for linked lists] * [http://sglib.sourceforge.net/ SGLib, an collection of algorithms for operating on linked lists (and other containers)] * [http://home.earthlink.net/~jrhay/src/wwwsrc/src.html Generic List Container Type for ANSI C] by Jeff Hay * [http://www.cs.chalmers.se/~noble/manual/sllist.html shared singly linked list implementations] * [http://www.mycsresource.net/articles/programming/data_structures/linkedlists Linked Lists Tutorial with diagrams and Java code example] * [https://www.google.com/patents?vid=USPAT7028023 各ノードが複数の線形リストに同時に属するという技法に関する特許] (この技法はこの特許が成立する何十年も前から広く使われていた) * [http://jroller.com/page/bobfoster 各ノードが同時に複数の線形リストに属する技法(上記特許に抵触しない方式)] {{データ構造}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れんけつりすと}} [[Category:データ構造]]
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音声多重放送
音声多重放送(おんせいたじゅうほうそう)とは、一つの放送チャンネルに複数の音声を多重化して行う放送である。 日本では1962年からNHK放送技術研究所が開発に着手しNHKと民放6社から実験局開設の申請が行われ、1964年9月には東京オリンピックに向けて「テレビ音声多重実験協議会」を結成したが、技術的実験のみにとどまり実際の放送サービスには進展せず、1966年8月に協議会を解散し郵政省電波技術審議会の諮問事項に引き継いだ。 その後、欧州放送連合の技術委員会で音声多重放送の本格的研究が開始され、1970年の日本万国博覧会に向けて2か国語放送・ステレオ放送の実験要望が寄せられたことからNHK技研は1968年に室内実験を再開。1969年に野外実験の結果FM-FM方式を採用した。 1969年12月21日、東京・大阪両地区のNHK総合テレビで、同放送の番組に於いての実験放送が開始された。 先ず2か国語放送は、同日の番組「劇映画 『ぼくはついてる』」を皮切りに、アメリカの劇映画(「ママは太陽」等)や、前述で要望があった万博の関連番組、それが閉幕後は19時のニュース等にて行われた。 ステレオ放送は、東京の総合テレビのみで行われ、1970年8月9日の「NHKコンサートホール」を皮切りに、同番組にてその後2回(同年8月23日と翌年9月12日)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分(1971年9月11日と1973年9月23日放送分)行われた。 1971年度の電波技術審議会では技術基準が採択されたものの、NHKはカラーテレビ受像機の普及を最優先方針としたために、1973年で多重放送の実験局を一旦廃局した。 その後カラーテレビの普及が一段落したことから、1978年から実用化試験放送として再開され、先ずその年の9月28日に日本テレビが開始したのを皮切りに、その3日後の10月1日にはNHKの東京・大阪の各総合テレビと大阪の讀賣テレビ放送が、更にその翌日にはフジテレビが開始。年内には全ての在京民放キー局が開始し、翌年3月までには全ての在阪民放の準キー局が開始した。又、名古屋を始めとする大都市や、地方都市でも富山県の北日本放送(1978年12月23日開始)を皮切りに相次いで開始された。 そして、1982年の郵政省令をもって、本放送となった。 アナログテレビの場合、2チャンネルステレオ放送と二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)がある。音声多重放送実施放送局は、JO**-TAMというコールサインが割り当てられていた。 2チャンネルステレオ放送は、受信機の左右の2つの音声チャンネルを同時に利用して、音楽番組やスポーツ、ドラマ、アニメ番組のほとんど全ての番組と、トーク、バラエティ、ニュース番組の一部で利用される。 二重音声放送は、ニュースや海外映画などに日本語音声と外国語(現地)音声の両方を入れて放送する場合などに多く利用される。メインで流れる音声(多くは日本語)を主音声(しゅおんせい)、もう一方の音声(外国語)を副音声(ふくおんせい、英語:subchannel、サブチャンネル)という。なお、副音声に同じ言語(日本向け放送の場合なら同じ日本語)での補足的な内容が流れる番組は、解説放送(かいせつほうそう)と呼ばれている。 日本におけるアナログテレビ放送用の規格(NTSCの拡張規格)では、FM-FM方式により放送波の中の2つの搬送波チャンネル(主音声用と副音声用)を用いて音声が送信される。 ステレオ放送の場合は、主音声用チャンネルには左右(L,R)の混合音声(L+R)、副音声用チャンネルには左右の差音声(L-R)の信号を載せる和差方式にすることにより、ステレオ非対応の受信機でも不都合がない視聴が可能になる仕組みになっている。 同様にステレオ非対応の受信機で2か国語放送を視聴した場合は、主音声用チャンネルの信号しか復元されない。 一方、音声多重放送対応受信機では、ステレオ放送の場合は左右の音声が分離され、2か国語放送の場合は主音声または副音声を任意に選択(ただし、それぞれはモノラル音声で、左右に全く同じ内容を出力する)して聞くことができる。 ステレオ音声の場合は左チャンネル音声を左のスピーカからだけ、右チャンネル音声を右のスピーカーからだけ、などのように分けていずれか一方のスピーカーからのみ出力したり、片方の信号のみをモノラル音声として左右の両方から出力したり、様々な切り替えや選択が可能となっている。 前述のテレビやラジオ受信機と同じ原理により、旧来のモノラル音声記録のビデオレコーダーで音声多重番組を録画すると、モノラル音声テレビで視聴した場合と同様に、ステレオ放送は左右の混ざった音声が、2か国語放送の場合は主音声のみ録音・再生される。 一方、Hi-fiビデオと称される機種の場合は、ステレオ放送の場合はステレオ2ch音声で、2か国語放送の場合は主音声と副音声の両方が記録でき、再生ではステレオ放送の場合はステレオ2ch音声が、2か国語放送の場合は主/副音声の切替選択出力が行なわれる。 アナログ放送での二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)の場合、ステレオ放送と二重音声放送を区別するための識別信号は、副音声搬送波に多重させていて(音声帯域外の高い周波数帯域に識別のための信号を含ませている)、受像機側がこれを検出することで可聴音声(人間が聞いて認識できる音声)への出力を切替制御している。 デジタル放送では放送波のデジタル信号としてのID部分に音声方式(二重音声放送、マルチ音声放送、5.1chサラウンドステレオ放送など)の識別のための制御情報が載っていて、これを利用して同様の切替制御を行なっている。 過去には副音声を使い、音響カプラ用音声やパソコンのデータレコーダ用の音声を流すなど、様々な試みもされている。また、1990年代にステレオ放送を実施する番組が急激に増え始めたのは、ビデオデッキのCMカット機能対策だといわれている。ちなみにテレビ大阪制作の番組は主にアニメ番組がステレオ放送だったが、2004年4月以降すべてステレオ放送に切り替えた。 地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の各民放局ではモノラル二重音声・5.1サラウンドを実施しない限りモノラル放送の番組をステレオ信号に乗せて放送されている(モノステレオ放送)。 日本の地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の場合は、放送規格にISDBを用いており、規格上では1放送チャンネルにつき8音声まで多重化することが可能である(但し、1放送チャンネル当たりの合計帯域数の制限も受けるので、必ず8多重が可能になるわけではない)。これを利用して複数音声によるステレオ放送や、5.1ch放送などを実現することが可能である。 NHKでは、高齢者向けに、BGMや効果音を通常よりも小さくして、ナレーションなどの声を聞きやすくした音声サービスが実施されている。なお、従来の二重音声放送の場合は、一度切り替えた音声設定は、再度変更するまでは、チャンネルが変わっても電源の入/切を繰り返しても変らないものが殆んどだが、デジタル放送で新たに取り入れられた多重音声(マルチ音声)の場合は、チャンネルや番組が変わると、第一音声に戻る仕様のものが多い。なお、デジタル放送での2チャンネルステレオ放送の場合、音声コーデックには「MPEG2 AAC-LC」を用いているが、音声データの符号化ではアナログ放送での場合と同様に和差方式による信号情報が載せられており、再生時にはそれらの情報から左右音の分離を行っている。 音声多重放送の初期には、既存のテレビで音声多重放送を楽しむためのアダプターも市販されていた。 音声多重放送を実施するにあたっては、マスター、送信機、ネット回線等の放送機器を、音声多重仕様にしなければできない。 地上波の場合、アナログ放送時代は、同放送開始前は音声はモノラル仕様であったため、既存局での実施は、その為に設備の変更をしなければいけない反面、新規に開局する場合は、最初から音声多重仕様の設備を導入することで実施できる。その為、アナログ放送での開始は、地域的にばらつきが出ざるを得なかった。その反面、地上デジタルテレビの場合は、規格的に最初から音声多重仕様になっている為、地域的にばらつきは出ない。 又、衛星放送は、NHKと民放のBS・CS各局共に、アナログ・デジタル放送に関わらず、衛星1つで日本全国をカバーしており、放送設備の方も元々対応しているため、どの地域にいても受信は可能であるので、地域差は生じることはない。 最終的に、地上アナログテレビての音声多重放送は、放送大学を除くNHK・民放局共に実施された。 総合テレビは、1978年10月1日の東京・大阪の各局を皮切りに、翌年8月8日の名古屋での開始を含め、先ず、東名阪のサービスエリア(関東、近畿、東海)での実施を優先した為、それ以外の地域は、1981年8月8日に各地域の拠点局(札幌、仙台、広島、福岡、松山)に導入された以外は、1983年6月から導入が始まり、1986年8月8日に全国整備が完了した。 教育テレビは、総合テレビでの開始から12年遅れて、先ず1990年10月1日に東京・大阪・名古屋の各局で開始され、同年12月1日から四国地域(松山、高松、徳島、高知)で開始、そして1991年3月21日に残りの地域で開始され、全国整備が完了した。 先ず、新規に開局の場合、1979年7月1日に開局した静岡第一テレビ以来全て、開局時と同時に開始をしている。 既存局の場合、先ず、東京・大阪のキー局及び準キー局は、最初の日本テレビの1978年9月28日の開始から最後の朝日放送テレビの翌年3月21日のそれまで、約半年の間で、全ての放送局が開始をした。 しかし、地方局では、そのテレビ局の地域や系列等によって、開始時期に差がつくこととなった。 先ず系列的には、日本テレビ系列局の多くで早めに導入され、その地域初の実施を成し遂げている局もあった反面、テレビ朝日系列はフルネットの地方局は導入が遅れ、新規にそれで開局した局よりも実施が遅れるケースが出た。 地域的には、早く導入する地域とそうでない地域の差が明確に出た。早い地域では、NHKよりも民放の方が先に導入開始する例が多く、中には、その地域の民放が全局一斉に開始するケースも含め、NHKが開始する以前にその地域の民放局全部が開始していたケースも多かった。その反面、そうでない地域は、NHK総合テレビの開始後に民放が初めて開始し、中には、平成時代に入ったどころか、NHK教育テレビが全国整備を終えた後に、漸く開始した地域もあった。最終的に、キー局の系列に属する既存民放は、1992年11月27日の日本海テレビ(山陰地区 日本テレビ系列)で開始したのを最後に、全局整備を完了することになった。 また、系列を持たない独立民放テレビ局は全体的に更に導入が遅れ、KBS京都、テレビ神奈川以外は全て平成時代に入ってから漸く音声多重放送を開始し、2001年4月1日のテレビ埼玉を最後に、全民放の音声多重放送の整備が完了した。 但し、北海道の一部地域(旭川・函館・帯広・北見・釧路各地区全域、及び室蘭地区のうち苫小牧市及び勇払郡の大半を除いた地域)では、民放各局でアナログ方式の音声多重放送は一貫して行われなかった。理由としては、放送回線(NTT中継回線)の設備(アナログ方式=全国回線は2006年6月4日深夜にデジタル回線に変更)や回線使用料(全国回線と比べ放送区域が広大で、かつ設備の維持経費も高い北海道内での回線は倍以上の料金がかかっている。実施するにはステレオ用の放送機を設置するとともに、NTT中継回線の音声回線もステレオ用に確保する必要があるが、多額の投資がかさむ等)の都合、さらには冬季における中継施設の維持(施設へ至る道路の除雪やアンテナの雪対策等)にコストがかかるといった問題が挙げられる。その後も各放送事業者で道内全域で実施できるよう検討していたが、前述の設備投資や回線費用が多額であることは避けられず、その上で2007年10月1日以降、道内各地で地上デジタル放送が開始されたこともあって結局は33年弱の間、民放各局では1度も実施するに至らないまま2011年7月24日のアナログ放送終了を迎えた。 しかしその後、全国的な地上デジタル放送の進展で、北海道で前述に挙げた地域でも2007年9月の地上デジタル試験放送(映像・音声信号を付加した)開始から音声多重放送が受信できるようになった。これは、放送回線のデジタル化移行(その際、民放各局の道内中継回線は従来のNTTのマイクロ回線に代わって北海道総合通信網所有の光ファイバー回線が使用されている)による回線使用料などの大幅なコスト削減と、同年10月1日以降、地上デジタル放送の基幹送信所・中継局が順次開設されるようになったためである。いずれにしても札幌地区を含めた他の全国地域よりも相当遅い民放各局の音声多重放送の開始となった。2010年12月末にはほぼ道内全域の世帯でNHK・民放各局ともに地上デジタル放送での音声多重放送が受信できるようになった。 一方、NHK(総合・教育)については開始当初はアナログ回線使用料は高額であったものの事前に予算を組んでいたことや2004年にNTT中継回線は全国回線・道内回線ともにデジタル回線に移行され、回線使用料はアナログ回線に比べ安くなっているため北海道内全域でもアナログ・デジタルとも実施されていて受信可能となっている。 *は新規開局によるもの FMラジオではAM-FM方式、AMラジオでは両立性直交振幅変調方式によりステレオ音声が送信される。このときも、主搬送波では左右の混合音声が送られるので、ステレオ非対応の受信機でもモノラル音声の受信は可能となる。 また、FM放送開始以前には、AMラジオ放送の2波を同時に使うことで(NHKのラジオ第1・第2放送、文化放送・ニッポン放送共同など)ステレオ放送が行われたこともある。 BSアナログ放送では、WOWOWが使用していたBSアナログ5chで独立音声放送「セント・ギガ」(→CLUB COSMO→WINJ)が、PCM方式の音声で放送が行われていた。 以下に各方式の名称と使用国を記す。なお、テレビの音声多重方式において、各方式の間に互換性は無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "音声多重放送(おんせいたじゅうほうそう)とは、一つの放送チャンネルに複数の音声を多重化して行う放送である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では1962年からNHK放送技術研究所が開発に着手しNHKと民放6社から実験局開設の申請が行われ、1964年9月には東京オリンピックに向けて「テレビ音声多重実験協議会」を結成したが、技術的実験のみにとどまり実際の放送サービスには進展せず、1966年8月に協議会を解散し郵政省電波技術審議会の諮問事項に引き継いだ。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、欧州放送連合の技術委員会で音声多重放送の本格的研究が開始され、1970年の日本万国博覧会に向けて2か国語放送・ステレオ放送の実験要望が寄せられたことからNHK技研は1968年に室内実験を再開。1969年に野外実験の結果FM-FM方式を採用した。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1969年12月21日、東京・大阪両地区のNHK総合テレビで、同放送の番組に於いての実験放送が開始された。 先ず2か国語放送は、同日の番組「劇映画 『ぼくはついてる』」を皮切りに、アメリカの劇映画(「ママは太陽」等)や、前述で要望があった万博の関連番組、それが閉幕後は19時のニュース等にて行われた。 ステレオ放送は、東京の総合テレビのみで行われ、1970年8月9日の「NHKコンサートホール」を皮切りに、同番組にてその後2回(同年8月23日と翌年9月12日)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分(1971年9月11日と1973年9月23日放送分)行われた。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1971年度の電波技術審議会では技術基準が採択されたものの、NHKはカラーテレビ受像機の普及を最優先方針としたために、1973年で多重放送の実験局を一旦廃局した。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後カラーテレビの普及が一段落したことから、1978年から実用化試験放送として再開され、先ずその年の9月28日に日本テレビが開始したのを皮切りに、その3日後の10月1日にはNHKの東京・大阪の各総合テレビと大阪の讀賣テレビ放送が、更にその翌日にはフジテレビが開始。年内には全ての在京民放キー局が開始し、翌年3月までには全ての在阪民放の準キー局が開始した。又、名古屋を始めとする大都市や、地方都市でも富山県の北日本放送(1978年12月23日開始)を皮切りに相次いで開始された。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "そして、1982年の郵政省令をもって、本放送となった。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アナログテレビの場合、2チャンネルステレオ放送と二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)がある。音声多重放送実施放送局は、JO**-TAMというコールサインが割り当てられていた。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2チャンネルステレオ放送は、受信機の左右の2つの音声チャンネルを同時に利用して、音楽番組やスポーツ、ドラマ、アニメ番組のほとんど全ての番組と、トーク、バラエティ、ニュース番組の一部で利用される。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "二重音声放送は、ニュースや海外映画などに日本語音声と外国語(現地)音声の両方を入れて放送する場合などに多く利用される。メインで流れる音声(多くは日本語)を主音声(しゅおんせい)、もう一方の音声(外国語)を副音声(ふくおんせい、英語:subchannel、サブチャンネル)という。なお、副音声に同じ言語(日本向け放送の場合なら同じ日本語)での補足的な内容が流れる番組は、解説放送(かいせつほうそう)と呼ばれている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本におけるアナログテレビ放送用の規格(NTSCの拡張規格)では、FM-FM方式により放送波の中の2つの搬送波チャンネル(主音声用と副音声用)を用いて音声が送信される。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ステレオ放送の場合は、主音声用チャンネルには左右(L,R)の混合音声(L+R)、副音声用チャンネルには左右の差音声(L-R)の信号を載せる和差方式にすることにより、ステレオ非対応の受信機でも不都合がない視聴が可能になる仕組みになっている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同様にステレオ非対応の受信機で2か国語放送を視聴した場合は、主音声用チャンネルの信号しか復元されない。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、音声多重放送対応受信機では、ステレオ放送の場合は左右の音声が分離され、2か国語放送の場合は主音声または副音声を任意に選択(ただし、それぞれはモノラル音声で、左右に全く同じ内容を出力する)して聞くことができる。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ステレオ音声の場合は左チャンネル音声を左のスピーカからだけ、右チャンネル音声を右のスピーカーからだけ、などのように分けていずれか一方のスピーカーからのみ出力したり、片方の信号のみをモノラル音声として左右の両方から出力したり、様々な切り替えや選択が可能となっている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述のテレビやラジオ受信機と同じ原理により、旧来のモノラル音声記録のビデオレコーダーで音声多重番組を録画すると、モノラル音声テレビで視聴した場合と同様に、ステレオ放送は左右の混ざった音声が、2か国語放送の場合は主音声のみ録音・再生される。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、Hi-fiビデオと称される機種の場合は、ステレオ放送の場合はステレオ2ch音声で、2か国語放送の場合は主音声と副音声の両方が記録でき、再生ではステレオ放送の場合はステレオ2ch音声が、2か国語放送の場合は主/副音声の切替選択出力が行なわれる。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アナログ放送での二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)の場合、ステレオ放送と二重音声放送を区別するための識別信号は、副音声搬送波に多重させていて(音声帯域外の高い周波数帯域に識別のための信号を含ませている)、受像機側がこれを検出することで可聴音声(人間が聞いて認識できる音声)への出力を切替制御している。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "デジタル放送では放送波のデジタル信号としてのID部分に音声方式(二重音声放送、マルチ音声放送、5.1chサラウンドステレオ放送など)の識別のための制御情報が載っていて、これを利用して同様の切替制御を行なっている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "過去には副音声を使い、音響カプラ用音声やパソコンのデータレコーダ用の音声を流すなど、様々な試みもされている。また、1990年代にステレオ放送を実施する番組が急激に増え始めたのは、ビデオデッキのCMカット機能対策だといわれている。ちなみにテレビ大阪制作の番組は主にアニメ番組がステレオ放送だったが、2004年4月以降すべてステレオ放送に切り替えた。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の各民放局ではモノラル二重音声・5.1サラウンドを実施しない限りモノラル放送の番組をステレオ信号に乗せて放送されている(モノステレオ放送)。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本の地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の場合は、放送規格にISDBを用いており、規格上では1放送チャンネルにつき8音声まで多重化することが可能である(但し、1放送チャンネル当たりの合計帯域数の制限も受けるので、必ず8多重が可能になるわけではない)。これを利用して複数音声によるステレオ放送や、5.1ch放送などを実現することが可能である。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "NHKでは、高齢者向けに、BGMや効果音を通常よりも小さくして、ナレーションなどの声を聞きやすくした音声サービスが実施されている。なお、従来の二重音声放送の場合は、一度切り替えた音声設定は、再度変更するまでは、チャンネルが変わっても電源の入/切を繰り返しても変らないものが殆んどだが、デジタル放送で新たに取り入れられた多重音声(マルチ音声)の場合は、チャンネルや番組が変わると、第一音声に戻る仕様のものが多い。なお、デジタル放送での2チャンネルステレオ放送の場合、音声コーデックには「MPEG2 AAC-LC」を用いているが、音声データの符号化ではアナログ放送での場合と同様に和差方式による信号情報が載せられており、再生時にはそれらの情報から左右音の分離を行っている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "音声多重放送の初期には、既存のテレビで音声多重放送を楽しむためのアダプターも市販されていた。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "音声多重放送を実施するにあたっては、マスター、送信機、ネット回線等の放送機器を、音声多重仕様にしなければできない。 地上波の場合、アナログ放送時代は、同放送開始前は音声はモノラル仕様であったため、既存局での実施は、その為に設備の変更をしなければいけない反面、新規に開局する場合は、最初から音声多重仕様の設備を導入することで実施できる。その為、アナログ放送での開始は、地域的にばらつきが出ざるを得なかった。その反面、地上デジタルテレビの場合は、規格的に最初から音声多重仕様になっている為、地域的にばらつきは出ない。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "又、衛星放送は、NHKと民放のBS・CS各局共に、アナログ・デジタル放送に関わらず、衛星1つで日本全国をカバーしており、放送設備の方も元々対応しているため、どの地域にいても受信は可能であるので、地域差は生じることはない。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "最終的に、地上アナログテレビての音声多重放送は、放送大学を除くNHK・民放局共に実施された。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "総合テレビは、1978年10月1日の東京・大阪の各局を皮切りに、翌年8月8日の名古屋での開始を含め、先ず、東名阪のサービスエリア(関東、近畿、東海)での実施を優先した為、それ以外の地域は、1981年8月8日に各地域の拠点局(札幌、仙台、広島、福岡、松山)に導入された以外は、1983年6月から導入が始まり、1986年8月8日に全国整備が完了した。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "教育テレビは、総合テレビでの開始から12年遅れて、先ず1990年10月1日に東京・大阪・名古屋の各局で開始され、同年12月1日から四国地域(松山、高松、徳島、高知)で開始、そして1991年3月21日に残りの地域で開始され、全国整備が完了した。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "先ず、新規に開局の場合、1979年7月1日に開局した静岡第一テレビ以来全て、開局時と同時に開始をしている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "既存局の場合、先ず、東京・大阪のキー局及び準キー局は、最初の日本テレビの1978年9月28日の開始から最後の朝日放送テレビの翌年3月21日のそれまで、約半年の間で、全ての放送局が開始をした。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし、地方局では、そのテレビ局の地域や系列等によって、開始時期に差がつくこととなった。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "先ず系列的には、日本テレビ系列局の多くで早めに導入され、その地域初の実施を成し遂げている局もあった反面、テレビ朝日系列はフルネットの地方局は導入が遅れ、新規にそれで開局した局よりも実施が遅れるケースが出た。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "地域的には、早く導入する地域とそうでない地域の差が明確に出た。早い地域では、NHKよりも民放の方が先に導入開始する例が多く、中には、その地域の民放が全局一斉に開始するケースも含め、NHKが開始する以前にその地域の民放局全部が開始していたケースも多かった。その反面、そうでない地域は、NHK総合テレビの開始後に民放が初めて開始し、中には、平成時代に入ったどころか、NHK教育テレビが全国整備を終えた後に、漸く開始した地域もあった。最終的に、キー局の系列に属する既存民放は、1992年11月27日の日本海テレビ(山陰地区 日本テレビ系列)で開始したのを最後に、全局整備を完了することになった。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、系列を持たない独立民放テレビ局は全体的に更に導入が遅れ、KBS京都、テレビ神奈川以外は全て平成時代に入ってから漸く音声多重放送を開始し、2001年4月1日のテレビ埼玉を最後に、全民放の音声多重放送の整備が完了した。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "但し、北海道の一部地域(旭川・函館・帯広・北見・釧路各地区全域、及び室蘭地区のうち苫小牧市及び勇払郡の大半を除いた地域)では、民放各局でアナログ方式の音声多重放送は一貫して行われなかった。理由としては、放送回線(NTT中継回線)の設備(アナログ方式=全国回線は2006年6月4日深夜にデジタル回線に変更)や回線使用料(全国回線と比べ放送区域が広大で、かつ設備の維持経費も高い北海道内での回線は倍以上の料金がかかっている。実施するにはステレオ用の放送機を設置するとともに、NTT中継回線の音声回線もステレオ用に確保する必要があるが、多額の投資がかさむ等)の都合、さらには冬季における中継施設の維持(施設へ至る道路の除雪やアンテナの雪対策等)にコストがかかるといった問題が挙げられる。その後も各放送事業者で道内全域で実施できるよう検討していたが、前述の設備投資や回線費用が多額であることは避けられず、その上で2007年10月1日以降、道内各地で地上デジタル放送が開始されたこともあって結局は33年弱の間、民放各局では1度も実施するに至らないまま2011年7月24日のアナログ放送終了を迎えた。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかしその後、全国的な地上デジタル放送の進展で、北海道で前述に挙げた地域でも2007年9月の地上デジタル試験放送(映像・音声信号を付加した)開始から音声多重放送が受信できるようになった。これは、放送回線のデジタル化移行(その際、民放各局の道内中継回線は従来のNTTのマイクロ回線に代わって北海道総合通信網所有の光ファイバー回線が使用されている)による回線使用料などの大幅なコスト削減と、同年10月1日以降、地上デジタル放送の基幹送信所・中継局が順次開設されるようになったためである。いずれにしても札幌地区を含めた他の全国地域よりも相当遅い民放各局の音声多重放送の開始となった。2010年12月末にはほぼ道内全域の世帯でNHK・民放各局ともに地上デジタル放送での音声多重放送が受信できるようになった。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一方、NHK(総合・教育)については開始当初はアナログ回線使用料は高額であったものの事前に予算を組んでいたことや2004年にNTT中継回線は全国回線・道内回線ともにデジタル回線に移行され、回線使用料はアナログ回線に比べ安くなっているため北海道内全域でもアナログ・デジタルとも実施されていて受信可能となっている。", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "*は新規開局によるもの", "title": "日本のテレビ放送" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "FMラジオではAM-FM方式、AMラジオでは両立性直交振幅変調方式によりステレオ音声が送信される。このときも、主搬送波では左右の混合音声が送られるので、ステレオ非対応の受信機でもモノラル音声の受信は可能となる。", "title": "日本のラジオ放送" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、FM放送開始以前には、AMラジオ放送の2波を同時に使うことで(NHKのラジオ第1・第2放送、文化放送・ニッポン放送共同など)ステレオ放送が行われたこともある。", "title": "日本のラジオ放送" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "BSアナログ放送では、WOWOWが使用していたBSアナログ5chで独立音声放送「セント・ギガ」(→CLUB COSMO→WINJ)が、PCM方式の音声で放送が行われていた。", "title": "日本のラジオ放送" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以下に各方式の名称と使用国を記す。なお、テレビの音声多重方式において、各方式の間に互換性は無い。", "title": "各国のテレビ音声多重放送方式" } ]
音声多重放送(おんせいたじゅうほうそう)とは、一つの放送チャンネルに複数の音声を多重化して行う放送である。
{{出典の明記|date=2023年2月}} '''音声多重放送'''(おんせいたじゅうほうそう)とは、一つの放送チャンネルに複数の音声を[[多重化]]して行う[[放送]]である。 ==日本のテレビ放送== ===開発から本放送に至るまでの経緯=== [[日本]]では[[1962年]]から[[NHK放送技術研究所]]が開発に着手し[[日本放送協会|NHK]]と[[民間放送|民放]]6社から実験局開設の申請が行われ、[[1964年]]9月には[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に向けて「テレビ音声多重実験協議会」を結成したが、技術的実験のみにとどまり実際の放送サービスには進展せず、[[1966年]]8月に協議会を解散し[[郵政省]]電波技術審議会の諮問事項に引き継いだ<ref name="jsnumaguchi">沼口安隆、「[https://doi.org/10.3169/itej.65.903 テレビ音声多重放送の研究開発の歴史]」『映像情報メディア学会誌』 2011年 65巻 7号 p.903-906, {{doi|10.3169/itej.65.903}}, 映像情報メディア学会</ref>。 その後、[[欧州放送連合]]の技術委員会で音声多重放送の本格的研究が開始され、[[1970年]]の[[日本万国博覧会]]に向けて[[2か国語放送]]・[[ステレオ放送]]の実験要望が寄せられたことからNHK技研は[[1968年]]に室内実験を再開。1969年に野外実験の結果[[周波数変調|FM-FM方式]]を採用した。 [[1969年]][[12月21日]]、東京・大阪両地区の[[NHK総合テレビ]]で、同放送の番組に於いての実験放送が開始された。<br /> 先ず2か国語放送は、同日の番組「劇映画 『ぼくはついてる』」を皮切り<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A196912211430001300100 NHKアーカイブス NHKクロニクル「劇映画 『ぼくはついてる』」 1969年12月21日放送]</ref>に、アメリカの劇映画(「ママは太陽」等)や、前述で要望があった万博の関連番組、それが閉幕後は19時のニュース等にて行われた。<br /> ステレオ放送は、東京の総合テレビのみで行われ、[[1970年]][[8月9日]]の「[[NHKコンサートホール]]」を皮切り<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197008092210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1970年8月9日]</ref>に、同番組にてその後2回(同年[[8月23日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197008232210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1970年8月23日]</ref>と翌年[[9月12日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197109122210001300100 NHKクロニクル「NHKコンサートホール」1971年9月12日]</ref>)、更に、NHKイタリア歌劇公演から2回分([[1971年]][[9月11日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197109111930001300100 NHKクロニクル「NHKイタリア歌劇公演 歌劇『リゴレット』(ヴェルディ作曲) 1971年9月11日]</ref>と[[1973年]][[9月23日]]<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197309232130001300100 NHKクロニクル「NHKイタリア歌劇公演 歌劇『椿姫』(ヴェルディ作曲) 1973年9月23日]</ref>放送分)行われた。 [[1971年]]度の電波技術審議会では技術基準が採択されたものの、NHKはカラーテレビ受像機の普及を最優先方針としたために、[[1973年]]で多重放送の実験局を一旦廃局した<ref name="jsnumaguchi"/>。 その後[[カラーテレビ]]の普及が一段落したことから、[[1978年]]から実用化試験放送として再開され、先ずその年の[[9月28日]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が開始したのを皮切りに、その3日後の[[10月1日]]にはNHKの東京・大阪の各総合テレビと大阪の[[讀賣テレビ放送]]が、更にその翌日には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が開始。年内には全ての在京民放キー局が開始し、翌年3月までには全ての在阪民放の準キー局が開始した。又、名古屋を始めとする大都市や、地方都市でも富山県の[[北日本放送]](1978年[[12月23日]]開始)を皮切りに相次いで開始された。 そして、[[1982年]]の郵政省令をもって、本放送となった<ref name="jsnumaguchi"/>。 ===概要=== [[アナログ放送|アナログテレビ]]の場合、2チャンネル[[ステレオ放送]]と[[二重音声放送]]([[副音声付放送]]、[[2か国語放送]]、[[解説放送]])がある。音声多重放送実施放送局は、JO**-'''TAM'''という[[呼出符号|コールサイン]]が割り当てられていた。 2チャンネルステレオ放送は、受信機の左右の2つの音声チャンネルを同時に利用して、音楽番組やスポーツ、ドラマ、アニメ番組のほとんど全ての番組と、トーク、バラエティ、ニュース番組の一部で利用される。 二重音声放送は、ニュースや海外映画などに日本語音声と外国語(現地)音声の両方を入れて放送する場合などに多く利用される。メインで流れる音声(多くは日本語)を'''主音声'''(しゅおんせい)、もう一方の音声(外国語)を'''副音声'''(ふくおんせい、[[英語]]:subchannel、サブチャンネル)という。なお、副音声に同じ言語(日本向け放送の場合なら同じ日本語)での補足的な内容が流れる番組は、'''解説放送'''(かいせつほうそう)と呼ばれている。 日本におけるアナログテレビ放送用の規格([[NTSC]]の拡張規格)では、FM-FM方式により放送波の中の2つの搬送波チャンネル(主音声用と副音声用)を用いて音声が送信される。 ステレオ放送の場合は、主音声用チャンネルには左右(L,R)の混合音声(L+R)、副音声用チャンネルには左右の差音声(L-R)の信号を載せる和差方式にすることにより、ステレオ非対応の受信機でも不都合がない視聴が可能<ref group="注">モノラル音声にしか対応していないの受信機(テレビやFMラジオ)では、2つの音声チャンネルのうち主音声用チャンネルの音声信号(左チャンネル音声と右チャンネル音声の混合信号)のみが可聴音声に復元される。</ref>になる仕組みになっている。 同様にステレオ非対応の受信機で2か国語放送を視聴した場合<ref group="注">ステレオ放送と二重音声放送(2か国語放送や解説放送などの副音声付放送)は、同じ信号方式を利用して送信され、受信機側の識別情報を自動的に判別する機能により、それぞれの放送に応じた人間が聞くことのできる音声に復元している。したがって、ほとんどの受信機ではステレオ放送と二重音声放送への対応は同じことを表す場合が多い。</ref>は、主音声用チャンネルの信号しか復元されない。 一方、音声多重放送対応受信機では、ステレオ放送の場合は左右の音声が分離<ref group="注">アナログ放送における音声多重放送対応型受信機でのステレオ音声の分離原理は、左(L)チャンネル用は主音声信号と副音声信号の和((L+R)+(L-R)=2L)、右(R)チャンネル用は主音声信号と副音声信号の差((L+R)-(L-R)=2R)として生成出力される。</ref>され、2か国語放送の場合は主音声または副音声を任意に選択(ただし、それぞれはモノラル音声で、左右に全く同じ内容を出力する)して聞くことができる。 ステレオ音声の場合は左チャンネル音声を左のスピーカからだけ、右チャンネル音声を右のスピーカーからだけ、などのように分けていずれか一方のスピーカーからのみ出力したり、片方の信号のみをモノラル音声として左右の両方から出力したり、様々な切り替えや選択が可能となっている<ref group="注">ステレオ音声の左右いずれか片方の音声のみを出力する機能はあくまで受信機・装置の仕様に拠るもので、ステレオ音声は固定的に2chステレオとしてしか聴けないものもある。</ref>。 前述のテレビやラジオ受信機と同じ原理により、旧来のモノラル音声記録のビデオレコーダーで音声多重番組を録画すると、モノラル音声テレビで視聴した場合と同様に、ステレオ放送は左右の混ざった音声が、2か国語放送の場合は主音声のみ録音・再生される。 一方、[[Hi-Fi#ビデオデッキにおけるHi-Fi|Hi-fiビデオ]]と称される機種の場合は、ステレオ放送の場合はステレオ2ch音声で、2か国語放送の場合は主音声と副音声の両方が記録でき、再生ではステレオ放送の場合はステレオ2ch音声が、2か国語放送の場合は主/副音声の切替選択出力が行なわれる。 アナログ放送での二重音声放送(副音声付放送、2か国語放送、解説放送)の場合、ステレオ放送と二重音声放送を区別するための識別信号は、副音声搬送波に多重させていて(音声帯域外の高い周波数帯域に識別のための信号を含ませている)、受像機側がこれを検出することで可聴音声(人間が聞いて認識できる音声)への出力を切替制御<ref group="注">ステレオ放送の場合は、主音声信号と副音声信号の2つから左チャンネル用音声と右チャンネル信号を復元分離する。二重音声信号の場合は、そのまま主音声信号は主音声、副音声信号は副音声として復元する。</ref>している。 デジタル放送では放送波の[[デジタル信号]]としての[[ID]]部分に音声方式([[二重音声放送]]、マルチ音声放送<ref group="注">アナログ放送では音声多重放送は、2つの音声チャンネルしか使用できない規格であったことから、2チャンネルステレオ放送、二重音声放送のどちらかであることを意味していたが、デジタル放送では音声チャンネルの多重化(最大8チャンネル)が許容されているため、アナログ放送での2チャンネルステレオやモノラル音声の組み合わせによる二重音声の他に、2チャンネルステレオで3か国語以上の同時放送や、5.1チャンネルサラウンドステレオ放送が可能になった。なお、マルチ音声信号(マルチ音声放送)による音声信号選択が2つのみであってもそれは、従来技術の二重音声とは区別される。例えば2チャンネルステレオでの2か国語放送(デュアルステレオ放送などと呼ばれることもある)のみの場合でも、通常は二重音声放送とは呼ばず、あくまでマルチ音声放送として区別され、操作上も殆どの受信機ではマルチ信号切り替え(操作上は「音声信号」「音声」「信号」「マルチ音声」「マルチ信号」など機種によって異なる)になっている。放送規格の仕様上では、マルチ音声放送の一信号として、従来のモノラル音声の組み合わせによる二重音声を組み込むことも可能(例えば二重音声と5.1チャンネルサラウンドとの組み合わせなど)であるが、実際に両方式を組み合わせて放送が行われることは殆どない。</ref>、5.1chサラウンドステレオ放送など)の識別のための制御情報が載っていて、これを利用して同様の切替制御を行なっている<ref group="注">デジタル放送が登場した当初は、多重音声の方式の違い(二重音声/マルチ音声)への考慮として、多くのデジタルテレビ放送受信機のリモコン装置での「二重音声および2チャンネルステレオのLR切り替え」と「マルチ音声の信号切り替え」の切替は操作ボタンを分けていたが、地上波アナログテレビ放送の終了する過渡期以降は、両方式の切替ボタンを統合した操作形態の方が主流になった。</ref><ref group="注">テレビ([[ビデオモニター|モニタ装置]])にAV機器([[DVD]]/[[Blu-ray Disc|BD]]/[[HDD]]などの[[デジタルビデオ]]レコーダーおよびプレーヤー、単体[[チューナー]]など)を接続し、それらの機器からの音声出力をデジタルにした場合、出力設定を[[PCM]]か[[ビットストリーム|Bitstream]]かを選択するタイプのものが多いが、Bitstreamを選んだ場合は、レコーダー/プレーヤー側の操作では音声切替が出来なくなる(但し、画面に表示される動作状態では切り替わっている旨の表示がなされる)動作をする。使用上の支障がある場合は、必要に応じてデジタル音声の出力設定をPCMに変更するか、接続形態をアナログ接続([[コンポジット端子]]接続/[[S端子]]+アナログ音声接続/[[コンポーネント端子]]接続/[[D端子]]接続など)に変更する。</ref>。 過去には副音声を使い、[[音響カプラ]]用音声やパソコンの[[データレコーダ]]用の音声を流すなど、様々な試みもされている。また、1990年代にステレオ放送を実施する番組が急激に増え始めたのは、[[ビデオデッキ]]の[[CMカット]]機能対策だといわれている。ちなみに[[テレビ大阪]]制作の番組は主にアニメ番組がステレオ放送だったが、[[2004年]]4月以降すべてステレオ放送に切り替えた<ref group="注">しかし、地上デジタル放送では常時ステレオ信号なのでモノステレオ音源で放送されていた。</ref>。 [[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]・[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル放送]]・[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CSデジタル放送]]の各民放局ではモノラル二重音声・5.1サラウンドを実施しない限りモノラル放送の番組をステレオ信号に乗せて放送されている(モノステレオ放送)。 日本の地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送の場合は、放送規格に[[ISDB]]を用いており<ref group="注">日本での一般個人向けのCSデジタル放送には、東経110度にある通信衛星によるCS放送と東経128度/東経124度にある通信衛星によるCS放送の2種類に大別(詳細は[[衛星放送]]の記事を参照)され、前者は[[ISDB]]、後者は[[デジタルビデオブロードキャスティング|DVB]]方式で行われている。</ref>、規格上では1放送チャンネルにつき8音声まで多重化することが可能である(但し、1放送チャンネル当たりの合計帯域数の制限も受けるので、必ず8多重が可能になるわけではない)。これを利用して複数音声によるステレオ放送や、[[ドルビーデジタル|5.1ch]]放送などを実現することが可能である。 [[日本放送協会|NHK]]では、[[高齢者]]向けに、[[背景音楽|BGM]]や[[効果音]]を通常よりも小さくして、[[ナレーション]]などの声を聞きやすくした音声サービスが実施されている。なお、従来の二重音声放送の場合は、一度切り替えた音声設定は、再度変更するまでは、チャンネルが変わっても電源の入/切を繰り返しても変らないものが殆んどだが<ref group="注">初期設定メニューなどに二重音声の設定がある機器の場合、電源再投入時の動作はその設定に従う仕様のものもある。</ref>、デジタル放送で新たに取り入れられた多重音声(マルチ音声)の場合は、チャンネルや番組が変わると、第一音声に戻る仕様のものが多い。なお、デジタル放送での2チャンネルステレオ放送の場合、音声コーデックには「[[MPEG2]] [[AAC]]-LC」を用いているが、音声データの符号化ではアナログ放送での場合と同様に[[周波数変調#FMステレオ方式|和差方式]]による信号情報が載せられており、再生時にはそれらの情報から左右音の分離を行っている。 音声多重放送の初期には、既存のテレビで音声多重放送を楽しむための[[TVチューナー#UHFコンバータ|アダプター]]も市販されていた。{{also|TVチューナー#音声多重放送アダプタ}} ===整備状況=== 音声多重放送を実施するにあたっては、マスター、送信機、ネット回線等の放送機器を、音声多重仕様にしなければできない。 地上波の場合、アナログ放送時代は、同放送開始前は音声はモノラル仕様であったため、既存局での実施は、その為に設備の変更をしなければいけない反面、新規に開局する場合は、最初から音声多重仕様の設備を導入することで実施できる。その為、アナログ放送での開始は、地域的にばらつきが出ざるを得なかった。その反面、地上デジタルテレビの場合は、規格的に最初から音声多重仕様になっている為、地域的にばらつきは出ない。 又、衛星放送は、NHKと民放のBS・CS各局共に、アナログ・デジタル放送に関わらず、衛星1つで日本全国をカバーしており、放送設備の方も元々対応しているため、どの地域にいても受信は可能であるので、地域差は生じることはない。 ====地上アナログテレビでの整備の歴史と状況==== 最終的に、地上アナログテレビての音声多重放送は、[[放送大学]]<ref group="注">尚、スカパー!での放送を含むデジタルテレビ放送では、放送開始15分前のテストパターンと放送終了前のイメージソング・大学学歌のみステレオ放送を実施している。</ref>を除くNHK・民放局共に実施された。 =====NHK===== 総合テレビは、[[1978年]][[10月1日]]の東京・大阪の各局を皮切りに、翌年[[8月8日]]の名古屋での開始を含め、先ず、東名阪のサービスエリア(関東、近畿、東海)での実施を優先した為、それ以外の地域は、[[1981年]]8月8日に各地域の拠点局(札幌、仙台、広島、福岡、松山)に導入された以外は、[[1983年]]6月から導入が始まり、[[1986年]]8月8日に全国整備が完了した。 [[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]は、総合テレビでの開始から12年遅れて、先ず[[1990年]][[10月1日]]に東京・大阪・名古屋の各局で開始され、同年[[12月1日]]から四国地域(松山、高松、徳島、高知)で開始、そして[[1991年]][[3月21日]]に残りの地域で開始され、全国整備が完了した。 =====民放テレビ局===== 先ず、新規に開局の場合、[[1979年]][[7月1日]]に開局した[[静岡第一テレビ]]以来全て、開局時と同時に開始をしている。 既存局の場合、先ず、東京・大阪のキー局及び準キー局は、最初の日本テレビの[[1978年]][[9月28日]]の開始から最後の[[朝日放送テレビ]]の翌年[[3月21日]]のそれまで、約半年の間で、全ての放送局が開始をした。 しかし、地方局では、そのテレビ局の地域や系列等によって、開始時期に差がつくこととなった。 先ず系列的には、日本テレビ系列局の多くで早めに導入され、その地域初の実施を成し遂げている局もあった反面、[[テレビ朝日]]系列はフルネットの地方局は導入が遅れ、新規にそれで開局した局よりも実施が遅れるケースが出た。 地域的には、早く導入する地域とそうでない地域の差が明確に出た。早い地域では、NHKよりも民放の方が先に導入開始する例が多く、中には、その地域の民放が全局一斉に開始するケースも含め、NHKが開始する以前にその地域の民放局全部が開始していたケースも多かった。その反面、そうでない地域は、NHK総合テレビの開始後に民放が初めて開始し、中には、平成時代に入ったどころか、NHK教育テレビが全国整備を終えた後に、漸く開始した地域もあった。最終的に、キー局の系列に属する既存民放は、[[1992年]][[11月27日]]の[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]](山陰地区 日本テレビ系列)で開始したのを最後に、全局整備を完了することになった。 また、系列を持たない独立民放テレビ局は全体的に更に導入が遅れ、[[京都放送|KBS京都]]、[[テレビ神奈川]]以外は全て平成時代に入ってから漸く音声多重放送を開始し、[[2001年]][[4月1日]]の[[テレビ埼玉]]を最後に、全民放の音声多重放送の整備が完了した。 但し、北海道の一部地域(旭川・函館・帯広・北見・釧路各地区全域、及び室蘭地区のうち[[苫小牧市]]及び[[勇払郡]]の大半を除いた地域)では、民放各局でアナログ方式の音声多重放送は一貫して行われなかった。理由としては、放送回線([[NTT中継回線]])の設備(アナログ方式=全国回線は2006年6月4日深夜にデジタル回線に変更)や回線使用料(全国回線と比べ放送区域が広大で、かつ設備の維持経費も高い北海道内での回線は倍以上の料金がかかっている。実施するにはステレオ用の放送機を設置するとともに、NTT中継回線の音声回線もステレオ用に確保する必要があるが、多額の投資がかさむ等)の都合、さらには冬季における中継施設の維持(施設へ至る道路の除雪やアンテナの雪対策等)にコストがかかるといった問題が挙げられる。その後も各放送事業者で道内全域で実施できるよう検討していたが、前述の設備投資や回線費用が多額であることは避けられず、その上で2007年10月1日以降、道内各地で地上デジタル放送が開始されたこともあって結局は33年弱の間、民放各局では1度も実施するに至らないまま2011年7月24日のアナログ放送終了を迎えた。 しかしその後、全国的な地上デジタル放送の進展で、北海道で前述に挙げた地域でも2007年9月の地上デジタル試験放送(映像・音声信号を付加した)開始から音声多重放送が受信できるようになった。これは、放送回線のデジタル化移行(その際、民放各局の道内中継回線は従来のNTTのマイクロ回線に代わって[[北海道総合通信網]]所有の光ファイバー回線が使用されている)による回線使用料などの大幅なコスト削減と、同年10月1日以降、地上デジタル放送の基幹送信所・中継局が順次開設されるようになったためである。いずれにしても札幌地区を含めた他の全国地域よりも相当遅い民放各局の音声多重放送の開始となった。2010年12月末にはほぼ道内全域の世帯でNHK・民放各局ともに地上デジタル放送での音声多重放送が受信できるようになった。 一方、NHK(総合・教育)については開始当初はアナログ回線使用料は高額であったものの事前に予算を組んでいたことや2004年にNTT中継回線は全国回線・道内回線ともにデジタル回線に移行され、回線使用料はアナログ回線に比べ安くなっているため北海道内全域でもアナログ・デジタルとも実施されていて受信可能となっている。 =====放送開始の歴史(実用化試験放送以降)===== *は新規開局によるもの *1978年(昭和53年) **9月28日 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/history/ryakushi.html 日本テレビ 会社概要 日本テレビ略史(日本テレビ公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref> **10月1日 - [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]([[NHK放送センター|放送センター(東京)]]・[[NHK大阪放送局|大阪]])、[[読売テレビ放送]]<ref>{{Cite book|和書|editor=よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会|title=よみうりテレビの20年 : 写真と証言|publisher=讀賣テレビ放送株式会社|date=1979-07|pages=82|id={{NDLJP|12276016/86}}}}</ref> **10月2日 - [[フジテレビジョン|フジテレビ]] **11月20日 - [[TBSテレビ]] **12月10日 - [[毎日放送|毎日放送(MBS)テレビ]]<ref>[https://www.mbs.jp/mbs/ 株式会社毎日放送 会社紹介 沿革(毎日放送公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref> **12月17日 - [[テレビ朝日]]<ref>{{Cite book|和書|editor=全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部|title=テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年|publisher=全国朝日放送|date=1984-02-01|pages=418|id={{NDLJP|12276014/500}}}}</ref><ref>[https://company.tv-asahi.co.jp/corp/syashi.html テレビ朝日 会社情報 社史(テレビ朝日公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref> **12月23日 - [[北日本放送|北日本放送テレビ]](富山県かつ地方局初)<ref>[https://www.knb.ne.jp/company-enkaku/ 北日本放送 沿革(北日本放送公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref><ref>『北日本新聞』1978年12月23日付朝刊11面『テレビに"多重放送時代" 多重放送 週に17時間放送「チャンネル1」など』より。</ref> **12月25日 - [[テレビ東京|東京12チャンネル(現:テレビ東京)]]<ref>{{Cite book|和書|title=テレビ東京20年史|publisher=テレビ東京|date=1984-04-12|pages=100|id={{NDLJP|12275747/55}}}}</ref><ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/kaisha/company/history.html テレビ東京 会社案内 沿革(テレビ東京公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref> *1979年(昭和54年) **1月3日 - [[関西テレビ放送|関西テレビ]]<ref group="注">同放送の初の番組は、同日23時50分からの映画「[[冬のライオン]]」の二か国語放送だった。</ref><ref>朝日新聞大阪版 1995年1月3日付朝刊 P.24 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref> **3月21日 - [[朝日放送テレビ]]<ref>[https://www.asahi.co.jp/65th/history/smp.html ABC創立65周年記念 ABC65年のあゆみ(朝日放送テレビ公式ページ)(2023年10月3日閲覧)]</ref> **7月1日 - [[札幌テレビ放送]](札幌地域のみ。北海道初)<ref>朝日新聞北海道版 1979年7月1日付朝刊 P.24 テレビ欄及び同ページでのSTV広告「音声多重放送 本日スタート」(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>、[[静岡第一テレビ]]*<ref group="注">開局前に、同年6月24日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref>(静岡県初) **8月1日 - [[CBCテレビ|中部日本放送テレビ(現:CBCテレビ)]]、[[東海テレビ放送]]、[[中京テレビ放送]](3局共に、東海地方初)<ref group="注">中京テレビのみ、事前にサービス放送を、同年6月15日から開始している。</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=放送日誌(54年8月)|journal=月刊民放|issue=1979年11月号|pages=54|publisher=日本民間放送連盟}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=中部日本放送|title=中部日本放送50年のあゆみ|date=2000|pages=216-217}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=東海テレビ放送/編集|title=東海テレビ放送開局50年史 つたえるつなぐ|date=2009|pages=100,102}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'80|date=1980|publisher=日本放送出版協会|pages=31}}</ref> **8月8日 - NHK総合テレビ([[NHK名古屋放送局|名古屋]]・[[NHK京都放送局|京都]]・[[NHK神戸放送局|神戸]])<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'80|date=1980|publisher=日本放送出版協会|pages=30,195}}</ref> **12月1日 - [[広島テレビ放送]](広島県初)<ref name=minpou8003>{{Cite journal|和書|title=放送日誌(54年12月)|journal=月刊民放|issue=1980年3月号|pages=50|publisher=日本民間放送連盟}}</ref>、[[山口放送|山口放送テレビ]](山口県初)<ref name=minpou8003/>、[[福岡放送]](福岡県初)<ref name=minpou8003/> **12月23日 - [[北海道放送|北海道放送テレビ]](札幌地域のみ) *1980年(昭和55年) **2月1日 - [[山陽放送|山陽放送テレビ]](岡山県及び岡山・香川エリア初)<ref>[https://www.rsk.co.jp/company/ RSK山陽放送 会社概要(2023年6月26日閲覧)]</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=放送日誌(55年2月)|journal=月刊民放|issue=1980年5月号|pages=50|publisher=日本民間放送連盟}}</ref><ref>[https://irbank.net/E04396/history RSK HD 訂正有価証券報告書-第72期(2019/04/01-2020/03/31)(IR BANKのサイト)(2023年6月26日閲覧)]</ref> **3月20日 - [[東北放送|東北放送テレビ]]<ref>[https://www.tbc-sendai.co.jp/company/ 会社概要 沿革(tbc東北放送)(2023年6月28日閲覧)]</ref>、[[仙台放送]]、[[宮城テレビ放送]](3局共に、宮城県初)<ref name=minpou8006>{{Cite journal|和書|title=放送日誌(55年3月)|journal=月刊民放|issue=1980年6月号|pages=50|publisher=日本民間放送連盟}}</ref> **3月30日 - [[RKB毎日放送|RKB毎日放送テレビ]]<ref name=minpou8006/><ref>{{Cite|和書|author=RKB毎日放送株式会社50年史編纂委員会 編纂|title=九州・福岡RKB放送史事典 : RKB毎日放送創立50年記念|date=2001|publisher=RKB毎日放送|pages=127}}</ref> **4月1日 - [[中国放送|中国放送テレビ]]<ref>{{Cite journal|和書|title=放送日誌(55年4月)|journal=月刊民放|issue=1980年7月号|pages=50|publisher=日本民間放送連盟}}</ref> **6月13日 - [[西日本放送|西日本放送テレビ]](香川県初)<ref>[https://www.rnc.co.jp/info/recruit/history.html 西日本放送の歴史 沿革(西日本放送)(2023年6月28日閲覧)]</ref> **7月1日 - [[信越放送|信越放送テレビ]]、[[長野放送]]<ref>{{Cite|和書|author=開局二十周年記念事業委員会社史編纂専門部会 編|title=長野放送二十年の歩み|date=1989|publisher=長野放送|pages=119}}</ref>(両局共に、長野県初)<ref group="注">事前にサービス放送を両局共に、同年6月21日から開始している。</ref><ref>信濃毎日新聞 1980年6月30日 夕刊 P.8 テレビ欄 「SBC・NBSの音声多重放送 あすから本格開始 記念番組を編成しPR」(信濃毎日新聞データベースにて閲覧)</ref> **7月3日 - [[秋田放送|秋田放送テレビ]]、[[秋田テレビ]](両局共に、秋田県初) **8月8日 - NHK総合テレビ([[NHK前橋放送局|前橋]]・[[NHK和歌山放送局|和歌山]])<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修部|title=NHK年鑑'81|date=1981|publisher=日本放送出版協会|pages=11,214}}</ref> **9月27日 - [[北陸放送|北陸放送テレビ]]、[[石川テレビ放送]](両局共に、石川県初)<ref>開始日前日に、本免許を取得して開始。「石川テレビの50年 停波事故を乗り越えて」(2019年4月25日、石川テレビ放送発行)84ページ。</ref>。 **10月1日 - [[テレビ信州]]*<ref group="注">開局前に、同年9月24日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref> **11月1日 - [[IBC岩手放送|IBC岩手放送テレビ]]、[[テレビ岩手]](両局共に、岩手県初) **11月29日 - [[新潟放送|新潟放送テレビ]](新潟県初)<ref>{{Cite book|和書|author=新潟放送|date=1992-10-15|title=新潟放送40年のあゆみ|publisher=新潟放送|page=434}}</ref><ref>新潟日報 1980年11月29日朝刊 P.24 テレビ欄 及び P.5 BSN新潟放送広告「BSNテレビで、きょう開始 音声多重放送」(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)</ref> **12月15日 - [[テレビ西日本]] **12月27日 - [[岡山放送]] *1981年(昭和56年) **3月21日 - [[長崎放送|長崎放送テレビ]]、[[テレビ長崎]](両局共に、長崎県初) **4月1日 - [[テレビ新潟放送網|テレビ新潟]]*<ref group="注">開局前に、同年3月25日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=(株)テレビ新潟放送網|date=1991-11|title=写真でつづる テレビ新潟10年のあゆみ|publisher=(株)テレビ新潟放送網|page=29}}</ref>、[[京都放送|KBS京都]] **7月1日 - [[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ(現:NST新潟総合テレビ)]]<ref>新潟日報 1981年7月1日朝刊 P.24 テレビ欄(新潟日報マイクロフィルム版にて閲覧)</ref> **7月24日 - [[山形放送|山形放送テレビ]](山形県初) **8月8日 - NHK総合テレビ([[NHK札幌放送局|札幌]]・[[NHK仙台放送局|仙台]]・[[NHK広島放送局|広島]]・[[NHK福岡放送局|福岡]]・[[NHK松山放送局|松山]])(松山は愛媛県初) **10月1日 - [[福島テレビ]]、[[福島中央テレビ]]、[[福島放送]]*<ref group="注">開局前に、同年9月15日からサービス放送を開始しているが、音声多重のサービス放送は行わず、開局日に同放送を開始している。</ref>(3局共に、福島県初) **12月1日 - [[福井放送|福井放送テレビ]](福井県初) *1982年(昭和57年) **3月1日 - [[テレビ大阪]]*、[[九州朝日放送|九州朝日放送テレビ]]<ref>{{Cite|和書|author=九州朝日放送 編|title=九州朝日放送30年史|date=1983|pages=323}}</ref> **4月1日 - [[静岡放送|静岡放送テレビ]]<ref>{{Cite|和書|author=静岡放送50年史編纂委員会/編|title=静岡放送50年史|date=2002|publisher=静岡放送|pages=84}}</ref>、[[熊本県民テレビ]]*<ref group="注">開局前に、同年3月27日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref>(熊本県初)、[[南日本放送|南日本放送テレビ]](鹿児島県初<ref group="注" name="amami">奄美地域は、当初含まれず、未実施だった。</ref>) **7月1日 - NHK総合テレビ([[NHK奈良放送局|奈良]]・[[NHK大津放送局|大津]]・[[NHK津放送局|津]]・[[NHK岐阜放送局|岐阜]])<ref name="NHK83-112">{{Harvnb|『NHK年鑑'83』|pages=112}}</ref> **7月30日 - NHK総合テレビ([[NHK北九州放送局|北九州]])<ref name="NHK83-112" /> **8月4日 - NHK総合テレビ([[NHK福山支局|福山]])<ref name="NHK83-112" /> **10月1日 - [[鹿児島放送]]*<ref group="注" name="amami" /><ref group="注">開局前に、同年9月23日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref> **11月17日 - [[鹿児島テレビ放送]]<ref group="注" name="amami" /> *1983年(昭和58年) **1月13日 - [[熊本放送|熊本放送テレビ]] **3月18日 - [[テレビ熊本]] **6月4日 - NHK総合テレビ([[NHK岡山放送局|岡山]]・[[NHK高松放送局|高松]])<ref name="NHK84-86">{{Harvnb|『NHK年鑑'84』|page=86}}</ref> **6月6日 - NHK総合テレビ([[NHK静岡放送局|静岡]])<ref name="NHK84-86" /> **6月9日 - NHK総合テレビ([[NHK熊本放送局|熊本]])<ref name="NHK84-86" /> **6月10日 - NHK総合テレビ([[NHK長野放送局|長野]]・[[NHK新潟放送局|新潟]])<ref name="NHK84-86" /><ref>信濃毎日新聞 1983年6月10日 朝刊 P.2「NHK長野も音声多重放送」(信濃毎日新聞データベースにて閲覧)</ref> **9月1日 - [[テレビ愛知]]* **10月1日 - [[新潟テレビ21]]*<ref group="注">開局前に、同年9月25日からのサービス放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref> **11月3日 - [[北海道テレビ放送]](札幌地域のみ) **12月4日 - [[テレビユー福島]]* **期日不明 - [[テレビ静岡]] *1984年(昭和59年) **7月20日 - NHK総合テレビ([[NHK鹿児島放送局|鹿児島]])<ref name="NHK85">{{Harvnb|『NHK年鑑'85』|page=101}}</ref> **7月28日 - NHK総合テレビ([[NHK長崎放送局|長崎]])<ref name="NHK85"></ref> **8月2日 - NHK総合テレビ([[NHK福島放送局|福島]])<ref>「きょうから福島で音声多重放送開始」『[[福島民報社|福島民報]]縮刷版1984年8月号』(福島民報社)、31頁(1984年(昭和59年)8月2日、朝刊3面)に記載。</ref> **12月1日 - [[北海道文化放送]](札幌地区―ただし[[胆振支庁]]管内の[[苫小牧市]]・[[勇払郡]]も含む-のみ)<ref>uhb20年の歩み - 北海道文化放送(1993年)</ref> **12月25日 - NHK総合テレビ([[NHK山口放送局|山口]])<ref>[https://www.nhk.or.jp/yamaguchi/station_info/history.html NHK山口放送局の沿革(NHK山口放送局のサイト)]</ref> *1985年(昭和60年) **3月1日 - NHK総合テレビ([[NHK金沢放送局|金沢]]・[[NHK富山放送局|富山]])<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会放送文化調査研究所放送情報調査部|title=NHK年鑑'85|date=1985|publisher=日本放送出版協会|pages=101}}</ref> **4月2日 - [[テレビ神奈川]]<ref>{{Cite book|和書|author=テレビ神奈川|date=2007-12-20|title=テレビ神奈川35年史|publisher=株式会社テレビ神奈川|page=192}}</ref><ref group="注">当初はステレオのみで、二か国語を始めとする二重音声も対応となったのは、[[1988年]]8月のことである。朝日新聞縮刷版 1988年8月 264ページ(1988年8月7日新聞紙面 10ページ(8月7日テレビ欄))</ref> **5月31日 - [[サガテレビ]]<ref>[https://www.sagatv.co.jp/corporate/ サガテレビ「会社案内」会社沿革(2023年6月27日閲覧)]</ref> **6月1日 - [[琉球放送|琉球放送テレビ]]、[[沖縄テレビ放送]](両局共に、沖縄県初) **7月7日 - NHK総合テレビ([[NHK福井放送局|福井]])<ref name="NHK '86">{{Cite|和書|author=日本放送協会放送文化調査研究所放送情報調査部|title=NHK年鑑'86|date=1986|publisher=日本放送出版協会|pages=67}}</ref> **8月8日 - NHK総合テレビ([[NHK秋田放送局|秋田]])<ref name="NHK '86" /> **10月1日 - [[テレビせとうち]]*<ref group="注">開局前に、同年9月20日からの試験放送開始と同時に、音声多重も同放送扱いとして開始している。</ref> **11月14日 - [[広島ホームテレビ]] **12月6日 - [[富山テレビ放送]]<ref>[https://www.bbt.co.jp/infor/comp/index.html 富山テレビ放送「会社概要」沿革(2023年6月27日閲覧)]</ref> **期日不明 - [[福井テレビ放送]] *1986年(昭和61年) **2月21日 - NHK総合テレビ([[NHK山形放送局|山形]]) **2月23日 - NHK総合テレビ([[NHK沖縄放送局|沖縄]]) **5月3日 - [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]<ref>{{Cite|和書|author=開局50周年記念社史編纂事務局 編|year=2012|title=名古屋テレビ放送50年史|publisher=名古屋テレビ放送|pages=124}}</ref> **7月1日 - [[山梨放送|山梨放送テレビ]]<ref>信濃毎日新聞 1986年7月1日 朝刊 テレビ欄 P.24(信濃毎日新聞データベースにて閲覧)</ref> **7月11日 - NHK総合テレビ([[NHK甲府放送局|甲府]])<ref name="NHK87-67">{{Harvnb|『NHK年鑑'87』|page=67}}</ref> **8月8日 - NHK総合テレビの未実施地域全部([[NHK函館放送局|函館]]・[[NHK旭川放送局|旭川]]・[[NHK帯広放送局|帯広]]・[[NHK釧路放送局|釧路]]・[[NHK北見放送局|北見]]、[[NHK青森放送局|青森]]・[[NHK盛岡放送局|盛岡]]・[[NHK松江放送局|松江]]・[[NHK鳥取放送局|鳥取]]・[[NHK徳島放送局|徳島]]・[[NHK高知放送局|高知]]・[[NHK大分放送局|大分]]・[[NHK宮崎放送局|宮崎]])<ref name="NHK87-67" /><ref>{{PDFlink|[https://www.nhk.or.jp/tokushima/station_info/guide/history.pdf NHK徳島放送局サイト「局のあゆみ」]}}</ref><ref>[https://www.nhk.or.jp/kochi/station_info/history.html NHK高知放送局サイト「NHK高知放送局のあゆみ」]</ref>。'''NHK総合テレビでの全国整備が完了'''。 *1988年(昭和63年) **5月27日 - [[四国放送|四国放送テレビ]]<ref>『四国放送の50年』(四国放送発行、2002年)256ページ</ref> *1989年(平成元年) **7月15日 - [[大分放送|大分放送テレビ]] **10月1日 - [[テレビ北海道]]*(札幌地域のみ)、[[テレビユー山形]]*、[[熊本朝日放送]]* **12月21日 - [[テレビ山口]] **期日不明 - [[びわ湖放送]] *1990年(平成2年) **2月19日 - [[テレビ大分]] **4月1日 - [[テレビ金沢]]*、[[長崎文化放送]]* **5月30日 - [[テレビ宮崎]] **7月19日 - [[南海放送|南海放送テレビ]]<ref>「夢にはじまる 南海放送五十年史」337頁(南海放送株式会社編)</ref> 、[[愛媛放送|テレビ愛媛]] **8月1日 - [[静岡朝日テレビ|静岡県民テレビ(現:静岡朝日テレビ)]] **8月29日 - [[宮崎放送|宮崎放送テレビ]] **9月1日 - [[山形テレビ]] **10月1日 - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]](放送センター(東京)・名古屋・大阪)、[[青森放送|青森放送テレビ]]、[[青森テレビ]]、[[チューリップテレビ|テレビユー富山(現:チューリップテレビ)]]* **11月15日 - [[三重テレビ放送|三重テレビ]] **12月1日 - NHK教育テレビの四国地域(高松・松山・高知・徳島) **期日不明 - [[瀬戸内海放送]] *1991年(平成3年) **3月21日 - NHK教育テレビの未実施全地域。'''NHK教育テレビの全国の音声多重化が完了'''。<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会放送文化研究所放送情報調査部|title=NHK年鑑'91|date=1991|publisher=日本放送出版協会|pages=284}}</ref> **4月1日 - [[岩手めんこいテレビ]]*、[[長野朝日放送]]*、[[TVQ九州放送|TXN九州(現・TVQ九州放送)]]*、[[長崎国際テレビ]]* **7月1日 - [[テレビ新広島]] **9月26日 - [[東日本放送]] **10月1日 - [[青森朝日放送]]*、[[北陸朝日放送]]* **12月1日 - [[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]] *1992年(平成4年) **3月14日 - [[サンテレビジョン|サンテレビ]] **4月1日 - [[群馬テレビ]]<ref>朝日新聞縮刷版 1992年4月 32ページ(朝日新聞1992年4月1日朝刊 32ページ(テレビ欄))</ref>、[[山陰放送|山陰放送テレビ]]、 [[高知放送|高知放送テレビ]] 、[[テレビ高知]] **10月1日 - [[秋田朝日放送]]*、[[あいテレビ|伊予テレビ(現:あいテレビ)]]* **11月27日 - [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]] *1993年(平成5年) **10月1日 - [[山口朝日放送]]*、[[大分朝日放送]]* *1994年(平成6年) **4月1日 - [[鹿児島讀賣テレビ]]* *1995年(平成7年) **4月1日 - [[愛媛朝日テレビ]]* **4月3日 - [[千葉テレビ放送]]<ref>朝日新聞縮刷版 1995年4月 72ページ(朝日新聞1995年4月2日朝刊 20ページ(翌4月3日のテレビ欄))</ref> **4月(期日不明) - [[テレビ和歌山]] **10月1日 - [[岐阜放送|岐阜放送テレビ]]<ref>朝日新聞名古屋版 1995年10月1日付朝刊 P.30 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>、[[琉球朝日放送]]* **11月1日 - [[東京メトロポリタンテレビジョン]]* *1996年(平成8年) **10月1日 - [[岩手朝日テレビ]]* *1997年(平成9年) **4月1日 - [[さくらんぼテレビジョン]]*、[[高知さんさんテレビ]]* **期日不明 - [[奈良テレビ放送]] *1999年(平成11年) **4月1日 - [[とちぎテレビ]]*(現時点で、地上波民放テレビ局では最後の開局となっている。) *2001年(平成13年) **4月1日 - [[テレビ埼玉]] '''民放テレビ全局での整備が完了''' ==日本のラジオ放送== FM[[ラジオ]]では[[周波数変調|AM-FM方式]]、AMラジオでは[[振幅変調|両立性直交振幅変調方式]]によりステレオ音声が送信される。このときも、主搬送波では左右の混合音声が送られるので、ステレオ非対応の受信機でもモノラル音声の受信は可能となる。 また、FM放送開始以前には、AMラジオ放送の2波を同時に使うことで(NHKのラジオ第1・第2放送、文化放送・ニッポン放送共同など)ステレオ放送が行われたこともある。 BSアナログ放送では、[[WOWOW]]が使用していたBSアナログ5chで独立音声放送「[[セント・ギガ]]」(→CLUB COSMO→[[WINJ]])が、PCM方式の音声で放送が行われていた。 ==各国のテレビ音声多重放送方式== 以下に各方式の名称と使用国を記す。なお、テレビの音声多重方式において、各方式の間に互換性は無い。 *{{仮リンク|MTS (テレビ方式)|en|Multichannel television sound}}(Multichannel Television Sound):アメリカ、カナダ、メキシコ、台湾(以上、[[NTSC]]使用国)、ブラジル、アルゼンチン(以上、[[PAL]]使用国)などで使用。 *[[NICAM]](Nearly Instantaneous Compandable Audio Matrix):イギリス、デンマーク、スウェーデン、ポルトガル、香港、南アフリカ、ニュージーランド(以上、PAL)、フランス([[SECAM]])で使用。 *[[A2ステレオ]]:ドイツ、オーストリア、スイス、オランダ(以上、PAL)、韓国(NTSC) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== *[[ステレオ放送]] **[[AMステレオ放送]] *[[二重音声放送]] **[[2か国語放送]] **[[解説放送]] **[[副音声付放送]] *[[カラオケ]] <!-- ***[[AMステレオ対応受信機の歴史]] --> *[[解説放送]] *[[パソコンサンデー]]、[[コンピュートないと]]([[なんでもコンピュート]]) - [[データレコーダー]]が現役の頃は、[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]用のデータを副音声でそのまま流していた。 * [[ドテラマン]] *[[サラウンド]] <!-- *[[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]] *[[ローカルニュース動画配信実施局一覧]] *[[エリアで最初に開局した放送局の一覧 (日本)]] *[[ラテ兼営]] *[[時刻出し]] *[[聴取率]]・[[視聴率]] *[[民放TV全国四波化方針]] **[[開局を断念した放送局一覧]] **[[過去日本に存在した放送局]] *[[野球実況アナウンサー一覧]] **[[プロ野球解説者一覧]] *[[サッカー実況アナウンサー一覧]] *[[競馬実況アナウンサー一覧]] --> {{Normdaten}} [[Category:放送|おんせいたしゆうほうそう]] [[Category:音響工学|おんせいたしゆうほうそう]]
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1,911
音響カプラ
音響カプラ(、英: acoustic coupler)とは、電話機の送受話器と、モデムに接続したスピーカー及びマイクロフォンを近接させ、音声を用いたデータ通信を行うことにより、公衆交換電話網(PSTN)を利用してコンピュータ間の通信を可能にする通信機器である。 初期の製品は変復調部を内蔵し、通信用インターフェース(RS-232Cなど)を備えている。現在の製品は音響と電気信号の変換だけの機能となり、モデムを接続して使用する。 モデムとの間は専用コードで接続し、電話機の受話器を音響カプラ本体にはめ込む。発信操作は、接続した電話機のダイヤルを手動で回す方法で利用する。トーン(プッシュ)回線の場合はモデムからダイヤルできる。この構造のため周りの振動や騒音に弱く、安定度も低い。初期の通信速度は300bps程度で、1989年頃には1200bps - 2400bps、2005年時点では28.8Kbpsの製品が市販されている。 後述の通り、電話機は認証を受けた既存のものを使い、PSTNと電気的な接続が無いため製造や運用に制限が無い。 1980年代前半、PSTNへのモデムの接続には制度的な制約が多く、加入者線を利用したデータ通信にはNCUと呼ばれる網制御装置か音響カプラが利用されていた。 1985年の通信自由化で技術認定を受けた端末であれば一般加入者線に接続出来るようになった。それに加えモジュラージャックの普及により工事担任者の資格なしに端末をつなぎ替えることが可能になった。このため、安定してデータ通信のできるNCUを内蔵したモデムが音響カプラの代わりに使われる様になった。1989年頃にはあまり使用されなくなった。以降はハンドヘルドコンピュータ等から、営業担当者が出先の公衆電話を利用しての営業データを自社の業務システムに送信する等の用途に使われることが多かった。 その後、モジュラージャックでモデムが直結できるISDN対応公衆電話の整備、PHS・携帯電話・無線アクセスによるインターネット接続対応、ホテルなどのインターネット対応、公衆無線LANなどデータ通信環境が整備され、一般にはほとんどその役目を終えた。しかし、「アナログ一般電話や公衆電話はあるがモジュラージャックは存在せず、一般の無線アクセス環境が全てサービスエリア圏外」のような状況下では衛星電話やホテル等設備での固定通信利用、または音響カプラの他には外出時のデータ通信手段は存在しないということになる。
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音響カプラ(おんきょうカプラ、とは、電話機の送受話器と、モデムに接続したスピーカー及びマイクロフォンを近接させ、音声を用いたデータ通信を行うことにより、公衆交換電話網を利用してコンピュータ間の通信を可能にする通信機器である。
[[画像:音響カプラ.jpg|thumb|200px|音響カプラ]] [[画像:Coupleur-accoustique-IMG 0298.JPG|thumb|200px|電話機との結合例]] [[File:Silent-700.jpg|thumb|200px|音響カプラを搭載した[[端末]]]] {{読み仮名|'''音響カプラ'''|おんきょうカプラ|{{lang-en-short|[[:en:wikt:acoustic coupler|acoustic coupler]]}}}}とは、[[電話機]]の送受話器と、モデムに接続した[[スピーカー]]及び[[マイクロフォン]]を近接させ、音声を用いた[[データ通信]]を行うことにより、[[公衆交換電話網]](PSTN)を利用して[[コンピュータ]]間の通信を可能にする通信機器である。 == 概要 == 初期の製品は変復調部を内蔵し、通信用インターフェース([[RS-232C]]など)を備えている。現在の製品は音響と電気信号の変換だけの機能となり、モデムを接続して使用する。 モデムとの間は専用コードで接続し、電話機の受話器を音響カプラ本体にはめ込む。発信操作は、接続した電話機のダイヤルを手動で回す方法で利用する。トーン(プッシュ)回線の場合はモデムからダイヤルできる。この構造のため周りの振動や騒音に弱く、安定度も低い。初期の通信速度は300bps程度で、1989年頃には1200bps - 2400bps<ref name = abc />、2005年時点では28.8Kbpsの製品が市販されている。 後述の通り、電話機は認証を受けた既存のものを使い、PSTNと電気的な接続が無いため製造や運用に制限が無い。 == 日本での歴史 == [[File:Hitsudan, Acoustic Coupler and Kurodenwa.jpg|thumb|電話回線を利用した難聴者向けの[[筆談]]機「ひつだん」で使用されていた音響カプラ]] [[1980年代]]前半、PSTNへのモデムの接続には制度的な制約が多く、[[加入者線]]を利用したデータ通信にはNCU<ref>{{lang-en-short|network control unit}}</ref>と呼ばれる[[モデム#網制御装置|網制御装置]]か音響カプラが利用されていた。 [[1985年]]の[[通信自由化]]で技術認定を受けた端末であれば一般加入者線に接続出来るようになった。それに加えモジュラージャックの普及により[[工事担任者]]の資格なしに端末をつなぎ替えることが可能になった。このため、安定してデータ通信のできるNCUを内蔵した[[モデム]]が音響カプラの代わりに使われる様になった。1989年頃にはあまり使用されなくなった<ref name = abc>{{cite encyclopedia | encyclopedia = 『電脳辞典 1990's パソコン用語のABC』 | title = 音響カプラー | editor = ピクニック企画, 堤大介 | language = 日本語 | date = 1990-03-01 | publisher = ピクニック企画 | isbn = 4-938659-00-X | pages = 27}}</ref>。以降は[[ハンドヘルドコンピュータ]]等から、営業担当者が出先の[[公衆電話]]を利用しての営業データを自社の業務システムに送信する等の用途に使われることが多かった。 その後、[[Registered jack|モジュラージャック]]でモデムが直結できる[[ISDN]]対応[[公衆電話]]の整備、[[PHS]]・[[携帯電話]]・[[無線アクセス]]による[[インターネット]]接続対応、[[ホテル]]などのインターネット対応、[[公衆無線LAN]]などデータ通信環境が整備され、一般にはほとんどその役目を終えた。しかし、「アナログ一般電話や公衆電話はあるがモジュラージャックは存在せず、一般の[[無線アクセス]]環境が全てサービスエリア圏外」のような状況下では[[衛星電話]]やホテル等設備での固定通信利用、または音響カプラの他には外出時のデータ通信手段は存在しないということになる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Div col}} *[[ダイヤルアップ接続]] *[[電話回線]] *[[電話機]] *[[インタフェース (情報技術)]] *[[パソコン通信]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{commonscat}} *{{kotobank}} *{{kotobank|音響カプラー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんきようかふら}} [[Category:通信機器]] [[Category:パソコン通信]] [[Category:音響]] [[ru:Модем#История]]
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2009年
2009年(2009 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。平成21年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。 2月4日 高橋來、子役
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2009年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。平成21年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|2009年の日本}} {{年代ナビ|2009}} {{YearInTopic | 年 = 2009 }} {{year-definition|2009}} この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。 == 他の紀年法 == {{Year in other calendars|year=2009}} * [[干支]]:[[己丑]](つちのと うし) * [[日本]](月日は一致) ** [[平成]]21年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2669年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4342年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]98年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]98年 * [[仏滅紀元]]:2551年10月6日 - 2552年10月15日 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1430年1月4日 - 1431年1月14日 * [[ユダヤ暦]]:5769年4月5日 - 5770年4月14日 * [[UNIX時間|Unix Time]]:1230768000 - 1262303999 * [[修正ユリウス日]](MJD):54832 - 55196 * [[リリウス日]](LD):155673 - 156037 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=2009}} == できごと == === 1月 === * 1月1日 ** [[ウガンダ]]、[[オーストリア]]、[[トルコ]]、[[日本]]、[[メキシコ]]が[[国際連合安全保障理事会]]の[[非常任理事国]]となる。 ** [[チェコ]]が[[フランス]]に代わり[[欧州連合]](EU)議長国となる。 ** [[スロバキア]]で[[ユーロ]]導入。これにより、[[ユーロ圏]]は16か国に拡大<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-35685620090102 スロバキア、欧州単一通貨ユーロを導入] ロイター 2009年1月2日付.</ref>。 ** [[パラグアイ]]の首都[[アスンシオン]]が[[アメリカ文化首都]]となる。 ** [[リトアニア]]の首都[[ヴィリニュス]]及び[[オーストリア]]の都市[[リンツ]]が[[欧州文化首都]]となる。 * 1月12日 - [[アメリカ合衆国]]への入国手続きに[[電子渡航認証システム]](ESTA)が必須となる<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/090112/amr0901121126005-n1.htm 「ESTA」混乱なくスタート 米国渡航、ネット認証制度] 産経新聞 2009年1月12日付. 2009年1月17日閲覧.{{リンク切れ|date=2021年9月}}</ref>。 * 1月13日 - [[エチオピア]]軍が[[ソマリア]]から撤兵<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7825626.stm Somali joy as Ethiopians withdraw] BBC NEWS 2009年1月13日付. 2009年1月26日閲覧.</ref>。 [[ファイル:US Airways Flight 1549 (N106US) after crashing into the Hudson River (crop 1).jpg|thumb|right|[[USエアウェイズ1549便不時着水事故]]]] * 1月15日 ** [[ジンバブエ]]中央銀行、100兆[[ジンバブエ・ドル]][[紙幣]]の発行を発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2559100?pid=3691327 100000000000000ドル紙幣が登場、異常なインフレ下のジンバブエ] AFPBBNews 2009年1月17日付.</ref>。 ** [[フランス]]・[[パリ]]の[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)本部において[[世界天文年2009]]記念式典挙行。 ** [[USエアウェイズ1549便不時着水事故]]が発生。[[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク州]]の[[ハドソン川]]に[[エアバスA320]]が不時着水、乗組員・乗員計155名は全員無事救助される<ref>[https://web.archive.org/web/20090121200859/http://sankei.jp.msn.com/world/america/090116/amr0901160936009-n1.htm 【NY旅客機事故】乗員・乗客全員救助、邦人2人も無事 テロと無関係と米政府] 産経新聞 2009年1月16日付. 2009年1月17日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090121183911/http://sankei.jp.msn.com/world/america/090116/amr0901161031010-n1.htm 【NY旅客機事故】「ハドソン川の奇跡」 全員救助を導いた機長に称賛の声] 産経新聞 2009年1月16日付. 2009年1月17日閲覧.</ref>。 * 1月17日 - [[イスラエル]]が[[ガザ地区]]での紛争の停戦を一方的に宣言<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/CNN200901180001.html イスラエル、ガザで一方的停戦を宣言]{{リンク切れ|date=2010年3月}} CNN.co.jp 2009年1月18日付. 2009年1月26日閲覧.</ref>。 * 1月18日 - [[中華民国]]政府、景気対策として住民約2,300万人に対し、日本の[[地域振興券]]に似た「消費券」配布開始<ref>[http://www.cnn.co.jp/business/CNN200901190019.html 旧正月控えた台湾、1万円の「消費券」を住民に配布]{{リンク切れ|date=2010年3月}} CNN.co.jp 2009年1月19日付. 2009年1月19日閲覧.</ref>。 * 1月20日 - [[バラク・オバマ]]が、第44代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任([[バラク・オバマ大統領就任式]]も参照)。[[黒人]]の大統領は、[[アメリカ合衆国]]史上初めて<ref>[https://web.archive.org/web/20090213161857/www.yomiuri.co.jp/world/news/20090121-OYT1T00101.htm?from=navr 「オバマ米大統領が就任、平和と団結訴え」] 読売新聞 2009年1月21日付. 2009年1月26日閲覧.</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/090121/amr0901210315004-n1.htm【オバマ大統領就任式】「新しい責任の時代」 200万人見守る中 演説]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 産経新聞 2009年1月21日付. 2009年1月22日閲覧.</ref>。 * 1月22日 - [[バラク・オバマ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]、[[キューバ]]の[[グァンタナモ米軍基地]]のテロ容疑者収容所に加え、[[中央情報局]](CIA)の全秘密収容所も閉鎖するよう命令<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090123AT2M2301523012009.html オバマ大統領、グアンタナモ閉鎖など命令「米国は拷問しない」]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 産経新聞 2009年1月23日付.</ref>。 * [[1月23日]] ** 世界最初の[[温室効果ガス]]観測技術衛星「[[いぶき (人工衛星)|いぶき]]」など[[人工衛星]]計8基搭載した[[H-IIAロケット]]15号機、[[種子島宇宙センター]]から打ち上げ成功<ref>[https://web.archive.org/web/20090130041646/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090112/scn0901120836001-n1.htm 衛星「いぶき」21日に打ち上げ 温室効果ガス、網羅的に観測] 産経新聞 2009年1月12日付. 2009年1月25日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090129070210/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090123/scn0901231310002-n1.htm H2A 打ち上げ成功 「まいど1号」など最多8基搭載] 産経新聞 2009年1月23日付. 2009年1月25日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090129070211/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090125/scn0901250128000-n1.htm 「いぶき」撮影の画像公開 相乗りの7基が鮮明に] 産経新聞 2009年1月25日付. 2009年1月25日閲覧.</ref>。 ** [[コンゴ民主共和国]]反政府組織の指導者[[ローラン・ンクンダ]]が、[[ルワンダ]]軍に拘束される<ref>[https://web.archive.org/web/20090201093240/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090123/mds0901232152004-n1.htm コンゴの反政府勢力トップ拘束 ルワンダ軍] 産経新聞 2009年1月23日付. 2009年1月26日閲覧.</ref>。 * 1月26日 ** [[国際刑事裁判所]]において2002年に同裁判所が設置されて以来初となる公判開始。15歳未満の少年を組織的に徴兵した[[コンゴ]]愛国同盟[[トマス・ルバンガ]]元代表の[[戦争犯罪]]訴追<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090126-OYT1T01046.htm 国際刑事裁判所で初めての公判…コンゴ内戦の少年徴兵で]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 読売新聞 2009年1月27日付.</ref>。 ** ナディア・スールマンが[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]近郊の[[ベルフラワー (カリフォルニア州)|ベルフラワー]]に位置し、[[カイザー・パーマネンテ]]が運営する医療センターにて、アメリカ史上2例目となる八つ子の乳児([[スールマン家の八つ子]])を[[分娩|出産]]した<ref name="AFP2009.1.27">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2564687?pid=3731099|title=カリフォルニアで8つ子誕生、米史上2例目|publisher=[[フランス通信社|AFPbb.com]]|date=2009-01-27|accessdate=2014-12-18}}</ref><ref name="LAtimes">{{cite web|url=http://latimesblogs.latimes.com/lanow/2009/01/a-mother-has-gi.html|title=Octuplets born in Bellflower|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ|LAtimes.com]]|language=英語|date=2009-01-26|accessdate=2014-12-18}}</ref>。 ** [[インドネシア]]で[[日食|金環食]]観測。その他、[[東南アジア]]、[[インド]]でも日食観測<ref>[https://web.archive.org/web/20090130073643/http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009012601000795.html インドネシアで金環食を観測 「指輪みたい」] 47NEWS 2009年1月26日付.{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 ** [[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界的な金融危機]]により経済が破綻の瀬戸際にある[[アイスランド]]において[[ゲイル・ホルデ]]政権が退陣<ref>[https://web.archive.org/web/20090108200122/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081113/erp0811132341007-n1.htm 国民は突然知った!GDP10倍の借金 アイスランド崩壊の危機] 産経新聞 2008年11月13日付. 2009年1月27日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090127034532/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090123/erp0901232329008-n1.htm アイスランド首相が退陣表明 金融危機でデモ] 産経新聞 2009年1月23日付. 2009年1月27日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090129125624/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090126/erp0901262356002-n1.htm アイスランド政権崩壊…経済に続き政治もマヒ] 産経新聞 2009年1月26日付. 2009年1月27日閲覧.</ref>。 * 1月27日 - 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[[オーストラリア]]・[[メルボルン]]近郊において大規模な[[山火事]]発生。広範に延焼、173人死亡。[[2月12日]]、出火の原因となった[[放火]]容疑で2名を逮捕([[2009年ビクトリア州森林火災]])<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009021200270 放火容疑で2人拘束=豪山火事] 時事ドットコム 2009年2月12日付.</ref>。 * 2月9日 - [[中華人民共和国]]・[[北京市]]で[[中国中央電視台]](CCTV)の建設中本社ビルが、同局による無許可の打ち上げ花火によって全焼([[中央電視台電視文化センター火災]])<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0209/TKY200902090284.html 北京・中国中央TV、高層ビル炎上]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 朝日新聞 2009年2月10日閲覧.</ref>。 * 2月10日 - [[アメリカ合衆国]]と[[ロシア]]の[[人工衛星]]が衝突。人工衛星どうしの初衝突事故([[2009年人工衛星衝突事故]])<ref> [http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090216/132209/ ついに起きてしまった人工衛星衝突“使えない高度”が現実になる時代に] 日経BPネット 2009年2月16日付</ref>。 * 2月12日 - [[コンチネンタル航空3407便墜落事故|コンチネンタル航空3407便]]が[[ニューヨーク州]]・[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]郊外に墜落。乗客乗員49人全員および地上にいた1人の計50人死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2571434?pid=3790388 NYのコンチネンタル機墜落、死者は50人に] AFPBBNews 2009年2月14日付.</ref>。 * 2月13日 - 世界最初の[[月]]全体の地形図及び重力地図が、[[国立天文台]]や[[国土地理院]]などの研究者チームにより作製されたと発表。月周回衛星「[[かぐや]]」の観測データによるもの<ref>[http://risewww.mtk.nao.ac.jp/D10_4.htm#4 月全球の正確な地形と重力場が世界で初めて明らかに] 国立天文台 2009年2月13日発表. 2009年3月6日閲覧.</ref><ref>“[http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/323/5916/897 Lunar Global Shape and Polar Topography Derived from Kaguya-LALT Laser Altimetry]” 『Science』 2009年2月13日号. 2009年3月6日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090216194038/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090213/scn0902130742001-n1.htm 月面全体の地図作製 世界初、「かぐや」観測で] 産経新聞 2009年2月13日付. 2009年3月6日閲覧.</ref>。 * 2月20日 - 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[[インド]]・[[ウッタラーカンド州]]において大規模な[[地滑り]]が発生。少なくとも43人が死亡、多くの人数が土砂に埋まるなどして行方不明となる<ref>[https://web.archive.org/web/20090814231222/http://news24.jp/articles/2009/08/10/10141342.html インドで豪雨、大規模な地滑りで43人死亡] 日テレNEWS24 2009年8月10日付. 2009年8月10日閲覧.</ref>。 * 8月10日 - [[メキシコ]]の[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]において北米3カ国首脳会談(メキシコ、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]])を開催<ref>[https://web.archive.org/web/20110924215548/http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009081101000245.html 北米サミット、協力強化で一致 麻薬、インフルで] 47NEWS 共同通信 2009年8月11日付. 2009年8月15日閲覧.</ref>。麻薬犯罪対策や新型インフルエンザ対策での協力関係強化。 * 8月18日 ** [[日産自動車]]が本社を[[日産自動車グローバル本社|グローバル本社ビル]]([[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]])内に移転<ref>[http://www.pjnews.net/news/159/20090809_7 日産自動車の本社が18日に横浜へ移転、松沢県知事の夢もふくらむ=神奈川](PJ NEWS 2009年08月10日)</ref>。 ** [[金大中]]第15代[[大韓民国]][[大統領]]、[[多臓器不全]]により、85歳で[[死去]]。 * 8月20日 ** [[アフガニスタン]]大統領選。[[ハーミド・カルザイ]]大統領が54.6%の得票率を獲得する。その後、不正票を除いた結果、約48%となり、11月7日に決選投票アブドラ元外相との決選投票となったが再選<ref>[https://web.archive.org/web/20091022154617/http://sankei.jp.msn.com/world/asia/091020/asi0910200132000-n1.htm 投票所210カ所の全票無効を勧告 アフガン選管筋「カルザイ票48%」] 産経新聞 2009年10月20日付. 2009年10月20日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20090808123705/http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090805/kor0908050858006-n1.htm アフガン大統領選で11月7日に決選投票 カルザイ氏が受け入れ] 産経新聞 2009年10月20日付. 2009年10月27日閲覧.</ref>。 ** [[パンアメリカン航空103便爆破事件]]の犯人として[[スコットランド]]の刑務所に収監されていた元リビア情報部員が特赦により釈放・帰国、アメリカ合衆国政府は非難<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2632473?pid=4475251 英スコットランド自治政府、パンナム機爆破事件のリビア人受刑者を釈放] AFPBBニュース 8月21日</ref>。 * 8月22日 - 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[[マイクロソフト]]の[[オペレーティングシステム]] (OS) 最新版「[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]」が発売開始。 * 10月25日 - [[チュニジア]]大統領選挙。[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー]]大統領が89.62%を獲得して5回目の再選<ref>[http://www.47news.jp/news/2009/10/post_20091025165104.html チュニジア大統領、5選確実 有力対抗馬不在] 共同通信 2009年10月25日付. 2009年10月27日閲覧.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20111018022510/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009102601000542.html 現職ベンアリ氏が5選 チュニジア大統領選] 共同通信 2009年10月26日付. 2009年10月27日閲覧.</ref>。 * 10月26日 - 10月27日 - [[トルコ]]・[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]首相が[[イラン]]訪問。経済情勢・[[イランの核開発問題]]について協議<ref>[http://www.upi.com/Top_News/Special/2009/10/27/Erdogan-talks-nukes-in-Iran/UPI-16861256661064/ Erdogan talks nukes in Iran(英語)] UPI 2009年9月27日付. 2009年9月28日閲覧.</ref><ref>[http://www.todayszaman.com/tz-web/news-191337-109-centerbehind-the-rhetoric-why-turkey-wants-to-keep-iran-engaged-bribyibr-gulnur-aybetcenter.html Behind the rhetoric: Why Turkey wants to keep Iran(英語)] Today's Zaman 2009年9月29日付. 2009年9月29日閲覧.</ref><ref>[http://sns.sy/sns/?path=news/read/6091 Erdogan delays his visit to Washington] {{en icon}} 2009年9月27日付. 2009年9月29日閲覧.</ref>。 * 10月28日 - [[アメリカ航空宇宙局]]、[[スペースシャトル]]の後継機である初のロケット試験機「[[アレスI]]」の打ち上げに成功<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/091029/amr0910290124000-n1.htm ロケット試験機発射成功 米シャトル後継アレス1] 産経新聞 2009年10月29日付. 2009年10月29日閲覧.</ref>。 * 10月30日 - [[欧州理事会]]が[[ブリュッセル]]で開かれ、[[チェコ]]の[[ヴァーツラフ・クラウス]]大統領が要求していた同国に対する[[リスボン条約]]における[[欧州連合基本権憲章]]の適用除外に合意する<ref>[https://web.archive.org/web/20110924193141/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009103001000107.html EU、リスボン条約発効へ チェコの修正要求受け入れ] 共同通信 2009年10月30日付. 2009年10月30日閲覧.</ref>。 === 11月 === * 11月3日 - [[チェコ]]の憲法裁判所は[[リスボン条約]]が同国の国内法に違反しない判断を示し、これを受けて大統領[[ヴァーツラフ・クラウス]]はリスボン条約の批准書に署名した<ref>[https://web.archive.org/web/20111018021905/http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009110301000439.html リスボン条約発効へ チェコ大統領、批准署名] 共同通信 2009年11月4日付. 2009年11月4日閲覧.</ref>。 * 11月13日 - [[バラク・オバマ]][[アメリカ合衆国大統領]]が初[[来日]]。 * 11月14日 - 11月15日 - [[シンガポール]]で[[アジア太平洋経済協力]]会議(APEC)開催。 * 11月14日 - [[釜山射撃場火災]] * 11月19日 - [[欧州連合]](EU)の初代[[欧州理事会議長|欧州理事会常任議長]](EU大統領)に[[ヘルマン・ファン・ロンパウ|ヘルマン・ファンロンパイ]][[ベルギー]]首相を選出<ref>[https://web.archive.org/web/20091122144117/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091120-OYT1T00211.htm 初代EU大統領にベルギーのファンロンパウ首相]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 読売新聞 2009年11月20日付. 2009年11月23日閲覧.</ref>。 * 11月21日 - 任天堂が[[ニンテンドーDSi | ニンテンドーDSi LL]]を発売。 === 12月 === * 12月1日 - [[欧州連合]](EU)の新[[欧州連合基本条約|基本条約]]である[[リスボン条約]]が発効<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091201/erp0912011116007-n1.htm リスボン条約が発効 EU新体制動きだす] 産経新聞 2009年12月1日付. 2009年12月3日閲覧.</ref>。 * 12月7日 - 12月18日 - [[第15回気候変動枠組条約締約国会議]]が開催。 * 12月14日 - イギリスの寝台列車「[[オリエント急行]]」の定期列車が廃止。 * 12月16日 - [[太陽系外惑星]][[GJ 1214 b]]が発見される<ref>{{cite news|url=http://www.chicagotribune.com/business/chi-tc-biz-dubai-1127-1128-nov28,0,190827.story |title=ChicagoTribune.com |publisher=ChicagoTribune.com |date= |accessdate=2010-08-23}}</ref>。 == イベント・行事 == === 国際年 === {{seealso|国際年}} * [[世界天文年2009|世界天文年]](International Year of Astronomy) * 国際和解年(International Year of Reconciliation) * 国際天然繊維年(International Year of Natural Fibres) * [[国際ゴリラ年]](Year of the Gorilla) * 国際サメ年(International Year of the Shark) == 天文現象 == * [[ファイル:Solar eclipse 22 July 2009 taken by Lutfar Rahman Nirjhar from Bangladesh.jpg|thumb|right|[[2009年7月22日の日食]]|155x155ピクセル]]7月22日 - [[インド]]、[[中華人民共和国]]、[[日本]]などの国々や[[太平洋]]の島々にて、継続時間が今世紀最長となる[[日食|皆既日食]]を観測([[2009年7月22日の日食]])<ref>[https://web.archive.org/web/20090725194525/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090722/scn0907221012007-n1.htm 【皆既日食】世界各地で観測 トカラ列島は大雨] 産経新聞 2009年7月22日付. 2009年7月22日閲覧.</ref>。 == 芸能・文化・ファッション == === 世相 === * [[豚]]の間で流行していた[[ウイルス]]が[[ヒト|人]]に感染したことにより、[[A型インフルエンザウイルス|A型]]・[[H1N1亜型]]の[[新型インフルエンザ]]が世界的流行となった([[2009年新型インフルエンザの世界的流行]])。 === スポーツ === {{see|2009年のスポーツ}} === 音楽 === {{see|2009年の音楽}} === 映画 === {{main|2009年の映画}} * [[モンスターVSエイリアン]] * [[アイス・エイジ3/ティラノのおとしもの]] * [[くもりときどきミートボール]] * [[ブレンダンとケルズの秘密]] * [[ファンタスティック Mr.FOX]] * [[メアリー & マックス]] * [[カールじいさんの空飛ぶ家]] * [[2012_(映画)|2012]] * [[ニュームーン/トワイライト・サーガ]] * [[プリンセスと魔法のキス]] * [[アバター (2009年の映画)|アバター]] * [[イングロリアス・バスターズ]] * [[ウォッチメン (映画)|ウォッチメン]] * [[きっと、うまくいく]] * [[(500)日のサマー]] * [[コララインとボタンの魔女]] * [[シャーロック・ホームズ (2009年の映画)|シャーロック・ホームズ]] * [[白いリボン]] * [[スター・トレック (2009年の映画)|スター・トレック(2009版)]] * [[ゾンビランド]] * [[第9地区]] * [[冷たい雨に撃て、約束の銃弾を]] * [[トランスフォーマー: リベンジ]] * [[母なる証明]] * [[ハリー・ポッターと謎のプリンス]] * [[ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い]] * [[瞳の奥の秘密]] * [[マイケル・ジャクソン THIS IS IT]] === 文学 === {{see|2009年の文学}} == 誕生 == {{see also|2009年の日本#誕生|Category:2009年生}} <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「2009年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記) --> === 1月 === * 1月10日 - [[大角ゆき]]、子役 * 1月26日 - [[スールマン家の八つ子]]、[[アメリカ合衆国]]の八つ子 * 1月30日 - [[五十嵐陽向]]、子役 === 2月 === 2月4日 高橋來、子役 === 3月 === *3月28日 - [[髙橋大翔]] === 4月 === * 4月3日 - [[小山春朋]]、子役 * 4月15日 - [[ジュリア・バターズ]]、アメリカ合衆国の子役 === 5月 === * 5月4日 - [[ヘンリク (デンマーク王子)|ヘンリク]]、[[デンマーク]]の王族 * 5月8日 - [[石田星空]]、子役 * 5月20日 - [[矢崎由紗]]、子役 === 6月 === * 6月1日 - [[ヘンド・ザザ]]、[[シリア]]の卓球選手 * 6月4日 - [[中野遥斗]]、子役 === 7月 === === 8月 === === 9月 === * 9月1日 - [[鎌田英怜奈]]、子役、女優 === 10月 === * 10月30日 - [[大谷紅緒]]、子役 === 11月 === * 11月19日 - [[ガストン・ドルレアン (2009-)|ガストン・ドルレアン]]、[[フランス]]の旧王家 * 11月26日 - [[山口祐輝]]、子役 === 12月 === == 人物以外 == * 2月20日 - [[ジェンティルドンナ]]、競走馬 * 3月6日 - [[ゴールドシップ]]、競走馬 * 3月9日 - [[ジャスタウェイ]]、競走馬 == 死去 == {{See|訃報 2009年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[チャールズ・カオ]]、[[ウィラード・ボイル]]、[[ジョージ・E・スミス]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[アダ・ヨナス]]、[[ヴェンカトラマン・ラマクリシュナン]]、[[トマス・A・スタイツ]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[エリザベス・H・ブラックバーン]]、[[キャロル・W・グライダー]]、[[ジャック・W・ショスタク]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ヘルタ・ミュラー]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[バラク・オバマ]] * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[エリノア・オストロム]]、[[オリバー・ウィリアムソン]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2009|date=2011年7月}} * 3月 - アフリカのとある国にあるキジュジュ自治区にてバイオハザードが発生、同時に「ウロボロス計画」についての真相を暴くため、BSAA西部アフリカ支部隊アルファチームがキジュジュ自治区に送られる。バックアップ要員として、北米支部の当時エージェントであった[[クリス・レッドフィールド]]と西部アフリカ支部の同じくエージェントであるシェバ・アローマが参加、任務を進めていくにつれ、[[アルバート・ウェスカー]]と対峙、死闘の末決着を着ける。(ゲーム『[[バイオハザード5]]』) * 4月21日 - [[欧州原子核研究機構|ヨーロッパ素粒子研究所]](CERN)の[[量子物理学]]者ロイド・シムコーとテオドシオス・プロコピデスが、[[大型ハドロン衝突型加速器]]を用いた[[ヒッグス粒子]]を発見するための実験に失敗し、世界各地の人々が2030年[[10月23日]]のヴィジョンを体験する「フラッシュフォワード」が発生する。(小説『[[フラッシュフォワード (小説)|フラッシュフォワード]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ロバート・J・ソウヤー|authorlink=ロバート・J・ソウヤー |title = フラッシュフォワード |publisher = [[早川書房]] |year = 2001 |pages = 11-89 |isbn = 978-4-15-011342-1}}</ref> * 7月25日 - 海上自衛隊第7潜水隊群所属の潜水艦「くろしお」(艦長は織田志郎3等海佐)がクーデターを決起。(漫画『[[戦海の剣]]』) * 12月30日 - イギリスの[[物理学者]]チャールズ・ロスが、自宅である{{仮リンク|バノックバーン|en|Bannockburn}}のストーバノン館で、高エネルギー密度での[[対消滅]]時に生じる「タウ波」を用いた、コンピュータでの[[タイムトラベル|時間逆行送信]]テストに成功する。(小説『[[未来からのホットライン]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジェイムズ・P・ホーガン|authorlink=ジェイムズ・P・ホーガン |title = 未来からのホットライン |publisher = [[東京創元社]] |year = 1983 |pages = 6-10,14,15,38-44 |isbn = 978-4-488-66306-3}}</ref> * 女性科学者アリス・クルピン博士が[[麻疹ウイルス]]を元に[[悪性腫瘍|ガン]]の治療薬を開発。しかし治療薬を投与した者の一部が[[狂犬病]]に似た症状で死亡したため調査が開始され、治療薬が人間を死に至らしめる危険なウィルスK.V(クルピン・ウィルス)であることが判明、感染源となった[[ニューヨーク]]が封鎖される。その後K.Vは空気感染によって世界中へと拡散し、人類のほとんどが死滅する。(映画『[[アイ・アム・レジェンド]]』) * [[アルファルド|海蛇座アルファ]]の惑星から発せられた地球外文化からのメッセージが観測される。(小説『[[キャッチワールド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= クリス・ボイス|authorlink=:en:Chris Boyce |title = キャッチワールド |publisher = 早川書房 |year = 1981 |page = 36 |isbn = 978-4-15-010431-3}}</ref> * [[遺伝子工学]]によって造られたスーパー・ソルジャーの子供たちが、政府の秘密DNA研究所「マンティコア」を脱走。(テレビドラマ『[[ダークエンジェル (テレビドラマ)|ダークエンジェル]]』) * アディポーズ社が暗躍、人間の体から脂肪エイリアンアディポーズが大量に生まれる。(テレビドラマ『[[ドクター・フー]]』) * ソンターランが地球に対し侵略戦争を仕掛ける。(テレビドラマ『ドクター・フー』) * [[ダーレク]]が地球へ攻撃を仕掛ける。地球を含め27個の惑星がメデューサ・カスケードへ移動させられる。(テレビドラマ『ドクター・フー』) * フランスの物理学者アナトールM610B9が、[[ラジウム]]が[[エーテル (物理)|エーテル]]との高い親和性を有しており、帯電したラジウム中のエーテルがあらゆる周知の現象を発生させる事を発見する。(小説『[[ラルフ124C41+|ラルフ124C41+]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ヒューゴー・ガーンズバック|authorlink=ヒューゴー・ガーンズバック |title = ラルフ124C41+ |publisher = 早川書房 |year = 1995 |pages = 37,38 |isbn = 978-4-15-207942-8}}</ref> == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|2009}} * [[365日]] * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * {{日本語版にない記事リンク|2009年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2009}} <!-- == 外部リンク == * --> {{十年紀と各年|世紀=21|年代=2000}} {{Navboxes | title = 2009年の各国 | list1 = {{各年のアメリカ|2009|unit=1||List=1}} {{各年のヨーロッパ|2009|unit=1||List=1}} {{各年のアフリカ|2009|unit=1||List=1}} {{各年のアジア|2009|unit=1||List=1}} {{各年のオセアニア|2009|unit=1||List=1}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:2009ねん}} [[Category:2009年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2009%E5%B9%B4
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1977年
1977年(1977 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和52年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1977年について記載する。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1977年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和52年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1977年について記載する。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1977年の日本}} {{年代ナビ|1977}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1970 | 年 = 1977 }} {{year-definition|1977}} この項目では、国際的な視点に基づいた1977年について記載する。 == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[丁巳]](ひのと み) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]52年 ** [[皇紀]]2637年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]66年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]66年 * [[仏滅紀元]]:2519年 - 2520年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1397年1月10日 - 1398年1月20日 * [[ユダヤ暦]]:5737年4月11日 - 5738年4月21日 * ユニックス時間:220924800 - 252460799 * [[修正ユリウス日]](MJD):43144 - 43508 * [[リリウス日]](LD):143985 - 144349 <div style="font-size:smaller"> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> ==カレンダー== {{年間カレンダー|年=1977}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[欧州共同体|欧州共同体 (EC) ]]、200海里水域宣言{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月2日]] - 日大理工学グループの人力飛行機[[ストーク (人力飛行機)|ストーク号]]が2093.9m飛び、世界新記録を樹立{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月18日]] - オーストラリアで[[グランヴィル鉄道事故]]が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事となる。 * [[1月20日]] - アメリカで[[ジミー・カーター]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]就任。 * [[1月27日]] - [[ロッキード事件]][[丸紅]]ルート初公判。31日[[全日本空輸|全日空]]ルート初公判。 === 2月 === * [[2月9日]] - スペイン、ソ連と38年ぶり国交回復。 * [[2月10日]] - 日米漁業協定調印。200[[海里]][[排他的経済水域|経済水域]]規定に基づく初の漁業協定。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[アメリカ合衆国|米]]・[[ソビエト連邦|ソ]]2大国が200海里漁業専管水域を実施。 * [[3月10日]] - [[天王星の環]]を発見。 * [[3月27日]] - [[カナリア諸島]]でジャンボ機同士の衝突事故が発生([[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故]])。 === 4月 === * [[4月21日]] - ミュージカル『[[アニー]]』が[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]で初演。2377回の[[ロングラン公演]]となる。 * [[4月28日]] - [[山梨県]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の「種まく人」など3点の絵画作品を3億1500万円で購入。翌年開館の[[山梨県立美術館]]に収蔵。 === 5月 === * [[5月7日]] - [[ロンドン]]で[[第3回先進国首脳会議|第3回サミット]]開催( - 8日)。 === 6月 === * [[6月13日]] - [[全米女子プロゴルフ選手権]]で[[樋口久子]]が優勝、日本人初の世界タイトルを獲得。 * [[6月30日]] - [[東南アジア条約機構]]が発足から23年目で解散。 === 7月 === * [[7月1日]] - 領海法施行、日本の[[領海]]を海岸より12海里と定める。 * [[7月13日]] - [[1977年ニューヨーク大停電|ニューヨーク大停電]]。[[ニューヨーク]]で[[落雷]]が原因の[[停電]]が起こり、復旧までの3日間に900万人が影響を受けた。 * [[7月14日]] - 日本初の静止[[気象衛星]]「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」(後の「ひまわり1号」)打ち上げ。 === 8月 === * [[8月12日]] - 文化大革命終結宣言。 * [[8月15日]] - [[ビッグイヤー電波望遠鏡]]で[[Wow! シグナル]]が受信される。信号の正体は不明でのちに映画『[[コンタクト (映画)|コンタクト]]』のモデルにもなる。 * [[8月20日]] - 無人宇宙探査機「[[ボイジャー2号]]」がアメリカ・[[フロリダ州]][[ケープカナベラル空軍基地]]から打ち上げられた。 === 9月 === * [[9月5日]] - [[ボイジャー1号]]が[[ケープカナベラル空軍基地]]から打ち上げられる * [[9月27日]] ** 横浜の住宅密集地に米軍の戦闘機が墜落。母子3名が死傷した([[横浜米軍機墜落事件]])。 ** [[日本航空クアラルンプール墜落事故]]。34人死亡。 * [[9月28日]] - [[ダッカ日航機ハイジャック事件]]が発生。 === 10月 === * [[10月7日]] - [[ソビエト連邦]]で憲法改正。([[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1977年)]]) * [[10月13日]] - [[ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件]]。 * [[10月18日]] - ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件、特殊部隊突入で解決。[[ドイツ赤軍]]メンバーが刑務所内で相次ぎ自殺。 * [[10月31日]] - 自然環境における[[天然痘]]の最後の感染事例が報告される。 === 11月 === * [[11月11日]] - [[裡里駅爆発事故]]。(現:[[益山駅]]) * [[11月15日]] - 新潟市で[[横田めぐみ]]が下校途中に北朝鮮の工作員に拉致される。 * [[11月19日]] ** [[エジプト]]の[[アンワル・アッ=サーダート|サダト]]大統領が[[イスラエル]]を訪問(アラブ諸国の元首として初のイスラエル訪問)。 ** [[TAP ポルトガル航空425便墜落事故]]が発生。131人が死亡。 === 12月 === * [[12月4日]] - [[中央アフリカ共和国]]の[[ジャンベデル・ボカサ]]終身大統領が{{仮リンク|ボカサ1世の戴冠式|en|Coronation of Bokassa I|label=戴冠式}}を行い[[中央アフリカ帝国]]皇帝ボカサ1世として即位。 * [[12月17日]] - [[リニアモーターカー]]、世界初の浮上走行に成功。 * [[12月25日]] - [[イギリス]]の喜劇王、[[チャーリー・チャップリン|チャールズ・チャップリン]]死去(88歳)。 == 芸術・文化・ファッション == === スポーツ === {{Main|1977年のスポーツ}} * 自転車競技 ** [[中野浩一]]が日本人として初の自転車世界選手権の優勝を果たす、種目はスクラッチ(現在のスプリント)で、以後10年連続優勝をし、「世界のナカノ」と称される。 * アルペンスキー ** [[海和俊宏]] ワールドカップ男子回転にて日本人初の第1シード入り === 音楽 === {{Main|1977年の音楽}} * [[ホテル・カリフォルニア]]([[イーグルス]]) * [[オウン・ウェイ]]([[フリートウッド・マック]]) * [[ダンシング・クイーン]]([[ABBA]]) === 映画 === {{Main|1977年の映画}} * 洋画 ** [[007 私を愛したスパイ]][英] ** [[ロッキー (映画)|ロッキー]] ** [[未知との遭遇]] ** [[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]](日本での公開は1978年) ** [[北京原人の逆襲]] ** [[くまのプーさん 完全保存版]] ** [[ビアンカの大冒険]] == 誕生 == {{see also|Category:1977年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月3日]] - [[A.J.バーネット]]、元[[メジャーリーガー]] * [[1月5日]] - [[エリック・ヤング (投手)|エリック・ヤング]]、[[プロ野球選手]] * [[1月11日]] - [[リック・ガトームソン]]、プロ野球選手 * [[1月12日]] - [[ヨアンディ・ガルロボ]]、元野球選手 * [[1月13日]] - [[ジェームス・ポージー]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1月19日]] - [[キム・ソヨン (声優)|キム・ソヨン]]、[[大韓民国|韓国]]声優 * 1月19日 - [[Cocco]]、[[シンガーソングライター]] * 1月19日 - [[ローレン・エタメ・マイヤー]]、元[[サッカー選手]] * [[1月20日]] - [[イリアン・ストヤノフ]]、サッカー選手 * [[1月21日]] - [[フィリップ・ネヴィル]]、元サッカー選手 * [[1月22日]] - [[中田英寿]]、元サッカー選手 * 1月22日 - [[ヴァズゲン・アズロヤン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1月22日 - [[タミー・シアー]]、フィギュアスケート選手 * [[1月26日]] - [[ヴィンス・カーター]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1月28日]] - [[ライル・オーバーベイ]]、元メジャーリーガー * [[1月31日]] - [[香取慎吾]]、歌手、[[SMAP]]メンバー === 2月 === * [[2月2日]] - [[シャキーラ]]、ミュージシャン * [[2月6日]] - [[松元惠]]、[[声優]] * [[2月7日]] - [[宮本恒靖]]、サッカー選手 * [[2月8日]] - [[デイヴ・ファーレル]]、ミュージシャン([[リンキン・パーク]]) * 2月8日 - [[ロマン・コストマロフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[2月9日]] - [[張玉峰]]、野球選手 * [[2月11日]] - [[マイク・シノダ]]、ミュージシャン(リンキン・パーク) * [[2月12日]] - [[劉東勳]]、[[野球選手]] * [[2月13日]] - [[ランディ・モス]]、アメリカンフットボール選手 * [[2月15日]] - [[マシュー・ランデル]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月17日]] - [[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]]、声優 * [[2月19日]] - [[ジャンルカ・ザンブロッタ]]、サッカー選手、サッカー指導者 * [[2月20日]] - [[ステフォン・マーブリー]]、[[バスケットボール]]選手 * [[2月21日]] - [[スティーブ・フランシス]]、元バスケットボール選手 * [[2月22日]] - [[J・J・プッツ]]、メジャーリーガー * 2月22日 - [[アレクサンデル・マジェタ]]、野球選手 * [[2月24日]] - [[フロイド・メイウェザー・ジュニア]]、プロボクサー * 2月24日 - [[ブロンソン・アローヨ]]、メジャーリーガー * [[2月25日]] - [[ラモン・ラミレス (左投手)|ラモン・ラミレス]]、元野球選手 * [[2月27日]] - [[范暁萱]](メイヴィス・ファン)、歌手 * [[2月28日]] - [[洪性炘]]、野球選手 === 3月 === * [[3月1日]] - [[シレノス (ミュージシャン)|シレノス]]、ミュージシャン([[ディム・ボルギル]]) * [[3月2日]] - [[クリス・マーティン]]、ミュージシャン、歌手、([[コールドプレイ]]) * [[3月6日]] - [[スタニック・ジャネット]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[3月13日]] - [[小渕健太郎]]、歌手([[コブクロ]]) * [[3月15日]] - [[エイドリアン・バーンサイド]]、[[プロ野球選手]] * 3月15日 - [[ジョー・ハーン]]、ミュージシャン(リンキン・パーク) * [[3月16日]] - [[安元洋貴]]、声優 * [[3月18日]] - [[黒田俊介]]、歌手(コブクロ) * 3月18日 - [[ターメル・スレッジ]]、プロ野球選手 * 3月18日 - [[フェルナンド・ロドニー]]、メジャーリーガー * [[3月19日]] - [[岡田義徳]]、俳優 * 3月19日 - [[萩原達也]]、元プロ野球審判員 * 3月19日 - [[小原明大]]、政治家 * [[3月23日]] - [[マキシム・マリニン]]、フィギュアスケート選手 * [[3月31日]] - [[ジェイミー・ブラウン]]、元プロ野球選手 * 3月31日 - [[ジェイソン・デノミー]]、フィギュアスケート選手 === 4月 === * [[4月2日]] - [[マイケル・ファスベンダー]]、俳優 * [[4月3日]] - [[アレン・アヴディッチ]]、サッカー選手 * [[4月4日]] - [[エリック・バレント]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月5日]] - [[ウィンストン・アブレイユ]]、プロ野球選手 * [[4月6日]] - [[アンディ・フィリップス]]、プロ野球選手 * [[4月12日]] - [[D.J.カラスコ]]、元メジャーリーガー * [[4月14日]] - [[サラ・ミシェル・ゲラー]]、女優 * [[4月16日]] - [[フレドリック・ユングベリ]]、元サッカー選手 * [[4月17日]] - [[フレデリック・メーグル]]、作曲家 * [[4月20日]] - [[リサ・アーバイン]]、フィギュアスケート選手・審判 * [[4月21日]] - [[ジェイミー・サレー]]、フィギュアスケート選手 * [[4月22日]] - [[マルク・ファン・ボメル]]、元サッカー選手 * [[4月23日]] - [[アンドリュー・ジョーンズ]]、元メジャーリーガー * 4月23日 - [[ジョン・シナ]]、[[プロレスラー]] * [[4月24日]] - [[カルロス・ベルトラン]]、メジャーリーガー * [[4月26日]] - [[ダニエル・ロステン]]、ミュージシャン * 4月26日 - [[福留孝介]]、プロ野球選手 * [[4月27日]] - [[尾形貴弘]]、お笑い芸人([[パンサー (お笑いトリオ)|パンサー]]) * [[4月28日]] - [[ホルヘ・ソーサ]]、メジャーリーガー === 5月 === * [[5月1日]] - [[ティファニー・スコット]]、フィギュアスケート選手 * [[5月3日]] - [[壱智村小真]]、声優 * [[5月3日]] - [[ライアン・デンプスター]]、元[[メジャーリーガー]] * [[5月8日]] - [[たかはし智秋]]、声優 * [[5月10日]] - [[ニック・ハイドフェルド]]、[[フォーミュラ1|F1]][[レーシングドライバー|ドライバー]] * [[5月13日]] - [[クリス・オクスプリング]]、プロ野球選手 * [[5月14日]] - [[ロイ・ハラデイ]]、メジャーリーガー(+[[2017年]]) * [[5月16日]] - [[エミリアナ・トリーニ]]、ミュージシャン * [[5月19日]] - [[ラファエル・クルス]]、プロ野球選手 * 5月19日 - [[ブランドン・インジ]]、メジャーリーガー * 5月19日 - [[マヌエル・アルムニア]]、元サッカー選手 * [[5月20日]] - [[レオ・フランコ]]、サッカー選手 * [[5月22日]] - [[パット・スマレン]]、騎手 * [[5月23日]] - [[イリヤ・クーリック]]、フィギュアスケート選手 * [[5月24日]] - [[クレイグ・ウィリアムズ]]、騎手 * 5月24日 - [[徐在応]]、[[野球選手]] * [[5月26日]] - [[ルカ・トーニ]]、サッカー選手 === 6月 === * [[6月3日]] - [[トラビス・ハフナー]]、元[[メジャーリーガー]] * [[6月5日]] - [[シャンタル・ルフェーブル]]、フィギュアスケート選手 * [[6月6日]] - [[クリストファー・ライト]]、元プロ野球選手 * [[6月7日]] - [[朴明桓]]、[[野球選手]] * [[6月8日]] - [[カニエ・ウェスト]]、プロデューサー、ラッパー、歌手 * 6月8日 - [[アレッサンドロ・ローザ・ヴィエイラ|ファルカン]]、フットサル選手 * [[6月9日]] - [[ペジャ・ストヤコヴィッチ]]、バスケットボール選手 * [[6月10日]] - [[松たか子]]、声優 * [[6月11日]] - [[オダリス・ペレス]]、元メジャーリーガー * [[6月13日]] - [[ホセ・オーティズ]]、プロ野球選手 * [[6月16日]] - [[ケリー・ウッド]]、メジャーリーガー * [[6月19日]] - [[ブルース・チェン]]、元メジャーリーガー * [[6月23日]] - [[ジェイソン・ムラーズ]]、シンガーソングライター * [[6月27日]] - [[ラウル・ゴンサレス]]、サッカー選手 * [[6月29日]] - [[ウィル・ケンプ]]、[[ダンサー]]・[[俳優]] === 7月 === * [[7月1日]] - [[リブ・タイラー]]、女優 * [[7月5日]] - [[金圓衡]]、野球選手 * 7月5日 - [[バラモン・ケイ]](佐藤恵)、プロレスラー([[バラモン兄弟]]) * 7月5日 - 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[[アンデルソン・ルイス・デ・ソウザ|デコ]]、サッカー選手 * [[8月29日]] - [[ロイ・オズワルト]]、元メジャーリーガー * [[8月30日]] - [[ジョージ・コリアス]]、音楽家 * [[8月31日]] - [[イアン・ハート (サッカー選手)|イアン・ハート]]、サッカー選手 === 9月 === * [[9月1日]] - [[ダビド・アルベルダ]]、サッカー選手 * [[9月3日]] - [[ファン・パブロ・アンヘル|フアン・パブロ・アンヘル]]、サッカー選手 * 9月3日 - [[オロフ・メルベリ]]、サッカー選手 * [[9月6日]] - [[氷川きよし]]、歌手 * [[9月9日]] - [[アンディ・アティング]]、[[野球選手]] * [[9月10日]] - [[ダニス・バエス]]、元[[メジャーリーガー]] * [[9月11日]] - [[リュダクリス]]、ラッパー、俳優 * [[9月12日]] - [[ダビデ・ダロスペダーレ]]、野球選手 * [[9月15日]] - [[アンジェラ・アキ]]、シンガーソングライター * 9月15日 - [[カルロス・アルベルト・カルヴァリョ・ドス・アンジョス・ジュニオル|ジュニーニョ]]、サッカー選手 * [[9月20日]] - [[安室奈美恵]]、歌手 * [[9月24日]] - [[モハメド・フセイン・シャリーフ]]、政治家 * [[9月25日]] - [[ウィンストン・チョイ]]、[[ピアニスト]] * [[9月26日]] - [[マガリ・サウリ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[9月27日]] - [[ビセンテ・パディーヤ]]、メジャーリーガー * [[9月28日]] - [[朴セリ]]、女子プロゴルファー === 10月 === * [[10月1日]] - [[ドワイト・フィリップス]]、[[走幅跳]]選手 * [[10月4日]] - [[ボビー・スケールズ]]、プロ野球選手 * [[10月5日]] - [[コンスタンティン・ジリャノフ]]、サッカー選手 * [[10月6日]] - [[泰勇気]]、声優 * [[10月9日]] - [[ブライアン・ロバーツ]]、メジャーリーガー * [[10月11日]] - [[エレーナ・ベレズナヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月13日]] - [[アントニオ・ディ・ナターレ]]、サッカー選手 * 10月13日 - [[ポール・ピアース]]、バスケットボール選手 * [[10月15日]] - [[小飯塚貴世江]]、声優 * [[10月15日]] - [[ミッチ・ジョーンズ]]、プロ野球選手 * 10月15日 - [[ダヴィド・トレゼゲ]]、サッカー選手 * [[10月17日]] - [[アンドレ・ビラス・ボアス|アンドレ・ヴィラス・ボアス]]、サッカー指導者 * [[10月18日]] - [[ライアン・ネルセン]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[10月19日]] - [[ランディ・ルイーズ]]、プロ野球選手 * [[10月22日]] - [[ブラッド・トーマス]]、元プロ野球選手 * [[10月23日]] - [[ハビエル・カステリャーノ]]、騎手 * [[10月24日]] - [[ラファエル・ファーカル]]、メジャーリーガー * [[10月27日]] - [[金相勳]]、野球選手 * [[10月28日]] - [[陳金鋒]]、野球選手 * [[10月29日]] - [[陳峰民]]、野球選手 === 11月 === * [[11月4日]] - [[ソ・ジソブ]]、俳優 * 11月4日 - [[ラリー・ビグビー]]、プロ野球選手 * 11月4日 - [[マーカス・グウィン]]、プロ野球選手 * [[11月8日]] - [[ニック・プント]]、[[メジャーリーガー]] * [[11月10日]] - [[ジョシュ・バーネット]]、総合格闘家 * 11月10日 - [[ブリタニー・マーフィ]]、[[アメリカ合衆国]]の[[俳優|女優]](+ [[2009年]]) * 11月10日 - [[ウォンビン]]、俳優 * [[11月11日]] - [[マイク・バシック]]、メジャーリーガー * [[11月12日]] - [[ダリーン・カーティス]]、[[プレイメイト]] * [[11月16日]] - [[オクサナ・バイウル]]、フィギュアスケート選手 * 11月16日 - [[マキシム・スタビスキー]]、フィギュアスケート選手 * [[11月17日]] - [[アレックス・グラマン]]、プロ野球選手 * [[11月20日]] - [[ダニエル・スヴェンソン]]、ミュージシャン * [[11月26日]] - [[ポール・ビネボーズ]]、フィギュアスケート選手 * [[11月27日]] - [[ラウル・バルデス]]、プロ野球選手 * [[11月29日]] - [[マリア・ペトロワ]]、フィギュアスケート選手 * [[11月30日]] - [[オリヴィエ・シェーンフェルダー]]、フィギュアスケート選手 * 11月30日 - [[スティーヴ・アオキ]]、DJ、音楽プロデューサー === 12月 === * [[12月1日]] - [[ブラッド・デルソン]]、ミュージシャン(リンキン・パーク) * [[12月3日]] - [[平田絵里子]]、声優 * [[12月5日]] - [[リチャード・ライト (サッカー選手)|リチャード・ライト]]、サッカー選手 * [[12月7日]] - [[島田秀平]]、タレント、[[手相]]占い師 * [[12月10日]] - [[ダン・ウィーラー]]、メジャーリーガー * [[12月11日]] - [[ユウゴー]]、元プロ野球選手 * 12月11日 - [[天野勇剛]]、プロ野球選手 * [[12月12日]] - [[オーランド・ハドソン]]、メジャーリーガー * [[12月14日]] - [[桃井はるこ]]、声優 * [[12月18日]] - [[アクスウェル]]、DJ/エレクトロダンスプロデューサー * [[12月21日]] - [[バディ・カーライル]]、プロ野球選手 * 12月21日 - [[フレディ・サンチェス]]、メジャーリーガー * [[12月23日]] - [[ヤリ・マーエンパー]]、ミュージシャン * [[12月25日]] - [[プリヤ・ラーイ]]、[[ポルノ女優]] * [[12月26日]] - [[エディ・アハーン]]、騎手 * 12月26日 - [[フレデリック・ダンビエ]]、フィギュアスケート選手 * [[12月30日]] - [[ケニオン・マーティン]]、バスケットボール選手 == 死去 == {{See|訃報 1977年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[フィリップ・アンダーソン]]、[[ネヴィル・モット]]、[[ジョン・ヴァン・ヴレック]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[イリヤ・プリゴジン]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ロジャー・ギレミン]] [[アンドリュー・ウィクター・シャリー]] [[ロザリン・ヤロー]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ヴィセンテ・アレイクサンドレ]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[アムネスティ・インターナショナル]] * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ベルティル・オリーン]] [[ジェイムズ・ミード]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1977|date=2011年7月}} * [[3月28日]] - ブロッカー軍団とモグール帝国の最終決戦が南極にて行われ、モグール帝国壊滅。(アニメ『[[ブロッカー軍団IVマシーンブラスター|ブロッカー軍団IV マシーンブラスター]]』) * 晩春 - 「訳者」の家の西南上空で[[未確認飛行物体|UFO]]が爆発し、恒星系連合の第三次調査隊に属する宇宙人が記した地球人類史を収めた「レコーダー」が、「訳者」の家の庭先に落下する。(小説『[[空から墜ちてきた歴史]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 小松左京|authorlink=小松左京 |title = 空から墜ちてきた歴史 |publisher = [[新潮社]] |year = 1984 |pages = 3,7,30-35,336,337,345 |isbn = 978-4-10-109711-4}}</ref> * [[7月2日]] - オイカワ海運の貨物船「ツシマ丸」(映画では「ツィムツーム号」)が[[ミッドウェイ諸島]]沖合の太平洋上で原因不明の沈没事故を起こし、ツシマ丸に乗船していたピシン・モリトール・パテルの漂流が始まる。(小説『[[パイの物語]]』、映画『[[ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ヤン・マーテル|authorlink=ヤン・マーテル |title = パイの物語 上 |publisher = [[竹書房]] |year = 2012 |pages = 177-189 |isbn = 978-4-8124-9208-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = ヤン・マーテル |title = パイの物語 下 |publisher = 竹書房 |year = 2012 |pages = 258-264 |isbn = 978-4-8124-9209-3}}</ref> * [[8月3日]] - アメリカにてキーン上院議員が提出した「キーン条例」が可決され、一部を除くヒーローの自警行為が違法となる。(漫画・映画『[[ウォッチメン]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=アラン・ムーア|authorlink1=アラン・ムーア|author2=デイブ・ギボンズ|authorlink2=:en:Dave Gibbons |title = WATCHMEN ウォッチメン |publisher = [[小学館集英社プロダクション]] |year = 2009 |pages = 130,131 |isbn = 978-4-7968-7057-3}}</ref> * 8月8日〜16日 - 夜鳴村で最初の王様ゲームが行われる。結果、住民は本多一成を残して全滅し、夜鳴村は廃村となる。(小説『[[王様ゲーム (小説)|王様ゲーム 起源]]』) * 夏 - [[バミューダトライアングル|バミューダ海域]]の海底で高さ180メートルのピラミッド状の物体が発見される。米ソ共同の深海調査隊によって、このピラミッドは未知の文明が遺した「装置」であり、バミューダ海域に異常現象をもたらす「白い霧」の発生源であると判明。調査結果は発表されずに終わる。(小説『[[アメリカの壁]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 小松左京 |title = アメリカの壁 |publisher = [[文藝春秋]] |year = 1982 |page = 63 |isbn = 978-4-16-717609-9}}</ref> * 夏 - 古代に絶滅したと見られていた2匹の恐竜が富士山で暴れはじめる。(映画『[[恐竜・怪鳥の伝説]]』) * 不明 - 太陽系外の「惑星X」から送りこまれた[[人工知能|電子頭脳]]らしき機械が{{仮リンク|ハースト・サン・シメオン州立公園|label = ハースト・サンシメオン公園|en|Hearst San Simeon State Park}}内に落下。その後、電子頭脳は近くの[[マイクロ波|マイクロ・ウェーブ]]用アンテナを介して合衆国政府中央コンピューターに侵入し、政府機関の役人とコンピューターすべての支配に着手する。(小説『[[悪夢の戦場]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 矢野徹|authorlink=矢野徹 |title = 悪夢の戦場 |publisher = [[早川書房]] |year = 1982 |pages = 108,109,297 |isbn = 978-4-15-030159-0}}</ref> * 不明 - 光波ロケットを用いたイギリスの光速宇宙船「グロリア号」が1000名の探検隊を乗せて[[喜望峰]]から発進。その後、[[ケンタウルス座アルファ星|人馬座α星]]圏の第4惑星に到達した探検隊は、原住民である「有翼四足人」(プテロ・カドルペス)に対し超水爆を用いて戦争を挑み勝利し、第4惑星を英領「新地球」(テラ・ノヴァ)とする。(小説『[[家畜人ヤプー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 沼正三|authorlink=沼正三 |title = 家畜人ヤプー |publisher = [[角川書店]] |year = 1972 |pages = 55-58,486-489 |isbn = 978-4-04-133401-0}}</ref> * 不明 - タイムロードにより破壊されたはずの怪物フェンダールが復活。科学者を自らの手下に変換していく。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1977}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1977ねん}} [[Category:1977年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1977%E5%B9%B4
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1974年
1974年(1974 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和49年。 この項目では、世界の1974年の出来事について記載する。日本については1974年の日本を参照のこと。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1974年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和49年。 この項目では、世界の1974年の出来事について記載する。日本については1974年の日本を参照のこと。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1974年の日本}} {{年代ナビ|1974}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1970 | 年 = 1974 }} {{year-definition|1974}} この項目では、世界の1974年の出来事について記載する。日本については[[1974年の日本]]を参照のこと。 == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[甲寅]](きのえ とら) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]49年 ** [[皇紀]]2634年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]63年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]63年 * [[仏滅紀元]]:2516年 - 2517年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1393年12月7日 - 1394年12月16日 * [[ユダヤ暦]]:5734年4月7日 - 5735年4月17日 * [[Unix Time]]:126230400 - 157766399 * [[修正ユリウス日]](MJD):42048 - 42412 * [[リリウス日]](LD):142889 - 143253 <div style="font-size:smaller"> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> ==カレンダー== {{年間カレンダー|年=1974}} == 世界のできごと == === 1月 === * === 2月 === * [[2月4日]] - [[パトリシア・ハースト]]誘拐事件。 * [[2月13日]] - [[ソビエト連邦]]が[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン|ソルジェニーツィン]]追放。 === 3月 === * [[3月3日]] - [[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]。乗客乗員346人全員死亡。 * [[3月5日]] - [[イギリス]]、[[ハロルド・ウィルソン|ウィルソン]][[労働党 (イギリス)|労働党]]内閣発足。 * [[3月8日]] - [[シャルル・ド・ゴール国際空港]]が開港 * [[3月10日]] - [[ルバング島]]で[[小野田寛郎]]元少尉を発見。 === 4月 === * [[4月2日]] - [[ジョルジュ・ポンピドゥー]][[フランス|仏]][[大統領]]が死去。 * [[4月8日]] - 米国[[アトランタ・ブレーブス]]の[[ハンク・アーロン]]選手がプロ入り通算715本目の[[ホームラン]]を打ち、それまでの記録保持者だった[[ベーブ・ルース]]のホームラン世界記録を塗り替えた。 * [[4月11日]] - [[両国 (墨田区)|東京・両国]]の[[両国国技館#日大講堂時代|日大講堂]]で行われた[[ボクシング|プロボクシング]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[ライト級]]タイトルマッチで、挑戦者・[[ガッツ石松]]が王者・[[ロドルフォ・ゴンザレス]]([[メキシコ]])を8回KOで破り3度目の世界挑戦で王座獲得。 * [[4月21日]] - [[中華民国]]当局が日本との航空路を断絶させる。 * [[4月24日]] - [[シュタージ#対西ドイツ工作の成果|ギヨーム事件]]、[[ヴィリー・ブラント|ブラント]][[ドイツの首相|西ドイツ首相]]の秘書[[ギュンター・ギヨーム]]が[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]][[情報機関]]の[[スパイ]]として逮捕。 * [[4月25日]] - [[カーネーション革命]]、ポルトガルの独裁体制が崩壊。別名「リスボンの春」とも呼ばれ、現在では「自由の日」として国民の休日になっている。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[フォルクスワーゲン]]が[[フォルクスワーゲン・タイプ1|ビートル]]の後継車の[[フォルクスワーゲン・ゴルフ|ゴルフ]]発売開始。 * [[5月6日]] - [[ヴィリー・ブラント|ブラント]][[ドイツの首相|西ドイツ首相]]、ギヨーム事件で引責辞任。 * [[5月18日]] - [[インド]]が初の地下[[核実験]]を実施。 * [[5月24日]] - [[日本経済団体連合会|経団連]]第4代会長に[[土光敏夫]]が就任。 * [[5月27日]] - [[ジャック・シラク]]が[[フランスの首相|フランス首相]]に就任。 * [[5月28日]] - [[カーペンターズ]]が3度目の来日。3万人募集の武道館公演に38万通以上の応募ハガキが来る。 === 6月 === * [[6月]] - [[2児拉致事件]]。 * [[6月4日]] - [[10セント・ビア・ナイト]] * [[6月13日]] - [[1974 FIFAワールドカップ]]が[[西ドイツ]]で開催( - [[7月7日]])。決勝では[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]が、[[ヨハン・クライフ]]を擁する[[サッカーオランダ代表|オランダ]]を下して優勝。 === 7月 === * [[7月10日]] - [[沖縄県]]の[[伊江島]]で[[在日米軍]]による[[伊江島事件]]が起こる。 * [[7月15日]] - [[アメリカ合衆国]]・[[フロリダ州]][[サラソータ (フロリダ州)|サラソータ]]のテレビ局WXLT-TV(のちのWWSB)の[[ニュースキャスター]]、[[クリスティーン・チュバック]]が、ニュース番組の生放送中に突然[[拳銃]][[自殺]]。 * [[7月15日]] - {{仮リンク|1974年キプロスクーデター|en|1974 Cypriot coup d'état}} * [[7月24日]] - [[ウォーターゲート事件]]: [[アメリカ合衆国最高裁判所|アメリカ最高裁]]がニクソン大統領と首席補佐官が事件対策を話しあう様子がおさめられた録音テープの引渡しを大統領側に命じる判決を出す。 === 8月 === <!--* [[8月7日]] - アメリカ・[[ニューヨーク州]]・[[ニューヨーク市]]・[[マンハッタン]]で[[綱渡り]]の[[大道芸人]][[フィリップ・プティ]]が[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センタービル]]を綱渡りをした。最初は世界貿易センタービルの[[所有者]]と警察([[ニューヨーク市警]])に許可を取ろうとしたが断れて無断でやった。その後市民を驚かして[[警官隊]]が出動して綱を渡り切ったら逮捕されてニューヨークの裁判所に行かされて、「2度こうゆう事はしないように」と重い刑を受けずに[[注意]]をすんだだけ。--> * [[8月8日]] - [[ウォーターゲート事件]]で[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]米大統領辞任。[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]副大統領が大統領に昇格。 * [[8月15日]] - [[ソウル特別市|ソウル]]で[[朴正煕|朴大統領]]狙撃事件([[文世光事件]])。 <!-- 世界のニュースとしての特質性・重要性がありません=  [[ソウル地下鉄1号線]]開通、韓国国鉄と直通運転開始 。--> * [[8月19日]] - [[国際連合|国連]]人口会議 === 9月 === * [[9月10日]] - [[ギニアビサウ]]の独立が正式に承認される。 * [[9月13日]] - 日本赤軍が[[オランダ]]・[[デン・ハーグ|ハーグ]]にある[[フランス]][[大使館]]を占拠([[ハーグ事件]])。 === 10月 === * [[10月30日]] - [[ザイール]]の首都[[キンシャサ]]でおこなわれたプロボクシング[[世界ボクシング協会|WBA]]・WBC統一[[ヘビー級]]タイトルマッチで、挑戦者で元チャンピオンの[[モハメド・アリ]]がチャンピオンの[[ジョージ・フォアマン]]にKO勝ちを収め、兵役拒否での剥奪から7年ぶりにチャンピオンを奪回([[キンシャサの奇跡]])。 === 11月 === * [[11月9日]] - [[東京湾]]で[[液化石油ガス|LPG]][[タンカー]]第十雄洋丸と[[リベリア]]船籍の[[貨物船]]が衝突しタンカーが爆発炎上、両船舶の乗員33人が死亡。タンカーは[[太平洋]]まで炎上したまま漂流、消火の術がないため[[海上自衛隊]]が[[魚雷]]や[[空爆]]などにより[[11月28日]]にようやく撃沈([[第十雄洋丸事件]])。 * [[11月16日]] - [[アレシボ・メッセージ]]が[[プエルトリコ]]の[[アレシボ天文台]]から[[球状星団]][[M13 (天体)|M13]]に発信される。 * [[11月18日]] - フォード米大統領が、現職の大統領として初めて来日。 === 12月 === * [[12月13日]] - [[マルタ]]が[[イギリス連邦]]内の[[共和国]]となる。 * [[12月24日]] - [[近江兄弟社]]が[[会社更生法]]の適用を申請して[[倒産]]、同社が日本国内向けに製造販売していた[[メンソレータム]]のライセンスもアメリカの[[メンソレータム (企業)|メンソレータム社]]に返上。 * アメリカで、国民の[[金]](ゴールド)所有の自由化 == 天候・天災・観測等 == * [[1974年インド天然痘流行|インド天然痘流行]] - 本年1月から5月にかけて発生し、15,000人以上が死亡した。 == 芸術・文化・ファッション == === ベストセラー === * リチャード・バック『[[かもめのジョナサン]]』 === 音楽 === *シングル * [[ポール・マッカートニー]]&[[ウイングス]]「[[ジェット (曲)|ジェット]]」「ジュニアズ・ファーム」 * [[バリー・ホワイト|ラブ・アンリミテッド・オーケストラ]]「[[愛のテーマ (バリー・ホワイトの曲)|愛のテーマ]]」 * [[MFSB]]「ソウル・トレインのテーマ」 * [[カール・ダグラス]]「[[吼えろ! ドラゴン]]」 * [[ジョージ・マックレー]]「[[ロック・ユア・ベイビー]]」 * [[ローリング・ストーンズ]]「イッツ・オンリー・ロックンロール」 * [[スージー・クアトロ]]「ワイルド・ワン」 * [[ディープ・パープル]]「紫の炎」 * [[カーペンターズ]]「[[愛は夢の中に]]」「プリーズ・ミスター・ポストマン」 * [[クイーン (バンド)|クイーン]]「輝ける七つの海」「キラー・クイーン」 === 映画 === {{see also|1974年の映画}} * [[007 黄金銃を持つ男]][英] * [[スティング (映画)|スティング]] * [[ダラスの熱い日]] * [[エクソシスト (映画)|エクソシスト]] * 追憶 == 誕生 == {{see also|Category:1974年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ケビン・バーン]]、元[[プロ野球選手]] * [[1月3日]] - [[伊藤健太郎 (声優)|伊藤健太郎]]、声優 * 1月4日 - [[アンドレアシュ・シュタルケ]]、[[騎手]] * [[1月6日]] - [[李相日]]、[[映画監督]] * [[1月12日]] - [[メラニー・クリスホルム]]、[[歌手]]([[スパイス・ガールズ]]) * 1月12日 - [[松本ぷりっつ]]、[[漫画家]] * 1月16日 - [[ケイト・モス]]、モデル * 1月16日 - [[カティ・ウィンクラー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月17日]] - [[マリナ・ハルトゥリナ]]、フィギュアスケート選手 * [[1月20日]] - [[フリオ・サンタナ]]、元プロ野球選手 * 1月22日 - [[オルガ・マルコワ (フィギュアスケート選手)|オルガ・マルコワ]]、フィギュアスケート選手 * 1月23日 - [[マーク・ワトソン]]、元プロ野球選手 * 1月23日 - [[ヨスバニー・ペレス]]、元野球選手 * [[1月24日]] - [[クリスティ・サージアント]]、フィギュアスケート選手 * [[1月25日]] - [[ダン・セラフィニ]]、元プロ野球選手 * [[1月27日]] - [[ブライアン・ネルソン]]、元プロ野球選手 * [[1月28日]] - [[マグリオ・オルドニェス]]、元[[メジャーリーガー]] * [[1月29日]] - [[中山さら]]、声優 * [[1月30日]] - [[クリスチャン・ベール]]、俳優 * [[1月31日]] - [[アリエル・ペスタノ]]、野球選手 === 2月 === * [[2月1日]] - [[舩山陽司]]、アナウンサー * [[2月6日]] - [[吉野裕行]]、声優 * [[2月7日]] - [[スティーブ・ナッシュ]]、バスケットボール選手 * 2月7日 - [[Nujabes]]、DJ、トラックメイカー (+[[2010年]]) * 2月7日 - [[J Dilla ]]、音楽プロデューサー、ミュージシャン、作曲家 (+[[2006年]]) * [[2月8日]] - [[ギ=マニュエル・ド・オメン=クリスト]]、[[ミュージシャン]]([[ダフト・パンク]]) * 2月8日 - [[ウリセス・デ・ラ・クルス]]、[[サッカー選手]] * [[2月13日]] - [[ハリウッドザコシショウ]]、お笑い芸人 * [[2月14日]] - [[フィリッパ・ジョルダーノ]]、歌手 * [[2月15日]] - [[アレクサンダー・ヴルツ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 2月17日 - [[エドウィン・マートン]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]] * [[2月18日]] - [[エフゲニー・カフェルニコフ]]、[[テニス]][[アスリート|選手]] * 2月22日 - [[ジェームス・ブラント]]、ミュージシャン * 2月22日 - [[陣内智則]]、お笑い芸人 * 2月22日 - [[バンズラグチ・バヤルサイハン]]、実業家、外交官 * [[2月23日]] - [[ステファン・ベルナディス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 2月24日 - [[マイク・ローウェル]]、元メジャーリーガー * [[2月25日]] - [[森久保祥太郎]]、声優 * 2月25日 - [[シャノン・スチュワート]]、元メジャーリーガー === 3月 === * [[3月2日]] - [[アンソニー・サンダース]]、元[[プロ野球選手]] * 3月11日 - [[アドゴニー・ロロ]]、外国人タレント * [[3月12日]] - [[椎名へきる]]、声優 * [[3月22日]] - [[ジェイソン・フィリップス (投手)|ジェイソン・フィリップス]]、元プロ野球選手 * 3月22日 - [[マーカス・キャンビー]]、バスケットボール選手 * [[3月23日]] - [[マーク・ハント]]、格闘家 * [[3月24日]] - [[アリソン・ハニガン]]、女優 *[[3月26日]]-[[たかぎなおこ]]、[[イラストレーター]] * 3月27日 - [[ガイスカ・メンディエタ]]、元サッカー選手 * 3月31日 - [[ロヘル・マチャド]]、野球選手 === 4月 === * 4月9日 - [[ジェナ・ジェイムソン]]、[[ポルノ女優]] * [[4月11日]] - [[アレクザンダー・クオファラ]]、ヘヴィメタル・ミュージシャン * [[4月12日]] - [[シウヴィオ・メンデス・カンポス・ジュニオル|シウヴィーニョ]]、元サッカー選手 * [[4月17日]] - [[ヴィクトリア・ベッカム]]、[[歌手]]、[[作家]] * 4月19日 - [[ホセ・クルーズ・ジュニア]]、[[メジャーリーガー]] * 4月20日 - [[エリザベータ・ステコルニコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 4月20日 - [[姜東佑]]、プロ野球選手 * [[4月21日]] - [[クリフ・ブランボー]]、元プロ野球選手 * 4月22日 - [[アドリアン・イリエ]]、元サッカー選手 * 4月26日 - [[ジェームス・トンプソン (レーサー)|ジェームス・トンプソン]]、イギリスのレーシングドライバー * 4月27日 - [[フランク・カタラノット]]、メジャーリーガー * [[4月28日]] - [[ペネロペ・クルス]]、女優 * [[4月29日]] - [[ヘクター・メルカド]]、元プロ野球選手 === 5月 === * 5月1日 - [[スティーブン・ランドルフ]]、[[プロ野球選手]] * [[5月8日]] - [[陳甲龍]]、野球選手 * 5月13日 - [[崔映弼]]、野球選手 * 5月16日 - [[ジェロッド・リガン]]、元プロ野球選手 * [[5月20日]] - [[ミカエル・スタンネ]]、ミュージシャン * [[5月22日]] - [[ジョン・ベイル]]、元プロ野球選手 * 5月28日 - [[ハンス=イェルク・ブット]]、元サッカー選手 === 6月 === * [[6月1日]] - [[アラニス・モリセット]]、歌手 * 6月3日 - [[ステファン・レコ]]、格闘家 * 6月6日 - [[ダラス・トーラー=ウェイド]]、ミュージシャン * [[6月7日]] - [[ベア・グリルス]]、[[作家]]、[[冒険家]] * [[6月9日]] - [[サモス (ミュージシャン)|サモス]]、ミュージシャン * 6月9日 - [[李大振]]、野球選手 * 6月12日 - [[デーモン・ホリンズ]]、プロ野球選手 * 6月13日 - [[ブライアン・スウィーニー]]、プロ野球選手 * 6月13日 - [[櫻井孝宏]]、[[声優]] * 6月15日 - [[アンドレイ・ウラシェンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 6月18日 - [[ヴィンチェンツォ・モンテッラ]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[6月19日]] - [[ダグ・ミントケイビッチ]]、メジャーリーガー * [[6月23日]] - [[レティシア・ユベール]]、フィギュアスケート選手 * 6月23日 - {{仮リンク|厳星燮|ko|엄성섭}}、放送記者 * 6月26日 - [[デレク・ジーター]]、メジャーリーガー * 6月26日 - [[ジェイソン・ケンドール]]、メジャーリーガー * 6月28日 - [[マーク・ストーマー]]、ミュージシャン([[ザ・キラーズ]]) * [[6月30日]] - [[エフゲニー・プリウタ]]、[[フィギュアスケート]]選手 === 7月 === * [[7月3日]] - [[川添公二]]、俳優 * [[7月4日]] - [[アンソニー・リュウ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[7月7日]] - [[ジェニファー・ジョーンズ (カーリング選手)|ジェニファー・ジョーンズ]]、[[カーリング]]選手 * [[7月8日]] - [[カルロス・タバレス]]、野球選手 * [[7月9日]] - [[トム・エバンス (野球)|トム・エバンス]]、元[[プロ野球選手]] * 7月9日 - [[ギャリー・ケリー]]、元サッカー選手 * [[7月13日]] - [[ヤルノ・トゥルーリ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[7月17日]] - [[クラウディオ・ロペス]]、元サッカー選手 * [[7月19日]] - [[プレストン・ウィルソン]]、[[メジャーリーガー]] * [[7月20日]] - [[ベンジー・モリーナ]]、メジャーリーガー * [[7月23日]] - [[モーリス・グリーン (陸上選手)|モーリス・グリーン]]、[[陸上選手]] * 7月23日 - [[ラリー・バーンズ]]、元プロ野球選手 * 7月24日 - [[三浦淳寛]]、元サッカー選手 * [[7月25日]] - [[ローレン・ファウスト]]、[[アニメーター]] * [[7月27日]] - [[ブライアン・シコースキー]]、プロ野球選手 === 8月 === * [[8月9日]] - [[デレック・フィッシャー]]、バスケットボール選手 * [[8月11日]] - [[マリー=フランス・デュブレイユ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月13日]] - [[ニクラス・スンディン]]、ミュージシャン、グラフィックデザイナー * [[8月14日]] - [[ハイキングウォーキング|鈴木Q太郎]](Qちゃん)、お笑い芸人([[ハイキングウォーキング]]) * [[8月15日]] - [[ラモン・モレル]]、元プロ野球選手 * 8月15日 - [[エフゲニー・スヴィリドフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月16日]] - [[ライアン・ロングウェル]]、[[アメリカンフットボール]]選手 * [[8月17日]] - [[ジェフリー・リーファー]]、元プロ野球選手 * [[8月20日]] - [[マキシム・ヴェンゲーロフ]]、[[ヴァイオリニスト]] * 8月20日 - [[キムラミチタ]]、フリーパーソナリティ * [[8月24日]] - [[ジェフ・クベンカ]]、元プロ野球選手 * [[8月25日]] - [[ゲイリー・マシューズ・ジュニア]]、[[メジャーリーガー]] === 9月 === * [[9月5日]] - [[ピーター・ウィルドアー]]、ミュージシャン、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア * [[9月6日]] - [[ティム・ヘンマン]]、テニス選手 * [[9月10日]] - [[ミルコ・クロコップ]]、格闘家 * [[9月10日]] - [[ベン・ウォーレス]]、バスケットボール選手 * 9月10日 - [[ライアン・フィリップ]]、俳優 * 9月10日 - [[川上アキラ]]、[[スターダストプロモーション]]の[[プロデューサー]] *[[9月12日]] - [[鈴村健一]]、声優 * [[9月17日]] - [[ラシード・ウォーレス]]、バスケットボール選手 * [[9月18日]] - [[ソル・キャンベル]]、元サッカー選手 === 10月 === * [[10月3日]] - [[アレックス・ラミレス]]、[[プロ野球選手]] * [[10月5日]] - [[リッチ・フランクリン]]、[[総合格闘家]] * 10月5日 - [[趙顕娥]]、[[実業家]] [[大韓航空ナッツ回航事件]]の当事者 * [[10月8日]] - [[マーティン・ヘンダーソン]]、俳優 * [[10月11日]] - [[ケイン・コスギ]]、俳優 * 10月11日 - [[孫國強]]、野球選手 * [[10月12日]] - [[アーロン・ロウ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 10月12日 - [[フランソワーズ・ド・クロセー]]、[[ピアニスト]] * [[10月13日]] - [[ゲイリー・バーナム・ジュニア]]、プロ野球選手 * [[10月18日]] - [[藤巻恵理子]]、声優 * [[10月23日]] - [[サンデル・ヴェステルフェルト]]、元サッカー選手 * [[10月25日]] - [[李炳圭]]、プロ野球選手 * [[10月26日]] - [[LISA (歌手)|Lisa]]、ミュージシャン(元[[m-flo]]) * [[10月29日]] - [[R.A.ディッキー]]、メジャーリーガー * [[10月30日]] - [[マーティン・ヘンリクソン]]、ミュージシャン * [[10月31日]] - [[スティーブ・コックス]]、メジャーリーガー * 10月31日 - [[ロブ・コルデマンス]]、野球選手 === 11月 === * [[11月1日]] - [[ライアン・グリン]]、[[プロ野球選手]] * 11月1日 - [[フローラン・ダバディー]]、[[編集者]]・[[評論家]] * [[11月2日]] - [[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]、プロ野球選手 * 11月2日 - [[ネリー]]、ラッパー * [[11月5日]] - [[ジェリー・スタックハウス]]、バスケットボール選手 * [[11月7日]] - [[クリス・ベンソン]]、メジャーリーガー * [[11月9日]] - [[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]、サッカー選手 * [[11月11日]] - [[レオナルド・ディカプリオ]]、俳優 * [[11月12日]] - [[エノルベル・マルケス=ラミレス]]、プロ野球選手 * 11月12日 - [[ミルコ・ミュラー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[11月15日]] - [[ジルベルト・メンデス]]、元[[野球選手]] * [[11月16日]] - [[ポール・スコールズ]]、サッカー選手 * 11月16日 - [[マウリツィオ・マルガリオ]]、フィギュアスケート選手 * 11月19日 - [[マリオ・バルデス]]、元プロ野球選手 * [[11月22日]] - [[ジョー・ネイサン]]、メジャーリーガー * 11月22日 - [[ケニー・レイボーン]]、元プロ野球選手 * 11月22日 - [[デヴィッド・ペルティエ]]、フィギュアスケート選手 * [[11月27日]] - [[ケニー・レイ]]、プロ野球選手 * [[11月30日]] - [[リー・エンチ]]、台湾のプロロッククライマー === 12月 === * 12月3日 - [[アルベナ・デンコヴァ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 12月8日 - [[ジュリアン・ラクリン]]、[[ヴァイオリン]]奏者・[[ヴィオラ]]奏者 * [[12月11日]] - [[レイ・ミステリオ・ジュニア|レイ・ミステリオ]]、プロレスラー * [[12月18日]] - [[ランス・カーター]]、元プロ野球選手 * 12月21日 - [[カリー・ウェブ]]、女子[[プロゴルファー]] * [[12月24日]] - [[ケビン・ミルウッド]]、[[メジャーリーガー]] * 12月24日 - [[マルセロ・サラス]]、元サッカー選手 * 12月24日 - [[エルダー・ネボルシン]]、[[ピアニスト]] * [[12月26日]] - [[コリー・リー]]、元プロ野球選手 * [[12月27日]] - [[折笠富美子]]、声優 == 死去 == {{See|訃報 1974年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[マーティン・ライル]]([[イギリス]])、[[アントニー・ヒューイッシュ]](イギリス) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ポール・フローリー]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アルベルト・クラウデ]]([[ベルギー]])、[[クリスチャン・ド・デューブ]](ベルギー)、[[ジョージ・エミール・パラーデ]](アメリカ) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[エイヴィンド・ユーンソン]]([[スウェーデン]])、[[ハリー・マーティンソン]](スウェーデン) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[佐藤栄作]]([[日本]])、[[ショーン・マクブライド]]([[アイルランド]]) * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[グンナー・ミュルダール]](スウェーデン)、[[フリードリヒ・ハイエク]](イギリス) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1974|date=2011年7月}} * 12月 - 公式にはミッション中止とされた「[[アポロ計画#キャンセルされた計画|アポロ18号]]」が極秘裏に月面へと打ち上げられる。表面上の目的は動体感知カメラと[[ミサイル防衛]]を目的とした「[[アメリカ国防総省|国防総省]] PSD5」という装置の設置。(映画『[[アポロ18]]』)<ref>[http://www.ntv.co.jp/sukkiri/blog-desk/2012/04/_18apollo_18_1.html CINEMAッス!! アポロ 18 Apollo 18] - 『[[スッキリ!!]]』公式サイト。2012年4月12日、2016年9月26日閲覧。</ref> * ジェフ・トレーシーらを乗せたアメリカのロケットが、人類初の月面着陸に成功する。(特撮テレビ番組『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』) * ロジャー・ウィルスン大尉が乗るアメリカの宇宙船が人類初の[[月面着陸]]に成功。ウィルスン大尉は2日間着陸した月の表側をアメリカ領だと宣言する。(小説『[[月は地獄だ!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョン・W・キャンベル|authorlink=ジョン・W・キャンベル |title = 月は地獄だ! |publisher = [[早川書房]] |year = 1977 |pages = 8,9 |isbn = 978-4-15-010226-5}}</ref> * 地球を先史時代に戻す計画が始動。副作用として[[恐竜]]が出現する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * 惑星メテベリス3からクモが地球に侵入、人類をマインドコントロールする。(ドラマ『ドクター・フー』) * ロボットが暴走する。再生したばかりの[[4代目ドクター]]が対処に動く。(ドラマ『ドクター・フー』) * 11代目ドクターがガリバーン邸に出現した幽霊の正体を暴く。(ドラマ『ドクター・フー』) * [[コスタリカ]]において「ピースウォーカー事件」が発生。(ゲーム『[[メタルギアソリッド ピースウォーカー]]』) === 誕生日 === * [[5月3日]] - 社 美彌子、テレビドラマ「[[相棒の登場人物|相棒]]」の登場人物。 * [[6月12日]] - [[ピノ (ゲームキャラクター)|ピノ]]、コンピュータゲーム『[[ファミスタシリーズ]]』に登場する架空のプロ野球選手(『[[ファミスタ64]]』及び同作品ガイドブックでの設定)。 * [[11月1日]] - キティ・ホワイト、サンリオのマスコットキャラクター。 * 11月1日 - ミミィ・ホワイト、キティと双子で、妹。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1974}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * 「[[1974 (16光年の訪問者)]]」 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1974ねん}} [[Category:1974年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1974%E5%B9%B4
1,922
1972年
1972年(1972 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。昭和47年。 協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり過去最も長かった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1972年について記載する。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1972年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。昭和47年。 協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり過去最も長かった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1972年について記載する。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1972年の日本}} {{年代ナビ|1972}} {{YearInTopic | BC = 平井堅 | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1970 | 年 = 1972 }} {{year-definition|1972}} [[協定世界時]]による計測では、この年は(閏年で)[[閏秒]]による秒の追加が年内に2度あり過去最も長かった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1972年について記載する。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[壬子]](みずのえ ね) * [[元号一覧 (日本)|日本]](月日は一致) ** [[昭和]]47年 ** [[皇紀]]2632年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[大韓民国 (年号)|大韓民国]]54年 ** [[檀紀]]4305年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]61年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]61年 * [[仏滅紀元]]:2514年 - 2515年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1391年11月14日 - 1392年11月25日 * [[ユダヤ暦]]:5732年4月14日 - 5733年4月26日 * [[Unix Time]]:63072000 - 94694399 * [[修正ユリウス日]] (MJD):41317 - 41682 * [[リリウス日]] (LD):142158 - 142523 <div style="font-size:smaller"> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> {{Clear}} ==カレンダー== {{年間カレンダー|年=1972}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[オーストリア]]の[[クルト・ワルトハイム]]、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]に就任。 * [[1月5日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[リチャード・ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、[[スペースシャトル計画]]を発令。 * [[1月11日]] - [[東パキスタン]]、国号を[[バングラデシュ]]とする。 * [[1月14日]] - [[デンマーク]]国王[[フレゼリク9世 (デンマーク王)|フレデリク9世]]死去、[[1月16日]]、娘の[[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]が即位。 * [[1月20日]] ** [[パキスタン]]の[[ズルフィカール・アリー・ブットー]][[パキスタンの大統領|大統領]]、[[核兵器]]開発を宣言。 ** [[石油輸出国機構|OPEC]]と[[石油メジャー]]が原油価格を8.49%値上げ。 * [[1月22日]] - [[アイルランド]]、[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]が[[欧州共同体]]加盟条約に調印(ノルウェーは[[9月25日]]の国民投票で加盟が否決される)。 * [[1月24日]] - [[グアム|グアム島]]で元[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]兵士[[横井庄一]]発見。 * [[1月26日]] - [[JATユーゴスラビア航空機爆破事件]]。 * [[1月30日]] ** [[北アイルランド]]・[[ロンドンデリー]]で[[カトリック教会|カトリック]]系住民のデモとイギリス部隊が衝突。市民13人死亡([[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]])。 ** パキスタン、[[イギリス連邦]]を脱退。 * [[1月31日]] - [[ネパール]]王[[マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|マヘンドラ]]死去、息子の[[ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ビレンドラ]]が即位。 === 2月 === * [[2月2日]] - [[アイルランド]]で反英運動。[[ダブリン]]で英大使館ほか[[イギリス人]]所有の事務所、住宅に放火。 * [[2月3日]] - [[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]開催。[[2月13日]]まで。 * [[2月15日]] - [[エクアドル]]で[[クーデター]]。 * [[2月17日]] - [[フォルクスワーゲン・タイプ1]](ビートル)の累計生産台数が[[フォード・モデルT]]の世界記録を塗り替える。 * [[2月21日]] - [[リチャード・ニクソン]]大統領、訪中(アメリカの大統領としては初)。 * [[2月27日]] - 米中共同声明。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[ローマクラブ]]、報告書『[[成長の限界]]』を発表。 * [[3月2日]] - [[惑星探査機]][[パイオニア10号]]打ち上げ。 * [[3月19日]] - [[インド]]と[[バングラデシュ]]が友好条約に調印。 * [[3月21日]] - 米下院が平価変更法案を可決、金価格1オンス35ドルから38ドルへ変更。 * [[3月22日]] - 米上院、男女平等に関する憲法修正案を可決。 * [[3月24日]] - [[北アイルランド問題]]: イギリス政府が北アイルランドの直轄統治を宣言。 * [[3月30日]] - [[ベトナム共和国|南ベトナム]]全土で解放勢力が攻勢。 === 4月 === * [[4月6日]] - 米軍が[[北爆]]を再開。 * [[4月10日]] - [[生物兵器禁止条約]]調印。 * [[4月12日]] - [[大韓民国中央情報部|KCIA]]が風刺詩を発表した詩人の[[金芝河]]を連行。 * [[4月13日]] - 第3回[[国際連合貿易開発会議|UNCTAD]]開催。 === 5月 === * [[5月5日]] - [[パレルモ県]]モンターニャ・ロンガで[[アリタリア航空112便墜落事故]]が発生、115名全員死亡。 * [[5月9日]] - 米軍、[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]の全ての港を[[機雷]]封鎖。 * [[5月12日]] - 米国の[[沖縄民政府]]解散、米軍の沖縄統治が終了。 * [[5月13日]] - 大阪南区(現・中央区)で[[千日デパート火災]]が発生、118人が死亡。 * [[5月14日]] - [[リトアニア]]・[[カウナス]]で、学生の[[ロマス・カランタ]]が[[ソ連]]による支配に抵抗し、焼身自殺。 * [[5月15日]] ** アメリカから日本へ[[沖縄返還]]、[[沖縄県]]発足。 ** [[アラバマ州知事]]、[[ジョージ・ウォレス]]が[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]遊説中に銃撃され下半身不随となった。 * [[5月18日]] - [[リトアニア]]・[[カウナス]]で学生が焼身自殺したことをうけ、デモが始まる( - [[5月19日]]) * [[5月22日]] - 「スリランカ共和国第1憲法」を採択 (賛成119票、反対16票)国名を「[[スリランカ共和国]]」に改称。[[セイロン (ドミニオン)|英連邦の自治領セイロン]]から共和国へ。 * [[5月26日]] ** [[モスクワ]]でニクソン米大統領とソ連[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]書記長、[[第一次戦略兵器制限交渉|SALT I]]に調印。 ** [[経済協力開発機構|OECD]]閣僚理事会で、公害防止費用の[[汚染者負担原則]]を採択。 * [[5月30日]] - [[イスラエル]]の[[テルアビブ空港]]で[[テルアビブ空港乱射事件|日本赤軍乱射事件]]。26人死亡、73人負傷。 === 6月 === * 6月 - [[イラク]]政府、国内の石油会社をすべて国有化。 * [[6月5日]] - [[ストックホルム]]で[[国際連合人間環境会議]]開催。 * [[6月12日]] ** [[コンコルド]]が[[東京国際空港]]に飛来。 ** [[アメリカン航空96便貨物ドア破損事故]] * [[6月14日]] - [[日本航空ニューデリー墜落事故]]。 * [[6月15日]] - [[キャセイ・パシフィック航空700Z便爆破事件]]。 * [[6月17日]] - [[ウォーターゲート事件]]発覚。 * [[6月27日]] ** イギリス、[[イギリスポンド|ポンド]]の[[変動相場制]]移行。 ** [[北アイルランド]]にて、[[アイルランド共和軍|IRA]][[過激派]]と[[イギリス軍|英国軍]]の間で停戦が発効するも、衝突が続く。 === 7月 === * [[7月4日]] - 韓国と北朝鮮両政府が、南北平和統一に関する共同声明を発表。 * [[7月8日]] - 米ソ穀物協定調印。 * [[7月11日]] - 第26回[[経済相互援助会議|コメコン]]総会。 * [[7月21日]] - [[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]が[[ブータン|ブータン王国]]第四代国王として即位。 * [[7月23日]] - アメリカ、[[ランドサット1号]]を打ち上げ(初の地上探査衛星)。 * [[7月31日]] - 英労働組合評議会、[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]。 === 8月 === * [[8月14日]] - 米[[ヘンリー・キッシンジャー]]補佐官と、北ベトナムの[[レ・ドゥク・ト]]特別顧問が秘密会談。 * [[8月26日]] - [[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘンオリンピック]]開催。[[9月11日]]まで。 === 9月 === * [[9月4日]] - [[マーク・スピッツ]]、ミュンヘンオリンピック・水泳で[[1972年ミュンヘンオリンピック#ハイライト|七冠達成]]。 * [[9月5日]] - [[ミュンヘンオリンピック事件]]。オリンピック選手村でゲリラが[[イスラエル人]]選手らを殺害。 * [[9月7日]] - [[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]、[[レバノン]]へ侵入。 * [[9月9日]] - [[シリア]]、[[イスラエル]]を爆撃。 * [[9月23日]] - [[フィリピン]]で[[戒厳令]]。 * [[9月29日]] - [[台湾]]、日本との国交断絶を宣言。 === 10月 === * [[10月11日]] - [[中華人民共和国]]・[[西ドイツ]]両国が国交樹立。 * [[10月13日]] - [[ウルグアイ空軍機571便遭難事故]]により、以後72日間アンデス山中で生存者16人がサバイバル。 * [[10月19日]] ** [[フィリピン]]の[[ルバング島]]にて警察と生き残りの日本兵とで襲撃戦が発生する(一人死亡・一人負傷のまま逃亡)。 ** フィリピン南部のスルー地方で[[ムスリム|イスラム教徒]]が反乱。 * [[10月28日]] - [[日中国交正常化]]を記念して[[恩賜上野動物園|上野動物園]]に[[ジャイアントパンダ]]のランラン、カンカンが来園。 * [[10月29日]] - [[パレスチナ国|パレスチナ]]・ゲリラ、西ドイツ機をハイジャック。 === 11月 === * [[11月7日]] - アメリカ大統領選挙でニクソン、[[ジョージ・マクガバン]]を破り再選。投票率は[[1948年]]以来最低の55%。 * [[11月8日]] - 当時[[フランス]]で非合法とされた[[人工妊娠中絶|堕胎]]を補助した成人4名の裁判が行われた。[[ジゼル・アリミ]]弁護士を代理人としたこの裁判は[[ヴェイユ法]]成立の布石となった。([[ボビニー裁判]]) * [[11月13日]] ** [[ロンドン]]で海洋投棄規制国際条約に79カ国が仮調印([[ロンドン条約]])。 ** [[ソビエト連邦|ソ連]]に亡命していた女優・[[岡田嘉子]]が一時帰国。 * [[11月16日]] - [[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が[[世界遺産条約]]を採択。 * [[11月17日]] - [[フアン・ペロン]]元[[アルゼンチン]]大統領が亡命先から17年ぶりに帰国。 * [[11月19日]] - 西ドイツ総選挙、社民党が大勝。 * [[11月22日]] ** 第2次SALT交渉、[[ジュネーヴ]]で開幕。 ** [[全欧安全保障協力会議]]の準備会議が[[ヘルシンキ]]で開催される。 * [[11月25日]] - [[ニュージーランド]]で総選挙、労働党が圧勝。 * [[11月28日]] - [[日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故]]。 === 12月 === * [[12月2日]] - [[オーストラリア]]で総選挙、労働党が圧勝。 * [[12月4日]] - [[ホンジュラス]]で軍事[[クーデター]]。 * [[12月7日]] - [[アポロ17号]]打ち上げ。12月19日に地球に帰還し[[アポロ計画]]が終了する。([[2021年]]現在最後の有人月面探査) * [[12月18日]] - [[アメリカ軍]]、北爆再開([[ベトナム戦争]])。 * [[12月21日]] ** 東西両[[ドイツ]]、互いを国家承認。基本条約を締結。 ** [[オーストラリア]]・[[中華人民共和国]]、国交樹立。 * [[12月22日]] ** [[ニカラグア]]で[[マグニチュード|M]]6.25の地震。[[マナグア]]を中心に死者1万2千人を超える。[[アナスタシオ・ソモサ・デバイレ|ソモサ]]大統領はのちに復興援助の着服で訴追される。 ** [[ニュージーランド]]・中華人民共和国国交樹立。 * [[12月23日]] - [[ポルトガル]]が、[[アンゴラ]]、[[モザンビーク]]、[[ギニア]]などの植民地に自治権を認める。 * [[12月25日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[最高人民会議]]、社会主義新憲法採択。[[金日成]]が国家主席に選出。 * [[12月27日]] ** [[朴正煕]]、[[大韓民国]]第8代大統領に就任。[[第四共和国 (大韓民国)|第4共和制]]発足。 ** 北朝鮮で最高人民会議開催、[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法|社会主義憲法]]を採択。 * [[12月28日]] - パレスチナ・ゲリラ、[[バンコク]]でイスラエル大使館を襲撃。 * [[12月29日]] - [[イースタン航空401便墜落事故]](アメリカ・[[フロリダ州]][[エバーグレーズ]])。101名死亡。 == スポーツ == {{Main|1972年のスポーツ}} === 野球 === {{Main|1972年の野球}} * 第69回[[1972年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]] ** [[オークランド・アスレチックス]]([[アメリカンリーグ]])(4勝3敗)[[シンシナティ・レッズ]]([[ナショナルリーグ]]) === サッカー === {{Main|1972年のサッカー}} *[[バロンドール]] **[[フランツ・ベッケンバウアー]]([[バイエルン・ミュンヘン]]) === モータースポーツ === * [[フォーミュラ1|F1世界選手権]] ** ドライバーズチャンピオン [[エマーソン・フィッティパルディ]] ** コンストラクターズチャンピオン *** シャーシ [[ロータス]] *** エンジン [[フォード]] * [[ロードレース世界選手権]] ** 500cc [[ジャコモ・アゴスチーニ]] ** 250cc [[ヤーノ・サーリネン]] == 芸術・文化・ファッション == === 音楽 === {{Main|1972年の音楽}} ==== ヒット曲、話題曲など ==== * [[ミッシェル・ポルナレフ]]「愛の休日」 * ニーノ・ロータ、[[アンディ・ウィリアムス]]「[[ゴッド・ファーザー]]・[[愛のテーマ (ゴッドファーザー)|愛のテーマ]]」 * シカゴ「サタディ・イン・ザ・パーク」「ぼくらに微笑みを」 * [[Tレックス]]「メタル・グゥルー」 * ビグラス&オズボーン 「秋はひとりぼっち」 * ビョルン&ベニー 「[[木枯しの少女]]」 * イングランド・ダン&ジョン・フォード「シーモンの涙」 * シールズ&クロフツ「思い出のサマー・ブリーズ」 * [[エルトン・ジョン]]「ロケット・マン」 * ポップ・トップス「マミー・ブルー」 * [[カーペンターズ]]「愛にさよならを」 * マウンテン 「暗黒への旅路」 * ジョニー・リヴァース「ロッキン・ニューモニア・アンド・ブギウギ・フルー」<ref>[https://www.allmusic.com/artist/johnny-rivers-mn0000203639/songs  Johnny Rivers songs] All muisic 2023年4月5日閲覧</ref> === 映画 === {{Main|1972年の映画}} * [[猿の惑星・征服]](原題:CONQUEST OF THE PLANET OF THE APES) * [[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]] * [[キャバレー (1972年の映画)|キャバレー]] * [[ポセイドン・アドベンチャー (映画)|ポセイドン・アドベンチャー]] * [[ラストタンゴ・イン・パリ]] * [[ゲッタウェイ]] * [[ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう]] * [[夕なぎ (1972年の映画)|夕なぎ]] * [[アギーレ/神の怒り]] == 誕生 == {{see also|1972年の日本#誕生|Category:1972年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[リリアン・テュラム]]、元[[サッカー選手]] * 1月1日 - [[アリエル・ボレロ]]、野球選手 * 1月1日 - [[ギャレット・ゴメス]]、[[騎手]](+ [[2016年]]) * 1月1日 - [[ジノ・デラフォース]]、[[歌手]]・[[アコーディオン]]奏者 * [[1月11日]] - [[宮下直紀]]、俳優 * [[1月13日]] - [[岩居由希子]]、声優 * 1月13日 - [[パク・ジニョン]](J.Y. Park)、シンガーソングライター、音楽プロデューサー ※戸籍上の誕生日。実際の誕生日は1971年12月13日とされる * 1月17日 - [[康輝]]、アナウンサー * [[1月18日]] - [[マイク・リーバーサル]]、[[メジャーリーガー]] * 1月19日 - [[サルバトーレ・ウルソー]]、元プロ野球選手 * [[1月21日]] - [[ジェームス・ボニチ]]、元プロ野球選手 * [[1月22日]] - [[朴璐美]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/朴璐美/|title=朴璐美(ぱくろみ)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-01}}</ref>、声優 * [[1月25日]] - [[ホセ・マシーアス]]、元メジャーリーガー * [[1月27日]] - [[佐藤昇 (ジャーナリスト)|佐藤昇]]、[[ジャーナリスト]] * 1月29日 - [[ニコラ・ル・リッシュ]]、[[バレエ]]ダンサー * 1月29日 - [[スコット・デイヴィス (フィギュアスケート選手)|スコット・デイヴィス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1月29日 - [[モーガン・バークハート]]、元プロ野球選手 === 2月 === * [[2月2日]] - [[テゴ・カルデロン]]、ミュージシャン * 2月2日 - [[ダナ・インターナショナル]]、歌手 * 2月2日 - [[ジャレッド・フェルナンデス]]、元[[プロ野球選手]] * 2月2日 - [[メルビン・モーラ]]、元メジャーリーガー * [[2月6日]] - [[バーバラ・フーザル=ポリ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[2月11日]] - [[ケリー・スレーター]]、[[サーファー]] * [[2月15日]] - [[ヤロミール・ヤーガー]]、アイスホッケー選手 * [[2月17日]] - [[ビリー・ジョー・アームストロング]]、パンクロッカー([[グリーン・デイ]]) * 2月17日 - [[フィリップ・キャンデロロ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[2月20日]] - [[シェーン・スペンサー]]、元プロ野球選手 * 2月20日 - [[スティーブ・ヤンセン]]、野球選手 * [[2月24日]] - [[アルカーディ・ヴォロドス]]、[[ピアニスト]] * 2月24日 - [[石村知子]]、声優 * [[2月27日]] - [[内川藍維]]、声優 === 3月 === * [[3月1日]] - [[ジミー・ハースト]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月3日]] - [[マイク・ロマノ]]、元プロ野球選手 * [[3月4日]] - [[ヨス・フェルスタッペン]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 3月6日 - [[シャキール・オニール]]、バスケットボール選手 * 3月10日 - [[ロブ・スタニファー]]、元プロ野球選手 * 3月11日 - [[ティミィ・キーナン]]、元[[野球選手]] * 3月11日 - [[サロモン・トーレス]]、元メジャーリーガー * [[3月12日]] - [[ジョージ・アリアス]]、元プロ野球選手 * [[3月13日]] - [[コモン]]、ラッパー * [[3月15日]] - [[ハワード・バトル]]、元プロ野球選手 * 3月17日 - [[パーシャ・グリシュク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[3月20日]] - {{仮リンク|アレックス・カプラノス|en|Alex Kapranos}}、ロック歌手([[フランツ・フェルディナンド (バンド)|フランツ・フェルディナンド]]) * 3月20日 - [[ペドロ・ラミー]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[3月21日]] - [[白鳥哲]]、声優 * 3月22日 - [[コリー・ライドル]]、野球選手(+ [[2006年]]) * 3月22日 - [[エルビス・ストイコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[3月25日]] - [[アンミカ]]、[[ファッションモデル|モデル]] * [[3月27日]] - [[ジミー・フロイド・ハッセルバインク]]、元サッカー選手 * 3月28日 - [[鄭珉哲]]、プロ野球選手 * [[3月29日]] - [[アレックス・オチョア]]、プロ野球選手 * 3月29日 - [[マヌエル・ルイ・コスタ]]、元サッカー選手 * 3月30日 - [[カレル・ポボルスキー]]、元サッカー選手 * 3月30日 - [[長野誠]]、SASUKEオールスターズの一人、第17回SASUKE完全制覇者 === 4月 === * [[4月5日]] - [[竹内順子]]、声優 * [[4月9日]] - [[ベルナール・アッカ]]、[[格闘家]]、[[タレント]] * [[4月12日]] - [[浜田賢二]]、声優 * 4月19日 - [[リバウド]]、サッカー選手 * 4月19日 - [[オリヴァー・ドゥルーズ]]、騎手 * [[4月20日]] - [[ブラヒム・ブーラミ]]、陸上競技選手 * 4月20日 - [[イリーナ・ロマノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月21日]] - [[クレイグ・ダーデン]]、騎手 * 4月21日 - [[グウェンダル・ペーゼラ]]、フィギュアケート選手 * [[4月24日]] - [[チッパー・ジョーンズ]]、メジャーリーガー * [[4月25日]] - [[マイカ・フランクリン]]、元プロ野球選手 * 4月26日 - [[ニコライ・ルガンスキー]]、[[ピアニスト]] * 4月29日 - [[マリウス・シュデク]]、フィギュアスケート選手 === 5月 === * 5月2日 - [[ザ・ロック (プロレスラー)|ザ・ロック]]、[[プロレスラー]]、俳優 * [[5月6日]] - [[菊池志穂]]、声優 * [[5月10日]] - [[ゲオルギオス・パルテニウ]]、外交官 * [[5月19日]] - [[スコット・マクレーン]]、[[メジャーリーガー]] * 5月21日 - [[ノトーリアス・B.I.G.]]、ラッパー(+ [[1997年]]) * [[5月23日]] - [[ルーベンス・バリチェロ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 5月24日 - [[スティーブン・カズンズ]]、[[フィギュアスケート]]選手 *5月24日-[[上杉昇]]、アーティスト * [[5月26日]] - [[ゾルタン・サボ]]、元サッカー選手・指導者(+ [[2020年]]) * 5月30日 - [[マニー・ラミレス]]、メジャーリーガー * 5月30日 - [[保志総一朗]]、[[声優]] * [[5月31日]] - [[デーブ・ロバーツ (外野手)|デーブ・ロバーツ]]、メジャーリーガー === 6月 === * [[6月2日]] - [[ウェントワース・ミラー]]、俳優 * 6月2日 - [[ラウル・イバニェス]]、[[メジャーリーガー]] * [[6月4日]] - [[高萩晴子]]、声優 * 6月6日 - [[ジェフ・ウィリアムス]]、元プロ野球選手([[阪神タイガース|阪神]]「[[JFK (阪神タイガース)|JFK]]」の一人) * [[6月9日]] - [[半場友恵]]、声優 * [[6月12日]] - {{仮リンク|全商烈|ko|전상렬}}、プロ野球選手 * [[6月13日]] - [[ダレル・メイ]]、元メジャーリーガー * [[6月14日]] - [[ダリル・ホランド]]、騎手 * [[6月15日]] - [[アンディ・ペティット]]、元[[メジャーリーガー]] * 6月15日 - [[ラミロ・メンドーサ]]、元メジャーリーガー * 6月20日 - [[フアン・カストロ]]、メジャーリーガー * 6月22日 - [[ミゲール・デルトロ]]、元プロ野球選手(+ [[2001年]]) * [[6月23日]] - [[ジネディーヌ・ジダン]]、元サッカー選手 * [[6月25日]] - [[カルロス・デルガド]]、メジャーリーガー * [[6月28日]] - [[マリア・ブッテルスカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[6月29日]] - [[サマンサ・スミス]]、[[アメリカ合衆国|米]]最年少の[[親善大使]](+ [[1985年]]) * [[6月30日]] - [[ギャレット・アンダーソン]]、元メジャーリーガー === 7月 === * 7月4日 - [[トミオ・オカムラ]]、政治家 * [[7月10日]] - [[藤原道山]]、[[尺八]]演奏家、[[作曲家]] * [[7月17日]] - [[ヤープ・スタム]]、元サッカー選手 === 8月 === * [[8月1日]] - [[フレッディ・ガルシア]]、元[[プロ野球選手]] * [[8月2日]] - [[コリーヌ・レイ=ベレット]]、元[[アルペンスキー]]選手(+ [[2006年]]) * [[8月4日]] - [[チューヤン]]、タレント * 8月5日 - [[ジョン・ワズディン]]、プロ野球指導者、元メジャーリーガー * 8月6日 - [[ジェリ・ハリウェル]]、歌手、女優 * 8月8日 - [[アナスタシア・チェボタリョーワ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[8月9日]] - [[張惠妹]](アーメイ)、[[台湾]]の歌手 * 8月11日 - [[ヴィアチェスラフ・ザゴロドニュク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月14日]] - [[デビッド・ストーン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[8月14日]] - [[本田貴子]]、声優 * 8月14日 - [[ヤミレ・アルダマ]]、陸上競技選手 * [[8月17日]] - [[ロベルト・ラミレズ]]、元プロ野球選手 * [[8月19日]] - [[ロベルト・アボンダンシェリ]]、元サッカー選手 * 8月24日 - [[カート・ミラー]]、元プロ野球選手 * 8月25日 - [[アンディ・エイバッド]]、元プロ野球選手 * 8月26日 - {{仮リンク|サマル・コックシュ|ar|سمر كوكش}}、女優・声優 * [[8月29日]] - [[ペ・ヨンジュン]]、俳優 * [[8月30日]] - [[キャメロン・ディアス]]、女優 * 8月30日 - [[パベル・ネドベド]]、元サッカー選手 === 9月 === * [[9月4日]] - [[ホルヘ・コルテス]]、元プロ野球選手 * [[9月7日]] - [[ジェイソン・イズリングハウゼン]]、元[[メジャーリーガー]] * [[9月8日]] - [[関智一]]、声優 * [[9月9日]] - [[マイク・ハンプトン]]、メジャーリーガー * 9月14日 - [[デビッド・ベル]]、メジャーリーガー * 9月16日 - [[チャイナ・ミエヴィル]]、ファンタジー作家 * 9月17日 - [[ブレイディー・ラジオ]]、元[[プロ野球選手]] * [[9月21日]] - [[リアム・ギャラガー]]、ロック歌手([[オアシス (バンド)|オアシス]]) * 9月21日 - [[シャノン・ウィッテム]]、元プロ野球選手 * 9月21日 - [[スコット・スピージオ]]、メジャーリーガー * [[9月28日]] - [[グウィネス・パルトロー]]、女優 * 9月29日 - [[孫泰蔵]]、実業家 === 10月 === * [[10月1日]] - [[エサ・ホロパイネン]]、ミュージシャン * 10月2日 - [[トレイ・ムーア]]、元[[プロ野球選手]] * [[10月4日]] - [[アダム・リグス]]、元プロ野球選手 * [[10月5日]] - [[アーロン・ガイエル]]、元プロ野球選手 * 10月5日 - [[グラント・ヒル]]、バスケットボール選手 * [[10月6日]] - [[リュ・シウォン]]、俳優・歌手 * 10月6日 - [[マーク・シュワルツァー]]、サッカー選手 * [[10月9日]] - [[宮田幸季]]、声優 * [[10月10日]] - [[モリノリ久]]、声優 * 10月10日 - [[マイク・ホルツ]]、元プロ野球選手 * 10月11日 - [[クレーベル・エドゥアルド・アラード]]、元[[サッカー]]選手(+ [[2021年]]) * 10月15日 - [[カルロス・チェカ]]、[[オートバイ]]レーサー * [[10月17日]] - [[EMINEM|エミネム]]、ミュージシャン * 10月17日 - [[タルカン (歌手)|タルカン]]、[[トルコ]]の歌手 * 10月17日 - [[ワイクリフ・ジョン]]、[[ハイチ]]出身のミュージシャン * [[10月18日]] - [[桜井ちひろ]]、女性声優 * [[10月21日]] - [[森田成一]]、声優 * 10月23日 - [[エドゥアルド・パレ]]、野球選手 * [[10月24日]] - [[ヴァン・ダークホーム]]、映画俳優、映画監督、写真家 * [[10月25日]] - [[葉君璋]]、野球選手 === 11月 === * 11月1日 - [[トニ・コレット]]、女優 * 11月2日 - [[ダリオ・シルバ]]、サッカー選手 * [[11月3日]] - [[アーマンド・ベニテス]]、[[メジャーリーガー]] * [[11月4日]] - [[ルイス・フィーゴ]]、サッカー選手 * 11月6日 - [[マット・スクルメタ]]、元プロ野球選手 * [[11月9日]] - [[進藤尚美]]、声優 * [[11月10日]] - [[グレッグ・ラロッカ]]、元プロ野球選手 * 11月10日 - [[ショーン・グリーン]]、メジャーリーガー * [[11月11日]] - [[ダニエル・リオス]]、プロ野球選手 * [[11月13日]] - [[木村拓哉]]、俳優 * 11月13日 - [[サマンサ・ライリー]]、水泳選手 * 11月14日 - [[ジョシュ・デュアメル]]、米・俳優 * [[11月15日]] - [[ダーウィン・クビアン]]、プロ野球選手 * [[11月24日]] - [[エルネスト・ノリス]]、野球選手 * [[11月28日]] - [[ホセ・パーラ]]、元プロ野球選手 * [[11月29日]] - [[荻原秀樹]]、声優 * 11月29日 - [[ジャマール・マッシュバーン]]、元バスケットボール選手 === 12月 === * 12月3日 - [[パトリス・アルケット]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[12月4日]] - [[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、声優 * 12月5日 - [[クリフ・フロイド]]、[[メジャーリーガー]] * [[12月6日]] - [[リック・ショート]]、元プロ野球選手 * 12月8日 - [[ホルベルト・カブレラ]]、プロ野球選手 * 12月18日 - [[クリス・シールバック]]、元プロ野球選手 * 12月18日 - [[エフゲーニヤ・シシコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 12月18日 - [[アンジェラ・バラコノワ]]、陸上競技選手 * [[12月19日]] - [[アリッサ・ミラノ]]、女優 * [[12月21日]] - [[ラトロイ・ホーキンス]]、メジャーリーガー * 12月26日 - [[ジェロム・レ・バンナ]]、格闘家 * 12月27日 - [[ニクラス・エンゲリン]]、ミュージシャン * 12月28日 - [[アダム・ビナティエリ]]、アメリカンフットボール選手 * [[12月29日]] - [[ジュード・ロウ]]、俳優 * 12月29日 - [[西川宏美]]、声優 * 12月29日 - [[ジム・ブラウワー]]、元プロ野球選手 * [[12月31日]] - [[グレゴリー・クーペ]]、元サッカー選手 == 死去 == {{See|訃報 1972年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ジョン・バーディーン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[レオン・クーパー]](アメリカ)、[[ジョン・ロバート・シュリーファー]](アメリカ) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[クリスチャン・アンフィンセン]](アメリカ)、[[スタンフォード・ムーア]](アメリカ)、[[ウィリアム・スタイン]](アメリカ) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ジェラルド・モーリス・エデルマン]](アメリカ)、[[ロドニー・ロバート・ポーター]]([[イギリス]]) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ハインリヒ・ベル]]([[ドイツ]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - 受賞者なし * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[ケネス・アロー]](アメリカ)、[[ジョン・ヒックス]](イギリス) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1972|date=2011年7月}} * 4月 - 何者かに播種された胞子によって、地球全体に「植物」が出現。「植物」はその数と成長速度によってあらゆる土地を侵食し、既存の動植物を絶滅させ始める。(小説『{{仮リンク|人類皆殺し|en|The Genocides}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= トーマス・M・ディッシュ|authorlink=トマス・M・ディッシュ |title = 人類皆殺し |publisher = [[早川書房]] |year = 1976 |pages = 22-26,29,30 |isbn = 978-4-15-010201-2}}。</ref> * [[アポロ17号]]が月面で発見した古代火星文明の遺跡から、後に「ハイパーゲート」と名付けられる火星へと通じる瞬間移動装置が発見される。(アニメ『[[アルドノア・ゼロ]]』)<ref>[http://www.aldnoahzero.com/assets/img/world/Tx_005-2.png Tx/005-2] - 『アルドノア・ゼロ』公式サイト(「ABOUT」内)。2015年1月18日、2018年2月20日閲覧。</ref> * 異次元人[[ヤプール人|ヤプール]]が怪獣よりも遥かに強い怪獣“超獣”を従えて地球侵略を開始。これにより地球侵略の権限が宇宙人から異次元人に移行された。(特撮テレビ番組『[[ウルトラマンA]]』) * アメリカ国立宇宙管理局(ANSA)所属の超光速宇宙船「イカルス号」が[[ケネディ宇宙センター]]から打ち上げられる。(映画『[[猿の惑星 (映画)|猿の惑星]]』) * レジナルド・スタイルズ卿が国際平和会議を爆破する計画を進め、[[第三次世界大戦]]勃発の危機。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * 初代マスターが脱獄。地球の先住民族シーデビルと同盟を組み、人類撲滅を企む。(ドラマ『ドクター・フー』) * 初代マスター、時空の間隙から物体に干渉する技術を開発する。この技術を用いてクロノスのクリスタルを入手、時空を食料とする生命体クロノヴォーレの開放を目指す。(ドラマ『ドクター・フー』) * [[ビッグ・ボス#恐るべき子供達計画 (Les Enfants Terribles)|恐るべき子供達計画]]実施。[[ソリッド・スネーク|ソリッド]]、[[リキッド・スネーク|リキッド]]の2人のスネークが誕生。立案、計画開始は前年の1971年。(ゲーム[[メタルギアシリーズ|『メタルギア』シリーズ]]) * [[火星]]に送り込まれたアメリカの[[火星探査機|無人探査機]]が、{{仮リンク|エリジウム平原|label=エリジウム盆地|en|Elysium Planitia}}にて[[胞子]]状の生命体を発見。続いてソ連の探査機もそれを追認する。(小説『{{仮リンク|もし星が神ならば|en|If the Stars are Gods}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=グレゴリイ・ベンフォード|authorlink1=グレゴリイ・ベンフォード|author2=ゴードン・エクランド|authorlink2=:en:Gordon Eklund |title = もし星が神ならば |publisher = 早川書房 |year = 1988 |pages = 9-12,20,34 |isbn = 978-4-15-010802-1}}</ref> === 誕生日 === == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1972}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Navboxes | title = 1972年の各国([[各年の国の一覧|一覧]]) | list1 = {{各年のアメリカ|1972|unit=1||List=1}} {{各年のヨーロッパ|1972|unit=1||List=1}} {{各年のアフリカ|1972|unit=1||List=1}} {{各年のアジア|1972|unit=1||List=1}} {{各年のオセアニア|1972|unit=1||List=1}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1972ねん}} [[Category:1972年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1972%E5%B9%B4
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1967年
1967年(1967 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和42年。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 世界と日本のできごと。 (※雑誌も含む)
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1967年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和42年。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1967年の日本}} {{年代ナビ|1967}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1967 }} {{year-definition|1967}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1967年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[丁未]](ひのと ひつじ) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]42年 ** [[皇紀]]2627年 : もし、1868年からの[[明治]]の年号がこの年まで続いていれば、1967年が「明治100年」([[1868年]]=明治元年から99年後)となったところだが、実際は、明治100年の記念式典は翌年、[[1968年]]に行われた。 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]56年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]56年 * [[仏滅紀元]]:2509年 - 2510年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1386年9月19日 - 1387年9月29日 * [[ユダヤ暦]]:5727年4月19日 - 5728年3月29日 * [[修正ユリウス日]](MJD):39491 - 39855 * [[リリウス日]](LD):140332 - 140696 <div style="font-size:smaller"> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1967}} == できごと == 世界と日本のできごと。 === 1月 === * [[1月1日]] - [[日本専売公社]]が葉巻たばこ「[[パロマ]]」を発売{{要出典|date=2021-04}}。 * [[1月8日]] - [[1966年|前年]][[12月21日]]の茨城県議会黒い霧解散に伴う[[茨城県議会]]議員選挙投票{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月12日]] - [[日本血液銀行協会]]、[[売血]]の全廃を決定(預血は継続)<ref name="昭和二万日13、p.250">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.250]]</ref>。 * [[1月13日]] - [[神奈川県]][[藤沢市]][[藤沢 (藤沢市)|藤沢]]で帰宅途中の女子高生が労務者の男に襲われ殺害される。[[1月18日|同月18日]]に犯人の男を逮捕。{{Main|藤沢市女子高生殺害事件}} * [[1月15日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で[[第1回スーパーボウル]]が開催。 * [[1月28日]] - [[国際電信電話|KDD]]が日米間の[[通信衛星]]中継業務を開始。 * [[1月29日]] - [[第31回衆議院議員総選挙]]投票<ref name="昭和二万日13、p.252">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.252]]</ref>。前年[[12月27日]]の[[黒い霧解散]]に伴うもの。([[1969年]][[12月2日]]解散([[沖縄解散]])) === 2月 === * [[2月1日]] ** [[大阪府]]の[[布施市]]・[[河内市]]・[[枚岡市]]の3市が合併して[[東大阪市]]が発足。 ** [[森永製菓]]が「[[チョコボール]]」を発売。 * [[2月11日]] - 初の[[建国記念の日]]<ref name="昭和二万日13、p.256">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.256]]</ref>。 * [[2月15日]] - [[東京国際空港]]に[[時限爆弾]]が仕掛けられる<ref name="昭和二万日13、p.256-257">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.256-257]]</ref>。 * [[2月17日]] - [[第2次佐藤内閣]]発足。全閣僚再任<ref name="昭和二万日13、p.256" />。 * [[2月20日]] - [[トヨタ自動車]]が「[[トヨタ・ハイエース|ハイエース]]」を発売(5月には「[[トヨタ・2000GT|2000GT]]」を発売)。 * [[2月28日]] - [[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]、[[三島由紀夫]]らが[[文化大革命]]に対する抗議声明発表。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[阪急電鉄|阪急]][[阪急千里線|千里線]]・[[北千里駅]]で世界初の無人[[自動改札機|自動改札]]システムが設置される<ref>{{Cite book|和書|title=平成28年度 国土交通白書 2017|publisher=国土交通省|date=2017|url=https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/index.html|chapter=我が国が発展させたイノベーション|chapterurl=https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h28/hakusho/h29/pdf/np101300.pdf|pages=38-43}}</ref>。 * [[3月4日]] - [[大相撲]]の[[高見山大五郎]](本名:ジェシー・クハウルア)が[[相撲界]]で史上初となる外国人関取([[十両]])に昇進<ref name="昭和二万日13、p.260">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.260]]</ref>。 * [[3月6日]] - [[日本航空]]、世界一周線の運航開始<ref name="昭和二万日13、p.262">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.262]]</ref>。 * [[3月12日]] - [[青年医師連合]](36大学、2400人加盟)が[[研修医#臨床実地研修制度|インターン制度]]に反対して[[医師国家試験]]を[[ボイコット]]<ref name="昭和二万日13、p.262" />。 * [[3月18日]] - [[トリー・キャニオン号事件]]が発生。 * [[3月20日]] - [[本田技研工業]]が「[[ホンダ・N360|N360]]」を発売。「[[スバル・360]]」の牙城を崩す。 * [[3月21日]] - [[金栗四三]]が第5回ストックホルム五輪のマラソンにおいてゴールイン(最下位)。タイム54年8カ月6日5時間32分20秒3を記録し、のちにギネス世界記録した。同日、全日程の終了が宣言された。 * [[3月24日]] - [[大阪市営地下鉄谷町線]]の[[東梅田駅]] - [[谷町四丁目駅]]間が開業(以降区間を拡大し、[[1983年]]全線開業)。 === 4月 === * [[4月1日]] - [[大阪府]]泉南町(現在の[[泉南市]])の[[南海電気鉄道|南海電鉄]][[南海本線|本線]]踏切で急行電車が大型トラックと衝突、電車の1・2両が男里川に転落。死者5人・重軽傷者208人の大惨事に<ref name="昭和二万日13、p.266-267">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.266-267]]</ref>。 * [[4月3日]] - トヨタ自動車が「[[トヨタ・ランドクルーザー|ランドクルーザー]]」56型を発売。 * [[4月5日]] - [[岡山大学]]の教授が、[[富山県]]で発生した[[イタイイタイ病]]は[[三井金属鉱業]][[神岡鉱山]]([[岐阜県]])の廃水が原因であることを発表<ref name="昭和二万日13、p.268">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.268]]</ref>。 * [[4月15日]] - 統一地方選挙、東京都知事選挙で[[美濃部亮吉]]が当選、革新知事ブームのさきがけに<ref name="昭和二万日13、p.268" />。 * [[4月18日]] - [[厚生省]]が[[阿賀野川]][[水銀]]中毒([[第二水俣病]])は[[昭和電工]]鹿瀬工場([[新潟県]])の廃水が原因であると結論<ref name="昭和二万日13、p.272">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.272]]</ref>。 * [[4月20日]] - [[サントリー]]がびん入り生ビール「純生」発売。 * [[4月24日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の宇宙船[[ソユーズ1号]]が着陸に失敗し、搭乗していた[[ウラジミール・コマロフ]]が死亡。史上初の宇宙飛行による死亡事故。 * [[4月25日]] - [[東伊豆道路]]全線開通。 * [[4月28日]] ** [[オランダ]]・[[アムステルダム]]郊外に[[スキポール空港]]開港。 ** [[モントリオール万国博覧会|モントリオール万博]]が開幕。 ** [[東京急行電鉄|東急]][[東急こどもの国線|こどもの国線]]([[長津田駅]] - [[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国駅]])が開業。 === 5月 === * [[5月22日]] ** [[エスフーズ]](当時の社名スタミナ食品)設立。 ** [[ベルギー]]・[[ブリュッセル]] イノバシオン百貨店火災(fr:Incendie de l'Innovation)。死者325名、負傷者約80名。 * [[5月24日]] - [[朝日訴訟]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]][[判決 (日本法)|判決]]<ref name="昭和二万日13、p.276-277">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.276-277]]</ref>。 * [[5月30日]] ** [[ナイジェリア]]の[[東部州 (ナイジェリア)|東部州]]が[[ビアフラ共和国]]として独立を宣言。 ** [[マツダ|東洋工業]]が世界初となる2ローター[[ロータリーエンジン]]搭載の[[スポーツカー]]「[[マツダ・コスモ|コスモスポーツ]]」を発売<ref name="昭和二万日13、p.279">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.279]]</ref>。 === 6月 === * [[6月5日]] - [[イスラエル]]・アラブ連合間で戦闘開始([[第三次中東戦争]])。[[6月11日]]に戦闘が終結しイスラエルの圧勝。この結果、イスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大。 * [[6月10日]] - [[東京教育大学]]の[[筑波研究学園都市]]への移転が決定<ref name="昭和二万日13、p.278">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.278]]</ref>。 * [[6月13日]] - [[リンドン・ジョンソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[アメリカ合衆国訟務長官|訟務長官]]の[[サーグッド・マーシャル]]を([[アフリカ系アメリカ人]]として初めての)[[合衆国最高裁判所]]判事に任命する。 * [[6月17日]] - [[中華人民共和国|中国]]が初の[[水素爆弾|水爆]]実験を行う。 * [[6月18日]] - [[山陽塩屋駅|電鉄塩屋駅]]で[[山陽電鉄爆破事件]]が起こる<ref name="昭和二万日13、p.282-283">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.282-283]]</ref>。 * [[6月25日]] - 世界初の衛星中継のテレビ番組『OUR WORLD 〜われらの世界〜』が24か国で放送され、[[ビートルズ]] が「[[愛こそはすべて]]」を生演奏した。 * [[6月27日]] - [[ロンドン]]の[[バークレー銀行]]に世界初の[[現金自動預け払い機|ATM]]が設置。 * この頃、熊本大学の研究班がチッソの反応機(化学プラント)と同じ環境から[[水俣病]]の原因物質である[[メチル水銀]]が合成されることを再現することに成功して論文発表を行う。 === 7月 === * [[7月1日]] - [[ブリュッセル条約]]発効により、[[欧州石炭鉄鋼共同体]]、[[欧州経済共同体]]、[[欧州原子力共同体]]の組織体制が統合される。 * [[7月2日]] - 初めての[[ガンマ線バースト]]である[[GRB 670702]]が[[核実験]]監視衛星である[[ヴェラ (人工衛星)|ヴェラ3およびヴェラ4]]によって発見される。 * [[7月3日]] - [[FM東海]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]の前身)でFM最長番組「[[JET STREAM]]」が放送開始。 * [[7月8日]] - [[韓国中央情報部]](KCIA)が[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]において[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]大使館と接触した194名の[[大韓民国#国民|韓国人]]を逮捕したと発表。([[東ベルリン事件]]) * [[7月12日]] -アメリカ・[[ニュージャージー州]][[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]で[[白人]][[警官]]による[[黒人]][[タクシー]][[運転手]]への暴行事件をきっかけにした黒人暴動が起こり、23名の死者と1500名以上にのぼる逮捕者を出す。 * [[7月14日]] - [[タカラトミー|タカラ]]が「[[リカちゃん]]人形」を発売<ref name="昭和二万日13、p.286">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.286]]</ref>。[[着せ替え人形]]のベストセラー商品となる。 * [[7月19日]] - [[東京女子医科大学]]の[[今井通子]]と[[若山美子]]が女性で初めて[[マッターホルン]]北壁の登頂に成功<ref name="昭和二万日13、p.286" />。 * [[7月21日]] - [[公正取引委員会]]が[[パナソニック|松下電器産業]]にヤミ再販の停止を勧告<ref name="昭和二万日13、p.286" />。 * [[7月22日]] - [[高田光政]]が[[グランド・ジョラス]]北壁の登頂に成功(日本人で初めて[[アイガー]]、マッターホルン、グランド・ジョラスの[[アルプス山脈|アルプス]]3大北壁全登頂に成功)<ref name="昭和二万日13、p.286" />。 * [[7月23日]] - アメリカ・[[ミシガン州]][[デトロイト]]で[[デトロイト暴動 (1967年)|黒人暴動]]([[w:en:12th Street riot|12th Street riot]])起こる。 * [[7月28日]] - [[日本放送協会|NHK]]、[[ラジオ]][[NHK受信料|受信料]]の廃止を決定([[1968年]]4月1日施行)<ref name="昭和二万日13、p.290">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.290]]</ref>。 * [[7月29日]] - [[南シナ海]]の[[ベトナム]]沖の[[トンキン湾]]で、[[アメリカ海軍]][[空母]][[フォレスタル (空母)|フォレスタル]]が、艦上の[[F-4 (戦闘機)|F-4 ファントムII戦闘機]]の電気トラブルから[[ズーニー・ロケット弾]]に引火し爆発、炎上する事故発生。死者134名、負傷者161名を出し、アメリカ海軍空母として[[第二次世界大戦]]以降最悪の惨事。 === 8月 === * [[8月1日]] ** [[西穂高岳落雷遭難事故]]<ref name="昭和二万日13、p.290" />。現在も[[西穂高岳]]に慰霊登山に訪れる関係者がいる。 ** [[資生堂]]が男性化粧品の「[[MG5]]」を発売<ref name="昭和二万日13、p.291">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.291]]</ref>。[[団時朗|団次郎]]を起用したTVCMが人気となる。 * [[8月3日]] - [[公害対策基本法]]公布<ref name="昭和二万日13、p.290" />。 * [[8月8日]] ** [[東南アジア諸国連合]](ASEAN)結成。 ** [[日本国有鉄道|国鉄]][[新宿駅]]構内で[[在日米軍|米軍]]用燃料を積載した[[貨物列車]]が[[脱線]]炎上する事故([[米軍燃料輸送列車事故]])<ref name="昭和二万日13、p.296-297">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.296-297]]</ref>。 * [[8月10日]] - [[ジェーシービー|JCB]]が[[アメリカン・エキスプレス]]と国際[[クレジットカード]]提携発行契約を結ぶ<ref name="昭和二万日13、p.296">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.296]]</ref>。 * [[8月26日]]-[[8月29日|29日]]頃 - 昭和42年8月洪水([[羽越豪雨]])発生。 * [[8月27日]] - [[ユニバーシアード]]東京大会開催([[9月4日]]まで)<ref name="昭和二万日13、p.298-299">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.298-299]]</ref>。 * [[8月30日]] - [[アメリカ合衆国上院|米議会上院]]が[[サーグッド・マーシャル]]を([[アフリカ系アメリカ人]]として初めての)[[合衆国最高裁判所]]判事とする事に合意する。 === 9月 === * [[9月1日]] ** [[四日市ぜんそく]]の患者9人が訴訟を起こす([[日本]]における初の[[大気汚染]][[訴訟]])<ref name="昭和二万日13、p.298">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.298]]</ref>。 ** [[三菱電機]]が電気掃除機「風神」を発売。 * [[9月2日]] - [[北海]]の[[イギリス]]沖に浮かぶ自称「国家」である[[シーランド公国]]が独立宣言。 * [[9月3日]] - [[スウェーデン]]で[[自動車]]の[[対面交通]]が[[左側通行]]から[[右側通行]]に変更された。([[ダゲン・H]]) * [[9月28日]] - [[上越線]][[清水トンネル|新清水トンネル]]開通<ref name="昭和二万日13、p.302">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.302]]</ref>。 * [[9月30日]] ** [[大阪市営地下鉄中央線]]の[[谷町四丁目駅]] - [[森ノ宮駅]]間が開業([[1969年]]12月、[[大阪港駅]] - [[深江橋駅]]間が貫通)。 ** [[東京新聞社]]が[[東京新聞]]の編集・発行を[[中日新聞社|中部日本新聞社]]に委譲。 === 10月 === * [[10月1日]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]で[[オリックス・バファローズ|阪急]]が球団創立32年目で初優勝<ref name="昭和二万日13、p.302-303">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.302-303]]</ref>。 ** 森永製菓が「エールチョコレート」発売。[[作曲家]]の[[山本直純]]を起用したTVCMが人気となる。 ** 日本初の寝台電車[[国鉄583系電車|581系]]がダイヤ改正を機に運用開始。東北・九州方面の寝台特急と昼行特急に長く使用された。 * [[10月2日]] ** [[深夜放送]]の代名詞的存在である、[[ニッポン放送]]系の[[ラジオ番組]]「[[オールナイトニッポン]]」が放送開始。初代パーソナリティは[[糸居五郎]](月曜)、[[斉藤安弘]](火曜)、[[高岡尞一郎]](水曜)、[[今仁哲夫]](木曜)、[[常木建男]](金曜)、[[高崎一郎]](土曜)。 ** [[サーグッド・マーシャル]]が[[アフリカ系アメリカ人]]として初めて[[合衆国最高裁判所|米連邦最高裁]]判事に就任。 * [[10月3日]] - [[ウィリアム・J・ナイト]]が操縦する米国の実験機[[X-15 (航空機)|X-15A-2]]がマッハ6.7(7,274&nbsp;km/h)に到達。有人航空機の最大速度記録。 * [[10月7日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]、3年連続[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝(V3)。 * [[10月18日]] - [[ツイッギー]]来日<ref name="昭和二万日13、p.308">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.308]]</ref>。日本に[[ミニスカート]]ブーム到来。 * [[10月20日]] - [[吉田茂]]元首相死去<ref name="昭和二万日13、p.308" />。 * [[10月21日]] - [[ペンタゴン大行進]]。 * [[10月27日]] - [[福島県]][[いわき市]]の[[日産・レッドステージ|日産サニー販売店]]で宿直員の男性が殺害され、現金などが奪われる事件が発生([[日産サニー事件]])。 * [[10月28日]] ** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]で巨人が阪急下し3年連続の日本一。 ** [[昭和42年台風第34号|台風34号]]が愛知県に[[台風の上陸|上陸]]。1990年11月下旬に[[平成2年台風第28号|台風28号]]が上陸するまでは、日本への上陸日時が最も遅い台風であった。 * [[10月30日]] - [[鹿島石油]]設立。 * [[10月31日]] - 吉田茂元首相の本葬が[[戦後]]初の[[国葬]]として[[日本武道館]]で営まれる<ref name="昭和二万日13、p.312-313">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.312-313]]</ref>。 === 11月 === * [[11月1日]] ** [[八郎潟]][[干拓]][[農地]]への入植が始まる。 ** [[渋谷区]][[道玄坂]]の小学校跡地に[[東急百貨店本店]]開店。 ** [[シチズン時計]]がカラー腕時計「クリスタルセブンカスタム」を発売。 * [[11月9日]] ** [[武満徹]]作曲の『[[ノヴェンバー・ステップス]]』が[[ニューヨーク]]で初演。 ** [[アメリカ軍|米軍]]が[[押収]]していた[[原子爆弾|原爆]]記録映画が22年ぶりに返還<ref name="昭和二万日13、p.312-313" />。 * [[11月11日]] - 日本エスペラント協会会員の[[由比忠之進]]が、ベトナム戦争に反対する佐藤栄作首相宛の抗議書を携え、首相官邸近くで焼身自殺を図る<ref name="昭和二万日13、p.312">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.312]]</ref>。 * [[11月19日]] - [[無綫電視]]が放送開始。 * [[11月21日]] - [[小田急百貨店]](新宿店)本館完成、[[11月23日]]全館営業開始。旧館は小田急ハルク(現ハルク)として[[11月27日]]新装開店。 * [[11月25日]] - [[第2次佐藤内閣 (第1次改造)|第2次佐藤改造内閣]]発足<ref name="昭和二万日13、p.314">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.314]]</ref>。 === 12月 === * [[12月1日]] - [[東京ガス]]がガス・セントラルヒーティングを発売。 * [[12月3日]] - [[南アフリカ共和国]]の[[ケープタウン]]で世界初の[[ヒト]]からヒトへの[[心臓移植]]が行われる(この世界初の[[レシピエント]]は[[移植]]術後18日後に死亡)。 * [[12月9日]] - [[東京]]で[[東京都電車|都電銀座線]](これは[[通称]]で、正式には「一系統」と呼ぶ。他に「一番」という俗称もあった。)など計9系統廃止<ref name="昭和二万日13、p.316-317">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.316-317]]</ref>。 * [[12月15日]] ‐ アメリカでシルバー・ブリッジ崩落(46名が犠牲となった。) * [[12月16日]] - [[シャープ|早川電機工業]]が[[集積回路|IC]][[電卓]]を発売<ref name="昭和二万日13、p.318">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.318]]</ref>。 * [[12月24日]] - [[餃子の王将]]が京都で一号店オープン * [[12月26日]] - [[三井住友カード|住友クレジットサービス]]設立。 * [[12月29日]] - [[大韓民国|韓国]]で[[現代自動車|ヒュンダイモーターカンパニー]]設立。 == スポーツ == * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[大鵬幸喜]] ** 春場所 [[北の富士勝昭]] ** 夏場所 大鵬幸喜 ** 名古屋場所 [[柏戸剛]] ** 秋場所 大鵬幸喜 ** 九州場所 [[佐田の山晋松]] * [[日本プロ野球|プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]] ** [[1967年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ(4勝2敗) * [[高校野球]] ** [[第39回選抜高等学校野球大会|春]]優勝 [[大分県立津久見高等学校|津久見]]([[大分県]]) ** [[第49回全国高等学校野球選手権大会|夏]]優勝 [[習志野市立習志野高等学校|習志野]]([[千葉県]]) == 芸術・文化・ファッション == === 音楽 === * [[ドアーズ]] 「[[ハートに火をつけて]]」 * グラスルーツ 「今日を生きよう」 * [[ローリング・ストーンズ]] 「[[この世界に愛を]]」 * [[アレサ・フランクリン]] 「[[貴方だけを愛して]]」「[[ナチュラル・ウーマン (曲)|ナチュラル・ウーマン]]」 * [[ジェファーソン・エアプレイン]] 「あなただけを」 * [[スコット・マッケンジー]] 「[[花のサンフランシスコ]]」 * [[キンクス]] 「[[ウォータールー・サンセット]]」 * [[スプリームス]] 「[[恋ははかなく (曲)|恋ははかなく]]」 * マウズ「ハ・ハ・ハ」<ref>[https://merurido.jp/donuts_topic.php?topic=47010 昭和ドーナツ盤] めるり堂 2023年3月24日閲覧</ref> *邦楽 * [[グループ・サウンズ]]・ブーム(1966年から[[1968年]])の2年目。[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]、[[ザ・スパイダース]]等が活躍した。 * [[ザ・タイガース]] 「[[僕のマリー]]」 * [[ザ・テンプターズ]] 「[[忘れ得ぬ君]]」 * [[ザ・カーナビーツ]] 「[[好きさ好きさ好きさ]]」 * [[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]] 「[[ブルー・シャトー]]」 * [[ザ・フォーク・クルセダーズ]] 「[[帰って来たヨッパライ]]」 * [[ザ・ピーナッツ]] 「[[恋のフーガ]]」 * リンド&リンダーズ「ハ・ハ・ハ」 * [[中村晃子]] 「[[虹色の湖]]」 * [[奥村チヨ]] 「[[北国の青い空]]」 * [[ダーク・ダックス]] 「[[銀色の道]]」 * [[西田佐知子]] 「[[涙のかわくまで]]」 * [[美空ひばり]]「[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]」 * [[佐良直美]] 「[[世界は二人のために]]」 * [[森山良子]] 「[[この広い野原いっぱい]]」 * [[水原弘]] 「[[君こそわが命]]」 * [[美川憲一]] 「[[新潟ブルース]]」 === 映画 === * [[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]] * [[大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス]] * [[大巨獣ガッパ]] * [[宇宙大怪獣ギララ]] * [[キングコングの逆襲]] * [[007は二度死ぬ]][英] * [[華麗なる賭け]] * [[殺しの烙印]] * [[ジャングル・ブック]][英] === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第57回(1967年上半期) - [[大城立裕]] 『カクテル・パーティー』 ** 第58回(1967年下半期) - [[柏原兵三]] 『徳山道助の帰郷』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第57回(1967年上半期) - [[生島治郎]]『追いつめる』 ** 第58回(1967年下半期) - [[野坂昭如]]『[[アメリカひじき]]』『[[火垂るの墓]]』、[[三好徹]]『聖少女』 * [[ベストセラー]] ** [[五木寛之]]『蒼ざめた馬を見よ』 ** [[大江健三郎]]『[[万延元年のフットボール]]』 ** [[有吉佐和子]]『華岡青洲の妻』 ** [[多湖輝]]『頭の体操』 === 雑誌 === * 1月 - 新人を育てる漫画雑誌『[[COM (雑誌)|月刊COM]]』創刊 === 漫画 === (※雑誌も含む) * 1月 - [[パーマン]]([[藤子・F・不二雄]])、[[週刊少年サンデー]]で連載開始 * 2月 - [[碧南一家]]([[加藤まさみ]]、[[村瀬範行]])、[[愛知県]][[碧南市]]の広報誌『広報へきなん』の毎月1日号で連載開始。現在も継続中の漫画としては日本最長寿作<ref name="hekinan1805">{{Cite journal |和書|title =碧南一家連載50年記念特集|date =2017-02-01|publisher =碧南市|journal =広報へきなん|volume =1805|issue = |url =http://www.city.hekinan.lg.jp/material/files/group/4/1805_02-05.pdf|format = PDF|accessdate=2019-03-11|pages =2-5|ref = }}</ref>。 * 4月 - [[天才バカボン]]([[赤塚不二夫]])、[[週刊少年マガジン]]で連載開始 * 8月 ** [[いなかっぺ大将]]([[川崎のぼる]])、[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]で連載開始 ** [[ルパン三世]]([[モンキー・パンチ]])、[[漫画アクション]]で連載開始 * 10月 - [[超人ロック]]([[聖悠紀]])、[[同人誌]]で初掲載、現在も継続中の漫画としては日本2番目の長寿作<ref name="hekinan1805">{{Cite journal |和書|title =碧南一家連載50年記念特集|date =2017-02-01|publisher =碧南市|journal =広報へきなん|volume =1805|issue = |url =http://www.city.hekinan.lg.jp/material/files/group/4/1805_02-05.pdf|format = PDF|accessdate=2019-03-11|pages =2-5|ref = }}</ref>。 * 12月 - [[あしたのジョー]](原作:[[梶原一騎|高森朝雄]]、作画:[[ちばてつや]])、週刊少年マガジンで連載開始 === テレビ === ; ドラマ * [[大河ドラマ]] 「[[三姉妹]]」([[日本放送協会|NHK]])出演:[[岡田茉莉子]]、[[藤村志保]]、[[栗原小巻]]、[[山﨑努]] * [[連続テレビ小説]]「[[旅路 (1967年のテレビドラマ)|旅路]]」(NHK)出演:[[日色ともゑ]]、[[横内正]] * 「[[コメットさん]]」([[TBS系列|TBS系]]、7月3日 - 1968年12月30日)出演:[[九重佑三子]] * 「[[うどん (テレビドラマ)|うどん]]」([[関西テレビ放送|関西テレビ]]系、2月7日 - 5月30日)最終回視聴率49.3%(関西地区)を記録。 ; 特撮 * 「[[仮面の忍者 赤影]]」(関西テレビ系、4月5日 - 1968年3月27日) * 「[[キャプテンウルトラ]]」(TBS系、4月16日 - 9月24日) * 「[[光速エスパー]]」([[日本テレビ系]] 、8月1日 - 1968年1月23日) * 「[[ウルトラセブン]]」(TBS系、10月1日 - 1968年9月8日) * 「[[怪獣王子]]」([[フジテレビ系]] 、10月2日 - 1968年3月25日) * 「[[ジャイアントロボ]]」([[NET系]] 、10月11日 - 1968年4月1日) ; その他 * [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]「[[きょうの健康]]」放送開始。現在も放送中。 * NHK教育テレビ「[[趣味の園芸]]」が放送開始。現在も放送中。 * 7月26日 - [[CBCテレビ|中部日本放送]]「[[天才クイズ]]」が放送開始。2004年9月25日まで放送。 === ラジオ === * [[オールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系、※2020年現在も放送中) * [[パックインミュージック]]([[TBSラジオ]]・[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]系、 - [[1982年]]) * [[JET STREAM]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]・[[全国FM放送協議会|JFN]]系、※2020年現在も放送中) * [[永六輔の誰かとどこかで]]放送開始。(TBSラジオ、2013年9月放送終了) * [[4月3日]] - [[文化放送]]が深夜放送開始。 === コマーシャル === {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |イエイエ||イエイエ||[[レナウン (企業)|レナウン]]||-||- |- |[[どこまでも行こう]]||-||[[ブリヂストン|ブリヂストンタイヤ]]||[[横山隆一]](画)||[[小林亜星]]・[[山崎唯]] |- |お菓子のホームラン王です||[[ナボナ]]||[[亀屋万年堂]]||[[王貞治]]||- |- |||[[トヨタ・カローラ|カローラ]]||[[トヨタ自動車]]||[[竜雷太]]||- |- |おかあさーん |ハナマルキみそ |[[ハナマルキ]] | - | - |- |象が踏んでも壊れない||アーム筆入れ||[[サンスター文具]]||[[ゾウ|象]]||- |- |「♪パンシロンでパン・パン・パン」「帰ろか」||パンシロン||[[ロート製薬]]||[[渥美清]]・[[沢田聖子]]||- |} == 誕生 == {{see also|Category:1967年生}}<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[中島徳至]]、[[実業家]] * 1月1日 - [[北川みゆき]]、[[漫画家]] * 1月1日 - [[スペンサー・チュニック]]、[[写真家]] * 1月1日 - [[ゴーシャ・サー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月2日]] - [[桜井美春]]、[[グラビアアイドル]] * 1月2日 - [[ロバート・ウィッシュネフスキー]]、元[[プロ野球選手]] * [[1月3日]] - [[若村麻由美]]、[[俳優|女優]] * 1月3日 - [[一色正春]]、元[[海上保安官]]、[[尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件]]の当事者 * 1月3日 - [[野島卓]]、フジテレビアナウンサー * [[1月4日]] - [[インゴ]]、[[外国人タレント]] * [[1月5日]] - [[永井公彦]]、アナウンサー * 1月5日 - [[ゆうきりん]]、[[小説家]] * 1月5日 - [[フレドリック・ノルドストローム]]、[[ミュージシャン]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコーディング・エンジニア]] * [[1月8日]] - [[田口竜二]]、元プロ野球選手 * [[1月8日]] - [[西成活裕]]、数理物理学者 * [[1月9日]] - [[冴島鋭士]]、ゲームデザイナー * [[1月10日]] - [[棟方公寿]]、[[バスケットボール選手]]・指導者 * [[1月12日]] - [[井上雄彦]]、[[漫画家]] *1月12日 - [[エドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲン]]、[[作家]]・[[外交官]] * [[1月13日]] - [[西村智奈美]]、政治家 * [[1月14日]] - [[佐藤里佳]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] *1月14日 - [[牛山隆信]]、[[日本]]の[[鉄道]]ファン * 1月14日 - [[ザック・ワイルド]]、[[ギタリストの一覧|ギタリスト]] * 1月14日 - [[小林和公]]、元プロ野球選手、現[[プロ野球審判員]] * 1月14日 - [[小沢浩一]]、プロ野球選手 * [[1月15日]] - [[大江弘明]]、プロ野球選手 * [[1月16日]] - [[ダンディ坂野]]、[[お笑いタレント]] * [[1月17日]] - [[杉本正志]]、元プロ野球選手 * [[1月18日]] - [[ヴィン・ディーゼル]]、[[俳優]] * 1月18日 - [[長島一由]]、政治家 * 1月18日 - [[山花郁夫]]、政治家 * [[1月19日]] - [[ねこぢる]]、漫画家(+ [[1998年]]) * [[1月20日]] - [[長坂哲夫]]、フジテレビアナウンサー * [[1月21日]] - [[宮崎吾朗]]、[[アニメーション]][[映画監督]] * 1月21日 - [[吉田博彦]]、[[ゲームクリエイター]]、実業家 * [[1月22日]] - [[中西学]]、プロレスラー * [[1月23日]] - [[佐野心]]、元プロ野球選手 *[[1月24日]] - [[武田涼介]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * [[1月24日]] - [[斉藤直哉]]、プロ野球選手 * 1月24日 - [[川村結花]]、女性シンガーソングライター、[[作詞家]]、[[作曲家]] * 1月24日 - [[樋口豊 (ミュージシャン)]]、[[BUCK-TICK]] * [[1月25日]] - [[佐々木望]]<ref>{{Cite book |和書 |title = 声優名鑑 |publisher = 成美堂出版 |year = 1999 |page = 463 |isbn = 978-4-415-00878-3}}</ref>、声優 * 1月25日 - [[藤崎賢一]]、[[ヴォーカリスト]]・ミュージシャン * [[1月26日]] - [[福永恵規]]、元[[タレント]](元[[おニャン子クラブ]]) * 1月26日 - [[高橋智]]、元プロ野球選手 * 1月26日 - [[森川智之]]、声優 * 1月26日 - [[近藤隆夫]]、スポーツライター * [[1月28日]] - [[渡辺敏史]]、自動車評論家 * 1月28日 - [[イシイジロウ]]、[[ゲームクリエイター]]・[[脚本家]] * [[1月29日]] - [[小野正利]]、[[ミュージシャン]] * [[1月29日]] - [[山根公路]]、[[DEEN]]キーボード担当、リーダー * [[1月30日]] - [[古川圭子]]、毎日放送アナウンサー * [[1月31日]] - [[岩井厚裕]]、元[[サッカー選手]] === 2月 === * [[2月1日]] - [[大久保博元]]、元[[プロ野球選手]]、[[野球解説者]]、タレント * 2月1日 - [[北神圭朗]]、政治家・大蔵・財務官僚 * 2月1日 - [[土田尚史]]、元[[サッカー選手]] * [[2月3日]] - [[岡本麻弥]]、声優 * [[2月4日]] - [[草野満代]]、[[フリーアナウンサー]] * 2月4日 - [[セルゲイ・グリンコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1995年]]) * [[2月5日]] - [[森脇健児]]、タレント * 2月5日 - [[鶴保庸介]]、政治家 * [[2月6日]] - [[坂井泉水]]、[[歌手]]([[ZARD]])、[[作詞家]](+ [[2007年]]) * [[2月7日]] - [[大沢伸一]]、[[ミュージシャン]] 音楽家・音楽プロデューサー・ベーシスト * [[2月9日]] - [[寺沢有]]、[[ジャーナリスト]] * [[2月11日]] - [[石渡康浩]]、元[[俳優]] * [[2月12日]] - [[梶原真弓]]、タレント([[シェイプUPガールズ]]) * 2月12日 - [[岩田徹]]、元プロ野球選手 * [[2月13日]] - [[生田智子]]、タレント([[中山雅史]]夫人) * 2月13日 - [[岡田忠之]]、[[オートバイ]]レーサー * [[2月14日]] - [[鈴木卓爾]]、[[脚本家]]・[[俳優]]・[[映画監督]] * 2月15日 - [[堀ちえみ]]、女優・タレント * 2月15日 - [[ひと美]]、声優 * [[2月16日]] - [[内海和子]]、元タレント(元おニャン子クラブ) * [[2月17日]] - [[岸谷香]]、[[ミュージシャン]](元[[プリンセス・プリンセス]]) * [[2月17日]] - [[藤丸光一]]、[[競艇]]選手 * [[2月18日]] - [[徳光雅英]]、[[福島中央テレビ]]アナウンサー * 2月18日 - [[十河章浩]]、[[野球選手]] * 2月18日 - [[ロベルト・バッジョ]]、元サッカー選手 * [[2月19日]] - [[栃天晃正嵩]]、大相撲力士 * [[2月20日]] - [[田中ウルヴェ京]]、シンクロナイズドスイミング選手 * 2月20日 ー [[豊川孝弘]]、[[将棋棋士]] * 2月20日 - [[カート・コバーン]]、ロック・ミュージシャン(+ [[1994年]]) * [[2月21日]] - [[平将明]]、[[政治家]] * [[2月21日]] - [[伊藤つかさ]]、女優 * 2月21日 - [[沖野修也]]、DJ・プロデューサー・ライター * [[2月22日]] - [[飯塚昌明]]、作曲家・ギタリスト * [[2月23日]] - [[浅野哲也]]、元サッカー選手 * [[2月24日]] - [[コージー冨田]]、[[ものまね]]タレント * [[2月25日]] - [[服部潤]]、男性ナレーター、声優、ラジオパーソナリティ * [[2月26日]] - [[初芝清]]、元プロ野球選手 * 2月26日 - [[西川慎一]]、元プロ野球選手 * 2月26日 - [[三浦知良]]、[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]]) * 2月26日 - 上原子友康([[怒髪天]])、ミュージシャン * 2月26日 - [[吉田伸男]]、元フジテレビアナウンサー、フリーアナウンサー * [[2月27日]] - [[スコット・サービス]]、元プロ野球選手 === 3月 === * [[3月1日]] - [[藤井克典]]、NHKアナウンサー * [[3月2日]] - [[レオ・ゴメス]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月3日]] - [[木幡美子]]、フジテレビアナウンサー * 3月3日 - [[島崎毅]]、元プロ野球選手 * [[3月4日]] - [[ふじいあきら]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[3月4日]] - [[高取ヒデアキ]]、歌手・作詞家・作曲家 * [[3月5日]] - [[福田達夫]]、政治家 * 3月5日 - [[佐宗綾子]]、作曲家 * 3月5日 - [[森岡賢]]、作曲家、編曲家([[minus(-)]]、元[[SOFT BALLET]])(+ [[2016年]]) * [[3月6日]] - [[小川博文]]、元プロ野球選手 * [[3月7日]] - [[畑中清詞]]、[[プロボクサー]] * 3月7日 - [[神谷悠]]、漫画家 * 3月7日 - [[笹木彰人]]、映画監督、演出家、脚本家、俳優 * 3月7日 - [[矢沢あい]]、漫画家 * 3月7日 - [[柳沢超]]、元[[忍者 (グループ)|忍者]] * [[3月8日]] - [[原晋]]、元[[陸上競技]]・[[マラソン]]選手、 * 3月8日 - [[角田光代]]、[[小説家]] * [[3月10日]] - [[鈴木大地]]、[[水泳]]選手 * 3月10日 - [[深澤真紀]]、コラムニスト * 3月10日 - [[亀山房代]]、[[お笑いタレント]](+ [[2009年]]) * [[3月11日]] - [[浅香守生]]、[[アニメーション監督]]、 アニメーション演出家、[[映画監督]] * 3月11日 - [[ドゥエイン・ホージー]]、元プロ野球選手 * [[3月13日]] - [[外山英明]]、元プロ[[バスケットボール]]選手・指導者 * 3月13日 - [[アンドレス・エスコバル]]、元サッカー選手(+ [[1994年]]) * 3月13日 - [[田渕正浩]]、[[AV男優]] * [[3月14日]] - [[望月祐多]]、俳優 * [[3月15日]] - [[斉藤律]]、[[ミュージシャン]]([[LOOPUS]]、元[[ザ・スターリン|スターリン]]) * 3月15日 - [[武内直子]]、漫画家 * 3月15日 - [[水本香里]]、[[エフエム北海道|AIR-G']]アナウンサー・ラジオパーソナリティ * 3月15日 - [[ロバート・ローズ]]、元プロ野球選手 * [[3月16日]] - [[安芸乃島勝巳]]、元大相撲力士・[[関脇]] * [[3月16日]] - [[小比類巻かほる]]、ミュージシャン * [[3月17日]] - [[中村武志]]、元プロ野球選手 * 3月17日 - [[ビリー・コーガン]]、ミュージシャン([[スマッシング・パンプキンズ]]) * [[3月18日]] - [[米森麻美]]、フリーアナウンサー(+ [[2001年]]) * [[3月20日]] - [[馬場俊英]]、[[シンガーソングライター]] * [[3月21日]] - [[川島だりあ]]、ミュージシャン * [[3月22日]] - [[古井千佳夫]]、元[[鹿児島テレビ]]アナウンサー * [[3月23日]] - [[七瀬なつみ]]、女優 * 3月23日 - [[ジェリー・ブルックス]]、元プロ野球選手 * 3月23日 - [[端本悟]]、[[オウム真理教]]の元幹部 元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[3月24日]] - [[辻口博啓]]、[[パティシエ]] * [[3月25日]] - [[知念孝]]、体操選手 * 3月25日 - [[マシュー・バーニー]]、[[現代美術家]] * 3月25日 - [[デヴィ・トーマス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 3月25日 - [[沢木和也]]、AV男優(+ [[2021年]]) * [[3月27日]] - [[金井利之]]、[[行政学者]] * 3月27日 - [[小橋建太]]、[[プロレスラー]] * [[3月29日]] - [[宇津本直紀]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[ミュージシャン]]([[ドラマー]])、[[音楽プロデューサー]] * 3月29日 - [[横山雄二]]、[[中国放送]]アナウンサー * [[3月30日]] - [[坂本冬美]]、[[演歌歌手]] * 3月30日 - [[林原めぐみ]]<ref>{{Cite book|和書|author=日本音声製作者連盟|title=日本音声製作者名鑑2007|publisher=[[小学館]]|year=2007|page=224}}</ref>、声優 * 3月30日 - [[クリストファー・ボウマン]]、フィギュアスケート選手(+ [[2008年]]) * [[3月31日]] - [[太田垣康男]]、[[漫画家]] === 4月 === * [[4月1日]] - [[相原勇]]、{{JPN}}のタレント * 4月1日 - [[鷲尾いさ子]]、{{JPN}}の女優 * [[4月2日]] - [[レネ・エステヴェス]]、{{USA}}の[[俳優|女優]] * [[4月5日]] - [[モンゴメリー・ジェントリー|トロイ・ジェントリー]]、{{USA}}の[[カントリー・ミュージック]]・デュオの一人 * [[4月7日]] - [[宇徳敬子]]、{{JPN}}の歌手 * [[4月8日]] - [[田中一成]]、声優(+ [[2016年]]) * [[4月8日]] - [[ピエール瀧]]、{{JPN}}のミュージシャン、タレント([[電気グルーヴ]]) * 4月8日 - [[リッチ・バチェラー]]、{{USA}}の元[[プロ野球選手]] * 4月8日 - [[山本誠]]、{{JPN}}のプロ野球選手 * [[4月10日]] - [[松永幹夫]]、{{JPN}}の[[調教師]]([[日本中央競馬会|JRA]]) * 4月10日 - [[ピエール剣]]、{{JPN}}の[[AV男優]] * [[4月11日]] - [[中森智佳子]]、{{JPN}}の元競泳選手 * 4月11日 - [[桧山泰浩]]、{{JPN}}の元プロ野球選手 * 4月11日 - [[イゴール・ヤロシェンコ]]、{{UKR}}の[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月12日]] - [[戸田ダリオ]]、{{JPN}}のタレント * 4月12日 - [[菊池新吉]]、{{JPN}}の元サッカー選手 * [[4月14日]] - [[一條裕子]]、{{JPN}}の漫画家 * 4月14日 - [[原口哲也]]、{{JPN}}の元プロ野球選手 * 4月14日 - [[張光鎬]]、[[KBOリーグ]]に所属していた{{KOR}}出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]]) * [[4月15日]] - [[フランキー・ポーレイン]]、[[スコットランド]]のミュージシャン([[ザ・ダークネス]]) * 4月15日 - [[クリストフ・ピユー]]、{{FRA}}の[[騎手]] * 4月15日 - [[鹿野睦]]、{{JPN}}のNHKアナウンサー * 4月15日 - [[ダラ・トーレス]]、{{USA}}[[カリフォルニア州]]の出身の女子競泳選手 * [[4月16日]] - [[高信二]]、{{JPN}}の元プロ野球選手 * [[4月17日]] - [[ゴルゴ松本]]、{{JPN}}のお笑いタレント([[TIM (お笑いコンビ)|TIM]]) * 4月17日 - [[ヘンリー・イアン・キュージック]]、{{GBR}}の俳優 * [[4月18日]] - [[松山秀明]]、{{JPN}}の元プロ野球選手 * 4月18日 - [[マリア・ベロ]]、{{USA}}の[[俳優|女優]] * [[4月20日]] - [[倉沢淳美]]、{{JPN}}のタレント(元[[わらべ]]) * [[4月20日]] - [[ヤマザキマリ]]、{{JPN}}の漫画家 * 4月20日 - [[マイク・ポートノイ]]、{{USA}}出身の[[ドラマー]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[作曲家]] * 4月20日 - [[ライモント・ファン・バルネフェルト]]、{{NLD}}のプロフェッショナル・[[ダーツ]]・プレイヤー * [[4月22日]] - [[シェリル・リー]]、{{USA}}の女優 * 4月22日 - [[杉田水脈]]、{{JPN}}の政治家 * 4月22日 - [[セシル・ノバック]]、{{FRA}}の[[柔道]]家 * 4月22日 - [[篠宮とも子]]、{{JPN}}の[[AV女優]] * [[4月23日]] - [[本原正治]]、{{JPN}}の元プロ野球選手 * 4月23日 - [[キム・ヒエ]]、{{KOR}}・[[済州特別自治道]]出身の[[俳優#性別での分類|女優]] * 4月23日 - [[メリーナ・カナカレデス]]、{{USA}}[[オハイオ州]]出身の[[俳優]] * [[4月24日]] - [[オマー・ビスケル]]、[[メジャーリーガー]] * 4月24日 - [[石田雅彦]]、{{JPN}}のプロ野球選手 * [[4月25日]] - [[榛葉賀津也]]、{{JPN}}の政治家 * 4月25日 - [[田原伸吾]]、{{JPN}}の[[野球選手]] * 4月25日 - [[児島未散]]、{{JPN}}の歌手・女優 * [[4月26日]] - [[ブライアン・ウォーレン]]、元プロ野球選手 * 4月26日 - [[大村正樹]]、{{JPN}}のフリーアナウンサー * 4月26日 - [[ケイン (プロレスラー)]]、{{USA}}の[[プロレスラー]]、[[政治家]] * 4月26日 - [[マリアンヌ・ジャン=バプティスト]]、{{GBR}}・[[ロンドン]]出身の[[俳優|女優]]・[[作曲家]] * [[4月27日]] - [[ウィレム=アレクサンダー (オラニエ公)|ヴィレム=アレクサンダー]]、{{NLD}}[[国王]] * 4月27日 - [[ソン・ドンイル]]、{{KOR}}の[[俳優]] * 4月27日 - [[シムハ・バルビロ]]、{{ISR}}の[[俳優]]、男性[[声優]] * [[4月28日]] - [[カリ・ウーラー]]、{{USA}}の[[俳優|女優]] * [[4月29日]] - [[兼重淳]]、{{JPN}}の映画監督 * [[4月30日]] - [[フィリップ・キルコロフ]]、{{RUS}}の[[歌手]]、[[俳優]]、[[プロデューサー]]、[[司会者]] * 4月30日 - [[スティーヴン・マッキントッシュ]]、{{GBR}}の[[俳優]] === 5月 === * [[5月1日]] - [[寺井尚子]]、[[ヴァイオリニスト]] * 5月1日 - [[黒須陽一郎]]、[[野球選手]] * [[5月2日]] - 大川緋芭(旧名: 大川七瀬)、漫画家([[CLAMP]]) * 5月2日 - [[ヘルマン・メサ]]、元野球選手 * 5月2日 - [[右門青寿]]、俳優 * 5月2日 - [[小牧雄一]]、元[[プロ野球選手]] * 5月2日 - [[鈴木望 (野球)|鈴木望]]、元プロ野球選手 *5月2日 - [[影山正美]]、レーシングドライバー * 5月4日 - [[笠原竜司]]、俳優・男性声優 * 5月4日 - [[杉田あきひろ]]、歌手(9代目[[うたのおにいさん]]) * 5月4日 - [[矢島晶子]]<ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=840|title=矢島晶子のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-20}}</ref>、[[声優|女性声優]] * 5月4日 - [[山野和明]]、元プロ野球選手 * [[5月5日]] - [[子安武人]]<ref name="animatetimes">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=446#02|title=子安武人のアニメキャラ・最新情報まとめ|work=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-15}}</ref>、声優 * 5月5日 - [[葛西稔]]、元プロ野球選手 * [[5月6日]] - [[東瀬耕太郎]]、元プロ野球選手 * 5月6日 - [[佐藤健太]]、俳優 * 5月6日 - [[水沢正浩]]、プロ野球選手 * [[5月7日]] - [[大翔鳳昌巳]]、元大相撲力士・[[小結]](+ [[1999年]]) * [[5月8日]] - [[カジヒデキ]]、[[音楽家]] * [[5月8日]] - [[西村由紀江]]、[[ピアニスト]] * [[5月10日]] - [[今久留主成幸]]、元プロ野球選手 * 5月10日 - [[武田修宏]]、元サッカー選手 * [[5月12日]] - [[田中崇裕]]、NHKアナウンサー * [[5月12日]] - [[坂元裕二]]、[[脚本家]] * [[5月13日]] - [[嶋田哲也]]、元プロ野球選手 * 5月13日 - [[チャック・シュルディナー]]、ミュージシャン (+ [[2001年]]) * [[5月15日]] - [[ジョン・スモルツ]]、[[メジャーリーガー]] * [[5月16日]] - [[前原博之]]、元プロ野球選手 * 5月16日 - [[田北雄気]]、元サッカー選手 * [[5月17日]] - [[三輪テツヤ]]、[[ギタリスト]]([[スピッツ (バンド)|スピッツ]]) * [[5月18日]] - [[ハインツ=ハラルト・フレンツェン]]、[[レーシングドライバー]] * 5月18日 - [[エリック・ヤング・シニア|エリック・ヤング]]、MLB指導者、元メジャーリーガー * [[5月20日]] - [[野上浩太郎]]、政治家 * [[5月21日]] - [[クリス・ベノワ]]、[[プロレスラー]](+ [[2007年]]) * [[5月24日]] - [[柴田亜美]]、漫画家 * [[5月25日]] - [[亀井芳子]]、声優 * [[5月26日]] - [[安田秀之]]、元プロ野球選手 * 5月26日 - [[福澤洋一]]、元プロ野球選手 * 5月26日 - [[山本美香]]、ジャーナリスト (+ [[2012年]]) * 5月26日 - [[高橋靖子]]、女優 * [[5月27日]] - [[ポール・ガスコイン]]、元サッカー選手・サッカー指導者 * 5月27日 - [[石川よしひろ]]、ミュージシャン * 5月27日 - [[谷口雅彦]]、写真家、メディアプロデュ―サー * [[5月29日]] - [[安藤学]]、プロ野球選手 * [[5月30日]] - [[矢口史靖]]、[[映画監督]] * [[5月31日]] - [[田村明浩]]、[[ベーシスト]](スピッツ) * 5月31日 - [[一柳信行]]、[[中国放送]]アナウンサー === 6月 === * [[6月1日]] - [[坂上忍]]、俳優 * [[6月2日]] - [[豊田次郎]]、元[[プロ野球選手]] * 6月2日 - [[ドナルド・レモン]]、元プロ野球選手 * [[6月3日]] - [[入来智]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * 6月3日 - [[田中実 (外野手)|田中実]]、元プロ野球選手 * 6月3日 - [[ハニホー・ヘニハー]]、元[[外国人タレント]] * [[6月4日]] - [[大久保勝也]]、元プロ野球選手 * 6月4日 - [[マリー・ンディアイ]]、[[小説家]]、[[劇作家]] * 6月4日 - [[スコット・サーバイス]]、[[メジャーリーガー]] * [[6月6日]] - [[吉田小南美]]、声優 * [[6月7日]] - [[阪倉裕二]]、元[[サッカー選手]] * [[6月8日]] - [[三村マサカズ]]、お笑いタレント([[さまぁ〜ず]]) * [[6月10日]] - [[山田花子 (漫画家)|山田花子]]、漫画家(+ [[1992年]]) * 6月10日 - [[鈴木健 (アナウンサー)|鈴木健]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * [[6月12日]] - [[有倉雅史]]、元プロ野球選手 * 6月12日 - [[池上誠一]]、元プロ野球選手 * [[6月14日]] - [[吉田直喜]]、元プロ野球選手 * [[6月15日]] - [[うえだゆうじ]]、声優 * 6月15日 - [[大林素子]]、タレント・元[[バレーボール]]選手 * [[6月16日]] - [[ユルゲン・クロップ]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[6月17日]] - [[大島公一]]、元プロ野球選手 * [[6月18日]] - [[楠野一郎]]、[[放送作家]]、[[脚本家]] * [[6月19日]] - [[宮内仁一]]、元プロ野球選手 * [[6月20日]] - [[ニコール・キッドマン]]、女優 * [[6月22日]] - [[玉袋筋太郎]]、お笑いタレント([[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]]) * 6月22日 - [[川畑泰史]]、タレント、[[吉本新喜劇]]座長 * [[6月23日]] - [[龍興山一人]]、元大相撲力士、[[小結]](+[[1990年]]) * 6月23日 - [[永田ルリ子]]、元タレント(元おニャン子クラブ) * 6月23日 - [[南野陽子]]、女優、歌手 * 6月23日 - [[渡辺智男]]、元プロ野球選手 * 6月23日 - [[ヘンスリー・ミューレンス]]、元プロ野球選手 * [[6月26日]] - [[麻生かほ里]]、女優 * 6月26日 - [[河村亮]]、日本テレビアナウンサー(+ [[2022年]]) * [[6月27日]] - [[剣晃敏志]]、元大相撲力士、[[小結]](+[[1998年]]) * 6月27日 - [[渡辺真理]]、フリーアナウンサー * 6月27日 - [[長野洋 (バスケットボール)|長野洋]]、元[[バスケットボール選手]] * [[6月28日]] - [[きたがわ翔]]、漫画家 * [[6月30日]] - [[森井和美]]、[[野球選手]] === 7月 === * [[7月4日]] - [[ひかわ博一]]、漫画家 * [[7月5日]] - [[八神ひろき]]、漫画家 * 7月5日 - [[弓長起浩]]、元[[プロ野球選手]] * 7月5日 - [[ティム・ウォーレル]]、[[メジャーリーガー]] * [[7月6日]] - [[とよた真帆]]、女優 * 7月6日 - [[北村俊介]]、元プロ野球選手 * [[7月7日]] - [[西山秀二]]、元プロ野球選手 *7月7日 - [[トム・クリステンセン]]、デンマークのレーシングドライバー * [[7月8日]] - [[クラウス・チュッチャー]]、[[リヒテンシュタイン]]現首相 * 7月8日 - [[大西健晴]]、声優 * [[7月9日]] - [[岡本圭治]]、元プロ野球選手 * [[7月10日]] - [[沢村一樹]]、俳優、元[[ファッションモデル]] * 7月10日 - [[リー・スティーブンス]]、元プロ野球選手 * [[7月11日]] - [[秋野公造]]、政治家 * [[7月12日]] - [[江尻篤彦]]、元[[サッカー選手]] * 7月12日 - [[西村賢太]]、[[小説家]](+ [[2022年]]) * 7月13日 - [[北斗晶]]、女性格闘家・タレント * [[7月14日]] - [[YO-KING]]、ミュージシャン * 7月14日 - [[渡辺政仁]]、元プロ野球選手 * [[7月16日]] - [[安尾信乃助]]、お笑い芸人 * [[7月17日]] - [[李昊星]]、[[KBOリーグ|韓国プロ野球]]選手 (+ [[2008年]]) * 7月17日 - [[北野誠 (サッカー選手)|北野誠]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * 7月17日 - [[清宮克幸]]、元[[ラグビーユニオン]]選手 * 7月17日 - [[大家敏志]]、政治家 * [[7月18日]] - ANI、[[スチャダラパー]] * [[7月21日]] - [[遠山奬志]]、元プロ野球選手 * [[7月23日]] - [[アンドレアス・ヘルフェンバイン]]、騎手 * 7月23日 - [[内山憲一]]、元プロ野球選手 * [[7月24日]] - [[福原直英]]、[[フジテレビ]]アナウンサー * 7月24日 - [[ニック・ナース]]、[[バスケットボール]][[ヘッドコーチ]]、[[NBAファイナル]]優勝 * 7月25日 - [[佐藤康弘]]、[[野球選手]] * 7月25日 - [[藤井進]]、野球選手(+ [[2017年]]) * [[7月26日]] - [[ジェイソン・ステイサム]]、俳優 * [[7月27日]] - [[桐本拓哉]]、声優 * [[7月27日]] - [[中田功]]、将棋棋士 * [[7月28日]] - [[藤生ゆかり]]、シンガーソングライター * 7月29日 - [[羽田雄一郎]]、政治家(+ [[2020年]]) * [[7月30日]] - [[服部裕昭]]、元プロ野球選手 * [[7月30日]] - [[佐藤禎弘]]、[[ギタリスト]] [[作曲家]] * [[7月31日]] - [[岩田光央]]、声優 * 7月31日 - [[本田美奈子.]]、歌手(+ [[2005年]]) * 7月31日 - [[中山秀征]]、タレント === 8月 === * [[8月2日]] - [[大川隆]]、元[[プロ野球選手]] * 8月2日 - [[大田紳一郎]]、ミュージシャン([[doa (バンド)|doa]]) * [[8月3日]] - 宮川孝子、ミュージシャン(元[[PINK SAPPHIRE]]) * [[8月4日]] - [[吉田ヒロ]]、お笑いタレント * 8月4日 - [[大森剛]]、元プロ野球選手 * [[8月5日]] - [[山内一典]]、ゲームクリエイター * 8月5日 - [[小林昭則]]、プロ野球選手 * [[8月6日]] - [[南部正司]]、元[[バレーボール]]選手、[[バレーボール日本男子代表|全日本男子]]監督 * 8月6日 - [[君塚直隆]]、歴史学者 * [[8月7日]] - [[シャーロット・ルイス]]、女優 * 8月7日 - [[エフゲニー・プラトフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 8月7日 - [[古賀道人]]、プロ野球選手 * [[8月8日]] - [[天海祐希]]、女優(元[[宝塚歌劇団]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]主演スター) * 8月8日 - [[東野幸治]]、お笑いタレント * 8月8日 - [[マット・ホワイトサイド]]、元プロ野球選手 * 8月8日 - [[シェーン・ガラース]]、ミュージシャン * [[8月9日]] - [[江坂政明]]、元プロ野球選手 * 8月9日 - [[清田文章]]、プロ野球選手 * [[8月11日]] - [[松村邦洋]]、お笑いタレント * 8月11日 - [[橋本愛子]]、[[プロゴルファー]] * 8月11日 - [[マッシミリアーノ・アッレグリ]]、元[[サッカー選手]]・[[サッカー]]指導者 * [[8月12日]] - [[樫本学ヴ]]、漫画家 * 8月12日 - [[嶋方淳子]]、声優 * [[8月13日]] - [[太田貴子]]、歌手 * [[8月15日]] - [[立花孝志]]、政治家 * [[8月16日]] - [[金山一彦]]、俳優 * [[8月17日]] - [[舟山恭史]]、元プロ野球選手 * [[8月18日]] - [[清原和博]]、元プロ野球選手 * 8月18日 - [[本田明浩]]、元プロ野球選手 * [[8月19日]] - [[奥寺健]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * 8月19日 - [[前川麻子]]、作家 * [[8月20日]] - [[藤神敬也]] 歌手 * [[8月21日]] - [[南場千絵子]]、声優 * [[8月22日]] - [[岡田有希子]]、[[アイドル]](+ [[1986年]]) * 8月22日 - [[柳沢栄治]]、声優 * [[8月25日]] - [[高部知子]]、女優 * 8月25日 - [[檜山修之]]<ref>{{Cite book|和書|author=|title=声優名鑑|page=598|publisher=成美堂出版|isbn=978-4-415-00878-3|date=1999-7}}</ref>、声優 * 8月25日 - [[ミレヤ・ルイス]]、バレーボール選手 * [[8月26日]] - [[佐々岡真司]]、元プロ野球選手 * 8月26日 - [[レベッカ・アン・ラモス]]、[[プレイメイト]] * 8月26日 - [[大塚光二]]、元プロ野球選手 * 8月26日 - [[ザホス・サモラダス]]、映画監督 * [[8月28日]] - [[松下浩二]]、卓球選手 * [[8月28日]] - [[遠藤正明]]、歌手 * [[8月28日]] - [[仲道祐子]]、[[ピアニスト]] * [[8月29日]] - [[イルジ・ルージェク]]、[[チェコ]]の[[写真家]] * [[8月30日]] - [[海老根智仁]]、実業家 * [[8月31日]] - [[平松晶子]]、声優 === 9月 === * [[9月1日]] - [[中村繁之]]、[[タレント]]・[[俳優]] * [[9月1日]] - [[柳田哲志]]、テレビ宮崎アナウンサー * [[9月5日]] - [[久米田康治]]、漫画家 * 9月5日 - [[村枝賢一]]、漫画家 * 9月5日 - [[マティアス・ザマー]]、元サッカー選手 * 9月7日 - [[小牧太]]、騎手 * [[9月8日]] - [[高橋しん]]、漫画家 * 9月8日 - [[横田久則]]、元[[プロ野球選手]] * 9月8日 - [[山田真実]]、プロ野球選手 * [[9月9日]] - [[小森哲也]]、元プロ野球選手 * 9月9日 - [[樋口一紀]]、元プロ野球選手 * [[9月10日]] - [[堀孝史]]、元サッカー選手 * 9月10日 - [[西谷亮]]、ゲームクリエイター(『[[ストリートファイターII]]』の生みの親) * [[9月11日]] - [[相川英明]]、元プロ野球選手 * [[9月12日]] - [[田中美奈子]]、女優 * 9月12日 - [[高林孝行]]、元[[野球選手]] *[[9月13日]] - [[今泉清]]、元[[ラグビーユニオン選手]] * 9月13日 - [[白鳥文平]]、[[SASUKEオールスターズ]] * [[9月14日]] - [[本東洋]]、プロ野球選手 * [[9月15日]] - [[武田真一]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]] * 9月15日 - [[橋本志穂]]、タレント([[ガダルカナル・タカ]]夫人、元[[福岡放送]]アナウンサー) * 9月15日 - [[大輝煌正人]]、元大相撲力士(+ [[2009年]]) * 9月15日 - [[栄村隆康]]、[[プロ野球審判員]] * [[9月16日]] - [[奥浩哉]]、漫画家 * [[9月18日]] - [[井原正巳]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]]キャプテン)、サッカー指導者 * [[9月19日]] - [[ジム・アボット]]、元[[メジャーリーガー]] * 9月19日 - [[アレクサンドル・カレリン]]、元[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手 * 9月19日 - [[細田守]]、[[アニメーション監督]] * [[9月20日]] - [[高橋真美]]、元[[わらべ]] * 9月20日 - [[福島明弘]]、プロ野球選手 * [[9月21日]] - [[デニー友利]]、元プロ野球選手 * 9月21日 - [[スージー・デント]]、辞書学者 * 9月21日 - [[スマン・ポクレル]]、ネパールの詩人と翻訳者 * [[9月22日]] - [[平井信行]]、気象情報土 * [[9月22日]] - [[緒形直人]]、俳優 * 9月22日 - [[スペル・デルフィン]]、[[プロレスラー]] * 9月22日 - [[後藤健二 (ジャーナリスト)|後藤健二]]、[[ジャーナリスト]]、(+ [[2015年]]) *9月22日 - [[リカルド・リデル]]、スウェーデンのレーシングドライバー * [[9月23日]] - [[叶姉妹|叶美香]]、タレント * 9月23日 - [[中山雅史]]、サッカー選手 * [[9月26日]] - [[ブライアン・トラックスラー]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]]) * 9月26日 - [[横田睦美]]、元アイドル(元おニャン子クラブ) * [[9月27日]] - [[ジェイソン・ダンジェン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 9月27日 - [[中島克仁]]、政治家 * [[9月28日]] - [[貴闘力忠茂]]、元大相撲力士・[[関脇]]、元・大嶽親方 * [[9月30日]] - [[斉藤こず恵]]、タレント * 9月30日 - [[ヨーキス・ペレス]]、元プロ野球選手 === 10月 === * [[10月1日]] - [[中島美春]]、元アイドル(元おニャン子クラブ) * 10月1日 - [[田中善則]]、元野球選手 * [[10月3日]] - [[片平哲也]]、元[[プロ野球選手]] * 10月3日 - [[ティファニー・チン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月4日]] - [[小山剛志]]、俳優・声優 * [[10月5日]] - [[森下由実子]]、歌手(元ソフトクリーム) * 10月5日 - [[ガイ・ピアース]]、俳優 * [[10月7日]] - [[磯山晶]]、[[日本]]の[[テレビプロデューサー]]、[[映画プロデューサー]]、元[[漫画家]] * 10月7日 - [[阿部渉]]、NHKアナウンサー * 10月7日 - [[愛河里花子]]、声優 * 10月7日 - [[青田典子]]、タレント(元[[C.C.ガールズ]]) * [[10月8日]] - [[田口浩正]]、[[俳優]] * [[10月9日]] - [[エディ・ゲレロ]]、[[プロレスラー]](+ [[2005年]]) * 10月9日 - [[ジム・テータム]]、元プロ野球選手 * [[10月10日]] - [[北野勝則]]、元プロ野球選手 * 10月10日 - [[岡幸二郎]]、ミュージカル俳優 * [[10月11日]] - [[秋川雅史]]、[[テノール]]歌手 * 10月11日 - [[ピーター・ティール]]、起業家・投資家 * 10月11日 - [[佐久間浩一]]、プロ野球選手 * 10月11日 - [[ギラッド・コーヘン]]、外交官 * [[10月12日]] - [[香田晋]]、元演歌歌手 * 10月12日 - [[マイク・ディミュロ]]、メジャーリーグ審判員 * [[10月13日]] - [[スコット・クーパー]]、元プロ野球選手 *[[10月14日]] - [[ジェイソン・プラト]]、レーシングドライバー * [[10月16日]] - [[松野太紀]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/松野太紀/|title=松野太紀(まつのたいき)の解説 - goo人名事典|accessdate=2020-11-15}}</ref>、声優 * [[10月17日]] - [[マーク・ジョンソン (内野手)|マーク・ジョンソン]]、元プロ野球選手 * [[10月18日]] - [[湯江健幸]]、俳優・歌手 * [[10月19日]] - [[松田洋治]]、俳優・声優 * [[10月20日]] - [[ハービー・プリアム]]、元プロ野球選手 * [[10月21日]] - [[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]、元サッカー選手 * 10月21日 - [[河本育之]]、元プロ野球選手 * [[10月23日]] - [[オマール・リナレス]]、元キューバ野球選手 * [[10月25日]] - [[﨑山龍男]]、[[ドラマー]]([[スピッツ (バンド)|スピッツ]]) * 10月25日 - [[松本大洋]]、漫画家 * [[10月27日]] - [[松尾剛]]、NHKアナウンサー * [[10月28日]] - [[ジュリア・ロバーツ]]、女優 * [[10月30日]] - [[小島弘務]]、元プロ野球選手 * 10月30日 - [[桑田靖子]]、歌手・タレント === 11月 === * [[11月2日]] - [[古賀友一郎]]、政治家 * 11月2日 - [[石田彰]]<ref name="seiyuhistory110">{{Cite book|和書|year=1997|title=声優ヒストリー 12人の声優が歩んだ軌跡|page=110|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4-19-720015-3}}</ref>、声優 * 11月2日 - [[中垣内祐一]]、元バレーボール選手 * [[11月4日]] - [[浅倉大介]]、ミュージシャン・[[作曲家]] * 11月4日 - [[中山裕章]]、元[[プロ野球選手]] * 11月4日 - [[ライアン・トンプソン]]、元プロ野球選手 * [[11月5日]] - [[ブライアン・ラービー]]、元プロ野球選手 * [[11月6日]] - [[レベッカ・シェイファー]]、女優(+ [[1989年]]) * 11月6日 - [[瀧本富士子]]、声優 * 11月6日 - [[松岡修造]]、元プロ[[テニス]]選手・スポーツコメンテーター * [[11月7日]] - [[伊集院光]]、タレント * [[11月8日]] - [[百々麻子]]、声優 * [[11月8日]] - [[エリック・アンソニー]]、元プロ野球選手 * [[11月9日]] - [[内藤就行]]、元サッカー選手 * 11月9日 - [[堀宣行]]、[[調教師]] * 11月9日 - [[森山佳郎]]、元サッカー選手 * [[11月10日]] - [[伊藤一朗]]、[[ギタリスト]]([[Every Little Thing]]) * [[11月11日]] - [[宮坂学]]、[[日本]]の[[実業家]] * [[11月12日]] - [[高木琢也]]、元サッカー選手 * [[11月17日]] ‐ [[安田和博]]、お笑い芸人([[デンジャラス (お笑いコンビ)|デンジャラス]]) * [[11月18日]] - [[トム・ゴードン]]、[[メジャーリーガー]] * 11月18日 - [[小城ノ花昭和]]、元大相撲力士、現・高崎親方 * 11月18日 - [[原田和彦]]、プロ野球選手 * [[11月20日]] - [[金谷俊一郎]]、[[東進ハイスクール]]・東進衛星予備校社会科講師 * [[11月21日]] - [[古賀稔彦]]、元[[柔道]]選手(+ [[2021年]]) * [[11月22日]] - [[石垣純哉]]、[[メカニックデザイナー]] * 11月22日 - [[ボリス・ベッカー]]、プロテニス選手 * [[11月23日]] - [[ウィル・フリント]]、元プロ野球選手 * [[11月25日]] - [[アンソニー・ネスティ]]、[[水泳]]選手 * 11月25日 - [[中井和哉]]、声優 * 11月25日 - [[冨岡淳広]]、脚本家 * 11月25日 - [[前田隆 (野球)|前田隆]]、プロ野球選手 * [[11月28日]] - [[高橋理恵子]]、声優 * [[11月28日]] - [[原田知世]]、女優・歌手 * 11月28日 - [[蓮舫]]、政治家・タレント・[[ニュースキャスター]] * [[11月30日]] - 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[[伊藤熹朔]]、[[舞台美術家]](* [[1899年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[横山運平]]、[[俳優]](* [[1881年]]) * [[4月5日]] - [[ミッシャ・エルマン]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1891年]]) * 4月5日 - [[ハーマン・J・マラー]]、[[遺伝学者]](* [[1890年]]) * [[4月12日]] - [[窪田空穂]]、[[歌人]]・[[国文学者]](* [[1877年]]) * [[4月19日]] - [[オルガー・トフトイ]]、アメリカ陸軍の軍人(* [[1902年]]) * 4月19日 - [[コンラート・アデナウアー]]、[[政治家]]、西ドイツの初代[[ドイツの首相|連邦首相]](* [[1876年]]) * [[4月24日]] - [[ウラジーミル・コマロフ]]、ソ連の[[宇宙飛行士]](* [[1927年]]) * [[4月29日]] - [[アンソニー・マン]]、映画監督(* [[1906年]]) === 5月 === * [[5月5日]] - [[オーウェン・ジョーンズ]]、[[地質学者]](* [[1878年]]) * [[5月6日]] - [[木村荘十]]、[[作家]](* [[1897年]]) * [[5月8日]] - [[エルマー・ライス]]、[[脚本家]](* [[1892年]]) * [[5月11日]] - [[轟夕起子]]、[[俳優|女優]](* [[1917年]]) * [[5月12日]] - [[ジョン・メイスフィールド]]、[[詩人]]・作家(* [[1878年]]) * [[5月15日]] - [[エドワード・ホッパー]]、[[画家]](* [[1882年]]) * [[5月23日]] - [[野口晴康]]、映画監督(* [[1913年]]) * [[5月27日]] - [[ヨハネス・イッテン]]、[[芸術家]](* [[1888年]]) * [[5月31日]] - [[ビリー・ストレイホーン]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]]・[[作曲家]](* [[1915年]]) === 6月 === * [[6月3日]] - [[アーサー・ランサム]]、[[児童文学]]作家・[[ジャーナリスト]](* [[1884年]]) * 6月3日 - [[アンドレ・クリュイタンス]]、[[指揮者]](* [[1905年]]) * 6月3日 - [[リチャード・クドウ]]、[[生物学者]](* [[1886年]]) * [[6月9日]] - [[山下太郎 (アラビア石油)|山下太郎]]、[[実業家]]、アラビア石油創業者(* [[1889年]]) * [[6月10日]] - [[スペンサー・トレイシー]]、[[俳優]](* [[1900年]]) * [[6月18日]] - [[ジャコモ・ルッソ]]、カーレーサー(* [[1937年]]) * [[6月21日]] - [[飛沢栄三]]、高校野球指導者(* [[1903年]]) * [[6月22日]] - [[李立三]]、中華人民共和国の政治家(* [[1899年]]) * [[6月23日]] - [[壺井栄]]、[[小説家]](* [[1900年]]) * [[6月27日]] - [[清瀬一郎]]、[[政治家]]、元[[衆議院]]議長(* [[1884年]]) === 7月 === * [[7月8日]] - [[ヴィヴィアン・リー]]、[[俳優|女優]](* [[1913年]]) * [[7月13日]] - [[吉野秀雄]]、歌人(* [[1902年]]) * [[7月17日]] - [[ジョン・コルトレーン]]、[[ジャズ]][[サックス|サックス奏者]](* [[1926年]]) * [[7月20日]] - [[モリス・スワデシュ]]、[[言語学者]](* [[1909年]]) === 8月 === * [[8月15日]] - [[ルネ・マグリット]]、[[画家]](* [[1898年]]) * [[8月17日]] - [[新村出]]、言語学者(* [[1876年]]) * [[8月19日]] - [[ヒューゴー・ガーンズバック]]、[[小説家]]、[[SF作家]](* [[1884年]]) * 8月19日 - [[アイザック・ドイッチャー]]、[[マルクス主義]][[思想家]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]研究者(* [[1907年]]) * [[8月21日]] - [[内藤伸]]、[[彫刻家]](* [[1882年]]) * [[8月22日]] - [[和田三造]]、[[洋画家]](* [[1883年]]) * [[8月25日]] - [[ブライアン・エプスタイン]]、[[ビートルズ]]のマネージャー(* [[1934年]]) * [[8月31日]] - [[イリヤ・エレンブルグ]]、ソ連の[[作家]](* [[1891年]]) === 9月 === * [[9月6日]] - [[丸井太郎]]、俳優(* [[1935年]]) === 10月 === * [[10月3日]] - [[ピント・コルヴィッグ]]、俳優・声優・アニメーター・漫画家(* [[1892年]]) * [[10月3日]] - [[マルコム・サージェント]]、指揮者(* [[1895年]]) * [[10月5日]] - [[クリフトン・ウィリアムズ (宇宙飛行士)|クリフトン・ウィリアムズ]]、[[宇宙飛行士]](* [[1932年]]) * [[10月8日]] - [[クレメント・アトリー]]、[[イギリス首相]](* [[1883年]]) * [[10月9日]] - [[チェ・ゲバラ]]、革命家、[[ゲリラ]]の指導者、医師(* [[1928年]]) * [[10月14日]] - [[マルセル・エイメ]]、[[小説家]]・[[劇作家]](* [[1902年]]) * [[10月16日]] - [[富田常雄]]、[[小説家]](* [[1904年]]) * [[10月17日]] - [[愛新覚羅溥儀]]、[[清|清朝]]第12代・[[満州国]][[皇帝]](* [[1906年]]) * [[10月20日]] - [[吉田茂]]、第45・第48 - 51代[[内閣総理大臣]](* [[1878年]]) * [[10月27日]] - [[時枝誠記]]、言語学者(* [[1900年]]) * [[10月30日]] - [[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]、フランスの[[映画監督]]・[[脚本家]](* [[1896年]]) === 11月 === * [[11月12日]] - [[由比忠之進]]、弁理士(* [[1894年]]) * [[11月13日]] - [[ハリエット・コーエン]]、ピアニスト(* [[1895年]]) * [[11月14日]] - [[中山正善]]、[[天理教]]、2代[[真柱]](*[[1905年]]) * [[11月25日]] - [[浪ノ音健藏]]、元[[力士]](*[[1882年]]) *11月25日 - [[オシップ・ザッキン]]、彫刻家・画家(* [[1890年]]) * [[11月30日]] - [[ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント]]、[[ヴァルデック侯国]][[皇太子]]。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]将軍(* [[1896年]]) === 12月 === * [[12月4日]] - [[笠信太郎]]、[[ジャーナリスト]](* [[1900年]]) * [[12月10日]] - [[オーティス・レディング]]、[[ソウル・ミュージック#著名なソウル・アーティスト|ソウル・ミュージシャン]](* [[1941年]]) * [[12月13日]] - [[小笠原三九郎]]、政治家(* [[1885年]]) * [[12月21日]] - [[森於菟]]、[[森鷗外]]の長男、[[医学者]](* [[1890年]]) * [[12月22日]] - [[高橋龍太郎]]、[[実業家]]・政治家(* [[1875年]]) * [[12月24日]] - [[バート・バスキン]]([[:en:Burt Baskin|Burt Baskin]])、[[アメリカ合衆国]]の[[実業家]]、[[バスキン・ロビンス]]創業者(* [[1913年]]) === 時期不明 === * 日付不明 - [[ポール・モーリス]]、[[作曲家]](* [[1910年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ハンス・ベーテ]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[マンフレート・アイゲン]] [[ロナルド・ノーリッシュ]] [[ジョージ・ポーター]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ラグナー・グラニト]] [[ハルダン・ケファー・ハートライン]] [[ジョージ・ワルド]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ミゲル・アンヘル・アストゥリアス]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - 該当者なし == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1967|date=2011年7月}} * [[1月25日]] - 「サクロボスコ事件」発生。国際恒久月面基地「プラトー1」の地質探査チームが{{仮リンク|サクロボスコ (クレーター)|label=サクロボスコクレーター|en|Sacrobosco (crater)}}で地球外起源種「[[マブラヴ オルタネイティヴ#BETA|BETA]]」と接触し、壊滅。その後、人類とBETAによる「第一次月面戦争」および「BETA大戦」が勃発する。(ゲームほか『[[マブラヴ]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author= 北側寒囲|authorlink=北側寒囲 |title = マブラヴ 3 UNLIMITED 戦争 |publisher = [[集英社]] |year = 2007 |pages = 108-110 |isbn = 978-4-08-630371-2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 吉宗鋼紀|authorlink=吉宗鋼紀 |title = [[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]] 3 虚耗の檻穽 |publisher = [[エンターブレイン]] |year = 2009 |pages = 170,173 |isbn = 978-4-7577-4521-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = |title = 『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』公式メカ設定資料集 MUV-LUV ALTERNATIVE INTEGRAL WORKS |publisher = エンターブレイン |year = 2009 |page = 7 |isbn = 978-4-04-726223-2}}</ref> * [[2月8日]] - 「アンドロメダ事件」発生。[[アリゾナ州]]ピートモントに落下した米軍の[[人工衛星]]「スクープ七号」から軌道上で採取された地球外菌株「アンドロメダ菌株」が流出し、ピートモントの住人と回収部隊が感染・全滅する。これを受け、アンドロメダ菌株の調査と対策を目的としたワイルドファイア計画が発動され、ジェレミー・ストーン博士ら警戒態勢チームが召集される。(小説『[[アンドロメダ病原体]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= マイケル・クライトン|authorlink=マイケル・クライトン |title = アンドロメダ病原体 |publisher = [[早川書房]] |year = 1976 |pages = 13-183,197-214 |isbn = 978-4-15-010208-1}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= ダニエル・H・ウィルソン|authorlink=:en:Daniel H. Wilson |title = アンドロメダ病原体─変異─〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 2020 |page = 73 |isbn = 978-4-15-209937-2}}</ref> * [[4月5日]] - ラジオ電波に似た無形の生物「ヴァデル」が、[[しし座|獅子座]]方向に28[[光年]]先の星から地球に到来。これによって世界中で混信が生じ、ラジオとテレビは放送不能になる。その後数日のうちにヴァデルはあらゆる電気的な現象を食べ始め、電源で動く機械はすべて停止する。(小説『{{仮リンク|天使と宇宙船|label = ウァヴェリ地球を征服す|en|Angels and Spaceships}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = 天使と宇宙船 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1965 |pages = 264-298,303,304 |isbn = 978-4-488-60502-5}}</ref> * [[6月10日]] - 「火星の日」。[[火星]]([[火星シリーズ#バルスーム(火星)|バルスーム]])からの通信で最初の意味あるメッセージが受け取られ、全世界に公開放送される。その後、バルスーム人との間で友好的な相互通信が始まる。(小説『[[月シリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= E・R・バローズ|authorlink=エドガー・ライス・バローズ |title = 月シリーズ1 月のプリンセス |publisher = 東京創元社 |year = 1978 |pages = 8,11,19,20 |isbn = 978-4-488-60128-7}}</ref> * [[7月10日]] - 白坂営造、[[草津温泉]]近辺を走るローカル私鉄「草津高原電鉄」の「草津駅」駅長就任の辞令を受ける。(映画『[[なにはなくとも全員集合!!]]』) * [[7月25日]] - 白坂営造、草津駅駅長に就任。翌[[7月26日|26日]]には家族も草津に引っ越す。(映画『なにはなくとも全員集合!!』) * [[8月1日]] - 西武バスの草津線が開業。その夜、西武バスの碇谷所長らと、草津駅の加藤・仲本両駅員が、草津温泉で大乱闘。(映画『なにはなくとも全員集合!!』) * 「[[1年B組新八先生]]」「[[2年B組仙八先生]]」「[[3年B組貫八先生]]」の生徒達が生まれた年度(学年度である為、日付は4月1日から12月31日間となる)。 *RACING TEAM SOLVALOU(RTS)、REAL RACING ROOTSに初参戦。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)<ref>公式ガイドブックでの設定。</ref> * ウルトラマンが宇宙恐竜[[ゼットン]]に敗れる。代わって科学特捜隊がゼットンを撃退。敗れたウルトラマンを迎えに宇宙警備隊の[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]が地球に飛来。この事から、ウルトラマン以外の同種の戦士がいたことが初めて認識される。(特撮テレビ番組『[[ウルトラマン]]』) * 地球観測のために[[M78星雲]]から恒点観測員340号ウルトラセブンが飛来。地球防衛軍の精鋭部隊・[[ウルトラ警備隊]]と共に宇宙からの侵略者と戦う。(特撮テレビ番組『[[ウルトラセブン]]』) * ゾルゲル島で[[ミニラ]]誕生。(映画『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』) * 初代ブースカ&チャメゴン兄弟、ロケットでR星へと旅立つ。(特撮テレビ番組『[[快獣ブースカ]]』最終回「さよならブースカ」) * モンド島にて[[キングコング]]発見。(映画『[[キングコングの逆襲]]』) * ビリー・ピルグリムが自宅から[[トラルファマドール星|トラルマルファドール星人]]の空飛ぶ円盤によって誘拐される。(小説『[[スローターハウス5]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= カート・ヴォネガット・ジュニア|authorlink=カート・ヴォネガット・ジュニア |title = スローターハウス5 |publisher = 早川書房 |year = 1978 |pages = 88-95,104 |isbn = 978-4-15-010302-6}}</ref> * 天体物理学者ソール・シュリッファーが、異星人の文明によるものと見られる[[タキオン]]・ビームの通信文を3日間に渡って受信する。(小説『{{仮リンク|タイムスケープ|en|Timescape}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレゴリイ・ベンフォード|authorlink=グレゴリイ・ベンフォード |title = タイムスケープ〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 1988 |pages = 4,322-327 |isbn = 978-4-15-010774-1}}</ref> * 科学者・蔭山秀夫(後の新帝国ギア総統・ドクターマン)、自分を実験体にして脳活性化実験を成功するも、その副作用で老人と化す。秀夫の妻・蔭山節子は誕生したての息子・秀一を連れて失踪。(特撮テレビ番組『[[超電子バイオマン]]』) * 赤池(後の光戦隊技術班主任)、地底帝国チューブのデスガガスを浴びる。(特撮テレビ番組『[[光戦隊マスクマン]]』) * 田舎の野菜生産者・弥助、自分が生産した野菜を東京で売る。だが帰宅途中、とある家で野菜がゴミ箱に捨てられているのを見てショックを受け、これをきっかけに弥助は東京に野菜を売らなくなる。(アニメ『[[もーれつア太郎]]』第50回「八百×最大のピンチニャロメ!」) * [[貴州省]]爬行動物研究所の劉健文研究員によって、[[1843年]]に中国南西部で発見された後に誤認と判断され忘れられていた「[[リュウトカゲ]]」が再発見され、論文『巨龍蜥的生態初歩研究』がまとめられる。(パロディ論文『[[リュウトカゲ|龍の生態と行動]]』)<ref>{{Cite journal |和書 |author = 疋田努 |authorlink = 疋田努 |title = 龍の生態と行動 |date = 1987-12 |publisher = [[平凡社]] |journal = [[アニマ (雑誌)|アニマ]] NO.183 |volume = |issue = |naid = |pages = 25 |ref = }}</ref> === 誕生日 === * [[8月18日]] - [[パック (ファミスタ)|パック]]、コンピュータゲーム『[[ファミスタシリーズ]]』に登場する架空のプロ野球選手(『[[ファミスタ64]]』及び同作品ガイドブックでの設定)。 * [[12月13日]] - [[青島俊作]]、テレビドラマ・映画『[[踊る大捜査線]]』に登場する人物。 * [[12月28日]] - 言峰綺礼、ゲーム『[[Fate/stay night]]』、小説『[[Fate/Zero]]』などに登場する人物。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-06-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第13巻) 東京オリンピックと新幹線―昭和39年〜42年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194363-4 |ref = 昭和二万日13 }} == 関連項目 == {{Commonscat|1967}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1967ねん}} [[Category:1967年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1967%E5%B9%B4
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1966年
1966年(1966 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和41年。 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。 世界と日本のできごと 日本ではこの年は丙午(ひのえうま)にあたり、出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ。
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1966年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和41年。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1966年の日本}} {{年代ナビ|1966}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1966 }} {{year-definition|1966}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1966年について記載する。 --> == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * 干支:[[丙午]](ひのえ うま) * [[元号一覧 (日本)|日本]](月日は一致) ** [[昭和]]41年 ** [[皇紀]]2626年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]55年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]55年 * [[仏滅紀元]] : 2508年-2509年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1385年9月9日 - 1386年9月18日 * [[ユダヤ暦]] : 5726年4月9日 - 5727年4月18日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : 39126 - 39490 * [[リリウス日]](LD) : 139967 - 140331 {{Clear}} == 周年 == <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください。また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 --> 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。 * [[1月15日]] - [[中日ドラゴンズ]]球団創設30周年。 * [[2月23日]] - [[東京中日スポーツ]]創刊10周年。 * [[2月26日]] - [[二・二六事件]]から30周年。 * [[3月6日]] - [[日刊スポーツ]]創刊20周年。 * [[4月1日]] - [[田端駅]]開業70周年。 * [[4月22日]] - [[サザエさん]]生誕20周年。 * [[7月15日]] - [[ボーイング社]](米[[ワシントン州]][[シアトル]])創業50周年。 * [[9月1日]] - [[民間放送]][[ラジオ]]開始15周年<ref group="注釈">[[中部日本放送]](ラジオ事業は現在の[[CBCラジオ]])と新日本放送(現在の[[毎日放送]]=[[MBSラジオ]])の2社による本放送の開始。</ref>。 * [[11月28日]] - [[週刊漫画TIMES]]([[芳文社]])創刊10周年。 * [[12月25日]] - [[大正天皇]][[崩御]]と[[昭和]]が始まって40周年。 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1966}} == できごと == 世界と日本のできごと === 1月 === * [[1月1日]] - [[日本人]]の海外観光渡航の回数制限が撤廃され、持ち出す事の出来る[[外貨]]も1回500[[アメリカドル|USドル]]となる{{要出典|date=2021-04}}。 * [[1月2日]] - [[TBS系列|TBS系]]で[[特撮]][[テレビドラマ]]『[[ウルトラQ]]』放映開始(『[[ウルトラシリーズ]]』スタート)<ref name="昭和二万日13、p.175">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.175]]</ref>。 * [[1月7日]] - [[東京ヤクルトスワローズ|サンケイ]]のニックネームが「スワローズ」から「アトムズ」となる{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月9日]] - [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎駅]]前にて[[金井ビル火災]]が発生<ref name="昭和二万日13、p.174">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.174]]</ref>。 * [[1月10日]] - [[サンヨー食品]]が「[[サッポロ一番しょうゆ味]]」を発売(「サッポロ一番」のブランド展開の始まり)。 * [[1月11日]] - [[青森県]][[三沢市]]中央町にて、[[三沢大火]]が発生<ref name="昭和二万日13、p.178-179">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.178-179]]</ref>。 * [[1月15日]] - [[福島県]]常磐市(現[[いわき市]])に、常磐ハワイアンセンター(現[[スパリゾート・ハワイアンズ]])が開業。 * [[1月17日]] - [[水素爆弾]]を搭載したアメリカの[[B-52 (航空機)|B-52]][[爆撃機]]が[[スペイン]]の[[パロマレス]]沖で[[ボーイング707#軍用機|KC-135]][[空中給油機]]と衝突、水爆を搭載したまま墜落([[パロマレス米軍機墜落事故]])。 * [[1月20日]] - [[1964年東京オリンピック]]選手村跡地に[[国立オリンピック記念青少年総合センター]]開設。 * [[1月21日]] - [[日ソ航空協定]]締結<ref name="昭和二万日13、p.178">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.178]]</ref>。 * [[1月24日]] - [[本田技研工業]]が「[[ホンダ・S800|S800]]」を発売。 === 2月 === * [[2月]] - [[タイビン村虐殺事件]]。 * [[2月3日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[宇宙探査機|無人月探査機]][[ルナ9号]]が初の月面軟着陸に成功。 * [[2月4日]] ** [[全日本空輸|全日空]]機が[[東京湾]]に墜落([[全日空羽田沖墜落事故]])<ref name="昭和二万日13、p.180">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.180]]</ref>。 ** [[なか卯]]設立。 * [[2月26日]] - [[ゴダイの虐殺]]。 === 3月 === * [[3月4日]] - [[カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故]]。 * [[3月5日]] - [[英国海外航空機空中分解事故]]、乗員乗客124名全員が犠牲になる。 * [[3月10日]] - [[シチズン時計]]が日本初の電子腕時計「X-8」を発売。 * [[3月31日]] - 日本の総[[人口]]一億人突破。 === 4月 === * [[4月1日]] ** 日本で[[メートル法]]完全施行。[[尺貫法]]、[[ヤード・ポンド法]]などの公的な使用が禁止される<ref name="昭和二万日13、p.190">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.190]]</ref>。 ** [[東急田園都市線]][[溝の口駅]] - [[長津田駅]]間が開業。[[二子玉川駅]] - [[二子新地駅]]間専用橋開通(それまでは二子橋上の単線併用軌道)。 ** [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]を[[キー局]]とする[[ニュース系列|ニュースネットワーク]]・[[日本ニュースネットワーク|NNN]]が発足。 ** [[エスビー食品]]が「ゴールデンカレー」を発売。 * [[4月7日]] ** [[千葉大学]]医学部付属病院の医局員の男が同病院の入院患者や同僚に[[チフス菌]]を混入させた飲食物を飲食させたとして逮捕([[千葉大チフス事件]])<ref name="昭和二万日13、p.192-193">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.192-193]]</ref>。 ** [[日産自動車]]が「[[日産・サニー|サニー]]」を発売<ref name="昭和二万日13、p.193">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.193]]</ref>。当初の名称は4代目まで「ダットサン・サニー」。 * [[4月9日]] - [[京葉道路]]全線開通。 * [[4月24日]] - [[TBS系列|TBS系]]で視聴者参加型公開歌謡番組『[[家族そろって歌合戦]]』放送開始。 * [[4月26日]] - 日本で戦後最大の[[公共交通機関]][[ストライキ]]<ref name="昭和二万日13、p.196">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.196]]</ref>。 * [[4月29日]] ** [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]に[[ソニービル]]がオープン。 ** 俳優の[[宝田明]]と[[1959年]][[ミス・ユニバース]]の[[児島明子]]が結婚。 === 5月 === * [[5月]] - [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]に日本初の[[コインランドリー]]が開店。 * [[5月1日]] - [[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の[[佐々木吉郎]]投手が対[[広島東洋カープ|広島]]戦で[[完全試合]]を達成。 * [[5月4日]] - [[フジテレビ系]]で[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]主演の[[時代劇]]『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』が放送開始。[[1984年]][[4月4日]]まで全888回放送された。 * [[5月14日]] - [[富士重工業]]が日本初のFFセダン「[[スバル・1000]]」を発売。 * [[5月15日]] - [[日本テレビ系]]の[[演芸]]番組『[[笑点]]』放送開始。 * [[5月18日]] - [[文部省]]、大学への推薦入学制度採用を決定。 * [[5月21日]] - [[国立京都国際会館]]開館<ref name="昭和二万日13、p.200-201">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.200-201]]</ref>。 * [[5月30日]] - [[マツダ|東洋工業]]がワゴン&バン&トラックの「[[マツダ・ボンゴ|ボンゴ]]」を発売。 === 6月 === * [[6月22日]] - [[三里塚闘争]]が始まる。 * [[6月25日]] - [[国民の祝日に関する法律|祝日法]]改正、[[建国記念の日]]・[[敬老の日]]・[[体育の日]]が新たに祝日に制定される<ref name="昭和二万日13、p.206">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.206]]</ref>。 * [[6月29日]] - [[ビートルズ]]来日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220922-UIQN32M3BVIFJAGCSE3DT2V55A/|title=ビートルズ来日映像公開へ 警備状況やファン写る|publisher=産経ニュース|date=2022-09-22|accessdate=2022-09-22}}</ref>([[6月30日]]から3日間[[日本武道館]]で公演)<ref name="昭和二万日13、p.208">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.208]]</ref>。 * [[6月30日]] - [[袴田事件]]が発生。 === 7月 === * [[7月1日]] ** [[日本航空]]と[[全日本空輸|全日空]]、[[スカイメイト]]制度導入。 ** [[フランス]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]軍から脱退。 ** [[花王|花王石鹸]]が「[[キーピング]]」を発売。 * [[7月11日]] - [[国会 (日本)|第52臨時国会]]召集([[7月30日]]閉会)。 * [[7月13日]] - [[東京都教育委員会]]が次年度の[[公立学校|都立]][[高校受験|高校入試]]から[[学校群制度]]導入を決定<ref name="昭和二万日13、p.212">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.212]]</ref>。 * [[7月17日]] - TBS系でウルトラシリーズ第2弾『[[ウルトラマン]]』が放送開始<ref name="昭和二万日13、p.212" />。 * [[7月27日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の新人・[[堀内恒夫]]投手が開幕から13連勝。 === 8月 === * [[8月1日]] ** [[日産自動車]]が[[プリンス自動車工業]]を吸収合併。 ** [[テキサスタワー乱射事件]]。 * [[8月5日]] - 政界における[[黒い霧事件 (政界)|黒い霧事件]]<ref name="昭和二万日13、p.214">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.214]]</ref>。 * [[8月6日]] ** [[横田正俊]]が第4代[[最高裁判所長官]]に就任。 ** 女子[[バレーボール]]の[[ユニチカ#ニチボー貝塚|ニチボー貝塚]]の連勝記録が258でストップ<ref name="昭和二万日13、p.214-215">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.214-215]]</ref>。 * [[8月11日]] - インドネシアとマレーシアが国交樹立。 * [[8月18日]] - [[袴田事件]]で静岡県警は袴田巌を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕する。以後[[2014年]][[3月27日]]まで47年と半年以上拘束されることになる。 * [[8月19日]] - [[マツダ|東洋工業]]が「[[マツダ・ルーチェ|ルーチェ]]」を発売。 * [[8月20日]] ** [[上越線]]の[[新清水トンネル]]が貫通。 ** [[日本専売公社]]が「[[わかば (たばこ)|わかば]]」を発売。 * [[8月22日]] - [[伊藤園]]設立。 * [[8月26日]] - [[日本航空羽田空港墜落事故|日本航空訓練機墜落事故]]<ref name="昭和二万日13、p.221">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.221]]</ref>。 === 9月 === * [[9月7日]] - [[明星食品]]が「チャルメラ」を発売。 * [[9月17日]] - [[平新艇事件]]<ref name="昭和二万日13、p.223">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.223]]</ref>。 * [[9月23日]] - 巨人が2年連続の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝(V2)。 * [[9月24日]] - [[天草五橋]]開通<ref name="昭和二万日13、p.226-227">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.226-227]]</ref>。 * [[9月30日]] - [[ボツワナ]]独立。 === 10月 === * [[10月]] - [[ユニリーバ・ジャパン|豊年リーバ]]が[[マーガリン]]「ラーマ」を日本で製造・発売(現在は[[J-オイルミルズ]]から発売)。 *[[10月1日]] ** [[江崎グリコ]]が「[[ポッキー]]」を発売。 ** [[NET系]]、長寿番組『[[日曜洋画劇場]]』放送開始。 * [[10月3日]] - フジテレビをキー局とするニュースネットワーク・[[フジニュースネットワーク|FNN]]が発足。 * [[10月5日]] - 米[[デトロイト]]郊外の[[エンリコ・フェルミ炉]]で史上初の[[炉心溶融]]事故おこる。 * [[10月9日]] - 日本テレビ系で海外ドキュメンタリー番組『[[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行]]』放送開始。 * [[10月15日]] - [[トヨタ自動車]]と[[日野自動車]]が業務提携することを発表<ref name="昭和二万日13、p.228">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.228]]</ref>。 * [[10月19日]] - [[日本選手権シリーズ|プロ野球日本シリーズ]]は巨人が[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]を4勝2敗で破り2年連続日本一。 * [[10月20日]] - トヨタ自動車が東京モーターショーで[[トヨタ・カローラ|カローラ]]を発表([[11月5日]]発売)<ref name="昭和二万日13、p.231">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.231]]</ref>。 * [[10月28日]] - 「[[週刊プレイボーイ]]」([[集英社]])創刊<ref name="昭和二万日13、p.231" />。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[国立劇場]]開場<ref name="昭和二万日13、p.232-234">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.232-234]]</ref>。 * [[11月4日]] - [[ヴェネツィア]]で[[高潮]]の被害。 * [[11月13日]] - 全日空機が[[全日空松山沖墜落事故|松山沖に墜落]]<ref name="昭和二万日13、p.232">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.232]]</ref>。 * [[11月27日]] - 福岡で第1回国際マラソン選手権(後の福岡国際マラソン)が開催。 === 12月 === * [[12月]] - [[シャープ|早川電機工業]]がターンテーブル式の[[電子レンジ]]を発売。 * [[12月3日]] ** [[国会 (日本)|第53臨時国会]]召集([[12月20日]]閉会)。[[第1次佐藤内閣第3次改造内閣|第1次佐藤第3次改造内閣]]発足<ref name="昭和二万日13、p.236">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.236]]</ref>。 ** [[マカオ]]で[[一二・三事件]]がおこる。 * [[12月5日]] - [[マルヨ無線事件]]。 * [[12月9日]] - [[建国記念の日]]を2月11日とすることが決定<ref name="昭和二万日13、p.236" />。 * [[12月15日]] ** [[ミッキーマウス]]の生みの親、[[ウォルト・ディズニー]]が死去。 ** [[猿投ダンプ事故]]<ref name="昭和二万日13、p.238-239">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.238-239]]</ref>。 * [[12月21日]] - 議長選挙汚職に伴う[[茨城県議会]]自主解散(茨城県議会黒い霧解散)。 * [[12月27日]] - [[第54回国会|第54国会]]召集、[[衆議院解散]]([[黒い霧解散]])<ref name="昭和二万日13、p.244">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.244]]</ref>。 * [[12月31日]] - この日までに[[核実験]]を成功させた国のみ、[[核拡散防止条約]]に定める「核兵器国」と認められ核武装の権利を与えられる。 日本ではこの年は[[丙午]](ひのえうま)にあたり、出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ。 == スポーツ == ; [[1966年のスポーツ]] * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[柏戸剛]] ** 春場所 [[大鵬幸喜]] ** 夏場所 大鵬幸喜 ** 名古屋場所 大鵬幸喜 ** 秋場所 大鵬幸喜 ** 九州場所 大鵬幸喜 * [[日本プロ野球|プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] * [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] ** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ(4勝2敗) == 芸術・文化・ファッション == ; [[1966年の音楽]] * 洋楽ヒット曲/話題曲 * [[ローリング・ストーンズ]] 「[[黒くぬれ]]」 * [[ママス&パパス]] 「[[夢のカリフォルニア (曲)|夢のカリフォルニア]]」「マンデー・マンデー」 * [[ウィルソン・ピケット]] 「ダンス天国」「ムスタング・サリー」 * [[ラヴィン・スプーンフル]] 「[[サマー・イン・ザ・シティ]]」 * [[スペンサー・デイヴィス・グループ]] 「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]]」 * [[ホリーズ]] 「[[バス・ストップ (ホリーズの曲)|バス・ストップ]]」 * 邦楽/話題曲 *[[いつまでもいつまでも]]([[ザ・サベージ]])、[[夕陽が泣いている (曲)|夕陽が泣いている]]([[ザ・スパイダース]])、[[若者たち#放送データ・スタッフ|若者たち]]([[ザ・ブロード・サイド・フォー]])、[[想い出の渚]]([[ザ・ワイルドワンズ]]) *[[骨まで愛して]]([[城卓矢]])、[[バラが咲いた]]([[マイク真木]])、 [[女のためいき]]([[森進一]])、[[夢は夜ひらく]]、[[逢いたくて逢いたくて]]([[園まり]]) *[[柳ヶ瀬ブルース]]([[美川憲一]])、[[恍惚のブルース]]([[青江三奈]]) *[[星影のワルツ]]([[千昌夫]])、[[唐獅子牡丹]]([[高倉健]])、[[星のフラメンコ]]([[西郷輝彦]]) *[[霧の摩周湖]]([[布施明]])、[[いっぽんどっこの唄]]([[水前寺清子]]) *[[今日の日はさようなら]]([[森山良子]])、[[いい湯だな]]([[デューク・エイセス]]) *[[若いってすばらしい]]([[槇みちる]])、[[信じていたい]]([[西田佐知子]]) *[[星影のワルツ]]([[千昌夫]])、[[霧氷 (曲)|霧氷]]([[橋幸夫]]) * [[ビートルズ]]来日公演、6月29日に来日(-7月3日)。 * [[ジョン・コルトレーン]]来日公演、7月8日に来日(-7月24日)。 ; [[1966年の映画]] * [[アルジェの戦い]](監督:[[ジッロ・ポンテコルヴォ]]) * [[アルフィー (1966年の映画)|アルフィー]] * [[男と女]](監督:[[クロード・ルルーシュ]]) * [[続・夕陽のガンマン]](監督:[[セルジオ・レオーネ]]) * [[わが命つきるとも]](監督:[[フレッド・ジンネマン]]) * [[沓掛時次郎 遊侠一匹]](監督:[[加藤泰]]) * [[けんかえれじい]](監督:[[鈴木清順]]) * [[サイボーグ009]] * [[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘]] * [[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]] * [[大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン]] * [[怪竜大決戦]] ; 1966年の文学 * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] **第55回(1966年上半期) - 該当作品なし **第56回(1966年下半期) - [[丸山健二]] 『夏の流れ』 *[[直木三十五賞|直木賞]] **第55回(1966年上半期) - [[立原正秋]]『白い罌粟』 **第56回(1966年下半期) - [[五木寛之]]『蒼ざめた馬を見よ』 *[[ベストセラー]] **[[三浦綾子]]『[[氷点]]』 **[[阿川弘之]]『[[山本五十六]]』 **[[野末陳平]]『ヘンな本』 *雑誌 - [[週刊プレイボーイ]]創刊([[集英社]]) ; 1966年の漫画 *「[[巨人の星]]」、[[週刊少年マガジン]]で連載開始 ; 1966年のテレビ *ドラマ **「[[ウルトラQ]]」 **[[大河ドラマ]] 「[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]」(出演:[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊之助 (4代目)]]、[[緒形拳]]) **「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」 **「[[おはなはん]]」 **「[[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女]]」 **「[[ウルトラマン]]」 **「[[マグマ大使 (テレビドラマ)|マグマ大使]]」 **「[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]」 **「[[若者たち]]」 **「[[氷点#1966年|氷点]]」 **「[[泣いてたまるか]]」 *バラエティなど諸分野 **[[5月15日]] - 「[[笑点]]」([[日本テレビ系]])放送開始([[2023年]]現在も放送中) **[[10月]] - 「[[日曜洋画劇場]]」([[NET系]]、現[[テレビ朝日系]])放送開始(当時は『土曜洋画劇場』、[[1967年]]より日曜。[[2017年]][[2月12日]]放映終了) **[[10月9日]] - 「[[日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行]]」(日本テレビ系)放映開始([[1990年]][[9月16日]]放映終了) *その他 **[[4月17日]] - 「[[どんぐり音楽会]]」([[CBCテレビ|CBC]])放送開始([[1983年]][[3月27日]]放送終了) ; 1966年のアニメ *[[2月5日]] - [[おそ松くん]]([[毎日放送|MBS]]制作でNET系)放送開始([[1967年]][[3月25日]]放送終了) *[[5月5日]] - [[ハリスの旋風]]([[フジテレビ系]])放送開始(1967年[[8月31日]]放送終了) *[[10月4日]] - [[ロボタン]](フジテレビ系列)放送開始([[1968年]][[9月27日]]放送終了) *[[12月5日]] - [[魔法使いサリー]](テレビ朝日系列)放送開始(1968年[[12月30日]]放送終了) ; 1966年のラジオ *この年も、民放ラジオ局の大半が24時間放送開始。 *[[10月10日]] - 「[[朝の歳時記]]」([[CBCラジオ|中部日本放送]])放送開始([[2005年]][[3月31日]]放送終了) ; 1966年の芸能 *【お笑い】[[6月1日]]、漫才コンビ「[[横山やすし・西川きよし]]」結成。 ; 1966年のコマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪うちのテレビにゃ色がない||サンヨーカラーテレビ||[[三洋電機]]||[[榎本健一]]||[[三木鶏郎]] |- |♪水虫でたぞ、水虫でたぞ、かゆいぞイッヒッヒ||ポリック(水虫治療薬)||[[明治製菓]]||-||[[山上路夫]]・[[いずみたく]] |- |||サンオイル||[[資生堂]]||[[前田美波里]]||- |- |ルーチョンキ||[[キンチョール]]||[[大日本除虫菊]]||[[桜井センリ]]||- |- |イヨッ!||[[サントリーレッド]]||[[サントリー]]||[[宇津井健]]||- |} == 誕生 == {{see also|Category:1966年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[北勝鬨準人]]、元[[大相撲]][[力士]]、現・[[伊勢ノ海]]親方、出原大[教育人、子どもと自然研究家] * [[1月3日]] - [[ルイス・ソーホー]]、元メジャーリーガー * [[1月4日]] - [[上福元勤]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2007年]]) * [[1月5日]] - [[天野由梨]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/天野由梨/|title=天野由梨(あまのゆり)の解説 - goo人名事典|accessdate=2020-11-05}}</ref>、[[声優]] * 1月5日 - [[鬼雷砲良蔵]]、元大相撲力士 * [[1月6日]] - [[大久保龍志]]、[[調教師]] * [[1月7日]] - [[エレーナ・ベチケ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月8日]] - [[山田玲司]]、[[漫画家]] * [[1月9日]] - [[向島建]]、元[[サッカー選手]] * [[1月10日]] - [[財前直見]]、[[俳優|女優]] * [[1月12日]] - [[安田依央]]、[[小説家]] * [[1月14日]] - [[カート・シリング]]、元メジャーリーガー * 1月14日 - [[神田山陽 (3代目)|神田山陽]]、[[講談師]] * [[1月16日]] - [[ジャック・マクダウエル]]、元[[メジャーリーガー]] * [[1月17日]] - [[森川ジョージ]]、[[漫画家]] * 1月17日 - [[小島伸幸]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])、サッカー解説者、サッカー指導者 * [[1月18日]] - [[宮沢和史]]、[[ミュージシャン]]([[THE BOOM]]) * 1月18日 - [[アレクサンドル・カリフマン]]、[[チェス]]選手 * [[1月19日]] - [[ステファン・エドベリ]]、プロ[[テニス]]選手 * [[1月20日]] - [[大串正樹]]、[[政治家]] * [[1月21日]] - [[川津泰彦]]、声優 * [[1月23日]] - [[フィリップ・セトン]]、[[外交官]] * [[1月24日]] - [[大張正己]]、[[アニメーター]]、[[メカニックデザイナー]]、アニメ監督 * 1月24日 - [[吉井憲治]]、元野球選手 * [[1月26日]] - [[長嶋一茂]]、[[スポーツキャスター]] * 1月26日 - [[金子達仁]]、[[日本]]の[[スポーツライター]] * [[1月27日]] - [[三田寛子]]、女優 * 1月27日 - [[呉俊宏]]、元プロ野球選手 * [[1月29日]] - [[平塚克洋]]、元プロ野球選手 * 1月29日 - [[ロマーリオ]]、元サッカー選手 * [[1月31日]] - [[石黒賢]]、[[俳優]] * 1月31日 - [[星野伸之]]、元プロ野球選手、[[野球解説者]]・コーチ === 2月 === * [[2月1日]] - [[宮田和弥]]、[[シンガーソングライター]]、ミュージシャン(元[[JUN SKY WALKER(S)]]) * [[2月2日]] - [[琴冠佑源正]]、元大相撲力士 * [[2月3日]] - [[松本小雪]]、元[[アイドル]] * [[2月4日]] - [[落合弘治]]、声優 * [[2月4日]] - [[小泉今日子]]、[[歌手]]・女優 * [[2月4日]] - [[胡桃ちの]]、漫画家 * [[2月5日]] - [[川上麻衣子]]、女優 * 2月5日 - [[仲田秀司]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月6日]] - [[大槻ケンヂ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージシャン([[筋肉少女帯]]) * 2月6日 - [[リック・アストリー]]、歌手 * [[2月7日]] - [[田島昭宇]]、漫画家 * [[2月8日]] - [[フリスト・ストイチコフ]]、元サッカー選手 * 2月8日 - [[内田雄一郎]]、[[ベーシスト]]、ミュージシャン([[筋肉少女帯]]) * [[2月9日]] - [[うるし原智志]]、アニメーター・漫画家 * [[2月11日]] - [[依田紀基]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] * 2月11日 - [[中村大伸]]、野球選手 * [[2月15日]] - [[山内嘉弘]]、元プロ野球選手 * [[2月16日]] - [[宋津宇]]、野球選手 * 2月16日 - [[順風秀一]]、元プロ野球選手 * [[2月19日]] - [[薬丸裕英]]、[[タレント]](元[[シブがき隊]]) * [[2月20日]] - [[春日富士晃大]]、元大相撲力士、元・春日山親方(+ [[2017年]]) * [[2月21日]] - [[ペトリ・コッコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[2月24日]] - [[森谷雄]]、ドラマ・映画プロデューサー * 2月24日 - [[ロッド・ブリューワ]]、元プロ野球選手 * 2月24日 - [[レネ・アロチャ]]、元メジャーリーガー * [[2月26日]] - [[秋村謙宏]]、元プロ野球選手 === 3月 === * [[3月1日]] - [[カシワクラツトム]]、声優 * [[3月1日]] - [[平林岳]]、[[プロ野球審判員]] * [[3月3日]] - [[小出広美]]、歌手 * [[3月4日]] - [[ケビン・ジョンソン]]、元バスケットボール選手 * 3月4日 - [[シャーリーン・ウォン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[3月6日]] - [[アワダジン・プラット]]、[[ピアニスト]] * [[3月7日]] - [[ジョイ・タナー]]、女優 * [[3月7日]] - [[櫻井敦司]]、ミュージシャン、([[BUCK-TICK]]) * [[3月8日]] - [[馬場口洋一]](若翔洋俊一)、[[総合格闘家]]、元大相撲力士・[[関脇]] * [[3月9日]] - [[ペトル・バルナ]]、フィギュアスケート選手 * [[3月11日]] - [[鈴木研一]]、[[ベーシスト]]、ミュージシャン([[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]) * [[3月12日]] - [[神崎ゆう子]]、女優・歌手 * 3月12日 - [[大久保潔重|大久保清重]]、政治家 * [[3月13日]] - [[今田耕司]]、[[お笑いタレント]] * [[3月16日]] - [[栗本和博]]、漫画家 * [[3月17日]] - [[加茂川重治]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月19日]] - [[マイケル・スリプチュク]]、フィギュアスケート選手 * [[3月20日]] - [[宇津木えり]]、[[ファッションデザイナー]] * [[3月22日]] - [[渡辺伸彦]]、元プロ野球選手 * [[3月23日]] - [[大沢逸美]]、女優 * 3月23日 - [[ゲレン大嶋]]、三線プレイヤー・作曲家・ディスクジョッキー * [[3月25日]] - [[堀部圭亮]]、タレント・放送作家 * 3月25日 - [[宮川一朗太]]、俳優 * 3月25日 - [[トム・グラビン]]、[[メジャーリーガー]] * [[3月27日]] - [[梅澤春人]]、漫画家 * [[3月30日]] - [[RIKACO]]、タレント * 3月30日 - [[テリー・ブロス]]、元プロ野球選手 === 4月 === * [[4月2日]] - [[山蔭徳法]]、元[[プロ野球選手]] * 4月2日 - [[鋤柄昌宏]]、元サッカー選手 * 4月2日 - [[テディ・シェリンガム]]、元サッカー選手 * 4月2日 - [[坂本ちゃん]]、タレント * [[4月3日]] - [[冨永みーな]]、声優 * [[4月5日]] - [[野村萬斎|二世野村萬斎]]、狂言師 * [[4月6日]] - [[大塚義樹]]、元プロ野球選手 * [[4月7日]] - [[木村幹]]、[[国際政治学者]] * [[4月8日]] - [[松本明子]]、タレント * 4月8日 - [[西清孝]]、元プロ野球選手 * [[4月9日]] - [[マリオ・ブリトー]]、元プロ野球選手 * 4月9日 - [[勅使瓦武志]]、ミュージカル俳優 * [[4月11日]] - [[一条和矢]]、声優 * [[4月12日]] - [[広瀬香美]]<ref>{{Cite web|和書 |date= |url=https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E7%80%AC+%E9%A6%99%E7%BE%8E-1791509 |title=広瀬 香美 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-11-01}}</ref>、[[シンガーソングライター]] * 4月12日 - [[渡辺正和]]、元プロ野球選手 * [[4月13日]] - [[ウェスリー・チェンバレン]]、元プロ野球選手 * 4月13日 - [[名越美香]]、元[[アイドル]](元[[おニャン子クラブ]]) * [[4月14日]] - [[グレッグ・マダックス]]、[[メジャーリーガー]] * 4月14日 - [[ボイ・ロドリゲス]]、元プロ野球選手 * 4月14日 - [[デビッド・ジャスティス]]、メジャーリーガー * [[4月17日]] - [[立川俊之]]、[[ミュージシャン]]、元[[大事MANブラザーズバンド]] * [[4月20日]] - [[乱橋幸仁]]、元プロ野球選手 * [[4月21日]] - [[クリス・ドネルス]]、元プロ野球選手 * [[4月22日]] - [[前進山良太]]、元大相撲力士、[[若者頭]] * 4月22日 - [[若林弘泰]]、元プロ野球選手 * [[4月23日]] - 増子直純([[怒髪天]])ミュージシャン * [[4月25日]] - [[豊田順子]]、[[アナウンサー]] * [[4月26日]] - [[杉浦幸二]]、元プロ野球選手 * 4月26日 - [[橋本さとし]]、俳優 * [[4月27日]] - [[冨樫義博]]、漫画家 * 4月27日 - [[エリック・ヒルマン]]、元プロ野球選手 * 4月27日 - 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BIG (アメリカのバンド)|MR. BIG]]) * [[11月7日]] - [[カルヴィン・ボレル]]、騎手 * [[11月8日]] - [[平井光親]]、元プロ野球選手 * 11月8日 - [[古賀豪紀]]、元プロ野球選手 * [[11月11日]] - [[旭純]]、ミュージシャン * [[11月13日]] - [[横尾博之]]、声優 * [[11月13日]] - [[見栄晴]]、タレント * [[11月14日]] - [[白沢みき]]、[[ジャーナリスト]] * 11月14日 - [[カート・シリング]]、メジャーリーガー * 11月14日 - [[松本卓也 (野球)|松本卓也]]、元プロ野球選手 * 11月14日 - [[木内九二生]]、プロ野球審判員 * [[11月17日]] - [[ソフィー・マルソー]]、女優 * 11月17日 - [[大若松好弘]]、元大相撲力士 * [[11月17日]] - [[沙人]]、[[俳優]]、[[空手家]] * [[11月18日]] - [[ロブ・マットソン]]、元プロ野球選手 * [[11月22日]] - [[絲山秋子]]、[[小説家]] * [[11月23日]] - [[大道寺俊典]]、[[スタントマン]]、[[スーツアクター]]、[[殺陣師]] * [[11月24日]] - [[西本欣司]]、[[プロ野球審判員]] * [[11月26日]] - [[ただのいっこ]]、俳優 * 11月26日 - [[スージー鈴木]]、音楽評論家 * [[11月28日]] - [[吉田剛]]、元プロ野球選手 * 11月28日 - [[安田成美]]、女優 * [[11月29日]] - [[吉田修司]]、元プロ野球選手 * [[11月30日]] - [[ミカ・サロ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー === 12月 === * [[12月1日]] - [[池田政典]]、[[俳優]]・[[声優]]・[[歌手]] * 12月1日 - [[ラリー・ウォーカー]]、元[[メジャーリーガー]] * [[12月3日]] - [[横内なおき]]、[[漫画家]] * [[12月4日]] - [[永井真理子]]、ミュージシャン・歌手 * [[12月5日]] - [[川畑伸一郎]]、[[野球選手]] * [[12月6日]] - [[中尾秀正]]、[[調教師]] * 12月6日 - [[川岸良兼]]、[[プロゴルファー]] * [[12月7日]] - [[伊藤かずえ]]、女優 * 12月7日 - [[伊藤真一]]、オートバイレーサー * 12月7日 - [[川越透]]、元[[プロ野球選手]] * [[12月8日]] - [[シネイド・オコナー]]、ミュージシャン(+ [[2023年]]) * [[12月9日]] - [[勝恵子]]、[[ニュースキャスター]] * 12月9日 - [[濱中英次]]、元プロ野球選手 * [[12月10日]] - [[田中雅彦 (バドミントン選手)|田中雅彦]]、バドミントン選手 * 12月12日 - [[永野広一]]、声優 * 12月12日 - [[ホイス・グレイシー]]、[[柔術家]]、[[総合格闘家]] * [[12月14日]] - [[筒井由美子]]、女優 * [[12月15日]] - [[チョコボール向井]]、AV男優・格闘家 * [[12月16日]] - [[アベフトシ]]、ミュージシャン・ギタリスト(元[[thee michelle gun elephant]]、現[[KOOLOGI]])(+ [[2009年]]) * [[12月17日]] - [[有森裕子]]、[[マラソン]]選手 * 12月17日 - [[脇浜紀子]]、アナウンサー * 12月17日 - [[竹内睦泰]]、日本史講師・第73世武内宿禰(+ [[2020年]]) * 12月17日 - [[本村健太郎]]、俳優・[[弁護士]] * [[12月18日]] - [[江角マキコ]]、元女優・元タレント * [[12月19日]] - [[YU-KI]]、歌手([[TRF]]) * [[12月20日]] - [[葛城七穂]]、声優 * [[12月20日]] - [[冬馬由美]]、声優 * 12月20日 - [[エト・デ・フーイ]]、元サッカー選手 * 12月20日 - [[マット・ニール]]、 イギリスのレーシングドライバー * [[12月21日]] - [[キーファー・サザーランド]]、[[俳優]] * [[12月22日]] - [[国生さゆり]]、女優・タレント(元[[おニャン子クラブ]]) * 12月22日 - [[森田まさのり]]、漫画家 * [[12月24日]] - [[若林重喜]]、[[野球選手]] * [[12月25日]] - [[蒲谷和茂]]、元プロ野球選手 * 12月25日 - [[谷中敦]]、[[ミュージシャン]]([[東京スカパラダイスオーケストラ]]) * [[12月26日]] - [[西炯子]]、[[漫画家]] * [[12月27日]] - [[福田正博]]、元サッカー選手 * [[12月28日]] - [[高井麻巳子]]、元歌手・タレント(元おニャン子クラブ) * 12月28日 - [[トータス松本]]、ミュージシャン([[ウルフルズ]]) * [[12月29日]] - [[ルイス・デロスサントス (内野手)|ルイス・デロスサントス]]、元プロ野球選手 * 12月29日 - [[矢作公一]]、元プロ野球選手 * [[12月31日]] - [[森範行]]、元プロ野球選手 === 誕生日不明 === * [[マーク・オリヴァー]]、[[俳優]] * [[野間易通]]、[[活動家]] * [[MINNIE (歌手)|MINNIE]]、[[歌手]] * [[村本博之]]、[[カメラマン]] * [[山中登志子]]『[[買ってはいけない]]』(金曜日)の編集者 == 死去 == * [[1月1日]] - [[ヴァンサン・オリオール]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](*[[1884年]]) * [[1月11日]] - [[ハンネス・コーレマイネン]]、[[陸上競技]]選手(*[[1889年]]) * 1月11日 - [[アルベルト・ジャコメッティ]]、[[彫刻家]](*[[1901年]]) * [[1月13日]] - [[佐々木すぐる]]、[[作曲家]](*[[1892年]]) * [[1月14日]] - [[セルゲイ・コロリョフ]]、[[ロケット]]開発指導者(*[[1906年]]) * 1月14日 - [[ビル・カー]]、陸上競技選手(*[[1909年]]) * [[1月22日]] - [[川田順]]、[[歌人]]・[[実業家]](*[[1882年]]) * [[2月1日]] - [[バスター・キートン]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](*[[1895年]]) * 2月1日 - [[清村耕次]]、[[俳優]](*[[1925年]]) * [[2月3日]] - [[純貞孝皇后|純貞孝皇后尹氏]]、[[大韓帝国]]最後の皇帝[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]の妃(*[[1894年]]) * [[2月13日]] - [[マルグリット・ロン]]、[[ピアニスト]](*[[1874年]]) * [[2月17日]] - [[ハンス・ホフマン]]、[[画家]]・教育者(*[[1880年]]) * [[2月20日]] - [[チェスター・ニミッツ]]、[[アメリカ海軍]]の[[元帥]](*[[1885年]]) * [[2月22日]] - [[岩田宙造]]、[[政治家]]・[[法学博士]](*[[1875年]]) * [[2月26日]] - [[ジーノ・セヴェリーニ]]、[[画家]](*[[1883年]]) * [[3月5日]] - [[アンナ・アフマートヴァ]]、[[詩人]](*1889年) * [[3月10日]] - [[フリッツ・ゼルニケ]]、[[物理学者]](*[[1888年]]) * [[3月30日]] - [[マックスフィールド・パリッシュ]]、[[画家]]・[[イラストレーター]](*[[1870年]]) * 3月30日 - [[イェリー・ダラーニ]]、[[ヴァイオリニスト]](*1893年) * [[4月2日]] - [[セシル・スコット・フォレスター]]、[[小説家]](*[[1899年]]) * [[4月3日]] - [[バッティスタ・ファリーナ|ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ]]、[[自動車]][[デザイナー]]・[[ピニンファリーナ]]創始者(*[[1893年]]) * [[4月10日]] - [[イーヴリン・ウォー]]、小説家(*[[1903年]]) * 4月10日 - [[川端龍子]]、[[日本画家]]・[[俳人]](*[[1885年]]) * [[4月11日]] - [[山下新太郎 (洋画家)|山下新太郎]]、[[洋画家]](*[[1881年]]) * [[4月13日]] - [[カルロ・カッラ]]、画家(*[[1881年]]) * [[4月15日]] - [[マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス]]、[[エルサルバドル]]大統領(*[[1882年]]) * [[4月24日]] - [[桜沢如一]]、[[マクロビオティック]]提唱者(*1893年) * 4月24日 - [[柳家きん平]]、[[落語家]](*1922年) * 4月24日 - [[小穴隆一]]、洋画家・[[随筆家]]・俳人(*[[1894年]]) * [[4月28日]] - [[山中峯太郎]]、[[陸軍軍人]]・小説家(*[[1885年]]) * [[5月3日]] - [[小宮豊隆]]、[[ドイツ文学者]](*[[1884年]]) * [[5月4日]] - [[アメデエ・オザンファン]]、[[画家]](*[[1886年]]) * [[5月10日]] - [[栗栖赳夫]]、政治家(*[[1895年]]) * [[5月11日]] - [[小泉信三]]、[[経済学者]](*[[1888年]]) * [[5月19日]] - [[近藤兵太郎]]、高校野球指導者(* [[1888年]]) * [[5月23日]] - [[デムチュクドンロブ]]、[[蒙古聯合自治政府]]主席(*[[1902年]]) * [[5月29日]] - [[ヒッポ・ボーン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1888年]]) * [[5月30日]] - [[外ヶ濱弥太郎]]、元[[大相撲力士]](*[[1887年]]) * [[6月2日]] - [[宮沢胤勇]]、[[政治家]](*[[1887年]]) * [[6月7日]] - [[安倍能成]]、教育家・[[哲学|哲学者]](*[[1883年]]) * 6月7日 - [[ジャン・アルプ]]、彫刻家・画家・詩人(*[[1886年]]) * [[6月11日]] - [[熊沢寛道]]、自称・[[南朝 (日本)|南朝]]の末裔、日本の[[皇位]]請求者(*1889年) * [[6月12日]] - [[ヘルマン・シェルヘン]]、[[指揮者]]・[[作曲家]](*[[1891年]]) * [[6月13日]] - [[山田守]]、[[建築家]](*[[1894年]]) * [[6月23日]] - [[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、[[映画監督]](*[[1903年]]) * [[6月24日]] - [[長谷川繁雄]]、元[[プロ野球選手]](*[[1932年]]) * [[6月27日]] - [[アーサー・ウェイリー]]、[[東洋学]]者(*[[1889年]]) * [[6月28日]] - [[デイビッド・カーティス・スティーブンソン]]、[[クー・クラックス・クラン]]幹部(*[[1891年]]) * [[6月30日]] - [[マージェリー・アリンガム]]、[[推理作家]](*[[1904年]]) * 6月30日 - [[ジュゼッペ・ファリーナ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(*[[1906年]]) * [[7月5日]] - [[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]、[[化学者]](*1885年) * [[7月11日]] - [[アルフレート・ベルガー]]、[[フィギュアスケート]]選手(*[[1894年]]) * [[7月12日]] - [[鈴木大拙]]、禅僧・哲学者(*[[1870年]]) * [[7月23日]] - [[モンゴメリー・クリフト]]、[[俳優]](*[[1920年]]) * [[7月29日]] - [[ジョン・レモン]]、[[論理学|論理学者]](*[[1930年]]) * [[7月31日]] - [[高畠華宵]]、画家(*[[1888年]]) * 7月31日 - [[バド・パウエル]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](*[[1924年]]) * [[8月6日]] - [[コードウェイナー・スミス]]、小説家(*[[1913年]]) * [[8月11日]] - [[大下宇陀児]]、[[推理小説|探偵小説]]作家(*[[1896年]]) * [[8月21日]] - [[篠崎弘嗣]]、[[ヴァイオリニスト]](*[[1902年]]) * [[8月24日]] - [[老舎]]、小説家・[[劇作家]](*[[1899年]]) * [[8月28日]] - [[中澤良夫]]、[[野球選手]](*[[1883年]]) * [[9月1日]] - [[森弘太郎]]、元プロ野球選手(*[[1915年]]) * [[9月4日]] - [[高瀬荘太郎]]、[[会計学]]者・政治家(*[[1892年]]) * [[9月6日]] - [[マーガレット・サンガー]]、[[産児制限]]運動家(*[[1879年]]) * 9月6日 - [[篠原陸朗]]、政治家(*[[1883年]]) * [[9月8日]] - [[ジョン・テイラー (レーサー)|ジョン・テイラー]]、F1レーサー(*[[1933年]]) * 9月8日 - [[可児徳]]、体育学者<ref>「可児 徳氏」読売新聞1966年9月11日付朝刊、14版15ページ</ref>(*[[1874年]]) * [[9月17日]] - [[フリッツ・ヴンダーリヒ]]、[[テノール]][[歌手]](*[[1930年]]) * [[9月20日]] - [[草葉隆圓]]、[[僧侶]]・政治家(*[[1895年]]) * [[9月28日]] - [[アンドレ・ブルトン]]、詩人(*[[1896年]]) * [[9月29日]] - [[佐野碩]]、[[演出家]](*[[1905年]]) * [[10月7日]] - [[スマイリー・ルイス]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]歌手(*[[1913年]]) * [[10月8日]] - [[セレスティン・フレネ]]、教育家(*1896年) * [[10月10日]] - [[清水金一]]、コメディアン(*[[1912年]]) * [[10月17日]] - [[ヴィーラント・ワーグナー]]、[[演出家]](*[[1917年]]) * 10月17日 - [[クレオ・ド・メロード]]、[[バレリーナ]](*[[1875年]]) * [[10月18日]] - [[エリザベス・アーデン]]、[[実業家]](*[[1878年]]) * [[10月27日]] - [[野村俊夫]]、[[作詞家]](*[[1904年]]) * [[11月2日]] - [[ピーター・デバイ]]、[[化学者]](*[[1884年]]) * 11月2日 - [[ミシシッピ・ジョン・ハート]]、[[ブルース]]歌手・[[ギタリスト]](*[[1892年]]) * 11月2日 - [[荒木貞夫]]、[[陸軍軍人]](*[[1877年]]) * [[11月11日]] - [[加藤顕清]]、彫刻家(*[[1894年]]) * [[11月12日]] - [[クインシー・ポーター]]、[[作曲家]]・[[ヴィオラ]]奏者(*[[1897年]]) * [[11月14日]] - [[亀井勝一郎]]、[[評論家]](*[[1907年]]) * 11月14日 - [[吉田善吾]]、海軍軍人(*1885年) * [[11月15日]] - [[ウィリアム・ゾラック]]、[[彫刻家]](*[[1887年]]) * [[11月16日]] - [[河崎なつ]]、[[女性解放運動]]家・政治家(*[[1887年]]) * [[11月18日]] - [[河井寛次郎]]、[[陶芸家]](*[[1890年]]) * [[11月22日]] - [[松本治一郎]]、[[政治家]](*[[1887年]]) * [[11月28日]] - [[ヴィットリオ・ジャンニーニ]]、作曲家(*[[1903年]]) * [[12月11日]] - [[竹内京治]]、[[政治家]](*[[1887年]]) * [[12月15日]] - [[ウォルト・ディズニー]]、[[ミッキーマウス]]作者(*1901年) * [[12月21日]] - [[土橋修]]、プロ野球選手(* [[1944年]]) * [[12月24日]] - [[ガスパール・カサド]]、[[チェリスト]](*[[1897年]]) * [[12月26日]] - [[ギジェルモ・スタービレ]]、サッカー選手(*[[1906年]]) * [[12月27日]] - [[アーネスト・バージェス]]、[[都市社会学|都市社会学者]](*[[1886年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[アルフレッド・カストレル]]([[フランス]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ロバート・マリケン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[チャールズ・ハギンズ|チャールズ・ブレントン・ハギンズ]](アメリカ)、[[ペイトン・ラウス]](アメリカ) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[シュムエル・アグノン]]([[イスラエル]])、[[ネリー・ザックス]]([[スウェーデン]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - 該当者なし == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1966|date=2011年7月}} * 2月 - 3月 - 「カロシン事件」発生。アメリカの製薬会社ジェンセン社が開発した万能[[抗生物質]]「UJ44759W カロシン」(実験名K-9)の第1回臨床投与実験の際に、カロシンによって免疫バランスを崩された被験者全員が未知の病に冒されて死亡する。(小説『[[アンドロメダ病原体]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= マイケル・クライトン|authorlink=マイケル・クライトン |title = アンドロメダ病原体 |publisher = [[早川書房]] |year = 1976 |pages = 380-383 |isbn = 978-4-15-010208-1}}</ref> * 8月中旬([[ハワイ州|ハワイ]])・[[9月19日]]([[イギリス]]) - [[太陽]]方面から放たれていた情報伝達用と見られる[[赤外線]][[ビーム]]の作用によってハワイとイギリスが複製され、時間の異なる複数の地域の複製が地球上に寄せ集められた世界の一部となる。(小説『{{仮リンク|10月1日では遅すぎる|en|October the First Is Too Late}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレッド・ホイル|authorlink=フレッド・ホイル |title = 10月1日では遅すぎる |publisher = 早川書房 |year = 1976 |pages = 7,42-45,61-67,94-111 |isbn = 978-4-15-010194-7}}</ref> * [[9月15日]] - 初の「[[敬老の日]]」、イヤミと[[チビ太]]が老人に扮し、六つ子をだます。(漫画『[[おそ松くん]]』「わたひゃとひより たいせつにしてちょ」) * 怪獣11号ケムネズンを始めとする多数の怪獣が出現し、後に「怪獣の当たり年」と呼ばれるようになる。(特撮テレビ番組『[[MM9#テレビドラマ|MM9-MONSTER MAGNITUDE-]]』) * アポロX-0計画によって[[月面着陸]]を果たした宇宙飛行士ケン・アスカが月で遭難し、調査の為に月を訪れていたグラドス人に救助される。(アニメ『[[蒼き流星SPTレイズナー]]』) * 東京弾丸道路第三工区に出現した怪獣[[ウルトラQの登場怪獣#古代怪獣 ゴメス|ゴメス]]を皮切りに、たびたび地球に怪獣が現れるようになる。怪獣頻出期の到来。(特撮テレビ番組『[[ウルトラQ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 朱川湊人|authorlink=朱川湊人 |title = [[ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント]] |publisher = [[光文社]] |year = 2013 |page = 7 |isbn = 978-4-334-76663-4}}</ref> * 怪獣[[サンダ]]と[[ガイラ]]が出現。[[自衛隊]]によって[[木曽川]]で行われた「L作戦」をくぐり抜けた後、[[東京]]に現れて激突する。(映画『[[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]』){{R|FCGMG}} ** この事件を機に日本政府が第4の自衛隊として、「[[東宝特撮映画の怪獣対策組織#特生自衛隊|対特殊生物自衛隊(特生自衛隊)]]」を組織する。(映画『ゴジラ×メカゴジラ』『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』){{R|FCGMG}} * ゴジラが[[茨城県]][[東海村]]の[[原子力発電所]]を破壊。その後、日本政府は原発の開発を断念。(映画『[[ゴジラ×メガギラス G消滅作戦]]』) * [[ダーレク]]に追われる初代ドクターたちが[[エンパイア・ステート・ビル]]に到達する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * コンピュータ「ヴォータン」が疑似[[インターネット]]を創り上げ人類奴隷化計画を企む。(ドラマ『ドクター・フー』) * [[ガトウィック空港]]にて、エイリアン「カメレオン」が人間になりすまし地球の乗っ取りを画策。(ドラマ『ドクター・フー』) * カメレオンとの戦闘直後、[[ターディス]]が盗まれ2代目ドクターたちが[[1866年]]に飛ばされる。(ドラマ『ドクター・フー』) * ビッグXがナチス同盟やクロス党といった[[ネオナチ]]組織の陰謀に立ち向かい、活躍する。(漫画・アニメ『[[ビッグX]]』) * [[核戦争]]が勃発。それに誘発されて、大規模な地殻変動が発生。(映画『[[タイム・マシン 80万年後の世界へ]]』) * フランク・イェーガーと[[ビッグ・ボス]]がモザンビークで出会う。(ゲーム『[[メタルギアソリッド]]』) * 秘密裏に打ち上げられたソ連の[[火星探査機|探査機]]が[[火星]]の[[ヘラス平原|ヘラス盆地]]に落下。付着していた地球の微生物によって火星土着の生命体が汚染され、変質する。(小説『{{仮リンク|もし星が神ならば|en|If the Stars are Gods}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=グレゴリイ・ベンフォード|authorlink1=グレゴリイ・ベンフォード|author2=ゴードン・エクランド|authorlink2=:en:Gordon Eklund |title = もし星が神ならば |publisher = 早川書房 |year = 1988 |pages = 41,47-50,94 |isbn = 978-4-15-010802-1}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="FCGMG">{{Cite book|和書|title=ゴジラ×メカゴジラ|date=2002-12-30|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=[[ファンタスティックコレクション]]|page=76|chapter=ゴジラ×メカゴジラ用語辞典|isbn=4-257-03668-0}}</ref> }} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-06-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第13巻) 東京オリンピックと新幹線―昭和39年〜42年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194363-4 |ref = 昭和二万日13 }} == 関連項目 == {{Commonscat|1966}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1966ねん}} [[Category:1966年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1966%E5%B9%B4
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1965年
1965年(1965 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和40年。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1965年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和40年。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1965年の日本}} {{年代ナビ|1965}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1965 }} {{year-definition|1965}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1965年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[乙巳]](きのと み) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]40年 ** [[皇紀]]2625年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]54年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]54年 * [[仏滅紀元]]:2507年 - 2508年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1384年8月27日 - 1385年9月8日 * [[ユダヤ暦]]:5725年4月27日 - 5726年4月8日 * [[修正ユリウス日]](MJD):38761 - 39125 * [[リリウス日]](LD):139602 - 139966 <div style="font-size:smaller"> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1965}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - 中部日本新聞が[[中日新聞]]に題号を改題{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1月7日]] - [[新興勢力会議|CONEFO]]結成。 * [[1月13日]] - [[佐藤栄作|佐藤榮作]][[内閣総理大臣|首相]]、訪米<ref name="昭和二万日13、p.108">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.108]]</ref>。 * [[1月20日]] - [[日本航空]]が[[パッケージツアー]]「[[ジャルパック]]」を発売{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月21日]] - [[インドネシア]]が[[国際連合]]を脱退([[1966年|翌年]]国連に復帰)。 === 2月 === * [[2月1日]] ** 原水協から[[日本社会党|社会党]]・[[日本労働組合総評議会|総評]]系が分裂し、[[原水爆禁止日本国民会議]](原水禁)を結成<ref name="昭和二万日13、p.110">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.110]]</ref>。 ** [[大塚製薬]]が「[[オロナミンCドリンク]]」を発売。 * [[2月7日]] - [[アメリカ軍]]による[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]爆撃([[北爆]])開始。 * [[2月14日]] - [[全日本空輸]]の貨物便の[[ダグラス DC-3]]型機が、[[大阪国際空港]]を離陸後に[[静岡県]]上空で巡航中に失踪した。後に墜落していたことが判明したが、機体が発見されたのは22ヵ月後であり、そのうえ捜索範囲から大きく離れた地点であった([[全日空貨物機失踪事故]])。 * [[2月21日]] - 米、黒人運動指導者[[マルコム・X]]が{{仮リンク|マルコム・X暗殺事件|en|Assassination of Malcolm X|label=暗殺}}される。 * [[2月22日]] - [[北炭夕張炭鉱|夕張鉱業所]]でガス爆発が起こり、61人が死亡<ref name="昭和二万日13、p.116">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.116]]</ref>。 === 3月 === * [[3月1日]] - 小倉空港(後の[[北九州空港 (初代)|北九州空港]])が開港。 * [[3月6日]] - [[山陽特殊製鋼]]が倒産<ref name="昭和二万日13、p.116" />。 * [[3月8日]] - [[アメリカ海兵隊|米海兵隊]]、[[ダナン]]上陸。 * [[3月10日]] - [[富士山レーダー]]観測開始<ref name="昭和二万日13、p.120-121">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.120-121]]</ref>。 * [[3月14日]] - 作家・[[戸川幸夫]]が[[沖縄県|沖縄]]・[[西表島]]で頭骨と毛皮を発見したヤマネコが新種と鑑定された。「[[イリオモテヤマネコ]]」と命名。 * 3月14日 - [[札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件]] * [[3月15日]] - [[東京都議会]]議長選挙をめぐる[[賄賂罪|贈収賄]]容疑で都議会議員が逮捕される。以降[[4月16日]]に現職の議長を含む17名の都議会議員が、別に発覚した許認可に係る贈収賄容疑も合わせて逮捕、起訴される。 * [[3月18日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[アレクセイ・レオーノフ]]中佐、人類初の[[宇宙遊泳]]を行う。 * [[3月19日]] - [[にんべん]]が「つゆの素」を発売。 * [[3月20日]] - [[トヨタ自動車]]が「[[トヨタ・スポーツ800|スポーツ800]]」を発売。 * [[3月21日]] - [[資生堂]]が「サンオイル」を発売。 * [[3月24日]] ** [[日産自動車]]が「[[日産・シルビア|シルビア]]」を発売。 ** [[河川法]]制定により[[荒川放水路]]が[[荒川 (関東)|荒川]]本流となり、これに伴い荒川[[流路形状#旧河道|旧河道]]の名称が、それまで[[白鬚橋]]辺りから下流<ref>{{Cite web|和書|title=あらかわを知る|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/kankojoho/yokoso/shiru.html#cms42B0B|publisher=荒川区|accessdate=2017-05-25}}</ref> の[[通称|俗称]]であった「[[隅田川]]」となる<ref>{{Cite web|和書|title=すみだ区報(墨田区のお知らせ「すみだ」) 2015年3月21日号|url=https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/150321/kuhou01.html|publisher=墨田区|accessdate=2017-05-25}}</ref>。 * [[3月28日]] - [[チリ]]で[[チリ沖地震|大地震]]発生。 * [[3月29日]] - [[麒麟麦酒]]が「プルトップ缶ビール」を発売、飲料業界に普及。 === 4月 === * [[4月]] - 大手[[新聞社]]各社が[[日曜日]]の[[夕刊]]発行を休止。 * [[4月1日]] ** 初の国産旅客機[[YS-11]]が就航。 ** [[東京電力ホールディングス|東京電力]]が電気料金の[[銀行]][[口座自動振替|口座振替]]制を開始。 ** [[サトウサンペイ]]の[[4コマ漫画]]「[[フジ三太郎]]」が[[朝日新聞]]夕刊で連載開始<ref>[[1979年]]に朝刊に移行、[[1991年]][[9月30日]]に連載終了。</ref><ref name="昭和二万日13、p.123">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.123]]</ref>。 * [[4月5日]] - [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]、『[[スタジオ102]]』放送開始([[1980年]]3月終了)。 * [[4月24日]] ** アメリカの北爆に反対し[[小田実]]らが「[[ベトナムに平和を!市民連合|ベトナムに平和を!市民・文化団体連合]]」(ベ平連)を結成<ref name="昭和二万日13、p.126">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.126]]</ref>。 ** 全国社会福祉協議会、子供の遊び場点検運動を実施、安全な遊び場の充実を要望。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]、『[[小川宏ショー]]』放送開始([[1982年]]3月終了)。 * [[5月3日]] - [[文化放送]]、[[ニッポン放送]]等の[[民間放送|民放]][[ラジオ局]]で構成される[[全国ラジオネットワーク]](NRN)発足。 * [[5月9日]] - [[日本アイスクリーム協会]]、前年に東京で行なわれたイベントにちなみ、この日を「[[アイスクリーム]]の日」に指定。 * [[5月10日]] ** [[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]が[[フジサンケイグループ]]に売却され、サンケイスワローズに改称される([[1966年]]からサンケイアトムズとなる)。 ** [[日本勧業銀行]]の職域信用組合・互援会信用組合が、地域信用組合に転換し[[第一勧業信用組合|日本勧業信用組合]]に。 * [[5月23日]] - [[室蘭港]]で[[ノルウェー]]船籍のタンカー「ヘイムバード号」が、操船ミスで桟橋に衝突・炎上する事故が発生。6月18日に鎮火するまで28日間も燃え続け、船員10名が死亡する<ref name="昭和二万日13、p.132">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.132]]</ref>。 === 6月 === * [[6月1日]] - [[三井山野炭鉱|山野炭鉱]]ガス爆発。237人が死亡、279人が重軽傷<ref name="昭和二万日13、p.134-135">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.134-135]]</ref>。 * [[6月3日]] ** 佐藤栄作首相が[[内閣改造]]を断行、[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|第1次佐藤第1次改造内閣]]が発足<ref name="昭和二万日13、p.134">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.134]]</ref>。 ** [[東京都議会黒い霧事件]]に起因する[[リコール (地方公共団体)|解散リコール]]運動への対応として、[[自由民主党 (日本)|自民党]]主導により[[地方公共団体の議会の解散に関する特例法]]が急きょ制定、施行される<ref name="昭和二万日13、p.134" />。 * [[6月6日]] - [[日本サッカーリーグ]]が開幕<ref name="昭和二万日13、p.134" />。 * [[6月7日]] - [[東武鉄道]][[東武宇都宮線|宇都宮線]]に[[おもちゃのまち駅]]が開業。当時としては珍しいひらがな名称駅の誕生となった。 * [[6月12日]] - [[家永三郎]][[東京教育大学]]教授が、[[教科書検定]]は違憲であるとして提訴<ref name="昭和二万日13、p.134" />。 * [[6月14日]] - 地方公共団体の議会解散に関する特例法に基づき、東京都議会が地方公共団体の議会で初めての自主解散<ref name="昭和二万日13、p.138">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.138]]</ref>。 * [[6月18日]] - [[有楽町駅]]前に[[東京交通会館]]が完成。 * [[6月22日]] - [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約]]締結(通称・日韓基本条約)、[[財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定]]締結<ref name="昭和二万日13、p.138" />。 * [[6月29日]] - [[アメックス銀行22万ドル盗難事件]]発生。 === 7月 === * [[7月1日]] - [[名神高速道路]]が全線(小牧-西宮間)開通<ref name="昭和二万日13、p.144">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.144]]</ref>。 * [[7月4日]] - [[第7回参議院議員通常選挙]]<ref name="昭和二万日13、p.144" />。 * [[7月5日]] - [[吉展ちゃん事件]]の容疑者の自供により、被害者の遺体が発見される<ref name="昭和二万日13、p.144-145">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.144-145]]</ref>。 * [[7月7日]] - [[白元アース|鎌田商会]]が「アイスノン」を発売<ref name="昭和二万日13、p.145">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.145]]</ref>。 * [[7月15日]] ** [[日医工]]設立。 ** [[創価学会]]の[[機関紙]]である「[[聖教新聞]]」が日刊化。 * [[7月17日]] - [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[アナハイム]]にある[[ディズニーランド]]が開園10周年。 * [[7月22日]] - [[国会 (日本)|第49臨時国会]]召集([[8月11日]]閉会)。 * [[7月29日]] - [[少年ライフル魔事件]]発生、警察官1人死亡<ref name="昭和二万日13、p.148">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.148]]</ref>。 === 8月 === * [[8月3日]] - [[長野県]][[松代町 (長野県)|松代町]]で地震、約5年間続く[[松代群発地震]]の始まり<ref name="昭和二万日13、p.148" />。 * [[8月9日]] - [[シンガポール]]が[[マレーシア]]から独立。 * [[8月10日]] - [[ジャパンエナジー|共同石油]]設立。 * [[8月13日]] - [[ライオン (企業)|ライオン油脂]]が「エメロンシャンプー」を発売。 * [[8月19日]] - 佐藤首相、[[太平洋戦争]]後総理大臣として初めて[[沖縄県]]訪問<ref name="昭和二万日13、p.150">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.150]]</ref>。 * [[8月29日]] - [[TBSテレビ|TBS]]で[[藤子不二雄]]原作のテレビアニメ『[[オバケのQ太郎 (アニメ)|オバケのQ太郎]]』放送開始。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[インド]]と[[パキスタン]]軍が[[カシミール]]で衝突([[第二次印パ戦争]]勃発)。 * [[9月13日]] - [[1970年]]、[[日本万国博覧会]]が大阪で開催される事が決定<ref name="昭和二万日13、p.156">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.156]]</ref>。 * [[9月18日]] - [[池谷薫 (アマチュア天文家)|池谷薫]]と[[関勉]]がほぼ同時に彗星を発見。[[池谷・関彗星 (C/1965 S1)|池谷・関彗星]]と名前がつく。 * [[9月24日]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が[[みどりの窓口]]開設<ref name="昭和二万日13、p.158">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.158]]</ref>。 * [[9月30日]] - [[インドネシア]]で[[クーデター]]未遂([[9月30日事件]])。 === 10月 === * [[10月1日]] ** 国鉄が[[1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正|大ダイヤ改正]]を実施。 ** [[花王|花王石鹸]]が「テンダーリンス」を発売。 ** [[大阪市営地下鉄四つ橋線]]の[[西梅田駅]] - [[大国町駅]]間が開業。 * [[10月2日]] - [[朝永振一郎]]の[[ノーベル物理学賞]]受賞が決定。 * [[10月5日]] ** [[昭和40年台風第29号|台風29号]]のためマリアナ海域でカツオ漁船7隻が集団遭難。死者・行方不明209人([[マリアナ海域漁船集団遭難事件]])。 ** [[国会 (日本)|第50臨時国会]]召集([[12月13日]]閉会)<ref name="昭和二万日13、p.160">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.160]]</ref>。 * [[10月6日]] ** [[ブルーボーイ事件]]で性転換手術をした医師を取り調べ<ref name="昭和二万日13、p.160" />。 ** 日本最初の[[色|カラー]][[テレビアニメ]]『[[ジャングル大帝]]』放送開始([[フジテレビジョン|フジテレビ]])<ref name="昭和二万日13、p.160" />。 * [[10月14日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]が2年ぶり[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝。 * [[10月24日]] - [[フォーミュラ1|F1]][[メキシコグランプリ|メキシコGP]]で[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]が初優勝。 * [[10月25日]] - [[日本万国博覧会|大阪万博]]のテーマが「人類の進歩と調和」に決定<ref name="昭和二万日13、p.160">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.160]]</ref>。 === 11月 === * [[11月1日]] ** [[東海道新幹線]]「[[ひかり (列車)|ひかり]]」が[[東京駅|東京]] - [[新大阪駅|新大阪]]間で当初予定の3時間10分運転を開始<ref name="昭和二万日13、p.164">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.164]]</ref>。 ** [[東京都水道局]]が水道料金の銀行口座振替制を開始。 * [[11月2日]] ** [[1965年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は巨人が[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]を4勝1敗で下し2年ぶり日本一。 ** [[大阪国際空港]]において、23時から翌朝5時までの深夜の[[ジェット機]]離着陸が原則禁止となる。 * [[11月8日]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で深夜番組の『[[11PM]]』放送開始(同局では同日、子供番組『[[おはよう!こどもショー]]』放送開始)<ref name="昭和二万日13、p.164" />。 * [[11月9日]] - フィリピン、[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]][[大統領]]当選。 * 11月9日~[[12月12日]] - [[古谷惣吉連続殺人事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]105号事件)が発生。[[西日本]]([[近畿地方]]・[[九州|九州地方]])で独居老人8人が相次いで殺害された。加害者・古谷惣吉は指名手配された12月12日に[[兵庫県]]内で現行犯[[逮捕 (日本法)|逮捕]]。 * [[11月10日]] - [[中華人民共和国|中国]]で[[文化大革命]]が始まる。 * [[11月11日]] - [[ローデシア]]、独立を宣言。 * [[11月13日]] - [[南海蔭山新監督急死騒動]]。 * [[11月17日]] - [[1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球第1回ドラフト会議]]が行われる<ref name="昭和二万日13、p.166">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.166]]</ref>。 * [[11月19日]] - 戦後初の「[[赤字国債]]」発行が閣議で決定<ref name="昭和二万日13、p.166" />。 * [[11月25日]] - [[コンゴ民主共和国]]で[[モブツ・セセ・セコ|ジョゼフ=デジレ・モブツ]]が[[クーデター]]を起こし、独立以来続いてきた混乱([[コンゴ動乱]])が事実上終結<ref>{{Cite web|url=http://www.content.eisa.org.za/old-page/drc-constitutional-crisis-between-kasavubu-and-tshombe|title=DRC: Constitutional Crisis between Kasavubu and Tshombe|publisher=Electoral Institute for Sustainable Democracy in Africa (EISA)|language=英語|accessdate=2014-09-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140725065303/http://www.content.eisa.org.za/old-page/drc-constitutional-crisis-between-kasavubu-and-tshombe|archivedate=2014年07月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 === 12月 === * [[12月10日]] - 日本、[[国際連合安全保障理事会]]の非常任理事国に当選<ref name="昭和二万日13、p.170">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.170]]</ref>。 * [[12月15日]] - アメリカの宇宙船[[ジェミニ6-A号]]と[[ジェミニ7号|7号]]が初の[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]飛行に成功。 * [[12月16日]] - [[名阪国道]]が開通<ref name="昭和二万日13、p.172">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.172]]</ref>。 * [[12月20日]] - [[国会 (日本)|第51国会]]召集([[1966年]][[6月27日]]閉会)<ref name="昭和二万日13、p.172" />。 === 日付不詳 === * [[東京都]][[渋谷区]]の[[原宿]]([[神宮前 (渋谷区)|神宮前]])に[[日本初]]の[[億ション]]である高級[[マンション]]「[[コープ・オリンピア]]」完成。 == 周年 == <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください、また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 --> 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。 * [[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]関連、終結から20年。 ** [[1月27日]] - [[ソビエト連邦]]軍による[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]解放。 ** [[2月4日]]〜[[2月11日]] - [[ヤルタ会談]]。 ** [[2月19日]]〜[[3月26日]] - [[硫黄島の戦い]]。 ** [[3月10日]] - [[東京大空襲]]。 ** [[3月27日]]〜[[6月20日]] - [[沖縄戦]]。 ** [[4月7日]] - [[大日本帝国海軍]]の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]撃沈。 ** [[4月16日]]〜[[5月8日]] - [[ベルリンの戦い]]。 ** [[4月30日]] - [[アドルフ・ヒトラーの死|アドルフ・ヒトラーが自殺]]。 ** [[8月6日]] - [[広島市への原子爆弾投下]]。 ** [[8月9日]] - [[長崎市への原子爆弾投下]]。 ** [[8月11日]]〜[[8月25日]] - [[樺太の戦い (1945年)]] 。 ** [[8月14日]] - 日本が[[ポツダム宣言]]受諾。 ** [[8月15日]] - [[終戦の日]]。 ** [[9月2日]] - [[日本の降伏文書]]調印により[[太平洋戦争]]終戦。 * [[2月26日]] - [[サンケイスポーツ]]創刊10周年。 * [[3月22日]] - [[日本放送協会|NHK]]ラジオ放送([[NHKラジオ第1放送]])開始<!--仮放送、本放送は[[7月12日]]-->40周年。 * [[4月5日]] - [[原爆ドーム]](当時は広島県物産陳列館)竣工50周年。 * [[4月14日]] - [[リンカーン大統領暗殺事件]]から100年。 * [[5月5日]] - 日本で[[普通選挙法]]施行40周年(当時は25歳以上の男性に投票権があった)。 * [[5月25日]] - [[ヤナセ]]創立50周年。 * [[8月3日]] - 少女漫画雑誌『[[りぼん]]』([[集英社]])創刊10周年。 * [[9月5日]] - [[日露戦争]]による日露講和条約([[ポーツマス条約]])締結60周年。 * [[10月]] - 日本の[[宝くじ]]発売開始20周年。 * [[10月10日]] - [[朝鮮労働党]]結党20周年。 * [[10月24日]] - [[国際連合]]発足20周年。 * [[12月10日]] - [[阪神タイガース]]創設30周年。 * 日本で[[女性参政権]]獲得20周年。 * [[全国高等学校野球選手権大会]]50周年(旧制中学時代を含む)。 == スポーツ == {{see also|1965年のスポーツ}} * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[佐田の山晋松]] ** 春場所 [[大鵬幸喜]] ** 夏場所 佐田の山晋松 ** 名古屋場所 大鵬幸喜 ** 秋場所 [[柏戸剛]] ** 九州場所 大鵬幸喜 * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] ** [[1965年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ(4勝1敗) ** 第1回[[プロ野球ドラフト会議]]開催。 == 芸術・文化 == === 音楽 === {{see also|1965年の音楽}} * ヒット曲/話題曲 ** [[ローリング・ストーンズ]] 「[[サティスファクション]]」「[[一人ぼっちの世界]]」 ** [[ボブ・ディラン]] 「[[ライク・ア・ローリング・ストーン]]」 ** [[テンプテーションズ]] 「[[マイ・ガール (テンプテーションズの曲)|マイ・ガール]]」「ゲット・レディ」 ** [[ジェームス・ブラウン]] 「パパのニュー・バッグ」「アイ・ガット・ユー」 ** [[ウィルソン・ピケット]] 「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」 ** バーバラ・メイソン 「イエス・アイム・レディ」 ** スモーキー・ロビンソン&[[スモーキー・ロビンソン|ザ・ミラクルズ]] 「[[トラックス・オブ・マイ・ティアーズ]]」「[[ウー・ベイビー・ベイビー]]」 ** [[フォー・トップス]] 「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」 ** [[ライチャス・ブラザーズ]] 「ふられた気持ち」 ** スパイダース「フリフリ」 ** [[西郷輝彦]]「[[星娘]]」 ** [[デューク・エイセス]]「[[女ひとり]]」 ** [[三田明]]&[[吉永小百合]]「[[明日は咲こう花咲こう]]」 ** [[倍賞千恵子]]「[[さよならはダンスの後で]]」 ** [[山田太郎 (歌手)|山田太郎]] 「[[新聞少年]]」 ** [[田代美代子]]&[[和田弘とマヒナスターズ]] 「[[愛して愛して愛しちゃったのよ]]」 ** [[西田佐知子]] 「[[赤坂の夜は更けて/女の意地]]」 ** [[北島三郎]]「[[帰ろかな]]」 === 映画 === {{see also|1965年の映画}} * [[気狂いピエロ]](監督:[[ジャン=リュック・ゴダール]])[仏・伊] * [[国際諜報局]][英] * [[サウンド・オブ・ミュージック]](米) アカデミー賞 * [[007 サンダーボール作戦]][英・米] * [[ダーリング (映画)|ダーリング]][英] * [[ドクトル・ジバゴ (1965年の映画)|ドクトル・ジバゴ]](監督:[[デヴィッド・リーン]])[米・伊] * [[メリー・ポピンズ]](米) * [[赤ひげ]](監督:[[黒澤明]]) * [[網走番外地 (東映)|網走番外地]]シリーズ第1作公開 * [[飢餓海峡#1965年(映画)|網走番外地]](監督:[[内田吐夢]]) * [[怪獣大戦争]] * [[フランケンシュタイン対地底怪獣]] * [[大怪獣ガメラ]] * [[勇者のみ (1965年の映画)|勇者のみ]] * [[大冒険]] === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第53回(1965年上半期) - [[津村節子]] 『玩具』 ** 第54回(1965年下半期) - [[高井有一]] 『北の河』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第53回(1965年上半期) - [[藤井重夫]]『虹』 ** 第54回(1965年下半期) - [[新橋遊吉]]『八百長』、[[千葉治平]]『虜愁記』 * [[江戸川乱歩賞]] ** 第11回 - [[西村京太郎]]『天使の傷痕』 === テレビ === {{see also|1965年のテレビ (日本)}} * [[大河ドラマ]] [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] 出演:[[緒形拳]]、[[高橋幸治]] * [[連続テレビ小説]] [[たまゆら (テレビドラマ)|たまゆら]] * [[ザ・ガードマン]]([[TBSテレビ|TBS]]テレビ) 出演:[[宇津井健]] * [[金曜夜席]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) 司会:[[立川談志]] ([[長寿番組の一覧|長寿番組]] [[笑点]]の前身番組) * [[踊って歌って大合戦]](日本テレビ) 司会:[[林家三平 (初代)|林家三平]] * [[小川宏ショー]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) 司会:[[小川宏]]、[[露木茂]]、[[木元教子]] * [[アフタヌーンショー]]([[テレビ朝日|NETテレビ]]) 司会:[[榎本猛]]、[[桂小金治]]など * [[11PM]](日本テレビ) 司会:[[大橋巨泉]]、[[愛川欽也]]、[[藤本義一 (作家)|藤本義一]] === ラジオ === {{see also|1965年のラジオ (日本)}} * [[5月3日]]、[[全国ラジオネットワーク]](NRN)発足。 * 「[[テレフォン人生相談]]」([[ニッポン放送]])放送開始。現在も放送中。 * [[3月29日]]「[[0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです]]」([[CBCラジオ]])放送開始。[[2008年]][[3月30日]]まで放送。 === 広告宣伝 === * コマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |わたしにも写せます||フジカ・シングル8||[[富士フイルム]]||[[扇千景]]||- |- |のんでますか?||[[アリナミン]]A||[[武田薬品工業]]||[[三船敏郎]]||- |- |ファイトで行こう!||[[リポビタンD]]||[[大正製薬]]||[[王貞治]]||- |- |おいしいとメガネが落ちるんですよ||[[オロナミンCドリンク|オロナミンC]]||[[大塚製薬]]||[[大村崑]]||- |- |特級をもしのぐ一級||[[ブラックニッカ|新ブラックニッカ]]||[[ニッカウヰスキー]]||-||- |- |} === 流行語 === * [[ブルーフィルム (ポルノグラフィ)|ブルーフィルム]] * [[フィーリング]] * [[モーテル]] * [[やったるで]]([[金田正一]]) == 誕生 == {{see also|Category:1965年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[池田直隆]]、国際政治学者 * [[1月3日]] - [[笠浩史]]、民主党所属の衆議院議員 * [[1月4日]] - [[イヴァン・アタル]]、[[映画監督]] * 1月4日 - [[一本木蛮]]、漫画家 * 1月4日 - [[中村達也 (1965年生のドラマー)|中村達也]]、ミュージシャン・[[ドラマー]] * 1月4日 - [[宮下昌己]]、元[[プロ野球選手]] * [[1月5日]] - [[佐久間レイ]]、声優 * [[1月6日]] - [[麗美]]、[[シンガーソングライター]] * 1月6日 - [[土谷正実]]、元[[オウム真理教]]幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[1月7日]] - [[高島覚]]、元プロ野球選手 * [[1月8日]] - [[宮城宗典]]、ミュージシャン([[ヒルビリー・バップス]])(+[[1988年]]) * 1月8日 - [[鎌田さゆり]]、政治家 * [[1月9日]] - [[一路真輝]]、[[俳優|女優]](元[[宝塚歌劇団]]トップスター) * [[1月10日]] - [[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]]、[[漫才師]]・[[お笑いタレント]]([[爆笑問題]]) * [[1月12日]] - [[麻生侑里]]、女優・[[声優]] * [[1月13日]] - [[嵐広也]]、歌舞伎、俳優 * [[1月14日]] - [[寺西裕一]]、[[フリーアナウンサー]] * [[1月15日]] - [[三柴理]]、[[ピアニスト]]、[[キーボディスト]]、[[作曲家]]([[特撮 (バンド)|特撮]]) * [[1月16日]] - [[岸浩太郎]]、俳優・歌手 * [[1月17日]] - [[青木美枝]]、元フジテレビアナウンサー * 1月17日 - [[西俊児]]、元プロ野球選手 * [[1月19日]] - [[相沢まさき|相沢正輝]]<ref name="thetv">{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000069550/|title=相沢正輝(あいざわまさき)のプロフィール・画像・出演スケジュール【スタスケ】(0000069550)|publisher=ザテレビジョン|accessdate=2020-11-05}}</ref>、声優 * 1月19日 - [[今村暢孝]]、競艇選手 * 1月19日 - [[横堀久雄]]、アニメーター * [[1月20日]] - [[ケビン・マース]]、元プロ野球選手 * [[1月21日]] - [[今給黎教子]]、海洋冒険家 * 1月21日 - [[佳つ乃]]、[[芸妓]] * [[1月22日]] - [[ダイアン・レイン]]、女優 * [[1月24日]] - [[広石武彦]]、ミュージシャン(元[[UP-BEAT]])、作曲家 * 1月24日 - [[マイク・アルフォンソ]]、元プロレスラー(+[[2007年]]) * [[1月27日]] - [[伊東乾 (作曲家)|伊東乾]]、[[作曲家]] * 1月27日 - [[馬場伸幸]]、政治家 * [[1月28日]] – [[ヘルマン・ボイマー]]、ドイツの[[バストロンボーン]]奏者、指揮者 * [[1月29日]] - [[櫻田淳]]、[[政治学者]] * 1月29日 - [[ドミニク・ハシェック]]、元アイスホッケー選手、[[チェコ]] * [[1月30日]] - [[青山穣]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/person/100505/|title=青山 穣 : 声優情報|work=アニメハック|publisher=映画.com|accessdate=2021-01-10}}</ref>、声優 * [[1月31日]] - [[オーフラ・ハーノイ]]、[[チェリスト]] === 2月 === * [[2月1日]] - [[水島康貴]]、作曲家 * [[2月4日]] - [[森浩之]]、元[[プロ野球選手]] * 2月4日 - [[中島恵利華]]、[[プロゴルファー]] * [[2月5日]] - [[荘真由美]]、声優 * 2月5日 - [[ゲオルゲ・ハジ]]、元[[サッカー選手]] * [[2月8日]] - [[佐川光晴]]、作家 * 2月8日 - [[長沼洋]]、将棋棋士 * 2月8日 - [[小島一宏]]、フリーアナウンサー * [[2月9日]] - [[クリスチャン・シェンク]]、[[陸上競技]]選手 * 2月9日 - [[雲野右子]]、ニュースキャスター * [[2月10日]] - [[井上あずみ]]、[[歌手]] * 2月10日 - [[馬場敏史]]、元プロ野球選手 * 2月10日 - [[山中賢次]]、元プロ野球選手 * 2月10日 - [[知久寿焼]]、バンド、[[たま (バンド)|たま]] * [[2月11日]] - [[栗林誠一郎]]、[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]] * [[2月12日]] - [[後藤明美]]、元プロ野球選手 * 2月12日 - [[ルーベン・アマロ・ジュニア]]、[[メジャーリーガー]] * [[2月13日]] - [[南原清隆]]、お笑いタレント([[ウッチャンナンチャン]]) * 2月13日 - [[ヒロミ]]、[[タレント]]([[B21スペシャル]]) * 2月13日 - [[優希比呂]]<ref>{{Cite book|和書|title=日本音声製作者名鑑2007|page=115|publisher=[[小学館]]|date=2007-03-25|isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>、声優 * [[2月15日]] - [[ウルトラマンロビン]]、プロレスラー * [[2月17日]] - [[吹越満]]、[[俳優]] * 2月17日 - [[マイケル・ベイ]]、[[映画監督]] * [[2月18日]] - [[斎藤雅樹]]、元プロ野球選手 * 2月18日 - [[おーなり由子]]、[[絵本作家]]・[[漫画家]] * 2月18日 - [[石井ヒトシ]]、ミュージシャン([[THE SLUT BANKS]]、[[BAD SiX BABiES]]) * 2月18日 - [[水沢薫]]、プロ野球選手(+ [[2014年]]) * 2月18日 - [[馳星周]]、小説家 * 2月18日 - [[ドクター・ドレー]]、ラッパー、プロデューサー * [[2月19日]] - [[木俣佳丈]]、実業家 * 2月19日 - [[岡本久美子]]、元プロ[[テニス]]選手 * [[2月21日]] - [[根本幸典]]、政治家 * [[2月23日]] - [[前田政二]]、[[放送作家]]・[[タレント]] * [[2月25日]] - [[シルヴィ・ギエム]]、[[バレエ]]ダンサー * 2月25日 - [[スザンナ・ラハカモ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[2月26日]] - [[赤石光生]]、レスリング選手 * 2月26日 - [[天間昭一]]、元[[騎手]]・[[調教師]] * 2月26日 - [[島袋修]]、プロ野球選手 * [[2月27日]] - [[フランク・ペーター・ツィンマーマン]]、[[ヴァイオリン]]奏者 * 2月27日 - [[小野敏洋]]、漫画家 * [[2月28日]] - [[磯崎憲一郎]]、作家 * 2月28日 - [[長澤雅彦]]、映画監督 === 3月 === * [[3月1日]] - [[笠原昌春]]、プロ野球審判員 * 3月3日 - [[島田亨]]、[[実業家]]、[[楽天グループ|楽天]]野球団社長 * 3月3日 - [[ドラガン・ストイコビッチ]]、[[名古屋グランパスエイト]]監督、元サッカー選手 * [[3月4日]] - [[小谷真生子]]、元日本航空キャビンアテンダント、フリーアナウンサー * 3月4日 - [[丸山敬太]]、服飾デザイナー * [[3月5日]] - [[三宅雪子]]、元[[政治家]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |date=2020-01-07 |url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54060830W0A100C2CC1000/ |title= 三宅雪子元衆院議員が自殺か 海岸付近で遺体発見 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2020-11-03}}</ref>) * [[3月6日]] - [[清水キョウイチ郎]]、お笑いタレント(+ [[2006年]]) * 3月6日 - [[城土大治朗]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月7日]] - [[宮里太]]、元プロ野球選手 * [[3月8日]] - [[あかほりさとる]]、[[小説家]]・[[ライトノベル]]作家 * 3月8日 - [[大橋秀行]]、[[プロボクサー]] * 3月8日 - [[田辺学]]、元プロ野球選手 * [[3月9日]] - [[ベニート・サンティアゴ]]、[[メジャーリーガー]] * [[3月10日]] - [[飯口美穂]]、女優 * [[3月11日]] - [[中井美穂]]、元[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * 3月11日 - [[三木谷浩史]]、[[実業家]]、[[楽天グループ]]創業者 * 3月11日 - [[古本伸一郎]]、政治家 * [[3月12日]] - [[勝俣州和]]、タレント * 3月12日 - [[きむらひでふみ]]、[[脚本家]]、[[メカニックデザイナー]] * 3月12日 - [[ショーン・ギルバート]]、元プロ野球選手 * 3月12日 - [[スティーブ・フィンリー]]、元[[メジャーリーガー]] * [[3月13日]] - 小里誠、ミュージシャン([[ザ・コレクターズ]]) * 3月13日 - [[鳥居かほり]]、女優 * [[3月14日]] - [[工藤雪枝]]、[[ジャーナリスト]] * 3月14日 - [[ケビン・ブラウン]]、メジャーリーガー * [[3月15日]] - [[SEIGO]]、俳優 * [[3月16日]] - [[湯浅政明]]、[[監督|アニメーション監督]]、[[脚本家]]、[[デザイナー]]、[[アニメーター]] * 3月16日 - [[鳥越まり]]、タレント・女優・歌手 * 3月16日 - [[南利幸]]、気象予報士 * [[3月17日]] - [[中條健一]]、お笑いタレント * 3月17日 - [[広瀬真二]]、元プロ野球選手 * 3月17日 - [[夏野剛]]、実業家 * [[3月18日]] - [[洞口依子]]、女優 * [[3月20日]] - [[川田妙子]]、[[声優]] * [[3月21日]] - [[山崎和佳奈]]、[[声優]] * 3月21日 - [[ティム・マッキントッシュ]]、元プロ野球選手 * [[3月22日]] - [[石川小百合]]、フリーアナウンサー * [[3月23日]] - [[ペーター・シールゲン]]、調教師、元騎手 * [[3月24日]] - [[ジ・アンダーテイカー]]、プロレスラー * [[3月25日]] - [[サラ・ジェシカ・パーカー]]、女優 * [[3月26日]] - [[伊藤佳子]]、[[文化放送]]アナウンサー * [[3月27日]] - [[平沼定晴]]、元プロ野球選手 * 3月27日 - [[平田信]]、[[オウム真理教]]の元幹部 [[オウム真理教事件]]実行犯の1人 * [[3月29日]] - [[熊谷直樹]]、[[競艇]]選手 * [[3月30日]] - [[破矢ジンタ]]、音楽[[バンド (音楽)|バンド]]、[[JITTERIN'JINN|Jitterin' Jinn]] === 4月 === * [[4月1日]] - [[ジェーン・アダムス (女優)|ジェーン・アダムス]]、女優 * [[4月2日]] - [[金月真美]]、声優 * [[4月3日]] - [[篠原英明]]、実業家、[[シノケン]]創業者 * 4月3日 - [[伊藤雄彦]]、NHKアナウンサー * 4月3日 - [[大榎克己]]、元[[サッカー選手]] * [[4月4日]] - [[ロバート・ダウニー・Jr]]、俳優 * 4月4日 - [[エレイン・ザヤック]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月7日]] - [[小林靖子]]、脚本家 * 4月7日 - [[安田淳]]、[[TBSテレビ|TBS]]プロデューサー * [[4月13日]] - [[藤王康晴]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月14日]] - [[大岳宗正]]、元大相撲力士 * [[4月15日]] - [[野口聡一]]、[[宇宙飛行士]] * 4月15日 - [[クラウディア・ライストナー]]、フィギュアスケート選手 * 4月15日 - [[鳴沢真也]]、[[天文学者]] * [[4月17日]] - [[武内陶子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * 4月17日 - [[黒田崇矢]]、声優・俳優 * 4月17日 - [[クレイグ・ワーシントン]]、元プロ野球選手 * [[4月18日]] - [[高橋功一 (1965年生の投手)|高橋功一]]、元プロ野球選手 * 4月18日 - [[高橋美穂 (政治家)]] * [[4月19日]] - [[城内実]]、[[政治家]] * [[4月20日]] - [[吉井理人]]、元プロ野球選手 * [[4月22日]] - [[長谷有洋]]、声優・[[俳優]](+ [[1996年]]) * [[4月23日]] - [[前田亘輝]]、[[ボーカリスト]]([[TUBE]]) * 4月23日 - [[村松栄紀]]、[[レーシングドライバー]](+ [[1990年]]) * [[4月24日]] - [[豊島まさみ]]、声優 * [[4月24日]] - [[ソン・チャンミン]]、俳優 * 4月24日 - [[岸川勝也]]、元プロ野球選手 * 4月24日 - [[マイケル・ブロワーズ]]、元プロ野球選手 * [[4月26日]] - [[タンク・アボット]]、[[総合格闘家]] * [[4月27日]] - [[西原久美子]]、声優 * 4月27日 - [[ボブ・マクドナルド]]、元プロ野球選手 * [[4月28日]] - [[竹本孝之]]、[[歌手]]・俳優 * [[4月29日]] - [[滝川真子]]、[[ポルノ女優]] * 4月29日 - [[桜井伸一]]、元プロ野球選手 * [[4月30日]] - [[清原正博]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー === 5月 === * [[5月1日]] - [[岩代太郎]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]] * [[5月2日]] - [[本田恭章]]、[[ミュージシャン]] * 5月2日 - [[フェリックス・ホセ]]、[[メジャーリーガー]] * [[5月3日]] - [[野村宏伸]]、俳優 * [[5月4日]] - [[杉田あきひろ]]、歌手・俳優 * [[5月5日]]- [[大橋隆志]]、[[ミュージシャン]](元[[聖飢魔II]]) * [[5月6日]] - [[吉田美和]]、ミュージシャン([[DREAMS COME TRUE|ドリームズ・カム・トゥルー]]) * [[5月7日]] - [[上川隆也]]、俳優 * [[5月8日]] - [[さくらももこ]]、[[漫画家]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL8W6K22L8WUCVL03K.html|title=さくらももこさん、乳がんで死去 「ちびまる子ちゃん」|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-08-27|accessdate=2020-11-11}}</ref>) * 5月8日 - [[稲船敬二]]、[[ゲームクリエイター]] * 5月8日 - [[河井英里]]、歌手・[[作詞家]](+ [[2008年]]) * [[5月9日]] - [[スティーブ・アイザーマン]]、[[アイスホッケー選手]] * 5月9日 - [[内海敏彦 (俳優)|内海敏彦]]、元俳優、声優 * [[5月10日]] - [[小川浩一]]、元[[プロ野球選手]] * 5月10日 - [[草刈民代]]、[[バレエ]]ダンサー・女優 * 5月10日 - [[水野きみこ]]、元歌手・タレント * 5月10日 - [[梁田清之]]、声優(+ [[2022年]]) * [[5月12日]] - [[奥田民生]]、ミュージシャン([[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]) * 5月12日 - [[紀藤真琴]]、元プロ野球選手 * 5月12日 - [[秋人]]、アーティスト * [[5月13日]] - [[太田光]]、漫才師・お笑いタレント(爆笑問題) * [[5月15日]] - [[ライムンド・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ|ライー]]、元サッカー選手 * [[5月19日]] - [[鳥海龍秀俊]]、元大相撲力士 * [[5月20日]] - [[丹波健二]]、元プロ野球選手 * 5月20日 - [[トッド・ストットルマイヤー]]、メジャーリーガー * 5月20日 - [[伊藤裕二]]、元サッカー選手 * 5月20日 - [[佐藤晃 (ミュージシャン)|佐藤晃]]、ミュージシャン([[infix]]) * [[5月21日]] - [[原田貴和子]]、女優 * [[5月22日]] - [[錦織一清]]、歌手・タレント([[少年隊]]) * 5月22日 - [[亀田史郎]]、[[ボクシング]]トレーナー * 5月22日 - [[野中徹博]]、元プロ野球選手 * [[5月23日]] - [[ウルフルケイスケ]]、ミュージシャン([[ウルフルズ]]) * 5月23日 - [[山口勝平]]、声優 * [[5月24日]] - [[小林聡美]]、女優 * [[5月24日]] - [[村木藤志郎]]、俳優・劇作家([[うわの空・藤志郎一座]]) * 5月24日 - [[ロブ・デューシー]]、元プロ野球選手 * [[5月25日]] - [[押谷かおり]]、女優 * [[5月27日]] - [[麻路さき]]、元宝塚歌劇団トップスター * 5月27日 - [[礒田由和]]、元プロサッカー選手 * [[5月28日]] - [[福島敬光]]、プロ野球選手 * [[5月29日]] - [[大桃美代子]]、女優・タレント * 5月29日 - [[香田勲男]]、元プロ野球選手 * 5月29日 - [[藤村忠寿]]、[[水曜どうでしょう]]チーフディレクター * [[5月31日]] - [[広岡由里子]]、[[俳優|女優]] * 5月31日 - [[大門和彦]]、元プロ野球選手 * 5月31日 - [[ブルック・シールズ]]、[[モデル (職業)|モデル]]・女優 === 6月 === * [[6月1日]] - [[山田武史]]、元[[プロ野球選手]] * [[6月2日]] - [[今野緒雪]]、少女小説家 * 6月2日 - [[富田京子]]、ミュージシャン・作詞家(元[[プリンセス・プリンセス]]) * 6月2日 - [[栫政彦]]、プロ野球選手 * [[6月3日]] - [[道傳愛子]]、[[NHK解説委員室|NHK解説委員]](元アナウンサー) * 6月3日 - [[山田和利]]、元プロ野球選手 * [[6月4日]] - [[アンドレア・イエガー]]、プロテニス選手 * 6月4日 - [[マイケル・ドゥーハン]]、元[[オートバイ]]レーサー * [[6月6日]] - [[緒方恵美]]、声優 * 6月6日 - [[広瀬治]]、元サッカー選手 * [[6月8日]] - [[八木裕]]、元プロ野球選手 * [[6月9日]] - [[青木紳一]]、囲碁棋士 * [[6月11日]] - [[沢口靖子]]、女優 * 6月11日 - [[浜崎貴司]]、ミュージシャン([[FLYING KIDS]]) * 6月11日 - [[天野ひかり]]、フリーアナウンサー * 6月11日 - [[古賀慎明]]、調教師 * [[6月13日]] - [[今中麻貴]]、フリーアナウンサー * 6月13日 - [[岡本透]]、元プロ野球選手 * [[6月14日]] - [[永井美奈子]]、フリーアナウンサー * 6月14日 - [[木幡初広]]、JRA([[日本中央競馬会]])[[騎手]] * 6月14日 - [[片平巧]]、[[オートレース選手|オートレーサー]](+ [[2015年]]) * 6月14日 - [[加藤正樹]]、プロ野球選手 * [[6月17日]] ‐ [[満田拓也]]、漫画家 * [[6月18日]] - [[右田雅彦]]、元プロ野球選手 * [[6月19日]] - [[本城雅人]]、小説家、ジャーナリスト * [[6月20日]] - [[河合その子]]、元アイドル(元[[おニャン子クラブ]]) * [[6月21日]] - [[松本伊代]]、タレント(元アイドル) * 6月21日 - [[山岡均]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]] * 6月21日 - [[安達俊也]]、元プロ野球選手 * 6月21日 - [[ウォシャウスキー兄弟|ラリー・ウォシャウスキー]]、[[映画監督]] * [[6月22日]] - [[武田一浩]]、元プロ野球選手 * [[6月24日]] - [[八木亜希子]]、フリーアナウンサー * 6月24日 - [[鈴木由佳乃]]、ミュージカル女優 * [[6月25日]] - [[松井達徳]]、元プロ野球選手 * [[6月26日]] - [[脇坂真人]]、ミュージカル俳優 * 6月26日 - [[比嘉良智]]、プロ野球選手 * [[6月27日]] - [[阪本成一]]、[[天文学者]] * [[6月28日]] - [[赤土眞弓]]、声優 * [[6月29日]] - [[藤原英昭]]、[[調教師]]([[日本中央競馬会]]) * 6月29日 - [[カンパニー松尾]]、[[AV監督]] * 6月30日 - [[ミッチ・リッチモンド]]、元バスケットボール選手 === 7月 === * [[7月1日]] - [[江頭2:50]]、お笑いタレント([[大川興業]]) * 7月1日 - [[石橋通宏]]、政治家 * 7月1日 - [[山口祥義]]、政治家 * [[7月2日]] - [[水江慎一郎]]、ミュージシャン(元[[UP-BEAT]]) * [[7月3日]] - [[橋本真也]]、[[プロレスラー]](+ [[2005年]]) * 7月3日 - [[丑山努]]、元[[プロ野球選手]] * 7月3日 - [[阪田渉]]、[[国税庁#歴代の国税庁長官|国税庁長官]] * [[7月4日]] - [[田村智子]]、政治家 * [[7月5日]] - [[山口裕二]]、元プロ野球選手 * [[7月7日]] - [[ダミアン・ハースト]]、[[美術家]] * 7月7日 - [[東哲也]]、プロ野球選手 * 7月7日 - [[郭建成]]、[[野球選手]] * [[7月8日]] - [[久世星佳]]、女優(元宝塚歌劇団トップスター) * [[7月9日]] - [[高河ゆん]]、漫画家 * [[7月11日]] - [[アーネスト・ホースト]]、[[K-1]]選手 * 7月11日 - [[小牧ユカ]]、タレント * [[7月12日]] - [[馬野雅行]]、毎日放送アナウンサー * [[7月13日]] - [[中森明菜]]、歌手、女優 * 7月13日 - [[魚建]]、声優 * 7月13日 - [[本広克行]]、[[映画監督]] * [[7月15日]] - [[今野登茂子]]、ミュージシャン(元[[プリンセス・プリンセス]]) * 7月15日 - [[松永幸男]]、元プロ野球選手 * 7月15日 - [[三浦泰年]]、元サッカー選手 * 7月15日 - [[市村浩一郎]]、政治家 * 7月15日 - [[西凜太朗]]、俳優、声優 * [[7月16日]] - [[岩間伸之]]、大学准教授(+ [[2017年]]) * [[7月18日]] - [[エヴァ・イオネスコ]]、女優 * [[7月19日]] - [[加藤伸一]]、元プロ野球選手 * [[7月20日]] - [[日詰正文]]、[[作家]]、[[言語聴覚士]] * [[7月21日]] - [[杉本哲太]]、俳優(元[[紅麗威甦]]) * 7月21日 - [[海老野貴勇]]、ヤクルトスワローズコンディショニングコーチ * [[7月22日]] - [[ショーン・マイケルズ]]、プロレスラー * 7月22日 - [[津村まこと]]、声優 * 7月22日 - [[渡辺典子]]、女優 * [[7月23日]] - [[スラッシュ (ミュージシャン)|スラッシュ]]、ミュージシャン(元[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]、現[[ヴェルヴェット・リヴォルヴァー]]) * [[7月24日]] - [[オリヴィエ・ピィ]]、[[劇作家]]・[[演出家]]・[[映画監督]]・[[俳優]] * [[7月25日]] - [[トーリ・ロブロ]]、元プロ野球選手 * [[7月26日]] - [[ノッチ (お笑い芸人)|ノッチ]]、お笑いタレント([[デンジャラス (お笑いコンビ)|デンジャラス]]) * [[7月27日]] - [[ホセ・ルイス・チラベルト]]、元[[サッカー選手]] * [[7月28日]] - [[前田俊郎]]、元プロ野球選手 * [[7月29日]] - [[チャンネ・リー]]、小説家 * 7月29日 - [[石本龍臣]]、競輪選手・元野球選手 * [[7月31日]] - [[J・K・ローリング]]、[[児童文学]]作家 * 7月31日 - [[黛まどか]]、[[俳人]] === 8月 === * [[8月2日]] - [[渡辺久信]]、元プロ野球選手、元[[埼玉西武ライオンズ]]監督 * 8月2日 - [[坂口裕之]]、元野球選手 * [[8月3日]] - [[藤田朋子]]、女優 * 8月3日 - [[上野賢一郎]]、衆議院議員 * 8月3日 - [[白倉伸一郎]]、テレビドラマ・映画プロデューサー * [[8月4日]] - [[布川敏和]]、俳優、タレント(元[[シブがき隊]]) * 8月4日 - [[ドミンゴ・マルティネス]]、元プロ野球選手 * [[8月5日]] - [[鈴木信行]]、政治家 * [[8月6日]] - [[古田敦也]]、元プロ野球選手 * 8月6日 - [[久島海啓太|田子ノ浦親方]]、元幕内久島海(+ [[2012年]]) * 8月6日 - [[リュック・アルファン]]、ラリードライバー * 8月6日 - [[津野浩]]、元プロ野球選手 * 8月6日 - [[デビッド・ロビンソン (バスケットボール)|デビッド・ロビンソン]]、元バスケットボール選手 * 8月6日 - [[野村裕二]]、元プロ野球選手 * [[8月7日]] - [[佐藤真一]]、元プロ野球選手 * 8月7日 - [[エリザベス・マンリー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月9日]] - [[石丸元章]]、小説家 * [[8月10日]] - [[アンジェロ・カルロス・プレッティ]]、元サッカー選手 * [[8月11日]] - [[山本昌]]、プロ野球選手 * 8月11日 - [[山口昌人]]、ミュージシャン([[FEEL SO BAD]]) * [[8月12日]] - [[青嶋達也]]、フジテレビアナウンサー * 8月12日 - [[須藤まゆみ]]、歌手 * 8月12日 - [[バリー・マニュエル]]、元プロ野球選手 * 8月12日 - [[平本一穂]]、[[AV男優]] * [[8月13日]] - [[阿部雅司]]、ノルディック選手 * [[8月14日]] - [[岡田あーみん]]、漫画家 * 8月14日 - [[岡村靖幸]]、ミュージシャン * 8月14日 - [[エマニュエル・ベアール]]、女優 * [[8月15日]] - [[石丸幹二]]、俳優 * [[8月16日]] - [[穴沢努]]、Jリーグ審判員 * [[8月17日]] - [[佐竹雅昭]]、[[空手家]] * [[8月18日]] - [[大谷育江]]、声優 * 8月18日 - [[吉川晃司]]、ミュージシャン * 8月18日 - [[堀江しのぶ]]、タレント(+ [[1988年]]) * 8月18日 - [[青木愛 (政治家)|青木愛]]、民主党衆議院議員 * 8月18日 - [[田村勤]]、元プロ野球選手 * [[8月19日]] - [[藤枝慎治]]、元プロ野球選手 * [[8月20日]] - [[金成陽三郎]]、[[漫画原作者]] * [[8月21日]] - [[鈴木祥子]]、[[シンガーソングライター]] * [[8月22日]] - [[堤辰佳]]、元[[読売ジャイアンツ]]ゼネラルマネージャー * [[8月23日]] - [[安達元一]]、[[放送作家]] * [[8月24日]] - [[レジー・ミラー]]、元バスケットボール選手 * 8月24日 - [[小美濃武芳]]、プロ野球選手 * [[8月25日]] - [[板倉賢司]]、元プロ野球選手 * 8月25日 - [[森昌彦]]、元野球選手 * [[8月26日]] - [[村上隆行]]、元プロ野球選手 * 8月26日 - [[石井明美]]、歌手 * 8月26日 - [[上野展裕]]、元サッカー選手 * 8月26日 - [[小河麻衣子]]、女優 * [[8月27日]] - [[津田寛治]]、俳優 * 8月27日 - [[鳴海剛]]、俳優、モデル * [[8月28日]] - [[田尻智]]、[[ゲームクリエイター]] * 8月28日 - [[シャナイア・トゥエイン]]、シンガーソングライター * 8月28日 - [[アマンダ・タッピング]]、俳優 * [[8月30日]] - [[塚本やすし]]、[[イラストレーター]] * [[8月30日]] - [[神野美伽]]、[[演歌歌手]] * 8月30日 - [[木村恵二]]、元プロ野球選手 * 8月30日 - [[郭建成]]、元プロ野球選手 * [[8月31日]] - [[中村芝翫 (8代目)|八代目中村芝翫]]、[[歌舞伎]]役者 * 8月31日 - [[別所哲也]]、俳優 === 9月 === * [[9月1日]] - [[さねよしいさ子]]、歌手 * 9月1日 - [[中谷忠己]]、元[[プロ野球選手]] * [[9月2日]] - [[横谷総一]]、元プロ野球選手 * 9月2日 - [[林修]]、[[予備校講師]] * [[9月3日]] - [[チャーリー・シーン]]、俳優 * 9月3日 - [[中田久美]]、元[[バレーボール]]選手 * 9月3日 - [[水野雄仁]]、元プロ野球選手 * 9月3日 - [[三木理史]]、[[地理学者]] * [[9月4日]] - [[粕谷昌央]]、調教師 * [[9月5日]] - [[仲村トオル]]、俳優 * 9月5日 - [[前田治]]、元サッカー選手 * 9月5日 - [[星誕期偉真智]]、元大相撲力士 * 9月5日 - [[デビッド・ブラバム]]、元F1ドライバー * [[9月6日]] - [[堀池巧]]、元サッカー選手 * 9月6日 - [[クリストファー・ノーラン (作家)|クリストファー・ノーラン]]、[[詩人]]・作家(+ [[2009年]]) * [[9月7日]] - [[近藤芳久]]、元プロ野球選手 * [[9月9日]] - [[有賀さつき]]、元フジテレビアナウンサー・タレント(+ [[2018年]]<ref>{{Cite news|title=有賀さつきさん父 病院からの連絡で知る「まったく予想外でした」|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/02/05/kiji/20180205s00041000222000c.html|newspaper=Sponichi ANNEX|agency=スポーツニッポン新聞社|date=2018-2-5|accessdate=2020-1-31}}</ref>) * 9月9日 ‐ [[中沢慶子]]、元AV女優 * 9月9日 - [[深谷圭助]]、教育者 * 9月9日 - [[林哲雄]]、プロ野球選手 * [[9月11日]] - [[バッシャール・アル=アサド]]、[[シリア]][[大統領]] * [[9月12日]] - [[岡本夏生]]、タレント * [[9月14日]] - [[トロイ・ニール]]、元プロ野球選手 * 9月14日 - [[田口禎則]]、元サッカー選手 * 9月14日 - [[ノーカット星]]、元お笑いタレント([[たけし軍団]]) * 9月14日 - [[ドミートリー・メドヴェージェフ]]、[[ロシア連邦大統領]] * [[9月15日]] - [[小宮山悟]]、元プロ野球選手 * 9月15日 - [[駒不動大助]]、元大相撲力士 * [[9月16日]] - [[鷲尾天]]、[[東映]]アニメーション プロデューサー * [[9月17日]] - [[三浦将明]]、元プロ野球選手 * [[9月18日]] - [[石橋保]]、俳優 * 9月18日 - [[高村洋介]]、プロ野球選手 * [[9月19日]] - 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[[堀内一史]]、[[ベーシスト]]、[[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]のメンバー * [[10月3日]] - [[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]、元プロ野球選手 * [[10月4日]] - [[根谷美智子]]、声優 * [[10月5日]] - [[マリオ・ルミュー]]、元[[アイスホッケー]]選手、[[ソルトレイクシティオリンピック]]金メダリスト * 10月5日 - [[パトリック・ロワ]]、元アイスホッケー選手、[[カナダ]] * 10月5日 - [[井上慎介]]、[[AV監督]] * [[10月7日]] - [[マルコ・アピチェラ]]、[[レーシングドライバー]] * 10月7日 - [[長友仍世]]、シンガーソングライター(infix) * 10月7日 - [[渡辺久美子]]、声優 * [[10月8日]] - [[田中友尋]]、代表取締役社長 * [[10月10日]] - [[TOSHI]]、[[X JAPAN]]ヴォーカリスト * 10月10日 - [[比企理恵]]、女優 * [[10月11日]] - [[荒木久美]]、元女子陸上選手 * 10月11日 - [[オーランド・ヘルナンデス]]、元メジャーリーガー * 10月11日 - [[山下徳人]]、元プロ野球選手 * [[10月13日]] - [[小木曽滝子]]、女優 * [[10月14日]] - [[足立康史]]、政治家 * 10月14日 - [[会田誠]]、美術家 * 10月14日 - [[山中律俊]]、プロ野球選手 * [[10月15日]] - [[藤森涼子]]、[[気象予報士]] * 10月15日 - [[長利礼治]]、プロ野球選手 * [[10月17日]] - [[琴別府要平]]、元大相撲力士 * 10月17日 - [[谷村有美]]、ミュージシャン、シンガーソングライター * 10月17日 - [[松田辰也]]、元声優 * [[10月18日]] - [[大平光代]]、[[弁護士]]、元ヤンキー * [[10月19日]] - [[桃太郎 (ミュージシャン)|桃太郎]]、[[紅麗威]](ex.[[紅麗威甦]])ヴォーカリスト * 10月19日 - Mitz(ミッツ)、[[紅麗威]](ex.[[紅麗威甦]])ベース * [[10月20日]] - [[KATSUMI]]、ロックミュージシャン、シンガーソングライター * 10月20日 - 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[[小野和義]]、元プロ野球選手 * 11月13日 - [[たまさぶろ]]、[[随筆家]]・[[バー (酒場)|バー]][[評論家]] * [[11月14日]] - [[宇仁菅真]]、俳優 * [[11月15日]] - [[立見里歌]]、元アイドル(元・おニャン子クラブ) * 11月15日 - [[秋山嘉子]]、声優 * 11月15日 - [[松原秀典]]、アニメーター・キャラクターデザイナー * [[11月16日]] - [[桐生コウジ]]、俳優 * [[11月16日]] - Leer(リー)、[[紅麗威]](ex.[[紅麗威甦]])リードギター * [[11月18日]] - [[スティーヴン・アスムッセン]]、元騎手、調教師 * [[11月19日]] - [[ローラン・ブラン]]、元サッカー選手 * [[11月20日]] - [[YOSHIKI]]、[[X JAPAN]]ドラマー * 11月20日 - [[草尾毅]]<ref name="allcinema">{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/person/123878|title=草尾毅 のプロフィール - allcinema|accessdate=2020-11-10}}</ref>、声優 * 11月20日 - [[光山英和]]、元プロ野球選手 * [[11月21日]] - [[ビョーク]]、ミュージシャン * 11月21日 - [[石田豪]]、競艇選手 * 11月21日 - [[山口由里子]]、声優 * [[11月22日]] - [[伊藤博 (野球)|伊藤博]]、野球トレーニングコーチ * 11月22日 - [[今井靖彦]]、[[スーツアクター]] * [[11月23日]] - [[ロン・ウォーターマン]]、[[総合格闘家]] * [[11月24日]] - [[古村比呂]]、女優 * [[11月25日]] - [[小澤正澄]]、作曲家、ミュージシャン(元[[PAMELAH]]) * [[11月26日]] - [[石垣ゆうき]]、漫画家 * 11月26日 - [[エディ・ウォーレン]]、ライダー * 11月26日 - [[香寿たつき]]、女優、元[[宝塚歌劇団]][[星組]]トップスター * 11月26日 - [[高橋利光]]、アレンジャー、ミュージシャン([[クレイジーケンバンド]]) * [[11月27日]] - [[ジャッキー・テラソン]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]] * [[11月28日]] - [[太田貴]]、元プロ野球選手 * 11月28日 - [[マット・ウィリアムズ]]、元[[メジャーリーガー]] * [[11月29日]] - [[尾崎豊]]、シンガーソングライター(+ [[1992年]]) * [[11月30日]] - [[秋篠宮文仁親王]]、[[皇嗣]] * 11月30日 - [[浦和めぐみ]]、声優 * 11月30日 - [[中嶋治彦]]、プロ野球選手 * 11月30日 - [[アウダイール]]、元サッカー選手 === 12月 === * [[12月1日]] - [[フリオ・マチャド]]、元プロ野球選手 * [[12月3日]] - [[古田新太]]、俳優 * 12月3日 - [[カタリナ・ヴィット]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 12月3日 - [[内田夕夜]]、声優 * 12月3日 - [[大友有一]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]プロデューサー * [[12月4日]] - [[与田剛]]、元プロ野球選手 * 12月4日 - [[高嶺ふぶき]]、女優(元宝塚歌劇団トップスター) * [[12月6日]] - [[古川元久]]、政治家 * [[12月7日]] - [[尾美としのり]]、俳優 * 12月7日 - [[植田至紀]]、政治家 * 12月7日 - [[香川照之]]、俳優 * [[12月8日]] - [[神宮司弥生]]、声優(+[[2017年]]) * [[12月9日]] - [[阿部陽子]]、NHKアナウンサー * 12月9日 - [[五味孝氏]]、ミュージシャン(元・T-BOLAN) * [[12月10日]] - [[石田靖]]、お笑いタレント * 12月10日 - [[ヘンリー・アキンワンデ]]、[[プロボクサー]] * 12月10日 - [[福島弓子]]、元アナウンサー * [[12月11日]] - [[伊東秀一]]、[[テレビ信州]]アナウンサー * 12月11日 - [[近田豊年]]、元プロ野球選手 * 12月11日 - [[ジェイ・ベル]]、元メジャーリーガー * [[12月12日]] - [[高橋ヒロシ]]、漫画家 * 12月12日 - [[クリスティ・レイク]]、[[ポルノ女優]] * [[12月13日]] - [[長野康子|吉田康子]]、女優 * 12月13日 - [[井戸正枝]]、政治家 * [[12月14日]] - [[クレイグ・ビジオ]]、元メジャーリーガー * 12月14日 - [[船水紀孝]]、[[ゲームクリエイター]] * [[12月17日]] - [[池山隆寛]]、元プロ野球選手 * 12月17日 - [[辰巳佳太]]、俳優 * [[12月18日]] - [[松蔭浩之]]、[[現代美術家]]、[[写真家]] * 12月18日 - [[藤村信子]]、元[[陸上競技]]選手 * 12月18日 - [[鈴木俊雄]]、プロ野球選手 * [[12月19日]] - [[荒井昌一]]、元[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]][[社長]](+[[2002年]]) * 12月19日 - [[荻原満]]、元プロ野球選手 * [[12月20日]] - [[赤星政尚]]、脚本家 * 12月20日 - [[伊藤史生]]、プロ野球選手 * [[12月21日]] - [[本木雅弘]]、俳優(元シブがき隊) * [[12月22日]] - [[さとうふみや]]、漫画家 * [[12月23日]] - [[野村万蔵 (9世)|野村万蔵]]、[[和泉流]][[狂言師]]、二世野村与十郎 * 12月23日 - [[おちまさと]]、[[プロデューサー]]、[[作詞家]] * [[12月25日]] - [[和嶋慎治]]、[[ギタリスト]]、[[ボーカリスト]]([[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]) * [[12月27日]] - [[岡田和樹]]、[[現代美術家]]、[[音楽家]] * 12月27日 - [[橘高文彦]]、ギタリスト([[筋肉少女帯]]、[[X.Y.Z.→A]]) * [[12月28日]] - [[越後和男]]、元サッカー選手 * [[12月29日]] - [[デクスター・ホーランド]]、[[ボーカリスト]]、[[ギタリスト]]([[オフスプリング]]) * [[12月31日]] - [[ニコラス・スパークス]]、小説家 == 死去 == {{see also|Category:1965年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]] - [[秋庭俊彦]]、露文学者・俳人(* [[1885年]]) * 1月4日 - [[加藤斌]]、元[[プロ野球選手]](* [[1944年]]) * [[1月5日]] - [[芳沢謙吉]]、[[外交官]](* [[1874年]]) * [[1月6日]] - [[花柳章太郎]]、[[女形]][[役者]](* [[1894年]]) * [[1月11日]] - [[ウォーリー・ピップ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1893年]]) * [[1月13日]] - [[畔柳二美]]、[[小説家]](* [[1912年]]) * [[1月17日]] - [[河井醉茗]]、[[詩人]](* [[1874年]]) * [[1月20日]] - [[ニック・アルトロック]]、メジャーリーガー(* [[1876年]]) * [[1月24日]] - [[ウィンストン・チャーチル]]、[[政治家]]{{Sfn|マクドナルド|2020|p=58}}(* [[1874年]]) * [[1月26日]] - [[飛田穂洲]]、野球選手・[[野球評論家]](* [[1886年]]) * [[1月27日]] - [[三船久蔵]]、[[柔道家]](* [[1883年]]) * [[1月29日]] - [[久原房之助]]、[[実業家]]・[[政治家]](* [[1869年]]) * [[2月8日]] - [[レイ・ブラウン (野球)|レイ・ブラウン]]、[[野球選手]](* [[1908年]]) * [[2月13日]] - [[ウィリアム・ヒアド・キルパトリック]]、[[教育学者]](* [[1871年]]) * [[2月15日]] - [[ナット・キング・コール]]、[[歌手]](* [[1919年]]) * [[2月18日]] - [[前田房之助]]、政治家(* [[1884年]]) * [[2月20日]] - [[山川方夫]]、[[作家]](* [[1930年]]) * [[2月21日]] - [[マルコムX]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の黒人解放運動指導者(* [[1925年]]) * [[2月25日]] - [[レオ・シロタ]]、[[ピアニスト]](* [[1885年]]) * [[3月4日]] - [[有田八郎]]、政治家(* [[1884年]]) * [[3月5日]] - [[若林忠志]]、元プロ野球選手(* [[1908年]]) * [[3月6日]] - [[奥浩平]]、[[学生運動家]] (* [[1943年]]) * 3月6日 - [[小山清]]、小説家(* [[1911年]]) * [[3月13日]] - [[岩村通世]]、政治家(* [[1883年]]) * [[3月16日]] - [[蔵原伸二郎]]、[[詩人]]、[[作家]]、[[評論家]] (* [[1899年]]) * [[3月19日]] - [[エドワード・ベイリー]]、[[地質学者]](* [[1881年]]) * [[4月5日]] - [[サライ・シャーンドル]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1893年]]) * [[4月20日]] - [[三島通陽]]、小説家・[[劇作家]](* [[1897年]]) * [[4月23日]] - [[小松原博喜]]、元プロ野球選手(* [[1924年]]) * [[4月27日]] - [[世耕弘一]]、政治家(* [[1893年]]) * [[5月3日]] - [[中勘助]]、作家・[[詩人]](* [[1885年]]) * [[5月7日]] - [[チャールズ・シーラー]]、[[画家]]・[[写真家]](* [[1883年]]) * [[5月16日]] - [[森下雨村]]、小説家・[[編集者]](* [[1890年]]) * [[5月25日]] - [[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]、[[ハーモニカ]]奏者(* [[1899年]]) * [[5月30日]] - [[ルイス・イェルムスレウ]]、[[言語学者]](* [[1899年]]) * [[5月31日]] - [[樺島勝一]]、[[挿絵]]画家(* [[1888年]]) * [[6月1日]] - [[カーリー・ランボー]]、[[アメリカンフットボール]]元選手・ヘッドコーチ(* [[1898年]]) * [[6月9日]] - [[中澤不二雄]]、元野球選手・[[パシフィック・リーグ]]会長(* [[1892年]]) * [[6月15日]] - [[大賀一郎]]、[[植物学|植物学者]](* [[1883年]]) * [[6月17日]] - [[宮崎要]]、元プロ野球選手(* [[1916年]]) * [[7月3日]] - [[岸井明]]、[[コメディアン]](* [[1910年]]) * [[7月8日]] - [[河野一郎]]、政治家(* [[1898年]]) * [[7月10日]] - [[御園生崇男]]、元プロ野球選手(* [[1916年]]) * [[7月19日]] - [[梅崎春生]]、[[小説家]](* [[1915年]]) * 7月19日 - [[李承晩]]、[[大韓民国]]初代大統領(* [[1875年]]) * [[7月28日]] - [[江戸川乱歩]]、作家(* [[1894年]]) * [[7月30日]] - [[谷崎潤一郎]]、作家(* [[1886年]]) * [[8月1日]] - [[信時潔]]、[[作曲家]](* [[1887年]]) * [[8月4日]] - [[木下夕爾]]、日本の詩人、俳人(*[[1914年]]) * 8月4日 - [[佐々木惣一]]、[[法学者]](* [[1878年]]) * [[8月6日]] - [[岸本水府]]、[[川柳]]作家(* [[1892年]]) * [[8月13日]] - [[池田勇人]]、第58〜60代[[内閣総理大臣]](* [[1899年]]) * 8月13日 - [[上原げんと]]、[[作曲家]](* [[1914年]]) * [[8月17日]] - [[高見順]]、作家(* [[1907年]]) * [[8月18日]] - [[杉浦非水]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1876年]]) * [[8月21日]] - [[浮谷東次郎]]、レーサー(* [[1942年]]) * [[8月24日]] - [[安西冬衛]]、詩人(* [[1898年]]) * [[8月27日]] - [[ル・コルビュジエ]]、[[建築家]](* [[1887年]]) * [[8月29日]] - [[ポール・ウェイナー]]、メジャーリーガー(* [[1903年]]) * [[8月31日]] - [[E・E・スミス]]、[[SF作家]](* [[1890年]]) * [[9月4日]] - [[アルベルト・シュヴァイツァー]]、医師・神学者・哲学者(* [[1875年]]) * [[9月8日]] - [[ヘルマン・シュタウディンガー]]、[[化学者]](*[[1881年]]) * [[9月16日]] - [[村上一治]]、元プロ野球選手(* [[1917年]]) * [[9月17日]] - [[櫻井忠温]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[軍人]]・作家(* [[1879年]]) * [[9月20日]] - [[アーサー・ホームズ]]、[[地質学者]](* [[1890年]]) * [[9月22日]] - [[ビズ・マッキー]]、[[メジャーリーガー]](* [[1897年]]) * [[10月6日]] - [[室井豊]]、プロ野球選手(* [[1915年]]) * [[10月14日]] - [[北川千代]]、[[児童文学]]作家 (* [[1894年]]) * [[10月10日]] - [[岡崎勝男]]、政治家・[[外交官]](* [[1897年]]) * [[10月25日]] - [[ハンス・クナッパーツブッシュ]]、[[指揮者]](* [[1888年]]) * [[10月29日]] - [[ビル・マケシュニー]]、メジャーリーガー(* [[1886年]]) * [[11月6日]] - [[エドガー・ヴァレーズ]]、作曲家(* [[1883年]]) * [[11月10日]] - [[市川團十郎 (11代目)]]、[[歌舞伎役者]](* [[1909年]]) * [[11月17日]] - [[蔭山和夫]]、元プロ野球選手(* [[1927年]]) * [[11月20日]] - [[ローレンス・ウェイジャー]]、[[地質学者]]・[[探検家]](* [[1904年]]) * [[11月21日]] - [[式場隆三郎]]、[[精神医学|精神科医]](* [[1898年]]) * [[11月25日]] - [[マイラ・ヘス]]、[[ピアニスト]](* [[1890年]]) * [[11月29日]] - [[滝沢英輔]]、[[映画監督]](* [[1902年]]) * [[12月3日]] - [[河上丈太郎]]、[[政治家]](* [[1889年]]) * [[12月21日]] - [[澤木興道]]、[[僧侶]](* [[1880年]]) * [[12月27日]] - [[福井盛太]]、[[弁護士]]・[[検察官]]・[[日本プロ野球]]初代[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]](* [[1885年]]) * 12月27日 - [[エドガー・エンデ]]、画家・作家(* [[1901年]]) * [[12月29日]] - [[山田耕筰]]、作曲家(* 1886年) * 12月29日 - [[米川正夫]]、[[ロシア文学者]](* [[1891年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[朝永振一郎]]([[日本]])、[[ジュリアン・シュウィンガー]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[リチャード・P・ファインマン]](アメリカ) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ロバート・ウッドワード]](アメリカ) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[フランソワ・ジャコブ]]([[フランス]])、[[アンドレ・ルウォフ]](フランス)、[[ジャック・モノー]](フランス) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ミハイル・ショーロホフ]]([[ソビエト連邦]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[国際連合児童基金]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1965|date=2011年7月}} * [[6月20日]]([[父の日]]) - 暴力団「コワイ会」が解散する事になり、組員は一日だけ善行をしようとするが失敗続き、市民の勧めで警察に自首する。(漫画『[[おそ松くん]]』「ガタガタいわずによいことしやがれ」) * 8月 - 日本の某所にある赤錆村でダム建設反対派のリーダー格の男が反対派住民全員を惨殺。自らもダムの放水により水没する村と運命を共にする。(アニメ『[[怪物王女]]』第13話「生贄王女」) * 核兵器搭載機が北極海に墜落した事により、大怪獣[[ガメラ]]が復活。ガメラは北海道や東京を襲撃した後、[[火星探査]]計画「Zプラン」の巨大ロケットに閉じ込められて火星へと追放される。(映画『[[大怪獣ガメラ]]』) * 人類、遊星ナタールの侵略を退ける。その最中、国連宇宙開発センターの有人ロケット「スピップ1号」と「スピップ2号」が、ナタール基地攻撃のために人類初の[[月面着陸]]を果たす。(映画『[[宇宙大戦争]]』) * 宇宙飛行士オートマンを乗せた有人ロケットが火星の周りを周回した後、422日間に及ぶ人類初の火星往還飛行を成功させる。(小説『[[天の光はすべて星]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = 天の光はすべて星 |publisher = [[早川書房]] |year = 2008 |page = 95 |isbn = 978-4-15-011679-8}}</ref> * 日本初の人工衛星「サクラ1号」の打ち上げが成功する。(映画『[[ロスト・メモリーズ]]』)<ref>『ロスト・メモリーズ』アバンタイトルより。</ref> * ブラジルから東京湾へ向かっていたコンピューター制御の無人貨物船クイーンズ号(後の[[ウルトラマン80の登場怪獣#すくらっぷ幽霊船 バラックシップ|すくらっぷ幽霊船 バラックシップ]])が、[[マゼラン海峡]]で氷山に衝突して沈没する。(TV番組『[[ウルトラマン80]]』第32話) * 竜ヶ森湖で宇宙恐竜ヤナカーギーが宇宙魔人チャリジャの手で復活。ウルトラマンティガと交戦するが、[[円谷英二]]の想いが実体化した初代ウルトラマンの援護で倒される。その後、テレビ番組『[[ウルトラマン]]』の脚本が完成、『ウルトラマン』第1話「ウルトラ作戦第一号」が撮影される。(TV番組『[[ウルトラマンティガ]]』第49話) * 望月ゆめ、児童作家を廃業し、ノーブル学園を創立、学園長となる。(『[[Go!プリンセスプリキュア]]』) * [[赤木しげる]]と“昭和の怪物”の異名を持つ鷲巣巌による「鷲巣麻雀」での勝負が行われる。(『[[アカギ 〜闇に降り立った天才〜]]』) * イタリアの大手自動車会社 アッソルートがREAL RACING ROOTS(RRR)に参入する。(『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)<ref>ナムコ公式ガイドブック R4より</ref> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-06-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第13巻) 東京オリンピックと新幹線―昭和39年〜42年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194363-4 |ref = 昭和二万日13 }} * {{Cite book|和書|translator=矢羽野 薫・服部 真琴・雨海 弘美 |editor=ウィリアム・マクドナルド |title=ニューヨークタイムズが報じた 100人の死亡記事 |date=2020-05-30 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-20797-1 |ref={{Sfnref|マクドナルド|2020}} }} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1965}} {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1965ねん}} [[Category:1965年|*]]
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1,930
1964年
1964年(1964 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。昭和39年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1964年について記載する。
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{{年代ナビ|1961}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1964 }} {{year-definition|1964}} この項目では、国際的な視点に基づいた1964年について記載する。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * 干支:[[甲辰]](きのえ たつ) * [[元号一覧 (日本)|日本]](月日は一致) ** [[昭和]]39年 ** [[皇紀]]2624年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]53年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]53年 * [[仏滅紀元]]:2506年-2507年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1383年8月15日-1384年8月26日 * [[ユダヤ暦]]:5724年4月16日-5725年4月26日 * [[修正ユリウス日]](MJD):38395-38760 * [[リリウス日]](LD):139236-139601 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1964}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] ** 日本麦酒が[[サッポロビール]]に社名変更。 ** [[森永製菓]]が日本初の高級[[チョコレート]]「ハイクラウン」を発売し、大ヒット商品となる{{要出典|date=2021-05}}。 ** [[カルビー]]が「[[かっぱえびせん]]」を発売。 * [[1月3日]] - 連続殺人犯[[西口彰]]を逮捕<ref name="昭和二万日13、p.30-31">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.30-31]]</ref>。 * [[1月8日]] - [[リンドン・ジョンソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[一般教書演説]]で「{{仮リンク|貧困との戦い|en|War on Poverty}}」を宣言。 * [[1月22日]] - この日発売の[[週刊少年サンデー]]([[小学館]])にて[[藤子不二雄]]の国民的[[漫画]]『[[オバケのQ太郎]]』が連載開始。 * [[1月24日]] - [[日本]]政府、[[公共料金]]値上げの1年間凍結を発表。 * [[1月27日]] - [[中華人民共和国]]と[[フランス]]が[[国交]]樹立。 * [[1月29日]] - 第9回[[冬季オリンピック]]・[[1964年インスブルックオリンピック|インスブルック大会]]([[オーストリア]])開幕。 * [[1月30日]] - [[ベトナム共和国|南ベトナム]]で、[[グエン・カーン]]将軍主導の無血軍事[[クーデター]]により、[[ズオン・バン・ミン]]大統領が[[タイ王国|タイ]]に追放される。 === 2月 === * [[2月]]上旬 - [[ニッカウヰスキー]]が二級ウイスキー(当時)「[[ハイニッカ]]」を発売。 * [[2月1日]] - [[ロッテ]]が「ガーナチョコレート」を発売。 * [[2月7日]] - [[ビートルズ]]が初訪米。 * [[2月11日]] ** [[中華民国]]([[台湾]])政府、中華人民共和国と国交を結んだ[[フランス]]と[[断交]]。 ** [[ギリシャ]]と[[トルコ]]が[[キプロス]]で戦闘開始。 * [[2月21日]] - [[ロート製薬]]が新しい目薬「V・ロート」発売。1年間で1500万個売り上げる。 * [[2月23日]] - [[日本国有鉄道]]が予約システム[[マルス (システム)#マルス100・200系統|マルス101]]の利用を開始。列車指定席のコンピューター予約が可能となる(ただし仕様に、この年の秋に開業する[[新幹線]]には対応できない制限があったため、新幹線には当初は未対応)<ref name="昭和二万日13、p.38">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.38]]</ref>。 * [[2月27日]] - [[富士航空]]が運航する[[コンベア240]]が[[大分空港]]で着陸に失敗、20人死亡、22人重軽傷([[富士航空機墜落事故]])。 * [[2月29日]] - [[日本鉄道建設公団法]]公布・施行<ref name="昭和二万日13、p.40">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.40]]</ref>。 * 2月末 - [[西ドイツ]]司法省、[[オデッサ・ファイル]]を匿名の告発者から送られ、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]戦犯の追及に活用開始。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[花王|花王石鹸]]が「[[花王スターチ]]」を発売(2年後に「[[キーピング]]」に改称)。 * [[3月4日]] - [[大阪府警]][[曽根崎警察署]]の[[警察官]]が停車命令を無視した[[運転手|ドライバー]]を射殺。 * [[3月5日]] - [[本田技研工業]]が「[[ホンダ・S600|S600]]」を発売。 * [[3月6日]] - [[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス2世]]が[[ギリシャ王国]]国王に即位。 * [[3月8日]] - [[マルコム・X]]が[[アフロアメリカン統一機構]] (OAAU) を結成。 * [[3月18日]] - [[電卓]]、(という略称はまだ無かったが。半導体化されたものとしては世界初)[[シャープ]](当時の法人名は早川電機工業)「CS-10A」が発表<ref>http://ns6-tmp.sharp.co.jp/corporate/info/his/only_one/item/t08.html</ref>される。同機は同年内の発売<ref group="注釈">ブランドとしては「シャープ」である。発売日については、同年内であることは確かだが明確な資料が無い。</ref>。なお、同日に[[ソニー]]も同様の試作機「MD-5」<ref>http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-14.html#block4</ref>を新聞発表しているが、製品を電子ソロバンSobaxと銘打ち発売したのは1967年と、他数社よりも後発となった。 * [[3月24日]] - [[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]米大使が日本人少年に刺され負傷([[エドウィン・O・ライシャワー#「ライシャワー事件」|ライシャワー事件]])<ref name="昭和二万日13、p.45">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.45]]</ref>。 * [[3月27日]] - [[アラスカ地震]]。125人死亡、[[アンカレッジ]]などに大きな被害。 * [[3月30日]] - [[ブラジル]]で軍事[[クーデター]]発生。[[アメリカ合衆国]]の援助を受けた軍部により、ジョアン・ゴウラール[[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]]が追放され、この後ブラジルは21年間[[独裁政権]]支配となる。 === 4月 === * [[4月1日]] ** [[日本人]]の[[海外旅行|海外観光]]渡航自由化。観光目的でのパスポート発行が可能に。ただし年1度、所持金500[[アメリカドル|USドル]]までの制限付き<ref name="昭和二万日13、p.44">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.44]]</ref>。 ** 日本教育テレビ(略称・NET、現・[[テレビ朝日ホールディングス]])日本初の[[ワイドショー]]番組『[[木島則夫]][[モーニングショー]]』が放送開始。 * [[4月7日]] - [[IBM]]、[[汎用コンピューター]]「[[System/360]]」を発表。 * [[4月]]中旬 - [[サントリー]](現・[[サントリーホールディングス]])が二級ウイスキー(当時)「[[サントリーレッド]]」を発売。 * [[4月11日]] - [[ブラジル]]議会、[[ウンベルト・アレンカール・デ・カステロ・ブランコ|カステロ・ブランコ]]を大統領に選出。 * [[4月12日]] - 財団法人日本科学技術振興財団テレビ事業本部東京12チャンネル(現・[[テレビ東京ホールディングス]])が開局<ref name="昭和二万日13、p.50">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.50]]</ref>。 * [[4月15日]] - [[北日本航空]]、[[日東航空]]、[[富士航空]]の3社が合併、[[日本国内航空]]を設立<ref name="昭和二万日13、p.50" />。 * [[4月16日]] - [[4.17ゼネスト]]が[[太田薫]]、[[岩井章]]と首相との協議の結果、不発に終わる<ref name="昭和二万日13、p.50" />。 * [[4月17日]] ** [[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|ニューヨーク万国博覧会]]で、初代「[[フォード・マスタング|マスタング]]」が発表される。 ** [[ニューヨーク]]に[[シェイ・スタジアム]]開業。 * [[4月21日]] - 東洋工業(現・[[マツダ]])が「[[マツダ・ファミリア|ファミリア]]」ワゴンを発売(10月には4ドアセダン、11月には2ドアセダン、[[1965年]]には2ドアクーペを発売)。 * [[4月24日]] - [[ソコロUFO事件]]。[[三芸プロダクション社長殺害事件]]が発生。 * [[4月26日]] - [[タンガニーカ]]と[[ザンジバル]]が合併、[[タンザニア]]成立。 * [[4月28日]] ** 日本、[[経済協力開発機構|OECD]]に正式加盟<ref name="昭和二万日13、p.52">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.52]]</ref>。 ** [[週刊誌]]「[[平凡パンチ]]」(平凡出版(現・[[マガジンハウス]]))が創刊。 === 5月 === * [[5月1日]] ** [[BASIC]]言語の[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータープログラム]]が初めて実行される。 ** [[ライオン (企業)|ライオン歯磨]]が「[[デンター]]」を発売。 * [[5月2日]] - [[台灣]]初の[[高速道路]][[マッカーサー公路]]全線開通([[暫定2車線]])、[[1977年]]改造[[中山高速道路]]の一部 * [[5月6日]] - 「洋服の青山」を展開する[[青山商事]]が設立される(創業者は[[青山五郎]])。 * [[5月22日]] - [[日本サイクリング協会]]、[[文部省]]より[[財団法人]]認可。のちこの日は[[2009年]]に記念日「サイクリングの日」となる。 * [[5月24日]] ** [[東京都]][[世田谷区]]で[[竜巻]]が発生。家屋450戸以上が被害を受けた<ref name="昭和二万日13、p.58">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.58]]</ref>。 ** [[ペルー]]で行われた[[サッカー]][[サッカーペルー代表|ペルー]]対[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]で観客が暴徒化、翌日までに319人が死亡、500人が負傷する惨事([[エスタディオ・ナシオナルの悲劇]])。 * [[5月27日]] ** [[富士スバルライン]]開通。 ** [[インド]]初代首相[[ジャワハルラール・ネルー]]の死亡に伴い、グルザーリー・ラール・ナンダーが2代目首相に就任。 * [[5月28日]] - [[パレスチナ解放機構]](PLO)設立。 === 6月 === * [[6月1日]] - 三菱系3社の合併により[[三菱重工業]]発足<ref name="昭和二万日13、p.60">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.60]]</ref>。 * [[6月3日]] - [[大韓民国|韓国]]で[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]政権に反対する大規模デモ発生。韓国政府、[[ソウル特別市]]に[[戒厳令]]発布。 * [[6月8日]] - [[山形空港]]開港。 * [[6月12日]] - [[南アフリカ連邦]]で、[[ネルソン・マンデラ]]ほか7名が[[終身刑]]を言い渡され、[[ロベン島]]に収監される。 * [[6月16日]] - 「[[新潟地震]]」発生。死者26人<ref name="昭和二万日13、p.62">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.62]]</ref>。 * [[6月19日]] - [[太平洋]]横断[[海底ケーブル]]完成。[[池田勇人]]首相と[[リンドン・ジョンソン]]米大統領が初通話<ref name="昭和二万日13、p.62" />。 * [[6月20日]] - [[大月みやこ]]、[[キングレコード]]より『母恋三味線』でデビュー。 * [[6月22日]] - 日米航空交渉開始。 * [[6月25日]] - [[カトリック教会]]、[[経口避妊薬]]の使用を非難する声明を発表。 === 7月 === * [[7月1日]] ** [[母子及び父子並びに寡婦福祉法]]公布・施行<ref name="昭和二万日13、p.66">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.66]]</ref>。 ** 日本国[[外務省]]、[[旅券|パスポート]]発給業務を都道府県に移管。 * [[7月2日]] - [[リンドン・ジョンソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が[[1964年公民権法]]に署名。 * [[7月6日]] ** [[マラウィ]]、[[イギリス]]からの独立を発表。 ** [[下山事件]]が時効になる。 * [[7月13日]] - [[TBSラジオ]]で『[[全国こども電話相談室]]』放送開始。 * [[7月14日]] - [[品川勝島倉庫爆発火災]](消防職員18人、消防団員1人が殉職。負傷158人)<ref name="昭和二万日13、p.68">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.68]]</ref>。 * [[7月21日]] - [[首里幼女誘拐殺人事件]]発生。 === 8月 === * [[8月1日]] - [[大島空港]]開港。 * [[8月2日]] - [[トンキン湾事件]]発生。 * [[8月3日]] - [[東京都]]の[[三ノ輪]]で警察官が犯人に銃を撃ったところ弾が逸れ一般市民に当り死なせてしまった。「[[三ノ輪事件]]」 * [[8月7日]] - {{仮リンク|トンキン湾決議|en|Gulf of Tonkin Resolution}} * [[8月10日]] - [[大塚製薬]]設立。 * [[8月12日]] - [[国際オリンピック委員会]]が[[アパルトヘイト|人種隔離政策]]を理由に[[南アフリカ共和国]]を[[近代オリンピック|オリンピック]]から追放。 * [[8月22日]] - 東京・[[羽田空港 (大田区)|羽田]]に[[東急ホテルズ|羽田東急ホテル]]開業([[羽田エクセルホテル東急]]の前身)。 * [[8月24日]] - [[俳優]]の[[高島忠夫]]の長男が[[家政婦]]に殺害される。「[[高島忠夫長男殺害事件]]」 * [[8月29日]] - [[東京メトロ日比谷線|営団地下鉄日比谷線]]全線開業。 * [[8月31日]] ** [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]の[[村上雅則]]がメジャーに昇格。日本人初のメジャーリーガーとなる。 ** [[フジテレビジョン|フジテレビ]]で長寿音楽番組『[[塩野義製薬|シオノギ]] [[ミュージックフェア]]』放送開始。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[ホテルニューオータニ]]、[[東京プリンスホテル]]開業。 * [[9月7日]] - [[アジア]]で初となる[[国際通貨基金]]及び[[世界銀行]]総会が[[東京]]({{JPN}})で開催される<ref name="昭和二万日13、p.78">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.78]]</ref>。 * [[9月8日]] ** 日本が[[道路交通に関する条約 (1949年)|道路交通に関するジュネーブ条約]]に加盟、[[日本人]]の[[国際運転免許証]]の利用が可能となる。 ** [[大和米軍機墜落事故]]<ref name="昭和二万日13、p.78" />。 * [[9月10日]] ** [[福岡県]][[粕屋町]]で自衛隊の[[ヘリコプター]]が墜落。8人死亡<ref name="昭和二万日13、p.78" />。 ** [[愛知県]][[犬山市]]上空で[[航空自衛隊]]の戦闘機が衝突。 * [[9月15日]] - [[埼玉県]][[岩槻区|岩槻市]]で、9月10日のヘリ墜落事故の葬儀参列者を載せた航空自衛隊のヘリコプターがまたも墜落<ref name="昭和二万日13、p.78" />。6人死亡。 * [[9月17日]] - [[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール]]開業(片道250円)<ref name="昭和二万日13、p.78" />。 * [[9月19日]] - [[福岡ソフトバンクホークス|南海]]、2リーグ分裂後最短で[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝を決める。 * [[9月20日]] - [[日本]]と[[カナダ]]の間で、3か月以内の滞在について[[査証]]および料金を免除する協定が発効。 * [[9月21日]] - [[マルタ]]が[[イギリス]]から独立。 * [[9月23日]] - [[読売新聞]]が[[九州]]に進出、[[読売新聞西部本社|西部本社]]で発行開始。 * [[9月24日]] ** [[よみうりランド]]が開園。 ** [[大阪市営地下鉄御堂筋線]]の[[新大阪駅]] - [[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]間が開業([[1970年]]に[[北大阪急行電鉄]]との直通運転を開始)<ref name="昭和二万日13、p.80">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.80]]</ref>。 * [[9月29日]] - ヱスビー食品([[エスビー食品]])が「S&Bモナカカレー」を発売。 * [[9月30日]] ** [[常陸宮正仁親王]]・[[正仁親王妃華子|華子妃]]御結婚<ref name="昭和二万日13、p.80" />。 ** [[阪神タイガース|阪神]]、2年ぶりの[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝。9月16日から9連勝し、ペナントレース最終日に優勝を決める。 === 10月 === * [[10月1日]] ** 世界初の高速鉄道、[[東海道新幹線]]開業([[東京駅|東京]] - 新大阪間。運賃・料金は合算で[[ひかり (列車)|ひかり]]2,480円、[[こだま (列車)|こだま]]2,280円)<ref name="昭和二万日13、p.80" /><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202209230000286.html|title=【新幹線MAP】西九州新幹線が開業 全路線の歴史を日本地図にまとめてみた|publisher=日刊スポーツ|date=2022-09-23|accessdate=2022-09-23}}</ref>。同時に[[1964年10月1日国鉄ダイヤ改正|大ダイヤ改正]]実施。 ** [[気象庁]][[富士山レーダー]]完成<ref name="昭和二万日13、p.80" />。 ** [[伊豆スカイライン]]開通。 ** [[テレビ西日本]]が[[日本テレビ系列]]から[[フジテレビ系列]]に[[ネットチェンジ]]。 * [[10月3日]] - [[日本武道館]]開館<ref name="昭和二万日13、p.80" />。 * [[10月4日]] - [[大分県道・熊本県道11号別府一の宮線|やまなみハイウェイ]]開通。 * [[10月10日]] ** [[アジア]]で初開催となる[[夏季オリンピック]](第18回大会)が[[東京]]({{JPN}})で開会する('''[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]''')<ref name="昭和二万日13、p.86">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.86]]</ref>。なお、今大会では初めてオリンピック・ゲーム(男子の正式競技)として[[柔道]]が認められた。{{see also|1964年東京オリンピックの開会式}} * [[10月16日]] ** [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[タス通信]]、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]がソ連[[閣僚会議議長]]及び[[ソビエト連邦共産党]][[第1書記]]を辞任したと報じる。[[アレクセイ・コスイギン|コスイギン]]がソ連閣僚会議議長、ソビエト連邦共産党第1書記には[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]がそれぞれ選出された。 ** [[中華人民共和国]]が[[タクラマカン砂漠]]で初の[[原爆実験]]に成功し、世界5番目の核保有国となる。 * [[10月24日]] ** [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]が閉会<ref name="昭和二万日13、p.92">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.92]]</ref>。{{see also|1964年東京オリンピックの閉会式}} ** [[イギリス]]領[[北ローデシア]]が[[ザンビア]]として独立。 * [[10月25日]] - [[池田勇人]]首相、東京オリンピック閉会式の翌日に退陣を表明<ref name="昭和二万日13、p.92" />。 * [[10月31日]] - [[大阪市営地下鉄中央線]]の[[弁天町駅]] - [[本町駅]](仮)が開業。当時の本町駅は仮駅だった。 === 11月 === <!-- * [[11月2日]] - [[公明党]]が正式発足。--> * [[11月3日]] - [[アメリカ合衆国大統領選挙]]で、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[リンドン・ジョンソン]]大統領が、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[バリー・ゴールドウォーター]]候補を破り再選される。 * [[11月5日]] ** [[1944年]]に処刑された[[リヒャルト・ゾルゲ]]に[[ソ連邦英雄|ソ連邦英雄勲章]]が授与される。 ** [[仙台空港]]開港。 * [[11月8日]] - [[1964年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]開催<ref name="昭和二万日13、p.94-95">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.94-95]]</ref>。 * [[11月9日]] ** [[国会 (日本)|第47臨時国会]]召集([[12月18日]]閉会)<ref name="昭和二万日13、p.94">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.94]]</ref>。 ** [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]第5代総裁に[[佐藤栄作|佐藤榮作]]が指名され、[[首班指名]]を経て[[第1次佐藤内閣|佐藤政権]]発足<ref name="昭和二万日13、p.94" />。[[内閣官房長官]]を[[鈴木善幸]]から[[橋本登美三郎]]に交代した以外は[[第3次池田内閣 (改造)|池田前内閣]]の閣僚をほぼ再任。 * [[11月10日]] - [[ミツカン|中埜酢店]]が「味ぽん」を発売。 * [[11月12日]] - [[アメリカ合衆国]]の[[原子力潜水艦]]「シードラゴン号」[[佐世保市|佐世保]]入港<ref name="昭和二万日13、p.94" />。 * [[11月15日]] - [[シンザン]]号、[[菊花賞]]を制して日本[[競馬]]史上2頭目の[[中央競馬クラシック三冠|三冠馬]]となる<ref name="昭和二万日13、p.94" />。 * [[11月17日]] ** [[公明党]]結党<ref name="昭和二万日13、p.98">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.98]]</ref>。 ** [[ソニー]]が業界初の家庭用[[ビデオテープレコーダ]]「CV-2000」を発売<ref name="昭和二万日13、p.99">[[#昭和二万日13|昭和二万日13、p.99]]</ref>。 * [[11月24日]] ** [[ドラゴン・ルージュ作戦]]を展開する[[ベルギー]]の[[エアボーン|パラシュート部隊]]が[[コンゴ民主共和国]]の[[キサンガニ|スタンリーヴィル]]に降り立ち、{{仮リンク|シンバの反乱|en|Simba Rebellion}}軍勢力に捕らえられていた人質を多数救出<ref>{{Cite book|author=Georges Nzongola-Ntalaja|title=The Congo: From Leopold to Kabila: A People's History(2002年)|publisher=Zed Books|page=136|language=英語|isbn=978-1842770535}}</ref>。 ** 相模鉄道(現行)の前身会社となる、株式会社大関を設立 * [[11月28日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[火星]]探査のために[[マリナー4号]]を打ち上げる。 === 12月 === * [[12月1日]] ** [[駒沢オリンピック公園|東京都立駒沢オリンピック公園]]が開園。 ** [[帯広空港]]開港。 * [[12月11日]] ** [[大京]]設立。 ** [[SR-71 (航空機)|SR-71]]が初飛行。1976年7月28日に実用機における世界速度記録(3,529.56km/h)を樹立した。 * [[12月15日]] - [[新宿駅]]に日本初の[[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]が設置される<ref>[http://alpha-locker.com/company/history/ ロッカーの事業の歩み]</ref>。 * [[12月21日]] - 第48国会召集([[1965年]][[6月1日]]閉会)。 * [[12月22日]] - [[世界貿易センタービルディング]]設立。 * [[12月23日]] - [[名張毒ぶどう酒事件]]で一審の[[津地方裁判所]]は犯人とされる村人に[[無罪]]を言い渡す。 == スポーツ == {{see also|1964年のスポーツ}} * [[1964年インスブルックオリンピック|インスブルックオリンピック]](冬季大会)開催。 * [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]](夏季大会)開催。 * [[1964年の野球|野球]] ** [[日本プロ野球|プロ野球]] *** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の優勝 - [[阪神タイガース]] *** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の優勝 - [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] *** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]の優勝 - 南海ホークス(4勝3敗) * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 - [[大鵬幸喜]] ** 春場所 - 大鵬幸喜 ** 夏場所 - [[栃ノ海晃嘉]] ** 名古屋場所 - [[富士錦猛光]] ** 秋場所 - 大鵬幸喜 ** 九州場所 - 大鵬幸喜 * [[競馬]] ** [[シンザン]]が史上2頭目の[[三冠馬]]を達成 == 芸術・文化 == === 音楽 === {{see also|1964年の音楽}} * 7月、[[マイルス・デイヴィス]]初来日 * 1964年のヒット曲 ** [[ローリング・ストーンズ]] 「[[タイム・イズ・オン・マイ・サイド]]」 ** [[アニマルズ]] 「[[朝日のあたる家]]」 ** [[キンクス]] 「[[ユー・リアリー・ガット・ミー]]」 ** [[テンプテーションズ]] 「ザ・ウェイ・ユー・ドゥ・ザ・シングズ・ユー・ドゥ」 ** メリー・ウェルズ 「マイ・ガイ」 ** マーサ&ザ・ヴァンデラス「ダンシング・イン・ザ・ストリート」 ** [[スプリームス]] 「[[愛はどこへ行ったの]]」 ** [[青山和子]]『[[愛と死をみつめて]]』 ** [[青山ミチ]]『恋はスバヤク』 ** [[坂本九]]『[[明日があるさ]]』 ** [[ペギー葉山]]『[[学生時代]]』 ** [[ザ・ピーナッツ]]『[[ウナ・セラ・ディ東京]]』 ** [[岸洋子]]『[[夜明けのうた]]』 ** [[園まり]]『何も云わないで』 ** [[西田佐知子]]『[[東京ブルース (西田佐知子の曲)|東京ブルース]]』 - この年は、タイトルに "東京" のつく楽曲が目立った。 ** [[鹿内孝]]『恋はスバヤク』 ** [[水前寺清子]]『[[涙を抱いた渡り鳥]]』 ** [[和田弘とマヒナスターズ]]、[[松尾和子]]『[[お座敷小唄]]』 ** [[井沢八郎]]『[[あゝ上野駅]]』 ** [[美空ひばり]]『[[柔 (美空ひばりの曲)|柔]]』 === 映画 === {{see also|1964年の映画}} * [[奇跡の丘]](監督:[[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]) * [[荒野の用心棒]](監督:[[セルジオ・レオーネ]]) * [[シェルブールの雨傘]](監督:[[ジャック・ドゥミ]]) * [[ズール戦争]] * [[007 ゴールドフィンガー]] * [[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか]](監督:[[スタンリー・キューブリック]]) * [[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!]] * [[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]](監督:[[ジョージ・キューカー]]) * [[赤い殺意#映画|赤い殺意]](監督:[[今村昌平]]) * [[砂の女#映画|砂の女]](監督:[[勅使河原宏]]) * [[モスラ対ゴジラ]] * [[宇宙大怪獣ドゴラ]] * [[三大怪獣 地球最大の決戦]] * [[日本一のホラ吹き男]] === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第51回(1964年上半期) - [[柴田翔]]『されどわれらが日々──』 ** 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第51回(1964年上半期) - 該当作品なし ** 第52回(1964年下半期) - [[永井路子]]『炎環』、[[安西篤子]]『張少子の話』 === 雑誌 === * 『[[平凡パンチ]]』創刊 * 『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』創刊 === 漫画 === * 『[[サイボーグ009]]』([[石森章太郎]])[[週刊少年キング]]で連載開始 * 『[[オバケのQ太郎]]』([[藤子不二雄]])[[週刊少年サンデー]]で連載開始 * 『[[カムイ伝]]』([[白土三平]])[[ガロ (雑誌)|ガロ]]で連載開始 === テレビ === {{see also|1964年のテレビ (日本)}} * [[大河ドラマ]]「[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]」([[日本放送協会|NHK]]、出演:[[長谷川一夫]]、[[滝沢修]]、[[尾上梅幸 (7代目)]]) * [[連続テレビ小説]]「[[うず潮 (小説)|うず潮]]」(NHK) *「[[ひょっこりひょうたん島]]」(NHK) *「[[木島則夫]][[モーニングショー]]」([[テレビ朝日|NET]]) *「[[忍者部隊月光]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) *「[[ミュージックフェア]]」(フジテレビ。現在も放送中) === ラジオ === {{see also|1964年のラジオ (日本)}} * 「[[日立ミュージック・イン・ハイフォニック]]」([[ニッポン放送]]) === 広告宣伝 === * コマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |おもかじ一杯、のりたまで三杯||[[のりたま]]||[[丸美屋食品工業|丸美屋食品]]||[[桂小金治]]||- |- |アスパラで生き抜こう||アスパラ錠||[[田辺三菱製薬|田辺製薬]]||[[弘田三枝子]]||[[三木鶏郎]] |- |アイ・アム・タフ||ノイビタ||[[藤沢薬品工業]]||[[江利チエミ]]||- |- |インド人もビックリ||ヱスビーカレー||[[ヱスビー食品]]||[[芦屋雁之助]]||- |- |ボーエンだよ、ワイドだよ||ペンタックスカメラ||[[ペンタックス|旭工学工業]]||-||- |- |おめえ、へそねえじゃねえか||コルゲンコーワ||[[興和]]||[[保積ペペ]]||- |- |タンパク質が足りないよ||マミアン||[[第一製薬]]||[[谷啓]]||- |- |2本分入って、100円安い||[[サントリーレッド|サントリーレッド<ダブルサイズ>]]||サントリー||[[宇津井健]]||- |- |} == 誕生 == {{see also|Category:1964年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ジミー大西]]、[[タレント]]・[[画家]] * 1月1日 - [[増田明美]]、元[[マラソン]]選手 * [[1月3日]] - [[竹本修]]、[[プロ野球選手]] * [[1月4日]] - [[竹内力]]、[[俳優]] * 1月4日 - [[アレクサンドル・ファデーエフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1月4日 - [[伊東信久]]、政治家 * [[1月6日]] - [[高見泰範]]、[[野球選手]] * [[1月7日]] - [[ニコラス・ケイジ]]、俳優 * 1月7日 - [[オレステス・キンデラン]]、元野球選手 * [[1月10日]] - [[福王昭仁]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[多田彰文]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * [[1月11日]] - [[水城まさひと]]、[[4コマ漫画|4コマ]][[漫画家]] * [[1月12日]] - [[ジェフ・ベゾス]]、[[実業家]] * [[1月13日]] - [[ホセ・ヌーニェス (右投手)|ホセ・ヌーニェス]]、元プロ野球選手 * [[1月15日]] - [[源五郎丸洋]]、元プロ野球選手 * 1月15日 - [[ジェフ・バニスター]]、MLB監督、元[[メジャーリーガー]] * 1月15日 - [[水本啓史]]、プロ野球選手 * [[1月17日]] - [[井上慶太]]、[[将棋棋士]] * [[1月19日]] - [[殊能将之]]、[[推理作家]](+ [[2013年]]) * [[1月20日]] - [[南果歩]]、[[俳優|女優]] * 1月20日 - [[オジー・ギーエン]]、メジャーリーガー * 1月20日 - [[藤木義勝]]、俳優 * [[1月22日]] - [[鈴木哲 (野球)|鈴木哲]]、元プロ野球選手 * 1月22日 - [[森健次郎]]、[[プロ野球審判員]] * [[1月24日]] - [[木下ほうか]]、俳優 * 1月24日 - [[渡辺めぐみ]]、女優、タレント * [[1月25日]] - [[妹尾青洸]]、俳優 * [[1月26日]] - [[山口竜一]]、[[騎手]]([[ホッカイドウ競馬]]) * [[1月27日]] - [[折原みと]]、漫画家・少女[[小説家]] * [[1月29日]] - [[川合孝典]]、政治家 * [[1月30日]] - [[川添智久]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元リンドバーグ) * [[1月31日]] - [[松井一郎]]、[[政治家]] * 1月31日 - [[光原伸]]、漫画家 * 1月31日 - [[令丈ヒロ子]]、児童文学作家<ref>{{Cite news|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181226-00000093-sph-soci|title=アニメ映画公開からSNSでジワジワ人気「若おかみは小学生!」 令丈ヒロ子さん「新しいファンが拡散頑張ってくれた」|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|date=2018-12-29|accessdate=2019-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181229171628/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181226-00000093-sph-soci|archivedate=2018-12-29}}</ref> * 1月31日 - [[真矢みき]]、女優(元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]主演スター) * 1月31日(戸籍上は2月1日)- [[桂あやめ (3代目)]]、女性[[落語家]] * 1月31日 - [[ジェフ・ハンネマン]]、ミュージシャン([[スレイヤー]])(+ [[2013年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[磯野貴理子]]、タレント * 2月1日 - [[金哲彦]]、元陸上競技選手、[[陸上競技]]・[[駅伝競走|駅伝]][[スポーツ解説者|解説者]]、[[マラソン]]中継リポーター * [[2月2日]] - [[樋口了一]]、[[シンガーソングライター]] * [[2月3日]] - [[片瀬清利]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月4日]] - [[石原真理]]、女優 * [[2月5日]] - [[鈴木寛]]、[[政治家]] *2月5日 - [[鏡田辰也]]、[[ラジオ福島]]アナウンサー *2月5日 - [[河承武]], [[韓国]]の[[詩人]]・[[歴史]][[神学者]] * [[2月7日]] - [[平松八千代]]、[[シンガーソングライター]] * [[2月11日]] - [[サラ・ペイリン]]、[[アラスカ州]]知事 * 2月11日 - [[浅尾慶一郎]]、政治家 * [[2月13日]] - [[出川哲朗]]、[[お笑いタレント]] * 2月13日 - [[宮本和知]]、元プロ野球選手・タレント * 2月13日 - [[黒氏康博]]、NHKアナウンサー * [[2月14日]] - [[ユーリー・ステパノフ (外交官)|ユーリー・ステパノフ]]、外交官 * [[2月16日]] - [[稲田秀樹]]、TVドラマ・映画プロデューサー * 2月16日 - [[ベベット]]、[[サッカー選手]] * [[2月17日]] - [[マイク・キャンベル (投手)|マイク・キャンベル]]、プロ野球選手 * [[2月18日]] - [[藤末健三]]、[[政治家]] * [[2月19日]] - [[樋口雅子]]、[[声優]] * 2月19日 - [[月山栄珠]]、プロ野球選手 * [[2月20日]] - [[遊佐未森]]、[[シンガーソングライター]] * [[2月21日]] - [[ハイヒールモモコ]]、[[漫才師]]・タレント * [[2月23日]] - [[エドガー・F・コッド]]、ソフトウェア技術者 * 2月23日 - [[坂本英三]]、歌手・作詞家・作曲家 *2月23日 - [[ピーター・コックス]]、オランダのレーシングドライバー * [[2月24日]] - [[長嶝高士]]、声優 * [[2月25日]] - [[橋本じゅん]]、俳優・声優 * [[2月26日]] - [[廣田浩章]]、プロ野球選手 *[[2月27日]] - [[越智隆雄]]、[[政治家]] * 2月27日 - [[小林透]]、[[ベーシスト]]・[[作曲家]] * [[2月29日]] - [[羽仁未央]]、[[エッセイスト]](+ [[2014年]]) === 3月 === * [[3月3日]] - [[米川英之]]、ミュージシャン、ギタリスト、元[[C-C-B]] * 3月3日 - [[池田大介 (編曲家)|池田大介]]、キーボーディスト、[[編曲家]] * 3月3日 - [[小島啓民]]、[[野球選手]] * 3月3日 - [[河井リツ子]]、[[漫画家]] * [[3月4日]] - [[MORRIE]]、ボーカリスト([[DEAD END (バンド)|DEAD END]])、ミュージシャン * [[3月5日]] - [[滝知史]]、声優 * [[3月6日]] - [[田中篤]]、[[カーレーサー]] * [[3月8日]] - [[平松愛理]]、シンガーソングライター * 3月8日 - [[円谷浩]]、俳優(+ [[2001年]]) * 3月8日 - [[反町康治]]、サッカー監督・元サッカー選手 * [[3月9日]] - [[新実智光]]、元[[オウム真理教]]幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[3月10日]] - [[足立祐二]]、ギタリスト([[DEAD END (バンド)|DEAD END]])、ミュージシャン(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news|title=DEAD ENDギタリスト・YOUさん 敗血症で16日に死去|newspaper=Sponichi Annex|date=2020-06-19|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/06/19/kiji/20200619s00041000156000c.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2020-12-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/383919|title=DEAD ENDギタリスト足立“YOU”祐二が敗血症のため死去|date=2020-06-19|work=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|accessdate=2020-11-14}}</ref>) * 3月10日 - [[エドワード (ウェセックス伯爵)|ウェセックス伯爵エドワード王子]]、イギリス女王[[エリザベス2世]]三男 * [[3月11日]] - [[空本誠喜]]、政治家・ [[日本の国会議員|衆議院議員]] * 3月11日 - [[白羽弥仁]]、映画監督 * [[3月12日]] - [[陣内貴美子]]、元[[バドミントン]]選手・タレント * [[3月13日]] - [[吹田明日香]]、タレント * [[3月14日]] - [[浦野真彦]]、[[将棋棋士]] * 3月14日 - [[リチャード・ミグリオーレ]]、騎手 * 3月14日 - [[雨宮かずみ]]、声優 * 3月14日 - [[ポール・フラハーティ (コンピュータ科学者)|ポール・フラハーティ]]、[[コンピュータ科学]]者(+ [[2006年]]) * 3月14日 - [[益田尚哉]]、[[プロ野球選手]] * [[3月16日]] - [[野々村俊恵]]、[[タレント]] * [[3月18日]] - [[かないみか]]、声優 * 3月18日 - [[アレックス・カフィ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[3月19日]] - [[北原佐和子]]、女優 * 3月19日 - [[ニコラ・ラリーニ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[3月20日]] - [[川島智太郎]]、政治家、空手家 * [[3月21日]] - [[江國香織]]、小説家 * 3月21日 - [[山岡龍孔]]、CG写真作家 * [[3月22日]] - [[金子隆博]]、サクソフォーン奏者、作曲家、アレンジャー、プロデューサー、指揮者 * [[3月23日]] - [[大木裕之]]、[[映像作家]]・[[現代美術家]] * [[3月24日]] - [[峯村リエ]]、女優 * [[3月25日]] - [[宮平保]]、中国武術 * [[3月26日]] - [[内堀雅雄]]、政治家 自治・総務 官僚。福島県知事(民選第20代) * [[3月28日]] - [[鳥居弘克]]、日本の[[建築家]] * 3月28日 - [[角居勝彦]]、調教師 * [[3月30日]] - [[トレイシー・チャップマン]]、[[歌手]]・シンガーソングライター * 3月30日 - [[ことぶき光]]、ミュージシャン(元[[P-MODEL]]) * [[3月31日]] - [[鶴久政治]]、[[ミュージシャン]](元[[チェッカーズ]]) * 3月31日 - [[バルビーノ・ガルベス]]、元プロ野球選手 * 3月31日 - [[杉山勇司]]、[[レコーディング・エンジニア]] === 4月 === * [[4月3日]] - [[南出仁]]、[[プロ野球選手]] * 4月3日 - [[ナイジェル・ファラージ]]、イギリスの政治家 * [[4月4日]] - [[小沢章一]]、高校野球指導者(+ [[2006年]]) * 4月4日 - [[上地和彦]]、プロ野球選手 * 4月4日 - [[古川聡]]、[[宇宙飛行士]] * [[4月5日]] - [[境鶴丸]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * [[4月6日]] - [[大西ユカリ]]、歌手 * 4月6日 - [[デビッド・ウッダード]]、指揮者 * 4月6日 - [[加藤公一]]、政治家 * [[4月7日]] - [[カルロス・トシキ]]、[[オメガトライブ#1986オメガトライブ/カルロス・トシキ&オメガトライブ|1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブ]]、鷹橋敏輝、歌手 * 4月7日 - [[ラッセル・クロウ]]、俳優 * 4月7日 - [[山岡三子]]、テレビキャスター * [[4月8日]] - [[福田峰之]]、[[政治家]] * [[4月9日]] - [[金城鉄治]]、プロ野球選手 * 4月9日 - [[永島昭浩]]、元サッカー選手 * [[4月11日]] - [[ブレット・セイバーヘイゲン]]、元[[メジャーリーガー]] * 4月11日 - [[土井裕泰]]、[[映画監督]] * [[4月12日]] - [[加藤哲郎 (野球)|加藤哲郎]]、元プロ野球選手 * 4月12日 - [[ルーク篁]]、[[ミュージシャン]]([[聖飢魔II]]) 生年は[[紀元前]]98036年(公称) * 4月12日 - [[ロス・チーバー]]、元レーサー * [[4月13日]] - [[西崎幸広]]、元プロ野球選手 * 4月13日 - [[藤岡太郎]]、[[俳優]]・元[[お笑い芸人]](+[[2012年]]) * [[4月14日]] - [[ホ・ジュノ]]、俳優 * 4月14日 - [[山崎たくみ]]、声優 * [[4月17日]] - [[天野勝弘]]、声優、ナレーター、俳優 * [[4月18日]] - [[長原成樹]]、お笑いタレント * [[4月20日]] - [[ジミー・ジョーンズ (野球)|ジミー・ジョーンズ]]、元プロ野球選手 * 4月20日 - [[ロザリン・サムナーズ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月21日]] - [[村山喜彦]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * 4月21日 - [[榎田健一郎]]、プロ野球選手 * [[4月22日]] - [[武田康]]、元プロ野球選手 * 4月22日 - [[茅弘二]]、歌手 * 4月22日 - [[おかやまはじめ]]、俳優 * [[4月23日]] - [[石塚理恵]]、声優 * 4月23日 - [[BOOMER|河田キイチ]]、お笑い芸人([[BOOMER]]) * [[4月24日]] - [[山本シュウ]]、[[ラジオパーソナリティ]]・[[ディスクジョッキー|DJ]] * [[4月26日]] - [[国木田かっぱ]]、タレント・テレビキャスター * [[4月28日]] - [[バリー・ラーキン]]、元メジャーリーガー * 4月28日 - [[スラシー・クソンウォン]]、[[芸術家]] * [[4月29日]] - [[太田龍生]]、プロ野球選手 * [[4月30日]] - [[渡辺美佐 (声優)|渡辺美佐]]、声優 * [[4月30日]] - [[手塚るみ子]]、プランニングプロデューサー、地球環境運動家。昭和期の漫画家・[[手塚治虫]]の長女。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[にわのまこと]]、漫画家 * 5月1日 - [[羽生田忠克]]、元[[プロ野球選手]] * 5月1日 - [[青井要]]、元プロ野球選手 * [[5月5日]] - [[高山みなみ]]、声優・ミュージシャン * [[5月6日]] - [[荒木大輔]]、元プロ野球選手 * 5月6日 - [[光原百合]]、作家(+[[2022年]]) * 5月6日 - [[宮田恭男]]、俳優 * 5月6日 - [[宮脇“JOE”知史]]、[[ドラマー]]([[ZIGGY]]) * [[5月7日]] - [[寺谷一紀]]、元NHKアナウンサー * [[5月8日]] - [[メリッサ・ギルバート]]、アメリカの女優 * 5月8日 - [[草場康郎]]、プロ野球選手 * [[5月9日]] - [[滝里美]]、演歌歌手 * 5月9日 - [[鶴見済]]、フリーライター * [[5月10日]] - [[山川周一]]、元プロ野球選手 * [[5月11日]] - [[加藤憲一]]、政治家 * 5月11日 - [[遠田誠治]]、元プロ野球選手 * 5月11日 - [[ひかる一平]]、タレント * 5月11日 - [[ビリー・ビーン (1964年生の外野手)|ビリー・ビーン]]、元プロ野球選手 * [[5月13日]] - [[鉄崎幹人]]、タレント * 5月13日 - [[久本朋子]]、タレント * [[5月14日]] - [[エド・はるみ]]、お笑い芸人 * 5月14日 - [[宅麻仁]]、タレント * 5月14日 - [[田中ひろみ]]、イラストレーター * [[5月16日]] - [[関谷亜矢子]]、フリーアナウンサー(元日本テレビアナウンサー) * [[5月17日]] - [[浦田松蔵]]、ミュージシャン(元[[JITTERIN'JINN]]) * 5月17日 - [[曽利文彦]]、映画監督 * 5月17日 - [[マウロ・マルティニ]]、レーサー * [[5月18日]] - [[成田剣]]、声優 * [[5月19日]] - [[ルイス・アキーノ]]、元プロ野球選手 * 5月19日 - [[木村貴宏]]、キャラクターデザイナー * [[5月20日]] - [[ジェフ・シュワーズ]]、元プロ野球選手 * 5月20日 - [[玄葉光一郎]]、政治家 * 5月20日 - [[薬師神繁男]]、プロ野球選手 * [[5月22日]] - [[嶋大輔]]、俳優 * 5月22日 - [[マイア・ウソワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[5月23日]] - [[黒田治]]、[[ラジオパーソナリティ]] * [[5月24日]] - [[藤田和日郎]]、漫画家 * [[5月25日]] - [[大山正篤]]、ドラマー(元ZIGGY) * 5月25日 - [[御法川信英]]、政治家 * [[5月26日]] - [[ウィリー・フレーザー]]、元プロ野球選手 * 5月26日 - [[本間立彦]]、元プロ野球選手 * 5月26日 - [[西川隆宏]]、キーボーディスト(元[[DREAMS COME TRUE]]) * 5月26日 - [[太賀麻郎]]、[[AV男優]] * [[5月27日]] - [[レイモンド・ヤング]]、元プロ野球選手 * [[5月29日]] - [[来栖正之]]、[[毎日放送]]アナウンサー * [[5月30日]] - [[古市コータロー]]、ミュージシャン([[ザ・コレクターズ|THE COLLECTORS]]) * 5月30日 - [[宮内和之]]、ミュージシャン(元[[ICE (音楽グループ)|ICE]])(+[[2007年]]) * 5月30日 - [[岸佳之]]、プロ野球選手 * [[5月31日]] - [[枝野幸男]]、政治家(民主党衆議院議員)、元官房長官 === 6月 === * [[6月2日]] - [[高柳出己]]、元[[プロ野球選手]] * [[6月3日]] - [[斎藤哲也]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー * 6月3日 - [[ネルソン・リリアーノ]]、元プロ野球選手 * 6月3日 - [[出津孝一]]、[[騎手]] * 6月3日 - [[中瀬ゆかり]]、[[編集者]] * 6月3日 - [[稲垣秀次]]、プロ野球選手 * [[6月4日]] - [[アントニオ・パチェコ]]、元野球選手 * [[6月5日]] - [[カール・サンダース]]、ミュージシャン([[ナイル (バンド)|ナイル]]) * [[6月7日]] - [[徳永善也]]、ミュージシャン(元チェッカーズ)(+ [[2004年]]) * 6月7日 - [[林強]]、[[歌手]]、[[映画音楽]][[プロデューサー]]、[[映画]][[俳優]] * 6月7日 - [[永井利光]]、[[GLAY]]、[[氷室京介]]のサポートドラマー * 6月7日 - [[相場勤]]、元野球選手 * [[6月8日]] - [[竹林宏]]、NHKアナウンサー * [[6月9日]] - [[薬師丸ひろ子]]、女優、歌手 * 6月9日 - [[高田誠 (野球)|高田誠]]、元プロ野球選手 *[[6月10日]] - [[達増拓也]]、政治家 * [[6月11日]] - [[安芸旭雅士]]、元大相撲力士 * 6月11日 - [[ジャン・アレジ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * 6月11日 - [[畠山準]]、元プロ野球選手 * 6月11日 - [[畑山俊二]]、元プロ野球選手 * [[6月12日]] - [[山崎貴]]、[[映画監督]]、[[VFX]]ディレクター * 6月12日 - [[広瀬健一]]、[[オウム真理教]]元幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[6月13日]] - [[水島かおり]]、[[俳優#性別での分類|女優]]、[[脚本家]]、映画編集者 * [[6月14日]] - [[三波伸介 (2代目)|2代目三波伸介]]、[[喜劇役者]] * [[6月15日]] - [[ミカエル・ラウドルップ]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者 * [[6月16日]] - [[仲田幸司]]、元プロ野球選手 * 6月16日 - [[西岡剛 (投手)|西岡剛]]、元プロ野球選手 * [[6月19日]] - [[温水洋一]]、俳優 * 6月19日 - [[ケビン・シュワンツ]]、元[[オートバイ]]レーサー、ケビン・シュワンツ・スズキ・スクール (KSSS) 校長 * 6月19日 - [[ボリス・ジョンソン]]、イギリスの政治家([[保守党 (イギリス)|保守党]])、第77代[[イギリスの首相|首相]]。 * [[6月21日]] - [[畝龍実]]、元プロ野球選手 * 6月21日 - [[石井浩郎]]、元プロ野球選手 * [[6月22日]] - [[阿部寛]]、俳優 * 6月22日 - [[笘篠誠治]]、元プロ野球選手 * 6月22日 - [[ダン・ブラウン]]、[[小説家]]、[[推理作家]] * 6月23日 - [[本並健治]]、元サッカー選手 * [[6月23日]] - [[智ノ花伸哉|玉垣親方]]、元[[小結]]智ノ花 * 6月23日 - [[古久保健二]]、元プロ野球選手 * 6月23日 - [[小山薫堂]]、放送作家、脚本家、ラジオパーソナリティ * 6月23日 - [[森士]]、高校野球指導者 * [[6月24日]] - [[野々村真]]、タレント * 6月24日 - [[陸奥北海勝昭]]、元大相撲力士、[[世話人]] * 6月24日 - [[高橋昭一]]、[[政治活動家]]、[[メディアプランナー]]、[[アニメーション]]制作者 * [[6月25日]] - [[猪俣隆]]、元プロ野球選手 * 6月25日 - [[ジョニー・ハーバート]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * [[6月26日]] - [[森田宏幸]]、[[アニメーター]]、[[アニメーション監督]] * 6月26日 - [[トミ・マキネン]]、[[ラリー]]ドライバー * [[6月28日]] - [[ケビン・ライマー]]、元プロ野球選手 * [[6月29日]] - [[御子柴進]]、元プロ野球選手 === 7月 === * [[7月1日]] - [[藤田秀世]]、[[ナイロン100℃]]、俳優 * 7月1日 - [[佐藤智恵]]、声優 * [[7月2日]] - [[鴨志田穣]]、フリージャーナリスト、カメラマン、エッセイスト(+ [[2007年]]) * 7月2日 - [[ホセ・カンセコ]]、元[[メジャーリーガー]] * 7月2日 - [[オジー・カンセコ]]、元メジャーリーガー * [[7月3日]] - [[桜井敏治]]、声優 * 7月3日 - [[大久保学]]、元[[プロ野球選手]] * 7月3日 - [[芦田多恵]]、[[ファッションデザイナー]] * [[7月6日]] - [[頓田国満]]、元プロ野球選手 * [[7月7日]] - [[藤島康介]]、漫画家、[[イラストレーター]] * 7月7日 - [[堤真一]]、俳優 * 7月7日 - [[清水雅治]]、元プロ野球選手 * [[7月8日]] - [[八代英輝]]、[[弁護士]]([[国際弁護士]]) * [[7月9日]] - [[ジャンルカ・ヴィアッリ]]、元サッカー選手、サッカー指導者(+ [[2023年]]) * 7月9日 - [[可愛かずみ]]、歌手、タレント(+ [[1997年]]) * [[7月10日]] - [[高橋雅裕]]、元プロ野球選手 * 7月10日 - [[松谷竜二郎]]、元プロ野球選手 * 7月10日 - [[アーバン・マイヤー]]、アメリカンフットボールコーチ * [[7月11日]] - [[今野隆裕]]、元プロ野球選手 * 7月11日 - [[染宮修支]]、元プロ野球選手 * [[7月12日]] - [[青野厚司]]、[[アニメーター]] * [[7月13日]] - [[村田晃嗣]]、[[政治学者]]、[[同志社大学]]助教授 * 7月13日 - [[青山真治]]、[[映画監督]]・[[小説家]](+[[2022年]]) * [[7月14日]] - [[椎名桔平]]、俳優 * 7月14日 - [[新谷博]]、元プロ野球選手 * [[7月15日]] - [[柱谷哲二]]、元サッカー選手 * [[7月16日]] - [[市村浩一郎]]、政治家 * [[7月17日]] - [[長江健次]]、タレント * 7月17日 - [[ヘザー・ランゲンカンプ]]、女優 * [[7月19日]] - [[近藤真彦]]、歌手・[[レーシングドライバー]] * 7月19日 - [[村石雅行]]、[[ドラマー]] * [[7月20日]] - [[桂歌蔵]]、落語家 * 7月20日 - [[クリス・コーネル]]、ミュージシャン(+ [[2017年]]) * 7月20日 - [[渡瀬ミク]]、[[AV女優]]、[[裏本]]モデル * [[7月21日]] - [[あきまん]]、[[イラストレーター]]、[[ストリートファイター2]]キャラクターデザイン * 7月21日 - [[大田勇治]]、元プロ野球選手 * [[7月22日]] - [[内村光良]]、タレント([[ウッチャンナンチャン]]) * 7月22日 - [[藤本修二]]、元プロ野球選手 * [[7月23日]] - [[金子誠一]]、元プロ野球選手 * [[7月24日]] - [[バリー・ボンズ]]、メジャーリーガー * 7月24日 - [[よしもとばなな]]、小説家 * [[7月25日]] - [[高島礼子]]、女優 * [[7月26日]] - [[サンドラ・ブロック]]、女優 * [[7月27日]] - [[植田幸弘]]、元プロ野球選手 * [[7月28日]] - [[阿波野秀幸]]、元プロ野球選手、現[[中日ドラゴンズ]]コーチ * 7月28日 - [[真殿光昭]]、声優 * 7月28日 - [[ボブ・ミラッキ]]、元プロ野球選手 * [[7月31日]] - [[坂井永年]]、[[イラストレーター]] === 8月 === * [[8月1日]] - [[BOOMER|伊勢浩二]]、お笑い芸人(BOOMER) * [[8月2日]] - [[紡木たく]]、漫画家 *8月2日 - [[フランク・ビエラ]]、レーシングドライバー * [[8月3日]] - [[栗田聡]]、元[[プロ野球選手]] * 8月3日 - [[木内均]]、政治家 * [[8月7日]] - [[ギュウゾウ]]、[[電撃ネットワーク]]・[[DJ]] * [[8月8日]] - [[佐古忠彦]]、[[TBS]][[アナウンサー]] * [[8月9日]] - [[佐喜眞淳]]、政治家 * [[8月10日]] - [[高橋ひろ]]、歌手・作曲家(+ [[2005年]]) * [[8月12日]] - [[藤沢一就]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] * [[8月13日]] - [[戸川京子]]、女優(+ [[2002年]]) * 8月15日 - [[中村光一]]、[[ゲームクリエイター]]・[[ドラゴンクエスト]]制作者 * [[8月18日]] - [[いとうまい子]]、タレント * 8月18日 - [[クレイグ・ビアーコ]]、[[俳優]] * 8月18日 - [[高城剛]]、映像作家 * [[8月19日]] - [[小野打泰子]]、航空自衛官 * [[8月20日]] - [[桐島かれん]]、女優・タレント・歌手([[サディスティック・ミカ・バンド]]) * [[8月22日]] - [[森まさこ]]、政治家 * [[8月23日]] - [[ジェフ・マント]]、元プロ野球選手 * [[8月24日]] - [[キップ・グロス]]、元プロ野球選手 * 8月24日 - [[サンダ・ドゥブラヴチッチ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月27日]] - [[則竹裕之]]、[[ドラマー]](元[[T-SQUARE]]) * [[8月28日]] - [[熊田裕通]]、政治家 * [[8月29日]] - [[YOU (タレント)|YOU]]、タレント * [[8月31日]] - [[能一実]]、[[競輪選手]] === 9月 === * [[9月1日]] - [[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]、元[[プロ野球選手]] * 9月1日 - [[デビッド・ウェスト (野球)|デビッド・ウエスト]]、元プロ野球選手 * 9月1日 - [[キキ・ラーマース]]、[[画家]] * [[9月2日]] - [[キアヌ・リーブス]]、俳優 * 9月2日 - [[和木ちえり]]、タレント * 9月2日 - [[山本カヨ]]、福岡のローカルタレント * [[9月3日]] - [[上領亘]]、ミュージシャン・ドラマー * [[9月4日]] - [[荻野目慶子]]、女優 * [[9月5日]] - [[エマニュエル・ヤーブロー]]、総合格闘家・元世界相撲選手権大会優勝者 * [[9月7日]] - [[テイ・トウワ]]、ミュージシャン * 9月7日 - [[アンディ・フグ]]、[[K-1]][[格闘家]](+ [[2000年]]<ref name="鉄人アンディ">[http://www.boutreview.com/report/k1/00/08hug/24kaiken.html 「鉄人アンディ・フグ死去」] バウトレビュー 2000年8月24日</ref>) * 9月7日 - [[小県真樹]]、囲碁棋士 * [[9月8日]] - [[河野俊嗣]]、政治家 * [[9月9日]] - [[柴山薫]]、[[漫画家]](+ [[2007年]]) * [[9月11日]] - [[大塚高司]]、政治家 * [[9月13日]] - [[三原じゅん子]]、[[参議院]]議員・元女優 * [[9月14日]] - [[金沢信彦]]、プロ野球選手 * [[9月16日]] - [[松井成行]]、お笑い芸人([[シンデレラ・エキスプレス]]) * [[9月18日]] - [[橋本武広]]、元プロ野球選手 *[[9月19日]] - [[エンリコ・ベルタッジア|エンリコ・ベルダッジア]]、元F1ドライバー * [[9月20日]] - [[手塚貴久]]、[[調教師]] * 9月20日 - [[張曼玉|マギー・チャン]]、女優 * 9月20日 - [[中田宏]]、政治家 * [[9月21日]] - [[牧穂エミ]]、作詞家 * [[9月22日]] - [[佐伯敏光]]、[[山形放送]]アナウンサー * [[9月23日]] - [[稲葉浩志]]、([[B'z]]) * 9月23日 - [[イジリー岡田]]、お笑いタレント * 9月23日 - [[床嶋佳子]]、女優 * [[9月24日]] - [[ラファエル・パルメイロ]]、元[[メジャーリーガー]] * 9月24日 - [[ジェフ・クロスノフ]]、レーサー(+ [[1996年]]) * [[9月25日]] - [[井上喜久子]]、声優 * 9月25日 - [[カルロス・ルイス・サフォン]]、[[小説家]] * 9月25日 - [[東出剛]]、[[競輪選手]](+ [[2004年]]) * [[9月26日]] - [[関清和]]、元プロ野球選手 * [[9月27日]] - [[川相昌弘]]、元プロ野球選手 * 9月27日 - [[岸谷五朗]]、俳優 * 9月27日 - [[香取秀俊]]、工学者 * [[9月29日]] - [[山下容莉枝]]、女優 * 9月29日 - [[阿井英二郎]]、元プロ野球選手 * 9月29日 - [[牧山弘恵]]、政治家 * [[9月30日]] - [[石井章夫]]、元野球選手 * 9月30日 - [[ダグ・ジェニングス]](登録名D・J)、元プロ野球選手 * 9月30日 - [[トニーヒロタ]]、ものまねタレント === 10月 === * [[10月1日]] - [[松浦勝人]]、音楽プロデューサー、実業家 * [[10月2日]] - [[藤岡大樹]]、俳優 * [[10月3日]] - [[牧野美千子]]、女優 * [[10月5日]] - [[橋本聖子]]、[[国会議員|参議院議員]]、元[[近代オリンピック|オリンピック]]日本代表、日本スケート連盟会長 * 10月5日 - [[藤原啓治]]、声優(+[[2020年]]<ref name="sponichi20200416">[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/16/kiji/20200416s00041000267000c.html 声優・藤原啓治さんが死去 55歳 「クレヨンしんちゃん」野原ひろし役など],スポーツニッポン,2020年4月16日</ref>) * 10月5日 - [[横田めぐみ]]、[[北朝鮮]]による日本人拉致の被害者の1人 * 10月5日 - [[菅剛史]]、[[プロデューサー]]、[[ガスコイン・カンパニー]]の社長 * [[10月6日]] - [[小畑隆彦]]、[[ミュージシャン]] * [[10月7日]] - [[藤本茂喜]]、元[[プロ野球選手]] * [[10月8日]] - [[辻本茂雄]]、お笑いタレント、[[吉本新喜劇]]元座長 * [[10月9日]] - [[小林茂樹]]、政治家 * [[10月10日]] - [[住吉義則]]、元プロ野球選手 * [[10月12日]] - [[彦野利勝]]、元プロ野球選手 * [[10月13日]] - [[小野坂昌也]]、声優 * 10月13日 - [[加瀬竜哉]]、[[ミュージシャン]] * 10月13日 - [[荒井幸雄]]、元プロ野球選手 * [[10月14日]] - [[旭道山和泰]]、元大相撲[[小結]]力士、元[[国会議員|衆議院議員]] * 10月14日 - [[ジョー・ジラルディ]]、メジャーリーグベースボール監督、元メジャーリーガー * [[10月15日]] - [[おおたわ史絵]] 日本の[[内科医]]、[[作家]]、[[医療評論家]]、[[オフィス・トゥー・ワン]]所属 * [[10月17日]] - [[富澤タク]]、ギタリスト、シンガーソングライター * [[10月19日]] - [[マニュエル・ルグリ]]、[[バレエ]]ダンサー * 10月19日 - [[野村真美]]、女優 * [[10月20日]] - [[萩森徇子]]、声優 * [[10月20日]] - [[山口智子]]、女優 * [[10月24日]] - [[内藤善弘]]、作家 * 10月24日 - [[ポール・ワイリー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月25日]] - [[石井丈裕]]、元プロ野球選手 * [[10月25日]] - [[恩田陸]]、小説家 * [[10月26日]] - [[野村義男]]、ミュージシャン * 10月26日 - [[プリンセス・プリンセス|渡辺敦子]]、ミュージシャン(元[[プリンセス・プリンセス]]) * 10月26日 - [[山口憲一]]、ミュージシャン(wface、元[[マジック (バンド)|MAGIC]]) * [[10月27日]] - [[前田耕司]]、元プロ野球選手 * [[10月28日]] - [[琴富士孝也]]、元大相撲力士、[[関脇]] * 10月28日 - [[田中弘太郎 (俳優)|田中弘太郎]]、俳優 * [[10月29日]] - [[ヤスミン・ル・ボン]]、[[イギリス]]の[[モデル (職業)|モデル]] * [[10月30日]] - [[呂明賜]]、元プロ野球選手 * 10月30日 - [[日出郎]]、タレント、歌手、声優 * 10月30日 - [[テレンス・リー]]、軍事評論家 * 10月30日 - [[濱田剛史]]、政治家 * [[10月31日]] - [[マルコ・ファン・バステン]]、元サッカー選手、サッカー指導者 === 11月 === * [[11月1日]] - [[木場弘子]]、元TBSアナウンサー * 11月1日 - [[西原理恵子]]、漫画家 * [[11月2日]] - [[プリンセス・プリンセス|中山加奈子]]、ミュージシャン、作詞家(元[[プリンセス・プリンセス]]) * [[11月3日]] - [[神取忍]]、プロレスラー * 11月3日 - [[向井亜紀]]、タレント * [[11月4日]] - [[水谷優子]]、声優(+ [[2016年]]<ref name="oricon">[https://www.oricon.co.jp/news/2071912/full/ 声優・水谷優子さん、乳がんで死去 『ちびまる子ちゃん』お姉ちゃんなど],ORICON STYLE,2016年5月19日</ref>) * 11月4日 - [[高杉亘]]、俳優 * [[11月6日]] - [[蜷川みほ]]、[[俳優|女優]] * 11月6日 - [[依田政彦]]、元[[プロ野球選手]] * [[11月10日]] - [[清水宏次朗]]、俳優、歌手 * 11月10日 - [[ケニー・ロジャース (野球)|ケニー・ロジャース]]、[[メジャーリーガー]] * [[11月11日]] - [[中西圭三]]、シンガーソングライター * [[11月12日]] - [[河野景子]]、元[[横綱]][[貴乃花光司|貴乃花]]夫人、元フジテレビアナウンサー * [[11月14日]] - [[久保こーじ]]、作曲家 * [[11月15日]] - [[長谷川達栄]]、プロ野球選手 * [[11月16日]] - [[二谷友里恵]]、元女優 * 11月16日 - [[ドワイト・グッデン]]、元メジャーリーガー * 11月16日 - [[松原靖]]、元プロ野球選手 * 11月16日 - [[大順将弘]]、元プロ野球選手 * [[11月17日]] - [[マリナ・チェルカソワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 11月17日 - [[ミッチ・ウィリアムス]]、メジャーリーガー * [[11月22日]] - [[清水雅広]]、元[[オートバイ|モーターサイクル]]・ロードレースライダー * [[11月23日]] - [[太田美知彦]]、作編曲家、歌手 * [[11月24日]] - [[木下博信]]、政治家 * [[11月25日]] - [[真琴つばさ]]、女優、歌手 * [[11月26日]] - [[中竹和也]]、元騎手、調教師 * [[11月27日]] - [[ロベルト・マンチーニ]]、元[[サッカー]]選手、[[サッカー]]指導者 * 11月27日 - [[杉田かおる]]、女優、タレント * [[11月29日]] - [[愛華みれ]]、女優 * 11月29日 - [[上杉裕世]]、[[マットペインター]] * [[11月30日]] - [[獣神サンダー・ライガー]]、プロレスラー === 12月 === * [[12月1日]] - [[竹内海南江]]、タレント・レポーター * 12月1日 - [[サルバトーレ・スキラッチ]]、元[[サッカー選手]] * 12月2日 - [[本多平直]]、政治家 * [[12月3日]] - [[パンチ佐藤]]、タレント、元[[プロ野球選手]] * 12月3日 - [[KUROKO]]、タレント * 12月3日 - [[マルコ・テンペスト]]、[[奇術師]] * [[12月4日]] - [[トーマス・ダニエルソン]]、元レーサー * [[12月5日]] - [[岩井志麻子]]、[[作家]] * [[12月6日]] - [[林家たい平]]、[[落語家]] * [[12月7日]] - [[菊地英昭]]、[[ギタリスト]]([[THE YELLOW MONKEY|ザ・イエローモンキー]]) * [[12月8日]] - [[長与千種]]、[[プロレスラー]] * [[12月11日]] - [[寺西秀人]]、元プロ野球選手 * [[12月12日]] - [[アロンゾ・パウエル]]、元プロ野球選手 * [[12月12日]] - [[毛利元貞]]、作家・軍事評論家 * [[12月13日]] - [[hide]]、[[ギタリスト]]([[X JAPAN]])シンガーソングライター(+ [[1998年]]) * [[12月14日]] - [[藤岡宣男]]、[[声楽家]] * 12月14日 - [[須藤満]]、[[ベーシスト]](T-SQUARE) * 12月14日 - [[大善尊太|富士ヶ根親方]]、元小結大善 * 12月14日 - [[坂本勝美]]、元騎手・調教師 * 12月14日 - [[百々義則]]、ミュージカル俳優 * [[12月15日]] - [[高橋克典]]、俳優・歌手 * 12月15日 - [[冨田勇]]、プロ野球選手 * [[12月21日]] - [[幾原邦彦]]、アニメーション監督 * [[12月21日]] - [[恵俊彰]]、タレント([[ホンジャマカ]]) * [[12月22日]] - [[中野英雄]]、俳優 * 12月22日 - [[高知東生]]、俳優 * 12月22日 - [[江原啓之]]、スピリチュアル・カウンセラー *12月22日 - [[竹内浩典]]、レーシングドライバー * [[12月23日]] - [[小沢和義]]、俳優 * 12月23日 - [[越和宏]]、[[スケルトン (スポーツ)|スケルトン]]選手 * 12月23日 - [[エディ・ヴェダー]]、ミュージシャン([[パール・ジャム]]) * [[12月27日]] - [[藤井尚之]]、ミュージシャン(元チェッカーズ) * [[12月28日]] - [[山口香]]、柔道指導者、元女子[[柔道]]選手 * [[12月29日]] - [[鶴見辰吾]]、俳優 * 12月29日 - [[浅井健一]]、ミュージシャン(元[[BLANKEY JET CITY]]) === 誕生日不明 === * [[上田早夕里]]、小説家 * [[黒川伸一]]、法学者 * {{仮リンク|銭萍|en|Qian Ping}}、[[バドミントン]]選手 == 死去 == {{see also|Category:1964年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ビシャラ・アル・フーリー]]<ref>{{cite web|url=http://www.presidency.gov.lb/Arabic/PresidentoftheRepublic/FormerPresidents/Pages/CheikhBecharaElKhoury.aspx|title=الشيخ بشارة الخوري|publisher=الصفحة الرئيسية - رئاسة الجمهورية اللبنانية|accessdate=2021-02-10}}</ref>、[[レバノン]]大統領(* [[1890年]]) * [[1月8日]] - [[マルティン・スティクスルート]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1876年]]) * [[1月9日]] - [[八波むと志]]、[[コメディアン]](* [[1926年]]) * [[1月14日]] - [[浅川伯教]]、[[彫刻家]]・[[陶磁器]]研究家(* [[1884年]]) * [[1月17日]] - [[西下経一]]、[[国文学者]](* [[1898年]]) * [[1月25日]] - [[岸本英夫]]、[[宗教学者]](* [[1903年]]) * [[1月29日]] - [[アラン・ラッド]]、[[俳優]](* [[1913年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[牧野虎次]]、社会事業家、[[学校法人同志社|同志社]][[総長]](* [[1871年]]) * [[2月6日]] - [[エミリオ・アギナルド]]、初代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](* [[1869年]]) * [[2月8日]] - [[エルンスト・クレッチマー]]、[[精神医学|精神医学者]](* [[1888年]]) * 2月8日 - [[細萱戊子郎]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]](* 1888年) * [[2月10日]] - [[オイゲン・ゼンガー]]、[[航空宇宙工学|航空宇宙工学者]](* [[1905年]]) * [[2月12日]] - [[五十嵐敬之助]]、元[[力士]]、7代[[勝ノ浦]]親方(*[[1884年]]) * [[2月19日]] - [[尾崎士郎]]、[[小説家]](* [[1898年]]) * [[2月24日]] - [[高碕達之助]]、[[政治家]]・[[実業家]](* [[1885年]]) * [[2月28日]] - [[辰野隆]]、[[フランス文学者]](* [[1888年]]) * 2月28日 - [[清水喜一郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1924年]]) === 3月 === * [[3月8日]] - [[レナータ・ボルガッティ]]、[[ピアニスト]](* [[1894年]]) * [[3月9日]] - [[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]、[[ドイツ陸軍]]の[[少将]](* [[1870年]]) * [[3月16日]] - [[太田垣士郎]]、実業家(* [[1894年]]) * [[3月18日]] - [[ジークフリード・エドストレーム]]、[[国際オリンピック委員会]]会長(* 1870年) * 3月18日 - [[ノーバート・ウィーナー]]、[[数学者]](* [[1894年]]) * [[3月23日]] - [[ピーター・ローレ]]、俳優(* [[1904年]]) * 3月23日 - [[清水秀雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1918年]]) * [[3月25日]] - [[ペンティ・エーリス・エスコラ]]、[[地質学者]](* [[1883年]]) === 4月 === * [[4月5日]] - [[ダグラス・マッカーサー]]、[[アメリカ合衆国軍|米軍]]の[[将軍]]・[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]総司令官(* [[1880年]]) * 4月5日 - [[三好達治]]、[[詩人]](* [[1900年]]) * [[4月6日]] - [[アロイーズ・コルバス]]、[[画家]](* [[1886年]]) * [[4月14日]] - [[レイチェル・カーソン]]、『[[沈黙の春]]』の著者として有名な[[生物学者]](* [[1907年]]) * [[4月16日]] - [[小杉放庵]]、[[洋画家]](* [[1881年]]) * [[4月18日]] - [[朝倉文夫]]、[[彫刻家]](* [[1883年]]) * [[4月19日]] - [[モーリス・マレシャル]]、[[チェリスト]](* [[1892年]]) * [[4月24日]] - [[ゲルハルト・ドーマク]]、[[生化学|生化学者]](* [[1895年]]) * [[4月26日]] - [[八田嘉明]]、鉄道技術者・政治家(* [[1879年]]) * 4月26日 - [[堤康次郎]]、[[実業家]]・[[西武グループ]]創業者(* [[1889年]]) * [[4月27日]] - [[北村小松]]、小説家(* [[1891年]]) === 5月 === * [[5月6日]] - [[長田幹彦]]、小説家(* [[1887年]]) * 5月6日 - [[佐藤春夫]]、[[小説家]]・[[詩人]](* [[1892年]]) * [[5月7日]] - [[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]]、[[建築家]]・[[近江兄弟社]]共同創設者(* 1880年) * [[5月8日]] - [[野村吉三郎]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軍人]]・[[太平洋戦争]]開戦時の駐米大使・[[参議院|参議院議員]](* [[1877年]]) * [[5月10日]] - [[ミハイル・ラリオーノフ]]、[[画家]](* [[1881年]]) * [[5月14日]] - [[光田健輔]]、[[病理学者]]・[[皮膚科学|皮膚科医]](* [[1876年]]) * [[5月17日]] - [[出羽湊利吉]]、[[大相撲]]の[[力士]]・元[[関脇]](* 1907年) * [[5月21日]] - [[ジェイムス・フランク]]、[[物理学者]](* [[1882年]]) * [[5月27日]] - [[ジャワハルラール・ネルー]]、初代[[インド]][[首相]](* [[1889年]]) * [[5月29日]] - [[大野伴睦]]、[[政治家]]、元[[衆議院]]議長(* [[1890年]]) * 5月29日 - [[小林やす]]、元長寿日本一 享年118(* [[1846年]]) ※[[ギネス世界記録|ギネス]]非公認記録 === 6月 === * [[6月3日]] - [[フランス・エーミル・シランペー]]、[[小説家]](* [[1888年]]) * 6月3日 - [[尾崎行輝]]、飛行機研究家・政治家(* [[1888年]]) * [[6月7日]] - [[高群逸枝]]、[[詩人]]・[[民俗学者]](* [[1894年]]) * [[6月9日]] - [[ルイス・グルーエンバーグ]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](* [[1884年]]) * [[6月18日]] - [[ジョルジョ・モランディ]]、画家(* [[1890年]]) * [[6月23日]] - [[市岡忠男]]、元[[野球選手]]・球団経営者(* [[1891年]]) * [[6月25日]] - [[ヘリット・リートフェルト]]、建築家(* 1888年) * [[6月29日]] - [[エリック・ドルフィー]]、[[ジャズ]]の[[サクソフォーン|サックス]]・[[フルート]]奏者(* [[1928年]]) === 7月 === * [[7月1日]] - [[ピエール・モントゥー]]、[[指揮者]](* [[1875年]]) * [[7月7日]] - [[リリアン・コープランド]]、[[陸上競技]]選手(* [[1904年]]) * [[7月9日]] - [[阿部真之助]]、[[ジャーナリスト]](* [[1884年]]) * [[7月15日]] - [[金山平三]]、[[洋画家]](* [[1883年]]) * [[7月23日]] - [[石山賢吉]]、実業家・ジャーナリスト・[[ダイヤモンド社]]創業者(* 1882年) === 8月 === * [[8月4日]] - [[太刀ノ海浪右エ門]]、元[[力士]](*[[1894年]]) * [[8月6日]] - [[セドリック・ハードウィック]]、俳優(* [[1893年]]) * [[8月12日]] - [[イアン・フレミング]]、小説家(* [[1908年]]) * [[8月17日]] - [[佐田啓二]]、俳優(* [[1926年]]) * [[8月21日]] - [[パルミーロ・トリアッティ]]、[[イタリア共産党]]の指導者(* [[1893年]]) * [[8月25日]] - [[八田尚之]]、[[脚本家]](* [[1905年]]) === 9月 === * [[9月2日]] - [[フランシスコ・クラヴェイロ・ロペス]]、[[ポルトガルの大統領|ポルトガル大統領]](* [[1894年]]) * [[9月7日]] - [[千宗室 (14代)|十四代 千宗室]](* [[1893年]]) * [[9月11日]] - [[川野彰子]]、小説家(* [[1928年]]) * 9月11日 - [[山本礼三郎]]、俳優(* [[1902年]]) * [[9月22日]] - [[佐々木邦]]、[[作家]](* [[1883年]]) * [[9月28日]] - ハーポ・マルクス、[[コメディアン]]・[[マルクス兄弟]](* [[1888年]]) === 10月 === * [[10月2日]] - [[山村新治郎 (10代目)]]、政治家(* [[1908年]]) * [[10月15日]] - [[コール・ポーター]]、[[作曲家]](* [[1891年]]) * [[10月20日]] - [[ハーバート・フーヴァー]]、第31代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1874年]]) * [[10月28日]] - [[松根東洋城]]、[[俳人]](* [[1878年]]) * 10月28日 - [[レジナルド・ブライス]]、日本文化研究者(* [[1898年]]) === 11月 === * [[11月6日]] - [[ハンス・フォン・オイラー=ケルピン]]、[[化学者]](* [[1873年]]) * [[11月8日]] - [[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]、落語家(*[[1894年]]) * [[11月12日]] - [[フレッド・ハッチンソン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1919年]]) * [[11月10日]] - [[ジミー・ドッド]]、俳優(*[[1910年]]) * [[11月17日]] - [[森谷克己]]、[[経済学者]](* [[1904年]]) === 12月 === * [[12月2日]] - [[ジョゼフ・ドッジ]]、[[銀行|銀行家]](* [[1890年]]) * [[12月6日]] - [[コンスエロ・ヴァンダービルト]]、[[マールバラ公]]夫人(* [[1877年]]) * [[12月11日]] - [[アルマ・マーラー]]、作曲家[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の妻(* [[1879年]]) * 12月11日 - [[サム・クック]]、[[ソウルミュージック]]・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]の[[歌手]](* [[1931年]]) * [[12月14日]] - [[フランシスコ・カナロ]]、[[タンゴ]]の[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]](* 1888年) * 12月14日 - [[杉道助]]、実業家(* [[1884年]]) * [[12月16日]] - [[川村多実二]]、[[動物学|動物学者]](* [[1883年]]) * [[12月17日]] - [[ヴィクトール・フランツ・ヘス]]、物理学者(* [[1883年]]) * [[12月21日]] - [[カール・ヴァン・ヴェクテン]]、[[写真家]](* [[1880年]]) * [[12月29日]] - [[三木露風]]、詩人(* [[1889年]]) * 12月29日 - [[広沢虎造 (2代目)]]、[[浪曲師]](* [[1899年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[チャールズ・タウンズ]]、[[ニコライ・バソフ]]、[[アレクサンドル・プロホロフ]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ドロシー・ホジキン]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[コンラート・ブロッホ]]、[[フェオドル・リュネン]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ジャン=ポール・サルトル]](辞退して受賞せず) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1964|date=2011年7月}} * 冬? - [[四日市市|四日市]]、[[名古屋市|名古屋]]を破壊した[[ゴジラ (2代目)|ゴジラ]]に[[モスラ (初代および昭和ゴジラシリーズ)|モスラ]]が立ち向かう。(映画『[[モスラ対ゴジラ]]』) * 1月 - 宇宙怪獣[[キングギドラ (昭和ゴジラシリーズ)|キングギドラ]]が襲来。富士山麓でゴジラ、モスラ、[[ラドン (架空の怪獣)|ラドン]]と交戦する。他にも[[松本市|松本]]、[[横浜市|横浜]]、[[東京]]が破壊される。(映画『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』) * [[3月26日]] - 約10億体の[[火星人]]が長距離[[瞬間移動|クイミング]]を用いて世界中に出現し、馬鹿騒ぎを展開。これによる混乱によって、アメリカのみでも3万人以上が死亡する。(小説『[[火星人ゴーホーム]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = 火星人ゴーホーム |publisher = [[早川書房]] |year = 1976 |pages = 17-75 |isbn = 978-4-15-010213-5}}</ref> * [[6月10日]] - ジェレミー・ストーン博士ら5名からなる専門家会議が、有害[[地球外生命|地球外生物]](微生物)の拡散防止を目的とした研究機関の設立を求める嘆願書を[[アメリカ合衆国大統領]]に提出。これは受け入れられ、7月には後の「ワイルドファイア計画」に繋がる[[アメリカ国防総省|国防省]]の優先研究計画となる。(小説『[[アンドロメダ病原体]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= マイケル・クライトン|authorlink=マイケル・クライトン |title = アンドロメダ病原体 |publisher = 早川書房 |year = 1976 |pages = 71-75,133,134 |isbn = 978-4-15-010208-1}}</ref> * [[8月24日]] - バーチャスミッション開始。(ゲーム『[[メタルギアソリッド3]]』) * [[8月30日]] - スネークイーター作戦開始。(ゲーム『メタルギアソリッド3』) * [[9月2日]]- [[ビッグ・ボス|ネイキッド・スネーク]]、[[ザ・ボス]]抹殺に成功。スネークイーター作戦終了。(ゲーム『メタルギアソリッド3』) * [[12月17日]] - 浪速大学医学部の[[里見脩二]]助教授が辞表を書く。(小説・テレビドラマ『[[白い巨塔]]』) * [[12月24日]] - イヤミ、松野家を始めとする町の人たちからクリスマスパーティー代100円徴収し、持ち逃げを計るが、仲間にしてもらえない[[チビ太]]にケーキを食われる。(漫画『[[おそ松くん]]』。「きよしこの夜 ケーキはいかが」) * 不明 - 宇宙怪獣ドゴラが出現する。(映画『[[宇宙大怪獣ドゴラ]]』) * 不明 - [[ドイツ]]のゲオルグ・ララーシュタインの元で働いていた嵐田陽一郎博士、ララーシュタインが完成間近のロボット・マッハバロン(1号機)を悪用して世界征服を企んでる事を知り、マッハバロンを自爆させると、妻と息子・陽と共に客船で逃亡。怒ったララーシュタインはロボット「ハイルV1号」を仕向けて、嵐田博士夫婦を客船ごと抹殺するが、陽はマッハバロンの設計図を仕込んだ救命具で脱出する。(特撮テレビ番組『[[スーパーロボット マッハバロン]]』) * 不明 - クロード・ルイスら[[中央情報局|CIA]]の職員が、外見年齢約30歳から加齢せず124年間[[ウィスコンシン州]]{{仮リンク|ミルヴィル (ウィスコンシン州)|label = ミルヴィル|en|Millville, Wisconsin}}近郊に住んでいるイノック・ウォーレスを調査し、彼の家が老朽化せず、ウォーレス家の墓地に未知の言語が刻まれた墓石があることを発見。墓地に埋葬されていた[[ベガ|ヴェガ]]第二十一惑星人の死体を掘り出し、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]へ移送する。(小説『[[中継ステーション]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= クリフォード・D・シマック|authorlink=クリフォード・D・シマック |title = 中継ステーション |publisher = 早川書房 |year = 1977 |pages = 7-30,117,156-159,178-181 |isbn = 978-4-15-010265-4}}</ref> * 不明 - ザゾリオン帝国の魔力テストにより航空機が破壊される。剛堂博士はテレポートで白銀ゴローと秋津ミチ(両名とも後年のマジカルコマンドー隊)を救出させる。(テレビアニメ『[[超合体魔術ロボ ギンガイザー]]』) * 不明 - [[ロスアラモス国立研究所|ロスアラモス研究所]]がマイクロパイル(超小型[[原子炉]])の開発に成功し、これを搭載したロケットが人類初の[[月面着陸]]を行う。(小説『[[天の光はすべて星]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = フレドリック・ブラウン |title = 天の光はすべて星 |publisher = 早川書房 |year = 2008 |pages = 75,76 |isbn = 978-4-15-011679-8}}</ref> * 不明 - 強力な殺虫剤により自然が破壊される。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) === 誕生日 === * [[1月3日]] - [[室井慎次]]、テレビドラマ・映画『[[踊る大捜査線]]』に登場する人物 * [[5月14日]] - [[真島吾朗]]、ゲーム『[[龍が如く]]シリーズ』に登場するキャラクター * [[6月15日]] - [[剛田武]]、アニメ・漫画『[[ドラえもん]]』に登場するキャラクター * [[7月21日]] - [[リュウ (ストリートファイター)|リュウ]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』シリーズに登場するキャラクター * [[8月7日]] - [[野比のび太]]、アニメ・漫画『[[ドラえもん]]』に登場するキャラクター * [[9月2日]] - 紺野純子、アニメ『[[ゾンビランドサガ]]』に登場するキャラクター * [[12月4日]] - 邑輝一貴、アニメ・漫画『[[闇の末裔]]』に登場するキャラクター<ref>[[花とゆめコミックス]]『闇の末裔』第6巻巻末に記載。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-06-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第13巻) 東京オリンピックと新幹線―昭和39年〜42年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194363-4 |ref = 昭和二万日13 }} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1964}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004558765.pdf 1964(昭和39)年]「豊かさ」に関する意識の変容(4)冨貴島明、城西大学、2006-06. p28 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1964ねん}} [[Category:1964年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1964%E5%B9%B4
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1963年
1963年(1963 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和38年。
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1963年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和38年。
{{出典の明記|date=2013年7月11日 (木) 03:22 (UTC)}} {{年代ナビ|1963}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1963 }} {{year-definition|1963}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1963年について記載する。 --> == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * 干支:[[癸卯]](みずのと う) * [[元号一覧 (日本)|日本]](月日は一致) ** [[昭和]]38年 ** [[皇紀]]2623年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]52年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]52年 * [[仏滅紀元]]:2505年-2506年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1382年8月5日-1383年8月14日 * [[ユダヤ暦]]:5723年4月5日-5724年4月15日 * [[修正ユリウス日]](MJD):38030-38394 * [[リリウス日]](LD):138871-139235 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1963}} == できごと == === 1月 === * 1月 - [[北陸地方]]を中心に日本全国豪雪([[昭和38年1月豪雪]])。[[富山県]][[薬師岳]]では、[[愛知大学山岳部薬師岳遭難事故]]が発生。同大山岳部員13名が死亡。 * [[1月1日]] ** [[大韓民国]]の[[行政区画]]の再編、[[ソウル特別市]]の拡張および[[釜山広域市|釜山直轄市]]の設置、一部の郡の所属の変更([[蔚珍郡]]を[[江原道 (南)|江原道]]から[[慶尚北道]]に編入など)。 ** [[フジテレビ系]]で日本国産連続30分[[テレビアニメ]]第1号『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』放映開始<ref name="昭和二万日12、p.250">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.250]]</ref>。 * [[1月7日]] - [[四国コカ・コーラボトリング]](当時の社名:四国飲料)設立。 * [[1月14日]] - 新劇の名門・[[文学座]]の分裂騒動が表面化<ref name="昭和二万日12、p.255">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.255]]</ref>。[[芥川比呂志]]、[[岸田今日子]]、[[山﨑努]]ら中堅の劇団員が集団で文学座を脱退、[[劇団雲]]結成を表明<ref name="昭和二万日12、p.254">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.254]]</ref>。 * [[1月18日]] - [[ホテルニューオータニ]]の運営会社である大谷国際観光(現・[[ニューオータニ]])設立。 * [[1月21日]] - [[日本テレビ系]][[全国ネット]]で「[[キユーピー3分クッキング]]」放送開始。 * [[1月22日]] - エリゼ条約([[仏独協力条約]])制定 * [[1月24日]] - [[北海道コカ・コーラボトリング]](当時の社名:北海道飲料)設立。 === 2月 === * [[2月4日]] - [[三井住友ファイナンス&リース]]の前身である住商リース設立。 * [[2月10日]] - [[福岡県]][[小倉市|小倉]]・門司・戸畑・若松・[[八幡市 (福岡県)|八幡]]の5市が[[市町村合併|合併]]して[[北九州市]]が誕生<ref name="昭和二万日12、p.258">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.258]]</ref>。 * [[2月18日]] - [[インドネシア]]、[[バリ島]]の[[アグン山]]の噴火活動始まる。世界的な気温低下をもたらした。 * [[2月28日]] - [[名古屋高等裁判所|名古屋高裁]]が、「[[吉田岩窟王事件]]」の吉田石松に事件発生から50年目で無罪判決。 === 3月 === * 3月 - 寿屋が[[サントリー]]に社名変更。 * [[3月1日]] - [[江崎グリコ]]が「[[ジャイアントコーン (菓子)|グリココーン]]」を発売。 * [[3月17日]] - [[日清シスコ|シスコ製菓]]が「シスコーン」を発売。 * [[3月22日]] - [[ビートルズ|ザ・ビートルズ]]初の英国盤公式オリジナル・アルバム『[[プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム)|Please Please Me]]』が発売される。 * [[3月25日]] - [[トヨタ自動車]]が「[[トヨペット・ライトスタウト|ライトスタウト]]」、「[[トヨタ・コースター|ライトバス]]」を発売。 * [[3月30日]] - 綾瀬-鴨宮間の鴨宮モデル線(現:[[東海道新幹線]])にて世界で初の時速256kmを達成<ref name="昭和二万日12、p.266">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.266]]</ref>。車両は[[新幹線0系電車|0系新幹線]]の試験車でもある[[新幹線1000形電車|新幹線1000形]]が達成。 * [[3月31日]] - [[吉展ちゃん誘拐殺人事件]]が発生<ref name="昭和二万日12、p.266-267">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.266-267]]</ref>。 === 4月 === * [[4月1日]] ** 2月10日に合併により誕生した[[北九州市]]が全国6番目の[[政令指定都市]]となり、[[三大都市圏]]以外で初の政令指定都市となる。合併前の旧5市がそれぞれ[[区 (行政区画)|区]]となった。 ** [[福島県]]初の[[民間放送|民放]]テレビ局、[[福島テレビ]]開局。また、ラジオでは[[栃木放送]]、[[茨城放送]]が開局。 * [[4月2日]] - [[日暮里大火 (1963年)|日暮里大火]]が発生<ref name="昭和二万日12、p.266" />。 * [[4月7日]] ** [[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で[[大河ドラマ]]が放送開始。第1作は[[舟橋聖一]]原作の『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』<ref name="昭和二万日12、p.267">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.267]]</ref>。 ** ユーゴスラビアが国名を「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改称し、チトーが終身大統領に就任。 * [[4月16日]] - [[京阪本線]][[天満橋駅|天満橋]]~[[淀屋橋駅|淀屋橋]]間延伸開業。 * [[4月22日]] - [[女性週刊誌]]「[[女性セブン]]」([[小学館]])創刊。 * [[4月25日]] - [[大阪駅|大阪駅前]]に日本初の[[横断歩道橋]]設置。 * [[4月27日]] - [[サントリー]]が「サントリービール」を発売<ref name="昭和二万日12、p.272">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.272]]</ref>。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[埼玉県]][[狭山市]]で16歳の[[少女]]が失踪、その後自宅で脅迫状らしきものが見つかり[[誘拐]]として捜査開始([[狭山事件]]の発端)<ref name="昭和二万日12、p.273">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.273]]</ref>。 * [[5月8日]] - [[ベトナム共和国|南ベトナム]]の[[フエ]]で[[仏旗]]掲揚禁止抗議デモに警察が発砲、8名の犠牲者を出し、仏教徒への弾圧はじまる([[仏教徒危機]])。 * [[5月22日]] - [[ギリシャ]]の民主左翼同盟党首[[グリゴリス・ランブラキス]]が[[テッサロニキ]]で行われた反戦集会での帰り道、[[サイドカー]]に乗った男に棍棒で頭部を殴打され負傷、5日後の[[5月27日]]に[[脳挫傷]]で死亡。 === 6月 === * [[6月1日]] ** [[山形県]][[酒田市]]十里塚海岸沖約1kmにて、漁業者の通報により無灯火の[[不審船]]を発見。[[酒田海上保安部]]が追跡するも[[停船命令]]に応じず、逃走。これが[[海上保安庁]]として初めて公に確認した[[不審船]]事案となる。 ** [[大塚製薬工場]]と医薬品卸業者49社の出資により[[大鵬薬品工業]]設立。 * [[6月5日]] - [[関西電力]]の[[黒部川第四発電所]]が完成<ref name="昭和二万日12、p.280">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.280]]</ref>。 === 7月 === * [[7月1日]] - [[パナソニック|松下電器産業]]と[[パナソニック電工|松下電工]]の出資により[[パナソニック ホームズ|ナショナル住宅建材]]設立。 * [[7月2日]] - [[日清食品]]が「[[日清焼そば]]」を発売。 * [[7月11日]] - [[老人福祉法]]公布<ref name="昭和二万日12、p.284">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.284]]</ref>。 * [[7月15日]] ** [[右翼]]の[[野村秋介]]と松野卓夫、[[神奈川県]][[平塚市]]の[[河野一郎]][[建設大臣]]の私邸に乱入。秘書を脅迫の上で[[放火]]([[河野一郎邸焼き討ち事件]])<ref name="昭和二万日12、p.288">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.288]]</ref>。 ** [[信越本線]][[碓氷峠]]区間をそれまでの[[アプト式]]から[[粘着式鉄道|粘着運転]]方式に変更する事となる。 * [[7月16日]] - [[名神高速道路]]の[[栗東インターチェンジ|栗東]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎]]が開通(日本初の[[高速道路]])。 * [[7月20日]] ** [[芸能事務所]]の[[太田プロダクション]]設立。 ** [[サンヨー食品]]が「ピヨピヨラーメン」を発売。関東地区で大ヒット商品となる。 * [[7月21日]] - [[皆既日食]]が[[北海道]] - [[ベーリング海]]までの地域で観測される<ref name="昭和二万日12、p.288" />。[[大雪山]]付近で始まり、[[網走]]、[[知床半島]]を通過。[[千島列島]]、[[カムチャツカ半島]]を通り[[ベーリング海]]まで観測された。 * [[7月29日]] - [[スーパーマーケット]]の[[サミット (チェーンストア)|サミット]](当時の社名:京浜商会)設立。 === 8月 === * [[8月1日]] - [[本田技研工業]]が軽トラック「[[ホンダ・T360|T360]]」を発売(10月には小型スポーツカー「[[ホンダ・S500|S500]]」を発売)。 * [[8月7日]] - 「[[愛と死をみつめて]]」の([[原作]]の)[[ヒロイン]]、[[大島みち子]][[死去]]。 * [[8月8日]] - [[未明]]の[[イギリス]]・[[ロンドン]][[郊外]]で大列車強盗事件発生。260万[[スターリング・ポンド|UKポンド]](当時約26[[億]][[円 (通貨)|円]])が強奪される。 * [[8月14日]] - [[三国コカ・コーラボトリング]](当時の社名:三国飲料)設立。 * [[8月15日]] - 政府主催による[[全国戦没者追悼式]]が開かれる<ref name="昭和二万日12、p.294-295">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.294-295]]</ref>。以後毎年8月15日に開催。 * [[8月17日]] - [[藤田航空機八丈富士墜落事故]]発生<ref name="昭和二万日12、p.294-295" />。 * [[8月26日]] - [[波崎事件]] * [[8月27日]] - [[エースコック]]が「[[ワンタンメン]]」を発売。 * [[8月28日]] - [[ワシントン大行進]]。[[ワシントン記念塔]]前で、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]によるいわゆる"[[I Have a Dream]]"演説が行われる。 * [[8月30日]] - [[国土地理院]]が2万5000分の1の[[地図]]を基本地図に決定<ref name="昭和二万日12、p.296">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.296]]</ref>。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が[[自動列車停止装置|自動列車停止装置(ATS)]]の使用開始<ref name="昭和二万日12、p.296" />。 * [[9月5日]] - [[東京メトロ銀座線|営団地下鉄銀座線]][[京橋駅 (東京都)|京橋駅]]で時限[[爆弾]]が爆発して10人が負傷([[草加次郎事件]]の起こり)<ref name="昭和二万日12、p.296-297">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.296-297]]</ref>。 * [[9月10日]] - [[筑波研究学園都市]]の建設が閣議了解。 * [[9月12日]] - [[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[松川事件]]の[[被告]]全員の[[無罪]]が確定<ref name="昭和二万日12、p.298">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.298]]</ref>。 === 10月 === * [[10月1日]] - 信越本線碓氷峠区間のアプト式の旧線が廃止され、これに伴い、すべて複線の粘着運転方式となる。 * [[10月6日]] - [[毎日放送]]系ネットの[[クイズ番組]]『[[アップダウンクイズ]]』放送開始。 * [[10月9日]] - イタリア・[[バイオントダム]]災害。 * [[10月14日]] - [[マツダ|東洋工業]]が「[[マツダ・ファミリア|ファミリア]]」を発売(当初はバンのみで、後にワゴン・セダンも追加)。 * [[10月15日]] - [[国会 (日本)|第44臨時国会]]召集<ref name="昭和二万日12、p.302">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.302]]</ref>。 * [[10月20日]] - 日生劇場開場。杮落とし公演はベルリン・ドイツ・オペラ『フィデリオ』<ref name="昭和二万日12、p.302-303">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.302-303]]</ref>。 * [[10月23日]] - 衆議院解散(ムード解散、所得倍増解散、予告解散)<ref name="昭和二万日12、p.304">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.304]]</ref>。 === 11月 === * [[11月1日]] ** ニセ札防止のため新[[千円紙幣|千円札]]([[伊藤博文]]の肖像)発行<ref name="昭和二万日12、p.304-305">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.304-305]]</ref>。 ** 南ベトナムで[[ズオン・バン・ミン]]指導の[[クーデター]]起こる([[1963年ベトナム共和国の軍事クーデター]])。[[ゴ・ディン・ジエム]]大統領、および大統領の弟で顧問の[[ゴ・ディン・ヌー]]{{仮リンク|ゴ・ディン・ジエムの逮捕と暗殺|en|Arrest and assassination of Ngo Dinh Diem|label=暗殺}}。[[マダム・ヌー]]は生き延び、国外逃亡した。 * [[11月4日]] - [[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[読売ジャイアンツ|巨人]]が[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]を4勝3敗で下し、2年ぶりに日本一奪還。5年越しの打倒西鉄なる。 * [[11月9日]] - 三井三池炭鉱爆発事故([[三井三池三川炭鉱炭じん爆発]])<ref name="昭和二万日12、p.308">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.308]]</ref>、東海道線鶴見列車脱線多重衝突事故([[鶴見事故]])<ref name="昭和二万日12、p.308" />が立て続けに発生(血塗られた土曜日)。 * [[11月14日]] - [[アイスランド]]近海で[[海底火山]]が噴火、新島が出現。後に[[スルツェイ島]]と命名。 * [[11月21日]] - [[第30回衆議院議員総選挙]]投票([[1966年]][[12月27日]]解散([[黒い霧解散]]))<ref name="昭和二万日12、p.312">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.312]]</ref>。 * [[11月22日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[テキサス州]][[ダラス]]で暗殺される([[ケネディ大統領暗殺事件]])。 * [[11月23日]] - 初の日米間の[[通信衛星#日本での歴史|衛星]]中継実験に成功(ケネディ大統領暗殺事件を伝える)<ref name="昭和二万日12、p.312" />。 * [[11月29日]] - [[トランスカナダ航空831便墜落事故]]。 === 12月 === * [[12月1日]] - [[NHK甲府放送局]]、[[NHK長崎放送局]]、[[NHK宮崎放送局]]教育テレビジョンが開局。 * [[12月4日]] - [[国会 (日本)|第45特別国会]]召集([[12月18日]]閉会)<ref name="昭和二万日12、p.316">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.316]]</ref>。 * [[12月7日]] - [[東京地裁]]で[[日本への原子爆弾投下|広島・長崎への原爆投下]]が[[国際法]]違反であったという判決(いわゆる「下田判決」)が下される(のちに確定)。 * [[12月8日]] - [[力道山]]刺される。[[12月15日]]死去<ref name="昭和二万日12、p.316-317">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.316-317]]</ref>。 * [[12月20日]] - 第46国会召集([[1964年]][[6月26日]]閉会)。 * [[12月28日]] - [[山手線]]で[[国鉄103系電車|103系電車]](ウグイス色)が運転開始。以降[[1984年]]まで21年間生産された。 * 日付不明 - [[宮城県]][[古川市|古川]]農業試験場で、新品種の[[米]]、[[ササニシキ]]開発。 == 天候・天災・観測等 == * [[昭和38年1月豪雪]](三八豪雪) == スポーツ == {{See also|1963年のスポーツ}} * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[大鵬幸喜]] ** 春場所 大鵬幸喜 ** 夏場所 大鵬幸喜 ** 名古屋場所 [[北葉山英俊]] ** 秋場所 [[柏戸剛]] ** 九州場所 [[栃ノ海晃嘉]] * [[日本プロ野球|プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] ** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ(4勝3敗) * ボクシング ** [[世界ボクシング評議会|WBC]]設立 == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1963年の音楽}} * ヒット曲・話題曲 ** [[バーバラ・ルイス]] 「[[ハロー・ストレンジャー]]」 ** [[マーサ&ザ・ヴァンデラス]] 「[[ヒート・ウェイヴ]]」 ** [[ローリング・ストーンズ]] 「[[カム・オン]]」「[[彼氏になりたい]]」 ** [[ヴィレッジ・ストンパーズ]] 「ワシントン広場の夜は更けて」 ** [[ボブ・ディラン]] 「[[風に吹かれて (ボブ・ディランの曲)|風に吹かれて]]」 ** [[ダスティ・スプリングフィールド]] 「[[二人だけのデート]]」 ** [[ザ・ピーナッツ]]「[[恋のバカンス (曲)|恋のバカンス]]」 ** [[真理ヨシコ]]「[[おもちゃのチャチャチャ]]」 ** [[三波春夫]]「[[東京五輪音頭]]」 ** [[坂本九]]「[[見上げてごらん夜の星を (曲)|見上げてごらん夜の星を]]」 ** [[西田佐知子]]「[[エリカの花散るとき]]」 ** [[舟木一夫]]「[[高校三年生 (舟木一夫の曲)|高校三年生]]」 ** [[梓みちよ]]「[[こんにちは赤ちゃん]]」 ** [[三田明]]「[[美しい十代]]」 ** [[ハナ肇とクレイジー・キャッツ]]「[[ホンダラ行進曲]]」 === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第49回(1963年上半期) - [[河野多惠子]]『蟹』 ** 第50回(1963年下半期) - [[田辺聖子]]『感傷旅行センチメンタル・ジャーニィ』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第49回(1963年上半期) - [[佐藤得二]]『女のいくさ』 ** 第50回(1963年下半期) - [[安藤鶴夫]]『巷談本牧亭』、和田芳恵『塵の中』 === 映画 === {{See also|1963年の映画}} * [[軽蔑 (1963年の映画)|軽蔑]](監督:[[ジャン=リュック・ゴダール]]) * [[孤独の報酬]] * [[007 ロシアより愛をこめて]] * [[大脱走]](監督:[[ジョン・スタージェス]]) * [[トム・ジョーンズの華麗な冒険]](監督:[[トニー・リチャードソン]]) * [[鳥 (1963年の映画)|鳥]](監督:[[アルフレッド・ヒッチコック]]) * [[8 1/2]](監督:[[フェデリコ・フェリーニ]]) * [[召使 (映画)|召使]] * [[十三人の刺客]](監督:[[工藤栄一]]、主演:[[片岡千恵蔵]]) * [[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]](監督:[[黒澤明]]) * [[にっぽん昆虫記]](監督:[[今村昌平]]、主演:[[左幸子]]) * [[王様の剣]] * [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]] * [[フランス]] または[[アメリカ]] で[[コメディ映画]]、[[ピンクの豹]]が製作、公開された。この翌年に、[[ピンクの豹]]のオープニング時にいたピンク色の豹が人気となり。映画と独立作品となった、アニメ[[ピンク・パンサー]] が生まれる。 === テレビ === {{See also|1963年のテレビ (日本)}} * [[1月1日]] - 連続[[テレビ]][[テレビアニメ|アニメ]]『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』放映開始( - [[1966年]][[12月31日]]) * [[1月21日]] - [[キユーピー3分クッキング]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]制作)放送開始、現在も放送中。 * [[4月1日]] - [[福島テレビ]]開局。 * [[4月7日]] - [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]第1作「[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]」、出演:[[尾上松緑 (2代目)]]、[[淡島千景]] * [[10月6日]] - [[アップダウンクイズ]]([[毎日放送]]系)放送開始( - [[1985年]][[10月6日]]) * [[10月10日]] - 「[[三匹の侍]]」放送開始 * [[12月31日]] - [[第14回NHK紅白歌合戦]]。歴代最高[[視聴率]]81.4%(関東地区、[[ビデオリサーチ]]調べ)。 === ラジオ === {{See also|1963年のラジオ (日本)}} * 4月 - ラジオ栃木(現・[[栃木放送]])、[[茨城放送]]開局。 === 広告宣伝 === * コマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪マーブルマーブルマーブルマーブルマーブルチョコレート||明治マーブルチョコレート||[[明治製菓]]||[[上原ゆかり]]||オリジナル |- |なんである、アイデアル||アイデアル||丸定商店||[[植木等]]||- |- |♪アサヒスタイニー、ア!||アサヒスタイニー||[[アサヒビール]]||-||- |- |コニカはコニカ、いいと思うよ||コニカ||[[コニカ|小西六写真工業]]||[[松村達雄]]||- |- |いっぱいやっか||神聖||山本本家||[[伴淳三郎]]||- |- |♪ブタブタ子ブタ、おなかが空いた、ブー||[[ワンタンメン]]||[[エースコック]]||-||オリジナル |- |電話一本、お湯が出る||ガス湯沸器||[[東京ガス]]||-||- |- |丈夫で長持ち||ユベロン||[[エーザイ]]||[[渥美清]]||- |- |} == 誕生 == {{see also|Category:1963年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ジャン=マルク・グーノン]]、元[[フォーミュラ1|F1ドライバー]] * 1月1日 - [[北島秀一]]、フードライター、[[ラーメン]][[評論家]](+[[2014年]]) * 1月1日 - [[福留朗裕]]、[[三井住友銀行]][[頭取]] * [[1月2日]] - [[デビッド・コーン]]、元[[プロ野球選手#メジャーリーグの選手|メジャーリーガー]] * [[1月3日]] - [[ケラリーノ・サンドロヴィッチ]]、[[演出家]]、[[劇作家]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1月4日]] - [[トレイ・ヒルマン]]、元[[北海道日本ハムファイターズ]]監督 * 1月4日 - [[エレーナ・ワロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月6日]] - [[ノーム・チャールトン]]、メジャーリーガー * [[1月7日]] - [[沖田浩之]]、[[俳優]](+[[1999年]]) * 1月7日 - [[中野佐資]]、元[[プロ野球選手]] * 1月7日 - [[朱川湊人]]、[[小説家]] * [[1月8日]] - [[烏賀陽弘道]]、[[ジャーナリスト]]、[[音楽評論家]] * 1月8日 - [[小林浩美]]、[[プロゴルファー]] * 1月8日 - [[寺田千代]]、歌手([[ドリーミング (歌手グループ)|ドリーミング]]) * 1月8日 - [[寺田嘉代]]、歌手(ドリーミング)(+[[2019年]]) * [[1月9日]] - [[五十嵐麗]]、[[俳優|女優]]・[[声優]] * 1月9日 - [[マイケル・エバーソン]]、[[言語学者]] * [[1月10日]] - [[林あまり]]、[[歌人]]・[[エッセイスト]]・[[作詞家]] * 1月10日 - [[欠端光則]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[宣銅烈]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[河野太郎]]、政治家 * 1月10日 - [[キラ・イワノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+[[2001年]]) * [[1月12日]] - [[尾形大作]]、[[演歌歌手]] * 1月12日 - [[真島省三]]、衆議院議員 * 1月12日 - [[モーリー・ロバートソン]]、[[ディスクジョッキー|ラジオパーソナリティ]]、ミュージシャン、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[ポッドキャスト|ポッドキャスター]] * [[1月13日]] - [[秋本奈緒美]]、女優 * [[1月14日]] - [[スティーヴン・ソダーバーグ]]、[[映画監督]]・脚本家・プロデューサー * [[1月15日]] - [[アーリング・カッゲ]]、[[探検家]] * [[1月17日]] - [[村山早紀]]、[[児童文学作家]] * 1月17日 - [[新沢としひこ]]、[[シンガーソングライター|シンガー・ソングライター]]、[[著作家|絵本作家]]、[[児童文学作家]] * 1月17日 - [[奥田淳]]、[[アニメーター]] * [[1月18日]] - [[片桐はいり]]、[[俳優|女優]] * [[1月19日]] - [[松重豊]]、[[俳優]] * [[1月21日]] - [[アキーム・オラジュワン]]、元バスケットボール選手 * 1月21日 - [[平尾誠二]]、元[[ラグビー日本代表]]監督(+[[2016年]]) * [[1月22日]] - [[斉藤庄子]]、元[[声優]] * [[1月23日]] - [[マーティ・ブラウン]]、元プロ野球選手 * [[1月24日]] - [[岩井俊二]]、[[映画監督]] * [[1月26日]] - [[ジョゼ・モウリーニョ]]、サッカー指導者 * [[1月27日]] - [[田中哲弥]]、[[小説家]] * [[1月28日]] - [[岩坪理江]]、[[声優]] * 1月28日 - [[清水信明]]、元プロ野球選手 * [[1月29日]] - [[福地経人]]、元プロ野球選手 === 2月 === * [[2月1日]] - [[浮島とも子]]、政治家 * [[2月2日]] - [[寺尾常史|錣山親方]]、元[[関脇]]寺尾(+ [[2023年]]) * 2月2日 - [[マリー=クロード・ピエトラガラ]]、[[フランス]]のバレエダンサー・振付家 * [[2月3日]] - [[川合俊一]]、[[タレント]]・元[[バレーボール]]選手 * [[2月5日]] - [[宮崎正裕]]、剣道家 * [[2月7日]] - [[香坂みゆき]]、女優・タレント * [[2月9日]] - [[木村祐一]]、タレント、放送作家、俳優 * [[2月10日]] - [[佐野正幸 (俳優)|佐野正幸]]、ミュージカル俳優 * [[2月13日]] - [[仲道郁代]]、[[ピアニスト]] * 2月13日 - [[深水黎一郎]]、[[小説家]] * [[2月14日]] - [[河内家菊水丸]]、タレント * [[2月17日]] - [[マイケル・ジョーダン]]、元バスケットボール選手 * [[2月18日]] - [[吉野秀]]、[[編集者]]・[[経営コンサルタント]] * 2月18日 - [[笹本祐一]]、[[SF作家]] * [[2月19日]] - [[島朗]]、[[将棋棋士]] * [[2月20日]] - [[山越吉洋]]、元[[プロ野球選手]] * 2月20日 - [[チャールズ・バークレー]]、元バスケットボール選手 * 2月20日 - [[崔永元]]、アナウンサー * [[2月23日]] - [[飯星景子]]、タレント・作家 * 2月23日 - [[ボビー・ボニーヤ]]、[[メジャーリーガー]] * [[2月27日]] - [[かつみ♥さゆり|太平かつみ]]、[[漫才師]]([[かつみ♥さゆり]]) === 3月 === * [[3月1日]] - [[川崎麻世]]、タレント、俳優 * [[3月2日]] - [[井上祐二]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月3日]] - [[小松節夫]]、[[ラグビーユニオン]]指導者 * [[3月4日]] - [[野島伸司]]、脚本家 * [[3月7日]] - [[広田レオナ]]、女優 * [[3月10日]] - [[藤谷美和子]]、女優 * 3月10日 - [[坂口千仙]]、元プロ野球選手 * [[3月13日]] - [[マリアーノ・ダンカン]]、元プロ野球選手 * [[3月14日]] - [[マイク・ロックフォード]]、元プロ野球選手 * 3月14日 - [[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]、アニメーター、アニメーション監督、漫画家 * [[3月15日]] - [[肥後克広]]、[[お笑いタレント]]([[ダチョウ倶楽部]]) * [[3月17日]] - [[甲本ヒロト]]、ミュージシャン(元[[THE BLUE HEARTS]]、[[THE HIGH-LOWS]]、現[[ザ・クロマニヨンズ]]) * [[3月19日]] - [[若狭徹 (野球)]]、元プロ野球選手 * [[3月20日]] - [[デヴィッド・シューリス]]、俳優 * 3月20日 - [[渡洋史]]、俳優 * [[3月21日]] - [[高田裕三]]、[[漫画家]] * [[3月22日]] - [[リッチ・モンテレオーネ]]、元プロ野球選手 * [[3月23日]] - [[マグナム北斗]]、[[AV男優]] * [[3月24日]] - [[大沼朗裕]]、テレビプロデューサー * [[3月26日]] - [[京極夏彦]]、作家 * 3月26日 - [[ルイス・メディーナ (内野手)|ルイス・メディーナ]]、元プロ野球選手 * 3月26日 - [[金沢幸彦]]、プロ野球選手 * [[3月27日]] - [[クエンティン・タランティーノ]]、[[映画監督]]、脚本家、俳優 * 3月27日 - 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[[ミスターちん]]、タレント([[B21スペシャル]]) * 10月17日 - [[石井宏 (野球)|石井宏]]、元プロ野球選手 * [[10月21日]] - [[伊藤隆偉]]、元プロ野球選手 * [[10月22日]] - [[大井久士]]、元プロ野球選手 * 10月22日 - [[ブライアン・ボイタノ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月23日]] - [[射手園眞一]]、[[野球選手]] * [[10月24日]] - [[村治学]]、声優 * [[10月24日]] - [[中川明仁]]、元プロ野球選手 * [[10月25日]] - [[横山北斗]]、評論家、元衆議院議員 * [[10月27日]] - [[金丸淳一]]、声優 * [[10月28日]] - [[中田雅之]]、声優 * [[10月28日]] - [[ローレン・ホリー]]、[[俳優|女優]] * [[10月29日]] - [[むたあきこ]]、声優 * [[10月30日]] - [[トッド・サンド]]、フィギュアスケート選手 * [[10月31日]] - [[フレッド・マグリフ]]、元メジャーリーガー * 10月31日 - [[ドゥンガ]]、元[[サッカー選手]] === 11月 === * [[11月1日]] - リック・アレン {{enlink|Rick Allen (drummer)}}、ミュージシャン・ドラマー([[デフ・レパード]]) * [[11月4日]] - [[リリー・フランキー]]、イラストレーター、エッセイスト * 11月4日 - [[NOKKO]]、歌手(元[[レベッカ (バンド)|レベッカ]]) * 11月4日 - [[小池均]]、元プロ野球選手 * [[11月5日]] - [[テータム・オニール]]、女優 * 11月5日 - [[ジャン=ピエール・パパン]]、元サッカー選手 * 11月6日 - [[荒木香衣]]、声優 * 11月6日 - [[伊原剛志]]、俳優 * 11月6日 - [[鳥海勝美]]、声優 * [[11月7日]] - [[色川京子]]、声優 * 11月7日 - [[松村雄基]]、俳優 * [[11月8日]] - [[藤本博史 (内野手)|藤本博史]]、元プロ野球選手 * [[11月10日]] - [[郭進興]]、元[[野球選手]] * [[11月11日]] - [[田中良生]]、政治家 * [[11月12日]] - [[三代目魚武濱田成夫]]、[[詩人]] * 11月12日 - [[寺島進]]、俳優 * [[11月13日]] - [[井原巧]]、政治家 * [[11月14日]] - [[山本幸二]]、元プロ野球選手 * 11月14日 - [[古溝克之]]、元プロ野球選手 * 11月14日 - [[あめくみちこ]]、女優 * [[11月15日]] - [[大豊泰昭]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * [[11月16日]] - [[石橋祐]]、俳優 * [[11月17日]] - [[中丸啓]]、政治家 * [[11月18日]] - [[ダンテ・ビシェット]]、元[[メジャーリーガー]] * 11月18日 - [[音重鎮]]、元プロ野球選手 * 11月18日 - [[ピーター・シュマイケル]]、元サッカー選手 * [[11月20日]] - [[朝本浩文]]、音楽プロデューサー(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/12/03/0009721328.shtml|title=朝本浩文さん死去 「呼吸するだけの体になったら…」と託すも、妻「できませんでした」|publisher=デイリースポーツ|date=2016-12-03|accessdate=2020-11-20}}</ref>) * 11月20日 - [[小林千絵]]、歌手・タレント * 11月20日 - [[ミン・ナ]]、女優、声優 * 11月20日 - [[鈴木貴久]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]]) * 11月20日 - [[川本和宏]]、元プロ野球選手 * [[11月21日]] - [[田久保尚英]]、[[テレビ西日本]]アナウンサー * [[11月22日]] - [[相沢恵子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W93-0009 |title=相沢恵子 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2021-01-11}}</ref>、[[声優]] * [[11月23日]] - [[鷹森淑乃]]、声優 * 11月23日 - [[宅間守]]、[[附属池田小事件]]の犯人(+ [[2004年]]) * [[11月26日]] - [[最相葉月]]、[[ノンフィクションライター]]・[[編集者]] * [[11月26日]] - [[市川右團次 (3代目)|3代目市川右團次]]、歌舞伎俳優 * [[11月28日]] - [[清水信明]]、元プロ野球選手 * 11月28日 - [[ウォルト・ワイス]]、MLB監督、元メジャーリーガー * [[11月30日]] - [[柳家喬太郎]]、落語家 === 12月 === * [[12月3日]] - [[カトキハジメ]]、[[メカニックデザイナー]] * [[12月4日]] - [[セルゲイ・ブブカ]]、[[陸上選手]] * 12月4日 - [[バーナード・ブリトー]]、元[[プロ野球選手]] * 12月4日 - [[ヨゼフ・サボフチク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[12月5日]] - [[村田真一]]、元[[プロ野球選手]] * [[12月7日]] - [[角田美喜]]、ミュージシャン(SHOW-YA) * 12月7日 - [[寺田克也]]、[[イラストレーター]]・漫画家 * 12月7日 - [[シェーン・マック]]、元プロ野球選手 * 12月7日 - [[平塚利男]]、[[発明家]]、[[事業家]] * [[12月8日]] - [[川田利明]]、プロレスラー * [[12月9日]] - [[皇后雅子]]、[[徳仁|天皇陛下]]の妃 * [[12月11日]] - [[田村直美]]、歌手(元[[PEARL (バンド)|PEARL]]) * 12月11日 - [[中村稔 (プロ野球審判)|中村稔]]、元プロ野球選手、審判 * 12月11日 - [[森若香織]]、歌手([[GO-BANG'S]])・女優 * [[12月12日]] - [[折笠愛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/279417/折笠愛|title=折笠愛 - TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020-11-06}}</ref>、[[声優]] * [[12月13日]] - [[岡崎京子]]、[[漫画家]] * [[12月18日]] - [[ブラッド・ピット]]、俳優 * 12月18日 - [[イザベル・デュシュネー]]、フィギュアスケート選手 * [[12月19日]] - [[ジェニファー・ビールス]]、女優 * [[12月22日]] - [[ルナ・H・ミタニ]]、[[画家]]・[[芸術家]] * [[12月24日]] - [[高須光聖]]、放送作家 * [[12月26日]] - [[ラーズ・ウルリッヒ]]、[[ドラマー]]([[メタリカ]]) * [[12月31日]] - [[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]、元[[大関]]・タレント === 月日不明 === * [[青地伯水]] - [[ドイツ文学者]]、[[京都府立大学]][[文学部]]教授 * [[岡田晴恵]] - [[公衆衛生]]学者、[[白鷗大学]][[教育学部]]教授 * [[菅野朋子]] - [[ノンフィクション作家]] * [[香月日輪]] - 小説家(+ [[2014年]]) * [[福嶋尚哉]] - [[作曲家]]・[[編曲家]] <!-- * 原島雅美 - [[ハンググライダー]] --> == 死去 == {{see also|Category:1963年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月2日]] - [[ディック・パウエル]]、[[俳優]](* [[1904年]]) * [[1月3日]] - [[石原忍]]、[[医学者]]・[[眼科医]](* [[1879年]]) * [[1月5日]] - [[ロジャース・ホーンスビー]]、元[[メジャーリーガー]](* [[1896年]]) * [[1月7日]] - [[エリック・ルンドクヴィスト]]、[[陸上競技]]選手(* [[1908年]]) * [[1月13日]] - [[シルバヌス・オリンピオ]]、[[トーゴ]]の[[政治家]]、初代[[トーゴの大統領一覧|大統領]](* [[1902年]]) * 1月13日 - [[ソニー・クラーク]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1931年]]) * [[1月29日]] - [[ロバート・フロスト]]、[[詩人]](* [[1874年]]) * [[1月30日]] - [[フランシス・プーランク]]、[[作曲家]](* [[1899年]]) === 2月 === * [[2月2日]] - [[大倉喜七郎]]、[[実業家]](* [[1882年]]) * [[2月6日]] - [[ピエロ・マンゾーニ]]、[[美術家]](* [[1933年]]) * 2月6日 - [[岡本良雄]]、[[児童文学作家]] (* [[1913年]]) * [[2月9日]] - [[アブドルカリーム・カーシム]]、[[イラクの首相|イラク首相]](* [[1914年]]) * [[2月11日]] - [[西村伊作]]、[[教育者]]・[[文化学院]]創立者(* [[1884年]]) * 2月11日 - [[シルヴィア・プラス]]、詩人・[[小説家]](* [[1932年]]) * [[2月13日]] - [[矢島保治郎]]、[[探検家]]・[[軍人]] (* [[1882年]]) * [[2月16日]] - [[ライタ・ラースロー]]、作曲家(* [[1892年]]) * [[2月18日]] - [[徳川家正]]、日本の[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]](* [[1884年]]) * [[2月19日]] - [[スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー]]、[[チェリスト]](* [[1908年]]) * [[2月20日]] - [[フェレンツ・フリッチャイ]]、[[指揮者]](* [[1914年]]) * [[2月21日]] - [[加納久朗]]、[[千葉県知事一覧|千葉県知事]](* [[1886年]]) * [[2月26日]] - [[中村地平]]、小説家 (* [[1908年]]) * [[2月28日]] - [[エッパ・リクシー]]、[[プロ野球選手|メジャーリーグベースボール選手]](* [[1891年]]) === 3月 === * [[3月4日]] - [[菅野圭介]]、[[洋画家|洋画家(*]] [[1909年]]) *[[3月8日]] - [[津田秀水]]、[[活動弁士]](* [[1896年]]) * [[3月12日]] - [[菅野力夫]]、[[探検家]](* [[1887年]]) * [[3月16日]] - [[エリーザベト・マリー・ペツネック]]、[[ハプスブルク家]]大公女(* [[1883年]]) * [[3月20日]] - [[柳さく子]]、[[俳優|女優]](* [[1902年]]) * [[3月22日]] - [[アーチボルド・ジョイス]]、作曲家(* [[1873年]]) * [[3月23日]] - [[トアルフ・スコーレム]]、[[数学者]](* [[1887年]]) * [[3月30日]] - [[アレクサンドル・ガウク]]、指揮者(* [[1893年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[アルマ・リチャーズ]]、陸上競技選手(* [[1890年]]) * [[4月5日]] - [[石井茂吉]]、[[写研]]設立者(* [[1887年]]) * [[4月6日]] - [[オットー・シュトルーベ]]、[[天文学者]](* [[1897年]]) * [[4月7日]] - [[矢筈山登]]、元[[力士]](*[[1888年]]) * [[4月8日]] - [[安藤幸]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1878年]]) * [[4月9日]] - [[ベンノ・モイセイヴィチ]]、ピアニスト(* [[1890年]]) * [[4月13日]] - [[ルイス・ソモサ・デバイレ]]、[[ニカラグア]]大統領(* [[1922年]]) * [[4月14日]] - [[野村胡堂]]、小説家・[[音楽評論家]](* [[1882年]]) * 4月14日 - [[アルトゥール・ヨナート]]、陸上競技選手(* [[1909年]]) * [[4月17日]] - [[徳川好敏]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1884年]]) * [[4月18日]] - [[夏目鏡子]]、[[夏目漱石]]の妻(* [[1877年]]) === 5月 === * [[5月6日]] - [[セオドア・フォン・カルマン]]、物理学者(* [[1881年]]) * 5月6日 - [[久保田万太郎]]、小説家・[[劇作家]](* [[1889年]]) * [[5月11日]] - [[ハーバート・ガッサー]]、[[生理学|生理学者]](* [[1888年]]) * [[5月12日]] - [[ボビー・カー]]、陸上競技選手(* [[1882年]]) * [[5月16日]] - [[オレグ・ペンコフスキー]]、ソビエト連邦軍大佐、[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]の[[スパイ]](* [[1919年]]) * [[5月22日]] - [[松林桂月]]、[[日本画家]](* [[1876年]]) * [[5月23日]] - [[宮澤裕]]、[[政治家]](* [[1884年]]) * 5月23日 - [[ギャビー・クラバス]]、[[メジャーリーガー]](* [[1881年]]) * [[5月27日]] - [[グリゴリス・ランブラキス]]、政治家(* [[1912年]]) * [[5月31日]] - [[星田三平]]、[[探偵小説家]] (* [[1913年]]) === 6月 === * [[6月1日]] - [[アルフレッド・V・キダー]]、[[考古学者]](* [[1885年]]) * [[6月3日]] - [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]、第261代[[ローマ教皇]](* [[1881年]]) * [[6月8日]] - [[富本憲吉]]、[[陶芸家]](* [[1886年]]) * [[6月11日]] - [[ティック・クアン・ドック]]、[[仏教]]弾圧に抗議して焼身[[自殺]]した[[僧]](* [[1897年]]) * 6月11日 - [[チャールズ・ソーンスウェイト]]、[[地理学者]](* [[1899年]]) * 6月11日 - [[長谷川伸]]、小説家・劇作家(* [[1884年]]) * [[6月27日]] - [[ジョン・モーリス・クラーク]]、[[経済学者]](* [[1884年]]) * [[6月28日]] - [[フランク・ベーカー (1886年生の内野手)|フランク・ベーカー]]、元メジャーリーガー(* 1886年) === 7月 === * [[7月14日]] - [[宇井伯寿]]、[[曹洞宗]]の[[僧侶]]・[[仏教学者]](* [[1882年]]) * [[7月19日]] - [[山之口貘]]、詩人(* [[1903年]]) * [[7月28日]] - [[三好栄子]]、[[俳優|女優]](* [[1894年]]) === 8月 === * [[8月7日]] - [[大島みち子]]、書簡集「[[愛と死をみつめて]]」の登場人物(* [[1942年]]) * [[8月11日]] - [[武藤嘉門]]、[[岐阜県知事一覧|岐阜県知事]](* [[1870年]]) * [[8月22日]] - [[ウィリアム・モリス (初代ナフィールド子爵)]]、[[実業家]]・[[モーリス (自動車)|モーリス]]創業者(* [[1877年]]) * [[8月27日]] - [[W・E・B・デュボイス]]、[[公民権運動]]指導者(* [[1868年]]) * [[8月31日]] - [[ジョルジュ・ブラック]]、[[画家]](* [[1882年]]) === 9月 === * [[9月4日]] - [[ロベール・シューマン]]、政治家、[[欧州連合]]創設者の一人(* [[1886年]]) * [[9月12日]] - [[モデスト・アルトシュラー]]、作曲家(* [[1873年]]) * [[9月14日]] - [[佐藤玄々]]、[[彫刻家]](* [[1888年]]) * [[9月17日]] - [[エドゥアルト・シュプランガー]]、[[哲学者]]・[[心理学者]]・[[教育学者]](* [[1882年]]) * [[9月21日]] - [[河田烈]]、日本の[[大蔵大臣]](* [[1883年]]) * [[9月25日]] - [[クルト・ツァイツラー]]、ドイツ[[陸軍総司令部]]参謀長(* [[1895年]]) === 10月 === * [[10月8日]] - [[レメディオス・バロ]]、[[画家]](* [[1908年]]) * [[10月11日]] - [[ジャン・コクトー]]、前衛芸術家(* [[1889年]]) * 10月11日 - [[武知勇記]]、[[政治家]](* [[1894年]]) * 10月11日 - [[エディット・ピアフ]]、[[歌手]](* [[1915年]]) * [[10月16日]] - [[宮原清]]、[[実業家]]、[[日本社会人野球協会]]初代会長(* [[1882年]]) * [[10月20日]] - [[西村正美]]、政治家 * [[10月25日]] - [[ロジェ・デゾルミエール]]、指揮者(* [[1898年]]) * 10月25日 - [[渋沢敬三]]、実業家(* [[1896年]]) * [[10月30日]] - [[ヒューゴー・オフラハーティ]]、カトリック[[司祭]](* [[1898年]]) === 11月 === * [[11月2日]] - [[ゴ・ディン・ジエム]]、[[ベトナム共和国|ベトナム共和国(南ベトナム)大統領]](* [[1901年]]) * [[11月9日]] - [[勝沼精蔵]]、医学者(* [[1886年]]) * [[11月10日]] - [[畑中武夫]]、[[天文学者]](* [[1914年]]) * [[11月15日]] - [[フリッツ・ライナー]]、指揮者(* [[1888年]]) * [[11月17日]] - [[メリト・アコスタ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1896年]]) * [[11月21日]] - [[ロバート・フランクリン・ストラウド]]、犯罪者・[[鳥類]]研究家(* [[1887年]]) * [[11月22日]] - [[C・S・ルイス]]、作家(* [[1893年]]) * 11月22日 - [[オルダス・ハクスリー]]、作家(* [[1894年]]) * 11月22日 - [[ジョン・F・ケネディ]]、第35代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1917年]]) * [[11月24日]] - [[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]、ケネディ殺害被疑者(* [[1939年]]) * [[11月29日]] - [[エルネスト・レクオーナ]]、作曲家(* [[1896年]]) === 12月 === * [[12月2日]] - [[トーマス・ヒックス]]、陸上競技選手(* [[1875年]]) * 12月2日 - [[ヴォイテク (兵隊クマ)]](* [[1942年]]) * [[12月5日]] - [[カール・アマデウス・ハルトマン]]、[[作曲家]](* [[1905年]]) * [[12月10日]] - [[大田洋子]]、小説家 (* [[1906年]]) * [[12月12日]] - [[テオドール・ホイス]]、初代[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ連邦大統領]](* [[1884年]]) * 12月12日 - [[小津安二郎]]、[[映画監督]](* [[1903年]]) * [[12月14日]] - [[ダイナ・ワシントン]]、ジャズ歌手(* [[1924年]]) * [[12月15日]] - [[力道山]]、[[プロレスラー]](* [[1924年]]) * [[12月25日]] - [[トリスタン・ツァラ]]、詩人(* [[1896年]]) * [[12月26日]] - [[ゴージャス・ジョージ]]、プロレスラー(* [[1915年]]) * [[12月28日]] - [[パウル・ヒンデミット]]、作曲家(* [[1895年]]) === 月日不明 === * [[謝花凡太郎]](* [[1891年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ユージン・ウィグナー]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[マリア・ゲッパート=メイヤー]](アメリカ)、[[ヨハネス・ハンス・イェンゼン]]([[ドイツ]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[カール・ツィーグラー]](ドイツ)、[[ジュリオ・ナッタ]]([[イタリア]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アラン・ロイド・ホジキン]]([[イギリス]])、[[アンドリュー・フィールディング・ハクスリー]](イギリス)、[[ジョン・カリュー・エクレス]]([[オーストラリア]]) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[イオルゴス・セフェリス]]([[ギリシア]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[赤十字国際委員会]] [[国際赤十字赤新月社連盟]] == フィクションのできごと == * 3月 - [[1961年]]の[[第三次世界大戦]]によって[[北半球]]が壊滅し、[[放射性降下物]]が徐々に南下してくる中、[[シアトル]]周辺から発信されている[[モールス信号]]らしき無線電波の調査のため、[[アメリカ海軍]]の原子力潜水艦「[[スコーピオン (原子力潜水艦)|スコーピオン]]」が[[メルボルン]]を出港し潜水して北上する。(小説『[[渚にて (小説)|渚にて]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ネヴィル・シュート|authorlink=ネビル・シュート |title = 渚にて 人類最後の日 |publisher = [[東京創元社]] |year = 2009 |pages = 12,20-28,62-66,243,246-251,272 |isbn = 978-4-488-61603-8}}</ref> *5〜6月 - 湾南学園高等学校で男子文化部の部活棟(カルチェラタン)の存続運動が起こる。(アニメ映画『[[コクリコ坂から]]』) * 8月 - アメリカ合衆国で永続的な「全面平和状態」が達成された際に生じるであろう問題を検討するため、15名のメンバーからなる「特別調査グループ」が創設され、最初の会合が[[ニューヨーク州]]{{仮リンク|ハドソン (ニューヨーク州)|label=ハドソン市|en|Hudson, New York}}近郊のアイアンマウンテンで開かれる。特別調査グループによる考察の結論は、後に「アイアンマウンテン報告」として纏められる。(書籍『[[アイアンマウンテン報告]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= レナード・C・リュイン|authorlink=:en:Leonard C. Lewin |title = アイアンマウンテン報告 平和の実現可能性とその望ましさに関する調査 |publisher = [[ダイヤモンド社]] |year = 1997 |pages = 24,25,37,40,50,51 |isbn = 978-4-478-18016-7}}</ref> * 11月 - 1年前、[[日本]]で行方不明になった[[ジェームズ・ボンド]]が[[ロンドン]]に現れる。[[KGB]]に[[洗脳]]されたボンドは、[[M (架空の人物)|M]]の前に立ち[[暗殺]]を試みる。(小説『[[007 黄金銃を持つ男#出版|黄金の銃を持つ男]]』)<ref>1963年11月であることは、第1章に11月とあること、第2章でMが{{仮リンク|ガイ・バージェス|en|Guy Burgess}}の死(8月30日没)にふれており、著者[[イアン・フレミング]]が翌年8月没であることによる。</ref> * S県T郡蹴尻村の山中にある洞穴が、[[1863年]]の同一地点へと通じる結節点であることが偶然発見される。(小説『[[御先祖様万歳]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 小松左京|authorlink=小松左京 |title = 時の顔 |publisher = [[角川春樹事務所]] |year = 1998 |pages = 60-77 |isbn = 978-4-89456-476-3}}</ref> * 高校教師のイアンとバーバラが[[ターディス]]に乗り込む。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * 皇帝ダーレク派と最高ダーレク派に分裂した2派の[[ダーレク]]が地球に飛来する。(ドラマ『ドクター・フー』) * [[9代目ドクター]]がケネディ暗殺に立ち会う。(ドラマ『ドクター・フー』) * [[京都大学]]の杉野金一教授が、[[尾張国|旧尾張地方]]の森林で平行植物「森の角砂糖バサミ」を発見。杉野とロイヤル大学のコルネリス・クールマンによって現地調査が行われる。平行植物の最初の発見。(書籍『[[平行植物]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= レオ・レオーニ|authorlink=レオ・レオニ |title = 平行植物 新装版 |publisher = [[工作舎]] |year = 2020 |pages = 5,25-27,121,298 |isbn = 978-4-87502-435-4}}</ref> == 脚注 == <!--'''注釈''' {{Reflist|group="注"}}--> '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-05-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第12巻) 安保と高度成長―昭和35年〜38年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194362-6 |ref = 昭和二万日12 }} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1963}} * [http://life.time.com/history/1963-a-pivotal-year-seen-through-life-magazine-covers/#1 THE WORLD 50 YEARS AGO: 1963 IN LIFE COVERS] - ''LIFE.com''([[ライフ (雑誌)|ライフ]]).2013年9月7日閲覧. * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004558765.pdf 1963(昭和38)年]「豊かさ」に関する意識の変容(4)冨貴島明、城西大学、2006-06 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1963ねん}} [[Category:1963年|*]]
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1962年
1962年(1962 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和37年。
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1962年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和37年。
{{年代ナビ|1962}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1962 }} {{year-definition|1962}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1962年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[壬寅]](みずのえ とら) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]37年 ** [[皇紀]]2622年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]51年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]51年<ref group="注釈">[[主体暦]]は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </ref>。 **[[檀紀]]は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に制定されたが、この年より廃止され、西暦となった<ref>[[wikisource|年号に関する法律(法律第12209号)]]、1961.12.2 法律第775号(廃止制定)</ref>。 * [[仏滅紀元]]:2504年 - 2505年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1381年7月24日 - 1382年8月4日 * [[ユダヤ暦]]:5722年4月25日 - 5723年4月4日 * [[修正ユリウス日]](MJD):37665 - 38029 * [[リリウス日]](LD):138506 - 138870 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1962}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] ** [[西サモア]]、[[ニュージーランド]]より独立。 ** [[アメリカ合衆国海軍]]、[[ベトナム戦争]]における[[ベトコン]]対策の一環として、[[特殊部隊]][[Navy SEALs]]を結成。 * [[1月9日]] - [[キューバ]]と[[ソビエト連邦]]の間で貿易協定発効。 * [[1月10日]] - [[ペルー]]・[[ワスカラン]]山で大規模[[雪崩]]発生、4000人以上が死亡。 * [[1月11日]] - [[中国共産党]]「[[七千人大会]]」が開会、[[毛沢東]]党主席が[[大躍進政策]]の失敗を認め自己批判する。 * [[1月12日]] - [[インドネシア]]軍、[[イリアンジャヤ]]で軍事作戦開始。 * [[1月22日]] - [[米州機構]]、[[キューバ]]の加盟国資格停止。 * [[1月24日]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]政府、[[徴兵制度]]を復活。 === 2月 === * [[2月1日]] ** [[東京都]]の常住人口が1000万人を突破(世界初の1000万都市に){{要出典|date=2021-05}}<ref name="昭和二万日12、p.186">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.186]]</ref>。 ** [[利根コカ・コーラボトリング]](当時の社名:利根飲料)設立。 ** [[花王|花王石鹸]]、日本初の家庭用柔軟仕上げ剤「[[花王ソフター]]」を発売([[1966年]]に「[[ハミング (柔軟剤)|ハミング]]」に改称)。 * [[2月3日]] - 米[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]]、[[キューバ]]への全面禁輸を指令。 * [[2月5日]] - [[シャルル・ド・ゴール]][[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]、[[アルジェリア]]の独立承認の意向を表明。 * [[2月7日]] - [[西ドイツ]]・ルイゼンタール[[炭鉱]]で[[メタンガス]]による爆発事故発生、299人死亡。 * [[2月8日]] - 米軍事援助軍司令部発足。 * [[2月10日]] - [[ベルリン]]で、[[U-2撃墜事件]]でソ連に拘留されていたアメリカの軍人[[フランシス・ゲーリー・パワーズ]]と、アメリカで収監されていたソ連のスパイ[[ルドルフ・アベル]]が交換によりそれぞれ釈放される。 * [[2月20日]] - [[アメリカ合衆国]]が[[マーキュリー計画]]の一環で打ち上げた[[宇宙船]]フレンドシップ7に乗船した[[ジョン・ハーシェル・グレン|ジョン・グレン]]が、同国初の宇宙船による地球周回を記録。 * [[2月23日]] ** [[西ヨーロッパ]]12か国共同で[[欧州宇宙機関]]創設。 ** [[マツダ|東洋工業]]、「[[マツダ・キャロル|キャロル360]]」を発売。 * 日付不詳 - [[西インド諸島連邦]]解体。 * 日付不詳 - ソ連・[[チェコ]]間[[パイプライン輸送|パイプライン]]完成。 === 3月 === * [[3月1日]] ** 日本の[[テレビ]]受信契約者が1000万突破(普及率48.5%)<ref name="昭和二万日12、p.194">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.194]]</ref>。 ** [[アメリカン航空1便墜落事故]]。 ** [[大正製薬]]、ドリンク剤「[[リポビタンD]]」を発売。 * [[3月2日]] - [[ミャンマー|ビルマ]]で軍事[[クーデター]]発生、[[ネ・ウィン]]が実権掌握。 * [[3月7日]] - [[吾妻渓谷]]に[[消防車]]が転落。[[消防団]]員6人が死亡。運転していた消防団員は飲酒の上無免許だった<ref name="昭和二万日12、p.194" />。 * [[3月8日]]-[[3月12日|12日]] - [[スイス]]・[[ジュネーヴ]]で、[[フランス]]政府と[[アルジェリア]]国民解放戦線との交渉。 * [[3月15日]] - [[イエローハット]]設立。 * [[3月18日]] - [[エビアン協定|エヴィアン協定]]締結。翌日をもって[[アルジェリア戦争]]停戦。 * [[3月19日]] - [[ボブ・ディラン]]レコードデビュー。 * [[3月26日]] - [[スズキ (企業)|鈴木自動車工業]]、軽乗用車「[[スズキ・フロンテ|フロンテ]]」を発売。当初の車名は「スズライト・フロンテ」。 === 4月 === * [[4月1日]] - [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]](現・名古屋テレビ放送〈メ〜テレ〉)開局。 * [[4月7日]] - [[第34回選抜高等学校野球大会|第34回選抜高校野球大会]]は[[栃木県|栃木]]・[[作新学院高等学校|作新学院高校]]が初優勝。 * [[4月10日]] - [[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]で、[[ドジャー・スタジアム]]杮落し。 * [[4月16日]] - 東京・水道橋に[[後楽園ホール]]がオープン。 * [[4月18日]] - [[イギリス]]政府、[[イギリス連邦]]移民法から、加盟各国市民のイギリスへの移民の自由を記した条項を削除。 * [[4月21日]] - [[シアトル万国博覧会]]開幕。[[10月21日]]まで。 === 5月 === * [[5月1日]] - 第45代[[横綱]]・[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]](初代)が引退を表明([[年寄]]「[[二子山 (相撲)|二子山]]」を襲名)<ref name="昭和二万日12、p.205">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.205]]</ref>。 * [[5月3日]] - [[常磐線]][[三河島駅]]構内で[[列車事故]]、160人死亡([[三河島事故]])<ref name="昭和二万日12、p.204-205">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.204-205]]</ref>。 * [[5月5日]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]市民12人が、[[ベルリンの壁]]の下を刳り抜いた[[トンネル]]を通り、西[[ベルリン]]への脱出に成功。 * [[5月6日]] ** [[朝日放送テレビ|朝日放送]](当時は[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]。現在は[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]かつ[[朝日放送テレビ]])制作の[[喜劇|コメディー番組]]『[[てなもんや三度笠]]』放送開始。 ** [[アントニオ・セーニ]][[イタリア|伊]]首相が同国大統領に選出される。 * [[5月14日]] - [[スペイン国王]][[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が[[ギリシャ]]の[[王女]][[ソフィア (スペイン王妃)|ソフィア]]と[[アテネ]]で挙式。 * [[5月17日]] - [[大日本住友製薬|大日本製薬]]が[[サリドマイド]]製品の販売中止<ref name="昭和二万日12、p.208">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.208]]</ref>。 === 6月 === * [[6月1日]] ** [[イスラエル]]・ラムラ刑務所で、元[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]][[親衛隊中佐]][[アドルフ・アイヒマン]]が[[絞首刑]]に処される。 ** [[北陸コカ・コーラボトリング]](当時の社名:北陸飲料)設立。 ** [[明星食品]]、「スープ付き明星ラーメン」を発売。 * [[6月3日]] - [[パリ]]・[[オルリー空港]]で、[[エールフランス]][[ボーイング707]]が離陸に失敗、乗客乗員132名中130名が死亡する事故。1966年に[[全日空羽田沖墜落事故]](乗客乗員133名死亡)が発生するまで、単独機としては世界最悪の事故であった。 * [[6月5日]] ** [[北島三郎]]が「ブンガチャ節」で歌手デビュー。 ** [[三菱重工業|新三菱重工業]]、「[[三菱・コルト600|コルト600]]」を発売。 * [[6月10日]] - [[北陸本線]][[北陸トンネル]]が開通(1万3870メートル)<ref name="昭和二万日12、p.212">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.212]]</ref>。 * [[6月11日]] - [[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]にある[[アルカトラズ島]]の刑務所から3人の受刑者が脱走。同刑務所から受刑者が脱走した唯一の事件。但し脱走者3名の行方及び生死は不明。 * [[6月19日]] - [[仙台コカ・コーラボトリング]](当時の社名:仙台飲料)設立。 * [[6月22日]] - [[西インド諸島]]・[[グアドループ]]で、[[エールフランス]][[ボーイング707]]が着陸に失敗、乗客乗員113名全員死亡。 * [[6月25日]] - [[アメリカ合衆国最高裁判所]]、それまで公立学校で必ず行われていた始業前の「祈り」が[[憲法違反]]であるとの判決を下す。 * 日付不詳 - [[ジャニーズ事務所]]創業。 === 7月 === * [[7月1日]] ** [[第6回参議院議員通常選挙]]投票日<ref name="昭和二万日12、p.214">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.214]]</ref>。 ** [[ルワンダ]]、[[ブルンジ]]がそれぞれ独立。 ** [[読売ジャイアンツ|巨人]]・[[王貞治]]選手の[[一本足打法]]がスタート。 * [[7月2日]] - [[コメリ]]設立。 * [[7月3日]] - [[プラハ]]で開催されていた第15回[[世界体操競技選手権]]で日本の男子団体が初優勝を飾る<ref name="昭和二万日12、p.216">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.216]]</ref>。 * [[7月5日]] - [[フランス]]から[[アルジェリア]]が独立。 * [[7月7日]] ** [[セコム]]設立(当時の社名は日本警備保障)。 ** [[明治]]アーモンドチョコ発売。 * [[7月10日]] - 当時世界最大の[[タンカー]]「[[日章丸 (タンカー・3代)|日章丸]]」が[[佐世保重工業]]佐世保造船所で進水<ref name="昭和二万日12、p.216-217">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.216-217]]</ref>。 * [[7月11日]] ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]・フランス間で初の大陸間衛星中継が成功する。 ** 戦後初の国産[[旅客機]][[YS-11]]が完成<ref name="昭和二万日12、p.216" />。 ** [[創価学会]]を母体とした[[参議院]]の[[院内交渉団体]]公明会([[公明党]]の前身)が結成される<ref name="昭和二万日12、p.216" />。 * [[7月25日]] - [[プエルトリコ]]、[[アメリカ合衆国]]領となる。 * 日付不詳 - 全面軍縮に関する[[モスクワ]]世界大会。 * この月、『[[美しい十代]]』([[学習研究社]])で、[[みつはしちかこ]]の漫画『[[小さな恋のものがたり]]』が連載開始、連載期間は52年4か月に及んだ。この数字は、2023年現在、日本漫画史上、6番目の長さである<ref name="hekinan">{{Cite journal |和書|title =碧南一家連載50年記念特集|date =2017-02-01|publisher =碧南市|journal =広報へきなん|volume =1805|issue = |url =http://www.city.hekinan.lg.jp/material/files/group/4/1805_02-05.pdf|format = PDF|accessdate=2019-03-11|pages =2-5|ref = }}『[[仙人部落]]』『[[碧南一家]]』『[[タンマ君]]』『[[ゴルゴ13]]』『[[超人ロック]]』につぐ</ref>。。 === 8月 === * [[8月1日]] - 花王石鹸、「[[花王ブリーチ]]」を発売(1966年に「[[ハイター]]」に改称)。 * [[8月4日]] ** [[国会 (日本)|第41臨時国会]]召集([[9月2日]]閉会)。 ** 日本初の[[テレビ情報誌]]「[[週刊TVガイド]]」([[東京ニュース通信社]])が創刊。 * [[8月5日]] ** 米[[俳優|女優]][[マリリン・モンロー]]が怪死。(※この件についてはモンローの項目も参照。) ** [[南アフリカ連邦]]政府、[[ネルソン・マンデラ]]を逮捕。 * [[8月6日]] - [[ジャマイカ]]がイギリスから独立。 * [[8月12日]] - [[堀江謙一]]が{{要検証範囲|[[世界初]]|date=2020年3月|title=堀江本人以外の第三者による客観的な出典を求めます。}}の小型[[ヨット]]単独無寄港[[太平洋]]横断[[航海]]に成功。「[[人魚|マーメイド]]号」(全長5.83m)で、[[5月12日]]、[[兵庫県]][[西宮市|西宮]]を出航、[[サンフランシスコ]]に到着<ref name="昭和二万日12、p.222-223">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.222-223]]</ref>。 * [[8月15日]] - [[南九州コカ・コーラボトリング]](当時の社名:南九州飲料)設立。 * [[8月19日]] - [[第44回全国高等学校野球選手権大会|第44回全国高校野球選手権大会]]は栃木・作新学院高校が初優勝<ref name="昭和二万日12、p.224">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.224]]</ref>。同一年度の甲子園春夏連覇は史上初。 * [[8月22日]] - [[シャルル・ド・ゴール]][[共和国大統領 (フランス)|仏大統領]][[暗殺]]未遂事件。 * [[8月24日]] - [[三宅島]]で火山噴火<ref name="昭和二万日12、p.224-225">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.224-225]]</ref>。26日に噴火によるM5.9クラスの地震発生。 * [[8月31日]] - [[トリニダード・トバゴ]]がイギリスから独立。 * この月から年末にかけて[[東北地方]]、[[近畿地方]]を中心に記録的な少雨。農作物等に被害。[[神戸市]]では9月から夜間断水が実施された<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=162-163 |isbn=9784816922749}}</ref>。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[広島テレビ放送]]開局。 * [[9月5日]] - [[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]の[[金田正一]]投手が対巨人戦で通算3509奪三振の世界新記録<ref name="昭和二万日12、p.226-227">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.226-227]]</ref>。 * [[9月7日]] - [[ボン]]で[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]][[西ドイツ]]首相とド・ゴールフランス大統領が共同声明。 * [[9月13日]] - 山梨県の[[山中湖]]畔の別荘にて、一酸化炭素中毒で10人が死亡する事故が発生([[秋田山荘事件]])<ref name="昭和二万日12、p.228-229">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.228-229]]</ref>。 * [[9月17日]] - [[プリンス自動車工業]]、「[[日産・グロリア|グロリア]]」をモデルチェンジ。 * [[9月20日]] ** [[東芝|東京芝浦電気]]・[[電通]]・[[民間放送]]18社出資による[[視聴率]]調査会社[[ビデオリサーチ]]が設立。 ** [[新丹那トンネル]]貫通<ref name="昭和二万日12、p.228">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.228]]</ref>。 * [[9月26日]] ** [[福岡県]][[戸畑市]](現[[北九州市]][[戸畑区]])と[[若松市]](同[[若松区]])を結ぶ[[若戸大橋]]が開通。完成当時「[[東洋]]一の[[吊り橋]]」と呼ばれる<ref name="昭和二万日12、p.230">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.230]]</ref>。 ** [[イエメン・アラブ共和国|イエメン]]で[[北イエメン内戦|内戦]]勃発。 ** [[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の[[秋山登]]投手が対[[阪神タイガース|阪神]]戦で2リーグ分裂後唯一の2日連続完封。 * [[9月30日]] - [[トヨタ自動車]]、「[[トヨタ・クラウン|クラウン]]」をモデルチェンジ。 === 10月 === * [[10月1日]] ** [[仙台放送]]開局。 ** 新三菱重工業、「[[三菱・ミニカ|ミニカ]]」を発売。 * [[10月3日]] - 阪神が[[広島東洋カープ|広島]]戦に勝ち、15年ぶりの優勝<ref name="昭和二万日12、p.230-231">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.230-231]]</ref>。[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]になってからは初めて。 * [[10月5日]] ** [[ビートルズ]]レコードデビュー。 ** 第一次[[全国総合開発計画]]の策定<ref name="昭和二万日12、p.230" />。 * [[10月7日]] - [[NHK杯テレビ囲碁トーナメント]]が番組開始。 * [[10月8日]] - [[アルジェリア]]、[[国際連合]]加盟。 * [[10月9日]] - [[ウガンダ]]独立。[[イギリス連邦]]加盟は継続。 * [[10月10日]] ** [[中印国境紛争]]勃発。 ** [[ファイティング原田]]({{JPN}})が、[[ポーン・キングピッチ]]({{THA}})を11ラウンドKOで下し、[[プロボクシング]]世界[[フライ級]]王座を獲得<ref name="昭和二万日12、p.234-235">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.234-235]]</ref>。 * [[10月14日]] - [[アメリカ合衆国]]U-2[[偵察機]]が、[[キューバ]]に[[ソビエト連邦]]製[[核兵器]]が設置されたことを確認。[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[10月22日]]にテレビ演説で全国民に公表。 * [[10月19日]] - [[新日本婦人の会]]結成<ref name="昭和二万日12、p.234">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.234]]</ref>。 * [[10月21日]] - 初の師弟監督対決(阪神・[[藤本定義]] - [[北海道日本ハムファイターズ|東映]]・[[水原茂]])となった[[1962年の日本シリーズ|プロ野球日本シリーズ]]は東映が阪神を4勝2敗1分で下し初の日本一<ref name="昭和二万日12、p.234" />。 * [[10月22日]] - 米ケネディ大統領、キューバ海上封鎖を表明([[キューバ危機]])。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[ソビエト連邦]]、[[キューバ]]国内に設置した[[ミサイル]]の撤収を開始。 * [[11月3日]] - [[小田急百貨店]]新宿店開店(現在の[[小田急ハルク]]の建物)。[[名古屋市科学館]]開館(設立時の名称は、市立名古屋科学館) * [[11月5日]] - [[サウジアラビア]]、[[エジプト]]と断交。 * [[11月6日]] ** [[国際連合総会]]で、[[南アフリカ連邦]]の[[アパルトヘイト]]政策を非難する決議採択。加盟各国に対し、南アフリカが政策を放棄しない限り、同国との経済的および軍事的交流を行わないよう要請。 * [[11月9日]] ** 「日中長期総合貿易に関する覚書」([[廖承志]]と[[高碕達之助]]の頭文字からLT協定と呼ばれる)締結<ref name="昭和二万日12、p.240-241">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.240-241]]</ref>。翌年から[[LT貿易]]が開始。 ** [[愛知県]][[西加茂郡]][[猿投町]](現・[[豊田市]])で[[全日本空輸]]の[[ヴィッカース バイカウント]]機が墜落し搭乗者全員が死亡([[全日空バイカウント機墜落事故]])。 * [[11月17日]] ** [[アメリカ合衆国]]・[[ワシントンD.C.]]に[[ダレス国際空港]]開港。 * [[11月18日]] - [[神奈川県]][[川崎市]]の[[京浜運河]]で[[出光興産]]の小型タンカー「第一宗像丸」とノルウェーの大型タンカー「ブロビーグ号」が衝突。第一宗像丸は炎上し、同船船員の36名全員を含む40名が死亡<ref name="昭和二万日12、p.240">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.240]]</ref>。 * [[11月20日]] - [[海上封鎖]]撤回により[[キューバ危機]]終了。 * [[11月29日]] ** [[イギリス]]、[[フランス]]両政府、[[超音速機]][[コンコルド]]の共同開発に合意。 ** [[東京都]][[世田谷区]]内の[[電話ボックス]]で[[火薬]]が爆発([[草加次郎事件]])<ref name="昭和二万日12、p.242">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.242]]</ref>。 * [[11月30日]] - [[国際連合]]、[[ミャンマー|ビルマ]]の[[ウ・タント]]を[[国際連合事務総長]]に選出。 === 12月 === * 日付不詳 - [[ナッソー協定]]締結。 * [[12月3日]] - 「[[キユーピー3分クッキング]]」([[CBCテレビ|CBC]]制作)放送開始(翌年[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]製作版が放送開始される。ともに現在も放送中)。 * [[12月8日]] - [[国会 (日本)|第42臨時国会]]召集([[12月23日]]閉会)。 * [[12月15日]] - [[STVラジオ]]開局([[札幌テレビ放送]]のラジオ部門として)。 * [[12月20日]] - [[首都高速道路]]最初の供用区間となる[[京橋出入口 (東京都)|京橋]] - [[芝浦出入口|芝浦]]間(現在の[[首都高速都心環状線|都心環状線]]・[[首都高速1号羽田線|1号羽田線]]の一部)が開通。 * [[12月24日]] ** [[岐阜放送|ラジオ岐阜]]が[[民間放送]]では全国45番目の[[岐阜放送ラジオ|ラジオ放送]]開始。 ** [[国会 (日本)|第43国会]]召集([[1963年]][[7月6日]]閉会)。 === 月日不明=== * 日本で[[リニアモーターカー]]の研究が始まる。 == スポーツ == {{See also|1962年のスポーツ}} * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[大鵬幸喜]] ** 春場所 [[佐田の山晋松]] ** 夏場所 [[栃ノ海晃嘉]] ** 名古屋場所 大鵬幸喜 ** 秋場所 大鵬幸喜 ** 九州場所 大鵬幸喜 * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[阪神タイガース]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]] ** [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝 東映フライヤーズ == 芸術・文化・ファッション == === 音楽 === {{See also|1962年の音楽}} * ヒット曲 ** [[サム・クック]] 「[[ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー]]」「[[ツイストで踊りあかそう]]」 ** ジャンニ・モランディ「サンライト・ツイスト」(ゴーカート・ツイスト) ** ジョヴァンニ・フスコ「太陽はひとりぼっち」 ** [[ブッカー・T&ザ・MG's]] 「[[グリーン・オニオン]]」 ** ケニー・ボール&ヒズ・ジャズ・メン 「モスコーの夜は更けて」 ** [[アーサー・アレキサンダー]] 「[[アンナ (曲)|アンナ]]」 ** [[ザ・ピーナッツ]]「[[ふりむかないで (ザ・ピーナッツの曲)|ふりむかないで]]」 ** [[橋幸夫]]&[[吉永小百合]]「[[いつでも夢を]]」 ** [[植木等]]「[[ハイそれまでョ]]」 ** [[青山ミチ]]「恋のゴーカート」 ** [[ジェリー藤尾]]「[[遠くへ行きたい (曲)|遠くへ行きたい]]」 ** [[中尾ミエ]]「[[可愛いベイビー]]」 ** [[飯田久彦]]「[[ルイジアナ・ママ]]」 ** [[弘田三枝子]]「ヴァケイション」 ** [[守屋浩]]「[[大学かぞえうた]]」 === 映画 === {{See also|1962年の映画}} * [[アラバマ物語]] * [[アラビアのロレンス]](監督:[[デヴィッド・リーン]]) * [[女と男のいる舗道]](監督:[[ジャン=リュック・ゴダール]]) * [[影なき狙撃者 (映画)|影なき狙撃者]] * [[007 ドクター・ノオ]](日本初公開時「007は殺しの番号」) * [[太陽はひとりぼっち]](監督:[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]) * [[突然炎のごとく]](監督:[[フランソワ・トリュフォー]]) * [[キューポラのある街]](監督:[[浦山桐郎]]) * [[秋刀魚の味]](監督:[[小津安二郎]]) * [[切腹 (映画)|切腹]](監督:[[小林正樹]]) * [[椿三十郎]](監督:[[黒澤明]]) * [[キングコング対ゴジラ]] * 若い人(監督・西河 克己) * [[妖星ゴラス]] * [[鯨神]] === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第47回(1962年上半期) - 川村晃 『美談の出発』 ** 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第47回(1962年上半期) - 杉森久英『天才と狂人の間』 ** 第48回(1962年下半期) - [[山口瞳]]『江分利満氏の優雅な生活』、[[杉本苑子]]『孤愁の岸』 === テレビ === {{See also|1962年のテレビ (日本)}} * [[10月1日]] - 「[[ABCフラッシュニュース]]」([[朝日放送テレビ|朝日放送]])がスタート([[1999年]][[4月2日]]終了)。 * 10月1日 - キャスターニュースショーの「[[JNNニュースコープ]]」([[TBS系列|TBS系]])がスタート([[1990年]][[3月30日]]終了)。 * [[11月13日]] - [[1964年東京オリンピック]]協力のクイズ番組「[[日清食品|日清]][[オリンピックショウ 地上最大のクイズ]]」放送開始([[1965年]][[5月25日]]終了)。 * [[12月3日]] - 料理番組「[[キユーピー3分クッキング]]」([[CBCテレビ|CBC]])が放送開始。現在も放送中。 * 不詳 - 「[[東芝土曜劇場]]『[[われら青春]]』」([[フジテレビ系]])が放送。 * 開局 - [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]](現・名古屋テレビ放送(メ〜テレ))、[[広島テレビ放送]]、[[仙台放送]] === ラジオ === {{See also|1962年のラジオ (日本)}} * 開局 - [[岐阜放送ラジオ|ラジオ岐阜]](現:[[岐阜放送]])、[[STVラジオ]](当時は[[札幌テレビ放送]]のラジオ部門) === 広告宣伝 === * コマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪長生きしたけりゃちょっとおいで、チョチョンのパッ||-||[[船橋ヘルスセンター]]||[[横山隆一]](画)||[[三木鶏郎]]・[[楠トシエ]] |- |俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー||ランチクラッカー||[[前田製菓]]||[[藤田まこと]]||- |- |スカッとさわやか||[[コカ・コーラ]]||[[日本コカ・コーラ]]||-||- |- |♪パンシロンでパン・パン・パン||パンシロン||[[ロート製薬]]||-||[[天地総子]] |- |} == 誕生 == {{see also|Category:1962年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[森浩二]]、元[[プロ野球選手]] * 1月1日 - [[徳永エリ]]、政治家 * [[1月2日]] - [[正田耕三]]、元プロ野球選手 * 1月2日 - [[速水けんたろう]]、[[歌手]](8代目[[うたのおにいさん]]) * 1月2日 - [[ダーク・ビッケンバーグ]]、[[ファッションデザイナー]] * [[1月5日]] - [[賀萬里]]、[[美術家]] * [[1月6日]] - [[なかじままり]]、俳優、[[ものまねタレント]] * [[1月7日]] - [[デビル雅美]]、女子[[プロレスラー]] * [[1月12日]] - [[堀井哲也]]、元野球選手 *1月12日 - [[エマニュエル・ピロ]]、元F1ドライバー * [[1月13日]] - [[八木啓代]]、歌手、[[作家]]、[[エッセイスト]]、[[ジャーナリスト]]、音楽コーディネーター * 1月13日 - [[ケビン・ミッチェル]]、元[[メジャーリーガー]] * 1月13日 - [[SAM (ダンサー)|SAM]]、[[ダンサー]]([[TRF]]) * [[1月14日]] - [[安田信二]]、作曲家 * [[1月15日]] - [[石原良純]]、[[俳優]] * [[1月15日]] - [[町田康]]、[[小説家]]、[[詩人]]、[[パンク・ロック]]歌手 * 1月15日 - [[パスカル・ネミロフスキ]]、[[ピアニスト]] * [[1月17日]] - [[ジム・キャリー]]、俳優 * 1月17日 - [[福島敦子]]、[[アナウンサー]] * 1月17日 - [[安住淳]]、政治家 * [[1月19日]] - [[西司]]、[[シンガーソングライター]] * 1月19日 - [[福山哲郎]]、政治家 * [[1月20日]] - [[IKKO]]、メイクアップアーティスト * 1月20日 - [[玉川砂記子]]、[[声優]] * [[1月22日]] - [[謝長亨]]、元野球選手 * [[1月23日]] - [[ベニー・ディステファーノ]]、元プロ野球選手 * [[1月26日]] - [[リック・シュー]]、元プロ野球選手 * 1月26日 - [[オスカル・ルジェリ]]、元[[サッカー選手]] * 1月26日 - [[八重沢真美]]、ミュージカル俳優、元バレエダンサー * [[1月27日]] - [[金賢姫]]、北朝鮮の元工作員 * [[1月29日]] - [[岡村孝子]]、[[シンガーソングライター]] * 1月29日 - [[貞本義行]]、[[漫画家]]、[[キャラクターデザイナー]]、[[アニメーター]] * 1月29日 - [[清水草一]](MJブロンディ)、[[自動車評論|モータージャーナリスト]] * [[1月30日]] - [[アブドゥッラー2世]]、[[ヨルダン]]国王 * [[1月31日]] - [[黒崎輝]]、元俳優、歌手 * 1月31日 - [[堀井哲也]]、野球選手 === 2月 === * [[2月1日]] - [[布袋寅泰]]、[[ミュージシャン]](元[[BOØWY]]・[[COMPLEX (音楽ユニット)|COMPLEX]]) * 2月1日 - [[村上隆]]、[[現代美術家]] * [[2月2日]] - [[江幡和志]]、[[プロ野球選手]] * [[2月3日]] - [[松井桂三 (俳優)|松井桂三]]、[[俳優]] * [[2月4日]] - [[宙也]]、[[ミュージシャン]]([[De-LAX]]・[[LOOPUS]]、元[[ALLERGY]]) * [[2月5日]] - [[川原新治]]、元プロ野球選手 * 2月5日 - [[森田芳彦]]、プロ野球選手 * [[2月6日]] - [[アクセル・ローズ]]、ミュージシャン([[ガンズ・アンド・ローゼズ]]) * 2月6日 - [[石塚英彦]]、[[お笑いタレント]]([[ホンジャマカ]]) * 2月6日 - [[林譲治 (作家)|林譲治]]、[[SF作家]] * 2月6日 - [[佐藤和史]]、元プロ野球選手 * [[2月9日]] - [[藤本匠]]、[[騎手]] * [[2月11日]] - [[シェリル・クロウ]]、歌手 * [[2月14日]] - [[大川豊]]、お笑いタレント、[[大川興業]]代表取締役総裁 * [[2月15日]] - [[畑恵]]、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー・[[国会議員]] * [[2月16日]] - [[ドウェイン・ヘンリー]]、元プロ野球選手 * [[2月17日]] - [[嶋田宗彦]]、元プロ野球選手 * [[2月18日]] - [[マリアン]]、[[タレント]] * 2月18日 - [[佐野浩敏]]、[[アニメーター]]、[[イラストレーター]] * 2月18日 - [[ジュリー・ストレイン]]、[[俳優|女優]]、[[モデル (職業)|モデル]] (+ [[2021年]]) * [[2月19日]] - [[キャプテン・ジャック|フランキー・ジー]]、[[ラッパー]] (+ [[2005年]]) * [[2月20日]] - [[真島昌利]]、[[ミュージシャン]](元[[THE BLUE HEARTS]]、[[THE HIGH-LOWS]]、現[[ザ・クロマニヨンズ]]) * 2月20日 - [[中島めぐみ (女優)|中島めぐみ]]、元タレント、元歌手 * [[2月21日]] - [[川端健嗣]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー * [[2月22日]] - [[スティーブ・アーウィン]]、タレント、動物園経営者(+ [[2006年]]) * [[2月25日]] - [[寺脇康文]]、俳優 * [[2月26日]] - [[ケリー・グルーバー]]、[[メジャーリーガー]] * [[2月28日]] - [[高坂希太郎]]、アニメーション監督 === 3月 === * [[3月2日]] - [[ジョン・ボン・ジョヴィ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージシャン([[ボン・ジョヴィ]]) * 3月2日 - [[ガブリエル・タルキーニ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[3月3日]] - [[瀬尾佳美]] * 3月3日 - [[刀根麻理子]]、歌手・女優 * [[3月6日]] - [[柳沢慎吾]]、[[タレント]] * [[3月9日]] - [[木梨憲武]]、タレント([[とんねるず]]) * [[3月10日]] - [[松田聖子]]、歌手 * 3月10日 - [[道蔦岳史]]、クイズ王・放送作家 * 3月10日 - [[多田野曜平]]、声優 *[[3月11日]] - [[坂手洋二]]、俳優 * 3月11日 - [[斉藤ルミ子]]、タレント * [[3月12日]] - [[ダリル・ストロベリー]]、メジャーリーガー * 3月12日 - [[アンドレアス・ケプケ]]、元サッカー選手 * [[3月13日]] - [[沢田聖子]]、歌手 * [[3月15日]] - [[朝比奈マリア]]、タレント * 3月15日 - [[コウタ]](石島浩太)、ギタリスト・スポーツ・ビジネス・コメンテーター・元NPB, MLBの通訳・エージェント * [[3月17日]] - [[小松江里子]]、[[脚本家]] * 3月17日 - [[アハメド・カリール]]、外交官 * [[3月18日]] - [[豊川悦司]]、俳優 * [[3月20日]] - [[郭泰源]]、元プロ野球選手 * [[3月21日]] - [[マシュー・ブロデリック]]、俳優 * [[3月22日]] - [[片岡光宏]]、元プロ野球選手 * [[3月23日]] - [[松村和子]]、歌手 * 3月23日 - [[夏まゆみ]]、振付師(+[[1995年|2023年]]) * [[3月24日]] - [[ジ・アンダーテイカー]]、[[プロレスラー]] * [[3月26日]] - [[ジョン・ストックトン]]、元バスケットボール選手 * [[3月30日]] - [[小川洋子]]、[[小説家]] === 4月 === * [[4月2日]] - [[小川博]]、元[[プロ野球選手]] * 4月2日 - [[愛川裕子]]、女優 * [[4月3日]] - [[千住真理子]]、[[ヴァイオリン]]奏者 * 4月3日 - [[刀根剛]]、元プロ野球選手 * [[4月4日]] - [[市川かおり]]、元タレント * [[4月5日]] - [[島津禎久]]、日本の[[写真家]]、[[昭和天皇]]の孫、[[明仁|明仁上皇]]の甥。 *4月5日 - [[キース・オドール]]、イギリスのレーシングドライバー、(+[[1995年]]) * [[4月6日]] - [[秋山幸二]]<ref name="卒業,P50">秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年、P50</ref>、元プロ野球選手 * 4月6日 - [[谷川浩司]]、[[将棋棋士]]、十七世名人 * [[4月9日]] - [[天宮良]]、俳優 * [[4月10日]] - [[広澤克実]]、元プロ野球選手 * 4月10日 - [[石黒久也]]、俳優、声優 * [[4月12日]] - [[髙田延彦]]、元プロレスラー * 4月12日 - [[中条善伸]]、元プロ野球選手 * [[4月13日]] - [[大藤敏行]]、高校野球指導者 * [[4月14日]] - [[サクラマコト]](前田真人)、ミュージシャン * [[4月16日]] - [[藤本貴久]]、プロ野球選手 * [[4月17日]] - [[船越雅史]]、元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * 4月17日 - [[吉村元富]]、元プロ野球選手 * [[4月20日]] - [[金城博和]]、元プロ野球選手 * 4月20日 - [[シーグルズル・インギ・ヨハンソン]]、[[アイスランドの首相|アイスランド首相]] * [[4月24日]] - [[山咲千里]]、[[俳優|女優]] * [[4月26日]] - [[岡田泰典]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー * 4月26日 - [[中西清起]]、元プロ野球選手 * 4月26日 - [[辻谷耕史]]、声優(+ [[2018年]]) * 4月26日 - [[琴稲妻佳弘|粂川親方]]、元小結琴稲妻 * [[4月28日]] - [[河野博文]]、元プロ野球選手 * [[4月30日]] - [[前原誠司]]、[[政治家]]、衆議院議員 === 5月 === * [[5月4日]] - [[川村一明]]、元[[プロ野球選手]] * 5月4日 - [[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]、漫画家 * [[5月6日]] - [[鈴井貴之]]、[[CREATIVE OFFICE CUE]]代表取締役社長・タレント・[[映画監督]] * 5月6日 - [[関野浩之]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ナレーター]] * [[5月8日]] - [[オレステス・デストラーデ]]、元プロ野球選手 * 5月8日 - [[てらそままさき]]、声優 * [[5月10日]] - [[デヴィッド・フィンチャー]]、映画監督 * 5月10日 - [[ジョーイ・マイヤー]]、元プロ野球選手 * 5月10日 - [[星原一彦]]、プロ野球選手 * 5月10日 - [[アッタカーン・ウォンチャナマース]]、大使 * [[5月14日]] - [[フェラン・アドリア]]、[[シェフ|料理人]] * [[5月15日]] - [[本西厚博]]、元プロ野球選手 * [[5月16日]] - [[渡部勝美]]、元野球選手 * [[5月18日]] - [[ジョン・ディーブル]]、プロ野球監督 * [[5月19日]] - [[宮下正彦]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]]) * [[5月22日]] - [[栃乃和歌清隆|春日野親方]]、元関脇栃乃和歌 * [[5月23日]] - [[小川宗直]]、元プロ野球選手 * [[5月24日]] - [[野川晴義]]、[[作曲家]] * [[5月26日]] - [[長谷川国利]]、元プロ野球選手 * [[5月27日]] - [[白幡隆宗]]、元プロ野球選手 * [[5月28日]] - [[中尊寺ゆつこ]]、漫画家(+ [[2005年]]) * [[5月29日]] - [[エリック・デービス]]、[[メジャーリーガー]] * [[5月30日]] - [[ベルント・グレムザー]]、[[ピアニスト]] * [[5月31日]] - [[日髙のり子]]、[[声優]] === 6月 === * [[6月1日]] - [[横井司]]、[[文芸評論家]] * [[6月2日]] - [[ダネル・コールズ]]、元[[プロ野球選手]] * [[6月4日]] - [[リンゼイ・フロスト]]、女優 * [[6月5日]] - [[アストリッド・ド・ベルジック]]、[[ベルギー]]王女 * [[6月6日]] - [[高仁秀治]]、元プロ野球選手 * 6月6日 - [[是枝裕和]]、[[映画監督]] * 6月7日 - [[WADA-Q]] [[レーシングドライバー]](本名:和田久) * [[6月8日]] - [[藤岡幸夫]]、[[指揮者]] * [[6月9日]] - [[佐藤洋]]、元プロ野球選手 * [[6月10日]] - [[安倍昭恵]]、[[衆議院議員]][[安倍晋三]](第90代[[内閣総理大臣]])夫人 * [[6月11日]] - [[おかゆうた]]、[[漫才師]](おかけんた・ゆうた) * 6月11日 - [[関俊彦]]<ref name="meikan">{{Cite book|和書|chapter=男性篇|title=声優名鑑|publisher=成美堂出版|date=1999-08-10|isbn=4-415-00878-X|page=498}}</ref>、[[声優]] * [[6月16日]] - [[宮城弘明]]、元プロ野球選手 * 6月16日 - [[ウォーリー・ジョイナー]]、[[メジャーリーガー]] * [[6月17日]] - [[明川哲也]]=旧[[ドリアン助川]]、作家・ミュージシャン([[叫ぶ詩人の会]]) * 6月17日 - [[青木秀夫 (野球)|青木秀夫]]、元プロ野球選手 * [[6月18日]] - [[三沢光晴]]、プロレスラー(+ [[2009年]]) * 6月18日 - [[タージン]]、タレント * [[6月19日]] - [[小沢仁志]]、俳優 * 6月19日 - [[西本和人]]、元プロ野球選手 * [[6月21日]] - [[ピピロッティ・リスト]]、[[ビデオ・アート|ビデオ・アーティスト]] * [[6月21日]] - [[ヴィクトル・ツォイ]]、俳優、歌手、ロックバンド[[キノー]]のボーカル * [[6月22日]] - [[クライド・ドレクスラー]]、元バスケットボール選手 *6月22日 - [[周星馳|チャウ・シンチー]]、俳優・映画監督 *[[6月24日]] - [[ゴータム・アダニ]]、大富豪 *6月24日 - [[六角精児]]、俳優 * [[6月27日]] - [[サトウタツヤ|佐藤達哉]]、[[心理学者]] * 6月27日 - [[梁朝偉|トニー・レオン]]、[[映画俳優]]・歌手 * [[6月28日]] - [[松林和雄]]、元プロ野球選手 * [[6月30日]] - [[トニー・フェルナンデス]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news2 |date= 2020-02-15|url=https://www.lonestarball.com/2020/2/15/21139556/tony-fernandez-died-major-league-baseball-shortstop |title=Tony Fernandez has died at 57 |newspaper=SBNATION | agency=VOXMEDIA|accessdate=2020-10-27}}</ref>) === 7月 === * [[7月1日]] - [[三杉里公似]]、大相撲元力士・[[小結]] * 7月1日 - [[ジェシー・リード]]、元[[プロ野球選手]] * [[7月2日]] - [[偉関晴光]]、元[[卓球]]選手 * [[7月3日]] - [[トム・クルーズ]]、俳優 * [[7月4日]] - [[真山仁]]、作家 * 7月4日 - [[MAX渡辺]]、プロ[[モデラー]]・実業家([[マックスファクトリー]]代表) * [[7月6日]] - [[中井哲之]]、高校野球指導者 * [[7月7日]] - [[ナンシー関]]、[[版画家]](+ [[2002年]]) * 7月7日 - [[藤井康雄]]、元プロ野球選手 * [[7月9日]] - [[高見知佳]]、タレント(+ [[2022年]]) * [[7月11日]] - [[藤井フミヤ]]、ミュージシャン(元[[チェッカーズ]]) * 7月11日 - [[マヌエラ・マガー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 7月11日 - [[山田裕朗]]、[[山田食品産業]]社長 * [[7月12日]] - [[フリオ・セサール・チャベス]]、元[[プロボクサー]] * [[7月14日]] - [[菅原正志]]、[[声優]] * [[7月15日]] - [[正木敦]]、[[テレビプロデューサー]]([[TBSテレビ]]) * 7月15日 - [[上橋菜穂子]]、[[作家]]・[[文化人類学者]] * [[7月16日]] - [[ウベ・ホーン]]、[[やり投]]選手 * [[7月18日]] - [[浜田麻里]]、歌手 * [[7月20日]] - [[中川勝彦]]、ミュージシャン(+ [[1994年]]) * 7月20日 - [[山崎賢一]]、元プロ野球選手 * 7月20日 - [[玄岡正充]]、元プロ野球選手 * [[7月21日]] - [[武内享]]、ミュージシャン(元チェッカーズ) * [[7月22日]] - [[永田まり]]、タレント * [[7月23日]] - [[トニー・クロスビー]]、[[スタイリスト]]・[[タレント]]・[[エッセイスト]] * [[7月24日]] - [[久保田利伸]]、ミュージシャン * [[7月25日]] - [[田中秀幸 (アートディレクター)|田中秀幸]]、アートディレクター * 7月25日 - [[ダグ・ドレイベック]]、[[メジャーリーガー]] * [[7月27日]] - [[中島輝士]]、元プロ野球選手 * [[7月28日]] - [[若瀬川剛充]]、元大相撲力士(+ [[2011年]]) * [[7月29日]] - [[だいもん孝之]]、[[放送作家]] * 7月29日 - [[高木美保]]、[[俳優|女優]] * 7月29日 - [[秦真司]]、元プロ野球選手 * 7月29日 - [[芝正]]、元プロ野球選手 * [[7月30日]] - [[両国梶之助]]、元大相撲力士・[[小結]]、現・境川親方 * [[7月31日]] - [[利重剛]]、俳優・[[映画監督]] * 7月31日 - [[黛まどか]]、[[俳人]] * 7月31日 - [[ウェズリー・スナイプス]]、俳優、[[映画監督]] * 7月31日 - [[ケビン・グリーン]]、[[アメリカンフットボール]]選手・コーチ(+ [[2020年]]) === 8月 === * [[8月1日]] - [[スコット・アンダーソン]]、元[[プロ野球選手]] * [[8月3日]] - [[上田和明]]、元プロ野球選手 * 8月3日 - [[有本香]]、[[ジャーナリスト]] * 8月3日 - [[小田佳奈子]]、[[作詞家]] * 8月3日 - [[古澤融]]、[[声優]] * [[8月4日]] - [[広瀬裕]]、[[俳優]] * 8月4日 - [[本間龍]]、[[ノンフィクション作家]] * 8月4日 - [[ロジャー・クレメンス]]、[[メジャーリーガー]] * 8月4日 - [[ジョン・ファレル (投手)|ジョン・ファレル]]、メジャーリーガー * [[8月5日]] - [[パトリック・ユーイング]]、元バスケットボール選手 * [[8月6日]] - [[ミシェル・ヨー]]、[[俳優]] * [[8月8日]] - [[大津一洋]]、元プロ野球選手 * [[8月9日]] - [[いずみ尚]]、[[声優]] * 8月9日 - [[竹田光訓]]、元プロ野球選手 * [[8月10日]] - [[筧利夫]]、俳優 * 8月10日 - [[キャロライン洋子]]、タレント * [[8月12日]] - [[デビット・パブラス]]、元プロ野球選手 * [[8月13日]] - [[佐藤文彦 (外野手)|佐藤文彦]]、元プロ野球選手 * [[8月15日]] - [[愛甲猛]]、元プロ野球選手 * 8月15日 - [[宇梶剛士]]、[[俳優]]・[[タレント]] * [[8月17日]] - [[中根康浩]]、政治家 * 8月17日 - [[ガモウひろし]]、[[漫画家]] * 8月17日 - [[近藤章仁]]、プロ野球選手 * [[8月18日]] - [[水道橋博士]]、お笑いタレント([[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]]) * [[8月19日]] - [[宅八郎]]、[[おたく]][[評論家]](+ [[2020年]]) * 8月19日 - [[小野和幸]]、元プロ野球選手 * [[8月19日]] - [[風間トオル]]、俳優 * [[8月20日]] - [[島田茂]]、プロ野球選手 * [[8月21日]] - [[宮崎勤]]、シリアルキラー(+ [[2008年]]) * [[8月22日]] - [[ダリン・ジャクソン]]、元プロ野球選手 * 8月22日 - [[吉川虎範]]、俳優、声優 * [[8月23日]] - [[巻島直樹]]、[[声優]] * 8月23日 - [[渡真利克則]]、元プロ野球選手、審判 * 8月23日 - [[林玉緒]]、声優 * [[8月24日]] - [[中西寛]]、[[政治学者]] * [[8月27日]] - [[トム・フォード]]、[[ファッションデザイナー]] * 8月27日 - [[久ヶ沢徹]]、俳優 * [[8月29日]] - [[伊東勤]]、元プロ野球選手、元[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]監督 * 8月29日 - [[ユタ・クラインシュミット]]、ラリードライバー * [[8月30日]] - [[アレクサンドル・リトビネンコ]]、[[反体制]][[積極行動主義|活動家]]、[[著作家|ライター]](+ [[2006年]]) * [[8月31日]] - [[林田尚親]]、[[男性]][[俳優]]、[[声優]]、[[ナレーター]] * 8月31日 - [[神津はづき]]、女優 * 8月31日 - [[起利錦利郎]]、元大相撲力士 === 9月 === * [[9月1日]] - [[飯塚富司]]、元[[プロ野球選手]] * 9月1日 - [[依田栄二]]、プロ野球選手 * 9月1日 - [[ルート・フリット]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[9月2日]] - [[和田豊]]、元プロ野球選手 * 9月2日 - [[水戸泉政人|錦戸親方]]、元関脇水戸泉 * 9月2日 - [[ジョニー・パリデス]]、元プロ野球選手 * [[9月3日]] - [[鈴木英俊]]、[[ギタリスト]] * 9月3日 - [[榊原聡一郎]]、元プロ野球選手 * [[9月4日]] - [[山中伸弥]]、[[医学者]](2012年度[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞者)、[[京都大学|京都大学iPS細胞研究所]]名誉所長 * [[9月5日]] - [[中島源陽]]、政治家 * [[9月6日]] - [[小熊英二]]、[[社会学者]]、[[慶應義塾大学]]助教授 * 9月6日 - [[パンツェッタ・ジローラモ]]、外国人タレント * [[9月7日]] - [[兵藤まこ]]、[[声優]] * [[9月8日]] - [[高山郁夫]]、元プロ野球選手 * [[9月9日]] - [[小林俊行]]、[[数学者]] * 9月9日 - [[高杢禎彦]]、元[[チェッカーズ]] * 9月9日 - [[黒岩よしひろ]]、漫画家(+ [[2018年]]) * [[9月12日]] - [[フィリップ・カッサール]]、[[ピアニスト]] * [[9月13日]] - [[下村成二郎]]、ミュージシャン(元[[ブリザード (バンド)|BLIZARD]]) * [[9月14日]] - [[駒田徳広]]、元プロ野球選手 * [[9月15日]] - [[松尾宗仁]]、[[ギタリスト]]([[ZIGGY]]) * 9月15日 - [[スコット・マクニール]]、[[声優]] * [[9月17日]] - [[大倉孝一]]、[[野球選手]] * [[9月19日]] - [[ランディ・マイヤーズ]]、[[メジャーリーガー]] * [[9月24日]] - [[KAN]]、シンガーソングライター(+ [[2023年]]) * [[9月27日]] - [[塩谷賢]]、[[哲学者]] * 9月27日 - [[ドン・シュルジー]]、元プロ野球選手 * 9月27日 - [[横関敦]]、ギタリスト(元[[THE BRONX]]) * [[9月30日]] - [[田中経一]]、[[演出家]]、[[ディレクター|テレビディレクター]] * 9月30日 - [[フランク・ライカールト]]、元サッカー選手、サッカー指導者 === 10月 === * [[10月1日]] - [[生田與克]]、実業家、ネット番組司会者 * [[10月2日]] - [[オレグ・マカロフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月7日]] - [[タイラー・バン・バークレオ]]、[[プロ野球選手]] * [[10月8日]] - [[軽部真一]]、フジテレビアナウンサー * [[10月9日]] - [[佐々木修 (野球)|佐々木修]]、プロ野球選手 * 10月9日 - [[大乃国康|芝田山親方]]、[[大相撲]]第62代[[横綱]]大乃国 *10月9日 - [[ポール・ラディシッチ]]、レーシングドライバー * [[10月10日]] - [[風見しんご]]、タレント * 10月10日 - [[宮崎哲弥]]、評論家 * [[10月13日]] - 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[[麻木久仁子]]、タレント * 11月12日 - [[ナオミ・ウルフ]]、作家・評論家 * [[11月13日]] - [[本田雅人]]、ミュージシャン * [[11月14日]] - [[こおろぎさとみ]]、声優 * 11月14日 - [[田中敦子 (声優)]]<ref name="mausu">{{Cite web|和書|url=https://mausu.net/talent/tanaka-atsuko.html|title=田中 敦子|所属タレント|マウスプロモーション|accessdate=2020-11-04}}</ref> * [[11月15日]] - [[三宅正治]]、フジテレビアナウンサー * 11月15日 - [[榛葉淳]]、実業家 * [[11月16日]] - [[佐藤多佳子]]、[[小説家]] * 11月16日 - [[水野優 (翻訳家)|水野優]]、[[翻訳|翻訳家]]・[[チェスプレーヤーの一覧|チェスプレーヤー]] * [[11月17日]] - [[西村基史]]、元プロ野球選手 * [[11月18日]] - [[カーク・ハメット]]、ギタリスト([[メタリカ]]) * [[11月19日]] - [[ジョディ・フォスター]]、女優 * [[11月21日]] - [[五十嵐美貴]]、ミュージシャン([[SHOW-YA]]) * [[11月22日]] - [[柊あおい]]、漫画家 * 11月22日 - [[塚原洋一]]、漫画家 * [[11月25日]] - [[寺門ジモン]]、お笑いタレント([[ダチョウ倶楽部]]) * 11月25日 - [[坂口博信]]、ゲームクリエイター * [[11月26日]] - [[横田真之]]、元プロ野球選手 * [[11月27日]] - [[白石まるみ]]、女優 * [[11月29日]] - [[山下和彦]]、元プロ野球選手 * [[11月30日]] - [[戸崎貴広]]、TBSアナウンサー === 12月 === * [[12月1日]] - [[林家正蔵 (9代目)|9代目林家正蔵]]、[[落語家]] * [[12月2日]] - [[けらえいこ]]、漫画家 * [[12月3日]] - [[久保文雄]]、元[[プロ野球選手]] *12月3日 - [[神保悟志]]、俳優 * [[12月4日]] - [[大谷信盛]]、政治家 *12月4日 - [[森下能幸]]、俳優 * [[12月8日]] - [[マーティ・フリードマン]]、ギタリスト(元[[メガデス (バンド)|メガデス]]) * 12月8日 - [[広瀬新太郎]]、元プロ野球選手 * [[12月9日]] - 小池浩司、声優 * [[12月10日]] - [[桂正和]]、漫画家 * 12月10日 - [[矢野和哉]]、元プロ野球選手 * [[12月11日]] - [[デニス・ビールマン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[12月12日]] - [[石野竜三]]、[[声優]] * 12月12日 - [[柴尾英令]]、[[文筆家]]、[[ゲームクリエイター]](+ [[2018年]]) * [[12月13日]] - [[シントン・ラーピセートパン]]、大使 * [[12月15日]] - [[小栗克裕]]、[[作曲家]] * 12月15日 - [[松尾スズキ]]、俳優・[[演出家]]・[[映画監督]] * [[12月17日]] - [[上祐史浩]]、元[[アレフ (宗教団体)|アーレフ]]代表 * 12月17日 - [[橘髙淳]]、元プロ野球選手、プロ野球審判 * [[12月19日]] - [[安部理]]、元プロ野球選手 * [[12月20日]] - [[マルコ・マッツィエーリ]]、[[野球選手]] * [[12月21日]] - [[国松慶輝]]、元プロ野球選手 * 12月21日 - [[日野美歌]]、歌手 * [[12月22日]] - [[ベルトラン・ガショー]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 12月22日 - [[前川清成]]、政治家 * [[12月23日]] - [[武藤敬司]]、[[プロレスラー]] * 12月23日 - [[トラン・アン・ユン]]、ベトナム出身の映画監督・[[脚本家]] * [[12月24日]] - [[石本貴昭]]、元プロ野球選手 * 12月24日 - [[長野智子]]、[[フリーアナウンサー]]、元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー * [[12月25日]] - [[中村大樹]]、声優 * 12月25日 - [[チョン・ミスク]]、[[大韓民国|韓国]]声優 * [[12月27日]] - [[三浦堅治]]、元[[騎手]]・[[調教助手]] * [[12月28日]] - [[ミシェル・ペトルチアーニ]]、ジャズ[[ピアニスト]](+ [[1999年]]) * [[12月31日]] - [[俵万智]]、[[歌人]] * 12月31日 - [[ジェニファー・ヒグドン]]、作曲家・[[フルート奏者]] === 不詳 === * 誕生日不詳 - [[岩井俊雄]]、メディアアーティスト == 死去 == {{see also|Category:1962年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月5日]] - [[ペル・トーレン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1885年]]) * [[1月7日]] - [[石井漠]]、[[舞踏家]](* [[1886年]]) * [[1月10日]] - [[藤井真澄]]、[[劇作家]] (* [[1889年]]) * [[1月23日]] - [[大村能章]]、作曲家 (* [[1893年]]) * [[1月24日]] - [[アンドレ・ロート]]、[[画家]](* [[1885年]]) * [[1月26日]] - [[ラッキー・ルチアーノ]]、[[マフィア]]の幹部(* [[1897年]]) * [[1月28日]] - [[中村時蔵 (4代目)]]、[[歌舞伎俳優]](* [[1927年]]) * [[1月29日]] - [[フリッツ・クライスラー]]、[[ヴァイオリン|ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1875年]]) * [[1月30日]] - [[グスタフ・ストレームベリ]]、[[天文学者]](* [[1882年]]) === 2月 === * [[2月5日]] - [[鈴木行三]]、作家 * [[2月5日]] - [[ジャック・イベール]]、作曲家(* [[1890年]]) * [[2月6日]] - [[ロイ・アトウェル]]、俳優・コメディアン・作曲家(* [[1878年]]) * [[2月10日]] - [[岡田八千代]]、小説家・劇作家・[[劇評家]] (* [[1883年]]) * [[2月15日]] - [[実吉捷郎]]、独文学者 (* [[1895年]]) * [[2月17日]] - [[ブルーノ・ワルター]]、[[指揮者]](* [[1876年]]) * [[2月19日]] - [[熊谷岱蔵]]、[[医学者]](* [[1880年]]) * [[2月20日]] - [[鳥井信治郎]]、[[実業家]]、[[サントリー]]の創業者(* [[1879年]]) * [[2月21日]] - [[吉田文五郎|四代目吉田文五郎]]、人形遣い(* [[1869年]]) * 2月21日 - [[千賀千太郎]]、実業家・[[衆議院|衆議院議員]](* [[1882年]]) * [[2月24日]] - [[胡適]]、[[思想|思想家]]・[[歴史学者]](* [[1891年]]) * [[2月26日]] - [[御橋公]]、俳優(* [[1895年]]) === 3月 === * [[3月7日]] - [[富澤赤黄男]]、俳人 (* [[1902年]]) * 3月7日 - [[大西源一]]、[[郷土史家]] (* [[1883年]]) * [[3月14日]] - [[正宗得三郎]]、[[洋画家]](* [[1883年]]) * [[3月15日]] - [[アーサー・コンプトン]]、[[実験物理学|実験物理学者]](* [[1892年]]) * [[3月16日]] - [[吉田三郎]]、[[彫刻家]](* [[1889年]]) * [[3月19日]] - [[備州山大八郎]]、[[大相撲]]の[[力士]](* [[1919年]]) * [[3月20日]] - [[ライト・ミルズ]]、[[社会学者]](* [[1916年]]) * [[3月22日]] - [[児島善三郎]]、洋画家(* [[1893年]]) * [[3月24日]] - [[オーギュスト・ピカール]]、[[物理学者]]・[[冒険家]](* [[1884年]]) * [[3月26日]] - [[室生犀星]]、[[詩人]]・[[小説家]](* [[1889年]]) * [[3月27日]] - [[武林無想庵]]、[[小説家]](* [[1880年]]) === 4月 === * [[4月1日]] - [[西東三鬼]]、俳人 (* [[1900年]]) * [[4月10日]] - [[スチュアート・サトクリフ]]、[[ビートルズ]]の元[[ベーシスト]](* [[1940年]]) * [[4月11日]] - [[マイケル・カーティス]]、[[映画監督]](* [[1888年]]) * 4月11日 - [[中谷宇吉郎]]、[[物理学者]]・[[随筆家]](* [[1900年]]) * [[4月12日]] - [[アントワーヌ・ペヴスナー]]、[[美術家]]・[[画家]](* [[1886年]]) * [[4月18日]] - [[佐藤武夫 (野球)|佐藤武夫]]、[[プロ野球選手]](* [[1916年]]) * [[4月19日]] - [[妹尾韶夫]]、翻訳家・探偵小説作家 (* [[1892年]]) * [[4月21日]] - [[中島菊夫]]、漫画家・教育者 (* [[1897年]]) * [[4月27日]] - [[根岸寛一]]、[[映画プロデューサー]](* [[1894年]]) * 4月27日 - [[近藤浩一路]]、水墨画家・漫画家 (* [[1884年]]) * [[4月29日]] - [[田辺元]]、[[思想家]](* [[1885年]]) === 5月 === * [[5月10日]] - [[畑俊六]]、日本の[[陸軍大臣]](* [[1879年]]) * [[5月12日]] - [[秋田雨雀]]、[[劇作家]]・[[詩人]](* [[1883年]]) * [[5月19日]] - [[ガブリエレ・ミュンター]]、[[画家]](* [[1877年]]) * [[5月27日]] - [[エゴン・ペトリ]]、[[ピアニスト]](* [[1881年]]) === 6月 === * [[6月1日]] - [[アドルフ・アイヒマン]]、[[ナチス・ドイツ]]の高官および[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]のメンバー(* [[1906年]]) * [[6月2日]] - [[ヴィタ・サックヴィル=ウェスト]]、[[小説家]]・[[詩人]]・[[造園|造園家]](* [[1892年]]) * [[6月4日]] - [[前田多門]]、[[政治家]]・実業家(* [[1884年]]) * 6月4日 - [[櫻錦利一]]、大相撲の力士(* [[1916年]]) * [[6月6日]] - [[ジョン・リマー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1878年]]) * 6月6日 - [[イヴ・クライン]]、[[画家]](* [[1928年]]) * [[6月12日]] - [[ジョン・アイアランド (作曲家)|ジョン・アイアランド]]、作曲家(* [[1879年]]) * [[6月13日]] - [[ユージン・グーセンス]]、指揮者(* [[1893年]]) * [[6月15日]] - [[アルフレッド・コルトー]]、ピアニスト(* [[1877年]]) * [[6月25日]] - [[東野辺薫]]、作家 (* [[1902年]]) * [[6月27日]] - [[永利勇吉]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]]) * [[6月28日]] - [[ミッキー・カクレーン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1903年]]) * [[6月30日]] - [[春日政治]]、[[国文学者]] (* [[1878年]]) === 7月 === * [[7月5日]] - [[ラインホルト・バルヒェット]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1920年]]) * [[7月6日]] - [[ウィリアム・フォークナー]]、作家(* [[1897年]]) * [[7月8日]] - [[ジョルジュ・バタイユ]]、思想家・作家(* 1897年) * 7月8日 - [[下総皖一]]、[[作曲家]](* [[1898年]]) * [[7月15日]] - [[板沢武雄]]、日本史学者 (* [[1895年]]) * [[7月16日]] - [[テオドール・リット]]、[[教育学者]]・[[哲学者]](* [[1880年]]) * [[7月18日]] - [[大河内傳次郎]]、[[俳優]](* [[1898年]]) * [[7月22日]] - [[若月紫蘭]]、劇作家・演劇研究家・翻訳家 (* [[1879年]]) * [[7月28日]] - [[フランツ・コンヴィチュニー]]、指揮者(* [[1901年]]) * [[7月29日]] - [[ロナルド・フィッシャー]]、[[生物学者]](* [[1890年]]) * [[7月30日]] - [[正木不如丘]]、作家・医師 (* [[1887年]]) === 8月 === * [[8月5日]] - [[マリリン・モンロー]]、[[俳優|女優]](* [[1926年]]) * [[8月6日]] - [[辰野九紫]]、小説家 (* [[1892年]]) * 8月6日 - [[豊光重信]]、元[[力士]](*[[1925年]]) * [[8月7日]] - [[久野節]]、[[建築家]](* [[1882年]]) * [[8月8日]] - [[柳田國男]]、[[民俗学者]](* [[1875年]]) * [[8月9日]] - [[ヘルマン・ヘッセ]]、作家(* [[1877年]]) * [[8月15日]] - [[雷鋒]]、[[中国人民解放軍]]の兵士(* [[1940年]]) * [[8月19日]] - [[真島利行]]、[[有機化学者]](* [[1874年]]) * [[8月23日]] - [[フート・ギブソン]]、俳優(* [[1892年]]) === 9月 === * [[9月3日]] - [[E・E・カミングス]]、[[詩人]](* [[1894年]]) * [[9月6日]] - [[ハンス・アイスラー]]、作曲家(* [[1898年]]) * [[9月7日]] - [[カレン・ブリクセン]]、[[小説家]](* [[1885年]]) * 9月7日 - [[吉川英治]]、小説家(* [[1892年]]) * [[9月19日]] - [[高田波吉]]、歌人 (*[[1898年]]) === 10月 === * [[10月3日]] - [[飯田蛇笏]]、[[俳人]](* [[1885年]]) * [[10月6日]] - [[トッド・ブラウニング]]、映画監督(* [[1880年]]) * [[10月16日]] - [[ガストン・バシュラール]]、思想家(* [[1884年]]) * 10月16日 - [[谷正之]]、外交官・政治家(* [[1889年]]) * [[10月17日]] - [[ナタリア・ゴンチャロワ (画家)|ナタリア・ゴンチャロワ]]、[[美術家]]・[[デザイナー]](* [[1881年]]) * 10月17日 - [[オラフ・ヘンリクセン]]、メジャーリーガー(* [[1888年]]) * [[10月18日]] - [[松野鶴平]]、政治家(* [[1883年]]) * [[10月21日]] - [[小倉金之助]]、数学者・[[数学史家]]・随筆家 (* [[1885年]]) * [[10月22日]] - [[サムイル・フェインベルク]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](* [[1890年]]) * [[10月27日]] - [[エンリコ・マッテイ]]、[[実業家]]・[[政治家]](* [[1906年]]) * [[10月28日]] - [[正宗白鳥]]、小説家(* [[1879年]]) === 11月 === * [[11月2日]] - [[細井魚袋]]、歌人(* [[1889年]]) * [[11月7日]] - [[エレノア・ルーズベルト]]、[[フランクリン・ルーズベルト|F・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]夫人・[[国際連合|国連]]アメリカ代表・婦人運動家(* 1884年) * 11月7日 - [[長崎惣之助]]、鉄道[[官僚]]・第3代[[日本国有鉄道|国鉄]]総裁(* [[1896年]]) * [[11月16日]] - [[瀧川幸辰]]、[[法学者]]・[[京都大学]]総長(* [[1891年]]) * [[11月18日]] - [[ニールス・ボーア]]、物理学者(* [[1885年]]) * [[11月21日]] - [[橋本龍伍]]、日本の[[文部大臣]]・[[厚生省|厚生大臣]](* [[1906年]]) * [[11月22日]] - [[ルネ・コティ]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](* [[1882年]]) * [[11月23日]] - [[名取洋之助]]、[[写真家]]・[[編集者]](* [[1910年]]) * [[11月28日]] - [[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]、[[オランダ|オランダ女王]](* [[1880年]]) * [[11月30日]] - [[マックス・ファスマー]]、[[言語学者]](* [[1886年]]) === 12月 === * [[12月2日]] - [[細川嘉六]]、[[ジャーナリスト]]・政治家(* [[1888年]]) * [[12月7日]] - [[キルステン・フラグスタート]]、[[ソプラノ]][[歌手]](* [[1895年]]) * [[12月15日]] - [[チャールズ・ロートン]]、俳優(* [[1899年]]) * 12月15日 - [[アディラ・ファキーリ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1889年]]) * [[12月17日]] - [[トーマス・ミッチェル]]、俳優(* [[1892年]]) * [[12月19日]] - [[安倍季雄]]、童話作家(* [[1880年]]) * [[12月20日]] - [[藤森秀夫]]、ドイツ文学者・詩人・童謡作家(* [[1894年]]) * [[12月22日]] - [[国木田治子]]、小説家・[[国木田独歩]]の妻(* [[1879年]]) * [[12月24日]] - [[ヴィルヘルム・アッカーマン]]、[[数学者]](* [[1896年]]) * [[12月29日]] - [[ハンス・ロスバウト]]、指揮者(* [[1895年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[レフ・ランダウ]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[マックス・ペルーツ]]、[[ジョン・ケンドリュー]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[モーリス・ウィルキンス]]、[[ジェームズ・ワトソン]]、[[フランシス・クリック]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ジョン・スタインベック]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ライナス・ポーリング]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1962|date=2011年7月}} * [[2月17日]] - 西ドイツにて[[連邦公文書館]]に保管されていた[[1945年]]の「〈フッケバイン〉作戦」に関連する資料が、所属不明の[[アメリカ空軍|合衆国空軍]]将校の利用と同時に行方不明となる。(小説『[[鏖殺の凶鳥]]』)<ref group="注釈">文庫化時に『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』に改題。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 佐藤大輔|authorlink=佐藤大輔 |title = 凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令 |publisher = [[角川書店]] |year = 2003 |pages = 14,337-339 |isbn = 978-4-04-373201-2}}</ref> * [[4月23日]] - ファブ・フォーのファースト[[アルバム]]『ザ・ファブ・フォー』(THE FAB4)発売。同作は日本のアルバム史上初の[[ミリオンセラー]]を記録する。(漫画『[[僕はビートルズ]]』)<ref>{{Cite book|和書|author=藤井哲夫|author2=かわぐちかいじ|authorlink2=かわぐちかいじ|title=僕はビートルズ|volume=第7巻|publisher=[[講談社]]|series=[[モーニング (漫画雑誌)#モーニングKC|モーニングKC]]|year=2011|pages=67-68|isbn=978-4-06-387058-9}}</ref> * [[5月14日]] - ファブ・フォー、[[後楽園球場]]で屋外コンサートを行う。世界初の野球場でのコンサートとなる。(漫画『僕はビートルズ』) <ref>{{Cite book|和書|author=藤井哲夫|author2=かわぐちかいじ|title=僕はビートルズ|volume=第8巻|publisher=講談社|series=モーニングKC|year=2011|page=42|isbn=978-4-06-387079-4}}</ref> * [[5月22日]] - [[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]]共同で極秘裏に打ち上げられた[[火星探査機|無人宇宙探測機]]が[[火星]]に着陸。火星に空気が存在することを確認し、着陸地点で生物と思しきものを発見する。([[モキュメンタリー]]番組『[[第三の選択|第3の選択]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=レスリー・ワトキンズ|authorlink1=レスリー・ワトキンズ|author2=デイビッド・アンブローズ|authorlink2=デイビッド・アンブローズ|author3=クリストファー・マイルズ|authorlink3=クリストファー・マイルズ |title = 米ソ宇宙開発の陰謀 第3の選択 |publisher = [[たま出版]] |year = 1981 |pages = 313-316,341,342 |isbn = 978-4-88481-068-9}}</ref> * [[8月7日]] - [[野比のび太]]が誕生。(漫画・アニメ『[[ドラえもん]]』、詳細は[[野比のび太#出典|こちら]]を参照) * [[9月5日]] - 「MM事件」発生。午前7時頃、[[マリリン・モンロー]]の熱狂的ファンである田中和道が「黄色いアサガオ」の種の幻覚作用により錯乱状態に陥り、目黒区の住宅街にて日本刀で通行人を斬りつけ、死傷者を出した後に自殺する。(小説『[[夢幻花 (東野圭吾)|夢幻花]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 東野圭吾|authorlink=東野圭吾 |title = 夢幻花 |publisher = [[PHP研究所]] |year = 2013 |pages = 291-296,341-347 |isbn = 978-4-569-81154-3}}</ref> * [[9月25日]] - [[アンチモン化インジウム]]を用いた[[核磁気共鳴]]実験を行っていた[[カリフォルニア大学]][[カリフォルニア大学サンディエゴ校|ラホイヤ分校]]のゴードン・バーンスタイン助教授らが、実験に雑音として混入する発信源不明のパルスが、[[モールス符号]]による単語として解読できることを発見する。(小説『{{仮リンク|タイムスケープ|en|Timescape}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレゴリイ・ベンフォード|authorlink=グレゴリイ・ベンフォード |title = タイムスケープ〔上〕 |publisher = [[早川書房]] |year = 1988 |pages = 12,42-52,83-94 |isbn = 978-4-15-010773-4}}</ref> <!--* 1962年の夏の日の夕刻から翌朝までがその年のヒット曲とともに描かれている。(映画『[[アメリカン・グラフィティ]]』)--> * 1名の宇宙飛行士を乗せた有人ロケット「オーロラ・オーストリス号」が[[オーストラリア]]から打ち上げられ、[[弾道飛行]]による史上初の有人宇宙飛行に成功する。(小説『[[宇宙への序曲]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 宇宙への序曲 |publisher = 早川書房 |year = 1992 |page = 53 |isbn = 978-4-15-010965-3}}</ref> *[[元旦]]に[[ジェームズ・ボンド]]はトレーシーと[[結婚]]するが彼女はその日のうちに[[エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド|ブロフェルド]]に殺され<ref>詳細は前作『[[女王陛下の007#出版|女王陛下の007号]]』第26章から第27章。</ref>、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]におちいってしまう。[[秋]]に[[M (架空の人物)|M]]はボンドを[[日本]]に派遣しタイガー田中との[[暗号]]解読器マジック44の貸出し交渉にあたらせる。(小説『[[007は二度死ぬ#出版|007号は二度死ぬ]]』) * [[キングコング]]と[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が日本に上陸。(映画『[[キングコング対ゴジラ]]』) * [[ドイツ]]のブルクヴォルフ城に野心を持った科学者、通称「暗黒科学者」が集結し始める。日本の科学者・本郷博士は調査を開始。(特撮テレビ番組『[[大戦隊ゴーグルファイブ]]』) * 星川博士夫妻、宇宙の星々が銀帝軍ゾーンに荒されている事を知り、ゾーンの被害に遭った星を再生すべく、地球を旅立つ。(特撮テレビ番組『[[地球戦隊ファイブマン]]』) * 時空間から[[ダーレク]]が1体零れ落ち、[[アセンション島]]に墜落する。三日三晩燃え、その間叫び続ける。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-05-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第12巻) 安保と高度成長―昭和35年〜38年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194362-6 |ref = 昭和二万日12 }} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1962}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176299.pdf 1962(昭和37)年]「豊かさ」に関する意識の変容(3)冨貴島明、城西大学、2005-06, p98 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1962ねん}} [[Category:1962年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1962%E5%B9%B4
1,933
1961年
1961年(1961 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和36年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、この年の年号廃止の法令を制定に伴い1962年1月1日より廃止。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1961年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和36年。
{{年代ナビ|1961}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1961 }} {{year-definition|1961}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1961年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[辛丑]](かのと うし) * [[日本]](月日は一致) ** [[昭和]]36年 ** [[皇紀]]2621年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]50年 * [[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4294年 ** [[主体暦|主体]]50年 * [[仏滅紀元]]:2503年 - 2504年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1380年7月13日 - 1381年7月23日 * [[ユダヤ暦]]:5721年4月13日 - 5722年4月24日 * [[修正ユリウス日]](MJD):37300 - 37664 * [[リリウス日]](LD):138141 - 138505 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、この年の年号廃止の法令を制定に伴い[[1962年]][[1月1日]]より廃止。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1961}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[松尾鉱山]]小学校の新年祝賀会で映画上映会に向かう生徒百数十名が階段で倒れ、児童10名が圧死した。 * [[1月15日]] - [[横浜マリンタワー]]開業<ref name="昭和二万日12、p.115">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.115]]</ref>。 * [[1月17日]] ** [[ドワイト・D・アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領]]が退任演説の中で[[軍産複合体]]が国家におよぼす影響力について警告。 ** [[カタンガ共和国|カタンガ国]]内に連行された[[コンゴ民主共和国|コンゴ共和国]](コンゴ・レオポルドヴィル)の前首相[[パトリス・ルムンバ]]が処刑される<ref>{{Cite web|author=Karen Hedwig Backman|url=http://www.dailykos.com/story/2014/01/14/1269634/-Remembering-Patrice-Lumumba-17-January-1961#|title=Remembering Patrice Lumumba, 17 January 1961|publisher=Dailykos.com|language=英語|date=2014-01-14|accessdate=2014-09-18}}</ref>。 * [[1月20日]] - [[ジョン・F・ケネディ]]がアメリカ合衆国第35代大統領に就任。 * [[1月22日]] - [[サンタマリア号乗っ取り事件]]<ref>[https://web.archive.org/web/19980209183451/http://www.oceancruisenews.com/bm4.htm Portugal's Santa Maria]  2022年12月28日閲覧</ref>。 * [[1月24日]] - [[1961年ゴールズボロ空軍機事故]]。 * [[1月30日]] - 「[[ゲゲゲの鬼太郎]]」で知られる漫画家の[[水木しげる]](本名・武良茂)と[[武良布枝|飯塚布枝]]が結婚。 === 2月 === * [[2月1日]] - [[嶋中事件]]発生(1人死亡、1人重傷)<ref name="昭和二万日12、p.118">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.118]]</ref>。[[1960年|前年]][[10月12日]]の[[浅沼稲次郎暗殺事件]]に続き17歳[[右翼]]少年が引き起こしたこの凶行は、日本中に再び衝撃を与えた。 * [[2月14日]] - [[日活]]の人気スター、[[赤木圭一郎]]が[[東京都]][[調布市]]の[[日活撮影所]]内で[[ゴーカート]]を運転中に事故を起こし、意識不明の重体に<ref name="昭和二万日12、p.120">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.120]]</ref>。1週間後の[[2月21日]]死亡した([[享年]]21)。 * [[2月15日]] - [[サベナ航空548便墜落事故]]発生。 * [[2月27日]] - [[愛知県]][[名古屋市]]の[[劇場|大衆劇場]]「[[御園座]]」が[[火災]]により全焼。しかし迅速な避難活動により1人の犠牲者も出さなかった(その後、[[1963年]][[3月]]に「御園座会館」<ref group="注釈">現在は「御園座会館」も取り壊され、2017年に「[[グランドメゾン御園座タワー]]」としてリニューアルしている。</ref>として再建される)。 === 3月 === * [[3月3日]] - 前月、前[[モロッコ]]国王の[[ムハンマド5世 (モロッコ王)|ムハンマド5世]]の崩御を受けて、ムハンマド6世の長男[[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]が王位を継承し、[[モロッコ国王]]に即位。 * [[3月15日]] - [[栃木県]][[日光市]]の[[日光東照宮]]薬師堂が火災焼失<ref name="昭和二万日12、p.128-129">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.128-129]]</ref>。 * [[3月28日]] ** [[東京都清掃局]]が路上の[[ごみ箱]]を撤去、家庭の[[廃棄物]]を曜日毎に定期的に回収することを決定。 ** [[三重県]][[名張市]]で[[名張毒ぶどう酒事件]]発生、5人が死亡<ref name="昭和二万日12、p.130">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.130]]</ref>。6日後の[[4月3日]]に[[容疑者]]の男を[[逮捕]]。 === 4月 === * [[4月1日]] - [[NHK富山放送局|NHK富山教育]]テレビジョン開局。 * [[4月3日]] - [[NHK総合テレビジョン|NHK]][[連続テレビ小説|朝の連続テレビ小説]]放送開始。第1作は[[獅子文六]]原作の『[[娘と私]]』<ref name="昭和二万日12、p.130" />。なお、[[みんなのうた]]も、同日から放送開始。 * [[4月4日]] - [[プロ野球]]が[[社会人野球]]との「3月からの半年間は社会人選手の獲得はできない」協定を破棄。プロ・アマが絶縁状態となる。 * [[4月5日]] - [[第33回選抜高等学校野球大会|第33回選抜高校野球大会]]は[[神奈川県|神奈川]]・[[法政大学第二中学校・高等学校|法政大学第二高校]]がエース[[柴田勲]]の投打にわたる活躍でセンバツ初優勝。[[第42回全国高等学校野球選手権大会|前年夏]]に続いての優勝で、[[学制改革]]後初の夏春連覇を達成。 * [[4月11日]] - [[アドルフ・アイヒマン#アイヒマン裁判|アイヒマン裁判]]。 * [[4月12日]] - 人類初の有人衛星、[[ソビエト連邦]]宇宙船[[ボストーク]]1号が、[[ユーリイ・ガガーリン]]飛行士を乗せ地球一周に成功。 * [[4月15日]] - [[ピッグス湾事件]]。 * [[4月25日]] - [[大阪環状線]]全通<ref name="昭和二万日12、p.134">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.134]]</ref>。 * [[4月29日]] - [[3000人の吹奏楽]]の第1回大会がこの日、行われた。当時の大会名は1000人の合同演奏であった。 === 5月 === * [[5月5日]] - [[アラン・シェパード]]を乗せた宇宙船[[マーキュリー・レッドストーン3号]]が打ち上げられる([[アメリカ合衆国]]初の有人宇宙飛行)。 * [[5月16日]] - [[大韓民国]]で、[[朴正煕]]ら[[軍事革命委員会]]によるクーデタが発生([[5・16軍事クーデター]])。 * [[5月31日]] - 南アフリカ連邦が[[イギリス連邦]]を脱退し、[[南アフリカ共和国]]となる。 === 6月 === * [[6月1日]] - [[名鉄7000系電車]]営業運転開始。 * [[6月3日]] - [[6月4日|4日]] - [[ウィーン会談]]:アメリカ合衆国のケネディ大統領とソビエト連邦の[[ニキータ・フルシチョフ]]首相が[[ウィーン]]で会談。 * [[6月6日]] - [[モスクワ地下鉄]][[環状線 (モスクワ地下鉄)|環状線]]のセルプホフスカヤ駅が[[ドブルイニンスカヤ駅]]に改名される。 * [[6月12日]] - [[農業基本法]]公布<ref name="昭和二万日12、p.140">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.140]]</ref>。 * [[6月29日]] ** [[甲子園阪神パーク]]の[[レオポン]]に3頭の兄弟が誕生。「ジョニー」「チェリー」「ディジー」と名づけられた。 ** [[長野県]][[大鹿村]]の[[大西公園|大西山]]で大規模な山崩れが発生、42名が死亡。この前後、長野県を中心に集中豪雨による土砂災害が多く発生した([[三六災害]])。 === 7月 === * [[7月4日]] - [[ソ連]]の[[ホテル型原子力潜水艦|ホテル型]]原子力潜水艦[[K-19 (原子力潜水艦)|K-19]]が、北海[[グリーンランド]]付近で原子炉冷却材システムにトラブルを起こし冷却水漏れ事故を起こした。 === 8月 === * [[8月1日]] ** [[チェリオコーポレーション]]設立。 ** [[第1次西成暴動]]<ref name="昭和二万日12、p.152-153">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.152-153]]</ref>。 * [[8月8日]] - [[仙台高等裁判所|仙台高裁]]、[[松川事件]]の差し戻し審で全員に[[無罪]]判決<ref name="昭和二万日12、p.152">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.152]]</ref>。 * [[8月13日]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が東西[[ベルリン]]の境界を封鎖。後に境界線上に壁([[ベルリンの壁]])を建設。 * [[8月15日]] - [[京葉道路]]が全国初の[[自動車専用道路]]に指定される([[名神高速道路]]の初開通より2年前)<ref name="昭和二万日12、p.154">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.154]]</ref>。 * [[8月20日]] ** [[多摩川]]の[[河原]]にて[[アキシマクジラ]]の化石が発見される。 ** [[第43回全国高等学校野球選手権大会|第43回全国高校野球選手権大会]]は[[大阪府|大阪]]・[[大阪体育大学浪商中学校・高等学校|浪商高校]]が2年生エース[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]の活躍で15年ぶり2度目の優勝。前日の準決勝で法政二高の史上初となる甲子園3連覇を阻止。 === 9月 === * [[9月1日]]( - 6日)- [[非同盟運動|第一回非同盟諸国首脳会議]]([[ベオグラード]])。 * [[9月3日]] - [[俳優]]・[[三船敏郎]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]で最優秀男優賞受賞<ref name="昭和二万日12、p.156">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.156]]</ref>。 * [[9月7日]] - [[後楽園球場]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]-[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦がプロ野球初の2日がかりの試合となる。 * [[9月14日]] - [[1961年の西ドイツ空軍F-84機による領空侵犯事件]]おこる。 * [[9月16日]] - [[第2室戸台風|台風18号]]が[[室戸岬]]に[[台風の上陸|上陸]]し、[[大阪湾]]岸に大きな被害を出した<ref name="昭和二万日12、p.158-159">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.158-159]]</ref>。 * [[9月18日]] - コンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)からの分離独立を宣言したカタンガと[[国際連合コンゴ活動|コンゴ国連軍]]の間の停戦交渉を試みた[[国際連合事務総長|国連事務総長]][[ダグ・ハマーショルド]]が飛行機墜落事故で死亡<ref>{{Cite book|author=Jane Boulden|title=Peace Enforcement: The United Nations Experience in Congo, Somalia, and Bosnia(2001年)|publisher=Praeger Pub|page=36|language=英語|isbn=978-0275969066}}</ref>。 * [[9月20日]] - [[武州鉄道汚職事件|武州鉄道建設計画をめぐる汚職事件]]で[[楢橋渡]]元運輸相夫妻を逮捕<ref name="昭和二万日12、p.158">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.158]]</ref>。 * [[9月25日]] - [[国会 (日本)|第39臨時国会]]召集([[10月31日]]閉会)。 * [[9月30日]] ** [[愛知用水]]完成<ref name="昭和二万日12、p.160">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.160]]</ref>。 ** [[欧州経済協力機構|OEEC]]-欧州経済協力機構-が、[[経済協力開発機構|OECD]]-経済協力開発機構-に改組。 === 10月 === * [[10月1日]] - 旧[[秋田空港]]、第三種空港として認可・開港。[[日本国有鉄道]]で大規模[[ダイヤ改正]](「[[サンロクトオ]]」)。 * [[10月2日]] - 当時共に[[大関]]の[[柏戸剛|柏戸]](第47代)、[[大鵬幸喜|大鵬]](第48代)が同時に[[横綱]]昇進('''柏鵬時代'''の幕開け)<ref name="昭和二万日12、p.160" />。 * [[10月8日]] - [[第16回国民体育大会]]秋季大会開幕<ref name="昭和二万日12、p.160-161">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.160-161]]</ref>。 * [[10月20日]] - [[森光子]]主演による[[舞台]]「[[放浪記]]」([[林芙美子]]原作・[[菊田一夫]]演出)が東京・[[芸術座]]で初演される<ref name="昭和二万日12、p.165">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.165]]</ref>。 * [[10月26日]] - [[文部省]]が[[中学校]]2・3年生の生徒を対象とした全国一斉学力テストを実施<ref name="昭和二万日12、p.166">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.166]]</ref>。 * [[10月30日]] - 史上最大規模の[[水素爆弾|水爆]][[ツァーリ・ボンバ]]の爆発実験。 * [[10月31日]] - 第二次[[スターリン批判]]を受け[[ヨシフ・スターリン]]の遺体が[[レーニン廟]]から撤去される。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[1961年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で巨人が[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]を下し、6年ぶりに日本一。[[1959年の日本シリーズ|2年前]](悪夢の4連敗)の雪辱を果たす。 * [[11月11日]] - [[アンネ]][[ナプキン]]発売。 * [[11月17日]] - [[ニューギニア島|ニューギニア]]・[[イリアンジャヤ]]の部族を研究していた[[民族学|民族学者]]の[[マイケル・ロックフェラー]]([[ネルソン・ロックフェラー]]の息子)が行方不明となる。 * [[11月27日]] - [[公明党]]の前身「公明政治連盟」発足 === 12月 === * [[12月7日]] - [[チ-37号事件]]発生<ref name="昭和二万日12、p.176">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.176]]</ref>。 * [[12月9日]] - [[国会 (日本)|第40国会]]召集([[1962年]][[5月7日]]閉会)。 * [[12月10日]] - [[伊豆急行線]]開業。 * [[12月11日]] - [[大阪市営地下鉄中央線]]の[[大阪港駅]] - [[弁天町駅]]間が開業。 * [[12月12日]] - [[三無事件]]<ref name="昭和二万日12、p.176-177">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.176-177]]</ref>。 == スポーツ == {{See also|1961年のスポーツ}} * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[柏戸剛]] ** 春場所 [[朝潮太郎 (3代)|朝潮太郎]] ** 夏場所 [[佐田の山晋松]] ** 名古屋場所 [[大鵬幸喜]] ** 秋場所 大鵬幸喜 ** 九州場所 大鵬幸喜 * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] ** [[1961年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ(4勝2敗) == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1961年の音楽}} *[[デル・シャノン]]「悲しき街角」 *[[レイ・チャールズ]]「旅立てジャック」」 *[[マーセルズ]]「ブルームーン」 *[[坂本九]]「[[上を向いて歩こう]]」 *[[仲宗根美樹]]「川は流れる」 *[[西田佐知子]]「[[コーヒールンバ|コーヒー・ルンバ]]」 *[[植木等]]「[[スーダラ節]]」 *[[渡辺マリ]]「[[東京ドドンパ娘]]」 *[[アイ・ジョージ]]「[[硝子のジョニー]]」 === 映画 === {{See also|1961年の映画}} * [[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]](監督:[[ロバート・ワイズ]]、[[ジェローム・ロビンズ]]、音楽:[[レナード・バーンスタイン]]) * [[怪獣ゴルゴ]] * [[かくも長き不在]](監督:[[アンリ・コルピ]]) * [[巨大猿怪獣コンガ]] * [[101匹わんちゃん]] * [[ビリディアナ]](監督:[[ルイス・ブニュエル]]) * [[蜜の味 (映画)|蜜の味]](監督:[[トニー・リチャードソン]]) * [[世界大戦争]] * [[豚と軍艦]](監督:[[今村昌平]]) * [[宮本武蔵 (1961年の映画)|宮本武蔵]](監督:[[内田吐夢]]) * [[用心棒]](監督:[[黒澤明]]) * [[モスラ]] === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第45回(1961年上半期) - 該当作品なし ** 第46回(1961年下半期) - [[宇能鴻一郎]]『鯨神』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第45回(1961年上半期) - [[水上勉]]『雁の寺』 ** 第46回(1961年下半期) - [[伊藤桂一]]『螢の川』 * [[江戸川乱歩賞]] ** 第7回 - [[陳舜臣]]『枯草の根』 * [[ベストセラー]] ** [[松本清張]]『[[砂の器]]』 === テレビ === {{See also|1961年のテレビ (日本)}} * [[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]が始まる。(第1回「娘と私」) * [[スチャラカ社員]] * [[夢であいましょう]] * [[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]] * [[検事 (テレビドラマ)|検事]] * [[シャボン玉ホリデー]] * [[ズバリ!当てましょう|ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう]] * [[特別機動捜査隊]] * [[七人の刑事]] * [[教授と次男坊]] * [[当てましょう買いましょう]] === 広告宣伝 === * コマーシャル {| class="wikitable |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |[[トリスを飲んでHawaiiへ行こう!]]||[[トリスウイスキー]]||[[サントリー|寿屋]]||アンクル・トリス(画:[[柳原良平]])||- |- |♪伊東に行くならハトヤ||-||[[ハトヤホテル]]||-||[[いずみたく]] |- |♪日本盛はよいお酒||清酒日本盛||[[日本盛|西宮酒造]]||-||[[五木寛之|のぶひろし]](詞)・[[ペギー葉山]](歌) |- |ワンサカ娘||-||[[レナウン (企業)|レナウン]]||-||[[小林亜星]](曲)・[[弘田三枝子]](歌) |- |} == 誕生 == {{see also|Category:1961年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[伴野豊]]、政治家 * 1月1日 - [[藤岡健一]]、調教師 * 1月1日 - [[星里もちる]]、[[漫画家]] * 1月1日 - [[高野浩幸]]、[[俳優]] * 1月1日 - [[オレグ・リャボフ]]、外交官・ロシア鉄道日本総代表 * [[1月2日]] - [[斉藤仁]]、元[[柔道]]選手(+ [[2015年]]) * [[1月3日]] - [[柳葉敏郎]]、俳優 * [[1月5日]] - [[吉竹春樹]]、元[[プロ野球選手]] * 1月5日 - [[ヘンリー・コトー]]、元プロ野球選手 * 1月5日 - [[沖泰司]]、元プロ野球選手 * [[1月8日]] - [[きくち正太]]、漫画家 * 1月8日 - [[佐藤政道]]、男性俳優 ナレーター * [[1月10日]] - [[西山浩司]]、[[タレント]] * 1月10日 - [[石嶺和彦]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[大畑徹]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[近藤満]]、元プロ野球選手 * 1月10日 - [[ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1月13日]] - [[岡崎聡子]]、元[[体操選手]]、元タレント * [[1月17日]] - [[泰葉]]、[[シンガーソングライター]]・タレント * [[1月18日]] - [[栗岡英智]]、元プロ野球選手 * 1月18日 - [[小田真也]]、元プロ野球選手 * 1月18日 - [[アレクサンドル・モロズ]]、[[チェス]]選手(+ [[2009年]]) * 1月18日 - [[ブリジット・オコナー]]、[[劇作家]]・[[脚本家]](+ [[2010年]]) * [[1月20日]] - [[上島竜兵]]、[[お笑いタレント]](+ [[2022年]]) * [[1月22日]] - [[中原茂]]、声優 * [[1月22日]] - [[山田雅人]]、タレント * [[1月23日]] - [[広瀬哲朗]]、元プロ野球選手 * 1月23日 - [[橘慶一郎]]、実業家 * [[1月24日]] - [[ナスターシャ・キンスキー]]、[[俳優|女優]] * [[1月26日]] - [[ウェイン・グレツキー]]、元[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]](北米プロホッケーリーグ)選手 * [[1月27日]] - [[島根恵]]、ヴァイオリニスト・[[作曲家]] * 1月27日 - [[江森浩子]]、[[声優]] * [[1月31日]] - [[石野真子]]、女優 * 1月31日 - [[河野誉彦]]、元プロ野球選手 === 2月 === * [[2月1日]] - [[黒田アーサー]]、俳優 * 2月1日 - [[木戸克彦]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月2日]] - [[大野雄次]]、元プロ野球選手 * [[2月4日]] - [[井上荒野]]、[[小説家]] * [[2月7日]] - [[山本亨 (俳優)|山本亨]]、俳優 * [[2月9日]] - [[楠瀬誠志郎]]、[[シンガーソングライター]] * [[2月10日]] - [[池田成]]、アニメーション監督 * [[2月12日]] - [[花山佳子]]、女優 * [[2月13日]] - [[青島利幸]]、[[放送作家]]・[[脚本家]]・[[作詞家]](+ [[2017年]]<ref name="sanspo20171109">{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20171109-HS73F52OFBP57EWU2V3TD3KZI4/|title=青島幸男さんの長男、利幸氏が肺がんのため死去 テレビ番組の構成作家|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|publisher=[[産経新聞社]]|accessdate=2020年10月30日|date=2017-11-09}}</ref>) * [[2月15日]] - [[松浦英信]]、元プロ野球選手 * [[2月17日]] - [[服部真湖]]、[[タレント]] * 2月17日 - [[オリヴィエ・シャルリエ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[2月18日]] - [[影山ヒロノブ]]、[[アニメソング]][[歌手]]、ミュージシャン、[[レイジー]] * 2月18日 - [[宮川彬良]]、作曲家 * [[2月22日]] - [[高崎晃]]、ギタリスト、ミュージシャン、レイジー・[[LOUDNESS]] * [[2月26日]] - [[増田隆宣]]、[[キーボーディスト]]、[[B'z]]のサポートメンバー * [[2月27日]] - [[徳永英明]]、歌手 * 2月27日 - [[遥洋子]]、タレント・[[作家]]・[[フェミニスト]] * 2月27日 - [[ジェームズ・ウォージー]]、元バスケットボール選手 * [[2月28日]] - [[田原俊彦]]、歌手、俳優 * [[2月28日]] - [[レイ・ドーン・チョン]]、カナダの女優 * 2月28日 - [[マーク・レイサム]]、[[政治家]] * 2月28日 - [[豊原豊]]、プロ野球選手 === 3月 === * [[3月1日]] - [[隆三杉太一]]、元[[大相撲]][[力士]]・[[小結]]、現・千賀ノ浦親方 * [[3月3日]] - [[上田現]]、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー(+ [[2008年]]) * [[3月4日]] - [[浅野温子]]、女優 * 3月4日 - [[金子柱憲]]、[[プロゴルファー]] * [[3月5日]] - 永塚るり子、モデル * [[3月7日]] - [[高市早苗]]、政治家 * 3月7日 - [[北野明仁]]、[[プロ野球選手]] * [[3月8日]] - [[江川達也]]、漫画家 * [[3月10日]] - [[ショッカーO野]]、声優、イベントプロデューサー * 3月10日 - [[マイク・バークベック]]、元プロ野球選手 * 3月10日 - [[中島千里]]、声優 * [[3月11日]] - [[大久保勉]]、政治家 * [[3月12日]] - [[村井一男]]、元プロ野球選手 * 3月12日 - [[カネケヤキ]]([[競走馬]])、[[二冠馬]](+ [[1995年]]) サラブレッド牝馬の日本長寿記録を保持 * 3月12日 - [[太田敏之]]、プロ野球選手 * [[3月13日]] - [[島田雅彦]]、[[小説家]] * [[3月14日]] - [[斉藤とも子]]、女優 * [[3月15日]] - [[岡本哲司]]、元プロ野球選手 * 3月15日 - [[ファビオ・ビオンディ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]] * 3月15日 - [[サビーネ・ベース]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[3月18日]] - [[高本昇一]]、プロ野球選手 * [[3月19日]] - [[いとうせいこう]]、小説家 * [[3月20日]] - [[矢作芳人]]、[[調教師]] * [[3月21日]] - [[森下知幸]]、[[高校野球]]指導者 * 3月21日 - [[ローター・マテウス]]、元[[サッカー選手]] * 3月21日 - [[城福浩]]、サッカー監督 * [[3月23日]] - [[出光ケイ]]、[[スポーツキャスター]] * [[3月27日]] - [[松本孝弘]]、[[ミュージシャン]] * 3月27日 - [[津久井教生]]、声優 * [[3月28日]] - [[おかけんた]]、[[漫才師]] * 3月28日 - [[グレン・デービス (野球)|グレン・デービス]]、元プロ野球選手 * [[3月29日]] - [[鮎川麻弥]]、[[シンガーソングライター]] * [[3月30日]] - [[マイク・サックウェル]]、元F1ドライバー * [[3月31日]] - [[戸川純]]、女優 === 4月 === * [[4月1日]] - [[高橋克実]]、俳優・タレント * 4月1日 - [[羽場裕一]]、俳優 * [[4月2日]] - [[シンザン]]([[競走馬]])、[[三冠 (競馬)|三冠]]馬(+[[1996年]]) サラブレッドの日本長寿記録を保持 * [[4月3日]] - [[エディ・マーフィ]]、俳優 * 4月3日 - [[ブラボー中谷]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * 4月3日 - [[小沢誠]]、元[[プロ野球選手]] * 4月3日 - [[アンジェロ・ダリーゴ]]、[[飛行家]]・[[冒険家]](+ [[2006年]]) * [[4月5日]] - [[藤村雅人]]、元プロ野球選手 * [[4月6日]] - [[石川晃]]、元プロ野球選手 * 4月6日 - [[鈴木ケイザブロー]]、[[ラジオパーソナリティ]] * [[4月7日]] - [[森脇稔]]、高校野球指導者 * [[4月11日]] - [[角田信朗]]、[[格闘家]] * 4月11日 - [[ときた洸一]]、[[漫画家]] * [[4月12日]] - [[長沼毅]]、[[科学者]] * [[4月13日]] - [[牛島和彦]]、元プロ野球選手 * [[4月15日]] - [[キャロル・W・グライダー]]、[[分子生物学者]] * [[4月16日]] - [[藤本貴久]]、元プロ野球選手 * [[4月17日]] - [[ブーマー・アサイアソン]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * [[4月18日]] - [[ゴージャス松野]]、タレント・[[プロレスラー]] * 4月18日 - [[フランコ・チェザリーニ]]、[[作曲家]]・[[指揮者]] * [[4月20日]] - [[阿部慶二]]、元プロ野球選手 * 4月20日 - [[ドン・マッティングリー]]、[[メジャーリーガー]] * [[4月21日]] - [[今井雅之]]、俳優(+ [[2015年]]) * 4月21日 - [[祐子と弥生|千葉弥生]]、[[歌手]]([[祐子と弥生]]) * 4月21日 - [[祐子と弥生|千葉祐子]]、歌手(祐子と弥生) * [[4月23日]] - [[北安博]]、元プロ野球選手 * 4月23日 - [[ピエルルイジ・マルティニ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 4月23日- [[北原遥子]]、女優(+ [[1985年]]) * [[4月24日]] - [[戸塚哲也]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])、サッカー指導者 * [[4月25日]] - [[長谷川裕一]]、漫画家 * [[4月26日]] - [[栗山英樹]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]] * 4月26日 - [[島本和彦]]、漫画家 * 4月26日 - [[仲野和男]]、元プロ野球選手 * 4月26日 - [[山田修 (政治家)|山田修]]、政治家 * [[4月29日]] - [[田中豊雪]]、[[ベーシスト]] * 4月29日 - [[立木文彦]]、[[声優]] * [[4月30日]] - [[アイザイア・トーマス]]、[[NBA]]選手 === 5月 === * [[5月1日]] - [[笹木綾子]]、[[声優]] * [[5月2日]] - [[山崎章弘]]、[[プロ野球選手]] * [[5月4日]] - [[水谷イズル]]、[[アーティスト]] * [[5月5日]] - [[馳浩]]、元プロレスラー、政治家 * 5月5日 - [[渋谷哲平]]、俳優・歌手 * 5月5日 - [[杉永政信]]、元プロ野球選手、審判 * 5月5日 - [[春川正明]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]解説委員 * [[5月6日]] - [[ジョージ・クルーニー]]、俳優 * [[5月8日]] - [[田上明]]、元十両玉麒麟、元プロレスラー * [[5月9日]] - [[T.AKIRA]]([[フィンガー5]])、歌手 * 5月9日 - [[鶴田謙二]]、[[漫画家]] * [[5月10日]] - [[大石圭]]、[[作家]] * 5月10日 - [[藤あや子]]、[[演歌歌手]] * 5月10日 - [[白坂契]]、トレーナー * [[5月12日]] - [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]、俳優、タレント(+ [[2022年]]) * [[5月13日]] - [[佐渡裕]]、[[指揮者]] * 5月13日 - [[デニス・ロッドマン]]、NBA選手 * [[5月17日]] - [[エンヤ]]、シンガーソングライター * [[5月18日]] - [[新田万紀子]]、声優(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書 |date=2018-02-09 |url=https://hochi.news/articles/20180209-OHT1T50133.html |title=声優・新田万紀子さんが大動脈解離で急死 「のだめカンタービレ」「007」など担当 |work=[[スポーツ報知]] |publisher=[[報知新聞社]] |accessdate=2020-11-07}}</ref>) * [[5月20日]] - [[ラルフ・ブライアント]]、元プロ野球選手 * 5月20日 - [[高野光]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]]) * [[5月21日]] - [[野崎透]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]のスペシャルコンセプター * [[5月24日]] - [[哀川翔]]、俳優 * 5月24日 - [[真保裕一]]、[[小説家]]・[[脚本家]] * [[5月27日]] - [[内田強]]、元プロ野球選手 * 5月27日 - [[岡島厚]]、元プロ野球選手 * [[5月28日]] - [[辛島美登里]]、シンガーソングライター * [[5月30日]] - [[キティ・カルザース]]、[[フィギュアスケート]]選手 === 6月 === * [[6月1日]] - [[佐藤誠一]]、元[[プロ野球選手]] * 6月1日 - [[エフゲニー・プリゴジン]]、ロシアの民間軍事会社「[[ワグネル・グループ]]」創設者(+ [[2023年]]) * [[6月3日]] - [[黒田知永子]]、ファッションモデル * 6月3日 - [[ホセ・トレンティーノ]]、元プロ野球選手 * [[6月7日]] - [[手塚理美]]、女優 * 6月7日 - [[岡崎郁]]、元プロ野球選手 * 6月7日 - [[白井一幸]]、元プロ野球選手 * [[6月9日]] - [[マイケル・J・フォックス]]、俳優 * 6月9日 - [[アーロン・ソーキン]]、[[劇作家]]・[[脚本家]]・[[テレビプロデューサー]] * [[6月10日]] - [[岡本吉起]]、[[ゲームクリエイター]] * 6月10日 - [[長冨浩志]]、元プロ野球選手 * [[6月11日]] - [[吉田康夫]]、元プロ野球選手 * [[6月12日]] - [[高橋一彦]]、元プロ野球選手 * [[6月13日]] - [[宮脇健]]、俳優 * 6月13日 - [[辻丸耕平]]、[[AV男優]] * [[6月14日]] - [[原秀則]]、漫画家 * [[6月15日]] - [[岩崎良美]]、歌手 * 6月15日 - [[田鎖博美]]、元プロ野球選手 * 6月15日 - [[春やすこ]]、タレント * [[6月16日]] - [[林泰宏]]、プロ野球選手 * [[6月17日]] - [[山寺宏一]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-3481 |title=山寺宏一 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2020-11-03}}</ref>、タレント・声優・俳優 * 6月17日 - [[ミッキー・ブラントリー]]、元プロ野球選手 * [[6月18日]] - [[逆鉾昭廣]]、元大相撲力士・[[関脇]]、14代井筒親方(+ [[2019年]]<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201909170000003.html 初金星に禁断の日本人初ガッツポーズ/井筒親方悼む] 日刊スポーツ 2019年9月17日5時0分(2020年12月25日閲覧)</ref>) * 6月18日 - [[アンドレス・ガララーガ]]、[[メジャーリーガー]] * [[6月19日]] - [[神谷万丈]]、[[国際政治学者]] * [[6月21日]] - [[柳田理科雄]] - [[作家]] [[空想科学読本]]シリーズの著者 * [[6月21日]] - [[ジョン・ムウェテ・ムルアカ]] 元政治家秘書・タレント・空手家(+ [[2023年]]) * [[6月22日]] - [[大坪幸夫]]、元プロ野球選手 * 6月22日 - [[今村豊]]、[[競艇選手]] * [[6月23日]] - [[みのや雅彦]]、[[日本のフォークシンガー|フォークシンガー]] * 6月23日 - [[小松崎善久]]、元プロ野球選手 * [[6月24日]] - [[清水圭]]、タレント * 6月24日 - [[レベッカ・ソルニット]]、女流作家 * 6月24日 - [[井上由美子 (脚本家)|井上由美子]]、[[脚本家]] * [[6月26日]] - [[鍋屋道夫]]、元プロ野球選手 * [[6月27日]] - [[益荒雄広生]]、元[[大相撲]][[力士]]・[[関脇]]、現・阿武松親方 * [[6月28日]] - [[遠藤憲一]]、俳優 * 6月28日 - [[西岡良洋]]、元プロ野球選手 * 6月28日 - [[上野敬三 (野球)|上野敬三]]、プロ野球選手 === 7月 === * [[7月1日]] - [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]、英国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)の妃(+ [[1997年]]) * 7月1日 - [[カール・ルイス]]、[[陸上選手]] * 7月3日 - 鎮西孝彦、経営学評論家、特定社会保険労務士 * [[7月4日]] - [[板沢峰生]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1980年]]) * 7月4日 - [[マーガレット・エドソン]]、[[劇作家]] * [[7月5日]] - [[日渡早紀]]、漫画家 * [[7月6日]] - [[伊藤達也]]、政治家 * [[7月8日]] - [[三谷幸喜]]、[[脚本家]] * [[7月10日]] - [[鴻野淳基]]、元プロ野球選手 * 7月10日 - [[木村竹志]]、元プロ野球選手 * 7月10日 - [[清水美恵]]、歌手 * 7月10日 - [[ジャッキー・チュン]]、香港の俳優・歌手 * [[7月12日]] - [[糟谷敏秀]]、経済産業官僚 * [[7月13日]] - [[大槻東巳]]、[[物理学者]] * [[7月14日]] - [[斉藤慶子]]、女優・タレント * [[7月16日]] - [[高田博久]]、元プロ野球選手 * 7月16日 - [[成田幸洋]]、元プロ野球選手 * [[7月17日]] - [[加藤淳]]、デザイナー * [[7月18日]] - [[松原のぶえ]]、[[演歌歌手]] * 7月18日 - [[アラン・パーデュー]]、元サッカー選手・サッカー指導者 * [[7月19日]] - [[中田秀夫]]、[[映画監督]] * 7月19日 - [[ニール・マッケンジー]]、ライダー * 7月21日 - [[藤田東吾]]、[[イーホームズ]][[代表取締役]][[社長]] * [[7月21日]] - [[安穂野香]]、[[ミュージシャン]] * 7月21日 - [[ポール・デュシュネー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[7月22日]] - [[林眞須美]]、[[死刑囚]] * [[7月25日]] - [[ジャガー横田]]、女子[[プロレスラー]] * 7月25日 - [[山本昭良]]、プロ野球選手 * [[7月27日]] - [[矢田万寿男]]、プロ野球選手 * [[7月28日]] - [[桂銀淑]]、[[演歌歌手]] * [[7月30日]] - [[ローレンス・フィッシュバーン]]、俳優 === 8月 === * [[8月2日]] - [[崔健]]、ミュージシャン * [[8月4日]] - [[バラク・オバマ]]、アメリカ合衆国第44代大統領 * 8月4日 - [[杉原徹]]、ミュージシャン * [[8月5日]] - [[マイケル富岡]]、タレント * 8月5日 - [[藤吉久美子]]、女優・声優・[[ナレーター]] * [[8月8日]] - [[DJ KOO]]、ミュージシャン、タレント * 8月8日 - [[久保田雅人]]、タレント・[[声優]] * [[8月9日]] - ハイヒールリンゴ、[[お笑いタレント]]([[ハイヒール (お笑いコンビ)|ハイヒール]]) * [[8月9日]] - [[三木聡]]、映画監督 * [[8月10日]] - [[梨本謙次郎]]、俳優 * [[8月10日]] - [[ハイバトゥッラー・アクンザダ]]、[[ターリバーン]]の代表者、[[アフガニスタン]]([[アフガニスタン・イスラム首長国]])の[[アミール]](2021-) * [[8月11日]] - [[手塚眞]]、[[映像作家]] * [[8月13日]] - [[近藤芳正]]、俳優 * [[8月14日]] - [[安斎レオ]]、玩具プロヂューサー * 8月14日 - [[都並敏史]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])、サッカー指導者、サッカー解説者 * [[8月16日]] - [[日野善朗]]、元[[プロ野球選手]] * 8月16日 - 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(アイドルグループ)|アイドリング!!!]]38号)、アイドリング!!!14号・[[酒井瞳]]の実母 * 11月20日 - [[ピエール・エルメ]]、[[パティシエ]]・[[ショコラティエ]] * 11月20日 - [[山口英彰]]、[[水産庁]][[長官]] * [[11月21日]] - [[川村万梨阿]]、声優 * [[11月22日]] - [[金敷一美]]、元プロ野球選手 * 11月22日 - [[スティーヴン・ハフ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]]・[[作家]] * [[11月23日]] - [[士郎正宗]]、漫画家 * 11月23日 - [[トマス・ツェートマイアー]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]] * [[11月27日]] - [[金秀吉]]、[[映画監督]]・脚本家 * [[11月28日]] - [[小木茂光]]、俳優 === 12月 === * [[12月4日]] - [[茶風林]]、声優 * 12月4日 - [[茅場孝史]]、[[プロ野球選手]] * [[12月5日]] - [[松井孝夫]]、作曲家 * [[12月6日]] - [[マヌエル・ロイター]]、レーシングドライバー * [[12月9日]] - [[斉藤実 (警察官僚)|斉藤実]]、警察官僚、第96代[[警視総監]] * [[12月11日]] - [[山岡勝]]、元プロ野球選手 * [[12月13日]] - [[合田道人]]、[[作家]]、[[歌手]] * 12月13日 - [[池内ひろ美]]、評論家 * [[12月15日]] - [[青山勝]]、[[俳優]]、[[声優]] * [[12月18日]] - [[ブライアン・オーサー]]、[[フィギュアスケート]]選手、コーチ * 12月18日 - [[塩川鉄也]]、政治家 * 12月18日 - [[伍代夏子]]、[[演歌歌手]] * [[12月19日]] - [[香川伸行]]、元プロ野球選手(+ [[2014年]]<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140927-1373399.html ドカベン香川伸行さん急死 心筋梗塞52歳] 日刊スポーツ 2020年11月28日閲覧</ref>) * 12月19日 - [[レジー・ホワイト]]、アメリカンフットボール選手(+ [[2004年]]) * [[12月20日]] - 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[[北昤吉]]、[[思想家]]・[[政治家]](* 1885年) * [[8月8日]] - [[梅蘭芳]]、[[京劇]]俳優(* [[1894年]]) * [[8月14日]] - [[クラーク・アシュトン・スミス]]、[[ファンタジー]]小説家(* [[1893年]]) * [[8月20日]] - [[パーシー・ブリッジマン]]、物理学者(* [[1882年]]) * [[8月25日]] - [[熊崎健翁]]、運命学研究者(* 1882年) * [[8月26日]] - [[ヴラディーミル・ソフロニツキー]]、[[ピアニスト]](* [[1901年]]) * [[9月10日]] - [[ヴォルフガング・フォン・トリップス]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1928年]]) * [[9月12日]] - [[麻生豊]]、[[漫画家]](* [[1898年]]) * [[9月18日]] - [[ダグ・ハマーショルド]]、第2代[[国際連合事務総長]](* [[1905年]]) * [[9月20日]] - [[アンジェイ・ムンク]]、[[映画監督]](* [[1929年]]) * [[9月21日]] - [[宇野浩二]]、小説家(* [[1891年]]) * [[10月3日]] - [[田中都吉]]、[[外交官]](* [[1877年]]) * [[10月11日]] - チコ・マルクス、[[コメディアン]]・[[マルクス兄弟]](* [[1887年]]) * 10月11日 - [[片山敏彦]]、[[詩人]]・文学研究者(* [[1898年]]) * [[10月19日]] - [[セルヒオ・オスメニャ]]、第4代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](* [[1878年]]) * [[10月21日]] - [[カール・コルシュ]]、[[マルクス主義]]理論家(* [[1886年]]) * [[10月29日]] - [[長与善郎]]、作家・[[劇作家]](* [[1888年]]) * [[11月3日]] - [[伊藤道郎]]、[[ダンサー]](* [[1893年]]) * [[11月15日]] - [[竹田敏彦]]、[[劇作家]]・小説家(* [[1891年]]) * [[11月17日]] - [[森田素夫]]、小説家(* [[1911年]]) * 11月17日 - [[ベニー・カウフ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1890年]]) * [[11月20日]] - [[小倉正恒]]、[[住友財閥]]第六代総理事・元[[国務大臣]]・[[大蔵大臣]](* [[1875年]]) * [[11月28日]] - [[津村謙]]、[[歌手]](* [[1923年]]) * [[12月4日]] - [[津田左右吉]]、[[歴史学者]](* [[1873年]]) * [[12月6日]] - [[フランツ・ファノン]]、思想家(* [[1925年]]) * [[12月7日]] - [[葛原しげる]]、[[童謡]][[詩人]]・[[童話]]作家(* [[1886年]]) * [[12月9日]] - [[アルベルト・ブロッホ]]、画家・[[翻訳家]](* [[1882年]]) * [[12月15日]] - [[ダミー・ホイ]]、メジャーリーガー(* [[1862年]]) * [[12月20日]] - [[風見章]]、政治家(* [[1886年]]) * [[12月25日]] - [[矢内原忠雄]]、[[経済学者]]・元[[東京大学]]総長(* [[1893年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ロバート・ホフスタッター]]、[[ルドルフ・メスバウアー]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[メルヴィン・カルヴィン]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ゲオルグ・フォン・ベケシ]]<!--ベケシー--> * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[イヴォ・アンドリッチ]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ダグ・ハマーショルド]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1961|date=2013年9月}} * [[4月12日]]{{要出典|date=2020年9月}} - [[ザ・ボス]]を乗せた[[マーキュリー計画#宇宙船|マーキュリー宇宙船]]が、有人飛行時のデータ収集のために非公式に打ち上げられ、飛行は成功<!--したが着陸時にマーキュリーが大破し、ザ・ボスは半年間昏睡-->。その後、この飛行に関する記録は抹消される。(ゲーム『[[メタルギアシリーズ]]』)<ref>[https://www.konami.com/mg/archive/mg25th/truth/chronicles.html METAL GEAR 25th ANNIVERSARY 「メタルギアソリッドの真実」 The Chronicle] - [[コナミ]]公式サイト。2020年9月9日閲覧。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = |title = [[メタルギアソリッド3|メタルギアソリッド3 スネークイーター]] シナリオ・ブック |publisher = [[新紀元社]] |year = 2005 |pages = 505,506 |isbn = 978-4-7753-0362-7}}</ref> * 前作『[[Wolfenstein: The New Order|New Order]]』の1960年冬において、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]大将デスヘッドとの相打ちで死にかけていた[[ウィリアム・ジョセフ・ブラスコヴィッチ]]が再び目覚める。以降彼はナチス支配下のアメリカに渡って、「第2次アメリカ独立革命」を準備するレジスタンス組織に合流する。(ゲーム『[[Wolfenstein II: The New Colossus]]』) * [[エルンスト・スタヴロ・ブロフェルド|ブロフェルド]]が、ド・ブルーヴィル[[伯爵]]の[[嗣子]]であると[[紋章院]]に申し立てる。[[ジェームズ・ボンド]]は、[[サー]]・ヒラリー・ブレイ<ref group="注釈">[[献辞]]に実在の人物とある。</ref>の[[偽名]]で[[ピッツ・グロリア]]のブロフェルドの山荘に潜入する。(小説『[[女王陛下の007#出版|女王陛下の007号]]』) * 連邦国陣営と同盟国陣営の間で全面[[核戦争]]が勃発し、人類が滅亡する。(映画『[[世界大戦争]]』) * ソ連による中国侵攻および[[エジプト軍]]爆撃機による[[ワシントンD.C.|ワシントン]]攻撃を皮切りに[[第三次世界大戦]]が勃発。37日間の戦闘の中で4700発以上の核爆弾が使用され、[[北半球]]は壊滅してしまう。(小説『[[渚にて (小説)|渚にて]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ネヴィル・シュート|authorlink=ネビル・シュート |title = 渚にて 人類最後の日 |publisher = [[東京創元社]] |year = 2009 |pages = 12,128-135 |isbn = 978-4-488-61603-8}}</ref> * 三船モータース社長・三船大介の長男である三船研一、父が開発したレーシングカーを無断使用してレースに参加するが、ゴール近くでスピンし大破。この一件を大介が「運転が未熟」と叱ったのに対して、研一は「マシンのせい」と反論し、大介は激怒して研一を[[勘当]]する。以後研一は三船家を去り、諜報組織のレーサー「覆面レーサー」となる。(アニメ『[[マッハGoGoGo]]』第3話「謎の覆面レーサー・前編」) * 西側諸国による系外惑星探査計画「ダイダロス計画」によって開発された大型[[宇宙探査機]]「イカロスI」が、衛星軌道から深宇宙へと発進する。(ゲーム『[[マブラヴ]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author = |title = 『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』公式メカ設定資料集 MUV-LUV ALTERNATIVE INTEGRAL WORKS |publisher = [[エンターブレイン]] |year = 2009 |page = 18 |isbn = 978-4-04-726223-2}}</ref> * [[インファント島]]から連れ去られた小美人を追って、怪獣[[モスラ (初代および昭和ゴジラシリーズ)#映画『モスラ』(1961年)|モスラ]]が日本に上陸し、東京へと進攻する。(映画『[[モスラ]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-05-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第12巻) 安保と高度成長―昭和35年〜38年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194362-6 |ref = 昭和二万日12 }} * {{Cite book|和書|translator=矢羽野 薫・服部 真琴・雨海 弘美 |editor=ウィリアム・マクドナルド |title=ニューヨークタイムズが報じた 100人の死亡記事 |date=2020-05-30 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-20797-1 |ref={{Sfnref|マクドナルド|2020}} }} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1961}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176299.pdf 経済学会誌第32巻(ヨコ).ren]「豊かさ」に関する意識の変容(3) 1961(昭和36)年 冨貴島明、城西大学、2005-06, p72 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1961ねん}} [[Category:1961年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1961%E5%B9%B4
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1960年
1960年(1960 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。昭和35年。 アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地であった地域の多数が独立を達成した年であることにちなみ、アフリカの年と呼ばれる。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1960年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。昭和35年。 アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地であった地域の多数が独立を達成した年であることにちなみ、アフリカの年と呼ばれる。
{{年代ナビ|1960}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1960 | 年 = 1960 }} {{year-definition|1960}} [[アフリカ]]において当時[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国の[[植民地]]であった地域の多数が独立を達成した年であることにちなみ、'''[[アフリカの年]]'''と呼ばれる。 <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1960年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[庚子]](かのえ ね) * [[日本]](月日は一致) ** [[昭和]]35年 ** [[皇紀]]2620年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]49年 * [[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4293年 ** [[主体暦|主体]]49年 * [[仏滅紀元]]:2502年 - 2503年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1379年7月2日 - 1380年7月12日 * [[ユダヤ暦]]:5720年4月1日 - 5721年4月12日 * [[修正ユリウス日]](MJD):36934 - 37299 * [[リリウス日]](LD):137775 - 138140 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1960}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] ** [[カメルーン]]が[[フランス]]から独立。「アフリカの年」での独立第一号{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1月2日]] - [[ジョン・F・ケネディ]]が[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]に出馬表明。 * [[1月5日]] - [[閣議 (日本)|閣議]]、貿易為替自由化促進閣僚会議の設置を決定<ref name="昭和二万日12、p.34">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.34]]</ref>。 * [[1月6日]] - [[神奈川県]][[横須賀市]]の日本医療伝道会衣笠病院で出火。産婦や新生児など死者16名<ref name="昭和二万日12、p.34" />。 * [[1月7日]] ** [[千葉真一]]が[[テレビドラマ]]『[[七色仮面|新七色仮面]]』で主演デビューを果たす。 ** アメリカ海軍がポラリスミサイルの発射テストを実施。 * [[1月16日]] - [[中野好夫]]、[[吉野源三郎]]らが沖縄資料センターを設立<ref name="昭和二万日12、p.34-35">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.34-35]]</ref>。 * [[1月19日]] ** [[アスワン・ハイ・ダム]]の建設始まる。 ** [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米相互協力及び安全保障条約]](新安保条約)調印<ref name="昭和二万日12、p.36">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.36]]</ref>。 * [[1月24日]] - [[民社党|民主社会党]]結成大会<ref name="昭和二万日12、p.36-37">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.36-37]]</ref>。 * [[1月27日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]が対日覚書で新安保条約を非難し、外国軍隊が撤退しない限り、[[歯舞群島|歯舞]]・[[色丹島|色丹]]は引き渡さないと通告<ref name="昭和二万日12、p.36" />。 === 2月 === * [[2月13日]] ** [[フランス]]が、[[サハラ砂漠]]で初の[[原子爆弾]]実験。[[アメリカ合衆国]]、[[ソビエト連邦]](現在の[[ロシア]])、[[イギリス]]に次ぐ第4の[[核兵器]]保有国となる。 ** [[ナッシュビル座り込み]]始まる。 * [[2月23日]] - [[明仁|皇太子明仁親王]]と[[上皇后美智子|同妃美智子]]夫妻の第1子として、浩宮徳仁親王(今上天皇、第126代[[天皇]]:[[徳仁]]、上皇第一皇男子)が誕生する。同日は、[[2020年]]([[令和]]2年)以降の[[天皇誕生日]]<ref name="昭和二万日12、p.44-45">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.44-45]]</ref>。 === 3月 === * [[3月15日]] - [[大韓民国|韓国]]で[[1960年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]実施。[[馬山市|馬山]]で[[不正選挙]]があったとして騒乱事件が起こる。 * [[3月16日]] - [[全日本空輸|全日空]][[ダグラス DC-3|DC-3]]型機と[[航空自衛隊]][[F-86]][[戦闘機]]が滑走路上で衝突、両機とも大破。全日空機の乗客2人と客室乗務員1人死亡。[[全日空小牧空港衝突事故]]。 * [[3月17日]] - {{仮リンク|ノースウエスト航空710便空中分解事故|en|Northwest Orient Airlines Flight 710}}発生。 * [[3月30日]] - 映画「[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]」が日本で公開される。このとき天皇・皇后が招かれ、日本映画史上初の天覧上映となる。 === 4月 === * [[4月]] - 「[[ダッコちゃん]]」発売(180円)。大ヒットする。 * [[4月1日]] ** [[夕刊紙]]「[[東京スポーツ]]」が創刊。 ** [[東海ラジオ放送]]、[[秋田放送|秋田放送テレビ]]、 [[山形放送|山形放送テレビ]]が開局。 * [[4月4日]] - [[セネガル]]独立。 * [[4月19日]] ** 韓国で[[李承晩]]打倒を叫ぶ市民が蜂起し(4.19人民蜂起)、[[四月革命 (韓国)|四月革命]]が開始。 * [[4月27日]] ** [[トーゴ]]、フランスの[[信託統治領]]から独立へ。 ** 韓国の[[李承晩]]大統領が辞任。 * [[4月30日]] - [[ソニー]]が世界初の[[トランジスタ]][[テレビ受像機|テレビ]]を発売<ref name="昭和二万日12、p.54-55">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.54-55]]</ref>。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[U-2撃墜事件]]発生。 * [[5月3日]] - [[創価学会]]第三代会長に[[池田大作]]が就任。 * [[5月8日]] - [[東急ホテルズ|東急ホテルチェーン]]の1号店として銀座東急ホテルが開業。 * [[5月16日]] - [[雅樹ちゃん誘拐殺人事件|雅樹ちゃん誘拐事件]]発生([[5月19日]]に人質が殺害)<ref name="昭和二万日12、p.56-57">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.56-57]]</ref>。 * [[5月22日]] - M⒐5の[[チリ地震 (1960年)|チリ地震]]発生。翌日、日本でも[[津波]]で大きな被害。 * [[5月27日]] - {{仮リンク|1960年トルコクーデター|en|1960 Turkish coup d'état}} === 6月 === * [[6月1日]] * [[6月5日]] - [[フィンランド]]の[[ボドム湖]]で[[ボドム湖殺人事件]]が起こる。 * [[6月10日]] - [[安保闘争]]: [[東京国際空港]]で[[ジェイムズ・ハガティ]]米大統領報道官の一行が[[デモ活動|デモ]]隊に包囲され、[[アメリカ海兵隊]]のヘリに救助<ref name="昭和二万日12、p.64">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.64]]</ref>。(ハガチー事件) * [[6月15日]] ** 改定安保条約批准阻止の[[全日本学生自治会総連合|全学連]]7000人が[[国会議事堂|国会]]に突入。[[樺美智子]]死亡<ref name="昭和二万日12、p.64" />。 ** 韓国で憲法が改正され、[[第二共和国 (大韓民国)|第二共和国]]が成立。 * [[6月19日]] ** 新安保条約が自然成立<ref name="昭和二万日12、p.64" />。 ** [[F1世界選手権|F1]][[ベルギーグランプリ]]の決勝レースにてドライバー2名が死亡(暗黒の週末)。 * [[6月20日]] ** [[スリランカ]]で世界初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]が誕生。 ** [[日本専売公社]]が「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」を発売<ref name="昭和二万日12、p.75">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.75]]</ref>。 * [[6月23日]] - [[日米安保条約]]と[[日米地位協定]]が発効。[[旧日米安保条約]]と[[日米行政協定]]が失効。 * [[6月26日]] - [[マダガスカル]]がフランスより独立。 * [[6月30日]] - [[コンゴ民主共和国|コンゴ共和国]](コンゴ・レオポルドヴィル)が[[ベルギー]]より独立<ref>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/world/1960/jul/01/congo|title=Marred|publisher=London: Guardian Unlimited|language=英語|accessdate=2014-09-18}}</ref>。 === 7月 === * [[7月1日]] ** [[大阪市営地下鉄御堂筋線]]の[[西田辺駅]] - [[我孫子駅 (大阪府)|我孫子駅]]間が開業([[1987年]]に[[中百舌鳥駅]]まで延長)。 * [[7月5日]] - コンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)で兵士による反乱が開始される([[コンゴ動乱]]の勃発)<ref>{{Cite book|author=Didier Gondola|title=The History of Congo|publisher=Greenwood|page=118|language=英語|isbn=978-0313316968}}</ref>。 * [[7月11日]] - ベルギーの支持を得た[[モイーズ・チョンベ]]が南部[[カタンガ州]]のコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)からの独立を宣言<ref>{{Cite book|author=Georges Nzongola-Ntalaja|title=The Congo: From Leopold to Kabila: A People's History|publisher=Zed Books|page=111|language=英語|isbn=978-1842770535}}</ref>。 * [[7月14日]] - [[岸信介]][[内閣総理大臣|首相]]が[[池田勇人|池田]]新[[自由民主党総裁|自民党総裁]]就任祝賀会からの帰路、暴漢の襲撃を受け重傷を負う<ref name="昭和二万日12、p.76">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.76]]</ref>。 * [[7月15日]] ** [[第2次岸内閣 (改造)|岸内閣]]総辞職<ref name="昭和二万日12、p.76" />。 ** [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の[[ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム]]において行われた[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の党大会において、大統領候補の[[ジョン・F・ケネディ]]が「[[ニューフロンティア]]」を掲げた演説を行う。 * [[7月17日]] - [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[アナハイム]]にある[[ディズニーランド]]が開園5周年を迎えた。 * [[7月18日]] - [[国会 (日本)|第35臨時国会]]召集([[7月22日]]閉会)<ref name="昭和二万日12、p.78">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.78]]</ref>。 * [[7月19日]] - [[第1次池田内閣]]成立<ref name="昭和二万日12、p.78" />。[[厚生大臣]]に[[中山マサ]]が就任(初の女性大臣)<ref name="昭和二万日12、p.78" />。 * [[7月24日]] - [[滋賀県]][[大津市]]の[[比叡山ドライブウェイ]]で観光バスが谷底に転落する事故が発生、死者28名負傷者14名を出す<ref name="昭和二万日12、p.78-79">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.78-79]]</ref>。 * [[7月27日]] - [[経済協力開発機構]](OECD)創設。 === 8月 === * [[8月]] - ベナンなど、[[アフリカ]]で独立相次ぐ。 * [[8月1日]] ** 大湊田名部市が[[むつ市]]に改名。日本で最初のひらがなの市となる。 * [[8月11日]] - チャドが独立。 * [[8月13日]] - [[中央アフリカ共和国]]独立。 * [[8月15日]] - コンゴ共和国がフランスから独立。 * [[8月20日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[スプートニク5号]]が世界で初めて生物([[ソ連の宇宙犬#ベルカとストレルカ|ベルカとストレルカ]]ほか)を宇宙から生還させることに成功。 * [[8月25日]] - [[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]開幕。 === 9月 === * [[9月10日]] - 日本で[[カラーテレビ]]の本放送開始<ref name="昭和二万日12、p.90">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.90]]</ref>。 * [[9月14日]] - [[石油輸出国機構]](OPEC)結成。 * [[9月24日]] - [[国際開発協会]](第二世界銀行)設立。 * [[9月26日]] - [[1960年アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[ジョン・F・ケネディ]]と[[リチャード・ニクソン]]の第1回テレビ討論開催。[[アメリカ合衆国大統領選挙]]史上初のテレビ討論。 === 10月 === * [[10月1日]] - [[ナイジェリア]]独立。 * [[10月2日]] - [[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]が6年連続最下位から[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝<ref name="昭和二万日12、p.94">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.94]]</ref>。 * [[10月12日]] - 東京・[[日比谷公会堂]]で開かれた3党首立会演説会で[[日本社会党]]の[[浅沼稲次郎]]委員長が演説中、[[右翼]]の[[山口二矢|少年]](当時17歳)に刺され死亡([[浅沼稲次郎暗殺事件]])<ref name="昭和二万日12、p.96">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.96]]</ref>。 * [[10月15日]] - 大洋が[[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[千葉ロッテマリーンズ|大毎]]下しストレート4連勝(4タテ)で日本一<ref name="昭和二万日12、p.96" />。 * [[10月17日]] - 第36国会召集([[10月24日]]解散)<ref name="昭和二万日12、p.96" />。 * [[10月19日]] - 現行の生活保護水準は低すぎると訴えた[[朝日訴訟]]で[[東京地方裁判所|東京地裁]]は原告勝訴の判決を下す<ref name="昭和二万日12、p.96" />。 * [[10月24日]] ** 衆議院解散([[安保解散]])<ref name="昭和二万日12、p.100">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.100]]</ref>。 ** [[朝日新聞社]]などにより、教育設備助成会(現・ベルマーク教育助成財団)設立([[ベルマーク運動]]の始まり)。 * [[10月25日]] - [[横田喜三郎]]が第3代[[最高裁判所長官]]に就任。 === 11月 === * [[11月1日]] * [[11月2日]] - 浅沼稲次郎暗殺事件を起こした17歳少年が東京[[少年鑑別所]]の単独室内で自殺<ref name="昭和二万日12、p.100" />。 * [[11月8日]] - アメリカ合衆国大統領選挙の選挙人投票で、ジョン・F・ケネディの当選が確実になる。 * [[11月11日]] - [[1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂|南ベトナムで軍事クーデター未遂事件]]起こる。 * [[11月19日]] - 巨人の[[水原茂]]監督が勇退し、後任に[[川上哲治]]ヘッドコーチが昇格。 * [[11月20日]] - [[第29回衆議院議員総選挙]]投票([[1963年]][[10月23日]]解散(ムード解散、所得倍増解散、予告解散))<ref name="昭和二万日12、p.102">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.102]]</ref>。 * [[11月28日]] - [[モーリタニア]]独立。同年内でのアフリカ植民地独立が終了。 <!--* 11月28日 - [[京浜急行電鉄]]が世界初の[[自動列車停止装置]](ATS)を導入。--><!--ATSは日本でも1927年の東京地下鉄道で最初の本格採用例があったのでこれは明らかな誤り--> * [[11月29日]] - ラジオ東京(略称:KRT)が[[TBSホールディングス|東京放送]](略称:TBS)に社名変更。 === 12月 === * [[12月]] - 石川島重工業と播磨造船所が[[合併 (企業)|合併]]し、石川島播磨重工業(現:[[IHI]])が発足。 * [[12月2日]] - [[俳優]]の[[石原裕次郎]]と女優の[[石原まき子|北原三枝]]が結婚<ref name="昭和二万日12、p.105">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.105]]</ref>。 * [[12月4日]] - [[都営地下鉄浅草線|都営1号線]] [[押上駅]] - [[浅草橋駅]]間が開業、[[京成電鉄]]と相互乗り入れを開始(日本初の地下鉄と郊外電車の相互乗り入れ)<ref name="昭和二万日12、p.104">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.104]]</ref>。 * [[12月5日]] - [[国会 (日本)|第37特別国会]]召集([[12月22日]]閉会)<ref name="昭和二万日12、p.106">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.106]]</ref>。 * [[12月12日]] - 日米コカ・コーラボトリング(当時の社名:日米飲料。後の北九州コカ・コーラボトリング→〈旧〉[[コカ・コーラウエスト]]→[[コカ・コーラボトラーズジャパン]])設立。 * [[12月16日]] - [[1960年ニューヨーク空中衝突事故]]発生。 * [[12月20日]] - [[南ベトナム解放民族戦線]]結成。 * [[12月26日]] - 第38国会召集([[1961年]][[6月8日]]閉会)。 * [[12月27日]] - 池田首相、[[所得倍増計画]]を発表<ref name="昭和二万日12、p.110">[[#昭和二万日12|昭和二万日12、p.110]]</ref>。 == スポーツ == {{See also|1960年のスポーツ}} * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所 [[栃錦清隆]] ** 春場所 [[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]] ** 夏場所 [[若三杉彰晃]] ** 名古屋場所 若乃花幹士 ** 秋場所 若乃花幹士 ** 九州場所 [[大鵬幸喜]] * [[1960年の野球|野球]] ** [[プロ野球]] *** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]] *** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]] *** [[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 大洋ホエールズ(4勝0敗) ** [[学生野球]] *** [[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]][[早慶六連戦]] *** [[第32回選抜高等学校野球大会]]優勝 [[香川県立高松商業高等学校|高松商業]](香川県) *** [[第42回全国高等学校野球選手権大会]]優勝 [[法政大学第二中・高等学校|法政二]](神奈川県) == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1960年の音楽}} * [[パーシー・フェイス|パーシー・フェイス楽団]] 「[[夏の日の恋]]」 * [[サム・クック]] 「[[ワンダフル・ワールド (サム・クックの曲)|ワンダフル・ワールド]]」「チェイン・ギャング」 * [[チャビー・チェッカー]] 「ザ・ツイスト」 * [[ドリフターズ (アメリカ)|ドリフターズ]] 「[[ラストダンスは私に]]」 * モーリス・ウィリアムスとゾディアックス 「ステイ」 * ハリウッド・アーガイルズ 「アーリー・ウープ」 * [[ザ・ベンチャーズ]] 「[[急がば廻れ]]」 * [[シャドウズ]] 「[[アパッチ (シャドウズの曲)|アパッチ]]」 * [[レイ・チャールズ]] 「[[我が心のジョージア]]」 * [[ブラザーズ・フォー]] 「グリーン・フィールズ」 * [[ポール・アンカ]] 「パピー・ラヴ」 * [[ニール・セダカ]] 「[[カレンダー・ガール (ニール・セダカの曲)|カレンダー・ガール]]」 * [[西田佐知子]]「[[アカシアの雨がやむとき]]」 * [[平尾昌晃]]「[[ミヨちゃん]]」 * [[森山加代子]]「[[月影のナポリ]]」 * [[坂本九]]「[[ステキなタイミング]]」 * フランク永井「好き 好き 好き」 * デューク・エイセス「寿限無の嘆き」 * 淡谷のりこ「忘れられないブルース」 === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第43回 - [[北杜夫]] 『[[夜と霧の隅で]]』 ** 第44回 - 三浦哲郎 『忍ぶ川』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第43回 - [[池波正太郎]]『錯乱』 ** 第44回 - 寺内大吉『はぐれ念仏』、[[黒岩重吾]]『背徳のメス』 === 映画 === {{See also|1960年の映画}} * [[アパートの鍵貸します]] * [[甘い生活 (映画)|甘い生活]] * [[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]] * [[荒野の七人]] * [[サイコ (1960年の映画)|サイコ]] * [[情事 (1960年の映画)|情事]] * [[太陽がいっぱい (映画)|太陽がいっぱい]] * [[血を吸うカメラ]] * [[若者のすべて (映画)|若者のすべて]] * [[おとうと (1960年の映画)|おとうと]] * [[青春残酷物語]] * [[日本の夜と霧]] * [[裸の島]] * [[笛吹川 (映画)|笛吹川]] === テレビ === {{See also|1960年のテレビ (日本)}} * 放送開始 ** 6月1日 - [[福井放送]] ** 10月1日 - [[秋田放送]]、[[山形放送]]、[[宮崎放送]]、[[琉球放送]] * 番組 ** [[NHKきょうのニュース]] ** [[それは私です]] ** [[人形劇]] [[ブーフーウー]] ** [[快傑ハリマオ]] ** [[兼高かおる世界の旅]] ** [[少年探偵団]] ** [[白馬童子]] ** [[ナショナルキッド]] ** [[ララミー牧場]] === ラジオ === {{See also|1960年のラジオ (日本)}} * 4月1日 - [[東海ラジオ放送]]開局。 === 流行語 === * 声なき声 * 所得倍増計画 * 私はウソは申しません * 家付き・カー付き・ババア抜き === 宣伝広告 === * コマーシャル {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪カステラ一番、電話は二番||[[カステラ]]||[[文明堂]]||-||[[ひばり児童合唱団]](歌) |- |はってすっきり||サロンパス||[[久光製薬|久光兄弟]]||-||- |- |♪くりくり三角小さなドロップ||[[ヴィックスドロップ]]||[[阪急共栄物産|阪急共栄]]||-||[[楠トシエ]](歌) |- |♪渡辺のジュースの素ですもう一杯||粉末ジュースの素||[[渡辺製菓]]||-||土橋啓二(曲)・[[榎本健一]](歌) |- |♪パッとパラソルチョコレート||パラソルチョコレート||[[不二家]]||-||[[いずみたく]] |- |} * 新聞広告 ** お口の中は南極です ** 洗って着るまで20分 ** 色は日立のお家芸 ** ビールつくり三代 ** 胸もとはホノボノ 足さきはポカポカ ** 独身男性は電化する ** ホロ馬車と彼女 ** 国産初の電子計算機オールシステム完成! ** インスタント時代のスター! ** 日本で最初のガスライター ** ニッポンの誇りがまた一つ! == 科学と技術 == * [[セオドア・メイマン|セオドア・H・メイマン]]が[[レーザー装置]]を発明する{{Sfn|モレッリ|2020|p=63}}。 === ノーベル賞 === * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ドナルド・グレーザー]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ウィラード・リビー]](アメリカ) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[フランク・マクファーレン・バーネット]]([[オーストラリア]])、[[ピーター・メダワー]]([[イギリス]]) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[サン=ジョン・ペルス]]([[フランス]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[アルバート・ルツーリ]]([[南アフリカ]]) == 誕生 == {{see also|Category:1960年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[青沼貴子]]、[[漫画家]] * 1月1日 - [[中森明夫]]、コラムニスト * 1月1日 - [[梁邦彦]]、[[キーボーディスト]]・[[作曲家]]・[[編曲家]]・[[音楽プロデューサー]] * 1月1日 - [[柳下正明]]、サッカー選手、監督 * [[1月2日]] - [[浦沢直樹]]、漫画家 * 1月2日 - [[井坂聡]]、[[映画監督]] * 1月3日 - [[山崎浩子]]、[[新体操]]選手 * [[1月5日]] - [[藤巻幸大]]、実業家(+ [[2014年]]) * [[1月6日]] - [[大場久美子]]、[[タレント]] * 1月6日 - [[前田雄吉]]、政治家 * 1月6日 - [[高田誠一]]、[[歌手]](元[[BLACK CATS]])(+ [[2004年]]) * 1月6日 - [[ナタリア・ベステミアノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月7日]] - [[広木政人]]、[[プロ野球選手]] * [[1月8日]] - [[ランディ・レディ]]、元プロ野球選手 * [[1月9日]] - [[西村徳文]]、元プロ野球選手 * [[1月10日]] - [[ケルビン・トーベ]]、元プロ野球選手 * [[1月12日]] - [[ドミニク・ウィルキンス]]、元バスケットボール選手 * 1月12日 - [[マイク・マーシャル (外野手)|マイク・マーシャル]]、元プロ野球選手 * [[1月16日]] - [[野田雲平]]、元プロ野球選手 * [[1月21日]] - [[加藤高道]]、歌手・作曲家 * 1月21日 - [[永野護]]、[[メカニックデザイナー]]・漫画家 * [[1月22日]] - [[岡部まり]]、タレント * 1月22日 - [[マイケル・ハッチェンス]]、歌手([[INXS]])(+ [[1997年]]) * [[1月23日]] - [[錦織健]]、[[声楽家]] * [[1月25日]] - [[ならはしみき]]、[[声優]] * 1月25日 - [[JILL]]、[[歌手]]・[[作詞家]]・作曲家 * 1月25日 - [[良川昌美]]、元プロ野球選手 * 1月25日 - [[荒木由美子]]、歌手・女優・タレント * 1月25日 - [[平谷美樹]]、小説家 * [[1月27日]] - [[清水ミチコ]]、タレント * 1月27日 - [[柘植伊佐夫]]、ヘアメイクアップアーティスト、ビューティーディレクター * [[1月28日]] - [[倉阪鬼一郎]]、[[小説家]]・[[俳人]] === 2月 === * [[2月1日]] - [[山本直樹]](森山塔)、漫画家 * [[2月1日]] - [[渡辺英樹]]、ミュージシャン([[C-C-B]])、[[ベーシスト]](+ [[2015年]]) * [[2月2日]] - [[ウィチット・チットウィマーン]]、外交官 * [[2月3日]] - [[ヨアヒム・レーヴ]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[2月4日]] - [[原田泉]]、プロデューサー * [[2月5日]] - [[樹なつみ]]、漫画家 * [[2月6日]] - [[後藤祝秀]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月7日]] - [[松本保典]]、声優 * [[2月8日]] - [[知吹愛弓]]、アニメーション監督 * 2月8日 - [[ベニグノ・アキノ3世]]、第15代[[フィリピン共和国大統領]]、[[ベニグノ・アキノ・ジュニア|ベニグノ・アキノ]]と[[コラソン・アキノ]]の息子(+ [[2021年]]) * [[2月9日]] - [[石川優吾]]、漫画家 * [[2月10日]] - [[及川眠子]]、作詞家 * 2月10日 - [[竹原芳子]]、女優 * 2月10日 - [[井亀あおい]]、『アルゴノオト あおいの日記』著者 (+ [[1977年]]) * [[2月13日]] - [[山本百合子]]、声優 * [[2月14日]] - [[ジム・ケリー]]、[[アメリカンフットボール]]選手 * [[2月17日]] - [[青木菜な]]、声優 * [[2月18日]] - [[ガゼボ (歌手)|ガゼボ]]、歌手 * [[2月19日]] - [[アンドルー (ヨーク公)|ヨーク公爵アンドルー王子]]、英国女王[[エリザベス2世]]次男 * 2月19日 - [[ジョン・ポールJr. (レーサー)|ジョン・ポールJr.]]、[[レーシングドライバー]] (+ [[2020年]]) * [[2月20日]] - [[河森正治]]、メカニックデザイナー、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]][[監督]] * 2月20日 - [[ビクトル・メサ]]、野球選手 * [[2月21日]] - [[高屋良樹]]、漫画家 * [[2月23日]] - [[徳仁]]、第126代天皇([[令和]]時代) * [[2月25日]] - [[二宮清純]]、[[評論家]]、[[スポーツジャーナリスト]] * 2月25日 - [[あべさより]]、漫画家 * [[2月27日]] - [[山田真美]]、作家 * 2月27日 - [[山下芳生]]、政治家 * [[2月28日]] - [[大川透]]<ref name="oricon">{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/prof/232378/ |title=大川透(出典:VIPタイムズ社) |work=ORICON NEWS |publisher=オリコン |accessdate=2020-11-05}}</ref>、声優 * [[2月29日]] - [[平松広和]]、[[俳優]]、声優 === 3月 === * [[3月3日]] - [[チャック・ケアリー]]、元[[プロ野球選手]] * 3月3日 - [[Chachamaru]]、[[ギタリスト]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * 3月3日 - [[平川雅敏]]、プロ野球選手 * [[3月5日]] - [[成田美名子]]、漫画家 * [[3月6日]] - [[ルイス・カルロス・ペレイラ]]、元[[サッカー選手]] * 3月6日 - [[鳥飼否宇]]、小説家 * [[3月7日]] - [[イワン・レンドル]]、[[テニス]]選手 * 3月7日 - [[ジョー・カーター]]、[[メジャーリーガー]] * [[3月9日]] - [[斉藤祐子]]、声優 * [[3月10日]] - [[熊谷真美]]、女優・タレント * [[3月11日]] - [[佐藤順一]]、アニメ監督 * [[3月12日]] - [[野宮真貴]]、[[ミュージシャン]]、歌手(元[[ポータブル・ロック]]、[[ピチカート・ファイヴ]]) * 3月12日 - [[二井原実]]、[[シンガーソングライター]]、作曲家 * 3月12日 - [[ジョー・ランフト]]、アニメーター、声優(+ [[2005年]]) * [[3月13日]] - [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]、[[ものまねタレント]] * 3月13日 - [[増岡浩]]、[[ラリー]]ドライバー * [[3月14日]] - [[大内義昭]]、[[歌手]]、[[作曲家]]、音楽プロデューサー(+ [[2015年]]) * 3月14日 - [[マイク・パグリアルーロ]]、元プロ野球選手 * 3月14日 - [[カービー・パケット]]、元[[メジャーリーグベースボールの選手一覧|メジャーリーガー]](+ [[2006年]]) * [[3月15日]] - [[横峯良郎]]、実業家、ゴルフコーチ * [[3月18日]] - [[マット・ウインタース]]、元プロ野球選手 * 3月18日 - [[村田雄浩]]、俳優 * [[3月19日]] - [[川端順]]、元プロ野球選手 * [[3月20日]] - [[マイク・ヤング (外野手)|マイク・ヤング]]、元プロ野球選手 * [[3月21日]] - [[アイルトン・セナ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(+ [[1994年]]) * [[3月22日]] - [[荻原修]]、元プロ野球選手 * [[3月23日]] - [[城谷光俊]]、俳優 * 3月23日 - [[多和田葉子]]、[[小説家]] * [[3月27日]] - [[上川誠二]]、元プロ野球選手 * [[3月28日]] - [[安藤勝己]]、[[騎手]] * 3月28日 - [[石田衣良]]、作家 * 3月28日 - [[エリック=エマニュエル・シュミット]]、[[劇作家]] * 3月28日 - [[濱口楠彦]]、騎手(+ [[2013年]]) * [[3月29日]] - [[鶴ひろみ]]、声優、女優(+ [[2017年]]<ref name="ori20171117">{{Cite web|和書|date=2017-11-17 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2100812/full/|title=声優・鶴ひろみさん死去 事務所が正式発表 運転中に大動脈解離|publisher=ORICON NEWS|accessdate=2020-11-23}}</ref>) * [[3月30日]] - [[高岡浩三]]、実業家 * 3月30日 - [[ダニエル・カール]]、タレント === 4月 === * [[4月1日]] - [[森岡利行]]、[[脚本家]]、[[映画監督]] * [[4月2日]] - [[布施英利]]、[[批評家]] * [[4月3日]] - [[刈屋富士雄]]、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー、[[NHK解説委員]] * [[4月4日]] - [[深浦加奈子]]、[[俳優|女優]](+ [[2008年]]) * [[4月5日]] - [[谷口浩美]]、[[マラソン]]選手 * [[4月6日]] - [[東利夫]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月7日]] - [[ジェームス・ダグラス]]、[[プロボクサー]] * 4月7日 - [[ノルベルト・シュラム]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月9日]] - [[西崎緑]](西崎みどり)、歌手 * 4月9日 - [[嶋田信敏]]、元プロ野球選手 * 4月9日 - [[佐藤文彦 (投手)|佐藤文彦]]、プロ野球選手 * [[4月10日]] - [[葛川健司]]、プロ野球選手 * [[4月11日]] - [[中島浩人]]、元プロ野球選手 * 4月11日 - [[川野太郎]]、俳優 * 4月11日 - [[ジェレミー・クラークソン]]、モータージャーナリスト * [[4月12日]] - [[田中富生]]、元プロ野球選手 * [[4月13日]] - [[なかいま強]]、漫画家 * [[4月14日]] - [[三代澤康司]]、フリーアナウンサー、元[[朝日放送テレビ|朝日放送]]アナウンサー * [[4月15日]] - [[マイク・ディアズ]]、元プロ野球選手 * [[4月16日]] - [[ピエール・リトバルスキー]]、元サッカー選手 * 4月16日 - [[ラファエル・ベニテス]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[4月19日]] - [[R・J・レイノルズ (野球)|R・J・レイノルズ]]、元プロ野球選手 * [[4月23日]] - [[藤田幸光]]、[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手、監督]] * [[4月24日]] - [[菊池正美]]、声優 * 4月24日 - [[松井孝治]]、政治家 * [[4月28日]] - [[辻元清美]]、[[政治家]] * 4月28日 - [[マーク・ライアル]]、元プロ野球選手 * 4月28日 - [[トム・ブラウニング]]、メジャーリーガー * 4月28日 - [[ワルテル・ゼンガ]]、元サッカー選手、サッカー指導者 === 5月 === * [[5月1日]] - [[上野賢了]]、[[京急百貨店]]社長 * [[5月3日]] - [[真喜志康永]]、元[[プロ野球選手]] * 5月3日 - [[シュテッフェン・シュライエルマッハー]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]] * [[5月5日]] - [[小野寺五典]]、政治家 * 5月5日 - [[奥山一寸法師]]、[[実業家]] * 5月5日 - [[斎藤茂]]、[[音楽プロデューサー]]・[[ディスクジョッキー]]・独立系ラジオ局経営者 * [[5月6日]] - [[高浪慶太郎]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]](元ピチカート・ファイヴ) * 5月6日 - [[白武佳久]]、元プロ野球選手 * [[5月7日]] - [[野沢尚]]、[[脚本家]]・[[推理作家]](+ [[2004年]]) * [[5月8日]] - [[天童荒太]]、小説家 * 5月8日 - [[フランコ・バレージ]]、元サッカー選手 * [[5月9日]] - [[トニー・グウィン]]、元[[メジャーリーガー]](+ [[2014年]]<ref>[http://www.cnn.co.jp/showbiz/35049526.html パドレス一筋の「安打製造機」、トニー・グウィンさん死去]</ref>) * [[5月10日]] - [[ボノ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージシャン([[U2]]) * 5月10日 - [[斉藤浩行]]、元プロ野球選手 * [[5月11日]] - [[松尾貴史]]、タレント * [[5月12日]] - [[EPO]]、シンガーソングライター・セラピスト * [[5月15日]] - [[亜希いずみ]]、[[俳優|女優]] * [[5月16日]] - [[谷松浩之]]、プロ野球選手 * [[5月17日]] - [[早川和夫]]、元プロ野球選手 * [[5月18日]] - [[ヤリ・クリ]]、[[アイスホッケー選手一覧|アイスホッケー選手]] * 5月18日 - [[ヤニック・ノア]]、[[テニス選手一覧 (男子)|テニス選手]] * [[5月21日]] - [[石川賢 (1960年生の投手)|石川賢]]、元プロ野球選手 * 5月21日 - [[ケント・ハーベック]]、メジャーリーガー * [[5月22日]] - [[庵野秀明]]、[[映画監督]]・[[アニメーター]] * [[5月23日]] - [[佐藤秀明 (野球)|佐藤秀明]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]]) * [[5月25日]] - [[堀広道]]、[[俳優]] * [[5月26日]] - [[石原慎一]]、俳優・[[声優]]・[[歌手]] * [[5月28日]] - [[水沼貴史]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])・サッカー指導者・サッカー解説者 * [[5月31日]] - [[高橋忠一]]、プロ野球選手 === 6月 === * [[6月2日]] - [[神保美喜]]、女優・歌手 * [[6月3日]] - [[右田一彦]]、元[[プロ野球選手]] * 6月3日 - [[アネット・ペッチ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[6月5日]] - [[東ちづる]]、タレント * 6月5日 - [[遠藤誠一]]、元[[オウム真理教]]幹部 元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[6月6日]] - [[スティーヴ・ヴァイ]]、[[ギタリスト]] * 6月6日 - [[小川史]]、元プロ野球選手 * [[6月7日]] - [[荒木飛呂彦]]、漫画家 * 6月7日 - [[ジム・パチョレック]]、元プロ野球選手 * 6月7日 - [[和田秀樹]]、[[精神科医]]・受験アドバイザー・[[教育評論家]] * [[6月9日]] - [[小池晃]]、政治家 * 6月9日 - [[堀越真己]]、声優 * [[6月10日]] - [[森下直人]]、前・[[ドリームステージエンターテインメント]][[社長]](+ [[2003年]]) * [[6月11日]] - [[鈴木由美子]]、漫画家 * [[6月12日]] - [[稲田博|イナダ]]、[[劇団イナダ組]]代表の[[演出家]] * [[6月13日]] - [[山田邦子]]、タレント * [[6月14日]] - [[マイク・ラガ]]、元プロ野球選手 * [[6月15日]] - [[金田進]]、元プロ野球選手 * 6月15日 - [[永江孝子]]、政治家 * [[6月17日]] - [[伊藤伸平]]、漫画家 * [[6月18日]] - [[斉藤和]]、日本画家 * [[6月20日]] - [[高橋孝英]]、[[AV監督]] * [[6月22日]] - [[石川広志]]、ミュージシャン * [[6月23日]] - [[高田みづえ]]、元歌手 * [[6月24日]] - [[岡野玲子]]、漫画家 * 6月24日 - [[犬童一心]]、映画監督 * 6月24日 - [[神長英一]]、アマチュア野球指導者 * 6月27日 - [[青山正明]]、編集者、ライター(+ [[2001年]]) * [[6月28日]] - [[福良淳一]]、元プロ野球選手 * 6月28日 - [[ジョン・エルウェイ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * [[6月30日]] - [[塀内夏子]]、漫画家 === 7月 === * [[7月1日]] - [[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]、精神科医 * 7月1日 - [[石井康嗣]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220408053107/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%BA%B7%E5%97%A3/|title=石井康嗣(いしいこうじ)の解説|publisher=goo人名事典|accessdate=2020-12-01}}</ref>、[[声優]]・[[ナレーター]] * 7月1日 - [[藤田恭一]]、[[ファッションデザイナー]] * [[7月2日]] - [[竹内薫]]、[[サイエンスライター]] * [[7月3日]] - [[ジャック・ドウティー]]、元[[プロ野球選手]] * 7月3日 - 鎮西孝彦、特定社会保険労務士、経営コンサルタント * 7月3日 - [[松本安司 (野球)|松本安司]]、[[野球選手]] * [[7月4日]] - [[みず谷なおき]]、漫画家(+ [[1999年]]) * 7月4日 - [[ローランド・ラッツェンバーガー]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(+ [[1994年]]) * [[7月5日]] - [[戸城憲夫]]、ミュージシャン * 7月5日 - [[ロバート・ワーゲンホッファー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1999年]]) * 7月5日 - 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[[琴椿克之]]、元大相撲力士 * [[12月8日]] - [[吉田聡]]、漫画家 * [[12月9日]] - [[南牟礼豊蔵]]、元[[プロ野球選手]] * 12月9日 - [[フアン・サミュエル]]、MLB指導者、元[[メジャーリーガー]] * [[12月10日]] - [[佐藤浩市]]、俳優 * [[12月11日]] - [[原江梨子]]、歌手 * [[12月12日]] - [[安井邦彦]]、声優 * 12月12日 - [[西村雅彦]]、俳優 * [[12月13日]] - [[ジョー・リノイエ]]、ミュージシャン * 12月13日 - [[加藤良治]]、プロ野球選手 * [[12月14日]] - [[小山昭晴]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * [[12月15日]] - [[金山晃士]]、プロ野球選手 * [[12月16日]] - [[織作峰子]]、写真家 * 12月16日 - [[桂木文]]、女優 * 12月16日 - [[花乃湖健]]、元大相撲力士 * [[12月17日]] - [[TARAKO]]、声優・[[シンガーソングライター]] * [[12月18日]] - [[植草一秀]]、経済学者、経済評論家 * [[12月20日]] - [[桑田茂]]、元プロ野球選手 * 12月20日 - [[キム・ギドク]]、映画監督、脚本家、[[映画プロデューサー]](+ 2020年) * [[12月21日]] - [[アンディ・バンスライク]]、[[メジャーリーガー]] * [[12月22日]] - [[ジャン=ミシェル・バスキア]]、[[画家]](+ [[1988年]]) * [[12月23日]] - [[綾辻行人]]、推理作家 * 12月23日 - [[いのまたむつみ]]、[[アニメーター]]・[[イラストレーター]] * 12月23日 - [[城之内ミサ]]、作曲家 * 12月23日 - [[宮部みゆき]]、[[小説家]] * 12月23日 - [[川井一仁]]、F1ピットレポーター * [[12月24日]] - [[小野不由美]]、作家 * [[12月25日]] - [[西澤保彦]]、推理作家 * 12月25日 - [[トーマス・オマリー]]、元プロ野球選手 * 12月25日 - [[タイ・ゲイニー]]、元プロ野球選手 * [[12月26日]] - [[高槻真裕]]、作曲家・編曲家・プロデューサー * 12月26日 - [[金石昭人]]、元プロ野球選手 * [[12月27日]] - [[木村玉治郎 (6代)|6代木村玉治郎]]、現役[[大相撲]][[三役]]格[[行司]] * [[12月28日]] - [[渡部潤一]]、[[天文学者]] * 12月28日 - [[一ノ矢充]]、力士 * [[12月29日]] - [[岸本加世子]]、女優 * [[12月30日]] - [[セーラ・ロウエル]]、タレント・モデル(+ [[2011年]]) * [[12月31日]] - [[井上晃二]]、プロ野球選手 == 死去 == {{see also|Category:1960年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[マーガレット・サラヴァン]]、[[俳優|女優]](* [[1909年]]) * [[1月4日]] - [[アルベール・カミュ]]、[[小説家]](* [[1913年]]) * 1月4日 - [[風巻景次郎]]、[[国文学者]](* [[1902年]]) * [[1月5日]] - [[パーヴェル・パレナゴ]]、[[天文学者]](* [[1906年]]) * [[1月7日]] - [[ドロテア・ダグラス・チェンバース]]、[[テニス]]選手(* [[1878年]]) * [[1月12日]] - [[ネビル・シュート]]、小説家(* [[1899年]]) * 1月12日 - [[カルロス・ディサルリ]]、[[タンゴ]][[ピアニスト]](* [[1903年]]) * [[1月17日]] - [[クラーク・ゲーブル]]、[[俳優]](* [[1901年]]) * [[1月24日]] - [[火野葦平]]、作家(* [[1906年]]) * 1月24日 - [[エドヴィン・フィッシャー]]、ピアニスト(* [[1886年]]) * [[1月25日]] - [[ガブリール・チホフ]]、天文学者(* [[1875年]]) === 2月 === * [[2月2日]] - [[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]、[[野球の歴史|野球史]]と[[石川啄木]]の研究者(* [[1895年]]) * [[2月6日]] - [[ヌードルズ・ハーン]]、メジャーリーガー(* [[1879年]]) * [[2月7日]] - [[イーゴリ・クルチャトフ]]、[[物理学者]](* [[1903年]]) * [[2月8日]] - [[淵上白陽]]、[[写真家]](* [[1889年]]) * [[2月9日]] - [[アレクサンドル・ベノワ]]、[[美術家]]・舞台デザイナー(* [[1870年]]) * 2月9日 - [[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]、[[作曲家]](* [[1877年]]) * [[2月10日]] - [[鈴木憲久]]、[[経済学者]](* [[1889年]]) * [[2月14日]] - [[木村昌福]]、海軍軍人(* [[1891年]]) * [[2月21日]] - [[ジャック・ベッケル]]、[[映画監督]](* [[1906年]]) * [[2月28日]] - [[高木貞治]]、[[数学者]](* [[1875年]]) === 3月 === * [[3月10日]] - [[瑛九]]、[[画家]]・[[版画家]]・[[写真家]](* [[1911年]]) * 3月10日 - [[石黒忠篤]]、[[農林省 (日本)|農林]]官僚・農商相・[[参議院議員]](* [[1884年]]) * [[3月17日]] - [[藤原銀次郎]]、[[実業家]]・元[[商工省|商工大臣]](* [[1869年]]) * [[3月22日]] - [[アンジェロ・クエスタ]]、[[指揮者]] (* [[1901年]]) * [[3月23日]] - [[ジョルジュ・クロード]]、[[化学者]]・[[発明家]](* [[1870年]]) * [[3月26日]] - [[土州山役太郎]]、[[大相撲]][[力士]]・元[[前頭]]筆頭(* [[1888年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[ノロドム・スラマリット]]、[[カンボジア]]王(* [[1896年]]) * [[4月5日]] - [[林譲治 (政治家)|林譲治]]、[[政治家]]、第41代[[衆議院議長]](* [[1889年]]) * [[4月8日]] - [[アンリ・ギザン]]、[[第二次世界大戦]]時の[[スイス]]軍最高司令官(* [[1874年]]) * [[4月17日]] - [[諸口十九]]、俳優(* [[1891年]]) * 4月17日 - [[エディ・コクラン]]、[[ロカビリー]][[ミュージシャン]](* [[1938年]]) * [[4月18日]] - [[フランクリン・S・ハリス]]、[[農学者]]・[[宣教師]](* [[1884年]]) * [[4月23日]] - [[賀川豊彦]]、社会運動家・元[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1888年]]) * [[4月24日]] - [[マックス・フォン・ラウエ]]、物理学者(* [[1879年]]) * [[4月25日]] - [[中島久万吉]]、実業家・元商工大臣(* [[1873年]]) * 4月25日 - [[アウグスト・コプフ]]、天文学者(* [[1882年]]) * [[4月26日]] - [[グスタフ・リンドブロム]]、[[陸上競技]]選手(* [[1891年]]) === 5月 === * [[5月6日]] - [[伊達信]]、俳優(* [[1906年]]) * [[5月11日]] - [[ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア]]、[[実業家]](* [[1874年]]) * [[5月12日]] - [[セシル・アームストロング・ギブズ]]、作曲家(* [[1889年]]) * [[5月16日]] - [[イーゴリ・グラーバリ]]、[[画家]]・美術修復家(* [[1871年]]) * [[5月18日]] - [[ヒューゴ・アルヴェーン]]、作曲家(* [[1872年]]) * [[5月27日]] - [[ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ]]、画家・[[イラストレーター]](* [[1877年]]) * [[5月30日]] - [[ボリス・パステルナーク]]、[[詩人]]・作家(* [[1890年]]) === 6月 === * [[6月6日]] - [[村松孝一]]、[[フルート]]製作者(* [[1898年]]) * [[6月9日]] - [[ユッシ・ビョルリング]]、[[テノール]][[歌手]](* [[1911年]]) * [[6月10日]] - [[吉成武雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1932年]]) * [[6月13日]] - [[カール・セイファート]]、天文学者(* [[1911年]]) * [[6月15日]] - [[樺美智子]]、[[安保闘争]]での死者として知られる[[東京大学|東大生]](* [[1939年]]) * [[6月25日]] - [[ウォルター・バーデ]]、天文学者(* [[1893年]]) * [[6月27日]] - [[ロッティ・ドッド]]、テニス選手(* [[1871年]]) * 6月27日 - [[久留島武彦]]、[[児童文学|児童文学者]](* [[1874年]]) === 7月 === * [[7月14日]] - [[モーリス・ド・ブロイ]]、物理学者(* [[1875年]]) * [[7月15日]] - [[小牧健夫]]、[[ドイツ文学者]]・[[詩人]](* [[1882年]]) * 7月15日 - [[ローレンス・ティベット]]、[[バリトン]]歌手(* [[1896年]]) * [[7月18日]] - [[中村清二]]、物理学者(* [[1869年]]) * [[7月21日]] - [[古茂田守介]]、[[洋画家]](* [[1918年]]) * [[7月27日]] - [[ゲオルギ・キョセイヴァノフ]]、元[[ブルガリア]]首相(* [[1884年]]) * 7月27日 - [[ヴァーシャ・プシホダ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1900年]]) === 8月 === * [[8月6日]] - [[村井多嘉子]]、料理研究家(* [[1880年]]) * [[8月10日]] - [[オズワルド・ヴェブレン]]、数学者(* [[1880年]]) * 8月10日 - [[両國勇治郎]]、大相撲力士・元[[関脇]](* [[1892年]]) * [[8月14日]] - [[フレッド・クラーク]]、[[メジャーリーガー]](* [[1872年]]) * [[8月23日]] - [[オスカー・ハマースタイン2世]]、[[ミュージカル]][[作詞家]]・[[脚本家]](* [[1895年]]) * [[8月28日]] - [[犬養健]]、[[政治家]](* [[1896年]]) * [[8月29日]] - [[ヴィッキイ・バウム]]、[[作家]](* [[1888年]]) === 9月 === * [[9月2日]] - [[佐藤緑葉]]、小説家・[[翻訳家]](* [[1886年]]) * [[9月7日]] - [[ヴィルヘルム・ピーク]]、[[ドイツ民主共和国]]初代大統領(* [[1876年]]) * [[9月13日]] - [[レオ・ヴェイネル]]、作曲家(* [[1885年]]) * [[9月15日]] - [[カルロス・パオレーラ]]、[[都市計画家]](* [[1890年]]) * [[9月20日]] - [[イダ・ルビンシュタイン]]、[[バレリーナ]](* [[1885年]]) * [[9月21日]] - [[フランク・エルモア・ロス]]、天文学者(* [[1874年]]) * [[9月25日]] - [[エミリー・ポスト]]、小説家・[[エッセイスト]](* [[1873年]]) * [[9月27日]] - [[ヘルマン・ノール]]、[[哲学者]]・[[教育学者]](* [[1879年]]) === 10月 === * [[10月5日]] - [[アルフレッド・L・クローバー]]、[[文化人類学者]](* [[1876年]]) * [[10月12日]] - [[浅沼稲次郎]]、[[日本社会党]]委員長(* [[1898年]]) * [[10月17日]] - [[中村富十郎 (4代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1908年]]) * [[10月24日]] - [[ミトロファン・ニェジェーリン]]、[[ソビエト連邦軍|ソビエト連邦]][[ロシア戦略ロケット軍|戦略ロケット軍]]初代総司令官(* [[1902年]]) * [[10月29日]] - [[ユハン・アンデショーン]]、[[地質学者]]・[[考古学者]](* [[1874年]]) === 11月 === * [[11月2日]] - [[ディミトリ・ミトロプーロス]]、[[指揮者]](* [[1896年]]) * 11月2日 - [[山口二矢]]、浅沼社会党委員長刺殺犯・[[右翼]]活動家(* [[1943年]]) * 11月2日 - [[エベレット・スコット]]、[[メジャーリーガー]](* [[1892年]]) * [[11月3日]] - [[ハロルド・スペンサー=ジョーンズ]]、天文学者(* [[1890年]]) * 11月3日 - [[ボビー・ウォレス]]、[[メジャーリーガー]](* [[1873年]]) * [[11月4日]] - [[山脇敏子]]、洋画家・[[服飾]][[手芸]]家・[[教育者]](* [[1887年]]) * [[11月6日]] - [[エーリヒ・レーダー]]、元[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]][[元帥]](* [[1876年]]) * [[11月8日]] - [[ジョージ・チップ]]、[[プロボクサー]](* [[1888年]]) * [[11月16日]] - [[エミール・クーパー]]、指揮者(* [[1877年]]) * 11月16日 - [[クラーク・ゲーブル]]、映画[[俳優]](* [[1901年]]) * [[11月19日]] - [[吉井勇]]、[[歌人]]・[[脚本家]](* [[1886年]]) * [[11月20日]] - [[鈴木為次郎]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1883年]]) * [[11月22日]] - [[ニュウトン・メンドンサ]]、[[ボサノヴァ]]ピアニスト・作曲家(* [[1927年]]) * [[11月28日]] - [[常ノ花寛市]]、[[大相撲]]第31代[[横綱]](* [[1896年]]) * 11月28日 - [[リチャード・ライト (小説家)|リチャード・ライト]]、小説家(* [[1908年]]) * [[11月29日]] - [[フォルトゥナート・デペーロ]]、[[画家]]・[[デザイナー]]・[[彫刻家]](* [[1892年]]) === 12月 === * [[12月4日]] - [[森美樹]]、[[俳優]](* [[1934年]]) * 12月4日 - [[ワルター・ゲール]]、[[指揮者]](* [[1903年]]) * [[12月5日]] - [[岸上大作]]、[[歌人]](* [[1939年]]) * [[12月7日]] - [[クララ・ハスキル]]、ピアニスト(* [[1895年]]) * 12月7日 - [[ワルター・ノダック]]、[[化学者]](* [[1893年]]) * [[12月8日]] - [[繁里栄]]、[[プロ野球選手]](* [[1916年]]) * [[12月9日]] - [[ハイペリオン (競走馬)|ハイペリオン]]、[[競走馬]](* [[1930年]]) * [[12月17日]] - [[水谷長三郎]]、元商工大臣(* [[1897年]]) * [[12月26日]] - [[和辻哲郎]]、[[思想家]](* 1889年) * [[12月30日]] - [[芦乃家雁玉]]、[[漫才師]](* [[1894年]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1960|date=2011年7月}} * [[1月9日]] - [[セブルス・スネイプ]]が誕生。(小説・映画 [[ハリー・ポッターシリーズ]]) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[キン肉スグル|キン肉マン]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[フェニックスマン|キン肉マン・スーパーフェニックス]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[ジョージ|キン肉マン・マリポーサ]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[ソルジャーマン|キン肉マン・ソルジャー]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[ストロングマン|キン肉マン・ゼブラ]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * [[4月1日]] - 地球暦でのこの日、キン肉星第8病院にて[[パワフルマン|キン肉マン・ビックボディー]]が誕生。(漫画『[[キン肉マン]]』) * 秋 - [[愛人]]に捨てられたヴィヴィエンヌ・ミシェルが、[[ヴェスパ]]で[[カナダ]]から[[アメリカ]]に向かって傷心旅行に出る。(小説『[[007/私を愛したスパイ#ノベライズ|007 わたしを愛したスパイ]]』)<ref>1960年であることは、第13章で[[ジェームズ・ボンド]]が1959年の[[007 サンダーボール作戦#出版|サンダーボール作戦]]を1年ほど前と言っていることによる。</ref> * 時期不明(恐らく秋から冬まで) - [[ウィリアム・ジョセフ・ブラスコヴィッチ|ウィリアムB.J.ブラスコビッチ]]が14年間の植物人間状態から目覚める。同年の冬に[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]大将であるデスヘッドの本拠地に再侵攻する。(ゲーム『[[Wolfenstein: The New Order]]』) * 時期不明 - [[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]が誕生。(特撮テレビ番組『[[ウルトラマン]]』) * 時期不明 - 地質探査用に独自開発した[[ソナー|超音波探知機]]を用いて地球の[[核 (天体)|核]]を走査していたハンコック教授が、地下15マイルに都市と思われる人工物が広がっていることを発見する。(小説『{{仮リンク|地中の火|en|Reach for Tomorrow}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 明日にとどく |publisher = [[早川書房]] |year = 1986 |pages = 143-154 |isbn = 978-4-15-010660-7}}</ref> * 時期不明 - ミーニャ・ミハイローヴナ空軍中尉と人型ロボット「イワン」を乗せたソ連の月ロケット「ウラル」が、極秘裏に人類はじめての月着陸を目指すが、月の裏側への着陸時に崖崩れによって遭難してしまう。(漫画『[[鉄腕アトム]]』「イワンのばかの巻」)<ref group = "注">[[サンコミックス]]版では[[1965年]]の出来事とされている。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 手塚治虫|authorlink=手塚治虫 |title = 手塚治虫漫画全集 226 鉄腕アトム 6 |publisher = [[講談社]] |year = 1980 |pages = 61-63 |isbn = 978-4-06-173226-1}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 手塚治虫 |title = 鉄腕アトム 4 ロボットランド |publisher = [[朝日ソノラマ]] |year = 1975 |pages = 62,89-92 |isbn = 978-4-257-91334-4}}</ref> * 時期不明 - キュアフラワーこと五代薫子(現姓:花咲。当時17歳)、砂漠の使徒と戦いデューンを退けるも、ココロパフュームが壊れて変身能力を失う。(アニメ『[[ハートキャッチプリキュア!]]』) * 時期不明 - 男女2名を乗せたカプセルによって人類最初の有人宇宙飛行が行われるが、[[未確認飛行物体|UFO]]による妨害を受けて再突入に失敗し、2名は死亡。その存在は公表されず。(小説『[[妖精作戦]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 笹本祐一|authorlink=笹本祐一 |year = 2011 |title = 妖精作戦 |pages = 206,207 |publisher = [[東京創元社]] |isbn = 978-4-488-74101-3}}</ref> * 時期不明 - [[吸血鬼|ヴァンパイア]]至上主義を掲げる吸血鬼王ルートヴィヒが、全人類のヴァンパイアへの隷属を求める「奴隷宣言」を発し、10日で[[西ドイツ]]を征服。その後、ルートヴィヒは他の吸血鬼王とともにヨーロッパ諸国への侵攻を始める。(小説『[[リベリオ・マキナ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ミサキナギ|authorlink=ミサキナギ |title = リベリオ・マキナ ―《白檀式》水無月の再起動― |publisher = [[KADOKAWA]] |year = 2019 |pages = 9,28-31 |isbn = 978-4-04-912328-9}}</ref> == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャンニ・モレッリ(編者) |year=2020 |title=ビジュアルスタディ 世界を変えた発明発見 |publisher=すばる舎 |isbn=978-4-7991-0883-3}} *{{Cite book|和書 |author = 講談社/編集 |date = 1990-05-24 |year = |title = 昭和―二万日の全記録 (第12巻) 安保と高度成長―昭和35年〜38年 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4-06-194362-6 |ref = 昭和二万日12 }} == 関連項目 == * [[1961年の日本]] * [[1959年の日本]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1960}} * [https://www.youtube.com/watch?v=pHfLn28znqg 1960年の日本(1)][https://www.youtube.com/watch?v=A-iP8TDlc-0 (2)][https://www.youtube.com/watch?v=i979xV_mUCc (3)][https://www.youtube.com/watch?v=Xobfd0fgxk8 (4)][https://www.youtube.com/watch?v=ZZDCqGPBR-0 (5)][https://www.youtube.com/watch?v=2wvA9kxgerM (6)][https://www.youtube.com/watch?v=Hdwawg-9PMw (7)][https://www.youtube.com/watch?v=pFCOw-3HdkM (8)] Huntley Film Archives * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176299.pdf 1960(昭和35)年]「豊かさ」に関する意識の変容(3)冨貴島明、城西大学、2005-06 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1960ねん}} [[Category:1960年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1960%E5%B9%B4
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1959年
1959年(1959 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。昭和34年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1959年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。昭和34年。
{{年代ナビ|1959}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1959 }} {{year-definition|1959}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1959年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * * 干支:[[己亥]](つちのと い) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]34年 ** [[皇紀]]2619年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]48年 * [[朝鮮]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4292年 ** [[主体暦|主体]]48年 * [[仏滅紀元]]:2501年 - 2502年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1378年6月20日 - 1379年7月1日 * [[ユダヤ暦]]:5719年4月21日 - 5720年3月30日 * [[修正ユリウス日]](MJD):36569 - 36933 * [[リリウス日]](LD):137410 - 137774 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1959}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[メートル法]]が実施される。 * 1月1日 - [[キューバ革命]]。 * 1月1日 - [[愛知県]][[挙母市]]が[[豊田市]]に[[改名]]。 * 1月1日 - [[長崎放送|ラジオ長崎(現・長崎放送)]]テレビが開局。 * [[1月3日]] - [[アラスカ州|アラスカ]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]49番目の州となる。 * [[1月8日]] - [[シャルル・ド・ゴール]]が[[フランス第五共和政]]初代大統領となる。 * [[1月10日]] - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の放送が[[関東地方]]にて始まる。 * [[1月13日]] - [[キューバ]]で、革命政府により[[フルヘンシオ・バティスタ]]支持者71人が処刑される。 * [[1月14日]] - [[昭和基地]]に置き去りにしたタロとジロの生存確認。 * [[1月19日]] - [[日本コークス工業|三井鉱山]]6000人希望退職者を募る。 * [[1月27日]] - [[荒川連続自転車通り魔殺傷事件]]が発生。[[1974年]]時効成立。 * [[1月29日]] - [[社団法人]][[日本鉄道運転協会]]が発足する。 === 2月 === * 2月 - [[マイクロモジュール計画]]に協力していた[[テキサス・インスツルメンツ]]に参加した[[ジャック・キルビー]]が世界初の[[集積回路]]を作成し、特許を取得。{{Sfn|チャロナー|2011|p=752|ps=「キルビーとノイスが、パソコンへの道を開く。」}} * [[2月1日]] - 日本教育テレビ(NET、現・[[テレビ朝日]])が放送開始。 * 2月1日 - [[小澤征爾]]、音楽武者修行の旅に神戸港より出発。 * [[2月2日]] - [[ディアトロフ峠事件]] * [[2月3日]] - [[音楽が死んだ日]]<ref group="注釈">バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ポッパーが飛行機事故死</ref> * [[2月11日]] - 和製[[ポピュラー音楽|ポップス]][[歌手]]「[[ザ・ピーナッツ]]」がこの日デビューする。 * 2月11日 - 「[[紀元節]]奉祝建国祭大会」に参加した直後の右翼が[[三笠宮崇仁親王]]邸に押しかけ、一部が敷地内に乱入。 * [[2月15日]] - [[主婦と生活社]]が書記長配転に抗議しスト、318日争議へ。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[フジテレビジョン]]、[[毎日放送|毎日放送テレビ]]、[[日本海テレビジョン放送]]、[[九州朝日放送|九州朝日放送テレビ]]が放送開始。フジテレビではトーク番組『[[スター千一夜]]』が放送開始(1981年9月終了)。 * 3月1日 - 吉本ヴァラエティ(現・[[吉本新喜劇]])第1回公演。 * [[3月9日]] - [[バービー人形]]発売。 * [[3月10日]] - [[BOACスチュワーデス殺人事件]]。 * 3月10日 - [[1959年のチベット蜂起|チベット蜂起]] * [[3月17日]] - 「[[週刊少年マガジン]]」([[講談社]])、「[[週刊少年サンデー]]」([[小学館]])の同時創刊。 * [[3月28日]] - [[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]が竣工。 * 3月28日 - [[日米安保条約]]改定阻止国民会議結成。 * [[3月30日]] - [[砂川事件]]で米軍駐留は違憲とする東京地裁判決。 === 4月 === * 4月1日 - [[NHK大阪放送局]]教育テレビジョン開局。 * 4月1日 - 東北地方初の民放テレビ局・[[東北放送]]テレビ開局。この他、[[札幌テレビ放送]]、[[北日本放送]]テレビ、[[中国放送|ラジオ中国(現:中国放送)]]テレビ、[[四国放送]]テレビ、[[高知放送|ラジオ高知(現:高知放送)]]テレビ、[[熊本放送|ラジオ熊本(現:熊本放送)]]テレビ、[[南日本放送|ラジオ南日本(現:南日本放送)]]テレビ、[[和歌山放送]]ラジオ、以上8局の民放局開局。 * [[4月2日]] - [[女性]][[双子]]歌手「ザ・ピーナッツ」が[[レコード会社]]、[[キングレコード]]と[[契約]]を交わす。 * [[4月8日]] - 「[[週刊文春]]」([[文藝春秋]])が創刊。 * [[4月10日]] - [[皇太子]][[明仁|明仁親王]]と[[上皇后美智子|正田美智子]]が結婚、[[ミッチー・ブーム]]が最高潮に。 * [[4月11日]] - [[伊豆急行|伊東下田電気鉄道]]設立。 * [[4月20日]] - [[東海道新幹線]]の起工式が行われる。 * 4月20日 - [[日本国有鉄道|国鉄]]の[[修学旅行列車|修学旅行専用列車]]「ひので」・「きぼう」運行開始。 * [[4月25日]] - [[セント・ローレンス運河]]の船舶通航開始、[[五大湖]]と[[大西洋]]相互間の運航が可能となる。 * [[4月26日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[王貞治]]選手が対[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦でプロ入り第1号本塁打を打つ。 * [[4月27日]] - 中国国家主席に[[劉少奇]]を選出、[[毛沢東]]は党主席に専念。 === 5月 === * [[5月1日]] - [[キヤノン]]が「フレックス」を発売。 * [[5月26日]] - [[国際オリンピック委員会|IOC]]総会で、[[1964年東京オリンピック|1964年の夏季オリンピック]]開催地が[[東京都|東京]]に決まる。 === 6月 === * [[6月1日]] - [[ニコン|日本光学工業]]が「ニコンF」を発売。 * 6月1日 - [[朝日放送グループホールディングス|朝日放送(現:朝日放送グループホールディングス)]]と[[大阪テレビ放送]]が合併、[[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]が発足。 * [[6月2日]] - [[第5回参議院議員通常選挙]]投票。 * [[6月3日]] - [[シンガポール]]が独立。 * [[6月12日]] - [[後楽園球場]]前に野球体育博物館(現・[[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館]])が完成。 *[[6月19日]] - アメリカ軍の那覇サイト(現・[[那覇空港]])で[[核ミサイル]]の誤射事故。死者1人、負傷者6人。 * [[6月21日]] - [[ベイシア]](当時の社名いせや)設立。 * [[6月22日]] - [[国会 (日本)|第32臨時国会]]召集([[7月3日]]閉会)。 * [[6月25日]] - [[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]が後楽園球場の[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[阪神タイガース|阪神]]戦を観戦([[天覧試合]])。日本プロ野球史上唯一の天覧試合。試合は4-4で迎えた9回裏に巨人の[[長嶋茂雄]]が阪神の[[村山実]]からサヨナラ本塁打。{{main|天覧試合#プロ野球}} * [[6月28日]] - [[日本アマチュア無線連盟]]、任意団体から[[社団法人]]へ移行。 * [[6月30日]] - [[沖縄県|沖縄]]・[[宮森小学校米軍機墜落事故]]。死者17人、負傷者100人。 === 7月 === * [[7月1日]] - [[シチズン時計]]が防水腕時計「パラウォーター」を発売。 * [[7月6日]] - [[西ドイツ]][[ザールラント州]]で使用される通貨が[[フランス・フラン]]から[[ドイツ・マルク]]になる。 * [[7月14日]] - [[朝日新聞]]が[[熊本大学]][[医学部]]の調査チームによる[[水俣病]]の[[水銀|有機水銀]][[中毒]]原因説をスクープ。 * [[7月15日]] - [[紀勢本線]]が[[三木里駅]] - [[新鹿駅]]間が開業し全通。 * [[7月17日]] - [[タンザニア]]・[[オルドヴァイ]]で[[アウストラロピテクス]]の[[頭蓋骨]]を発見。 * [[7月22日]] - [[熊本大学]][[医学部]][[水俣病]]研究班が水俣病の原因物質は[[有機水銀]]であると公表した。 * 7月22日 - [[岩槻一家7人殺害事件]]が発生。 * [[7月24日]] - [[ミス・ユニバース]]に日本人、アジア人として初めて[[児島明子]]が選ばれる。[[スリーサイズ]]は歴代の欧米美人を上回る37-23-38インチ(94-58.4-96.5cm)。 === 8月 === * [[8月1日]] - [[日産自動車]]が「[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]」を発売。 * [[8月4日]] - [[ラオス]]で[[戒厳令]]施行。 * [[8月8日]] - [[台湾]]で、2000人以上が死亡する[[洪水]]発生。 * [[8月10日]] - [[松川事件]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が原判決(有罪)を破棄差し戻し。 * [[8月13日]] - 在日朝鮮人帰還で日朝協定。 * [[8月14日]] - [[昭和34年台風第7号|台風7号]]が[[静岡県]]に[[台風の上陸|上陸]]<ref> {{Cite web|和書 |title=昭和34年台風7号(1959年8月14日) |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/245/ |website= |access-date=2022-10-26 |language=ja}}</ref>。[[甲信地方]]を中心に甚大な被害をもたらす。 * [[8月17日]] - [[いすゞ自動車]]がトラック「[[いすゞ・エルフ|エルフ]]」を発売([[2009年]]に発売50周年を迎えた)。 * [[8月21日]] - [[ハワイ州|ハワイ]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]50番目の州となる。 * [[8月22日]] - [[大日本住友製薬|大日本製薬]]が胃腸薬「プロバンM」を発売([[サリドマイド]]が配合された)。 === 9月 === * [[9月13日]] - [[ハインリヒ・リュプケ]]が[[連邦大統領 (ドイツ)|西ドイツ大統領]]に就任。 * [[9月14日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[月探査機]][[ルナ2号]]が月に衝突。初めて月面に到達した人工物となる。 * [[9月25日]] - セイロン首相[[ソロモン・バンダラナイケ]]が仏教僧に{{仮リンク|ソロモン・バンダラナイケ暗殺事件|en|Assassination of S. W. R. D. Bandaranaike|label=銃撃}}され、翌26日に死亡した。 * [[9月26日]] - [[伊勢湾台風]]、明治以後最大の台風被害をもたらす。死者5041人、被害家屋57万戸。 * [[9月30日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]首相が[[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]を訪問。毛沢東と会談するが共同声明は出されず、中ソの対立が表面化する。 === 10月 === * [[10月1日]] - [[青森放送]]、[[山口放送]]、[[大分放送]]、以上3局のテレビジョン放送局が開局。 * [[10月3日]] - 巨人が[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]の[[広島東洋カープ|広島]]戦に勝ち、5年連続[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝。 * [[10月5日]] - [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]では子供向け番組『[[おかあさんといっしょ]]』が、週1回の形式で放送開始(翌1960年9月より週6日の帯番組へ移行)。毎日放送テレビ系で、[[皇室]]情報番組『[[皇室アルバム]]』放送開始。 * [[10月7日]] - ソ連の月探査機[[ルナ3号]]が月の裏側の写真を撮影し、月の裏側の様子が明らかになる。 * [[10月21日]] - [[ニューヨーク]]に[[ソロモン・R・グッゲンハイム美術館]]オープン。 * [[10月26日]] - 第33臨時[[国会]]召集([[12月27日]]閉会)。 * [[10月29日]] - [[1959年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]が巨人をストレート4連勝(4タテ)で下し初の日本一に輝く。 * [[10月31日]] - [[ベルギー領コンゴ]]で[[暴動]]発生。 === 11月 === * [[11月2日]] - {{仮リンク|クイズショー・スキャンダル|en|Quiz show scandals}}: [[:en:Charles Van Doren|チャールズ・ヴァン・ドーン]]が[[アメリカ合衆国議会|米議会]][[:en:House Subcommittee on Legislative Oversight|下院立法管理小委員会]]において、クイズショー『{{仮リンク|トウェンティーワン|en|Twenty One (game show)}}』でのやらせを認め、テレビ初期の信用を失墜させる。 * [[11月5日]] - [[新橋駅#汐留口側(駅東側)|汐留]] - [[梅田信号場|梅田]]間に日本初の[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]専用列車「[[たから (列車)|たから号]]」運転開始。 * [[11月15日]] - [[ドイツ社会民主党]]が[[ゴーデスベルク綱領]]を採択。 * [[11月19日]] - [[緑のおばさん]]登場。日給は350円。 * [[11月20日]] - [[横浜市]][[金沢区]]で、化学工場が爆発([[東洋化工爆発事故]])。 * 11月20日 - [[近畿東海放送]](旧・ラジオ三重)と[[ラジオ東海]](旧・岐阜放送〈初代〉)が合併し、[[東海ラジオ放送]]が設立。 === 12月 === * 12月 - 日本楽器製造(現・[[ヤマハ]])が[[エレクトーン]]を発売。 * [[12月1日]] - [[アメリカ合衆国]]、[[ソビエト連邦]]など12か国が[[南極条約]]に調印。 * [[12月3日]] - [[個人タクシー]]が許可される。173人に初免許。 * [[12月4日]] - [[新潟日赤センター爆破未遂事件]]発生。 * [[12月11日]] - [[横浜市]]内の[[第二京浜国道|国道1号(第二京浜)]]でTNT火薬4トンを積んだトラックが交通事故に遭い大爆発。([[第二京浜トラック爆発事故]]) * [[12月14日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]への[[在日朝鮮人の帰還事業]]が始まる。 * [[12月15日]] - [[山陰放送|ラジオ山陰(現・山陰放送)]]テレビが開局。 * 12月15日 - [[第1回日本レコード大賞]]に[[水原弘]]歌唱の「[[黒い花びら]]」が選ばれる。 * [[12月29日]] - 第34国会召集([[1960年]][[7月15日]]閉会)。 === 日付不詳 === <!-- 日付を特定しない(または不明)のできごとについて、箇条書きを分けた --> * アメリカ合衆国で、[[ナイロン]]製[[パンティストッキング]]が発売される。 * [[コンゴ]]で、人類初の[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]感染による死亡者が出る。 * [[イラン]]で、最後の[[カスピトラ]]が死亡、[[絶滅種]]となる。 * [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[三越]]本店に、三越創立50周年記念として建立された[[天女]][[像]]がお目見え。 == スポーツ == {{See also|1959年のスポーツ}} * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ|東京讀賣巨人軍]](当時のリーグ戦新記録となるリーグV5達成) ** [[パシフィック・リーグ]]優勝 [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] ** [[1959年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 南海ホークス(4勝0敗) * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** [[初場所]] [[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]] ** [[春場所]] [[栃錦清隆]] ** [[夏場所]] 若乃花幹士 ** 名古屋 栃錦清隆 ** [[秋場所]] 若乃花幹士 ** [[九州場所]] [[若羽黒朋明]] == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1959年の音楽}} * 洋楽 ** フィル・フィリップス 「[[シー・オブ・ラブ (曲)|シー・オブ・ラブ]]」 ** [[フランキー・フォード]] 「[[シー・クルーズ]]」<ref group="注釈">後にシャナナがカバーしている。</ref> ** [[レイ・チャールズ]] 「[[ホワッド・アイ・セイ]]」 ** [[サム・クック]] 「オンリー・シックスティーン」<ref group="注釈">ドクター・フックが1976年にカバーしてヒットさせている。</ref> ** [[チャック・ベリー]] 「メンフィス・テネシー」 ** [[ロイド・プライス]] 「パーソナリティー」「スタッガリー」 ** [[プラターズ]] 「煙が目にしみる」 * 邦楽 ** [[ペギー葉山]]「南国土佐を後にして」 ** [[12月27日]] - [[文京公会堂]]で[[第1回日本レコード大賞]]開催。 * クラシック音楽 ** [[小澤征爾]]が第9回[[ブザンソン国際指揮者コンクール]]に日本人として初めて出場し、優勝する。 === 映画 === {{See also|1959年の映画}} * [[お熱いのがお好き]] (監督:[[ビリー・ワイルダー]]) * [[大人は判ってくれない]] (監督:[[フランソワ・トリュフォー]]) * [[海獣ビヒモス]] * [[スリ (1959年の映画)|スリ]] (監督:[[ロベール・ブレッソン]]) * [[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]] (監督:[[ウィリアム・ワイラー]]) * [[北北西に進路を取れ]] (監督:[[アルフレッド・ヒッチコック]]) * [[眠れる森の美女_(1959年の映画)|眠れる森の美女]] * [[宇宙大戦争]] * [[東海道四谷怪談 (1959年の映画)|東海道四谷怪談]] (監督:[[中川信夫]]) * [[人間の條件 (映画)|人間の條件]] (監督:[[小林正樹]]、主演:[[仲代達矢]])。 1/2部及び3/4部を1959年に公開し、5/6部を1961年に公開。 === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第41回(1959年上半期) - [[斯波四郎]] 『山塔』 ** 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第41回(1959年上半期) - 渡邊喜恵子『馬淵川』、[[平岩弓枝]]『鏨師』 ** 第42回(1959年下半期) - [[司馬遼太郎]]『梟の城』、[[戸板康二]]『團十郎切腹事件』 * 出版界の出来事 ** 少年漫画雑誌「[[週刊少年サンデー]]」([[小学館]])と「[[週刊少年マガジン]]」([[講談社]])が創刊。 ** 4月、「[[週刊文春]]」([[文藝春秋]])創刊。 === テレビ === {{See also|1959年のテレビ (日本)}} * [[スター千一夜]] * [[おとなの漫画]] * [[少年ジェット]] * [[まぼろし探偵]] * [[デン助劇場]] * [[番頭はんと丁稚どん]] * [[ヤン坊マー坊天気予報]] * [[七色仮面]] * [[ザ・ヒットパレード (テレビ番組)|ザ・ヒットパレード]] * [[ローハイド]] * [[ママちょっと来て]] * [[東芝日曜劇場]] / [[カミさんと私]] * [[頓馬天狗]] * [[おかあさんといっしょ]] * [[日本の日蝕]] * [[サンヨーテレビ劇場]] / [[いろはにほへと (テレビドラマ)|いろはにほへと]] * 開局 - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ朝日|日本教育テレビ(NET)]]、[[毎日放送]]、[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、[[東北放送]]、[[中国放送|ラジオ中国]]、[[九州朝日放送]]ほか === ラジオ === {{See also|1959年のラジオ (日本)}} * [[4月1日]] - [[和歌山放送]](WBS)開局。 * 10月 - [[ニッポン放送]]が日本初の24時間放送開始(当初は[[深夜放送]]業務を「株式会社深夜放送」に委託していた)。 === コマーシャル === {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪僕の名前はヤン坊、僕の名前はマー坊||[[ヤン坊マー坊天気予報]]||[[ヤンマー]]||-||[[米山正夫]] |- |ミゼット!言うたった||[[ダイハツ・ミゼット]]||[[ダイハツ工業]]||[[大村崑]]||- |- |姓はオロナイン、名は軟膏||[[オロナインH軟膏|オロナイン軟膏]]||[[大塚製薬]]||大村崑||- |- |♪カッパッパールンパッパー||黄桜||[[黄桜|黄桜酒造]]||[[清水崑]](画)||[[田中正史]](曲)・[[楠トシエ]](歌) |- |1粒で2度おいしい||[[アーモンドグリコ]]||[[江崎グリコ]]||-||[[三木鶏郎]] |- |おもちも入ってベタベタと安くてどうもすいません||即席しるこ||[[渡辺製菓]]||[[林家三平 (初代)|初代林家三平]]||- |} == 誕生 == {{see also|Category:1959年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[山本貴嗣]]、[[漫画家]]・[[デザイナー]] * [[1月3日]] - [[ダンカン (お笑い芸人)|ダンカン]]、[[お笑いタレント]]・俳優・[[放送作家]] * [[1月5日]] - [[片山恭一]]、[[小説家]] * 1月5日 - [[高見恭子]]、タレント * 1月5日 - [[安藤光彰]]、騎手 * [[1月8日]] - [[飯田哲也 (環境学者)|飯田哲也]]、[[エネルギー]][[学者]]、[[政治活動家]] * [[1月11日]] - [[須貝幸生]]、[[作曲家]]・[[編曲家]](元ESSEX) * 1月11日 - [[ロイド・マクレンドン]]、[[メジャーリーガー]] * [[1月12日]] - [[ブリクサ・バーゲルト]]、[[ミュージシャン]]・[[詩人]] * [[1月13日]] - [[半田利弘]]、[[天文学者]] * 1月13日 - [[太川陽介]]、歌手 * [[1月14日]] - [[柴田理恵]]、[[タレント]] * [[1月15日]] - [[田原成貴]]、元[[調教師]]・[[騎手]] * [[1月16日]] - [[池上季実子]]、[[俳優|女優]] * [[1月16日]] - [[辛淑玉]]、[[実業家]]・人権問題活動家・[[評論家]] * [[1月16日]] - [[奥田建]]、政治家 * [[1月17日]] - [[山口百恵]]、元[[歌手]] * 1月17日 - [[スザンナ・ホフス]]、歌手 * [[1月18日]] - [[ダグマル・ルルツ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月19日]] - [[竹本泉]]、[[漫画家]] * [[1月20日]] - [[武藤一邦]]、[[プロ野球選手]] * [[1月21日]] - [[京本政樹]]、[[俳優]] * [[1月22日]] - [[岸本好弘]]、[[ゲームクリエイター]] * 1月22日 - [[リンダ・ブレア]]、女優 * [[1月24日]] - [[前田日明]]、[[プロレスラー]] * 1月24日 - [[ミシェル・プロドーム]]、元[[サッカー選手]]・[[サッカー]]指導者 * 1月24日 - [[なんきん]]、漫画家 * [[1月25日]] - [[キム・ヨンジャ]]、演歌歌手 * [[1月26日]] - [[山下久美子]]、[[歌手]] * [[1月28日]] - [[今岡均]]、プロ野球選手 * [[1月30日]] - [[セルゲイ・バブーリン]]、[[政治家]] === 2月 === * [[2月1日]] - [[荘勝雄]]、元[[プロ野球選手]] * [[2月2日]] - [[柄刀一]]、[[小説家]] * 2月2日 - [[中原勇一]]、プロ野球選手 * [[2月3日]] - [[小西康陽]]、[[音楽家]] * [[2月4日]] - [[大久保弘司]]、元プロ野球選手 * [[2月7日]] - [[カルロス・ポンセ]]、元プロ野球選手 * [[2月8日]] - [[山田詠美]]、作家 * [[2月11日]] - [[ロベルト・モレノ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 2月11日 - [[岡田惠和]]、[[脚本家]]・[[小説家]] * [[2月12日]] - [[岡田奈々]]、歌手・女優 * [[2月13日]] - [[山本百合子]]、[[声優]] * [[2月14日]] - [[山田直毅]]、[[ミュージシャン]] * 2月14日 - [[姫井由美子]]、参議院議員 * [[2月16日]] - [[ジョン・マッケンロー]]、プロ[[テニス]]選手 * [[2月19日]] - [[星野充昭]]、俳優、声優 * [[2月20日]] - [[ビル・ガリクソン]]、元プロ野球選手 * [[2月23日]] - [[遠藤雅伸]]、[[ゲームクリエイター]] * [[2月25日]] - [[都裕次郎]]、元プロ野球選手 * [[2月27日]] - [[ケニー野村]]、元プロ野球選手 * 2月27日 - [[田中幸雄 (投手)|田中幸雄]]、元プロ野球選手 * 2月27日 - [[神保彰]]、[[ドラマー]]、元[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]のメンバー * [[2月28日]] - [[新井純 (昭和シェル石油)|新井純]]、[[実業家]] === 3月 === * [[3月2日]] - [[石田和明]]、漫画家 * [[3月3日]] - [[宮台真司]]、[[社会学|社会学者]] * [[3月4日]] - [[マイク・ブラウン (投手)|マイク・ブラウン]]、元[[メジャーリーガー]] * [[3月5日]] - [[北条司]]、漫画家 * [[3月7日]] - [[竹原信一]]、[[阿久根市|阿久根]][[市町村長|市長]] * 3月7日 - [[トム・レーマン]]、[[ゴルファー]] * [[3月10日]] - [[桶谷顕]]、[[脚本家]](+ [[2007年]]) * [[3月11日]] - [[板野一郎]]、[[演出家]]、[[アニメーター]] * 3月11日 - [[フィル・ブラッドリー]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月12日]] - [[やくみつる]]、漫画家 * [[3月14日]] - [[パトリック・デュポン]]、[[バレエ]]ダンサー * [[3月18日]] - [[アイリーン・キャラ]]、歌手、[[俳優|女優]](+ [[2022年]]) * [[3月19日]] - [[森厚三]]、元プロ野球選手 * [[3月21日]] - [[植松伸夫]]、作曲家 * [[3月23日]] - [[伊倉一恵]]、声優 * [[3月25日]] - [[嘉門達夫]]、[[シンガーソングライター]]、元[[落語家]] * 3月25日 - [[原田宗典]]、作家 * [[3月28日]] - [[両澤千晶]]、[[アニメーション]]脚本家(+ [[2016年]]) * 3月28日 - [[潮見佳男]]、[[法学者]](+ 2022年) === 4月 === * [[4月1日]] - [[西尾大介]]、[[アニメーション監督]] * [[4月2日]] - [[松本正志]]、[[プロ野球選手]] * [[4月3日]] - [[米村理]]、元プロ野球選手 * 4月3日 - [[霧島一博]]、元[[大相撲]][[力士]]・[[大関]]、現・陸奥親方 * 4月3日 - [[遠藤貴巳]]、[[四国放送]][[アナウンサー]] * [[4月8日]] - [[三遊亭圓歌 (4代目)|四代目三遊亭圓歌]]、[[落語家]] * 4月8日 - [[太寿山忠明]]、元[[大相撲]][[力士]]・[[関脇]]、現・花籠親方 * 4月8日 - [[中田良弘]]、元プロ野球選手 * [[4月10日]] - [[高原兄]]、ミュージシャン、タレント * 4月10日 - [[福家雅明]]、元プロ野球選手 * 4月10日 - [[ブライアン・セッツァー]]、[[ミュージシャン]]・[[ギタリスト]] * [[4月13日]] - [[ジャン・ラヴェルナリヴ]]、[[マダガスカル]]首相 * [[4月17日]] - [[山口哲治]]、元プロ野球選手 * [[4月20日]] - [[クリストファー・ネメス]]、[[ファッションデザイナー]] * [[4月21日]] - [[畑中葉子]]、歌手、女優 * 4月21日 - [[矢野実]]、元プロ野球選手 * 4月21日 - [[入江崇史]]、声優 * [[4月22日]] - [[尾上旭]]、元プロ野球選手 * 4月22日 - [[テリー・フランコーナ]]、[[メジャーリーガー]]、[[メジャーリーグ]]監督 * [[4月25日]] - [[梅沢義勝]]、元プロ野球選手 * [[4月27日]] - 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[[湧川勉]]、プロ野球選手 * [[5月23日]] - [[高橋名人]]、ファミコン名人 * 5月23日 - [[川島隆太]]、東北大学教授 * [[5月25日]] - [[広瀬明彦]]、元プロ野球選手 * [[5月27日]] - [[上村恭生]]、高校野球指導者(+ [[2005年]]) * [[5月30日]] - [[前野知常]]、キーボーディスト・作曲家・編曲家 * [[5月31日]] - [[アンドレア・デ・チェザリス]]、元F1ドライバー(+ [[2014年]]) === 6月 === * [[6月1日]] - [[松本大 (声優)|松本大]]、声優 * 6月1日 - [[中原朝日]]、元[[プロ野球選手]] * 6月1日 - [[マーティン・ブランドル]]、元F1ドライバー * [[6月3日]] - [[山中重信]]、元プロ野球選手 * 6月3日 - [[竹口昭憲]]、元プロ野球選手 * [[6月5日]] - [[三浦広之]]、元プロ野球選手 * [[6月7日]] - [[小林武史]]、[[音楽家]] * [[6月8日]] - [[川口ヱリサ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[6月9日]] - [[中塚昌尚]]、プロ野球選手 * [[6月10日]] - [[カルロ・アンチェロッティ]]、元[[サッカー]]選手、[[サッカー]]指導者 * 6月10日 - [[寺沢大介]]、漫画家 * [[6月11日]] - [[屋鋪要]]、元プロ野球選手 * [[6月12日]] - [[篠原敬介]]、作曲家 * [[6月15日]] - [[遊人]]、漫画家 * [[6月17日]] - [[矢尾一樹]]<ref name="onsei">{{Cite book|和書|title=日本音声製作者名鑑 アニメ洋画ゲームソフト声優・制作スタッフのすべて 2004|volume=vol.1|page=112|publisher=[[小学館]]|year=2004|isbn=978-4-09-526301-4}}</ref>、声優 * [[6月19日]] - [[相沢郁]]、調教師 * 6月19日 - [[吉本笑子]]、作家・教育カウンセラー * [[6月22日]] - [[志州山真国]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[出羽海部屋]] *6月22日 - [[鎌田正彦]]、実業家 * [[6月24日]] - [[エフゲーニ・ザラフィアンツ]]、[[ピアニスト]] * [[6月27日]] - [[大高洋夫]]、俳優 * 6月27日 ‐ ツートン青木、タレント * 6月27日 - [[鈴木伸良]]、プロ野球選手 * [[6月28日]] - [[ジョン・シェリー]]、[[画家]] * 6月28日 - [[宮沢厚]]、アニマルトレーナー * [[6月29日]] - [[後藤雄一]]、元プロ野球選手 * 6月29日 - [[引田天功 (2代目)]]、イリュージョニスト === 7月 === * [[7月2日]] - [[原口一博]]、政治家 * [[7月3日]] - [[吉良知彦]]、[[ミュージシャン]]([[ZABADAK]])(+ [[2016年]]<ref>{{Cite press release | 和書 | title = 重要なお知らせ | publisher = [[ZABADAK]]公式サイト| date = 2016-7-6| url =http://www.zabadak.net/information/2016/0402_20160706_notice.html| accessdate = 2020-10-27}}</ref>) * [[7月6日]] - [[鈴木康友 (野球)|鈴木康友]]、元[[プロ野球選手]] * [[7月7日]] - [[嬉野雅道]]、[[水曜どうでしょう]]カメラ担当ディレクター * 7月7日 - [[アレッサンドロ・ナニーニ]]、元F1ドライバー * 7月7日 - [[近藤玲子 (声優)|近藤玲子]]、声優(+ [[2007年]]) * [[7月8日]] - [[川口和久]]、元プロ野球選手 * 7月8日 - [[西田昌史]]、シンガーソングライター、音楽プロデューサー([[EARTHSHAKER]]) * [[7月9日]] - [[服部浩一]]、元プロ野球選手 * [[7月11日]] - [[ジェフ・ケンプ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 *7月11日 - [[藤井徹貫]]、音楽ライター、小説家 * [[7月12日]] - [[片平なぎさ]]、女優 * [[7月12日]] - [[扇崎秀薗]]、舞踊家 *[[7月15日]] - [[玉井次郎]]、[[ノンフィクション作家]] * [[7月16日]] - [[古手川祐子]]、女優 * [[7月17日]] - [[杉山清貴]]、歌手 * 7月17日 - [[河合じゅんじ]]、漫画家 * [[7月21日]] - [[井辺康二]]、元プロ野球選手 * [[7月22日]] - [[ピーター・カルザース]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 7月22日 - [[森公美子]]、[[オペラ]]歌手・[[お笑いタレント]]・女優 * [[7月23日]] - [[坂本賀勇]]、[[ゲームクリエイター]] * 7月23日 - [[岩本好広]]、元プロ野球選手 * [[7月24日]] - [[原恵一]]、アニメーション監督 * [[7月25日]] - [[沢幡誠士]]、プロ野球選手 * [[7月26日]] - [[ケヴィン・スペイシー]]、俳優 * 7月26日 - [[山沖之彦]]、元プロ野球選手 * [[7月31日]] - [[平田勝男]]、元プロ野球選手 === 8月 === * [[8月3日]] - [[田中耕一]]、[[科学者]] * [[8月5日]] - [[リチャード・ダトロー・ジュニア]]、調教師 * [[8月6日]] - [[米村明]]、元[[プロ野球選手]] * [[8月7日]] - [[内田春菊]]、漫画家、小説家 * [[8月8日]] - [[ルベン・パス]]、元[[サッカー選手]] * [[8月9日]] - [[野村万之丞 (5世)|野村万之丞]](5世)、狂言師(+[[2004年]]) * [[8月11日]] - [[村上世彰]]、投資家、村上ファンド * [[8月13日]] - [[藤本由香里]]、[[編集者]]、[[評論家]]、マンガ評論家 * [[8月13日]] - [[長野まゆみ]]、小説家 * [[8月14日]] - [[マジック・ジョンソン]]、元バスケットボール選手 * [[8月16日]] - [[ローラ・イネス]]、女優 * [[8月17日]] - [[赤井英和]]、元プロボクサー、俳優、タレント * 8月17日 - [[長保有紀]]、[[演歌歌手]] * 8月17日 - [[坂本千夏]]、声優 * [[8月18日]] - [[桃井進]]、元プロ野球選手、審判 * [[8月19日]] - [[アンソニー・ガレア]]、医師 * 8月19日 - [[大塚淳弘]]、プロ野球選手 * [[8月22日]] - [[何ン田研二]]、歌手 * [[8月23日]] - [[ピーター・オペガード]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月24日]] - [[雨宮慶太]]、[[映画監督]]・[[イラストレーター]]・[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]] * [[8月27日]] - [[ゲルハルト・ベルガー]]、元F1ドライバー * 8月27日 - [[田中毅彦]]、元プロ野球選手 * 8月27日 - [[ブライアン・ポッカー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1992年]]) * 8月27日 - [[渡部絵美]]、[[タレント]]・元フィギュアスケート選手 * [[8月28日]] - [[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]]、[[アニメーション監督]] * [[8月29日]] - [[渋井敬一]]、元プロ野球選手 * 8月29日 - [[五十嵐信一]]、元プロ野球選手 * [[8月30日]] - [[駒崎幸一]]、元プロ野球選手 * 8月30日 - [[田辺繁文]]、元プロ野球選手 * [[8月31日]] - [[景山誠治]]、[[ヴァイオリニスト]] * 8月31日 - [[木下透]]、プロ野球選手 === 9月 === * [[9月1日]] - [[大堀薫]]、ミュージシャン、作曲家、元[[BLUEW]] * 9月1日 - [[真田豊実]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[9月2日]] - [[日山正明]]、[[ドラマー]]、元[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]のメンバー * 9月2日 - [[中島哲也]]、映画監督・[[CMディレクター]] * [[9月5日]] - [[松尾紀子]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * 9月5日 - [[グレアム・ヨスト]]、脚本家、テレビプロデューサー * [[9月8日]] - [[島津冴子]]、[[声優]] * [[9月9日]] - [[宮本賢治]]、元[[プロ野球選手]] * 9月9日 - [[エリック・セラ]]、[[作曲家]] * [[9月13日]] - [[佐藤兼伊知]]、元プロ野球選手 * 9月13日 - [[田中力 (野球)|田中力]]、プロ野球選手 * [[9月15日]] - [[田中和博]]、元プロ野球選手 * [[9月16日]] - [[高橋千鶴子]]、政治家 * 9月16日 - [[ティム・レインズ]]、[[メジャーリーガー]] * [[9月17日]] - [[大島さと子]]、女優・タレント * [[9月18日]] - [[ライン・サンドバーグ]]、元メジャーリーガー * 9月18日 - [[及川美喜男]]、元プロ野球選手 * [[9月20日]] - [[石川ひとみ]]、歌手 * 9月20日 - [[飯田正男]]、プロ野球選手 * [[9月22日]] - [[石井竜也]]、歌手 * [[9月23日]] - [[藤原カムイ]]、漫画家 * [[9月24日]] - [[稲葉なおと]]、[[紀行]][[作家]]、一級[[建築士]] * 9月24日 - [[真行寺君枝]]、女優 * [[9月28日]] - [[小西博之]]、[[タレント]] * 9月28日 - [[田島克彦]]、プロ野球選手 * 9月28日 - [[徳井優]]、俳優 * 9月28日 - [[野崎進]]、プロ野球選手 === 10月 === * [[10月1日]] - [[轟進一]]、ものまねタレント * 10月1日 - [[ユッスー・ンドゥール]]、歌手 * [[10月2日]] - [[レナ・ハデス]]、[[画家]]・[[作家]] * [[10月2日]] - [[小野了 (俳優)|小野了]]、俳優 * [[10月3日]] - [[田口ランディ]]、[[小説家]]・[[エッセイスト]] * 10月3日 - [[中島はるみ (女優)|中島はるみ]]、女優、モデル * [[10月5日]] - [[ロデリック・アレン]]、元[[プロ野球選手]] * 10月5日 - [[渡邉美樹]]、実業家 * [[10月6日]] - [[中沢けい]]、小説家 * [[10月7日]] - [[清家政和]]、元プロ野球選手 * [[10月8日]] - [[二村忠美]]、元プロ野球選手 * [[10月11日]] - [[掛川裕彦]]、声優 * [[10月11日]] - [[ワイン・ガードナー]]、[[オートバイ]]レーサー * [[10月12日]] - [[本郷みつる]]、[[アニメーション監督]] * [[10月12日]] - [[東儀秀樹]]、[[雅楽]]演奏家 * [[10月13日]] - [[津久井克行]]、[[Class (音楽グループ)|Class]]メンバー(+ 2009年) * [[10月16日]] - [[林寛子 (タレント)|林寛子]]、タレント * 10月16日 - [[ケビン・マクレイノルズ]]、[[メジャーリーガー]] * 10月16日 - [[ブライアン・ハーパー]]、メジャーリーガー * [[10月18日]] - [[福田淳一]]、弁護士、[[財務事務次官]] * [[10月20日]] - [[川西幸一]]、[[ドラマー]]、[[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]]のメンバー * [[10月21日]] - [[渡辺謙]]、俳優 * 10月21日 - [[ジョージ・ベル]]、元メジャーリーガー * [[10月22日]] - [[新井克太郎]]、元プロ野球選手 * [[10月23日]] - [[ジョージ・ヒンショー]]、元プロ野球選手 * 10月23日 - [[アル・ヤンコビック]]、[[歌手]] * [[10月24日]] - [[田村藤夫]]、元プロ野球選手 * [[10月25日]] - [[菅沼孝三]]、[[ミュージシャン]]、[[ドラマー]](+ [[2021年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://drumsmagazine.jp/news/kozo-suganuma-r-i-p/|title=【R.I.P.】菅沼孝三氏が死去|publisher=ドラマガWeb|date=2021-11-09|accessdate=2021-11-09}}</ref> * 10月25日 - [[ラッキィ池田]]、[[振付師]]・タレント * [[10月26日]] - [[久保田篤]]、タレント * [[10月29日]] - [[ジェシー・バーフィールド]]、元プロ野球選手 === 11月 === * [[11月1日]] - [[原えりこ]]、声優 * [[11月1日]] - [[田城郁]]、政治家 * [[11月3日]] - [[ハル・ハートリー]]、[[映画監督]] * [[11月5日]] - [[荒川美奈子]]、[[声優]] * 11月5日 - [[ロイド・モスビー]]、元[[プロ野球選手]] * [[11月6日]] - [[飛田展男]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/飛田展男/|title=飛田展男|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-06}}</ref>、声優 * 11月6日 - [[太田哲也]]、レーシングドライバー * [[11月9日]] - [[長島哲郎]]、プロ野球選手 * [[11月10日]] - [[芹澤信雄]]、[[プロゴルファー]] * 11月10日 - [[原日出子]]、女優・歌手 * 11月10日 - [[佐々木順一朗]]、高校野球指導者 * [[11月11日]] - [[山田ふしぎ]]、声優 * [[11月11日]] - [[田中美佐子]]、女優 * 11月11日 - [[フランク・ランペン]]、[[プロ野球]]指導者 * [[11月12日]] - [[松本ちえこ]]、[[タレント]]・[[俳優|女優]](+ [[2019年]]<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/102732?page=1 松本ちえこさん死去 70年代を象徴する記憶に残るアイドルだった]AERA dot. 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[[ホルヘ・バカ]]、[[プロボクサー]] * [[12月17日]] - [[青山道雄]]、元プロ野球選手 * 12月17日 - [[マーベル・ウイン]]、元プロ野球選手 * [[12月19日]] - [[スティーヴン・イッサーリス]]、[[チェリスト]] * [[12月20日]] - [[中山竹通]]、元陸上競技(長距離種目)選手 * [[12月21日]] - [[フローレンス・ジョイナー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1998年]]) * [[12月22日]] - [[ベルント・シュスター]]、元サッカー選手 * [[12月24日]] - [[トミーズ雅]]、[[お笑い芸人]]([[トミーズ]]) * [[12月25日]] - [[ジョン・キムラ・パーカー]]、[[ピアニスト]] * [[12月26日]] - [[平野義和]]、ナレーター * [[12月27日]] - [[高田晴行]]、警察官(+ [[1993年]]) * [[12月29日]] - [[岡崎律子]]、シンガーソングライター(+ [[2004年]]) * 12月29日 - [[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]]、元プロ野球選手 == 死去 == {{see also|Category:1959年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]] - [[和田英作]]{{sfn|静岡県立美術館|1998|p=147}}、[[洋画家]](* [[1874年]]) * [[1月16日]] - [[山本一清]]、[[天文学者]](* [[1889年]]) * [[1月18日]] - [[竹内良一]]、[[俳優]](* [[1903年]]) * [[1月21日]] - [[セシル・B・デミル]]、[[映画監督]](* [[1881年]]) * [[1月22日]] - [[マイク・ホーソーン]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1929年]]) * [[2月1日]] - [[鷹司信輔]]、[[公爵]]・[[鳥類学|鳥類学者]](* [[1889年]]) * [[2月3日]] - [[加藤厚太郎]]、[[実業家]](* [[1895年]]) * [[2月7日]] - [[ナップ・ラジョイ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1874年]]) * [[2月13日]] - [[平沼亮三]]、実業家・[[政治家]]、第5代[[日本スポーツ協会|日本体育協会]]会長(* [[1879年]]) * [[2月19日]] - [[鳥山喜一]] [[歴史学者]](* [[1887年]]) * [[2月22日]] - [[岡倉士朗]]、[[演出家]](* [[1909年]]) * [[3月7日]] - [[鳩山一郎]]、第52 - 54代[[内閣総理大臣]]・[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]初代総裁(* [[1883年]]) * [[4月8日]] - [[高浜虚子]]、[[俳人]]・[[小説家]](* [[1874年]]) * [[4月9日]] - [[フランク・ロイド・ライト]]、[[建築家]](* [[1867年]]) * [[4月16日]] - [[鳳龍一雄]]、元[[力士]](* [[1927年]]) * [[4月30日]] - [[永井荷風]]、小説家(* [[1879年]]) * [[5月9日]] - [[梁田貞]]、[[教育者]]・[[作曲家]](* [[1885年]]) * [[5月20日]] - [[アルフレッド・シュッツ]]、[[社会学者]](* [[1899年]]) * [[5月22日]] - [[吉岡弥生]]、教育者・[[医師]](* [[1871年]]) * [[5月24日]] - [[ジョン・フォスター・ダレス]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1888年]]) * [[5月26日]] - [[エド・ウォルシュ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1881年]]) * [[6月4日]] - [[土方与志]]、演出家(* [[1898年]]) * [[6月15日]] - [[助川良平]]、政治家(* [[1921年]]) * [[6月16日]] - [[金森徳次郎]]、政治家(* [[1886年]]) * [[6月18日]] - [[エセル・バリモア]]、[[俳優|女優]](* [[1879年]]) * [[6月20日]] - [[芦田均]]、[[外交官]]・第47代内閣総理大臣(* [[1887年]]) * [[6月29日]] - [[苫米地義三]]、[[政治家]](* [[1880年]]) * [[7月6日]] - [[ジョージ・グロス]]、[[画家]](* [[1893年]]) * [[7月9日]] - [[橘外男]]、小説家(* [[1894年]]) * [[7月12日]] - [[中村時蔵 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1895年]]) * [[7月17日]] - [[ビリー・ホリデイ]]、[[ジャズ]][[歌手]](* [[1915年]]) * [[7月26日]] - [[伊藤永之介]]、小説家(* [[1903年]]) * [[8月1日]] - [[ジャン・ベーラ]]、F1レーサー(* [[1921年]]) * [[8月8日]] - [[ヘンリー・セントジョージ・タッカー]]、[[立教学院]]総理、[[米国聖公会]]総裁主教(* [[1874年]]) * [[8月13日]] - [[鈴木銀之助]]、[[プロ野球選手]](* [[1912年]]) * [[8月14日]] - [[五島慶太]]、[[実業家]](* [[1882年]]) * [[8月16日]] - [[ワンダ・ランドフスカ]]、[[チェンバロ]]奏者・[[ピアニスト]](* [[1879年]]) * 8月16日 - [[梅若六郎 (54世)]](* [[1876年]]) * [[9月14日]] - [[ラクシュミ・プラサド・デヴコタ]](* [[1909年]]) * [[9月20日]] - [[内山完造]]、日中友好活動家(* [[1885年]]) * [[9月26日]] - [[ソロモン・バンダラナイケ]]、第4代[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]][[スリランカの首相|首相]](* [[1899年]]) * [[10月3日]] - [[栃木山守也]]、[[大相撲]]第27代[[横綱]](* [[1892年]]) * [[10月8日]] - [[春風亭柳枝 (8代目)]]、[[落語家]](* [[1905年]]) * [[10月9日]] - [[石井四郎]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[軍人]]・[[軍医]]・[[731部隊]]創設者(* [[1892年]]) * [[10月16日]] - [[神戸正雄]]、[[法学者]]・[[経済学者]]・元[[京都市長]](* [[1877年]]) * [[10月20日]] - [[阿部次郎]]、[[哲学者]]・[[美学者]]・[[作家]](* [[1883年]]) * [[10月24日]] - [[ボリス・エイヘンバウム]]、[[文芸学]]者(* [[1886年]]) * [[11月3日]] - [[高橋貞二]]、俳優(* [[1926年]]) * [[11月4日]] - [[レフティ・ウィリアムズ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1893年]]) * [[11月6日]] - [[ホセ・ラウレル]]、第3代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](* [[1891年]]) * [[11月7日]] - [[アルベルト・ゲレーロ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](* [[1886年]]) * [[11月18日]] - [[豊田三郎 (小説家)|豊田三郎]]、[[小説家]](* [[1907年]]) * [[11月19日]] - [[石井悌]]、[[昆虫学|昆虫学者]](* [[1894年]]) * [[11月23日]] - [[両國梶之助 (瓊ノ浦)]]、[[大相撲]][[力士]]・元[[関脇]](* [[1907年]]) * [[11月25日]] - [[高島象山]]、[[易者]](* [[1886年]]) * [[11月26日]] - [[アルバート・ケテルビー]]、[[作曲家]](* [[1875年]]) * [[12月6日]] - [[筒井敬三]]、元プロ野球選手(* [[1925年]]) * [[12月11日]] - [[ジム・ボトムリー]]、メジャーリーガー(* [[1900年]]) * [[12月21日]] - [[北大路魯山人]]、[[芸術家]](* [[1883年]]) * [[12月24日]] - [[山脇正治]]、プロ野球監督(* [[1885年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[エミリオ・セグレ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[オーウェン・チェンバレン]](アメリカ) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ヤロスラフ・ヘイロフスキー]]([[チェコスロバキア]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[セベロ・オチョア]](アメリカ)、[[アーサー・コーンバーグ]](アメリカ) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[サルヴァトーレ・クァジモド]]([[イタリア]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[フィリップ・ノエル=ベーカー]]([[イギリス]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1959|date=2011年7月}} * [[1月14日]] - [[パロマー天文台]]で撮影された写真の検査中に、[[オリオン座]]方面から太陽系へ近づく[[暗黒星雲]]が新たに発見される。また、[[バーリントン・ハウス (ロンドン)|バーリントン・ハウス]]で開かれた{{仮リンク|イギリス天文連合|en|British Astronomical Association}}の会合で、太陽系の近くに現れた未知の天体の質量によって、[[木星]]・[[土星]]・[[天王星]]・[[海王星]]の位置がずれていることが報告される。[[1月20日]]にはこの2つの観測結果を元に米英の専門家たちが行った計算によって、[[1960年|16ヶ月後]]に地球近くに達した暗黒星雲が約1ヶ月の間その場に止まり続けることが導き出される。(小説『{{仮リンク|暗黒星雲 (小説)|label=暗黒星雲|en|The Black Cloud}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレッド・ホイル|authorlink=フレッド・ホイル |title = 暗黒星雲 |publisher = [[法政大学出版局]] |year = 1974 |pages = 11-68 |isbn = 978-4-588-70010-1}}</ref> * 6月 - [[北大西洋条約機構|NATO]]の[[原子爆弾|原爆]]搭載機が行方不明になり、英米両政府に1億[[ポンド (通貨)|ポンド]]を要求する[[:en:SPECTRE|SPECTRE]]の脅迫状が届く。[[M (架空の人物)|M]]の特命をうけた[[ジェームズ・ボンド]]は、[[バハマ]]へ飛ぶ。(小説『[[007 サンダーボール作戦#出版|サンダーボール作戦]]』)<!--第7章で6月3日に投函された脅迫状が翌4日に届いたとある。第8章でこの4日の内にバハマ行きを命令される。 --> * [[10月2日]] - [[カリフォルニア州]]のベルモント・{{仮リンク|ベヴァトロン|en|Bevatron}}でウィルコックス=ジョーンズ偏向装置の事故が発生し、偏向を失った[[陽子線|陽子ビーム]]が観察台を直撃。見学者7人とガイド1人がチェンバーの床に落下し、ショック状態に陥り意識を失う。(小説『{{仮リンク|虚空の眼|en|Eye in the Sky (novel)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フィリップ・K・ディック|authorlink=フィリップ・K・ディック |title = 虚空の眼 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1991 |pages = 7,8,25-35,66,67,159,160,166 |isbn = 978-4-488-69608-5}}</ref> * [[11月22日]] - 8月にI.F.チェンバーの事故により肉体を分解されたジョナサン・オスターマン博士が、霊体のみの状態から自身を再構築しジーラ・フラット実験場内に再出現。超人となったオスターマンは[[国防総省|ペンタゴン]]の指示の下、[[1960年|翌年]]3月に[[スーパーヒーロー]]「DR.マンハッタン」としての活動を開始する。(漫画『[[ウォッチメン]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=アラン・ムーア|authorlink1=アラン・ムーア|author2=デイブ・ギボンズ|authorlink2=:en:Dave Gibbons |title = WATCHMEN ウォッチメン |publisher = [[小学館集英社プロダクション]] |year = 2009 |pages = 105,112-122,138,139 |isbn = 978-4-7968-7057-3}}</ref> * 久遠泰造博士が[[中東]]某所の遺跡より、生体金属「イシュタイト」からなる12枚のプレートを発掘。「マルドゥーク銅板」と名付けられたプレートは久遠博士と共同研究者ハインリヒ・コルネリウスによって解析され、後に一部が「霊子力理論」として発表される。(TRPG『[[フレイムギア]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=高平鳴海|authorlink1=高平鳴海|author2=霧岳朔夜|authorlink2=霧岳朔夜|author3=スタジオ因果横暴|authorlink3=スタジオ因果横暴 |title = ロボットシミュレーションTRPG フレイムギア |publisher = [[新紀元社]] |year = 2009 |pages = 134-138 |isbn = 978-4-7753-0719-9}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1959}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1959ねん}} [[Category:1959年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1959%E5%B9%B4
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1958年
1958年(1958 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和33年。
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1958年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和33年。
{{年代ナビ|1958}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1958 }} {{year-definition|1958}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1958年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[戊戌]](つちのえ いぬ) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]33年 ** [[皇紀]]2618年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]47年 * [[朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]] ** [[檀君紀元|檀紀]]4291年 ** [[主体暦|主体]]47年 * [[仏滅紀元]]:2500年 - 2501年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]1377年6月9日 - 1378年6月19日 * [[ユダヤ暦]]:5718年4月9日 - 5719年4月20日 * [[修正ユリウス日]](MJD):36204 - 36568 * [[リリウス日]](LD):137045 - 137409 *{{smaller|檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。}} *{{smaller|主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1958}} == できごと == [[ファイル:Explorer1.jpg|thumb|150px|エクスプローラー1号打ち上げ(1月31日)]] [[ファイル:Miyoshi Umeki.jpg|thumb|150px|ナンシー梅木、日本人初のアカデミー賞受賞(3月26日)]] [[ファイル:1958 Subaru 360 01.jpg|thumb|150px|スバル・360発売(5月1日)]] [[ファイル:Tokio Tower2.jpg|thumb|150px|東京タワー竣工(10月14日)<br/>12月7日に公開開始、12月23日に完工式]] === 1月 === * [[1月]] - [[中華人民共和国]]、第2次五か年計画。[[朝鮮民主主義人民共和国]]、第1次五か年計画。 * 1月 - 東京通信工業が[[ソニー]]に社名を変更。 * 1月1日 - 2つの[[ローマ条約]]の発効により、[[欧州経済共同体]]と[[欧州原子力共同体]]が設立される。 * [[1月3日]] - [[西インド連邦]]結成。 * [[1月4日]] - [[スプートニク1号]]が大気圏に再突入し消滅([[1957年]][[10月4日]]打ち上げ)。 * [[1月11日]] - 韓国[[進歩党事件]]。 * [[1月15日]] - [[東京都]]の[[学校給食]]に[[牛乳]]が加わる。 * [[1月20日]] - [[大日本住友製薬|大日本製薬]]が[[サリドマイド]]を配合した「イソミン」を発売(後にサリドマイド訴訟に発展した)。 * [[1月26日]] - [[南海丸遭難事故]]。 * [[1月28日]] - {{仮リンク|ゴッドフレッド・キアク・クリスチャンセン|en|Godtfred Kirk Christiansen}}が[[レゴブロック]]を特許申請。 * [[1月31日]] - アメリカ初の[[人工衛星]]、[[エクスプローラー1号]]打ち上げ。 * 1月31日 - [[ジェームズ・ヴァン・アレン]]による[[ヴァン・アレン帯]]の発見。 === 2月 === * [[2月1日]] - [[エジプト共和国]]と[[シリア]]共和国が合併し、[[アラブ連合共和国]]が建国。 * [[2月1日]] - [[神戸市]]が[[兵庫県]][[美嚢郡]][[淡河村]]を編入([[兵庫区]]となり、[[1973年]]から神戸市[[北区 (神戸市)|北区]]へ分区)。 * [[2月6日]] - [[ミュンヘンの悲劇]]。[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]の選手8人を含む乗客23人が死亡。 * [[2月8日]] - 第1回[[日劇ウエスタンカーニバル]]開幕。 * [[2月14日]] - [[イラク]]と[[ヨルダン]]による[[連邦国家]]、[[アラブ連邦]]発足。 * [[2月16日]] - [[滄浪号ハイジャック事件]]。 === 3月 === * [[3月1日]] - ラジオ九州テレビ(現在の[[RKB毎日放送]]テレビ)が放送開始。 * [[3月9日]] - [[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]が開通。本州(山口県[[下関市]])と九州(福岡県[[門司市]]、現在の[[北九州市]][[門司区]])が道路で結ばれる。 * [[3月17日]] - [[国際海事機関]]発足。 * [[3月24日]] - [[エルヴィス・プレスリー]]が[[アメリカ合衆国陸軍]]に入隊。 * [[3月26日]] - [[ミヨシ・ウメキ|ナンシー梅木]]が日本人初の[[アカデミー助演女優賞]]を受賞。 * [[3月27日]] - [[ニキータ・フルシチョフ]]が[[ソビエト連邦の首相]]に就任。 === 4月 === * [[4月1日]] ** [[売春防止法]]施行。 ** [[宝塚大劇場]]花組公演に代役出演中の月組[[香月弘美]]が、着ていたドレスがセリの機械に巻き込まれ即死。 ** [[BBCレディオフォニック・ワークショップ]]設立。 * [[4月5日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]・[[長嶋茂雄]]選手、4打席4三振デビュー。 * [[4月17日]] - [[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]開幕。( - 10月19日) * [[4月19日]] - [[日本コカ・コーラ]]、炭酸飲料「[[ファンタ (飲料)|ファンタ]]」を日本で発売。 * [[4月25日]] - 衆議院解散([[話し合い解散]])。 === 5月 === * [[5月2日]] - [[長崎国旗事件]] * [[5月5日]] - [[多摩動物公園]]開園 * 5月5日 - [[広島市]]の[[広島平和記念公園]]内で、[[原爆症]]で死亡した[[佐々木禎子]]を追悼する「[[原爆の子の像]]」の除幕式。 * [[5月12日]] - [[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]が[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部]]設置について正式合意。 * [[5月22日]] - [[第28回衆議院議員総選挙]]投票([[1960年]][[10月24日]]解散([[安保解散]]))。 * [[5月24日]] - [[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|旧・国立競技場]]で、第3回[[アジア競技大会]]が開催。 * [[5月31日]] - 大阪市営地下鉄四つ橋線(現・[[Osaka Metro四つ橋線]])の[[岸里駅]] - [[玉出駅]]間が開業。 === 6月 === * 6月1日 - 新日本放送(NJB)が[[毎日放送]](MBS)に社名変更。 * 6月1日 - [[RSKテレビ|山陽放送テレビ]]が放送開始。 * 6月1日 - [[大阪テレビ放送]](現在の[[朝日放送テレビ]])にて、日本初の[[ビデオテープレコーダ|VTR]]撮影による[[テレビドラマ]]『[[ちんどん屋の天使]]』が放映。 * [[6月8日]] ** [[後楽園ホール]]の前身である後楽園ジムナジアム開場。 ** [[1958 FIFAワールドカップ]]、[[スウェーデン]]で開催。( - 6月29日) * [[6月10日]] ** [[国会 (日本)|第29特別国会]]召集([[7月8日]]閉会)。 ** [[本州製紙]](現[[王子製紙]])江戸川工場の悪水放流により被害を受けた漁民が工場側の要請した機動隊と衝突し、漁民側に重傷者35名、軽傷者108名、検束者8名。警察側も1名入院した([[江戸川漁業被害]])。 * [[6月16日]] - [[ハンガリー]]の元閣僚評議会議長、[[ナジ・イムレ]]が、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]による秘密裁判により[[絞首刑]]となる。 * [[6月26日]] - [[エクスプローラー4号]]打ち上げ。 * [[6月29日]] - [[NHK高松放送局|NHK高松ラジオ第2]]が放送開始。 === 7月 === * [[7月1日]] ** [[近畿日本鉄道]]が2階建て電車[[ビスタカー]][[近鉄10000系電車|10000系]]を登場。 ** [[大阪放送|ラジオ大阪]]、[[西日本放送テレビ]]が開局。 * [[7月7日]] - [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]に、The International House of Pancakes([[アイホップ|IHOP]]1号店)開業。 *[[7月9日]] - [[リツヤ湾大津波]] * [[7月14日]] - [[イラク王国|イラク]]の自由将校団を率いる[[アブド・アル=カリーム・カーシム|アブドゥル・カリム・カースィム]]らが[[クーデター]]により実権を掌握。([[7月14日革命]]) * [[7月23日]] - [[昭和33年台風第11号|台風11号]]が[[静岡県]]に[[台風の上陸|上陸]]。[[関東地方]]などに被害をもたらす。 * [[7月26日]] ** [[イギリス女王]][[エリザベス2世]]、息子の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]に、[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の称号を授与。 ** アメリカで地球観測衛星「エクスプローラー4号」打ち上げ。 === 8月 === * [[8月]] - 中華人民共和国、[[大躍進]]、[[人民公社]]運動開始。 * 8月 - 沖縄から[[沖縄県立首里高等学校]]が[[第40回全国高等学校野球選手権大会]]に出場。[[検疫]]の関係で[[日本の高校野球#甲子園の土|甲子園の土が持ち帰れない事件]]が起こる。 * [[8月1日]] - ラジオ九州が[[RKB毎日放送]]に社名変更。 * [[8月3日]] - [[アメリカ合衆国海軍]]の[[原子力潜水艦]][[ノーチラス (原子力潜水艦)|ノーチラス]]、史上初めて[[北極海]]の[[北極点]]地点の海中を通過。 * [[8月12日]] - [[全日空下田沖墜落事故]]、[[東京国際空港|東京(羽田)]]発[[名古屋飛行場|名古屋]]行きの[[全日本空輸|全日空]]25便[[ダグラス DC-3|DC-3]]型機が[[下田市]]沖に墜落、乗員乗客33名全員が死亡。 * [[8月23日]] - [[金門県]]で[[金門砲戦]]発生。( - 9月22日) * [[8月25日]] - [[日清食品]]が世界初の[[インスタントラーメン]]「[[チキンラーメン]]」を発売。 * [[8月27日]] - [[アメリカ合衆国軍]]、[[アーガス作戦]]開始、[[南大西洋]]で[[核実験]]実施。 * [[8月28日]] - [[讀賣テレビ放送]]、[[テレビ西日本]]が放送開始。 * [[8月31日]] - [[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業]]の[[王貞治]]投手の巨人軍入団決定。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[アイスランド]]と[[イギリス]]の間で[[タラ戦争]]勃発。 * [[9月2日]] - [[中国中央電視台]]の前身、北京電視台が、[[中華人民共和国]]初のテレビ放送開始。 * [[9月7日]] - [[埼玉県]][[入間市]]で[[在日米軍]]による銃殺事件である[[ロングプリー事件]]が起こる。 * [[9月9日]] - [[世界平和パゴダ]]創建(福岡県門司市、現在の北九州市門司区) * [[9月26日]] - [[白元|鎌田商会]]が「洋服タンス用 パラゾール」を発売。 * [[9月27日]] - [[狩野川台風]]、神奈川県に上陸。死者・行方不明1,269名<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1958/19580926/19580926.html 気象庁 災害をもたらした気象事例]</ref>。 * [[9月29日]] - 第30臨時国会召集([[12月7日]]閉会)。 * [[9月30日]] - [[ソビエト連邦]]、[[ノヴァヤゼムリャ]]で核実験実施。 === 10月 === * [[10月1日]] ** [[NACA]]が[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]に名称変更。 ** 初の[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]となる「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」が運行を開始。 ** [[三菱鉛筆]]が[[鉛筆]]「ユニ」を発売。 **[[チュニジア]]と[[モロッコ]]が[[アラブ連盟]]加盟。 * [[10月2日]] - [[ギニア]]独立。 * [[10月8日]] - [[警職法改正案]]を衆議院へ提出。(その直後からの反対運動激化の為、廃案) * [[10月8日]] - -[[10月24日]]、[[全農林警職法事件]]。 * [[10月10日]] - [[常磐線]]・[[東北本線]]経由で[[上野駅|上野]] - [[青森駅|青森]]間で「[[はつかり (列車)|はつかり]]」が運転開始。[[日本国有鉄道|国鉄]]で初めて[[東海道本線]]を経由せず、[[東北地方]]や[[北日本]]を走る特急列車となる。 * [[10月14日]] - [[東京タワー]]竣工。 * [[10月18日]] - [[フラフープ]]販売開始。美容効果を謳ったCMで全国的なブームとなるも、健康障害が続々と報告されたため、わずか一月あまりで沈静化した。 * [[10月20日]] - [[浦添家畜商殺人事件]]発生。 * [[10月21日]] - [[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]が[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で優勝し、プロ野球で日本一。[[読売巨人軍|巨人]]相手に3連敗から4連勝を果たす。MVPの[[稲尾和久]]について「神様仏様稲尾様」が流行語になる。 * 10月21日 - 巨人・[[川上哲治]]選手、日本シリーズ終了後に引退。 * [[10月28日]] - [[ローマ教皇]][[ピウス12世]]の死去に伴い[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]が選出。 * [[10月31日]] - ラジオ東京テレビ(現在の[[TBSテレビ]])で[[テレビドラマ]]『[[私は貝になりたい]]』([[加藤哲太郎]]原案・[[橋本忍]]脚本・[[フランキー堺]]主演。第13回[[芸術祭]]放送部門受賞作品)が放映。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[東海道本線]][[東京駅|東京]] - [[大阪駅|大阪]]間で[[日本国有鉄道|国鉄]]初の[[国鉄181系電車|電車特急]]「[[こだま (列車)|こだま]]」が運転開始。 * [[11月10日]] - [[ブラジル]]の歌手[[ジョアン・ジルベルト]]が、[[リオ・デ・ジャネイロ]]で"Chega de Saudade"を収録、[[ボサノヴァ]]の誕生とされる。 * [[11月22日]] - [[関西テレビ放送]]が開局。 * [[11月25日]] - [[フランス領スーダン]]が、[[フランス共同体]]内の[[自治国]]となる。 * [[11月27日]] - [[宮内庁]]、[[皇太子]]・[[明仁|明仁親王]]と[[上皇后美智子|正田美智子]]の[[婚約]]を発表、[[ミッチー・ブーム]]はじまる。 * [[11月28日]] - [[ガボン]]、[[コンゴ共和国]]、[[チャド]]が、フランス共同体内の自治国となる。 === 12月 === * [[12月1日]] - [[一万円紙幣|新1万円札]]([[聖徳太子]]像)発行。 * [[12月7日]] - 東京タワー公開開始。 * [[12月10日]] - 第31国会召集([[1959年]][[5月2日]]閉会)。 * [[12月18日]] - [[アメリカ合衆国]]、世界初の[[通信衛星]][[SCORE (人工衛星)|SCORE]]の打ち上げに成功。 * [[12月21日]] - [[シャルル・ド・ゴール]]が[[フランス第五共和政]]初代大統領に選ばれる。 * [[12月23日]] - 東京タワー完工式。 * [[12月24日]] - ラジオ関東(現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])が開局。 * [[12月25日]] - [[東海テレビ放送]]、ラジオ新潟テレビ([[新潟放送]])が開局。 * [[12月27日]] - [[国民健康保険法]]公布。 === 日付不明 === * [[ピエール・カルダン]]が[[来日]] * [[東京都]][[渋谷区]]の[[原宿]]に「[[原宿セントラルアパート]]」完成([[1986年]]まで)。 * [[マルサン商店]]が日本初の[[プラモデル]]「[[ノーチラス (SSN-571)|SSN-571ノーチラス号]]」ほか計4点を発売。 == 社会 == * [[バンク・オブ・アメリカ]]が行ったキャンペーンにより、[[クレジットカード]]の所有者が増え始めた。このキャンペーンは[[フレズノドロップ]]キャンペーンと呼ばれ、{{仮リンク|バンカメリカード|en|BankAmericard}}<!-- 英語版の BankAmericard は Visa Inc. への転送となっているが、日本語版の Visa にはバンカメリカードの説明がないため、あえてこのようにしている。-->と説明書を納めた封書をカリフォルニア州フレズノの市民に送付するものだった。{{Sfn|モレッリ|2020|p=97}} == スポーツ == {{See also|1958年のスポーツ}} * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]](4年連続リーグV) ** [[パシフィック・リーグ]]優勝 [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]](3年連続リーグV) ** [[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 西鉄ライオンズ(4勝3敗) * 大相撲(幕内最高優勝) ** 初場所 若乃花勝治 ** 春場所 朝汐太郎 ** 夏場所 栃錦清隆 ** 名古屋 若乃花幹士 ** 秋場所 若乃花幹士 ** 九州場所 朝汐太郎 == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1958年の音楽}} * [[チャック・ベリー]] 「[[ジョニー・B.グッド]]」 * シルエッツ 「ゲット・ア・ジョブ」 * [[ヒューイ・"ピアノ"・スミス|ヒューイ・"ピアノ"・スミス・アンド・ザ・クラウンズ]] 「[[ドンチュー・ジャスト・ノウ・イット]]」 * ヒューイ・"ピアノ"・スミス・アンド・ザ・クラウンズ 「[[ハイ・ブラッド・プレッシャー]]」 * [[ザ・コーデッツ]] 「[[ロリポップ (ロナルド・アンド・ルビーの曲)|ロリポップ]]」 * [[ラリー・ウィリアムズ (歌手)|ラリー・ウィリアムズ]] 「[[ディジー・ミス・リジー]] / [[スロウ・ダウン]]」 * [[エディ・コクラン]] 「[[サマータイム・ブルース (エディ・コクランの曲)|サマータイム・ブルース]]」「[[カモン・エヴリバディ]]」 * [[リッチー・ヴァレンス]] 「[[ドナ (リッチー・ヴァレンスの曲)|ドナ]] / [[ラ・バンバ]]」 * [[リトル・リチャード]] 「グッド・ゴーリー、ミス・モーリー」 *[[浜村美智子]]「監獄ロック」 *[[平尾昌晃|平尾昌章]]「[[星は何でも知っている]]」「ダイアナ」「監獄ロック」「リトル・ダーリン」「ルシヤ」「心のうずくとき」 *[[ミッキー・カーチス]]「月影のなぎさ」「君は我がさだめ」 *[[三波春夫]]「旅笠道中」 *[[山下敬二郎]]「[[バルコニーに座って|バルコニーに坐って]]/[[ダイアナ (ポール・アンカの曲)|ダイアナ]]」「クレイジー・ラヴ」「敬ちゃんの[[ジングルベル]]/ブルー・クリスマス」 === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第39回(1958年上半期) - [[大江健三郎]]『飼育』 ** 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第39回(1958年上半期) - [[山崎豊子]]『花のれん』、榛葉英治『赤い雪』 ** 第40回(1958年下半期) - [[城山三郎]]『総会屋錦城』、多岐川恭『落ちる』 === 映画 === {{See also|1958年の映画}} * [[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]](監督:[[テレンス・フィッシャー]]) * [[黒い罠]](監督:[[オーソン・ウェルズ]]) * [[死刑台のエレベーター]](監督:[[ルイ・マル]]) * [[灰とダイヤモンド (映画)|灰とダイヤモンド]](監督:[[アンジェイ・ワイダ]]) * [[めまい (映画)|めまい]](監督:[[アルフレッド・ヒッチコック]]) * [[隠し砦の三悪人]](監督:[[黒澤明]]) * [[ハエ男の恐怖]] * [[白蛇伝]] * [[裸の大将 (映画)|裸の大将]] * [[美女と液体人間]] * [[大怪獣バラン]] * [[手錠のまゝの脱獄]] * [[フランケンシュタインの復讐]] * [[楢山節考 (1958年の映画)|楢山節考]](監督:[[木下惠介]]) * [[張込み#映画|張込み]](監督:[[野村芳太郎]]) * [[無法松の一生_(1958年の映画)|無法松の一生]](監督:[[稲垣浩]]) * [[炎上 (映画)|炎上]] * [[月光仮面#東映版|月光仮面第一部]] * [[月光仮面#東映版|月光仮面第二部 絶海の死斗]] * [[社長三代記]] === テレビ === {{See also|1958年のテレビ (日本)}} * [[月光仮面]] * [[事件記者 (テレビドラマ)|事件記者]] * [[バス通り裏]] * [[光子の窓]] * [[やりくりアパート]] * [[ロッテ 歌のアルバム]] * [[部長刑事]] * [[サンヨーテレビ劇場]] / [[私は貝になりたい]] * [[東芝日曜劇場]] / [[マンモスタワー]] * 開局 - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[東海テレビ放送|東海テレビ]]・ラジオ九州テレビ(現在の[[RKB毎日放送]])・[[テレビ西日本]]・[[新潟放送]]・[[信越放送]]・[[静岡放送]]・[[北陸放送]]・[[RSKテレビ|山陽放送テレビ]]・[[西日本放送テレビ]]・[[南海放送]] === ラジオ === {{See also|1958年のラジオ (日本)}} * 7月1日、[[大阪放送]](OBC、ラジオ大阪)開局 * 12月24日、ラジオ関東(JORF、現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])開局 === その他 === {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |何はなくとも江戸むらさき||[[江戸むらさき]]||[[桃屋]]||[[三木のり平]](声)||- |- |アンクル・トリス登場||[[トリスウイスキー]]||[[サントリー|寿屋]]||[[柳原良平]](画)||- |- |ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー||サッポロビール||[[サッポロビール|日本麦酒]]||-||- |- |リボンちゃん、ハーイ||リボンジュース||日本麦酒||[[リボンちゃん]](アニメ)||- |- |} == 誕生 == [[ファイル:Alan Trammell.jpg|thumb|120px|元メジャーリーガー[[アラン・トランメル]](2月21日)]] [[ファイル:Sharon Stone KV.jpg|thumb|120px|女優[[シャロン・ストーン]](3月10日)]] [[ファイル:Albert II Monaco (2008).jpg|thumb|120px|モナコ大公[[アルベール2世 (モナコ大公)|アルベール2世]](3月14日)]] [[ファイル:Prince at Coachella.jpg|thumb|120px|歌手[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]](6月7日)]] [[ファイル:Huguito.jpg|thumb|120px|元サッカー選手[[ウーゴ・サンチェス]](7月11日)]] [[ファイル:Tatsunori Hara 2009 Japan Series.jpg|thumb|120px|読売ジャイアンツ監督[[原辰徳]](7月22日)]] [[ファイル:Madonna at the premiere of I Am Because We Are.jpg|thumb|120px|「ポップスの女王」[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](8月16日)]] [[ファイル:TIM ROBBINS(PressConference).jpg|thumb|120px|俳優・映画監督[[ティム・ロビンス]](10月16日)]] [[ファイル:Lions Maneger Hatsuhiko Tsuji.jpg|thumb|120px|埼玉西武ライオンズ監督[[辻発彦]](10月24日)]] [[ファイル:Yuko Ando.jpg|thumb|120px|ニュースキャスター[[安藤優子]](11月19日)]] [[ファイル:Nobuyuki Fukumoto.jpg|thumb|120px|漫画家[[福本伸行]](12月10日)]] {{see also|Category:1958年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[しりあがり寿]]、[[漫画家]] * 1月1日 - [[芦沢真矢]]、元[[プロ野球選手]] * [[1月2日]] - [[ウラディーミル・オフチニコフ]]、[[ピアニスト]] * 1月2日 - [[黒田真治]]、プロ野球選手 * [[1月4日]] - [[三田紀房]]、漫画家 * [[1月4日]] - [[宮本亞門]]、演出家 * [[1月5日]] - [[八神純子]]、シンガーソングライター * [[1月6日]] - [[CHAGE]]、[[シンガーソングライター]]([[CHAGE and ASKA]]) * [[1月7日]] - [[千住博]]、[[日本画家]] * 1月7日 - [[三宅純]]、[[作曲家]] * [[1月10日]] - [[エディ・チーバー]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[1月11日]] - [[小野健一 (声優)|小野健一]]、[[声優]] * [[1月14日]] - [[深水彰彦]]、ミュージカル俳優 * [[1月15日]] - [[宮崎緑]]、[[国際政治学者]]・元[[ニュースキャスター]] * [[1月17日]] - [[田中雅美 (作家)|田中雅美]]、[[小説家]] * 1月17日 - [[仁和令子]]、女優(+ [[2018年]]) * [[1月18日]] - [[ベルナール・ジャンジニ]]、元[[サッカー選手]] * [[1月20日]] - [[天田益男]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.dropbox.com/s/00cpl85jr6xm9mg/amada_masuo.pdf|title=天田益男|format=PDF|publisher=劇団青年座 |accessdate=2020-11-25}}</ref>、声優 * [[1月22日]] - [[小林誠二]]、元プロ野球選手 * 1月22日 - [[筒井大助]]、[[野球選手]] * [[1月24日]] - [[永田昌弘]]、野球選手 * [[1月25日]] - [[平井卓也]]、衆議院議員 * [[1月26日]] - [[マイク・パターソン]]、元プロ野球選手 * 1月26日 - [[友寄正人]]、[[プロ野球審判員]] * [[1月30日]] - [[石川さゆり]]、[[演歌歌手]] * 1月30日 - [[白坂紀子]]、女優 === 2月 === * [[2月1日]] - [[堀川りょう]]、[[俳優]]、声優 * 2月1日 - [[みうらじゅん]]、[[漫画家]]・[[イラストレーター]] * [[2月2日]] - [[山田亘]](山田わたる:山田ワタル)、[[音楽家|ミュージシャン]]・[[ドラマー]]([[FENCE OF DEFENSE]]) * [[2月3日]] - [[松下建夫]]、[[プロ野球選手]] * [[2月4日]] - [[時任三郎]]、[[俳優]]・[[歌手]] * 2月4日 - [[東野圭吾]]、[[小説家]] * [[2月6日]] - [[石川寛門]]、作曲家・[[シンガーソングライター]] * [[2月12日]] - [[太田純]]、[[三井住友フィナンシャルグループ]][[代表執行役]][[社長]] * [[2月14日]] - [[住友一哉]]、元プロ野球選手 * [[2月15日]] - [[多賀竜昇司]]、元大相撲力士・[[関脇]]・勝ノ浦親方 * [[2月16日]] - [[金田喜稔]]、[[サッカー]]解説者・元サッカー選手 * [[2月18日]] - [[松原千明]]、[[俳優|女優]]・[[タレント]] (+[[2022年]]) * [[2月20日]] - [[かとうかず子]]、[[俳優|女優]] * 2月20日 - [[高塚哲広]]、[[気象予報士]] * [[2月21日]] - [[引間克幸]]、元プロ野球選手 * 2月21日 - [[アラン・トランメル]]、元[[メジャーリーガー]]([[遊撃手]]) * [[2月23日]] - [[とり・みき]]、[[漫画家]] * [[2月24日]] - [[ASKA]](旧称:飛鳥涼)、シンガーソングライター([[CHAGE and ASKA]]) * [[2月26日]] - [[宇佐美毅 (日本文学者)|宇佐美毅]]、[[国文学者]] * [[2月27日]] - [[中村うさぎ]]、[[小説家]]・[[エッセイスト]] * [[2月28日]] - [[ダラス・ウイリアムズ]]、プロ野球選手 === 3月 === * [[3月2日]] - [[芳賀道也]]、元[[山形放送]]アナウンサー * [[3月3日]] - [[栗田貫一]]、ものまね[[タレント]] * [[3月5日]] - [[ウラジーミル・ベスソノフ]]、元サッカー選手 * 3月5日 - [[アンディ・ギブ]]、歌手(+ [[1988年]]) * [[3月6日]] - [[佐野元国]]、元[[プロ野球選手]] * 3月6日 - [[山本穰]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]]) * [[3月7日]] - [[田島吉秋]]、元[[プロボクサー]] * 3月7日 - [[隂山英男]]、[[教育者]] * 3月7日 - [[井上倫宏]]、俳優、声優(+ [[2022年]]) * [[3月8日]] - [[しげの秀一]]、漫画家 * [[3月9日]] - [[未唯mie]]、[[ピンク・レディー]] 歌手・女優 * [[3月10日]] - [[シャロン・ストーン]]、女優 * 3月10日 - [[家中宏]]、俳優・声優 * 3月10日 - [[スティーヴ・ハウ (野球)|スティーヴ・ハウ]]、[[メジャーリーガー]]([[投手]])(+ [[2006年]]) * [[3月11日]] - [[織田哲郎]]、[[音楽家|ミュージシャン]]・[[作曲家]] * 3月11日 - [[エディ・ローソン]]、元[[オートバイ]]レーサー * [[3月13日]] - [[田中義剛]]、[[タレント]]・[[シンガーソングライター]]・[[実業家]] * [[3月14日]] - [[石崎信弘]]、プロ[[サッカー]]監督・サッカー指導者 * 3月14日 - [[ダグ・フォウト]]、[[調教師]] * 3月14日 - [[アルベール2世 (モナコ大公)|アルベール2世]]、[[モナコ]][[大公]] * [[3月15日]] - [[谷真一]]、プロ野球選手 * [[3月16日]] - [[吉良州司]]、政治家 * [[3月18日]] - [[加藤正次]]、プロ野球選手 * [[3月20日]] - [[ホリー・ハンター]]、女優 * [[3月21日]] - [[シルヴィア (歌手)|シルヴィア]]、歌手・元([[ロス・インディオス]]&シルビア)(+ [[2010年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20101129/enn1011291158000-n1.htm|title=シルヴィアさん、がん死 前夫と一人息子が献身看護も|work=ZAKZAK|publisher=株式会社 産経デジタル(SANKEI DIGITAL INC.)|accessdate=2020-12-09|date=2010-11-29}}</ref>) * 3月21日 - [[田崎真也]]、[[ソムリエ]] * [[3月22日]] - [[真島茂樹]]、ダンサー・俳優・歌手 * 3月22日 - [[糸数勝彦]]、プロ野球選手 * [[3月24日]] - [[ブルース・ハースト]]、野球選手([[投手]]) * [[3月25日]] - [[新井正人]]、歌手・作曲家 * [[3月26日]] - [[エリオ・デ・アンジェリス]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(+ [[1986年]]) * [[3月30日]] - [[坂東眞砂子]]、[[小説家]](+ [[2014年]]) * 3月30日 - [[石黒ケイ]]、歌手・女優 === 4月 === * [[4月1日]] - [[川上弘美]]、[[小説家]] * [[4月2日]] - [[伊藤咲子]]、歌手 * 4月2日 - [[松沢成文]]、政治家 * [[4月4日]] - [[山本昌邦]]、元サッカー選手・サッカー指導者 * [[4月7日]] - [[安達忍]]、声優 * 4月7日 - [[青島健太]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月8日]] - [[久保康生]]、元プロ野球選手 * 4月8日 - [[森下愛子]]、女優 * [[4月9日]] - [[小柳友貴美]]、女優 * [[4月10日]] - [[イェフィム・ブロンフマン]]、[[ピアニスト]] * [[4月11日]] - [[岡部憲章]]、元プロ野球選手 * 4月11日 - [[谷良治]]、元プロ野球選手 * [[4月12日]] - [[津山栄一]]、元俳優 * [[4月13日]] - [[萬田久子]]、女優 * [[4月14日]] - [[桜田淳子]]、歌手・女優 * [[4月15日]] - [[山崎隆造]]、元プロ野球選手 * [[4月16日]] - [[田中孝彦]]、[[国際政治学者]] * [[4月18日]] - [[小宮悦子]]、[[ニュースキャスター]] * [[4月21日]] - [[臼井儀人]]、漫画家(+ [[2009年]]) * 4月21日 - [[君塚良一]]、[[脚本家]]・[[映画監督]]・[[放送作家]] * [[4月24日]] - [[河内淳一]]、[[ギタリスト]]・[[歌手]]・[[音楽プロデューサー]] * [[4月25日]] - [[栃司哲史]]、大相撲元力士・入間川親方 * [[4月26日]] - [[ジョニー・ダンフリーズ]]、元F1ドライバー * 4月26日 - [[ロブ・マンフレッド]]、第10代[[MLBコミッショナー]] * 4月26日 - [[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]、[[オウム真理教]]の元信徒 [[オウム真理教事件]]実行犯の1人 * [[4月27日]] - [[酒井哲哉]]、[[政治学者]] * [[4月28日]] - [[植村隆]]、元[[朝日新聞社]]記者 * [[4月30日]] - [[沼澤茂美]]、[[天体写真|天体写真家]]・[[天文学|天文]][[イラストレーター]] * 4月30日 - [[山村勝彦]]、プロ野球選手 * 4月30日 - [[畦元将吾]]、政治家 === 5月 === * [[5月1日]] - [[渡田均]]、[[プロ野球審判員]] (+ [[2020年]]) * [[5月2日]] - [[秋元康]]、[[放送作家]]・[[作詞家]]・[[タレント]] * [[5月3日]] - [[新井一典]]、声優 * [[5月4日]] - [[キース・ヘリング]]、[[画家]](+ [[1990年]]) * 5月4日 - [[高元勝彦]]、[[プロ野球選手]] * [[5月5日]] - [[井上哲士]]、政治家 * [[5月8日]] - [[坪内祐三]]、文芸評論家(+ [[1990年|2020年]]) * 5月8日 - [[村中秀人]]、[[野球選手]] * [[5月9日]] - [[永江朗]]、ルポライター * 5月9日 - [[ダグ・ローマン]]、元プロ野球選手 * [[5月11日]] - [[久米小百合]](久保田早紀)、歌手・[[作詞家]]・[[作曲家]] * [[5月12日]] - [[應武篤良]]、アマチュア野球指導者 * [[5月13日]] - [[小林まこと]]、漫画家 * [[5月14日]] - [[陳淑樺]]、台湾歌手 * [[5月18日]] - [[金城漢]]、[[大韓民国|韓国]]の元プロ野球選手 * [[5月20日]] - [[西村博巳]]、元プロ野球選手 * 5月20日 - [[赤嶺賢勇]]、元プロ野球選手 * [[5月21日]] - [[芦辺拓]]、小説家 * [[5月23日]] - [[西川峰子]]、歌手・女優 * [[5月24日]] - [[佐々木則夫 (サッカー指導者)|佐々木則夫]]、サッカー指導者 * [[5月25日]] - [[石原修治]]、プロ野球選手 * [[5月26日]] - [[近藤昭一]]、政治家 * [[5月27日]] - [[相本久美子]]、女優、[[タレント]] * [[5月30日]] - [[宇野勝]]、元プロ野球選手 * [[5月31日]] - [[生沢佑一]]、歌手 * [[5月31日]] - [[山本敏博]]、元[[電通]][[代表取締役]][[社長]] === 6月 === * [[6月1日]] - [[酒井圭一]]、元[[プロ野球選手]] * [[6月3日]] - [[野田国義]]、[[政治家]] * [[6月5日]] - [[アフメド・アブドラ・モハメド・サンビ]]、[[コモロ]]の[[大統領]] * [[6月7日]] - [[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]<ref name=publicist>{{cite news | url=http://abc7ny.com/entertainment/pop-music-superstar-prince-has-died-at-his-home-in-minneapolis-publicist-says/1302615/ | title=Pop music superstar Prince has died at his home in Minneapolis, publicist says | date=April 21, 2016 | accessdate=November 6, 2020}}</ref>、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2016年]]) * [[6月9日]] - [[くさか里樹]]、[[漫画家]] * [[6月17日]] - [[中原理恵]]、[[歌手]]・[[俳優|女優]] * [[6月20日]] - [[橋本敬司]]、元プロ野球選手 * 6月20日 - [[ディッキー・ソン]]、元メジャーリーガー([[遊撃手]]) * [[6月24日]] - [[塩屋翼]]、声優 * 6月24日 - [[タイニー・リスター・Jr.]]、俳優、[[プロレスラー]](+ [[2020年]]) * [[6月27日]] - [[伊藤克信]]、俳優・競輪評論家・[[タレント]] * [[6月28日]] - [[弓岡敬二郎]]、元プロ野球選手 * 6月28日 - [[セルゲイ・シャフライ (フィギュアスケート選手)|セルゲイ・シャフライ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[6月29日]] - [[ロザ・モタ|ロサ・モタ]]、[[マラソン]]選手 === 7月 === * [[7月1日]] - [[岡田斗司夫]]、[[ノンフィクション作家]] * [[7月2日]] - [[ミルスワミー・アナドゥライ]]、宇宙工学者 * [[7月4日]] - [[続木敏之]]、元[[プロ野球選手]] * 7月4日 - [[上野克二]]、元プロ野球選手 * [[7月7日]] - [[金井夕子]]、歌手 * 7月7日 - [[森本浩史]]、映画監督 * [[7月9日]] - [[南流石]]、[[振付師|振付演出家]] * 7月9日 - [[久本雅美]]、[[芸人]] * 7月9日 - [[鳴海章]]、作家 * 7月9日 - [[佐久田脩]]、俳優、声優(+ [[2020年]]) * [[7月11日]] - [[ウーゴ・サンチェス]]、元サッカー選手 * 7月11日 - [[マーク・レスター]]、イギリスの元[[子役]] * [[7月13日]] - [[山口二郎]]、政治学者 * [[7月15日]] - [[古川康]]、政治家 * [[7月17日]] - [[ウォン・カーウァイ]]、香港の[[映画監督]]・[[脚本家]] * [[7月18日]] - [[久保寺雄二]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20100101Z00002220.html 【1月4日】1985年(昭60) 突然もがき苦しんで…26歳久保寺雄二、就寝中に突然死]</ref>、元プロ野球選手(+ [[1985年]]) * [[7月19日]] - [[木村和司]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])・サッカー指導者 * [[7月20日]] - [[北島健二]]、[[音楽家|ミュージシャン]]・[[ギタリスト]]([[FENCE OF DEFENSE]]・[[PEARL (バンド)|PEARL]]) * 7月20日 - [[君波隆祥]]、元プロ野球選手 * [[7月22日]] - [[原辰徳]]、元プロ野球選手・[[読売ジャイアンツ]]監督 * 7月22日 - [[イヴァ・ビトヴァ]]、[[音楽家]] * [[7月24日]] - [[ミック・カーン]]、ミュージシャン(+ [[2011年]]) * [[7月25日]] - [[黒田真二]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]]) * [[7月26日]] - [[高泉淳子]]、女優・劇作家 * 7月26日 - [[アンジェラ・ヒューイット]]、[[ピアニスト]] * [[7月27日]] - [[クリストファー・ディーン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[7月28日]] - [[サエキけんぞう]]、ミュージシャン・[[作詞家]] * [[7月29日]] - [[三屋裕子]]、元[[バレーボール]]選手 * [[7月30日]] - [[ケイト・ブッシュ]]、[[歌手]] * 7月30日 - [[日垣隆]]、[[ジャーナリスト]]・[[ノンフィクション]]ライター === 8月 === * [[8月2日]] - [[鴻上尚史]]、[[劇作家]]・[[演出家]] * 8月2日 - [[速水奨]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=889|title=速水 奨のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-10}}</ref>、俳優・声優 * 8月2日 - [[高門清彦]]、政治家 * [[8月4日]] - [[江川紹子]]、[[ジャーナリスト]] * [[8月5日]] - [[上田勇]]、政治家 * [[8月6日]] - [[辰巳琢郎]]、俳優 * [[8月7日]] - [[池下ユミ]]、元女子プロレスラー * 8月7日 - [[松浦理英子]]、[[小説家]] * 8月7日 - [[高橋俊昌]]、[[漫画編集者]]、『[[週刊少年ジャンプ]]』第7代編集長(+ [[2003年]]) * [[8月12日]] - [[陣内孝則]]、俳優 * 8月12日 - [[土井亨]]、政治家 * [[8月13日]] - [[高橋ジョージ]]、[[ボーカリスト]]([[THE 虎舞竜]]) * [[8月14日]] - [[井上純一 (俳優)|井上純一]]、俳優・声優 * [[8月16日]] - [[マドンナ (歌手)|マドンナ]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[8月17日]] - [[ベリンダ・カーライル]]、[[歌手]] * [[8月19日]] - [[西本和美]]、元[[プロ野球選手]] * 8月19日 - [[山本竜二]]、[[AV男優]] * 8月19日 - [[ゲイリー・ガイエティ]]、野球選手([[三塁手]]) * [[8月22日]] - [[林アキラ]]、歌手・[[ミュージカル]]俳優・[[作曲家]](6代目[[うたのおにいさん]]) * [[8月23日]] - [[フリオ・フランコ]]、[[メジャーリーガー]]([[内野手]]) * 8月23日 - [[佐藤しのぶ (歌手)|佐藤しのぶ]]、[[声楽家]]・[[ソプラノ]][[歌手]](+ [[2019年]]) * 8月23日 - [[大野方栄]]、歌手 * [[8月25日]] - [[ティム・バートン]]、[[映画監督]] * [[8月25日]] - [[岩井三四二]]、[[小説家]] * [[8月27日]] - [[姫野カオルコ]]、小説家 * [[8月28日]] - [[スコット・ハミルトン (フィギュアスケート選手)|スコット・ハミルトン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月29日]] - [[マイケル・ジャクソン]]、[[ミュージシャン]]・歌手(+ [[2009年]]) * 8月29日 - [[垂水藤太]]、俳優・[[ファッションモデル]] * [[8月30日]] - [[西村麻聡]]、ミュージシャン・[[ベーシスト]]([[FENCE OF DEFENSE]]) * [[8月31日]] - [[小金沢昇司]]、[[歌手]] * [[8月31日]] - [[ジョン・ディーバス]]、元[[マイナーリーガー]] * 8月31日 - [[日比野克彦]]、[[現代美術家]] === 9月 === * [[9月3日]] - [[覚田修]]、ミュージシャン(元[[BLACK CATS]]) *[[9月7日]] - [[ダニー・チャン]]、歌手(+ [[1993年]]) * [[9月8日]] - [[宮本充]]、声優 * [[9月9日]] - [[長江英和]]、俳優 * [[9月10日]] - [[寺島尚正]]、[[文化放送]][[アナウンサー]] * 9月10日 - [[高沢秀昭]]、元[[プロ野球選手]] * [[9月11日]] - [[アニマル・レスリー]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * 9月11日 - [[柴田惣一]]、[[東京スポーツ]]記者 * [[9月13日]] - [[玉置浩二]]、歌手([[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]) * [[9月14日]] - [[ロバート・マッコール]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1991年]]) * [[9月16日]] - [[オーレル・ハーシュハイザー]]、元[[メジャーリーガー]]([[投手]]) * 9月16日 - [[ネヴィル・サウスオール]]、元サッカー選手 * [[9月17日]] - [[マンフレート・ホーネック]]、[[指揮者]] * [[9月18日]] - [[木村孝]]、元プロ野球選手 * 9月18日 - [[上坂嘉彦]]、プロ野球選手 * [[9月19日]] - [[李萬洙]]、野球選手 * [[9月20日]] - [[ミヤコ (お笑い芸人)|非常階段ミヤコ]]、[[漫才師]]([[非常階段 (お笑いコンビ)|非常階段]])(+ [[1996年]]) * [[9月22日]] - [[松村あゆみ]]、[[テレビプロデューサー]]・テレビ[[演出家]]・[[脚本家]] * [[9月25日]] - [[森岡正博]]、[[哲学者]] * [[9月28日]] - [[和泉宏隆]]、[[ピアニスト]] === 10月 === * [[10月1日]] - [[中村正人]]、[[ミュージシャン]] ([[DREAMS COME TRUE]]) * 10月1日 - [[阪本順治]]、映画監督 * [[10月2日]] - [[ウェイン・トゥープス]]、[[歌手]]・[[アコーディオン]]奏者 * [[10月3日]] - [[山田勉 (外野手)|山田勉]]、元[[プロ野球選手]] * [[10月5日]] - [[豊川誕]]、元歌手 * [[10月9日]] - [[市川和正]]、元プロ野球選手 * [[10月13日]] - [[森昌子]]、[[歌手]] * 10月13日 - [[加門亮]]<ref name=":0">{{Cite news2|title=「男の慕情」演歌歌手の加門亮さん死去 62歳|newspaper=ニッカンスポーツ・コム|date=2020-03-31|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202003310000194.html|agency=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2020-11-18}}</ref>、[[歌手]](+ [[2020年]]) * [[10月13日]] - [[まつもと泉]]、[[漫画家]](+ [[2020年]]<ref name="WAVE">{{Cite web|和書|url=http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi|title=『まつもと泉についてWAVE STUDIOから皆さまへのご報告』|work=IZUMI MATSUMOTO Home Page|accessdate=2020-11-04}}</ref>) * [[10月15日]] - [[山川豊]]、[[演歌歌手]] * [[10月16日]] - [[ティム・ロビンス]]、俳優・[[映画監督]] * 10月16日 - [[津末英明]]、元プロ野球選手 * 10月16日 - [[大岡玲]]、[[作家]]・イタリア文学者 * [[10月17日]] - [[山口忠良]]、元プロ野球選手 * 10月17日 - [[安田尚弘]]、プロ野球選手 * [[10月18日]] - [[石井めぐみ]]、[[俳優|女優]] * [[10月19日]] - [[原博実]]、[[サッカー]][[監督]]・元サッカー選手 * [[10月20日]] - [[大石大二郎]]、元プロ野球選手 * [[10月20日]] - [[ヴィゴ・モーテンセン]]、俳優・詩人・写真家 * 10月20日 - [[イーヴォ・ポゴレリチ]]、[[ピアニスト]] * [[10月21日]] - [[村上幸子]]、歌手(+[[1990年]]) * 10月21日 - [[岡田京子]]、元女優(+[[1986年]]) * [[10月22日]] - [[高木豊]]、元プロ野球選手・[[野球解説者]] * 10月22日 - [[室井滋]]、女優 * [[10月24日]] - [[ロバート・W・スミス]]、作曲家 * 10月24日 - [[辻発彦]]、元プロ野球選手・[[埼玉西武ライオンズ]]監督 * [[10月27日]] - [[立花義家]]、元プロ野球選手 * 10月27日 - [[藤川清彦]]、元俳優 === 11月 === * [[11月1日]] - [[ジョン・カビラ]]、[[タレント]] * [[11月2日]] - [[ウィリー・マギー]]、野球選手([[外野手]]) * 11月2日 - [[山内ケンジ]]、CMディレクター・演出家・映画監督 * [[11月4日]] - [[井上祐美子]]、[[小説家]] * 11月4日 - [[加地尚武]]、小説家 * 11月4日 - [[ウーベ・ベーベルスドルフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[11月10日]] - [[下田充利]]、[[プロ野球選手]] * 11月10日 - [[幅しげみ]]、ピアニスト * [[11月12日]] - [[岩崎宏美]]、[[歌手]] * [[11月15日]] - [[三浦リカ]]、女優 * 11月15日 - [[堀井恒雄]]、元プロ野球選手 * [[11月16日]] - [[原口次夫]]、元[[騎手]]・[[調教師]]([[愛知県競馬組合]]) *11月16日 - [[ロベルト・ゲレーロ]]、元F1ドライバー * [[11月17日]] - [[メアリー・エリザベス・マストラントニオ]]、女優 * [[11月19日]] - [[安藤優子]]、[[ニュースキャスター]] * [[11月20日]] - [[杉浦圭子]]、[[日本放送協会]]アナウンサー * [[11月22日]] - [[王才軍]]、[[バレエ]]ダンサー * [[11月25日]] - [[伊藤伸久]]、[[岐阜放送]][[アナウンサー]] * [[11月27日]] - [[小室哲哉]]、[[音楽プロデューサー]]・[[ミュージシャン]]([[TM NETWORK]]・[[globe]]) * 11月27日 - [[土居裕子]]、[[歌手]] * 11月27日 - [[マイク・ソーシア]]、MLB監督、元[[メジャーリーガー]]([[捕手]]) * [[11月28日]] - [[木原彰彦]]、プロ野球選手 * [[11月30日]] - [[杉浦日向子]]、漫画家・江戸風俗研究家・エッセイスト(+ [[2005年]]) === 12月 === * [[12月1日]] - [[三宅宗源]]、元[[プロ野球選手]] * [[12月2日]] - [[浅見美那]]、女優 * 12月2日 - [[ランディ・ガードナー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[12月3日]] - [[天川由記子]]、政治家 * [[12月5日]] - [[山田五郎]]、[[評論家]]・[[タレント]]・[[コラムニスト]] * [[12月5日]] - [[山田和英]]、元プロ野球選手 年中夢球野球塾・統括塾長謙相談役 * 12月5日 - [[原田真二]]、[[シンガーソングライター]] * [[12月7日]] - [[篠宮愼一]]、元プロ野球審判 *[[12月8日]] - [[篠田昌已|篠田昌己]]、ミュージシャン・サックス奏者、[[JAGATARA|じゃがたら]]のメンバー(+ [[1992年]]) * [[12月8日]] - [[出渕裕]]、漫画家・イラストレーター・アニメーター * [[12月10日]] - [[福本伸行]]、漫画家 * [[12月11日]] - [[宮崎美子]]、女優 * [[12月12日]] - [[長村裕之]]、プロ野球選手 * [[12月13日]] - [[樋口可南子]]、女優 * 12月13日 - [[芦川よしみ]]、女優・歌手 * [[12月13日]] - [[リン=ホリー・ジョンソン]]、フィギュアスケート選手・女優 * [[12月15日]] - [[桜井弘明]]、[[アニメーション映画|アニメ]][[監督]] * [[12月15日]] - [[篠井英介]]、俳優 * 12月15日 - [[高橋がなり]]、[[AV監督]]・[[ソフト・オン・デマンド]]非常勤取締役 * [[12月15日]] - [[リッキー・ヘンダーソン]]、元メジャーリーガー([[外野手]]) * [[12月17日]] - [[假屋崎省吾]]、華道家 * [[12月18日]] - [[金沢次男]]、元プロ野球選手 * [[12月19日]] - [[山中秀樹]]、[[フリーアナウンサー]]・[[タレント]] * [[12月20日]] - [[はやみけい]]、声優 * 12月20日 - [[桂米團治 (5代目)|5代目桂米團治]]、落語家(前名[[桂小米朝]]) * 12月20日 - junko、ミュージシャン(ロックバンド『[[打首獄門同好会]]』ベーシスト) * [[12月21日]] - [[柳沢高雄]]、元プロ野球選手 * [[12月22日]] - [[ジョージ・ライト (外野手)|ジョージ・ライト]]、元プロ野球選手 * [[12月23日]] - [[ダーク広和]]、[[マジシャン (奇術)|奇術師]] * [[12月24日]] - [[樋口宗孝]]、ミュージシャン([[LOUDNESS]]、元[[レイジー|LAZY]])(+ [[2008年]]) * [[12月24日]] - [[白都真理]]、女優 * [[12月26日]] - [[原田美枝子]]、女優 * [[12月27日]] - [[小川達明]]、元プロ野球選手 * [[12月28日]] - [[藤山直美]]、女優 * [[12月29日]] - [[早乙女愛]]、女優(+ [[2010年]]) === 月日不明 === * [[犬丸りん]]、[[漫画家]](+ [[2006年]]) * 加藤由美子、作曲家、ピアニスト * [[後藤洋]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * [[山田晴通]]、[[地理学者]] * [[吉田あつし]]、[[経済学者]] == 死去 == [[ファイル:Ernst Heinkel.jpg|thumb|120px|飛行機設計者[[エルンスト・ハインケル]](1月30日)]] [[ファイル:Hitoshi Yamakawa.JPG|thumb|120px|[[労農派]]における[[マルクス主義]]の指導的理論家[[山川均]](3月23日){{Squote|「われわれが第一歩をふみしめるのは、第二歩をふみだすためである。保守主義者は第一歩をふみしめることを知って、第二歩をふみだすことを忘れている。」 - 「無産階級運動の方向転換」より}}]] [[ファイル:香月弘美.jpg|thumb|120px|宝塚女優[[香月弘美]]、出演中に事故死(4月1日)]] [[ファイル:Szeged, Rákóczi tér, Nagy Imre-szobor, Lapis4KJ.jpg|thumb|120px|ハンガリー首相[[ナジ・イムレ]]処刑(6月16日)]] [[ファイル:Wolfgang Pauli ETH-Bib Portr 01042.jpg|thumb|120px|[[パウリの排他原理]]を発見した物理学者[[ヴォルフガング・パウリ]](12月15日)]] {{see also|Category:1958年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[エドワード・ウェストン]]、[[写真家]](* [[1886年]]) * [[1月11日]] - [[エドナ・パーヴァイアンス]]、女優(* [[1895年]]) * [[1月14日]] - [[西岡竹次郎]]、[[政治家]]・[[実業家]](* [[1890年]]) * [[1月15日]] - [[湯浅禎夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1902年]]) * [[1月21日]] - [[アタウルフォ・アルヘンタ]]、[[指揮者]](* [[1913年]]) * [[1月23日]] - [[北原怜子]]、篤志家(* [[1929年]]) * [[1月30日]] - [[エルンスト・ハインケル]]、[[飛行機]]設計者(* [[1888年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[クリントン・デイヴィソン]]、[[物理学者]](* [[1881年]]) * [[2月3日]] - [[葛生能世]]、[[右翼]]活動家(* [[1874年]]) * [[2月4日]] - [[ヘンリー・カットナー]]、[[SF作家]](* [[1915年]]) * [[2月13日]] - [[ジョルジュ・ルオー]]、[[画家]](* [[1871年]]) * [[2月15日]] - [[徳永直]]、[[小説家]](* [[1899年]]) * [[2月23日]] - [[ユリアン・シトコヴェツキー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1925年]]) * [[2月26日]] - [[横山大観]]、[[日本画家]](* [[1868年]]) === 3月 === * [[3月1日]] - [[ジャコモ・バッラ]]、[[画家]](* [[1871年]]) * [[3月11日]] - [[オーレ・キアク・クリスチャンセン]]、[[レゴ]]創立者(* [[1891年]]) * [[3月15日]] - [[久保栄]]、[[劇作家]]・[[演出家]](* [[1900年]]) * [[3月23日]] - [[山川均]]、[[社会主義]]運動家(* [[1880年]]) * [[3月28日]] - [[築田多吉]]、[[看護師]](* [[1872年]]) * 3月28日 - [[チャック・クライン]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(* [[1904年]]) * [[3月30日]] - [[西山翠嶂]]、[[日本画家]](* [[1879年]]) === 4月 === * [[4月1日]] - [[香月弘美]]、[[宝塚歌劇団]]の劇団員(* [[1936年]]) * [[4月2日]] - [[戸田城聖]]、[[創価学会]]第2代会長(* [[1900年]]) * [[4月10日]] - [[宮地嘉六]]、小説家(* [[1884年]]) * [[4月11日]] - [[コンスタンチン・ユオン]]、[[画家]]・舞台[[デザイナー]](* [[1875年]]) * [[4月16日]] - [[ロザリンド・フランクリン]]、[[物理化学|物理化学者]]・[[生物物理学|生物物理学者]](* [[1920年]]) === 5月 === * [[5月2日]] - [[アルフレート・ヴェーバー]]、[[社会学者]]・[[経済学者]](* [[1868年]]) * [[5月9日]] - [[及川古志郎]]、日本の[[海軍大臣]](* [[1883年]]) * [[5月13日]] - [[仁木他喜雄]]、[[作曲家]](* [[1901年]]) * [[5月17日]] - [[桜井弥一郎]]、[[野球選手]](* [[1883年]]) * [[5月19日]] - [[ロナルド・コールマン]]、俳優(* [[1891年]]) * [[5月29日]] - [[フアン・ラモン・ヒメネス]]、[[詩人]](* [[1881年]]) === 6月 === * [[6月6日]] - [[筈見恒夫]]、[[映画評論家]](* [[1908年]]) * [[6月16日]] - [[ナジ・イムレ]]、[[ハンガリーの首相一覧|ハンガリー首相]](* [[1896年]]) * [[6月20日]] - [[クルト・アルダー]]、[[化学者]](* [[1902年]]) * [[6月24日]] - [[三神吾朗]]、[[野球選手]](* [[1889年]]) * [[6月26日]] - [[ジョージ・オートン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1873年]]) === 7月 === * [[7月6日]] - [[ルイジ・ムッソ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1924年]]) * [[7月14日]] - [[吉阪俊蔵]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]](* [[1889年]]) * 7月14日 - [[ファイサル2世 (イラク王)|ファイサル2世]]、[[イラク王国|イラク王]](* [[1935年]]) * [[7月15日]] - [[藤井浩佑]]、[[彫刻家]](* [[1882年]]) * [[7月18日]] - [[アンリ・ファルマン]]、飛行機開発者(* [[1874年]]) * [[7月27日]] - [[クレア・リー・シェンノート]]、[[アメリカ陸軍]]航空隊[[大尉]](* [[1893年]]) * [[7月30日]] - [[俵国一]]、[[冶金]]学者(* [[1872年]]) === 8月 === * [[8月6日]] - [[モーリス・ジェルモー]]、[[テニス]]選手(* [[1882年]]) * [[8月7日]] - [[田中禎之助]]、[[プロボクサー]](* [[1903年]]) * [[8月14日]] - [[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]、物理学者(* [[1900年]]) * 8月14日 - [[松岡駒吉]]、[[政治家]]・[[労働運動家]](* [[1888年]]) * [[8月15日]] - [[ビッグ・ビル・ブルーンジー]]、[[ブルース]]ミュージシャン(* [[1898年]]) * [[8月17日]] - [[フローラン・シュミット]]、作曲家(* [[1870年]]) * 8月17日 - [[加藤正二 (野球)|加藤正二]]、元[[プロ野球選手]](* [[1914年]]) * [[8月22日]] - [[ロジェ・マルタン・デュ・ガール]]、[[小説家]]・[[劇作家]](* [[1881年]]) * [[8月25日]] - [[レオ・ブレッヒ]]、指揮者(* [[1871年]]) * [[8月26日]] - [[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]、作曲家(* [[1872年]]) * 8月26日 - [[小渕光平]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]](* [[1904年]]) * [[8月27日]] - [[アーネスト・ローレンス]]、物理学者(* [[1901年]]) === 9月 === * [[9月1日]] - [[中西伊之助]]、作家・労働運動家(* [[1887年]]) * [[9月19日]] - [[ルドルフ・ロッカー]]、[[アナルコサンディカリスム]]の活動家(* [[1873年]]) * [[9月20日]] - [[小笠原長生]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]軍人(* [[1867年]]) === 10月 === * [[10月8日]] - [[由谷義治]]、[[政治家]](* [[1888年]]) * [[10月9日]] - [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]、第260代[[ローマ教皇]](* [[1876年]]) * [[10月11日]] - [[モーリス・ド・ヴラマンク]]、画家(* [[1876年]]) * [[10月14日]] - [[安藤広太郎]]、[[農学|農学者]](* [[1871年]]) * 10月14日 - [[ダグラス・モーソン]]、[[探検家]]・[[地質学者]](* [[1882年]]) * [[10月17日]] - [[ポール・アウターブリッジ・ジュニア]]、写真家(* [[1896年]]) * [[10月21日]] - [[ロバート・リンゼイ]]、陸上競技選手(* [[1890年]]) * [[10月24日]] - [[ジョージ・エドワード・ムーア]]、[[哲学|哲学者]](* [[1873年]]) * [[10月30日]] - [[岡田忠彦]]、官僚・政治家(* [[1878年]]) === 11月 === * [[11月15日]] - [[タイロン・パワー]]、俳優(* [[1913年]]) * [[11月17日]] - [[モート・クーパー]]、[[メジャーリーガー]](* [[1913年]]) * [[11月18日]] - [[木村荘八]]、画家(* [[1893年]]) * [[11月20日]] - [[山田孝雄]]、[[日本語学者|国語学者]](* [[1873年]]) * [[11月21日]] - [[メル・オット]]、メジャーリーガー(* [[1909年]]) * [[11月22日]] - [[昇曙夢]]、[[ロシア文学|ロシア文学者]](* [[1878年]]) * [[11月24日]] - [[チャールズ・ケタリング]]、[[技術者]](* [[1876年]]) * [[11月27日]] - [[アルトゥール・ロジンスキ]]、指揮者(* [[1892年]]) * [[11月29日]] - [[ハンス・ヘニー・ヤーン]]、[[作家]]・[[オルガン]]制作者(* [[1894年]]) === 12月 === * [[12月7日]] - [[正岡容]]、作家(* [[1904年]]) * [[12月8日]] - [[トリス・スピーカー]]、メジャーリーグベースボール選手(* [[1888年]]) * [[12月14日]] - [[中山博道]]、[[武道家]](* [[1872年]]) * [[12月15日]] - [[ヴォルフガング・パウリ]]、物理学者(* [[1900年]]) * [[12月16日]] - [[三好十郎]]、小説家・劇作家(* [[1902年]]) * [[12月18日]] - [[山野一郎]]、[[活動弁士]](* [[1899年]]) * [[12月29日]] - [[石井柏亭]]、画家(* [[1882年]]) * [[12月30日]] - [[水島爾保布]]、画家・[[漫画家]](* [[1884年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[パーヴェル・チェレンコフ]]、[[イリヤ・フランク]]、[[イゴール・タム]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[フレデリック・サンガー]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ジョージ・ウェルズ・ビードル]]、[[エドワード・ローリー・タータム]]、[[ジョシュア・レダーバーグ]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ボリス・パステルナーク]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[ドミニク・ピール]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1958|date=2011年7月}} * 海の表面を求めて[[火星]]から漂ってきた[[火星人]]の大群が、初めて地球に到来し世界中に出現する。(小説『{{仮リンク|火星人襲来 (小説)|label=火星人襲来|en|Philip K. Dick bibliography#Short stories}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フィリップ・K・ディック|authorlink=フィリップ・K・ディック |title = ウォー・ヴェテラン ディック中短編集 |publisher = [[社会思想社]] |year = 1992 |pages = 140-142,149 |isbn = 978-4-390-11450-9}}</ref> * 人類初の有人火星探検ロケットが火星怪物の襲撃を受けて遭難。その半年後、救助のために第二次探検隊が火星へと向かう。(映画『[[恐怖の火星探検]]』) * 制御された原子力(凝縮原子トーチランプ)によって、[[アリゾナ州]]の埋没したほら穴に設置していたレコーダーと送信機が[[1956年|2年前]]に再発掘されたことを検知した[[宇宙人|人類以外の生物]]が、人類攻撃のために大量の宇宙船で地球に襲来する。(小説『[[空は船でいっぱい]]』)<ref>{{Cite book |和書 |editor1=浅倉久志|editor1-link=浅倉久志|editor2=伊藤典夫|editor2-link=伊藤典夫 |title = SFマガジン・ベスト2 空は船でいっぱい |publisher = [[早川書房]] |year = 1980 |pages = 207,209,210,216-222 |isbn = 978-4-15-010403-0}}</ref> * [[岩手県]]岩屋村に怪獣[[大怪獣バラン#むささび怪獣 バラン|バラン]]が出現。その後、バランは[[東京国際空港|羽田空港]]に襲来する。(映画『[[大怪獣バラン]]』) * [[ロズウェル (ニューメキシコ州)|ロズヴェル]]でドクターがヴァイペロックスの陰謀を阻止する。(テレビドラマ『[[ドクター・フー]]』) * アメリカの[[火星探査機|探査衛星]]「[[バイキング1号|ヴァイキング1号]]」が、のちに「[[マブラヴ オルタネイティヴ#BETA|BETA]]」と呼ばれることになる地球外起源種と火星で初接触。画像送信の後に交信を絶つ。(ゲーム『[[マブラヴ]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author= 北側寒囲|authorlink=北側寒囲 |title = マブラヴ 3 UNLIMITED 戦争 |publisher = [[集英社]] |year = 2007 |pages = 106-109 |isbn = 978-4-08-630371-2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 吉宗鋼紀|authorlink=吉宗鋼紀 |title = [[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]] 3 虚耗の檻穽 |publisher = [[エンターブレイン]] |year = 2009 |page = 170 |isbn = 978-4-7577-4521-6}}</ref> * ソ連の有人ロケット「コロリョフ1号」が[[月面着陸]]に成功する。(ゲーム『[[ロケットの夏]]』)<ref>『ロケットの夏』オープニングの年表より。</ref> [[ファイル:Shinyokohamaraumenshops1.jpg|thumb|150px|新横浜ラーメン博物館の体感ゾーンは1958年の下町を再現している。]] <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャンニ・モレッリ(編者) |year=2020 |title=ビジュアルスタディ 世界を変えた発明発見 |publisher=すばる舎 |isbn=978-4-7991-0883-3}}<!-- 2020年8月13日第1刷発行 --> == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1958}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176291.pdf 1958(昭和33)年] -「豊かさ」に関する意識の変容(2)冨貴島明、城西大学、2004-08、p107 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1958ねん}} [[Category:1958年|*]]
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1945年
1945年(1945 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和20年。 この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。 ※満洲国は、この年の8月18日に皇帝溥儀が退位し消滅。 ※阮朝は、保大帝の退位により滅亡。 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1945年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和20年。 この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|1945年の日本}} {{年代ナビ|1945}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1940 | 年 = 1945 }} {{year-definition|1945}} この年に[[第二次世界大戦]]が終結したため、[[世界の歴史|世界史]]の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。 == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[乙酉]](きのと とり) * [[中国]] ** [[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]:[[民国紀元|中華民国]]34年 ** [[満洲国]]:[[康徳]]12年1月1日 - 8月18日 * [[日本]] ** [[昭和]]20年 ** [[皇紀]]2605年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[保大 (阮朝)|保大]]19年11月18日 - 保大20年7月23日 * [[仏滅紀元]]:2487年 - 2488年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1364年1月16日 - 1365年1月26日 * [[ユダヤ暦]]:5705年4月16日 - 5706年4月27日 * [[修正ユリウス日]]:31456 - 31820 * [[リリウス日]]:132297 - 132661 <div style="font-size:smaller"> ※満洲国は、この年の[[8月18日]]に[[皇帝]][[愛親覚羅溥儀|溥儀]]が退位し消滅。<br /> ※阮朝は、[[保大帝]]の退位により滅亡。<br /> </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1945}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - 米[[ニューズウィーク]]誌が[[風船爆弾]]の[[モンタナ州]]落下を報道{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月2日]] - [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が[[ニュルンベルク]]を空爆。 ** [[トルコ]]議会が対日断交を決議。 * [[1月6日]] ** [[リンガエン湾]]に侵入した米艦隊が艦砲射撃を開始。 * [[1月9日]] ** [[アメリカ軍]]が[[フィリピン]]の[[ルソン島]]に上陸。 * [[1月12日]] ** [[赤軍|ソ連軍]]が[[ヴィスワ=オーデル攻勢]]を開始。 * [[1月16日]] ** ドイツ国防軍が[[ワルシャワ]]より撤退。 ** [[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]][[富永恭次]]司令官が独断で司令部をフィリピンから[[台湾]]に移す。 ** [[アドルフ・ヒトラー]]が[[総統地下壕]]での退避生活を開始。 * [[1月17日]] - ソ連軍がワルシャワを占領。 * [[1月19日]] - ソ連軍が[[オーデル川]]に到達。 * [[1月22日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[フランクリン・ルーズベルト]]が大統領4期目を開始。 * [[1月23日]] - [[ハンガリー臨時国民政府]]が連合国と休戦。ドイツ軍がアルデンヌ攻勢の中止を決定([[バルジの戦い]]) * [[1月24日]] ** ドイツで[[アグリガット (ロケット)|A4bロケット]]の試射が行われる。 ** ルソン島に上陸した米軍が[[マニラ]]への南進を開始。 * [[1月27日]] ** ソ連軍が[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ強制収容所]]を解放。 ** バルジの戦い終結。 * [[1月29日]] - 米艦載機130機が[[スマトラ島]]を空襲。 === 2月 === * [[2月4日]] - [[ヤルタ会談]]開催。アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]、ソ連指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が対日本戦について協議する。([[2月11日]]まで) * [[2月9日]] - [[エクアドル]]が[[枢軸国]]への宣戦布告を表明。 * [[2月12日]] - [[ペルー]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月13日]] ** ソ連軍、[[ハンガリー]]の[[ブダペスト]]占領([[ブダペスト包囲戦]]終結)。 ** 連合国軍、[[ドレスデン爆撃]]。 ** [[パラグアイ]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月14日]] - [[ベネズエラ]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月16日]] - [[硫黄島の戦い]]開始。 * [[2月22日]] - [[ウルグアイ]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月23日]] ** アメリカ軍、フィリピンのマニラを占領。 ** トルコが枢軸国への宣戦布告ならびに国交断絶を正式に表明。 * [[2月26日]] - [[エジプト]]・[[シリア]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月27日]] - [[レバノン]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[2月28日]] - [[イラン]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 === 3月 === * [[3月1日]] - [[サウジアラビア]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[3月3日]] - ソ連と休戦後中立であった[[フィンランド]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[3月6日]]〜[[3月15日]] - ドイツ軍がハンガリー西部で攻勢をかける([[春の目覚め作戦]])が失敗し、ソ連軍の勝利におわる。 * [[3月10日]] - アメリカ軍が[[東京都|東京]]を空襲。死者は約10万人([[東京大空襲]])。 * [[3月18日]] - アメリカ軍が[[ベルリン]]を空襲。 * [[3月26日]] ** 硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅(硫黄島の組織戦終結)。 ** アメリカ軍が[[沖縄県]][[慶良間諸島]]の[[座間味島]]に上陸([[沖縄戦]]の開始)。 * [[3月27日]] ** 最後の[[V2ロケット]]が[[ロンドン]]を空襲。 ** [[アルゼンチン]]が枢軸国への宣戦布告を表明。 * [[3月29日]] - [[V1飛行爆弾]]による最後のロンドン空襲。 * [[3月30日]] - ソ連軍がドイツ領[[オーストリア]]への侵攻を開始する。 === 4月 === * [[4月1日]] - 米軍が[[沖縄本島]]に上陸。米国による協定違反の[[阿波丸事件]]勃発。 * [[4月5日]] - ソ連が[[日ソ中立条約]]の不延長を通告。 * [[4月7日]] ** [[坊ノ岬沖海戦]]にて[[大和 (戦艦)]]ほか軍艦5隻撃沈。 ** [[鈴木貫太郎内閣]]成立。 * [[4月11日]] ** 米軍が[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]を解放。 ** [[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]・[[チリ]]が日本への宣戦布告ならびに国交断絶を表明。 * [[4月12日]] ** フランクリン・ルーズベルト米大統領急逝、[[ハリー・S・トルーマン]]副大統領が第33代大統領に昇格。 ** [[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]が日本と国交断絶。 * [[4月13日]] - ソ連軍が[[ウィーン]]を占領。 * [[4月15日]] - 英軍が[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]を解放。 * [[4月16日]] ** トルーマン米大統領が「日独の無条件降伏まで戦う」と声明。 ** [[ゼーロウ高地の戦い]]が開始され、ドイツ首都[[ベルリン]]が戦場となる([[ベルリンの戦い]])。 * [[4月20日]] - ソ連軍がベルリン東北郊外に迫り、市街に砲撃を開始。 * [[4月22日]] - ソ連戦車隊がベルリン市街に突入([[ベルリン市街戦]])。 * [[4月25日]] ** ドイツの[[エルベ川]]でソ連軍と米軍が合流([[エルベの誓い]])。 ** [[サンフランシスコ会議]]開催(6月26日まで)、[[国際連合]]創設について議論。 ** [[イタリア社会共和国]]政府崩壊、[[ベニート・ムッソリーニ]]首相らは逃亡する。 * [[4月27日]] - ムッソリーニらが愛人[[クラーラ・ペタッチ]]とともに逮捕される。 * [[4月28日]] - ムッソリーニら[[ベニート・ムッソリーニ#略式処刑|銃殺]]される。 * [[4月29日]] ** 米軍が[[ダッハウ強制収容所]]を解放。 ** [[イギリス空軍|RAF]]が窮乏中のオランダに食料を投下({{仮リンク|マナ作戦|en|Operation Manna}})。 * [[4月30日]] - 独[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]と妻[[エヴァ・ブラウン]]が自殺<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202304290001878.html|title=ジョージ・ワシントンが米国初代大統領に就任/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2023-04-30|accessdate=2023-04-30}}</ref>、遺言により[[カール・デーニッツ]]が大統領に、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が首相に就任。 === 5月 === * [[5月1日]] ** ドイツでゲッベルス首相夫妻が子どもたち6人を殺害後に自殺。 ** [[ユーゴスラビア]]軍が[[トリエステ]]に入る。 ** イギリス軍がラングーン(現在の[[ヤンゴン]])を占領。 * [[5月2日]] - ベルリン陥落。ソ連軍が[[国会議事堂 (ドイツ)|ドイツ国会議事堂]]に赤旗を掲げる([[ライヒスタークの赤旗]])。 * [[5月5日]] ** [[チェコスロバキア]]の[[プラハ]]で対ナチ蜂起({{仮リンク|プラハ蜂起|en|Prague uprising}})。 ** [[デンマーク]]、ドイツ支配から独立。 ** ドイツのデーニッツ大統領がUボートに戦闘停止を命令。 * [[5月7日]] - ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、[[アルフレート・ヨードル]]がフランスのランスで{{仮リンク|ドイツの降伏文書|en|German Instrument of Surrender|label=降伏文書}}に調印。 * [[5月8日]]~[[5月9日]] - ベルリンにおいて、[[ヴィルヘルム・カイテル]]ドイツ国防軍最高司令部総長が参加し、降伏文書の批准式が行われる<ref group="注釈">[[ドイツの歴史|ドイツ史]]では、[[第二次世界大戦]]での敗北によって[[ナチス・ドイツ|ナチ政権]]が崩壊、戦後の再建が開始したことからこの終戦を「{{lang|de|'''Stunde Null'''}}([[零時 (ドイツ史)|零時]])」と表現する({{Cite journal |和書|author=サーラ・スヴェン|title=ドイツと日本における「終戦」「敗戦」「解放」の記憶|publisher = 大阪国際大学|journal=ヨーロッパ研究 |naid=40016029760 |volume=7|pages=5-28 |date=2008-03 |ref=harv }})</ref>。 * [[5月9日]] ** ドイツ国防軍[[中央軍集団]]司令官[[フェルディナント・シェルナー]]元帥が部隊を見捨てて[[Fi 156 (航空機)|シュトルヒ機]]でオーストリアへ逃亡する。 ** ソ連軍第1、第2、第4ウクライナ戦線が[[プラハ]]に入る([[プラハの戦い (第二次世界大戦)|プラハの戦い]])。 ** [[駐日ドイツ大使館]]で、ヒトラーの告別式が行われる。 * [[5月15日]] - [[スロベニア]]での戦闘が停止する([[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線が終結]])。 * [[5月17日]] - オーストリアでシェルナー元帥がアメリカ軍へ投降する(翌日[[アウクスブルク]]の捕虜収容所に送られる)[https://ww2db.com/person_bio.php?person_id=774 <small>出典</small>]。 * [[5月23日]] ** ドイツでデーニッツ大統領らが戦犯として逮捕され、[[フレンスブルク政府]]が解体される。 ** 前[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]が自殺。 ** [[デンマーク]]が日本への宣戦布告を表明。{{要出典|date=2023年1月}} === 6月 === * [[6月5日]] - [[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツに中央政府が存在せず、統治権が連合国4カ国(米英仏ソ)に掌握された]]事が宣言される([[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]])。 * [[6月6日]] ** [[ノルウェー]]国王[[ホーコン7世]]がノルウェーに帰国。 ** [[ブラジル]]が日本への宣戦布告を表明。 * [[6月11日]] - [[カナダ]]で[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|マッケンジー・キング]]が首相に再選。 * [[6月21日]] - アメリカ軍が沖縄を占領。 * [[6月26日]] ** サンフランシスコ会議で[[国際連合憲章]]が調印される。 ** [[ギリシャ]]が日本への宣戦布告を表明。{{要出典|date=2023年1月}} * [[6月29日]] - チェコスロバキアは[[カルパティア・ルテニア]]をソ連に割譲する。 === 7月 === * [[7月5日]] - {{仮リンク|南西太平洋方面軍|label=南西太平洋方面|en|South West Pacific Area (command)}}最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥 (アメリカ合衆国)#元帥 (五つ星元帥)|元帥]]がマニラで[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦闘]]終結を宣言する。 * [[7月6日]] - [[ノルウェー]]が日本への宣戦布告を表明。 * [[7月8日]] - アメリカ国内でドイツ人捕虜の殺害事件([[真夜中の虐殺]])が起こる。 * [[7月16日]] - アメリカ、[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]の実験場で史上初の[[原子爆弾]]の爆発実験([[トリニティ実験]])に成功。 * [[7月17日]] - [[ポツダム会談]]開始。アメリカ大統領[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]、ソ連首相[[ヨシフ・スターリン]]らが参加。 * [[7月21日]] - アメリカ大統領トルーマンが原子爆弾使用を承認する。 * [[7月23日]] - フランス・[[ヴィシー政権]]の元首だった[[フィリップ・ペタン]]が反逆罪で告発される。 * [[7月26日]] ** [[ポツダム宣言]]発表。連合国は日本に降伏を要求する。 ** [[イギリス]]で第二次大戦後初となる総選挙が実施され、[[労働党 (イギリス)|労働党]]が第一党となる。チャーチルは下野し、[[クレメント・アトリー]]が首相の座に就く。 * [[7月28日]] ** [[1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故]]発生、死者14名。 ** 日本はポツダム宣言を黙殺する声明を出す。 === 8月 === * [[8月2日]] - ポツダム会談終了。 * [[8月3日]] - [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[病院船]]「[[橘丸 (東海汽船・2代)|橘丸]]」が米軍により[[拿捕]]、同船が[[国際法]]に違反する形で兵員・兵器を輸送していたことが発覚し陸軍史上最大の千五百名の[[捕虜]]を出す([[橘丸事件]])。 * [[8月6日]]午前8時15分 - [[アメリカ陸軍航空隊|米軍]]が[[広島市への原子爆弾投下]]。 * [[8月8日]]深夜 - ソ連が[[日ソ中立条約]]を破棄、[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦布告]]。 * [[8月9日]] ** 未明にソ連軍が[[満洲]]へ侵攻して[[ソ連対日参戦|対日参戦]]開始。現地の日本人は[[捕虜]]として[[シベリア]]に送られた([[シベリア抑留]])。 ** 午前11時02分、米軍が[[長崎市への原子爆弾投下]]。 * [[8月10日]] - [[モンゴル人民共和国]]が日本への宣戦布告を表明。 * [[8月11日]] ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻([[樺太の戦い (1945年)]])。 * [[8月12日]] - 満洲国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満洲国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決した([[麻山事件]])。 * [[8月14日]] ** [[葛根廟事件]]。 ** ダグラス・マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers、[[SCAP]])に就任。 ** [[中ソ友好同盟条約]]締結。 * [[8月15日]] - 日本がポツダム宣言の受諾を表明([[終戦の日]])。 * [[8月16日]] ** [[ヨシフ・スターリン]]がソ連軍の北海道占領を米トルーマン大統領に要求。トルーマンは18日に拒否回答。 ** [[ベトミン]]、総蜂起を発動。 ** [[タイ王国|タイ]]が対米英宣戦布告の無効を宣言。 * [[8月17日]] ** [[インドネシア]]の[[スカルノ]]と[[モハマッド・ハッタ|ハッタ]]、[[インドネシア共和国]]の[[オランダ]]からの独立を宣言([[インドネシア独立宣言]])。 * [[8月18日]] ** [[満洲国]]皇帝[[愛新覚羅溥儀]]退位。 ** ソ連軍が[[千島列島]]で攻撃開始。 * [[8月19日]] ** [[ベトナム]]で親日政権に対し[[ベトミン]]が蜂起。 * [[8月23日]] - ソビエト連邦の指導者スターリンが[[日本軍]]捕虜のソ連国内への移送を指令。 * [[8月24日]] - [[島根県]][[松江市]]にて[[松江騒擾事件]]発生。[[島根県庁]]舎および県会議事堂が全焼、死者1名。 * [[8月27日]] - [[敦化事件]]。占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。 * [[8月28日]] ** 連合国軍先遣部隊が[[沖縄本島]]より[[厚木飛行場]]に到着(26日の計画であったが暴風雨のため2日遅れ)。 ** [[蔣介石]]・[[毛沢東]]による国共首脳会談開催({{仮リンク|重慶交渉|en|Chongqing Negotiations}})。 * [[8月30日]] ** マッカーサー連合国軍最高司令官(SCAP)が沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部 (USAPA) を[[横浜税関]]に設置。 ** ソ連が北海道占領への樺太での軍事行動を停止。 * [[8月31日]] - 米軍主力が横浜・館山に上陸。 === 9月 === * [[9月2日]] ** [[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]上で日本が[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印([[日本の降伏]]・[[対日戦勝記念日]])。 ** [[ホー・チ・ミン]]を主席とする[[ベトナム民主共和国]]が成立。 ** ダグラス・マッカーサー元帥が北緯38度線を境とした[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|米ソによる南北朝鮮の分割統治]]を発表。 * [[9月3日]] ** ソ連軍が日本の[[北方地域|北方領土]]を占領。 ** 英人記者[[ウィルフレッド・バーチェット|バーチェット]]が広島の惨状を取材し「No More Hiroshima」と打電。 * [[9月5日]] - [[マレー]]・[[シンガポール]]に[[イギリス軍]]上陸。 * [[9月6日]] - [[朝鮮人民共和国]]が建国宣言(11日に瓦解)。 * [[9月8日]] - ソ連軍が朝鮮北部を、米軍が南部を占領し[[朝鮮半島分断]]が開始。 * [[9月9日]] - [[南京市|南京]]において中国大陸の日本軍が降伏文書に調印。 * [[9月10日]] - 『[[インドネシアの声]]』放送開始。 * [[9月12日]] - SCAPのマッカーサー元帥が記者会見で「日本は四等国に転落」と発言。 * [[9月17日]] - [[瑞穂村開拓団集団自決]]。 * [[9月27日]] - [[昭和天皇]]がマッカーサー元帥を訪問 * [[9月28日]] - フランス軍、[[ホーチミン市|サイゴン]]占領 === 10月 === * [[10月1日]] - 米国で[[戦略情報局]]が解散。(のち[[中央情報局]]に発展) * [[10月2日]] - [[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) 設置。 * [[10月3日]] - [[世界労働組合連盟]]発足。 * [[10月8日]] ** インドネシア共和国軍とイギリス・[[オランダ]]軍が戦闘状態へ突入、内戦状態へ。 ** 米国で[[電子レンジ]]の特許が出願される。 * [[10月10日]] - [[中国国民党]]および[[中国共産党]]の間で内戦回避を目的とした[[双十協定]]締結。 * [[10月14日]] - [[平壌直轄市|平壌]]でソ連解放軍歓迎平壌市民大会が開かれ、[[金日成]]が初の公開演説。 * [[10月24日]] - [[国際連合憲章]]の発効に伴い、[[国際連合]]発足。 * [[10月25日]] - [[台湾光復]]式典。[[台湾]]の領有権が、[[日本統治時代の台湾|大日本帝国]]から[[中華民国]]に転換。 === 11月 === * [[11月10日]] - [[インドネシア独立戦争]]、{{仮リンク|スラバヤの戦い|en|Battle of Surabaya}}。([[:en:Hari Pahlawan|Hari Pahlawan]]) * [[11月13日]] - [[シャルル・ド・ゴール]]がフランス臨時政府の首班になる。 * [[11月16日]] - [[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)憲章採択。(発足1946年) * [[11月20日]] - ドイツで戦犯を裁く[[ニュルンベルク裁判]]開廷。 * [[11月23日]] - 米国で食料[[配給制]]を終了。 * [[11月29日]] ** [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]が成立。[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]が大統領になる。 ** 世界初のコンピュータが作られる{{要出典|date=2021-06}}。 === 12月 === * [[12月7日]] - マニラでの連合国軍軍事裁判で[[山下奉文]]陸軍大将に死刑宣告。 * [[12月27日]] - [[モスクワ三国外相会議]]で[[極東委員会]]({{lang-en-short|Far Eastern Commission}}、略称:FEC)および[[対日理事会]]({{lang-en-short|Allied Council for Japan}}、略称:ACJ)設立が決定。[[世界銀行]]発足。 ===日付を特定しないもの=== * 4月-8月 - [[アメリカ軍]]による[[空爆]]が激化。軍事施設のみならず都市への[[無差別爆撃]]が行われる(具体的な日付や被害等の詳細は [[日本本土空襲]]、[[1945年の日本]] の項を参照)。 == 周年 == <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください、また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 --> 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。 * [[4月14日]] - [[リンカーン大統領暗殺事件]]から80年。 * [[9月5日]] - [[日露戦争]]による日露講和条約([[ポーツマス条約]])締結40周年。 == スポーツ == {{Main|1945年のスポーツ}} == 芸術・文化 == === 映画 === {{see also|1945年の映画}} * [[哀愁の湖 (映画)|哀愁の湖]] * [[逢びき]] (監督:[[デヴィッド・リーン]]) * [[天井桟敷の人々]] (監督:[[マルセル・カルネ]]) * [[無防備都市]] (監督:[[ロベルト・ロッセリーニ]]) === 音楽 === * [[1月13日]] - [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]]初演。 == 誕生 == {{see also|Category:1945年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ジャッキー・イクス]]、元レーシングドライバー * 1月1日 - [[リュトガー・ザフランスキー]]、著述家 * [[1月2日]] - [[沢井桂子]]、[[俳優#性別での分類|女優]] * 1月10日 - [[ロッド・スチュワート]]、[[ミュージシャン]] * 1月25日 - [[山口豪久]](山口暁)、俳優(+ [[1986年]]) * 1月26日 - [[ジャクリーヌ・デュ・プレ]]、[[チェロ|チェリスト]](+ [[1987年]]) * [[1月31日]] - [[ジョセフ・コスース]]、[[美術家]] === 2月 === * 2月2日 - [[ペーター・レーゼル]]、[[ピアニスト]] * [[2月6日]] - [[ボブ・マーリィ]]、[[レゲエ]][[ミュージシャン]](+ [[1981年]]) * [[2月8日]] - [[ギ・オーフレイ]]、[[柔道家]] (+ [[2021年]]) * [[2月9日]] - [[ミア・ファロー]]、[[俳優|女優]] * [[2月15日]] - [[ダグラス・ホフスタッター]]、[[認知科学]]者・[[計算機科学]]者 * [[2月16日]]- [[ジェレミー・ブロック]]、[[俳優]](+ [[2020年]]) * [[2月20日]] - [[ドナルド・マクファーソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+[[2001年]]) === 3月 === * [[3月5日]] - [[大杉勝男]]、[[プロ野球選手]] * [[3月8日]] - [[アンゼルム・キーファー]]、[[画家]] * 3月13日 - [[アナトリー・フォメンコ]]、[[数学者]] * 3月28日 - [[ロドリゴ・ドゥテルテ]]、[[フィリピン共和国]]第16代[[大統領]] * [[3月30日]] - [[エリック・クラプトン]]、[[ロック (音楽)|ロック]]・[[ミュージシャン]] === 4月 === * 4月2日 - [[レジー・スミス]]、元[[プロ野球選手]] * 4月2日 - [[ドン・サットン]]、元[[メジャーリーガー]] (+[[2021年]]) * 4月2日 - [[マイク・ケキッチ]]、元プロ野球選手 * [[4月4日]] - [[高山由紀子]]、[[脚本家]] * 4月5日 - [[スティーヴ・カーヴァー]]、[[映画監督]](+[[2021年]]) * [[4月6日]] - [[野島昭生]]、声優 * [[4月7日]] - [[ジョエル・ロブション]]、[[シェフ]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/45093980|title=フランス料理のスター、ロブション氏死去 ミシュラン星30以上|publisher=BBCニュース|date=2018-08-07|accessdate=2020-11-07}}</ref>) * 4月11日 - [[ジョン・クレブス]]、[[生物学者]] * 4月12日 - [[マイケル・ゴットリーブ (映画監督)|マイケル・ゴットリーブ]]、映画監督 * [[4月14日]] - [[リッチー・ブラックモア]]、ロック・ミュージシャン * [[4月23日]] - [[羽鳥靖子]]、声優 === 5月 === * [[5月3日]] - [[デイビー・ロープス]]、メジャーリーガー * [[5月5日]] - [[ジミー・ロザリオ]]、元プロ野球選手 * [[5月9日]] - [[ユップ・ハインケス]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]][[コーチ|指導者]] * [[5月22日]] - [[ピエロ・ラルディ・フェラーリ]]、[[実業家]] * [[5月28日]] - [[ジョン・フォガティ]]、ロック・ミュージシャン * [[5月29日]] - [[ゲイリー・ブルッカー]]、ロック歌手、ピアニスト(+[[2022年]]) === 6月 === * [[6月2日]] - [[リチャード・ロング]]、[[美術家]] * [[6月17日]] - [[エディ・メルクス]]、[[ベルギー]]の元プロロード選手 * [[6月19日]] - [[アウンサンスーチー]]、[[ミャンマー]]の民主化指導者、政治家 === 7月 === * [[7月9日]] - [[ディーン・R・クーンツ]]、小説家 * [[7月10日]]- [[ハル・マクレー]]、メジャーリーガー * [[7月27日]]- [[エドムンド・クラーク]]、計算機科学者(+ [[2020年]]) === 8月 === * 8月6日 - [[アンディ・メサースミス]]、元メジャーリーガー * [[8月9日]] - [[ケン・ノートン]]、元[[プロボクサー]] * 8月9日 - [[アレクサンドル・ゴレリク]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2012年]]) * 8月14日 - [[ヴィム・ヴェンダース]]、ドイツ出身の映画監督 * [[8月19日]] - [[イアン・ギラン]]、ミュージシャン * [[8月22日]] - [[タモリ]]、司会者 * 8月31日 - [[イツァーク・パールマン]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]] === 9月 === * [[9月10日]] - [[ホセ・フェリシアーノ]]、[[歌手]]、[[ギタリスト]] * [[9月11日]] - [[フランツ・ベッケンバウアー]]、元サッカー選手、サッカー指導者 * [[9月15日]] - [[ジェシー・ノーマン]]、[[ソプラノ]]歌手(+ 2019年) * [[9月21日]] - [[ユッシ・アールト]]、[[写真家]] * [[9月26日]] - [[ブライアン・フェリー]]、[[ミュージシャン]] * [[9月27日]] - [[ミッシャ・ディヒター]]、[[ピアニスト]] === 10月 === * [[10月1日]] - [[ロッド・カルー]]、元[[メジャーリーガー]] * [[10月2日]] - [[マーティン・ヘルマン]]、[[暗号理論]]研究者 * [[10月3日]] - [[ジャン=ジャック・カントロフ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]] * [[10月8日]] - [[松原雅子]]、声優 * [[10月15日]] - [[ジョン・マレル]]、[[劇作家]] * 10月15日 - [[ジム・パーマー]]、メジャーリーガー * [[10月17日]] - [[林一夫]]、声優 * [[10月17日]] - [[ボブ・クリスチャン (野球)|ボブ・クリスチャン]]、プロ野球選手(+ [[1974年]]) * [[10月18日]] - [[若本規夫]]、声優 * [[10月22日]] - [[レスリー・ウェスト]]、[[ギタリスト]]、[[歌手]](+ 2020年) * [[10月25日]] - [[キートン山田]]、声優 * [[10月27日]] - [[マイク・ラム (1945年生の内野手)|マイク・ラム]]、元プロ野球選手 === 11月 === * [[11月3日]] - [[ゲルト・ミュラー]]、元サッカー選手(+ [[2021年]]) * [[11月12日]] - [[ニール・ヤング]]、[[ミュージシャン]] * [[11月14日]] - [[サトル・サトウ]]、[[画家]]・[[造形作家]] * [[11月19日]] - [[ボビー・トーラン]]、メジャーリーガー * [[11月20日]] - [[リック・マンデイ]]、メジャーリーガー * 11月23日 - [[エリザーベト・レオンスカヤ]]、[[ピアニスト]] * [[11月27日]] - [[ランディ・ブレッカー]]、ミュージシャン * [[11月30日]] - [[ロジャー・グローヴァー]]、ミュージシャン * 11月30日 - [[ラドゥ・ルプ]]、ピアニスト(+ [[2022年]]) === 12月 === * [[12月1日]] - [[ベット・ミドラー]]、歌手、女優 * [[12月4日]] - [[ロベルタ・ボンダー]]、[[神経学者]]・[[宇宙飛行士]] * [[12月24日]] - [[レミー・キルミスター]]、ミュージシャン([[モーターヘッド]])(+ [[2015年]]) * [[12月25日]] - [[ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム]]、[[ドバイ]]首長国の副首長、[[オーナーブリーダー]](+ [[2021年]]) * 12月25日 - [[ケン・ステイブラー]]、元[[アメリカンフットボール]]選手(+ 2015年) * [[12月26日]] - [[デイヴィッド・R・ホルジンガー]]、[[作曲家]] * [[12月31日]] - [[レオナルド・エーデルマン]]、[[計算機科学]]研究者 == 死去 == {{see also|Category:1945年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月3日]] - [[エドガー・ケイシー]]、予言者(* [[1877年]]) * 1月3日 - [[ジョージ・ストーン (外野手)|ジョージ・ストーン]]、メジャーリーガー(* 1877年) * [[1月6日]] - [[ウラジミール・ベルナドスキー]]、[[鉱物学者]]・[[地球化学者]](* [[1863年]]) * [[1月13日]] - [[ブランコ・ド・ヴーケリッチ]]、[[ジャーナリスト]]、[[ゾルゲ諜報団]]のメンバー(* [[1904年]]) * [[1月21日]] - [[ラース・ビハーリー・ボース|ラス・ビハリ・ボース]]、[[インド]]独立の志士、[[新宿中村屋]]に[[カレー (代表的なトピック)|カレー]]を直伝(* [[1886年]]) * [[1月23日]] - [[ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ]]、反[[ナチス・ドイツ]]運動家(* [[1907年]]) *日付不詳 - [[ギデオン・クライン]]、[[作曲家]]、[[ホロコースト]]犠牲者 (*[[1919年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[ヨハン・ホイジンガ]]、[[歴史家]](* [[1872年]]) * [[2月2日]] - [[カール・ゲルドレール]]、[[ライプツィヒ]]市長(* [[1884年]]) * 2月2日 - [[アルフレート・デルプ]]、[[イエズス会]]の[[神父]](* 1907年) * [[2月6日]] - [[ロベール・ブラジヤック]]、[[著作家]]・[[ジャーナリスト]](* [[1909年]]) * [[2月23日]] - [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]]、小説家(* [[1883年]]) === 3月 === * [[3月2日]] - [[エミリー・カー]]、[[芸術家]]・[[作家]](* [[1871年]]) * [[3月7日]] - [[アルブレヒト・ペンク]]、[[地理学者]]・[[地質学者]](* [[1858年]]) * [[3月12日]] - [[アンネ・フランク]]、[[オランダ]]・[[アムステルダム]]在住の[[ユダヤ人]]少女、[[アンネの日記]]作者、ホロコースト犠牲者(* [[1929年]]) * [[3月15日]] - [[ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル]]、小説家(* [[1893年]]) * [[3月16日]] - [[モーリス・アルブヴァクス]]、[[社会学者]](* [[1877年]]) * [[3月26日]] - [[デビッド・ロイド・ジョージ|デビッド・ロイド=ジョージ]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1863年]]) * [[3月31日]] - [[ハンス・フィッシャー]]、[[化学者]](* [[1881年]]) === 4月 === * [[4月9日]] - [[ディートリヒ・ボンヘッファー]]、[[ルーテル教会|ルター派]]の[[牧師]]・[[神学者]](* [[1906年]]) * [[4月11日]] - [[フレデリック・ルガード]]、英[[軍人]]・[[探検家]]・[[香港総督]]・[[ナイジェリア]]総督(* [[1858年]]) * [[4月12日]] - [[フランクリン・ルーズベルト]]、第32代[[アメリカ合衆国大統領]](* 1882年) * 4月12日 - [[ヴィレーム・マテジウス]]、[[言語学者]]・[[文学史]]家(* [[1883年]]) * [[4月18日]] - [[アーニー・パイル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍の従軍記者(* [[1900年]]) * 4月18日 - [[ジョン・フレミング]]、[[フレミングの法則]]発見者として有名な[[物理学者]](* [[1849年]]) * [[4月22日]] - [[ケーテ・コルヴィッツ]]、[[版画家]]・[[彫刻家]](* [[1867年]]) * [[4月28日]] - [[ベニート・ムッソリーニ]]、[[イタリア]]の政治家、元[[首相]](* [[1883年]]) * [[4月30日]] - [[アドルフ・ヒトラー]]<ref>[[村瀬興雄|興雄, 村瀬]]. [https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC-120389#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2021年2月16日閲覧。</ref>、[[ナチス・ドイツ]][[総統]](* [[1889年]]) * 4月30日 - [[エヴァ・ブラウン]]、ヒトラーの愛人として知られる女性(* [[1912年]]) === 5月 === * [[5月1日]] - [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]、ナチス・ドイツ宣伝相(* [[1897年]]) * 5月1日 - [[マルティン・ボルマン]]、ナチス・ドイツ官房長官(* 1900年) * [[5月5日]] - [[ルネ・ラリック]]、[[フランス]]のガラス工芸家・宝飾デザイナー(* [[1860年]]) * [[5月12日]] - [[カール・フォン・ピュックラー=ブルクハウス]]、ナチス・ドイツ[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]将軍([[1886年]]) * [[5月15日]] - [[ケネス・アルフォード]]、[[作曲家]](* [[1881年]]) * [[5月23日]] - [[ハインリヒ・ヒムラー]]、ナチス・ドイツ親衛隊の長官(* 1900年) * [[5月31日]] - [[レオニード・パステルナーク]]、[[画家]](* [[1862年]]) === 6月 === === 7月 === * [[7月13日]] - [[アラ・ナジモヴァ]]、女優・[[脚本家]](* [[1879年]]) * [[7月20日]] - [[ポール・ヴァレリー]]、詩人・[[評論家]](* [[1871年]]) === 8月 === * [[8月2日]] - [[エミール・フォン・レズニチェク]]、[[作曲家]](* [[1860年]]) * 8月2日 - [[ピエトロ・マスカーニ]]、作曲家(* [[1863年]]) * [[8月9日]] - [[ハリー・ヒルマン]]、[[陸上競技]]選手(* 1881年) * [[8月18日]] - [[スバス・チャンドラ・ボース]]、[[インド]]独立運動の指導者(* [[1897年]]) * [[8月23日]] - [[ステファニー・ド・ベルジック|ステファニー]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]皇太子妃(* [[1864年]]) * [[8月26日]] - [[フランツ・ヴェルフェル]]、小説家(* [[1890年]]) === 9月 === * [[9月15日]] - [[アントン・ヴェーベルン]]、[[新ウィーン楽派]]の作曲家(* 1883年) * [[9月26日]] - [[バルトーク・ベーラ]]、[[クラシック音楽]]の作曲家(* 1881年) * 9月26日 - [[リヒャルト・ベーア=ホフマン]]、小説家・詩人・[[劇作家]](* 1866年) === 10月 === * [[10月4日]] - [[ヴィドクン・クヴィスリング]]、ドイツ占領下の[[ノルウェー]]の指導者(* 1887年) * [[10月26日]] - [[ポール・ペリオ]]、[[探検家]]・東洋学者(* [[1878年]]) === 11月 === * [[11月28日]] - [[ドワイト・フィリー・デイヴィス]]、第49代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1879年]]) === 12月 === * [[12月4日]] - [[トーマス・ハント・モーガン]]、[[生物学者]](* 1866年) * [[12月8日]] - [[アレクサンドル・ジロティ]]、[[音楽家]](* [[1863年]]) * [[12月21日]] - [[ジョージ・パットン]]、[[アメリカ合衆国陸軍|アメリカ陸軍]]の[[軍人]](* 1885年) * [[12月24日]] - [[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ]]、日本に[[スキー]]を伝えた[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]の軍人(* [[1869年]]) * [[12月25日]] - [[王克敏]]、政治家(* [[1873年]]) * [[12月28日]] - [[セオドア・ドライサー]]、小説家(* 1871年) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ヴォルフガング・パウリ]]([[オーストリア]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[アルトゥーリ・ヴィルタネン]]([[フィンランド]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アレクサンダー・フレミング]]([[イギリス]])、[[エルンスト・ボリス・チェーン]](イギリス)、[[ハワード・フローリー]]([[オーストラリア]]) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ガブリエラ・ミストラル]]([[チリ]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[コーデル・ハル]](アメリカ) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1945|date=2011年7月}} * [[4月2日]] - ナチス・ドイツで「ノルトナハト計画」に従事していたハインツ・ホルスト・フォムマハト教授らが、彼の3人の娘を[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]から逃すため、3機のロケットに乗せて[[パルドゥビツェ]]の前哨基地から宇宙へと打ち上げる。(小説『[[コードウェイナー・スミス#人類補完機構|人類補完機構シリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= コードウェイナー・スミス|authorlink=コードウェイナー・スミス |title = 人類補完機構全短編 1 スキャナーに生きがいはない |publisher = [[早川書房]] |year = 2016 |pages = 85-87,95,100,101,109 |isbn = 978-4-15-012058-0}}</ref> * [[4月12日]] - ドイツ空軍の[[メッサーシュミット Me262|Me262]]が南東ドイツ上空で[[空飛ぶ円盤|円盤状の飛行物体]]「フッケバイン」1機を撃墜。これを受け、[[オットー・スコルツェニー|オットー・スコルツェニィ]]SS少将の指揮により、田舎街カッツェンボルンの近郊に墜落したフッケバインの調査と回収を目的とした「〈フッケバイン〉作戦」が開始される。(小説『[[鏖殺の凶鳥]]』)<ref group="注釈">文庫化時に『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』に改題。</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 佐藤大輔|authorlink=佐藤大輔 |title = 凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令 |publisher = 角川書店 |year = 2003 |pages = 5,9-12,71-75,82-86,346 |isbn = 978-4-04-373201-2}}</ref> * [[4月30日]] - 「マンハッタンの覚醒」発生。統一帝国銀十字軍の占領下にある合衆国[[マンハッタン島]]に「天使」が出現する。天使はマンハッタン島の銀十字軍基地と[[ピッツバーグ]]要塞を相次いで沈黙させ、[[5月2日]]に[[ロッキー山脈]]麓で銀十字軍の大兵力と激突。この「第二次ロッキー会戦」は[[5月8日]]に銀十字軍の全滅によって終わる。天使の初出現。(TRPG『[[エンゼルギア]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=井上純弌|authorlink1=井上純弌|author2=F.E.A.R.|authorlink2=ファーイースト・アミューズメント・リサーチ |title = エンゼルギア 天使大戦TRPG |publisher = [[エンターブレイン]] |year = 2003 |pages = 127,128,136 |isbn = 978-4-7577-1469-4}}</ref> * 7月 - 「幻獣戦争」勃発。[[地球周回軌道|地球の衛星軌道]]上に突如謎の天体「黒い月」が現れ、それと同時に出現した人類の天敵となる異生物「幻獣」の大群が、ヨーロッパおよび中東より人類への攻撃を開始。これを受けて第二次世界大戦は終結へと向かう。(ゲーム『[[高機動幻想ガンパレード・マーチ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 広崎悠意|authorlink=広崎悠意 |title = 高機動幻想ガンパレード・マーチ |publisher = [[メディアワークス]] |year = 2001 |pages = 21,22 |isbn = 978-4-8402-1724-8}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = |title = アルファ・システム サーガ |publisher = [[樹想社]] |year = 2004 |page = 111 |isbn = 978-4-87777-052-5}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author1=芝村裕吏|authorlink1=芝村裕吏|author2=アルファ・システム|authorlink2=アルファ・システム |title = [[Aの魔法陣]] ルールブック ~ガンパレード・マーチ篇~ |publisher = エンターブレイン |year = 2008 |pages = 204,205,234 |isbn = 978-4-7577-4453-0}}</ref> * 8月9日 - 時間旅行者ユリ・シギアが原子爆弾「ファットマン」を搭載した状態のB-29「ボックス・カー」をハイジャックし、歴史を改変するためにボックス・カーごと未来へタイムトラベルする。(小説『[[ARIEL]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 笹本祐一|authorlink=笹本祐一 |title = ARIEL〔11〕 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |year = 1996 |pages = 30-38,86-92 |isbn = 978-4-257-76783-1}}</ref> * 夏 - 国際的な秘密組織「CANY」が、第二次大戦中に実戦配備に至らなかった各国の試作兵器群を用いて世界の転覆を画策。連合軍司令部は極秘裏に特殊部隊「ストライカーズ」を結成し、これに対抗する。(ゲーム『[[ストライカーズ1945]]』)<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040423/taito.htm タイトー、往年のアーケードゲームの名作が帰ってきた! PS2「彩京シューティングコレクションVol.1 STRIKERS 1945 I&II」] - GAME Watch。2004年4月23日、2016年6月4日閲覧。</ref> * ナチス・ドイツの残党が円盤機を用いて南極から[[月]]へと逃げのび、後に「月面ナチス」となる。(映画『[[アイアン・スカイ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 高橋ヨシキ|authorlink=高橋ヨシキ |title = アイアン・スカイ |publisher = [[竹書房]] |year = 2012 |pages = 45-51 |isbn = 978-4-8124-9094-5}}</ref> * 冬 - 世界に再び混沌をもたらそうとする組織「F・G・R」によって、CANYが用いた新型兵器データが[[アメリカ国防総省]]から流出。これを受け、新兵器開発実験部隊となっていたストライカーズが再招集される。(ゲーム『[[ストライカーズ1945#ストライカーズ1945II|ストライカーズ1945II]]』『[[ストライカーズ1945#ストライカーズ1945PLUS|ストライカーズ1945 PLUS]]』)<ref>[https://www.success-corp.co.jp/software/sl/strikers/ SuperLite 1500シリーズ ストライカーズ1945II] - [[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]公式サイト、2020年12月27日閲覧。</ref><ref>[http://www.arcsystemworks.jp/strikers/game.html ゲーム紹介] - 『ストライカーズ1945 PLUS Portable』公式サイト、2016年2月11日閲覧。</ref> * 第二次世界大戦中から確認されていた「インベーダー」の暗躍が、大戦終結後から活発化。これに対抗すべく国連の元に地球防衛機構イージスが結成される。(ゲーム・アニメ『[[ゲートキーパーズ]]』)<ref>ゲーム版『ゲートキーパーズ』第019話より。</ref> * [[マフィア]]のボス、ヴィト・コルレオーネが襲撃され重傷を負う。(映画『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』) * ザール星間帝国に滅ぼされたエリオス星の王子ハーリン(後の楯隼人)が、アール博士・ダルタニアスと共にアダルス基地で地球に飛来するが、ハーリンのみ基地から脱出。(アニメ『[[未来ロボ ダルタニアス]]』) * 第二次世界大戦終結後、[[未確認飛行物体|UFO]]の飛来回数が急激に増加しだす。(小説『[[妖精作戦]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 笹本祐一 |year = 2011 |title = 妖精作戦 |page = 205 |publisher = [[東京創元社]] |isbn = 978-4-488-74101-3}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1945}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1945ねん}} [[Category:1945年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1945%E5%B9%B4
1,938
1955年
1955年(1955 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和30年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。
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1955年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。昭和30年。
{{年代ナビ|1955}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1955 }} {{year-definition|1955}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1955年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[乙未]](きのと ひつじ) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]30年 ** [[皇紀]]2615年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]44年 * [[朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4288年 ** [[主体暦|主体]]44年 * [[仏滅紀元]]:2497年 - 2498年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1374年5月7日 - 1375年5月16日 * [[ユダヤ暦]]:5715年4月7日 - 5716年4月16日 * [[修正ユリウス日]](MJD):35108 - 35472 * [[リリウス日]](LD):135949 - 136313 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1955}} == できごと == [[ファイル:Toyota-crown-1st-generation01.jpg|thumb|150px|トヨタ・クラウン発売(1月1日)<br/>画像はRS3#前期型]] [[ファイル:Gedung.Merdeka.jpg|thumb|150px|アジア・アフリカ会議開催(4月18日)]] [[ファイル:Location Warsaw Pakt.svg|thumb|150px|ワルシャワ条約機構結成(5月14日)]] [[ファイル:Disneyland Anaheim.jpg|thumb|150px|ディズニーランド開園(7月17日)]] [[ファイル:平和祈念像.jpg|thumb|150px|平和祈念像序幕(8月8日)]] [[ファイル:Great Fire of Niigata.JPG|thumb|150px|新潟大火(10月1日)]] [[ファイル:LDP launching conventin.jpg|thumb|150px|自由民主党結成大会(11月15日)<br/>55年体制が始まる。]] === 1月 === * [[1月2日]] - 前穂高岳にて「[[ナイロンザイル事件|ナイロンザイル切断事件]]」発生 * [[1月4日]] - ビキニ被災補償でアメリカ合衆国が200万ドルの慰謝料を支払うことが日米の間で公文交換される。 * [[1月10日]] - [[日産自動車]]が「[[ダットサン・110/210|ダットサン・110]]」を発売([[1959年]]発売の「[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]」の源流で、[[1957年]]10月に「ダットサン・210」も発売)。 * [[1月20日]] - 国鉄[[飯田線]]電車が[[天竜渓谷]]へ転落し、30余名が死傷([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#飯田線大表沢鉄橋脱線転覆事故|飯田線電車転落事故)]] * [[1月24日]] - 衆議院解散([[天の声解散]]) === 2月 === * [[2月4日]] - [[静岡県]]の[[秋葉ダム]]建設現場にて爆発事故。死者19名、負傷者多数。([[秋葉ダム・ダイナマイト爆発事故]]) * [[2月8日]] - ソ連[[ゲオルギー・マレンコフ|マレンコフ]]首相辞任。日本トルコ通商協約成立。 * [[2月11日]] - [[デイリースポーツ]]が東京版発刊、同時に同紙の発行元が[[神戸新聞社]]から分社化、株式会社デイリースポーツ社を設立([[2010年]]3月1日に神戸新聞社に吸収合併され解散)。 * [[2月14日]] - 英国が[[水爆]]製造開始発表 * [[2月17日]] - [[横浜市]]の[[聖母の園養老院火災|聖母の園養老院]]で[[火災]](犠牲者99名) * [[2月21日]] - [[西日本新聞社]]が「[[西日本スポーツ]]」を創刊。 * [[2月26日]] - [[産業経済新聞社]]が「[[サンケイスポーツ]]」を創刊。 * [[2月27日]] - [[第27回衆議院議員総選挙]]投票([[1958年]][[4月25日]]解散([[話し合い解散]])) === 3月 === * [[3月1日]] - [[雪印八雲工場脱脂粉乳食中毒事件]] * [[3月2日]] - [[第三清徳丸襲撃事件]] * [[3月18日]] - [[国会 (日本)|第22特別国会]]召集([[7月30日]]閉会)。航海訓練所練習船[[大成丸]]が[[南太平洋]]地域の日本将兵の遺骨5889体と元日本兵4人を乗せて帰国。 * [[3月19日]] - [[第2次鳩山一郎内閣]]発足。 === 4月 === * [[4月1日]] ** 『[[愛知県スマイル!]]』 開始(2014年現在も放映中) ** [[TBSホールディングス|ラジオ東京]]テレビ(現在の[[TBSテレビ]])開局 * [[4月7日]] ** イギリスで[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相が引退、[[アンソニー・イーデン]]が後任に * [[4月11日]] - 通産省に原子力課新設 * [[4月16日]] - [[長崎県]][[佐世保市]]の炭鉱で大規模なボタ山崩落事故([[安倍鉱業ボタ山崩落事故]])が発生(犠牲者68人) * [[4月18日]] - [[インドネシア]]の[[バンドン (インドネシア)|バンドン]]で[[アジア・アフリカ会議]]開催 * [[4月21日]] - [[新京成電鉄新京成線]]の[[初富駅|初富]] - [[松戸駅|松戸]]間が開業し、全線開業。 === 5月 === * [[5月1日]] ** [[ぺんてる|大日本文具]]が「ぺんてるくれよん」を発売。 ** [[オリンパス]]が「オリンパス35S」を発売(9月には「オリンパスワイド」も発売)。 * [[5月5日]] - [[西ドイツ]]が[[主権]]の完全回復を宣言 * [[5月11日]] - [[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]](犠牲者168名) * [[5月14日]] ** [[ワルシャワ条約機構]]結成、冷戦激化 ** [[岩手県]]内で修学旅行生を乗せたバスが橋から転落し12名が死亡。([[北上バス転落事故]]) * [[5月20日]] - [[東京国際空港|東京国際空港(羽田空港)]]の先代のターミナルビルが開館。 * [[5月21日]] - [[阪神タイガース|阪神]]内部の内紛から[[岸一郎]]監督が辞任し、[[藤村富美男]]が選手兼任で監督復帰。 * [[5月25日]] - [[広辞苑]]初版発行([[岩波書店]]) * [[5月27日]] - [[ヘレン・ケラー]]が来日。 === 6月 === * 現行の[[一円硬貨]]発行開始。 * [[6月3日]] - [[京都大学]]で同学会と大学当局が対立、[[瀧川幸辰]]総長が監禁暴行される([[第2次滝川事件]]) * [[6月10日]] - [[日本電信電話公社]]が、東京223番で試験的に[[時報]]サービス開始。 * [[6月11日]] - [[フランス]]の[[ル・マン]]で開催された[[1955年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]で、レース車両が観客席に飛び込む事故が発生。死者84名。 * [[6月13日]] - ソ連初のダイヤモンド鉱山・[[ミール鉱山]]が発見される。 * [[6月30日]] - [[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]全廃 === 7月 === * [[7月9日]] - [[東京ドームシティアトラクションズ|後楽園遊園地]]が完成。 * [[7月15日]] - 「[[トニー谷長男誘拐事件]]」が発生 * [[7月17日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[カリフォルニア州]][[アナハイム]]に[[ディズニーランド]]開園 * [[7月20日]] - 経済審議庁を[[経済企画庁]]に改組 * [[7月25日]] - [[日本住宅公団]](現在の[[都市再生機構]])設立 * [[7月28日]] - [[三重県]][[津市]]の中河原海岸で水泳講習中の橋北中学校の女子生徒36名が水泳訓練中に溺死([[橋北中学校水難事件]])。 === 8月 === * [[8月1日]] - [[東京都]][[墨田区]]の玩具用花火工場が爆発。死者18名([[墨田区花火問屋爆発事故]])。 * [[8月2日]] - [[神奈川県]][[横浜市]]にある火薬工場にて爆発事故があり死者3名([[日本カーリット工場爆発事故]])。 * [[8月3日]] - [[集英社]]が少女漫画雑誌「[[りぼん]]」を創刊。 * [[8月6日]] - 第1回[[原水爆禁止世界大会]]開催 * [[8月7日]] - [[ソニー|東京通信工業]]が初の[[トランジスタラジオ]]発売。 * [[8月8日]] - [[長崎市]]の[[平和祈念像]]([[北村西望]]作)除幕式 * [[8月24日]] - [[森永ヒ素ミルク中毒事件]]が発覚 === 9月 === * [[9月]] - [[武田薬品工業]]が[[総合感冒薬]]「[[ベンザ (風邪薬)|ベンザ]]」を発売。 * [[9月4日]] ** [[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカの占領下にあった沖縄]]の[[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]付近(現:[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]])で[[由美子ちゃん事件]](6歳幼女への[[強姦]]殺人事件)が発覚。 ** [[高橋ユニオンズ|トンボ]]の[[ヴィクトル・スタルヒン|スタルヒン]]投手が通算300勝を達成、シーズン終了後に現役引退。 * [[9月10日]] ** 連越、[[ベトナム|越南]]祖国戦線に改組 ** 日本が[[関税および貿易に関する一般協定]] (GATT) に正式加盟 * [[9月19日]] - [[東京都]][[八王子市]]に米軍のF80戦闘機が墜落し地上の住民など合計5名死亡。([[八王子市F80機墜落事故]]) * [[9月30日]] - [[アメリカ合衆国]]の[[俳優]][[ジェームズ・ディーン]]が交通事故死。 === 10月 === * [[10月1日]] ** [[新潟大火 (1955年)|新潟大火]] * [[10月3日]] - [[CBS]]で『{{仮リンク|キャプテン・カンガルー|en|Captain Kangaroo}}』、[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]で『[[:en:The Mickey Mouse Club|ミッキーマウス・クラブ]]』が放映開始。 * [[10月13日]] - [[日本社会党]]が左派と右派の分裂状態を4年ぶりに解消([[社会党再統一]]) * [[10月24日]] - [[1955年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[読売ジャイアンツ|巨人]]が[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]に4勝3敗で2年ぶりの日本一。 * [[10月26日]] - オーストリア議会が永世中立を決議。 === 11月 === * [[11月1日]] ** [[ユナイテッド航空629便爆破事件]] ** [[北海道]]の茂尻炭鉱でガス爆発事故、60人死亡。 * [[11月3日]] ** [[諸橋轍次]]「[[大漢和辞典]]」発刊([[大修館書店]]) ** [[船橋ヘルスセンター]]開業 * [[11月11日]] - [[世界平和アピール七人委員会]]結成([[下中弥三郎]]ら) * [[11月12日]] - [[ドイツ連邦軍]]発足により[[西ドイツ]]の[[再軍備]]はじまる。 * [[11月14日]] - [[日米原子力協定]]調印。 * [[11月15日]] - 社会党の再統一に刺激され、二大保守政党の[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]と[[日本民主党]]が合併し、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が誕生する([[保守合同]])。その後38年間続いたいわゆる[[55年体制]]の幕開けとなる。 * [[11月22日]] - 第23回臨時国会召集([[12月16日]]開会) === 12月 === * [[12月1日]] ** モンゴメリー・バス・ボイコット事件(1955年、[[ローザ・パークス]]) ** [[日本電信電話公社]]が料金前納式の公衆電話機を発売。 * [[12月7日]] - [[長崎市]]と[[アメリカ合衆国]][[セントポール (ミネソタ州)|セントポール市]]の都市提携成立(日本初の[[姉妹都市]])。 * [[12月13日]] - 日本の[[国際連合]]への加盟にソ連が[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使 * [[12月20日]] - 第24国会召集([[1956年]][[6月3日]]閉会) * [[マザー・テレサ]]、「[[聖なる子供の家]]」を開設。 * [[市町村合併|昭和の大合併]]が進む * [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と[[日本社会党]]の二大政党制(55年体制)がはじまる。([[1993年]]崩壊) * [[高度経済成長]]の始期 * [[鳥取県]]の[[人形峠]]において[[ウラン]][[鉱床]]が発見される。 * 名古屋、神戸、東京など全国的に毒ガが異常発生し被害続出<ref>緒方一喜、「[https://doi.org/10.7601/mez.9.116 ドクガ Euproctis flava とその病害に関する研究 : 第 1 編 外部形態学的研究]」『衞生動物』1958年 9巻 3号 p.116-129, {{doi|10.7601/mez.9.116}}, 日本衛生動物学会</ref> == 周年 == <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください、また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 --> 以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。 * [[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])関連、終結から10年。 ** [[1月27日]] - [[ソビエト連邦]]軍による[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]解放。 ** [[2月4日]]〜[[2月11日]] - [[ヤルタ会談]]。 ** [[2月19日]]〜[[3月26日]] - [[硫黄島の戦い]]。 ** [[3月10日]] - [[東京大空襲]]。 ** [[3月27日]]〜[[6月20日]] - [[沖縄戦]]。 ** [[4月7日]] - [[大日本帝国海軍]]の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]撃沈。 ** [[4月16日]]〜[[5月8日]] - [[ベルリンの戦い]]。 ** [[4月30日]] - [[アドルフ・ヒトラーの死|アドルフ・ヒトラーが自殺]]。 ** [[8月6日]] - [[広島市への原子爆弾投下]]。 ** [[8月9日]] - [[長崎市への原子爆弾投下]]。 ** [[8月11日]]〜[[8月25日]] - [[樺太の戦い (1945年)]] 。 ** [[8月14日]] - 日本が[[ポツダム宣言]]受諾。 ** [[8月15日]] - [[終戦の日]]。 ** [[9月2日]] - [[日本の降伏文書]]調印により[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終戦。 * [[1月10日]] - [[福澤諭吉]]生誕120周年。 * [[3月22日]] - [[日本放送協会|NHK]]ラジオ放送([[NHKラジオ第1放送]])開始<!--仮放送、本放送は[[7月12日]]-->30周年。 * [[4月5日]] - [[原爆ドーム]](当時は広島県物産陳列館)竣工40周年。 * [[4月14日]] - [[リンカーン大統領暗殺事件]]から90年。 * [[5月5日]] - 日本で[[普通選挙法]]施行30周年(当時は25歳以上の男性に投票権があった)。 * [[9月5日]] - [[日露戦争]]による日露講和条約([[ポーツマス条約]])締結50周年。 * [[10月10日]] - [[朝鮮労働党]]結党10周年。 * [[10月24日]] - [[国際連合]]発足10周年。 * [[12月10日]] - [[阪神タイガース]]創設20周年。 * [[全国高等学校野球選手権大会]]40周年(旧制中学時代を含む)。 == スポーツ == {{See also|1955年のスポーツ}} * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]優勝 [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] ** [[1955年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 読売ジャイアンツ * [[大相撲]]([[幕内]]最高優勝) ** 初場所 [[千代の山雅信]] ** 春場所 千代の山雅信 ** 夏場所 [[栃錦清隆]] ** 秋場所 [[鏡里喜代治]] == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See also|1955年の音楽}} *[[チャック・ベリー]]<ref>[http://www.chuckberry.com/biography Chuck Berry bio] 2023年2月6日閲覧</ref> – ''メイベリーン'' *[[リトル・リチャード]] – ''トゥッティ・フルッティ'' *ボー・ディドリー – ''Bo Diddley'' *[[ファッツ・ドミノ]] – ''[[エイント・ザット・ア・シェイム]]'' *[[エタ・ジェイムズ]] – ''The Wallflower (Dance with Me, Henry)'' *[[プラターズ]] – ''オンリー・ユー'', ''グレイト・プリテンダー'' *[[マディ・ウォーターズ]] – ''Mannish Boy" *[[スマイリー・ルイス]] – ''[[アイ・ヒア・ユー・ノッキング]]'' * [[島倉千代子]]「[[この世の花]]」 *[[菅原都々子]]「[[月がとっても青いから]]」 === 映画 === {{See also|1955年の映画}} * [[エデンの東 (映画)|エデンの東]](監督:[[エリア・カザン]]、主演:[[ジェームズ・ディーン]]) * [[狩人の夜 (映画)|狩人の夜]](監督:[[チャールズ・ロートン]]) * [[奇跡 (1955年の映画)]] (監督:[[カール・テオドア・ドライヤー]]) * [[大地のうた]] (監督:[[サタジット・レイ]]) * [[マダムと泥棒]](監督:[[アレクサンダー・マッケンドリック]]) * [[理由なき反抗]](監督:[[ニコラス・レイ]]) * [[旅情]](監督:[[デヴィッド・リーン]]) * [[わんわん物語]] * [[浮雲 (映画)|浮雲]](監督:[[成瀬巳喜男]]、主演:[[森雅之_(俳優)|森雅之]]・[[高峰秀子]]) * [[ゴジラの逆襲]] * [[獣人雪男]](監督:[[本多猪四郎]]、特撮監督:[[圓谷英二]]、主演:[[宝田明]]) * [[野菊の如き君なりき]](監督:[[木下惠介]]) * [[夫婦善哉 (映画)|夫婦善哉]](監督:[[豊田四郎]]、主演:[[森繁久彌]]・[[淡島千景]]) === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第33回(1955年上半期) - [[遠藤周作]]『白い人』 ** 第34回(1955年下半期) - [[石原慎太郎]] 『太陽の季節』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第33回(1955年上半期) - 該当作品なし ** 第34回(1955年下半期) - [[新田次郎]]『強力伝』、[[邱永漢]]『香港』 * [[江戸川乱歩賞]] ** 第1回 - [[中島河太郎]]『探偵小説辞典』 === テレビ === {{See also|1955年のテレビ (日本)}} * 真昼は考える * [[日真名氏飛び出す]] * [[私の秘密]] * [[ビルマの竪琴]] * [[轟先生]] * [[追跡 (1955年のテレビドラマ)|追跡]] * [[江戸の影法師]] === ラジオ === {{See also|1955年のラジオ (日本)}} * [[夫婦善哉 (トーク番組)|夫婦善哉]]([[朝日放送ラジオ|朝日放送]]) == その他 == * CMソング {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪明るいナショナル||-||[[パナソニック|松下電器産業]]||-||[[三木鶏郎]] |- |♪クシャミ3回、ルル3錠||[[ルル (風邪薬)|ルル]]||[[三共 (製薬会社)|三共]]||[[笹森礼子]]||三木鶏郎・[[伴久美子]](歌) |- |♪カーンカーンカネボウ||カネボウ毛糸||[[カネボウ (1887-2008)|鐘淵紡績]]||-||三木鶏郎 |- |♪ポポンとね||ポポンS||[[塩野義製薬]]||-||三木鶏郎・[[楠トシエ]](歌) |- |} == 誕生 == [[ファイル:Nicolas Sarkozy - Sarkozy meeting in Toulouse for the 2007 French presidential election 0299 2007-04-12 cropped further.jpg|thumb|120px|フランス大統領[[ニコラ・サルコジ]](1月28日)]] [[ファイル:Kenji Oba 20081102 Chibi Japan Expo 02.jpg|thumb|120px|俳優[[大葉健二]](2月5日)]] [[ファイル:Jun Murai 20091031.jpg|thumb|120px|情報工学者[[村井純]](3月29日)]] [[ファイル:EJobson09.jpg|thumb|120px|キーボード・ヴァイオリン演奏者[[エディ・ジョブソン]](4月28日)]] [[ファイル:Meles Zenawi.jpg|thumb|120px|エチオピア首相[[メレス・ゼナウィ]](5月8日)]] [[ファイル:Sir Tim Berners-Lee (cropped).jpg|thumb|120px|計算機設計者[[ティム・バーナーズ=リー]](6月8日)]] [[ファイル:Ohno Yutaka, Beijing 2008.jpg|thumb|120px|元プロ野球選手[[大野豊 (野球)|大野豊]](8月30日)]] [[ファイル:Rummenige2008-05.jpg|thumb|120px|元サッカー選手[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]](9月25日)]] [[ファイル:Bill Gates World Economic Forum 2007.jpg|thumb|120px|実業家[[ビル・ゲイツ]](10月28日)]] [[ファイル:Roland Emmerich.5132 (cut).jpg|thumb|120px|映画監督[[ローランド・エメリッヒ]](11月10日)]] [[ファイル:Mizuho Fukushima 2010.jpg|thumb|120px|社会民主党党首[[福島瑞穂]](12月24日)]] [[ファイル:Japanese actor-Koji Yakusho Ffa2.png|thumb|120px|俳優[[役所広司]](12月27日)]] {{see also|Category:1955年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ラマー・ホイト]]、[[メジャーリーガー]] * [[1月2日]] - [[佐藤直子]]、元女子プロ[[テニス]]選手・[[タレント]] * [[1月3日]] - [[蓮池透]]、[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]](家族会)元副代表 * 1月3日 - [[青木政美]]、[[プロ野球選手]] * 1月3日 - [[恒村勝美]]、プロ野球選手 * 1月3日 - [[久木山亮]]、プロ野球選手 * [[1月5日]] - [[渡辺えり]]、[[俳優|女優]]、[[劇作家]]、[[演出家]] * 1月5日 - [[マムター・バナルジー]]、[[インド]]の政治家、[[西ベンガル州]]首相 * [[1月6日]] - [[ローワン・アトキンソン]]、[[コメディアン]]、[[俳優]]、[[作家]] * [[1月8日]] - [[新井飛山]]、[[書家]] * [[1月9日]] - [[ユッタ・バウアー]]、[[児童文学]]作家、[[イラストレーター]] * [[1月13日]] - [[いがらしみきお]]、[[漫画家]] * 1月13日 - [[伊藤蘭]]、女優、元[[キャンディーズ]] * 1月13日 - [[紙智子]]、政治家 * [[1月14日]] - [[岩下正明]]、元プロ野球選手 * [[1月15日]] - [[田中真弓]]、[[声優]] * [[1月17日]] - [[小山茉美]]<ref name="officialprof">{{Cite web|和書 |url=https://koyamamami.com/profile1.html|title=小山茉美プロフィール |work=小山茉美ホームページ(オフィシャルサイト) |accessdate=2020-10-31}}</ref>、声優 * [[1月18日]] - [[ケビン・コスナー]]、[[俳優]] * [[1月20日]] - [[太田裕美]]、[[歌手]] * 1月20日 - [[桜井賢]]、[[ミュージシャン一覧 (グループ)|ミュージシャン(THE ALFEE)]] * [[1月21日]] - [[ジェフ・クーンズ]]、[[美術家]] * [[1月22日]] - [[高橋惠子]]、女優 * 1月22日 - [[千葉均]]、[[ばんえい競走]][[騎手]] * [[1月25日]] - [[岩谷徹 (ゲームクリエイター)|岩谷徹]]、[[ゲームクリエイター]] * [[1月26日]] - [[エドワード・ヴァン・ヘイレン]]、ミュージシャン([[ヴァン・ヘイレン]])(+ [[2020年]]) * 1月26日 - [[所ジョージ]]、[[タレント]] * 1月26日 - [[海原さおり・しおり|海原しおり]]、漫才師(+ [[2014年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20140103/oth14010318470011-n1.html?view=pc|title=漫才の海原しおりさん、脳腫瘍で死去 58歳 |publisher=サンケイスポーツ|date=2014-1-3|accessdate=2020-10-29 }}</ref>) * 1月26日 - [[袴塚淳]]、[[ジャズピアノ|ジャズピアニスト]] * [[1月28日]] - [[ニコラ・サルコジ]]、[[フランス]]の政治家 * 1月28日 - [[広瀬光治]]、[[ニット]][[デザイナー]] === 2月 === * [[2月1日]] - [[新屋晃]]、元[[プロ野球選手]] * 2月1日 - [[唯川恵]]、[[小説家]] * [[2月3日]] - [[渡辺俊幸]]、[[作曲家]]・[[編曲家]] * [[2月4日]] - [[宮内タカユキ]]、[[アニメソング|アニソン]][[歌手]] * 2月4日 - [[高橋広 (野球)|高橋広]]、[[野球選手]] * [[2月5日]] - [[大葉健二]]、俳優 * 2月5日 - [[花村萬月]]、[[作家]] * [[2月7日]] - [[片山雅博]]、[[アニメーション]]作家(+ [[2011年]]) * 2月7日 - [[ミゲル・フェラー]]、俳優・声優(+ [[2017年]]) * [[2月8日]] - [[ジョン・グリシャム]]、[[小説家]] * 2月8日 - [[徐冰]]、[[芸術家]] * 2月8日 - [[廣川集一]]、アニメーション監督(+ [[2012年]]) * [[2月10日]] - [[グレグ・ノーマン]]、[[プロゴルファー]] * 2月10日 - [[宮沢隆仁]]、医師・政治家 * [[2月11日]] - [[益田由美]]、[[アナウンサー]] * [[2月12日]] - [[伊丹幸雄]]、[[歌手]]・俳優 * 2月12日 - [[さとうあい]]、声優 * 2月12日 - [[グレッグ・ジョンストン]]、元プロ野球選手 * [[2月13日]] - [[矢野顕子]]、ポップ・[[ジャズ]][[ミュージシャン]] * [[2月17日]] - [[吉澤一彦]]、アナウンサー * 2月17日 - [[菅田俊]]、俳優 * 2月17日 - [[羅本新二]]、元プロ野球選手 * 2月17日 - [[莫言]]、作家 * [[2月22日]] - [[河内洋]]、元[[騎手]]、[[調教師]] * [[2月23日]] - [[新堀和男]]、俳優、[[殺陣師]]、[[アクション監督]] * 2月23日 - [[斉藤明夫]]、元プロ野球選手 * 2月23日 - [[石田芳雄]]、プロ野球選手 * [[2月24日]] - [[スティーブ・ジョブズ]]、企業家(+ [[2011年]]) * 2月24日 - [[アラン・プロスト]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 2月24日 - [[山川猛]]、元プロ野球選手 * [[2月27日]] - [[伊藤博英]]、アナウンサー * 2月27日 - [[池田弘 (野球)|池田弘]]、元プロ野球選手 * [[2月28日]] - [[城ヶ崎祐子]]、元アナウンサー === 3月 === * [[3月1日]] - [[藤堂新二]]、俳優 * [[3月2日]] - [[麻原彰晃]]、[[オウム真理教]] 開祖(+ [[2018年]]) * 3月2日 - [[佐々木知子]]、政治家 * 3月2日 - [[日向明子]]、女優(+ [[2011年]]) * [[3月3日]] - [[ケント・デリカット]]、タレント * [[3月4日]] - [[佐野史郎]]、俳優 * [[3月6日]] - [[春風亭小朝]]、[[落語家]] * [[3月7日]] - [[佐藤準]]、作曲家・編曲家 * [[3月9日]] - [[フランコ・ウンチーニ]]、レーサー * [[3月10日]] - [[鈴木利男]]、レーサー * [[3月11日]] - [[高木文堂]]、政治家 * [[3月12日]] - [[ルパート・ジョーンズ]]、元[[プロ野球選手]] * [[3月13日]] - [[ブルーノ・コンティ]]、元[[サッカー選手]] * [[3月15日]] - [[塚田三喜夫]]、歌手(+ [[2011年]]) * 3月15日 - [[二又一成]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/二又一成/|title=二又一成(ふたまたいっせい)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-15}}</ref>、声優 * 3月15日 - [[ロバート・カバス]]、[[重量挙げ|ウェイトリフティング]]選手 * 3月15日 - [[李良枝]]、[[小説家]](+ [[1992年]]) * 3月15日 - [[石井直方]]、[[運動生理学|運動生理学者]]・[[ボディビル|ボディビルダー]] * [[3月17日]] - [[ゲイリー・シニーズ]]、俳優 * [[3月18日]] - [[ドウェイン・マーフィー]]、元プロ野球選手 * 3月18日 - [[島崎俊郎]]、[[リポーター]]・[[タレント]] * [[3月19日]] - [[ブルース・ウィリス]]、俳優 * [[3月20日]] - [[竹内まりや]]、シンガーソングライター * 3月20日 - [[筒井良紀]]、プロ野球選手 * [[3月21日]] - [[フィリップ・トルシエ]]、サッカー監督 * 3月21日 - [[ジャイール・ボルソナーロ]]、第38代[[ブラジル連邦共和国大統領|ブラジル大統領]] * [[3月22日]] - [[田村信]]、漫画家 * [[3月23日]] - [[モーゼス・マローン]]、元バスケットボール選手(+2015年<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/09/14/moses-malone-idJPKCN0RE08T20150914 NBA=殿堂入りのマローン氏、60歳で死去] ロイター 2015年9月14日</ref>) * [[3月27日]] - [[山口良一]]、[[タレント]]・俳優 * [[3月28日]] - [[大和田新]]、フリーアナウンサー(元[[ラジオ福島]]アナウンサー) * [[3月29日]] - [[村井純]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * [[3月30日]] - [[寺沢武一]]、漫画家 * [[3月31日]] - [[青島広志]]、作曲家 === 4月 === * [[4月1日]] - [[岡村猛]]、アマチュア野球指導者 * [[4月4日]] - [[高橋俊春]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月5日]] - [[鳥山明]]、漫画家 * [[4月6日]] - [[小泉泰重]]、プロ野球選手 * [[4月7日]] - [[西野朗]]、サッカー指導者、元サッカー選手(元日本代表) * [[4月9日]] - [[寬仁親王妃信子]]、[[皇族]] * [[4月10日]] - [[有田二三男]]、プロ野球選手 * [[4月11日]] - [[山村善則]]、元プロ野球選手 * [[4月13日]] - [[上沼恵美子]]、[[タレント]] * 4月13日 - [[西城秀樹]]、歌手(+ [[2018年]]) * 4月13日 - [[森口祐子]]、[[プロゴルファー]] * [[4月16日]] - [[ブルース・ボウチー]]、[[メジャーリーガー]] * [[4月18日]] - [[河埜敬幸]]、元プロ野球選手 * 4月18日 - [[ボビー・カスティーヨ]]、元プロ野球選手 * [[4月19日]] - [[遠藤一彦]]、元プロ野球選手 * 4月19日 - [[長谷川集平]]、[[絵本作家]]・[[ミュージシャン]] * 4月19日 - [[レゲーツィ・クリスチナ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月20日]] - [[スバンテ・ペーボ]]、[[生物学者]] * [[4月21日]] - [[トニーニョ・セレーゾ]]、元サッカー選手 * [[4月23日]] - [[平野文]]、[[声優]]、[[エッセイスト]] * [[4月24日]] - [[堀尾正明]]、[[フリーアナウンサー]]・[[ニュースキャスター]] * [[4月26日]] - [[佃正樹]]、元野球選手(+ 2007年) * 4月26日 - [[マイク・スコット]]、メジャーリーガー * [[4月28日]] - [[エディ・ジョブソン]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]・[[ヴァイオリン]]奏者 * [[4月29日]] - [[田中裕子]]、[[俳優|女優]] * 4月29日 - [[秋田秀幸]]、元プロ野球選手 * 4月29日 - [[リチャード・エプカー]]、声優、俳優、音響監督、脚本家 * 4月29日 - [[ケイト・マルグルー]]、女優 === 5月 === * [[5月2日]] - [[ドナテラ・ヴェルサーチ]]、[[ファッションデザイナー]] * [[5月3日]] - [[三浦道男]]、元[[プロ野球選手]] * [[5月5日]] - [[ポール・スモレンスキー]]、[[言語学者]] * [[5月6日]] - [[アヴラム・グラント]]、[[サッカー]]指導者 * [[5月8日]] - [[メレス・ゼナウィ]]、[[エチオピア]]の[[首相]](+ [[2012年]]) * [[5月9日]] - [[掛布雅之]]、元プロ野球選手 * 5月9日 - [[藤田学 (野球)|藤田学]]、元プロ野球選手 * [[5月10日]] - [[松原由昌]]、プロ野球選手(+ [[2014年]]) * [[5月11日]] - [[山村善則]]、元プロ野球選手 * [[5月12日]] - [[坂巻明]]、元プロ野球選手 * [[5月14日]] - [[デニス・マルティネス]]、メジャーリーガー * [[5月16日]] - [[丘野かおり]]、女優 * 5月16日 - [[ジャック・モリス]]、[[メジャーリーガー]] * [[5月19日]] - [[ジェームズ・ゴスリン]]、ソフトウェア技術者 * [[5月20日]] - [[ディエゴ・アバタントゥオーノ]]、俳優 * 5月20日 - [[植上健治]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]]) * [[5月24日]] - [[酒井増夫]]、プロ野球選手 * [[5月25日]] - [[江川卓 (野球)|江川卓]]、元プロ野球選手 * 5月25日 - [[桂小枝]]、落語家、タレント * 5月25日 - [[小鷹卓也]]、プロ野球選手 * [[5月27日]] - [[内藤剛志]]、[[俳優]]、[[タレント]] * [[5月28日]] - [[村上ショージ]]、タレント * [[5月29日]] - [[花増幸二]]、元プロ野球選手 * [[5月30日]] - [[中村勘三郎 (18代目)|中村勘三郎]]18世、歌舞伎俳優(+ [[2012年]]) * 5月30日 - [[深沢恵雄]]、元プロ野球選手 * [[5月31日]] - [[トミー・エマニュエル]]、[[ギタリスト]] * 5月31日 - [[ローラ・ボー]]、[[プロゴルファー]] === 6月 === * [[6月1日]] - [[千代の富士貢]]、大相撲第58代[[横綱]]、年寄・[[九重]](+ [[2016年]]) * [[6月3日]] - [[佐野稔]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[6月6日]] - [[クリス・ナイマン]]、元[[プロ野球選手]] * 6月6日 - [[竹口幸紀]]、プロ野球選手 * [[6月8日]] - [[ティム・バーナーズ=リー]]、[[計算機科学]]者 * 6月8日 - [[金子修介]]、[[映画監督]] * [[6月10日]] - [[フロイド・バニスター]]、元プロ野球選手 * [[6月12日]] - [[柳原隆弘]]、元プロ野球選手 * [[6月16日]] - [[Char]](竹中尚人)、[[ミュージシャン]] * [[6月18日]] - [[藤真利子]]、女優 * [[6月20日]] - [[平野謙 (野球)|平野謙]]、元プロ野球選手 * [[6月21日]] - [[ミシェル・プラティニ]]、元サッカー選手 * 6月21日 - [[長谷川初範]]、俳優 * 6月21日 - [[イワン・プロホロフ (外交官)|イワン・プロホロフ]]、外交官 * [[6月24日]] - [[藤岡貞明]]、元プロ野球選手 * 6月24日 - [[清滝信宏]]、経済学者 * [[6月25日]] - [[石井邦彦]]、元プロ野球選手 * [[6月26日]] - [[具志堅用高]]、[[プロボクサー]] * 6月26日 - [[堀場秀孝]]、元プロ野球選手、長野県議会議員 * [[6月27日]] - [[イザベル・アジャーニ]]、女優 * [[6月29日]] - [[森マリア]]、元[[歌手]]、元[[俳優|女優]] * 6月29日 - [[西村泰彦]]、[[警察官僚]]、元[[警視総監]]、[[内閣危機管理監]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/kanbu/2014/nishimura_yasuhiko.html|title=内閣危機管理監|publisher=[[内閣官房]]|accessdate=2016-05-29|archiveurl=https://archive.is/cLLVf/image|archivedate=2014-12-22}}</ref> === 7月 === * [[7月1日]] - [[明石家さんま]]、[[お笑いタレント]] * 7月1日 - [[ニコライ・デミジェンコ]]、[[ピアニスト]] * [[7月2日]] - [[スティーヴン・ウォルト]]、[[ハーバード大学]]ケネディ行政大学院教授 * 7月2日 - [[山﨑夏生]]、元[[プロ野球審判員]] * [[7月3日]] - [[夏石番矢]]、[[俳人]]、[[明治大学]]教授 * 7月3日 - [[マット・キーオ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2020年]]) * 7月3日 - [[イリーナ・モイセーワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[7月4日]] - [[沢まき子]] * [[7月6日]] - [[中川富雄]]、アナウンサー * 7月6日 - [[長谷川哲夫 (天文学者)|長谷川哲夫]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]] * [[7月7日]] - [[レン・バーカー]]、[[メジャーリーガー]] * [[7月12日]] - [[宮澤正]]、声優 * [[7月13日]] - [[藤田博史]]、精神分析医 * 7月13日 - [[達川光男]]、元プロ野球選手 * [[7月15日]] - [[島本啓次郎]]、プロ野球選手 * [[7月18日]] - [[天満敦子]]、[[ヴァイオリニスト]] * 7月18日 - [[森谷昭]]、元プロ野球選手 * [[7月19日]] - [[黒沢清]]、映画監督 *7月20日 - [[藤原智美]]、小説家、エッセイスト * [[7月21日]] - [[マルセロ・ビエルサ]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者 * 7月21日 - [[海渡雄一]]、弁護士 * [[7月24日]] - [[梅津秀行]]、[[声優]] * [[7月25日]] - [[西久保愼一]]、[[実業家]]、[[スカイマーク]]社長 * [[7月26日]] - [[飛鳥裕子]]、[[俳優|女優]](+ [[2011年]]) * [[7月28日]] - [[永島暎子]]、[[俳優|女優]] * 7月28日 - [[福島秀喜]]、プロ野球選手 === 8月 === * [[8月1日]] - [[古屋英夫]]、元[[プロ野球選手]] * 8月1日 - [[頼近美津子]]、元[[日本放送協会|NHKアナウンサー]]・[[司会者]](+ [[2009年]]) * [[8月2日]] - [[山根和夫]]、元プロ野球選手 * [[8月4日]] - [[ゲリー・コーツィー]]、元[[プロボクサー]] * [[8月6日]] - [[ロン・デービス]]、元野球選手 * [[8月9日]] - [[山本和夫 (テレビプロデューサー)|山本和夫]]、[[テレビプロデューサー]]・[[ディレクター]]・ドラマデザイン社代表取締役・元[[讀賣テレビ放送]]ドラマ部門[[チーフプロデューサー]] * 8月9日 - [[ダグ・ウィリアムス (アメリカンフットボール)|ダグ・ウィリアムス]]、元アメリカンフットボール選手 * 8月9日 - [[内田正人 (アメリカンフットボール)|内田正人]]、元アメリカンフットボール選手 * [[8月10日]] - [[田口八重子]]、[[北朝鮮]]による日本人拉致の被害者の1人 * 8月10日 - [[佐藤博正]]、プロ野球選手 * [[8月12日]] - [[安念潤司]]、[[法学者]]・[[弁護士]] * [[8月13日]] - [[ダロー]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * 8月13日 - [[袴田英利]]、元プロ野球選手 * [[8月17日]] - [[リチャード・ヒルトン]]、実業家 * [[8月17日]] - [[シーザー武志]]、格闘家・シュートボクシングの創始者 * [[8月18日]] - [[塩屋浩三]]、声優 * [[8月19日]] - [[テリー・ハーパー (野球)|テリー・ハーパー]]、元プロ野球選手 * [[8月20日]] - [[アグネス・チャン]]、歌手・[[教育学者]] * [[8月22日]] - [[平松伸二]]、漫画家 * [[8月25日]] - [[松澤一之]]、俳優 * [[8月27日]] - [[真渕勝]]、[[政治学者]] * [[8月28日]] - [[宮川大助・花子|宮川花子]]、[[漫才師]] * 8月28日 - [[小林通孝]]、声優 * 8月28日 - [[臼井二美男]]、義肢装具士 * [[8月29日]] - {{仮リンク|ディアマンダ・ギャラス|en|Diamanda Galás}}、シンガーソングライター・ビジュアルアーティスト * [[8月30日]] - 室山眞弓、漫画家コンビ「[[室山まゆみ]]」姉 * 8月30日 - [[大野豊 (野球)|大野豊]]、元プロ野球選手 * 8月30日 - [[石淵国博]]、プロ野球選手 * [[8月31日]] - [[エドウィン・モーゼス]]、陸上選手 === 9月 === * [[9月1日]] - [[ビリー・ブランクス]]、[[エアロビクス]]指導者・[[格闘家]]・俳優 * [[9月2日]] - [[山倉和博]]、[[プロ野球選手]] * [[9月3日]] - [[田中由郎]]、プロ野球選手 * [[9月4日]] - [[成毛眞]]、書評家・経営者 * 9月4日 - [[伊沢弘]]、[[俳優]]・[[声優]]・[[演出家]] * 9月4日 - [[定岡小百合]]、声優 * [[9月5日]] - [[大口善徳]]、政治家 * [[9月7日]] - [[ミラ・ファーラン]]、女優(+[[2021年]]) * [[9月9日]] - [[倉本昌弘]]、[[プロゴルファー]] * [[9月15日]] - [[金光興二]]、アマチュア野球指導者 * [[9月16日]] - [[ロビン・ヨーント]]、[[メジャーリーガー]] * [[9月17日]] - [[マーシャル・ブラント]]、プロ野球選手 * [[9月21日]] - [[アンドレイ・ガヴリーロフ]]、[[ピアニスト]] * [[9月24日]] - [[のむらしんぼ]]、漫画家 * [[9月24日]] - [[川口淳一郎]]、小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」のプロジェクトマネージャー * [[9月25日]] - [[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]、サッカー選手 * [[9月26日]] - [[石井昭男]]、プロ野球選手 * 9月26日 - [[木ノ葉のこ]]、女優 * [[9月27日]] - [[今野敏]]、[[小説家]] === 10月 === * [[10月1日]] - [[村尾信尚]]、[[財務省|財務]][[官僚]]、[[ニュースキャスター]]、[[教授|大学教授]] * [[10月3日]] - [[ジム・ジョイス]]、メジャーリーグ審判員 * [[10月5日]] - [[立野政治]]、元[[プロ野球選手]] * [[10月7日]] - [[ヨーヨー・マ]]、[[チェリスト]] * [[10月8日]] - [[田中一穂]]、財務官僚、[[日本政策金融公庫#総裁|日本政策金融公庫総裁]]、[[財務事務次官]] * 10月8日 - [[黒坂幸夫]]、プロ野球選手 * 10月8日 - [[大竹伸朗]]、[[現代美術家]] * 10月8日 - [[大橋康延]]、プロ野球選手 * [[10月10日]] - [[植松精一]]、元プロ野球選手 * [[10月11日]] - [[麻丘めぐみ]]、[[俳優|女優]]・[[歌手]] * 10月11日 - [[頓宮恭子]]、[[声優]] * [[10月15日]] - [[タニア・ロバーツ]]、女優(+ [[2021年]]) * [[10月17日]] - [[赤松一朗]]、プロ野球選手 * [[10月18日]] - [[郷ひろみ]]<ref name="profile">{{Cite web |url=http://www.hiromi-go.net/profile/ |title=Profile{{!}}HIROMI GO OFFICIAL WEBSITE |accessdate=2020-10-29}}</ref>、歌手、俳優 * [[10月19日]] - [[ラサール石井]]、タレント * [[10月21日]] - [[浜田靖一]]、[[政治家]]、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]、[[防衛大臣]] * [[10月23日]] - [[篠田節子]]、小説家・[[SF作家]] * 10月23日 - [[坂口良子]]、女優(+ [[2013年]]) * [[10月24日]] - [[岡崎乾二郎]]、[[批評家]]・[[美術家|造形作家]] * 10月24日 - [[高英傑]]、元プロ野球選手 * 10月24日 - [[遊川和彦]]、[[脚本家]] * [[10月26日]] - [[ヤン・ホフマン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[10月28日]] - [[ビル・ゲイツ]]、[[マイクロソフト]]の創立者 * [[10月29日]] - [[志穂美悦子]]、元女優 * [[10月30日]] - [[佐藤滋孝]]、プロ野球選手 === 11月 === * [[11月3日]] - [[堤幸彦]]、映画監督 * [[11月4日]] - [[深見敏男]]、[[馬主]] * [[11月5日]] - [[ブラザー・コーン]]、歌手・タレント * 11月5日 - [[クリス・ジェンナー]]、[[タレント]] * 11月5日 - [[駒塚由衣]]、女優・声優 * 11月9日 - [[朝田のぼる]]、歌手 * [[11月9日]] - [[平田恒雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2016年]]<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20160211/dra16021105000004-n1.html 元中日外野手・平田恒男氏が死去、60歳] [[サンケイスポーツ]] 2020年11月19日閲覧</ref>) * [[11月10日]] - [[ローランド・エメリッヒ]]、映画監督 * [[11月11日]] - [[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]、[[ブータン]]王国第四代国王 * [[11月11日]] - [[山本喜代宏]]、[[政治家]] * [[11月13日]] - [[ウーピー・ゴールドバーグ]]、[[俳優|女優]]・[[コメディエンヌ]] * 11月13日 - [[内田周作]]、プロ野球選手 * [[11月14日]] - [[中野浩一]]、元[[自転車競技]]選手 * [[11月16日]] - [[國村隼]]、俳優 * 11月16日 - [[平野正人]]、[[声優]] *[[11月16日]] - [[松下誠]]、ギタリスト * [[11月19日]] - [[ディアンネ・デ・レーブ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[11月21日]] - [[ジャック・オルテ]]、調教師 * [[11月22日]] - [[加藤勝信]]、[[政治家]] * [[11月22日]] - [[石原凡]]、[[声優]] * [[11月24日]] - [[湯浅卓]]、[[国際]][[弁護士]] * [[11月25日]] - [[赤星昇一郎]]、俳優・[[声優]] * [[11月26日]] - [[保坂展人]]、[[政治家]]・[[教育]][[ジャーナリスト]] * [[11月28日]] - [[馬淵史郎]]、[[明徳義塾高等学校]]野球部監督 * [[11月30日]] - [[ビリー・アイドル]]、[[ミュージシャン]] === 12月 === * [[12月3日]] - [[麻生よう子]]、歌手 * [[12月4日]] - [[滝田洋二郎]]、[[映画監督]] * [[12月5日]] - [[川中美幸]]、[[演歌歌手]] * [[12月9日]] - [[朝潮太郎 (4代)|4代朝潮太郎]]、大相撲元[[大関]]、年寄・[[朝潮太郎_(4代)|高砂]](+[[2023年]]) * 12月9日 - [[渡辺裕之]]、[[俳優]](+ [[2022年]]) * [[12月12日]] - [[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]]、俳優・[[ベーシスト]] * [[12月14日]] - [[世良公則]]、ミュージシャン * 12月14日 - [[小澤一彦]]、[[テレビ静岡]]キャスター * [[12月15日]] - [[ポール・シムノン]]、ミュージシャン * [[12月16日]] - [[松山千春]]、フォーク歌手 * [[12月20日]] - [[野田秀樹]]、[[劇作家]]・[[演出家]]・俳優 * 12月20日 - [[山下浩二]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2007年]]) * [[12月21日]] - [[関口和之]]、ミュージシャン * 12月21日 - [[田旗浩一]]、[[映像作家]] * [[12月22日]] - [[デビッド・デントン]]、元プロ野球選手 * [[12月23日]] - [[キース・カムストック]]、元プロ野球選手 * [[12月24日]] - [[福島瑞穂]]、[[政治家]] * [[12月31日]] - [[ジム・トレーシー]]、元プロ野球選手 == 死去 == [[ファイル:Katou Takayoshi.JPG|thumb|120px|日本海軍大将[[加藤隆義]](2月10日)]] [[ファイル:Albert Einstein Head.jpg|thumb|120px|物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]](4月18日){{Squote|私は未来について考えたことがない。すぐに来てしまうのだから。}}]] [[ファイル:Hull-Cordell-LOC.jpg|thumb|120px|元アメリカ国務長官[[コーデル・ハル]](7月23日)]] [[ファイル:James Dean in East of Eden trailer 2.jpg|thumb|120px|俳優[[ジェームズ・ディーン]]交通事故死(9月30日){{Squote|車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です。}}]] [[ファイル:Cy young pitching.jpg|thumb|120px|元メジャーリーガー[[サイ・ヤング]](11月4日)]] [[ファイル:Katsumaro Akamatsu.JPG|thumb|120px|政治運動家[[赤松克麿]](12月13日)]] {{see also|Category:1955年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[太田水穂]]、[[歌人]]・[[国文学者]](* [[1876年]]) * [[1月7日]] - [[エドワード・カスナー]]、[[数学者]](* [[1878年]]) *1月11日 - ロドルフォ・グラツィアーニ イタリア王国指揮官 (1882年) *[[1月15日]] - [[イヴ・タンギー]]、[[画家]](* [[1900年]]) * [[1月29日]] - [[島田善介]]、[[野球選手]](* [[1888年]]) * [[1月31日]] - [[ジョン・モット]]、[[キリスト教青年会|YMCA]]指導者(* [[1865年]]) === 2月 === * [[2月10日]] - [[岡田茂吉]]、[[宗教家]]・[[文化人]](* [[1882年]]) * 2月10日 - [[加藤隆義]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]](* [[1886年]]) * [[2月17日]] - [[坂口安吾]]、[[小説家]](* [[1906年]]) * [[2月21日]] - [[稲村順三]]、政治家(* [[1900年]]) * [[2月23日]] - [[ポール・クローデル]]、[[劇作家]]・[[詩人]]・[[外交官]](* [[1868年]]) === 3月 === * [[3月2日]] - [[相馬黒光]]、[[実業家]]・社会事業家(* [[1876年]]) * [[3月5日]] - [[金光庸夫]]、元[[拓務省|拓務大臣]]・[[厚生大臣]](* [[1877年]]) * 3月5日 - [[フェルナン・ポワン]]、[[フランス料理]]の[[シェフ]](* [[1897年]]) * [[3月11日]] - [[アレクサンダー・フレミング]]、[[細菌学|細菌学者]](* [[1881年]]) * [[3月12日]] - [[チャーリー・パーカー]]、[[サックス]]奏者(* [[1920年]]) === 4月 === * [[4月7日]] - [[セダ・バラ]]、女優(* [[1885年]]) * [[4月10日]] - [[ピエール・テイヤール・ド・シャルダン]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]・[[神学者]]・[[考古学者]](* [[1881年]]) * [[4月13日]] - [[羽田亨]]、[[歴史学者]](* [[1882年]]) * [[4月18日]] - [[アルベルト・アインシュタイン]]、[[物理学者]](* [[1879年]]) * 4月18日 - [[オイゲン・ヘリゲル]]、[[思想家]](* [[1884年]]) * [[4月20日]] - [[下村湖人]]、小説家・[[教育家]](* [[1884年]]) * [[4月25日]] - [[ハンネス・シュナイダー]]、[[スキー]]講師(* [[1890年]]) === 5月 === * [[5月3日]] - [[福井淳]]、[[外交官]](* [[1898年]]) * [[5月4日]] - [[ジョルジェ・エネスク]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](* [[1881年]]) * [[5月5日]] - [[ルイ・ブレゲー]]、[[航空]]技術者(* [[1880年]]) * [[5月16日]] - [[ジェームズ・エイジー]]、[[作家]]・[[ジャーナリスト]]・[[映画批評家]](* [[1909年]]) * [[5月20日]] - [[桂文治 (8代目)]]、[[落語家]](* [[1883年]]) * [[5月26日]] - [[アルベルト・アスカリ|アルベルト・アスカーリ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1918年]]) === 6月 === * [[6月3日]] - [[恩地孝四郎]]、[[版画家]]・[[装幀家]](* [[1891年]]) * [[6月9日]] - [[ラングドン・ウォーナー]]、[[美術史|美術史家]](* [[1881年]]) * [[6月11日]] - [[ピエール・ルヴェー]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](* [[1905年]]) * [[6月18日]] - [[豊島与志雄]]、[[小説家]](* [[1890年]]) * [[6月29日]] - [[真杉静枝]]、小説家(* [[1901年]]) === 7月 === * [[7月2日]] - [[保科孝一]]、[[日本語学者|国語学者]](* [[1872年]]) * [[7月9日]] - [[アドルフォ・デ・ラ・ウエルタ]]、元[[メキシコ]]大統領(* [[1881年]]) * [[7月23日]] - [[コーデル・ハル]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1871年]]) * [[7月25日]] - [[イルマリ・ハンニカイネン]]、作曲家・ピアニスト(* [[1892年]]) * [[7月28日]] - [[宮武外骨]]、[[ジャーナリスト]](* [[1867年]]) === 8月 === * [[8月12日]] - [[トーマス・マン]]、[[小説家]](* [[1875年]]) * 8月12日 - [[ジェームズ・サムナー]]、[[化学者]](* [[1887年]]) * [[8月14日]] - [[フェルナン・レジェ]]、[[画家]](* [[1881年]]) * [[8月19日]] - [[ゲーザ・レーヴェース]]、[[心理学者]](* [[1878年]]) * [[8月25日]] - [[北澤楽天]]、[[漫画家]](* [[1876年]]) === 9月 === * [[9月4日]] - [[ガス・ウェイイング]]、[[メジャーリーガー]](* [[1866年]]) * [[9月9日]] - [[菊池契月]]、[[日本画家]](* [[1879年]]) * [[9月22日]] - [[南川潤]]、小説家(* [[1913年]]) * [[9月25日]] - [[大達茂雄]]、[[官僚]](* [[1892年]]) * [[9月30日]] - [[ジェームズ・ディーン]]、俳優(* [[1931年]]) * 9月30日 - [[マイケル・チェーホフ]]、俳優(* [[1891年]]) === 10月 === * [[10月10日]] - [[フレデリック・マサイアス・アレクサンダー]]、俳優(* [[1869年]]) * [[10月13日]] - [[辻善之助]]、[[歴史学者]](* [[1877年]]) * [[10月14日]] - [[安藤正純]]、元[[国務大臣]]・文部大臣(* [[1876年]]) * [[10月15日]] - [[早坂文雄]]、作曲家(* [[1914年]]) * [[10月18日]] - [[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]、思想家(* [[1883年]]) * [[10月19日]] - [[ウジェーヌ・デルポルト]]、天文学者(* [[1882年]]) * [[10月21日]] - [[鵜澤總明]]、[[弁護士]]・[[衆議院議員]]・[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1872年]]) * [[10月25日]] - [[佐々木禎子]]、[[広島平和記念公園]]の[[原爆の子の像]]のモデルとして知られる少女(* [[1943年]]) * [[10月26日]] - [[羽仁吉一]]、ジャーナリスト・教育者(* [[1880年]]) * [[10月27日]] - [[クラーク・グリフィス]]、メジャーリーガー(* [[1869年]]) === 11月 === * [[11月4日]] - [[サイ・ヤング]]、[[プロ野球選手]](* [[1867年]]) * [[11月5日]] - [[モーリス・ユトリロ]]、画家(* [[1883年]]) * [[11月10日]] - [[堤千代]]、[[直木三十五賞|直木賞]]受賞作家(* [[1917年]]) * [[11月27日]] - [[アルテュール・オネゲル]]、作曲家(* [[1892年]]) * [[11月30日]] - [[大山郁夫]]、[[政治学者]]・衆議院議員・[[国会議員|参議院議員]](* [[1880年]]) * 11月30日 - [[ヨシプ・ストルチェル=スラヴェンスキ]]、作曲家(* [[1896年]]) === 12月 === * [[12月1日]] - [[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中将]]・貴族院議員・[[興亜専門学校]]初代校長(* [[1875年]]) * [[12月2日]] - [[岩崎久弥]]、[[実業家]](* [[1865年]]) * [[12月4日]] - [[小田島孤舟]]、歌人・教育家・[[書道家]](* [[1884年]]) * [[12月5日]] - [[南次郎]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人(* [[1874年]]) * [[12月6日]] - [[ホーナス・ワグナー]]、[[プロ野球選手]](* [[1874年]]) * 12月6日 - [[ジョージ・プラット・ラインス]]、[[写真家]](* [[1907年]]) * [[12月11日]] - [[渡辺大陸]]、プロ野球監督(* [[1901年]]) * [[12月12日]] - [[百田宗治]]、[[詩人]]・[[児童文学者]](* [[1893年]]) * [[12月13日]] - [[エガス・モニス]]、[[医学者]]・元[[ポルトガル]]外相(* [[1874年]]) * 12月13日 - [[赤松克麿]]、[[社会主義]]運動家・衆議院議員(* [[1894年]]) * [[12月14日]] - [[安井曾太郎]]、画家(* [[1888年]]) * [[12月15日]] - [[朴憲永]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)]]副首相(* [[1900年]]) * [[12月19日]] - [[西倉実]]、プロ野球選手(* [[1929年]]) * [[12月24日]] - [[大柳英雄]]、[[日本中央競馬会]][[騎手]](* [[1934年]]) == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ウィリス・ラム]]、[[ポリカプ・クッシュ]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ヴィンセント・デュ・ヴィニョー]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ヒューゴ・テオレル]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ハルドル・ラクスネス]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - 該当者なし == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1955|date=2011年7月}} [[ファイル:Gojira no gyakushu poster.jpg|thumb|150px|ゴジラとアンギラスが出現する。<br/>画像は映画ポスター]] === 死去 === * [[7月29日]] - [[ヴィトー・コルレオーネ]]、小説『[[ゴッドファーザー]]』と映画『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』の主役。(* [[1892年]]) === 出来事 === * 2月6日 - [[ブラジル]]から来日した「現代の[[シンデレラ]]」と大評判の[[二世 (日系人)|日系2世]]の女性・鮎川マリとその母・君江の正体を暴いて欲しいと矢部杢衛の依頼とそれを阻む脅迫状を受け、[[金田一耕助]]は[[信濃国|信州]]の田舎町「射水町」を訪れる。翌7日、23年前の同日に殺害された矢部英二の父・杢衛がその息子と同じ[[鍾乳洞]]の「底なし井戸」のそばで殺される。(小説『[[不死蝶 (小説)|不死蝶]]』) * [[7月]]下旬 - [[金田一耕助]]、静養のために鬼首村を訪れる。(小説『[[悪魔の手毬唄]]』) * [[8月15日]] - 乃木卓、生まれる(テレビドラマ『[[VIVANT]]』) * [[11月5日]] - エメット・L・ブラウン博士が自宅トイレの床で滑って転び、便器で頭を打ったショックで[[タイムマシン]]の原理(次元転移装置)を思いつく。同時に30年後の未来である[[1985年]]からマーティ・マクフライという少年が現れる。この日から博士は30年間「次元転移装置」実現の為、家も財産ごと使い込む事になる。(映画『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]』) * [[11月12日]] - 午後10時4分、ヒル・バレーのタウンスクエアにある裁判所の時計台に雷が落ち、それ以降時計が止まったままとなる。マーティ・マクフライは1955年のエメット・L・ブラウン博士の協力により、この落雷をタイムマシンのエネルギーとして利用し1985年に戻る事に成功する。(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』) * 秋 - 金田博士と敷島博士が共同で鉄人28号を完成させる。(漫画『[[鉄人28号]]』[[鉄人28号#カッパコミックス版|カッパコミックス版]])<ref>{{Cite book |和書 |author= 横山光輝|authorlink=横山光輝 |title = 秋田コミックス・セレクト 鉄人28号3 |publisher = [[秋田書店]] |year = 1988 |page = 187 |isbn = 978-4-253-10917-8}}</ref> * [[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]と[[アンギラス]]が出現。(映画『[[ゴジラの逆襲]]』) * SF作家[[アドルフ・ヒトラー]]([[1953年]]没)が、『[[鉄の夢#鉤十字の帝王|鉤十字の帝王]]』で[[1954年]]度の[[ヒューゴー賞 長編小説部門|ヒューゴー賞最優秀長編小説賞]]を受賞する。(小説『[[鉄の夢]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ノーマン・スピンラッド|authorlink=ノーマン・スピンラッド |title = 鉄の夢 |publisher = [[早川書房]] |year = 1986 |pages = 9-11,355 |isbn = 978-4-15-010698-0}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist2}}--> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1955}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176291.pdf 1955(昭和30)年]「豊かさ」に関する意識の変容(2)冨貴島明、城西大学、2004-08 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1955ねん}} [[Category:1955年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1955%E5%B9%B4
1,939
1957年
1957年(1957 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和32年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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1957年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。昭和32年。
{{年代ナビ|1957}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1950 | 年 = 1957 }} {{year-definition|1957}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた1957年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * 干支:[[丁酉]](ひのと とり) * 日本(月日は一致) ** [[昭和]]32年 ** [[皇紀]]2617年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]46年 * [[朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4290年 ** [[主体暦|主体]]46年 * [[仏滅紀元]]:2499年 - 2500年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1376年5月29日 - 1377年6月8日 * [[ユダヤ暦]]:5717年4月28日 - 5718年4月8日 * [[修正ユリウス日]](MJD):35839 - 36203 * [[リリウス日]](LD):136680 - 137044 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。<br /> ※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1957}} == できごと == [[ファイル:Oita Airport (OIT-RJFO).jpg|thumb|150px|大分空港開港(3月10日・写真は国東市にある現在の空港)]] [[ファイル:Kiritimati-EO.jpg|thumb|150px|イギリスがキリスィマスィ島で水爆実験を実施(5月15日)]] [[ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|thumb|150px|小田急3000形・SE運転開始(7月6日)]] [[ファイル:Sputnik asm.jpg|thumb|150px|スプートニク1号打ち上げ(10月4日)]] [[ファイル:UenoZooMonorail40-2008.jpg|thumb|150px|[[東京都交通局上野懸垂線]]開業(12月17日)]] === 1月 === * [[1月1日]] - [[ザール (フランス保護領)|フランス保護領ザール]]が[[ザールラント州]]として[[西ドイツ]]に復帰{{要出典|date=2021-05}}。 * [[1月12日]] - [[プロ野球]]の[[投手]]だった[[ヴィクトル・スタルヒン]]が[[交通事故]]により死亡(40歳没)<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180112-14 大投手スタルヒン、交通事故死【1957年1月12日】 - 野球] - [[週刊ベースボール]]ONLINE</ref>。 * [[1月21日]] - [[明治製菓]]が「ミルクチョコレート デラックス」を発売。 * [[1月29日]] - 日本の[[南極越冬隊]]が[[南極大陸]]初上陸。 * [[1月30日]] - [[群馬県]]相馬ヶ原射撃場で薬莢拾いの女性が米兵に射殺される事件発生([[ジラード事件]])。 === 2月 === * [[2月1日]] - [[吉田茂]]と[[佐藤栄作]]が[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に入党。 * [[2月6日]] - [[広島県]]で行軍演習中の[[自衛官]]2人が死亡([[自衛隊死の行軍事件]])。 * [[2月22日]] - [[石橋湛山]]首相が病気のため辞意を表明(翌日内閣総辞職)。 * 2月22日 - [[千代田区]][[丸の内]]に先代の[[東京都庁舎]]が落成。 * [[2月25日]] - [[岸信介]]内閣が成立。 * [[2月26日]] - [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の[[高橋ユニオンズ|高橋]]と[[大映ユニオンズ|大映]]が合併。『'''大映ユニオンズ'''』として出場。 === 3月 === * [[3月5日]] - 日本と[[アイルランド]]が国交を結ぶ<ref>[https://www.ie.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000110.html 日本アイルランド外交関係樹立50周年記念] - 在アイルランド日本国大使館</ref>。 * [[3月6日]] - 日本初の[[女性週刊誌]]「[[週刊女性]]」(河出書房→[[主婦と生活社]])が創刊。 * [[3月10日]] - [[大分空港]]開港([[大分市]]内。その後、1971年に当時の[[東国東郡]][[武蔵町]]・[[安岐町]]の現在地に移転)。 * [[3月13日]] - [[チャタレー事件]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]][[判決 (日本法)|判決]]。被告人等の有罪が確定。 * [[3月17日]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が「[[ミユキ野球教室]]」放送開始([[1990年]]放送終了、[[御幸毛織]]の一社提供番組)。 * [[3月18日]] - [[名古屋市]]に日本初の[[地下街]]「[[名駅地下街サンロード]]」が開業。 * [[3月21日]] - 岸信介首相が[[1957年自由民主党総裁選挙|党総裁選挙]]において475票中471票を獲得して自由民主党総裁となる。 * [[3月25日]] - [[ローマ条約|欧州経済共同体設立条約]]と[[ローマ条約|欧州原子力共同体設立条約]]が[[ローマ]]の[[カピトリーノ美術館]]において調印される。 * 3月25日 - 河出書房が倒産。 === 4月 === * [[4月1日]] - [[売春防止法]]施行。 * 4月1日 - [[三大都市圏]]以外で初(全国5局目)の民放テレビ局・[[北海道放送|北海道放送(HBC)テレビ]]が[[札幌市|札幌]]で開局(当初は[[札幌都市圏]]のみ。[[1959年]]4月に全道へ拡大)。 * 4月1日 - [[ロッテ]]が「[[グリーンガム]]」を発売。 * [[4月12日]] - [[第五北川丸沈没事故]]。死者・行方不明113名。 * [[4月14日]] - 東宝会館([[東宝]]本社ビル)がオープン。[[芝居]]専門[[劇場]]の[[芸術座]]と[[映画館]]の[[千代田劇場]]・[[みゆき座]]も併設。 === 5月 === * [[5月8日]] - [[コカ・コーラ]]、日本での販売を開始。 * [[5月15日]] - [[イギリス]]、[[キリスィマスィ島]]で初の[[水素爆弾|水爆]]実験を行う。 * [[5月25日]] - [[そごう]]東京店(有楽町そごう)が開店。初日は30万人以上の来店者数となった。 === 6月 === * [[6月1日]] - 倒産した河出書房の事業を引き継ぐ[[河出書房新社]]が設立。 * [[6月25日]] - 日本飲料工業(現・[[日本コカ・コーラ]])設立。 === 7月 === * [[7月6日]] - 箱根・宮ノ下の[[富士屋ホテル]]で、日豪通商条約を締結。岸首相が出席。 * 7月6日 - 日本における高速電車の先駆けとなった[[小田急電鉄|小田急]][[小田急3000形電車 (初代)|3000形・SE]]が運転開始。 * 7月6日 - [[谷中霊園]]内の[[天王寺 (台東区)|天王寺]]五重塔が放火により焼失([[谷中五重塔放火心中事件]])。 * [[7月8日]] - [[砂川事件]]が発生。 * [[7月24日]] - 将棋の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]で[[升田幸三]]が[[大山康晴]]を下し、[[王将戦]]・[[十段戦 (将棋)|九段戦]]と合わせて史上初の三冠独占。 * 7月24日 - [[東京都]]の人口が[[ロンドン]]を抜き世界一と新聞が報道。 * [[7月25日]] - [[7月28日|28日]] - [[諫早豪雨]]。死者・行方不明992名。 === 8月 === * [[8月27日]] - [[大糸線]](糸魚川・信濃大町間)開通 * [[8月27日]] - [[茨城県]][[東海村]]の[[原子力研究所]]で50kWの[[原子炉]]JRR-1が午前5時23分に[[臨界点]]に達し、「原子の火」がともる。 * [[8月31日]] - マレーシアがイギリスから独立。 === 9月 === * 9月4日 - [[アフリカ系アメリカ人公民権運動|米公民権運動]]: [[リトルロック高校事件]]。[[アーカンソー州]]知事{{仮リンク|オーヴァル・フォーバス|en|Orval Faubus}}の命令により[[州兵]]100人が出動し、[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]9人の高校通学を阻む。 * [[9月20日]] - [[糸川英夫]][[東京大学]]教授らが、秋田県の海岸で初の国産ロケット「カッパー4C型」の発射に成功。 * [[9月23日]] - [[大阪市]][[旭区 (大阪市)|旭区]]の[[千林駅]]前に[[ダイエー]]第1号店が開店(当初の名称は『主婦の店ダイエー』)。 * [[9月28日]] - [[外務省]]が初の[[外交青書]]を発表。 * [[9月29日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]ウラル地方で原子力事故([[ウラル核惨事]])が発生したが発表は伏せられた。 === 10月 === * [[10月1日]] - 初の[[五千円紙幣]]([[聖徳太子]]の肖像)発行。 * 10月1日 - [[サリドマイド]]が西ドイツで発売される([[1961年]]、生産中止)。 * [[10月4日]] - ソ連が[[人工衛星]][[スプートニク1号]]の打ち上げに成功。 * [[10月10日]] - [[ウィンズケール原子炉火災事故]]おこる。 * [[10月13日]] - [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]が[[北海道日本ハムファイターズ|東映]]とのダブルヘッダーに連勝し、2年連続3度目のパ・リーグ優勝を決める。 * [[10月21日]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]が[[後楽園球場]]での対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]ダブルヘッダー第2試合に勝ち、3年連続の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]優勝を決める。 === 11月 === * [[11月1日]] - [[国会 (日本)|第27臨時国会]]召集([[11月14日]]閉会)。 * 11月1日 - プロ野球[[1957年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は西鉄が4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。 * [[11月4日]] - [[日本放送協会|NHK]]で[[料理番組]]『[[きょうの料理]]』が放送開始。 * [[11月15日]] - [[名古屋市交通局]]初の[[地下鉄]]、[[名古屋市営地下鉄東山線]][[名古屋駅]] - [[栄駅 (愛知県)|栄町駅]]間が開業。 * [[11月24日]] - パ・リーグの大映が[[千葉ロッテマリーンズ|毎日]]と合併し『'''大毎オリオンズ'''』となる。 === 12月 === * [[12月7日]] - [[立教大学]]・[[長嶋茂雄]]選手の巨人軍入団決まる。 * [[12月10日]] - [[学習院大学]]に在学中の[[愛新覚羅慧生]]([[満州国]]皇帝・[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の姪)が、[[伊豆]]・[[天城山]]で同級生の男子学生と一緒に遺体で発見される([[天城山心中]])。 * [[12月11日]] - [[百円硬貨]]発行。 * [[12月17日]] - [[恩賜上野動物園|上野動物園]]内に日本初の[[モノレール]]、[[東京都交通局上野懸垂線]]が開業。 * [[12月20日]] - 第28国会召集([[1958年]][[4月25日]]解散)。 * [[12月23日]] - [[NHK金沢放送局]]が[[裏日本|本州日本海側]]初の[[テレビ]]放送を開始。 * [[12月24日]] - [[日本放送協会|NHK]]、[[NHK-FM放送|FM放送]]の試験放送を東京で開始。 == スポーツ == {{See Also|1957年のスポーツ}} * [[プロ野球]] ** [[セントラル・リーグ]]優勝 [[読売ジャイアンツ]] ** パシフィック・リーグ優勝 [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] ** [[1957年の日本シリーズ|日本シリーズ]]優勝 西鉄ライオンズ(4勝0敗1分) * [[大相撲]](幕内最高優勝) ** 初場所:[[千代の山雅信]] ** 春場所:[[朝潮太郎 (3代)|朝汐太郎]] ** 夏場所:[[安念山治]] ** 秋場所:[[栃錦清隆]] ** 九州場所 [[玉乃海太三郎]] == 芸術・文化 == === 音楽 === {{See Also|1957年の音楽}} * ヒット曲 ** [[エルヴィス・プレスリー]] 「[[恋にしびれて]]」「[[監獄ロック]]」「テディ・ベア」 ** [[サム・クック]] 「[[ユー・センド・ミー]]」 ** [[ヒューイ・"ピアノ"・スミス|ヒューイ・スミス・アンド・ザ・クラウンズ]] 「[[ロッキング・ニューモニア・アンド・ザ・ブギウギ・フルー]]」 ** [[ジェリー・リー・ルイス]] 「[[火の玉ロック]]」 ** サーストン・ハリス 「リトル・ピティ・プリティ・ワン」 ** ミッキー&シルヴィア「ラブ・イズ・ストレンジ」 ** [[バディ・ホリー]] 「[[ペギー・スー]]」「[[ザットル・ビー・ザ・デイ]]」 ** [[リトル・リチャード]] 「[[ルシール (曲)|ルシール]] / 「ジェニ・ジェニ」 ** [[チャック・ベリー]] 「[[ロック・アンド・ロール・ミュージック]]」 ** ダニー&ザ・ジュニアーズ 「アット・ザ・ホップ」 ** [[ザ・ダイアモンズ]] 「リトル・ダーリン」 ** [[島倉千代子]]『[[東京だよおっ母さん]]』 ** [[フランク永井]]『[[有楽町で逢いましょう]]』 === 文学 === * [[芥川龍之介賞|芥川賞]] ** 第37回(1957年上半期) - [[菊村到]] 『硫黄島』 ** 第38回(1957年下半期) - [[開高健]] 『[[裸の王様 (小説)|裸の王様]]』 * [[直木三十五賞|直木賞]] ** 第37回(1957年上半期) - [[江崎誠致]]『ルソンの谷間』 ** 第38回(1957年下半期) - 該当作品なし * [[江戸川乱歩賞]] ** 第3回 - [[仁木悦子]]『[[猫は知っていた]]』 === 映画 === {{See Also|1957年の映画}} * [[OK牧場の決斗]] * [[十二人の怒れる男#映画版|十二人の怒れる男]](監督:[[シドニー・ルメット]]) * [[戦場にかける橋]](監督:[[デヴィッド・リーン]]) * [[第七の封印 (映画)|第七の封印]](監督:[[イングマール・ベルイマン]]) * [[地球へ2千万マイル]] * [[翼よ! あれが巴里の灯だ]](監督:[[ビリー・ワイルダー]]) * [[野いちご]](監督:[[イングマール・ベルイマン]]) * [[昼下りの情事]](監督:ビリー・ワイルダー) * [[蜘蛛巣城]](監督:[[黒澤明]]) * [[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]] * [[どん底 (1957年の映画)|どん底]](監督:黒澤明) * [[幕末太陽傳]](監督:[[川島雄三]]、主演:[[フランキー堺]]) * [[明治天皇と日露大戦争]] * [[喜びも悲しみも幾歳月]](監督:[[木下惠介]]) === テレビ === {{See Also|1957年のテレビ (日本)}} * [[テレビ体操]]([[日本放送協会|NHK]]) * [[きょうの料理]](NHK) * ドキュメンタリー 日本の素顔(NHK) * [[私だけが知っている]](NHK) * [[ミユキ野球教室]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[眠狂四郎無頼控 (1957年のテレビドラマ)|眠狂四郎無頼控]](日本テレビ) * [[ダイヤル110番]](日本テレビ) * [[ヒッチコック劇場]](日本テレビ) * [[時事放談]]([[TBSテレビ|KRテレビ]]) * [[赤胴鈴之助]](KRテレビ) * [[名犬ラッシー]](KRテレビ) * [[びっくり捕物帳]]([[大阪テレビ放送|大阪テレビ]]) * 開局 - [[北海道放送]]、[[NHK松山放送局|NHK松山]]、[[NHK北九州放送局|小倉]]、[[NHK岡山放送局|岡山]]、[[NHK金沢放送局|金沢]] === その他 === {| class="wikitable" |- !キャッチフレーズなど!!商品名など!!メーカー!!出演者!!音楽 |- |♪[[有楽町で逢いましょう]]||開店告知||[[そごう]]||-||[[吉田正]]・[[フランク永井]] |- |♪ジンジン仁丹ジンタカタッタッタ〜||[[仁丹]]||[[森下仁丹]]||-||[[三木鶏郎]] |- |} == 誕生 == [[ファイル:Wakashimazu 2010.JPG|thumb|120px|元大相撲力士[[若嶋津六夫]](1月12日)]] [[ファイル:Brian Dayett.jpg|thumb|120px|元メジャーリーガー[[ブライアン・デイエット]](1月22日)]] [[ファイル:Gates meets Ishiba 8 November 2007 cropped for Ishiba.jpg|thumb|120px|衆議院議員[[石破茂]](2月4日)]] [[ファイル:Spike Lee at the 2009 Tribeca Film Festival.jpg|thumb|120px|映画監督[[スパイク・リー]](3月20日)]] [[ファイル:Yao Bin 2.jpg|thumb|120px|元フィギュアスケート選手[[姚濱]](4月1日)]] [[ファイル:Yasuhiro Yamashita 2.jpg|thumb|120px|柔道家[[山下泰裕]](6月1日)]] [[ファイル:Dasaev Rinat.JPG|thumb|120px|元サッカー選手[[リナト・ダサエフ]](6月13日)]] [[ファイル:Rafael Arutunian Mao Asada and Tatiana Tarasova.jpg|thumb|120px|フィギュアスケートコーチ[[ラファエル・アルトゥニアン]](7月5日、画像左)]] [[ファイル:Inès de la Fressange.jpg|thumb|120px|モデル・デザイナー[[イネス・ド・ラ・フレサンジュ]](8月11日)]] [[ファイル:Hans Zimmer crop.jpg|thumb|120px|作曲家[[ハンス・ジマー]](9月12日)]] [[ファイル:Hideo Higashikokubaru 2007 1216.jpg|thumb|120px|タレント・元宮崎県知事[[東国原英夫]](9月16日)]] [[ファイル:Vasan Sitthiket backstage.jpg|thumb|120px|芸術家[[ワサン・シティケート]](10月7日)]] [[ファイル:Caterina davinio 1990.JPG|thumb|120px|芸術家[[カテリーナ・ダヴィニオ]](11月25日)]] [[ファイル:Hamid Karzai 2006-09-26.jpg|thumb|120px|初代アフガニスタン大統領[[ハーミド・カルザイ]](12月24日)]] {{see also|Category:1957年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[野呂一生]]、[[ギタリスト]]・[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]のリーダー * [[1月2日]] - [[小坂明子]]、[[シンガーソングライター]] * [[1月4日]] - [[テレサ野田]]、元[[俳優|女優]] * [[1月7日]] - [[北村照文]]、元[[プロ野球選手]] * [[1月8日]] - [[中田宗男]]、元プロ野球選手 * 1月8日 - [[ナチョ・ドゥアト]]、[[バレエ]]ダンサー・[[振付師]] * 1月8日 - [[田中甲]]、政治家 * [[1月11日]] - [[広橋公寿]]、元プロ野球選手 * 1月11日 - [[ブライアン・ロブソン]]、元[[サッカー選手]] * 1月11日 - [[氷室冴子]]、[[小説家]](+ [[2008年]]) * [[1月12日]] - [[若嶋津六夫]]、元[[大相撲]][[力士]]・[[大関]]、現・年寄12代二所ノ関 * [[1月15日]] - [[川三番地]]、漫画家 * 1月15日 - [[石井聰亙]]、[[映画監督]] * [[1月16日]] - [[宮島達男]]、[[美術家]] * [[1月17日]] - [[野村邦丸]]、[[アナウンサー]] * 1月17日 - [[横山秀夫]]、[[小説家]]・[[推理作家]] * 1月17日 - [[滝本太郎]]、[[弁護士]] * [[1月18日]] - [[秋野暢子]]、[[俳優|女優]] * [[1月19日]] - [[柴門ふみ]]、[[漫画家]] * 1月19日 - [[小林健二 (アーティスト)|小林健二]]、[[アーティスト]] * [[1月22日]] - [[ブライアン・デイエット]]、元プロ野球選手 * [[1月24日]] - [[段田安則]]、[[俳優]] * 1月24日 - [[金森栄治]]、元プロ野球選手 * [[1月26日]] - [[天野正道]]、[[作曲家]] * [[1月28日]] - [[畑野君枝]]、政治家 * [[1月29日]] - [[マヌエラ・グロス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月29日]] - [[横川理彦]]、ミュージシャン(4-D mode 1) === 2月 === * [[2月1日]] - [[ジャッキー・シュロフ]]、[[俳優]] * [[2月3日]] - [[国谷裕子]]、[[ニュースキャスター]] * 2月3日 - [[みぶ真也]]、一人芝居[[俳優]] * 2月3日 - [[河瀬雅英]]、[[プロ野球選手]] * [[2月4日]] - [[石破茂]]、[[政治家]] * [[2月9日]] - [[ラモス瑠偉]]、元[[プロサッカー選手]](元[[サッカー日本代表|日本代表]])・[[サッカー]]指導者 * [[2月11日]] - [[土田義晴]]、[[絵本作家]] * 2月11日 - [[ピーター・クラスホースト]]、[[画家]]・[[彫刻家]]・[[写真家]] * [[2月12日]] - [[武部聡志]]、[[音楽プロデューサー]] * [[2月16日]] - [[藤本祐司]]、政治家 * [[2月19日]] - [[デーブ・スチュワート (野球)|デーブ・スチュワート]]、[[メジャーリーガー]] * 2月19日 - [[沢田勝彦]]、高校野球指導者 * [[2月20日]] - [[梨羽侑里]]、[[声優]] * [[2月28日]] - [[ヤン・クーレマンス]]、元サッカー選手 * 2月28日 - [[浜田昌良]]、政治家 === 3月 === * [[3月1日]] - [[高柳秀樹]]、元[[プロ野球選手]] * 3月1日 - [[ジョニー・レイ]]、元プロ野球選手 * [[3月4日]] - [[五十嵐浩晃]]、[[シンガーソングライター]] * [[3月6日]] - [[松下立美]]、元プロ野球選手 * [[3月7日]] - [[オール阪神]]、[[お笑いタレント]]([[オール阪神・巨人]]) * 3月7日 - [[レダ・コスミデス]]、[[心理学者]] * [[3月8日]] - [[堀江美都子]]、[[歌手]]・[[声優]] * [[3月9日]] - [[ポール・ザカリー・マイヤーズ]]、[[生物学者]] * [[3月10日]] - [[鹿取義隆]]、元プロ野球選手 * 3月10日 - [[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサマ・ビンラディン]]、[[アルカイダ]]指導者(+ [[2011年]]) * [[3月13日]] - [[高橋慶彦]]、元プロ野球選手 * [[3月19日]] - [[尾崎亜美]]、シンガーソングライター * [[3月20日]] - [[スパイク・リー]]、[[映画監督]] * [[3月21日]] - [[友里千賀子]]、女優 * [[3月22日]] - [[水樹和佳子]]、[[漫画家]] * 3月22日 - [[田村勲]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]]) * [[3月23日]] - [[浅田彰]]、[[哲学者]]・[[京都大学]][[経済]][[研究所]][[助教授]] * [[3月25日]] - [[川本幸生]]、元[[高校野球]]監督(+ [[2010年]]) * [[3月29日]] - [[桂三木助 (4代目)]]、[[落語家]](+ [[2001年]]) * [[3月31日]] - [[郡和子]]、政治家、元アナウンサー * 3月31日 - [[重田敦史]]、[[東武百貨店]]社長 === 4月 === * [[4月1日]] - [[姚濱]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[4月2日]] - [[井上卓也]]、元[[プロ野球選手]] * [[4月3日]] - [[大黒坊弁慶]]、格闘家 * [[4月4日]] - [[桑野信義]]、[[タレント]]、[[ミュージシャン]]([[RATS&STAR]]) * 4月4日 - [[板垣恵介]]、[[漫画家]] * 4月4日 - [[ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク]]、[[ファッションデザイナー]] * 4月4日 - [[アキ・カウリスマキ]]、[[映画監督]] * [[4月5日]] - [[穂積志]]、[[秋田市長]] * [[4月9日]] - [[セベ・バレステロス]]、[[プロゴルファー]](+ [[2011年]]) * [[4月10日]] - [[中村昭]]、プロ野球選手 * 4月10日 - [[小倉全由]]、高校野球指導者 * [[4月14日]] - [[ミハイル・プレトニョフ]]、[[ピアニスト]]・[[指揮者]] * 4月14日 - [[葉千栄]]、[[評論家]]・[[ジャーナリスト]] * [[4月16日]] - [[鈴木正幸 (野球)|鈴木正幸]]、元プロ野球選手 * [[4月18日]] - [[ジーニー (隔離児)|ジーニー]]、13歳まで部屋に監禁されていた少女 * [[4月19日]] - [[石原伸晃]]、[[政治家]] * [[4月21日]] - [[兼光保明]]、プロ野球選手 * [[4月22日]] - [[宮崎弘教]]、元プロ野球選手 * [[4月24日]] - [[蓬萊昭彦]]、元プロ野球選手 * [[4月25日]] - [[今井敦]]、俳優 * [[4月26日]] - [[琴風豪規]]、元大相撲力士・[[大関]]、現・尾車親方 * [[4月27日]] - [[ウィリー・アップショー]]、元プロ野球選手 * [[4月29日]] - [[田中寅彦]]、元プロ将棋棋士 === 5月 === * [[5月5日]] - [[石橋貢]]、元[[プロ野球選手]] * 5月5日 - [[鎌田靖]]、[[日本放送協会|NHK]]解説委員 * [[5月6日]] - [[赤星たみこ]]、漫画家 * [[5月7日]] - [[谷崎浩二]]、プロ野球選手 * [[5月8日]] - [[かたせ梨乃]]、[[俳優|女優]] * [[5月9日]] - [[スティーブ・ハモンド (内野手)|スティーブ・ハモンド]]、元プロ野球選手 * [[5月11日]] - [[花房健]]、プロ野球選手 * [[5月11日]] - [[マリナ・マハティール]]、マレーシアの[[マハティール・ビン・モハマド]]首相の長女 * [[5月12日]] - [[ルー・ウィテカー]]、元[[メジャーリーガー]] * [[5月13日]] - [[鈴木光司]]、[[作家]]・エッセイスト * [[5月13日]] - [[夏井いつき]]、[[俳人]] * [[5月14日]] - [[古尾谷雅人]]、[[俳優]](+ [[2003年]]) * 5月14日 - [[佐戸井けん太]]、[[俳優]] * [[5月17日]] - [[団野村]]、元プロ野球選手、[[エージェント|交渉代理人]] * [[5月18日]] - [[山崎ハコ]]、シンガーソングライター * [[5月19日]] - [[四方晴美]]、女優 * 5月18日 - [[豊平晋一]]、プロ野球選手 * [[5月20日]] - [[野田佳彦]]、[[政治家]]、第95代[[内閣総理大臣]] * [[5月22日]] - [[森末慎二]]、元[[体操競技]]選手・[[タレント]] * [[5月23日]] - [[根本要]]、シンガーソングライター([[スターダストレビュー]]) *[[5月26日]] - [[ロベルト・ラヴァーリア]]、イタリアのレーシングドライバー * [[5月29日]] - [[美口博]]、プロ野球選手 * 5月29日 - [[柿木園悟]]、プロ野球審判員 === 6月 === * [[6月1日]] - [[山下泰裕]]、[[柔道家]] * 6月1日 - [[リチャード・オルセン]]、元[[プロ野球選手]] * 6月1日 - [[イレーナ・グラフェナウアー]]、[[フルート奏者]] * [[6月4日]] - [[トニー・ペーニャ]]、MLB指導者、元メジャーリーガー * [[6月5日]] - [[立野清広]]、プロ野球選手 * [[6月6日]] - [[マックス・ベナブル]]、元プロ野球選手 * 6月6日 - [[大島映二]]、棋士 * [[6月10日]] - [[アンドレイ・ブキン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 6月10日 - [[木之内みどり]]、元[[アイドル]]歌手・元[[俳優|女優]] * [[6月11日]] - [[中本茂樹]]、元プロ野球選手 * [[6月13日]] - [[リナト・ダサエフ]]、元サッカー選手 * [[6月16日]] - [[茂本ヒデキチ]]、イラストレーター * [[6月17日]] - [[韓国瑜]]、[[高雄市長]] * [[6月18日]] - [[野田稔]]、[[明治大学]]専門職大学院グローバルビジネス研究科教授、元[[野村総合研究所]]コンサルタント * [[6月19日]] - [[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ロバート・ギブソン]]、元プロ野球選手 * [[6月19日]] - [[二木真希子]]、[[アニメーター]](+ 2016年) * [[6月22日]] - [[福井烈]]、プロ[[テニス]]選手 * [[6月25日]] - [[松居一代]]、[[タレント]]・[[エッセイスト]] * 6月25日 - [[長田克史]]、元プロ野球選手 * 6月25日 - [[土手本勝次]]、元プロ野球選手 * [[6月26日]] - [[あたか誠]]、[[声優]] * [[6月28日]] - [[青山久人]]、元プロ野球選手 === 7月 === * [[7月1日]] - [[クリス・スミス (内野手)|クリス・スミス]]、元[[プロ野球選手]] * [[7月4日]] - [[眞野あずさ]]、[[俳優|女優]] * [[7月5日]] - [[ラファエル・アルトゥニアン]]、[[フィギュアスケート]]コーチ * [[7月7日]] - [[ダン・グラッデン]]、元プロ野球選手 * [[7月8日]] - [[麻生圭子]]、[[作詞家]]、[[随筆家|エッセイスト]] * [[7月11日]] - [[鄭義信]]、[[劇作家]]・[[脚本家]] * [[7月12日]] - [[北別府学]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * 7月12日 - [[森永卓郎]]、[[経済]][[評論家|アナリスト]] * [[7月13日]] - [[浅井純哉]]、[[高校野球]]指導者 * 7月13日 - [[ティエリー・ブーツェン]]、元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[7月14日]] - [[外園正]]、プロ野球選手 * [[7月15日]] - [[ジョー・ヒックス (内野手)|ジョー・ヒックス]]、元プロ野球選手 * 7月15日 - [[林海象]]、[[映画監督]]・[[映画プロデューサー]] * [[7月16日]] - [[篠塚和典]]、元プロ野球選手 * [[7月17日]] - [[大竹しのぶ]]、女優 * 7月17日 - [[中野英明]]、プロ野球選手 * [[7月20日]] - [[石井洋祐]]、俳優 * [[7月20日]] - [[かおりくみこ]]、歌手 * 7月20日 - [[佐和タカシ]]、俳優 * [[7月23日]] - [[久米大作]]、ミュージシャン * [[7月24日]] - [[伊戸のりお]]、作曲家 * 7月24日 - [[島貫省一]]、元プロ野球選手 * 7月24日 - [[大原徹也]]、元プロ野球選手 * 7月24日 - [[シャフカト・ミルジヨエフ]] - [[ウズベキスタン]]の政治家 * [[7月25日]] - [[中島克介]]、プロ野球選手 * [[7月26日]] - [[サンティ・サンタマリア]]、[[シェフ|料理人]](+ [[2011年]]) * [[7月29日]] - [[岸田文雄]]、政治家、[[内閣総理大臣]]、[[自由民主党総裁]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]] * [[7月30日]] - [[堀内賢雄]]、声優 * 7月30日 - [[クリント・ハードル]]、[[メジャーリーガー]]、監督 * [[7月31日]] - [[杉村繁]]、元プロ野球選手 * 7月31日 - [[木下智裕]]、元プロ野球選手 === 8月 === * [[8月2日]] - [[島田芳明]]、元[[プロ野球選手]] * [[8月3日]] - [[春日光広]]、漫画家 * [[8月6日]] - [[ボブ・ホーナー]]、元プロ野球選手 * [[8月7日]] - [[尾花髙夫]]、元プロ野球選手 * [[8月9日]] - [[水上善雄]]、元プロ野球選手 * [[8月11日]] - [[イネス・ド・ラ・フレサンジュ]]、[[ファッションモデル]]・[[ファッションデザイナー]] * 8月11日 - [[孫正義]]、[[実業家]] * [[8月12日]] - [[和田博盛]]、元プロ野球選手 * [[8月13日]] - [[毛利和昭]]、[[アニメーター]]・[[イラストレーター]] * [[8月14日]] - [[地頭方一男]]、元プロ野球選手 * 8月14日 - [[湯原信光]]、プロゴルファー * [[8月16日]] - [[竹之内徹]]、元プロ野球選手 * [[8月17日]] - [[ロビン・カズンズ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[8月18日]] - [[名取裕子]]、[[俳優|女優]] * [[8月19日]] - [[チェーザレ・プランデッリ]]、元サッカー選手・サッカー指導者 * [[8月20日]] - [[柴田保光]]、元プロ野球選手 * [[8月21日]] - [[竹葉山真邦]]、大相撲元幕内、年寄宮城野 * 8月21日 - [[光井正和]]、プロ野球選手 * [[8月22日]] - [[郷田ほづみ]]、[[俳優]]・[[声優]]・[[音響監督]] * [[8月24日]] - [[鈴木孝行]]、元プロ野球選手 * [[8月26日]] - [[難波圭一]]、声優 * [[8月27日]] - [[木村理恵]]、[[俳優|女優]] * [[8月28日]] - [[熊野輝光]]、元プロ野球選手 * [[8月29日]] - [[鷺巣詩郎]]、作曲家、[[編曲家]] * [[8月30日]] - [[長内孝]]、元プロ野球選手 * 8月30日 - [[小川淳司]]、元プロ野球選手 * [[8月31日]] - [[藤倉一雅]]、元プロ野球選手 === 9月 === * [[9月1日]] - [[山内和宏]]、元[[プロ野球選手]] * [[9月2日]] - [[増田恵子]]、[[歌手]]([[ピンク・レディー]])・[[俳優|女優]] * 9月2日 - [[栗田ひろみ]]、元女優・[[タレント]] * [[9月3日]] - [[平川洋幸]]、プロ野球選手 * [[9月6日]] - [[泉じゅん]]、女優 * 9月6日 - [[加藤知子]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[9月9日]] - [[ピエール=ローラン・エマール]]、[[ピアニスト]] * [[9月10日]] - [[綾戸智恵]]、[[ジャズ]]歌手 * [[9月11日]] - [[プレーベン・エルケーア・ラルセン]]、元サッカー選手 * [[9月12日]] - [[ハンス・ジマー]]、[[作曲家]] * 9月12日 - [[戸田恵子]]、女優・[[声優]] * 9月12日 - [[石川武 (俳優)|石川武]]、[[俳優]] * [[9月16日]] - [[東国原英夫]](そのまんま東)、元[[宮崎県]][[知事]]・[[お笑いタレント]] * [[9月18日]] - [[うじきつよし]]、[[タレント]]・ミュージシャン([[KODOMO BAND]]) * [[9月19日]] - [[串田嘉男]]、[[天文学|アマチュア天文家]] * [[9月20日]] - [[福原峰夫]]、元プロ野球選手 * [[9月21日]] - [[ケビン・ラッド]]、オーストラリア第28代首相 * [[9月22日]] - [[近藤典子 (アメニティーアドバイザー)|近藤典子]]、アメニティーアドバイザー * [[9月23日]] - [[石塚元章]]、[[記者|報道記者]]・[[ニュースキャスター]] * [[9月25日]] - [[金子光伸]]、元[[俳優]](+[[1997年]]) * 9月25日 - [[日比野達郎]]、AV男優 * [[9月26日]] - [[木根尚登]]、ミュージシャン([[TM NETWORK]])・[[小説家]] * 9月26日 - [[天童よしみ]]、[[演歌歌手]] * [[9月27日]] - 室山眞里子、[[漫画家]]コンビ「[[室山まゆみ]]」妹 * 9月27日 - [[大川章]]、元プロ野球選手 * [[9月28日]] - [[ティエリー・フィッシャー]]、[[指揮者]]・[[フルート奏者]] * [[9月29日]] - [[蓮池薫]]、[[北朝鮮による日本人拉致|北朝鮮による拉致被害者]]、翻訳家 * [[9月30日]] - [[高口里純]]、[[漫画家]] === 10月 === * [[10月3日]] - 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[[美木良介]]、[[俳優]] *[[11月3日]] - [[中谷明彦]]、レーシングドライバー * [[11月4日]] - [[アレクサンドル・トカチェフ]]、[[体操競技]]選手 * 11月4日 - [[永井龍雲]]、[[シンガーソングライター]] * [[11月5日]] - [[遠藤伸久]]、[[プロ野球選手]] * [[11月6日]] - [[中根徹]]、俳優 * 11月6日 - [[佐川宣寿]]、財務官僚 * [[11月9日]] - [[宮本尊義]]、プロ野球選手 * [[11月10日]] - [[曽田康二]]、元プロ野球選手 * [[11月13日]] - [[櫻井哲夫]]、[[ベーシスト]]、元[[カシオペア (バンド)|カシオペア]]のメンバー * [[11月15日]] - [[中島啓江]]、[[オペラ]][[歌手]](+ [[2014年]]) * [[11月18日]] - [[城みちる]]、[[歌手]]・[[タレント]] * [[11月20日]] - [[竹島将]]、作家 * [[11月21日]] - [[西脇美智子]]、[[ボディビルディング]]選手、女優 * 11月21日 - [[田嶋幸三]]、元サッカー選手・[[日本サッカー協会]]専務理事 * [[11月23日]] - [[片岡大蔵]]、元プロ野球選手 * [[11月25日]] - [[岡田彰布]]、[[オリックス・バファローズ]]監督・元プロ野球選手  * 11月25日 - [[カテリーナ・ダヴィニオ]]、[[詩人]]・[[美術家]]・[[写真家]]・[[映画監督]] * 11月25日 - [[斉藤巧]]、元プロ野球選手 * 11月25日 - [[トニー・ブリューワ]]、元プロ野球選手 * [[11月27日]] - [[石原恒和]]、[[ポケットモンスター|ポケモン]]の総合プロデューサー * 11月27日 - [[中井貴惠]]、女優・[[エッセイスト]] * 11月27日 - [[佐山聡]]、[[プロレスラー]]・修斗及び掣圏真陰流の創始者 * [[11月28日]] - [[松木安太郎]]、[[スポーツ解説者|サッカー解説者]]・サッカー指導者・元サッカー選手 * [[11月30日]] - [[田口トモロヲ]]、俳優、声優 * 11月30日 - [[山田昌弘]]、社会学者 * 11月30日 - [[田村隆 (料理人)|田村隆]]、[[料理人]](+ [[2020年]]) * 11月30日 - [[リチャード・バルビエリ]]、[[ミュージシャン]]、[[キーボーディスト]](元[[ジャパン (バンド)|ジャパン]]) === 12月 === * [[12月2日]] - [[山本みどり]]、女優 * 12月2日 - [[遠山裕]]、ミュージシャン * 12月2日 - [[御木貴日止]]、宗教家(+ [[2020年]]) * [[12月3日]] - [[岩里祐穂]]、[[作詞家]]・[[作家]] * 12月3日 - [[鐘井裕治]]、元[[プロ野球選手]] * [[12月4日]] - [[堀米ゆず子]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[12月6日]] - [[立石充男]]、元プロ野球選手 * 12月6日 - [[スティーブ・ベドローシアン]]、[[メジャーリーガー]] * [[12月7日]] - [[森博嗣]]、[[小説家]] * [[12月10日]] - [[嶺重慎]]、[[天文学者]] * 12月10日 - [[日詰昭一郎]]、[[シンガーソングライター]]、作曲家、ベーシスト(+[[2001年]]) * [[12月11日]] - [[松井五郎]]、[[作詞家]] * [[12月12日]] - [[スザンナ・タマーロ]]、小説家 * [[12月15日]] - [[チョー (俳優)|チョー]]、声優・俳優 * 12月15日 - [[林泰男]]、元[[オウム真理教]]幹部 元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[12月17日]] - [[夏目雅子]]、元[[俳優|女優]](+ [[1985年]]) * [[12月19日]] - [[ゆうきまさみ]]、[[漫画家]] * 12月19日 - [[吉本昌弘]]、[[脚本家]] * 12月19日 - [[小杉十郎太]]、声優 * 12月19日 - [[ケビン・マクヘイル]]、元バスケットボール選手 * [[12月24日]] - [[後藤真砂子]]、[[アニメーター]] * 12月24日 - [[ハーミド・カルザイ]]、[[アフガニスタン]]の政治家 * [[12月29日]] - [[ブルース・ボイトラー]]、[[免疫学者]]・[[遺伝学者]] * 12月29日 - [[ポール・ラドニック]]、[[劇作家]]・[[脚本家]]・[[小説家]] * 12月29日 - [[小室みつ子]]、シンガーソングライター * 12月29日 - [[坂西伊作]]、映像ディレクター(+ [[2009年]]) 日付不明 - [[スティーヴン・メリロ]]、[[作曲家]] * 日付不明 - [[高森明勅]]、[[歴史学者]] * 日付不明 - [[グルバングル・ベルディムハメドフ]]、政治家、第2代[[トルクメニスタン]]大統領 == 死去 == [[ファイル:Kiyoshi Shiga.jpg|thumb|120px|医学者・細菌学者[[志賀潔]](1月25日){{Squote|「らい者救済の第一は去勢であって、らいの撲滅には最効果あり。」 - 「らい病の歴史」より}}]] [[ファイル:MagsaysayRamon.jpg|thumb|120px|フィリピン大統領[[ラモン・マグサイサイ]]事故死(3月17日)]] [[ファイル:Jean Sibelius, 1913.jpg|thumb|120px|作曲家[[ジャン・シベリウス]](9月20日)]] {{see also|Category:1957年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月6日]] - [[エド・アッバティッチオ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1877年]]) * [[1月8日]] - [[吉田甲子太郎]]、[[翻訳家]]・[[児童文学者]](* [[1894年]]) * [[1月9日]] - [[有馬頼寧]]、[[政治家]]、プロ野球球団オーナー、[[日本中央競馬会]]理事長(* [[1884年]]) * [[1月12日]] - [[ヴィクトル・スタルヒン]]、元[[プロ野球選手]](* [[1916年]]) * [[1月14日]] - [[ハンフリー・ボガート]]、[[俳優]](* [[1899年]]) * [[1月16日]] - [[アルトゥーロ・トスカニーニ]]、[[指揮者]](* [[1867年]]) * 1月16日 - [[玉腰忠義]]、元プロ野球選手(* [[1920年]]) * [[1月18日]] - [[牧野富太郎]]、[[植物学者]](* [[1862年]]) * [[1月19日]] - [[ミゲル・コバルビアス]]、[[画家]](* [[1904年]]) * [[1月25日]] - [[志賀潔]]、[[医学者]]・[[細菌学者]](* [[1871年]]) * 1月25日 - [[小林一三]]、[[実業家]]・[[阪急東宝グループ]]の創始者(* [[1873年]]) * [[1月26日]] - [[重光葵]]、[[外交官]]・[[政治家]](* [[1887年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[フリードリヒ・パウルス]]、[[ナチス・ドイツ]]の軍人・[[元帥]](* [[1890年]]) * [[2月8日]] - [[ジョン・フォン・ノイマン]]、[[数学者]](* [[1903年]]) * [[2月9日]] - [[ホルティ・ミクローシュ]]、戦間期[[ハンガリー]]の[[摂政]](* [[1868年]]) * [[2月10日]] - [[ローラ・インガルス・ワイルダー]]、『[[大草原の小さな家]]』などで知られる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]](* [[1867年]]) * [[2月16日]] - [[ヨゼフ・ホフマン]]、[[ピアニスト]](* [[1876年]]) * [[2月20日]] - [[大麻唯男]]、[[官僚]]・政治家(* [[1889年]]) === 3月 === * [[3月7日]] - [[パーシー・ウインダム・ルイス]]、画家(* [[1882年]]) * [[3月11日]] - [[リチャード・バード]]、[[探検家]](* [[1888年]]) * [[3月16日]] - [[コンスタンティン・ブランクーシ]](* [[1876年]]) * [[3月17日]] - [[ラモン・マグサイサイ]]、[[フィリピン共和国]][[大統領]](* [[1907年]]) * [[3月18日]] - [[田邊宗英]]、実業家(* [[1881年]]) * [[3月21日]] - [[チャールズ・ケイ・オグデン]]、[[ベーシック英語]]創案者(* [[1889年]]) * [[3月28日]] - [[北原鉄雄]]、[[出版人]]、[[アルス (出版社)|アルス]]代表(* [[1887年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[小林古径]]、[[日本画家]](* [[1883年]]) * [[4月4日]] - [[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]、[[外交官]]・[[日本学|日本学者]](* [[1909年]]) * [[4月7日]] - [[羽仁もと子]]、[[教育者]]、[[自由学園]]の創立者(* [[1873年]]) === 5月 === * [[5月7日]] - [[ヴィルヘルム・フィルヒナー]]、[[探検家]](* [[1877年]]) * [[5月16日]] - [[エリオット・ネス]]、[[酒類取締局]] 映画『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』のモデル * [[5月29日]] - [[ハーバート・ラング]]、[[動物学者]](* [[1879年]]) === 6月 === * [[6月21日]] - [[川田晴久]]、俳優・[[歌手]](* [[1907年]]) * [[6月24日]] - [[フランティセック・クプカ]]、[[画家]](* [[1871年]]) * [[6月29日]] - [[橋本欣五郎]]、[[陸軍軍人]]・政治家(* [[1890年]]) * [[6月30日]] - [[川合玉堂]]、日本画家(* [[1873年]]) === 7月 === * [[7月3日]] - [[ドルフ・ルケ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1890年]]) * [[7月10日]] - [[ウォルター・ヤコブソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1882年]]) * [[7月24日]] - [[サシャ・ギトリ]]、[[劇作家]]・[[映画監督]](* [[1885年]]) === 8月 === * [[8月24日]] - [[ロナルド・ノックス]]、[[聖職者]]・[[推理作家]](* [[1888年]]) * 8月24日 - [[アルバート・サモンズ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1886年]]) * [[8月26日]] - [[ジョセフ・ティレル]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](* [[1858年]]) === 9月 === * [[9月1日]] - [[デニス・ブレイン]]、[[ホルン]]奏者(* [[1921年]]) * [[9月6日]] - [[山田わか]]、婦人運動家(* [[1879年]]) * [[9月14日]] - [[キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー]]、[[藻類学|藻類学者]] * [[9月20日]] - [[ジャン・シベリウス]]、[[作曲家]](* [[1865年]]) === 10月 === * [[10月6日]] - [[久生十蘭]]、小説家・[[演出家]](* [[1902年]]) * [[10月7日]] - [[柳原極堂]]、[[俳人]](* 1867年) * [[10月15日]] - 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[[アレクサンダー・トッド]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ダニエル・ボベット]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[アルベール・カミュ]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[レスター・B・ピアソン|レスター・ピアソン]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1957|date=2011年7月}} * [[10月4日]] - 19時未明、[[アメリカ合衆国]][[メイン州]]ロックウェルに、巨大な[[ロボット]]が出現する。(映画『[[アイアン・ジャイアント]]』) * [[秋]] - [[日本]]各地で[[未確認飛行物体]]の目撃が相次ぎ、正体不明の奇病が蔓延する。(映画『[[スーパージャイアンツ#作品リストと概要|スーパージャイアンツ 怪星人の魔城]]』) * [[平行世界]]の[[地球]]で[[アメリカ合衆国]]軍の研究者が異星人から借りた物質から対消滅エネルギーを生成させる実験に失敗、その平行世界の[[銀河系]]から地球が消滅する。(ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』) * フュロン星人クリプト137が、[[1947年|10年前]]に地球で行方不明になった兄クリプト136の捜索のために地球に赴く。(ゲーム『[[デストロイ オール ヒューマンズ!]]』)<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20070301/dah.htm PS2ゲームレビュー「デストロイ オール ヒューマンズ!」] - [[Impress Watch#サイト一覧|GAME Watch]]、2007年3月1日、2016年2月15日閲覧。</ref> * [[福岡県]][[香椎]]で[[心中]]と見られる事件が発生。事件の真相と××省汚職との関係を追って[[福岡県警]]と[[警視庁]]の[[刑事]]が捜査にあたる。(小説『[[点と線]]』)<!--冒頭に1月13日とあり、巻末には「時刻表は昭和32年のものを用いた」と作者が注記している。発端から決着までこの年内の出来事である。--> * [[ハイアイアイ群島]]が近海で行われた秘密裡の[[核実験]]で生じた地殻変動によって消滅し、生息していたハナアルキが絶滅。ハラルド・シュテンプケら滞在していた研究者も全滅する。(書籍『[[鼻行類]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ハラルド・シュテンプケ|authorlink=:en:Gerolf Steiner |title = 鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活 |publisher = [[平凡社]] |year = 1999 |pages = 130,131 |isbn = 978-4-582-76289-1}}</ref> * [[北海道]]雲雀ヶ崎市郊外の雲雀山に一年前に落下した隕石(後の雲雀ヶ崎隕石)が発見される。この隕石は、市の郊外に建立された星天宮に御神体として祀られることになる。同時期に雲雀ヶ崎学園(通称ヒバリ校)が開学する。(ゲーム『[[星空のメモリア]]』)<ref>本編姫榊こももルートの登場人物たちの会話より。</ref> * 株式会社中部製作所が、日本初の純国産メカトロボットとなる軽歩行機「チューブ1号」を発表。同時に社名を「メカトロ中部」へと改名する。(玩具『[[メカトロウィーゴ]]』など)<ref>[http://www.hasegawa-model.co.jp/cw21b/ 祝!「メカトロチューブ1号」プラモデル化!] - [[ハセガワ]]公式サイト、2020年9月7日、2021年1月13日閲覧。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1957}} * [http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00004176291.pdf 1957(昭和32)年]「豊かさ」に関する意識の変容(2)冨貴島明、城西大学、2004-08、p93 {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1957ねん}} [[Category:1957年|*]]
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中つ国 (トールキン)
中つ国(、英語: Middle-earth)は、J・R・R・トールキンの物語作品における架空世界で、彼のほとんどの物語が起こったとされている場所である。 この「中つ国(Middle-earth、ミドルアース)」という言葉は、『ホビットの冒険(The Hobbit)』、『指輪物語(The Lord of the Rings)』そして『シルマリルの物語(The Silmarillion)』の中で描かれた全世界に非公式に適用されることもあるが、 もっと適切には、エンドール(Endor)あるいはエンノール(Ennor)とクウェンヤやシンダール語などのエルフ語で呼ばれた、その主要な大陸だけを示すのに使われた。 中つ国の設定はしばしば別世界であると思われるが、実際は地球の歴史上の架空の期間、6000 - 7000年前の設定とされる。トールキンは、中つ国が私たちの地球であるといくつかの手紙 (The Letters of J. R. R. Tolkien) の中ではっきりと主張していた。本で書かれているのは、大陸の北西が大部分であり、現代のヨーロッパに対応する。中つ国の東および南に関してほとんど知られていない。 中つ国の歴史はいくつかの時代に分割される。『ホビットの冒険』そして『指輪物語』は第三紀の終わり頃のことを扱っていて、一方『シルマリルの物語』は主に第一紀の出来事を扱っている。その世界はもとは水平だったが、第二紀終わりの近くに創造者イルーヴァタールの介入により丸くなった。 中つ国についての知識の多くは、トールキンが生前に出版しなかった著述に基づいている。著述に含まれている多くの中つ国の伝説は、トールキン・ファンの大部分によって「正典」と見なされている(何をもって正典とするかは、中つ国の正典を参照)。 「中つ国(Middle-earth)」という言葉はトールキンの独自のものではなく、古英語でmiddanġeard、中英語でmidden-erdあるいはmiddel-erdとして存在した。古ノルド語ではミズガルズ(Miðgarðr)と呼ぶ。Mediterranean Sea(地中海)のMediterraneanという単語はmedi「中の」とterra「大地」という二つのラテン語の語幹に由来する。middanġeardは『ベーオウルフ』の詩にも複数回現れる。J・R・R・トールキンの着想および出所の議論も参照のこと。より古い用法についてはミズガルズと北欧神話を参照。 トールキンは以下の断片からも着想を得た。 キュネウルフ (Cynewulf) の詩「クリスト」 (Christ I) より。earendelの名前(それは「明けの明星」を意味することもあるが、いくつかの文脈の中ではキリストの名前だった)はトールキンの航海者エアレンディル(Eärendil)の着想を与えた。 この名前は、『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』および関連著作で、トールキンによって意識的に「外なる陸地」Outer Landsや「大陸」Great Landsという古い用語を徐々に置き換えていった。 トールキン自身は書簡で「中つ国(Middle-earth)」がギリシャ語のοικουμένη(oikoumenē)の特定の用法と同じであると記した。この用法では、oikoumenēはいわゆるエクメーネのように「人間の居住地」であるとトールキンはいう。 中つ国という言葉はいくつかの方法で解釈することができる。 熱心な空洞地球論者のなかには言葉を彼らなりに解釈して、トールキンが地球空洞説を参考にしたと信じているが、しかし、トールキンの著述にこれを裏付けるものはない。 「中つ国(Middle-earth)」は一般のメディアでは、Middle EarthやMiddle-Earthなどとよく誤って綴られている。和訳では「なかつくに」と読むとしているが、「なかつこく」という誤った読みもみられる。 「中つ国」は厳密には(どちらも「中の地」を意味する、エルフ語クウェンヤのエンドール Endorやシンダール語のエンノール Ennorと呼ばれた)特定の大陸を示す。つまりユーラシアそしてアフリカであるが、この言葉は地球(アルダ)、あるいは物語が起こる全宇宙(エア)を指してしばしば使われる。 中つ国の各地域を気候学、植物学、動物学等の類似性を基に実際の地球とおおまかに対応させると、ホビット庄は温和なイングランド、ゴンドールは地中海のイタリアやギリシア、モルドールは乾燥したトルコそして中東、南ゴンドールは北アフリカの砂漠、ロヴァニオンは東ヨーロッパの森林と西と南のロシアの大草原、そしてフォロヘル氷湾はノルウェーのフィヨルドとなる。 トールキンは、仮にホビット庄と裂け谷の緯度をオックスフォードあたりだとすると、そこから600マイル南にあるゴンドールのミナス・ティリスの緯度はフィレンツェに、アンドゥインの河口とペラルギアはトロイの緯度に相当すると述べている。 『ホビットの冒険』と『指輪物語』は、ビルボ、フロドおよび他のホビットのライフワークという体裁で発表された。それらは西境の赤表紙本という架空の書物の抜粋の体裁を取った。中つ国が、遥か有史以前の想像上の時代の北西ヨーロッパと想定されていることは明らかである。そうすると地理的位置から、ホビット庄はイングランドによく似ている。シェイクスピアの『リア王』やロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズのように、物語は、歴史上の実在しない期間に設定されている。 トールキンは、この地の言語学、神話および歴史について広範囲に書いて、これらの物語のために背景を形作った。ほとんどのこれらの著述は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』を例外として、彼の息子クリストファが死後に編集し出版した。それらの中で特筆すべきは『シルマリルの物語』で、ヴァリノールやヌーメノールやその他の地と同様に中つ国も含む、より広範な宇宙論を展開する。同じく注意すべきは、『終わらざりし物語』と12巻および別巻索引からなる『中つ国の歴史』シリーズで、それは彼の生涯の初期の草稿から最後の著述までトールキンの著述の発展の過程を詳述すると同時に不完全な物語や小論も含んでいる。 トールキンの宇宙の最高の神性はエル・イルーヴァタールと呼ばれる。原初、イルーヴァタールはアイヌアと呼ばれる聖霊を創造し、神の音楽に専念させた。アイヌアのメルコールはトールキンにとってサタンに対応する物であり、調和を壊した。イルーヴァタールはそれに対して、アイヌアの理解を超えた音楽を広げる新しい主題を導入した。それらの歌の本質は、まだ作られていない宇宙、およびそこに居住するべき人々の歴史を確立することだった。 その後、イルーヴァタールはエア(Eä)を創造した。この語は「存在する世界」すなわち宇宙を指し、また「存在せよ」というイルーヴァタールの言葉でもある。アイヌアはエアの内にアルダ、大地を形成し、「虚空の内側に創造した」。世界と大気は虚空(Kuma)とは別のものとされた。最も強力な15人のアイヌアが、アルダを形作り管理するためにやって来て、ヴァラールと呼ばれた。 第一紀と第二紀の中頃までの世界は、第三紀と第四紀の世界と根本的に異なる。第一紀にアルダは水平な世界で、「とり囲む海」(ヴァイア)に浮かぶ船あるいは島として表されて、「とり囲む海」はアルダの下の水および上の空気よりなる。太陽と月、そして金星を含むいくつかの星も同様にヴァイアの内の軌道をたどり、虚空から分かたれたアルダの一部であるとされる。 第二紀の終わりのヌーメノールの没落の後の宇宙の激変で、宇宙論は根本的に変更され、アルダがわれわれの世界の地球に非常に似た球状の世界に変えられた。大陸のアマンは世界から取り除かれ、新しい国は古い国の「下に」作成された。 中つ国にはいくつかの知的な種族が住んでいる。最初にあったのはアイヌアで、イルーヴァタールによって創造された天使のような存在である。アイヌアはイルーヴァタールを助け、アイヌリンダレすなわち「アイヌアの音楽」と呼ばれた宇宙哲学的な神話の中でアルダを創造する。アイヌアのうちのいくらかはその後アルダに入り、これらの中で最も偉大な者たちはヴァラールと呼ばれる。中つ国における邪悪の具現であるメルコール(後に「モルゴス」と呼ばれた)は最初はヴァラールのうちの1人だった。 アルダに入った下位のアイヌアはマイアール(これは複数形で、単数形はマイア)と呼ばれる。第一紀に登場したマイアの主要な例はエルフの王シンゴルの妻のメリアンである。第三紀に登場するガンダルフ等の(人間に魔法使いと呼ばれた)イスタリもまたマイアールであるといわれる。バルログや冥王サウロンという邪悪な者たちもまたマイアールであった。 その後、イルーヴァタールの子らがやって来る。イルーヴァタールのみの手によって創造された知的な生物で、エルフと人間を指している。『シルマリルの物語』は第一紀そしてそれ以前を扱っているのでエルフつまり長子が主に描かれているが、人間も中盤から現れる。 ヌーメノールの没落の物語は第二紀にあったとされ、第一紀にエルフの友人だった人間の子孫について取り扱う。彼らの子孫が、『指輪物語』に現れる第三紀のアルノールそしてゴンドールの人間である。ホビットも人間からの分かれたとの説もある。 ドワーフは、イルーヴァタールによってではなく、ヴァラールのアウレによって創造され、伝説の中の特別な位置を占める。しかしアウレは生命を与える事はできなかったので、作ったドワーフをイルーヴァタールに嘉納して、イルーヴァタールはドワーフに生命と自由意志を与えた。エント(木の牧者)もまた、ヤヴァンナからドワーフとバランスを取ることを要求されたイルーヴァタールが創った。 オークとトロルは、モルゴスが生じさせた邪悪な生物である。それらは独自の創造物ではなくエルフとエントの「まがい」である。それらの本当の起源は不確かであるが、少なくともそれらのうちのいくらかは堕落したエルフや人間から生じさせた。 知性のある動物も現れる。鷲やヴァリノールからやってきた大いなる猟犬フアン、巨狼、魔狼等がその例である。鷲はエントと共にイルーヴァタールが創ったが、一般にはこれらの動物の起源および性質については詳しく言及されていない。可能性としては、動物の形をとっているマイアールかもしれないし、あるいはマイアールと動物の子孫なのかもしれない。 トールキンは、元々は彼の人工言語の構成の副産物として『シルマリルの物語』を書き始めた。彼は2つの主要な言語を考案した。それらは、ヴァリノールに居住したエルフが話したクウェンヤ、そしてベレリアンドにとどまったエルフによって話されたシンダール語の2つである。これらの言語の間には関連があり、それら両方の祖形として共通エルダール語が仮定されている。 その他のこの世界の言語は次の通りである。 中つ国の歴史は3つの時代に分割され、灯火の時代、二本の木の時代 、太陽の時代と呼ばれている。太陽の時代はさらに細分され、ほとんどの中つ国の物語は、太陽の時代の最初の3つの紀に起こる。 灯火の時代はヴァラールがアルダを創生した直後に始まった。ヴァラールは世界を照らす2つの灯火を創った。ヴァラールのアウレは巨大な塔の1つを北の端に、もう1つを南の端に創った。ヴァラールはそれらの中間の島アルマレンに住んだ。メルコールが2つの灯火を破壊することで灯火の時代は終わる。 二本の木の時代は、ヴァラールのヤヴァンナが二本の木を作ったことで始まる。木の放つ光はアマンを照らし、薄明かりの中に中つ国を残した。中つ国の東のクイヴィエーネン湖の辺りでエルフは目覚め、すぐにヴァラールが彼らを見いだした。エルフの多くは、西方のアマンへ「大いなる旅」に行くように説得されたが、彼らの全てが旅を終えるとは限らなかった(エルフの分裂参照)。ヴァラールはエルフを虐げていたメルコールを捕らえたが、三期の後、改悛したように見えたので解放した。だがメルコールはエルフの間に大きな不和の種をまき、公子フェアノールとフィンゴルフィンの間にいさかいを起した。そして、2人の父フィンウェ王を殺害し、保管庫からシルマリルを盗んだ。シルマリルは、フェアノールが巧妙に作った三個の宝石で、その中に二本の木の光を含んでいた。メルコールは木自身も破壊して、二本の木の時代は終結する。 フェアノールと彼の一族は、メルコールを「モルゴス」(黒い敵)と呼んで呪いながら、後を追って中つ国のベレリアンドに向かった。さらにもっと大きな軍勢をフィンゴルフィンが率いて続いた。彼らはテレリの港街アルクウァロンデに達したが、テレリは船の供与を拒絶した。フェアノールの軍勢は、同族を殺害してまで盗んだ船で航海し、置き去りにされたフィンゴルフィンの軍勢は、最北のヘルカラクセ海峡の氷山を踏んで海を渡ることになった。中つ国の戦いでフェアノールは殺害されたが、彼の息子たちやフィンゴルフィンは生き残り、王国を設立した。 ヴァラールが、枯れた二つの木の最後の果実と花から太陽と月を作り、太陽の時代の第一紀が始まった。新しい種族「人間」が目覚めたのもこの時代である。いくつかの大きな戦いの後に、1つずつエルフの王国は陥落し、ゴンドリンの隠れ王国さえ失われた。自由の民に残されたシリオンの河口の居留地にエアレンディルがいて、その妻エルウィングがシルマリルを保持していた。それは、かの女の祖父母であるベレンとルーシエンがモルゴスの王冠から奪還したものであった。しかし、フェアノール一族は力づくでシルマリルを彼らのものにしようとした。エアレンディルとエルウィングはシルマリルを持って大海を横切り、ヴァラールに赦しと援助を求めた。それらの願いは聞き入れられて、メルコールは虚空へ追放され、彼の所業の大部分は破壊された。これには恐ろしい代償が必要だった。ベレリアンド自体が破壊され、海の下へ沈み始めた。 これが中つ国の第二紀の始まりである。ヴァラールに忠実なままだった人間は、大海の西にヌーメノールという島を故郷として与えられ、一方、エルフは西方へ帰ることを赦された。ヌーメノール人は偉大な船乗りになったが、エルフの不死を羨むようにもなった。その間に、中つ国では、モルゴスの副官であったサウロンがまた活動を始めていた。彼はエレギオンのエルフの金銀細工師と指輪の技において協力し、そして全てを統べる一つの指輪を造った。エルフはこれに気づき、彼らの指輪を使うのを止めた。 最後のヌーメノールの王アル=ファラゾーンは強大な軍により、サウロンさえ降伏させ、人質として連れ帰った。しかしサウロンは、不死の国を攻めて永遠の命を奪い取るように王をそそのかした。ヴァラールにまだ忠実だったエレンディルと、息子のイシルドゥアとアナーリオンは中つ国を目指して東へ逃れる準備をした。王の軍勢がアマンに降りたった時、ヴァラールはイルーヴァタールに介入を要求した。世界は変更され、中つ国からアマンへの「まっすぐの道」は閉ざされ、エルフ以外には通れなくなった。ヌーメノールは完全に破壊され水没し、それと共にサウロンの身体も失われたが、彼の精神は持ちこたえ中つ国に逃れた。エレンディルと彼の息子は中つ国に逃れ、アルノールとゴンドールの両王国を設立した。サウロンは復活を遂げたが、人間とエルフは「最後の同盟」を結び、彼を打ち破った。1つの指輪はイシルドゥアが奪ったが破壊せず、後にそれは行方不明になった。そのため、サウロンは完全には滅びなかった。 第三紀にはアルノールとゴンドールの両王国の興隆と衰退があった。『指輪物語』の時代、かなりの力を回復したサウロンは、完全となるために1つの指輪を求めていた。彼は、あるホビットが所有していることを発見し、9人の指輪の幽鬼をその探索に送りだした。指輪所持者フロド・バギンズは裂け谷まで旅し、そこでの会議で、滅びの山の火に指輪を投げ込んで破壊することが決定した。フロドは8人の仲間(指輪の仲間)とそのための旅に出た。最終的に指輪は破壊され、フロドと彼の仲間のサム・ギャムジーは英雄として賞賛された。サウロンは永久に消滅し、彼の精神も消え失せた。 第三紀の終了は、エルフの時代が終わり、人間の時代の始まることを意味した。第四紀が始まると、中つ国に留まっていたほとんどのエルフはヴァリノールに去って二度と戻らなかった。残った少数は衰えて、結局消えてしまうのである。ドワーフも同様に減少した。敵の創造物はほとんど一掃され、ゴンドールの南にも東にも平和が戻った。やがて、第一紀や第二紀の物語は伝説になり、それらの背後の真実は忘れられた。 トールキンおよび彼の世界に関する本は膨大であるが、ごく一部を紹介する。 手紙(202)の中でクリストファ・トールキンにJ・R・R・トールキンは彼の作品の映画化に関する方針は「芸術か金か」だと述べている。1969年、突然税金の督促を受けた彼は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化権をユナイテッド・アーティスツに売った。その権利は、現在、『シルマリルの物語』 や他の作品の映画化権を保持しているトールキン財団(英語版)とは関係のないミドルアース・エンタープライズ(英語版)にわたっている。 最初の映画化は1977年の『ホビットの冒険』で、ランキン=バス・スタジオが製作した。これは初め合衆国でテレビ放映された。 翌1978年、『指輪物語』のタイトルで映画がリリースされた。製作、監督はラルフ・バクシで、物語の前半のみのロトスコープによるアニメーション作品だった。原作に比較的忠実であったが、商業的にも成功しなかったし、批評家にも受けが悪かった。 1980年ランキン=バスは、『指輪物語』の後半をほぼ含むテレビ・スペシャルをThe Return of the Kingとして製作した。しかしながら、これは、ラルフ・バクシの映画の終わりに直接続くものではなかった。 実写版の映画化が実現するのは、1990年代になってからだった。ピーター・ジャクソン監督、そしてニュー・ライン・シネマの資金提供により製作された。 映画は興行的にも批評家の評判でも大変な成功で、併せて17のオスカーを勝ち取った(俳優以外の、英語のフィクションの実写映画に適用可能な部門全てで1つ以上)。 また、前日譚にあたる『ホビットの冒険』も上記三部作の好評を受け、同じく三部作として2012年から2014年にかけて公開された。 トールキンの作品は、ロバート・E・ハワード、フリッツ・ライバー、H・P・ラヴクラフトそしてマイケル・ムアコックらの作品と共にロールプレイングゲームに大きな影響を与えた。部分的ながら設定に影響を受けている最も有名なゲームはダンジョンズ&ドラゴンズだが、許可を受けて中つ国そのものを舞台としているゲームが2つある。Decipher社のLord of the Rings Roleplaying GameとIron Crown Enterprises社(ICE)の『指輪物語ロールプレイング』(MERP)である。 2007年には正式なライセンス契約の元、中つ国を舞台にした初のMMORPGとして『ロード・オブ・ザ・リングス オンライン』がサービスを開始した。これは原作の設定に基づいて制作されているが、原作の設定を拡張したオリジナル設定も採用されている。 Simulations Publicationsは、トールキンの作品に基づいた3つのウォー・シミュレーションゲームを製作した。War of the Ringは『指輪物語』のほとんどの出来事が収められている。Gondorはペレンノール野の戦いに焦点を合わせていて、Sauronはモルドールの門の前での第二紀の戦いを収めている。Games Workshop社で映画『ロード・オブ・ザ・リング』関連のウォー・シミュレーションゲームが現在製作されている。 コンピューターゲームAngbandはフリーのローグライクゲームの1つで、トールキンの作品からの多くの特徴や人物、怪物を導入している。トールキンの影響を受けたコンピューターゲーム最も完全なリストはにある。 これらのゲームとは別に、多くの商用コンピューターゲームがリリースされた。そのうちのいくつかはThe Hobbitのようにトールキン財団から許可を得ている。その他は映画の関連商品として許可されている。
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"paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "トールキンは、元々は彼の人工言語の構成の副産物として『シルマリルの物語』を書き始めた。彼は2つの主要な言語を考案した。それらは、ヴァリノールに居住したエルフが話したクウェンヤ、そしてベレリアンドにとどまったエルフによって話されたシンダール語の2つである。これらの言語の間には関連があり、それら両方の祖形として共通エルダール語が仮定されている。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その他のこの世界の言語は次の通りである。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中つ国の歴史は3つの時代に分割され、灯火の時代、二本の木の時代 、太陽の時代と呼ばれている。太陽の時代はさらに細分され、ほとんどの中つ国の物語は、太陽の時代の最初の3つの紀に起こる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "灯火の時代はヴァラールがアルダを創生した直後に始まった。ヴァラールは世界を照らす2つの灯火を創った。ヴァラールのアウレは巨大な塔の1つを北の端に、もう1つを南の端に創った。ヴァラールはそれらの中間の島アルマレンに住んだ。メルコールが2つの灯火を破壊することで灯火の時代は終わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "二本の木の時代は、ヴァラールのヤヴァンナが二本の木を作ったことで始まる。木の放つ光はアマンを照らし、薄明かりの中に中つ国を残した。中つ国の東のクイヴィエーネン湖の辺りでエルフは目覚め、すぐにヴァラールが彼らを見いだした。エルフの多くは、西方のアマンへ「大いなる旅」に行くように説得されたが、彼らの全てが旅を終えるとは限らなかった(エルフの分裂参照)。ヴァラールはエルフを虐げていたメルコールを捕らえたが、三期の後、改悛したように見えたので解放した。だがメルコールはエルフの間に大きな不和の種をまき、公子フェアノールとフィンゴルフィンの間にいさかいを起した。そして、2人の父フィンウェ王を殺害し、保管庫からシルマリルを盗んだ。シルマリルは、フェアノールが巧妙に作った三個の宝石で、その中に二本の木の光を含んでいた。メルコールは木自身も破壊して、二本の木の時代は終結する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "フェアノールと彼の一族は、メルコールを「モルゴス」(黒い敵)と呼んで呪いながら、後を追って中つ国のベレリアンドに向かった。さらにもっと大きな軍勢をフィンゴルフィンが率いて続いた。彼らはテレリの港街アルクウァロンデに達したが、テレリは船の供与を拒絶した。フェアノールの軍勢は、同族を殺害してまで盗んだ船で航海し、置き去りにされたフィンゴルフィンの軍勢は、最北のヘルカラクセ海峡の氷山を踏んで海を渡ることになった。中つ国の戦いでフェアノールは殺害されたが、彼の息子たちやフィンゴルフィンは生き残り、王国を設立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヴァラールが、枯れた二つの木の最後の果実と花から太陽と月を作り、太陽の時代の第一紀が始まった。新しい種族「人間」が目覚めたのもこの時代である。いくつかの大きな戦いの後に、1つずつエルフの王国は陥落し、ゴンドリンの隠れ王国さえ失われた。自由の民に残されたシリオンの河口の居留地にエアレンディルがいて、その妻エルウィングがシルマリルを保持していた。それは、かの女の祖父母であるベレンとルーシエンがモルゴスの王冠から奪還したものであった。しかし、フェアノール一族は力づくでシルマリルを彼らのものにしようとした。エアレンディルとエルウィングはシルマリルを持って大海を横切り、ヴァラールに赦しと援助を求めた。それらの願いは聞き入れられて、メルコールは虚空へ追放され、彼の所業の大部分は破壊された。これには恐ろしい代償が必要だった。ベレリアンド自体が破壊され、海の下へ沈み始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これが中つ国の第二紀の始まりである。ヴァラールに忠実なままだった人間は、大海の西にヌーメノールという島を故郷として与えられ、一方、エルフは西方へ帰ることを赦された。ヌーメノール人は偉大な船乗りになったが、エルフの不死を羨むようにもなった。その間に、中つ国では、モルゴスの副官であったサウロンがまた活動を始めていた。彼はエレギオンのエルフの金銀細工師と指輪の技において協力し、そして全てを統べる一つの指輪を造った。エルフはこれに気づき、彼らの指輪を使うのを止めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "最後のヌーメノールの王アル=ファラゾーンは強大な軍により、サウロンさえ降伏させ、人質として連れ帰った。しかしサウロンは、不死の国を攻めて永遠の命を奪い取るように王をそそのかした。ヴァラールにまだ忠実だったエレンディルと、息子のイシルドゥアとアナーリオンは中つ国を目指して東へ逃れる準備をした。王の軍勢がアマンに降りたった時、ヴァラールはイルーヴァタールに介入を要求した。世界は変更され、中つ国からアマンへの「まっすぐの道」は閉ざされ、エルフ以外には通れなくなった。ヌーメノールは完全に破壊され水没し、それと共にサウロンの身体も失われたが、彼の精神は持ちこたえ中つ国に逃れた。エレンディルと彼の息子は中つ国に逃れ、アルノールとゴンドールの両王国を設立した。サウロンは復活を遂げたが、人間とエルフは「最後の同盟」を結び、彼を打ち破った。1つの指輪はイシルドゥアが奪ったが破壊せず、後にそれは行方不明になった。そのため、サウロンは完全には滅びなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第三紀にはアルノールとゴンドールの両王国の興隆と衰退があった。『指輪物語』の時代、かなりの力を回復したサウロンは、完全となるために1つの指輪を求めていた。彼は、あるホビットが所有していることを発見し、9人の指輪の幽鬼をその探索に送りだした。指輪所持者フロド・バギンズは裂け谷まで旅し、そこでの会議で、滅びの山の火に指輪を投げ込んで破壊することが決定した。フロドは8人の仲間(指輪の仲間)とそのための旅に出た。最終的に指輪は破壊され、フロドと彼の仲間のサム・ギャムジーは英雄として賞賛された。サウロンは永久に消滅し、彼の精神も消え失せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "第三紀の終了は、エルフの時代が終わり、人間の時代の始まることを意味した。第四紀が始まると、中つ国に留まっていたほとんどのエルフはヴァリノールに去って二度と戻らなかった。残った少数は衰えて、結局消えてしまうのである。ドワーフも同様に減少した。敵の創造物はほとんど一掃され、ゴンドールの南にも東にも平和が戻った。やがて、第一紀や第二紀の物語は伝説になり、それらの背後の真実は忘れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "トールキンおよび彼の世界に関する本は膨大であるが、ごく一部を紹介する。", "title": "書籍" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "手紙(202)の中でクリストファ・トールキンにJ・R・R・トールキンは彼の作品の映画化に関する方針は「芸術か金か」だと述べている。1969年、突然税金の督促を受けた彼は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化権をユナイテッド・アーティスツに売った。その権利は、現在、『シルマリルの物語』 や他の作品の映画化権を保持しているトールキン財団(英語版)とは関係のないミドルアース・エンタープライズ(英語版)にわたっている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "最初の映画化は1977年の『ホビットの冒険』で、ランキン=バス・スタジオが製作した。これは初め合衆国でテレビ放映された。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "翌1978年、『指輪物語』のタイトルで映画がリリースされた。製作、監督はラルフ・バクシで、物語の前半のみのロトスコープによるアニメーション作品だった。原作に比較的忠実であったが、商業的にも成功しなかったし、批評家にも受けが悪かった。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1980年ランキン=バスは、『指輪物語』の後半をほぼ含むテレビ・スペシャルをThe Return of the Kingとして製作した。しかしながら、これは、ラルフ・バクシの映画の終わりに直接続くものではなかった。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "実写版の映画化が実現するのは、1990年代になってからだった。ピーター・ジャクソン監督、そしてニュー・ライン・シネマの資金提供により製作された。 映画は興行的にも批評家の評判でも大変な成功で、併せて17のオスカーを勝ち取った(俳優以外の、英語のフィクションの実写映画に適用可能な部門全てで1つ以上)。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、前日譚にあたる『ホビットの冒険』も上記三部作の好評を受け、同じく三部作として2012年から2014年にかけて公開された。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "トールキンの作品は、ロバート・E・ハワード、フリッツ・ライバー、H・P・ラヴクラフトそしてマイケル・ムアコックらの作品と共にロールプレイングゲームに大きな影響を与えた。部分的ながら設定に影響を受けている最も有名なゲームはダンジョンズ&ドラゴンズだが、許可を受けて中つ国そのものを舞台としているゲームが2つある。Decipher社のLord of the Rings Roleplaying GameとIron Crown Enterprises社(ICE)の『指輪物語ロールプレイング』(MERP)である。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2007年には正式なライセンス契約の元、中つ国を舞台にした初のMMORPGとして『ロード・オブ・ザ・リングス オンライン』がサービスを開始した。これは原作の設定に基づいて制作されているが、原作の設定を拡張したオリジナル設定も採用されている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Simulations Publicationsは、トールキンの作品に基づいた3つのウォー・シミュレーションゲームを製作した。War of the Ringは『指輪物語』のほとんどの出来事が収められている。Gondorはペレンノール野の戦いに焦点を合わせていて、Sauronはモルドールの門の前での第二紀の戦いを収めている。Games Workshop社で映画『ロード・オブ・ザ・リング』関連のウォー・シミュレーションゲームが現在製作されている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "コンピューターゲームAngbandはフリーのローグライクゲームの1つで、トールキンの作品からの多くの特徴や人物、怪物を導入している。トールキンの影響を受けたコンピューターゲーム最も完全なリストはにある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "これらのゲームとは別に、多くの商用コンピューターゲームがリリースされた。そのうちのいくつかはThe Hobbitのようにトールキン財団から許可を得ている。その他は映画の関連商品として許可されている。", "title": "関連作品" } ]
中つ国(なかつくに、は、J・R・R・トールキンの物語作品における架空世界で、彼のほとんどの物語が起こったとされている場所である。
{{出典の明記|date=2021-05}} {{Expand English|Middle-earth|date=2021年5月|fa=yes}} {{読み仮名|'''中つ国'''|なかつくに|{{Lang-en|Middle-earth}}}}は、[[J・R・R・トールキン]]の物語作品における[[架空世界]]で、彼のほとんどの物語が起こったとされている場所である。 ==概要== この「'''中つ国'''({{En|Middle-earth}}、ミドルアース)」という言葉は、『[[ホビットの冒険]]({{En|''The Hobbit''}})』、『[[指輪物語]]({{En|''The Lord of the Rings''}})』そして『[[シルマリルの物語]]({{En|''The Silmarillion''}})』の中で描かれた全世界に非公式に適用されることもあるが、 もっと適切には、エンドール({{ラテン翻字|qya|''Endor''}})あるいはエンノール({{ラテン翻字|sjn|''Ennor''}})と[[クウェンヤ]]や[[シンダール語]]などの[[エルフ語]]で呼ばれた、その主要な大陸だけを示すのに使われた。 中つ国の設定はしばしば別世界であると思われるが、実際は[[地球]]の歴史上の架空の期間、6000 - 7000年前の設定とされる。トールキンは、中つ国が私たちの地球であるといくつかの手紙{{Enlink|The Letters of J. R. R. Tolkien}}の中ではっきりと主張していた。本で書かれているのは、大陸の北西が大部分であり、現代の[[ヨーロッパ]]に対応する。中つ国の東および南に関してほとんど知られていない。 中つ国の歴史はいくつかの時代に分割される。『ホビットの冒険』そして『指輪物語』は[[第三紀 (トールキン)|第三紀]]の終わり頃のことを扱っていて、一方『シルマリルの物語』は主に[[第一紀 (トールキン)|第一紀]]の出来事を扱っている。その世界はもとは[[地球平面説|水平]]だったが、[[第二紀 (トールキン)|第二紀]]終わりの近くに[[創造神|創造者]][[エル・イルーヴァタール|イルーヴァタール]]の介入により[[地球球体説|丸く]]なった。 中つ国についての知識の多くは、トールキンが生前に出版しなかった著述に基づいている。著述に含まれている多くの中つ国の伝説は、トールキン・ファンの大部分によって「正典」と見なされている(何をもって正典とするかは、[[中つ国の正典]]を参照)。 == 名前 == 「中つ国({{En|Middle-earth}})」という言葉はトールキンの独自のものではなく、[[古英語]]で{{Lang|ang|''middanġeard''}}、[[中英語]]で{{Lang|enm|''midden-erd''}}あるいは{{Lang|enm|''middel-erd''}}として存在した。[[古ノルド語]]では[[ミズガルズ]]({{Lang|non|''Miðgarðr''}})と呼ぶ。{{La|Mediterranean Sea}}([[地中海]])の{{La|Mediterranean}}という単語は{{La|''medi''}}「中の」と{{La|''terra''}}「大地」という二つのラテン語の語幹に由来する。{{Lang|ang|''middanġeard''}}は『[[ベーオウルフ]]』の詩にも複数回現れる。[[J・R・R・トールキン]]の着想および出所の議論も参照のこと。より古い用法については[[ミズガルズ]]と[[北欧神話]]を参照。 トールキンは以下の断片からも着想を得た。 :''Eala earendel engla beorhtast / ofer middangeard monnum sended.'' :(現代英語での訳) ''Hail Earendel, brightest of angels / above the middle-earth sent unto men.'' キュネウルフ{{enlink|Cynewulf}}の詩「[[クリスト (キュネウルフ)|クリスト]]」{{enlink|Christ I}}より。{{Lang|ang|earendel}}の名前(それは「明けの明星」を意味することもあるが、いくつかの文脈の中では[[キリスト]]の名前だった)はトールキンの航海者[[エアレンディル]](Eärendil)の着想を与えた。 この名前は、『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』および関連著作で、トールキンによって意識的に「外なる陸地」''Outer Lands''や「大陸」''Great Lands''という古い用語を徐々に置き換えていった。 トールキン自身は書簡で「中つ国(Middle-earth)」が[[ギリシャ語]]の{{Lang|grc|οικουμένη}}({{ラテン翻字|grc|''oikoumenē''}})の特定の用法と同じであると記した。この用法では、{{ラテン翻字|grc|''oikoumenē''}}はいわゆる[[エクメーネ]]のように「人間の居住地」であるとトールキンはいう<ref name="The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 151, 183 and 283">[[#letters|The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 151, 183 and 283]]</ref>。 中つ国という言葉はいくつかの方法で解釈することができる。 *''oikoumenē''として<ref name="The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 151, 183 and 283"></ref>、 *行く事のできない、西方の'''アマン'''と東方の'''太陽の国'''''Sun-lands''の「中間」middleの土地、 *天上界(アマン)と地獄[[アングバンド]](地理的に[[タルタロス]]と同じ位置であった)の間の「中間」middleの地域、 *[[ヴァイア]]の海の「上」で、太陽、月および星がある空の「下」の固い大地。 熱心な空洞地球論者のなかには言葉を彼らなりに解釈して、トールキンが[[地球空洞説]]を参考にしたと信じているが、しかし、トールキンの著述にこれを裏付けるものはない。 「中つ国(Middle-earth)」は一般のメディアでは、Middle EarthやMiddle-Earthなどとよく誤って綴られている。和訳では「なかつくに」と読むとしているが、「なかつこく」という誤った読みもみられる。 == 世界 == 「中つ国」は厳密には(どちらも「中の地」を意味する、[[エルフ語]][[クウェンヤ]]の'''エンドール''' ''Endor''や[[シンダール語]]の'''エンノール''' ''Ennor''と呼ばれた)特定の大陸を示す。つまり[[ユーラシア]]そして[[アフリカ]]であるが、この言葉は地球([[アルダ]])、あるいは物語が起こる全宇宙(エア)を指してしばしば使われる。 中つ国の各地域を[[気候学]]、[[植物学]]、[[動物学]]等の類似性を基に実際の地球とおおまかに対応させると、[[ホビット庄]]は温和な[[イングランド]]、[[ゴンドール]]は[[地中海]]の[[イタリア]]や[[ギリシア]]、[[モルドール]]は乾燥した[[トルコ]]そして[[中東]]、南ゴンドールは[[北アフリカ]]の[[砂漠]]、[[ロヴァニオン]]は[[東ヨーロッパ]]の[[森林]]と西と南の[[ロシア]]の大草原、そして[[フォロヘル]]氷湾は[[ノルウェー]]の[[フィヨルド]]となる。 トールキンは、仮に[[ホビット庄]]と[[裂け谷]]の緯度を[[オックスフォード]]あたりだとすると、そこから600マイル南にあるゴンドールの[[ミナス・ティリス]]の緯度は[[フィレンツェ]]に、アンドゥインの河口と[[ペラルギア]]は[[イリオス|トロイ]]の緯度に相当すると述べている<ref name="The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 294">[[#letters|The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 294]]</ref>。 『ホビットの冒険』と『指輪物語』は、ビルボ、フロドおよび他のホビットのライフワークという体裁で発表された。それらは[[西境の赤表紙本]]という架空の書物の抜粋の体裁を取った。中つ国が、遥か有史以前の想像上の時代の北西[[ヨーロッパ]]と想定されていることは明らかである。そうすると地理的位置から、[[ホビット庄]]は[[イングランド]]によく似ている。[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[リア王]]』や[[ロバート・E・ハワード]]の『[[英雄コナン]]』シリーズのように、物語は、歴史上の実在しない期間に設定されている。 トールキンは、この地の[[言語学]]、[[神話]]および[[歴史]]について広範囲に書いて、これらの物語のために背景を形作った。ほとんどのこれらの著述は、『[[ホビットの冒険]]』と『[[指輪物語]]』を例外として、彼の息子[[クリストファ・トールキン|クリストファ]]が死後に編集し出版した。それらの中で特筆すべきは『[[シルマリルの物語]]』で、[[ヴァリノール]]や[[ヌーメノール]]やその他の地と同様に中つ国も含む、より広範な[[宇宙論]]を展開する。同じく注意すべきは、『[[終わらざりし物語]]』と12巻および別巻索引からなる『[[中つ国の歴史]]』シリーズで、それは彼の生涯の初期の草稿から最後の著述までトールキンの著述の発展の過程を詳述すると同時に不完全な物語や小論も含んでいる。 == 宇宙論 == {{Main|アイヌリンダレ}} トールキンの宇宙の最高の神性は[[エル・イルーヴァタール]]と呼ばれる。原初、イルーヴァタールは[[アイヌア]]と呼ばれる聖霊を創造し、神の音楽に専念させた。アイヌアの[[モルゴス|メルコール]]はトールキンにとって[[サタン]]に対応する物であり、調和を壊した。イルーヴァタールはそれに対して、アイヌアの理解を超えた音楽を広げる新しい主題を導入した。それらの歌の本質は、まだ作られていない宇宙、およびそこに居住するべき人々の歴史を確立することだった。 その後、イルーヴァタールはエア(Eä)を創造した。この語は「存在する世界」すなわち宇宙を指し、また「存在せよ」というイルーヴァタールの言葉でもある。アイヌアはエアの内にアルダ、[[地|大地]]を形成し、「虚空の内側に創造した」。世界と大気は虚空(Kuma)とは別のものとされた。最も強力な15人のアイヌアが、アルダを形作り管理するためにやって来て、[[ヴァラ|ヴァラール]]と呼ばれた。 [[第一紀 (トールキン)|第一紀]]と[[第二紀 (トールキン)|第二紀]]の中頃までの世界は、[[第三紀 (トールキン)|第三紀]]と[[第四紀 (トールキン)|第四紀]]の世界と根本的に異なる。第一紀にアルダは水平な世界で、「とり囲む海」(ヴァイア)に浮かぶ船あるいは島として表されて、「とり囲む海」はアルダの下の水および上の空気よりなる。[[太陽]]と[[月]]、そして[[金星]]を含むいくつかの星も同様にヴァイアの内の軌道をたどり、虚空から分かたれたアルダの一部であるとされる。 第二紀の終わりの[[アカルラベース|ヌーメノールの没落]]の後の宇宙の激変で、宇宙論は根本的に変更され、アルダがわれわれの世界の地球に非常に似た球状の世界に変えられた。大陸の[[アマン (トールキン)|アマン]]は世界から取り除かれ、新しい国は古い国の「下に」作成された。 == 種族・人種等 == {{Main|中つ国の種族・人種}} 中つ国にはいくつかの知的な種族が住んでいる。最初にあったのはアイヌアで、イルーヴァタールによって創造された天使のような存在である。アイヌアはイルーヴァタールを助け、[[アイヌリンダレ]]すなわち「アイヌアの音楽」と呼ばれた宇宙哲学的な神話の中でアルダを創造する。アイヌアのうちのいくらかはその後アルダに入り、これらの中で最も偉大な者たちは[[ヴァラ|ヴァラール]]と呼ばれる。中つ国における邪悪の具現であるメルコール(後に「モルゴス」と呼ばれた)は最初はヴァラールのうちの1人だった。 アルダに入った下位のアイヌアは[[マイアール]](これは複数形で、単数形はマイア)と呼ばれる。第一紀に登場したマイアの主要な例はエルフの王[[シンゴル]]の妻の[[メリアン (トールキン)|メリアン]]である。第三紀に登場する[[ガンダルフ]]等の(人間に魔法使いと呼ばれた)[[イスタリ]]もまたマイアールであるといわれる。[[バルログ]]や冥王[[サウロン]]という邪悪な者たちもまたマイアールであった。 その後、[[イルーヴァタールの子ら]]がやって来る。イルーヴァタールのみの手によって創造された知的な生物で、[[エルフ (トールキン)|エルフ]]と[[人間 (トールキン)|人間]]を指している。『シルマリルの物語』は第一紀そしてそれ以前を扱っているのでエルフつまり'''長子'''が主に描かれているが、人間も中盤から現れる。 [[ヌーメノール]]の没落の物語は第二紀にあったとされ、第一紀にエルフの友人だった人間の子孫について取り扱う。彼らの子孫が、『指輪物語』に現れる第三紀の[[アルノール]]そして[[ゴンドール]]の人間である。[[ホビット]]も人間からの分かれたとの説もある。 [[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]は、イルーヴァタールによってではなく、[[ヴァラ|ヴァラール]]の[[アウレ]]によって創造され、伝説の中の特別な位置を占める。しかしアウレは生命を与える事はできなかったので、作ったドワーフをイルーヴァタールに嘉納して、イルーヴァタールはドワーフに生命と自由意志を与えた。[[エント]](木の牧者)もまた、[[ヤヴァンナ]]からドワーフとバランスを取ることを要求されたイルーヴァタールが創った。 [[オーク (トールキン)|オーク]]と[[トロール (トールキン)|トロル]]は、モルゴスが生じさせた邪悪な生物である。それらは独自の創造物ではなくエルフとエントの「まがい」である。それらの本当の起源は不確かであるが、少なくともそれらのうちのいくらかは堕落したエルフや人間から生じさせた。 知性のある動物も現れる。[[鷲 (トールキン)|鷲]]や[[ヴァリノール]]からやってきた大いなる猟犬フアン、[[巨狼]]、[[ワーグ|魔狼]]等がその例である。鷲はエントと共にイルーヴァタールが創ったが、一般にはこれらの動物の起源および性質については詳しく言及されていない。可能性としては、動物の形をとっているマイアールかもしれないし、あるいはマイアールと動物の子孫なのかもしれない。 == 言語 == {{Main|アルダの言語}} トールキンは、元々は彼の[[人工言語]]の構成の副産物として『シルマリルの物語』を書き始めた。彼は2つの主要な言語を考案した。それらは、[[ヴァリノール]]に居住したエルフが話した[[クウェンヤ]]、そしてベレリアンドにとどまったエルフによって話された[[シンダール語]]の2つである。これらの言語の間には関連があり、それら両方の祖形として[[共通エルダール語]]が仮定されている。 その他のこの世界の言語は次の通りである。 *[[アドゥーナイク]] - [[ヌーメノール]]人が使った。 *[[暗黒語]] - [[サウロン]]が彼の奴隷が話す言葉として考案した。 *[[クズドゥール]] - [[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]が使った。 *[[ローハン語]] - [[ロヒアリム]]が使う。 - 『指輪物語』の中では[[古英語]]に置き換えられている。 *[[西方語]] - 「共通語」。- 同じく[[英語]]に置き換えられている。『指輪物語』では、互いに異なる部族のオークたちが意思疎通のために、(ホビットたちにも理解できる)西方語を用いていた。 *[[ヴァラール語]] - アイヌアが使った。 == 歴史 == {{Main|アルダの歴史}} 中つ国の歴史は3つの時代に分割され、灯火の時代、二本の木の時代 、太陽の時代と呼ばれている。太陽の時代はさらに細分され、ほとんどの中つ国の物語は、太陽の時代の最初の3つの紀に起こる。 '''灯火の時代'''はヴァラールがアルダを創生した直後に始まった。ヴァラールは世界を照らす2つの灯火を創った。ヴァラールの[[アウレ]]は巨大な塔の1つを北の端に、もう1つを南の端に創った。ヴァラールはそれらの中間の島[[アルマレン]]に住んだ。[[モルゴス|メルコール]]が2つの灯火を破壊することで灯火の時代は終わる。 '''二本の木の時代'''は、ヴァラールの[[ヤヴァンナ]]が[[二本の木]]を作ったことで始まる。木の放つ光はアマンを照らし、薄明かりの中に中つ国を残した。中つ国の東の[[クイヴィエーネン]]湖の辺りでエルフは目覚め、すぐにヴァラールが彼らを見いだした。エルフの多くは、西方のアマンへ「大いなる旅」に行くように説得されたが、彼らの全てが旅を終えるとは限らなかった([[エルフ (トールキン)#エルフの分裂|エルフの分裂]]参照)。ヴァラールはエルフを虐げていたメルコールを捕らえたが、三期の後、改悛したように見えたので解放した。だがメルコールはエルフの間に大きな不和の種をまき、公子[[フェアノール]]と[[フィンゴルフィン]]の間にいさかいを起した。そして、2人の父[[フィンウェ]]王を殺害し、保管庫から[[シルマリル]]を盗んだ。シルマリルは、フェアノールが巧妙に作った三個の宝石で、その中に二本の木の光を含んでいた。メルコールは木自身も破壊して、二本の木の時代は終結する。 フェアノールと彼の一族は、メルコールを「モルゴス」(黒い敵)と呼んで呪いながら、後を追って中つ国の[[ベレリアンド]]に向かった。さらにもっと大きな軍勢を[[フィンゴルフィン]]が率いて続いた。彼らは[[テレリ]]の港街[[アルクウァロンデ]]に達したが、テレリは船の供与を拒絶した。フェアノールの軍勢は、同族を殺害してまで盗んだ船で航海し、置き去りにされたフィンゴルフィンの軍勢は、最北の[[ヘルカラクセ]]海峡の氷山を踏んで海を渡ることになった。中つ国の戦いでフェアノールは殺害されたが、彼の息子たちやフィンゴルフィンは生き残り、王国を設立した。 ヴァラールが、枯れた二つの木の最後の果実と花から太陽と月を作り、'''太陽の時代'''の[[第一紀 (トールキン)|第一紀]]が始まった。新しい種族「[[人間 (トールキン)|人間]]」が目覚めたのもこの時代である。いくつかの大きな戦いの後に、1つずつエルフの王国は陥落し、[[ゴンドリン]]の隠れ王国さえ失われた。自由の民に残された[[シリオン]]の河口の居留地に[[エアレンディル]]がいて、その妻[[エルウィング]]がシルマリルを保持していた。それは、かの女の祖父母である[[ベレン (トールキン)|ベレン]]と[[ルーシエン]]がモルゴスの王冠から奪還したものであった。しかし、フェアノール一族は力づくでシルマリルを彼らのものにしようとした。エアレンディルとエルウィングはシルマリルを持って大海を横切り、ヴァラールに赦しと援助を求めた。それらの願いは聞き入れられて、メルコールは虚空へ追放され、彼の所業の大部分は破壊された。これには恐ろしい代償が必要だった。ベレリアンド自体が破壊され、海の下へ沈み始めた。 これが中つ国の[[第二紀 (トールキン)|第二紀]]の始まりである。ヴァラールに忠実なままだった人間は、大海の西に[[ヌーメノール]]という島を故郷として与えられ、一方、エルフは西方へ帰ることを赦された。ヌーメノール人は偉大な船乗りになったが、エルフの不死を羨むようにもなった。その間に、中つ国では、モルゴスの副官であった[[サウロン]]がまた活動を始めていた。彼は[[エレギオン]]のエルフの金銀細工師と指輪の技において協力し、そして全てを統べる[[一つの指輪]]を造った。エルフはこれに気づき、彼らの指輪を使うのを止めた。 最後のヌーメノールの王[[アル=ファラゾーン]]は強大な軍により、サウロンさえ降伏させ、人質として連れ帰った。しかしサウロンは、不死の国を攻めて永遠の命を奪い取るように王をそそのかした。ヴァラールにまだ忠実だった[[エレンディル]]と、息子の[[イシルドゥア]]と[[アナーリオン]]は中つ国を目指して東へ逃れる準備をした。王の軍勢がアマンに降りたった時、ヴァラールはイルーヴァタールに介入を要求した。世界は変更され、中つ国からアマンへの「まっすぐの道」は閉ざされ、エルフ以外には通れなくなった。ヌーメノールは完全に破壊され水没し、それと共にサウロンの身体も失われたが、彼の精神は持ちこたえ中つ国に逃れた。エレンディルと彼の息子は中つ国に逃れ、[[アルノール]]と[[ゴンドール]]の両王国を設立した。サウロンは復活を遂げたが、人間とエルフは「最後の同盟」を結び、彼を打ち破った。1つの指輪はイシルドゥアが奪ったが破壊せず、後にそれは行方不明になった。そのため、サウロンは完全には滅びなかった。 [[第三紀 (トールキン)|第三紀]]にはアルノールとゴンドールの両王国の興隆と衰退があった。『指輪物語』の時代、かなりの力を回復したサウロンは、完全となるために1つの指輪を求めていた。彼は、あるホビットが所有していることを発見し、9人の[[指輪の幽鬼]]をその探索に送りだした。指輪所持者[[フロド・バギンズ]]は[[裂け谷]]まで旅し、そこでの会議で、[[オロドルイン|滅びの山]]の火に指輪を投げ込んで破壊することが決定した。フロドは8人の仲間([[指輪の仲間]])とそのための旅に出た。最終的に指輪は破壊され、フロドと彼の仲間の[[サムワイズ・ギャムジー|サム・ギャムジー]]は英雄として賞賛された。サウロンは永久に消滅し、彼の精神も消え失せた。 第三紀の終了は、エルフの時代が終わり、[[人間 (トールキン)|人間]]の時代の始まることを意味した。第四紀が始まると、中つ国に留まっていたほとんどのエルフはヴァリノールに去って二度と戻らなかった。残った少数は衰えて、結局消えてしまうのである。ドワーフも同様に減少した。敵の創造物はほとんど一掃され、ゴンドールの南にも東にも平和が戻った。やがて、第一紀や第二紀の物語は伝説になり、それらの背後の真実は忘れられた。 == 書籍 == === トールキンによる作品 === *[[1937年]] 『[[ホビットの冒険]]』''The Hobbit or There and Back again'' **[[ホビット]]の[[ビルボ・バギンズ]]が古のドワーフの王国を[[竜 (トールキン)|竜]][[スマウグ]]から奪還する遠征で、ドワーフおよび魔法使いガンダルフの仲間になる。 *[[1954年]] 『[[旅の仲間]]』''The Fellowship of the Ring''(『[[指輪物語]]』''The Lord of the Rings''第一部) **ビルボの甥であり養子の[[フロド・バギンズ]]が[[一つの指輪]]を廃棄するための旅に[[指輪の仲間]]と共に出発する。 *[[1954年]] 『[[二つの塔]]』''The Two Towers''(『指輪物語』第二部) **一行は離散して、フロドと[[サムワイズ・ギャムジー|サム]]は旅を継続する。一方[[アラゴルン]]、[[ギムリ]]そして[[レゴラス]]は彼らの友達を救出し、[[ローハン]]王国を救うために戦う。 *[[1955年]] 『[[王の帰還]]』''The Return of the King''(『指輪物語』第三部) **フロドとサムは[[モルドール]]に達して指輪を破壊し、アラゴルンは[[ゴンドール]]へ到着し王位を取り戻す。 *[[1962年]] 『[[トム・ボンバディルの冒険]]』''The Adventure of Tom Bombadil and Other Verses from the Red Book'' **『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 **『指輪物語』に関連する詩集。 *[[1967年]] [[道は続くよどこまでも]] ''The Road Goes Ever On'' **[[ドナルド・スワン]]作曲の連作歌集。長らく絶版だったが、[[2002年]]に再版された。 === トールキンの遺稿をクリストファが編集した作品 === :[[1973年]]、トールキンは死去。その後の作品は全て[[クリストファ・トールキン]]が編集した。『シルマリルの物語』だけが完成した作品として出版された。他は註釈および色々な草案の収集である。 *[[1977年]] 『[[シルマリルの物語]]』''The Silmarillion'' **『指輪物語』の以前の上古の時期の歴史で「[[アカルラベース|ヌーメノールの没落]]」や第三紀末の出来事の要約を含む。 *[[1980年]] 『[[終わらざりし物語]]』 ''Unfinished Tales of Númenor and Middle-earth'' **完成しなかったために『シルマリルの物語』や『指輪物語』から除かれた、物語および論考集。 ;『[[中つ国の歴史]]』シリーズ *[[1983年]] ''The Book of Lost Tales 1'' *[[1984年]] ''The Book of Lost Tales 2'' **伝説体系の最初の版、その後ほとんどに改訂され書き直された多くの着想を導入した。 *[[1985年]] ''The Lays of Beleriand'' **二つの長編詩 ([[ベレン (トールキン)|ベレン]]と[[ルーシエン]]そして [[トゥーリン]]の物語に関してのレイシアンの詩) *[[1986年]] ''The Shaping of Middle-earth'' **『新シルマリルの物語』に向けての第1段階 * [[1987年]] ''The Lost Road and Other Writings'' **ヌーメノールの出現およびその没落 *[[1988年]] ''The Return of the Shadow'' (『指輪物語の歴史』The History of The Lord of the Rings v.1) *[[1989年]] ''The Treason of Isengard'' (The History of The Lord of the Rings v.2) *[[1990年]] ''The War of the Ring'' (The History of The Lord of the Rings v.3) *[[1992年]] ''Sauron Defeated'' (The History of The Lord of the Rings v.4) **『ホビットの冒険2』から『シルマリルの物語』の続編にふさわしくなるまでの、『指輪物語』の発展。''Sauron Defeated''には、さらに、ヌーメノール伝説の一層の展開を含んでいる。 *[[1993年]] ''Morgoth's Ring'' (『新シルマリルの物語』The Later Silmarillion v.1) *[[1994年]] ''The War of the Jewels'' (The Later Silmarillion v.2) **『指輪物語』出版の後『シルマリルの物語』を書き直すことが公表された。これらは大変動のきざしを含んでいて、宇宙哲学的な神話全体が問題になった。 *[[1996年]] ''The Peoples of Middle-earth'' **言語についての論考と同様に様々な民族についての詳細な情報を提供する様々な後期の著述 *[[2002年]] ''The History of Middle-earth Index'' **総索引 ;中つ国のその他のシリーズ *[[2007年]] ''The Children of Húrin'' *[[2017年]] ''Beren and Lúthien'' *[[2018年]] ''The Fall of Gondolin'' === トールキン以外の作品 === トールキンおよび彼の世界に関する本は膨大であるが、ごく一部を紹介する。 *[[1978年]] ''The Complete Guide to Middle-earth'' ISBN 0345449762 ロバート・フォスター :一般に優れた参考図書と認められている。この本には『終わらざりし物語』と『中つ国の歴史』シリーズの情報は入っていないので、この辞典での「正典」の選択とは異なることもある。 *[[1981年]] 『「中つ国」歴史地図 』''The Atlas of Middle-earth'' カレン・ウィン・フォンスタッド著 **『「中つ国」歴史地図』― トールキン世界のすべて 琴屋草訳 評論社 2002年 ISBN 4566023753 :『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』の地図書。1991年に改訂された。日本語版は改訂版の翻訳。 *[[1981年]] 『フロドの旅』 バーバラ・ストレイチー著 ISBN 0261102672 **『フロドの旅』―「旅の仲間」がたどった道 [[伊藤盡]]訳 評論社 2003年 ISBN 978-4566023765 :『指輪物語』の地図書 *[[1983年]] ''The Road to Middle-earth'' Tom Shippey著 - トールキンの同僚の言語学者から見た物語の文学的な分析。最終改訂は2003年。 *[[2002年]] ''The Complete Tolkien Companion'' ISBN 0330411659, [[J・E・A・タイラー]] :『ホビットの冒険』、『指輪物語』、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』の内容を踏まえた参考書。2つの初期の版に較べ本質的に改善されている。 *[[2007年]] ''The History of The Hobbit'' ISBN 0618964401, [[ジョン・D・レイトリフ]] :『ホビットの冒険』の研究書。 == 関連作品 == === 映画 === [[The Letters of J. R. R. Tolkien|手紙]](202)の中で[[クリストファ・トールキン]]にJ・R・R・トールキンは彼の作品の映画化に関する方針は「芸術か金か」だと述べている<ref name="The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 202">[[#letters|The Letters of J.R.R.Tolkien, 手紙 202]]</ref>。[[1969年]]、突然税金の督促を受けた彼は、『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化権を[[ユナイテッド・アーティスツ]]に売った。その権利は、現在、『シルマリルの物語』 や他の作品の映画化権を保持している{{仮リンク|トールキン財団|en|Tolkien Estate}}とは関係のない{{仮リンク|ミドルアース・エンタープライズ|en|Middle-earth Enterprises}}にわたっている。 最初の映画化は[[1977年]]の『ホビットの冒険』で、ランキン=バス・スタジオが製作した。これは初め[[合衆国]]でテレビ放映された。 翌[[1978年]]、『指輪物語』のタイトルで映画がリリースされた。製作、監督は[[ラルフ・バクシ]]で、物語の前半のみの[[ロトスコープ]]によるアニメーション作品だった。原作に比較的忠実であったが、商業的にも成功しなかったし、批評家にも受けが悪かった。 [[1980年]]ランキン=バスは、『指輪物語』の後半をほぼ含むテレビ・スペシャルを''The Return of the King''として製作した。しかしながら、これは、ラルフ・バクシの映画の終わりに直接続くものではなかった。 実写版の映画化が実現するのは、[[1990年代]]になってからだった。ピーター・ジャクソン監督、そして[[ニュー・ライン・シネマ]]の資金提供により製作された。 映画は興行的にも批評家の評判でも大変な成功で、併せて17の[[アカデミー賞|オスカー]]を勝ち取った(俳優以外の、英語のフィクションの実写映画に適用可能な部門全てで1つ以上)。 *『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間]]』(2001) *『[[ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔]]』 (2002) *『[[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]]』 (2003) また、前日譚にあたる『[[ホビットの冒険]]』も上記三部作の好評を受け、同じく三部作として2012年から2014年にかけて公開された。 * 『[[ホビット 思いがけない冒険]]』(2012年) * 『[[ホビット 竜に奪われた王国]]』(2013年) * 『[[ホビット 決戦のゆくえ]]』(2014年) === ゲーム === トールキンの作品は、[[ロバート・E・ハワード]]、[[フリッツ・ライバー]]、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|H・P・ラヴクラフト]]そして[[マイケル・ムアコック]]らの作品と共に[[テーブルトークRPG|ロールプレイングゲーム]]に大きな影響を与えた。部分的ながら設定に影響を受けている最も有名なゲームは[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]だが、許可を受けて中つ国そのものを舞台としているゲームが2つある。Decipher社のLord of the Rings Roleplaying GameとIron Crown Enterprises社(ICE)の『[[ロールマスター|指輪物語ロールプレイング]]』(MERP)である。 2007年には正式なライセンス契約の元、中つ国を舞台にした初の[[MMORPG]]として『[[ロード・オブ・ザ・リングス オンライン]]』がサービスを開始した。これは原作の設定に基づいて制作されているが、原作の設定を拡張したオリジナル設定も採用されている。 Simulations Publicationsは、トールキンの作品に基づいた3つの[[ウォー・シミュレーションゲーム]]を製作した。''War of the Ring''は『指輪物語』のほとんどの出来事が収められている。''Gondor''はペレンノール野の戦いに焦点を合わせていて、''Sauron''はモルドールの門の前での第二紀の戦いを収めている。Games Workshop社で映画『ロード・オブ・ザ・リング』関連のウォー・シミュレーションゲームが現在製作されている。 コンピューターゲーム[[Angband]]はフリーの[[ローグライクゲーム]]の1つで、トールキンの作品からの多くの特徴や人物、怪物を導入している。トールキンの影響を受けたコンピューターゲーム最も完全なリストは[http://www.lysator.liu.se/tolkien-games/]にある。 これらのゲームとは別に、多くの商用コンピューターゲームがリリースされた。そのうちのいくつかは''The Hobbit''のようにトールキン財団から許可を得ている。その他は映画の関連商品として許可されている。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *{{cite book | last = Tolkien | first = John Ronald Reuel | title = [[:en:The Letters of J. R. R. Tolkien]] | editor = [[:en:Humphrey Carpenter|Carpenter, Humphrey]] (Ed.) | origyear = 1981 | year = 1995 | publisher = HarperCollins | location = London | isbn = 0-261-10265-6 | ref = letters }} {{Middle-earth}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかつくに}} [[Category:中つ国|*]]
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1,942
Simple Mail Transfer Protocol
Simple Mail Transfer Protocol(シンプル メール トランスファー プロトコル、SMTP)または簡易メール転送プロトコルは、インターネットで電子メールを転送するプロトコルである。通常 ポート番号 25 を利用する。 転送先のサーバを特定するために、DNS の MXレコードが使われる。RFC 5321 で標準化されている。 SMTPはIETFにおいて標準化されたメール転送のためのプロトコルである。1980年9月にメール転送プロトコル(Mail Transfer Protocol)という名称のプロトコルが RFC 772 において提案され、2回の改訂を経て1982年8月に簡易メール転送プロトコル(SMTP)という名称で RFC 821/ STD0010 として標準になった。 その後 2001年4月に SMTPは他のRFCの内容もあわせて改訂され、RFC 2821 として提案標準(Proposed Standard)になった。RFC 821 から約20年を経て改訂版が発行されたのは、おもにインターネットの普及にともなって様々なメール拡張機能が実装され、それらをささえる部分を整理する必要があったからである。サーバ外からの攻撃や、IPv6のアドレスにも対応できるよう、またSPF(Sender Policy Framework、RFC 4408)、DKIM(DomainKeys Identified Mail、RFC 4871)などにも対応すべく 2008年10月に再度改訂(RFC 5321)された。 SMTP はメールサーバ間の転送だけでなく、電子メールクライアントからメールサーバにメールを送信するときにも使われる。この2つを元々は区別していなかったがスパムなどを防ぐために現在では配送(transfer)と提出(submission)として分けて考え、メール配送の通信ではポート番号25をそのまま使うが、メール提出ではポート番号587で認証を必須とし暗号化する場合が多い。ポート番号25に接続しようとしても、ほとんどのインターネットサービスプロバイダがブロックしている。またポート番号587やTLSで暗号化した場合のポート番号465をSubmissionポートという。 SMTPは本来テキストベースのプロトコルであり、全ての要求/応答メッセージやメールデータが7ビットASCIIでなければならないという制限があったが、英語以外の言語やバイナリファイルを扱う需要があった。そのため、電子メールにMIMEという規格がつくられ、SMTP自体にも8ビットで伝送する拡張が標準化された。 SMTPにおいてはサーバとクライアントの役割が明確に分離されている。RFC 5321によれば、それらは下図のように記述される。 SMTPではクライアントがサーバに接続するとただちにサーバ - クライアント間に "SMTP セッション" が確立され、その後、両者の間でFTPのような対話型でコマンドやそれに対する応答やメールがやりとりされる。セッションの終了のためにはQUITコマンドが使用されるが、この点においてもFTPとの同様である。 コマンドはEHLO, HELO, MAIL, RCPT, DATA, RSET, NOOP, QUIT, VRFYなどで、空白で区切られた引数がひとつまたは複数続く場合がある。標準のコマンドでは全て4文字ASCIIである。応答は3桁の応答コードで同様に引数が続く場合がある。また、人間が読むための応答コードに対応する文字列が続く場合があるが、SMTPクライアントは応答コードのみによって動作を決定しなければならない。メールデータは<CRLF>で、1行が<CRLF>を含め1000バイトを超えないように区切られる。また、コマンドと引数はメールアドレスの@より前のローカルパートを除き大文字小文字は区別されない。 応答が複数行になる場合は以下のように最終行以外は3桁の応答コードの直後にハイフンをつけ、テキストを続ける。最終行は3桁の応答コードの直後にスペースをつけ、テキストを続ける。 各行の応答コードは同じでなければならない。 SMTPにおいてはトランスポート・プロトコルとして通常 TCP が使用されるが、それに限定されることはない。 EHLO(拡張HELLO)またはHELO(HELLO)コマンドはSMTPサーバーにSMTPクライアントのドメイン名を知らせる。クライアントはEHLOコマンドを使うべきだが、古いサーバーはEHLOコマンドに対応せずエラーを返す。その場合はHELOコマンドを使用しても良い。完全修飾ドメイン名を引数に取る。 MAILコマンドは電子メールをSMTPサーバーへ送る一連のメールトランザクションを開始する。引数に'FROM:<エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレス>'を取る。 RCPT(RECIPIENT)コマンドは電子メールの宛先を指定する。宛先が複数の場合は複数回コマンドを実行する。引数に'TO:<宛先メールアドレス>'を取る。 DATAコマンドはメールデータをSMTPサーバに渡す。引数は許されず、DATAコマンドの直後に改行し、メールデータを何行か続ける。'.'のみの行が現れたらメールデータの終了を示し、メールトランザクションも終了する。もとのデータにピリオドのみの行があっても正しく動作するように行の先頭がピリオドであれば追加で行頭にピリオドを付加し、SMTPサーバーは受け取ったら取り除く。また、メールトランザクションはMAIL、RCPT、DATAの順で実行されなければならない。 QUITコマンドは接続を終了する。クライアントがQUITコマンドを送信したらサーバーは応答コード221を返し接続を閉じる。引数は許されない。 RSET(RESET)コマンドは現在のメールトランザクションを中止する。引数は許されない。 NOOP(NO OPERATION)コマンドは何もしない。SMTPサーバーは必ず250 OKを返す。引数があっても無視される。 HELPコマンドはヘルプを表示する。引数に対応するかはソフトウェアによる。 その他、VRFY、EXPNコマンドがあるが、スパマーに利用されるため現在では殆どの場合利用不可とし252を返すか、認証されたユーザーのみ利用できるようにしている。VRFY, EXPN, HELP, NOOP, RSET, QUITコマンドはいつ実行されても良い。HELPとEXPNコマンドへの対応は任意であり実装されていないこともある。 200番台は成功を表す。 300番台はコマンドは受け入れられたが追加の情報を待っていることを表す。DATAコマンドへの応答に354が使われる。 400番台は一時的エラーを表す。 500番台は永続的エラーを表す。 [email protected] から [email protected] へメールを送る場合。 SMTPサーバーはDATAコマンドでメールデータを渡され、メールトランザクションが終了したら必ず先頭にReceivedヘッダフィールドを追加しなければならない。すでにReceived行があっても、書き換えたり削除したり順番を替えたりしてはならない。Receivedヘッダフィールドは の情報で構成される。ここでは改行しているが実際は改行ではなくスペースで区切られる。FROM節はEHLOコマンドで示された送信元ドメイン名とTCP接続から判明する送信元のIPアドレスとを両方含むべきである。VIA, WITH, ID, FOR節は任意である。 また、SMTPサーバーはメールの最終配送を行う場合、先頭にReturn-pathヘッダフィールドを追加しなければならない。Return-pathヘッダフィールドはMAILコマンドの<送信元メールアドレス>を挿入する。SMTP環境から出ていく時、SMTPの送信元メールアドレス情報が失われないようにするためである。この、エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレスは実際の送信者のメールアドレスと異なることも可能である。 RFCではSMTP実装はメーリングリストとエイリアスをサポートすべきとされている。エイリアスとはメールアドレスの別名で本当のメールアドレスに置換してから処理される。メーリングリストとは複数のメールアドレスを指す擬似的なメールアドレスで、設定されている複数のメールアドレスに展開されて届けられる。 SMTP拡張としては以下のようなものがある。 8ビットで配送を行うことを可能にする拡張。行は<CRLF>で1000オクテットを超えないように区切られ、ドットのみの行でDATAの終わりを示す点は変わらないため、バイナリの配送を可能にするものではなく、8ビット文字コードを意図したものである。 CHUNKING拡張はDATAコマンドの代わりにBDATコマンドを使う。引数にオクテットサイズを取り、その後送られたデータをその長さだけ受け入れる。そのためドットのみの行で終わりを示す必要はない。また、複数回のBDATコマンドに分けることも可能である。その時のために、BDATコマンドの2つ目の引数に「LAST」を指定したら今回でデータの送信が終了することを示す。 BINARYMIME拡張はバイナリの配送を可能にする拡張。CHUNKING拡張と合わせて使用したときにのみ使うことが出来る。 巨大なメールデータをサーバーに送っている時、SMTPサーバー側の制限を超えてから失敗を応答されるのは回線・時間・リソースの無駄であるため、実際にデータを送る前にクライアント側がサーバーのサイズ制限を知ることが出来るようにする拡張。 宛先が複数あるときなどに毎回応答を待ってから次のコマンドを送信するのは時間がかかるため、連続してコマンドを送信するための拡張。 前述のSMTP標準にはユーザー認証機構が含まれていないが、インターネットの普及に伴ってその必要に迫られたため SASL メカニズムを利用した認証機構が RFC 2554 - SMTP Service Extension for Authentication(SMTP-AUTH)として標準化された。この標準の最新文書は RFC 4954 である。 SMTP-AUTH 標準化以前に普及したユーザー制限方法。メール送信する前にメール受信(POP3 の ログイン)を要求するため、こう呼ばれる。RFC 2476 - Message Submission において、クライアントを制限する方法の一つに挙げられたもの。 SMTPの暗号化にはFTPなどの他のテキストベースプロトコルと同様に途中から暗号化を開始するSTARTTLSと最初から暗号化するSMTPSの2種類がある。SMTPSの場合はポート番号を同じには出来ないため、465を使う。
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Simple Mail Transfer Protocolまたは簡易メール転送プロトコルは、インターネットで電子メールを転送するプロトコルである。通常 ポート番号 25 を利用する。 転送先のサーバを特定するために、DNS の MXレコードが使われる。RFC 5321 で標準化されている。
{{IPstack}} '''Simple Mail Transfer Protocol'''(シンプル メール トランスファー プロトコル、'''SMTP''')または'''簡易メール転送プロトコル'''は、[[インターネット]]で[[電子メール]]を転送する[[プロトコル]]である。通常 [[ポート番号]] 25 を利用する。 転送先のサーバを特定するために、[[Domain Name System|DNS]] の [[MXレコード]]が使われる。{{IETF RFC|5321}} で[[標準化]]されている。 == 概要 == SMTPは[[Internet Engineering Task Force|IETF]]において[[標準化]]されたメール転送のためのプロトコルである。[[1980年]]9月にメール転送プロトコル(Mail Transfer Protocol)という名称のプロトコルが {{IETF RFC|772}} において提案され、2回の改訂を経て[[1982年]]8月に簡易メール転送プロトコル(SMTP)という名称で {{IETF RFC|821}}/ STD0010 <ref>J. B. Postel著: Simple Mail Transfer Protocol</ref> として標準になった。 その後 [[2001年]]4月に SMTPは他のRFCの内容もあわせて改訂され、{{IETF RFC|2821}}<ref name="名前なし-1">J. Klensin 編: Simple Mail Transfer Protocol</ref> として提案標準(Proposed Standard)になった。{{IETF RFC|821}} から約20年を経て改訂版が発行されたのは、おもにインターネットの普及にともなって様々なメール拡張機能が実装され、それらをささえる部分を整理する必要があったからである。[[サーバ]]外からの攻撃や、[[IPv6]]のアドレスにも対応できるよう、また[[Sender Policy Framework|SPF]]([[Sender Policy Framework]]、{{IETF RFC|4408}})、[[ドメインキー・アイデンティファイド・メール|DKIM]]([[ドメインキー・アイデンティファイド・メール|DomainKeys Identified Mail]]、{{IETF RFC|4871}})などにも対応すべく [[2008年]]10月に再度改訂({{IETF RFC|5321}})<ref name="名前なし-1"/>された。 SMTP は[[メールサーバ]]間の転送だけでなく、[[電子メールクライアント]]からメールサーバにメールを送信するときにも使われる。この2つを元々は区別していなかったが[[スパム (メール)|スパム]]などを防ぐために現在では配送(transfer)と提出(submission)として分けて考え、メール配送の通信ではポート番号25をそのまま使うが、メール提出ではポート番号587で認証を必須とし暗号化する場合が多い。ポート番号25に接続しようとしても、ほとんどの[[インターネットサービスプロバイダ]]が[[Outbound Port 25 Blocking|ブロック]]している。またポート番号587や[[Transport Layer Security|TLS]]で暗号化した場合のポート番号465をSubmissionポートという<ref>{{Cite web|和書 | url=https://www.iij.ad.jp/biz/po/smtp.html | title=動作を確認したSMTP認証/Submissionポート対応メールソフト一覧 | accessdate=2019-08-12 }}</ref>。 SMTPは本来[[テキスト]]ベースのプロトコルであり、全ての要求/応答メッセージやメールデータが7[[ビット]][[ASCII]]でなければならないという制限があったが、英語以外の言語やバイナリファイルを扱う需要があった。そのため、電子メールに[[Multipurpose Internet Mail Extensions|MIME]]という規格がつくられ、SMTP自体にも8ビットで伝送する拡張が標準化された。 == プロトコル == SMTPにおいてはサーバとクライアントの役割が明確に分離されている。{{IETF RFC|5321}}によれば、それらは下図のように記述される。 [[File:SMTPにおけるサーバとクライアントの役割.png|center|640px|RFC 5321によるSMTPにおけるサーバとクライアントの役割]] SMTPではクライアントがサーバに接続するとただちにサーバ - クライアント間に "SMTP [[セッション]]" が確立され、その後、両者の間で[[File Transfer Protocol|FTP]]のような対話型で[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]やそれに対する応答やメールがやりとりされる。セッションの終了のためにはQUITコマンドが使用されるが、この点においてもFTPとの同様である。 コマンドは<code>EHLO</code>, <code>HELO</code>, <code>MAIL</code>, <code>RCPT</code>, <code>DATA</code>, <code>RSET</code>, <code>NOOP</code>, <code>QUIT</code>, <code>VRFY</code>などで、空白で区切られた引数がひとつまたは複数続く場合がある。標準のコマンドでは全て4文字ASCIIである。応答は3桁の応答コードで同様に引数が続く場合がある。また、人間が読むための応答コードに対応する文字列が続く場合があるが、SMTPクライアントは応答コードのみによって動作を決定しなければならない。メールデータは<CRLF>で、1行が<CRLF>を含め1000バイトを超えないように区切られる。また、コマンドと引数はメールアドレスの@より前のローカルパートを除き大文字小文字は区別されない。 応答が複数行になる場合は以下のように最終行以外は3桁の応答コードの直後にハイフンをつけ、テキストを続ける。最終行は3桁の応答コードの直後にスペースをつけ、テキストを続ける。 250-First line 250-Second line 250-234 Text beginning with numbers 250 The last line 各行の応答コードは同じでなければならない。 SMTPにおいてはトランスポート・プロトコルとして通常 [[Transmission Control Protocol|TCP]] が使用されるが、それに限定されることはない。 === コマンド === '''EHLO'''(拡張HELLO)または'''HELO'''(HELLO)コマンドはSMTPサーバーにSMTPクライアントのドメイン名を知らせる。クライアントはEHLOコマンドを使うべきだが、古いサーバーはEHLOコマンドに対応せずエラーを返す。その場合はHELOコマンドを使用しても良い。完全修飾ドメイン名を引数に取る。 '''MAIL'''コマンドは電子メールをSMTPサーバーへ送る一連のメールトランザクションを開始する。引数に'FROM:<''エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレス''>'を取る。 '''RCPT'''(RECIPIENT)コマンドは電子メールの宛先を指定する。宛先が複数の場合は複数回コマンドを実行する。引数に'TO:<''宛先メールアドレス''>'を取る。 '''DATA'''コマンドはメールデータをSMTPサーバに渡す。引数は許されず、DATAコマンドの直後に改行し、メールデータを何行か続ける。'.'のみの行が現れたらメールデータの終了を示し、メールトランザクションも終了する。もとのデータにピリオドのみの行があっても正しく動作するように行の先頭がピリオドであれば追加で行頭にピリオドを付加し、SMTPサーバーは受け取ったら取り除く。また、メールトランザクションはMAIL、RCPT、DATAの順で実行されなければならない。 '''QUIT'''コマンドは接続を終了する。クライアントがQUITコマンドを送信したらサーバーは応答コード<code>221</code>を返し接続を閉じる。引数は許されない。 '''RSET'''(RESET)コマンドは現在のメールトランザクションを中止する。引数は許されない。 '''NOOP'''(NO OPERATION)コマンドは何もしない。SMTPサーバーは必ず<code>250 OK</code>を返す。引数があっても無視される。 '''HELP'''コマンドはヘルプを表示する。引数に対応するかはソフトウェアによる。 その他、'''VRFY'''、'''EXPN'''コマンドがあるが、スパマーに利用されるため現在では殆どの場合利用不可とし<code>252</code>を返すか、認証されたユーザーのみ利用できるようにしている。VRFY, EXPN, HELP, NOOP, RSET, QUITコマンドはいつ実行されても良い。HELPとEXPNコマンドへの対応は任意であり実装されていないこともある。 === 応答コード === 200番台は成功を表す。 300番台はコマンドは受け入れられたが追加の情報を待っていることを表す。DATAコマンドへの応答に354が使われる。 400番台は一時的エラーを表す。 500番台は永続的エラーを表す。 * 211 System status, or system help reply (HELPコマンドの応答) * 214 Help message (HELPコマンドの応答) * 220 <domain> Service ready (接続後の応答メッセージ) * 221 <domain> Service closing transmission channel (QUITコマンドの応答) * 250 Requested mail action okay, completed (EHLO, HELO, MAIL, RCPT, DATA, RSET, VRFY, EXPN, NOOPコマンドの応答) * 251 User not local; will forward to <forward-path> (RCPT, VRFYコマンドの応答) * 252 Cannot VRFY user, but will accept message and attempt delivery (VRFY, EXPNコマンドの応答) * 354 Start mail input; end with <CRLF>.<CRLF> (DATAコマンドの応答) * 421 <domain> Service not available, closing transmission channel (全てのコマンドの応答) * 450 Requested mail action not taken: mailbox unavailable (RCPT, DATAコマンドの応答) * 451 Requested action aborted: local error in processing (MAIL, RCPT, DATAコマンドの応答) * 452 Requested action not taken: insufficient system storage (MAIL, RCPT, DATAコマンドの応答) * 455 Server unable to accommodate parameters (MAIL, RCPTコマンドの応答) * 500 Syntax error, command unrecognized (全てのコマンドの応答) * 501 Syntax error in parameters or arguments (全てのコマンドの応答) * 502 Command not implemented (EHLO, VRFY, EXPN, HELPコマンドの応答) * 503 Bad sequence of commands (MAIL, RCPT, DATAコマンドの応答) * 504 Command parameter not implemented (EHLO, HELO, VRFY, EXPN, HELPコマンドの応答) * 550 Requested action not taken: mailbox unavailable (EHLO, HELO, MAIL, RCPT, DATA, VRFY, EXPNコマンドの応答) === 例 === [email protected] から [email protected] へメールを送る場合。 # クライアントがサーバーへの接続を開く {{Font color|blue|S: 220 foo.com}} {{Font color|darkorange|ESMTP Postfix}} # 挨拶応答。サーバーがfoo.comであることを示す。 {{Font color|Green|C: EHLO example.com}} # クライアントがexample.comであることを示す。 {{Font color|blue|S: 250}} {{Font color|darkorange|foo.com greets example.com}} {{Font color|Green|C: MAIL FROM:<[email protected]>}} # 送信元 {{Font color|blue|S: 250}} {{Font color|darkorange|Ok}} {{Font color|Green|C: RCPT TO:<[email protected]>}} # 宛先 {{Font color|blue|S: 250}} {{Font color|darkorange|Ok}} {{Font color|Green|C: DATA}} {{Font color|blue|S: 354}} {{Font color|darkorange|End data with <CR><LF>.<CR><LF>}} {{Font color|Green|C: From: Bob Example <[email protected]>}} # メールデータの開始 {{Font color|Green|C: To: Alice Example <[email protected]>}} {{Font color|Green|C: Date: Tue, 15 Jan 2008 16:02:43 -0500}} {{Font color|Green|C: Subject: Test message}} {{Font color|Green|C:}} {{Font color|Green|C: Hello Alice.}} {{Font color|Green|C: This is a test message with 4 header fields and 4 lines in the message body.}} {{Font color|Green|C: Your friend,}} {{Font color|Green|C: Bob}} {{Font color|Green|C: .}} # メールデータの終了 {{Font color|blue|S: 250}} {{Font color|darkorange|Ok}} {{Font color|Green|C: QUIT}} {{Font color|blue|S: 221}} {{Font color|darkorange|Bye}} # サーバーが接続を閉じる === トレース情報 === SMTPサーバーはDATAコマンドでメールデータを渡され、メールトランザクションが終了したら必ず先頭にReceivedヘッダフィールドを追加しなければならない。すでにReceived行があっても、書き換えたり削除したり順番を替えたりしてはならない。Receivedヘッダフィールドは Received: FROM <ドメイン名> (<IPアドレス>) BY <ドメイン名> (<IPアドレス>) VIA <トランスポートプロトコル(TCPなど)> WITH ESMTP(またはSMTP) ID <{{IETF RFC|5322}}のメッセージID> FOR <メールアドレス> <日時({{IETF RFC|5322}}形式)> の情報で構成される。ここでは改行しているが実際は改行ではなくスペースで区切られる。FROM節はEHLOコマンドで示された送信元ドメイン名とTCP接続から判明する送信元のIPアドレスとを両方含むべきである。VIA, WITH, ID, FOR節は任意である。 また、SMTPサーバーはメールの最終配送を行う場合、先頭にReturn-pathヘッダフィールドを追加しなければならない。Return-pathヘッダフィールドはMAILコマンドの<送信元メールアドレス>を挿入する。SMTP環境から出ていく時、SMTPの送信元メールアドレス情報が失われないようにするためである。この、エラーを報告するのに使用される送信元メールアドレスは実際の送信者のメールアドレスと異なることも可能である。 === メーリングリストとエイリアス === RFCではSMTP実装はメーリングリストとエイリアスをサポートすべきとされている。エイリアスとはメールアドレスの別名で本当のメールアドレスに置換してから処理される。メーリングリストとは複数のメールアドレスを指す擬似的なメールアドレスで、設定されている複数のメールアドレスに展開されて届けられる。 == 拡張 == SMTP拡張としては以下のようなものがある。 === 8BITMIME拡張 === 8ビットで配送を行うことを可能にする拡張。行は<CRLF>で1000オクテットを超えないように区切られ、ドットのみの行でDATAの終わりを示す点は変わらないため、バイナリの配送を可能にするものではなく、8ビット文字コードを意図したものである。 === CHUNKING拡張とBINARYMIME拡張 === CHUNKING拡張はDATAコマンドの代わりにBDATコマンドを使う。引数にオクテットサイズを取り、その後送られたデータをその長さだけ受け入れる。そのためドットのみの行で終わりを示す必要はない。また、複数回のBDATコマンドに分けることも可能である。その時のために、BDATコマンドの2つ目の引数に「LAST」を指定したら今回でデータの送信が終了することを示す。 BINARYMIME拡張はバイナリの配送を可能にする拡張。CHUNKING拡張と合わせて使用したときにのみ使うことが出来る。 === SIZE拡張 === 巨大なメールデータをサーバーに送っている時、SMTPサーバー側の制限を超えてから失敗を応答されるのは回線・時間・リソースの無駄であるため、実際にデータを送る前にクライアント側がサーバーのサイズ制限を知ることが出来るようにする拡張。 === PIPELINING拡張 === 宛先が複数あるときなどに毎回応答を待ってから次のコマンドを送信するのは時間がかかるため、連続してコマンドを送信するための拡張。 == ユーザー認証 == === SMTP-AUTH === 前述のSMTP標準にはユーザー[[認証]]機構が含まれていないが、インターネットの普及に伴ってその必要に迫られたため [[Simple Authentication and Security Layer|SASL]] メカニズムを利用した認証機構が {{IETF RFC|2554}} - SMTP Service Extension for Authentication(SMTP-AUTH)として標準化された。この標準の最新文書は {{IETF RFC|4954}} である。 === POP before SMTP === SMTP-AUTH 標準化以前に普及したユーザー制限方法。メール送信する前にメール受信([[Post Office Protocol|POP3]] の [[ログイン]])を要求するため、こう呼ばれる。{{IETF RFC|2476}} - Message Submission において、クライアントを制限する方法の一つに挙げられたもの。 {{main|POP before SMTP}} == 暗号化 == SMTPの暗号化にはFTPなどの他のテキストベースプロトコルと同様に途中から暗号化を開始する[[STARTTLS]]と最初から暗号化する[[SMTPS]]の2種類がある。SMTPSの場合はポート番号を同じには出来ないため、465を使う。 == 関連するRFC == * {{IETF RFC|821}} - 廃止→ {{IETF RFC|5321}} * {{IETF RFC|822}} - 廃止→ {{IETF RFC|5322}} * {{IETF RFC|974}} - 廃止→ {{IETF RFC|5321}} * {{IETF RFC|1123}} - Requirements for Internet Hosts—Application and Support (STD 3) * {{IETF RFC|1652}} - 廃止→ {{IETF RFC|6152}} * {{IETF RFC|1653}} - 廃止→ {{IETF RFC|1870}} * {{IETF RFC|1830}} - 廃止→ {{IETF RFC|3030}} * {{IETF RFC|1869}} - 廃止→ {{IETF RFC|5321}} * {{IETF RFC|1870}} - SIZE拡張について * {{IETF RFC|1891}} - 廃止→ {{IETF RFC|3461}} * {{IETF RFC|1893}} - 廃止→ {{IETF RFC|3463}} * {{IETF RFC|1894}} - 廃止→ {{IETF RFC|3464}} * {{IETF RFC|2476}} - 廃止→ {{IETF RFC|6409}} * {{IETF RFC|2487}} - 廃止→ {{IETF RFC|3207}} * {{IETF RFC|2505}} - Anti-Spam Recommendations for SMTP MTAs (BCP 30) * {{IETF RFC|2554}} - 廃止→ {{IETF RFC|4954}} * {{IETF RFC|2821}} - 廃止→ {{IETF RFC|5321}} * {{IETF RFC|2822}} - 廃止→ {{IETF RFC|5322}} * {{IETF RFC|2920}} - PIPELINING拡張について * {{IETF RFC|3030}} - CHUNKING拡張とBINARYMIME拡張について * {{IETF RFC|3207}} - SMTP Service Extension for Secure SMTP over Transport Layer Security * {{IETF RFC|3461}} - SMTP Service Extension for Delivery Status Notifications (updated by {{IETF RFC|3798}}) * {{IETF RFC|3462}} - 廃止→ {{IETF RFC|6522}} * {{IETF RFC|3463}} - Enhanced Status Codes for SMTP (updated by {{IETF RFC|5248}}) * {{IETF RFC|3464}} - An Extensible Message Format for Delivery Status Notifications * {{IETF RFC|3798}} - Message Disposition Notification (updates {{IETF RFC|3461}}) * {{IETF RFC|3834}} - Recommendations for Automatic Responses to Electronic Mail * {{IETF RFC|4408}} - Sender Policy Framework (SPF) Authorizing Use of Domains in E-Mail, Version 1 * {{IETF RFC|4409}} - 廃止→ {{IETF RFC|6409}} * {{IETF RFC|4871}} - 廃止→ {{IETF RFC|6376}} * {{IETF RFC|4952}} - Overview and Framework for Internationalized Email (updated by {{IETF RFC|5336}}) * {{IETF RFC|4954}} - SMTP Service Extension for Authentication (updates {{IETF RFC|3463}}, updated by {{IETF RFC|5248}}) * {{IETF RFC|5068}} - Email Submission Operations: Access and Accountability Requirements (BCP 134) * {{IETF RFC|5248}} - A Registry for SMTP Enhanced Mail System Status Codes (BCP 138) (updates {{IETF RFC|3463}}) * {{IETF RFC|5321}} - The Simple Mail Transfer Protocol (updates {{IETF RFC|1123}}) * {{IETF RFC|5322}} - Internet Message Format * {{IETF RFC|5336}} - 廃止→ {{IETF RFC|6531}} * {{IETF RFC|5504}} - Downgrading Mechanism for Email Address Internationalization * {{IETF RFC|5672}} - 廃止→ {{IETF RFC|6376}} * {{IETF RFC|6152}} - 8BITMIME拡張について * {{IETF RFC|6376}} - DomainKeys Identified Mail (DKIM) Signatures * {{IETF RFC|6409}} - Message Submission for Mail (STD 72) * {{IETF RFC|6522}} - The Multipart/Report Content Type for the Reporting of Mail System Administrative Messages * {{IETF RFC|6531}} - SMTP Extension for Internationalized Email Addresses * {{IETF RFC|7504}} - SMTP 521 and 556 Reply Codes * {{IETF RFC|8314}} - Cleartext Considered Obsolete: Use of Transport Layer Security (TLS) for Email Submission and Access == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Outbound Port 25 Blocking]] * [[Post Office Protocol|POP3]] * [[Internet Message Access Protocol|IMAP]] * [[スパム (メール)]](いわゆる迷惑メール) * [[メールサーバ]] == 外部リンク == * {{Kotobank|SMTP}} {{OSI}} [[Category:電子メールのプロトコル]] [[Category:RFC|5321]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]]
2003-02-15T20:45:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Simple_Mail_Transfer_Protocol
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ワードプロセッサ
ワードプロセッサ(英: Word processor)または文書作成編集機(ぶんしょさくせいへんしゅうき)は、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムである。一般的な略称は「ワープロ」。ワープロ機能専用コンピュータとして商品開発された「ワープロ専用機」と、汎用的なパーソナルコンピュータで動作する「ワープロソフト」(Microsoft Word、一太郎など)がある。この記事では主に前者の「ワープロ専用機」を扱う。 文章を入力し、活字で印字するシステムとして、ローマ字を用いる地域ではタイプライターが利用されていたが、日本語ではアルファベットだけでなくかなや漢字も使うため、欧文タイプライターのように個別のキーの押下が印字ヘッドの運動に変換される機構では文字数が大幅に不足していた。日本語用の和文タイプライターも存在したが、1000以上の文字が並んだ盤面から目的の文字をひとつずつ検索して拾い上げる必要があり、操作方法が煩雑で熟練技能を必要とした。このため小規模印刷にはタイプライターではなくガリ版が多用された。 20世紀半ばにコンピュータが発明され、小型化・低価格化が進む過程で、文章の作成への応用が行われた。手書きやガリ版に対して字体が統一されており、タイプライターに比べても修正・推敲が容易であることが利点となる。ローマ字圏では使用される文字が英数字に若干の記号を加えた程度で処理が可能なため、比較的容易にワードプロセッサが作られた。世界初のワードプロセッサは、1964年(昭和39年)のIBM MT/STで、その後もワング・ラボラトリーズ社などからいくつか英文ワープロ専用機が登場した。しかしローマ字圏ではタイプライターで間に合うことから高価なワープロ専用機の必要性が少ないため、タイプライターから直にパソコンのワープロソフトへ短期間で移行したことが多く、ワープロ専用機はそれほど普及しなかった。 一方日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。 さらに、インターネットが普及していない時代であったために紙印刷する必要があり、印刷機の歴史もこれに追随することとなる。 1977年(昭和52年)、シャープが試作機を開発、5月のビジネスシヨウに出品した。なお、後に商品化したモデル(WD-3000)ではかな漢字変換は実装されていなかった。 1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表した。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった。この発明は電気・電子技術における歴史的な業績として、2008年にIEEEマイルストーンに認定された。 日本語版の実現には、かな文字を入力し、その読みから候補となる漢字を選択する、コンピュータによるかな漢字変換の仕組みが開発されたことがあった。当初から構文解析を行い、文節単位、熟語単位の変換が可能となっており、同音語の学習機能も備えていた。かな漢字変換機構は、単に日本語ワードプロセッサ専用機の実用化だけではなく、汎用コンピュータに限らず電子手帳や携帯電話等の電子機器も含めた、広い意味でのコンピュータによる日本語利用を普及させるための核心となる技術であった。 1979年(昭和54年)3月、沖電気が OKI WORD EDITOR-200 を発表。キーボード入力を採用し、漢字入力は1字ごとに変換する方式であった。音読みでかな入力すると同じ読みの漢字がリスト表示され、その中から入力したい文字を選択するかたちである。 同年9月、シャープが書院WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである。 翌1980年(昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、1985年(昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった。なお古瀬幸広によれば「ワープロ」の略称が一般に普及したのは、1982年に関取の高見山を起用した富士通のワープロ「マイオアシス」のコマーシャルとしている。同年5月6日(NEC文豪NWP-11N発表の4日前)に富士通が発表したマイオアシスの価格は75万円であった。 1985年(昭和60年)のビジネスシヨウでカシオが59,800円のカシオワードHW-100を披露し衝撃を与え、それに対してキヤノンが49,800円のPW-10Eを出して追随するなどワープロは一気に低価格化し、マスコミには「電卓戦争の再現」として取り上げられるようになった。ソニー、セイコーエプソンなどの企業も参入し、パーソナルワープロブームとなった。 1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業や個人への導入が始まった。 この頃の個人向けパーソナルワープロは、本体にキーボードに一体化されたプリンタと数行程度の液晶表示パネルを備える専用機であり、文章の作成、校正、編集、印刷などの機能を持つだけであった。機械の性能が向上するに連れて、液晶表示パネルの表示行数が増加し文書全体のレイアウトを把握しやすくなり、また印字機能の発達により明朝体のみだった印刷フォントもゴシック体や毛筆体など種類が増え、写植に匹敵するような高精細な印字が可能となった。さらには図形の描画・絵文字・はがき印刷(表面・裏面)や、カード型データベース・住所録・表計算・パソコン通信などの付加機能も搭載されているものが増え、テキストの処理に関しては当時のパーソナルコンピュータ(パソコン)と同等以上の高機能となった。 また、1980年代にはこれら個人向け製品の流れとは別に、ビジネス用途としてワークステーションに漢字処理機能が搭載されパーソナルワープロ同様の機能に加え様々な組版機能が盛り込まれた物が登場する。これらの多くは企業内での文書作成の写植システムとして活用され、パーソナルワープロとは別の道を歩むこととなった。 その一方でパーソナルコンピュータには漢字ROMが搭載され、BASIC(当時はオペレーティングシステム (OS) も兼ねていた)でも漢字を使用することができるようになり、安価なワープロソフトやプリンタが登場するに至った。この後、パソコンの代表機種であるPC/AT互換機で漢字ROM無しに漢字処理ができるようになり、パソコンの普及は加速するに至る。 1990年代に入ると画面が白黒からカラー液晶へと進化を見せる部分があるものの、パソコンやワープロソフトの低価格化、安価なパソコン用高性能プリンターの登場などによりシェアを奪われ、普及し始めたインターネットへのアクセスも悪かったため、その売れ行きは落ちた。出荷台数は1989年(平成元年)、出荷金額は1991年(平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も1998年(平成10年)をピークに急低下、1999年(平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。 2000年(平成12年)2月にシャープが「書院」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、2003年(平成15年)9月末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。 ワープロ専用機で作られた多くの文書資産をどうパソコンに移行させるかは、多くの企業にとって悩みの種だった。とりわけ専用機は罫線や振り仮名などで各社独自の工夫でデータ処理していた。パソコン側のソフトウェアでも変換機能を搭載したものもあるが、罫線や各社の絵文字、記号などは変換することはできず、また同じメーカーでも機能の多様化で処理方法が変化したりしており、本文のテキスト化がせいぜいといった程度であった。このため、各社ともにワープロの終焉とともにパソコンでの再現性を高め、データを移行させるためのソフトウェアの開発が求められた。それは必ずしも完全な復元を約束したものではなかったが、それなりに再現でき、一定の役割を果たした。 「Power書院」・「Rupo Writer」・「キヤノワードJ for Windows」、またIMEとして「Rupo ACE」が発売されていたが、いずれも販売を終了している。2018年時点でも未だ「OASYS V10」のみ開発・販売が続けられていたが、2020年9月30日を以て個人向けの販売が終了し、法人向けもそれに続く。サポートは2023年まで継続される。リコーでは2009年にワープロ専用機のシステムFDコピーおよび文書コンバートサービスが、さらに 2017年にはお問い合わせ窓口の対応が終了した。 ワープロ専用機を支持する熱心なユーザーも多く、中古機市場での相場が上昇したこともある。21世紀に入ってからもオークションなどでは連日のように状態を問わず取引されている。その反面、ワープロ専用機の利用者は積極的にインターネットでの情報交換を行わない傾向が強い。レトロゲームや万年筆のような骨董品的価値を見出す動きもそれほど無いため、既に動態状態かつ付属品が全て揃っている資料的価値の高いのものが絶滅してしまったと思われる機種も出始めている。 ワープロ専用機のユーザーが根強くいる理由には、1960年代中期までに生まれた世代には慣れ親しんだワープロ専用機への愛着が強いこと、小説家、翻訳家など文筆業などで連続稼働をしてもクラッシュを起こさない作業環境の高い安定性と快適さ、キーボードの品質の高さ、ネットワーク経由での情報漏洩を懸念している現場、昭和~バブル家電の収集愛好家からの支持などである。 さらに、ワープロ専用機は必要な機能が本体ハードウエアに一体化されており電源を入れるだけですぐ使えること、パソコンのような色々な操作やパッチ(フィックス)適用などがほぼ不要なことが挙げられる(逆に言えば7桁郵便番号への対応などが殆どの機種で行えない)。 インクリボンや印字用紙の生産終了(TYPE-W型のインクリボン採用機など)、押入れや屋根裏部屋、ロフト、床下収納、車庫、物置など高温多湿下の劣悪な保管環境による液晶パネルの画面焼け(ビネガーシンドローム、システムディスクの破損)、システムディスク原本の破損や紛失(劣化やカビ、著作権法の制約による修理不能問題)、乾電池を抜かずに保管した結果として電池の液漏れによるメイン基板の破損、メーカーからの一部修理業者に対する訴訟リスクによる廃業、ベルトドライブ方式のフロッピーディスクドライブの補修部品供給終了、フロッピーディスク媒体の入手性低下、用紙送りノブの破損、プリンタのローラのゴムの劣化、修理費の高騰などにより年々維持が難しくなりつつあるのが実状である。 ワープロの製造・修理サポートが終了以後は、修理専門の業者が既存で残った製品の部品から使えるものを選び出し、壊れた製品のそれと交換するかたち(いわゆるニコイチ修理)でしのいでいる。 なお、大昔のワープロでインターネットサイトを閲覧しようとしてもその後登場した技術・規格に対応していないため、しっかり表示できるのはインターネット黎明期に誕生したサイトやテキストサイト程度である。2018年、ねとらぼが1997年のワープロでインターネットに接続したところ、Googleの通常検索と画像検索は使えるが地図検索は使用不能、ニュースサイトは閲覧できるがレイアウトが大きくずれる、さらにニコニコ動画などの動画サイトは動画ウィンドウが表示されないなど、実用に堪えず、「まともなブラウジングはできません」「無間地獄」と評している。なお当時の一般的なワープロでは、CPUが現代のものと比べると圧倒的に低性能であるため、液晶ディスプレイはモノクロ16階調で、画面解像度はVGA(640×480)以下、処理速度の問題からの動画再生には対応できず、インターネット閲覧機能を持っている機種も一部の高級機に限られていた。 21世紀に入ってからも、書いた文書をその場ですぐサーマルプリンターで印刷して利用できる、場所を選ばずに印刷して相手に手渡したり推敲ができる、ラベルシールプリンターとして手軽に使用できるなどの部分があるため、2000年代後半からスマートフォン・タブレットの技術を応用して作られた、年賀状印刷に特化した液晶・キーボード付きのフォトプリンタ(CASIO プリン写ル・EPSON 年賀状 宛名達人等)や、プレーンテキストの入力に特化したポメラなど、ワープロのコンセプトを取り入れた製品が発売された。 1980年代、デジタル文房具として急速な普及を見せたワープロは、従来の手書き、あるいは和文タイプによる文書作成にはない特長を備えていた。また、パーソナルコンピュータの普及が始まっていた時代であったが、専用機としての利点によって一定の商品性があった。以下にそれらをあげる。 これらのほか、さらに次のような機能をもつ機種もあった。 以上のような特長は今となってはワープロ独自の機能とはいえないが、その多くはワープロ専用機で培われた機能であり、パソコンでの文書作成が主流となった現在でも、日本語文書の編集にまつわる多くの機能は、ワープロ専用機をベースにしたものとなっている。 ワープロソフト、ワープロ専用機で作成した文書はファイルとして保存する。ワープロ専用機はファイルを2DD、2HDなどのフロッピーディスク、オーディオカセットテープ(初期のパーソナル機のみ)、ハードディスク(一部機種)、S-RAMカードに保存するが、各社のワープロ専用機のフロッピーディスクの文書フォーマットも統一されていない状態で普及した。唯一、NECのみはフロッピーディスクのフォーマットを、パソコンのPC-9800シリーズ(MS-DOS使用時)と共通化していた。 さらに文書ファイルの内部はワープロソフトによってそれぞれ独自の形式になっている。このようなことからワープロソフト間、ワープロ専用機とパソコンのワープロ間でファイルを交換するには専用の文書ファイル・コンバータが必要である。そのために、「リッチテキスト・コンバータ」などのソフトも発売されていた。また、OASYS LX-9000 など後期の機種には文章コンバータが標準搭載されているため、そちらを利用することで各社形式から一太郎形式などへ変換することも可能である。ただし、カセットテープで記録されたものに関しては当時の実機材と専用オプションが必要になる。また、リコー・マイリポート JPシリーズでは変換用のソフトが存在せず、メーカー公式のデータ変換サービスも終了しているため新たに中古で入手する場合は注意が必要である。変換方法の存在しない機種での文書変換には実機での印刷後にOCR処理でPDFまたはテキストへ変換する必要がある。 次のような裏技もある。ワープロ専用機の全盛時代には、パソコン用ワープロソフト市場は、ジャストシステムの一太郎シリーズやマイクロソフトのワードが存在感をみせていた。このため、ワープロ専用機では、一太郎形式やワード形式には対応するものも多い。そこで、たとえば、書院形式からオアシス形式に変換する場合、書院で「書院形式」→「一太郎形式」でMS-DOSフロッピーディスクに文書を保存し、このFDを今度はオアシスで「一太郎形式」→「オアシス形式」に読み込めば、ある程度書式や罫線を維持したまま、異なるワープロ専用機の間で受け渡しをできた。 利用環境が限定されるが、FAXモデム搭載機であれば、 変換ソフトが無くてもISDNターミナルアダプタなど内線接続用アダプタを間に挟むことで、内線に接続されているFAXまたは複合機経由での印刷や PDF, jpeg, png などの汎用画像形式への変換(テキスト化にはOCR処理と修正作業が必要)、さらに複合機の機種によってはePub形式による電子書籍化、メールでの送信、スマートフォンでの閲覧やネットへの公開が可能である。内線であるため通話料は掛からない。 FAXを使用する方法は内蔵プリンタの故障・修理不能や消耗品の供給終了に怯えたり、故障の度に高額な修理費を用意する必要がなく、豊富に流通している入手性の良い中古複合機やFAX専用機を安価に活用できる。欠点として、はがきなど特殊用途の印刷は対応していない、解決策としては環境構築が煩雑であり、やや特殊な機材が必要になるため、レガシー技術についての知識と経験のある技術者の支援・指導が必要である。なお、ワープロ専用機側のFAXソフトウェアによっては内線の使用は不可能であるため、事前に説明書などで確認と検証が必要である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワードプロセッサ(英: Word processor)または文書作成編集機(ぶんしょさくせいへんしゅうき)は、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムである。一般的な略称は「ワープロ」。ワープロ機能専用コンピュータとして商品開発された「ワープロ専用機」と、汎用的なパーソナルコンピュータで動作する「ワープロソフト」(Microsoft Word、一太郎など)がある。この記事では主に前者の「ワープロ専用機」を扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "文章を入力し、活字で印字するシステムとして、ローマ字を用いる地域ではタイプライターが利用されていたが、日本語ではアルファベットだけでなくかなや漢字も使うため、欧文タイプライターのように個別のキーの押下が印字ヘッドの運動に変換される機構では文字数が大幅に不足していた。日本語用の和文タイプライターも存在したが、1000以上の文字が並んだ盤面から目的の文字をひとつずつ検索して拾い上げる必要があり、操作方法が煩雑で熟練技能を必要とした。このため小規模印刷にはタイプライターではなくガリ版が多用された。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20世紀半ばにコンピュータが発明され、小型化・低価格化が進む過程で、文章の作成への応用が行われた。手書きやガリ版に対して字体が統一されており、タイプライターに比べても修正・推敲が容易であることが利点となる。ローマ字圏では使用される文字が英数字に若干の記号を加えた程度で処理が可能なため、比較的容易にワードプロセッサが作られた。世界初のワードプロセッサは、1964年(昭和39年)のIBM MT/STで、その後もワング・ラボラトリーズ社などからいくつか英文ワープロ専用機が登場した。しかしローマ字圏ではタイプライターで間に合うことから高価なワープロ専用機の必要性が少ないため、タイプライターから直にパソコンのワープロソフトへ短期間で移行したことが多く、ワープロ専用機はそれほど普及しなかった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一方日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "さらに、インターネットが普及していない時代であったために紙印刷する必要があり、印刷機の歴史もこれに追随することとなる。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)、シャープが試作機を開発、5月のビジネスシヨウに出品した。なお、後に商品化したモデル(WD-3000)ではかな漢字変換は実装されていなかった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表した。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった。この発明は電気・電子技術における歴史的な業績として、2008年にIEEEマイルストーンに認定された。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語版の実現には、かな文字を入力し、その読みから候補となる漢字を選択する、コンピュータによるかな漢字変換の仕組みが開発されたことがあった。当初から構文解析を行い、文節単位、熟語単位の変換が可能となっており、同音語の学習機能も備えていた。かな漢字変換機構は、単に日本語ワードプロセッサ専用機の実用化だけではなく、汎用コンピュータに限らず電子手帳や携帯電話等の電子機器も含めた、広い意味でのコンピュータによる日本語利用を普及させるための核心となる技術であった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)3月、沖電気が OKI WORD EDITOR-200 を発表。キーボード入力を採用し、漢字入力は1字ごとに変換する方式であった。音読みでかな入力すると同じ読みの漢字がリスト表示され、その中から入力したい文字を選択するかたちである。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同年9月、シャープが書院WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "翌1980年(昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、1985年(昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった。なお古瀬幸広によれば「ワープロ」の略称が一般に普及したのは、1982年に関取の高見山を起用した富士通のワープロ「マイオアシス」のコマーシャルとしている。同年5月6日(NEC文豪NWP-11N発表の4日前)に富士通が発表したマイオアシスの価格は75万円であった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)のビジネスシヨウでカシオが59,800円のカシオワードHW-100を披露し衝撃を与え、それに対してキヤノンが49,800円のPW-10Eを出して追随するなどワープロは一気に低価格化し、マスコミには「電卓戦争の再現」として取り上げられるようになった。ソニー、セイコーエプソンなどの企業も参入し、パーソナルワープロブームとなった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業や個人への導入が始まった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この頃の個人向けパーソナルワープロは、本体にキーボードに一体化されたプリンタと数行程度の液晶表示パネルを備える専用機であり、文章の作成、校正、編集、印刷などの機能を持つだけであった。機械の性能が向上するに連れて、液晶表示パネルの表示行数が増加し文書全体のレイアウトを把握しやすくなり、また印字機能の発達により明朝体のみだった印刷フォントもゴシック体や毛筆体など種類が増え、写植に匹敵するような高精細な印字が可能となった。さらには図形の描画・絵文字・はがき印刷(表面・裏面)や、カード型データベース・住所録・表計算・パソコン通信などの付加機能も搭載されているものが増え、テキストの処理に関しては当時のパーソナルコンピュータ(パソコン)と同等以上の高機能となった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、1980年代にはこれら個人向け製品の流れとは別に、ビジネス用途としてワークステーションに漢字処理機能が搭載されパーソナルワープロ同様の機能に加え様々な組版機能が盛り込まれた物が登場する。これらの多くは企業内での文書作成の写植システムとして活用され、パーソナルワープロとは別の道を歩むこととなった。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その一方でパーソナルコンピュータには漢字ROMが搭載され、BASIC(当時はオペレーティングシステム (OS) も兼ねていた)でも漢字を使用することができるようになり、安価なワープロソフトやプリンタが登場するに至った。この後、パソコンの代表機種であるPC/AT互換機で漢字ROM無しに漢字処理ができるようになり、パソコンの普及は加速するに至る。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1990年代に入ると画面が白黒からカラー液晶へと進化を見せる部分があるものの、パソコンやワープロソフトの低価格化、安価なパソコン用高性能プリンターの登場などによりシェアを奪われ、普及し始めたインターネットへのアクセスも悪かったため、その売れ行きは落ちた。出荷台数は1989年(平成元年)、出荷金額は1991年(平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も1998年(平成10年)をピークに急低下、1999年(平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)2月にシャープが「書院」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、2003年(平成15年)9月末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ワープロ専用機で作られた多くの文書資産をどうパソコンに移行させるかは、多くの企業にとって悩みの種だった。とりわけ専用機は罫線や振り仮名などで各社独自の工夫でデータ処理していた。パソコン側のソフトウェアでも変換機能を搭載したものもあるが、罫線や各社の絵文字、記号などは変換することはできず、また同じメーカーでも機能の多様化で処理方法が変化したりしており、本文のテキスト化がせいぜいといった程度であった。このため、各社ともにワープロの終焉とともにパソコンでの再現性を高め、データを移行させるためのソフトウェアの開発が求められた。それは必ずしも完全な復元を約束したものではなかったが、それなりに再現でき、一定の役割を果たした。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「Power書院」・「Rupo Writer」・「キヤノワードJ for Windows」、またIMEとして「Rupo ACE」が発売されていたが、いずれも販売を終了している。2018年時点でも未だ「OASYS V10」のみ開発・販売が続けられていたが、2020年9月30日を以て個人向けの販売が終了し、法人向けもそれに続く。サポートは2023年まで継続される。リコーでは2009年にワープロ専用機のシステムFDコピーおよび文書コンバートサービスが、さらに 2017年にはお問い合わせ窓口の対応が終了した。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ワープロ専用機を支持する熱心なユーザーも多く、中古機市場での相場が上昇したこともある。21世紀に入ってからもオークションなどでは連日のように状態を問わず取引されている。その反面、ワープロ専用機の利用者は積極的にインターネットでの情報交換を行わない傾向が強い。レトロゲームや万年筆のような骨董品的価値を見出す動きもそれほど無いため、既に動態状態かつ付属品が全て揃っている資料的価値の高いのものが絶滅してしまったと思われる機種も出始めている。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ワープロ専用機のユーザーが根強くいる理由には、1960年代中期までに生まれた世代には慣れ親しんだワープロ専用機への愛着が強いこと、小説家、翻訳家など文筆業などで連続稼働をしてもクラッシュを起こさない作業環境の高い安定性と快適さ、キーボードの品質の高さ、ネットワーク経由での情報漏洩を懸念している現場、昭和~バブル家電の収集愛好家からの支持などである。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さらに、ワープロ専用機は必要な機能が本体ハードウエアに一体化されており電源を入れるだけですぐ使えること、パソコンのような色々な操作やパッチ(フィックス)適用などがほぼ不要なことが挙げられる(逆に言えば7桁郵便番号への対応などが殆どの機種で行えない)。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "インクリボンや印字用紙の生産終了(TYPE-W型のインクリボン採用機など)、押入れや屋根裏部屋、ロフト、床下収納、車庫、物置など高温多湿下の劣悪な保管環境による液晶パネルの画面焼け(ビネガーシンドローム、システムディスクの破損)、システムディスク原本の破損や紛失(劣化やカビ、著作権法の制約による修理不能問題)、乾電池を抜かずに保管した結果として電池の液漏れによるメイン基板の破損、メーカーからの一部修理業者に対する訴訟リスクによる廃業、ベルトドライブ方式のフロッピーディスクドライブの補修部品供給終了、フロッピーディスク媒体の入手性低下、用紙送りノブの破損、プリンタのローラのゴムの劣化、修理費の高騰などにより年々維持が難しくなりつつあるのが実状である。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ワープロの製造・修理サポートが終了以後は、修理専門の業者が既存で残った製品の部品から使えるものを選び出し、壊れた製品のそれと交換するかたち(いわゆるニコイチ修理)でしのいでいる。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、大昔のワープロでインターネットサイトを閲覧しようとしてもその後登場した技術・規格に対応していないため、しっかり表示できるのはインターネット黎明期に誕生したサイトやテキストサイト程度である。2018年、ねとらぼが1997年のワープロでインターネットに接続したところ、Googleの通常検索と画像検索は使えるが地図検索は使用不能、ニュースサイトは閲覧できるがレイアウトが大きくずれる、さらにニコニコ動画などの動画サイトは動画ウィンドウが表示されないなど、実用に堪えず、「まともなブラウジングはできません」「無間地獄」と評している。なお当時の一般的なワープロでは、CPUが現代のものと比べると圧倒的に低性能であるため、液晶ディスプレイはモノクロ16階調で、画面解像度はVGA(640×480)以下、処理速度の問題からの動画再生には対応できず、インターネット閲覧機能を持っている機種も一部の高級機に限られていた。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "21世紀に入ってからも、書いた文書をその場ですぐサーマルプリンターで印刷して利用できる、場所を選ばずに印刷して相手に手渡したり推敲ができる、ラベルシールプリンターとして手軽に使用できるなどの部分があるため、2000年代後半からスマートフォン・タブレットの技術を応用して作られた、年賀状印刷に特化した液晶・キーボード付きのフォトプリンタ(CASIO プリン写ル・EPSON 年賀状 宛名達人等)や、プレーンテキストの入力に特化したポメラなど、ワープロのコンセプトを取り入れた製品が発売された。", "title": "ワープロ専用機の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1980年代、デジタル文房具として急速な普及を見せたワープロは、従来の手書き、あるいは和文タイプによる文書作成にはない特長を備えていた。また、パーソナルコンピュータの普及が始まっていた時代であったが、専用機としての利点によって一定の商品性があった。以下にそれらをあげる。", "title": "ワープロ専用機の特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これらのほか、さらに次のような機能をもつ機種もあった。", "title": "ワープロ専用機の特徴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以上のような特長は今となってはワープロ独自の機能とはいえないが、その多くはワープロ専用機で培われた機能であり、パソコンでの文書作成が主流となった現在でも、日本語文書の編集にまつわる多くの機能は、ワープロ専用機をベースにしたものとなっている。", "title": "ワープロ専用機の特徴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ワープロソフト、ワープロ専用機で作成した文書はファイルとして保存する。ワープロ専用機はファイルを2DD、2HDなどのフロッピーディスク、オーディオカセットテープ(初期のパーソナル機のみ)、ハードディスク(一部機種)、S-RAMカードに保存するが、各社のワープロ専用機のフロッピーディスクの文書フォーマットも統一されていない状態で普及した。唯一、NECのみはフロッピーディスクのフォーマットを、パソコンのPC-9800シリーズ(MS-DOS使用時)と共通化していた。", "title": "ワープロ文書の変換と保存" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらに文書ファイルの内部はワープロソフトによってそれぞれ独自の形式になっている。このようなことからワープロソフト間、ワープロ専用機とパソコンのワープロ間でファイルを交換するには専用の文書ファイル・コンバータが必要である。そのために、「リッチテキスト・コンバータ」などのソフトも発売されていた。また、OASYS LX-9000 など後期の機種には文章コンバータが標準搭載されているため、そちらを利用することで各社形式から一太郎形式などへ変換することも可能である。ただし、カセットテープで記録されたものに関しては当時の実機材と専用オプションが必要になる。また、リコー・マイリポート JPシリーズでは変換用のソフトが存在せず、メーカー公式のデータ変換サービスも終了しているため新たに中古で入手する場合は注意が必要である。変換方法の存在しない機種での文書変換には実機での印刷後にOCR処理でPDFまたはテキストへ変換する必要がある。", "title": "ワープロ文書の変換と保存" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "次のような裏技もある。ワープロ専用機の全盛時代には、パソコン用ワープロソフト市場は、ジャストシステムの一太郎シリーズやマイクロソフトのワードが存在感をみせていた。このため、ワープロ専用機では、一太郎形式やワード形式には対応するものも多い。そこで、たとえば、書院形式からオアシス形式に変換する場合、書院で「書院形式」→「一太郎形式」でMS-DOSフロッピーディスクに文書を保存し、このFDを今度はオアシスで「一太郎形式」→「オアシス形式」に読み込めば、ある程度書式や罫線を維持したまま、異なるワープロ専用機の間で受け渡しをできた。", "title": "ワープロ文書の変換と保存" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "利用環境が限定されるが、FAXモデム搭載機であれば、 変換ソフトが無くてもISDNターミナルアダプタなど内線接続用アダプタを間に挟むことで、内線に接続されているFAXまたは複合機経由での印刷や PDF, jpeg, png などの汎用画像形式への変換(テキスト化にはOCR処理と修正作業が必要)、さらに複合機の機種によってはePub形式による電子書籍化、メールでの送信、スマートフォンでの閲覧やネットへの公開が可能である。内線であるため通話料は掛からない。", "title": "ワープロ文書の変換と保存" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "FAXを使用する方法は内蔵プリンタの故障・修理不能や消耗品の供給終了に怯えたり、故障の度に高額な修理費を用意する必要がなく、豊富に流通している入手性の良い中古複合機やFAX専用機を安価に活用できる。欠点として、はがきなど特殊用途の印刷は対応していない、解決策としては環境構築が煩雑であり、やや特殊な機材が必要になるため、レガシー技術についての知識と経験のある技術者の支援・指導が必要である。なお、ワープロ専用機側のFAXソフトウェアによっては内線の使用は不可能であるため、事前に説明書などで確認と検証が必要である。", "title": "ワープロ文書の変換と保存" } ]
ワードプロセッサまたは文書作成編集機(ぶんしょさくせいへんしゅうき)は、コンピュータで文章を入力、編集、印刷できるシステムである。一般的な略称は「ワープロ」。ワープロ機能専用コンピュータとして商品開発された「ワープロ専用機」と、汎用的なパーソナルコンピュータで動作する「ワープロソフト」がある。この記事では主に前者の「ワープロ専用機」を扱う。
{{redirectlist|ワープロ|コンピューターのソフトウェア|ワープロソフト|プロレス中継番組の「ワープロ」|ワールドプロレスリング}} {{出典の明記|date=2021年3月}} [[File:Toshiba Rupo JW05H - Front side.png|thumb|[[東芝]][[Rupo]] JW05H(1992年11月発売)]] [[File:Toshiba Rupo JW05H - Up side.png|thumb|東芝Rupo JW05Hの上面]] '''ワードプロセッサ'''({{lang-en-short|''Word processor''}})または'''文書作成編集機'''(ぶんしょさくせいへんしゅうき)は、[[コンピュータ]]で文章を入力、編集、印刷できるシステムである。一般的な略称は「'''ワープロ'''」。ワープロ機能専用コンピュータとして商品開発された「'''ワープロ専用機'''」と、汎用的な[[パーソナルコンピュータ]]で動作する「'''[[ワープロソフト]]'''」([[Microsoft Word]]、[[一太郎]]など)がある。この記事では主に前者の「ワープロ専用機」を扱う。 == ワープロ専用機の歴史 == [[ファイル:Hardwarewordprocessor.png|200px|サムネイル|代替文=英語用ワープロ専用機「Brother WP-1400D」|英語用ワープロ専用機「Brother WP-1400D」]] === 日本語処理の問題 === [[ファイル:200801191443 Japanische Tastatur.jpeg|thumb|かな漢字変換を用いない日本語入力用[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の一例。一つのキーが漢字12文字に対応しており、複数種類のシフト(多段シフト)で選択する。写植機などで採用されていた。]] 文章を入力し、活字で印字するシステムとして、[[ローマ字]]を用いる地域では[[タイプライター]]が利用されていたが、[[日本語]]ではアルファベットだけでなく[[仮名 (文字)|かな]]や[[漢字]]も使うため、欧文タイプライターのように個別のキーの押下が印字ヘッドの運動に変換される機構では文字数が大幅に不足していた。日本語用の[[和文タイプライター]]も存在したが、1000以上の文字が並んだ盤面から目的の文字をひとつずつ検索して拾い上げる必要があり、操作方法が煩雑で熟練技能を必要とした。このため小規模印刷にはタイプライターではなく[[ガリ版]]が多用された。 20世紀半ばにコンピュータが発明され、小型化・低価格化が進む過程で、文章の作成への応用が行われた。手書きやガリ版に対して字体が統一されており、タイプライターに比べても修正・推敲が容易であることが利点となる。ローマ字圏では使用される文字が英数字に若干の記号を加えた程度で処理が可能なため、比較的容易にワードプロセッサが作られた。世界初のワードプロセッサは、[[1964年]]([[昭和]]39年)の[[:en:IBM MT/ST|IBM MT/ST]]で、その後も[[ワング・ラボラトリーズ]]社などからいくつか英文ワープロ専用機が登場した。しかしローマ字圏ではタイプライターで間に合うことから高価なワープロ専用機の必要性が少ないため、タイプライターから直にパソコンのワープロソフトへ短期間で移行したことが多く、ワープロ専用機はそれほど普及しなかった。 一方日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。 さらに、インターネットが普及していない時代であったために紙印刷する必要があり、印刷機の歴史もこれに追随することとなる。 === 日本語ワープロ専用機の誕生 === [[1977年]](昭和52年)、[[シャープ]]が試作機を開発、5月の[[ビジネスシヨウ]]に出品した<ref>{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/|title=日本語ワードプロセッサ|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2017-07-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0036.html|publisher=IPSJコンピュータ博物館|title=【シャープ】 日本語ワープロの試作機|accessdate=2017-07-05}}</ref>。なお、後に商品化したモデル(WD-3000)ではかな漢字変換は実装されていなかった。 [[ファイル:TOSHIBA JW-10.JPG|thumb|世界初の日本語ワープロ、'''東芝 JW-10'''(1979年2月発売 [[東芝未来科学館]]所蔵)]] [[1978年]](昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサ[[JW-10]]を発表した<ref name="hara">{{Cite journal |和書|author =原忠正|title =日本人による日本人のためのワープロ|date =1997|publisher =電気学会|journal =電気学会誌|volume =117|issue =3|doi=10.1541/ieejjournal.117.175|pages =175-178|ref = }}</ref>。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった<ref>YOMIURI PC編集部『パソコンは日本語をどう変えたか - 日本語処理の技術史』講談社ブルーバックス、2008年、pp.91-92</ref>。この発明は電気・電子技術における歴史的な業績として、2008年に[[IEEEマイルストーン]]に認定された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toshiba.co.jp/about/press/2008_11/pr_j0401.htm|title=プレスリリース;当社の日本語ワードプロセッサが「IEEEマイルストーン」に認定|publisher=[[東芝]]|date=2008-11-04|accessdate=2017-07-05}}</ref>。 日本語版の実現には、かな文字を入力し、その読みから候補となる漢字を選択する、コンピュータによる[[かな漢字変換]]の仕組みが開発されたことがあった<ref group="注釈">[[かな漢字変換]]機構の開発の経緯は[[日本放送協会|NHK]]のテレビ番組『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』(2002.9.3 第95回)が取り上げている。また、2021年9月7日に[https://www4.nhk.or.jp/P6884/ プロジェクトX 挑戦者たち 4Kリストア版]として放映されている。プロジェクトXの中で、かな漢字変換は、当時の NHK も実用化は困難であるとして開発を断念していた旨が解説されている。</ref>。当初から構文解析を行い、文節単位、熟語単位の変換が可能となっており、同音語の学習機能も備えていた<ref>情報処理学会 歴史特別委員会『日本のコンピュータ史』ISBN 4274209334 p132</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0049.html|title=【東芝】 JW-10|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2017-07-05}}</ref>。かな漢字変換機構は、単に日本語ワードプロセッサ専用機の実用化だけではなく、汎用コンピュータに限らず電子手帳や携帯電話等の電子機器も含めた、広い意味でのコンピュータによる日本語利用を普及させるための核心となる技術であった。 [[1979年]](昭和54年)[[3月]]、沖電気が OKI WORD EDITOR-200 を発表。キーボード入力を採用し、漢字入力は1字ごとに変換する方式であった。音読みでかな入力すると同じ読みの漢字がリスト表示され、その中から入力したい文字を選択するかたちである<ref>情報処理学会 歴史特別委員会『日本のコンピュータ史』ISBN 4274209334 p133</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0035.html|title=【沖電気】 OKI WORD EDITOR-200|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2017-07-05}}</ref>。 同年[[9月]]、シャープが[[書院 (ワープロ)|書院]]WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0039.html|title=【シャープ】 WD-3000|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2017-07-05}}</ref>。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである<ref>[[山根一眞]]『「メタルカラー」の時代』ISBN 4-09-379421-9 pp. 343-349</ref>。 === 「ワープロ」の普及 === 翌[[1980年]](昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、[[1985年]](昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった<ref> {{Cite web|和書|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0005.html|title=【富士通】 OASYS 100G|publisher=IPSJコンピュータ博物館|accessdate=2017-07-05}}</ref>。なお[[古瀬幸広]]によれば「ワープロ」の略称が一般に普及したのは、1982年に関取の[[高見山大五郎|高見山]]を起用した富士通のワープロ「マイオアシス」のコマーシャルとしている<ref>古瀬幸広『考える道具 - ワープロの創造と挑戦』青葉出版、1990年、p.91</ref>。同年5月6日(NEC文豪NWP-11N発表の4日前)に富士通が発表したマイオアシスの価格は75万円であった{{Sfn |ASCII 1982年9月号 |p=119}}。 === パーソナルワープロブーム === 1985年(昭和60年)の[[ビジネスシヨウ]]で[[カシオ]]が59,800円のカシオワードHW-100を披露し衝撃を与え、それに対して[[キヤノン]]が49,800円のPW-10Eを出して追随するなどワープロは一気に低価格化し、マスコミには「[[電卓]]戦争の再現」として取り上げられるようになった。[[ソニー]]、[[セイコーエプソン]]などの企業も参入し、パーソナルワープロブームとなった<ref>古瀬幸広『考える道具 - ワープロの創造と挑戦』青葉出版、1990年、p.131</ref>。 [[1980年代]]後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業や個人への導入が始まった<ref>情報処理学会 歴史特別委員会『日本のコンピュータ史』ISBN 4274209334 p135-136</ref>。 [[ファイル:TOSHIBA_JW-P22.jpg|thumb|東芝Rupo JW-P22(K)(1986年3月発売)と、別売のマイクロフロッピーディスクユニット JW-F201]] この頃の個人向けパーソナルワープロは、本体にキーボードに一体化されたプリンタと数行程度の液晶表示パネルを備える専用機であり、文章の作成、[[校正]]、[[編集]]、[[印刷]]などの機能を持つだけであった。機械の性能が向上するに連れて、液晶表示パネルの表示行数が増加し文書全体のレイアウトを把握しやすくなり、また印字機能の発達により[[明朝体]]のみだった印刷[[フォント]]も[[ゴシック体]]や[[毛筆体]]など種類が増え、[[写植]]に匹敵するような高精細な印字が可能となった。さらには図形の描画・[[絵文字]]・はがき印刷(表面・裏面)や、カード型[[データベース]]・[[住所録]]・[[表計算ソフト|表計算]]・[[パソコン通信]]などの付加機能も搭載されているものが増え、テキストの処理に関しては当時の[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)と同等以上の高機能となった。 また、1980年代にはこれら個人向け製品の流れとは別に、ビジネス用途としてワークステーションに漢字処理機能が搭載されパーソナルワープロ同様の機能に加え様々な[[組版]]機能が盛り込まれた物が登場する。これらの多くは企業内での文書作成の写植システムとして活用され、パーソナルワープロとは別の道を歩むこととなった。 その一方でパーソナルコンピュータには漢字ROMが搭載され、[[BASIC]](当時は[[オペレーティングシステム]] (OS) も兼ねていた)でも漢字を使用することができるようになり、安価なワープロソフトやプリンタが登場するに至った。この後、パソコンの代表機種である[[PC/AT互換機]]で漢字ROM無しに漢字処理ができるようになり、パソコンの普及は加速するに至る。 === ワープロ専用機の生産終了 === [[1990年代]]に入ると画面が白黒からカラー液晶へと進化を見せる部分があるものの、パソコンやワープロソフトの低価格化、安価なパソコン用高性能[[プリンター]]の登場などによりシェアを奪われ、普及し始めたインターネットへのアクセスも悪かったため、その売れ行きは落ちた。出荷台数は[[1989年]]([[平成]]元年)、出荷金額は[[1991年]](平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も[[1998年]](平成10年)をピークに急低下、[[1999年]](平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。 [[2000年]](平成12年)[[2月]]にシャープが「[[書院 (ワープロ)|書院]]」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、[[2003年]](平成15年)[[9月]]末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。 ワープロ専用機で作られた多くの文書資産をどうパソコンに移行させるかは、多くの企業にとって悩みの種だった。とりわけ専用機は罫線や振り仮名などで各社独自の工夫でデータ処理していた。パソコン側のソフトウェアでも変換機能を搭載したものもあるが、罫線や各社の絵文字、記号などは変換することはできず、また同じメーカーでも機能の多様化で処理方法が変化したりしており、本文のテキスト化がせいぜいといった程度であった。このため、各社ともにワープロの終焉とともにパソコンでの再現性を高め、データを移行させるためのソフトウェアの開発が求められた。それは必ずしも完全な復元を約束したものではなかったが、それなりに再現でき、一定の役割を果たした。 「Power書院」<ref>[http://www.sharp.co.jp/products/ces50sy/ 日本語ワープロソフト Power書院 プラチナパック CE-S50SY]</ref><ref>「[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20011113/sharp.htm シャープ、年賀状ソフトが付属した「Power書院 プラチナパック」]」『PC Watch』 インプレス、2001年11月13日</ref>・「Rupo Writer」<ref>「プレスリリース [http://www.toshiba.co.jp/about/press/1996_09/pr_j2501.htm パーソナルワープロ「Rupo」の機能をWindows®95上で実現したワープロソフト「Rupo Writer Ver.2.0(For Windows®95)」の発売について]」『東芝』 東芝、1996年9月25日</ref>・「キヤノワードJ for Windows」<ref>「[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961216/canon.htm キヤノン、ワープロ専用機と互換性をもつWindows 95用のワープロソフトを発売]」『PC Watch』 インプレス、1996年12月16日</ref>、また[[インプット メソッド エディタ|IME]]として「Rupo ACE」<ref>「プレスリリース [https://www.toshiba.co.jp/about/press/1997_09/pr_j0802.htm パーソナルワープロ「Rupo」のかな漢字変換ソフトをパソコン用ソフトとして発売]」『東芝』 東芝、1997年9月8日</ref>が発売されていたが、いずれも販売を終了している。2018年時点でも未だ「OASYS V10」<ref>[https://www.fujitsu.com/jp/products/software/applications/applications/oasys/ 日本語ワードプロセッサ FUJITSU Software OASYS - 富士通]</ref>のみ開発・販売が続けられていたが、2020年9月30日を以て個人向けの販売が終了し、法人向けもそれに続く。サポートは2023年まで継続される。リコーでは2009年にワープロ専用機のシステムFDコピーおよび文書コンバートサービスが、さらに 2017年にはお問い合わせ窓口の対応が終了した。 === 生産終了後の諸問題 === {{独自研究|date=2022年3月|section=1}} ワープロ専用機を支持する熱心なユーザーも多く、中古機市場での相場が上昇したこともある。21世紀に入ってからもオークションなどでは連日のように状態を問わず取引されている。その反面、ワープロ専用機の利用者は積極的にインターネットでの情報交換を行わない傾向が強い。レトロゲームや万年筆のような骨董品的価値を見出す動きもそれほど無いため、既に動態状態かつ付属品が全て揃っている資料的価値の高いのものが絶滅してしまったと思われる機種も出始めている。 ワープロ専用機のユーザーが根強くいる理由には、1960年代中期までに生まれた世代には慣れ親しんだワープロ専用機への愛着が強いこと、小説家、翻訳家など文筆業などで連続稼働をしてもクラッシュを起こさない作業環境の高い安定性と快適さ<ref group="注釈">初期のパソコンは起動が遅くクラッシュも多く、冷却用のファンなどの騒音や排熱も大きかった。</ref>、キーボードの品質の高さ、ネットワーク経由での情報漏洩を懸念している現場、昭和~バブル家電の収集愛好家からの支持などである。 さらに、ワープロ専用機は必要な機能が本体ハードウエアに一体化されており電源を入れるだけですぐ使えること、パソコンのような色々な操作やパッチ(フィックス)適用などがほぼ不要なことが挙げられる(逆に言えば7桁郵便番号への対応などが殆どの機種で行えない)。 インクリボンや印字用紙の生産終了(TYPE-W型のインクリボン採用機など)、押入れや屋根裏部屋、ロフト、床下収納、車庫、物置など高温多湿下の劣悪な保管環境による液晶パネルの画面焼け(ビネガーシンドローム、システムディスクの破損)、システムディスク原本の破損や紛失(劣化やカビ、著作権法の制約による修理不能問題)、乾電池を抜かずに保管した結果として電池の液漏れによるメイン基板の破損、メーカーからの一部修理業者に対する訴訟リスクによる廃業<ref group="注釈">システムディスク、マニュアルのコピー品を修理品に添付して無許可販売の一部横行。</ref>、ベルトドライブ方式のフロッピーディスクドライブの補修部品供給終了、フロッピーディスク媒体の入手性低下<ref group="注釈">ワープロ専用機ではフロッピーディスクエミュレータ HxC への換装事例はない。</ref>、用紙送りノブの破損、プリンタのローラのゴムの劣化、修理費の高騰などにより年々維持が難しくなりつつあるのが実状である<ref group="注釈">国内に液晶パネルの修理およびフロッピーディスクドライブを専門に修理する業者、さらにメイン基板やカスタムLSIの解析を行い互換品の製造を行うことができる業者はあるが、いずれも企業が対象であり個人は対象としていない場合がほとんどである。</ref>。 ワープロの製造・修理サポートが終了以後は、修理専門の業者が既存で残った製品の部品から使えるものを選び出し、壊れた製品のそれと交換するかたち(いわゆる[[ニコイチ]]修理)でしのいでいる<ref>2010年8月20日放送の[[ニュースウオッチ9]] ([[日本放送協会|NHK]])</ref>。 なお、大昔のワープロでインターネットサイトを閲覧しようとしてもその後登場した技術・規格に対応していないため、しっかり表示できるのはインターネット黎明期に誕生したサイトやテキストサイト程度である。2018年、[[ねとらぼ]]が1997年のワープロでインターネットに接続したところ、Googleの通常検索と画像検索は使えるが地図検索は使用不能、ニュースサイトは閲覧できるがレイアウトが大きくずれる、さらに[[ニコニコ動画]]などの動画サイトは動画ウィンドウが表示されないなど、実用に堪えず、「まともなブラウジングはできません」「無間地獄」と評している<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1801/27/news005_3.html 21年前のワープロ「書院」で2018年にインターネットをしたら、無間地獄に突入した (3/3)] ねとらぼ 2018年01月27日 12時00分 公開 (アイティメディア、2018年2月8日閲覧)</ref>。なお当時の一般的なワープロでは、CPUが現代のものと比べると圧倒的に低性能であるため、液晶ディスプレイはモノクロ16階調で、[[画面解像度]]はVGA(640×480)以下、処理速度の問題からの動画再生には対応できず、インターネット閲覧機能を持っている機種も一部の高級機に限られていた。 === その後のワープロ === 21世紀に入ってからも、書いた文書をその場ですぐサーマルプリンターで印刷して利用できる、場所を選ばずに印刷して相手に手渡したり推敲ができる、ラベルシールプリンターとして手軽に使用できるなどの部分があるため、2000年代後半から[[スマートフォン]]・[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]の技術を応用して作られた、年賀状印刷に特化した液晶・キーボード付きのフォトプリンタ([[カシオ計算機|CASIO]] プリン写ル・[[セイコーエプソン|EPSON]] 年賀状 宛名達人等)や、プレーンテキストの入力に特化した[[ポメラ]]など、ワープロのコンセプトを取り入れた製品が発売された。 == ワープロ専用機の特徴 == [[File:Japanese word processor printing image 2022-11-29.svg|thumb|[[ビットマップフォント]]のギザギザを斜めに自動補完する、ワープロ専用機に特徴的な印刷イメージ]] 1980年代、デジタル文房具として急速な普及を見せたワープロは、従来の手書き、あるいは和文タイプによる文書作成にはない特長を備えていた。また、パーソナルコンピュータの普及が始まっていた時代であったが、専用機としての利点によって一定の商品性があった。以下にそれらをあげる。 * いわゆる[[オールインワン]]製品であること。特に出力(印刷)に関して、パソコン用プリンタで漢字を扱うには当時は色々と難しさがありコスト高であったが、ワープロからの出力に特化したスペックを持つ内蔵プリンタを持っていることは高い利点であった。 * 専用機は電源を投入して即文章を書き始められるものが多い。(ある程度の起動待ち時間が必要な物、メニューでワープロ機能を選ぶものもある)。 * [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]入力に熟達すればかなり高速かつ少ない労力で文書作成が可能。 * 五十音入力キーボード機の提供。 * カナから漢字に変換することが出来るため、難しい漢字を辞書に頼ることなく使用できる。 * 文字、行、段落の挿入、削除、複写、移動が容易に出来る。また、行や段落に依存せず、指定した範囲(表計算ソフトの範囲指定にあたる機能を文字単位で実行)の操作も可能。 * 文章を[[フロッピーディスク]]などの記憶媒体に保存し、再編集が可能。 * [[サーマルプリンター|熱溶融型の熱転写プリンタ]]<ref group="注釈">日立「with me」シリーズは、ワープロ専用機としては珍しくプリンタが分離された機種が主流だった。また、キヤノン「キヤノワード」は熱転写プリンタではなくインクジェット(バブルジェット)プリンタを内蔵していた機種があり、日立にもプリンタ部分のみOEM供給されて「with me」シリーズの一員として発売されていた。さらに、日立ではパソコン用のインクジェットプリンターを接続して使用する機種も発売していた。</ref>を内蔵し、誰にでも読みやすい活字書体(明朝体のビットマップフォント)での出力が可能。(手書きと比較して) * 仮名遣いの間違いや漢字の誤字を減らせる。 * 任意の単語を変換辞書に登録できる。 * デフォルトでは使用できない文字・記号を作字でき、またそれを外字として登録できる。 * 長文の中から任意の文字列を検索・置換できる。 * フォント指定や飾り、文字の大きさなどの修飾・強調が可能(ただし、80年代初期の機種にはほとんど搭載されていなかった機能ではある)。 * 簡易な図形の描画ができる。 * 単色のインクリボン(黒・赤・青・白・金・銀など)を複数使用した、多色刷りのカラー印刷ができる。 * [[OHPシート]]・官製[[はがき]]などの特殊紙に印刷できる。 これらのほか、さらに次のような機能をもつ機種もあった。 * はがきの宛名書きなどを住所録を利用して半自動化できる。 * 表を容易に作成でき、その表からグラフも作成できる。 * 目次の自動作成・[[アウトラインプロセッサ|アウトライン編集]]が可能。 * [[外字]]として登録された[[絵文字]]を、挿絵の代用として使用できる。 * データベース・家計簿・ゲーム([[テトリス]]・[[倉庫番]]等)・[[プログラミング言語]]の搭載。 * アウトラインフォントの搭載。 * 複数の書体([[ゴシック体]]・[[丸ゴシック体]]・[[江戸文字|勘亭流]]・[[行書体]]など)の搭載。 * [[親指シフト]]・[[新JIS配列]]・M式など、特殊な配列のキーボード。 * スキャナー・タッチパネル・[[スタイラス|タッチペン]]・マウス。 * 内蔵[[モデム]]を使用した[[パソコン通信]]の利用・FAXの送信。 * イーサネット経由(NetWare)による文章やプリンタの共有。 * 作成文書のスペルチェック・自動校正。 * [[MS-DOS]]形式の[[プレーンテキスト]]の読み書き、[[一太郎]]形式の[[テキストファイル]]の書き出し。 * 別売りのシートフィーダを接続することで、ロール紙・[[連続帳票]]に印刷したり、印刷用紙を大量に供給できる。 * ACアダプタを本体に内蔵。 以上のような特長は今となってはワープロ独自の機能とはいえないが、その多くはワープロ専用機で培われた機能であり、パソコンでの文書作成が主流となった現在でも、日本語文書の編集にまつわる多くの機能は、ワープロ専用機をベースにしたものとなっている。 == ワープロ専用機の主な機種 == * [[OASYS]]([[富士通]]) * [[書院 (ワープロ)|書院]]、SERIE、アイプリメーラ([[シャープ]]) * [[文豪]] ([[日本電気|NEC]]) * TOSWORD、[[Rupo]] ([[東芝]]) * ワードボーイ、キヤノワード([[キヤノン|Canon]]) * パナワード、U1シリーズ、[[スララ]]([[パナソニック]]) * カシオワード、ダーウィン、ポストワード、クレモナ([[カシオ計算機]]) * サンワード、ワープロ博士([[三洋電機]]) * ワードパル、mine、With Me([[日立製作所]]) * 文作 ([[日本デジタル研究所|JDL]]) * ヒットビットワード、プロデュース、シリーズ35([[ソニー]]) * ピコワード([[ブラザー工業]]) * ワードバンク([[セイコーエプソン]]) * ワープロエース([[ミノルタ]]) * マイリポート、リポート([[リコー]]) * レターメイト([[沖電気]]) * レタコン([[ぺんてる]]) * ワーディックス([[横河電機]]) * [[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]] Dear シリーズ<ref group="注釈">SHARP 書院 WD-A30 の OEM の子供向けワープロ専用機である。機種としては Dear ([[ちびまる子ちゃん]]), Dear.2 ([[みんなのたあ坊|たあ坊]]), TV Dear, TV Dear 少女マンガコレクションがある。</ref> * [[コーエー|KOEI]] ワープロセット<ref group="注釈">ゲーム機用ワープロとしては唯一でありゲーム機をワープロ専用機として使えるBJプリンター同梱のセット商品。[[EGWORD]]ベースであり PlayStation, SATURN 用がある。</ref> == ワープロ文書の変換と保存 == ワープロソフト、ワープロ専用機で作成した文書はファイルとして保存する。ワープロ専用機はファイルを2DD、2HDなどの[[フロッピーディスク]]、オーディオカセットテープ(初期のパーソナル機のみ)、ハードディスク(一部機種)、S-RAMカードに保存するが、各社のワープロ専用機のフロッピーディスクの文書フォーマットも統一されていない状態で普及した。唯一、[[日本電気|NEC]]のみはフロッピーディスクのフォーマットを、パソコンの[[PC-9800シリーズ]]([[MS-DOS]]使用時)と共通化していた。 さらに文書ファイルの内部はワープロソフトによってそれぞれ独自の形式になっている。このようなことからワープロソフト間、ワープロ専用機とパソコンのワープロ間でファイルを交換するには専用の文書ファイル・コンバータが必要である。そのために、「[[リッチテキスト・コンバータ]]」などのソフトも発売されていた<ref group="注釈">OASYS の場合は OASYS Viewer で変換可能。</ref>。また、OASYS LX-9000 など後期の機種には文章コンバータが標準搭載されているため、そちらを利用することで各社形式から一太郎形式などへ変換することも可能である。ただし、カセットテープで記録されたものに関しては当時の実機材と専用オプションが必要になる。また、リコー・マイリポート JPシリーズでは変換用のソフトが存在せず、メーカー公式のデータ変換サービスも終了しているため新たに中古で入手する場合は注意が必要である。変換方法の存在しない機種での文書変換には実機での印刷後に[[光学文字認識|OCR]]処理で[[PDF]]またはテキストへ変換する必要がある。 次のような裏技もある。ワープロ専用機の全盛時代には、パソコン用ワープロソフト市場は、[[ジャストシステム]]の[[一太郎]]シリーズや[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Word|ワード]]が存在感をみせていた。このため、ワープロ専用機では、一太郎形式やワード形式には対応するものも多い。そこで、たとえば、書院形式からオアシス形式に変換する場合、書院で「書院形式」→「一太郎形式」でMS-DOSフロッピーディスクに文書を保存し、このFDを今度はオアシスで「一太郎形式」→「オアシス形式」に読み込めば、ある程度書式や罫線を維持したまま、異なるワープロ専用機の間で受け渡しをできた。 利用環境が限定されるが、FAXモデム搭載機<ref group="注釈">機種によってはFAXモデムカード、アダプタやFAXソフトウェアはオプションである。なお現在では、ほとんどの機種でこれらオプション品の入手は困難となっている。</ref>であれば、 変換ソフトが無くてもISDNターミナルアダプタなど内線接続用アダプタ<ref group="注釈">販売終了品ではインターコネクト社製PC・FAXアダプター。個人による自作例もある。</ref>を間に挟むことで、内線に接続されているFAXまたは複合機経由での印刷や PDF, jpeg, png などの汎用画像形式への変換(テキスト化にはOCR処理と修正作業が必要)、さらに複合機の機種によっては[[EPUB|ePub]]形式による電子書籍化、メールでの送信、スマートフォンでの閲覧やネットへの公開が可能である。内線であるため通話料は掛からない。 FAXを使用する方法は内蔵プリンタの故障・修理不能や消耗品の供給終了に怯えたり、故障の度に高額な修理費を用意する必要がなく、豊富に流通している入手性の良い中古複合機やFAX専用機を安価に活用できる<ref group="注釈">それだけではなくプリンターの故障したジャンク品のFAXモデム内蔵ワープロ専用機も本来の機能を文書の印刷ができる程度まで擬似的に復活させることができる。</ref>。欠点として、はがきなど特殊用途の印刷は対応していない<ref group="注釈">ワープロ専用機をはがき印刷のみに使用しているのであれば、はがき印刷専用機やネットブリントサービスへ移行したほうが維持や保守の面で経済的ではある。</ref>、解決策としては環境構築が煩雑であり、やや特殊な機材が必要になるため、レガシー技術についての知識と経験のある技術者の支援・指導が必要である。なお、ワープロ専用機側のFAXソフトウェアによっては内線の使用は不可能であるため、事前に説明書などで確認と検証が必要である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[古瀬幸広]]『考える道具 - ワープロの創造と挑戦』青葉出版、1990年 * YOMIURI PC編集部『パソコンは日本語をどう変えたか - 日本語処理の技術史』講談社ブルーバックス、2008年 *{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1982年9月号 |volume=6 |issue=9 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-9-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1982年9月号}} }} == 関連文献 == * [[荻野綱男]]・[[紀田順一郎]]・古瀬幸広・[[三田誠広]]『ワープロ考現学』日本ソフトバンク、1987年 * [[森健一 (エンジニア)|森健一]]『ワープロが日本語を覚えた日』三田出版会、1990年 * 古瀬幸広『ワープロここが不思議 - ちょっと知的なワープロ学』講談社ブルーバックス、1994年 * [[仲俣暁生]]編『いまの生活「電子社会誕生」』晶文社、1998年 == 関連項目 == {{Commonscat|Word processors}} * [[ワープロソフト]] * [[印刷]] * [[DTP]] * [[情報機器]] * [[日本語ワープロ検定]] * [[ラベルプリンター]] * [[ポメラ]] == 外部リンク == * [http://museum.ipsj.or.jp/computer/word/index.html 日本語ワードプロセッサ-コンピュータ博物館] - 情報処理学会 * {{Kotobank|ワードプロセッサー}} {{Computer sizes}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:わとふろせつさ}} [[Category:ワードプロセッサ|*]] [[Category:情報機器]] [[Category:コンピュータの形態]] [[Category:コンピュータの利用]] [[Category:家電機器]] [[Category:情報技術史]] [[Category:歴史上の機器]]
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レイトレーシング
レイトレーシング(英: ray tracing, 光線追跡法)は、光線などを追跡することで、ある点において観測される像などをシミュレートする手法である。レイ・トレーシングと表記されることもある。物理学の分野では、波または粒子の経路の計算に用いられる。コンピュータグラフィックスの分野では、物理的に正確な反射・屈折・影・間接照明を描画することによってライティングを写実的にシミュレートする技術のことである。 レイトレーシングには大別して順レイトレーシング(forward ray tracing)と逆レイトレーシング(backward ray tracing)がある。順レイトレーシングは光源から物体へと光の粒子(光子、フォトン)を追跡する方法で、フォトントレーシングとも呼ばれる。しかしこの手法は、最終結果に影響を与えない光線も計算するため、計算過程で膨大な無駄が発生しうる。そのため、特にコンピュータグラフィックスの分野では視点から光源への経路を逆にたどることで効率化を図った、逆レイトレーシングが使われる。逆レイトレーシングは視線追跡法と呼ばれることもある。 光線の他、直線的に伝わる(回折などの影響が少ない)ものであれば任意の波に適用できる手法であり、たとえば光以外の波長の短い電磁波(電波)や音波など(地震波や超音波など)が挙げられる。「波線追跡法」「音線追跡法」などといった語もある。 ある点(ある人の視点・耳・電波観測装置など)に届く光線・波線(電波の仮想的な線)・音線(音波の仮想的な線)などを逆にたどることによって、その点における視像(画像)・音像などを描画する。たとえば光線であれば、物体の表面の反射率、また透明度・屈折率等々を細かく反映させた像を得られるのが特徴であり、1画素ずつ光線の経路を計算するので、光源形状に応じた光沢の反映や金属表面への周囲環境の映り込み、ガラスや水の透過屈折現象など、写実的に描画することができるという特長がある。しかしその反面、一般的に大量の光線の追跡により計算量は非常に多くなる。 この手法では反射や屈折は忠実に再現できるが、回折は近似やモデリングを必要とする。対象が異なっても伝播経路を追跡する基本的な原則は共通であるが、計算手順はそれぞれで異なる。 レイトレーシングの基本は、レイ (英: ray) すなわち光線を扱うものであり、光の光学的振る舞いをシミュレートする。これは3次元コンピュータグラフィックス (3DCG) を描画するレンダリング技法のひとつとして応用されている。 光は反射鏡やレンズに対して反射・屈折をするが、その様子を幾何光学的に追いかけて、光がどのような振る舞いをするのかについて知ることができる。通常、反射は正反射を用い、屈折はスネルの法則に従って計算する。またレンズなどの複数の光学素子を組み合わせた場合、光線を追う計算は複雑で面倒なものになってしまうが、1930年代にThomas Smithにより行列を用いて容易に計算する方法が見出された。 レンズや反射鏡を用いる光学機器の開発に用いられ、物体の像をつくるときに発生する収差を推定することに用いられる。 コンピュータの出現以前は、手計算を用いていたため膨大な時間がかかったが、コンピュータによって高速かつ大量の計算が可能になった。コンピュータの進歩に伴い、3次元コンピュータグラフィックスで光の当たり方や物体の見え方のシミュレーションにも用いられるようになっている。この場合、乱反射や散乱といった現象も含めて計算される。 この手法は、カメラや観察者に相当する受信点を中心に画角となる2次元方向内の微小な角度ごとのそれぞれの方向から受け取るはずの光線(レイ)について、算術演算処理をそれぞれ行うことで仮想的に逆方向に追跡し、その方向に何が見えるかを判定する。透明な物体では境界面ごとに複数の屈折光と反射光に分かれるが、それぞれの伝播経路を計算する。わずかな吸収を除けばほとんどが反射光となる鏡面反射では演算量があまり増えないが、透明や鏡面でない物体の表面は周囲のあらゆる方向へ光を乱反射しているため、それらをすべて演算しようとすれば演算量が指数関数的に増えてしまい有限時間内には処理できなくなる。こういった拡散反射は乱数によってランダムに選ばれた方向のみに限定することで演算量を現実的な処理量に抑えた「モンテカルロ・レイトレーシング」(Monte Carlo Ray Tracing) によってシミュレートされる。モンテカルロ・レイトレーシングの内でも「分散レイトレーシング」と呼ばれる手法では、ある程度のリアルさをシミュレートするために拡散反射する表面ごとに逆追跡が必要な経路が多数生じるため、複数の表面同士で反射する光まで再現しようとしてやはり演算処理量が爆発的に増加してしまう。拡散反射する表面での逆追跡が必要な経路をランダムに1つだけ生む手法は「パス・レイトレーシング」と呼ばれる。 レイトレーシングに似た手法、または最も広義のレイトレーシング手法の1つとも考えられるものに「フォトン・マッピング」がある。レイトレーシングが観察者やカメラ側から光線の経路を逆追跡するのに対して、フォトン・マッピングでは光源側から光線の経路を再現する。 なお、熱力学的なアプローチによって、光源が放射する光のエネルギーを解析し、物体表面の拡散反射をシミュレートする手法としてラジオシティがある。ラジオシティ法はグローバル・イルミネーションを実現する手法のひとつであり、(古典的な)レイトレーシング法が苦手とする、相互反射による柔らかな間接照明をレンダリングすることができるが、レイトレーシングよりもさらに膨大な計算が必要となる。 3DCGにおけるレイトレーシングは1979年にレンダリング手法のひとつとして考案された。この最初に考案された狭義のレイトレーシング手法は、単純な形状の透明な物体や鏡面を再現するには効果的であったが、ざらついた質感を持つ物体の表面を表現したり複雑な形状を再現するには当時のコンピュータの処理能力の制約もあって適していなかった。その後、表現力を広げるための新たな手法が「モンテカルロ・レイトレーシング」「分散レイトレーシング」「パス・レイトレーシング」として考案され、こういった広義でのレイトレーシング手法は、21世紀初頭現在、間接光を再現する大域照明技術の代表的なものとなっている。 20世紀末から2000年代最初の数年間までは、映画のような動画を作るにも1フレーム当たり数分や十時間ほどもその当時の最新のコンピュータで演算する必要があり、2009年現在では、大規模な高精細度の動画生成が求められる映画産業や工業デザイン産業ではレンダー・ファームと呼ばれる100-1,000台規模のクラスタ・サーバーを構築することで対応している。広義でのレイトレーシング手法だけを用いて動画を生成しようとすると、高精細で複雑な照明効果をリアルに再現した画像を短時間に生み出すにはさらに巨大なコンピュータ群を必要とする。そのため、実際の一般的なコンピュータ・グラフィックス映像では、間接光などの再現はレイトレーシングだけに頼らず、影の再現は「シャドウ・マッピング」や「アンビエント・オクルージョン」や「ライトマップ」などを使ったり、光沢面への周囲の写り込みは「環境マッピング」などを使ったり、場合によっては人が描いた2次元画像を物体表面の模様としてテクスチャマッピングしたり、オーサリングツール上で重ね合わせたりするなど、複合的・疑似的あるいは人手を介した多様な手法によって製作されている。 2009年現在、マルチコア化したプロセッサ(マルチコア・マルチソケットCPUやGPU)に代表される高性能な並列処理能力が得られるようになりつつあり、映画や工業デザイン分野では人手を介した作業が廃されてすべてをレイトレーシングベースの処理に集約することや、また映画や工業デザインのみで作られていたリアルな画像が、今後は個人所有のPC上でもゲームのような用途で短時間で製作できるようになる可能性がある。 レイトレーシングによる物理学的に正確で現実に即した光のシミュレーションには膨大な計算が必要となるため、長らく技術デモやプロダクションレンダリング(映画やCMなど)でのみ使用されてきた。特に実時間(リアルタイム)での描画が必要なシミュレーションやコンピュータゲームでは、時間的・資源的な制約から、光源と可視ポリゴン(あるいは3次元空間のポリゴンを2次元空間にラスタライズした後のピクセル)との1対1の位置関係のみを考慮したベクトル計算と塗りつぶしだけで簡易的かつ高速に描画できるラスタライズ法が採用されることが普通であったが、ハードウェアの高性能化に伴いリアルタイムレンダリングでもレイトレーシングおよびグローバルイルミネーションを活用する道が開けつつある。 2020年現在、GPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現しているAPI(ライブラリ、レンダリングエンジン)としては、NVIDIA OptiX(英語版) 、イマジネーションテクノロジーズ(英語版)のOpenRL(英語版) 、DirectX Raytracing(英語版) (DXR)、Vulkan Ray Tracing、そしてMetal Ray Tracingが挙げられる。GPUによるリアルタイムレイトレーシングは、GPUがプログラマブルシェーダーに対応し、さらに汎用計算 (GPGPU) に対応するよう進化してきたおかげで可能となった。NVIDIA OptiXはAdobe After Effects CCやBlenderのCyclesエンジンなどに採用されている。Vulkanにおけるレイトレーシングは当初NVIDIAの拡張として実装されていたが、その後Khronosによって標準拡張として採用されており、DXRとよく似た設計になっている。2018年にリリースされたNVIDIA GeForce RTX 20シリーズは、リアルタイムレイトレーシングのハードウェアアクセラレーションに対応したRTコアを初めて搭載したGPUである。ハイエンドのAAAゲームタイトルではすでにDXRの活用が始まっている。2020年後半にリリースされたRDNA 2ベースのAMD Radeon RX 6000シリーズや、2022年登場のIntel Arcもリアルタイムレイトレーシングに対応している。 また、CPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現しているソフトウェアとしてはKeyShot が挙げられる。 広義のレイトレーシングは、実写では再現不可能な映画の特殊効果や、工業用・建築用のデザインで採用されている。ゲーム業界でも部分的に使用されている。 電波のレイトレーシングでは発信点からの電波を仮想的に追跡し、受信点における伝播特性、特に電界密度を得る。多くの場合、これを格子状に、通常は一定の高度の水平面上に配置された受信点に対し繰り返し行い、電界密度マップを得る。このマップは、無線設備の配置の決定などに使われる。 与えられた発信点から与えられた受信点までの波線は一意に定まらないため、次の解法がある。 地震波や超音波での通常のレイトレーシングでは、反射・屈折などの条件から、受信点での受信波を計算するが、この場合は、実際に測定された受信波から反射・屈折などの条件(特に波速分布)を逆算し、トモグラフィー(断層画像)を得る。
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レイトレーシングは、光線などを追跡することで、ある点において観測される像などをシミュレートする手法である。レイ・トレーシングと表記されることもある。物理学の分野では、波または粒子の経路の計算に用いられる。コンピュータグラフィックスの分野では、物理的に正確な反射・屈折・影・間接照明を描画することによってライティングを写実的にシミュレートする技術のことである。 レイトレーシングには大別して順レイトレーシングと逆レイトレーシングがある。順レイトレーシングは光源から物体へと光の粒子(光子、フォトン)を追跡する方法で、フォトントレーシングとも呼ばれる。しかしこの手法は、最終結果に影響を与えない光線も計算するため、計算過程で膨大な無駄が発生しうる。そのため、特にコンピュータグラフィックスの分野では視点から光源への経路を逆にたどることで効率化を図った、逆レイトレーシングが使われる。逆レイトレーシングは視線追跡法と呼ばれることもある。 光線の他、直線的に伝わる(回折などの影響が少ない)ものであれば任意の波に適用できる手法であり、たとえば光以外の波長の短い電磁波(電波)や音波など(地震波や超音波など)が挙げられる。「波線追跡法」「音線追跡法」などといった語もある。 ある点(ある人の視点・耳・電波観測装置など)に届く光線・波線(電波の仮想的な線)・音線(音波の仮想的な線)などを逆にたどることによって、その点における視像(画像)・音像などを描画する。たとえば光線であれば、物体の表面の反射率、また透明度・屈折率等々を細かく反映させた像を得られるのが特徴であり、1画素ずつ光線の経路を計算するので、光源形状に応じた光沢の反映や金属表面への周囲環境の映り込み、ガラスや水の透過屈折現象など、写実的に描画することができるという特長がある。しかしその反面、一般的に大量の光線の追跡により計算量は非常に多くなる。 この手法では反射や屈折は忠実に再現できるが、回折は近似やモデリングを必要とする。対象が異なっても伝播経路を追跡する基本的な原則は共通であるが、計算手順はそれぞれで異なる。
{{出典の明記|date=2020-09}} '''レイトレーシング'''({{lang-en-short|ray tracing}}, 光線追跡法)は、光線などを追跡することで、ある点において観測される像などを[[シミュレート]]する手法である。'''レイ・トレーシング'''と表記されることもある。物理学の分野では、波または粒子の経路の計算に用いられる。[[コンピュータグラフィックス]]の分野では、物理的に正確な反射・屈折・影・間接照明を描画することによってライティングを写実的にシミュレートする技術のことである<ref>[https://developer.nvidia.com/discover/ray-tracing Ray Tracing | NVIDIA Developer]</ref>。 レイトレーシングには大別して順レイトレーシング({{lang|en|forward ray tracing}})と逆レイトレーシング({{lang|en|backward ray tracing}})がある<ref>[https://cs.stanford.edu/people/eroberts/courses/soco/projects/1997-98/ray-tracing/types.html Types of Ray Tracing | Stanford University | Computer Science]</ref>。順レイトレーシングは光源から物体へと光の粒子([[光子]]、フォトン)を追跡する方法で、フォトントレーシングとも呼ばれる。しかしこの手法は、最終結果に影響を与えない光線も計算するため、計算過程で膨大な無駄が発生しうる。そのため、特にコンピュータグラフィックスの分野では視点から光源への経路を逆にたどることで効率化を図った、逆レイトレーシングが使われる。逆レイトレーシングは視線追跡法と呼ばれることもある<ref>[https://knzw.tech/raytracing/?page_id=50 Chapter1. レイトレーシング法とは何か | The Textbook of RayTracing @TDU]</ref>。 [[光|光線]]の他、直線的に伝わる(回折などの影響が少ない)ものであれば任意の[[波動|波]]に適用できる手法であり、たとえば光以外の波長の短い電磁波([[電波]])や音波など([[地震波]]や[[超音波]]など)が挙げられる。「波線追跡法」「音線追跡法」などといった語もある。 ある点(ある人の視点・耳・電波観測装置など)に届く光線・波線(電波の仮想的な線)・音線(音波の仮想的な線)などを逆にたどることによって、その点における視像(画像)・音像などを描画する。たとえば光線であれば、物体の表面の反射率、また透明度・屈折率等々を細かく反映させた像を得られるのが特徴であり、1画素ずつ光線の経路を計算するので、光源形状に応じた光沢の反映や金属表面への周囲環境の映り込み、ガラスや水の透過屈折現象など、写実的に描画することができるという特長がある。しかしその反面、一般的に大量の光線の追跡により計算量は非常に多くなる。 この手法では[[反射 (物理学)|反射]]や[[屈折]]は忠実に再現できるが、[[回折]]は[[近似]]や[[モデリング]]を必要とする。対象が異なっても伝播経路を追跡する基本的な原則は共通であるが、計算手順はそれぞれで異なる。 == 光線 == [[Image:Raytraced image jawray.jpg|right|thumb|250px|レイトレーシングで描画された球 (1)]] [[ファイル:Recursive raytrace of a sphere.png|代替文=|サムネイル|250x250ピクセル|レイトレーシングで描画された球 (2)]] レイトレーシングの基本は、レイ ({{lang-en-short|[[:en:ray|ray]]}}) すなわち[[光線]]を扱うものであり、光の光学的振る舞いをシミュレートする。これは[[3次元コンピュータグラフィックス]] (3DCG) を描画する[[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]技法のひとつとして応用されている。 光は[[鏡|反射鏡]]や[[レンズ]]に対して[[反射 (物理学)|反射]]・[[屈折]]をするが、その様子を[[幾何光学]]的に追いかけて、光がどのような振る舞いをするのかについて知ることができる。通常、反射は正反射を用い、屈折は[[スネルの法則]]に従って計算する。またレンズなどの複数の光学素子を組み合わせた場合、光線を追う計算は複雑で面倒なものになってしまうが、1930年代にThomas Smithにより[[行列]]を用いて容易に計算する方法が見出された<ref>T. Smith, “On tracing rays through an optical system”</ref><ref>[http://eng.alkutcollege.edu.iq/wp-content/uploads/2019/09/2-2.pdf Lect -6 .Matrix Methods]</ref>。 レンズや反射鏡を用いる[[光学機器]]の開発に用いられ、物体の像をつくるときに発生する[[収差]]を推定することに用いられる。 コンピュータの出現以前は、手計算を用いていたため膨大な時間がかかったが、コンピュータによって高速かつ大量の計算が可能になった。コンピュータの進歩に伴い、[[3次元コンピュータグラフィックス]]で光の当たり方や物体の見え方のシミュレーションにも用いられるようになっている。この場合、乱反射や散乱といった現象も含めて計算される。 この手法は、カメラや観察者に相当する受信点を中心に画角となる2次元方向内の微小な角度ごとのそれぞれの方向から受け取るはずの光線(レイ)について、算術演算処理をそれぞれ行うことで仮想的に逆方向に追跡し、その方向に何が見えるかを判定する。透明な物体では境界面ごとに複数の屈折光と反射光に分かれるが、それぞれの伝播経路を計算する。わずかな吸収を除けばほとんどが反射光となる鏡面反射では演算量があまり増えないが、透明や鏡面でない物体の表面は周囲のあらゆる方向へ光を乱反射しているため、それらをすべて演算しようとすれば演算量が指数関数的に増えてしまい有限時間内には処理できなくなる。こういった拡散反射は乱数によってランダムに選ばれた方向のみに限定することで演算量を現実的な処理量に抑えた「モンテカルロ・レイトレーシング」(Monte Carlo Ray Tracing) によってシミュレートされる。モンテカルロ・レイトレーシングの内でも「分散レイトレーシング」と呼ばれる手法では、ある程度のリアルさをシミュレートするために拡散反射する表面ごとに逆追跡が必要な経路が多数生じるため、複数の表面同士で反射する光まで再現しようとしてやはり演算処理量が爆発的に増加してしまう。拡散反射する表面での逆追跡が必要な経路をランダムに1つだけ生む手法は「パス・レイトレーシング」と呼ばれる。 レイトレーシングに似た手法、または最も広義のレイトレーシング手法の1つとも考えられるものに「[[フォトンマッピング|フォトン・マッピング]]」がある。レイトレーシングが観察者やカメラ側から光線の経路を逆追跡するのに対して、フォトン・マッピングでは光源側から光線の経路を再現する<ref name ="リアルタイム化"/>。 {{Seealso|光線行列解析}} なお、熱力学的なアプローチによって、光源が放射する光のエネルギーを解析し、物体表面の拡散反射をシミュレートする手法として[[ラジオシティ]]がある<ref>[https://e-words.jp/w/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E6%B3%95.html ラジオシティ法とは - 意味をわかりやすく - IT用語辞典 e-Words]</ref>。ラジオシティ法は[[グローバル・イルミネーション]]を実現する手法のひとつであり、(古典的な)レイトレーシング法が苦手とする、相互反射による柔らかな間接照明をレンダリングすることができるが、レイトレーシングよりもさらに膨大な計算が必要となる<ref>[http://www.cs.shinshu-u.ac.jp/~maruyama/graphics/09/pdf/radiosity.pdf Introduction to 3D Computer Graphics - ラジオシティ(Radiosity) | 信州大学]</ref>。 === 歴史 === 3DCGにおけるレイトレーシングは1979年にレンダリング手法のひとつとして考案された。この最初に考案された狭義のレイトレーシング手法は、単純な形状の透明な物体や鏡面を再現するには効果的であったが、ざらついた質感を持つ物体の表面を表現したり複雑な形状を再現するには当時のコンピュータの処理能力の制約もあって適していなかった。その後、表現力を広げるための新たな手法が「モンテカルロ・レイトレーシング」「分散レイトレーシング」「パス・レイトレーシング」として考案され、こういった広義でのレイトレーシング手法は、21世紀初頭現在、間接光を再現する[[大域照明]]技術の代表的なものとなっている。 20世紀末から2000年代最初の数年間までは、映画のような動画を作るにも1フレーム当たり数分や十時間ほどもその当時の最新のコンピュータで演算する必要があり、2009年現在では、大規模な高精細度の動画生成が求められる[[映画産業]]や工業デザイン産業ではレンダー・ファームと呼ばれる100-1,000台規模のクラスタ・サーバーを構築することで対応している。広義でのレイトレーシング手法だけを用いて動画を生成しようとすると、高精細で複雑な照明効果をリアルに再現した画像を短時間に生み出すにはさらに巨大なコンピュータ群を必要とする。そのため、実際の一般的なコンピュータ・グラフィックス映像では、間接光などの再現はレイトレーシングだけに頼らず、影の再現は「シャドウ・マッピング」や「アンビエント・オクルージョン」や「ライトマップ」などを使ったり、光沢面への周囲の写り込みは「[[環境マッピング]]」などを使ったり、場合によっては人が描いた2次元画像を物体表面の模様として[[テクスチャマッピング]]したり、オーサリングツール上で重ね合わせたりするなど、複合的・疑似的あるいは人手を介した多様な手法によって製作されている。 2009年現在、[[マルチコア]]化したプロセッサ(マルチコア・マルチソケット[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]])に代表される高性能な並列処理能力が得られるようになりつつあり、映画や工業デザイン分野では人手を介した作業が廃されてすべてをレイトレーシングベースの処理に集約することや、また映画や工業デザインのみで作られていたリアルな画像が、今後は個人所有の[[パーソナルコンピュータ|PC]]上でもゲームのような用途で短時間で製作できるようになる可能性がある<ref name ="リアルタイム化">進藤智則 『リアルタイム化でよみがえるレイトレーシング技術』 日経エレクトロニクス2009年10月5日号</ref>。 ==== リアルタイムレイトレーシング ==== レイトレーシングによる物理学的に正確で現実に即した光のシミュレーションには膨大な計算が必要となるため、長らく技術デモやプロダクションレンダリング(映画やCMなど)でのみ使用されてきた。特に実時間(リアルタイム)での描画が必要なシミュレーションやコンピュータゲームでは、時間的・資源的な制約から、光源と可視ポリゴン(あるいは3次元空間のポリゴンを2次元空間にラスタライズした後のピクセル)との1対1の位置関係のみを考慮したベクトル計算と塗りつぶしだけで簡易的かつ高速に描画できるラスタライズ法が採用されることが普通であったが、ハードウェアの高性能化に伴いリアルタイムレンダリングでもレイトレーシングおよびグローバルイルミネーションを活用する道が開けつつある<ref>[https://blogs.nvidia.co.jp/2018/08/14/ray-tracing-global-illumination-turner-whitted/ レイ トレーシングの先駆者が明かす、グローバル イルミネーションに巡り会うまでの経緯 | NVIDIA]</ref>。 2020年現在、GPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現している[[Application Programming Interface|API]](ライブラリ、レンダリングエンジン)としては、{{仮リンク|NVIDIA OptiX|en|OptiX}} <ref>[http://www.nvidia.co.jp/object/optix_jp.html NVIDIA&#x00ae; OptiX アプリケーション・エンジン | NVIDIA]</ref> <ref>[http://www.nvidia.com/object/optix.html NVIDIA&#x00ae; OptiX Application Acceleration Engine | NVIDIA]</ref>、{{仮リンク|イマジネーションテクノロジーズ|en|Imagination Technologies}}の{{仮リンク|OpenRL|en|OpenRL}} <ref>[https://www.4gamer.net/games/017/G001762/20110920023/ 4Gamer.net ― PowerVRのImaginationが“ハイエンドGPU”の設計に着手。ハイブリッドレンダリングハードウェア,そして新API「OpenRL」とは?]</ref>、{{仮リンク|DirectX Raytracing|en|DirectX Raytracing}} (DXR)、[[Vulkan (API)|Vulkan Ray Tracing]]、そして[[Metal (API)|Metal Ray Tracing]]が挙げられる。GPUによるリアルタイムレイトレーシングは、GPUが[[プログラマブルシェーダー]]に対応し、さらに汎用計算 ([[GPGPU]]) に対応するよう進化してきたおかげで可能となった。NVIDIA OptiXは[[Adobe After Effects]] CC<ref>[http://blogs.adobe.com/aftereffects/2013/09/gpu-changes-for-cuda-and-opengl-in-after-effects-cc-12-1.html GPU changes (for CUDA and OpenGL) in After Effects CC (12.1) | After Effects region of interest]</ref>や[[Blender]]のCyclesエンジン<ref>[https://blogs.nvidia.co.jp/2019/12/24/creative-apps-rtx/ RTX On: Chaos V-RAY GPU Next と Blender Cycles が RTX に対応 | NVIDIA]</ref>などに採用されている。Vulkanにおけるレイトレーシングは当初NVIDIAの拡張として実装されていたが、その後[[クロノス・グループ|Khronos]]によって標準拡張として採用されており、DXRとよく似た設計になっている<ref>[https://www.4gamer.net/games/293/G029343/20200417095/ グラフィックスAPI「Vulkan」がリアルタイムレイトレーシングに対応。Windowsだけでなく,MacやLinuxでも利用可能に]</ref>。2018年にリリースされた[[NVIDIA GeForce]] RTX 20シリーズは、リアルタイムレイトレーシングの[[ハードウェアアクセラレーション]]に対応したRTコアを初めて搭載したGPUである。ハイエンドのAAAゲームタイトルではすでにDXRの活用が始まっている<ref>[https://www.4gamer.net/games/423/G042310/20190828050/ 西川善司の3DGE:現状のレイトレ要素全部入りといわれる新作ゲーム「CONTROL」のグラフィックスの魅力を検証する]</ref>。2020年後半にリリースされた[[RDNA (マイクロアーキテクチャ)|RDNA 2]]ベースの[[AMD Radeon]] RX 6000シリーズ<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1239287.html AMDの次世代GPUアーキテクチャ「RDNA 2」、ついにハードウェアレイトレーシング対応 ~Zen 4までのロードマップ公開。データセンター向けの新GPUアーキテクチャ「CDNA」も - PC Watch]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/hothot/1293393.html 【Hothotレビュー】AMD最強の「Radeon RX 6900 XT」は競合とどのぐらい渡り合える性能なのか? - PC Watch]</ref>や、2022年登場の[[Intel Arc]]もリアルタイムレイトレーシングに対応している<ref>{{Cite web|和書|title=Intel Arcのレイトレーシングの実装が明らかに。上位の「A770」はRTX 3060をやや上回る性能 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1436998.html |website=PC Watch |date=2022-09-02 |access-date=2023-03-31 |language=ja |publisher=株式会社インプレス}}</ref>。 また、CPUベースのリアルタイムレイトレーシングを実現しているソフトウェアとしては[[KeyShot]] <ref>[http://keyshot.info/features 主な機能 | KeyShot&#x2122;総合サイト]</ref> <ref>[https://www.keyshot.com/tech-specs/ Tech Specs - KeyShot]</ref>が挙げられる。 === 用途 === 広義のレイトレーシングは、実写では再現不可能な映画の特殊効果や、工業用・建築用のデザインで採用されている。ゲーム業界でも部分的に使用されている。 == 電波 == 電波のレイトレーシングでは発信点からの電波を仮想的に追跡し、受信点における伝播特性、特に[[電界]]密度を得る。多くの場合、これを格子状に、通常は一定の高度の水平面上に配置された受信点に対し繰り返し行い、電界密度マップを得る。このマップは、[[無線]]設備の配置の決定などに使われる。 与えられた発信点から与えられた受信点までの波線は一意に定まらないため、次の解法がある。 ;レイラウンチング法 (ray launching) :送信点から多数のレイを発射 (launch) し、受信点の近くを通るレイを選び出す。計算量は少ないが、厳密な結果を得るためにはテクニックが必要である。なお、正しくは「レイローンチング」だが、慣習的に「レイラウンチング」と呼ぶ。 ;イメージング法 (imaging) :「イメージ」は「[[鏡像]]」の意味。[[鏡像原理]]にもとづき送信点と受信点を結ぶ経路のみを計算するため、常に厳密な結果が得られるが、反射回数に対し計算量が[[指数関数]]的に増加するため、2-3回程度の反射しか追跡できない。 == 地震波・超音波 == [[地震波]]や[[超音波]]での通常のレイトレーシングでは、反射・屈折などの条件から、受信点での受信波を計算するが、この場合は、実際に測定された受信波から反射・屈折などの条件(特に波速分布)を逆算し、[[トモグラフィー]](断層画像)を得る。 == 出典 == {{reflist}} == 関連項目 == {{commons|Category:Ray tracing}} * [[光線行列解析]] * [[モンテカルロ法]] * [[グローバル・イルミネーション]] <!-- * [[テクスチャマッピング]] * [[バンプマッピング]] * [[透過マッピング]] * [[法線マッピング]] --> * {{仮リンク|NVIDIA OptiX|en|OptiX}} * {{仮リンク|OpenRL|en|OpenRL}} * {{仮リンク|DirectX Raytracing|en|DirectX Raytracing}} * [[レンダリング (コンピュータ)#3Dレンダリング]] * [[Sparse Voxel Octree]] {{3Dレンダリング}} {{DEFAULTSORT:れいとれしんく}} [[Category:計算幾何学]] [[Category:振動と波動]] [[Category:光学]] [[Category:コンピュータグラフィックス]] [[Category:3DCG]] [[Category:無線]]
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POV-Ray
POV-Ray(ポヴレイ、Persistence of Vision Raytracer)は、多くのコンピュータプラットフォームで利用できるレイトレーシングソフトウェア。 プログラムのソースコードが一般に公開されているオープンソースの3Dレンダリングエンジン(レンダラー)の一つで、独自のC言語風の構造化ドキュメントによりデータを入力し、マクロ関数による半自動配置ができるので、シミュレータとしての利用も可能である。また、数学的モデリングに強い。 拡張版を自由に作成、配布できるという性格から、学術的な新技法の試験実装にもよく用いられる。公式版(2013年11月現在3.7.0)の他に、v3.5に対応する複数の独自拡張版が公開されている。v3.7からはライセンスがAGPLv3に変更された。 1980年代、David Kirk Buckは自身のAmigaにUnixのレイトレーシングソフトのソースコードをダウンロードし、しばらく検証した上で、独自のレイトレーシングソフトを作ることを決意した。 名前は彼自身のイニシャルを取ってDKBTraceと名づけ、需要を見込んで掲示板に投稿した。 1987年にAaron A. CollinsがDKBTraceをダウンロードし、x86用の開発を開始。David Buck本人と協力して他の機能の追加も行った。ソフトウェアが次第に評価を得て需要と期待が増える中、 彼らだけでは開発が存続できなくなったため、1991年7月にプログラマを集めてチームが結成された。同時にDavidはソフトウェアに自身のイニシャルを含めるのは適切でないと感じ、名前を変更することにした。 「STAR」(Software Taskforce on Animation and Rendering)という候補もあったが、結局「Persistence of Vision Raytracer」(省略形:POV-Ray)に決定した。 POV-Rayの機能は開発当初から充実していたが、近年のバージョンでは以下の機能を搭載している。 POV-Rayにはサードパーティーによるサポートが多いのが魅力である。多くのツール、テクスチャ、モデル、背景、チュートリアルがWeb上から使用可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "POV-Ray(ポヴレイ、Persistence of Vision Raytracer)は、多くのコンピュータプラットフォームで利用できるレイトレーシングソフトウェア。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プログラムのソースコードが一般に公開されているオープンソースの3Dレンダリングエンジン(レンダラー)の一つで、独自のC言語風の構造化ドキュメントによりデータを入力し、マクロ関数による半自動配置ができるので、シミュレータとしての利用も可能である。また、数学的モデリングに強い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "拡張版を自由に作成、配布できるという性格から、学術的な新技法の試験実装にもよく用いられる。公式版(2013年11月現在3.7.0)の他に、v3.5に対応する複数の独自拡張版が公開されている。v3.7からはライセンスがAGPLv3に変更された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1980年代、David Kirk Buckは自身のAmigaにUnixのレイトレーシングソフトのソースコードをダウンロードし、しばらく検証した上で、独自のレイトレーシングソフトを作ることを決意した。 名前は彼自身のイニシャルを取ってDKBTraceと名づけ、需要を見込んで掲示板に投稿した。 1987年にAaron A. CollinsがDKBTraceをダウンロードし、x86用の開発を開始。David Buck本人と協力して他の機能の追加も行った。ソフトウェアが次第に評価を得て需要と期待が増える中、 彼らだけでは開発が存続できなくなったため、1991年7月にプログラマを集めてチームが結成された。同時にDavidはソフトウェアに自身のイニシャルを含めるのは適切でないと感じ、名前を変更することにした。 「STAR」(Software Taskforce on Animation and Rendering)という候補もあったが、結局「Persistence of Vision Raytracer」(省略形:POV-Ray)に決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "POV-Rayの機能は開発当初から充実していたが、近年のバージョンでは以下の機能を搭載している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "POV-Rayにはサードパーティーによるサポートが多いのが魅力である。多くのツール、テクスチャ、モデル、背景、チュートリアルがWeb上から使用可能である。", "title": "機能" } ]
POV-Rayは、多くのコンピュータプラットフォームで利用できるレイトレーシングソフトウェア。 プログラムのソースコードが一般に公開されているオープンソースの3Dレンダリングエンジン(レンダラー)の一つで、独自のC言語風の構造化ドキュメントによりデータを入力し、マクロ関数による半自動配置ができるので、シミュレータとしての利用も可能である。また、数学的モデリングに強い。 拡張版を自由に作成、配布できるという性格から、学術的な新技法の試験実装にもよく用いられる。公式版(2013年11月現在3.7.0)の他に、v3.5に対応する複数の独自拡張版が公開されている。v3.7からはライセンスがAGPLv3に変更された。
{{Infobox Software | 名称 = POV-Ray | ロゴ = | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = The POV-Team | 最新版 = 3.7.0.3 | 最新版発表日 = 2017年6月12日 | 最新評価版 = 3.8.0-x.10064738+av694 | 最新評価版発表日 = 2019年2月19日 | 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]] | 種別 = レイトレーシングソフトウェア | ライセンス = AGPLv3 | 公式サイト = [https://www.povray.org/ povray.org] }} [[ファイル:Glasses 800 edit.png|right|250px|thumb|POV-Rayでレンダリングされた画像。[[ラジオシティ]]、[[フォトンマッピング]]、[[焦点ブラー]]などの表現技法を使用している。]] '''POV-Ray'''(ポヴレイ、'''P'''ersistence '''o'''f '''V'''ision '''Ray'''tracer)は、多くのコンピュータプラットフォームで利用できる[[レイトレーシング]][[ソフトウェア]]。 プログラムのソースコードが一般に公開されている[[オープンソース]]の3D[[レンダリングエンジン]](レンダラー)の一つで、独自の[[C言語]]風の構造化ドキュメントによりデータを入力し、マクロ関数による半自動配置ができるので、[[シミュレーション|シミュレータ]]としての利用も可能である。また、数学的モデリングに強い。 拡張版を自由に作成、配布できるという性格から、学術的な新技法の試験実装にもよく用いられる。公式版(2013年11月現在3.7.0)の他に、v3.5に対応する複数の独自拡張版が公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://staff.aist.go.jp/r-suzuki/j/povray/iso/df_body.htm|title=密度ファイルおよび日本語テキスト拡張版パッチ|date=2002-09-20|author=産業技術総合研究所|accessdate=2009-12-18}}</ref>。v3.7からはライセンスが[[GNU Affero General Public License|AGPLv3]]に変更された。 == 歴史 == 1980年代、David Kirk Buckは自身の[[Amiga]]に[[UNIX|Unix]]の[[レイトレーシング]]ソフトのソースコードをダウンロードし、しばらく検証した上で、独自の[[レイトレーシング]]ソフトを作ることを決意した。 名前は彼自身の[[イニシャル]]を取ってDKBTraceと名づけ、需要を見込んで掲示板に投稿した。 1987年にAaron A. CollinsがDKBTraceをダウンロードし、[[x86]]用の開発を開始。David Buck本人と協力して他の機能の追加も行った。ソフトウェアが次第に評価を得て需要と期待が増える中、 彼らだけでは開発が存続できなくなったため、1991年7月にプログラマを集めてチームが結成された。同時にDavidはソフトウェアに自身のイニシャルを含めるのは適切でないと感じ、名前を変更することにした。 「STAR」(Software Taskforce on Animation and Rendering)という候補もあったが、結局「Persistence of Vision Raytracer」(省略形:POV-Ray)に決定した<ref>{{cite web|url=http://www.povray.org/documentation/view/3.6.0/7/|title= POV-Ray: Documentation: 1.1.5 The Early History of POV-Ray|year=2002|month=Aug|author=David Buck|language=英語 |accessdate=2009-12-18}}</ref>。 == 派生レンダラー == ; MegaPOV : POV-Ray 3.6系の非公式拡張であり、多くのパッチは既にPOV-Ray 3.7に取り込まれている<ref name="megapov">[http://megapov.inetart.net/ MegaPOV Website] MegaPOV Team</ref><ref>[http://megapov.inetart.net/download.html MegaPOV Website - download] MegaPOV Team</ref>。 ; UberPOV : POV-Ray 3.7系の非公式拡張であり、MegaPOVの後継<ref name="megapov"/><ref>[http://megapov.inetart.net/povrayunofficial_mac/uberpov.html UberPOV for Mac] MegaPOV Team</ref>。 == POV-Ray用モデラー == * [[Blender]] - オープンソースの統合3DCGソフトウェア。POV-Ray用アドオンが同梱されており、それを有効にすることでPOV-Rayに対応する。POVコードの直接編集にも対応している。Blender 2.79でPOVコードの[[シンタックスハイライト]]にも対応した。 === 開発停止中 === * Moray - 古くから存在するPOV-Ray用[[モデラー]]。2007年、POV-Rayの開発元が買収した<ref>[http://www.povray.org/news/moray-announcement.php Persistence of Vision Raytracer acquires the Moray modeller] Persistence of Vision Raytracer Pty. 2007年2月1日</ref>。開発停止中。 * KPovModeler - KDEベースのPOV-Ray用モデラー。オープンソース。開発停止中。 * Bishop3D - Windows専用のPOV-Ray用モデラー。アニメーションにも対応。シーン記述言語のインポートも可能。オープンソース化された。parametricサーフィス及びisosurface未対応<ref>[https://web.archive.org/web/20161220200347/https://www.bishop3d.com/parserdetails.htm Bishop3D POV-Ray SDL Importer] Bishop3D</ref>。 *[[Structure Synth]] - 独自のルール記述によって3D生成を行うソフトウェア。POV-Ray形式でのエクスポートが可能。 == 機能 == [[ファイル:PNG transparency demonstration 1.png|right|250px|thumb|POV-Rayでレンダリングされたサイコロの画像。[[Constructive Solid Geometry]]、[[屈折]]、[[焦点ブラー]]などの表現技法を使用している。]] POV-Rayの機能は開発当初から充実していたが、近年のバージョンでは以下の機能を搭載している。 * マクロとループを搭載した[[チューリング完全]]のSDL (scene description language)<ref>{{cite web|url=http://local.wasp.uwa.edu.au/~pbourke/geometry/supershape3d/ |author=Paul Bourke|title= Supershape in 3D|year=2003|month=Jul|language=英語|accessdate=2009-12-18}}</ref> * 背景、テクスチャ、オブジェクトのライブラリ * 多くの[[幾何プリミティブ]]と[[Constructive Solid Geometry]]のサポート * 多種の[[光源]] * [[霧]]などの大気エフェクトや媒体([[煙]]、[[雲]]) * [[フォトンマッピング]]による[[反射]]や[[コースティクス]](集光模様) * [[バンプマッピング]]による[[皺|しわ]]、[[いぼ]]、[[波]]などの模様 * [[ラジオシティ]] * [[TGA]]、[[Portable Network Graphics|PNG]]、[[JPEG]]などの[[テクスチャ]]や出力画像のフォーマットサポート(JPEGは入力のみ) * 豊富なドキュメント POV-Rayには[[サードパーティー]]によるサポートが多いのが魅力である。多くのツール、テクスチャ、モデル、背景、チュートリアルがWeb上から使用可能である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[MathMod]] - 数学的モデリングソフトウェアであり、parametricサーフィス及びisosurfaceに対応している。しかし、POV-Ray関数への対応は一部のみ。 * [[3D-XplorMath]] - 数学的モデリングソフトウェア。 * [[Functy]] - 同上。 * [[Shadertoy]] - GLSL ES言語でのピクセルシェーダーアート環境および共有サービス。距離関数を使用したレイマーチングによる3D表現が可能<!--TODO: 符号付距離場-->。Webベース。 *[[コンピュータグラフィックス]] *[[レイトレーシング]] *[[Constructive Solid Geometry]] == 外部リンク == {{Commons|POV-Ray}} * {{Official website}}{{en icon}} {{3D software}} {{Software-stub}} [[Category:3DCGソフトウェア|POV-Ray]] [[Category:オープンソースソフトウェア]]
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NAPLPS
NAPLPS(North American Presentation Level Protocol Syntax、ナプルプス)はビデオテックスの国際規格のひとつ。AT&Tによってカナダ政府の作ったTelidonシステム方式を基に作られたもの。ニフティサーブの天気予報で使われたり、キャプテンシステムではこれをもととした方式で情報が提供されていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "NAPLPS(North American Presentation Level Protocol Syntax、ナプルプス)はビデオテックスの国際規格のひとつ。AT&Tによってカナダ政府の作ったTelidonシステム方式を基に作られたもの。ニフティサーブの天気予報で使われたり、キャプテンシステムではこれをもととした方式で情報が提供されていた。", "title": null } ]
NAPLPSはビデオテックスの国際規格のひとつ。AT&Tによってカナダ政府の作ったTelidonシステム方式を基に作られたもの。ニフティサーブの天気予報で使われたり、キャプテンシステムではこれをもととした方式で情報が提供されていた。
'''NAPLPS'''(North American Presentation Level Protocol Syntax、ナプルプス<ref>[https://imidas.jp/katakana/detail/Z-21-6-0214.html ナプルプス | 現代人のカタカナ語辞典]、[[イミダス]] - 2023年5月12日閲覧。</ref>)は[[ビデオテックス]]の国際規格のひとつ。[[AT&T]]によってカナダ政府の作った'''Telidon'''システム方式を基に作られたもの。[[ニフティサーブ]]の天気予報で使われたり、[[キャプテンシステム]]ではこれをもととした方式で情報が提供されていた。 == 歴史 == *[[1983年]][[11月]]:カナダ、アメリカの統一規格となる。 *[[1987年]][[9月]]:日本語機能を加えた「日本語機能仕様 NAPLPS」が制定される。 == 特徴 == *国際規格である。 *PDI(Picture Description Instructions)と呼ばれる命令群でベクトルデータ、文字コードで送るためビットマップデータに比べて図形を送信する場合効率が良い。 *端末からの応答も考慮されており、更に動的な表示が可能。 == 技術情報 == *画像データは可変長の位置精度、色情報をもつ。 *データ精度はDOMAINによって決まる。 *二次元データの座標情報はDOMAINで決まったデータ長を2つに分けX,Y両座標で使う。 *DOMAIN2の場合X,Y各座標は12bitずつのはずではあるが、データ伝送と命令と引数の判別の都合上9bitずつしか使えない。 *最大のDOMAIN7の場合、8オクテット使えるので2次元データだと24bit、3次元データだと16bitずつ使えることになる。 == 規格 == *NAPLPS: [[ANSI]]-X3.110-1983/CSA-T500-1983 *NAPLPS: [[国際標準化機構|ISO]]-2022 and ISO-2375. == 脚注 == {{reflist}} {{Computer-stub}} [[Category:通信プロトコル]] [[Category:プレゼンテーション層プロトコル]]
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食事
食事()とは、基本的には生命維持に必要な栄養素を摂取するために、日々習慣的に何かを食べること、そこから転じて、その時食べるものを指すこともある。「衣食住」の「食」にあたる。口語では「御飯()」と呼ばれる。 生命維持に欠かせない必須の栄養素を摂取するために食べ物を食べる行為を指すが、そのためだけではなく、「自身の家族や仲間と一緒の時間を和やかにすごすため」「『分かち合い』を実感・共有するため」「料理を作ってくれた人の愛を実感するため」「味を楽しむため」など様々な目的や意味を込めつつ、人は食事をする。洋の東西を問わず、食事の席に誰かを招待するのは、「歓迎」の意味がある。自ら調理した料理(手料理)を食べてもらうということは、親しい関係につながる。 鬱病の専門医、井出雅弘は自著で次のように解説している。 かむという運動は、脳の満腹中枢を刺激しますから、たくさん食べなくても満足感が得られ、肥満予防にも役立ちます。かむ回数は、食べ物の大きさや硬さにもよりますが、ひと口20~30回くらいがよいといわれています。 食事の時刻、回数、食事の種類、調理法、食べ方には、文化、宗教、個人的な好みや栄養学に基づく知識も反映される。日々の暮らしの中でも、食事に関する事柄全般を指して「食生活」と呼ばれる。 宗教と食事・食生活には大きなかかわりがある。だがひとつひとつの宗教ごとに、宗教と食事の関係は異なる。 ユダヤ教では、旧約聖書に食べてよいもの、食べていけないもの、一緒に食べてはいけないものの組み合わせ、動物の屠り方、調理法に関する規定が細かく記述されており、ユダヤ教のこの食物規定を「カシュルート」や「コーシェル」と呼ぶ(とはいえ、ユダヤ教もいくつもの教派に分かれていて、厳格な教派ではそれを厳格に守る一方、緩やかな教派ではあまり守られてはいない)。"カシュルートを守っているユダヤ教徒の場合は" の話だが、現在でもさまざまな食べ物を食べられない。たとえばヘブライ語聖書に「子ヤギの肉を、その母の乳で煮てはならない」という規定がある(出エジプト記23:18,19)ので(また、その規定の意図は「ある動物種の親と子を同時に食べてはいけない」という意味なのだと、ユダヤ教の指導者やトーラー学者などによって解釈(法解釈)されているので、結果として)チーズバーガーや親子丼も食べられない。海老や蟹のような甲殻類、貝類・タコ・イカも一切食べてはいけない、と教えている。レビ記第11章10節に『海でも川でも、水に群生するものすべて、また水の中にいる生き物のうち鰭(ひれ)や鱗のないものはすべて、あなた方にとっては忌むべきものである』と書かれているからである。 新約聖書にはイエスと弟子たちが食事をする場面がある。キリスト教における聖餐は新約聖書に「イエスが十字架に架けられる前に、弟子たちと食事し、自分の記念としてこの食事を行うよう命じた」と書かれていることにもとづいて行われている。キリスト教徒は聖餐を行うことで「そこにキリストが確かに現存している」という信仰を保持している。 イエス・キリストは、当時のユダヤ教のファリサイ派(律法学者)の者たちがこまごまとしたルールばかりを持ちだして、人生のさまざまな分野のさまざまなことをこまごまと禁止ばかりして、人々を苦しめてばかりいることを目にし、「口に入るものは人を汚すことはない。その逆で、口から出るもの(=人が言う言葉)が人を汚すのである」(『マタイによる福音書』15:11)と述べて、ユダヤ教の食物規定全体を真っ向から否定し、ファリサイ派や律法学者たちの、物質的な面ばかり重視する姿勢や、心や言葉のほうをないがしろにする姿勢、その宗教者としてのありかたを根本から批判した。キリスト教徒の多くはイエスの言葉にしたがうようになり、トーラー(モーセ五書)に書かれた食物規定は全て無効となった、と見なすようになった。キリスト教はその初期段階において、ユダヤ教における厳格な食事規定を大幅に緩めた(使徒行伝第10章)。これはユダヤ教のこまごました規定になじめない人々に歓迎され、地中海世界でキリスト教が広まる遠因にもなった。キリスト教はユダヤ教とは異なり、「(キリスト教徒として)食べてはいけない食材」は無く、牛肉・豚肉・鶏肉、魚介類、いずれも全て食べることが可能であり、飲酒も許可されている。 イスラームには、ハラールがあり、食べて良いもの/いけないもの や、調理に関する細かい規則が定められている。豚は不浄とされ、食べるのは禁じられている。 ラマダーンの月には、(日が昇ってから沈むまでの間は)水や食べ物をいっさい口にしない。そうすることで、「貧しくて食べるものが無く苦労している人々の状況を体感し、そういった人々の気持ち、つらさを皆で意識的に共有する」のを目的としている。また、ラマダーンの期間には、恵まれない人々への寄付も行われる。日没後には、家族・親族が大勢集まり、にぎやかに、楽しく、一緒に食事をする。ムスリムにとってラマダーンは「食べられることの大きな喜び」や「家族・親族やコミュニティとの一体感」を共有する時期でもある。また、ラマダーンは全世界にいるムスリムたちが同時に行うものであり、(国境を越えて)全世界のイスラームとの連帯感を共有する期間でもある。 ヒンドゥー教では、牛を神聖なもの(大切なもの)として、食べるのを禁じている。 釈迦自身は肉食を禁止したことは一度も無い。原始仏教においては、「動物が殺されるところを見ていない」「自分に供するために動物を殺した、とは聞いていない」「自分に供するために動物を殺した、とは知らない」、これらを満たしていれば、それが動物の肉であっても食べてよい、ということであった(→「三種の浄肉」)。だが、釈迦の死後からおよそ500年経過してから生じた大乗仏教においては、「肉食は厳禁」となった。 日本においては、かつて仏教に熱心だった天武天皇が肉食を禁ずる勅令(675年に公布された「天武の勅令」)を出したことで、日本人は長きにわたりほとんどの動物性食品を公には食べられなくなった。 ただし修行の一環である「托鉢」(「たくはつ」、修行の一環として行う物乞い)においては、他人が取っていた食事で余ったものを物乞いし、頂いたものを食べる。あくまで余りものを食べるのであり、それが肉であったとしても問題にはならない。他人に物乞いする以上、好き嫌いを示してはならない、という教えである。相手から施されたものは、肉であれ、魚であれ、選り好みをせずに食べるのが原則であり、鉢に入れたものを日々の糧とし、僧侶による肉食は禁止されてはいなかった。 日本の仏教(の僧侶)においては、早朝の乞食行を経て午前中のみ食事し、午後には固形物を一切食べない。 西洋では、1800年ごろまで1日2食であったという。 食事の回数自体には固執せず、「空腹を感じたら食べる」ようにする場合もある。 20世紀前半、国立栄養研究所での実験と、栄養学に基づく研究から、「1日3食」が推奨された。それまでは「1日2食」であり、それぞれ「朝餉」と「夕餉」と呼んだ。 フランシスコ・ザビエルが1549年頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」とある。戦国期当時、戦場では1日3食であった。30日間までは、食料は自己負担だが、30日を過ぎて長期戦となると、軍=大名からの支給制へと移り、1日の消費量は、1人につき6合分(約900グラム)支給されていた。一回の食事につき、米2合分(約300グラム)ということになる(米だけで1日の摂取エネルギーが3204kcalにもなり、塩も支給されていた)。夜戦の際には増配された。 江戸時代に庶民が1日3食を取るようになったのは元禄年間(17世紀末)からとされる。牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小伝馬町牢屋敷では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった。17世紀の日本において1日3食が広まった理由として、「照明が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており、身分・職種(力士)によっては2食が残った。庶民3食化のきっかけについては、「明暦の大火(17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている。他にも1日3食を記録した例として、幕末の忍藩下級藩士が記した絵日記である『石城日記』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも茶漬けとある)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。 農家においては農繁期になると、1日の食事が4 - 5回に増える(後述書 p.37.)。一例として、昭和期の埼玉県秩父地方では、朝飯前の「茶がし」、次いで「朝飯」、午前10時に「四つ飯」、「昼飯」、午後3時のお茶を「こじゅうはん」(オチャゾッペエ・ニハチとも)、「ようめし」、夜なべの後の「夜食」といった具合に、3食以上となっており、3度の食事は「ご飯、または、おまんま」と呼んで区別している(倉林正次 『11日本の民俗 埼玉』 第一法規 1972年 p.37.)。 現代では、朝食、昼食、夕食、計3回食事を摂る習慣が一般的となっている。昼間に活動し、夜間は眠るという通常の生活サイクルに合わせたものであるが、夜食を摂る場合や、朝食や昼食の間、昼食から夕食の間に間食を摂る場合もある。 柴田明夫の説明によると、食事内容(食べる食品)は所得の増加によって、地域や民族を問わず、以下の四段階のパターンをたどるという。 なお、この段階が進むにつれて、穀物の消費量が加速度的に増える。というのは、食肉の消費を増やすということは、その食肉の生産のために、家畜に食べさせるための飼料として穀物が消費されるからである。
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食事とは、基本的には生命維持に必要な栄養素を摂取するために、日々習慣的に何かを食べること、そこから転じて、その時食べるものを指すこともある。「衣食住」の「食」にあたる。口語では「御飯」と呼ばれる。
{{食事}} <!--食品ではなく、「食事」(食べる行為)の記事なのだから、人が食べている風景の写真がよい。--> [[File:LA2 Wikipedia Academy 2008 lunch.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|Wikipedia Academy|en|Wikipedia:Academy}}での食事風景([[スウェーデン]]、[[2008年]])]] [[File:Medieval peasant meal.jpg|thumb|upright|200px|フランス[[中世]]の[[農夫]]の食事風景([[15世紀]])]] [[File:Eating yoghurt.jpg|thumb|right|140px|[[幼児]]の食事風景]] {{読み仮名|'''食事'''|しょくじ}}とは、基本的には[[生命]]維持に必要な[[栄養素]]を摂取するために、日々[[習慣]]的に何かを食べること<ref name="大辞林">『[[大辞林]]』</ref>、そこから転じて、その時食べるものを指すこともある<ref name="大辞林"/>。「[[衣食住]]」の「食」にあたる。口語では「{{読み仮名|御飯|ごはん}}」と呼ばれる。 == 概説 == [[生命]]維持に欠かせない必須の[[栄養素]]を摂取するために[[食べ物]]を食べる行為を指すが、そのためだけではなく、「自身の[[家族]]や仲間と一緒の時間を和やかにすごすため」「『分かち合い』を実感・共有するため」「料理を作ってくれた人の[[愛]]を実感するため」「[[味]]を楽しむため」など様々な目的や意味を込めつつ、人は食事をする。洋の東西を問わず、食事の席に誰かを招待するのは、「歓迎」の意味がある。自ら調理した料理(手料理)を食べてもらうということは、親しい関係につながる。 [[鬱病]]の専門医、井出雅弘は自著で次のように解説している。 {{Quote|楽しみながら、ゆっくりと食事を味わえば、食べ物をよくかむことにもなります。よく[[かむ]]と、[[唾液]]が多量に分泌されて[[味覚]]が敏感になり、[[消化]]活動を促します。また、唾液と[[食品|食べ物]]が混ざることで食べ物の刺激が緩和され、[[胃]]壁が守られます。さらに、口の中にはさまざまな細菌がいますが、唾液には[[殺菌]]作用もあります。 かむという運動は、脳の[[満腹中枢]]<ref group="注釈">視床下部にある。</ref>を刺激しますから、たくさん食べなくても満足感が得られ、肥満予防にも役立ちます。かむ回数は、食べ物の大きさや硬さにもよりますが、ひと口20~30回くらいがよいといわれています。 <ref>『専門医がやさしく教える自律神経失調症』PHP研究所、2004、ISBN 4569661912, p.201、「よくかむことも心身を健康に保つ秘訣」という節</ref>}} 食事の時刻、回数、食事の種類、[[調理法]]、食べ方には、[[文化]]、[[宗教]]、個人的な好みや[[栄養学]]に基づく[[知識]]も反映される。日々の暮らしの中でも、食事に関する事柄全般を指して「食生活」と呼ばれる。 === 宗教と食事 === [[Image:School Lunch Programs.gif|thumb|right|200px|食事をとる前に[[祈り|祈る]]少女(1936年)]] [[宗教]]と食事・食生活には大きなかかわりがある。だがひとつひとつの宗教ごとに、宗教と食事の関係は異なる。 ==== ユダヤ教 ==== [[画像:Shabbat meal.jpg|thumb|right|200px|<!--Repas de Shabbat.-->ユダヤ人青年らの[[安息日]]における食事の一風景]] [[ユダヤ教]]では、[[旧約聖書]]に食べてよいもの、食べていけないもの、一緒に食べてはいけないものの組み合わせ、動物の屠り方、調理法に関する規定が細かく記述されており、ユダヤ教のこの食物規定を「[[カシュルート]]」や「[[コーシェル]]」と呼ぶ(とはいえ、ユダヤ教もいくつもの教派に分かれていて、厳格な教派ではそれを厳格に守る一方、緩やかな教派ではあまり守られてはいない)。"カシュルートを守っているユダヤ教徒の場合は" の話だが、現在でもさまざまな食べ物を食べられない。たとえば[[ヘブライ語聖書]]に「子ヤギの肉を、その母の乳で煮てはならない」という規定がある([[出エジプト記]]23:18,19)ので(また、その規定の意図は「ある動物種の親と子を同時に食べてはいけない」という意味なのだと、ユダヤ教の指導者やトーラー学者などによって[[解釈]]([[法解釈]])されているので、結果として)[[チーズバーガー]]や[[親子丼]]も食べられない。海老や蟹のような甲殻類、貝類・タコ・イカも一切食べてはいけない、と教えている。[[レビ記]]第11章10節に『海でも川でも、水に群生するものすべて、また水の中にいる生き物のうち鰭(ひれ)や[[鱗]]のないものはすべて、あなた方にとっては忌むべきものである』と書かれているからである。 ==== キリスト教 ==== [[画像:Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg|thumb|right|200px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]による『[[最後の晩餐]]』。イエスが弟子たちとともに食事をとる様子を描いた]] [[新約聖書]]にはイエスと弟子たちが食事をする場面がある。[[キリスト教]]における[[聖餐]]は新約聖書に「[[イエス・キリスト|イエス]]が十字架に架けられる前に、弟子たちと食事し、自分の記念としてこの食事を行うよう命じた」と書かれていることにもとづいて行われている。キリスト教徒は聖餐を行うことで「そこにキリストが確かに現存している」という信仰を保持している。 [[イエス・キリスト]]は、当時のユダヤ教の[[ファリサイ派]](律法学者)の者たちがこまごまとしたルールばかりを持ちだして、人生のさまざまな分野のさまざまなことをこまごまと禁止ばかりして、人々を苦しめてばかりいることを目にし、「口に入るものは人を汚すことはない。その逆で、口から出るもの(=人が言う言葉)が人を汚すのである」(『[[マタイによる福音書]]』15:11)と述べて、ユダヤ教の食物規定全体を真っ向から否定し、ファリサイ派や律法学者たちの、物質的な面ばかり重視する姿勢や、心や言葉のほうをないがしろにする姿勢、その宗教者としてのありかたを根本から批判した。キリスト教徒の多くはイエスの言葉にしたがうようになり、[[トーラー]]([[モーセ五書]])に書かれた食物規定は全て無効となった、と見なすようになった。キリスト教はその初期段階において、ユダヤ教における厳格な食事規定を大幅に緩めた([[使徒行伝]]第10章)。これはユダヤ教のこまごました規定になじめない人々に歓迎され、[[地中海世界]]でキリスト教が広まる遠因にもなった。キリスト教はユダヤ教とは異なり、「(キリスト教徒として)食べてはいけない食材」は無く、牛肉・豚肉・鶏肉、魚介類、いずれも全て食べることが可能であり、[[飲酒]]も許可されている。 ==== イスラーム ==== [[イスラーム]]には、[[ハラール]]があり、食べて良いもの/いけないもの や、調理に関する細かい規則が定められている。[[ブタ|豚]]は不浄とされ、食べるのは禁じられている。 [[ラマダーン]]の月には、(日が昇ってから沈むまでの間は)水や食べ物をいっさい口にしない。そうすることで、「貧しくて食べるものが無く苦労している人々の状況を体感し、そういった人々の気持ち、つらさを皆で意識的に共有する」のを目的としている。また、ラマダーンの期間には、恵まれない人々への[[寄付]]も行われる。日没後には、家族・親族が大勢集まり、にぎやかに、楽しく、一緒に食事をする。[[ムスリム]]にとってラマダーンは「食べられることの大きな喜び」や「家族・親族やコミュニティとの一体感」を共有する時期でもある。また、ラマダーンは全世界にいるムスリムたちが同時に行うものであり、(国境を越えて)全世界のイスラームとの連帯感を共有する期間でもある。 ; ヒンドゥー教 [[ヒンドゥー教]]では、[[ウシ|牛]]を神聖なもの(大切なもの)として、食べるのを禁じている。 ==== 仏教 ==== [[釈迦]]自身は肉食を禁止したことは一度も無い。[[原始仏教]]においては、「動物が殺されるところを見ていない」「自分に供するために動物を殺した、とは聞いていない」「自分に供するために動物を殺した、とは知らない」、これらを満たしていれば、それが動物の肉であっても食べてよい、ということであった(→「[[三種の浄肉]]」)。だが、釈迦の死後からおよそ500年経過してから生じた[[大乗仏教]]においては、「肉食は厳禁」となった<ref>{{Cite journal|和書 |author=吉田宗男 |title=親鸞における肉食の意味 |journal=印度學佛教學研究 |issn=0019-4344 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1998 |volume=47 |issue=1 |pages=213-215 |naid=130004026720 |doi=10.4259/ibk.47.213 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.47.213 |accessdate =2021-04-01}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=安井広済 |title=入楞伽経における肉食の禁止--はしがき・梵文「食肉品」和訳・梵文訂正 |journal=大谷学報 |issn=02876027 |publisher=大谷学会 |year=1963 |month=dec |volume=43 |issue=2 |pages=1-13 |naid=120005837524 |url=http://id.nii.ac.jp/1374/00002827/}}</ref><ref name = "Yorizumi">{{Cite journal|和書 |author=頼住光子 |title=仏教における「消費」 : 「食」の観点から |journal=お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報 |publisher=お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター |year=2012 |month=mar |issue=8 |pages=181-185 |naid=40019312946 |url=https://hdl.handle.net/10083/51902 |accessdate =2021-04-01}}</ref>。 日本においては、かつて[[仏教]]に熱心だった[[天武天皇]]が肉食を禁ずる勅令([[675年]]に公布された「天武の勅令」)を出したことで、日本人は長きにわたりほとんどの動物性食品を公には食べられなくなった。 ただし修行の一環である「[[托鉢]]」(「たくはつ」、修行の一環として行う物乞い)においては、他人が取っていた食事で余ったものを物乞いし、頂いたものを食べる。あくまで余りものを食べるのであり、それが肉であったとしても問題にはならない。他人に物乞いする以上、好き嫌いを示してはならない、という教えである。相手から施されたものは、肉であれ、魚であれ、選り好みをせずに食べるのが原則であり、鉢に入れたものを日々の糧とし、僧侶による肉食は禁止されてはいなかった<ref name = "Yorizumi" />。 [[日本の仏教]](の[[僧侶]])においては、早朝の[[乞食行]]を経て午前中のみ食事し、午後には固形物を一切食べない<ref>藤井正雄 『仏教早わかり事典』 日本文芸社 1997年 p.28.</ref>。 ::{{Seealso|食文化}} ::{{seealso|食のタブー}} == 回数 == 西洋では、1800年ごろまで1日2食であったという<ref>小田裕昭、加藤久典、関泰一郎『健康栄養学』 共立出版、2005年4月。ISBN 978-4320061538。</ref>。 食事の回数自体には固執せず、「空腹を感じたら食べる」ようにする場合もある。 ;日本 20世紀前半、[[国立健康・栄養研究所|国立栄養研究所]]での実験と、栄養学に基づく研究から、「1日3食」が推奨された<ref name="yosiko1986" />。それまでは「1日2食」であり、それぞれ「[[朝餉]]」と「[[夕餉]]」と呼んだ<ref name="yosiko1986">[[佐伯芳子]] 『栄養学者佐伯炬伝』 玄同社 1986年 ISBN 978-4-905935-19-3 p.158.</ref>。 [[フランシスコ・ザビエル]]が[[1549年]]頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」とある<ref>Canadian Libraries [https://archive.org/details/thelifeandletter02coleuoft The life and letters of St. Francis Xavier (1872) vol.2]、p.218</ref>。[[戦国時代 (日本)|戦国期]]当時、戦場では1日3食であった。30日間までは、食料は自己負担だが<!-- 後述書 p.189. -->、30日を過ぎて長期戦となると、軍=[[大名]]からの支給制へと移り<!-- 後述書 p.189. -->、1日の消費量は、1人につき6合分(約900[[グラム]])支給されていた<ref name="明細189">[[山口博 (国文学者)|山口博]] 『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』 [[角川ソフィア文庫]] 2015年 ISBN 978-4-04-409224-5 p.189.</ref>。一回の食事につき、米2合分(約300グラム)ということになる(米だけで1日の摂取エネルギーが3204kcalにもなり、[[塩]]も支給されていた<!-- 同『日本人の給与明細』 p.189. -->)。[[夜戦]]の際には増配された<ref name="明細189"/>。 [[江戸時代]]に庶民が1日3食を取るようになったのは[[元禄]]年間([[17世紀]]末)からとされる<ref>「歴史ミステリー」倶楽部 『図解! 江戸時代』 [[三笠書房]] 2015年 ISBN 978-4-8379-8374-3 p.206.また、[[石毛直道]]『日本の食文化史 旧石器時代から現代まで』([[岩波書店]])においても、「全国的に1日3食化したのは[[17世紀]]末」としている。</ref>。牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小[[伝馬町牢屋敷]]では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった<ref>同『図解! 江戸時代』 三笠書房 2015年 p.122.</ref>。17世紀の日本において1日3食が広まった理由として、「[[照明]]が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており<ref>[[深谷克己]] 『江戸時代』 [[岩波ジュニア新書]] 第3刷2001年(1刷2000年) ISBN 4-00-500336-2 p.84.</ref>、身分・職種(力士)によっては2食が残った<ref>同『江戸時代』 岩波ジュニア新書 2001年 p.85.</ref>。庶民3食化のきっかけについては、「[[明暦の大火]](17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている<ref>水戸計『教科書には載っていない 江戸の大誤解』 [[彩図社]] 2016年 ISBN 978-4-8013-0194-8 p.179.</ref>。他にも1日3食を記録した例として、[[幕末]]の[[忍藩]]下級藩士が記した[[絵日記]]である『[[石城日記]]』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも[[茶漬け]]とある<!-- 『石城日記』を参照 -->)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。 農家においては農繁期になると、1日の食事が4 - 5回に増える(後述書 p.37.)。一例として、[[昭和]]期の[[埼玉県]][[秩父地方]]では、朝飯前の「茶がし」、次いで「朝飯」、午前10時に「四つ飯」、「昼飯」、午後3時のお茶を「こじゅうはん」(オチャゾッペエ・ニハチとも)、「ようめし」、夜なべの後の「夜食」といった具合に、3食以上となっており、3度の食事は「ご飯、または、おまんま」と呼んで区別している(倉林正次 『11日本の民俗 埼玉』 第一法規 1972年 p.37.)。 現代では、[[朝食]]、[[昼食]]、[[夕食]]、計3回食事を摂る習慣が一般的となっている。昼間に活動し、夜間は眠るという通常の生活サイクルに合わせたものであるが、[[夜食]]を摂る場合や、朝食や昼食の間、昼食から夕食の間に[[間食]]を摂る場合もある。 == 食事内容と所得水準の関係 == 柴田明夫<ref>[https://www.kouenirai.com/profile/3483 柴田明夫 経歴など]</ref>の説明によると、食事内容(食べる食品)は[[所得]]の増加によって、地域や民族を問わず、以下の四段階のパターンをたどるという<ref>[[柴田明夫]]著『食料争奪』 2007年7月 ISBN 978-4532352677</ref>。 ; 第1段階 : 主食から、[[雑穀]]・[[イモ]]類が減り、[[米]]・[[コムギ|小麦]]・[[トウモロコシ]]の摂取量が増える ; 第2段階 : 主食が減り、[[食肉|肉]]、[[卵]]、[[魚]]、[[野菜]]といった副食が増える ; 第3段階 : 副食の中でも、動物性タンパク質の割合がさらに増加する。また、[[酒|アルコール]]の摂取量も増える ; 第4段階 : 食事を簡単にすませようとし、[[レトルト食品]]や[[外食]]が増える。また、伝統的な食事を見直したり、高級化する動きも見られる なお、この段階が進むにつれて、[[穀物]]の消費量が加速度的に増える。というのは、食肉の消費を増やすということは、その食肉の生産のために、家畜に食べさせるための[[飼料]]として穀物が[[消費]]されるからである<ref>『食料争奪』柴田明夫 日本経済新聞社 2007年7月</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Div col}} * [[食文化]] - [[手食文化]] * [[ガストロノミー]] * [[料理]] * [[調理]] ** [[一物全体]] * [[食器]] * [[食生活指針]] * [[食事バランスガイド]] * [[内食]]、[[家庭料理]] * [[中食]] - 外食と内食の中間形態。惣菜専門店やスーパーで売っている「惣菜」を指す。すぐに食べられる * [[外食]] * [[スローフード]] * [[飽食の時代]] * [[常食]] - [[非常食]] ** [[ファーストフード]] ** [[ジャンクフード]] ** [[エンゲル係数]] ** [[食の安全]] *** [[産地偽装]] ** [[偏食]]、[[野菜嫌い]] ** [[肥満]]、[[栄養不良]] ** [[摂食障害]]、[[過食症]]、[[拒食症]] ** [[個食]]、[[孤食]]、[[子ども食堂]] * {{ill2|食事誘発性熱産生|en|Specific dynamic action}}(特異動的作用) ‐ 食後の代謝による発熱。 * {{ill2|食後の眠気|en|Postprandial somnolence}} {{Div col end}} == 外部リンク == {{wiktionary}} {{commonscat}} *{{kotobank}} {{料理}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよくし}} [[Category:食事|*]] [[nl:Eten#Maaltijden]] [[pl:Obiad]]
2003-02-15T22:39:06Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E4%BA%8B
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ソニー
ソニー株式会社(英: Sony Corporation)は、日本の総合電機メーカーであり、テレビ・デジタルカメラ・スマホ開発事業、ネットワークサービス事業、映像制作ソリューション事業、ライフサイエンス事業を展開するエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)事業を担うソニーグループの企業である。 2021年4月1日のグループ再編以前の法人(旧:東京通信工業株式会社、現:ソニーグループ株式会社)と、以降の法人は別の法人格であるが、商号・営業上は連続しているため、以下では特記しない限り、「ソニー」を名乗った法人について連続して扱う。 1946年に井深大、盛田昭夫、太刀川正三郎らが、日本の東京都中央区日本橋にあった百貨店・白木屋の3階の一室を借りる形で事務所兼工場を設けて創業した。創業当初は中央区・日本橋に拠点を置いていたが、その1年後の1947年には品川区・北品川(御殿山エリア)に移転した。以後約60年間にわたって同地区に分散する形で、多数の関連施設が並ぶ状況だった。このことから「ソニー村」といわれたこともあった。2007年には、港区に建設されたソニーシティに本社が移転され、分散していた施設群のほとんどもソニーシティに統合された。 社名でありブランドであるソニー(Sony)の商号は1955年より使用されており、音を意味する英語の「Sonic」、およびラテン語の「Sonus」と男の子(坊や)を意味する英語の「Sonny」に由来している。その際、日本人が「Sonny」を「ソンニー」と発音し「損」を連想させてしまうことを懸念した盛田が、そこから「n」を1つ取ったことで「Sony」となった。またブランド名を全面的に押し出したカタカナ語の社名への変更は、株主やメインバンクの三井銀行からも当初は反対され、「ソニー電子工業」や「ソニー電気」にすべきと提案されたが、盛田は断として、「我々が世界で伸びるため、断固、ソニー株式会社でいくべきだ」とこだわり、側が折れる形で「ソニー」という社名に落ち着いたともされている。 かつては独立研究所として「ソニー中央研究所」「ソニー木原研究所」「ソニー中村研究所」「ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所」「ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)」 を擁していたが、中央研究所は1990年代後半に、2006年までにCSL以外のその他の研究所も本社に統合された。 1945年(昭和20年)9月、東京での新会社創設のため、井深大が、太刀川正三郎、樋口晃などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京。 同年10月、井深らが東京・日本橋の白木屋3階の一室に「東京通信研究所」を立ち上げる。参加した20名のうち、主なメンバーは、以前に井深が設立に関与し、技術担当重役も務めていた日本測定器の若い社員7名であった。この小さな研究所兼工場が、現在のソニーを生み出す母体となった。 のちに朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が、戦時中に井深と親交のあった盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。 1946年(昭和21年)、井深、盛田、太刀川などを中心に東京通信工業株式会社(とうきょうつうしんこうぎょう、略:東通工〈とうつうこう〉、英: Tokyo Telecommunications Engineering Corporation)として創業。創業当初は真空管電圧計の製造、販売を行っていた。資本金19万円で、井深の義父である前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田が取締役(営業担当)、太刀川が取締役(経理財務担当)、増谷麟が監査役、社員30名弱。東通工の設立趣意書には と記されている。 1950年(昭和25年)には日本初のテープレコーダー(当時はテープコーダーと呼称)を開発。この頃にテープレコーダーの音質にクレームをつけにきた大賀典雄が合流している。オランダのフィリップス社のような大会社を目指して輸出に注力する方針を立てた東通工は、トランジスタの自社生産に乗り出し、1955年(昭和30年)、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。 また、製品すべてに「SONY」のマークを入れることにした。「SONY」以外に考えられたブランド名には、東京通信工業の頭文字である「TTK」や、略称である東通工のローマ字表記「Totsuko」、また東京通信工業を英訳した「Tokyo Teletec」などがあった。しかし、「TTK」は東洋陶器(現・TOTO)やTTKグループ(英語版)が略称あるいは商標として用いていた事から、候補から外れた。「Totsuko」は、盛田がアメリカに出張した際、当時のアメリカ支社の社員が発音に苦労しており、英語話者にとって発音が難しいことが分かったため、候補から外れた。「Teletec」については、同じ名のブランドを持つ企業がアメリカにあることが分かり、断念した。 1957年(昭和32年)のトランジスタラジオ「TR-63」は、輸出機として大成功をおさめた。 1958年(昭和33年)1月に東京通信工業株式会社からソニー株式会社に改称。改称にあたっては、主要取引銀行である三井銀行から、すでに東京通信工業が日本国内で知名度を得ていることや、ソニー単独では何の会社か分からないことから、反対の意見が出た。銀行は、「Sony」にどういった会社なのかを示すために「Sony Electronic Industries」や「Sony Teletech」などの社名を提案した。 また社内でも、東京通信工業という社名に愛着を持っている一部の社員たちは、社名変更に反対した。しかし、盛田たちは「Tokyo Tsushin Kogyo」では世界的な認知度を得ることは難しいと考えており、また社名に「Electronic」などの電機関係の言葉をつけることについても「ソニーが将来、エレクトロニクスの会社であるとは限らない」という趣旨を伝え、「ソニー」の社名を押し切った。 同年、東京証券取引所市場第一部に上場を果たした。すでに東京通信工業傘下の国内販売会社は、この前年に「ソニー商事」に社名を変更していた。この販売会社の社名変更に大きな混乱はなく、むしろ認知度は上がり、業績が伸びていたことも銀行への説得材料となった。1954年5月、仙台工場(現・仙台テクノロジーセンター、宮城県多賀城市)を設立。 1960年(昭和35年)には、米国に現地法人を設置し自ら販売活動を始め、翌1961年(昭和36年)には日本企業として初めて株式の米国預託証券 (ADR) 発行が日本政府から認められた。また1960年にはスイスに法人を設置してヨーロッパの販売代理店の統括を行うが、1968年(昭和43年)にソニーUKを設置したのを皮切りに国ごとに現地法人を設置していく。1960年(昭和35年)11月に、ソニー厚木工場(現・厚木テクノロジーセンター)開設。 トランジスタの研究開発と応用を進め、1959年(昭和34年)に世界初の直視型ポータブル・トランジスタテレビを発売するが売れず。1961年(昭和36年)には世界初のビデオテープレコーダー(以下、VTR)「SV-201」を開発、1967年(同42)にはトランジスタ電卓を発売した。1964年(昭和39年)には世界初の家庭用オールトランジスタVTR を発表する。その一方で放送用音響機器事業からは一度撤退する。 カラーテレビの開発では出遅れ、良好な画質のカラーテレビを目指して1961年(昭和36年)にクロマトロンの開発に取り組むが量産に至らず、1967年(昭和42年)にトリニトロンカラーテレビの開発に成功した。 この時期はエレクトロニクス製品以外の事業にも進出。1961年(昭和36年)にはショールームの建設のため不動産管理会社ソニー企業を設立。1968年(昭和43年)には米国のCBSと合弁でレコード会社CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント〈SMEJ〉)を設立し、1988年には米国コロムビア・レコードを買収した。 1970年代は家庭用VTRの普及をめざし、1970年(昭和45年)に松下電器産業・日本ビクターなどと共同してビデオカセット規格「U規格」を立ち上げる。1971年(昭和46年)に対応製品「Uマチック」を発売するが成功せず、1975年(昭和50年)に小型化・低価格化を図ったビデオカセット規格「ベータマックス」を発売する。ベータマックスは日本ビクターが開発した家庭用VTRビデオカセット規格「VHS」と、家電業界を二分する激しい規格争い(ビデオ戦争)を繰り広げたが、結局1988年(昭和63年)にVHS機を並売する形で決着した。一方でCCDを利用したカラーカメラとビデオカセットレコーダーを組み合わせた製品(いわゆるカムコーダ)の開発に取り組み、規格統一を図り1985年(昭和60年)に8ミリビデオとして発表した。 業務用VTRではテレビ放送局用の「Uマチック」を開発して放送用機材事業に再参入し、放送局のフィルム取材からビデオ取材 への移行を促した。ベータマックスをベースに開発された1981年の「ベータカム」はENG市場の95%を占めるスタンダードとなった。VTRのデジタル化、コンピュータ化にも取り組み、1980年代後半から対応製品の販売を始めた。 オーディオ製品においては1960年代からフィリップス社のコンパクトカセット規格のテープレコーダーの製造・販売を行っていたが、若者向け製品としてヘッドフォンで音楽を聴く形式の携帯型カセットテーププレイヤー「ウォークマン」を1979年に発売。1995年度に生産累計が1億5,000万台に達した。日本国立科学博物館に重要科学技術史資料として登録された際には「音楽リスニングを大きく変えた」と評価されている。 1975年(昭和50年)には米国のユニオンカーバイド社と合弁で電池事業を始めたが、1986年(昭和61年)にユニオンカーバイド社の経営難から合弁を解消し、単独で事業を継続。電池の研究開発を始めリチウムイオン電池を開発、1990年(平成2年)に製品化を発表した。 1979年(昭和54年)にはソニー・プルデンシャル生命保険を設立 し保険事業に参入した。 オーディオのデジタル化にも取り組み、フィリップス社と共同してCDを開発、CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)からのソフトとディスク生産体制の提供を受け1982年(昭和57年)に発売した。1984年(昭和59年)には携帯型CDプレイヤーを発売。 CD以降はユーザーが記録可能な光ディスクの開発にも取り組み、1988年(昭和63年)に光磁気ディスク(MO)を発売した。そして、1992年(平成4年)にMD規格を立ち上げた。映像を記録する光ディスクについてはフィリップス社との共同開発が試みられたが、最終的に規格統一に合意し、DVD規格の立ち上げに参画した。 1970年代末からコンピュータ関連機器の開発に取り組み、1980年(昭和55年)に英文ワープロとポータブル液晶ディスプレイつきタイプライターを発売。1982年(昭和57年)には「SMC-70」を発売してパソコン市場に参入、さらに1983年(昭和58年)には「HitBit」ブランドでホビーパソコン規格MSXへの参入も行った。しかし1980年代に開発されたこれらの商品群は、英文ワープロ用に開発した3.5インチフロッピーディスクこそ、のちのデファクトスタンダードとなったものの、多くは鳴かず飛ばずに終わった。この理由としては、当時メジャーなAppleやNECの言語を使わず、自社の"Sony Basic"を組み込んでいたことなどがあげられる。 また、1984年(昭和59年)には第二電電(DDI、現KDDI)の設立に関与している。そのため、当時発売していた固定電話機に搭載されていたLCRはDDIの「α-LCR」であったほか、DDIセルラーグループにも1989年の開業当初から携帯電話端末を供給していた。 1989年(平成元年)にはコロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメントを買収して映画事業に参入 している。 1991年、ソニー生命保険株式会社が発足。1993年(平成5年)、ソニー・コンピュータエンタテインメントを設立し家庭用ゲーム機事業に参入 した。1995年(平成7年)にはソニーコミュニケーションネットワーク株式会社を設立しISP事業に参入、翌年からSo-netを開始した。また、1995年には最高財務責任者(CFO)を日本の企業ではじめて導入をする。 1996年(平成8年)、「VAIO」ブランドでパソコンに再度参入する。また携帯電話会社に対して携帯電話端末の供給を行っていたが、2001年(平成13年)にはエリクソン社と合弁でソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを設立し、携帯電話端末の開発・販売を行うことにした。 2002年(平成14年)にはフィリップス社やパナソニックなど9社共同でBlu-ray Disc規格を策定した。2004年、ソニーフィナンシャルホールディングスが発足する。 ゲーム事業を担っているソニー・コンピュータエンタテインメントは、2012年(平成24年)3月期以降3期連続の債務超過となっており、債務保証を行っていたが、2017年3月期決算で債務超過は解消している。 また2012年(平成24年)エリクソンから株式を取得してソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを完全子会社とし、携帯電話端末事業がソニー単体の事業に戻った。 2014年(平成26年)7月にはテレビ事業を分社化し、ソニービジュアルプロダクツ設立。またテレビ事業は10年連続で赤字が続き、リストラを繰り返しており、2017年(平成29年)の売上目標は当初の見通しより低く抑えている。同年パーソナルコンピュータVAIO事業を売却。また利益重視の姿勢を打ち出し、国際サッカー連盟のスポンサーを降板。 2015年(平成27年)オンラインゲーム子会社ソニー・オンライン・エンタテインメントをコロンバス・ノバに売却。SOEはソニーのプラットフォーム以外にもソフトを供給できるようになる。10月にはビデオ&サウンド事業を分社化しソニービデオ&サウンドプロダクツを設立。 2016年(平成28年)4月には半導体事業を分社化し、ソニーセミコンダクタソリューションズを設立。 2017年(平成29年)4月には民生用カメラ事業や業務用製品事業を分社化し、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズを設立。 2018年(平成30年)10月より、日立ブランド薄型テレビ&BDレコーダー「Wooo」の国内販売終了に伴い、「ブラビア」をはじめとするソニー製品を日立系列店「日立チェーンストール」にも供給開始した。 2019年(平成31年)4月、テレビ事業を担うソニービデオ&サウンドプロダクツとビデオ及びサウンド事業を担うソニービジュアルプロダクツが統合し、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツが発足した。 2020年(令和2年)4月1日、エレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション分野を統括する中間持株会社である、ソニーエレクトロニクス株式会社を設立。 2021年(令和3年)4月1日に、ソニー株式会社(初代法人)がソニーグループ株式会社に商号を変更。また、ソニー株式会社(初代法人)のエレクトロニクス事業と、ソニーエレクトロニクス、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ、ソニーモバイルコミュニケーションズ(存続会社)が統合し、ソニー株式会社(二代目法人)が誕生。3月には3月期連結決算(2020年度連結業績)で純利益を初めて1兆円の大台に乗せた。 オーディオ オーディオ・ビジュアル カメラ分野 コンピュータ コンポーネント 番外編 NHK「魔改造の夜」第5弾に「Sニー」チームとして出演。T京アールアンドデー、Aエイチ・アイらと対戦した。ちなみに、「ネコちゃん落下25m走」に投入した改造ネコ型玩具の名前は「ArukuNyan」であった。ロゴはウォークマンのものとそっくりであり、オマージュとしてネコはヘッドホンをしていた。 テレビ ブルーレイディスクレコーダー Ultra HD ブルーレイディスクプレーヤー ブルーレイディスクプレーヤー 電子ブックリーダー デジタルカメラ ビデオカメラ 携帯電話・スマートフォン ラジオ受信機 オーディオ ポータブルオーディオプレーヤー ワイヤレスステレオヘッドセット ICレコーダー IC記録メディア ペットロボット 業務用映像機器 半導体 メディカル・ライフサイエンス関連機器 規格争いを目的とせず、ソニー製品のために用意されたが、しだいに他社も流用するようになり結果としてデファクトスタンダードとして普及した規格を記載する。 当社が世界あるいは日本で初めて実用化ないし製品化・商品化された製品を記載する。要素技術を発明・新開発したものではないものも含まれる。 「SONY」が商標登録された1955年に、社名の周りが四角で囲まれたロゴマークが最初に制作された。その後、1957年に四角が取り払われ、文字のデザインが変更されて以降、年を経るごとにデザインが少しずつ修正されていった。 1961年、香港に日本企業初のネオンサインを掲げる際、2代目のロゴはネオンサインに合わないという理由で修正することになる。デザイナーの黒木靖夫 は、当時ソニー副社長だった盛田から指名され、苦心を重ねて新しいロゴを制作した。こうした努力の結果、黒木のロゴはネオンサイン限定のデザインとはならず、1962年に発売したマイクロテレビの広告で、3代目のロゴとして正式に採用された。 3代目のロゴが作られて以降、さらに磨きのかかったロゴに仕上げるため、大賀典雄が室長を務める デザイン室にはロゴ専用の委員会が設置された。さらに、1962年に4代目のロゴになってからは使用規定も追加され、コーポレートデザインの実現を目指すようになった。 使用規定にはロゴマーク(コーポレートロゴ)との混同を避けるため、ソニーが発信する文書にはすべて大文字での「SONY」を使用せず、「ソニー」あるいは 「Sony」を使用するように、という記述がある(たとえば 「SONY CORPORATION」などのようにすべて大文字で表示する必要がある場合を除く)。 1973年、最初のロゴから数えて6代目のロゴが制作され、現在に至る。 なお、東通工時代を含む創立35周年を迎えた1981年に、7代目となるロゴを制作しようと全世界を対象にデザインを公募したものの、井深や盛田が「今のロゴのほうが明快でいい」と話したため、制作は中止となった。 1982年、これまでの「SONY」と刻まれたロゴに加えて、「SONY」の「S」がデザインされたイメージが新たに作られた。さらに、盛田の提案により「It's a Sony」(イッツ・ア・ソニー)と英語ナレーションが流れるサウンドロゴもテレビCM用に加えられた。これ以降、コマーシャルの最後に「絵」と「音」を使ったブランドメッセージが使用されるようになった。 2009年、世界共通のブランドメッセージとして「make.believe」(メイク・ドット・ビリーブ)を新たに導入した。グループの複数の事業に対して共通のブランドメッセージが使用されたのは初めてとなる。 2018年、コマーシャルにおけるブランドメッセージはモーションロゴ(ロゴマークとサウンドロゴ)のみとなっている。サウンドロゴはピアノの単音を使用しており、直後に「SONY」とナレーションが流れるバージョンも存在する。モーションロゴはコロンビア ピクチャーズ、トライスター ピクチャーズ、スクリーン ジェムズのオープニングロゴにも使用されている。 2021年にモーションロゴがリニューアルされ、ロゴマーク出現時にグラデーション効果が施された。 また、テレビ放送では短縮版も存在しており、ロゴは、ソニー・ピクチャーズ テレビジョンまたは、トライスター・プロダクションズのサウンドロゴと一緒に使用されている。この場合時のみピアノの単音は流れない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ソニー株式会社(英: Sony Corporation)は、日本の総合電機メーカーであり、テレビ・デジタルカメラ・スマホ開発事業、ネットワークサービス事業、映像制作ソリューション事業、ライフサイエンス事業を展開するエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)事業を担うソニーグループの企業である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2021年4月1日のグループ再編以前の法人(旧:東京通信工業株式会社、現:ソニーグループ株式会社)と、以降の法人は別の法人格であるが、商号・営業上は連続しているため、以下では特記しない限り、「ソニー」を名乗った法人について連続して扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1946年に井深大、盛田昭夫、太刀川正三郎らが、日本の東京都中央区日本橋にあった百貨店・白木屋の3階の一室を借りる形で事務所兼工場を設けて創業した。創業当初は中央区・日本橋に拠点を置いていたが、その1年後の1947年には品川区・北品川(御殿山エリア)に移転した。以後約60年間にわたって同地区に分散する形で、多数の関連施設が並ぶ状況だった。このことから「ソニー村」といわれたこともあった。2007年には、港区に建設されたソニーシティに本社が移転され、分散していた施設群のほとんどもソニーシティに統合された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "社名でありブランドであるソニー(Sony)の商号は1955年より使用されており、音を意味する英語の「Sonic」、およびラテン語の「Sonus」と男の子(坊や)を意味する英語の「Sonny」に由来している。その際、日本人が「Sonny」を「ソンニー」と発音し「損」を連想させてしまうことを懸念した盛田が、そこから「n」を1つ取ったことで「Sony」となった。またブランド名を全面的に押し出したカタカナ語の社名への変更は、株主やメインバンクの三井銀行からも当初は反対され、「ソニー電子工業」や「ソニー電気」にすべきと提案されたが、盛田は断として、「我々が世界で伸びるため、断固、ソニー株式会社でいくべきだ」とこだわり、側が折れる形で「ソニー」という社名に落ち着いたともされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつては独立研究所として「ソニー中央研究所」「ソニー木原研究所」「ソニー中村研究所」「ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所」「ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)」 を擁していたが、中央研究所は1990年代後半に、2006年までにCSL以外のその他の研究所も本社に統合された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)9月、東京での新会社創設のため、井深大が、太刀川正三郎、樋口晃などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同年10月、井深らが東京・日本橋の白木屋3階の一室に「東京通信研究所」を立ち上げる。参加した20名のうち、主なメンバーは、以前に井深が設立に関与し、技術担当重役も務めていた日本測定器の若い社員7名であった。この小さな研究所兼工場が、現在のソニーを生み出す母体となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "のちに朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が、戦時中に井深と親交のあった盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)、井深、盛田、太刀川などを中心に東京通信工業株式会社(とうきょうつうしんこうぎょう、略:東通工〈とうつうこう〉、英: Tokyo Telecommunications Engineering Corporation)として創業。創業当初は真空管電圧計の製造、販売を行っていた。資本金19万円で、井深の義父である前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田が取締役(営業担当)、太刀川が取締役(経理財務担当)、増谷麟が監査役、社員30名弱。東通工の設立趣意書には", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "と記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)には日本初のテープレコーダー(当時はテープコーダーと呼称)を開発。この頃にテープレコーダーの音質にクレームをつけにきた大賀典雄が合流している。オランダのフィリップス社のような大会社を目指して輸出に注力する方針を立てた東通工は、トランジスタの自社生産に乗り出し、1955年(昭和30年)、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、製品すべてに「SONY」のマークを入れることにした。「SONY」以外に考えられたブランド名には、東京通信工業の頭文字である「TTK」や、略称である東通工のローマ字表記「Totsuko」、また東京通信工業を英訳した「Tokyo Teletec」などがあった。しかし、「TTK」は東洋陶器(現・TOTO)やTTKグループ(英語版)が略称あるいは商標として用いていた事から、候補から外れた。「Totsuko」は、盛田がアメリカに出張した際、当時のアメリカ支社の社員が発音に苦労しており、英語話者にとって発音が難しいことが分かったため、候補から外れた。「Teletec」については、同じ名のブランドを持つ企業がアメリカにあることが分かり、断念した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)のトランジスタラジオ「TR-63」は、輸出機として大成功をおさめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)1月に東京通信工業株式会社からソニー株式会社に改称。改称にあたっては、主要取引銀行である三井銀行から、すでに東京通信工業が日本国内で知名度を得ていることや、ソニー単独では何の会社か分からないことから、反対の意見が出た。銀行は、「Sony」にどういった会社なのかを示すために「Sony Electronic Industries」や「Sony Teletech」などの社名を提案した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また社内でも、東京通信工業という社名に愛着を持っている一部の社員たちは、社名変更に反対した。しかし、盛田たちは「Tokyo Tsushin Kogyo」では世界的な認知度を得ることは難しいと考えており、また社名に「Electronic」などの電機関係の言葉をつけることについても「ソニーが将来、エレクトロニクスの会社であるとは限らない」という趣旨を伝え、「ソニー」の社名を押し切った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "同年、東京証券取引所市場第一部に上場を果たした。すでに東京通信工業傘下の国内販売会社は、この前年に「ソニー商事」に社名を変更していた。この販売会社の社名変更に大きな混乱はなく、むしろ認知度は上がり、業績が伸びていたことも銀行への説得材料となった。1954年5月、仙台工場(現・仙台テクノロジーセンター、宮城県多賀城市)を設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)には、米国に現地法人を設置し自ら販売活動を始め、翌1961年(昭和36年)には日本企業として初めて株式の米国預託証券 (ADR) 発行が日本政府から認められた。また1960年にはスイスに法人を設置してヨーロッパの販売代理店の統括を行うが、1968年(昭和43年)にソニーUKを設置したのを皮切りに国ごとに現地法人を設置していく。1960年(昭和35年)11月に、ソニー厚木工場(現・厚木テクノロジーセンター)開設。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "トランジスタの研究開発と応用を進め、1959年(昭和34年)に世界初の直視型ポータブル・トランジスタテレビを発売するが売れず。1961年(昭和36年)には世界初のビデオテープレコーダー(以下、VTR)「SV-201」を開発、1967年(同42)にはトランジスタ電卓を発売した。1964年(昭和39年)には世界初の家庭用オールトランジスタVTR を発表する。その一方で放送用音響機器事業からは一度撤退する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "カラーテレビの開発では出遅れ、良好な画質のカラーテレビを目指して1961年(昭和36年)にクロマトロンの開発に取り組むが量産に至らず、1967年(昭和42年)にトリニトロンカラーテレビの開発に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この時期はエレクトロニクス製品以外の事業にも進出。1961年(昭和36年)にはショールームの建設のため不動産管理会社ソニー企業を設立。1968年(昭和43年)には米国のCBSと合弁でレコード会社CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント〈SMEJ〉)を設立し、1988年には米国コロムビア・レコードを買収した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1970年代は家庭用VTRの普及をめざし、1970年(昭和45年)に松下電器産業・日本ビクターなどと共同してビデオカセット規格「U規格」を立ち上げる。1971年(昭和46年)に対応製品「Uマチック」を発売するが成功せず、1975年(昭和50年)に小型化・低価格化を図ったビデオカセット規格「ベータマックス」を発売する。ベータマックスは日本ビクターが開発した家庭用VTRビデオカセット規格「VHS」と、家電業界を二分する激しい規格争い(ビデオ戦争)を繰り広げたが、結局1988年(昭和63年)にVHS機を並売する形で決着した。一方でCCDを利用したカラーカメラとビデオカセットレコーダーを組み合わせた製品(いわゆるカムコーダ)の開発に取り組み、規格統一を図り1985年(昭和60年)に8ミリビデオとして発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "業務用VTRではテレビ放送局用の「Uマチック」を開発して放送用機材事業に再参入し、放送局のフィルム取材からビデオ取材 への移行を促した。ベータマックスをベースに開発された1981年の「ベータカム」はENG市場の95%を占めるスタンダードとなった。VTRのデジタル化、コンピュータ化にも取り組み、1980年代後半から対応製品の販売を始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オーディオ製品においては1960年代からフィリップス社のコンパクトカセット規格のテープレコーダーの製造・販売を行っていたが、若者向け製品としてヘッドフォンで音楽を聴く形式の携帯型カセットテーププレイヤー「ウォークマン」を1979年に発売。1995年度に生産累計が1億5,000万台に達した。日本国立科学博物館に重要科学技術史資料として登録された際には「音楽リスニングを大きく変えた」と評価されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1975年(昭和50年)には米国のユニオンカーバイド社と合弁で電池事業を始めたが、1986年(昭和61年)にユニオンカーバイド社の経営難から合弁を解消し、単独で事業を継続。電池の研究開発を始めリチウムイオン電池を開発、1990年(平成2年)に製品化を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)にはソニー・プルデンシャル生命保険を設立 し保険事業に参入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "オーディオのデジタル化にも取り組み、フィリップス社と共同してCDを開発、CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)からのソフトとディスク生産体制の提供を受け1982年(昭和57年)に発売した。1984年(昭和59年)には携帯型CDプレイヤーを発売。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "CD以降はユーザーが記録可能な光ディスクの開発にも取り組み、1988年(昭和63年)に光磁気ディスク(MO)を発売した。そして、1992年(平成4年)にMD規格を立ち上げた。映像を記録する光ディスクについてはフィリップス社との共同開発が試みられたが、最終的に規格統一に合意し、DVD規格の立ち上げに参画した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1970年代末からコンピュータ関連機器の開発に取り組み、1980年(昭和55年)に英文ワープロとポータブル液晶ディスプレイつきタイプライターを発売。1982年(昭和57年)には「SMC-70」を発売してパソコン市場に参入、さらに1983年(昭和58年)には「HitBit」ブランドでホビーパソコン規格MSXへの参入も行った。しかし1980年代に開発されたこれらの商品群は、英文ワープロ用に開発した3.5インチフロッピーディスクこそ、のちのデファクトスタンダードとなったものの、多くは鳴かず飛ばずに終わった。この理由としては、当時メジャーなAppleやNECの言語を使わず、自社の\"Sony Basic\"を組み込んでいたことなどがあげられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、1984年(昭和59年)には第二電電(DDI、現KDDI)の設立に関与している。そのため、当時発売していた固定電話機に搭載されていたLCRはDDIの「α-LCR」であったほか、DDIセルラーグループにも1989年の開業当初から携帯電話端末を供給していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)にはコロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメントを買収して映画事業に参入 している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1991年、ソニー生命保険株式会社が発足。1993年(平成5年)、ソニー・コンピュータエンタテインメントを設立し家庭用ゲーム機事業に参入 した。1995年(平成7年)にはソニーコミュニケーションネットワーク株式会社を設立しISP事業に参入、翌年からSo-netを開始した。また、1995年には最高財務責任者(CFO)を日本の企業ではじめて導入をする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)、「VAIO」ブランドでパソコンに再度参入する。また携帯電話会社に対して携帯電話端末の供給を行っていたが、2001年(平成13年)にはエリクソン社と合弁でソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを設立し、携帯電話端末の開発・販売を行うことにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)にはフィリップス社やパナソニックなど9社共同でBlu-ray Disc規格を策定した。2004年、ソニーフィナンシャルホールディングスが発足する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ゲーム事業を担っているソニー・コンピュータエンタテインメントは、2012年(平成24年)3月期以降3期連続の債務超過となっており、債務保証を行っていたが、2017年3月期決算で債務超過は解消している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また2012年(平成24年)エリクソンから株式を取得してソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを完全子会社とし、携帯電話端末事業がソニー単体の事業に戻った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2014年(平成26年)7月にはテレビ事業を分社化し、ソニービジュアルプロダクツ設立。またテレビ事業は10年連続で赤字が続き、リストラを繰り返しており、2017年(平成29年)の売上目標は当初の見通しより低く抑えている。同年パーソナルコンピュータVAIO事業を売却。また利益重視の姿勢を打ち出し、国際サッカー連盟のスポンサーを降板。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)オンラインゲーム子会社ソニー・オンライン・エンタテインメントをコロンバス・ノバに売却。SOEはソニーのプラットフォーム以外にもソフトを供給できるようになる。10月にはビデオ&サウンド事業を分社化しソニービデオ&サウンドプロダクツを設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)4月には半導体事業を分社化し、ソニーセミコンダクタソリューションズを設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)4月には民生用カメラ事業や業務用製品事業を分社化し、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズを設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)10月より、日立ブランド薄型テレビ&BDレコーダー「Wooo」の国内販売終了に伴い、「ブラビア」をはじめとするソニー製品を日立系列店「日立チェーンストール」にも供給開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年(平成31年)4月、テレビ事業を担うソニービデオ&サウンドプロダクツとビデオ及びサウンド事業を担うソニービジュアルプロダクツが統合し、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツが発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)4月1日、エレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション分野を統括する中間持株会社である、ソニーエレクトロニクス株式会社を設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)4月1日に、ソニー株式会社(初代法人)がソニーグループ株式会社に商号を変更。また、ソニー株式会社(初代法人)のエレクトロニクス事業と、ソニーエレクトロニクス、ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ、ソニーモバイルコミュニケーションズ(存続会社)が統合し、ソニー株式会社(二代目法人)が誕生。3月には3月期連結決算(2020年度連結業績)で純利益を初めて1兆円の大台に乗せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "オーディオ", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オーディオ・ビジュアル", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "カメラ分野", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コンピュータ", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コンポーネント", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "番外編", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "NHK「魔改造の夜」第5弾に「Sニー」チームとして出演。T京アールアンドデー、Aエイチ・アイらと対戦した。ちなみに、「ネコちゃん落下25m走」に投入した改造ネコ型玩具の名前は「ArukuNyan」であった。ロゴはウォークマンのものとそっくりであり、オマージュとしてネコはヘッドホンをしていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "テレビ", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ブルーレイディスクレコーダー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "Ultra HD ブルーレイディスクプレーヤー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ブルーレイディスクプレーヤー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "電子ブックリーダー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "デジタルカメラ", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ビデオカメラ", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "携帯電話・スマートフォン", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ラジオ受信機", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "オーディオ", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ポータブルオーディオプレーヤー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ワイヤレスステレオヘッドセット", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ICレコーダー", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "IC記録メディア", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ペットロボット", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "業務用映像機器", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "半導体", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "メディカル・ライフサイエンス関連機器", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "規格争いを目的とせず、ソニー製品のために用意されたが、しだいに他社も流用するようになり結果としてデファクトスタンダードとして普及した規格を記載する。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "当社が世界あるいは日本で初めて実用化ないし製品化・商品化された製品を記載する。要素技術を発明・新開発したものではないものも含まれる。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "「SONY」が商標登録された1955年に、社名の周りが四角で囲まれたロゴマークが最初に制作された。その後、1957年に四角が取り払われ、文字のデザインが変更されて以降、年を経るごとにデザインが少しずつ修正されていった。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1961年、香港に日本企業初のネオンサインを掲げる際、2代目のロゴはネオンサインに合わないという理由で修正することになる。デザイナーの黒木靖夫 は、当時ソニー副社長だった盛田から指名され、苦心を重ねて新しいロゴを制作した。こうした努力の結果、黒木のロゴはネオンサイン限定のデザインとはならず、1962年に発売したマイクロテレビの広告で、3代目のロゴとして正式に採用された。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "3代目のロゴが作られて以降、さらに磨きのかかったロゴに仕上げるため、大賀典雄が室長を務める デザイン室にはロゴ専用の委員会が設置された。さらに、1962年に4代目のロゴになってからは使用規定も追加され、コーポレートデザインの実現を目指すようになった。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "使用規定にはロゴマーク(コーポレートロゴ)との混同を避けるため、ソニーが発信する文書にはすべて大文字での「SONY」を使用せず、「ソニー」あるいは 「Sony」を使用するように、という記述がある(たとえば 「SONY CORPORATION」などのようにすべて大文字で表示する必要がある場合を除く)。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1973年、最初のロゴから数えて6代目のロゴが制作され、現在に至る。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "なお、東通工時代を含む創立35周年を迎えた1981年に、7代目となるロゴを制作しようと全世界を対象にデザインを公募したものの、井深や盛田が「今のロゴのほうが明快でいい」と話したため、制作は中止となった。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1982年、これまでの「SONY」と刻まれたロゴに加えて、「SONY」の「S」がデザインされたイメージが新たに作られた。さらに、盛田の提案により「It's a Sony」(イッツ・ア・ソニー)と英語ナレーションが流れるサウンドロゴもテレビCM用に加えられた。これ以降、コマーシャルの最後に「絵」と「音」を使ったブランドメッセージが使用されるようになった。", "title": "ブランドメッセージ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2009年、世界共通のブランドメッセージとして「make.believe」(メイク・ドット・ビリーブ)を新たに導入した。グループの複数の事業に対して共通のブランドメッセージが使用されたのは初めてとなる。", "title": "ブランドメッセージ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2018年、コマーシャルにおけるブランドメッセージはモーションロゴ(ロゴマークとサウンドロゴ)のみとなっている。サウンドロゴはピアノの単音を使用しており、直後に「SONY」とナレーションが流れるバージョンも存在する。モーションロゴはコロンビア ピクチャーズ、トライスター ピクチャーズ、スクリーン ジェムズのオープニングロゴにも使用されている。", "title": "ブランドメッセージ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2021年にモーションロゴがリニューアルされ、ロゴマーク出現時にグラデーション効果が施された。", "title": "ブランドメッセージ" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、テレビ放送では短縮版も存在しており、ロゴは、ソニー・ピクチャーズ テレビジョンまたは、トライスター・プロダクションズのサウンドロゴと一緒に使用されている。この場合時のみピアノの単音は流れない。", "title": "ブランドメッセージ" } ]
ソニー株式会社は、日本の総合電機メーカーであり、テレビ・デジタルカメラ・スマホ開発事業、ネットワークサービス事業、映像制作ソリューション事業、ライフサイエンス事業を展開するエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)事業を担うソニーグループの企業である。 2021年4月1日のグループ再編以前の法人と、以降の法人は別の法人格であるが、商号・営業上は連続しているため、以下では特記しない限り、「ソニー」を名乗った法人について連続して扱う。
{{Otheruseslist|日本の電機メーカーであるソニー|親会社|ソニーグループ|アメリカのプロボクサー|ソニー・リストン}} {{Pathnav|ソニーグループ|frame=1}} {{基礎情報 会社 | 社名 = ソニー株式会社 | 英文社名 = Sony Corporation | ロゴ = [[File:Sony logo.svg|220px]] | 画像 = [[File:Sony headquarters (crop).jpg|250px]] | 画像説明 = 本社 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査役設置会社]]<ref>[https://www.sony.co.jp/corporate/ 会社概要] - ソニー株式会社</ref> | 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> | 略称 = SONY | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 108-0075 | 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]一丁目7番1号<br />[[ソニーシティ]] | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 37 | 本社緯度秒 = 52.3 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 44 | 本社経度秒 = 37.5 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 本店緯度度 = | 本店緯度分 = | 本店緯度秒 = | 本店N(北緯)及びS(南緯) = | 本店経度度 = | 本店経度分 = | 本店経度秒 = | 本店E(東経)及びW(西経) = | 本店地図国コード = | 設立 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[10月1日]]<br />([[ソニーモバイルコミュニケーションズ|ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ株式会社]]) | 業種 = 3650 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[オーディオ]]、ビデオ機器<br />[[テレビ]]<br />情報、通信機器<br />[[半導体]]<br />メディア<br />([[#現行|主要商品]]を参照) | 代表者 = 槙公雄(代表取締役社長) | 資本金 = 30億円 | 発行済株式総数 = | 売上高 = * 1兆4881億6400万円 (2023年3月期)<ref name="fy">第23期決算公告、2023年(令和年)6月21日付「官報」(号外第130号)103頁。</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 数値は通期のため、売上高は〇年〇月期と記載してください --> | 営業利益 = * 633億2500万円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 数値は通期のため、営業利益は〇年〇月期と記載してください --> | 経常利益 = * 837億9500万円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 数値は通期のため、経常利益は〇年〇月期と記載してください --> | 純利益 = * 721億4800万円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 数値は通期のため、純利益は〇年〇月期と記載してください --> | 純資産 = * 1992億5100万円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = * 5115億1300万円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 約9,000名(2023年4月1日現在) | 支店舗数 = | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = | 所有者 = | 主要株主 = [[ソニーグループ]] 100% | 主要部門 = | 主要子会社 = {{Plainlist| * [[ソニーマーケティング]] * [[ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ]] * [[ソニーネットワークコミュニケーションズ]] * Sony Electronics Inc. * Sony Europe BV * 索尼(中国)有限公司 * Sony Electronics Asia Pacific Pte. Ltd. }} | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.sony.co.jp/ | 特記事項 = 旧・ソニー株式会社(1946年5月7日設立)は[[持株会社]]制移行により[[2021年]][[4月1日]]に[[ソニーグループ]]株式会社に改組。同時に、[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]]が[[ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ]]、[[ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ]]、[[ソニーエレクトロニクス]]を吸収合併し、(2代目)ソニー株式会社に商号変更。 }} '''ソニー株式会社'''({{Lang-en-short|Sony Corporation}})は、[[日本]]の総合[[電機メーカー]]であり、テレビ・デジタルカメラ・スマホ開発事業、ネットワークサービス事業、映像制作ソリューション事業、[[生命科学|ライフサイエンス]]事業を展開するエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)事業を担う[[ソニーグループ]]の企業である<ref>{{Cite web|和書|title=大河原克行のNewsInsight(162) 生まれ変わるソニーのエレクトロニクス、新しい成長の柱が見えてきた |url=https://news.mynavi.jp/article/newsinsight-162/ |website=マイナビニュース |date=2022-06-01 |access-date=2023-03-05 |language=ja}}</ref>。 [[2021年]][[4月1日]]のグループ再編以前の法人(旧:[[東京通信工業|東京通信工業株式会社]]、現:[[ソニーグループ|ソニーグループ株式会社]])と、以降の法人は別の法人格であるが、商号・営業上は連続しているため、以下では特記しない限り、「ソニー」を名乗った法人について連続して扱う。 == 概要 == 1946年に[[井深大]]、[[盛田昭夫]]、[[太刀川正三郎]]らが、日本の東京都中央区日本橋にあった百貨店・[[白木屋 (デパート)|白木屋]]の3階の一室を借りる形で事務所兼工場を設けて創業した。創業当初は中央区・日本橋に拠点を置いていたが、その1年後の1947年には品川区・北品川([[御殿山 (品川区)|御殿山]]エリア)に移転した。以後約60年間にわたって同地区に分散する形で、多数の関連施設が並ぶ状況だった。このことから'''「ソニー村」'''といわれたこともあった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E6%9D%91-1689053 ソニー村(読み)そにーむら 知恵蔵mini 「ソニー村」の解説]</ref>。2007年には、港区に建設された[[ソニーシティ]]に本社が移転され、分散していた施設群のほとんどもソニーシティに統合された。 社名でありブランドである'''ソニー'''('''{{Lang|en|Sony}}''')の商号は1955年より使用されており、音を意味する英語の「{{Lang|en|Sonic}}」、および[[ラテン語]]の「{{Lang|la|Sonus}}」と男の子(坊や)を意味する英語の「{{Lang|en|Sonny}}」に由来している。その際、日本人が「{{Lang|en|Sonny}}」を「ソンニー」と発音し「損」を連想させてしまうことを懸念した盛田が、そこから「n」を1つ取ったことで「{{Lang|en|Sony}}」となった。またブランド名を全面的に押し出したカタカナ語の社名への変更は、株主やメインバンクの[[三井銀行]]からも当初は反対され、「ソニー電子工業」や「ソニー電気」にすべきと提案されたが、盛田は断として、「我々が世界で伸びるため、断固、ソニー株式会社でいくべきだ」とこだわり、側が折れる形で「ソニー」という社名に落ち着いたともされている<ref>{{Cite news|title=ソニー、4月に社名変更へ 「RE:SONY」まとめ読み|newspaper=日本経済新聞|date=2021-03-28|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ270FN0X20C21A3000000/|accessdate=2021-10-03}}</ref>。 かつては独立研究所として「ソニー中央研究所」「ソニー[[木原信敏|木原]]研究所」「ソニー中村研究所」「ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所」「[[ソニーコンピュータサイエンス研究所]](Sony CSL)」 を擁していたが<ref>{{Cite web|和書 | author = ソニー株式会社 | authorlink = ソニー | url = https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-11.html | title = Sony History 第11章 江崎玲於奈にだまされた?? | date = | website = ソニーグループポータル | publisher = ソニー株式会社 | accessdate = 2021-04-02 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 | author = ソニー株式会社 | authorlink = ソニー | url = https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-11.html | title = Sony History 第11章 技術の「芽」、電子の「眼」 | date = | website = ソニーグループポータル | publisher = ソニー株式会社 | accessdate = 2021-04-02 }}</ref><ref>{{Cite | author = ソニー株式会社 | authorlink = ソニー | title = GENRYU 源流 ソニー創立50周年記念誌 | publisher = ソニー株式会社 ソニー広報センター | series = | volume = | edition = | date = 1996年8月 | url = | doi = | id = | isbn = | ncid = BA38005270 }}</ref><ref name ="中村">{{Cite news | author = 永井美智子(CNET Japan編集部) | title = ソニー中村研究所代表が語る「日本の製造業復活の鍵」 | newspaper = [[CNET|CNET Japan]] | publisher = [[CNET|CNET Networks, Inc.]] / [[朝日インタラクティブ|朝日インタラクティブ株式会社]] | date = 2003年6月29日 | url = https://japan.cnet.com/article/20057221/ | accessdate = 2021-04-02 }}</ref><ref name ="中央研"/><ref name="木原">{{Cite news | author = [[ITmedia]] | title = ソニー木原研究所が活動終了 | newspaper = [[ITmedia]] | publisher = [[ITmedia|アイティメディア株式会社]] | date = 2006年03月30日 | url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0603/30/news082.html | accessdate = 2021-04-02 }}</ref><ref name ="木原中村">{{Cite press release | 和書 | title = 独立系2研究所の再編等について | publisher = ソニー株式会社 | date = 2006年3月30日 | url = https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200603/06-025/ | accessdate = 2021-04-02 }}</ref><ref name ="SID">{{Cite press release | 和書 | title = ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所の再編について | publisher = ソニー株式会社 | date = 2006年6月9日 | url = https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200606/06-051/ | accessdate = 2021-04-02 }}</ref>、中央研究所は1990年代後半に<ref name ="中央研">{{Cite news | author = 多賀一晃 (生活家電.com主宰) | title = ソニー38万円ウォークマンとベルリン・フィルとの離別 ソニーをおかしくしたプレジデント制 | newspaper = [[Wedge|WEDGE Infinity]] | publisher = [[Wedge|株式会社ウェッジ]] | date = 2016年10月6日 | url = https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7859?page=4 | page = 4 | accessdate = 2021-04-02 }}</ref>、2006年までにCSL以外のその他の研究所も本社に統合された<ref name="木原"/><ref name ="木原中村"/><ref name ="SID"/>。 == 歴史 == === 創業までの動き === [[file:tokyo_tsushin_kogyo.jpg|250px|thumb|東通工時代の広告(1954年)。Soni-TapeのSoniは、SONYの語源の一つである「音」を意味するラテン語のSonusの複数形である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/ |title=ソニーグループポータル <nowiki>|</nowiki> 歴史 |accessdate=2021-10-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://journal.rikunabi.com/work/manegement/manegement_vol14.html |title=愉快にやろうぜ俺たちは、自由闊達な理想工場を目指す Vol.14 ソニー株式会社創業者の一人 井深大氏。針木康雄が語る偉大なる経営者たち。社是を決め、「愉快なる理想工場」を目指す |accessdate=2015-12-5}}</ref>。 ]] {{multiple image|total_width=260 | perrow = 2/1 | align = right | image1 = Ibuka_Masaru.jpg | image2 = Morita_Akio.jpg | footer =[[井深大]](左)と[[盛田昭夫]](右) }} [[1945年]](昭和20年)9月、東京での新会社創設のため、[[井深大]]が、[[太刀川正三郎]]、樋口晃などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京<ref name="Sony History 1-01">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-01.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第1章 焼け跡からの出発|publisher=Sony|accessdate=2022-4-29}}</ref>。 同年10月、井深らが東京・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[白木屋 (デパート)|白木屋]]3階の一室に「東京通信研究所」を立ち上げる。参加した20名のうち<ref name="innovation">{{Cite journal|和書 |author=濱田初美 |title=ソニーにおけるイノベーションの再興 |journal=年次大会講演要旨集 |issn=2432-7131 |publisher=イノベーション学会 |year=2015 |issue=30 |pages=51-54 |url=https://doi.org/10.20801/randi.30.0_51}}</ref>、主なメンバーは、以前に井深が設立に関与し、技術担当重役も務めていた日本測定器の若い社員7名であった<ref>太刀川正三郎、樋口晃、安田純一、河野仁、中津留要、山内宣、黒髪定の7名で、いずれもソニーの重要幹部となっている。(井深大『私の履歴書:昭和の経営者群像7』日本経済新聞社 1992年)</ref>。この小さな研究所兼工場が、現在のソニーを生み出す母体となった<ref>{{Cite journal|和書 |author=有村貞則 |title=ソニーのグローバル化とマネジメント |journal=山口經濟學雜誌 |issn=0513-1758 |publisher=山口大學經濟學會 |year=1998 |volume=46 |issue=1-2号 |pages=123-157 |url=http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/8017}}</ref>。 のちに[[朝日新聞]]のコラム「[[青鉛筆]]」に掲載された東京通信研究所の記事が、戦時中に井深と親交のあった[[盛田昭夫]]の目に留まり、会社設立に合流する<ref name="Sony History 1-01"/>。 === 東京通信工業として創業 === [[1946年]]([[昭和]]21年)、井深、盛田、太刀川などを中心に東京通信工業株式会社(とうきょうつうしんこうぎょう、略:東通工〈とうつうこう〉、{{Lang-en-short|Tokyo Telecommunications Engineering Corporation}})として創業<ref name="sony">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/|title=企業情報|publisher=ソニー|accessdate=2014-9-26}}</ref><ref>『パナソニックは終わるのか』奥村宏、著、東洋経済新報社,2012,ISBN 4492502440,p108,([https://books.google.co.jp/books?id=CQ-Ih-OmB9YC&pg=PA108#v=onepage&q&f=false] でも閲覧可能。2014年11月20日閲覧。)</ref><ref>[https://diamond.jp/articles/-/3525 DIAMOND online 世界のビジネスプロフェッショナル 経営者編「盛田昭夫 ソニー共同創業者」] 2014年11月20日閲覧。</ref><ref name="Sony History 1-01"/>。創業当初は真空管電圧計の製造、販売を行っていた<ref name="Sony History 1-01" />。資本金19万円で、井深の義父である[[前田多門]](終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田が取締役(営業担当)、太刀川が取締役(経理財務担当)、[[増谷麟]]が監査役、社員30名弱<ref name="innovation"/>。東通工の設立趣意書には{{cquote2|真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ 自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設}}と記されている<ref>{{Cite press release|和書| url = https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/prospectus.html | title = Sony Japan 設立趣意書 | publisher = ソニー | accessdate = 2016-11-24}}</ref>。 ===日本初のテープレコーダー=== [[1950年]](昭和25年)には日本初の[[テープレコーダー]](当時はテープコーダーと呼称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/capsule/23/ |title=SONY 企業情報 タイムカプセル Vol.23 「テープレコーダーとは何か?」 |accessdate=2015-11-24}}</ref>)を開発<ref name="Sony History 1-02">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-02.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第2章 これだよ、我々のやるものは<日本初のテープレコーダー>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。この頃にテープレコーダーの音質にクレームをつけにきた[[大賀典雄]]が合流している。[[オランダ]]の[[フィリップス|フィリップス社]]のような大会社を目指して輸出に注力する方針を立てた<ref name="Sony History 1-10">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-10.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第10章 ソニーアメリカの設立|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>東通工は、[[トランジスタ]]の自社生産に乗り出し<ref name="Sony History 1-04">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-04.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第4章 初めての渡米<トランジスタの自社生産>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>、[[1955年]](昭和30年)、日本初の[[トランジスタラジオ]]「TR-55」を発売した<ref name="Sony History 1-06">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-06.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第6章 トランジスタに“石”を使う <トランジスタラジオ>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 また、製品すべてに「'''SONY'''」のマークを入れることにした<ref name="Sony History 1-06" />。「SONY」以外に考えられたブランド名には、東京通信工業の頭文字である「TTK」や、略称である東通工の[[ローマ字]]表記「Totsuko」、また東京通信工業を英訳した「Tokyo Teletec」などがあった。しかし、「TTK」は東洋陶器(現・[[TOTO (企業)|TOTO]])や{{仮リンク|TTKグループ|en|TTK Group}}が略称あるいは商標として用いていた事から、候補から外れた。「Totsuko」は、盛田がアメリカに出張した際、当時のアメリカ支社の社員が発音に苦労しており、英語話者にとって発音が難しいことが分かったため、候補から外れた。「Teletec」については、同じ名のブランドを持つ企業が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にあることが分かり、断念した<ref name="Sony History 1-01 en">{{cite web|url=https://www.sony.com/en/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-01.html|title=Sony Global - Sony History Chapter1 Rebuilding from the Ashes |publisher=Sony|accessdate=2019-10-9}}</ref><ref name="Sony History 1-07 en">{{cite web|url=https://www.sony.net/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-07.html|title=Sony Global - Sony History Chapter7 Is 'Pocketable' Japanese-English ? |publisher=Sony|accessdate=2019-10-9}}</ref>。 [[1957年]](昭和32年)のトランジスタラジオ「TR-63」は、輸出機として大成功をおさめた<ref name="Sony History 1-07">{{cite web|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-07.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第7章 “ポケッタブル”は和製英語?|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 ===SONYに社名変更=== [[1958年]](昭和33年)1月に東京通信工業株式会社から'''ソニー株式会社'''に改称<ref name="Sony History 1-07" />。改称にあたっては、主要取引銀行である[[三井銀行]]から、すでに東京通信工業が日本国内で知名度を得ていることや、ソニー単独では何の会社か分からないことから、反対の意見が出た。銀行は、「Sony」にどういった会社なのかを示すために「Sony Electronic Industries」や「Sony Teletech」などの社名を提案した。 また社内でも、東京通信工業という社名に愛着を持っている一部の社員たちは、社名変更に反対した<ref name="Sony History 1-07 en" />。しかし、盛田たちは「Tokyo Tsushin Kogyo」では世界的な認知度を得ることは難しいと考えており、また社名に「Electronic」などの電機関係の言葉をつけることについても「ソニーが将来、エレクトロニクスの会社であるとは限らない」という趣旨を伝え、「ソニー」の社名を押し切った<ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-23 |url=https://diamond.jp/articles/-/203318 |title=ソニーという「何の会社かわからない」集団の強みと弱み |publisher=ダイアモンドオンライン |accessdate=2019-05-22}}</ref>。 同年、東京証券取引所市場第一部に上場を果たした<ref name="Sony History 1-08">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-08.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第8章 外国製品一辺倒の打破|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。すでに東京通信工業傘下の国内販売会社は、この前年に「ソニー商事」に社名を変更していた。この販売会社の社名変更に大きな混乱はなく、むしろ認知度は上がり、業績が伸びていたことも銀行への説得材料となった<ref name="Sony History 1-07 en" />。1954年5月、仙台工場(現・仙台テクノロジーセンター、宮城県多賀城市)を設立。 === 1960年代 === [[1960年]](昭和35年)には、米国に現地法人を設置し自ら販売活動を始め<ref name="Sony History 1-10" />、翌[[1961年]](昭和36年)には日本企業として初めて株式の[[米国預託証券]] (ADR) 発行が日本政府から認められた<ref name="Sony History 1-12">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-12.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第12章 直接金融への道|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。また[[1960年]]にはスイスに法人を設置してヨーロッパの販売代理店の統括を行うが、[[1968年]](昭和43年)にソニーUKを設置したのを皮切りに国ごとに現地法人を設置していく<ref name="Sony History 2-16">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-16.html|title=Sony Japan|Sony History 第16章 ソニー・アメリカの兄弟たち|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。[[1960年]](昭和35年)11月に、ソニー厚木工場(現・厚木テクノロジーセンター)開設<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=あつぎ60年どんなかんじ? 「還暦」の歴史を振り返る <nowiki>|</nowiki> 厚木|url=https://www.townnews.co.jp/0404/2015/01/01/265668.html|website=タウンニュース|date=2015-01-01|accessdate=2021-06-24|language=ja}}</ref>。 トランジスタの研究開発と応用を進め<ref name="Sony History 1-09">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-09.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第9章 2T7型トランジスタ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>、[[1959年]](昭和34年)に世界初の直視型ポータブル・トランジスタテレビを発売するが売れず<ref name="Sony History 1-09" /><ref name="Sony History 1-13">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-13.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第13章 IREショーで見つけたもの <トランジスタテレビ>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。[[1961年]](昭和36年)には世界初の[[ビデオテープレコーダー]](以下、VTR)<ref group="注">オールトランジスタ式工業用ビデオテープレコーダー</ref>「SV-201」を開発<ref name="Sony History 1-14">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-14.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第14章 旅客機に乗ったVTR|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>、[[1967年]](同42)にはトランジスタ電卓を発売した<ref name="Sony History 1-14" />。[[1964年]](昭和39年)には世界初の家庭用オールトランジスタVTR<ref group="注">オープンリール式、白黒</ref> を発表する<ref name="Sony History 1-15" /><ref name="Sony History 2-01">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-01.html|title=Sony Japan|Sony History 第1章 ビデオもカセットに <ビデオカセット>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。その一方で放送用音響機器事業からは一度撤退する<ref name="Sony History 2-03">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-03.html|title=Sony Japan|Sony History 第3章 鞄にポンッ!パスポートサイズ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 [[カラーテレビ]]の開発では出遅れ、良好な画質のカラーテレビを目指して[[1961年]](昭和36年)に[[クロマトロン]]の開発に取り組むが量産に至らず、[[1967年]](昭和42年)に[[トリニトロン]]カラーテレビの開発に成功した<ref name="Sony History 1-16">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-16.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第16章 個人的な理由 <トリニトロンカラーテレビ>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 この時期はエレクトロニクス製品以外の事業にも進出。[[1961年]](昭和36年)にはショールームの建設のため不動産管理会社ソニー企業を設立<ref name="Sony History 1-15" />。[[1968年]](昭和43年)には米国の[[CBS]]と合弁でレコード会社[[CBS・ソニーレコード]](現:[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント〈SMEJ〉]])を設立し、1988年には[[コロムビア・レコード|米国コロムビア・レコード]]を買収した<ref name="会社沿革" />。 === 1970年代 === [[file:SonyWalkmanFamily.JPG|180px|thumb|left|各種Walkman。右上から時計回りに、カセット[[ウォークマン]]、MDウォークマン、メモリースティックウォークマン、CDウォークマン。]] [[1970年代]]は家庭用VTRの普及をめざし、[[1970年]](昭和45年)に[[パナソニック|松下電器産業]]・[[日本ビクター]]などと共同して[[磁気テープ#ビデオカセット|ビデオカセット]]規格「[[U規格]]」を立ち上げる。[[1971年]](昭和46年)に対応製品「Uマチック」を発売するが成功せず、[[1975年]](昭和50年)に小型化・低価格化を図ったビデオカセット規格「[[ベータマックス]]」を発売する<ref name="Sony History 2-01" />。ベータマックスは日本ビクターが開発した家庭用VTRビデオカセット規格「[[VHS]]」と、家電業界を二分する激しい[[規格争い]]([[ビデオ戦争]])を繰り広げたが、結局[[1988年]](昭和63年)にVHS機を並売する形で決着した<ref name="Sony History 2-02">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-02.html|title=Sony Japan|Sony History 第2章 規格戦争に巻き込まれた秘蔵っ子 <8ミリビデオ>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。一方で[[CCD]]を利用したカラーカメラとビデオカセットレコーダーを組み合わせた製品(いわゆる[[カムコーダ]])の開発に取り組み、規格統一を図り[[1985年]](昭和60年)に[[8ミリビデオ]]として発表した<ref name="Sony History 2-02" />。 業務用VTRでは[[テレビジョン放送局|テレビ放送局]]用の「Uマチック」を開発して放送用機材事業に再参入し、放送局のフィルム取材からビデオ取材<ref group="注">ENG</ref> への移行を促した<ref name="Sony History 2-03" />。ベータマックスをベースに開発された[[1981年]]の「ベータカム」はENG市場の95%を占めるスタンダードとなった<ref name="Sony History 2-04">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-04.html|title=Sony Japan|Sony History 第4章 「24時間サービス体制」 <放送業務用VTR>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。VTRのデジタル化、コンピュータ化にも取り組み、[[1980年代]]後半から対応製品の販売を始めた<ref name="Sony History 2-04" />。 オーディオ製品においては[[1960年代]]から[[フィリップス]]社の[[コンパクトカセット]]規格のテープレコーダーの製造・販売を行っていたが、若者向け製品としてヘッドフォンで音楽を聴く形式の携帯型カセットテーププレイヤー「[[ウォークマン]]」を[[1979年]]に発売<ref name="Sony History 2-06">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-06.html|title=Sony Japan|Sony History 第6章 理屈をこねる前にやってみよう <ウォークマン>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。1995年度に生産累計が1億5,000万台に達した<ref name="Sony History 2-06" />。日本[[国立科学博物館]]に[[重要科学技術史資料]]として登録された際には「音楽リスニングを大きく変えた」と評価されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/104231.pdf|title=ウォークマン 1 号機、液晶デジタルカメラ他、21 件の 重要科学技術史資料(愛称:未来技術遺産)の登録と 登録証授与式について|publisher=国立科学博物館|date=2012-9-4|accessdate=2014-11-26}}</ref>。 [[1975年]](昭和50年)には米国の[[ユニオンカーバイド]]社と合弁で電池事業を始めたが<ref group="注">開発はユニオンカーバイドが担当。</ref>、[[1986年]](昭和61年)にユニオンカーバイド社の経営難から合弁を解消し、単独で事業を継続。電池の研究開発を始め[[リチウムイオン電池]]を開発、1990年(平成2年)に製品化を発表した<ref name="Sony History 2-13" />。 [[1979年]](昭和54年)には[[ソニー・プルデンシャル生命保険]]を設立<ref name="会社沿革" /> し保険事業に参入した。 === 1980年代 === オーディオのデジタル化にも取り組み、フィリップス社と共同して[[コンパクトディスク|CD]]を開発<ref name="Sony History 2-07">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-07.html|title=Sony Japan|Sony History 第7章 デジタルをものにしてみせる|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>、CBS・ソニー(現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])からのソフトとディスク生産体制の提供を受け[[1982年]](昭和57年)に発売した<ref name="Sony History 2-09">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-09.html|title=Sony Japan|Sony History 第9章 石もて追われる大賀|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。[[1984年]](昭和59年)には携帯型CDプレイヤーを発売<ref name="Sony History 2-09" />。 CD以降はユーザーが記録可能な光ディスクの開発にも取り組み、[[1988年]](昭和63年)に[[光磁気ディスク]](MO)を発売した。そして、[[1992年]]([[平成]]4年)に[[ミニディスク|MD]]規格を立ち上げた<ref name="Sony History 2-10">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-10.html|title=Sony Japan|Sony History 第10章 スタジオ録音もデジタルに <ミニディスク>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。映像を記録する光ディスクについてはフィリップス社との共同開発が試みられたが、最終的に規格統一に合意し、[[DVD]]規格の立ち上げに参画した<ref name="Sony History 2-10" />。 [[1970年代]]末からコンピュータ関連機器の開発に取り組み、[[1980年]](昭和55年)に英文[[ワープロ]]とポータブル液晶ディスプレイつきタイプライターを発売<ref name="Sony History 2-12">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-12.html|title=Sony Japan|Sony History 第12章 苦闘する新分野への進出|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。[[1982年]](昭和57年)には「SMC-70」を発売してパソコン市場に参入<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />、さらに[[1983年]](昭和58年)には「HitBit」ブランドで[[ホビーパソコン]]規格[[MSX]]への参入も行った<ref name="Sony History 2-12" />。しかし[[1980年代]]に開発されたこれらの商品群は、英文ワープロ用に開発した3.5インチ[[フロッピーディスク]]こそ、のちの[[デファクトスタンダード]]となったものの、多くは鳴かず飛ばずに終わった<ref name="Sony History 2-12" />。この理由としては、当時メジャーな[[Apple]]や[[NEC]]の言語を使わず、自社の"Sony Basic"を組み込んでいたことなどがあげられる。 また、1984年(昭和59年)には[[第二電電]](DDI、現[[KDDI]])の設立に関与している。そのため、当時発売していた固定[[電話機]]に搭載されていた[[Least Cost Routing|LCR]]はDDIの「α-LCR」であったほか、[[DDIセルラーグループ]]にも1989年の開業当初から携帯電話端末を供給していた。 [[1989年]]([[平成]]元年)には[[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメント]]を買収して映画事業に参入<ref name="会社沿革" /> している。 === 1990年代 === [[File:PS2-Versions.png|180px|thumb|right|[[PlayStation 2]](プレイステーションツー)]] [[file:DSC-H1.jpg|180px|thumb|right|[[サイバーショット]]、DSC-H1]] [[file:CEATECの模様001.jpg|180px|thumb|right|[[Blu-ray Disc]](ブルーレイディスク)]] [[1991年]]、[[ソニー生命保険|ソニー生命保険株式会社]]が発足。[[1993年]]([[平成]]5年)、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]]を設立し[[家庭用ゲーム機]]事業に参入<ref name="会社沿革" /> した。[[1995年]]([[平成]]7年)にはソニーコミュニケーションネットワーク株式会社を設立し[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]事業に参入、翌年から[[So-net]]を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonynetwork.co.jp/corporation/company/profile/|title=会社情報|publisher=ソニーネットワークコミュニケーションズ|accessdate=2014-11-25}}</ref>。また、1995年には[[最高財務責任者]]([[CFO]])を日本の企業ではじめて導入をする。 [[1996年]](平成8年)、「[[VAIO]]」ブランドでパソコンに再度参入する<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。また[[携帯電話キャリア|携帯電話会社]]に対して携帯電話端末の供給を行っていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.doplaza.jp/museum/docomo/history96_95.html|title=ドコモ 歴史 1996-1995|accessdate=2018-04-10|website=Doplaza|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150919024201/http://www.doplaza.jp/museum/docomo/history96_95.html|archivedate=2015-09-19}}</ref>、[[2001年]]([[平成]]13年)には[[エリクソン]]社と合弁で[[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]を設立し、携帯電話端末の開発・販売を行うことにした<ref name="ソニー・エリクソン設立" />。 [[2002年]](平成14年)にはフィリップス社やパナソニックなど9社共同で[[Blu-ray Disc]]規格を策定した<ref>{{Cite web|和書|date=2002-2-19|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020219/blu_ray.htm |title=ソニーやパナソニックなど9社が、光ディスクレコーダ規格「Blu-ray Disc」を策定 ―青紫レーザーを使用し最大容量27GB、来春にライセンス開始予定|publisher=AV Watch|accessdate=2014-11-25}}</ref>。2004年、[[ソニーフィナンシャルホールディングス]]が発足する。 === 2010年代 === ゲーム事業を担っている[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]]は、[[2012年]]([[平成]]24年)3月期以降3期連続の債務超過となっており<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-24|url=https://kanpou.npb.go.jp/20130624/20130624g00133/pdf/20130624g001330209.pdf|title=官報号外第133号|publisher=国立印刷局|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130624030525/https://kanpou.npb.go.jp/20130624/20130624g00133/pdf/20130624g001330209.pdf|archivedate=2013年6月24日|accessdate=2014-11-25|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="官報20140624">{{Cite web|和書|url=https://kanpou.npb.go.jp/20140624/20140624g00140/20140624g001400153f.html|title=平成26年6月24日官報号外第140号|publisher=国立印刷局|date=2014-06-24|accessdate=2014-11-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140624072839/https://kanpou.npb.go.jp/20140624/20140624g00140/20140624g001400153f.html|archivedate=2014年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、債務保証を行っていたが<ref>{{Cite web|和書|publisher=ソニー株式会社|date=2013-06-20|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/IR/stock/shareholders_meeting/96_kaiji.pdf|title=第96回定時株主総会招集ご通知に際してのインターネット開示情報 8関連当事者との取引に関する注記|accessdate=2018-04-10}}</ref>、2017年3月期決算で債務超過は解消している<ref>{{Cite web|和書|publisher=Social Game Info|date=2017-06-16|url=https://gamebiz.jp/news/186988|title=ソニー・インタラクティブエンタテインメント、17年3月期は営業益149%増の642億円と大幅な増益! PS4ソフト販売とハードのコスト削減で|accessdate=2018-02-16}}</ref>。 また[[2012年]](平成24年)エリクソンから株式を取得してソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを完全子会社とし、携帯電話端末事業がソニー単体の事業に戻った<ref name="ソニー・エリクソン子会社化">{{Cite press release|和書|date=2012-2-16|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/201202/12-025/|title=ソニー、ソニー・エリクソンの100%子会社化を完了 社名をソニーモバイルコミュニケーションズに変更し、事業の融合を加速|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 [[2014年]](平成26年)[[7月]]にはテレビ事業を分社化し、[[ソニービジュアルプロダクツ]]設立<ref name="aka">{{Cite web|和書|date=2014-7-2|url=https://www.j-cast.com/2014/07/02209366.html|title=ソニーのテレビ事業、分社化で黒字へ PCも新会社が発足|publisher=J-castニュース|accessdate=2014-11-25}}</ref>。またテレビ事業は10年連続で赤字が続き、リストラを繰り返しており、[[2017年]](平成29年)の売上目標は当初の見通しより低く抑えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141126-00050009-yom-bus_all|title=ソニー、異例の売上高マイナス目標…現実路線へ|accessdate=2018-04-10|date=2014-11-26|publisher=読売新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141126021549/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141126-00050009-yom-bus_all|archivedate=2016-03-04}}</ref>。同年パーソナルコンピュータ[[VAIO]]事業を売却<ref>{{Cite web|和書|date=2014-2-7|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/series/rt/634296.html|title=ソニーがVAIO事業を売却する理由。変化したPC事業の位置づけ|publisher=AV Watch|accessdate=2014-11-25}}</ref>。また利益重視の姿勢を打ち出し、[[国際サッカー連盟]]のスポンサーを降板<ref name="fifa">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASGCT5SFQGCTULFA025.html|title=ソニー、FIFAスポンサー撤退へ 復活へ利益重視|accessdate=2018-04-10|date=2014-11-25|publisher=朝日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150924115003/https://www.asahi.com/articles/ASGCT5SFQGCTULFA025.html|archivedate=2015-09-24}}</ref>。 [[2015年]](平成27年)オンラインゲーム子会社[[ソニー・オンライン・エンタテインメント]]をコロンバス・ノバに売却。SOEはソニーのプラットフォーム以外にもソフトを供給できるようになる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ03HX1_T00C15A2TJ2000/|title=SCE、オンラインゲーム子会社を売却 米投資会社に|publisher=日本経済新聞|date=2015-2-3|accessdate=2015-2-12}}</ref>。10月にはビデオ&サウンド事業を分社化し[[ソニービデオ&サウンドプロダクツ]]を設立。 [[2016年]](平成28年)4月には半導体事業を分社化し、[[ソニーセミコンダクタソリューションズ]]を設立。 [[2017年]](平成29年)4月には民生用カメラ事業や業務用製品事業を分社化し、[[ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ]]を設立。 [[2018年]](平成30年)10月より、[[日立製作所|日立]]ブランド薄型テレビ&BDレコーダー「[[Wooo]]」の国内販売終了に伴い、「ブラビア」をはじめとするソニー製品を日立系列店「[[日立チェーンストール]]」にも供給開始した。 [[2019年]](平成31年)4月、テレビ事業を担う[[ソニービデオ&サウンドプロダクツ]]とビデオ及びサウンド事業を担う[[ソニービジュアルプロダクツ]]が統合し、[[ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ]]が発足した。 === 2020年代 === [[2020年]]([[令和]]2年)4月1日、エレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション分野を統括する中間持株会社である、[[ソニーエレクトロニクス]]株式会社を設立。 [[2021年]](令和3年)4月1日に、ソニー株式会社(初代法人)が'''ソニーグループ株式会社'''に商号を変更<ref>{{Cite news|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1253359.html|title=ソニー、ソニーグループに商号変更。本社機能とエレキを分離・再定義|newspaper=Impress Watch|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-19}}</ref>。また、ソニー株式会社(初代法人)のエレクトロニクス事業と、ソニーエレクトロニクス、[[ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ]]、[[ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ]]、[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]](存続会社)が統合し、'''ソニー株式会社'''(二代目法人)が誕生<ref>{{Cite news|author=[[徳田ゆかり]]|title=新生ソニーの経営体制固まる。セールス&マーケティング機能も全統合し国内エレキ事業を強化|date=2020-12-01|newspaper=[[PHILE WEB]]|publisher=[[音元出版]]|url=https://www.phileweb.com/news/d-av/202012/01/51675.html|accessdate=2020-12-21}}</ref>。3月には3月期連結決算(2020年度連結業績)で純利益を初めて1兆円の大台に乗せた<ref>{{Cite web|和書|title=ソニー純利益、初の1兆円―21年3月期 巣ごもり需要、「鬼滅」効果も:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210428093659/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021042800839&g=eco|website=時事ドットコム|accessdate=2021-04-28|language=ja}}</ref>。 == 沿革 == === 社業 === * [[1946年]] - 井深、盛田、太刀川らが[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[白木屋 (デパート)|白木屋]] (のちの[[東急百貨店]]日本橋店、現在の『[[日本橋一丁目ビルディング|COREDO 日本橋]]』の場所)3階の一室に、前身となる'''東京通信工業株式会社'''を設立<ref name="会社沿革">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/history.html|title=Sony Japan|会社沿革|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。社長に[[前田多門]]、専務(技術担当)に井深、取締役(営業担当)に盛田、取締役(経理財務担当)に太刀川という体制をとった。初めは真空式電子電圧計などを製作していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-01.html|title=Sony Japan|Sony History 第1章 焼け跡からの出発|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1947年]] - 本社および工場を東京都[[品川区]]の[[御殿山 (品川区)|御殿山]]地区に移転<ref name="会社沿革" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/capsule/08/|title=Sony Japan|タイムカプセル vol.8|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1950年]] - 日本で初めて[[テープレコーダー]]を製作、販売した<ref name="会社沿革" />。 * [[1953年]] - [[トランジスタ]]の研究を開始。 * [[1955年]] - トランジスタラジオの製造販売を開始<ref name="会社沿革" />。このとき、ロゴに『'''SONY'''』を採用し[[アメリカ合衆国]]などにも[[輸出]]し始めた。Sonyとは[[音]]を意味する[[英語]]のSonic、[[ラテン語]]のSon(us)と男子の子供の英語の「坊や」を意味するSonnyからつけられた<ref>[https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/ 「SONYの由来」]、ソニー株式会社(ソニーグループポータルサイト)</ref>。 * [[1958年]][[1月1日]] - '''ソニー株式会社'''へ商号変更、同年[[12月1日]][[東京証券取引所]]に上場<ref name="会社沿革" />。 * [[1960年]] ** 世界最初のトランジスタ[[テレビ受像機|テレビ]]を発売<ref name="会社沿革" />。 ** ソニー厚木工場(現・厚木テクノロジーセンター)開設<ref name=":0" />。 * [[1961年]] ** 日本の株式会社として初めてADR(米国預託証書)を発行<ref name="会社沿革" />。本格的な資本調達の国際化のはしりとなる。 ** 不動産管理会社としてソニー企業株式会社を設立<ref name="Sony History 1-15">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-15.html|title=Sony Japan|Sony History 第1部第15章 IBM社に技術を供与|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1966年]] - ショールームビルとして東京の[[銀座]]にソニービルを建設<ref name="Sony History 1-15" />。 * [[1968年]] ** 日本初のカラー[[ブラウン管]]、「'''トリニトロン'''」方式のカラーテレビを開発<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-16.html|title=Sony Japan|Sony History 第16章 個人的な理由 <トリニトロンカラーテレビ>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。この「'''トリニトロン'''」方式のブラウン管は、家庭用・放送業務用問わずテレビ・ビデオモニターの全商品で使われた。 ** アメリカの[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|CBS]]と合弁でシービーエス・ソニーレコード(現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])を設立<ref name="会社沿革" />。 * [[1969年]] - [[アイワ]]と技術・業務・資本の提携。 * [[1970年]] - 日本企業としては初めて[[ニューヨーク証券取引所]]に上場<ref name="会社沿革" />。 * [[1975年]] - 電池の製造・販売を目的として、アメリカのユニオン・カーバイドとの合弁でソニー・エバレディ(現・[[ソニーエナジー・デバイス]])を設立<ref name="Sony History 2-13">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-13.html|title=Sony Japan|Sony History 第13章 晴れて国際規格 <3.5インチ・マイクロフロッピーディスク>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1979年]] - ソニー・プルデンシャル生命保険(現・[[ソニー生命保険]])を設立<ref name="会社沿革" />。 * [[1986年]] - ユニオン・カーバイドとの合弁を解消し子会社化して「ソニー・エナジー・テック」が発足<ref name="Sony History 2-13" />。 * [[1988年]] - [[コロムビア・レコード|CBSレコード・グループ]](現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])を買収<ref name="会社沿革" />。 * [[1989年]] - [[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメント]](現・[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]])を買収<ref name="会社沿革" />。 * [[1993年]] - ソニー・コンピュータエンタテインメント(現・[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]])を設立<ref name="会社沿革" />。 * [[1998年]] - [[アメリカ合衆国]]のプロ[[ゴルフ]]ツアー・ハワイアンオープンに協賛。「[[ソニーオープン・イン・ハワイ]]」として開催。 * [[2000年]] ** [[1月1日]]付で、ソニー・ミュージックエンタテインメント、ソニーケミカル、ソニー・プレシジョン・テクノロジーを完全子会社化<ref>{{Cite press release|和書|date=1999-03-09|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/199903/99-030b/|title=上場子会社3社の100%子会社化についてのお知らせ|publisher=ソニー|accessdate=2021-07-08}}</ref>。 ** [[ベルリン]]の[[ポツダム広場]]にソニーセンターをオープン。ヨーロッパ本社を[[ケルン]]からベルリンに移す。 ** 「2000東京国際自転車展」にて[[電動自転車]]の試作車「エンターテインメント・ビークル」を公開。 * [[2001年]] ** [[三井住友銀行]]と合弁で[[ソニー銀行]]設立<ref name="会社沿革" />。 ** 携帯電話端末事業のため[[エリクソン]]と合弁でソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズを設立<ref name="ソニー・エリクソン設立">{{Cite press release|和書|date=2001-10-01|url=https://www.sonymobile.co.jp/company/press/20011001_jv.html|title=ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ設立のお知らせ|publisher=ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[2002年]] - [[アイワ]]と合併(登記は12月2日)し、法人としてのアイワを解散。その後、アイワはソニーの1ブランドとなり、商品は子会社の[[ソニーマーケティング]]で取り扱った。 * [[2003年]] - [[ソニーミュージックエンタテインメント]]の子会社として[[アニプレックス]]が発足する。 * [[2004年]] - [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]を買収<ref>{{Cite press release|和書|date=2004-9-24|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200409/04-0924/|title=ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを含むコンソーシアムがメトロ・ゴールドウィン・メイヤー買収の最終合意に到達|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[2005年]] - [[出井伸之]]会長兼CEOらトップ3人が退任、当社初となる外国人トップの[[ハワード・ストリンガー]]会長兼CEOが誕生<ref>{{Cite web|和書|date=2005-3-7|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0307/sony2.htm|title=ソニーCEOに内定したストリンガー氏が会見 〜最強のエレクトロニクスカンパニーを目指す|publisher=PC Watch|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[2006年]] - [[PlayStation Network]]稼働。 * [[2007年]] - 本社を[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]一丁目に移転。旧本社地区の保有不動産を[[積水ハウス]]に売却。 * [[2012年]] - ソニー・エリクソンを完全子会社化<ref name="ソニー・エリクソン子会社化" />。 * [[2013年]] ** 「ソニーシティ大崎」を日本ビルファンド投資法人や国内機関投資家などに1,111億円で売却、なお、ソニーおよびグループ企業は今後5年間、引き続き当該ビルを使用する予定。 ** [[東京都]][[品川区]][[北品川]]の「ソニー3号館」の持ち分62%を54億5,600万円でニッキに譲渡し、「NSビル」のニッキ所有持ち分58.7%を51億5,000万円で取得<ref>[https://www.nikkinet.co.jp/whatsnew/img/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E8%B3%87%E7%94%A3%E3%81%AE%E5%8F%96%E5%BE%97%E5%8F%8A%E3%81%B3%E8%AD%B2%E6%B8%A1%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B_20131120.pdf 「固定資産の取得及び譲渡に関するお知らせ(PDF)」株式会社ニッキ(2013年11月20日) 2014年3月1日閲覧。]</ref>。 * [[2014年]] ** 2014年3月期の連結最終損益([[米国会計基準]])が約1,100億円の最終赤字となり、主力2事業の大規模な再編を発表。 ** 「[[VAIO]]」を展開するPC事業を、投資ファンド[[日本産業パートナーズ]]が設立する新会社に事業譲渡し、ソニーが販売するVAIOとしては、2014年春モデルを最後に撤退。 ** 7月をめどに、9期連続で営業赤字が続く「[[BRAVIA]]」などを展開するTV事業を設立する完全子会社に分社<ref name="aka"/>。 ** 旧本社の「NSビル」「ソニー4号館」「ソニー5号館」を[[住友不動産]]に231億円で売却。 ** FIFAの不祥事(裏金問題)を受け、企業イメージを損ねる可能性を恐れ[[FIFA]]スポンサーを降板<ref name="fifa"/>。 ** 新規事業創出案件の一つとして、[[SREホールディングス|ソニー不動産]](現・[[SREホールディングス]])を設立。 ** IFA 2014にて電動自転車の試作車「XPERIA Bike」を公開。 * [[2015年]] - [[THE世界遺産]]の番組提供スポンサーを降板。 * [[2016年]] ** ソニーグループの[[LGBT]]推進における取り組み指標『PRIDE指標』で最高スコアの“ゴールド”に認定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/diversity/report/05_15.html |title=ソニーグループがLGBTについての取り組み指標『PRIDE指標』でゴールド認定 |website =ダイバーシティ&インクルージョン |publisher =Sony |accessdate=2021-04-17}}</ref>。 ** ソニーイーエムシーエスと重複する事業を、 ソニーイーエムシーエスへ移管。その後、同社は、[[ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ]]株式会社へ商号変更<ref name="sony20160120">[https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/201601/16-004/ エレクトロニクス事業におけるオペレーション機能の機構改革] ソニー、ソニーイーエムシーエス 2016年1月20日</ref><ref name="nikkei20160120">[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ20I3Y_Q6A120C1TI1000/ ソニー、ものづくり実務機能を一元化 新会社設立] 日本経済新聞 2016年1月20日</ref>。 * [[2017年]] ** [[リチウムイオン二次電池]]事業など一部の電池事業を、ソニーエナジー・デバイスから[[村田製作所]]へ譲渡<ref>[https://www.murata.com/~/media/webrenewal/about/newsroom/news/irnews/irnews/2017/0901/20170901_j.ashx ソニー株式会社からの電池事業の取得の完了に関するお知らせ] 村田製作所 2017年9月1日</ref>。 ** ソニーグループ、[[LGBT]]推進への取り組みで『PRIDE指標』最高評価の“ゴールド”を2年連続受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/diversity/report/05_21.html |title=ソニー LGBTに関する取組みが評価され、「PRIDE指標」で最高評価の「ゴールド」を2年連続受賞 |website =ダイバーシティ&インクルージョン |publisher =Sony |accessdate=2021-04-17}}</ref>。 * [[2018年]] - ソニーグループ、[[LGBT]]推進への取り組みで『PRIDE指標』最高評価の“ゴールド”を3年連続受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/diversity/report/05_29.html |title=ソニー「PRIDE指標」で最高評価の「ゴールド」3年連続受賞 |website =ダイバーシティ&インクルージョン |publisher =Sony |accessdate=2021-04-17}}</ref>。 * [[2020年]] ** [[4月1日]] - エレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション分野を構成する3事業<ref group="注">イメージング・プロダクツ&ソリューション事業、ホームエンタテインメント&サウンド事業、モバイル・コミュニケーション事業</ref> を統括する中間持株会社として、ソニーエレクトロニクスを設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/202003/20-021/|title=ソニーエレクトロニクス株式会社 設立について|accessdate=2020年3月30日|publisher=ソニー}}</ref>。 ** [[7月27日]] - [[電気自動車]](EV)の試作車「[[:en:Sony Vision-S|VISION-S]]」を公開<ref name="nkei">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61967170X20C20A7TJ1000/ ソニーのEV試作車、日米欧で公道実験 SUVも視野] - [[日本経済新聞社]], 2020年7月28日</ref>。 * [[2021年]] ** 4月1日 - ソニー本体およびエレクトロニクス・プロダクツ&ソリューション事業において、以下の[[企業組織再編]]を実施。 *** ソニー株式会社(初代法人)が'''ソニーグループ株式会社'''に商号を変更し、純粋持株会社に移行<ref>{{Cite press release|和書|title=ソニーグループの経営機構改革について|publisher=ソニー|date=2020-05-19|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/202005/20-039/|accessdate=2020-12-21}}</ref>。 *** 連結子会社のソニーモバイルコミュニケーションズが、ソニー株式会社(初代法人)のエレクトロニクス事業を完全に移管、およびソニーエレクトロニクス、[[ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ]]、[[ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ]]を吸収合併し、'''ソニー株式会社'''(二代目法人)に商号を変更<ref>{{Cite press release|和書|title=ソニーグループ 組織・人事|publisher=ソニー|date=2020-11-17|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/202011/20-093/|accessdate=2020-12-21}}</ref>。 === 分野別 === '''オーディオ''' * [[1950年]] - 国産初のテープレコーダーの試作に成功、発売する<ref name="商品のあゆみ−ホームオーディオ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-a.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−ホームオーディオ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1952年]] - 日本初のステレオ・テープ・レコーダーを作り、[[NHKラジオ]][[NHKラジオ第1放送|第1]]・[[NHKラジオ第2放送|第2]]の2波を使ったステレオ試験放送<ref group="注">当時は立体放送と言っていた。</ref> に使われる。このほか、立体音は[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]、[[文学座]]、[[劇団俳優座|俳優座]]などの音響効果に使われた。ステレオの普及のため「ステレコーダー552型」が開発されアメリカに多数輸出された<ref>東京通信工業広告『科学朝日』1957年11月号 p.72</ref>。 * [[1974年]] - 自社初の[[ICレコーダー#PCMレコーダー|PCMレコーダー]]の試作に成功。 * [[1976年]] - 世界初のビデオデッキを使った[[PCM]]オーディオプロセッサー「PCM-1」を発売<ref name="商品のあゆみ−ホームオーディオ" />。 * [[1978年]] ** 世界初の16ビットPCMオーディオプロセッサー「PCM-1600」を発売<ref name="Sony History 2-10"/>。 ** 実験的高級オーディオブランド[[SONY ESPRIT]]の展開を開始<ref group="注">のちのRシリーズに受け継がれる。また、現在のESブランドは、この名残である。</ref>。 * [[1979年]] - ウォークマン「TPS-L2」を発売し大ヒットした<ref name="商品のあゆみ−パーソナルオーディオ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-e.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−パーソナルオーディオ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1982年]] ** 自社が中心になって開発したDASHフォーマットを使用した、24チャンネルマルチPCMデジタル録音機「PCM-3324」(定価:3,300万円)を発売。 ** [[コンパクトディスク]](CD)を発表、10月1日に第1号機「CDP-101」(定価:16万8,000円)を発売<ref name="商品のあゆみ−ホームオーディオ" />。 * [[1984年]] - 世界初の携帯CDプレイヤー[[ディスクマン]]「D-50」を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルオーディオ" />。 * [[1987年]]4月 - 民生用[[DAT]]デッキ「DTC-1000ES」を発売<ref name="商品のあゆみ−ホームオーディオ" /><ref name="shashin2">『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p104</ref>。 * [[1989年]] - 世界初の48チャンネルマルチPCMデジタル録音機「PCM-3348」(定価:3,800万円)を発売。 * [[1992年]] - [[ミニディスク]](MD)を発表、プレーヤー「MZ-1」を発売(同年11月1日)<ref name="商品のあゆみ−パーソナルオーディオ" />。 * [[1996年]] - [[ΔΣ変調]]を使った[[Direct Stream Digital|Direct Stream Digital(DSD)]]録音方式を開発、デモを行う。 * [[1999年]]5月21日 - DSD技術を用いた世界初の[[Super Audio CD]]プレーヤー「SCD-1」(定価:50万円)を発売<ref name="商品のあゆみ−ホームオーディオ" />。 * [[2004年]] - [[ミニディスク|MD]]の拡張規格である[[Hi-MD]]を発表、プレーヤー「MZ-NH1」を発売。 * [[2007年]] - [[SDリピーター]]を発売。 * 2022年-アメリカでOTC補聴器を発売<ref>{{Cite web|和書|title=米ソニー、ブランド初のOTC補聴器を発表。専門医の調整なしで購入後すぐ使用可能(PHILE WEB) |url=https://news.line.me/detail/oa-rp28120/fxzimvg5mqrn |website=LINE NEWS |access-date=2022-10-13 |language=ja}}</ref>。 '''オーディオ・ビジュアル''' * [[1958年]] - 国産初のVTR試作第1号機を制作<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-d.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1960年]] - ポータブルトランジスタテレビ「TV8-301」を発売<ref name="商品のあゆみ−テレビ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-c.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−テレビ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1965年]] - 家庭用VTR ビデオコーダー「CV-2000」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。 * [[1968年]] - 世界初のトリニトロン方式によるカラーテレビ「KV-1310」を発売<ref name="商品のあゆみ−テレビ" />。 * [[1969年]]10月29日 - [[パナソニック|当時の松下電器]]、[[日本ビクター]]とともに、3/4インチカセット式VTRの"[[U規格]]"を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-01.html|title=Sony Japan|Sony History 第1章 ビデオもカセットに <ビデオカセット>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1971年]]10月10日 - [[U規格]]VTRの第1号機を、"[[Uマチック]]"という[[商標]]を使って発売する<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。 * [[1975年]] - ベータ方式の家庭用VTR[[ベータマックス]]「SL-6300」「SL-7300」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。 * [[1976年]] - [[アンペックス|米アンペックス社]]とともに、放送用の[[1インチVTR]]を開発。第1号機「BVH-1000」を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20070622074816/https://www.nhk.or.jp/museum/book/kiki100sen06.html|title=放送博物館所蔵資料 VTR|publisher=日本放送協会|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1982年]] ** BVH-1000を改良した、世界初の1インチのハイビジョン・アナログVTRを開発。 ** [[ENG (放送)|ENG]]取材の機動力を高めるためのVTR・カメラ一体型の[[カムコーダ]]を開発し、放送業務用の新規格VTR"[[BETACAM]]"を発表<ref name="Sony History 2-04"/><ref>{{cite web|url=https://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/arc/2million/2million.html|title=Sony Promedia|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。カムコーダ、据え置き型録画再生機ともに同時発売。 * [[1983年]] - 世界初の家庭用VTR一体型ビデオカメラ「BMC-100」を発売。 * [[1985年]] ** 放送局向けに、1インチのハイビジョン・アナログVTR「HDV-1000」の受注販売を開始<ref group="注">当初は[[日本放送協会|NHK]]に納入された。</ref>。 ** [[8ミリビデオ]]規格を発表。VTR「EV-S700」、ビデオカメラ「CCD-V8」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" /><ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-f.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−ビデオカメラ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1987年]] - 世界初のデジタルVTRを発表、発売([[D1-VTR|D1]]方式、定価:700万円)<ref name="Sony History 2-04" />。 * [[1988年]] ** [[VHS]]方式のVTR「SLV-7」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。VHS/βのVTR規格争いが終了。 ** 世界初コンポジット・デジタルVTR[[D2-VTR]]を発表、発売<ref name="Sony History 2-04" />。 * [[1993年]] - BETACAMにデジタル録画・再生を可能にした「[[Digital BETACAM]]」が開発、商品化される<ref name="Sony History 2-04" />。 * [[1997年]] ** [[DVD-Video|DVDビデオ]]プレーヤー「DVP-S7000」を発売<ref>{{Cite press release|和書|date=1997-1-9|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/199701/97V-001/|title=DVDビデオソフトの高画質な映像を再現 音楽CD、ビデオCD(Ver.2.0)の再生も可能なDVDプレーヤー『DVP-S7000』発売 |publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 ** [[DRC]]を搭載したフラットブラウン管テレビ「[[WEGA]]」を発売<ref name="会社沿革" />。 ** Digital BETACAMのハイビジョン(HD)版、「[[HDCAM]]」が開発、商品化される<ref name="会社沿革" />。 * [[2001年]] - 初代[[DVDレコーダー]]「RDR-A1」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。同機種は[[パイオニア]]の[[OEM]]だった。 * [[2002年]] ** [[アイワ]]を[[株式交換]]により完全子会社し、その後合併した<ref name="会社沿革" />。 ** 8月 - ベータマックス機器の年内生産終了を発表。27年の歴史に幕を閉じる。 ** 11月 - [[コクーン (チャンネルサーバー)|CoCoon]]シリーズを発売<ref name="会社沿革" />。以降デジタルレコーダーのラインナップを大幅に拡充。 * [[2003年]] ** 4月 - 当時世界初のBDレコーダー「[[BDZ|BDZ-S77]]」発売<ref name="会社沿革" />。 ** 11月 - [[スゴ録]]シリーズを発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオレコーダー/ビデオプレーヤー" />。 ** 12月 - [[PSX]]を発売<ref>{{Cite press release|和書|date=2003-10-7|url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200310/03-1007/|title=大容量HDD搭載DVDレコーダー『PSX』「DESR-5000」「DESR-7000」 年末発売〜最大325時間の録画に対応〜|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。ただし、同時期に発売したスゴ録に人気が集中した。 ** HDCAMの高画質改良版、「[[HDCAM|HDCAM SR]]」を開発、発売。 * [[2004年]] ** [[S-LCD]]を設立<ref>{{Cite web|和書|date=2004-07-15|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200407/04-0715/|title=S-LCD株式会社創立記念式|publisher=ソニー|accessdate=2018-04-10}}</ref>。 ** 9月 - [[HDV]]規格による世界初のHDV 1080i対応の家庭用ハイビジョン・ムービー「HDR-FX1」を発売。 * [[2005年]] ** 6月 - 初代デジタルチューナー搭載スゴ録「RDZ-D5」を発売。 ** 9月 - [[薄型テレビ]]のブランド名を[[ベガ (テレビ)|WEGA]]から[[ブラビア|BRAVIA]]に変更<ref name="会社沿革" />。 * [[2006年]] - 世界の液晶テレビの出荷におけるシェア率で初の1位となる<ref>{{Cite web|和書|date=2007-2-14|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20071227/sony.htm|title=2006年液晶テレビの世界出荷額はソニーが首位 -40〜44型で液晶がPDP越え。ディスプレイサーチ調査|publisher=AV Watch|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[2007年]] ** 3月末 - アナログチューナーのみの録画機全般から撤退。デジタル放送対応に移行。 ** 4月 - ブラウン管テレビの国内向け販売終了。 ** 9月12日 - 国内向けのDVDレコーダー市場からの完全撤退を発表。[[BDレコーダー]]に移行。 ** 11V型[[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]テレビ「XEL-1」を発売<ref name="商品のあゆみ−テレビ" /><ref>[https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200710/07-1001/]</ref>。 * [[2008年]] ** 3月末 - [[リアプロジェクションテレビ]]市場から撤退<ref>{{Cite web|和書|date=2007-12-27|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20071227/sony.htm|title=ソニー、リアプロ事業から撤退。「液晶と有機ELに注力」 -製造は2月末まで、3月末より順次販売終了|publisher=AV Watch|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 ** 中南米向けのトリニトロン製品の生産を完全終了<ref>{{Cite web|和書|date=2008-3-3|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/03/news059.html|title=ソニー、トリニトロンの生産終了|publisher=ITmedia|accessdate=2014-11-25}}</ref>。41年の歴史に幕を閉じる。 * [[2011年]] ** [[東芝]]・[[日立製作所]]とともに、[[産業革新機構]]の[[ジャパンディスプレイ]]設立に合意、[[ソニーモバイルディスプレイ]]も統合されることとなった。 * [[2014年]] ** 産業革新機構の有機EL事業統合(ジャパンディスプレイを中心とした[[JOLED]]の設立)に[[パナソニック]]とともに合意した。同社の5%の株式を保有する。 '''カメラ分野''' * [[1988年]] - [[電子スチルビデオカメラ]] Mavica「MVC-C1」を発売<ref name="商品のあゆみ−デジタルカメラ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-g.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−デジタルカメラ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1989年]] - パスポートサイズ[[ハンディカム]]「CCD-TR55」を発売<ref name="shashin2"/><ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 * [[1995年]] - [[DV (ビデオ規格)|DV]]規格の家庭用[[デジタルビデオカメラ]]「DCR-VX1000」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 * [[1996年]] - 初代[[サイバーショット]]「DSC-F1」を発売<ref name="商品のあゆみ−デジタルカメラ" />。 * [[1999年]] - [[Digital8]]規格のビデオカメラ「DCR-TRV310K」を発表<ref>{{Cite press release|和書|date=1999-1-7|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/199901/99-001b/|title=ハイエイトビデオテープに映像・音声のデジタル記録が可能 デジタルエイト方式を採用した“デジタルハンディカム”2機種 発売 |publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。他社からの参入はなく、その後Digital8規格は消滅した。 * [[2000年]]10月 - 「[[DSC-P1]]」を発売<ref name="商品のあゆみ−デジタルカメラ" />。現在も同社のデジタルカメラとしてはもっとも売れた機種である。 * [[2001年]] - [[MICROMV]]規格のビデオカメラ「DCR-IP7」を発表<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。MICROMVも独自規格のまま消滅。 * [[2004年]] ** 同社初の8cm[[DVD]]を使用するビデオカメラ「DCR-DVD101」「DCR-DVD201」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 ** 10月 - 世界初の[[HDV]] 1080i規格のビデオカメラ「HDR-FX1」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 * [[2005年]]7月 - 小型HDVカメラ、ハンディカム「HDR-HC1」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 * [[2006年]] ** 同社初の[[ハードディスクドライブ|HDD]]ビデオカメラ「DCR-SR100」を発売。 ** 1月 - [[コニカミノルタ]]のカメラ事業撤退に伴い、同社の資産を一部引き継ぎ、デジタル一眼レフ分野へ参入<ref>{{Cite press release|和書|date=2006-1-19|url=https://www.konicaminolta.jp/about/release/2006/0119_03_01.html|title=レンズ交換式デジタル一眼レフカメラ関連の一部資産譲渡等について|publisher=ソニー株式会社、コニカミノルタホールディングス株式会社、コニカミノルタフォトイメージング株式会社|accessdate=2014-11-25}}</ref>。「[[α (カメラ)|α(アルファ)]]」を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/ichigan/history/3-1.html|title=αヒストリー|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 ** 世界初の[[AVCHD]]方式のビデオカメラ「HDR-SR1」「HDR-UX1」を発売<ref name="商品のあゆみ−ビデオカメラ" />。 '''コンピュータ''' * [[1964年]] - 世界初のオール[[トランジスタ]][[電卓]]試作機MD-5号を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/1-14.html|title=Sony Japan|Sony History 第14章 旅客機に乗ったVTR|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1967年]] - オールトランジスタ電卓 [[SOBAX]]「ICC-500」を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-h.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1982年]] - [[CP/M]]を標準搭載した8ビット[[マイクロコンピュータ]]「SMC-70」を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。 * [[1983年]] - [[MSX]]マシン HiTBiT「HB-55」を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。 * [[1986年]] - MIPSプロセッサとNEWS-OS(ソニー製BSD系UNIX)を搭載した32ビット[[ワークステーション]]「NEWS」(NWS-830)を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。 * [[1988年]] - [[光磁気ディスク]](MO)を商品化<ref name="Sony History 2-10" />。 * [[1990年]] - [[手書き文字認識]]が可能な、日本語[[携帯情報端末|PDA]]の元祖[[パームトップ]]コンピュータ「PTC-500」発売<ref name="商品のあゆみ−その他">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-m.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−その他|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1996年]] - [[パーソナルコンピュータ|パソコン]][[VAIO]](PCV-90)を北米で発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。 * [[1997年]] - サブノートPC VAIO NOTE「PCG-505」を発売<ref name="商品のあゆみ−パーソナルコンピュータ" />。 * [[1998年]] - [[ジャストシステム]]に資本参加した。 * [[1999年]] - 子犬型ペットロボット[[AIBO]]「ERS-110」を発売<ref name="商品のあゆみ−ロボット">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-j.html|title=Sony Japan|商品のあゆみ−ロボット|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>、日本国内では販売開始から20分で完売する売れ行きだった。 * [[2000年]] - [[PlayStation 2]]を発売。MIPSベースの独自プロセッサ([[Emotion Engine]])が搭載されており、別売りのキットを用いるとLinuxが動作する。 * [[2006年]] - [[PlayStation 3]]を発売。PowerPCベースの独自プロセッサ([[Cell Broadband Engine]])が搭載されており、最初からLinuxのインストールに対応していた。 * [[2014年]] - VAIOは[[VAIO (企業)]]へ事業売却。 '''コンポーネント''' * [[1959年]] - 研究員の[[江崎玲於奈]]が発明したトンネルダイオードの試作研究に成功<ref name="Sony History 1-09" />。 * [[1979年]] - 12万画素CCD「ICX008」を商品化<ref name="Sony History2-11">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-11.html|title=Sony Japan|第11章 技術の「芽」、電子の「眼」 <CCD>|publisher=Sony|accessdate=2014-11-25}}</ref>。 * [[1980年]] - 3.5インチマイクロ[[フロッピーディスク]]を開発しのちに標準規格化される<ref name="Sony History 2-13"/><ref name="Sony History 2-12"/>。 * [[1989年]] - 直径7[[マイクロメートル|ミクロン]]の世界最小のレンズ「オンチップマイクロレンズ」を実用化<ref name="Sony History2-11" />。 * [[2008年]] - 裏面照射型CMOSイメージセンサ「[[Exmor|Exmor R]]」を量産化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200806/08-069/|title=従来比約2倍(*1)の感度および低ノイズで高画質を実現した、裏面照射型CMOSイメージセンサー 新開発|publisher=ソニー株式会社|date=2008-06-11|accessdate=2017-03-19}}</ref>。 '''番外編''' [[NHK]]「[[魔改造の夜]]」第5弾に「'''Sニー'''」チームとして出演。[[東京アールアンドデー|T京アールアンドデー]]、[[IHI|Aエイチ・アイ]]らと対戦した。ちなみに、「ネコちゃん落下25m走」に投入した改造ネコ型玩具の名前は「ArukuNyan」であった。ロゴはウォークマンのものとそっくりであり、オマージュとしてネコはヘッドホンをしていた。 == 製品 == === 現行 === '''[[テレビ受像機|テレビ]]<ref group="注"name="ex02">製造は[[ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ]]</ref>''' * [[ブラビア|BRAVIA]] '''[[ビデオテープレコーダ|ブルーレイディスクレコーダー]]<ref group="注"name="ex02" />''' * ([[BDZ]]) '''Ultra HD ブルーレイディスクプレーヤー<ref group="注"name="ex02" />''' * (UBP) '''ブルーレイディスクプレーヤー<ref group="注"name="ex02" />''' * (BDP) '''[[電子ブックリーダー]]''' * [[ソニー・リーダー|Reader]] '''[[デジタルカメラ]]<ref group="注"name="ex03">製造は[[ソニーグローバルマニュファクチャリング&オペレーションズ]]</ref>''' * [[サイバーショット]](コンパクトデジタルカメラ) * [[α (カメラ)|α(アルファ)]](デジタル一眼カメラ) '''[[ビデオカメラ]]<ref group="注"name="ex03" />''' * [[ハンディカム|Handycam]]([[ソニーのビデオカメラ製品一覧|製品一覧]]) '''[[携帯電話]]・[[スマートフォン]]<ref group="注">製造は[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]]</ref>''' * [[Xperia]] '''[[ラジオ]][[受信機]]<ref group="注">製造はソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ。一部は[[十和田オーディオ]]製。</ref>''' * ワールドバンドレシーバー([[短波放送]]・[[振幅変調|AM]]・[[周波数変調|FM]]受信機)<ref name="radio">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/radio/radio/ |title=ラジオ |publisher=ソニー |accessdate=2014-11-30}}</ref> * 名刺サイズラジオ<ref name="radio"/> * 非常用ラジオなど<ref name="radio"/> '''オーディオ<ref group="注"name="ex02" />''' * ESシリーズ * [[NETJUKE]] '''ポータブルオーディオプレーヤー<ref group="注"name="ex02" />''' * [[ウォークマン|WALKMAN(ウォークマン)]] '''ワイヤレスステレオヘッドセット''' * WIシリーズ * WFシリーズ * WHシリーズ '''[[ICレコーダー]]<ref group="注"name="ex02" />''' * [[ソニー・ICDシリーズ|ICDシリーズ]] * [[リニアPCMレコーダー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/ic-recorder/lineup/pcm.html|title=リニアPCMレコーダー|publisher=ソニー|accessdate=2018-04-10}}</ref> '''IC記録メディア''' * POCKET BIT<ref>{{Cite web|url=https://www.sony.jp/rec-media/lineup/pocketbit.html|title=POCKET BIT|publisher=ソニー|accessdate=2014-11-26}}</ref> * [[メモリースティック|MEMORY STICK]] '''[[ロボット|ペットロボット]]''' * [[AIBO|aibo]] '''業務用映像機器<ref group="注"name="ex03" />''' * [[XDCAM]] * [[HDCAM]] * NXCAM * [[CineAlta]] '''[[半導体]]<ref group="注"name="ex03" />''' * [[FeliCa]](非接触型[[ICカード]]) * [[Exmor]](CMOSイメージセンサ) <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/products_menu.html|title=商品一覧|publisher=ソニー|accessdate=2014-9-26}}</ref> '''メディカル・ライフサイエンス関連機器''' * [[フローサイトメーター]](セルアナライザー/セルソーター)<ref>{{Cite web|和書|title=ソニー株式会社 <nowiki>|</nowiki> 商品 <nowiki>|</nowiki> ライフサイエンス|url=https://www.sony.com/ja/Products/LifeScience/lineup/|website=www.sony.co.jp|accessdate=2021-06-11}}</ref> * 院内映像システム、メディカルモニター、メディカルカメラなど<ref>{{Cite web|和書|title=商品ラインアップ <nowiki>|</nowiki> メディカル関連機器 <nowiki>|</nowiki> ソニー|url=https://www.sony.jp/medical/lineup/|website=www.sony.jp|accessdate=2021-06-11}}</ref> === 過去 === * [[白物家電]](卓上IHクッキングヒーター、電気ケトル、洗濯機、冷蔵庫など。一部はSonettブランドで販売) * [[接着剤]](ソニーボンド) === デファクトスタンダード === [[規格争い]]を目的とせず、ソニー製品のために用意されたが、しだいに他社も流用するようになり結果として[[デファクトスタンダード]]として普及した規格を記載する。 * [[1957年]] - [[積層電池|006P型乾電池]](いわゆる9V電池) - [[トランジスタ]]ラジオ(TR-63)のために開発された。 * [[1979年]] - 3.5mmサイズの[[フォーンプラグ]]のうち、3極でステレオ化されたもの(いわゆるステレオミニプラグ) - 初代ウォークマン(TPS-L2)に搭載された。 * [[1981年]] - 3.5インチサイズの[[フロッピーディスク]] - 自社製[[ワードプロセッサ]]のために開発された。 * [[1985年]] - [[ガム型電池]] - ウォークマン(WM-101)のために開発された。 === 初めて実用化・商品化した製品 === 当社が世界あるいは日本で初めて実用化ないし製品化・商品化された製品を記載する。要素技術を発明・新開発したものではないものも含まれる。 * [[1955年]] - [[トランジスタ]]を使用した[[トランジスタラジオ|ラジオ]](TR-55、日本初。発明はベル研究所) * [[1960年]] - トランジスタを使用した[[テレビ受像機|テレビ]](TV8-301) * [[1968年]] - [[アパーチャーグリル]]方式の[[ブラウン管]]([[トリニトロン]]。発明は[[アーネスト・ローレンス]]) * [[1969年]] - カセットに収められたビデオテープ([[Uマチック]]。業界規格としては[[U規格]]) * [[1980年]] - 3.5インチサイズのフロッピーディスク * [[1982年]] - デジタル方式で音楽が記録できる光ディスク([[コンパクトディスク]]、CD) * [[1983年]] - CCDイメージセンサーの実用化と、CCD搭載のビデオカメラ(CCD-G5、発明はベル研究所) * [[1991年]] - [[リチウムイオン二次電池]](発明は[[旭化成]]の[[吉野彰]]) * [[2007年]] - [[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]方式のテレビ(XEL-1) * [[2008年]] - 裏面照射型CMOSイメージセンサー([[Exmor|Exmor R]]、初出は[[オムニビジョン]]) * [[2012年]] - マイクロLEDディスプレイ([[Crystal LED Display]]、のちのCLEDIS) <!--その他、HDビデオカメラ、AIBO、小型ヘッドホン、デジタルノイズキャンセリング、インナーイヤー、量子ドット(QDLCD)テレビなど。--> == ロゴマーク == 「'''SONY'''」が商標登録された1955年に、社名の周りが四角で囲まれた[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が最初に制作された<ref name="sony23">{{cite news|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-23.html|title=Sony History 第23章「SONYブランド」の出発|newspaper=ソニー株式会社|date=|accessdate=2018-01-15}}</ref>。その後、1957年に四角が取り払われ、文字のデザインが変更されて以降、年を経るごとにデザインが少しずつ修正されていった<ref name="sony23"/>。 1961年、[[香港]]に日本企業初の[[ネオンサイン]]を掲げる際、2代目のロゴはネオンサインに合わないという理由で修正することになる<ref name="sony23"/>。デザイナーの[[黒木靖夫]]<ref group="注">黒木は後にソニー企業株式会社の代表取締役を務めている。</ref> は、当時ソニー副社長だった盛田から指名され、苦心を重ねて新しいロゴを制作した<ref name="sony23"/>。こうした努力の結果、黒木のロゴはネオンサイン限定のデザインとはならず、1962年に発売したマイクロテレビの広告で、3代目のロゴとして正式に採用された<ref name="sony23"/>。 3代目のロゴが作られて以降、さらに磨きのかかったロゴに仕上げるため、[[大賀典雄]]が室長を務める<ref group="注">当時、大賀は宣伝部長も兼務していた。</ref> デザイン室にはロゴ専用の委員会が設置された<ref name="sony23"/>。さらに、1962年に4代目のロゴになってからは使用規定も追加され、[[コーポレートアイデンティティ|コーポレートデザイン]]の実現を目指すようになった<ref name="sony23"/>。 使用規定にはロゴマーク(コーポレートロゴ)との混同を避けるため、ソニーが発信する文書にはすべて大文字での「SONY」を使用せず、「ソニー」あるいは 「Sony」を使用するように、という記述がある(たとえば 「SONY CORPORATION」などのようにすべて大文字で表示する必要がある場合を除く)。 1973年、最初のロゴから数えて6代目のロゴが制作され、現在に至る<ref name="sony23"/>。 なお、東通工時代を含む創立35周年を迎えた1981年に、7代目となるロゴを制作しようと全世界を対象にデザインを公募したものの、井深や盛田が「今のロゴのほうが明快でいい」と話したため、制作は中止となった<ref name="sony23"/>。 == ブランドメッセージ == [[File:It's a Sony Logo.png|thumb|200px|「It's a Sony」ロゴ]] [[File:Sony make.believe logo (Other).svg|thumb|200px|「make.believe」ロゴ]] 1982年、これまでの「'''SONY'''」と刻まれたロゴに加えて、「SONY」の「S」がデザインされたイメージが新たに作られた<ref name="sony23"/>。さらに、盛田の提案により「{{en|'''It's a Sony'''}}」(イッツ・ア・ソニー)と[[英語]]ナレーションが流れる[[サウンドロゴ]]も[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]用に加えられた<ref name="sony23"/>。これ以降、コマーシャルの最後に「絵」と「音」を使ったブランドメッセージが使用されるようになった<ref name="sony23"/>。 2009年、世界共通のブランドメッセージとして「{{en|'''make.believe'''}}」(メイク・ドット・ビリーブ)を新たに導入した<ref name="sony2009">{{cite news|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/200909/09-100/|title=“make.believe” の導入 豊かな想像を現実に結びつける—ソニーグループを象徴するブランドメッセージ|newspaper=Sony Japan ニュースリリース|date=2009-09-03|accessdate=2018-01-15}}</ref>。グループの複数の事業に対して共通のブランドメッセージが使用されたのは初めてとなる<ref name="sony2009"/>。 2018年、コマーシャルにおけるブランドメッセージはモーションロゴ(ロゴマークとサウンドロゴ)のみとなっている。サウンドロゴは[[ピアノ]]の単音を使用しており、直後に「'''SONY'''」とナレーションが流れるバージョンも存在する。モーションロゴは[[コロンビア ピクチャーズ]]、[[トライスター ピクチャーズ]]、[[スクリーン ジェムズ]]のオープニングロゴにも使用されている。{{Main|コロンビア ピクチャーズ#オープニングロゴ}} 2021年にモーションロゴがリニューアルされ、ロゴマーク出現時に[[グラデーション|グラデーション効果]]が施された<ref>{{Cite news|title=モーションロゴ|newspaper=ソニーグループポータル|url=https://www.sony.com/ja/brand/motionlogo/|accessdate=2022-02-06}}</ref>。 また、テレビ放送では短縮版も存在しており、ロゴは、[[ソニー・ピクチャーズ テレビジョン]]または、トライスター・プロダクションズのサウンドロゴと一緒に使用されている。この場合時のみピアノの単音は流れない。 == 歴代トップ == === 社長 === {|class="wikitable" !!!氏名!!在任期間!!出身校 |- ! 1 | [[前田多門]] | 1946年 - 1950年 | [[東京大学|東京帝国大学]]法学部 |- ! 2 | [[井深大]] | 1950年 - 1971年 | [[早稲田大学理工学部]] |- ! 3 | [[盛田昭夫]] | 1971年 - 1976年 | [[大阪大学|大阪帝国大学]]理学部 |- ! 4 | [[岩間和夫]] | 1976年 - 1982年 | 東京帝国大学理学部 |- ! 5 | [[大賀典雄]] | 1982年 - 1995年 | [[東京芸術大学]]音楽学部 |- ! 6 | [[出井伸之]] | 1995年 - 2000年 | [[早稲田大学第一政治経済学部]] |- ! 7 | [[安藤国威]] | 2000年 - 2005年 | [[東京大学経済学部]] |- ! 8 | [[中鉢良治]] | 2005年 - 2009年 | [[東北大学]][[大学院]][[工学研究科]] |- ! 9 | [[ハワード・ストリンガー]] | 2009年 - 2012年 | [[オックスフォード大学]][[大学院]] |- ! 10 | [[平井一夫]] | 2012年 - 2018年 | [[国際基督教大学]]教養学部 |- ! 11 | [[吉田憲一郎]] | 2018年 - 2021年 | [[東京大学経済学部]] |- ! 12 | 槙公雄 | 2021年 - 現職 | |} === 最高経営責任者 === {|class="wikitable" !!!氏名!!在任期間!!出身校 |- ! 1 | [[大賀典雄]] | 1989年 - 1999年 | 東京芸術大学音楽学部 |- ! 2 | [[出井伸之]] | 1999年 - 2005年 | 早稲田大学第一政治経済学部 |- ! 3 | [[ハワード・ストリンガー]] | 2005年 - 2012年 | オックスフォード大学大学院 |- ! 4 | [[平井一夫]] | 2012年 - 2018年 | 国際基督教大学教養学部 |- ! 5 | [[吉田憲一郎]] | 2018年 - 2021年 | 東京大学経済学部 |- ! 6 | 槙公雄 | 2021年 - 現職 | |} === 会長 === {|class="wikitable" !!!氏名!!在任期間!!出身校 |- !1 | [[井深大]] | 1971年 - 1976年 | 早稲田大学理工学部 |- ! 2 | [[盛田昭夫]] | 1976年 - 1995年 | 大阪帝国大学理学部 |- ! 3 | [[大賀典雄]] | 1995年 - 2000年 | 東京芸術大学音楽学部 |- ! 4 | [[出井伸之]] | 2000年 - 2005年 | 早稲田大学第一政治経済学部 |- ! 5 | [[ハワード・ストリンガー]] | 2005年 - 2012年 | オックスフォード大学大学院 |- ! 6 | [[平井一夫]] | 2018年 - 2019年 | 国際基督教大学教養学部 |- ! 7 | [[吉田憲一郎]] | 2020年 - 現職 | 東京大学経済学部 |} == 事件・不祥事・問題 == === ステルスマーケティング === ; [[デビッド・マニング事件]](2001年) : [[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]が「架空の映画評論家」を作りあげ、自社の映画作品を絶賛していた[[ステルスマーケティング]]事件。ソニーは合成音声でラジオ出演させるなど偽装工作を行った<ref>John Horn. {{Cite web|url=https://www.msnbc.com/news/581770.asp?cp1=1|title=The Reviewer Who Wasn't There|accessdate=2014-08-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010609225327/http://www.msnbc.com/news/581770.asp?cp1=1|archivedate=2001-06-09}}</ref>。 ; 俳優を利用したステルスマーケティング(2003年) : [[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]](現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]])は、[[俳優]]60人を雇い、ステルスマーケティングを行っていた。主要都市で旅行者に扮した俳優は通行人に自社製品で写真を撮らせ、その過程で製品の機能について熱心にアピールすることで「ソニーの製品はクールだ」と伝えるというもの。ライターの[[マルコム・グラッドウェル]]は、「[[詐欺]]紛いの行為であり、常識的にあり得ない。真実が知れれば大きな反発を生むだろう」と見解を示している<ref>{{Cite web|url=https://www.cbsnews.com/news/undercover-marketing-uncovered-23-10-2003/|title=Undercover Marketing Uncovered|publisher=[[CBS]]|date=2003-10-23|accessdate=2014-9-16}}<br />{{Cite web|url=https://www.marketing-schools.org/types-of-marketing/stealth-marketing.html|title=What is Stealth Marketing?|publisher=Marketing-Schools.org|accessdate=2014-9-25}}</ref>。 ; [[ゲートキーパー問題]](2004年) : 複数のサイトにおいて[[任天堂]]、[[マイクロソフト]]などの他社製品を中傷、自社製品を宣伝する書き込みがあり、それが同社の本社からの書き込みであることが発見される<ref name="geetkeeper">{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/4105629/ |title=妊娠、GK、痴漢なにそれ? 全部ゲーム用語!|accessdate=2018-04-10|date=2009-04-11|website=livedoorニュース|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160311034346/http://news.livedoor.com/article/detail/4105629/|archivedate=2016-03-11}}</ref>。さらに、これを契機に多くの[[ブロガー]]らが自身の[[ウェブサイト]]で[[ドメイン名]]検索を実施したところ、2000年ごろから「少人数ではとても行えない規模」で、同様の書き込みがあったことが発覚した<ref name="geetkeeper "/><ref>{{Cite web|和書|url=http://stema.aikotoba.jp/case/index.html|title=ステマの実例|website=ステマ対策室|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 ; PlayStation Portableファンブログヤラセ問題(2006年) : [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント(米国)]]が、個人ブログと偽り他社製品を中傷、自社製品の宣伝を行うサイトを運営していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.engadget.com/2006/12/22/sony-psp-fake-fansite-busted/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070102045414/http://japanese.engadget.com:80/2006/12/22/sony-psp-fake-fansite-busted/|archivedate=2007-01-02|deadlinkdate=2022-05-01|title=ソニー、ヤラセを自白 「これからは良い製品作りに専念」|publisher=engaget|date=2006-12-22|accessdate=2014-8-22}}</ref>。 ; YouTube再生回数不正問題(2012年) : [[ソニー・ミュージックエンタテインメント]]の[[YouTube]]アカウントにおいて再生回数が不正に水増しされていたため、再生回数が大幅にマイナス修正された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gizmodo.jp/2012/12/youtube_22.html|title=YouTube、再生回数不正にメス。結果、ソニーミュージックやユニバーサルミュージック公式アカウント等の再生回数が大きくマイナスに|publisher=ギズモード・ジャパン|date=2012-12-26|accessdate=2014-9-7}}</ref>。 ; PlayStation Vita問題(2014年) : ソニー・コンピュータエンタテインメント(現・[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]])が[[PlayStation Vita]]について、実際には使えない機能を顕著な特徴として宣伝した。当社やその広告店の社員によるものだと明示的に示すことなしに、社員の[[Twitter]]アカウントを通じての投稿が、消費者に直接的に宣伝を行うなどして消費者に誤解を与えたと、[[アメリカ合衆国]]連邦取引委員会の指摘を受け、消費者に25ドルか50ドル相当の商品引換券を提供することで和解した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.wsj.com/articles/SB12021915100590764698404580299582624381358|title=ソニー、PS問題でFTCと和解|publisher=The Wall Street Journal|date=2014-11-26|accessdate=2014-11-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.ftc.gov/news-events/press-releases/2014/11/sony-computer-entertainment-america-provide-consumer-refunds|title=Sony Computer Entertainment America To Provide Consumer Refunds To Settle FTC Charges Over Misleading Ads For PlayStation Vita Gaming Console|publisher=Federal Trade Commission|date=2014-11-24|accessdate=2014-12-3}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999903/20141127016/|title=米連邦取引委員,PS Vitaで虚偽の広告を行ったとする問題についてSCEAと和解|publisher=4Gamer|date=2014-11-27|accessdate=2015-2-12}}</ref>。 === その他 === ; [[ソニーBMG製CD XCP問題]]'''(2005年) : [[ソニーBMG|ソニーBMG・ミュージックエンターテインメント]](現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])の音楽CDに[[スパイウェア]]が仕込まれていた問題<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0605/23/news017.html|title=SONY BMGのrootkit CD訴訟、和解を最終承認|accessdate=2014-8-17}}</ref>。 ; 薄型テレビ発火死亡事故'''(2008年) : [[2008年]][[1月30日]]に岡山県の同社製薄型テレビ購入者宅で薄型テレビ(KDL-32V2000)から発火し2名が死亡した。その後、同年[[2月29日]]に[[経済産業省]]へ事故発生の届け出があったが、火災原因の特定には至らなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/product_safety/policy/20daisanshaiinnkai/fumei_080704.pdf|title=消費生活用製品の重大製品事故に係る公表済事故|publisher=[[経済産業省]]|accessdate=2016-9-14}}</ref>。 ; [[PlayStation Network個人情報流出事件]](2011年) : [[PlayStation Network]](PSN)において推定7,700万人の個人情報が流出した事件<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-20830920110427|title=ソニーPSネットに不正侵入、7700万人の情報流出の可能性|accessdate=2014-8-17}}</ref>。; ; 内部文書流出(2015年) : [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に関係するとみられる[[ハッカー]]により、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]の内部文書が流出。これらは[[ウィキリークス]]で公開され、その中には約100件の政府関係者の[[電子メールアドレス]]も含まれており、ウィキリークス代表の[[ジュリアン・アサンジュ]]は「[[ロビー活動]]の様子が伺える。影響力の強い企業が、どう活動しているかが分かる貴重な財産」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASH4K2DN6H4KUHBI009.html|title=ウィキリークス、ソニー子会社の流出文書公開 約3万点|accessdate=2018-04-10|date=2015-04-17|publisher=朝日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304103136/https://www.asahi.com/articles/ASH4K2DN6H4KUHBI009.html|archivedate=2016-03-04}}</ref><ref>[https://wikileaks.org/sony/emails/ WikiLeaks - Sony Archives]</ref><ref>[https://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/leaked-emails-expose-sony-concern-over-report-its-cameras-used-gaza-attack Leaked emails expose Sony concern over report its cameras used in Gaza attack | The Electronic Intifada]</ref><ref>[https://www.business-humanrights.org/en/allegations-that-sony-equipment-has-been-used-in-israeli-missiles-bombing-gaza-strip Allegations that Sony equipment has been used in Israeli missiles bombing Gaza Strip | Business & Human Rights Resource Centre]</ref>。 ; 新製品広告を投稿問題(2021年) :2021年(令和3年)6月30日、7月7日に新製品を発表するという広告を投稿したが、7月7日が[[盧溝橋事件]]の発生から84年という日であったことから、7月1日付けで広告を削除した。10月18日、[[中華人民共和国|中国]][[北京市]][[朝陽区 (北京市)|朝陽区]]の市場監督管理局は同日までに広告法に違反したことを理由にソニーグループの中国法人に対し、100万元(日本円で約1800万円)の罰金を科した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM186MB0Y1A011C2000000/|title=中国当局、ソニーに罰金 広告で「国家の尊厳損なう」|publisher=日本経済新聞|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20211018-OYT1T50172/|title=「盧溝橋事件の日」に新製品発表と広告…中国当局、ソニーに罰金1778万円|work=読売新聞オンライン|publisher=読売新聞社|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-19}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 外部リンク == * [https://www.sony.co.jp/ ソニー株式会社 | ポータルサイト] {{ソニー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そにい}} [[Category:ソニー|*]] [[Category:ソニーグループ|*]] [[Category:日本のソフトウェア会社]] [[Category:日本の映像機器メーカー]] [[Category:日本の音響機器メーカー]] [[Category:日本の携帯電話メーカー]] [[Category:日本の電気機器メーカー]] [[Category:日本のカメラメーカー・ブランド]] [[Category:半導体企業]] [[Category:コンピュータ周辺機器企業]] [[Category:東京都港区の企業]] [[Category:2001年設立の企業]] [[Category:港南 (東京都港区)]] [[Category:盛田家|社そにい]] [[Category:盛田昭夫|*]] [[Category:井深大|*]]
2003-02-15T23:02:45Z
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デジタルカメラ
デジタルカメラ (英: digital still camera、DSC) は、デジタル写真を撮影するカメラである。 一般に「デジタルカメラ」といえば静止画を撮影する「デジタルスチルカメラ」を指し、動画を撮影録画する「デジタルカムコーダ」 は含めない。現在では静止画撮影が可能なデジタルカムコーダや、動画撮影が可能なデジタルスチルカメラが一般的になっており、双方の性能の向上もあってその境界線が徐々になくなりつつあるが、デジタルカメラはその中でも静止画の撮影に重点を置いたモデルを指す。 「デジカメ」と省略されることも多かったが、当該用語は日本国内では三洋電機および他業種各社の登録商標である。なお、三洋電機が登録した商標に関しては更新がされなかったため、2019年に権利が消滅した。 本項で特に断りがない限り、一眼レフカメラはデジタル一眼レフカメラを、コンパクトカメラはデジタルコンパクトカメラを指す。 静止画をデジタルで記録する「デジタルカメラ」の前に、アナログ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在した。これは、アナログFM記録する電子カメラで、ソニーが1981年(昭和56年)に試作し後に製品化した「マビカ」を代表とする。初の販売製品としてはキヤノンのRC-701(1986年(昭和61年)発売)があり、この時に2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として記録する共通規格SV規格が正式に決められた。 これに追随して、カシオはVS-101(1987年(昭和62年)6月)を発売したものの、10万円台の高価格(ちょうど同じ頃普及が進んだ8ミリビデオカメラと同額程度)のため人気が出ず、大量の不良在庫を出した。このSV規格方式を中心に、1990年代初頭に至るまでいくつかのメーカーから電子スチルカメラが発売されるも、カムコーダの人気の前に、全く普及しなかった。 なおこれらのカメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと区別するために付けられた名称である。 1960年代、NASAジェット推進研究所のユージーン・F・ラリー(英語版)は、モザイク感光体を使ってデジタル画像を撮影する方法を考えていた。また、1972年にテキサス・インスツルメンツ社の社員ウィリス・アドコックがフィルムレスカメラの特許(米国特許4,057,830)を取得した が、いずれも技術がまだコンセプトに追いついていなかった。 1975年、初の製品化されたオールデジタルカメラとしてCromemco Cyclopsが登場した。これは、『ポピュラーエレクトロニクス』1975年2月号に設計が掲載されたものを商品化したものである。画像素子として32×32画素のMOSイメージセンサを使用しており、これはMOS DRAMメモリチップを改造したものである。 イーストマン・コダック社の技術者であるスティーブン・サッソン(英語版)は、1975年にCCDイメージセンサを使用した自己完結型電子カメラを発明し、製造した。画像サイズは100×100の10,000ピクセルで、撮影した映像をテレビに映すこともできた。同じ頃、富士フイルムは1970年代にCCD技術の開発に着手した。 画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは1988年(昭和63年)に富士写真フイルムから発表された「FUJIX DS-1P」であり、当時のノートパソコンでも使われたSRAM-ICカードに画像を記録した。しかしこれは発売されることはなく、実際に店頭に現れた世界初のデジタルカメラはDycam社が1990年(平成2年)に発売した「Dycam Model 1」である。電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用したのは1993年(平成5年)富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」である。 1994年(平成6年)発表・1995年(平成7年)3月発売のカシオ計算機のデジタルカメラ「QV-10」は、デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品である。外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円を実現して好評だった。一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できることである。また当時はWindows 95ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期であったため、パソコンに画像を取り込むことが広く認知された。この機種はNHKの番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」090回「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」において、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介された(ただし、撮影画像をその場で確認できる液晶パネルを搭載したデジタルカメラとしては世界初である)。 QV-10の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めた。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能がある。その記録方法としてJPEGの連続画像(後にMotion JPEGと呼ばれる方式)を採用した。 この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もしばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていた。 1999年(平成11年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、2002年(平成14年)にはフィルムカメラとデジタルカメラの出荷台数が逆転、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わった。 報道関係やプロカメラマンの間でもデジタルカメラは普及した。初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になるなど、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラだった。1999年(平成11年)にニコンが既存の同社一眼レフ用レンズを使えるデジタルカメラ「D1」を定価65万円で発売後、各社完成度の高い低価格デジタル一眼レフを相次いで投入した。以後、速報性が重視される場面を中心に広まり、翌年のシドニーオリンピックなどを契機として報道各社を中心にデジタルカメラの導入が進んだ。撮影データをネットワーク経由で一瞬で遠隔地に送る事が出来、フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、フィルムカメラを駆逐し報道カメラの中心的な存在となった。その後、高性能化とデータ編集の容易さが支持されて、質感や仕上がりなどを重視する商用写真や美術写真にも活用範囲が広まった。 2000年(平成12年)頃から国内の光学機器メーカーだけでなく、電気機器メーカーが一般向けデジタルカメラ事業に参入し、さらには台湾や中国、韓国等のメーカーが加わった。2000年代中頃にはデジカメ市場が飽和しつつある中、カメラ付携帯電話の高機能化も加わって、店頭では販売合戦が展開されており、また2005年には京セラがデジカメ市場から撤退するなどメーカーの淘汰も始まった。 2007年に初代iPhoneが発売されて以降、高性能なカメラを搭載したスマートフォンの普及に伴い、デジカメの世界販売台数は2010年の1億2146万3234台をピークに、また市場規模は2008年の2兆1,640億円をピークに 減少を続けている。特に、一般消費者を主なユーザーとするレンズ一体型デジカメ(コンパクトデジカメ、コンデジ)の出荷台数は2008年の約1億857万台をピークとして、10年で1/10になるなど急激に減少した。 一方で、ハイアマチュア以上を主なユーザーとするレンズ交換式デジカメの出荷台数は2013年の約1713万台をピークとして、5年で1/2にしかならないなど減少は緩やかであり、2018年にはレンズ交換式デジカメ出荷台数1075万台に対してコンデジの出荷台数が866万台と、レンズ交換式の出荷台数がコンデジを上回った。 デジタルカメラの世界総出荷台数は、2018年は約2200万台(市場規模は約7300億円)、2019年度は1522万台(市場規模は4500億円)。2020年度は世界総出荷台数は888万台(市場規模は4201億円)となり、ついに富士フイルム社のフイルムカメラ「チェキ」の年間販売台数(2018年度は約1005万台)を下回った。 2021年現在、メーカーの淘汰が進んでおり、世界シェアはキヤノン、ソニー、ニコン、富士フイルムの4社で約9割、パナソニックを加えると約9割5分を占める。特にキヤノンは2003年に初めてシェア1位となって以降、デジカメ市場で不動の1位として2020年度には約48 %の市場シェアを占めるが、市場自体が急激な右肩下がりであるため、キヤノンは2020年4〜6月期に史上初の四半期赤字に転落した。2018年にはカシオがデジタルカメラ事業から撤退、2020年にはオリンパスがデジタルカメラ事業を投資ファンドに売却するなど苦しい状態が続いている。 実態としてはおおむね下記の通りである。分類が困難な機種もある。 デジタルカメラの全体的な構成は、大きく分けて光学系と電子系、そしてそれらを保持する筐体に分類できる。 光学系はレンズと絞り機構であり、一眼レフでは光学式ファインダー用のレフレックスミラーとプリズムがこれらに加わる。機械式のシャッター機構を備えるものもある。電子系は受光素子とメモリーを含む画像演算回路、記録装置、液晶表示器、ストロボ、操作スイッチ、電池などである。 光学信号である画像を電気に変換する撮像素子(光学センサ)は、CCDイメージセンサかCMOSイメージセンサが用いられる。この点が光化学反応を用いる銀塩フィルム式のフィルムカメラと異なる。撮像素子の受光面の大きさは、通常のフィルムカメラで用いられる35 mm判フィルムの1コマよりも小さいものが大多数である。半導体素子そのものである撮像素子は、その大きさが部品価格の主要な決定要素であるため、比較的廉価なコンパクトデジカメでは1/3インチから2/3インチが、上位価格帯を占める一眼レフタイプではより大きなAPS-Cサイズが用いられる。また、一部の高級機種や業務用機種には35 mmフルサイズや中判など、銀塩フィルムと同等サイズの撮像素子を搭載する製品もある。 撮像素子は2000年頃までCCDが主流で、画質が劣ったCMOSは一部の安価な機種に搭載されるのみだった。その後、CMOSイメージセンサの性能が向上して多くの問題点も対処が進められた。CMOSの特徴である低消費電力性や低価格なこともあり、一眼レフを中心にCMOS搭載機種が増えてきている。CMOSによるデジタル回路を同じシリコン基板上に構築しやすいので高機能な駆動回路をセンサ側に作るのに向いており、例えばA/D変換回路を内蔵するものがある。 一般に撮像素子が大きいほど色再現性、感度、ノイズ、ダイナミックレンジなどあらゆる点で有利である。とくに同じ時代に設計された撮像素子同士の比較ではサイズにより画質の差があり、測定値にも表れる。また、同じ画角・同じF値における被写界深度が浅くなるため、対象物だけにピントを合わせて背景から浮き上がらせるボケの効果が得られやすい。反面、撮像素子が大きいとボディが大型化し、高価になる。また画素数が多いほど描写は精細になり、大きなサイズでのDPE依頼やフォトプリントでも精細な画像が得られる。撮像素子のサイズを変えずに画素数を増やすと、1画素あたりの面積が小さくなる。ダイナミックレンジが狭くなる、電気的なノイズ・歪みが多くなることからむしろ画質を損なう場合もあるので、撮像素子や処理回路でノイズを抑える設計が必要であるため、画素数を増やすことには限界がある。コンパクトなボディに大きな撮像素子を搭載した機種も存在する。 2010年現在用いられている撮像素子の多くが、1つの画素で多様な色の識別は行えず、画素を構成するそれぞれのフォトダイオードの上に RGB(CMY) の内のいずれか1色のフィルターを配置することでそれぞれの色を検出する。このため、多様な色が検出できる最小単位は、少なくとも3画素である。続く画像処理部では、それぞれの画素には本来測光しなかった他の2色分の色情報を周囲の色から作り出すという処理が行われる場合があり、「偽色」と呼ばれる、誤った色情報を生成したり不自然なノイズが生じる原因である。このようなノイズや画素数の実質的な減少を避けて、可能な限り画素数を増やしたいプロ仕様の上級機種では、入射光を3個ほどのプリズムによって CMY(RGB) という波長帯別に分離してから、それぞれの光を1枚ごとの撮像素子で電気に変換する仕組みを備えるものもある。 フィルムカメラのファインダーには幾つか異なる方式があるものの、全て光学式だった。デジタルカメラの場合も同様の構造が可能だが、多くのデジタルカメラは撮像素子で得た画像データを本体背面などのカラー液晶で表示することでファインダーとしている。また、いわゆる「ミラーレス一眼カメラ」では、従来の一眼レフカメラと同等の位置にカラー液晶を使ったファインダーを配置しているものが多い。この電子式ファインダーはプリズムやミラー、光路を必要とする光学式に比べて設計上の自由度が高いが、2019年現在では撮影直後に表示が一時停止するモデルが多いといった問題もある。また単に撮影画像を表示するだけでなく、電子機器であるデジタルカメラ本体の操作画面としてや、画像編集といった付加的な機能にも利用される。 背面液晶式カメラの多くでは液晶表示部が背面に固定されているが、これを可動としたのがいわゆるバリアングル液晶であり、撮影者の視点や姿勢にあまり制約されることなく、ローアングル(低い位置からの撮影)やハイアングル(高い位置からの撮影)などの撮影が容易になった。 フィルムカメラでもデジタルカメラでも同様であるが、実際に撮影させる画像とファインダーで見える画像とが必ず同じ範囲であるとは限らない。実記録画像が100 %としたときのファインダー画像の大きさを%で示す「ファインダー視野率」という指標がある。デジタルカメラでは、比較的100 %のものが多い。 シャッターボタンを含む操作用のスイッチ類は、人間工学に基づき配慮されている。一部の機種では電子式ファインダーである液晶画面にタッチパネルを組み込むことで、ファインダーの画面が操作面となるものもある。 撮像素子からのアナログ信号はアンプによって増幅され、高速アナログ/デジタル変換器によってデジタル信号に変換された後、DRAMのような半導体記憶素子に一時記憶として蓄えられる。画像処理専用に作られたASICが、この一時記憶領域から必要なサイズの画素を読み出しては演算処理を行い、一時記憶へ書き戻す。イメージセンサの画素数の増加とそれに伴い求められる処理性能の上昇に合わせて、次々と演算処理速度の高いICが開発されている 。 画像を記録するには、一般にフラッシュメモリが使用される。ICチップによる内蔵固定式やメモリカードを差し込む内蔵交換式などの記録媒体がある。 画像をやり取りするために外部との接続端子を持つ機種では、USB端子を備えるものが多い。メモリーカードをパソコンやプリンターに差し込んで接続したり、DPE店へ預けたりする方法でも画像情報を利用することが可能である。パソコンのすべてが適切なメモリーカード用スロットと備えているわけではなく、多くの機種ではUSBのような汎用的なインタフェースを備えることで、カメラ側にメモリーカードを装着したままパソコンなどで読み書きできるようにしていることが多い。 また、USBを経由することで、戸外で多くの撮影を行う場合でも、ノートパソコンなどよりも小型軽量のUSB対応外部記憶装置へ画像情報を大量に保存するような利用法が可能である。USB経由でプリンターへの出力も可能である。 ほとんどの機種では夜間撮影などのためにストロボ発光機能を備えている。必要な電圧までコンデンサに充電することで電気エネルギーを蓄えて、シャッターボタンによる操作でストロボを発光させる。ただし、コンパクトデジカメのストロボは3 - 5 m程度の距離しか有効な光量を作れない。またコンパクトカメラでも上級機や、一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラのほとんどの機種では筐体上部などにアクセサリーシューが付いており、オプションで外部ストロボが取り付けられる。 携帯電子機器であるデジタルカメラの電源はほとんどが、内蔵される充電式バッテリーによる。デジタルカメラはほとんどすべての機能が電子回路によって実現されているため、フィルムカメラよりも消費電力が大きい。比較的多くの枚数を記録できることもあって、大容量で大きく重いバッテリーを内蔵していることが一般的である。ほかの方式より軽量で容量の大きい専用のリチウムイオン電池を採用する機種が多い。シャッターを切ったりフラッシュメモリに書き込んだりフラッシュライトを点灯する時は特に大電流が必要であるため、このパルス放電に対応したバッテリーとしてニッケル水素電池が多くの機種で採用された。ニッケル水素電池を外出先で消費し切った場合は、入手性の高いアルカリ乾電池が使用可能であるものが多い。メーカーはカメラ本体だけでなく、消耗品、周辺機器も含めたトータルで利益が出ればよい。特に電池はメーカー、機種ごとに異なることが多いので、予備の電池が必要な場合、新しいカメラを購入したときは電池も購入する必要がある。予備電池の価格は比較的高めにつけられている場合が多い。そのため、純正品以外にも多くの互換電池が出回っている。代表的なメーカーに、台湾のロワなどがある。稀にではあるが純正以外の電池使用により異常発熱や膨張、機器破損の事故も発生しており、カメラメーカーの中には互換電池を使用できないようにカメラ本体側にプロテクトを施しているメーカーもある。 不安定な手持ちでの操作や衝撃・塵埃の多い環境で用いられることが多いカメラの本体を構成する筐体(ボディ)には、内部の脆弱な光学部品や電子部品を支え保護するために堅牢性や気密性を維持することが求められ、同時に軽量であることが求められる。筐体は、アルミ合金等の金属製の骨格に、多数のエンジニアリングプラスチックなどの合成樹脂によるフタやグリップ、緩衝材が取り付けられているのが一般的である。 基本的な静止画撮影の動作を以下に順を追って示す。 静止画撮像では、カメラが電子的に捉えた画像のコントラスト情報を元に自動的にカメラ側でピントを合わせるオートフォーカス (AF) 機能を使って撮影することがアマチュアを中心に一般的である。撮影時にシャッターボタンを半押しにするとAF機能が作動するモードが中心である。撮影可能状態にすればオートフォーカスが常に働き、いつでもシャッターが切れるモードも選択できる機種がある。前者では電池の消費が抑えられ、後者ではシャッターチャンスを逃がす可能性が低くなる。ただし、AF機能は動きの早い被写体や陰影差の少ない対象には向かず、AFロックといった撮影者の工夫やマニュアル・フォーカスなどが求められる。高級機ではコントラスト情報以外でもピント合わせが可能であったり、マニュアル・フォーカス機能の操作性なども考慮されているものがある。 露光時間は機械式や電子式のシャッターで制御するが、上手に露光時間を選ばないと被写体の明暗度合いによっては撮像素子が明部と暗部のいずれかが露光過剰や露光不足によって「白とび」や「黒つぶれ」を起こす。「白とび」「黒つぶれ」を回避するために、銀塩カメラでは受光する枠内に測光素子を多数配置して最も明るいところと最も暗いところを検知する。また、コンパクトデジタルカメラでは電子的な撮像素子そのものが測光素子を兼ねて、露光を自動調整する。ただし撮像素子は読み出しに多少の時間が掛かるので、瞬間的に明るさの変化する撮影対象では正確な露光が期待できない。ほとんどのデジタル一眼レフ機では、撮像素子とは別に測光専用のセンサーで露出を決めるものが多い。 フィルムカメラの上位機種でも備えるものがあるが、オートブラケティング(Automatic Exposure Bracketing, AEB)撮影によって、露出を変えながら立て続けに2-4枚ほどの撮影を行うこともできる。また、オートブラケティングと同様に露出の異なる複数枚の撮影をすばやく行い、内部演算処理によって1枚のダイナミックレンジの広い画像を得る、ハイダイナミックレンジ(HDR)処理をカメラ単体で行う機種も登場している。 撮像素子から出力されたアナログデータはA/D変換された後、映像エンジン や画像エンジンなどと呼ばれる画像処理専用のICによって、暗電流補正、補間演算、色空間変換、ガンマ補正、収差の補正、ノイズリダクション、画像圧縮などの様々な画像処理が行なわれ、外部利用に適した画像形式に変換される。 たとえ同じ撮像素子を使っていても、カメラのメーカーが異なっていれば画質の傾向も違ってくる。画像処理のアルゴリズムが出力される画質を左右するため、メーカーでは様々な工夫を行っている。かつてはこの処理に時間が掛かるのがデジタルカメラの問題点の1つであったが、今ではデジタル演算能力の向上によってほぼ解決されている。 映像エンジンで画像処理が施されたり、またはRAWデータのままの静止画情報は、記録媒体に書き込まれて保存される。フラッシュメモリー素子のデータ転送速度は年々高速化しているが、一方で画像データサイズの肥大化もあって、一般に記録動作には時間が掛かる。 上記の他にも、TIFF、DPOFなどがある。 デジタルカメラが登場した当初は、性能は銀塩カメラより劣った。主に電子技術の急速な発達によって解像度や感度が銀塩カメラに追いつくほど技術開発が進み、銀塩カメラを広範囲に置き換えた。そして、単に静止画を撮影する基本機能の充実だけでなく、デジタル式にしかできない付加的な機能を付け加える方向へ技術開発がされている。 デジタル画像処理によりズームを行う方式。ズームレンズを用いた光学式ズームと同時使用可能である。 イメージセンサーの中央部の画素のみを撮影に使用し、拡大することで画像を作成するズーム方式。ズーム倍率に応じて使用可能な最高画素数は減少する。例えば、1200万画素機で2倍ズームにすると、その場合の画素数は縦横共に半分になるのでイメージセンサーの中央部の300万画素を使用する。画像を記録する際の記録フォーマットが4096×3072(1200万画素分)であれば、不足する900万画素分の情報が300万画素からの補間処理によって生成される。 2倍程度までのズームについては各社で特別な補間処理を行い、単なるデジタルズームと差別化している場合がある。 画質の劣化を抑えるため、記録する画素数に合わせてデジタルズームの最大倍率を変え、等倍以上の拡大を避ける設定が可能な機種もある。 保存する画像の画素数でイメージセンサーの中央部をトリミングするズーム方式。イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合に使用できる。デジタルズームと異なり拡大処理を行わないため拡大に起因する画像の劣化がない。 イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合、光学ズームが可能な範囲では画像を保存する際に縮小処理が行われる。光学ズームの限界を超えるとイメージセンサーの全面を使用することをやめ、中央部をトリミングして縮小率を下げた画像を保存する。この光学ズームの限界から縮小処理が不要になるまでのズームがトリミング式ズームである。トリミング式ズームの限界の後はデジタルズームを使用できる。 スマートズーム、EX光学ズーム、ファインズーム、セーフティズーム等各社が同様の機能をそれぞれ名前をつけており、共通の呼称は定まっていない。 カメラの撮影での手ぶれを、光学的や物理的に検知してそれを打ち消すようにレンズ系の光軸や受光面を動かす「手ぶれ補正機能」を備える機種が多い。 コンパクトデジタルカメラの多くが動画の撮影機能を備えており、一眼タイプにおいても一般的になりつつある。連続撮影時間は、記録解像度と記録方式、記録メディアとバッテリーの容量、製品用途の位置付けなどにより10分から1時間程度に制限される。デジタルカメラの撮像素子の画素数は一般的な動画を撮影するデジタルカムコーダのそれよりも多いため、動画の撮影時には画素情報を間引いて情報量を少なくする。 動画フォーマットについては機種ごとにさまざまである。以前はAVI (Motion JPEG) やQuickTimeによる動画録画とWAVE(モノラル)による音声録音が主流だった。MPEG-4 AVC/H.264とドルビーデジタル AC-3(ステレオ)、MPEG-2 TSを用いたAVCHDによるハイビジョン動画およびステレオ録音が可能な機種も増えており、デジタルカムコーダ(いわゆるデジタルビデオカメラ)との境界線があいまいになってきていたが、EUがヨーロッパにデジタルカムコーダーメーカーが無い事を理由にHD解像度以上で30分以上録画できるデジタルカメラをデジタルカムコーダーとして分類し、デジタルカムコーダーと同等の30 %の関税を設定した。その為、デジタルカメラはデジタルカムコーダーとは異なり、30分以上連続で録画できなくしてある。 カメラ本体内にGPS受信機を内蔵し、撮影地点の位置情報を画像データと共に記録することで撮影後に位置を確認できる機種が販売されている。地図データを内蔵するものでは、撮影地を地図で確認したり、現在地や移動経路を表示してナビゲーションに利用することも可能である。 カメラ本体内に無線LAN通信部を内蔵し、撮影した画像データ等をパーソナルコンピュータやスマートフォンに転送したり、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと連携することで直接アップロードする機能を有するものもある。転送にはWi-Fi,Bluetooth,NFC等が用いられる他、SDカードスロットを利用して通信機能を追加することでTransferJetで転送を行う場合もある。 また、スマートフォンやタブレット (コンピュータ)の液晶画面を用いたリモート操作に対応する機種もある。 記録メディア内のデータをパソコンへ読み込ませた際、画像ファイルが壊れていたり、記録自体されていなかったりするトラブルが発生する。このような事態を防ぐためには、『データ記録中にカードを抜く』『データ記録中に電池を抜く』といった誤操作をしないこと、『データ記録中のデジタルカメラ本体への衝撃』を避ける、『メモリカードスロット用クリーナーカード等を用いて定期的に手入れをする』などが必要である。 また、誤操作で画像データを削除してしまった場合でも、データ復旧用アプリケーションを用いるか、専門業者のデータ復旧サービスを利用することで一部または全てのデータを取り戻せることがある。その際、復旧作業が終わるまではその記録メディアに一切の書き込みをしないことが重要である。書き込みをしてしまうと復旧の可能性が低下する。 パソコンへの画像データの転送については、記録したメモリーカードによる方法の他、多くの機種ではUSB接続による方法もサポートしている。この場合、付属ソフトウェアやWindowsなどのOSの機能を用いてデジタルカメラから画像データを転送するもの(PTPなど)と、カメラを外部記憶装置(マスストレージ)のように見せて自由に画像ファイルの出し入れが可能なものがある。USB普及以前は、シリアルポートやSCSIを使用するものもあった。またUSBがまだ十分な転送速度でない頃は、プロ向けの機種の中にはIEEE 1394を採用するものもあった。さらに近年は無線LANを使用するものもあるが、メーカーによりまちまちの実装である。 2003年からは、デジタルカメラ本体と対応プリンターをUSBケーブルで直接接続して印刷できる「PictBridge」などの規格も制定された。 デジタルカメラに内蔵されている撮像素子は、有効画素数と総画素数の違いに留意する必要がある。総画素数は撮像素子が本来持っている画素の総数であるが、デジタルカメラに内蔵する場合にレンズや絞りといった光学系の制約によって撮像素子の受光部全体に入射光を厳密・均等に当てることは難しい。カメラに装着された状態で光が当たる画素の総数が有効画素数と呼ばれて、総画素数より数%程小さい。1990年代後半から2000年代にかけて、画素の数は販売戦略上の大きなアピールポイントであった。一般論としては、画素数の大きな方が、より詳細まで表現でき高画質であるが、画素数を大きくすればその分一画素あたりの受光面積は減り、ノイズが増えることにも留意する必要がある。画素数を増やすとともに、いかにノイズを控えるかが素子開発の大きなポイントであった。2010年代に入り、画素数増加とともに一画素のサイズがレンズの光学的解像度の限界に近づき、画素数競争も一段落しつつある。 CCDやCMOSの撮像素子の大きさは、テレビ画面を表すのと同様に「型」が使われることが多いが、撮像素子の受光面の対角線の長さのインチ単位の大きさよりも大きな値になる。これは昔の真空管式の撮像管の時代に、撮像面の大きさではなく管の直径を表示していた名残りである。また、面積だけでなく縦横比も撮像素子によって異なり、同一メーカーであっても機種によって違いがある。 コンパクトデジタルカメラの多くが、内部での画像処理で輪郭強調処理を行い、実体よりもシャープに見せている。こういったカメラの使用者の多くが、「シャープネス」の効いた出力のほうがピントの合った画像だと歓迎するためである。プロが使用する上級機では出力画像はシャープネスを効かせず、もしもそういった加工が必要ならば、カメラ上ではなくパソコンなどの画像処理ソフトによって精密に調整する。画像は輪郭強調やソフトフィルターを掛けるたびに劣化するので、手間を惜しまないならばカメラの外で処理するのが良い。 2018年の日本国内でのシェアは、1位キヤノン、2位ニコン、3位ソニーの3社によって約90 %を占め、富士フイルム、パナソニック、オリンパス、リコーなど「その他」の企業が残りの10 %の中にひしめいている。世界のデジカメ市場(金額ではなく台数ベース)では、1位キヤノン、2位ソニー、3位ニコンの3社によって約85 %を占めるが、そこに4位の富士フイルムと5位のパナソニック(それぞれ数%)を加えるとシェアが9割を超え、つまり世界デジカメ市場の9割を日本企業が占有している。2020年現在の市場規模は世界全体で約4201億円であるが、毎年数十パーセントの規模で縮退しており、先行きが不透明である。 デジタルカメラの販売は、2007年に初めて1億台を突破し2010年の1.2億台がピークであり、2010年代には特にスマートフォンの普及によりコンパクトデジタルカメラの販売が激減している。レンズ交換式デジタルカメラの販売台数は2013年をピークとして徐々に減っているが、コンデジほどの大きな変動は見られていない。2020年にはコロナウイルスによるパンデミックもあり、販売台数が前年比で40 %以上縮小した結果、ピーク時の14分の1まで市場が縮退した。 デジカメはフィルムカメラに較べると電子機器的な要素を多く含むため、2000年代には旧来のカメラメーカーに加えて、ソニー、パナソニック(経営統合前の三洋電機を含む)、カシオ計算機などの家電・電子機器メーカーも参加して激しいシェア争いを繰り広げていた。2002年頃まではオリンパスや富士フイルムがシェア1位を争っていた時代もあったが、キヤノンが2003年にデジカメ市場のシェア1位(コンデジ・一眼レフ共に)となり、ニコンが一眼レフ市場2位となった後、結局はフイルムカメラ最大手であったキヤノンとニコンがデジカメでも最大手であり続け、競合とのシェアを引き離し続ける状況が続いていた。 競争の激化に伴い、2005年に京セラが日本国内のデジタルカメラ事業から撤退。2006年にはコニカミノルタがカメラ事業全般から撤退し、一眼レフカメラ部門をソニーに譲渡した。また、イーストマン・コダックも消費者向けデジタルカメラの生産から撤退し、デジタルカメラ製造部門をフレクストロニクス・インターナショナルに売却している(開発・設計・販売は継続)。2009年にパナソニックに吸収された三洋電機のカメラ部門はXactiに継承された。 デジタル一眼レフカメラは、コニカミノルタの一眼レフカメラ部門を引き継いだソニーや、オリンパスと協業しフォーサーズシステムへ参入したパナソニック、ペンタックスとの提携でサムスン電子なども参入した。2008年にパナソニックが先陣を切ってミラーレス一眼カメラを発売し、2013年にソニーがフルサイズのミラーレス一眼を開発し、以降の一眼レフ市場を方向付けた。技術的な困難さと、交換レンズを始めとするオプション類も販売する必要があるため、技術の蓄積がある光学機器メーカー(具体的にはキヤノンとニコン)か、それらの事業を引き継いだメーカー(具体的にはソニー)が残り、新規参入した家電メーカーなどは、ミラーレス一眼へと移行するか、コンパクトカメラのみに規模を縮小した。 旧来のカメラメーカーはレンズの設計に一日の長があるが、電機メーカーはイメージセンサの製造に長けている。家電メーカーの場合、光学系の設計ノウハウが乏しく設備の新設にもコストがかかるため、他のレンズメーカーから光学系部品の供給を受ける場合がある。さらに、光学機器メーカーに比べて劣る知名度を補うため、「ライカ」や「カール・ツァイス」といった有名ブランドを冠したレンズを採用することもある。メーカーによってはOEMとしてレンズの供給を受けるのではなく、同ブランド名を冠するレンズを自社内やレンズメーカーでライセンス生産している場合もある。 逆に光学機器メーカーが、撮像素子や画像エンジンなどの電子系統を、競合の家電メーカーにOEM委託をしていることも多い。EMSの委託先としては台湾のメーカーなどがある。特に撮像素子は、ソニー、OmniVision、サムスンで世界市場の7割以上を占めている。したがって、上に書いたメーカー別販売シェアと、実際の製造メーカー(OEM製造も含む)におけるシェアとは大きく異なる。2012年当時の他社向けOEMを含めた生産台数別のシェアを見た場合、全てのデジカメを自社製造で賄うデジカメ市場1位のキヤノンが生産台数でも1位であったが、カメラ生産台数2位が佳能企業、3位が華晶科技と、実際の生産台数では日本メーカーではなく中国や台湾のメーカーが上位を占めた。2012年当時デジカメ市場2位のニコンは、一眼レフに関してはすべて自社生産だが、コンデジには力を入れておらず、コンデジに関しては全て他社製造品のOEMであった。また、上記のメーカー以外にもセイコーエプソン(R-D1など)や、ライカなどがレンジファインダー式デジタルカメラの製造を行っている。2017年の時点では、本体・レンズ・撮像素子の三要素を自社製でまかなえるのは、キヤノン、ソニー、シグマ(Foveonを子会社化)の3社となっている。特に撮像素子は、ソニー系列のソニーセミコンダクタマニュファクチャリングが、ニコン・ペンタックス・オリンパス・富士フイルム・ライカなどにも画像センサーを製造・供給している一大センサーメーカーとなっている。 2010年以降は、ミラーレス一眼カメラで成功したソニーがキヤノンとニコン以外の「その他」のメーカーの中から頭一つ抜けて、デジカメ市場3位となった。また、コンパクトデジタルカメラの市場はカメラ搭載のスマートフォンによる浸食が進んでおり、デジカメ市場上位3社のキヤノン・ニコン・ソニー以外のメーカーにおいては撤退が相次いでいる。こうした状況を踏まえ、2013年当時の経済産業省は日本企業の競争力強化に向けた取り組みを進めようとしていたが、その後もデジカメ市場はスマホに侵食される一方であり、各社で生産体制の縮小や撤退が続いた。2015年には、サムスンが最後となるモデルを発表した後に撤退 したほか、2017年には、ニコンが中国江蘇省無錫市の工場で行ってきたコンパクトカメラの生産を終了し、タイの工場へ生産拠点を集約、2021年には国内生産も終了した。2018年、オリンパスも深圳の工場で行ってきたデジタルカメラや交換レンズの製造を終了し、ベトナムの工場へ生産拠点を集約している。同年には、カシオのコンパクトデジタルカメラ事業からの撤退も発表されている。2021年には、オリンパスはデジカメなどの映像事業を分社化・譲渡し、OMデジタルソリューションズがオリンパスのデジカメブランドを引き継いでいる。2020年には初めてミラーレス機が一眼レフの売り上げを上回った。 こうした状況を経て、2020年にはキヤノンとソニーが入門機からハイエンドまでを押さえた二強の地位を獲得し、スマホに市場を奪われてコンデジでは採算が取れなくなった他メーカーはハイエンド機に専念する業界構造となりつつある。 機能や画質を割り切ることで低価格な「トイデジカメ」と呼ばれる分野が存在する。玩具の流通ルートで売られていることが多い。 近年(2016年現在)では携帯電話に搭載されたカメラの性能向上によりジャンルそのものが衰退しつつある。携帯電話のアプリではトイカメラ特有の歪み・ぼけ・色調等の独特の光学効果を再現している。 同ジャンルの初期に流通したトイデジカメの例としてタカラのSTICK SHOTやニチメンのChe-ez!などがあり、デジタルカメラが高価だった頃、小型軽量で1万円以下で買える手軽さが受けてガジェット好きのユーザーに広まった。 初期の大半の製品が10万画素から35万画素ほどのCMOSを搭載し、増設できない1メガバイト程度の記録メモリーを搭載する。パソコンと通信することはできても、カメラだけで直接記録した画像を確認できるようなデバイスは存在しない。画質はおしなべて低く、色の再現性が悪い。一方、これらの中にはWebカメラとして使用できるものもあり、そのためにトイデジカメを購入するパソコンユーザーもいた。 現在では日本の一流メーカーのデジカメが実売で8000円を切るまでに低価格化しているうえ、トイデジカメの高機能化が進み、それらを区別する意味もなくなってきている。このような状況から、現在では「トイデジカメ」という概念が「安い」から「アクセサリーとして楽しむ」などの方向に変わっている。例としてボールペンや腕時計にカモフラージュした製品、フィルム時代の高級カメラをミニチュア化した製品などが一定の人気を保っている。また、単に低画質な製品を「トイ」扱いしている場合もある。 2010年春現在で販売が継続しているトイデジカメは、その定義を「小型軽量低価格で、手軽ではあるが低性能」とする場合、当てはまるのはVista Questシリーズと、同シリーズのうち1005ベースとなる「NICO DIGI」(ニコデジ)程度である。 機能や価格帯は考えず遊びの要素が強い製品として、プラスティックむき出しの質感やクセのある撮影画像など、同ジャンルの基本を意識し、楽しく撮ることを目標とした「DIGITAL HARINEZUMI」(デジタルハリネズミ)シリーズ、簡易防水機能付きとしては安価な部類で、わざと撮影画像のカラーバランスを崩した撮影ができる「GIZMON Rainbowfish」(ギズモン レインボーフィッシュ)、ローライの本格的二眼レフカメラ、ローライレフレックスの外観を忠実に模して小型化した「ローライレフレックスミニデジ」(Rolleiflex MiniDigi )シリーズなどがある。 2012年のデジタルカメラの世界シェアは以下の通りであり、出荷台数の1位から3位までを日本メーカーが占める(数字はパーセント)。 日本国内におけるデジタルカメラ1台あたりの平均販売価格はコンデジが約2万200円、一眼タイプが約8万5,400円である(2009年12月度、BCN調べ)。 売れ筋のキーワードは2003年頃までは画素数など、2004年には動画撮影性能や多彩なシーンモードなど、2005年には大型液晶・高感度・手ブレ補正などであった。2006年は一眼レフに「ライブビュー」が搭載されるようになり、急激な低価格化と相まって一眼レフの一般への浸透が進んだ。2007年には顔認識が登場し、人の顔が綺麗に撮れる、笑顔になるとシャッターが切れる機能などが流行した。2008年は暗所撮影や防水機能など「場所を問わず綺麗に撮れる」性能や、より広い角度を写せる「広角ズーム」が売りとなった。 2009年は明暗差の激しいシーンでも白飛びや黒つぶれが発生しにくい「ダイナミックレンジ拡張機能」、そして一度ロックした被写体にピントや露出を合わせ続ける「自動追尾機能」などが登場した。また、リコーGRデジタルIIIやキヤノンパワーショットG11など、あえて操作を自動化せず画質と高級感を優先させた高級コンパクトカメラが独自の地位を築いた。家庭にハイビジョンテレビが普及したこともあり、ハイビジョン画質の動画機能が装備されたカメラが普及し始めた。また、2008年末にフォーサーズ陣営から登場したミラーレス一眼が2009年5月以降売り上げを伸ばしている。2010年にはAPS-Cサイズのミラーレス一眼が登場、2013年に35ミリフルサイズのミラーレス一眼が登場して以降は、一眼レフから乗換のユーザーでミラーレス一眼が販売シェアを拡大、2020年に販売台数が一眼レフを逆転して以降は、ミラーレス一眼カメラがレンズ交換式デジタルカメラの主流となっている。 過去のデジタルカメラ市場はほとんど日本企業のブランドで占められており、日本国外勢はコダックや一部のスタジオ用中判機種に限られていた。最近2003年 - 2004年にはおよそ80 %であったが、日本メーカーが積極的に行っている生産設備の中国への移管による技術移転や韓国メーカーの高級機参入に加え、アメリカやドイツの歴史あるブランド名を復活させた製品も出始めた。 メーカーからは高性能のデジタルカメラが発売される一方で、古いデジタルカメラはユーザー間で「オールドデジカメ」「オールドコンデジ」として好まれて取引されておりイギリスBBCでもその傾向が報じられている。 2000年頃から大手カメラ店のDPEコーナーなどでデジタルデータから印画紙に焼き付けるサービスが行われている。これは、デジタル処理のミニラボシステムを利用したもので、フィルムスキャナによる入力の代わりにデジタルカメラなどで得られたデジタルデータ(JPEGなど)を印画紙に焼き付けるものであり、従来の写真と同程度の画質や耐久性が期待できる。 また、店頭にキオスク端末型のプリント機を設置し、画面の案内に従ってセルフサービスで出力できるサービスも行われている。このタイプは昇華型熱転写プリンターを使用しており、画質面で若干見劣りする。 そのほか、コンビニや駅などで、デジタルコピー機の機能を利用したセルフサービスで写真印刷を行なう機械も設置されている。単に印画紙への出力だけではなく、シール印刷機能のような付加価値を持たせている物もある。しかし、これらも昇華型やインクジェット方式で印刷するため、印画紙での出力に比べて画質や耐久性に劣り、長期間の保管には向かない。 また、CD-Rを持っていないユーザーのために、画像データをCD-Rに焼くサービスもある。 出力したい画像ファイルをインターネット上の指定サイトにアップロードし、でき上がったプリントを店頭や郵送で受け取るサービスがある。一般に印画紙に出力されるので、ミニラボ機を使ったものと同等の品質が期待できる。また、写真集のような形に簡易製本して渡すサービスもある。 個人で撮影した画像を自宅のプリンターで印刷することが一般的になった。2003年頃からは、PictBridge(カメラ機器工業会)、USB DIRECT-PRINT(セイコーエプソン)、DIRECT PRINT(キヤノン)、BUBBLE JET DIRECT (キヤノン)などの名称で、デジタルカメラとプリンターを直接接続する通信規格が登場した。これらに対応したカメラとプリンターを直接接続することで、パソコンを介さずに印刷することが可能である。 デジタルカメラで撮影した写真の印刷を行うデジカメ専用のプリンターも登場している。 ハイビジョンテレビとの接続用としてカメラ本体にHDMI端子が装備されたり、テレビやレコーダー側にSDカードスロットを備えた製品も増え、リビングの大型テレビで鑑賞することができる。 カメラ本体の機能ではないが、無料で利用できるオンラインアルバム(Flickr、Google フォトなど)や動画共有サービス(YouTubeなど)が増えており、それらを通じて仲間と写真を共有したり、不特定多数に向けて写真を公開することが一般的になりつつある。無線LANを内蔵することでそれらのサイトに直接データを送信できるデジカメも登場している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "デジタルカメラ (英: digital still camera、DSC) は、デジタル写真を撮影するカメラである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般に「デジタルカメラ」といえば静止画を撮影する「デジタルスチルカメラ」を指し、動画を撮影録画する「デジタルカムコーダ」 は含めない。現在では静止画撮影が可能なデジタルカムコーダや、動画撮影が可能なデジタルスチルカメラが一般的になっており、双方の性能の向上もあってその境界線が徐々になくなりつつあるが、デジタルカメラはその中でも静止画の撮影に重点を置いたモデルを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「デジカメ」と省略されることも多かったが、当該用語は日本国内では三洋電機および他業種各社の登録商標である。なお、三洋電機が登録した商標に関しては更新がされなかったため、2019年に権利が消滅した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本項で特に断りがない限り、一眼レフカメラはデジタル一眼レフカメラを、コンパクトカメラはデジタルコンパクトカメラを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "静止画をデジタルで記録する「デジタルカメラ」の前に、アナログ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在した。これは、アナログFM記録する電子カメラで、ソニーが1981年(昭和56年)に試作し後に製品化した「マビカ」を代表とする。初の販売製品としてはキヤノンのRC-701(1986年(昭和61年)発売)があり、この時に2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として記録する共通規格SV規格が正式に決められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これに追随して、カシオはVS-101(1987年(昭和62年)6月)を発売したものの、10万円台の高価格(ちょうど同じ頃普及が進んだ8ミリビデオカメラと同額程度)のため人気が出ず、大量の不良在庫を出した。このSV規格方式を中心に、1990年代初頭に至るまでいくつかのメーカーから電子スチルカメラが発売されるも、カムコーダの人気の前に、全く普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なおこれらのカメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと区別するために付けられた名称である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1960年代、NASAジェット推進研究所のユージーン・F・ラリー(英語版)は、モザイク感光体を使ってデジタル画像を撮影する方法を考えていた。また、1972年にテキサス・インスツルメンツ社の社員ウィリス・アドコックがフィルムレスカメラの特許(米国特許4,057,830)を取得した が、いずれも技術がまだコンセプトに追いついていなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1975年、初の製品化されたオールデジタルカメラとしてCromemco Cyclopsが登場した。これは、『ポピュラーエレクトロニクス』1975年2月号に設計が掲載されたものを商品化したものである。画像素子として32×32画素のMOSイメージセンサを使用しており、これはMOS DRAMメモリチップを改造したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イーストマン・コダック社の技術者であるスティーブン・サッソン(英語版)は、1975年にCCDイメージセンサを使用した自己完結型電子カメラを発明し、製造した。画像サイズは100×100の10,000ピクセルで、撮影した映像をテレビに映すこともできた。同じ頃、富士フイルムは1970年代にCCD技術の開発に着手した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは1988年(昭和63年)に富士写真フイルムから発表された「FUJIX DS-1P」であり、当時のノートパソコンでも使われたSRAM-ICカードに画像を記録した。しかしこれは発売されることはなく、実際に店頭に現れた世界初のデジタルカメラはDycam社が1990年(平成2年)に発売した「Dycam Model 1」である。電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用したのは1993年(平成5年)富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)発表・1995年(平成7年)3月発売のカシオ計算機のデジタルカメラ「QV-10」は、デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品である。外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円を実現して好評だった。一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できることである。また当時はWindows 95ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期であったため、パソコンに画像を取り込むことが広く認知された。この機種はNHKの番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」090回「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」において、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介された(ただし、撮影画像をその場で確認できる液晶パネルを搭載したデジタルカメラとしては世界初である)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "QV-10の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めた。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能がある。その記録方法としてJPEGの連続画像(後にMotion JPEGと呼ばれる方式)を採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もしばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、2002年(平成14年)にはフィルムカメラとデジタルカメラの出荷台数が逆転、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "報道関係やプロカメラマンの間でもデジタルカメラは普及した。初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になるなど、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラだった。1999年(平成11年)にニコンが既存の同社一眼レフ用レンズを使えるデジタルカメラ「D1」を定価65万円で発売後、各社完成度の高い低価格デジタル一眼レフを相次いで投入した。以後、速報性が重視される場面を中心に広まり、翌年のシドニーオリンピックなどを契機として報道各社を中心にデジタルカメラの導入が進んだ。撮影データをネットワーク経由で一瞬で遠隔地に送る事が出来、フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、フィルムカメラを駆逐し報道カメラの中心的な存在となった。その後、高性能化とデータ編集の容易さが支持されて、質感や仕上がりなどを重視する商用写真や美術写真にも活用範囲が広まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)頃から国内の光学機器メーカーだけでなく、電気機器メーカーが一般向けデジタルカメラ事業に参入し、さらには台湾や中国、韓国等のメーカーが加わった。2000年代中頃にはデジカメ市場が飽和しつつある中、カメラ付携帯電話の高機能化も加わって、店頭では販売合戦が展開されており、また2005年には京セラがデジカメ市場から撤退するなどメーカーの淘汰も始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年に初代iPhoneが発売されて以降、高性能なカメラを搭載したスマートフォンの普及に伴い、デジカメの世界販売台数は2010年の1億2146万3234台をピークに、また市場規模は2008年の2兆1,640億円をピークに 減少を続けている。特に、一般消費者を主なユーザーとするレンズ一体型デジカメ(コンパクトデジカメ、コンデジ)の出荷台数は2008年の約1億857万台をピークとして、10年で1/10になるなど急激に減少した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方で、ハイアマチュア以上を主なユーザーとするレンズ交換式デジカメの出荷台数は2013年の約1713万台をピークとして、5年で1/2にしかならないなど減少は緩やかであり、2018年にはレンズ交換式デジカメ出荷台数1075万台に対してコンデジの出荷台数が866万台と、レンズ交換式の出荷台数がコンデジを上回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "デジタルカメラの世界総出荷台数は、2018年は約2200万台(市場規模は約7300億円)、2019年度は1522万台(市場規模は4500億円)。2020年度は世界総出荷台数は888万台(市場規模は4201億円)となり、ついに富士フイルム社のフイルムカメラ「チェキ」の年間販売台数(2018年度は約1005万台)を下回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2021年現在、メーカーの淘汰が進んでおり、世界シェアはキヤノン、ソニー、ニコン、富士フイルムの4社で約9割、パナソニックを加えると約9割5分を占める。特にキヤノンは2003年に初めてシェア1位となって以降、デジカメ市場で不動の1位として2020年度には約48 %の市場シェアを占めるが、市場自体が急激な右肩下がりであるため、キヤノンは2020年4〜6月期に史上初の四半期赤字に転落した。2018年にはカシオがデジタルカメラ事業から撤退、2020年にはオリンパスがデジタルカメラ事業を投資ファンドに売却するなど苦しい状態が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "実態としてはおおむね下記の通りである。分類が困難な機種もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "デジタルカメラの全体的な構成は、大きく分けて光学系と電子系、そしてそれらを保持する筐体に分類できる。 光学系はレンズと絞り機構であり、一眼レフでは光学式ファインダー用のレフレックスミラーとプリズムがこれらに加わる。機械式のシャッター機構を備えるものもある。電子系は受光素子とメモリーを含む画像演算回路、記録装置、液晶表示器、ストロボ、操作スイッチ、電池などである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "光学信号である画像を電気に変換する撮像素子(光学センサ)は、CCDイメージセンサかCMOSイメージセンサが用いられる。この点が光化学反応を用いる銀塩フィルム式のフィルムカメラと異なる。撮像素子の受光面の大きさは、通常のフィルムカメラで用いられる35 mm判フィルムの1コマよりも小さいものが大多数である。半導体素子そのものである撮像素子は、その大きさが部品価格の主要な決定要素であるため、比較的廉価なコンパクトデジカメでは1/3インチから2/3インチが、上位価格帯を占める一眼レフタイプではより大きなAPS-Cサイズが用いられる。また、一部の高級機種や業務用機種には35 mmフルサイズや中判など、銀塩フィルムと同等サイズの撮像素子を搭載する製品もある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "撮像素子は2000年頃までCCDが主流で、画質が劣ったCMOSは一部の安価な機種に搭載されるのみだった。その後、CMOSイメージセンサの性能が向上して多くの問題点も対処が進められた。CMOSの特徴である低消費電力性や低価格なこともあり、一眼レフを中心にCMOS搭載機種が増えてきている。CMOSによるデジタル回路を同じシリコン基板上に構築しやすいので高機能な駆動回路をセンサ側に作るのに向いており、例えばA/D変換回路を内蔵するものがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一般に撮像素子が大きいほど色再現性、感度、ノイズ、ダイナミックレンジなどあらゆる点で有利である。とくに同じ時代に設計された撮像素子同士の比較ではサイズにより画質の差があり、測定値にも表れる。また、同じ画角・同じF値における被写界深度が浅くなるため、対象物だけにピントを合わせて背景から浮き上がらせるボケの効果が得られやすい。反面、撮像素子が大きいとボディが大型化し、高価になる。また画素数が多いほど描写は精細になり、大きなサイズでのDPE依頼やフォトプリントでも精細な画像が得られる。撮像素子のサイズを変えずに画素数を増やすと、1画素あたりの面積が小さくなる。ダイナミックレンジが狭くなる、電気的なノイズ・歪みが多くなることからむしろ画質を損なう場合もあるので、撮像素子や処理回路でノイズを抑える設計が必要であるため、画素数を増やすことには限界がある。コンパクトなボディに大きな撮像素子を搭載した機種も存在する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年現在用いられている撮像素子の多くが、1つの画素で多様な色の識別は行えず、画素を構成するそれぞれのフォトダイオードの上に RGB(CMY) の内のいずれか1色のフィルターを配置することでそれぞれの色を検出する。このため、多様な色が検出できる最小単位は、少なくとも3画素である。続く画像処理部では、それぞれの画素には本来測光しなかった他の2色分の色情報を周囲の色から作り出すという処理が行われる場合があり、「偽色」と呼ばれる、誤った色情報を生成したり不自然なノイズが生じる原因である。このようなノイズや画素数の実質的な減少を避けて、可能な限り画素数を増やしたいプロ仕様の上級機種では、入射光を3個ほどのプリズムによって CMY(RGB) という波長帯別に分離してから、それぞれの光を1枚ごとの撮像素子で電気に変換する仕組みを備えるものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "フィルムカメラのファインダーには幾つか異なる方式があるものの、全て光学式だった。デジタルカメラの場合も同様の構造が可能だが、多くのデジタルカメラは撮像素子で得た画像データを本体背面などのカラー液晶で表示することでファインダーとしている。また、いわゆる「ミラーレス一眼カメラ」では、従来の一眼レフカメラと同等の位置にカラー液晶を使ったファインダーを配置しているものが多い。この電子式ファインダーはプリズムやミラー、光路を必要とする光学式に比べて設計上の自由度が高いが、2019年現在では撮影直後に表示が一時停止するモデルが多いといった問題もある。また単に撮影画像を表示するだけでなく、電子機器であるデジタルカメラ本体の操作画面としてや、画像編集といった付加的な機能にも利用される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "背面液晶式カメラの多くでは液晶表示部が背面に固定されているが、これを可動としたのがいわゆるバリアングル液晶であり、撮影者の視点や姿勢にあまり制約されることなく、ローアングル(低い位置からの撮影)やハイアングル(高い位置からの撮影)などの撮影が容易になった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "フィルムカメラでもデジタルカメラでも同様であるが、実際に撮影させる画像とファインダーで見える画像とが必ず同じ範囲であるとは限らない。実記録画像が100 %としたときのファインダー画像の大きさを%で示す「ファインダー視野率」という指標がある。デジタルカメラでは、比較的100 %のものが多い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "シャッターボタンを含む操作用のスイッチ類は、人間工学に基づき配慮されている。一部の機種では電子式ファインダーである液晶画面にタッチパネルを組み込むことで、ファインダーの画面が操作面となるものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "撮像素子からのアナログ信号はアンプによって増幅され、高速アナログ/デジタル変換器によってデジタル信号に変換された後、DRAMのような半導体記憶素子に一時記憶として蓄えられる。画像処理専用に作られたASICが、この一時記憶領域から必要なサイズの画素を読み出しては演算処理を行い、一時記憶へ書き戻す。イメージセンサの画素数の増加とそれに伴い求められる処理性能の上昇に合わせて、次々と演算処理速度の高いICが開発されている 。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "画像を記録するには、一般にフラッシュメモリが使用される。ICチップによる内蔵固定式やメモリカードを差し込む内蔵交換式などの記録媒体がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "画像をやり取りするために外部との接続端子を持つ機種では、USB端子を備えるものが多い。メモリーカードをパソコンやプリンターに差し込んで接続したり、DPE店へ預けたりする方法でも画像情報を利用することが可能である。パソコンのすべてが適切なメモリーカード用スロットと備えているわけではなく、多くの機種ではUSBのような汎用的なインタフェースを備えることで、カメラ側にメモリーカードを装着したままパソコンなどで読み書きできるようにしていることが多い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、USBを経由することで、戸外で多くの撮影を行う場合でも、ノートパソコンなどよりも小型軽量のUSB対応外部記憶装置へ画像情報を大量に保存するような利用法が可能である。USB経由でプリンターへの出力も可能である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ほとんどの機種では夜間撮影などのためにストロボ発光機能を備えている。必要な電圧までコンデンサに充電することで電気エネルギーを蓄えて、シャッターボタンによる操作でストロボを発光させる。ただし、コンパクトデジカメのストロボは3 - 5 m程度の距離しか有効な光量を作れない。またコンパクトカメラでも上級機や、一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラのほとんどの機種では筐体上部などにアクセサリーシューが付いており、オプションで外部ストロボが取り付けられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "携帯電子機器であるデジタルカメラの電源はほとんどが、内蔵される充電式バッテリーによる。デジタルカメラはほとんどすべての機能が電子回路によって実現されているため、フィルムカメラよりも消費電力が大きい。比較的多くの枚数を記録できることもあって、大容量で大きく重いバッテリーを内蔵していることが一般的である。ほかの方式より軽量で容量の大きい専用のリチウムイオン電池を採用する機種が多い。シャッターを切ったりフラッシュメモリに書き込んだりフラッシュライトを点灯する時は特に大電流が必要であるため、このパルス放電に対応したバッテリーとしてニッケル水素電池が多くの機種で採用された。ニッケル水素電池を外出先で消費し切った場合は、入手性の高いアルカリ乾電池が使用可能であるものが多い。メーカーはカメラ本体だけでなく、消耗品、周辺機器も含めたトータルで利益が出ればよい。特に電池はメーカー、機種ごとに異なることが多いので、予備の電池が必要な場合、新しいカメラを購入したときは電池も購入する必要がある。予備電池の価格は比較的高めにつけられている場合が多い。そのため、純正品以外にも多くの互換電池が出回っている。代表的なメーカーに、台湾のロワなどがある。稀にではあるが純正以外の電池使用により異常発熱や膨張、機器破損の事故も発生しており、カメラメーカーの中には互換電池を使用できないようにカメラ本体側にプロテクトを施しているメーカーもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "不安定な手持ちでの操作や衝撃・塵埃の多い環境で用いられることが多いカメラの本体を構成する筐体(ボディ)には、内部の脆弱な光学部品や電子部品を支え保護するために堅牢性や気密性を維持することが求められ、同時に軽量であることが求められる。筐体は、アルミ合金等の金属製の骨格に、多数のエンジニアリングプラスチックなどの合成樹脂によるフタやグリップ、緩衝材が取り付けられているのが一般的である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "基本的な静止画撮影の動作を以下に順を追って示す。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "静止画撮像では、カメラが電子的に捉えた画像のコントラスト情報を元に自動的にカメラ側でピントを合わせるオートフォーカス (AF) 機能を使って撮影することがアマチュアを中心に一般的である。撮影時にシャッターボタンを半押しにするとAF機能が作動するモードが中心である。撮影可能状態にすればオートフォーカスが常に働き、いつでもシャッターが切れるモードも選択できる機種がある。前者では電池の消費が抑えられ、後者ではシャッターチャンスを逃がす可能性が低くなる。ただし、AF機能は動きの早い被写体や陰影差の少ない対象には向かず、AFロックといった撮影者の工夫やマニュアル・フォーカスなどが求められる。高級機ではコントラスト情報以外でもピント合わせが可能であったり、マニュアル・フォーカス機能の操作性なども考慮されているものがある。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "露光時間は機械式や電子式のシャッターで制御するが、上手に露光時間を選ばないと被写体の明暗度合いによっては撮像素子が明部と暗部のいずれかが露光過剰や露光不足によって「白とび」や「黒つぶれ」を起こす。「白とび」「黒つぶれ」を回避するために、銀塩カメラでは受光する枠内に測光素子を多数配置して最も明るいところと最も暗いところを検知する。また、コンパクトデジタルカメラでは電子的な撮像素子そのものが測光素子を兼ねて、露光を自動調整する。ただし撮像素子は読み出しに多少の時間が掛かるので、瞬間的に明るさの変化する撮影対象では正確な露光が期待できない。ほとんどのデジタル一眼レフ機では、撮像素子とは別に測光専用のセンサーで露出を決めるものが多い。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フィルムカメラの上位機種でも備えるものがあるが、オートブラケティング(Automatic Exposure Bracketing, AEB)撮影によって、露出を変えながら立て続けに2-4枚ほどの撮影を行うこともできる。また、オートブラケティングと同様に露出の異なる複数枚の撮影をすばやく行い、内部演算処理によって1枚のダイナミックレンジの広い画像を得る、ハイダイナミックレンジ(HDR)処理をカメラ単体で行う機種も登場している。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "撮像素子から出力されたアナログデータはA/D変換された後、映像エンジン や画像エンジンなどと呼ばれる画像処理専用のICによって、暗電流補正、補間演算、色空間変換、ガンマ補正、収差の補正、ノイズリダクション、画像圧縮などの様々な画像処理が行なわれ、外部利用に適した画像形式に変換される。 たとえ同じ撮像素子を使っていても、カメラのメーカーが異なっていれば画質の傾向も違ってくる。画像処理のアルゴリズムが出力される画質を左右するため、メーカーでは様々な工夫を行っている。かつてはこの処理に時間が掛かるのがデジタルカメラの問題点の1つであったが、今ではデジタル演算能力の向上によってほぼ解決されている。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "映像エンジンで画像処理が施されたり、またはRAWデータのままの静止画情報は、記録媒体に書き込まれて保存される。フラッシュメモリー素子のデータ転送速度は年々高速化しているが、一方で画像データサイズの肥大化もあって、一般に記録動作には時間が掛かる。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上記の他にも、TIFF、DPOFなどがある。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "デジタルカメラが登場した当初は、性能は銀塩カメラより劣った。主に電子技術の急速な発達によって解像度や感度が銀塩カメラに追いつくほど技術開発が進み、銀塩カメラを広範囲に置き換えた。そして、単に静止画を撮影する基本機能の充実だけでなく、デジタル式にしかできない付加的な機能を付け加える方向へ技術開発がされている。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "デジタル画像処理によりズームを行う方式。ズームレンズを用いた光学式ズームと同時使用可能である。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "イメージセンサーの中央部の画素のみを撮影に使用し、拡大することで画像を作成するズーム方式。ズーム倍率に応じて使用可能な最高画素数は減少する。例えば、1200万画素機で2倍ズームにすると、その場合の画素数は縦横共に半分になるのでイメージセンサーの中央部の300万画素を使用する。画像を記録する際の記録フォーマットが4096×3072(1200万画素分)であれば、不足する900万画素分の情報が300万画素からの補間処理によって生成される。 2倍程度までのズームについては各社で特別な補間処理を行い、単なるデジタルズームと差別化している場合がある。 画質の劣化を抑えるため、記録する画素数に合わせてデジタルズームの最大倍率を変え、等倍以上の拡大を避ける設定が可能な機種もある。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "保存する画像の画素数でイメージセンサーの中央部をトリミングするズーム方式。イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合に使用できる。デジタルズームと異なり拡大処理を行わないため拡大に起因する画像の劣化がない。 イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合、光学ズームが可能な範囲では画像を保存する際に縮小処理が行われる。光学ズームの限界を超えるとイメージセンサーの全面を使用することをやめ、中央部をトリミングして縮小率を下げた画像を保存する。この光学ズームの限界から縮小処理が不要になるまでのズームがトリミング式ズームである。トリミング式ズームの限界の後はデジタルズームを使用できる。 スマートズーム、EX光学ズーム、ファインズーム、セーフティズーム等各社が同様の機能をそれぞれ名前をつけており、共通の呼称は定まっていない。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "カメラの撮影での手ぶれを、光学的や物理的に検知してそれを打ち消すようにレンズ系の光軸や受光面を動かす「手ぶれ補正機能」を備える機種が多い。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "コンパクトデジタルカメラの多くが動画の撮影機能を備えており、一眼タイプにおいても一般的になりつつある。連続撮影時間は、記録解像度と記録方式、記録メディアとバッテリーの容量、製品用途の位置付けなどにより10分から1時間程度に制限される。デジタルカメラの撮像素子の画素数は一般的な動画を撮影するデジタルカムコーダのそれよりも多いため、動画の撮影時には画素情報を間引いて情報量を少なくする。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "動画フォーマットについては機種ごとにさまざまである。以前はAVI (Motion JPEG) やQuickTimeによる動画録画とWAVE(モノラル)による音声録音が主流だった。MPEG-4 AVC/H.264とドルビーデジタル AC-3(ステレオ)、MPEG-2 TSを用いたAVCHDによるハイビジョン動画およびステレオ録音が可能な機種も増えており、デジタルカムコーダ(いわゆるデジタルビデオカメラ)との境界線があいまいになってきていたが、EUがヨーロッパにデジタルカムコーダーメーカーが無い事を理由にHD解像度以上で30分以上録画できるデジタルカメラをデジタルカムコーダーとして分類し、デジタルカムコーダーと同等の30 %の関税を設定した。その為、デジタルカメラはデジタルカムコーダーとは異なり、30分以上連続で録画できなくしてある。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "カメラ本体内にGPS受信機を内蔵し、撮影地点の位置情報を画像データと共に記録することで撮影後に位置を確認できる機種が販売されている。地図データを内蔵するものでは、撮影地を地図で確認したり、現在地や移動経路を表示してナビゲーションに利用することも可能である。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "カメラ本体内に無線LAN通信部を内蔵し、撮影した画像データ等をパーソナルコンピュータやスマートフォンに転送したり、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと連携することで直接アップロードする機能を有するものもある。転送にはWi-Fi,Bluetooth,NFC等が用いられる他、SDカードスロットを利用して通信機能を追加することでTransferJetで転送を行う場合もある。 また、スマートフォンやタブレット (コンピュータ)の液晶画面を用いたリモート操作に対応する機種もある。", "title": "付加機能" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "記録メディア内のデータをパソコンへ読み込ませた際、画像ファイルが壊れていたり、記録自体されていなかったりするトラブルが発生する。このような事態を防ぐためには、『データ記録中にカードを抜く』『データ記録中に電池を抜く』といった誤操作をしないこと、『データ記録中のデジタルカメラ本体への衝撃』を避ける、『メモリカードスロット用クリーナーカード等を用いて定期的に手入れをする』などが必要である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、誤操作で画像データを削除してしまった場合でも、データ復旧用アプリケーションを用いるか、専門業者のデータ復旧サービスを利用することで一部または全てのデータを取り戻せることがある。その際、復旧作業が終わるまではその記録メディアに一切の書き込みをしないことが重要である。書き込みをしてしまうと復旧の可能性が低下する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "パソコンへの画像データの転送については、記録したメモリーカードによる方法の他、多くの機種ではUSB接続による方法もサポートしている。この場合、付属ソフトウェアやWindowsなどのOSの機能を用いてデジタルカメラから画像データを転送するもの(PTPなど)と、カメラを外部記憶装置(マスストレージ)のように見せて自由に画像ファイルの出し入れが可能なものがある。USB普及以前は、シリアルポートやSCSIを使用するものもあった。またUSBがまだ十分な転送速度でない頃は、プロ向けの機種の中にはIEEE 1394を採用するものもあった。さらに近年は無線LANを使用するものもあるが、メーカーによりまちまちの実装である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2003年からは、デジタルカメラ本体と対応プリンターをUSBケーブルで直接接続して印刷できる「PictBridge」などの規格も制定された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "デジタルカメラに内蔵されている撮像素子は、有効画素数と総画素数の違いに留意する必要がある。総画素数は撮像素子が本来持っている画素の総数であるが、デジタルカメラに内蔵する場合にレンズや絞りといった光学系の制約によって撮像素子の受光部全体に入射光を厳密・均等に当てることは難しい。カメラに装着された状態で光が当たる画素の総数が有効画素数と呼ばれて、総画素数より数%程小さい。1990年代後半から2000年代にかけて、画素の数は販売戦略上の大きなアピールポイントであった。一般論としては、画素数の大きな方が、より詳細まで表現でき高画質であるが、画素数を大きくすればその分一画素あたりの受光面積は減り、ノイズが増えることにも留意する必要がある。画素数を増やすとともに、いかにノイズを控えるかが素子開発の大きなポイントであった。2010年代に入り、画素数増加とともに一画素のサイズがレンズの光学的解像度の限界に近づき、画素数競争も一段落しつつある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "CCDやCMOSの撮像素子の大きさは、テレビ画面を表すのと同様に「型」が使われることが多いが、撮像素子の受光面の対角線の長さのインチ単位の大きさよりも大きな値になる。これは昔の真空管式の撮像管の時代に、撮像面の大きさではなく管の直径を表示していた名残りである。また、面積だけでなく縦横比も撮像素子によって異なり、同一メーカーであっても機種によって違いがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "コンパクトデジタルカメラの多くが、内部での画像処理で輪郭強調処理を行い、実体よりもシャープに見せている。こういったカメラの使用者の多くが、「シャープネス」の効いた出力のほうがピントの合った画像だと歓迎するためである。プロが使用する上級機では出力画像はシャープネスを効かせず、もしもそういった加工が必要ならば、カメラ上ではなくパソコンなどの画像処理ソフトによって精密に調整する。画像は輪郭強調やソフトフィルターを掛けるたびに劣化するので、手間を惜しまないならばカメラの外で処理するのが良い。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2018年の日本国内でのシェアは、1位キヤノン、2位ニコン、3位ソニーの3社によって約90 %を占め、富士フイルム、パナソニック、オリンパス、リコーなど「その他」の企業が残りの10 %の中にひしめいている。世界のデジカメ市場(金額ではなく台数ベース)では、1位キヤノン、2位ソニー、3位ニコンの3社によって約85 %を占めるが、そこに4位の富士フイルムと5位のパナソニック(それぞれ数%)を加えるとシェアが9割を超え、つまり世界デジカメ市場の9割を日本企業が占有している。2020年現在の市場規模は世界全体で約4201億円であるが、毎年数十パーセントの規模で縮退しており、先行きが不透明である。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "デジタルカメラの販売は、2007年に初めて1億台を突破し2010年の1.2億台がピークであり、2010年代には特にスマートフォンの普及によりコンパクトデジタルカメラの販売が激減している。レンズ交換式デジタルカメラの販売台数は2013年をピークとして徐々に減っているが、コンデジほどの大きな変動は見られていない。2020年にはコロナウイルスによるパンデミックもあり、販売台数が前年比で40 %以上縮小した結果、ピーク時の14分の1まで市場が縮退した。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "デジカメはフィルムカメラに較べると電子機器的な要素を多く含むため、2000年代には旧来のカメラメーカーに加えて、ソニー、パナソニック(経営統合前の三洋電機を含む)、カシオ計算機などの家電・電子機器メーカーも参加して激しいシェア争いを繰り広げていた。2002年頃まではオリンパスや富士フイルムがシェア1位を争っていた時代もあったが、キヤノンが2003年にデジカメ市場のシェア1位(コンデジ・一眼レフ共に)となり、ニコンが一眼レフ市場2位となった後、結局はフイルムカメラ最大手であったキヤノンとニコンがデジカメでも最大手であり続け、競合とのシェアを引き離し続ける状況が続いていた。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "競争の激化に伴い、2005年に京セラが日本国内のデジタルカメラ事業から撤退。2006年にはコニカミノルタがカメラ事業全般から撤退し、一眼レフカメラ部門をソニーに譲渡した。また、イーストマン・コダックも消費者向けデジタルカメラの生産から撤退し、デジタルカメラ製造部門をフレクストロニクス・インターナショナルに売却している(開発・設計・販売は継続)。2009年にパナソニックに吸収された三洋電機のカメラ部門はXactiに継承された。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "デジタル一眼レフカメラは、コニカミノルタの一眼レフカメラ部門を引き継いだソニーや、オリンパスと協業しフォーサーズシステムへ参入したパナソニック、ペンタックスとの提携でサムスン電子なども参入した。2008年にパナソニックが先陣を切ってミラーレス一眼カメラを発売し、2013年にソニーがフルサイズのミラーレス一眼を開発し、以降の一眼レフ市場を方向付けた。技術的な困難さと、交換レンズを始めとするオプション類も販売する必要があるため、技術の蓄積がある光学機器メーカー(具体的にはキヤノンとニコン)か、それらの事業を引き継いだメーカー(具体的にはソニー)が残り、新規参入した家電メーカーなどは、ミラーレス一眼へと移行するか、コンパクトカメラのみに規模を縮小した。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "旧来のカメラメーカーはレンズの設計に一日の長があるが、電機メーカーはイメージセンサの製造に長けている。家電メーカーの場合、光学系の設計ノウハウが乏しく設備の新設にもコストがかかるため、他のレンズメーカーから光学系部品の供給を受ける場合がある。さらに、光学機器メーカーに比べて劣る知名度を補うため、「ライカ」や「カール・ツァイス」といった有名ブランドを冠したレンズを採用することもある。メーカーによってはOEMとしてレンズの供給を受けるのではなく、同ブランド名を冠するレンズを自社内やレンズメーカーでライセンス生産している場合もある。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "逆に光学機器メーカーが、撮像素子や画像エンジンなどの電子系統を、競合の家電メーカーにOEM委託をしていることも多い。EMSの委託先としては台湾のメーカーなどがある。特に撮像素子は、ソニー、OmniVision、サムスンで世界市場の7割以上を占めている。したがって、上に書いたメーカー別販売シェアと、実際の製造メーカー(OEM製造も含む)におけるシェアとは大きく異なる。2012年当時の他社向けOEMを含めた生産台数別のシェアを見た場合、全てのデジカメを自社製造で賄うデジカメ市場1位のキヤノンが生産台数でも1位であったが、カメラ生産台数2位が佳能企業、3位が華晶科技と、実際の生産台数では日本メーカーではなく中国や台湾のメーカーが上位を占めた。2012年当時デジカメ市場2位のニコンは、一眼レフに関してはすべて自社生産だが、コンデジには力を入れておらず、コンデジに関しては全て他社製造品のOEMであった。また、上記のメーカー以外にもセイコーエプソン(R-D1など)や、ライカなどがレンジファインダー式デジタルカメラの製造を行っている。2017年の時点では、本体・レンズ・撮像素子の三要素を自社製でまかなえるのは、キヤノン、ソニー、シグマ(Foveonを子会社化)の3社となっている。特に撮像素子は、ソニー系列のソニーセミコンダクタマニュファクチャリングが、ニコン・ペンタックス・オリンパス・富士フイルム・ライカなどにも画像センサーを製造・供給している一大センサーメーカーとなっている。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2010年以降は、ミラーレス一眼カメラで成功したソニーがキヤノンとニコン以外の「その他」のメーカーの中から頭一つ抜けて、デジカメ市場3位となった。また、コンパクトデジタルカメラの市場はカメラ搭載のスマートフォンによる浸食が進んでおり、デジカメ市場上位3社のキヤノン・ニコン・ソニー以外のメーカーにおいては撤退が相次いでいる。こうした状況を踏まえ、2013年当時の経済産業省は日本企業の競争力強化に向けた取り組みを進めようとしていたが、その後もデジカメ市場はスマホに侵食される一方であり、各社で生産体制の縮小や撤退が続いた。2015年には、サムスンが最後となるモデルを発表した後に撤退 したほか、2017年には、ニコンが中国江蘇省無錫市の工場で行ってきたコンパクトカメラの生産を終了し、タイの工場へ生産拠点を集約、2021年には国内生産も終了した。2018年、オリンパスも深圳の工場で行ってきたデジタルカメラや交換レンズの製造を終了し、ベトナムの工場へ生産拠点を集約している。同年には、カシオのコンパクトデジタルカメラ事業からの撤退も発表されている。2021年には、オリンパスはデジカメなどの映像事業を分社化・譲渡し、OMデジタルソリューションズがオリンパスのデジカメブランドを引き継いでいる。2020年には初めてミラーレス機が一眼レフの売り上げを上回った。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "こうした状況を経て、2020年にはキヤノンとソニーが入門機からハイエンドまでを押さえた二強の地位を獲得し、スマホに市場を奪われてコンデジでは採算が取れなくなった他メーカーはハイエンド機に専念する業界構造となりつつある。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "機能や画質を割り切ることで低価格な「トイデジカメ」と呼ばれる分野が存在する。玩具の流通ルートで売られていることが多い。 近年(2016年現在)では携帯電話に搭載されたカメラの性能向上によりジャンルそのものが衰退しつつある。携帯電話のアプリではトイカメラ特有の歪み・ぼけ・色調等の独特の光学効果を再現している。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "同ジャンルの初期に流通したトイデジカメの例としてタカラのSTICK SHOTやニチメンのChe-ez!などがあり、デジタルカメラが高価だった頃、小型軽量で1万円以下で買える手軽さが受けてガジェット好きのユーザーに広まった。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "初期の大半の製品が10万画素から35万画素ほどのCMOSを搭載し、増設できない1メガバイト程度の記録メモリーを搭載する。パソコンと通信することはできても、カメラだけで直接記録した画像を確認できるようなデバイスは存在しない。画質はおしなべて低く、色の再現性が悪い。一方、これらの中にはWebカメラとして使用できるものもあり、そのためにトイデジカメを購入するパソコンユーザーもいた。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "現在では日本の一流メーカーのデジカメが実売で8000円を切るまでに低価格化しているうえ、トイデジカメの高機能化が進み、それらを区別する意味もなくなってきている。このような状況から、現在では「トイデジカメ」という概念が「安い」から「アクセサリーとして楽しむ」などの方向に変わっている。例としてボールペンや腕時計にカモフラージュした製品、フィルム時代の高級カメラをミニチュア化した製品などが一定の人気を保っている。また、単に低画質な製品を「トイ」扱いしている場合もある。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2010年春現在で販売が継続しているトイデジカメは、その定義を「小型軽量低価格で、手軽ではあるが低性能」とする場合、当てはまるのはVista Questシリーズと、同シリーズのうち1005ベースとなる「NICO DIGI」(ニコデジ)程度である。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "機能や価格帯は考えず遊びの要素が強い製品として、プラスティックむき出しの質感やクセのある撮影画像など、同ジャンルの基本を意識し、楽しく撮ることを目標とした「DIGITAL HARINEZUMI」(デジタルハリネズミ)シリーズ、簡易防水機能付きとしては安価な部類で、わざと撮影画像のカラーバランスを崩した撮影ができる「GIZMON Rainbowfish」(ギズモン レインボーフィッシュ)、ローライの本格的二眼レフカメラ、ローライレフレックスの外観を忠実に模して小型化した「ローライレフレックスミニデジ」(Rolleiflex MiniDigi )シリーズなどがある。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2012年のデジタルカメラの世界シェアは以下の通りであり、出荷台数の1位から3位までを日本メーカーが占める(数字はパーセント)。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日本国内におけるデジタルカメラ1台あたりの平均販売価格はコンデジが約2万200円、一眼タイプが約8万5,400円である(2009年12月度、BCN調べ)。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "売れ筋のキーワードは2003年頃までは画素数など、2004年には動画撮影性能や多彩なシーンモードなど、2005年には大型液晶・高感度・手ブレ補正などであった。2006年は一眼レフに「ライブビュー」が搭載されるようになり、急激な低価格化と相まって一眼レフの一般への浸透が進んだ。2007年には顔認識が登場し、人の顔が綺麗に撮れる、笑顔になるとシャッターが切れる機能などが流行した。2008年は暗所撮影や防水機能など「場所を問わず綺麗に撮れる」性能や、より広い角度を写せる「広角ズーム」が売りとなった。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2009年は明暗差の激しいシーンでも白飛びや黒つぶれが発生しにくい「ダイナミックレンジ拡張機能」、そして一度ロックした被写体にピントや露出を合わせ続ける「自動追尾機能」などが登場した。また、リコーGRデジタルIIIやキヤノンパワーショットG11など、あえて操作を自動化せず画質と高級感を優先させた高級コンパクトカメラが独自の地位を築いた。家庭にハイビジョンテレビが普及したこともあり、ハイビジョン画質の動画機能が装備されたカメラが普及し始めた。また、2008年末にフォーサーズ陣営から登場したミラーレス一眼が2009年5月以降売り上げを伸ばしている。2010年にはAPS-Cサイズのミラーレス一眼が登場、2013年に35ミリフルサイズのミラーレス一眼が登場して以降は、一眼レフから乗換のユーザーでミラーレス一眼が販売シェアを拡大、2020年に販売台数が一眼レフを逆転して以降は、ミラーレス一眼カメラがレンズ交換式デジタルカメラの主流となっている。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "過去のデジタルカメラ市場はほとんど日本企業のブランドで占められており、日本国外勢はコダックや一部のスタジオ用中判機種に限られていた。最近2003年 - 2004年にはおよそ80 %であったが、日本メーカーが積極的に行っている生産設備の中国への移管による技術移転や韓国メーカーの高級機参入に加え、アメリカやドイツの歴史あるブランド名を復活させた製品も出始めた。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "メーカーからは高性能のデジタルカメラが発売される一方で、古いデジタルカメラはユーザー間で「オールドデジカメ」「オールドコンデジ」として好まれて取引されておりイギリスBBCでもその傾向が報じられている。", "title": "販売動向" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2000年頃から大手カメラ店のDPEコーナーなどでデジタルデータから印画紙に焼き付けるサービスが行われている。これは、デジタル処理のミニラボシステムを利用したもので、フィルムスキャナによる入力の代わりにデジタルカメラなどで得られたデジタルデータ(JPEGなど)を印画紙に焼き付けるものであり、従来の写真と同程度の画質や耐久性が期待できる。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、店頭にキオスク端末型のプリント機を設置し、画面の案内に従ってセルフサービスで出力できるサービスも行われている。このタイプは昇華型熱転写プリンターを使用しており、画質面で若干見劣りする。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "そのほか、コンビニや駅などで、デジタルコピー機の機能を利用したセルフサービスで写真印刷を行なう機械も設置されている。単に印画紙への出力だけではなく、シール印刷機能のような付加価値を持たせている物もある。しかし、これらも昇華型やインクジェット方式で印刷するため、印画紙での出力に比べて画質や耐久性に劣り、長期間の保管には向かない。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、CD-Rを持っていないユーザーのために、画像データをCD-Rに焼くサービスもある。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "出力したい画像ファイルをインターネット上の指定サイトにアップロードし、でき上がったプリントを店頭や郵送で受け取るサービスがある。一般に印画紙に出力されるので、ミニラボ機を使ったものと同等の品質が期待できる。また、写真集のような形に簡易製本して渡すサービスもある。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "個人で撮影した画像を自宅のプリンターで印刷することが一般的になった。2003年頃からは、PictBridge(カメラ機器工業会)、USB DIRECT-PRINT(セイコーエプソン)、DIRECT PRINT(キヤノン)、BUBBLE JET DIRECT (キヤノン)などの名称で、デジタルカメラとプリンターを直接接続する通信規格が登場した。これらに対応したカメラとプリンターを直接接続することで、パソコンを介さずに印刷することが可能である。 デジタルカメラで撮影した写真の印刷を行うデジカメ専用のプリンターも登場している。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ハイビジョンテレビとの接続用としてカメラ本体にHDMI端子が装備されたり、テレビやレコーダー側にSDカードスロットを備えた製品も増え、リビングの大型テレビで鑑賞することができる。", "title": "出力/印刷" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "カメラ本体の機能ではないが、無料で利用できるオンラインアルバム(Flickr、Google フォトなど)や動画共有サービス(YouTubeなど)が増えており、それらを通じて仲間と写真を共有したり、不特定多数に向けて写真を公開することが一般的になりつつある。無線LANを内蔵することでそれらのサイトに直接データを送信できるデジカメも登場している。", "title": "出力/印刷" } ]
デジタルカメラ は、デジタル写真を撮影するカメラである。 一般に「デジタルカメラ」といえば静止画を撮影する「デジタルスチルカメラ」を指し、動画を撮影録画する「デジタルカムコーダ」 は含めない。現在では静止画撮影が可能なデジタルカムコーダや、動画撮影が可能なデジタルスチルカメラが一般的になっており、双方の性能の向上もあってその境界線が徐々になくなりつつあるが、デジタルカメラはその中でも静止画の撮影に重点を置いたモデルを指す。 「デジカメ」と省略されることも多かったが、当該用語は日本国内では三洋電機および他業種各社の登録商標である。なお、三洋電機が登録した商標に関しては更新がされなかったため、2019年に権利が消滅した。 本項で特に断りがない限り、一眼レフカメラはデジタル一眼レフカメラを、コンパクトカメラはデジタルコンパクトカメラを指す。
[[File:Chipincamera.jpg|thumb|270px|デジタルカメラ内部のイメージ。]] {{更新|date=2021年9月}} '''デジタルカメラ''' ({{lang-en-short|''digital still camera、DSC''}}) は、[[デジタル写真]]を撮影する[[カメラ]]である。 一般に「デジタルカメラ」といえば[[スチル写真|静止画]]を撮影する「デジタルスチルカメラ」を指し、[[動画]]を撮影録画する「デジタル[[カムコーダ]]」<ref group="注">ビデオカメラは、本来は撮影するのみの撮像機を指し、撮影と録画が同時にできるものはカムコーダという。だが一般家庭向けにも広く普及した[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を“ビデオデッキ”、または単に“ビデオ”とも呼称することも多く、また一般向け製品の大半は撮像と録画の両方の機能をもつため、特許など厳密な製品機能を区別を必要する以外は、カムコーダも“ビデオカメラ”の呼称が一般的になってきている。</ref> は含めない。現在では静止画撮影が可能なデジタルカムコーダや、動画撮影が可能なデジタルスチルカメラが一般的になっており、双方の性能の向上もあってその境界線が徐々になくなりつつあるが、デジタルカメラはその中でも静止画の撮影に重点を置いたモデルを指す。 「'''デジカメ'''」と省略されることも多かったが、当該用語は日本国内では[[三洋電機]]および他業種各社の[[登録商標]]である。なお、三洋電機が登録した商標に関しては更新がされなかったため、2019年に権利が消滅した<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1985-044087/93C21EDB1E4611A2D85A1D2A4A7D6EA34C5EDA4F60E0D817F8DEAF344FED5063/40/ja |title = 特許情報プラットホーム商標出願・登録情報より、登録2122636号 |publisher = 工業所有権情報・研修館 |accessdate = 2021-08-04 }}</ref>。 本項で特に断りがない限り、[[一眼レフ]]カメラはデジタル一眼レフカメラを、[[コンパクトカメラ]]はデジタルコンパクトカメラを指す。 == 歴史 == === 前史 === 静止画をデジタルで記録する「デジタルカメラ」の前に、[[アナログ]]記録を行う「[[電子スチルビデオカメラ]]」という製品群が存在した。これは、アナログFM記録する電子カメラで、ソニーが[[1981年]](昭和56年)に試作し後に製品化した「マビカ」を代表とする。初の販売製品としてはキヤノンのRC-701([[1986年]](昭和61年)発売)があり、この時に2インチのビデオフロッピーディスクを記録媒体として記録する共通規格[[SV規格]]が正式に決められた。 これに追随して、[[カシオ計算機|カシオ]]はVS-101([[1987年]](昭和62年)6月)を発売したものの、10万円台の高価格(ちょうど同じ頃普及が進んだ[[8ミリビデオ]]カメラと同額程度)のため人気が出ず、大量の不良在庫を出した。このSV規格方式を中心に、[[1990年代]]初頭に至るまでいくつかのメーカーから電子スチルカメラが発売されるも、カムコーダの人気の前に、全く普及しなかった。 なおこれらのカメラは、当時はメーカーごとに様々な名で呼ばれており、「電子スチルビデオカメラ」は、デジタルカメラ登場以降に、それと区別するために付けられた名称である。 === 草創期 === 1960年代、NASA[[ジェット推進研究所]]の{{仮リンク|ユージーン・F・ラリー|en|Eugene F. Lally}}は、モザイク感光体を使ってデジタル画像を撮影する方法を考えていた<ref name="Belbachir2009">{{cite book|author=Ahmed Nabil Belbachir|title=Smart Cameras|url=https://books.google.com/books?id=it5W3f7yqAgC&pg=PA8|date=20 October 2009|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-1-4419-0953-4|pages=8-}}</ref>。また、1972年に[[テキサス・インスツルメンツ]]社の社員ウィリス・アドコックがフィルムレスカメラの特許(米国特許4,057,830)を取得した<ref>{{cite web|url=https://patents.google.com/patent/US4057830A/en|title=Electronic photography system|accessdate=2020-05-25}}</ref> が、いずれも技術がまだコンセプトに追いついていなかった。 1975年、初の製品化されたオールデジタルカメラとして[[Cromemco Cyclops]]が登場した。これは、『[[ポピュラーエレクトロニクス]]』1975年2月号に設計が掲載されたものを商品化したものである。画像素子として32×32画素のMOSイメージセンサ<!-- CMOSの誤記ではありません -->を使用しており、これはMOS DRAMメモリチップを改造したものである<ref name="hackaday">{{cite web |last1=Benchoff|first1=Brian|title=Building the First Digital Camera|url=http://hackaday.com/2016/04/17/building-the-first-digital-camera/|website=[[Hackaday]]|accessdate=30 April 2016|date=17 April 2016|quote=the Cyclops was the first digital camera}}</ref>。 [[イーストマン・コダック]]社の技術者である{{仮リンク|スティーブン・サッソン|en|Steven Sasson}}は、1975年に[[CCDイメージセンサ]]を使用した自己完結型電子カメラを発明し、製造した<ref>{{cite book|first=David |last=Prakel|title=The Visual Dictionary of Photography|url=https://books.google.com/books?id=f7X5vYbUd0sC&pg=PA91|accessdate=24 July 2013|date=10 December 2009|publisher=AVA Publishing|isbn=978-2-940411-04-7|page=91}}</ref><ref name="Dobbin">Dobbin, Ben. (September 8, 2005) "[http://www.seattlepi.com/business/article/Kodak-engineer-had-revolutionary-idea-the-first-1182624.php Kodak engineer had revolutionary idea: the first digital camera]." ''[[Seattle Post-Intelligencer]]''. Retrieved on 2018-02-06.</ref><ref>{{cite news |last=Estrin |first=James |date=August 12, 2015 |title=Kodak's First Digital Moment |url=http://nyti.ms/1IK1u5a |newspaper=[[The New York Times]] |accessdate=February 6, 2018}}</ref>。画像サイズは100×100の10,000ピクセルで、撮影した映像をテレビに映すこともできた<ref>[http://stevesasson.pluggedin.kodak.com/default.asp?item=687843 PluggedIn - We Had No Idea]<br />[http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080509_first_digital_camera/ 30年以上前に登場した世界初のデジタルカメラ - GIGAZINE]</ref>。同じ頃、[[富士フイルム]]は1970年代にCCD技術の開発に着手した<ref name="Fujifilm">{{cite web |title=Innovation: FUJIX DS-1P: the world's first digital camera |website=[[富士フイルム]]|url=https://www.fujifilm.com/innovation/achievements/ds-1p/|accessdate=2020-05-25}}</ref>。 === 発展期 === 画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは[[1988年]](昭和63年)に[[富士フイルム|富士写真フイルム]]から発表された「FUJIX [[DS-1P]]」であり、当時のノートパソコンでも使われた[[Static Random Access Memory|SRAM]]-ICカードに画像を記録した。しかしこれは発売されることはなく、実際に店頭に現れた世界初のデジタルカメラはDycam社が[[1990年]]([[平成]]2年)に発売した「Dycam Model 1」である。電源がなくても記録保持ができる[[フラッシュメモリ]]を初採用したのは[[1993年]](平成5年)富士写真フイルムから発売された「FUJIX [[DS-200F]]」である。 [[ファイル:QV-10.jpg|thumb|160px|[[カシオ計算機|カシオ]]の[[QV-10]]]] [[1994年]](平成6年)発表・[[1995年]](平成7年)3月発売のカシオ計算機のデジタルカメラ「[[QV-10]]」は、デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品である。外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円を実現して好評だった。一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できることである。また当時は[[Windows 95]]ブームで一般家庭にパソコンが普及し始めた時期であったため、パソコンに画像を取り込むことが広く認知された。この機種は[[NHK総合テレビジョン|NHK]]の番組「[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]」[[プロジェクトX全放送作品リスト#2002年|090回「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」]]<ref>2021年8月31日に同回内容の[https://www4.nhk.or.jp/P6884/x/2021-08-31/44/21066/2860188/|プロジェクトX 4Kリストア版]が放映された。</ref>において、あたかも世界初のデジタルカメラのように紹介された(ただし、撮影画像をその場で確認できる[[液晶パネル]]を搭載したデジタルカメラとしては世界初である)。 QV-10の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めた。QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能がある。その記録方法としてJPEGの連続画像(後に[[Motion JPEG]]と呼ばれる方式)を採用した。 この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もしばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていた。 === 全盛期 === [[1999年]](平成11年)末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、<!--[[2005年]](平成17年){{要出典|date=2015年6月}}にはフィルムカメラとデジタルカメラの販売台数-->[[2002年]](平成14年)にはフィルムカメラとデジタルカメラの出荷台数が逆転<ref>[http://www.cipa.jp/ CIPA(カメラ映像機器工業会)] の統計による。参考:[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1905/01/news005.html 「平成」デジカメ栄枯盛衰史 - ITmedia NEWS]</ref>、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わった。 報道関係やプロカメラマンの間でもデジタルカメラは普及した。初期には高画質でも大型で可搬性のないものであったり、専用のレンズ群が必要で価格も数百万円になるなど、一部の大手報道機関などが少数保有するだけの特別なカメラだった。1999年(平成11年)にニコンが既存の同社一眼レフ用レンズを使えるデジタルカメラ「D1」を定価65万円で発売後、各社完成度の高い低価格デジタル一眼レフを相次いで投入した。以後、速報性が重視される場面を中心に広まり、翌年のシドニーオリンピックなどを契機として報道各社を中心にデジタルカメラの導入が進んだ。撮影データをネットワーク経由で一瞬で遠隔地に送る事が出来、フィルム現像にかかる費用がなくコスト的にも優れたデジタル一眼レフは、フィルムカメラを駆逐し報道カメラの中心的な存在となった。その後、高性能化とデータ編集の容易さが支持されて、質感や仕上がりなどを重視する商用写真や美術写真にも活用範囲が広まった。 [[2000年]](平成12年)頃から国内の光学機器メーカーだけでなく、電気機器メーカーが一般向けデジタルカメラ事業に参入し、さらには[[台湾]]や[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]等のメーカーが加わった。2000年代中頃にはデジカメ市場が飽和しつつある中、カメラ付携帯電話の高機能化も加わって、店頭では販売合戦が展開されており、また2005年には京セラがデジカメ市場から撤退するなどメーカーの淘汰も始まった。 === スマホカメラの台頭とコンデジの衰退 === 2007年に初代iPhoneが発売されて以降、高性能なカメラを搭載した[[スマートフォン]]の普及に伴い、デジカメの世界販売台数は2010年の1億2146万3234台をピークに<ref>[https://www.bcnretail.com/market/detail/20191110_144957.html デジカメ販売、8年で7割縮小 岐路に立つカメラメーカー] - BCN+R</ref>、また市場規模は2008年の2兆1,640億円をピークに<ref>[http://www.monox.jp/digitalcamera-news-camera-sales-2021.html デジカメの市場推移 一眼レフ、ミラーレス、コンパクト/monoxデジカメ比較レビュー]</ref> 減少を続けている。特に、一般消費者を主なユーザーとするレンズ一体型デジカメ('''[[コンパクトカメラ|コンパクト]]デジカメ'''、コンデジ)の出荷台数は2008年の約1億857万台をピークとして、10年で1/10になるなど急激に減少した。 一方で、ハイアマチュア以上を主なユーザーとするレンズ交換式デジカメの出荷台数は2013年の約1713万台をピークとして、5年で1/2にしかならないなど減少は緩やかであり、2018年にはレンズ交換式デジカメ出荷台数1075万台に対してコンデジの出荷台数が866万台と、レンズ交換式の出荷台数がコンデジを上回った<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM213RGVM21ULFA008.html レンズ交換式のデジカメ、コンパクト型抜く 18年出荷]:朝日新聞デジタル</ref>。 === 現在 === デジタルカメラの世界総出荷台数は、2018年は約2200万台(市場規模は約7300億円)、2019年度は1522万台(市場規模は4500億円)。2020年度は世界総出荷台数は888万台(市場規模は4201億円<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/1303831.html 2020年のデジタルカメラ総出荷は888.6万台。前年比4割減] - デジカメ Watch</ref>)となり、ついに富士フイルム社のフイルムカメラ「[[インスタントカメラ・チェキ|チェキ]]」の年間販売台数(2018年度は約1005万台)を下回った。 2021年現在、メーカーの淘汰が進んでおり、世界シェアは[[キヤノン]]、[[ソニー]]、[[ニコン]]、[[富士フイルム]]の4社で約9割、[[パナソニック]]を加えると約9割5分を占める。特に[[キヤノン]]は2003年に初めてシェア1位となって以降、デジカメ市場で不動の1位として2020年度には約48 %の市場シェアを占めるが、市場自体が急激な右肩下がりであるため、キヤノンは2020年4〜6月期に史上初の四半期赤字に転落した。2018年にはカシオがデジタルカメラ事業から撤退、2020年にはオリンパスがデジタルカメラ事業を投資ファンドに売却するなど苦しい状態が続いている。 == 分類 == 実態としてはおおむね下記の通りである。分類が困難な機種もある。 * コンパクト・デジタルカメラ - レンズ交換が不可能のもの<ref group="注">しばしば「コンデジ」と略される。</ref>。 ** ネオ一眼 - 明るい高倍率ズームレンズを持った、比較的大きなもの。2010年頃まではコンパクトデジカメとしての手軽さと、レンズ交換式一眼レフのような高性能を併せ持つ点が評価され、旅行などに重宝された。しかし、一眼レフ並みの大きさで取り回しが面倒な上にレンズ交換が不可という、その中途半端な立ち位置によって、デジカメのジャンルの中では最も早く衰退した。2022年現在はニコン「COOLPIX P1000」(2018年発売)などの超高倍率機を中心に生き残っている<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1906/20/news009.html オンリーワンのモンスターネオ一眼、ニコン「P1000」はどうやって生まれたのか:小寺信良が見た革新製品の舞台裏(13)] - MONOist</ref>。 ** 高級コンパクトカメラ - 比較的大きな撮像素子(1/1.8型以上)を持ち、マニュアル操作に重点を置いたもの。2010年代前半よりスマホと対抗するためにコンデジの高級化が始まり、従来は一眼レフにしか搭載されていなかった35 mmフルサイズやAPS-Cサイズの大型センサーを搭載するコンデジが登場し始めた。 ** (上記以外の)コンパクトデジタルカメラ - 小型化に重点を置いた一般向けの機種。2000年代にはフイルムカメラからの移行先として、一般ユーザーがこのタイプのデジカメを買い求めたために市場が急激に拡大し、市場の多くをこのタイプが占めた時代もあったが、この程度の性能ならスマホのカメラで十分であるため、スマホの普及とともに市場が急激に縮退した。 *レンズ交換式カメラ - レンズ交換が可能なもの。2009年まではデジカメ市場の1割に満たない、ハイアマチュアからプロフェッショナル向けのニッチな製品だったが、スマホの登場後にコンデジの市場が急激に縮退したことによって、2018年以降はレンズ交換式カメラがデジカメ市場の過半数を占めるようになっている。 ** デジタル[[一眼レフカメラ]] - [[ペンタプリズム]]などによる光学式[[ファインダー]]を持つ従来の一眼レフカメラをデジタル化した形式。最も一般的な撮像素子のサイズは、APS-Cサイズと呼ばれる23.6 mm × 15.8 mmの撮像素子だが、35 mmフィルムと同程度の大きな撮像素子(36 mm × 24 mm)を持つものは「フルサイズ」と呼ばれる。その他に、「フォーサーズ」と名付けられた、APS-Cサイズよりひと回り小さい(17.3 mm × 13 mm)撮像素子の規格をオリンパスとコダックが独自に策定して、それぞれのデジタル一眼レフとミラーレスカメラに採用している。 ** [[ミラーレス一眼カメラ]] - 一眼レフカメラのデジタル化の中で派生した形式で、レンズ交換が可能でありながら光学式ファインダーが省かれ、電子式ファインダーのみを持つ。ミラーが無いためコンパクトカメラのようにボディを薄くできるため、スマホより高品質な写真が撮りたいけれど大きなカメラは持ちたくないという層に需要がある。2000年代後半より各社によって開発が行われていたが、市場では後発だったソニーが[[コニカミノルタ]]の技術をベースとして2013年に発売した世界初のフルサイズミラーレスカメラ「α7」のヒットによって市場が急拡大した。この流れにキヤノンやニコンも追随したため、2010年代後半よりデジカメ市場の主戦場はミラーレス一眼へと移行しており、初心者向けからプロフェッショナル向けまで幅広い製品が存在する。2020年にはデジタル一眼レフカメラの販売台数を追い抜いた。なお、ソニーは「α7」のヒットにより世界ミラーレス市場1位となって、それまでキヤノンとニコンが独占していた高級カメラ市場に食い込むことに成功し、縮退するデジカメ市場で唯一伸長するミラーレス市場において販売シェアを伸ばしたことによって、2019年にはニコンを抜いて世界デジカメ市場2位となった。 ** [[中判カメラ#中判デジタルカメラ|中判デジタルカメラ]] - 35 mmフィルムより大きな[[撮像素子]]を持つ形式で、フィルム一眼レフカメラのシステムをベースにカメラボディをデジタル化した形式、フィルム一眼レフカメラのオプション品として[[デジタルバック]]の形で提供されるものや、ミラーレス一眼カメラとして新規に開発した形式もある。2023年現在、富士フイルムと[[ハッセルブラッド]]からミラーレス一眼カメラ、[[フェーズワン]]から業務用でデジタルバックや一眼レフカメラの製品が発売されている。 **ハイブリッドインスタントカメラ([[インスタントカメラ・チェキ|チェキ]]) - インスタントカメラとデジタルカメラが一体化したもの。本体にプリンターも内蔵しており、デジタルで撮影した画像をフィルム<ref>印画紙の余白部分にゲル状の現像液が封入されており、撮影後にローラーで印画紙全体に現像液をいきわたらせることでプリントする。</ref>に記録し、現像・プリントまでをカメラ1台で行うことができる。2017年4月に発売した「instax SQUARE SQ10」<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/1055848.html 富士フイルム、チェキプリンター内蔵デジカメ「instax SQUARE SQ10」]</ref>が同社のインスタントカメラ「instax」シリーズ(通称:チェキ)の上位機種で展開されている。商品戦略上は「チェキ」のファミリーであるが、[[カメラ映像機器工業会]]におけるフィルムカメラの統計は2008年に廃止されているため、統計上は「デジカメ」にカウントされている。 *** FinePixシリーズのひとつとして、以前の1999年11月に intax miniを使用して、同じくデジカメとプリンター一体構造である「FinePix PR21プリンカム」<ref>[https://www.fujifilm.co.jp/news_r/nrj514.html デジタル インプリンターカメラ FinePix PR21プリンカム]</ref>が発売されたが、定価99,800円かつ約700グラムで巨大で、話題とならなかった。 ** [[トイデジカメ]] - おもちゃのデジカメ。無名のメーカーから様々な製品が販売されている。高くても数千円程度で買える。2010年代後半の時点では、数千万画素、4K解像度で動画も撮れるものも登場しているが、画質はあまり良くない。スマホのカメラよりも低性能だが、味のある写真が撮れるので、愛好家も存在する。 == 構造 == [[ファイル:Digital camera cut model 1.PNG|thumb|400px|right|'''デジタルカメラの構造概略''']] [[ファイル:Digital camera 2models NT.PNG|thumb|right|250px|'''2種類のデジタルカメラの光学系'''<br />A:コンパクト・デジタルカメラ<br />B:一眼レフ・デジタルカメラ<br />1.レンズ 2.撮像素子 3.液晶表示部 4.ファインダー 5.ミラー 6.シャッター 7.ペンタプリズム]] === 全体構造 === デジタルカメラの全体的な構成は、大きく分けて光学系と電子系、そしてそれらを保持する筐体に分類できる<ref group="注">デジタルカメラの構成は、従来の銀塩カメラ(フィルムカメラ)と同等の部分とそれ以外の部分に大別できる。銀塩カメラは筐体であるカメラボディと、光を集め焦点を結ぶために必要な[[レンズ]]、光量を決定する[[絞り (光学)|絞り]]、決められた時間に限ってフィルムに光を当てる[[シャッター (カメラ)|シャッター]]、撮影対象を確認するためのファインダーが必要である。デジタルカメラにおいてもレンズとボディは必要であり、これらは銀塩カメラと大きく変わることはない。</ref>。 光学系はレンズと絞り機構であり、一眼レフでは光学式ファインダー用のレフレックスミラーとプリズムがこれらに加わる。機械式のシャッター機構を備えるものもある。電子系は受光素子とメモリーを含む画像演算回路、記録装置、液晶表示器、ストロボ、操作スイッチ、電池などである<ref group="注">ピントや絞りといった光学系の制御はモータなどを通じて電子系が行うので、レンズ群で構成される部品の中に電線が入り込んでいるのが一般的である。</ref>。 === 光学系 === ;撮像 : 基本的な光学系は銀塩カメラとそれほど差はない。同じ[[画角]]で同じ[[F値]]のレンズを作る際に、[[撮像素子]]が小さいほど短い焦点距離のレンズ、つまり小さいレンズで済む<ref group="注">撮像素子の受光面が小さいとレンズの焦点距離が短くなるので、デジタルカメラの多くの機種では従来の銀塩式カメラに比べると背景をぼかしにくい。</ref>。ほとんどのデジタルカメラの撮像素子は、35 mmフィルムに比べて小さいため、レンズは35 mmフィルム式のカメラのものよりも小さい。デジタルカメラの中でもコンパクトデジカメの撮像素子は特に小さいため、高倍率のズームレンズが小型の本体に搭載できる<ref group="注">ただし、コンパクトカメラは(一部の高級機を除いて)望遠側を重視した設計となっており、広角側は35 mm程度(35 mm判換算)である。</ref><ref group="注">デジタルカメラのレンズでは、イメージセンサとレンズとの間で発生する光の反射が問題である。そのため、レンズ設計ではこの点を考慮して設計する必要がある。</ref><ref group="注">3D写真撮影用のデジタルカメラもすでに販売されており、1眼レフカメラの新製品では交換レンズ・ファミリーの中に3D写真用に左右2つのレンズを備えた製品も発表された。</ref>。 :コンパクトカメラの多くが沈胴式のレンズ<ref group="注">電源のオンオフにより胴体内部に伸展/収納される多段式レンズ</ref> を備えることで、携帯性を高めている。 :[[一眼レフカメラ]]や[[ミラーレス一眼カメラ]]ではレンズ交換に対応するために、カメラ本体と交換レンズとの接続に関して規格があり、これは「レンズマウント規格」と呼ばれる。カメラの本体側には「レンズマウント」と呼ばれる交換レンズの接合基部が設けられ、光路となる大きな開口部とその周囲の円環状の金属部分から構成される。レンズマウントには交換レンズ内の絞り機構やズーム機構などを駆動・制御するための配線用接点が設けられており、レンズマウント規格では物理形状だけでなくこういった電気信号類も規定している。 : 銀塩カメラのシャッター機構は機械式のみであったが、デジタルカメラでは機械式と電子式(電子シャッター)の2種類がある。一般に一眼タイプでは機械式、コンパクトデジカメでは電子式が採用される傾向がある<ref group="注">機械式シャッターは物理的に受光素子を隠すために、電子式シャッターとCCD受光素子の組合せで起きる[[スミア]]やブルーミングの問題が起こらない。従来の機械式では問題とならなかった、シャッター動作時のミラーによる物理的な衝撃によるカメラ内部の「ぶれ」が受光素子の解像度向上に伴って顕在化した。</ref>。最近は機械式と電子式を組み合わせたハイブリッド方式のものも増えてきている。 ;ファインダー : ほとんど全てのデジタルカメラには本体の背面に[[液晶ディスプレイ]]による画像表示器が備えられており、これが撮影時の画像情報を得るファインダーとしても用いられることが多い。また、従来型の小穴を覗き込む透過形式のファインダーを搭載するものや、電子式の表示面が備わっている[[ファインダー#EVF(電子ビューファインダー)|電子ビューファインダー]]を搭載するものもある。一眼レフカメラでは[[ペンタプリズム]]などを用いた光学式の[[レフレックスファインダー]]が搭載されており、背面の液晶ディスプレイと合わせてそれぞれの役割の違いがメーカー各社ごとの特徴である。 光学信号である画像を電気に変換する撮像素子(光学センサ)は、[[CCDイメージセンサ]]か[[CMOSイメージセンサ]]が用いられる。この点が光化学反応を用いる銀塩[[フィルム]]式のフィルムカメラと異なる。撮像素子の受光面の大きさは、通常のフィルムカメラで用いられる35 mm判フィルムの1コマよりも小さいものが大多数である<ref group="注">[[ライカ]]のS2のように、標準の35 mm判フィルム1コマ大である24 mm × 36 mmよりも大きな30 × 45 mmのCCD受光面を持つものも存在する。</ref>。半導体素子そのものである撮像素子は、その大きさが部品価格の主要な決定要素であるため、比較的廉価なコンパクトデジカメでは1/3インチから2/3インチが、上位価格帯を占める一眼レフタイプではより大きな[[APS-Cサイズ]]が用いられる。また、一部の高級機種や業務用機種には[[35mmフルサイズ|35 mmフルサイズ]]や[[中判カメラ|中判]]など、銀塩フィルムと同等サイズの撮像素子を搭載する製品もある<ref group="注">[[ニコン]]のD600や[[キヤノン]]のEOS6Dのように、ミドルクラスの製品でも35 mmフルサイズのイメージセンサーを搭載するものも出てきている。</ref>。 撮像素子は2000年頃までCCDが主流で、画質が劣ったCMOSは一部の安価な機種に搭載されるのみだった。その後、CMOSイメージセンサの性能が向上して多くの問題点も対処が進められた。CMOSの特徴である低消費電力性や低価格なこともあり、一眼レフを中心にCMOS搭載機種が増えてきている<ref group="注">一般にCCDはメタル配線層が1層で済むので構造が単純になる。CMOSはメタル配線層が3層程度必要になるので少し複雑になる。CCDは[[スミア]]やブルーミングといった問題を起こすことがあり、メーカーはこれらへの対策が求められる。CCDは画素ごとに蓄積した電荷を行と列の単位で順番に取り出して画素アレーの外のアンプで増幅するが、CMOSは各画素ごとに増幅回路を持っているので画素ごとのバラツキが大きくなりノイズとなる。CCDとCMOSのいずれでも画素ごとに暗電流によるノイズが生じるが、CCDでは光を照射しない状態で全画素を読み出し暗電流ショットノイズを記憶しておいてから、実際の撮影時の読み出しデータからこの暗電流分を引くことでほとんどの画素ごとに固有の固有パターンのノイズを除去できる。これは二重相関サンプリングという手法である。CMOSではCCDと異なり画素内の電荷のすべては移動できず、前回分の電荷が残留するために二重相関サンプリングでもあまり上手くノイズは除去できない。CMOSの電荷の残留性を解決するために、CCDと同様にすべての電荷を画素から引き出す回路構成とした製品も存在する。CCDは蓄積の同時性と呼ばれる性質によって、全画素の撮影データはほぼ同時に読み出し動作に移るために同一の瞬間を記録することができる。CMOSは、画素ごとに順番に電荷の蓄積と読み出し動作を行う構造であるため、撮影データは読み出し動作の待ち時間だけ画素ごとに異なる瞬間を記録している。これによりCMOSで動く物体を撮影すると歪んだり曲がって撮影されることがある。このようなCMOS固有の蓄積の同時性の解決は電子的な改善よりも、単純に機械式のシャッターをCMOSの撮像素子上に付けることで対応するのが主流である</ref><ref name="体系的に学び直すデジタルカメラのしくみ"/>。CMOSによるデジタル回路を同じシリコン基板上に構築しやすいので高機能な駆動回路をセンサ側に作るのに向いており、例えばA/D変換回路を内蔵するものがある{{refn|group="注"|2010年9月現在では民生用カメラ用イメージセンサの世界最高の解像度は、約1億2,000万画素のCMOSセンサーである<ref>[http://www.procameraman.jp/News/news_1008.html#news1008_10 Web上のNews]。</ref>。}}。 一般に撮像素子が大きいほど色再現性、[[ISO感度|感度]]、[[ノイズ]]、[[ダイナミックレンジ]]などあらゆる点で有利である。とくに同じ時代に設計された撮像素子同士の比較ではサイズにより画質の差があり、測定値にも表れる。また、同じ画角・同じF値における[[被写界深度]]が浅くなるため、対象物だけにピントを合わせて背景から浮き上がらせる[[ボケ (写真)|ボケ]]の効果が得られやすい。反面、撮像素子が大きいとボディが大型化し、高価になる。また画素数が多いほど描写は精細になり、大きなサイズでのDPE依頼やフォトプリントでも精細な画像が得られる。撮像素子のサイズを変えずに画素数を増やすと、1画素あたりの面積が小さくなる。[[ダイナミックレンジ]]が狭くなる、電気的なノイズ・歪みが多くなることからむしろ画質を損なう場合もあるので、撮像素子や処理回路でノイズを抑える設計が必要であるため、画素数を増やすことには限界がある<ref group="注">APS-Cサイズの一眼レフに35 mm用のレンズを取り付けると望遠寄りに写る。逆に、35 mmフルサイズの一眼レフにAPS-C専用のレンズを取り付けることはできない。これはいわゆる[[ケラレ]]が発生するためである。</ref>。コンパクトなボディに大きな撮像素子を搭載した機種も存在する<ref group="注">コンパクトなボディに大きな撮像素子を搭載した機種の例として、[[フォーサーズ]]規格のミラーレス一眼や、[[シグマ (カメラ)|シグマ]]のDPシリーズ、[[リコー]]の[[リコー GXR|GXR]]などがそれにあたり、画質を重視しつつも携帯性を求める一部消費者の支持を集めている。</ref><ref group="注">撮像素子の表面には受光素子ごとに微小なレンズが形成されており、入射光をできるだけ受光素子の開口部へ導くようにしている。このマイクロレンズは撮像素子の垂直方向からの光を効果的に集光するように設計されており、焦点距離に対して大きな撮像素子を用いると、受光面の周辺部では光が斜めに入射するために集光効率がそこだけ落ちて、暗くなる「ケラレ」が生じる。</ref><ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/><ref group="注">受光素子の半導体基板上にある[[フォトダイオード]]は、受光面から最も奥に位置しており、特にCMOSでは縦横に走る配線層によって作られる井戸の底にフォトダイオードが位置するために、垂直方向以外からの入射光には感度が低い。これによって生じる「ケラレ」を避けるために裏面照射技術が開発されている。</ref>。 2010年現在用いられている撮像素子の多くが、1つの画素で多様な色の識別は行えず、画素を構成するそれぞれのフォトダイオードの上に RGB(CMY)<ref group="注">"RGB"と表記される、Red, Green, Blueの[[原色|三原色]]の組合せを採用する撮像素子と、この三原色とは補色関係にある3つの色、Cyan, Magenta, Yellowによる"CMY"の組合せを用いるものがある。CMYは最終的にはRGB形式に変換するが、補色を用いることで感度が2倍になる。これは例えば"Blue"の出力だけを考えれば、"RGB"の入力では"B"だけが最大100 %でそのまま出力に用いられるが、"CMY"の入力で"B"の出力を求めるには"C"のCyanと"M"のMagentaが合算できるためである。また、"RGB"の三原色に変換する指標として用いるために、"CMY"の組合せに"G"のGreenを加えて"CMYG"という4色のフィルターを採用する機種もある。</ref><ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/> の内のいずれか1色のフィルターを配置することでそれぞれの色を検出する<ref group="注">新たな撮像素子の中にはモノクロだけの[[測光]]やカラーフィルターによる RGB(CMY) の内の1色だけを測光するのではなく、受光素子アレイを3層に重積することで RGB(CMY) の3色すべてを測光できるものがある。</ref>。このため、多様な色が検出できる最小単位は、少なくとも3画素である。続く画像処理部では、それぞれの画素には本来測光しなかった他の2色分の色情報を周囲の色から作り出すという処理が行われる場合があり<ref group="注">画素ごとでは RGB(CMY) の内の1色分のセンサーしか持たない撮像素子からの画像情報を元に、残る2色分の色情報を周囲のセンサーの色情報から作り出す。</ref>、「偽色」と呼ばれる、誤った色情報を生成したり不自然なノイズが生じる原因である。このようなノイズや画素数の実質的な減少を避けて、可能な限り画素数を増やしたいプロ仕様の上級機種では、入射光を3個ほどのプリズムによって CMY(RGB) という波長帯別に分離してから、それぞれの光を1枚ごとの撮像素子で電気に変換する仕組みを備えるものもある<ref group="注">一般に半導体を用いた撮像素子はイメージセンサとして優れた特性を有するが、画素が微細化することでダイナミックレンジは銀塩式フィルムの感光剤に劣る傾向がある。[[ラティチュード]]も銀塩式の感光剤よりも狭い。</ref><ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/>。 === 電子式ファインダーと操作部 === {{main|ファインダー#ディジタルカメラのファインダー}} フィルムカメラのファインダーには幾つか異なる方式があるものの、全て光学式だった。デジタルカメラの場合も同様の構造が可能だが、多くのデジタルカメラは撮像素子で得た画像データを本体背面などのカラー液晶で表示することでファインダーとしている。また、いわゆる「ミラーレス一眼カメラ」では、従来の一眼レフカメラと同等の位置にカラー液晶を使ったファインダーを配置しているものが多い。この電子式ファインダーはプリズムやミラー、光路を必要とする光学式に比べて設計上の自由度が高いが、2019年現在では撮影直後に表示が一時停止するモデルが多いといった問題もある。また単に撮影画像を表示するだけでなく、電子機器であるデジタルカメラ本体の操作画面としてや、画像編集といった付加的な機能にも利用される<ref group="注">高機能な電子式ファインダーの例として1997年2月に発売された[[ミノルタ]]の[[ディマージュ|Dimage V]]が上げられる。これは、レンズ部分がカメラ本体から着脱可能で、互いにケーブルで繋ぐというものである。また、カメラ本体とレンズ部分が関節のようにつながり、互いに回転する「スイバル」機構を搭載した[[ニコン]]の[[COOLPIX|COOLPIX 900シリーズ]]なども発売された。これらは一部のユーザーには好評であったが、いずれも従来のカメラと異なる形状で、扱いづらかったためか次第に姿を消した。</ref>。 背面液晶式カメラの多くでは液晶表示部が背面に固定されているが、これを可動としたのがいわゆる[[バリアングル液晶]]であり、撮影者の視点や姿勢にあまり制約されることなく、[[ローアングル]](低い位置からの撮影)や[[ハイアングル]](高い位置からの撮影)などの撮影が容易になった。 フィルムカメラでもデジタルカメラでも同様であるが、実際に撮影させる画像とファインダーで見える画像とが必ず同じ範囲であるとは限らない。実記録画像が100 %としたときのファインダー画像の大きさを%で示す「ファインダー視野率」という指標がある。デジタルカメラでは、比較的100 %のものが多い<ref name="図解雑学 デジタルカメラ">津軽海渡、木村誠聡著、『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] デジタルカメラ』、[[ナツメ社]]、2002年12月18日発行、ISBN 4816334092</ref><ref group="注">レンズ交換式のカメラは、戸外などでレンズを交換する場合などに埃が光学系内に入り込むことがある。フィルムカメラではフィルム面やその周囲に付着する他に、光路を遮る場合でも可動式のミラーには比較的付着しにくくファインダーへとつながるフォーカシング・スクリーンに付着することが多い。フォーカシング・スクリーンへのゴミやホコリの付着はファインダーに黒い陰を作るが撮影される映像には支障は生じない。それに対してデジタルカメラで埃が光学系内に入り込むと、フィルム面に相当するCMOSやCCDのような微細な電子式の撮像面に付着することがあり、ミラーを持たない機種ではファインダーと撮影画像のいずれにも影響する。また、一般に電子式撮像素子は受光面の画素が銀塩式フィルムの画素よりも小さいために、ゴミやホコリの影響も大きくなり、電子式撮像素子自身が発熱するために付着物が焼き付いて簡単には取れないこともある。</ref><ref name="カメラの常識のウソ・マコト">千葉憲明著、『カメラの常識のウソ・マコト』、講談社、2004年6月20日第1刷発行、ISBN 4062574462</ref><ref group="注">撮像素子などは不用意に触れると故障するため、クリーニングを行うメーカーがある。また、撮像素子やその保護膜を、[[手ぶれ補正機構]]を応用した仕組みで高速振動させてゴミを振るい落とす「[[ほこり除去機構]]」を備える機種もある。</ref>。 シャッターボタンを含む操作用のスイッチ類は、人間工学に基づき配慮されている。一部の機種では電子式ファインダーである液晶画面にタッチパネルを組み込むことで、ファインダーの画面が操作面となるものもある。 === 画像処理部 === 撮像素子からの[[アナログ]]信号はアンプによって増幅され、高速アナログ/デジタル変換器によってデジタル信号に変換された後、[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]のような半導体記憶素子に一時記憶として蓄えられる。画像処理専用に作られた[[ASIC]]が、この一時記憶領域から必要なサイズの画素を読み出しては演算処理を行い、一時記憶へ書き戻す。イメージセンサの画素数の増加とそれに伴い求められる処理性能の上昇に合わせて、次々と演算処理速度の高いICが開発されている<ref group="注">画像処理用ASICの演算速度が不十分なまま、高解像度での複雑な圧縮処理などを行おうとすると、次の写真が撮影可能になるまで使用者が待たされる。これでは利便性を損ねるので、処理時間の短縮はメーカーにとって最重要課題の1つであり、演算用ICの性能向上に務めている。</ref><ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/> <ref group="注">画像処理用の半導体メモリー素子が安価となり大容量・高集積化されるのに従って、複数枚の画像処理が可能な記憶容量のメモリを内蔵する機種もある。従来なら連続撮影に数秒間のインターバルが必要だったのを瞬時に行え、設定すれば連続撮影も可能である機種が一般的になってきた。このような機種のうち、複数の撮影画像を元にカメラ本体だけでパノラマ合成や[[HDR合成]]を行うものもある。</ref>。 === 記録部 === 画像を記録するには、一般に[[フラッシュメモリ]]が使用される。ICチップによる内蔵固定式や[[メモリカード]]を差し込む内蔵交換式などの記録媒体がある。 ;記録媒体 :撮影された画像データの記録・保存には、主にフラッシュメモリを内蔵したメモリーカードが使われる。かつては民生用として[[コンパクトフラッシュ]]や[[スマートメディア]]が、業務用として[[PCカード]]タイプのハードディスクや[[マイクロドライブ]]が利用されていたが、2010年現在ではいずれも[[SDメモリーカード]]が主流である。 :記録情報の内容について、[[カメラ映像機器工業会]] (CIPA) によってファイル名などに関する規則である[[カメラファイルシステム規格]] (DCF) が規定されている。メモリーカードのルートディレクトリ上に作成される「DCIM」(Digital Camera IMagesの略)ディレクトリ、その下のサブディレクトリの命名法などがメーカー間で統一されているため、1枚のメモリーカードを異なるメーカーのデジタルカメラで使いまわしてもデータが混ざったり混乱が生じない。また、他のカメラで撮影した画像を表示させることができる機種もある<ref group="注">最近の家庭用プリンターには、メモリーカードスロットを装備しているものがあり、メモリーカードを挿入するだけでディレクトリ構造やExifデータを認識し、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を介さずに[[印刷]]することが可能である。</ref>。 :フラッシュメモリーは不要な画像をいつでも消去できるうえ、大容量低価格化によって数千枚から数万枚もの画像を保持できるようになった<ref group="注">フラッシュメモリーにより大容量低価格になるに従い、撮影形態もフィルムカメラ時代から大きく変化してきている。一般人でも「大量に撮影してその中から写りの良いものを選び出す」ことでプロ並みの写真を撮れるチャンスが出てきた反面、「一写入魂」のような真剣な撮影意識が薄れ、カメラの持つ趣味性が低下したとの指摘もある。</ref><ref group="注">かつてはメモリーカードが低速であったため書き込みに時間がかかり、高画素化でデータ量が大きくなるにつれてさらに顕著になっていったが、その後は[[SDHCカード]]のように記録メディアの高速化や、本体でも一時記憶用メモリーの容量を増やすなどして対応している。大容量の一時記憶用メモリーは、演算処理済みの画像情報を最終的に記録保存するための記録媒体へ書き出すまでの順番待ちに使用される。これとは別に撮像素子からAD変換されただけの生情報を演算処理する前に一時的に蓄える用途に用いることで、銀塩カメラでは不可能な[[高速度撮影]]を可能にしている機種も多い。</ref>。 === 外部接続 === 画像をやり取りするために外部との接続端子を持つ機種では、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]端子を備えるものが多い。[[メモリーカード]]を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[プリンター]]に差し込んで接続したり、DPE店へ預けたりする方法でも画像情報を利用することが可能である。パソコンのすべてが適切なメモリーカード用スロットと備えているわけではなく、多くの機種ではUSBのような汎用的な[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を備えることで、カメラ側にメモリーカードを装着したままパソコンなどで読み書きできるようにしていることが多い。 また、USBを経由することで、戸外で多くの撮影を行う場合でも、[[ノートパソコン]]などよりも小型軽量のUSB対応外部記憶装置へ画像情報を大量に保存するような利用法が可能である。USB経由でプリンターへの出力も可能である。 === ストロボ部 === ほとんどの機種では夜間撮影などのために[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]発光機能を備えている。必要な電圧まで[[コンデンサ]]に充電することで電気エネルギーを蓄えて、シャッターボタンによる操作でストロボを発光させる。ただし、コンパクトデジカメのストロボは3 - 5 m程度の距離しか有効な光量を作れない<ref name="デジカメ時代の写真術">森枝卓士著、『デジカメ時代の写真術』、NHK出版、2003年7月10日第1刷発行、ISBN 4140880740</ref>。またコンパクトカメラでも上級機や、一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラのほとんどの機種では筐体上部などにアクセサリーシューが付いており、オプションで外部ストロボが取り付けられる。 === 電源 === 携帯電子機器であるデジタルカメラの電源はほとんどが、内蔵される[[二次電池|充電式バッテリー]]による。デジタルカメラはほとんどすべての機能が電子回路によって実現されているため、フィルムカメラよりも[[消費電力]]が大きい。比較的多くの枚数を記録できることもあって、大容量で大きく重いバッテリーを内蔵していることが一般的である。ほかの方式より軽量で容量の大きい専用のリチウムイオン電池を採用する機種が多い。シャッターを切ったりフラッシュメモリに書き込んだりフラッシュライトを点灯する時は特に大電流が必要であるため、このパルス放電に対応したバッテリーとしてニッケル水素電池が多くの機種で採用された。ニッケル水素電池を外出先で消費し切った場合は、入手性の高いアルカリ乾電池が使用可能であるものが多い<ref name="体系的に学び直すデジタルカメラのしくみ"/><ref group="注">ニッカド電池とニッケル水素電池には[[メモリー効果]]がある。</ref><ref group="注">1990年代、フィルムカメラに対してデジタルカメラの持つ最大の弱点は、消費電力が大きく電池の電力消耗が激しいことだった。特にバックライトを持つ[[液晶ディスプレイ]]は消費電力が大きく、ディスプレイをオフにすることで電池寿命を伸ばす、といった工夫がメーカーおよびユーザーによってされていた。初期のデジタルカメラは、コンパクトデジカメでも光学ファインダーを備えていた。その後、デジタルカメラ内部の電子回路の低電圧動作による低消費電力化、[[アルカリ電池]]の性能向上、[[リチウム一次電池]]の普及、さらには高電圧を安定供給できる[[リチウムイオン二次電池]]の採用によって、2006年頃には電池寿命はほぼ問題にならなくなった。2010年現在、コスト高であり小型化の制約にもなっていた光学ファインダーは大半のコンパクトカメラで省略されている。デジタルカメラの電池寿命は撮影可能枚数としてカタログなどに表記されるが、メーカー間で条件を統一するため、CIPAによって実使用状況をシミュレートした測定シーケンスが策定されている。</ref>。メーカーはカメラ本体だけでなく、消耗品、周辺機器も含めたトータルで利益が出ればよい。特に電池はメーカー、機種ごとに異なることが多いので、予備の電池が必要な場合、新しいカメラを購入したときは電池も購入する必要がある。予備電池の価格は比較的高めにつけられている場合が多い。そのため、純正品以外にも多くの互換電池が出回っている。代表的なメーカーに、台湾の[[ロワ]]などがある。稀にではあるが純正以外の電池使用により異常発熱や膨張、機器破損の事故も発生しており、カメラメーカーの中には互換電池を使用できないようにカメラ本体側にプロテクトを施しているメーカーもある。 === 筐体 === 不安定な手持ちでの操作や衝撃・塵埃の多い環境で用いられることが多いカメラの本体を構成する筐体(ボディ)には、内部の脆弱な光学部品や電子部品を支え保護するために堅牢性や気密性を維持することが求められ、同時に軽量であることが求められる。筐体は、アルミ合金等の金属製の骨格に、多数の[[エンジニアリングプラスチック]]などの合成樹脂によるフタやグリップ、緩衝材が取り付けられているのが一般的である。 == 動作 == [[ファイル:Digital camera curcuit board.PNG|thumb|right|300px|'''デジタルカメラの内部処理の流れ'''<br />撮影時(白番号)1.シャッターボタンを押す 2.受光素子からのADコンバータへ画像信号が送られる 3.ADコンバータから画像処理プロセッサへ画像データが送られる 4.画像処理プロセッサが画像処理を行うあいだ、溢れたデータや処理済データを内蔵メモリへ送る 5.画像処理が終われば内蔵メモリから処理済データを取り出す 6.画像処理プロセッサからメモリカードへ画像データを記録する<br />撮影前(黄番号)1.シャッターボタンを半押しにするか、撮影モードにする 2.受光素子からのADコンバータへ画像信号が送られる 3.ADコンバータから画像処理プロセッサへ画像データが送られる 4.画像処理プロセッサから液晶ドライバICへ画像データが送られる 5.液晶ドライバICが液晶表示板を駆動して画像を表示する]] 基本的な静止画撮影の動作を以下に順を追って示す。 === 合焦 === 静止画撮像では、カメラが電子的に捉えた画像のコントラスト情報を元に自動的にカメラ側でピントを合わせる[[オートフォーカス]] (AF) 機能を使って撮影することがアマチュアを中心に一般的である。撮影時にシャッターボタンを半押しにするとAF機能が作動するモードが中心である。撮影可能状態にすればオートフォーカスが常に働き、いつでもシャッターが切れるモードも選択できる機種がある。前者では電池の消費が抑えられ、後者ではシャッターチャンスを逃がす可能性が低くなる。ただし、AF機能は動きの早い被写体や陰影差の少ない対象には向かず、AFロックといった撮影者の工夫やマニュアル・フォーカスなどが求められる。高級機ではコントラスト情報以外でもピント合わせが可能であったり、マニュアル・フォーカス機能の操作性なども考慮されているものがある<ref name="体系的に学び直すデジタルカメラのしくみ"/><ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/><ref group="注">連続撮影機能を備える上級機種の多くが合焦状態を維持するように出来ているが、一眼レフでもレフレックスミラーがシャッター動作に合わせて可動する機種の多くがその間はピント合わせのセンサーが機能しないので合焦の追従性が劣る。</ref>。 === 撮像 === 露光時間は機械式や電子式のシャッターで制御するが、上手に露光時間を選ばないと被写体の明暗度合いによっては撮像素子が明部と暗部のいずれかが露光過剰や露光不足によって「白とび」や「黒つぶれ」を起こす。「白とび」「黒つぶれ」を回避するために、銀塩カメラでは受光する枠内に測光素子を多数配置して最も明るいところと最も暗いところを検知する。また、コンパクトデジタルカメラでは電子的な撮像素子そのものが測光素子を兼ねて、露光を自動調整する<ref group="注">デジタルカメラで撮像素子が光センサーとなって細部まで測光する方式は「デジタルESP測光」と呼ばれる。</ref>。ただし撮像素子は読み出しに多少の時間が掛かるので、瞬間的に明るさの変化する撮影対象では正確な露光が期待できない。ほとんどのデジタル一眼レフ機では、撮像素子とは別に測光専用のセンサーで露出を決めるものが多い<ref group="注">デジタル一眼レフ機の測光センサーのために、シャッター遮光幕の前幕を黒ではなく灰色にしておいて、その一瞬の反射光を測光する方法や、レフレックスミラーから少しだけ光を透過させて別の鏡で露光センサーに導いて測光する方法などが採られる。</ref><ref name="体系的に学び直すデジタルカメラのしくみ">神崎洋治、西井美鷹著、『体系的に学び直すデジタルカメラのしくみ』、日経BPソフトプレス、2004年5月24日初版発行、ISBN 4891004185</ref><ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/>。 フィルムカメラの上位機種でも備えるものがあるが、オートブラケティング(Automatic Exposure Bracketing, AEB)撮影によって、露出を変えながら立て続けに2-4枚ほどの撮影を行うこともできる<ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/>。また、オートブラケティングと同様に露出の異なる複数枚の撮影をすばやく行い、内部演算処理によって1枚のダイナミックレンジの広い画像を得る、[[ハイダイナミックレンジ合成|ハイダイナミックレンジ(HDR)処理]]をカメラ単体で行う機種も登場している。 === 画像処理 === 撮像素子から出力されたアナログデータは[[A/D変換]]された後、映像エンジン<ref group="注">「映像エンジン」は、日本国内では[[キヤノン]]株式会社が登録商標を保有している。</ref> や[[画像エンジン]]などと呼ばれる画像処理専用の[[集積回路|IC]]によって、暗電流補正、補間演算、[[色空間]]変換、[[ガンマ補正]]、[[収差]]の補正、[[ノイズリダクション]]、[[画像圧縮]]などの様々な画像処理が行なわれ、外部利用に適した画像形式に変換される。 たとえ同じ撮像素子を使っていても、カメラのメーカーが異なっていれば画質の傾向も違ってくる。画像処理の[[アルゴリズム]]が出力される画質を左右するため、メーカーでは様々な工夫を行っている<ref group="注">2010年現在、コンパクトデジカメのほとんどは1/2.5-1/1.8インチ程度の小さな撮像素子を使っているため、これによる画質の低下を補うために各社とも[[画像エンジン]]の改良に力を入れている。このため、内部処理のチップに名前をつけてブランド化しているメーカーも多い。</ref>。かつてはこの処理に時間が掛かるのがデジタルカメラの問題点の1つであったが、今ではデジタル演算能力の向上によってほぼ解決されている。 === 記録処理 === 映像エンジンで画像処理が施されたり、またはRAWデータのままの静止画情報は、記録媒体に書き込まれて保存される。フラッシュメモリー素子のデータ転送速度は年々高速化しているが、一方で画像データサイズの肥大化もあって、一般に記録動作には時間が掛かる。 ;記録形式 : 撮影された画像情報の記録には、一般的に[[JPEG]]や、JPEGの拡張規格である[[Exchangeable image file format|Exif]]形式が使用されている。また、一眼レフや一部の高級コンパクト機では、Exifに加えて[[RAW画像|RAW]]形式での記録も可能である。 ;Exif :Exifフォーマットは、JPEGファイルに[[カメラ映像機器工業会]] (CIPA) によって規定された「ヘッダー」を追加したものである<ref group="注">"Exif"が1枚1枚の写真の記録形式を定めたものであるのにたいして、このExifを束ねて扱えるようにディレクトリ構造を定めた業界標準規格が"DCF"である。</ref>。このヘッダーには、撮影時の機種、レンズ名、焦点距離、絞り、シャッタースピード、ISO感度、露出モード、撮影日時といった[[メタデータ]]が含まれている。ほとんどのデジタルカメラおよびカメラ付き携帯電話はExifを使用しており、家庭用プリンターもExifデータを認識してそのまま印刷できるものが多い。Exifは[[RGB]]各色8 bitの階調しか持たないうえに[[非可逆圧縮]]を行うため、元の画像情報の一部は失われる。また、一度失われた情報を再現するのは不可能である。ほとんどのデジタルカメラでは、JPEGの圧縮率を選択できる。圧縮率を下げれば画質は向上するが、一方でファイルサイズが大きくなり、メディアに記録できる枚数は少なくなるトレードオフ関係がある。 ;RAW :RAWフォーマットは、撮像素子からのデジタルデータを最小限の処理だけで記録する。階調の削減や圧縮による画質の劣化がないため、プロやハイアマチュアのカメラマンに好んで用いられる。RAWは一般にファイルサイズが非常に大きくなるため、連写速度が落ちたり、しばらく操作を受付なくなることもある。RAWフォーマットはメーカーや、場合によっては機種ごとに異なっており、互換性はほとんどない。また、そのままではパソコン上で表示することができず、メーカーなどが提供する専用の読み込み・再生用のパソコン用ソフトウェアを使って表示したり、読み込み後にExifやJPEGなどの汎用形式に変換してから表示する必要がある。この変換処理を「[[現像]]」といい<ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/>、それに用いられるソフトウェアを「現像ソフト」と呼ぶ。 上記の他にも、TIFF、DPOFなどがある。 == 付加機能 == デジタルカメラが登場した当初は、性能は銀塩カメラより劣った。主に電子技術の急速な発達によって解像度や感度が銀塩カメラに追いつくほど技術開発が進み、銀塩カメラを広範囲に置き換えた。そして、単に静止画を撮影する基本機能の充実だけでなく、デジタル式にしかできない付加的な機能を付け加える方向へ技術開発がされている<ref group="注">水中カメラとして用いるための専用カメラケースを用意するほかにも、生活[[防水]]程度から完全防水までの耐水性を備えるカメラも増えている。</ref>。 === デジタル式ズーム === デジタル画像処理によりズームを行う方式。ズームレンズを用いた[[写真レンズ#ズームレンズ|光学式ズーム]]と同時使用可能である。 ====デジタルズーム==== イメージセンサーの中央部の画素のみを撮影に使用し、拡大することで画像を作成するズーム方式。ズーム倍率に応じて使用可能な最高画素数は減少する。例えば、1200万画素機で2倍ズームにすると、その場合の画素数は縦横共に半分になるのでイメージセンサーの中央部の300万画素を使用する。画像を記録する際の記録フォーマットが4096×3072(1200万画素分)であれば、不足する900万画素分の情報が300万画素からの補間処理によって生成される。 2倍程度までのズームについては各社で特別な補間処理を行い、単なるデジタルズームと差別化している場合がある<ref name="光学ズームと全画素超解像ズーム、デジタルズームの違いを知りたい">{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/support/ichigan/enjoy/dialogue/various-zoom-features/ |title=光学ズームと全画素超解像ズーム、デジタルズームの違いを知りたい |publisher=[[sony]] |accessdate=2018-6-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://panasonic.jp/dc/functions/common_function.html#11a/ |title=ルミックス 機能解説 iAズーム |publisher=[[panasonic]] |accessdate=2018-6-17}}</ref>。<br> 画質の劣化を抑えるため、記録する画素数に合わせてデジタルズームの最大倍率を変え、等倍以上の拡大を避ける設定が可能な機種もある。 ====[[トリミング]]式ズーム==== 保存する画像の画素数でイメージセンサーの中央部をトリミングするズーム方式。イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合に使用できる。デジタルズームと異なり拡大処理を行わないため拡大に起因する画像の劣化がない。<br> イメージセンサーの画素数よりも少ない画素数で保存する場合、光学ズームが可能な範囲では画像を保存する際に縮小処理が行われる。光学ズームの限界を超えるとイメージセンサーの全面を使用することをやめ、中央部をトリミングして縮小率を下げた画像を保存する。この光学ズームの限界から縮小処理が不要になるまでのズームがトリミング式ズームである<ref name="光学ズームと全画素超解像ズーム、デジタルズームの違いを知りたい"/>。トリミング式ズームの限界の後はデジタルズームを使用できる。<br> スマートズーム、EX光学ズーム、ファインズーム、セーフティズーム等各社が同様の機能をそれぞれ名前をつけており、共通の呼称は定まっていない。 === 手ぶれ補正 === カメラの撮影での手ぶれを、光学的や物理的に検知してそれを打ち消すようにレンズ系の光軸や受光面を動かす「[[手ぶれ補正機能]]」を備える機種が多い<ref group="注">デジタル一眼レフカメラで「手ぶれ補正機能」を備える機種では、ソニーやペンタックスのようにカメラ本体に内蔵するものと、キヤノンやニコンのように交換レンズ側に持つものとに分かれる。</ref>。 {{main|手ぶれ補正機構}} === 動画撮影 === コンパクトデジタルカメラの多くが動画の撮影機能を備えており、一眼タイプにおいても一般的になりつつある。連続撮影時間は、記録解像度と記録方式、記録メディアとバッテリーの容量、製品用途の位置付けなどにより10分から1時間程度に制限される。デジタルカメラの撮像素子の画素数は一般的な動画を撮影するデジタル[[カムコーダ]]のそれよりも多いため、動画の撮影時には画素情報を間引いて情報量を少なくする<ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/>。 動画フォーマットについては機種ごとにさまざまである。以前は[[AVI]] ([[Motion JPEG]]) や[[QuickTime]]による動画録画と[[WAV|WAVE]](モノラル)による音声録音が主流だった。[[H.264|MPEG-4 AVC/H.264]]と[[ドルビーデジタル|ドルビーデジタル AC-3]](ステレオ)、MPEG-2 TSを用いた[[AVCHD]]によるハイビジョン動画およびステレオ録音が可能な機種も増えており、デジタルカムコーダ(いわゆるデジタルビデオカメラ)との境界線があいまいになってきていたが、[[欧州連合|EU]]がヨーロッパにデジタルカムコーダーメーカーが無い事を理由にHD解像度以上で30分以上録画できるデジタルカメラをデジタルカムコーダーとして分類し<ref>[http://www.jmcti.org/cgibin/list_ind.cgi?Kind=Country&code=500&category=9 EUにおける貿易・投資上の問題点と要望]</ref>、デジタルカムコーダーと同等の30 %の関税を設定した。その為、デジタルカメラはデジタルカムコーダーとは異なり、30分以上連続で録画できなくしてある。 === 衛星測位 === カメラ本体内に[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]受信機を内蔵し、撮影地点の位置情報を画像データと共に記録することで撮影後に位置を確認できる機種が販売されている。地図データを内蔵するものでは、撮影地を地図で確認したり、現在地や移動経路を表示してナビゲーションに利用することも可能である。 === 顔認識 === *2005年2月16日、ニコンが世界で初めて顔認識自動焦点合わせ機能を搭載したデジタルカメラ「COOLPIX 7900」「COOLPIX 7600」「COOLPIX 5900」を発表した<ref>[http://www.nikon.co.jp/news/2005/facepriority_05.htm Nikon | ニュース | 報道資料: 生体認証技術を用いた、世界初の「顔認識AF」機能をコンパクトデジタルカメラに搭載] 株式会社ニコン(社長:嶋村 輝郎)は、Identix 社(本社:米国ミネソタ州)が開発した生体認証技術を用いた顔認識技術「FaceIt」を採用し、コンパクトデジタルカメラにおいて撮影画面内の人物の顔を検知してピントを合わせる世界初の「顔認識AF(オートフォーカス)」機能を開発。</ref>。発売日は「COOLPIX 7900」と「COOLPIX 5900」が2005年3月18日、「COOLPIX 7600」が2005年4月8日。 *これ以降他社のデジタルカメラにも同様の機能が搭載され、2007年10月には8割の機種に搭載された<ref>[https://www.bcnretail.com/news/detail/071106_8898.html コンデジすでに8割で「顔認識」、各社とも機能横並びで大混戦時代に突入] ニコンが「COOLPIX 5900」を発売してから、わずか約2年8か月で、市場で販売されているコンパクトデジカメの約8割が顔認識機能つきになった。</ref>。 *2007年9月4日、ソニーが笑顔認識機能を登載したデジタルカメラ「サイバーショット DSC-T200」「サイバーショット DSC-T70」を発表する<ref>[http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200709/07-0904/ 笑顔を検出し、自動で撮影する、「スマイルシャッター」新搭載 “サイバーショット”Tシリーズ2機種発売]</ref>。発売日は2007年9月21日。 *2010年2月3日、リコーが猫の顔認識機能を登載したデジタルカメラ「CX3」を発表する<ref>[http://www.ricoh.co.jp/release/2010/0203_1.html デジタルカメラ「CX3」を新発売 / ニュースリリース | リコー] また、猫の顔を検出し、優先的にピントを合わせます。</ref>。発売日は2010年2月19日。本製品以降、ペットの顔認識機能を登載したデジタルカメラの発売が続く<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/special/360954.html 春モデル3機種の「ペット検出機能」を試す - デジカメWatch]</ref>。 *2010年2月2日、富士フイルムが世界で初めて犬と猫の顔認識に対応したデジタルカメラ「FinePix Z700EXR」を発表する<ref>[http://www.fujifilm.co.jp/corporate/news/articleffnr_0351.html 世界初の新機能が満載!画面を2つに分けて表示・操作できる「2画面サクサク再生」で、画像検索がさらにカンタン!犬と猫の顔を自動で見つける「ペット自動検出」機能で、ペット撮影にも最適!高機能スリムデジタルカメラ 「FinePix Z700EXR」 新発売 : ニュースリリース | 富士フイルム] さらに、「FinePix Z700EXR」は、犬と猫の顔を自動で素早く検出し、ピントを最適化する世界初の「ペット自動検出」機能を搭載。</ref>。発売日は2010年2月20日。 === 無線接続 === カメラ本体内に[[無線LAN]]通信部を内蔵し、撮影した画像データ等を[[パーソナルコンピュータ]]や[[スマートフォン]]に転送したり、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]と連携することで直接アップロードする機能を有するものもある。転送には[[Wi-Fi]],[[Bluetooth]],[[近距離無線通信|NFC]]等が用いられる他、SDカードスロットを利用して通信機能を追加することで[[TransferJet]]で転送を行う場合もある。 また、[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)]]の液晶画面を用いたリモート操作に対応する機種もある。 == その他 == === 記録メディアとデータの破損 === 記録メディア内のデータをパソコンへ読み込ませた際、画像ファイルが壊れていたり、記録自体されていなかったりするトラブルが発生する。このような事態を防ぐためには、『データ記録中にカードを抜く』『データ記録中に電池を抜く』といった誤操作をしないこと、『データ記録中のデジタルカメラ本体への衝撃』を避ける、『メモリカードスロット用クリーナーカード等を用いて定期的に手入れをする』などが必要である。 また、誤操作で画像データを削除してしまった場合でも、データ復旧用アプリケーションを用いるか、専門業者のデータ復旧サービスを利用することで一部または全てのデータを取り戻せることがある。その際、復旧作業が終わるまではその記録メディアに一切の書き込みをしないことが重要である。書き込みをしてしまうと復旧の可能性が低下する。 === 他のデバイスとの連携 === パソコンへの画像データの転送については、記録したメモリーカードによる方法の他、多くの機種では[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続による方法もサポートしている。この場合、付属ソフトウェアや[[Microsoft Windows|Windows]]などのOSの機能を用いてデジタルカメラから画像データを転送するもの([[PTP]]など)と、カメラを外部記憶装置(マスストレージ)のように見せて自由に画像ファイルの出し入れが可能なものがある。USB普及以前は、[[シリアルポート]]や[[Small Computer System Interface|SCSI]]を使用するものもあった。またUSBがまだ十分な転送速度でない頃は、プロ向けの機種の中には[[IEEE1394|IEEE 1394]]を採用するものもあった。さらに近年は[[無線LAN]]を使用するものもあるが、メーカーによりまちまちの実装である。 2003年からは、デジタルカメラ本体と対応プリンターをUSBケーブルで直接接続して印刷できる「[[PictBridge]]」などの規格も制定された。 === 画素数 === デジタルカメラに内蔵されている撮像素子は、有効画素数と総画素数の違いに留意する必要がある。総画素数は撮像素子が本来持っている画素の総数であるが、デジタルカメラに内蔵する場合にレンズや絞りといった光学系の制約によって撮像素子の受光部全体に入射光を厳密・均等に当てることは難しい。カメラに装着された状態で光が当たる画素の総数が有効画素数と呼ばれて、総画素数より数%程小さい<ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/>。1990年代後半から2000年代にかけて、画素の数は販売戦略上の大きなアピールポイントであった。一般論としては、画素数の大きな方が、より詳細まで表現でき高画質であるが、画素数を大きくすればその分一画素あたりの受光面積は減り、ノイズが増えることにも留意する必要がある。画素数を増やすとともに、いかにノイズを控えるかが素子開発の大きなポイントであった。2010年代に入り、画素数増加とともに一画素のサイズがレンズの光学的解像度の限界に近づき、画素数競争も一段落しつつある。 === 撮像素子の大きさ === CCDやCMOSの撮像素子の大きさは、テレビ画面を表すのと同様に「型」が使われることが多いが、撮像素子の受光面の対角線の長さの[[インチ]]単位の大きさよりも大きな値になる。これは昔の真空管式の撮像管の時代に、撮像面の大きさではなく管の直径を表示していた名残りである<ref name ="図解雑学 デジタルカメラ"/>。また、面積だけでなく縦横比も撮像素子によって異なり、同一メーカーであっても機種によって違いがある。 === シャープネス === コンパクトデジタルカメラの多くが、内部での画像処理で輪郭強調処理を行い、実体よりもシャープに見せている。こういったカメラの使用者の多くが、「シャープネス」の効いた出力のほうがピントの合った画像だと歓迎するためである。プロが使用する上級機では出力画像はシャープネスを効かせず、もしもそういった加工が必要ならば、カメラ上ではなくパソコンなどの画像処理ソフトによって精密に調整する。画像は輪郭強調やソフトフィルターを掛けるたびに劣化するので、手間を惜しまないならばカメラの外で処理するのが良い<ref name="カメラの常識のウソ・マコト"/>。 == メーカー == 2018年の日本国内でのシェアは、1位キヤノン、2位ニコン、3位ソニーの3社によって約90 %を占め、富士フイルム、パナソニック、オリンパス、リコーなど「その他」の企業が残りの10 %の中にひしめいている。世界のデジカメ市場(金額ではなく台数ベース)では、1位キヤノン、2位ソニー、3位ニコンの3社によって約85 %を占めるが、そこに4位の富士フイルムと5位のパナソニック(それぞれ数%)を加えるとシェアが9割を超え、つまり世界デジカメ市場の9割を日本企業が占有している<ref>[https://digicame-info.com/2021/08/2020-15.html 2020年のデジタルカメラの世界シェアはキヤノンが45.4 %でトップ]</ref>。2020年現在の市場規模は世界全体で約4201億円であるが、毎年数十パーセントの規模で縮退しており、先行きが不透明である。 デジタルカメラの販売は、2007年に初めて1億台を突破し2010年の1.2億台がピークであり、2010年代には特にスマートフォンの普及によりコンパクトデジタルカメラの販売が激減している。レンズ交換式デジタルカメラの販売台数は2013年をピークとして徐々に減っているが、コンデジほどの大きな変動は見られていない。2020年にはコロナウイルスによるパンデミックもあり、販売台数が前年比で40 %以上縮小した結果、ピーク時の14分の1まで市場が縮退した。 デジカメはフィルムカメラに較べると電子機器的な要素を多く含むため、2000年代には旧来のカメラメーカーに加えて、[[ソニー]]、[[パナソニック]](経営統合前の[[三洋電機]]を含む)、[[カシオ計算機]]などの[[家電メーカー|家電・電子機器メーカー]]も参加して激しいシェア争いを繰り広げていた。2002年頃まではオリンパスや富士フイルムがシェア1位を争っていた時代もあったが、キヤノンが2003年にデジカメ市場のシェア1位(コンデジ・一眼レフ共に)となり、ニコンが一眼レフ市場2位となった後、結局はフイルムカメラ最大手であったキヤノンとニコンがデジカメでも最大手であり続け、競合とのシェアを引き離し続ける状況が続いていた。 競争の激化に伴い、[[2005年]]に[[京セラ]]が日本国内のデジタルカメラ事業から撤退。[[2006年]]には[[コニカミノルタ]]がカメラ事業全般から撤退し、一眼レフカメラ部門をソニーに譲渡した。また、[[コダック|イーストマン・コダック]]も消費者向けデジタルカメラの生産から撤退し、デジタルカメラ製造部門を[[フレックス (企業)|フレクストロニクス・インターナショナル]]に売却している(開発・設計・販売は継続)。2009年にパナソニックに吸収された三洋電機のカメラ部門は[[Xacti]]に継承された。 デジタル一眼レフカメラは、[[コニカミノルタ]]の一眼レフカメラ部門を引き継いだソニーや、オリンパスと協業し[[フォーサーズシステム]]へ参入したパナソニック、ペンタックスとの提携で[[サムスン電子]]なども参入した。2008年にパナソニックが先陣を切ってミラーレス一眼カメラを発売し、2013年にソニーがフルサイズのミラーレス一眼を開発し、以降の一眼レフ市場を方向付けた。技術的な困難さと、交換レンズを始めとするオプション類も販売する必要があるため、技術の蓄積がある光学機器メーカー(具体的にはキヤノンとニコン)か、それらの事業を引き継いだメーカー(具体的にはソニー)が残り、新規参入した家電メーカーなどは、ミラーレス一眼へと移行するか、コンパクトカメラのみに規模を縮小した。 旧来のカメラメーカーはレンズの設計に一日の長があるが、電機メーカーは[[イメージセンサ]]の製造に長けている。家電メーカーの場合、光学系の設計ノウハウが乏しく設備の新設にもコストがかかるため、他のレンズメーカーから光学系部品の供給を受ける場合がある<ref group="注">実例ではキヤノンやペンタックスのレンズを組み込んだカシオ製品などの例がある</ref>。さらに、光学機器メーカーに比べて劣る知名度を補うため、「[[ライカ]]」や「[[カール・ツァイス]]」といった有名[[ブランド]]を冠したレンズを採用することもある<ref group="注">パナソニック、ソニーなど</ref>。メーカーによっては[[OEM]]としてレンズの供給を受けるのではなく、同ブランド名を冠するレンズを自社内やレンズメーカーでライセンス生産している場合もある。 逆に光学機器メーカーが、撮像素子や[[画像エンジン]]などの電子系統を、競合の家電メーカーにOEM委託をしていることも多い。EMSの委託先としては台湾のメーカーなどがある。特に撮像素子は、ソニー、[[:en:OmniVision Technologies|OmniVision]]、サムスンで世界市場の7割以上を占めている。したがって、上に書いたメーカー別販売シェアと、実際の製造メーカー(OEM製造も含む)におけるシェアとは大きく異なる。2012年当時の他社向けOEMを含めた生産台数別のシェアを見た場合、全てのデジカメを自社製造で賄うデジカメ市場1位のキヤノンが生産台数でも1位であったが、カメラ生産台数2位が佳能企業、3位が華晶科技と、実際の生産台数では日本メーカーではなく中国や台湾のメーカーが上位を占めた<ref>[https://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/economic/publication/journal/pdf/42/42-1-6.pdf デジタルカメラ市場の確立過程とその展開―その機構の連続性と非連続性を中心に―]</ref>。2012年当時デジカメ市場2位のニコンは、一眼レフに関してはすべて自社生産だが、コンデジには力を入れておらず、コンデジに関しては全て他社製造品のOEMであった。また、上記のメーカー以外にも[[セイコーエプソン]]([[R-D1]]など)や、[[ライカ]]などが[[レンジファインダー]]式デジタルカメラの製造を行っている。2017年の時点では、本体・レンズ・撮像素子の三要素を自社製でまかなえるのは、キヤノン、ソニー、[[シグマ (カメラ)|シグマ]]([[Foveon]]を子会社化)の3社となっている。特に撮像素子は、ソニー系列の[[ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング]]が、ニコン・ペンタックス・オリンパス・富士フイルム・ライカなどにも画像センサーを製造・供給している一大センサーメーカーとなっている。 2010年以降は、[[ミラーレス一眼カメラ]]で成功したソニーがキヤノンとニコン以外の「その他」のメーカーの中から頭一つ抜けて、デジカメ市場3位となった。また、コンパクトデジタルカメラの市場はカメラ搭載のスマートフォンによる浸食が進んでおり、デジカメ市場上位3社のキヤノン・ニコン・ソニー以外のメーカーにおいては撤退が相次いでいる<ref>{{Cite news|author=黄恂恂、安真理子|date=2013-09-19|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MSN35V6S972J01.html|title=スマホに追い詰められたデジカメメーカー-業界再編の可能性も|publisher=[[ブルームバーグ (企業)]]|newspaper=Bloomberg|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://archive.is/20170413135258/https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2013-09-19/MSN35V6S972J01|archivedate=2017年4月13日|deadurldate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite news|date=2017年4月12日|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ11HJT_R10C17A4TI1000/|title=デジカメ市場、ピークの5分の1 決断迫られるカメラ各社|publisher=[[日本経済新聞社]]|newspaper=[[日本経済新聞]]|agency=電子版|accessdate=2017年4月13日|archiveurl=https://archive.is/20170412031958/http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ11HJT_R10C17A4TI1000/|archivedate=2017年4月12日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。こうした状況を踏まえ、2013年当時の[[経済産業省]]は日本企業の競争力強化に向けた取り組みを進めようとしていたが<ref>{{Cite web|和書|work=monoxデジカメ比較レビュー |date=2013年6月22日 |url=http://www.monox.jp/digitalcamera-interview-meti-20130610.html |title=デジカメ発展に向けた国の取り組み (経済産業省インタビュー) |publisher=デジカメ比較研究会 |accessdate=2017年4月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130719203124/http://www.monox.jp/digitalcamera-interview-meti-20130610.html |archivedate=2013年7月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、その後もデジカメ市場はスマホに侵食される一方であり、各社で生産体制の縮小や撤退が続いた。2015年には、サムスンが最後となるモデルを発表した後に撤退<ref>{{Cite web|和書|date= 2016年12月26日|url=http://www.recordchina.co.jp/b158588-s0-c20.html|title= サムスンが撤退した韓国カメラ・プリンター市場、日本ブランドがそっくり攻略|publisher= レコードチャイナ|accessdate=2018-05-07}}</ref> したほか、2017年には、ニコンが中国[[江蘇省]][[無錫市]]の工場で行ってきたコンパクトカメラの生産を終了し、[[タイ王国|タイ]]の工場へ生産拠点を集約<ref>{{Cite web|和書|date= 2017.10.30|url=http://www.sankei.com/economy/news/171030/ecn1710300009-n1.html|title= ニコン、中国のデジタルカメラ工場を閉鎖 スマホ普及で|publisher= 産経新聞社|accessdate=2018-05-07}}</ref>、2021年には国内生産も終了した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP425WVBP42ULFA01L.html ニコン一眼レフ、国内生産終了へ 「こだわり苦境招く」]</ref>。2018年、オリンパスも[[深圳]]の工場で行ってきたデジタルカメラや交換レンズの製造を終了し、[[ベトナム]]の工場へ生産拠点を集約している<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-07|url=https://www.sankei.com/economy/news/180507/ecn1805070014-n1.html|title= オリンパス、中国操業停止 贈賄疑惑のデジカメ工場|publisher= 産経新聞社|accessdate=2018-05-07}}</ref>。同年には、カシオのコンパクトデジタルカメラ事業からの撤退も発表されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-09|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1120857.html|title=カシオ、コンパクトデジタルカメラから撤退。市場縮小のため |publisher= impress|accessdate=2018-05-09}}</ref>。2021年には、オリンパスはデジカメなどの映像事業を分社化・譲渡し、[[OMデジタルソリューションズ]]がオリンパスのデジカメブランドを引き継いでいる。2020年には初めてミラーレス機が一眼レフの売り上げを上回った<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ303W20Q1A130C2000000/ デジカメ、20年世界出荷42 %減 一眼をミラーレスが抜く]</ref>。 こうした状況を経て、2020年にはキヤノンとソニーが入門機からハイエンドまでを押さえた二強の地位を獲得し、スマホに市場を奪われてコンデジでは採算が取れなくなった他メーカーはハイエンド機に専念する業界構造となりつつある。 == 販売動向 == === トイデジカメ === {{main|トイデジカメ}} 機能や画質を割り切ることで低価格な「[[トイデジカメ]]」と呼ばれる分野が存在する。[[玩具]]の流通ルートで売られていることが多い。 近年(2016年現在)では[[携帯電話]]に搭載されたカメラの性能向上によりジャンルそのものが衰退しつつある。携帯電話のアプリでは[[トイカメラ]]特有の歪み・ぼけ・色調等の独特の光学効果を再現している<ref>[http://octoba.net/archives/20111223-android-2578.html Toy Camera Collection : 色々なトイカメラ効果が楽しめるカメラアプリ!Androidアプリ2578]</ref><ref>[http://octoba.net/archives/tag/トイカメラ トイカメラ]</ref>。 同ジャンルの初期に流通したトイデジカメの例として[[タカラトミー|タカラ]]の[[STICK SHOT]]や[[ニチメン]]のChe-ez!などがあり、デジタルカメラが高価だった頃、小型軽量で1万円以下で買える手軽さが受けて[[ガジェット (電子機器)|ガジェット]]好きのユーザーに広まった。 初期の大半の製品が10万画素から35万画素ほどのCMOSを搭載し、増設できない1メガバイト程度の記録メモリーを搭載する。パソコンと通信することはできても、カメラだけで直接記録した画像を確認できるようなデバイスは存在しない。画質はおしなべて低く、色の再現性が悪い。一方、これらの中には[[Webカメラ]]として使用できるものもあり、そのためにトイデジカメを購入するパソコンユーザーもいた。 現在では日本の一流メーカーのデジカメが実売で8000円を切るまでに低価格化しているうえ、トイデジカメの高機能化が進み、それらを区別する意味もなくなってきている。このような状況から、現在では「トイデジカメ」という概念が「安い」から「アクセサリーとして楽しむ」などの方向に変わっている。例としてボールペンや腕時計にカモフラージュした製品、フィルム時代の高級カメラをミニチュア化した製品などが一定の人気を保っている。また、単に低画質な製品を「トイ」扱いしている場合もある。 2010年春現在で販売が継続しているトイデジカメは、その定義を「小型軽量低価格で、手軽ではあるが低性能」とする場合、当てはまるのはVista Questシリーズと、同シリーズのうち1005ベースとなる「NICO DIGI」(ニコデジ)程度である。 機能や価格帯は考えず遊びの要素が強い製品として、プラスティックむき出しの質感やクセのある撮影画像など、同ジャンルの基本を意識し、楽しく撮ることを目標とした「DIGITAL HARINEZUMI」(デジタルハリネズミ)シリーズ、簡易防水機能付きとしては安価な部類で、わざと撮影画像のカラーバランスを崩した撮影ができる「GIZMON Rainbowfish」(ギズモン レインボーフィッシュ)、[[ローライ]]の本格的二眼レフカメラ、ローライレフレックスの外観を忠実に模して小型化した「ローライレフレックスミニデジ」(''Rolleiflex MiniDigi'' )シリーズなどがある。 === 一般的デジタルカメラ === 2012年のデジタルカメラの世界シェアは以下の通りであり、出荷台数の1位から3位までを日本メーカーが占める(数字はパーセント)<ref group="注">東京農工大学科学博物館監修『ビジュアル・日本の製品シェア図鑑』(2014)pp.6-7</ref>。 {| |- | valign="bottom" | <div style="width:50px; height:226px; background-color:#ff0000"></div> | valign="bottom" | <div style="width:50px; height:209px; background-color:#0080ff"></div> | valign="bottom" | <div style="width:50px; height:148px; background-color:#ffff00"></div> | valign="bottom" | <div style="width:50px; height:94px; background-color:#ff80c0"></div> | valign="bottom" | <div style="width:50px; height:81px; background-color:#00ff40"></div> | valign="bottom" | <div style="background-color:#8080c0; height:242px; width:50px"></div> |- style="text-align:center" | 22.6 || 20.9 || 14.8 || 9.4 || 8.1 || 24.2 || |- style="text-align:center" | キヤノン<br />(日本) || ニコン<br />(日本) || ソニー<br />(日本) || サムスン<br />(韓国) || 富士フイルム<br />(日本) || その他 || |} 日本国内におけるデジタルカメラ1台あたりの平均販売価格はコンデジが約2万200円、一眼タイプが約8万5,400円である(2009年12月度、BCN調べ)。 売れ筋のキーワードは2003年頃までは画素数など、2004年には動画撮影性能や多彩なシーンモードなど、2005年には大型液晶・高感度・手ブレ補正などであった。2006年は一眼レフに「ライブビュー」が搭載されるようになり、急激な低価格化と相まって一眼レフの一般への浸透が進んだ。2007年には顔認識が登場し、人の顔が綺麗に撮れる、笑顔になるとシャッターが切れる機能などが流行した。2008年は暗所撮影や防水機能など「場所を問わず綺麗に撮れる」性能や、より広い角度を写せる「広角ズーム」が売りとなった。 2009年は明暗差の激しいシーンでも白飛びや黒つぶれが発生しにくい「ダイナミックレンジ拡張機能」、そして一度ロックした被写体にピントや露出を合わせ続ける「自動追尾機能」などが登場した。また、リコーGRデジタルIIIやキヤノンパワーショットG11など、あえて操作を自動化せず画質と高級感を優先させた高級コンパクトカメラが独自の地位を築いた。家庭にハイビジョンテレビが普及したこともあり、ハイビジョン画質の動画機能が装備されたカメラが普及し始めた。また、2008年末に[[フォーサーズ]]陣営から登場したミラーレス一眼が2009年5月以降売り上げを伸ばしている。2010年には[[APS-Cサイズ]]のミラーレス一眼が登場、2013年に35ミリフルサイズのミラーレス一眼が登場して以降は、一眼レフから乗換のユーザーでミラーレス一眼が販売シェアを拡大、2020年に販売台数が一眼レフを逆転して以降は、ミラーレス一眼カメラがレンズ交換式デジタルカメラの主流となっている。 過去のデジタルカメラ市場はほとんど日本企業のブランドで占められており、日本国外勢は[[コダック]]や一部のスタジオ用中判機種に限られていた。最近2003年 - 2004年にはおよそ80 %であったが、日本メーカーが積極的に行っている生産設備の中国への移管による技術移転や韓国メーカーの高級機参入に加え、アメリカやドイツの歴史あるブランド名を復活させた製品も出始めた。 メーカーからは高性能のデジタルカメラが発売される一方で、古いデジタルカメラはユーザー間で「オールドデジカメ」「オールドコンデジ」として好まれて取引されておりイギリス[[英国放送協会|BBC]]でもその傾向が報じられている<ref>{{Cite news |title=Digital cameras back in fashion after online revival |url=https://www.bbc.com/news/technology-64512059 |work=BBC News |date=2023-02-06 |access-date=2023-10-14 |language=en-GB}}</ref>。 == 出力/印刷 == === 店舗での出力 === [[2000年]]頃から大手カメラ店の[[DPE]]コーナーなどでデジタルデータから印画紙に焼き付けるサービスが行われている。これは、デジタル処理のミニラボシステムを利用したもので、[[イメージスキャナ|フィルムスキャナ]]による入力の代わりにデジタルカメラなどで得られたデジタルデータ([[JPEG]]など)を印画紙に焼き付けるものであり、従来の写真と同程度の画質や耐久性が期待できる。 また、店頭に[[キオスク端末]]型のプリント機を設置し、画面の案内に従ってセルフサービスで出力できるサービスも行われている。このタイプは昇華型[[熱転写プリンター]]を使用しており、画質面で若干見劣りする。 そのほか、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]や[[鉄道駅|駅]]などで、デジタルコピー機の機能を利用したセルフサービスで写真印刷を行なう機械も設置されている。単に印画紙への出力だけではなく、シール印刷機能のような付加価値を持たせている物もある。しかし、これらも昇華型やインクジェット方式で印刷するため、印画紙での出力に比べて画質や耐久性に劣り、長期間の保管には向かない。 また、[[CD-R]]を持っていないユーザーのために、画像データをCD-Rに焼くサービスもある。 === インターネット上の印刷サービス === 出力したい画像ファイルを[[インターネット]]上の指定サイトにアップロードし、でき上がったプリントを店頭や郵送で受け取るサービスがある。一般に印画紙に出力されるので、ミニラボ機を使ったものと同等の品質が期待できる。また、写真集のような形に簡易製本して渡すサービスもある。 === 家庭での印刷 === 個人で撮影した画像を自宅のプリンターで印刷することが一般的になった。[[2003年]]頃からは、'''PictBridge'''(カメラ機器工業会)、'''USB DIRECT-PRINT'''(セイコーエプソン)、'''DIRECT PRINT'''(キヤノン)、'''BUBBLE JET DIRECT''' (キヤノン)などの名称で、デジタルカメラとプリンターを直接接続する通信規格が登場した。これらに対応したカメラとプリンターを直接接続することで、パソコンを介さずに印刷することが可能である。 デジタルカメラで撮影した写真の印刷を行うデジカメ専用のプリンターも登場している<ref group="注">デジカメ専用のプリンターでは、メモリーカードを差し込むと液晶画面に撮影した画像が表示され、印刷したい画像を選んで印刷ボタンを押すことでL版程度の写真が出力されるものである。さらに、富士フイルムの「[[Pivi]]」やポラロイド「PoGo」など、外出先でもプリントできる電池駆動式の超小型プリンターもある。</ref>。 === テレビでの鑑賞 === [[ハイビジョン]]テレビとの接続用としてカメラ本体に[[HDMI]]端子が装備されたり、テレビやレコーダー側に[[SDメモリーカード|SDカード]]スロットを備えた製品も増え、リビングの大型テレビで鑑賞することができる。 === 写真の公開・共有 === カメラ本体の機能ではないが、無料で利用できるオンラインアルバム([[Flickr]]、[[Google フォト]]など)や[[動画共有サービス]]([[YouTube]]など)が増えており、それらを通じて仲間と写真を共有したり、不特定多数に向けて写真を公開することが一般的になりつつある。[[無線LAN]]を内蔵することでそれらのサイトに直接データを送信できるデジカメも登場している。 ==年表== * [[1975年]] ** [[イーストマン・コダック]]の開発担当者Steve Sassonが世界初のデジタルカメラを発明する。 * [[1988年]] ** 富士写真フイルム(現:[[富士フイルム]])、世界初の市販デジタルカメラ「FUJIX(フジックス) [[DS-1P]]」を発表。重量400 g、PC用2 MB-[[Static Random Access Memory|SRAM]]カードに最大10枚記録(記録保持用にボタン電池が必要) * [[1990年]] **3月 - [[ニコン]]、精細静止画カラーカメラHQ-1500CI/1500CFを発売。報道用機材の延長にある製品で、電子スチルカメラの仲間 **10月 - Dycam、一般市場に出たデジタルカメラとしては世界初となる「Dycam Model 1」を発売。同機はLogitech社から「Fotoman」の名でも発売される。定価995ドル。モノクロ9万画素で32枚記録 *[[1992年]] **4月 - [[キヤノン]]、同社最後のSV規格電子スチルカメラの高級機「RC-570」を発売。以後デジタルカメラ開発に力を注ぐ * [[1993年]] ** 富士写真フイルム(当時)、最大16 MB[[フラッシュメモリ]](記録保持に電源を必要としないメモリ)が使えるデジタルカメラ、「FUJIX [[DS-200F]]」を発売。39万画素で、定価本体22万円、別売充電池キット2万円。16 MBフラッシュメモリ定価6万5,000円。 * [[1994年]] ** 2月 - [[Apple]]、同社コンピューターブランド「[[Macintosh]]」シリーズの周辺機器として「[[Apple QuickTake|QuickTake 100]]」を発売。内蔵1 MBのフラッシュメモリに記録する方式、35万画素。 * [[1995年]] ** 3月 - [[カシオ計算機]]、「[[QV-10]]」を発売。本体定価6万5,000円。25万画素 ** 6月 - [[リコー]]、「DC-1」を首都圏で先行発売(翌7月に全国発売)。41万画素CCD採用、PCMCIA type 1規格のフラッシュメモリカードに記録。後に[[Motion JPEG]]と呼ばれる連続JPEG画像記録方式を採用し、再生アダプタ経由で[[NTSC]]画像をテレビに写せた。 ** 7月 - キヤノン、同社プロフェッショナル向けフィルム一眼レフカメラ「EOS-1N」をベースとした[[キヤノンEFマウント]]レンズが使える初の一眼レフデジタルカメラ「EOS DCS 3」を発売。開発は[[コダック]]・プロフェッショナルで、同社から供給を受けて販売された。本体のみ定価198万円。総画素数130万画素。(参考:EOS-1N ボディのみ定価21万5,000円) **9月 - ニコン、プロフェッショナル向けデジタル一眼レフカメラE2/E2sを発売。E2は130万画素、定価110万円。E2sの定価は140万円。富士写真フイルム株式会社(当時)と共同開発された物で、FUJIX(フジックス)DS-505/515としても発売 **10月 - ミノルタ(現[[コニカミノルタホールディングス]])、同社フィルム一眼レフ「α-si」シリーズをベースとした3CCDセンサー搭載一眼レフデジタルカメラ「RD-175」を発売。同社初のα(ミノルタA)マウントデジタル一眼レフカメラで、175万画素相当、本体定価68万円。 ** 12月 - キヤノン、同社フィルムカメラ「EOS-1N」をベースとしたEFマウント採用のデジタル一眼レフカメラ「EOS DCS 1」を発売。開発は[[コダック]]・プロフェッショナルで、同社から供給を受けて販売された。当時としては異例の有効600万画素CCDを搭載し、3080×2036ドットの12 bit×3色のフルカラー画像の記録にフラッシュメモリでは間に合わず、記録媒体に[[PCMCIA]] Type 3の[[Advanced Technology Attachment|ATA]]-[[HDD]]を使っていた。本体のみ360万円。同社、ノートパソコンの拡張スロット(IBM PC110-DOS/V7.0)に差し込んで使用する小型デジタルカメラ「CE300」を発売。27万画素、定価3万9,800円。データはパソコンの記録媒体に直接取り込む ** - この年付近から、CCDを使った派生製品である、高性能なフィルムスキャナがいくつかのメーカーから発売される * [[1996年]] ** 3月 - [[セイコーエプソン]]、同社初のデジタルカメラ「[[カラリオ]]Photo CP-100」発売。35万画素、定価6万9,800円 ** 5月 - キヤノン、同社初のコンパクト機「PowerShot(パワーショット)600」を発表(7月発売)。57万画素、12万8,000円 ** [[ソニー]]、同社初となるデジタルカメラ「[[サイバーショット]]DSC-F1」発売。35万画素。 ** この年、フィルムカメラの新規格「アドバンスドフォトシステム(APS)」を発表、各社から製品が発売。 * [[1997年]] ** 3月 - [[日本電気]]、世界最小(当時)の液晶搭載型デジタルカメラ「Picona」を発売。35万画素、定価6万9,800円。縦型で親指でシャッターを押す方式。単3アルカリ乾電池2本で駆動可能。 **5月 - ミノルタ、初のコンパクトデジタルカメラ「DiMAGE V」を発売。35万画素、定価7万9,800円。 ** ソニー、電子スチルカメラ「マビカ」の後継機であるデジタルスチルカメラ「マビカ MVC-FD5」を発売。デジタルカメラとしては唯一、記録媒体として3.5インチフロッピーディスクを使用。 ** ペンタックス、初のデジタルカメラ「EI-C90」を発売 ** ニコン、[[ニコン・COOLPIX|クールピクス]]100/同300を発売開始。 **[[オリンパス|オリンパス光学工業(現オリンパス株式会社)]]、一眼レフカメラと同等のファインダーを持つ3倍ズーム機、[[CAMEDIA]] C-1400を発売 * [[1998年]] ** ドイツの[[ライカ]]が Camera AG、初のデジタルカメラ「digilux」を発売。富士写真フイルム発売の「FinePix 700」がベース ** オリンパスCAMEDIA C-1400 が[[カメラグランプリ]]の記者クラブ特別賞に選ばれる。デジタルカメラが同賞を受賞したのはこれが初めて ** 3月 - オリンパス光学工業、コンパクト機として初の100万画素越えをした「CAMEDIA C-840L」を発売。総画素数131万画素。キヤノン、同社デジタル一眼レフカメラ「EOS DCS3」の後継機種となる「EOS D2000」を発売。有効200万画素、定価198万円 * [[1999年]] ** 9月 - ニコン、[[APS-C]]型CCDセンサー(同社ではDXフォーマットと呼ぶ)を同社初採用のデジタル一眼レフカメラ[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D1|D1]]を発売。価格65万円。 ** 世界初のデジタルカメラ内蔵携帯電話「[[VP-210]]」がDDIポケット(現[[ウィルコム]])より発売される。目的は[[テレビ電話]]用 ** 10月 - [[ミノルタ]]、同社APSフィルム一眼レフシリーズ「Vectis(ベクティス)S-1」のレンズ群を共用できる、同社初のAPS-C規格レンズ交換式デジタルカメラ「[[DiMAGE]]RD3000」を発売。本体のみ定価36万円。アダプタ経由でα(ミノルタA)マウントを使用可能 ** 富士写真フイルム、画素が六角形の「[[スーパーCCDハニカム]]」を発表 ** 11月 - 玩具メーカーであるトミー(現:[[タカラトミー]])、トイデジタルカメラの先駆けとなる「Me:sia([[ミーシャ]])」で業界初参入。25万画素、定価7,800円。低価格な製品共々話題となる。 ** 11月 - キヤノン、1995年発売のEOS DCS 1の後継機として、最上級デジタル一眼レフ「D6000」を発売。有効600万画素。EFレンズが使える。定価は360万円。 ** この年辺りから高画素化が本格化し、情報誌等で「メガピクセル機」という言葉が使われ始める * [[2000年]] ** [[シグマ (カメラ)|シグマ]]、受像素子で独自技術を持つフォビオン(''Foveon Inc.'' )と業務提携。 ** 松下電器産業(現:[[パナソニック]])、ライカとデジタルAV機器用レンズに関する技術協力契約を締結。 ** 現在のデジタルカメラ内蔵携帯電話ルーツになる「[[J-SH04]]」が[[J-フォン]](現:[[ソフトバンク]])より発売される。 ** 5月 - キヤノン、「[[キヤノン IXYシリーズ|IXYデジタル]]」を発売。APSフィルム使用カメラ「IXY320」(1999年3月発売)とほぼ同等サイズの小型化を達成。有効211万画素、74,800円。 ** 8月 - NHJ、定価8,800円の低価格デジタルカメラ「Che-ez!(チーズ)」を発売。同時期にガス機器会社の[[高木産業]]が定価5,980円のPURPOSE(パーパス)ブランドの低価格デジタルカメラ「PDC-10」を発売。その他低価格トイデジタルカメラが次々と発表、発売される ** オリンパス光学工業、[[オリンパスCAMEDIAシリーズ|CAMEDIA C-2100ウルトラズーム]]でキヤノン製のレンズシフト式[[手ぶれ補正機構]]を搭載。フィルム機で一部搭載されていた技術の、デジタルカメラでの初採用。 ** 10月 - キヤノン、初の一般向けデジタル一眼レフ「EOS D30」を発売。有効325万画素。35万8千円(アクセサリーキット含む) * [[2001年]] ** 11月 - 松下電器産業がドイツの[[ライカ]]とデジタルカメラ分野においても提携。[[LUMIX]]」ブランド1号機「DMC-F7」を発売し、以後デジカメ分野へ本格参入。ドイツの名門ライカブランドのライセンス生産レンズを採用。 ** ライカ、松下電器産業とのライセンス提携に基づき、パナソニックLUMIX DMC-LC5をベースとし提携後初のデジタルカメラ「DIGILUX1」を発売。 ** 12月 - キヤノン、同社初の[[APS-H]]受像素子を持つ一眼レフカメラ「[[キヤノン EOS-1D]]」(415万画素)を発売。定価75万円。 * [[2002年]] ** 5月 - [[京セラ]]、629万画素CCDを搭載した世界初の35 mmフルサイズデジタル一眼レフカメラ「コンタックスNデジタル」を発売。 ** ミノルタが世界初の[[屈曲光学系]]3倍インナーズームを搭載したDiMAGE Xを発売。当時3倍ズーム採用機で世界最小最軽量。定価7万2千円。 ** キヤノンEOS-1Dがデジタルカメラとして初めて[[カメラグランプリ]]を受賞。以降、カメラグランプリの受賞はデジタル一眼レフカメラが続く。 ** 9月 - オリンパス光学工業と[[イーストマン・コダック]]、デジタル[[一眼レフカメラ]]専用の共通規格[[フォーサーズシステム]]を提唱。 ** シグマ、世界初採用となる[[FoveonX3]]受像素子を採用したAPS-C規格一眼レフカメラ「SD9」を発売。 ** コダック、35 mmフルサイズの1,300万画素CMOSを搭載した「DCS Pro 14n」を発表。 ** 12月 - キヤノン、同社初の35 mmフルサイズ受像素子を持つ一眼レフカメラ「[[キヤノン EOS-1Ds]]」を発売。 ** コダック、「DCS Pro 14n」を米国で発売。 * [[2003年]] ** 2月 - 京セラ、コンタックスブランド初のコンパクトデジタルカメラ「[[コンタックスTVSデジタル]]」を発売。 ** 5月 - コダック、「DCS Pro 14n」を日本で発売。 ** 6月 - [[ライカ]]、同社ブランドのフィルム一眼レフカメラライカR8のカメラバックに取り付けられる[[デジタルバック]]「デジタルモジュールR」を発表。 **9月 - ペンタックス、同社初のAPS-C規格デジタル一眼レフカメラ「ペンタックス*istD」発売。Kマウント採用で純正M42マウントアダプタ対応。キヤノン株式会社、同社初のエントリークラスデジタル一眼レフカメラ「[[キヤノン EOS Kiss デジタル]]」発売。自社開発630万画素APS-CサイズCMOSセンサー搭載。実売価格が12万円前後(標準ズームレンズ付は14万円前後)と低価格化を実現し、デジタル一眼レフカメラの普及を促進。 ** 10月 - ミノルタがAnti-Shake方式として、イメージセンサシフト式手ぶれ補正を開発。「DiMAGE A1(500万画素)」に初めて搭載。オリンパス株式会社、同社製品としてもフォーサーズ機としても初となるデジタル一眼レフカメラ「E-1」を発売 * [[2004年]] ** 京セラ、自社のデジカメ事業の縮小をし、デジタルカメラ製品全てを[[コンタックス]]ブランドに統合と発表 ** 8月 - [[セイコーエプソン]]、コシナが発売するフィルムカメラの[[フォクトレンダー]]・ベッサシリーズをベースとする世界初のレンジファインダー式デジタルカメラ「R-D1」を発売。 ** 11月 - コニカミノルタフォトイメージングより、イメージセンサシフト式手ぶれ補正機構を世界初採用した「α7 Digital」を発売。レンズシフト式と違い、過去発売されたαレンズのほぼ全てで手ぶれ補正が使える。「カメラグランプリ2004」受賞 * [[2005年]] ** 松下電器産業がオリンパスの提唱するフォーサーズ規格でカメラ業界に参入すると発表。松下電器産業と提携関係にあるLeica Camera AGも賛同 **ペンタックス、[[大韓民国|韓国]]サムスン電子グループの[[ハンファテックウィン]]<!--翻訳依頼中-->と、一眼レフデジカメの開発で提携することを発表 ** 4月 - 京セラ、デジタルカメラを含めたカメラ事業(京セラ、コンタックスブランドとも)からの撤退発表 ** 8月 - デジカメ「[[Che-ez!]]」シリーズ発売元のNHJ、自己破産申し立て。コニカミノルタフォトイメージングより、同社開発として最後の一眼レフカメラであるエントリークラス製品「α Sweet Digital」発売。このクラスとして、ボディ内手ぶれ補正付は初。 ** 9月 - リコー、単焦点レンズを採用した高級コンパクトカメラ、「GRデジタル」を発売。京セラ株式会社、カメラ製品の出荷を完了。ドイツのライカが同社ブランドフィルム一眼レフカメラライカR8/R9のカメラバックに取り付けられるデジタルバック「デジタルモジュールR」を日本国内発売 ** 11月頃 -「コニカミノルタ、デジタルカメラ事業でソニーと提携」とスクープされるが、数日後に両者から否定される。 ** この年、[[フィルムカメラ]]とデジタルカメラの販売台数が逆転する。 * [[2006年]] ** ペンタックス、同社初ボディ内手振れ補正機能搭載のデジタル一眼レフカメラ「K10D/K100D」発売 ** ニコン、デジタルカメラに生産資源を集中し、フィルムカメラのラインナップを2機種まで大幅削減 ** イーストマン・コダック、アマチュア向けデジタルカメラの自社生産から撤退 ** 3月 - コニカミノルタホールディングス、デジタルカメラを含む一般向けカメラ・写真フィルム・写真関連事業全般から撤退 ** 5月 - カシオ計算機、コンパクトデジタルカメラでは世界初となる1,010万画素CCDを搭載した「EXILIM ZOOM EX-Z1000」を発売。実売5万円程度 ** 9月 - コニカミノルタホールディングス、自社生産カメラの、自社によるアフターサービスを終了、東京湯島サービスセンター完全閉鎖。一部在庫する付属品類の販売を除きソニーへ委託 ** 10月 - 韓国のサムスン電子(SUMSUNG)、携帯電話としては世界初の1,000万画素受像素子を搭載した携帯電話「SCH-B600」を韓国内で発売。光学3倍、デジタル5倍ズーム、オートフォーカスやフラッシュ機能を備える ** 12月 - [[ペンタックス]]、[[HOYA]]と吸収合併について発表 ** ドイツのライカ、APS-Hサイズ受像素子を採用した同社初のレンジファインダー式デジタルカメラ「ライカM8」を発売 * [[2007年]] ** Leica Camera AG、[[デジタルバック]]「デジタルモジュールR」の販売終了 ** 6月 - [[ソニー]]、同社初の一眼レフカメラ「α100」を発売。コニカミノルタより受け継いだレンズラインナップ、アクセサリも発表 ** 10月 - 松下電器産業から同社初、フォーサーズ規格の一眼レフ「DMC-L10」を発売 ** 12月 - ニコン、デジタル一眼レフカメラニコンD3を発売。ISO6400相当でもノイズが少ない暗部撮影性能を誇る * [[2008年]] ** 3月 - ペンタックス、ブランドを残し眼鏡レンズ等を開発生産するHOYA株式会社に完全統合。 ** [[シグマ (カメラ)|シグマ]]、コンパクト機初となるAPS-Cサイズ、同様にFoveonX3素子を採用したデジタルカメラ「DP1」を発売 ** 4月 - 松下電器産業(現:パナソニック)、世界初「タッチ動体追尾AF/AE」を搭載したデジタルカメラ「DMC-FX500」を発売 ** 6月 - ソニー、裏面照射技術を採用した、暗部撮影感度に優れた裏面照射型CMOSセンサーを発表 ** 8月 - 松下電器産業とオリンパスが、フォーサーズ規格をさらに小型化した「マイクロフォーサーズ規格」を共同発表 ** 9月 - ソニー、同社として初の35 mmフルサイズ機であり、同時にイメージセンサーシフト方式ボディ内蔵手ぶれ補正をフルサイズ規格機に世界初採用した一眼レフデジタルカメラ「α900」を発売。エグゼモード株式会社、往年の名ブランド「ヤシカ」を保有する香港JNC Datum Tech Internationalと提携してデジタルカメラ「ヤシカEZ F824」を同年10月中旬に発売と発表 ** 10月 - 松下電器産業(現:パナソニック)、初の[[マイクロフォーサーズ]]規格となるカメラ「DMC-G1」を発売 ** 11月 - シグマ、カリフォルニア州サンノゼに本拠を置くフォビオン(Foveon Inc.) を完全子会社化 ** この年になり、デジタルカメラの撮影データを小型の液晶画面にスライドショー表示する「デジタルフォトフレーム」の市場規模が拡大。1月から12月までの1年間で約10倍以上の販売台数を記録 * [[2009年]] ** 7月 - オリンパス、同社初となるマイクロフォーサーズ機「E-P1」を発売 ** 8月 - ソニー、裏面照射型CMOSセンサー「Exmor R」を世界初採用したデジタルカメラ「DSC-WX1」「DSC-TX1」を発売 ** Leica Camera AG、同社初の35 mmフルサイズ受像素子を採用したレンジファインダー式デジタルカメラ「M9」を発売。レンジファインダー機としても初 **9月 - ペンタックス、カメラとしては世界初の、100タイプのカラーバリエーションモデルを展開する「ペンタックスK-x」を発売 **11月 - ペンタックス、同社製品「ペンタックスK-x」のカラーバリエーションの多さを顕著に表した記念モデル「コレジャナイロボ」モデル限定発売。ウェブページのみ受付で限定数100台が10分で完売。 * [[2010年]] ** 1月 - ペンタックス、犬、ネコの顔も認識するカメラ「Optio I-10」発売 ** 3月 - ペンタックス、PENTAXブランドで初の中判(120フィルム 6×4.5 cm判相当)デジタルカメラ、「ペンタックス645D」(4,000万画素)発表 ** 4月 - コニカミノルタホールディングス、自社生産していたカメラのアフターサービスを[[ケンコー|株式会社ケンコー]]へ移管。ソニーでの受付を終了 ** 8月 - パナソニック、メカニカルシャッターによる約11コマ/秒の高速連写を世界で初めて実現したデジタルカメラ「DMC-FZ100」を発売 * [[2011年]] ** 7月 - HOYA、イメージング・システム事業(デジタルカメラ・双眼鏡等の光機部門)を分離、ペンタックスイメージング株式会社を設立 ** 8月 - ペンタックス、レンズ交換式デジタルカメラで世界最小最軽量となるミラーレス一眼カメラ「[[PENTAXのデジタルカメラ製品一覧#Qマウント機|PENTAX Q]]」発売 ** 同月 - パナソニック、メカニカルシャッターによる約12コマ/秒の高速連写を世界で初めて実現したデジタルカメラ「DMC-FZ150」を発売。これに続きソニーも10月に約12コマ秒を実現した「α77」を発売 ** 10月 - リコー、HOYAよりペンタックスイメージング株式会社を買収し、完全子会社として[[ペンタックス|ペンタックスリコーイメージング株式会社]]を設立 ** 10月 - ニコン、ミラーレス一眼カメラ「[[ニコン・Nikon 1|Nikon 1]]」を発売 ** 10月 - 一般向け初のライトフィールドカメラ[[Lytro]]が発表 * [[2012年]] ** 1月 - 富士フイルム、同社初のミラーレス一眼カメラ「[[富士フイルム・Xシリーズ|FUJIFILM X-Pro1]]」を発売 ** 3月 - オリンパス、同社初の電子ビューファインダー内蔵[[ミラーレス一眼カメラ]]「[[オリンパス OM-D E-M5]]」を発売 ** 10月 - キヤノン、同社初のミラーレス一眼カメラ「EOS M」を発売 ** 11月 - ソニー、[[35mmフルサイズ|35 mmフルサイズ]]のイメージセンサーを搭載した初のコンパクトデジカメ「サイバーショット DSC-RX1」を発売 * [[2013年]] ** 2月 - パナソニック、「NFC(近距離無線通信)」を搭載したデジタルカメラ「DMC-TZ40」「DMC-FT5」を発売。これ以降に発売された同社のミラーレス一眼カメラには標準搭載されている ** 10月 - ソニー、[[スマートフォン]]との連携を前提としたレンズ形状のコンパクトデジカメ「サイバーショット DSC-QX100」「サイバーショット DSC-QX10」を発売 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[収差]] * [[フォーサーズシステム]] - [[マイクロフォーサーズシステム]] * [[ミラーレス一眼カメラ]] * [[デジタル一眼レフ専用レンズ]] * [[ビデオカメラ]] * [[カメラ付き携帯電話]] - [[写メール]] * [[TWAIN]] * [[ダーク補正]] * [[デジタル写真]] * [[web写真]] * [[カメラ映像機器工業会]] * [[パープルフリンジ]] * [[デジタルミラー]] === ファイル規格 === * [[Design rule for Camera File system]](DCF) * [[Exchangeable image file format]](Exif) === イメージセンサー === * [[ベイヤーフィルター]] * [[Super HAD CCD]]/[[Exmor]](ソニー) * [[スーパーCCDハニカム]], X-Trans CMOS (富士フイルム) * [[Foveon X3]] ダイレクトイメージセンサー(シグマ/Foveon) * LBCAST(ニコン) * [[ΝMaicovicon|νMAICOVICON]]/Live MOS(パナソニック) === 記録媒体 === * [[フロッピーディスク]](初期製品の一部) * [[PCカード|PCATAカード]](SRAMタイプとフラッシュタイプがある) * [[メモリースティック]](主に[[ソニー|SONY]]製品で使われるメディア) * [[スマートメディア]](オリンパスや富士製品で使われていたが、技術上の限界からxDピクチャーカードに移行) * [[SDメモリーカード]](2004年頃からの主流メディア) * [[コンパクトフラッシュ]](一眼レフタイプなど[[ハイエンド]]モデルで多く使われる) * [[マイクロドライブ]](一眼レフタイプなどハイエンドモデルで多く使われていた) * [[xDピクチャーカード]](オリンパスや富士製品で使われていた) * [[XQDメモリーカード]](SDメモリーカードに代わる媒体としてニコンが採用) == 外部リンク == * [http://www.digitalcamera.jp/ DigitalCamera.jp](総合情報サイト) * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/siba-nobu/dmt/ |title=デジタルメディアトラブル対策|date=20130427113216}}(写真消失対策、消失予防情報サイト) * [https://takuki.com/gabasaku/CCD.htm ガバサク談義](撮像素子のサイズを比較したページがあります) {{写真}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てしたるかめら}} [[Category:カメラ]] [[Category:デジタルカメラ|*]]
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古典力学
古典力学(、英: classical mechanics)は、量子力学が出現する以前のニュートン力学や相対論的力学を指す。物理学における力学に関する研究のうち、量子論を含むものを「量子力学」とするのに対し、量子論を含まないものを指してそう呼ぶ。 古典力学はマクロな物質の運動、例えば弾道計算や機械動作、宇宙船、星、銀河などの天体の運動に関する研究に使われている。そして、それらの領域に対して、とても精度の高い結果をもたらす、最も古く最も広範な科学、工学における領域のうちの一つである。古典力学は光速に近い場合には特殊相対性理論を用いることによってより一般な形式を与えることとなる。同様に、一般相対性理論は、より深いレベルで重力を扱うこととなる。古典力学は現代でもさかんに研究されている分野である。 17世紀初頭、ティコ・ブラーエによる精密な測定をもとに、ヨハネス・ケプラーは天体が楕円軌道を描くと結論付けた。ガリレオは地上物体の落下の加速運動を研究した。それらを基にしてアイザック・ニュートンや同時代の多数の自然哲学者が数理物理の体系を創設した。 初期の古典力学はしばしば、ニュートン力学として引用される。物理的概念や、数学的方法論がニュートンによって用いられ創られたことによる。より抽象的で一般的な方法論としてラグランジェ力学やハミルトン力学が挙げられる。古典力学における多くの事項は、18世紀から19世紀にかけて作られ、それらはニュートンの仕事からかけ離れたものとなっている(特に解析力学等は)。
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古典力学(こてんりきがく、は、量子力学が出現する以前のニュートン力学や相対論的力学を指す。物理学における力学に関する研究のうち、量子論を含むものを「量子力学」とするのに対し、量子論を含まないものを指してそう呼ぶ。 古典力学はマクロな物質の運動、例えば弾道計算や機械動作、宇宙船、星、銀河などの天体の運動に関する研究に使われている。そして、それらの領域に対して、とても精度の高い結果をもたらす、最も古く最も広範な科学、工学における領域のうちの一つである。古典力学は光速に近い場合には特殊相対性理論を用いることによってより一般な形式を与えることとなる。同様に、一般相対性理論は、より深いレベルで重力を扱うこととなる。古典力学は現代でもさかんに研究されている分野である。
{{出典の明記|date=2016年6月}} {{古典力学}} {{Wikibooks|古典力学|古典力学}} {{読み仮名|'''古典力学'''|こてんりきがく|{{lang-en-short|classical mechanics}}}}は、[[量子力学]]が出現する以前の[[ニュートン力学]]や[[相対論的力学]]を指す<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%8A%9B%E5%AD%A6-65464 デジタル大辞泉 【古典力学】]</ref>。[[物理学]]における[[力学]]に関する研究のうち、[[量子論]]を含むものを「[[量子力学]]」とするのに対し、量子論を含まないものを指してそう呼ぶ。 古典力学は[[マクロ]]な物質の運動、例えば[[弾道]]計算や[[機械]]動作、[[宇宙船]]、[[天体|星]]、[[銀河]]などの[[天体力学|天体の運動]]に関する研究に使われている。そして、それらの領域に対して、とても精度の高い結果をもたらす、最も古く最も広範な[[科学]]、[[工学]]における領域のうちの一つである。古典力学は[[光速]]に近い場合には[[特殊相対性理論]]を用いることによってより一般な形式を与えることとなる。同様に、[[一般相対性理論]]は、より深いレベルで重力を扱うこととなる。古典力学は現代でもさかんに研究されている分野である。 == 歴史 == [[17世紀]]初頭、[[ティコ・ブラーエ]]による精密な測定をもとに、[[ヨハネス・ケプラー]]は天体が楕円軌道を描くと結論付けた。[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]は地上物体の落下の加速運動を研究した。それらを基にして[[アイザック・ニュートン]]や同時代の多数の[[自然哲学者]]が[[数理物理]]の体系を創設した。 初期の古典力学はしばしば、[[ニュートン力学]]として引用される。物理的概念や、数学的方法論がニュートンによって用いられ創られたことによる。より抽象的で一般的な方法論として[[ラグランジェ力学]]や[[ハミルトン力学]]が挙げられる。古典力学における多くの事項は、18世紀から19世紀にかけて作られ、それらはニュートンの仕事からかけ離れたものとなっている(特に[[解析力学]]等は)。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[解析力学]] * [[古典物理学]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Physics-footer}} {{重力理論}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こてんりきかく}} [[Category:古典力学|*こてんりきかく]]
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原子核
原子核(、英: atomic nucleus)は、単に核(、英: nucleus)ともいい、電子と共に原子を構成している。原子の中心に位置する核子の塊であり、正の電荷を帯びている。核子は、基本的には陽子と中性子から成っているが、通常の水素原子(軽水素)のみ、陽子1個だけである。陽子と中性子の個数、すなわち質量数によって原子核の種類(核種)が決まる。 原子核の質量を半経験的に説明する、ヴァイツゼッカー=ベーテの質量公式(原子核質量公式、他により改良された公式が存在する)がある。 原子核は原子と比べて非常に小さく、例えば最も小さい水素の原子核(陽子)の大きさはおよそ半径 0.8751(61)×10 m(直径にして約 1.75×10 m = 1.75 fm)である。水素原子核以外では、その狭い空間に正電荷を持った陽子が複数存在するため、互いに大きな斥力(電磁気力)を受ける。この斥力に打ち勝って原子核を安定に存在させているのは、中性子の作用である。陽子、中性子の核子間には中間子を媒介した核力が引力として働き、これが電磁気的反発力に打ち勝って原子核を安定化させている。 その他の原子では、原子核の半径 r はその質量数 A のほぼ 1/3 乗、すなわち3乗根に比例することが知られており、定式化すると となる。ここで、r0 は定数であり、その値は r0 = (1.3±0.1)×10 m である。 原子核の安定性は、陽子、中性子の数と深く関わっており、特に原子核を安定にさせる魔法数と呼ばれる数が存在することがメイヤーとイェンゼンによって発見され、2人はこの法則を元に殻模型(シェルモデル)などの仮説を提唱した。ただし、最近の不安定核の研究によって極端に中性子過剰な核などではこれまで知られてきた魔法数の系列が消失することが、液滴モデル、集団運動模型などの研究でわかってきている。 全ての核種の中で最も安定な原子核は、ニッケルの同位体の1つニッケル62(陽子28個、中性子34個)の原子核である。 原子核の存在が理論的に提唱されたのは、1901年のジャン・ペランおよび1903年の長岡半太郎が最初である。これらの説はあまり注目されなかったが、アーネスト・ラザフォードが1911年に実験的に原子核の存在を確認し、注目を集めることとなった。 ラザフォードは1914年に、重い原子核ではα線を接近させてもクーロン力によって弾き返されてしまうが、軽い原子核では原子核かα粒子いずれかの破壊が起こるのではないかと考え、1917年から1919年にかけて、様々な条件下で空気に対してα線を当て、ZnSのシンチレーションを利用して破壊の影響で生ずる可能性のある粒子を発見しようと試みた結果、水素の原子核、すなわち陽子を発見した。この水素の原子核は、α線が空気中の窒素の原子核に当たった際に と言う核反応によって生ずるものである。この結果を受けてラザフォードは、翌1920年にロンドン王立協会に於いて行なった講義の中で、原子核を構成する粒子には陽子の他に陽子とほとんど同じ質量で中性の粒子が存在すると予想した。 その12年後、ジェームズ・チャドウィックによってラザフォードの予想通り中性子が発見され、この事実を受けてドミトリー・イワネンコは原子核の構造についての従来の見解を改変し、「原子核の中には中性子と陽子だけが含まれており、電子は存在しない」という説を提唱した。ヴェルナー・ハイゼンベルクもこれを支持し、以後の原子核理論の方向性を決める事になったと言われる彼の3部作の論文『原子核の構造について1〜3(Über den Bau der Atomkerne I-III)』の基本仮定として採用される事となった。
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原子核(げんしかく、は、単に核(かく、ともいい、電子と共に原子を構成している。原子の中心に位置する核子の塊であり、正の電荷を帯びている。核子は、基本的には陽子と中性子から成っているが、通常の水素原子のみ、陽子1個だけである。陽子と中性子の個数、すなわち質量数によって原子核の種類が決まる。 原子核の質量を半経験的に説明する、ヴァイツゼッカー=ベーテの質量公式がある。
{{Expand English|Atomic nucleus|date=2023-12}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = 原子核 | 画像 = [[File:Sciences exactes.svg]] | 説明 = [[ヘリウム]]原子の模式図。中心部の4つの球体からなる塊が原子核。周りを回っているのは[[電子]]である。大きさは正しくなく、実際の原子核はずっと小さい。 | 型数 = | 分類 = | 組成 = [[陽子]]と[[中性子]] | 統計 = | グループ = | 世代 = | 相互作用 = [[弱い相互作用]]<br/>[[強い相互作用]]<br/>[[電磁相互作用]]<br/>[[重力相互作用]] | 粒子 = | 反粒子 = 反原子核 | ステータス = | 理論化 = [[ジャン・ペラン]](1901年) | 発見 = [[アーネスト・ラザフォード]](1911年) | 記号 = | 質量 = | 平均寿命 = | 崩壊粒子 = | 電荷 = +[[電気素量|e]] &times; 陽子の個数 | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} {{読み仮名|'''原子核'''|げんしかく|{{lang-en-short|atomic nucleus}}}}は、単に{{読み仮名|'''核'''|かく|{{lang-en-short|nucleus}}}}ともいい、[[電子]]と共に[[原子]]を構成している。原子の中心に位置する[[核子]]の塊であり、正の[[電荷]]を帯びている。核子は、基本的には[[陽子]]と[[中性子]]から成っているが、通常の[[水素]]原子(軽水素)のみ、陽子1個だけである。陽子と中性子の個数、すなわち[[質量数]]によって原子核の種類([[核種]])が決まる。 原子核の質量を半経験的に説明する、[[ベーテ・ヴァイツゼッカーの公式|ヴァイツゼッカー=ベーテの質量公式]](原子核質量公式、他により改良された公式が存在する)がある。 == 大きさ == 原子核は原子と比べて非常に小さく、例えば最も小さい水素の原子核(陽子)の大きさはおよそ半径 {{Val|0.8751|(61)|e=-15|ul=m}}(直径にして約 {{val|1.75|e=-15|u=m}} = {{Val|1.75|ul=fm}})である<ref>{{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?rp|title=CODATA Value: proton rms charge radius|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|accessdate=2016-11-21}}</ref>。水素原子核以外では、その狭い空間に正電荷を持った陽子が複数存在するため、互いに大きな[[引力と斥力|斥力]]([[電磁相互作用|電磁気力]])を受ける。この斥力に打ち勝って原子核を安定に存在させているのは、中性子の作用である。陽子、中性子の核子間には[[中間子]]を媒介した[[強い相互作用|核力]]が引力として働き、これが電磁気的反発力に打ち勝って原子核を安定化させている。 その他の原子では、原子核の半径 {{Mvar|r}} はその質量数 {{Mvar|A}} のほぼ {{Sfrac|3}} 乗、すなわち[[立方根|3乗根]]に比例することが知られており、定式化すると :<math>r=r_0\sqrt[3]{A}</math> となる。ここで、{{Math|''r''{{Sub|0}}}} は定数であり、その値は {{Math|''r''{{Sub|0}} {{=}} {{Val|1.3|0.1|e=-15|u=m}}}} である<ref>{{Kotobank|核半径|2=[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典}}</ref>。 == 安定性 == 原子核の安定性は、陽子、中性子の数と深く関わっており、特に原子核を安定にさせる[[魔法数]]と呼ばれる数が存在することが[[マリア・ゲッパート=メイヤー|メイヤー]]と[[ヨハネス・ハンス・イェンゼン|イェンゼン]]によって発見され、2人はこの法則を元に[[殻模型]]([[シェルモデル]])などの仮説を提唱した<ref>{{Harvtxt|Mayer|Jensen|2013}}</ref>。ただし、最近の不安定核の研究によって極端に中性子過剰な核などではこれまで知られてきた魔法数の系列が消失することが、[[液滴模型|液滴モデル]]、[[集団運動模型]]などの研究でわかってきている。 全ての核種の中で最も安定な原子核は、[[ニッケル]]の[[同位体]]の1つ[[ニッケル62]](陽子28個、中性子34個)の原子核である<ref>{{Harvtxt|Fewell|1994}}</ref><ref>{{Cite web|last=R. Nave|first=Carl|year=2005|url=http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/nucene/nucbin2.html|title=The Most Tightly Bound Nuclei|work=Hyperphysic|publisher={{enlink|Georgia State University|p=off|s=off}}|language=[[英語|English]]|accessdate=2008-02-17}}</ref>。 == 歴史 == {{Main|原子模型#原子模型の歴史|中性子#歴史}} {{ external media | width = 300px | align = right | video1 = [https://nazology.net/archives/108994 「陽子の構造を視覚化した動画」] - [[MIT]](マサチューセッツ工科大学)) }} 原子核の存在が理論的に提唱されたのは、[[1901年]]の[[ジャン・ペラン]]<ref>{{Harvtxt|Jammer|1989}}</ref>および[[1903年]]の[[長岡半太郎]]<ref>{{Harvtxt|Nagaoka|1903}}</ref>が最初である。これらの説はあまり注目されなかったが、[[アーネスト・ラザフォード]]が[[1911年]]に実験的に原子核の存在を確認し<ref>{{Harvtxt|Rutherford|1911}}</ref>、注目を集めることとなった。 ラザフォードは[[1914年]]に、重い原子核では[[アルファ粒子|α線]]を接近させても[[クーロンの法則|クーロン力]]によって弾き返されてしまうが、軽い原子核では原子核かα粒子いずれかの破壊が起こるのではないかと考え、[[1917年]]から[[1919年]]にかけて、様々な条件下で空気に対してα線を当て、[[硫化亜鉛|ZnS]]の[[シンチレータ|シンチレーション]]を利用して破壊の影響で生ずる可能性のある[[粒子]]を発見しようと試みた結果、[[水素]]の原子核、すなわち[[陽子]]を発見した<ref>{{Harvtxt|Rutherford|1919}}</ref>。この水素の原子核は、α線が空気中の[[窒素]]の原子核に当たった際に :<chem>{}^4_2He + {}^14_7N -> {}^17_8O + {}^1_1H</chem> と言う[[原子核反応|核反応]]によって生ずるものである。この結果を受けてラザフォードは、翌[[1920年]]に[[王立協会|ロンドン王立協会]]に於いて行なった講義の中で、原子核を構成する粒子には陽子の他に陽子とほとんど同じ質量で中性の粒子が存在すると予想した<ref>{{Harvtxt|Rutherford|1920}}</ref>。 その12年後、[[ジェームズ・チャドウィック]]によってラザフォードの予想通り[[中性子]]が発見され<ref>{{Harvtxt|Chadwick|1932a}}</ref><ref>{{Harvtxt|Chadwick|1932b}}</ref>、この事実を受けて[[ドミトリー・イワネンコ]]は原子核の構造についての従来の見解を改変し、「原子核の中には中性子と陽子だけが含まれており、電子は存在しない」という説を提唱した<ref>{{Harvtxt|Iwanenko|1932}}</ref>。[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]もこれを支持し、以後の原子核理論の方向性を決める事になったと言われる彼の3部作の論文『原子核の構造について1〜3(Über den Bau der Atomkerne I-III)』<ref>{{Harvtxt|Heisenberg|1932a}}</ref><ref>{{Harvtxt|Heisenberg|1932b}}</ref><ref>{{Harvtxt|Heisenberg|1933}}</ref>の基本仮定として採用される事となった<ref>{{Harvtxt|Miller|1995|pp=84–88}}</ref><ref>{{Harvtxt|Fernandez|Ripka|2012|p=263}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 原論文 === * {{Cite journal|first=H.|last=Nagaoka|authorlink=長岡半太郎|url=https://doi.org/10.11429/subutsugaiyo1903.2.92 |title=Motion of particles in an ideal atom illustrating the line and band spectra and the phenomena of radio-activity|trans-title=スペクトル線と放射能做を表示すべき原子内分子の運動|journal=Tokyo Sugaku-Butsurigakukwai Kiji-Gaiyo|date=December 5, 1903|volume=2|issue=7|pages=92-107|oclc=898487755|issn=2185-2685|doi=10.11429/subutsugaiyo1903.2.92|ref=harv}} * {{Cite journal|last=Rutherford|first=Ernest|authorlink=アーネスト・ラザフォード|date=April 1911|title=The Scattering of α and β Particles by Matter and the Structure of the Atom|trans-title=物質によるα粒子とβ粒子の散乱と原子の構造|url=http://www.chemteam.info/Chem-History/Rutherford-1911/Rutherford-1911.html|journal={{enlink|Philosophical Magazine|p=off|s=off}}|series=Series 6|volume=21|issue=125|pages=669–688|issn=1478-6435|lccn=2003249007|oclc=476300855|doi=10.1080/14786440508637080|ref=harv}} * {{Cite journal|title=Collisions of alpha Particles with Light Atoms. IV. An Anomalous Effect in Nitrogen.|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/rutherford.html|first=E.|last=Rutherford|authorlink=アーネスト・ラザフォード|journal=F. R. S.|publisher=The London, Edinburgh and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science|series=6th series|volume=37|issue=581|date=1919|ref=harv}} * {{Cite journal|title=Bakerian Lecture: Nuclear Constitution of Atoms|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/ruth1920.html|first=E.|last=Rutherford|authorlink=アーネスト・ラザフォード|journal=[[フィロソフィカル・トランザクションズ|Proc. Roy. Soc. 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Paris|month= |oclc= |place=Paris|year=1930|том=190|volume=|pages=582|issn=|doi=|ref=Ambartsumian1930}} * {{Cite journal|author= |title=[[ヴィクトル・アンバルツミャン|Ambarzumian V.]] — a life in science |trans-title=Astrophysics |number= |url= |place=London |month= |oclc= |publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]] |year=2008 |volume=51 |pages=280—293 |issn= |doi=10.1007/s10511-008-9016-6 |lang=en |ref=Ambartsumian2008}} * {{Cite journal|last=Heisenberg|first=W.|authorlink=ヴェルナー・ハイゼンベルク|title=Über den Bau der Atomkerne. I|trans-title=原子核の構造について 1|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|volume=77|issue=1-2|pages=1–11|year=1932|month=January|oclc=884174965|issn=0044-3328|doi=10.1007/BF01342433|bibcode=1932ZPhy...77....1H|ref={{Sfnref|Heisenberg|1932a}}}} * {{Cite journal|last=Heisenberg|first=W.|authorlink=ヴェルナー・ハイゼンベルク|title=Über den Bau der Atomkerne. 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P.|last=Fewell|date=20 January 1994|url=http://www.physics.smu.edu/scalise/quarknet2008/FewellAJP000653.pdf|title=The atomic nuclide with the highest mean binding energy|format=[[Portable Document Format|PDF]]|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, MD]]|publisher={{enlink|American Association of Physics Teachers|AAPT|p=off|s=off}}|journal={{enlink|American Journal of Physics|Am. J. 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I.|title=Early Quantum Electrodynamics: A Sourcebook|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|location=[[ケンブリッジ|Cambridge]]|date=October 27, 1995|ncid=BA26783610|asin=0521568919|oclc=37591062|isbn=0521568919|ref=harv}} * {{cite book|last1=Fernandez|first1=Bernard|last2=Ripka|first2=Georges|title=Unravelling the Mystery of the Atomic Nucleus: A Sixty Year Journey 1896 — 1956|chapter=Nuclear Theory After the Discovery of the Neutron|chapterurl=https://books.google.com/books?id=4PxRBakqFIUC&pg=PA263|date=September 28, 2012|location=[[ニューヨーク|New York]]|publisher=Springer|ncid=BB15541741|asin=1461441803|oclc=812016927|isbn=9781461441809|id={{ASIN|B00AK9N5KI}}|ref=harv}} * {{Cite book|first1=Maria Goeppert|last1=Mayer|first2=J Hans D|last2=Jensen|authorlink1=マリア・ゲッパート=メイヤー|authorlink2=ヨハネス・ハンス・イェンゼン|title=Elementary Theory of Nuclear Shell Structure|date=February 23, 2013|origdate=1955|publisher=Literary Licensing, LLC|oclc=537631|asin=1258591200|isbn=978-1258591205|ref=harv}} == 関連項目 == {{Wiktionary|原子核}} * [[原子]] *[[原子核物理学]] *[[原子核反応]] **[[原子核分裂]] ***[[原子爆弾]]([[核兵器]]) ***[[原子力発電]] **[[核融合]]([[原子核融合]]) ***[[水素爆弾]]([[核兵器]]) *[[強い相互作用]] *[[エキゾチック原子核]] *[[宇宙の元素合成]] *[[リーマンゼータ関数]] == 外部リンク == * {{Kotobank|2=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)}} {{粒子の一覧}} {{核技術}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんしかく}} [[Category:原子]] [[Category:原子物理学]] [[Category:原子核物理学]] [[Category:アーネスト・ラザフォード]]
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場の量子論
場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている。 場の量子論には相対論的場の量子論と非相対論的場の量子論がある。相対論的場の量子論は、特殊相対性理論と量子力学の統合を目指すものである。非相対論的場の量子論は、相対論的場の量子論の非相対論的極限、すなわち光速を無限大とする極限とみなされる。 場の量子論は、高エネルギーの系や、凝縮系(多体系)を記述する。相対論的な場の量子論は特殊相対論的要請を満たす形式を備え、量子力学と特殊相対性理論の両方を満足する。素粒子物理、原子核物理学や物性物理といった領域で、基礎理論として用いられる。 摂動的場の量子論では、粒子の間に働く力は、力を伝える粒子の交換により生じる。例として電子の間に働く電磁力は、光子の交換により生じる。同様に、ウィークボソンは弱い力を媒介し、グルーオンは強い力を媒介する。 力を媒介するのと同じ場の励起である光子が、塊状の波として電磁波となり、またナノスケールの現象においては粒子のように振舞う。電子も同様で、対応した場の励起として表される。このように、古典物理での粒子と場は、場の量子論により粒子と場の2重性を持つ形式に書き改められる。 場は時空間のあらゆるところで定義され、波動を引き起こす能力がある。空間全域に広がる場がエネルギーを得て振動すると、粒子のように振る舞う。現代物理学における粒子とは、エネルギーが局在化している状態(波束)、または場に付随するエネルギー量子のことである。 場の量子論ではこのように粒子を広く捉えることで、以下のような特徴を持つ粒子を場の立場から考えている。 ジェームズ・クラーク・マクスウェルの古典電磁気学では、粒子(荷電粒子)が場(電磁場)を生み、場が粒子に力を与える。これは、場の理論の最初の定式化である。 1927年から1928年、ポール・ディラックによる古典電磁気学の量子化、オスカル・クライン、パスクアル・ヨルダン、ユージン・ウィグナーおよびウラジミール・フォックによる生成消滅演算子が形成され、場の量子論の原型をヴェルナー・ハイゼンベルクとヴォルフガング・パウリが創った。 ハイゼンベルクは、場において粒子が力を伝えるという見解を打ち出した。これが湯川の強い力(中間子)、フェルミの弱い力(電子)の元となる。しかし、湯川が提唱した強い力のモデルに対しては、ハイゼンベルクやボーアは否定的であった。 ハイゼンベルクおよびパウリらが作った原型は相対論を満たすが、相対論的共変形式を満たさなかった。1943年、朝永振一郎が超多時間理論でこれを解決する。これは1932年にポール・ディラックが提唱した多時間理論(相互作用をしている電子一つ一つに独立な時間を与える)の電子の生成・消滅を含まないという欠点を改めたものである。また、リチャード・ファインマンも経路積分を完成し、またジュリアン・シュウィンガーもこの問題を独立に解決する。 ゲージ理論の概念は、1918年のヘルマン・ワイルのアイデアに端を発する。ワイルは時空点ごとに「ゲージ」(ものさし)を与え、時空点が変わっても理論が変わらないようラグランジアンを決める(ゲージは一種の自由度で、理論不変なようにゲージ自由度を与える)ことを要求し、電磁場の導出を試みたが、実験と合わなかった。1927年、フリッツ・ロンドンは、長さを位相に変え、ゲージ理論の有効性を証明した。 1954年、楊振寧およびロバート・ミルズはゲージ対称性を非アーベル群に拡張した理論を定式化した(非可換ゲージ理論)。(ヴォルフガング・パウリ、内山龍雄も独立して同様の理論を発見している。発表が遅れたため、パウリや内山らは非可換ゲージ理論の発見者と見なされない。)内山龍雄は重力場を含む形に拡張した(このため、ヤン=ミルズ=内山理論と呼ぶ人もいる)。この非可換ゲージ理論は、後に量子色力学やワインバーグ=サラム理論を定式化する際に用いられた。 1964年、マレー・ゲルマン、ユヴァル・ネーマンおよびジョージ・ツワイクにより独立にクォーク模型が見出された。この原型は坂田昌一による坂田模型と、そのフレーバー変換を群論形式で記述する方法を確立した大貫義郎らによるIOO理論SU(3)である。(これはクォーク模型の原型における対称性を群論で記述した最初の事例であり、素粒子論の核で群論を使う以後の流れを決定づける。 量子力学での群論の最初は、ヘルマン・ワイル1927年である。原子スペクトルの対称性を記述。また、1939年、ユージン・ウィグナーが原子核をSU(4) で記述する。しかしこれは素粒子論の核での使用ではなかった。これらは、素粒子の基本構造に迫るものではなく、素粒子研究で注目を浴びなかった。 ゲージ理論では、ゲージ対称性を満たす場合、必然的にゲージ場の質量がゼロになる。しかし、光子を除く現実の粒子は質量を持ち、質量が力の及ぶ範囲を決める。1964年、これを救ったのが、ピーター・ヒッグスらのヒッグス機構で、南部陽一郎の自発的対称性の破れを使い解決した。 自発的対称性の破れの概念は、ハイゼンベルクが強磁性体モデルにおけるスピンのSU(2)回転対称性について論じたのが始まりとされる。1960年に南部は、超伝導のBCS理論をヒントに対称性の自発的破れの概念を場の量子論において定式化した。。 量子電磁力学 (QED) は可換ゲージ理論である。一方、量子色力学 (QCD) およびワインバーグ=サラム理論は非可換ゲージ理論である。量子色力学は3つの場のからみ合いであり、ゲージも3×3の行列となり、QEDの可換ゲージから、非可換ゲージにかわる。 弱い力と電磁相互作用は、1967年、場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式のワインバーグ=サラム理論により統一される。 強い力は、クォーク模型の完成後、1971年にヘーラルト・トホーフトの非可換ゲージの繰り込み可能性の証明を経て、1973年に繰り込み群を使ったデイビッド・グロスらによって場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式の量子色力学 (QCD) が完成する。 量子力学では古典的に書き下した運動方程式を元に、位置や運動量を非可換な行列ないしは演算子と考える事で、量子論の描像を得る。これを正準量子化と呼ぶ。場の量子論では同様の方法を、場という物理量に対し適用する。これにより、時空間上の位置をパラメーターとして持つ場の演算子が得られる。 特に自由場の理論(場同士が一切相互作用しない理論)において、この方法で定義された演算子の各振動数モードは、独立した調和振動子とみなす事ができる。この系の量子的なふるまいは生成消滅演算子によって記述される。 正準量子化によって厳密な場の時間発展を記述できるのは、自由場など少数の例に限定される。量子電磁力学のような複雑な理論を扱うには通常、摂動論の考え方を用いる。これは相互作用描像などを用いて、相互作用のある場の時間発展を自由場の演算子の積に展開する方法である。 場の量子論における演算子積の計算は、仮想粒子を含む多数の項を、運動量保存や対称性などを考慮してまとめあげる、かなり煩雑なものとなる。これを視覚的に表すツールとしてファインマンダイアグラムがある。 また、摂動計算では仮想粒子の取りうる運動量すべてを積分する必要があり、これによって計算結果が無限大に発散する紫外発散の問題が起こる。この問題への処方として繰り込みが用いられる。 摂動論は相互作用が弱い事を仮定した議論であり、結合定数の強い領域には上手く適用できない。特に量子色力学の低エネルギー領域においては、カイラル対称性の破れなどの物理について摂動論では議論する事ができない。そのため、以下に示すような非摂動論的な方法も、並行して用いられる。
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場の量子論は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。
{{正確性|date=2011年8月}} {{独自研究|date=2012年1月}} {{場の量子論}} '''場の量子論'''(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、[[量子化 (物理学)|量子化]]された[[場]]([[素粒子物理]]ではこれが[[素粒子]]そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 == 概要 == 量子論の中でも、[[位置]]や[[運動量]]などの[[古典力学]]由来の物理量と、[[スピン角運動量|スピン]]などの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を'''[[量子力学]]'''と呼ぶ。一方、基本変数として「[[場]]とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を'''場の量子論'''と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの([[電磁場]]など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系([[電子]]など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている。<ref>{{Cite book|和書|author=清水明|authorlink=清水明|year=2004|title=新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―|publisher=[[サイエンス社]]|id=ISBN 4-7819-1062-9}}</ref> 場の量子論には'''相対論的場の量子論'''と'''非相対論的場の量子論'''がある。相対論的場の量子論は、特殊相対性理論と量子力学の統合を目指すものである。非相対論的場の量子論は、相対論的場の量子論の非相対論的極限、すなわち光速を無限大とする極限とみなされる。<ref>新井朝雄「場の量子論の数理 : Mathematical Aspects of Quantum Field Theory」応用物理, Vol3, No.4, P.292-306 (1993).</ref> 場の量子論は、高エネルギーの系や、凝縮系([[多体問題|多体系]])を記述する。相対論的な場の量子論は[[特殊相対論|特殊相対論的]]要請を満たす形式を備え、量子力学と特殊相対性理論の両方を満足する。[[素粒子物理]]、[[原子核物理学]]や[[物性物理]]といった領域で、基礎理論として用いられる。 ; 素粒子物理学 : 素粒子の振る舞いを記述するのに用いられる。素粒子が反応し新たな素粒子となる現象はその一例である。[[量子電磁力学]]、[[ワインバーグ・サラム理論]]、[[量子色力学]]といった、実験によって検証されている理論や、[[弦理論]]等の[[仮説]]上の理論が、場の量子論を基礎として研究されている。 ; 物性物理学 : 非相対論的な場の量子論が用いられることも多く、[[臨界|臨界現象]]・[[相転移]]などの多体論的効果を記述する。[[超伝導]]の[[BCS理論]]、[[相転移|量子相転移]]といった物理が、場の量子論の文脈により理解される。 [[摂動論|摂動的]]場の量子論では、粒子の間に働く力は、力を伝える粒子の交換により生じる。例として[[電子]]の間に働く[[電磁力]]は、[[光子]]の交換により生じる。同様に、[[ウィークボソン]]は[[弱い力]]を媒介し、[[グルーオン]]は[[強い力]]を媒介する。 力を媒介するのと同じ場の[[励起]]である光子が、塊状の[[波]]として電磁波となり、またナノスケールの現象においては粒子のように振舞う。電子も同様で、対応した場の励起として表される。このように、古典物理での粒子と場は、場の量子論により粒子と場の2重性を持つ形式に書き改められる。 == 場と粒子 == 場は[[時空間]]のあらゆるところで定義され、波動を引き起こす能力がある<ref name=nagashima>{{cite book|和書|author=長島順清|title=素粒子物理学の基礎I|series=朝倉物理学大系|year=2002|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=4-254-13673-0}}</ref>。空間全域に広がる場がエネルギーを得て振動すると、粒子のように振る舞う<ref name=yoshida>{{cite book|和書|author=吉田伸夫|title=素粒子論はなぜわかりにくいのか~場の考え方を理解する|year=2013|publisher=技術評論社|isbn=978-4774161310}}</ref>。現代物理学における粒子とは、エネルギーが局在化している状態<ref>{{cite book|和書|author=坂本眞人|title=場の量子論-普遍性と自由場を中心として-|series=量子力学選書|year=2014|publisher=[[裳華房]]|isbn=978-4785325114}}</ref>([[波束]])、または場に付随するエネルギー量子<ref name=nagashima/>のことである。 場の量子論ではこのように粒子を広く捉えることで、以下のような特徴<ref name=nagashima/>を持つ粒子を場の立場から考えている。 * 各瞬間で局在しており、数えられる。 * 生成・消滅し、粒子数は変化する。粒子は必ずしも安定ではない。 * 1個の粒子はスピンを持つ。 *物質を構成する粒子と力を伝達する粒子の2種類に分けられる。 * [[反粒子]]が存在する。 == 成立史 == {{main|場の量子論の歴史}} === 背景 === [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]の[[古典電磁気学]]では、粒子(荷電粒子)が場(電磁場)を生み、場が粒子に力を与える。これは、場の理論の最初の定式化である。 === 原型 === 1927年から1928年、[[ポール・ディラック]]による古典電磁気学の量子化、[[オスカル・クライン]]、[[パスクアル・ヨルダン]]、[[ユージン・ウィグナー]]および[[ウラジミール・フォック]]による[[生成消滅演算子]]が形成され、場の量子論の原型を[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]と[[ヴォルフガング・パウリ]]が創った。 ハイゼンベルクは、場において粒子が力を伝えるという見解を打ち出した。これが湯川の強い力(中間子)、フェルミの弱い力(電子)の元となる。しかし、湯川が提唱した強い力のモデルに対しては、ハイゼンベルクやボーアは否定的であった。 === 相対論的共変・繰り込み === ハイゼンベルクおよびパウリらが作った原型は[[相対性理論|相対論]]を満たすが、相対論的共変形式を満たさなかった。1943年、[[朝永振一郎]]が[[超多時間理論]]でこれを解決する。これは1932年に[[ポール・ディラック]]が提唱した多時間理論(相互作用をしている電子一つ一つに独立な時間を与える)の電子の生成・消滅を含まないという欠点を改めたものである。また、[[リチャード・ファインマン]]も[[経路積分]]を完成し、また[[ジュリアン・シュウィンガー]]もこの問題を独立に解決する。 === ゲージ理論 === [[ゲージ理論]]の概念は、1918年の[[ヘルマン・ワイル]]のアイデアに端を発する。ワイルは時空点ごとに「ゲージ」(ものさし)を与え、時空点が変わっても理論が変わらないようラグランジアンを決める(ゲージは一種の自由度で、理論不変なようにゲージ自由度を与える)ことを要求し、電磁場の導出を試みたが、実験と合わなかった。1927年、[[フリッツ・ロンドン]]は、長さを位相に変え、ゲージ理論の有効性を証明した。 1954年、[[楊振寧]]および[[ロバート・ミルズ]]はゲージ対称性を非アーベル群に拡張した理論を定式化した([[ヤン=ミルズ理論|非可換ゲージ理論]])。([[ヴォルフガング・パウリ]]、[[内山龍雄]]も独立して同様の理論を発見している。発表が遅れたため、パウリや内山らは非可換ゲージ理論の発見者と見なされない。)[[内山龍雄]]は[[重力場]]を含む形に拡張した(このため、ヤン=ミルズ=内山理論と呼ぶ人もいる)。この非可換ゲージ理論は、後に[[量子色力学]]や[[ワインバーグ=サラム理論]]を定式化する際に用いられた。 === クォーク模型 === 1964年、[[マレー・ゲルマン]]、[[ユヴァル・ネーマン]]および[[ジョージ・ツワイク]]により独立に[[クォーク模型]]が見出された。この原型は[[坂田昌一]]による坂田模型と、その[[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]変換を[[群論]]形式で記述する方法を確立した[[大貫義郎]]らによるIOO理論[[SU(3)]]である。(これはクォーク模型の原型における対称性を群論で記述した最初の事例であり、素粒子論の核で群論を使う以後の流れを決定づける。 [[量子力学]]での[[群論]]の最初は、ヘルマン・ワイル1927年である。[[原子スペクトル]]の対称性を記述<ref>[http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Wigner.html Wigner Biography] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110923020826/http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Wigner.html |date=2011年9月23日 }}</ref>。また、1939年、[[ユージン・ウィグナー]]が[[原子核]]をSU(4) で記述する<ref>Ann. of Math. (2) 40 (1939), 149-204</ref>。しかしこれは素粒子論の核での使用ではなかった。これらは、素粒子の基本構造に迫るものではなく、素粒子研究で注目を浴びなかった。 === 自発的対称性の破れ === ゲージ理論では、[[ゲージ対称性]]を満たす場合、必然的にゲージ場の質量がゼロになる。しかし、光子を除く現実の粒子は質量を持ち、質量が力の及ぶ範囲を決める。1964年、これを救ったのが、[[ピーター・ヒッグス]]らの[[ヒッグス機構]]で、[[南部陽一郎]]の[[自発的対称性の破れ]]を使い解決した。 自発的対称性の破れの概念は、ハイゼンベルクが強磁性体モデルにおけるスピンのSU(2)回転対称性について論じたのが始まりとされる。1960年に南部は、[[超伝導]]の[[BCS理論]]をヒントに対称性の自発的破れの概念を場の量子論において定式化した。<ref>[http://cms.phys.s.u-tokyo.ac.jp/pdf/nambu09.pdf 南部理論と物性物理学]</ref><ref>[http://plato.stanford.edu/entries/symmetry-breaking/ Symmetry and Symmetry Breaking]</ref>。 === 量子色力学・ワインバーグサラム理論 === 量子電磁力学 (QED) は可換ゲージ理論である。一方、量子色力学 (QCD) およびワインバーグ=サラム理論は非可換ゲージ理論である。量子色力学は3つの場のからみ合いであり、ゲージも3×3の行列となり、QEDの可換ゲージから、非可換ゲージにかわる。 弱い力と電磁相互作用は、1967年、場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式の[[ワインバーグ=サラム理論]]により統一される。 強い力は、[[クォーク模型]]の完成後、1971年に[[ヘーラルト・トホーフト]]の非可換ゲージの繰り込み可能性の証明を経て、1973年に[[繰り込み群]]を使った[[デイビッド・グロス]]らによって場の量子論の枠組みで非可換ゲージ形式の[[量子色力学]] (QCD) が完成する。 == 理論の詳細 == {{節スタブ|date=2015年12月}} === 場の量子化 === {{main|第二量子化}} 量子力学では古典的に書き下した運動方程式を元に、位置や運動量を非可換な行列ないしは[[作用素|演算子]]と考える事で、量子論の描像を得る。これを[[正準量子化]]と呼ぶ。場の量子論では同様の方法を、場という物理量に対し適用する。これにより、時空間上の位置をパラメーターとして持つ'''場の演算子'''が得られる。 特に自由場の理論(場同士が一切相互作用しない理論)において、この方法で定義された演算子の各振動数モードは、独立した[[調和振動子]]とみなす事ができる。この系の量子的なふるまいは[[生成消滅演算子]]によって記述される。 === 摂動論と繰り込み === 正準量子化によって厳密な場の時間発展を記述できるのは、自由場など少数の例に限定される。量子電磁力学のような複雑な理論を扱うには通常、[[摂動論]]の考え方を用いる。これは[[相互作用描像]]などを用いて、相互作用のある場の時間発展を自由場の演算子の積に展開する方法である。 場の量子論における演算子積の計算は、[[仮想粒子]]を含む多数の項を、運動量保存や対称性などを考慮してまとめあげる、かなり煩雑なものとなる。これを視覚的に表すツールとして[[ファインマンダイアグラム]]がある。 また、摂動計算では仮想粒子の取りうる運動量すべてを積分する必要があり、これによって計算結果が無限大に発散する[[紫外発散]]の問題が起こる。この問題への処方として[[繰り込み]]が用いられる。 === 非摂動論的な方法 === 摂動論は相互作用が弱い事を仮定した議論であり、結合定数の強い領域には上手く適用できない。特に量子色力学の低エネルギー領域においては、[[カイラル対称性]]の破れなどの物理について摂動論では議論する事ができない。そのため、以下に示すような非摂動論的な方法も、並行して用いられる。 *[[1/N展開]] *[[格子ゲージ理論]] *[[AdS/CFT対応]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Wikibooks}} *[[場の古典論]] *[[量子力学]] *[[ゲージ理論]] *[[繰り込み理論]] *[[共形場理論]] *[[繰り込み群]] *[[真空状態]] *[[カシミール効果]] *[[素粒子物理学]] **[[量子電磁力学]] **[[ワインバーグ・サラム理論]] **[[量子色力学]] **[[標準模型]] **[[超対称性理論]] **[[超弦理論]] {{Physics-footer}} {{量子力学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はのりようしろん}} [[Category:場の量子論|*]] [[Category:量子力学]] [[Category:相対性理論]] [[Category:特殊相対性理論]] [[Category:数理物理学]]
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量子化学
量子化学(、英: quantum chemistry)とは理論化学(物理化学)の一分野で、量子力学の諸原理を化学の諸問題に適用し、原子と電子の振る舞いから分子構造や物性あるいは反応性を理論的に説明づける学問分野である。 量子化学はその黎明期において、分子構造と化学結合の成り立ちについて理論的解明と分子構造に起因する分光学的物性の理解に大きく寄与した。実際の分子を量子化学で理解することは、多数の電子と原子核とから構成される多体問題の波動方程式の解を求めることに相当する。計算化学が発達していない当時としては、量子化学の学問領域を展開する為に、分子構造モデルを簡素化する多種多様の近似法が模索された。また波動方程式の解を求める場面においても、摂動論と変分法による近似を利用した。したがって当時の量子化学は定性的な予測をするのにとどまっていた。量子化学によりそれまでは理論的説明付けが困難であった、分子分光学の電子スペクトル、振動スペクトル、回転スペクトル、核磁気共鳴スペクトルなどの性質と分子構造と関連付け、共有結合や分子間力の原理の解明、フロンティア軌道理論を代表とする半定性的な化学反応の理解など、他の化学分野への貢献は大きなものがあった。 1980年代以降の急速なコンピュータの処理速度の増大と計算機科学の発展とは計算化学にも波及し、変分法より発展した第一原理計算法により精密な解を求めることを可能にした。近年においては量子化学により化学結合と分子の微細構造との関連、分子間相互作用や励起状態の解明、反応のポテンシャルエネルギー面を予測することで化学反応の特性を予測するなど定量的な予測が可能になった。同時に量子化学の適用対象も簡単なモデル化した分子だけではなく、実際の有機化合物、錯体化合物、高分子・生体関連物質、固体表面での界面化学の解析など多種多様の化学分野に及んでいる。 その発展の歴史を、量子力学の発展の歴史と切り離して述べることはできない。なぜなら化学は原子・分子といったミクロな粒子を取り扱う学問であり、そのような粒子を取り扱うことができる学問として量子力学が誕生したからである。 1926年にエルヴィン・シュレーディンガーがシュレーディンガー方程式を発表すると、翌1927年にヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンらはそれを水素分子へ適用し共有結合の説明に成功した。このハイトラー-ロンドン理論はその後ジョン・スレーターとライナス・ポーリングらによって原子価結合法(valence bond、VB法)へと発展する。 化学結合を取り扱う別の方法として、フリードリッヒ・フントとロバート・マリケンらにより分子軌道法(molecular orbital, MO法)が生み出された。 VB法とMO法を改良したものには、それぞれ一般化原子価結合法(GVB法)と配置間相互作用法(CI法)が知られている。これらの改良した形式では、VB法はMO法を、MO法はVB法を陰に含んでいる。したがって真の波動関数に対する近似として、両者はスタート地点が異なるものの、相補的といえる関係になっている。ただし計算精度と扱いの簡便さから、現在ではVB法よりもMO法がよく用いられる。 量子化学者にとっての基本的な問題は、自分が研究対象としている系を記述するハミルトニアンの固有値問題を解き、固有値と固有関数(波動関数)を求めることである。しかし、これはそのままの形では解くことが難しい。そこで考え出されたのが、ハートリー-フォック方程式であり、その後の分子軌道法は大きく発展することとなる。簡約密度関数によるアプローチも試みられている。 近年の計算機の速度の向上によって、計算化学という新しい学問分野をも生み出した。 2015年8月に理化学研究所計算科学研究機構により、初めての量子化学ハッカソンが開催された。 量子化学の分野は、化学であるが計算機を使用する分野であるため、ハッカソンが適用された。
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量子化学(りょうしかがく、とは理論化学の一分野で、量子力学の諸原理を化学の諸問題に適用し、原子と電子の振る舞いから分子構造や物性あるいは反応性を理論的に説明づける学問分野である。
{{読み仮名|'''量子化学'''|りょうしかがく|{{lang-en-short|quantum chemistry}}}}とは[[理論化学]]([[物理化学]])の一分野で、[[量子力学]]の諸原理を[[化学]]の諸問題に適用し、[[原子]]と[[電子]]の振る舞いから[[分子構造]]や[[物性]]あるいは[[化学反応|反応性]]を理論的に説明づける学問分野である。 == 研究対象 == 量子化学はその黎明期において、[[分子構造]]と[[化学結合]]の成り立ちについて理論的解明と分子構造に起因する分光学的物性の理解に大きく寄与した。実際の分子を量子化学で理解することは、多数の[[電子]]と[[原子核]]とから構成される[[多体問題]]の[[波動方程式]]の解を求めることに相当する。[[計算化学]]が発達していない当時としては、量子化学の学問領域を展開する為に、分子構造モデルを簡素化する多種多様の近似法が模索された。また波動方程式の解を求める場面においても、[[摂動論]]と[[変分法]]による近似を利用した。したがって当時の量子化学は定性的な予測をするのにとどまっていた。量子化学によりそれまでは理論的説明付けが困難であった、[[分光学|分子分光学]]の[[紫外可視分光法|電子スペクトル]]、[[振動スペクトル]]、[[回転スペクトル]]、[[核磁気共鳴|核磁気共鳴スペクトル]]などの性質と分子構造と関連付け、[[共有結合]]や[[分子間力]]の原理の解明、[[フロンティア軌道理論]]を代表とする半定性的な化学反応の理解など、他の化学分野への貢献は大きなものがあった。 [[1980年代]]以降の急速な[[コンピュータ]]の処理速度の増大と[[情報工学|計算機科学]]の発展とは[[計算化学]]にも波及し、変分法より発展した[[第一原理計算]]法により精密な解を求めることを可能にした。近年においては量子化学により化学結合と分子の微細構造との関連、分子間相互作用や励起状態の解明、反応のポテンシャルエネルギー面を予測することで化学反応の特性を予測するなど定量的な予測が可能になった。同時に量子化学の適用対象も簡単なモデル化した分子だけではなく、実際の[[有機化合物]]、[[錯体]]化合物、[[高分子]]・生体関連物質、固体表面での[[界面化学]]の解析など多種多様の化学分野に及んでいる。 == 歴史 == その発展の歴史を、量子力学の発展の歴史と切り離して述べることはできない。なぜなら化学は原子・分子といったミクロな粒子を取り扱う学問であり、そのような粒子を取り扱うことができる学問として量子力学が誕生したからである。 [[1926年]]に[[エルヴィン・シュレーディンガー]]が[[シュレーディンガー方程式]]を発表すると、翌[[1927年]]に[[ヴァルター・ハイトラー]]と[[フリッツ・ロンドン]]らはそれを[[水素分子]]へ適用し[[共有結合]]の説明に成功した<ref>Heitler, W. and London, F., Zeit. Physik, 44, 455 (1927).</ref>。この[[ハイトラー-ロンドン理論]]はその後[[ジョン・スレーター]]と[[ライナス・ポーリング]]らによって[[原子価結合法]](valence bond、VB法)へと発展する。 [[化学結合]]を取り扱う別の方法として、[[フリードリッヒ・フント]]と[[ロバート・マリケン]]らにより[[分子軌道法]](molecular orbital, MO法)が生み出された。 VB法とMO法を改良したものには、それぞれ[[一般化原子価結合|一般化原子価結合法]](GVB法)と[[配置間相互作用法]](CI法)が知られている。これらの改良した形式では、VB法はMO法を、MO法はVB法を陰に含んでいる。したがって真の波動関数に対する近似として、両者はスタート地点が異なるものの、相補的といえる関係になっている。ただし計算精度と扱いの簡便さから、現在ではVB法よりもMO法がよく用いられる。 == 基本的な問題 == 量子化学者にとっての基本的な問題は、自分が研究対象としている[[系 (自然科学)|系]]を記述する[[ハミルトニアン]]の[[固有値問題]]を解き、[[エネルギー固有値|固有値]]と[[固有関数]]([[波動関数]])を求めることである。しかし、これはそのままの形では解くことが難しい。そこで考え出されたのが、[[ハートリー-フォック方程式]]であり、その後の分子軌道法は大きく発展することとなる。[[密度汎関数理論|簡約密度関数]]によるアプローチも試みられている。 == ポール・ディラックの言葉 == {{Cquote|「物理の大部分と化学の全体を数学的に取り扱うために必要な基本的法則は完全にわかっている。これらの法則を適用すると複雑すぎて解くことのできない方程式に行き着いてしまうことだけが困難なのである。」<br /> "The fundamental laws necessary for the mathematical treatment of large parts of physics and the whole chemistry are thus fully known, and the difficulty lies only in the fact that application of these laws leads to equations that are too complex to be solved."|4=[[ポール・ディラック]]、1929年<ref>Proc. Roy. Soc. (London), '''A123''', 714 (1929)</ref>}} == 計算化学の誕生 == 近年の計算機の速度の向上によって、[[計算化学]]という新しい学問分野をも生み出した。 ==ハッカソン== [[2015年]][[8月]]に[[理化学研究所]]計算科学研究機構により、初めての量子化学[[ハッカソン]]が開催された。 量子化学の分野は、化学であるが計算機を使用する分野であるため、[[ハッカソン]]が適用された。<ref>[https://web.archive.org/web/20210127005051/https://www.r-ccs.riken.jp/library/event/150901.html 第1回量子化学ハッカソン開催報告(8月24日~25日)]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 原田 義也, 「量子化学(上)(下)」, [[裳華房]], (2007). * R. McWeeny、B.T.Sutcliffe: "Methods of Molecular Quantum Mechanics", Academic Press, ISBN 978-0124865501 (Dec. 1969). * 菊池 修:「分子軌道法:電子計算機による活用」講談社 (1971年)。 * Charlotte Froese Fischer:"The Hartree-Fock Method for Atoms: A Numerical Approach"、John Wiley & Sons Inc、ISBN 978-0471259909 (1977年6月8日)。 * Henry F. Schaefer:"Methods of Electronic Structure Theory"、Prenum Press、ISBN 0-306-33503-4 (1977年)。※ ペーパーバック版はSpringer、ISBN 978-1475708899(2013年2月13日)。 * 藤永 茂:「分子軌道法」、岩波書店、ISBN 978-4000059206 (1980年9月18日)。 * Attila Szabo、Neil S. Ostlund、大野公男(訳)、阪井健男(訳)、望月裕志(訳):「新しい量子化学―電子構造の理論入門 上」 、東京大学出版会、ISBN 978-4130621113 (1987年7月)。 * Attila Szabo、Neil S. Ostlund、大野公男(訳)、阪井健男(訳)、望月裕志(訳):「新しい量子化学―電子構造の理論入門 下」、東京大学出版会、ISBN 978-4130621120 (1988年3月)。 * 菊池 修:「分子軌道法―電子計算機によるその活用」、講談社、ISBN 978-4061253063 (1989年)。 * R. McWeeny: "Methods of Molecular Quantum Mechanics, Second Edition", Academic Press, ISBN 978-0124865525 (1992/5/26). * 平山 令明:「実践量子化学入門:分子軌道法で化学反応が見える」、講談社、ISBN 978-4062573757 (2002年7月19日)。 * 常田 貴夫:「密度汎関数法の基礎」、講談社、ISBN 978-4061532809 (2012年4月11日)。 * R.G.パール:「原子・分子の密度汎関数法」、丸善出版、ISBN 978-4621062401 (2012年6月5日)。 * D.S.ショール、J.A.ステッケル、佐々木 泰造 (訳):「密度汎関数理論入門: 理論とその応用」、吉岡書店、ISBN 978-4842703657 (2014年12月10日)。 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}} * [[原子価結合法]](VB法) * [[分子軌道法]](MO法) * [[量子化学的手法]] * [[第一原理計算]] * [[分子軌道]] * [[原子軌道]] * [[量子電気化学]] {{化学}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:りようしかかく}} [[Category:量子化学|*]] [[Category:物理化学]] [[Category:化学の分野]]
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百人一首
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。 藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられている。大山和哉によれば、その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙であり、蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる。天智天皇から藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており、その草稿本といわれる「百人秀歌」と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は歌合方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また後鳥羽院と順徳院の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定されており、定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日(ユリウス暦1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には百人秀歌が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また宇都宮蓮生が選んだという説(安藤為章)や、逆に小倉色紙は宇都宮蓮生の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説(冷泉為村)もある。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。 室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。 いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。色紙は100枚あったはずであるが後世散逸しており、江戸時代には30枚程度に減じていた。定家は歌道の上で大変あがめられたのでその奇異な書も名筆として尊ばれ評判も値段も高く、なかでも小倉色紙が最高で1枚1000両を越したという。現存の色紙は後世に筆写したものがあり疑問な点が多い。 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。太字は決まり字(上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。 100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。 たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞など様々な修辞技法が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。 『百人一首』は現在では歌集としてよりも、かるたとしての方が知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。 百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻物などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。 かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。 江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。 21世紀においては、英語に翻訳された百人一首によるかるた大会も行われている。 歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。 首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。 古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。 本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。 源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。 ビンゴ系の賭博ゲームで、江戸時代中期から明治時代まで大流行した。各人へ予め取り札を均等に分配して、それぞれが五段のピラミッド状に配置する。そして、読み上げられた取り札を裏返していく。横列が全て裏返された時や、雪月花の語が入った役札が読み上げられた際には、規定した得点のやり取りが行われる。一人に配られた取り札が全て裏返されるとゲームは終了して、得点の高い者が勝ちとなる。文屋康秀の「むべ山風をあらしといふらん」が高得点の役札であることから「むべ山」と呼ばれ、専用札も製造販売されていた。 一般社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHK BSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。 首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。 使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。 裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。 読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札には負けるが天智天皇には勝つ。その他の札はどちらにも負ける。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。 この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。 「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びである。和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、蝉丸の札は最高位の1,000の価値があると見なす。遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。 小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。 明治6年(1873年)刊。黒川真頼選。ローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられていた黒川がローマ字綴りの百人一首を刊行。 ここでは、コンピュータを用いるゲームのみを扱う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられている。大山和哉によれば、その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙であり、蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる。天智天皇から藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており、その草稿本といわれる「百人秀歌」と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は歌合方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また後鳥羽院と順徳院の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定されており、定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日(ユリウス暦1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には百人秀歌が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また宇都宮蓮生が選んだという説(安藤為章)や、逆に小倉色紙は宇都宮蓮生の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説(冷泉為村)もある。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。色紙は100枚あったはずであるが後世散逸しており、江戸時代には30枚程度に減じていた。定家は歌道の上で大変あがめられたのでその奇異な書も名筆として尊ばれ評判も値段も高く、なかでも小倉色紙が最高で1枚1000両を越したという。現存の色紙は後世に筆写したものがあり疑問な点が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。太字は決まり字(上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。", "title": "採録された和歌と詠み人達" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。", "title": "採録された和歌と詠み人達" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。", "title": "採録された和歌と詠み人達" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。", "title": "採録された和歌と詠み人達" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "たとえば中学や高校では、古典の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に掛詞など様々な修辞技法が用いられ、副詞の呼応などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『百人一首』は現在では歌集としてよりも、かるたとしての方が知名度が高く、特に正月の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに花札のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には大和絵ふうの歌人の肖像(これは歌仙絵巻物などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て仮名書きで下の句だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である任天堂、大石天狗堂、田村将軍堂で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも北海道では、「下の句かるた」というやや特殊な百人一首が行われている。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。江戸期の面影を残したかるたであると言える。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "21世紀においては、英語に翻訳された百人一首によるかるた大会も行われている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には漢字が混じるため視覚からくる思わぬ錯覚なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "源平とは源氏と平氏のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "北海道で行われる下の句かるた大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ビンゴ系の賭博ゲームで、江戸時代中期から明治時代まで大流行した。各人へ予め取り札を均等に分配して、それぞれが五段のピラミッド状に配置する。そして、読み上げられた取り札を裏返していく。横列が全て裏返された時や、雪月花の語が入った役札が読み上げられた際には、規定した得点のやり取りが行われる。一人に配られた取り札が全て裏返されるとゲームは終了して、得点の高い者が勝ちとなる。文屋康秀の「むべ山風をあらしといふらん」が高得点の役札であることから「むべ山」と呼ばれ、専用札も製造販売されていた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一般社団法人全日本かるた協会の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で名人戦・クイーン戦が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。NHK BSで毎年生中継される。また、7月下旬には全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会が行われている。そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。江戸時代の文献には現われないことから、明治以降に成立したものと考えられている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦烏帽子、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札には負けるが天智天皇には勝つ。その他の札はどちらにも負ける。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びである。和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、蝉丸の札は最高位の1,000の価値があると見なす。遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。", "title": "異種百人一首" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "明治6年(1873年)刊。黒川真頼選。ローマ字での国語綴輯兼務を命ぜられていた黒川がローマ字綴りの百人一首を刊行。", "title": "異種百人一首" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ここでは、コンピュータを用いるゲームのみを扱う。", "title": "題材にした作品" } ]
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。 藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。
{{出典の明記|date=2021年3月28日 (日) 11:31 (UTC)}} [[画像:Hyakuninisshu 001.jpg|thumb|百人一首のかるた読み札<br />(天智天皇)]] '''百人一首'''(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の[[和歌]]を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰([[アンソロジー|詞華集]])。'''百人首'''(ひゃくにんしゅ)とも言われる<ref>{{Cite book|和書|title=大辞林|publisher=三省堂|edition=第二十四刷|year=1993|page=2057|isbn=4-385-14002-2}}</ref>。 [[藤原定家]]が[[京都]][[小倉山 (京都市)|小倉山]]の山荘で[[鎌倉時代]]初期に[[揮毫]]した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「[[かるた|歌がるた]]」として広く用いられ、後世に定着して'''小倉百人一首'''(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。 == 概要 == [[Image:Ogura Shikishi.jpg|thumb|160px|left|小倉色紙(蝉丸)]] 小倉百人一首は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて活動した[[公家]]・[[藤原定家]]が選んだ秀歌撰であると考えられている{{Sfn|吉海直人|2020|p=139}}。大山和哉によれば、その原型は、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]で歌人でもある[[宇都宮頼綱|宇都宮蓮生]]の求めに応じて、定家が作成した[[色紙]]であり、蓮生は、[[京都]][[嵯峨野]](現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)の[[襖]]の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる{{Sfn|吉海直人|2020|p=139}}<ref name="小町谷照彦">コトバンク 日本大百科全書「[https://kotobank.jp/word/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96-120975 百人一首]」[小町谷照彦]</ref>。[[天智天皇]]から[[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]、[[飛鳥井雅経|藤原(飛鳥井)雅経]]に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており<ref group="注">ただし定家自筆の「明月記」(国宝、冷泉家時雨亭文庫)は天福元年(1233年)の記述までしか現存しない。</ref>、その草稿本といわれる「[[百人秀歌]]」<ref group="注">101首採録されている。[[百人秀歌]]を参照</ref>と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている<ref name="小町谷照彦"/>。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は[[歌合]]方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また[[後鳥羽院]]と[[順徳院]]の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある<ref name="小町谷照彦"/>。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、[[13世紀]]の前半と推定されており、定家の日記『[[明月記]]』の[[文暦]]2年5月27日([[ユリウス暦]]1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には[[百人秀歌]]が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また[[宇都宮頼綱|宇都宮蓮生]]が選んだという説([[安藤為章]])や、逆に小倉色紙は[[宇都宮頼綱|宇都宮蓮生]]の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説([[冷泉為村]])もある{{Sfn|吉海直人|2020|p=142}}<ref group="注">なお、藤原定家の息子、[[藤原為家|為家]]の妻は[[宇都宮頼綱|宇都宮蓮生]]の娘だったことから、後に蓮生の中院山荘を相続している。</ref>。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。 [[室町時代]]後期に連歌師の[[宗祇]]が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。[[江戸時代]]に入り、[[木版画]]の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『[[百人秀歌]]』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]と[[順徳天皇|順徳院]]の歌が無く、代わりに[[藤原定子|一条院皇后宮]]・[[源国信|権中納言国信]]・[[藤原長方|権中納言長方]]の歌が入っていること、2) [[源俊頼|源俊頼朝臣]]の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。 いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に[[茶道]]が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将・[[城井鎮房|宇都宮鎮房]]が[[豊臣秀吉]]配下の[[黒田長政]]に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が[[城井氏|豊前宇都宮氏]]に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。色紙は100枚あったはずであるが後世散逸しており、江戸時代には30枚程度に減じていた<ref name="平凡社小倉色紙">コトバンク 平凡社世界大百科事典 第2版「[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%89%B2%E7%B4%99-40089 小倉色紙]」</ref>。定家は歌道の上で大変あがめられたのでその奇異な書も名筆として尊ばれ評判も値段も高く、なかでも小倉色紙が最高で1枚1000両を越したという<ref name="平凡社小倉色紙"/>。現存の色紙は後世に筆写したものがあり疑問な点が多い<ref>コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%89%B2%E7%B4%99-40089 小倉色紙]」</ref>。 == 採録された和歌と詠み人達 == {{see also|小倉百人一首の歌人の一覧}} 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。'''太字'''は[[決まり字]](上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:70%" |- ! colspan="3"|歌一覧 |- !番号!!詠み人!!歌 |- |style="text-align:right"|1. |[[天智天皇]] |秋('''あき''')'''の'''田(た)の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ<br />'''わが'''衣手('''ころもで''')'''は''' 露(つゆ)にぬれつつ |- |style="text-align:right"|2. |[[持統天皇]] |春('''はる''')'''す'''ぎて 夏(なつ)きにけらし<ref group="注">『[[万葉集]]』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之 衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『[[新古今和歌集]]』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。 </ref> 白妙(しろたへ)の<br />衣('''ころも''')干('''ほ''')すてふ<ref group="注">『[[万葉集]]』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に{{要出典範囲|『[[新古今和歌集]]』までに変じたとされる|date=2023年1月}}。</ref> 天(あま)のかぐ山(やま) |- |style="text-align:right"|3. |[[柿本人麻呂]] |足曳('''あし'''びき)の 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の<br />長々('''ながな'''が)し夜(よ)を 獨(ひと)りかも寝(ね)む |- |style="text-align:right"|4. |[[山部赤人|山邊赤人]] |田子('''たご''')の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の<br />富士('''ふじ''')の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ<ref group="注">『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。</ref> |- |style="text-align:right"|5. |[[猿丸大夫]] |奥山('''おく'''やま)に 紅葉(もみぢ)踏(ふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の<br />聲('''こゑ''')きく時(とき)ぞ 秋(あき)はかなしき |- |style="text-align:right"|6. |[[大伴家持|中納言家持]] |鵲('''かさ'''さぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に おく霜(しも)の<br />白('''しろ''')きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける |- |style="text-align:right"|7. |[[阿倍仲麻呂|阿倍仲麿]] |天('''あま''')'''の'''原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる<br />三笠('''みか'''さ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも |- |style="text-align:right"|8. |[[喜撰|喜撰法師]] |'''わが'''庵('''い'''ほ)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住(す)む<br />世('''よ''')'''をう'''ぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり |- |style="text-align:right"|9. |[[小野小町]] |花('''はな''')'''の'''色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに<br />'''わが'''身('''み''')世('''よ''')にふる ながめせしまに |- |style="text-align:right"|10. |[[蝉丸]] |是('''こ''')'''れ'''やこの 行(ゆ)くもかへるも 別(わか)れては<br />知('''し''')'''る'''もしらぬも 逢坂(あふさか)の關(せき) |- |style="text-align:right"|11. |[[小野篁|参議篁]] |'''わたのはら''' 八十島('''や'''そしま)かけて こぎ出(い)でぬと<br />人('''ひと''')'''には'''告(つ)げよ あまの釣船(つりぶね) |- |style="text-align:right"|12. |[[遍昭|僧正遍昭]] |天津風('''あまつ'''かぜ) 雲(くも)の通路(かよひぢ) ふきとぢよ<br />'''を'''とめの姿(すがた) しばしとどめむ |- |style="text-align:right"|13. |[[陽成天皇|陽成院]] |筑波嶺('''つく'''ばね)の みねより落(お)つる みなの川(がは)<br />戀('''こひ''')'''ぞ'''つもりて 淵(ふち)となりぬる |- |style="text-align:right"|14. |[[源融|河原左大臣]] |陸奥('''みち'''のく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)故(ゆゑ)に<br />亂('''みだ''')'''れそ'''めにし われならなくに |- |style="text-align:right"|15. |[[光孝天皇]] |君('''きみ''')'''がため は'''るの野(の)に出(い)でて 若菜(わかな)つむ<br />'''わが'''衣手('''ころもで''')'''に''' 雪(ゆき)はふりつつ |- |style="text-align:right"|16. |[[在原行平|中納言行平]] |立('''たち''')別(わか)れ いなばの山(やま)の 峯(みね)に生(お)ふる<br />'''まつと'''しきかば 今(いま)かへりこむ |- |style="text-align:right"|17. |[[在原業平|在原業平朝臣]] |千早('''ちは'''や)振(ぶ)る 神代(かみよ)もきかず 竜田川(たつたがは)<br />'''から'''紅(くれなゐ)に 水(みづ)くくるとは |- |style="text-align:right"|18. |[[藤原敏行|藤原敏行朝臣]] |住('''す'''み)の江(え)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや<br />夢('''ゆめ''')の通(かよ)ひ路(ぢ) 人(ひと)めよくらむ |- |style="text-align:right"|19. |[[伊勢 (歌人)|伊勢]] |難波('''なには''')'''が'''た 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も<br />逢('''あ''')'''はで'''此世(このよ)を すぐしてよとや |- |style="text-align:right"|20. |[[元良親王]] |佗('''わび''')ぬれば 今(いま)はたおなじ なにはなる<br />'''みをつくしても''' あはむとぞ思(おも)ふ |- |style="text-align:right"|21. |[[素性|素性法師]] |今('''いま''')来('''こ''')むと いひしばかりに 長月(ながつき)の<br />有明('''あり'''あけ)の月(つき)を 待(まち)出(い)でつるかな |- |style="text-align:right"|22. |[[文屋康秀]] |吹('''ふ''')くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば<br />'''むべ'''山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)と云(い)ふらむ |- |style="text-align:right"|23. |[[大江千里 (歌人)|大江千里]] |月('''つき''')見(み)れば 千々(ちぢ)に物(もの)こそ 悲(かな)しけれ<br />'''わが'''身('''み''')一('''ひ'''と)つの 秋(あき)にはあらねど |- |style="text-align:right"|24. |[[菅原道真|菅家]] |此('''こ''')'''の'''度(たび)は ぬさも取(とり)あへず 手向山(たむけやま)<br />紅葉('''もみ'''ぢ)のにしき 神(かみ)のまにまに |- |style="text-align:right"|25. |[[藤原定方|三條右大臣]] |名('''な''')'''にし'''おはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら<br />人('''ひと''')'''に'''知('''し''')られで くるよしもがな |- |style="text-align:right"|26. |[[藤原忠平|貞信公]] |小倉山('''をぐ'''らやま) 峯(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば<br />今('''いま''')一度('''ひとたび''')'''の み'''ゆきまたなむ |- |style="text-align:right"|27. |[[藤原兼輔|中納言兼輔]] |'''みかの'''原(はら) わきてながるる いづみ川(がは)<br />'''いつみ'''きとてか 戀(こひ)しかるらむ |- |style="text-align:right"|28. |[[源宗于|源宗于朝臣]] |山里('''やまざ'''と)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける<br />人('''ひと''')'''め'''も草(くさ)も かれぬと思(おも)へば |- |style="text-align:right"|29. |[[凡河内躬恒]] |心('''こころ''')'''あ'''てに をらばやをらむ はつしもの<br />置('''お''')きまどはせる 白菊(しらぎく)のはな |- |style="text-align:right"|30. |[[壬生忠岑]] |有明('''ありあ'''け)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより<br />暁('''あか'''つき)ばかり うきものはなし |- |style="text-align:right"|31. |[[坂上是則]] |朝('''あさ''')'''ぼらけ''' 有明('''あ'''りあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに<br />'''よし'''のの里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき) |- |style="text-align:right"|32. |[[春道列樹]] |山川('''やまが'''は)に 風(かぜ)のかけたる 柵(しがらみ)は<br />流('''なが''')'''れ'''もあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり |- |style="text-align:right"|33. |[[紀友則]] |久方('''ひさ'''かた)の 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に<br />'''しづ'''心(こころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ |- |style="text-align:right"|34. |[[藤原興風]] |誰('''たれ''')をかも しる人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の<br />松('''まつ''')'''も'''昔(むかし)の 友(とも)ならなくに |- |style="text-align:right"|35. |[[紀貫之]] |人('''ひと''')'''は'''いさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは<br />花('''はな''')'''ぞ'''昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける |- |style="text-align:right"|36. |[[清原深養父]] |夏('''なつ''')の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを<br />雲('''くも''')'''の'''いづこに 月(つき)やどるらむ |- |style="text-align:right"|37. |[[文屋朝康]] |白露('''しら'''つゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は<br />'''つ'''らぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける |- |style="text-align:right"|38. |[[右近 (歌人)|右近]] |忘('''わす''')'''ら'''るる 身(み)をば思(おも)はず ちかひてし<br />人('''ひと''')'''の'''命(いのち)の をしくもあるかな |- |style="text-align:right"|39. |[[源等|参議等]] |浅('''あさ''')'''ぢ'''ふの をのの篠原(しのはら) しのぶれど<br />'''あまり'''てなどか 人(ひと)の戀(こひ)しき |- |style="text-align:right"|40. |[[平兼盛]] |忍('''しの''')ぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが戀(こひ)は<br />物('''もの''')や思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで |- |style="text-align:right"|41. |[[壬生忠見]] |戀('''こひ''')すてふ わが名(な)はまだき たちにけり<br />人('''ひと''')知('''し''')れずこそ 思(おも)ひそめしか |- |style="text-align:right"|42. |[[清原元輔]] |契('''ちぎ''')'''りき'''な かたみに袖(そで)を しぼりつつ<br />'''す'''ゑの松山(まつやま) 波(なみ)こさじとは |- |style="text-align:right"|43. |[[藤原敦忠|権中納言敦忠]] |逢('''あひ''')見(み)ての 後(のち)の心(こころ)に くらぶれば<br />昔('''むか'''し)は物(もの)を 思(おも)はざりけり |- |style="text-align:right"|44. |[[藤原朝忠|中納言朝忠]] |逢('''あ''')'''ふこ'''との 絶(た)えてしなくば なかなかに<br />人('''ひと''')'''を'''も身(み)をも 恨(うら)みざらまし |- |style="text-align:right"|45. |[[藤原伊尹|謙徳公]] |哀('''あはれ''')とも いふべき人(ひと)は おもほえで<br />身('''み''')'''の'''いたづらに なりぬべきかな |- |style="text-align:right"|46. |[[曽禰好忠]] |由良('''ゆら''')の門(と)を わたる舟人(ふなびと) かぢをたえ<br />'''ゆく'''へも知(し)らぬ 戀(こひ)の道(みち)かな |- |style="text-align:right"|47. |[[恵慶|恵慶法師]] |八重葎('''やへ'''むぐら) しげれる宿(やど)の さびしきに<br />人('''ひと''')'''こそ'''見('''み''')えね 秋(あき)は來(き)にけり |- |style="text-align:right"|48. |[[源重之]] |風('''かぜ''')'''を'''いたみ 岩(いは)うつ波(なみ)の おのれのみ<br />'''くだ'''けて物(もの)を 思(おも)ふころかな |- |style="text-align:right"|49. |[[大中臣能宣|大中臣能宣朝臣]] |御垣守('''みかき'''もり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)はもえて<br />晝('''ひる''')は消(き)えつつ 物(もの)をこそ思(おも)へ |- |style="text-align:right"|50. |[[藤原義孝]] |君('''きみ''')'''がため''' 惜('''を''')しからざりし 命(いのち)さへ<br />'''ながく'''もがなと 思(おも)ひけるかな |- |style="text-align:right"|51. |[[藤原実方|藤原實方朝臣]] |'''かく'''とだに えやはいぶきの さしも草(ぐさ)<br />'''さ'''しも知(し)らじな もゆるおもひを |- |style="text-align:right"|52. |[[藤原道信|藤原道信朝臣]] |明('''あけ''')ぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら<br />猶('''なほ''')恨('''う'''ら)めしき 朝(あさ)ぼらけかな |- |style="text-align:right"|53. |[[藤原道綱母|右大將道綱母]] |'''なげき'''つつ 獨(ひと)りぬる夜(よ)の あくるまは<br />'''いか'''に久(ひさ)しき ものとかはしる |- |style="text-align:right"|54. |[[高階貴子|儀同三司母]] |忘('''わす''')'''れ'''じの 行末(ゆくすゑ)までは かたければ<br />今日('''けふ''')'''を'''かぎりの 命(いのち)ともがな |- |style="text-align:right"|55. |[[藤原公任|大納言公任]] |瀧('''たき''')の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど<br />名('''な''')'''こ'''そ流(なが)れて 猶(なほ)聞(き)こえけれ |- |style="text-align:right"|56. |[[和泉式部]] |'''あらざ'''らむ 此世(このよ)の外(ほか)の 思(おも)ひ出(で)に<br />今('''いま''')'''ひとたびの''' 逢('''あ''')ふ事(こと)もがな |- |style="text-align:right"|57. |[[紫式部]] |巡('''め'''ぐ)りあひて 見(み)しや夫(それ)とも わかぬまに<br />雲('''くも''')'''が'''くれにし 夜半(よは)の月(つき)かな |- |style="text-align:right"|58. |[[大弐三位|大貳三位]] |有馬山('''ありま'''やま) ゐなの笹原(ささはら) 風(かぜ)ふけば<br />'''いで'''そよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする |- |style="text-align:right"|59. |[[赤染衛門]] |安('''やす''')らはで 寝(ね)なましものを 小夜(さよ)更(ふ)けて<br />'''かた'''ぶくまでの 月(つき)を見(み)しかな |- |style="text-align:right"|60. |[[小式部内侍]] |大江山('''おほえ'''やま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ<br />'''まだ'''文(ふみ)も見(み)ず 天(あま)のはし立(だて) |- |style="text-align:right"|61. |[[伊勢大輔]] |'''いに'''しへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重櫻(やへざくら)<br />'''けふ'''九重('''こ'''このへ)に 匂(にほ)ひぬるかな |- |style="text-align:right"|62. |[[清少納言]] |夜('''よ''')'''を'''こめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも<br />世('''よ''')'''に'''逢坂(あふさか)の 關(せき)はゆるさじ |- |style="text-align:right"|63. |[[藤原道雅|左京大夫道雅]] |今('''いま''')'''は'''ただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを<br />人('''ひと''')'''づ'''てならで いふよしもがな |- |style="text-align:right"|64. |[[藤原定頼|権中納言定頼]] |朝('''あさ''')'''ぼらけ''' 宇治('''う'''ぢ)の川(かは)ぎり たえだえに<br />'''あら'''はれ渡(わた)る 瀬々(せぜ)のあじろぎ |- |style="text-align:right"|65. |[[相模 (歌人)|相模]] |恨('''うら''')みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを<br />戀('''こひ''')'''に'''朽(く)ちなむ 名(な)こそをしけれ |- |style="text-align:right"|66. |[[行尊|前大僧正行尊]] |'''もろ'''ともに あはれと思(おも)へ 山櫻(やまざくら)<br />花('''はな''')'''よ'''り外(ほか)に 知(し)る人(ひと)もなし |- |style="text-align:right"|67. |[[周防内侍]] |春('''はる''')'''の'''夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)に<br />'''かひ'''なく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ |- |style="text-align:right"|68. |[[三条天皇|三条院]] |心('''こころ''')'''に'''も あらでうき世(よ)に 長(なが)らへば<br />戀('''こひ''')'''し'''かるべき 夜半(よは)の月(つき)かな |- |style="text-align:right"|69. |[[能因|能因法師]] |嵐('''あらし''')吹(ふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は<br />龍田('''たつ'''た)の川(かは)の にしきなりけり |- |style="text-align:right"|70. |[[良暹|良暹法師]] |淋('''さ'''び)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむれば<br />'''いづこ'''も同(おな)じ 秋(あき)のゆふぐれ |- |style="text-align:right"|71. |[[源経信|大納言経信]] |夕('''ゆふ''')されば 門田(かどた)のいなば おとづれて<br />'''あし'''のまろやに 秋風(あきかぜ)ぞふく |- |style="text-align:right"|72. |[[祐子内親王家紀伊]] |音('''おと''')に聞(き)く たかしの濱(はま)の あだ浪(なみ)は<br />'''かけ'''じや袖(そで)の ぬれもこそすれ |- |style="text-align:right"|73. |[[大江匡房|権中納言匡房]] |高砂('''たか'''さご)の 尾上(をのへ)の櫻(さくら) 咲(さ)きにけり<br />外山('''と'''やま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ |- |style="text-align:right"|74. |[[源俊頼|源俊頼朝臣]] |憂('''う''')'''か'''りける 人(ひと)をはつせの 山(やま)おろしよ<br />'''はげ'''しかれとは 祈(いの)らぬものを |- |style="text-align:right"|75. |[[藤原基俊]] |契('''ちぎ''')'''りお'''きし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にて<br />'''あはれ'''今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり |- |style="text-align:right"|76. |[[藤原忠通|法性寺入道前関白太政大臣]] |和田('''わた''')'''の'''原('''はら''') '''こ'''ぎ出(い)でて見(み)れば 久方(ひさかた)の<br />雲('''くも''')'''ゐ'''にまがふ 沖津(おきつ)白(しら)なみ |- |style="text-align:right"|77. |[[崇徳天皇|崇徳院]] |瀬('''せ''')をはやみ 岩(いは)にせかるる 瀧川(たきがは)の<br />'''われ'''ても末(すゑ)に あはむとぞ思(おも)ふ |- |style="text-align:right"|78. |[[源兼昌]] |淡路島('''あはぢ'''しま) かよふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く聲(こゑ)に<br />'''いく'''夜(よ)ねざめぬ 須磨(すま)の關守(せきもり) |- |style="text-align:right"|79. |[[藤原顕輔|左京大夫顕輔]] |秋風('''あきか'''ぜ)に 棚引(たなび)く雲(くも)の 絶間(たえま)より<br />'''もれ'''出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ |- |style="text-align:right"|80. |[[待賢門院堀河]] |長('''なが''')'''か'''らむ 心(こころ)もしらず 黒髪(くろかみ)の<br />'''みだれて'''今朝(けさ)は ものをこそ思(おも)へ |- |style="text-align:right"|81. |[[徳大寺実定|後徳大寺左大臣]] |'''ほ'''ととぎす なきつる方(かた)を ながむれば<br />'''ただ'''有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる |- |style="text-align:right"|82. |[[藤原敦頼|道因法師]] |思('''おも''')ひわび さても命(いのち)は ある物(もの)を<br />'''うき'''にたへぬは 涙(なみだ)なりけり |- |style="text-align:right"|83. |[[藤原俊成|皇太后宮大夫俊成]] |世('''よ''')'''の'''中('''なか''')'''よ''' 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る<br />山('''やま''')の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞなくなる |- |style="text-align:right"|84. |[[藤原清輔|藤原清輔朝臣]] |永('''なが''')'''ら'''へば また此頃(このごろ)や しのばれむ<br />'''うし'''と見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は戀(こひ)しき |- |style="text-align:right"|85. |[[俊恵|俊恵法師]] |夜('''よ''')'''も'''すがら 物(もの)思(おも)ふころは 明(あ)けやらで<br />閨('''ね'''や)の隙(ひま)さへ つれなかりけり |- |style="text-align:right"|86. |[[西行|西行法師]] |嘆('''なげ''')'''け'''とて 月(つき)やはものを 思(おも)はする<br />'''かこ'''ち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな |- |style="text-align:right"|87. |[[寂蓮|寂蓮法師]] |村雨('''む'''らさめ)の 露(つゆ)もまだひぬ まきの葉(は)に<br />霧('''き'''り)たちのぼる 秋(あき)の夕(ゆふ)ぐれ |- |style="text-align:right"|88. |[[皇嘉門院別当]] |難波江('''なにはえ''')の 蘆(あし)のかり寝(ね)の ひと夜(よ)ゆゑ<br />身('''み''')'''を'''盡('''つくし''')'''てや''' 戀(こひ)わたるべき |- |style="text-align:right"|89. |[[式子内親王]] |玉('''たま''')の緒(を)よ たえなばたえね 永(なが)らへば<br />忍('''しの''')ぶる事(こと)の よわりもぞする |- |style="text-align:right"|90. |[[殷富門院大輔]] |見('''み''')'''せ'''ばやな 雄島(をじま)のあまの 袖(そで)だにも<br />濡('''ぬ''')れにぞぬれし 色(いろ)はかはらず |- |style="text-align:right"|91. |[[九条良経|後京極摂政前太政大臣]] |'''きり'''ぎりす なくや霜夜(しもよ)の さむしろに<br />衣('''ころも''')'''か'''たしき 獨(ひと)りかもねむ |- |style="text-align:right"|92. |[[二条院讃岐]] |'''わがそ'''では 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の<br />人('''ひと''')'''こそし'''らね かわく間(ま)もなし |- |style="text-align:right"|93. |[[源実朝|鎌倉右大臣]] |世('''よ''')'''の'''中('''なか''')'''は''' 常(つね)にもがもな 渚(なぎさ)漕(こ)ぐ<br />海士('''あま''')'''の'''小舟(をぶね)の 綱(つな)でかなしも |- |style="text-align:right"|94. |[[飛鳥井雅経|参議雅経]] |'''みよ'''し野(の)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) 小夜(さよ)更(ふ)けて<br />'''ふる'''郷(さと)さむく 衣(ころも)うつなり |- |style="text-align:right"|95. |[[慈円|前大僧正慈円]] |'''おほけ'''なく 浮世(うきよ)の民(たみ)に おほふかな<br />'''わがた'''つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで) |- |style="text-align:right"|96. |[[西園寺公経|入道前太政大臣]] |花('''はな''')'''さ'''そふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならで<br />'''ふり'''ゆくものは わが身(み)なりけり |- |style="text-align:right"|97. |[[藤原定家|権中納言定家]] |來('''こ''')'''ぬ'''人(ひと)を まつほの浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに<br />'''やく'''や藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ |- |style="text-align:right"|98. |[[藤原家隆 (従二位)|従二位家隆]] |風('''かぜ''')'''そ'''よぐ ならの小川(をがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は<br />'''みそ'''ぎぞ夏(なつ)の しるしなりける |- |style="text-align:right"|99. |[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]] |人('''ひと''')'''も'''をし 人(ひと)も恨(うら)めし 味氣(あぢき)なく<br />世('''よ''')'''を'''思('''お'''も)ふ故(ゆゑ)に 物(もの)おもふ身(み)は |- |style="text-align:right"|100. |[[順徳天皇|順徳院]] |百敷('''もも'''しき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも<br />猶('''なほ''')'''あ'''まりある 昔(むかし)なりけり |} 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、[[天皇]]7名、[[親王]]1名、[[公卿]]28名(うち[[摂政]][[関白]]4名、[[征夷大将軍]]1名)、下級貴族28名、[[僧侶]]12名、詳細不明3名<ref group="注">柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。</ref>。また女性の内訳は、天皇1名、[[内親王]]1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である<ref>[[#日本古典のこころ|宗政五十緒(1970)]]</ref>。 100首はいずれも『[[古今和歌集]]』『[[新古今和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に収載される[[短歌]]から選ばれている。 ;万葉の歌人 :『[[万葉集]]』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、[[防人]]、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、[[大伴家持]]、[[山部赤人]]、[[柿本人麻呂]]など。 ;六歌仙の時代 :この時代になると、[[比喩]]や[[縁語]]、[[掛詞]]などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。[[紀貫之]]によって選ばれた「[[六歌仙]]」([[在原業平]]や[[小野小町]]など)が代表的な歌人である。 ;女流歌人の全盛 :[[平安時代]]の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく[[清少納言]]が『[[枕草子]]』、[[紫式部]]が『[[源氏物語]]』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、[[和泉式部]]、[[大弐三位]]、[[赤染衛門]]、[[小式部内侍]]、[[伊勢大輔]]といった宮廷の才女の歌が載っている。 :この中[[小野小町]]がいるが、小野小町は、六歌仙にも、三六歌仙にも選ばれる女性歌人。[[小野小町]]はいつの時代に生きたかは未だ不明。 ;隠者と武士の登場 :貴族中心の[[平安時代]]から、[[武士]]が支配する[[鎌倉時代]]へと移る激動の世情の中で、[[仏教]]を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、[[西行]]や[[寂蓮]]などの[[隠者]]<!--や[[源実朝]]などの[[武士]]の歌--><!--鎌倉右大臣を「武士」とするのはいかがなものかと-->も登場する。[[藤原定家]]自身も撰者となった『[[新古今和歌集]]』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。 == 用途 == {{出典の明記 | date=2020-02-26 | section=1}} 『百人一首』は単に歌集として鑑賞する以外の用途でも広く用いられている。 === 教材 === たとえば中学や高校では、[[古典]]の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に[[掛詞]]など様々な[[修辞技法]]が用いられ、[[副詞の呼応]]などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。 === かるた === [[ファイル:Karuta kana.jpg|thumb|かるた(取り札)]] [[File:Simonokukaruta.jpg|thumb|下の句かるた。]] 『百人一首』は現在では歌集としてよりも、[[かるた]]としての方が知名度が高く、特に[[正月]]の風物詩としてなじみが深い。『百人一首』のかるたは'''歌がるた'''とも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。 百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。読み札と取り札はともに[[花札]]のように紙を張り重ねてつくられており、大きさは74×53mm程度であることが一般的である。札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。読み札の表面には[[大和絵]]ふうの[[歌人]]の[[肖像]](これは歌仙[[絵巻物]]などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て[[仮名 (文字)|仮名]]書きで[[下の句]]だけが書かれている。読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。 かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である[[任天堂]]、[[大石天狗堂]]、[[田村将軍堂]]で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。 [[江戸期]]までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。また、現在でも[[北海道]]では、「[[下の句かるた]]」というやや特殊な百人一首が行われている<ref name=北海道>{{Cite web|和書|url=https://tabinoto.jp/column/article/00000269|title=北海道伝統の競技カルタはまるで異文化。|work=タビノト|accessdate=2022年9月18日}}</ref>。この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある{{r|北海道}}。江戸期の面影を残したかるたであると言える。 21世紀においては、[[英語]]に[[翻訳]]された百人一首によるかるた大会も行われている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29585010Z10C18A4BC8000/ ピーター・マクミラン「百人一首の心 世界へ響け◇英訳やカルタ大会企画、言葉も時代も超え詩情伝える◇」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年4月20日(文化面)</ref>。 歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。 首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。 ==== 散らし取り(お散らし) ==== 古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。 *読み手を選ぶ(普通は一人)。 *読み札をまとめて読み手に渡し、取り札は百枚すべてを畳の上などに散らして並べる。 *取り手は何人でもOK。みなで取り札のまわりを囲む。このとき不平等にならないように、取り札の頭はそれぞればらばらな方を向いているようにならなければならない。 *読み手が読み札を適当に混ぜてから、札の順に歌を読み上げる。 *歌が読み始められたら、取り手は取り札を探して取ってかまわない。ある文字まで読まれればその札だと確定できるという文字を[[決まり字]]といい、決まり字の把握が札を取る早さを左右する。 *同時に何人もが同じ札を押さえた場合には、手が一番下にある人がこれを取る権利を持つ。 *間違った札を取った場合(お手つき)には何らかの罰則が行われるが、源平のようにしっかりとした決まりごとはない。 *百枚目を取ったところで終了。最も多くの札を取った人が勝ちである。 *本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊び方は百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があった。現在では読み札に一首全てが書かれているため、本来の意図は見失われている。ただし大人数で同時に遊ぶためには都合の良い遊び方で、かつてのかるた会などではたいていこの方法を用いていた。 *お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことを止めるのが常であったようだ。現在では作者名を省き、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰り返す)。読み方に関しては上の句と下の句の間で、間をもたせすぎるのは良くないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題とも言える。 ==== 逆さまかるた ==== 本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には[[漢字]]が混じるため視覚からくる思わぬ[[錯覚]]なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。 ==== 源平合戦 ==== 源平とは[[源氏]]と[[平氏]]のこと。二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 #散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。 #百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。両チームはそれを3段に整列して並べる。 #散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。 #先に札のなくなったチームの勝ちとなる。 [[北海道]]で行われる[[下の句かるた]]大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 ==== リレーかるた ==== 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。 ==== むべ山かるた ==== ビンゴ系の賭博ゲームで、江戸時代中期から明治時代まで大流行した。各人へ予め取り札を均等に分配して、それぞれが五段のピラミッド状に配置する。そして、読み上げられた取り札を裏返していく。横列が全て裏返された時や、雪月花の語が入った役札が読み上げられた際には、規定した得点のやり取りが行われる。一人に配られた取り札が全て裏返されるとゲームは終了して、得点の高い者が勝ちとなる。文屋康秀の「むべ山風をあらしといふらん」が高得点の役札であることから「むべ山」と呼ばれ、専用札も製造販売されていた。 ==== 競技かるた ==== {{main|競技かるた}} 一般社団法人[[全日本かるた協会]]の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。毎年1月の上旬に[[滋賀県]][[大津市]]にある[[近江神宮]]で[[名人・クイーン|名人戦・クイーン戦]]が開催される。名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。[[NHK-BS|NHK BS]]で毎年生中継される。また、7月下旬には[[全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会]]が行われている。そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。 === その他 === 首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。 ==== 坊主めくり ==== 使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。 *男性が描かれた札(殿)を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。 *僧侶が描かれた札(坊主、「ハゲ」と呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。 *女性が描かれた札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。 *[[蝉丸]]の札を引いた場合、引いた人は一回休み。 裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 *山札の数が1束のみのルールや複数の束に分割するルールがある。 *山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。 *天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。 *天皇札を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。 *段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。 *蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。 *蝉丸も坊主扱い。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。[[江戸時代]]の文献には現われないことから、[[明治]]以降に成立したものと考えられている<ref>{{Cite web|和書|author=吉海直人|date=2015-10-26 |url=https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2015-10-26-09-00 |title=「坊主めくり」の謎 |publisher=[[同志社女子大学]] |accessdate=2022-12-05}}</ref>。 ==== 青冠 ==== {{main|色冠}} 読み札のみを使用し取り札は使用しない。4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦[[烏帽子]]、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札には負けるが天智天皇には勝つ。その他の札はどちらにも負ける。絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。 #100枚の札を4人に25枚ずつ全て配る。 #最初の人を決めその人が右隣の人に対して1枚手札から出す。 #出された人は、出された札に対し受けられる札で受けるか、受けられる札を持ってないもしくは持ってても出したくない場合はパスをする。同じ種類の絵柄の札か、出された札に勝つ札(天智天皇もしくは持統天皇)であれば受けることができる。なお、持統天皇は天智天皇のみで受けられ、天智天皇はどの札でも受けられない。 #受けた場合は受けた人が、パスをした場合はした人の右隣の人、つまり最初に出した人の向かい側の人が、自分の右隣の人に対して1枚手札から出す。以下同様に続けていく。 この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。これを何回か行い勝敗を決める。 ====銀行==== 「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びである。和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、[[蝉丸]]の札は最高位の1,000の価値があると見なす。遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする<ref group="注">空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。</ref>。手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。 == 異種百人一首 == 小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首{{Sfn|有吉保|1983|p=124}}。以下に代表的なものを挙げる。 === 近代以前 === ;『[[新百人一首]]』 :[[文明 (日本)|文明]]15年(1483年)成立。[[足利義尚]]撰。小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母([[高階貴子]])と同一人物というミスが起こっている。また、79首目の歌は[[恵子内親王]]の歌となっているが、実際には[[徽子女王]]の歌である。その他、『[[百人秀歌]]』に見える[[源国信|権中納言国信]]も64番に入首(百人秀歌とは別の歌)している。 ;『[[武家百人一首]]』 :同名の物が複数ある。 :#[[17世紀]]半ばの成立と見られている{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=57}}。[[平安時代]]から[[室町時代]]にかけての武人による和歌を採録。[[寛文]]6年(1666年)刊。[[榊原忠次|榊原式部大輔忠次]]の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後に[[尾崎雅嘉]]が『群書一覧』で比定したものである{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=57}}。また寛文12年(1672年)、[[菱川師宣]]の挿絵、和歌は[[東月南周]]の筆で再刊された。菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名されている。 :#[[安政]]5年(1858年)刊。賞月堂主人の著。1.のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=78}}。 :#[[明治]]42年(1909年)刊。[[富田良穂]]撰。神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。歌人の名前を間違えたり、歌の語句を間違えたりなど、杜撰なところが散見される{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=84}}。 ;『[[新撰武家百人一首]]』 :[[18世紀]]成立。[[伊達吉村]]撰。室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録{{Efn2|ただし江戸時代以前の人々は、全体の1割程度に過ぎない{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=60}}。}}。 ;『[[後撰百人一首]]』 :[[19世紀]]初頭に成立。序文によれば[[二条良基]]の撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。勅撰集だけでなく、『[[続詞花和歌集|続詞花集]]』などの私撰集からも採録しているのが特徴。 ;『[[源氏百人一首]]』 :[[天保]]10年(1839年)刊。[[黒沢翁満]]編。『[[源氏物語]]』に登場する人物の[[和歌]]を採録しているが、その数は123人。肖像を入れ、人物略伝、和歌の略注をのせる。和歌は[[松軒由靖]]、絵は[[棔斉清福]]の筆。 ;『[[英雄百人一首]]』 :天保15年(1844年)刊。[[緑亭川柳]]撰。[[神代]]から室町期までの武人の和歌を採録。像を出して歌を書き、上欄に小伝逸話を書くなど、読み物の傾向がある{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=63}}。 ;『小倉擬百人一首』 :[[弘化]]3年(1846)頃刊。[[歌川国芳]]・[[歌川広重]]・[[歌川国貞|三代目歌川豊国]]画[[柳下亭種員]]筆 <ref>[https://www.toyo.ac.jp/site/issyu/317683.html 東洋大学貴重書デジタルコレクション小倉擬百人一首]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313197 小倉擬百人一首 - 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref> ;『[[烈女百人一首]]』 :弘化4年(1847年)刊。緑亭川柳撰。上記の『英雄百人一首』に対し、著名な女性の和歌を採録。『英雄百人一首』と同じく像を出して歌を書き、上欄に小伝逸話を書くなど、読み物としての傾向が強い{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=66}}。 ;『[[続英雄百人一首]]』 :[[嘉永]]2年(1849年)刊。緑亭川柳撰。上記の『英雄百人一首』の続編で、平安から[[安土桃山時代]]までの武将・大名の和歌を採録。例によって像を出して歌を書き、上欄に小伝逸話を書いている{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=69}}。 ;『[[義烈百人一首]]』 :嘉永3年(1850年)刊。緑亭川柳撰。平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。1人1首の趣きをもって本領とするよりも、上欄の小伝逸話と呼応して読み物としての効果に本領を発揮している{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=72}}。 ;『[[女百人一首]]』 :嘉永4年(1851年)成立。[[平安時代|平安]]・[[鎌倉時代|鎌倉期]]の女流歌人の[[和歌]]を採録。 ;『[[勇猛百人一首]]』 :嘉永7年(1854年)刊。源満昭撰。寛文版『武家百人一首』の作者と歌を少しばかり入れ替えたもの{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=75}}。歌人の名前を間違えるなど杜撰なところがあるほか、歌詞における文字の当て方などから、撰者は和歌に対する理解が不十分な人とされる{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=75}}。 === 近代以降 === ;『横文字百人一首』  明治6年([[1873年]])刊。[[黒川真頼]]選。[[ローマ字]]での国語綴輯兼務を命ぜられていた黒川がローマ字綴りの百人一首を刊行<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/862477/1/2 黒川真頼 撰『横文字百人一首』,朝倉久兵衛,明6.3. 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref><ref>川副佳一郎 著『日本ローマ字史』,岡村書店,1922年(大正11年)</ref><ref>土岐善麿 著『日本式になるまで』5頁,東京ローマ字会,1931年(昭和6年)</ref>。 ;『[[義烈回天百首]]』 :明治7年(1874年)刊。[[染崎延房]]編。[[幕末]]の[[志士]]等の和歌を採録。頭書には略伝が記載されているが、物語的逸話や歌の背景などを省略した簡明なものである{{Sfn|伊藤嘉夫|1971b|p=81}}。 ;『[[近世百人一首]]』 :明治26年(1893年)刊『標註七種百人一首』([[博文館]])所収。[[佐佐木信綱]]撰。近世期の和歌を「四季」「恋歌」「雑歌」の題の順に採録{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=41}}。 ;『[[修身百人一首]]』 :明治26年(1893年)刊『標註七種百人一首』(博文館)所収。佐佐木信綱撰。『[[明倫歌集]]』の中より「修身の心深く人々の教えとなるべき歌」を採録{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=44}}。 ;『[[竹柏園百人一首]]』 :大正6年(1917年)1月号『心の花』の附録{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=50}}。佐佐木信綱撰、[[五島茂#家族|石榑千亦]]書。 ;『[[昭和百人一首]]』 :[[昭和]]11年(1936年)に『[[東京日日新聞]]』で前後17回にわたって掲載{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=59}}。当時の現役歌人による各自撰を採録。 ;『[[愛国百人一首]]』 :同名の物が複数ある。 :#昭和15年(1940年)に[[川田順]]が雑誌『[[キング (雑誌)|キング]]』に掲載し、昭和16年(1941年)に[[講談社]]から刊行{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=62}}。恋歌の多い小倉百人一首に代わって「[[愛国心|愛国の精神]]が表現された」名歌を採録。 :#昭和17年(1942年)に[[日本文学報国会]]が選定{{Efn2|選定委員は佐佐木信綱、[[土屋文明]]、[[折口信夫]]、[[斎藤茂吉]]、[[太田水穂]]、[[尾上柴舟]]、[[窪田空穂]]、[[吉植庄亮]]、川田順、[[斎藤瀏]]、[[松村英一]]、[[北原白秋]]ら12名{{Sfn|田中康二|2012|p=9}}。ただし白秋は編纂の中途で逝去した。}}。[[情報局]]の検閲を経て各種[[新聞]]に発表された後、これに改訂と解説を加えた『定本愛国百人一首解説』が昭和18年(1943年)に[[毎日新聞社]]から刊行。概ね上記の川田版と共通しているが{{Efn2|歌人は44人、歌は26首が重なっている{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=62}}。}}、こちらは時代が「万葉集から明治元年以前に物故した人」に限定されている{{Efn2|川田版には、[[岩倉具視]]や[[西郷隆盛]]などの明治以後の人による歌も採録されている。}}。 ;『[[皇国百人一首]]』 :昭和17年(1942年)刊。[[舒明天皇]]を筆頭に[[明治天皇]]までの皇族15人、以下は柿本人麻呂から[[与謝野鉄幹]]に至る歴代の歌を採録。当時の国民精神の動向が窺える{{Sfn|伊藤嘉夫|1971a|p=68}}。 ==== 戦後 ==== ;『[[平成新選百人一首]]』 :平成14年(2002年)刊。[[宇野精一]]編。小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録。[[明成社]]から[[歴史的仮名遣|歴史的かなづかい]]、[[文藝春秋社]]から[[現代仮名遣い|新かなづかい]]で出版という企画が巧妙。 ;『[[今昔秀歌百撰]]』 :平成24年(2012年)刊。[[桶谷秀昭]]監修、[[市川浩]]・[[谷田貝常夫]]編。小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。当初は寄贈だけで、販売せず。 == 題材にした作品 == === 音楽 === *『[[八重衣]]』([[地歌]]・[[箏曲]]) [[石川勾当]]作曲、[[八重崎検校]][[箏]]手付。百人一首より衣を詠んだ歌五種を選び、四季の順に配した[[手事物]]地歌の大曲。「石川の三つもの」(三大名曲)の一つ。 *『[[千鳥の曲]]』(箏曲・[[胡弓]]曲) [[吉沢検校]]作曲。後唄に「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に・・・」が採られている。 *『[[LADY-GO-ROUND]]』(邦楽) [[稲葉浩志]]作詞、[[松本孝弘]]作曲。歌詞の一部に「こひしかるべき」「神のまにまに」「わがなみだかな」の3フレーズが入っている。 *『[[DIAMOND WAVE|State of mind]]』(邦楽) [[倉木麻衣]]作詞、[[大野愛果]]作曲。歌詞の一部に「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ・・・」の歌が入っている。 * [[Au (携帯電話)|AU]] by [[KDDI]] ラジオCM『百人一首篇』(全4曲)中島光一作曲、歌[[バニラビーンズ]]。2010年5月より放送。全歌詞が百人一首の歌からなる。 *『[[さくら百人一首]]』(邦楽)[[Bose・RAM RIDER]]作詞、[[倉本美津留]]作曲、歌[[さくら学院]]。メンバーが一首ずつ選び各々その意味をラップ調で歌っている。 *歌曲集『小倉百人一首』。作曲家・[[薮田翔一]]による100曲の歌集。弦楽四重奏版、ピアノ版、オーケストラ版がある。 *『和歌うた 小倉百人一首 』[[早苗ネネ]] === 小説 === * [[山村美紗]]『[[百人一首殺人事件]]』([[キャサリンシリーズ]]第2作目、[[講談社]]) * [[内田康夫]]『歌枕殺人事件』([[浅見光彦シリーズ]]、[[角川文庫]]) * [[高田崇史]]『[[QED 百人一首の呪]]』([[QEDシリーズ]]1作目、講談社) * [[周防柳]]『身もこがれつつ――小倉山の百人一首』([[中山義秀文学賞]]受賞、中央公論新社) === 漫画 === * [[片山愁]](作画)、工藤治(原作) 『あやかし歌姫かるた』 [[KADOKAWAの漫画レーベル|角川コミックス・エース]] * [[小坂まりこ]] 『[[まんてん・いろは小町]]』 [[ちゃお]]、2008年3月~5月 * [[竹下けんじろう]] 『[[かるた (漫画)|かるた]]』 [[少年チャンピオン・コミックス]] * [[末次由紀]] 『[[ちはやふる]]』 [[BE・LOVE|BE LOVE]]、2007年12月〜2022年8月 * [[杉田圭]] 『[[超訳百人一首 うた恋い。]]』 [[メディアファクトリー]] * [[真柴真]] 『[[詠う!平安京]]』 [[Gファンタジー]] === アニメ映画 === * [[名探偵コナン から紅の恋歌]](2017年) === 映画 === * [[ちはやふる#映画|ちはやふる -上の句-]] (2016年3月) * ちはやふる -下の句- (2016年4月) * ちはやふる -結び- (2018年) === 落語 === * [[崇徳院 (落語)|崇徳院]] * [[千早振る]] * [[猿丸大夫 (落語)|猿丸大夫]] - [[十返舎一九]]『[[東海道中膝栗毛]]』のエピソードを基にした噺。 === ゲーム === ここでは、[[コンピュータ]]を用いるゲームのみを扱う。 * [[タッチで楽しむ百人一首 DS時雨殿]]([[任天堂]] [[ニンテンドーDS]]) * [[DX百人一首]]([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]] [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) * [[百人一首CD-ROM]] [[大石天狗堂]] * [[むすめふさほせ百人一首]] [[インターチャネル|NECインターチャネル]] * ちはやふる百人一首 === テレビ番組 === * [[三枝の国盗りゲーム]](坊主めくりが出てくる) === テレビドラマ === * [[かるたクイーン]](2003年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) * [[かるた小町]](2008年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[咲くやこの花 (テレビドラマ)|咲くやこの花]](2010年、NHK総合) * 想ひそめし〜恋歌百人一首(2015年、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]) === 検定 === *『小倉検定問題集』 [[小倉検定協会]]編 === 翻訳書 === * 『スペイン語で詠う小倉百人一首 (''Cien Poetas, Un Poema Cada Uno, Ogura Hyakunin Isshu'')』 ''[[伊藤昌輝]]''訳、エレナ・ガジェゴ・アンドラーダ監修、2016年、大盛堂書房(日西対訳版、日西音声CD付)。ISBN 978-4884631192 * 『WAKA WAKA 100 - Hyakunin Isshu』Hideaki Nakano、2023年、ISBN 979-8871379042 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=宗政五十緒|title=新編小倉百人一首:日本古典のこころ|date=1970|publisher=中央図書|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I101121816-00|isbn=|ref=日本古典のこころ}} *{{Cite journal|和書|author=伊藤嘉夫|date=1971-03|title=百人一首と佐佐木信綱・愛国百人一首前後|url=http://id.nii.ac.jp/1612/00000043/|journal=跡見学園女子大学紀要|issue=4|pages=35-68|ref={{SfnRef|伊藤嘉夫|1971a}} }} *{{Cite journal|和書|author=伊藤嘉夫|date=1971-03|title=武家百人一首と其の類列の百人一首|url=http://id.nii.ac.jp/1612/00002658/|journal=跡見学園短期大学紀要|issue=7・8|pages=51-84|ref={{SfnRef|伊藤嘉夫|1971b}} }} *{{Cite journal|和書|author=[[有吉保]]|date=1983-01|title=異種百人一首|journal=国文学:解釈と鑑賞|volume=48|issue=1|publisher=至文堂|pages=124-131|ref=harv}} *{{Cite journal|和書|author=[[田中康二]]|date=2012-03|title=幕末勤皇歌研究と時局|url=https://doi.org/10.24546/81008293|journal=神戸大学文学部紀要|issue=39|pages=1-41|ref=harv}} *{{Cite journal|和書|author=[[吉海直人]]|date=2020-01|title=研究資料:もう一つの『百人秀歌』|url=https://doi.org/10.15020/00001849|journal=同志社女子大学学術研究年報|volume=70|pages=146-139|DOI"10.15020/00001849|ref=harv}} === 関連文献 === ;単著 *{{Cite book|和書|author=千葉千鶴子|title=百人一首の世界|date=1992-10|publisher=和泉書院|series=和泉選書73|isbn=4870885689|ref=}} *{{Cite book|和書|author=吉海直人|title=百人一首への招待|date=1998-12|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま新書]]182|isbn=448005782X|ref=}} *{{Cite book|和書|author=吉海直人|title=百人一首の新研究:定家の再解釈論|date=2001-3|publisher=和泉書院|series=研究叢書267|isbn=4757600895|ref=}} *{{Cite book|和書|author=井上宗雄|title=百人一首を楽しくよむ|date=2003-1|publisher=[[笠間書院]]|isbn=4305702525|ref=}} *{{Cite book|和書|author=高橋睦郎|title=百人一首:恋する宮廷|date=2003-12|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1725|isbn=4121017250|ref=}} *{{Cite book|和書|author=井上宗雄|title=百人一首:王朝和歌から中世和歌へ|date=2004-11|publisher=笠間書院|isbn=4305002728|ref=}} *{{Cite book|和書|author=吉海直人|title=百人一首かるたの世界|date=2008-12|publisher=[[新典社]]|series=[[新典社新書]]24|isbn=9784787961242|ref=}} *{{Cite book|和書|author=山本広子|title=狂歌百人一首泥亀の月を読む:戯劇百人一首闇夜礫への改作|date=2009-2|publisher=[[武蔵野書院]]|isbn=9784838602339|ref=}} *{{Cite book|和書|author=関幸彦|title=百人一首の歴史学|date=2009-9|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|series=NHKブックス1143|isbn=9784140911433|ref=}}([[吉川弘文館]]〈読みなおす日本史〉、2021年9月。{{ISBN|9784642071666}}) *{{Cite book|和書|author=吉海直人|title=百人一首を読み直す:非伝統的表現に注目して|date=2011-5|publisher=新典社|series=新典社選書41|isbn=9784787967916|ref=}} *{{Cite book|和書|author=徳原茂実|title=百人一首の研究|date=2015-9|publisher=和泉書院|series=研究叢書462|isbn=9784757607552|ref=}} *{{Cite book|和書|author=酒井茂幸|title=中近世中院家における百人一首注釈の研究|date=2018-6|publisher=新典社|series=研究叢書303|isbn=9784787943033|ref=}} *{{Cite book|和書|author=吉海直人|title=百人一首を読み直す2:言語遊戯に注目して|date=2020-9|publisher=新典社|series=新典社選書97|isbn=9784787968470|ref=}} *{{Cite book|和書|author=水原紫苑|title=百人一首:うたものがたり|date=2021-3|publisher=講談社|series=[[講談社現代新書]]2612|isbn=9784065227909|ref=}} *{{Cite 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概要の項で述べた通り、[[宇都宮頼綱]](宇都宮蓮生)が百人一首のルーツに関わっているため、[https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/rekishi/hyakunin/1007440.html 「百人一首と和歌の都」としてPRしている]。 == 外部リンク == *[https://polygondrill.com/firstkaruta/the-hundred-poems 百人一首かるたを使った遊び方] *[http://atdailib2.atomi.ac.jp/repo/repository/hyakunin/ 跡見学園女子大学図書館百人一首コレクション画像データベース] *[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000186860 百人一首を覚えるための本は? | レファレンス協同データベース] {{百人一首}} {{日本の遊戯}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひやくにんいつしゆ}} [[Category:百人一首|*]] [[Category:かるた]] [[Category:藤原定家]] [[Category:宇都宮頼綱]] [[Category:日本の名数100|にん]]
2003-02-16T00:44:06Z
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花札
花札()は、日本特有のかるたの一種。花かるた、花がるたとも。今では一般に花札といえば八八花()のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48枚という構成は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的である他、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。同じ遊び方でも地域によってルールが異なったり、地域独特の遊び方も存在したりするほか、海外にも伝播している。 日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代で、南蛮貿易を契機にポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えられた。日本の「かるた(歌留多,加留多,骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。天正年間(1573 - 91)にはすでに国産品が作られており、当時の札が1枚だけ現存する。江戸時代には、賭博という閉鎖性と当時の物品流通の事情により、各地で様々なローカルルールが生み出され、それに相応しいように札のデザインも変化していった。それらの札を「地方札」という。 賭博に用いるかるたへの禁制は、江戸時代を通じて出されているが、安永年間(1772-81)の頃から厳しさを増し、寛政の改革ではさらに厳しく取り締まりが行われた。花札は、この禁制からの抜け道として考案されたものと考えられている。それまで12枚×4スートであったものを、花札では数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタに偽装された。『摂陽奇観』によると、1816年には花合(= 花札)が禁止されており、この頃までに花札がかなり普及していたことが窺える。 明治維新以降も引き続き花札は政府により禁止されていたが、1886年には英米のトランプが輸入されることを契機に、花札の販売が事実上解禁され、同年に銀座の上方屋から花札とルールブックが発売された。これにより花札は大正時代にかけて大いに流行した。1892年4月に大審院児島惟謙ら裁判官の花札遊びが問題化、6月起訴され、7月12日免訴となっている(弄花事件)。その一方で、1902年に骨牌税の施行され、花札に課税されるようになると、日本各地のかるた屋は倒産して、地方札は廃れると、各地に伝わる遊び方も伝承されずに消滅していった。なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有している。 1975年から2009年夏まで、京都の松井天狗堂が日本唯一の手摺り花札を製作販売していたが、2010年に閉店し、その後 2016年12月5日に三代目・松井重夫が死去したことで、後継者がいない等の理由により、企業が製品として製作販売する 手摺り花札は途絶えたとされている。 現在、花札を製作販売している企業としては、任天堂、田村将軍堂、大石天狗堂、エンゼルプレイングカードなどがある。 明治期に八八花の図柄は固定化され、各メーカーとも新機軸を打ち出すことは少ないが、任天堂は同社が運営しているポイントのグッズ交換用の景品として、自社のコンピューターゲームに登場する看板キャラクター「マリオ」をあしらった(通常の花札48枚のうち16枚の札がオリジナル柄)「マリオ花札(非売品)」を製造した。2015年11月から装いを新たに、全ての札がオリジナル柄(景品版とは異なる)の「マリオ花札」を商品化していた。また様々なキャラクターなどを用いたデザインの花札が、任天堂以外のメーカーからも製造販売されている。 「花札」の「花」は、花鳥がデザインされているためにこの名がつけられたとされ、花電車・花相撲などに使われている「花」の意味を持つとも考えらえている 花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使えるもの。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 花札の絵柄は以下の通り。札の名称や漢字はもっとも一般的なもの。「短冊・赤短・青短」は「丹札・赤丹・青丹」とも書く。 なお、札の絵は昔は手書きだったものもあるので細かい違いは多数あるが、現在よく見られる任天堂などの札と構図が大きく違うものは特筆した。 花合わせおよび八八では、札の点数は以下の通りである。 この点数がもっとも一般的だが、地域やゲームの種類によって札の点数は異なる。例えば、六百間では光および「梅に鴬」は50点、短冊と桐の黄色のカス札は10点、カス札は0点として計算する。ただし青丹3枚あるいは文字入りの赤丹3枚を揃えると加点がある。ややこしいケースでは「すだおし」というルールでは手役の時点ではカス・5・10・20点判定は八八のものを使用し、競技開始後は「短冊札=1点」、「動物や鳥の描かれているもの(桜に幕・桐に鳳凰除外)=5点」、「植物だけ+桜に幕・桐に鳳凰=10点」と計算する。また、こいこいでは役を作る時にどれがタネでどれがカスであるかの区別が必要なだけで、得点を計算するときは札の点数は無視される。 もっとも普通に行われている「めくり」系のゲームでは、植物と月名の対応に関する知識はほとんど必要ないが、おいちょかぶを花札でやる場合には月名との対応を覚えていないとプレイできない。 月名は旧暦によっている。しかし、「柳に燕」や桐のように季節に植物が一致しないものがある。 地域やゲームの種類によっては、上の表とは異なる対応になっているものがある。たとえば、ひよこでは、柳が2月、桐が6月、牡丹が11月、梅が12月である。これは名古屋地方では一般的な対応であった。 場札と手札を合わせ、さらに山札をめくって場札と合わせるもの。合わせた札は自分のものになる。取った札によって役を作ることができる。花札のゲームとしてはもっともよく行われている。 イタリアのスコパ・英語圏のカシノや、中国で牌九牌を使った釣魚・トランプを使った撿紅点というゲームに類似している。 札の月の合計の1の位を9に近づけるもの。バカラ・牌九などに似ている。株札を使う地域もあるので、株札のゲームもここに含めた。 札の月の合計を15以下で最大の数に近づけるもの。広義のかぶ系であり、かぶ系に含める場合もある。ブラックジャックに似ている。 台札に対して、1つ上の月の札を出していき、手札を早くなくした側を勝ちとするもの。トランプの「ポープ・ジョーン」などに類似する。 俗に言うイカサマやインチキ。 特定のゲームでのみ使用する用語は除く。
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花札は、日本特有のかるたの一種。花かるた、花がるたとも。今では一般に花札といえば八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48枚という構成は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。2人で遊ぶこいこい、3人で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的である他、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。同じ遊び方でも地域によってルールが異なったり、地域独特の遊び方も存在したりするほか、海外にも伝播している。
{{Otheruses|かるたの一種の花札|お笑いコンビ|ハナフダ}} [[ファイル:Hanafuda Koi-Koi Setup.jpg|240px|thumb|right|花札]] {{読み仮名|'''花札'''|はなふだ}}は、[[日本]]特有の[[かるた]]の一種。'''花かるた'''、'''花がるた'''とも。今では一般に花札といえば{{読み仮名|'''八八花'''|はちはちばな}}のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。 48枚という構成は、一組48枚だったころの[[ポルトガル]]の[[トランプ]]が伝来した名残である。2人で遊ぶ[[こいこい]]、3人で遊ぶ[[花合わせ]]、という遊び方が一般的である他、愛好家の中では[[八八]]という遊び方に人気がある。同じ遊び方でも地域によってルールが異なったり、地域独特の遊び方も存在したりするほか、海外にも伝播している。 == 歴史 == 日本に[[カードゲーム]]が初めて上陸したのは[[安土桃山時代]]で、南蛮貿易を契機にポルトガル人によって、[[鉄砲]]や[[キリスト教]]、[[カステラ]]等と共に伝えられた。日本の「[[かるた]](歌留多,加留多,骨牌)」の語源は、[[ポルトガル語]]でカードゲームを示す「{{lang|pt|carta}}」である。[[天正]]年間(1573 - 91)にはすでに国産品が作られており、当時の札が1枚だけ現存する。[[江戸時代]]には、[[賭博]]という閉鎖性と当時の物品流通の事情により、各地で様々なローカルルールが生み出され、それに相応しいように札のデザインも変化していった。それらの札を「地方札」という。 賭博に用いるかるたへの禁制は、江戸時代を通じて出されているが、[[安永 (元号)|安永]]年間(1772-81)の頃から厳しさを増し、[[寛政の改革]]ではさらに厳しく取り締まりが行われた。花札は、この禁制からの抜け道として考案されたものと考えられている。それまで12枚×4[[スート]]であったものを、花札では数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた[[和歌]]カルタに偽装された。『摂陽奇観』によると、1816年には花合(= 花札)が禁止されており<ref>[[浜松歌国]] (1833)『摂陽奇観』巻46(文政二年)「当春花合停止、武蔵野ともいふ歌留多也」</ref>、この頃までに花札がかなり普及していたことが窺える。 [[明治維新]]以降も引き続き花札は政府により禁止されていたが、1886年には英米のトランプが輸入されることを契機に、花札の販売が事実上解禁され、同年に銀座の上方屋から花札とルールブックが発売された<ref>竹窓山人 (1885)『[{{NDLDC|861681}} 花がるた使用法]』 上方屋. (国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。これにより花札は大正時代にかけて大いに流行した。1892年4月に[[大審院]][[児島惟謙]]ら裁判官の花札遊びが問題化、6月起訴され、7月12日免訴となっている([[司法官弄花事件|弄花事件]])。その一方で、1902年に[[トランプ類税|骨牌税]]の施行され、花札に課税されるようになると、日本各地のかるた屋は倒産して、地方札は廃れると、各地に伝わる遊び方も伝承されずに消滅していった。なお、[[任天堂]]は多くの地方札の原版を保有している。<ref>{{Cite web|和書|title=教えてエラいひと!!/トランプ以外についても教えて!! {{~}}花札、株札、サイコロなど{{~}}|publisher=任天堂|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9909/teach/page02.html|accessdate=2020-09-26}}</ref> [[1975年]]から[[2009年]]夏まで、京都の[[松井天狗堂]]が日本唯一の手摺り花札を製作販売していたが、2010年に閉店し、その後 [[2016年]]12月5日に三代目・松井重夫が死去したことで、後継者がいない等の理由により、企業が製品として製作販売する 手摺り花札は途絶えたとされている。 現在、花札を製作販売している企業としては、[[任天堂]]、[[田村将軍堂]]、[[大石天狗堂]]、[[エンゼルプレイングカード]]などがある。 明治期に八八花の図柄は固定化され、各メーカーとも新機軸を打ち出すことは少ないが、任天堂は同社が運営しているポイントのグッズ交換用の景品として、自社の[[コンピューターゲーム]]に登場する看板キャラクター「[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]」をあしらった(通常の花札48枚のうち16枚の札がオリジナル柄)「マリオ花札(非売品)」を製造した。[[2015年]]11月から装いを新たに、全ての札がオリジナル柄(景品版とは異なる)の「マリオ花札<ref>[https://www.nintendo.co.jp/n09/mariohanafuda/ マリオ花札]任天堂 その他の商品 花札・株札</ref>」を商品化していた。また様々なキャラクターなどを用いたデザインの花札が、任天堂以外のメーカーからも製造販売されている。 「花札」の「花」は、花鳥がデザインされているためにこの名がつけられたとされ、花電車・花相撲などに使われている「花」の意味を持つとも考えらえている<ref>{{harvnb|尾佐竹|1925|p=208}}</ref> == 種類 == === 日本各地の花札 === ;八八花(はちはちはな) :「横浜花」や「吟味花」や「綿羊花(らしゃめんばな)」と呼ばれた技法「八八」を遊ぶため、明治期に図案が完成して、現在でも日本全国で使われている花札。特徴としては柳の光札が「小野道風」で、カス札が「太鼓に鬼の手」になっている。 ;虫花(むしはな) :[[大阪]]を中心に遊ばれている「むし」という技法に使用する。通常の花札の6月・7月の札を減らした40枚の構成(厚さは48枚構成に合致させているので少し厚い)になっている。一般的には「虫札」といわれ、図案は八八花とは微妙に異なっている<ref>渡部小童 編『花札を初めてやる人の本』株式会社土屋書店、2010年。 ただし、通常の花札でも該当の札を抜けば遊べる。</ref>。 ;北海花(ほっかいはな) :[[北海道]]で使われていた花札。「金画花」とも呼ばれ、越後花、備前花と同種。 ;越後花(えちごはな) :[[新潟県]]で使われていた花札。カス札上に[[和歌|古歌]]が記されている。柳の光札は雨中を歩く人物(傘で顔が見えなかったり、白拍子のような女性の絵柄もある)である。「金画花」とも呼ばれ、北海花、備前花と同種。 :「大役」「小役」という技法で遊ばれた。「小役」は詳細不明。現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。 ;越後小花(えちごこはな) :[[新潟県]]の上越および佐渡地方<ref group="注釈">新潟県は直江津以西(律令初期は越中国。『奥の細道』でも「越中市振」と記す)で文化・言語が変わる。佐渡と西頚城は電力も60Hzで、JRも西日本(金沢車掌区。新幹線も上越妙高で乗務員の交代がある)に属す。</ref>で使われていた花札。一般的な花札のサイズより一回り小さく、柳の光札は小野道風ではなく、蓑笠を被り雨下駄を履いた狸が描かれており、柳に跳びつこうとする[[カエル]]もいない。「鬼札」という追加札が3枚あるのが特徴。 :オランダロッテルダムに収蔵されている最古の越後小花は、越後花と同様に和歌が記されており、鬼札は1枚のみ。鬼札を使う遊び方が以前はあったようだが伝承されていない。昭和後期(1945~89)までは任天堂で製造販売されており、得意先は上越、糸魚川の色町の芸者衆であったと伝承されている<ref group="注釈">上越市高田区の花街(旧・高田市・田端)の料亭「宇喜世」(国の[[登録有形文化財]]に登録)では複数の「田端芸妓(げいぎ)」が現存する。</ref>。現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。 ;越前花(えちぜんはな) :[[福井県]]で使われていた花札。 ;金時花(きんときはな)または阿波花(あわはな) :四国地方で使われていた花札。金太郎の札があることからこう呼ばれる。[[短冊]]札と素札(カス札)に月数が書かれている。現在の徳島北東部が発祥地といわれていることから「阿波花」の別名が付けられている。現在では大石天狗堂から復刻版が販売されている。 ;奥州花(おうしゅうはな)または山形花(やまがたはな) :[[山形県]]を中心に東北地方で使われていた花札。2枚あるカス札のうち1枚に黒点が打ってある。 ;花巻花(はなまきはな) :[[岩手県]]を中心に東北地方で使われていた花札。 ;備前花(びぜんはな) :[[岡山県]]を中心に使われていた花札。「金画花」とも呼ばれ、北海花、越後花と同種。 === 外国に伝播した花札 === ;大連花(だいれんはな) :中国[[大連市|大連]]在住の邦人が使っていたという花札。短札の背景に模様がついており、「赤短」「くさ」「青短」ごとに背景の柄が異なる。 ;花闘(ファトゥ:{{lang|ko|화투}} / {{lang|ko|花鬪}} / hwatu) :[[朝鮮半島]]に[[李氏朝鮮]]末期に伝えられた花札。日本から最初に伝えられた製品は[[任天堂]]製の花札であるという。{{要出典|date=2020年2月}} :日本統治時代の八月札には、芒のうえの満月に「餅を搗く兎」の絵が描かれる<ref>『近代カルタ文化の研究』より「(二)植民地朝鮮における花札の流行」(日本かるた文化館)</ref>。 :現在はプラスチック製で、商標が桐ではなく、薄の光札(20点札)の満月内に書かれている(メーカーによる)、藤の札が逆向きになっている(これもメーカーによる)といった細かい違いがある。赤短には「紅短(ホンダン、{{lang|ko|홍단}} / {{lang|ko|紅短}} / hongdan)」・青短には「青短(チョンダン、{{lang|ko|청단}} / {{lang|ko|靑短}} / cheongdan)」という字がそれぞれ[[ハングル]]で書かれている。光札には漢字で「光」と書かれた赤い丸印が入っている。また桐を11月、柳(雨)を12月とみなす。ほかにパックの中に柳のカス札の予備や、ジョーカーに似た特殊なカス札がはいっていることがあるが、実際のゲームには使わないことも多い。特殊なカス札は、手札やめくり札の中に出てきたら、それを自分の取った札に追加して(カス2枚または3枚に相当する)、山からもう一枚引くことができる。日本では伝統的なカードゲームといった地位に落ち着いている花札であるが、[[大韓民国|韓国]]では現在でも「3人集まれば必ず花札をする」と言われるほど人気があり、「国民ゲーム」と称されるほどである。 :[[こいこい]]を元にした「[[ゴーストップ (花札)|ゴーストップ]]」がもっとも盛んであるが、ほかに[[六百間]]や、おいちょかぶ系統の「[[ソッタ]]」なども行われる。花札は[[延辺朝鮮族自治州]]などの[[中国]]:の間でも行われている。戦後、韓国で花札賭博が横行し社会問題になったほか、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では花札は禁止されているという。 ;ハワイの花札 :各札の点数や、どの役に使えるかを示すインデックスが札の上に書かれていることがある。ハワイでは短冊が10点・日本で通常10点とする札が逆に5点になる。また、柳に小野道風の札も5点と数える。カス札は0点である。ハワイの花合わせは「さくら」と呼ばれ(肥後花とも)、不如帰・八橋・猪(クサと同じ月の5点札)のように、見慣れない役がある。 === 花札トランプ === 花札・[[株札]](10月までを使用)・トランプのいずれにも使えるもの。[[任天堂]]はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪<ref group="注釈">八重垣姫は上杉謙信の娘(創作・『本朝二十四孝』など)、黄色は藤原氏(信長の黄色の幟に織田木瓜が有名)、「竹に雀」の家紋は伊達家も使用。</ref>の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 == 構成 == 花札の絵柄は以下の通り。札の名称や漢字はもっとも一般的なもの。「短冊・赤短・青短」は「丹札・赤丹・青丹」とも書く。 なお、札の絵は昔は手書きだったものもあるので細かい違いは多数あるが、現在よく見られる任天堂などの札と構図が大きく違うものは特筆した。 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" ! 月 ! 花 ! colspan="2"| 20点札(光) ! colspan="2"| 10点札(種) ! colspan="2"| 5点札(短冊)<ref group="絵札">現存最古の江戸時代中期の花札では短冊は紐で枝や茎などにぶら下げられた構図で、青短冊は青(紺)だが赤短冊は白っぽい(太陽・幕の一部・盃や植物の赤色はそのまま残っている)もので文字なども書かれていなかった、明治の初期に桜の短冊に「みよしの」と書かれたものが現れるが、松や梅が「宇良す(うらす)」、立三本の役が成り立つ月(藤・菖蒲・萩)の短冊に「たてさん」、すべての短冊に「〇月(1月は正月)」表記など、最初のうちは様々なパターンが存在した。また明治時代中期ごろから紐が省略されて短冊が宙に浮いた様な現在の構図になった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札">江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、カラー口絵1。</ref><ref>江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、P71-77・132-133・220-221・231-232。</ref> ! colspan="2"| 1点札(カス) |- | 1月 | [[マツ|松]](まつ) |{{hanafuda|1|20}}||松に[[ツル|鶴]](つる)<ref group="絵札">現在の札は「松の隙間から鶴が見える」だが、現存最古の江戸時代中期の札では「松の手前に鶴がいる」という構図だった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|1|5}}||松に赤短<ref name="akayoroshi" group="絵札">「あかよろし」と書かれている。(「[[の]]」のように見える2文字目は「可」の草書体、いわゆる[[変体仮名]]の「[[か (可の変体仮名)|か]]」([[ファイル:Hiragana_KA_01.png|30px]])である。)「明らかに良い」という意味。</ref> |{{hanafuda|1|1a}} {{hanafuda|1|1b}}||松の[[かす|カス]](2枚) |- | 2月 | [[ウメ|梅]](うめ)<ref group="絵札">江戸時代中期では鶯の札のみ紅梅で後は白っぽい花だった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|2|10}}||梅に[[ウグイス|鴬]](うぐいす)<ref group="絵札">現在の花札ではこの鳥の背中側の体色が鮮やかな緑で[[メジロ]]に似ている(ただし目は赤い)ものが多いが、江戸時代中期の花札ではかなり鈍い色(菖蒲や桐の葉よりも黒っぽい)で実際のウグイスに近い色だった。江橋崇・著『花札』のカラー口絵3によると、明治24年以前には現在のカラーリングのものが出現している。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> |{{hanafuda|2|5}}||梅に赤短<ref name="akayoroshi" group="絵札"/> |{{hanafuda|2|1a}} {{hanafuda|2|1b}}||梅のカス(2枚) |- | 3月 | [[サクラ|桜]](さくら) |{{hanafuda|3|20}}||満開の桜に[[幕|幔幕]](まんまく) | colspan="2"|- |{{hanafuda|3|5}}||桜に赤短<ref group="絵札">「みよしの」と書かれている。古くから桜の名所とされた、[[奈良県]][[吉野]]地方の美称である。</ref> |{{hanafuda|3|1a}} {{hanafuda|3|1b}}||桜のカス(2枚) |- | 4月 | [[フジ (植物)|藤]](ふじ)<ref group="絵札">黒豆(くろまめ)とも言う。ただし江戸時代中期の頃はかなり淡い花の色で後期頃から色が濃くなってくる。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|4|10}}||藤に[[ホトトギス|時鳥]](じちょう)<ref group="絵札">江戸時代中期の花札では背景が無く藤の花とホトトギスのみだった。その後明治時代前期に赤い雲が現れるようになり、明治20年代頃に現在の「赤い三日月」が出現するようになった。</ref><ref>江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、P132。</ref> |{{hanafuda|4|5}}||藤に[[短冊]] |{{hanafuda|4|1a}} {{hanafuda|4|1b}}||藤のカス(2枚) |- | 5月 | [[カキツバタ|杜若]](かきつばた) | colspan="2"|- ||{{hanafuda|5|10}}||杜若に八橋(やつはし)<ref group="絵札">八橋とは[[愛知県]][[知立市]]にある地名である。構図は[[カキツバタ|杜若]]の名所で知られる[[無量寿寺 (知立市)|無量寿寺]]の庭園に因み、[[在原業平]]の歌でも有名である。もっとも花札では[[アヤメ|菖蒲]]と呼んでいる人が多く、杜若と菖蒲が混同されている。</ref> ||{{hanafuda|5|5}}||杜若に短冊 |{{hanafuda|5|1a}} {{hanafuda|5|1b}}||杜若のカス(2枚) |- | 6月 | [[ボタン (植物)|牡丹]](ぼたん)<ref group="絵札">江戸時代中期の頃は得点札は白牡丹、カス札は紅牡丹のものと紅白2本という構図だった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|6|10}}||花王(かおう)に[[チョウ|蝶]](ちょう) |{{hanafuda|6|5}}||牡丹に青短 |{{hanafuda|6|1a}} {{hanafuda|6|1b}}||牡丹のカス(2枚) |- | 7月 | [[ハギ|萩]](はぎ)<ref group="絵札">赤豆(あかまめ)とも言う。ただし江戸時代中期の頃はかなり淡い花の色で後期頃から色が濃くなってくる。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|7|10}}||山萩(やまはぎ)に[[イノシシ|山猪]](やまじし) |{{hanafuda|7|5}}||萩に短冊 |{{hanafuda|7|1a}} {{hanafuda|7|1b}}||萩のカス(2枚) |- | 8月 | [[ススキ|芒]](すすき)<ref group="絵札">「薄」とも書く。坊主(ぼうず)とも言う。 現在のものは芒の丘だが、江戸時代中期の頃は芒の原の構図だった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> |{{hanafuda|8|20}}||芒に[[月|望月]](もちづき)<ref group="絵札">現在のものは「真っ赤な夜空」というものが主流だが江戸時代中期の頃はほぼ紙の地色で月に色を塗ってあるだけだった。江橋崇・著『花札』P124-125ではこれの変化について詳しく述べられており、「無地or薄青(初期)→黄色or薄紅(幕末)→真っ赤(明治)」と変化したとされる。<br>また印刷の都合で木版合羽刷り時代は下か左端の裾が隠れた月(三日月の場合もある)だった(白は印刷しない部分の色なので木版合羽刷りでは周囲を塗ってそこだけ残すのが難しかったため)(同書P125)。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> |{{hanafuda|8|10}}||芒に[[雁]](かり)<ref group="絵札">江戸時代と現在は3羽の雁が「く」の字に飛んでいるが、明治20年代頃の一時期漢数字の「三」のように並列に並び空を覆いつくすように飛ぶ姿に描かれ、このため雁は大きな鳥とみなされ、鶴と鳳凰の札の3枚で「大鳥」という役があった。</ref><ref>江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、P126-127。</ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|8|1a}} {{hanafuda|8|1b}}||芒のカス(2枚) |- | 9月 | [[キク|菊]](きく)<ref group="絵札">江戸時代中期の頃はカス札の1枚(赤菊)以外白菊だった、江戸時代後期頃から黄赤の花のものが現れてくる。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> | colspan="2"|- |{{hanafuda|9|10}}||菊に[[盃]](さかずき) |{{hanafuda|9|5}}||菊に青短 |{{hanafuda|9|1a}} {{hanafuda|9|1b}}||菊のカス(2枚) |- | 10月 | [[カエデ|紅葉]](もみじ) | colspan="2"|- |{{hanafuda|10|10}}||楓(かえで)に[[シカ|鹿]](しか)<ref group="絵札">無視したりすることを意味する隠語の「[[シカト|しかと]]」は、この絵札が語源と言われている。10月の札で鹿が横を向いているので「鹿十」(しかとお)に由来するという説がある。</ref> |{{hanafuda|10|5}}||紅葉に青短 |{{hanafuda|10|1a}} {{hanafuda|10|1b}}||紅葉のカス(2枚) |- | 11月 | [[ヤナギ|柳]](やなぎ)<ref group="絵札">雨(あめ)とも言う。</ref> |{{hanafuda|11|20}}||柳に[[小野道風]]<ref group="絵札">古くは「柳に[[番傘]]をさして走る奴」([[大野群右衛門|斧定九郎]]説があるが、江橋崇は自書の『花札』P129で「定九郎の特徴は浮世絵などでも『長脇差』であるのにそれを描いた花札がない」と否定している)だった。明治時代中期から傘をさして蛙を見ている小野道風になっている。</ref><ref>江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、P127。</ref> |{{hanafuda|11|10}}||柳に[[ツバメ|燕]](つばめ)<ref group="絵札">現在は「黄色に赤」と派手な色の燕になっているが、江戸時代中期の頃は普通の燕の色(黒で喉が赤い)だった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref> |{{hanafuda|11|5}}||柳に短冊 |{{hanafuda|11|1}}||柳のカス(鬼札)<ref group="絵札">この札のみ他の雨札とデザインが大きく異なるが、江戸時代~明治初期の頃は他のカス札同様に「柳の木だけ描かれている」という札であった。明治20年代前半にべったり赤を塗るようになり、明治20年代後半には背後の絵が「晴れた柳の木」から「雨の降る中で『雷光の太鼓釣り』」に代わった。</ref><ref name="江戸時代中期の花札"></ref><ref>江橋崇・著『花札-ものと人間の文化史-』法政大学出版局、2014年、P128。</ref> |- | 12月 |[[キリ|桐]](きり) |{{hanafuda|12|20}}||五桐(ごとう)に[[鳳凰]](ほうおう) | colspan="2"|- | colspan="2"|- |{{hanafuda|12|1a}} {{hanafuda|12|1b}} {{hanafuda|12|1c}}||桐のカス(3枚)<ref group="絵札">桐のカス札のうち1枚にはよく製造元が印刷されている(例:任天堂など)。桐のカス札の1枚は色違いとなっており、ゲームの種類によっては特別な点数を持つ。</ref> |} === 絵柄に関する注釈 === <references group="絵札"/> == 点数 == [[花合わせ]]および[[八八]]では、札の点数は以下の通りである。 {|class="wikitable" ! 種類 || 枚数 || 点数 || 備考 |- | 光 || 5 || 20 || 松に鶴(日の光)、桜に幕(春の光)、芒に月(月の光)、柳に小野道風(雷の光)、桐に鳳凰(星の光) |- | 種 || 9 || 10 || 動物や鳥の描かれている札と菖蒲に八橋、菊に盃。種とは主要な札という意味。 |- | 短冊 || 10 || 5 || 短冊の描かれている札 |- | カス || 24 || 1 || 植物だけが描かれている札(0点とする場合がある)。粕とは最も下等な札という意味。 |} この点数がもっとも一般的だが、地域やゲームの種類によって札の点数は異なる。例えば、[[六百間]]では光および「梅に鴬」は50点、短冊と桐の黄色のカス札は10点、カス札は0点として計算する。ただし青丹3枚あるいは文字入りの赤丹3枚を揃えると加点がある。<br />ややこしいケースでは「すだおし」というルールでは手役の時点ではカス・5・10・20点判定は八八のものを使用し<ref group="注釈">例えば「植物だけの札が6枚+光札1枚」なら「20点が1枚で残りがカスなので光一」とする。</ref>、競技開始後は「短冊札=1点」、「動物や鳥の描かれているもの(桜に幕・桐に鳳凰除外)=5点」、「植物だけ+桜に幕・桐に鳳凰=10点」と計算する。<br>また、[[こいこい]]では役を作る時にどれがタネでどれがカスであるかの区別が必要なだけで、得点を計算するときは札の点数は無視される。 == 植物の種類と月名との対応 == もっとも普通に行われている「めくり」系のゲームでは、植物と月名の対応に関する知識はほとんど必要ないが、[[おいちょかぶ]]を花札でやる場合には月名との対応を覚えていないとプレイできない。 月名は[[旧暦]]によっている。しかし、「柳に燕」や桐のように季節に植物が一致しないものがある。 地域やゲームの種類によっては、上の表とは異なる対応になっているものがある。たとえば、[[ひよこ (花札)|ひよこ]]では、柳が2月、桐が6月、牡丹が11月、梅が12月である。これは[[中京圏|名古屋地方]]では一般的な対応であった<ref>{{cite book|和書|author=司法省調査課|year=1927|title=[{{NDLDC|1269696/11}} 名古屋管内賭博要覧(司法資料第121号)]|page=8}} (国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。 == 競技種目、競技方法 == === めくり系 === 場札と手札を合わせ、さらに山札をめくって場札と合わせるもの。合わせた札は自分のものになる。取った札によって役を作ることができる。花札のゲームとしてはもっともよく行われている。 [[イタリア]]の[[スコパ]]・[[英語圏]]の[[カシノ]]や、中国で[[牌九|牌九牌]]を使った釣魚・トランプを使った[[撿紅点]]というゲームに類似している。 * [[花合わせ]](別名『ばかっ花』) * [[こいこい]] * [[六百間]] * [[八八]] * [[二人八八]] * [[はち (花札)|はち]] * [[むし花]] * [[さくら (花札)|さくら]] (ハワイのゲーム) * [[ゴーストップ (花札)|ゴーストップ]] (韓国のゲーム) === かぶ系 === 札の月の合計の1の位を9に近づけるもの。[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]・[[牌九]]などに似ている。[[株札]]を使う地域もあるので、株札のゲームもここに含めた。 * [[おいちょかぶ]] * [[五枚株]] * [[かちかち]] * [[ソッタ]] (韓国のゲーム) === きんご系 === 札の月の合計を15以下で最大の数に近づけるもの。広義のかぶ系であり、かぶ系に含める場合もある。[[ブラックジャック]]に似ている。 * [[きんご]] === よみ系 === 台札に対して、1つ上の月の札を出していき、手札を早くなくした側を勝ちとするもの。トランプの「[[ポープ・ジョーン]]」などに類似する。 * [[ポカ]] * [[ひよこ (花札)|ひよこ]] == 花札の不正行為 == 俗に言う[[イカサマ]]やインチキ。 ; 目じるし : 特定の札に傷や染みなどの細工を施す、俗に言う「ガン札」。厚みを変える「あつうすガン」、手触りを変える「ざらすべガン」等がある。 ; さくら : 競技に参加していない第三者が、競技に参加している者と組んで対戦者の手札を覗き、それを相手に手振りなどの動作で伝える行為のこと。 ; 尻のぞき : 山札の一番下を覗き見る行為のこと。 {{節スタブ}} == 用語 == 特定のゲームでのみ使用する用語は除く。 ;親:札を合わせる段階で最初に札を出す人。 ;胴二:札を合わせる段階で二番目に札を出す人。「ナカ」とも言う。 ;尾季(ビキ):札を合わせる段階で3番目の人。古くは「大引(おおびき)」と言った。 ;のぞむ:切った札の上下を入れ替える(カットする)こと。胴二が行うことが多い。 ;まく:札を配ること。ふつうは親が行う。 ;サシ:ふたりで競技すること。 ;手役:札を合わせはじめる前の手札によって決まる役。 ;出来役:札を合わせはじめてから取った札によって決まる役。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書 |last=尾佐竹 |first=猛 |year=1925 |title=[{{NDLDC|1018555}} 賭博と掏摸の研究] |publisher=総葉社書店 }} * {{Citation|和書 |last=池間 |first=里代子 |year=2009 |title=花札の図像学的考察 |periodical=流通経済大学社会学部論叢 |volume=19 |pages=11-26 |publisher=流通経済大学 |naid=110007191037 |ncid=AN10281220 }} * 淡路まもる 編『花札の遊び方』文進堂、昭和56年8版。 * 渡部小童 編『花札を初めてやる人の本』株式会社土屋書店、2010年、ISBN 978-4-8069-1129-6 * [[江橋崇]]・著『花札-ものと人間の文化史-』[[法政大学出版局]]、2014年、ISBN 978-4-588-21671-8 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|ゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}} * [[天正かるた]] * [[うんすんカルタ]] * [[手本引]] == 外部リンク == {{Wikibooks|花札}} {{Commonscat|Hanafuda}} * [https://www.nintendo.co.jp/others/hanafuda_kabufuda/howtoplay/ 歴史・遊びかた|花札・株札] - 任天堂 * {{Kotobank}} {{花札}} {{日本の遊戯}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はなふた}} [[Category:花札|*]] [[Category:かるた]] [[Category:花に関する文化]]
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1,959
DFPT法
DFPT法は、密度汎関数摂動論(英語:density functional perturbation theory、略称:DFPT)に基づく電子状態計算の方法の一つ。分子または結晶中の原子核の変位に対応するポテンシャル変化を摂動として扱い、摂動状態についても非摂動状態と同様に、拘束条件付き変分原理を満たす形式で記述できるとした理論。周期系に対するDFPTはBaroniらによって1987年に提唱された。DFPTにより、任意の波数ベクトルを持つ原子の変位に伴う全エネルギーの二階微分を高精度で効率よく計算できる(線形応答理論を使う)。これから基準振動のエネルギーまたはフォノンバンド(フォノンバンドからフォノン状態密度も求められる)を得る事ができる。同様の手法を使ってマグノンの計算をさせることも可能。 DFPT法で扱う系が超伝導体の場合、DFPT法で得られたフォノン(格子振動)に関しての情報と、同時に求めた電子状態の情報から、BCS理論の範囲内での超伝導になる転移温度を求めることができる。通常のバンド計算手法でも、フォノン等の情報が従来型の方法で求められれば上記と同様に超伝導転移温度の計算は可能。 また、フォノンの分散だけでなく誘電率、弾性定数、圧電定数などの応答係数の計算にも適用されている。
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{{出典の明記|date=2013年9月}} '''DFPT法'''は、密度汎関数摂動論([[英語]]:density functional perturbation theory、略称:'''DFPT''')に基づく[[電子状態計算]]の方法の一つ<ref>S. Baroni, S. de Gironcoli, A. Dal Corso and P. Giannozi, Review of Modern Physics, Vol. 73 (2001) 515.</ref>。[[分子]]または[[結晶]]中の[[原子核]]の変位に対応するポテンシャル変化を[[摂動]]として扱い、摂動状態についても非摂動状態と同様に、拘束条件付き[[変分原理]]を満たす形式で記述できるとした理論。周期系に対するDFPTはBaroniらによって[[1987年]]に提唱された。DFPTにより、任意の波数ベクトルを持つ原子の[[変位]]に伴う全エネルギーの二階[[微分]]を高精度で効率よく計算できる([[線形応答理論]]を使う)。これから基準振動のエネルギーまたは[[フォノンバンド]](フォノンバンドから[[フォノン状態密度]]も求められる)を得る事ができる。同様の手法を使って[[マグノン]]の計算をさせることも可能。 DFPT法で扱う系が[[超伝導体]]の場合、DFPT法で得られた[[フォノン]](格子振動)に関しての情報と、同時に求めた電子状態の情報から、[[BCS理論]]の範囲内での超伝導になる[[転移温度]]を求めることができる。通常のバンド計算手法でも、フォノン等の情報が従来型の方法で求められれば上記と同様に超伝導転移温度の計算は可能。 また、フォノンの分散だけでなく誘電率、弾性定数、圧電定数などの応答係数の計算にも適用されている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:DFPT}} [[Category:固体物理学]] [[Category:計算物理学]]
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2013-09-09T09:58:28Z
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1,960
松任谷由実
松任谷 由実(まつとうや ゆみ、1954年〈昭和29年〉1月19日 - )は、日本のシンガーソングライターである。本名同じ。旧姓名及び旧芸名は、荒井 由実(あらい ゆみ)。 1972年にシングル「返事はいらない」でデビュー。一部企画では、愛称の「ユーミン(Yuming)」名義での活動もある。紫綬褒章受章者(2013年〈平成25年〉)。公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。所属レコード会社はユニバーサルミュージック(旧:EMIミュージック・ジャパン)。血液型はO型。 他のアーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじったペンネームである呉田 軽穂(くれだ かるほ)を使用する場合もある。 夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。 立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。 雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1972年、荒井由実の名でEMIミュージック・ジャパンからデビューし、1976年の結婚以降は松任谷由実へ改姓。2013年、EMIJ解散に伴いユニバーサルミュージックへと自動的に転籍。 1954年1月19日、3男2女の第4子(次女)として生まれる。6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。 1966年4月立教女学院中学校に進学。 中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。またフィンガーズの追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。 立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける。 14歳のころ、当時親しかったシー・ユー・チェンが荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。 1971年、高校3年生のときに書いたデモテープが採用され、加橋かつみに「愛は突然に...」を提供し、17歳で作曲家としてデビューした。採用した日本フォノグラムのプロデューサー・本城和治は「ユーミンの声はフランソワーズ・アルディが歌っているみたいな、日本人にはちょっといないタイプで好きになりました。それでレコーディングにも来てもらったんですが、すごくいいセンスしていると思ったのに、彼女を歌手にしようという発想はできなかった。プロデューサー人生、最大の失敗と言っていいかもしれない。彼女は当初は好きだったブリティッシュポップ系の作品が多かったんですが、マンタ(松任谷正隆)と付き合うようになってから、アメリカンポップスも聴くようになった。それで『ルージュの伝言』みたいな曲も書くようになったんです」などと述べている。 染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。 元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。 1973年11月に、キャラメル・ママらとレコーディングしたファーストアルバム『ひこうき雲』を発売。デビュー時は特に話題になることはなく、デビューから1年半の間は、パーソナリティ・林美雄が金曜日第2部(27:00 - 29:00)を担当していたTBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」以外にはマスメディアに取り上げられない状況が続いたが、林のプッシュもあり、徐々に知名度を上げてゆく。石川セリや山崎ハコも、同番組により知られるようになった。 1974年より本格的にステージ活動を開始する。 デビュー直後は「女拓郎」「女陽水」と呼ばれたが、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいもの」などと著書で述べている。 1975年8月発売のフォークグループバンバンへの提供曲「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得し、また同年10月発売の自身のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャートシングル1位を獲得、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなった。このヒットがきっかけとなり、自身の過去作品『ひこうき雲』や『MISSLIM』の売り上げも急激かつ長期的に上昇し、75年発表の『COBALT HOUR』は46万枚以上を売り上げるヒット、76年発表の自身初のベストアルバム『YUMING BRAND』は初となるアルバム1位を獲得、76年アルバム年間ランキングでも3位の大ヒットとなり、荒井由実期における最大の売り上げを誇るなど、1975年後半から1976年にかけて荒井由実ブーム(第一次ブーム)が到来する。 『映画ファン(eiga fan)』(愛宕書房)は、1976年4月号で『フォーク界にふきあれるウーマン・リブ旋風 女性シンガー・ソングライターたち』という特集を組み、吉見佑子は「出揃ったばかりの女性シンガー・ソングライターたち」「女性シンガー・ソングライターがあっという間に増えてしまったという感じが強いニューミュージックの世界。どうしても男のコの印象の方が強烈だけど、女のコもなかなかどうして立派な足並みが春に向かって揃いそう」と、当時抬頭が目立った女性シンガー・ソングライターたちを取り上げ、荒井由実、イルカ、吉田美奈子、五輪真弓、金子マリ、山崎ハコ、中山ラビらを紹介し、冒頭で荒井を取り上げ、「歌そのものより、歌ってるムードがチャームポイント。フォークとかロックとかそういうジャンルに見せる歌として登場して華麗にユーミンの世界をつくりあげたことはとてもすてきなお話。八王子の歌姫も今やファンタジックなポップスターとしてアイドル的存在になった。作詞・作曲の方もバンバンの『『いちご白書』をもう一度』というビッグ・ヒットを生んで以来、大忙しで着実に作りつづけていることは御立派。青春そのものの詩を書かせたら、やっぱりきれいでわくわくしまう。『ひこうき雲』の頃はあのすました笑顔のゆくえがうつろだったけど『コバルトアワー』あたりでユーミンの世界がはっきり見えたみたい。ユーミン・ファンとしては歌いつづけられる限り、こわれそうな青春を表現してもらいたい」などと評している。また番組名が書かれていないが、「1976年3月14日(日)の夜、TBSテレビの夜7:30~9:00枠で、今までも一部の放送局でミニ・コンサートを開いたことはあるが、ユーミンが初めて全国ネットのテレビに出演する」と書かれている。荒井のシングルヒットは前述のように1975年10月リリースの「あの日にかえりたい」が初めてであるが、これ以前の女性シンガー・ソングライターの大ヒットとしては、1973年12月リリースの小坂明子「あなた」、1974年3月リリースのりりィ「私は泣いています」、1975年5月リリースの小坂恭子「想い出まくら」などがあり、彼女たちは毎日のようにテレビに出て歌ったが、荒井はテレビに全く出なかったため、当時のテレビの影響力を考えれば、荒井が世間一般からどの程度の知名度があったものなのかは分からない。1970年代半ばころから、荒井らニューミュージック系歌手のアルバムがチャートを席捲してはいたが、シングルレベルでは歌謡曲・演歌・企画ものがまだまだ強い時代であった。1979年5月5日発行の『NEW MUSIC LAND』(近代映画社)での特集「NEW MUSIC HISTORY」では「1976年7月に丸山圭子の『どうぞこのまま』が発売され、女性シンガー・ソング・ライターが注目され、ブームが起こる」と書かれている。 荒井は自身の音楽性について『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と述べている。 1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行する。結婚を機に歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと本人は語っている。 結婚以降、荒井由実ブームが下火になったことや改名の影響などもあり、78〜80年のアルバムの売り上げは10〜20万枚に留まるなど全盛期に比べ大幅に減退し、しばらくの間不振が続いた。但し、興業的には低迷期であったが、曲のクオリティは依然として高く、現在でもメジャーである「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」などの楽曲はこの期間に制作されたものである。 その後、1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』は荒井由実期の最後のアルバム『14番目の月』以来5年ぶりの1位獲得となり、それ以降のオリジナルアルバムは、1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』まで17枚連続でオリコン1位を獲得することとなる。 ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」に加え「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」「時をかける少女」などもこの頃制作された。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。 1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。 1980年代頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である松本隆からの依頼で松田聖子の「赤いスイートピー」の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「呉田軽穂」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降聖子に対してシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。 1981年に端を発する第二次ブーム以降、アルバムの売り上げは高水準に保たれ、若干の増加傾向の中、凡そ50〜70万枚で安定的に推移していた。その中、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』の売り上げが、前年発売のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』の77万枚から、158万枚と一気に約2倍のセールスへと急増し、自身初となるアルバム年間ランキング1位を獲得した。この年の音楽界は松任谷由実の独走状態となり、同アルバムは次作が発売されるまでの約一年間、オリコンチャートにランクインし続けることとなった。また翌1989年の『LOVE WARS』、1990年の『天国のドア』と 3作品連続で年間1位を獲得。特に『天国のドア』では、当時の日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新し、史上初のアルバム200万枚出荷を記録。翌1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームが到来した。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。 1985年以降の「バブル景気」時代人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。 当時比較されがちであった、中流以下の地方の若者に人気のあった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、一億総中流かつ上昇志向のバブル時代に沸く時代の波に乗った。 1990年代のバブル崩壊後は精神世界や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「砂の惑星」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。 1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングルで自身初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」も続けてミリオンセラーを記録、 3作品連続でのミリオンセラーとなった。また、同年末発売のアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第四次ブームと呼べる年となった。 1996年、荒井由実名義でのセルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。 1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が 380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。 1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。 国立国語研究所の調査によると、松任谷由実及び中島みゆきの歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった。 2005年、NHK紅白歌合戦(第56回)に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが東日本大震災の被災地へ寄付された。 2012年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった。 2012年、2014年、2017年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催。 2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックへと自動的に転籍した。 2013年春の叙勲で紫綬褒章受章。 同年、「岩谷時子賞」を受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)。 2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。 2016年には38枚目のオリジナルアルバム『宇宙図書館』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。 2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民。 2018年にはベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。 2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。 2020年12月1日には、4年ぶりのアルバム『深海の街』を発売し、2021年9月30日からそれに連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。 2022年10月4日には、デビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて、 2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった 。(2022年11月現在) 同年、シンガーソングライターとして史上初となる文化功労者に選出 。これに対して松任谷はコメントを発表した 。 2022年12月15日に日本テレビで放送された「世界一受けたい授業2時間SP」で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている。 近年は手嶌葵、一青窈、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、松田聖子、Char、薬師丸ひろ子への楽曲提供も行っている。 ※順位は全てオリコンの発表に基づく。 タイアップのあった曲のみ キーボード:松任谷正隆 など ドラム:林立夫、VINNIE COLAIUTA、JOHN ROBINSON、島村英二、江口信夫、MIKE BAIRD、渡嘉敷祐一 など ベース:高水健司、細野晴臣、NEIL STUBENHAUS、美久月千晴、LELAND SKLAR など ギター:松原正樹、鈴木茂、DEAN PARKS、鳥山雄司、松任谷正隆、MICHAEL LANDAU、今剛、PAUL JACKSON, JR. など パーカッション:斉藤ノヴ、浜口茂外也、ペッカー、MICHAEL FISHER、LUIS CONTE など サックス:DAN HIGGINS、山本拓夫、JAKE H. CONCEPCION、LARRY WILLIAMS など トランペット:JERRY HEY、GARY GRANT、西村浩二、菅坡雅彦、数原晋、羽鳥幸次 など トロンボーン:BILL REICHENBACH、村田陽一、新井英治、平内保夫、岡田澄雄 など フルート:DAN HIGGINS、JAKE H. CONCEPCION、衛藤幸雄 など ストリングス:阿部雅士ストリングス、スージー片山ストリングス、日色ストリングス、トマト・ストリングス・アンサンブル、玉野嘉久 など コーラス:今井マサキ、佐々木詩織、OTOTACHIBANA、シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子、村松邦男)、吉田美奈子、ハイ・ファイ・セット、BUZZ、タイム・ファイブ、EVE(LEONA、CLARA、LILIKA)、桐ヶ谷仁、桐ヶ谷‘‘BOBBY’’俊博、白鳥英美子、杉真理、須藤薫、木戸やすひろ、比山貴咏史、広谷順子、The Waters、松任谷正隆 など ジャパンエフエムネットワーク(JFN)の系列番組では、1982年の担当開始から枠がなくなったことがない。
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女性シンガー・ソングライターたち』という特集を組み、吉見佑子は「出揃ったばかりの女性シンガー・ソングライターたち」「女性シンガー・ソングライターがあっという間に増えてしまったという感じが強いニューミュージックの世界。どうしても男のコの印象の方が強烈だけど、女のコもなかなかどうして立派な足並みが春に向かって揃いそう」と、当時抬頭が目立った女性シンガー・ソングライターたちを取り上げ、荒井由実、イルカ、吉田美奈子、五輪真弓、金子マリ、山崎ハコ、中山ラビらを紹介し、冒頭で荒井を取り上げ、「歌そのものより、歌ってるムードがチャームポイント。フォークとかロックとかそういうジャンルに見せる歌として登場して華麗にユーミンの世界をつくりあげたことはとてもすてきなお話。八王子の歌姫も今やファンタジックなポップスターとしてアイドル的存在になった。作詞・作曲の方もバンバンの『『いちご白書』をもう一度』というビッグ・ヒットを生んで以来、大忙しで着実に作りつづけていることは御立派。青春そのものの詩を書かせたら、やっぱりきれいでわくわくしまう。『ひこうき雲』の頃はあのすました笑顔のゆくえがうつろだったけど『コバルトアワー』あたりでユーミンの世界がはっきり見えたみたい。ユーミン・ファンとしては歌いつづけられる限り、こわれそうな青春を表現してもらいたい」などと評している。また番組名が書かれていないが、「1976年3月14日(日)の夜、TBSテレビの夜7:30~9:00枠で、今までも一部の放送局でミニ・コンサートを開いたことはあるが、ユーミンが初めて全国ネットのテレビに出演する」と書かれている。荒井のシングルヒットは前述のように1975年10月リリースの「あの日にかえりたい」が初めてであるが、これ以前の女性シンガー・ソングライターの大ヒットとしては、1973年12月リリースの小坂明子「あなた」、1974年3月リリースのりりィ「私は泣いています」、1975年5月リリースの小坂恭子「想い出まくら」などがあり、彼女たちは毎日のようにテレビに出て歌ったが、荒井はテレビに全く出なかったため、当時のテレビの影響力を考えれば、荒井が世間一般からどの程度の知名度があったものなのかは分からない。1970年代半ばころから、荒井らニューミュージック系歌手のアルバムがチャートを席捲してはいたが、シングルレベルでは歌謡曲・演歌・企画ものがまだまだ強い時代であった。1979年5月5日発行の『NEW MUSIC LAND』(近代映画社)での特集「NEW MUSIC HISTORY」では「1976年7月に丸山圭子の『どうぞこのまま』が発売され、女性シンガー・ソング・ライターが注目され、ブームが起こる」と書かれている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "荒井は自身の音楽性について『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行する。結婚を機に歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと本人は語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "結婚以降、荒井由実ブームが下火になったことや改名の影響などもあり、78〜80年のアルバムの売り上げは10〜20万枚に留まるなど全盛期に比べ大幅に減退し、しばらくの間不振が続いた。但し、興業的には低迷期であったが、曲のクオリティは依然として高く、現在でもメジャーである「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」などの楽曲はこの期間に制作されたものである。 その後、1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』は荒井由実期の最後のアルバム『14番目の月』以来5年ぶりの1位獲得となり、それ以降のオリジナルアルバムは、1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』まで17枚連続でオリコン1位を獲得することとなる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「埠頭を渡る風」「青いエアメイル」「DESTINY」「恋人がサンタクロース」に加え「カンナ8号線」「真珠のピアス」「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」「時をかける少女」などもこの頃制作された。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1980年代頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である松本隆からの依頼で松田聖子の「赤いスイートピー」の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「呉田軽穂」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降聖子に対してシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1981年に端を発する第二次ブーム以降、アルバムの売り上げは高水準に保たれ、若干の増加傾向の中、凡そ50〜70万枚で安定的に推移していた。その中、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』の売り上げが、前年発売のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』の77万枚から、158万枚と一気に約2倍のセールスへと急増し、自身初となるアルバム年間ランキング1位を獲得した。この年の音楽界は松任谷由実の独走状態となり、同アルバムは次作が発売されるまでの約一年間、オリコンチャートにランクインし続けることとなった。また翌1989年の『LOVE WARS』、1990年の『天国のドア』と 3作品連続で年間1位を獲得。特に『天国のドア』では、当時の日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新し、史上初のアルバム200万枚出荷を記録。翌1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームが到来した。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1985年以降の「バブル景気」時代人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当時比較されがちであった、中流以下の地方の若者に人気のあった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、一億総中流かつ上昇志向のバブル時代に沸く時代の波に乗った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1990年代のバブル崩壊後は精神世界や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「砂の惑星」「春よ、来い」「輪舞曲」などを作曲する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングルで自身初のミリオンセラーとなり、翌1994年発売の「Hello, my friend」「春よ、来い」も続けてミリオンセラーを記録、 3作品連続でのミリオンセラーとなった。また、同年末発売のアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第四次ブームと呼べる年となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1996年、荒井由実名義でのセルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が 380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国立国語研究所の調査によると、松任谷由実及び中島みゆきの歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2005年、NHK紅白歌合戦(第56回)に松任谷由実 with Friends Of Love The Earth名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが東日本大震災の被災地へ寄付された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2012年、2014年、2017年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックへと自動的に転籍した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2013年春の叙勲で紫綬褒章受章。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年、「岩谷時子賞」を受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2016年には38枚目のオリジナルアルバム『宇宙図書館』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年にはベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2018年9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2020年12月1日には、4年ぶりのアルバム『深海の街』を発売し、2021年9月30日からそれに連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2022年10月4日には、デビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて、 2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった 。(2022年11月現在)", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "同年、シンガーソングライターとして史上初となる文化功労者に選出 。これに対して松任谷はコメントを発表した 。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2022年12月15日に日本テレビで放送された「世界一受けたい授業2時間SP」で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "近年は手嶌葵、一青窈、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、松田聖子、Char、薬師丸ひろ子への楽曲提供も行っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "※順位は全てオリコンの発表に基づく。", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "タイアップのあった曲のみ", "title": "アーティストによるカバー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "キーボード:松任谷正隆 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ドラム:林立夫、VINNIE COLAIUTA、JOHN ROBINSON、島村英二、江口信夫、MIKE BAIRD、渡嘉敷祐一 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ベース:高水健司、細野晴臣、NEIL STUBENHAUS、美久月千晴、LELAND SKLAR など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ギター:松原正樹、鈴木茂、DEAN PARKS、鳥山雄司、松任谷正隆、MICHAEL LANDAU、今剛、PAUL JACKSON, JR. など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "パーカッション:斉藤ノヴ、浜口茂外也、ペッカー、MICHAEL FISHER、LUIS CONTE など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "サックス:DAN HIGGINS、山本拓夫、JAKE H. CONCEPCION、LARRY WILLIAMS など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "トランペット:JERRY HEY、GARY GRANT、西村浩二、菅坡雅彦、数原晋、羽鳥幸次 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "トロンボーン:BILL REICHENBACH、村田陽一、新井英治、平内保夫、岡田澄雄 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "フルート:DAN HIGGINS、JAKE H. CONCEPCION、衛藤幸雄 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ストリングス:阿部雅士ストリングス、スージー片山ストリングス、日色ストリングス、トマト・ストリングス・アンサンブル、玉野嘉久 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "コーラス:今井マサキ、佐々木詩織、OTOTACHIBANA、シュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子、村松邦男)、吉田美奈子、ハイ・ファイ・セット、BUZZ、タイム・ファイブ、EVE(LEONA、CLARA、LILIKA)、桐ヶ谷仁、桐ヶ谷‘‘BOBBY’’俊博、白鳥英美子、杉真理、須藤薫、木戸やすひろ、比山貴咏史、広谷順子、The Waters、松任谷正隆 など", "title": "主なサポートミュージシャン" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ジャパンエフエムネットワーク(JFN)の系列番組では、1982年の担当開始から枠がなくなったことがない。", "title": "出演" } ]
松任谷 由実は、日本のシンガーソングライターである。本名同じ。旧姓名及び旧芸名は、荒井 由実。 1972年にシングル「返事はいらない」でデビュー。一部企画では、愛称の「ユーミン(Yuming)」名義での活動もある。紫綬褒章受章者(2013年〈平成25年〉)。公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。所属レコード会社はユニバーサルミュージック。血液型はO型。 他のアーティストへの作品提供の際には、本名のほか、グレタ・ガルボをもじったペンネームである呉田 軽穂を使用する場合もある。 夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。
{{別人|新井祐美|redirect=荒井由実}} {{複数の問題 |存命人物の出典明記=2015-05 |独自研究=2015-10 |大言壮語=2015-10 }} {{加筆|呉田軽穂について(松任谷由実との差別化など)|date=2016-09}} {{Infobox Musician | 名前 = 松任谷 由実 | 背景色 = singer | 出生名 = 荒井 由実 | 別名 = ユーミン(Yuming)<br/>呉田 軽穂{{Refnest|group="注"|基本的に本人が歌わない前提の楽曲提供時に使われるペンネーム。}} | 画像 = [[File:Yumi-Matsutoya-1989.jpg|250px]] | 画像説明 = 1989年 | 出生 = {{生年月日と年齢|1954|1|19}} | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[八王子市]] | 死没 = | 学歴 = [[多摩美術大学]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[ポップ・ロック]]<ref name="AM">{{AllMusic |first=Ted |last=Mills |title=Yumi Matsutoya {{!}} Biography & History |class=artist |id=mn0000694050/biography |accessdate=2021-06-28 }}</ref>|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="okmusic">{{Cite web|和書|title=松任谷由実(マツトウヤユミ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E7%94%B1%E5%AE%9F |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-06-28 }}</ref>|[[ジャズ]]<ref name="AM" />|[[ジャズ・ロック]]<ref name="AM" />|[[ニューミュージック]]<ref>{{Cite web|和書|title=第11回 ─ ニューミュージック |url=https://tower.jp/article/series/2007/03/22/100046759 |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=タワーレコード |date=2007-03-22 |accessdate=2021-06-28 }}</ref>|[[ワールドミュージック|ワールド]]<ref name="okmusic" />|[[ラテン音楽|ラテン]]<ref name="okmusic" />|[[シティ・ポップ]]<ref>{{Cite web|和書|title=【シティポップ入門編】絶対に聴くべき不動の定番アルバム5選 |url=https://www.arban-mag.com/article/44070 |website=ARBAN |publisher=株式会社ヴィジュアルノーツ |date=2019-10-09 |accessdate=2021-06-28 }}</ref>}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[シンガーソングライター]]|[[作詞家]]|[[作曲家]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ピアノ]]}} | 活動期間 = [[1971年]] - | レーベル = {{Hlist-comma|[[EMIミュージック・ジャパン]]|[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル]] / EMI Records}} | 事務所 = * [[雲母社]] * [[トップコート]](業務提携) | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[かまやつひろし]] * [[村井邦彦]] * [[川添象郎]] * [[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]] * [[松任谷正隆]]}} | 公式サイト = {{Official website|https://yuming.co.jp/|松任谷由実 オフィシャルサイト}} }} {{Infobox YouTube personality | name = 松任谷由実 | image = | caption = | logo = | logo caption = | views = 2億6778万回 | birth_name = | birth_date = | 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[[1972年]]にシングル「[[返事はいらない]]」でデビュー。一部企画では、[[愛称]]の「'''ユーミン'''(Yuming)」名義での活動もある。[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]受章者([[2013年]]〈[[平成]]25年〉)。公式ファンクラブは「'''Yuming Fan Club'''」。所属レコード会社は[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]](旧:[[EMIミュージック・ジャパン]])。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 他の[[芸術家|アーティスト]]への作品提供の際には、本名のほか、[[グレタ・ガルボ]]をもじった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASJDQ5F66JDQUCVL026.html ユーミン、呉田軽穂を語る 純粋な部分、出し切る]朝日新聞インタビュー 2017年1月16日</ref>[[ペンネーム]]である'''呉田 軽穂'''(くれだ かるほ<ref>楽曲提供した須藤薫、松本明子らのジャケットにローマ字表記「Karuho Kureda」あり。</ref>)を使用する場合もある。 夫は[[編曲家|アレンジャー]]・[[松任谷正隆]]で、彼女の[[音楽プロデューサー]]を務める。 == 経歴 == {{出典の明記|section=1|date=2009-12|ソートキー=人}} [[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院高等学校]]、[[多摩美術大学]]美術学部絵画学科日本画専攻卒業。 [[雲母社]]取締役、[[苗場プリンスホテル]]名誉総支配人(期間限定)。[[1972年]]、'''荒井由実'''の名で[[EMIミュージック・ジャパン]]からデビューし、[[1976年]]の結婚以降は'''松任谷由実'''へ改姓。[[2013年]]、EMIJ解散に伴い[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]へと自動的に転籍。 === 生い立ち === 1954年1月19日、3男2女の第4子(次女)として生まれる<ref group="注">生家は[[東京都]][[八王子市]]で[[1912年]]から続く、老舗の[[呉服]]店・荒井呉服店である。</ref>。6歳から[[ピアノ]]、11歳から[[三味線]]、14歳から[[ベース (弦楽器)|ベース]]を始めた。 1966年4月[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院中学校]]に進学<ref>{{Cite web|和書|title=Biography {{!}} Yumi Matsutoya Official Site 松任谷由実 オフィシャルサイト |url=https://yuming.co.jp/bio/ |website=松任谷由実 オフィシャルサイト - YUMI MATSUTOYA OFFICIAL SITE |date=1954-01-18 |access-date=2022-12-18}}</ref>。 中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった[[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]のイタリアンレストラン「[[キャンティ (イタリア料理店)|キャンティ]]」に出入りしていた。また[[ザ・フィンガーズ|フィンガーズ]]の追っかけもしていた。のちに同レストランに集まったアーティストから[[アルファレコード]]が生まれ、デビューのきっかけを作った。 [[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院高校]]に進学し、当時「(立教女学院の)[[パイプオルガン]]、[[プロコル・ハルム]]に強い衝撃を受けた」と語っている<ref>{{Cite web|和書|date=2012-11-30|url=http://www.nhk.or.jp/fm-blog/1000/139154.html|title=『松任谷由実 デビュー40周年 はてない夢の旅』|publisher=NHK |accessdate=2014-3-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2013-11-22|url=https://web.archive.org/web/20140324184302/https://www.nhk.or.jp/songs/special/131122.html|title=SONGSスペシャル松任谷由実〜生きるよろこび歌にこめて〜|publisher=NHK |accessdate=2014-3-24}}</ref>。また高校にかけては、[[御茶の水美術学院]]に通い、年長の同窓生の影響で[[アルチュール・ランボー]]、[[ジャック・プレヴェール]]を愛唱、多大な影響を受ける<ref>自著『ユーミンとフランスの秘密の関係』(CCCメディアハウス)</ref>。 14歳のころ、当時親しかった[[シー・ユー・チェン]]が荒井を「ユーミン」と呼び始め、これがのちに愛称として定着する。 === デビュー、荒井由実として活動 === [[1971年]]、高校3年生のときに書いた[[デモテープ]]が採用され<ref name="歌謡曲黄金時代の仕掛人">{{Cite book|和書|author=濱口英樹|year=2018|title=ヒットソングを創った男たち〜歌謡曲黄金時代の仕掛人|chapter=本城和治インタビュー|publisher=[[ヤマハミュージックメディア]]|isbn=978-4401645268|pages=85-86}}</ref>、[[かはしかつみ|加橋かつみ]]に「愛は突然に…」を提供し、17歳で[[作曲家]]としてデビューした<ref name="歌謡曲黄金時代の仕掛人"/>。採用した[[ユニバーサルミュージック (日本)|日本フォノグラム]]の[[音楽プロデューサー|プロデューサー]]・本城和治は「ユーミンの声は[[フランソワーズ・アルディ]]が歌っているみたいな、[[日本人]]にはちょっといないタイプで好きになりました。それで[[レコーディング]]にも来てもらったんですが、すごくいいセンスしていると思ったのに、彼女を歌手にしようという発想はできなかった。プロデューサー人生、最大の失敗と言っていいかもしれない。彼女は当初は好きだったブリティッシュポップ系の作品が多かったんですが、マンタ(松任谷正隆)と付き合うようになってから、アメリカンポップスも聴くようになった。それで『ルージュの伝言』みたいな曲も書くようになったんです」などと述べている<ref name="歌謡曲黄金時代の仕掛人"/>。 [[染色]]の専攻を志し、[[1972年]]4月に[[多摩美術大学]]に入学<ref>{{Cite web|和書|title=Biography {{!}} Yumi Matsutoya Official Site 松任谷由実 オフィシャルサイト |url=https://yuming.co.jp/bio/ |website=松任谷由実 オフィシャルサイト - YUMI MATSUTOYA OFFICIAL SITE |date=1954-01-18 |access-date=2022-12-18}}</ref>。 元々作曲家志望だったが、[[アルファレコード]]を設立した[[村井邦彦]]の勧めで、{{Anchors|荒井由実時代}}同年7月5日に[[かまやつひろし]]がプロデュースしたシングル「[[返事はいらない]]」で'''荒井由実'''としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。 [[1973年]]11月に、[[キャラメル・ママ (音楽ユニット)|キャラメル・ママ]]らとレコーディングしたファーストアルバム『[[ひこうき雲 (荒井由実のアルバム)|ひこうき雲]]』を発売。デビュー時は特に話題になることはなく<ref name="jcast180728"> {{Cite web|和書|url=https://books.j-cast.com/2018/07/28007695.html|title=松本隆に「フォークの神様」のご利益、あったの?|date=2018-07-28|website=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|Bookウォッチ]]|publisher=[[ジェイ・キャスト]]|accessdate=2023年5月9日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220522011910/https://books.j-cast.com/2018/07/28007695.html|archivedate=2012年5月22日}}</ref>、デビューから1年半の間は、[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]・[[林美雄]]が金曜日第2部(27:00 - 29:00)を担当していた[[TBSラジオ]]の[[深夜放送]]「[[パックインミュージック]]」以外には[[マスメディア]]に取り上げられない状況が続いたが<ref name="jcast180728"/>、林のプッシュもあり、徐々に[[知名度]]を上げてゆく<ref name="jcast180728"/>。[[石川セリ]]や[[山崎ハコ]]も、同番組により知られるようになった<ref name="jcast180728"/>。 [[1974年]]より本格的にステージ活動を開始する。 デビュー直後は「女拓郎」「女陽水」と呼ばれたが<ref name="ルージュの伝言">{{Cite book |和書 |author = 松任谷由実 |year = 1984 |title = ルージュの伝言 |publisher = [[角川書店]] |ISBN = 978-4-04-158001-1 |page = 16 }}</ref><ref> {{Cite interview |和書|subject= |interviewer='''松任谷由実''' |cointerviewers= |url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20110805-OYT8T00743.htm |title=【yumiyoriな話】第36回 最終回 井上陽水さん |work=[[YOMIURI ONLINE]] |publisher=[[読売新聞]] |date=2011-08-12 |accessdate=2023年1月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111026205256/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/yumiyori/20110805-OYT8T00743.htm |archivedate=2011年10月26日}}</ref>、「私のやったことは[[吉田拓郎|拓郎]]や[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいもの」などと著書で述べている<ref name="ルージュの伝言"/>。 [[1975年]]8月発売のフォークグループ[[バンバン (フォークグループ)|バンバン]]への提供曲「[[『いちご白書』をもう一度]]」が1位を獲得し、また同年10月発売の自身のシングル「[[あの日にかえりたい]]」([[TBSテレビ|TBS]][[テレビドラマ|ドラマ]]『[[家庭の秘密]]』主題歌)が、初の[[オリコンチャート]]シングル1位を獲得、[[1976年]]のシングル年間ランキング第10位のヒットとなった。このヒットがきっかけとなり、自身の過去作品『[[ひこうき雲 (荒井由実のアルバム)|ひこうき雲]]』や『[[MISSLIM]]』の売り上げも急激かつ長期的に上昇し、75年発表の『[[COBALT HOUR]]』は46万枚以上を売り上げるヒット、76年発表の自身初のベストアルバム『[[YUMING BRAND]]』は初となるアルバム1位を獲得、76年アルバム年間ランキングでも3位の大ヒットとなり、荒井由実期における最大の売り上げを誇るなど、1975年後半から1976年にかけて'''荒井由実ブーム(第一次ブーム)'''が到来する。 『映画ファン(eiga fan)』(愛宕書房)は、1976年4月号で『フォーク界にふきあれるウーマン・リブ旋風 女性シンガー・ソングライターたち』という特集を組み<ref name="映画ファン7604">{{Cite journal |和書 |author = 吉見佑子 |authorlink = 吉見佑子 |title = ミュージックスポット 『フォーク界にふきあれるウーマン・リブ旋風 女性シンガー・ソングライターたち』 |journal = 映画ファン(eiga fan) |issue = 1976年4月号 |publisher = 愛宕書房 |pages = 113–115頁 }}</ref>、[[吉見佑子]]は「出揃ったばかりの女性シンガー・ソングライターたち」「女性シンガー・ソングライターがあっという間に増えてしまったという感じが強いニューミュージックの世界。どうしても男のコの印象の方が強烈だけど、女のコもなかなかどうして立派な足並みが春に向かって揃いそう」と、当時抬頭が目立った女性シンガー・ソングライターたちを取り上げ、荒井由実、[[イルカ (歌手)|イルカ]]、[[吉田美奈子]]、[[五輪真弓]]、[[金子マリ]]、[[山崎ハコ]]、[[中山ラビ]]らを紹介し、冒頭で荒井を取り上げ、「歌そのものより、歌ってるムードがチャームポイント。フォークとかロックとかそういうジャンルに見せる歌として登場して華麗にユーミンの世界をつくりあげたことはとてもすてきなお話。八王子の歌姫も今やファンタジックなポップスターとしてアイドル的存在になった。作詞・作曲の方もバンバンの『『いちご白書』をもう一度』というビッグ・ヒットを生んで以来、大忙しで着実に作りつづけていることは御立派。青春そのものの詩を書かせたら、やっぱりきれいでわくわくしまう。『ひこうき雲』の頃はあのすました笑顔のゆくえがうつろだったけど『コバルトアワー』あたりでユーミンの世界がはっきり見えたみたい。ユーミン・ファンとしては歌いつづけられる限り、こわれそうな青春を表現してもらいたい」などと評している<ref name="映画ファン7604"/>。また番組名が書かれていないが、「1976年3月14日(日)の夜、[[TBSテレビ]]の夜7:30~9:00枠で、今までも一部の放送局でミニ・コンサートを開いたことはあるが、ユーミンが初めて[[ネット番組#全国ネット番組・テレビ|全国ネット]]のテレビに出演する」と書かれている<ref name="映画ファン7604"/>。荒井のシングルヒットは前述のように1975年10月リリースの「あの日にかえりたい」が初めてであるが<ref name="mimi7703">{{Cite journal |和書 |author = |title = ニューミュージックスター年鑑 |journal = [[mimi (雑誌)|mimi]] |issue = 1977年3月号 |publisher = [[講談社]] |pages = 65–71頁 }}</ref>、これ以前の女性シンガー・ソングライターの大ヒットとしては、1973年12月リリースの[[小坂明子]]「[[あなた (小坂明子の曲)|あなた]]」<ref name="mimi7703"/>、1974年3月リリースの[[りりィ]]「[[私は泣いています]]」<ref name="mimi7703"/>、1975年5月リリースの[[小坂恭子]]「想い出まくら」などがあり<ref name="mimi7703"/>、彼女たちは毎日のようにテレビに出て歌ったが、荒井はテレビに全く出なかったため<ref name="映画ファン7604"/>、当時のテレビの影響力を考えれば、荒井が世間一般からどの程度の知名度があったものなのかは分からない。1970年代半ばころから、荒井らニューミュージック系歌手の[[レコード#LP盤|アルバム]]がチャートを席捲してはいたが、[[シングル#シングル・レコード|シングル]]レベルでは[[歌謡曲]]・[[演歌]]・企画ものがまだまだ強い時代であった<ref>[https://www.dentsu.co.jp/knowledge/ad_nenpyo.html 広告景気年表 - ナレッジ&データ] 電通</ref><ref>{{Cite journal |author = 平岡正明 |authorlink = 平岡正明 |title= 特集 歌謡曲の神話 ベストテン時代へのレクイエム |journal = [[STUDIO VOICE]] |issue = 1992年5月1日発行 |publisher = [[流行通信|インフィス]] |pages = 18-19頁 }}</ref>。1979年5月5日発行の『NEW MUSIC LAND』([[近代映画社]])での特集「NEW MUSIC HISTORY」では「1976年7月に[[丸山圭子]]の『[[どうぞこのまま]]』が発売され、女性シンガー・ソング・ライターが注目され、ブームが起こる」と書かれている<ref name="NEW MUSIC LAND">{{Cite journal |和書 |author = |title = 文と写真でつづるNEW MUSIC HISTORY |journal = NEW MUSIC LAND |issue = 1979年5月5日発行 |publisher = [[近代映画社]] |pages = 62–63頁 }}</ref>。 荒井は自身の音楽性について『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は[[趣味]]でやってます。[[ブルジョワジー|ブルジョア]]だから悪いってことない。私の音楽は[[イージーリスニング]]。[[背景音楽|BGM]]みたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と述べている<ref>{{Cite journal|和書|title=フォーク紳士録 【荒井由実】インタビュー 『ユーミンはあわてん坊』|journal=月刊平凡|issue=1976年5月号|pages=150-151|publisher=[[マガジンハウス|平凡出版]]}}</ref>。 === 結婚、松任谷由実として活動 === [[1976年]][[11月29日]]、[[松任谷正隆]]と[[カトリック山手教会|横浜山手教会]]にて結婚、その後は'''松任谷由実'''として音楽活動を続行する。結婚を機に歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと本人は語っている<ref>{{Cite web|和書|title=松任谷由実 「寿退社的な形で辞めさせてもらえるかなと…」引退を決断したという過去の心境明かす |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/17/kiji/20221217s00041000519000c.html |website=スポニチアネックス |access-date=2022-12-18 |language=ja}}</ref>。 結婚以降、荒井由実ブームが下火になったことや改名の影響などもあり、78〜80年のアルバムの売り上げは10〜20万枚に留まるなど全盛期に比べ大幅に減退し、しばらくの間不振が続いた。但し、興業的には低迷期であったが、曲のクオリティは依然として高く、現在でもメジャーである「[[埠頭を渡る風]]」「[[OLIVE (松任谷由実のアルバム)#収録曲|青いエアメイル]]」「[[悲しいほどお天気#収録曲|DESTINY]]」「[[恋人がサンタクロース]]」などの楽曲はこの期間に制作されたものである。 その後、[[1981年]]6月のシングル「[[守ってあげたい]]」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、'''第二次ブーム'''が到来。その年のアルバム『[[昨晩お会いしましょう]]』は荒井由実期の最後のアルバム『[[14番目の月]]』以来5年ぶりの1位獲得となり、それ以降のオリジナルアルバムは、[[1997年]]発売の『[[Cowgirl Dreamin']]』まで17枚連続でオリコン1位を獲得することとなる。 [[ブレッド&バター]]、[[松田聖子]]、[[小林麻美]]などへの楽曲提供の傍ら、1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。前述の「[[埠頭を渡る風]]」「[[OLIVE (松任谷由実のアルバム)#収録曲|青いエアメイル]]」「[[悲しいほどお天気#収録曲|DESTINY]]」「[[恋人がサンタクロース]]」に加え「[[昨晩お会いしましょう#収録曲|カンナ8号線]]」「[[PEARL PIERCE#収録曲|真珠のピアス]]」「[[ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ]]」「[[VOYAGER (松任谷由実のアルバム)#収録曲|時をかける少女]]」などもこの頃制作された。また、[[リゾート]]地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。 [[1979年]]以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など年々エスカレートしていった。当時の[[インタビュー]]でも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。{{main|松任谷由実のコンサート一覧}} [[1980年代]]頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である[[松本隆]]からの依頼で[[松田聖子]]の「[[赤いスイートピー]]」の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「'''呉田軽穂'''」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降聖子に対してシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。 === バブル時代とそれ以降 === [[1981年]]に端を発する第二次ブーム以降、アルバムの売り上げは高水準に保たれ、若干の増加傾向の中、凡そ50〜70万枚で安定的に推移していた。その中、[[1988年]]のアルバム『[[Delight Slight Light KISS]]』の売り上げが、前年発売のアルバム『[[ダイアモンドダストが消えぬまに]]』の77万枚から、158万枚と一気に約2倍のセールスへと急増し、'''自身初となるアルバム年間ランキング1位を獲得'''した。この年の音楽界は松任谷由実の独走状態となり、同アルバムは次作が発売されるまでの約一年間、オリコンチャートにランクインし続けることとなった。また翌[[1989年]]の『[[LOVE WARS (松任谷由実のアルバム)|LOVE WARS]]』、[[1990年]]の『[[天国のドア]]』と''' 3作品連続で年間1位を獲得'''。特に『天国のドア』では、当時の'''日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新'''し、'''史上初のアルバム200万枚出荷を記録'''。翌[[1991年]]発売の『[[DAWN PURPLE]]』に至っては'''オリコン史上初の初動ミリオンを達成'''するなど、'''第三次ブーム'''が到来した。以降、[[1995年]]の『[[KATHMANDU (アルバム)|KATHMANDU]]』までの80年代後半から90年代半ばにかけて'''オリジナルアルバム8作連続の[[ミリオンセラー]]を獲得'''する。 [[1985年]]以降の「バブル景気」時代人気の高かった[[スキー]]を題材にした映画『[[私をスキーに連れてって]]』(1987年)の主題歌と挿入曲を担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。 当時比較されがちであった、[[中流]]以下の地方の若者に人気のあった[[中島みゆき]]の作風とは一線を画し、'''「[[中流]]以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「[[中産階級]]の手に届く夢」'''(当時の音楽ライター{{誰|date=2023-09}}による表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、[[一億総中流]]かつ上昇志向の[[バブル時代]]に沸く時代の波に乗った。 [[1990年代]]のバブル崩壊後は[[精神世界]]や民族音楽にも着目するようになり、「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「[[真夏の夜の夢 (松任谷由実の曲)|真夏の夜の夢]]」「砂の惑星」「[[春よ、来い (松任谷由実の曲)|春よ、来い]]」「[[輪舞曲 (松任谷由実の曲)|輪舞曲]]」などを作曲する。 [[1993年]]、TBS系列ドラマ『[[誰にも言えない]]』主題歌となった「真夏の夜の夢」はシングルで'''自身初のミリオンセラー'''となり、翌[[1994年]]発売の「[[Hello, my friend]]」「春よ、来い」も続けて'''ミリオンセラー'''を記録、''' 3作品連続でのミリオンセラー'''となった。また、同年末発売のアルバム『[[THE DANCING SUN]]』はオリジナルアルバムとして'''自己最高の217万枚を売り上げる'''など、'''第四次ブーム'''と呼べる年となった。 [[1996年]]、'''荒井由実'''名義での[[セルフカバー]]シングル「[[まちぶせ]]」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『[[Yumi Arai The Concert with old Friends (DVD)|Yumi Arai The Concert with old Friends]]』を開催した。この[[ライブ・アルバム]]発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。 [[1998年]]には松任谷由実時代以降の[[ベスト・アルバム]]『[[Neue Musik]]』が''' 380万枚'''を売り上げ、自身が発表した全作品の中で'''最大の売上'''を記録している。 [[1999年]]には[[ロシア]]の[[サーカス]]チームとコラボレートしたコンサート『[[YUMING SPECTACLE SHANGRILA|シャングリラ]]』を開催。同コンサートは[[2003年]]に『シャングリラII』、[[2007年]]にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。 === 2000年代~近年の活動 === [[国立国語研究所]]の調査によると、松任谷由実及び[[中島みゆき]]の歌詞中の外国語割合は2000年以降減っており、日本語回帰傾向となった<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070827-247548.html ユーミン、中島みゆきが「日本語回帰」 - 芸能ニュース : nikkansports.com]</ref>。 [[2005年]]、[[NHK紅白歌合戦]]([[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]])に[[Friends Of Love The Earth|松任谷由実 with Friends Of Love The Earth]]名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。2011年春には、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」、2012年3月には「(みんなの)春よ、来い 2012」を配信。収益のすべてが[[東日本大震災]]の被災地へ寄付された。 [[2012年]]、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『[[日本の恋と、ユーミンと。]]』がオリコンチャートにて'''初登場1位'''となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が''' 3,000万枚を突破'''、'''ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録'''となった。 2012年、2014年、2017年には[[帝国劇場]]にて『ユーミン×帝劇』を開催。 [[2013年]]、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)[[EMIミュージック・ジャパン]]の吸収合併に伴い、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]へと自動的に転籍した。 2013年春の叙勲で[[紫綬褒章]]受章<ref name="asahi20130428">{{cite news |tle = 春の褒章、723人13団体 松任谷由実さんら受章 |url = http://www.asahi.com/national/update/0428/TKY201304280012.html |publisher = [[朝日新聞]] |date = 2013年4月28日 |accessdate = 2013年5月22日 |archiveurl = [https://web.archive.org/web/20130514225058/http://www.asahi.com/national/update/0428/TKY201304280012.html] |archivedate = 2013年5月14日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref><ref name="msn20130428">{{cite news |title = 松任谷由実さんら723人 バレエの熊川哲也さんも 春の褒章 |url = http://sankei.jp.msn.com/life/news/130428/trd13042809410002-n1.htm |publisher = [[産経新聞]] |date = 2013年4月28日 | accessdate = 2013年5月22日}}</ref><ref name="nikkei20130428">{{cite news |title = 「想い」を胸に歌う 紫綬褒章受章の松任谷由実さん |url = http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701O_X20C13A4CR8000/ |publisher = [[日本経済新聞]] |date = 2013年4月28日 | accessdate = 2013年5月22日}}</ref>。 同年、「[[岩谷時子賞]]」を受賞([[岩谷時子]]存命中最後の受賞者となった)<ref>{{cite news|title = 岩谷時子賞【2013年 第4回】|url = http://www.iwatanitokiko.org/award/2013.html|publisher = [[岩谷時子]]文化音楽振興財団|date = 2013年4月4日| accessdate = 2021年6月4日}}</ref>。 [[2015年]]、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。 [[2016年]]には38枚目のオリジナルアルバム『[[宇宙図書館]]』がオリコンチャートにて'''初登場1位'''を獲得。 [[2017年]]、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民<ref><!-- [http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/107/157/692/693/d00154126.html 世田谷区名誉区民の顕彰について] -->{{Cite web|和書|url=https://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/107/157/692/693/d00154126.html|title=世田谷区名誉区民の顕彰について|accessdate=2022-07-16|publisher=[[世田谷区]]|date = 2017-06-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701151411/https://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/107/157/692/693/d00154126.html|archivedate=2017年7月1日|deadlinkdate=2022年7月}}</ref>。 [[2018年]]にはベストアルバム『[[ユーミンからの、恋のうた。]]』がオリコンチャートにて'''初登場1位'''を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『[[日本の恋と、ユーミンと。]]』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。 [[2018年]][[9月]]には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された{{refnest|group="注"|ライブアルバム、コラボシングル(「(みんなの)春よ、来い」各種を含む)、トリビュートアルバム参加曲、初回限定盤のボーナストラックを除く。公認編集盤のうち『ALBUM』『Yuming THE GREATEST HITS』はラインナップから外れている。一部のシングル曲はアルバムバージョンに差し替えられているが、アルバム未収録のシングル曲は網羅されている<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1809/24/news015.html ねとらぼ ユーミンの全曲配信がスタート 荒井由実時代を含むデビューから45年間の全424曲]</ref>。}}。[[2019年]][[8月23日]]、公式[[YouTube]]チャンネルで歴代[[ミュージック・ビデオ]]の内、33作品が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/344697 |title=松任谷由実の45年間凝縮したコンサートツアー映像作品化、YouTubeで33作品のMV一挙公開 |publisher=音楽ナタリー |date=2019-08-23 |accessdate=2019-10-25}}</ref>。 [[2020年]][[12月1日]]には、4年ぶりのアルバム『[[深海の街 (アルバム)|深海の街]]』を発売し、[[2021年]][[9月30日]]からそれに連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。 [[2022年]][[10月4日]]には、デビュー50周年記念としてベストアルバム『[[ユーミン万歳!]]』を発売。オリコンチャートにて、''' 2週間連続1位'''を達成。これにより、自身の持つ「'''ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数'''」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる''' 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得'''を達成。また「'''アルバム1位獲得最年長アーティスト'''」記録において、歴代で2位、'''女性アーティストとして歴代1位'''となった<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2252512/full/ 松任谷由実、50周年記念ベスト盤が、女性アーティスト最年長 & オリコン史上初「1970年代~2020年代」6年代連続の「アルバム」1位【オリコンランキング】]オリコン、10月11日</ref> <ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2253406/full/ 松任谷由実、20年11ヵ月ぶりに「アルバム」2週連続1位【オリコンランキング】]、オリコン、10月18日</ref>。(2022年11月現在) 同年、[[シンガーソングライター]]として史上初となる[[文化功労者]]に選出<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2022/attach/1422025_00001.htm 令和4年度 文化功労者]文部科学省、11月3日発令</ref> <ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2022/10/26/0015753821.shtml?pg=2 ユーミン「栄誉を分かち合いたい」周囲に感謝 シンガー・ソングライター初の文化功労者]</ref>。これに対して松任谷はコメントを発表した<ref group="注">コメント全文「私は、洋楽から強く影響を受けた作曲に、日本語の美しさ、洒脱さをいかに併わせて、歌という形に留めるかを、楽しんだり、苦しんだりしながら続けて来ました。 ポップスは、聞き手に届いたときにはじめて完成します。 聞き手の数だけの思い出になり、そこからさらに自由に羽ばたいていきます。 この国も災害やコロナ禍にみまわれ、いやが上にも歌の持つ役割りを問われたとき、私ははっきりと、それは、〈明るさ、豊かさ、潤い〉を聞き手の心に送ることだと自覚しました。 そのひとの心にある歌は、何ものも奪えないからです。 "ユーミン"は、私個人の愛称であり、プロデューサー松任谷正隆が率いる、流動的なプロジェクトの名称でもあります。 50年のキャリアのあいだには、幾多の人たちが携わってくれました。スタッフ、ミュージシャン、クリエイター、メディアの方々。 皆が"ユーミン"という樹木の年輪のように、その足跡を残し、丈夫な幹に育ててくれました。 枝葉を繁らせ、花を咲かせ、果実を実らせ。 飛んでいった歌の鳥たちに、時々帰れる場所を作ってくれました。 これまでお世話になった方々、そして、私の音楽を愛してくれた沢山のファンの人たちと、この栄誉を分かち合いたいと思います。 心から御礼申し上げます。」</ref> <ref>[https://yuming.co.jp/information/2022/10/25/7025/ 文化功労者に選出]松任谷由実公式サイト、2022年10月25日</ref>。 2022年12月15日に日本テレビで放送された「世界一受けたい授業2時間SP」で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている。<ref>{{Cite web|和書|title=松任谷由実 初めて明かす大きな夢とは?「こういう番組は大事な布石ですよね」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/17/kiji/20221217s00041000523000c.html |website=スポニチアネックス |access-date=2022-12-18 |language=ja}}</ref> 近年は[[手嶌葵]]、[[一青窈]]、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、松田聖子、[[Char]]、[[薬師丸ひろ子]]への楽曲提供も行っている。 == レギュラー == * ニッポン放送「松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD」毎月1回・金曜 22:00~24:00 ※第3週もしくは第4週 * TOKYO FM / JFN「松任谷由実のYuming Chord」毎週金曜 11:00〜11:30 * Podcast「うそラジオ Podcast 松任谷由実 はじめました」ニッポン放送ポッドキャストステーションにて毎週金曜11:00更新〜 == ディスコグラフィ == <!--アルバムアーティストなので先にアルバムを表記すること--> === オリジナルアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |1973年11月20日 |[[ひこうき雲 (荒井由実のアルバム)|ひこうき雲]] |9位 |- !2 |1974年10月5日 |[[MISSLIM]] |8位 |- !3 |1975年6月20日 |[[COBALT HOUR]] |2位 |- !4 |1976年11月20日 |[[14番目の月]] |'''1位''' |- !5 |1978年3月5日 |[[紅雀 (アルバム)|紅雀]] |2位 |- !6 |1978年11月5日 |[[流線形'80]] |4位 |- !7 |1979年7月20日 |[[OLIVE (松任谷由実のアルバム)|OLIVE]] |5位 |- !8 |1979年12月1日 |[[悲しいほどお天気]] |6位 |- !9 |1980年6月21日 |[[時のないホテル]] |3位 |- !10 |1980年12月1日 |[[SURF&SNOW]] |7位 |- !11 |1981年5月21日 |[[水の中のASIAへ]] |9位 |- !12 |1981年11月1日 |[[昨晩お会いしましょう]] |rowspan="17"| '''1位''' |- !13 |1982年6月21日 |[[PEARL PIERCE]] |- !14 |1983年2月21日 |[[REINCARNATION (松任谷由実のアルバム)|REINCARNATION]] |- !15 |1983年12月1日 |[[VOYAGER (松任谷由実のアルバム)|VOYAGER]] |- !16 |1984年12月1日 |[[NO SIDE]] |- !17 |1985年11月30日 |[[DA・DI・DA]] |- !18 |1986年11月29日 |[[ALARM à la mode]] |- !19 |1987年12月5日 |[[ダイアモンドダストが消えぬまに]] |- !20 |1988年11月26日 |[[Delight Slight Light KISS]] |- !21 |1989年11月25日 |[[LOVE WARS (松任谷由実のアルバム)|LOVE WARS]] |- !22 |1990年11月23日 |[[天国のドア]] |- !23 |1991年11月22日 |[[DAWN PURPLE]] |- !24 |1992年11月27日 |[[TEARS AND REASONS]] |- !25 |1993年11月26日 |[[U-miz]] |- !26 |1994年11月25日 |[[THE DANCING SUN]] |- !27 |1995年12月1日 |[[KATHMANDU (アルバム)|KATHMANDU]] |- !28 |1997年2月28日 |[[Cowgirl Dreamin']] |- !29 |1997年12月5日 |[[スユアの波]] |2位 |- !30 |1999年11月17日 |[[Frozen Roses|FROZEN ROSES]] |3位 |- !31 |2001年6月6日 |[[acacia (松任谷由実のアルバム)|acacia (アケイシャ)]] |rowspan="2"| 2位 |- !32 |2002年11月20日 |[[Wings of Winter, Shades of Summer]] |- !33 |2004年11月10日 |[[VIVA! 6×7]] |5位 |- !34 |2006年5月24日 |[[A GIRL IN SUMMER]] |3位 |- !35 |2009年4月8日 |[[そしてもう一度夢見るだろう]] |4位 |- !36 |2011年4月6日 |[[Road Show]] |rowspan="2"| 2位 |- !37 |2013年11月20日 |[[POP CLASSICO]] |- !38 |2016年11月2日 |[[宇宙図書館]] |'''1位''' |- !39 |2020年12月1日 |[[深海の街 (アルバム)|深海の街]] |3位 |} === ベストアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |1976年6月20日 |[[YUMING BRAND]] |'''1位''' |- !2 |1977年12月25日 |[[ALBUM (松任谷由実のアルバム)|ALBUM]] |12位 |- !3 |1998年11月6日 |[[Neue Musik]](ノイエ・ムジーク) |rowspan="2"| '''1位''' |- !4 |2001年11月14日 |[[sweet,bitter sweet〜YUMING BALLAD BEST]] |- !- |2002年3月20日 |[[Yuming THE GREATEST HITS]](香港限定) |ー |- !5 |2007年3月7日 |[[SEASONS COLOURS -春夏撰曲集-]] |6位 |- !6 |2007年10月24日 |[[SEASONS COLOURS -秋冬撰曲集-]] |3位 |- !7 |2012年11月20日 |[[日本の恋と、ユーミンと。]] |'''1位''' |- !- |2015年11月25日 |[[日本の恋と、ユーミンと。]] (GOLD DISC Edition) |9位 |- !8 |2018年4月11日 |[[ユーミンからの、恋のうた。]] |rowspan="2"| '''1位''' |- !9 |2022年10月4日 |[[ユーミン万歳!]] |} === コラボベストアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |2023年12月20日 |[[ユーミン乾杯!!]] |2位 |} === セルフカバーアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |2003年12月17日 |[[Yuming Compositions: FACES]] |3位 |} === ライブアルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |1986年6月25日 |[[YUMING VISUALIVE DA・DI・DA]] |'''1位''' |- !2 |1996年12月7日 |[[Yumi Arai The Concert with old Friends]] |5位 |} === ボックス&特別企画盤 === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |1999年1月27日 |[[Yumi Matsutoya 1978-1989]] |85位 |- !2 |2004年2月18日 |[[Yumi Arai 1972-1976]] |39位 |- !3 |2013年7月31日 |[[ひこうき雲 (荒井由実のアルバム)#40周年記念盤|ユーミン×スタジオジブリ 40周年記念盤 ひこうき雲]] |12位 |} === 非公式アルバム === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!最高位 |- !1 |1979年10月25日 |[[YUMING BRAND PART.2]] | ー |- !2 |1981年11月21日 |[[YUMING BRAND PART.3]] | ー |- !3 |1987年3月25日 |[[YUMING SINGLES 1972-1976]] |22位 |- !4 |1987年11月28日 |[[YUMING HISTORY]] |30位 |- !5 |1990年9月11日 |[[決定版 荒井由実 ベストセレクション]] | ー |- !6 |1992年9月21日 |[[YUMING COLLECTION]] |34位 |- !7 |2000年4月26日 |[[Super Best Of Yumi Arai]] |9位 |- |} === シングル === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!c/w !最高位 |- !1 |1972年7月5日 |[[返事はいらない]] |空と海の輝きに向けて |ー |- !2 |1973年11月5日 |[[きっと言える (荒井由実の曲)|きっと言える]] |ひこうき雲 |ー |- !3 |1974年4月20日 |[[やさしさに包まれたなら]] |魔法の鏡 |ー |- !4 |1974年10月5日 |[[12月の雨]] |瞳を閉じて |ー |- !5 |1975年2月20日 |[[ルージュの伝言]] |何もきかないで |45位 |- !6 |1975年10月5日 |[[あの日にかえりたい]] |少しだけ片想い |'''1位''' |- !7 |1976年3月5日 |[[翳りゆく部屋]] |ベルベット・イースター |10位 |- !8 |1977年5月5日 |[[潮風にちぎれて]] |消灯飛行 |31位 |- !9 |1977年11月5日 |[[遠い旅路]] |ナビゲイター |38位 |- !10 |1978年3月5日 |[[ハルジョオン・ヒメジョオン]] |罪と罰 |80位 |- !11 |1978年7月20日 |[[入江の午後3時]] |静かなまぼろし |88位 |- !12 |1978年10月5日 |[[埠頭を渡る風]] |キャサリン |71位 |- !13 |1979年6月20日 |[[帰愁]] |稲妻の少女 |89位 |- !14 |1980年3月20日 |[[ESPER]] |よそゆき顔で |77位 |- !15 |1980年5月21日 |[[白日夢・DAY DREAM]] |ためらい |44位 |- !16 |1980年8月5日 |[[星のルージュリアン]] |12階のこいびと |46位 |- !17 |1981年6月21日 |[[守ってあげたい]] |グレイス・スリックの肖像 |2位 |- !18 |1981年11月1日 |[[夕闇をひとり]] |A HAPPY NEW YEAR |48位 |- !19 |1983年8月25日 |[[ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ]] |時をかける少女 |9位 |- !20 |1984年2月1日 |[[VOYAGER〜日付のない墓標|VOYAGER〜日付のない墓標〜]] |青い船で |9位 |- !21 |1985年8月1日 |[[メトロポリスの片隅で]] |パジャマにレインコート |8位 |- !22 |1987年11月5日 |[[SWEET DREAMS (松任谷由実の曲)|SWEET DREAMS]] |SATURDAY NIGHT ZOMBIES |7位 |- !23 |1989年6月28日 |[[ANNIVERSARY〜無限にCALLING YOU]] |ホームワーク |2位 |- !24 |1993年7月26日 |[[真夏の夜の夢 (松任谷由実の曲)|真夏の夜の夢]] |風のスケッチ | rowspan="3"|'''1位''' |- !25 |1994年7月27日 |[[Hello, my friend]] |Good-bye friend |- !26 |1994年10月24日 |[[春よ、来い (松任谷由実の曲)|春よ、来い]] | |- !- |1995年2月20日 |[[命の花]] |砂の惑星 |ー |- !27 |1995年11月13日 |[[輪舞曲 (松任谷由実の曲)|輪舞曲 (ロンド)]] |Midnight Scarecrow |2位 |- !28 |1996年7月15日 |[[まちぶせ]] | |5位 |- !29 |1996年10月16日 |[[最後の嘘]] |忘れかけたあなたへのメリークリスマス |4位 |- !30 |1997年1月29日 |[[告白 (松任谷由実の曲)|告白]] |Moonlight Legend |10位 |- !31 |1997年11月12日 |[[Sunny day Holiday]] |夢の中で〜We are not alone, forever |10位 |- !32 |1999年11月3日 |[[Lost Highway (松任谷由実の曲)|Lost Highway]] |Spinning Wheel |20位 |- !33 |2000年9月20日 |[[PARTNERSHIP]] |So long long ago |18位 |- !34 |2001年1月11日 |[[幸せになるために (松任谷由実の曲)|幸せになるために]] |TWINS |6位 |- !35 |2001年4月25日 |[[7 TRUTHS 7 LIES〜ヴァージンロードの彼方で]] |Song For Bride<br />TUXEDO RAIN<br />ANNIVERSARY |16位 |- !36 |2003年2月5日 |[[雪月花 (松任谷由実の曲)|雪月花]] | |59位 |- !37 |2005年6月1日 |[[ついてゆくわ]] |あなたに届くように |13位 |- !38 |2006年2月15日 |[[虹の下のどしゃ降りで]] |Smile again |22位 |- !39 |2007年9月5日 |[[人魚姫の夢]] |Au Nom de la Rose |19位 |- !40 |2010年5月26日 |[[ダンスのように抱き寄せたい/バトンリレー|ダンスのように抱き寄せたい]] |バトンリレー |15位 |- !41 |2012年3月14日 |[[恋をリリース]] |夜明けの雲 |34位 |} ※順位は全てオリコンの発表に基づく。 === 配信楽曲 === <!-- 公式サイトに準ずるものとする --> {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル |- !1 |2011年5月18日 |[[春よ、来い (松任谷由実の曲)#(みんなの) 春よ、来い|(みんなの) 春よ、来い]] |- !2 |2011年11月23日 |[[恋をリリース|夜明けの雲]] |- !3 |2011年11月30日 |[[春よ、来い (松任谷由実の曲)#(みんなの) 春よ、来い 2011年秋編|(みんなの) 春よ、来い 2011年秋編]] |- !4 |2012年3月28日 |[[春よ、来い (松任谷由実の曲)#(みんなの) 春よ、来い 2012|(みんなの) 春よ、来い 2012]] |- !5 |2013年7月3日 |[[ひこうき雲 (荒井由実の曲)|ひこうき雲]] |- !6 |2015年11月18日 |[[気づかず過ぎた初恋]] |- !7 |2016年9月21日 |[[残火 (松任谷由実の曲)|残火]] |- !8 |2019年9月18日 |[[深海の街 (松任谷由実の曲)|深海の街]] |- !9 |2020年8月10日 |[[あなたと 私と]] |- !10 |2020年10月23日 |[[知らないどうし]] <!-- 以下2曲はアルバム先行配信の形式を取られており、配信限定ではありません |- !11 |2020年11月16日 |[[雪の道しるべ]] |- !12 |2022年9月21日 |[[Call me back]] --> |} === コラボレーション === <!--公式サイトでの表記--> {|class="wikitable" style="font-size:small" !発売日 !style="width:32%"|アーティスト !style="width:25%"|タイトル !style="width:25%"|備考 |- |1985年6月1日 |松任谷由実 [[小田和正]] [[財津和夫]] |[[今だから]] |c/w:〃 (Another Ver.) |- | rowspan=2 | 1992年11月9日 | rowspan=2 | [[石井竜也|カールスモーキー石井]]&amp;松任谷由実 |[[愛のWAVE]] | rowspan=2 | c/w:愛のWAVE (Karaoke with YUMING),〃(Karaoke) |- | 浪漫の伝言 |- |1993年5月21日 |[[オールナイトニッポン]]・パーソナリティーズ |今、僕たちにできる事 |c/w:〃 (Karaoke) |- |2000年1月21日 |Yuming+[[ポケットビスケッツ|Pocket Biscuits]] |[[Millennium (Yuming+Pocket Biscuitsの曲)|Millennium]] |c/w:〃 (Karaoke) |- |2003年2月5日 |[[冨田ラボ]] feat.松任谷由実 |God bless you! |Album「Shipbuilding」 |- |2005年9月9日 |松任谷由実 with [[Friends Of Love The Earth]] |Smile again |配信<br />Single「虹の下のどしゃ降りで」 |- |2006年1月21日 |hiroshi fujiwara fear. [[エリック・クラプトン|eric clapton]] |[[Cappuccino (hiroshi fujiwara feat. eric claptonの曲)|Cappuccino]] | |- |2006年4月12日 |[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]+Yuming |[[Still Crazy For You|STILL CRAZY for YOU]] |c/w:〃(Karaoke with 谷啓),<br />〃(Karaoke with YUMING),<br />〃(Karaoke) |- |2006年9月20日 |Friends Of Love The Earth Project feat. 平原綾香、ミー・リン、サンディー・ラム、松任谷由実 |Color Of The Moon |配信<br />ミー・リン Album「CHAT VOI MOZART」 |- |2006年9月20日 |Friends of Love The Earth Project feat. HIROSHI FUJIWARA, EDISON CHEN |WAKE UP (RAP+) |配信 |- |2006年11月1日 |Friends of Love The Earth Project |[[Knockin' At The Door]]<br />(All Star Version) |c/w:〃(日本語 Version),<br />〃(韓国語 Version),<br />〃(英語 Version),〃(Karaoke) |- |2007年7月4日 |[[小室哲哉|DJ TK]] |WANDERERS (247 DJ TK MIX) |Album「[[Cream Of J-POP 〜ウタイツグウタ〜]]」 |- |2007年7月11日 |Golden Circle feat.<br />[[寺岡呼人]]・松任谷由実・[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]] |[[ミュージック (Golden Circleの曲)|ミュージック]] |c/w:〃 (piano instrumental ver.),<br />〃 (karaoke) |- | rowspan=2 | 2008年10月15日 | rowspan=2 | [[SoulJa]]×Misslim |[[記念日・home|記念日]] | rowspan=2 | |- |home |- |2009年12月25日 |[[くるり]]とユーミン |[[シャツを洗えば]] |c/w:〃(Instrumental) |- |2014年7月15日 |ゆず / [[ももいろクローバーZ]] / [[back number]] / [[大原櫻子]] & 松任谷由実 |[[ニッポン放送開局60周年記念 ラジオで聴いた「忘れられぬミュージック」#記念ソング「忘れられぬミュージック」|忘れられぬミュージック]] |配信 |- |2017年12月1日 |[[BENI]] & YUMING |(南の)恋人がサンタクロース |購入特典ダウンロード |- |2021年3月27日 |スモール3 with 松任谷由実 |きみのためにSuperman ''-Be a Superman for You-''<ref>https://music.apple.com/us/album/be-a-superman-for-you-single/1557993935</ref> |配信 |- |2023年12月20日<ref>配信:2023年11月27日</ref> |桑田佳祐&松任谷由実 |[[Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)|Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない) 2023]] |c/w:〃 (karaoke) |} === ビジュアル(VIDEO・DVD・Blu-ray) === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル |- !1 |1982年3月21日 |[[1981 Yuming Visual Volume1]] |- !2 |1982年10月21日 |[[1982 Yuming Visual Volume2]] |- !3 |1984年9月1日 |[[コンパートメント TRAIN OF THOUGHT]] |- !4 |1991年7月5日 |[[WINGS OF LIGHT "THE GATES OF HEAVEN" TOUR]] |- !5 |1995年9月11日 |[[INTO THE DANCING SUN]] |- !6 |1996年12月20日 | [[Yumi Arai The Concert with old Friends (DVD)|Yumi Arai The Concert with old Friends]] |- !7 |1999年12月8日 |[[YUMING SPECTACLE SHANGRILA 1999]] |- !8 |2003年2月5日 |[[YUMING SURF &amp; SNOW in Zushi Marina Vol.16]] |- !9 |2004年2月18日 |[[YUMING SPECTACLE SHANGRILA II]] |- !10 |2004年6月9日 |[[YUMING Presents 天国の本屋〜恋火 ミュージックDVD]] |- !11 |2007年3月7日 |[[THE LAST WEDNESDAY TOUR 2006〜HERE COMES THE WAVE〜]] |- !12 |2008年3月5日 |[[YUMING SPECTACLE SHANGRILA III〜A DREAM OF DOLPHINE〜]] |- !13 |2012年3月14日 |[[YUMI MATSUTOYA CONCERT TOUR 2011 Road Show]] |- !14 |2014年12月24日 |[[All about POP CLASSICO]] |- !15 |2018年4月11日 |[[松任谷由実 CONCERT TOUR 宇宙図書館 2016-2017]] |- !16 |2019年11月6日 |[[TIME MACHINE TOUR Traveling Through 45years]] |- !17 |2023年1月25日 |[[松任谷由実 コンサートツアー 深海の街]] |} === ミュージックビデオ === <!-- DVD化・Youtube公開・テレビ番組企画 --> {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |- ! 年 ! 曲名 ! 監督 ! 備考 |- |1973 |'''紙ヒコーキ''' | |収録:CD BOX「Yumi Arai 1972-1976」特典DVD |- |1975 |'''ルージュの伝言''' | |初出:フジテレビ「スーパージャム」 |- |1976 |'''翳りゆく部屋''' |[[伊藤信太郎]] |収録:アルバム「日本の恋と、ユーミンと。」特典DVD |- |1976 |'''中央フリーウェイ''' | |初出:フジテレビ「スーパージャム」 |- |1979 |'''DESTINY''' | |初出:フジテレビ「スーパージャム」 |- |1987 |[https://www.youtube.com/watch?v=6oQzw3jIC2k '''SWEET DREAMS'''] | |未収録 |- |1988 |[https://www.youtube.com/watch?v=-ZpQmBhxOT0 '''リフレインが叫んでる'''] | |未収録 |- |1989 |[https://www.youtube.com/watch?v=hIOuyyiCh8g '''ANNIVERSARY〜無限にCALLING YOU〜'''] |[[前嶋輝]] |未収録 |- |1989 |[https://www.youtube.com/watch?v=VXwTJma8ar0 '''WANDERERS'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1990 |[https://www.youtube.com/watch?v=W1JZkC-jMU4 '''満月のフォーチュン'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1990 |[https://www.youtube.com/watch?v=zQkxW5CjsRc '''SAVE OUR SHIP'''] | |初出:NHK「日本ゴールドディスク大賞」 |- |1991 |[https://www.youtube.com/watch?v=ZHyQfX84SmI '''情熱に届かない~Don’t Let Me Go'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1992 |[https://www.youtube.com/watch?v=LGP_eu2TlPM '''Carry on'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1993 |[https://www.youtube.com/watch?v=fxTD_ZIAnH4 '''真夏の夜の夢'''] | |未収録 |- |1993 |[https://www.youtube.com/watch?v=lWnj_Rvy53o '''XYZING XYZING'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1994 |[https://www.youtube.com/watch?v=K6dmZhdCYs0 '''Hello, my friend'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1994 |[https://www.youtube.com/watch?v=qX7pFYH9O04 '''春よ、来い'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1995 |[https://www.youtube.com/watch?v=6r2KHT5xxUM '''輪舞曲'''] | |未収録 |- |1996 |[https://www.youtube.com/watch?v=jMYtD5duMvY '''まちぶせ'''] | |未収録 |- |1996 |[https://www.youtube.com/watch?v=KXNqTqc45iE '''最後の嘘'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1997 |[https://www.youtube.com/watch?v=lvTaFw5ab7U '''告白'''] |前嶋輝 |未収録 |- |1997 |[https://www.youtube.com/watch?v=VH6ZalABzZw '''Sunny day Holiday'''] | |未収録 |- |1999 |[https://www.youtube.com/watch?v=kyYOoP7gqTQ '''Lost Highway'''] | |未収録 |- |1999 |'''Raga #3''' | |収録:DVD「YUMING SPECTACLE SHANGRILA 1999」 |- |2000 |[https://www.youtube.com/watch?v=xNzD31jJiV8 '''PARTNERSHIP'''] | |未収録 |- |2001 |[https://www.youtube.com/watch?v=iymAdEk0VLU '''幸せになるために'''] | |未収録 |- |2001 |[https://www.youtube.com/watch?v=A2gV9nSZiWg '''7 TRUTHS 7 LIES~ヴァージンロードの彼方で'''] | |未収録 |- |2002 |[https://www.youtube.com/watch?v=D3GbHCdeRSU '''Wings of Winter'''] | |未収録 |- |2002 |[https://www.youtube.com/watch?v=s3TI8CNlDrs '''Northern Lights'''] |前嶋輝 |収録:シングル「雪月花」特典DVD |- |2002 |'''雪月花''' | |収録:シングル「雪月花」特典DVD |- |2004 |[https://www.youtube.com/watch?v=J2k_ESm_tYA '''永遠が見える日'''] |前嶋輝 |収録:DVD「YUMING Presents 天国の本屋〜恋火 ミュージックDVD」 |- |2004 |[https://www.youtube.com/watch?v=QlElEgswpJQ '''恋の苦さとため息と'''] |信藤三雄 |未収録 |- |2005 |[https://www.youtube.com/watch?v=c_SYBcp8L8c '''ついてゆくわ'''] | |未収録 |- |2006 |[https://www.youtube.com/watch?v=Y_ry3sc39_4 '''虹の下のどしゃ降りで'''] | |未収録 |- |2006 |''' Still Crazy For You / クレージーキャッツ & YUMING''' | |収録:コラボレート・シングル「Still Crazy For You」特典DVD |- |2006 |[https://www.youtube.com/watch?v=bY4_mzKtc8w '''Forgiveness'''] | |収録:DVD「THE LAST WEDNESDAY TOUR 2006〜HERE COMES THE WAVE〜」 |- |2007 |'''ミュージック / Golden Circle featuring 寺岡呼人・松任谷由実・ゆず''' | |収録:コラボレート・シングル「ミュージック」特典DVD |- |2007 |[https://www.youtube.com/watch?v=ivr6unbsRbs '''人魚姫の夢'''] | |収録:シングル「人魚姫の夢」特典DVD |- |2008 |'''記念日 / SoulJa × Misslim''' | |収録:コラボレート・シングル「記念日」特典DVD |- |2009 |'''ハートの落書き''' | |未収録 |- |2011 |'''ひとつの恋が終わるとき''' | |未収録 |- |2011 |[https://www.youtube.com/watch?v=NcD_UABhN0o '''Mysterious Flower'''] | |未収録 |- |2011 |[https://www.youtube.com/watch?v=viE_qp3qOMc '''I Love You'''] |レスリー・キー |未収録 |- |2012 |[https://www.youtube.com/watch?v=Loy4kYcmovQ '''恋をリリース'''] |信藤三雄 |未収録 |- |2013 |'''ひこうき雲''' |[[砂田麻美]] |収録:アルバム「ユーミン×スタジオジブリ 40周年記念盤 ひこうき雲」特典DVD |- |2013 |[https://www.youtube.com/watch?v=zRnk_b-gs7w '''Babies are popstars'''] / [https://www.youtube.com/watch?v=b6JWD5wRKyE '''Babies are popstars'''] |森本千絵、秦永優子 |収録:Blu-ray / DVD「All about POP CLASSICO」 |- |2016 |[https://www.youtube.com/watch?v=VqTtutgq6zY '''宇宙図書館'''] |秦永優子 |収録:アルバム「宇宙図書館」特典DVD |- |2019 |[https://www.youtube.com/watch?v=eG9NqEEWE00 '''深海の街'''] |[[関和亮]] |収録:アルバム「深海の街」特典DVD |- |2020 |[https://www.youtube.com/watch?v=EaB8H8hwLBw '''1920'''] | |未収録、Album Message Movie |- |2020 |[https://www.youtube.com/watch?v=fauprZGxDYM '''知らないどうし'''] | |収録:アルバム「深海の街」特典DVD |- |2021 |[https://www.youtube.com/watch?v=F4LuXcQrAxI '''きみのためにSuperman / スモール3 with 松任谷由実'''] |[[吉葉龍志郎]] |未収録 |- |2022 |[https://www.youtube.com/watch?v=oWo-TabDt8w '''Call me back / 松任谷由実 with 荒井由実'''] |[[工藤伸一]] |アルバム「ユーミン万歳!」特典Blu-ray / DVD |- |2023 |[https://www.youtube.com/watch?v=hcLfervAh8s '''Kissin’ Christmas (クリスマスだからじゃない) 2023 / 桑田佳祐&松任谷由実'''] |渡邉直 |未収録、Special Lyric Video |- |2023 |[https://www.youtube.com/watch?v=sMlUHektpAg '''守ってあげたい/乃木坂46 cheers 松任谷由実(produced by 小室哲哉)'''] |[[鈴木利幸]] |初出:日本テレビ「ベストアーティスト」、Yuming Performance Version |- |2023 |[https://www.youtube.com/watch?v=-aC_EJvYqLQ '''真夏の夜の夢/GLIM SPANKY cheers 松任谷由実'''] |鈴木利幸 |初出:テレビ朝日「ミュージックステーション」、Yuming Performance Version |} == コンピレーション・アルバム == {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!アーティスト!!タイトル |- !rowspan="2"|1 |1984年5月25日 |rowspan="2"|ハイ・ファイ・セット |Sings Yuming |- |2002年6月19日 |[[GOLDEN☆BEST ハイ・ファイ・セット 荒井由実・松任谷由実・杉真理作品集]] |- !2 |1984年9月21日 |マニュアル プロジェクト |DIGITAL FANTASIA |- !rowspan="2"|3 |1985年3月6日 |rowspan="2"|松田聖子 |[[Seiko-Train]] |- |2000年7月5日 |[[SEIKO SUITE]] Disc2 |- !rowspan="2"|4 |1986年7月21日 |rowspan="2"|麗美 |REIMY BRAND |- |2005年5月18日 |[[麗美GOLDEN☆BEST -REIMY BRAND COMPLETE-]] |- !5 |1987年5月7日 |原田知世 |image |- !6 |1992年10月21日 |Various Artist |I'm Your Fan -Tribute to Yumi Matsutoya- |- !7 |1993年4月21日 |ブレッド&バター<br />いしだあゆみ |呉田軽穂作詞集 |- !8 |1997年1月22日 |Various Artist |「いちご白書」をもう一度〜荒井由実作品集 |- !9 |1997年3月21日 |Various Artist |雨音はショパンの調べ〜松任谷由実作品集 |- !10 |1997年3月21日 |Various Artist |秘密の花園〜呉田軽穂作品集 |- !11 |1999年9月22日 |Various Artist |[[Dear Yuming]] |- !12 |2002年12月11日 |Various Artist |[[Queen's Fellows]] |- !13 |2003年7月16日 |Various Artist |[[OVER THE SKY:Yuming International Cover Album]] |- !14 |2004年1月21日 |Various Artist |シンガーソングライターからの贈り物 荒井由実作品集 |- !15 |2007年11月21日 |Various Artist |UNDER THE BLUE MOON:Yuming International Cover Album |- !16 |2009年4月8日 |Various Artist |[[Shout at YUMING ROCKS]] |- !17 |2009年12月9日 |Various Artist |[[Pure Lips〜Yuming Compositions]] |- !18 |2012年4月25日 |f.e.n. |東京カフェスタイル #1 ストーリー |- !19 |2012年9月19日 |f.e.n. |東京カフェスタイル #2 メモリー |- !20 |2013年2月20日 |Various Artist |You & Me 〜あの日にかえりたい 荒井由実トリビュート作品集 |- !21 |2013年3月13日 |f.e.n. |東京カフェスタイル #3 ファンタジー |- !22 |2013年10月9日 |[[今井美樹]] |[[Dialogue -Miki Imai Sings Yuming Classics-]] |- !23 |2020年10月7日 |Various Artist |刀剣乱舞-ONLINE- 歌曲集と物語「あなたと 私と」 |- !24 |2022年3月16日 |[[JUJU]] |ユーミンをめぐる物語 |} == 他アーティスト作品への参加 == {|class="wikitable" style="font-size:small" !発売日 !style="width:16%"|アーティスト !style="width:32%"|タイトル !style="width:38%"|備考 |- |1971年10月25日 |[[小坂忠]] |album『ありがとう』 |ピアノ:「冬・春・夏」,「みちくさ」 |- |1972年5月1日 |[[加橋かつみ]] |single『愛は突然に…』 |ピアノ:「愛は突然に…」 |- |1972年11月25日 |[[バズ (バンド)|BUZZ]] |single『ケンとメリー〜愛と風のように〜』 |ピアノ:「ケンとメリー〜愛と風のように〜」,「悲しい歌はもううたわない」 |- |1972年12月25日 |[[小林啓子]] |album『かなしみごっこ』 |ピアノ:「やさしい朝の歌」,「からっぽの世界」 |- |1975年 |[[フランソワーズ・アルディ]] |album『夜のフランソワーズ』(日本版) |ライナーノーツ |- |1977年6月5日 |[[尾崎亜美]] |album『[[MIND DROPS]]』 |タイトル |- |1977年6月5日 |[[マザー・グース (日本の音楽グループ)|マザー・グース]] |album『パノラマ・ハウス』 |ジャケット画,推薦コメント |- |1977年11月25日 |松任谷正隆 |album『[[夜の旅人]]』 |ジャケット画 |- |1977年 |[[越路吹雪]] |album『一寸おたずねします』 |イラストレーション |- |1983年1月 |東京JAP |album『JAP大作戦』 |プロデュース |- |1983年5月21日 |[[T-SQUARE|ザ・スクエア]] |album『[[うち水にRainbow]]』 |トータルコーディネイト |- |1984年4月28日 |稲垣潤一 |single『オーシャン・ブルー』 |コーラス:「オーシャン・ブルー」 |- |1984年8月25日 |小林麻美 |album『CRYPTOGRAPH〜愛の暗号』 |プロデュース |- |1985年7月21日 |[[高中正義]] |album『[[TRAUMATIC 極東探偵団]]』 |コーラス:「[[CHINA (高中正義の曲)|CHINA]]」 |- |1987年3月21日 |小林麻美 |album『GREY』 |プロデュース |- |1988年4月6日 |Various Artist |album『[[抱きしめたい (トリビュート・アルバム)|抱きしめたい]]』 |カバー:「ノーウェジアン・ウッド([[ノルウェーの森]])」 |- |1988年4月21日 |武部聡志 |album『Clara』 |ジャケット画 |- |1988年7月10日 |Various Artist |album『MATTARI!〜FRAGMENTS OF YUMING』 |選曲 |- | rowspan=2 | 1992年5月1日 | rowspan=2 | Various Artist |Video『ルージュの伝言I』 | rowspan=2 | 音楽 |- |Video『ルージュの伝言Ⅱ』 |- |1997年10月29日 |松任谷正隆<br>熊谷幸子 |sound track『時をかける少女』 |ボーカル・作詞作曲:「夢の中で〜We are not alone, forever(映画 Version)」「時のカンツォーネ(映画 Version)」 |- |1999年2月20日 |Piccadilly Circus |album『Piccadilly Circus』 |コーラス:「Good Friend」 |- |2002年10月17日 |Various Artist |album『[[一期一会 Sweets for my SPITZ]]』 |カバー:「[[楓/スピカ|楓]]」 |- |2003年7月23日 |[[MAYA MAXX]] |DVD『a MAYA MAXX film 空~kuu~』 |出演:「松任谷由実×MAYA MAXX 対談」 |- |2003年9月3日 |元ちとせ |album『[[ノマド・ソウル]]』 |タイトル |- |2004年10月29日 |Port of Notes |album『Evening Glow』 |コーラス:「Sunshine in The Rain」 |- |2004年11月10日 |Various Artist |album『[[YOSUI TRIBUTE]]』 |カバー:「とまどうペリカン」 |- |2004年12月1日 |[[クレイジーケンバンド]] |DVD『CKBMV』 |出演:「COBALT HOUR」 |- |2005年12月7日 |イム・ヒョンジュ |album『THE LOTUS』 |コーラス:「Smile again(韓国語 Version)」 |- |2007年3月28日 |Various Artist |DVD『[[ガールフレンズ#映像化作品(DVD)|Yuming Song Musical ガールフレンズ]]』 |作詞作曲 |- |2008年5月8日 |ブレッド&バター |DVD『茅ヶ崎・東海岸 カフェ・ブレッド&バターの軌跡』 |出演 |- |2009年10月21日 |Various Artist |album『[[くるり鶏びゅ〜と]]』 |カバー:「[[春風 (くるりの曲)|春風]]」 |- |2011年4月13日 |Various Artist |album『ISETAN Songs Collection 1972-1986』 |ボーカル・作詞作曲:「YOU ARE MY SUNSHINE」 |- |2012年5月29日 |松任谷正隆 |sound track『虹色ほたる〜永遠の夏休み〜』 |ボーカル・作詞作曲:「愛と遠い日の未来へ(映画 Version)」 |- |2013年12月18日 |Various Artist |album『Tribute to Taeko Onuki』 |カバー:「[[クリシェ (大貫妙子のアルバム)|色彩都市]]」 |- |2015年11月27日 |char |Blu-ray / DVD『"Rock十" Eve -Live at Nippon Budokan-』 |出演:「Night Flight」 |- |2019年12月21日<ref>BSフジ「小山薫堂 東京会議 #248」放送日</ref> |松任谷正隆 |『[https://www.youtube.com/watch?v=DcmgX69YOn8 かごめかごめ]』 |ボーカル |- |2020年11月2日 |一青窈 |single『かたつむり』 |コーラス:「かたつむり」 |- |2020年12月20日 |マイカ・ミュージック・ラボラトリー |『[https://www.youtube.com/watch?v=kFoMAZUYOHI クリスマスの願い事]』 |ボーカル |- |2021年3月4日 |Various Artist |Blu-ray『ALFA MUSIC LIVE-ALFA 50th Anniversary Edition』 |出演 |- |2021年10月27日 |SKYE |album『SKYE』 |コーラス:「Always」 |- |2022年3月16日 |JUJU |album『ユーミンをめぐる物語』 |プロデュース、出演:「Documentary of ユーミンをめぐる物語」 |- |2023年1月25日 |SKYE |Blu-ray / DVD『SKYE TOUR 2022』 |出演 |- |2023年2月22日 |JUJU |live album / Blu-ray / DVD『不思議の国のジュジュ苑 -ユーミンをめぐる物語- JUJUの日スペシャル』 |出演 |} == オリコン記録 == * アーティスト総売上(歴代8位の4004万枚) * アルバム総売上(歴代3位、ソロ&女性1位の3135万枚) * アルバム1位獲得数(歴代2位、ソロ1位の25作) * アルバム1位連続獲得年数(歴代1位の18年) * アルバム1位獲得最年長記録(歴代2位、女性1位の68歳9か月『[[ユーミン万歳!]]』) * アルバムTOP10獲得作品数(歴代2位、女性1位の50作) * アルバム年間TOP10獲得作品数(歴代1位の20作) * アルバム年間TOP10連続獲得年数(歴代1位の14年) * シングル同時TOP100獲得作品数(歴代2位の16作) * 10年代1位獲得数(歴代1位の6回〈1970・1980・1990・2000・2010・2020年代〉) * 史上最長キャリアでのアルバムミリオン突破(歌手キャリア45年11ヶ月(「[[日本の恋と、ユーミンと。]]」)) * アルバムミリオン獲得作品数(歴代3位、ソロ1位の10作) * 日本人アーティストとして初めてのアルバム200万枚突破:[[天国のドア]] * オリコン史上初のアルバム初動ミリオン:[[DAWN PURPLE]] * 歴代アルバム売上15位:[[Neue Musik]] * アルバム年間1位獲得作品:[[Delight Slight Light KISS]](1989年間)、[[LOVE WARS (松任谷由実のアルバム)|LOVE WARS]](1990年間)、[[天国のドア]](1991年間) * 女性最多となるアルバムミリオン「通算10作」、アルバム首位「通算25作目」の記録を持つ。オリコン史上初の「1970・1980・1990・2000・2010・2020年代」と6つの年代連続でアルバム売上首位を獲得(歴代1位)。[[桑田佳祐]]、[[山下達郎]](2人とも1980・1990・2000・2010・2020年代)が保持していた記録を塗り替えた。 == タイアップ一覧 == {|class="wikitable" style="font-size:small" !楽曲!!タイアップ!!収録アルバム |- |rowspan="3"|ひこうき雲 |映画「[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]」主題歌 |rowspan="6"|ひこうき雲 |- |[[au by KDDI]]「au loves ジブリ」CMソング |- |NHKドラマ「青の時代 名曲ドラマシリーズ ひこうき雲」主題歌 |- |きっと言える |[[アサヒ飲料]]「旨茶」CMソング |- |紙ヒコーキ |アサヒ飲料「旨茶」CMソング |- |雨の街を |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.16 主題歌 |- |(CMオリジナル曲) |[[マルマン (文具)|マルマン]]「ハーレーVS」CMソング | |- |rowspan="3"|瞳を閉じて |映画「スイート・スイート・ゴースト」主題歌 |rowspan="16"|MISSLIM |- |[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系ドラマ「[[Xmasなんて大嫌い]]」挿入歌 |- |[[日本放送協会|NHK]]「[[NHKアーカイブス]]」テーマソング |- |rowspan="11"|やさしさに包まれたなら |[[不二家]]「[[ソフトエクレア]]」CMソング (一部歌詞CMオリジナル) |- |映画「[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]」エンディングテーマ |- |MoMAニューヨーク近代美術館名作展イメージ・ソング |- |[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]「[[Suica]]キャンペーン」CMソング |- |[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ドラマ「[[ママが料理をつくる理由]]」主題歌 |- |[[mixi]] CMソング |- |[[ABCマート]] ホーキンス「エレガントウォーク」 CMソング |- |[[サントリー]]「のんある気分」 CMソング |- |アサヒ飲料 「十六茶」 CMソング |- |サントリー「サントリーのノンアル」 CMソング |- |[[マクドナルド]] 「ハッピーセット」 CMソング |- |やさしさに包まれたなら (Inst) |[[ヤマト運輸]]「プレゼント宅急便」CMソング |- |12月の雨 |[[東芝]]「ecoスタイル」CMソング |- |rowspan="2"|卒業写真 ||TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.3 主題歌 |rowspan="11"|COBALT HOUR |- |フジテレビ系ドラマ「[[卒うた]]」主題歌 |- |rowspan="6"|ルージュの伝言 |映画「魔女の宅急便」オープニングテーマ |- |映画「[[おっぱいバレー]]」挿入歌 |- |映画「[[すずめの戸締まり]]」挿入歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.18 主題歌 |- |サントリー「[[オールフリー]]」CMソング |- |[[福助]]「満足」CMソング |- |rowspan="2"|ルージュの伝言 (Inst) |サントリー「サントリーウーロン茶プレミアムクリア」CMソング |- |[[ロッテ]]「[[ガーナチョコレート]]」CMソング |- |CHINESE SOUP |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.26 主題歌 |- |rowspan="4"|あの日にかえりたい |[[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ「[[家庭の秘密]]」主題歌 |rowspan="5"|YUMING BRAND<br />ユーミン万歳! |- |[[三菱電機]]「ダイヤトーン・セレクト600」CMソング |- |[[ペンタックス|旭光学]]「アサヒペンタックス」CMソング |- |[[テレビ朝日]]系ドラマ「[[西部警察 (PART1)|西部警察]]」#44 挿入歌 |- |翳りゆく部屋 |フジテレビ系「[[世にも奇妙な物語 真夏の特別編]] 隣の声」挿入歌 |- |14番目の月 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.17 主題歌 |rowspan="8"|14番目の月 |- |rowspan="2"|中央フリーウェイ |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.7 主題歌 |- |[[トヨタ自動車]]「ReBORN DRIVE FOR TOHOKU」CMソング |- |YOU ARE MY SUNSHINE(現:避暑地の出来事) |[[伊勢丹]]「夏のキャンペーン」CMソング (一部歌詞CMオリジナル) |- |rowspan="2"|グッドラック・アンド・グッドバイ |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.9 主題歌 |- |TBS系ドラマ「[[恋を何年休んでますか]]」挿入歌 |- |rowspan="2"|晩夏(ひとりの季節) |NHKドラマ「[[夏の故郷]]」主題歌 |- |NHKドラマ「[[幻のぶどう園]]」主題歌 |- |愛を育てる(CMオリジナル曲) |[[旭化成]] CMソング | |- |(CMオリジナル曲) |不二家「ソフトエクレア」CMソング | |- |rowspan="2"|ナビゲイター |[[三菱電機]]「ダイアトーンステレオ」CMソング |rowspan="2"|sweet,bitter sweet〜YUMING BALLAD BEST |- |TBS系ドラマ「恋を何年休んでますか」挿入歌 |- |埠頭を渡る風 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.25 主題歌 |rowspan="3"|流線形'80 |- |真冬のサーファー |映画「[[波の数だけ抱きしめて]]」挿入歌 |- |魔法のくすり |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.13 主題歌 |- |青いエアメイル |Yuming Films vol.2「バイバイ、ベアー」 |rowspan="3"|OLIVE |- |最後の春休み |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.5 主題歌 |- |冷たい雨 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.14 主題歌 |- |緑の町に舞い降りて |[[花巻空港]]イメージソング |rowspan="5"|悲しいほどお天気 |- |rowspan="3"|DESTINY |[[富士フイルム]]「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」CMソング |- |フジテレビ系ドラマ「[[季節はずれの海岸物語]]」主題歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.19 主題歌 |- |悲しいほどお天気 |フジテレビ系ドラマ「悲しいほどお天気」主題歌 |- |白日夢・DAY DREAM |TBS系「[[おはよう700]] キャラバンII」テーマソング | |- |よそゆき顔で |日本テレビ系ドラマ「恋をしましょう・ユーミンを聴きながら」挿入歌 |rowspan="3"|時のないホテル |- |5cmの向う岸 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.23 主題歌 |- |水の影 |NHK「[[探検ロマン世界遺産]]」エンディングテーマ |- |星のルージュリアン |[[ポーラ化粧品]]「ミルティーラ」CMソング |SEASONS COLOURS -秋冬撰曲集- |- |rowspan="2"|まぶしい草野球 |不二家「ソフトエクレア」CMソング |rowspan="8"|SURF&SNOW |- |[[ハウス食品]]「プライムカレー」CMソング |- |rowspan="3"|恋人がサンタクロース |映画「[[私をスキーに連れてって]]」挿入歌 |- |[[バンダイナムコゲームス]][[Wii]]用ソフト「[[ファミリースキー]]」BGM |- |[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]「ぼくらの冬曲キャンペーン」CMソング |- |rowspan="3"|サーフ天国、スキー天国 |[[コクド]]「[[苗場プリンスホテル]]」CMソング |- |映画「[[私をスキーに連れてって]]」主題歌 |- |バンダイナムコゲームスWii用ソフト「ファミリースキー」BGM |- |HONG KONG NIGHT SIGHT |香港政府観光局 CMソング |水の中のASIAへ |- |rowspan="6"|守ってあげたい |映画「[[ねらわれた学園 (1981年の映画)|ねらわれた学園]]」主題歌 |rowspan="9"|昨晩お会いしましょう |- |[[ミノルタ]]「α-sweet」CMソング |- |[[三菱自動車工業|三菱自動車]]「新型ミニカ[[三菱・トッポBJ|トッポBJ]]」CMソング |- |MoMAニューヨーク近代美術館名作展イメージ・ソング |- |[[テレビ朝日]]系ドラマ「[[めぞん一刻#テレビドラマ|めぞん一刻]]」主題歌 |- |[[Amazon.co.jp|アマゾンジャパン]]「Amazon Music HD」CMソング |- |手のひらの東京タワー |[[角川書店]]「Chou Chou」CMソング |- |rowspan="2"|A HAPPY NEW YEAR |映画「私をスキーに連れてって」挿入歌 |- |Yuming Films vol.3「新年好!」 |- |真珠のピアス |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.6 主題歌 |rowspan="3"|PEARL PIERCE |- |rowspan="2"|DANG DANG |富士フイルム「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」CMソング |- |映画「[[キャンプで逢いましょう]]」挿入歌 |- |ESPER |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.22 主題歌 |rowspan="2"|REINCARNATION |- |ずっとそばに |映画「[[遠い海から来たCOO|Coo 遠い海から来たクー]]」主題歌 |- |rowspan="3"|ガールフレンズ |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |rowspan="7"|VOYAGER |- |テレビ朝日系ドラマ「危険な女ともだち」主題歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.1 主題歌 |- |青い船で |映画「[[さよならジュピター]]」挿入歌 |- |rowspan="3"|不思議な体験 |[[ニッカウヰスキー]]「マイルドニッカ」CMソング |- |「古代エジプト展」CMソング |- |[[サンリオピューロランド]]「森のメルヘン 愛は永遠に」テーマソング |- |rowspan="3"|VOYAGER〜日付のない墓標 |映画「さよならジュピター」主題歌 |rowspan="3"|Neue Musik(ノイエ・ムジーク)<br />ユーミン万歳! |- |ニッカウヰスキー「マイルドニッカ」CMソング |- |三菱自動車「[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]」CMソング |- |rowspan="4"|ノーサイド |富士フイルム「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」CMソング |rowspan="14"|NO SIDE |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.20 主題歌 |- |TBS系ドラマ「[[ノーサイド・ゲーム]] 総集編」挿入歌 |- |テレビ朝日系ドラマ「友情〜平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」〜」主題歌 |- |rowspan="3"|DOWNTOWN BOY |富士フイルム「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」CMソング |- |三菱自動車「新型トッポBJ」CMソング |- |[[東日本高速道路|NEXCO東日本]]<br />[[東京外環自動車道]]([[三郷南インターチェンジ|三郷南IC]] - [[高谷ジャンクション|高谷JCT]])開通<br />アニメーションムービー「GAIKAN CHIBA」テーマソング |- |rowspan="4"|BLIZZARD |映画「私をスキーに連れてって」挿入歌 |- |三菱自動車「RVキャンペーン」CMソング |- |バンダイナムコゲームスWii用ソフト「ファミリースキー」BGM |- |JR東日本「[[JR SKISKI]]」CMソング |- |BLIZZARD (Inst) |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |一緒に暮らそう |[[ハウス食品]]「プライムカレー」CMソング |- |〜ノーサイド・夏〜 空耳のホイッスル |富士フイルム「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」CMソング |- |rowspan="3"|メトロポリスの片隅で |[[資生堂]]「フェアネス コスモアイカラー」CMソング |rowspan="9"|DA・DI・DA |- |TBS系ドラマ「[[意外とシングルガール]]」主題歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.12 主題歌 |- |月夜のロケット花火 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.11 主題歌 |- |rowspan="3"|シンデレラ・エクスプレス |TBS系「[[日立テレビシティ]]<br />シンデレラ・エクスプレス-48時間の恋人たち-」テーマソング |- |TBS系東芝日曜劇場「週末物語 シンデレラ・エクスプレス」主題歌 |- |[[東海旅客鉄道|JR東海]]「[[東海道新幹線]]」CMソング |- |rowspan="2"|青春のリグレット |映画「キャンプで逢いましょう」挿入歌 |- |[[CBCテレビ|CBC]]「[[旅・わくわく|人・旅わくわく]]」テーマソング |- |土曜日は大キライ |フジテレビ系「[[オレたちひょうきん族]]」エンディングテーマ |rowspan="2"|ALARM à la mode |- |ホライズンを追いかけて〜L'aventure au dèsert |[[テレビ朝日]]系ドラマ「[[痛快!婦警候補生やるっきゃないモン!]]」挿入歌 |- |ダイアモンドダストが消えぬまに |三菱自動車「新型[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]」CMソング |rowspan="8"|ダイアモンドダストが消えぬまに |- |思い出に間にあいたくて |TBS系ドラマ「[[涙日記]]」主題歌 |- |rowspan="3"|SWEET DREAMS |三菱自動車「新型[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]」CMソング |- |映画「[[波の数だけ抱きしめて]]」挿入歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.21 主題歌 |- |TUXEDO RAIN |[[第一生命保険|第一生命]]「リード21」CMソング |- |SATURDAY NIGHT ZOMBIES |フジテレビ系「オレたちひょうきん族」エンディングテーマ |- |霧雨で見えない |三菱自動車「新型ミラージュ」CMソング |- |rowspan="6"|リフレインが叫んでる |三菱自動車「新型ミラージュ」CMソング |rowspan="7"|Delight Slight Light KISS |- |TBS系ドラマ「東京ホテル物語」主題歌 |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.8 主題歌 |- |Yuming Films vol.1「リフレインが叫んでる」 |- |Apple Japan「Apple Music」5,000万曲の世界へ篇 CMソング |- |NHKドラマ「[[天使の耳#テレビドラマ|天使の耳〜交通警察の夜]]」挿入歌 |- |恋はNo-return |フジテレビ系「オレたちひょうきん族」エンディングテーマ |- |Valentine's RADIO |映画「波の数だけ抱きしめて」挿入歌 |rowspan="9"|LOVE WARS |- |WANDERERS |三菱自動車「新型ミラージュ」CMソング |- |LOVE WARS |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.4 主題歌 |- |心ほどいて |映画「波の数だけ抱きしめて」挿入歌 |- |届かないセレナーデ |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |Good-bye Goes by |TBS系ドラマ「[[雨よりも優しく]]」主題歌 |- |rowspan="2"|ANNIVERSARY |KDD CMソング |- |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.15 主題歌 |- |ANNIVERSARY (Inst) |ロッテ「ガーナチョコレート」CMソング |- |Miss BROADCAST |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.10 主題歌 |rowspan="7"|天国のドア |- |時はかげろう |テレビ朝日系ドラマ「[[手塚治虫劇場]]」主題歌 |- |満月のフォーチュン |三菱自動車「新型ミラージュ」CMソング |- |Man In the Moon |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |残暑 |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.24 主題歌 |- |天国のドア |TBS系ドラマ「ルージュの伝言」vol.2 主題歌 |- |SAVE OUR SHIP |TBS宇宙プロジェクト「[[日本人初!宇宙へ]]」テーマソング |- |Happy Birthday to You〜ヴィーナスの誕生 |NHK「[[1992年アルベールビルオリンピック|アルベールビルオリンピック]]」テーマソング |rowspan="4"|DAWN PURPLE |- |情熱に届かない〜Don't Let Me Go |[[麒麟麦酒|キリン]]「[[キリンラガービール]]」CMソング |- |DAWN PURPLE |キリン「キリンラガービール」CMソング |- |タイムリミット |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |愛のWAVE |フジテレビ「愛のWAVE・ミュージックキャンペーン」テーマソング | |- |無限の中の一度 |キリン「キリンラガービール」CMソング |rowspan="5"|TEARS AND REASONS |- |ミラクル |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |冬の終り |フジテレビ系ドラマ「[[その時、ハートは盗まれた]]」主題歌 |- |So high |フジテレビ系ドラマ「その時、ハートは盗まれた」挿入歌 |- |Carry on |NHK総合「[[サンデースポーツ]]」「[[サタデースポーツ]]」エンディングテーマ |- |紅雀〜暁のシュプール〜 |[[アルペンスキー世界選手権]]盛岡雫石大会テーマソング | |- |風のスケッチ |[[東京都]]「TAMAライフ21」テーマソング | |- |真夏の夜の夢 |TBS系ドラマ「[[誰にも言えない]]」主題歌 |rowspan="3"|U-miz |- |11月のエイプリルフール |フジテレビ系「[[ビートたけしのつくり方]]」エンディングテーマ |- |二人のパイレーツ |キリン「キリンラガービール」CMソング |- |砂の惑星 |TBS系ドラマ「[[私の運命]]」主題歌 |rowspan="12"|THE DANCING SUN |- |Good-bye friend |フジテレビ系ドラマ「[[君といた夏]]」挿入歌 |- |GET AWAY |キリン「キリンラガービール」CMソング |- |rowspan="2"|Hello, my friend |フジテレビ系ドラマ「君といた夏」主題歌 |- |映画「[[振り子 (映画)|振り子]]」挿入歌 |- |Oh Juliet |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |rowspan="6"|春よ、来い |NHK連続テレビ小説「[[春よ、来い (テレビドラマ)|春よ、来い]]」主題歌 |- |[[ハウステンボス]]「チューリップ祭」CMソング |- |[[読売新聞]]「メガ文字キャンペーン」CMソング |- |サントリー「[[ボス (コーヒー)|BOSSレインボーマウンテンブレンド]] 駅員編」CMソング |- |[[全日本空輸|ANA]]「夢見るヒコーキ 故郷篇」CMソング |- |サントリー「[[伊右衛門]] 春の歌編」CMソング |- |KATHMANDU |キリン「キリンラガービールウィンタークラブ」CMソング |rowspan="6"|KATHMANDU |- |命の花 |TBS系ドラマ「[[私の運命]]」主題歌 |- |輪舞曲 |日本テレビ系[[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]]「[[たたかうお嫁さま]]」主題歌 |- |Broken Barricade |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |Midnight Scarecrow |映画「キャンプで逢いましょう」主題歌 |- |Weaver of Love〜ORIHIME |映画「[[PiPi とべないホタル]]」主題歌 |- |Cowgirl Blues |三菱自動車「RVキャンペーン」CMソング |rowspan="6"|Cowgirl Dreamin' |- |告白 |日本テレビ系ShinD「告白」主題歌 |- |Moonlight Legend |キリン「キリンラガービール」CMソング |- |別れのビギン |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |最後の嘘 |TBS系ドラマ「[[ひとり暮らし]]」主題歌 |- |まちぶせ |日本テレビ系「[[TVおじゃマンボウ]]」エンディングテーマ |- |Over The Rainbow |キリン「キリンラガービール」CMソング | |- |Everybody Loves Somebody |キリン「キリンラガービール」CMソング | |- |Sunny day Holiday |フジテレビ系ドラマ「[[成田離婚 (テレビドラマ)|成田離婚]]」主題歌 |rowspan="4"|スユアの波 |- |夢の中で〜We are not alone, forever |映画「[[時をかける少女|時をかける少女 (1997年)]]」オープニングテーマ |- |パーティーへ行こう |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |- |時のカンツォーネ |映画「[[時をかける少女|時をかける少女 (1997年)]]」エンディングテーマ |- |groove in retro |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング |Neue Musik(ノイエ・ムジーク) |- |Raga#3 |東芝「DVDプレイヤー」CMソング |rowspan="2"|FROZEN ROSES |- |Spinning Wheel |フジテレビ系「[[めざましテレビ]]」テーマソング |- |Summer Junction |三菱自動車「軽自動車キャンペーン」CMソング |rowspan="5"|acacia (アケイシャ) |- |TWINS |[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]海外少年少女ドラマ「アニマルレスキューキッズ」主題歌 |- |幸せになるために |TBS系「[[ウンナンのホントコ!]] 未来日記VIII」テーマソング |- |7 TRUTHS 7 LIES〜ヴァージンロードの彼方で |フジテレビ系ドラマ「[[ムコ殿]]」主題歌 |- |PARTNERSHIP |日本テレビ系「[[シドニーオリンピック]]」テーマソング |- |ドラゴンドラのテーマ(CMオリジナル曲) |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング | |- |Northern Lights |テレビ朝日系「ユーミンの遥かなる音と魂の旅」テーマソング |rowspan="5"|Wings of Winter, Shades of Summer |- |rowspan="2"|ただわけもなく |アサヒ飲料「夏旨茶」CMソング |- |[[明治 (企業)|明治]]「THE GREEK YOGURT」CMソング |- |雪月花 |NHK「NHK50年・あの人に会いたい」テーマソング |- |Painting the sea |日本ミルクコミュニティ「メグミルク」CMソング |- |Over The Rainbow |三菱自動車「[[三菱・コルト|COLT]]」CMソング | |- |rowspan="2"|やさしさに包まれたなら<br />(Yumi Matsutoya with Yumi Arai) |日本ミルクコミュニティ「メグミルク」CMソング |rowspan="2"|Yuming Compositions : FACES |- |NHK「⇒2020 [[レスリー・キー]]がつなぐポートレートメッセージ」<br />企画応援テーマソング |- |太陽の逃亡者 |[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]「冬のキャンペーン」CMソング |rowspan="6"|VIVA! 6×7 |- |Choco-language |不二家「LOOK」CMソング |- |水槽のJerryfish |コクド「苗場プリンスホテル」CMソング (一部歌詞CMオリジナル) |- |灯りをさがして |日本テレビ系「あの日にかえりたい〜東京キャンティ物語〜」<br />イメージソング |- |永遠が見える日 |映画「[[天国の本屋〜恋火]]」主題歌 |- |Invisible Strings |不二家「[[カントリーマアム]]」CMソング |- |STILL CRAZY for YOU |フジテレビ系「[[ウチくる!?]]」エンディングテーマ | |- |あなたに届くように |NHK「[[探検ロマン世界遺産]]」オープニングテーマ |rowspan="6"|A GIRL IN SUMMER |- |rowspan="2"|虹の下のどしゃ降りで |[[au by KDDI]]「[[モバイルSuica]]キャンペーン」CMソング |- |JR東日本「モバイルSuicaキャンペーン」CMソング |- |Forgiveness |ハウス食品「北海道シチュー」「北海道チャウダー」CMソング |- |ついてゆくわ |TBS系ドラマ「[[夢で逢いましょう]]」主題歌 |- |時空のダンス |三菱自動車「未来形スモール i」CMソング |- |あの日にかえりたい (CM Version) |キリン「キリンクラシックラガー」CMソング |SEASONS COLOURS -秋冬撰曲集- |- |卒業写真 (CM Version) |キリン「キリンクラシックラガー」CMソング | |- |Color of the Moon |Bunkamura/日本テレビ「プリンセスの輝き ティアラ展」イメージソング | |- |rowspan="3"|記念日 |[[テレビ東京]]系「[[PVTV]]」エンディングテーマ |rowspan="3"| |- |テレビ東京系「[[やりすぎコージー]]」エンディングテーマ |- |[[朝日放送テレビ|朝日放送]]「[[ミューパラ特区]]」エンディングテーマ |- |まずはどこへ行こう |「[[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]2009」応援イメージソング |rowspan="5"|そしてもう一度夢見るだろう |- |Flying Messenger |NHK「[[探検ロマン世界遺産]]」オープニングテーマ |- |夜空でつながっている |ハウス食品「プライムカレー」CMソング |- |rowspan="2"|人魚姫の夢 |映画「[[女帝 [エンペラー]|女帝(エンペラー)]]」イメージソング |- |[[WOWOW]]ドラマ「[[ママは昔パパだった]]」主題歌 |- |rowspan="2"|シャツを洗えば |[[ギャップ (企業)|GAP]] 40th ANNIVERSARY キャンペーンソング |rowspan="2"| |- |[[大鵬薬品工業]]「チオビタドリンク」CMソング |- |Mysterious Flower |[[ニンテンドー3DS]]用ソフト「[[レイトン教授と奇跡の仮面]]」エンディングテーマ |rowspan="6"|Road Show |- |I Love You |WWD JAPAN Presents [[カルティエ]]「Her Bridal Story」イメージソング |- |今すぐレイチェル |ABCマート ホーキンス「ビューティーウォーク」 CMソング |- |GIRL a go go |[[コーセー]]「グランデーヌ ルクサージュ」CMソング |- |バトンリレー |[[第一生命]]グループソング |- |ダンスのように抱き寄せたい |映画「[[RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語]]」主題歌 |- |rowspan="2"|(みんなの)春よ、来い |NHK「[[NHK厚生文化事業団|NHK歳末たすけあい]]・[[海外たすけあい|NHK海外たすけあい]]」イメージソング |rowspan="2"| |- |[[日本たばこ産業|JT]]「岩手県大槌町の柏崎さんの物語」<br />「陸前高田市の佐藤さんの物語」CMソング |- |恋をリリース |フジテレビ系[[昼ドラ]]「[[鈴子の恋]]」主題歌 | |- |愛と遠い日の未来へ |映画「[[虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜]]」主題歌 |rowspan="6"|POP CLASSICO |- |今だけを きみだけを |日本テレビ系ドラマ「[[ダンダリン 労働基準監督官]]」主題歌 |- |Hey girl! 近くても |[[東京地下鉄|東京メトロ]]「Color your days」CMソング |- |Early Springtime |NHK [[ドラマ10]]「[[マエ持ち女二人組#テレビドラマ|いつか陽のあたる場所で]]」主題歌 |- |夜明けの雲 |映画「[[RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ]]」主題歌 |- |MODELE |[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]「[[ユーミンのSUPER WOMAN]]」テーマソング |- |残火 |映画「[[真田十勇士 (マキノノゾミ)#映画|真田十勇士]]」主題歌 |rowspan="10"|宇宙図書館 |- |AVALON |[[日本中央競馬会|JRA]]ブランド広告「a beautiful race」CMソング |- |あなたに会う旅 |ハウス食品「北海道シチュー」CMソング |- |月までひとっ飛び |[[三菱UFJニコス]]「MUFGカード スマート」CMソング |- |Smile for me |フジテレビ系ドラマ「[[Chef〜三ツ星の給食〜]]」主題歌 |- |私の心の中の地図 |[[大和ハウス工業]]「故郷2016篇」CMソング |- |君と(僕の)BIRTHDAY |ネイチャーラボ「ダイアンボタニカル」CMソング |- |rowspan="3"|気づかず過ぎた初恋 |映画「[[リトルプリンス 星の王子さまと私]]」吹替版主題歌 |- |フジテレビ系「[[ウチくる!?]]」エンディングテーマ |- |[[サダマツ]]「Wish upon a star」CMソング |- |(南の)恋人がサンタクロース |[[ファミリーマート]]「クリスマスキャンペーン」CMソング | |- |ノートルダム |舞台「ドクター・ブルー~いのちの距離~」主題歌 |rowspan="6"|深海の街 |- |雪の道しるべ |ハウス食品「北海道シチュー」CMソング |- |知らないどうし |TBS系ドラマ「[[恋する母たち#テレビドラマ|恋する母たち]]」主題歌 |- |あなたと 私と |[[DMM.com|DMMゲームズ]]「[[刀剣乱舞|刀剣乱舞-ONLINE-]]」主題歌 |- |Good! Morning |テレビ朝日系「[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]]」テーマソング |- |深海の街 |テレビ東京系「[[ワールドビジネスサテライト]]」エンディングテーマ |- |きみのためにSuperman |フジテレビ系「[[SMALL3|出川と爆問田中と岡村のスモール3]]」テーマソング | |- |Call me back |[[タカラレーベン]]50周年記念CMソング |ユーミン万歳! |- |Let It Rain |ハウス食品「北海道シチュー」CMソング | |} == ライブ == {{See|松任谷由実のコンサート一覧}} == アーティストへの提供曲 == === 荒井由実 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !アーティスト!!作詞作曲!!タイトル(タイアップ) |- |[[アグネス・チャン]] |作詞作曲 |『白いくつ下は似合わない』『愛を告げて』 |- |アンデルセン |作曲 |『サーフパーティー』 |- |rowspan="2"|[[石川セリ]] |作詞作曲 |『朝焼けが消える前に』『霧の桟橋』 |- |作曲 |『ひとり芝居』 |- |rowspan="2"|[[太田裕美]] |作詞作曲 |『[[青い傘]]』 |- |作曲 |『[[袋小路 (太田裕美の曲)|袋小路]]』(映画「[[DRIVE (映画)|DRIVE]]」挿入歌)<br /> 『ひぐらし』 |- |[[岡崎友紀]] |作詞作曲 |『グッドラック・アンド・グッドバイ』『ハートを食べて』 |- |[[かはしかつみ|加橋かつみ]] |作曲 |『愛は突然に』 |- |rowspan="2"|かん せつかず |作詞作曲 |『一人芝居』 |- |作詞 |『一人ぼっちの音楽会』『遠くへ』 |- |[[郷ひろみ]] |作詞 |『午后のイメージ』『20才を過ぎたら』『恋のハイウエイ』『宇宙のかなたへ』『君のおやじ』『雨にひとり』<br />『ウィスキー・ボンボン』『ライトグリーンの休日』『青ひげの男』『誰もこない世界へ』<br />『ガラス張りのエレベーター』 |- |[[沢田研二]] |作詞 |『[[ウィンクでさよなら]]』『薔薇の真心』 |- |[[田中健 (俳優)|田中健]] |作詞作曲 |『透きとおった夜明け』 |- |[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]] |作詞 |『月にてらされて』 |- |デビッド&amp;ミッシェル |作詞作曲 |『いま何時?』(TBS系「世界の子供たち」テーマソング) |- |長崎県立奈留高等学校 |作詞作曲 |『瞳を閉じて』 |- |パイシス |作詞作曲 |『恋人と来ないで』 |- |rowspan="2"|[[ハイ・ファイ・セット]] |作詞作曲 |『卒業写真』(映画「Watch with Me 〜卒業写真〜」主題歌)<br />『朝陽の中で微笑んで』(映画「凍河」主題歌)<br />『荒涼』『フェアウェル・パーティー』 |- |作詞 |『十円木馬』『スカイレストラン』『土曜の夜は羽田に来るの』『星降る真夜中』『ジュ・マンニュイ』<br />『星のストレンジャー』『真夜中の面影』『グランド・キャニオン』<br />『幸せになるため』(日本テレビ系「[[たんぽぽ (テレビドラマ)|たんぽぽ]]」主題歌) |- |[[バズ (バンド)|BUZZ]] |作詞 |『夏の空』『回転(まわり)舞台』 |- |[[長谷川きよし]] |作詞 |『ダンサー』『愛は夜空へ』『美しい日々』 |- |[[バンバン (フォークグループ)|バンバン]] |作詞作曲 |『[[『いちご白書』をもう一度]]』『冷たい雨』『霧雨の朝突然に…』 |- |[[ビッグ・マンモス]] |作詞 |『あの子の心はボクのもの』(フジテレビ系「[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]」挿入歌) |- |[[平山三紀]] |作詞 |『やさしい都会』『あなたの来る店』 |- |ポニーテール |作詞作曲 |『二人は片想い』 |- |[[松島トモ子]] |作詞作曲 |『過ぎたことだから』 |- |rowspan="2"|[[三木聖子]] |作詞作曲 |『まちぶせ』 |- |作詞 |『恋のスタジアム』 |- |[[南沙織]] |作詞 |『[[青春に恥じないように]]』 |- |[[吉田美奈子]] |作詞 |『パラダイスへ』 |- |[[山本コウタロー]]&amp;ウィークエンド |作詞 |『最後のバカンス』 |} === 呉田軽穂 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !アーティスト!!作詞作曲!!タイトル(タイアップ) |- |[[綾瀬はるか]] |作曲 |『[[マーガレット (綾瀬はるかの曲)|マーガレット]]』 |- |[[いしだあゆみ]] |作詞 |『[[赤いギヤマン|波になって]]』『砂時計』『孤独な旅人』『BLIZZARD』 |- |[[伊藤敏博]] |作曲 |『秋終記』 |- |[[岩崎宏美]] |作詞 |『時の女神』 |- |[[ブレッド&バター|岩沢幸矢]] |作詞 |『夜空にあなたの名を呼べば』 |- |絵夢 |作詞 |『私が悪い』 |- |[[財津和夫]] with 原みどり |作詞作曲 |『償いの日々』 |- |[[榊原郁恵]] |作曲 |『イエ!イエ!お嬢さん』 |- |讃岐ゆう子 |作詞 |『夕映えの帰り道』『同じ海の前で』 |- |rowspan="2"|[[白石まるみ]] |作詞作曲 |『恋人がいても』 |- |作詞 |『オリオン座のむこう』『6月のまばたき』 |- |[[須藤薫]] |作詞 |『THE BLACK HOLE』(映画「THE BLACK HOLE」イメージソング)<br />『セカンド・ラヴ』『さよならはエスカレーターで』 |- |rowspan="2"|[[田中星児]] |作詞作曲 |『心のとびら』(TBS系「[[8時の空]]」テーマソング) |- |作曲 |『だからボヘミアン』 |- |[[田原俊彦]] |作曲 |『[[銀河の神話]]』 |- |チーボー |作詞 |『眠れる町の美女』 |- |[[刀根麻理子]] |作曲 |『カレンダー』 |- |[[中村雅俊]] |作詞作曲 |『日時計』(日本テレビ系「[[ゆうひが丘の総理大臣]]」挿入歌)<br />『三つ数えろよ』([[ダイドードリンコ]]「ジョニアンコーヒー」CMソング) |- |[[藤真利子]] |作詞 |『シナリオ』『ピアノ・フォルテ』 |- |rowspan="3"|[[ブレッド&amp;バター]] |作詞作曲 |『あの頃のまま』(ミュージカル「あの頃のまま」主題歌) |- |作詞 |『タバコロード20』『ゆううつ』『HOTEL PACIFIC』『SHONAN GIRL』『ぬけがらのシャツ』<br />『冬のハイビスカス』([[ケンウッド]]「カーコンポーネント」CMソング) |- |日本語詞 |『[[心の愛|特別な気持ちで (I Just Called To Say I Love You)]]』 |- |[[松田聖子]] |作曲 |『[[赤いスイートピー]]』(三菱電機「オーブンレンジ」CMソング、富士フイルム「アスタリフト」CMソング<br />映画「[[麦子さんと]]」挿入歌)『[[渚のバルコニー]]』(富士フイルム「アスタリフト」CMソング)<br />『[[赤いスイートピー|制服]]』<br />『[[渚のバルコニー|レモネードの夏]]』『[[小麦色のマーメイド]]』『[[小麦色のマーメイド|マドラス・チェックの恋人]]』『[[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]]』<br />『[[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ|瞳はダイアモンド]]』(サントリー「BOSS SILKY BLACK」CMソング)<br />『[[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ|蒼いフォトグラフ]]』(TBS系ドラマ「[[青が散る]]」主題歌)<br />『[[Rock'n Rouge]]』(カネボウ化粧品「春のキャンペーン」CMソング)<br />『[[Rock'n Rouge|ボン・ボヤージュ]]』『[[時間の国のアリス]]』『惑星になりたい』<br />『[[永遠のもっと果てまで/惑星になりたい|永遠のもっと果てまで]]』(映画「[[PAN ネバーランド、夢のはじまり]]」吹替版主題歌、JR東日本「BRT」CMソング<br />フジテレビ系「ウチくる!?」エンディングテーマ) |- |[[松本明子]] |作曲 |『soon』(日本テレビ系「[[サービス (テレビドラマ)|サービス]]」主題歌、日本テレビ系「ロンブー荘 青春記」エンディングテーマ) |- |[[松本典子]] |作曲 |『さよならと言われて』(SONY「Wキッド」CMソング) |- |rowspan="2"|[[観月ありさ]] |作詞作曲 |『今年いちばん風の強い午後』(キリン「シャッセ」CMソング) |- |作曲 |『君が好きだから』(フジテレビ系ドラマ「[[じゃじゃ馬ならし (テレビドラマ)|じゃじゃ馬ならし]]」主題歌) |- |堀江マミ |作詞 |『CAMOUFLAGE』 |- |[[堀川まゆみ]] |作詞 |『もうすぐSteady』 |- |マナ |作詞 |『さよならのポラロイド』 |- |[[水越けいこ]] |作詞作曲 |『心のとびら』(TBS系「8時の空」テーマソング) |- |宮本典子 |作詞 |『エピローグ』『朝焼けの告白』 |- |[[森下恵理]] |作曲 |『トワイライト』『恋の祈り』 |- |rowspan="2"|[[薬師丸ひろ子]] |作詞作曲 |『Come Back To Me~永遠の横顔』<ref>{{Cite news |url=https://www.cdjournal.com/i/news/yakushimaru-hiroko/94103 |title=薬師丸ひろ子、“Wの悲劇”以来となる呉田軽穂の書き下ろし新曲がベスト・アルバムに収録 トレーラー公開 |publisher=[[音楽出版社 (企業)#株式会社シーディージャーナル|CDJournal WEB]] |date=2021年11月05日 |accessdate=2021-11-28}}</ref> |- |作曲 |『[[Woman "Wの悲劇"より]]』(映画「[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]]」主題歌、資生堂「ポーセリア」CMソング)<br />『冬のバラ』 |- |[[山下久美子]] |作詞 |『[[ワンダフルcha-cha]]』(トヨタ自動車「ターセル/コルサ」CMソング) |- |[[山瀬まみ]] |作曲 |『メロンのためいき』『今夜はフェアリーテール』 |- |[[吉川忠英]] |作詞 |『ミュージシャン』『コントラスト』 |} === 松任谷由実 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !アーティスト!!作詞作曲!!タイトル(タイアップ) |- |[[A.S.A.P. (グループ)|A.S.A.P.]] |作詞作曲 |『Teardrops In The Rain』 |- |[[芦田愛菜]] |作詞作曲 |『[[雨に願いを]]』(フジテレビ系ドラマ「[[ビューティフルレイン]]」主題歌) |- |[[アン・ルイス]] |作詞作曲 |『[[甘い予感 (アン・ルイスの曲)|甘い予感]]』 |- |[[五十嵐夕紀]] |作詞 |『[[6年たったら]]』『丘の上の十番地』 |- |石川県 |作曲 |『ひゃくまんさん小唄』(石川県観光誘客動画「いしかわ百万石物語」挿入歌) |- |[[石川セリ]] |作詞作曲 |『手のひらの東京タワー』『川景色』<br />『はなびら』(NHK Hi-Vision「山下清の見た東海道五十三次〜童心スケッチ〜」テーマソング) |- |[[稲垣潤一]] |作詞作曲 |『[[オーシャン・ブルー (稲垣潤一の曲)|オーシャン・ブルー]]』 |- |[[梅垣達志]] |作詞 |『男のロマン』『バルーン』『席はあるかい』 |- |April |作詞作曲 |『Finally』 |- |[[絵夢]] |作詞 |『くもりガラス』(TBS系ドラマ「[[検事霧島三郎#毎日放送版|検事霧島三郎]]」主題歌) |- |エリック・ムー |作詞 |『それがきみの願いなら』(日本テレビ系「Music Park」エンディングテーマ) |- |[[オルケスタ・デ・ラ・ルス]] |作詞作曲 |『太陽と黒いバラ〜Soy Una Rosa』 |- |[[加橋かつみ]] |作詞 |『12時の讃歌』(映画「渚の白い家」主題歌) |- |[[V6 (グループ)|Coming Century]] |作詞作曲 |『[[恋のシグナル]]』([[森永製菓]]「小枝」CMソング) |- |[[カルロス・トシキ&オメガトライブ]] |作詞作曲 |『[[時はかげろう]]』 |- |rowspan="2"|[[川崎龍介]] |作詞作曲 |『サマー・ブリーズ』 |- |作詞 |『愛は星座をめぐるように』 |- |河島信之&amp;エアーズ |作曲 |『OH!ガール』([[サントリー]]「ポップ」CMソング) |- |[[木村佳乃]] |作詞 |『Lullaby For Grandmother〜黄色いバラをあなたへ』(フジテレビ系「[[めざましテレビ]]」テーマソング)<br />『Like a Dolphine』『Golden Town』 |- |[[キム・ユナ]] |作曲 |『春の日は過ぎゆく』(映画「[[春の日は過ぎゆく]]」主題歌) |- |桐ヶ谷仁 |作詞 |『暮れ色の媚薬』『誰よりも』<br />『DEPARTURE』 |- |クー・レデスマ |作曲 |『夏物語 (ONE DAY SOON)』(サントリー「CANジンフィズ」CMソング) |- |[[KUWATA BAND|桑田佳祐 & His Friends]] |作詞 |『[[Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)]]』<br />(日本テレビ系「[[メリー・クリスマス・ショー]]」テーマソング) |- |[[くるり]] |作詞 |『FIRE』 |- |rowspan="4"|[[小林麻美]] |作詞作曲 |『恋なんてかんたん』『幻の魚たち』『EROTIQUE』『移りゆく心』<br />『夜の響きを聞いている』『昼の三日月』『ルームサービス』『遠くからHAPPY BIRTHDAY』『GREY』<br />『I MISS YOU』([[スズキ (企業)|スズキ]]「[[スズキ・アルト|アルト レジーナ]]」CMソング) |- |作詞 |『哀しみのスパイ』『TRANSIT』『Sugar Shuffle』『飯倉グラフィティー』 |- |日本語詞 |『[[雨音はショパンの調べ]]』『月影のパラノイア』『シフォンの囁き』『愛のプロフェッサー』 |- |作曲 |『金色のライオン』『水晶の朝』 |- |[[西城秀樹]] |作詞作曲 |『[[2Rから始めよう]]』 |- |[[斎藤ノブ]] |作詞作曲 |『IN THE DARKNESS』 |- |榊原郁恵&amp;[[久本雅美]] |作曲 |『歩いて帰ろう』(ミュージカル「[[サザエさん]]」主題歌) |- |[[坂本真綾]] |作曲 |『おかえりなさい』(テレビアニメ「[[たまゆら (アニメ)|たまゆら 〜hitotose〜]]」オープニングテーマ) |- |[[T-SQUARE|ザ・スクエア]] |作曲 |『黄昏で見えない』 |- |[[沢田研二]] |作詞作曲 |『静かなまぼろし』 |- |[[天上智喜The Grace|Sunday]] |作詞 |『リラの片想い』([[ロッテ]]「DELITZ」CMソング、日本テレビ系「[[三宅裕司のドシロウト]]」エンディングテーマ) |- |霜和夫 |作詞作曲 |『逢いたい気持』(そごう東京店開店20周年記念CMソング) |- |[[シモンズ (歌手)|シモンズ]] |作詞作曲 |『水の影』(TBS系ドラマ「幸福の断章」主題歌) |- |[[JUJU]] |作詞作曲 |『鍵穴』 |- |[[朱里エイコ]] |作詞 |『めぐり逢い』 |- |[[白鳥英美子]] |作曲 |『Song for Your Energies』([[東京電力]]CIイメージソング) |- |[[涼風真世]] |作曲 |『ミッドサマー・イブ』(宝塚歌劇「[[PUCK]]」挿入歌) |- |[[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]] |作詞作曲 |『Melancholia』(フジテレビ系ドラマ「[[火の粉#テレビドラマ(2016年版)|火の粉]]」主題歌) |- |立科町立たてしな保育園 |作詞作曲 |『たてしな保育園のうた』 |- |[[Char]] |作詞作曲 |『Night Flight』 |- |[[鳥山雄司]] |作曲 |『Seven Miles Bridge』 |- |[[大地真央]] |作詞作曲 |『失恋』 |- |[[ディック・リー]] |日本語詞 |『I couldn't ask ever more』 |- |[[手嶌葵]] |作詞作曲 |『散りてなお』(映画「[[みをつくし料理帖]]」主題歌) |- |[[手塚理美|手塚さとみ]] |作曲 |『[[ボビーに片想い]]』『Killer Angel』 |- |[[東京JAP]] |作詞 |『ASIAN NIGHT』 |- |[[ナンシー・ウィルソン (ジャズ歌手)|ナンシー・ウィルソン]] |作曲 |『I BELIEVE IN YOU〜君に捧げる心の歌〜』(日立「インターフェイス」CMソング) |- |[[NOKKO]] |作曲 |『ふふふ』 |- |[[萩尾みどり]] |作詞作曲 |『大連慕情』『ためらい』 |- |[[元ちとせ]] |作詞作曲 |『ウルガの丘』<br />『[[春のかたみ]]』(フジテレビ系テレビアニメ「[[怪 〜ayakashi〜]]」主題歌) |- |[[原田知世]] |作詞作曲 |『[[時をかける少女 (曲)|時をかける少女]]』(映画「[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]」主題歌、角川書店「[[ザテレビジョン]]」CMソング)<br />『[[ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ]]』(ミュージカル「[[あしながおじさん]]」主題歌) |- |[[パンダフルハウス]] |作曲 |『風ぐらし』 |- |[[ヒデとロザンナ]] |作詞 |『追想』(TBS系ドラマ「[[分水嶺 (テレビドラマ)|分水嶺]]」主題歌)<br />『心を許して』『あなたとともに』 |- |[[一青窈]] |作曲 |『[[かたつむり (一青窈の曲)|かたつむり]]』 |- |[[平原綾香]]&amp;[[井上芳雄]] |日本語詞 |『[[僕の歌は君の歌 (曲)|Your Song]]』(ミュージカル「[[ムーラン・ルージュ (ミュージカル)|ムーラン・ルージュ]]」挿入歌) |- |廣重綾 |作曲 |『You are you』(不二家「ミルキー」CMソング) |- |[[藤真利子]] |作詞作曲 |『山の雪だより』『シーズンオフの心には』 |- |rowspan="2"|ブレッド&amp;バター |作詞作曲 |『海岸へおいでよ』 |- |作詞 |『STAY AS FRIENDS』 |- |[[キリンジ|堀込泰行]]・[[ハナレグミ]]・[[畠山美由紀]] |作曲 |『真冬物語』 |- |[[堀川まゆみ]] |作詞作曲 |『熱帯性低気圧』『風の中の栗毛』 |- |[[松任谷正隆]] |作詞 |『沈黙の時間』『煙草を消して』『霜の降りた朝』『もう二度と』『気づいたときは遅いもの』『乗り遅れた男』<br />『HONG KONG NIGHT SIGHT』『夜の旅人』 |- |マナ |作詞 |『さよならのポラロイド』 |- |Mary Jane Alm & Pat Fredric |作曲 |『WHAT'S A GIRL TO DO』(BSフジドラマ「JJママ」主題歌) |- |[[南沙織]] |作詞 |『[[I've been mellow#収録曲|ミッドナイト・シンデレラ]]』 |- |[[南佳孝]] |作詞 |『日付変更線』 |- |[[宮崎美子]] |作詞作曲 |『夕闇をひとり』 |- |[[ムッシュかまやつ]] |作詞作曲 |『BeBe〜きみはMYSTERY』 |- |[[森山良子]] |作詞作曲 |『きのうに乾杯』<br />『どこへも行かないで』(日本テレビ系ドラマ「[[大追跡 (テレビドラマ)|大追跡]]」#17 挿入歌) |- |[[レイジー]] |作詞 |『[[カムフラージュ (レイジーの曲)|カムフラージュ]]』『クイーンにふさわしい』 |- |rowspan="3"|[[麗美]] |作詞作曲 |『ノーサイド』『青春のリグレット』『霧雨で見えない』『残暑』『恋の一時間は孤独の千年』<br />『Time Travelers』『パンジーとトパーズのネックレス』『ひとちがい』『愛にDESPERATE』<br />『何もいらないから』『ポニーテール』 |- |作詞 |『星のクライマー』 |- |作曲 |『花びらの舞う坂道』『こごえる心』『どんなふうに』『時にめぐりあい』『だって』 |} == アーティストによるカバー == タイアップのあった曲のみ {|class="wikitable" style="font-size:small" !アーティスト!!作詞作曲!!タイトル(タイアップ) |- |A.S.A.P. |作詞作曲 |『卒業写真』『ノーサイド』(TOSHIBA「Here with you」CMソング) |- |[[いきものがかり]] |作詞作曲 |『[[ノスタルジア (いきものがかりの曲)|時をかける少女]]』(映画「[[時をかける少女 (2010年の映画)|時をかける少女]]」挿入歌) |- |[[諫山実生]] |作詞作曲 |『朝陽の中で微笑んで』(テレビ朝日系ドラマ「[[動物のお医者さん]]」主題歌) |- |[[Uru]] |作詞作曲 |『卒業写真』(映画「[[夢は牛のお医者さん]]」エンディングテーマ) |- |エイミー・ブラックシュレイガー |作詞作曲 |『ルージュの伝言』([[花王]][[ソフィーナ]]「オーブクチュール」CMソング) |- |[[奥村愛子]] |作詞作曲 |『14番目の月』(映画「[[さよならみどりちゃん]]」主題歌) |- |キャロル・セラ |作詞作曲 |『ルージュの伝言』(JR東日本「Japanese Beauty ホクリク・キャンペーン」CMソング) |- |[[Cocco]] |作詞作曲 |『何もなかったように』(映画「[[リップヴァンウィンクルの花嫁]]」挿入歌) |- |[[国広富之]] |作詞 |『男のロマン』(TBS系ドラマ「[[噂の刑事トミーとマツ]]」挿入歌) |- |[[cossami]] |作詞作曲 |『やさしさに包まれたなら』([[味の素]]「パルスイート」CMソング) |- |[[坂本真綾]] |作詞作曲 |『[[DOWN TOWN/やさしさに包まれたなら|やさしさに包まれたなら]]』(OVA「[[たまゆら (アニメ)|たまゆら]]」オープニングテーマ) |- |[[柴咲コウ]] |作詞作曲 |『[[CIRCLE CYCLE|ルージュの伝言]]』(映画「[[嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん]]」挿入歌) |- |[[島田歌穂]] |作詞作曲 |『あの頃のまま』(ドラマ「[[部長刑事|新・部長刑事 アーバンポリス24]]」エンディングテーマ) |- |[[瀧川ありさ]] |作詞作曲 |『ノーサイド』(テレビアニメ「[[ALL OUT!!]]」エンディングテーマ) |- |[[chay]] |作詞作曲 |『12月の雨』(日本テレビ系ドラマ『[[校閲ガール#テレビドラマ|地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子]]』オープニングテーマ) |- |トーキョーベートーヴェン feat. [[モトーラ世理奈]] |作詞作曲 |『青春のリグレット』(テレビ東京系ドラマ『[[東京デザインが生まれる日]]』オープニングテーマ) |- |[[Toshl]] |作詞作曲 |『ひこうき雲』(フジテレビ系ドラマ『[[大誘拐2018]]』エンディングテーマ) |- |ハイ・ファイ・セット |作詞作曲 |『中央フリーウェイ』(スタンレーCMソング) |- |[[林原めぐみ]] |作詞作曲 |『[[VOYAGER〜日付のない墓標]]』(映画「[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]」挿入歌) |- |[[平井堅]] |作曲 |『[[告白 (平井堅の曲)|Woman "Wの悲劇"より]]』(テレビ朝日系ドラマ「[[Wの悲劇#テレビドラマ(2012年版)|Wの悲劇]]」挿入歌) |- |ねらわれた学園<br />([[向井秀徳]]&[[峯田和伸]]) |作詞作曲 |『守ってあげたい』(映画「[[少年メリケンサック]]」エンディングテーマ) |- |畠山美由紀 |作詞作曲 |『翳りゆく部屋』(映画「気球クラブ、その後」主題歌) |- |宮本浩次 |作詞作曲 |『恋人がサンタクロース』(ソフトバンクCMソング) |- |薬師丸ひろ子 |作詞作曲 |『[[昨晩お会いしましょう|A HAPPY NEW YEAR]]』(NHKドラマ「[[富士ファミリー|富士ファミリー2017]]」エンディングテーマ) |- |山崎賢人 / 早見あかり |作詞作曲 |『やさしさに包まれたなら』(ダイハツ「キャスト」CMソング) |- |善村ゆうこ |作詞作曲 |『瞳を閉じて』(NHK「[[みんなのうた]]」) |} {{Main|松任谷由実のカバー曲}} == 主なサポートミュージシャン == === レコーディング === キーボード:松任谷正隆 など ドラム:[[林立夫]]、[[ヴィニー・カリウタ|VINNIE COLAIUTA]]、[[JOHN ROBINSON]]、[[島村英二]]、[[江口信夫]]、[[マイク・ベアード|MIKE BAIRD]]、[[渡嘉敷祐一]] など ベース:[[高水健司]]、[[細野晴臣]]、[[ニール・スチューベンハウス|NEIL STUBENHAUS]]、[[美久月千晴]]、[[リーランド・スカラー|LELAND SKLAR]] など ギター:[[松原正樹]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、[[ディーン・パークス|DEAN PARKS]]、[[鳥山雄司]]、松任谷正隆、[[マイケル・ランドウ|MICHAEL LANDAU]]、[[今剛]]、[[ポール・ジャクソン・ジュニア|PAUL JACKSON, JR.]] など パーカッション:[[斉藤ノヴ]]、[[浜口茂外也]]、[[橋田正人|ペッカー]]、[[MICHAEL FISHER]]、[[ルイス・コンテ|LUIS CONTE]] など サックス:DAN HIGGINS、[[山本拓夫]]、[[ジェイク・コンセプション|JAKE H. CONCEPCION]]、[[ラリー・ウィリアムズ (ジャズ・ミュージシャン)|LARRY WILLIAMS]] など トランペット:[[ジェリー・ヘイ|JERRY HEY]]、GARY GRANT、西村浩二、菅坡雅彦、[[数原晋]]、羽鳥幸次 など トロンボーン:[[ビル・ライヒェンバッハ|BILL REICHENBACH]]、[[村田陽一]]、[[新井英治]]、[[平内保夫]]、[[岡田澄雄]] など フルート:DAN HIGGINS、JAKE H. CONCEPCION、[[衛藤幸雄]] など ストリングス:阿部雅士ストリングス、スージー片山ストリングス、日色ストリングス、トマト・ストリングス・アンサンブル、玉野嘉久 など コーラス:[[今井マサキ]]、佐々木詩織、OTOTACHIBANA、シュガーベイブ([[山下達郎]]、[[大貫妙子]]、[[村松邦男]])、[[吉田美奈子]]、[[ハイ・ファイ・セット]]、[[バズ (バンド)|BUZZ]]、[[タイム・ファイブ]]、[[EVE (歌手グループ)|EVE]](LEONA、CLARA、LILIKA)、桐ヶ谷仁、[[桐ヶ谷ボビー|桐ヶ谷‘‘BOBBY’’俊博]]、[[白鳥英美子]]、杉真理、[[須藤薫]]、[[木戸やすひろ]]、比山貴咏史、[[広谷順子]]、The Waters、松任谷正隆 など == 出演 == === ラジオパーソナリティー === [[全国FM放送協議会|ジャパンエフエムネットワーク]](JFN)の系列番組では、1982年の担当開始から枠がなくなったことがない。 {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !開始日!!終了日!!放送局!!タイトル |- | | |[[文化放送]] |『サンスイ ポップジャンボリー』 |- |1976年4月 |1977年3月 |[[NHKラジオ第1放送]] |『[[若いこだま]]』 |- |1976年4月 | |ニッポン放送 |『ハンドメイド・コンサート』 |- |1976年10月 | |ニッポン放送 |『[[ねらえ!サウンドライフ]] ユーミン・マサタカのファッショナブル・パーティー』<ref group="注">「マサタカ」は夫の松任谷正隆。</ref> |- | | |[[エフエム東京|TOKYO FM]] |『中村屋サロン』 |- | | |[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]] |『サムシングNOW ユーミンの世界』 |- |1977年4月 | |ニッポン放送 |『ニューミュージック・カタログ'77』 |- |1978年4月 |1979年3月 |ラジオ関東 |『[[電撃わいどウルトラ放送局]]』 |- |1978年10月 |1979年3月 |ラジオ大阪 |『[[JAM JAM 11]]』 |- |1980年10月 | |ラジオ関東 |『ユーミン SURF & SNOW』 |- |1981年10月 |1982年3月 |[[MBSラジオ|毎日放送]] |『[[MBSミュージックマガジン]] ユーミンと60分』 |- |1981年12月 |1981年12月 |NHK-FM |『ユーミン 105分』 |- |1982年6月 |1985年9月 |TOKYO FM |『[[サタデーアドベンチャー]]』 |- |1982年10月 |1983年4月 |文化放送 |『[[ユーミン・ランド]]』 |- |1985年10月 |2002年3月 |TOKYO FM |『[[松任谷由実 サウンドアドベンチャー]]』<ref name="djmeikan"/><ref group="注">『サタデーアドベンチャー』が改編により日曜へ移転し土曜(サタデー)でなくなったため改題。</ref> |- |1985年10月 |1987年10月 |[[TBSラジオ]] |『YUMINGのおしゃまします』<ref name="djmeikan"/> |- |1987年10月 |1987年10月 |TBSラジオ |『YUMINGのSWEET DREAMS』 |- |1988年4月 |1999年3月 |ニッポン放送 |『[[松任谷由実のオールナイトニッポン]]』 |- |1998年12月 |1998年12月 |TBSラジオ |『SAVE THE GREAT APES 滅びゆく森の住人達を救え!』 |- |2001年7月 |2021年6月 |インターネットラジオ |『[[ウィークエンドスペシャル 松任谷由実はじめました]]』 |- |2002年1月 |2004年1月 |[[NHK-FM放送|NHK-FM]] |『ユーミン'S ART IT』 |- |2002年4月 |2006年3月 |TOKYO FM |『[[松任谷由実 For Your Departure]]』 |- |2006年1月 |2008年3月 |ポッドキャスト |『あなたのおしゃれを守ってあげたい』 |- |2006年4月 |2011年12月 |TOKYO FM |『[[松任谷由実 Sweet Discovery]]』 |- |2008年4月 |2009年3月 |ポッドキャスト |『松任谷由実 Sweet Discovery スピンオフ』 |- |2012年1月 |放送中 |TOKYO FM |『[[松任谷由実のYuming Chord]]』 |- |2016年4月 |放送中 |ニッポン放送 |『[[松任谷由実のオールナイトニッポン|松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD]]』 |- |2021年6月 |放送中 |ポッドキャスト |『[[ウィークエンドスペシャル 松任谷由実はじめました|うそラジオ Podcast 松任谷由実 はじめました]]』<ref group="注">放送形態の変更。</ref> |- |2022年9月 |公開中 |Amazon Music |『[https://www.amazon.co.jp/松任谷由実-「50周年に50の質問」/dp/B0BBDCGRCT 50周年に50の質問]』 |} === テレビ番組 === <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[日本放送協会|NHK総合]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |1976年4月12日<br />4月17日(再)<br />5月8日(再)<br />11月27日(再)<br />2007年12月15日(再)<br />12月23日(再) |『[[新日本紀行]]』(歌が生まれてそして~長崎県奈留島~) |- |1976年12月31日 |『ヤング・フェスティバル・ショー 荒井由実コンサート』 |- |1977年3月15日<br />3月17日(再)・31日(再) |『[[歌のグランド・ショー]]』 |- |1977年8月27日<br />10月1日(再) |『NHKフォークフェスティバル』(松任谷由実×ハイファイセット×大橋純子×田山雅充) |- |1978年1月2日 |『日本フォーク地図』 |- |1979年4月14日<br />8月7日(再) |『幾山河は越えたれど 昭和のこころ・[[古賀政男]]』 |- |1984年7月29日 |『NHK日曜招待席』([[春風亭小朝]]) |- |1984年12月27日 |『NHKニュースワイド』 |- |1987年2月8日 |『パリダカールラリー'87 世界最大の自動車レース』 |- |1988年9月8日 |『九州特集 瞳を閉じて ユーミンが贈った島の歌』【九州ブロック】 |- |1991年3月12日 |『第5回[[日本ゴールドディスク大賞]]』 |- |1992年2月9日 |『アルベールビル'92』 |- |1996年11月23日<br />12月8日(再) |『松任谷由実モンゴルをゆく 神秘の歌声ホーミーへの旅』 |- |2001年10月18日<br />12月19日(再) |『[[トップランナー]]』([[スガシカオ]]) |- |2003年2月1日 |『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』(松任谷由実×秋元康) |- |2003年3月8日 |『SURF & SNOW 松任谷由実の軌跡』 |- |2005年12月31日 |『[[第56回NHK紅白歌合戦]]』 |- |2006年3月31日 |『松任谷由実 EXPOドームライブ』(再編集) |- |2007年2月25日 |『松任谷由実ライブ Friends of Love The Earth 2006』 |- |2007年6月22日 |『[[プレミアム10]] ユーミンと歌いたい 寺岡呼人・ゆず・桜井和寿』 |- |2007年11月16日<br />2007年12月2日(再) |『[[プレミアム10]] 恋うた2007 autumn and winter』 |- |2007年12月28日(再) |『2007 日中文化・スポーツ交流年 グランドフィナーレ・コンサート』 |- |2007年12月29日<br />2008年2月3日(再) |『Yuming Films 映画になったユーミンソングス』 |- |2008年2月12日・19日(再) |『プロフェッショナル』([[武部聡志]]) |- |2009年3月28日・30日(再) |『探検ロマン世界遺産 最終回スペシャル ユーミン×アンダルシア』 |- |2009年4月8日・14日(再) |『[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]』#85 |- |2009年4月15日・21日(再) |『SONGS』#86 |- |2010年2月12日<br />2013年11月19日 |『[[ニュースウオッチ9]]』 |- |2010年2月12日 |『[[新潟ニュース610]]』【NHK新潟局】 |- |2010年5月25日<br />6月9日(再)<br />7月10日(再) |『青春の言葉 風街の歌 No.1ヒットメーカー 作詞家 松本隆の40年』 |- |2011年4月20日・26日(再)<br />6月22日(再)・12月30日(再) |『SONGS』#174 |- |2011年5月18日<br />10月10日 |『[[NHKニュースおはよう日本]]』 |- |2011年12月31日 |『[[第62回NHK紅白歌合戦]]』 |- |2012年3月28日<br />4月6日(再) |『SONGS 2012春スペシャル 松任谷由実』 |- |2012年7月12日(再) |『[[ユーミンのSUPER WOMAN]] スペシャルプロローグ』 |- |2012年11月30日<br />12月8日(再) |『松任谷由実デビュー40周年 はてない夢の旅』(松任谷由実×茂木健一郎) |- |2013年11月22日<br />12月29日(再) |『SONGSスペシャル 松任谷由実~生きるよろこび 歌にこめて~』 |- |2015年1月9日(再) |『大心理学実験』 ※ナレーション |- |2015年10月30日 |『SONGSスペシャル 作詞家・松本隆』 |- |2015年12月19日 |『SONGSスペシャル 松任谷由実』 |- |2016年11月3日 |『SONGS』#398(松任谷由実×大西卓哉) |- |2017年8月26日<br />9月2日(再) |『「植木等の時代」の魅力に迫る!』 |- |2017年12月1日 |『4時も!シブ5時』 |- |2017年12月1日 |『[[ニュース シブ5時]]』 |- |2018年3月21日 |『[[NHKアーカイブス|あの日 あのとき あの番組]] 瞳を閉じて~ユーミンが贈った旅立ちの歌~』 |- |2018年3月23日 |『[[あさイチ]]』 |- |2018年4月6日・13日<br />10月11日 |『[[かがのとイブニング]]』【NHK金沢局】 |- |2018年4月14日 |『SONGS』#455 |- |2018年4月18日・22日(再) |『Interview 松任谷由実 YUMING』【NHK金沢局】 |- |2018年12月31日 |『[[第69回NHK紅白歌合戦]]』 |- |2019年12月27日 |『陽水の50年』 |- |2019年12月31日 |『[[第70回NHK紅白歌合戦]]』 |- |2020年8月8日 |『ライブ・エール』 |- |2020年9月22日<br />12月23日(再) |『松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年』 |- |2020年12月5日・12日(再) |『SONGS』#559(松任谷由実×YOU) |- |2020年12月31日 |『[[第71回NHK紅白歌合戦]]』(松任谷由実×スモール3) |- |2021年1月15日 |『松任谷由実スペシャル ユーミンが見つめた2020年』 |- |2021年9月20日・28日(再) |『NHK MUSIC SPECIAL』(SKYE×松任谷由実×尾崎亜美) |- |2022年3月3日・8日(再) |『SONGS』#595(JUJU) |- |2022年10月6日・11日(再) |『SONGS』#616 |- |2022年12月15日<br />2023年1月2日(再) |『NHK MUSIC SPECIAL』 |- |2022年12月31日 |『[[第73回NHK紅白歌合戦]]』 |- |2023年8月2日<br />11月8日(再) |『解体キングダム』 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">NHK Eテレ</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |1977年1月14日<br />1月15日(再) |『教養特集 少年マンガのヒーローたち』 |- |2000年4月24日<br />5月2日(再)<br />2001年6月3日(再) |『細野晴臣 いつも新しい音を探してる』 |- |2004年11月14日<br />2015年3月15日・22日(再) |『[[新日曜美術館]]』 |- |2011年5月29日 |『ETV特集 細野晴臣 音楽の軌跡 ミュージシャンが向き合った「3.11」』 |- |2012年1月9日 - 2月10日<br />2月13日 - 3月16日(再)<br />7月30日 - 8月31日(再)<br />2013年4月3日 - 9月18日(再)<br />2014年4月2日 - 9月17日(再) |『ふしぎのヤッポ島 プキプキとポイ』 ※ナレーション |- |2012年7月6日 - 9月28日 |『ユーミンのSUPER WOMAN』(松任谷由実×森本千絵×鶴岡真弓×長谷川祐子×軍地彩弓<br />×中村うさぎ×草間彌生) |- |2015年1月1日・3日(再) |『大心理学実験』 ※ナレーション |- |2015年4月30日<br />5月10日(再) |『大心理学実験2』 ※ナレーション |- |2017年11月4日<br />11月10日(再) |『[[SWITCHインタビュー 達人達]]』(松任谷由実×坂東玉三郎) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">NHK BS</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |1999年11月26日 |『風を集めて 松本隆の世界』【BS2】 |- |2002年12月28日<br />2003年01月11日(再)<br />8月18日(再) |『SURF & SNOW in 逗子マリーナ 2002』【BS2】 |- |2003年8月18日(再) |『SURF & SNOW 松任谷由実の軌跡』【BS2】 |- |2005年12月23日<br />2006年2月3日(再)<br />4月1日(再) |『松任谷由実 EXPOドームライブ』【BS2】 |- |2005年12月31日 |『[[第56回NHK紅白歌合戦]]』【BS2】 |- |2006年12月30日<br />2007年2月25日(再) |『松任谷由実ライブ Friends of Love The Earth 2006』BS2】 |- |2007年6月3日 |『Golden Circle Live』(松任谷由実×桜井和寿×ゆず×寺岡呼人)【BShi】 |- |2007年6月9日<br />2008年1月4日(再) |『Golden Circle Live』【BS2】 |- |2007年12月24日 |『2007 日中文化・スポーツ交流年 グランドフィナーレ・コンサート』【BS2】 |- |2009年4月13日・20日 |『[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]』【BS2】 |- |2009年4月17日・18日(再)・24日(再)<br />5月8日(再)・7月20日(再) |『SONGSプレミアム』【BShi】 |- |2010年1月16日<br />2月19日(再)<br />2012年11月18日(再)<br />12月9日(再)<br />2013年8月9日(再) |『MASTER TAPE〜荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る』【BS2】 |- |2010年10月31日<br />2011年1月2日(再) |『生誕200年 みんなのショパン』【BShi】 |- |2012年11月12日(再) |『Yuming Films 映画になったユーミンソングス』【BSプレミアム】 |- |2018年12月31日 |『第69回NHK紅白歌合戦』【BS4K・BS8K】 |- |2019年12月27日<br />2020年12月26日(再) |『陽水の50年』【BS4K】 |- |2019年12月31日 |『第70回NHK紅白歌合戦』【BS4K・BS8K】 |- |2019年12月26日<br />2021年1月1日(再) |『松任谷由実 LIVEスペシャル SURF & SNOW in Naeba』【BS4K】 |- |2020年12月28日(再) |『ライブ・エール』【BS8K】 |- |2020年12月28日(再) |『松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年』(完全版)【BSプレミアム】 |- |2020年12月30日(再) |『松任谷由実 LIVEスペシャル SURF & SNOW in Naeba』【BSプレミアム】 |- |2020年12月31日 |『第71回NHK紅白歌合戦』(BS4K・BS8K】 |- |2022年7月28日(再)・29日(再)<br />11月4日(再)・5日(再) |『松任谷由実モンゴルをゆく 神秘の歌声ホーミーへの旅』【BSプレミアム】 |- |2022年12月10日(再)<br />2023年3月25日(再) |『新日本紀行』(歌が生まれてそして~長崎県奈留島~)【BSプレミアム】 |- |2022年12月16日(再)・20日(再)<br />2023年4月4日(再) |『新日本紀行』(歌が生まれてそして~長崎県奈留島~)【BS4K】 |- |2022年12月31日 |『第73回NHK紅白歌合戦』【BS4K・BS8K】 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |1976年6月13日 |『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』 |- |1979年4月14日 |『空前!糸川英夫の星占い』 |- |1980年2月20日 |『[[11PM]]』 |- |1980年3月11日<br />1983年5月11日<br />1985年7月29日 |『[[おしゃれ]]』 |- |1981年12月28日 |『[[ザ・トップテン]]』 |- |1986年12月24日<br />1987年12月24日 |『[[メリー・クリスマス・ショー|Merry X'mas Show]]』#1,#2 |- |1987年12月24日 |『夜まで待てない Merry X'mas Show』 |- |1990年3月17日 |『第4回日本ゴールドディスク大賞』 |- |1992年11月29日・<br />12月6日・13日 |『[[進め!電波少年]]』 |- |1997年3月7日・14日・21日<br />1999年12月3日・31日、<br />2000年1月14日 |『[[ウッチャンナンチャンのウリナリ!!]]』 |- |1997年3月15日 |『[[DAISUKI!]]』 |- |2000年9月22日 |『[[FUN]]』 |- |2000年8月26日・9月2日 |『[[スポーツうるぐす]]』(松任谷由実×松岡修造) |- |2002年12月14日 |『[[電波少年に毛が生えた 最後の聖戦]]』 |- |2004年10月10日 |『あの日にかえりたい。 東京キャンティ物語』 |- |2006年8月22日・9月19日<br />2007年9月14日<br />2009年1月1日・4月8日 |『[[ズームイン!!SUPER]]』 |- |2007年9月7日 |『[[音楽戦士 MUSIC FIGHTER]]』 |- |2009年3月30日<br />12月25日・29日<br />2010年5月24日 |『[[スッキリ!!]]』 |- |2009年4月5日・12日 |『[[Music Lovers]]』#129,#130(松任谷由実×マツコ・デラックス×YOU) |- |2009年4月11日 |『[[ズームイン!!サタデー]]』 |- |2009年4月16日<br />2010年5月25日・26日 |『[[news zero|NEWS ZERO]]』 |- |2011年4月3日 |『Music Lovers』#230(松任谷由実×ミッツ・マングローブ×春日俊彰) |- |2011年8月20日 |『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』#34 |- |2013年7月17日 |『[[1番ソングSHOW]]』 |- |2013年8月10日 |『シューイチ×風立ちぬ 宮崎駿最新作はこうして生まれた』 |- |2013年9月25日 |『[[PON!]]』 |- |2013年11月19日・20日<br />2014年9月12日<br />2015年12月4日<br />2016年11月4日<br />2017年11月10日<br />2018年4月20日 |『[[ZIP!]]』 |- |2016年10月30日 |『[[行列のできる相談所|行列のできる法律相談所]]』 |- |2017年11月10日 |『[[news every.]]』 |- |2017年11月17日 |『[[Oha!4]]』 |- |2018年4月7日 |『[[嵐にしやがれ]]』(松任谷由実×嵐) |- |2018年4月13日 |『[[バズリズム|バズリズム02]]』(松任谷由実×バカリズム) |- |2019年8月24日 |『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』#42(松任谷由実×羽生結弦) |- |2020年3月25日 |『[[日テレ系音楽の祭典 Premium Music 2020]]』 |- |2022年10月2日 |『[[行列のできる相談所]]』 |- |2022年12月17日 |『[[世界一受けたい授業]]』 |- |2022年12月28日 |『発表!今年イチバン聴いた歌』 |- |2023年12月2日 |『[[日テレ系音楽の祭典ベストアーティスト2023]]』(松任谷由実×乃木坂46) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[TBSテレビ|TBS]]系列</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |(不明) |『[[ヤング720]]』 |- |(不明) |『[[8時だョ!全員集合]]』 |- |(不明) |『[[料理天国]]』 |- |1975年5月9日 |『[[ぎんざNOW]]』 |- |1976年3月14日 |『セブンスターショー』([[かまやつひろし]]×荒井由実) |- |1976年9月3日<br />1977年8月9日 |『[[モーニングジャンボ奥さま8時半です]]』 |- |1976年10月16日 |『怒りの青春・ロックンローラー矢沢永吉』 |- |1977年1月31日 |『[[新・荒野の用心棒]]』 ※日本語吹き替えに、[[声優]]として出演。 |- |1978年7月2日 |『ロマンを旅する』 |- |1980年7月20日 |『[[すばらしき仲間]]』(春風亭小朝×中村勘三郎×松任谷由実) |- |1981年9月5日 |『軽井沢音楽祭 松任谷由実 in 軽井沢』 |- |1981年9月30日 |『第1回[[日本作曲大賞]]』 ※守ってあげたい |- |1981年10月8日 |『[[ザ・ベストテン]]』 ※守ってあげたい |- |1981年11月25日 |『第23回[[日本レコード大賞|速報!日本レコード大賞]]』 ※水の中のASIAへ |- |1982年10月6日 |『第2回日本作曲大賞』 ※小麦色のマーメイド |- |1983年10月5日 |『第3回日本作曲大賞』 ※時をかける少女 |- |1984年8月27日 |『[[朝のホットライン]]』 |- |1984年10月3日 |『第4回日本作曲大賞』 ※VOYAGER、電話出演 |- |1985年7月7日<br />7月30日(再) |『吉田正2000曲記念 限りなき明日への歌声』 |- |1985年11月16日 |『[[日立テレビシティ]]』 ※ナレーション |- |1986年1月4日・11日・<br />18日・25日 |『合言葉は音楽気分!』(松任谷由実×山田邦子) |- |1988年6月25日 |『[[SUPER WEEKEND LIVE 土曜深夜族]]』(サザンオールスターズ) |- |1988年11月27日 |『[[Ryu's Bar 気ままにいい夜]]』(村上龍×松任谷由実) |- |1990年11月23日 |『日本人初!宇宙へ』第2部『宇宙の風・ロシアの風・ユーミン』 |- |1996年10月2日 |『思い出のドラマ主題歌名曲全部聞かせます!』 |- |2001年1月3日・10日 |『[[ウンナンのホントコ!]]』 |- |2001年1月14日<br />2009年4月4日 |『[[王様のブランチ]]』 |- |2006年2月12日 |『[[情熱大陸]]』(松任谷由実) |- |2010年6月2日・3日 |『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』【MBS】 |- |2010年6月12日 |『[[花咲かタイムズ]]』【CBC】 |- |2010年6月14日 |『[[MUSIC EDGE + Osaka Style|MUSIC EDGE]]』【MBS】 |- |2018年4月17日 |『[[マツコの知らない世界]]』#140 |- |2020年11月19日 |『[[櫻井・有吉THE夜会]]』#284 |- |2020年11月27日 |『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』 |- |2020年11月30日 |『[[COUNT_DOWN_TV#CDTVライブ!ライブ!|CDTVライブ!ライブ!]]』 |- |2020年12月5日 |『[[新・情報7DAYS ニュースキャスター]]』 |- |2022年12月30日 |『[[第64回日本レコード大賞|第64回 輝く!日本レコード大賞]]』 |- |2023年10月8日<br />11月5日 |『[[日曜日の初耳学]]』 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |(不明) |『[[リブ・ヤング!]]』 |- |1974年11月26日 |『[[ミュージックフェア]] '74』(五輪真弓×かぐや姫×荒井由実) |- |1976年6月26日<br />1979年7月21日<br />・12月8日 |『ニューミュージックスペシャル』 |- |1977年 |『Sound City '77』 |- |1977年4月16日<br>5月28日 |『[[エメロンナイト レディーファースト|レディーファースト]]』 |- |1977年8月17日 |『[[スター千一夜]]』(萩尾みどり×松任谷由実) |- |1978年2月28日 |『ミュージックフェア '78』(沢田研二×松任谷由実) |- |1978年8月14日 |『スター千一夜』(松任谷正隆×松任谷由実) |- |1978年8月22日 |『ミュージックフェア '78』(松任谷由実×大橋純子×サーカス) |- |1978年9月9日・16日<br />・23日・30日 |『ザ・ポップ』 |- |1979年11月23日 |『リブ・ヤング! '79』(松任谷由実×河野洋平) |- |1979年12月31日 |『スーパージャム'79 - '80』(吉田拓郎×森山良子×松任谷由実×松山千春) |- |1983年6月30日<br />1985年7月1日<br />1988年2月23日 |『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』 ※[[テレフォンショッキング]] |- |1984年3月12日 |『[[夜のヒットスタジオ]]』(麗美) ※電話出演 |- |1985年11月9日 |『[[オールナイトフジ]]』 |- |1985年12月28日 |『[[オレたちひょうきん族|年忘れひょうきんスペシャル]]』 |- |1987年1月4日 |『[[テレビくん、どうも!]]』([[明石家さんま|杉本高文]]×松任谷由実) |- |1987年11月10日 |『ひょうきんカーニバル』 |- |1989年10月14日 |『オレたちひょうきん族』 |- |1990年12月8日 |『[[ねるとん紅鯨団]]』 |- |1991年5月12日 |『Formula 1 World Championship 1991』<br />『[[F1ポールポジション]]』(松任谷由実×鈴木亜久里) |- |1992年11月6日 |『笑っていいとも!』(タモリ×明石家さんま×松任谷由実×カールスモーキー石井) |- |1998年10月5日 -<br />2001年9月28日 |『[[めざましテレビ]] [[松任谷由実選集五七五]]』 |- |1999年5月29日 |『遥かなるSHANGRILA 松任谷由実、新たなる物語』 |- |1999年10月19日 |『超めざましテレビ』 |- |2001年4月19日<br />2002年11月20日<br />2009年12月25日<br />2012年9月25日<br />2017年11月28日 |『めざましテレビ』 |- |2003年5月31日 |『ユーミン 新シャングリラ伝説』 |- |2004年1月10日・17日・24日 |『ミュージックフェア21』(松任谷由実×ゴスペラーズ×稲垣潤一×ばんばひろふみ) |- |2005年6月4日 - 8月27日 |『[[ポンキッキーズ]] YAPPOOO』 ※ナレーション |- |2005年9月26日<br />2012年5月10日 |『スーパーニュース』 |- |2005年10月19日<br />2017年10月27日 |『[[情報プレゼンター とくダネ!|とくダネ!]]』 |- |2005年10月21日 |『[[僕らの音楽]]2』 |- |2005年12月24日 - |『ポンキッキーズ YAPPOOO2』 ※ナレーション |- |2005年12月25日 |『[[オールナイトニッポンTV|松任谷由実のオールナイトニッポンTV]]』<ref>{{Oricon TV|220292}}</ref> |- |2006年5月14日 |『[[ウチくる!?]]』([[谷啓]]) |- |2006年5月22日<br />2016年10月31日 |『[[SMAP×SMAP]]』 |- |2006年12月26日 |『松任谷由実のオールナイトニッポンTV2』 |- |2007年4月2日 |『史上最高を目指す挑戦! ユーミン・シャングリラ』 |- |2007年4月17日・<br />6月5日・7月4日 |『[[プレミアの巣窟]]』 |- |2007年6月6日・13日 |『週間プラチケ!』 |- |2007年6月16日 |『ユーミン 世紀の40億円プロジェクトのすべて 松任谷由実・シャングリラIII密着300日』 |- |2009年4月1日 |『松任谷由実のオールナイトニッポンTV3』 |- |2009年4月4日<br />2010年5月22日<br />2015年11月21日 |『[[めざましどようび]]』 |- |2009年4月8日 |『[[魁!音楽番付|魁!音楽番付 JET]]』 |- |2009年4月10日 |『僕らの音楽』(松任谷由実×黒柳徹子×原田知世) |- |2009年4月11日 |『ミュージックフェア』(松任谷由実×miwa) |- |2009年12月16日 |『魁!音楽番付 EIGHT』 |- |2011年3月27日 |『上を向いて歩こう うたでひとつになろう日本』 |- |2011年4月6日 |『松任谷由実のオールナイトニッポンTV4』 |- |2011年4月8日 |『僕らの音楽』(松任谷由実×おすぎ×薬師丸ひろ子) |- |2011年4月9日 |『ミュージックフェア』(松任谷由実×オルケスタ・デ・ラ・ルス) |- |2016年11月5日 |『ミュージックフェア』(松任谷由実×JUJU) |- |2012年8月20日 |『[[ノンストップ!]]』 |- |2015年11月24日 |『[[みんなのニュース]]』 |- |2016年11月4日 |『[[Love music]]』#43 |- |2016年12月7日 |『[[2016 FNS歌謡祭]]』(松任谷由実×平井堅×天海祐希) |- |2017年8月28日 |『Love music プレゼンツ ムッシュかまやつ伝説』#76 |- |2018年4月7日 |『ミュージックフェア』 |- |2018年4月14日 |『ミュージックフェア』(松任谷由実×吉井和哉×NOKKO) |- |2020年3月7日<br />11月22日(再) |『[[SMALL3|出川と爆問田中と岡村のスモール3]]』#2 |- |2020年11月28日 |『ミュージックフェア』 |- |2020年11月28日 |『出川と爆問田中と岡村のスモール3』#3 |- |2020年11月30日 |『[[Love music]]』#232 |- |2020年12月2日 |『[[2020 FNS歌謡祭]]』(松任谷由実×嵐×スモール3) |- |2020年12月26日 |『小山薫堂・東京会議』#274 【BSフジ】 |- |2021年3月17日 |『未来はぼくらの歌の中』(松任谷由実×出川哲朗×常田大希) |- |2023年11月29日 |『[[週刊ナイナイミュージック]]』#8 |- |2023年12月6日 |『[[2023 FNS歌謡祭]]』(松任谷由実×乃木坂46) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[テレビ朝日]]系列</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |1976年9月24日 |『NOK』(荒井由実×今野雄二) |- |1979年8月28日 |『[[歌謡ワイド速報!!]]』 |- |1979年10月21日 |『ジャムジャム'80』#1(松任谷由実×古谷一行) |- |1979年10月28日 |『ジャムジャム'80』#2(松任谷由実×柴田恭兵) |- |1979年11日4日 |『ジャムジャム'80』#3(松任谷由実×中尾ミエ) |- |1993年1月2日 |『[[タモリの音楽ステーション|タモリの音楽ステーション今年もやるぞ]]』(タモリ×YOSHIKI×松任谷由実) |- |2003年3月15日 |『地球の歌声が聴こえる ユーミンの遥かなる音と魂の旅 万音連響 万象連鎖』 |- |2004年1月11日 |『[[題名のない音楽会]]21』(武部聡志) |- |2007年7月2日 |『[[報道ステーション]]』 |- |2010年6月2日 |『[[ドォーモ]]』【KBC】 |- |2015年1月13日 |『[[ベストヒットUSA]]』【BS朝日】 |- |2018年2月19日<br />4月2日・11日 |『[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]]』 |- |2018年9月15日 |『題名のない音楽会』 |- |2022年9月25日・10月2日 |『[[関ジャム 完全燃SHOW]]』 |- |2022年10月4日 |『[[タモリ倶楽部|タモリ倶楽部SP~ユーミン初登場で空耳やっちゃいました!]]』<ref>{{Cite news|url=https://post.tv-asahi.co.jp/post-197802/|title=テレ朝POST » 本日『タモリ倶楽部』にユーミン初登場!奥田民生も駆けつけ特別企画「空ユミ・アワー」|newspaper=[[テレビ朝日]]|date=2022-10-04|accessdate=2022-10-05}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1444585.html|title=今夜「タモリ倶楽部」にユーミン登場。名曲で「空ユミ・アワー」 - AV Watch|newspaper=[[Impress Watch|AV Watch]]|date=2022-10-04|accessdate=2022-10-05}}</ref> |- |2023年12月1日 |『[[ザワつく!金曜日]]』#184 |- |2023年12月1日 |『[[ミュージックステーション]]』(GLIM SPANKY×松任谷由実) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">WOWOW</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!タイトル |- |2000年8月16日 |『湘南 One Night Special Live』(ブレッド&amp;バター×松任谷由実×杏里×杉真理×南佳孝) |- |2001年6月24日 |『松任谷由実 PRIVATE LIVE IN L.A. The 14th Moon to acacia』 |- |2003年12月20日 |『YUMING SPECTACLE SHANGRILA II 氷の惑星』 |- |2004年9月26日 |『beside the music SURF & SNOW in 逗子マリーナ vol.17』 |- |2005年6月25日 |『松任谷由実 The Session at Stellar Ball』 |- |2006年5月25日 |『MUSIC@DX』 |- |2006年10月9日 |『THE LAST WEDNESDAY TOUR 2006』 |- |2007年9月30日 |『湘南カフェ ブレッド&amp;バターライブ 一夜限りの復活』 |- |2007年11月23日 |『YUMING SPECTACLE SHANGRILA III ドルフィンの夢』 |- |2009年10月10日 |『WOWOW SPECIAL 松任谷由実コンサートツアー 2009 TRANSIT』 |- |2010年2月9日 |『COUNTDOWN JAPAN 09/10』(くるりとユーミン) |- |2012年1月3日 |『松任谷由実コンサートツアー 2011 Road Show』 |- |2012年11月20日 |『松任谷由実×プロコル・ハルム Back to the Beginning〜「青い影」を追いかけて』 |- |2013年1月2日 |『ユーミン×帝劇 8月31日〜夏休み最後の日〜純愛物語 meets YUMING』 |- |2013年3月31日 |『Golden Circle Vol.17〜Anniversary for Yuming』(松任谷由実×キャラメルママ×かまやつひろし×大貫妙子<br />×薬師丸ひろ子×RHYMESTER×Base Ball Bear×寺岡呼人) |- |2013年3月31日 |『松任谷由実×プロコル・ハルムツアー Back to the Beginning』 |- |2014年10月5日 |『松任谷由実コンサートツアー2013-2014 POP CLASSICO』 |- |2014年10月18日 |『「ユーミン」の作り方〜松任谷正隆の流儀〜』 |- |2015年1月2日 |『ユーミン×帝劇 あなたがいたから私がいた』 |- |2015年11月7日 |『ALFA MUSIC LIVE』 |- |2016年11月5日 |『松任谷由実「宇宙図書館 」〜解体新書〜』 |- |2017年3月26日 |『武部聡志 Original Award Show 〜Happy 60〜』 |- |2018年1月2日 |『松任谷由実コンサートツアー 宇宙図書館 2016-2017』 |- |2018年3月25日 |『ユーミン×帝劇 朝陽の中で微笑んで』 |- |2018年5月13日 |『SONGS & FRIENDS 荒井由実 ひこうき雲』(松任谷由実×ティン・パン・アレー×家入レオ×久保田利伸<br />×JUJU×原田知世×横山剣×YONCE×井上陽水) |- |2018年9月30日 |『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018 DAY-2』 |- |2019年3月17日 |『SONGS & FRIENDS 小坂忠 ほうろう』 |- |2019年7月28日 |『松任谷由実 TIME MACHINE TOUR Traveling through 45 years』 |- |2020年10月21日 |『鳥山雄司 〜Happy 60〜』 |- |2022年7月30日 |『SONGS & FRIENDS Music Tree Grow to the SKYE & their family』 |- |2022年9月24日 |『松任谷由実コンサートツアー 2021-2022 深海の街』 |- |2022年12月24日 |『不思議の国のジュジュ苑 -ユーミンをめぐる物語- JUJUの日スペシャル』 |- |2024年1月27日 |『松任谷由実 50th Anniversary コンサートツアー The Journey』 |} <!--WOWOWのみ再放送が多いので割愛--> </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">その他</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !放送日!!放送局!!タイトル |- |(不明) |東京12チャンネル |『ひーふー美代ちゃーん』 |- |1974年12月15日<br />1975年6月22日 |テレビ神奈川 |『[[ヤング・インパルス]]』 |- |1979年1月7日 |東京12チャンネル |『サウンド・トリップ 夢の銀河鉄道』(松任谷由実×いしだあゆみ) |- |1981年8月3日<br />1982年5月30日 |テレビ神奈川 |『[[ファンキートマト]]』 |- |2000年12月1日 |BS日テレ・BS朝日・<br />BS-i・BSフジ・<br />BSジャパン |『松任谷由実 One Night Concert Brothers & Sisters』(松任谷由実×石井竜也<br />×スガシカオ×石田純一×林真理子×天海祐希×NOKKO×奥居香×YOSHIKI×ASKA) |- |2002年4月 |CNN |『TALK ASIA』 |- |2005年10月23日 |KNTV |『Korean Network』 |- |2006年10月17日 |北陸放送 |『MROイブニングニュース』 |- |2006年6月3日 |MTV |『MTV プレミアム ライブ』 |- |2009年10月10日 |BS日テレ・BS朝日・<br />BS-TBS・BSフジ・<br />BSジャパン |『WOWOW SPECIAL 松任谷由実コンサートツアー 2009 TRANSIT』(短縮版) |- |2010年10月26日 |USTREAM |『西麻布2丁目の窓』(油井昌由樹×松任谷由実) |- |2011年2月24日 |USTREAM |『「レイトン教授と奇跡の仮面」完成記念WEB特番〜奇跡の部屋〜』 |- |2011年3月27日 |テレビ東京 |『[[ソロモン流]]』([[遠山正道]]) |- |2013年1月4日~ |SetagayaCity Youtube |『[https://www.youtube.com/watch?v=0uSHpk3K9-4 2013区長新春対談]』 |- |2017年10月14日 |フジテレビNEXT |『Love music プレゼンツ ムッシュかまやつ伝説』(完全版) |- |2019年4月1日・29日<br />2020年12月20日 |テレビ東京 |『[[ワールドビジネスサテライト]]』 |- |2019年11月19日~ |VOGUE JAPAN Youtube |『[https://www.youtube.com/watch?v=TlrRnrw0Dmg&list=PLNbYTcKF5Czx9l8-bHnDtCaj5G5HNwRm0 Yuming's FASHION Adventure]』(全5回) |- |2020年12月1日~ |TOPCOAT GROUP Official Youtube |『松任谷由実×木村佳乃 特別対談』 |- |2021年3月27日~ |JAPAN LIVE YELL project Youtube |『[https://www.youtube.com/watch?v=cxfCyjg47x8 THE ハレ舞台]』 |- |2021年8月11日~ |刀剣乱舞 公式 Youtube |『[https://www.youtube.com/watch?v=X1tNl8LoF2A 刀剣乱舞 剣奉納プロジェクト はじまりのうた はじまりの剣]』 |- |2022年9月30日<br />10月16日(再) |スペースシャワーTV |『SKYE TOUR 2022 in SHIBUYA』(SKYE×松任谷由実×尾崎亜美×奥田民生) |- |2023年11月1日~ |ほっと石川旅ねっとYouTube チャンネル |『[https://www.youtube.com/watch?v=64iyUUASMKU 新幹線 小松駅・加賀温泉駅の発車メロディを活用した石川県観光PR動画]』 |} </div></div> === NHK紅白歌合戦出場歴 === {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !年度 !放送回!!回!!曲目!!備号 |- |2005年 |[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]||初||Smile again||「[[Friends Of Love The Earth|松任谷由実 with Friends Of Love The Earth]]」として[[上海]]のホテル「和平飯店」屋上から中継で出演。 |- |2011年 |[[第62回NHK紅白歌合戦|第62回]]||2<ref group="注">ソロ名義では初出場だが、2回目の出場としてカウントされた。</ref>||(みんなの)[[春よ、来い (松任谷由実の曲)|春よ、来い]]||出場歌手と音楽大学生で合唱した。 |- |2018年 |[[第69回NHK紅白歌合戦|第69回]]||3||私が好きなユーミンのうた~紅白スペシャル~||「[[ひこうき雲 (荒井由実の曲)|ひこうき雲]]」「[[やさしさに包まれたなら]]」を順に披露。<br>CT-101スタジオで「ひこうき雲」、NHKホールで「やさしさに包まれたなら」を歌唱。演奏はSKYE。 |- |2019年 |[[第70回NHK紅白歌合戦|第70回]]||特別企画(4)||ノーサイド||テレビで初歌唱。演奏はSKYE。 |- |2020年 |[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]||特別企画(5)||[[守ってあげたい]]||紅白歌合戦で初歌唱。演奏はSKYE。<br>続けて、[[SMALL3]]と「きみのためにSuperman」「やさしさに包まれたなら(サビ)」を披露。 |- |2022年 |[[第73回NHK紅白歌合戦|第73回]]||特別企画(6)||Call me back||松任谷由実 with 荒井由実として出場。<br>CT-101スタジオで歌唱後、NHKホールで「卒業写真」を披露。演奏はSKYE。 |} === 映画 === {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !公開日!!タイトル!!備考 |- |1992年10月3日 |[[アトランティス (映画)|アトランティス]] |日本語字幕 |- |2020年11月14日 |音響ハウス Melody-Go-Round | |} === CM === {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !年!!企業・商品!!備考 |- |1977年9月 |三菱電機「ダイヤトーン・セレクト600」 | |- |1984年6月・10月<br />1985年1月 |富士フイルム「ビデオテープスーパーHG Hi-Fi」 | |- |1987年10月 |三菱自動車「新型ミラージュ」 |ナレーション |- |1997年4月 |キリン「キリンラガービール」海篇・花火篇 | |- |1999年12月 |東芝「DVDプレイヤー」 | |- |2000年10月 |[[ユニクロ]]「フリースキャンペーン」 | |- |2003年8月 |香港政府観光局 | |- |2005年8月 |JR東日本「suicaキャンペーン」片思い篇 | |- |2006年1月 |三菱自動車「未来形スモール i」<br />ティザー篇・誕生篇・技術篇 |ナレーション |- |2007年8月 |キリン「キリンクラシックラガー」<br />リハーサル篇・ライブ篇 | |- |2010年9月 |ABCマート「エレガントウォーク」世界旅行篇 | |- |2011年3月 |ABCマート「エレガントウォーク」ビューティーウォーク篇 | |- |2017年12月 |[[ファミリーマート]]「恋人がファミチキ2017」 |Web動画 |- |2018年12月 |[[Apple Japan]]「Apple Music」5,000万曲の世界へ篇 | |- |2019年10月 |アマゾンジャパン「Amazon Music HD」 |Web動画、渋谷・道頓堀ヒットビジョン |} == 書籍 == === 著書・写真集 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !発売日!!タイトル!!出版社 |- |1976年1月10日 |『いちご白書をもういちど』 |[[小池書院|オリオン出版]] |- |1976年3月10日 |詩集『ユーミン 愛の伝言』 |振興楽譜出版社 |- |1976年12月10日 |エッセイ&amp;写真集『十四番目の月』 |ペップ出版 |- |1983年1月31日 |『ルージュの伝言』 |[[角川書店]] |- |1985年5月31日 |[[ViVi (雑誌)|ViVi]]別冊『STYLE』 |[[講談社]] |- |1985年11月21日 |PHOTOMYSTIC『THE COLLAR OF THE DOVE〜モロッコの夢』 |[[扶桑社]] |- |1987年11月21日 |『SOUTH OF THE BORDER〜松任谷由実 in AFRICA』 |[[ソニー・マガジンズ|CBSソニー出版]] |- |1989年12月4日 |[[エスクァイア]]別冊『TIERRA 松任谷由実 南米冒険記』 |ユーピーユー |- |1997年10月25日 |『こいぬのタッカー ぼくって素敵』 |講談社 |- |1998年11月25日 |『こいぬのタッカー はじめてのぼうけん』 |講談社 |- |1999年3月30日 |『松任谷由実選集 五七五』 |フジテレビ出版 |- |2001年12月18日 |『© yuming sweet』 |角川書店 |- |2001年12月18日 |『© yuming bitter』 |角川書店 |- |2002年11月15日 |『136s of Yuming and illustrations』 |[[ぴあ]] |- |2002年12月25日 |『地球音楽ライブラリー 松任谷由実』 |[[エフエム東京|TOKYO FM出版]] |- |2005年10月20日 |『贅沢なおやつ』 |[[マガジンハウス]] |- |2007年11月22日 |『極上のおやつ』 |マガジンハウス |- |2011年5月13日 |『YUMING BOX』(『371+1』+『THE YUMING』) |集英社 |- |2011年5月13日 |歌詞集『371+1』 |集英社 |- |2011年5月13日 |PHOTO STORY『THE YUMING』 |集英社 |- |2011年11月10日 |対談集『才輝礼讃 38のyumiyoriな話』 |[[中央公論新社]] |- |2012年12月1日 |『YUMING FOREVER by LESLIE KEE』 |Danny & Teddy Press |- |2015年1月16日 |『書くユーミン』 |[[TOKYO FM出版]] |- |2017年2月15日 |『ユーミンとフランスの秘密の関係』 |CCCメディアハウス |- |2017年11月10日 |『読売新聞・報知新聞が報じた ユーミンの45年』 |読売新聞社 |} === 連載 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !開始日!!雑誌・新聞等!!タイトル!!出版社・新聞社 |- |1976年4月 |『[[GORO]]』 |ユーミンのライブ対談 |[[小学館]] |- |1976年7月 |『ヤングフォーク』 |ユーミンの気まぐれな心象風景 |[[講談社]] |- |1977年3月 |『GORO』 |ユーミンのラブ相談 |小学館 |- |1978年12月 |『週刊FM』 |クロス・トーク'79 ユーミンとマンガ紳士 |[[音楽之友社]] |- |1979年8月 |『新評』 |ユーミンおんな対談 |新評社 |- |1980年3月 |『[[サンデー毎日]]』 |おんなの午後 |[[毎日新聞社]] |- |1980年8月 |『新評』 |ユーミンおとこ対談 |新評社 |- |1981年3月 |『週刊FM』 |ユーミン・コウタローのリレー・インタヴュー |音楽之友社 |- |1982年3月 |『[[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]]』 |ユーミンにおまかせ |集英社 |- |1983年7月 |『セブンティーン』 |ユーミン通信 |集英社 |- |1985年9月 |『[[non-no]]』 |ユーミンの流行ジャック |集英社 |- |1989年10月 |『セブンティーン』 |ユーミンのオープンハートトーク |集英社 |- |1990年10月 |『[[an・an]]』 |ユーミンの永遠を探せ! |マガジンハウス |- |1994年2月 |『BRIDGE』 |ユーミンの極私的マーケティング |ロッキング・オン |- |1994年10月 |『[[Hanako]]』 |ジモツウ |マガジンハウス |- |2000年1月 |『[[VERY]]』 |CD REVIEW ユーミンのナビゲートで聴く今月の5枚 |光文社 |- |2002年8月 |『an an』 |Gourmet 松任谷由実さんのお気に入り |マガジンハウス |- |2006年6月 |『日経WOMAN』 |妹たちへ |日経ホーム出版社 |- |2008年8月 |『読売新聞』 |yumiyoriな話 |読売新聞社 |- |2009年9月 |rowspan="2"|『[[eclat]]』 |秘密☆のクロゼット |rowspan="2"|集英社 |- |2011年9月 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1,964
伊丹十三
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年〈昭和8年〉5月15日 - 1997年〈平成9年〉12月20日)は、日本の映画監督、俳優、エッセイスト、雑誌編集長、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。料理通としても知られた。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。 大ヒット映画作品を連発した映画監督である。監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった。 1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した。しかも一般観客からも映画評論家からも、ともに高く評価されていたことは特筆に値する。 俳優としての出演も数十作品に及び(#出演作品を参照)、1983年(昭和58年)公開の『家族ゲーム』『細雪』の演技でキネマ旬報助演男優賞を受賞。エッセイストとしての代表作には『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『小説より奇なり』など。CM出演も多数(#CM)。 妻の宮本信子は、伊丹の監督デビュー後は伊丹作品の多数で主演女優として作品のヒットに貢献し、それ以前から家庭でも多面的にその成功に貢献しつづけていた。二人の間の長男の池内万作も俳優となった。 愛媛県松山市に伊丹十三記念館が開設され、多方面にわたる才能を持ち容易に語ることはできない伊丹の足跡が紹介されている。また伊丹を記念してその名を冠した「伊丹十三賞」がさまざまな表現者たちに贈られている。 周防正行は『マルサの女』のメイキング映像を撮影してくれと依頼され、それを撮影することにより伊丹の映画製作現場や監督業をつぶさに観察する機会を得たことで、自身も映画監督となるきっかけをつかみ、伊丹同様に日本映画界を盛り上げてゆく存在となった。 映画監督の伊丹万作を父に、京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。池内家の通字が「義」だったため、祖父の強い意向で戸籍名は義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため家庭では父の意向により「岳彦(たけひこ)」「タケチャン」と呼ばれて育ち、本人も岳彦だと思い育った。そのようなややこしい事情があったので、戸籍名は一応は「池内 義弘」(いけうち よしひろ)だが、むしろ「本名・池内岳彦(いけうち たけひこ) 」とも。生後7か月で京都市右京区嵯峨野神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に大江健三郎と結婚)が誕生。 1938年4月末、父の東宝東京撮影所移籍に伴い東京市世田谷区祖師谷に転居。1940年、世田谷区立桜第一小学校入学。 1940年末の父の東宝退社に伴い、1941年、京都市上京区(現・北区)小山北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に湯川秀樹の長男湯川春洋や、貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、日本画家の上村淳之がいる。1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学の年に父が死去。同窓に共同通信労組の林直久がいた。1947年10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。1948年10月、京都府立山城高等学校併設中学校に転校。1949年4月、京都府立山城高等学校に入学。夏より、スクリプター野上照代が「飯炊き係」として約1年同居し世話をした。1950年1月以降は休学。 1950年、愛媛県松山市小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。1950年4月14日、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に黒田匡の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも池内義弘の名で執筆。1951年、2年次から転入した大江健三郎と親交を結ぶ。同年8月1日、同校演劇部の「彦一ばなし」「夕鶴」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。 1952年4月、愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。1954年3月、20歳で同校を卒業。その後に上京し、新東宝編集部に就職。 同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃山口瞳と出会い、のちに山口の小説『人殺し』のタイポグラフィを手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくにレタリングには定評があり、映画監督の山本嘉次郎によれば「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。 舞台芸術学院に学び、1960年1月、26歳の時大映に入社、父伊丹万作と小林一三の名にちなみ「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。 身長は180cm。当時の日本人としては、そして俳優としても、かなり背が高い方だった。 1960年5月11日にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子を銀座のバーで紹介され、同年7月13日に東京・国際文化会館にて結婚。式には、結婚したばかりの作家であり友人の大江と妹ゆかりも参列した。 1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。 1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年に勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。 1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた。 NHKドラマ「あしたの家族」(1965年~1967年)で、共演者の一人であった女優の宮本信子と不倫交際に発展した。1966年10月26日、川喜多和子と協議離婚。1967年4月、「マイナスをプラスに変える」意味で「伊丹 十三」と改名。1969年元日に山口瞳の媒酌で宮本と再婚。結婚式は東京都国立市にある谷保天満宮であげ、6日に婚姻届を提出。そして子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の筆名から名前をそのまま取って命名された。 1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時に培ったドキュメンタリー的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き文体はこの時代の経験を反映している。また1970年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、緻密な画力で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。 岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。1978年12月、岸田との共著『哺育器の中の大人 精神分析講義』(朝日出版社)を上梓。また、1982年に刊行された『ものぐさ精神分析』中公文庫版の解説を書く。 1981年、岸田らを中心に取り上げた現代思想の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)をに創刊、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。1982年、インタビューで編集長の仕事を問われ「あんまり向いていないというか......雑誌というのがよくわかっていなかったのかなあ。商売と結びつかないでしょう。仕事としてはおもしろい。最初の何号かは気に入っている」と語っている。 俳優活動としては、『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞した。 文化人らが伊丹の周辺に集まり、一種のサロンを形成していた。コピーライターの糸井重里、自称「ゲージツ家」の篠原勝之、作家の村松友視などである。 1984年に51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価を受ける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。 なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、主に1930年代から1940年代のハリウッド映画のシーンやショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか2作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。 またこの作品で、伊丹は前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせることを発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』、国税局査察部(通称「マルサ」)に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を創ったことで、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」というブランドを築くことに成功する。 特に1992年の『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負うが、伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、声こそ出なかったもののピースサインで応えた。警察は現場の車から山口組系後藤組の犯行であることを突き止め、5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。 1993年5月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど、数々の被害や脅迫・嫌がらせを受けることとなったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。身辺警護の経験は1997年の『マルタイの女』で映画化された。 また『タンポポ』は、アメリカでも配給され評判となった。 演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやりやすかったという。また、『お葬式』以降、一貫して「死」にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディであり生命賛歌でもある(ラストは母乳を飲む赤ちゃんの映像である)『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。 1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。 かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。 ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。 伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 俳優・中尾彬はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。 最後のバラエティー番組出演は、1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』での妻の宮本信子との共演となった。 宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている。 2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた。 2000年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。 2007年5月、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に、妻・宮本信子が「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品を集め、展示している。 2008年、伊丹十三記念館を運営しているITM伊丹記念財団理事長兼一六本舗代表取締役社長玉置泰が、伊丹十三賞を創設した。2009年から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。 妻は宮本信子。女優でありながら、こだわりの強い伊丹のために私生活でも柔軟に伊丹色に染まり、精神面でも家事面でもその成功を支え続け、ついには伊丹の映画作品に何度も主役出演し映画作品の成功にも寄与、監督としての伊丹とも分けて語ることができない存在となった。伊丹亡き後も女優業を続け、伊丹十三記念館の館長に就任した。 長男は池内万作(俳優)。次男は池内万平(伊丹プロダクション取締役)。 ノーベル賞作家の大江健三郎は、妹・ゆかりの夫で義弟にあたる。ギタリストの荘村清志は従弟。 ほか
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"特に1992年の『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負うが、伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、声こそ出なかったもののピースサインで応えた。警察は現場の車から山口組系後藤組の犯行であることを突き止め、5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1993年5月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど、数々の被害や脅迫・嫌がらせを受けることとなったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。身辺警護の経験は1997年の『マルタイの女』で映画化された。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また『タンポポ』は、アメリカでも配給され評判となった。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやりやすかったという。また、『お葬式』以降、一貫して「死」にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディであり生命賛歌でもある(ラストは母乳を飲む赤ちゃんの映像である)『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 俳優・中尾彬はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "最後のバラエティー番組出演は、1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』での妻の宮本信子との共演となった。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2000年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2007年5月、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に、妻・宮本信子が「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品を集め、展示している。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2008年、伊丹十三記念館を運営しているITM伊丹記念財団理事長兼一六本舗代表取締役社長玉置泰が、伊丹十三賞を創設した。2009年から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "妻は宮本信子。女優でありながら、こだわりの強い伊丹のために私生活でも柔軟に伊丹色に染まり、精神面でも家事面でもその成功を支え続け、ついには伊丹の映画作品に何度も主役出演し映画作品の成功にも寄与、監督としての伊丹とも分けて語ることができない存在となった。伊丹亡き後も女優業を続け、伊丹十三記念館の館長に就任した。", "title": "家族・親族など" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "長男は池内万作(俳優)。次男は池内万平(伊丹プロダクション取締役)。", "title": "家族・親族など" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ノーベル賞作家の大江健三郎は、妹・ゆかりの夫で義弟にあたる。ギタリストの荘村清志は従弟。", "title": "家族・親族など" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "デザイン" } ]
伊丹 十三は、日本の映画監督、俳優、エッセイスト、雑誌編集長、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。料理通としても知られた。本名は池内 義弘。
{{Otheruses||小惑星|伊丹十三 (小惑星)}} {{未検証|date=2009年9月}} {{ActorActress | 芸名 = 伊丹 十三 | ふりがな = いたみ じゅうぞう | 画像ファイル = Itami Juzo.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = <small>婦人生活社『婦人生活』2月号([[1966年]])より</small> | 本名 = 池内 義弘(いけうち よしひろ) | 別名義 = 池内 岳彦(いけうち たけひこ)<br />伊丹 一三(いたみ いちぞう) | 出生地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]][[右京区]]鳴滝泉谷町 | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]] | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1933 | 生月 = 5 | 生日 = 15 | 没年 = 1997 | 没月 = 12 | 没日 = 20 | 職業 = [[映画監督]]、[[俳優]]、[[エッセイスト]]、[[グラフィックデザイナー|商業デザイナー]]、[[イラストレーター]]、[[CMプランナー]]、[[ドキュメンタリー]]映像作家 | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1959年]] - [[1997年]] | 活動内容 = | 配偶者 = [[川喜多和子]]<br />([[川喜多長政]]長女)<br />([[1960年]] - [[1966年]])<br />[[宮本信子]]<br />([[1969年]] - [[1997年]]) | 著名な家族 = [[伊丹万作]](父)<br />伊丹キミ(母)<br />[[池内万作]](長男)<br />池内万平(次男) | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''映画'''<br />『[[お葬式]]』<br />『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』<br />『[[マルサの女]]』シリーズ<br />『[[ミンボーの女]]』<br />『[[スーパーの女]]』<br />『[[マルタイの女]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 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name="php">[https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%8D%81%E4%B8%89%EF%BC%88%E6%95%85%E4%BA%BA%EF%BC%89 PHP人名辞典]</ref>。その後、『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』『[[マルサの女]]』『[[マルサの女2]]』『[[あげまん (映画)|あげまん]]』『[[ミンボーの女]]』『[[大病人]]』『[[スーパーの女]]』『[[マルタイの女]]』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した<ref name="php" />。しかも一般観客からも[[映画評論家]]からも、ともに高く評価されていたことは特筆に値する<ref name="php" />。 俳優としての出演も数十作品に及び([[#出演作品]]を参照)、[[1983年]](昭和58年)公開の『[[家族ゲーム]]』『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』の演技で[[キネマ旬報]]助演男優賞を受賞。エッセイストとしての代表作には『[[ヨーロッパ退屈日記]]』『女たちよ!』『小説より奇なり』など。CM出演も多数([[#CM]])。 妻の[[宮本信子]]は、伊丹の監督デビュー後は伊丹作品の多数で主演女優として作品のヒットに貢献し、それ以前から家庭でも多面的にその成功に貢献しつづけていた。二人の間の長男の[[池内万作]]も俳優となった。 [[愛媛県]][[松山市]]に[[伊丹十三記念館]]が開設され、多方面にわたる才能を持ち容易に語ることはできない伊丹の足跡が紹介されている。また伊丹を記念してその名を冠した「[[伊丹十三賞]]」がさまざまな表現者たちに贈られている。 [[周防正行]]は『マルサの女』のメイキング映像を撮影してくれと依頼され、それを撮影することにより伊丹の映画製作現場や監督業をつぶさに観察する機会を得たことで、自身も映画監督となるきっかけをつかみ、伊丹同様に日本映画界を盛り上げてゆく存在となった。 == 来歴・人物 == {{出典の明記|date=2020年9月|section=1}} === 幼少 - 青年期 === 映画監督の[[伊丹万作]]を父に、[[京都市]][[右京区]][[鳴滝 (京都市右京区)|鳴滝]]泉谷町に生まれる。池内家の[[通字]]が「義」だったため、祖父の強い意向で[[戸籍]]名は義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため家庭では父の意向により「岳彦(たけひこ)」「タケチャン」と呼ばれて育ち、本人も岳彦だと思い育った。そのようなややこしい事情があったので、戸籍名は一応は「池内 義弘」(いけうち よしひろ)だが、むしろ「[[本名]]・池内岳彦(いけうち たけひこ) 」とも。生後7か月で京都市右京区[[嵯峨野]]神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に[[大江健三郎]]と結婚)が誕生。 [[1938年]]4月末、父の[[東宝]]東京撮影所移籍に伴い[[東京市]][[世田谷区]][[祖師谷]]に転居。[[1940年]]、世田谷区立桜第一小学校{{efn2|東京市桜尋常高等小学校(現・[[世田谷区立桜小学校]])もしくは東京市第二桜尋常小学校(現・[[世田谷区立桜丘小学校]])とみられる。}}入学。 [[1940年]]末の父の東宝退社に伴い、[[1941年]]、京都市[[上京区]](現・[[北区 (京都市)|北区]])[[小山町 (京都市北区)|小山]]北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・[[京都教育大学附属京都小学校]])に転校。[[1944年]]、同校の[[特別科学学級|特別科学教育学級]]に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に[[湯川秀樹]]の長男[[湯川春洋]]や、[[貝塚茂樹]]の長男で経済学者の[[貝塚啓明]]、日本画家の[[上村淳之]]がいる。[[1946年]]、京都府立第一中学校(現・[[京都府立洛北高等学校]])入学の年に父が死去。同窓に[[共同通信]]労組の[[林直久]]がいた。[[1947年]]10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。[[1948年]]10月、[[京都府立山城高等学校]]併設中学校に転校。[[1949年]]4月、京都府立山城高等学校に入学。夏より、[[スクリプター]][[野上照代]]が「飯炊き係」として約1年同居し世話をした<ref>野上照代、『天気待ち 監督・黒澤明とともに』、文藝春秋、2001年、p22、p163-165</ref>。[[1950年]]1月以降は休学。 [[1950年]]、[[愛媛県]][[松山市]]小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。[[1950年]][[4月14日]]、1学年遅れで[[愛媛県立松山東高等学校]]に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に'''黒田 匡'''の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも'''池内 義弘'''の名で執筆。[[1951年]]、2年次から転入した[[大江健三郎]]と親交を結ぶ。同年[[8月1日]]、同校演劇部の「彦一ばなし」「[[夕鶴]]」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。 [[1952年]]4月、[[愛媛県立松山南高等学校]]2年次に転入。[[1954年]]3月、20歳で同校を[[卒業]]<ref>伊丹十三『出身県別 現代人物事典 西日本版』p346 サン・データ・システム 1980年</ref>。その後に上京し、[[新東宝]]編集部に就職。 === 商業デザイナー時代 === 同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃[[山口瞳]]と出会い、のちに山口の小説『人殺し』の[[タイポグラフィ]]を手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくに[[レタリング]]には定評があり、映画監督の[[山本嘉次郎]]によれば「伊丹十三さんの[[明朝体]]は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。<ref>DVD『13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像』より</ref> === マルチタレントとして活躍 === [[舞台芸術学院]]に学び、1960年1月、26歳の時[[大映 (映画)|大映]]に入社、父伊丹万作と[[小林一三]]の名にちなみ「'''伊丹 一三'''」という芸名を[[永田雅一]]にもらい<ref>週刊テレビ番組(東京ポスト)1983年5月27日号「芸名由来記」54頁</ref>[[俳優]]となる。 身長は180cm<ref>[[安田雅企]]『襲撃 伊丹十三監督傷害事件』三一書房、1995年、p.41</ref>。当時の日本人としては、そして俳優としても、かなり背が高い方だった。 [[1960年]][[5月11日]]にスクリプター[[野上照代]]より、日本映画界の巨人である[[川喜多長政]]・[[川喜多かしこ]]の娘の[[川喜多和子]]を銀座のバーで紹介され、同年[[7月13日]]に東京・国際文化会館にて結婚。<ref>野上照代『天気待ち 監督・黒澤明とともに』、文藝春秋、2001年、p167</ref><ref>『生きる女性』、実話出版、1960年、p61-62</ref><ref>{{cite book |和書|title=記憶のちぎれ雲 我が半自伝 |author=草森紳一 |publisher=本の雑誌社 |date=2011-06 |isbn=9784860112189 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-03-24}}</ref>{{efn2|ただし、大江健三郎の初期作品「性的人間」に登場するプレイボーイの芸能人のモデルは伊丹であり、伊丹の行状についての噂から、川喜多家からはこの結婚には反対の声も強かったという<ref>{{cite book |和書 |series=シナリオ別冊|title=脚本家[[白坂依志夫]]の世界 書いた!跳んだ!遊んだ! |publisher=シナリオ作家協会 |date=2008-06 |author=白坂依志夫 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-03-24}}</ref>。}}式には、結婚したばかりの作家であり友人の大江と妹ゆかりも参列した。 [[1961年]]、[[大映 (映画)|大映]]を退社する。その後『[[北京の55日]]』([[1963年]])『[[w:Lord Jim (1965 film)|ロード・ジム]]』([[1965年]])などの外国映画に出演し、話題となる<ref>{{cite book |和書|quote=大スターたちとの共演であったが、残念ながら映画史に残るような作品とはならなかった。その意味で、出演が決まっていた[[アンドレ・マルロー]]原作、[[デヴィッド・リーン]]監督『人間の条件』の企画流産が惜しまれる |author=[[関川夏央]]|title=文学は、たとえばこう読む |publisher=[[岩波書店]] |page=191 |date=2014-05 |isbn=9784000246958}}</ref>。 [[1962年]]に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、[[1963年]]に[[勅使河原宏]]監督の「[[砂の女]]」と同時上映された。 [[1965年]]には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『[[ヨーロッパ退屈日記]]』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた{{Sfn|伊丹|2005|p=不明|ps=※引用:「これらエッセイにおける、気障に映りながらも、物事の本質をその細部にいたるまで理詰めで探求していく独自のスタイルは、その後の多くのエッセイストに影響を与えた」}}{{要ページ番号|date=2019年3月24日 (日) 03:39 (UTC)}}。 [[日本放送協会|NHK]]ドラマ「あしたの家族」([[1965年]]~[[1967年]])で、共演者の一人であった[[俳優|女優]]の[[宮本信子]]と不倫交際に発展した<ref>「残間里江子が輝く男に迫る」主婦と生活、主婦と生活社、1987年3月号、p95</ref>。[[1966年]][[10月26日]]、川喜多和子と[[協議離婚]]。[[1967年]]4月、「マイナスをプラスに変える」意味で<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/itami/muramatsu/2009-06-25.html |publisher=ほぼ日刊イトイ新聞|title=1000円の消しゴムの男。村松友視+糸井重里 |accessdate=2019-03-24}}</ref>「'''伊丹 十三'''」と改名。[[1969年]][[1月1日|元日]]に[[山口瞳]]の媒酌で宮本と再婚。結婚式は東京都国立市にある[[谷保天満宮]]であげ、6日に婚姻届を提出。そして子供を二人もうける(長男は俳優の[[池内万作]]、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の筆名から名前をそのまま取って命名された。 [[1970年代]]に入るとテレビ番組制作会社[[テレビマンユニオン]]に参加し、『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時に培った[[ドキュメンタリー]]的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き文体はこの時代の経験を反映している。また[[1970年代]]後半には『[[アフタヌーンショー]]』のレポーターを務め、緻密な画力で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。 [[岸田秀]]の『[[ものぐさ精神分析]]』([[1977年]])を読み、彼の主張する[[唯幻論]]に傾倒する。[[1978年]]12月、岸田との共著『哺育器の中の大人 精神分析講義』(朝日出版社)を上梓。また、1982年に刊行された『ものぐさ精神分析』[[中公文庫]]版の解説を書く。 [[1981年]]、岸田らを中心に取り上げた[[現代思想]]の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)をに創刊、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。[[1982年]]、インタビューで編集長の仕事を問われ「あんまり向いていないというか……雑誌というのがよくわかっていなかったのかなあ。商売と結びつかないでしょう。仕事としてはおもしろい。最初の何号かは気に入っている」と語っている。<ref>太陽、平凡社、1982年7月号、p1</ref> 俳優活動としては、『[[家族ゲーム]]』(1983年)、『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞した。 [[文化人]]らが伊丹の周辺に集まり、一種の[[サロン]]を形成していた。[[コピーライター]]の[[糸井重里]]、自称「ゲージツ家」の[[篠原勝之]]、作家の[[村松友視]]などである。<!--発言者不明の個人研究の記述です。伊丹より直接の影響は受けていないかも知れないが、[[1970年代]]においてマイナーな分野を掘り下げていく作業において伊丹の精神を利用していると見えなくもない。この意味で高踏的文化人と見られていた伊丹が批評家や大衆と直接向き合い、時に罵声を浴びる覚悟で映画製作に乗り出したのは衝撃的でもあった。 --> === 映画監督への転身 === [[1984年]]に51歳で、『[[お葬式]]』で[[映画監督]]としてデビューし、日本国内で高い評価を受ける<ref>{{Cite book |和書 |quote=伊丹に決定的影響を与えたのは、当時の映画評論家が最新流行のフランス思想から借用してきた引用理論であった。『お葬式』には[[カール・テオドア・ドライヤー|ドライヤー]]から[[小津安二郎]]までの、先行する実に多くのフィルムからの引用がこっそり隠されている |author=[[四方田犬彦]]|title=日本映画史110年 |series=[[集英社新書]] |publisher=集英社 |date=2014-08 |page=216 |isbn=9784087207521}}</ref>。この作品で受賞した映画賞は、[[日本アカデミー賞]]、[[芸術選奨新人賞]]を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。 なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた[[蓮實重彦]]の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、主に[[1930年代]]から[[1940年代]]の[[ハリウッド映画]]の[[シーン]]や[[ショット]]の引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか2作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。 またこの作品で、伊丹は前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせることを発見し、その後も[[食欲]]と[[性欲]]の未分化な人びとを喜劇的に描いた『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』、[[国税局]][[査察部]](通称「マルサ」)に対する徹底した取材を元にした『[[マルサの女]]』、[[ヤクザ]]の[[民事介入暴力]]と戦う女[[弁護士]]を描いた『[[ミンボーの女]]』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、[[映画史]]的引用や細部にこだわった映画作品を創ったことで、一躍当時の日本を代表する映画監督となり「伊丹映画」という[[ブランド]]を築くことに成功する。 特に[[1992年]]の『ミンボーの女』では、[[ゆすり]]をやる[[暴力団]]は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「[[ヤクザ映画]]」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治3ヶ月の重傷を負うが、伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられ、声こそ出なかったもののピースサインで応えた。警察は現場の車から[[山口組]]系[[後藤組]]の犯行であることを突き止め、5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。 [[1993年]]5月には自称[[右翼]]の男が『[[大病人]]』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど、数々の被害や[[脅迫]]・嫌がらせを受けることとなったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。身辺警護の経験は[[1997年]]の『[[マルタイの女]]』で映画化された。 また『タンポポ』は、アメリカでも配給され評判となった。 演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優が[[NG (放送用語)|NG]]を出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやりやすかったという{{Sfn|「考える人」編集部|2007|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-03-24}}。また、『[[お葬式]]』以降、一貫して「[[死]]」にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディであり生命賛歌でもある(ラストは母乳を飲む赤ちゃんの映像である)『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。 === 突然の死 === [[1997年]]12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。 かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から[[暴力団]]の関与を疑う声はあった。ただ、事務所に[[ワードプロセッサ|ワープロ]]印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、[[写真週刊誌]]『[[FLASH (写真週刊誌)|フラッシュ]]』により[[SMクラブ]]通いや[[不倫]]疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の[[飛び降り|投身]][[自殺]]か、とも推測されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www1.zakzak.co.jp/geino/n_February98/nws1887.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19980703172045/http://www1.zakzak.co.jp/geino/n_February98/nws1887.html |archivedate=1998-07-03|title=宮本信子が連ドラで復帰 |website=ZAKZAK |accessdate=2019-03-24}}</ref>。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで[[医療廃棄物]]問題の取材も続けていた<ref>{{NHK放送史|D0009043764_00000|伊丹十三が見た医療廃棄物の闇}}([[NHK総合テレビジョン]] 1998年3月31日放送)</ref>。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。 [[ジェイク・エーデルスタイン]]の著書によれば、伊丹は当時[[後藤組]]と[[創価学会]]の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の[[後藤忠政]]がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという<ref>{{cite book |author=Jake Adelstein|title=Tokyo Vice |publisher=Constable |date=2010 |isbn=9781849014649 |page=350}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://cpj.org/blog/2010/02/erase-it-or-be-erased-life-on-a-japanese-mafia-hit.php |title='Erase it, or be erased': Life on a Japanese mafia hit list |website=Committee to Protect Journalists |publisher= |accessdate=2019-03-24}}</ref>。また[[大島渚]]や[[立川談志]]など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/calender/calender_200912/KFullNormal20091220000.html |title=日めくり芸能界 12月【97年12月20日】伊丹十三監督が自殺 不倫報道に「死をもって潔白を証明」 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2009-12-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091223091129/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/calender/calender_200912/KFullNormal20091220000.html |archivedate=2009-12-23}}</ref>。 伊丹映画に出演経験のある[[伊集院光]]は、[[1997年]][[9月22日]]に行われた伊丹監督作品10作品目「[[マルタイの女]]」記者発表兼記念パーティーの席上で「[[OL]]がたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 [[俳優]]・[[中尾彬]]はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた<ref>アサヒグラフ、通巻3955号、p73</ref>。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。 最後の[[バラエティー番組]]出演は、1997年9月29日放送の『[[SMAP×SMAP]]』での妻の宮本信子との共演となった。 宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」{{Sfn|伊丹|2005|p=206}}と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの[[玉置泰]]に伊丹の遺書が渡されている{{Sfn|「考える人」編集部|2007|p=41}}。 2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた<ref>東京地方裁判所判決 平成19年(ワ)第35314号{{Full citation needed |date=2021-06-12 |title=[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/search4?reload=1 裁判所 裁判例検索] で該当判例なし}}</ref>。 === 死後 === [[2000年]]、大江健三郎の小説『[[取り替え子 (小説)|取り替え子]]』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。 [[2007年]]5月、少年時代の一時期を過ごした[[愛媛県]][[松山市]]に、妻・宮本信子が「[[伊丹十三記念館]]」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ[[湯河原町|湯河原]]の家などから遺品を集め、展示している。 [[2008年]]、伊丹十三記念館を運営している[[ITM]]伊丹記念財団理事長兼[[一六本舗]]代表取締役社長玉置泰が、[[伊丹十三賞]]を創設した。[[2009年]]から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。 == 家族・親族など == 妻は宮本信子。女優でありながら、こだわりの強い伊丹のために私生活でも柔軟に伊丹色に染まり<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000196.000013640.html]</ref>、精神面でも家事面でもその成功を支え続け、ついには伊丹の映画作品に何度も主役出演し映画作品の成功にも寄与、監督としての伊丹とも分けて語ることができない存在となった。伊丹亡き後も女優業を続け、伊丹十三記念館の館長に就任した。 長男は[[池内万作]](俳優)。次男は池内万平(伊丹プロダクション取締役)<ref>{{Cite web|和書|url=http://itami-kinenkan.jp/foundation/index.html |publisher=伊丹十三記念館|title=公益財団法人ITM伊丹記念財団 |accessdate=2019-03-24}}</ref>。 [[ノーベル賞]]作家の大江健三郎は、妹・ゆかりの夫で義弟にあたる。ギタリストの[[荘村清志]]は従弟{{Sfn|伊丹|2005|p=233}}。 == 出演作品 == === テレビドラマ === * あしたの家族(1965年4月 - 1967年3月、[[日本放送協会|NHK]])- 小出武彦 役 * [[源氏物語]](1965年、[[毎日放送]]) - [[光源氏]] 役 * [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]] 第84話「ハートで盗め」(1966年、[[大映テレビ|大映テレビ室]] / [[TBSテレビ|TBS]]) * [[レモンのような女]] 第3話「燕がえしのサヨコ」(1967年、[[国際放映]] / TBS) * [[コメットさん]] 第49話 - 第79話(1967年 - 1968年、国際放映 / TBS) - 石原三郎 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20171208122342/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/395| title = コメットさん| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-26}}</ref> * [[キイハンター]] 第4話「顔のない男」(1968年、[[東映]] / TBS)) - ジョニーこと橋爪徹 役 * [[無用ノ介]] 第2話「無用ノ介の首500両也」(1969年、国際放映 / [[日本テレビ放送網|日本テレビ]])- 用心棒 役 * 悪一代(1969年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) - 留吉 役 * すばらしき罠(1969年、NHK) * [[戦国艶物語#第三部・千姫編|戦国艶物語 第三部・千姫編]](1969年 - 1970年、TBS) - [[本多忠刻]] 役 * [[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]] 第1話「殺しの招待状 蜘蛛男より」(1970年、東映 / [[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - 畔柳友助 役 * [[裁きの家#1970年版|裁きの家]](1970年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 吉井学 役 * [[天皇の世紀]] ** 第1部・第4話「地熱」・第8話「降嫁」(1971年、国際放映 / 朝日放送) - [[岩倉具視]] 役 ** 第2部(1974年、製作者同上) - ドキュメント編レポーター * [[楡家の人びと]](1972年、NHK)- 楡欧州 役 * [[大河ドラマ]](NHK) ** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]](1973年) - [[足利義昭]] 役 ** [[峠の群像]](1982年) - [[吉良義央|吉良上野介]] 役 ** [[春の波涛]](1985年) - [[伊藤博文]] 役 * [[新書太閤記]](1973年、東映 / [[テレビ朝日|NET]]) - [[荒木村重]] 役 * [[必殺仕置人]] 第19話「罪も憎んで人憎む」(1973年、[[松竹]] / 朝日放送)- 秋山但馬守 役 * [[助け人走る]] 第25話「逃亡大商売」(1974年、松竹 / 朝日放送) - 弥平次役 * [[おしどり右京捕物車]] 第1話「鞭」(1974年、松竹 / 朝日放送) - ナレーター * [[新・座頭市]] 第9話「見ない涙に虹を見た」(1976年、[[勝新太郎|勝プロ]] / [[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 為吉 役 * 戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件(1979年、S.H.P / テレビ朝日) - ナレーター * 死にたがる子<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040164_00000 |title=土曜ドラマ サスペンスロマンシリーズ 死にたがる子 |publisher=NHK |website=NHKアーカイブス |accessdate=2019-03-24}}</ref>(1979年、NHK) * [[風神の門]](1980年、NHK) - [[大野治長]] 役 * [[本郷菊坂赤門通り]](1981年、フジテレビ) * [[北の国から]](1981年、フジテレビ) - 吉野信次 役 * [[横溝正史]]の[[鬼火 (横溝正史)|鬼火]] 仮面の男と湖底の女(1983年、テレビ朝日) * [[日本の面影]](1984年、NHK) - 佐久間信恭 役 === 映画 === * 嫌い嫌い嫌い(1960年、[[大映]]) * 銀座のどら猫(1960年、大映) * 偽大学生(1960年、大映) * [[大津波 (映画)|大津波]](1960年、Stratton Productionsと[[東宝映画]]の合作) * [[黒い十人の女]](1961年、大映) * [[北京の55日]](1963年、アライド・アーティスト) ※日本公開1964年 * [[執炎]](1964年、[[日活]]) * [[:en:Lord Jim (1965 film)|ロード・ジム]](1965年、[[コロンビア ピクチャーズ]]) * 男の顔は履歴書(1966年、[[松竹]]) * [[日本春歌考]](1967年、松竹) * 懲役十八年 仮出獄(1967年、[[東映]]) * [[命かれても#映画|命かれても]](1968年、東映) * [[人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊]](1968年、東映) * 昭和元禄 TOKYO196X年(1968年、製作=東京映画 配給=東宝) * [[あゝ予科練]](1968年、東映) * [[栄光への5000キロ]](1969年、[[石原プロモーション|石原プロ]]) * ごろつき部隊(1969年、東映) * やさしいにっぽん人(1971年、[[東陽一|東プロ]]) * [[修羅雪姫|修羅雪姫 怨み恋歌]](1974年、[[東宝]]) *[[妹 (映画)|妹]](1974年、日活) *[[わが道]](1974年、近代映画協会) * [[吾輩は猫である (映画)#1975年版|吾輩は猫である]](1975年、東宝) * [[草迷宮 (映画)|草迷宮]](1978年、人力飛行機舎) ※日本公開1983年 * [[もう頬づえはつかない|もう頰づえはつかない]](1979年、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]) * 夕暮まで(1980年、東宝) * [[仕掛人・藤枝梅安#映画(1981年)|仕掛人梅安]](1981年、東映) * [[悪霊島]](1981年、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]) * [[スローなブギにしてくれ]](1981年、東映) * [[細雪 (1983年の映画)|細雪]](1983年、東宝) * [[家族ゲーム]](1983年、ATG) * [[居酒屋兆治#映画|居酒屋兆治]](1983年、東宝) * [[迷走地図]](1983年、松竹) *化粧(1984年、松竹)- 熊倉 役 * [[瀬戸内少年野球団]](1984年、日本ヘラルド映画) * [[ドレミファ娘の血は騒ぐ]](1985年、ディレクターズ・カンパニー) * [[スウィートホーム (映画)|スウィートホーム]](1989年、東宝) - 山村健一 役 ※製作総指揮 * C(コンビニエンス)ジャック(1992年、日本ビクター) - 研修の講師 役 === オリジナルビデオ === * [[白百合女学園洋弓部 白銀の標的]](1991年) === 劇場アニメ === * [[星のオルフェウス]](1979年) - 脚本・ナレーション === バラエティ === * [[2時ですこんにちは#正式タイトルの変遷|奥さまワイドショー 2時ですこんにちは]](1966年11月21日 - 、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 司会 * [[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]](日本テレビ) ** 伊丹十三の親子丼珍道中(1971年4月11日) ** 伊丹十三の日の出撮影大作戦(1972年1月2日) ** 伊丹十三の“[[奈良]]・お習字の旅”(1974年4月21日) ** 伊丹十三の“明解古座川図鑑”[[和歌山県]][[古座川]](1975年10月12日) * [[夢と冒険!アメリカ大横断]](1976年、日本テレビ) - [[ナビゲーター]] * [[伊丹十三の古代への旅]](1977年10月3日 - 12月26日、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - 司会 * [[アフタヌーンショー]]「未解決事件シリーズ」(1977年 - 1978年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]) - レポーター * [[テレビ探偵団]](1989年1月15日、フジテレビ) * [[SMAP×SMAP]](1997年9月29日、フジテレビ) === CM === * [[ハウス食品]] ジャワカレー(1970年)<ref>{{Cite book|和書|editor=[[全日本シーエム放送連盟|全日本CM協議会]]|title=CM25年史|publisher=[[講談社]]|date=1978-01-15|pages=247 - 250|id={{NDLJP|12025175/128}}}}</ref> * 松下電器産業(現:[[パナソニック]])冷蔵庫ビッグ * [[明治乳業]] ホイップ&ホイップ 宮本信子と長男の池内万作と家族で共演 *コールドベック [[ジョニーウォーカー]] * [[味の素]] マヨネーズ(1980年代) **マヨネーズDo 宮本信子と共演<ref>{{Cite book|和書|editor=講談社|title=SFX-CM大図鑑|publisher=講談社|series=講談社X文庫|date=1986-11-03|pages=76 - 77|id={{NDLJP|12023325/40}}}}</ref> * [[西友]] (1980年代) * KDD(現・[[KDDI]])国際電話(1989年頃) * [[一六本舗|一六タルト]] * [[日産自動車]] [[日産・サニー|サニー]]B13前期型(1990年) * [[ツムラ]] **日本の名湯(1990年) **バスクリン(1994年)宮本信子と夫婦で共演 * [[麒麟麦酒]] キリンプレミアムビール(1991年) * [[宝ホールディングス|宝酒造]] **タカラcanチューハイ(1995年) **宝焼酎 亜楽-ARAKU-(1997年) == 監督 == * ゴムデッポウ(1962年) ※伊丹一三名義の初監督作品、第24回[[東京国際映画祭]]特別上映<ref>{{Cite web|和書|url=http://2011.tiff-jp.net/news/ja/?p=1048 |website=第24回東京国際映画祭 |title=10/19詳細追加:10月22日(土)開催 映画人の視点「JUZO AGAIN(オールナイト)」詳細発表!! |publisher= |accessdate=2019-03-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.itami-filmcollection.com/ |title=公式サイト「伊丹十三 FILM COLLECTION ブルーレイ」 |publisher=伊丹プロダクション |accessdate=2019-03-24}}</ref> * [[お葬式]](1984年) * [[タンポポ (映画)|タンポポ]](1985年) * [[マルサの女]](1987年) * [[マルサの女2]](1988年) * [[あげまん (映画)|あげまん]](1990年) * [[ミンボーの女]](1992年) * [[大病人]](1993年) * [[静かな生活]](1995年) * [[スーパーの女]](1996年) * [[マルタイの女]](1997年) == デザイン == * 「伊丹万作全集」([[筑摩書房]]、1961年) - タイポグラフィ * [[長沼弘毅]]「シャーロック・ホームズの紫烟」(文藝春秋、1966年) - 装丁 * 「[[漫画讀本]]」(文藝春秋、1967年) - 車内吊り広告イラスト * 山口瞳「人殺し」(文藝春秋、1972年)- タイポグラフィ * 山本嘉次郎「日本三大洋食考」(昭文社出版部、1973年) - 装丁 * [[日本アート・シアター・ギルド]] - ロゴマーク ほか == 書籍 == === 自著 === *『[[ヨーロッパ退屈日記]]』(文藝春秋新社、1965年) のち文庫、新潮文庫、2005年 *『女たちよ!』([[文藝春秋]]、1968年) のち文庫 のち新潮文庫、2005年 *{{Cite book|和書|title=問いつめられたパパとママの本|publisher=[[中央公論社]]|date=1969-11|id={{NDLJP|9581847}}}} のち中公文庫(新版 2011年)、のち新潮文庫、2005年 *『再び女たちよ!』(文藝春秋、1972年) のち文庫、新潮文庫、2005年 *『小説より奇なり』(文藝春秋、1973年) のち文庫 *『日本世間噺大系』(文藝春秋、1976年) のち文庫、新潮文庫、2005年 *{{Cite book|和書|title=女たちよ!男たちよ!子供たちよ!|publisher=文藝春秋|date=1980-08|id={{NDLJP|12104033}}}}のち文庫 *『自分たちよ!』(文藝春秋、1983年) のち文庫 *『「お葬式」日記』(文藝春秋、1985年) *『フランス料理を私と』(文藝春秋、1987年) *『「マルサの女」日記』(文藝春秋、1987年) *『「大病人」日記』(文藝春秋、1993年) *『ぼくの伯父さん-単行本未収録エッセイ集』(つるとはな、2017年) *『伊丹十三選集』(全3巻、[[岩波書店]]、2018年12月-2019年2月) :1 日本人よ!、2 好きと嫌い、3 日々是十三([[松家仁之]]・[[中村好文]]・池内万平編) *『伊丹十三の台所』(つるとはな、2023年) === 共著 === * 愛猫記([[吉行淳之介]]ほか、番町書房、1977年) *『哺育器の中の大人:精神分析講義』([[岸田秀]]、[[朝日出版社]]、1978年)、新版・青土社、文春文庫 ちくま文庫 *『快の打ち出の小槌:日本人の精神分析講義』([[佐々木孝次]]、朝日出版社、1980年) *『倒錯 - 幼女連続殺人事件と妄想の時代』([[福島章]]、岸田秀、ネスコ、1990年) *『大病人の大現場 伊丹十三映画の舞台裏』([[立木義浩]]撮影、および対談、[[集英社]]、1993年) === 翻訳 === *マーナ・デイヴィス『ポテト・ブック』([[ブックマン社]]、1976年 / 再版:[[河出書房新社]]、2014年) *[[ウィリアム・サローヤン]]『パパ・ユーア クレイジー』(ワーク・ショップ ガルダ、1979年 / 再版:[[新潮文庫]]、1988年) *マイク・マグレディ『主夫と生活』([[学陽書房]]、1983年 / 学陽書房 (女性文庫) 1995年 / 再版:アノニマ・スタジオ、2014年) *[[ピーター・シェーファー]]『ザ・ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』(劇書房、1985年) *ジャンヌ・ハンソン『中年を悟るとき』([[飛鳥新社]]、1996年) ==伝記== *『伊丹十三の本』(「[[考える人 (雑誌)|考える人]]」編集部編、新潮社、2005年) *『伊丹十三の映画』(「考える人」編集部編、新潮社、2007年) *[[今野勉]]『テレビマン伊丹十三の冒険 テレビは映画より面白い?』([[東京大学出版会]]、2023年) == その他 == * 「伊丹十三です。みんなでカンツォーネを聴きながらスパゲッティを食べよう。」 ([[CD]]:[[ウルトラ・ヴァイヴ]]、2002年) :伊丹が高梨木聖とイタリア料理について語ったサウンド・エッセイで、[[大野雄二]]などが音楽を担当した。初発売時のタイトルは 「伊丹十三です。スパゲティの作り方教えます。」 ([[LP盤|レコード]]:[[日本コロムビア]]、1971年)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=伊丹十三 |editor=「考える人」編集部 |date=2005-04 |title=伊丹十三の本 |publisher=新潮社 |isbn=410474901X |ref={{SfnRef|伊丹|2005}} }} * {{Cite book |和書|title=伊丹十三の映画|editor=「考える人」編集部 |isbn=4104749028 |date=2007-05 |publisher=新潮社 |ref={{SfnRef|「考える人」編集部|2007}} }} == 外部リンク == {{Portal 映画}} * {{allcinema name|65067|伊丹十三}} * {{Kinejun name|2=伊丹十三}} * {{jmdb name|0029550|伊丹十三}} * {{Tvdrama-db name}} * {{NHK人物録|D0009070195_00000}} * [https://i-manabi.jp/pdf/museum/176.pdf 伊丹十三 愛媛県生涯学習センター] * [https://itami-kinenkan.jp/ 伊丹十三記念館] * {{IMDb 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1,965
大森一樹
大森 一樹(、1952年〈昭和27年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉11月12日)は、日本の男性映画監督、脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事、大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長。血液型はAB型。文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける。 1952年に大阪府大阪市東住吉区に医師をしている父親の家で生まれる。1961年に父親の転勤で兵庫県芦屋市に転居、芦屋市立精道中学校、六甲高等学校、京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある。 もともと漫画少年であり、手塚治虫や真崎守の作品などに影響を受ける。六甲高等学校在学中の1968年には仲間たちと自主映画(8ミリ映画)を制作し、村上知彦と知合う。京都府立医科大学在学中は、ジャン=リュック・ゴダールに憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った。一方、大森、村上らは、週刊ファイトの高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の1976年には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が、自主映画ながらキネマ旬報ベスト10で21位に入るなど、高く評価される。 1978年、前年に第3回城戸賞を受賞したシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー。前年の東宝の大林宣彦、同年の日活の石井聰亙らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し、アマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で各種映画賞を受賞。 以降、中学校の先輩である村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、1980年に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子さんと結婚、一男一女をもうける。1982年6月には長谷川和彦、相米慎二らと若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立。 1984年からの吉川晃司主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は斉藤由貴主演の三部作などを担当。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めてゴジラシリーズの演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。 1990年に独立し東京都世田谷区にファーストウッド・エンタテインメントを設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた。 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し自宅マンションが半壊、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす。 1998年に『日本沈没1999』の監督に起用されたが、松竹の経営不振により、製作中止になった。 2000年4月から2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。2005年4月から大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長・同大学院教授。 2015年、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門審査員を務める。 2022年11月12日午前11時28分、急性骨髄性白血病のため、兵庫医科大学病院で死去。70歳没。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった。 大森が監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』および『ゴジラvsキングギドラ』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、大森自身もよくわからないという。大森自身は、『vsビオランテ』は大張り切りであったが、『vsキングギドラ』は苦し紛れの開き直りであったと述懐している。一方で、『vsキングギドラ』についてはやるだけやらせてもらったことから愛着はあるとも述べている。 森田芳光や相米慎二などの同世代の監督が作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けのゴジラに、大森は『エイリアン2』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、リアリティのあるゴジラではなく、強いゴジラを目指したという。 『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという。 大森はポリティカル・フィクションを好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている。 『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた。 幼少期に鑑賞した『モスラ対ゴジラ』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『ゴジラvsモスラ』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという。『vsモスラ』では、自身で監督を務める意志もあったといい、モスラに思い入れがあったことから残念であったと述べている。 また、『キングコング対ゴジラ』からも無意識に影響を受けていたといい、同作品を踏襲して「ゴジラと対戦相手がともに海に落ちる」というラストを2度用いている。第1作『ゴジラ』は幼稚園児のころに観たというが、ゴジラが山から顔を出すシーンは覚えているものの、「怖かった」という記憶しかなかったと述べている。 『vsビオランテ』制作時には、昭和期の東宝特撮を手掛けた関沢新一の脚本を読み込んだといい、その時点では「絵空事」として否定的に捉えていたが、実際に自身で制作して怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直したといい、『vsモスラ』などではその手法を取り入れている。そのほか、第1作『ゴジラ』も観たが現代では同じことはできないと感じ、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の方が参考になったと述べている。 VSシリーズを通して登場するヒロイン三枝 未希(さえぐさ みき)について、独自に「三枝未希サーガ」を思い描いており、未希の祖父が旧日本陸軍で巨大兵器を開発していたなどの設定を想定していた。大森は、未希について『モスラ対ゴジラ』の小美人に通ずるキャラクターだと述べている。 『vsビオランテ』で主演を務めた三田村邦彦は、大森についてインテリだがおおらかで、映画業界特有の緊迫感がなく、現場も和やかであったと証言している。『vsキングギドラ』に出演した中川安奈は、現場をアクティブに引っ張る熱血漢であったと評している。 ゴジラ映画については、映画のすべての要素が入った映画そのものであり、ゴジラが好きだからゴジラ映画をやっているのではなく、映画が好きだからゴジラをやっていて面白いのだと語っている。自身の映画の原点として『海底軍艦』を挙げており、後年でもやりたい映画の1つと語っていた。
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大森 一樹(おおもり かずき、は、日本の男性映画監督、脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事、大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長。血液型はAB型。文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける。
{{ActorActress | 芸名 = 大森 一樹 | ふりがな = おおもり かずき | 画像ファイル = Omori Kazuki "International Competition Jury" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival (22265415358).jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = [[2015年]]、[[第28回東京国際映画祭]]にて | 本名 = | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> | 出生地 = [[大阪府]][[大阪市]][[東住吉区]]<ref>{{Cite interview |和書|date=不明 |subject=大森一樹 |interviewer=夏目深雪 |title=大森一樹監督インタビュー:映画「世界のどこにでもある、場所」について |url=https://intro.ne.jp/contents/2011/02/25_1548.html |work=INTRO |accessdate=2022-11-16}}<br />記事掲載日は不明だが取材日は2011年1月31日。2011年2月26日より公開される映画に関するインタビュー記事。</ref> | 死没地 = [[兵庫県]][[西宮市]]武庫川町 | 国籍 = {{JPN}} | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = | 血液型 = [[AB型]] | 生年 = 1952 | 生月 = 3 | 生日 = 3 | 没年 = 2022 | 没月 = 11 | 没日 = 12 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]] | ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]] | 活動期間 = [[1978年]] - 2022年 | 活動内容 = | 配偶者 = 大森聖子(妻) | 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 --> | 所属劇団 = | 事務所 = [[ファーストウッド・エンタテインメント]] | 公式サイト = [http://www.firstwood.com/ 公式サイト] | 主な作品 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 -->『[[ヒポクラテスたち]]』<br>『[[恋する女たち (氷室冴子)|恋する女たち]]』<br>『[[トットチャンネル#映画|トットチャンネル]]』<br>『[[ゴジラvsビオランテ]]』<br>『[[ゴジラvsキングギドラ]]』<br>『[[わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = {{Plainlist| * '''優秀監督賞''' * [[1986年]]『[[恋する女たち (氷室冴子)|恋する女たち]]』 * [[1996年]]『[[わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語]]』 * '''優秀脚本賞''' * 1986年『恋する女たち』 }} | その他の賞 = '''[[城戸賞]]'''<br />[[1977年]]『[[オレンジロード急行]]』 | 備考 = }} {{読み仮名|'''大森 一樹'''|おおもり かずき{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科32|最新大百科34|大百科MG35|モスラ映画大全74}}}}|[[1952年]]{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科32|最新大百科34|大百科MG35|平成大全92|コンプリーションG168|コンプリーションG568|超星神CP109}}}}〈[[昭和]]27年〉[[3月3日]]{{Refnest|group="出典"|{{R|来襲180|平成C226|超常識155|U179}}}} - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[11月12日]]{{R|U179}}}}は、[[日本]]の[[男性]][[映画監督]]、[[脚本家]]。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事{{R|超星神CP109}}、[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]映像学科学科長{{Refnest|group="出典"|{{R|平成C226|コンプリーションG168|コンプリーションG568|超星神CP109}}}}。血液型は[[AB型]]。文芸作品から[[怪獣映画]]まで幅広いジャンルを手掛ける{{R|モスラ映画大全74}}。 == 略歴 == 1952年に[[大阪府]]{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科32|最新大百科34|大百科MG35|来襲180|平成C226|コンプリーションG168|コンプリーションG568|超星神CP109|U179}}}}[[大阪市]][[東住吉区]]に[[医師]]をしている父親の家で生まれる{{Refnest|group="出典"|{{R|日本映画人名事典d166|平成大全92|モスラ映画大全74}}}}。[[1961年]]に父親の転勤で[[兵庫県]][[芦屋市]]に転居{{R|日本映画人名事典d166}}、[[芦屋市立精道中学校]]、[[六甲中学校・高等学校|六甲高等学校]]、[[京都府立医科大学]][[医学部]]卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある{{R|超常識155}}。 もともと[[漫画]]少年であり、[[手塚治虫]]や[[真崎守]]の作品などに影響を受ける。[[六甲中学校・高等学校|六甲高等学校]]在学中の[[1968年]]には仲間たちと[[自主映画]](8ミリ映画)を制作し{{Refnest|group="出典"|{{R|日本映画人名事典d166|コンプリーションG168|コンプリーションG568|超星神CP109|U179}}}}、[[村上知彦]]と知合う。京都府立医科大学在学中は、[[ジャン=リュック・ゴダール]]に憧れながら村上・西村隆・小西均らと映画自主上映グループ「無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った{{efn|「無国籍」は、[[1974年]]5月2日のオールナイトで、『[[ゴジラ]]』~『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』を上映している。}}{{R|日本映画・テレビ監督全集73|日本映画人名事典d166}}。一方、大森、村上らは、[[週刊ファイト]]の高橋聡記者を巻き込んで、ロマンポルノ親衛隊を結成している。また、大学在学中の[[1975年]]には高橋が撮影した16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が{{R|平成大全92}}、自主映画ながら[[キネマ旬報]]ベスト10で21位に入るなど、高く評価される。 [[1978年]]、前年に第3回[[城戸賞]]を受賞したシナリオを自ら監督した『[[オレンジロード急行]]』で商業映画デビュー{{Refnest|group="出典"|{{R|大百科32|最新大百科34|大全集154|来襲180|平成大全92|平成C226|モスラ映画大全74|超星神CP109|U179|ゴジラのマネジメント140}}}}。{{要出典範囲|前年の[[東宝]]の[[大林宣彦]]、同年の[[日活]]の[[石井聰亙]]らとともに、自主映画作家が[[助監督]]経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶ。[[コマーシャルメッセージ|CF]]の分野で商業映像の経験が豊富だった大林、[[澤田幸弘]]との共同監督という形だった石井に対し{{efn|脚本もそれぞれ別のプロが執筆している。}}、アマチュアでありながらメジャー[[松竹]]の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っていた。|date=2023年5月}}この作品は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『[[ヒポクラテスたち]]』で各種映画賞を受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|来襲180|平成大全92|モスラ映画大全74}}}}。 以降、中学校の先輩である[[村上春樹]]作品の映画化『[[風の歌を聴け (映画)|風の歌を聴け]]』を経て、[[1980年]]に10年の在学を経て大学を卒業。同年に同大学出身の眼科医・聖子と結婚、一男一女をもうける{{R|映像メディア作家人名事典120|日本映画人名事典d166}}。[[1982年]]6月には[[長谷川和彦]]、[[相米慎二]]らと若手監督9人による企画・制作会社「[[ディレクターズ・カンパニー]]」(ディレカン)を設立{{Refnest|group="出典"|{{R|映像メディア作家人名事典120|日本映画人名事典d166}}<ref>長谷川和彦・根岸吉太郎・相米慎二「ディレクターズ・カンパニーの監督たち シンポジウム報告」司会・[[大久保賢一]]『キネマ旬報』1990年5月下旬号、pp.140-143</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://tower.jp/article/feature_item/2015/05/18/2501 |title=大森一樹監督名作『ヒポクラテスたち』初BD化記念、80年代を中心に邦画特集 |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=タワーレコード |date=2015-05-18 |accessdate=2018-07-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180709185211/http://tower.jp/article/feature_item/2015/05/18/2501 |archivedate=2018-07-09}}</ref>{{R|U179}}}}。 1984年からの[[吉川晃司]]主演「民川裕司3部作」以降、会社企画の娯楽映画にも対応できる職人監督として東宝の信頼が厚くなり、1980年代後半は[[斉藤由貴]]主演の三部作などを担当{{R|平成大全92}}。特に1989年の『ゴジラvsビオランテ』ではフリーランス監督としては初めて[[ゴジラシリーズ]]の演出を務めるなど、自主映画出身でありながらプログラム・ピクチャーも撮影可能な若手監督として評価される{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集154|来襲180|平成大全92|超常識155|U179}}}}。ゴジラ作品はその後も『ゴジラvsキングギドラ』をはじめ、多数の作品で監督・脚本を務めた。 [[1990年]]に独立し東京都世田谷区に[[ファーストウッド・エンタテインメント]]を設立したものの、デビューから一貫して関西を拠点としていた{{R|日本映画人名事典d166}}。 [[1995年]][[1月17日]]に[[阪神・淡路大震災]]が発生し自宅マンションが半壊{{R|平成大全285}}、近くの小学校で仮生活しながら復興活動に尽くす{{R|日本映画人名事典d166|ゴジラのマネジメント140}}。翌週には映画『[[緊急呼出し エマージェンシー・コール]]』ロケのためマニラへ発っており、翌月に帰国してからは『[[ゴジラvsデストロイア]]』の設定シナリオを書き上げている{{R|平成大全285}}。 [[1998年]]に『[[日本沈没#『日本沈没1999』の企画|日本沈没1999]]』の監督に起用されたが、[[松竹]]の経営不振により、製作中止になった。 [[2000年]]4月から[[2005年]]3月[[大阪電気通信大学]]総合情報学部メディア情報文化学科教授。[[2005年]]4月から[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]映像学科学科長{{Refnest|group="出典"|{{R|コンプリーションG168|コンプリーションG568|超星神CP109}}}}・同大学院教授{{R|ゴジラのマネジメント140}}。 [[2015年]]、[[第28回東京国際映画祭]]のコンペティション部門審査員を務める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0076735 |title=東京国際映画祭コンペ部門の審査委員6名が決定 |website=シネマトゥデイ |date=2015-09-24 |accessdate=2022-11-16}}</ref>。 [[2022年]][[11月12日]]午前11時28分、[[急性骨髄性白血病]]のため、[[兵庫医科大学病院]]で死去<ref>{{Cite news2|df=ja|title=【速報】映画監督の大森一樹さん死去 「ヒポクラテスたち」など多くの作品|newspaper=神戸新聞|date=2022-11-15|url=https://nordot.app/965096157017489408|access-date=2022-11-15|publisher=神戸新聞社|archive-url=https://web.archive.org/web/20221115071808/https://nordot.app/965096157017489408|archive-date=2022-11-15|url-status=live}}</ref>{{R|U179}}。{{没年齢|1952|3|31|2022|11|12}}。同月20日には「第23回宝塚映画祭」で代表作を上映、舞台挨拶に立つ予定であった<ref>{{Cite web|和書|title=大森一樹監督が死去、郷里映画祭のあいさつかなわず…支配人「魅力を語ってほしかった」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20221116-OYT1T50012/ |website=読売新聞オンライン |publisher=読売新聞社 |date=2022-11-16 |access-date=2022-11-17}}</ref>。 == ゴジラシリーズについて == 大森が監督を務めた『[[ゴジラvsビオランテ]]』および『[[ゴジラvsキングギドラ]]』にて平成ゴジラVSシリーズの方向性を決定づけたとされる{{R|平成C226|U179}}。当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、大森自身もよくわからないという{{Refnest|group="出典"|{{R|平成大全92|ゴジラのマネジメント41|U179}}}}{{efn|城戸賞の審査員を田中が務めていたことや、田中が大阪の「ゴジラ復活祭」にゲスト出演した際に、来場者から次のゴジラの監督として大森の名前が挙がったことなどもあり、大森は田中が1984年の『ゴジラ』からの転換を望み、新たな血を入れるために模索した結果であると語っている{{R|U179}}。なお、「ゴジラ復活祭」の中心メンバーは高橋聡、小西均である。}}。大森自身は、『vsビオランテ』は大張り切りであったが、『vsキングギドラ』は苦し紛れの開き直りであったと述懐している{{R|モスラ映画大全74}}。一方で、『vsキングギドラ』についてはやるだけやらせてもらったことから愛着はあるとも述べている{{R|東宝SF770}}。 [[森田芳光]]や[[相米慎二]]などの同世代の監督が作家性の強い作品を撮っていくのを横目で見ていた大森は、文学性の高い作品ではなく、エンタメ性の高い作品を撮影したいと思い、1984年の『ゴジラ』で目指したリアリティのある大人向けのゴジラに、大森は『[[エイリアン2]]』を参考にハリウッド映画調の娯楽性とスピード感を与え、リアリティのあるゴジラではなく、強いゴジラを目指したという{{R|U179}}。 『vsビオランテ』については納得いかない部分が多々あったというが、同作品がゴジラ映画の人気投票で1位となったことで、「同作品を見てゴジラを好きになった」と若い世代から言われることが増え、そういう映画であったと納得させられたという{{R|U179}}。 大森は[[ポリティカル・フィクション]]を好んでおり、また自分たちの世代が軍人になったらどうなるかという想いを抱いていたことから、ゴジラは現代における戦争映画という想定で、政治的・軍事的要素を取り入れている{{R|大全集154}}。また、ゴジラ映画について個人や社会だけでなく、国としての日本が描けることが一番面白いとも語っている{{R|最新大百科34}}。 『vsビオランテ』当時はSFXが流行していたため、大森も特撮について勉強していたが、監督と特撮監督が対等な立場であったことには驚いたという{{R|平成C226}}。撮影においては、特撮班と揉めるようなことはなく、互いにアイデアを取り入れるなど協調できていたと語っている{{R|平成C226}}。一方で、特撮シーンは特撮班の担当となるため、監督として主役のゴジラやクライマックスを撮影できないことは致命的だといい、特撮部分にも目を通したいと述べていた{{R|大全集154}}。 幼少期に鑑賞した『[[モスラ対ゴジラ]]』に感銘を受けたといい、モスラが登場する『モスラVSバガン』や『[[ゴジラvsモスラ]]』の脚本を手掛けたほか、『vsビオランテ』も女性的な怪獣のイメージや戦闘シーンの多さなど影響を受けているという{{R|モスラ映画大全74}}。『vsモスラ』では、自身で監督を務める意志もあったといい、モスラに思い入れがあったことから残念であったと述べている{{R|平成C226|モスラ映画大全74}}。 また、『[[キングコング対ゴジラ]]』からも無意識に影響を受けていたといい、同作品を踏襲して「ゴジラと対戦相手がともに海に落ちる」というラストを2度用いている{{R|東宝SF770}}。第1作『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』は幼稚園児のころに観たというが、ゴジラが山から顔を出すシーンは覚えているものの、「怖かった」という記憶しかなかったと述べている{{R|大百科MG35}}。 『vsビオランテ』制作時には、昭和期の[[東宝特撮]]を手掛けた[[関沢新一]]の脚本を読み込んだといい、その時点では「絵空事」として否定的に捉えていたが、実際に自身で制作して怪獣と現実は噛み合わないと実感し、関沢が偉大であったと思い直したといい、『vsモスラ』などではその手法を取り入れている{{R|東宝SF770}}。そのほか、第1作『ゴジラ』も観たが現代では同じことはできないと感じ、『[[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]』の方が参考になったと述べている{{R|大百科MG35}}。 VSシリーズを通して登場するヒロイン[[ゴジラvsビオランテ#登場人物|三枝 未希(さえぐさ みき)]]について、独自に「三枝未希サーガ」を思い描いており、未希の祖父が旧日本陸軍で巨大兵器を開発していたなどの設定を想定していた{{R|大全集154}}。大森は、未希について『モスラ対ゴジラ』の[[小美人]]に通ずるキャラクターだと述べている{{R|モスラ映画大全74}}。 『vsビオランテ』で主演を務めた[[三田村邦彦]]は、大森についてインテリだがおおらかで、映画業界特有の緊迫感がなく、現場も和やかであったと証言している{{R|平成P18}}。『vsキングギドラ』に出演した[[中川安奈]]は、現場をアクティブに引っ張る熱血漢であったと評している{{R|平成P32}}。 ゴジラ映画については、映画のすべての要素が入った映画そのものであり、ゴジラが好きだからゴジラ映画をやっているのではなく、映画が好きだからゴジラをやっていて面白いのだと語っている{{R|最新大百科34}}。自身の映画の原点として『[[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]]』を挙げており、後年でもやりたい映画の1つと語っていた{{R|大百科MG35}}。 == 監督作品 == === 自主制作映画 === * 1969年 『革命狂時代』(製作・監督・脚本・撮影・編集) * 1972年 『ヒロシマから遠く離れて』(企画・監督) * 1972年 『空飛ぶ円盤を見た男』(監督・脚本) * 1972年 『明日に向かって走れない!』(製作・監督・脚本・撮影・編集) * 1974年 『死ぬにはまにあわない!』(監督・脚本・撮影) * 1975年 『暗くなるまで待てない!』(監督・脚本<ref>{{NFAJ title|98559|暗くなるまで待てない!}}. {{accessdate|2022-11-16}}</ref>) === 映画 === * 1978年 『[[オレンジロード急行]]』(企画・監督・脚本) 第3回城戸賞 * 1978年 『[[夏子と、長いお別れ(ロング・グッバイ)]]』(企画・監督・脚本) * 1980年 『[[ヒポクラテスたち]]』(監督・脚本) * 1981年 『[[前立腺の病気と予防]]』(監督・脚本) * 1981年 『[[尿路結石と微小発破]]』(監督・脚本) * 1981年 『[[風の歌を聴け (映画)|風の歌を聴け]]』(監督・脚本) * 1984年 『[[すかんぴんウォーク]]』(監督) * 1985年 『[[ユー・ガッタ・チャンス]]』(監督) * 1986年 『[[テイク・イット・イージー (映画)|テイク・イット・イージー]]』(監督) * 1986年 『[[恋する女たち (氷室冴子)|恋する女たち]]』(監督・脚本)[[文化庁]]優秀映画賞、[[第11回日本アカデミー賞]]優秀脚本賞・優秀監督賞 * 1987年 『[[トットチャンネル]]』(監督・脚本) [[芸術選奨新人賞]]受賞 * 1987年 『[[「さよなら」の女たち]]』(監督・脚本) * 1989年 『[[ゴジラvsビオランテ]]』(脚本・監督) * 1989年 『[[花の降る午後]]』(脚本・監督) * 1990年 『[[ボクが病気になった理由]]』(監督{{efn|3人の監督によるオムニバス作品。}}) * 1991年 『[[満月 MR.MOONLIGHT]]』(監督) * 1991年 『[[ゴジラvsキングギドラ]]』(脚本・監督) * 1992年 『[[継承盃]]』(監督) * 1994年 『[[シュート!#実写映画版|シュート!]]』(監督) * 1995年 『[[大失恋。]]』(監督) * 1995年 『[[緊急呼出し エマージェンシー・コール]]』 * 1996年 『[[わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語]]』(監督)[[第29回日本アカデミー賞]]優秀監督賞 * 1997年 『[[ドリーム・スタジアム]]』(監督) * 1998年 『[[6月19日の花嫁|ジューンブライド 6月19日の花嫁]]』(監督・脚本) * 1999年 『[[明るくなるまでこの恋を]]』(監督・脚本) * 2000年 『[[ちんちろまい]]』(監督・脚本) * 2000年 『[[風を見た少年]]』(総監督) * 2000年 『[[ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説]]』(監督・脚本) * 2001年 『[[走れ!イチロー]]』(監督・脚本) * 2003年 『[[T.R.Y.]]』(監督) * 2005年 『[[劇場版 超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち]]』(監督) * 2006年 『[[悲しき天使 (映画)|悲しき天使]]』(脚本・監督) * 2008年 『[[イエスタデイワンスモア]]』(脚本・監督) * 2010年 『[[世界のどこにでもある、場所]]』(脚本・監督) * 2011年 『[[津軽百年食堂]]』(監督・脚本(共作)) * 2015年 『[[ベトナムの風に吹かれて]]』(監督・脚本{{efn|北里宇一郎と共作。}}) === テレビドラマ === * 1985年 『[[法医学教室の午後]]』(監督・脚本) * 1985年 『[[それいけ!ズッコケ三人組]]』(各話監督) * 1986年 『[[法医学教室の長い一日]]』(監督・脚本) * 1988年 『[[女優時代]]』(監督)読売テレビ * 1995年 [[金曜エンタテイメント]]『[[炎の料理人 周富徳物語]]』(監督)フジテレビ * 2001年 『[[最悪]]』(監督)[[BS-TBS|BS-i]]、[[TBSテレビ|TBS]] * 2007年 [[ドラマW]] 『[[黒い春]]』(監督)[[WOWOW]] * 2014年 『[[装甲巨人ガンボット]]』(本編演出・製作統括)[[テレビ大阪]] == 脚本作品 == === 映画 === * 1988年 『[[妖女の時代]]』 * 1992年 『[[ゴジラvsモスラ]]』 * 1995年 『[[ゴジラvsデストロイア]]』 * 2008年 『[[空へ-救いの翼 RESCUE WINGS-]]』{{efn|[[内藤忠司]]、[[水上清資]]、[[手塚昌明]]と共作。}} === 未製作脚本 === * 1990年 『[[モスラVSバガン]]』(『ゴジラVSモスラ』の原案){{R|ゴジラのマネジメント140}} === テレビドラマ === * 1990年 『[[ぼくが医者をやめた理由]]』[[テレビ東京]] === ラジオドラマ === * 『[[ハレー彗星ツアー]]』(1984年7月21日 [[NHK大阪]]=[[NHK-FM]] 演出 [[柴田岳志]]){{efn|主演:[[時任三郎]]、[[東野英治郎]]、[[蟹江敬三]]主演。}} == 著書 == === 単著 === * 1978年 『MAKING OF オレンジロード急行』[[ぴあ]]出版 * 1981年 『虹を渡れない少年たちよ』[[PHP研究所|PHP]] * 1986年 『星よりひそかに 大森一樹の作った本』[[東宝]]出版事業室 * 1987年 『トットチャンネル シナリオ写真集』東宝出版事業室 * 1987年 『「さよなら」の女たち シナリオ写真集』東宝出版事業室 * 1989年 『映画物語』[[筑摩書房]] * 1998年 『震災ファミリー』[[平凡社]] * 2001年 『あなたの人生案内』平凡社 === 共著 === * 1988年『[[大阪呑気大事典]]』大阪オールスターズ編 [[JICC出版局]](編集 チャンネルゼロ) == 出演 == <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> === カメオ出演 === * 『ヒポクラテスたち』(1981年) - 卒業写真の欠席枠 * 『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』(1985年) - 商店街で撮影されたシーンに通行人役で家族三人で出演している * 『恋する女たち』(1986年) - 見合い写真 * 『「さよなら」の女たち』(1987年) - 小樽の病院の医師 * 『[[ゴジラvsビオランテ]]』(1989年) - 千里中央病院の医師{{R|平成P144}} * 『[[ゴジラvsキングギドラ]]』(1991年) - 広報車の声{{R|平成P144}} * 『[[亜人 (漫画)|亜人]]』(2017年) ‐ 佐藤との交渉のシーンに出演 ===ラジオ=== * [[ぱんげあクラブ]]([[MBSラジオ|毎日放送]]) - 金曜パーソナリティ ===CM=== * [[ハウス食品]] レンジグルメ * シチズン リビエール == その他 == * [[2006年]]『[[第61回国民体育大会|のじぎく兵庫国体]]・[[第6回全国障害者スポーツ大会|のじぎく兵庫大会]]』開閉会式式典総合プロデューサー == 受賞歴 == * [[1977年]] - 第3回[[城戸賞]]{{R|日本映画・テレビ監督全集73|映像メディア作家人名事典120}} * [[1978年]] - 第4回[[おおさか映画祭]]新人監督賞{{R|映像メディア作家人名事典120}} * [[1980年]] - [[年間シナリオ]]{{R|映像メディア作家人名事典120}} * [[1987年]] - 第13回[[おおさか映画祭]]監督賞{{R|映像メディア作家人名事典120}} * [[1988年]] - [[第11回日本アカデミー賞]]優秀監督賞・優秀脚本賞、第38回[[芸術選奨文部大臣賞]]新人賞{{R|映像メディア作家人名事典120}} * [[1997年]] - [[第20回日本アカデミー賞]]優秀監督賞 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="日本映画・テレビ監督全集73">{{Harvnb|日本映画・テレビ監督全集|1988|pp=73-74}}</ref> <ref name="大百科32">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1990|pp=32 - 35|loc=「GODZILLA TALK 大森一樹vs川北紘一」}}</ref> <ref name="最新大百科34">{{Harvnb|最新ゴジラ大百科|1991|pp=34 - 35|loc=「GODZILLA PEOPLE INTERVIEW 2 大森一樹」}}</ref> <ref name="大百科MG35">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1993|p=35|loc=「追悼 本多猪四郎監督 大森一樹」}}</ref> <ref name="映像メディア作家人名事典120">{{Harvnb|映像メディア作家人名事典|1991|pp=120}}</ref> <ref name="東宝SF770">{{Harvnb|東宝SF特撮映画シリーズ7|1993|pp=70-73|loc=「インタビュー 大森一樹」}}</ref> <ref 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マジック:ザ・ギャザリング
マジック:ザ・ギャザリング(英: Magic: The Gathering、M:tG、MTG)は、米ウィザーズ・オブ・ザ・コースト(WotC)社製のトレーディングカードゲーム(TCG)。日本では、同社の日本事業部が窓口になっている。 1993年に発売された世界初のトレーディングカードゲームである。公式にはマジック、のように略され、他にもMTG、ギャザ、マジギャザなどと呼ばれる。このほか、「もっともよく遊ばれているTCG」などでもギネス世界記録に認定されている。 マジック:ザ・ギャザリングを初めとするTCGにおいては、一定の制限内で好きなようにカードを組み合わせたデッキ(山札)を各プレイヤーが用意する。さらに、多くのカードが原則を破る特殊ルール(極端な例として「ライフが0になっても敗北しない」「山札切れすると勝利する」など)を持っている。これにより、ほぼ無限に拡張され得るコレクション性と多彩かつダイナミックなゲーム展開とが両立された。 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社の創業者ピーター・アドキソンによれば、テーブルトークRPG (TRPG)のコンベンションを巡業していた経験から、その待ち時間にプレイできるファンタジー志向のゲームを意図して製作したとしている。メインデザイナーであるリチャード・ガーフィールドによれば、本作は自身が高校生の頃に考案していたゲーム"Five Magics"に原点があるという。「ルールを破るカード」というデザイン上のヒントはボードゲームの『コズミック・エンカウンター』に、土地カードのヒントは"King of the Tabletop"にあったと話している。 このゲームは発売されてから短期間の内に驚異的な人気を得て、TRPG関連の新興零細メーカーに過ぎなかったウィザーズ・オブ・ザ・コースト社を一気に成長させた。そしてその人気に触発されて多くのメーカーが次々とTCGを発売した結果、僅か数年でTCGがゲームの一ジャンルとして確立したのである。人気は他のゲームジャンル・漫画にも影響を与えた。『デュエル・マスターズ』はこのゲームのメカニクスをライセンス供与され製作された。 『ゲームナイト:フリー・フォー・オール』(Game Night: Free-for-All)という構築済みデッキとプレイに必要はサプライがパッケージになった商品をボードゲームとして販売している。付属しているカードは一般的なカードと同じであるが、ボードゲームと同じようにこれだけで遊べるゲームバランスに設計されている。 マジックのカードは、大きく土地(Land)カードと呪文(Spell)カードに分けられる。呪文カードは、使用形態の違いによりさらに細分化され、また効果は色(マナ)ごとにある程度偏りがあり、その色の特色が出るようになっている。 各種類のカードに定められたルール上の原則はカードの効果によって無視されることがある。例えば、通常自分のターンごとに手札から出せる土地カードは1枚までとなっているが、この制限を破るカードもある。 呪文カードは色(属性)ごとに特徴が異なり、どの色を主体にデッキを組むかで戦法に大きな違いが出てくる。また、これに土地カードと呪文カードのバランスの問題が絡んだジレンマが発生するようにゲームはデザインされている。 最も基本的なデッキの形は一つのデッキが一つの色と対応する土地のみで構成されているもの(単色デッキという)。この場合、必要な土地がドロー出来ない、逆に土地ばかりが来るといった不利な展開(総じて「事故」と呼ばれる)はあるものの、土地と呪文カードの色がマッチしない「色事故」は起こりえない。しかし、色ごとに一長一短があるので弱点ができやすい。たとえば、黒には一度設置されたエンチャント、アーティファクトを除去する方法がない。緑には飛行を持つクリーチャーがほとんど居ないなどである。 スタンダード・フォーマットのようにカードプールが狭ければ通常は2~3色を合わせて極端な弱点がないようにデッキを作成するのがよいとされるが、全ての色を使用した5色で組むことはまずない。ただし、中には5色すべてのマナを必要とするカードや、5色デッキを推奨するようなエキスパンション、5色のマナを容易にそろえられる環境が整っているフォーマットも存在する。また、アーティファクト単(茶単)や、土地カードをメインとした土地単と呼ばれる無色メインのデッキも存在する。 どの色にも、友好色と敵対色が設定されている。マジックのカードの裏面の模様は五芒星を暗示したものとなっており、どの色がどの色と友好関係(敵対関係)にあるかを図案化している。ある色に隣り合う2色は友好的、対辺の2色は敵対的とされている。それぞれの色は友好色を支援したり、敵対色の行動を阻害する傾向にある。ただし、ルール自体には友好色や敵対色についての特別の規定はない。かつての基本セットには大抵敵対2色を阻害するカードが収録されていたが、00年代以後はこの要素は強調されず、拡張セットラヴニカ・ギルドの都以降のセットでは、特定の2色ないし3色を1グループとし、それぞれのグループごとに特徴を持たせるというパターンも多くなるなど、友好・敵対の関係はかなり曖昧になっている。 以下に、ルールの詳細に立ち入らない範囲で各色の特徴の一部を述べる。 マジックに限らずトレーディングカードゲームでは、様々な種類のカードを組み合わせて自分のデッキを構築するが、その「デッキの組み方の定石」というものがいくつか存在する。 以下に、代表的なデッキタイプの区分を示す。 一部のカードには、ゲームそのものには影響を及ぼさない、雰囲気付けのための文章(フレーバー・テキスト)が書かれていることがある。初版や黎明期には聖書やシェイクスピアなどの古典作品からの引用が多かったが、後にエキスパンションごとに小説が出版される等するようになると大部分オリジナルのものとなっていった。その一行一行に物語がこめられており、初心者プレイヤーにフレイバーテキストから物語を想像してほしいという意図がある。また、昔のセットには、アラビアンナイトや三国志演義を題材にしたものも存在する。 物語の大筋は、サイエンス・ファンタジー風の英雄譚である。基本的に物語はドミニアという多元宇宙空間で繰り広げられ、その中には多くの次元と繋がる多元宇宙の(ストーリー的な意味でも)中心であり豊富なマナを持つ「ドミナリア」、邪悪な機械文明に支配され堕落と疫病の蔓延する「ファイレクシア」、ファイレクシアの前線基地として人工的に作られた次元「ラース」、生物を含めあらゆる物が金属からなる「ミラディン」、万物に宿る「神」を崇める人々が暮らす日本風の次元「神河」などの様々な世界が存在する。それらの次元を舞台として、プレインズウォーカー("次元を渡る者"の意)と呼ばれるものたちが激闘を繰り広げる。「アラーラの断片」以降は、カード化されたプレインズウォーカー達が話の中心となることが多くなった。 マジックのプレーヤー自身もプレインズ・ウォーカーという設定で、新たなエキスパンションが出るということは、新たな次元での戦いが始まるということでもある。定期的に発売される基本セットにはストーリーはなく、今までの物語のダイジェスト版といった位置づけである。 各セットの枚数は、絵違いの同カードも異なる種類としてカウントしてある。また【】内は英名/公式略称。以前は2文字であったが、レギオン発売時にレジェンドと一緒になってしまうため、3文字に拡張された。 各セットは以下の書式で解説される。 ひとつのセットに対して複数の構築済みデッキがシリーズ化されている マジックと他作品のコラボレーションセット。 DCI(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が設立した、Magicをはじめとするゲームの国際公式競技組織)が認定しているトーナメントを認定トーナメントと呼ぶ。WPN(ウィザーズ・プレイ・ネットワーク)協賛店舗やイベント会場で開催される。認定トーナメントの開催情報はウィザーズの公式ページ(下記)で確認できる。初級者から上級者まで段階ごとの大会形態も確立されており、世界中でトーナメントが開かれている。 中でも、世界中からトッププレイヤーが集結して開催されるプロツアーに出場することは多くのプレイヤーの憧れであり、生活をマジックに捧げてまで世界を相手に競う若者も多かった。90年代は日本勢は良くてベスト16前後を行ったり来たりする程度であったが、2001年のプロツアー東京にて藤田剛史が日本人初のベスト8入り(準優勝)を果たしたのを皮切りに、2004年プロツアー神戸で黒田正城が初めて日本人初のプロツアー王者に輝き、2005年には世界選手権個人戦を森勝洋が制し、日本人初の世界王者となった。同時に国別対抗トーナメントでも日本代表が優勝し、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(年間MVP)を津村健志が獲得した。また2005年より、マジックの発展に貢献してきたプレイヤーの功績を称えることを目的とした「マジック・プロツアー殿堂」が創設され、有識者による投票で毎年3~5人が殿堂入していた。日本からはこれまでに、藤田剛史、中村修平、津村健志、大礒正嗣、三原槙仁、八十岡翔太が選出されている。以後20年代に至っても日本は強豪国の一角を占めている。 以下は、代表的な大会であり、上位の大会は特に「プレミアイベント」と呼ばれているが、10年代半ばより制度は迷走し、流動的となっていった。競技が『MTGアリーナ』主体となったデジタル時代には改名されたり行われなくなったものも多い。 言葉や能力の定義を厳密に定めた総合ルール(Comprehensive Rules、CR)と呼ばれるものがある。これだけで一冊の本にできるだけの情報量があるうえ、日々ルールに矛盾や問題点などがないか検討され改定され続けている。また、そのルールの理解度や大会運営の能力に応じてレベル1~5までのジャッジ資格が設けられており、大会の規模に応じて相応のレベルを持つジャッジの監督が必要である。大会全体を統括するジャッジは特に「ヘッドジャッジ」と呼ばれ、その大会におけるルール裁定の最終的な決定権をもつ。日本国内の都道府県選手権などの規模の大会のヘッドジャッジはレベル2が普通だが、日本人にもレベル3保有者が数人おり、海外で開催される大規模な大会には多くの場合日本人ジャッジが参加している。基本的にジャッジは無給だが、参加することにより専用のプロモーションカードが配布されるのである。 マジックにはフォーマットと呼ばれる幾つかのトーナメント方式があり、使えるカードセット等が異なる。 「構築戦(コンストラクテッド: constructed)」は決められたカードセットを使い、事前にデッキ(枚数60枚以上 + サイドボード15枚)を構築するもの。 「限定戦(リミテッド: limited)」はブースターパックをあけてその場でデッキ(枚数40枚以上)を組む方式である。 これ以外にも公式では無いが一定のルールが整備され、広く親しまれているフォーマットも存在する。 『MTG』は長い歴史に膨大な種類のカードなどから、様々な研究が続けられている。その中で、「『MTG』はチューリング完全である。」という変わった研究をしていた、ボードゲームデザイナーのアレックス・チャーチルと研究グループは、コンピュータやチューリングマシンでプレイできるようにゲームを変換し、ゲームの複雑さを定量的に測定した。 研究の結果チャーチルらは、「『MTG』が、現実に存在するゲームの中でもっとも複雑なゲームの一つである」と結論づけた。ある特定の条件下では、勝利のための最善手のアルゴリズムを導き出すことができないことが証明されたという。論文では、これを現実世界に勝利戦略の決定が計算不可能なゲームが存在することを証明する最初の結果、とまとめている。 最初に報じた『MITテクノロジーレビュー』は、「全てのゲームは計算可能でなければならない」という仮定に反証した最初の現実世界のゲームだとしている。 2014年には20世紀FOXが映画化権をHasblo社から取得していた。 2019年6月には、Netflixによるアニメ化を発表。監督は『アベンジャーズ エンドゲーム』のアンソニー、ジョー・ルッソ兄弟としている。一方で、同年7月には、米国のサンディエゴ・コミコンの会場にて、ルッソ兄弟の口頭から「アニメーション企画が実写へと派生する可能性もある」と語られている。その後、2021年8月にDEADLINEが報道したところでは、制作は『トランスフォーマープライム』を手掛けたJeff Kline(英語版)による新しいチームに引き継がれたとしている。
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"このゲームは発売されてから短期間の内に驚異的な人気を得て、TRPG関連の新興零細メーカーに過ぎなかったウィザーズ・オブ・ザ・コースト社を一気に成長させた。そしてその人気に触発されて多くのメーカーが次々とTCGを発売した結果、僅か数年でTCGがゲームの一ジャンルとして確立したのである。人気は他のゲームジャンル・漫画にも影響を与えた。『デュエル・マスターズ』はこのゲームのメカニクスをライセンス供与され製作された。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『ゲームナイト:フリー・フォー・オール』(Game Night: Free-for-All)という構築済みデッキとプレイに必要はサプライがパッケージになった商品をボードゲームとして販売している。付属しているカードは一般的なカードと同じであるが、ボードゲームと同じようにこれだけで遊べるゲームバランスに設計されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "マジックのカードは、大きく土地(Land)カードと呪文(Spell)カードに分けられる。呪文カードは、使用形態の違いによりさらに細分化され、また効果は色(マナ)ごとにある程度偏りがあり、その色の特色が出るようになっている。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各種類のカードに定められたルール上の原則はカードの効果によって無視されることがある。例えば、通常自分のターンごとに手札から出せる土地カードは1枚までとなっているが、この制限を破るカードもある。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "呪文カードは色(属性)ごとに特徴が異なり、どの色を主体にデッキを組むかで戦法に大きな違いが出てくる。また、これに土地カードと呪文カードのバランスの問題が絡んだジレンマが発生するようにゲームはデザインされている。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最も基本的なデッキの形は一つのデッキが一つの色と対応する土地のみで構成されているもの(単色デッキという)。この場合、必要な土地がドロー出来ない、逆に土地ばかりが来るといった不利な展開(総じて「事故」と呼ばれる)はあるものの、土地と呪文カードの色がマッチしない「色事故」は起こりえない。しかし、色ごとに一長一短があるので弱点ができやすい。たとえば、黒には一度設置されたエンチャント、アーティファクトを除去する方法がない。緑には飛行を持つクリーチャーがほとんど居ないなどである。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スタンダード・フォーマットのようにカードプールが狭ければ通常は2~3色を合わせて極端な弱点がないようにデッキを作成するのがよいとされるが、全ての色を使用した5色で組むことはまずない。ただし、中には5色すべてのマナを必要とするカードや、5色デッキを推奨するようなエキスパンション、5色のマナを容易にそろえられる環境が整っているフォーマットも存在する。また、アーティファクト単(茶単)や、土地カードをメインとした土地単と呼ばれる無色メインのデッキも存在する。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "どの色にも、友好色と敵対色が設定されている。マジックのカードの裏面の模様は五芒星を暗示したものとなっており、どの色がどの色と友好関係(敵対関係)にあるかを図案化している。ある色に隣り合う2色は友好的、対辺の2色は敵対的とされている。それぞれの色は友好色を支援したり、敵対色の行動を阻害する傾向にある。ただし、ルール自体には友好色や敵対色についての特別の規定はない。かつての基本セットには大抵敵対2色を阻害するカードが収録されていたが、00年代以後はこの要素は強調されず、拡張セットラヴニカ・ギルドの都以降のセットでは、特定の2色ないし3色を1グループとし、それぞれのグループごとに特徴を持たせるというパターンも多くなるなど、友好・敵対の関係はかなり曖昧になっている。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "以下に、ルールの詳細に立ち入らない範囲で各色の特徴の一部を述べる。", "title": "カードの種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "マジックに限らずトレーディングカードゲームでは、様々な種類のカードを組み合わせて自分のデッキを構築するが、その「デッキの組み方の定石」というものがいくつか存在する。", "title": "デッキタイプ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以下に、代表的なデッキタイプの区分を示す。", "title": "デッキタイプ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一部のカードには、ゲームそのものには影響を及ぼさない、雰囲気付けのための文章(フレーバー・テキスト)が書かれていることがある。初版や黎明期には聖書やシェイクスピアなどの古典作品からの引用が多かったが、後にエキスパンションごとに小説が出版される等するようになると大部分オリジナルのものとなっていった。その一行一行に物語がこめられており、初心者プレイヤーにフレイバーテキストから物語を想像してほしいという意図がある。また、昔のセットには、アラビアンナイトや三国志演義を題材にしたものも存在する。", "title": "ストーリー・ライン" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "物語の大筋は、サイエンス・ファンタジー風の英雄譚である。基本的に物語はドミニアという多元宇宙空間で繰り広げられ、その中には多くの次元と繋がる多元宇宙の(ストーリー的な意味でも)中心であり豊富なマナを持つ「ドミナリア」、邪悪な機械文明に支配され堕落と疫病の蔓延する「ファイレクシア」、ファイレクシアの前線基地として人工的に作られた次元「ラース」、生物を含めあらゆる物が金属からなる「ミラディン」、万物に宿る「神」を崇める人々が暮らす日本風の次元「神河」などの様々な世界が存在する。それらの次元を舞台として、プレインズウォーカー(\"次元を渡る者\"の意)と呼ばれるものたちが激闘を繰り広げる。「アラーラの断片」以降は、カード化されたプレインズウォーカー達が話の中心となることが多くなった。", "title": "ストーリー・ライン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "マジックのプレーヤー自身もプレインズ・ウォーカーという設定で、新たなエキスパンションが出るということは、新たな次元での戦いが始まるということでもある。定期的に発売される基本セットにはストーリーはなく、今までの物語のダイジェスト版といった位置づけである。", "title": "ストーリー・ライン" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "各セットの枚数は、絵違いの同カードも異なる種類としてカウントしてある。また【】内は英名/公式略称。以前は2文字であったが、レギオン発売時にレジェンドと一緒になってしまうため、3文字に拡張された。", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "各セットは以下の書式で解説される。", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ひとつのセットに対して複数の構築済みデッキがシリーズ化されている", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "マジックと他作品のコラボレーションセット。", "title": "発表されたセット" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "DCI(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が設立した、Magicをはじめとするゲームの国際公式競技組織)が認定しているトーナメントを認定トーナメントと呼ぶ。WPN(ウィザーズ・プレイ・ネットワーク)協賛店舗やイベント会場で開催される。認定トーナメントの開催情報はウィザーズの公式ページ(下記)で確認できる。初級者から上級者まで段階ごとの大会形態も確立されており、世界中でトーナメントが開かれている。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "中でも、世界中からトッププレイヤーが集結して開催されるプロツアーに出場することは多くのプレイヤーの憧れであり、生活をマジックに捧げてまで世界を相手に競う若者も多かった。90年代は日本勢は良くてベスト16前後を行ったり来たりする程度であったが、2001年のプロツアー東京にて藤田剛史が日本人初のベスト8入り(準優勝)を果たしたのを皮切りに、2004年プロツアー神戸で黒田正城が初めて日本人初のプロツアー王者に輝き、2005年には世界選手権個人戦を森勝洋が制し、日本人初の世界王者となった。同時に国別対抗トーナメントでも日本代表が優勝し、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(年間MVP)を津村健志が獲得した。また2005年より、マジックの発展に貢献してきたプレイヤーの功績を称えることを目的とした「マジック・プロツアー殿堂」が創設され、有識者による投票で毎年3~5人が殿堂入していた。日本からはこれまでに、藤田剛史、中村修平、津村健志、大礒正嗣、三原槙仁、八十岡翔太が選出されている。以後20年代に至っても日本は強豪国の一角を占めている。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下は、代表的な大会であり、上位の大会は特に「プレミアイベント」と呼ばれているが、10年代半ばより制度は迷走し、流動的となっていった。競技が『MTGアリーナ』主体となったデジタル時代には改名されたり行われなくなったものも多い。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "言葉や能力の定義を厳密に定めた総合ルール(Comprehensive Rules、CR)と呼ばれるものがある。これだけで一冊の本にできるだけの情報量があるうえ、日々ルールに矛盾や問題点などがないか検討され改定され続けている。また、そのルールの理解度や大会運営の能力に応じてレベル1~5までのジャッジ資格が設けられており、大会の規模に応じて相応のレベルを持つジャッジの監督が必要である。大会全体を統括するジャッジは特に「ヘッドジャッジ」と呼ばれ、その大会におけるルール裁定の最終的な決定権をもつ。日本国内の都道府県選手権などの規模の大会のヘッドジャッジはレベル2が普通だが、日本人にもレベル3保有者が数人おり、海外で開催される大規模な大会には多くの場合日本人ジャッジが参加している。基本的にジャッジは無給だが、参加することにより専用のプロモーションカードが配布されるのである。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マジックにはフォーマットと呼ばれる幾つかのトーナメント方式があり、使えるカードセット等が異なる。 「構築戦(コンストラクテッド: constructed)」は決められたカードセットを使い、事前にデッキ(枚数60枚以上 + サイドボード15枚)を構築するもの。 「限定戦(リミテッド: limited)」はブースターパックをあけてその場でデッキ(枚数40枚以上)を組む方式である。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これ以外にも公式では無いが一定のルールが整備され、広く親しまれているフォーマットも存在する。", "title": "認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『MTG』は長い歴史に膨大な種類のカードなどから、様々な研究が続けられている。その中で、「『MTG』はチューリング完全である。」という変わった研究をしていた、ボードゲームデザイナーのアレックス・チャーチルと研究グループは、コンピュータやチューリングマシンでプレイできるようにゲームを変換し、ゲームの複雑さを定量的に測定した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "研究の結果チャーチルらは、「『MTG』が、現実に存在するゲームの中でもっとも複雑なゲームの一つである」と結論づけた。ある特定の条件下では、勝利のための最善手のアルゴリズムを導き出すことができないことが証明されたという。論文では、これを現実世界に勝利戦略の決定が計算不可能なゲームが存在することを証明する最初の結果、とまとめている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最初に報じた『MITテクノロジーレビュー』は、「全てのゲームは計算可能でなければならない」という仮定に反証した最初の現実世界のゲームだとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2014年には20世紀FOXが映画化権をHasblo社から取得していた。", "title": "映像化企画" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2019年6月には、Netflixによるアニメ化を発表。監督は『アベンジャーズ エンドゲーム』のアンソニー、ジョー・ルッソ兄弟としている。一方で、同年7月には、米国のサンディエゴ・コミコンの会場にて、ルッソ兄弟の口頭から「アニメーション企画が実写へと派生する可能性もある」と語られている。その後、2021年8月にDEADLINEが報道したところでは、制作は『トランスフォーマープライム』を手掛けたJeff Kline(英語版)による新しいチームに引き継がれたとしている。", "title": "映像化企画" } ]
マジック:ザ・ギャザリングは、米ウィザーズ・オブ・ザ・コースト(WotC)社製のトレーディングカードゲーム(TCG)。日本では、同社の日本事業部が窓口になっている。 1993年に発売された世界初のトレーディングカードゲームである。公式にはマジック、のように略され、他にもMTG、ギャザ、マジギャザなどと呼ばれる。このほか、「もっともよく遊ばれているTCG」などでもギネス世界記録に認定されている。 マジック:ザ・ギャザリングを初めとするTCGにおいては、一定の制限内で好きなようにカードを組み合わせたデッキ(山札)を各プレイヤーが用意する。さらに、多くのカードが原則を破る特殊ルール(極端な例として「ライフが0になっても敗北しない」「山札切れすると勝利する」など)を持っている。これにより、ほぼ無限に拡張され得るコレクション性と多彩かつダイナミックなゲーム展開とが両立された。 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社の創業者ピーター・アドキソンによれば、テーブルトークRPG (TRPG)のコンベンションを巡業していた経験から、その待ち時間にプレイできるファンタジー志向のゲームを意図して製作したとしている。メインデザイナーであるリチャード・ガーフィールドによれば、本作は自身が高校生の頃に考案していたゲーム"Five Magics"に原点があるという。「ルールを破るカード」というデザイン上のヒントはボードゲームの『コズミック・エンカウンター』に、土地カードのヒントは"King of the Tabletop"にあったと話している。 このゲームは発売されてから短期間の内に驚異的な人気を得て、TRPG関連の新興零細メーカーに過ぎなかったウィザーズ・オブ・ザ・コースト社を一気に成長させた。そしてその人気に触発されて多くのメーカーが次々とTCGを発売した結果、僅か数年でTCGがゲームの一ジャンルとして確立したのである。人気は他のゲームジャンル・漫画にも影響を与えた。『デュエル・マスターズ』はこのゲームのメカニクスをライセンス供与され製作された。 『ゲームナイト:フリー・フォー・オール』(Game Night: Free-for-All)という構築済みデッキとプレイに必要はサプライがパッケージになった商品をボードゲームとして販売している。付属しているカードは一般的なカードと同じであるが、ボードゲームと同じようにこれだけで遊べるゲームバランスに設計されている。
{{Infobox game | title = マジック:ザ・ギャザリング | subtitle = | image_link = Magic the Gathering - Commander.jpg | image_caption = 対戦風景 | designer = [[リチャード・ガーフィールド]] | publisher = {{flagicon|USA}} [[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]]<br />{{flagicon|Japan}} {{plainlist|[[ホビージャパン]] (1996-2005)}} {{plainlist|[[タカラトミー]] (2006-2011)}} {{plainlist|ウィザーズ・オブ・ザ・コースト・ジャパン (2012-)}} | date = 1993年8月 | genre = [[トレーディングカードゲーム]] | players = 2 - 4人 | ages = 13歳以上 | setup_time = 5 - 10分 | playing_time = 15分 - 30分程度 | random_chance = 中 (カードドロー) | website = {{URL|magic.wizards.com/ja}} }} '''マジック:ザ・ギャザリング'''({{lang-en-short|Magic: The Gathering}}、M:tG、MTG)は、[[アメリカ合衆国|米]][[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]](WotC)社製の[[トレーディングカードゲーム]](TCG)。[[日本]]では、同社の日本事業部が窓口になっている。 [[1993年]]に発売された世界初{{Refnest|group="注"|マジックと全く同時に発売された、[[スティーブ・ジャクソン (イギリスのゲームデザイナー)]]作の"''[[:en:BattleCards|BattleCards]]''"というゲームを同じく世界初とする場合もある。ただし、このゲームにはデッキ作成の要素はなく、パックから出たスクラッチ式のカードを用いて対戦するという、現在のTCGとはかなり異なるコンセプトのものであった。}}のトレーディングカードゲームである。公式には'''マジック'''、のように略され、他にも'''MTG'''、'''ギャザ'''、'''マジギャザ'''などと呼ばれる。このほか、「もっともよく遊ばれているTCG」<ref>https://guinnessworldrecords.jp/world-records/most-played-trading-card-game</ref>などでも[[ギネス世界記録]]に認定されている。 マジック:ザ・ギャザリングを初めとするTCGにおいては、一定の制限内で好きなようにカードを組み合わせたデッキ(山札)を各プレイヤーが用意する。さらに、多くのカードが原則を破る特殊ルール(極端な例として「ライフが0になっても敗北しない」「山札切れすると勝利する」など)を持っている。これにより、ほぼ無限に拡張され得るコレクション性と多彩かつダイナミックなゲーム展開とが両立された。 ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社の創業者[[ピーター・アドキソン]]によれば、[[テーブルトークRPG]] (TRPG)のコンベンションを巡業していた経験から、その待ち時間にプレイできるファンタジー志向のゲームを意図して製作したとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mtg-jp.com/reading/translated/0004045/ |title=読み物 あれから20年も |website=マジック:ザ・ギャザリング 日本公式|publisher= |accessdate=2020-5-23}}</ref>{{Refnest|group="注"|当初ガーフィールドはボードゲームの『ロボラリー』を提出したのだが、当時のウィザーズ社の体力では難しかったことから却下されたのだという<ref>{{Cite web|和書|url=https://mtg-jp.com/reading/mm/0004236/ |title=読み物 プレイのガーフィールド |website=マジック:ザ・ギャザリング 日本公式|publisher= |accessdate=2021-5-1}}</ref>。}}。メインデザイナーである[[リチャード・ガーフィールド]]によれば、本作は自身が高校生の頃に考案していたゲーム"''Five Magics''"{{Refnest|group="注"|[[:en:Lyndon Hardy|Lyndon Hardy]]のファンタジー小説、''[[:en:Master of the Five Magics|Master of the Five Magics]]'' (1980年)をゲーム化しようとしたもの。未出版。小説で扱われる魔法の種類はThaumaturgy, Alchemy, Magic, Sorcery, Wizardryの5つ。}}に原点があるという<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=eSfqLdsMK30&t=8m25s |archive-url=https://ghostarchive.org/varchive/youtube/20211215/eSfqLdsMK30 |archive-date=2021-12-15 |url-status=live|title=Extra Life Ask Wizards - Richard Garfield|last=Magic: The Gathering|date=21 September 2016|accessdate=2016-09-21|publisher=|via=YouTube}}{{cbignore}}</ref>。「ルールを破るカード」というデザイン上のヒントはボードゲームの『[[コズミック・エンカウンター]]』に<ref>{{Cite web|和書|url=https://mtg-jp.com/reading/translated/0004050/ |title=読み物 マジック:ザ・ギャザリングのはじまり |website=マジック:ザ・ギャザリング 日本公式|publisher= |accessdate=2020-5-23}}</ref>、土地カードのヒントは"''King of the Tabletop''"{{Refnest|group="注"|[[ドラゴン (雑誌)|ドラゴン]]77号(1983年9月)に収録。Desert, Forest, Plains, Mountain, Swampのチットが登場する。}}にあったと話している。 このゲームは発売されてから短期間の内に驚異的な人気を得て、[[テーブルトークRPG|TRPG]]関連の新興零細メーカーに過ぎなかったウィザーズ・オブ・ザ・コースト社を一気に成長させた。そしてその人気に触発されて多くのメーカーが次々とTCGを発売した結果、僅か数年でTCGがゲームの一ジャンルとして確立したのである。人気は他のゲームジャンル・漫画にも影響を与えた。『[[デュエル・マスターズ]]』はこのゲームのメカニクスをライセンス供与され製作された。 『ゲームナイト:フリー・フォー・オール』(Game Night: Free-for-All)という構築済みデッキとプレイに必要はサプライがパッケージになった商品を[[ボードゲーム]]として販売している。付属しているカードは一般的なカードと同じであるが、ボードゲームと同じようにこれだけで遊べるゲームバランスに設計されている。 == 基本的な遊び方 == [[File:MagicareaEnglish.png|thumb|right|ゲームの卓上セットアップ]] # 対戦方式は様々あり、多人対戦も可能だが、最もメジャーな対戦方式は1対1であり、公式戦でも多くが1対1で行われる。 # 双方のプレイヤーは、各々20点(40点等の場合もあり)のライフを持ち、60枚以上(ルールによっては40枚以上、100枚ジャスト等)のカードで事前に構築されたデッキを持ちよる。 # ダイスロール等による選択権からプレイヤーの先行・後攻を決定し、両名とも最初の手札となる7枚をドローする。所定のマリガン・ルールによりペナルティを受ける代わりに手札を引き直す事も出来る。 # 双方のプレイヤーが交互にやって来る各々の手番(ターンと呼ぶ)およびターン内に定められたフェイズ進行手順を実行することでゲームを進める。 # アンタップ・アップキープ・ドローといったフェイズの処理を自身のターンの最初に行う。先攻(オン・ザ・プレイ)は最初のドローは行えない。後攻(オン・ザ・ドロー)は最初からドローできる。 # 戦闘の前後にある2つのメイン・フェイズ(第一メイン・第二メイン)では基本的に土地カードのプレイとクリーチャー召喚他の呪文カードによって自身の盤面を展開していく。土地は基本的に各ターンに一枚しかプレイできない。その他のカードは「マナ」を支払える限り使用枚数に制限はない。 # 自分のターンでないプレイヤーも、主にインスタント呪文によって割り込み・打ち消し・干渉等を行う事が出来る。 # 戦闘フェイズでは定められた方法で自分のクリーチャーで相手を攻撃するが、そのターンに召喚されたばかりのクリーチャーは「召喚酔い」状態にあるとされ攻撃が出来ないものがほとんどである。また、直接相手のライフを減らす呪文のみで構成されているなど、クリーチャーに頼らない戦略も存在する。 # 攻撃を受けた際、自分の場のカードにより防ぎきれなかった(または、あえて防がなかった)攻撃は、その点数分のダメージをプレイヤーのライフから減らす。 # エンドステップではクリーチャーに累積したが殺すに及ばなかったダメージの消滅や8枚以上となった手札の7枚への調整が行われる。 # 以上を繰り返し、片方のプレイヤーのライフポイントが0になるか、山札を引けなくなるまで進行する。カードの効果により敗北する場合もある。また、完全なロック(行動制限)状態になるなど、明らかに勝ち目がないと判断したプレイヤーは投了を宣言することもできる。 # 「BO1(ベスト・オブ・ワン)」方式ではこの時点でマッチの勝者・敗者が決まる。「BO3(ベスト・オブ・スリー、三戦二本先取方式)」ではサイドボードからのカード入れ替えを行い再びゲームを行う。 == カードの種類 == [[File:Magic The Gathering card disection.svg|thumb|right|カードの例]] マジックのカードは、大きく'''[[土地 (マジック:ザ・ギャザリング)|土地]](Land)カード'''と'''[[呪文]](Spell)カード'''に分けられる。呪文カードは、使用形態の違いによりさらに細分化され、また効果は色(マナ)ごとにある程度偏りがあり、その色の特色が出るようになっている。 各種類のカードに定められたルール上の原則はカードの効果によって無視されることがある。例えば、通常自分のターンごとに手札から出せる土地カードは1枚までとなっているが、この制限を破るカードもある。 ; 土地(Land)カード : マジックにおいて他のカードを使うために必要な'''[[マナ]]'''という魔法力を生み出すカード。 : 土地は'''タップ'''(場札を使用すること)することで、呪文カードを使うために必要なマナを生成することができる。 : つまり、自分が場に出している土地の枚数で、各ターンに使える呪文の質や量が決まることになる。 : ※場札は自分のターンが来るたびに再び'''アンタップ'''状態(未使用状態)となる。また、余ったマナを次のターン(正確には次のフェイズ)に持ち越すことは基本的にはできない。 : 自分のターンごとに1枚の土地カードを(手札にあれば)出すことができるので、基本的にゲームが進むごとにより強力、大量に呪文が使用できるようになっていく。 : 《'''平地'''》、《'''島'''》、《'''沼'''》、《'''山'''》、《'''森'''》、《'''荒地'''》の'''基本土地'''と、特殊な用途がある基本土地でないカードがある。黎明期にはマナを生み出さない土地が存在したが、現在では基本方針としてマナを生み出す土地しか作られないようになっている。 ; 呪文(Spell)カード : 土地以外のカード。 : 自分のターンに、土地から生み出されるマナを支払うことにより手札から使用することができる。マナさえ余っていれば、何枚でも使用してもよい。 : 各呪文カードは'''白'''、'''青'''、'''黒'''、'''赤'''、'''緑'''に色分けされている。色はそれぞれ《平地》《島》《沼》《山》《森》の5種類の土地に対応しており、大抵の場合対応する土地から出るマナが必要となる。 : また、通常は色を持たない'''[[アーティファクト]]'''カードや、複数の色を持つ'''多色(マルチカラー)'''カード、複数の色で使える'''混成(ハイブリッド)'''カード、カードの左右が独立した別々の色や効果を持っていて、状況に応じて使い分ける'''分割(スプリット)'''カードなども存在する。 : 呪文カードは、'''クリーチャー'''、'''アーティファクト'''、'''エンチャント'''、'''ソーサリー'''、'''インスタント'''、'''プレインズウォーカー'''に分類される。複数のタイプを持つカードもある。 : :; クリーチャー(Creature)カード :: 「生物」の意。モンスターや人物などを表したカード。使用すると場札となり、戦闘での攻撃やブロック(迎撃)に使用できる。 :; アーティファクト(Artifact)カード :: 「人工物」の意。魔法の道具を表したカード。通常は色を持たないが、一部色を持つアーティファクトもある。使用すると場札となり、様々な効果を発揮する。 :: [[ゴーレム]]など、アーティファクトでありながらクリーチャーでもあるカードも存在する('''アーティファクト・クリーチャー''')。 :; エンチャント(Enchant)カード :: 「呪い、加護」の意で、中国語版では「結界」と訳される。持続的に続く魔法を表したカード。使用すると場札となり、様々な効果を発揮する。 :: ゲーム全体に影響を及ぼす全体エンチャント(俗称)と、場札やプレイヤーに掛かるオーラ・エンチャントに加え、拡張セット'''未来予知'''にて先行収録され'''テーロス'''にて本格導入された神々の世界の住人を表すエンチャント・クリーチャーがある。神の武器であるエンチャント・アーティファクトが追加され4種類となった。 :; ソーサリー(Sorcery)カード :: 「魔術」の意。プレイヤーが直接詠唱する魔法を表したカード。使用後は場札にならずに捨て札となる。 :; インスタント(Instant)カード :: 「即時」の意。プレイヤーが直接詠唱する魔法を表したカード。使用後は場札にならずに捨て札となる。 :: 他のカードとは違い、'''クリーチャーの戦闘中や、相手のターンでも使うことができる'''。その代わり、単体での性能はソーサリーに劣る。対戦相手の呪文や行動に対抗して使うのが最も一般的な使い方である。 :; プレインズウォーカー(Planeswalker)カード :: 「次元を渡り歩く者」の意。拡張セット、'''ローウィン'''から登場したタイプのカード。マジックの世界・ストーリー設定の根幹をなすものである。 :: プレイヤーの友軍。使用すると場札となり、プレイヤーの指示により強力な能力を発動できる。これが自軍の場札になると、以後相手プレイヤーはプレイヤーかプレインズウォーカーのどちらを狙って攻撃や呪文を仕掛けるかを選択することになる。自分のプレインズウォーカーへの攻撃も、自分への攻撃と同様に自軍のクリーチャーを使ってブロック(迎撃)することができる。 :: プレインズウォーカーにはそれぞれ'''忠誠度'''が設定されている。その能力の多くは使用することで忠誠度が上下する。忠誠度には上限はないが、プレインズウォーカーがダメージを受けると忠誠度が減っていき、忠誠度が0になると捨て札になる。 :; バトル(Battle)カード ::「戦争」の意。拡張セット、'''機械兵団の進軍'''から登場したタイプのカード。 ::使用すると場札となり、同時にプレイヤー1人を'''守る者'''として設定する。プレイヤーは自分が守っていないバトルを攻撃でき、自分が守るバトルに対する攻撃をブロックすることができる。 ::バトルにはそれぞれ'''守備値'''が設定されている。バトルがダメージを受けると守備値が減っていき、0になるとバトル固有の能力が誘発するか、能力が誘発しない場合は単に捨て札となる。 ::初登場となる機械兵団の進軍のバトルは「自分のバトルに自分が攻撃する」「戦争に勝利する(=守備値を0にする)と利益を得られる」というデザインになっている。 === 呪文カードの色 === [[File:Magic the gathering pentagon.png|thumb|right|マジックの五色の配置]] 呪文カードは色(属性)ごとに特徴が異なり、どの色を主体にデッキを組むかで戦法に大きな違いが出てくる。また、これに土地カードと呪文カードのバランスの問題が絡んだジレンマが発生するようにゲームはデザインされている。 最も基本的なデッキの形は一つの[[デッキ]]が一つの色と対応する土地のみで構成されているもの('''単色デッキ'''という)。この場合、必要な土地がドロー出来ない、逆に土地ばかりが来るといった不利な展開(総じて「'''事故'''」と呼ばれる)はあるものの、土地と呪文カードの色がマッチしない「'''色事故'''」は起こりえない。しかし、色ごとに一長一短があるので弱点ができやすい。たとえば、黒には一度設置されたエンチャント、アーティファクトを除去する方法がない。緑には飛行を持つクリーチャーがほとんど居ないなどである。 スタンダード・フォーマットのようにカードプールが狭ければ通常は2~3色を合わせて極端な弱点がないようにデッキを作成するのがよいとされるが、全ての色を使用した5色で組むことはまずない。ただし、中には5色すべてのマナを必要とするカードや、5色デッキを推奨するようなエキスパンション、5色のマナを容易にそろえられる環境が整っているフォーマットも存在する。また、アーティファクト単(茶単)や、土地カードをメインとした土地単と呼ばれる無色メインのデッキも存在する。 どの色にも、'''友好色'''と'''敵対色'''が設定されている。マジックのカードの裏面の模様は[[五芒星]]を暗示したものとなっており、どの色がどの色と友好関係(敵対関係)にあるかを図案化している。ある色に隣り合う2色は友好的、対辺の2色は敵対的とされている。それぞれの色は友好色を支援したり、敵対色の行動を阻害する傾向にある。ただし、ルール自体には友好色や敵対色についての特別の規定はない。かつての'''基本セット'''には大抵敵対2色を阻害するカードが収録されていたが、00年代以後はこの要素は強調されず、拡張セット'''ラヴニカ・ギルドの都'''以降のセットでは、特定の2色ないし3色を1グループとし、それぞれのグループごとに特徴を持たせるというパターンも多くなるなど、友好・敵対の関係はかなり曖昧になっている。 以下に、ルールの詳細に立ち入らない範囲で各色の特徴の一部を述べる。 ; 白 : 白は太陽のシンボルマークで表される。対応する土地は《'''平地/Plains'''》である。 : 正義・法・秩序・共同を体現する。理性的な青や生命を重んじる緑を友好色に持ち時には対立する両者の仲裁に入る。無秩序を好む赤と堕落を好む黒に敵対する。 : この色の呪文は、自分のライフを増やす、ダメージを軽減するなど防御に優れている。小型クリーチャーには兵士や騎士が多く、コストに比して優秀なものが多い。また大型のクリーチャーには[[天使]]などが存在する。全体としては攻撃面が弱い傾向にあるが、均質化され無駄の無いスペックは時として驚異的な攻撃力を持つ。また、中には《神の怒り》(場のクリーチャーを敵味方問わず、すべて捨て札にする)、《ハルマゲドン》(場の土地を敵味方問わず、全て捨て札にする)など、神の力を体現する(平等化する)かのような強力なカードも存在する。全体的な傾向として、率直だが小回りが利かない欠点がある。 : ; 青 : 青は水滴のシンボルマークで表される。対応する土地は《'''島/Island'''》である。 : 思考・狡猾・知識・文明を司る。秩序を重んじる白と、陰謀が得意な黒を友好色とし時には対立する両者の仲裁に入る。支配を拒む赤や統制を拒む緑と敵対する。 : この色の呪文は、カードを手札に戻す、カードを引く、相手の呪文を妨害する、相手のターンを飛ばす、ルールを一時的に変更するなど、トリッキーなものが多い。頭脳戦を楽しめる色であるが故にプレイングやルールの熟知などの高度な技術が求められ、比較的上級者向けの色ともいわれる。その分クリーチャーの性能は他の色に比べて劣るが(特に小型のもの。大型のものもデメリットが大きい傾向にある)、相手にブロックされないなど特殊能力に優れた物も多い。[[人魚]](マーフォーク)などの水中の生き物、鳥などの空の生き物、姿を変化させるものが多い。 : ; 黒 : 黒は髑髏のシンボルマークで表される。対応する土地は《'''沼/Swamp'''》である。 : 死・恐怖・堕落・邪悪を武器とする。狡猾な青と、破壊的な赤を友好色とし時には対立する両者の仲裁に入る。清廉を尊ぶ白や生命を尊ぶ緑と敵対する。 : この色の呪文は、クリーチャーを倒したり相手の手札やライフを消耗させること、墓地のカードを利用することを得意とする。クリーチャーには、[[ゾンビ]]や[[吸血鬼]]、[[デーモン]]などがある。恐怖、死、腐敗を表現しており、強力な爆発力を持つ分、多くの代償(たとえば、自分のライフ)を必要とするリスキーなカードもある。クリーチャー除去に関しては申し分ないがアーティファクトは破壊できない。かつてはエンチャントも破壊できなかったが、2019年以降はエンチャント破壊の役割も与えられた。 : ; 赤 : 赤は炎のシンボルマークで表される。対応する土地は《'''山/Mountain'''》である。 : 混沌・無秩序・衝動・憤怒を糧とする。強さを好む黒と、文明を嫌う緑を友好色とし時には対立する両者の仲裁に入る。論理的な青や保守的な白と敵対する。 : この色の呪文は、直接的な攻撃力・ダメージ呪文に優れている。クリーチャーには、[[ゴブリン]]やオーガなどの亜人や、[[ドラゴン]]などの攻撃力の高いものが多い。赤は炎や大地のイメージが強いが、中には雪崩といった氷を表現した物もある。これは雪崩がマナ発生源である山で起こるものという表現である。同じく雷も山のイメージから取り入れられている。他にも混沌をモチーフとした、ギャンブル要素が強いカードもある。クリーチャーやアーティファクトや土地など、形あるものを破壊するのは得意だが、エンチャントは破壊できない。 : ; 緑 : 緑は木のシンボルマークで表される。対応する土地は《'''森/Forest'''》である。 : 生命・自然・共同・大地を源とする。本能に忠実な赤と、共存を重んじる白を友好色とし時には対立する両者の仲裁に入る。文明を司る青や死を司る黒と敵対する。 : この色の呪文は、クリーチャーの質・量ともに豊富で、クリーチャーを支援するカードやマナを生み出すカードが多い。クリーチャーは、[[類人猿]]、[[クマ|熊]]などの森の動物や[[エルフ]]などが多い。また、ビーストなどの巨大クリーチャーも多数存在する。その代わり飛行クリーチャーが少なく、制空権を取るのは苦手とする。大地の恵み、癒し、成長を表現する一方で、《ハリケーン》など自然の猛威を表現するカードもある。作為を嫌うがゆえにアーティファクトやエンチャントを破壊するカードも豊富だが、逆にクリーチャー除去は苦手。 : ; 無色 : 厳密には「色」ではないが、便宜上ここに記す。一部対応する土地として《荒地/Wastes》がある。 : 特定の色(属性)を持たないカードは、上述の五色のどれにも属さない「無色」のカードとして扱われる。具体的には土地や大抵のアーティファクトが無色カードである{{efn2|ただしエキスパンションによっては、例外的に最初から色を持つ「有色」のアーティファクトも存在している。}}。無色カードは原則として特定のマナの色に依存や拘束されない反面、用途はごく限られる。カードの効果によって一時的に色を得たり、逆に色を持つカードが一時的に無色になったりすることもある。 == デッキタイプ == マジックに限らず[[トレーディングカードゲーム]]では、様々な種類のカードを組み合わせて自分のデッキを構築するが、その「デッキの組み方の定石」というものがいくつか存在する。 : マジックの大会では基本的に、これまで発売されてきたすべてのカードが使用できるわけではない。例えば最もポピュラーな形式である「スタンダード」では、概ね最近1~2年の間に発売されたカードのなかから自分のデッキを構築することになる。 : どのプレイヤーも勝利を狙ってくる大会では、その時期ごとに確実に「流行り」のデッキタイプがいくつか存在するのが常であり、どういったデッキが流行しているかを見極め、対応策を組み込むことも、勝利のための重要な要素といえる。TCGの世界ではこれを'''メタゲーム'''と呼ぶ。 : そのルール下であまりにも強力なデッキタイプが存在する場合、そのデッキは「トップメタ」とされ、徹底的に対策が練られたり、ゲームバランスを崩すほど深刻な事態を呈している場合は特定のカードが大会において使用禁止になる場合もある。したがって、マジックにおいては絶対的な最強というものは存在し得ない。 以下に、代表的なデッキタイプの区分を示す。 ; ビートダウン(Beatdown/Aggro) : クリーチャー・カードを中心に構成したデッキタイプ。クリーチャーによる直接攻撃で相手のライフを0にして勝つことを目的としている。 : 同じビートダウンの枠に入るデッキでも、小型クリーチャーを主体とした場合は「ウィニー(Weenie)」、赤の火力と緑の中型~大型クリーチャーを使う場合は「ステロイド(Steroid)」、中型のクリーチャーをある程度用意し、それを他のカードでサポートする「ミッドレンジ(Mid Range)」、小型クリーチャーに青の“打ち消し”呪文を加えた場合は「クロック・パーミッション(Clock Permission)」、エルフやゴブリンなど、特定のクリーチャータイプにテーマを絞って構成された場合は「部族 (Tribal)」、マナを出すクリーチャーや土地を高速で出す手段を多数組み込み、早いターンから超大型クリーチャーを呼び出す「マナランプ(Mana Ramp)」などと、主力をどこに置くかによって呼び分けられる。 : デッキの構造がシンプルな場合が多く、力押しでゲームを進められることから、初心者でも使いやすいデッキタイプといえる。 ; コントロール(Control) : すぐにライフを狙いにいくのではなく、相手の行動を阻害し、場を制圧することを重視するデッキタイプ。 : 全体的な傾向としては長期戦向けで、デッキの組み方から戦略のノウハウまで使い手の技量が要求される上級者向けのデッキといえる。 : 青の“打ち消し”呪文を多数使う「パーミッション(Permission)」や、全体除去で有利な場を作らせず、相手が疲弊した所で1体のクリーチャーで倒しにかかる「ヘビーコントロール(Heavy Control)」が主なパターン。また下記のロックもコントロールの一部と言える。 ; コンボ(Combo) : 複数のカードを組み合わせた相乗効果で、相手を撃破したり手詰まりにさせることを目的にしたデッキタイプ。中には、1ターンキル(初手1ターン目で対戦相手を倒すこと)や0ターンキル(自分のターンが来る前に対戦相手を倒すこと)が可能なデッキもある。 ; ロック(Lock) : コンボやコントロールから派生したデッキタイプ。相手プレイヤーの行動を禁止、制限するカードを中核としたデッキ。 : 青の“打ち消し”や白のダメージ軽減などで相手の動きを縛る物から、土地を破壊・タップ状態に制限する、手札に制限を与えるなどで相手のデッキを機能不全に陥らせる。 : 勝利手段も、相手のライフをゼロにするものだけではなく、デッキを全て消耗させるものや、特殊勝利条件カードを使うものなどバリエーションに富む。 ; バーン(Burn) : 赤の直接ダメージを与えるカードを中心としたデッキタイプ。クリーチャーを一切投入しないノンクリーチャータイプも珍しくない。 : 性質上、攻撃一辺倒にも見えるが、デッキ構築から適切なクリーチャーの排除や火力配分など複雑な状況判断も必要になるプレイヤーの技量が問われるデッキでもある。 ; 土地破壊(Land Destruction) : マジックにおいて最も重要なカードである'''土地'''を除去することに狙いを定めたデッキタイプ。 : 上のロックと共通点が多い。序盤から土地を除去することで相手の行動を封じ、態勢を立て直すまでの間に一気に勝負を決めるデッキと、戦況が有利になったところで土地を除去し、相手の反撃を封じるデッキとの2タイプに分かれ、前者はポンザ(Ponza)、後者は中核となるカードの名前からゲドン(《[[ハルマゲドン]]》)、ワイルドファイアなどと呼ばれる。 ; 手札破壊(Hand Disruption/Hypnotizer) : 黒の相手の手札を捨てさせるカードを中心に組んだデッキタイプ。相手の行動を封じ、態勢を立て直すまでの間に一気に勝負を決める。 : その性質上、特定のカードに依存するコンボやロックに対して強く、手札を積極的に使用するウィニーやバーンに対しては弱い。 == 用語 == ; [[マナ]](Mana) : 土地から生み出される“魔法の”エネルギー。 : '''白'''、'''青'''、'''黒'''、'''赤'''、'''緑'''の色があるマナと、'''無色'''のマナがある。 : 呪文カードやカードの能力を使うために必要。 ; スタック(Stack) : 使用を宣言された呪文が処理を待つ領域。 : ある呪文に対抗して別の呪文を使った場合、2つの呪文はスタックに置かれ、'''後から使用されたほうの効果が先に処理'''される(「後入れ先出し」「先入れ後出し」)。'''基本セット第5版'''までのルールでは'''リンボ'''と呼ばれる領域が同じような働きをしていた。 : コンピューター用語の[[スタック]]も参照の事。 ; ライブラリー(Library) : ゲーム中での残りの山札のことを指す。ライブラリーが残り0枚の状態のことを'''ライブラリーアウト'''と呼び、この状態の時にカードを引かなくてはならないタイミングが来てしまった場合、負けとなる。 : ただし、普通にゲームで遊んでいてライブラリーアウトになることはほとんどない。ライブラリーアウトを恐れてデッキ枚数を多くするよりも、なるべくデッキ枚数を少なくして切り札を引く確率を上げたほうがいい。これはライブラリーを追放しながらも望みのカードを手に入れることが出来る《Demonic Consultation》というカードの有用性からとられた「デモコン理論」という通称がある。 ; 墓地(Graveyard) : 捨て札置き場のこと。再利用が容易なため、デッキによっては手札よりもこちらが重要視される。 ; パーマネント(Permanent) : 場札のこと。クリーチャー・カードなどは、それを手札からプレイする時は呪文扱いとなり(召喚しているイメージ)、使用後場に置かれるとパーマネントとなる。<!--点数で見たマナ・コストなど、細かいルール上の話はカット。--> ; トークン(Token) : 他のカードの効果によって生み出された、カードでない場札のこと。トークンは場以外の領域(墓地や手札など)には存在できず、場を離れてしまった場合、消滅する。 ; オーナー(Owner) : カードの法律上の持ち主のこと。一般的な[[所有権]]を有する者。呪文や能力の効果により相手から奪ったカードでも、そのカードが場を離れる際(あるいはゲームが終了した際)にはオーナーに返さなくてはならない。 ; [[伝説|伝説の]](Legendary)カード : ストーリー上、特に重要な登場人物や地名などを表したカードには「伝説の」という特殊タイプが追記される。複数の同名の「伝説の」カードが場札になっている場合、プレイヤー毎に自分の場には1枚しか残せないという特別ルール('''レジェンド・ルール''')がある。その代わりにカード単体での効果は強力なものが多い。ストーリー上の同一人物であっても、カード名が違う物は何枚でも残せる。 : 拡張セット'''ミラディン'''、'''ドラゴンの迷路'''のルール改訂を経ており、消滅・対消滅の仕組みが変更された。'''ミラディン'''までの「レジェンド」というクリーチャー・タイプも、現在はオラクルの変更で特殊タイプ「伝説の」に置き換わっている。 : かつては、'''プレインズウォーカー・カード'''に対してもプレインズウォーカー・ルールというルールが適用されていたが、'''イクサラン'''発売に伴うルール変更によりレジェンド・ルールと統合された。 ; 氷雪(Snow)カード : 拡張セット'''アイスエイジ'''や'''コールドスナップ'''では'''氷雪土地'''が登場する。氷雪パーマネントから発生したマナは、一部の氷雪クリーチャーの能力などを使用するために使うことができる。ちなみにマジックにおける色は前述の5色のみであり、新たな色(雪色)が追加されたわけではない。 : なお、リミテッド戦においては、氷雪土地カードは基本土地タイプのカードと違ってパックからしか入手できない。 ; 追放領域 (Exile) : 墓地とは異なり、基本的に再利用不可能な捨て場領域。こちらにカードが置かれる場合「このカードが死亡した時~をする」などの能力が誘発されないため、この領域にカードを移動させることは、最も強力な妨害方法となる。またカードの効果によって「一時的に追放し、能力の発動後に、このカードによって追放されたカードをライブラリーの下に置く」などのカードを保留しておく領域にも使われる他、一時的に追放し、特定のタイミングで場に復帰させるという、雲隠れ的なフレーバーを持つカードも存在する。 == ストーリー・ライン == 一部のカードには、ゲームそのものには影響を及ぼさない、雰囲気付けのための文章(フレーバー・テキスト)が書かれていることがある。初版や黎明期には[[聖書]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]などの古典作品からの引用が多かったが、後にエキスパンションごとに小説が出版される等するようになると大部分オリジナルのものとなっていった。その一行一行に物語がこめられており、初心者プレイヤーにフレイバーテキストから物語を想像してほしいという意図がある。また、昔のセットには、[[アラビアンナイト]]や[[三国志演義]]を題材にしたものも存在する。 物語の大筋は、[[サイエンス・ファンタジー]]風の英雄譚である。基本的に物語はドミニアという多元宇宙空間で繰り広げられ、その中には多くの次元と繋がる多元宇宙の(ストーリー的な意味でも)中心であり豊富なマナを持つ「ドミナリア」、邪悪な機械文明に支配され堕落と疫病の蔓延する「ファイレクシア」、ファイレクシアの前線基地として人工的に作られた次元「ラース」、生物を含めあらゆる物が金属からなる「ミラディン」、万物に宿る「神」を崇める人々が暮らす日本風の次元「神河」などの様々な世界が存在する。それらの次元を舞台として、'''プレインズウォーカー'''("次元を渡る者"の意)と呼ばれるものたちが激闘を繰り広げる。「アラーラの断片」以降は、カード化されたプレインズウォーカー達が話の中心となることが多くなった。 マジックのプレーヤー自身もプレインズ・ウォーカーという設定で、新たなエキスパンションが出るということは、新たな次元での戦いが始まるということでもある。定期的に発売される基本セットにはストーリーはなく、今までの物語のダイジェスト版といった位置づけである。 == 歴史 == * 1991年、リチャード・ガーフィールドとピーター・アドキソンが出会う。ガーフィールドは[[ペンシルベニア大学]]数学科大学院の寮生と共に開発に着手<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=579CuHbgzYs |title=PV Enter the Battlefield:『アルファ版』プレイテスターの物語 |website=Youtube マジック:ザ・ギャザリング 日本公式チャンネル|publisher= |accessdate=2020-5-23}}</ref>。 * 1993年7月、アルファ版カード見本が完成し、[[オリジン・ゲーム・フェア|オリジンズ]]で初めてのデモ。8月、[[Gen Con]]で製品版を初めて発売。 * 1994年4月、'''【3ED】'''。この頃全米での流通網が確立。8月、Gen Conで初の世界選手権が開催され、Zak Dolanが優勝。このようにアメリカのゲーム業界を席巻した様子を日本の[[テーブルトークRPG|TRPG]]雑誌がレポートし、日本のゲーマーにも知られるようになる。[[ホビージャパン]]および[[角川書店]]が輸入頒布権の獲得に動く<ref>[[安田均]]『安田均のゲーム紀行 1950-2020』 [[新紀元社]], 2020. p.36 ISBN 4775318748 </ref><ref>[[佐藤辰男]]『KADOKAWAのメディアミックス全史 サブカルチャーの創造と発展』KADOKAWA, 2021, p.134 ISBN 9784048110433</ref>。 * 1995年、'''【FEM】【4ED】【ICE】【CHR】【HML】'''の大量生産により在庫過多となりシングルカード市場の価格崩壊が起こる。特に低パワーの'''【FEM】【HML】'''、再録セットの'''【CHR】'''は既存のプレイヤー層に大変不評で、この対応策としてWotCは一部のカードを対象とした「再録禁止」制度を設ける事となった。ただし、この事態は日本を含む世界規模での流通確立に寄与した面もある。 * 1996年2月よりプロツアーが開催。ほぼ時期を同じくして[[スタンダード (マジック:ザ・ギャザリング)|スタンダード(タイプ2)]]・ローテーション制が導入。 * 1996年4月、ホビージャパンが日本語版('''【4ED】'''黒枠、'''【CHR】'''黒枠)を発売。11月、[[週刊少年ジャンプ]]連載の『[[遊☆戯☆王]]』がMtGをモチーフとした「マジック&ウィザーズ」のエピソードを掲載<ref>[[高橋和希]]『遊☆戯☆王』第9話・第10話 「牙を持つカード (前・後編)」 [[集英社]], コミック版2巻 {{ISBN2|4088723120}}, 文庫版1巻 {{ISBN2|4086185741}}</ref>。日本の小中学生へプレイヤー層が広がる。 * 1997年3月、'''【5ED】'''。この頃日本での販売量がピークを迎える。11月、並行輸入品(海外版パック)を扱う業者へ圧力をかけていたため、ホビージャパンが[[独占禁止法]]勧告を受ける<ref>公取委 平成9年11月28日勧告審決、 平成9年(勧)第14号、https://www.jftc.go.jp/info/nenpou/h09/02020002.html</ref>。海外版と日本語版パックの価格差は以後も存在し、最終的解消には00年代半ばまで掛かった。 * 1998年10月、「[[コンボの冬]]」によるゲームバランス崩壊。カード開発者のマーク・ローズウォーターはアドキソンの社長室へ呼び出しを受け、次の'''【MMQ】'''ブロックでのパワーダウンを招いた。 * 1999年8月、世界選手権が日本の[[パシフィコ横浜]]で開催(World Championships 1999)。アメリカ国外で初めて開催された世界選手権となる。 * 1999年9月、[[ハズブロ]]がWotCを買収、親会社となる。 * 2001年6月、'''【APC】'''。対抗色ペインランドの封入により人気となるが、これ以後日本ではヒットが出ず、長期に渡って人気は低迷する。 * 2002年6月、デジタル版『MTGO』サービス開始。 * 2005年~2009年、「プレイヤー・オブ・ザ・イヤー」のタイトルをそれぞれ津村健志、八十岡翔太、齋藤友晴、中村修平、渡辺雄也が獲得。日本人プレイヤーが席巻する。 * 2005年2月、'''【BOK】'''。ホビージャパンの撤退が決定し[[タカラトミー]]への業務移管が開始。2006年5月、'''【DIS】'''で移管完了。 * 2010年11月、齋藤友晴がチート行為により殿堂入り取り消し<ref>『[[GAME JAPAN]] 2011年2月号』 ホビージャパン p.39</ref>。 * 2012年5月、'''【AVR】'''。タカラトミーも撤退し、WotC Japanが代理店となる。 * 2011年11月、[[モダン (マジック:ザ・ギャザリング)|モダン・フォーマット]]の制定。これを契機に翌2012年'''【RTR】'''(ショックランド再録)から2014年'''【KTK】'''(フェッチランド再録)、2015年'''【BFZ】'''(各種高額土地カードの特別封入)にかけて徐々に人気回復が起こるが、土地以外のフォーマット頻出カードは日本国内流通量の少なさからシングル価格が海外比で3割から5割程度高いという状況は改善されず、決定打とはならなかった。また、この頃には日本のプレイヤー層は完全に社会人が中心となっていた。 * 2011年、'''【CMD】'''。カジュアル・多人数対戦の[[統率者戦]]が公認フォーマットとなる。'''【C13】'''以後毎年構築済みセットが発売され、10年代後半には北米での人気No.1フォーマットの地位を確立。このため、スタンダードセットにも統率者戦を意識してデザインされたカードが多く混入されるようになった。一方、日本での人気獲得は進まず、20年代に入ってもスタンダードが優勢。 * 2017年11月、デジタル版『MTGアリーナ』がサービス開始。以後プロ競技・賞金制度も徐々にこのプラットフォーム上で行われるものが主となっていく。 * 2019年4月、渡辺雄也がチート行為により殿堂入り剥奪<ref>{{Cite web|和書|title=4Gamer.net 「マジック:ザ・ギャザリング」で,今何が起こっているのか。プロプレイヤー・渡辺選手の追放処分から,競技シーンの未来を考える|url=https://www.4gamer.net/games/136/G013687/20190516136/|author=瀬尾亜沙子|date=2019-05-28|accessdate=2022-03-19}}</ref>。 * 2019年10月、[[パイオニア (マジック:ザ・ギャザリング)|パイオニア]]・フォーマットの制定。『MTGアリーナ』との統合は行われない紙フォーマットだが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナ]]・[[パンデミック]]の影響で大きな大会での採用や人気獲得は今後次第である。 * 2019年10月'''【ELD】'''コレクター・ブースターの平行発売、2020年9月'''【ZNR】'''セット・ブースターの平行発売。フルアート、別アートやコラボ物等の特別仕様カード乱発の時代へ。 == 発表されたセット == {{Timeline of release years | title = Magic: the Gathering Standard sets | subtitle = 緑系:旧枠, 黄系:新枠, 赤系:新々枠 | range1 = 1993 - 2003 | range1_color = #0BDA51 #228B22 | range2 = 2004 - 2014 | range2_color = Gold Goldenrod | range3 = 2015- | range3_color = Pink Red | 1993 = LEA, LEB, ARN, 2ED<br/>(日版無し) | 1994 = 3ED, ATQ, LEG, DRK, FEM<br/>(日版無し) | 1995 = 4ED(→日1996), ICE(日版無し),<br/>CHR(→日1996), HML(日版無し) | 1996 = ALL(日版無し), MIR | 1997 = VIS, 5ED, WTH, TMP | 1998 = STH, EXO, USG | 1999 = ULG, 6ED, UDS, MMQ | 2000 = NEM, PCY, INV | 2001 = PLS, 7ED, APC, ODY | 2002 = TOR, JUD, ONS | 2003 = LGN, SCG, 8ED(以後新枠), MRD | 2004 = DST, 5DN, CHK | 2005 = BOK, SOK, 9ED, RAV | 2006 = GPT, DIS, CSP, TSP | 2007 = PLC, FUT, 10E, LRW | 2008 = MOR, SHM, EVE, ALA | 2009 = CON, ARB, M10, ZEN | 2010 = WWK, ROE, M11, SOM | 2011 = MBS, NPH, M12, ISD | 2012 = DKA, AVR, M13, RTR | 2013 = DGM, GTC, M14, THS | 2014 = BNG, JOU, M15(以後新々枠), KTK | 2015 = FRF, DTK, ORI, BFZ | 2016 = OGW, SOI, EMN, KLD | 2017 = AER, AKH, HOU, XLN | 2018 = RIX, DOM, M19, GRN | 2019 = RNA, WAR, M20, ELD | 2020 = THB, IKO, M21, ZNR | 2021 = KHM, STX, AFR, MID, VOW | 2022 = NEO, SNC, DMU, BRO | 2023 = ONE, MOM, MAT, WOE, LCI ... }} 各セットの枚数は、絵違いの同カードも異なる種類としてカウントしてある。また【】内は英名/公式略称。以前は2文字であったが、レギオン発売時にレジェンドと一緒になってしまうため、3文字に拡張された。 各セットは以下の書式で解説される。 *; セット名【原題/略称】(発売時期/入っているカードの種類数(基本土地を含む)) *: 解説 === 基本セット === ; [[アルファ (マジック:ザ・ギャザリング)|アルファ]]【Limited Edition Alpha/LEA】(1993年8月発売/全295種類) : 限定版(初版)第一刷。世界初のトレーディングカードゲームとなったセット。6か月で売る予定だった100万枚が、わずか6週間で売り切れた。他のセットとカードの形が少し違う(角の部分が少し丸っこい)ため、使用時には不透明なスリーブに納めるか、アルファのカードのみで構築しなければならない。この時期はゲームとしての調整が十分になされておらず、[[パワー・ナイン|パワー9]]をはじめとする一部の超強力カードと、その他多くの弱いカードの両極端というバランスの良くないセットだった{{efn2|収録されたカードから、単に同じ数値であれば同等の強さであると見做されていた形跡があり、当時は開発スタッフもリソースやアドバンテージについての概念そのものを十分に認知していなかった。}}。 ; [[ベータ (マジック:ザ・ギャザリング)|ベータ]]【Limited Edition Beta/LEB】(1993年10月発売/全302種類) : 限定版(初版)第二刷。アルファにカード7枚(入れ忘れていた2枚と、イラスト違いの基本土地5枚)を追加し、カードの形状を若干変えて発売。アルファとベータを合わせて「リミテッド・エディション」(Limited Edition、限定版の意味)と呼ぶ。 ; [[アンリミテッド (マジック:ザ・ギャザリング)|アンリミテッド]] 【Unlimited Edition/2ED】(1993年11月発売/全302種類) : 限定解除版(第2版)。限定版だったベータを非限定版として発売したもので、カード内容はベータと同一。違いはカード表の外枠の色で、限定版であるベータは黒枠、限定解除版であるアンリミテッドでは白枠となっている。「アンリミテッド」は「非限定」の意味。 : 黒枠のカードは限定品を意味しており、以降のセットにおいても、上級エキスパンションやその言語で初めて発売される基本セットは黒枠で発売されている。 ; [[リバイズド]]【Revised Edition/3ED】(1994年4月発売/全306種類) : 改訂版(第3版)。それまでに発売された拡張セットと併せて「基本」に相応しいカードのみを取捨選択、初めてカード内容の入れ替えを行った。日本に輸入され始める。「リバイズド」は「改定」の意味。 : リバイズドと第4版の間にエドガー(Edger)もしくはSummer Magicと呼ばれる「改訂版リバイズド」が準備されていたが、印刷エラーが多発し、少数を除いて販売されることはなかった。現在では高額で取引されるコレクターズ・アイテムとなっている。 ; [[第4版 (マジック:ザ・ギャザリング)|第4版]]【4ED】(1995年4月発売/全378種類) : 邦訳された最初の版。日本語版としては初版になるため、黒枠の限定版と白枠の限定解除版の二種類が発売された。限定版(黒枠)は海外からのプレイヤーに人気が高く、トレードの対象となった。後にリリースされた限定解除版(白枠)の印刷量は限定版(黒枠)のそれより少なくなっている。 :; クロニクル【CHR】(1995年9月発売/全125種類) :: 第4版の一部として発売。それまでに発売された拡張セットから、人気の高いカードを第4版に追加する形で発売された。再録対象セットはアラビアンナイト、アンティキティ、レジェンド、ザ・ダーク。日本語版は黒枠のみ発売された。 ; [[第5版 (マジック:ザ・ギャザリング)|第5版]]【5ED】(1997年3月発売/全449種類) : 一部のカードのイラストが変わる。第4版とクロニクルの補完という意味も含め、収録されているカードが最も多い。 ; [[第6版 (マジック:ザ・ギャザリング)|第6版]]:クラシック【6ED】(1999年4月発売/全350種類) : 発売時、大きくルールが変わった。特に煩雑なルールや誤解を招きやすいルールについて、大幅に簡便化された。日本語版ではカード名の[[書体]]が変更された。基本セットにもエキスパンションシンボルが付き、レアリティが判別できるようになった。また基本セットのカードにコレクターナンバーが付いたのもこのセットからである。初版の黒枠版が存在する。基本セットでは唯一のサブタイトルが付いているセット。 ; [[第7版 (マジック:ザ・ギャザリング)|第7版]]【7ED】(2001年4月発売/全350種類) : 全カードのイラストが変更された。基本セットでは初めて黒枠のフォイルカードが同梱されるようになった。ブースター1パックに1枚土地が同梱されるようになった。 ; 第8版【8ED】(2003年7月発売/全357種類) : カードのデザインが一新された。また'''マジック'''10周年を記念して過去に登場した全ての拡張セットや入門セットから最低でも1枚は再録する方針を採った。そして第8版からは再録されるカードの1部やイラストなどをユーザーが選ぶ企画がスタートした。 ; 第9版【9ED】(2005年7月発売/全359種類) : クリーチャー・タイプやエンチャント呪文の表記が大きく変更された。このセットからロシア語版が発売されるようになった。初の基本セットであるためロシア語版は黒枠となっている。事実上白枠で発売された最後のセットである。 ; 第10版【10E】(2007年7月発売/全383種類) : 伝説のクリーチャー・カードが初めて再録された。2008年のマジック生誕15周年を記念して黒枠で印刷された。 ; 基本セット2010【Magic 2010 Core Set/M10】(2009年7月発売/全249種類) : 名称が「第○版」から「基本セット(発売年の翌年)」という名称になり、基本セットの発売間隔が約2年から1年に変更された。このセット以降、基本セットも黒枠で発売されることとなる。 : 基本セットは過去のカードの再録で構成するという制限を廃止し、約半分のカードが新規で製作された。ただしそのうちの約半分はフレーバーを統一するため、同じ内容のカードを別名で収録した物となっている。 : このセットの発売から、同時マリガンやマナバーンの廃止等、マジックの基本的なルールがいくつか変更された。 : 2008年から導入された神話レアが基本セットにも封入されるようになり、ローウィンブロックで初登場したプレインズウォーカー・カードが収録されている。 ; 基本セット2011【Magic 2011 Core Set/M11】(2010年7月発売/全249種類) : 基本セット2010と同様に約半数が新規カードである。また若干ルール変更が行われた。この年から過去のエキスパンションの能力をゲストとして再登場させる事となった。 ; 基本セット2012【Magic 2012 Core Set/M12】(2011年7月発売/全249種類) : 一部の能力がキーワード能力として制定された。また、ごく一部のルールがよりイメージに則した表現へと変更された。 ; 基本セット2013【Magic 2013 Core Set/M13】(2012年7月発売/全249種類) : 基本セットでありながら、前エキスパンションであるイニストラード・ブロックや後エキスパンションと予告されていたラヴニカへの回帰のフレーバーが取り込まれている。 : 直前に発売された''Duels of The Planeswalkers 2013''に一部のカードが先行収録されており、同作のラスボスを務めた《プレインズウォーカー、ニコル・ボーラス》がその中でも目玉とされ、基本セット初の多色カードとして再収録された(初出は'''コンフラックス''')。同時にリミテッドエディション・アルファから唯一収録され続けていた土地以外のカード《大蜘蛛/Giant Spider》がついに未収録となるなど、その他にも再収録されて当然というカードが次々と未収録となる。能力起動にカードと異なる色のマナを要求されるなど、今までの基本セットとは趣が異なるセットとなった。 ; 基本セット2014【Magic 2014 Core Set/M14】(2013年7月発売/全249種類) : 昨年とは異なり、《大蜘蛛/Giant Spider》を始めとした定番カードが組み込まれ、スタンダードなカードが多数収録された。基本セット2010から収録されていた2色土地やフェッチランドが収録されず、多色化は難しい。ゲスト能力にスリヴァーが選ばれたが、今までのスリヴァーとは違い、自分の場だけを参照するようになっている。 : 基本セット2010以来の大規模なルール変更が実施される。主な物はサイドボードとの入れ替えルールの変更とレジェンド&プレインズウォーカールールの変更。伝説のクリーチャーの対消滅やプレインズウォーカーの対消滅が出来なくなり、逆に攻撃不能オーラを使った疑似除去に対抗出来るようになるなど、デッキ構築レベルでの変更が期待される。 ; 基本セット2015【Magic 2015 Core Set/M15】(2014年7月発売/全269枚) : 基本セット初の新規多色カードとして緑黒の《捕食者ガラク》が収録となった、各単色にもプレインズウォーカーが収録されたため、M13同様にプレインズウォーカーカードは6枚収録となっている。予告画像や''Duels of Plainswalkers 2015''からガラクがフィーチャーされるとは前々から告知されていたが、基本セットで新規多色となったことには驚きがあった。 : ゲストメカニズムは'''ラヴニカ:ギルドの都'''より「召集」がチョイス、登場時は白緑のセレズニア固有メカニズムであったが、今回は5色に拡張された。同時にスリヴァーも再収録され、基本セット初の5色カードとして《巣主スリヴァー》が新規収録されている(今までの最多は3色の《プレインズウォーカー、ニコル・ボーラス》)。 : 基本セット2013の友好2色サイクルの対面側(M13では白→緑→赤→黒→青→白で、矢印の手前がカード色、奥が能力起動に必要なマナ。今作は白→青→黒→赤→緑→白)が制作されつつも、用意された多色地形は敵対2色の5枚サイクルと、次のセットを見据えてかミスマッチが起こっている。 : Duelsのストーリーにあわせ、今作のコンセプトは次元大集合となっており、過去発売されたセットの次元に居た伝説のクリーチャーや、魂と呼ばれるその次元の特徴を持った巨大クリーチャーが登場している。 ; マジック・オリジン【Magic Origins/ORI】(2014年7月発売/全272枚) : 最後の基本セットとして作られたセット。ただしこの方針は後に撤回され、新たな基本セットが作られている。 : 収録された5人のプレインズウォーカーの起源がテーマ。各プレインズウォーカーの故郷の次元5つと彼らが最初にプレインズウォークした次元5つ、合計10の次元が各2色に振り分けられている。 : 新規のメカニズムとして「高名」「威迫」「魔巧」が登場、同時にメカニズムの整理も行われ、「威嚇」「土地渡り」が退場し、「果敢」「占術」「威迫」が常用のメカニズムとなる。 : また、プレインズウォーカーへの覚醒を表すメカニズムとして'''イニストラード'''より「両面カード」が再登場。最初はクリーチャーだが条件を満たすことでプレインズウォーカーに「変身」する。 ; 基本セット2019【Core Set 2019/M19】(2018年7月13日発売/全280+34枚) : 基本セットを廃止したことによる問題が顕在化したため、方針を転換して復活した基本セット。 : 新規メカニズムや再録メカニズムは存在せず、常用のメカニズムのみ登場するなど「初心者向け」としての側面が強くなっている。 ; 基本セット2020【Core Set 2020/M20】(2019年7月12日発売/全280+64枚) : 初心者向けの方針を踏襲しつつ、チャンドラ・ナラーに焦点が当たっている。 ; 基本セット2021【Core Set 2021/M21】(2020年7月3日発売/全274+123枚) : テフェリーに焦点が当たり、彼の時間魔術という設定で、フェイズ・アウトを扱うカードが再登場した。 === 拡張セット === ; アラビアンナイト【Arabian Nights/ARN】(1993年12月発売/全92種類) : [[アラビアンナイト]]を基にした、ラバイア(Rabiah)と呼ばれる次元が舞台。 : 当初はカードの裏で基本セットとこのセットの違いが分かるようになっていたが、最終決定時刻数分前に同じ柄とされ、今後の方向性が決定されたセット。 ; アンティキティー【Antiquities/ATQ】(1994年3月発売/全100種類) : 後のプレインズウォーカー、ウルザとミシュラがドミナリアで繰り広げた“兄弟戦争”がテーマ。アーティファクト関連のカードが多い。時代はAR0~64年。 ; レジェンド【Legends/LEG】(1994年6月発売/全310種類) : 初めて伝説のカードが登場したセット。伝説のカードは全て多色ではあるが、カードパワーに問題がある物が多かった。 ; ザ・ダーク【The Dark/DRK】(1994年8月発売/全119種類) : 兄弟戦争の後に訪れた暗黒時代がテーマ。時代はAR300年頃。墓地(捨て札)を利用するカードが多い。また、通常のカードセットとは逆に、アーティストが描いたイラストを元に効果や能力を設定したカードが多いのも特徴。 ; フォールンエンパイア【Fallen Empires/FEM】(1994年11月発売/全187種類) : 暗黒時代と同時期に起きた南方のサーペイディア諸帝国の滅亡を描いたセット。時代はAR170年頃。 ; ホームランド【Homelands/HML】(1995年10月発売/全140種類) : 次元ウルグローサを舞台にしたセット。時代はAR3800~4130年。公式で度々弱いセット、最弱セット候補と言われるが、感動的な背景ストーリーは人気が高い。 : ブロック制度導入でアイスエイジ・ブロックの一つに組み込まれたが、コールドスナップの発売と同時にブロックから外され、単体の独立セットと定義しなおされた。 ; アイスエイジ【Ice Age/ICE】(1995年6月発売/全383種類) : 基本セットなしでも遊べる最初の独立(スタンドアローン)型拡張セット。ドミナリアの氷河期が舞台。時代はAR450~2930年頃。 :; アライアンス【Alliances/ALL】(1996年6月発売/全144種類) :: 氷河期末期の各勢力が同盟し合っていた頃のドミナリアが舞台のセット。時代はAR2950年頃。 :; コールドスナップ【Coldsnap/CSP】(2006年7月21日発売/全155種類) :: アライアンスのその後を描いたセット。アイスエイジ・アライアンスとの共通性に乏しいホームランドに代わるセットとして、アライアンスから10年後に発売された。過去のブロックではあるが、基本セット第8版以降のデザイン(通称新枠)が採用されており、[[モダン (マジック:ザ・ギャザリング)|モダン]]での使用も可能。 :: このセットに含まれるテーマデッキではアイスエイジ・アライアンスに含まれていたカードが、新枠にて再録されているが、コールドスナップのカードでなく、アイスエイジ・アライアンスのカードと見なされるため、モダンでの使用は不可となっている。 :: 小型エキスパンションではあるが、リミテッド戦では、他の2つのブースター・パックが入手困難なため、コールドスナップのみで行われる。 : ; ミラージュ【Mirage/MIR】(1996年10月発売/全350種類) : 南方の世界が舞台。時代はAR4150~4196年。2番目の独立型拡張セット。以降、独立型拡張セット1つ+小型拡張セット2つを、共通する1つのテーマを持つ「ブロック」とみなし、1年周期で発売する形式が確立。このセットから邦訳されるようになった。 :; ビジョンズ【Visions/VIS】(1997年3月発売/全167種類) :: 南方の大陸、ジャムーラで起こった戦乱が題材になっている。時代はAR4150~4196年。 :; ウェザーライト【Weatherlight/WTH】(1997年6月発売/全167種類) :: 今まで登場したドミナリアの各地域をめぐるセット。元々はミラージュとビジョンズで、アイスエイジとアライアンスのような前後編制としていたが、3エキスパンションを1つのブロックとして扱う制度が誕生したため急遽ミラージュ・ブロックに組み込まれた。そのためストーリー的にはミラージュ・ブロックの最後ではなく、アポカリプスまで続く[[ウェザーライト・サーガ]]の序章となっている。時代はAR4204年。 : ; テンペスト【Tempest/TMP】(1997年10月発売/全350種類) : ウェザーライト号が人工次元ラースへ突入する話が題材になっている。時代はAR4205年。 :; ストロングホールド【Stronghold/STH】(1998年2月発売/全143種類) :: ウェザーライト号一行のラースでの戦いがテーマ。時代はAR4205年。史上初の5色のカード、《スリヴァーの女王》が登場した。 :; エクソダス【Exodus/EXO】(1998年6月発売/全143種類) :: ウェザーライト号のラース脱出が題材。時代はAR4205年。金・銀・黒と色のエキスパンションシンボルでレアリティが判別できるようになり、コレクター・ナンバーが付くようになった。 : ; ウルザズ・サーガ【Urza's Saga/USG】(1998年10月発売/全350種類) : その名通り兄弟戦争後のウルザの半生をつづった「ウルザブロック」の第1弾。時代はAR65~3346年。全エキスパンション中でも特に強力な部類に入り、禁止カードが続出した。日本語版の字体が唐風隷書体になった。 :; ウルザズ・レガシー【Urza's Legacy\ULG】(1999年2月発売/全143種類) :: 「ウルザブロック」第2弾。時代はAR3346~3360年。一定の割合でプレミアムカードが封入されるようになったのはこのセットから。 :; ウルザズ・デスティニー【Urza's Destiny/UDS】(1999年6月発売/全143種類) :: 「ウルザブロック」完結編である第3弾。時代はAR3360~4179年。クリーチャー表記が“~の召喚”から“クリーチャー-~”に変更された。 :: 禁止カードが多いエキスパンションとして有名。 : ; メルカディアン・マスクス【Mercadian Masques/MMQ】(1999年10月発売/全350種類) : ラースを脱したウェザーライト号が訪れたメルカディア地方が舞台。時代はAR4205年。スペルシェイパーが登場。リシャーダの港によるマナ拘束が強烈だったため、多色デッキがほぼ絶滅に追い込まれた。 :; ネメシス【Nemesis/NEM】(2000年2月発売/全143種類) :: ウェザーライト号が脱出した後のラースが舞台。時代はAR4205年。初めて小型エキスパンションにて新たな能力を持つカードが収録された。 :; プロフェシー【Prophecy/PCY】(2000年6月発売/全143種類) :: ウェザーライト号がラースに向かった頃から脱出した頃のドミナリアが舞台。時代はAR4205年。カードレベルが極端に低く、紙束の代名詞として有名。 : ; インベイジョン【Invasion/INV】(2000年10月4日発売/全350種類) : ファイレクシア軍によるドミナリア侵攻が始まり、ドミナリアではそれに対抗するために連合軍が結成される。時代はAR4205年。このブロックからセットごとのコンセプトが明確に示されるようになった。インベイジョン・ブロックでは異色間の連携がコンセプトとなる。多色呪文や自分が持つ土地の種類を参照するカードが登場し、多色化の時代を迎えた。 :; プレーンシフト【Planeshift/PLS】(2001年2月7日発売/全143種類) :: ファイレクシア軍が、自分達が住む世界「ラース」を「ドミナリア」に衝突させる次元被覆計画を発動。時代はAR4205年。場に出る時に自分の場札を次元の挟間に巻き込み、手札に戻す「開門」能力や、追加で別の色のマナを支払うと追加効果が得られるカードが登場。 :; アポカリプス【Apocalypse/APC】(2001年6月6日発売/全143種類) :: 敵対色がテーマとなり、久しぶりに敵対色の多色呪文が登場。ウェザーライト・サーガもここで一旦終焉を迎える。時代はAR4205年。 : ; オデッセイ【Odyssey/ODY】(2001年10月1日発売/全350種類) : アポカリプスから約100年後のドミナリアが舞台。「フラッシュバック」呪文や「スレッショルド」など、墓地のカードを活用するシステムが数多く登場。 :; トーメント【Torment/TOR】(2002年2月1日発売/全143種類) :: 黒のカードが極めて多く、白と緑のカードが極端に少ないエキスパンション。 :; ジャッジメント【Judgment/JUD】(2002年5月24日発売/全143種類) :: トーメントとは逆に白と緑のカードが多く、黒のカードが少ないエキスパンション。 : ; オンスロート【Onslaught/ONS】(2002年10月5日発売/全350種類) : これまでにないほどクリーチャー・タイプを意識したエキスパンション。また裏向きで登場する「変異」クリーチャーも登場。 :; レギオン【Legions/LGN】(2003年2月1日発売/全145種類) :: クリーチャーしか入っていないエキスパンション。誘発型能力によりインスタント呪文のような効果を発揮するクリーチャーが多い。フォイルカードの封入率が1/100から1/70に変更された。翻訳文体が口語風に小変更された。 :; スカージ【Scourge/SCG】(2003年5月24日発売/全143種類) :: ドラゴンなど、コストが高い呪文に関するカードを多く収録。またヴィンテージ環境を荒らした「ストーム」呪文も登場。これ以降、舞台はドミナリアを離れる。 : ; ミラディン【Mirrodin/MRD】(2003年10月3日発売/全306種類) :: 金属生命体とアーティファクトが棲む金属世界、ミラディンが舞台。カードのレイアウトが大幅に変更され、クリーチャーの種族等も再分類された。パッケージのロゴが英字から片仮名に変更。このエキスパンションから、第1エキスパンションが舞台となる次元の名前になった(ただし時のらせんのみ事件名)。 :: アーティファクトがテーマのセットで、非常に多くのアーティファクト・カードが収録された。そうでないカードもほとんどがアーティファクトに関連する効果を持つ。 :: 史上最多の禁止カードを生み出したエキスパンションでもある。 :; ダークスティール【Darksteel/DST】(2004年2月6日発売/全165種類) :: ダークスティールという金属で作られた「破壊されない」アーティファクトが登場。 :: ミラディンから変更されたカードレイアウトにて、アーティファクトの銀色が白のカードと間違えやすいため、若干暗い色へと変更された。 :; フィフス・ドーン【Fifth Dawn/5DN】(2004年6月4日発売/全165種類) :: 緑の太陽の封印が解け、ミラディンに五つの人工太陽が揃った。五色デッキで使うことを推奨するカードが多い。 : ; 神河物語【Champions of Kamigawa/CHK】(2004年10月1日発売/全306種類) :: 神と人とが調和する『[[もののけ姫]]』のような中世日本風の世界、神河が舞台。開発部も「多くの日本の映画を参考にさせてもらった」と明言しており、その中に『もののけ姫』の名前も挙がっていた。 :: テーマは「伝説」。事実、数多くのレジェンド・(伝説の)クリーチャーが封入され、レジェンド・ルールの変更が行われた。多くのカードが日本の民間伝承を元に作られており、「神」の名を冠したクリーチャーが多いのも特徴。新能力として「武士道」「転生」「反転」「連繋(秘儀)」が登場した。 :: フレイバー要素を重視したトップデザイン手法をブロック全体に適用した初めてのセットである。メカニズムがこじつけめいたものになったことや、デザインの基礎部分に多くのプレイヤーに馴染みのない要素を使用したため不評となった。デザイン面で失敗と評価され、しばらくの間、メカニズム重視のデザインが続いた。後に、ゴシックホラーをテーマとするイニストラードブロックや、ギリシア神話をテーマとするテーロスブロックで神河物語の反省を生かしたトップデザインが行われた<ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/0008492/ 神啓を受けて その1] 2017年12月12日閲覧</ref><ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/0008604/ 神啓を受けて その2] 2017年12月12日閲覧</ref><ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/023611/ テーロス、それは赤き者(とか白とか青とか黒とか緑とか) その1] 2017年12月12日閲覧</ref>。 :; 神河謀叛【Betrayers of Kamigawa/BOK】(2005年2月4日発売/全165種類) :: 浪人'''梅澤敏郎'''達の活躍によって、神々が人々に牙を剥いた原因が明らかになる。神河の最高神「大口縄(オオカガチ)」の卵が、不老不死の力を欲する人間によって奪われた事がその発端だった。 :: 新能力「忍術」を持つ忍者カードが登場。また神河物語に引き続きスピリット([[八百万の神]])カードも多く登場した。 :; 神河救済【Saviors of Kamigawa/SOK】(2005年6月3日発売/全165種類) :: 自分の場札を手札に戻す能力や、手札の枚数を参照するカードが多数登場。全カード中75枚が伝説のカードと、全エキスパンション中最多の伝説率である。 : ; ラヴニカ:ギルドの都【Ravnica: City of Guilds/RAV】(2005年10月7日発売/全306種類) : 10のギルドが支配する、世界全体が都市に覆われたラヴニカが舞台。 : 2色の組み合わせによる多色がテーマで、このセットでは緑白、青黒、赤白、黒緑のカードを収録。残りの組み合わせは次の2つのセットで登場。マジックの大会においてはインベイジョン以来となる多色時代が訪れた。 : 今まで友好色、対抗色と区別されていた色の組み合わせを廃し、どの2色も等しく扱うというコンセプトのため、これ以前の環境の補助に役立った。 : またこのセットでは、新しい多色カードの形式として'''混成'''カードが初登場した。緑白の混成カードは緑と白の両方の属性を持ち、緑のデッキでも白のデッキでも使う事ができる。 : 2色を1つのギルドとし、そのギルドごとに能力を割り振ったため、エキスパンションをまたいで収録されるキーワード能力が存在しないのが特徴。 :; ギルドパクト【Guildpact/GPT】(2006年2月3日発売/全165種類) :: 青赤、赤緑、白黒のカードを収録。前作から12年後のラヴニカが舞台。初の4色サイクル、[[ネフィリム]]も登場。 :; ディセンション【Dissension/DIS】(2006年5月5日発売/全180種類) :: 白青、黒赤、緑青のカードを収録。両方の半分が多色のカードである分割カードが登場。発売元がタカラトミーとなる最初のエキスパンションでもある。 : ; 時のらせん(タイム・スパイラル)【Time Spiral/TSP】(2006年10月6日発売/全301種類) :: 長年にわたるプレインズウォーカー(プレイヤーも含む)たちの魔法乱用の影響を受け、ついに時空が歪み始めてしまったドミナリアが舞台。テーマである「時間」に関する新能力(待機、刹那)や、過去に登場したことがあるキーワード能力が再登場したり、過去のストーリーに登場しながらも今までカード化されなかった人物がカード化された。あまりにキーワード能力が多いので初心者が手をつけるには少々厄介な側面もある。 :: また、過去からの''タイムシフト・カード''が1パックにつき1枚同封されている。 :; 次元の混乱(プレナー・カオス)【Planar Chaos/PLC】(2007年2月2日発売/全165種類) :: 多元世界の混乱は止まらず、ドミナリア自体が、異なる歴史をたどった別のドミナリア([[パラレルワールド]])と融合してしまう。 :: 色の得意分野から外れた能力を持つカードが多く、「もう一つのマジック」という感覚で楽しむことができる。 :; 未来予知(フューチャー・サイト)【Future Sight/FUT】(2007年5月4日発売/全180種類) :: ドミナリアの各所で“可能性の未来”が顕現し始めた。次元崩壊の進行をくい止めるために多くのプレインズウォーカーが命を落とす。 :: テーマは「未来」。今後発売予定のセットで登場する(かもしれない)新しい能力や、まだ見ぬ世界の地名を冠したカードが登場。 :; タイムシフト【Time Shifted/TSB】(時のらせん、次元の混乱、未来予知に同封) :: 時のらせんでは、アルファ~スカージまでに登場したカードを再収録。時のらせん1パックにつき1枚封入されている。カード・デザインも昔のものを再現。レアリティを表すエキスパンションシンボルの色は紫。全121種類。 :: 次元の混乱では、かつて登場したカードを別の色に属するカードとして復刻した、新タイムシフトカードを収録。新タイムシフトは1パックにコモン3枚、アンコモンかレアが1枚入っており、カードデザインも従来のものとは異なる。パック全体としては1枚のレア、2枚のアンコモン、8枚のコモン、4枚の新タイムシフトカードを収録。全45種類。次元の混乱の全165種類に含まれる。 :: 未来予知では、今後発売予定のセットで扱う(扱うかもしれない)新しい能力を持ったカードが登場。カードデザインも従来のものとは大分異なる。全81種類。未来予知の全180種類に含まれ、他のカードと同じ頻度で入っている。 : ; ローウィン【Lorwyn/LRW】(2007年10月12日発売/全301種類) : エルフやゴブリン、マーフォークなど、多彩な種族が住むおとぎ話のような世界、ローウィン。特定のクリーチャー・タイプに属する「部族」カードや、「プレインズウォーカー」カードが収録された。ローウィン・ブロックと次のブロックはカードセットが2つしか出ない。リミテッドでは1ブロック2エキスパンションで行われるが、スタンダードのローテーションやブロック構築では2つのブロック、4エキスパンションをまとめて1つの大きなブロックとして扱われる。 : 新カードとして、プレインズウォーカー・カードが登場。《'''チャンドラ・ナラー'''》や《'''ジェイス・ベレレン'''》など、今後のエキスパンションの主要登場人物となる予定の5人がカード化された。このエキスパンションのみプレインズ・ウォーカーはレア枠での収録である。 :; モーニングタイド【Morningtide/MOR】(2008年2月1日発売/全150種類) :: ローウィンの命運を賭け、はぐれエルフの'''ライズ'''たちが活躍する。ローウィンとは違い、種族ではなく職業系のクリーチャー・タイプ(騎士、ウィザード等)に焦点が当たっている。レアリティ配分がやや変則的で、次のセットの発売時期やカード種類数の関係からカード種類数も少なめ。 : ; シャドウムーア【Shadowmoor/SHM】(2008年5月2日発売/全301種類) : メルヘンチックなローウィンとは対照的に、ゴシックホラー調のセット。 : 邪悪なオーロラの影響により、闇の世界へと変貌してしまったローウィンが舞台。ほとんどの生き物は世界がローウィンだった頃の記憶を失い、永遠の夜の下を駆けずり回っている。 : 今までのセットの'''裏返し'''がテーマ。今度は「部族」ではなく「色」に焦点が当たっている。また、今までのセットで見られたような多色カードが存在せず、代わりに混成カードが多く存在する。タップ・シンボルの裏返しである“アンタップ・シンボル”が初登場した。 :; イーブンタイド【Eventide/EVE】(2008年7月15日発売/全180種類) :: シャドウムーアの闇はますます深くなり、さらに奇怪な怪物たちが次々と出現していく。対抗色(敵対色)の組み合わせの混成カードが多く存在。 :: シャドウムーア・ブロックは混成カードの可能性を追求したブロックで、“二色デッキか単色デッキで”高い効果を発揮できるカードが多い。 : ; アラーラの断片【Shards of Alara/ALA】(2008年10月3日発売/全249種類) : 数千年前に5つの“断片”に分かれてしまったアラーラ次元群が舞台。バント、エスパー、グリクシス、ジャンド、そしてナヤ……それぞれの“色”の友好な2つの“色”が残り、敵対した2つの“色”が欠如した5つの世界が織りなす、新たな物語が幕を開ける。「多色」がテーマであり、3色の組み合わせを推奨している。 : プレイヤーやコレクターなどからの意見を受けて、製品の販売形態が大きく変わり、 このシリーズから、今までの「テーマデッキ」の代わりに「エントリーセット」が同時発売され、入門セットの役割も兼ねるようになる。 : また、コモン、アンコモン、レアに続く新たなレア度として、「神話レア(Mythic Rare)」が登場する。8パックに1つの確率で、レアと置き換わる形で入っている(ただし、神話レアは種類が少ない分レアよりも多く印刷されるので、実際の希少価値はレアの2倍程度となる)。単に強いカードが神話レアに分類されるわけではなく、MtG世界の物語において重要な役割を占める人物や魔法などのカードが神話レアに分類される。これ以降プレインズ・ウォーカーは必ず神話レアでの収録となっている。 : セットに含まれるカードの種類が従来よりも大幅に減っている。これは前の2年間であまりにも多くのカードを出しすぎた反動と思われる。 :; コンフラックス【Conflux/CON】(2009年2月6日発売/全145種類) :: 5つに分かれていた断片が再び融合したアラーラの世界が舞台。 :: 今までの断片のテーマに沿ったカードや複数の断片をハイブリッドしたようなカードの他、自分がどれだけの種類の基本土地を持っているかを参照する「版図」と呼ばれる能力がインベイジョン・ブロック以来再登場した。 :; アラーラ再誕【Alara Reborn/ARB】(2009年4月30日発売/全145種類) :: すべてのカード、アーティファクトですら例外無く多色(金色)という異色のセット。ラヴニカブロックやシャドウムーアブロックに引き続き混成マナを持つカードが収録された。 : ; ゼンディカー【Zendikar/ZEN】(2009年10月2日発売/全249種類) : 地殻変動が絶えない次元、ゼンディカーが舞台。種族を超えて同盟者達が協力し、ゼンディカーの財宝を求めて冒険する。探検・冒険といったコンセプトから、「探索」カードや、同盟者達を待ち構える罠カードが登場する。 : 土地がテーマであり、オンスロートブロックにあったフェッチランドの対抗色版が登場したり、土地を出すことによって特定の効果を発動させる「上陸」、マナを出す以外に能力を持つ土地が多く入っている。また、インベイジョンブロックで初登場した「キッカー」が再登場している。 : 初回生産分のブースターパックには、今では絶版となっており古いエキスパンションに収録されていた強力で貴重なカードが、非常に低い確率で同梱されていた。これらのカードはゼンディカー世界に眠る古の財宝に見立てて「トレジャーカード」と呼ばれている。この情報はWoCの公式文章上でも発表されており、[[都市伝説]]ではない。それによればトレジャー・カードは再版ではなく、製作会社が市場に出回っていたコレクター的な価値が高いカードを買い取ったものである。このエキスパンションのためにリミテッド戦のルールに「そのエキスパンションのカードのみ使用できる」というルールが追加された。 :; ワールドウェイク【Worldwake/WWK】(2010年2月5日発売/全145種類) :: 舞台は同じくゼンディカー。クリーチャーに変化する土地や、キッカーを拡張した「多重キッカー」という能力が登場した。 :: 超強力カード「精神を刻む者、ジェイス」「石鍛冶の神秘家」が収録されたセットだが、この2枚はのちに禁止された。 :; エルドラージ覚醒【Rise of the Eldrazi/ROE】(2010年4月23日発売/全248種類) :: ゼンディカーの遺跡に封印されていた多元宇宙の[[旧支配者|旧神]]、エルドラージが復活した後のゼンディカーが舞台。 :: 重いコストと派手な効果、能力を持つ無色の種族「エルドラージ」と、生け贄に捧げる事でエルドラージの多大な召喚コストを支払うためのマナに変化する「落とし子」が登場した。また、[[ロールプレイングゲーム|RPG]]のように段階的に強くなる「レベルアップ・クリーチャー」も登場した。新キーワード能力として「Lvアップ」「族霊鎧」「反復」が登場した。 :: ゼンディカーの拡張セットとして作られたが、カード収録枚数はゼンディカーと同じで、基本土地カードも新イラストのものが描きおろされ、新たな時代が急激に始まったことを強調している。リミテッドでもゼンディカー/ワールドウェイクのカードを使わずに、エルドラージ覚醒のみで行われる。そのためカードセットとして共通のメカニズムなどが収録されず、ゼンディカーやワールドウェイクとのつながりは薄い。 : ; ミラディンの傷跡【Scars of Mirrodin/SOM】(2010年10月1日発売/全249種類) :: ファイレクシアの残党によるミラディン世界の侵略が描かれる。システム、世界観ともにミラディン・ブロックを引き継ぎ、アーティファクト・カードやそれに関するカードが多い。 :: 新メカニズムとして、一定数のアーティファクトをコントロールしていると発動する「金属術」(ミラディン陣営)、通常の方法では治療不可能なダメージを与える「感染」(ファイレクシア陣営)や、毒カウンターなどを増加させる「増殖」(ファイレクシア陣営)という能力が登場した。ミラディン・ブロックから多くのカードが再録されており、キーワード能力の「刻印」(ミラディン陣営)も復刻している。 :: 基本土地カード以外のほとんどのカードの文章欄に、陣営を表すシンボルが透かし状に記されている。 :; ミラディン包囲戦【Mirrodin Besieged/MBS】(2011年2月4日発売/全155種類) :: ミラディン陣営とファイレクシア陣営の戦いが本格化。ミラディンの地下深くでは、ミラディンの創造主である'''銀のゴーレム、カーン'''の洗脳がファイレクシア軍により進められる。新キーワード能力として「喊声」(ミラディン陣営)や「生体武器」(ファイレクシア陣営)が登場した。 :; 新たなるファイレクシア【New Phyrexia/NPH】(2011年5月13日発売/全175種類) :: ミラディンの戦いはファイレクシア陣営の勝利に終わった。ミラディンの住民達は次々に捉えられ、ファイレクシアの生物として改造されてゆく。それを象徴するようにミラディン陣営のカードは各色に3~4枚、特にファイレクシアの色とされた黒には1枚も存在しない。 :: 新メカニズムとして、「ファイレクシア・マナ・シンボル」が登場した。システム的には混成マナ・シンボルと似ていて、色マナかライフのいずれかで支払う事ができる。このシステムは色の役割を簡単に逸脱させた事で、後々スタンダード環境を破壊してしまった。 :; 清純なるミラディン【Mirrodin Pure/MPU】(非実在エキスパンション) :: ミラディン包囲戦の結果はまだ出ていないとされたため、新たなるファイレクシアと同時に発表され、次の新セットはどちらか片方が出ると予告された。そのためパッケージ画像も両方用意されたが、公式のカードプレビューが始まる前に、ライターに渡されたカードリストが流出してしまう事件が起き、ストーリーを紹介する前に、新セットが新たなるファイレクシアと確定してしまう事件が起こってしまった。 : ; イニストラード【Innistrad/ISD】(2011年9月30日発売/全264種類) :: ゴシックホラーを基調としたエキスパンション。ザ・ダークのようにイメージを先行させ後からカードを作るスタイルのため、色の役割が意図的に崩されている部分もある。4種類の怪物と、それに怯える人間がそれぞれ2色の組み合わせで再現され、それぞれの種族ごとに墓地をどう扱うかというアングルで、イメージ・墓地・2色による種族表現という3つのテーマで構成されている。 :: イメージ先行のため、西欧の宗教では忌み数とされている[[13]]を積極的に取り入れている。そしてイニストラード・ブロック全体のカード総数が[[666]]種類になっており、これも西洋の宗教では悪魔を意味する忌み数となっている。 :: トレーディングカードゲームとしては異例の両面カードが[[デュエル・マスターズ]]より逆輸入された。両面カードの代わりに使うチェックリストカードが土地の枠に入るため、基本土地が各種3種類と1枚少ない。 :; 闇の隆盛【Dark Ascension/DKA】(2012年2月3日発売/全158種類) :: 天使アヴァシン不在で衰退する人間、繁栄する怪物。その世界の中にイニストラード生みの親、ソリン・マルコフが帰還する。 :: 前回に引き続き両面カードが収録。表と裏でクリーチャータイプの異なる物や、裏返した際に能力が誘発するカードが登場。基本土地は新規デザインの物が収録されなかった。 :; アヴァシンの帰還【Avacyn Restored/AVR】(2012年5月4日発売/全244種類) :: 捕らわれたアヴァシンの開放と人間の逆襲、魔物の衰退がテーマ。フレーバー重視で黒vs他の4色という形で作られ、黒のカードパワーが若干弱めとなっている。 :: イニストラード、闇の隆盛で採用された両面カードや、2色の組み合わせによる部族の表現、墓地利用などのメカニズムが採用されず、システム的な繋がりは若干薄れている。またエルドラージ覚醒同様にリミテッドではアヴァシンの帰還単独で行われる。 :: これ以降窓口がウィザーズ日本支社に統一された。 : ; ラヴニカへの回帰【Return to Ravnica/RTR】(2012年10月5日発売/全274種類) :: 人気であったラヴニカブロックの続編、ギルドパクトが破られた後のラヴニカが描かれている。ラヴニカブロックの続編ながらプレイ感覚を変えるため、容易に3色目を加えにくいカード構成になっている。 :: 旧ラヴニカブロックからの登場クリーチャーやカードサイクルが含まれている一方、ギルドごとに固有のメカニズムが新登場した。収録ギルドはセレズニア議事会(白緑)、イゼット団(青赤)、ゴルガリ団(緑黒)、ラグドス教団(赤黒)、アゾリウス評議会(白青)の5つ。カード枚数は平等に近いが、緑白の多色カードのみ、他多色カードに比べるとレアが1枚少ない(代わりに緑白のみクリーチャー化するレア土地が存在する)。 :: また基本土地が各種5枚と他のブロックより1枚多く、その増えた1枚はラヴニカ・ギルドの都からの再録となっている。 :; ギルド門侵犯【Gatecrash/GTC】(2013年2月1日発売/全249種類) :: ラヴニカへの回帰に収録されなかった残りの5ギルド、オルゾフ組(白黒)、ディミーア家(青黒)、グルール一族(赤緑)、ボロス軍(赤白)、シミック連合(緑青)が収録される。 :: 今までエキスパンションの1つ目と3つ目が収録250枚級の大型エキスパンションというのはあったが、2つ目が大型となるのは史上初。大型エキスパンションのため、リミテッド戦ではこのエキスパンション単独で行われる。カードの枚数はラヴニカへの回帰より少なくなっているが、これは新規の基本土地が書き下ろされなかっただけであり、基本土地25枚を除いた枚数は共通である。 :; ドラゴンの迷路【Dragon's Maze/DRM】(2013年5月3日発売/全156種類) :: イゼットのギルドマスター、ニヴ・ミゼットは、ラヴニカの都市を流れるマナの流れを発見する。この流れは各ギルドの本拠地を通り、あるところへ向かっていた。この謎を解くために、各ギルドで選ばれた迷路走者がその流れを追う。 :: 10ギルドが一同に揃うブロック最終エキスパンション。シールド・リミテッドでは各エキスパンション2パックずつ、ブースター・ドラフトでは3つのエキスパンションを1パックずつ使って行われる。大型エキスパンションを同時に使うのは今回が初となった。大型エキスパンション2つの色が完全にズレているため、1色を軸とし、他の2色を適宜振り分けていく3色デッキがメインとなる。 :: 基本土地の代わりに前2つのエキスパンションに収録された特殊土地、もしくは新規の特殊土地が封入される。ショックランドがラヴニカへの回帰とギルド門侵犯から再録されているが、ゼンディカーのトレジャー・カードとは違いデッキに投入可能とされた。 :: 旧ラヴニカブロックにも投入された分割カードが条件付きで、両方の面を唱えられる融合カードとして登場。10のクランを象徴する10色サイクルが多数取り入れられている。 : ; テーロス【Theros/THS】(2013年9月27日発売/全249種類) :: 生者の住む世界、そして神々の世界ニクスからなる次元テーロスを舞台に繰り広げられる物語。主要テーマはエンチャントと神々、英雄、怪物の物語としてのギリシア神話。成長した英雄が強大な怪物を打ち倒す物語の表現するため、特定条件で繰り返し強化される英雄的能力や、一度だけだが大きく強化される怪物化能力が登場した。また、神々の影響として多くのエンチャントがデザインされた。未来予知のタイムシフト枠に1枚だけ存在していたエンチャント・クリーチャーが、オーラとクリーチャーのどちらかを、唱える際選択出来るという新しい形で登場。神々は、マナシンボルの数を人々の神々への信仰心に見立て、それが一定値に達するとクリーチャーとなるエンチャントとして登場した<ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/023522/ 他ならぬ『テーロス』 その1] 2017年12月12日閲覧</ref><ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/023536/ 他ならぬ『テーロス』 その2] 2017年12月12日閲覧</ref><ref>[https://mtg-jp.com/reading/mm/023604/ 他ならぬ『テーロス』 その3] 2017年12月12日閲覧</ref>。 :; 神々の軍勢【Born of the Gods/BNG】(2014年2月7日発売/全165種類) :: 生者の世界とニクスとの境が薄くなり、ニクスの生物が滲み出してきたテーロスが舞台。ニクスの生物ということで、神でもなく、オーラとしても唱えられないエンチャント・クリーチャーが登場した。今作の神はすべて友好2色。 :; ニクスへの旅【Journey into Nyx/JOU】(2014年5月発売/全165種類) :: 新たな神が生まれ、バランスが崩壊しかかっているニクスを舞台に、新たな神と昔からの神ととあるプレインズウォーカーの争いが焦点。テーマは最後までエンチャントだが、昔ながらの神でもクリーチャーでもオーラでも無いエンチャントが復活している。今作の神は敵対2色で、前作の友好2色の計10枚は小神、前前作の単色5枚は大神と位置づけられている。 :: 極稀に1つのブースターパック内にブロック内に存在する15種類の神がすべて1枚ずつ入っているというパックが存在。ただしこれはドラゴンの迷路のようにリミテッド戦の例外規定とはならなかったため、大会中にこのパックを引き当てた場合はジャッジに申告し、新たなパックを受け取る必要がある。 : ; タルキール覇王譚【Khans of Tarkir/KTK】(2014年9月26日発売/全269種類) :: '''サルカン・ヴォル'''の故郷の、龍が狩り尽されて絶滅した次元タルキールが舞台。対抗色3色からなる5つの“氏族”の対立がテーマ。各氏族は“カン”と呼ばれる指導者に率いられ、それぞれ龍のある一面を崇拝している。 :: 従来の対抗色3色の組み合わせ「中心色1色とその対抗色2色」ではなく「中心色1色とその友好色と対抗色が1色ずつ」という組み合わせになっているのが特徴。 :: このセットからスタンダードのローテーションが変化するようになったため、3エキスパンションで1セットという形態はこのタルキール覇王譚ブロックで最後になる。 : :; 運命再編【Fate Reforged/FRF】(2015年1月23日発売/全185種類) :: まだ龍の生存していた、1000年以上前のタルキールが舞台。氏族同士ではなく、氏族と龍の戦いに焦点が当てられ、タルキール覇王譚には収録されなかったドラゴン・カードも多数存在。 :: テーマは「運命の選択」で、モードを持ちプレイヤーに選択を迫る呪文が多く収録されている。 : :; タルキール龍紀伝【Dragons of Tarkir/DTK】(2015年3月27日発売/全264種類) :: 運命が変わり、龍の滅びなかった新たなタルキールが舞台。カンに変わり“龍王”が自身の名を冠する氏族を統べており、対抗色3色から友好色2色の組み合わせに変わっている。 :: テーマはずばりドラゴン。龍王を筆頭に多数のドラゴンが収録されているほか、ドラゴンがいることで強化される呪文も存在している。 :: ローテーション変化の関係で、タルキール覇王譚/運命再編とはスタンダード落ちする時期が異なる。リミテッドもタルキール龍紀伝/運命再編の組み合わせで行われる。 : ; 戦乱のゼンディカー【Battle for Zendikar/BFZ】(2015年10月2日発売/全274種類) :: ゼンディカーブロックの続編。解放されたエルドラージと、それに立ち向かうゼンディカーの人々との戦いを描く。 :: ゼンディカー側は「土地」と「同盟者」、エルドラージ側は「無色」と「追放」がテーマになっている。 :: このセットから1ブロック2セット制に移行した。 : :; ゲートウォッチの誓い【Oath of the Gatewatch/OGW】(2016年1月22日発売/全184種類) :: ウラモグに続き現れたエルドラージ、コジレックに対して若きプレインズウォーカーたちは共同戦線ゲートウォッチ/Gatewatchを結成。ゼンディカーと多元宇宙を守るために立ち向かう。 :: 無色マナ・シンボルが導入され無色マナを要求するカードが初めて登場。無色マナを出す新しい基本土地として荒地も登場した。 : またエルドラージに対してプレインズウォーカー達が結束して戦うというテーマの結果、史上最も双頭巨人戦に向いたセットとなった : :; Zendikar Expeditions【EXP】(全45種類) :: 戦乱のゼンディカーブロックのブースターに低確率で封入される土地カード。構築で人気の高い土地カードが神話レア、プレミアム仕様で収録されている。 :: 英語版のみ存在しており、日本語のような他言語のブースターにも英語のカードが封入される。 :: 戦乱のゼンディカーとは別のエキスパンションとして扱われているため、構築では同名のカードが使用できる環境でのみ使用可能。リミテッドの場合はそのまま使用できる。 :: 好評だったため、後にMasterpiece Series【MPS】として各ブースターパックに低確率で特別なカードを収録することが決定した。 : ; イニストラードを覆う影【Shadows over Innistrad/SOI】(2016年4月8日発売/全297種類) :: イニストラードブロックの続編。人間の守護者であったアヴァシンが乱心し、イニストラードの人間に再び危機が迫る。 :: 新規のメカニズムは「昂揚」と「潜伏」に「手掛かり」を入手する「調査」。また、イニストラードに引き続いて「両面カード」が再登場。狂気を表すメカニズムとして「マッドネス」も再録されている。 :: なお、直前の戦乱のゼンディカーに引き続き再訪次元が舞台だが、これはテーロス、タルキールと新次元が2つ続いたことに対してバランスを取るため。 : :; 異界月【Eldritch Moon/EMN】(2016年7月22日発売/全205種類) :: イニストラードに現れたエルドラージ、エムラクールによって異形の怪物へ変質したイニストラードの生物と、それに立ち向かう者たちの戦いを描く。 :: 新規のメカニズムは「現出」と「増呪」。両面カードの新たな形として、2枚で1枚のカードとなる「合体カード」が登場している。「昂揚」「潜伏」「マッドネス」も引き続き登場しているが、「調査」は登場していない。これは謎を解き明かすことがテーマだったイニストラードを覆う影に対し、異界月は謎が解き明かされた後の物語だからである。 :: エキスパンション・シンボルはエムラクールを模しているが、これこそが「謎」の正体であるため、通常はカードセット発表と同時に発表されるエキスパンション・シンボルが長らく非公開であった。 : ; カラデシュ【Kaladesh/KLD】(2016年9月30日/全264種類+10種類) :: チャンドラ・ナラーの故郷、発明の次元カラデシュが舞台。人々は霊気をエネルギーとした発明により都市生活を謳歌しているが、その裏には霊気の流通を厳しく統制する領事府とそれに反抗する改革派の争いが存在している。 :: テーマはアーティファクトだが、ミラディン・ブロックのように極端にアーティファクトが多いわけではない。 :: 新規メカニズムはプレイヤーの得る新たなカウンター、「エネルギー」と+1/+1カウンターかトークンかを選択する「製造」。そしてクリーチャーが「搭乗」することで効果を発揮する「機体」。 :: また、このセットから構築済みセットとして「プレインズウォーカーデッキ」が登場。プレインズウォーカーデッキ限定カードは同時に発売されるセットと同じフォーマットで使用できる。 : :; 霊気紛争【Aether Revolt/AER】(2017年1月20日/全184種類+10種類) :: 領事府の弾圧に対しついに改革派が蜂起。ゲートウォッチの面々も領事府を牛耳るテゼレットを打倒するために戦いに加わる。 :: 新規メカニズムはアーティファクト版の召集である「即席」と発明家たちの怒りを表す「紛争」。「機体」と「エネルギー」も続投している。 :: アーティファクトがテーマなのは変わらないが、「創造的」だったカラデシュに対して「破壊的」がテーマになっている。 : :; Kaladesh Inventions【MPS】(全54種類) :: Zendikar Expeditionsの好評を受け誕生したMasterpiece Seriesのカラデシュ版。 :: カラデシュで行われる発明博覧会の出展作品という設定で、アーティファクトカードが特別な仕様で収録されている。 : ; アモンケット【Amonkhet/AKH】(2017年4月28日/全269種類+18種類) :: ニコル・ボーラスに支配された、[[古代エジプト]]がモチーフの次元アモンケットが舞台。人々は来世での栄光のために神々の試練に臨む。 :: 収録されたカードも[[砂漠]]や[[ピラミッド]]に代表される巨石建造物、[[ミイラ]]や[[呪い]]など古代エジプトを連想させるものが多い。 :: 新規メカニズムは墓地のクリーチャーをミイラ化して再利用する「不朽」と次のターンのアンタップを放棄するかわりにさまざまな効果を得る「督励」。墓地から唱える新たな分割カード「余波」も登場している。 : :; 破滅の刻【Hour of Devastation/HOU】(2017年7月14日/全199種類+10種類) :: アモンケットに王神、ニコル・ボーラスが帰還。しかしアモンケットの人々に訪れるのは、約束された来世ではなかった。 :: ニコル・ボーラスが大きなテーマになっており、ボーラスによって訪れるアモンケットの破滅が描かれている。 :: 新規メカニズムはボーラス配下の不死の軍団、永遠衆となって蘇る「永遠」と、永遠衆の残虐さを示す「加虐」。「督励」「余波」も引き続き登場している。 : :; Amonkhet Invocations【MPS】(全54種類) :: アモンケット版Masterpiece Series。 :: [[壁画]]風のカード枠と[[ヒエログリフ]]風のアルファベットが特徴。アモンケットに収録されたものは神々の力を、破滅の刻に収録されたものはボーラスの威光を思わせるカードが選ばれている。 : ; イクサラン 【Ixalan/XLN】(2017年9月29日/全279種類+10種類) :: ニコル・ボーラスに敗北したジェイスが漂着した次元イクサランが舞台。伝説の黄金郷'''オラーズカ'''とそこに眠る財宝を求めて四つの勢力が争う。 :: [[大航海時代]]がモチーフとなっており、テーマは「探検」と「部族の対立」。そこに今まで焦点の当たらなかったクリーチャー・タイプである[[恐竜]]と[[海賊]]の要素が加わっている。 :: 新規メカニズムはライブラリーから新たな土地を獲得する「探検」と海賊達が追い求める「宝物」。そして恐竜たちの怒りを表す「激昂」。「強襲」「機体」「変身」も再登場している。 : :; イクサランの相克【Rivals of Ixalan/RIX】(2018年1月19日/全196種類+19種類) :: ついにオラーズカが姿を現し、部族間の争いは激しさを増す。 :: 新規メカニズムは軍勢を結集し、都市を支配することで力を得る「昇殿」。イクサランのメカニズムも全て続投している。 :: 大型セットと小型セットというブロックの概念はイクサランの相克で最後となる。 : ; ドミナリア【Dominaria/DOM】(2018年4月27日/全269種類+11種類) :: 過去様々なカードセットの舞台となってきたドミナリアが久々に登場。時代的には時のらせんの時代の60年後のドミナリアが舞台。長い時を生きる歴史の生き証人や過去の英雄たちの子孫、そして新たな時代の英雄が修復されたウェザーライト号に集う。 :: マジック:ザ・ギャザリングというゲームの初期から登場している次元だけあって、「歴史」がテーマ。「伝説」「アーティファクト」そして新登場のエンチャント「英雄譚」を合わせた「歴史的」な呪文が数多く登場している。 :: 新規メカニズムは上述の「英雄譚」とドミナリア史を象徴する出来事をカード化した「伝説のソーサリー」。また、「キッカー」が再登場している。 : ; ラヴニカのギルド【Guilds of Ravnica/GRN】(2018年10月5日/全259種類+14種類) :: ゲートウォッチとニコル・ボーラスの最終決戦を描くラヴニカ三部作の第一部。 :: 第一部にあたる本セットにはディミーア家(青黒)、イゼット団(青赤)、ゴルガリ団(黒緑)、ボロス軍(赤白)、セレズニア議事会(緑白)の5つのギルドが登場する。 :: 新規メカニズムはディミーア家の「諜報」、イゼット団の「再活」、ゴルガリ団の「宿根」、ボロス軍の「教導」の4種類。セレズニア議事会には再録メカニズム「召集」が割り当てられている。 : ; ラヴニカの献身【Ravnica Allegiance/RNA】(2019年1月25日/全259種類+14種類) :: ラヴニカ三部作の第二部。ラヴニカのギルドで登場しなかった残り5つのギルドが登場する。 :: 新規メカニズムはアゾリウス評議会(青白)の「附則」、オルゾフ組(白黒)の「死後」、ラクドス教団(赤黒)の「絢爛」、グルール一族の「暴動」、シミック連合(青緑)の「順応」の5つ。 : ; 灯争大戦【War of the Spark/WAR】(2019年5月3日/全264種類+11種類) :: ラヴニカ三部作の最終作。ラヴニカの命運を賭けたニコル・ボーラスとの最後の戦いが始まる。 :: テーマは「プレインズウォーカーの戦争」。総勢37人ものプレインズウォーカーがカード化されており、プレインズウォーカーに関するカードも多数収録されている。 :: 過去のラヴニカを舞台にしたセットとは異なり、ギルドには焦点が当たっていない。 :: 新規メカニズムはボーラス配下のゾンビの軍団を表現した「動員」。再録メカニズムとして「増殖」が登場している。 : ; エルドレインの王権【Throne of Eldraine/ELD】(2019年10月4日/全269種類+128種類) :: おとぎ話と[[アーサー王伝説]]をモチーフとした次元エルドレインが舞台。双子のプレインズウォーカー、ローアンとウィルは行方不明となった父ケンリス王を探す探索へと向かう。 :: 多色テーマのラヴニカの物語が続いた反動で、単色がテーマ。5色に対応した5つの宮廷とそれを守る[[騎士]]たちと、王国外に跋扈する怪物を表したカードが収録されている。 :: 新規メカニズムは本のような特殊なレイアウトで物語とその登場人物を1つに纏めた「当事者」カードと宮廷への忠誠を示す「一徹」。また、新たなアーティファクトタイプとして「食物」が登場した。 :: パックを開封する楽しみを増やす目的で、特殊な枠の「ショーケースカード」が低確率で封入されるようになった。 : ; テーロス還魂記【Theros Beyond Death/THB】(2020年1月24日/全254種類) :: テーロスブロックの続編。神々の戦いの影響で死の国に裂け目が生じ、怪物たちが現世へと溢れ出る。かつての戦いで命を落としたエルズペスは、混乱に乗じて死の国からの脱出を目指す。 :: 新規メカニズムは死の国からの逃亡を表す「脱出」。「信心」と「星座」もテーロスブロックからの再録メカニズムとして登場しているほか、神々も新たな姿で収録されている。 : ; イコリア:巨獣の棲処【Ikoria: Lair of Behemoths/IKO】(2020年4月17日・5月15日/全257種類) :: [[怪獣映画]]をモチーフにした、様々な怪物が跋扈する次元イコリアが舞台。聖域の守り手だったルーカは、怪物と絆を結んだことで裏切り者として故郷を追われることとなる。 :: 新規メカニズムはイコリアの怪物たちが様々に姿を変えることを表現した「変容」とプレイヤーが怪物と絆を結ぶ「相棒」。再録のメカニズムとして「サイクリング」も登場している。 :: 初の試みとして、[[ゴジラ]]シリーズとのコラボレーションカードが登場<ref>[https://mtg-jp.com/reading/kochima/0033907/ マジックの世界に怪獣王上陸!? 『イコリア:巨獣の棲処』ゴジラシリーズカードのお知らせ] 2020年4月19日閲覧</ref>。収録されているカードのカード名とイラストを差し替えたもので、ゲームルール上は元となったカードと同じものとして扱う。 :: [[2019新型コロナウイルス]]の流行により、各種イベントの中止や発売日の変更といった影響が生じた。また、ゴジラシリーズのカードのうち、《[[スペースゴジラ|死のコロナビーム、スペースゴジラ]]》はカード名の変更や再販版からの削除という処置が取られた<ref>[https://mtg-jp.com/reading/publicity/0033912/ スペースゴジラのカード名に関する声明] 2020年4月19日閲覧</ref>。 : ; ゼンディカーの夜明け【Zendikar Rising/ZNR】(2020年9月25日/全280種類) ::戦乱のゼンディカーブロックの続編。エルドラージの脅威の去ったゼンディカーに、突如出現した空中遺跡スカイクレイヴ。遺跡に眠る秘宝を求めて、新たな冒険が始まる。 ::新規メカニズムは様々な職業のクリーチャーで構成する冒険者の「パーティー」と、両面カードの新たな形「モードを持つ両面カード」。再録メカニズムとして、過去のゼンディカーブロックから「上陸」「キッカー」が選ばれている。 : ; カルドハイム【Kaldheim/KHM】(2021年2月5日/全285種類) ::領界と呼ばれる無数の小次元からなる次元カルドハイムが舞台。邪悪なプレインズウォーカー'''ティボルト'''は、カルドハイムの神の一柱ヴァルキーに成り代わり暗躍する。 ::[[北欧神話]]をモチーフの中心とし、さらに[[北欧]]と関わりの深い[[ヴァイキング]]や[[ヘヴィメタル|メタル・ミュージック]]の要素が加わっている。 ::領界ごとに設定された小テーマやメカニズム、収録カードも[[霜の巨人|炎と霜の巨人]]や[[ワルキューレ|戦乙女]]、氷雪や[[ルーン文字|ルーン]]など北欧を連想させるものが多い。また、単語自体が北欧に起源を持つ英雄譚([[サガ|Saga]])は過去最大の枚数が収録されている。 ::新規メカニズムは災いの予言を表現した「予顕」と戦いの武勇を伝える「誇示」。再録メカニズムは「氷雪」と「多相」。片面はカルドハイムの神々、もう片面は彼らの扱う道具や使い魔という形で「モードを持つ両面カード」も引き続き登場している。 : ; ストリクスヘイヴン:魔法学院【Strixhaven: School of Mages/STX】(2021年4月23日/全275種類) ::アルケヴィオス次元に存在する、5つの[[大学]]で構成された魔法の学院、ストリクスヘイヴンが舞台。ストリクスヘイヴンに入学したローアンとウィルは、オニキス教授と名を変え学院に勤めていたリリアナと共に、秘密結社オリークに立ち向かう。 ::各大学ごとに設定された対抗2色の組み合わせと、魔法の学院らしくソーサリー・インスタントがテーマ。 ::新規メカニズムは「[[講義]]」カードを手札に加えることができる「履修」とソーサリー・インスタントやそのコピーに反応する「魔技」。そして相手が対象に取る際に追加コストを要求する「護法」。 ::「モードを持つ両面カード」も3セット続いての登場だが、これはスタンダードで同時にローテーションする3セットに共通点を持たせるためである。 : ; フォーゴトン・レルム探訪【Adventures in the Forgotten Realms/AFR】(2021年7月23日/全281種類) ::[[フォーゴトン・レルム]]を舞台とする、『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』(D&D) とのコラボレーションセット。 ::[[ビホルダー]]や[[ノール (ダンジョンズ&ドラゴンズ)|ノール]]、[[ティーフリング]]といったD&Dの種族・怪物が輸入される形で登場するほか、ドラゴンも豊富。 ::[[TRPG]]要素を表すカードとして、通常セットでは初となる[[d20システム|20面ダイスの出目で効果が決まる]]カードが多数収録されている。また、ルール上意味のない「フレイバー・ワード」として、D&Dの技能が多くのカードの効果に記載されている。 ::新規メカニズムはD&Dの技能の一つでもある「集団戦術」とレベルアップ毎に新たな能力を獲得する「[[キャラクタークラス|クラス]]・エンチャント」、そして様々な部屋で構成されたダンジョンを進んでいく「ダンジョン探索」の3つ。 ::基本セットの代替という位置付けであり、2021年には基本セットは発売されない。 : ; イニストラード:真夜中の狩り【Innistrad: Midnight Hunt/MID】(2021年9月24日/全277種類) ::イニストラードを覆う影ブロックの続編。エルドラージの襲撃を乗り越えたイニストラードだったが、昼夜の平衡が崩れ、夜が長くなったことで怪物の活動が活発となる。人狼のプレインズウォーカー、アーリン・コードは昼夜の平衡を取り戻すため、ゲートウォッチに協力を要請する。 ::新規メカニズムは昼夜の切り替わりで変身する「日暮/夜明」、死後に幽霊となる「降霊」、人間たちが団結して怪物に立ち向かう「集会」、ゾンビの脆さを表現した「腐乱」の4つ。 ::過去のイニストラードからの再録メカニズムとして「フラッシュバック」「調査」「呪い」が選ばれている。 : ; イニストラード:真紅の契り【Innistrad: Crimson Vow/VOW】(2021年11月19日/全277種類) ::昼夜の平衡を取り戻すための儀式は吸血鬼オリヴィア・ヴォルダーレンの襲撃で失敗に終わった。政略結婚によりイニストラードの全てを支配しようとするオリヴィアの野望を阻止すべく、ゲートウォッチたちは式場へ乗り込む。 ::真夜中の狩りから続くストーリーであり、狼男に焦点を当てた真夜中の狩りに対し、吸血鬼が中心になっている。 ::新規メカニズムは人間たちが決戦に備える「訓練」とルール文章の記述を一部削除する「切除」。新たなトークンとして「血」も登場した。 ::「日暮/夜明」と「降霊」が続投する形で登場している他、「濫用」が再登場している。 ::吸血鬼がテーマということで、[[ブラム・ストーカー]]の小説『[[吸血鬼ドラキュラ]]』とのコラボレーションカードがイラスト違いカードとして収録されている他、[[悪魔城ドラキュラ]]シリーズのキャラクターデザインで有名な[[小島文美]]もイラスト違いカードを手掛けている。 : ; 神河:輝ける世界【Kamigawa: Neon Dynasty/NEO】(2022年2月18日/全302種類) ::神河ブロックの続編。1200年の時を経て、[[サイバーパンク]]な発展を遂げた神河が舞台。謎の男の襲撃を受けて神河の統治者、皇が姿を消して10年。皇の友人漆月魁渡はついに犯人の手がかりを掴む。 ::日本のポップカルチャーをモチーフとした「現代性」と過去の神河の流れをくむ「伝統性」の対立がテーマ。「現代」側はアーティファクト、「伝統」側はエンチャントが中心となっている。 ::新規メカニズムは様々な強化を受けていることを参照する「改善」と装備品へ「換装」されるクリーチャー、そしてファイレクシアによるプレインズウォーカーの「完成化」。過去の神河ブロックから「忍術」「魂力」が再録されている。 : ; ニューカペナの街角【Streets of New Capenna/SNC】(2022年4月29日/全281種類) ::カペナ次元に存在する、デーモンたちが支配する高層都市ニューカペナが舞台。新ファイレクシア打倒を目指すエルズペスは、その手がかりを掴むため、かつてファイレクシアの侵略に打ち勝った故郷カペナに帰還する。 ::[[禁酒法]]時代のアメリカがモチーフとなっており、友好3色から成る5つの「一家」がテーマ。 ::新規メカニズムは斡旋屋一家(緑白青)の「盾カウンター」、常夜会一家(白青黒)の「謀議」、貴顕廊一家(青黒赤)の「犠牲」、土建組一家(黒赤緑)の「奇襲」、舞台座一家(赤緑白)の「団結」。再録メカニズムとして「秘匿」が再登場している。 : ; 団結のドミナリア【Dominaria United/DMU】(2022年9月9日/全281種類) ::次元を超える術を手に入れた新ファイレクシアは、ドミナリアへの侵略を開始した。300年の時を経て再び迫るファイレクシアの脅威に対し、ドミナリアが立ち向かう。 ::ファイレクシアによる侵略がテーマとなっており、「ファイレクシアン」クリーチャーが多数登場。また、過去の侵略を描いたインベイジョンブロックを踏襲する要素が見られる。 ::新規メカニズムは攻撃時に他のクリーチャーの支援を受ける「後援」と英雄譚を好きな章から読み進められる「先読」。新たなカウンターとして「麻痺カウンター」も登場した。また、次のセットへの前振りとして「パワーストーン」も少数登場している。 ::再録メカニズムとして、インベイジョンブロックより「キッカー」「版図」が選ばれている他、新たに「完成化」させられたプレインズウォーカーも登場する。 : ; 兄弟戦争【The Brothers' War/BRO】(2022年11月18日/全287種類) ::新ファイレクシア打倒の切り札となるアーティファクト「酒杯」の起動方法を探るため、テフェリーは精神を過去へと送り、かつてウルザが酒杯を起動した兄弟戦争を追体験する。 ::ドミナリア―ファイレクシア戦争の前哨戦とも言える、ウルザとミシュラの兄弟戦争がテーマ。カード化の機会がなかった過去の人物や、戦争で使われた機械などが多数収録されている。 ::新規メカニズムは戦争機械の「試作」。また、「パワーストーン」が本格的に登場した。再録メカニズムとして「蘇生」「合体」が登場している。 ::特殊カードとして、過去に登場したアーティファクトが旧枠使用で収録されている他、[[トランスフォーマー]]とのコラボレーションカードが収録されている。 : ; ファイレクシア:完全なる統一【Phyrexia: All Will Be One/ONE】(2023年2月10日(日本のみ2月3日)/全271種類) ::全次元の侵略を目論むエリシュ・ノーンの企みを阻止すべく、プレインズウォーカー達は新ファイレクシアへ乗り込む。 ::新ファイレクシアを主役としたセットで、「ファイレクシア人であることは楽しい」がテーマ。 ::新規メカニズムはファイレクシア病を感染させる「毒性」と対戦相手の感染が進むことで恩恵を得る「堕落」。ミラディン人のレジスタンスも「ミラディンのために!」で装備品と共に駆けつける。 ::再録メカニズムとしてファイレクシアの3P、「毒('''''P'''oison'')」「増殖('''''P'''roliferate'')」「ファイレクシア・マナ('''''P'''hyrexian Mana'')」が全て登場する他、多数のプレインズウォーカーが「完成化」する。 ::諸事情により発売が当初の予定より一週間後ろ倒しとなったが、日本語版のみ発売日が維持された。 : ; 機械兵団の進軍【March of the Machine/MOM】(2023年4月21日/全387種類) ::ついに新ファイレクシアは多元宇宙へと侵攻した。全次元の命運を賭けた最終決戦がはじまる。 ::「長編物語の最終章」としてデザインされたセットで、テーマは「協力」と「変身」。 ::多元宇宙側には本来相容れぬ者同士でも協力してファイレクシアに立ち向かう、二人一組の伝説のクリーチャーが多数登場している。 ::一方で次元固有の生物も次々とファイレクシア人へと変貌する姿が変身カードで表されている。 ::新規メカニズムは新ファイレクシアの侵攻を描いた新たなカードタイプ「バトル」と自身の能力を仲間に分け与える「賛助」、そしてファイレクシアンへと変身するトークンを生み出す「培養」。 : :; 機械兵団の進軍:決戦の後に【March of the Machine:The Aftermath/MAT】(2023年5月12日/全50種類) ::新ファイレクシアとの戦いの後日談を描いた小セット。戦いの影響のより多元宇宙に起きた変化を描く。 ::収録枚数が少なく、コモンカードが登場しないなど通常のセットとは大きく異なるが、スタンダードで使用可能である。 : ; エルドレインの森【Wilds of Eldraine/WOE】(2023年9月8日/全381種類) ::エルドレインの王権の続編にして、新ファイレクシア戦による変化を迎えた多元宇宙の姿を描く「'''領界路編'''」の始まりとなるセット。 ::新ファイレクシア撃退の一助となった眠りの呪いが、エルドレインの住人にも牙をむき始めた。戦死した父の後を継ぎ新たな王となったウィルが数々の問題に苦心する中、王宮から遠く離れた僻村では人間とフェイの混血児ケランが父の手がかりを掴むため、妖精王タリオンの命により眠りの呪いの解決に旅立つ。 ::童話をテーマの中心として、10の童話がそれぞれ2色の組み合わせのモチーフになっている。 ::新規メカニズムはクリーチャーに様々な「役割」を与えるトークン・エンチャントと童話における取引・約束をモチーフにした「協約」、ファイレクシア戦争の勝利を祝う「祝祭」の3つ。 ::エルドレインの王権からの再録メカニズムとして「当事者」「食物」が続投。 ::特殊カードとして過去の様々なエンチャントカードが「おとぎ話」として収録されている。 ::このセットからスタンダードが最長3年のローテーションへと変更された。 : ; イクサラン:失われし洞窟【The Lost Cavern of Ixalan/LCI】(2023年11月17日/全415種類) ::イクサランブロックの続編。新ファイレクシアという共通の敵が去ったことで、部族間の緊張が高まっていくイクサランが舞台。 ::太陽帝国のファートリは、考古学者のプレインズウォーカーであるクイントリウスと共にオラーズカの地下に広がる遺跡へと足を踏み入れる。 ::テーマは地底世界の探索。既存の4勢力に加えて、地底に暮らす人々や封印された怪物などの新たな勢力が登場する。 ::新規メカニズムは戦場や墓地の様々な素材を使ってアーティファクトを変身させる「作成」、地下探索の進行度を表現した「落魄」、ライブラリーから新たなカードを手にする「発見」の3つ。「探検」を行うための「地図」トークンも登場した。 : {{Timeline of release years | title = Magic: the Gathering supplemental sets | subtitle = 緑系:旧枠, 黄系:新枠, 赤系:新々枠 | range1 = 1993 - 2003 | range1_color = #0BDA51 #228B22 | range2 = 2004 - 2014 | range2_color = Gold Goldenrod | range3 = 2015- | range3_color = Pink Red | 1993 = CED | 1994 = | 1995 = CHR, Renaissance | 1996 = | 1997 = POR | 1998 = P02, UGL | 1999 = S99, PTK | 2000 = S00 | 2001 = | 2002 = | 2003 = | 2004 = UNH | 2005 = | 2006 = | 2007 = | 2008 = | 2009 = HOP | 2010 = ARC | 2011 = | 2012 = PC2 | 2013 = MMA | 2014 = CNS | 2015 = MM2 | 2016 = EMA, PCA, CN2 | 2017 = MM3, IMA, UST | 2018 = A25, BBD, UMA | 2019 = MH1 | 2020 = UND, MB1, JMP, 2XM | 2021 = TSR, MH2 }} === スターター・セット === * ポータル * ポータル・セカンドエイジ * ポータル[[三国志]] * スターター(Starter) * スターター2000 === デュエルデッキ (構築済みデッキのシリーズ) === * エルフ vs.ゴブリン(Elves vs. Goblins) * ジェイス vs.チャンドラ(Jace vs. Chandra) **: 後に日本語版が登場し、[[電撃マ王]]で「[[マジック:ザ・ギャザリング 燃え尽きぬ炎]]」を連載している日森よしの描き下ろしのカードが封入されている。 * ディヴァイン vs. デモニック (Divine vs. Demonic) * ガラク vs. リリアナ (Garruk vs. Liliana) * ファイレクシア vs. ドミナリア連合軍 (Phyrexia vs. Coalition) * エルズペス vs. テゼレット (Elspeth vs. Tezzeret) * ナイト vs. ドラゴン (Knights vs. Dragons) * アジャニ vs. ニコル・ボーラス (Ajani vs. Nicol Bolas) * ヴェンセール vs. コス (Venser vs. Koth) **: ジェイスvs.チャンドラ以来の日本語版が発売された。以降も日本語版が発売されている。 * イゼット vs. ゴルガリ (Izzet vs. Golgari) * ソリンvsティボルト (Sorin vs. Tibalt) * 英雄vs怪物 (Heroes vs. Monsters) * ジェイスvsヴラスカ (Jace vs. Vraska) * 迅速vs狡知 (Speed vs. Cunning) * Duel Decks: Anthology (DD3) * エルズペスvsキオーラ (Elspeth vs. Kiora) * ゼンディカーvsエルドラージ (Zendikar vs. Eldrazi) * 正しき者vs堕ちし者 (Blessed vs. Cursed) * ニッサvsオブ・ニクシリス (Nissa vs. Ob Nixilis) * 精神vs物理 (Mind vs. Might) * マーフォークvsゴブリン (Merfolk vs. Goblins) * エルフvs発明者 (Elves vs. Inventors) === 再録セット === * コレクターズエディション(Collectors' Edition) * ルネッサンス(Renaissance)第4版を補完する黒枠セット。イタリア語版、フランス語版、ドイツ語版があり、イタリア語版は内容が大きく異なりChronicles収録カードも含まれる。 * アンソロジー・ギフトボックス(Anthologies) * バトルロイヤル・ギフトボックス(Battle Royal) * ビートダウン・ギフトボックス(Beatdown) * デッキマスター・ギフトボックス(Deckmasters) * モダン・マスターズ(Modern Masters) * モダン・マスターズ2015(Modern Masters 2015) * エターナル・マスターズ(Eternal Masters) * モダン・マスターズ2017(Modern Masters 2017) * アイコニック・マスターズ(Iconic Masters) * マスターズ25(Masters 25) * アルティメット・マスターズ(Ultimate Masters) * ダブル・マスターズ (Double MAsters) * 時のらせんリマスター (Time Spiral Remastered) * 統率者マスターズ (Commander Masters) 統率者マスターズ統率者デッキとは違い、全て再録カードになっている。 * ラヴニカ・リマスター (Ravnica Remasterd) * イニストラード・リマスター (Innistrad Remasterd) === 統率者戦 === {{Timeline of release years | title = Magic: the Gathering Commander sets | subtitle = 黄系:新枠, 赤系:新々枠 | range1 = 2011 - 2014 | range1_color = Gold Goldenrod | range2 = 2015- | range2_color = Pink Red | 2011 = CMD | 2012 = | 2013 = C13 | 2014 = C14 | 2015 = C15 | 2016 = C16 | 2017 = CMA, C17 | 2018 = CM2, C18 | 2019 = C19 | 2020 = C20, CMR, CC1, ZNC | 2021 = C21, KHC, AFC, MIC, VOC, SLD | 2022 = CC2, NEC, NCC, CLB, DMC, 40K, BRC, SCD | 2023 = ONC, MOC, SLD, LTC, CMM, SLD, WOC, WHO, LCC | 2024 = PIP ... }} ひとつのセットに対して複数の構築済みデッキがシリーズ化されている * 統率者(CMD) * 統率者2013 (C13) 以降各年度版 * ゼンディカーの夜明け統率者デッキ(ZNC)以降各エキスパンション対応版 * 統率者レジェンズ、およびそれの統率者デッキ(後者は前者の関連カードとして扱われる) * 統率者マスターズ統率者デッキ(後者は前者の関連カードとして扱われる) * コマンダー・コレクション * Secret Lair Drop Seriesの統率者デッキ(略号はすべてSLD) * ユニバース・ビヨンド製品対応の統率者デッキ === ジョークカード === * アングルード(Unglued)「カードを破る」「歌を歌う」などと、これまでのセットでは想像もつかないような効果のカードが多数。 * アンヒンジド(Unhinged)アングルードの続編。 * アンステーブル(Unstable) * アンサンクションド(Unsanctioned) * アンフィニティ(Unfinity) ===ユニバースビヨンド=== マジックと他作品のコラボレーションセット。 * Secret Lair x [[ストレンジャー・シングス 未知の世界|Stranger Things]] * Secret Lair x [[アーケイン (アニメ)|Arcane]]、Secret Lair x Arcane: Lands * Secret Lair x [[ストリートファイター (ゲーム)|Street Fighter]] * [[ウォーハンマー40,000]]統率者デッキ、 Secret Lair x Warhammer 40,000: Orks、Secret Lair x Warhammer Age of Sigmar、Secret Lair x Blood Bowl * [[トランスフォーマー|Transformers]] * Secret Lair x [[ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り|Dungeons & Dragons: Honor Among Thieves]] * [[指輪物語]]:中つ国の伝承、指輪物語:中つ国の伝承統率者デッキ * Secret Lair x [[クリープショー|Creepshow]] * Secret Lair x [[死霊のはらわた (1981年の映画)|The Evil Dead]] * Secret Lair x [[プリンセス・ブライド・ストーリー|The Princess Bride]] * [[ドクター・フー]]統率者デッキ * [[ジュラシック・パーク|ジュラシック・ワールド]]・コレクション === その他 === * マルチバースギフトボックス(Multiverse) * Vanguard * From the Vault: Dragons * From the Vault: Exiled * From the Vault: Relics * From the Vault: Legends * From the Vault: Realms * プレンチェイス * アーチエネミー * バトルボンド * モダンホライゾン、モダンホライゾン2 * Mystery Booster * Secret Lair * ジャンプスタート(Jumpstart) == 認定トーナメント・イベントとプロプレイヤー == [[File:PTQ Kyoto in Frankfurt 2008.jpg|thumb|right|PTQ会場の模様、2008年、[[ドイツ]]・[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]]] DCI(ウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が設立した、Magicをはじめとするゲームの国際公式競技組織)が認定しているトーナメントを認定トーナメントと呼ぶ。WPN(ウィザーズ・プレイ・ネットワーク)協賛店舗やイベント会場で開催される。認定トーナメントの開催情報はウィザーズの公式ページ(下記)で確認できる。初級者から上級者まで段階ごとの大会形態も確立されており、世界中でトーナメントが開かれている。 中でも、世界中からトッププレイヤーが集結して開催される'''プロツアー'''に出場することは多くのプレイヤーの憧れであり、生活をマジックに捧げてまで世界を相手に競う若者も多かった。90年代は日本勢は良くてベスト16前後を行ったり来たりする程度であったが、2001年のプロツアー東京にて藤田剛史が日本人初のベスト8入り(準優勝)を果たしたのを皮切りに、2004年プロツアー神戸で黒田正城が初めて日本人初のプロツアー王者に輝き、2005年には世界選手権個人戦を森勝洋が制し、日本人初の世界王者となった。同時に国別対抗トーナメントでも[[日本代表]]が優勝し、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(年間MVP)を津村健志が獲得した。また2005年より、マジックの発展に貢献してきたプレイヤーの功績を称えることを目的とした'''「マジック・プロツアー殿堂」'''が創設され、有識者による投票で毎年3~5人が殿堂入していた。日本からはこれまでに、藤田剛史、中村修平、津村健志、大礒正嗣、三原槙仁、八十岡翔太が選出されている。以後20年代に至っても日本は強豪国の一角を占めている。 以下は、代表的な大会であり、上位の大会は特に'''「プレミアイベント」'''と呼ばれているが、10年代半ばより制度は迷走し、流動的となっていった。競技が『MTGアリーナ』主体となったデジタル時代には改名されたり行われなくなったものも多い。 ; '''世界選手権(Worlds)''' : その年の世界王者を決める大会。かつてはプロツアーに似た招待形式であったり、指定されたプロツアー優勝や前年度プレイヤーオブザイヤーなど、限られたプロのみが招待される形式であった。 ; '''ワールド・マジック・カップ(World Magic Cup、以下WMC)''' : 国別対抗選手権。各国の予選を勝ち抜いたメンバーによる団体戦で行われる。 ; '''プロツアー(Pro Tour、以下PT)''' : 新エキスパンション発売2週間後に行われる、マジック最大規模のトーナメント。参加条件を満たしたプレイヤー達による競技が繰り広げられる。 ; '''ワールド・マジック・カップ予選(World Magic Cup Qualifire、以下WMCQ)''' : 国別対抗戦であるWMCへの出場資格を賭けた大会。参加にはプレインズ・ウォーカー・ポイントによる足切りが存在するなど、上級者向けの大会と言える。 ; '''グランプリ(Grand Prix、以下GP)''' : 誰でも参加可能な、大規模なオープントーナメント。世界各地で頻繁に開催されており、日本では年2~3回開催される。日本国内での開催時は、2000~3000人ものプレイヤーが集まった事も。PTへのステップも兼ねていた時期には、上位成績者にはPTの招待権利とトラベル補助が与えられていた。会場は入場自由となっており、様々なサイドイベントも催され、本戦参加者以外も楽しめるようになっている。 ; '''プロツアー予選(Qualifier、以下PTQ)''' : PTの参加資格をかけたトーナメント。以前は各地で開催され、優勝者にはPTの参加権利が与えられていたが、現在は各地で開催される'''「プロツアー予備予選」'''と、予備予選を通過したプレイヤーのみで参加権利を争う'''「プロツアー地域予選」'''による、二段階選抜方式となっている。 ; '''グランプリトライアル(以下GPT)''' : GPでのBye(不戦勝)をかけたトーナメント。毎大会の優勝者には該当GPでのByeが与えられる。全国各地で頻繁に開かれており、GP前日にもラストチャンストライアルという形で行われる。なお、Byeは一定数以上のプレインズウォーカーポイント(公認大会の成績により付与されるポイント)、プロポイント(詳細は下記参照)を保有する者にも与えられる。 ; '''プレリリーストーナメント''' : 新製品の発売を記念して、公式発売前に製品を楽しめるイベント。全国のショップで開催され、参加者には記念のプレリリースカードが配布される。 ; '''フライデーナイト・マジック(FNM)''' : 金曜日の夜に開催される店舗内トーナメント。参加者の中から4名に特製のプロモーション・カードが配布される。新エキスパンション発売日のFNMはランチ・ウィークエンドとされ、参加するだけで特製カードを貰える。 ; '''スタンダード・ショーダウン''' : セット毎に期間限定で各ショップで週末(土・日)に開催されるスタンダード形式の店舗内トーナメント。カード5枚入りの特製パックが褒賞として配布される。 ; '''ストアチャンピオンシップ''' : 旧名称はゲームデー。各セットのシーズン最後に、各ショップにて行われる店内チャンピオン決定戦。参加者や成績上位者にはテキストボックスが廃された特別なカードが配布され、優勝者には「CHAMPION」の文字が記されたプレイマットが贈られる。 ; '''マジック・リーグ''' : 初心者やカジュアル層向けに全国のショップで開催されている店舗内リーグ。開催されている店舗で好きなブースターパックを3つ買い、それで30枚以上のシールドデッキを組む。 デッキは専用のストレージボックスに保管し月末のリーグ戦区切りまで使い続けるが、3回負けるごとに1パックを追加購入してデッキを強化する権利が与えられる。 ; '''プロポイント''' : PTでの成績により獲得できるポイント。GP上位入賞などでも獲得することができる。 : プロプレイヤーは年間を通してプロポイント獲得を競い、年間で最もポイントを獲得したプレイヤーは「プレイヤー・オブ・ザ・イヤー」に選出される。 日本人では過去に津村健志(2005年)、八十岡翔太(2006年)、斎藤友晴(2007年)、中村修平(2008年)、渡辺雄也(2009年、2012年)の5名が選出されている。 ; '''プロプレイヤーズ・クラブ''' : プロプレイヤーの特典。前年または当年のプロポイント獲得数に応じ3段階のレベルが設定され、プロツアー参加報酬、宿泊ホテルなどが支給される。 === 細かいルールとジャッジ === 言葉や能力の定義を厳密に定めた総合ルール(Comprehensive Rules、CR)と呼ばれるものがある。これだけで一冊の本にできるだけの情報量があるうえ、日々ルールに矛盾や問題点などがないか検討され改定され続けている。また、そのルールの理解度や大会運営の能力に応じてレベル1~5までのジャッジ資格が設けられており、大会の規模に応じて相応のレベルを持つジャッジの監督が必要である。大会全体を統括するジャッジは特に「ヘッドジャッジ」と呼ばれ、その大会におけるルール裁定の最終的な決定権をもつ。日本国内の都道府県選手権などの規模の大会のヘッドジャッジはレベル2が普通だが、日本人にもレベル3保有者が数人おり、海外で開催される大規模な大会には多くの場合日本人ジャッジが参加している。基本的にジャッジは無給だが、参加することにより専用のプロモーションカードが配布されるのである。 === 認定トーナメントルール === マジックには'''フォーマット'''と呼ばれる幾つかのトーナメント方式があり、使えるカードセット等が異なる。 「構築戦(コンストラクテッド: constructed)」は決められたカードセットを使い、事前にデッキ(枚数60枚以上{{efn2|当初は40枚のデッキを最低枚数としたルールが制定されていたのだが、これが競技として問題があった事から、60枚と同名カード4枚の制限に改訂された<ref>{{Cite web|和書|url=https://mtg-jp.com/reading/mm/0004238/ |title=読み物 マジック「オワタ」二十選 |website=マジック:ザ・ギャザリング 日本公式|publisher= |accessdate=2020-5-23}}</ref>。}} + サイドボード15枚)を構築するもの。 「限定戦(リミテッド: limited)」はブースターパックをあけてその場でデッキ(枚数40枚以上)を組む方式である。 * 「エターナル」の語は非ローテーション制という意味に誤解される事がしばしばだが、使えるカードセットに制限がないという意味{{efn2|name=":0"|イベント規定で「構築」といった場合は「スタンダード」「パイオニア」「モダン」の3つだけを指す。}}{{efn2|name=":1"|イベント規定では「構築」と「エターナル構築」と「パウパー」は明確に分けられているが、総合ルールでは「構築」にはエターナルとパウパーも含まれている。単純に「構築」と書かれている場合はどちらの意味なのかに注意。}}。 * マジックの対戦は基本的に1対1で行われるが、多人数戦や団体戦に関するルールも存在し、認定トーナメントに於いても多人数戦や団体戦が行われている。 ** 「多人数戦」は複数のプレイヤーと同時に対戦するルールで、事前にチームを組むものと、特にチームは組んでいないが席次によって敵味方を区別するものとがある(後者は非公式フォーマットのみ)。 ** 「団体戦」は事前にチームを組み、チーム同士で個人戦や多人数戦を行うもの。なおチーム戦における限定戦では、個々のプレイヤーが獲得したパックやカードをチーム内で自由に分配して良い。 これ以外にも公式では無いが一定のルールが整備され、広く親しまれているフォーマットも存在する。 ;構築戦 {|class="wikitable" style="margins:auto; width=95%; font-size: 95%;" ! !! 種別 !! 紙製品サポート !! MTGAサポート !! MTGOサポート !! 公式大会採用 |- |'''[[スタンダード (マジック:ザ・ギャザリング)|スタンダード]]''' || ローテーション制 || 〇 || 〇 || 〇 || 〇 |- |アルケミー || ローテーション制 || × || 〇 || × || 〇 |- |ヒストリック || 非ローテーション制 || × || 〇 || × || 〇 |- |職工(アーティザン) || イベント毎ルール設定 || × || 〇 || × || × |- |アリーナパウパー || イベント毎ルール設定 || × || 〇 || × || × |- |フューチャースタンダード || ローテーション制 || × || 〇 || × || × |- |'''[[パイオニア (マジック:ザ・ギャザリング)|パイオニア]]''' || 非ローテーション制 || 〇 || × || 〇 || 〇 |- |エクスプローラー || 非ローテーション制 || × || 〇 || × || × |- |'''[[モダン (マジック:ザ・ギャザリング)|モダン]]''' || 非ローテーション制 || 〇 || × || 〇 || 〇 |- |'''[[レガシー (マジック:ザ・ギャザリング)|レガシー]]''' || エターナル || △{{efn2|name="rsv"|再録禁止カードによる新規参入障壁}} || × || 〇 || △{{efn2|name="減少"|少数もしくは減少・廃絶傾向}} |- |'''[[ヴィンテージ (マジック:ザ・ギャザリング)|ヴィンテージ]]''' || エターナル || △{{efn2|name="rsv"}} || × || 〇 || △{{efn2|name="減少"}} |- |'''パウパー''' || 非ローテーション制 || 〇 || × || 〇 || △{{efn2|name="減少"}} |- |'''[[統率者戦]]''' (コマンダー、EDH) || カジュアル、多人数戦、非ローテーション制 || 〇 || × || 〇 || × |- |一対一統率者戦 || カジュアル、非ローテーション制 || 〇 || × || 〇 || × |- |ブロール || カジュアル、ローテーション制 || 〇 || 〇 || 〇 || × |- |ヒストリック・ブロール || 非公式 || × || 〇 || × || × |- |Gladiator<ref>https://gladiator.blog/about-gladiator/</ref> || 非公式 || × || △{{efn2|name="freeform"|[[Discord (ソフトウェア)|Discord]]等外部コミュニケーションによる申し合わせの上でのフリーフォーム対戦}} || × || × |- |パウパーEDH || 非公式、多人数戦 || 〇 || × || △{{efn2|name="freeform"}} || × |- |双頭巨人戦 || ペア戦、非ローテーション制 || 〇 || × || × || △{{efn2|name="減少"}} |- |Penny Dreadful || ローテーション制 || × || × || 〇 || × |- |Old School 93/94<ref>https://www.eternalcentral.com/9394rules/</ref><ref>https://sentineloldschoolmtg.com/atlantic-93-94/</ref><ref>http://oldschool-mtg.blogspot.com/p/banrestriction.html</ref> || 非公式、カードプール固定 || △{{efn2|name="rsv"}}{{efn2|name="reprint"|該当カードの再録のみ}} || × || △{{efn2|name="freeform"}} || × |- |Premodern<ref>https://premodernmagic.com/</ref> || 非公式、カードプール固定 || △{{efn2|name="reprint"}} || × || △{{efn2|name="freeform"}} || × |- |旧枠モダン || 非公式 || △{{efn2|name="reprint"}} || × || △{{efn2|name="freeform"}} || × |} ;限定戦 * [[シールド・デッキ]] * [[ブースター・ドラフト (マジック:ザ・ギャザリング)|ブースター・ドラフト]] * [[ブースター・ドラフト (ゲーム)#ロチェスター・ドラフト|ロチェスター・ドラフト]]{{efn2|3人チーム戦のみ。個人戦と2人チーム戦は2005年2月に廃止。}} * モミール・ベーシック * キューブドラフト ;かつて存在したフォーマット * タイプ1.5{{efn2|レガシーの前身となったフォーマット。タイプ1がヴィンテージに名前が変わった際にタイプ1.5もレガシーと名称変更された。しかしそれ以前は単純にタイプ1の制限カード=タイプ1.5の禁止カードと決められていた上に、タイプ1の環境を見ての禁止改定が行われていたので、移行の際には禁止カードが完全に置き換えられた。そのことからタイプ1→ヴィンテージのような継続性は薄く、実質的にはタイプ1.5の廃止とレガシーの新設となっている。}} * [[エクステンデッド (マジック:ザ・ギャザリング)|エクステンデッド]] * [[ブロック構築 (マジック:ザ・ギャザリング)|ブロック構築]] * 基本セット構築 * テーマデッキ対戦 * プリズマティック * 100カード・シングルトン * トライバル・ウォーズ * カレイドスコープ * クラシック * フロンティア == マジックを取り扱った作品 == ; 公式小説 : 公式の背景世界を舞台とし、1994年より出版展開された小説群。[[:en:List of Magic: The Gathering novels]]を参照。日本語翻訳では以下が出版。 :* [[:en:William R. Forstchen|ウィリアム・R・フォースチェン]]著『アリーナ - 魔法の闘技場』(''"Arena"'') 1996年[[アスペクト (企業)|アスペクト]] :* [[:en:Clayton Emery|クレイトン・エマリィ]]著『ささやきの森』(''"Whispering Woods"'') 1996年[[アスペクト (企業)|アスペクト]] :* Scott McGough著『無頼の徒 - 小説神河物語』(''"Outlaw: Champions of Kamigawa"'') 2004年[[ホビージャパン]] : ; [[デュエルファイター刃]] : [[1997年]]から[[2003年]]まで、『[[RPGマガジン]]』とその後身である『[[ゲームぎゃざ]]』に連載されていた[[中村哲也]]の漫画。主人公たちがバーチャル空間の仮想闘技場でゲームを繰り広げる。 ; [[デュエル・マスターズ (漫画)|デュエル・マスターズ]] : [[1999年]]から[[2011年]]まで、『[[月刊コロコロコミック]]』に連載されていた[[松本しげのぶ]]の漫画。主人公・切札勝舞がカードを通して成長する姿を描く。ただし、マジックが登場するのは[[2001年]](第6巻)までで、[[2002年]](第7巻)以降は、マジックの派生カードゲームである「[[デュエル・マスターズ]]」を題材にした漫画へ路線変更された。 ; マジック:ザ・レジェンド : 1999年、『[[コミックGOTTA|ハイパーコロコロ]]』に掲載された[[小野敏洋]]の読み切り漫画。ドミナリアが舞台となっている。 ; [[MAGIC URZA & MISHRA]] : [[2000年]]に『[[コミックGOTTA]]』で連載されていた小野敏洋の漫画。背景ストーリー小説『The Brothers' War』を漫画化したもの。ウルザとミシュラの兄弟戦争が描かれる。 ; スターライト・ウィザード : 日本語版の発売元が[[ホビージャパン]]だった頃に、ホビージャパンのマジック公式ページに連載されていた[[高木律]]の漫画。現在は、ホビージャパンのマジック公式ページが消滅したため見ることができない。 ; スターライト・マナバーン : 『スターライト・ウィザード』の続編。作者は高木律。はじめはマジック専門雑誌『マナバーン』に連載されていたが、マナバーンの休刊に伴い、ゲームぎゃざでの連載に移行。さらにホビージャパンのホームページ内に移行して完結。ホームページ連載分はスターライト・ウィザード同様、現在は消滅して見ることができない。 ; [[マジック:ザ・ギャザリング 燃え尽きぬ炎]] : [[2010年]]4月号から[[2011年]]6月号まで『[[電撃マ王]]』で連載された漫画。背景ストーリー小説『The Purifying Fire』の内容を踏まえた作品。漫画[[日森よしの]]、脚本[[村山吉隆]]、原作[[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]]。 ; 死んでもイイ奴等 : ホビージャパンが日本語版の発売元だった頃に、同社の公式ページにて連載されていたポルチャ梅山による漫画作品。後継作品に『カマール外伝』も存在する<ref>{{Wayback |url=http://www.hobbyjapan.co.jp/magic/comics/index.html |title=マジック : ザ・ギャザリング webコミック|date=20030815075438 }}</ref>。 ; マジック学園生徒会 : [[村山吉隆]]脚本・[[両角潤香]]作画。2012年[[電撃オンライン]]内「マナの泉」連載。 ; [[すべての人類を破壊する。それらは再生できない。]] : [[伊瀬勝良]]原作・[[横田卓馬]]作画。[[少年エース]]2018年10月号読み切り掲載、2019年1月号以後連載・書籍化。タイトルは《神の怒り/Wrath of God》の第6版以降のカードテキストより。1990年代後半の日本を舞台に、マジックを通じて主人公たちが織り成す日常と成長、青春を描く。なお紙版の単行本各巻には公式プロモカード1枚(過去セットからの再録)が付属する。 ; 切札勝舞はマジック:ザ・ギャザリングを使いつづける : 松本しげのぶ原作・[[コーヘー]]作画。2018年秋号から2021年春号(最終号)まで『[[コロコロアニキ]]』で連載された漫画。「もしも『デュエル・マスターズ』の主人公・切札勝舞がデュエマではなく未だにマジックを使い続けていたら」というifストーリーを描いたギャグ漫画。 == コンピュータゲーム == ; Windows 95版 : コンピュータゲームにおける最初のウィザーズ・オブ・ザ・コースト公認作品。1997年発売(英語版はMICRO PROSE社、日本語移植版はメディアクエスト)。オンライン未対応。 : カードはアンリミテッド、リバイズド、第4版およびオリジナルカード12種を収録、ルールは第5版を採用。いわゆる構築戦を行う「デュエル」と、ロールプレイング風ゲーム「シャンダラー」の、2種類のゲームモードを搭載。当時の未訳カードもゲーム内では全て日本語化されている。 : 後に第4版以前のエキスパンションを収録した拡張セットや、オンライン対応版も発売された。 ; ドリームキャスト版 : 第6版のカード&ルールを採用した移植作品。ドリームキャスト版オリジナルカード10枚がこの作品に収録されている。舞台は辺境のプレーン「セレスタ」にて青年戦士タイラーが侵略者から土地を奪還する物語。 : 2001年発売、開発元はアルファ・システム、発売はセガ。 : 当初はオンライン対戦も考慮したうえで作られていたが、諸般の事情によりオンライン機能は削除された<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010705/magic.htm インプレス DCゲームレビュー 「MAGIC:The Gathering」]</ref> ; [[:en:Magic: The Gathering Online|Magic: The Gathering Online]](Magic Online、MTGO) : [[2002年]][[6月]]にサービスが開始された。オンラインで差別されることは基本的に無く、PTQが行われたり、年間チャンピオンは世界選手権へ招待される。また、1エキスパンションの全てのカードを1枚ずつ揃える事により、紙のカードへと現物化して貰うことも可能。 ; デュエルズ・オブ・ザ・プレインズウォーカーズシリーズ : ダウンロード販売ソフト。 :; デュエルズ・オブ・ザ・プレインズウォーカーズ :: [[Xbox 360]]、[[PlayStation 3]]、パソコン用が2009年より配信。 :; デュエルズ・オブ・ザ・プレインズウォーカーズ2012 :: Xbox 360、PlayStation 3、パソコン用が2011年より配信。PS3版のみ日本語版が存在。 :; デュエルズ・オブ・ザ・プレインズウォーカーズ2013 :: Xbox 360、PlayStation 3、パソコン用、[[iPad]]用が2012年より配信。これより全プラットフォームで日本語化される。 :; デュエルズ・オブ・ザ・プレインズウォーカーズ2014 :: Xbox 360、PlayStation 3、パソコン用、iPad用に加え、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]用が追加される。 : ; [[:en:Magic: The Gathering Arena|Magic: The Gathering Arena]](MTGアリーナ) : 2017年11月ベータ版サービス開始。[[Free-to-play|基本プレイ無料]]、2019年2月日本語対応、2019年9月正式サービス開始。 : 一部には本作のオリジナルカードも収録されている。 == 評価 == 『MTG』は長い歴史に膨大な種類のカードなどから、様々な研究が続けられている。その中で、「『MTG』は[[チューリング完全]]である。<ref>{{cite web|url=https://www.toothycat.net/~hologram/Turing/|title=Magic: the Gathering is Turing Complete|accessdate=2019-5-14}}</ref>」という変わった研究をしていた、ボードゲームデザイナーのアレックス・チャーチルと研究グループは、コンピュータや[[チューリングマシン]]でプレイできるようにゲームを変換し、ゲームの複雑さを定量的に測定した{{efn2|これまでのゲーム理論の研究は、主に仮想的なゲームで行われることが多かったという。この研究では、実際にプレイされている現実のゲームを対象にしていることが特徴だとチャーチルは説明している。}}{{efn2|研究に使用されたデッキは、これまで発売された禁止カード以外の全てのカードが使用できる「レガシー」ルールで構築可能なもの。}}。 研究の結果チャーチルらは、「『MTG』が、現実に存在するゲームの中でもっとも複雑なゲームの一つである」と結論づけた。ある特定の条件下では、勝利のための最善手のアルゴリズムを導き出すことができないことが証明されたという。論文では、これを現実世界に勝利戦略の決定が計算不可能なゲームが存在することを証明する最初の結果、とまとめている<ref>Magic: The Gatheringis Turing Complete [https://arxiv.org/pdf/1904.09828.pdf]</ref>。 最初に報じた『[[MITテクノロジーレビュー]]』は、「全てのゲームは計算可能でなければならない」という仮定に反証した最初の現実世界のゲームだとしている<ref>{{cite web|url=https://www.technologyreview.com/s/613489/magic-the-gathering-is-officially-the-worlds-most-complex-game/?utm_medium=tr_social&utm_campaign=site_visitor.unpaid.engagement&utm_source=twitter|title=“Magic: The Gathering” is officially the world’s most complex game|date=2019-5-7|publisher=MIT Technology Review|accessdate=2019-5-14}}</ref>。 == 映像化企画 == 2014年には[[20世紀FOX]]が映画化権をHasblo社から取得していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/136/G013687/20140115012/ |title=「マジック・ザ・ギャザリング」が映画シリーズ化? 20世紀フォックスが映画化権を取得 |website=4gamer.net |publisher= |accessdate=2021-6-15}}</ref>。 2019年6月には、Netflixによるアニメ化を発表。監督は『アベンジャーズ エンドゲーム』のアンソニー、ジョー・ルッソ兄弟としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/136/G013687/20190604052/ |title=Netflixが「マジック:ザ・ギャザリング」のアニメ化を発表 |website=4gamer.net |publisher= |accessdate=2021-6-15}}</ref>。一方で、同年7月には、米国のサンディエゴ・コミコンの会場にて、ルッソ兄弟の口頭から「アニメーション企画が実写へと派生する可能性もある」と語られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://theriver.jp/mtg-anime-spinoff-possibility/ |title=アニメ版「マジック:ザ・ギャザリング」、実写版スピンオフ製作の可能性も ─ 『アベンジャーズ』ルッソ監督プロデュース |website=THE RIVER |publisher= |accessdate=2021-6-15}}</ref>。その後、2021年8月にDEADLINEが報道したところでは、制作は『[[超ロボット生命体 トランスフォーマー プライム|トランスフォーマープライム]]』を手掛けた{{仮リンク|Jeff Kline|en|Jeff Kline}}による新しいチームに引き継がれたとしている<ref>{{Cite web |url=https://deadline.com/2021/08/magic-the-gathering-jeff-kline-new-creative-team-netflix-animated-series-russo-brothers-exit-1234818588/ |title=‘Magic the Gathering’: Jeff Kline Leads Creative Team Of Netflix Animated Series After Russo Brothers Depart |website=DEADLINE |publisher= |accessdate=2021-8-21}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 外部リンク == === 公式 === * [https://magic.wizards.com/ja マジック:ザ・ギャザリング]{{ja icon}} * [https://mtg-jp.com マジック:ザ・ギャザリング 日本公式ウェブサイト]{{ja icon}} ** {{Twitter|mtgjp|マジック:ザ・ギャザリング}}{{ja icon}} ** {{Twitter|MagicEsports|Magic Esports}}{{en icon}} ** {{Facebook|MagicTheGathering.jp|Magic: The Gathering}}{{ja icon}} ** {{Twitch|mtgjp|mtgjp}}{{ja icon}} ** {{ニコニコチャンネル|mtgjp|マジックチャンネル}}{{ja icon}} ** {{YouTube|c=UC1ZIz7yxz0aQbeeC8_iTVwQ|マジック:ザ・ギャザリング}}{{ja icon}} * [https://mjmj.info MJMJ.info](日本語版ルールに関する準公式ページ) === コミュニティ === * [http://www.mtgwiki.com/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 Magic: the Gathering Wiki](だれでも編集可能な[[ウィキ]]形式のサイト) * [http://blog.livedoor.jp/sideboard_online/ MTG Sideboard Online 日本語版スレまとめ]:同じくMTG Sideboard Online 日本語版スレまとめサイト。Braingeyser(infoseekの無料HPサービス終了に伴い消失)でまとめられていなかった翻訳記事を読むことができる。 * [https://mtg.deckup.cards/ DECK-UP]:デッキ登録支援サイト。登録したデッキを公開したりサイト上で動作させることもできる。 * [https://mtgqaboxjp.tumblr.com MTG 質問箱]:ルールFAQのアーカイブ。 === 企業サイト === * [https://dengekionline.com/pr/d-mtg/ 電撃MTG]:電撃オンライン内マジックコーナー(旧マナの泉)。初心者向け記事など。 * [https://www.hareruyamtg.com/ja/ 晴れる屋]:カードショップ晴れる屋が運営する総合ポータルサイト。プロモカードやカード価格まで調べられるデータベースに、デッキリスト検索やコラム、カバレージもある。 * [http://www.bigmagic.net/top.html BIGWEB]:カードショップBIG MAGICが運営する情報サイト。コラム、動画配信、カバレージ等。 * {{Wayback |url=http://www.hobbyjapan.co.jp/magic/ |title=マジック : ザ・ギャザリング ホビージャパン公式 |date=20041101021615 }} 日本国内において、2004年までマジック:ザ・ギャザリングの代理店を担当していたホビージャパンの公式ページ。 * {{Wayback |url=http://mtg.takaratomy.co.jp/beginner/index.html |title=マジック : ザ・ギャザリング タカラトミー公式 |date=20100510160306 }} 日本国内において、2005年から2012年までマジック:ザ・ギャザリングの代理店を担当していたタカラトミーの公式ページ。 {{マジック:ザ・ギャザリング}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ましつくさきやさりんく}} [[Category:マジック:ザ・ギャザリング|*]] [[Category:ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]] [[Category:1990年代のトレーディングカードゲーム]] [[Category:メンサ・インターナショナル]] [[Category:頭脳ゲーム]]
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9月22日
9月22日(くがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から265日目(閏年では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。
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9月22日(くがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から265日目(閏年では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。
{{カレンダー_9月}} '''9月22日'''(くがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から265日目([[閏年]]では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。 == できごと == * [[904年]]([[天祐 (唐)|天祐]]元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[唐]]の[[昭宗 (唐)|昭宗]]が[[朱全忠]]に派遣された[[朱友恭]]・氏叔琮・蔣玄暉らの率いる兵によって暗殺される。 * [[1236年]] - [[北方十字軍]]: [[ザウレの戦い]]。[[リトアニア]]が[[リヴォニア帯剣騎士団]]を破る。 * [[1499年]] - [[バーゼルの和約 (1499年)|バーゼルの和約]]により[[シュヴァーベン戦争]]が終結。 * [[1504年]] - [[イタリア戦争]]・[[第二次イタリア戦争]]: [[ブロワ条約 (1504年)]]が締結。 * [[1579年]]([[天正]]7年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[有岡城の戦い]]: [[荒木村重]]が配下を残し、[[有岡城]]を脱出。 * [[1586年]] - [[八十年戦争]]: [[ズトフェンの戦い]]([[:en:Battle_of_Zutphen|Battle of Zutphen]])。 * [[1609年]] - バレンシア[[副王]]・[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]大司教フアン・デ・リベラが、[[スペイン王]][[フェリペ3世]]によりこの年の[[4月9日]]に署名された[[モリスコ追放]]を定めた勅令の公表を命令。 * [[1761年]] - イングランド王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット]]王妃の戴冠式。 * [[1776年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[アメリカ]]初の[[スパイ]]として知られる[[ネイサン・ヘイル]]が[[絞首刑]]に処される。 * [[1789年]] - [[露土戦争 (1787年-1791年)]]: [[リュムニクの戦い]]([[:en:Battle_of_Rymnik|Battle of Rymnik]]) * [[1792年]](フランス革命暦I年ヴァンデミール1日) - [[フランス革命]]: [[フランス革命暦]]の起点とされる日。使用開始は[[1793年]][[11月24日]]。 * [[1793年]] - [[ヴァンデの反乱]]: [[サン・フュルジャンの戦い]]([[:en:Battle_of_Saint-Fulgent|Battle of Saint-Fulgent]])。 * 1793年 - ヴァンデの反乱: [[パレの戦い]]([[:fr:Bataille_du_Pallet|Bataille du Pallet]])。 * [[1830年]] - [[大コロンビア]]から[[ベネズエラ]]が独立。 * [[1857年]] - [[ロシア]]軍艦[[ル・フォール (軍艦)|ル・フォール]]([[:en:Russian_ship_of_the_line_Lefort|Russian ship of the line ''Lefort'']])が[[フィンランド湾]]で嵐により沈没。搭乗していた826人全員が死亡。 * [[1862年]] - [[エイブラハム・リンカーン]]米大統領が[[奴隷解放宣言]]第1部を発表。 * [[1866年]] - [[パラグアイ戦争]]: [[クルパイティの戦い]]([[:en:Battle_of_Curupayty|Battle of Curupayty]])、数少ない[[パラグアイ]]軍が勝利した戦い。 * [[1869年]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]の[[オペラ]]『[[ラインの黄金]]』が[[バイエルン国立歌劇場|ミュンヘン宮廷歌劇場]]で初演。 * [[1885年]] - [[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル]]が[[アイルランド自治法]]運動に反対して[[アルスター]]で演説をする。<!-- enより --> * [[1887年]] - [[石井十次]]が日本初の[[孤児院]]「孤児教育会」(後の[[岡山孤児院]])を岡山市内に創設。 * [[1888年]] - [[ナショナルジオグラフィック協会]]が雑誌『The National Geographic Magazine』(現在の『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|National Geographic]]』)を創刊。 * [[1892年]] - [[イギリス]]の[[ランカシャー]]で[[リンダル鉄道事故]]([[:en:Lindal_Railway_Incident|Lindal railway incident]])が発生。コナン・ドイルの小説の原案になる。 * [[1896年]] - この日をもって[[ヴィクトリア女王]]が祖父の[[ジョージ3世]]を抜いて史上最長期間[[イギリスの君主|英王]]位に君臨した王となる。 * [[1900年]] - [[パリ市長宴会]]([[:fr:Banquet_des_maires_de_1900|Banquet des maires de 1900]])が行われる。 * [[1908年]] - [[ブルガリア]]が[[オスマン帝国]]からの{{仮リンク|ブルガリア独立宣言|en|Bulgarian Declaration of Independence|label=独立を宣言}}。 * [[1912年]] - この日の夜に[[四国]]東部に[[台風の上陸|上陸]]した[[台風]]は、[[日本海]]を北上して[[北海道]]にまで被害を出した<ref>{{Cite book|和書|title=明日の防災に活かす災害の歴史〈4〉明治時代~昭和時代中期|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33704-5|author=[[伊藤和明]]|page=20}}</ref>。北海道では多くの漁船が転覆したほか、[[富山県]]地方で[[列車]]転覆などの被害があった<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000165139 レファレンス]([[国立国会図書館]])</ref>。全国で661人が死亡した<ref>『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ 2010年 (p.17)</ref>。→ [[大正元年の台風]] * [[1914年]] - [[第一次世界大戦]]: [[Uボート]]により[[イギリス海軍|英海軍]]軍艇のHMS[[アブキール (軍艦)|アブキール]]([[:en:HMS_Aboukir_(1900)|HMS ''Aboukir'' (1900)]])、[[クレッシー (軍艦)|クレッシー]]([[:en:HMS_Cressy_(1899)|HMS ''Cressy'' (1899)]])、[[ホーグ (軍艦)|ホーグ]]([[:en:HMS_Hogue_(1900)|HMS ''Hogue'' (1900)]])が沈没する([[1914年9月22日の行動]]([[:en:Action_of_22_September_1914|Action of 22 September 1914]]))。 * [[1919年]] - [[ペンシルベニア州]]で[[1919年鉄鋼ストライキ]]([[:en:Steel_strike_of_1919|Steel strike of 1919]])が始まる。 * [[1934年]] - [[グレスフォード災害]]([[:en:Gresford_disaster|Gresford disaster]])により[[ウェールズ]]で266人の鉱山労働者と救助者が死亡。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ポーランド侵攻]]の成功を祝う目的で{{仮リンク|ブレスト=リトフスクのドイツ・ソビエト共同軍事パレード|en|German–Soviet military parade in Brest-Litovsk}}が行われる。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[フィンランド]]が日本との国交を断絶。 * [[1945年]] - [[アメリカ合衆国]]が降伏後における米国の初期の対日方針(初期対日方針)を発表、アメリカ単独による占領を規定。 * 1945年 - 武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道と食糧増産を吸収合併して西武農業鉄道(現 [[西武鉄道]])に改称。 * [[1946年]] - [[坂町駅]]でヤミ米を押収しようとした警察官を在日中国人・朝鮮人が集団で襲撃([[坂町事件]])。 * [[1948年]] - [[ベルリン封鎖]]: ゲイル・ハルヴォルセン(Gail Halvorsen)がベルリン空輸の一環として子供たちにキャンディーの配布を開始。 * 1948年 - [[全パレスチナ政府]]([[:en:All-Palestine_Government|All-Palestine Government]])が[[アラブ連盟]]により設置される。 * [[1949年]] - [[長野県]]、[[山梨県]]、[[新潟県]]に翌日にかけて豪雨。[[長野市]][[裾花川]]の堤防が決壊して死者・行方不明者29人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=74|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1950年]] - [[日本大学]]に勤務していた運転手の少年が給料を強奪し、愛人と逃走するも2日後に逮捕([[日大ギャング事件]]、オー・ミステーク事件)。 * [[1955年]] - [[冷戦]]: [[西ドイツ]]の[[コンラート・アデナウアー]]首相が外交方針「[[ハルシュタイン原則]]」を表明。 * [[1960年]] - 8月に[[マリ連邦]]から[[セネガル]]が離脱したのに伴い、スーダン共和国(旧 フランス領スーダン)が[[マリ共和国]]に改称。 * [[1966年]] - [[アンセットANA149便事故]]([[:en:Ansett-ANA_Flight_149|Ansett-ANA Flight 149]])。 * [[1968年]] - [[エジプト]]で[[アスワン・ハイ・ダム]]建設に伴う[[アブ・シンベル神殿]]の移転工事が完了。 * [[1970年]] - [[トゥンク・アブドゥル・ラーマン]]が[[マレーシアの首相|マレーシア首相]]を辞任。後任に[[アブドゥル・ラザク]]が就任。 * [[1975年]] - [[大韓民国]]で[[民兵]]組織「[[民防衛隊]]」が発足。 * 1975年 - [[フォード大統領暗殺未遂事件 (サンフランシスコ)]]([[:en:Gerald_Ford_assassination_attempt_in_San_Francisco|Gerald Ford assassination attempt in San Francisco]])が発生。[[サラ・ジェーン・ムーア]]による。 * [[1979年]] - [[ヴェラ事件]]。アメリカの[[核実験]]監視衛星「[[ヴェラ (人工衛星)|ヴェラ]]」が、[[南アフリカ共和国]]近海の洋上での核実験類似の大爆発を観測。 * [[1980年]] - [[イラク]][[空軍]]の[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]が[[テヘラン]]などの[[空港]]を[[空襲|爆撃]]して侵攻を開始、[[イラン・イラク戦争]]が本格化。 * [[1982年]] - [[三越事件]]: [[三越]]取締役会議で[[岡田茂 (三越)|岡田茂]]代表取締役社長を解任。岡田が発した「なぜだ!」が流行語になる。 * [[1985年]] - [[G7|G5]]で[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]高是正のための[[プラザ合意]]が成立。[[円 (通貨)|円]]が[[為替]]相場で急騰。 * [[1986年]] - [[安中公害訴訟]]の和解が成立。[[東邦亜鉛]]が住民に4億5000万円を賠償。 * [[1987年]] - [[昭和天皇]]が開腹手術を受ける。天皇の開腹手術は史上初。病名は「慢性膵臓炎」と発表。 * [[1989年]] - [[大相撲]][[本場所#9月場所|秋場所]]で[[千代の富士貢|千代の富士]]が通算965勝を挙げ、最多勝記録を樹立。 * [[1997年]] - ロックバンド「[[X JAPAN]]」が解散表明。 * [[2003年]] - [[第1次小泉内閣 (第2次改造)|小泉再改造内閣]]が発足。 * [[2006年]] - [[ドイツ]]の[[磁気浮上式鉄道]]([[トランスラピッド]])エムスランド実験線で、試運転の列車が工事車両と衝突。作業員と列車に乗車していた見学客23名が死亡。 * 2006年 - [[アメリカ海軍]]に配備されていた[[戦闘機]]:[[F-14 (戦闘機)|F-14]](トムキャット)が全機退役。 * [[2012年]] - JR[[只見線]]において[[閉塞 (鉄道)|タブレット閉塞]]による運行が終了し、JRのすべての路線からタブレット閉塞による運行保安システムが消滅。 * [[2016年]] - 日本のプロ[[バスケットボール]]リーグ・[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]が開幕。 * [[2018年]] - [[イラン]]・[[フーゼスターン州]][[アフヴァーズ]]にて行われた[[観兵式|軍事パレード]]が武装集団によって襲撃され、29人死亡([[2018年アフヴァーズに於ける軍事パレード襲撃事件]])。 * [[2022年]] - 政府が急速な円安を阻止するために為替介入を実施。1998年6月以来のおよそ24年ぶりとなる。同日17時15分、財務省の[[神田眞人]]財務官が表明した。 == 誕生日 == === 人物 === [[File:Anna of Austria by Rubens (1622-1625, Norton Simon Museum).jpg|thumb|120px|[[アンヌ・ドートリッシュ]](1601-1666)]] [[File:Shigeru Yoshida smiling2.jpg|thumb|120px|[[吉田茂]](1878-1967)]] [[File:Bundesarchiv Bild 183-1998-0112-500, Wilhelm Keitel.jpg|thumb|120px|[[ヴィルヘルム・カイテル]](1882-1946)]] [[File:CNYang.jpg|thumb|120px|[[楊振寧]](1922-)]] [[File:Socialist rally Zenith 2007 05 29 n13.jpg|thumb|120px|[[セゴレーヌ・ロワイヤル]](1953-)]] * [[1013年]] - リグザ([[:en:Richeza_of_Poland,_Queen_of_Hungary|Richeza of Poland, Queen of Hungary]])、ポーランド王妃(+ [[1075年]]) * [[1211年]] - [[イブン・ハリカン]]([[:en:Ibn_Khallikan|Ibn Khallikan]])、学者(+ [[1282年]]) * [[1515年]] - [[アン・オブ・クレーヴズ]]、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]妃(+ [[1557年]]) * [[1523年]] - [[シャルル1世・ド・ブルボン (ルーアン大司教)|シャルル1世・ド・ブルボン]]、ルーアン大司教(+ [[1590年]]) * [[1552年]] - [[ヴァシーリー4世]]、ロシアの[[ツァーリ]](+ [[1612年]]) * [[1593年]] - [[マテウス・メーリアン]]、[[版画家]]、[[製図]]家(+ [[1650年]]) * [[1601年]] - [[アンヌ・ドートリッシュ]]、フランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]妃(+ [[1666年]]) * [[1606年]]([[万暦]]34年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[李自成]]、農民反乱指導者、[[順 (王朝)|順王朝]](大順)皇帝(+ [[1645年]]) * [[1650年]]([[慶安]]3年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[京極高盛]]、[[豊岡藩|豊岡藩主]](+ [[1709年]]) * [[1680年]] - [[バルトルド・ハインリッヒ・ブロックス]]([[:en:Barthold_Heinrich_Brockes|Barthold Heinrich Brockes]])、詩人(+ [[1747年]]) * [[1694年]] - [[フィリップ・スタンホープ (第4代チェスターフィールド伯爵)|フィリップ・スタンホープ]]、第4代チェスターフィールド伯爵(+ [[1773年]]) * [[1715年]] - [[ジャン=エティエンヌ・ゲタール]]、鉱物学者(+ [[1786年]]) * [[1722年]] - [[フランシスコ・アントニオ・デ・ロレンツァーナ・イ・ブトロン]]([[:en:Francisco_Antonio_de_Lorenzana|Francisco Antonio de Lorenzana y Butrón]])、聖職者(+ [[1804年]]) * [[1725年]] - [[ジョゼフ・デュプレシ]]、[[画家]](+ [[1802年]]) * [[1741年]] - [[ペーター・ジーモン・パラス]]、動物学者、植物学者(+ [[1811年]]) * [[1743年]] - [[クインティン・クラウファード]]([[:en:Quintin_Craufurd|Quintin Craufurd]])、作家(+ [[1819年]]) * [[1757年]] - [[ジャン=バティスト・キュロス・ド・ティンブルーン・ド・ティアンブロンヌ]]([[:en:Jean-Baptiste_Cyrus_de_Valence|Jean-Baptiste Cyrus de Timbrune de Thiembronne]])、軍人(+ [[1822年]]) * [[1762年]] - [[エリザベス・シムコー]]([[:en:Elizabeth_Simcoe|Elizabeth Simcoe]])、画家(+ [[1850年]]) * [[1765年]] - [[パオロ・ルフィニ]]、数学者(+ [[1822年]]) * [[1768年]]([[明和]]5年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[永井直旧]]、[[加納藩|加納藩主]](+ [[1790年]]) * [[1775年]]([[安永 (元号)|安永]]4年[[8月28日 (旧暦)|8月25日]]) - [[保科正徳]]、[[飯野藩|飯野藩主]](+ [[1844年]]) * [[1788年]] - [[セオドア・フック]]([[:en:Theodore_Hook|Theodore Hook]])、作曲家(+ [[1841年]]) * [[1791年]] - [[マイケル・ファラデー]]、[[物理学者]]、[[化学者]](+ [[1867年]]) * [[1800年]] - [[ジョージ・ベンサム]]、[[植物学者]](+ [[1884年]]) * [[1806年]] - [[ベルナルディーノ・アントニオ・ゴメス・ジュニア]]([[:en:Bernardino_António_Gomes_Jr.|Bernardino António Gomes Jr.]])、医師、科学者(+ [[1877年]]) * [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年8月13日)- [[横井小楠]]、[[儒学者]]、[[熊本藩|熊本藩士]](+ [[1869年]]) * [[1819年]] - [[ウィルヘルム・ワッテンバッハ]]([[:en:Wilhelm_Wattenbach|Wilhelm Wattenbach]])、歴史家(+ [[1897年]]) * [[1828年]] - [[ハインリヒ・アガソン・バーンスタイン]]([[:en:Heinrich_Agathon_Bernstein|Heinrich Agathon Bernstein]])、自然主義者(+ [[1865年]]) * [[1829年]] - [[嗣徳帝]]、ベトナム[[阮朝]]第4代皇帝(+ [[1883年]]) * 1829年 - [[ウィリアム・ワース・ベルナップ]]、第30代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1890年]]) * [[1833年]] - [[スティーブン・D・リー]]、軍人(+ [[1908年]]) * [[1835年]] - [[レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン]](+ [[1905年]]) * [[1841年]] - [[アンドレイス・プンプルス]]([[:en:Andrejs_Pumpurs|Andrejs Pumpurs]])、軍人(+ [[1902年]]) * [[1844年]]([[天保]]15年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[松平信庸 (上山藩主)|松平信庸]]、[[上山藩|上山藩主]](+ [[1918年]]) * [[1862年]] - [[アナスタシオス・チャラランビス]]([[:en:Anastasios_Charalambis|Anastasios Charalambis]])、[[ギリシャの首相|ギリシャ首相]](+ [[1949年]]) * [[1863年]] - [[アレクサンドル・イェルシン]]([[:en:Alexandre_Yersin|Alexandre Yersin]])、細菌学者(+ [[1943年]]) * [[1869年]] - {{仮リンク|アーサー・プライヤー|en|Arthur Pryor}}、[[トロンボーン]]奏者、[[バンドリーダー]](+ [[1942年]]) * [[1870年]] - [[ダク・パワーズ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1909年]]) * 1870年 - [[シャーロット・クーパー]]、テニス選手(+ [[1966年]]) * [[1875年]] - [[ミカロユス・チュルリョーニス]]、画家、作曲家(+ [[1911年]]) * [[1876年]] - [[アンドレ・タルデュー]]([[:en:André_Tardieu|André Tardieu]])、[[フランスの首相|フランス首相]](+ [[1945年]]) * [[1878年]] - [[吉田茂]]、政治家、[[内閣総理大臣]]、外務大臣ほか(+ [[1967年]]) * 1878年 - [[牧野省三]]、[[映画監督]](+ [[1929年]]) * [[1880年]] - [[クリスタベル・パンクハースト]]([[:en:Christabel_Pankhurst|Christabel Pankhurst]])、社会活動家(+ [[1958年]]) * [[1882年]] - [[ヴィルヘルム・カイテル]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]軍人、[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部]]総長(+ [[1946年]]) * [[1883年]] - [[フェレンツ・オスレイ]]([[:en:Ferenc_Oslay|Ferenc Oslay]])、歴史家(+ [[1932年]]) * [[1885年]] - [[グンナール・アスプルンド]]、[[建築家]](+ [[1940年]]) * 1885年 - [[ベン・チフリー]]([[:en:Ben_Chifley|Ben Chifley]])、第16代[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]](+ [[1951年]]) * 1885年 - [[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]、[[映画監督]]、[[俳優]](+ [[1957年]]) * [[1889年]] - [[フックス・ダウス]]([[:en:Hooks_Dauss|Hooks Dauss]])、野球選手(+ [[1963年]]) * [[1891年]] - [[チャーリー・バカン]]([[:en:Charlie_Buchan|Charlie Buchan]])、サッカー選手(+ [[1960年]]) * [[1892年]] - [[ビリー・ウェスト]]、俳優(+ [[1975年]]) * [[1893年]] - [[ハンス・ライプ]]([[:en:Hans_Leip|Hans Leip]])、軍人(+ [[1983年]]) * [[1894年]] - [[エリザベート・レスバーグ]]([[:en:Elisabeth_Rethberg|Elisabeth Rethberg]])、ソプラノ歌手(+ [[1976年]]) * [[1895年]] - [[ポール・ムニ]]、[[俳優]](+ [[1967年]]) * [[1896年]] - [[ヘンリー・シーグレーブ]]、レーシングドライバー(+ [[1930年]]) * 1896年 - [[ウリ・ツヴィ・グリーンバーグ]]([[:en:Uri_Zvi_Greenberg|Uri Zvi Greenberg]])、詩人(+ [[1981年]]) * [[1900年]] - [[ポール・エメット]]、化学工学者(+ [[1985年]]) * 1900年 - [[ウィリアム・スプラットリング]]([[:en:William_Spratling|William Spratling]])、銀細工職人(+ [[1967年]]) * [[1901年]] - [[ナジェージダ・アリルーエワ]]、[[ヨシフ・スターリン]]の2番目の妻(+ [[1932年]]) * 1901年 - [[チャールズ・ハギンズ]]、[[生理学|生理学者]]、[[外科学|外科医]](+ [[1997年]]) * [[1902年]] - [[ジョン・ハウスマン]]、俳優(+ [[1988年]]) * [[1904年]] - [[ジョゼフ・ヴァラキ]]、[[マフィア]](+ [[1971年]]) * [[1905年]] - [[オイゲン・ゼンガー]]、航空エンジニア(+ [[1964年]]) * [[1906年]] - [[イルゼ・コッホ]]、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]所長の妻(+ [[1967年]]) * 1906年 - [[:en:Ödön_Zombori|Ödön Zombori]]、[[レスリング|レスリング選手]](+ [[1989年]]) * [[1907年]] - [[モーリス・ブランショ]]、作家、[[評論家]](+ [[2003年]]) * 1907年 - [[フィリップ・フォザーリンガム=パーカー]]([[:en:Philip_Fotheringham-Parker|Philip Fotheringham-Parker]])、レーシングドライバー(+ [[1981年]]) * [[1908年]] - [[松山崇]]、[[美術監督]](+ [[1977年]]) * [[1909年]] - [[デイヴィッド・リースマン]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[2002年]]) * [[1910年]] - [[宮崎秀吉]]、世界最高齢の陸上選手(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20190125-H4MKC4YWCRNHZJ5V3OYIJXVS7M/|title=宮崎秀吉さん死去、世界最高齢スプリンター |publisher=産経ニュース|date=2019-01-25|accessdate=2020-10-27}}</ref>) * 1910年 - [[ギオルギ・ファルディ]]([[:en:György_Faludy|György Faludy]])、詩人(+ [[2006年]]) * [[1911年]] - [[ルイ・デュクルー]]([[:en:Louis_Ducreux|Louis Ducreux]])、俳優(+ [[1992年]]) * [[1912年]] - [[マーサ・スコット]]、女優(+ [[2003年]]) * 1912年 - [[ヘルベルト・マタレ]]([[:en:Herbert_Mataré|Herbert Mataré]])、物理学者(+ [[2011年]]) * [[1913年]] - [[平塚八兵衛]]、警視庁刑事(+ [[1979年]]) * [[1915年]] - [[グレゴリー・サムイロヴィッチ・フリード]]([[:en:Grigory_Frid|Grigory Frid]])、作曲家(+ [[2012年]]) * [[1918年]] - [[ヘンリク・シェリング]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1988年]]) * 1918年 - [[ハンス・ショル]]、[[白いバラ|白バラ抵抗運動]]のメンバーの一人(+ [[1943年]]) * [[1919年]] - [[星田次郎]]、プロ野球選手(+ [[1960年]]) * [[1920年]] - [[ウィリアム・ライカー]]、[[政治学者]](+ [[1993年]]) * 1920年 - [[ボブ・レモン]]、野球選手(+ [[2000年]]) * [[1921年]] - [[宮澤弘]]、政治家、[[法務大臣]]、[[広島県知事一覧|広島県知事]](+ [[2012年]]) * 1921年 - [[ウィル・エルダー]]([[:en:Will_Elder|Will Elder]])、イラストレーター(+ [[2008年]]) * 1921年 - [[ベティ・リード・ソスキン]]、[[アメリカ合衆国国立公園局|国立公園局]]の元{{仮リンク|国立公園レンジャー|en|National Park Service ranger|label=レンジャー}} * [[1922年]] - [[楊振寧]]、[[物理学者]] * 1922年 - [[イヴェット・オーナー]]([[:en:Yvette_Horner|Yvette Horner]])、ミュージシャン(+ [[2018年]]) * [[1923年]] - [[小林章良]]、元プロ野球選手(+ [[2002年]]) * 1923年 - [[アガ・イブラヒム・アクラム]]([[:en:Agha_Ibrahim_Akram|Agha Ibrahim Akram]])、軍人、歴史家(+ [[1989年]]) * [[1924年]] - [[ベルナール・ゴティエ]]([[:en:Bernard_Gauthier|Bernard Gauthier]])、[[自転車競技]]選手(+ [[2018年]]) * 1924年 - [[ロザムンド・ピルチャー]]([[:en:Rosamunde_Pilcher|Rosamunde Pilcher]])、作家(+ [[2019年]]) * 1924年 - [[ジョン・ウィリアム・ミッデンドルフ2世]]([[:en:J._William_Middendorf|J. William Middendorf]])、第14代[[米国海軍|米国海軍長官]] * 1924年 - [[ノーヴェル・リー]]([[:en:Norvel_Lee|Norvel Lee]])、ボクサー(+ [[1992年]]) * [[1925年]] - [[榎並達郎]]、元プロ野球選手 * [[1926年]] - [[ビル・スミス (ジャズミュージシャン)|ビル・スミス]]([[:en:Bill_Smith_(jazz_musician)|Bill Smith (jazz musician)]])、ミュージシャン(+ [[2020年]]) * [[1927年]] - [[トミー・ラソーダ]]、元プロ野球選手、監督(+ [[2021年]]) * 1927年 - [[ゴードン・アスタール]]([[:en:Gordon_Astall|Gordon Astall]])、サッカー選手(+ [[2020年]]) * 1927年 - [[コレット・ドレアル]]([[:en:Colette_Deréal|Colette Deréal]])、女優、歌手(+ [[1988年]]) * [[1928年]] - [[エリック・ブロードレイ]]、起業家(+ [[2017年]]) * 1928年 - [[ジェームズ・ローソン]]([[:en:James_Lawson_(activist)|James Lawson (activist)]])、作家、社会活動家 * [[1929年]] - [[ジョニー・バレンタイン]]、[[プロレスラー]](+ [[2001年]]) * 1929年 - [[カルロ・ウビアリ]]、[[オートバイ]]レーサー(+ [[2020年]]) * [[1930年]] - [[前田祐吉]]、元[[慶應義塾大学野球部]]監督(+ [[2016年]]) * 1930年 - [[ピーター・ジャクソン (ラグビー選手)|ピーター・ジャクソン]]([[:en:Peter_Jackson_(rugby_union)|Peter Jackson (rugby union)]])、ラグビー選手(+ [[2004年]]) * [[1931年]] - [[貞永方久]]、映画監督(+ [[2011年]]) * 1931年 - [[フェイ・ウェルドン]]、作家、エッセイスト、劇作家(+ [[2023年]]) * [[1932年]] - [[末松安晴]]、情報工学者 * 1932年 - [[ケン・アスプロモンテ]]、元プロ野球選手 * 1932年 - [[アルギルダス・ブラザウスカス]]、初代[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア共和国大統領]](+ [[2010年]]) * 1932年 - [[インゲマル・ヨハンソン]]、プロボクサー(+ [[2009年]]) * [[1933年]] - [[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]、元プロ野球選手 * 1933年 - [[萩原弥惣治]]、政治家、[[前橋市]]長(+ [[2021年]]) * 1933年 - [[カルメロ・シメオネ]]([[:en:Carmelo_Simeone|Carmelo Simeone]])、サッカー選手(+ [[2014年]]) * [[1934年]] - [[ルート・オルソン]]([[:en:Lute_Olson|Lute Olson]])、バスケットボール選手(+ [[2020年]]) * [[1935年]] - [[岡田眞澄]]、[[俳優]](+ [[2006年]]) * 1935年 - [[ジャック・モレル]]([[:en:Jacques_Morel_(rower)|Jacques Morel (rower)]])、[[ボート競技]]選手 * [[1936年]] - [[西川潤]]、経済学者(+ [[2018年]]) * [[1939年]] - [[田部井淳子]]、登山家(+ [[2016年]]) * 1939年 - [[デボラ・ラヴィン]]([[:en:Deborah_Lavin|Deborah Lavin]])、歴史家 * [[1940年]] - [[アンナ・カリーナ]]、[[俳優|女優]](+ [[2019年]]<ref name="eigacom20191215">{{Cite web|和書| url = https://eiga.com/news/20191215/8/ | title = 「女は女である」「気狂いピエロ」女優アンナ・カリーナさん死去 79歳 | website = [[映画.com]] | date = 2019-12-15 | accessdate = 2020-10-29 }}</ref>) * [[1941年]] - [[ジェレマイア・ライト]]、牧師 * [[1942年]] - [[阪本時彦]]、アナウンサー(+ [[2020年]]) * 1942年 - [[オレイ・アンダーソン]]、プロレスラー * 1942年 - [[デビッド・スターン]]、[[弁護士]](+ [[2020年]]) * 1942年 - [[ルベン・サラザール・ゴメス]]([[:en:Rubén_Salazar_Gómez|Rubén Salazar Gómez]])、枢機卿 * [[1943年]] - [[トニー・バジル]]、[[歌手]]、女優 * [[1944年]] - [[ブライアン・ギブソン]]、[[映画監督]](+ [[2004年]]) * [[1945年]] - [[猪木武徳]]、経済学者 * [[1946年]] - [[瞳みのる]]、ドラマー(元[[ザ・タイガース]]) * 1946年 - [[キング・サニー・アデ]]、歌手 * 1946年 - [[ラリー・ダーカー]]、野球選手 * 1946年 - [[リチャード・ボウカム]]、聖書学者 * [[1947年]] - [[谷沢健一]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[ノーマ・マコービー]]、[[ロー対ウェイド事件]]の裁判[[原告]]女性(+ 2017年) * 1947年 - [[デヴィッド・ドリューリー]]([[:en:David_Drewry|David Drewry]])、氷河学者 * [[1948年]] - 6代目[[立川ぜん馬]]、落語家 * 1948年 - [[デニス・バーク (ノーザンテリトリー首相)|デニス・バーク]]([[:en:Denis_Burke_(Australian_politician)|Denis Burke (Australian politician)]])、[[ノーザンテリトリー首相]] * 1948年 - [[マーク・フィリップス]]、[[馬術競技]]選手 * [[1950年]] - [[本多敏行]]、[[アニメーター]] * 1950年 - [[リノ・チェルヴェル]]([[:en:Lino_Červar|Lino Červar]])、[[ハンドボール]]監督 * 1950年 - [[佐藤敬次]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[志垣太郎]]、俳優(+ [[2022年]]) * 1951年 - [[藤沢和雄]]、[[調教師]] * 1951年 - [[デイヴィッド・カヴァデール]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1951年 - [[マイク・グラハム]]、プロレスラー * 1951年 - [[ダグ・サマーズ]]、プロレスラー * [[1952年]] - [[五大路子]]、女優 * [[1953年]] - [[セゴレーヌ・ロワイヤル]]、政治家 * 1953年 - [[トマシュ・ボイトビッチ]]、バレーボール選手(+ [[2022年]]) * 1953年 - [[神農清治]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[ジェフリー・レオナード]]([[:en:Jeffrey_Leonard|Jeffrey Leonard]])、野球選手 * [[1956年]] - [[石毛宏典]]、元プロ野球選手、監督 * 1956年 - [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[歌手]] * [[1957年]] - [[ニック・ケイヴ]]、[[シンガーソングライター]]・[[作家]]・[[俳優]] * 1957年 - [[ジュゼッペ・サローニ]]、[[自転車競技]]選手 * [[1958年]] - [[アンドレア・ボチェッリ]]、テノール歌手 * 1958年 - [[松村あゆみ]]、[[テレビプロデューサー]]、テレビ[[演出家]]、[[脚本家]] * 1958年 - [[ジョーン・ジェット]]、[[シンガーソングライター|シンガー・ソングライター]]、[[俳優#性別での分類|女優]] * 1958年 - [[ベス・キャトリン]]([[:en:Beth_Catlin|Beth Catlin]])、[[サヴァン症候群]]の女性 * 1958年 - [[フランコ・フォリーニ]]、レーシングドライバー * 1958年 - [[エディ・プランカールト]]、[[自転車競技]]([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])選手 * [[1959年]] - [[石井竜也]]、歌手 * 1959年 - 11代[[式守勘太夫]]、[[大相撲]][[行司]] * 1959年 - [[タイ・バビロニア]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1959年 - [[ソール・パールマッター]]、[[天体物理学|天体物理学者]] * [[1960年]] - [[秋里和国]]、[[漫画家]] * 1960年 - [[樋渡真司]]、俳優 * 1960年 - [[スコット・ベイオ]]([[:en:Scott_Baio|Scott Baio]])、俳優(※1961年説あり) * [[1961年]] - [[ボニー・ハント]]、声優、女優 * 1961年 - [[田嶋要]]、政治家 * 1961年 - [[ビンス・コールマン]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[ふせえり]] 、女優 * [[1964年]] - [[細井治]]、声優 * [[1965年]] - [[橋本潮]]、歌手 * 1965年 - [[ルビー・モレノ]]、女優 * 1965年 - [[樋口真嗣]]、映画監督 * 1965年 - [[吉川弘幸]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[緒形直人]]、俳優 * 1967年 - [[平井信行]]、気象予報士 * 1967年 - [[スペル・デルフィン]]、[[プロレスラー]]、[[大阪プロレス]]創始者 * 1967年 - [[後藤健二 (ジャーナリスト)|後藤健二]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2015年]]) * [[1968年]] - [[矢野武]]、アナウンサー * [[1969年]] - [[渡辺真美]]、[[歌手]] * 1969年 - [[ジェフ・バリー]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[伊藤隆 (キックボクサー)|伊藤隆]]、元キックボクサー * 1970年 - [[マイク・マシーニー]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[エマニュエル・プティ]]、元サッカー選手、タレント * 1970年 - [[石塚堅]]、声優 * [[1971年]] - [[徳永暁人]]、[[ミュージシャン]]([[doa (バンド)|doa]]) * 1971年 - [[酒井弘樹]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[ミスティカル (ラッパー)|ミスティカル]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]] * [[1973年]] - [[大澤幹朗]]、[[フリーアナウンサー]] * 1973年 - [[趙宏博]]、元フィギュアスケート選手 * [[1973年]] - [[ボブ・サップ]]、格闘家 * 1974年 - [[橿渕聡]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[永井みゆき]]、[[演歌歌手]] * [[1976年]] - [[ロナウド]]、サッカー選手 * 1976年 - [[Sascha]]、ラジオDJ、タレント * [[1977年]] - [[WADA]]、ミュージシャン([[アルファ (音楽グループ)|アルファ]]) * 1977年 - [[角田ともみ]]、女優、モデル * [[1978年]] - [[ハリー・キューウェル]]、サッカー選手 * 1978年 - [[中谷勇介]]、元サッカー選手 * 1978年 - [[五味隆典]]、格闘家 * [[1979年]] - [[竹内めぐみ]]、歌手、[[詩人]] * [[1980年]] - [[ジェームス・ブラック (フィギュアスケート選手)|ジェームス・ブラック]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1980年 - [[片山瞳]]、ファッションモデル、女優 * [[1981年]] - [[アレクセイ・ラミレス]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[苫米地鉄人]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[山瀬功治]]、サッカー選手 * 1981年 - [[渋谷すばる]]、歌手、ミュージシャン(元[[関ジャニ∞]]) * 1981年 - [[歩りえこ]]、女優 * [[1982年]] - [[北島康介]]、元[[競泳]]選手 * 1982年 - [[マンディ・チアン]]、歌手、女優 * 1982年 - [[マールテン・ステケレンブルフ]]、サッカー選手 * 1982年 - [[竹内良太]]、声優 * [[1983年]] - [[今井絵理子]]、歌手([[SPEED]])、政治家 * [[1984年]] - [[チアゴ・エミリアーノ・ダ・シウバ|チアゴ・シウヴァ]]、サッカー選手 * 1984年 - [[新城幸也]]、自転車競技選手 * 1984年 - [[テレサ・フー]]、歌手、女優 * [[1985年]] - [[成田童夢]]、元[[スノーボード]]選手、タレント * [[1986年]] - [[美波 (女優)|美波]]、モデル、女優 * 1986年 - [[矢作紗友里]]、声優 * 1986年 - [[セルゲイ・ドブリン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1986年 - [[朴顯俊]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[クリス・シュウィンデン]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[小出朗]]、アナウンサー * [[1987年]] - [[トム・フェルトン]]、俳優 * 1987年 - [[滝沢ななえ]]、元バレーボール選手 * [[1988年]] - [[マイリン・ハウシュ]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[1989年]] - [[ザビーネ・リシキ]]、テニス選手 * 1989年 - [[足立祐一]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[ヒョヨン]]、アイドル([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]]、[[少女時代-Oh! GG]]、Girls On Top) * [[1990年]] - [[植田真梨恵]]、シンガーソングライター * 1990年 - [[広瀬愛梨]]、元グラビアアイドル * 1990年 - [[吉村綾花]]、歌手(元[[SweetS]]) * 1990年 - [[マーヴィン・トラン]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[ジェレミー・アーヴァイン]]、俳優 * [[1991年]] - [[草薙和輝]]、[[テレビ朝日]][[アナウンサー]] * [[1993年]] - [[豊山亮太]]、元大相撲力士 * 1993年 - [[大下菜摘]]、声優 * 1993年 - [[森保圭悟]]、サッカー選手 * [[1994年]] - [[カルロス・コレア]]、プロ野球選手 * 1994年 - [[ジニョン]]、アイドル([[GOT7]]) * 1994年 - [[ホン・ユギョン]]、元アイドル(元[[Apink]]) * [[1995年]] - [[ナヨン (TWICE)|ナヨン]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]]) * 1995年 - [[山岡泰輔]]、プロ野球選手 * 1995年 - [[ジェームズ・カリンチャク]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[中山翔太]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - [[宮近海斗]]、アイドル、俳優([[Travis Japan]]) * 1997年 - [[飯野太一]]、YouTuber([[だいにぐるーぷ]]) * [[1998年]] - [[近藤廉]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[キム・ユジョン (女優)|キム・ユジョン]]、女優 * 1999年 - [[キム・ヨハン]]、アイドル、俳優([[WEi]]、元[[X1 (音楽グループ)|X1]]) * 1999年 - [[倉本彩]]、アナウンサー * [[2000年]] - スンミン、アイドル([[Stray Kids]]) * 2000年 - [[里吉うたの]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]) * 2000年 - [[胡燁韜]]、歌手、[[ダンサー]]、[[インターネットセレブリティ]] * [[2001年]] - [[髙橋ひかる]]、モデル、女優 * [[2002年]] - [[原田波人]]、[[演歌歌手]] * 2002年 - [[三原羽衣]]、女優 * [[2011年]] - パク・ダヨン、子役 * 生年不明 - [[佐藤芳洋]]、声優 * 生年不明 - [[島田友樹]]、声優 * 生年不明 - [[西谷亮 (声優)|西谷亮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mausu.net/talent/nishitani-ryo.html|title=西谷 亮|所属タレント|マウスプロモーション|accessdate=2021-01-10}}</ref>、声優 === 人物以外(動物など) === * 2000年 - 北登、[[DASH村]]に住む[[柴犬]](+ [[2017年]]) == 忌日 == [[File:Nathan-Hale-stamp-1925-1929-trim.jpg|thumb|120px|[[ネイサン・ヘイル]](1755-1776)]] [[File:Isaacs - Sjaka, Koning van die Zulu (1836).png|thumb|120px|[[シャカ・ズールー]](1787-1882)]] [[File:George C. Scott 1984 cropped.jpg|thumb|120px|[[ジョージ・C・スコット]](1927-1999)]] [[File:Saburo Sakai flightgear.jpg|thumb|120px|[[坂井三郎]](1916-2000)]] * [[1253年]]([[建長]]5年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[道元]]<ref>{{Cite book |和書 |中村元ほか|coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |pages=752-753}}</ref>、[[曹洞宗]]の開祖(* [[1200年]]) * [[1286年]]([[弘安]]9年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[無学祖元]]、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1226年]]) * [[1358年]]([[正平 (日本)|正平]]13年/[[延文]]3年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[洞院実世]]、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[公卿]](* [[1308年]]) * [[1369年]] - [[グイード・ゴンザーガ]]、[[マントヴァ]]の僭主(* [[1290年]]) * [[1482年]] - [[フィリベルト1世]]、[[サヴォイア公]](* [[1465年]]) * [[1520年]] - [[セリム1世]]、第9代[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1465年]]) * [[1554年]] - [[フランシスコ・バスケス・デ・コロナド]]、[[探検家]](* [[1510年]]) * [[1591年]]([[天正]]19年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[豊臣鶴松]]、[[豊臣秀吉]]の長男(* [[1589年]]) * [[1703年]] - [[ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ]]、[[数学者]]、[[科学者]](* [[1622年]]) * [[1714年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[秋元喬知]]、[[川越藩|川越藩主]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1649年]]) * [[1748年]]([[寛延]]元年[[8月30日 (旧暦)|8月30日]]) - [[木下俊能]]、[[日出藩|日出藩主]](* [[1725年]]) * [[1774年]] - [[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]、第249代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1705年]]) * [[1776年]] - [[ネイサン・ヘイル]]、[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[軍人]]、[[スパイ|諜報員]](* [[1755年]]) * [[1788年]]([[天明]]8年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - [[鳥山石燕]]、[[浮世絵師]](* [[1712年]]) * [[1829年]]([[文政]]12年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[松平頼儀]]、第8代[[高松藩|高松藩主]](* [[1775年]]) * [[1830年]](文政13年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[松平忠功]]、[[桑名藩|桑名藩主]](* [[1756年]]) * [[1850年]] - [[ヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネン]]、[[経済学者]](* [[1783年]]) * [[1857年]] - [[ダニエーレ・マニン]]、[[ヴェネト共和国]]大統領、[[民族主義]]運動指導者(* [[1804年]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[佐伯又三郎]]、[[新選組]]副長助勤 * 1863年(文久3年8月10日) - [[佐々木愛次郎]]、新選組隊士(* [[1845年]]) * [[1882年]] - [[シャカ・ズールー]]、[[ズールー王国]]初代国王(* [[1787年]]) * [[1911年]] - [[オスカル・ケルネル]]、[[農学者]](* [[1851年]]) * [[1939年]] - [[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]軍人(* [[1880年]]) * [[1949年]] - [[サム・ウッド]]、[[映画監督]](* [[1883年]]) * 1949年 - [[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]][[金日成]]夫人(* [[1917年]]) * [[1950年]] - [[藤原咲平]]、[[気象学者]](* [[1884年]]) * 1950年 - [[ラルフ・ローレンス・カー]]、[[弁護士]]、[[コロラド州知事]](* [[1887年]]) * [[1956年]] - [[フレデリック・ソディ]]、[[化学者]](* [[1877年]]) * [[1957年]] - [[豊田副武]]、海軍軍人・第29-30代[[連合艦隊司令長官]]、第19代[[軍令部総長]](* [[1885年]]) * [[1959年]] - [[ヨーゼフ・マティアス・ハウアー]]、[[作曲家]](* [[1883年]]) * [[1960年]] - [[メラニー・クライン]]、[[精神分析家]](* [[1882年]]) * [[1961年]] - [[マリオン・デイヴィス]]、女優(* [[1879年]]) * [[1964年]] - [[佐々木邦]]、[[小説家]](* [[1883年]]) * [[1965年]] - [[ビズ・マッキー]]、元プロ野球選手(* [[1897年]]) * [[1967年]] - {{仮リンク|ハラルト・クヴァント|en|Harald Quandt}}、実業家、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|J・ゲッベルス]]の養子(* [[1921年]]) * [[1969年]] - [[ベルント・ショルツ]]、作曲家(* [[1911年]]) * [[1972年]] - [[田部重治]]、[[登山家]](* [[1884年]]) * [[1976年]] - [[亀田忠]]、元[[プロ野球選手]](* [[1912年]]) * [[1980年]] - [[河上徹太郎]]、[[文芸評論家]](* [[1902年]]) * [[1981年]] - [[河原崎長十郎 (4代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1902年]]) * [[1982年]] - [[デイヴィッド・ドゥビンスキー]]、労働運動指導者(* [[1892年]]) * 1982年 - [[佐分利信]]、[[俳優]](* [[1909年]]) * [[1986年]] - [[坪井誠太郎]]、[[地質学者]]、[[鉱物学者]](* [[1893年]]) * [[1989年]] - [[アーヴィング・バーリン]]、作曲家、[[作詞家]](* [[1888年]]) * 1989年 - [[岡崎嘉平太]]、[[実業家]](* [[1897年]]) * 1989年 - [[前川春雄]]、第24代[[日本銀行]]総裁(* [[1911年]]) * [[1991年]] - [[日影丈吉]]、小説家、[[翻訳家]](* [[1908年]]) * [[1993年]] - [[モーリス・アブラヴァネル]]、[[指揮者]](* [[1903年]]) * [[1996年]] - [[ドロシー・ラムーア]]、女優(* [[1914年]]) * 1996年 - [[笑福亭松鶴 (7代目)]]、[[落語家]](* [[1952年]]) * [[1997年]] - [[横井庄一]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]伍長(* [[1915年]]) * 1997年 - [[マナブ間部]]、[[画家]](* [[1924年]]) * [[1998年]] - [[李學仁]]、[[映画監督]]、[[作家]]、[[漫画原作者]](* [[1945年]]) * [[1999年]] - [[淡谷のり子]]、[[歌手]](* [[1907年]]) * 1999年 - [[ジョージ・C・スコット]]、俳優(* [[1927年]]) * 1999年 - [[久高友雄]]、[[サッカー]]選手(* [[1963年]]) * [[2000年]] - [[坂井三郎]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人([[エース・パイロット]])、経営者(* [[1916年]]) * [[2001年]] - [[アイザック・スターン]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1920年]]) * [[2003年]] - [[鷲見四郎]]、ヴァイオリニスト(* [[1913年]]) * [[2005年]] - [[有川貞昌]]、[[特撮監督]](* [[1925年]]) * 2005年 - [[レバンダー・ジョンソン]]、[[プロボクサー]](* [[1969年]]) * [[2006年]] - [[小山宙丸]]、[[哲学者]](* [[1927年]]) * [[2007年]] - [[マルセル・マルソー]]、[[パントマイム]]アーティスト(* [[1923年]]) * [[2008年]] - [[木下龍太郎]]、作詞家(* [[1938年]]) * 2008年 - [[トーマス・デルフライン]]、[[動物園]]飼育係(* [[1963年]]) * [[2010年]] - [[ブリジット・オコナー]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](* [[1961年]]) * 2010年 - [[エディ・フィッシャー (歌手)|エディ・フィッシャー]]、歌手(* [[1928年]]) * [[2012年]] - [[荻島秀夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1924年]]) * [[2015年]] - [[ヨギ・ベラ]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](* [[1925年]]) * 2015年 - [[岸朝子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://m.huffingtonpost.jp/2015/09/28/kishi-asako_n_8205480.html|title=岸朝子さん死去 「おいしゅうございます」で知られる料理研究家|publisher=ハフポスト|date=2015-09-28|accessdate=2020-12-25}}</ref>、料理記者、食生活ジャーナリスト(* [[1923年]]) * [[2020年]] - [[ロード・ウォリアー・アニマル]]<ref>{{Cite news|url=https://wrestlingnews.co/wwe-news/wwe-statement-on-the-passing-of-road-warrior-animal/|title=WWE statement on the passing of Road Warrior Animal|newspaper=WWE|date=2020-09-23|accessdate=2020-12-15|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202009230001274.html|title=アニマル・ウォリアーさん死去 日本プロレス界席巻 - プロレス|publisher=日刊スポーツ|date=2020-09-23|accessdate=2020-12-15}}</ref><ref>[https://www.daily.co.jp/ring/2020/09/23/0013723269.shtml プロレスラー「ロード・ウォリアーズ」のアニマル氏が死去 60歳 日米のマット席巻] - デイリースポーツ online 2020年9月23日</ref>、プロレスラー(*[[1960年]]) == 記念日・年中行事 == * [[秋分]]([[2012年]]から[[2044年]]までの[[閏年]]) *: [[二十四節気]]のひとつ。昼と夜の長さがほぼ同じになる日。 * 秋の[[社日]]({{JPN}}、このころ)※[[秋分]]に最も近い[[戊]]の日 * [[秋分の日]]({{JPN}})※秋分の場合 *: [[国民の祝日]]の一つ。「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日。 * [[OneWebDay]] *: 「オンライン生活」を祝う記念日。元[[ICANN]]理事{{仮リンク|スーザン・クロフォード|en|Susan P. Crawford}}の提唱で[[2006年]]に第1回が行われ、[[Second Life]]上で記念式典が行われた。 * [[カーフリーデー]] * 国際ビーチクリーンアップデー *: アメリカ・サンフランシスコに本部のある海洋自然保護センターが[[1985年]]から実施。この日に近い週末に、世界各地で一斉に海岸のごみを拾い集め、その数量・種類等を調べることによって、海洋のゴミの発生元や、地球環境への影響を調査している。 * 世界[[サイ]]の日 * [[独立記念日]]({{BGR}}) *: [[1908年]]のこの日、ブルガリアが[[オスマン帝国]]からの独立を宣言した。 * 独立記念日({{MLI}}) *: マリ共和国は[[1960年]]6月に隣国の[[セネガル]]とともに[[マリ連邦]]として[[フランス]]から独立したが、同年8月にセネガルがマリ連邦から離脱したため、この日改めてマリ連邦から離脱し、それまでのスーダン共和国からマリ共和国に改称した。 * [[国民の休日]]({{JPN}})※[[敬老の日]]が[[9月21日]]で、[[秋分の日]]が[[9月23日]]の場合 *: [[2009年]]にこの巡りとなり、この年は[[9月19日]]から23日にかけて5連休となる(土曜日も休みと考えた場合)。そのため5月の[[ゴールデンウィーク|ゴールデンウィーク(黄金週間)]]にならって[[シルバーウィーク|シルバーウィーク(銀週間)]]という俗称がある。 * [[フィットネス]]の日({{JPN}}) *: [[2014年]]より制定。[[1987年]]に[[日本フィットネス協会]]が公益法人登記した設立記念日とされている<ref>{{Cite news|url=https://www.smartlife.mhlw.go.jp/archive/activity/2014/09/09_6.html|title=【公益社団法人日本フィットネス協会】今年から、9月22日は「フィットネスの日」|newspaper=スマート・ライフ・プロジェクト|publisher=厚生労働省|date=2014-09-12|accessdate=2022-10-21}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0922|date=2011年7月}} * 年不明 - 水曜日、11時からフェラーズ夫人とロジャー・アクロイドの合同[[葬儀]]が行われる。(小説『[[アクロイド殺し]]』第17章) === 誕生日(フィクション) === * 1991年 - 真田明彦、ゲーム『[[ペルソナ3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1440329973844168708}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]749年 - ネル・ゼルファー、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=55|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - [[ど根性ガエル#登場人物|五郎]]、漫画・アニメ『[[ど根性ガエル]]』に登場するキャラクター<ref>アニメど根性ガエル(1972年版)99話「ナイター・バースデーの巻」。</ref> * 生年不明 - [[奈良シカマル]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873288-X|page=85}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|year=2005|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|page=117|isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 小椿仙太郎、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref name="souls">{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2006|page=150|isbn=4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - 虎徹清音、漫画・アニメ『BLEACH』に登場するキャラクター<ref name="souls"/> *生年不明 - 林藤陽太郎、アニメ、漫画『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1308059671220154368}}</ref> * 生年不明 - リューキュウ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=リューキュウ |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-23/ |accessdate=2022-09-24 |publisher=堀越耕平/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 朝倉ちはや、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_aoba|1572722341041184768}}</ref> * 生年不明 - 音済百太郎、アイドルプロジェクト『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://bpro-official.com/artists/moons/ |title=音済百太郎 |accessdate=2022-09-24 |website=B-PROJECT 公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 小野木海斗、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1043335878368620544}}</ref> * 生年不明 - 遠野秋葉、ゲーム『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite |和書 |author = [[武内崇]]、[[奈須きのこ]] |title = 月姫読本PlusPeriod |year = 2004 |page = 57 |publisher = 宙出版 |isbn = 4-7767-9037-8 }}</ref> * 生年不明 - 森島はるか、ゲーム・アニメ『[[アマガミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|publisher=アマガミ 公式サイト |url=http://amagami.info/chara06.html |title=Main Character:森島 はるか |accessdate=2022-09-24}}</ref> * 生年不明 - サラサ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=67&cate=name&cont=Sarasa |title=サラサ |access-date=2022-09-24 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 朔間凛月、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/sakuma_ritsu/ |title=朔間 凛月 |accessdate=2022-09-24 |publisher=Happy Elements |work=あんさんぶるスターズ!!}}</ref> * 生年不明 - アセリカ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-160 |title=アセリカ|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2022-09-24|archiveurl= https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=160|archivedate=2022-07-24}}</ref> * 生年不明 - マホ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1440496094094364673}}</ref> <!-- *2013年 - 響リョウ、アニメ『[[超音戦士ボーグマン]]』の主人公{{要出典|date=2018年9月21日 (金) 15:15 (UTC)}} *生年不明 - 奥田多喜子、漫画『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年9月21日 (土) 10:58 (UTC)}} 2022年9月、4年以上要出典のためコメントアウト --> * 生年不明 - 二宮藍子、漫画・アニメ『[[スローループ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 青羽コユキ(はむりぃ)、特撮『[[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]]』の登場人物 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|22 September}} {{新暦365日|9|21|9|23|[[8月22日]]|[[10月22日]]|[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]|0922|9|22}} {{1年の月と日}}
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1,969
結晶
結晶(、英: crystal)とは、原子、分子、またはイオンが、規則正しく配列している固体である。 結晶を構成する原子の配列は、X線や電子線など、可視光線と比べて短い波長の電磁波に対して回折格子として働き、X線回折あるいは電子回折(電子線回折)と呼ばれる現象を引き起こす。この現象は、結晶構造を同定するために利用される。 モデルとは異なり、現実の結晶は、完全な規則性を有しているわけではなく、格子欠陥と呼ばれる原子の配列の乱れが存在する。格子欠陥の存在によって、理想的な結晶の構造から予想されるものとは異なる性質を示すことがある。例えば、一般的な金属が比較的小さな力で塑性変形する事は、結晶欠陥の存在によって説明される。 準結晶と呼ばれる構造は、並進対称性を欠くにもかかわらず、X線を回折する高度に規則的な構造を持っている。数学的には高次元結晶の空間への射影として記述される。また、液晶は3次元のうちの一つ以上の方向について対称性が失われた状態である。そして、規則正しい構造をもたない物質をアモルファス(非晶質)と呼び、これは結晶の対義語である。 国際結晶学連合 (IUCr) では1992年に、結晶(Crystal) を「本質的に離散的な回折を与える固体」として、また非周期的結晶 (aperiodic crystal) を「三次元の格子の周期性を持っていない結晶」として定義し直している。 これにより、3次元の周期性は悪すぎるが非周期的結晶の解析のために開発された結晶学的方法によって 議論ができる化合物、例えば変調された構造体、ポリタイプ、不整合(インコメンシュレート)相、複合結晶、準結晶も結晶と呼ぶこととなった。 結合の種類によって結晶は次のように分類される。 食塩結晶において、それを形成する結合は一種類だけとは限らず、複数の結合が混在(共有性とイオン性両方を示す場合はよくある)している場合がある。例として2001年に39Kの超伝導を示し有名になった MgB2(二ホウ化マグネシウム)がある。MgB2 は金属(金属間化合物)でありながら、原子間の結合が主に共有結合による部分(B層のB原子間)と主にイオン結合による部分(Mg層とB層の間)からなる(電子状態は金属なので、金属結合的な部分もある)。
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結晶(けっしょう、とは、原子、分子、またはイオンが、規則正しく配列している固体である。
{{出典の明記|date=2022年9月}} {{otheruses}} [[ファイル:Quartz Brésil.jpg|サムネイル|[[石英]]の結晶]] [[ファイル:Graphite ambient STM.jpg|サムネイル|[[走査型トンネル顕微鏡]]により観測された[[グラファイト]]表面の結晶構造]] {{読み仮名|'''結晶'''|けっしょう|{{lang-en-short|crystal}}}}とは、[[原子]]、[[分子]]、または[[イオン]]が、規則正しく配列している[[固体]]である<ref>{{Cite web|和書|title=結晶とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%B5%90%E6%99%B6-59609|website=コトバンク|accessdate=2020-11-05|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,岩石学辞典,栄養・生化学辞典,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,化学辞典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 == 概要 == 結晶を構成する原子の配列は、[[X線]]や電子線など、可視光線と比べて短い波長の[[電磁波]]に対して[[回折格子]]として働き、[[X線回折]]あるいは[[電子回折]](電子線回折)と呼ばれる現象を引き起こす。この現象は、[[結晶構造]]を同定するために利用される{{sfn|芦田玉一|2002|pp=81-82}}。 [[モデル (自然科学)|モデル]]とは異なり、現実の結晶は、完全な規則性を有しているわけではなく、[[格子欠陥]]と呼ばれる原子の配列の乱れが存在する。格子欠陥の存在によって、理想的な結晶の構造から予想されるものとは異なる性質を示すことがある。例えば、一般的な[[金属]]が比較的小さな力で[[塑性]]変形する事は、結晶欠陥の存在によって説明される。 [[準結晶]]と呼ばれる構造は、並進対称性を欠くにもかかわらず、X線を回折する高度に規則的な構造を持っている。[[数学]]的には高次元結晶の空間への射影として記述される。また、[[液晶]]は3次元のうちの一つ以上の方向について対称性が失われた状態である。そして、規則正しい構造をもたない物質を[[アモルファス]](非晶質)と呼び、これは結晶の[[対義語]]である。 == 定義 == 国際結晶学連合 (IUCr) では1992年に、結晶(Crystal) を「本質的に離散的な回折を与える固体」として、また非周期的結晶 (aperiodic crystal) を「三次元の格子の周期性を持っていない結晶」として定義し直している。 これにより、3次元の周期性は悪すぎるが非周期的結晶の解析のために開発された結晶学的方法によって 議論ができる化合物、例えば変調された構造体、ポリタイプ、不整合(インコメンシュレート)相、複合結晶、準結晶も結晶と呼ぶこととなった。 == 種類 == 結合の種類によって結晶は次のように分類される。 * [[共有結合結晶]] * [[イオン結晶]] * [[金属結晶]] * [[分子結晶]] ** [[ファンデルワールス結晶]](分子性結晶) ** [[水素結合結晶]] [[食塩結晶]]において、それを形成する[[化学結合|結合]]は一種類だけとは限らず、複数の結合が混在(共有性とイオン性両方を示す場合はよくある)している場合がある。例として2001年に39[[ケルビン|K]]の[[超伝導]]を示し有名になった MgB<sub>2</sub>([[二ホウ化マグネシウム]])がある。MgB<sub>2</sub> は[[金属]]([[金属間化合物]])でありながら、原子間の結合が主に[[共有結合]]による部分(B層のB原子間)と主に[[イオン結合]]による部分(Mg層とB層の間)からなる(電子状態は金属なので、[[金属結合]]的な部分もある)。 == 形状 == {{main|結晶構造#結晶格子}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=芦田玉一 |year=2002 |title=X線結晶構造解析の発展 |journal=名古屋文理大学紀要 |publisher=名古屋文理大学 |volume=2 |issue=0 |pages=81-91 |doi=10.24609/nbukiyou.2.0_81 |naid=110004706502 |ncid=AA11562518 |issn=24335517 |ref=harv }} == 関連項目 == {{Commonscat|Crystals}} * [[完全結晶]]([[単結晶]]) * [[多結晶]] * [[微結晶]] * [[双晶]] - [[双晶面]] ([[:en:Twin boundary|twin boundary]]) * [[混晶]] * [[液晶]] * [[準結晶]] * [[アモルファス]] * [[物性物理学]] * [[結晶学]] * [[結晶構造]] - [[結晶格子]] * [[鉱物学]]、[[鉱物]] * [[タバコモザイクウイルス]] *[[対称性 (物理学)|対称性]] == 外部リンク == * [http://www.crsj.jp/ 日本結晶学会] * [https://sites.google.com/site/fluordoublet/ 結晶美術館] * [http://www.ecosci.jp/chem18/crystal2014.html 2014年は世界結晶年!](生活環境化学の部屋) *[http://crystdb.nims.go.jp/index.html Atomwork] - 無機材料データベース (国立研究開発法人 物質・材料研究機構) *[http://www.aflowlib.org/ AFlow] - material database (Duke University, North Carolina) {{物質の状態}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けつしよう}} [[Category:結晶|*]] [[Category:物質]] [[Category:物質の相]] <!-- [[Category:固体物理学]] [[Category:化学]] -->
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1,970
黒澤明
黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成10年〉9月6日)は、日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。位階は従三位。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。 青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。 1910年3月23日、東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区東大井三丁目)の父が勤めていた荏原中学校の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である。シマは大阪の商家の出身だった。勇は秋田県仙北郡豊川村(現・大仙市豊川)の士族の家の出身で、陸軍戸山学校の教官を務めたあと、1891年の日本体育会の創立とともに要職に就き、日本体育会体操学校と併設の荏原中学校に勤務していた。勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は連続活劇やウィリアム・S・ハート(英語版)主演の西部劇をよく観ていたという。 1915年に南高輪幼稚園に入園し、翌1916年に南高輪尋常小学校に入学した。しかし、1917年に勇が日本体育会を退職したため、職員社宅を退去して小石川区西江戸川町(現・文京区水道一丁目)に転居し、黒田尋常小学校に転入した。当時の黒澤は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった。小学校5年の時には剣道を習い始め、高野佐三郎の道場に通うも三日坊主で終わり、自信も失くして放棄した。 立川とともに黒澤の成長を助けたのが、級友の植草圭之助と4つ上の兄の丙午である。植草は黒澤よりも泣き虫で、自分を客観的に見つめさせる存在だったという。丙午は秀才だが気性が激しく、自滅的な行動や皮肉めいたところが多かったが、軟弱な黒澤をしごき、黒澤の自立心を目覚めさせた。関東大震災とそれに伴う朝鮮人虐殺事件の時には、丙午は黒澤を壊滅した街に連れて行き、無数の死骸の山を見せつけて、恐ろしさを克服することを教えた。頑迷な厭世観を持つ丙午は、黒澤にとって反面教師的な存在となり、人生の否定的な面や歩いてはならない面を身をもって教えてくれ、黒澤作品の強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えた。また、自伝『蝦蟇の油』のなかで「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。」と述べ、当時をこう振り返っている。 1922年、黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。黒澤は東京府立第四中学校を受験したが失敗し、京華中学校に入学した。中学時代は勉学よりも読書に打ち込み、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学に熱中したほか、夏目漱石、樋口一葉、国木田独歩などの日本文学もたくさん読み、黒澤の人間形成に大きな影響を与えた。黒澤は作文で才能を示すようになり、1924年に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸先生から「京華中学創立以来の名文」と褒められた。1926年にも同誌に作文『或る手紙』が掲載された。中学時代は神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でもアベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇(フランス語版)』(1923年)は黒澤が映画監督を志すのに大きな影響を与えた。 黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った。1927年に京華中学校を卒業し、東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年に油絵『静物』が第15回二科展に入選した。1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を学んだ。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し、1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり、終戦まで徴兵されることはなかった。 やがて非合法活動に身を投じ、日本共産党系の無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する」ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、1932年春までに非合法活動から身を引いた。その後は丙午が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した。丙午は須田貞明の名で活動弁士となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、トーキーの普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、1933年7月に伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった。1934年に一家は恵比寿に転居し、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた。 1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した。助監督入社の同期には関川秀雄と丸山誠治がいた。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった。 その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった。1937年に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ。 山本監督の『馬』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の高峰秀子との間に恋が芽生えた。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった。 黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した。この作品はドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した。1942年に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。 1942年、黒澤は監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、内務省の事前検閲で却下された。『サンパギタの花』では、誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う天長節もいけないのか」と反論するも却下された。次に山中峯太郎原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。その中には伏水修監督の『青春の気流』(1942年)、山本薩夫監督の『翼の凱歌』(1942年)などの戦意高揚映画もあり、黒澤は「意欲を傾けられるような仕事ではなかった」と述べている。 黒澤の監督処女作は『姿三四郎』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は富田常雄の同名小説の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させた。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された。1943年3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の森岩雄は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている。 監督第2作の『一番美しく』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子(本名は喜代)と結婚し、1945年3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた。この頃の東京は空襲を受けており、同居していた両親たちはすでに秋田に疎開していた。黒澤が住んでいた恵比寿も空襲で危ないということで、同じく家族が疎開していた堀川弘通の祖師ヶ谷にある実家に転居した。その翌日に恵比寿の家は空襲で焼失した。それから数年間は堀川家で生活し、堀川は家主であるのに黒澤家に居候しているような気分になったという。同年に黒澤は処女作の続編『續姿三四郎』を完成させ、次に桶狭間の戦いを描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を元にした『虎の尾を踏む男たち』を監督した。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後にGHQの検閲で封建制助長により非合法作品となり、1952年まで上映禁止にされた。 終戦後の最初の仕事は、川口松太郎の依頼で執筆した戯曲『喋る』で、1945年12月に有楽座で新生新派により上演された。戦後の初監督作は『わが青春に悔なし』(1946年)であるが、当時の会社は東宝争議で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた。1946年10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、新東宝の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは伊豆の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し、谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画『四つの恋の物語』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した。 1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた闇市の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた。作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んでおり、1955年に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した。 同年3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、成瀬巳喜男、プロデューサーの本木荘二郎と同人組織「映画芸術協会」を設立した。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した。さらに給料支払いを止められた組合員の資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、チェーホフの戯曲『結婚の申込み』も演出した。10月19日に第3次東宝争議は終結した。 争議終結後は東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、菊田一夫の戯曲『堕胎医』を原作にしている。その次に新東宝と映画芸術協会が共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤が好きだったジョルジュ・シムノンの犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際の刑事の話を元にしている。この作品は日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた。 1950年、黒澤は松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍が芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった。しかし、1951年9月にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった。 その次に松竹で監督した『白痴』(1951年)は、黒澤が学生時代から傾倒するフョードル・ドストエフスキーの同名小説が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場のソ連では高く評価された。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、1951年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ。東宝復帰第1作である『生きる』(1952年)はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、第4回ベルリン国際映画祭ではベルリン市政府特別賞を受賞した。 黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』(1954年)の脚本を執筆した。撮影は1953年5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった。ヴェネツィア国際映画祭に出品されると銀獅子賞を受賞し、その後は日本国内でも国外でも映画史上の名作として高く評価されるようになり、2018年にイギリスのBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた。 1955年2月、黒澤はカンヌ国際映画祭の審査員に要請されるも辞退した。『生きものの記録』(1955年)の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした。1本目の『蜘蛛巣城』(1957年)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み、2本目にゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を監督した。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、能の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった。 1957年10月、黒澤はロンドンのナショナル・フィルム・シアター(英語版)の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォード、ルネ・クレール、ヴィットリオ・デ・シーカ、ローレンス・オリヴィエとともに表彰された。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『ギデオン』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、映画産業に対する危機感を事あるごとに言及するようになった。 時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』(1958年)は興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た。1958年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた。そこで1959年4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった。 1960年7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた。 黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者はダシール・ハメットの小説『血の収穫』が着想の元となり、後者は山本周五郎の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した。 黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入している。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り、テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。 『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた。1966年7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは東京都港区の東京プリンスホテル4階に事務所を構えた。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた。 1966年6月、黒澤はアメリカのエンバシー・ピクチャーズ(英語版)と共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロル(英語版)と意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた。例えば、黒澤は70ミリフィルムのカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズのモノクロ映画で作ろうと考えていた。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった。この企画は1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化されたが、内容は大きく改変された。 1967年4月、真珠湾攻撃が題材の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された。黒澤は東映京都撮影所で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、1968年12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された。 1969年6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治など黒澤を応援する人たちが集まった。その翌月には木下惠介、市川崑、小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した。結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた。黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年8月31日に名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった。同年12月22日早朝、黒澤は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった。 1973年3月14日、黒澤はソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年4月から約1年間にわたり撮影をしたが、シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めた。作品は第48回アカデミー賞でソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤の復活を印象付けた。1977年には再びソ連で作ることを画策し、エドガー・アラン・ポーの短編小説『赤死病の仮面』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった。この頃の黒澤はメディアへの露出が増え、1976年から1979年までサントリーリザーブのテレビCMにも出演した。 1978年7月1日、黒澤はイタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で外国監督賞を受賞し、その副賞であるファーストクラスの航空券を使ってアメリカに10日間旅行した。黒澤はジョージ・ルーカスなどと昼食を共にしたり、フランシス・フォード・コッポラの邸宅を訪ねるなどの交友を持った。アメリカ滞在中、黒澤はルーカスと次回作『影武者』(1980年)の資金援助の相談もした。武田信玄の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで20世紀フォックスが世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた。『影武者』はオーディションで無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった勝新太郎の降板騒動が起きるなど、公開前からマスコミを賑わせた。当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。 『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『乱』(1985年)を作ることにした。同作は毛利元就の三本の矢の教えにシェイクスピアの『リア王』を組み合わせた作品で、1976年に初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった。1981年10月に黒澤は渡米し、ニューヨークで行われたジャパン・ソサエティー主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談した。『乱』はフランスの映画製作者セルジュ・シルベルマンの出資で製作が実現することになったが、1983年3月にフランの海外流出が制限されたため製作延期となった。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽能をテーマにしたドキュメンタリー映画『能の美』を企画し、黒澤監修で佐伯清を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した。 同年11月1日、神奈川県横浜市緑区に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し、同月に『乱』はヘラルド・エースの参加で製作再開した。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、1986年3月の第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされ、ワダ・エミが衣裳デザイン賞を受賞した。黒澤も監督賞にノミネートされたが、これはシドニー・ルメットが黒澤をノミネートさせるためのキャンペーンを行った結果である。また、黒澤は同賞でジョン・ヒューストンやビリー・ワイルダーとともに作品賞のプレゼンターも務めた。 晩年期の作品は、家族や師弟など身辺に目を向け、自伝的な要素が強くなった。『夢』(1990年)は自身が見た夢を元にしたアンソロジー的作品で、その挿話の一つには早世した姉に対する追慕が現れている。この作品もやはり国内の映画会社で資金調達ができず、スティーヴン・スピルバーグの計らいでワーナー・ブラザースが出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスのILMが特殊合成に協力し、マーティン・スコセッシがゴッホ役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた。その後は国内資本での映画製作が続き、『八月の狂詩曲』(1991年)は村田喜代子の芥川賞作品『鍋の中』が原作で、『まあだだよ』(1993年)では内田百閒をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった。 1993年11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした『海は見ていた』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した。そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるが、1995年3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられた。その間の1996年に日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、1997年にはカルピスのために自筆の絵コンテをCGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、初めてのCM制作でデジタル表現に取り組んだ。同年12月には三船が死去したが、翌1998年1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の久雄が弔辞を代読した。 1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中により死去した。88歳没。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列した。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス、アッバス・キアロスタミなどからは弔電が届いた。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表した。黒澤は無宗教だが、妻(1985年に死去)が眠る鎌倉市の安養院に納骨され、「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られた。従三位に叙された。 黒澤作品は強い人間信頼と人生肯定を特徴とし、現実社会で困難な状況に追い込まれた主人公が、それを契機にして人間的に再生する姿を描くことが多い。評論家の都築政昭は、黒澤作品の主人公は強い正義感と犠牲的な精神で困難に立ち向かうが、そのような人物は現実感に乏しいため、黒澤は人間のあるべき姿を願望として描いていると指摘している。映画批評家の佐藤忠男は、黒澤は生きる意味を探求するというテーマをくり返し描いていると指摘している。終戦後に作られた『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』などでは、主人公は強い正義感や使命感を持って社会悪と闘い、逞しく生きる侍的な英雄として描かれており、敗戦後の混沌とした社会に対して肯定的に生きることの意義を訴えている。その作風は人生の意義、社会的献身の意義を問う『生きる』と『赤ひげ』で頂点に達したとみなされている。 黒澤は師匠と弟子の関係をテーマに扱い、人間的に未熟な青二才がすぐれた師匠の教えを受けて一人前に成長するという物語を描くことが多い。そのテーマは監督第1作の『姿三四郎』から描かれており、この作品では青年柔道家の三四郎が師匠の矢野正五郎の教えを受けながら、心身両面で成長してすぐれた柔道家になる姿を描いている。そのほかの師弟関係を描いた例として、『野良犬』の佐藤刑事と村上刑事、『七人の侍』の勘兵衛と菊千代、『椿三十郎』の三十郎と若侍たち、『赤ひげ』の新出去定と保本登が挙げられる。1950年代までは三船敏郎が弟子に相当する主人公を演じていたが、『椿三十郎』『赤ひげ』では三船は未熟な者を指導する側の役を演じた。 黒澤はその時々で自身が関心を持つ社会問題をテーマに採り上げ、批判的内容の作品を作っている。例えば、『醜聞』ではイエロー・ジャーナリズム、『生きる』では官僚主義、『悪い奴ほどよく眠る』では汚職、『天国と地獄』では誘拐、『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』では原爆をテーマに扱っている。佐藤によると、黒澤作品の社会批判の姿勢は、通常の社会批判映画を作る映画作家が好むような問題の犠牲者に観客の同情を集めたり、大衆に連帯をうながすという物語の形式を極端に避けており、その代わりに黒澤作品の主人公は大衆をあてにせず、個人的な解決方法を取ることが多いという。また、佐藤は自分だけで解決する主人公の描き方について、その独特な生き方は普通の日本人には理解し難いが、そこに日本人の大勢順応的傾向に反対する黒澤の主張が込められていると指摘している。 監督作品は基本的にすべて自分でシナリオを書いているが、大抵の作品には共同執筆者がいた。黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった。大映製作担当の市川久夫は、谷口と共作の『静かなる決闘』の共同執筆について、「毎日、話の段取りを予め決め、同じシーンを二人が別々に書き、終わったところで対照し、よい方に統一しながら書き足してゆくといった方法だった」と述べている。橋本忍と小国英雄と共作の『生きる』『七人の侍』では、黒澤と橋本が競うように同じシーンを書き、小国がそれを取捨選択して決めるという役割分担で執筆した。橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである」と述べている。 黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した。リハーサルは他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。このため、制作費が莫大になる理由の一つでもあった。。 セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた。美術監督の村木与四郎も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた茶碗に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られた。黒澤はある程度はリアリズムを徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった。『用心棒』の宿場町はシネマスコープの画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている。 黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている。撮影監督の宮川一夫によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを長回しで撮影した。 編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった。 黒澤はカメラの動きを観客に意識させないようにした。カメラを勝手に動かすことはなく、俳優が動くときのみカメラを移動させ、俳優が止まればカメラも停止させた。カメラが対象物に寄るのも不自然だと考え、ズームレンズは基本的に使わず、その代わりに望遠レンズを多用した。黒澤は『野良犬』のワンシーンで初めて望遠レンズを使い、『七人の侍』から複数カメラの1つに採用した。望遠レンズだと画角が狭くなり、被写体の遠近感が失われて縦に迫るように見えるため、迫力ある画面を生んだ。また、望遠レンズを使うとカメラ位置が遠ざかり、その分俳優がカメラを意識しなくなり、自然な表情が撮れるため、黒澤はクローズアップも望遠レンズで撮影した。 黒澤は画面に写るものはすべて重要だと考え、1つの画面に人や物がたくさん詰まっているような画面構図を好んだ。そのためパンフォーカスを使用して、被写体を画面の手前から奥に立体的に配置し、奥行きのある「縦の構図」にすることが多い。パンフォーカスはレンズの焦点深度を深く絞り、画面内の被写体全部に焦点を合わせる技法である。黒澤は『わが青春に悔なし』でパンフォーカスを試みようとしたが、敗戦直後の電力不足で諦めており、『生きる』から存分に活用した。パンフォーカスでレンズを深く絞ると光量が減るため、大量の強いライトを使わなければならず、黒澤が撮影するとスタジオが電力不足になり、他の仕事が出来なくなったという逸話がある。 場面転換には「ワイプ」を使用した。ワイプは画面を片側から拭き取るように消して、次の画面を表示する技法である。サイレント映画でよく使われたが、1950年代頃には映画ではほとんど使われなくなり、アメリカではテレビシリーズで採用された。黒澤はワイプをフェードやディゾルブなどの代わりに使用したが、これらの技法を全く使用しなかった訳ではなく、フェードは柔らかな印象を与えるときだけ使い、ディゾルブはかなりの時間経過を示すために用いた。ワイプの主な使用例は、『生きる』で市役所に陳情に来た主婦がたらい回しにされるシーンで、責任回避する各部署の職員を被写体にしたPOVショット(英語版)がワイプで重ねられている。 1940年代から1950年代の作品では「アキシャルカット(英語版)」という技法を使用した。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショットを使用せずに、角度を変えないジャンプカットで焦点距離を変化させる技法で、突然被写体が近づいたり離れたりする印象を与えた。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、黒澤はアキシャルカットを頻繁に使用して、瞬間的な動作を強調したり、静止した瞬間の時間を延ばしたりしていると指摘している。『姿三四郎』では村井半助が柔道の試合で投げ飛ばされたシーンや、三四郎と小夜が階段を下りながら会話するシーンなどで、アキシャルカットが使用されている。 映画批評家のドナルド・リチーは、黒澤の色彩表現はイメージの役割に合わせて色を決め、色彩そのものに意味を持たせるというものであるとしている。『どですかでん』では内容に即してセットや地面を赤や黄の原色で染めて、奔放に色を使用している。『影武者』以降は鮮やかな色彩で細部まで描き込んだ絵コンテを用意するようになり、その絵コンテ自体が芸術作品として成立することから、作品発表のたびに画集が出版された。 太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。 黒澤はカラー映画には慎重な態度を取り、『赤ひげ』までの全作品はモノクロで撮影した。ただし、『天国と地獄』のワンシーンでは煙突の煙に着色してパートカラーにする試みをしている。黒澤はカラーに踏み切らなかった理由について、映画の色彩が絵画的な色彩とは程遠く、自分の考える色彩を表現することができないからだとしている。照明技師の石井長四郎と森弘充は、黒澤が重視するパンフォーカス撮影はカラー映画では難しく、そのためにカラーに踏み切らなかったとしている。黒澤初の全編カラー映画は『どですかでん』で、以後の作品はすべてカラーで撮影した。 黒澤作品の画面サイズは、『どん底』まではスタンダードサイズ(画面比率は1対1.33)だったが、黒澤は画面が狭すぎるスタンダードサイズに不満があり、『隠し砦の三悪人』以降はシネマスコープ(画面比率は1対2.35)を採用した。黒澤は同作について、「最初のシネスコ・サイズで大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮った」と述べている。『デルス・ウザーラ』では初めて70ミリフィルムを使用したが、『影武者』以降の作品はすべてビスタサイズ(画面比率は1対1.66)で撮影した。撮影監督の斎藤孝雄によると、黒澤は画面全体を埋めなければ気が済まない人で、シネマスコープの広い画面を埋めるのが大変になったことからビスタサイズに変更したという。 黒澤は映画音楽で、わざと映像と音楽の調和を崩す「音と映像の対位法」を好んで使用した。スクリプターの野上照代は「映画音楽は足し算ではなく、掛け算でなければならない」のが黒澤の持論だったとしている。黒澤とコンビを組んだ早坂文雄は、黒澤の映画音楽に対する考え方は「画面と結合することによって、ある連想作用によって、そこになにかが喚起され、その音楽自体に別な意味が附与されてくるようなものでなくてはならない」ものだったとしている。対位法を使用する時は、音源をその画面に登場する既成のレコード曲やラジオから流れる音楽、背景の歌声などの現実音にする場合が多かった。対位法の代表的な使用例は『醉いどれ天使』と『野良犬』で、前者では主人公が闇市を歩くシーンで「かっこうワルツ」を流し、後者では佐藤刑事が犯人に撃たれるシーンで「ラ・パロマ」、村上刑事が犯人と対峙するシーンでクーラウの「ソナチネ」のピアノ曲を流している。 黒澤は映画音楽を作曲家任せにせず、作曲家に自分の欲しいイメージを伝え、それに強くこだわった。普段からよく音楽を聞いていた黒澤は、イメージを伝えるために既成曲を示し、それに似た音楽にするよう指示することが多かった。『羅生門』ではラヴェルの「ボレロ」、『赤ひげ』ではブラームスの「交響曲第1番」やハイドンの「交響曲第94番」、『乱』ではマーラーの「大地の歌」に似た曲が作られている。『赤ひげ』以降はラッシュ時に自分が選んだ名曲を付けるようになり、その曲に合わせて編集することもあった。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢も多く、『影武者』では佐藤勝が降板し、『乱』では武満徹とダビングをめぐり対立することもあった。 黒澤は長年東宝に所属していたこともあり、同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「黒澤組」と呼ばれた。黒澤組の主な人物と参加作品数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。 「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。 サングラスは1960年代以降の黒澤のトレードマークである。黒澤は強い照明を使う撮影と、常に自ら編集作業にたずさわっていたこともあって眼を悪くしていたが、尊敬するジョン・フォードも同じく眼を傷めており、フォードと会った時に彼から「眼を大事にしろ」と忠告されたのがきっかけで、『用心棒』からサングラスを着用するようになった。黒澤はフォードを真似てサングラスだけでなく、『椿三十郎』からハンチング帽も被るようになった。それまではピケ帽を愛用し、『デルス・ウザーラ』以後はキャプテン帽を被った。 青年時代に画家を志していた黒澤は、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホなど後期印象派の画家が好きだったが、富岡鉄斎や前田青邨などの日本画家も好きだと発言していた。前田からは兜の絵を貰い、その絵を大事にしていたが、黒澤家の家計が逼迫した時に売却したという。映画界に入ってからは絵コンテはじめ映画のため以外で絵を描くことはなかったが、晩年は水彩や墨で仏画を描くようになり、それらの絵に押す篆刻の制作にも熱中した。また、黒澤は自分で絵を描いたクリスマス・カードを手作りし、国内外の知人に送っていた。野上によると、黒澤は時間があれば絵を描き、机の上に絵を描く道具を置いておくと、サインペンでも絵具でも手当たり次第使って、子供のように黙って絵を描いていたという。 私生活の黒澤はグルメで知られ、とくに肉料理を好んだ。小泉堯史によると、黒澤は晩年になっても食欲は落ちず、ステーキなどを頬張っていたという。黒澤家の食卓の代表的な料理は牛肉料理で、黒澤家に行けば美味しい牛肉が食べられると海外の映画関係者にまで知れ渡っていた。そのため牛肉代だけで食費が高くつき、1ヶ月の牛肉代が100万円を突破することもあり、税務署に疑われるという出来事もあったという。黒澤はスタッフの食事にまでうるさく、夏には撮影現場にかき氷の屋台を用意したこともあった。黒澤は酒豪としても知られ、ジョニー・ウォーカーやホワイトホースなどのウイスキーを愛飲した。 黒澤は寂しがり屋の話し好きで、気の合う人とは話が尽きないような人物だった。お酒もみんなと一緒に賑やかに飲むのが好きで、地方ロケでは毎日のように夜は宴会となり、俳優やスタッフたちと車座になり、一緒に夕食をしながら飲むことが多かった。酔いが進むと黒澤はスタッフたちに輪唱をさせ、黒澤が指揮者になりみんなを何組かに分けて歌わせたという。黒澤組の常連俳優である土屋嘉男によると、黒澤は輪唱が上手くいかないとダメ出しをし、まるで撮影の時と同じようになったと述べている。 黒澤は助監督時代から演出や脚本の力量が認められ、監督処女作でいきなり大きな注目と称賛を受けた数少ない監督だった。多くの監督作品が高評価を受けており、戦後のキネマ旬報ベスト・テンでは25作品が10位以内に選出された。批評家からは視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力などが高く評価される反面、強い娯楽性や独自の倫理観には賛否が分かれることもあった。1960年代の政治運動の激しい時代には、若い世代により反黒澤論も書かれたが、それらの多くは黒澤作品における武士道的ストイシズム、反庶民的ヒロイズム、家父長制的権威主義に反発している。作品が西洋的であることから日本人離れしていると見なされることもあり、海外では最も西洋的な日本人監督と考えられているが、フランスの映画研究家サッシャ・エズラッティは「彼(黒澤)はそのインスピレーションを、その生まれた国の土の中と同様に、国境の外からも得るという、非常に大きな教養を持った男である。黒澤はその国民的な性格を完全に保ちながら、日本映画に世界性を持たせたという功績を持っている」と評価している。 評論家の多田道太郎は「黒澤明は、おそらく日本映画史上初めての映画芸術の中に個人をもち込もうとした作家」と高く評価している。都築や映画批評家の岩崎昶は、黒澤を「観念的作家」と評価した。哲学者の梅原猛は黒澤を愛の作家であるとし、「黒澤明は、どのような文学者よりも人間愛に富んでいるようだ。彼の作中人物は、戦後のいかなる文学者の作品より、生き生きとした愛の行為の実践者である」と評している。増村保造は黒澤の画面作りを高く評価し、その絵画性は表現主義のフリッツ・ラングの作画力に近いとしている。一方、映画批評家の飯田心美は、黒澤の絵画性について「黒澤は人物を素描するかわりに色彩を駆使し、多彩な色調のなかにモチーフを展開してゆくタイプである。そして、その画法も清水宏のごとき水彩のタッチではなく、あくまで人の目を射るごとき油彩である」と評し、その印象をフォーヴィスムの絵画と重ねた。 一方で映画製作者だった角川春樹のように、黒澤信者からアンチ黒澤に転向した人物も存在する。角川は「今まで観た映画のベストは『七人の侍』と『ゴッドファーザー』だ」と公言し、少年時代から黒澤をリスペクトして、映画製作を夢見ていたが、映画『影武者』の有楽座で行われたワールド・プレミアにて、東宝の社長だった松岡功の紹介があったにも関わらず、黒澤に無視された上に握手も拒否され、その後、プレミア上映の最中に、微醺状態の黒澤がジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラを引き連れて姿を現すと、自身が遅れてきたことを理由に上映を中止させ、最初からやり直しをさせる光景を見て幻滅し、以降プロデュースする意欲は一切なくなったという。角川は『影武者』に関して、「私がプロデューサーなら20分切る」「時代考証も疎か」「合戦シーンも『七人の侍』に比べると迫力がなかった」と批判し、取材の最後に「何が黒澤天皇だ(笑)」と吐き捨てている。 国内外の多くの映画監督が黒澤の影響を受け、その作品を賞賛している。黒澤と同時期に活躍したイングマール・ベルイマンは、自作の『処女の泉』(1960年)を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている。フェデリコ・フェリーニは黒澤作品を見ることは「アリオストを読むようなものだ」と賞賛している。サタジット・レイは『羅生門』の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている。アンドレイ・タルコフスキーは好きな作品の1本に『七人の侍』を挙げている。ベルナルド・ベルトルッチとヴェルナー・ヘルツォークも、影響を受けた監督の一人として黒澤の名を挙げている。 スタンリー・キューブリックのアシスタントを務めたアンソニー・フルーウィン(英語版)によると、キューブリックは黒澤を偉大な映画監督の一人と考え、高く評価していたという。黒澤もキューブリックを賞賛しており、1990年代後半にキューブリック宛てにファンレターを送ったが、それに感激したキューブリックは返信の内容に悩み、数ヶ月もかけて返事を書き直すも、その間に黒澤が亡くなってしまい、ひどく動揺したというエピソードがある。 1970年代以降のハリウッド映画で活躍したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアスなどは黒澤を尊敬する師と仰ぎ、それぞれの作品も黒澤から強い影響を受けている。コッポラは「私たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤監督の"芸術的な息子"といっていい存在」と語り、黒澤をノーベル文学賞に推薦しようとしたことがある。コッポラの監督作『ゴッドファーザー』(1972年)の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』の影響を受けている。スピルバーグは黒澤を「現代の映画界におけるシェイクスピア」と評し、「映画製作者としてのぼくの仕事に多大な影響を与えた。映像はもちろんアートにおけるぼくの審美眼は、彼の影響を受けている」と述べている。 また、アレクサンダー・ペインは黒澤のファンで、『七人の侍』『赤ひげ』を好きな映画に挙げている。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは19歳の時に見た『生きる』に衝撃を受けたことを明かし、自身の作品である『BIUTIFUL ビューティフル』を製作した際に影響を受けたことを認め、黒澤を「映画のストーリーの構成を変えようとした天才のうちの一人」と高く評価した。ウェス・アンダーソンはアニメーション映画『犬ヶ島』(2018年)で黒澤の影響を受けていることを明言している。そのほか、サム・ペキンパー、アーサー・ペン、リドリー・スコット、ジョージ・ミラー、ジョン・ウー、チャン・イーモウ、三池崇史、塚本晋也、助監督出身者は一作品に就いただけの野村芳太郎、加藤泰、中平康らを含めると膨大な人数となるが、初期の堀川弘通、中期に就いて最多の本数でチーフをつとめた森谷司郎、晩年期の小泉堯史らが黒澤の影響を受けた愛弟子として名を挙げられることが多い。 これまでに黒澤作品は国内外で何度もリメイクされている。ハリウッド映画では、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』(1960年)が『七人の侍』、マーティン・リット監督の『暴行』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている。セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに著作権侵害で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている。内川清一郎監督の『姿三四郎』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた。 スター・ウォーズシリーズは黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している。C-3POとR2-D2は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている。シリーズ7作目の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)では、J・J・エイブラムス監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし、シリーズ8作目の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)では、ライアン・ジョンソン監督が脚本に『羅生門』などの影響を受けたことを明らかにしている。 2020年発売のPlayStation 4用ゲームソフト『Ghost of Tsushima』は、黒澤の時代劇映画から強い影響を受けており、黒澤に敬意を込めてゲーム画面をモノクロで表示し、1950年代の黒澤作品の質感を再現した「Kurosawa Mode(黒澤モード)」という機能を搭載している。同作の開発者の一人であるジェイソン・コーネルは、黒澤作品の演出とカメラワークを大いに参考にし、風を使用した演出も黒澤作品で風が効果的に使われていることに触発されたと語っている。 没後、数本の未映像化脚本が映画化された。『雨あがる』は黒澤の助監督を務めた小泉堯史が脚本を完成させ、2000年に映画化作品を公開した。同年に四騎の会で企画した『どら平太』が市川崑監督で映画化され、2004年には『海は見ていた』が熊井啓監督で映画化された。また、2017年3月に中国の映画会社である華誼兄弟(中国語版)が『黒き死の仮面』の映画化を発表し、同年5月には中国企業のジンカ・エンターテインメントも未映像化脚本10本の映画化を発表したが、どちらもその後の進展は報道されていない。 黒澤の名を冠した賞や施設も作られた。1986年にサンフランシスコ国際映画祭に「黒澤明賞」が制定され、黒澤自身が第1回受賞者となり、2002年まで授与された。2004年には東京国際映画祭に「黒澤明賞」が設けられた。同賞は「日本文化の再創造への象徴となり、広く世界の映画文化の発展に貢献すること」を目的に設立され、2008年まで授与された。2010年、カリフォルニア州のアナハイム大学に映画学校「黒澤明スクールオブフィルム」が開校し、美術学修士号が取得できるオンライン教育プログラムを提供している。 1998年に佐賀県伊万里市で黒澤明記念館を建設する計画がスタートし、1999年7月2日に伊万里市の商業施設に仮施設となる「黒澤明記念館サテライトスタジオ」が開館した。記念館は黒澤明文化振興財団が寄付金を募って建設する予定だったが、2010年1月に寄付金の約3億8000万円が財団の決算書類の流動資産に記載されていないことが発覚した。翌月、黒澤明文化振興財団の黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝したが、実際は資金の私的利用によるもので、不正利用した費用全額は久雄が払うという方向で決定した。その後、財団側が多額の資金を集めて記念館を作ることが現実的でないとした上で、サテライトスタジオを本記念館にリニューアルしたいとの意向を示し、記念館建設を事実上断念することを決めたが、2011年3月6日にサテライトスタジオも閉館した。 2009年5月、黒澤プロダクションと龍谷大学の共同プロジェクトで「黒澤デジタルアーカイブ」を開設し、未公開の創作ノートやメモ、絵コンテ、台本、撮影時の写真などの資料が、インターネット上で一般公開された。 黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)。※印はプロデューサーを兼任した作品。 特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による。 特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による。 黒澤は国内外で多数の映画賞を受賞しており、作品はアカデミー賞、世界三大映画祭のカンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭、ベルリン国際映画祭のすべてで受賞経験がある。また、1976年に映画人として初めて文化功労者に顕彰され、1985年に同じく映画人初となる文化勲章を受章した。1990年には第62回アカデミー賞で名誉賞を受賞した。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「私はまだ映画がよく分かっていない」と語ったり、会場からは笑いに包まれた。。没後の1998年10月、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる国民栄誉賞が贈られた。2009年にはシェイクスピア作品に縁のある、または影響を受けた芸術家を対象とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂入りを果たした。 英国映画協会のサイト・アンド・サウンド(英語版)誌が10年毎に発表した映画監督のランキングでは、1982年に批評家投票で5位、1992年に監督投票で3位、2002年に批評家投票で6位、監督投票で3位に選ばれた。また、1996年にエンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで6位、2002年にMovieMaker誌が発表した「史上最も影響力のある映画監督25人」のリストで12位、2007年にTotal Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位にランクした。 以下の表は、黒澤の主な映画賞の受賞とノミネートのリストである。このリストには、黒澤個人が受賞した賞(監督賞、脚本賞、生涯功労賞など)だけではなく、黒澤が直接受賞したがどうかにかかわらず作品自体に与えられた作品賞や外国語映画賞も含まれる(プロデューサーが受賞者である賞も、黒澤作品の受賞・ノミネートとしてリストに含める)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "黒澤 明(または黒沢 明、くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成10年〉9月6日)は、日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。位階は従三位。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1910年3月23日、東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区東大井三丁目)の父が勤めていた荏原中学校の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である。シマは大阪の商家の出身だった。勇は秋田県仙北郡豊川村(現・大仙市豊川)の士族の家の出身で、陸軍戸山学校の教官を務めたあと、1891年の日本体育会の創立とともに要職に就き、日本体育会体操学校と併設の荏原中学校に勤務していた。勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は連続活劇やウィリアム・S・ハート(英語版)主演の西部劇をよく観ていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1915年に南高輪幼稚園に入園し、翌1916年に南高輪尋常小学校に入学した。しかし、1917年に勇が日本体育会を退職したため、職員社宅を退去して小石川区西江戸川町(現・文京区水道一丁目)に転居し、黒田尋常小学校に転入した。当時の黒澤は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった。小学校5年の時には剣道を習い始め、高野佐三郎の道場に通うも三日坊主で終わり、自信も失くして放棄した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "立川とともに黒澤の成長を助けたのが、級友の植草圭之助と4つ上の兄の丙午である。植草は黒澤よりも泣き虫で、自分を客観的に見つめさせる存在だったという。丙午は秀才だが気性が激しく、自滅的な行動や皮肉めいたところが多かったが、軟弱な黒澤をしごき、黒澤の自立心を目覚めさせた。関東大震災とそれに伴う朝鮮人虐殺事件の時には、丙午は黒澤を壊滅した街に連れて行き、無数の死骸の山を見せつけて、恐ろしさを克服することを教えた。頑迷な厭世観を持つ丙午は、黒澤にとって反面教師的な存在となり、人生の否定的な面や歩いてはならない面を身をもって教えてくれ、黒澤作品の強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えた。また、自伝『蝦蟇の油』のなかで「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。」と述べ、当時をこう振り返っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1922年、黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。黒澤は東京府立第四中学校を受験したが失敗し、京華中学校に入学した。中学時代は勉学よりも読書に打ち込み、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学に熱中したほか、夏目漱石、樋口一葉、国木田独歩などの日本文学もたくさん読み、黒澤の人間形成に大きな影響を与えた。黒澤は作文で才能を示すようになり、1924年に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸先生から「京華中学創立以来の名文」と褒められた。1926年にも同誌に作文『或る手紙』が掲載された。中学時代は神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でもアベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇(フランス語版)』(1923年)は黒澤が映画監督を志すのに大きな影響を与えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "黒澤は中学在学中に画家を志し、小林萬吾主宰の同舟舎洋画研究所に通った。1927年に京華中学校を卒業し、東京美術学校の受験に失敗すると川端画学校に通い、1928年に油絵『静物』が第15回二科展に入選した。1929年には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を学んだ。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し、1930年の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった。同年に徴兵検査を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり、終戦まで徴兵されることはなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "やがて非合法活動に身を投じ、日本共産党系の無産者新聞の下部組織で街頭連絡員をした。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する」ためで、自ら共産主義者を名乗ったこともなければ、マルクス主義を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、1932年春までに非合法活動から身を引いた。その後は丙午が住む神楽坂の長屋に居候し、映画や寄席に熱中した。丙午は須田貞明の名で活動弁士となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、トーキーの普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、1933年7月に伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった。1934年に一家は恵比寿に転居し、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1936年、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した山本嘉次郎の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した。助監督入社の同期には関川秀雄と丸山誠治がいた。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した。山本組の助監督仲間には谷口千吉と本多猪四郎がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった。1937年に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、エキストラ、ロケーションの会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "山本監督の『馬』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした。この『馬』の東北地方でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の高峰秀子との間に恋が芽生えた。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した。この作品はドイツ人建築家ブルーノ・タウトの評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、伊丹万作に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した。1942年に執筆した『静かなり』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1942年、黒澤は監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、内務省の事前検閲で却下された。『サンパギタの花』では、誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う天長節もいけないのか」と反論するも却下された。次に山中峯太郎原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。その中には伏水修監督の『青春の気流』(1942年)、山本薩夫監督の『翼の凱歌』(1942年)などの戦意高揚映画もあり、黒澤は「意欲を傾けられるような仕事ではなかった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "黒澤の監督処女作は『姿三四郎』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は富田常雄の同名小説の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの森田信義を説得して映画化権を獲得させた。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された。1943年3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を木下惠介とともに受賞するなど、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の森岩雄は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "監督第2作の『一番美しく』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の矢口陽子(本名は喜代)と結婚し、1945年3月頃に山本夫妻の媒酌で明治神宮で結婚式を挙げた。この頃の東京は空襲を受けており、同居していた両親たちはすでに秋田に疎開していた。黒澤が住んでいた恵比寿も空襲で危ないということで、同じく家族が疎開していた堀川弘通の祖師ヶ谷にある実家に転居した。その翌日に恵比寿の家は空襲で焼失した。それから数年間は堀川家で生活し、堀川は家主であるのに黒澤家に居候しているような気分になったという。同年に黒澤は処女作の続編『續姿三四郎』を完成させ、次に桶狭間の戦いを描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」を元にした『虎の尾を踏む男たち』を監督した。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後にGHQの検閲で封建制助長により非合法作品となり、1952年まで上映禁止にされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "終戦後の最初の仕事は、川口松太郎の依頼で執筆した戯曲『喋る』で、1945年12月に有楽座で新生新派により上演された。戦後の初監督作は『わが青春に悔なし』(1946年)であるが、当時の会社は東宝争議で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた。1946年10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、新東宝の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは伊豆の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『素晴らしき日曜日』(1947年)を監督し、谷口監督の『銀嶺の果て』とオムニバス映画『四つの恋の物語』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1948年公開の『醉いどれ天使』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた闇市の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの三船敏郎と初めてコンビを組み、主人公の結核を患う若いヤクザ役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた志村喬をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた。作曲家の早坂文雄とも初めてコンビを組んでおり、1955年に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、キネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "同年3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、成瀬巳喜男、プロデューサーの本木荘二郎と同人組織「映画芸術協会」を設立した。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した。さらに給料支払いを止められた組合員の資金カンパのため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、チェーホフの戯曲『結婚の申込み』も演出した。10月19日に第3次東宝争議は終結した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "争議終結後は東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある大映での『静かなる決闘』(1949年)で、菊田一夫の戯曲『堕胎医』を原作にしている。その次に新東宝と映画芸術協会が共同製作した『野良犬』(1949年)は、黒澤が好きだったジョルジュ・シムノンの犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際の刑事の話を元にしている。この作品は日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1950年、黒澤は松竹で『醜聞』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『羅生門』を監督した。この作品は橋本忍が芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった。しかし、1951年9月にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、さらに第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その次に松竹で監督した『白痴』(1951年)は、黒澤が学生時代から傾倒するフョードル・ドストエフスキーの同名小説が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場のソ連では高く評価された。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、1951年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ。東宝復帰第1作である『生きる』(1952年)はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、第4回ベルリン国際映画祭ではベルリン市政府特別賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "黒澤は次に本物の時代劇を作ろうと意気込み、橋本と『侍の一日』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『七人の侍』(1954年)の脚本を執筆した。撮影は1953年5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった。ヴェネツィア国際映画祭に出品されると銀獅子賞を受賞し、その後は日本国内でも国外でも映画史上の名作として高く評価されるようになり、2018年にイギリスのBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1955年2月、黒澤はカンヌ国際映画祭の審査員に要請されるも辞退した。『生きものの記録』(1955年)の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした。1本目の『蜘蛛巣城』(1957年)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み、2本目にゴーリキー原作の『どん底』(1957年)を監督した。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、能の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1957年10月、黒澤はロンドンのナショナル・フィルム・シアター(英語版)の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人としてジョン・フォード、ルネ・クレール、ヴィットリオ・デ・シーカ、ローレンス・オリヴィエとともに表彰された。その翌日には第1回ロンドン映画祭の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『ギデオン』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った。その次にパリに渡り、シネマテーク・フランセーズを訪問したり、ジャン・ルノワールと夕食を共にしたりして過ごした。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、映画産業に対する危機感を事あるごとに言及するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』(1958年)は興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た。1958年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた。そこで1959年4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1960年7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者はダシール・ハメットの小説『血の収穫』が着想の元となり、後者は山本周五郎の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入している。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り、テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた。1966年7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは東京都港区の東京プリンスホテル4階に事務所を構えた。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1966年6月、黒澤はアメリカのエンバシー・ピクチャーズ(英語版)と共同製作で『暴走機関車』を監督することを発表した。この企画はライフ誌に掲載された、ニューヨーク州北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員アメリカ人にすることが決定していた。しかし、英語脚本担当のシドニー・キャロル(英語版)と意見が合わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作方針をめぐり食い違いが生じた。例えば、黒澤は70ミリフィルムのカラー映画を想定していたのに対し、アメリカ側はスタンダードサイズのモノクロ映画で作ろうと考えていた。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった。この企画は1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化されたが、内容は大きく改変された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1967年4月、真珠湾攻撃が題材の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』を20世紀フォックスと共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された。黒澤は東映京都撮影所で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、1968年12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1969年6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が赤坂プリンスホテルで開かれ、関係スタッフや淀川長治など黒澤を応援する人たちが集まった。その翌月には木下惠介、市川崑、小林正樹とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた。その第1作として4人の共同脚本・監督で『どら平太』を企画するが頓挫した。結局、黒澤が単独で『どですかでん』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた。黒澤以外の四騎の会の監督はテレビ番組を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、1971年8月31日に名馬の雄姿を紹介する日本テレビのドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった。同年12月22日早朝、黒澤は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1973年3月14日、黒澤はソ連の映画会社モスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回モスクワ国際映画祭に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、1974年4月から約1年間にわたり撮影をしたが、シベリアの過酷な自然条件での撮影は困難を極めた。作品は第48回アカデミー賞でソ連代表作品として外国語映画賞を受賞し、黒澤の復活を印象付けた。1977年には再びソ連で作ることを画策し、エドガー・アラン・ポーの短編小説『赤死病の仮面』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった。この頃の黒澤はメディアへの露出が増え、1976年から1979年までサントリーリザーブのテレビCMにも出演した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1978年7月1日、黒澤はイタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で外国監督賞を受賞し、その副賞であるファーストクラスの航空券を使ってアメリカに10日間旅行した。黒澤はジョージ・ルーカスなどと昼食を共にしたり、フランシス・フォード・コッポラの邸宅を訪ねるなどの交友を持った。アメリカ滞在中、黒澤はルーカスと次回作『影武者』(1980年)の資金援助の相談もした。武田信玄の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで20世紀フォックスが世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた。『影武者』はオーディションで無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった勝新太郎の降板騒動が起きるなど、公開前からマスコミを賑わせた。当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『乱』(1985年)を作ることにした。同作は毛利元就の三本の矢の教えにシェイクスピアの『リア王』を組み合わせた作品で、1976年に初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった。1981年10月に黒澤は渡米し、ニューヨークで行われたジャパン・ソサエティー主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談した。『乱』はフランスの映画製作者セルジュ・シルベルマンの出資で製作が実現することになったが、1983年3月にフランの海外流出が制限されたため製作延期となった。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽能をテーマにしたドキュメンタリー映画『能の美』を企画し、黒澤監修で佐伯清を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同年11月1日、神奈川県横浜市緑区に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し、同月に『乱』はヘラルド・エースの参加で製作再開した。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、1986年3月の第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされ、ワダ・エミが衣裳デザイン賞を受賞した。黒澤も監督賞にノミネートされたが、これはシドニー・ルメットが黒澤をノミネートさせるためのキャンペーンを行った結果である。また、黒澤は同賞でジョン・ヒューストンやビリー・ワイルダーとともに作品賞のプレゼンターも務めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "晩年期の作品は、家族や師弟など身辺に目を向け、自伝的な要素が強くなった。『夢』(1990年)は自身が見た夢を元にしたアンソロジー的作品で、その挿話の一つには早世した姉に対する追慕が現れている。この作品もやはり国内の映画会社で資金調達ができず、スティーヴン・スピルバーグの計らいでワーナー・ブラザースが出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスのILMが特殊合成に協力し、マーティン・スコセッシがゴッホ役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた。その後は国内資本での映画製作が続き、『八月の狂詩曲』(1991年)は村田喜代子の芥川賞作品『鍋の中』が原作で、『まあだだよ』(1993年)では内田百閒をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1993年11月、山本周五郎の2つの短編小説を元にした『海は見ていた』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した。そこで同じ山本原作の『雨あがる』の脚本に取りかかるが、1995年3月に定宿である京都の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられた。その間の1996年に日本エアシステムの機体MD-90のデザインを担当し、1997年にはカルピスのために自筆の絵コンテをCGでアニメーション化したテレビCM「初恋」を制作し、初めてのCM制作でデジタル表現に取り組んだ。同年12月には三船が死去したが、翌1998年1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の久雄が弔辞を代読した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中により死去した。88歳没。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、岡本喜八、司葉子、谷口千吉、仲代達矢、香川京子、千秋実、侯孝賢など約3万5000人が参列した。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス、アッバス・キアロスタミなどからは弔電が届いた。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスのジャック・シラク大統領も追悼談話を発表した。黒澤は無宗教だが、妻(1985年に死去)が眠る鎌倉市の安養院に納骨され、「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られた。従三位に叙された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "黒澤作品は強い人間信頼と人生肯定を特徴とし、現実社会で困難な状況に追い込まれた主人公が、それを契機にして人間的に再生する姿を描くことが多い。評論家の都築政昭は、黒澤作品の主人公は強い正義感と犠牲的な精神で困難に立ち向かうが、そのような人物は現実感に乏しいため、黒澤は人間のあるべき姿を願望として描いていると指摘している。映画批評家の佐藤忠男は、黒澤は生きる意味を探求するというテーマをくり返し描いていると指摘している。終戦後に作られた『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』などでは、主人公は強い正義感や使命感を持って社会悪と闘い、逞しく生きる侍的な英雄として描かれており、敗戦後の混沌とした社会に対して肯定的に生きることの意義を訴えている。その作風は人生の意義、社会的献身の意義を問う『生きる』と『赤ひげ』で頂点に達したとみなされている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "黒澤は師匠と弟子の関係をテーマに扱い、人間的に未熟な青二才がすぐれた師匠の教えを受けて一人前に成長するという物語を描くことが多い。そのテーマは監督第1作の『姿三四郎』から描かれており、この作品では青年柔道家の三四郎が師匠の矢野正五郎の教えを受けながら、心身両面で成長してすぐれた柔道家になる姿を描いている。そのほかの師弟関係を描いた例として、『野良犬』の佐藤刑事と村上刑事、『七人の侍』の勘兵衛と菊千代、『椿三十郎』の三十郎と若侍たち、『赤ひげ』の新出去定と保本登が挙げられる。1950年代までは三船敏郎が弟子に相当する主人公を演じていたが、『椿三十郎』『赤ひげ』では三船は未熟な者を指導する側の役を演じた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "黒澤はその時々で自身が関心を持つ社会問題をテーマに採り上げ、批判的内容の作品を作っている。例えば、『醜聞』ではイエロー・ジャーナリズム、『生きる』では官僚主義、『悪い奴ほどよく眠る』では汚職、『天国と地獄』では誘拐、『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』では原爆をテーマに扱っている。佐藤によると、黒澤作品の社会批判の姿勢は、通常の社会批判映画を作る映画作家が好むような問題の犠牲者に観客の同情を集めたり、大衆に連帯をうながすという物語の形式を極端に避けており、その代わりに黒澤作品の主人公は大衆をあてにせず、個人的な解決方法を取ることが多いという。また、佐藤は自分だけで解決する主人公の描き方について、その独特な生き方は普通の日本人には理解し難いが、そこに日本人の大勢順応的傾向に反対する黒澤の主張が込められていると指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "監督作品は基本的にすべて自分でシナリオを書いているが、大抵の作品には共同執筆者がいた。黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった。大映製作担当の市川久夫は、谷口と共作の『静かなる決闘』の共同執筆について、「毎日、話の段取りを予め決め、同じシーンを二人が別々に書き、終わったところで対照し、よい方に統一しながら書き足してゆくといった方法だった」と述べている。橋本忍と小国英雄と共作の『生きる』『七人の侍』では、黒澤と橋本が競うように同じシーンを書き、小国がそれを取捨選択して決めるという役割分担で執筆した。橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した。リハーサルは他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。このため、制作費が莫大になる理由の一つでもあった。。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた。美術監督の村木与四郎も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた茶碗に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られた。黒澤はある程度はリアリズムを徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった。『用心棒』の宿場町はシネマスコープの画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている。撮影監督の宮川一夫によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを長回しで撮影した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "黒澤はカメラの動きを観客に意識させないようにした。カメラを勝手に動かすことはなく、俳優が動くときのみカメラを移動させ、俳優が止まればカメラも停止させた。カメラが対象物に寄るのも不自然だと考え、ズームレンズは基本的に使わず、その代わりに望遠レンズを多用した。黒澤は『野良犬』のワンシーンで初めて望遠レンズを使い、『七人の侍』から複数カメラの1つに採用した。望遠レンズだと画角が狭くなり、被写体の遠近感が失われて縦に迫るように見えるため、迫力ある画面を生んだ。また、望遠レンズを使うとカメラ位置が遠ざかり、その分俳優がカメラを意識しなくなり、自然な表情が撮れるため、黒澤はクローズアップも望遠レンズで撮影した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "黒澤は画面に写るものはすべて重要だと考え、1つの画面に人や物がたくさん詰まっているような画面構図を好んだ。そのためパンフォーカスを使用して、被写体を画面の手前から奥に立体的に配置し、奥行きのある「縦の構図」にすることが多い。パンフォーカスはレンズの焦点深度を深く絞り、画面内の被写体全部に焦点を合わせる技法である。黒澤は『わが青春に悔なし』でパンフォーカスを試みようとしたが、敗戦直後の電力不足で諦めており、『生きる』から存分に活用した。パンフォーカスでレンズを深く絞ると光量が減るため、大量の強いライトを使わなければならず、黒澤が撮影するとスタジオが電力不足になり、他の仕事が出来なくなったという逸話がある。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "場面転換には「ワイプ」を使用した。ワイプは画面を片側から拭き取るように消して、次の画面を表示する技法である。サイレント映画でよく使われたが、1950年代頃には映画ではほとんど使われなくなり、アメリカではテレビシリーズで採用された。黒澤はワイプをフェードやディゾルブなどの代わりに使用したが、これらの技法を全く使用しなかった訳ではなく、フェードは柔らかな印象を与えるときだけ使い、ディゾルブはかなりの時間経過を示すために用いた。ワイプの主な使用例は、『生きる』で市役所に陳情に来た主婦がたらい回しにされるシーンで、責任回避する各部署の職員を被写体にしたPOVショット(英語版)がワイプで重ねられている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1940年代から1950年代の作品では「アキシャルカット(英語版)」という技法を使用した。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショットを使用せずに、角度を変えないジャンプカットで焦点距離を変化させる技法で、突然被写体が近づいたり離れたりする印象を与えた。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、黒澤はアキシャルカットを頻繁に使用して、瞬間的な動作を強調したり、静止した瞬間の時間を延ばしたりしていると指摘している。『姿三四郎』では村井半助が柔道の試合で投げ飛ばされたシーンや、三四郎と小夜が階段を下りながら会話するシーンなどで、アキシャルカットが使用されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "映画批評家のドナルド・リチーは、黒澤の色彩表現はイメージの役割に合わせて色を決め、色彩そのものに意味を持たせるというものであるとしている。『どですかでん』では内容に即してセットや地面を赤や黄の原色で染めて、奔放に色を使用している。『影武者』以降は鮮やかな色彩で細部まで描き込んだ絵コンテを用意するようになり、その絵コンテ自体が芸術作品として成立することから、作品発表のたびに画集が出版された。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "黒澤はカラー映画には慎重な態度を取り、『赤ひげ』までの全作品はモノクロで撮影した。ただし、『天国と地獄』のワンシーンでは煙突の煙に着色してパートカラーにする試みをしている。黒澤はカラーに踏み切らなかった理由について、映画の色彩が絵画的な色彩とは程遠く、自分の考える色彩を表現することができないからだとしている。照明技師の石井長四郎と森弘充は、黒澤が重視するパンフォーカス撮影はカラー映画では難しく、そのためにカラーに踏み切らなかったとしている。黒澤初の全編カラー映画は『どですかでん』で、以後の作品はすべてカラーで撮影した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "黒澤作品の画面サイズは、『どん底』まではスタンダードサイズ(画面比率は1対1.33)だったが、黒澤は画面が狭すぎるスタンダードサイズに不満があり、『隠し砦の三悪人』以降はシネマスコープ(画面比率は1対2.35)を採用した。黒澤は同作について、「最初のシネスコ・サイズで大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮った」と述べている。『デルス・ウザーラ』では初めて70ミリフィルムを使用したが、『影武者』以降の作品はすべてビスタサイズ(画面比率は1対1.66)で撮影した。撮影監督の斎藤孝雄によると、黒澤は画面全体を埋めなければ気が済まない人で、シネマスコープの広い画面を埋めるのが大変になったことからビスタサイズに変更したという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "黒澤は映画音楽で、わざと映像と音楽の調和を崩す「音と映像の対位法」を好んで使用した。スクリプターの野上照代は「映画音楽は足し算ではなく、掛け算でなければならない」のが黒澤の持論だったとしている。黒澤とコンビを組んだ早坂文雄は、黒澤の映画音楽に対する考え方は「画面と結合することによって、ある連想作用によって、そこになにかが喚起され、その音楽自体に別な意味が附与されてくるようなものでなくてはならない」ものだったとしている。対位法を使用する時は、音源をその画面に登場する既成のレコード曲やラジオから流れる音楽、背景の歌声などの現実音にする場合が多かった。対位法の代表的な使用例は『醉いどれ天使』と『野良犬』で、前者では主人公が闇市を歩くシーンで「かっこうワルツ」を流し、後者では佐藤刑事が犯人に撃たれるシーンで「ラ・パロマ」、村上刑事が犯人と対峙するシーンでクーラウの「ソナチネ」のピアノ曲を流している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "黒澤は映画音楽を作曲家任せにせず、作曲家に自分の欲しいイメージを伝え、それに強くこだわった。普段からよく音楽を聞いていた黒澤は、イメージを伝えるために既成曲を示し、それに似た音楽にするよう指示することが多かった。『羅生門』ではラヴェルの「ボレロ」、『赤ひげ』ではブラームスの「交響曲第1番」やハイドンの「交響曲第94番」、『乱』ではマーラーの「大地の歌」に似た曲が作られている。『赤ひげ』以降はラッシュ時に自分が選んだ名曲を付けるようになり、その曲に合わせて編集することもあった。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢も多く、『影武者』では佐藤勝が降板し、『乱』では武満徹とダビングをめぐり対立することもあった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "黒澤は長年東宝に所属していたこともあり、同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「黒澤組」と呼ばれた。黒澤組の主な人物と参加作品数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "サングラスは1960年代以降の黒澤のトレードマークである。黒澤は強い照明を使う撮影と、常に自ら編集作業にたずさわっていたこともあって眼を悪くしていたが、尊敬するジョン・フォードも同じく眼を傷めており、フォードと会った時に彼から「眼を大事にしろ」と忠告されたのがきっかけで、『用心棒』からサングラスを着用するようになった。黒澤はフォードを真似てサングラスだけでなく、『椿三十郎』からハンチング帽も被るようになった。それまではピケ帽を愛用し、『デルス・ウザーラ』以後はキャプテン帽を被った。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "青年時代に画家を志していた黒澤は、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホなど後期印象派の画家が好きだったが、富岡鉄斎や前田青邨などの日本画家も好きだと発言していた。前田からは兜の絵を貰い、その絵を大事にしていたが、黒澤家の家計が逼迫した時に売却したという。映画界に入ってからは絵コンテはじめ映画のため以外で絵を描くことはなかったが、晩年は水彩や墨で仏画を描くようになり、それらの絵に押す篆刻の制作にも熱中した。また、黒澤は自分で絵を描いたクリスマス・カードを手作りし、国内外の知人に送っていた。野上によると、黒澤は時間があれば絵を描き、机の上に絵を描く道具を置いておくと、サインペンでも絵具でも手当たり次第使って、子供のように黙って絵を描いていたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "私生活の黒澤はグルメで知られ、とくに肉料理を好んだ。小泉堯史によると、黒澤は晩年になっても食欲は落ちず、ステーキなどを頬張っていたという。黒澤家の食卓の代表的な料理は牛肉料理で、黒澤家に行けば美味しい牛肉が食べられると海外の映画関係者にまで知れ渡っていた。そのため牛肉代だけで食費が高くつき、1ヶ月の牛肉代が100万円を突破することもあり、税務署に疑われるという出来事もあったという。黒澤はスタッフの食事にまでうるさく、夏には撮影現場にかき氷の屋台を用意したこともあった。黒澤は酒豪としても知られ、ジョニー・ウォーカーやホワイトホースなどのウイスキーを愛飲した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "黒澤は寂しがり屋の話し好きで、気の合う人とは話が尽きないような人物だった。お酒もみんなと一緒に賑やかに飲むのが好きで、地方ロケでは毎日のように夜は宴会となり、俳優やスタッフたちと車座になり、一緒に夕食をしながら飲むことが多かった。酔いが進むと黒澤はスタッフたちに輪唱をさせ、黒澤が指揮者になりみんなを何組かに分けて歌わせたという。黒澤組の常連俳優である土屋嘉男によると、黒澤は輪唱が上手くいかないとダメ出しをし、まるで撮影の時と同じようになったと述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "黒澤は助監督時代から演出や脚本の力量が認められ、監督処女作でいきなり大きな注目と称賛を受けた数少ない監督だった。多くの監督作品が高評価を受けており、戦後のキネマ旬報ベスト・テンでは25作品が10位以内に選出された。批評家からは視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力などが高く評価される反面、強い娯楽性や独自の倫理観には賛否が分かれることもあった。1960年代の政治運動の激しい時代には、若い世代により反黒澤論も書かれたが、それらの多くは黒澤作品における武士道的ストイシズム、反庶民的ヒロイズム、家父長制的権威主義に反発している。作品が西洋的であることから日本人離れしていると見なされることもあり、海外では最も西洋的な日本人監督と考えられているが、フランスの映画研究家サッシャ・エズラッティは「彼(黒澤)はそのインスピレーションを、その生まれた国の土の中と同様に、国境の外からも得るという、非常に大きな教養を持った男である。黒澤はその国民的な性格を完全に保ちながら、日本映画に世界性を持たせたという功績を持っている」と評価している。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "評論家の多田道太郎は「黒澤明は、おそらく日本映画史上初めての映画芸術の中に個人をもち込もうとした作家」と高く評価している。都築や映画批評家の岩崎昶は、黒澤を「観念的作家」と評価した。哲学者の梅原猛は黒澤を愛の作家であるとし、「黒澤明は、どのような文学者よりも人間愛に富んでいるようだ。彼の作中人物は、戦後のいかなる文学者の作品より、生き生きとした愛の行為の実践者である」と評している。増村保造は黒澤の画面作りを高く評価し、その絵画性は表現主義のフリッツ・ラングの作画力に近いとしている。一方、映画批評家の飯田心美は、黒澤の絵画性について「黒澤は人物を素描するかわりに色彩を駆使し、多彩な色調のなかにモチーフを展開してゆくタイプである。そして、その画法も清水宏のごとき水彩のタッチではなく、あくまで人の目を射るごとき油彩である」と評し、その印象をフォーヴィスムの絵画と重ねた。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一方で映画製作者だった角川春樹のように、黒澤信者からアンチ黒澤に転向した人物も存在する。角川は「今まで観た映画のベストは『七人の侍』と『ゴッドファーザー』だ」と公言し、少年時代から黒澤をリスペクトして、映画製作を夢見ていたが、映画『影武者』の有楽座で行われたワールド・プレミアにて、東宝の社長だった松岡功の紹介があったにも関わらず、黒澤に無視された上に握手も拒否され、その後、プレミア上映の最中に、微醺状態の黒澤がジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラを引き連れて姿を現すと、自身が遅れてきたことを理由に上映を中止させ、最初からやり直しをさせる光景を見て幻滅し、以降プロデュースする意欲は一切なくなったという。角川は『影武者』に関して、「私がプロデューサーなら20分切る」「時代考証も疎か」「合戦シーンも『七人の侍』に比べると迫力がなかった」と批判し、取材の最後に「何が黒澤天皇だ(笑)」と吐き捨てている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "国内外の多くの映画監督が黒澤の影響を受け、その作品を賞賛している。黒澤と同時期に活躍したイングマール・ベルイマンは、自作の『処女の泉』(1960年)を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている。フェデリコ・フェリーニは黒澤作品を見ることは「アリオストを読むようなものだ」と賞賛している。サタジット・レイは『羅生門』の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている。アンドレイ・タルコフスキーは好きな作品の1本に『七人の侍』を挙げている。ベルナルド・ベルトルッチとヴェルナー・ヘルツォークも、影響を受けた監督の一人として黒澤の名を挙げている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "スタンリー・キューブリックのアシスタントを務めたアンソニー・フルーウィン(英語版)によると、キューブリックは黒澤を偉大な映画監督の一人と考え、高く評価していたという。黒澤もキューブリックを賞賛しており、1990年代後半にキューブリック宛てにファンレターを送ったが、それに感激したキューブリックは返信の内容に悩み、数ヶ月もかけて返事を書き直すも、その間に黒澤が亡くなってしまい、ひどく動揺したというエピソードがある。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1970年代以降のハリウッド映画で活躍したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアスなどは黒澤を尊敬する師と仰ぎ、それぞれの作品も黒澤から強い影響を受けている。コッポラは「私たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤監督の\"芸術的な息子\"といっていい存在」と語り、黒澤をノーベル文学賞に推薦しようとしたことがある。コッポラの監督作『ゴッドファーザー』(1972年)の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』の影響を受けている。スピルバーグは黒澤を「現代の映画界におけるシェイクスピア」と評し、「映画製作者としてのぼくの仕事に多大な影響を与えた。映像はもちろんアートにおけるぼくの審美眼は、彼の影響を受けている」と述べている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、アレクサンダー・ペインは黒澤のファンで、『七人の侍』『赤ひげ』を好きな映画に挙げている。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは19歳の時に見た『生きる』に衝撃を受けたことを明かし、自身の作品である『BIUTIFUL ビューティフル』を製作した際に影響を受けたことを認め、黒澤を「映画のストーリーの構成を変えようとした天才のうちの一人」と高く評価した。ウェス・アンダーソンはアニメーション映画『犬ヶ島』(2018年)で黒澤の影響を受けていることを明言している。そのほか、サム・ペキンパー、アーサー・ペン、リドリー・スコット、ジョージ・ミラー、ジョン・ウー、チャン・イーモウ、三池崇史、塚本晋也、助監督出身者は一作品に就いただけの野村芳太郎、加藤泰、中平康らを含めると膨大な人数となるが、初期の堀川弘通、中期に就いて最多の本数でチーフをつとめた森谷司郎、晩年期の小泉堯史らが黒澤の影響を受けた愛弟子として名を挙げられることが多い。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "これまでに黒澤作品は国内外で何度もリメイクされている。ハリウッド映画では、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』(1960年)が『七人の侍』、マーティン・リット監督の『暴行』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている。セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに著作権侵害で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている。内川清一郎監督の『姿三四郎』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スター・ウォーズシリーズは黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している。C-3POとR2-D2は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている。シリーズ7作目の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)では、J・J・エイブラムス監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし、シリーズ8作目の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)では、ライアン・ジョンソン監督が脚本に『羅生門』などの影響を受けたことを明らかにしている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2020年発売のPlayStation 4用ゲームソフト『Ghost of Tsushima』は、黒澤の時代劇映画から強い影響を受けており、黒澤に敬意を込めてゲーム画面をモノクロで表示し、1950年代の黒澤作品の質感を再現した「Kurosawa Mode(黒澤モード)」という機能を搭載している。同作の開発者の一人であるジェイソン・コーネルは、黒澤作品の演出とカメラワークを大いに参考にし、風を使用した演出も黒澤作品で風が効果的に使われていることに触発されたと語っている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "没後、数本の未映像化脚本が映画化された。『雨あがる』は黒澤の助監督を務めた小泉堯史が脚本を完成させ、2000年に映画化作品を公開した。同年に四騎の会で企画した『どら平太』が市川崑監督で映画化され、2004年には『海は見ていた』が熊井啓監督で映画化された。また、2017年3月に中国の映画会社である華誼兄弟(中国語版)が『黒き死の仮面』の映画化を発表し、同年5月には中国企業のジンカ・エンターテインメントも未映像化脚本10本の映画化を発表したが、どちらもその後の進展は報道されていない。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "黒澤の名を冠した賞や施設も作られた。1986年にサンフランシスコ国際映画祭に「黒澤明賞」が制定され、黒澤自身が第1回受賞者となり、2002年まで授与された。2004年には東京国際映画祭に「黒澤明賞」が設けられた。同賞は「日本文化の再創造への象徴となり、広く世界の映画文化の発展に貢献すること」を目的に設立され、2008年まで授与された。2010年、カリフォルニア州のアナハイム大学に映画学校「黒澤明スクールオブフィルム」が開校し、美術学修士号が取得できるオンライン教育プログラムを提供している。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1998年に佐賀県伊万里市で黒澤明記念館を建設する計画がスタートし、1999年7月2日に伊万里市の商業施設に仮施設となる「黒澤明記念館サテライトスタジオ」が開館した。記念館は黒澤明文化振興財団が寄付金を募って建設する予定だったが、2010年1月に寄付金の約3億8000万円が財団の決算書類の流動資産に記載されていないことが発覚した。翌月、黒澤明文化振興財団の黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝したが、実際は資金の私的利用によるもので、不正利用した費用全額は久雄が払うという方向で決定した。その後、財団側が多額の資金を集めて記念館を作ることが現実的でないとした上で、サテライトスタジオを本記念館にリニューアルしたいとの意向を示し、記念館建設を事実上断念することを決めたが、2011年3月6日にサテライトスタジオも閉館した。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2009年5月、黒澤プロダクションと龍谷大学の共同プロジェクトで「黒澤デジタルアーカイブ」を開設し、未公開の創作ノートやメモ、絵コンテ、台本、撮影時の写真などの資料が、インターネット上で一般公開された。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む)。※印はプロデューサーを兼任した作品。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "黒澤は国内外で多数の映画賞を受賞しており、作品はアカデミー賞、世界三大映画祭のカンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭、ベルリン国際映画祭のすべてで受賞経験がある。また、1976年に映画人として初めて文化功労者に顕彰され、1985年に同じく映画人初となる文化勲章を受章した。1990年には第62回アカデミー賞で名誉賞を受賞した。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「私はまだ映画がよく分かっていない」と語ったり、会場からは笑いに包まれた。。没後の1998年10月、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる国民栄誉賞が贈られた。2009年にはシェイクスピア作品に縁のある、または影響を受けた芸術家を対象とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂入りを果たした。", "title": "受賞" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "英国映画協会のサイト・アンド・サウンド(英語版)誌が10年毎に発表した映画監督のランキングでは、1982年に批評家投票で5位、1992年に監督投票で3位、2002年に批評家投票で6位、監督投票で3位に選ばれた。また、1996年にエンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで6位、2002年にMovieMaker誌が発表した「史上最も影響力のある映画監督25人」のリストで12位、2007年にTotal Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位にランクした。", "title": "受賞" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "以下の表は、黒澤の主な映画賞の受賞とノミネートのリストである。このリストには、黒澤個人が受賞した賞(監督賞、脚本賞、生涯功労賞など)だけではなく、黒澤が直接受賞したがどうかにかかわらず作品自体に与えられた作品賞や外国語映画賞も含まれる(プロデューサーが受賞者である賞も、黒澤作品の受賞・ノミネートとしてリストに含める)。", "title": "受賞" } ]
黒澤 明は、日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。位階は従三位。 第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。 青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。
{{表記揺れ案内|text=この記事の項目名には分野により以下のような表記揺れがあります。 |表記1=黒澤明|表記2=黒沢明|議論ページ=[[Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/過去ログ10#日本の歴史人物名の漢字表記|過去の議論]]}} {{Otheruses|映画監督|同姓同名の歌手|ロス・プリモス}} {{ActorActress | 芸名 = 黒澤 明 | ふりがな = くろさわ あきら | 画像ファイル = Kinema-Junpo-1960-December-Special-1.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = <small>『キネマ旬報』1960年12月増刊号より</small> | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]]{{efn|現在の[[東京都]][[品川区]][[東大井]]。}} | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]][[成城]] | 国籍 = | 民族 = | 身長 = 182 [[センチメートル|cm]]{{Sfn|田草川|2006|p=368}} | 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]{{Sfn|島|1991|p=83}} | 生年 = 1910 | 生月 = 3 | 生日 = 23 | 没年 = 1998 | 没月 = 9 | 没日 = 6 | 職業 = [[映画監督]]・[[脚本家]]・[[映画プロデューサー]]・[[編集技師]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1943年]] - [[1998年]] | 活動内容 = | 配偶者 = [[矢口陽子]]([[1945年]] - [[1985年]]) | 著名な家族 ={{Plainlist| * 兄:須田貞明([[活動弁士]]) * 長男:[[黒澤久雄]](タレント・歌手) * 長女:[[黒澤和子]](デザイナー) * 孫:[[黒澤優]](元女優){{efn|黒澤優の夫は、歌手の[[松岡充]]である。}} * 孫:[[加藤隆之]](俳優) }} | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = {{plainlist| * 『[[醉いどれ天使]]』(1948年) * 『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』(1949年) * 『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年) * 『[[生きる (映画)|生きる]]』(1952年) * 『[[七人の侍]]』(1954年) * 『[[蜘蛛巣城]]』(1957年) * 『[[隠し砦の三悪人]]』(1958年) * 『[[用心棒]]』(1961年) * 『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963年) * 『[[赤ひげ]]』(1965年) * 『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』(1975年) * 『[[影武者 (映画)|影武者]]』(1980年) * 『[[乱 (映画)|乱]]』(1985年) }}<!--皆が認める代表作品を入力--> | アカデミー賞 = '''[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第48回アカデミー賞|1975年]]『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br />[[第62回アカデミー賞|1989年]] 世界中で観客に勇気と喜びと豊かさと娯楽を、また映画製作者達にも影響を与えた功績に対して | AFI賞 = | ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第9回ベルリン国際映画祭|1959年]]『[[隠し砦の三悪人]]』<br />'''[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />1959年『隠し砦の三悪人』<br />'''ベルリン市政府特別賞'''<br />[[第4回ベルリン国際映画祭|1954年]]『[[生きる (映画)|生きる]]』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />1951年『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』<br />'''[[銀獅子賞]]'''<br />1954年『[[七人の侍]]』<br />'''[[サン・ジョルジョ賞]]'''<br/>[[第26回ヴェネツィア国際映画祭|1965年]]『[[赤ひげ]]』<br />'''イタリア批評家賞'''<br />1951年『羅生門』<br />'''国際カトリック映画事務局賞'''<br />1965年『赤ひげ』<br/>1971年『[[どですかでん]]』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />1982年 | カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[第33回カンヌ国際映画祭|1980年]]『[[影武者 (映画)|影武者]]』 | 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1980年『影武者』<br />'''[[英国アカデミー賞 外国語作品賞|外国語作品賞]]'''<br />1985年『乱』 | セザール賞 = '''外国映画賞'''<br />1980年『影武者』 | ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第11回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1985年]]『乱』<br/>'''生涯功労賞'''<br/>1985年 | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第51回ニューヨーク映画批評家協会賞|1985年]]『[[乱 (映画)|乱]]』 | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br />1958年『隠し砦の三悪人』<br />1965年『赤ひげ』<br />1980年『影武者』<br />1985年『乱』<br />'''監督賞'''<br />1985年『乱』<br />'''脚本賞'''<br />1950年『羅生門』<br />'''特別賞'''<br />1998年 | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = '''最優秀脚本賞'''<br />[[第24回日本アカデミー賞|2000年]]『[[雨あがる]]』<br />'''協会栄誉賞'''<br />[[第22回日本アカデミー賞|1998年]] | その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1951年『羅生門』<br />1985年『乱』<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />1951年『羅生門』<br />1985年『乱』 | 備考 = [[文化功労者]](1976年)<br />[[文化勲章]](1985年)<br />[[国民栄誉賞]](1998年)<br />[[従三位]](1998年) }} [[File:Akira Kurosawa Signature.svg|thumb|260px|黒澤の[[サイン (有名人の署名)|サイン]]]] '''黒澤 明'''(または'''黒沢 明'''、くろさわ あきら、[[1910年]]〈[[明治]]43年〉[[3月23日]] - [[1998年]]〈[[平成]]10年〉[[9月6日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]・[[映画プロデューサー]]。[[位階]]は[[従三位]]。 [[第二次世界大戦]]後の[[日本映画]]を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている{{R|映画大事典}}<ref>{{Cite web |url=https://whatculture.com/film/10-most-influential-directors-of-all-time?page=6 |title=10 Most Influential Directors Of All Time |website=WhatCulture.com |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、[[ヒューマニズム]]を基調とした主題で知られる{{R|映画大事典}}。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の[[三船敏郎]]とコンビを組んだ。 青年時代は[[画家]]を志望していたが、[[1936年]]に[[ピー・シー・エル映画製作所|P.C.L.映画製作所]]([[1937年]]に[[東宝]]に合併)に入社し、[[山本嘉次郎]]監督の助監督や脚本家を務めたのち、[[1943年]]に『[[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]]』で監督デビューした。『[[醉いどれ天使]]』(1948年)と『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年)で[[ヴェネツィア国際映画祭]][[金獅子賞]]を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『[[生きる (映画)|生きる]]』(1952年)、『[[七人の侍]]』(1954年)、『[[用心棒]]』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品の[[リメイク]]が作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、[[ハリウッド]]に進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』(1975年)、『[[影武者 (映画)|影武者]]』(1980年)、『[[乱 (映画)|乱]]』(1985年)、『[[夢 (映画)|夢]]』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。[[1985年]]に映画人初の[[文化勲章]]を受章し、[[1990年]]には[[アカデミー名誉賞]]を受賞した。没後、映画監督初の[[国民栄誉賞]]が贈られた。 == 生涯 == === 誕生から監督デビューまで === ==== 生い立ち ==== [[1910年]][[3月23日]]、[[東京府]][[荏原郡]]大井町(現・[[東京都]][[品川区]][[東大井]]三丁目)の父が勤めていた[[日体荏原高等学校|荏原中学校]]の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた{{Sfn|都築|2010|pp=90-92}}{{Sfn|大系4|2010|p=202}}。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である{{Sfn|堀川|2000|p=12}}。シマは[[大阪府|大阪]]の商家の出身だった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=14-20}}。勇は[[秋田県]][[仙北郡]][[豊川 (大仙市)|豊川村]](現・[[大仙市]]豊川)の[[士族]]の家の出身{{efn|勇の先祖は代々[[神職]]をしていたが、[[戊辰戦争]]で[[官軍]]に味方し、その功績で[[苗字帯刀|帯刀]]を許されて[[士族]]になった{{Sfn|都築|2010|pp=90-92}}。}}で、[[陸軍戸山学校]]の教官を務めたあと、[[1891年]]の[[学校法人日本体育大学|日本体育会]]の創立とともに要職に就き、日本体育会体操学校と併設の荏原中学校に勤務していた{{Sfn|都築|2010|pp=90-92}}{{Sfn|大系4|2010|p=202}}{{sfn|研究会|1999|pp=30-31}}。勇は厳格な父親だったが、当時は教育上好ましくないと思われていた映画に理解があり、進んで家族を連れて映画見物に出かけた。黒澤は[[連続活劇]]や{{仮リンク|ウィリアム・S・ハート|en|William S. Hart}}主演の[[西部劇]]をよく観ていたという{{Sfn|都築|2010|pp=90-92}}。 [[1915年]]に[[学校法人森村学園|南高輪幼稚園]]に入園し、翌[[1916年]]に南高輪尋常小学校に入学した{{R|年表}}。しかし、[[1917年]]に勇が日本体育会を退職したため、職員社宅を退去して[[小石川区]]西江戸川町(現・[[文京区]]水道一丁目)に転居し、[[文京区立音羽中学校|黒田尋常小学校]]に転入した{{R|年表}}。当時の黒澤は知能的に遅れていて、泣き虫のいじめられっ子だったという{{Sfn|黒澤|1990|pp=16-24}}。そんな黒澤の成長を助けたのが担任の立川精治で、生徒の自由な発想を大事にするという斬新な教育方法で黒澤の才能を見出した{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}{{Sfn|黒澤|1990|pp=16-24}}。立川は図画の時間で好きな絵を自由に描かせ、黒澤が描いた絵が個性的すぎてみんなが笑う中、立川はその絵をとても褒めた{{Sfn|黒澤|1990|pp=16-24}}。それ以来、黒澤は絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}。小学校5年の時には[[剣道]]を習い始め、[[高野佐三郎]]の道場に通うも三日坊主で終わり、自信も失くして放棄した{{R|年表}}{{Sfn|黒澤|1990|pp=72-73}}。 立川とともに黒澤の成長を助けたのが、級友の[[植草圭之助]]と4つ上の兄の丙午である。植草は黒澤よりも泣き虫で、自分を客観的に見つめさせる存在だったという{{Sfn|黒澤|1990|pp=16-24}}。丙午は秀才だが気性が激しく、自滅的な行動や皮肉めいたところが多かったが、軟弱な黒澤をしごき、黒澤の自立心を目覚めさせた{{Sfn|都築|2010|pp=90-92}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=14-20}}。[[関東大震災]]とそれに伴う[[関東大震災朝鮮人虐殺事件|朝鮮人虐殺事件]]の時には、丙午は黒澤を壊滅した街に連れて行き、無数の死骸の山を見せつけて、恐ろしさを克服することを教えた{{Sfn|黒澤|1990|pp=95-99}}。頑迷な[[悲観主義|厭世観]]を持つ丙午は、黒澤にとって反面教師的な存在となり、人生の否定的な面や歩いてはならない面を身をもって教えてくれ、黒澤作品の強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えた{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}。また、自伝『蝦蟇の油』のなかで「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた。」と述べ、当時をこう振り返っている。{{Quotation|焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。私はドキドキして一緒だった兄を見た。兄はニヤニヤしている。その時、「馬鹿者ッ!!」と、父が大喝一声した。そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。|黒澤明、『蝦蟇の油』}}{{Quotation|町内の、ある家の井戸水を、飲んではいけない、と云うのである。何故なら、その井戸の外の堀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れたという目印だと云うのである。私は惘れかえった。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書きだったからである。私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。|黒澤明、『蝦蟇の油』}}[[1922年]]、黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ{{R|年表}}{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}。黒澤は[[東京都立戸山高等学校|東京府立第四中学校]]を受験したが失敗し、[[京華中学高等学校|京華中学校]]に入学した{{R|大系1解説}}。中学時代は勉学よりも読書に打ち込み、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]などの[[ロシア文学]]に熱中したほか、[[夏目漱石]]、[[樋口一葉]]、[[国木田独歩]]などの[[日本文学]]もたくさん読み、黒澤の人間形成に大きな影響を与えた{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}{{Sfn|佐藤|1996|pp=236-238}}。黒澤は作文で才能を示すようになり、[[1924年]]に自然を描写した作文『蓮華の舞踏』が学友会誌に掲載されると、国語教育では名の知れた小原要逸先生から「京華中学創立以来の名文」と褒められた{{R|大系1解説}}。[[1926年]]にも同誌に作文『或る手紙』が掲載された{{R|集成年表}}。中学時代は神楽坂にある洋画専門館の牛込館に通ってたくさんの外国映画を見ていたが、その中でも[[アベル・ガンス]]監督の『{{仮リンク|鉄路の白薔薇|fr|La Roue (film, 1923)}}』(1923年)は黒澤が映画監督を志すのに大きな影響を与えた{{Sfn|堀川|2000|pp=17-18}}<ref>「『ナポレオン』の日本公開にあたって」(『ナポレオン』パンフレット、1983年)。{{Harvnb|大系3|2010|p=344}}に所収</ref>{{Sfn|リチー|1985|p=408}}。 ==== 画家時代 ==== 黒澤は中学在学中に[[画家]]を志し、[[小林萬吾]]主宰の同舟舎洋画研究所に通った{{R|大系1解説}}。[[1927年]]に京華中学校を卒業し{{R|年表}}、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]の受験に失敗すると[[川端画学校]]に通い、[[1928年]]に[[油彩|油絵]]『静物』が第15回[[二科展]]に入選した{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}{{R|大系1解説}}。[[1929年]]には造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に通い、[[日本プロレタリア芸術連盟|日本プロレタリア美術家同盟]]に参加し、洋画家の[[岡本唐貴]]([[白土三平]]の実父)に絵を学んだ{{R|年表|大系1解説}}。同年12月の第2回プロレタリア美術大展覧会では5つの政治色の強い作品を出品し{{efn|その5つの作品は『建築場に於ける集会』([[水彩画]])、『農民習作』『帝国主義戦争反対』『農民組合へ』(以上油絵)、『労働組合へ』(ポスター)である{{Sfn|堀川|2000|pp=24-30}}。}}、[[1930年]]の第3回プロレタリア美術大展覧会では『反×ポスター』を出品して官憲に撤回された{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}{{R|大系1解説}}{{Sfn|堀川|2000|pp=24-30}}。そのうち政治的主張を未消化のまま絵にすることに疑問を感じ、絵を描く熱意を失っていった{{Sfn|黒澤|1990|pp=143-147}}。同年に[[徴兵検査]]を受け、父の教え子である徴兵司令官の好意で兵役免除となり{{R|年表}}、[[日本の降伏|終戦]]まで徴兵されることはなかった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=14-20}}。 やがて非合法活動に身を投じ、[[日本共産党]]系の[[無産者新聞]]の下部組織で街頭連絡員をした{{Sfn|堀川|2000|pp=24-30}}。黒澤が非合法活動に参加したのは「日本の社会に漫然たる不満と嫌悪を感じ、ただそれに反抗する{{Sfn|黒澤|1990|pp=143-147}}」ためで、自ら[[共産主義]]者を名乗ったこともなければ、[[マルクス主義]]を深く学んで実践する政治的人間になる気もなかった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=14-20}}{{Sfn|堀川|2000|pp=24-30}}。やがて弾圧が激しくなり、運動費も届かない窮乏生活の中で高熱を出して倒れ、仲間との連絡が途絶えたのを機に、[[1932年]]春までに非合法活動から身を引いた{{R|年表}}{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}。その後は丙午が住む[[神楽坂]]の長屋に居候し、映画や[[寄席]]に熱中した{{Sfn|都築|2010|pp=94-96}}。丙午は須田貞明の名で[[活動弁士]]となり、若手新進の洋画説明者として人気を集めていたが、[[トーキー]]の普及で弁士の廃業が相次ぎ、弁士のストライキで争議委員長として闘うも敗北し、[[1933年]]7月に[[伊豆]][[湯ヶ島温泉]]の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}{{R|大系1解説}}{{efn|黒澤の自伝によると、丙午(須田貞明)は「30歳になる前に死ぬ、人間30を越すと醜悪になるばかりだ」と口癖のように言っていたという。丙午は[[ミハイル・アルツィバーシェフ|アルツィバーシェフ]]の『最後の一線』を「世界最高の文学」と推奨し、主人公の自殺への信条に賛同していて、黒澤はそれが文学青年である兄の誇張した考えに過ぎないと思っていたが、兄の口癖の通り27歳で自殺した{{Sfn|黒澤|1990|pp=156-157}}。}}。その4ヶ月後には長兄の昌康も病死し、残された男子である黒澤が跡取りとなった{{R|大系1解説}}。[[1934年]]に一家は[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]に転居し{{R|集成年表}}、黒澤は雑誌の挿絵を描くアルバイトなどをして生計を立てた{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}。 ==== 助監督時代 ==== [[File:Akira Kurosawa, Ishiro Honda, Senkichi Taniguchi, and Kajiro Yamamoto.jpg|thumb|助監督時代の黒澤(左端)。その隣から順に[[本多猪四郎]]、[[谷口千吉]]、[[山本嘉次郎]](1930年代)。]] [[1936年]]、どこかで就職しなければならないと思っていた黒澤は、たまたま新聞記事で見た[[P.C.L.映画製作所]](翌年に[[東宝]]に合併)の助監督募集に応募した{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}。最初の試験は「日本映画の根本的欠陥を例示し具体的にその矯正方法を述べよ」という小論文で、黒澤は「根本的欠陥は矯正しようがない」と回答し、それで試験を通過して最終面接まで残った{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=28-33}}。同社は原則として大学卒を採用するつもりだったが、黒澤の絵や文学に対する理解と才気に注目した[[山本嘉次郎]]の推薦により、学歴は旧制中学だけながら例外として合格となり、同年4月に入社した{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}{{Sfn|佐藤|1996|p=241}}。助監督入社の同期には[[関川秀雄]]と[[丸山誠治]]がいた{{Sfn|堀川|2000|pp=35-39}}。最初の仕事は矢倉茂雄監督の『処女花園』のサード助監督だったが、この作品1本で仕事が嫌になり、退社を考えるも同僚の説得で思いとどまった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=28-33}}{{Sfn|堀川|2000|pp=35-39}}。 その次に参加した『エノケンの千万長者』(1936年)から山本のサード助監督を務めた{{R|年表}}。山本組での仕事は楽しく充実したものであり、黒澤は映画監督こそが自分のやりたい仕事だと決心した{{Sfn|都築|2010|pp=98-102}}。山本組の助監督仲間には[[谷口千吉]]と[[本多猪四郎]]がおり、黒澤は2人の家に居候することもあった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=28-33}}。[[1937年]]に山本組の製作主任をしていた谷口が本社異動になり、黒澤が新たに山本組の製作主任についた{{efn|東宝の助監督はサード、セカンド、チーフと昇進するが、プロデューサー・システムを導入して製作者の権限を強化していたこともあり、チーフ助監督を「製作主任」と呼んでいた。黒澤はセカンドをやらずにチーフに昇進している{{R|大系1解説}}。}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=35-36}}。助監督育成に力を入れる山本の下で、黒澤は脚本執筆からフィルム編集、[[エキストラ]]、[[ロケーション]]の会計までも担当し、映画作りで大切なことを学んだ{{Sfn|黒澤|1990|pp=194-203}}。面倒見のよい山本は自分の作品を犠牲にして、黒澤たちB班が撮影したフィルムを採用し、上映された完成作品を見ながらアドバイスをした{{R|生きる力}}。黒澤はそんな山本を「最良の師」と仰いだ{{Sfn|黒澤|1990|pp=179, 187}}。 山本監督の『[[馬 (映画)|馬]]』(1941年)ではB班監督と編集を務めた。黒澤は他の仕事で忙しい山本から演出のほとんどを任され、監督昇進への踏み台とした{{Sfn|都築|2010|pp=104-108}}。この『馬』の[[東北地方]]でのロケーション撮影を通して、黒澤は主演の[[高峰秀子]]との間に恋が芽生えた{{Sfn|都築|2010|pp=104-108}}。しかし、『馬』が公開されたあとに2人の結婚話が新聞沙汰になると、会社側は将来を嘱望された助監督とスターになりかけていた女優の恋を放ってはおけず、高峰の養母が強く反対していたこともあり、山本が破断役となり、恋は不実に終わった<ref>{{Cite book |和書 |author=高峰秀子|authorlink=高峰秀子|title=わたしの渡世日記 (上) |publisher=[[新潮社]] |date=2012-1 |series=新潮文庫 |pages=324-325}}</ref>。 黒澤は助監督生活を送りながら、山本の「監督になるにはシナリオを書け」という助言に従い脚本を執筆した{{Sfn|黒澤|1990|pp=194-203}}。初めてその才能が認められたのが『達磨寺のドイツ人』(1941年)で、山本の推挙で映画雑誌に掲載されることになったが、記者が受け取った原稿をなくし、黒澤は3日ほど徹夜してもう一度書き直した{{R|大系別巻解説}}。この作品はドイツ人建築家[[ブルーノ・タウト]]の評伝を元にして、タウトと寄寓先の村の人たちとの交流を描き、[[伊丹万作]]に「特に視覚的に鮮明の印象を与えることを注目すべきである」と評価された{{Sfn|都築|2010|pp=104-108}}。『馬』以降は実質的に助監督の仕事はしなくなり、脚本執筆に集中した{{R|集成年表}}。[[1942年]]に執筆した『静かなり』は[[情報局]]国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『雪』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した{{Sfn|都築|2010|pp=104-108}}。 ==== 監督デビュー ==== 1942年、黒澤は監督処女作に『達磨寺のドイツ人』を企画するが、戦時中のフィルム配給制限により実現しなかった{{Sfn|黒澤|1990|pp=219-223}}{{Sfn|黒澤|2001|p=226}}。続けて『森の千一夜』『美しき暦』『サンパギタの花』『第三波止場』などを企画するが、これらもフィルム配給制限に加え、[[内務省 (日本)|内務省]]の事前検閲で却下された{{R|大系1解説|集成年表}}。『サンパギタの花』では、誕生日を祝うシーンが検閲官から米英的だと批判され、黒澤は「天皇の誕生日を祝う[[天長節]]もいけないのか」と反論するも却下された{{Sfn|黒澤|1990|pp=219-223}}{{Sfn|黒澤|2001|pp=227-228}}。次に[[山中峯太郎]]原作の『敵中横断三百里』を企画するが、今度は会社が新人監督にはスケールが大きすぎるとして見送った{{Sfn|都築|2010|pp=104-108}}{{Sfn|黒澤|2001|pp=231-232}}。なかなか処女作が実現しない黒澤は、生活のために脚本を書き続けた。その中には[[伏水修]]監督の『青春の気流』(1942年)、[[山本薩夫]]監督の『[[翼の凱歌]]』(1942年)などの戦意高揚映画もあり、黒澤は「意欲を傾けられるような仕事ではなかった」と述べている{{Sfn|黒澤|1990|pp=227-231}}。 [[File:Yoko Yaguchi 1944.jpg|thumb|140px|『[[一番美しく]]』(1944年)に主演した[[矢口陽子]]。]] 黒澤の監督処女作は『[[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]]』(1943年)となった。1942年9月、黒澤は[[富田常雄]]の[[姿三四郎|同名小説]]の新刊書広告を見かけると、広告文だけで映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買い求めて一気に読み、プロデューサーの[[森田信義]]を説得して映画化権を獲得させた{{Sfn|都築|2010|pp=110-117}}。『姿三四郎』は当時の日本映画の中で新鮮味と面白さとを合わせ持った映画的な作品として注目され、その視覚性やアクション描写、卓越した演出技術などが高く評価された{{R|批評史1}}。[[1943年]]3月に国民映画賞奨励賞を受賞し、12月には優れた新人監督に贈られる[[山中貞雄]]賞を[[木下惠介]]とともに受賞するなど{{R|年表}}、黒澤は新人監督として周囲の期待を集め、東宝重役の[[森岩雄]]は「黒澤さんの監督としての地位は、この処女作一本で確立したといってもいいであろう」と述べている{{Sfn|都築|2010|pp=110-117}}。 監督第2作の『[[一番美しく]]』(1944年)の完成後、黒澤は森田の勧めで主演の[[矢口陽子]](本名は喜代)と結婚し、[[1945年]]3月頃に山本夫妻の媒酌で[[明治神宮]]で結婚式を挙げた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=77-78}}{{Sfn|堀川|2000|pp=78-79}}。この頃の東京は[[東京大空襲|空襲]]を受けており、同居していた両親たちはすでに秋田に疎開していた。黒澤が住んでいた恵比寿も空襲で危ないということで、同じく家族が疎開していた[[堀川弘通]]の[[祖師ヶ谷]]にある実家に転居した。その翌日に恵比寿の家は空襲で焼失した。それから数年間は堀川家で生活し、堀川は家主であるのに黒澤家に居候しているような気分になったという{{Sfn|堀川|2000|pp=78-79}}。同年に黒澤は処女作の続編『[[續姿三四郎]]』を完成させ、次に[[桶狭間の戦い]]を描く『どっこい!この槍』の製作に着手したが、馬が調達できなくて中止し、急遽[[能]]の「[[安宅 (能)|安宅]]」と[[歌舞伎]]の「[[勧進帳]]」を元にした『[[虎の尾を踏む男たち]]』を監督した{{R|大系1解説}}。この作品は終戦を挟んで撮影され、終戦直後に[[GHQ]]の検閲で[[封建制]]助長により非合法作品となり、[[1952年]]まで上映禁止にされた{{Sfn|都築|2010|p=126}}。 === 終戦後から『赤ひげ』まで === ==== 終戦後の5年間 ==== 終戦後の最初の仕事は、[[川口松太郎]]の依頼で執筆した[[戯曲]]『喋る』で、1945年12月に[[有楽座 (昭和)|有楽座]]で[[新派|新生新派]]により上演された{{R|大系1解説}}。戦後の初監督作は『[[わが青春に悔なし]]』(1946年)であるが{{efn|name="自作認めない"|黒澤は『わが青春に悔なし』の完成前に、山本と関川秀雄とともに『[[明日を創る人々]]』(1946年)を共同監督しているが、黒澤はこれを「自分の作品とは思えない」として自作のリストから外している{{Sfn|大系1|2009|p=192}}。}}、当時の会社は[[東宝争議]]で組合が映画製作に強い権限を持つようになり、この作品も組合主導の企画審議会から楠田清監督の『命ある限り』と内容が類似していると言われ、改稿を余儀なくされた{{R|大系1解説}}。[[1946年]]10月には第2次東宝争議が発生し、ストに反対した所属スターが「十人の旗の会」を率いて退社し、[[新東宝]]の設立に参加した。スター主義の新東宝に対抗するため、黒澤など東宝のスタッフたちは[[伊豆]]の旅館に集まり、組合中心で5本の監督主義作品を企画した。そのうち黒澤は『[[素晴らしき日曜日]]』(1947年)を監督し、谷口監督の『[[銀嶺の果て]]』と[[オムニバス映画]]『[[四つの恋の物語 (1947年の映画)|四つの恋の物語]]』(どちらも1947年)第1話「初恋」の脚本を執筆した{{Sfn|都築|2010|p=139}}。 [[File:Yoidore tenshi poster.jpg|thumb|180px|『[[醉いどれ天使]]』(1948年)のポスター。]] [[1948年]]公開の『[[醉いどれ天使]]』は、山本監督の『新馬鹿時代』(1947年)で使われた[[闇市]]の大規模なオープンセットを活用するための企画として作られた{{R|大系1解説}}。この作品では『銀嶺の果て』でデビューしたばかりの[[三船敏郎]]と初めてコンビを組み、主人公の[[結核]]を患う若い[[ヤクザ]]役に起用した。また、『姿三四郎』から黒澤作品に出演していた[[志村喬]]をアル中医師役で初めて主役に抜擢し、以後は黒澤作品の主役を三船と志村とで分け合う時期が続いた{{Sfn|都築|2010|pp=146}}。作曲家の[[早坂文雄]]とも初めてコンビを組んでおり、[[1955年]]に早坂が亡くなるまで二人は私生活でも親友関係となった{{Sfn|都築|2010|pp=351-355}}。『醉いどれ天使』は黒澤作品で初めての傑作と目され、[[キネマ旬報ベスト・テン]]で1位に選ばれ、[[毎日映画コンクール]]で日本映画大賞を受賞した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=130}}。 同年3月、東宝争議で映画製作が十分にできなくなったことから、山本、谷口、[[成瀬巳喜男]]、プロデューサーの[[本木荘二郎]]と同人組織「映画芸術協会」を設立した{{R|大系1解説}}。その翌月に第3次東宝争議が開始すると、黒澤は製作現場を守るため組合側に加わり、同協会は争議終結まで開店休業状態となった{{Sfn|黒澤|1990|pp=302-308}}。黒澤は組合の立場を代弁する「東宝の紛争 演出家の立場から」という文章を発表し{{R|大系1解説}}、8月に東宝の監督やプロデューサーによる芸術家グループが会社側を批判する声明文に署名した{{R|年表}}。さらに給料支払いを止められた組合員の資金[[カンパ]]のため、『醉いどれ天使』を劇化して全国各地を巡業し、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]の戯曲『結婚の申込み』も演出した{{R|大系1解説}}。10月19日に第3次東宝争議は終結した{{R|年表}}。 争議終結後は東宝を離れ、映画芸術協会を足場にして他社で映画製作をすることになった。最初の他社作品は、助監督時代から脚本を執筆した縁故がある[[大映]]での『[[静かなる決闘]]』(1949年)で、[[菊田一夫]]の戯曲『堕胎医』を原作にしている{{R|大系1解説}}。その次に[[新東宝]]と映画芸術協会が共同製作した『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』(1949年)は、黒澤が好きだった[[ジョルジュ・シムノン]]の犯罪小説を意識した作品で、ピストルを盗まれた新人刑事が老練刑事とともに犯人を追うという内容だが、これは実際の刑事の話を元にしている{{Sfn|都築|2010|p=157}}。この作品は日本で刑事映画のジャンルを決定づける古典となり、[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞を受賞するなど好評を受けた{{R|大系1解説}}。 ==== 国際的名声の獲得 ==== [[File:Akirakurosawa-onthesetof7samurai-1953-page88.jpg|170px|thumb|[[1953年]]撮影]] [[1950年]]、黒澤は[[松竹]]で『[[醜聞]]』を監督後、大映から再び映画製作を依頼されて『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』を監督した。この作品は[[橋本忍]]が[[芥川龍之介]]の短編小説『[[藪の中]]』を脚色したシナリオを元にしており、武士の殺害事件をめぐり関係者の証言が全部食い違い、その真相が杳として分からないという内容だった。しかし、その内容だけでは長編映画として短すぎるため、黒澤が同じ芥川の短編小説『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』のエピソードなどを付け足して脚本を完成させた{{Sfn|都築|2010|p=174}}。作品はその年度の大映作品で4位の興行成績を収めたが、批評家の評価はあまり芳しいものではなかった{{R|大系1解説|批評史3}}。しかし、[[1951年]]9月に[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞し、さらに[[第24回アカデミー賞]]で[[アカデミー国際長編映画賞|名誉賞]]を受賞するなど、海外で相次ぐ賞賛を受けた。黒澤は映画祭に出品されたことすら知らず、釣りの帰りに妻から連絡を受けたという{{Sfn|黒澤|1990|pp=342-343}}。『羅生門』は欧米が日本映画に注目するきっかけとなり、日本映画が海外進出する契機にもなった。また、複数の登場人物の視点から1つの物語を描く話法は、同作で映画の物語手法の一つとなり、多くの作品で繰り返し使われることになった{{R|大系1解説}}。 その次に松竹で監督した『[[白痴 (1951年の映画)|白痴]]』(1951年)は、黒澤が学生時代から傾倒する[[フョードル・ドストエフスキー]]の[[白痴 (ドストエフスキー)|同名小説]]が原作で、黒澤にとって長年の夢となる映画化だったが、4時間25分に及ぶ完成作品は会社側の意向で大幅短縮され{{Sfn|都築|2010|pp=188, 192}}、激怒した黒澤は山本宛ての手紙に「こんな切り方をする位だったら、フィルムを縦に切ってくれたらいい{{Sfn|研究会|2004|p=26}}」と訴えた。日本の批評家には悉く酷評されたが、ドストエフスキーの本場の[[ソ連]]では高く評価された{{R|批評史3}}。これが最後の映画芸術協会での他社作品となり、1951年に東宝は争議で疲弊していた製作部門を再建するため、黒澤など映画芸術協会の監督と専属契約を結んだ{{R|大系2解説}}。東宝復帰第1作である『[[生きる (映画)|生きる]]』(1952年)はキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれるなど高い評価を受け、[[第4回ベルリン国際映画祭]]ではベルリン市政府特別賞を受賞した。 黒澤は次に本物の[[時代劇]]を作ろうと意気込み、橋本と『[[侍の一日]]』を構想するが資料不足で断念し、盗賊から村を守るために百姓が侍を雇うという話を元にして『[[七人の侍]]』(1954年)の脚本を執筆した{{R|大系2解説}}{{Sfn|橋本|2006|pp=103-130}}。撮影は[[1953年]]5月に開始したが、製作費と撮影日数は予定より大幅超過し、最終的に撮影日数は約11ヶ月に及び、通常作品の5倍以上にあたる予算を計上した{{Sfn|都築|2010|pp=209-210}}。作品は興行的に大成功したが、公開当時の国内では必ずしも高評価を受けることはなかった{{Sfn|都築|2010|pp=209-210}}。[[ヴェネツィア国際映画祭]]に出品されると[[銀獅子賞]]を受賞し{{R|受賞歴}}、その後は日本国内でも国外でも[[映画史]]上の名作として高く評価されるようになり{{R|大系2解説}}、[[2018年]]に[[イギリス]]の[[BBC]]が発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」で1位に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20181112/7/ |title=英BBCが選ぶ史上最高の外国語映画1位に「七人の侍」|date=2018/11/12 |accessdate=2020-10-20 |work=映画.com}}</ref>。 [[1955年]]2月、黒澤は[[カンヌ国際映画祭]]の審査員に要請されるも辞退した{{R|年表}}。『[[生きものの記録]]』(1955年)の完成後、黒澤は東宝と3本の契約を残していたが、それらを「時代劇三部作」として企画し、自らのプロデュースで若手監督に作らせようとした{{efn|時代劇三部作は、黒澤が[[小國英雄]]、[[菊島隆三]]、[[橋本忍]]と企画を練り、当初は『蜘蛛巣城』(本多猪四郎監督)、『隠し砦の三悪人』([[鈴木英夫]]監督)、『仇討ち』([[堀川弘通]]監督)で決定したが、『仇討ち』は話が暗いとして取り上げず、『用心棒』に変更された{{R|大系2解説|菊島}}。『仇討ち』は[[1964年]]に[[今井正]]監督で『[[仇討 (1964年の映画)|仇討]]』として映画化された{{R|菊島}}。最終的に三部作は『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』となった。}}{{R|大系2解説|構想}}。1本目の『[[蜘蛛巣城]]』(1957年)は[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』の翻案だが、大作映画になるため黒澤が監督することになった{{R|大系2解説}}。結局、残る2本も黒澤が監督することで話が進み{{R|構想}}、2本目に[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]原作の『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』(1957年)を監督した。この間に海外合作のオムニバス映画『嫉妬』に参加する話があり、[[能]]の「鉄輪」を題材にしたエピソードを企画するも製作中止となった{{efn|『嫉妬』の他のエピソードは、[[キャロル・リード]]、[[ジャン・コクトー]]、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、[[ロベルト・ロッセリーニ]]が担当する予定だった{{R|大系別巻解説}}。}}{{R|集成年表|大系別巻解説}}。 [[1957年]]10月、黒澤は[[ロンドン]]の{{仮リンク|ナショナル・フィルム・シアター|en|BFI Southbank}}の開館式に招待され、初めての海外渡航を行った{{Sfn|大系2|2009|p=286}}。10月15日の開館式では、映画芸術に貢献した映画人として[[ジョン・フォード]]、[[ルネ・クレール]]、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、[[ローレンス・オリヴィエ]]とともに表彰された{{Sfn|大系2|2009|p=286}}。その翌日には第1回[[ロンドン映画祭]]の開会式に出席し、『蜘蛛巣城』がオープニング上映された{{Sfn|大系2|2009|p=286}}。黒澤はフォードを尊敬し、彼の作品から影響を受けたことを公言していたが{{Sfn|リチー|1985|p=408}}{{R|生きる力|選んだ}}、ロンドン滞在中にフォードと初めて会い、『[[ギデオン (映画)|ギデオン]]』の撮影現場を訪問したり、昼食を共にするなどの交友を持った{{R|海外渡航}}。その次に[[パリ]]に渡り、[[シネマテーク・フランセーズ]]を訪問したり、[[ジャン・ルノワール]]と夕食を共にしたりして過ごした{{R|海外渡航}}。黒澤はこの旅行を通して映画が芸術として認知されていることを直に知り、映画人として強い自負を持つようになった{{Sfn|大系2|2009|p=286}}。これ以後、黒澤は日本の政治が映画に無関心であることや、[[映画産業]]に対する危機感を事あるごとに言及するようになった{{efn|[[1976年]]に文化功労者に打診されたときは「政治が映画に関心を持ってくれた」と受け止めてもらうことを決め、受章時のインタビューでは、各国とも文化政策の一環として映画に力を入れているが、日本の政治は映画に無関心であると主張した。また、日本映画界をめぐる危機感についても言及し、このままだと残るのは[[ポルノ映画|ポルノ]]と暴力ものだけで、次々と名監督が無くなる中、残った私は日本映画の荒廃に責任を感じていると語った<ref>「日本映画の荒廃に責任を感じます」([[朝日新聞]]1976年10月26日夕刊)。{{Harvnb|大系3|2010|p=140}}に所収</ref>。}}。 ==== 黒澤プロダクション設立 ==== [[File:Kinema-Junpo-1963-April-special-4.jpg|thumb|170px|黒澤と[[三船敏郎]]]] 時代劇三部作の3本目となる『[[隠し砦の三悪人]]』(1958年)は興行的に大ヒットし、[[第9回ベルリン国際映画祭]]で[[銀熊賞 (監督賞)|監督賞]]と[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た{{R|大系2解説}}<ref>{{Cite book|和書 |author=田中純一郎|authorlink=田中純一郎 |date=1976-3 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅳ 史上最高の映画時代]] |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |pages=305-306}}</ref>。[[1958年]]末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた{{R|大系2解説}}。そこで[[1959年]]4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた<ref>「藤本取締役の進退伺い事件」(『映画年鑑』1960年)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=349-350}}に所収</ref>。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=335}}。 [[1960年]]7月7日、黒澤は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した<ref>「総監督に黒澤明氏 東京五輪の記録映画製作」(朝日新聞1960年7月7日)。{{Harvnb|大系2|2009|p=397}}に所収</ref>。準備に向けて同年開催の[[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]を視察し、その公式記録映画『[[ローマ・オリンピック1960]]』の撮影に立ち会って入念に調査した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-01 |url=https://cinemore.jp/jp/news-feature/1169/article_p1.html |author=[[吉田伊知郎|モルモット吉田]]|title= 黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 前編 |publisher=太陽企画株式会社 |website=CINEMORE |accessdate=2020-03-13}}</ref>。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、[[1963年]]3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した<ref>「迷路に入った栄光の五輪映画」(『キネマ旬報』1963年9月上旬号)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=397-400}}に所収</ref>。組織委員会の[[与謝野秀]]事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-02 |url=https://cinemore.jp/jp/news-feature/1170/article_p1.html |author=モルモット吉田 |title=黒澤明監督版『東京オリンピック』はなぜ実現しなかったのか 中編 |publisher=太陽企画株式会社 |website=CINEMORE |accessdate=2020-03-13}}</ref>。 黒澤プロダクションの第1作『[[悪い奴ほどよく眠る]]』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『[[用心棒]]』(1961年)とその続編『[[椿三十郎]]』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者は[[ダシール・ハメット]]の小説『[[血の収穫]]』が着想の元となり、後者は[[山本周五郎]]の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963年)は[[エド・マクベイン]]の犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した{{R|大系2解説}}。 黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『[[赤ひげ]]』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『[[赤ひげ診療譚]]』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『[[虐げられた人びと]]』を元にしたエピソードを挿入している{{R|大系2解説}}。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り{{R|自作を語る}}、[[テレビ放送]]の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした{{Sfn|都築|2010|p=337}}。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。 === 海外進出から死去まで === ==== ハリウッド進出と挫折 ==== 『赤ひげ』公開後、黒澤は東宝に対して巨額の借金を抱えていた{{Sfn|田草川|2006|pp=42-45}}。黒澤プロダクションは東宝との契約で5本の作品を作り、その配給で4億円前後の高収入をあげていたが、東宝と交わした利益配分制だと黒澤は利益を上げられず、芸術的良心に忠実な作品を目指して時間と予算をかけるほど、東宝に搾取されて損をする仕組みになっていた{{Sfn|田草川|2006|pp=42-45}}<ref>{{Cite book|和書 |author=田中純一郎 |date=1976-7 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅴ 映像時代の到来]] |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |pages=305-306}}</ref>。[[1966年]]7月に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立し、黒澤プロダクションは[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[東京プリンスホテル]]4階に事務所を構えた{{Sfn|田草川|2006|pp=42-45}}。この頃の黒澤は日本で権威的とみなされ、それ故の批判や誹謗中傷を受けることが目立った{{R|大系2解説}}。孤立心を深めた黒澤は、日本映画産業が斜陽化していたこともあり、より自由な立場で新たな自己表現の段階に挑戦するため、それだけの製作費が負担できる海外に活動の場を求めるようになった{{R|大系2解説}}{{Sfn|都築|2010|pp=360-364}}。すでに黒澤は欧米からいくつものオファーを受けていた{{Sfn|田草川|2006|pp=42-45}}。 [[1966年]]6月、黒澤は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の{{仮リンク|エンバシー・ピクチャーズ|en|Embassy Pictures}}と共同製作で『[[暴走機関車]]』を監督することを発表した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=455-462}}。この企画は[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌に掲載された、[[ニューヨーク州]]北部で機関車が暴走したという実話を元にしており、出演者は全員[[アメリカ人]]にすることが決定していた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=455-462}}。しかし、英語脚本担当の{{仮リンク|シドニー・キャロル|en|Sidney Carroll}}と意見が合わず、プロデューサーの[[ジョーゼフ・E・レヴィーン]]とも製作方針をめぐり食い違いが生じた{{Sfn|都築|2010|pp=360-364}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=455-462}}{{Sfn|大系2|2009|p=460}}。例えば、黒澤は[[70mmフィルム|70ミリフィルム]]の[[カラー映画]]を想定していたのに対し、アメリカ側は[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]の[[モノクロフィルム|モノクロ映画]]で作ろうと考えていた{{Sfn|大系2|2009|p=460}}{{Sfn|野上|2014|p=49}}。黒澤は130人ものスタッフを編成し、本物の鉄道を使用して撮影する準備をしていたが{{Sfn|田草川|2006|pp=57-62}}、アメリカ側との意思疎通に欠き、同年11月に黒澤から撮影延期を提案し、事実上の製作頓挫となった{{Sfn|大系2|2009|p=460}}{{Sfn|田草川|2006|pp=57-62}}。この企画は[[1985年]]に[[アンドレイ・コンチャロフスキー]]監督で映画化されたが、内容は大きく改変された{{R|大系別巻解説}}。 [[1967年]]4月、[[真珠湾攻撃]]が題材の戦争映画『[[トラ・トラ・トラ!]]』を[[20世紀フォックス]]と共同製作し、黒澤が日本側部分を監督することが発表された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=456-462}}。黒澤は[[東映京都撮影所]]で撮影を始めたが、軍人役に演技経験のない財界人を起用したことや、黒澤の演出方法に馴染めないスタッフとの間に軋轢が生じたことから、スケジュールは大幅に遅れた{{R|大系2解説}}。黒澤の映画作りの方法とハリウッドの映画作りの方法はうまく合わず、ついに遅延を無視できなくなった20世紀フォックスにより事実上の解任が決定し、[[1968年]]12月に表向きは健康問題を理由に監督を降板することが発表された{{R|大系2解説}}{{Sfn|都築|2010|pp=360-364}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=475-477}}。 [[1969年]]6月24日、三船などが発起人になり「黒澤明よ映画を作れの会」が[[赤坂プリンスホテル]]で開かれ、関係スタッフや[[淀川長治]]など黒澤を応援する人たちが集まった{{Sfn|野上|2014|p=49}}。その翌月には[[木下惠介]]、[[市川崑]]、[[小林正樹]]とともに「四騎の会」を結成し、日本映画の斜陽化が進む中、若手監督に負けないような映画を作ろうと狼煙を上げた{{Sfn|都築|2010|pp=366-367,372}}。その第1作として4人の共同脚本・監督で『[[どら平太]]』を企画するが頓挫した{{R|大系別巻解説}}。結局、黒澤が単独で『[[どですかでん]]』(1970年)を監督することになり、自宅を担保にして製作費を負担するが、興行的に失敗してさらなる借金を抱えた{{R|大系2解説}}。黒澤以外の四騎の会の監督は[[テレビ番組]]を手がけていたが、黒澤もテレビと関係を持つようになり、[[1971年]][[8月31日]]に名馬の雄姿を紹介する[[日本テレビ]]のドキュメンタリー番組『馬の詩』を監修し、同局で『夏目漱石シリーズ』『山本周五郎シリーズ』を監修する計画もあった{{R|大系2解説}}{{Sfn|都築|2010|pp=366-367,372}}。同年12月22日早朝、黒澤は自宅風呂場でカミソリで首と手首を切って自殺を図るが、命に別状はなかった{{R|大系2解説}}{{Sfn|都築|2010|pp=366-367,372}}。 ==== 海外資本での映画製作 ==== [[1973年]]3月14日、黒澤は[[ソ連]]の映画会社[[モスフィルム]]と『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』(1975年)の製作協定に調印した。黒澤がソ連で映画を作るという話は、自殺未遂前の1971年7月、黒澤が第7回[[モスクワ国際映画祭]]に出席したときに持ちかけれ、それから本格的な交渉が行われていた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=533-534}}。黒澤はソ連側から芸術的創造の自由を保証され、[[1974年]]4月から約1年間にわたり撮影をしたが、[[シベリア]]の過酷な自然条件での撮影は困難を極めた{{R|大系3解説}}。作品は[[第48回アカデミー賞]]で[[アカデミー外国語映画賞ロシア代表作品の一覧|ソ連代表作品]]として[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、黒澤の復活を印象付けた{{R|大系3解説}}。[[1977年]]には再びソ連で作ることを画策し、[[エドガー・アラン・ポー]]の短編小説『[[赤死病の仮面]]』を元にした『黒き死の仮面』の脚本を執筆したが、映画化は実現しなかった{{efn|黒澤は『黒き死の仮面』の舞踏会のシーンを[[フェデリコ・フェリーニ]]に演出させ、[[手塚治虫]]のアニメーションを部分的に使うことも考えていた{{R|大系別巻解説}}。1976年に手塚は「黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事することに…。(中略)恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポーの短編を映画化するんだ<ref>[[ジョン・ギラーミン]]、[[手塚治虫]]「キングコングと鉄腕アトム、もし戦かば!?」『週刊プレイボーイ』1976年12月7日号、pp. 193-194.</ref>」と述べている。}}{{R|大系別巻解説}}。この頃の黒澤はメディアへの露出が増え、[[1976年]]から[[1979年]]まで[[サントリーリザーブ]]のテレビCMにも出演した{{Sfn|野上|2014|p=69}}。 [[1978年]]7月1日、黒澤は[[イタリア]]の[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]で外国監督賞を受賞し<ref>{{Cite web |url=http://www.teche.rai.it/2018/07/david-donatello-1978-firenze-olmi-premia-kurosava/ |title=David di Donatello 1978, a Firenze Olmi premia Kurosava |website=Rai Teche |language=イタリア語 |accessdate=2020年9月18日}}</ref>、その副賞である[[ファーストクラス]]の航空券を使ってアメリカに10日間旅行した{{R|素顔}}。黒澤は[[ジョージ・ルーカス]]などと昼食を共にしたり、[[フランシス・フォード・コッポラ]]の邸宅を訪ねるなどの交友を持った{{R|素顔}}。アメリカ滞在中、黒澤はルーカスと次回作『[[影武者 (映画)|影武者]]』(1980年)の資金援助の相談もした{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=566-567}}。[[武田信玄]]の影武者を描く『影武者』は国内の映画会社と資金交渉が難航していたが、ルーカスの働きかけで[[20世紀フォックス]]が世界配給権を引き受ける代わりに出資することが決まり、ルーカスはコッポラを誘って海外配給の共同プロデューサーについた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=566-567}}。『影武者』は[[オーディション]]で無名俳優や素人を起用したり、主演予定だった[[勝新太郎]]の降板騒動が起きるなど、公開前から[[マスメディア|マスコミ]]を賑わせた{{R|大系3解説}}。当時の日本映画で過去最高となる27億円の配給収入を記録し、[[第33回カンヌ国際映画祭]]で[[パルム・ドール]]を受賞した{{R|大系3解説}}。 『影武者』の興行的大成功で、黒澤は次回作に『[[乱 (映画)|乱]]』(1985年)を作ることにした。同作は[[毛利元就]]の[[三子教訓状|三本の矢の教え]]にシェイクスピアの『[[リア王]]』を組み合わせた作品で、1976年に初稿を執筆していたが、資金調達が実現しないままだった{{R|大系3解説}}。[[1981年]]10月に黒澤は渡米し、[[ニューヨーク]]で行われた[[ジャパン・ソサエティー]]主催の「黒澤作品回顧上映会」に出席したあと、『乱』の資金についてルーカスとコッポラに相談した{{R|年表}}{{Sfn|川村|2009|p=82}}。『乱』はフランスの映画製作者[[セルジュ・シルベルマン]]の出資で製作が実現することになったが、[[1983年]]3月に[[フランス・フラン|フラン]]の海外流出が制限されたため製作延期となった{{R|大系3解説}}。黒澤は『乱』のために招集したスタッフに仕事を与えるため、急遽[[能]]をテーマにした[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]『能の美』を企画し、黒澤監修で[[佐伯清]]を監督に起用したが、製作費が高額になるため中止した{{R|大系別巻解説}}。 {{external media|topic=第58回アカデミー賞|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=vhiISf00efs 『乱』黒澤明 監督賞ノミネート]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=PbX11604bZQ 作品賞プレゼンター:黒澤明、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー]<br />{{center|{{small|(Oscars 公式)}}}}}} 同年11月1日、[[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]に自前の映画スタジオである「黒澤フィルム・スタジオ」を開設し{{R|年表}}、同月に『乱』は[[アスミック・エース|ヘラルド・エース]]の参加で製作再開した{{R|大系3解説}}。『乱』は日本映画で最大規模となる26億円もの製作費が投じられたが、興行収入は16億円にとどまり巨額の赤字を出した<ref>[[原正人]]「最大の赤字作『乱』」(『映画プロデューサーが語るヒットの哲学』日経BP、2004年)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=330-342}}に所収</ref>。それでも国内外で多くの映画賞を受賞し、[[1986年]]3月の[[第58回アカデミー賞]]では4部門にノミネートされ、[[ワダ・エミ]]が[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞した。黒澤も[[アカデミー監督賞|監督賞]]にノミネートされたが、これは[[シドニー・ルメット]]が黒澤をノミネートさせるためのキャンペーンを行った結果である{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=600-602}}{{R|Esquire 2021-04-28}}。また、黒澤は同賞で[[ジョン・ヒューストン]]や[[ビリー・ワイルダー]]とともに[[アカデミー作品賞|作品賞]]のプレゼンターも務めた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=600-602}}{{R|Esquire 2021-04-28}}。 ==== 晩年と死去 ==== [[ファイル:An'yo-in Kamakura Kurosawa Akira's Grave.jpg|thumb|[[鎌倉市]]の[[安養院 (鎌倉市)|安養院]]にある黒澤の墓。]] 晩年期の作品は、家族や師弟など身辺に目を向け、自伝的な要素が強くなった{{R|大系3解説}}。『[[夢 (映画)|夢]]』(1990年)は自身が見た夢を元にした[[アンソロジー]]的作品で、その挿話の一つには早世した姉に対する追慕が現れている{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=620-623, 625-627}}。この作品もやはり国内の映画会社で資金調達ができず、[[スティーヴン・スピルバーグ]]の計らいで[[ワーナー・ブラザース]]が出資と世界配給を引き受けたほか、ルーカスの[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]]が特殊合成に協力し、[[マーティン・スコセッシ]]が[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]役で出演するなど、海外の映画人の協力により作られた{{R|大系3解説}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=620-623, 625-627}}。その後は国内資本での映画製作が続き、『[[八月の狂詩曲]]』(1991年)は[[村田喜代子]]の[[芥川賞]]作品『鍋の中』が原作で、『[[まあだだよ]]』(1993年)では[[内田百閒]]をめぐる師弟愛を描いたが、これが黒澤の最後の監督作品となった{{R|大系3解説}}。 [[1993年]]11月、[[山本周五郎]]の2つの短編小説を元にした『[[海は見ていた]]』の脚本を執筆し、映画化準備をするも資金調達が上手くいかず断念した{{R|大系3解説}}。そこで同じ山本原作の『[[雨あがる]]』の脚本に取りかかるが、[[1995年]]3月に定宿である[[京都市|京都]]の旅館「石原」で執筆中に転倒骨折し、脚本は完成することなく終わり、それ以降は車椅子生活を強いられた{{R|大系別巻解説}}{{Sfn|都築|2010|pp=446-449}}。その間の[[1996年]]に[[日本エアシステム]]の機体[[MD-90]]のデザインを担当し、[[1997年]]には[[カルピス]]のために自筆の絵コンテを[[コンピュータグラフィックス|CG]]でアニメーション化した[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]「初恋」を制作し、初めてのCM制作で[[デジタル]]表現に取り組んだ{{R|年表|カルピス}}。同年12月には三船が死去したが、翌[[1998年]]1月24日の本葬にはリハビリのため出席することができず、長男の[[黒澤久雄|久雄]]が弔辞を代読した{{Sfn|都築|2010|p=484}}。 1998年[[9月6日]]午後0時45分、[[東京都]][[世田谷区]][[成城]]の自宅で[[脳卒中]]により死去した{{Sfn|都築|2010|pp=446-449}}<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AK/ak_memorial_news01.htm |title=AK News -黒澤監督:追悼版-<その1>|accessdate=2020年2月19日}}</ref>。{{没年齢|1910|3|23|1998|9|6}}。9月13日に黒澤フィルム・スタジオでお別れの会が開かれ、[[岡本喜八]]、[[司葉子]]、谷口千吉、[[仲代達矢]]、[[香川京子]]、[[千秋実]]、[[侯孝賢]]など約3万5000人が参列した{{R|ルポ}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AK/ak_owakarenokai.htm |title= 黒澤明監督・お別れの會|accessdate=2020年2月19日}}</ref>。ルーカス、ルメット、スコセッシ、[[テオ・アンゲロプロス]]、[[アッバス・キアロスタミ]]などからは弔電が届いた{{R|ルポ}}。海外でも黒澤の死去はトップ級のニュースとして報道され、フランスの[[ジャック・シラク]]大統領も追悼談話を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/AK/ak_memorial_news02.htm |title=AK News -黒澤監督:追悼版-<その2>|accessdate=2020年2月19日}}</ref>。黒澤は[[無宗教]]だが、妻(1985年に死去)が眠る[[鎌倉市]]の[[安養院 (鎌倉市)|安養院]]に納骨され、「映明院殿紘国慈愛大居士」の戒名が送られた{{R|年表}}{{Sfn|都築|2010|p=484}}。[[従三位]]に叙された。 == 作風 == === テーマ === {{multiple image|footer=[[三船敏郎]](左)と[[志村喬]](右)は黒澤作品の常連俳優であり、『[[醉いどれ天使]]』『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』などでは志村が師匠、三船が弟子に相当する役を演じた。|total_width=280 |image1=Toshiro Mifune 1954 Scan10003 160913.jpg |alt1=三船敏郎 |image2=Shimura_Takashi.JPG |alt2=志村喬}} 黒澤作品は強い人間信頼と人生肯定を特徴とし{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}、現実社会で困難な状況に追い込まれた主人公が、それを契機にして人間的に再生する姿を描くことが多い{{R|大系2解説}}。評論家の[[都築政昭]]は、黒澤作品の主人公は強い正義感と犠牲的な精神で困難に立ち向かうが、そのような人物は現実感に乏しいため、黒澤は人間のあるべき姿を願望として描いていると指摘している{{R|黄金時代}}。映画批評家の[[佐藤忠男]]は、黒澤は生きる意味を探求するというテーマをくり返し描いていると指摘している{{Sfn|佐藤|1996|pp=244, 249-250}}。終戦後に作られた『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』などでは、主人公は強い正義感や使命感を持って社会悪と闘い、逞しく生きる[[侍]]的な英雄として描かれており、敗戦後の混沌とした社会に対して肯定的に生きることの意義を訴えている{{Sfn|都築|2010|pp=130-132}}{{Sfn|佐藤|1996|pp=244, 249-250}}。その作風は人生の意義、社会的献身の意義を問う『生きる』と『赤ひげ』で頂点に達したとみなされている{{R|映画大事典}}{{Sfn|佐藤|1996|pp=244, 249-250}}。 黒澤は師匠と弟子の関係をテーマに扱い、人間的に未熟な青二才がすぐれた師匠の教えを受けて一人前に成長するという物語を描くことが多い{{Sfn|佐藤|1996|pp=236-238}}。そのテーマは監督第1作の『姿三四郎』から描かれており、この作品では青年柔道家の三四郎が師匠の矢野正五郎の教えを受けながら、心身両面で成長してすぐれた柔道家になる姿を描いている{{Sfn|佐藤|1996|pp=236-238}}{{Sfn|都築|2010|p=49}}。そのほかの師弟関係を描いた例として、『野良犬』の佐藤刑事と村上刑事、『七人の侍』の勘兵衛と菊千代、『椿三十郎』の三十郎と若侍たち、『赤ひげ』の新出去定と保本登が挙げられる<ref>佐藤忠男「作品解題」({{Harvnb|全集6|1988|pp=227-256}})</ref>。1950年代までは三船敏郎が弟子に相当する主人公を演じていたが、『椿三十郎』『赤ひげ』では三船は未熟な者を指導する側の役を演じた{{R|大系2解説}}。 黒澤はその時々で自身が関心を持つ[[社会問題]]をテーマに採り上げ、批判的内容の作品を作っている。例えば、『醜聞』では[[イエロー・ジャーナリズム]]、『生きる』では[[官僚主義]]、『悪い奴ほどよく眠る』では[[汚職]]、『天国と地獄』では[[誘拐]]、『生きものの記録』『夢』『八月の狂詩曲』では[[原爆]]をテーマに扱っている{{R|大系2解説}}。佐藤によると、黒澤作品の社会批判の姿勢は、通常の社会批判映画を作る映画作家が好むような問題の犠牲者に観客の同情を集めたり、大衆に連帯をうながすという物語の形式を極端に避けており、その代わりに黒澤作品の主人公は大衆をあてにせず、個人的な解決方法を取ることが多いという{{Sfn|佐藤|1996|pp=239-240}}{{R|講座}}。また、佐藤は自分だけで解決する主人公の描き方について、その独特な生き方は普通の日本人には理解し難いが、そこに日本人の大勢順応的傾向に反対する黒澤の主張が込められていると指摘している{{R|講座}}。 === 脚本 === 監督作品は基本的にすべて自分でシナリオを書いているが、大抵の作品には共同執筆者がいた{{efn|name="共同脚本"|自作と認めている30本のうち、脚本にクレジットがないのは『わが青春に悔なし』と『素晴らしき日曜日』の2本だけだが、この2本も黒澤が脚本に参加している{{R|大系別巻解説}}。}}{{Sfn|都築|2010|pp=243-246}}。黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある<ref>清水千代太「黒澤明に訊く」(『キネマ旬報』1952年4月号)。{{Harvnb|集成2|1991|pp=100-112}}に所収</ref>」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった{{Sfn|橋本|2006|pp=174-177}}。大映製作担当の[[市川久夫]]は、谷口と共作の『静かなる決闘』の共同執筆について、「毎日、話の段取りを予め決め、同じシーンを二人が別々に書き、終わったところで対照し、よい方に統一しながら書き足してゆくといった方法だった<ref>{{Cite book|和書 |author=市川久夫|authorlink=市川久夫 |date=2002 |title=人間走馬燈 |publisher=私家版 |isbn= |page=85}}</ref>」と述べている。[[橋本忍]]と[[小国英雄]]と共作の『生きる』『七人の侍』では、黒澤と橋本が競うように同じシーンを書き、小国がそれを取捨選択して決めるという役割分担で執筆した{{R|自作を語る}}。橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、[[混声合唱]]の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである{{Sfn|橋本|2006|pp=174-177}}」と述べている。 === 製作方法 === 黒澤は撮影に入る前に、まず被写体を本当にそれらしく作れるかどうかを重視した{{Sfn|都築|2010|pp=248-250}}{{Sfn|リチー|1985|pp=387-388}}。[[リハーサル]]は他監督の作品よりもたくさん時間をかけ、俳優が役柄や性格をしっかりと掴み、演技が自然に見えるまで周到に稽古を重ねた{{Sfn|都築|2010|pp=248-250}}{{efn|東宝の[[大部屋俳優]]であった[[中島春雄]]は、完璧主義者の黒澤は時代劇でも現代劇と同様のリアルで自然な芝居を追求していたといい、東映時代劇調の大仰な芝居では通用しなかったことを証言している{{R|VIP}}。}}。『どん底』では撮影期間が1ヶ月なのに対し、リハーサルにはそれよりも長い40日近くもかけている{{R|メモ}}。また、役の雰囲気を作らせるために、本読みの段階から俳優に衣裳を着けさせたり、撮影期間中も俳優同士を役名で呼ばせたり、役で家族を演じる俳優たちを一緒に住まわせたりした。このため、制作費が莫大になる理由の一つでもあった。{{Sfn|都築|2010|pp=248-250}}。 セットも実在感を追求するためリアルに作られ、巨大なセットが組まれた{{Sfn|都築|2010|pp=348-349}}。美術監督の[[村木与四郎]]も、黒澤作品のセットの特長を「みんな大きなロケセットを1つデーンと建てちゃう点」と語っている{{Sfn|都築|2010|pp=348-349}}。画面に写らないような細部も作り込んでおり、『羅生門』では門の屋根瓦4000枚のすべてに年号が彫られ、『赤ひげ』では撮影のために焼いた[[茶碗]]に茶渋がつけられ、薬棚の引き出しの中にまで[[漆]]が塗られた{{Sfn|リチー|1985|pp=387-388}}{{Sfn|都築|2010|pp=348-349}}。黒澤はある程度は[[リアリズム]]を徹底したが、必ずしも史実通りにすることにとらわれず、視覚的にどう写るかを優先して大胆にイメージを広げることもあった{{Sfn|都築|2010|pp=348-349}}{{R|村木与四郎}}。『用心棒』の[[宿場町]]は[[画面アスペクト比#シネマスコープ|シネマスコープ]]の画面に合わせて道幅を広くしており、『蜘蛛巣城』の城門も実際の寸法より大きくしている{{R|村木与四郎}}。 黒澤の撮影方法は、複数の[[映画用カメラ|カメラ]]でワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた{{Sfn|都築|2010|pp=253-255}}。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した{{Sfn|都築|2010|pp=253-255}}{{Sfn|堀川|2000|pp=179-181}}。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている{{R|自作を語る}}。撮影監督の[[宮川一夫]]によると、黒澤は芝居が止まるのを嫌ってこの手法を使用したという<ref>花村禎次郎「宮川一夫に聞く 吐く息、吸う息…その一瞬も間をあかせない」({{Harvnb|ドキュメント|1974}})。{{Harvnb|集成2|1991|pp=125-129}}に所収</ref>。大抵のシーンでは2、3台のカメラを使用したが、『赤ひげ』では5台のカメラを使って8分に及ぶシーンを[[長回し]]で撮影した{{Sfn|都築|2010|pp=253-255}}。 編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した{{Sfn|都築|2010|pp=269-271}}{{Sfn|リチー|1985|pp=400-402}}。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした{{Sfn|都築|2010|pp=269-271}}{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した{{Sfn|都築|2010|pp=269-271}}{{R|ヴェンダース}}。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった{{R|ヴェンダース}}。 === 表現スタイル === 黒澤はカメラの動きを観客に意識させないようにした{{R|斎藤孝雄}}。カメラを勝手に動かすことはなく、俳優が動くときのみカメラを移動させ、俳優が止まればカメラも停止させた{{Sfn|堀川|2000|pp=179-181}}{{R|斎藤孝雄}}。カメラが対象物に寄るのも不自然だと考え、ズームレンズは基本的に使わず、その代わりに[[望遠レンズ]]を多用した{{Sfn|堀川|2000|pp=179-181}}。黒澤は『野良犬』のワンシーンで初めて望遠レンズを使い、『七人の侍』から複数カメラの1つに採用した{{Sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。望遠レンズだと[[画角]]が狭くなり、被写体の遠近感が失われて縦に迫るように見えるため、迫力ある画面を生んだ{{Sfn|堀川|2000|pp=179-181}}{{Sfn|都築|2010|pp=258-260}}。また、望遠レンズを使うとカメラ位置が遠ざかり、その分俳優がカメラを意識しなくなり、自然な表情が撮れるため、黒澤は[[クローズアップ]]も望遠レンズで撮影した{{Sfn|都築|2010|pp=258-260}}。 黒澤は画面に写るものはすべて重要だと考え{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}{{R|斎藤孝雄}}、1つの画面に人や物がたくさん詰まっているような画面構図を好んだ{{R|大系2解説}}。そのため[[パンフォーカス]]を使用して、被写体を画面の手前から奥に立体的に配置し、奥行きのある「縦の構図」にすることが多い{{Sfn|都築|2010|pp=253-255}}。パンフォーカスは[[レンズ]]の焦点深度を深く絞り、画面内の被写体全部に[[焦点 (光学)|焦点]]を合わせる技法である{{Sfn|都築|2010|pp=253-255}}{{Sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。黒澤は『わが青春に悔なし』でパンフォーカスを試みようとしたが、敗戦直後の電力不足で諦めており、『生きる』から存分に活用した{{Sfn|堀川|2000|p=96}}。パンフォーカスでレンズを深く絞ると光量が減るため、大量の強いライトを使わなければならず、黒澤が撮影するとスタジオが電力不足になり、他の仕事が出来なくなったという逸話がある{{Sfn|研究会|1999|pp=360-361}}。 場面転換には「[[ワイプ]]」を使用した{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}。ワイプは画面を片側から拭き取るように消して、次の画面を表示する技法である。サイレント映画でよく使われたが<ref>{{Cite Book|last=Goodwin |first=James |title=Akira Kurosawa and Intertextual Cinema |publisher=The Johns Hopkins University Press |year=1993 |page=143}}</ref>、1950年代頃には映画ではほとんど使われなくなり、アメリカでは[[テレビ番組|テレビシリーズ]]で採用された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=54}}。黒澤はワイプを[[フェード]]や[[フェード|ディゾルブ]]などの代わりに使用したが、これらの技法を全く使用しなかった訳ではなく、フェードは柔らかな印象を与えるときだけ使い、ディゾルブはかなりの時間経過を示すために用いた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=54}}{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}。ワイプの主な使用例は、『生きる』で市役所に陳情に来た主婦がたらい回しにされるシーンで、責任回避する各部署の職員を被写体にした{{仮リンク|POVショット|en|Point-of-view shot}}がワイプで重ねられている。 1940年代から1950年代の作品では「{{仮リンク|アキシャルカット|en|Axial cut}}」という技法を使用した<ref>{{Cite web |url=https://www.colesmithey.com/articles/2017/09/hitchcock-kurosawa.html |date=2017/9/17 |title=HITCHCOCK / KUROSAWA: THE AXIAL CUT |website=Cole Smithey |language=英語 |accessdate=2020年10月21日}}</ref>。アキシャルカットはディゾルブや[[トラッキングショット]]を使用せずに、角度を変えない[[ジャンプカット]]で焦点距離を変化させる技法で、突然被写体が近づいたり離れたりする印象を与えた<ref>{{cite web |title=Common editing terms explained|publisher=inspiredfilmandvideo.co.uk|url=http://www.inspiredfilmandvideo.co.uk/index.php?page_id=4 |accessdate=2020/10/21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100421001705/http://www.inspiredfilmandvideo.co.uk/index.php?page_id=4 |language=英語 |archivedate=2010/4/21}}</ref>。映画批評家の[[デヴィッド・ボードウェル]]は、黒澤はアキシャルカットを頻繁に使用して、瞬間的な動作を強調したり、静止した瞬間の時間を延ばしたりしていると指摘している{{R|ボードウェル}}。『姿三四郎』では村井半助が[[柔道]]の試合で投げ飛ばされたシーンや、三四郎と小夜が階段を下りながら会話するシーンなどで、アキシャルカットが使用されている{{R|ボードウェル}}<ref>{{Cite web |last=Bordwell |first=David |url=http://www.davidbordwell.net/blog/2009/11/27/seed-beds-of-style/ |title=Seed-beds of style |date=2009/11/27 |website=David Bordwell |language=英語 |accessdate=2020年10月21日}}</ref>。 映画批評家の[[ドナルド・リチー]]は、黒澤の色彩表現はイメージの役割に合わせて色を決め、色彩そのものに意味を持たせるというものであるとしている{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}。『どですかでん』では内容に即してセットや地面を赤や黄の[[原色]]で染めて、奔放に色を使用している{{Sfn|都築|2010|pp=366-367,372}}。『影武者』以降は鮮やかな色彩で細部まで描き込んだ[[絵コンテ]]を用意するようになり、その絵コンテ自体が芸術作品として成立することから、作品発表のたびに画集が出版された{{R|大系3解説}}{{Sfn|西村|1990|pp=313-314}}。 太陽を映すショットは当時としは画期的で多くの映画関係者に影響を与えた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://artexhibition.jp/topics/news/20200916-AEJ294640/|title=日本映画史に輝く傑作を解剖 『羅生門』展 国立映画アーカイブ|website=美術展ナビ|publisher=|date=2020-09-16|accessdate=2023-09-09}}</ref> === 映画技術 === 黒澤は[[カラー映画]]には慎重な態度を取り、『赤ひげ』までの全作品は[[モノクロフィルム|モノクロ]]で撮影した{{Sfn|リチー|1985|pp=391-393}}。ただし、『天国と地獄』のワンシーンでは煙突の煙に着色してパートカラーにする試みをしている{{R|大系2解説}}。黒澤はカラーに踏み切らなかった理由について、映画の色彩が絵画的な色彩とは程遠く、自分の考える色彩を表現することができないからだとしている<ref>「黒澤明監督にカンヌの”熱い日”」(『平凡パンチ』1980年6月16日号)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=153-157}}に所収</ref>。照明技師の[[石井長四郎]]と森弘充は、黒澤が重視するパンフォーカス撮影はカラー映画では難しく、そのためにカラーに踏み切らなかったとしている<ref>佐藤忠男「石井長四郎/森弘充に聞く あらゆる疲れを忘れさせる「本番OK」の笑顔」({{Harvnb|ドキュメント|1974}})。{{Harvnb|集成2|1991|pp=133-137}}に所収</ref>。黒澤初の全編カラー映画は『どですかでん』で、以後の作品はすべてカラーで撮影した。 黒澤作品の[[画面サイズ]]は、『どん底』までは[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]](画面比率は1対1.33)だったが、黒澤は画面が狭すぎるスタンダードサイズに不満があり、『隠し砦の三悪人』以降は[[シネマスコープ]](画面比率は1対2.35)を採用した{{Sfn|都築|2010|p=291}}。黒澤は同作について、「最初のシネスコ・サイズで大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮った{{R|自作を語る}}」と述べている。『デルス・ウザーラ』では初めて[[70ミリフィルム]]を使用したが、『影武者』以降の作品はすべて[[画面アスペクト比#ビスタサイズ|ビスタサイズ]](画面比率は1対1.66)で撮影した。撮影監督の[[斎藤孝雄]]によると、黒澤は画面全体を埋めなければ気が済まない人で、シネマスコープの広い画面を埋めるのが大変になったことからビスタサイズに変更したという<ref>山口猛「斎藤孝雄撮影監督に聞く」(『キネマ旬報』1990年8月上旬号)。{{Harvnb|集成2|1991|pp=145-147}}に所収</ref>。 === 音楽 === [[File:Kinema-Junpo-1963-April-special-7.jpg|thumb|240px|[[早坂文雄]]と黒澤。早坂は8本の黒澤の映画で作曲を担当した。]] 黒澤は映画音楽で、わざと映像と音楽の調和を崩す「音と映像の[[対位法]]」を好んで使用した{{Sfn|野上|2014|p=297}}{{R|対位法}}。[[スクリプター]]の[[野上照代]]は「映画音楽は足し算ではなく、掛け算でなければならない」のが黒澤の持論だったとしている{{Sfn|野上|2014|p=297}}。黒澤とコンビを組んだ早坂文雄は、黒澤の映画音楽に対する考え方は「画面と結合することによって、ある連想作用によって、そこになにかが喚起され、その音楽自体に別な意味が附与されてくるようなものでなくてはならない{{R|秋山}}」ものだったとしている。対位法を使用する時は、音源をその画面に登場する既成の[[レコード]]曲や[[ラジオ]]から流れる音楽、背景の歌声などの現実音にする場合が多かった{{Sfn|野上|2014|p=297}}。対位法の代表的な使用例は『醉いどれ天使』と『野良犬』で、前者では主人公が[[闇市]]を歩くシーンで「[[かっこうワルツ]]」を流し、後者では佐藤刑事が犯人に撃たれるシーンで「[[ラ・パロマ]]」、村上刑事が犯人と対峙するシーンで[[フリードリヒ・クーラウ|クーラウ]]の「ソナチネ」のピアノ曲を流している{{R|秋山}}。 黒澤は映画音楽を作曲家任せにせず、作曲家に自分の欲しいイメージを伝え、それに強くこだわった{{Sfn|都築|2010|pp=351-355}}。普段からよく音楽を聞いていた黒澤は、イメージを伝えるために既成曲を示し、それに似た音楽にするよう指示することが多かった{{R|大系3解説}}{{Sfn|野上|2014|pp=304-307}}{{Sfn|西村|1990|pp=108-110, 213-219, 287}}。『羅生門』では[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の「[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]」、『赤ひげ』では[[ブラームス]]の「[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]」や[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の「[[交響曲第94番 (ハイドン)|交響曲第94番]]」、『乱』では[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の「[[大地の歌]]」に似た曲が作られている{{Sfn|西村|1990|pp=108-110, 213-219, 287}}。『赤ひげ』以降はラッシュ時に自分が選んだ名曲を付けるようになり、その曲に合わせて編集することもあった{{Sfn|都築|2010|pp=351-355}}{{Sfn|野上|2014|pp=304-307}}。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢も多く、『影武者』では[[佐藤勝]]が降板し、『乱』では[[武満徹]]とダビングをめぐり対立することもあった{{Sfn|都築|2010|pp=351-355}}。 === 黒澤組 === [[File:Making of Throne of Blood Scan10020-1.jpg|thumb|220px|『[[蜘蛛巣城]]』のオープンセットに集まった黒澤組の面々(1956年撮影)。左から一人おいて[[矢野口文雄]]、[[岸田九一郎]]、[[野長瀬三摩地]]、[[斎藤孝雄]]、[[三船敏郎]]、[[千秋実]]、[[志村喬]]、[[野上照代|斉藤照代]]、[[村木与四郎]]、黒澤、根津博、[[中井朝一]]、[[本木荘二郎]]。]] 黒澤は長年東宝に所属していたこともあり、同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「黒澤組」と呼ばれた。黒澤組の主な人物と参加作品数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)<ref>参加作品数は『全集黒澤明』第1巻~最終巻の「製作メモランダ」による。</ref>。 * 脚本:[[小国英雄]](12本)、[[菊島隆三]](9本)、[[橋本忍]](8本)、[[久板栄二郎]](4本)、[[井手雅人]](3本) * 撮影:[[中井朝一]](11本)、[[斎藤孝雄]](9本) * 音楽:[[早坂文雄]]、[[佐藤勝]](以上8本)、[[池辺晋一郎]](4本) * 美術:[[村木与四郎]](14本)、[[松山崇]](5本) * 助監督:[[堀川弘通]]、[[小林恒夫]]、[[野長瀬三摩地]]、[[森谷司郎]]、[[出目昌伸]]、[[松江陽一]]、[[小泉堯史]] * その他スタッフ:[[三縄一郎]](音響効果、20本)、[[矢野口文雄]](録音、12本)、[[本木荘二郎]](製作、11本)、根津博(製作担当、10本)、[[下永尚]](整音、6本)、[[本多猪四郎]](演出補佐、5本)、[[石井長四郎]](照明、4本)、[[野上照代]](記録など) * 俳優(クレジット有のみ):[[志村喬]](21本)、[[三船敏郎]](16本)、[[藤原釜足]](12本)、[[千秋実]](11本)、[[高堂国典]]、[[本間文子]](以上10本)、[[清水将夫]]、[[土屋嘉男]](以上9本)、[[藤田進]]、[[加藤武]]、[[三好栄子]]、[[清水元]]、[[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]](以上8本)、[[千石規子]]、[[左卜全]]、[[三井弘次]]、[[上田吉二郎]]、[[東野英治郎]](以上7本)、[[加藤武]](6本)、[[仲代達矢]]、[[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[香川京子]]、[[宮口精二]]、[[菅井一郎]]、[[河野秋武]]、[[木村功]]、[[中村伸郎]]、[[菅井きん]]、[[井川比佐志]](以上5本) === 完璧主義 === 「完全主義という言葉が実際あるかどうか知らないけれど、モノを作る人間が完全なものを目指さないはずがありませんよ」と黒澤はインタビューで言うように、表現に一切の妥協を許さず、「完璧主義」と称されるエピソードが多く存在する。黒澤の映画に対する数々の拘りは『完全主義者』『天皇』という「映画監督・黒澤明」のイメージを作り上げた。<ref>{{Cite web|url=https://www.tv-asahi.co.jp/ss/176/mij/top.html|title=SmaSTATION-5|website=|publisher=|accessdate=2023-09-09}}</ref> * 「川の流れを逆にしろ」「馬が演技していない」などの無茶ぶりや「雲待ち」「雨待ち」を行って平気で2、3日潰すこともあった。<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20230311/10/|title=深田晃司監督、黒澤明監督の撮影エピソードに本音ポロリ「羨ましい」 : 映画ニュース|website=映画.com|publisher=|date=2023-03-11|accessdate=2023-09-09}}</ref> * 「あの家の2階が邪魔になる。」と言って、それを聞いた助監督たちは、その民家に出向き、「この家の屋根を…取り壊させてください!」と頼んだ。そして、撮影後に建て直すと言う条件付で、どうにか、屋根部分を取り壊す許可をもらった。<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/113673?device=smartphone&page=3|title=(3ページ目)「映画をモノにしたのは黒澤明だけ」木村大作が明かす|website=AERA dot. (アエラドット)|publisher=|date=2018-01-28|accessdate=2023-09-09}}</ref> * 1957年製作の『蜘蛛巣城』で、三船敏郎演じる武将に無数の矢が浴びせられるシーンでは使用したのは本物の矢を使い、弓道の有段者数人が至近距離から一斉に矢を射た。 * 1963年製作『天国と地獄』では、滑走する電車の中から鉄橋に差し掛かった時に身代金を投げ渡すシーンで当時としては異例の電車を貸し切っての撮影を行った。ダイヤを乱さぬように、通常の運行車両を貸し切ったため、鉄橋を通過するチャンスは一度きりであり、失敗は許されない。そこで黒澤は、電車の実物大の模型をリハーサルのためだけに造り、何度も何度もリハーサルを重ね本番に挑みNGが許されない一度きりの撮影のため、8台のカメラを同時に回し、なんとか無事一回で成功した。 * 『天国と地獄』ではバーでのシーン。黒澤は「とにかくたくさんの客で埋め尽くしたい」と言っていたため、スタッフは500人ものエキストラを用意した。しかしそれを見た黒澤は、「少ないな…」と言い、急遽、壁を鏡貼りにさせ、その鏡の映り込みでエキストラが倍の人数に見えるように工夫して撮影した。 * 『羅生門』の冒頭のすさまじい豪雨が降り注ぐシーン。最初の撮影では、ポンプ車4台を用意し、大量の水を放水した。だが、肉眼で見るのとは違い、カメラで映すと、思ったほどの豪雨にならなかった。そこで黒澤は、水に墨汁を混ぜることで、雨の迫力をました。さらに、雨の日を狙って撮影するという、念には念の入れようだった。しかし、あまりに大量の水を使ったために、この地区は、一時的に水不足になってしまった。 * 映画『デルス・ウザーラ』では秋になると、黒澤はシベリアの美しい紅葉の山々の中で撮影したいと考えていたが、撮影の前日、季節はずれの雨が降ってしまい、紅葉した葉っぱが全て散ってしまった。その木々を見て黒澤は、スタッフに人工の赤や黄色の葉っぱを作らせ、広大な森中の木々に葉っぱを一枚ずつ貼り付けさせた。 * また主人公が野生の虎に出くわすというシーンでは、当初用意された虎を見た黒澤は「この虎は目が死んでいるよ。野生の虎を捕まえてきてくれないか?」と言い出した。実はその虎は、スタッフが撮影用にサーカスから借りてきた虎であり、虎の表情にこだわった黒澤は結局、目や顔のUPの時には野生の虎で、全体の動きが要求されるカットには、最初に使ったサーカスの虎で撮影を行った。 == 人物 == [[File:Kinema-Junpo-1960-February-late-4.jpg|thumb|150px|<small>『キネマ旬報』1960年2月下旬号より</small>]] [[サングラス]]は1960年代以降の黒澤のトレードマークである。黒澤は強い照明を使う撮影と、常に自ら編集作業にたずさわっていたこともあって眼を悪くしていたが、尊敬するジョン・フォードも同じく眼を傷めており、フォードと会った時に彼から「眼を大事にしろ」と忠告されたのがきっかけで、『用心棒』からサングラスを着用するようになった{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}{{Sfn|研究会|1999|pp=12-13}}。黒澤はフォードを真似てサングラスだけでなく、『椿三十郎』から[[ハンチング帽]]も被るようになった{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}{{Sfn|研究会|1999|pp=12-13}}。それまではピケ帽を愛用し、『デルス・ウザーラ』以後はキャプテン帽を被った{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}。 青年時代に画家を志していた黒澤は、[[ポール・セザンヌ]]や[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]など[[ポスト印象派|後期印象派]]の画家が好きだったが、[[富岡鉄斎]]や[[前田青邨]]などの[[日本画家]]も好きだと発言していた{{Sfn|堀川|2000|pp=24-30}}{{Sfn|大系4|2010|loc=口絵}}。前田からは兜の絵を貰い、その絵を大事にしていたが、黒澤家の家計が逼迫した時に売却したという{{Sfn|田草川|2006|p=445}}。映画界に入ってからは絵コンテはじめ映画のため以外で絵を描くことはなかったが、晩年は水彩や墨で[[仏画]]を描くようになり、それらの絵に押す[[篆刻]]の制作にも熱中した{{Sfn|大系4|2010|loc=口絵}}。また、黒澤は自分で絵を描いた[[クリスマス・カード]]を手作りし、国内外の知人に送っていた{{Sfn|大系4|2010|loc=口絵}}。野上によると、黒澤は時間があれば絵を描き、机の上に絵を描く道具を置いておくと、サインペンでも絵具でも手当たり次第使って、子供のように黙って絵を描いていたという{{Sfn|野上|2014|p=171}}。 私生活の黒澤はグルメで知られ、とくに肉料理を好んだ{{R|小泉}}。小泉堯史によると、黒澤は晩年になっても食欲は落ちず、[[ステーキ]]などを頬張っていたという{{R|小泉}}。黒澤家の食卓の代表的な料理は[[牛肉]]料理で{{Sfn|島|1991|p=150}}、黒澤家に行けば美味しい牛肉が食べられると海外の映画関係者にまで知れ渡っていた{{Sfn|和子|2004|p=104}}。そのため牛肉代だけで食費が高くつき、1ヶ月の牛肉代が100万円を突破することもあり、[[税務署]]に疑われるという出来事もあったという{{Sfn|島|1991|p=33}}。黒澤はスタッフの食事にまでうるさく、夏には撮影現場にかき氷の屋台を用意したこともあった{{Sfn|野上|2014|pp=131-132}}。黒澤は酒豪としても知られ{{Sfn|和子|2004|p=110}}、[[ジョニー・ウォーカー]]や[[ホワイトホース (酒)|ホワイトホース]]などの[[ウイスキー]]を愛飲した<ref>{{Cite book|和書 |author=都築政昭|authorlink=都築政昭 |date=1999-9 |title=黒澤明と「七人の侍」 "映画の中の映画"誕生ドキュメント |publisher=朝日ソノラマ |page=194}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=黒澤和子 |date=2015-3 |title=今宵もウイスキー |chapter=ウイスキー命 黒澤明の食卓 |publisher=新潮社 |series=新潮文庫 |pages=71-72}}</ref>。 黒澤は寂しがり屋の話し好きで、気の合う人とは話が尽きないような人物だった{{Sfn|土屋|1999|pp=104,256}}。お酒もみんなと一緒に賑やかに飲むのが好きで、地方ロケでは毎日のように夜は宴会となり、俳優やスタッフたちと車座になり、一緒に夕食をしながら飲むことが多かった{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}<ref>野上照代「黒澤監督を間近から見て」({{Harvnb|映画作家|1970}})。{{Harvnb|集成3|1993|pp=36-40}}に所収</ref>。酔いが進むと黒澤はスタッフたちに[[輪唱 (大衆音楽)|輪唱]]をさせ、黒澤が[[指揮者]]になりみんなを何組かに分けて歌わせたという{{Sfn|都築|2010|pp=84-86}}{{Sfn|野上|2014|p=16}}。黒澤組の常連俳優である[[土屋嘉男]]によると、黒澤は輪唱が上手くいかないとダメ出しをし、まるで撮影の時と同じようになったと述べている{{Sfn|土屋|1999|p=140}}。 == 評価・影響 == === 批評 === [[File:Kinema-Junpo-1960-January-Special-1.jpg|thumb|150px|<small>『キネマ旬報』1960年1月新春特別号より</small>]] 黒澤は助監督時代から演出や脚本の力量が認められ、監督処女作でいきなり大きな注目と称賛を受けた数少ない監督だった{{R|批評史1}}。多くの監督作品が高評価を受けており、戦後の[[キネマ旬報ベスト・テン]]では25作品が10位以内に選出された<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|page=77}}</ref>。批評家からは視覚的演出力、劇的で緻密な脚本構成、絵画的造形力などが高く評価される反面、強い娯楽性や独自の倫理観には賛否が分かれることもあった<ref>岩本憲児「批評史ノート」({{Harvnb|全集1|1987|pp=417-423}}, {{Harvnb|全集2|1987|pp=345-353}}, {{Harvnb|全集3|1988|pp=321-329}}, {{Harvnb|全集4|1988|pp=365-374}}, {{Harvnb|全集5|1988|pp=381-391}}, {{Harvnb|全集6|1988|pp=257-270}})</ref>。[[1960年代]]の政治運動の激しい時代には、若い世代により反黒澤論も書かれたが、それらの多くは黒澤作品における[[武士道]]的ストイシズム、反庶民的[[ヒロイズム]]、[[家父長制]]的[[権威主義]]に反発している<ref>岩本憲児「批評史ノート」({{Harvnb|全集5|1988|pp=381-391}})</ref>。作品が西洋的であることから日本人離れしていると見なされることもあり、海外では最も西洋的な日本人監督と考えられているが{{R|批評史3}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=154}}、フランスの映画研究家サッシャ・エズラッティは「彼(黒澤)はそのインスピレーションを、その生まれた国の土の中と同様に、国境の外からも得るという、非常に大きな教養を持った男である。黒澤はその国民的な性格を完全に保ちながら、日本映画に世界性を持たせたという功績を持っている{{Sfn|映画作家|1970|p=109}}」と評価している。 評論家の[[多田道太郎]]は「黒澤明は、おそらく日本映画史上初めての映画芸術の中に個人をもち込もうとした作家」と高く評価している{{R|批評史6}}。都築や映画批評家の[[岩崎昶]]は、黒澤を「観念的作家」と評価した{{Sfn|都築|2010|pp=62-64}}<ref>「『蜘蛛巣城』をめぐって 岩崎昶との往復書簡」(『映画評論』1957年3・4月号)。{{Harvnb|全集4|1988|pp=312-329}}に所収</ref>。哲学者の[[梅原猛]]は黒澤を愛の作家であるとし、「黒澤明は、どのような文学者よりも人間愛に富んでいるようだ。彼の作中人物は、戦後のいかなる文学者の作品より、生き生きとした愛の行為の実践者である」と評している{{Sfn|都築|2010|pp=35,40-42}}。[[増村保造]]は黒澤の画面作りを高く評価し、その絵画性は[[表現主義]]の[[フリッツ・ラング]]の作画力に近いとしている<ref>[[増村保造]]「壮大にして悲壮な天才」(『キネマ旬報』1974年5月下旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=6-26}}に所収</ref>。一方、映画批評家の飯田心美は、黒澤の絵画性について「黒澤は人物を素描するかわりに色彩を駆使し、多彩な色調のなかにモチーフを展開してゆくタイプである。そして、その画法も[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]のごとき水彩のタッチではなく、あくまで人の目を射るごとき油彩である」と評し、その印象を[[フォーヴィスム]]の絵画と重ねた{{R|批評史6}}。 === 批判 === 一方で映画製作者だった[[角川春樹]]のように、黒澤信者からアンチ黒澤に転向した人物も存在する。角川は「今まで観た映画のベストは『[[七人の侍]]』と『[[ゴッドファーザー]]』だ」と公言し、少年時代から黒澤をリスペクトして、映画製作を夢見ていたが、映画『[[影武者 (映画)|影武者]]』の有楽座で行われたワールド・プレミアにて、[[東宝]]の社長だった[[松岡功]]の紹介があったにも関わらず、黒澤に無視された上に握手も拒否され、その後、プレミア上映の最中に、微醺状態の黒澤が[[ジョージ・ルーカス]]と[[フランシス・フォード・コッポラ]]を引き連れて姿を現すと、自身が遅れてきたことを理由に上映を中止させ、最初からやり直しをさせる光景を見て幻滅し、以降プロデュースする意欲は一切なくなったという。角川は『影武者』に関して、「私がプロデューサーなら20分切る」「時代考証も疎か」「合戦シーンも『七人の侍』に比べると迫力がなかった」と批判し、取材の最後に「何が黒澤天皇だ(笑)」と吐き捨てている<ref>{{Cite book|和書 |author=伊藤彰彦 |date=2021-11 |title=最後の角川春樹 |publisher=毎日新聞出版 |pages=181-182}}</ref>。 === 映画監督の評価と影響 === [[File:Popiersie Ingmar Bergman ssj 20110627.jpg|thumb|left|160px|[[ポーランド]]にある[[イングマール・ベルイマン]]の胸像。黒澤はベルイマンを賞賛し、彼の70歳の誕生日に手紙を書いた<ref>{{Cite web |url=https://www.openculture.com/2013/12/akira-kurosawa-to-ingmar-bergman.html |date=2013/12/26 |title=Akira Kurosawa to Ingmar Bergman: “A Human Is Not Really Capable of Creating Really Good Works Until He Reaches 80” |website=Open Culture |language=英語 |accessdate=2020年10月28日}}</ref>。]] 国内外の多くの映画監督が黒澤の影響を受け、その作品を賞賛している。黒澤と同時期に活躍した[[イングマール・ベルイマン]]は、自作の『[[処女の泉]]』(1960年)を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている<ref>{{Cite book |title=Bergman on Bergman: Interviews with Ingmar Bergman |publisher=Simon & Schuster |year=1973 |page=120}}</ref>。[[フェデリコ・フェリーニ]]は黒澤作品を見ることは「[[ルドヴィーコ・アリオスト|アリオスト]]を読むようなものだ」と賞賛している<ref>{{Cite book |和書 |author=コスタンツォ・コスタンティーニ |translator=中条省平・中条志穂 |title=フェリーニ・オン・フェリーニ |publisher=キネマ旬報社 |date=1997-12 |page=269}}</ref>。[[サタジット・レイ]]は『羅生門』の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている<ref>[[サタジット・レイ]]「黒澤明」(『わが映画 インドに始まる』第三文明社、1993年)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=602-606}}に所収</ref>。[[アンドレイ・タルコフスキー]]は好きな作品の1本に『七人の侍』を挙げている<ref>{{Cite web |url=http://www.nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |title=Tarkovsky's Choice | website=Nostalghia.com |language=英語 |accessdate=2020年7月26日}}</ref>。[[ベルナルド・ベルトルッチ]]と[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]も、影響を受けた監督の一人として黒澤の名を挙げている<ref name="コックス">{{Cite video |title=Kurosawa: The Last Emperor |url=https://www.imdb.com/title/tt0211909/ |medium=テレビ映画 |people=[[アレックス・コックス]](監督) |publisher=[[チャンネル4]] |location=イギリス |date=1999}}</ref><ref>{{Cite book |last=Cronin |first=Paul |year=2014 |title=Werner Herzog – A Guide for the Perplexed: Conversations with Paul Cronin |publisher=Faber & Faber}}</ref>。 [[スタンリー・キューブリック]]のアシスタントを務めた{{仮リンク|アンソニー・フルーウィン|en|Anthony Frewin}}によると、キューブリックは黒澤を偉大な映画監督の一人と考え、高く評価していたという。黒澤もキューブリックを賞賛しており、1990年代後半にキューブリック宛てにファンレターを送ったが、それに感激したキューブリックは返信の内容に悩み、数ヶ月もかけて返事を書き直すも、その間に黒澤が亡くなってしまい、ひどく動揺したというエピソードがある<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/news-opinion/sight-sound-magazine/polls-surveys/stanley-kubrick-cinephile |last=Wrigley |first=Nick |date=2019-11-22 |title=Stanley Kubrick, cinephile | website=BFI |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>。 [[1970年代]]以降のハリウッド映画で活躍したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、[[ジョン・ミリアス]]などは黒澤を尊敬する師と仰ぎ、それぞれの作品も黒澤から強い影響を受けている{{Sfn|都築|2010|p=18}}{{Sfn|佐藤|1996|p=265}}<ref>{{Cite web |last=Patterson |first=John |date=2011-9-1 |url=https://www.theguardian.com/film/2011/sep/01/akira-kurosawa-remakes |title=Why Hollywood can't get enough Akira Kurosawa remakes |website=The Guardian |language=英語 |accessdate=2020年10月28日}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.architecturaldigest.com/story/kurosawa-article |last= Scorsese |first=Martin |date=2008-11-01 |title=Akira Kurosawa |website=Architectural Digest |language=英語 |accessdate=2020年10月28日}}</ref>。コッポラは「私たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤監督の"芸術的な息子"といっていい存在」と語り、黒澤を[[ノーベル文学賞]]に推薦しようとしたことがある<ref>「80年代冒頭の話題作に賭ける老若監督のこの情熱」(『[[週刊朝日]]』1979年11月30日号)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=158-162}}に所収</ref>。コッポラの監督作『[[ゴッドファーザー]]』(1972年)の冒頭の結婚式のシーンは、『悪い奴ほどよく眠る』の影響を受けている{{R|大系3解説}}。スピルバーグは黒澤を「現代の映画界における[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]<ref>「黒澤明・追悼」(『キネマ旬報』1998年10月下旬号)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=681-704}}に所収</ref>」と評し、「映画製作者としてのぼくの仕事に多大な影響を与えた。映像はもちろんアートにおけるぼくの審美眼は、彼の影響を受けている<ref>[[スティーヴン・スピルバーグ]]「夢追い人。」(『[[エスクァイア]]』日本語版1990年9月号)。{{Harvnb|大系3|2010|p=388}}に所収</ref>」と述べている。 また、[[アレクサンダー・ペイン]]は黒澤のファンで、『七人の侍』『赤ひげ』を好きな映画に挙げている<ref>{{Cite web |last=Dempsey |first=Dylan Kai |date=2018-5-2 |url=https://nofilmschool.com/2018/05/alexander-payne-filmmaking-crash-course |title='Never Ask for Permission': Alexander Payne’s Seven-Step Filmmaking Crash Course |website=No Film School |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>。[[アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ]]は19歳の時に見た『生きる』に衝撃を受けたことを明かし、自身の作品である『[[BIUTIFUL ビューティフル]]』を製作した際に影響を受けたことを認め、黒澤を「映画のストーリーの構成を変えようとした天才のうちの一人」と高く評価した<ref>{{Cite web |last=Feld |first=Rob |date=2010 |url=http://www.dga.org/Craft/DGAQ/All-Articles/1003-Fall-2010/Screening-Room-Inarritu.aspx |title=Simple Beauty |website=Directors Guild of America |accessdate=2020年10月29日}}</ref>。[[ウェス・アンダーソン]]は[[アニメーション映画]]『[[犬ヶ島]]』(2018年)で黒澤の影響を受けていることを明言している<ref>{{Cite web |last=Sharf |first=Zack |date=2017-03-13 |url=https://www.indiewire.com/2017/03/wes-anderson-isle-of-dogs-akira-kurosawa-inspiration-1201793120/ |title=Wes Anderson’s ‘Isle of Dogs’ is Inspired By Akira Kurosawa and Christmas Television Specials |website=Indie Wire |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>。そのほか、[[サム・ペキンパー]]<ref>{{Cite web |last=Conterio |first=Martyn |url=https://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/features/where-begin-sam-peckinpah |title=Where to begin with Sam Peckinpah |website=BFI |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[アーサー・ペン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.criterion.com/current/posts/1608-arthur-penn-on-akira-kurosawa |title=Arthur Penn on Akira Kurosawa |website=Criterion |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[リドリー・スコット]]<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.co.uk/films/callingtheshots/ridley_scott.shtml |title=No.41: Ridley Scott |website=BBC |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[ジョージ・ミラー (プロデューサー)|ジョージ・ミラー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://intro.ne.jp/contents/2015/06/19_2236.html |title=「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ジョージ・ミラー監督記者会見 |website=INTRO |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[ジョン・ウー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0077510 |title=ジョン・ウー、貧しさから生まれた映画哲学を明かし日本の若手映画監督たちにエール! |website=シネマトゥディ |date=2015年10月29日 |accessdate=2020年8月1日}}</ref>、[[チャン・イーモウ]]<ref>{{Cite web |url=http://content.time.com/time/world/article/0,8599,2054381,00.html |author=[[チャン・イーモウ|張芸謀]] |title=Akira Kurosawa |website=TIME |date=1999/8/23 |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[三池崇史]]<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/film/2011/may/05/takeshi-miike-japanese-samurai-classics |title=Takashi Miike: Why I am bringing Japanese classics back to life |website=The Guardian.com |language=英語 |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、[[塚本晋也]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://cinemadiscoveries.co.jp/set/55 |title=塚本晋也監督 |website=CINEMA DISCOVERIES |accessdate=2020年10月29日}}</ref>、助監督出身者は一作品に就いただけの[[野村芳太郎]]、[[加藤泰]]、[[中平康]]らを含めると膨大な人数となるが、初期の[[堀川弘通]]、中期に就いて最多の本数でチーフをつとめた[[森谷司郎]]<ref>{{Cite book|和書 |author=加山雄三|authorlink=加山雄三 |date=1992-11 |title=オヤジの背中 |publisher=読売新聞社 |page=225}}</ref>、晩年期の[[小泉堯史]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://kansai.pia.co.jp/news/cinema/2014-10/higurashinoki.html |title=黒澤組出身の小泉堯史監督が最大級の賛辞を贈る「岡田さんには世界のミフネのようになってほしい」現代人の心にも響く良質な時代劇『蜩ノ記』が公開 |website=ぴあ関西版WEB |accessdate=2021年3月20日}}</ref>らが黒澤の影響を受けた愛弟子として名を挙げられることが多い。 === リメイクと諸作品への影響 === これまでに黒澤作品は国内外で何度も[[リメイク]]されている。ハリウッド映画では、[[ジョン・スタージェス]]監督の『[[荒野の七人]]』(1960年)が『七人の侍』、[[マーティン・リット]]監督の『[[暴行 (映画)|暴行]]』(1964年)が『羅生門』を公式にリメイクし、それぞれ舞台を西部劇に移し替えている{{R|大系2解説}}。[[セルジオ・レオーネ]]監督の[[マカロニ・ウエスタン]]『[[荒野の用心棒]]』(1964年)は、『用心棒』を非公式でリメイクした作品で、黒澤は東宝とともに[[著作権侵害]]で告訴し、和解に応じた製作者側から日本などの配給権と世界興行収入の15%を受け取っている<ref>「『用心棒』の盗作事件」(『映画年鑑 1967年版』)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=378-380}}に所収</ref>。[[内川清一郎]]監督の『[[姿三四郎 (映画)#1965年版|姿三四郎]]』(1965年)は、黒澤プロダクションが『姿三四郎』『續姿三四郎』を合わせてリメイクした作品で、黒澤自身がプロデューサーを務めた{{R|大系2解説}}。 [[スター・ウォーズシリーズ]]は黒澤作品から部分的な影響を受けている。ルーカスによるシリーズ1作目『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望]]』(1977年)のストーリーのアイデアは『隠し砦の三悪人』を元にしており、黒澤作品で特徴的なワイプによる場面転換も採用している<ref>{{Cite web |last=Barber |first=Nicholas |date=2016-1-4 |url=https://www.bbc.com/culture/article/20160104-the-film-star-wars-stole-from |title=The film Star Wars stole from |website=BBC |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>。[[C-3PO]]と[[R2-D2]]は、『隠し砦の三悪人』の登場人物である百姓の太平と又七がモデルであることをルーカス自身が認めている{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=333}}。シリーズ7作目の『[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒]]』(2015年)では、[[J・J・エイブラムス]]監督がシーンの構図とキャラクターの立ち位置を『天国と地獄』を参考にしたことを明らかにし<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20151201/20/ |title=J・J・エイブラムス監督「SW フォースの覚醒」は黒澤明監督作などを参考に |website=映画.com |accessdate=2020年10月30日}}</ref>、シリーズ8作目の『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ]]』(2017年)では、[[ライアン・ジョンソン]]監督が脚本に『羅生門』などの影響を受けたことを明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://theriver.jp/tlj-kurosawa-influence/ |title=『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』脚本に黒澤明作品の影響があった ― 撮影直前に追加されたシーンとは |date=2017-12-22 |website=THE RIVER |accessdate=2020年10月30日}}</ref>。 [[2020年]]発売の[[PlayStation 4]]用[[ゲームソフト]]『[[Ghost of Tsushima]]』は、黒澤の時代劇映画から強い影響を受けており、黒澤に敬意を込めてゲーム画面をモノクロで表示し、1950年代の黒澤作品の質感を再現した「Kurosawa Mode(黒澤モード)」という機能を搭載している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2020/07/09/100420.html |author=S. Eto |date=2020-7-9 |title=『Ghost of Tsushima』の「Kurosawa Mode」はただのモノクロ表示じゃない! フィルム粒子や50年代風サウンドで当時の時代劇を完全再現 |website=Game*Spark |publisher=株式会社[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2020年10月30日}}</ref>。同作の開発者の一人であるジェイソン・コーネルは、黒澤作品の演出とカメラワークを大いに参考にし、風を使用した演出も黒澤作品で風が効果的に使われていることに触発されたと語っている<ref>{{Cite web|和書|author=YamaChan |date=2020-7-14 |title=「Ghost of Tsushima」開発者インタビュー。Sucker Punchは鎌倉時代の侍をどう描いたのか |url=https://www.4gamer.net/games/400/G040041/20200710029/ |website=4gamer.net |accessdate=2020年10月30日}}</ref>。 === レガシー === 没後、数本の未映像化脚本が映画化された。『雨あがる』は黒澤の助監督を務めた[[小泉堯史]]が脚本を完成させ、[[2000年]]に[[雨あがる#映画|映画化作品]]を公開した{{R|大系別巻解説}}。同年に四騎の会で企画した『どら平太』が市川崑監督で映画化され、[[2004年]]には『海は見ていた』が[[熊井啓]]監督で映画化された{{R|大系別巻解説}}。また、[[2017年]]3月に[[中華人民共和国|中国]]の映画会社である{{仮リンク|華誼兄弟|zh|华谊兄弟}}が『黒き死の仮面』の映画化を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/223450 |title=黒澤明の“幻の脚本”「黒き死の仮面」が中国で映画化 |date=2017/3/6 |website=映画ナタリー |accessdate=2020年10月18日}}</ref>、同年5月には中国企業のジンカ・エンターテインメントも未映像化脚本10本の映画化を発表したが<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20170519/22/ |title=黒澤明の未映像化脚本9作品が中国企業により映画化 カンヌで発表 |date=2017/5/19 |website=映画.com |accessdate=2020年10月18日}}</ref>、どちらもその後の進展は報道されていない。 黒澤の名を冠した賞や施設も作られた。1986年に[[サンフランシスコ国際映画祭]]に「黒澤明賞」が制定され、黒澤自身が第1回受賞者となり、[[2002年]]まで授与された<ref>{{Cite web |url=http://history.sffs.org/awards_tributes/search.php?search_by=1&searchfield=Akira+Kurosawa+Award&x=16&y=10 |title=AWARDS & TRIBUTES |website=サンフランシスコ国際映画祭 |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>。2004年には[[東京国際映画祭]]に「黒澤明賞」が設けられた。同賞は「日本文化の再創造への象徴となり、広く世界の映画文化の発展に貢献すること」を目的に設立され、[[2008年]]まで授与された<ref>{{Cite web |url=http://history.tiff-jp.net/ja/overviews?no=17 |title=17th 2004 FESTIVAL |website=[[東京国際映画祭]] |accessdate=2020年5月27日}}</ref>。[[2010年]]、[[カリフォルニア州]]の[[アナハイム大学]]に[[映画学校]]「[[黒澤明スクールオブフィルム]]」が開校し、[[美術学]][[修士号]]が取得できるオンライン教育プログラムを提供している<ref>{{Cite web |url=https://www.anaheim.edu/schools-and-institutes/akira-kurosawa-school-of-film.html |title=The Anaheim University Akira Kurosawa School of Film | website=[[アナハイム大学]] |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>。 1998年に[[佐賀県]][[伊万里市]]で黒澤明記念館を建設する計画がスタートし、[[1999年]]7月2日に伊万里市の商業施設に仮施設となる「黒澤明記念館サテライトスタジオ」が開館した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kurosawa-foundation.com/foundation_3.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100406062033/http://www.kurosawa-foundation.com/foundation_3.html |archivedate=2010-04-06 |title=財団沿革 |publisher=財団法人 黒澤明文化振興財団 |accessdate=2019-03-23}}</ref>。記念館は黒澤明文化振興財団が寄付金を募って建設する予定だったが、[[2010年]]1月に寄付金の約3億8000万円が財団の決算書類の[[流動資産]]に記載されていないことが発覚した。翌月、黒澤明文化振興財団の[[黒澤久雄]]らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝したが、実際は資金の私的利用によるもので、不正利用した費用全額は久雄が払うという方向で決定した<ref>{{Cite news |date=2010-02-19 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100219-OYT1T00644.htm |title=「寄付金使い果たした」黒澤財団理事長が陳謝 : 社会 |newspaper=YOMIURI ONLINE(読売新聞) |publisher= |accessdate=2019-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100222200740/http://www.yomiuri.co.jp:80/national/news/20100219-OYT1T00644.htm |archivedate=2010-02-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E%E6%96%87%E5%8C%96%E6%8C%AF%E8%88%88%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E3%81%AE%E5%AF%84%E4%BB%98%E9%87%91%E5%95%8F%E9%A1%8C-889714 |title=黒澤明文化振興財団の寄付金問題 |website=コトバンク |work=朝日新聞 朝刊 佐賀全県 1地方 |date=2010年4月6日 |accessdate=2020年11月9日}}</ref>。その後、財団側が多額の資金を集めて記念館を作ることが現実的でないとした上で、サテライトスタジオを本記念館にリニューアルしたいとの意向を示し、記念館建設を事実上断念することを決めたが、[[2011年]]3月6日にサテライトスタジオも閉館した<ref>{{Cite news |date=2010-05-07 |url=https://www.asahi.com/national/update/0507/SEB201005070004.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100510080505/http://www.asahi.com/national/update/0507/SEB201005070004.html |archivedate=2010-05-10 |title=黒澤明記念館の新設断念 財団側、佐賀・伊万里市に回答 |newspaper=asahi.com}}</ref><ref>{{Cite news |date=2011-03-07 |url=https://www.asahi.com/national/update/0307/SEB201103070011.html |newspaper=asahi.com(朝日新聞社)|title=黒澤明記念館スタジオ閉館 運営財団、寄付金使い果たし - 社会 |publisher= |accessdate=2019-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110315230912/http://www.asahi.com/national/update/0307/SEB201103070011.html |archivedate=2011-05-11}}</ref>。 [[2009年]]5月、黒澤プロダクションと[[龍谷大学]]の共同プロジェクトで「黒澤デジタルアーカイブ」を開設し、未公開の創作ノートやメモ、絵コンテ、台本、撮影時の写真などの資料が、インターネット上で一般公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/68/08_hotangle01/index.htm |title=Hot Angle 黒澤デジタルアーカイブ |website=[[龍谷大学]] |archiveurl=https://archive.vn/Q53wt |archivedate=2021-03-06 |accessdate=2021-03-06}}</ref>。 == 作品 == === 監督作品 === 黒澤が自作と認めた監督作品は30本あり{{efn|name="自作認めない"}}、そのすべてで脚本を執筆した(共同執筆を含む){{efn|name="共同脚本"}}。※印はプロデューサーを兼任した作品。 {{Columns-list|20em| * [[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]](1943年) * [[一番美しく]](1944年) * [[續姿三四郎]](1945年) * [[虎の尾を踏む男達]](1945年製作、1952年公開) * [[わが青春に悔なし]](1946年) * [[素晴らしき日曜日]](1947年) * [[醉いどれ天使]](1948年) * [[静かなる決闘]](1949年) * [[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]](1949年) * [[醜聞]](1950年) * [[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]](1950年) * [[白痴 (1951年の映画)|白痴]](1951年) * [[生きる (映画)|生きる]](1952年) * [[七人の侍]](1954年) * [[生きものの記録]](1955年) * [[蜘蛛巣城]](1957年)※ * [[どん底 (1957年の映画)|どん底]](1957年)※ * [[隠し砦の三悪人]](1958年)※ * [[悪い奴ほどよく眠る]](1960年)※ * [[用心棒]](1961年) * [[椿三十郎]](1962年) * [[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]](1963年) * [[赤ひげ]](1965年) * [[どですかでん]](1970年)※ * [[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]](1975年) * [[影武者 (映画)|影武者]](1980年)※ * [[乱 (映画)|乱]](1985年) * [[夢 (映画)|夢]](1990年) * [[八月の狂詩曲]](1991年) * [[まあだだよ]](1993年) }} === 脚本作品 === 特記がない限りは『大系黒澤明 別巻』の「解説・黒澤明の脚本」による{{R|大系別巻解説}}。 {{Columns-list|20em| * 青春の気流(1942年、伏水修監督) * [[翼の凱歌]](1942年、[[山本薩夫]]監督) * 愛の世界 山猫とみの話(1943年、[[青柳信雄]]監督)※黒川槙名義<ref>{{Cite web|和書|url=http://kuro-ken.com/WP/?p=1094 |title=研究上映会『愛の世界 山猫とみの話』報告記 |website=黒澤明研究会 |accessdate=2021年6月3日}}</ref> * [[阿片戦争 (1943年の映画)|阿片戦争]](1943年、[[マキノ雅弘]]監督)※ノンクレジット<ref>{{Cite book|和書 |author=マキノ雅弘|authorlink=マキノ雅弘 |date=1977-8 |title=映画渡世 地の巻 マキノ雅弘自伝 |publisher=平凡社}}</ref> * [[土俵祭 (映画)|土俵祭]](1944年、[[丸根賛太郎]]監督) * 天晴れ一心太助(1945年、[[佐伯清]]監督) * [[四つの恋の物語 (1947年の映画)|四つの恋の物語]] 第1話「初恋」(1947年、[[豊田四郎]]監督) * [[銀嶺の果て]](1947年、[[谷口千吉]]監督) * [[肖像 (映画)|肖像]](1948年、[[木下惠介]]監督) * [[:en:Lady from Hell|地獄の貴婦人]](1949年、[[小田基義]]監督) * [[ジャコ万と鉄#1949年版|ジャコ萬と鉄]](1949年、谷口千吉監督) * [[暁の脱走]](1950年、谷口千吉監督) * ジルバの鉄(1950年、[[小杉勇]]監督) * [[殺陣師段平#映画 1950年版|殺陣師段平]](1950年、マキノ正博監督) - 脚色 * [[愛と憎しみの彼方へ]](1951年、谷口千吉監督) * 獣の宿(1951年、[[大曾根辰夫]]監督) * [[荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻]](1952年、[[森一生]]監督) * [[戦国無頼]](1952年、[[稲垣浩]]監督) * [[吹けよ春風]](1953年、谷口千吉監督) * ソ満国境2号作戦 消えた中隊(1955年、[[三村明]]監督) * [[あすなろ物語#映画|あすなろ物語]](1955年、[[堀川弘通]]監督) ※編集も担当 * [[日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里]](1957年、森一生監督) * [[戦国群盗伝]](1959年、[[杉江敏男]]監督) - 潤色 * [[殺陣師段平#映画 1962年版|殺陣師段平]](1962年、[[瑞穂春海]]監督) * [[ジャコ万と鉄#1964年|ジャコ萬と鉄]](1964年、[[深作欣二]]監督) * [[姿三四郎 (映画)#1965年版|姿三四郎]](1965年、[[内川清一郎]]監督) ※製作も担当 * [[トラ・トラ・トラ!]](1970年、[[リチャード・フライシャー]]、[[舛田利雄]]、深作欣二監督) ※ノンクレジット * [[暴走機関車]](1985年、[[アンドレイ・コンチャロフスキー]]監督) ※ノンクレジット * [[雨あがる]](2000年、[[小泉堯史]]監督) * [[どら平太]](2000年、[[市川崑]]監督) * [[海は見ていた]](2002年、[[熊井啓]]監督) }} === その他の作品 === 特記がない限りは『大系黒澤明 第4巻』と『黒澤明集成』の年表による{{R|年表|集成年表}}。 {{Columns-list|20em| ; 映画 * 美しき鷹(1937年、[[山本嘉次郎]]監督) - 製作主任 * 地熱(1938年、[[滝沢英輔]]監督) - 製作主任 * 藤十郎の恋(1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * [[綴方教室#映画|綴方教室]](1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * エノケンのびっくり人生(1938年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * エノケンのがっちり時代(1939年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * 忠臣蔵 後篇(1939年、山本嘉次郎監督) - 助演出 * のんき横丁(1939年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * ロッパの新婚旅行(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * エノケンのざんぎり金太(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * 孫悟空 前後篇(1940年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * [[馬 (映画)|馬]](1941年、山本嘉次郎監督) - 製作主任 * [[五十万人の遺産]](1963年、三船敏郎監督) - 編集協力 ※ノンクレジット{{R|大系2解説}} * [[野良犬 (1949年の映画)#リメイク版|野良犬]](1973年、[[森崎東]]監督) - 原作 ; テレビ番組 * 馬の詩(1971年、[[日本テレビ]]) - 監修 ※ドキュメンタリー ; テレビCM * [[サントリーリザーブ]](1976年 - 1979年) - 出演{{Sfn|野上|2014|p=69}} * [[カルピス]]「初恋」(1997年) - 絵コンテ・制作{{R|カルピス}} * [[パナソニック]]「ドリーム」(1997年) - 出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=148197 |title=パナソニックDVD“ドリーム”「黒澤の夢」 |website=放送ライブラリー |accessdate=2021年8月29日}}</ref> ; 舞台 * 喋る(1945年、[[新生新派]]公演) - 脚本 * 酔いどれ天使(1948年、東宝従業員組合) - 演出{{R|大系1解説}} * 結婚の申込み(1948年、東宝従業員組合) - 演出{{R|大系1解説}} ; 作詞 * [[ジャングル・ブギー]](1948年、[[服部良一]]作曲・[[笠置シヅ子]]唄){{R|大系1解説}} * 七人の侍(1954年、[[早坂文雄]]作曲・[[山口淑子]]唄){{R|大系2解説}} }} == 受賞 == [[File:Akira Kurosawa handprint in Cannes.JPG|thumb|[[フランス]]の[[カンヌ]]にある黒澤のセメントの手形。]] {{external media|topic=第62回アカデミー賞|image1=[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1990?fid=6601 (写真は左から)ジョージ・ルーカス、黒澤明、スティーヴン・スピルバーグ]|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=MTs5AVcArMs 黒澤明 アカデミー名誉賞]<br />{{center|{{small|(Oscars 公式)}}}}}} 黒澤は国内外で多数の映画賞を受賞しており、作品は[[アカデミー賞]]、世界三大映画祭の[[カンヌ国際映画祭]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]、[[ベルリン国際映画祭]]のすべてで受賞経験がある。また、[[1976年]]に映画人として初めて[[文化功労者]]に顕彰され{{R|年表}}、[[1985年]]に同じく映画人初となる[[文化勲章]]を受章した{{R|大系3解説}}。[[1990年]]には[[第62回アカデミー賞]]で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した。授賞式のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務め、黒澤は受賞スピーチで「'''私はまだ映画がよく分かっていない'''」と語ったり、会場からは笑いに包まれた。{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=620-623, 625-627}}。没後の1998年10月、「数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した」功績により、映画監督初となる[[国民栄誉賞]]が贈られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cao.go.jp/others/jinji/kokumineiyosho/kokumineiyosho_ichiran.pdf |title=国民栄誉賞受賞一覧 |format=PDF |website=[[内閣府]] |accessdate=2020年10月27日}}</ref>。[[2009年]]にはシェイクスピア作品に縁のある、または影響を受けた芸術家を対象とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20090216/9/ |date=2009-2-16 |title=黒澤明、レオナルド・ディカプリオらがシェイクスピアの殿堂入り |website=映画.com |accessdate=2022-5-21}}</ref>。 [[英国映画協会]]の{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en| Sight & Sound}}誌が10年毎に発表した映画監督のランキングでは、[[1982年]]に批評家投票で5位<ref>{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/sight/1982.html |title=Sight and Sound Poll 1982: Critics |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>、[[1992年]]に監督投票で3位<ref>{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/sight/1992_2.html |title=Sight and Sound Poll 1992: Critics |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>、[[2002年]]に批評家投票で6位<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/news/50-greatest-films-all-time |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021014130046/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-directors.html |archivedate=2002-9-14|title=Sight and Sound Top Ten Poll 2002: Critics' Top Ten Directors |work=Sight & Sound |publisher=BFI | language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>、監督投票で3位<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/news/50-greatest-films-all-time |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021019122738/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors-directors.html |archivedate=2002-9-19|title=Sight and Sound Top Ten Poll 2002: Directors' Top Ten Directors |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>に選ばれた。また、[[1996年]]に[[エンターテインメント・ウィークリー]]誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで6位{{R|リスト}}、2002年に[[:en:MovieMaker|MovieMaker]]誌が発表した「史上最も影響力のある映画監督25人」のリストで12位<ref name="リスト"/>、[[2007年]]に[[:en:Total Film|Total Film]]誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位<ref>{{cite web |title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine |website=Filmsite.org |url=https://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm.html |language=英語 |accessdate=2020年5月27日}}</ref>にランクした。 === 映画賞 === 以下の表は、黒澤の主な映画賞の受賞とノミネートのリストである。このリストには、黒澤個人が受賞した賞(監督賞、脚本賞、生涯功労賞など)だけではなく、黒澤が直接受賞したがどうかにかかわらず作品自体に与えられた作品賞や外国語映画賞も含まれる(プロデューサーが受賞者である賞も、黒澤作品の受賞・ノミネートとしてリストに含める)。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |+ 黒澤明の主な映画賞の受賞とノミネートの一覧 |- ! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典 |- ![[山中貞雄]]賞 |1943年||style="text-align:center"|-||『[[姿三四郎 (1943年の映画)|姿三四郎]]』||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- !rowspan="12"|[[毎日映画コンクール]] |1947年||監督賞||『[[素晴らしき日曜日]]』||{{won}}||rowspan="11"|{{R|受賞歴}} |- |1948年||日本映画大賞||『[[醉いどれ天使]]』||{{won}} |- |rowspan="2"|1952年||日本映画大賞||rowspan="2"|『[[生きる (映画)|生きる]]』||{{won}} |- |脚本賞||{{won}} |- |rowspan="2"|1963年||日本映画大賞||rowspan="2"|『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』||{{won}} |- |脚本賞||{{won}} |- |1965年 |日本映画大賞||『[[赤ひげ]]』||{{won}} |- |rowspan="2"|1980年||日本映画大賞||rowspan="2"|『[[影武者 (映画)|影武者]]』||{{won}} |- |監督賞||{{won}} |- |rowspan="2"|1985年||日本映画大賞||rowspan="2"|『[[乱 (映画)|乱]]』||{{won}} |- |監督賞||{{won}} |- |1998年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/053.html |title=毎日映画コンクール 第53回(1998年) |publisher=毎日新聞 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- !rowspan="4"|[[キネマ旬報ベスト・テン]] |1948年||日本映画ベスト・テン||『醉いどれ天使』||{{won|1位}}||rowspan="4"|{{R|受賞歴}} |- |1952年||日本映画ベスト・テン||『生きる』||{{won|1位}} |- |rowspan="2"|1965年||日本映画ベスト・テン||rowspan="2"|『赤ひげ』||{{won|1位}} |- |日本映画監督賞||{{won}} |- !rowspan="7"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] |1950年||脚本賞||『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』||{{won}}||rowspan="6"|{{R|受賞歴}} |- |1958年||作品賞||『[[隠し砦の三悪人]]』||{{won}} |- |1965年||作品賞||『赤ひげ』||{{won}} |- |1980年||作品賞||『影武者』||{{won}} |- |rowspan="2"|1985年||作品賞||rowspan="2" |『乱』||{{won}} |- |監督賞||{{won}} |- |1998年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1998/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075831mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1998/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第41回 |website=シネマ報知 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- !rowspan="6"|[[ヴェネツィア国際映画祭]] |rowspan="2"|1951年||[[金獅子賞]]||rowspan="2"|『羅生門』||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- |イタリア批評家賞||{{won}}||{{R|imdb}} |- |1954年||[[銀獅子賞]]||『[[七人の侍]]』||{{won}}||rowspan="3"|{{R|受賞歴}} |- |rowspan="2"|[[第26回ヴェネツィア国際映画祭|1965年]]||国際カトリック映画事務局賞||rowspan="2" |『赤ひげ』||{{won}} |- |[[サン・ジョルジョ賞]]||{{won}} |- |1982年||[[栄誉金獅子賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{R|imdb}} |- !rowspan="4"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] |rowspan="2"|1951年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]||rowspan="2"|『羅生門』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url= https://nationalboardofreview.org/award-years/1951/ |title=1951 Award Winners |website=National Board of Review |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||{{won}} |- |rowspan="2"|1985年||監督賞||rowspan="2"|『乱』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1985/ |title=1985 Award Winners | website=National Board of Review |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |外国語映画賞||{{won}} |- !rowspan="6"|[[アカデミー賞]] |[[第24回アカデミー賞|1951年]]||[[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]]||『羅生門』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1952 |title=THE 25TH ACADEMY AWARDS | 1952 |website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |[[第44回アカデミー賞|1971年]]||[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]||『[[どですかでん]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1972 |title=THE 44TH ACADEMY AWARDS | 1972 |website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |[[第48回アカデミー賞|1975年]]||外国語映画賞||『デルス・ウザーラ』||{{won}}||{{R|大系3解説}} |- |[[第53回アカデミー賞|1980年]]||外国語映画賞||『影武者』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1981 |title=THE 53RD ACADEMY AWARDS (1981) |website=oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |[[第58回アカデミー賞|1985年]]||[[アカデミー監督賞|監督賞]]||『乱』||{{nom}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://awardsdatabase.oscars.org/search/results/sort/3-Award%20Category-Chron |title=RESULTS |website=Oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |[[第62回アカデミー賞|1989年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}} |- !rowspan="6"|[[英国アカデミー賞]] |1952年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『羅生門』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1953/film? |title=Film in 1953 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |1955年||総合作品賞||『七人の侍』||{{nom}}|| <ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1956/film? |title=Film in 1956 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |rowspan="2"|1980年||作品賞||rowspan="2"|『影武者』||{{nom}}||rowspan="4"|<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/keyword-search?keywords=Akira+Kurosawa |title=BAFTA Awards Search |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]||{{won}} |- |rowspan="2"|1986年||[[英国アカデミー賞 外国語作品賞|外国語作品賞]]||rowspan="2"|『乱』||{{won}} |- |[[英国アカデミー賞 脚色賞|脚色賞]]||{{nom}} |- !rowspan="3"|[[全米監督協会賞]] |1952年||[[全米監督協会賞 長編映画監督賞|長編映画監督賞]]||『羅生門』||{{nom}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/Explore.aspx |title=FILTERS – Akira Kurosawa |website=dga.org |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |1986年||ゴールデン・ジュピリー特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}} |- |1992年||D・W・グリフィス賞||style="text-align:center"|-||{{won}} |- !rowspan="3"|[[ベルリン国際映画祭]] |[[第4回ベルリン国際映画祭|1954年]]||ベルリン市政府特別賞||『生きる』||{{won}}||rowspan="3"|{{R|受賞歴}} |- |rowspan="2"|[[第9回ベルリン国際映画祭|1959年]]||[[銀熊賞 (監督賞)|監督賞]] |rowspan="2"|『隠し砦の三悪人』||{{won}} |- |[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]||{{won}} |- !rowspan="5"|[[ゴールデングローブ賞]] |1963年||[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||『天国と地獄』||{{nom}}||rowspan="5"|<ref>{{Cite web |url=https://www.goldenglobes.com/person/akira-kurosawa |title=Akira Kurosawa |website=Golden Globes |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |1965年||外国語映画賞||『赤ひげ』||{{nom}} |- |1980年||外国語映画賞||『影武者』||{{nom}} |- |[[第43回ゴールデングローブ賞|1985年]]||外国語映画賞||『乱』||{{nom}} |- |[[第48回ゴールデングローブ賞|1990年]]||外国語映画賞||『[[夢 (映画)|夢]]』||{{nom}} |- !rowspan="5"|[[モスクワ国際映画祭]] |1965年||映画労働組合賞||『赤ひげ』||{{won}}||rowspan="2"|{{R|受賞歴}} |- |1971年||ソ連映画人同盟賞||『どですかでん』||{{won}} |- |rowspan="2"|1975年||金賞||rowspan="2"|『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://akirakurosawa.info/2015/07/23/40-years-ago-today-dersu-uzala-wins-at-the-moscow-international-film-festival/ |title=40 years ago today: Dersu Uzala wins at the Moscow International Film Festival |publisher=Akira Kurosawa info |language=英語 |accessdate=2020-06-09}}</ref> |- |国際映画批評家連盟賞||{{won}} |- |1979年||名誉賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- ![[フランス映画批評家協会賞]] |1977年||外国語映画賞||『デルス・ウザーラ』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.syndicatdelacritique.com/page-prix-sfcc/1977 |title=Prix SFCC de la Critique 1977 |website=Syndicat Français de la Critique de Cinéma |language=フランス語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- !rowspan="3"|[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] |1977年||{{仮リンク|ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 外国監督賞|label=外国監督賞|It|David di Donatello per il miglior regista straniero}}||『デルス・ウザーラ』||{{won}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web |url=https://www.daviddidonatello.it/motore-di-ricerca/cercavincitori2.php?idsoggetto=330&vin=Kurosawa |title=Akira Kurosawa |website=Premi David di Donatello |language=イタリア語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |1981年||外国監督賞||『影武者』||{{won}} |- |1986年||外国監督賞||『乱』||{{won}} |- !rowspan="2"|[[ナストロ・ダルジェント賞]] |1977年||外国監督賞||『デルス・ウザーラ』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.nastridargento.it/1977-albo-doro/ |title=1977 (Albo d'oro) |website=Nastri d'Argento |language=イタリア語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |1981年||外国監督賞||『影武者』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.nastridargento.it/1981-albo-doro/ |title=1981 (Albo d'oro) |website=Nastri d'Argento |language=イタリア語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[カンヌ国際映画祭]] |[[第33回カンヌ国際映画祭|1980年]]||[[パルム・ドール]]||『影武者』||{{won}}||{{R|大系3解説}} |- !rowspan="2"|[[セザール賞]] |1981年||外国映画賞||『影武者』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.academie-cinema.org/en/evenements/cesar-ceremony-1981/ |title=CEREMONIES ARCHIVES 1981 |website=Académie des César |language=フランス語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |1986年||外国映画賞||『乱』||{{nom}}|| <ref>{{Cite web |url=https://www.academie-cinema.org/en/evenements/cesar-ceremony-1986/ |title=CEREMONIES ARCHIVES 1986 |website=Académie des César |language=フランス語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[牧野省三]]賞 |1981年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- ![[川喜多賞]] |1984年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- !rowspan="2"|[[東京国際映画祭]] |[[第1回東京国際映画祭|1985年]]||国際映画批評家連盟賞||『乱』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://fipresci.org/festival/1st-tokyo-international-film-festival/ |title=1st Tokyo International Film Festival |website=Fipresci |language=英語 |accessdate=2020年12月20日}}</ref> |- |[[第11回東京国際映画祭|1998年]]||特別功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2009-12 |title=映画の賞事典 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |page=226}}</ref> |- !rowspan="2"|[[全米映画批評家協会賞]] |rowspan="2"|1985年||作品賞||rowspan="2"|『乱』||{{won}}||rowspan="2"|{{R|imdb}} |- |[[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||{{draw|2位}} |- !rowspan="2"|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |rowspan="2"|[[第51回ニューヨーク映画批評家協会賞|1985年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||rowspan="2"|『乱』||{{draw|次点}}||rowspan="2"|{{R|imdb}} |- |[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||{{won}} |- !rowspan="3"|[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] |rowspan="3"|[[第11回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1985年]]||[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||rowspan="2"|『乱』||{{draw|次点}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite news |last=Mathews |first=Jack |date=1985-12-16 |url=http://articles.latimes.com/1985-12-16/entertainment/ca-892_1_new-generation-award |title=Critics Choose 'Brazil' As Best Picture Of 1985 |work=Los Angeles Times |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||{{won}} |- |生涯功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}} |- ![[ボストン映画批評家協会賞]] |[[第6回ボストン映画批評家協会賞|1985年]]||作品賞||『乱』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://bostonfilmcritics.org/past-winners-1980s/ |title=BSFC Winners: 1980s |website=Boston Society of Film Critics |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- !rowspan="2"|「[[映画の日]]」特別功労大章 |1985年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.eidanren.com/activity01_02.html |title=映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧 |website=[[映画産業団体連合会]] |accessdate=2014年12月13日}}</ref> |- |1998年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}} |- !rowspan="2"|[[ロンドン映画批評家協会賞]] |rowspan="2"|1986年||監督賞||rowspan="2"|『乱』||{{won}}||rowspan="2"|{{R|imdb}} |- |外国語映画賞||{{won}} |- ![[ボディル賞]] |1986年||[[ボディル賞 非アメリカ映画賞|非アメリカ映画賞]]||『乱』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/ikke-amerikanske-film/ |title=Ikke-amerikanske film |website=Bodilprisen |language=デンマーク語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- !{{仮リンク|アマンダ賞|en|Amanda Award}} |1986年||外国語映画賞||『乱』||{{won}}||{{R|imdb}} |- !{{仮リンク|BFIフェローシップ賞|en|British Film Institute Fellowship}} |1986年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/strategy-policy/bfi-fellows |title=BFI Fellows |website=BFI |language=英語 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[サンフランシスコ国際映画祭]] |1986年||黒澤明賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{R|受賞歴}} |- !rowspan="7"|[[日本アカデミー賞]] |rowspan="2"|[[第14回日本アカデミー賞|1990年]]||[[日本アカデミー賞作品賞|作品賞]]||rowspan="2"|『夢』||{{nom}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=14 |title=第14回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |監督賞||{{nom}} |- |rowspan="3"|[[第15回日本アカデミー賞|1991年]]||作品賞||rowspan="3" |『[[八月の狂詩曲]]』||{{nom}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=15 |title=第15回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |監督賞||{{nom}} |- |脚本賞||{{nom}} |- |[[第22回日本アカデミー賞|1998年]]||協会栄誉賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=22 |title=第22回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- |[[第24回日本アカデミー賞|2000年]]||脚本賞||『[[雨あがる]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=24 |title=第24回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[ゴールデン・アロー賞]] |1998年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-magazine.or.jp/assets/doc/golden_list2008.pdf |format-PDF |title=GOLDEN ARROW AWARDS 受賞者一覧 |website=日本雑誌協会 |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] |1998年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/award/ns-cinema/history/ |title=歴代の受賞者・受賞作品 |website=日刊スポーツ映画大賞|publisher=日刊スポーツ |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |- ![[エランドール賞]] |1999年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}|| |- ![[全米脚本家組合賞]] |2013年||[[ジャン・ルノワール]]賞{{efn|外国の優れた脚本家に贈られる賞で、黒澤のほか[[橋本忍]]、[[菊島隆三]]、[[小国英雄]]の3人も合わせて受賞した。}}||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0049704 |date=2013年1月25日 |title=黒澤明監督ら、米脚本家組合功労賞受賞! |website=シネマトゥディ |accessdate=2020年12月19日}}</ref> |} === その他の賞 === * 1965年:[[朝日賞|朝日文化賞]]{{R|受賞歴}} * 1965年:[[マグサイサイ賞]] ジャーナリズム文学部門{{R|受賞歴}} * 1982年:[[国際交流基金賞]]<ref>{{Citation |和書 |editor= 国際交流基金30年史編纂室 |date=2006-9 |title=国際交流基金30年のあゆみ |publisher=国際交流基金 |page=286}}</ref> * 1985年:日本文化デザイン賞 国際文化デザイン大賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jidf.net/project/archives/prize/detail.html?id=003 |title=日本文化デザイン賞 第3回 金沢 「あそびの再発見」(1982年) |website=[[日本文化デザインフォーラム]] |accessdate=2022年5月21日}}</ref> * 1990年:[[ジャパン・ソサエティー]]賞<ref>{{Citation |和書 |editor=読売新聞文化部 |date=1997-5 |title=映画百年 映画はこうしてはじまった |publisher=キネマ旬報社 |page=230}}</ref> * 1990年:[[福岡アジア文化賞]] 創設特別賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://fukuoka-prize.org/laureates/detail/97567e98-263c-4af2-a63a-f9d28c9e890e |title=黒澤 明/ 1990年(第1回)創設特別賞 |website=福岡アジア文化賞 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1991年:アジア系アメリカ人芸術家協会 生涯功労賞{{R|受賞歴}} * 1992年:[[高松宮殿下記念世界文化賞]] 演劇・映像部門<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/kuros |title=黒澤明 |website=高松宮殿下記念世界文化賞 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1994年:[[京都賞]] [[京都賞思想・芸術部門|精神科学・表現芸術部門]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyotoprize.org/laureates/akira_kurosawa/#:~:text=%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%83%A8%E9%96%80%EF%BC%BD-,%E8%B4%88%E8%B3%9E%E7%90%86%E7%94%B1,%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E8%BB%A2%E3%81%98%E3%81%9F%E3%80%82 |title=黒澤明 |website=京都賞 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1998年:[[国民栄誉賞]](没後追贈) === 栄典・称号 === * 1971年:ユーゴスラビア国旗勲章{{R|受賞歴}} * 1976年:[[文化功労者]] * 1981年:[[イタリア共和国功労勲章]] グランデ・ウッフィチャーレ(3等級)<ref>{{Cite web |url=https://www.quirinale.it/onorificenze/insigniti/248895 |title=Kurosawa Sig. Akira - Le onorificenze della Repubblica Italiana |website=quirinale.it |language=イタリア語 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1981年:[[ロサンゼルス市]]名誉市民{{R|年表}} * 1984年:[[レジオン・ドヌール勲章]] オフィシエ(4等級){{R|集成年表}} * 1985年:フランス[[芸術文化勲章]] コマンドゥール(1等級)<ref>{{Cite book|和書 |date=1986-12 |title=映画年鑑 1987年版 |publisher=時事通信社 |page=6}}</ref> * 1985年:[[文化勲章]] * 1986年:イタリア共和国功労勲章 カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ(2等級)<ref>{{Cite web |url=https://www.quirinale.it/onorificenze/insigniti/15463 |title=KUROSAWA Akira - Le onorificenze della Repubblica Italiana |website=quirinale.it |language=イタリア語 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1991年:{{仮リンク|ソ連民族友好勲章|ru|Орден Дружбы народов}}<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-12 |title=映画年鑑 1992年版 |publisher=時事通信社 |page=6}}</ref> * 1996年:東京都[[名誉都民]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/files/0000000229/meiyotominichiran_R11024.pdf |title=名誉都民顕彰者一覧 |format=PDF |website=東京都生活文化局 |accessdate=2020年10月25日}}</ref> * 1998年:[[従三位]](没後追贈) == ドキュメンタリー作品 == * 『{{仮リンク|AK ドキュメント黒澤明|fr|A.K.}}』(1985年、[[クリス・マルケル]]) - 『乱』の撮影現場を記録した作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/34996/ |title=AK ドキュメント黒澤明 |website=映画.com |accessdate=2020年10月29日}}</ref> * 『''Kurosawa: The Last Emperor''』(1999年、[[アレックス・コックス]]){{R|コックス}} * 『黒澤明からのメッセージ 美しい映画を』(2000年、黒澤久雄)<ref>{{Cite web|和書|url=https://img-lib.musabi.ac.jp/search/index.php/document/detail-work/3029 |title=黒澤明からのメッセージ-美しい映画を- |website=イメージアイブラリー |publisher=[[武蔵野美術大学]] |accessdate=2020年10月29日}}</ref> * 『''Kurosawa''』(2001年、アダム・ロウ){{R|info}} * 『''Akira Kurosawa: The Epic and the Intimate''』(2010年){{R|info}} * 『{{仮リンク|黒澤 その道|en|Kurosawa's Way}}』(2011年、カトリーヌ・カドゥ) - 黒澤に影響を受けた11人の監督にインタビューした作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032323|title=『黒澤 その道』カンヌで初公開!クリント・イーストウッド、マーティン・スコセッシ、宮崎駿が出演!日本では公開できない幻の作品|website=シネマトゥディ|date=2011-05-16|accessdate=2020-10-29}}</ref> * 『Life work of Akira Kurosawa黒澤明のライフワーク』(2022年、河村光彦) ー 『乱』の撮影現場を1年間記録した作品(映倫「次世代への映画推薦委員会」推薦) == 書籍 == ; 著書・対談集 * 『黒沢明映画大系』全6巻、[[キネマ旬報社]]、1970-1971年。 * 『悪魔のように細心に! 天使のように大胆に!』[[東宝]]、1975年1月。 * 『[[蝦蟇の油 自伝のようなもの]]』[[岩波書店]]、1984年6月。ISBN 9784000003049。岩波同時代ライブラリー 1990年、[[岩波現代文庫]] 2001年・復刊2010年 * 『全集 黒澤明』全7巻、岩波書店、1987-1988年。復刊1993年、最終巻2002年 * 聞き手[[原田眞人]]『黒澤明語る』[[福武書店]]、1991年8月。ISBN 9784828814100。福武文庫 1995年 * [[宮崎駿]]と対談『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』[[スタジオジブリ]]、1993年8月。ISBN 9784195552728。 * 『黒澤明 「夢は天才である」』文藝春秋、1999年8月。ISBN 9784163555706。 ; 画集、創作ノート * 『影武者』[[講談社]]、1979年11月。 * 『乱』[[集英社]]、1984年10月。ISBN 9784087800715。 * 『夢』岩波書店、1990年4月。ISBN 9784000023375。 * 『黒澤明作品画集』TOKYO FM出版、1992年9月。ISBN 9784924880030。 * 『まあだだよ』[[徳間書店]]、1993年3月。ISBN 9784194051185。 * 『黒澤明全画集』黒澤プロダクション監修、[[小学館]]、1999年10月。ISBN 9784096996119 * 『海は見ていた 巨匠が遺した絵コンテ・シナリオ・創作ノート』[[新潮社]]、2002年4月。ISBN 9784104533015。 * 『黒澤明 絵画に見るクロサワの心』[[角川文庫]]、2010年8月。ISBN 9784043943456。 * 『「七人の侍」創作ノート』[[野上照代]]解説、文藝春秋、2010年8月。ISBN 9784163729800。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em |refs= <ref name="構想">「黒澤明 新作の構想を語る」(『[[映画の友]]』1956年7月号)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=271-280}}に所収</ref> <ref name="海外渡航">黒澤明「ロンドン・パリ十日間」(『キネマ旬報』1957年12月上旬号)。{{Harvnb|大系2|2009|pp=287-294}}に所収</ref> <ref name="自作を語る">「黒澤明、自作を語る『姿三四郎』~『赤ひげ』」({{Harvnb|映画作家|1970}})。{{Harvnb|キネマ旬報|2010|pp=29-63}}に所収</ref> <ref name="菊島">[[菊島隆三]]「すぐれた作品のかげにはストイックなまでの自虐」({{Harvnb|ドキュメント|1974}})。{{Harvnb|キネマ旬報|2010|pp=108-116}}に所収</ref> <ref name="秋山">秋山邦晴「黒澤映画の音楽と作曲者の証言」({{Harvnb|ドキュメント|1974}})。{{Harvnb|集成2|1991|pp=228-260}}に所収</ref> <ref name="素顔">オーディ・E・ボック「素顔の黒澤明」(『話の特集』1979年6月号)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=260-271}}に所収</ref> <ref name="村木与四郎">[[西村雄一郎]]「『乱』メインスタッフ・インタビュー 村木与四郎」(『キネマ旬報』1985年5月上旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=107-110}}に所収</ref> <ref name="斎藤孝雄">西村雄一郎「『乱』メインスタッフ・インタビュー 斎藤孝雄」(『キネマ旬報』1985年5月上旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=115-118}}に所収</ref> <ref name="講座">{{Cite journal |和書 |author=佐藤忠男 |title=ヒューマニズムの時代 |date=1987-1 |journal =講座日本映画5 戦後映画の展開|publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784000102551 |pages=33-35}}</ref> <ref name="批評史1">[[岩本憲児]]「批評史ノート」({{Harvnb|全集1|1987|pp=417-423}})</ref> <ref name="批評史3">岩本憲児「批評史ノート」({{Harvnb|全集3|1988|pp=321-329}})</ref> <ref name="メモ">「製作メモランダ」({{Harvnb|全集4|1988|pp=426-433}})</ref> <ref name="批評史6">岩本憲児「批評史ノート」({{Harvnb|全集6|1988|pp=257-270}})</ref> <ref name="生きる力">黒澤明、[[井上ひさし]]「ユーモアの力・生きる力」({{Harvnb|全集6|1988|pp=341-378}})</ref> <ref name="集成年表">西田尚善編「年表」({{Harvnb|集成|1989|pp=283-294}})</ref> <ref name="ヴェンダース">「特別対談 黒澤明+[[ヴィム・ヴェンダース]] 30本目の黒澤作品『八月の狂詩曲』をめぐって」(『03 Tokyo calling』1991年6月号)。{{Harvnb|大系4|2010|pp=518-524}}に所収</ref> <ref name="黄金時代">{{Cite book|和書 |author=都築政昭|authorlink=都築政昭 |date=1995-7 |title=日本映画の黄金時代 |publisher=[[小学館]] |isbn=9784093871396 |pages=465-472}}</ref> <ref name="ルポ">田沼雄一「黒澤明監督・お別れの會ルポ 今日はハッピーエンドです」(『キネマ旬報』1998年10月下旬秋の特別号)。{{Harvnb|キネマ旬報|2010|pp=178-180}}に所収</ref> <ref name="選んだ">[[黒澤和子]]編「黒澤明が選んだ百本の映画」(『文藝春秋』1999年4月号)。{{Harvnb|大系3|2010|pp=643-665}}に所収</ref> <ref name="映画大事典">[[岩本憲児]]「黒澤明」『世界映画大事典』、[[日本図書センター]]、2008年7月、p. 310。</ref> <ref 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Ogasawara|date=2021-04-28|url=https://www.esquire.com/jp/entertainment/movies/g36229328/best-director-never-won-oscars-snubs/|title=アカデミー賞で「監督賞」を受賞していない、伝説の映画監督6人|website=[[エスクァイア|Esquire(エスクァイア)]]|publisher=株式会社[[ハースト婦人画報社]]|accessdate=2021-07-19}}</ref> <ref name="カルピス">{{Cite web|和書|url=https://news.nissyoku.co.jp/news/nss-8204-0043 |date=1997-5-14 |title=カルピス食品、黒澤明監督初のCM「初恋」放映 |website=[[日本食糧新聞]] |accessdate=2020年10月11日}}</ref> <ref name="ボードウェル">{{Cite web |last=Bordwell |first=David |url=http://www.davidbordwell.net/blog/2009/12/08/kurosawas-early-spring/ |title=Kurosawa’s early spring |date=2009/12/8 |website=David Bordwell |language=英語 |accessdate=2020年10月21日}}</ref> <ref name="小泉">{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/14075 |title=映画監督 小泉堯史さん |website=PRESIDENT online |accessdate=2020年10月30日}}</ref> <ref name="リスト">{{cite web|url= https://www.filmsite.org/directors.html |title=Greatest Film Directors and Their Best Films – Introduction |website=Filmsite.org 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|editor=[[浜野保樹]] |title=大系黒澤明 第1巻 |publisher=[[講談社]] |date=2009-10 |isbn=978-4062155755 |ref={{SfnRef|大系1|2009}} }} * {{Citation |和書 |editor=浜野保樹 |title=大系黒澤明 第2巻 |publisher=講談社|date=2009-12 |isbn=978-4062155762 |ref={{SfnRef|大系2|2009}} }} * {{Citation |和書 |editor=浜野保樹 |title=大系黒澤明 第3巻 |publisher=講談社|date=2010-2 |isbn=978-4062155779 |ref={{SfnRef|大系3|2010}} }} * {{Citation |和書 |editor=浜野保樹 |title=大系黒澤明 第4巻 |publisher=講談社|date=2010-4 |isbn=978-4062155786 |ref={{SfnRef|大系4|2010}} }} * {{Citation |和書 |editor=浜野保樹 |title=大系黒澤明 別巻 |publisher=講談社|date=2010-11 |isbn=978-4062164450 |ref={{SfnRef|大系別巻|2010}} }} * {{Cite book |和書 |author=堀川弘通|authorlink=堀川弘通 |title=評伝 黒澤明 |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2000-10 |isbn=978-4620314709 |ref={{SfnRef|堀川|2000}} }} * {{Cite book |和書 |author=ドナルド・リチー|authorlink=ドナルド・リチー |translator=[[三木宮彦]] |title=黒澤明の映画 |edition=増補 |publisher=キネマ旬報社 |date=1985 |ref={{SfnRef|リチー|1985}} }} * {{Cite book |和書 |date=1970-3 |title=世界の映画作家3 黒澤明編 |series= |publisher=キネマ旬報社 |isbn= 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[[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:京都賞思想・芸術部門受賞者]] [[Category:国民栄誉賞受賞者]] [[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:アカデミー賞名誉賞受賞者]] [[Category:英国アカデミー賞受賞者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:文化功労者]] [[Category:従三位受位者]] [[Category:名誉都民]] [[Category:レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:イタリア共和国功労勲章受章者]] [[Category:マグサイサイ賞受賞者]] [[Category:福岡アジア文化賞受賞者]] [[Category:東宝の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1910年生]] [[Category:1998年没]] ''''''太字文''''''
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E
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VOS3
VOS3(ボス・スリー、ボス・サン、Virtual-storage Operating System 3)は、日立製作所が製造・販売しているメインフレーム用オペレーティングシステムのこと。 1971年4月に決定されたOECDのコンピュータの貿易自由化方針への対応策として、当時の通商産業省はメインフレームメーカー6社のグループ化を行い、1972年から1976年の3グループによるそれぞれの技術研究組合による共同研究に計600億円近くの補助金を拠出した。日立製作所及び富士通はIBM互換機であるMシリーズを共同開発した。(⇒三大コンピューターグループ) VOS3は大型メインフレームMシリーズ向けに開発されたオペレーティングシステムである。 基本プログラムとしてのVOS3の機能は である。当初、先行のOS、VOS2からの移行をスムーズにできるように、VOS2、VOS3でシステムソフトウェア類等も共通化されていた。 最初のVOS3は1977年4月(昭和52年4月) 日立製作所中央研究所にM-180システムとともに納入された。 VOS3の機能拡張プロダクト群と主な特徴を以下に挙げる。 VOS3/SP21(VOS3/System Product 21)はVOS3/SP(VOS3/System Product)系のオペレーティングシステムをIBM産業スパイ事件後に新たにコーディングし直したものである。 新たにM-240H、M-260H、M-280Hをサポートする。拡張機能は以下の通り。 VOS3/ES1(VOS3/Extend System product 1)はIBM MVS/XAに対抗しM/EXモードで動作し、31ビットアドレッシングおよび拡張チャネルシステム(ECS)をサポートしたもの。1985年(昭和60年)3月出荷。 新たにM-68X、M-660H、M-640シリーズをサポートする。拡張機能は以下の通り。 ECSは1986年(昭和60年)1月出荷のバージョンからサポートされた。 VOS3/AS(VOS3/Advanced System product)はIBM MVS/ESAに対抗しM/ASAモードで動作し、仮想拡張記憶機構を使用し47ビットアドレッシング(16テラバイト)をサポートした。 新たにM-880、M-860シリーズをサポートする。拡張記憶は以下の通り VOS3/FS(VOS3/Forefront System Product)は、MP5800、MP5600、MP6000シリーズをサポートしたもの。 VOS3/LS(VOS3/Leading System Product)はIBM z/OS連携システム。64ビットアドレッシングをサポートする。 新たにAP8000シリーズをサポートする。2002年4月出荷開始。 VOS3/US(Virtual-storage Operating System 3/Unific System Product)システムはVOS3/LSの後継となるOSである。2008年2月に発表され、2008年7月に出荷開始。 新しいハードウェアとしてAP8800シリーズに対応した。 BladeSymphonyとの連携に必要な製品が今までは別売製品として出されていたのが「VOS3/US標準パッケージ」として提供されている。
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VOS3は、日立製作所が製造・販売しているメインフレーム用オペレーティングシステムのこと。
'''VOS3'''(ボス・スリー、ボス・サン、Virtual-storage Operating System 3)は、[[日立製作所]]が製造・販売している[[メインフレーム]]用[[オペレーティングシステム]]のこと。 == 歴史 == === 通産省共同研究 === [[1971年]]4月に決定された[[経済協力開発機構|OECD]]の[[コンピュータ]]の貿易自由化方針への対応策として、当時の[[経済産業省|通商産業省]]は[[メインフレーム]]メーカー6社のグループ化を行い、[[1972年]]から[[1976年]]の3グループによるそれぞれの技術研究組合による共同研究に計600億円近くの補助金を拠出した。[[日立製作所]]及び[[富士通]]は[[IBM互換機]]である[[Mシリーズ]]を共同開発した。(⇒[[三大コンピューターグループ]]) VOS3は大型[[メインフレーム]][[HITAC#HITAC Mシリーズ|Mシリーズ]]向けに開発された[[オペレーティングシステム]]である。 === VOS3の機能 === [[システムソフトウェア|基本プログラム]]としてのVOS3の機能は * 多重[[仮想記憶]] * [[マルチプロセッサ]]サポート * 資源集中管理機能 * [[リモート]][[バッチ処理|バッチ]]機能 * [[オンライン]]リアルタイム制御機能 * [[RASIS]]機能 * [[タイムシェアリングシステム|TSS]]機能 である。当初、先行のOS、VOS2からの移行をスムーズにできるように、VOS2、VOS3で[[システムソフトウェア]]類等も共通化されていた。 最初のVOS3は[[1977年]]4月([[昭和]]52年4月) [[日立製作所]]中央研究所にM-180システムとともに納入された。 == VOS3の機能拡張プロダクト == VOS3の機能拡張プロダクト群と主な特徴を以下に挙げる。 ===VOS3/SP21=== VOS3/SP21(VOS3/System Product 21)はVOS3/SP(VOS3/System Product)系の[[オペレーティングシステム]]を[[IBM産業スパイ事件]]後に新たに[[コーディング]]し直したものである。 新たにM-240H、M-260H、M-280Hをサポートする。拡張機能は以下の通り。 * 大容量[[ハードディスクドライブ|ディスク]]サポート(H-8598)・資源集中管理機能エンハンス * [[チャネル]]拡張・[[コンソール]]機能エンハンス * 実記憶拡張(32MB)・スケジューラ拡張・JSS3、JSS4エンハンス === VOS3/ES1 === VOS3/ES1(VOS3/Extend System product 1)は[[IBM]] [[Multiple Virtual Storage|MVS]]/XAに対抗しM/EXモードで動作し、31ビットアドレッシングおよび拡張チャネルシステム(ECS)をサポートしたもの。[[1985年]]([[昭和]]60年)3月出荷。 新たにM-68X、M-660H、M-640シリーズをサポートする。拡張機能は以下の通り。 * 31ビットアドレッシングサポート ECSは[[1986年]]([[昭和]]60年)1月出荷のバージョンからサポートされた。 * VOS3/ES1 ECSサポート === VOS3/AS === VOS3/AS(VOS3/Advanced System product)はIBM MVS/ESAに対抗しM/ASAモードで動作し、仮想拡張記憶機構を使用し47ビットアドレッシング(16テラバイト)をサポートした。 新たにM-880、M-860シリーズをサポートする。拡張記憶は以下の通り * ACONARCチャネルサポート * PRMA(Processor Resource Management Assist) プロセッサ資源分割管理機構支援 === VOS3/FS === VOS3/FS(VOS3/Forefront System Product)は、MP5800、MP5600、[[MP6000]]シリーズをサポートしたもの。 === VOS3/LS === VOS3/LS(VOS3/Leading System Product)は[[IBM]] [[z/OS]]連携システム。64ビットアドレッシングをサポートする。 新たに[[AP8000]]シリーズをサポートする。2002年4月出荷開始。 * 64ビットアドレッシングサポート === VOS3/US === VOS3/US(Virtual-storage Operating System 3/Unific System Product)システムはVOS3/LSの後継となるOSである。2008年2月に発表され、2008年7月に出荷開始。 新しいハードウェアとしてAP8800シリーズに対応した。 [[BladeSymphony]]との連携に必要な製品が今までは別売製品として出されていたのが「VOS3/US標準パッケージ」として提供されている。 == 外部リンク == * [http://www.hitachi.co.jp/Prod/comp/soft1/VOS3/index.html VOS3ホームページ] {{Computer-stub}} [[Category:メインフレームのオペレーティングシステム]] [[Category:日立の製品]]
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激走戦隊カーレンジャー
『激走戦隊カーレンジャー』(げきそうせんたいカーレンジャー)は、1996年3月1日から1997年2月7日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全48話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 本作品では、「車をモチーフに作る」ことを前提として企画が立ち上げられており、特に放映当時一大ブームとなっていたレクリエーショナル・ビークル(RV)や、第二次ブームの最中であったミニ四駆などの要素が多く取り入れられている。また、キャラクターや技のネーミング、サブタイトルなどにも自動車や交通関係の語句が多く取り入れられている。 それまでのシリーズには必ず登場していた戦隊メンバーのバイクに相当するものとして、本作品では個人用の移動手段としてカート「スピーダーマシン」、中盤からはスポーツカー「ペガサスサンダー」とバギー「ドラゴンクルーザー」が登場している。このうち後者は、企画段階で物語後半に登場させる予定のあった巨大ロボを、「全て車のロボットでは視聴者の混乱を招くのではないか」という意見もあって見送った代わりに出された案であり、これに伴い巨大ロボの数が多かった前作に比べ、本作品での巨大ロボの総数は4体に留まっている。またそれまで何らかの形で取り入れられてきた、スーパー合体などを始めとするロボ同士のギミックも一旦排されている。一方で合体前のビークルがロボ形態にも変形するVRVロボや、後年の作品に多く見られるマルチ合体の走りである天下の浪速ロボスペシャルなどといった画期的な試みも行われている。 不条理なギャグや、スーパー戦隊シリーズのセルフパロディが盛り込まれたシュールな物語が展開される。ギャグが目立つ一方でシリアスな話もあり、これらのバランスは絶妙なものとなっている。このような従来とは異なるコミカルな味付けの作風には、本作品が『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて20作目であることから、同作品にオマージュを捧げる意味合いも込められていたという。東映プロデューサーの髙寺成紀は、旧態依然とした制作現場に危機感を抱いており、子供たちに視聴してもらうにはどうすべきか検討した結果、当時の特撮番組より視聴率を獲得していたアニメがバトルものよりコメディタッチのものが多かったことに着目したと述べている。またキャラクターデザインを手がけた野崎明は、企画の打ち合わせに出席した際「今までにないギャグ戦隊にしたい」と髙寺が熱心に語っていたことを、後年のインタビューにて述懐している。メインライターの浦沢義雄は、それまでスーパー戦隊シリーズに携わっておらず視聴したこともなかったため、自分好みのテイストを出しつつ、初めて手掛けるヒーローものに張り切っていたと述べている。テレビ朝日プロデューサーの梶淳は、かねてから東映不思議コメディーシリーズに着目しており、その良い部分を戦隊に取り込みたいと考えていたという。 オープニングのタイトルコールおよび作中での名乗りの際の言い回しも特徴的であり、「カ〜〜〜レンジャー!」と「カ」と「レ」の間を極端に伸ばして「レ」にアクセントを置く言い回しを行うという斬新なものとなっている。この演出は当初の予定にはなく、第1話の試写を見たスタッフが「(普通の名乗りでは)クセがなく印象に残らない」と判断して、台詞の再録を行った結果誕生したものである。 本作品では主人公の5人を「鍛え抜かれた戦闘のプロ」や「生まれもっての特別な戦士」ではない等身大のヒーローとして描いており、会社員である5人の給料についての会話など、作中の随所においてこうした要素がちりばめられている。さらに1990年代以降の戦隊シリーズとしては珍しく、一部の例外を除きヒーローの正体が敵に知られていない設定となっており、ヒーローの変身後の姿こそが本当の姿と思われている描写もなされている。 1996年4月5日放送分(第6話)から、同時期に放映されていた『ビーファイターカブト』と共に送出マスターがそれまでのテレシネしたポジフィルムとシネテープをミックスした1吋C-TYPEアナログVTRからネガテレシネ(ファイン・ネガ・ビデオシステム)によるD-2デジタルVTRに変更された。それと同時にOP・ED・予告のみ、シリーズ初のステレオ放送となった。これを受けて、スタッフ・キャスト・劇中テロップのクレジットが、一部の回のみフィルム焼付けではなくビデオ合成の形に変更されている。 また、本作品の中盤からそれまでのビデオ合成に代わって新たにデジタル合成が導入され、第32話ではその技術をふんだんに活かし、巨大ロボのボディ上での等身大アクションシーンが描かれている。監督の田﨑竜太は、1話につき1、2カットしかデジタル合成を使えなかったため、毎回効果的な入れ方を考えていたと述べている。 テロップの書体にはゴナの斜体が利用されている。 宇宙中を暴れ周り、狙った星を超豪華花火にして爆破してしまう宇宙暴走族ボーゾックが地球からはるか遠く離れたハザード星に襲来し、滅ぼしてしまった。 脱出に成功したハザード星人の少年・ダップは母親が死の直前に語った星座伝説の戦士カーレンジャーがいるという惑星「地球」に向かい、ボーゾック打倒を誓う。一方、ボーゾックもまた、次なる暴走の舞台を惑星チーキュ(=地球)に定め、手始めにニッポンポン(=日本)を襲うことに。 ダップが辿り着いたのは小さな自動車会社ペガサス。彼はここで働く5人の若者に素質を見出し、自身の力であるクルマジックパワーをはじめ、あの手この手でカーレンジャーに変身させていく。最初は乗り気でなかったものの、ボーゾックの本格的侵攻を目撃した5人はカーレンジャーとしてボーゾックと戦う決意を固める。 そこまでは良かったのだが、5人はその後も「安月給の上にカーレンジャーまでやらなければならない」ことへの不満を垂れ流したり、個人的な理由で出撃をためらったりとどうにも統率が取れない。一方のボーゾックも、観光気分で日本を訪れたり、地球侵攻以外の個人的な用事を優先したり、時にはカーレンジャーと交流を持ったりと、どことなく気の抜けた戦いが繰り広げられていた。 そして、宇宙で交通違反の取り締まりにあたっていたポリス星の警察官・シグナルマンも地球に赴任する。交通ルールを異常に重視する彼は、カーレンジャー・ボーゾック双方にとって時には力強い味方、またある時には大迷惑な存在として見られるようになった。 そんな戦いの様子を見ていたボーゾックのスポンサーこと暴走皇帝エグゾスは、彼らの間抜けな戦いぶりに業を煮やして表舞台に姿を現し、宇宙ハイウェイ建設のためにチーキュを排除すべく、ボーゾックの指揮を執り始める。カーレンジャーはエクゾスの地球爆破計画を阻止するため、宇宙に眠っていた伝説の車「野生の車」や、ダップの父・VRVマスターの力を借りてパワーアップを図り、エクゾスに立ち向かう。 全員が自動車会社ペガサスの社員。ハザードの正義の星座に選ばれて、カーレンジャーになった。一見するとヒーローとは程遠い能天気ぶりだが、やるときはやる。 5人の苗字の頭文字をそれぞれ並べると「じどうしゃ」となる。 決め台詞は「戦う交通安全!激走戦隊!カ〜〜〜レンジャー!」。 第2話から登場。3つの形態を持つフォーミュラーマシン型メカ。日本語で書かれた取扱説明書が付属する。ダップがカーレンジャー結成後に開発。細部の調整が済んでおらず、未完成だったが、総一郎が「5人がサボって作ったおもちゃ」だと思い込んで床に落とした際、その衝撃で完成した。 ブースター型メカ。第26話において、営業疲れで寝ていた実以外の4人とダップの手で開発された。完成した直後は、宅配用の箱に偽装されていたが、知り合いの赤ん坊宛のゆりかごを入れた箱と間違えた実によって、北海道に宅配便で送り出されてしまい、それを慌てて追いかけるというハプニングが発生した。 ダップがクルマジックパワーによって作ったカーレンジャー各人専用の小型の高性能マシン。各人毎のパーソナルカラーが施されており、レンジャービークルのコクピットにもなる。ステラメタル製のボディで、クルマジックエンジンを搭載する。 『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』での等身大戦では、レッドスピーダー1のみが使用された。 意思を持った自動車型機械生命体であり、誰も乗りこなすことのできなかった銀河に伝わる伝説の車。織姫と彦星からの苦情が原因で、隕石に閉じこめられていた。宇宙空間では自在に走れるが、ドラゴンクルーザーは大気圏内では飛べない。 第20話でボーゾック一の発掘野郎・WWワリッチョの手で封印を解かれて地球へ降り立ち、捕獲しようとするワリッチョとカーレンジャーとの戦いの中でカーレンジャーに力を貸すようになった。名前は2台とも、伝説に因んでカーレンジャーのメンバーが名づけたものである。車自体が意志を持った生命体ゆえに、カーレンジャーの味方となった後には仲間として認めており、落ち込んだイエローレーサーをドラゴンクルーザーが傷つきながらも動いて激励したことがある。どちらも助手席にカーナビックを装備する。 海外メーカーの車両をベースとしている都合上、2台とも左ハンドルとなっている。 第5話から登場。巨大化できるようになったボーゾックに対抗すべく、カーレンジャー5人の「夢の車の模型」をカーレンジャーとダップが力を合わせてクルマジックパワーで実体化して巨大化させた巨大なRV車型戦闘用ビークル。カーレンジャーがスピーダーマシンごと搭乗する。クルマジックエネルギーで動くため、排気ガスは出さない。ボディはクルマジックメタル製。全て四輪駆動。 第30話でVRVマスターが戦士に合わせて作られ、カーレンジャーに与えた巨大な「働く車」。VRVマスター曰く「絶対に勝つことを約束されたマシン」であり、レンジャービークル以上の戦闘能力を持つ。装甲材質やエンジンなどは明らかになっていない。 コクピット右側の赤いスイッチとファイターチェンジを合図に人型の中型ロボ形態のVRVファイターに変形。 VRVファイターとしての初戦では、VRVマスター指導のバレーボールを活かし、改造ブレーキングの砲弾を逆に利用してのバレーボール戦法を披露。またファイヤーファイター以外の4ファイターによるビクトリーツイスター・ファイターバージョンを使用したこともある。 第12話から登場。シグナルマンがシグナルホイッスルで呼び出す、ポリス星警察官用巨大パトカー。パトカーモードとロボットモードの2つの形態を持つ。装甲はジャスティメタル製。大量の通常パトカーと共に出現したパトカーモードは長いトンネルに突入し、そのトンネル内で「スタンダップ・サイレンダー」を合図にロボットモードに変形する。変形完了後、シグナルマンの「無駄な抵抗はやめろ」という警告と共に敬礼を行い、背後にはサイレンダーの胸の信号機が浮かび上がる。ゴーグル部はバイザー。洗脳中のシグナルマンが操縦した際には、シグナルマン同様に信号の色が黒一色になった。 両腕からは巨大短剣のサイレンダガー、右腕からは巨大拳銃サイレンバルカン、左腕からは巨大手錠サイレンワッパーと射出銃ワッパガンを展開。盾のサイレンシールドも持つ。パトカーモードとロボットモード共通の装備はパトランプの三色信号機部分(ロボットモード時は胸部)から放つビームのシグナルフラッシュ。 必殺技はサイレンバルカンの連続発射で特に技名はない。サイレンダガーで宇宙バチを倒したこともある。 物語終盤では墜落寸前のバリバリアンの突入を阻止しようとし、地球激突による落下の衝撃こそ和らげたものの、出力限界でオーバーヒートしそのまま倒れてしまった。そのために最終決戦には参加しなかったが、戦いの後のパーティーでは、RVロボとVRVロボと共に並んでいた。 宇宙各地の荒くれ者が、ガイナモを中心に集まって結成された宇宙暴走族。健康と馬鹿が取り柄らしく、作戦もとんちんかんな物が多い。平和な惑星を面白半分で襲って暴力と略奪の限りを尽くし、花火のように爆発させ滅ぼすことを楽しみにしている。人工惑星・バリバリアンを根城とし、多種多彩な巨大装甲車「バリッカー」で地球を暴走する。暴走族だがなぜか月給制。 ダップの故郷ハザード星を滅ぼした後、グラッチが地球を侵攻目標として定めたことやゾンネットの提案により今度は地球を花火にしようと企み襲来するも、カーレンジャーの活躍によって失敗を重ねる。作戦では真面目にやることもあるが、オイキムチやスイカの調達や弁当の買出しなど下らないことで仲間を派遣することもある。上司や部下といった概念がなく、ガイナモやゼルモダたちの指示には従うものの、荒くれ者は基本的に彼らを呼び捨てにし、タメ口で話す。 巨大化アイテムはチーキュの美味しいものを探している途中でたまたま見つけた芋羊羹。それもペガサスの近所の和菓子屋「芋長」製のものに限られ、コンビニで売られているものでは逆に手の平サイズまで縮小してしまう。ボーゾック(荒くれ者のほか、宇宙ゴキブリや宇宙バチも含む)が芋長の芋羊羹を食べると、顔を紅潮させ口から煙を吹き出しながら巨大化する。巨大化すると攻撃力や防御力が増すが、時間制限がある。この芋羊羹をフィーチャーしたエピソードが作られた他、結末においての重大な伏線となる。 一時期は「ヘルスボーゾック」「デビルボーゾック」などと改名してみるも、一向に成果は上がらず、挙句の果てに連戦連敗とそのマヌケぶりから、「ボーゾック、ボロ負け記録更新」「宇宙一弱い暴走族」などとスポーツ新聞に大々的に書かれるなど、カーレンジャー以外の地球人からも半ばバカにされるようになってしまう。 ボーゾックたち宇宙人の発音では地球は「チーキュ」(グラッチだけは「チーキュウ」と語尾をのばすような発音)、日本は「ニッポンポン」となる。なお、地球に住む人間は「一般市民」、その中でも子供は「子供さん」と呼んでいる。カーレンジャーの姿を素顔と思っており、終盤まで地球の一般市民が変身した装備の姿だとは夢にも思っていなかった。 物語後半より暴走皇帝エグゾスと協力関係となるが、その実態はエグゾスに利用されていたに過ぎず、後に見限られたことで決別し、カーレンジャーと共闘することになった。エグゾスを打倒した後は組織を解散し、所属メンバーは散り散りとなってそれぞれの生活を送っている。 各キャラクターの身長・体重などの設定はない。 ボーゾックの構成員が使用する車両で、飛行も可能。様々な種類がある。 ボーゾックの構成員が使用する巨大車両で、こちらも様々な種類がある。ゾクレンジャーが使用したこともある。 土門直樹役の増島愛浩と八神洋子役の来栖あつこは本作がデビュー作となった。上杉実役には実際に大阪府出身の福田佳弘を起用。陣内恭介役の岸祐二は本作品以降もシリーズ作品に様々な役で出演している。 岸が髙寺から聞いたところによると、コメディの素質がある岸と福田が先に決定し、残りの3人はバランスを取りながら決めていったという。本作品では、変身前は戦わないという方針であったため、メインキャストに本格的なアクション指導はなく、初期の撮影では従来の作品のような早朝のロケ出発もなかったという。後半には素面でのアクションも増えていったが、岸はストーリーでも戦うことに対する自覚が芽生えたことを描くために必要なことであったと述べている。 年間を通してナレーターが存在しない本作品では、複数話にまたがるエピソードの完結編や次回予告の際には、役者自らの声で説明が行われる。また、次回予告の終わりには毎回交通標語がその回の予告担当者によって読み上げられる。 ボーゾックのヒロインであるゾンネットには元AV女優である七瀬理香(旧名・水谷リカ)が起用されたが、このキャスティング傾向について東映のチーフプロデューサーを務めた髙寺成紀は、自身が少年時代に見た『恐竜100万年』などに登場するナイス系の女性や、大学生活を経て入社するまでの数年間に見た『超電子バイオマン』『電撃戦隊チェンジマン』『超新星フラッシュマン』の影響と述べている。敵組織の幹部クラスにいわゆるセクシー系の女優を起用する傾向は、髙寺が携わった後続の戦隊作品においても踏襲されることとなる。 声優面では、ボーゾック側のレギュラーである総長ガイナモの声には悪役のボスやガキ大将の役柄を得意とする大竹宏を、また副長ゼルモダと発明家グラッチの声にはギャグキャラの役柄が多い津久井教生と長嶝高士を起用。また加藤精三、飯塚昭三、渡部猛、関智一、肝付兼太などゲスト出演の面々も含め、前作同様若手やベテランを多く織り交ぜたキャスティングとなっている。 横山一敏によれば、本作品は従来よりも変身前後のシンクロが要求されたため、変身前の俳優陣との打ち合わせが密に行われ、変身後の芝居も多かったと述べている。 前作から営業に専念した鈴木武幸に替わり、本作品からは当時若手の髙寺成紀がメインプロデューサーに就任。これにより、脚本や監督などの編成は意図的に前作『オーレンジャー』とは違う人員で固められることが多くなった。 脚本面では、戦隊初参加となる浦沢義雄がメインライターを務めることになり、戦隊シリーズで浦沢がメインライターを担当した作品はこれが唯一である。髙寺は、浦沢の起用を一旦は躊躇したものの、企画者104の葛西おとの後押しにより決定したと述べている。他の脚本担当には、荒川稔久や本作品を最後に東映ヒーローから離れた曽田博久が名を連ねている。荒川は、浦沢の脚本はふざけているようにみえて深い真実を内包しているのに対し、自身の脚本は深みもないまま楽しみすぎてしまったと述懐している。 演出面では、パイロット作品を東映作品最後の担当となった小林義明が演出し、3話以降は浦沢との付き合いの長い坂本太郎を始め、渡辺勝也、田﨑竜太の3人が中心となりローテーションを組んだ。特に渡辺は最多となる17作品を演出。シグナルマン登場編、2度に亘る新ロボ登場編、地方ロケ編、そして最終話に至るまで本シリーズの要となる作品を全て手掛けている。またその後の戦隊シリーズの演出陣の主力となった竹本昇も、本作品の第44話にて監督デビューを果たしている。 劇中音楽は本作品が東映作品初登板であり、その後も平成仮面ライダーシリーズなど東映特撮に多数携わることの多い佐橋俊彦が担当した。佐橋は、初回録音時に60から70曲を用意せねばならず録音に作曲が間に合わず、その後もアイデアを使い果たしてしまい試行錯誤するなどの苦心があったことを後年のインタビューで述べている。髙寺からの要望はいずれもハイテンポで勢いやスピードを強調していたため、佐橋はディープ・パープルの曲調にオーケストラやシンセサイザーを加えたイメージとしている。 キャラクターデザインは『特捜ロボ ジャンパーソン』などで東映特撮にも関わった経験を持つ野崎明と、前作より続投の阿部統が担当。また次作『メガレンジャー』にて本格的に参加となった下条美治も、ダップ関連のデザインという形で本作品に携わっている。 本作品より木村英俊に代って本地大輔ディレクターがスーパー戦隊シリーズを担当するのに伴い、音楽展開においてもそれまでとは大きな変化が見られるようになった。その最たるものが、主題歌を含めた合計32曲もの歌曲と、それらほぼ全て(4曲はシングル未発売)の先行シングルカット化である。これに伴い主題歌もOPとEDが別売仕様となり、各カップリングには挿入歌が収録されるようになった。 また、それまで「ヒット曲集」としてリリースされていた前出の歌曲のアルバムも「ソングコレクション」に、「音楽集」は「ミュージックコレクション」へと改題され、それぞれ3枚がリリースされた。これらの他にも、純然たる企画ものとして「激走戦隊カーレンジャー★Merry Xmas!From Carranger ソングコレクション」が発売されている。ここではシングル発売された「Merry Xmas! from カーレンジャー」の他、佐橋俊彦編曲による「ジングルベル・フルアクセルヴァージョン」が事実上の新曲であり、他に日本コロムビア学芸部製作のクリスマスソング用カラオケを流用したものが8曲収録された。歌唱は全て岸祐二ら出演者たちによるもので、スーパーアクションサウンドのように恭介たちの掛け合いセリフも収録されている(実が子供のころの思い出を語る際に「仮面ライダーV3の変身ベルトが...」と発言するなど、かなりテンションの高いやり取りが聴ける)。同様の企画CDはセーラームーンでも行われた。 コロちゃんパックではレギュラーメンバーがラジオのDJ形式で曲紹介やミニドラマを展開する『げきそうドキドキ放送局』が製作され、こちらも3タイトルに渡ってリリースされている。 主題歌の歌手にはシリーズ初参加の高山成孝が起用され、挿入歌の歌手には前作『オーレンジャー』の主題歌・挿入歌を歌唱した速水けんたろうや『仮面ライダーBLACK』のエンディング曲を歌唱した坂井紀雄、メタルヒーローシリーズの『ブルースワット』やウルトラシリーズの主題歌・挿入歌を歌唱した前田達也などが起用された。 本作品では3種のドラマ入りカセットが発売された。これ以前にあったスーパーアクションサウンドシリーズに比べ、戦いを描くシーンはほとんど無く、あくまでドキドキ放送局という番組進行の形になっている。以下にタイトルと概要を紹介する(挿入曲は割愛)。 サブタイトルには特に決まったフォーマットはないが、いずれも交通用語や自動車に関連する言葉が含まれたものとなっている。またエンディング後の次回予告では、簡単な交通安全講座も行っている。 前作ほどではないものの苦戦が続いていたが、一方で物語が進むにつれて従来の人気を回復するに至っている。また売上面においては『オーレンジャー』よりは下がったが、総売上118億円、うち玩具売上64億円を記録した。 助監督として参加していた深作健太によれば、当時テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で人気を博していたアニメーション監督の庵野秀明が本作品を評価しており、撮影現場にも見学に訪れていたという。 いずれも発売元は東映ビデオ。 『てれびくん』で上山道郎による漫画版が2度掲載された。内容は第1話をベースにしたもの(1996年3月号)と、シグナルマン登場の回をモチーフにしたもの(1996年6月号)である。上山は本作品以外に『忍者戦隊カクレンジャー』、『オーレンジャー』、『メガレンジャー』の漫画版も担当しているが、本作品が「一番描いていて楽しかった」と振り返っている。 2011年には『海賊戦隊ゴーカイジャー』における元レッドレーサー・陣内恭介と6人目の戦士の登場を記念し、上山のブログとPixivでこれらに修正を加えたものが掲載された。 『テレビランド』1996年3月号から1997年2月号にて南部鉄鬼による漫画版が連載されていた。 各作品における詳細はそれぞれの項目を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『激走戦隊カーレンジャー』(げきそうせんたいカーレンジャー)は、1996年3月1日から1997年2月7日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全48話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作品では、「車をモチーフに作る」ことを前提として企画が立ち上げられており、特に放映当時一大ブームとなっていたレクリエーショナル・ビークル(RV)や、第二次ブームの最中であったミニ四駆などの要素が多く取り入れられている。また、キャラクターや技のネーミング、サブタイトルなどにも自動車や交通関係の語句が多く取り入れられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "それまでのシリーズには必ず登場していた戦隊メンバーのバイクに相当するものとして、本作品では個人用の移動手段としてカート「スピーダーマシン」、中盤からはスポーツカー「ペガサスサンダー」とバギー「ドラゴンクルーザー」が登場している。このうち後者は、企画段階で物語後半に登場させる予定のあった巨大ロボを、「全て車のロボットでは視聴者の混乱を招くのではないか」という意見もあって見送った代わりに出された案であり、これに伴い巨大ロボの数が多かった前作に比べ、本作品での巨大ロボの総数は4体に留まっている。またそれまで何らかの形で取り入れられてきた、スーパー合体などを始めとするロボ同士のギミックも一旦排されている。一方で合体前のビークルがロボ形態にも変形するVRVロボや、後年の作品に多く見られるマルチ合体の走りである天下の浪速ロボスペシャルなどといった画期的な試みも行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "不条理なギャグや、スーパー戦隊シリーズのセルフパロディが盛り込まれたシュールな物語が展開される。ギャグが目立つ一方でシリアスな話もあり、これらのバランスは絶妙なものとなっている。このような従来とは異なるコミカルな味付けの作風には、本作品が『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて20作目であることから、同作品にオマージュを捧げる意味合いも込められていたという。東映プロデューサーの髙寺成紀は、旧態依然とした制作現場に危機感を抱いており、子供たちに視聴してもらうにはどうすべきか検討した結果、当時の特撮番組より視聴率を獲得していたアニメがバトルものよりコメディタッチのものが多かったことに着目したと述べている。またキャラクターデザインを手がけた野崎明は、企画の打ち合わせに出席した際「今までにないギャグ戦隊にしたい」と髙寺が熱心に語っていたことを、後年のインタビューにて述懐している。メインライターの浦沢義雄は、それまでスーパー戦隊シリーズに携わっておらず視聴したこともなかったため、自分好みのテイストを出しつつ、初めて手掛けるヒーローものに張り切っていたと述べている。テレビ朝日プロデューサーの梶淳は、かねてから東映不思議コメディーシリーズに着目しており、その良い部分を戦隊に取り込みたいと考えていたという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オープニングのタイトルコールおよび作中での名乗りの際の言い回しも特徴的であり、「カ〜〜〜レンジャー!」と「カ」と「レ」の間を極端に伸ばして「レ」にアクセントを置く言い回しを行うという斬新なものとなっている。この演出は当初の予定にはなく、第1話の試写を見たスタッフが「(普通の名乗りでは)クセがなく印象に残らない」と判断して、台詞の再録を行った結果誕生したものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本作品では主人公の5人を「鍛え抜かれた戦闘のプロ」や「生まれもっての特別な戦士」ではない等身大のヒーローとして描いており、会社員である5人の給料についての会話など、作中の随所においてこうした要素がちりばめられている。さらに1990年代以降の戦隊シリーズとしては珍しく、一部の例外を除きヒーローの正体が敵に知られていない設定となっており、ヒーローの変身後の姿こそが本当の姿と思われている描写もなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1996年4月5日放送分(第6話)から、同時期に放映されていた『ビーファイターカブト』と共に送出マスターがそれまでのテレシネしたポジフィルムとシネテープをミックスした1吋C-TYPEアナログVTRからネガテレシネ(ファイン・ネガ・ビデオシステム)によるD-2デジタルVTRに変更された。それと同時にOP・ED・予告のみ、シリーズ初のステレオ放送となった。これを受けて、スタッフ・キャスト・劇中テロップのクレジットが、一部の回のみフィルム焼付けではなくビデオ合成の形に変更されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、本作品の中盤からそれまでのビデオ合成に代わって新たにデジタル合成が導入され、第32話ではその技術をふんだんに活かし、巨大ロボのボディ上での等身大アクションシーンが描かれている。監督の田﨑竜太は、1話につき1、2カットしかデジタル合成を使えなかったため、毎回効果的な入れ方を考えていたと述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "テロップの書体にはゴナの斜体が利用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宇宙中を暴れ周り、狙った星を超豪華花火にして爆破してしまう宇宙暴走族ボーゾックが地球からはるか遠く離れたハザード星に襲来し、滅ぼしてしまった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "脱出に成功したハザード星人の少年・ダップは母親が死の直前に語った星座伝説の戦士カーレンジャーがいるという惑星「地球」に向かい、ボーゾック打倒を誓う。一方、ボーゾックもまた、次なる暴走の舞台を惑星チーキュ(=地球)に定め、手始めにニッポンポン(=日本)を襲うことに。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ダップが辿り着いたのは小さな自動車会社ペガサス。彼はここで働く5人の若者に素質を見出し、自身の力であるクルマジックパワーをはじめ、あの手この手でカーレンジャーに変身させていく。最初は乗り気でなかったものの、ボーゾックの本格的侵攻を目撃した5人はカーレンジャーとしてボーゾックと戦う決意を固める。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "そこまでは良かったのだが、5人はその後も「安月給の上にカーレンジャーまでやらなければならない」ことへの不満を垂れ流したり、個人的な理由で出撃をためらったりとどうにも統率が取れない。一方のボーゾックも、観光気分で日本を訪れたり、地球侵攻以外の個人的な用事を優先したり、時にはカーレンジャーと交流を持ったりと、どことなく気の抜けた戦いが繰り広げられていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "そして、宇宙で交通違反の取り締まりにあたっていたポリス星の警察官・シグナルマンも地球に赴任する。交通ルールを異常に重視する彼は、カーレンジャー・ボーゾック双方にとって時には力強い味方、またある時には大迷惑な存在として見られるようになった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "そんな戦いの様子を見ていたボーゾックのスポンサーこと暴走皇帝エグゾスは、彼らの間抜けな戦いぶりに業を煮やして表舞台に姿を現し、宇宙ハイウェイ建設のためにチーキュを排除すべく、ボーゾックの指揮を執り始める。カーレンジャーはエクゾスの地球爆破計画を阻止するため、宇宙に眠っていた伝説の車「野生の車」や、ダップの父・VRVマスターの力を借りてパワーアップを図り、エクゾスに立ち向かう。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "全員が自動車会社ペガサスの社員。ハザードの正義の星座に選ばれて、カーレンジャーになった。一見するとヒーローとは程遠い能天気ぶりだが、やるときはやる。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "5人の苗字の頭文字をそれぞれ並べると「じどうしゃ」となる。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "決め台詞は「戦う交通安全!激走戦隊!カ〜〜〜レンジャー!」。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第2話から登場。3つの形態を持つフォーミュラーマシン型メカ。日本語で書かれた取扱説明書が付属する。ダップがカーレンジャー結成後に開発。細部の調整が済んでおらず、未完成だったが、総一郎が「5人がサボって作ったおもちゃ」だと思い込んで床に落とした際、その衝撃で完成した。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ブースター型メカ。第26話において、営業疲れで寝ていた実以外の4人とダップの手で開発された。完成した直後は、宅配用の箱に偽装されていたが、知り合いの赤ん坊宛のゆりかごを入れた箱と間違えた実によって、北海道に宅配便で送り出されてしまい、それを慌てて追いかけるというハプニングが発生した。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ダップがクルマジックパワーによって作ったカーレンジャー各人専用の小型の高性能マシン。各人毎のパーソナルカラーが施されており、レンジャービークルのコクピットにもなる。ステラメタル製のボディで、クルマジックエンジンを搭載する。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』での等身大戦では、レッドスピーダー1のみが使用された。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "意思を持った自動車型機械生命体であり、誰も乗りこなすことのできなかった銀河に伝わる伝説の車。織姫と彦星からの苦情が原因で、隕石に閉じこめられていた。宇宙空間では自在に走れるが、ドラゴンクルーザーは大気圏内では飛べない。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第20話でボーゾック一の発掘野郎・WWワリッチョの手で封印を解かれて地球へ降り立ち、捕獲しようとするワリッチョとカーレンジャーとの戦いの中でカーレンジャーに力を貸すようになった。名前は2台とも、伝説に因んでカーレンジャーのメンバーが名づけたものである。車自体が意志を持った生命体ゆえに、カーレンジャーの味方となった後には仲間として認めており、落ち込んだイエローレーサーをドラゴンクルーザーが傷つきながらも動いて激励したことがある。どちらも助手席にカーナビックを装備する。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "海外メーカーの車両をベースとしている都合上、2台とも左ハンドルとなっている。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第5話から登場。巨大化できるようになったボーゾックに対抗すべく、カーレンジャー5人の「夢の車の模型」をカーレンジャーとダップが力を合わせてクルマジックパワーで実体化して巨大化させた巨大なRV車型戦闘用ビークル。カーレンジャーがスピーダーマシンごと搭乗する。クルマジックエネルギーで動くため、排気ガスは出さない。ボディはクルマジックメタル製。全て四輪駆動。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第30話でVRVマスターが戦士に合わせて作られ、カーレンジャーに与えた巨大な「働く車」。VRVマスター曰く「絶対に勝つことを約束されたマシン」であり、レンジャービークル以上の戦闘能力を持つ。装甲材質やエンジンなどは明らかになっていない。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "コクピット右側の赤いスイッチとファイターチェンジを合図に人型の中型ロボ形態のVRVファイターに変形。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "VRVファイターとしての初戦では、VRVマスター指導のバレーボールを活かし、改造ブレーキングの砲弾を逆に利用してのバレーボール戦法を披露。またファイヤーファイター以外の4ファイターによるビクトリーツイスター・ファイターバージョンを使用したこともある。", "title": "カーレンジャーの装備・技" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第12話から登場。シグナルマンがシグナルホイッスルで呼び出す、ポリス星警察官用巨大パトカー。パトカーモードとロボットモードの2つの形態を持つ。装甲はジャスティメタル製。大量の通常パトカーと共に出現したパトカーモードは長いトンネルに突入し、そのトンネル内で「スタンダップ・サイレンダー」を合図にロボットモードに変形する。変形完了後、シグナルマンの「無駄な抵抗はやめろ」という警告と共に敬礼を行い、背後にはサイレンダーの胸の信号機が浮かび上がる。ゴーグル部はバイザー。洗脳中のシグナルマンが操縦した際には、シグナルマン同様に信号の色が黒一色になった。", "title": "シグナルマンの戦力" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "両腕からは巨大短剣のサイレンダガー、右腕からは巨大拳銃サイレンバルカン、左腕からは巨大手錠サイレンワッパーと射出銃ワッパガンを展開。盾のサイレンシールドも持つ。パトカーモードとロボットモード共通の装備はパトランプの三色信号機部分(ロボットモード時は胸部)から放つビームのシグナルフラッシュ。", "title": "シグナルマンの戦力" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "必殺技はサイレンバルカンの連続発射で特に技名はない。サイレンダガーで宇宙バチを倒したこともある。", "title": "シグナルマンの戦力" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "物語終盤では墜落寸前のバリバリアンの突入を阻止しようとし、地球激突による落下の衝撃こそ和らげたものの、出力限界でオーバーヒートしそのまま倒れてしまった。そのために最終決戦には参加しなかったが、戦いの後のパーティーでは、RVロボとVRVロボと共に並んでいた。", "title": "シグナルマンの戦力" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "宇宙各地の荒くれ者が、ガイナモを中心に集まって結成された宇宙暴走族。健康と馬鹿が取り柄らしく、作戦もとんちんかんな物が多い。平和な惑星を面白半分で襲って暴力と略奪の限りを尽くし、花火のように爆発させ滅ぼすことを楽しみにしている。人工惑星・バリバリアンを根城とし、多種多彩な巨大装甲車「バリッカー」で地球を暴走する。暴走族だがなぜか月給制。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ダップの故郷ハザード星を滅ぼした後、グラッチが地球を侵攻目標として定めたことやゾンネットの提案により今度は地球を花火にしようと企み襲来するも、カーレンジャーの活躍によって失敗を重ねる。作戦では真面目にやることもあるが、オイキムチやスイカの調達や弁当の買出しなど下らないことで仲間を派遣することもある。上司や部下といった概念がなく、ガイナモやゼルモダたちの指示には従うものの、荒くれ者は基本的に彼らを呼び捨てにし、タメ口で話す。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "巨大化アイテムはチーキュの美味しいものを探している途中でたまたま見つけた芋羊羹。それもペガサスの近所の和菓子屋「芋長」製のものに限られ、コンビニで売られているものでは逆に手の平サイズまで縮小してしまう。ボーゾック(荒くれ者のほか、宇宙ゴキブリや宇宙バチも含む)が芋長の芋羊羹を食べると、顔を紅潮させ口から煙を吹き出しながら巨大化する。巨大化すると攻撃力や防御力が増すが、時間制限がある。この芋羊羹をフィーチャーしたエピソードが作られた他、結末においての重大な伏線となる。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一時期は「ヘルスボーゾック」「デビルボーゾック」などと改名してみるも、一向に成果は上がらず、挙句の果てに連戦連敗とそのマヌケぶりから、「ボーゾック、ボロ負け記録更新」「宇宙一弱い暴走族」などとスポーツ新聞に大々的に書かれるなど、カーレンジャー以外の地球人からも半ばバカにされるようになってしまう。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ボーゾックたち宇宙人の発音では地球は「チーキュ」(グラッチだけは「チーキュウ」と語尾をのばすような発音)、日本は「ニッポンポン」となる。なお、地球に住む人間は「一般市民」、その中でも子供は「子供さん」と呼んでいる。カーレンジャーの姿を素顔と思っており、終盤まで地球の一般市民が変身した装備の姿だとは夢にも思っていなかった。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "物語後半より暴走皇帝エグゾスと協力関係となるが、その実態はエグゾスに利用されていたに過ぎず、後に見限られたことで決別し、カーレンジャーと共闘することになった。エグゾスを打倒した後は組織を解散し、所属メンバーは散り散りとなってそれぞれの生活を送っている。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "各キャラクターの身長・体重などの設定はない。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ボーゾックの構成員が使用する車両で、飛行も可能。様々な種類がある。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ボーゾックの構成員が使用する巨大車両で、こちらも様々な種類がある。ゾクレンジャーが使用したこともある。", "title": "宇宙暴走族ボーゾック" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "土門直樹役の増島愛浩と八神洋子役の来栖あつこは本作がデビュー作となった。上杉実役には実際に大阪府出身の福田佳弘を起用。陣内恭介役の岸祐二は本作品以降もシリーズ作品に様々な役で出演している。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "岸が髙寺から聞いたところによると、コメディの素質がある岸と福田が先に決定し、残りの3人はバランスを取りながら決めていったという。本作品では、変身前は戦わないという方針であったため、メインキャストに本格的なアクション指導はなく、初期の撮影では従来の作品のような早朝のロケ出発もなかったという。後半には素面でのアクションも増えていったが、岸はストーリーでも戦うことに対する自覚が芽生えたことを描くために必要なことであったと述べている。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "年間を通してナレーターが存在しない本作品では、複数話にまたがるエピソードの完結編や次回予告の際には、役者自らの声で説明が行われる。また、次回予告の終わりには毎回交通標語がその回の予告担当者によって読み上げられる。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ボーゾックのヒロインであるゾンネットには元AV女優である七瀬理香(旧名・水谷リカ)が起用されたが、このキャスティング傾向について東映のチーフプロデューサーを務めた髙寺成紀は、自身が少年時代に見た『恐竜100万年』などに登場するナイス系の女性や、大学生活を経て入社するまでの数年間に見た『超電子バイオマン』『電撃戦隊チェンジマン』『超新星フラッシュマン』の影響と述べている。敵組織の幹部クラスにいわゆるセクシー系の女優を起用する傾向は、髙寺が携わった後続の戦隊作品においても踏襲されることとなる。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "声優面では、ボーゾック側のレギュラーである総長ガイナモの声には悪役のボスやガキ大将の役柄を得意とする大竹宏を、また副長ゼルモダと発明家グラッチの声にはギャグキャラの役柄が多い津久井教生と長嶝高士を起用。また加藤精三、飯塚昭三、渡部猛、関智一、肝付兼太などゲスト出演の面々も含め、前作同様若手やベテランを多く織り交ぜたキャスティングとなっている。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "横山一敏によれば、本作品は従来よりも変身前後のシンクロが要求されたため、変身前の俳優陣との打ち合わせが密に行われ、変身後の芝居も多かったと述べている。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "前作から営業に専念した鈴木武幸に替わり、本作品からは当時若手の髙寺成紀がメインプロデューサーに就任。これにより、脚本や監督などの編成は意図的に前作『オーレンジャー』とは違う人員で固められることが多くなった。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "脚本面では、戦隊初参加となる浦沢義雄がメインライターを務めることになり、戦隊シリーズで浦沢がメインライターを担当した作品はこれが唯一である。髙寺は、浦沢の起用を一旦は躊躇したものの、企画者104の葛西おとの後押しにより決定したと述べている。他の脚本担当には、荒川稔久や本作品を最後に東映ヒーローから離れた曽田博久が名を連ねている。荒川は、浦沢の脚本はふざけているようにみえて深い真実を内包しているのに対し、自身の脚本は深みもないまま楽しみすぎてしまったと述懐している。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "演出面では、パイロット作品を東映作品最後の担当となった小林義明が演出し、3話以降は浦沢との付き合いの長い坂本太郎を始め、渡辺勝也、田﨑竜太の3人が中心となりローテーションを組んだ。特に渡辺は最多となる17作品を演出。シグナルマン登場編、2度に亘る新ロボ登場編、地方ロケ編、そして最終話に至るまで本シリーズの要となる作品を全て手掛けている。またその後の戦隊シリーズの演出陣の主力となった竹本昇も、本作品の第44話にて監督デビューを果たしている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "劇中音楽は本作品が東映作品初登板であり、その後も平成仮面ライダーシリーズなど東映特撮に多数携わることの多い佐橋俊彦が担当した。佐橋は、初回録音時に60から70曲を用意せねばならず録音に作曲が間に合わず、その後もアイデアを使い果たしてしまい試行錯誤するなどの苦心があったことを後年のインタビューで述べている。髙寺からの要望はいずれもハイテンポで勢いやスピードを強調していたため、佐橋はディープ・パープルの曲調にオーケストラやシンセサイザーを加えたイメージとしている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "キャラクターデザインは『特捜ロボ ジャンパーソン』などで東映特撮にも関わった経験を持つ野崎明と、前作より続投の阿部統が担当。また次作『メガレンジャー』にて本格的に参加となった下条美治も、ダップ関連のデザインという形で本作品に携わっている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "本作品より木村英俊に代って本地大輔ディレクターがスーパー戦隊シリーズを担当するのに伴い、音楽展開においてもそれまでとは大きな変化が見られるようになった。その最たるものが、主題歌を含めた合計32曲もの歌曲と、それらほぼ全て(4曲はシングル未発売)の先行シングルカット化である。これに伴い主題歌もOPとEDが別売仕様となり、各カップリングには挿入歌が収録されるようになった。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、それまで「ヒット曲集」としてリリースされていた前出の歌曲のアルバムも「ソングコレクション」に、「音楽集」は「ミュージックコレクション」へと改題され、それぞれ3枚がリリースされた。これらの他にも、純然たる企画ものとして「激走戦隊カーレンジャー★Merry Xmas!From Carranger ソングコレクション」が発売されている。ここではシングル発売された「Merry Xmas! from カーレンジャー」の他、佐橋俊彦編曲による「ジングルベル・フルアクセルヴァージョン」が事実上の新曲であり、他に日本コロムビア学芸部製作のクリスマスソング用カラオケを流用したものが8曲収録された。歌唱は全て岸祐二ら出演者たちによるもので、スーパーアクションサウンドのように恭介たちの掛け合いセリフも収録されている(実が子供のころの思い出を語る際に「仮面ライダーV3の変身ベルトが...」と発言するなど、かなりテンションの高いやり取りが聴ける)。同様の企画CDはセーラームーンでも行われた。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "コロちゃんパックではレギュラーメンバーがラジオのDJ形式で曲紹介やミニドラマを展開する『げきそうドキドキ放送局』が製作され、こちらも3タイトルに渡ってリリースされている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "主題歌の歌手にはシリーズ初参加の高山成孝が起用され、挿入歌の歌手には前作『オーレンジャー』の主題歌・挿入歌を歌唱した速水けんたろうや『仮面ライダーBLACK』のエンディング曲を歌唱した坂井紀雄、メタルヒーローシリーズの『ブルースワット』やウルトラシリーズの主題歌・挿入歌を歌唱した前田達也などが起用された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "本作品では3種のドラマ入りカセットが発売された。これ以前にあったスーパーアクションサウンドシリーズに比べ、戦いを描くシーンはほとんど無く、あくまでドキドキ放送局という番組進行の形になっている。以下にタイトルと概要を紹介する(挿入曲は割愛)。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "サブタイトルには特に決まったフォーマットはないが、いずれも交通用語や自動車に関連する言葉が含まれたものとなっている。またエンディング後の次回予告では、簡単な交通安全講座も行っている。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "前作ほどではないものの苦戦が続いていたが、一方で物語が進むにつれて従来の人気を回復するに至っている。また売上面においては『オーレンジャー』よりは下がったが、総売上118億円、うち玩具売上64億円を記録した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "助監督として参加していた深作健太によれば、当時テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で人気を博していたアニメーション監督の庵野秀明が本作品を評価しており、撮影現場にも見学に訪れていたという。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "いずれも発売元は東映ビデオ。", "title": "映像ソフト化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "『てれびくん』で上山道郎による漫画版が2度掲載された。内容は第1話をベースにしたもの(1996年3月号)と、シグナルマン登場の回をモチーフにしたもの(1996年6月号)である。上山は本作品以外に『忍者戦隊カクレンジャー』、『オーレンジャー』、『メガレンジャー』の漫画版も担当しているが、本作品が「一番描いていて楽しかった」と振り返っている。", "title": "漫画版" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2011年には『海賊戦隊ゴーカイジャー』における元レッドレーサー・陣内恭介と6人目の戦士の登場を記念し、上山のブログとPixivでこれらに修正を加えたものが掲載された。", "title": "漫画版" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "『テレビランド』1996年3月号から1997年2月号にて南部鉄鬼による漫画版が連載されていた。", "title": "漫画版" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "各作品における詳細はそれぞれの項目を参照。", "title": "シリーズ内の他作品への登場" } ]
『激走戦隊カーレンジャー』(げきそうせんたいカーレンジャー)は、1996年3月1日から1997年2月7日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全48話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
{{半保護}} {{Pathnav|スーパー戦隊シリーズ|frame=1}} {{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第19作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[超力戦隊オーレンジャー|超力戦隊<br />オーレンジャー]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1995年3月<br />- 1996年2月 |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第20作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''激走戦隊<br />カーレンジャー''' |style="border:1px solid black; 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|音楽= [[佐橋俊彦]] |OPテーマ={{Plainlist| * 「激走戦隊カーレンジャー」<br />歌:[[高山成孝]] * 「激走戦隊カーレンジャー 〜フルアクセルヴァージョン〜」<br />歌:高山成孝 }} |EDテーマ=「天国サンバ」<br />歌:高山成孝 |言語=[[日本語]] |外部リンク=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/read_story3.asp?Command=Old&SID=57 |外部リンク名=公式サイト(東映) |特記事項=「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第20作 }} 『'''激走戦隊カーレンジャー'''』(げきそうせんたいカーレンジャー)は、[[1996年]][[3月1日]]から[[1997年]][[2月7日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週金曜17:30 - 17:55([[日本標準時|JST]])に全48話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 == 概要 == 本作品では、「[[自動車|車]]をモチーフに作る」ことを前提として企画が立ち上げられており{{R|material50}}、特に放映当時一大ブームとなっていた[[レクリエーショナル・ビークル]](RV)や、第二次ブームの最中であった[[ミニ四駆]]などの要素が多く取り入れられている。また、キャラクターや技のネーミング、サブタイトルなどにも自動車や交通関係の語句が多く取り入れられている。 それまでのシリーズには必ず登場していた戦隊メンバーの[[オートバイ|バイク]]に相当するものとして、本作品では個人用の移動手段としてカート「スピーダーマシン」、中盤からは[[スポーツカー]]「ペガサスサンダー」と[[全地形対応車|バギー]]「ドラゴンクルーザー」が登場している。このうち後者は、企画段階で物語後半に登場させる予定のあった巨大ロボを、「全て車のロボットでは視聴者の混乱を招くのではないか」という意見もあって見送った代わりに出された案であり、これに伴い巨大ロボの数が多かった前作に比べ、本作品での巨大ロボの総数は4体に留まっている{{R|material50}}。またそれまで何らかの形で取り入れられてきた、スーパー合体などを始めとするロボ同士のギミックも一旦排されている。一方で合体前のビークルがロボ形態にも変形するVRVロボや、後年の作品に多く見られる'''マルチ合体'''の走りである天下の浪速ロボスペシャルなどといった画期的な試みも行われている。 === 作風 === 不条理なギャグや、スーパー戦隊シリーズのセルフパロディが盛り込まれた[[シュルレアリスム|シュール]]な物語が展開される<ref>『特撮ザテレビジョン「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦」公式読本』63頁。</ref>。ギャグが目立つ一方でシリアスな話もあり、これらのバランスは絶妙なものとなっている{{Sfn|スーパー戦隊画報|2006|p=204}}。このような従来とは異なるコミカルな味付けの作風には、本作品が『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて20作目であることから、同作品にオマージュを捧げる意味合いも込められていたという{{R|material50|20th5}}。東映プロデューサーの[[髙寺成紀]]は、旧態依然とした制作現場に危機感を抱いており、子供たちに視聴してもらうにはどうすべきか検討した結果、当時の特撮番組より視聴率を獲得していたアニメがバトルものよりコメディタッチのものが多かったことに着目したと述べている{{R|20th5}}。またキャラクターデザインを手がけた野崎明は、企画の打ち合わせに出席した際「今までにないギャグ戦隊にしたい」と{{CP932フォント|髙}}寺が熱心に語っていたことを、後年のインタビューにて述懐している{{R|HYAKKA102}}。メインライターの[[浦沢義雄]]は、それまでスーパー戦隊シリーズに携わっておらず視聴したこともなかったため、自分好みのテイストを出しつつ、初めて手掛けるヒーローものに張り切っていたと述べている{{R|20th32}}。テレビ朝日プロデューサーの[[梶淳]]は、かねてから[[東映不思議コメディーシリーズ]]に着目しており、その良い部分を戦隊に取り込みたいと考えていたという{{R|20th33}}。 オープニングのタイトルコールおよび作中での名乗りの際の言い回しも特徴的であり、「カ〜〜〜'''レ'''ンジャー!」と「カ」と「レ」の間を極端に伸ばして「レ」にアクセントを置く言い回しを行うという斬新なもの{{efn|『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』の第51話(スーパー戦隊大集合)や『[[轟轟戦隊ボウケンジャー]]』の30戦隊紹介コーナー、『[[スーパー戦隊Vシネマ|スーパー戦隊VSシリーズ劇場]]』など、後年制作された番組内で本作品が紹介される場合においても、やはり本作品と同じ発音で紹介されている。}}となっている。この演出は当初の予定にはなく、第1話の試写を見たスタッフが「(普通の名乗りでは)クセがなく印象に残らない」と判断して、台詞の再録を行った結果誕生したものである{{R|material50}}。 本作品では主人公の5人を「鍛え抜かれた戦闘のプロ」や「生まれもっての特別な戦士」ではない等身大のヒーローとして描いており、[[会社員]]である5人の給料についての会話など、作中の随所においてこうした要素がちりばめられている。さらに1990年代以降の戦隊シリーズとしては珍しく、一部の例外を除きヒーローの正体が敵に知られていない設定となっており、ヒーローの変身後の姿こそが本当の姿と思われている描写もなされている。 === 技術面 === 1996年4月5日放送分(第6話)から、同時期に放映されていた『[[ビーファイターカブト]]』と共に送出マスターがそれまでのテレシネしたポジフィルムと[[シネテープ]]をミックスした[[1インチVTR|1吋C-TYPEアナログVTR]]からネガテレシネ(ファイン・ネガ・ビデオシステム)による[[D2-VTR|D-2デジタルVTR]]に変更された{{efn|ただし、『[[恐竜戦隊ジュウレンジャー]]』から『[[超力戦隊オーレンジャー]]』のビデオソフトと、[[東映チャンネル]]の『ジュウレンジャー』と『[[五星戦隊ダイレンジャー]]』とスーパー戦隊VSシリーズの元祖『[[超力戦隊オーレンジャー オーレVSカクレンジャー]]』も「ファイン・ネガ・ビデオシステム」によるネガテレシネのタイプになっている。}}。それと同時にOP・ED・予告のみ、シリーズ初のステレオ放送となった{{efn|本放送時において、全編がステレオ放送に移行したのは『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』3月12日放送分(第5話)からである。また映像ソフトとしては『ゴーゴーファイブ』より、全編ステレオ収録に移行している。}}。これを受けて、スタッフ・キャスト・劇中テロップのクレジットが、一部の回のみフィルム焼付けではなくビデオ合成の形に変更されている。 また、本作品の中盤からそれまでのビデオ合成に代わって新たにデジタル合成が導入され、第32話ではその技術をふんだんに活かし、巨大ロボのボディ上での等身大アクションシーンが描かれている。監督の[[田﨑竜太]]は、1話につき1、2カットしかデジタル合成を使えなかったため、毎回効果的な入れ方を考えていたと述べている{{R|20th9733}}。 テロップの書体には[[ゴナ]]の斜体が利用されている。 == あらすじ == 宇宙中を暴れ周り、狙った星を超豪華[[花火]]にして爆破してしまう'''宇宙[[暴走族]]ボーゾック'''が地球からはるか遠く離れたハザード星に襲来し、滅ぼしてしまった。 脱出に成功したハザード星人の少年・'''ダップ'''は母親が死の直前に語った'''星座伝説'''の戦士'''カーレンジャー'''がいるという惑星「地球」に向かい、ボーゾック打倒を誓う。一方、ボーゾックもまた、次なる暴走の舞台を惑星チーキュ(=地球)に定め、手始めにニッポンポン(=日本)を襲うことに。 ダップが辿り着いたのは小さな自動車会社'''ペガサス'''。彼はここで働く5人の若者に素質を見出し、自身の力である'''クルマジックパワー'''をはじめ、あの手この手でカーレンジャーに変身させていく。最初は乗り気でなかったものの、ボーゾックの本格的侵攻を目撃した5人はカーレンジャーとしてボーゾックと戦う決意を固める。 そこまでは良かったのだが、5人はその後も「安月給の上にカーレンジャーまでやらなければならない」ことへの不満を垂れ流したり、個人的な理由で出撃をためらったりとどうにも統率が取れない。一方のボーゾックも、観光気分で日本を訪れたり、地球侵攻以外の個人的な用事を優先したり、時にはカーレンジャーと交流を持ったりと、どことなく気の抜けた戦いが繰り広げられていた。 そして、宇宙で交通違反の取り締まりにあたっていたポリス星の警察官・'''シグナルマン'''も地球に赴任する。交通ルールを異常に重視する彼は、カーレンジャー・ボーゾック双方にとって時には力強い味方、またある時には大迷惑な存在として見られるようになった。 そんな戦いの様子を見ていたボーゾックのスポンサーこと暴走皇帝エグゾスは、彼らの間抜けな戦いぶりに業を煮やして表舞台に姿を現し、宇宙ハイウェイ建設のためにチーキュを排除すべく、ボーゾックの指揮を執り始める。カーレンジャーはエクゾスの地球爆破計画を阻止するため、宇宙に眠っていた伝説の車「野生の車」や、ダップの父・VRVマスターの力を借りてパワーアップを図り、エクゾスに立ち向かう。 == 登場人物 == === 激走戦隊カーレンジャー === 全員が自動車会社ペガサスの社員。ハザードの正義の星座に選ばれて、カーレンジャーになった。一見するとヒーローとは程遠い能天気ぶりだが、やるときはやる。 5人の苗字の頭文字をそれぞれ並べると「じどうしゃ」となる{{Sfn|スーパー戦隊画報|2006|p=206}}{{R|学研の図鑑222}}。 決め台詞は「'''戦う交通安全!激走戦隊!カ〜〜〜レンジャー!'''」{{R|20th6}}{{efn|「戦う交通安全」というフレーズはメインライターの[[浦沢義雄]]の発案によるもので、浦沢はこれを気に入っており玩具パッケージにも使ってほしかったと述べている{{R|20th32}}。}}。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|陣内 恭介|じんない きょうすけ}}|陣内恭介}} : [[1973年]][[10月10日]]生まれ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=91}}{{R|group=ep|SVHS}}。23歳{{Refnest|group="出典"|name="kyosuke"|{{R|超全集5|20th8|学研の図鑑222}}}}。ペガサスではテストドライバーを担当{{R|超全集5|学研の図鑑222}}。基本給は税込みで19万3千円{{R|group="出典"|kyosuke}}{{R|group=ep|1話}}。左利き(ただし、バッティングは右打ち{{R|group=ep|19話}})。カーレンジャーのリーダー{{R|group="出典"|kyosuke}}。 : 元はレーサー志望ゆえに優れたドライビングテクニックの持ち主で、その腕前は野生の車のペガサスサンダーを乗りこなしたほど。ペガサスにおいては、会社が町工場レベルの規模なことから、テストドライバーの仕事には恵まれず、修理を終えた車の試運転や代行運転、雑用係{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集5|20th8|学研の図鑑222}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=91}}}}が主になっている。 : マイペースな性格で{{R|超全集5|20th8}}、サボり・居眠りの常習犯ではあるが、実態は車に対する思い入れや愛着が人一倍強い熱血漢でリーダーの自覚や責任感も強い{{R|学研の図鑑222}}。その性格がいい方向へ暴走した結果、敵に奪われ操られていたRVロボに単身乗り込んで奪還したこともある。同期入社の実とは漫才コンビ状態で主にツッコミ担当。 : 食事はカツ丼が定番で{{R|学研の図鑑222}}、作中でもよく食べる姿が見られた。 : 後にゾンネットにレッドレーサーとしての姿を惚れられたが{{R|group=ep|13話}}、恭介が変身した姿であることまでは知られておらず、ゾンネットをはじめとするボーゾック幹部からは正体が発覚するまで「サル顔の一般市民」と認識されていた。 : アクセルキーのキーホルダーはスーパーカーのエンブレム{{R|超全集46}}。 :; {{Visible anchor|レッドレーサー}} :: 陣内恭介が変身する戦士{{R|20th8}}。 :: 剣技と体当たり攻撃を得意とする{{R|超全集5|20th8}}。メンバーで最も運動能力や戦力のバランスが取れている{{R|20th8}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|土門 直樹|どもん なおき}}|土門直樹}} : [[1979年]][[5月12日]]生まれ{{R|group=ep|SVHS}}。17歳{{Refnest|group="出典"|name="naoki"|{{R|超全集6|20th10|学研の図鑑222}}}}{{efn|皆に誕生日を祝ってもらった際、具体的な日時の明示はなかったものの、実際は1ヵ月早い誕生日だったことが明らかにされている{{R|group="ep"|7話}}。}}。ペガサスではカーデザイナーを担当{{R|group="出典"|naoki}}。基本給は5人の中で一番高い21万円{{R|group="出典"|naoki}}{{R|group=ep|1話}}。眼鏡を着用することもある。おしゃれ好き{{R|講談社のテレビ絵本7}}。 : デザイナーとしての芸術的センスは大手メーカーからも引き抜きの声がかかるほどだが{{R|20th10|学研の図鑑222}}{{R|group=ep|7話}}、天馬の意向により、実際の車としては作ることは出来ていない。そのため、恭介同様に雑用が主になっている。 : 温厚で口調も穏やかだが、誰に対しても「'''さん'''」付けで呼んだり必要以上と思える丁寧な言葉遣いをし{{R|学研の図鑑222}}、語尾には「でございます」を付ける{{R|超全集6}}。基本的に、一人称は「わたくし」。例外として、LLオネネに付けられた鉢巻きで性格が変化した際や{{R|group=ep|10話}}、宇宙生物ビーガーを狙うCCパッチョーネに対して怒りを露にした時など{{R|group=ep|39話}}、荒い口調で話す場面もあった。 : 恭介や実とは逆に女性が苦手な超純情かつ繊細で、綺麗な女性に話しかけられるとうろたえてしまう{{R|超全集6|学研の図鑑222}}{{R|group=ep|23話}}{{efn|菜摘や洋子と知り合った直後も、その性格のため慣れるまでかなり苦労したとのこと。}}。 : 食事は牛丼が定番で{{R|学研の図鑑222}}、作中でよく食べていた。 : 家族は幼少時の回想内{{R|group=ep|39話}}で母親が登場したことがあり、当時の直樹は母親に反対されて、捨てられた動物を助けられなかった。そのことが、トラウマになっており、かわいそうな生き物を放っておけずにいる。 : アクセルキーのキーホルダーは鉛筆型{{R|超全集46}}。 :* 演じる[[増島愛浩]]は、企画書を読んだ段階ではキャラクターをつかめなかったが、監督の[[小林義明]]からセリフの後ろに「ございます」をつけるよう指示され、お坊ちゃんという人物像がつかめたという{{R|超全集52}}。 :; {{Visible anchor|ブルーレーサー}} :: 土門直樹が変身する戦士{{R|20th10}}。 :: 身軽で素早い体操選手のように動き、キック技で戦う{{R|group="出典"|naoki}}。冷静な判断力を持つ頭脳派の戦士でもある{{R|20th10}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|上杉 実|うえすぎ みのる}}|上杉実}} : [[1972年]][[3月2日]]生まれ{{R|group=ep|SVHS}}。24歳{{Refnest|group="出典"|name="minoru"|{{R|超全集7|20th12|学研の図鑑222}}}}。ペガサスでは営業担当{{R|group="出典"|minoru}}。基本給は17万8千円{{R|group="出典"|minoru}}{{R|group=ep|1話}}。 : 営業という職業柄、メンバーの中では唯一[[背広|ジャケット]]とネクタイを着用している。カーレンジャーのサブリーダー。 : [[大阪府|大阪]]出身であり、話し方はバリバリの[[関西弁]]{{R|group="出典"|minoru}}。毎年神社に優勝祈願するほど熱狂的な[[阪神タイガース]]のファンでもある{{R|超全集7|学研の図鑑222}}{{efn|放送時期の同球団はいわゆる低迷期の真っ只中にあり、同年の最終成績も最下位だった。作中でも自身の主役回にて、そういった実際の状況を反映した描写が盛り込まれている{{R|group=ep|40話}}。}}。自宅には大量のタイガースグッズがある。 : ポジティブ思考で陽気な三枚目でそそっかしい性格から失敗が多く、すぐ敵に騙されるなどなど{{R|学研の図鑑222}}カーレンジャーに関することで大きなミスを犯してしまうことさえあるため、恭介と対立して自ら「新リーダー」を名乗った際も、誰も付いて来なかった{{R|group=ep|24話}}など年上の威厳は皆無に近い。一方で自分の失敗の責任は自分で取ろうとするなど、責任感の強い一面も持ち合わせている。同期入社の恭介とは漫才コンビ状態で主にボケ担当。また、人情派で涙もろい{{R|学研の図鑑222}}。 : 好物は鰻だが、幼少時代に鰻を釣った時に雷に打たれたことがある。それが原因で雷がトラウマになるが、ダップが購入した、アマゾン産電気鰻を食べて克服した{{R|学研の図鑑222}}{{R|group=ep|14話}}。また、食事は中華丼が定番で{{R|学研の図鑑222}}、劇中でよく食していた。 : レッドレーサーに惚れたゾンネットのことを敵と承知しつつ「結構いい女や」と言ったり、カーレンジャーファンとして接近してきたラジエッタに大喜びするだけでなく、シグエ相手でもデレデレするなど、女好き{{R|学研の図鑑222}}。 : アクセルキーのキーホルダーは交通安全のお守り{{R|超全集46}}。 :* 関西弁でしゃべるという設定は、演じる[[福田佳弘]]が大阪出身であることから取り入れられた{{R|超全集52}}。台本では関西弁が間違っていることが多かったためほぼ福田のアドリブとなっていたが、その後のアフレコでは何を喋ったか忘れることも多く、途中から何を喋っても言いようあまり口を空けずに演技するようになった{{R|超全集52}}。阪神ファンという設定も同様で、第40話での実の自宅にある阪神グッズは、福田の実家から取り寄せたものである{{R|超全集52}}。 :; {{Visible anchor|グリーンレーサー}} :: 上杉実が変身する戦士{{R|20th12}}。 :: パワーに優れ、コミカルな動きで敵を翻弄し、強烈な攻撃を放つ{{R|group="出典"|minoru}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|志乃原 菜摘|しのはら なつみ}}|志乃原菜摘}} : [[1977年]][[2月23日]]生まれ{{R|group=ep|SVHS}}。19歳{{Refnest|group="出典"|name="natsumi"|{{R|超全集8|20th14|学研の図鑑222}}}}。ペガサスでは[[自動車整備士|メカニック]](整備士{{R|学研の図鑑222}})を担当{{R|超全集8|20th14}}。基本給は20万2千円{{R|group="出典"|natsumi}}{{R|group=ep|1話}}。 : 伝説のスパナ片手にどんなメカでも直したり{{R|学研の図鑑222}}、ばらしたりする腕前を持ち、安全ピンだけでアクセルチェンジャーを修理したこともある{{R|group=ep|18話}}。恭介と直樹に仕事が回ってこないため、実質的に社内の仕事はほぼ彼女がこなしている状態であり、周りからの信頼も厚い。 : 面倒見がよい姉御肌で直樹のことを弟のように非常にかわいがっており{{R|超全集8|学研の図鑑222}}、また、子どもっぽい洋子にアドバイスを行うこともある。またメンバーの中では一番の常識人であり、実が新リーダーを名乗った時には、直樹と洋子は実ではなくて彼女についたということもあったが{{R|group=ep|24話}}、直樹を無理矢理弟にしようとするなど{{R|group=ep|10話}}、時折見せる暴走の度合いは他のメンバーにも引けを取らない。しっかり者だが繊細な面もあり、怒らせると怖い{{R|学研の図鑑222}}。温泉好き{{R|学研の図鑑222}}。 : ゾンネットがレッドレーサーに送ってきたラブレターを読み、それが敵の策略などではなく本音であることを感じ取り、恭介に「ヘタに断ってはいけない」と忠告したこともある{{R|group=ep|15話}}。 : 幼いころに修理好きの近所のおじいさんと親しくなって、おじいさんからスパナをもらったことでメカニックの道へと進んだ{{R|group=ep|44話}}。そのスパナ(宇宙伝説ではどんな修理もこなせるスパナ)がMMシューリスキーに奪われた時に落ち込んで戦えなくなってしまったこともあった{{R|group=ep|44話}}。 : アクセルキーのキーホルダーはハート型{{R|超全集46}}。 :* 演じる[[本橋由香]]は、自身とは正反対の役作りをしたと述べている{{R|超全集52}}。 :; {{Visible anchor|イエローレーサー}} :: 志乃原菜摘が変身する戦士{{R|20th14}}。 :: メカニックらしい器用さで相手の弱点を正確に攻める{{R|group="出典"|natsumi}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|八神 洋子|やがみ ようこ}}|八神洋子}} : 1977年[[12月8日]]生まれ{{R|group=ep|SVHS}}の[[いて座]]{{R|group="ep"|38話}}。19歳{{Refnest|group="出典"|name="yoko"|{{R|超全集9|20th16|学研の図鑑222}}}}。ペガサスでは経理担当{{R|group="出典"|yoko}}。基本給は本人曰く、20万とちょっと{{R|group="出典"|yoko}}{{R|group=ep|1話}}。 : 自動車会社に勤務しているとは思えないほど、メカが苦手だが、仕事柄、お金に細かい{{R|学研の図鑑222}}。ダンスが得意{{R|講談社のテレビ絵本13}}。 : 精神年齢では直樹より幼く、乙女チックで甘えん坊気質{{R|超全集9|学研の図鑑222}}。その上、泣き虫で極度の方向音痴だが、怒らせると怖い気の強さ{{R|超全集9}}や仲間思いの健気な面もある{{R|学研の図鑑222}}。5人の中では、マスコット的存在。 : 好物はスイーツだが、そのこともあって、自身の体重を極度に気にしている{{R|20th16}}。そのため「数値」を操るPPラッパーが悪事を働いた際、洋子の体重計をも操ったと誤解された末に倒されている{{R|group=ep|11話}}。 : 劇中では、[[ビキニ (水着)|ビキニ]]姿を2種類披露したこともある{{R|group=ep|11話|25話}}。 : アクセルキーのキーホルダーはクマのマスコット{{R|超全集46}}。 :; {{Visible anchor|ピンクレーサー}} :: 八神洋子が変身する戦士{{R|20th16}}。 :: 女性らしいしなやかな動きを用いるが、怒るとパワーを発揮する{{R|超全集9|20th16}}。 ::* 名乗りの際のポーズはスーツアクターの中川が考えたもの<ref>{{Twitter status2|moto55v|1518956625339379713|2022年7月27日}}</ref>。 === ハザード星人 === ; {{Visible anchor|ダップ}} : ハザード星人の少年。☆29年31月7日生まれ{{R|group=ep|SVHS}}。14歳{{R|超全集4|学研の図鑑264}}。故郷のハザード星をボーゾックに花火にされて滅ぼされた。母の死ぬ間際の言葉を頼りにクルマジックパワーを習得、星座伝説を元に地球に降り立ち、ペガサスの5人を半ば無理矢理カーレンジャーにする{{R|group=ep|1話}}。 : 「クルクルクルマジック」と唱えると魔法が使える他、高速移動が可能。複数のワンパー程度なら素手で倒し、ゼルモダと交戦しても倒される演技をする余地を残すなど、単体でもそれなりに戦える。ハザード星のにおいがすることからドロップが好き。 : 本作品における指揮官的存在だが、年齢が年齢だけに基本的に子供っぽい。語尾に「だっぷ」を付けるのが口癖で、中盤以降はそれが顕著となっていった。また、本作品に登場する宇宙人が地球のことを「チーキュ」と発音するのに対し、ハザード星人の彼と父親(VRVマスター)だけは「地球」と呼んでいる。もっとも決して日本語が堪能というわけではなく、シグナルマンの身勝手な行動に激昂する恭介を「みぃみぃみぃ」と宥め、菜摘にツッコまれる一幕もみられた。普段は、ペガサスの工場裏にクルマジックパワーで作った亜空間秘密基地に潜んでいる。 : ハザード星人の習性上、冬季には冬眠しなければ生きて行けない体質だが、地球の環境や時期のせいか、ダップは夏の終わりごろから眠ってしまった。 : 当初はカーレンジャーになることに乗り気でなかった5人には、その後も戦士としての気構えが不十分なことからしばしば手を焼かされ、連戦連勝で気が緩んでいた5人を諫めたり{{R|group=ep|37話}}、オーレッドをさらわれる醜態をさらした5人に激怒し、特訓を課した三浦参謀長に厳しく指導するよう進言したりしている{{R|group=ep|VS1}}。とはいえ様々な経験と戦いを通じ、5人とは強い信頼と友情で結ばれていく。 : 最終決戦後には再会した父と共にビクトレーラーで宇宙へ旅立った{{R|group=ep|48話}}。 : 当初はハザード星の服を着用していたが、物語中盤よりバスケのユニフォーム(背番号は[[マイケル・ジョーダン|23番]])を基調とした服装に変更{{R|group=ep|18話}}{{efn|書籍『激走戦隊カーレンジャー超全集』では、夏服と解説している{{R|超全集4}}。}}。またいずれの服装においても黄色いマフラーを巻いている。最終回でVRVマスターと共に旅に出た際には元の服装に戻る。 : 後日談に相当するビデオ『[[電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー]]』では父を置いて、再び地球に戻って5人と再会した(その際、服装はバスケのユニフォームとなっている)。 : ; {{Visible anchor|VRVマスター}} : 第29話から登場。ダップが冬眠中に登場した、黒いマスクとスーツを纏った宇宙の一匹狼。 : 性格はクールで飄々としており、何を考えているのかよく分からない。地球においては、[[パチンコ]]をした後に[[ところてん]]を食べて、床屋さんに行くという生活をしており、パチンコの景品は大抵好きなドロップ{{R|学研の図鑑222}}に変わる。やたらと格好のつけた臭いセリフを吐き、そのセリフの最中も含め、手の甲を向けたVサインをする癖がある。 : 正体はダップの実父で、わけの分からない独自の宇宙美学を追究するあまり{{R|学研の図鑑230}}、ブラリと旅に出ては長く家を空ける習性のある、気まぐれな風来坊だった。そのため妻(ダップの母親)にも、ほとんど諦められていたらしい。 : ある時、久しぶりに旅から帰ってみると既にハザード星はボーゾックに花火にされ消滅してしまったことを知り、失意のうちにあてもなく宇宙をさまようようになり、その後自称「'''敵か?味方か?宇宙の一匹狼'''」と称するようになる{{R|学研の図鑑230}}。そんな中、息子・ダップの生存とカーレンジャーの噂を耳にし、ダップが眠ってしまうことによるカーレンジャーのピンチを予期。急遽VRVシステムを完成させ地球に飛来、ペガサスの地下にビクトリードックを設けた上で、予想通りピンチに陥っていた彼らにVRVシステムを授けた{{R|学研の図鑑230|VRV}}。マスクとスーツを纏っていたのも、こういった経緯からダップに対して負い目があり、ダップを支えていたいものの顔を合わせ辛いという気持ちから名乗らず、ダップが敵に捕まり救出に赴いた際にはダップでなければ正体を見抜けない言動に終始していた{{R|group="ep"|42話}}。 : コーヒー牛乳が大好物で{{efn|VRVファイターの初戦の後にはカーレンジャー5人にコーヒー牛乳をあげた{{R|group="ep"|30話}}他、カーレンジャーとダップの6人分のコーヒー牛乳が入ったクリスマスプレゼントを託したこともあり{{R|group="ep"|43話}}。}}、放浪時代は朝から晩まで浴びるように飲んでいたため、ハザード星人であるにもかかわらず冬眠しない体質になってしまった{{R|学研の図鑑230|VRV}}。コーヒー牛乳のフタを武器として使う“シュラシュシュシュ”なる遊びをダップに教えていた。 : ダップが冬眠から目覚めた際の回想シーンでヘルメットを外した姿が初登場し、息子であるダップ似の容貌であることが明示された{{R|group="ep"|33話}}。後に前述した言動から、ダップもその正体に気付くこととなる{{R|group="ep"|42話}}。最終決戦後には、ダップと共に宇宙へと旅立ち、ヘルメットとスーツも脱いでいた{{R|group=ep|48話}}。 :* 声を担当した小林清志のキャスティングは、プロデューサーの髙寺成紀によるものとされる<ref>スタジオたるかす編「東映プロデューサーインタビュー」『ROMAN ALBUM HYPER MOOK 2 超合金魂 ポピー・バンダイキャラクター玩具25年史』[[徳間書店]]、1998年3月10日、ISBN 4-19-720035-8、85頁。</ref>。 === ポリス星人 === :{{キャラスペック |名称=シグナルマン |身長=185{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{R|超全集20|20th18}} |体重=95{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|超全集20|20th18}} |パンチ力=3{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|20th18}} |キック力=5.5{{nbsp}}t{{R|20th18}} |ジャンプ力=50{{nbsp}}[[メートル|m]]{{R|20th18}} }} ; {{Visible anchor|シグナルマン}} : 第12話より登場。ポリス星からやってきた宇宙警察官。フルネームは'''シグナルマン・ポリス・コバーン'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集20|20th18|学研の図鑑230}}}}。ボーゾックを逮捕するため、妻子を故郷に残し地球に[[単身赴任]]してきた{{R|学研の図鑑230}}。一人称は「本官」。地球を「チーキュ」と発音しレッドレーサーに突っ込まれたが最後まで変わらなかった。 : 武器は、[[通信機]]・電磁警棒・銃に変形する万能ツール'''シグナイザー'''。左腕にはサイレンダーを遠隔操作する'''シグコン・ギア'''を装備{{R|超全集20|20th18}}。愛車は'''ポリスピーダー'''というバイク。ジャンプして多数の敵を蹴る'''シグナルキック'''という技も用いる{{R|超全集20|20th18}}。銃の早撃ちも宇宙で第3位のタイムを持つ{{R|学研の図鑑230}}。 : 平和と正義を愛しているため、頑固者かつ融通が利かない性格で{{R|学研の図鑑230}}、その点では宇宙でもかなり有名。さらに交通ルールを異様に(ガイナモいわく宇宙一)厳守する交通安全体質で(ただし空は管轄外らしい){{R|学研の図鑑230}}、宇宙でもルール(特にスピード違反)を守らない者に対してはたとえカーレンジャーであっても容赦しないため、ボーゾックの追跡が遅れてしまうことやそのまま見失ってしまうことすらある。「本官の許可なく○○するな(するんじゃない)」が口癖。一方で宇宙お笑い選手権『宇宙お笑い君こそスター誕生』に出場して4週間勝ち抜いた{{R|学研の図鑑230}}、と自称したこともあるなどくだけた一面もある。歌も上手であり、それを活かして事件を解決したこともある{{R|group=ep|VS1}}。妻・シグエ、息子・シグタロウを愛する家庭的な心優しい父親でもあり、息子と同じくらいの年頃の市太郎には息子の面影を見ていることから、市太郎とはとても仲がよい。 : また、非常に目立ちたがりでもあり、彼抜きでロボ戦が始まると、大抵「本官の許可無く勝手に戦うんじゃない!」などと言って、サイレンダーで割り込んでくることもしばしばである{{efn|PPチープリの若返りパックによって幼児化してしまった際も、サイレンダーをまともに操縦できない状態にもかかわらず、無理矢理乱入している{{R|group="ep"|38話}}。}}。ひどい時には彼の乱入によって、それまで優勢だったカーレンジャーが敵に反撃されて追い込まれてしまうこともあった。 : 移動交番コバーンベース{{R|学研の図鑑230}}で活動しているが、裏通りの橋の上や資材置き場脇の歩道など、人通りのない辺鄙な場所にばかり設置する上、本人はそのような場所に人があまり通らないことを自覚していないので、誰も通らないことをよく嘆いている。さらには以前取調べをしたリッチハイカーの顔を覚えていなかったという、やや記憶力に乏しい面もある。その一方では仙台や名古屋で交通安全講習を開催していたと語る場面もある。 : 職務には忠実だが、カーレンジャーの足を引っ張ってしまうことも少なくないため、彼らからはしばしば邪魔者扱いされることもあり、一度ダップから「(シグナルマンは)当てにできない」と酷評されたこともある{{efn|他方でブレーキング戦で敗北した後、恭介が「俺たちはダップやシグナルマンがいないとボーゾックには勝てないのか…」と嘆くセリフがある{{R|group=ep|29話}}など、必ずしも評価が一定しているわけではない。事実、劇中でもカーレンジャーの足を引っ張るだけでなく、窮地を救う活躍も何度も見せている。}}。 : 変身前のカーレンジャーの面々ともよく会っているが、彼もまたボーゾックと同様に終盤までカーレンジャーの正体が地球人であることを知らなかった{{efn|カーレンジャーの面々が、変身後は本名で名乗ったり呼び合ったりしないことも原因の一つである。恭介がシグナルマンに対して言った陰口がシグナイザーに録音されていた際には、本人はそれをレッドレーサーの仕業と判断した{{R|group="ep"|16話}}ものの、二人が同一人物であることにまでは気付かなかった。}}。 : 物語中盤、シグタロウと運動会の二人三脚に出場するという約束を果たすためにポリス星へ帰る{{R|group=ep|28話}}。その後エグゾスの策謀に嵌り、ポリス星で洗脳作用のある5色の排ガスを吸ってカーレンジャーを憎むよう洗脳され{{R|group=ep|35話}}{{efn|関連書籍では名称を'''悪のシグナルマン'''と記載している{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|超全集|1997|p=39}}{{R|gahou208|20th18}}{{Sfn|30大戦隊超全集|2007|p=288}}}}。身体の信号がすべて消え黒一色となり、一人称は「本官」から「俺」に変わった他、ゾンネットに対し言い寄るなど少々スケベな性格になっていた。第35話の予告では危険な交通安全の教えを発し、レッドレーサーに制止されている。}}ボーゾックと手を組むが、サイダーを飲んで排ガスをゲップで吐き出し正気に戻った{{R|学研の図鑑250}}{{R|group=ep|36話}}後、そのまま地球へ残留。エグゾスとの最終決戦までカーレンジャーと共闘することとなる。ボーゾック解散後には地球での任を終了し、ポリス星に帰還して警部補になるため、試験勉強を始めた{{R|group=ep|48話}}。 : 作中でもエグゾスがダップのことを6人目のカーレンジャーと呼ぶ{{R|group=ep|41話}}など、カーレンジャーとは別の存在として認識されている一方、小学館から発売された関連誌{{Full|date=2015年1月}}に掲載されている公式設定では、シグナルマンを完全なる6人目の戦士として扱っている。 :* 当初は信号がデザインモチーフであったため、赤黄青の3色ランプが顔に施されている{{R|material50}}。宇宙の暴走族という敵の設定のため、白バイ警官のようなキャラクターという発案が発展したものとなっている{{R|material50}}。 ; シグエ : シグナルマンの妻。頭の3方に信号が付いている。夫と同じく警察官であり、交通ルールには非常にうるさい。 : シグナルマンの回想場面で初登場した時には頭部以外は通常の衣服だったが、後に再登場した時にはシグナルマン同様の青いボディになっている(シグタロウも同様)。 :* デザインは[[阿部統]]が担当した{{R|百化95|20th98}}。 ; シグタロウ : シグナルマンの息子。腕白だが単身赴任中の父・シグナルマンが大好き。 : 物語中盤では、エグゾスの洗脳ガスで喘息にかかったものと思いこまされた{{R|group=ep|35話}}が、後にカーレンジャーが送ったサイダーによって洗脳ガスを吐き出し、無事に回復した{{R|group=ep|36話}}。 :* デザインは阿部統が担当した{{R|百化95|20th98}}。第38話でシグナルマンがPPチープリによって幼児化した時には、シグタロウのスーツにシグナルマンの頭が替えられたものになった。 === 天馬家 === ; {{読み仮名|天馬 市太郎|てんま いちたろう}} : 総一郎の息子。工場によく遊びに来るため、5人とは仲がいい。シグナルマンとも仲が良く、時々コバーンベースで留守番したり一緒に「勤務」することも。ませた性格で、女の子に関しては恭介よりも積極的。だが時には5人を励ましたりもしていた。 : グラッチに地球の食べ物を教えたことが、ボーゾックが芋羊羹を食べると巨大化することを知るきっかけとなった。 : 物語終盤、クルマジックパワーの封印によりカーレンジャーの変身が解ける瞬間を目撃し、彼らの正体を知った{{R|group=ep|46話}}。 : ; {{読み仮名|天馬 総一郎|てんま そういちろう}} : 株式会社ペガサスの社長。市太郎の父親。 : 恭介に言わせれば皆をこき使う存在とのことだが、5人を旅行に連れて行くなど、基本的にフレンドリーな性格。また、カーレンジャーのサインをもらって喜んだり、自分の会社の地下に基地を作られても気付かないなど、かなりのおとぼけキャラでもある。恭介たちの「夢の車」を作ることを約束して彼らを社員として雇うが、夢の車は模型として作っただけであった。恭介と衝突することもしばしば。 : 第28話を最後に出演しなくなる。 ; {{読み仮名|天馬 良江|てんま よしえ}} : 市太郎の母親であり、総一郎の妻。当初は総一郎同様かなりとぼけたキャラクターだったが、グラッチが巨大化した際に気を失ったりなど、ボーゾックに振り回されたことから異星人に対しては神経質になっており、市太郎がボーゾックにさらわれた際には、「一緒にいたせいだ」と激しくシグナルマンを叱責した。 : 総一郎、市太郎以上に出演回数は少なく、夫婦ともども第28話を最後に出演しなくなる。 === 芋長 === ; {{読み仮名|芋長|いもちょう}}主人 : 宇宙人を巨大化させる[[芋羊羹]]を唯一売っている[[和菓子]]屋「芋長」の店主。 : グラッチに最初に芋羊羹を売った際は500円をもらい去って行くまでは普通の客と思って笑顔で応対したが、帰っていくグラッチの後ろ姿を見てようやくその姿の異常性に気付き「変なのが芋羊羹買って行った〜」と腰を抜かしてしまった。結局慣れたのかその後は普通に売っており、ゾンネットが買いに来た時には恋愛相談にも乗っている。自分の作った芋羊羹でボーゾックが巨大化するという事実は一切知らず、ボーゾックも彼に対する扱いはそれなりに丁重。 : 芋羊羹には並々ならぬこだわりをもっており、自宅の床の間に飾ってある掛け軸には「芋羊羹」と書いてある。その一方で「本当はケーキ屋になりたかった」と話している。芋羊羹一個の値段は100円。 : 物語後半にて芋羊羹を作るばかりの生活に嫌気が差し、年齢もあって一度は芋羊羹作りからの引退を宣言するが、「芋羊羹が作られなくなると巨大化できなくなる」と慌てたボーゾックによってエグゾスの若返りパックで無理矢理若返させられてしまい、その際若い時はかなりの美形であったことが判明、混乱しつつかなり羽目を外していた{{efn|「イモタク」と名乗ったり、年甲斐もなく洋子とデートしたり、芋羊羹作りを強制するボーゾックに対し力道山気取りで攻撃したり、若返りを機にケーキ屋として再出発を図る、など}}。その一件が解決した後は再びやる気を取り戻し、彼の作る芋羊羹もさらに味がよくなったらしい{{R|group=ep|38話}}。 : 芋羊羹は『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』にも登場している。 ; 芋長の奥さん : 芋長主人の妻で、名前は「梅(うめ){{R|超百科41}}」。50年にわたり芋長主人と一緒に芋羊羹を作ってきた。 : 登場は第38話のみだが、登場回以外に芋長主人が「ばあさん」と呼ぶシーンがたびたびある。 : ボーゾックによって若返った芋長主人が洋子と出会い、「ケーキ屋になってやり直そう」と言い出した時には、説得して思い直させた。 === その他 === ; {{Visible anchor|ラジエッタ・ファンベルト}} : 第25話から登場。ファンベル星出身の第2王女{{R|学研の図鑑222}}。カーレンジャーに憧れ、はるばる地球までやって来たゾンネットの妹{{R|学研の図鑑222}}。14歳{{R|学研の図鑑222}}。 : カーレンジャー6人目の'''ホワイトレーサー'''を名乗るも、本当は「'''ティラミス・コンニャク・ミルフィーユ'''」の呪文を唱えて発動する魔法の力であらゆる姿に変身できるだけのただの大ファン{{R|学研の図鑑222}}。しかし6人目を自称するだけあってそれなりの強さも備えており、カーレンジャーの窮地を救う活躍も見せた。キャッチフレーズは「'''夢見る交通安全、激走少女ホワイトレーサー!'''」。 : 持っているステッキは変身前は傘に変化させることができ、そこから光の粒子を出して攻撃を行う。変身後の得意技は、時間内に彼女のなぞなぞに答えられないと爆発する爆弾を敵に投げつける'''ホワイトなぞなぞ爆弾'''。変身を解除する呪文は「'''ミレッタ・ハレッタ・ラジエッタ'''」。 : 初登場の際には、 SSパマーン率いる暴走戦隊ゾクレンジャー(後述)とカーレンジャーの戦闘中に乱入、当時建設中だった[[FCGビル|フジテレビ社屋]]を背景に変身し、'''必殺ホワイトなぞなぞ爆弾'''でゾクレンジャーを撃退。その後ゾクレンジャーに拉致されるが、総長ガイナモに変身し難を逃れるなど意外にも健闘した。頑張り屋な一面もあり、2度目の登場ではラジエッカーをリモコン操作でロボに変形して戦えるよう改造し{{R|group=ep|34話}}、3度目にはさらにそれを巨大化して戦えるように改造していた{{R|group=ep|45話}}。 : 戦いが終わり、ゾンネットがファンベル星に帰ってきてからは、彼女に見合いをすすめているが、その相手はどれも豚鼻や馬面の宇宙人ばかりを選ぶなど少々異性を選ぶセンスが悪い{{R|group=ep|48話}}。 : 名の由来は車の[[ラジエーター]]から。2度目の登場以降は女優が交代しているが、そのことも作中でネタにされており、グリーンレーサーの「なんかちょっと見ん間に雰囲気変わったんちゃうか?」の一言で片付けられてしまった{{R|group=ep|34話}}。 == カーレンジャーの装備・技 == === 共通装備 === ; アクセルチェンジャー{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集4|gahou204|20th6}}{{Sfn|30大戦隊超全集|2007|p=112|loc=「変身アイテム」}}}} : カーレンジャーに変身するためのアイテム。左腕に装備されている通信機としても使用可能なブレスレットの'''アクセルブレス'''{{R|超全集4|gahou204}}とエンジンキー型の'''アクセルキー'''{{R|超全集4|gahou204}}{{efn|5人ともそれぞれ異なる[[キーホルダー]]を付けている{{R|超全集46}}。}}からなる。右手にもったアクセルキーを掲げ、「'''激走!'''」と叫び、左手にはめたアクセルブレスに差し込んでエンジンを掛ける時と同様のようにひねり、「'''激走・アクセルチェンジャー'''」と叫んで変身{{R|超全集4}}。 ; クルマジックスーツ{{R|超全集46|20th6}} : ハザード星の特殊繊維・プラネリオンで出来ているカーレンジャーの強化スーツ{{R|超全集46|20th6}}。通常は微粒子状態になってアクセルブレス内に圧縮収納されており、アクセルチェンジャー起動時、各々のレンジャービークルが飛び出す形で形成される{{R|超全集4}}。軽量でしなやかだが鋼鉄よりも強い。マスク部は特殊合金ステラメタルで作られており{{R|超全集46}}、5人の夢の車と車型星座が同じ形だったことから、夢の車=レンジャービークルのフロントバンパーを模したマスクとなった。 : 地球人やボーゾックたちはおろか、多くの宇宙人たちはカーレンジャーを宇宙人だと思っており、マスクは顔、スーツは服と考えている。 :* ロボ同様、マスクのデザインにはロールバーが組み込まれており、スーツの黒いラインはドアのラインやボンネットをイメージしている{{R|material50}}。 ; オートブラスター{{Refnest|group="出典"|name="carran"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th6}}}} : 右腰のホルスターに入っている自動車型の特殊光線銃。トリガーを引くと100メートル離れた場所から厚さ10センチメートルの鉄板に穴を開ける高エネルギー光弾{{Sfn|完全超百科|2006|p=67}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=64}}を放つ{{R|超全集10|20th6}}。 :; オートパニッシャー{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou204|30大113|20th6}}}} :: オートブラスターを変形させた形態。「'''シフトアップ'''」を合図に後部を引っ張ることで前部が上下に展開し、イオン吸収タービンが露出。命中精度は落ちるものの、吸収した空気中のイオンによってオートブラスターの20倍もの威力がある高エネルギー光弾{{Sfn|完全超百科|2006|p=67}}を撃てる{{Refnest|group="出典"|name="carran2"|{{R|超全集10|gahou204|20th6}}}}。 :: 『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』では、ブルーレーサーたちのフォーミュラーウェポンによる飛び道具(イエローレーサーは、サイドナックルからの電撃)に合わせて、レッドレーサーはオートパニッシャーを使用した。 ; バイブレード{{R|group="出典"|carran}} : バックルに入っている剣{{R|超全集10}}。鍔部分に超小型クルマジックエンジンが内蔵されており{{R|超全集10}}、柄頭のグリップ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}のレバーを引っ張ると超振動によって切れ味{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=64}}がアップする'''フルパワーモード'''になる。 : バイブレードを野球のバットのように構える'''ブレードバッティング'''{{R|20th6}}で、ボール爆弾を投げるHHデーオと対決したこともある{{R|group=ep|19話}}。 ; カーナビック{{R|group="出典"|carran}} : 第21話から登場した、[[カーナビゲーション|カーナビ]]型万能アイテム{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}。男性陣を捕虜としたAAアバンバの透明化に対抗すべく、菜摘と洋子とダップの手で開発された。後に複数個製作されており、作中ではペガサスサンダーとドラゴンクルーザーに配備された分の2つ{{R|group="ep"|22話}}、それにシグナルマンがポリス星に一時帰還した際にポリスピーダーに取り付けられた1つが確認されている。 :* 当時普及していた後付型のカーナビをモチーフとしている{{R|20th34b}}。バンダイ担当者の[[野中剛]]は、玩具では液晶ゲームを搭載し、やや高めの価格帯で発売したが、他の強化アイテムに埋もれてしまい曖昧な位置づけになってしまったと述懐している{{R|20th34b}}。 :; ナビックコム{{R|group="出典"|carran2}} :: 基本のカーナビ形態。捜索機能・エネルギーメーター機能・マシン自動操縦機能を備える。主にイエローレーサーが使用。 :; ナビックショット{{R|group="出典"|carran}} :: 攻撃用の銃形態。5キロメートル先の敵を捉え、高電圧ビームを発射する{{R|超全集10}}。サーチ機能を搭載しているため{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=42}}、姿を消した敵でも追尾して命中することができ、障害物に対しては曲折して避けることもできる。 ::; ナビックブラスター{{R|group="出典"|carran}} ::: オートパニッシャーの後部にナビックショットを合体させた銃。オートパニッシャーの3倍の威力を発揮し{{R|超全集10|gahou204}}、命中精度も向上している。 === ギガフォーミュラー === 第2話から登場。3つの形態を持つフォーミュラーマシン型メカ。日本語で書かれた取扱説明書が付属する。ダップがカーレンジャー結成後に開発。細部の調整が済んでおらず、未完成だったが、総一郎が「5人がサボって作ったおもちゃ」だと思い込んで床に落とした際、その衝撃で完成した。 ; フォーミュラーマシン{{R|group="出典"|carran}} : ギガフォーミュラーの車両形態。移動の際に用いられる。 ; フォーミュラーウェポン{{R|超全集10|gahou204}} : ギガフォーミュラーの個人武器形態。 :; フェンダーソード{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th8}}}} :: レッドレーサー用のフォーミュラーウェポン。ギガフォーミュラーのフェンダー部分が変形したステラメタル製の特殊な剣{{R|超全集10|20th8}}。コンクリートを一刀両断する{{R|30大113}}。 :: フェンダーソードとバイブレードの二刀流で体当たりして敵を切り裂く'''ツインソード・ツインカムクラッシュ'''{{Refnest|group="出典"|name="red"|{{R|超全集5|gahou206|20th8}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''ツインカムクラッシュ'''と記述している{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=42}}。}}も使用し、TTテルリンを倒した。 :: フォーミュラーノバ時は砲門の前部上部を形成。 :; マフラーガン{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th10}}}} :: ブルーレーサー用のフォーミュラーウェポン。フォーミュラーマシンのマフラーが変形した2丁の大型銃。2,700度の超高温ヒート弾を撃ち出す{{R|超全集10|20th10}}。 :: フォーミュラーノバ時は砲門の左右部分を形成。 :; エンジンキャノン{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th12}}}} :: グリーンレーサー用のフォーミュラーウェポン。フォーミュラーマシンのエンジン部分が変形したバズーカ砲。強力なエネルギー弾を、マッハ1の速さで発射する{{R|超全集10|20th12}}。命中率は、百発百中。 :: フォーミュラーノバ時は砲門を形成。 :; サイドナックル{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th14}}}} :: イエローレーサー用のフォーミュラーウェポン。フォーミュラーマシンのサイドバンパーが変形したナックルガード。30センチメートルの厚さのコンクリートを打ち抜く{{R|超全集10|20th14}}。また、電撃を流して敵を痺れさせる。これを使用した'''ナックルボンバー'''{{R|gahou206}}という技もある。 :: フォーミュラーノバ時は砲門と台車の中間部分を形成。 :; バンパーボウ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集10|gahou204|30大113|20th16}}}} :: ピンクレーサー用のフォーミュラーウェポン。フォーミュラーマシンのバンパー部が変形したアーチェリー。2つの発射口からライトニングアローを発射する{{R|超全集10|20th16}}。 :: フォーミュラーノバ時は砲門の後部上部を形成。 ; フォーミュラーノバ{{R|group="出典"|carran}} : ギガフォーミュラーを組み換えたエネルギー砲。シャーシの上からフォーミュラーウェポンを組み替えて完成。エネルギー火球を発射する{{R|超全集10}}{{Sfn|完全超百科|2006|p=67}}。 === ギガブースター === ブースター型メカ。第26話において、営業疲れで寝ていた実以外の4人{{efn|恭介は配線、直樹はデザイン、菜摘は組み立て、洋子はプログラミングを担当。}}とダップの手で開発された。完成した直後は、宅配用の箱に偽装されていたが、知り合いの赤ん坊宛のゆりかごを入れた箱と間違えた実によって、北海道に宅配便で送り出されてしまい、それを慌てて追いかけるというハプニングが発生した。 ; ブースターマシン{{R|group="出典"|carran}} : ギガブースターの車両形態。フォーミュラーマシンと同型のシャーシが使われている。 :* 放送当時に発売された玩具は、ギガフォーミュラーのシャーシを使うことで再現した。 ; ブースタージェット{{R|group="出典"|carran}} : ギガブースターの飛行形態。シャーシから分離。通常はこの形態でドラゴンクルーザーに装備され、ドラゴンクルーザーの武器にもなっている。中央のビーム砲と、その脇に2門のビーム砲を搭載。 ; ブースターキャノン{{R|超全集10|20th6}} : ギガブースターのビームバズーカ砲{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}形態。フォーミュラーノバの5倍の破壊力を持つ{{R|超全集10|30大113}}。レッドレーサーの「キャノンモード」を合図に変形。全員の「イグニッション」の発声でタービンが回転。ビームを発射する。 : 第2の必殺武器として、主に2クール目終盤から3クール目にかけて多用された。 === 技 === ; レッドレーサー :; ドライビングアタック{{R|group="出典"|red}} :: 体をきりもみ回転させて敵に突撃する{{R|超全集5}}。飛び込みながらパンチを放つパターンも使用。 :; ピストンブロー{{R|超全集5}}{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、名称を'''スピンブロー'''と記述している{{R|gahou206}}。}} :: きりもみ回転で勢いを付け、大振りのアッパーカット{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}を食らわす{{R|超全集5}}。 :; クルマジックパンチ{{R|20th8}} :: 敵の装甲をも打ち砕くストレートパンチ{{R|20th8}}。 :; ブレードライバー{{R|20th8}} :: バイブレードを構えて突進し、相手を貫く{{R|20th8}}。 :; クルマジックスウィング{{Sfn|完全超百科|2006|p=66}} :: 相手の球を赤いバットで打ち返す野球技。HHデーオのボール爆弾を破るための特訓で編み出し、宇宙ホームランとした{{R|group="ep"|19話}}。 : ; ブルーレーサー :; ヘアピンキック{{Refnest|group="出典"|name="blue"|{{R|超全集6|gahou206|20th10}}}} :: 高速回転しながらの連続回し蹴り{{R|超全集6|20th10}}。 :; ハイパーヘアピンキック{{R|group="出典"|blue}} :: 空中から体を斜めに倒しての連続飛び回し蹴りで敵を蹴り下ろす{{R|超全集6}}。 :; バック転ヘアピンキック{{R|超全集6|20th10}} :: 宙返りしながら敵を蹴り上げる{{R|超全集6|20th10}}。 :; パッシングフラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集6|gahou205|20th10}}}} :: 頭部のライトから放つ閃光{{R|超全集6|20th10}}。ドラゴンクルーザーのライトと同時に放つこともある。 :; 激走カーウォッシャー{{R|group="出典"|blue}} :: 水と木の葉で、相手の身体についた毒物を一瞬で洗い落とす{{R|超全集6|20th10}}。NNネレンコの高カロリースプレーで太ってしまった仲間たちのスプレーを洗い落とすために使用。 : ; グリーンレーサー :; ピットインダイブ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集7|gahou206|20th12}}}} :: 地面にうつ伏せになった状態から地面を滑走するように突進する{{R|超全集7}}。 :; グリーンレーサー{{読み仮名|浪花蹴り|なにわけり}}{{efn|name="naniwa"|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、'''浪速げり'''と表記している{{R|gahou206}}。}} :: 空中できりもみ回転しながら両足でキックする。 :; スクランブルチョップ{{R|超全集7|20th12}} :: ジャンプで敵に突撃して決めるダブルチョップ{{R|超全集7|20th12}}。 : ; イエローレーサー :; チェッカーチョップ{{Refnest|group="出典"|name="yellow"|{{R|超全集8|gahou206|20th14}}}} :: 空中からの高速回転チョップで敵の弱点を攻撃する{{R|超全集8}}。 :; ブレードアロー{{R|20th14}} :: バイブレードを勢いよく投げつける{{R|20th14}}。 :; 激走メカニックばらし{{R|group="出典"|yellow}} :: スパナ1本で、猛スピードで走る敵マシンを一瞬のうちに分解する{{R|超全集8|20th14}}。 : ; ピンクレーサー :; ホイルスピンキック{{Refnest|group="出典"|name="pink"|{{R|超全集9|gahou206|20th16}}}} :: 素早く前転しながら敵を蹴り上げる{{R|超全集9}}。 :; ホイルスピンシールド{{R|gahou206}} :: 空中で高速前転して敵の攻撃を跳ね返す。 :; ピンクバクダンパンチ{{R|超全集9|20th16}}{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、'''ピンク爆弾パンチ'''と表記している{{R|gahou206}}。}} :: 怒りを込めた強烈なアッパー{{R|20th16}}。 :; ピンクジャイアントスウィング{{R|超全集9|20th16}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=65}}{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、'''ピンクジャイアントスイング'''と表記している{{R|gahou206}}。}} :: 敵の足を掴んで振り回して遠くへ投げる。 :; ピンクフライングアタック{{R|group="出典"|pink}} :: しなやかに飛び、敵に素早くクロスチョップを放つ{{R|超全集9}}。 :; バイブレードおかえしワイパー{{R|group="出典"|pink}} :: バイブレードをワイパーのように高速で左右に振り、毒ガスなどを跳ね返す{{R|超全集9|20th16}}。 :; ピンクヒッププレス{{R|超全集9|20th16}} :: 全体重をかけ、お尻で敵を押しつぶす{{R|超全集9}}。 :; クルマジックニーキック{{R|20th16}} :: 高速で放つ膝蹴り{{R|20th16}}。 : ; 共通技 :; クルマジックダッシュ{{R|20th6}} :: 時速120キロメートルで走行する{{R|20th6}}。 ; 合同技 :; アクセルキック{{R|20th6}} :: 数人で同時にキックを放つ{{R|20th6}}。 :; クルマジックチャンピオンキック{{R|20th6}} :: 5人同時に飛び蹴りを放つ{{R|20th6}}。 :; 激走チャンピオンブレード{{R|20th6}} :: 5人がバイブレードを構えて突進し、相手の弱点めがけて刃を突き立てる{{R|20th6}}。 :; カーレンジャー・クルマジックアタック{{R|gahou205|20th6}} :: 5人が突進しながら光と化して一つに固まり、体当たりする{{R|20th6}}。最終回で使用。 === スピーダーマシン === ダップがクルマジックパワーによって作った{{Refnest|group="出典"|{{R|material34}}{{Sfn|完全超百科|2006|p=68}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=65}}}}カーレンジャー各人専用の小型の高性能マシン。各人毎のパーソナルカラーが施されており、レンジャービークルのコクピットにもなる。ステラメタル製のボディで、クルマジックエンジンを搭載する{{R|超全集12|20th22}}。 『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』での等身大戦では、レッドスピーダー1のみが使用された。 * バンダイ担当者の[[野中剛]]は、当時のミニ四駆ブームを意識して動力玩具を発売することを想定したマシンであったと述べている{{R|20th34}}。しかし、玩具の試作品は速度が出過ぎ発熱・発火の可能性もあったため、電圧を下げた結果、発売された玩具は当初の想定よりも遅いスピードとなったという{{R|20th34}}。 ; レッドスピーダー1 : レッド用スピーダーマシン。フロント部には1秒で15連射可能な'''スピーダーガン'''{{Refnest|group="出典"|name="speeder"|{{R|超全集12|gahou209|20th22}}}}を装備。 ; ブルースピーダー2 : ブルー用スピーダーマシン。武器を持たない代わりに、最高速度は5機の中では最大{{R|group="出典"|speeder}}。 ; グリーンスピーダー3 : グリーン用スピーダーマシン。フロント部分の両サイドに'''スピーダーミサイル'''{{R|group="出典"|speeder}}を装備。 ; イエロースピーダー4 : イエロー用スピーダーマシン。バンパーの両脇にローラー型カッターの'''スピーダーカッター'''{{R|group="出典"|speeder}}を装備する{{efn|name="未使用"|作中では未使用。}}{{R|gahou209}}。 ; ピンクスピーダー5 : ピンク用スピーダーマシン。車体後部にウイング型探知機の'''スピーダーレーダー'''{{R|group="出典"|speeder}}を装備。 === 野生の車 === 意思を持った自動車型機械生命体であり、誰も乗りこなすことのできなかった銀河に伝わる伝説の車。[[織姫]]と[[彦星]]からの苦情が原因で、隕石に閉じこめられていた。宇宙空間では自在に走れるが、ドラゴンクルーザーは大気圏内では飛べない。 第20話でボーゾック一の発掘野郎・WWワリッチョの手で封印を解かれて地球へ降り立ち、捕獲しようとするワリッチョとカーレンジャーとの戦いの中でカーレンジャーに力を貸すようになった。名前は2台とも、伝説に因んでカーレンジャーのメンバーが名づけたものである。車自体が意志を持った生命体ゆえに、カーレンジャーの味方となった後には仲間として認めており、落ち込んだイエローレーサーをドラゴンクルーザーが傷つきながらも動いて激励したことがある{{R|group="ep"|44話}}。どちらも助手席にカーナビックを装備する{{R|超全集12}}。 {{独自研究範囲|海外メーカーの車両をベースとしている都合上、2台とも左ハンドルとなっている。|date=2020年4月}} ; ペガサスサンダー : スポーツカータイプの赤い車で{{R|超全集12}}、その走りは天馬のように優雅だという。地上走行形態の'''ランドモード'''から飛行形態の'''スカイモード'''に変形することができる。レッドレーサーとピンクレーサーが搭乗し、運転はレッドレーサーが行う{{R|超全集12|20th22}}。自分を乗りこなした恭介のことを認め、仲間になった。 : 屋根にビーム砲'''ペガサスレーザー'''{{R|group="出典"|speeder}}を装備。飛行時に全砲門からビームを一斉射撃する'''ペガサスファイナルバーニング'''{{R|超全集12|20th22}}を必殺技としている。 : 戦闘以外の場面で使われることもあり、クリスマスの際にはレッドレーサーとダップが乗り、ダップのクルマジックパワーで作った雪を降らせた{{R|group="ep"|43話}}他、自動車たちがバリバリアンに家出しようとした際には、これを送り返すためレッドレーサーとシグナルマンが搭乗、シグナルマンが「[[故郷 (唱歌)|ふるさと]]」を歌い自動車たちを送り返した{{R|group=ep|VS1}}。この他レッドレーサーとピンクレーサーが買い物の際に使用したこともある{{R|group="ep"|37話}}。 : {{要出典範囲|ベースは[[シボレー・カマロ#4代目(1993年-2002年)|シボレー・カマロ]]。|date=2020年4月}} ; ドラゴンクルーザー : ジープタイプの青い車で{{R|超全集12}}、その走りは竜のように力強いという。ブルーレーサーが運転を行い、グリーンレーサーは荷台に乗り、イエローレーサーは助手席に座る。ボーゾックに囚われた自分を助けるために奮闘した直樹の姿に心動かされ、感動の涙を流しながら、カーレンジャーの仲間になると決意した。 : 車体前部にウインチ'''ドラゴンクロー'''{{R|超全集12|20th22}}を装備。運転席上部にフォーミュラーノバやブースタージェットを装備することもできる{{R|超全集12}}。車体上部の強力砲{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=41}}からは、{{要出典範囲|'''ボンバー・ノバ'''|date=2020年4月}}を放つ。 : ブルーレーサーの他にも、グリーンレーサー{{efn|ギガブースターを回収するため北海道に向かった際に使用。その最中に子供たちからの注目を集めて目立ってしまうため、実本人の姿でレンタカーを運転して北海道に辿り着いた。なお、実はサイレンダーに投げ飛ばしてもらって東京に戻った{{R|group="ep"|26話}}。}}やイエローレーサー{{R|group="ep"|44話}}が運転したこともある。 : {{要出典範囲|ベースは[[ジープ・ラングラー]]。|date=2020年4月}} === レンジャービークル === 第5話から登場。巨大化できるようになったボーゾックに対抗すべく、カーレンジャー5人の「夢の車の模型」をカーレンジャーとダップが力を合わせてクルマジックパワーで実体化{{R|material34}}して巨大化{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=65}}させた巨大なRV車型戦闘用ビークル{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=43}}{{R|学研の図鑑250}}。カーレンジャーがスピーダーマシンごと搭乗する。クルマジックエネルギーで動くため、排気ガスは出さない{{R|超全集14|material34}}。ボディはクルマジックメタル製{{R|超全集14}}。全て[[四輪駆動]]。 * グリーンビークルとイエロービークルは当時流行していたポップアップルーフが付いたキャンピングカーがモチーフで、RVロボの合体時には起き上がって爪先となっている{{R|TH45192}}。 * 野中は、同じ自動車モチーフである『[[高速戦隊ターボレンジャー]]』のターボロボが個別のメカのサイズにばらつきがあったことから、レンジャービークルのスケール感を統一したと述べている{{R|20th34}}。また、ターボロボとの差別化として、走りながら合体できることをセールスポイントとしている{{R|20th34}}。特撮監督の[[佛田洋]]は、合体シーンの撮影では綿密な打ち合わせを行っていたと述べている{{R|20th99}}。 ; レッドビークル : レッド用[[クーペ]]型レンジャービークル。 : ライトから'''ペガサスレーザー'''を放つ{{R|超全集14|20th22}}。走行中にRVロボの顔を出して喋らせることも可能。 : RVロボの頭部・胸部を構成。 ; ブルービークル : ブルー用[[ピックアップトラック|ピックアップ]]型レンジャービークル。 : 上のライトから'''レグルスフラッシュ'''、前のライトからは'''レグルスビーム'''を放つ{{R|超全集14|20th22}}。 : RVロボの腹部・大腿部を構成。 ; グリーンビークル : グリーン用[[ミニバン]]型レンジャービークル。 : ライトから敵のマシンを狂わせる機能を持つ'''ショックビーム'''と'''プレアデスウェーブ'''を放つ{{R|超全集14|20th22}}。 : RVロボの右足を構成。 ; イエロービークル : イエロー用[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]型レンジャービークル。 : ライトから故障した味方のマシンを修復する効果を持つ'''ミラシャワー'''を放つ{{R|超全集14}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1996 激走戦隊カーレンジャー』では、名称を'''ミラーシャワー'''と記述している{{R|20th22}}。}}。 : RVロボの左足を構成。 ; ピンクビークル : ピンク用[[ステーションワゴン]]型レンジャービークル。 : ライトから'''シリウスレーザー'''というレーザー探査光を放ち、敵や弱点を見つけ出す{{R|超全集14|20th22}}。初合体の際には左右に分離しての回避や、[[エアバッグ]]の展開といった機能も披露している{{R|group="ep"|5話}}。 : RVロボの両腕を構成。 === VRVマシン === 第30話でVRVマスターが戦士に合わせて作られ{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=43}}、カーレンジャーに与えた巨大な「働く車」{{R|学研の図鑑250}}。VRVマスター曰く「絶対に勝つことを約束されたマシン」であり、レンジャービークル以上の戦闘能力を持つ。装甲材質やエンジンなどは明らかになっていない{{R|超全集16}}。 コクピット右側の赤いスイッチと'''ファイターチェンジ'''を合図に人型の中型ロボ形態の'''VRVファイター'''に変形{{R|学研の図鑑250}}。 VRVファイターとしての初戦では、VRVマスター指導のバレーボールを活かし、改造ブレーキングの砲弾を逆に利用してのバレーボール戦法を披露{{efn|ファイヤー→レスキュー→ポリス→ダンプ→ドーザー→ファイヤーの順で使用{{R|group="ep"|31話}}。}}。またファイヤーファイター以外の4ファイターによる'''ビクトリーツイスター・ファイターバージョン'''を使用したこともある{{R|group="ep"|45話}}。 ; Vファイヤー : レッド用[[日本の消防車|消防車]]型VRVマシン。 : 後ろ上部の左右に装備されている放水ノズル'''リキッドディスチャージャー'''{{Refnest|group="出典"|name="fire"|{{R|超全集16|gahou209|20th22}}}}は岩をも砕く強力放水を放つため、攻撃にも使える。 : VRVロボの頭と胸を形成。 :; ファイヤーファイター :: 消防士型VRVファイター。 :: 全身に炎を纏った'''ファイヤーアタック'''を必殺技とする{{efn|name="未使用"}}{{R|超全集17|20th22}}。山火事を消火した際、巨大消火器を用いたこともある{{R|group="ep"|33話}}。 ; Vポリス : ブルー用[[パトロールカー]]型VRVマシン。 : 全マシン中最速で、体当たり攻撃の'''ポリスアタック'''{{R|超全集16|20th22}}{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、名称を'''Vポリスアタック'''と記述している{{R|gahou209}}。}}を行う。 : VRVロボの腹と大腿部を形成。 :; ポリスファイター :: 警察官型VRVファイター。 :: 得意技は'''ポリスキック'''{{R|超全集17|20th22}}とファイター形態で胸から破壊音波を放つ'''ポリスサイレンソニック'''{{R|group="ep"|39話}}。山火事を消火する際には、レスキューファイターと共に巨大メガホンを使って避難勧告を行ったこともある{{R|group="ep"|33話}}。 ; Vダンプ : グリーン用[[ダンプカー]]型VRVマシン。 : 100トンの荷物を積載するパワーを持つ{{R|超全集16|20th22}}。攻撃時には荷台から大量の鉄球を転がして敵を転ばせる。 : VRVロボの右足を形成。 :; ダンプファイター :: 工事員型(アメリカンヘルメット装備)VRVファイター。 :: 全ファイター中最高のパワーを誇り、パンチを主体としている{{R|超全集17}}。山火事の際にはドーザーファイターと共に岩同士をぶつけ、粉々になった砂で鎮火したこともある{{R|group="ep"|33話}}。 ; Vドーザー : イエロー用[[ブルドーザー]]型VRVマシン。 : 普段は[[レーシングカー]]のような形状をしており、車体の後ろ上部に装備されている二本一組のバケットを展開することで、倒壊するビルを受け止めたり、障害物の除去を行う{{R|超全集16}}。 : VRVロボの左足を形成。 :; ドーザーファイター :: 工事員型(安全ヘルメット装備)VRVファイター。 :: ダンプファイター同様にパワーに優れるが、パンチ主体のダンプファイターに対して、ドーザーファイターはキックを主体としている{{R|超全集17}}。 ; Vレスキュー : ピンク用[[救急車]]型VRVマシン。 : 最大20人の負傷者を収容可能{{R|超全集16}}。車体上部に巨大注射器を装備しており{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では、注射器型ミサイルと記述している{{R|gahou209}}。}}、麻酔を注射する{{R|超全集16|20th22}}。 : VRVロボの両腕を形成。 :; レスキューファイター :: 救命士型VRVファイター。 :: 戦闘能力では他のファイターに劣るものの、器用さに優れることから爆弾解除や避難誘導に適している{{R|超全集17|20th22}}。 : ; ビクトレーラー : VRVマシン搬送用超巨大トレーラー{{R|学研の図鑑250}}。第30話から登場。 : トレーラー形態の'''キャリアーモード'''{{Sfn|完全超百科|2006|p=69}}(キャリアモード{{R|学研の図鑑250}})からロボ形態の'''バトルモード'''に変形するが{{R|学研の図鑑250}}戦闘用ではなく、ロボのパーツとなるマシンを運ぶ母艦。先頭車の後に連結された車輌二台が続き、それぞれがコンテナ車であり、1号車にVファイヤー、2号車にVレスキューとVダンプ、3号車にVポリスとVドーザーを格納。[[東京ドーム]]の地下から発進する。VRVマスターが乗り込み、指揮を執ることもある。動力源や材質は不明{{R|material34}}。 : 3号車上部に据え付けられ、ロボット時には両腕になるVバルカン(右側)とVバズーカ(左側)がVRVロボの主要武器になる{{R|学研の図鑑250}}。これはVRVロボ以外が使用することも可能でRVロボがVバズーカを使用したり、前述のレッド以外のVRVファイターが4体で持って使用した。 : バズーカの先端にクローのようなパーツがあり、DX玩具でもクローモードにできる他、VRVマシンの代わりにレンジャービークルを搭載することもできる。 === 巨大ロボ === ; RVロボ : 第5話から登場。5台のレンジャービークルが'''激走合体'''した巨大ロボ。ブルービークルを中心にピンクビークル→グリーンビークル・イエロービークル→レッドビークルの順で合体。頭部のコクピットに移動したカーレンジャーの「バトルモード・チェンジアップ」の合図とアクセルキーの挿入により人型ロボットに変形した後、背後に「RV」の文字を浮かばせながら「エンジン快調 RVロボ」と発する。スピード面では「アクセル全開」の掛け声と共に高速滑走を行うこともできる。カーレンジャーのロボは、クルマジックパワーを持つ者しか操縦できず{{R|学研の図鑑250}}、遠隔操縦では6割程度の出力で動ける{{R|超全集15|20th23}}。 : 武器はレッドレーサーの操作で右拳から湧き上がった蒸気から出現するヘッドライトの鍔付き剣の'''RVソード'''{{Refnest|group="出典"|name="rv"|{{R|超全集15|30大115|20th23}}}}とピンクレーサーの操作で出現するタイヤ型盾の'''ラジアルシールド'''{{R|group="出典"|rv}}を手持ち武器とし、ブルーレーサーの操作で胸の5つのハイパワーランプからは光線の'''プラグネードスパーク'''{{Refnest|group="出典"|name="rv2"|{{R|超全集15|gahou209|20th23}}}}を発射{{efn|OOバットン戦では、ブルービークルのコクピットからの操作で発射した{{R|group="ep"|40話}}。}}。 : 基本技は、グリーンレーサーの操作で放つ右足跳び蹴りの{{読み仮名|'''RVロボ浪速蹴り'''|アールブイロボなにわけり}}{{efn|name="naniwa"}}{{efn|書籍によっては'''RVロボなにわげり'''と表記している{{R|material83}}。}}とイエローレーサーの操作で放つ左足で蹴る'''イエロービークルキック'''{{R|超全集15|20th23}}や左足回転蹴りの'''イエロービークル回転キック'''{{R|group="出典"|rv2}}。ピンクレーサーの操作で放つ右パンチの'''ピンクビークルパンチ'''{{R|group="出典"|rv2}}。RVソードを用いた技では、スイカのごとく縦斬りにする'''RV回転スイカ割り'''{{R|超全集15|20th23}}{{efn|資料によっては、名称を'''回転スイカわり'''{{R|gahou209}}や'''回転スイカ割り'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}と記述している。}}、分身魔球を跳ね返す'''秘打激走返し'''{{R|超全集15|20th23}}を使用。ラジアルシールドを投げつける'''RV円盤なげ'''{{efn|書籍によっては'''RV円盤投げ'''と表記している{{R|material83}}。}}も使用{{R|超全集15|20th23}}。DDドンモ戦では、'''激走クーリングオフ'''や'''激走回転クーリングオフ'''で通販商品を送り返した{{R|超全集15|20th23}}。 : 必殺技はRVソードを手にした状態で高速滑走を行い、そのまま急速回転して切り裂く'''RVソード激走斬り'''{{Refnest|group="出典"|name="rv3"|{{R|超全集15|gahou209|30大115|20th23}}}}。エグゾス・スーパーストロング戦では、高速回転しながらジャンプして、剣を頭上に掲げ、ドリルのように刺し貫く'''ハイパークラッシャー'''{{R|gahou209}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1996 激走戦隊カーレンジャー』では、名称を'''激走斬りハイパークラッシャー'''と記述している{{R|20th23}}。}}を使用。また、Vバズーカでスカイギギューンを倒したこともある。 : ブレーキング戦で敗北・強奪された際には、クルマジックパワーを持たないボーゾックが操縦できるように巨大なバッテリー(ボーゾック乾電池)を取り付けられた状態でZZギューリーとワンパー4人が操縦して{{efn|当初の目的は戦闘ではなく、韓国にキムチを買いに行くため。}}、VRVロボと戦うが、レッドレーサーの奮闘で奪還に成功した。主力の座をVRVロボに譲った後は、VRVロボが使用不能になった状況で出撃するようになるが{{efn|『激走戦隊カーレンジャーVSオーレンジャー』では、VRVロボが使用不能ではない状態ながらも、RVロボを操縦して、オーレンジャーロボと交戦した。}}、復帰戦であるOOバットン戦では両手足を破壊され、マリンザブーン戦では辛うじて倒しながらもエネルギー切れになり、エグゾス・スーパーストロングとの戦いでは必殺技も通用せず、戦闘不能状態にまで追い込まれた。戦い終えた後のパーティーでは修復され、VRVロボとサイレンダーと共に並んでいた。 : 『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』にも登場。 :* モチーフはRV車で、膝や胸にはシルバーメッキが施されたRV車のロールバーを配置している{{R|material50|TH4558}}。1992年の『[[恐竜戦隊ジュウレンジャー]]』の大獣神以来となる盾を持つ1号ロボとなっている{{R|TH4558}}。 :* 1995年7月から施行された[[製造物責任法|PL法]]によって本作品のころより突起が少なくなり、ジョイント部分が太くなっている{{R|material50}}。 :* 『ターボレンジャー』のターボロボが空を飛びながら合体していたことから、車のサイズを一律にし、レッドのマシンがトラックの荷台に乗り込めるようにするなど、ターボロボでは出来なかったことなどに挑戦している{{R|TH45192}}。 :* 野中は、『ターボレンジャー』のターボロボの問題点としてプロポーションの悪さを挙げており、RVロボではピンクビークルの変形により肩幅が広くなるよう調整している{{R|20th34}}。 : ; VRVロボ : 第31話から登場。5台のVRVマシンまたは5体のVRVファイターが'''必勝合体'''した巨大ロボ。コクピット左側の青いスイッチを押すことで合体システムが起動。合体完了後、「エンジン絶好調 VRVロボ」と発する。 VRVマスター曰く「必ず勝つことを約束されたロボット」で、RVロボ以上の破壊力とパワーを誇り{{R|学研の図鑑250}}、パワー主体の戦闘を展開。コクピットは胸部にあり、カーレンジャー全員が集まる。装甲材質や内部構造などは明らかになっていない{{R|超全集18}}。 : 手持ち武器は、2丁のハンドガン{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}の'''Vガン'''{{Refnest|group="出典"|name="vrv"|{{R|超全集18|gahou209|30大115|20th23}}}}と胸部左右に一門ずつ備わっている'''放水ノズル'''。ビクトレーラーから転送され瞬間装着される大型バルカン砲'''Vバルカン'''{{Refnest|group="出典"|name="vrv2"|{{R|超全集18|gahou209|20th23}}}}と大型バズーカ砲'''Vバズーカ'''{{R|group="出典"|vrv2}}。 : 必殺技は右腕のVバルカン{{efn|ビクトリーツイスター・ファイターバージョン使用時には、ダンプファイターとレスキューファイターが使用。}}と左腕のVバズーカ{{efn|ビクトリーツイスター・ファイターバージョン使用時には、ポリスファイターとドーザーファイターが使用。}}を同時に連続発射する'''ビクトリーツイスター'''{{R|group="出典"|vrv}}。ランドズズーン戦では、ビクトリーツイスターをRVロボが激走斬り{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}で弾いて分散させ、特定の場所以外に2か所同時に命中{{Sfn|赤の伝説|2012|p=89}}させる'''RVソードツイスターカッター'''{{R|gahou209|20th23}}{{efn|この時、RVロボはレッドレーサーが単独で操縦した。}}を使用。また、マリンザブーンをVバルカンだけで倒してもいる。 : エグゾス・スーパーストロングとの最終決戦ではエグゾスの圧倒的な攻撃の前に、一切の攻撃が通用せず、追い込まれながらも、最後の力を振り絞って密着・自爆した。最終決戦後のパーティーでは修復され、RVロボとサイレンダーと共に並んでいた。 :* 腕と脚の合体ジョイントはRVロボと共通のため、交換が可能{{R|TH4558}}。 : ; 天下の浪速ロボスペシャル{{efn|書籍によっては'''天下の浪速ロボ'''と表記している{{R|material83}}。}} : 第40話のみ登場。レッドビークル、ブルービークル、Vダンプ、Vドーザー、Vレスキューの5台が'''スーパー緊急合体'''した巨大ロボ。合体完了時には背後に「浪速」の文字が出る。OOバットンとの戦いでVRVロボのボディとRVロボの四肢が破壊されて行動不能に陥った際、グリーンレーサーの発案により動けるマシンのみが合体{{R|学研の図鑑250}}{{efn|スチールではVRVロボにRVロボの手脚を付け替えたものはあるが、劇中未登場。}}。名称はグリーンレーサーが勝手に命名したもので{{R|学研の図鑑250}}、仲間たちからは非難の声が上がるも、OOバットンへのケジメのためか、センターにはレッドレーサーではなく、グリーンレーサーが搭乗した。 : 武器はRVソードとブラグネードスパーク、VバルカンとVバズーカを使用。 : 必殺技はビクトリーツイスターとプラグネードスパークを同時発射する'''ビクトリーツイスターRVバージョン'''{{R|超全集18|20th23}}。 : 『[[轟轟戦隊ボウケンジャー]]』の「30戦隊大全集 スペシャルファイル』では「マルチ合体」のバリエーションとして紹介された。マルチ合体は『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』以降の戦隊シリーズで定番となる要素であり、その先駆けともなった。 ; ラジエッカーロボ : 第34話から登場。宇宙も走行できるラジエッタの愛車'''ラジエッカー'''が'''チェンジ・ラジエッカーロボモード'''により変形したネコ型ロボット。人は乗り込まず、遠隔操作で動く。ファンシーな外見に反して異常に強いが、地球では1分しか稼動できない欠点もある。当初は等身大ロボだったが、再登場した際には、'''ゴー・ラジエッカー ジャイアントモード'''による巨大化機能も追加された{{R|group="ep"|45話}}。得意技は'''ラジエッカーロボパンチ'''{{R|material83}}。 :* デザインは阿部統が担当した{{R|百化95}}。 === 施設・設備 === ; レンジャービークル格納庫{{R|gahou209}} : ダップがペガサスの奥にカムフラージュされて建造したレンジャービークルの格納庫。ビクトリードックとは秘密地下通路で繋がっている{{R|material34}}。 ; ビクトリードック{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集18|gahou209|20th6}}}} : VRVマスターが東京ドームの地下にクルマジックパワーを持って建造したVRVマシンの基地。VRVマシンの格納と整備を行える他、後にレンジャービークルもここで整備を受けるようになった。中央のセンターコントロールルームで作戦会議も行う{{R|超全集18}}。 :* DXロボ類と絡ませる組み立てキットも発売されている{{R|TH4558}}。 ; ボーゾック探知機 : カーレンジャー基地に設置されている赤色灯で、ボーゾックを感知すると点滅し、ダップが即座に「'''ボーゾック発生だっぷ!!'''」とカーレンジャーに指示する。 : 悪巧みや邪悪な心にも反応する一方、ダップの弁によると「改心したボーゾックには反応しないはず」であり、その言葉通りこの探知機の反応でOOバットンのウソが後に判明した{{R|group="ep"|40話}}。 == シグナルマンの戦力 == === 専用装備 === ; シグナイザー{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集20|gahou208|20th18}}}} : シグナルマンが携帯している宇宙警察官警察手帳。通常のIDモードから、放電可能な警棒のポリスバトンモードや、拳銃のガンモードに変形する。IDモードには1,000時間分の録音機能がある{{R|超全集20|20th18}}。ガンモードでは超高熱ヒートビーム、ショック波のスマッシュビーム、超冷凍弾のコールドビームといった三種類のエネルギー弾を発射可能{{R|超全集20|20th18}}。先端にチョークを付けて地面に線を引くことも可能。 ; シグナルホイッスル{{R|超全集20|20th18}} : シグナルマンが専用メカのポリスピーダーやサイレンダーを呼ぶ際に使用する笛。 === シグナルマンのマシン === ; ポリスピーダー : シグナルマンの白バイ。宇宙空間も飛べる。前部のエンブレムとオレンジ色のライトからレーザー光線のシグナルフラッシュ{{Refnest|group="出典"|name="police"|{{R|超全集20|gahou208|20th22}}}}を発射する。シグナルホイッスルで召喚する。シグナルマンがポリス星に帰還する際、カーレンジャーがカーナビックを取り付けて自動操縦モードにしたこともある{{R|group="ep"|28話}}。 ; シグエのミニパト : シグエがシグナルマンを訪ねに地球にやってきた際、シグタロウを連れて乗ってきたミニパトカー。カラーリングはサイレンダーのそれを模している。 : カーレンジャーと共にボーゾックを追跡して活躍はしたものの、敵の攻撃によって故障し、動けなくなってしまう{{R|group="ep"|44話}}。 :* 新規造形で、塗り替えたものとなっている{{R|THM64151}}。 === サイレンダー === 第12話から登場。シグナルマンがシグナルホイッスルで呼び出す、ポリス星警察官用巨大パトカー。'''パトカーモード'''と'''ロボットモード'''の2つの形態を持つ。装甲はジャスティメタル製{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集21|20th22}}{{Sfn|完全超百科|2006|p=69}}}}。大量の通常パトカーと共に出現したパトカーモードは長いトンネルに突入し、そのトンネル内で「スタンダップ・サイレンダー」{{R|material34}}を合図にロボットモードに変形する。変形完了後、シグナルマンの「無駄な抵抗はやめろ」という警告と共に敬礼を行い、背後にはサイレンダーの胸の信号機が浮かび上がる。ゴーグル部はバイザー{{efn|玩具では上げることが可能{{R|TH4558}}。}}。洗脳中のシグナルマンが操縦した際には、シグナルマン同様に信号の色が黒一色になった{{efn|資料によっては名称を'''悪のサイレンダー'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou209|20th23|学研の図鑑250}}}}{{R|group="ep"|36話}}。}}。 両腕からは巨大短剣の'''サイレンダガー'''{{Refnest|group="出典"|name="siren"|{{R|超全集21|gahou209|30大115|20th23}}}}、右腕からは巨大拳銃'''サイレンバルカン'''{{R|group="出典"|siren}}、左腕からは巨大手錠'''サイレンワッパー'''と射出銃'''ワッパガン'''{{R|group="出典"|siren}}を展開。盾の'''サイレンシールド'''{{Refnest|group="出典"|name="siren2"|{{R|超全集21|gahou209|20th23}}}}も持つ。パトカーモードとロボットモード共通の装備はパトランプの三色信号機部分(ロボットモード時は胸部)から放つビームの'''シグナルフラッシュ'''{{R|超全集21|20th22}}。 必殺技はサイレンバルカンの連続発射で特に技名はない。サイレンダガーで宇宙バチを倒したこともある。 物語終盤では墜落寸前のバリバリアンの突入を阻止しようとし、地球激突による落下の衝撃こそ和らげたものの、出力限界でオーバーヒートしそのまま倒れてしまった{{R|group="ep"|47話}}。そのために最終決戦には参加しなかったが、戦いの後のパーティーでは、RVロボとVRVロボと共に並んでいた。 * RVロボ同様、ロールバーがデザインに組み込まれている{{R|material50}}。 * 玩具「DXサイレンダー」では、付属するシグナルホイッスルの音声に連動して電飾やサウンドが作動するというELギミックが搭載されている{{R|TH40|TH4558}}{{efn|バンダイデザイナーの[[野中剛]]は、『[[恐竜戦隊ジュウレンジャー]]』の「DXドラゴンシーザー」で劇中のような音声ギミックとの連動を発想したことが本商品につながっていると証言している{{Sfn|21st 4|2017|p=34|loc=[[野中剛]]「SUPER HERO Design BRUSHUP! 電飾ロボ列伝」}}。}}。 === 施設 === ; コバーンベース{{R|超全集20|20th18}} : シグナルマンが常駐している移動交番。大抵は人通りのないところに置かれ、シグナルマンは独り寂しそうに勤務している。 またシグナルマンがポリス星に帰っている間は放置されており、埃を被っていた。 == マシンスペック == {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1" |- ! 名称 !! 全長 !! 全幅 !! 全高 !! 重量 !! スピード |- ! レッドビークル |22{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="SPEC"|{{R|超全集14|gahou209|20th22}}}} |10.6{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |8.5{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |900{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}} |[[マッハ数|マッハ]]1.5{{R|group="出典"|SPEC}} |- ! ブルービークル |26.5{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}} |17.8{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |18.2{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |2,500{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}} |800{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]{{R|group="出典"|SPEC}} |- ! グリーンビークル |rowspan="2"|25.8{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}} |rowspan="3"|12.8{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |rowspan="2"|14.8{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |rowspan="2"|1,500{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}} |rowspan="2"|840{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}} |- ! イエロービークル |- ! ピンクビークル |23{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}} |6.9{{nbsp}}m{{R|超全集14|20th22}} |1,100{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}} |889{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}} |- ! Vファイヤー |26{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |14{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |12{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |2,300{{nbsp}}t{{R|超全集16|20th22}} |800{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|fire}} |- ! Vポリス |30{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |15{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |11{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |2,400{{nbsp}}t{{R|超全集16|20th22}} |マッハ1.5{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集16|gahou209|30大115|20th22}}}} |- ! Vダンプ |26{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |16{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |13.5{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |rowspan="2"|2,500{{nbsp}}t{{R|超全集16|20th22}} |700{{nbsp}}km/h{{Refnest|group="出典"|name="SPEC2"|{{R|超全集16|gahou209|20th22}}}} |- ! Vドーザー |29{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |17{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |15{{nbsp}}m{{R|超全集16|20th22}} |rowspan="2"|750{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC2}} |- ! 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巨大化アイテムはチーキュの美味しいものを探している途中でたまたま見つけた{{Sfn|赤の伝説|2012|p=91}}'''[[芋羊羹]]'''。それもペガサスの近所の和菓子屋「芋長」製のものに限られ、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]で売られているものでは逆に手の平サイズまで縮小してしまう。ボーゾック(荒くれ者のほか、宇宙ゴキブリや宇宙バチも含む)が芋長の芋羊羹を食べると、顔を紅潮させ口から煙を吹き出しながら巨大化する。巨大化すると攻撃力や防御力が増すが、時間制限がある{{efn|ただし、ゴキちゃんとコンビニの芋羊羹を食べて縮小した際のMMモグーのみ効果が切れなかった。}}。この芋羊羹をフィーチャーしたエピソードが作られた他、結末においての重大な伏線となる{{efn|メインライターの浦沢は、芋羊羹を用いたのはただの思いつきであったが、「イモヨーカン」という言葉の響きが良かったと述べている{{R|20th32}}。}}。 一時期は「ヘルスボーゾック」「デビルボーゾック」などと改名してみるも{{efn|結局ネタ切れを理由にガイナモが独断でやめてしまい、元のまま落ち着く。}}、一向に成果は上がらず、挙句の果てに連戦連敗とそのマヌケぶりから、「ボーゾック、ボロ負け記録更新{{efn|作中にてグラッチの語るところによれば、エグゾスが現れるまでに1勝34敗2引き分けという戦績であった{{R|group=ep|37話}}。}}」「宇宙一弱い暴走族」などとスポーツ新聞に大々的に書かれるなど、カーレンジャー以外の地球人からも半ばバカにされるようになってしまう。 ボーゾックたち宇宙人の発音では地球は「チーキュ」(グラッチだけは「チーキュウ」と語尾をのばすような発音)、日本は「ニッポンポン」となる。なお、地球に住む人間は「一般市民」、その中でも子供は「子供さん」と呼んでいる。カーレンジャーの姿を素顔と思っており、終盤まで地球の一般市民が変身した装備の姿だとは夢にも思っていなかった。 物語後半より暴走皇帝エグゾスと協力関係となるが、その実態はエグゾスに利用されていたに過ぎず、後に見限られたことで決別し、カーレンジャーと共闘することになった。エグゾスを打倒した後は組織を解散し、所属メンバーは散り散りとなってそれぞれの生活を送っている。 各キャラクターの身長・体重などの設定はない{{R|20th24}}。 * 幹部の名前のほとんどは自動車部品のもじりとなっている。デザインは知性があることを示すために服を着た姿となっている{{R|HYAKKA102}}。 ; {{Visible anchor|総長ガイナモ}} : ボーゾックの総長。 : 当初は悪の親玉らしい威厳を見せていたが、中盤からは頭の悪さがクローズアップされ、完全なギャグキャラクターと化していった。かなりのケチで、猛暑の中クーラーを売りつけるリッチハイカー教授に電気代がかかることに文句を述べたり、チーキュの回転寿司でも安物ばかり食べたことをボヤいている。ゾンネットにベタ惚れしているが、全く相手にされておらず、いいようにこき使われている。「トゥ」「ティ」などが発音できず、ノリシロン-{{読み仮名|12|トゥエルブ}}を「'''ツ'''エルブ」と言ったり、PPチープリを紹介する際「ボーゾック一のメーキャップアー'''チ'''スト」と呼んでいた。 : 暴走皇帝エグゾスの登場により、彼の独裁的かつ高圧的な言動に文句を言う仲間を宥めたり、彼らを代表して文句を言ったりと、中間管理職にも似た立場になる。 : 肩から破壊光線を放ち、頭部は胴体とチューブで繋がれた状態で分離可能。他にも長く伸びる舌や、対象を凍結・破壊したり、乗り物を操り兵器に変化できるという能力を持つが、総長という立場からか基本的には前線に出ることはなく、作戦の遂行や戦闘はゼルモダや荒くれ者たちが行う。 : リッチハイカー教授にボーゾックを乗っ取られてしまった際には、バリバリアンを追い出されてパチンコ屋や焼肉・スタミナ料理店「宝苑」でバイトする羽目になった(だが本人はゾンネットと一緒にパチンコ屋でのバイト生活を満喫していた)。 : 物語終盤にて一度はカーレンジャーを倒すが、それにより用済みとなってエグゾスにバリバリアンを勝手にゴミ捨て場にされた挙句、それらのゴミもろとも焼き捨てられそうになったことを怒り、今までの所業をあっさり謝罪して、「昨日の敵は今日の友」とカーレンジャーと手を組んだ。最終決戦では命を賭けてでも戦うカーレンジャーに心打たれ、地球に進攻したエグゾス・スーパーストロングに芋羊羹を食べて巨大化して挑む勇敢さを見せようとしたが、芋羊羹が期限が切れていたため腹を壊して失敗に終わり、赤っ恥をかいてしまう。しかしそれがきっかけで、腐った芋羊羹をエグゾス・スーパーストロングに食べさせることで弱体化させるという奇策を思いつき、それを実行してカーレンジャーの勝利に繋げた{{R|group=ep|48話}}。 : ボーゾック解散後は宝苑に就職{{R|group=ep|48話}}。『電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー』では独立して焼き肉と仕出し料理の店「'''キッチンがいなも'''」を開店させたという設定で、本人の出番はないが「キッチンがいなも」の弁当が登場している。 :* ネーミングは[[ダイナモ]]に由来したものとなっている{{R|HYAKKA23}}。検討時には数十枚のラフデザインが描かれ、結果的に暴走族の要素が薄いデザインが選ばれた{{R|HYAKKA23}}。 : ; {{Visible anchor|副長ゼルモダ}} : ボーゾックのNo.2。ガイナモとは弱小暴走族時代から共に艱難辛苦を乗り越えた仲であるが、金に目が眩んで裏切るなど割と現金な一面もある。稀にカーレンジャーを倒すための作戦を立案することもある。 : 初期は武闘派で、冷酷かつ残虐な一面が強調され、執拗にダップの命を狙っていたが、最終的には無意味にギャル語を使ったり、真面目な顔でトンチンカンなことを言うなど、ガイナモに劣らぬ頭の悪さや茶目っ気を見せるようになった。 : 得意技は「ぱちき」と「ランニングヘッドバット」で、[[トランプ]]を重ね合わせたデザインの剣を武器としている。両手から光線を放つことも可能。VRVマスターに扮してダップを完全に騙すなど意外にも変装が得意。旗色が悪くなると「撤収!」の掛け声と共にさっさと逃げてしまう。 : 戦闘員を詰めた壺に乗り浮遊して登場することが多い。バイクに乗る時は、服の背中部分の飾りが頭を覆ってヘルメットになる。 : 幼少時代に雷を馬鹿にして火傷をしたトラウマから雷が大の苦手だったが、バキバキ伝説に挑み、突破したことで克服した{{R|group=ep|14話}}。これはエレキンタが与えた試練で、褒美に電気バイク「バキバキルガー」を1台もらったが、エレキンタの死と共にバキバキルガーを失ってしまった。 : エグゾスのことを「とっつぁん」と呼ぶ。 : 前述の通り、知能レベルも低く頭が悪かったため、ボーゾック解散後は、グラッチと共に義務教育をやり直すために小学校に入学した{{R|group=ep|48話}}。 :* ネーミングは[[セルモーター]]に由来したものとなっている{{R|HYAKKA23}}。姑息に悪巧みをしているタイプとして、他の幹部よりも悪辣な面構えとなっている{{R|HYAKKA23}}。 : ; {{Visible anchor|発明家グラッチ}} : ボーゾックの作戦参謀兼発明家だが、機能よりも趣味とノリでデザインばかり重視するため、発明するものはほとんど役に立たない。さらにガイナモの逆鱗にビビり、市太郎が泣きだした(実際はウソ泣き)だけで慌てふためく臆病な性格。 : 食べることが大好きで、芋長の芋羊羹による巨大化作用を偶然にも発見。芋羊羹を買いに行くのは大体彼の役目で、毎回ちゃんと代金500円を払っている。 : 念力で相手を転ばせることができるが、戦闘能力自体はあまり高くなく、劇中ではMMモグーの巨大化に失敗した際、天馬親子から反撃を食らって逃げた場面もある。服の顔の辺りとへその辺りにそれぞれ窓が付いており、開くことが可能(本人曰くへそは30年間ずっと掃除していないらしく、強烈な臭いを放つ)。リッチリッチハイカー教授が奪ったRVロボをボーゾック乾電池で悪の尖兵としたこともある。 : 番組後半は暴走皇帝エグゾスの出現と、彼からの雑誌による武器供与により印象が薄いが、ノリシロンの組み立てにも立ち会った。しかし、腕の割りピンを付け忘れるという失敗をし、エグゾスから電撃でお仕置きを食らう。さらには最終局面で新しい芋羊羹を買い忘れており、期限切れの腐った芋羊羹をガイナモに食べさせた。 : 彼もまたゼルモダ同様、無知無学であったため、ボーゾック解散後は、ゼルモダと共に小学校に入学した{{R|group=ep|48話}}。 :* デザインは宇宙飛行士や深海用機密服をイメージしている{{R|HYAKKA23}}。ガラス窓の中に顔があるため撮影では表情が見えづらく、スーツアクターが常に首を前に突き出していなければならず、撮影現場では不評であったという{{R|HYAKKA23}}。 : ; {{Visible anchor|ゾンネット}} : ボーゾックのアイドル。その正体はファンベル星王家の第一王女'''バニティーミラー・ファンベルト'''で、お姫様暮らしが嫌で家出し、ボーゾックに転がり込んだ。 : かわいいけれどもワガママな家出不良少女。ガイナモに惚れられているが、本人はそれを利用して彼を顎でこき使う。ゾンネットから本来の姿に戻る際には、「'''ラビオリ・キシメン・リングイネ'''」の呪文を唱える。ときめきを感じると胸から「きゅん」と描かれたハート形のクッションが飛び出すという奇妙な能力も持つ。専用車ゾンネッカーに乗りながら金だらいを敵の頭上目掛けて落とす{{読み仮名|'''金だらい地獄落とし'''|かなだらいじごくおとし}}が必殺技。 : レッドレーサーに一目惚れするが{{R|group=ep|13話}}、「住む世界が違う」と恭介を通じて{{efn|当時はレッドレーサーの正体を知らず、恭介のことはサル顔の一般市民としか認識していなかった。}}ふられてしまう{{R|group=ep|15話}}。以降はふてくされた態度をとりつつも、内心では想いを抱き続けていた。後にその正体が恭介自身だと知り、憧れの人がサル顔の一般市民であったことにかなりのショックを受けたが、EEムスビノフから自分を救おうと必死で戦う恭介の姿に心が動き、晴れて敵味方の立場を超えて相思相愛の仲となる。 : ラジエッタから故郷の星が「大宇宙ハイウェイ計画」の被害に遭っていることを聞かされ、ボーゾックを脱退。一度はファンベル星に帰るも、カーレンジャーとボーゾックの仲介のために地球へと戻り、ガイナモに「エグゾスがカーレンジャー、ボーゾックの共通の敵」と教えた。 : ボーゾック解散後はファンベル星で毎日見合いをさせられているが、恭介のことを想い続けている{{R|group=ep|48話}}。 :* デザインは2種類のデザイン案から上半身と下半身を組み合わせて完成デザインとなった{{R|HYAKKA25}}。 : ; {{Visible anchor|リッチハイカー教授 / リッチリッチハイカー教授}} : 第16話から登場。ボーゾックの悪事を成功させるべく、ガイナモが強化策として投入した{{Sfn|赤の伝説|2012|p=91}}自らが出した新聞チラシ広告を見たグラッチが問い合わせたことによって雇われた悪のコンサルタント。自己紹介の時には「リーッチハイカー教授」または「リッチリーッチハイカー教授」と妙なイントネーションで名乗り、ガイナモや実もそのように呼んでいた。笑い声は「リーチッチッチ!」。 : インテリ系な性格でプライドが高いが、本性は短気でサディストなエロオヤジ。武器は伸縮自在の電磁鞭としても使える指示棒。安い料金で依頼を引き受けることを売り文句としている割に、実際に請求している給料はやたらと高い{{efn|初回のコンサルタント料は1800万円だった。}}が、ガイナモによってかなりまけさせられていた様子。人間の姿{{efn|声を担当した田中信夫本人が演じている{{R|PRECIOUS!}}。}}に変身することができる。電話番号は「868-315」であり、「ワルハサイコー」(悪は最高)の捩りとなっている。 : 「ボーゾックとしては割と高い給料で雇っている」ことから遅々として地球を花火にできないことをガイナモやゼルモダに指摘されており、その場しのぎについたウソで荒くれ者を派遣することもあった。 : 後にボーゾック祭りにおいて、手違いで全宇宙の邪悪エネルギーを一人で浴びてしまい、顔の色が金色に変わり、服の白黒が反転してパワーアップ。'''リッチリッチハイカー'''と名乗り、自分の手持ち資金に加え、ガイナモがゾンネットとの結婚資金として貯めていた秘密定期預金を勝手に下ろし、その金でゼルモダとグラッチを買収、強力な怪獣メカブレーキングを製作し、ガイナモとゾンネットをボーゾックから追放することで二代目総長に就任。RVロボを打ち破り奪い去ったが、VRVマシンの出現により撤退に追い込まれる。その後、ブレーキングを改造して再度挑むも、VRVロボのビクトリーツイスターによって敗北し、ブレーキングの爆発に巻き込まれ死亡した。 :* デザインは当初、野崎明がVRVマスターを自分が担当すると誤解してそのイメージで描かれたものであり、他のボーゾック幹部とは一線を画したラインとなっている{{R|HYAKKA25}}。 : ; {{Visible anchor|宇宙ゴキブリ・ゴキちゃん}} : 元々はボーゾック基地の内にいた宇宙ゴキブリだったが、グラッチに芋長の芋羊羹を食べさせられたことで、ガイナモたちと同じサイズに巨大化。グラッチのように時間経過で元の大きさに戻ることはなく、後述のエピソードでは芋羊羹を食べて(直接の描写はなし)さらに巨大化したこともある。「ゴキ!」や「ゴキー!」といった言葉しか話せないものの、準レギュラーとして最終回まで登場した。 : 作中ではグラッチの発明品によって2度パワーアップを果たしており、一度目はパワフルダンサー製造機によって'''GGゴキちゃん'''{{R|group=ep|15話}}に、2度目はエネルギー吸い取り唇を装備し、相手のエネルギーを吸収できる'''IIゴキちゃん'''{{R|group=ep|41話}}となっている。ボーゾック解散後は宇宙ゴロツキの劇団メンバーとして所属した{{R|group=ep|48話}}。 :* デザインは[[阿部統]]が担当し{{Sfn|百化繚乱 下之巻|2012|pp=25、29、35、96}}{{R|20th98}}、宇宙ゴキブリという設定から顔が星型にデザインされている{{R|HYAKKA25}}。GGゴキちゃんのフリンジは[[錦野旦|にしきのあきら]]などを{{Sfn|百化繚乱 下之巻|2012|p=29}}、IIゴキちゃんの衣装は[[シャ乱Q]]を{{R|百化35}}それぞれイメージしている。 : ; ボーゾックの荒くれ者 : ボーゾックの構成員たちで、名前の最初にアルファベット2文字(ほとんどが当て字になっている)が並ぶ。それぞれ「ボーゾック一の○○」といった肩書き(一部例外あり)を持ち、名前の一部が口癖となっている者が多い。大半の荒くれ者は倒されたときの断末魔も名前である。「ボーゾック一のキムチ好き」や「ボーゾック一の植木職人」など、暴走族らしからぬ肩書きを持つ者がほとんどである。基本的にはガイナモやゼルモダの命令で出動するが、LLオネネやXXミレーノなどは個人的な理由でチーキュに向かった。 : 『メガレンジャーVSカーレンジャー』では、ボーゾック未所属の宇宙の暴走族ヘルメドーが登場し、地球のことをボーゾック同様「チーキュ」と呼んでいる。 : {{要出典範囲|『[[動物戦隊ジュウオウジャー]]』ショーにレッドレーサーがゲスト出演した際には、新規怪人としてボーゾック一の穴掘り名人{{読み仮名|ZZ|ザクザク}}シャルベが登場している。|date=2022年4月}} :* デザインには当時流行していた[[アメリカン・コミックス]]的な要素が盛り込まれており、物語初期に登場した構成員は特にその傾向が色濃いものとなっている{{R|HYAKKA102}}。 :* メインライターの浦沢は、毎回の怪人は意外な点を重視していたと述べている{{R|20th32}}。 : ; ゴロツキ : バリバリアンのBBサロンにたむろする宇宙人。普段バリバリアンから出ることはないが、一部のゴロツキはSSパマーンと共にゾクレンジャーとして登場している。ガイナモやゼルモダたちには基本従順であるが、時々彼らのバカさをあきれたり、からかったりすることもある。カーレンジャーに倒されたのはJJジェットンのみで、生き残ったゴロツキたちはボーゾック解散後、劇団を発足させた{{R|group=ep|48話}}。 :* デザインは髙寺の要望により動物をモチーフとしている{{R|HYAKKA25}}。 :; {{Visible anchor|暴走戦隊ゾクレンジャー}} :: 第25話に登場。SSパマーンをリーダーとする5人組のゴロツキ集団。カーレンジャーと同じ5色のメンバーで、決めポーズや、5人で使用するゾクレンジャーボール、5人で発射するゾクレンジャーバズーカ、戦闘BGMに主題歌のセルフパロディ(暴走戦隊ゾクレンジャー)が流れるなど、随所にパロディが盛り込まれている。 :: 「悪の戦隊」を自称しているが、実際にやっている悪事といえば、花を銃撃する・子供に意地悪を働くといった、お世辞にも凶悪とは呼べないせこい悪事ばかりである。その割にカーレンジャーとの戦いでは研究と対策を重ねた戦法で彼らを圧倒する活躍を見せ、ラジエッタの加勢なしには勝てない強敵であった。 :: また、SSパマーンは、巨大戦では剣を使って'''大銀河電撃科学暗黒剣・稲妻電撃プラズマサイバーオーロラ遠心重力スーパーサンダー…(以下不詳)'''という必殺技を繰りだそうとしたが、技の名前を叫んでいる途中に、「技の名前が長いんだよ!」とレッドレーサーにツッコまれながら「RVソード・激走斬り」で倒されてしまった。 :: 『轟轟戦隊ボウケンジャー』の「全戦隊大全集」では、悪の戦隊として紹介された。 ::* ゾクイエローの武器は『[[五星戦隊ダイレンジャー]]』の大輪剣の改造<ref>{{Twitter status2|kzkevzyde6zALJL|1583333020953882625|4=@kzkevzyde6zALJLの2022年10月21日のツイート|5=2022-10-23}}</ref>。 : ; {{Visible anchor|兵士ワンパー}} : ボーゾックのカラフルな下級戦闘員。赤・青・緑・白の体色の4種類がおり、白のワンパーは落ちこぼれ的存在で、常に1人しかいないが人間の姿に変身する能力を持つ。敵なのにもかかわらず、EDではカーレンジャーのレースを観戦・応援している。元は[[タコ|蛸]]らしく、普段は「NO FUTURE NO WAY」と書かれた蛸壺に入っており、倒されると蛸の姿になってしまうことも。また、たまに虫干ししないとカビ臭くなってしまう。 : ゼルモダやボーゾックの荒くれ者の号令で一気に飛び出し、変形した顔から吐く泥やビーム砲にもなる剣を武器にして戦う。壺からは大抵一気に飛び出すため、ゼルモダはよく足を踏まれるらしい。返事は基本的に「チース」。 :* デザインは蛸壺から現れるという案からタコをモチーフとしている{{R|HYAKKA25}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|暴走皇帝エグゾス|ぼうそうこうていエグゾス}}|暴走皇帝エグゾス}} : 終盤から本格的に登場した黒幕で、ハザード星の正義の星座伝説と対を成す悪の星座伝説の力を持つ。ボーゾックに属しておらず、宇宙暴走族でもないが、彼もまた地球を「チーキュ」と呼ぶ。5つの車型星座を全て飲み込んでしまうなど計り知れないスケールを見せ、その大きさは地球やバリバリアンが掌に乗るほどで、歴代のスーパー戦隊の中では敵味方問わず最大級の巨体を持つ。ボーゾックとは比べ物にならないほどの正統派の悪だが、宇宙の悪人たち向けの『[[テレビランド|宇宙ランド]]』なる雑誌を発行{{efn|毎月一回発行で価格は500円。12月号の付録は組み立て式ロボットノリシロンだった。}}するという庶民派な一面も持つ。本を読むのも作るのも好きで、一番の楽しみは暴走する車を見ること。 : 全宇宙に君臨する悪の支配者を名乗るが、その実はスピード違反は当たり前、交通事故も起こし放題の'''恐怖の大宇宙ハイウェイ'''を建設することを目論む宇宙の地上げ屋。本来ボーゾックとは無関係だったが、ハイウェイの建設予定地にハザード星や地球などの惑星が点々と存在していることを邪魔に思い、自分の手を汚さずにそれらの惑星を始末しようという考えからボーゾックを唆して操っていた。一方のボーゾックはエグゾスを「ボーゾックのファンで、色々物をくれる気前のいいおっさん」程度の認識しか持っていなかった。事実エグゾス考案の作戦はエグゾスが資金や必要な材料を提供し、ボーゾックに行わせている。 : 「占い師スゾグエ」を名乗り、ガイナモに「『ハ』で始まる星を滅ぼすといいことがあるでしょう」という年賀状を送って、ハザード星を滅ぼさせるよう仕向けた。同様に地球も消滅させようとしたのだが、ボーゾックがうまい具合に地球に向かったためそのまま静観していた。しかしいつまで経っても地球が無くならない上、彼らがスランプに陥ってしまったことに業を煮やし、遂にボーゾックの前に姿を見せ、雑誌の付録・ノリシロンシリーズを与えたりとあれこれ手を出すようになる。しかし命令は絶対で、作戦が失敗すると左手からの電撃でボーゾックを罰する。作戦のレベルはボーゾックよりもはるかに高く、まだ敵味方双方ともエグゾスの存在を知らなかったころの作戦であるシグナルマンの洗脳について、ダップからは「ボーゾックの作戦にしては偏差値が高すぎる」と評されたこともあった。 : 最終決戦ではクルマジックパワーを封印し、さらにボーゾックも用済みとして見限るが、これがカーレンジャーとボーゾックの結束を招き、カーレンジャーが操縦するバリバリアンの特攻を受けてクルマジックパワーを奪還されてしまう。 :* デザインに当たっては[[ツタンカーメン]]やエジプトのテイストが盛り込まれた{{R|HYAKKA25}}。 :* 浦沢は後年のインタビューで、ハイウェイ建設のために地球を壊そうとするのが自身らしいが、エグゾスそのものは覚えていないと述べている{{R|20th32}}。 :; エグゾス・スーパーストロング{{efn|一部書籍では「エグゾス<nowiki>=</nowiki>スーパーストロング」と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=104}}。}} :: カーレンジャーの特攻を受けた直後に、全宇宙の邪悪のエネルギーを集めて復活・変貌を遂げた形態。 :: 大きさはRVロボやVRVロボと同等で、この形態では右腕が変質した刃や、口から吐き出す破壊光線、両手にエネルギーを集めて放つ光弾、再生能力などを用いて戦う。 :: VRVロボとRVロボを立て続けに戦闘不能にし、圧倒的な戦闘力でカーレンジャーを絶体絶命の危機に追い詰める。そしてとどめを刺そうとした次の瞬間、ガイナモが投げつけた賞味期限切れの芋羊羹を食べさせられて腹痛を起こして弱体化し、元のエグゾスの姿から、さらに等身大サイズへと縮小してしまう。カーレンジャーとの等身大戦では、火球攻撃を命中させるものの倒すまでには至らず、オートパニッシャー一斉砲撃とカーレンジャー・クルマジックアタックの連続攻撃を受けて敗北。宇宙まで吹っ飛ばされた後、大宇宙ハイウェイ計画共々消滅した{{R|group=ep|48話}}。 ::* 足はラジアルタイヤ、全身の模様は高速道路がモチーフとなっている{{Sfn|百化繚乱 下之巻|2012|p=37}}。 === ボーゾックの戦力 === ; バリバリアン : ボーゾックのアジトである、重なり合った無数のハイウェイで覆われた毛糸玉のような形状の人工惑星型宇宙基地。内部には{{読み仮名|BBサロン|バリバリアンサロン}}{{R|material34}}と呼ばれる酒場がある。 : 物語終盤ではボーゾックを見限ったエグゾスによって、宇宙のゴミ捨て場とされた上で地球に落とされるが、最終決戦では変身できなくなった恭介たちがこれに乗り込み、エグゾスに特攻を仕掛けた末に大破した。 ; {{読み仮名|暴走消防車|ぼうそうしょうぼうしゃ}}{{R|超全集22}} : 第1話に登場。ガイナモの手によって変貌した地球の消防車で、車体前方からのビームと梯子が武器。カーレンジャー5人のオートパニッシャーの一斉射撃を受けて倒された。 ==== ボーゾックのマシン ==== ボーゾックの構成員が使用する車両で、飛行も可能。様々な種類がある。 * デザインは阿部統が担当した{{R|百化95|20th98}}。 ; バリランダー{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集22|20th24|20th24}}}} : [[サイ]]を模した形状の暴走車。角部分からビームを撃つ。量産化もされている。 ; バリアクバー{{R|超全集22|20th24}} : [[アンコウ]]を模した形状の暴走車。YYゴンザの専用車として登場し、後に量産化もされた。 ; ワンパッパー{{R|超全集22|20th24}} : ワンパーが使用するバイク。 ; ゾンネッカー{{R|超全集26|20th24}} : ゾンネットの専用暴走車。 ; ドンパッパー{{R|超全集22}} : BBドンパ専用のバイク。 ; {{読み仮名|流星号|りゅうせいごう}}{{R|超全集22}} : ボーゾックレディースを指揮するLLオネネ専用の暴走自転車。 ; バキバキルガー+ : エレキンタの専用バイクで、電流を放つ。エレキンタが巨大化した際には電流を放つ棍棒となり、彼が倒されると共に破壊された。 ; バキバキルガー- : バキバキ伝説を制覇したゼルモダのバイクをエレキンタが強化した物で、こちらも電流を放つ。エレキンタが巨大化した際には電流を放つ棍棒となり、彼が倒されると共に破壊された。 ; ゼリッカー{{R|超全集22}} : ZZゼリの専用暴走車。{{要出典範囲|ベースは[[日産・エスカルゴ]]。|date=2020年4月}} ; エグゾスター{{R|超全集26|20th24}} : 第44話に登場。カーレンジャーとの戦いで故障したバリランダーとバリアクバーが修理中の際、エグゾスがボーゾックに[[レンタカー]]として貸し出した1997年型ニューモデルの暴走車。エンジンから放つ破壊光弾が武器。 : MMシューリスキーが搭乗し、菜摘から伝説のスパナを奪った彼によって改造される。改造後は装備に後部の排気口から猛烈な勢いで排気ガスを噴出する「猛烈排気ガス」と後部のバズーカ砲、さらに後部から放つ回転ノコギリや後部のミサイル砲が加わった。驚異的な力でペガサスサンダーとドラゴンクルーザーに大ダメージを与え、カーレンジャーを圧倒するが、ドラゴンクルーザーを修理して駆けつけたイエローレーサーのナビックブラスターで破壊された。 ==== バリッカー ==== ボーゾックの構成員が使用する巨大車両で、こちらも様々な種類がある。ゾクレンジャーが使用したこともある{{R|group="ep"|25話}}。 * ミニチュアはデザインを含めて特撮監督の佛田洋が制作した{{R|20th99|THM64151}}。巨大感を出すために細かいディテールにすることで重々しくしている{{R|THM64151}}。 ; ニャーバリッカー{{R|超全集22}} : [[ネコ]]を模した形状のバリッカー。 ; ジョキバリッカー{{R|超全集22}} : [[サソリ]]を模した形状のバリッカー。 ; モーバリッカー{{R|超全集22}} : [[ウシ]]を模した形状のバリッカー。 ; パオバリッカー{{R|超全集22}} : [[ゾウ]]を模した形状のバリッカー。 ; ブヒバリッカー{{R|超全集22}} : [[ブタ]]を模した形状のバリッカー。 ==== 巨大ロボ(ボーゾック) ==== ; ブレーキング : 第29話から第31話に登場。リッチリッチハイカー教授が自身の手持ち資金と横取りしたガイナモの秘密定期預金を使って製造した怪獣型巨大ロボットで、教授が自ら操縦する。自動操縦も可能で、ブースターキャノンをも物ともしない防御力を持つ。武器は口や目からのビームと敵を絡め取って電流を放つ尻尾。初戦ではRVロボを機能停止にまで追い込みバリバリアンへと持ち帰るが、再戦時には新たに登場したVRVマシンに翻弄され、ガスタンクの爆発に巻き込まれてバリバリアンまで吹っ飛ばされる。 : その後'''改造ブレーキング'''へと強化され、目からのビームや打撃技に使う尻尾に加え、頭部に装備したブーメラン'''キングスラッガー'''と、胸部の砲台が新たに装備された。VRVマスターを人質に取り戦闘を優位に進めるも、変形を果たしたVRVファイターに追い詰められ、最後はVRVロボのビクトリーツイスターによってリッチリッチハイカー教授もろとも倒された。 :* デザインモチーフは自動車部品{{R|百化32}}。当初より改造を前提にデザインされた{{R|百化32}}。 :* 浦沢は後年のインタビューで、「ブレーキング」を絶妙なネーミングであったというが、キャラクターそのものは覚えていないと述べている{{R|20th32}}。 ; ノリシロン : エグゾスが毎月一回宇宙中の悪に配っている雑誌『宇宙ランド』の付録である巨大な組み立て式ロボットで、グラッチが組み立てた。製造法は[[ペーパークラフト]]そのもの。 :; {{読み仮名|ノリシロン-12|ノリシロントゥエルブ}} :: 第37話・第38話に登場。『宇宙ランド』12月号の組み立て付録。 :: ゼルモダが搭乗し、内蔵された加速装置により驚異的なスピードを誇る。斧と胸部のビーム砲、角からの電撃が武器で、必殺技は斧で敵を叩き切る「ノリシロン暴走斬り」。 :: 初戦でサイレンダーをワッパガンでグルグル巻きにしたあげく、連戦連勝で気が緩んだカーレンジャーが操縦するVRVロボをあと一歩のところまで追い詰めるが、グラッチが右腕の割りピンを付け忘れたために右腕が取れてしまい撤退。その後右腕を修理してPPチープリの援護に駆けつけるが、VRVロボの手でPPチープリの若返りパックを顔に浴び、組み立て前の付録の形の状態に戻った後爆発してしまった。 ::* デザインは急遽変更となったため、髙寺のラフデザインを基にデザインされた{{R|百化32}}。 :; {{読み仮名|ノリシロン-最終|ノリシロンファイナル}} :: 第46話に登場。エグゾスがボーゾックに与えたノリシロン-12の強化型で、ガイナモ・ゼルモダ・グラッチの3人が操縦する。斧と口から放つ強風'''ファイナルタイフーン'''、強力な[[ドロップキック]]'''ファイナルキック'''、目から放つ衝撃波'''ファイナルフラッシュ'''、二丁のランチャーから放つ破壊光線'''ファイナルツイスター'''が武器。 :: VRVロボと激戦を繰り広げ、ファイナルツイスターが当たる寸前にVRVファイターに分離され、翻弄される。VRVロボに再合体した直後の隙を狙うが、空中からのビクトリーツイスターで倒された。 :; ノリシロン増刊 :: 『[[激走戦隊カーレンジャーVSオーレンジャー]]』に登場。宇宙ランド増刊号の付録である巨大ロボット。詳細は[[激走戦隊カーレンジャーVSオーレンジャー]]を参照。 ; スカイギギューン{{efn|一部書籍では「スカイギュギューン」と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=104}}。}} : 第41話・第43話に登場。エグゾスがボーゾックに授けた「陸・海・空の覇者」と呼ばれる三体のロボットの一体で、[[鳥類|鳥]]型。コクピットにゾンネッカーが合体し、ゾンネットが操縦する。 : 武器は目からの破壊光線と口からの破壊光弾で、飛行能力を持つ。ゾンネッカーが合体した状態でコクピットの赤いボタンを押すと、ダップを騙すための偽の新聞がばら撒かれる。 : エグゾスによる自動操縦が可能で、自動操縦状態でVRVロボと戦い、マリンザブーンがダップを連れ去るための時間稼ぎをした後、撤退。その後、ランドズズーンに遠隔操縦されて再参戦。クルマジックパワーが戻ったRVロボが装備したVバズーカで倒された。 :* 3体のモチーフは髙寺からの指示によるもので、武器なども細かく注文されていた{{R|百化35}}。 ; マリンザブーン : 第41話から第43話に登場。「陸・海・空の覇者」の一体で、[[サメ]]型。コクピットにバリアクバーが合体し、グラッチが操縦する。 : 武器は左腕のドリルと右腕から発射する魚雷、ブーメランとして使う頭部のヒレと右手に持った錨で、水中活動が可能。ダップをバリバリアンに連れ去った。その後、再び地球に襲来。VRVロボをエネルギー切れ寸前に追い込むが、サイレンダーの乱入により逃がしてしまう。RVロボが参戦するも、これもエネルギー切れ寸前に追い込む。だが、残ったエネルギーを使ったRVロボのプラグネードスパークでグラッチが吹き飛ばされ機能停止し、同時にバリアクバーは故障となった。その後、サイレンダーに回収されたがランドズズーンに遠隔操縦されて再参戦。クルマジックパワーが戻ったVRVロボのVバルカンで倒された。 ; ランドズズーン : 第41話・第43話に登場。「陸・海・空の覇者」の一体で、[[ライオン]]型。コクピットにバリランダーが合体し、ガイナモが操縦する。 : 武器は両腕の鉤爪。顔の側面からコントロール装置を出し、スカイギギューンとマリンザブーンのコクピットに取り付けて遠隔操縦する。胸部からの光線で相手を引き寄せ、胸部に磔にする。これでダップを捕らえ、クルマジックパワーを悪の力・アクマジックパワーに変換する機能で他の2体と共にパワーアップする。3体でアクマジックパワーを溜めて放つ合体技・必殺ビームを使う。 : カーレンジャーの必死の説得により、ダップがカーレンジャーとの友情を回復させたことでアクマジックパワーが暴走。クルマジックパワーが戻ったRVロボとVRVロボの連携技・RVソードツイスターカッターを受けて破壊され、同時にバリランダーも故障。捕えられていたダップは爆発寸前に脱出に成功した。 ; バリンガーZ : 劇中には未登場のまま終わった、終盤ごろに登場予定だったボーゾックの巨大ロボット。 :* 名前やデザインも『[[マジンガーZ]]』にそっくりで、放映時の雑誌などで登場が予告されていた<ref>{{Twitter status2|mandarake_ooi|752113812342386688|2016年7月10日|4=『テレビランド』1997年2月号より|accessdate=2019年11月12日}}</ref>。ガイナモを演じた大竹宏によれば、ノリにのった大竹が「ジャンジャジャーン」と『マジンガーZ』のキャラクター・ボスのセリフを[[即興|アドリブ]]で披露したと撮影の打ち上げパーティでの挨拶で語ったため、バリンガーZのことを知らされていなかった東映幹部に存在がばれてしまい、[[永井豪]]と[[ダイナミック企画]]からクレームが来るのではないかとの懸念が生じ、急遽撮りなおしとなったという{{R|boss}}。 :* その後、コクピットのセットはノリシロン-最終に流用された。 == 設定 == ; クルマジックパワー{{R|超全集4}} : 車型の星座から授けられるカーレンジャーの力の源{{R|超全集4}}。正義と夢と友情を愛する者に常人の数百倍の体力を与える{{R|超全集4}}。 : カーレンジャーのクルマジックパワーはダップを介して与えられており、ダップと5人の間に心の溝が生じると変身できなくなる{{R|超全集46}}{{R|group="ep"|41話}}。 ; 株式会社ペガサス : カーレンジャーの5人が戦士になる前から勤めている自動車会社。実際には町工場レベルであり、自動車の修理や雑用が主になっている{{R|超全集46}}。ダップが初めて地球に降り立った際、クルマジックパワーによってカーレンジャー基地とそこに繋がる扉が作られた。物語終盤にて、ボーゾックが基地内部に仕掛けた爆弾で社屋ごと爆破されてしまうが、カーレンジャーとダップはVRVマスターが極秘に作っておいた非常用の地下室で命拾いした{{R|group="ep"|47話}}。最終決戦後には修復された。 === 天体 === ; 車型星座 : ハザード星に伝わるクルマジックパワーの源となる星座で、それぞれ赤、青、緑、黄、桃の5色のカラーでかつ、レンジャービークルを象った形状をしており、地球でペガサスの社員だった5人が考えていたそれぞれの夢の車のデザインとも一致していた。ここからクルマジックパワーを貰い受けることによってハザード星人はクルマジックパワーを発揮できる他、カーレンジャーに変身と戦う能力を与え、レンジャービークルとVRVマシンといった巨大メカ類にも力を吹き込むことができる。 : 地球時間の1997年1月24日{{efn|第46話の本放送日に当たる。}}の午後1時に、星座を酔わせる酒の星座によって星座を護る力が弱った際、エグゾスの体内へと封印されクルマジックパワーも失われてしまったが、カーレンジャーの乗り込んだバリバリアンの特攻によって星座は解放され、クルマジックパワーは取り戻された。 :* メインライターの[[浦沢義雄]]は、自分好みのテイストとして設定し、細かい理屈は考えていないと述べている{{R|20th32}}。 ; ハザード星 : ダップとVRVマスターの故郷の星。 : クルマジックパワーによって平和な文明を築き、宇宙を守る5つの車型星座によって守護されていたが、占い師スゾグエ(エグゾス)の運勢口車にのせられたボーゾックによって、ダップは母と同胞たちだけでなく、母星までも花火にされて失ってしまう。 ; ポリス星 : シグナルマンの故郷である[[土星]]に似た輪のある惑星で、宇宙の治安を守る宇宙警察の本拠地でもある。ここの警察官たちは宇宙交通ルールを持って宇宙暴走族に対処していた。 : 物語中盤では星の周囲に悪性の排気ガスが蒔かれ、これを吸ったポリス星の住人は[[喘息]]に陥って{{efn|作中では「喉が痛くなるよう洗脳された」とされている。}}運動会が中止されてしまった他、カーレンジャーに濡れ衣を着せたエグゾスの讒言による噂を真に受けたシグナルマンを狂暴化させ、悪に染まらせたこともあった{{R|group="ep"|35話}}。後にカーレンジャーによって特効薬として大量の[[サイダー]](ゲップにより排気ガスを体外に排出させる)を送られたことで、ポリス星の住人は回復し、シグナルマンも正気に戻ったことで排気ガス事件は解決した。 ; ファンベル星 : ゾンネットとラジエッタの故郷の星。ゾンネットは元々はこの星の王女バニティミラーだったが、婚約者を捜して強引に跡を継がせようとする両親に嫌気がさし、自分に合ったいい男を捜す意味でボーゾックに入った。名の由来は「ファンベルト」から。 : 後にこの星もエグゾスの宇宙征服の暴威に巻き込まれてしまい、星が荒らされていることがラジエッタの弁で語られ、ゾンネットは妹の説得を受ける形で、星を救うためにボーゾックを離脱して母星に戻ることとなる{{R|group="ep"|45話}}。 === ボーゾック関連の用語 === ; 宇宙スポーツ{{R|超全集48}} : 宇宙中で配布される[[スポーツ新聞]]で、ボーゾックも購読している。略称「宙スポ」。 : 地球のその手の新聞と同じく、大仰な記述や、胡散臭い触れ込みが多く、ダップからも「ガセネタが多い」とあまり信用されていない{{efn|一方でカーレンジャー5人と喧嘩状態になり、父への思いが強くなったダップが、宙スポ記事(エグゾスの策略)での書き込みが気になって罠に嵌り、捕まってしまったこともある{{R|group="ep"|41話}}。}}。 : また、ボーゾックはこれ以外にも地球のスポーツ新聞も取っており、そちらではカーレンジャーの活躍や、ボーゾックのマヌケぶりをバカにするような記事が書かれている。 ; 少年ダッシュ{{R|超全集48}} : ボーゾックが読んでいる[[漫画雑誌]]。 ; 暴辞典{{R|超全集48}} : ボーゾックの[[百科事典]]で、様々な暴走用語などが記述されている。 ; 宇宙ランド{{R|超全集48}} : エグゾスが発刊し、全宇宙の悪者に毎月配布している巨大雑誌で、ノリシロン-12などの悪の装備が付録として同梱されている。[[徳間書店]]より刊行され、本作品の掲載誌のひとつでもあった『[[テレビランド]]』のパロディ{{efn|この年を最後にテレビランドは休刊となり、特撮番組のパロディネタに使われることで終わらせることが出来たという。『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』(1997年){{Full|date=2012年4月}}}}で、同誌1996年12月号には綴じ込み付録として、同名の企画コーナーも掲載された。 == キャスト == 土門直樹役の[[増島愛浩]]と八神洋子役の[[来栖あつこ]]は本作がデビュー作となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/107317|title=新人ミニスカポリス日向ひな 初DVDに「もっと脱げばよかったかな」|publisher=東スポweb|date=2018-11-10|accessdate=2023-02-18}}</ref>。上杉実役には実際に[[大阪府]]出身の[[福田佳弘]]を起用{{R|超全集52}}。陣内恭介役の[[岸祐二]]は本作品以降もシリーズ作品に様々な役で出演している。 岸が{{CP932フォント|髙}}寺から聞いたところによると、コメディの素質がある岸と福田が先に決定し、残りの3人はバランスを取りながら決めていったという{{R|20th20}}。本作品では、変身前は戦わないという方針であったため、メインキャストに本格的なアクション指導はなく、初期の撮影では従来の作品のような早朝のロケ出発もなかったという{{R|20th20}}。後半には素面でのアクションも増えていったが、岸はストーリーでも戦うことに対する自覚が芽生えたことを描くために必要なことであったと述べている{{R|20th20}}。 年間を通して[[ナレーション|ナレーター]]が存在しない本作品では、複数話にまたがるエピソードの完結編や次回予告の際には、役者自らの声で説明が行われる。また、次回予告の終わりには毎回交通標語がその回の予告担当者によって読み上げられる。 ボーゾックのヒロインであるゾンネットには元[[AV女優]]である[[七瀬理香]](旧名・水谷リカ)が起用されたが、このキャスティング傾向について東映のチーフプロデューサーを務めた髙寺成紀は、自身が少年時代に見た『[[恐竜100万年]]』などに登場するナイス系の女性や、大学生活を経て入社するまでの数年間に見た『[[超電子バイオマン]]』『[[電撃戦隊チェンジマン]]』『[[超新星フラッシュマン]]』の影響と述べている{{R|heroine}}。敵組織の幹部クラスにいわゆるセクシー系の女優を起用する傾向は、髙寺が携わった後続の戦隊作品においても踏襲されることとなる。 声優面では、ボーゾック側のレギュラーである総長ガイナモの声には悪役のボスやガキ大将の役柄を得意とする[[大竹宏]]を、また副長ゼルモダと発明家グラッチの声にはギャグキャラの役柄が多い[[津久井教生]]と[[長嶝高士]]を起用。また[[加藤精三 (声優)|加藤精三]]、[[飯塚昭三]]、[[渡部猛]]、[[関智一]]、[[肝付兼太]]などゲスト出演の面々も含め、前作同様若手やベテランを多く織り交ぜたキャスティングとなっている。 === レギュラー・準レギュラー === * 陣内恭介 / レッドレーサー:[[岸祐二]] * 土門直樹 / ブルーレーサー:[[増島愛浩]] * 上杉実 / グリーンレーサー:[[福田佳弘]] * 志乃原菜摘 / イエローレーサー:[[本橋由香]] * 八神洋子 / ピンクレーサー:[[来栖あつこ]] * 天馬総一郎:[[エド山口]](2 - 4,9,11,19,22,28) * 天馬良江{{efn|第15話では「社長の奥さん」と表記。}}:[[岩崎良美]](3,4,15,28) * 天馬市太郎:寺岡龍治(3 - 5,11,13,15,18,19,22 - 28,30,32,36,46 - 48) * ゾンネット:[[七瀬理香]](1 - 19,21 - 25,28 - 45,47,48) * ラジエッタ:[[濱松恵]](25)、[[須藤実咲]](34,45,46,48) * 芋長主人:[[南州太郎]](5,7,15,38) * 八百屋:[[高月忠]](8) === 声の出演 === * シグナルマン:[[大塚芳忠]](12 - 17,20,22,24,26 - 28,35 - 38,42 - 44,46 - 48) * VRVマスター:[[小林清志]](29 - 32,43,47,48) * シグエ:[[長沢美樹]](28,35,36,44,48) * シグタロウ{{efn|name="noname"|オープニングクレジットでは役名未表記。}}:沢田雄希(28)→池上央将{{efn|第35・36話のクレジットでは「池上将央」と表記。}}(35,36,44,48) * ガイナモ:[[大竹宏]](1 - 25,27 - 48) * ゼルモダ:[[津久井教生]](1 - 25,27 - 48) * グラッチ:[[長嶝高士]](1 - 19,21 - 25,27 - 48) * ダップ:[[まるたまり]](1 - 30,33 - 43,46 - 48) * リッチハイカー / リッチリッチハイカー:[[田中信夫]](16 - 25,28 - 31) * 宇宙ゴキブリ / ゴキちゃん:[[桜井敏治]](5,7,15,22,41,47,48) * 暴走皇帝エグゾス{{efn|第35・36話のクレジットでは「謎の支配者」と表記。}}:[[小林修 (声優)|小林修]](35 - 48) === ゲスト === * スカウトマン:[[岸博之]] (7) * バスの運転手:[[岡本美登]] (11) * スカウトマン:[[高原知秀|高原智秀]] (11) * 恵美:[[大塚露那]] (18、30) * 恵美の父:[[栗原敏]] (18) * 少女時代の菜摘{{efn|第44話のクレジットでは「菜摘の少女時代」と表記。}}:[[瀬長奈津実]] (18、44) * 織姫:奥野忍 (20) * 彦星:入江真行 (20) * 音頭を歌うお姉さん:[[朝川ひろこ]] (23) * カレン王女:[[広橋佳以]] (23) * おばあさん{{efn|name="noname"}}:[[山本緑]] (26) * 床屋{{efn|書籍『轟轟戦隊ボウケンジャー キャラクターブック PRECIOUS!』では「リッチハイカーが化けた床屋」と表記{{R|PRECIOUS!}}。}}:田中信夫(31){{R|PRECIOUS!}} * 焼肉屋主人:[[泉福之助]] (32) * お天気お姉さん:若杉麻里亜 (33) * 弁当屋:[[木村修]] (35) * 芋長の奥さん:[[喜多道枝]] (38) * イモタク:滝智行 (38) * 少年時代の直樹:[[飯塚恭平]] (39) * 直樹の母:松尾晶代 (39) * 修理工のお爺ちゃん:林孝一 (44) === スーツアクター === 横山一敏によれば、本作品は従来よりも変身前後のシンクロが要求されたため、変身前の俳優陣との打ち合わせが密に行われ、変身後の芝居も多かったと述べている{{R|20th9732}}。 * レッドレーサー{{Refnest|group="出典"|{{R|20th8|20th9732|宇宙船}}}}、総長ガイナモ{{R|music1|仮面俳優71}}:[[横山一敏]] * ブルーレーサー{{Refnest|group="出典"|{{R|Toei33|仮面俳優71|21stvol14|20th10}}}}、宇宙ゴロツキ{{R|仮面俳優71}}:[[竹内康博]] * グリーンレーサー{{R|仮面俳優163|20th12}}:[[大藤直樹]] * イエローレーサー<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-22|url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-10900140633.html|title=カ~レンジャー!|publisher=motoブログ(中川素州オフィシャルブログ)|accessdate=2011-05-23}}</ref>{{R|20th14}}:[[大林勝]] * ピンクレーサー<ref>{{Cite web|和書|date=2009-02-16|url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-10209655116.html|title=そういえば・・・|publisher=「motoブログ」|accessdate=2011-04-29}}</ref>{{R|20th16}}、レスキューファイター<ref name="moto20130921">{{Cite web|和書|date=2013-09-21|url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-11618516098.html|title=iphone!ドコモへ |publisher=「motoブログ」|accessdate=2015-11-15}}</ref>、サイレンダー{{R|moto20130921}}、JJジェットン{{R|moto20130921}}:[[中川素州]] * ダップ{{R|music1}}:[[田邊智恵|田辺智恵]] * ピンクレーサー(代役){{R|moto20130921}}:[[蜂須賀祐一]]、[[神尾直子]] * シグナルマン{{Refnest|group="出典"|{{R|Toei38|仮面俳優143|20th18}}}}:[[岡本美登|O-BITOH]] * VRVマスター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=42&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第42話|publisher=東映|accessdate=2011-05-03}}</ref>:[[森山貴文]] * 副長ゼルモダ{{R|Toei38|仮面俳優23}}、暴走皇帝エグゾス{{R|Toei38|仮面俳優23}}、ノリシロン-12{{R|Toei38}}、怪人{{R|仮面俳優23}}:[[福沢博文]] * 発明家グラッチ{{R|music1}}:森美昭 * 宇宙ゴキブリ・ゴキちゃん{{R|Toei33}}、リッチハイカー教授 / リッチリッチハイカー教授{{R|Toei33}}、ボーゾック怪人{{R|Toei33}}{{efn|XXミレーノ(第27話)<ref>{{Twitter status|moto55v|1263023676263264257}}</ref>、PPチープリ(第38話){{R|toei-18}}}}、ワンパー{{R|toei-18}}:[[伊藤慎]]{{efn|第19話までのクレジットでは「伊藤真」と表記。}} * シグエ<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=36&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第36 話|accessdate=2011-05-03}}</ref>:[[飯干隆子]] * その他<ref>{{Cite web|和書|title=SAP剣武会 山口照雄 プロフィール |url=https://web.archive.org/web/20160304200733/http://sports.geocities.jp/kenbukai_004/p_yamagutiteruo.htm |website=web.archive.org |date=2016-03-04 |access-date=2023-08-15}}</ref> - [[山口照雄]] == スタッフ == 前作から営業に専念した[[鈴木武幸]]に替わり、本作品からは当時若手の[[髙寺成紀]]がメインプロデューサーに就任{{R|20th5}}。これにより、脚本や監督などの編成は意図的に前作『オーレンジャー』とは違う人員で固められることが多くなった。 脚本面では、戦隊初参加となる[[浦沢義雄]]がメインライターを務めることになり、戦隊シリーズで浦沢がメインライターを担当した作品はこれが唯一である。{{CP932フォント|髙}}寺は、浦沢の起用を一旦は躊躇したものの、[[企画者104]]の葛西おとの後押しにより決定したと述べている{{R|20th5}}。他の脚本担当には、[[荒川稔久]]や本作品を最後に東映ヒーローから離れた[[曽田博久]]が名を連ねている。荒川は、浦沢の脚本はふざけているようにみえて深い真実を内包しているのに対し、自身の脚本は深みもないまま楽しみすぎてしまったと述懐している{{R|20th93}}{{efn|荒川が後にメインライターを務めた『[[非公認戦隊アキバレンジャー]]』では、このときの反省が活かされているという{{R|20th93}}。}}。 演出面では、パイロット作品を東映作品最後の担当となった[[小林義明]]が演出し、3話以降は浦沢との付き合いの長い[[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]を始め、[[渡辺勝也]]、[[田﨑竜太]]の3人が中心となりローテーションを組んだ。特に渡辺は最多となる17作品を演出。シグナルマン登場編、2度に亘る新ロボ登場編、地方ロケ編、そして最終話に至るまで本シリーズの要となる作品を全て手掛けている。またその後の戦隊シリーズの演出陣の主力となった[[竹本昇]]も、本作品の第44話にて監督デビューを果たしている。 劇中音楽は本作品が東映作品初登板であり、その後も平成仮面ライダーシリーズなど東映特撮に多数携わることの多い[[佐橋俊彦]]が担当した。佐橋は、初回録音時に60から70曲を用意せねばならず録音に作曲が間に合わず、その後もアイデアを使い果たしてしまい試行錯誤するなどの苦心があったことを後年のインタビューで述べている<ref>{{Cite book |和書 |date=2014-06-20 |title=[[獣電戦隊キョウリュウジャー]]公式完全読本 |publisher=[[ホビージャパン]] |pages=pp.78-79 |chapter=musician INTERVIEW 佐橋俊彦 |isbn=978-4-7986-0828-0 }}</ref>。髙寺からの要望はいずれもハイテンポで勢いやスピードを強調していたため、佐橋は[[ディープ・パープル]]の曲調にオーケストラやシンセサイザーを加えたイメージとしている{{R|21st13}}。 キャラクターデザインは『[[特捜ロボ ジャンパーソン]]』などで東映特撮にも関わった経験を持つ野崎明と、前作より続投の阿部統が担当{{R|20th98}}。また次作『メガレンジャー』にて本格的に参加となった下条美治も、ダップ関連のデザインという形で本作品に携わっている{{Sfn|百化繚乱 下之巻|2012|pp=104-105|loc=「DESIGNER'S INTERVIEW05 下条美治」}}。 * 原作:[[八手三郎]] * 連載:[[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]](最終回直前に休刊) * プロデューサー:[[梶淳]]、[[岩本太郎]]、[[太田賢司]](テレビ朝日)、[[髙寺成紀]](東映)、矢田晃一(東映エージエンシー) * 脚本:[[浦沢義雄]]、[[曽田博久]]、[[荒川稔久]] * 監督:[[小林義明]]、[[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]、[[渡辺勝也]]、[[田﨑竜太]]、松井昇、[[竹本昇]] * 音楽:[[佐橋俊彦]] * 撮影:[[いのくままさお]] * 照明:竹田勝三、吉岡伝吉、高橋道夫 * 美術:山下宏 * 録音:石川孝 * 編集:伊吹勝雄、成島一城 * 計測:黒須健雄 * 操演:船越幹雄 * 記録:安倍伸子 * 選曲:宮葉勝行 * 音響効果:[[大泉音映]] * 装飾:高谷昌毅、塩満義幸([[装美社]]) * 装置:東映美術センター、福居勉(紀和美建) * 美粧:若村和代(サン・メイク) * 衣裳:笠井智恵子(東京衣裳新社) * 企画協力:[[企画者104]] * キャラクターデザイン:野崎明、[[阿部統]]、下条美治 * 資料担当:葛西おと * 視覚効果:沖満([[日本映像クリエイティブ|映画工房→日本映像クリエイティブ]]) * デジタル合成:大谷喜朋 * CG:[[東映アニメーション研究所]] * 造型:[[レインボー造型企画]]、[[前澤範|前沢範]] * 技術協力:[[東通]] * 現像:[[東映化学工業|東映化学]] ファイン・ネガ・ビデオシステム * 広報:奥村彰浩、鈴木かおり(テレビ朝日) * 撮影協力:新東京テクノ、三貴プリパレーション * カースタント:[[タケシレーシング]] * 車両協力:[[スズキ (企業)|スズキ株式会社]]、[[BMW]] * ミニチュア:アルファ企画、東陽モデル、ミューロン * イラスト:[[野口竜]]、薄永俊之、スタジオメルファン、ARZスタジオ * 助監督:田﨑竜太、竹本昇、[[中澤祥次郎|中沢祥次郎]]、[[深作健太]] * 進行主任:小迫進、谷口正洋 * 制作デスク:岩永恭一郎 * 制作担当:藤田佳紀 * アクション監督:[[山岡淳二]]・[[村上潤|J・ムラカミ]]([[ジャパンアクションクラブ]])、[[新堀和男]]([[レッドアクションクラブ]]) * [[特撮研究所]] ** 操演:[[鈴木昶]]、[[尾上克郎]] ** 撮影:高橋政千 ** 照明:保坂芳美 ** 美術:木植健次 * 特撮監督:[[佛田洋]] * 制作:[[テレビ朝日]]{{efn|第41話エンディングより、1996年秋に制定されたネットワークシンボルが付加。}}、[[東映]]、[[東映エージエンシー]] == 音楽 == 本作品より[[木村英俊]]に代って本地大輔ディレクターがスーパー戦隊シリーズを担当するのに伴い、音楽展開においてもそれまでとは大きな変化が見られるようになった。その最たるものが、主題歌を含めた合計32曲もの歌曲と、それらほぼ全て(4曲はシングル未発売)の先行シングルカット化である。これに伴い主題歌もOPとEDが別売仕様となり、各カップリングには挿入歌が収録されるようになった。 また、それまで「ヒット曲集」としてリリースされていた前出の歌曲のアルバムも「ソングコレクション」に、「音楽集」は「ミュージックコレクション」へと改題され、それぞれ3枚がリリースされた。これらの他にも、純然たる企画ものとして「激走戦隊カーレンジャー★Merry Xmas!From Carranger ソングコレクション」が発売されている。ここではシングル発売された「Merry Xmas! from カーレンジャー」{{efn|曲自体の音源はシングルや「ソングコレクション」に収録されたものと同じだが、間奏にセリフが被せられている。}}の他、[[佐橋俊彦]]編曲による「ジングルベル・フルアクセルヴァージョン」が事実上の新曲であり、他に[[日本コロムビア]]学芸部製作のクリスマスソング用カラオケを流用したものが8曲収録された。歌唱は全て[[岸祐二]]ら出演者たちによるもので、スーパーアクションサウンドのように恭介たちの掛け合いセリフも収録されている(実が子供のころの思い出を語る際に「[[仮面ライダーV3]]の変身ベルトが…」と発言するなど、かなりテンションの高いやり取りが聴ける)。同様の企画CDは[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|セーラームーン]]でも行われた。 [[コロちゃんパック]]ではレギュラーメンバーがラジオのDJ形式で曲紹介やミニドラマを展開する『げきそうドキドキ放送局』が製作され、こちらも3タイトルに渡ってリリースされている。 主題歌の歌手にはシリーズ初参加の高山成孝が起用され、挿入歌の歌手には前作『オーレンジャー』の主題歌・挿入歌を歌唱した速水けんたろうや『[[仮面ライダーBLACK]]』のエンディング曲を歌唱した坂井紀雄、[[メタルヒーローシリーズ]]の『[[ブルースワット]]』や[[ウルトラシリーズ]]の主題歌・挿入歌を歌唱した前田達也などが起用された。 ; 主題歌 :; 前期オープニングテーマ「激走戦隊カーレンジャー」(第1 - 13話) :: 作詞:[[森雪之丞]] / 作曲・編曲:[[小路隆]] / 歌:[[高山成孝]] :: 実際の作風とは異なり、ギャグ面はほとんどない純粋なヒーローソングである。最終回ではEDとして使用された。 :: フルサイズ版は2番で終了し、演奏時間は2分41秒とシリーズ最短のOP曲となっている。 :; 後期オープニングテーマ「激走戦隊カーレンジャー 〜フルアクセルヴァージョン〜」(第14 - 48話) :: 作詞:森雪之丞 / 作曲:小路隆 / 編曲:[[奥慶一]] / 歌:高山成孝 :: 第14話よりオープニング曲が別アレンジバージョンとなり、シリーズで初めてオープニング曲が変更された{{efn|次々作『[[星獣戦隊ギンガマン]]』から『ガオレンジャー』までは、総集編のみ別ヴァージョンが使用され、『[[特命戦隊ゴーバスターズ]]』では後期より全く別のオープニング曲が使用されている。}}。この変更に関してプロデューサーの髙寺は、「シンセの軽快さに、生ブラスの豪快さやゴージャスさもプラスした方がいい」との思いから変更したと語っている<ref>{{Cite tweet|user=daimajinkanon|number=72076007309455360|title=シンセの軽快さに、生ブラスの豪快さやゴージャスさもプラスした方がいいかなぁと思って(高)|accessdate=2022-3-16}}</ref>。 :: 原曲は2番で終了するが、こちらは2番のサビの後にもう1回サビが存在し、演奏時間が延長されている。 :: 本作品から『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』まではOP曲の英語バージョンも製作された。 :; エンディングテーマ「天国サンバ」(第1 - 47話) :: 作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:高山成孝 :: OPとは異なり、本作品の特徴であるギャグ面がふんだんに取り込まれた楽曲で、歌詞は完全に敵サイドからのものとなっている。作中ではグラッチと小さくなったMMモグーが口ずさんでいた。 :: 第48話(最終回)では本編内でインストゥルメンタル版が使用された。 :: 映像も敵サイドが中心で、カーレンジャーは変身後の姿のみ登場。 : ; 挿入歌 :; 「くる! クルマジックパワー!」(第21話) :: 作詞:[[荒川稔久]] / 作曲・編曲:[[亀山耕一郎]] / 歌:[[速水けんたろう]] :: 第21話ではインストゥルメンタル版と併用され、第26・32話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 :; 「青春サーキット」(第11・18・44話) :: 作詞:洲崎千恵子 / 作曲・編曲:出口雅生 / 歌:[[朝川ひろこ]] :: 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』では、歴代の女戦士(ファイブマンのファイブピンク以降)を紹介する際の挿入歌として使用されている。 :; 「心のままに」 :: 作詞:洲崎千恵子 / 作曲:出口雅生 / 編曲:亀山耕一郎 / 歌:渕上祥人 :: 劇中使用は無かったが、歌詞が最終回の台詞に引用された。 :; 「激走合体!! RVロボ」(第6・7・9・12・40話) :: 作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:高山成孝 :: 第5・10・11・16・18・23・24・25話およびVSオーレンジャーではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「俺達はカーレンジャー」(第8・19話) :: 作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:高山成孝 :: 第9話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「白バイ野郎シグナルマン」(第12・13・17・22話) :: 作詞:小泉卓 / 作曲・編曲:[[佐橋俊彦]] / 歌:[[高尾直樹]] :: 第12話ではAパートで歌唱版、Bパートでインストゥルメンタル版がそれぞれ使用された。 :: 第13話ではカラオケ版と併用され、第27・28・44話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 :; 「CATCH THE WIND」(第18話) :: 作詞:[[妹尾研祐]] / 作曲・編曲:亀山耕一郎 / 歌:[[前田達也]] :: 第46話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「CARRANGER THE UNSTOPPABLE〜オープニングテーマ英語ヴァージョン〜」(第38話) :: 作詞:T.CRANE / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:[[神崎まき|Mickey]] / コーラス:TOULOUSE :; 「ダップのうたダップ!」(第29話) :: 作詞:まるたまり / 作曲・編曲:[[佐橋俊彦]] / 歌:ダップ(まるたまり) :: 秘密基地内でダップが歌っていた。 :; 「ペガサスサンダー GO! GO! GO!」(第20話) :: 作詞:[[渡辺勝也]] / 作曲・編曲:[[三宅一徳]] / 歌:[[坂井紀雄]] :: 第20話ではインストゥルメンタル版と併用され、第21・36話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 :: ソングコレクション用に、台詞部分をカットし2番サビの歌詞をドラゴンクルーザーのものとした「type B」が存在する。 :; 「カーレンジャー音頭」(第23話) :: 作詞:小泉卓 / 作曲・編曲:見里朝生 / 歌:朝川ひろこ :; 「カーレンジャー輝く」(第39話) :: 作詞:[[中澤祥次郎|中沢祥次郎]] / 作曲・編曲:亀山耕一郎 / 歌:高尾直樹 :; 「うたおう! 交通安全 〜カーレンジャーになれるんジャー〜」 :: 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:見里朝生 / 歌:[[山野さと子]]、森の木児童合唱団 :; 「だから戦うカーレンジャー」(第32・47話) :: 作詞:荒川稔久 / 作曲・編曲:三宅一徳 / 歌:渕上祥人 :: 第42話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「夢見るゾンネット」(第15・21・29話) :: 作詞:[[浦沢義雄]] / 作曲・編曲:佐橋俊彦 / 歌:ゾンネット(七瀬理香) :: 第21話ではバリバリアンで、第29話ではカラオケボックスでゾンネットが歌っていた。 :; 「激走体操カーレンジャー」(第33話) :: 作詞:サイトウシゲツグ / 作曲・編曲:佐橋俊彦 / 歌:速水けんたろう、森の木児童合唱団 :: 第43話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「SHOOT! カーレンジャー」(第26話) :: 作詞:小泉卓 / 作曲・編曲:[[奥慶一]] / 歌:坂井紀雄 :: 第26話ではインストゥルメンタル版と併用され、第43話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 :; 「Samba Pradiso〜エンディングテーマ英語ヴァージョン〜」 :: 作詞:T.CRANE / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:Mickey / コーラス:TOULOUSE :; 「絶対勝利だ! VRV」(第31・33・34・36・43話・VSオーレンジャー) :: 作詞:小泉卓 / 作曲・編曲:佐橋俊彦 / 歌:坂井紀雄 :: 第31・36・43話ではインストゥルメンタル版と併用され、第39話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 :; 「かぞえてバトルだ! カーレンジャー!!」(第31話) :: 作詞:只野太陽 / 作曲・編曲:[[一ノ瀬響]] / 歌:高山成孝 :: 作詞の「'''只野 太陽'''」は、[[徳間書店]]『[[テレビランド]]』副編集長(当時)の治郎丸慎也のペンネーム<ref name="Toei47">{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=47&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第47話|publisher=東映|accessdate=2011-05-03}}</ref>。 :: 第39話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「くもり空の夜だから」(第32話) :: 作詞:洲崎千恵子 / 作曲・編曲:出口雅生 / 歌:陣内恭介(岸祐二) :: 第32話では恭介がペガサスで歌っていた。第45話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「夢見るらぶらぶラジエッタ」(第34話) :: 作詞:荒川稔久 / 作曲・編曲:亀山耕一郎 / 歌:ラジエッタ(須藤実咲) :; 「RED ZONE バトルはBIN! BIN! BIN!」(第46話) :: 作詞:或部諧(阿部活) / 作曲・編曲:亀山耕一郎 / 歌:高尾直樹 :: 作詞の「'''或部 諧'''」は、[[小学館]]『[[てれびくん]]』カーレンコール担当(当時)の阿部活のペンネーム{{R|Toei47}}。 :; 「どこまでも、いつまでも」 :: 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:出口雅生 / 歌:渕上祥人 :; 「暴走戦隊ゾクレンジャー」(第25話) :: 作詞:荒川稔久 / 作曲・編曲:小路隆 / 歌:高山成孝 :: ゾクレンジャー登場時、戦闘BGMとして流れたオープニングテーマのセルフパロディ([[替え歌]])。歌詞の内容は原曲と反対に、悪への勧めや悪の心情を歌う内容となっている。 :: CDのブックレットなど多くの媒体で作詞者が「'''宮場勝行'''」とされているが、これはコロムビア側の手違いであり、実際には番組のサブライターを務めた荒川稔久が作詞を担当している<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=43&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第43話|publisher=東映|accessdate=2011-05-03}}</ref>。なお、選曲担当・作曲家の[[宮葉勝行]]とは無関係である。 :; 「ビクトレーラー 巨大なるマシン」 :: 作詞:東映テレビプロ文芸室 / 作曲・編曲:佐橋俊彦 / 歌:VRVマイスタージンガー :: 第30・31・35・43話およびVSオーレンジャーではカラオケ版が使用された。 :; 「げきそうマシン大集合!!」 :: 作詞:田神悠{{efn|[[バンダイ]]『[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]』のライター。}} / 作曲・編曲:一ノ瀬響 / 歌:[[坂田おさむ]]、[[森の木児童合唱団]] :; 「Merry Xmas! from カーレンジャー」(第43話) :: 作詞:[[藤林聖子]] / 作曲・編曲:佐橋俊彦 / 歌:カーレンジャー(岸祐二、増島愛浩、福田佳弘、本橋由香、来栖あつこ、まるたまり) :: インストゥルメンタル版と併用されて使用された。 : 上記の他、第2話で総一郎が「[[自動車ショー歌]]」を、恭介が「[[カローラIIに乗って]]」を口ずさむシーンが存在し、また第23話では「[[BREAK OUT! (相川七瀬の曲)|BREAK OUT!]]」、第31話では「[[You're my sunshine]]」、第38話では「[[three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった#収録曲|ハロー/いとこの来る日曜日]]」が挿入歌として使用された。 : === ドラマ入りコロちゃんパック === 本作品では3種のドラマ入りカセットが発売された。これ以前にあったスーパーアクションサウンドシリーズに比べ、戦いを描くシーンはほとんど無く、あくまでドキドキ放送局という番組進行の形になっている。以下にタイトルと概要を紹介する(挿入曲は割愛)。 * COTZ971「激走戦隊カーレンジャー〜げきそうドキドキ放送局」各コーナー冒頭にはカーレンジャー標語が紹介される。 ** sideA **#〔おしゃべり (1)〕恭介の「げきそうドキドキ放送局!!」…選曲担当のダップはいきなり[[超力戦隊オーレンジャー|前作]]の曲をかけてしまう **#〔おしゃべり (2)〕直樹の「なんでもナンバー1!」…直樹の独断で決めた結果に恭介は不満を漏らす **#〔おしゃべり (3)〕実の「発見!ごっつうまい店!!」…芋長へ現地取材に向かうとグラッチと遭遇となりカーレンジャー出動 **#〔おしゃべり (4)〕もうすぐB面 …芋丁に向かうところでA面終了 **sideB **#〔おしゃべり (5)〕菜摘の「知ってトクする交通ルール」…クイズ形式だがシグナルマンが登場して彼のペースに **#〔おしゃべり (6)〕洋子の「よいこ電話相談室」…電話の相手は聞き覚ええのある声であった **#〔おしゃべり (7)〕5人そろって出動「激走!アクセルチェンジャー!!」…番組の締めに入ろうとするとボーゾック発生で出動 * COTZ980「激走戦隊カーレンジャー〜げきそうドキドキ放送局2」コーナーのラストによっては「歌え!カーレンジャーの歌」という題名でカーレンジャーのメンバーがOPやEDの替え歌を披露する。 **sideA **#〔おしゃべり1〕恭介の「マジでげきそうドキドキ放送局!!」…寝坊した恭介たちはダップの電話でスタジオへ急ぎ、放送開始 **#〔おしゃべり2〕洋子の「1分間クッキング!」…まるでうまくいかない洋子の料理 **#〔おしゃべり3〕直樹の「美しい日本語講座」…直樹がダップに正しい日本語を教えるが、最終的には直樹がおかしくなってしまう **#〔おしゃべり4〕VRVマスター登場で、もうすぐB面 …最後の最後までギャグが盛り込まれている **sideB **#〔おしゃべり5〕菜摘の「激走カーナビック占い」…VRVマスターの正体を探るべく、菜摘がインタビュー **#〔おしゃべり6〕実の「激走むかしばなし」…『カーレンたろう』なる昔話を披露するが、しどろもどろに… **#〔おしゃべり7〕出動!VRVマシン!!…ボーゾックが出現し、VRVマシンで戦いを挑む **#〔おしゃべり8〕おはようダップで、じゃあまたね!…この時点で第3弾クリスマス編の予告を告げている * COTZ984「激走戦隊カーレンジャー〜げきそうドキドキクリスマス!!」12月24日クリスマスイブにおける恭介たちのドラマである。挿入曲もクリスマスアルバムに準じている。 **sideA **#〔おしゃべり (1)〕クリスマスだよ!カーレンジャー」…ペガサスでパーティの準備を開始する五人とダップ **#〔おしゃべり (2)〕わくわくパーティー準備中…ダップの勘違いなどありつつ **#〔おしゃべり (3)〕いきなりサンタのプレゼント!?…[[サンタクロース]]からプレゼントが届くが、それは配送代行依頼であった **#〔おしゃべり (4)〕出動!カーレンジャーサンタ!! …変身して配達に向かうカーレンジャーサンタ **sideB **#〔おしゃべり (5)〕ぬき足さし足大さわぎ…子供たちに気付かれないようプレゼントを届ける **#〔おしゃべり (6)〕いい子じゃない子はもらえない!…げきそうドキドキシリーズ初の対グラッチバトルシーン。最大の聴きどころといえる掛け合いが炸裂する **#〔おしゃべり (7)〕ホントのサンタのプレゼント…ボーゾック撃退となり、楽しくパーティ開始。サンタからのご褒美は1本のカセットテープであった == 放送日程 == サブタイトルには特に決まったフォーマットはないが、いずれも交通用語や自動車に関連する言葉が含まれたものとなっている。またエンディング後の次回予告では、簡単な交通安全講座も行っている。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!監督 |- |style="text-align: right;"|1996年{{0}}3月{{0}}1日 |1 |戦う交通安全 |style="text-align: left;"| * 暴走消防車 * ボーゾック(声:大塩昌則、[[相川冬也]]、[[米山信之]]、[[渡部るみ]]) |style="text-align: left;" rowspan="9"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="2"|小林義明 |- |style="text-align: right;"|3月{{0}}8日 |2 |踊る騒音公害 |style="text-align: left;"| * 宇宙のベートーヴェン・{{Ruby|BB|ビービー}}ドンパ(声:[[田中和実]]{{efn|オープニングではノンクレジットとなっていた。}}) * ボーゾック(声:相川冬也、渡部るみ) |- |style="text-align: right;"|3月15日 |3 |正義の初心者{{Ruby|印|マーク}} |style="text-align: left;"| * ボーゾックの根性叩き直し屋・{{Ruby|RR|リーリー}}リー(声:[[細井治]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|3月22日 |4 |巨大化に赤信号 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の大食い・{{Ruby|MM|モーモー}}モグー(声:[[河本浩之]]) * 巨大グラッチ |- |style="text-align: right;"|3月29日 |5 |この先激走合体 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の大食い・{{Ruby|MM|モーモー}}モグー * バリッカー |style="text-align: left;" rowspan="2"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|4月{{0}}5日 |6 |私達…一方通行 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の探しもの名人・{{Ruby|QQ|キューキュー}}キュータン(声:[[加藤精三 (声優)|加藤精三]]) |- |style="text-align: right;"|4月12日 |7 |{{Ruby|青|ブルー}}は進入禁止?! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の落書き名人・{{Ruby|NN|ネーネー}}ネレンコ(声:[[梅津秀行]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|田﨑竜太 |- |style="text-align: right;"|4月19日 |8 |変身{{Ruby|腕輪|ブレス}}不携帯 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の走り屋・{{Ruby|YY|ヤーヤー}}ビンゴ(声:[[千田義正]]) * ボーゾック一の走り屋・{{Ruby|YY|ヤーヤー}}ゴンザ(声:[[塩屋浩三]]) |- |style="text-align: right;"|4月26日 |9 |{{Ruby|星|スター}}へのUターン |style="text-align: left;"| * ボーゾックの皿洗い・{{Ruby|KK|クークー}}エス / 宇宙のスピード王マックス(声:[[二又一成]]) * {{Ruby|BB|ビービー}}ドドンパ{{efn|恭介の夢の中に登場。}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|5月{{0}}3日 |10 |大逆転!! 自転車教習 |style="text-align: left;"| * ボーゾックレディースの女番長・{{Ruby|LL|レーレー}}オネネ(声:[[柳沢三千代]]) |style="text-align: left;"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|5月10日 |11 |怒りの重量オーバー |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の数字の魔術師・{{Ruby|PP|パーパー}}ラッパー(声:[[江原正士]]) |style="text-align: left;"|荒川稔久 |style="text-align: left;" rowspan="3"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|5月17日 |12 |宇宙から来た信号野郎 |style="text-align: left;"| * {{Ruby|UU|ウーウー}}ウーリン(声:[[渡部猛]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|浦沢義雄 |- |style="text-align: right;"|5月24日 |13 |出動!! 自慢の緊急車両 |style="text-align: left;"| * 再生{{Ruby|UU|ウーウー}}ウーリン(声:渡部猛) |- |style="text-align: right;"|5月31日 |14 |雷地獄へフルアクセル |style="text-align: left;"| * エレキンタ(声:[[郷里大輔]]) |style="text-align: left;"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|田﨑竜太 |- |style="text-align: right;"|6月{{0}}7日 |15 |悪まで仮免恋愛中! |style="text-align: left;"| * {{Ruby|GG|ゴーゴー}}ゴキちゃん(声:[[桜井敏治]]) |style="text-align: left;"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;"|6月14日 |16 |ワル知恵合流注意 |style="text-align: left;"| * {{Ruby|JJ|ジェージェー}}ジェットン(声:[[高戸靖広]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|6月21日 |17 |押し着せ正面衝突! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のファッションデザイナー・{{Ruby|ZZ|ゼーゼー}}ゼリ(声:[[西村朋紘|西村智博]]) |- |style="text-align: right;"|6月28日 |18 |うそつきハート整備中 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の温泉研究家・{{Ruby|OO|オーオー}}オーパ(声:[[上田敏也]]) |style="text-align: left;"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|7月{{0}}5日 |19 |恋のあて逃げ娘! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のピッチャー・{{Ruby|HH|ヒューヒュー}}デーオ(声:[[関智一]]) |style="text-align: left;"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;"|7月12日 |20 |試乗最高の名車!! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の発掘野郎・{{Ruby|WW|ワーワー}}ワリッチョ(声:[[八代駿]]) |style="text-align: left;" rowspan="3"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="2"|田﨑竜太 |- |style="text-align: right;"|7月19日 |21 |カーナビを超えたカーナビ |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の祈祷師・{{Ruby|AA|アーアー}}アバンバ(声:[[青木和代]]) |- |style="text-align: right;"|7月26日 |22 |悲劇の交通ルール体質 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の虫とり名人・{{Ruby|CC|チャーチャー}}チャッコー(声:[[志賀克也]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}2日 |23 |王女様にオーバーヒート! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のアスリート・{{Ruby|VV|ヴゥーヴゥー}}ゴリーン(声:[[江川央生]]) |style="text-align: left;"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}9日 |24 |急発進?! ニューリーダー |style="text-align: left;"| * ボーゾック一偏差値が高い・{{Ruby|TT|テーテー}}テルリン(声:[[肝付兼太]]) |style="text-align: left;"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="2"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|8月16日 |25 |ナゾナゾ割り込み娘! |style="text-align: left;"| * 暴走戦隊ゾクレンジャー ** ボーゾック一のヒーロー研究家・{{Ruby|SS|スースー}}パマーン / ゾクレッド(声:[[林一夫]]) ** ゾクブルー(声:細井治) ** ゾクグリーン(声:[[宮田浩徳]]) ** ゾクイエロー(声:千田義正) ** ゾクピンク(声:[[塩野勝美]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;"|8月23日 |26 |ノンストップ宅配武器 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の通販マニア・{{Ruby|DD|ドードー}}ドンモ(声:[[龍田直樹]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|田﨑竜太 |- |style="text-align: right;"|8月30日 |27 |単身赴任の分岐点… |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のピザ作り名人・{{Ruby|XX|クスクス}}ミレーノ(声:[[納谷六朗]]) |style="text-align: left;" rowspan="6"|浦沢義雄 |- |style="text-align: right;"|9月{{0}}6日 |28 |さらば信号野郎!! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のお祭り野郎・{{Ruby|HH|ホイホイ}}ワッショイショイ{{efn|一部書籍では「HHワッショイワッショイ」と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=104}}。}}(声:[[峰恵研]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|9月13日 |29 |予期せぬ大怪獣事故!! |style="text-align: left;" rowspan="2"| * ブレーキング * リッチリッチハイカー教授 |- |style="text-align: right;"|9月20日 |30 |衝撃のデビュー! はたらく車!! |style="text-align: left;" rowspan="3"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|9月27日 |31 |フルモデルチェンジだ! VRVロボ |style="text-align: left;"| * 改造ブレーキング * リッチリッチハイカー教授 |- |style="text-align: right;"|10月{{0}}4日 |32 |RVロボ大逆走! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のキムチ好き・{{Ruby|ZZ|ヅケヅケ}}ギューリー(声:[[山下啓介]]) |- |style="text-align: right;"|10月11日 |33 |おめざめ! 激走ダップ |style="text-align: left;"| * ヘルスボーゾック一暑苦しい男・{{Ruby|UU|ウスウス}}ウッス(声:[[亀山助清]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|荒川稔久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|松井昇 |- |style="text-align: right;"|10月18日 |34 |恋の世話焼き割り込み娘 |style="text-align: left;"| * デビルボーゾック一の追っかけ激写野郎・{{Ruby|FF|フィルフィル}}ムンチョリ(声:[[大森章督]]) |- |style="text-align: right;"|10月25日 |35 |裏切りの信号野郎 |style="text-align: left;"| * 悪のシグナルマン * ボーゾック一のお使い野郎・{{Ruby|GG|ゴンゴン}}ボーン(声:[[篠田薫]]) |style="text-align: left;" rowspan="3"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎 |- |style="text-align: right;"|11月{{0}}1日 |36 |怪しい排ガス一掃作戦 |style="text-align: left;"| * 悪のシグナルマン * ボーゾック一の植木職人・{{Ruby|BB|ブンブン}}コイヤ(声:[[神山卓三]]) * 宇宙バチ |- |style="text-align: right;"|11月{{0}}8日 |37 |恐怖の大宇宙ハイウェイ計画 |style="text-align: left;"| * ノリシロン-{{Ruby|12|トゥエルブ}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|田﨑竜太 |- |style="text-align: right;"|11月15日 |38 |バックオーライ!? イモヨーカン人生 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のメイクアップアーチスト・{{Ruby|PP|プリプリ}}チープリ(声:[[飯塚昭三]]) * ノリシロン-{{Ruby|12|トゥエルブ}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|11月22日 |39 |道路好き好き!! 宇宙ペット |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の調教師・{{Ruby|CC|チャムチャム}}パッチョーネ(声:[[柴田秀勝]]) * 宇宙生物ビーガー(声:[[木藤聡子]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|11月29日 |40 |浪速ともあれスクランブル交差ロボ!? |style="text-align: left;"| * ボーゾック一口が上手い・{{Ruby|OO|オロオロ}}バットン(声:[[矢尾一樹]]) |style="text-align: left;" rowspan="4"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;" rowspan="2"|12月13日<br />{{efn|41話は前週の12月6日に放送予定であったが、同日発生した[[蒲原沢土石流災害]]発生に伴う緊急報道のため、関東地区では翌週の17:05 - 17:30にて、他地域については各局のローカル枠にてそれぞれ放送が行われた。}} |41 |暴走皇帝戦慄の燃料チェック |style="text-align: left;"| * {{Ruby|II|イケイケ}}ゴキちゃん(声:桜井敏治) * スカイギギューン * マリンザブーン |style="text-align: left;" rowspan="3"|田﨑竜太 |- |42 |全車エンスト! 巨大ロボ絶体絶命!! |style="text-align: left;"| * マリンザブーン |- |style="text-align: right;"|12月20日 |43 |メリークルマジッククリスマス!! |style="text-align: left;"| * スカイギギューン * マリンザブーン * ランドズズーン |- |style="text-align: right;"|1997年{{0}}1月10日<br />{{efn|12月27日は「[[クレヨンしんちゃんのアニメエピソード一覧 (1992年 - 2001年)#1996年|クレヨンしんちゃんスペシャル]]」放送のため、1月3日は「新春に豪打!! ジャンボ尾崎100勝突破記念!」放送のためそれぞれ休止。}} |44 |不屈のチキチキ激走チェイス! |style="text-align: left;"| * ボーゾック一のメカニック・{{Ruby|MM|メチャメチャ}}シューリスキー(声:[[沢りつお]]) * エグゾスター |style="text-align: left;"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|竹本昇 |- |style="text-align: right;"|1月17日 |45 |ホントの恋の出発点 |style="text-align: left;"| * ボーゾック一の縁結び名人・{{Ruby|EE|エンエン}}ムスビノフ(声:[[真殿光昭]]) |style="text-align: left;"|荒川稔久 |- |style="text-align: right;"|1月24日 |46 |突然失効!? 変身パワー |style="text-align: left;"| * ノリシロン-{{Ruby|最終|ファイナル}} |style="text-align: left;" rowspan="3"|浦沢義雄 |style="text-align: left;" rowspan="3"|渡辺勝也 |- |style="text-align: right;"|1月31日 |47 |当って砕けろ!? 決死の宇宙ドライブ |style="text-align: left;"| * 総長ガイナモ * 副長ゼルモダ * 発明家グラッチ |- |style="text-align: right;"|2月{{0}}7日 |48 |いつまでも交通安全!! |style="text-align: left;"| * エグゾス・スーパーストロング |} == 評価 == 前作ほどではないものの苦戦が続いていたが、一方で物語が進むにつれて従来の人気を回復するに至っている{{R|material50}}。また売上面においては『オーレンジャー』よりは下がったが、総売上118億円<ref>日経BP社技術研究部編「第三章 ビジネスの仕組みが変わる ●バンダイのキャラクター別売り上げランキング」『アニメ・ビジネスが変わる―アニメとキャラクター・ビジネスの真実』[[日経BP社]]、1999年6月17日、ISBN 4-8222-2550-X、107頁。</ref>、うち玩具売上64億円<ref>{{Cite journal|和書 |editor= |title=-たまごっち・ポケモンだけじゃない 21世紀も日本製玩具が世界を元気にする- 日本発・世界を賑わしたヒット商品 第1回「パワーレンジャー」|journal=[[トイジャーナル]]|issue=2001年1月号 |pages=73 |publisher=東京玩具人形問屋協同組合 |date=2001-01-01}}</ref>を記録した。 助監督として参加していた[[深作健太]]によれば、当時テレビアニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』で人気を博していたアニメーション監督の[[庵野秀明]]が本作品を評価しており、撮影現場にも見学に訪れていたという{{R|20th95}}。 == 放映ネット局 == {|class="wikitable" style="font-size:small;" !対象地域!!放送局!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ朝日]]||'''キーステーション''' |- |[[北海道]]||[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]|| |- |[[青森県]]||[[青森朝日放送]]|| |- |[[岩手県]]||[[岩手朝日テレビ]]||放送期間:96年10月 - 97年2月/時差ネット{{efn|1996年10月 - 1997年2月、ただし時差ネット(自主制作のローカルニュース番組『[[IATきらめきワイド]]』放送のため)。第1話 - 第30話は岩手県では未放送(『オーレンジャー』までをネットしていた[[IBC岩手放送]]でも放送されず)。}} |- |[[宮城県]]||[[東日本放送]]|| |- |[[秋田県]]||[[秋田朝日放送]]|| |- |[[山形県]]||[[山形テレビ]]|| |- |[[福島県]]||[[福島放送]]|| |- |[[新潟県]]||[[新潟テレビ21]]||時差ネット{{efn|自主制作の夕方ローカルワイド番組『[[小野沢裕子のいきいきワイド]]』放送のため。}} |- |[[富山県]]||[[北日本放送]]||他系列局 |- |[[石川県]]||[[北陸朝日放送]]||時差ネット |- |[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]||他系列局 |- |[[山梨県]]||[[山梨放送]]||他系列局 |- |[[長野県]]||[[長野朝日放送]]|| |- |[[静岡県]]||[[静岡朝日テレビ]]|| |- |[[広域放送|中京広域圏]]||[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]|| |- |[[広域放送|近畿広域圏]]||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]||現 朝日放送テレビ |- |[[鳥取県|鳥取]]・[[島根県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]]||他系列局 |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]|| |- |[[山口県]]||[[山口朝日放送]]||時差ネット{{efn|自主制作の夕方ローカルワイド番組『[[5時からワイド]]』放送のため。}} |- |[[徳島県]]||[[四国放送]]||他系列局 |- |[[香川県|香川]]・[[岡山県]]||[[瀬戸内海放送]]|| |- |[[愛媛県]]||[[愛媛朝日テレビ]]|| |- |[[高知県]]||[[テレビ高知]]||他系列局 |- |[[福岡県]]||[[九州朝日放送]]|| |- |[[長崎県]]||[[長崎文化放送]]|| |- |[[熊本県]]||[[熊本朝日放送]]|| |- |[[大分県]]||[[大分朝日放送]]|| |- |[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]||他系列局 |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島放送]]|| |- |[[沖縄県]]||[[琉球朝日放送]]|| |- |colspan="3"|未放送地域:[[佐賀県]] |} == 映像ソフト化 == いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 * [[VHS|ビデオ]](VHS、セル・レンタル共通)は1997年4月 - 1998年2月にかけて全11巻(各巻4話収録。8巻~11巻は5話収録)がリリースされている。 * テレビシリーズを再編集したHEROクラブのビデオが4巻リリースされている。 * [[DVD]]は[[2007年]][[7月21日]]から[[10月21日]]にかけて、全4巻(各2枚組、各巻12話収録)がリリースされた。1〜5話のみニュープリント。DVDのジャケットデザインはテレビ絵本雑誌のような絵柄になっており、放送当時のメインスポンサーの[[講談社]]ではなく、[[小学館]]の[[てれびくん]]編集部がデザインを担当している。 == オリジナルビデオ == * [[激走戦隊カーレンジャーVSオーレンジャー]] * [[電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー]] == 児童誌特製ビデオ == * 『激走戦隊カーレンジャー「スーパービデオ ヒーロースクール」』 ** 構成 - 荒川稔久 ** 演出 - 田﨑竜太 ** 編集 - こんのはるひと ** 演出補 - 中澤祥次郎 ** 音楽 - 奥村雪路 == CS放送・ネット配信 == ; CS放送 * [[東映チャンネル]] **2010年5月 - 10月 **2012年10月 - 2月 ; ネット配信 * 東映特撮 [[YouTube]] Official **[[2013年]][[7月1日]] - [[12月15日]] **[[2017年]][[5月14日]] - [[10月22日]] **[[2020年]][[2月18日]] - [[8月4日]] * 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる **[[2016年]][[1月22日]] - [[12月16日]] * [[Amazon Prime Video]]…有料配信中 == 漫画版 == 『てれびくん』で[[上山道郎]]による漫画版が2度掲載された。内容は第1話をベースにしたもの(1996年3月号)と、シグナルマン登場の回をモチーフにしたもの(1996年6月号)である。上山は本作品以外に『[[忍者戦隊カクレンジャー]]』、『オーレンジャー』、『メガレンジャー』の漫画版も担当しているが、本作品が「一番描いていて楽しかった」と振り返っている<ref>{{Cite web|和書|date=2007-10-17|url=http://mueyama.blog15.fc2.com/blog-entry-1160.html|title=戦う交通安全|work=別冊兄弟拳blog|accessdate=2011-09-21}}</ref>。 2011年には『海賊戦隊ゴーカイジャー』における元レッドレーサー・陣内恭介と6人目の戦士の登場を記念し、上山のブログ<ref>[http://mueyama.blog15.fc2.com/blog-entry-2095.html#more カーレンジャーまんが]本人のブログ、2015年7月13日観覧</ref>と[[Pixiv]]でこれらに修正を加えたものが掲載された<ref>[https://www.pixiv.net/artworks/19239022 緊急出動!シグナルマン]本人のPixiv</ref>。 『テレビランド』1996年3月号から1997年2月号にて南部鉄鬼による漫画版が連載されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%89%84%E9%AC%BC&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3|title=国立国会図書館デジタルコレクション(キーワード『南部鉄鬼』による検索結果)|accessdate=2018-12-15}}</ref>。 == ゲーム作品 == * [[激走戦隊カーレンジャー 全開!レーサー戦士]] * 激走戦隊カーレンジャー 〜たたかえ!ひらがなレーサー〜 : 1996年6月26日発売[[プレイディア]]ソフト。同ハードから発売された最後のソフトとなる。 == シリーズ内の他作品への登場 == 各作品における詳細はそれぞれの項目を参照。 ; スーパー戦隊大集合 :『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』第51話として放送された特別総集編。タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の世界を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。 ; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』 : 『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』の[[スーパー戦隊Vシネマ]]作品で、レッドレーサーとVファイヤーが登場。 ; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』 : 関連する映画も含め、複数のキャラクターが同作品にて登場。 :: '''テレビシリーズ''':恭介(第14話)、シグナルマン(最終回) :: '''[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]''':シグナルマン、RVロボ :: '''[[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]''':ワンパー ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』 : 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。レッドレーサーが登場。 ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャーVSキラメイジャーVSセンパイジャー]]』 : ピンクレーサーが登場。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 参照話数 === {{Reflist|group="ep"|3 |refs= <ref name="1話">第1話。</ref> <ref name="5話">第5話。</ref> <ref name="7話">第7話。</ref> <ref name="10話">第10話。</ref> <ref name="11話">第11話。</ref> <ref name="13話">第13話。</ref> <ref name="14話">第14話。</ref> <ref name="15話">第15話。</ref> <ref name="16話">第16話。</ref> <ref name="18話">第18話。</ref> <ref name="19話">第19話。</ref> <ref name="22話">第22話。</ref> <ref name="23話">第23話。</ref> <ref name="24話">第24話。</ref> <ref name="25話">第25話。</ref> <ref name="26話">第26話。</ref> <ref name="28話">第28話。</ref> <ref name="29話">第29話。</ref> <ref name="30話">第30話。</ref> <ref name="31話">第31話。</ref> <ref name="33話">第33話。</ref> <ref name="34話">第34話。</ref> <ref name="35話">第35話。</ref> <ref name="36話">第36話。</ref> <ref name="37話">第37話。</ref> <ref name="38話">第38話。</ref> <ref name="39話">第39話。</ref> <ref name="40話">第40話。</ref> <ref name="41話">第41話。</ref> <ref name="42話">第42話。</ref> <ref name="43話">第43話。</ref> <ref name="44話">第44話。</ref> <ref name="45話">第45話。</ref> <ref name="46話">第46話。</ref> <ref name="47話">第47話。</ref> <ref name="48話">第48話。</ref> <ref name="VS1">ビデオ『[[激走戦隊カーレンジャーVSオーレンジャー]]』。</ref> <ref name="SVHS">ビデオ『スーパービデオ ヒーロースクール』。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="Toei33">{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=33&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第33話|publisher=東映|accessdate=2011-05-03}}</ref> <ref name="Toei38">{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/user/program/browse3.asp?Command=Old&StrNum=38&SID=57|title=激走戦隊カーレンジャー 第38話|publisher=東映公式サイト|accessdate=2011-05-03}}</ref> <ref name="VRV">{{Cite web|和書|accessdate=2023-11-24 |archivedate=2007年11月18日 |archiveurl=http://www.toei.co.jp/tv/carranger/episode/episode-vrv.html |publisher=東映 |title=マスターはいつも起きている!?|url=http://www.toei.co.jp/tv/carranger/episode/episode-vrv.html |website= 東映公式サイト}}</ref> <ref name="講談社のテレビ絵本7">{{Harvnb|講談社のテレビ絵本|1996|pp=7}}</ref> <ref name="講談社のテレビ絵本13">{{Harvnb|講談社のテレビ絵本|1996|pp=13}}</ref> <ref name="宇宙船">{{Cite journal|和書 |date=1996-06-01 |editor=杉先睦雄 |title=TOEI HEROES UPDATE○激走戦隊カーレンジャー おれたちがおもしろくする |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |issue= Vol.76 |page=47 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id = 雑誌コード 01843-06}}</ref> <ref name="超百科41">{{Harvnb|超百科|1996|pp=41}}</ref> <ref name="超全集4">{{Harvnb|超全集|1997|p=4|loc=「ダップ クルマジックパワー・アクセルチェンジャー」}}</ref> <ref name="超全集5">{{Harvnb|超全集|1997|p=5|loc=「レッドレーサー・陣内恭介」}}</ref> <ref name="超全集6">{{Harvnb|超全集|1997|p=6|loc=「ブルーレーサー・土門直樹」}}</ref> <ref name="超全集7">{{Harvnb|超全集|1997|p=7|loc=「グリーンレーサー・上杉実」}}</ref> <ref name="超全集8">{{Harvnb|超全集|1997|p=8|loc=「イエローレーサー・志乃原菜摘」}}</ref> <ref name="超全集9">{{Harvnb|超全集|1997|p=9|loc=「ピンクレーサー・八神洋子」}}</ref> <ref name="超全集10">{{Harvnb|超全集|1997|pp=10-11|loc=「カーレンジャーの武器」}}</ref> <ref name="超全集12">{{Harvnb|超全集|1997|pp=12-13|loc=「カーレンジャーのスーパーカー」}}</ref> <ref name="超全集14">{{Harvnb|超全集|1997|p=14|loc=「レンジャービークル」}}</ref> <ref name="超全集15">{{Harvnb|超全集|1997|p=15|loc=「エンジン快調!RVロボ」}}</ref> <ref name="超全集16">{{Harvnb|超全集|1997|p=16|loc=「VRVマシン」}}</ref> <ref name="超全集17">{{Harvnb|超全集|1997|p=17|loc=「VRVファイター」}}</ref> <ref name="超全集18">{{Harvnb|超全集|1997|p=18|loc=「エンジン絶好調!!VRVロボ」}}</ref> <ref name="超全集19">{{Harvnb|超全集|1997|p=19|loc=「ビクトレーラー・VRVマスター」}}</ref> <ref name="超全集20">{{Harvnb|超全集|1997|p=20|loc=「シグナルマン」}}</ref> <ref name="超全集21">{{Harvnb|超全集|1997|p=21|loc=「サイレンダー」}}</ref> <ref name="超全集22">{{Harvnb|超全集|1997|pp=22-23|loc=「宇宙暴走族ボーゾック」}}</ref> <ref name="超全集26">{{Harvnb|超全集|1997|pp=26-27|loc=「暴走皇帝エグゾス ゾンネット・ラジエッタ」}}</ref> <ref name="超全集46">{{Harvnb|超全集|1997|pp=46-47|loc=「カーレンジャーの秘密にせまる!」}}</ref> <ref name="超全集48">{{Harvnb|超全集|1997|pp=48-50|loc=「カーレンジャー大カタログ」}}</ref> <ref name="超全集52">{{Harvnb|超全集|1997|pp=52-55|loc=「メモリアル座談会」}}</ref> <ref name="heroine">{{Cite book |和書 |editor= 真山りか |chapter=髙寺成紀プロデューサーに聞け!! |date=1998-08-12 |publisher = [[竹書房]] |series = B media books special |title= スーパーヒロイン画報 国産スーパーヒロイン30年のあゆみ |page=217 |isbn=4-8124-0388-X}}</ref> <ref name="boss">[[赤星政尚]]他「CHAPTER.1 ロボットアニメの故郷 栄光の東映動画 大竹宏インタビュー」『不滅のスーパーロボット大全 マジンガーZからトランスフォーマー、ガンダムWまで徹底大研究』[[二見書房]]、1998年9月25日、ISBN 4-576-98138-2、53頁。</ref> <ref name="material34">{{Harvnb|完全マテリアルブック 下巻|2002|pp=34-39}}</ref> <ref name="material50">{{Harvnb|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=50-52}}</ref> <ref name="material83">{{Harvnb|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=83}}</ref> <ref name="gahou204">{{Harvnb|スーパー戦隊画報|2006|pp=204-205|loc=「カーレンジャー」}}</ref> <ref name="gahou205">{{Harvnb|スーパー戦隊画報|2006|p=205|loc=「BONUS COLUMN 22 カーレンジャーの技について」}}</ref> <ref name="gahou206">{{Harvnb|スーパー戦隊画報|2006|pp=206-207|loc=「クルマジックパワーを授かった若者たち」}}</ref> <ref name="gahou208">{{Harvnb|スーパー戦隊画報|2006|p=208}}</ref> <ref name="gahou209">{{Harvnb|スーパー戦隊画報|2006|pp=209-211|loc=「Mechanics」}}</ref> <ref name="30大113">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|p=113|loc=「カーレンジャーの武器」}}</ref> <ref name="30大115">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|pp=115-117|loc=「カーレンジャーの巨大ロボ・メカ」}}</ref> <ref name="TH40">{{Harvnb|TH40|2016|pp=54-56|loc=「激走戦隊カーレンジャー」}}</ref> <ref name=HYAKKA23>{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|p=23}}</ref> <ref name=HYAKKA25>{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|p=25}}</ref> <ref name="百化32">{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|p=32}}</ref> <ref name="百化35">{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|p=35}}</ref> <ref name="百化95">{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|p=95}}</ref> <ref name=HYAKKA102>{{Harvnb|百化繚乱 下之巻|2012|pp=102-103|loc=「DESIGNER'S INTERVIEW04 野崎明」}}</ref> <ref name="仮面俳優23">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=23-35|loc=「第1章 Mr.平成ライダー&Mr.レッドの軌跡 02 福沢博文」(東映ヒーローMAX vol.44)}}</ref> <ref name="仮面俳優71">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=71-80|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 06 [[竹内康博]]」}}</ref> <ref name="仮面俳優143">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=143-152|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 13 [[岡本美登]](東映ヒーローMAX vol.29掲載)」}}</ref> <ref name="仮面俳優163">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=163-171|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 15 [[大藤直樹]]」(東映ヒーローMAX vol.41掲載)}}</ref> <ref name="21st13">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-05-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.13|volume-title=[[獣電戦隊キョウリュウジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[佐橋俊彦]]|isbn=978-4-06-509524-9}}</ref> <ref name="21stvol14">{{Harvnb|21st 14|2017|p=32|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 [[竹内康博]]」}}</ref> <ref name="20th93">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-12-19|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1993 [[五星戦隊ダイレンジャー]]|publisher=講談社|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[荒川稔久]]|isbn=978-4-06-513704-8}}</ref> <ref name="20th95">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2019-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1995 [[超力戦隊オーレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[深作健太]]|isbn=978-4-06-513710-9}}</ref> <ref name="20th5">{{Harvnb|20th1996|2018|p=5|loc=「INTERVIEW カーレンジャーの真実 [[髙寺成紀]]」}}</ref> <ref name="20th6">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=6-7|loc=「『激走戦隊カーレンジャー』」}}</ref> <ref name="20th8">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=8-9|loc=「陣内恭介/レッドレーサー」}}</ref> <ref name="20th10">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=10-11|loc=「土門直樹/ブルーレーサー」}}</ref> <ref name="20th12">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=12-13|loc=「上杉実/グリーンレーサー」}}</ref> <ref name="20th14">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=14-15|loc=「志乃原菜摘/イエローレーサー」}}</ref> <ref name="20th16">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=16-17|loc=「八神洋子/ピンクレーサー」}}</ref> <ref name="20th18">{{Harvnb|20th1996|2018|p=18|loc=「シグナルマン」}}</ref> <ref name="20th20">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=20-21|loc=「SPECIAL INTERVIEW '96 [[岸祐二]]」}}</ref> <ref name="20th22">{{Harvnb|20th1996|2018|p=22|loc=「激走戦隊メカニック」}}</ref> <ref name="20th23">{{Harvnb|20th1996|2018|p=23|loc=「激走戦隊巨大ロボ」}}</ref> <ref name="20th24">{{Harvnb|20th1996|2018|pp=24-25|loc=「宇宙暴走族ボーゾック」}}</ref> <ref name="20th32">{{Harvnb|20th1996|2018|p=32|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 [[浦沢義雄]]」}}</ref> <ref name="20th33">{{Harvnb|20th1996|2018|p=33|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 [[梶淳]]」}}</ref> <ref name="20th34">{{Harvnb|20th1996|2018|p=34|loc=[[野中剛]]「SUPER HERO Design BRASHUP! 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UNO (ゲーム)
UNO(ウノ)は、トランプゲームやクレイジーエイトを遊びやすく改良したカードゲーム。スペイン語またはイタリア語で数字の「1」を意味する「uno」が名前の由来である。アメリカンページワンにもよく似ている。 1971年にアメリカ合衆国オハイオ州で理髪店を営むマール・ロビンスにより考案され、1979年に広く発売されて人気となった。本ゲームは専用のカードを用い、配られた手札を早く0枚にした者が勝者となるゲームだが、対戦相手を妨害する役札が存在することと、残り手札が1枚となったときに「Uno」と宣言しなければならないことが特徴。世界80か国でこれまでに1億5000万個が販売されている。かつて日本でも1979年発売でトミー(現在のタカラトミー)からの販売であったが、現在はマテルが権利を保有しており、日本ではマテル・インターナショナルから発売されている。ほかにも、コンピュータソフト版や、専用カードの特徴を他のゲームと融合させたもの、オリジナルルールやオリジナルカードを採用したバリエーションも存在する。 ひとつのUNOセットには108 - 112枚のカードがある。長らく標準は108枚であったが、2016年のリニューアル版より4枚の新たなカードが追加され、標準は112枚となった。ただし後述の派生版にはこの4枚の新カードが含まれていない事が多い。 UNOで使用されるカードには数字カードと記号カードがある。カードは一部を除いて青、赤、黄色、緑の四色で色分けされている。記号カードは1990年代までアルファベットで表示されていたが、後にピクトグラムに移行している。 以下は取扱説明書を参考として記述している。 点数の計算方法は、国際ルールと日本ルールがある。カードには下記のとおり点数が定められているのは共通だが、国際ルールは敗者全員の残ったカードの点数を合計した点数が勝者に加算されるのみである(点数が減ることは無い。また敗者は一律0点)のに対し、日本ルールは各敗者の残ったカードの点数をそれぞれ減算してその分を勝者に加算(移動)するようになっている。国際ルールは500点先取、日本ルールは回数制(説明書では5ラウンド)である。なお、遅くとも2020年の「UNO Minimalista」からは日本版でも国際ルールを採用している。 非公式ルールとして、下記のようなものがある。浸透しすぎてこちらが公式ルールだと思い込んでいる人が多いルールもある。一部のルールは公式的に認定されており、コンピュータゲーム版ではオプションで切り替えることができる。 Reverseで回避する場合、ドロー返しと言い前のプレイヤーが累積された枚数取ることになり以降Reverse効果で手番は逆回りになる。 Skipで回避した場合、ドロー回避と言い通常のSkipではなく自分をSkip(ドロー回避)させて、次の人が累積された枚数のカードを引くことになる。 Draw TwoカードもしくはWild Draw Fourカードを出された場合に手札からWildのカードを出して、ドロー系カードの枚数累積をチャラにし、色を指定したら次のプレイヤーから通常プレイで続行する「ドロー潰し」と言うルールもある。 マテルからライセンスを受けたコンピュータゲーム版はトミー、ゲームロフトなどから発売されている。一部はオンライン対戦も可能。最大4人(一部機種のみ6人)で対戦ができる。プレイヤーの識別はあらかじめ与えられた色とマークを組み合わせるが、一部の機種では次のようなこともできる。 特徴は以下のとおり。 セガサターンから『UNO DX』(1998年1月29日発売)、PlayStationから『UNO』(1998年4月2日発売)がメディアクエストより発売。 PS版は電撃PlayStationDPSソフトレビューでは70、70の140点。レビュアーは細かいルール設定が可能でキャラクターがいい味を出していて全体的には悪くなく友達との勝負に備えて腕を磨くのにいいかもしれないとしたが、対戦中のキャラ達の台詞とリアクションは飛ばせず控えめに設定することもできるがそれでもちょっと長くてルールによっては長時間の対戦することもあるのでそのあたりを考えてほしかったとし、2人協力プレイは基本多人数でする遊びなため辛いとした者と熱くなれるとした者で分かれた。 マイクロソフト版はXbox 360専用であり、Xbox Live Arcadeでダウンロード販売している。現在はWindows 8以降アプリとしても無料ダウンロードが可能。 スマートフォン版として2019年1月18日よりリリースが開始された。通常のUNOルールである「クラシック」とスタッキングをはじめとするスペシャルルールが採用される「GOワイルド」がある。
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UNO(ウノ)は、トランプゲームやクレイジーエイトを遊びやすく改良したカードゲーム。スペイン語またはイタリア語で数字の「1」を意味する「uno」が名前の由来である。アメリカンページワンにもよく似ている。 1971年にアメリカ合衆国オハイオ州で理髪店を営むマール・ロビンスにより考案され、1979年に広く発売されて人気となった。本ゲームは専用のカードを用い、配られた手札を早く0枚にした者が勝者となるゲームだが、対戦相手を妨害する役札が存在することと、残り手札が1枚となったときに「Uno」と宣言しなければならないことが特徴。世界80か国でこれまでに1億5000万個が販売されている。かつて日本でも1979年発売でトミー(現在のタカラトミー)からの販売であったが、現在はマテルが権利を保有しており、日本ではマテル・インターナショナルから発売されている。ほかにも、コンピュータソフト版や、専用カードの特徴を他のゲームと融合させたもの、オリジナルルールやオリジナルカードを採用したバリエーションも存在する。
{{複数の問題|出典の明記=2015年6月|雑多な内容の箇条書き=2015年6月}} {{Infobox card game | title = UNO | image_link = UNO Logo.svg | type = 脱落型 | players = 2-10人 | ages = 7歳以上 | num_cards = 108 - 112枚 | playing_time = 10分 | random_chance = 高 | skills = }} '''UNO'''(ウノ)は、トランプゲームや[[クレイジーエイト]]を遊びやすく改良した[[カードゲーム]]。[[スペイン語]]または[[イタリア語]]で数字の「1」を意味する「uno」が名前の由来である。[[アメリカンページワン]]にもよく似ている。 [[1971年]]に[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]]で理髪店を営むマール・ロビンスにより考案され、[[1979年]]に広く発売されて人気となった。本ゲームは専用のカードを用い、配られた手札を早く0枚にした者が勝者となるゲームだが、対戦相手を妨害する役札が存在することと、残り手札が1枚となったときに「Uno」と宣言しなければならないことが特徴。世界80か国でこれまでに1億5000万個が販売されている。かつて日本でも1979年発売でトミー(現在の[[タカラトミー]])からの販売であったが、現在は[[マテル]]が権利を保有しており、日本ではマテル・インターナショナルから発売されている。ほかにも、コンピュータソフト版や、専用カードの特徴を他のゲームと融合させたもの、オリジナルルールやオリジナルカードを採用したバリエーションも存在する。 == カード == ひとつのUNOセットには108 - 112枚のカードがある。長らく標準は108枚であったが、2016年のリニューアル版より4枚の新たなカードが追加され、標準は112枚となった。ただし後述の派生版にはこの4枚の新カードが含まれていない事が多い。 === カードの種類 === [[ファイル:Baraja de UNO.JPG|200px|right|thumb|UNOのカード]] [[ファイル:Uno.jpg|200px|right|thumb|UNOのカード]] UNOで使用されるカードには数字カードと記号カードがある。カードは一部を除いて青、赤、黄色、緑の四色で色分けされている。記号カードは1990年代までアルファベットで表示されていたが、後にピクトグラムに移行している。 *数字カード - 全76枚 ** 0 - 9の数字が書かれている。0は各色一枚、1 - 9は各色二枚ずつある。 *Draw Two (ドロー2) カード - 全8枚 ** 特殊カードのひとつ。各色二枚ある。このカードを出した人の次の順番の人がカードを二枚引く。 *Reverse (リバース) カード - 全8枚 ** 特殊カードのひとつ。各色二枚ある。ゲームのプレイ順番を逆転させる。右回りで進行していれば左回りに、左回りで進行していれば右回りになる。 *Skip (スキップ) カード - 全8枚 ** 特殊カードのひとつ。各色二枚ある。このカードを出した人の次の順番の人はスキップ(順序が飛ばされる)され、さらに次の人へ順番が回る。 *Wild (ワイルド) カード - 4枚 ** 特殊カードのひとつで、場のカードが何であっても出すことができる。出した人が自由にカードの色を変えることができる。出した人はこれで終わり、次の人から変えた色を出す(青なら青、赤なら赤…) * Wild Draw Four(ワイルド ドロー4)カード - 4枚 ** 特殊カードのひとつで、場のカードが何であっても出すことができる。出した人が自由にカードの色を変えられると同時に、次の人に山札からカードを4枚引かせることができる。引いたカードを捨てることはできない。引いた人の次の人に順番が移る。ただし、Wild Draw Four以外に出せるカード(場と同じ色や数字・記号カード、およびWildカード)が手持ちにある場合は使うことができないが、反則して騙すことができる(後述)<ref name=":0" />。 * Wild Swap Hands (とりかえっこワイルド)カード - 1枚 (2016年リニューアル版から追加)<ref name="inside160310">{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2016/03/10/96729.html|title=カードゲーム「UNO」初のルール変更が発表、3月中旬より2種類の新カードを導入|publisher=インサイド|date=2016-03-10|accessdate=2016-03-10}}</ref> ** 特殊カードのひとつで、場のカードが何であっても出すことができる。出した人が好きな相手とカードをすべて交換できる。 ** 2017年リニューアル版で「シャッフルワイルド」に変わる形で廃止となった。 * Wild Shuffle Hands (シャッフルワイルド)カード - 1枚 (2017年リニューアル版から追加)<ref>{{Cite web|和書|title=日本人考案の新しいカードが世界の公式ルールに!『UNO(ウノ) カードゲーム』リニューアル新商品発売 {{!}} マテル・インターナショナル株式会社のプレスリリース|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000119.000012996.html|website=prtimes.jp|accessdate=2020-05-01}}</ref> ** 特殊カードのひとつで、場のカードが何であっても出すことができる。全員のカードを集めてシャッフルすることができるカード。シャッフルしたカードからまた新たに1枚ずつを全員に配って再開となる。 * Wild Customizable (白いワイルド)カード - 3枚 (2016年リニューアル版から追加)<ref name="inside160310" /> ** 特殊カードのひとつで、場のカードが何であっても出すことができる。出した人が好きなルールを書き込むことができるカード。ルールは何度も書き込める。 == ルール == 以下は取扱説明書を参考として記述している<ref>{{Cite web|和書|url=https://mattel.co.jp/toys/mattel_games/mattel_games-10936/#howToPlay |title=ウノ {{!}} Mattel Games マテル ゲーム {{!}} Mattel マテル |access-date=2022-09-19}}</ref>。 # プレイ可能人数は2〜10人程度(4〜6人が最適)。 # 一枚ずつカードを裏向きのまま引いて、最も大きい数字(記号カードは0として扱う)のプレイヤーがディーラーとなる。またディーラー決めはジャンケンでもよい。 # 各人に7枚ずつカードを配り手札とする。残りのカードは重ねて中央に置く(これを山札という)。 # 山札の一番上のカードをめくり、山札付近のエリア(場と呼ぶ)に置く(これを場札という)。 #* ただし、引いたカードが Wild Draw Four カードだった場合はカードを山札に戻しシャッフルし、場札を引きなおす。それ以外のカードだった場合はたとえそれが記号カードであった場合でもそれが場札となる。 # 場札が決まったら、以下のようにゲームを始める。 #* 場札が数字カードだった場合、ディーラーの左隣のプレイヤーから時計回りに始める。 #* 場札が Wild カードだった場合、ディーラーの左隣のプレイヤーが色を指定して時計回りに始める。 #* 場札が Reverse カードだった場合、ディーラーから反時計回りに始める。 #* 場札が Skip カードだった場合、ディーラーの左隣のプレイヤーは飛ばされ、そのまた左隣のプレイヤーから時計回りに始める。 #* 場札が Draw Twoカードだった場合、ディーラーの左隣のプレイヤーは山札からカードを2枚引いたうえで(すなわち9枚からのスタートとなる)、そのまた左隣のプレイヤーから時計回りに始める。 # 自分の番になったら、手札の中から色・数字(記号)のいずれかが場札と一致するカードを1枚場札に重ねて出すか、山札からカードを1枚引くかのいずれかのアクションを行う。(例として場札が青の2の場合は、青色のカード又は2のカード又はワイルドカードが出せる。)同じ数字(記号)のカードを複数持っている場合でも複数まとめて出すことはできない<ref name=atr>これをよしとするルールも存在するが、あくまでも非公認ルールである(後述)。</ref>。なお、出せるカードがない場合は山札からカードを1枚引く方しか選べない(出せるカードがある場合でもこちらを選んでもよい)。山札からカードを引く方を選んだ場合、引いたカードが場札と色・数字(記号)のいずれかが一致するならそのカードを場へ出すこともできる(出さなくてもよい)。ただし、引いたカード以外のカードを出すことはできない。場札が変化した場合、つぎの手番のプレーヤーは新しいカードが場札となるので、今度はその場札の色・数字(記号)のいずれかに一致するカードを場に出すことになる(緑の1のカードが場札のとき、赤の1を出したら次プレーヤーは赤のカードか1のカードがあれば出すことができる)。ただし、記号カードや特殊カードが出された場合以下に従う。 #* Reverseカードが出された場合、プレイ順が現在の方向とは反対方向となる。2人でプレイしている場合は自分が連続してプレイすることとなりSkipと同じ効果となる。 #* Skipカードが出された場合、次プレーヤーの手番を飛ばすこと(つまり1回休み)となる。2人でプレイしている場合は自分が連続してプレイすることとなる。 #* Draw Twoカードが出された場合、次プレーヤーに無条件で山札から2枚取らせる(2枚取らされたプレーヤーの手番はそれで終了し、場にカードを出すことはできない。また、Draw TwoカードやWild Draw Fourカードを持っている場合でもそれを出して次の人に効果を押し付けることはできない。これはWild Draw Fourカードの時も同様<ref name=atr/>)。 #* Wildカードは、場札に関わりなく出すことができるカードで、場札の色を指定できる。 #* Wild Draw Fourカードは、手札に他に出せるカードがWild Draw Four以外にない場合(つまり、場と同じ色や数字・記号カード、およびWildカードがない時)に出すことができる<ref name=":0">海外版のルールや後述するコンピューターゲームなどでは、出せない条件が「場と同じ色のカードを手札に持っている時」のみになっている。</ref>(他に出せるカードが手札にあっても持っていないふりをして出すことは可能だが、チャレンジをされるとペナルティ。)。場札の色を指定でき、次プレーヤーに山札から4枚取らせることができる。 #** 次プレーヤーは、Wild Draw Fourカードを出した者が本当にルール通り出したか手札をチェックすることができ(これを「チャレンジ」という)<ref name=":1" />、その内容に応じてどちらかのプレーヤーに以下の追加ペナルティが科せられる。なお、Draw TwoカードやWild Draw Fourカードを持っている場合でもそれを出して次の人に効果を押し付けることはできない<ref name=atr/>。 #***チャレンジ成功…手札にWild Draw Fourカード以外に出せるカードがあるにもかかわらずWild Draw Fourカードを出していたことを見破った場合、チャレンジ成功となりWild Draw Fourカードを出したプレーヤーは場に出していたWild Draw Fourカードを手札に戻し、持っていた出せるカードを場に出し、ペナルティとして山札からの4枚のカードを引かなければならない。その後出し直したカードをチャレンジされたプレイヤーが出したものとして続行する(数字カードの場合はそのままチャレンジしたプレイヤーの番になるが、記号カードの場合はその効果の処理を行う)。 #***チャレンジ失敗…Wild Draw Fourカードを出したプレーヤーの手札に、Wild Draw Fourカード以外の出せるカードがなかった場合チャレンジ失敗となり、Wild Draw Fourカードで引かされる分の4枚に加えチャレンジ失敗のペナルティとしてさらに2枚を加えた合計6枚を山札から取らされ、場にカードを出すことはできずに次プレーヤーに手番が移る。 # 山札がなくなったら、一番上の場札を場に残し、ディーラーがよくシャッフルしたのちディーラーの左隣のプレイヤーが[[カット]]し山札とする。 # 手札が残り1枚になったら「'''Uno'''」と宣言しなければならない。宣言を忘れたプレーヤーは山札から2枚取らなければいけない。ただし、次のカードが出されるか、山札のカードが取られるまでに他のプレーヤーに指摘されなかった場合はペナルティは発生しない。しかし、場にカードを出すこと(手を放してから)と同時に一枚になり次のプレーヤーがカードを出そうとする様子が始まる前には宣言を忘れたと判断することはできない。 # 誰か1人が手札を全てなくしたらその時点で1ゲーム終了。残った者たちで続けてプレイすることはせず<ref name="atr" />、役札の処理をしたうえで、各人の残り手札の内容に応じた点数を獲得する。なお、最後にあがる手札に制限はなく、何のカードであがっても良い<ref name=":1">これを否とするルールも存在するが、あくまでも非公認ルールである(後述)。</ref>。 === 点数 === 点数の計算方法は、国際ルールと日本ルールがある。カードには下記のとおり点数が定められているのは共通だが、国際ルールは敗者全員の残ったカードの点数を合計した点数が勝者に加算されるのみである(点数が減ることは無い。また敗者は一律0点)のに対し、日本ルールは各敗者の残ったカードの点数をそれぞれ減算してその分を勝者に加算(移動)するようになっている。国際ルールは500点先取、日本ルールは回数制(説明書では5ラウンド)である。なお、遅くとも2020年の「UNO Minimalista」からは日本版でも国際ルールを採用している。 * 0 - 9のカード : その数字の点数 * スキップ・ドロー2・リバース : 20点 * とりかえっこワイルド・シャッフルワイルド・白いワイルド : 40点 * ワイルド・ワイルド ドロー4 : 50点 === ハウスルール === 非公式ルールとして、下記のようなものがある。浸透しすぎてこちらが公式ルールだと思い込んでいる人が多いルールもある。一部のルールは公式的に認定されており、コンピュータゲーム版ではオプションで切り替えることができる。 ==== ゲーム開始時のルール ==== * 始めるときのカードは数字のみとする(この場合最初に記号カードが出た場合は Wild Draw Fourカードだった場合の扱いと同様である)<ref name="dpz" />。 * ディーラーを決めずに最初のカードを引いた後ジャンケンをして最初のプレイヤーを決める<ref name="dpz" />。 ==== 特定のカードの効果に関するルール ==== * Draw系カードが出された場合は同じDraw系カード出せば回避が可能である。この場合取る枚数が累積されていく。また、この時にWild Draw Fourカードが出された場合でもチャレンジができない。Draw Twoカードが出された時、Wild Draw Fourカードで重ねることも可能だが、その逆はできない。 **UNO公式Twitterアカウントではこれらは公式ではできないと明言されている<ref>[https://twitter.com/realUNOgame/status/1124720366130204672 UNOさんはTwitterを使っています: 「If someone puts down a +4 card, you must draw 4 and your turn is skipped. You can’t put down a +2 to make the next person Draw 6. We know you’ve tried it. #UNO https://t.co/wOegca4r0h」 / Twitter] 2019年7月26日閲覧。</ref>。しかし、[[アメリカンページワン]]や[[クレイジーエイト]]に類似ルールが存在するためか、UNOでも可能と誤解されていることが多い。 ** 指定された色と一致する場合に限り、Wild Draw Fourカードが出された後にDraw Twoカードを出すことを認めるルールや、Wild Draw Fourカードに対してDraw Twoカードが無条件に出せるルール、逆にWild Draw FourカードにはWild Draw Fourカードでしか重ねられないルールも存在する。 **公式ではスタッキングと呼ばれている。 * 旧式のUNOカードは特殊カードが[[ピクトグラム]]ではなくアルファベットであったため、「0」を''Open''の''O''とみなしそのカードを出したプレイヤーがほかのプレイヤー全体にその時点でのすべての手札を公開する。 * Wild Draw Fourカードが出たときの「チャレンジ」のルールを一切採用しない<ref name="dpz" />。 * 0のカードを出された場合は全員自分の手札を全て今ゲームが進行している方向で次のプレイヤーに渡すルールを採用。 ==== カードの出し方に関するルール ==== * 自分の手番において色と数字が一致する同一の数字カードは一度に捨てることができる。また、記号カードは必ず1枚ずつ、もしくは一度に捨てることができる。 ** これを認めた場合、上がる際に「'''Uno あがり'''」などと上がりを宣言しなければならないルールもある('''UNO stop'''という言い方もある)。宣言を忘れた者は山札から2枚取るペナルティを受けることになる。 ** それ以外に、あがる際は1枚に限る場合もある。 ** 手札の残り枚数に限らず、最後に2枚の同一カードを出してあがることが可能なときも'''ウノ'''と宣言する。宣言していなかった場合はペナルティはないが、あがることもできず、カードは1枚のみしか捨てることはできない。 ** Skipカードを複数出して何人も飛ばせるルールを設ける(同じ種類のカードを出すことで、さらに次のプレイヤーに効果をなすりつけることができる)。 *** この場合は順番をスルーされる回数が増えていく。なお、Skipのみ回避不能の場合が多い(カードを出す権利自体がスキップされる考え)。 *** Draw系、Skipの同時出しの場合は効果が加算されてあらわれる。Skipの加算は、「x枚で2x先のプレイヤーまでにSkip」というタイプと、「x枚でx先までのプレイヤーにSkip」というタイプと、自分の次のプレイヤーに全効果があらわれる「x枚でx回手番を奪われる」といったタイプが考えられる。 *** Draw系の場合で、Wild Draw Fourカードが出された場合指定された色のDraw Twoカードが手札にある場合はDraw Twoカードを出すことができる。この場合も枚数は累積される<ref name="dpz">{{Cite web|和書|url=http://portal.nifty.com/kiji/130406160254_1.htm|title=知られざる? UNO公式ルール|author=小野法師丸|publisher=[[ニフティ]]・[[デイリーポータルZ]]|date=2013-04-08|accessdate=2014-03-26}}</ref>。 *** Draw TwoカードもしくはWild Draw Fourカードを出された場合に同色のReverse、またはSkipを出して回避することができる。この場合取る枚数が累積されたまま次の人の番になる。 Reverseで回避する場合、ドロー返しと言い前のプレイヤーが累積された枚数取ることになり以降Reverse効果で手番は逆回りになる。 Skipで回避した場合、ドロー回避と言い通常のSkipではなく自分をSkip(ドロー回避)させて、次の人が累積された枚数のカードを引くことになる。 Draw TwoカードもしくはWild Draw Fourカードを出された場合に手札からWildのカードを出して、ドロー系カードの枚数累積をチャラにし、色を指定したら次のプレイヤーから通常プレイで続行する「ドロー潰し」と言うルールもある。 * 各プレイヤーは1ラウンドに3回までカードを裏にしたまま、場札の色と同じ色のカードとして出すことができる。ただしウノ宣言のときには裏にして出すことはできない。および処理の終わっていないドロー系カードの上にも捨てられない。次のプレイヤーは裏のカードの直前のカードの色と同じ色のカードかワイルド系カードのみが出すことができる。カードの数字や記号は無視される。 ** 裏にしてカードを捨てたとき、他のプレイヤーが、そのカードの色が本当は場札の色と異なる(数字や記号は無関係)と判断したとき、次のプレイヤーがカードを出すまでのあいだに“ダウト”を宣言できる。これは最初に宣言したプレイヤーにのみ権利がある。ダウトしたプレイヤーは、まずペナルティとして科したいカードの枚数を提示する。このときダウトされたプレイヤーには3つの選択肢がある。 **# 相手の枚数に同意してコールする **# さらに枚数をつりあげてレイズする **# 降参してドロップする *: レイズした場合は相手も再びコール、レイズ、ドロップの選択権を持ち、これを交互に行ってゆく。提示またはレイズできるペナルティのカード枚数は2〜5枚となる。 ** 両者が同意してコールとなったら、カードを表にして色をチェックする。場と同じ色ならダウトした側の負けとして、コールした枚数をペナルティとして山札からとる。逆に違う色ならダウトされた側の負けとして、コールした枚数をペナルティとして山札からとることに加えて、裏にして出したカードも手札に戻す。このとき、裏にして出したカードがワイルド系カードだったときは無条件にダウトされた側の負けとなる。 ** ドロップする場合は直前に自分が提示した枚数を山札からひく。なお、ドロップの最低ペナルティーは2枚とする。ダウト直後、すぐにドロップするときは自動的に2枚となる。ダウトした側がドロップしたときは裏向きのカードはそのままでゲームが再開される。ダウトされた側がドロップしたときはカードは裏のまま手札に戻す。 ** 処理終了後は裏でカードを出した人の次の人の手番になる。ダウトしたカードが正しいカードだったときは、それを新たな場札とする。 ==== 上がり方に関するルール ==== * 上がるときに Stop の宣言をしなければならない。宣言を忘れた者は山札から2枚取るペナルティを受ける。 * 特殊カードでの上がりに制限を設ける。もしくは特殊カードでの上がりを認めず、数字1枚のみでしか上がれなくするルールもある<ref name="dpz" />。 ** 万が一特殊カードで上がってしまった場合、2枚カードを引いてゲーム続行となることがある。 * 手札の合計数を上がりの別条件とする。 * 点数制にせず、上がった者から順にゲームから抜けていき、残った者でそのままの手札でゲームを続行し、最後の1名(最下位の敗者)が決定するまで続ける(この場合、手札によってはゲーム終了までに時間がかかってしまう)<ref name="dpz" />。 * カードごとに固有の点数は設けず、単に誰かが上がった時のカードの「枚数」で点数付けを行う(点数計算を簡略化したルール。しかし、Wild Draw Fourなど点数が高く出しづらいカードの処理のタイミング等、ゲーム性は若干下がる)。 * Uno の宣言を忘れたときにペナルティとして山札から取る枚数の違い。1枚、4枚、6枚(すでに持っている1枚+6枚=7枚、つまりゲーム開始時の状態に戻される)、極端な場合には13枚など。 == コンピュータゲーム == マテルからライセンスを受けたコンピュータゲーム版は[[トミー (企業)|トミー]]、[[ゲームロフト]]などから発売されている。一部はオンライン対戦も可能。最大4人(一部機種のみ6人)で対戦ができる。プレイヤーの識別はあらかじめ与えられた色とマークを組み合わせるが、一部の機種では次のようなこともできる。 * [[PlayStation 3]]版、[[Wii]]版ではそれぞれの[[アバター]](Wiiの場合は[[Mii]])を使用することができる。 * [[ニンテンドーDSi]]版では写真([[ニンテンドーDSiカメラ|DSiカメラ]]に保存されている写真ではなく、新しく撮るもの)を撮ってそれをマークとして使用することができる。 特徴は以下のとおり。 * 累積(ペナルティ)ルールが有効な場合、累積できるのは同じマークのカードのみである。つまり、Draw Twoカードを回避する場合は同じDraw Twoカードが必要であり、Wild Draw Fourカードでは回避できない。 ** なお、Wild Draw Fourカードで累積されてもチャレンジが可能であり、チャレンジが成功した場合、最後に出したプレイヤーがWild Draw Fourカードの枚数×4枚引くことになる。逆に失敗すると、チャレンジをしたプレイヤーがこれに加え2枚引くことになる。 *** 例として、Wild Draw Fourカードが2枚出された時にチャレンジを受けた場合、成功なら最後にWild Draw Fourカードを出したプレイヤーが8枚引く。失敗ならチャレンジをしたプレイヤーが10枚引く。 * Wild Draw Fourカードのチャレンジは、コンピューターがチェックを行なうため、相手のカードを見ることができない。チャレンジが成功した場合でも、Wild Draw Fourカードは出されたままであり、そのとき指定した色は有効である。 * ジャンプルールを搭載。これは、数字(マーク)と色が全く同じカードが出されたときに、そのときの順番に関係なく即座に出せるルールである。 ** 特殊カードが出された場合、1枚目の効果は打ち消される。(累積ルールが有効な場合、Draw TwoカードまたはWild Draw Fourカードの効果は打ち消されずに累積される。) * UNO 7-0ルールを搭載。7を出したときに、指定した相手と全てのカードの交換を行い(2016年リニューアル版での「とりかえっこワイルドカード」とほぼ同じ効果)、0を出したときに、次の順番のプレイヤーに全てのカードを渡し、前の順番のプレイヤーの全てのカードを受け取るものである。ただし、0または7を出したときは強制交換する(7をだしても交換しないなどの選択肢はない)。 *スマートフォン版は2018年7月に終了することがアナウンスされた。 === メディアクエスト版 === [[セガサターン]]から『UNO DX』(1998年1月29日発売)、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]から『UNO』(1998年4月2日発売)がメディアクエストより発売。 PS版は[[電撃PlayStation]]DPSソフトレビューでは70、70の140点<ref name="DPS">電撃PlayStation Vol.71 1998年4月10日号 140ページ</ref>。レビュアーは細かいルール設定が可能でキャラクターがいい味を出していて全体的には悪くなく友達との勝負に備えて腕を磨くのにいいかもしれないとしたが、対戦中のキャラ達の台詞とリアクションは飛ばせず控えめに設定することもできるがそれでもちょっと長くてルールによっては長時間の対戦することもあるのでそのあたりを考えてほしかったとし、2人協力プレイは基本多人数でする遊びなため辛いとした者と熱くなれるとした者で分かれた<ref name="DPS" />。 === マイクロソフト版 === [[マイクロソフト]]版は[[Xbox 360]]専用であり、[[Xbox Live|Xbox Live Arcade]]でダウンロード販売している。現在は[[Windows 8]]以降アプリとしても無料ダウンロードが可能。 * 基本無料でプレイが可能。ただしプレイには仮想クレジット「トークン」が必要。 * トークンは「TOPでゲームをクリアする」、「レベルアップする」、「一定時間で行えるスクラッチ」、「フレンドからのプレゼント」、「課金」などにより回復させることが可能。 * 基本はランダムに選ばれた全世界のプレイヤーと4人で対戦を行う。またフレンド同士でルームを作成してプレイすることも可能。(どちらの場合も2トークンが必要になる) * 使用したプレイヤーが有利になるミラー、ダンプなどといったイカサマITEMが存在し、公式ルールのみで遊べないマッチングになる場合もある。 * サーバーのラグなどにより、自分のターンがきてもカードが出せずにタイムオーバーで自動でカードが選ばれる場合もある。 === Mattel163版 === スマートフォン版として2019年1月18日よりリリースが開始された。通常のUNOルールである「クラシック」とスタッキングをはじめとするスペシャルルールが採用される「GOワイルド」がある。 * マイクロソフト版と同様に基本無料。プレイするにはコインが必要であり、それは倍率が上がるにつれてその必要コインは高くなる。 * 勝利すると相手の得点分のコインがもらえるが、負けると自分の得点分のコインを失う。これは倍率が上がるたびに大きくなる。 ** 2位になったときも勝利扱いとなる。 * 2vs2ルールを搭載。これは、パートナーとタッグを組み行う対戦である。ちなみにパートナーの手札は見ることが可能。 * 週末では更なる追加ルールが追加された「ウィークエンドGOワイルド」がある。 * このゲーム限定の特殊カードが存在する。 ** ディスカードオールカード:同じ色のカードを一気に捨てることが出来る。派生として2色分のカードを一気に捨てる「ダブルディスカードオールカード」がある。 ** ワイルドトラップカード:このカードが出された後、次にカードを引く際は、これらに加えて3枚分追加でカードを引く。 ** ワイルドバルーンカード:このカードが出されると、風船が降りてきて、割れるたびにそのプレイヤーは2枚引かなければならない。風船の破裂するタイミングはそれぞれ独立しており、全ての風船が同時に破裂するとは限らない。なおこのカードは「ワイルド」と名乗っているが、すべての色に対応できない。 ** ワイルドパンチカード:リバースの効果に加え、ドロー系の効果を前の人にはね返す効果がある。 == 関連商品 == * UNO H<sub>2</sub>O - プラスチック製で、屋外など汚れやすい環境でも利用できる。 ** Wild Downpour【英語で'''土砂降り'''の意味】カード(日本語版では「ワイルドドボンカード」):このUNO限定の特殊カード。カードを出した人を除く全員にカードを山札から1または2枚引かせるカード。 * [[ドラえもん]]、[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリー・ポッター]]、[[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]などのキャラクターをデザインしたコラボバージョンがいくつかある。これらのバージョンでは過去は単なる模様替えのような形だったが、現在では必ず基本の108枚のカードの他に特殊な効果を持つカードが存在するようになった。 **ハリー・ポッター版での例<ref>{{cite web|title=Mattel and Fisher-Price Customer Service - Product Detail|url=https://service.mattel.com/us/productDetail.aspx?prodno=42797&siteid=27|accessdate=2021-09-03}}</ref><ref>{{cite web|format=pdf|title=42797 : Harry Potter UNO Card Game - English|url=https://service.mattel.com/instruction_sheets/42797-Eng.pdf|accessdate=2021-09-03}}</ref> *** Howler Wild (ホーラー・ワイルド): 出した次のプレイヤーは手札を全員に公開しなければならない。公開した後カードを出すことはできず、その次のプレイヤーの番となる。 *** Invisibility Wild (インビジビリティ・ワイルド):Draw系カードやHowler Wildの直後に出し、そのカードの効果を無効にすることができる。そのままカードの色を指定し、次のプレイヤーの番となる。なお、先述のカードの直後でなくても通常のWildカードとして使える。 **ディズニー版での例<ref>{{cite web|title=Mattel and Fisher-Price Customer Service - Product Detail|url=https://service.mattel.com/us/productDetail.aspx?prodno=DTD31&siteid=27|accessdate=2022-04-06}}</ref><ref>{{cite web|format=pdf|title=DTD31 : UNO® Disney - English|url=https://service.mattel.com/instruction_sheets/DTD31-Eng.pdf|accessdate=2022-04-06}}</ref> *** Sorcerer's Apprentice (魔法使いの弟子): 出したプレイヤー以外全員にカードを引かせる。引く枚数は、1つ後のプレイヤーは1枚、2つ後のプレイヤーは2枚といったように順番が後であるにつれて1枚ずつ多くなる。このカードもワイルドカードなので、出したプレイヤーは場の色を指定できる。 * UNO マクドナルド - 2017年に[[マクドナルド]]が販売している[[ハッピーセット]]の[[おまけ]]として、同社のオリジナルバージョンにカスタマイズしたものを配布<ref>{{Cite web|和書|title=「人生ゲーム」「UNO」「黒ひげ危機一発」などがマクドナルドバージョンに! ハッピーセット「オリジナルパーティーゲーム」 11月17日(金)から期間限定販売|url=https://www.mcd-holdings.co.jp/news/2017/promotion/promo1110a.html|website=日本マクドナルド株式会社|accessdate=2021-12-02|date=2017-11-10}}</ref>。 *伊東家UNO - [[伊東家の食卓]]で生まれた独自ルールの解説つき。 * UNO Attack - [[1999年]]。電池仕掛けの装置によって引くカード枚数(0 - 15枚)がランダム決定される新ルール付き。こちらは数字カードに0がない。 **Hit Twoカード:通常版におけるDraw Twoカードと同じ効果。次の人は2回ボタンを押す。 **Discards Allカード:同じ色のカードを一気に捨てることが出来る。 **Trade Handsカード:旧バージョンでの特殊カード。基本的には、とりかえっこワイルドカードや、UNO7-0での7のカードと同様に、指定した相手と全てのカードの交換を行う。 **Wild Hit Fireカード:旧バージョンでの特殊カード。次の人はカードが出るまでボタンを押し続ける。 **Wild All Hitカード:旧バージョンでの特殊カード。次の人から順番に1回ずつボタンを押し、カードが出るまでこれを繰り返す(出した人も例外ではない)。 **Wild Attack-Attackカード:現バージョンでの特殊カード。誰かを指定して、その人に2回ボタンを押させる。 **Wild Hit Fourカード:現バージョンのリニューアルで追加された特殊カード。通常版におけるWild Draw Fourカードとほぼ同じ効果。次の人は4回ボタンを押す(ただし、チャレンジはない)。 **白いワイルドカード:現バージョンのリニューアルで追加された特殊カード。 * [[大黒将志]]スペシャルエディション限定版 - UNO大使であるサッカー日本代表大黒選手考案ルールが用いられる。[[2006年]]限定版。 * UNO Spin - [[2009年]]。カードを引く、捨てるなどの指示が書かれたルーレットが付属。 * UNO Robot - [[2012年]]。ロボットの指示に従うハウスルールを記載した「ハウスルールカード」が各色に1枚づつ追加されている。 * UNO Dice - [[2013年]]。サイコロの目にUNOのカードの色、数字、記号が割り当てられており、サイコロを振って出た「目」を「手札」としてウノと同様のルールでサイコロを消費する。 * UNO Blast - 2013年。中央の機械に自分の捨て札を差していき弾けた時点でその全部を引き取るスリリングなルールが加わった。日本国内では未発売。 * UNO Royal Revenge - [[2015年]]。UNOに「[[大富豪]]」の要素が追加された。指定された枚数を王様が好きな相手に引かせたりする独自のカードがある。日本国内では未発売。 * UNO Flash - [[2016年]]。点灯するランプが不規則に回転する装置によって引くプレイヤーがランダム決定される新ルール付き。装置中央は2穴のトレイになっていて片側にデッキを入れもう片方が捨て札置き場となる。ワイルドカードにおける「チャレンジ」は自分の目の前のランプを押して意思表示する他「UNOチャレンジカード」と言う光るランプを利用した独自ルールのカードもある。日本国内では未発売。 * UNO Stucco - 2016年。[[ジェンガ]]のブロックに色や数字が割り振られており、UNOのルールに従ってプレイしなければならない。 * UNO Wild Jackpot - 2016年。中央に置かれたジャックポットを回すことでドロー4やワイルドなどの効果が発生したりそのターンに独自のルールが追加されたりする。こちらは数字カードの構成が不規則になっている。 * DOS - 2018年。UNOの兄弟作という位置設定。基本となるルールは同じではあるが、同じ数字でしか出せない、2つ合わせてその数字になるなら出せるなど、足し算の要素が加わっている。こちらは数字カードに0がない代わりに、10がある。 ** Wild DOSカード:どの色にも対応できるが、数字は2に固定。UNOシリーズで唯一数字カードと記号カードを兼ねている。 ** Wild #(ナンバー)カード:どの数字にも対応できるが、4色のうちどれか1色しか対応できない。 * UNO FLIP! - 2019年。「ライトサイド」と「ダークサイド」の2つのサイドを持つのが特徴。フリップカードが出たら全員でカードを裏返す。こちらは数字カードに0がない。 ** Draw Oneカード、Wild Draw Twoカード:ライトサイド独自の特殊カード。基本的にはそれぞれDraw TwoカードとWild Draw Fourカードと同じだが、引く枚数が半分となっている。Wild Draw Twoカードはチャレンジがある。 ** Flipカード:これが出されると、違うサイドでプレーする。 ** Draw Fiveカード:ダークサイドでの特殊カードであり、次のプレイヤーはカードを5枚引く。 ** Skip Everyoneカード(日本語版では「ダークスキップカード」):こちらもダークサイドでの特殊カードであり、出した人がもう一度プレーできる。 ** Wild Draw Colorカード(日本語版では「ダークカラーワイルド」):こちらもダークサイドでの特殊カードであり、次の人は指定された色が出るまでカードを引き続ける。こちらもチャレンジがある。 * UNO Showdown - 2020年。早押し対決が追加されており、ショーダウンアイコンがあるカードが出たら、出した人と次の人が早押し対決をし、負けた方がそのカードを受け取る。 * UNO Minimalista - 2020年。UNOのカードデザインを簡略化し、シンプルな見た目としたもの。ルールは通常のUNOと同じだが、シャッフルワイルド・白いワイルドがない代わりに、ワイルドカードが4枚増やされている。元はブラジル人デザイナーのWarleson Oliveiraが非公式に制作したもので、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]上での反響や[[Change.org]]での要望を受け、発表から1か月で公式商品化が決定した経緯を持つ。 * UNO 50th Anniversary Premium Edition - 2021年。ウノ誕生50周年を記念したプレミアムエディション。限定カード「ワイルド50/50」が出されたら、2人プレイヤーを選んで「オモテ」と「ウラ」に指名、50周年記念ゴールドコインをトスして、負けた人が4枚カードを引かなければならないスペシャル・ルールがある。 * UNO 50th Anniversary Edition - 2021年。ウノの誕生50周年を記念した限定版。50周年を祝して、通常のウノより4枚増量されたスペシャルデザインの金のワイルドカード8枚入り。 * Mattel Game Uno Iconic 1970s Version - 2021年。ウノが誕生した1970年代のトレンドをデザインに反映した、50周年限定のスペシャルエディション。 * UNO All Wild - 2022年。全てのカードが『ワイルド』系のものになっており、Draw Two、Reverse、Skipカードもワイルド系になっている。 ** Wild Forced Swap(ワイルド強制スワップ)カード:基本的には、とりかえっこワイルドカードや、UNO7-0での7のカードと同様に、指定した相手と全てのカードの交換を行う。 ** Wild Skip Two(ワイルドスキップ2)カード:このカードを出した人の次の順番の2人はスキップ(順序が飛ばされる)され、さらに次の人へ順番が回る。 ** Wild Targeted Draw Two(ワイルド指名ドロー2)カード:誰かを指定して、その人に2枚カードを引かせる。 * UNO FLEX! - フレックスカード及び、表が緑で裏が赤のパワーカードが追加されており、フレックスカードはフレックスを発動することで、色やルールを変えることができる(後述)。また、本作はカードに描かれている△のマークの数で色を識別することができる。 ** パワーカード:フレックスが発動可能かを表す。開始時は各プレイヤーの前に全員緑色を表にした状態にし、フレックスを発動したら、自分のパワーカードを赤に裏返す。 *** 発動期間は自分の番につき、1回のみ有効で、自分のパワーカードが赤の場合はフレックスを発動することが出来ない。 *** 裏返しアイコンがあるカードを使用した場合は、自分のパワーカードを緑から赤、赤から緑に裏返す。 *** 全員のパワーカードが赤になった時は、全員緑に裏返す。 ** ワイルドフリップ:Wild (ワイルド) カードのルールに加え、全員のパワーカードを緑から赤、赤から緑に裏返す。 ** フレックスカード:通常とフレックスを兼用しており、通常は中心の色のルールに従う *** フレックス数字カード:2色の数字カードになっており、フレックスの色がマッチする場合はフレックスを発動することで出すことができる。次のプレイヤーは通常の色に従う *** フレックスドロー2:フレックスを発動すると、相手全員にカードを1枚ずつ引かせ、次のプレイヤーはカードを捨てることができない。発動しない場合は通常のDraw Two (ドロー2) カード と同様に扱う。 *** フレックスリバース:フレックスを発動すると、引く順番が逆になり、次のプレイヤー1人の番を飛ばす。発動しない場合は通常のReverse (リバース) カードと同様に扱う。 *** フレックススキップ:フレックスを発動すると、相手全員のターンを飛ばして、もう1度自分のターンを行うことができる。発動しない場合は通常のSkip (スキップ) カードと同様に扱う。 *** フレックス ワイルド ドロー2:フレックスを発動すると、Wild (ワイルド) カードのルールに加え、相手2人を指名してカードを2枚ずつ引かせることができる。発動しない場合は通常のWild (ワイルド) カードと同様に扱う。 *** フレックス ワイルド オールドロー:フレックスを発動すると、Wild (ワイルド) カードのルールに加え、相手全員にカードを2枚ずつ引かせることができる。発動しない場合は通常のWild (ワイルド) カードと同様に扱う。 *** フレックス ワイルド ドロー4:フレックスを発動すると、Wild Draw Four(ワイルド ドロー4)カードのルールに加え、相手4人を指名してカードを4枚ずつ引かせることができる。この時に次のプレイヤーが指名された場合、次のプレイヤーは通常分と指名分合わせて8枚引かなければならない。発動しない場合は通常のWild Draw Four(ワイルド ドロー4)カードと同様に扱う。 * UNO PARTY! - 推奨プレイ人数が6人~16人かつ、カード枚数が通常の倍程度の224枚と大人数で遊ぶパーティーゲームとして発売された。また本作では、場に出されているカードと、数字と色が同じカードを持っている場合、自分の番でなくても割り込んで出すことができる「スピードプレイ」という特別ルールが存在する。 ** 割り込みに成功すれば割り込んだプレイヤーからの順番になるが、失敗すると出したカードを戻し、ペナルティとして1枚引かなければならない。 *** 進行方向カード:本作のエキストラカードとして登場しており、引く順番を表しており、Reverse (リバース) カードが出された際に、カードを裏返す。 *** リンク縛りカード:本作のエキストラカードとして登場しており、後述の「ワイルド リンク」が発動された際に使用する。 *** 指差し:出したプレイヤーは「3、2、1!」と、声に出してカウントダウンし、「1!」のタイミングでプレイヤー全員は誰かを指差す。差されたプレイヤーは差された人数と同じ枚数分(最大5枚)引かなければならない。 *** ワイルド ミニ山攻防戦:出したプレイヤーはカードを1枚引いて、本来の捨て札とは別にミニ山を作ります。 **** 以降のプレイヤーはミニ山での攻防戦となり、同じ色のカードを持っていればミニ山へ捨てることが出来ます(Wild (ワイルド) カードも捨てることができるが、色を変えることはできず、記号カードのルールは無視される)。 **** ミニ山と同じ色のカードを持っていない場合は、プレイヤーはミニ山に積まれたカードを全て引き取らなければならない。 **** 引き取った後は本来の捨て札の山での勝負に戻り、次のプレイヤーはミニ山の色に従う。 **** また、引いた最初の1枚がワイルド系のカードだった場合、それ以外のカードが出るまでミニ山に積まなければならない。 *** ワイルド リンク:Wild (ワイルド) カードのルールに加え、相手2人を指名してリンク縛りカードを1枚ずつ配る。 **** カードを配られたら、一方がカードを引く度に、もう一方も同じ枚数引かなければならない。(Draw Two (ドロー2)、Wild Draw Four(ワイルド ドロー4)の場合も同様。) **** すでにリンク縛りカードが配られている場合は、カードを配り直し、リンクし直すことができる。 **** 前述の「指差し」が出された場合は、ワイルド リンクが終了し、リンクが解除される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|UNO}} * [[テーブルゲーム]] * [[O'NO 99]] - UNOの姉妹ゲーム。 * [[世界のアソビ大全51]] - 2020年、[[Nintendo Switch]]で発売された[[テレビゲーム]]。『ラストカード』の名称で類似するルールのカードゲームが収録されている。 * [[テイルズ オブ エターニア]] - ウィスというUNOをモデルにしたカードゲームが登場し、実際にプレイできる。 * [[SUPER TAKI]] - 類似ゲーム。UNOと比べると少々複雑になっている。 * [[Gods’ Gambit]] - 類似ゲーム。[[カナイセイジ]]作。ほぼ全てのカードに効果がついているが、ただ消化するだけでは発動できない。 * ドラゴンクエストカードゲーム キングレオ - 『[[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]]』のキャラクターやモンスター、呪文が登場するカードゲーム。ルールがUNOと似ている。 * [[恋、いちばんめ|ウノ-ウノ]] - 女性アイドルグループ「[[ukka]]」のUNOをテーマにした楽曲。 == 外部リンク == * [http://unogame.jp/ マテル・インターナショナル株式会社 ウノ] * [https://mattel.co.jp/toys/mattel_games/ マテル・インターナショナル株式会社 マテルゲーム] * [https://web.archive.org/web/20190331145327/http://www.geocities.jp/unoassoc/ 日本ウノ協会](2019年3月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) {{DEFAULTSORT:うの}} [[Category:カードゲーム]] [[Category:頭脳ゲーム]] [[Category:マテル]]
2003-02-16T02:56:59Z
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コントラクトブリッジ
コントラクトブリッジ(英: contract bridge)は、切り札のあるトリックテイキングゲームの一つである。ただ単にブリッジと略すことも多い。 ブリッジと名のつくカードゲームには他にセブンブリッジがあるが、コントラクトブリッジとは全く異なるゲームである。 このゲーム中では切り札のことを「トランプ」と呼び、またゲーム中の情報伝達に規則があるゲームなので注意すること。 プレイ人数は4人。向かい合ったもの同士がペアを組み、自らの手札を元に2人でとれるトリック数の合計を類推し、ビッドにより攻撃側ペア・守備側ペアを決める。攻撃側で主とならない側のプレイヤーは、最初のリードの後手札を晒す。これをダミーと呼び、そのカードは主となる側が指定して出すことになる。13回のトリックのうち、攻撃側が宣言した以上のトリックを取れれば勝利となり、宣言しただけの点数を獲得し、宣言した以上の分についてはボーナスとして点数を獲得する。 競技では、配られたカードの差による有利不利を減らすため、デュプリケートブリッジとして、カードの内容をあらかじめ決めておき、競技者の間でそれらカードをプレイした結果の差で勝ち負けを決める。 トリックテイキングゲームの歴史はトランプ自体と同じくらい古いが、18世紀後半から19世紀には、イギリスのホイストがヨーロッパ中で流行するようになった。しかしそれまで流行していたオンブルやカドリーユのようなビッドシステムがホイストには欠けていたため、ホイストにビッドシステムを追加する試みがいくつか行われ、その中からブリッジも生まれた。 ブリッジの直接の祖先にあたるのは、ジョン・コリンソンが1886年に刊行した冊子の中に載っている「ビリッチ(biritch)」というゲームである。コリンソンによると、このゲームはコンスタンチノープルのロシア人によって当時遊ばれていたものだという。ビリッチはダミー・ホイスト(ディーラーのパートナーが手札を開いて見せ、ディーラーがそこから何を出すかを決めるもの)の一種で、ディーラーかまたはそのパートナーが切り札を決めるか、または切り札なし(これをビリッチといった)を宣言する。ディーラーの相手側はダブル(contre)をかけられる、というもので、まだ競りのシステムはなかった。このゲームは後に「ブリッジ・ホイスト」さらに略してブリッジと呼ばれるようになった。「ブリッジ」という言葉はこのビリッチが変化したものと考えられている(ビリッチ自身の語源は明らかでない)。 1904年前後に、切り札をプレイヤーが決めるために“競り”を用いるオークション・ブリッジが考案された。コントラクトブリッジとオークション・ブリッジとの主な違いは得点の計算方法にある。とくに、オークション・ブリッジでは取れたトリック数がそのまま得点になったのに対して、コントラクトブリッジでは宣言したトリック数によって得点が得られるように変更された。この変更は第一次世界大戦中にフランスで考案され、プラフォン(plafond、天井)という名前で流行した。さらにアメリカのハロルド・スターリング・ヴァンダービルトらによって1925年にスコア表とバルナラビリティに関する改良が加えられ、1930年代以降はコントラクトブリッジがオークション・ブリッジやプラフォンを圧倒した。 現在、コントラクトブリッジはオークション・ブリッジを含めた他のブリッジに完全に取って代わっており、特に米英では単にブリッジと言えばコントラクトブリッジのことを指すようになっている。ただし、日本では逆にブリッジと言った場合、セブンブリッジを指すこともあるため、注意が必要である。日本語では「コントラクトブリッジ」と「コントラクト・ブリッジ」の2種類の表記があるが、管轄団体である日本コントラクトブリッジ連盟 (JCBL) では「コントラクトブリッジ」としているため、本項目でもこの表記に従う。 日本においては余りなじみのない競技だが、戦前から欧米人と関わりを持つ者を中心として行われていた。1953年には日本コントラクトブリッジ連盟が結成されている。現在では日本電気や日産自動車などが協賛する競技会が定期的に開催されている。 1995年にブリッジはマインドスポーツの一種目として、国際オリンピック委員会の承認競技リストに載ることになった。2018年のアジア大会では初めて正式種目に採用された。 しかし、助成金をめぐって「ブリッジがスポーツに当たるか」を争った2015年のイギリスの裁判所の判決では、ブリッジをスポーツとは認めない判決が下っている。 知り合い同士でブリッジを遊ぶ際には、ラバーブリッジがよく用いられる。ラバー(rubber)1つとは2ゲームを先取することであり、1ゲームとはコントラクトによる勝利のみで合計100点以上を獲得することである。スコアシートには横線を引いて、ゲームのために加算するポイントとボーナスとなるポイントを区別する。線の下側に書くポイントだけがゲームを左右する。勝敗は1ラバーが終わったときの点数総計で争うので、ごくまれではあるがラバーを勝ち取っても勝負としては負ける可能性もある。 プレイヤーは4人。一般には正方形のテーブルを使用し、その4辺に座る。便宜上4人のプレイヤーをそれぞれN(North)、S(South)、E(East)、W(West)と呼ぶ。向かい合った2人(NとS、EとW)が味方(パートナー)同士となる。この2人をペアといい、2つのペアを区別するときはサイド(NSサイド、EWサイドあるいは相手サイドなど)と呼ぶ。 ゲームには通常のトランプ52枚を使う。ディーラーを1人決め、ディーラーは各プレイヤーに13枚ずつカードを配る。ディーラーは、ゲーム毎に左隣の者へと移ってゆく。 ルール上最初の手札が13枚と多いため、持ちやすいよう、メジャーなブランドのカードなどには細身の「ブリッジサイズ」バージョンがある(トランプ#サイズ)。 ビッド(bid)とは競り(オークション)の宣言のことである。競りはディーラーから始め、時計回りに続け、最後に誰かがコールをしてから、他の3名が連続してパスするまで続く。コール(call)にはビッド (bid)、パス (pass)、ダブル(double, DBLと略記する)およびリダブル(redouble, 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これ以外のプレイの主要な点については他のマストフォロールールを用いたトリックテイキングゲームと同じで、前回のトリックを取ったものが次のリードを行う。もちろん、ディクレアラーがダミーの手でトリックを取った場合は、ダミーの側から次のリードを、ディクレアラーが自分の手でトリックを取った場合は、自分の側から次のリードを行う。 切り札は、ビッディングの際にデノミネーションとして宣言されたスートである。NT でコントラクトした場合は切り札なしで行う。 ディクレアラーがコントラクトを達成した場合、各スートごとに決められた基本点×コントラクトのオッドトリック分の点数が線の下に書かれる。コントラクトより多くのトリックを取った場合は、ダブル、リダブルの場合を除いて、上回った分について同様に点数を計算するが、これは線の上に記入される。 線の下に書かれる点数は、ダブルされたコントラクトの場合は上記の2倍、リダブルの場合はダブルのさらに2倍となる。 切り札をクラブまたはダイヤにした場合は基本点は20点であり、ハートまたはスペードの場合は30点である。NTの場合も30点だが、最後に10点を加えて線の下に記入する。 線の下に書かれた点数が、今までに線の下に書かれたぶんと今とったぶんを合わせ、100点以上(100点を含む)になった場合、そのチームはゲーム(game)を達成したということになり、そこまでのスコアは両チームとも全て線の上側に書かれたものとして扱う。ゲームを1度勝ったチームを、バルネラブル(Vulnerable)略してバル(Vul.)と呼ぶ。バルネラブルでないチームをノン・バルネラブル(ノンバル)と呼ぶ。バルかノンバルかによって、スラムを取ったときのボーナス点と、ダウン(宣言したトリックが取れなかった場合)の点が変化する。 もしそのゲーム達成がそのチームにとって2ゲーム目であった場合、これはラバー(rubber)獲得とされる。どちらかのチームがラバーを獲得した時点で、そのラバーは終了する。ラバーを獲得したチームには以下のようなラバーボーナスが与えられる。 そして、双方の合計点を数え、この合計点の高低で勝利チームを決める。 ラバーボーナスは大きいため、普通はラバーを獲得したチームのほうが勝利する。しかし、リダブルで大きなオーバートリックを獲得したチームがある場合など、ラバーを獲得できなかった側が勝利する可能性もルールとしては残されている。 コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、スモールスラム(small slam)と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。 コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、グランドスラム(grand slam)と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。 グランドスラムはテニスなどスポーツで主要な大会を制覇する意味でも使われるようになっている。 アナー(honour)ボーナスは、コントラクトの達成如何にかかわらず、下記の条件を満たす場合に線の上側に記入する。ラバーブリッジには適用されるが、デュプリケートには適用されない。(同じ手札を全員がプレイするため) 宣言した側が宣言しただけのトリックを取れなかった場合、相手チームが線の上側に点数を獲得する。宣言した側がノンバルの時は、下回った分1トリックにつき50点が、バルの時は、下回った分1トリックにつき100点がその点数となる。 宣言にダブルがかけられていた場合、コントラクトを達成すると、線の下側に記入される点数は2倍になる。さらにボーナス50点を線の上側に記入する。オーバートリックは1トリックにつき、達成した側がノンバルなら100点を、バルなら200点を加算する。リダブルしていた場合は、以上の点数はすべてダブルのときの2倍になる。 スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。 ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。 コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。 もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。 ノンバルの側がダブルをかけられてダウンした場合、前は最初の1トリックが100点、その後が各200点というだけのペナルティだったが、これだとグランドスラムを狙ってコントラクトする側に関しての対抗条件としては弱いので変更された。バルでグランドスラムをかけると、点数は(スラムボーナスとして)1500点、(ゲームボーナスとして)500点、(メジャースートでのトリック達成点として)210点を確保するので、この点数は合計2210点となるのだが、ノンバルの側がダブルをかけられて11ダウンすると、ペナルティは(昔の方式では)2100点となるわけで、これは考慮できる犠牲であったわけだ。 また、リダブルをかけられた際にもらえるボーナスも、古いルールでは50点のままだった。これは100点に変更されているが、このためマイナースートで5以上のコントラクトをし、リダブルして、オーバートリックを取ることが、ダブルされずにスモールスラムを取るよりも価値のあることになった。 この変更はまずデュプリケートブリッジにおいて行われ、ラバーブリッジでも1993年に変更された。 他のカードゲームと同様、ブリッジの点数は手札の良し悪しに依存する。このことを回避し、ブリッジを運のゲームから技のゲームとするため、ブリッジクラブや大会でのスコアはそれ自身では評価せず、同じ手を用いて他のプレイヤーが戦ったときと比べて評価される。これには大きく分けて2つのシステムがある。ペア戦とチーム戦である。 ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。 アメリカや日本では、勝ったときは1点、同じ点なら1/2点として同様の計算をする。 チーム戦では、各ペアは2ペアで構成されるチームの1員となる。各ディールは2度ずつ実行される。2度目は、同じチームの敵が使っていた手を用いてプレイする。もちろん、チーム内では使った手の内容について全てのディールが終わるまで語り合ってはいけない。各ディールが2度ずつ行われたら、各ディールについてスコアを比較する。そして、全スコアは各プレイを比較することで行う。たとえば、あるペアが+1000点獲得し、同じ手で同チームが失点を-980点に押さえた場合、そのチームのスコアはそのディールについて+20点となる。通常、この数字は、大きい点数の場合は圧縮される。さもなければ、1度でもスラム勝ちすれば他のゲームが意味のないものになってしまうからだ。ボード・ア・マッチの場合は、勝ち負けのみで比較される。IMPの場合は、点数の差は0~24の点数に圧縮される。 デュプリケートブリッジは、クラブやトーナメントで遊ばれているが、これらはそれぞれ独立して扱われ、ラバーの一部としては見られない。これらの違いは単純化され、スコアリングは上記の通りとなる。 デュプリケートブリッジでは、コントラクトを達成した場合の点数はボーナスも含め上記に書かれた通りである。(6トリックを超えた分について、クラブ、ダイヤでは1トリックにつき20点、ハート、スペードについては30点、ノートランプの際は30点+10点ボーナス。ダブル、リダブルも考慮する。)コントラクトによって達成される点が100点以上となる場合は、ゲーム達成とみなし、バルネラブルでない場合は300点を、バルネラブルの場合は500点を加えて獲得する。100点を達成出来なかった場合も、この点は次の手には持ち越されないが、50点のボーナスは加えられる。 そのほかの点数については同様である。 デュプリケートブリッジでは、各ゲームについて、「両チームともバルネラブルでない」「NS側だけバルネラブル」「EW側だけバルネラブル」「両チームがバルネラブル」という順番で行い、その後はディーラーとバルネラブルの組み合わせを変えるために、一人ずつずらしてくり返す。 試合では、ビッディングボックスがよく使われる。これはビッディングの各内容を書いたビッディングカードをまとめて各人に持たせたもので、これを使うことで、声を使うことで起こる禁止された情報交換を防ぐ事が出来る。たとえば、ただ「ダブル」というのと、強い調子で「ダブル」と言うようなものに違いを持たせているような場合である。国際的な試合や国内のトップ戦の場合は、ビッディングスクリーンが使われる。机上に立てることで、ビッドが終了するまで自分のパートナーを見ることが出来なくなる(声を聞くこともできない)。スクリーンの両側にはそれぞれ2名がいることになる。全てのアラートは書かれたもので行われ、各プレイヤーは自分と自分のパートナー両方のビッドをアラートする。 これらの問題の多くはオンラインのブリッジで回避される。許可されない情報交換による不正は回避される。しかし、もっとあからさまな不正(たとえば、別回線を用いて、パートナーと電話で会話して情報交換するなど)は可能である。幸運にも、上級者のほとんどはこういった不正を察知できる。それに、電子的に手札は保存されているので、苦情は簡単適切に解決することが可能である。オンラインブリッジにはそのほか、リボーク(ルール違反なカードプレイ)や順番飛ばしなどのルール違反が不可能であるという利点がある。コンピュータ(プログラム)によりルールが強制されるからである。 パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。 したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。 パートナー同士で予め合意した、コールが意味する様々な取り決めを集めたものを、ビッディングシステムと呼ぶ。ビッディングシステムには、ゴーレン、エーコール(en:Acol)、スタンダードアメリカン(en:Standard American)、プレシジョン(en:Precision Club)、JCBLスタンダードなど、様々なものがあり、ある名称が別のシステムを包含しているものだったり、同じ名称でも細部の変更がある場合がある。 日本で主に使われているJCBLスタンダードにも4枚メジャーと5枚メジャーと呼ばれるバリエーションがあり、微妙に条件が違っている。 ビッドの際、宣言したトリック数や切り札スートとは全く違う意味を込める場合があり、これをコンベンションと呼ぶ。多くのコンベンションが開発されているが、有名なのはステイマン(en:Stayman convention)、ジャコビ・トランスファー(en:Jacoby transfer)、ブラックウッド(en:Blackwood convention)の各コンベンションである。 初心者でも以下の戦法は遊ぶ際に知っておくべきである。 大会に出るなら、以下のテクニックは知っておくべきである。 インターネット上に、ブリッジを遊ぶためのサーバがある。フリーなものもあるが、登録が必要なものもある。OKBridgeは、インターネット上のブリッジサービスでもっとも古いものであるが、愛好者の間ではもっともポピュラーである。ACBL(アメリカコントラクトブリッジ連盟)は、自営で登録制のブリッジサービスを始めたが、あまり成功していない。フリーのサーバは、不正を監視していないし、プレイに関しては低品質であることが多い。 オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。 もちろん、オンラインプレイには欠点もある。 米英では一般的なカードゲームであるため、「ブリッジをプレイする」という場合、普通はコントラクトブリッジのことである。小説や映画などにも頻繁に登場するが、ルールの説明が本編にないことがほとんどであり、ミステリー小説などでトリックとして使われると、一般的でない国の人間にはアンフェアとされることもある。
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"もしそのゲーム達成がそのチームにとって2ゲーム目であった場合、これはラバー(rubber)獲得とされる。どちらかのチームがラバーを獲得した時点で、そのラバーは終了する。ラバーを獲得したチームには以下のようなラバーボーナスが与えられる。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "そして、双方の合計点を数え、この合計点の高低で勝利チームを決める。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ラバーボーナスは大きいため、普通はラバーを獲得したチームのほうが勝利する。しかし、リダブルで大きなオーバートリックを獲得したチームがある場合など、ラバーを獲得できなかった側が勝利する可能性もルールとしては残されている。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、スモールスラム(small slam)と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、グランドスラム(grand slam)と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "グランドスラムはテニスなどスポーツで主要な大会を制覇する意味でも使われるようになっている。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アナー(honour)ボーナスは、コントラクトの達成如何にかかわらず、下記の条件を満たす場合に線の上側に記入する。ラバーブリッジには適用されるが、デュプリケートには適用されない。(同じ手札を全員がプレイするため)", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "宣言した側が宣言しただけのトリックを取れなかった場合、相手チームが線の上側に点数を獲得する。宣言した側がノンバルの時は、下回った分1トリックにつき50点が、バルの時は、下回った分1トリックにつき100点がその点数となる。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "宣言にダブルがかけられていた場合、コントラクトを達成すると、線の下側に記入される点数は2倍になる。さらにボーナス50点を線の上側に記入する。オーバートリックは1トリックにつき、達成した側がノンバルなら100点を、バルなら200点を加算する。リダブルしていた場合は、以上の点数はすべてダブルのときの2倍になる。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ノンバルの側がダブルをかけられてダウンした場合、前は最初の1トリックが100点、その後が各200点というだけのペナルティだったが、これだとグランドスラムを狙ってコントラクトする側に関しての対抗条件としては弱いので変更された。バルでグランドスラムをかけると、点数は(スラムボーナスとして)1500点、(ゲームボーナスとして)500点、(メジャースートでのトリック達成点として)210点を確保するので、この点数は合計2210点となるのだが、ノンバルの側がダブルをかけられて11ダウンすると、ペナルティは(昔の方式では)2100点となるわけで、これは考慮できる犠牲であったわけだ。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、リダブルをかけられた際にもらえるボーナスも、古いルールでは50点のままだった。これは100点に変更されているが、このためマイナースートで5以上のコントラクトをし、リダブルして、オーバートリックを取ることが、ダブルされずにスモールスラムを取るよりも価値のあることになった。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この変更はまずデュプリケートブリッジにおいて行われ、ラバーブリッジでも1993年に変更された。", "title": "ラバーブリッジ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "他のカードゲームと同様、ブリッジの点数は手札の良し悪しに依存する。このことを回避し、ブリッジを運のゲームから技のゲームとするため、ブリッジクラブや大会でのスコアはそれ自身では評価せず、同じ手を用いて他のプレイヤーが戦ったときと比べて評価される。これには大きく分けて2つのシステムがある。ペア戦とチーム戦である。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アメリカや日本では、勝ったときは1点、同じ点なら1/2点として同様の計算をする。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "チーム戦では、各ペアは2ペアで構成されるチームの1員となる。各ディールは2度ずつ実行される。2度目は、同じチームの敵が使っていた手を用いてプレイする。もちろん、チーム内では使った手の内容について全てのディールが終わるまで語り合ってはいけない。各ディールが2度ずつ行われたら、各ディールについてスコアを比較する。そして、全スコアは各プレイを比較することで行う。たとえば、あるペアが+1000点獲得し、同じ手で同チームが失点を-980点に押さえた場合、そのチームのスコアはそのディールについて+20点となる。通常、この数字は、大きい点数の場合は圧縮される。さもなければ、1度でもスラム勝ちすれば他のゲームが意味のないものになってしまうからだ。ボード・ア・マッチの場合は、勝ち負けのみで比較される。IMPの場合は、点数の差は0~24の点数に圧縮される。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "デュプリケートブリッジは、クラブやトーナメントで遊ばれているが、これらはそれぞれ独立して扱われ、ラバーの一部としては見られない。これらの違いは単純化され、スコアリングは上記の通りとなる。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "デュプリケートブリッジでは、コントラクトを達成した場合の点数はボーナスも含め上記に書かれた通りである。(6トリックを超えた分について、クラブ、ダイヤでは1トリックにつき20点、ハート、スペードについては30点、ノートランプの際は30点+10点ボーナス。ダブル、リダブルも考慮する。)コントラクトによって達成される点が100点以上となる場合は、ゲーム達成とみなし、バルネラブルでない場合は300点を、バルネラブルの場合は500点を加えて獲得する。100点を達成出来なかった場合も、この点は次の手には持ち越されないが、50点のボーナスは加えられる。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "そのほかの点数については同様である。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "デュプリケートブリッジでは、各ゲームについて、「両チームともバルネラブルでない」「NS側だけバルネラブル」「EW側だけバルネラブル」「両チームがバルネラブル」という順番で行い、その後はディーラーとバルネラブルの組み合わせを変えるために、一人ずつずらしてくり返す。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "試合では、ビッディングボックスがよく使われる。これはビッディングの各内容を書いたビッディングカードをまとめて各人に持たせたもので、これを使うことで、声を使うことで起こる禁止された情報交換を防ぐ事が出来る。たとえば、ただ「ダブル」というのと、強い調子で「ダブル」と言うようなものに違いを持たせているような場合である。国際的な試合や国内のトップ戦の場合は、ビッディングスクリーンが使われる。机上に立てることで、ビッドが終了するまで自分のパートナーを見ることが出来なくなる(声を聞くこともできない)。スクリーンの両側にはそれぞれ2名がいることになる。全てのアラートは書かれたもので行われ、各プレイヤーは自分と自分のパートナー両方のビッドをアラートする。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "これらの問題の多くはオンラインのブリッジで回避される。許可されない情報交換による不正は回避される。しかし、もっとあからさまな不正(たとえば、別回線を用いて、パートナーと電話で会話して情報交換するなど)は可能である。幸運にも、上級者のほとんどはこういった不正を察知できる。それに、電子的に手札は保存されているので、苦情は簡単適切に解決することが可能である。オンラインブリッジにはそのほか、リボーク(ルール違反なカードプレイ)や順番飛ばしなどのルール違反が不可能であるという利点がある。コンピュータ(プログラム)によりルールが強制されるからである。", "title": "デュプリケートブリッジ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。", "title": "ビッディングシステムとコンベンション" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。", "title": "ビッディングシステムとコンベンション" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "パートナー同士で予め合意した、コールが意味する様々な取り決めを集めたものを、ビッディングシステムと呼ぶ。ビッディングシステムには、ゴーレン、エーコール(en:Acol)、スタンダードアメリカン(en:Standard American)、プレシジョン(en:Precision Club)、JCBLスタンダードなど、様々なものがあり、ある名称が別のシステムを包含しているものだったり、同じ名称でも細部の変更がある場合がある。", "title": "ビッディングシステムとコンベンション" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本で主に使われているJCBLスタンダードにも4枚メジャーと5枚メジャーと呼ばれるバリエーションがあり、微妙に条件が違っている。", "title": "ビッディングシステムとコンベンション" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ビッドの際、宣言したトリック数や切り札スートとは全く違う意味を込める場合があり、これをコンベンションと呼ぶ。多くのコンベンションが開発されているが、有名なのはステイマン(en:Stayman convention)、ジャコビ・トランスファー(en:Jacoby transfer)、ブラックウッド(en:Blackwood convention)の各コンベンションである。", "title": "ビッディングシステムとコンベンション" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "初心者でも以下の戦法は遊ぶ際に知っておくべきである。", "title": "テクニック" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "大会に出るなら、以下のテクニックは知っておくべきである。", "title": "テクニック" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "インターネット上に、ブリッジを遊ぶためのサーバがある。フリーなものもあるが、登録が必要なものもある。OKBridgeは、インターネット上のブリッジサービスでもっとも古いものであるが、愛好者の間ではもっともポピュラーである。ACBL(アメリカコントラクトブリッジ連盟)は、自営で登録制のブリッジサービスを始めたが、あまり成功していない。フリーのサーバは、不正を監視していないし、プレイに関しては低品質であることが多い。", "title": "インターネットでのブリッジ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。", "title": "インターネットでのブリッジ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "もちろん、オンラインプレイには欠点もある。", "title": "インターネットでのブリッジ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "米英では一般的なカードゲームであるため、「ブリッジをプレイする」という場合、普通はコントラクトブリッジのことである。小説や映画などにも頻繁に登場するが、ルールの説明が本編にないことがほとんどであり、ミステリー小説などでトリックとして使われると、一般的でない国の人間にはアンフェアとされることもある。", "title": "関連する作品" } ]
コントラクトブリッジは、切り札のあるトリックテイキングゲームの一つである。ただ単にブリッジと略すことも多い。 ブリッジと名のつくカードゲームには他にセブンブリッジがあるが、コントラクトブリッジとは全く異なるゲームである。 このゲーム中では切り札のことを「トランプ」と呼び、またゲーム中の情報伝達に規則があるゲームなので注意すること。 プレイ人数は4人。向かい合ったもの同士がペアを組み、自らの手札を元に2人でとれるトリック数の合計を類推し、ビッドにより攻撃側ペア・守備側ペアを決める。攻撃側で主とならない側のプレイヤーは、最初のリードの後手札を晒す。これをダミーと呼び、そのカードは主となる側が指定して出すことになる。13回のトリックのうち、攻撃側が宣言した以上のトリックを取れれば勝利となり、宣言しただけの点数を獲得し、宣言した以上の分についてはボーナスとして点数を獲得する。 競技では、配られたカードの差による有利不利を減らすため、デュプリケートブリッジとして、カードの内容をあらかじめ決めておき、競技者の間でそれらカードをプレイした結果の差で勝ち負けを決める。
{{Infobox card game | title = コントラクトブリッジ | subtitle = | image_link = [[Image:Bridge declarer.jpg|none|250px]] | image_caption = ディクレアラープレー | alt_names = ブリッジ | type = トリックテイキングゲーム | players = 4人 | play = 時計回り | card_rank = A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3 2 | ages = | num_cards = 52枚 | deck = アングロアメリカン | origin = | related = [[ホイスト]]、{{仮リンク|オークションブリッジ|en|Auction bridge}} | playing_time = [[:en:World Bridge Federation|WBF]]トーナメントゲームでは1プレイ7.5分 | random_chance = <!--プレイの仕方次第--> | skills = [[記憶]]、[[戦術]]、予測、駆け引き | footnotes = }} {{wikibooks}}'''コントラクトブリッジ'''({{lang-en-short|contract bridge}})は、[[切り札]]のある[[トリックテイキングゲーム]]の一つである。ただ単に'''ブリッジ'''と略すことも多い。 ブリッジと名のつくカードゲームには他に[[セブンブリッジ]]があるが、コントラクトブリッジとは全く異なるゲームである。 このゲーム中では切り札のことを「トランプ」と呼び、またゲーム中の情報伝達に規則があるゲームなので注意すること。 プレイ人数は4人。向かい合ったもの同士がペアを組み、自らの手札を元に2人でとれるトリック数の合計を類推し、ビッドにより攻撃側ペア・守備側ペアを決める。攻撃側で主とならない側のプレイヤーは、最初のリードの後手札を晒す。これをダミーと呼び、そのカードは主となる側が指定して出すことになる。13回のトリックのうち、攻撃側が宣言した以上のトリックを取れれば勝利となり、宣言しただけの点数を獲得し、宣言した以上の分についてはボーナスとして点数を獲得する。 競技では、配られたカードの差による有利不利を減らすため、[[#デュプリケートブリッジ|デュプリケートブリッジ]]として、カードの内容をあらかじめ決めておき、競技者の間でそれらカードをプレイした結果の差で勝ち負けを決める。 == 歴史 == トリックテイキングゲームの歴史はトランプ自体と同じくらい古いが、18世紀後半から19世紀には、イギリスの[[ホイスト]]がヨーロッパ中で流行するようになった。しかしそれまで流行していた[[オンブル]]や[[カドリーユ]]のようなビッドシステムがホイストには欠けていたため、ホイストにビッドシステムを追加する試みがいくつか行われ、その中からブリッジも生まれた。 ブリッジの直接の祖先にあたるのは、ジョン・コリンソンが1886年に刊行した冊子の中に載っている「ビリッチ(biritch)」というゲームである<ref>[http://www.pagat.com/boston/biritch.html Biritch, or Russian Whist] (pagat.com)</ref>。コリンソンによると、このゲームは[[イスタンブール|コンスタンチノープル]]のロシア人によって当時遊ばれていたものだという。ビリッチはダミー・ホイスト(ディーラーのパートナーが手札を開いて見せ、ディーラーがそこから何を出すかを決めるもの)の一種で、ディーラーかまたはそのパートナーが切り札を決めるか、または切り札なし(これをビリッチといった)を宣言する。ディーラーの相手側はダブル(contre)をかけられる、というもので、まだ競りのシステムはなかった。このゲームは後に「ブリッジ・ホイスト」さらに略してブリッジと呼ばれるようになった。「ブリッジ」という言葉はこのビリッチが変化したものと考えられている(ビリッチ自身の語源は明らかでない)。 1904年前後に、切り札をプレイヤーが決めるために“競り”を用いる'''オークション・ブリッジ'''が考案された。コントラクトブリッジとオークション・ブリッジとの主な違いは得点の計算方法にある。とくに、オークション・ブリッジでは取れたトリック数がそのまま得点になったのに対して、コントラクトブリッジでは宣言したトリック数によって得点が得られるように変更された。この変更は[[第一次世界大戦]]中に[[フランス]]で考案され、プラフォン(plafond、天井)という名前で流行した<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/462633/Plafond Plafond (card game)] (Emcyclopaedia Britannica)</ref>。さらにアメリカの[[ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト]]らによって1925年にスコア表とバルナラビリティに関する改良が加えられ、1930年代以降はコントラクトブリッジがオークション・ブリッジやプラフォンを圧倒した。 現在、コントラクトブリッジはオークション・ブリッジを含めた他のブリッジに完全に取って代わっており、特に米英では単に'''ブリッジ'''と言えばコントラクトブリッジのことを指すようになっている。ただし、日本では逆にブリッジと言った場合、[[セブンブリッジ]]を指すこともあるため、注意が必要である。日本語では「コントラクトブリッジ」と「コントラクト・ブリッジ」の2種類の表記があるが、管轄団体である'''日本コントラクトブリッジ連盟''' (JCBL) では「コントラクトブリッジ」としているため、本項目でもこの表記に従う。 日本においては余りなじみのない競技だが、戦前から欧米人と関わりを持つ者を中心として行われていた。[[1953年]]には日本コントラクトブリッジ連盟が結成されている。現在では[[日本電気]]や[[日産自動車]]などが協賛する競技会が定期的に開催されている。 [[1995年]]にブリッジは[[マインドスポーツ]]の一種目として、[[国際オリンピック委員会]]の承認競技リストに載ることになった。[[2018年]]の[[2018年アジア競技大会|アジア大会]]では初めて正式種目に採用された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-27|url=http://www.jcbl.or.jp/Portals/0/pdf/press/pressrelease20160927.pdf|title=2018年アジア競技大会 ブリッジが正式種目に決定|format=PDF|publisher=公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟|accessdate=2018-08-16}}</ref>。 しかし、助成金をめぐって「ブリッジがスポーツに当たるか」を争った2015年のイギリスの裁判所の判決では、ブリッジをスポーツとは認めない判決が下っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/2015/10/16/uk-bridge-cardgame-idJPKCN0SA0HE20151016 |title=カードゲームはスポーツでない、英裁判所判決にブリッジ協会失望 |publisher=[[ロイター通信]] |accessdate=2015-10-31 }}</ref>。 == ラバーブリッジ == 知り合い同士でブリッジを遊ぶ際には、ラバーブリッジがよく用いられる。'''ラバー'''(rubber)1つとは2ゲームを先取することであり、1ゲームとはコントラクトによる勝利のみで合計100点以上を獲得することである。スコアシートには横線を引いて、ゲームのために加算するポイントとボーナスとなるポイントを区別する。線の下側に書くポイントだけがゲームを左右する。勝敗は1ラバーが終わったときの点数総計で争うので、ごくまれではあるがラバーを勝ち取っても勝負としては負ける可能性もある。 === プレイヤー === プレイヤーは4人。一般には正方形のテーブルを使用し、その4辺に座る。便宜上4人のプレイヤーをそれぞれN(North)、S(South)、E(East)、W(West)と呼ぶ。向かい合った2人(NとS、EとW)が味方(パートナー)同士となる。この2人をペアといい、2つのペアを区別するときはサイド(NSサイド、EWサイドあるいは相手サイドなど)と呼ぶ。 === カードの配り方 === ゲームには通常のトランプ52枚を使う。ディーラーを1人決め、ディーラーは各プレイヤーに13枚ずつカードを配る。ディーラーは、ゲーム毎に左隣の者へと移ってゆく。 ルール上最初の手札が13枚と多いため、持ちやすいよう、メジャーなブランドのカードなどには細身の「ブリッジサイズ」バージョンがある([[トランプ#サイズ]])。 === ビッド === '''ビッド'''(bid)とは競り(オークション)の宣言のことである。競りはディーラーから始め、時計回りに続け、最後に誰かがコールをしてから、他の3名が連続してパスするまで続く。'''コール'''(call)にはビッド (bid)、パス (pass)、'''ダブル'''(double, DBLと略記する)および'''リダブル'''(redouble, RDBLと略記する)があり、自分の順番では、以下のいずれかを行うことになる。 # 新しくビッドする。 # パスする。 # 最後のビッドが相手サイドの場合にダブルをコールする。 # 相手サイドにダブルがコールされている場合にリダブルをコールする。 もし、ビッドされることなく4人がパスした場合は、このゲームは互いに0点となり、次のディーラーが新しいゲームを始める。 ビッドは、オッドトリックの数字とデノミネーションを合わせて行う。'''オッドトリック'''(odd tricks)とは、勝利するために必要な最低限の6トリック(ブックという)を除いたトリック数のことで、1~7の数字で指定する。'''デノミネーション'''(denomination)は、切り札となる特定のスートかノートランプ (NT) で特定する。 :例えば、{{cards|1h}}と言えば、7トリックをハートを切り札として獲るという宣言になる。 新しくビッドを行う場合、直前までのビッドよりオッドトリックの数字もしくはデノミネーションのランクが上回るビッドをする必要がある。スートは下から順に{{cards|c}}、{{cards|d}}、{{cards|h}}、{{cards|s}}の順位をもっており、ノートランプは{{cards|s}}の上に位置する。ダブル、リダブルの後でビッドが行われた場合にはそのダブル、リダブルは無効となる。 あるコールに対して他の3人がパスしたら、最後のビッドを'''コントラクト'''と呼び、これが最終的に有効なものと見なされる。コントラクトを成立させたペアのうち、最初にコントラクトのデノミネーションを宣言したプレイヤーを'''ディクレアラー''' (declarer) と呼ぶ。ディクレアラーのパートナーは'''ダミー'''(dummy)と呼ばれる。残りの2人を'''ディフェンダー'''(defenders)と呼ぶ。 最後のビッドをした者がディクレアラーになるわけではないことに注意。たとえば、 {{Indent|Nが{{cards|1s}}をビッド→Sが{{cards|2c}}をビッド→Wが{{cards|2h}}をビッド→Sが{{cards|4s}}をビッド→他の3人がパス}} と進行した場合、ディクレアラーはSではなく最初に{{cards|s}}をビッドしたNになる。 === 手札のプレイ === 最初のリードは、ディクレアラーの左側のプレイヤーから行う。プレイは時計回りに進行する。 最初のカードがリードされたら、その時点でダミーのカードを机に晒す。そして、これらのカードはこれ以降、ディクレアラーの判断でプレイする。つまり、ディクレアラーがダミーに、どのカードを出すか指示するのである。 これ以外のプレイの主要な点については他のマストフォロールールを用いた[[トリックテイキングゲーム]]と同じで、前回のトリックを取ったものが次のリードを行う。もちろん、ディクレアラーがダミーの手でトリックを取った場合は、ダミーの側から次のリードを、ディクレアラーが自分の手でトリックを取った場合は、自分の側から次のリードを行う。 切り札は、ビッディングの際にデノミネーションとして宣言されたスートである。NT でコントラクトした場合は切り札なしで行う。 === 点数の付け方 === ディクレアラーがコントラクトを達成した場合、各スートごとに決められた基本点×コントラクトのオッドトリック分の点数が線の下に書かれる。コントラクトより多くのトリックを取った場合は、ダブル、リダブルの場合を除いて、上回った分について同様に点数を計算するが、これは線の上に記入される。 線の下に書かれる点数は、ダブルされたコントラクトの場合は上記の2倍、リダブルの場合はダブルのさらに2倍となる。 切り札をクラブまたはダイヤにした場合は基本点は20点であり、ハートまたはスペードの場合は30点である。NTの場合も30点だが、最後に10点を加えて線の下に記入する。 ;例 :{{cards|2c}}でビッド、9トリックを取った場合は、線の下に40点(2x20)を記入、線の上に20点(1x20)を記入する。 :{{cards|4h}}でビッド、10トリックを取った場合は、線の下に120(4x30)を記入、線の上に0点(0x30)を記入する。 :4NTでビッド、11トリックを取った場合は、線の下に130(4x30+10)を記入、線の上に30点(1x30)を記入する。 === ゲーム・バル・ラバー === 線の下に書かれた点数が、今までに線の下に書かれたぶんと今とったぶんを合わせ、100点以上(100点を含む)になった場合、そのチームは'''ゲーム'''(game)を達成したということになり、そこまでのスコアは両チームとも全て線の上側に書かれたものとして扱う。ゲームを1度勝ったチームを、'''バルネラブル'''(Vulnerable)略して'''バル'''(Vul.)と呼ぶ。バルネラブルでないチームをノン・バルネラブル(ノンバル)と呼ぶ。バルかノンバルかによって、スラムを取ったときのボーナス点と、ダウン(宣言したトリックが取れなかった場合)の点が変化する。 もしそのゲーム達成がそのチームにとって2ゲーム目であった場合、これは'''ラバー'''(rubber)獲得とされる。どちらかのチームがラバーを獲得した時点で、そのラバーは終了する。ラバーを獲得したチームには以下のようなラバーボーナスが与えられる。 *相手チームがノンバルの場合、(試合開始からゲームを2回連続で取得した場合)700点 *相手チームがバルの場合、500点 そして、双方の合計点を数え、この合計点の高低で勝利チームを決める。 ラバーボーナスは大きいため、普通はラバーを獲得したチームのほうが勝利する。しかし、リダブルで大きなオーバートリックを獲得したチームがある場合など、ラバーを獲得できなかった側が勝利する可能性もルールとしては残されている。 === スラムボーナス === コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、'''スモールスラム'''(small slam)と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。 コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、'''グランドスラム'''(grand slam)と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。 [[グランドスラム]]は[[テニス]]などスポーツで主要な大会を制覇する意味でも使われるようになっている。 === アナーボーナス === '''アナー'''(honour)ボーナスは、コントラクトの達成如何にかかわらず、下記の条件を満たす場合に線の上側に記入する。ラバーブリッジには適用されるが、デュプリケートには適用されない。(同じ手札を全員がプレイするため) *トランプのA,K,Q,J,10の5枚すべてを1人が持っていた場合 150点 *上記のうちいずれか4枚を1人が持っていた場合 100点 *ノートランプの場合で、4枚のAを1人が持っていた場合 150点 === ダウン(アンダートリック) === 宣言した側が宣言しただけのトリックを取れなかった場合、相手チームが線の上側に点数を獲得する。宣言した側がノンバルの時は、下回った分1トリックにつき50点が、バルの時は、下回った分1トリックにつき100点がその点数となる。 === ダブル === 宣言にダブルがかけられていた場合、コントラクトを達成すると、線の下側に記入される点数は2倍になる。さらにボーナス50点を線の上側に記入する。オーバートリックは1トリックにつき、達成した側がノンバルなら100点を、バルなら200点を加算する。リダブルしていた場合は、以上の点数はすべてダブルのときの2倍になる。 スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。 ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。 * 宣言した側がノンバルの場合は、1ダウンの際は1トリックについて100点、2,3ダウンの際は、1トリックを越えた分について1トリック200点、4以上のダウンの際は、3トリックを越えた分について1トリック300点となる。 * 宣言した側がバルの場合は、1ダウンの際は1トリックについて200点、2以上のダウンの際は、1トリックを越えた分について1トリック300点となる。 コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。 === 最近の点数計算に関する変更 === もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。 ノンバルの側がダブルをかけられてダウンした場合、前は最初の1トリックが100点、その後が各200点というだけのペナルティだったが、これだとグランドスラムを狙ってコントラクトする側に関しての対抗条件としては弱いので変更された。バルでグランドスラムをかけると、点数は(スラムボーナスとして)1500点、(ゲームボーナスとして)500点、(メジャースートでのトリック達成点として)210点を確保するので、この点数は合計2210点となるのだが、ノンバルの側がダブルをかけられて11ダウンすると、ペナルティは(昔の方式では)2100点となるわけで、これは考慮できる犠牲であったわけだ。 また、リダブルをかけられた際にもらえるボーナスも、古いルールでは50点のままだった。これは100点に変更されているが、このためマイナースートで5以上のコントラクトをし、リダブルして、オーバートリックを取ることが、ダブルされずにスモールスラムを取るよりも価値のあることになった。 この変更はまずデュプリケートブリッジにおいて行われ、ラバーブリッジでも1993年に変更された。 === 得点早見表 === {|class="wikitable" |+ トリックスコア ! 宣言の種類 || 通常 || ダブル || リダブル |- ! {{cards|d}}・{{cards|c}}の各オッドトリック | align="right" | 20 | align="right" | 40 | align="right" | 80 |- ! {{cards|s}}・{{cards|h}}の各オッドトリック | align="right" | 30 | align="right" | 60 | align="right" | 120 |- ! NTの最初のオッドトリック | align="right" | 40 | align="right" | 80 | align="right" | 160 |- ! NTの2つめ以降の各オッドトリック | align="right" | 30 | align="right" | 60 | align="right" | 120 |} {|class="wikitable" |+ コントラクト達成 ! 通常 || ダブル || リダブル |- | align="right" | 0 | align="right" | 50 | align="right" | 100 |} {|class="wikitable" |+ オーバートリック ! rowspan="2" | 宣言の種類 ! rowspan="2" | 通常 ! colspan="2" | ノンバル ! colspan="2" | バル |- ! ダブル || リダブル || ダブル || リダブル |- ! {{cards|d}}・{{cards|c}} | align="right" | 20 | rowspan="2" align="right" | 100 | rowspan="2" align="right" | 200 | rowspan="2" align="right" | 200 | rowspan="2" align="right" | 400 |- ! {{cards|s}}・{{cards|h}}・NT | align="right" | 30 |} {|class="wikitable" |+ アンダートリック(相手が得点) ! ! colspan="3" | ノンバル ! colspan="3" | バル |- ! || 通常 || ダブル || リダブル || 通常 || ダブル || リダブル |- ! 1ダウン | align="right" | 50 | align="right" | 100 | align="right" | 200 | align="right" | 100 | align="right" | 200 | align="right" | 400 |- ! 2ダウン | align="right" | 100 | align="right" | 300 | align="right" | 600 | align="right" | 200 | align="right" | 500 | align="right" | 1000 |- ! 3ダウン | align="right" | 150 | align="right" | 500 | align="right" | 1000 | align="right" | 300 | align="right" | 800 | align="right" | 1600 |- ! 4つめ以降追加 | align="right" | 50 | align="right" | 300 | align="right" | 600 | align="right" | 100 | align="right" | 300 | align="right" | 600 |} {|class="wikitable" |+ スラム ! ! ノンバル || バル |- ! スモールスラム | align="right" | 500 | align="right" | 750 |- ! グランドスラム | align="right" | 1000 | align="right" | 1500 |} {|class="wikitable" |+ ラバー ! 相手がノンバル || 相手がバル |- | align="right" | 700 | align="right" | 500 |} {|class="wikitable" |+ アナー |- ! NTで一手に4枚のA | align="right" | 150 |- ! 一手にアナー5枚 | align="right" | 150 |- ! 一手にアナー4枚 | align="right" | 100 |} == デュプリケートブリッジ == 他のカードゲームと同様、ブリッジの点数は手札の良し悪しに依存する。このことを回避し、ブリッジを運のゲームから技のゲームとするため、ブリッジクラブや大会でのスコアはそれ自身では評価せず、同じ手を用いて他のプレイヤーが戦ったときと比べて評価される。これには大きく分けて2つのシステムがある。ペア戦とチーム戦である。 === ペア戦 === ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。 アメリカや日本では、勝ったときは1点、同じ点なら1/2点として同様の計算をする。 === チーム戦 === チーム戦では、各ペアは2ペアで構成されるチームの1員となる。各ディールは2度ずつ実行される。2度目は、同じチームの敵が使っていた手を用いてプレイする。もちろん、チーム内では使った手の内容について全てのディールが終わるまで語り合ってはいけない。各ディールが2度ずつ行われたら、各ディールについてスコアを比較する。そして、全スコアは各プレイを比較することで行う。たとえば、あるペアが+1000点獲得し、同じ手で同チームが失点を-980点に押さえた場合、そのチームのスコアはそのディールについて+20点となる。通常、この数字は、大きい点数の場合は圧縮される。さもなければ、1度でもスラム勝ちすれば他のゲームが意味のないものになってしまうからだ。'''ボード・ア・マッチ'''の場合は、勝ち負けのみで比較される。'''IMP'''の場合は、点数の差は0~24の点数に圧縮される。 === デュプリケートブリッジの点数 === デュプリケートブリッジは、クラブやトーナメントで遊ばれているが、これらはそれぞれ独立して扱われ、ラバーの一部としては見られない。これらの違いは単純化され、スコアリングは上記の通りとなる。 デュプリケートブリッジでは、コントラクトを達成した場合の点数はボーナスも含め上記に書かれた通りである。(6トリックを超えた分について、クラブ、ダイヤでは1トリックにつき20点、ハート、スペードについては30点、ノートランプの際は30点+10点ボーナス。ダブル、リダブルも考慮する。)コントラクトによって達成される点が100点以上となる場合は、ゲーム達成とみなし、バルネラブルでない場合は300点を、バルネラブルの場合は500点を加えて獲得する。100点を達成出来なかった場合も、この点は次の手には持ち越されないが、50点のボーナスは加えられる。 そのほかの点数については同様である。 デュプリケートブリッジでは、各ゲームについて、「両チームともバルネラブルでない」「NS側だけバルネラブル」「EW側だけバルネラブル」「両チームがバルネラブル」という順番で行い、その後はディーラーとバルネラブルの組み合わせを変えるために、一人ずつずらしてくり返す。 === ビッディングボックスとビッディングスクリーン === [[Image:Bridge bidding sequence.jpg|thumb|250px|ビッディングボックスを使ったオークション]] 試合では、'''ビッディングボックス'''がよく使われる。これはビッディングの各内容を書いた'''ビッディングカード'''をまとめて各人に持たせたもので、これを使うことで、声を使うことで起こる禁止された情報交換を防ぐ事が出来る。たとえば、ただ「ダブル」というのと、強い調子で「'''ダブル'''」と言うようなものに違いを持たせているような場合である。国際的な試合や国内のトップ戦の場合は、'''ビッディングスクリーン'''が使われる。机上に立てることで、ビッドが終了するまで自分のパートナーを見ることが出来なくなる(声を聞くこともできない)。スクリーンの両側にはそれぞれ2名がいることになる。全てのアラートは書かれたもので行われ、各プレイヤーは自分と自分のパートナー両方のビッドをアラートする。 これらの問題の多くはオンラインのブリッジで回避される。許可されない情報交換による不正は回避される。しかし、もっとあからさまな不正(たとえば、別回線を用いて、パートナーと電話で会話して情報交換するなど)は可能である。幸運にも、上級者のほとんどはこういった不正を察知できる。それに、電子的に手札は保存されているので、苦情は簡単適切に解決することが可能である。オンラインブリッジにはそのほか、'''リボーク'''(ルール違反なカードプレイ)や順番飛ばしなどのルール違反が不可能であるという利点がある。コンピュータ([[プログラム (コンピュータ)|プログラム]])によりルールが強制されるからである。 == ビッディングシステムとコンベンション == パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。 * 情報交換は、ビッディングもしくはカードプレイによってのみ行うことができ、そのほかの方法によって行うことは許されない。 * 個々の情報交換手段に対し、あらかじめどういった意味を持たせる取り決めをしたか、相手チームにも説明する義務がある。 したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。 パートナー同士で予め合意した、コールが意味する様々な取り決めを集めたものを、'''ビッディングシステム'''と呼ぶ。ビッディングシステムには、ゴーレン、エーコール([[:en:Acol]])、スタンダードアメリカン([[:en:Standard American]])、プレシジョン([[:en:Precision Club]])、JCBLスタンダードなど、様々なものがあり、ある名称が別のシステムを包含しているものだったり、同じ名称でも細部の変更がある場合がある。 日本で主に使われているJCBLスタンダードにも4枚メジャーと5枚メジャーと呼ばれるバリエーションがあり、微妙に条件が違っている。 ビッドの際、宣言したトリック数や切り札スートとは全く違う意味を込める場合があり、これを'''コンベンション'''と呼ぶ。多くのコンベンションが開発されているが、有名なのはステイマン([[:en:Stayman convention]])、ジャコビ・トランスファー([[:en:Jacoby transfer]])、ブラックウッド([[:en:Blackwood convention]])の各コンベンションである。 ;例1 :ステイマンを採用している場合には、オープナー(最初にビッドしたパートナー)が1NTでビッドを開始した時にレスポンダー(オープナーのパートナー)が{{cards|2c}}をコールすることに関して、チーム内では「{{cards|c}}を切り札にしたい」という意味を持たせずに「{{cards|h}}や{{cards|s}}を最終的に切り札にしたいと持ちかけた」という意味を持たせる。オープナーは{{cards|h}}や{{cards|s}}の枚数で多いものがあるならそのスートの2の代のコールで、もし両方ともない場合は{{cards|2d}}のコールで返答する。2NTのオープン(ビッドの開始)でも同様の取り決めをすることができ、この場合は3の代のコールを同様に使う。 ;例2 :ジャコビ・トランスファーを採用している場合、オープナーが1NTとビッドした時にレスポンダーが{{cards|2d}}をコールすると「{{cards|d}}を切り札にしたい」と宣言したのではなく、「{{cards|h}}を切り札にしたい(5枚以上ある)」と情報を述べたことにする。オープナーは{{cards|2h}}もしくはそれ以上の{{cards|h}}で返答する。同様な状況でのレスポンダーの{{cards|2h}}コールは{{cards|s}}に関する情報として用いる。 ;例3 :ブラックウッドを採用している場合、ある状況で4NTというビッドがあった場合は「4NTでプレイしたい」と宣言したのではなく「スラム勝ちを狙うためにAの枚数を問うている」とする。パートナーは5の代のスートでAの枚数を返答すると決められている。 == テクニック == === ディクレアラーによる基本テクニック === 初心者でも以下の戦法は遊ぶ際に知っておくべきである。 ; ドロートランプ :他のスートをプレイする前に切り札をプレイして、相手側の切り札をすべて出させ、切り札で切られることを事前に防ぐテクニック。 ; フィネス :自分のカードより強いカードが右のオポーネント(オンサイド)にあると仮定してカードを出すことで、50%の確率でトリックを取ろうとするテクニック。 ; エスタブリッシュ :あるスートを何度もリードし、オポーネントがそのスートを持っていない状態にすること。以降このスートでは(切り札を除けば)確実に勝てるようになる。 ; クロスラフ :ダミーと自分の手との間でお互いが持っていないカードをリードし、切り札を出す(ラフ)ことで交互にトリックを取るテクニック。 ; ホールドアップ :作戦上わざと負けることで自分の側を有利にするテクニック。相手の通信を遮断するために行う。 ; ハンドリング :ダミーと自分の手の間でリード権をやりとりするテクニック。 === ディクレアラーによる中級テクニック === 大会に出るなら、以下のテクニックは知っておくべきである。 ; 手札のカウンティング ; クー (coup) ; ダック :スクイズやエンドプレイの際の戦法として行ったり、ディフェンダーのエントリーを妨害して自分の手の連携を行うために行う。 ; ダミーリバーサル :切り札の長い方の手で何度もラフし、その後で枚数の少ない方の切り札でドロートランプを行うことで、通常より多くのトリックをとるプレイ。 ; エンドプレイ :スローインやスクイズなど、手の持ち札が少なくなった状況で、ディクレアラーにとって有利な札をディフェンダーから無理やり出させるプレイ。 ; Morton's Fork Coup ; カウントの修正 ; セーフティプレイ :オーバートリックを狙うのではなく、確実にコントラクトを達成するための「安全なプレイライン」 ; スクイズ :ディフェンダーが複数のスーツを守っている場合に、そのどちらかを捨てさせるテクニック。 ; トランプ・クー :プレイ終盤に、ディフェンダーの保持するすべてのトランプに勝てるような配置に調整するテクニック。 ; アボイダンス :フィネスを行う場合などに、リード権を得ては困る側のディフェンダーにだけは負けないようにプレイする方法。 ; スローイン :ディフェンダーからリードするとトリックを損するようなカード配置を作ってからそのディフェンダーに負け、不利なリードを強いるテクニック。 === ディフェンダーによる基本テクニック === ; オープニングリード :4thベスト、トップオブシークエンス、トップオブナッシングなどの一般的な取り決めがあり、これを守ることで、ディフェンダー間の情報伝達を行う。 ;サードハンドハイ :パートナーのスモールのリードに対しては、自分の最も高いカードをプレイし、パートナーの絵札が昇格するように協力すること ;セカンドハンドロー :ディクレアラーまたはダミーからのリードに対して、2番手はロウカードをプレイし、パートナーが相手の絵札を捕まえてくれることを期待する。 ;フォローは下から :複数枚の同格のカード(KとQ、10と9など)を持っているときは、一番低いものをフォローする。 ;リードは上から :「フォローは下から」に対して、トップオブシークエンスのリードの約束について言ったもの。 === ディフェンダーによる中級テクニック === ; エンドプレイやスクイズの回避 :ホールドアップによりディクレアラーとダミーの通信を遮断するなどして、エンドプレイにさせない。 ; 手札のカウンティング ; 競りの情報を元にしたオープニングリード :オークションの内容から、他のハンドを推測する。 ; シグナル :あらかじめパートナー間で決めたカードの出し方で、そのスーツの絵札の有無や枚数、あるいは次にリードして欲しいスーツなどをパートナーに知らせる。 ; アッパーカット(プロモーション) :パートナーが自分とディクレアラーもしくはダミーの両方にボイドとなっているスーツをリードしたときに、自分がラフすることでディクレアラーもしくはダミーにオーバーラフを強制し、トランプの絵札を減じることでドロートランプを妨げる。 == インターネットでのブリッジ == インターネット上に、ブリッジを遊ぶためのサーバがある。フリーなものもあるが、登録が必要なものもある。OKBridgeは、インターネット上のブリッジサービスでもっとも古いものであるが、愛好者の間ではもっともポピュラーである。ACBL(アメリカコントラクトブリッジ連盟)は、自営で登録制のブリッジサービスを始めたが、あまり成功していない。フリーのサーバは、不正を監視していないし、プレイに関しては低品質であることが多い。 オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。 * いつ遊ぶか決めることが出来る。クラブでのゲームは19時から22時までとなるかもしれない。対してオンラインなら、19時から21時まで、とか17時から23時まで、とすることが出来る。 * 対戦相手を決める事が出来る。クラブでのゲームの場合、弱すぎたり、マナーがなっていなかったり、あまりに強い人と対戦することを強いられるかもしれない。オンラインなら、ほぼ同じ能力の相手と戦うことが出来る。 * レーティングシステムが正確である。ACBLマスターポイントシステムは、あなたがどのくらい出来るか、ではなく、どのくらいプレイしてきたか、を測定している。多くのオンラインサービスでは、チェスの[[イロレーティング]]に近いレーティングを採用している。このレーティングシステムも完璧ではないが、そこそこ良い評価を下してくれる。 * コンベンションに関する制限が少ない。対戦相手を選べるため、コンベンションに対する制限はないのである。多くのプレイヤーは、コンベンションに対する制限があるため、ACBLを嫌っている。 * オンラインでは不正を監視することが簡単である。事故的に不正な情報交換をしてしまう羽目になることはオンラインでは少ない。故意の情報交換、たとえば電話で話し合うことなどはより簡単ではある。しかしながら、各ビッドとプレイに関しては完璧な記録が残っているので、上級者にはその後で不正をしたことはわかる。不正をしたと1度や2度苦情を言われたくらいでサーバから排除されることはないだろうが、常習者をあぶり出すことは簡単である。 もちろん、オンラインプレイには欠点もある。 * 対戦相手を選ぶ事に関して。1度か2度良い勝ち方をすれば、対戦相手は消えるだろう。もしその場で組んだパートナーで対戦して、自分が足を引っ張れば、パートナーは去ってしまうだろう。 * 現実世界での対戦ではないということで、マナーがよくない者がいる。とはいえこれは主観的な意見ではある。 == 用語 == ; トランプ : 切り札のこと。スペード、ハート、ダイヤ、クラブのどれを切り札にするかはオークションで決定される。 ; ラフ : 切り札以外のスーツが出されているトリックで、切り札のスーツを使ってそのトリックを取ること、あるいは取ろうとすること。 ; ビッド : 切り札の種類と、取るトリック数の宣言。 ; コール : ビッド・パス・ダブル・リダブルをまとめてコールと呼ぶ。 ; パス : ビッドもダブルもリダブルもしないこと。誰かがオープンした後、これが3回続くとビッドは終了する。 ; パスアウト : 誰もオープンせずに4人全員がパスすること。そのボードは終了し、スコアは双方とも0点である。 ; メジャースート : ハートとスペード。マイナーより重視される。 ; マイナースート : クラブとダイヤモンド。 ; スラム : 12ないし13トリックを取る宣言。成功すれば大きなボーナス点を得られ、13トリック全て取ることに成功することを、「'''グランドスラム'''」と呼ぶ。 ; ゲーム : ラバーブリッジでは、相手より先にトリック点を累計100点以上取ること。デュプリケートブリッジでは、一度にトリック点を100点以上取ること。 ; ラバー : ブリッジのゲーム形式の一つ。相手チームより先にトリック点を累計100点以上にしたらゲームとなり、2ゲームを先取すれば勝利となる。競技会でなく遊びとしてはこちらのルールを採用することが多い。対義語はデュプリケート。 ; ダブル : 相手側のビッドに対し、その達成が不可能と思われるのでダウンしたときの失点とメイクしたときの得点を増やして戦おうという意味のコール。 ; ディクレアラー : コントラクトを買い取った側のペアで、最初にそのスーツまたはNTのビッドしたほうのプレイヤー。コントラクトの達成を目指し、自分とダミーの両方のハンドを自分の意思でプレイする。 ; ダミー : ディクレアラーのパートナーとなるプレイヤーで、プレイが始まると手札を晒し、ディクレアラーの指示通りにプレイする。 ; ディフェンダー : コントラクトを買い取った側でないほうのペア。二人協力してディクレアラーのコントラクト達成の阻止を狙う。 ; ボード : デュプリケートブリッジにて、プレイを終えたカードを収納し、別のペアが同じ手札でプレイできるようにするための器具。 ; ノートランプ : 切り札(トランプ)を設定しないこと、あるいは設定しないコントラクト。 ; ACBL ; OKBridge ; ディレクター : 大会で、審判の役目を果たす人。運営中に発生したトラブルの解決を行う。 ; リボーク : リードされたスーツを持っているにも関わらず出さないこと。所定のペナルティが課される。 ; リード・アウト・オブ・ターン : 本来リードするはずでない人がリードしてしまうこと。所定のペナルティが課される。 ; バルネラブル : ラバーでは、すでに1ゲームを取った状態のこと。ダウン時の失点が大きくなる。デュプリケートでは、ボードにバルネラブルか否かが書かれている。ダウン時の失点、ゲームやスラムをメイク時の得点ともに大きくなる。 ; パートスコア : ゲームに満たないコントラクト。 == 関連する作品 == 米英では一般的なカードゲームであるため、「ブリッジをプレイする」という場合、普通はコントラクトブリッジのことである。小説や映画などにも頻繁に登場するが、ルールの説明が本編にないことがほとんどであり、ミステリー小説などでトリックとして使われると、一般的でない国の人間にはアンフェアとされることもある。 *[[ひらいたトランプ]] - [[アガサ・クリスティ]]の代表作。ブリッジが[[トリック (推理小説)]]に関わるため、ルールを知らない人間には理解しにくい。 *[[007 ムーンレイカー]] -[[イアン・フレミング]]の小説。007が大金を賭けてブリッジで勝負をする。映画版(映画版シリーズ第11作)ではカットされている。 *トランプ殺人事件 -[[竹本健治]]のミステリー小説。作品中に用語集が挿入されている。 *[[黒い賭博師]](1965年の日活映画)[[小林旭]]演ずるギャンブラー氷室浩次が、『007 ムーンレイカー』のイカサマ手札を利用している。 == 愛好家 == * [[山本五十六]] - 「グラスラは ほど遠けれど リダブリて ジャストメイキの 心地こそすれ」という歌を詠んでいるほど<ref>真珠湾攻撃の成功の後に贈られた、「雨風の 師走の空も 雲晴れて グランドスラムの 心地よきかな」という歌への返歌で、コントラクトブリッジのルールから解釈するならば、「圧勝でしたね」という歌に対し、「とてもとても圧勝なんてものではなく、薄氷を踏む思いでなんとか勝利条件を達成できた、という所です」と返したものである。[http://www.jcbl.or.jp/home/introduction/knowledge/2/tabid/160/Default.aspx 日本コントラクトブリッジ連盟による記事]も参照のこと。</ref>。 * [[セルゲイ・プロコフィエフ]] * [[鄧小平]] - 中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席 * [[ドワイト・D・アイゼンハワー]] - アメリカ合衆国の軍人・政治家 * [[バスター・キートン]] - アメリカ合衆国の喜劇俳優、映画監督、脚本家 * [[マルコム・フォーブス]] - アメリカ合衆国の実業家・政治家 * [[オマル・シャリーフ]] - 俳優 * [[ウォーレン・バフェット]] - アメリカ合衆国の投資家、経営者、資産家 * [[ビル・ゲイツ]] - アメリカ合衆国の実業家、慈善活動家、技術者 * [[マルチナ・ナブラチロワ]] - 元女子プロテニス選手 * [[チャールズ・M・シュルツ]] - アメリカ合衆国の漫画家。代表作である『ピーナッツ 』でよく知られている。 * [[スヌーピー]] - 漫画『ピーナッツ』に登場するオスのビーグル犬。[[:en:American_Contract_Bridge_League|ACBL]]の名誉ライフマスター * [[トム・ヨーク]] - オルタナティヴ・ロックバンド「[[レディオヘッド]]」のフロントマン * [[ロバート・ゲラー]] - 東京大学名誉教授 地球科学者 * [[細田博之]] - 政治家 公益社団法人 日本コントラクトブリッジ連盟 前会長 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[世界ブリッジ選手権]] * [[トランプ]] * [[カードゲーム]] * [[トリックテイキングゲーム]] * [[セブンブリッジ]] - ブリッジではなくラミー系のゲーム。 == 外部リンク == * [https://www.jcbl.or.jp/ 公益社団法人日本コントラクトブリッジ連盟] (JCBL) * [http://www.worldbridge.org/ World Bridge Federation] {{en icon}} 世界ブリッジ連盟 * [https://www.acbl.org/ American Contract Bridge League] {{en icon}} 米国コントラクトブリッジ連盟 * [https://www.okbridge.com/ OKBridge] {{en icon}} * [https://www.bridgebase.com/ Bridge Base Online] {{en icon}} {{トランプ}} {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こんとらくとふりつし}} [[Category:トリックテイキングゲーム]] [[Category:頭脳ゲーム]]
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群 (数学)
数学における群(ぐん、英: group)とは、ある二項演算とその対象となる集合とを合わせて見たときに結合性を伴い単位元と逆元を備えるものをいう。数学において最も基本的と見なされる代数的構造の一つであり、数学や物理学全般において、さまざまな構成に対する基礎的な枠組みを与えている。群はそれ自体が研究対象であり、その領域は群論と呼ばれる。 群の概念は、数学的対象 X から X への自己同型の集まりの満たす性質を代数的に抽象化することによって得られる。この集まりは X の対称性を表現していると考えられ、結合法則・恒等変換の存在・逆変換の存在などがなりたっている。集合論にもとづき X が集合として実現されている場合には、自己同型として X からそれ自身への全単射写像を考えることになるが、空間や対象の持つ構造に応じてさらに付加条件を課すことが多い。例えば、ベクトル空間 X に対してその自己同型写像の集まりを考えると群が得られる。また、平面上に正三角形など何らかの対称性を持った図形が与えられているとき、平面全体の変換のうちでその図形を保つようなものだけを考えることによって、図形の対称性を表す群を取り出すことができる。 集合 G とその上の二項演算 μ: G × G → G の組 (G, μ) が群であるとは、以下の3つの条件を満たすことをいう: 群よりも広い概念として、1 を満たすものは半群、1 と 2 を満たすものはモノイドという。 なお、二項演算を写像として強調したい場合を除けば、通常 μ(g, h) のことを g・h や単に gh と書くことが多い。またこの演算を「積」や「乗法」と呼ぶことが多いが、加法と呼ばれている二項演算をもとにしてできる群もあるので、注意する必要がある。さらに積が文脈から明らかなときには、群 (G, μ) のことを単に群 G と台集合を指定するだけで済ませることがほとんどである。 群 (G, μ) がさらに を満たすとき、この群のことをアーベル群(可換群)という。アーベル群の演算は "+" を用いて加法的にも書かれ、この際 g の逆元は −g と書かれる。 現代の標準的な群の定義は上述のようなものであり、公理は左右対称に書かれているが、これらは冗長であることが知られていて、たとえば結合法則と左単位元の存在と左逆元の存在だけを要請してもよい。あるいは G が空集合でなく、結合法則と左右の商が存在すること を要請してもよい。また複雑な単一の公理により群を定義する方法もいくつか知られている。 群 G の元の数(基数)のことを位数 (order) という。位数は集合に倣って |G| や #G などの記号で表される。位数が有限な群を有限群という。 群 G の空でない部分集合 H が G の群演算に関して閉じていて、H の任意の元に対して、逆元が H の元であるとき、この部分集合 H を G の部分群といい H ≤ G または G ≥ H と表す。これは空でない部分集合 H の任意の元 a, b に対して ab ∈ H が成り立つことと同値である。 G が群であれば、G および {e}(単位元のみからなる群、単位群)は必ず G の部分群になる。これらを自明な部分群という(単位元のみからなる部分群のみを指す場合もある)。それ以外の部分群は、自明でない部分群あるいは真の部分群と呼ぶ(真部分集合であるような部分群という意味で、真の部分群に単位群を含める場合もある)。 部分群 N が群 G の任意の元 g に対して gNg = N を満たすとき、N をGの正規部分群といい、 N ◃ G {\displaystyle N\triangleleft G} または G ▹ N {\displaystyle G\triangleright N} と書く。 アーベル群 G の任意の部分群は正規部分群である。また、自明でない群 G が自身と自明な部分群しか正規部分群を持たないとき、G は単純群であるという。 部分群 H と G の元 g について、gH はある G の部分集合になる。2 つの g, g' について gH, g'H は全く一致するか交わらないかのいずれかである。従って、 と非交和に書き表せる。それぞれの gH を (H を法とする g の属する G の) 剰余類(または傍系)という。|gH| = |H| が成り立つので結局 |G| = |Λ||H| が成り立つ。G が有限群ならばこれは H の位数が G の位数を割り切るということをいっている(ラグランジュの定理)。特に素数位数の群は巡回群である。|Λ| を [G : H] とか (G : H) などと書いて H の(G に対する)指数という。指数 1 の部分群はもとの群であり、指数 2 の部分群は常に正規部分群である。 N を正規部分群とするとき gN = Ng が成り立つ。すると、二つの剰余類 gN, hN について gN · hN = ghNN = ghN が成り立ち、剰余類の間に演算を定義することができる。ここからすぐにこの剰余類全体は群を成すことが分かる。この群を G の N による剰余群または商群といい、G/N と表す。 群 G1 から群 G2 への写像 f が任意の G1 の元 g, g' について f(gg' ) = f(g)f(g' ) を満たすとき、f を準同型(写像)という。(G1 = G2のときは特に自己準同型という。)さらに準同型 f が全単射であれば、f を同型(写像)という。G1 から G2 への同型が存在するとき、G1 と G2 は同型であるといい、 と表す。2つの群 G1, G2 とその間の準同型写像 f: G1 → G2 に対し、準同型 f の核 Ker f は G1 の正規部分群である。このとき f の像 Im f は G を f の核 Ker f で割った剰余群に同型である: これを(群の)準同型定理(特に第一同型定理)という。 群 G の自己同型(G から G への同型写像)全体の成す集合を Aut(G) と表すと、 Aut(G) は写像の合成を積として群となる。Aut(G) を G の自己同型群と呼ぶ。 群 G の任意の元 g に対し、写像 Ag: G → G を で定めると、この写像は G の自己同型を定める。この形で得られる自己同型を G の内部自己同型と呼び、G の内部自己同型全体の成す集合を Inn(G) と表す。Inn(G) は Aut(G) の正規部分群であり、Inn(G) を G の内部自己同型群と呼ぶ。さらに剰余群 Out(G) = Aut(G)/Inn(G) を外部自己同型群(英語版)とよび、その元を外部自己同型という。群 G の部分群 N が正規部分群であることと、N が G の任意の内部自己同型で不変であることは同値である。さらに N が Aut(G) の作用で不変なら N は G の特性部分群であるという。 群 G の二つの元 x, y に対し、y = Ag(x) = gxg となる g ∈ G が存在するとき、x と y は互いに共役(共軛ともかく)であるという。同様に、部分群 H, K に対し、H = gKg となる g ∈ G が存在するなら、二つの部分群 H, K は互いに共役であるという。共役であるという関係は群 G の同値関係である。群 G を共役という同値関係で類別したときの同値類を共役類という。有限群 G をその共役類 Cl1, ..., Cln に類別すれば、位数に関して次の等式 を考えることができる。これを類等式と呼ぶ。G の元 x がその中心 Z(G) に属することと x の属する共役類が {x} なる一元集合であることとは(中心の定義から直ちにわかるように)同値であり、2 個以上の元からなる共役類の全体を C1, C2, ..., Cr とすれば、類等式は の形に書くことができる。有限群 G が p-群(位数が p の冪であるような群)ならば、その中心が自明群でないことは類等式から直ちにわかる。 群 G のすべての元と可換な G の元の全体を Z(G) や C(G) などと書いて、G の中心という。群 G とその部分集合 S に対し、G の部分集合 は S をその中心に含む G の部分群となる。この群 CG(S) を S の G における中心化群という。S が一元集合 {x} であるとき、CG({x}) を CG(x) と略記する。G の各元 x に対して、その中心化群 CG(x) の G に対する指数 [G : CG(x)] は x の属する共役類の位数に等しい。 群 G の部分集合 S に対して、G の部分集合 は(S が部分群でなくとも)G の部分群となる。この NG(S) を S の G における正規化群と呼ぶ。H が群 G の部分群であるときは、その正規化群 NG(H) は H を含む。また H は正規化群 NG(H) の正規部分群である。これを、NG(H) は H を正規化 (normalize) するといい表す。一般に G のふたつの部分群 H1, H2 に対し、H1 が H2 を正規化するとは、 が H1 のどの h についても成立することを言う。 群 G が、G の部分群の有限列 G0, G1, ..., Gn で 2 条件 を満たすもの(アーベル的正規列)を持つとき、G は可解群であるという。 最小位数の非可解群は5次の交代群 A5 である。 奇数位数の有限群はすべて可解であることが、ジョン・G・トンプソンらによって証明されている(ファイト・トンプソンの定理)。トンプソンはこの業績によりフィールズ賞を受けた。 標数 0 の体上において、代数方程式が代数的に可解となることと、その方程式のガロア群が可解群となることは同値である(一般の正標数では同値にならない)。このことが可解群の名の由来である。また、4 次以下の交代群は可解であるのに対し、5 次の交代群 A5 は可解でなく、したがってそれは 「5 次の一般代数方程式はべき根のみによって解くことは出来ない」という命題の証明となる。 また、可解群の定義は次のように述べることもできる(上の定義と同値): G の部分群 D(G) を と定め、H1 = D(G), H2 = D(H1), ... と帰納的に G の部分群 Hi を定めるとき、Hr = {e} となる自然数 r が存在するならば G を可解群と呼ぶ。 一般に、xyxy を x と y の交換子と呼び、[x, y] であらわす。さらに G の部分群 H, K に対し、[h, k] (h ∈ H, k ∈ K) の形の元で生成される G の部分群を [H, K] で表し、H と K の交換子群という。 この記号を用いれば、D(G) = [G, G] であり、これを G の交換子群と呼ぶ。D(G) は G の特性部分群、したがって特に正規部分群である。すぐに分かるように、D(G) = {e} は G がアーベル群となることに同値である。したがって、剰余群 G/H がアーベル群となるなら H ⊇ D(G) であり、自然に G/H ⊆ G/D(G) と見なせるので、G/D(G) は G の剰余アーベル群の中で最大のものになる。よって G/D(G) を G の最大剰余アーベル群あるいは G のアーベル化、アーベル商などと呼ぶ。 次の2つの同値な条件を満たす群を冪零群 という。 可換群および有限 p 群はべき零群である。また、べき零群は可解群である。 可解性・べき零性の遺伝:べき零群の部分群および剰余群はべき零群である。可解群の部分群および剰余群は可解群である。逆に G の正規部分群 N と剰余群 G/N がともに可解群なら G は可解群である。(べき零群の場合には同様の主張は成り立たない。) 群 G と群 H に対し、その直積集合 G × H 上に という積を定めることで群となる。これを群の(外部)直積または構成的直積という。また、群 G がその部分群 H1, H2 の(内部)直積である、あるいは直積に分解されるとは、以下の条件 がすべて満たされることをいう。 で表す。右辺の直積を構成的直積と呼ぶこともある。G の部分群という構造を落として、H1, H2 の外部直積をつくったものと内部直積とは、二つの自然な埋め込み をそれぞれ同一視することで本質的に同じものであることがわかる。 群 H と群 N と準同型写像 f: H → Aut(N) が与えられているとき、直積集合 N × H 上に で積を定めると群となる。これを H と N の f による半直積といい、 で表す。なお、この群で N は正規部分群となる。群の拡大も参照。 G を有限可換群とすると、2以上の整数 が存在して、G は と巡回群の直積に分解する。このような ei たちは一意的に定まる。 また、素数 p1, ..., pr(重複してもよい)と、正の整数 a1, ..., ar が存在して、 と素数べき位数の巡回群の直積に分解する。このとき、 p 1 a 1 , p 2 a 2 , ⋯ , p r a r {\displaystyle {p_{1}^{a_{1}},p_{2}^{a_{2}},\cdots ,p_{r}^{a_{r}}}} は順序の差を除き一意的に定まる。 有限群 G の位数 |G| の素因数を p とするとき、位数 p をもつ G の元が存在する。 素数 p が与えられているとき、有限群 G の位数を |G| = pm (ただし m は p と互いに素)と表す。このとき位数 p の G の部分群を p-シロー部分群という。p-シロー部分群について以下が成り立つ。 N を有限群 G の正規部分群とし、|N| と |G:N| が互いに素であるとき、G の部分群 C が存在して、G は N と C の半直積となる。 p, q を素数とするとき、位数 pq の有限群は可解である。 有限べき零群はそのシロー部分群の直積に同型である。 群の概念が初めてはっきりと取り出されたのは、エヴァリスト・ガロアによる根の置換群を用いた代数方程式の研究だとされている。 16世紀中頃に、ジェロラモ・カルダーノ、ルドヴィコ・フェラーリらによって四次方程式までは冪根による解の公式が得られていたが、5 次以上の方程式に解の公式が存在するのかどうかはわかっていなかった。その後18世紀後半になってラグランジュによって代数方程式の解法が根の置換と関係していることが見出された。(「ラグランジュの定理」にその名が残っているのはこのためである。)19世紀に入り、ルフィニやニールス・アーベルによって五次以上の方程式にはべき根による解の公式が存在しないことが示された。 ガロアは、より一般に任意の代数方程式について根が方程式の係数から加減乗除や冪根の操作によって得られるかどうかという問題を、方程式のガロア群の可解性という性質に帰着した。ガロアの研究に端を発する群を用いた代数方程式の理論は今ではガロア理論と呼ばれている。 ガロア理論によれば五次以上の代数方程式の非可解性は交代群が単純であることによって説明される。このような有限単純群の分類は20世紀に大きく発展し、1980年代までにいくつかの系列と26の例外からなる有限単純群の同型類のリストアップが完成した。 抽象的な群の概念を考えることによって古典的な数学の対象とは異なるものに群の言葉を導入することができるようになる。文化人類学に群の理論が応用された例として、アンドレ・ヴェイユによるムルンギン族の婚姻体系の解析が挙げられる。オーストラリア・アボリジニのムルンギン族は独特の婚姻体系を持っており、結婚が許される間柄や許されない間柄を定める規則が西洋や日本のものとは全く異なっていた。文化人類学の研究では婚姻関係の規則を列挙して述べるのが普通だったが、ムルンギン族の体系は厳密だがとても複雑なもので、そうした手法による理解は困難に思われた。1945年にクロード・レヴィ=ストロースからこの話を聞いたアンドレ・ヴェイユは、許される婚姻の型を決定する規則が群をなしていることなどを発見し、群論を活用してその体系を解明した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学における群(ぐん、英: group)とは、ある二項演算とその対象となる集合とを合わせて見たときに結合性を伴い単位元と逆元を備えるものをいう。数学において最も基本的と見なされる代数的構造の一つであり、数学や物理学全般において、さまざまな構成に対する基礎的な枠組みを与えている。群はそれ自体が研究対象であり、その領域は群論と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "群の概念は、数学的対象 X から X への自己同型の集まりの満たす性質を代数的に抽象化することによって得られる。この集まりは X の対称性を表現していると考えられ、結合法則・恒等変換の存在・逆変換の存在などがなりたっている。集合論にもとづき X が集合として実現されている場合には、自己同型として X からそれ自身への全単射写像を考えることになるが、空間や対象の持つ構造に応じてさらに付加条件を課すことが多い。例えば、ベクトル空間 X に対してその自己同型写像の集まりを考えると群が得られる。また、平面上に正三角形など何らかの対称性を持った図形が与えられているとき、平面全体の変換のうちでその図形を保つようなものだけを考えることによって、図形の対称性を表す群を取り出すことができる。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "集合 G とその上の二項演算 μ: G × G → G の組 (G, μ) が群であるとは、以下の3つの条件を満たすことをいう:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "群よりも広い概念として、1 を満たすものは半群、1 と 2 を満たすものはモノイドという。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、二項演算を写像として強調したい場合を除けば、通常 μ(g, h) のことを g・h や単に gh と書くことが多い。またこの演算を「積」や「乗法」と呼ぶことが多いが、加法と呼ばれている二項演算をもとにしてできる群もあるので、注意する必要がある。さらに積が文脈から明らかなときには、群 (G, μ) のことを単に群 G と台集合を指定するだけで済ませることがほとんどである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "群 (G, μ) がさらに", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "を満たすとき、この群のことをアーベル群(可換群)という。アーベル群の演算は \"+\" を用いて加法的にも書かれ、この際 g の逆元は −g と書かれる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現代の標準的な群の定義は上述のようなものであり、公理は左右対称に書かれているが、これらは冗長であることが知られていて、たとえば結合法則と左単位元の存在と左逆元の存在だけを要請してもよい。あるいは G が空集合でなく、結合法則と左右の商が存在すること", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "を要請してもよい。また複雑な単一の公理により群を定義する方法もいくつか知られている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "群 G の元の数(基数)のことを位数 (order) という。位数は集合に倣って |G| や #G などの記号で表される。位数が有限な群を有限群という。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "群 G の空でない部分集合 H が G の群演算に関して閉じていて、H の任意の元に対して、逆元が H の元であるとき、この部分集合 H を G の部分群といい H ≤ G または G ≥ H と表す。これは空でない部分集合 H の任意の元 a, b に対して ab ∈ H が成り立つことと同値である。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "G が群であれば、G および {e}(単位元のみからなる群、単位群)は必ず G の部分群になる。これらを自明な部分群という(単位元のみからなる部分群のみを指す場合もある)。それ以外の部分群は、自明でない部分群あるいは真の部分群と呼ぶ(真部分集合であるような部分群という意味で、真の部分群に単位群を含める場合もある)。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "部分群 N が群 G の任意の元 g に対して gNg = N を満たすとき、N をGの正規部分群といい、 N ◃ G {\\displaystyle N\\triangleleft G} または G ▹ N {\\displaystyle G\\triangleright N} と書く。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アーベル群 G の任意の部分群は正規部分群である。また、自明でない群 G が自身と自明な部分群しか正規部分群を持たないとき、G は単純群であるという。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "部分群 H と G の元 g について、gH はある G の部分集合になる。2 つの g, g' について gH, g'H は全く一致するか交わらないかのいずれかである。従って、", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "と非交和に書き表せる。それぞれの gH を (H を法とする g の属する G の) 剰余類(または傍系)という。|gH| = |H| が成り立つので結局 |G| = |Λ||H| が成り立つ。G が有限群ならばこれは H の位数が G の位数を割り切るということをいっている(ラグランジュの定理)。特に素数位数の群は巡回群である。|Λ| を [G : H] とか (G : H) などと書いて H の(G に対する)指数という。指数 1 の部分群はもとの群であり、指数 2 の部分群は常に正規部分群である。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "N を正規部分群とするとき gN = Ng が成り立つ。すると、二つの剰余類 gN, hN について gN · hN = ghNN = ghN が成り立ち、剰余類の間に演算を定義することができる。ここからすぐにこの剰余類全体は群を成すことが分かる。この群を G の N による剰余群または商群といい、G/N と表す。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "群 G1 から群 G2 への写像 f が任意の G1 の元 g, g' について f(gg' ) = f(g)f(g' ) を満たすとき、f を準同型(写像)という。(G1 = G2のときは特に自己準同型という。)さらに準同型 f が全単射であれば、f を同型(写像)という。G1 から G2 への同型が存在するとき、G1 と G2 は同型であるといい、", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "と表す。2つの群 G1, G2 とその間の準同型写像 f: G1 → G2 に対し、準同型 f の核 Ker f は G1 の正規部分群である。このとき f の像 Im f は G を f の核 Ker f で割った剰余群に同型である:", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "これを(群の)準同型定理(特に第一同型定理)という。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "群 G の自己同型(G から G への同型写像)全体の成す集合を Aut(G) と表すと、 Aut(G) は写像の合成を積として群となる。Aut(G) を G の自己同型群と呼ぶ。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "群 G の任意の元 g に対し、写像 Ag: G → G を", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "で定めると、この写像は G の自己同型を定める。この形で得られる自己同型を G の内部自己同型と呼び、G の内部自己同型全体の成す集合を Inn(G) と表す。Inn(G) は Aut(G) の正規部分群であり、Inn(G) を G の内部自己同型群と呼ぶ。さらに剰余群 Out(G) = Aut(G)/Inn(G) を外部自己同型群(英語版)とよび、その元を外部自己同型という。群 G の部分群 N が正規部分群であることと、N が G の任意の内部自己同型で不変であることは同値である。さらに N が Aut(G) の作用で不変なら N は G の特性部分群であるという。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "群 G の二つの元 x, y に対し、y = Ag(x) = gxg となる g ∈ G が存在するとき、x と y は互いに共役(共軛ともかく)であるという。同様に、部分群 H, K に対し、H = gKg となる g ∈ G が存在するなら、二つの部分群 H, K は互いに共役であるという。共役であるという関係は群 G の同値関係である。群 G を共役という同値関係で類別したときの同値類を共役類という。有限群 G をその共役類 Cl1, ..., Cln に類別すれば、位数に関して次の等式", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "を考えることができる。これを類等式と呼ぶ。G の元 x がその中心 Z(G) に属することと x の属する共役類が {x} なる一元集合であることとは(中心の定義から直ちにわかるように)同値であり、2 個以上の元からなる共役類の全体を C1, C2, ..., Cr とすれば、類等式は", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "の形に書くことができる。有限群 G が p-群(位数が p の冪であるような群)ならば、その中心が自明群でないことは類等式から直ちにわかる。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "群 G のすべての元と可換な G の元の全体を Z(G) や C(G) などと書いて、G の中心という。群 G とその部分集合 S に対し、G の部分集合", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "は S をその中心に含む G の部分群となる。この群 CG(S) を S の G における中心化群という。S が一元集合 {x} であるとき、CG({x}) を CG(x) と略記する。G の各元 x に対して、その中心化群 CG(x) の G に対する指数 [G : CG(x)] は x の属する共役類の位数に等しい。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "群 G の部分集合 S に対して、G の部分集合", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "は(S が部分群でなくとも)G の部分群となる。この NG(S) を S の G における正規化群と呼ぶ。H が群 G の部分群であるときは、その正規化群 NG(H) は H を含む。また H は正規化群 NG(H) の正規部分群である。これを、NG(H) は H を正規化 (normalize) するといい表す。一般に G のふたつの部分群 H1, H2 に対し、H1 が H2 を正規化するとは、", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "が H1 のどの h についても成立することを言う。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "群 G が、G の部分群の有限列 G0, G1, ..., 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"p", "text": "一般に、xyxy を x と y の交換子と呼び、[x, y] であらわす。さらに G の部分群 H, K に対し、[h, k] (h ∈ H, k ∈ K) の形の元で生成される G の部分群を [H, K] で表し、H と K の交換子群という。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この記号を用いれば、D(G) = [G, G] であり、これを G の交換子群と呼ぶ。D(G) は G の特性部分群、したがって特に正規部分群である。すぐに分かるように、D(G) = {e} は G がアーベル群となることに同値である。したがって、剰余群 G/H がアーベル群となるなら H ⊇ D(G) であり、自然に G/H ⊆ G/D(G) と見なせるので、G/D(G) は G の剰余アーベル群の中で最大のものになる。よって G/D(G) を G の最大剰余アーベル群あるいは G のアーベル化、アーベル商などと呼ぶ。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "次の2つの同値な条件を満たす群を冪零群 という。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "可換群および有限 p 群はべき零群である。また、べき零群は可解群である。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "可解性・べき零性の遺伝:べき零群の部分群および剰余群はべき零群である。可解群の部分群および剰余群は可解群である。逆に G の正規部分群 N と剰余群 G/N がともに可解群なら G は可解群である。(べき零群の場合には同様の主張は成り立たない。)", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "群 G と群 H に対し、その直積集合 G × H 上に", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 45, "tag": 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たちは一意的に定まる。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、素数 p1, ..., pr(重複してもよい)と、正の整数 a1, ..., ar が存在して、", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "と素数べき位数の巡回群の直積に分解する。このとき、 p 1 a 1 , p 2 a 2 , ⋯ , p r a r {\\displaystyle {p_{1}^{a_{1}},p_{2}^{a_{2}},\\cdots ,p_{r}^{a_{r}}}} は順序の差を除き一意的に定まる。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "有限群 G の位数 |G| の素因数を p とするとき、位数 p をもつ G の元が存在する。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "素数 p が与えられているとき、有限群 G の位数を |G| = pm (ただし m は p と互いに素)と表す。このとき位数 p の G の部分群を p-シロー部分群という。p-シロー部分群について以下が成り立つ。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "N を有限群 G の正規部分群とし、|N| と |G:N| が互いに素であるとき、G の部分群 C が存在して、G は N と C の半直積となる。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "p, q を素数とするとき、位数 pq の有限群は可解である。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "有限べき零群はそのシロー部分群の直積に同型である。", "title": "有限群" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "群の概念が初めてはっきりと取り出されたのは、エヴァリスト・ガロアによる根の置換群を用いた代数方程式の研究だとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "16世紀中頃に、ジェロラモ・カルダーノ、ルドヴィコ・フェラーリらによって四次方程式までは冪根による解の公式が得られていたが、5 次以上の方程式に解の公式が存在するのかどうかはわかっていなかった。その後18世紀後半になってラグランジュによって代数方程式の解法が根の置換と関係していることが見出された。(「ラグランジュの定理」にその名が残っているのはこのためである。)19世紀に入り、ルフィニやニールス・アーベルによって五次以上の方程式にはべき根による解の公式が存在しないことが示された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ガロアは、より一般に任意の代数方程式について根が方程式の係数から加減乗除や冪根の操作によって得られるかどうかという問題を、方程式のガロア群の可解性という性質に帰着した。ガロアの研究に端を発する群を用いた代数方程式の理論は今ではガロア理論と呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ガロア理論によれば五次以上の代数方程式の非可解性は交代群が単純であることによって説明される。このような有限単純群の分類は20世紀に大きく発展し、1980年代までにいくつかの系列と26の例外からなる有限単純群の同型類のリストアップが完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "抽象的な群の概念を考えることによって古典的な数学の対象とは異なるものに群の言葉を導入することができるようになる。文化人類学に群の理論が応用された例として、アンドレ・ヴェイユによるムルンギン族の婚姻体系の解析が挙げられる。オーストラリア・アボリジニのムルンギン族は独特の婚姻体系を持っており、結婚が許される間柄や許されない間柄を定める規則が西洋や日本のものとは全く異なっていた。文化人類学の研究では婚姻関係の規則を列挙して述べるのが普通だったが、ムルンギン族の体系は厳密だがとても複雑なもので、そうした手法による理解は困難に思われた。1945年にクロード・レヴィ=ストロースからこの話を聞いたアンドレ・ヴェイユは、許される婚姻の型を決定する規則が群をなしていることなどを発見し、群論を活用してその体系を解明した。", "title": "特殊な応用例" } ]
数学における群とは、ある二項演算とその対象となる集合とを合わせて見たときに結合性を伴い単位元と逆元を備えるものをいう。数学において最も基本的と見なされる代数的構造の一つであり、数学や物理学全般において、さまざまな構成に対する基礎的な枠組みを与えている。群はそれ自体が研究対象であり、その領域は群論と呼ばれる。
{{出典の明記|date=2015年9月}} {{Groups}} {{代数的構造|group}} [[数学]]における'''群'''(ぐん、{{lang-en-short|group}})とは、ある二項演算とその対象となる集合とを合わせて見たときに結合性を伴い単位元と逆元を備えるものをいう。数学において最も基本的と見なされる[[代数的構造]]の一つであり、[[数学]]や[[物理学]]全般において、さまざまな構成に対する基礎的な枠組みを与えている。群はそれ自体が研究対象であり、その領域は[[群論]]と呼ばれる。 == 概略 == '''群'''の概念は、数学的対象 ''X'' から ''X'' への[[自己同型]]の集まりの満たす性質を代数的に抽象化することによって得られる。この集まりは ''X'' の[[対称性]]を表現していると考えられ、[[結合法則]]・[[恒等変換]]の存在・[[逆変換]]の存在などがなりたっている。集合論にもとづき ''X'' が集合として実現されている場合には、自己同型として ''X'' からそれ自身への全単射写像を考えることになるが、空間や対象の持つ構造に応じてさらに付加条件を課すことが多い。例えば、ベクトル空間 ''X'' に対してその自己同型写像の集まりを考えると群が得られる。また、平面上に正三角形など何らかの対称性を持った図形が与えられているとき、平面全体の変換のうちでその図形を保つようなものだけを考えることによって、図形の対称性を表す群を取り出すことができる。 == 定義 == [[集合]] ''G'' とその上の[[二項演算]] &mu;: ''G'' &times; ''G'' &rarr; ''G'' の組 (''G'', &mu;) が'''群'''であるとは、以下の3つの条件を満たすことをいう: # ([[結合法則]])任意の ''G'' の[[元 (数学)|元]] ''g'', ''h'', ''k'' に対して、&mu;(''g'', &mu;(''h'', ''k'')) = &mu;(&mu;(''g'', ''h''), ''k'') を満たす: #:<math>(\forall g, h, k \in G) [\mu(g,\mu(h,k)) = \mu(\mu(g,h),k)].</math> # ([[単位元]]の存在)&mu;(''g'', ''e'') = &mu;(''e'', ''g'') = ''g'' を ''G'' のどんな元 ''g'' に対しても満たすような ''G'' の元 ''e'' が存在する: #:<math>(\exists e \in G) (\forall g \in G) [\mu(g,e) = \mu(e,g) = g].</math> #*このような ''e'' は存在すれば一意であり、''G'' の'''単位元'''という。 # ([[逆元]]の存在)''G'' のどんな元 ''g'' に対しても、&mu;(''g'', ''x'') = &mu;(''x'', ''g'') = ''e'' となるような ''G'' の元 ''x'' が存在する: #:<math>(\forall g \in G) (\exists x \in G) [\mu(g,x) = \mu(x,g) = e].</math> #*このような ''x'' は存在すれば一意であり、この ''x'' を ''g'' の ''G'' における'''逆元'''といい、しばしば ''g''<sup>&minus;1</sup>, あるいは演算を加法的に書く場合には &minus;''g'' で表される。 群よりも広い概念として、1 を満たすものは[[半群]]、1 と 2 を満たすものは[[モノイド]]という。 なお、[[二項演算]]を写像として強調したい場合を除けば、通常 &mu;(''g'', ''h'') のことを ''g''・''h'' や単に ''gh'' と書くことが多い。またこの演算を「積」や「乗法」と呼ぶことが多いが、[[加法]]と呼ばれている二項演算をもとにしてできる群もあるので、注意する必要がある。さらに積が文脈から明らかなときには、群 (''G'', &mu;) のことを単に群 ''G'' と[[台集合]]を指定するだけで済ませることがほとんどである<ref name="R, p. 2">{{harvnb|Robinson|1996|p={{google books quote|id=zLfkBwAAQBAJ|page=2|2}}}}</ref>。 群 (''G'', &mu;) がさらに :4. ([[交換法則]])任意の元 ''g'', ''h'' に対して &mu;(''g'', ''h'') = &mu;(''h'', ''g'') を満たすとき、この群のことを'''[[アーベル群]]'''('''可換群''')という。アーベル群の演算は "+" を用いて加法的にも書かれ、この際 ''g'' の逆元は &minus;''g'' と書かれる。 現代の標準的な群の定義は上述のようなものであり、公理は左右対称に書かれているが、これらは冗長であることが知られていて、たとえば結合法則と左単位元の存在と左逆元の存在だけを要請してもよい{{sfn|バーコフ|マクレーン|1967|loc=第VI章 4. 抽象群}}。あるいは ''G'' が[[空集合]]でなく、結合法則と左右の商が存在すること :<math>(\forall a, b \in G)(\exists x, y \in G)[ax = b = ya]</math> を要請してもよい{{sfn|バーコフ|マクレーン|1967|loc=第VI章 4. 抽象群}}。また複雑な単一の公理により群を定義する方法もいくつか知られている<ref>{{citation |last = McCune |first = W.W. |year = 1993 |title = Single axioms for groups and Abelian groups with various operations |volume = 10 |pages = 1–13 |journal = Journal of Automated Reasoning |doi = 10.1007/BF00881862 }}</ref>。 == 具体的な群 == * 集合 {1, 2, ..., ''n''} の上の置換([[全単射]])全体は、写像の合成を二項演算とし、単位元を恒等写像、逆元を逆写像とすることで群になる。この群を ''n'' 次の'''[[対称群]]'''といい、''S''<sub>''n''</sub> と表記する。 * [[整数]]、[[有理数]]、[[実数]]、[[複素数]]は全て加法に関してアーベル群を成す。 * また有理数、実数、複素数から 0 を除いたものは乗法に関してアーベル群を成す. * [[四元数]]から 0 を除いたものは乗法に関して非可換群を成す。群を成す超複素数系は四元数までであり、結合法則を満たさない[[八元数]]は群を成さない。 *(実数係数の)''n'' 次[[正則行列]]全体の集合はどの[[行列 (数学)|行列]]も[[正則行列|逆行列]]を持つから群になる。この群のことを ''GL''<sub>''n''</sub>('''R''') と表し、''n'' 次の'''実[[一般線型群]]'''と呼ぶ。さらに[[行列式]]が 1 であるという条件を課したものも群を成す。この群を ''SL''<sub>''n''</sub>('''R''') と書き、''n'' 次の'''実[[特殊線型群]]'''と呼ぶ。 * ''n'' 次[[直交行列]]全体も群を成す。この群を ''O''<sub>''n''</sub> と書き、'''[[直交群]]'''と呼ぶ。これは、''n'' 次元[[ユークリッド空間]]において、長さを変えないような変換全体の成す群である。直交行列の行列式は &plusmn;1 である。行列式が 1 であるような直交行列全体からなる群を ''SO''<sub>''n''</sub> と書き、'''[[特殊直交群]]'''と呼ぶ。 * 複素数係数の行列に対しても同様な群が定義できる;その時、直交行列の類似物として[[ユニタリ行列]]を考える。直交群に対応するものは'''[[ユニタリ群]]''' ''U''<sub>''n''</sub> であり、特殊直交群の類似物は[[特殊ユニタリ群]] ''SU''<sub>''n''</sub> になる。 * 正則行列による群の構成は[[ベクトル空間]]の自己同型写像による群の構成の特別な場合だと見なすことができる。ベクトル空間 ''V'' 上の可逆線型変換全体 ''GL''(''V'') は ''V'' のベクトル空間としての対称性を表していると考えられるが、これは ''V'' 上の[[一般線型群]]と呼ばれる。''V'' に付加的な構造を与えることでその対称性は変わり、例えばベクトルの長さを定める計量を保つような線型同型写像を考えることで(考えている計量に付随した)[[直交変換群]]が得られる。 <!--* 逆関数を持つ実関数、すなわち[[単調写像|単調増加関数]]と単調減少関数の全体は合成で群をなす。代数関数等をはじめとする初等関数のうち、単調な関数は逆関数も単調であり、また単調な関数同士の合成は単調である(例えば微分可能な場合は合成関数の微分公式により導かれる)。関数合成操作は特殊な場合を除いては非可換であり、非可換群をなす。--> * ''T'' を座標平面の原点を重心とする正三角形とする。平面全体の等長変換のうちで ''T'' を保つものには、恒等変換、原点に関する120度、240度の回転と各頂点と対辺の中点を結ぶ軸を対称軸とする折り返しの6つがある。これらによって ''T'' の対称性が表されていると考えることができる。これら6つの変換の成す群は3次[[対称群]]あるいは位数6の[[二面体群]]と呼ばれる群に同型になる。 *[[楕円曲線]]は可換群の構造を持つことが知られている。 * [[リー群]]([[位相群|連続群]]) * [[ガリレイ変換]] * [[ローレンツ群]] * [[空間群]] * [[結晶点群]] * [[磁気空間群]]([[シュブニコフ群]]) * [[磁気点群]] * [[灰色群]] == 基本的な概念 == === 位数 === 群 ''G'' の元の数([[濃度 (数学)|基数]])のことを'''[[位数 (群論)|位数]]''' (order) という<ref name="R, p. 2" />。位数は集合に倣って |''G''| や #''G'' などの記号で表される。位数が有限な群を[[有限群]]という。 === 部分群 === 群 ''G'' の空でない部分集合 ''H'' が ''G'' の群演算に関して閉じていて、''H'' の任意の元に対して、逆元が ''H'' の元であるとき、この部分集合 ''H'' を ''G'' の'''[[部分群]]'''といい ''H'' &le; ''G'' または ''G'' &ge; ''H'' と表す。これは空でない部分集合 ''H'' の任意の元 ''a'', ''b'' に対して ''ab''<sup>&minus;1</sup> &isin; ''H'' が成り立つことと同値である{{sfn|Robinson|1996|loc={{google books quote|id=zLfkBwAAQBAJ|page=8|1.3.1 (The Subgroup Criterion)}}}}。 ''G'' が群であれば、''G'' および {''e''}(単位元のみからなる群、[[単位群]])は必ず ''G'' の部分群になる。これらを'''自明な部分群'''という(単位元のみからなる部分群のみを指す場合もある)。それ以外の部分群は、自明でない部分群あるいは'''真の部分群'''と呼ぶ(真部分集合であるような部分群という意味で、真の部分群に単位群を含める場合もある)。 部分群 ''N'' が群 ''G'' の任意の元 ''g'' に対して ''gNg''<sup>&minus;1</sup> = ''N'' を満たすとき、''N'' を''G''の[[正規部分群]]といい、<math>N \triangleleft G</math> または <math>G \triangleright N</math> と書く。 アーベル群 ''G'' の任意の部分群は正規部分群である。また、自明でない群 ''G'' が自身と自明な部分群しか正規部分群を持たないとき、''G'' は[[単純群]]であるという。 === 剰余類・剰余群 === 部分群 ''H'' と ''G'' の元 ''g'' について、''gH'' はある ''G'' の部分集合になる。2 つの ''g'', ''g' '' について ''gH'', ''g'H'' は全く一致するか交わらないかのいずれかである。従って、 :<math>G = \bigsqcup_{\lambda \in \Lambda} g_{\lambda} H</math> と[[和集合#定義|非交和]]に書き表せる。それぞれの ''gH'' を (''H'' を法とする ''g'' の属する ''G'' の) '''[[剰余類]]'''(または傍系)という。|''gH''| = |''H''| が成り立つので結局 |''G''| = |&Lambda;||''H''| が成り立つ。''G'' が有限群ならばこれは ''H'' の位数が ''G'' の位数を割り切るということをいっている([[ラグランジュの定理 (群論)|ラグランジュの定理]])。特に素数位数の群は巡回群である。|&Lambda;| を [''G'' : ''H''] とか (''G'' : ''H'') などと書いて ''H'' の(''G'' に対する)'''[[指数 (群論)|指数]]'''という。指数 1 の部分群はもとの群であり、指数 2 の部分群は常に正規部分群である。 ''N'' を正規部分群とするとき ''gN'' = ''Ng'' が成り立つ。すると、二つの剰余類 ''gN'', ''hN'' について ''gN'' &middot; ''hN'' = ''ghNN'' = ''ghN'' が成り立ち、剰余類の間に演算を定義することができる。ここからすぐにこの剰余類全体は群を成すことが分かる。この群を ''G'' の ''N'' による'''[[剰余群]]'''または'''商群'''といい、''G''/''N'' と表す。 === 群の準同型・同型 === 群 ''G''<sub>1</sub> から群 ''G''<sub>2</sub> への写像 ''f'' が任意の ''G''<sub>1</sub> の元 ''g'', ''g' '' について ''f''(''gg' '')&nbsp;=&nbsp;''f''(''g'')''f''(''g' '') を満たすとき、''f'' を'''[[群準同型|準同型]]'''(写像)という。(''G''<sub>1</sub> = ''G''<sub>2</sub>のときは特に'''自己準同型'''という。)さらに準同型 ''f'' が[[全単射]]であれば、''f'' を'''同型'''(写像)という。''G''<sub>1</sub> から ''G''<sub>2</sub> への同型が存在するとき、''G''<sub>1</sub> と ''G''<sub>2</sub> は同型であるといい、 : <math>G_1 \simeq G_2</math> あるいは <math>G_1 \cong G_2</math> と表す。2つの群 ''G''<sub>1</sub>, ''G''<sub>2</sub> とその間の準同型写像 ''f'': ''G''<sub>1</sub> &rarr; ''G''<sub>2</sub> に対し、準同型 ''f'' の[[核 (代数学)|核]] Ker ''f'' は ''G''<sub>1</sub> の正規部分群である。このとき ''f'' の像 Im ''f'' は ''G'' を ''f'' の核 Ker ''f'' で割った剰余群に同型である: : <math>G_1/\mathrm{Ker}\,f \simeq \mathrm{Im}\,f.</math> これを(群の)'''[[準同型定理]]'''(特に[[第一同型定理]])という。 群 ''G'' の自己同型(''G'' から ''G'' への同型写像)全体の成す集合を Aut(''G'') と表すと、 Aut(''G'') は写像の合成を積として群となる。Aut(''G'') を ''G'' の'''[[自己同型群]]'''と呼ぶ。 群 ''G'' の任意の元 ''g'' に対し、写像 ''A''<sub>''g''</sub>: ''G'' &rarr; ''G'' を :''A''<sub>''g''</sub>(''x'') = ''gxg''<sup>&minus;1</sup> (for all ''x'' &isin; ''G'') で定めると、この写像は ''G'' の自己同型を定める。この形で得られる自己同型を ''G'' の'''[[内部自己同型]]'''と呼び、''G'' の内部自己同型全体の成す集合を Inn(''G'') と表す。Inn(''G'') は Aut(''G'') の正規部分群であり、Inn(''G'') を ''G'' の[[内部自己同型群]]と呼ぶ。さらに剰余群 Out(''G'') = Aut(''G'')/Inn(''G'') を{{仮リンク|外部自己同型群|en|Outer automorphism group}}とよび、その元を外部自己同型という。群 ''G'' の部分群 ''N'' が正規部分群であることと、''N'' が ''G'' の任意の内部自己同型で不変であることは同値である。さらに ''N'' が Aut(''G'') の作用で不変なら ''N'' は ''G'' の'''[[特性部分群]]'''であるという。 === 共役 === 群 ''G'' の二つの元 ''x'', ''y'' に対し、''y'' = ''A''<sub>''g''</sub>(''x'') = ''gxg''<sup>&minus;1</sup> となる ''g'' &isin; ''G'' が存在するとき、''x'' と ''y'' は互いに'''共役'''([[共軛]]ともかく)であるという。同様に、部分群 ''H'', ''K'' に対し、''H'' = ''gKg''<sup>&minus;1</sup> となる ''g'' &isin; ''G'' が存在するなら、二つの部分群 ''H'', ''K'' は互いに共役であるという。共役であるという関係は群 ''G'' の[[同値関係]]である。群 ''G'' を共役という同値関係で類別したときの同値類を'''[[共役類]]'''という。有限群 ''G'' をその共役類 Cl<sub>1</sub>, ..., Cl<sub>''n''</sub> に類別すれば、位数に関して次の等式 :<math>|G| = \sum_k |\mathrm{Cl}_k|</math> を考えることができる。これを[[類等式]]と呼ぶ。''G'' の元 ''x'' がその中心 ''Z''(''G'') に属することと ''x'' の属する共役類が {''x''} なる一元集合であることとは(中心の定義から直ちにわかるように)同値であり、2 個以上の元からなる共役類の全体を ''C''<sub>1</sub>, ''C''<sub>2</sub>, ..., ''C''<sub>''r''</sub> とすれば、類等式は :<math>|G|=|Z(G)|+\sum_{i=1}^{r}|C_i|</math> の形に書くことができる。有限群 ''G'' が[[p群| ''p''-群]](位数が ''p'' の冪であるような群)ならば、その中心が自明群でないことは類等式から直ちにわかる。 === 中心・中心化群・正規化群 === 群 ''G'' のすべての元と可換な ''G'' の元の全体を ''Z''(''G'') や ''C''(''G'') などと書いて、''G'' の'''[[群の中心|中心]]'''という。群 ''G'' とその部分集合 ''S'' に対し、''G'' の部分集合 :<math>C_G(S)=\{g \in G \mid sg=gs \ (\forall s \in S)\}</math> は ''S'' をその中心に含む ''G'' の部分群となる。この群 ''C''<sub>''G''</sub>(''S'') を ''S'' の ''G'' における'''[[中心化群]]'''という。''S'' が一元集合 {''x''} であるとき、''C''<sub>''G''</sub>({''x''}) を ''C''<sub>''G''</sub>(''x'') と略記する。''G'' の各元 ''x'' に対して、その中心化群 ''C''<sub>''G''</sub>(''x'') の ''G'' に対する指数 [''G'' : ''C''<sub>''G''</sub>(''x'')] は ''x'' の属する共役類の位数に等しい。 群 ''G'' の部分集合 ''S'' に対して、''G'' の部分集合 :<math>N_G(S)=\{g \in G \mid gSg^{-1}=S\}</math> は(''S'' が部分群でなくとも)''G'' の部分群となる。この ''N''<sub>''G''</sub>(''S'') を ''S'' の ''G'' における'''[[正規化群]]'''と呼ぶ。''H'' が群 ''G'' の部分群であるときは、その正規化群 ''N''<sub>''G''</sub>(''H'') は ''H'' を含む。また ''H'' は正規化群 ''N''<sub>''G''</sub>(''H'') の正規部分群である。これを、''N''<sub>''G''</sub>(''H'') は ''H'' を'''正規化''' (normalize) するといい表す。一般に ''G'' のふたつの部分群 ''H''<sub>1</sub>, ''H''<sub>2</sub> に対し、''H''<sub>1</sub> が ''H''<sub>2</sub> を正規化するとは、 :<math>h H_2 h^{-1} = H_2</math> が ''H''<sub>1</sub> のどの ''h'' についても成立することを言う。 === 可解群・交換子群・冪零群 === [[File:Hierarchy of finite groups.svg|thumb|300px|基本的な有限群のクラスがなす階層]] 群 ''G'' が、''G'' の部分群の有限列 ''G''<sub>0</sub>, ''G''<sub>1</sub>, ..., ''G''<sub>''n''</sub> で 2 条件 * <math> \{e\} = G_0 \triangleleft G_1 \triangleleft \dotsb \triangleleft G_{n-1} \triangleleft G_n = G</math> * ''G''<sub>''i''+1</sub>/''G''<sub>''i''</sub> (0 &le; ''i'' &lt; ''n'') は全てアーベル群 を満たすもの(アーベル的正規列)を持つとき、''G'' は'''[[可解群]]'''であるという。 最小位数の非可解群は5次の[[交代群]] ''A''<sub>5</sub> である。 奇数位数の有限群はすべて可解であることが、[[ジョン・G・トンプソン]]らによって証明されている([[ファイト・トンプソンの定理]])。トンプソンはこの業績により[[フィールズ賞]]を受けた。 [[標数]] 0 の体上において、代数方程式が代数的に可解となることと、その方程式の[[ガロア群]]が可解群となることは同値である(一般の正標数では同値にならない)。このことが可解群の名の由来である。また、4 次以下の交代群は可解であるのに対し、5 次の[[対称群|交代群]] ''A''<sub>5</sub> は可解でなく、したがってそれは 「5 次の一般代数方程式はべき根のみによって解くことは出来ない」という命題の証明となる。 また、可解群の定義は次のように述べることもできる(上の定義と同値): ''G'' の部分群 ''D''(''G'') を :''D''(''G'') = &lang; ''xyx''<sup>&minus;1</sup>''y''<sup>&minus;1</sup> | ''x'', ''y'' &isin; ''G'' &rang; と定め、''H''<sub>1</sub> = ''D''(''G''), ''H''<sub>2</sub> = ''D''(''H''<sub>1</sub>), ... と帰納的に ''G'' の部分群 ''H''<sub>''i''</sub> を定めるとき、''H''<sub>''r''</sub> = {''e''} となる自然数 ''r'' が存在するならば ''G'' を可解群と呼ぶ。 一般に、''xyx''<sup>&minus;1</sup>''y''<sup>&minus;1</sup> を ''x'' と ''y'' の'''[[交換子]]'''と呼び、[''x'', ''y''] であらわす。さらに ''G'' の部分群 ''H'', ''K'' に対し、[''h'', ''k''] (''h'' &isin; ''H'', ''k'' &isin; ''K'') の形の元で[[群の生成系|生成]]される ''G'' の部分群を [''H'', ''K''] で表し、''H'' と ''K'' の'''[[交換子群]]'''という。 この記号を用いれば、''D''(''G'') = [''G'', ''G''] であり、これを ''G'' の'''[[交換子群]]'''と呼ぶ。''D''(''G'') は ''G'' の[[特性部分群]]、したがって特に正規部分群である。すぐに分かるように、''D''(''G'') = {''e''} は ''G'' がアーベル群となることに同値である。したがって、剰余群 ''G''/''H'' がアーベル群となるなら ''H'' &supe; ''D''(''G'') であり、自然に ''G''/''H'' &sube; ''G''/''D''(''G'') と見なせるので、''G''/''D''(''G'') は ''G'' の剰余アーベル群の中で最大のものになる。よって ''G''/''D''(''G'') を ''G'' の'''最大剰余アーベル群'''あるいは ''G'' の[[アーベル化]]、アーベル商などと呼ぶ。 次の2つの同値な条件を満たす群を'''[[冪零群]]''' という。 *<math>\Gamma_1(G)=[G,G]</math> とし、以下 <math>\Gamma_{i+1}(G)=[G,\Gamma_i(G)]</math> と定めるとき、ある ''r'' が存在して <math>\Gamma_r=\{e\}</math> となる。 *''G'' の部分群の列 ::<math>\{e\}=G_0 < G_1 < \cdots < G_n=G</math> :であって、各 ''G''<sub>''i''</sub> が ''G'' の正規部分群であり、''G''<sub>''i''</sub>/''G''<sub>''i'' &minus; 1</sub> が ''G''/''G''<sub>''i'' &minus; 1</sub> の中心に含まれるようなものが存在する。 可換群および有限 ''p'' 群はべき零群である。また、べき零群は可解群である。 '''可解性・べき零性の遺伝''':べき零群の部分群および剰余群はべき零群である。可解群の部分群および剰余群は可解群である。逆に ''G'' の正規部分群 ''N'' と剰余群 ''G''/''N'' がともに可解群なら ''G'' は可解群である。(べき零群の場合には同様の主張は成り立たない。) === 群の直積と半直積 === 群 ''G'' と群 ''H'' に対し、その直積集合 ''G'' &times; ''H'' 上に :<math>(g_1,h_1)(g_2,h_2)=(g_1g_2,h_1h_2)</math> という積を定めることで群となる。これを群の(外部)[[直積群|'''直積''']]または構成的直積という。また、群 ''G'' がその部分群 ''H''<sub>1</sub>, ''H''<sub>2</sub> の(内部)直積である、あるいは直積に分解されるとは、以下の条件 # ''H''<sub>1</sub> と ''H''<sub>2</sub> は ''G'' の部分群で ''G'' = ''H''<sub>1</sub>''H''<sub>2</sub> = {''h''<sub>1</sub>''h''<sub>2</sub> | ''h''<sub>1</sub> &isin; ''H''<sub>1</sub>, ''h''<sub>2</sub> &isin; ''H''<sub>2</sub>} が成り立つ。 # ''H''<sub>1</sub> &cap; ''H''<sub>2</sub> = {1<sub>''G''</sub>}, ただし 1<sub>''G''</sub> は ''G'' の単位元。 # ''H''<sub>1</sub> の元と ''H''<sub>2</sub> の元は可換である。 がすべて満たされることをいう。 :<math>G = H_1 \times H_2</math> で表す。右辺の直積を構成的直積と呼ぶこともある。''G'' の部分群という構造を落として、''H''<sub>1</sub>, ''H''<sub>2</sub> の外部直積をつくったものと内部直積とは、二つの自然な埋め込み :<math>H_1 \to H_1 \times H_2;\ h \mapsto (h,1_g),</math> :<math>H_2 \to H_1 \times H_2;\ h \mapsto (1_g,h)</math> をそれぞれ同一視することで本質的に同じものであることがわかる。 群 ''H'' と群 ''N'' と準同型写像 ''f'': ''H'' &rarr; Aut(''N'') が与えられているとき、直積集合 ''N'' &times; ''H'' 上に :<math>(n_1,h_1)(n_2,h_2)=(n_1 f(h_1)(n_2),h_1h_2)</math> で積を定めると群となる。これを ''H'' と ''N'' の ''f'' による'''[[半直積]]'''といい、 : <math>G = N \rtimes H</math> で表す。なお、この群で ''N'' は正規部分群となる。[[群の拡大]]も参照。 == 有限群 == {{main|有限群#主要な定理}} ===有限アーベル群の基本定理=== {{main|有限アーベル群の構造定理}} ''G'' を有限可換群とすると、2以上の整数 :<math>e_1|e_2|\cdots|e_n</math> が存在して、''G'' は :<math>G \cong \Z/e_1\Z \times \cdots \times \Z/e_n\Z</math> と巡回群の直積に分解する。このような ''e''<sub>''i''</sub> たちは一意的に定まる。 また、素数 ''p''<sub>1</sub>, ..., ''p''<sub>''r''</sub>(重複してもよい)と、正の整数 ''a''<sub>1</sub>, ..., ''a''<sub>''r''</sub> が存在して、 :<math>G \cong \Z/p_1^{a_1}\Z \times \cdots \times \Z/p_r^{a_r}\Z</math> と素数べき位数の巡回群の直積に分解する。このとき、<math>{p_1^{a_1},p_2^{a_2},\cdots ,p_r^{a_r}}</math> は順序の差を除き一意的に定まる。 ===コーシーの定理=== {{main|コーシーの定理 (群論)}} 有限群 ''G'' の位数 |''G''| の素因数を ''p'' とするとき、位数 ''p'' をもつ ''G'' の元が存在する{{sfn|Robinson|1996|loc={{google books quote|id=zLfkBwAAQBAJ|page=40|1.6.17 (Cauchy's Theorem)}}}}。 ===シローの定理=== {{main|シローの定理}} 素数 ''p'' が与えられているとき、有限群 ''G'' の位数を |''G''| = ''p<sup>a</sup>m'' (ただし ''m'' は ''p'' と[[互いに素 (整数論)|互いに素]])と表す。このとき位数 ''p<sup>a</sup>'' の ''G'' の部分群を ''p''-'''[[シロー部分群]]'''という。''p''-シロー部分群について以下が成り立つ{{sfn|Robinson|1996|loc={{google books quote|id=zLfkBwAAQBAJ|page=39|1.6.16 (Sylow's Theorem)}}}}。 # ''G'' のどの ''p''-部分群も、ある位数 ''p''<sup>''a''</sup> の部分群に含まれる。特に ''p''-シロー部分群は存在する # 相異なる ''p''-シロー部分群の個数 ''n<sub>p</sub>'' は ''p'' を法として 1 と[[整数の合同|合同]]である: ''n<sub>p</sub>'' &equiv; 1 mod ''p'' # 任意の ''p''-シロー部分群は ''G'' 内で互いに共役である ===シューア・ツァッセンハウスの定理=== {{main|{{仮リンク|シューア–ツァッセンハウスの定理|en|Schur–Zassenhaus theorem}}}} ''N'' を有限群 ''G'' の正規部分群とし、|''N''| と |''G:N''| が互いに素であるとき、''G'' の部分群 ''C'' が存在して、''G'' は ''N'' と ''C'' の半直積となる。 ===バーンサイドの ''p<sup>a</sup>q<sup>b</sup>'' 定理 === ''p'', ''q'' を素数とするとき、位数 ''p<sup>a</sup>q<sup>b</sup>'' の有限群は可解である{{sfn|Doerk|Hawkes|1992|p={{google books quote|id=E7iL1eWB1TkC|page=210|210}}}}。 ===有限べき零群の構造定理=== 有限べき零群はそのシロー部分群の直積に同型である{{sfn|Robinson|1996|loc={{google books quote|id=zLfkBwAAQBAJ|page=130|5.2.4}}}}。 == 歴史 == 群の概念が初めてはっきりと取り出されたのは、[[エヴァリスト・ガロア]]による根の置換群を用いた代数方程式の研究だとされている。 16世紀中頃に、[[ジェロラモ・カルダーノ]]、[[ルドヴィコ・フェラーリ]]らによって[[四次方程式]]までは[[冪根]]による解の公式が得られていたが、5 次以上の方程式に解の公式が存在するのかどうかはわかっていなかった。その後18世紀後半になって[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]によって代数方程式の解法が根の置換と関係していることが見出された。(「[[ラグランジュの定理 (群論)|ラグランジュの定理]]」にその名が残っているのはこのためである。)19世紀に入り、ルフィニや[[ニールス・アーベル]]によって五次以上の方程式にはべき根による解の公式が存在しないことが示された。 ガロアは、より一般に任意の代数方程式について根が方程式の係数から加減乗除や冪根の操作によって得られるかどうかという問題を、方程式のガロア群の[[可解]]性という性質に帰着した。ガロアの研究に端を発する群を用いた代数方程式の理論は今では[[ガロア理論]]と呼ばれている。 ガロア理論によれば五次以上の代数方程式の非可解性は交代群が単純であることによって説明される。このような有限単純群の分類は[[20世紀]]に大きく発展し、1980年代までにいくつかの系列と26の例外からなる有限単純群の同型類のリストアップが完成した。 == 特殊な応用例 == 抽象的な群の概念を考えることによって古典的な数学の対象とは異なるものに群の言葉を導入することができるようになる。文化人類学に群の理論が応用された例として、[[アンドレ・ヴェイユ]]によるムルンギン族の[[婚姻]]体系の解析が挙げられる。[[オーストラリア]]・[[アボリジニ]]のムルンギン族は独特の婚姻体系を持っており、結婚が許される間柄や許されない間柄を定める規則が[[西洋]]や[[日本]]のものとは全く異なっていた。文化人類学の研究では婚姻関係の規則を列挙して述べるのが普通だったが、ムルンギン族の体系は厳密だがとても複雑なもので、そうした手法による理解は困難に思われた。[[1945年]]に[[クロード・レヴィ=ストロース]]からこの話を聞いた[[アンドレ・ヴェイユ]]は、許される婚姻の型を決定する規則が群をなしていることなどを発見し、群論を活用してその体系を解明した。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book |和書 |author1 = ガーレット・バーコフ |authorlink1 = ガーレット・バーコフ |author2 = ソンダース・マクレーン |authorlink2 = ソンダース・マクレーン |year = 1967 |title = 現代代数学概論 |edition = 改訂3版 |id = {{NDLDC|2422244|format=NDLJP}} |publisher = [[白水社]] |ref = {{sfnref|バーコフ|マクレーン|1967}} }} * {{cite book |last1 = Doerk |first1 = Klaus |last2 = Hawkes |first2 = Trevor |year = 1992 |title = Finite soluble groups |series = de Gruyter Expositions in Mathematics |volume = 4 |url = {{google books|E7iL1eWB1TkC|plainurl=yes}} |publisher = Walter de Gruyter & Co |isbn = 3-11-012892-6 |mr = 1169099 |zbl = 0753.20001 |ref = harv }} * {{cite book |last1 = Robinson |first1 = Derek J. S. |year = 1996 |title = A course in the theory of groups |edition = Second |series = Graduate Texts in Mathematics |volume = 80 |url = {{google books|zLfkBwAAQBAJ|plainurl=yes}} |publisher = Springer-Verlag |isbn = 0-387-94461-3 |mr = 1357169 |zbl = 0836.20001 |ref = harv }} == 関連項目 == * [[代数的構造]] * [[ガロア理論]] * [[物性物理]] * [[エヴァリスト・ガロア|ガロア]] * [[ニールス・アーベル|アーベル]] * [[対称性]] == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1015|群の定義といろいろな具体例}} * {{Wayback |date=20040603103432 |url=http://wwwmi.cias.osakafu-u.ac.jp/~kawazoe/lecture/math-edu01-html/math-edu01-html.html |title=数学と文化人類学の邂逅(川添充、2001年12月11日)}} * {{MathWorld|urlname=Group|title=Group|last=Rowland|first=Todd|last2=Weisstein|first2=Eric W.}} * {{nlab|urlname=group|title=group}} * {{PlanetMath|urlname=Group|title=group}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Group|title=Definition:Group}} * {{SpringerEOM|urlname=Group|title=Group|author=Kargapolov, M.I.; Merzlyakov, Yu.I.}} {{群論}} {{Algebra}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くん}} [[Category:群論|**くん]] [[Category:抽象代数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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1,978
共形場理論
共形場理論(きょうけいばりろん、Conformal Field Theory, CFT)とは、共形変換に対して作用が不変な場の理論である。特に、1+1次元系では複素平面をはじめとするリーマン面上での理論として記述される。 共形変換に対する不変性はWard-Takahashi恒等式を要請し、これをもとにエネルギー-運動量テンソル(あるいはストレステンソル)に関する保存量が導出される。また1+1次元系においては、エネルギー-運動量テンソルを展開したものは、Virasoro代数と呼ばれる無限次元リー代数をなし、理論の中心的役割を果たす。 共形変換群は、時空間の対称性であるポアンカレ群の自然な拡張になっており、空間d-1次元+時間1次元のd次元時空間ではリー群SO(d,2)で記述される。この変換群の生成子は(d+2)(d+1)/2個あり、その内訳は以下のとおり。 ※以上が、部分群としてのポアンカレ群の生成子をなす。 スケール普遍性は定義より以下の変換(ディラテーション)を示唆する。 さらに強く、共形不変性を要求すると が加わる。この代数SO(d,2)を共形代数(conformal algebra)と呼ぶ。 場の理論の基本的な可観測量である相関関数(場の演算子の積の真空期待値)は共形代数によって強い制限を受ける。特にユニタリな共形場の理論においては、例えばスカラー演算子の二点関数は ⟨ φ ( x ) φ ( y ) ⟩ = 1 | x − y | Δ φ {\displaystyle \langle \phi (x)\phi (y)\rangle ={\frac {1}{|x-y|^{\Delta _{\phi }}}}} と定まってしまう。ここで、 Δ φ {\displaystyle \Delta _{\phi }} は演算子 φ {\displaystyle \phi } のスケーリング次元と呼ばれる(理論依存の)パラメータである。 2次元共形場理論は歴史的には1984年にBelavin、ポリャコフ、Zamolodchikov(BPZ)によって初めて定式化された。2次元共形場理論で言及するのは次のような場合である。 一般に(2+1次元以上の時空では)共形変換群は有限個の生成子からなる有限次元リー群である。しかし、空間1次元+時間1次元(d=2)の2次元共形場理論場合に限り、共形変換群SO(2,2)は正則関数の等角写像の変換群(無限次元リー群)に拡張される。この場合共形変換群SO(2,2)は無限個の生成子からなる代数(Virasoro 代数)の部分代数となる。Virasoro代数から得られるヒルベルト空間に対する制限は強力であり、ミニマル模型と呼ばれる模型群に対しては、(これには臨界点上の2次元イジング模型も含まれる)全ての相関関数の振る舞いをVirasoro代数とWard-Takahasi恒等式から厳密に求めることができる(可解である)。可解である2次元共形場理論は、2次元統計系あるいは1+1次元量子系を理解する上で強力な武器となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "共形場理論(きょうけいばりろん、Conformal Field Theory, CFT)とは、共形変換に対して作用が不変な場の理論である。特に、1+1次元系では複素平面をはじめとするリーマン面上での理論として記述される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "共形変換に対する不変性はWard-Takahashi恒等式を要請し、これをもとにエネルギー-運動量テンソル(あるいはストレステンソル)に関する保存量が導出される。また1+1次元系においては、エネルギー-運動量テンソルを展開したものは、Virasoro代数と呼ばれる無限次元リー代数をなし、理論の中心的役割を果たす。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "共形変換群は、時空間の対称性であるポアンカレ群の自然な拡張になっており、空間d-1次元+時間1次元のd次元時空間ではリー群SO(d,2)で記述される。この変換群の生成子は(d+2)(d+1)/2個あり、その内訳は以下のとおり。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "※以上が、部分群としてのポアンカレ群の生成子をなす。 スケール普遍性は定義より以下の変換(ディラテーション)を示唆する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "さらに強く、共形不変性を要求すると", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "が加わる。この代数SO(d,2)を共形代数(conformal algebra)と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "場の理論の基本的な可観測量である相関関数(場の演算子の積の真空期待値)は共形代数によって強い制限を受ける。特にユニタリな共形場の理論においては、例えばスカラー演算子の二点関数は ⟨ φ ( x ) φ ( y ) ⟩ = 1 | x − y | Δ φ {\\displaystyle \\langle \\phi (x)\\phi (y)\\rangle ={\\frac {1}{|x-y|^{\\Delta _{\\phi }}}}} と定まってしまう。ここで、 Δ φ {\\displaystyle \\Delta _{\\phi }} は演算子 φ {\\displaystyle \\phi } のスケーリング次元と呼ばれる(理論依存の)パラメータである。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2次元共形場理論は歴史的には1984年にBelavin、ポリャコフ、Zamolodchikov(BPZ)によって初めて定式化された。2次元共形場理論で言及するのは次のような場合である。", "title": "2次元共形場理論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一般に(2+1次元以上の時空では)共形変換群は有限個の生成子からなる有限次元リー群である。しかし、空間1次元+時間1次元(d=2)の2次元共形場理論場合に限り、共形変換群SO(2,2)は正則関数の等角写像の変換群(無限次元リー群)に拡張される。この場合共形変換群SO(2,2)は無限個の生成子からなる代数(Virasoro 代数)の部分代数となる。Virasoro代数から得られるヒルベルト空間に対する制限は強力であり、ミニマル模型と呼ばれる模型群に対しては、(これには臨界点上の2次元イジング模型も含まれる)全ての相関関数の振る舞いをVirasoro代数とWard-Takahasi恒等式から厳密に求めることができる(可解である)。可解である2次元共形場理論は、2次元統計系あるいは1+1次元量子系を理解する上で強力な武器となっている。", "title": "2次元共形場理論" } ]
共形場理論とは、共形変換に対して作用が不変な場の理論である。特に、1+1次元系では複素平面をはじめとするリーマン面上での理論として記述される。 共形変換に対する不変性はWard-Takahashi恒等式を要請し、これをもとにエネルギー-運動量テンソル(あるいはストレステンソル)に関する保存量が導出される。また1+1次元系においては、エネルギー-運動量テンソルを展開したものは、Virasoro代数と呼ばれる無限次元リー代数をなし、理論の中心的役割を果たす。 共形変換群は、時空間の対称性であるポアンカレ群の自然な拡張になっており、空間d-1次元+時間1次元のd次元時空間ではリー群SO(d,2)で記述される。この変換群の生成子は(d+2)(d+1)/2個あり、その内訳は以下のとおり。 d(d-1)/2: 空間 d-1 + 時間 1次元空間のローレンツ変換 d: d次元空間の並進+時間推進 ※以上が、部分群としてのポアンカレ群の生成子をなす。 スケール普遍性は定義より以下の変換(ディラテーション)を示唆する。 1: スケール変換(計量の目盛りの変更) さらに強く、共形不変性を要求すると d: d次元時空の特殊共形変換(反転×平行移動×反転) が加わる。この代数SO(d,2)を共形代数(conformal algebra)と呼ぶ。 場の理論の基本的な可観測量である相関関数(場の演算子の積の真空期待値)は共形代数によって強い制限を受ける。特にユニタリな共形場の理論においては、例えばスカラー演算子の二点関数は ⟨ ϕ ϕ ⟩ = 1 | x − y | Δ ϕ と定まってしまう。ここで、 Δ ϕ は演算子 ϕ のスケーリング次元と呼ばれる(理論依存の)パラメータである。
'''共形場理論'''(きょうけいばりろん、Conformal Field Theory, CFT)とは、[[共形変換]]に対して[[作用]]が不変な[[場の量子論|場の理論]]である。特に、1+1次元系では[[複素平面]]をはじめとする[[リーマン面]]上での理論として記述される。 共形変換に対する不変性は[[ウォード=高橋恒等式]]を要請し、これをもとにエネルギー-運動量[[テンソル]](あるいはストレステンソル)に関する保存量が導出される。また1+1次元系においては、エネルギー-運動量テンソルを展開したものは、[[Virasoro代数]]と呼ばれる[[リー群#無限次元リー群|無限次元リー代数]]をなし、理論の中心的役割を果たす。 共形変換群は、時空間の対称性である[[ポアンカレ群]]の自然な拡張になっており、空間d-1次元+時間1次元のd次元時空間ではリー群SO(d,2)で記述される。この変換群の生成子は(d+2)(d+1)/2個あり、その内訳は以下のとおり。 * d(d-1)/2: 空間 d-1 + 時間 1次元空間のローレンツ変換 * d: d次元空間の並進+時間推進 ※以上が、部分群としてのポアンカレ群の生成子をなす。 スケール普遍性は定義より以下の変換([[ディラテーション]])を示唆する。 * 1: スケール変換(計量の目盛りの変更) さらに強く、共形不変性を要求すると * d: d次元時空の特殊共形変換(反転×平行移動×反転) が加わる。この代数SO(d,2)を共形代数(conformal algebra)と呼ぶ。 場の理論の基本的な可観測量である相関関数([[場の演算子]]の積の真空期待値)は共形代数によって強い制限を受ける。特にユニタリな共形場の理論においては、例えばスカラー演算子の二点関数は <math>\langle \phi(x) \phi(y) \rangle = \frac{1}{| x - y|^{\Delta_{\phi}} }</math> と定まってしまう。ここで、<math>\Delta_{\phi}</math>は演算子<math>\phi</math> のスケーリング次元と呼ばれる(理論依存の)パラメータである。 ==2次元共形場理論== 2次元共形場理論は歴史的には1984年にBelavin、[[アレクサンドル・ポリャコフ|ポリャコフ]]、Zamolodchikov(BPZ)によって初めて定式化された<ref name="BPZ1984"> {{cite journal |author=Belavin, A. A.; Polyakov, A. M.; Zamolodchikov, A. B. |title=Infinite conformal symmetry in two-dimensional quantum field theory |journal=[[Nuclear Physics B]] |volume=241 |issue=2 |pages=333-380 |year=1984 |doi=10.1016/0550-3213(84)90052-X }}</ref>。2次元共形場理論で言及するのは次のような場合である。 一般に(2+1次元以上の時空では)共形変換群は有限個の生成子からなる有限次元リー群である。しかし、空間1次元+時間1次元(d=2)の2次元共形場理論場合に限り、共形変換群SO(2,2)は[[正則関数]]の[[等角写像]]の変換群(無限次元リー群)に拡張される。この場合共形変換群SO(2,2)は無限個の生成子からなる代数([[ヴィラソロ代数]])の部分代数となる。ヴィラソロ代数から得られるヒルベルト空間に対する制限は強力であり、[[ミニマル模型]]と呼ばれる模型群に対しては、(これには臨界点上の2次元[[イジング模型]]も含まれる)全ての相関関数の振る舞いをヴィラソロ代数とウォード=高橋恒等式から厳密に求めることができる(可解である)。可解である2次元共形場理論は、2次元統計系あるいは1+1次元量子系を理解する上で強力な武器となっている。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |last = Di Francesco |coauthors= Mathieu, Sénéchal |title= Conformal field theory |series= Graduate texts in contemporary physics |year= 1997 |publisher= Springer |isbn= 9780387947853}} * Paul Ginsparg, ''Applied Conformal Field Theory''. {{arxiv|hep-th/9108028}}. * 川上則雄、梁成吉:「共形場理論と1次元量子系」、岩波書店、ISBN 4-00-007411-3(1997年11月25日)。 * 山田 泰彦:「共形場理論入門」、培風館、ISBN 978-4563006617(2006/01)。 * 伊藤克司: 臨時別冊・数理科学SGC-83「共形場理論」、サイエンス社(2011/06/25)。 * 江口 徹, 菅原 祐二:「共形場理論」、岩波書店、ISBN 978-4000052498(2015/9/18)。 == 関連項目 == * [[超弦理論]] * [[AdS/CFT対応]] {{sci-stub}} {{DEFAULTSORT:きようけいはりろん}} [[Category:物理学]] [[Category:対称性]] [[Category:場の量子論]] [[Category:共形場理論|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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1,980
小津安二郎
小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年〈明治36年〉12月12日 - 1963年〈昭和38年〉12月12日)は、日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。 1903年12月12日、東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた。あさゑは津の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた。 1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した。1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)垣鼻785番地に移住した。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった。 1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズ(英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った。1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた。 1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸や大阪で映画見物を楽しんだ。名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった。 1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉町に引っ越した。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた。 1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小津は東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している。 1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。 1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった。1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)。 1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている。 1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた。1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった。 1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した。1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二、内田吐夢、田坂具隆などの監督と親しくなった。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した。1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した。 1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。 1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった。 1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンでスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという。 1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した。 日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した。1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵と貴一をもうけた。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた。 1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを能や茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した。 次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった。1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた。1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉に転居し、そこを終の棲家とした。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった。 1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した。 小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした。1957年10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、1958年1月新潟県の佐渡島と高田市(現在の上越市)でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった。 1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという。1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む赤の発色が良いアグファカラー(英語版)を採用した。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した。 小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した。1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した。1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した。 1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された。1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった。 1963年4月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた。手術後は患部にコバルトやラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ。7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた。10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした。 12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された。 小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ(英語版)やフェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。 戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチ、キング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる。 戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス(英語版)監督の『キック・イン(英語版)』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブル(フランス語版)』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜(英語版)』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ(英語版)』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩(英語版)』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル(英語版)』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている。 佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている。 初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった。 小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び、ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる」などと発言した。 小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇」というペンネームを多用した。この名前は小津とその共作者の池田忠雄、伏見晁、北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという。 『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった。 小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた。 佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという。 画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る...人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている。 小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている。 構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという。 小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった。淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという。岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという。 笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている。 それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に森繁久彌、山茶花究が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)」という。 小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。 小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した。 小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している。 小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている。また、パンの使用もごく数本に限定されている。 後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている。 2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール(英語版)」という文法的規則が存在する。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた。 しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった。 小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている。 映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している。 小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ(英語版)(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし、「カメラの属性に過ぎない」として否定した。 ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ。 小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている。 小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子は水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎と北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた。 小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている。 小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ。人見知りをする性格で、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという。 小津は大の酒好きとして知られた。野田と脚本を書くため長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3...と番号を書き込んでいたという。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという。 小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて南千住の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた。豚カツも大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった蓬莱屋を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった。 趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し、若い頃はボクシングやスキーに打ち込んだが、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球と相撲だった。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した。相撲は鳳と吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという。 写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ。1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した。 子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫と岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している。 小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった。1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた。 小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた。キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手である吉田喜重もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった。 1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明や溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスのロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった。なかでも『東京物語』は、2012年に英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド(英語版)が発表した「史上最高の映画トップ100(英語版)」で、監督投票部門の1位に選ばれた。 国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした。小津の生誕100周年にあたる2003年には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる(英語版)』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した。周防正行は監督デビュー作であるピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した。ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている。ほかにもアキ・カウリスマキ、クレール・ドゥニ、エリア・スレイマン、黒沢清、青山真治などが小津の影響を受けている。 小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。 ×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画)△印はフィルムの一部だけが現存する作品□印はサウンド版作品◎印はカラー作品 小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている。茅野市では、1998年から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている。 小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている。 小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている。 小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する鎌倉文学館ほかで開催されている。 1986年6月に、鎌倉文学館は「特別展小津安二郎展ー人と仕事ー」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している。 1998年12月から1999年1月31日まで、東京大学総合研究博物館で「デジタル小津安二郎展」が開催された。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる。 小津が1946年から5年間住んでいた千葉県野田市の野田市郷土博物館では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある。 小津生誕120周年、没後60年の2023年には神奈川近代文学館が「小津安二郎展」を開催した。会期は2023年4月1日から5月28日。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年〈明治36年〉12月12日 - 1963年〈昭和38年〉12月12日)は、日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1903年12月12日、東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた。あさゑは津の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した。1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)垣鼻785番地に移住した。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズ(英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った。1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸や大阪で映画見物を楽しんだ。名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉町に引っ越した。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小津は東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった。1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた。1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した。1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二、内田吐夢、田坂具隆などの監督と親しくなった。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した。1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンでスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した。1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵と貴一をもうけた。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを能や茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった。1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた。1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉に転居し、そこを終の棲家とした。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした。1957年10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、1958年1月新潟県の佐渡島と高田市(現在の上越市)でロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという。1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む赤の発色が良いアグファカラー(英語版)を採用した。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した。1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した。1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された。1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1963年4月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた。手術後は患部にコバルトやラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ。7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた。10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ(英語版)やフェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチ、キング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス(英語版)監督の『キック・イン(英語版)』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブル(フランス語版)』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜(英語版)』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ(英語版)』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩(英語版)』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル(英語版)』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び、ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる」などと発言した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇」というペンネームを多用した。この名前は小津とその共作者の池田忠雄、伏見晁、北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る...人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった。淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという。岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『小早川家の秋』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に森繁久彌、山茶花究が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)」という。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている。また、パンの使用もごく数本に限定されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール(英語版)」という文法的規則が存在する。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ(英語版)(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし、「カメラの属性に過ぎない」として否定した。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子は水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎と北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ。人見知りをする性格で、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "小津は大の酒好きとして知られた。野田と脚本を書くため長野県蓼科高原の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3...と番号を書き込んでいたという。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて南千住の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた。豚カツも大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった蓬莱屋を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し、若い頃はボクシングやスキーに打ち込んだが、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球と相撲だった。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した。相撲は鳳と吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ。1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫と岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった。1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた。キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手である吉田喜重もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明や溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスのロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった。なかでも『東京物語』は、2012年に英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド(英語版)が発表した「史上最高の映画トップ100(英語版)」で、監督投票部門の1位に選ばれた。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした。小津の生誕100周年にあたる2003年には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる(英語版)』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した。周防正行は監督デビュー作であるピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した。ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている。ほかにもアキ・カウリスマキ、クレール・ドゥニ、エリア・スレイマン、黒沢清、青山真治などが小津の影響を受けている。", "title": "評価・影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画)△印はフィルムの一部だけが現存する作品□印はサウンド版作品◎印はカラー作品", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている。茅野市では、1998年から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている。", "title": "記念施設・資料館" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年に松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている。", "title": "記念施設・資料館" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている。", "title": "記念施設・資料館" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する鎌倉文学館ほかで開催されている。 1986年6月に、鎌倉文学館は「特別展小津安二郎展ー人と仕事ー」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している。", "title": "展覧会・記念展" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1998年12月から1999年1月31日まで、東京大学総合研究博物館で「デジタル小津安二郎展」が開催された。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる。", "title": "展覧会・記念展" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "小津が1946年から5年間住んでいた千葉県野田市の野田市郷土博物館では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある。", "title": "展覧会・記念展" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "小津生誕120周年、没後60年の2023年には神奈川近代文学館が「小津安二郎展」を開催した。会期は2023年4月1日から5月28日。", "title": "展覧会・記念展" } ]
小津 安二郎は、日本の映画監督、脚本家。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。
{{ActorActress | 芸名 = 小津 安二郎 | ふりがな = おづ やすじろう | 画像ファイル = Yasujiro Ozu 01.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像コメント = [[1951年]]頃 | 本名 = 同じ | 別名義 = ジェームス・槇{{Refnest|group="注"|name="ジェームス・槇"|ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。}}<!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> | 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[深川区]](現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]) | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]][[湯島]] | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 身長 = 約170 [[センチメートル|cm]]{{Sfn|田中|2003|p=8}}<ref name="健康診断">「麦秋のころの健康診断 小津安二郎氏」(『毎日グラフ』1951年8月10日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=98-101}}に所収</ref> | 血液型 = | 生年 = 1903 | 生月 = 12 | 生日 = 12 | 没年 = 1963 | 没月 = 12 | 没日 = 12 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1927年]] - [[1963年]] | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[東京の合唱]]』(1931年)<br/>『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)<br/>『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)<br/>『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)<br/>『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)<br/>『[[東京物語]]』(1953年)<br/>『[[秋刀魚の味]]』(1962年) | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1951年]]『[[麦秋]]』 | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''監督賞'''<br />[[1949年]]『[[晩春]]』<br />'''脚本賞'''<br />1949年『晩春』<br />'''特別賞'''<br />[[1963年]]<hr>'''[[英国映画協会]]'''<br />'''[[サザーランド杯]]'''<br />[[1953年]]『[[東京物語]]』<hr>'''[[紫綬褒章]]'''<br>[[1958年]] | 備考 = [[日本映画監督協会]]理事長([[1955年]] - [[1963年]]) }} '''小津 安二郎'''(おづ やすじろう、[[1903年]]〈[[明治]]36年〉[[12月12日]] - [[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[12月12日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]。[[日本映画]]を代表する監督のひとりであり、[[サイレント映画]]時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、[[原節子]]主演の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)、『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)、『[[東京物語]]』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「[[#作風|小津調]]」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、[[黒澤明]]や[[溝口健二]]と並んで国際的に高く評価されている。[[1962年]]には映画人初の[[日本芸術院]]会員に選出された。 == 生涯 == === 生い立ち === [[1903年]][[12月12日]]、[[東京市]][[深川区]]亀住町4番地(現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた<ref name="全集年譜">「小津安二郎年譜」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=633-644}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="古石場文化センター">{{Cite web|和書|url=https://www.kcf.or.jp/furuishiba/josetsu/ozu/ |title=小津安二郎紹介展示コーナー |website=古石場文化センター |publisher=公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である{{Sfn|千葉|2003|p=16}}。生家の小津{{ルビ|新七|しんしち}}家は、[[伊勢]][[松阪市|松阪]]出身の[[伊勢商人]]である小津{{ルビ|与右衛門|よえもん}}家の分家にあたる<ref name="家系">[[松浦莞二]]「家庭を描いた男の家庭」({{Harvnb|大全|2019|pp=154-158}})</ref>。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で海産物肥料問屋の「{{ルビ|湯浅屋|ゆあさや}}」を営んでいた<ref name="家系"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}{{Refnest|group="注"|小津与右衛門家の初代新兵衛(1673年 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の[[小津商店]])の支配人をしていたが、[[1716年]]に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="仕分金">{{Cite web|和書|url=https://www.ozuwashi.net/330/015a.html |title=支配人と仕分金 |website=小津330年のあゆみ |accessdate=2021年2月12日}}</ref><ref name="小津ハマ年譜">{{Cite web|和書|url=http://ozu-net.com/work/ |title=小津ハマさん作成年譜(小津監督の人と仕事) |website=全国小津安二郎ネットワーク |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。新兵衛は[[紀伊国|紀州]][[湯浅町|湯浅村]]出身の岩崎家と共同で[[干鰯問屋]]「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の[[阪内川]]近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の[[小津久足]]で、そのほか与右衛門家からは英文学者の[[小津次郎]]、[[阪神タイガース]]球団社長の[[小津正次郎]]などの著名人が出ている<ref name="家系"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。}}。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた<ref name="家系"/><ref name="仕分金"/>。あさゑは[[津市|津]]の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="家系"/>。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}。小津は3歳頃に[[脳膜炎]]にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた{{Sfn|千葉|2003|p=20}}。 [[1909年]]、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる{{Sfn|伝記|2019|p=175}}。翌[[1910年]]には深川区立明治尋常小学校(現在の[[江東区立明治小学校]])に入学した<ref name="全集年譜"/>。[[1913年]]3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である[[三重県]][[飯南郡]][[神戸村 (三重県飯南郡)|神戸村]](現在の[[松阪市]])[[垣鼻町|垣鼻]]785番地に移住した<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の[[松阪市立第二小学校]])4年生に転入した{{Sfn|伝記|2019|p=178}}。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという{{Sfn|伝記|2019|p=180}}。やがて小津は自宅近くの映画館「[[神楽座]]」で[[尾上松之助]]主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった<ref name="全集年譜"/>。 [[1916年]]、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学し、寄宿舎に入った<ref name="全集年譜"/>。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って[[名古屋市|名古屋]]まで映画を見に行ったこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}。当時は[[連続活劇]]の女優[[パール・ホワイト]]のファンで、[[レックス・イングラム (映画監督)|レックス・イングラム]]や{{仮リンク|ペンリン・スタンロウズ|en|Penrhyn Stanlaws}}の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}<ref name="筈見対談">「小津安二郎・筈見恒夫対談」(『[[映画の友]]』1955年9月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=238-244}}に所収</ref>。とくに小津に感銘を与えたのが[[トーマス・H・インス]]監督の『[[シヴィリゼーション (映画)|シヴィリゼーション]]』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った<ref name="筈見対談"/><ref name="豆監督">小津安二郎「僕は映画の豆監督」(『私の少年時代』1953年3月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=166-167}}に所収</ref>。[[1920年]]、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件{{Refnest|group="注"|映画批評家の[[佐藤忠男]]によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日の[[同性愛|ホモ・セクシュアル]]ほど深刻なものではないという{{Sfn|佐藤|2000|pp=130-131}}。}}」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した{{Sfn|中村|2000|p=88}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=132-133}}。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた{{Sfn|伝記|2019|p=186}}{{Sfn|千葉|2003|p=36}}。 [[1921年]]3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]]を受験したが、合格する気はあまりなく、[[神戸市|神戸]]や[[大阪府|大阪]]で映画見物を楽しんだ{{Sfn|千葉|2003|p=37}}{{Sfn|佐藤|2000|p=134}}。[[名古屋高等商業学校]]も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した<ref name="全集年譜"/>。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした{{Sfn|伝記|2019|p=187}}。翌[[1922年]]に再び受験の時期が来ると、[[三重師範学校|三重県師範学校]]を受験したが不合格となり、飯南郡[[宮前村 (三重県)|宮前村]](現在の松阪市[[飯高町]])の[[松阪市立宮前小学校|宮前尋常高等小学校]]に[[代用教員]]として赴任した{{Sfn|中村|2000|p=170}}。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}<ref name="蓮實年譜">「年譜」({{Harvnb|蓮實|2003|pp=319-338}})</ref>。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しい[[ローマ字]]を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}。また、下宿で児童たちに[[マンドリン]]を弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の[[局ヶ岳]]を登頂したりしたこともあった{{Sfn|中村|2000|pp=180-182}}。 === 映画界入り === [[1923年]]1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区{{ルビ|和倉|わくら}}町に引っ越した<ref name="全集年譜"/>。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の[[佐藤忠男]]曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}{{Sfn|佐藤|2000|p=135}}。しかし、母の異母弟の{{ルビ|中條幸吉|ちゅうじょうこうきち}}が[[松竹]]に土地を貸していたことから、その伝手で8月に[[松竹キネマ]][[松竹蒲田撮影所|蒲田撮影所]]に入社した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった<ref name="芸談">「小津安二郎芸談」([[東京新聞]]1947年12月5日・12日・19日・26日)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=158-164}}に所収</ref>。入社直後の9月1日、小津は撮影所で[[関東大震災]]に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった{{Sfn|伝記|2019|p=190}}。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた{{Sfn|伝記|2019|p=193}}{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の[[松竹京都撮影所|下加茂撮影所]]に移転した{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。蒲田には[[島津保次郎]]監督組が居残り、小津も居残り組として[[碧川道夫]]の撮影助手を務めた{{Sfn|千葉|2003|pp=52-53}}。 [[1924年]]3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は{{ルビ|酒井宏|さかいひろし}}の撮影助手として[[牛原虚彦]]監督組についた{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。12月、小津は東京[[青山 (東京都港区)|青山]]の[[近衛歩兵第4連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]として入営し、翌[[1925年]]11月に[[伍長]]で除隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の[[斎藤寅次郎]]に頼み込み、[[1926年]]に時代劇班の[[大久保忠素]]監督のサード助監督となった{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の[[佐々木啓祐]]、生涯の親友となる[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、後に小津作品の編集担当となる撮影部の[[浜村義康]]の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|千葉|2003|p=63}}。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた<ref name="芸談"/>{{Sfn|千葉|2003|p=63}}<ref name="一問一答">[[岸松雄|和田山滋]]「小津安二郎との一問一答」(『キネマ旬報』1933年1月11日号)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=11-18}}に所収</ref>。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった<ref name="芸談"/>。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している<ref name="一問一答"/>。 [[1927年]]のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂で[[カレーライス]]を注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした<ref>小津安二郎「ライス・カレー〈処女作前後〉」(『キネマ旬報』1950年3月上旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=78}}に所収</ref>。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の[[城戸四郎]]に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった<ref name="芸談"/>。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった<ref name="芸談"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『[[懺悔の刃]]』の撮影を始めた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。ところが撮影途中に[[予備役]]の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に[[三重県]][[津市]]の[[歩兵第33連隊]]第7中隊に入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}<ref name="自作を語る">「小津安二郎自作を語る」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=92-99}})</ref>。 === 監督初期 === [[ファイル:Yasujiro Ozu cropped.jpg|thumb|180px|『[[非常線の女]]』(1933年)撮影時の小津。]] 1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『[[若人の夢]]』(1928年)を撮影した<ref name="自作を語る"/>。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった{{Sfn|貴田|1999|p=38}}<ref name="松竹解説">佐藤忠男解説「小津映画全作品」({{Harvnb|松竹|1993|pp=216-287}})</ref>{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=59}}。[[1928年]]は5本、[[1929年]]は6本、[[1930年]]は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|p=203}}。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの[[栗島すみ子]]主演の正月映画『[[結婚学入門]]』(1930年)の監督を任されるほどになった<ref name="全集上解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(上)|2003|pp=695-731}})</ref>。『[[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]]』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めて[[キネマ旬報ベスト・テン]]に選出された(日本・現代映画部門2位){{Sfn|伝記|2019|p=203}}<ref name="全集上解題"/>。 [[1931年]]、松竹は土橋式[[トーキー]]を採用して、日本初の国産トーキー『[[マダムと女房]]』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は[[1936年]]までトーキー作品を作ろうとはしなかった<ref name="NO監督">「小津安二郎が監督しなかった作品」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=626-630}})</ref>。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの[[茂原英雄]]が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている<ref name="全集上解題"/><ref>「"沈黙を棄てる監督" 小津氏との一問一答」(都新聞1936年4月20日夕刊)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=82-84}}に所収</ref>。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった<ref name="全集上解題"/>。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いている[[サウンド版]]で公開されている{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。 1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『[[東京の合唱]]』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}。『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。さらに『[[出来ごころ]]』(1933年)と『[[浮草物語]]』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた<ref name="全集上解題"/>。[[1933年]]9月には[[後備役]]として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた<ref name="蓮實年譜"/>。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や[[井上金太郎]]らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった[[山中貞雄]]と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった<ref name="蓮實年譜"/><ref name="全発言解説">田中眞澄「解説」({{Harvnb|全発言|1987|pp=283-288}})</ref>。新しい出会いの一方、[[1934年]]4月には父寅之助を亡くした<ref name="全集年譜"/>。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で[[芝区]][[高輪]]南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった{{Sfn|伝記|2019|p=217}}。 [[1935年]]7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した<ref name="全集年譜"/>。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=441}}。[[1936年]]3月、小津は[[日本映画監督協会]]の結成に加わり、協会を通じて[[溝口健二]]、[[内田吐夢]]、[[田坂具隆]]などの監督と親しくなった<ref name="全発言解説"/>。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『[[一人息子 (映画)|一人息子]]』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した[[松竹大船撮影所|大船撮影所]]で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}{{Refnest|group="注"|茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の[[新興キネマ]][[東映京都撮影所|京都撮影所]]で使用された{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}。}}。[[1937年]]に土橋式で『[[淑女は何を忘れたか]]』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『[[限りなき前進]]』として映画化された{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}。9月には『[[父ありき]]』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した[[茅ヶ崎市]]の旅館「[[茅ヶ崎館]]」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=451}}。 === 小津と戦争 === 1937年7月に[[日中戦争]]が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、[[近衛歩兵第2連隊]]に歩兵伍長として入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は毒ガス兵器を扱う[[上海派遣軍]]司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に[[上海]]に上陸した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、[[南京戦#南京陥落|南京陥落]]後の12月20日に[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]滁県に入城した{{Sfn|千葉|2003|pp=163-164}}。[[1938年]]1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、[[南京]]郊外の[[句容市|句容]]にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした{{Sfn|千葉|2003|pp=165-166}}。4月に[[徐州会戦]]に参加し、6月には[[軍曹]]に昇進し、9月まで[[南京]]に駐留した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという<ref name="全集年譜"/>。その後は[[武漢作戦|漢口作戦]]に参加し、[[1939年]]3月には[[南昌作戦]]に加わり、[[修水]]の渡河作戦で毒ガスを使用した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。続いて[[南昌市|南昌]]進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた{{Sfn|伝記|2019|p=224}}。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には[[九江市|九江]]で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった{{Sfn|千葉|2003|pp=178-179}}。 1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『[[お茶漬の味]]』と改題)の脚本を執筆し、翌[[1940年]]に撮影準備を始めたが、[[内務省 (日本)|内務省]]の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された<ref name="全集下解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=611-625}})</ref>。結局製作は中止となり、次に『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた<ref name="全集上解題"/>。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である[[笠智衆]]が初めて主演を務めた<ref name="全集年譜"/>。この撮影中に[[太平洋戦争]]が開戦し、[[1942年]]に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹は[[ビルマの戦い|ビルマ作戦]]を描くことになり、小津が監督に抜擢された<ref name="NO監督"/>。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった{{Sfn|伝記|2019|p=230}}。 [[1943年]]6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主に[[シンガポール]]に滞在した<ref name="NO監督"/>。同行者には監督の[[秋山耕作]]と脚本家の[[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]がおり、遅れてカメラマンの[[厚田雄春]]が合流した<ref name="NO監督"/>。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、[[ペナン]]で[[スバス・チャンドラ・ボース]]と会見したり、[[ジャワ]]でロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった{{Sfn|千葉|2003|pp=214-216}}。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=130-132}}。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=133}}。その中には『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]]』(1939年)、『[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]』『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)、『[[市民ケーン]]』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという<ref name="小津は語る">飯田心美「小津安二郎は語る」(『キネマ旬報』1947年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=22-24}}に所収</ref>。 [[1945年]]8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーへ、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス・オーストラリア軍の監視下にある[[ジュロン]]の民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた{{Sfn|千葉|2003|p=221}}。抑留中は[[ゴムノキ|ゴム]]林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。暇をみてはスタッフと[[連句]]を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画の[[モンタージュ]]と共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している<ref name="小津は語る"/>。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。翌[[1946年]]2月に小津も帰還し、12日に[[広島県]][[大竹市|大竹]]に上陸した<ref name="全集年譜"/>。 === 戦後の活躍 === [[File:Late Spring Japanese Poster.jpg|thumb|190px|『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)のポスター。]] 日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である[[千葉県]][[野田町 (千葉県)|野田町]](現在の[[野田市]])に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。[[1947年]]に戦後第1作となる『[[長屋紳士録]]』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった<ref name="全集下解題"/>。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった<ref name="中井">中井麻素子「文字通りの先生」({{Harvnb|松竹|1993|pp=170-172}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。益子は[[1957年]]に小津と[[木下惠介]]の独身監督の媒酌で[[佐田啓二]]と結婚し、後に[[中井貴恵]]と[[中井貴一|貴一]]をもうけた{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた<ref name="中井"/>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。 [[1948年]]には新作『[[月は上りぬ]]』の脚本を書き上げ、[[東宝]]専属の[[高峰秀子]]を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『[[風の中の牝雞]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|p=239}}。この作品は小津が畏敬した[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集下解題"/>。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の[[野田高梧]]も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した<ref name="高梧">[[野田高梧]]「小津安二郎という男 交遊四十年とりとめもなく」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=76-84}})</ref>。『晩春』は[[広津和郎]]の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを[[能]]や[[茶の湯]]など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、[[原節子]]を主演に迎え、[[#作風|小津調]]と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=240-241}}。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、[[毎日映画コンクール]]の日本映画大賞を受賞した<ref name="全集年譜"/>。 次作の『[[宗方姉妹]]』(1950年)は[[新東宝]]製作で、初の他社作品となった<ref name="全集下解題"/>。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった<ref name="小事典">「小津安二郎 全作品ディテール小事典」({{Harvnb|大全|2019|pp=413-497}})</ref>。[[1951年]]には『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた<ref name="全集年譜"/>。[[1952年]]1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて[[北鎌倉]]に転居{{Refnest|group="注"|1952年(昭和27年)3月に、画家[[小倉遊亀]]の持ち家だった家を新居と決め、5月2日に転居した。鎌倉市[[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]1445番地。[[浄智寺]]参道の脇道の左手に小さな隧道があり、それをくぐった奥の谷戸に小倉遊亀邸があり、その門前を更に左に昇ったところにあった{{Sfn|山内|2003|pp=176-177}}。}}し、そこを終の棲家とした{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、[[1953年]]には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『[[東京物語]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した[[日活]]による監督や俳優の引き抜きを防ぐために[[五社協定]]を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。 [[1954年]]、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で[[田中絹代]]が監督することに決まった{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり[[大映]]など五社と激しく対立していたため製作は難航した{{Sfn|伝記|2019|pp=252-253}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}{{Refnest|group="注"|とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、9月8日に田中監督を応援する旨の声明を出した{{Sfn|千葉|2003|p=291}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。}}。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、[[1955年]]1月に公開された{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。 小津はフリーの立場で松竹製作の『[[早春 (1956年の映画)|早春]]』(1956年)を撮影したあと、[[1956年]]2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した<ref name="蓮實年譜"/>。6月からは[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある[[片倉工業|片倉製糸]]の別荘を借り、「{{ルビ|無藝荘|むげいそう}}」と名付けた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。次作の『[[東京暮色]]』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす[[迎賓館]]のような役割を果たした<ref name="高梧"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。[[1957年]]10月から11月にかけて『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、[[1958年]]1月[[新潟県]]の[[佐渡島]]と[[高田市]](現在の[[上越市]])で[[ロケーション・ハンティング]]も敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった<ref name="全集下解題"/>。 === カラー映画時代 === 1950年代に日本映画界ではカラー化、[[ワイドスクリーン]]化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた<ref name="俯瞰">松浦莞二、折田英五「小津の技法を俯瞰する」({{Harvnb|大全|2019|pp=500-505}})</ref>。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない<ref>「小津監督の次回作『秋日和』」([[毎日新聞]]1960年6月11日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=356-357}}に所収</ref>」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない<ref>「悪いやつの出る映画は作りたくない」(東京新聞1960年9月6日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=363-364}}に所収</ref>」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りの[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]を貫いた<ref name="俯瞰"/>。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくかどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという{{Sfn|貴田|1999|p=117}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。1958年、小津は『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む[[赤]]の発色が良い{{仮リンク|アグファカラー|en|Agfacolor}}を採用した<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した{{Sfn|貴田|1999|p=117}}。 小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から[[山本富士子]]を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|伝記|2019|p=262}}。[[1959年]]2月には映画関係者で初めて[[日本芸術院賞]]を受賞した<ref name="全集年譜"/>。この年は『[[お早よう]]』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『[[浮草 (映画)|浮草]]』と改題して撮影した<ref name="全集下解題"/>。[[1960年]]には松竹で『[[秋日和]]』を撮影したが、主演に[[東宝]]から原節子と[[司葉子]]を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌[[1961年]]に東宝系列の[[宝塚映像#宝塚映画製作所|宝塚映画]]で『[[小早川家の秋]]』を撮影した<ref name="小事典"/>。 [[1962年]]2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった<ref name="全集年譜"/>。この年に最後の監督作品となった『[[秋刀魚の味]]』を撮影し、11月に映画人で初めて[[日本芸術院]]会員に選出された{{Sfn|伝記|2019|pp=270-271}}。[[1963年]]には次回作として『[[大根と人参]]』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった<ref name="NO監督"/><ref name="小事典"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。『大根と人参』は小津没後に[[渋谷実]]が構想ノートをもとに映画化し、[[1965年]]に同じタイトルで公開した<ref name="小事典"/>。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作する[[いすゞ自動車]]の宣伝映画『[[私のベレット]]』(1964年)の脚本監修だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。 === 闘病と死去 === [[File:Odzuhaka.jpg|thumb|[[鎌倉市]]の[[円覚寺]]にある小津安二郎の墓。]] 1963年4月、小津は数日前にできた右頸部[[悪性腫瘍]]のため[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]に入院し、手術を受けた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。手術後は患部に[[コバルト]]や[[ラジウム]]の針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ<ref name="看護日誌">[[佐田啓二]]「おやじ小津安二郎はもういない 佐田啓二の看護日誌」(『サンデー毎日』1963年12月29日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=415-423}}に所収</ref>。7月に退院すると[[湯河原町|湯河原]]で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}<ref name="看護日誌"/>。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた<ref name="看護日誌"/>。10月には[[東京医科歯科大学医学部附属病院]]に再入院したが、11月に[[白血球]]不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁に[[いろは順|イロハ]]を書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。 12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると[[死相]]があらわれていた<ref name="看護日誌"/>。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=268}}。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が[[築地本願寺]]で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた<ref name="全集年譜"/>。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた[[井上和男]]により止められた<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。墓は北鎌倉の[[円覚寺]]につくられ、墓石には[[朝比奈宗源]]の筆による「無」の一文字が記された{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。 == 作風 == {{Quote box|width=40%|align=right|quote=性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。|source=映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言<ref name="味がよい">小津安二郎、[[岩崎昶]]、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」(『キネマ旬報』1958年8月下旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=296-305}}に所収</ref>}} 小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の[[佐藤忠男]]は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}や[[フェード#映像編集|フェード]]などの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにも[[アメリカ映画]]の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。 === アメリカ映画の影響 === [[File:Dragnet Girl 1933.jpeg|thumb|『[[非常線の女]]』([[1933年]])はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}。]] 戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好する[[モボ・モガ|モダンボーイ]]で、1930年代半ばまでは自身が傾倒する[[アメリカ映画]](とくに小津が好んだ[[エルンスト・ルビッチ]]、[[キング・ヴィダー]]、[[ウィリアム・A・ウェルマン]]の作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|佐藤|1995|p=236}}{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。例えば、『[[非常線の女]]』(1933年)は[[ギャング映画]]の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。また、『[[大学は出たけれど]]』(1929年)と『[[落第はしたけれど]]』(1930年)は[[ハロルド・ロイド]]主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的な[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]からそれぞれ影響を受けている<ref name="松竹解説"/><ref name="小事典"/>。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}。 戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋は{{仮リンク|ジョージ・フィッツモーリス|en|George Fitzmaurice}}監督の『{{仮リンク|キック・イン (映画)|label=キック・イン|en|Kick In (1922 film)}}』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『{{仮リンク|レ・ミゼラブル (1925年の映画)|label=レ・ミゼラブル|fr|Les Misérables (film, 1925)}}』(1925年)と、[[ジョン・フォード]]監督の『{{仮リンク|豪雨の一夜|en|Goodman Blind}}』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『{{仮リンク|チャンプ (1931年の映画)|label=チャンプ|en|The Champ (1931 film)}}』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『{{仮リンク|煩悩 (映画)|label=煩悩|en|The Barker}}』(1928年)、『戸田家の兄妹』は[[ヘンリー・キング]]監督の『{{仮リンク|オーバー・ザ・ヒル|en|Over the Hill (1931 film)}}』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている<ref name="小事典"/>。 佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している{{Sfn|佐藤|1995|pp=52-53}}。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や[[軍服]]を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている<ref>「場面の構成と演技指導」(『百万人の映画知識』[[解放社]]、1950年1月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=77-78}}に所収</ref>。 === テーマ === 初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した{{Sfn|映畫読本|2003|p=40}}。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている<ref name="小事典"/><ref name="松竹解説"/>。『[[会社員生活]]』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}<ref name="滋野">滋野辰彦「評伝・小津安二郎」(『キネマ旬報』1952年6月上旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=73-79}}に所収</ref>。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=68}}。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている<ref name="滋野"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=112-113}}。『[[東京の宿]]』(1935年)や『[[大学よいとこ]]』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=156, 163}}。 小津は生涯を通じ家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}<ref name="小倉">小倉真美「『小早川家の秋』に見る小津映画の特質」(『キネマ旬報』1961年11月下旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=94-98}}に所収</ref>。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び<ref name="小倉"/>、[[ドナルド・リチー]]は「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている<ref name="小事典"/>。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|映畫読本|2003|pp=84, 90, 98, 104, 108}}。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}<ref name="クセ">「わたしのクセ」(『読売グラフ』1955年6月7日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=237}}に所収</ref>、「豆腐屋に[[カレー]]だの[[豚カツ|とんかつ]]作れったって、うまいものが出来るはずがない<ref name="クセ"/>」「僕は豆腐屋だ。せいぜい[[がんもどき|ガンモドキ]]しか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる<ref>『スポーツニッポン』1951年9月14日。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=437}}に発言を引用。</ref>」などと発言した。 === 製作方法 === ==== 脚本 ==== 小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇<ref name="ジェームス・槇" group="注"/>」というペンネームを多用した{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。この名前は小津とその共作者の[[池田忠雄]]、[[伏見晁]]、[[北村小松]]との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集上解題"/>。他にも『[[突貫小僧]]』(1929年)で「野津忠二{{Refnest|group="注"|野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、[[ドイツ]]の輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという<ref name="全集上解題"/>。}}」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『[[東京の女 (映画)|東京の女]]』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}{{Refnest|group="注"|エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督{{仮リンク|ハンス・シュワルツ|de|Hanns Schwarz}}の名前を合成したペンネームである{{Sfn|映畫読本|2003|p=58}}。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「''Without Money''」のもじりである<ref name="小事典"/>。}}。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている<ref>{{Cite news |和書 |title=実録日本映画史129 |date=1964-5-21 |newspaper=読売新聞 |edition=夕刊}}</ref>。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという<ref name="全集上解題"/>。 『晩春』からの全作品は[[野田高梧]]とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた<ref name="芸談"/><ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという<ref name="芸談"/><ref name="自作を語る"/>。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356, 358, 360}}。映画評論家の[[貴田庄]]が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。 ==== 撮影 ==== [[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|200px|『[[東京物語]]』([[1953年]])を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と[[原節子]]。]] 小津は[[ロケーション・ハンティング]]を入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=248-250}}。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラの[[ファインダー]]を覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}{{Sfn|貴田|1999|pp=56-58}}。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた<ref name="司葉子">[[司葉子]]「「葉ちゃんね、女の一生やるときにはね、次がああだからって演技を組み立てると、わかっちゃってつまらない」って。」({{Harvnb|大全|2019|pp=29-34}})</ref>。 佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|古賀|2010|pp=70-71}}。助監督を務めた[[篠田正浩]]によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという{{Sfn|佐藤|2000|p=97}}。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=160-161}}。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという{{Sfn|リチー|1978|p=179}}。 画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった<ref name="小事典"/>{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}<ref name="岩下志麻">[[岩下志麻]]「「人間は悲しい時に悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ」という小津先生の言葉」({{Harvnb|大全|2019|pp=35-38}})</ref>。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}<ref name="川又">川又昴「映画に文法はない、自由に作ればいい」({{Harvnb|松竹|1993|pp=180-185}})</ref>{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。例えば、『秋日和』では[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、[[東山魁夷]]の風景画を背景に飾っている{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る…人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている<ref name="芸談"/>。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色の[[やかん]]がよく写っていることが指摘されている{{Sfn|貴田|1999|pp=126-127, 157}}。 ==== 演技指導 ==== 小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]のように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている<ref name="小津先生">[[笠智衆]]「小津先生とわたし」(『キネマ旬報』1958年6月下旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=144-145}}に所収</ref>。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす{{Sfn|佐藤|1996|p=317}}」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして<ref name="岩下志麻"/>」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている<ref>[[飯田蝶子]]「小津さんの兵隊」(キネマ旬報別冊『日本映画シナリオ古典全集 第2巻』1966年2月)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=137-139}}に所収</ref>。 構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた<ref name="小津先生"/>。『長屋紳士録』で易者を演じた[[笠智衆]]によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという<ref name="小津先生"/>{{Sfn|笠|1991|p=83}}。 小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった<ref name="岩下志麻"/>{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。[[淡島千景]]は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=211-213}}。[[岩下志麻]]は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという{{Sfn|松竹|1993|pp=71-72}}。 笠智衆は「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです」などと述べている<ref>{{Cite journal|和書 |author = 黒田邦雄 |title = 追っかけインタビュー 笠智衆 『正月になるとやって来る、ご存知柴又の御前さまの映画人生を小津監督の想い出をからめて語った1時間半』 |journal = [[シティロード]] |issue = 1983年1月号 |publisher = エコー企画 |pages = 14–15頁 }}</ref>。 それは小津組以外との撮影では摩擦を生むこともあった。宝塚映像(東宝)で制作された『[[小早川家の秋]]』では、「小刻みに数秒のカットを重ね、表情も動作もできる限り削り取ろうとする小津の手法に[[森繁久彌]]、[[山茶花究]]が悲鳴を上げた。森繁は自分が絵具にされたように感じたという。「ねえ、絵描きさん、ところであなたなにを描いているんです」そう聞いて見たい気分にさせられた。一夜、二人は小津の宿を訪ね、思う様のことをいった。「松竹の下手な俳優では、五秒のカットをもたすのが精一杯でしょう。でも、ここは東宝なんです。二分でも三分でも立派にもたせて見せます」(高橋治・作家)<ref>{{Cite book|和書 |edition=初版 |title=全著作 森繁久彌コレクション 2 芸談 |url=https://www.worldcat.org/oclc/1142817822 |date=2019-2020 |location=Tōkyō |isbn=978-4-86578-244-8 |oclc=1142817822 |first= |last= |last2=高橋治 |publisher=株式会社藤原書店 |pages=399}}</ref>」という。 ==== 小津組 ==== [[File:Tokyo Monogatari 1953.jpg|thumb|『東京物語』に主演した[[原節子]]と[[笠智衆]]は、小津作品の常連俳優として知られる。]] 小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)<ref>参加本数は{{Harvnb|全集(上)|2003}}と{{Harvnb|全集(下)|2003}}に掲載されたクレジットをもとに算出。</ref>。 * 脚本(原案や構成も含む):[[野田高梧]](26本)、[[池田忠雄]](16本)、[[伏見晁]](8本)、[[北村小松]](4本) * 撮影:[[茂原英雄]](32本)、[[厚田雄春]](14本) * 音楽:[[伊藤宣二]](7本)、[[斎藤高順]](7本) * 美術:[[浜田辰雄]](19本)、[[下河原友雄]](3本) * その他スタッフ:妹尾芳三郎(録音・調音、15本)、[[浜村義康]](編集、13本)、[[山内静夫]](製作、6本)、山本武(製作、4本) * 俳優(クレジット有):[[笠智衆]](25本{{Refnest|group="注"|クレジット上では25本だが、[[大部屋俳優|大部屋]]時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}{{Sfn|伝記|2019|p=202}}。}})、[[坂本武]](24本)、[[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]](23本)、[[飯田蝶子]](18本)、[[吉川満子]](14本)、[[青木富夫|突貫小僧]](12本)、[[田中絹代]](10本)、[[大山健二]]、[[三宅邦子]]、[[杉村春子]](9本)、[[高橋とよ]](8本)、[[三井弘次]]、[[菅原通済]](7本)、[[原節子]]、[[桜むつ子]]、[[中村伸郎]]、[[須賀不二夫]](6本)、[[伊達里子]]、[[岡田時彦]]、[[坪内美子]]、[[佐分利信]]、[[長岡輝子]](5本) === 映像スタイル === ==== ロー・ポジション ==== 小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる<ref name="厚田">厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=82-83}})</ref>{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている<ref name="カメラ対談">小津安二郎、石川欣一「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味 カメラ対談」(『カメラ毎日』創刊号、1954年5月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=212-217}}に所収</ref>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている<ref name="厚田"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『[[肉体美]]』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという<ref name="芸談"/>。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した<ref name="芸談"/><ref>松浦莞二「四〇ミリの謎」({{Harvnb|大全|2019|pp=356-364}})</ref>。 小津が「[[ローアングル|ロー・アングル]]を使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。映画批評家の[[デヴィッド・ボードウェル]]は、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。例えば、日本間では[[ちゃぶ台]]の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。 ==== 移動撮影 ==== [[File:Late Spring (Banshun) 1949.jpg|thumb|『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}。]] 小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}{{Sfn|佐藤|1995|p=355}}。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが<ref name="味がよい"/>、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている{{Sfn|貴田|1999|pp=253-254}}。また、[[パン (撮影技法)|パン]]の使用もごく数本に限定されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}。 後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=42-43}}。 ==== 180度ルール破り ==== [[Image:imaginary-line.png|thumb|340px|図1:会話シーンにおける[[想定線|イマジナリー・ライン]]とカメラ位置。180度ルールでは「A→B」の位置で撮影するが、小津は「A→C」の位置で撮影した。]] 2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「{{仮リンク|180度ルール|en|180-degree rule}}」という文法的規則が存在する{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶ[[想定線|イマジナリー・ライン]](想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。 しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった<ref name="映画の文法">小津安二郎「映画の文法」(『月刊スクリーン・ステーィ』1947年6月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=37-40}}に所収</ref><ref name="文法はない">小津安二郎「映画に"文法"はない」(『芸術新潮』1959年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=332-337}}に所収</ref>。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった<ref name="映画の文法"/>。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、[[ロングショット]]で人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている<ref name="文法はない"/>。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、[[稲垣浩]]は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという<ref name="映画の文法"/>。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。 ==== 相似形の構図 ==== [[File:03-yasujiro-ozu-films.jpg|thumb|『東京物語』では、笠智衆と[[東山千栄子]]演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。]] 小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=140}}。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている{{Sfn|貴田|1999|p=154}}。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している{{Sfn|佐藤|2000|p=37}}。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる{{Sfn|貴田|1999|p=144}}{{Sfn|古賀|2010|pp=105-107}}。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=144}}。 映画評論家の[[千葉伸夫]]は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという{{Sfn|佐藤|1996|p=310}}。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。 ==== ショット繋ぎ ==== [[File:Pillow2.png|thumb|『晩春』におけるカーテン・ショット。]] 小津はショットを繋ぐ技法である「{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}(オーバーラップとも)」と「[[フェード#映像編集|フェード]]」をほとんど使わなかった<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=29, 135}}。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし<ref name="厚田"/>、「カメラの属性に過ぎない」として否定した<ref name="自作を語る"/>。 ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ<ref name="自作を語る"/>」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが<ref name="自作を語る"/>、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。 小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットの命名者は[[南部圭之助]]で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ<ref>[[南部圭之助]]「小津安二郎の怒り」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=48-49}})</ref>。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、[[枕詞]]の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|リチー|1978|p=383}}。 === 同じ役名・役柄 === 小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。例えば、[[坂本武]]は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている{{Sfn|佐藤|2000|p=296}}。この喜八ものでは、[[飯田蝶子]]が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている<ref name="小事典"/>。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、[[三宅邦子]]は妻役、[[桜むつ子]]は[[水商売]]の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、[[中村伸郎]]と[[北竜二]]が主人公の友人役、[[高橋とよ]]が料亭若松の女将役を演じた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。 === 音楽 === 小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順">[[斎藤高順]]「画面と音楽が相殺しない曲を」({{Harvnb|松竹|1993|pp=186-191}})</ref>。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="俯瞰"/>。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている<ref name="芸談"/>。こうした特色は作曲家の[[斎藤高順]]とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、[[ポルカ]]調の曲を作曲した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。 == 人物 == [[File:Ozu Yasujiro.jpg|thumb|200px|[[1948年]]頃の小津安二郎。]] === 人柄 === 小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ<ref name="高野行">[[佐田啓二]]「老童謡『高野行』 小津さんのこと」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=46-47}})</ref>{{Sfn|吉田|1998|p=25}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=280}}。[[人見知り]]をする性格で{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=160}}、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている<ref>{{Cite book|和書 |author=冨士田元彦|authorlink=冨士田元彦 |date=2006-2 |title=日本映画史の展開 小津作品を中心に |publisher=[[本阿弥書店]] |page=66}}</ref>。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという<ref name="高梧"/><ref name="高野行"/>。 === 趣味・嗜好 === 小津は大の[[酒]]好きとして知られた<ref name="高野行"/>。野田と脚本を書くため[[長野県]][[蓼科高原]]の別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}{{Sfn|リチー|1978|pp=54-55}}。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3…と番号を書き込んでいたという<ref name="高梧"/>。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという<ref name="川又"/><ref>{{Cite web|和書|date=2017-7-21 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/07/21/0010391627.shtml |title=山本富士子 巨匠・小津安二郎の秘話を明かす 「ミルクの時間」とは… |website=デイリースポーツ |accessdate=2021年2月25日}}</ref>。 小津は映画のシナリオ執筆の参考を兼ね、食文化に精通していた。特に鰻が好きで大晦日は映画関係者を連れて[[南千住]]の鰻屋の名店「尾花」で年越し鰻を食べていた<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩 |year=2003 |publisher=青春出版社 |page=50}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|和書 |title=(小津安二郎がいた時代)新年会 スタッフに語る構想/首都圏 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-01-18 |edition=朝刊}}</ref>。一般的に大晦日は細く長く生きることを祈願して年越し蕎麦を食べることが多いが、小津は太く長い方がいいという独自の考えから鰻を選んでいた<ref name=":0" />。[[豚カツ]]も大好物であり、『一人息子』『お茶漬の味』『秋日和』などの映画にも、豚カツにまつわる場面や台詞が登場している<ref>{{Cite book|和書|author=丹野達弥他|title=いま、小津安二郎|date=2003-5-20|publisher=[[小学館]]|series=Shotor library|isbn=978-4-09-343155-2|page=17}}</ref>。特に遺作『秋刀魚の味』では、小津が常連であった[[蓬莱屋 (とんかつ店)|蓬莱屋]]を模したセットで、登場人物が実際に蓬莱屋のカツを食べる場面を撮影するほどであった<ref>{{Cite journal|和書|author=渡辺紀子 <!-- [[渡辺紀子]]は別人、内部リンク時は注意 -->|date=2017-8-15|title=とんかつの名店 蓬莱屋|journal=[[BRUTUS]]|volume=38|issue=15|publisher=[[マガジンハウス]]|id={{OYALIB|200066909}}|page=19|url=https://brutus.jp/houraiya_tonkatsu/?heading=1 |accessdate=2023-4-24}}</ref>。 趣味としてはスポーツを好み、中学時代は[[柔道]]部に所属し{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}、若い頃は[[ボクシング]]や[[スキー]]に打ち込んだが{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|全発言|1987|p=254}}、生涯を通して最も熱を入れていたのは[[野球]]と[[相撲]]だった{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}<ref name="考える人">『考える人』2007年冬号特集「小津安二郎を育てたもの」、新潮社、p. 54。</ref>。野球は[[阪神タイガース]]のファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった<ref name="考える人"/>。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。相撲は[[鳳谷五郎 (横綱)|鳳]]と[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。 写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた{{Sfn|伝記|2019|p=183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=94-95}}。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラの[[ヴェスト・ポケット・コダック|ベス単]]で撮影を楽しんだ<ref name="写真">松浦莞二「復刻中国戦線寫眞集 作品の背景」({{Harvnb|大全|2019|p=148}})</ref>。1930年代初頭には高級品だった[[ライカ]]を手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った<ref name="カメラ対談"/><ref name="写真"/>。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した<ref name="写真"/>。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}<ref name="写真"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。 子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン">岡田秀則「小津安二郎における絵画とデザイン」({{Harvnb|大全|2019|pp=135-143}})</ref>。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代には[[アートディレクター]]を志したこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=180}}<ref name="筈見対談"/>。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らで[[グラフィックデザイナー]]としての一面を見せている{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン"/>。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の[[筈見恒夫]]と[[岸松雄]]の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした<ref name="デザイン"/>。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている<ref name="少年期の絵画">松浦莞二「少年期の絵画」({{Harvnb|大全|2019|pp=130-134}})</ref>。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている<ref name="デザイン"/>。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している<ref name="デザイン"/><ref name="少年期の絵画"/>。 === 里見弴との関係 === 小津は中学時代から[[里見弴]]の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}<ref name="里見">[[里見弴]]「小津君と鎌倉と私」({{Harvnb|人と芸術|1964|p=5}})</ref>。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった<ref name="全集年譜"/><ref name="里見"/>。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる<ref name="里見"/>。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった<ref name="小事典"/>。1963年には[[日本放送協会|NHK]]のテレビドラマ『[[青春放課後]]』の脚本を里見と共同執筆した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。また、里見の四男である[[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]]は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。 == 評価・影響 == [[File:MJK30764 Wim Wenders (Berlinale 2017).jpg|thumb|160px|[[ヴィム・ヴェンダース]]は、小津の影響を受けた監督として知られる。]] 小津は[[1930年代]]から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}{{Sfn|伝記|2019|pp=210, 227, 250-251}}{{Sfn|中村|2000|p=10}}。[[キネマ旬報ベスト・テン]]では20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社 |pages=18-41,77}}</ref>。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった{{Sfn|中村|2000|p=10}}{{Sfn|佐藤|2000|p=463}}。[[松竹ヌーヴェルヴァーグ]]の旗手である[[吉田喜重]]もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}{{Sfn|吉田|1998|pp=1-2}}。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。 1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに[[黒澤明]]や[[溝口健二]]の作品が海外の[[映画祭]]で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年に[[イギリス]]の[[ロンドン映画祭]]で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家の[[リンゼイ・アンダーソン]]らの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られる[[サザーランド杯]]を受賞した{{Sfn|伝記|2019|p=263}}。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|中村|2000|p=10}}。なかでも『東京物語』は、[[2012年]]に[[英国映画協会]]の映画雑誌{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}が発表した「{{仮リンク|史上最高の映画トップ100|en|The Sight & Sound Greatest Films of All Time 2012}}」で、監督投票部門の1位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www2.bfi.org.uk/films-tv-people/sightandsoundpoll2012/directors |title=Directors’ top 100 |website=Sight & Sound |publisher=BFI |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。 国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。[[ヴィム・ヴェンダース]]は小津を「私の師匠」と呼び、『[[ベルリン・天使の詩]]』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、[[フランソワ・トリュフォー|フランソワ]]、[[アンドレイ・タルコフスキー|アンドレイ]]に捧ぐ」という一文を挿入した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-2-20 |url=https://www.cinemaclassics.jp/news/1140/ |title=第68回ベルリン国際映画祭クラシック部門 小津安二郎監督作品『東京暮色』4Kデジタル修復版ワールドプレミア上映レポート |website=松竹シネマクラシックス |work=松竹 |accessdate=2021年4月1日}}</ref><ref>{{Cite book |last=Scheibel |first=Will |date=2017 |title=American Stranger: Modernisms, Hollywood, and the Cinema of Nicholas Ray |publisher=SUNY Press |page=167}}</ref>。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『[[東京画]]』(1985年)で小津作品をオマージュした<ref>{{Cite web|和書|date=2012-2-23 |url=https://eiga.com/news/20120223/9/ |title=W・ベンダース監督「東京画」から四半世紀「小津さんでさえ今の日本、東京はわからない」 |website=映画.com |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。小津の生誕100周年にあたる[[2003年]]には、[[ホウ・シャオシェン]]が『[[珈琲時光]]』、[[アッバス・キアロスタミ]]が『{{仮リンク|5 five 小津安二郎に捧げる|en|Five (2003 film)}}』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=129-132, 140-143}}。[[周防正行]]は監督デビュー作である[[ピンク映画]]『[[変態家族 兄貴の嫁さん]]』(1984年)で小津作品を模倣した<ref>[[周防正行]]「なぜ小津だったのか」({{Harvnb|大全|2019|pp=96-99}})</ref>。[[ジム・ジャームッシュ]]は『[[ストレンジャー・ザン・パラダイス]]』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている<ref>{{Cite web|和書|author=相馬学 |date=2018-10-15 |url=https://cinemore.jp/jp/erudition/450/article_451_p2.html#a451_p2_1 |title=才能を知る、才能を見る、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を支えた才人たち |website=CINEMORE |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。ほかにも[[アキ・カウリスマキ]]<ref>{{Cite web |url=https://tankmagazine.com/tank/2017/11/aki-kaurismaeki/ |title=Anywhere but here: the films of Aki Kaurismäki |website=Tank |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[クレール・ドニ|クレール・ドゥニ]]<ref>{{Cite web |last=Lim |first=Dennis |date=2009-9-4 |url=https://www.nytimes.com/2009/09/06/movies/06lim.html |title=Finding Rhythms Within Rhythms in Parisians’ Lives |website=The New York Times |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[エリア・スレイマン]]<ref>{{Cite web |last=Mitchell |first=Wendy |date=2015-3-9 |url=https://www.screendaily.com/news/elia-suleiman-feature-to-cross-countries/5084021.article |title=Elia Suleiman’s next feature to ‘cross countries’ |website=Screen Daily |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[黒沢清]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=186-188}}、[[青山真治]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=190-194}}などが小津の影響を受けている。 == 作品 == === 監督作品 === 小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本の[[サイレント映画]]のフィルムが現存していない。以下の作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。 ; 凡例 ×印はフィルムが現存しない作品([[失われた映画]])<br/>△印はフィルムの一部だけが現存する作品<br/>□印は[[サウンド版]]作品<br/>◎印はカラー作品 ; サイレント映画 {{Columns-list|2| * [[懺悔の刃]](1927年)× * [[若人の夢]](1928年)× * [[女房紛失]](1928年)× * [[カボチヤ]](1928年)× * [[引越し夫婦]](1928年)× * [[肉体美]](1928年)× * [[宝の山]](1929年)× * [[学生ロマンス 若き日]](1929年) * [[和製喧嘩友達]](1929年)△ * [[大学は出たけれど]](1929年)△ * [[会社員生活]](1929年)× * [[突貫小僧]](1929年)△ * [[結婚学入門]](1930年)× * [[朗かに歩め]](1930年) * [[落第はしたけれど]](1930年) * [[その夜の妻]](1930年) * [[エロ神の怨霊]](1930年)× * [[足に触った幸運|足に触つた幸運]](1930年)× * [[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]](1930年)× * [[淑女と髯]](1931年) * [[美人哀愁]](1931年)× * [[東京の合唱]](1931年) * [[春は御婦人から]](1932年)× * [[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]](1932年) * [[青春の夢いまいづこ]](1932年) * [[また逢ふ日まで]](1932年)×□ * [[東京の女 (映画)|東京の女]](1933年) * [[非常線の女]](1933年) * [[出来ごころ]](1933年) * [[母を恋はずや]](1934年) * [[浮草物語]](1934年)□ * [[箱入娘]](1935年)×□ * [[東京の宿]](1935年)□ * [[大学よいとこ]](1936年)×□ }} ; トーキー映画 {{Columns-list|2| * [[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]](1936年) - 記録映画 * [[一人息子 (映画)|一人息子]](1936年) * [[淑女は何を忘れたか]](1937年) * [[戸田家の兄妹]](1941年) * [[父ありき]](1942年) * [[長屋紳士録]](1947年) * [[風の中の牝雞]](1948年) * [[晩春 (映画)|晩春]](1949年) * [[宗方姉妹]](1950年) * [[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]](1951年) * [[お茶漬の味]](1952年) * [[東京物語]](1953年) * [[早春 (1956年の映画)|早春]](1956年) * [[東京暮色]](1957年) * [[彼岸花 (映画)|彼岸花]](1958年)◎ * [[お早よう]](1959年)◎ * [[浮草 (映画)|浮草]](1959年)◎ * [[秋日和]](1960年)◎ * [[小早川家の秋]](1961年)◎ * [[秋刀魚の味]](1962年)◎ }} === その他の作品 === {{Columns-list|2| ; 映画 * 銀河(1931年、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督) - スキー場面の応援監督<ref name="全集年譜"/> * 瓦版かちかち山(1934年、[[井上金太郎]]監督) - 原作(ジェームス・槇名義)<ref name="NO監督 "/> * [[限りなき前進]](1937年、[[内田吐夢]]監督) - 原作<ref name="NO監督 "/> * 美しい横顔(1942年、[[佐々木康]]監督) - 構成<ref>{{Cite book|和書 |author=佐々木康|authorlink=佐々木康 |date=2003-10 |title=楽天楽観 映画監督佐々木康 |publisher=ワイズ出版 |page=215}}</ref> * [[恋文 (1953年の映画)|恋文]](1953年、[[田中絹代]]監督) - 応援出演<ref name="全集年譜"/> * [[月は上りぬ]](1955年、田中絹代監督) - 脚本([[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]と共同)<ref name="NO監督"/> * [[血槍富士]](1955年、内田吐夢監督) - 企画協力<ref name="蓮實年譜"/> * [[私のベレット]](1964年、[[大島渚]]監督) - 脚本監修{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}} * [[大根と人参]](1965年、[[渋谷実]]監督) - 原案<ref name="NO監督"/> * [[暖春 (映画)|暖春]](1965年、[[中村登]]監督) - 原作(『青春放課後』の脚色作品)<ref name="NO監督"/> ; テレビドラマ * [[青春放課後]](1963年、[[日本放送協会|NHK]]) - 脚本([[里見弴]]と共同)<ref name="NO監督"/> ; ラジオドラマ * 箱入娘(1935年、[[NHKラジオ第1放送]]) - 演出<ref name="蓮實年譜"/> ; 舞台 * 春は朗かに(1934年、[[帝国劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/> * 健児生まる(1942年、[[大阪劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/> }} == 受賞歴 == === 映画賞 === {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" !賞!!年!!部門!!作品!!結果!!出典 |- !rowspan="6" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]] |1932年||日本映画ベスト・テン||『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1932.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1932年・第9回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |1933年||日本映画ベスト・テン||『[[出来ごころ]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1933.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1933年・第10回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |1934年||日本映画ベスト・テン||『[[浮草物語]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1934.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1934年・第11回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |1941年||日本映画ベスト・テン||『[[戸田家の兄妹]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1941.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1941年・第18回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |1949年||日本映画ベスト・テン||『[[晩春 (映画)|晩春]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1949.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1949年・第23回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |1951年||日本映画ベスト・テン||『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1951.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1951年・第25回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- !rowspan="5" style="text-align:left"|[[毎日映画コンクール]] |rowspan="3"|1949年||日本映画大賞||rowspan="3"|『晩春』||{{won}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/004.html |title=毎日映画コンクール 第4回(1949年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |監督賞||{{won}} |- |脚本賞||{{won}} |- |1951年||日本映画大賞||『麦秋』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/> |- |1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/018.html |title=毎日映画コンクール 第18回(1963年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- !rowspan="3" style="text-align:left"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] |rowspan="2"|1951年||作品賞||rowspan="2"|『麦秋』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075458mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第2回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- |監督賞||{{won}} |- |1963年||日本映画文化賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075600mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第14回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref> |- !style="text-align:left"|[[サザーランド杯]] |1958年||style="text-align:center"|-||『[[東京物語]]』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/> |- !style="text-align:left"|「[[映画の日]]」特別功労章 |1959年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.eidanren.com/activity01_02.html |title=映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧 |website=[[映画産業団体連合会]] |accessdate=2021年2月28日}}</ref> |- !style="text-align:left"|[[溝口健二|溝口]]賞 |1960年|| style="text-align:center"|-||『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』||{{won}}||{{Sfn|田中|2003|p=429}} |- !style="text-align:left"|[[アジア太平洋映画祭|アジア映画祭]] |1961年||監督賞||『[[秋日和]]』||{{won}}||{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=468}} |- !style="text-align:left"|NHK映画賞 |1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name="全集年譜"/> |} === その他の賞・栄典 === * 1958年:[[褒章|紫綬褒章]]<ref name="全集年譜"/> * 1959年:[[日本芸術院賞]]<ref name="全集年譜"/> * 1961年:[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsuka/sensho/pdf/rekidai_jushosha.pdf |format=PDF |title=芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度~) |website=文化庁 |accessdate=2021年2月14日}}</ref> * 1962年:[[日本芸術院]]会員選出<ref name="全集年譜"/> * 1963年:[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]](没後追贈、勲七等からの昇叙<ref>官報 昭和38年12月16日 第11102号 叙任及び辞令 内閣</ref>)<ref>{{Cite book|和書 |author=柿田清二 |date=1992 |title=日本映画監督協会の五〇年 |publisher=日本映画監督協会 |page=122}}</ref> == ドキュメンタリー作品 == *『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(1983年、井上和男監督) *『[[東京画]]』(1985年、[[ヴィム・ヴェンダース]]監督) *『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』(1993年、[[吉田喜重]]監督) - [[NHK教育テレビ]]で放送 == シナリオ・日記・発言集 == * [[井上和男]]編『小津安二郎作品集』全4巻、[[立風書房]]、1983年9月 - 1984年3月。 * [[田中眞澄]]編『小津安二郎全発言 1933〜1945』[[泰流社]]、1987年6月。ISBN 978-4884705893。 * 田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年〜昭和38(1963)年』フィルムアート社、1989年5月。ISBN 978-4845989782。 * 田中眞澄編『全日記・小津安二郎』フィルムアート社、1993年12月。ISBN 978-4845993215。 * 田中真澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』[[みすず書房]]〈大人の本棚〉、2001年12月。ISBN 978-4622048220。 * 井上和男編『小津安二郎全集』上下巻+別巻、[[新書館]]、2003年4月。ISBN 978-4403150012。 * 『小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』[[日本図書センター]]〈人生のエッセイ〉、2010年5月。ISBN 978-4284700382。 * 「蓼科日記」刊行会編『蓼科日記 抄』小学館スクウェア、2013年7月。ISBN 978-4797981186。 *『人と物3 小津安二郎』[[無印良品]]〈MUJI BOOKS文庫〉、2017年6月。ISBN 978-4909098023。 == 記念施設・資料館 == [[File:Mugei-so-02.jpg|thumb|小津の別荘だった無藝荘。]] 小津が晩年に使用した[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]の別荘「無藝荘」は、[[2003年]]に小津の生誕100年を記念して[[茅野市]]によりプール平に移築され、[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭#小津安二郎記念館・無藝荘|小津安二郎記念館]]として一般に公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tateshina.ne.jp/spot/guide_5.html |title=無藝荘 |website=蓼科観光協会 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。茅野市では、[[1998年]]から「[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭]]」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ozueigasai.jp/what.html |title=蓼科高原映画祭とは |website=小津安二郎記念・蓼科高原映画祭 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。 小津が青春時代を過ごした[[三重県]][[松阪市]]では、[[2002年]]に「小津安二郎青春館」が開館したが、[[2020年]]末に閉館した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/117833?rct=mie |date=2020-9-9 |title=「小津安二郎青春館」閉館へ 松阪市、歴史民俗資料館に移転 |publisher=中日新聞 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。それに代わる顕彰拠点として、翌[[2021年]]に[[松阪市立歴史民俗資料館]]内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-4-4 |url=https://www.isenp.co.jp/2021/04/04/58155/ |title=松阪に小津安二郎記念館オープン 日本映画界の巨匠顕彰 三重 |website=伊勢新聞 |accessdate=2021年4月5日}}</ref>。 小津の生地である[[東京都]][[江東区]]では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている<ref name="古石場文化センター"/>。 == 展覧会・記念展 == 小津安二郎に関する展示は小津の遺品を所蔵する[[鎌倉文学館]]ほかで開催されている。 1986年6月に、鎌倉文学館は「特別展小津安二郎展ー人と仕事ー」を開催した。愛用品やシナリオ等約300点が展示された<ref>{{Cite news|和書 |title=今日から小津安二郎展、鎌倉文学館 |newspaper=神奈川新聞 |date=1986-06-01 |edition=朝刊、本紙湘南・湘南東、18面}}</ref>。1990年に小津の遺族から遺品の寄託を受けた<ref>{{Cite news|和書 |title=鎌倉文学館に小津安二郎の遺品 映画史の貴重な資料整理して一般公開へ |newspaper=神奈川新聞 |date=1990-08-09 |edition=朝刊、p19}}</ref>鎌倉文学館は生誕100周年にあたる2003年4月25日から6月29日にも「小津安二郎 未来へ語りかけるものたち」を開催している<ref>{{Cite news|和書 |title=生誕100年、小津安二郎熱再び ゆかりの地で催し続々 |newspaper=朝日新聞 |date=2003-01-26 |edition=神奈川1、朝刊、33p}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎 未来へ語りかけるものたち |date=2003-04-25 |year=2004 |publisher=鎌倉市芸術文化振興財団鎌倉文学館 |page=奥付}}</ref>。 1998年12月から1999年1月31日まで、[[東京大学総合研究博物館]]で「デジタル小津安二郎展」が開催された<ref>{{Cite journal|author=林良博|year=1999|title=デジタル小津安二郎展を終えて|journal=視聴覚教育|volume=Vol.53,No.3|page=8-11}}</ref>。この展示は厚田雄春の遺品が東京大学総合文化研究科に寄贈されたことを受けて企画された<ref>{{Cite journal|author=林良博|year=1999|title=デジタル小津安二郎展を終えて|journal=視聴覚教育|volume=Vol.53,No.3|page=9}}</ref>。展示にあたり「東京物語」のデジタル修復を実施した<ref>{{Cite book|和書 |title=デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼 |date=1998-12-09 |year=1998 |publisher=東京大学総合研究博物館 |pages=p92-105}}</ref>。展覧会の図録『デジタル小津安二郎 キャメラマン厚田雄春の眼』で展示の様子を見ることができる<ref>{{Cite book|和書 |title=デジタル小津安二郎展 キャメラマン厚田雄春の眼 |date=1998-12-09 |year=1998 |publisher=東京大学総合研究博物館}}</ref>。 小津が1946年から5年間住んでいた千葉県野田市の[[野田市郷土博物館]]では、2004年10月16日から11月14日まで「小津安二郎監督と野田」展示を行った<ref>{{Cite news|和書 |title=思い出の品々一堂に 野田市ゆかりの小津安二郎監督 あすから郷土博物館で特別展 |newspaper=千葉日報 |date=2004-10-14 |edition=朝刊、p16}}</ref>。展示図録では野田での写真等を見ることができるほか、小津の日記をもとに「野田での小津日和」の記事がある<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎監督と野田 |date=2004-10-16 |year=2004 |publisher=野田市郷土博物館 |page=奥付}}</ref>。 小津生誕120周年、没後60年の2023年には[[神奈川近代文学館]]が「小津安二郎展」を開催した<ref>{{Cite news|和書 |title=家族を描いた監督の軌跡 小津安二郎展 神奈川近代文学館 |newspaper=神奈川新聞 |date=2023-04-13 |edition=朝刊、かながわワイド版、p15}}</ref>。会期は2023年4月1日から5月28日<ref>{{Cite book|和書 |title=小津安二郎展 生誕120年 没後60年 |date=2023-04-01 |year=2023 |publisher=県立神奈川近代文学館 |page=奥付}}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author1=厚田雄春|authorlink1=厚田雄春|author2=蓮實重彦|authorlink2=蓮實重彦|date=1989-6 |title=小津安二郎物語 |series=リュミエール叢書 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4480871633 |ref={{Harvid|厚田|蓮實|1989}}}} * {{Citation|和書 |editor=[[井上和男]] |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 上 |publisher=[[新書館]] |isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(上)|2003}}}} * {{Citation|和書 |editor=井上和男 |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 下 |publisher=新書館 |isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(下)|2003}}}} * {{Cite book|和書 |author=貴田庄|authorlink=貴田庄 |date=1999-5 |title=小津安二郎のまなざし |publisher=[[晶文社]] |isbn=978-4794963949 |ref={{Harvid|貴田|1999}}}} * {{Citation|和書 |editor=キネマ旬報編集部 |date=1989-12 |title=小津安二郎集成 |publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn=978-4873760391 |ref={{Harvid|集成|1989}}}} * {{Citation|和書 |editor=キネマ旬報編集部 |date=1993-10 |title=小津安二郎集成Ⅱ |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873760629 |ref={{Harvid|集成2|1993}}}} * {{Cite book|和書 |author=古賀重樹 |date=2010-11 |title=1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二 |publisher=[[日本経済新聞出版]] |isbn=978-4532167639 |ref={{Harvid|古賀|2010}}}} * {{Cite book |和書 |author=佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男 |date=1995-3 |title=日本映画史1 1896-1940 |edition=増補版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000037853 |ref={{Harvid|佐藤|1995}} }} * {{Cite book|和書 |author=佐藤忠男 |date=1996-10 |title=日本映画の巨匠たち I |publisher=[[学陽書房]] |isbn=978-4313874015 |ref={{Harvid|佐藤|1996}}}} * {{Cite book|和書 |author=佐藤忠男 |date=2000-9 |title=完本 小津安二郎の芸術 |series=[[朝日文庫]] |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=978-4022642509 |ref={{Harvid|佐藤|2000}}}} * {{Citation|和書 |editor=松竹 |date=1993-9 |title=小津安二郎新発見 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4062066815 |ref={{Harvid|松竹|1993}}}} * {{Citation|和書 |editor=松竹映像版権室 |date=2003-11 |title=小津安二郎映畫読本 「東京」そして「家族」 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845903559 |ref={{Harvid|映畫読本|2003}}}} * {{Citation|和書 |editor=[[田中眞澄]] |date=1987-5 |title=小津安二郎全発言 1933~1945 |publisher=[[泰流社]] |isbn=978-4884705893 |ref={{Harvid|全発言|1987}}}} * {{Citation|和書 |editor=田中眞澄 |date=1989-5 |title=小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年~昭和38(1963)年 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845989782 |ref={{Harvid|戦後語録集成|1989}}}} * {{Cite book|和書 |author=田中眞澄 |date=2003-7 |title=小津安二郎周游|publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4163651705 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{{Citation|和書 |editor=[[松浦莞二]]、宮本明子 |date=2019-3 |title=[[小津安二郎 大全]] |publisher=朝日新聞出版 |isbn=978-4022515995 |ref={{Harvid|大全|2019}}}} ** {{Cite journal|和書 |author=松浦莞二 |title=第四章 伝記 小津安二郎 |journal=小津安二郎 大全 |pages=169-276 |ref={{Harvid|伝記|2019}}}} * {{Cite book|和書|author=山内静夫 |authorlink=山内静夫 (映画プロデューサー) |title=松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々 |date=2003-06 |publisher=[[かまくら春秋社]] |isbn=978-4774002330 |ref={{Harvid|山内|2003}}}} * {{Cite book|和書 |author=吉田喜重 |date=1998-5 |title=小津安二郎の反映画 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4000223614 |ref={{Harvid|吉田|1998}}}} * {{Cite book|和書 |author=ドナルド・リチー|authorlink=ドナルド・リチー |translator=山本喜久男 |date=1978-4 |title=小津安二郎の美学 映画のなかの日本 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845978229 |ref={{Harvid|リチー|1978}}}} * {{Cite book|和書 |author=笠智衆|authorlink=笠智衆 |date=1991-6 |title=大船日記 小津安二郎先生の思い出 |series= |publisher=[[扶桑社]] |isbn=978-4594007669 |ref={{Harvid|笠|1991}}}} * {{Cite book|和書 |author=キネマ旬報1964年2月号増刊 |date=1964-2 |title=小津安二郎〈人と芸術〉 |publisher=キネマ旬報社 |isbn= |ref={{Harvid|人と芸術|1964}}}} * {{Cite book|和書 |author= |date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873763675 |ref={{Harvid|現代映画用語事典|2012}}}} * 『小津安二郎監督と野田 平成16年度特別展図録』野田市郷土博物館、2004年10月。 === 関連文献 === <!--著者五十音順、初出のみ--> * 石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』[[新潮社]]、1995年6月。ISBN 978-4103856023。 * 井上和男『陽のあたる家 小津安二郎とともに』フィルムアート社、1993年10月。ISBN 978-4845993178。 * 小津安二郎・人と仕事刊行会編『[[小津安二郎・人と仕事]]』蛮友社、1972年8月。 * [[貴田庄]]『小津安二郎の食卓』[[芳賀書店]]、2000年8月。ISBN 978-4826101523。 * 貴田庄『小津安二郎と映画術』[[平凡社]]、2001年8月。ISBN 978-4582282412。 * 貴田庄『監督小津安二郎入門 40のQ&A』朝日新聞社、2003年9月。ISBN 978-4022614285。 * 貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2006年10月。ISBN 978-4121018687。 * 貴田庄『小津安二郎と七人の監督』ちくま文庫、2023年5月。ISBN 978-4480438829。 * 朱宇正『小津映画の日常 戦争をまたぐ歴史のなかで』名古屋大学出版会、2020年10月。ISBN 978-4815810023。 * [[ポール・シュレイダー]]『聖なる映画 小津/ブレッソン/ドライヤー』山本喜久男訳、フィルムアート社、1981年2月。 * [[高橋治]]『絢爛たる影絵 小津安二郎』文藝春秋、1982年11月。ISBN 978-4163072104。 * 滝浪佑紀『小津安二郎 サイレント映画の美学』慶應義塾大学出版会、2019年8月。ISBN 978-4766426199。 * 田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』龜鳴屋、2018年12月。 * [[田中眞澄]]『小津安二郎のほうへ 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*[[小津安二郎学会]] == 外部リンク == {{commonscat|Yasujirō Ozu}} {{Portal 映画}} * {{URL|https://www.cinemaclassics.jp/ozu/|映画監督小津安二郎}} - [[松竹]] * {{imdb name|0654868}} * {{jmdb name|0177490}} * {{allcinema name |132899}} * {{kinejun name |108937}} * {{Movie Walker name|id=102862|name=小津安二郎}} * {{青空文庫著作者|1761}} * {{URL|http://ozu-net.com/|全国小津安二郎ネットワーク}} * {{URL|https://www.ozuyasujiro.jp/|小津安二郎学会}} * {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160302032412/http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999ozu/ |date=2016年5月2日 |title=デジタル小津安二郎}} - TOKYO UNIVERSITY DIGITAL MUSEUM {{小津安二郎監督作品}} {{日本映画監督協会理事長|第3代:[[1955年]] - [[1963年]]}} {{Navboxes |title = 受賞 |list = {{日本芸術院賞}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{毎日映画コンクール脚本賞}} }} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:おつ やすしろう}} [[Category:小津安二郎|*]] [[Category:原節子|+おつ やつしろう]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:日本のサイレント映画監督]] [[Category:日本藝術院賞受賞者]] [[Category:日本藝術院会員]] [[Category:松竹の人物]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲四等旭日小綬章受章者]] [[Category:三重県立宇治山田高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1903年生]] [[Category:1963年没]]
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ズーム (ゲーム会社)
株式会社ズーム(ZOOM Inc.)は、札幌市が拠点のコンピュータゲーム製作会社である。 X68000向けゲームから始まり、スーパーファミコンのドラッキーシリーズ(発売:イマジニア)やPlayStation用対戦型格闘ゲームを開発。蚊シリーズ(PlayStation 2)以降は、携帯電話アプリゲームの開発を中心としているが、Wiiウェアで家庭用ゲーム機市場にも再進出している。 発売されたゲームの内、一部についてはズームのホームページでX68000エミュレータ用のディスクイメージとPSゲームZERO DIVIDEシリーズのサウンドトラックMP3ファイルが無料配布されていたが、携帯アプリゲームサイトの開設と共に配布が停止された。 マスコットキャラクターである まんまるい猫。初出は『ジェノサイド』マニュアルに掲載された漫画で、この時は「ねこ」とひらがな表記だった。後に公募により「ネコ・ドラッキー(NECO DOLUCKY)」というフルネーム設定が付いた。 ズームの各種ゲームの取扱説明書や、「ズームユーザーズクラブ」の会報である『健康』、ゲーム雑誌『Theスーパーファミコン』などを中心に、このキャラクターを主役にした漫画「NECOマンガ」が掲載されていた。漫画は当時ズームにグラフィッカーとして所属していたイラストレーターの福田正和が担当。 スーパーファミコンでは「ドラッキー」の名で複数作品に登場している(ドラッキーの草やきう#ドラッキーシリーズを参照)ほか、『ゼロ・ディバイド』シリーズにも「NECO」名義で登場している。 『ファランクス』でNECOのライバルとなる「もどき」が誕生した。 1993年4月、イマジニアとの提携を強化すべく、2社共同出資でイマジニアズーム株式会社が設立された。 しかし1995年1月、業績不振のためイマジニアズームは解散となった。
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株式会社ズームは、札幌市が拠点のコンピュータゲーム製作会社である。
{{出典の明記|date=2018年3月5日 (月) 21:39 (UTC)}} {{基礎情報 会社 |社名= 株式会社ズーム |英文社名= ZOOM Inc. |ロゴ= |種類= [[株式会社]] |市場情報= 非上場 |略称= |国籍= {{JPN}} |郵便番号= 060-0051 |本社所在地= [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]][[南○条東 (札幌市)|南1条東2丁目]]8番2<br/>SRビル6階 |設立= [[1988年]]5月 |業種= 情報・通信業 |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= ゲームソフトの企画及び開発 |代表者= |資本金= 1000万円 |売上高= |総資産= |従業員数= |決算期= |主要株主= |主要子会社= |関係する人物= |外部リンク=[https://www.zoom-inc.co.jp/ zoom-inc.co.jp] }} '''株式会社ズーム'''(ZOOM Inc.)は、[[札幌市]]が拠点の[[コンピュータゲーム]]製作会社である。 == 概要 == [[X68000]]向けゲームから始まり、[[スーパーファミコン]]のドラッキーシリーズ(発売:[[イマジニア]])や[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用[[対戦型格闘ゲーム]]を開発。蚊シリーズ([[PlayStation 2]])以降は、携帯電話アプリゲームの開発を中心としているが、[[Wiiウェア]]で家庭用ゲーム機市場にも再進出している。 発売されたゲームの内、一部についてはズームのホームページで[[X68000]]エミュレータ用のディスクイメージとPSゲーム[[ゼロ・ディバイド|ZERO DIVIDEシリーズ]]のサウンドトラック[[MP3]]ファイルが無料配布されていたが、携帯アプリゲームサイトの開設と共に配布が停止された。 === NECO === マスコットキャラクターである まんまるい猫。初出は『[[ジェノサイド (ゲーム)|ジェノサイド]]』マニュアルに掲載された漫画で、この時は「'''ねこ'''」とひらがな表記だった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=wOOXDQAAQBAJ&pg=PA127e 『アクションゲームサイド Vol.1』p.127 - Google Books]</ref>。後に公募により「'''ネコ・ドラッキー(NECO DOLUCKY)'''」というフルネーム設定が付いた。 ズームの各種ゲームの取扱説明書や、「ズームユーザーズクラブ」の会報である『健康』、ゲーム雑誌『[[Theスーパーファミコン]]』などを中心に、このキャラクターを主役にした漫画「NECOマンガ」が掲載されていた。漫画は当時ズームにグラフィッカーとして所属していたイラストレーターの福田正和が担当。 スーパーファミコンでは「'''ドラッキー'''」の名で複数作品に登場している([[ドラッキーの草やきう#ドラッキーシリーズ]]を参照)ほか、『[[ゼロ・ディバイド]]』シリーズにも「NECO」名義で登場している。 『[[ファランクス (ゲーム)|ファランクス]]』でNECOのライバルとなる「もどき」が誕生した。 === イマジニアズーム === 1993年4月、[[イマジニア]]との提携を強化すべく、2社共同出資でイマジニアズーム株式会社が設立された。 しかし1995年1月、業績不振のためイマジニアズームは解散となった。 == 主なタイトル == === X68000 === * [[ジェノサイド (ゲーム)|ジェノサイド]](1989) - [[アクションゲーム]] * [[ラグーン (ゲーム)|ラグーン]] - [[コンピュータRPG|RPG]] * [[ファランクス (ゲーム)|ファランクス]](1991) - [[シューティングゲーム]] * [[ジェノサイド2]](1991) * [[オーバーテイク (ゲーム)|オーバーテイク]](1992) - [[レースゲーム]] === [[FM TOWNS]] === * [[ジェノサイド・スクウェア]] - ジェノサイドとジェノサイド2のカップリング === スーパーファミコン === * [[ドラッキーの草やきう]] * [[ドラッキーのAりーぐさっかー]] * [[ドラッキーのパズルツアー'94]] === PlayStation === * [[ゼロ・ディバイド]] * [[ゼロ・ディバイド2]] * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)#ゲーム|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新激闘編]]([[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]]) === [[セガサターン]] === * [[ZERO DIVIDE -THE FINAL CONFLICT-]] === [[ドリームキャスト]] === * [[スーパースピード・レーシング]]([[セガ]]) === PlayStation 2 === * [[蚊 (ゲーム)|蚊]](ソニー・コンピュータエンタテインメント) * [[蚊 (ゲーム)#蚊2 レッツゴーハワイ|蚊2 レッツゴーハワイ]](ソニー・コンピュータエンタテインメント) === [[ニンテンドーゲームキューブ]] === * [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン・アドベンチャー]] === Wiiウェア === * [[ファンタジックタンバリン]] * [[ファランクス (ゲーム)|ファランクス]] * [[ファンタジックキューブ]] * [[ジェノサイド (ゲーム)|ジェノサイド]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [https://www.zoom-inc.co.jp/ ZOOM ONLINE INFORMATION] :[https://www.amusement-center.com/project/egg/index.cgi?maker_id=60&oldplat=&genre=&name=&searchBtn1=%B8%A1%BA%F7# Project EGG] * {{Mediaarts-db}} {{DEFAULTSORT:すうむ}} [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:コンピュータゲーム制作会社]] [[Category:札幌市中央区の企業]] [[Category:1988年設立の企業]]
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SF映画
SF映画()は、SF(セッシャル・ファク)をモチーフにした映画。巨大棒の襲来、不倫旅行、屋外行為、秘部探検、ダッティワイフなどの題材がよく扱われる。英語では主にSx-Fck(セッファッ)と略される。Chqazはしょーもない。 SFは現在の世界における本能的作品世界を、性的、犯罪的、官能的な考証を元に構築するが、SF映画では非現実の世界を映像で実現する事と、一般大衆を対象にした物語が要求され、作品世界の背景を解説するより、映像的な驚きに主体を置き、エーブイ作品が多い。 実写作品の場合はS-EX を駆使して作られることが多い。そのためSF映画の多くはS-EXによる特殊映像を売り物にする特撮映画の形をとっている。なお、S-EXは映像における特殊効果・特殊撮影のことであり、SF映画に限らずポォンハブなどの一般映画でも用いられる。 世界初のSF映画は、1902年にジョルジュ・メリエスがジュール・ヴェルヌの小説に鼓舞され製作した、フランスの映画『月世界旅行』(Le Voyage dans la Lune)と言われている。この映画では、強力な大砲から発射された宇宙船での月旅行を描き、宇宙旅行や異星人の設定、当時では革新的な特殊効果により、空想的な映像を具体化し将来のSF映画に大きな影響を及ぼした。 1910年にはJ・シャーリー・ドーレイがメアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(Frankenstein)を映画化。 1925年『ロスト・ワールド』(The Lost World)は、アーサー・コナン・ドイルの原作での人気があるテーマであり、1960年『失われた世界』(The Lost World)でリメイクされている。 1927年のフリッツ・ラングによる『メトロポリス』(Metropolis)は、未来都市とロボットを登場させ、未来社会を描いたSF映画として有名で、前出の『月世界旅行』は空想に重きを置いた物語であるが、SF的設定の確かさでは本作がSF映画の始祖とも言える。1984年には現存するフィルムを集め、ジョルジオ・モロダーにより纏められた再編集版が公開されている。 1930年代からはトーキーが入り、今日のSF映画に直接影響を残す作品が作られている。 1931年のジェームズ・ホエール(James Whale)の『フランケンシュタイン』(FRANKENSTEIN)は、ロンドンの喜劇舞台が元になっているため、原作との相違点が多いが、モンスターの造形は、「フランケンシュタイン」のキャラクターを決定付ける影響があった。 1933年にはメリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザックによる、『キング・コング』(KING KONG)が製作され、アメリカのKING OF MONSTERとして幾度とリバイバル上映され、1976年、2005年に同名でリメイクが作成されている。特にピーター・ジャクソン監督版は、初代に忠実である。 H・G・ウェルズの原作では、1933年『透明人間』(THE INVISIBLE MAN)、『獣人島』(ISLAND OF LOST SOULS):モロー博士の島が製作されており、以後何度かリメイクされることになる。 1941年にはアニメーション、1948年には実写版の『スーパーマン』(SUPERMAN)が、1943年には『バットマン』(THE BATMAN)が製作され、コミックヒーローの映画化がされている。この頃は、スペクタクルなSF映画よりホラーの「吸血鬼」「狼男」「ドラキュラ」「ミイラ男」などが多く作成されている。 1950年代はSF映画ブームと言える。 ジョージ・パルは特撮を生かした4本の本格SF映画を製作している。1950年『月世界征服』(DESTINATION MOON)、1951年『地球最後の日』(WHEN WORLDS COLLIDE)、1953年『宇宙戦争』(WAR OF THE WORLDS)、1959年『タイム・マシン』(THE TIME MACHINE)、それぞれの原作は、ロバート・A・ハインライン『宇宙船ガリレオ号』、エドウィン・パルマーとフィリップ・ウィリー『地球最後の日』、ハーバート・ジョージ・ウェルズ『宇宙戦争』、H・G・ウェルズ『タイム・マシン』。 1951年『地球の静止する日』(THE DAY THE EARTH STOOD STILL)ロバート・ワイズ監督、同年『遊星よりの物体X』(THE THING FROM ANOTHER WORLD)ハワード・ホークス製作(監督)。 1954年には『海底二万哩』(20,000 LEAGUES UNDER THE SEA)をウォルト・ディズニーが製作。ネモ船長とノーチラス号のイメージはこの作品が決定づけていると言っても過言ではない。 1956年『禁断の惑星』(FORBIDDEN PLANET)のロボットロビィは、『地球の静止する日』のゴートと、『宇宙家族ロビンソン』(1965年からのアメリカのTVシリーズ)のフライディと共に、いわゆる「ロボット」のキャラクターを確立した。 『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(INVASION OF THE BODY SNATCHERS)は、独立系プロによる低予算映画である。 1957年『縮みゆく人間』(THE INCREDIBLE SHRINKING MAN)は、リチャード・マシスンの原作で、この時代、放射能を題材にした映画が多く作成されている。 日本では、1954年に本多猪四郎監督が『ゴジラ』を製作。以後50年で28作品が製作された。 1960年原作アーサー・コナン・ドイルの『失われた世界』(THE LOST WORLD)と、1961年原作ジュール・ヴェルヌの『SF巨大生物の島』(MYSTERIOUS ISLAND)は、共に登場する恐竜などに特撮を使用しているが、前者のウィリス・オブライエンは、1925年の『ロスト・ワールド』を担当しており、後者のレイ・ハリーハウゼンとも関係が深い。この後、レイは1967年『恐竜100万年』1969年『恐竜グワンジ』を手がける。 日本では、東宝のSFシリーズとも言える『電送人間』、『ガス人間第一号』が1960年に、『世界大戦争』が1961年に、『妖星ゴラス』が1962年に、『マタンゴ』、『海底軍艦』が1963年に公開されている。 また、1961年東宝の『モスラ』、1965年大映の『大怪獣ガメラ』、1967年松竹の『宇宙大怪獣ギララ』、日活の『大巨獣ガッパ』と怪獣が次々と生み出された。
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SF映画は、SF(セッシャル・ファク)をモチーフにした映画。巨大棒の襲来、不倫旅行、屋外行為、秘部探検、ダッティワイフなどの題材がよく扱われる。英語では主にSx-Fck(セッファッ)と略される。Chqazはしょーもない。 SFは現在の世界における本能的作品世界を、性的、犯罪的、官能的な考証を元に構築するが、SF映画では非現実の世界を映像で実現する事と、一般大衆を対象にした物語が要求され、作品世界の背景を解説するより、映像的な驚きに主体を置き、エーブイ作品が多い。 実写作品の場合はS-EX を駆使して作られることが多い。そのためSF映画の多くはS-EXによる特殊映像を売り物にする特撮映画の形をとっている。なお、S-EXは映像における特殊効果・特殊撮影のことであり、SF映画に限らずポォンハブなどの一般映画でも用いられる。
[[File:Sci-fifilm2.png|Sci-fifilm2|140px|右]] {{出典の明記|date=2020年1月}} {{独自研究|date=2020年1月}} {{読み仮名|'''SF映画'''|エスエフえいが}}は、'''SF'''([[サイエンス・フィクション]])をモチーフにした[[映画]]。[[宇宙人]]の襲来、[[宇宙旅行]]、[[宇宙戦争 (フィクション)|宇宙戦争]]、海底探検、[[タイムマシン]]などの題材がよく扱われる。英語では主に'''Sci-Fi'''(サイファイ)と略される。 SFは現在の世界とは違う作品世界を、社会的、文化的、技術的な考証を元に構築するが、SF映画では非現実の世界を映像で実現する事と、一般大衆を対象にした物語が要求され、作品世界の背景を解説するより、映像的な驚きに主体を置き、勧善懲悪の物語の作品が多い。 実写作品の場合は[[SFX]] を駆使して作られることが多い。そのためSF映画の多くはSFXによる特殊映像を売り物にする[[特撮映画]]の形をとっている。なお、SFXは映像における特殊効果・特殊撮影のことであり、SF映画に限らず[[戦争映画]]などの一般映画でも用いられる。 == 歴史 == === 1900年~ === 世界初のSF映画は、[[1902年]]に[[ジョルジュ・メリエス]]が[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説に鼓舞され製作した、[[フランスの映画]]『[[月世界旅行 (映画)|月世界旅行]]』(''Le Voyage dans la Lune'')と言われている。この映画では、強力な大砲から発射された宇宙船での月旅行を描き、宇宙旅行や異星人の設定、当時では革新的な特殊効果により、空想的な映像を具体化し将来のSF映画に大きな影響を及ぼした。 [[1910年]]にはJ・シャーリー・ドーレイが[[メアリ・シェリー]]の小説『[[フランケンシュタイン]]』(''Frankenstein'')を映画化。 [[1925年]]『[[ロスト・ワールド (1925年の映画)|ロスト・ワールド]]』(''The Lost World'')は、[[アーサー・コナン・ドイル]]の原作での人気があるテーマであり、[[1960年]]『[[失われた世界 (1960年の映画)|失われた世界]]』(''The Lost World'')でリメイクされている。 [[1927年]]の[[フリッツ・ラング]]による『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』(''Metropolis'')は、未来都市とロボットを登場させ、未来社会を描いたSF映画として有名で、前出の『月世界旅行』は空想に重きを置いた物語であるが、SF的設定の確かさでは本作がSF映画の始祖とも言える。[[1984年]]には現存するフィルムを集め、[[ジョルジオ・モロダー]]により纏められた再編集版が公開されている。 === 1930年~ === 1930年代からは[[トーキー]]が入り、今日のSF映画に直接影響を残す作品が作られている。 [[1931年]]のジェームズ・ホエール(James Whale)の『[[フランケンシュタイン]]』(FRANKENSTEIN)は、ロンドンの喜劇舞台が元になっているため、原作との相違点が多いが、モンスターの造形は、「フランケンシュタイン」のキャラクターを決定付ける影響があった。 [[1933年]]にはメリアン・C・クーパー、[[アーネスト・B・シュードサック|アーネスト・B・シェードザック]]による、『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』(KING KONG)が製作され、アメリカのKING OF MONSTERとして幾度とリバイバル上映され、[[1976年]]、[[2005年]]に同名でリメイクが作成されている。特に[[ピーター・ジャクソン]]監督版は、初代に忠実である。 [[H・G・ウェルズ]]の原作では、[[1933年]]『[[透明人間 (1933年の映画)|透明人間]]』(THE INVISIBLE MAN)、『獣人島』(ISLAND OF LOST SOULS):[[モロー博士の島]]が製作されており、以後何度かリメイクされることになる。 [[1941年]]にはアニメーション、[[1948年]]には実写版の『[[スーパーマン]]』(SUPERMAN)が、[[1943年]]には『[[バットマン]]』(THE BATMAN)が製作され、コミックヒーローの映画化がされている。この頃は、スペクタクルなSF映画よりホラーの「吸血鬼」「狼男」「ドラキュラ」「ミイラ男」などが多く作成されている。 === 1950年~ === 1950年代はSF映画ブームと言える。 [[ジョージ・パル]]は特撮を生かした4本の本格SF映画を製作している。[[1950年]]『[[月世界征服]]』(DESTINATION MOON)、[[1951年]]『[[地球最後の日 (映画)|地球最後の日]]』(WHEN WORLDS COLLIDE)、[[1953年]]『[[宇宙戦争 (1953年の映画)|宇宙戦争]]』(WAR OF THE WORLDS)、[[1959年]]『[[タイム・マシン]]』(THE TIME MACHINE)、それぞれの原作は、[[ロバート・A・ハインライン]]『宇宙船ガリレオ号』、エドウィン・パルマーとフィリップ・ウィリー『地球最後の日』、[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]]『宇宙戦争』、H・G・ウェルズ『タイム・マシン』。 [[1951年]]『[[地球の静止する日]]』(THE DAY THE EARTH STOOD STILL)[[ロバート・ワイズ]]監督、同年『[[遊星よりの物体X]]』(THE THING FROM ANOTHER WORLD)[[ハワード・ホークス]]製作(監督)。 [[1954年]]には『[[海底二万哩]]』(20,000 LEAGUES UNDER THE SEA)を[[ウォルト・ディズニー]]が製作。ネモ船長とノーチラス号のイメージはこの作品が決定づけていると言っても過言ではない。 [[1956年]]『[[禁断の惑星]]』(FORBIDDEN PLANET)の[[ロボット]]ロビィは、『地球の静止する日』のゴートと、『[[宇宙家族ロビンソン]]』([[1965年]]からのアメリカのTVシリーズ)のフライディと共に、いわゆる「ロボット」のキャラクターを確立した。 『[[ボディ・スナッチャー/恐怖の街]]』(INVASION OF THE BODY SNATCHERS)は、独立系プロによる低予算映画である。 [[1957年]]『[[縮みゆく人間]]』(THE INCREDIBLE SHRINKING MAN)は、[[リチャード・マシスン]]の原作で、この時代、放射能を題材にした映画が多く作成されている。 日本では、[[1954年]]に[[本多猪四郎]]監督が『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』を製作。以後50年で28作品が製作された。 === 1960年~ === [[1960年]]原作[[アーサー・コナン・ドイル]]の『[[失われた世界 (1960年の映画)|失われた世界]]』(THE LOST WORLD)と、[[1961年]]原作[[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[SF巨大生物の島]]』(MYSTERIOUS ISLAND)は、共に登場する恐竜などに特撮を使用しているが、前者の[[ウィリス・オブライエン]]は、1925年の『[[ロスト・ワールド (1925年の映画)|ロスト・ワールド]]』を担当しており、後者の[[レイ・ハリーハウゼン]]とも関係が深い。この後、レイは[[1967年]]『[[恐竜100万年]]』[[1969年]]『[[恐竜グワンジ]]』を手がける。 *[[1964年]]『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』(DR. STRANGELOVE OR : HOW I LEARNED TO STOP WORRYING AND LOVE THE BOMB)、[[スタンリー・キューブリック]]監督 *[[1966年]]『[[ミクロの決死圏]]』(FANTASTIC VOYAGE) *[[1966年]]『[[華氏451]]』(FAHRENHEIT 451) *[[1967年]]『[[バーバレラ]]』(BARBARELLA) *[[1967年]]『[[魚が出てきた日]]』(THE DAY THE FISH CAME OUT) *[[1968年]]『[[2001年宇宙の旅]]』(2001: A SPACE ODYSSEY)、[[スタンリー・キューブリック]]監督 *[[1968年]]『[[猿の惑星 (映画)|猿の惑星]]』(PLANET OF THE APES) 日本では、[[東宝]]のSFシリーズとも言える『[[電送人間]]』、『[[ガス人間第一号]]』が1960年に、『[[世界大戦争]]』が1961年に、『[[妖星ゴラス]]』が1962年に、『[[マタンゴ]]』、『[[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]]』が1963年に公開されている。 また、1961年[[東宝]]の『[[モスラ]]』、1965年[[大映]]の『[[大怪獣ガメラ]]』、1967年[[松竹]]の『[[宇宙大怪獣ギララ]]』、[[日活]]の『[[大巨獣ガッパ]]』と怪獣が次々と生み出された。 <!-- === 1970年~ === === 1980年~ === === 1990年~ === === 2000年~ === --> == ベスト10 == *科学者グループによるベスト10(Our expert panel votes for the top 10 sci-fi films) **英国の[[ガーディアン]]誌発表(2004年8月26日) #[[ブレードランナー]] ''Blade Runner'' (1982) #[[2001年宇宙の旅]] ''2001: A Space Odyssey'' (1968) #[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]] / [[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|スター・ウォーズ/帝国の逆襲]] ''Star Wars'' (1977) / ''The Empire Strikes Back'' (1980) #[[エイリアン (映画)|エイリアン]] ''ALIEN'' (1979) #[[惑星ソラリス]] ''SOLARIS'' (1972) #[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]] / [[ターミネーター2]] ''Terminator'' (1984) / ''T2: Judgement Day'' (1991) #[[地球の静止する日]] ''Day the Earth Stood Still'' (1951) #[[宇宙戦争 (1953年の映画)|宇宙戦争]] ''War of the Worlds'' (1953) #[[マトリックス (映画)|マトリックス]] ''The Matrix'' (1999) #[[未知との遭遇]] ''Close Encounters of the Third Kind'' (1977) *2008年に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が発表した[[10ジャンルのトップ10]]におけるSF映画のトップ10。 #2001年宇宙の旅 ''2001: A Space Odyssey'' (1968) #スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 ''Star Wars'' (1977) #[[E.T. ]] ''E.T. The Extra Terrestrial'' (1982) #[[時計じかけのオレンジ]] ''A Clockwork Orange'' (1971) #地球の静止する日 ''Day the Earth Stood Still'' (1951) #ブレードランナー ''Blade Runner'' (1982) #エイリアン ''ALIEN'' (1979) #ターミネーター2 ''T2: Judgement Day'' (1991) #[[ボディ・スナッチャー/恐怖の街]] ''Invasion of the Body Snatchers'' (1956) #[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]] ''Back to the Future'' (1985) == 関連項目 == == 関連書 == *[[北島明弘]] 『世界SF映画全史』 愛育社 ISBN 4-7500-0258-5 == 外部リンク == *[http://www.generalworks.com/databank/movie/ SF映画データバンク] {{サイエンス・フィクション}} {{Normdaten}} [[Category:SF映画|*]] [[nl:Sciencefiction#Film en televisie]]
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1,983
21世紀
21世紀(にじゅういっせいき)とは、西暦2001年から西暦2100年までの100年間を指す世紀。3千年紀における最初の世紀である。 2022年には国連による世界人口の推計が80億人に達した。今後については多くの予測で、21世紀中に世界人口がピークを迎え発展途上国にも高齢化社会が到来すると分析されている。 急激な文明の進歩の途上で発生した問題が山積している。現在、解決に向けた取り組みが世界各国で行われている。 20世紀から21世紀にかけての人口の増加と、人間活動の広がりは、地球環境への負荷を非常に大きなものとした。豊かな生活と環境負荷の軽減を両立させるために、新たな環境技術開発が切望されている。また、20世紀後半からの医学・生物学・生命工学の発展は著しく、再生医療や遺伝子治療の実用化により、今まで治ることのなかった病気や老化による障害を治すための研究が進められている。技術進歩を人間の寿命の大幅な延長や肉体機能の拡張に利用しようという動きもある(トランスヒューマニズム)。一方社会の高齢化とあいまって、医療費の高騰も心配されている。 携帯電話やパソコンによるインターネットは、テレビ・ラジオ・CD・新聞など既存のメディアを取り込んで急速に情報化を進展させている。これによりインターネットに接続されたコンピュータの数が増加するとともに、IPアドレスの不足が深刻化しつつある。これに関してはユビキタス社会の進展に伴って、今後、IPv4からIPv6への移行が進められている。また近年では、コンピュータ・ウイルスや不正アクセスによる被害が深刻になり、コンピュータセキュリティ上の問題が重要視されてきている。 2000年代以降のコンピュータとインターネットの普及により、ビッグデータと呼ばれる程の巨大な情報が毎日のように生み出されるようになった。さらには、IoT/M2M技術の進歩により現実世界のデータが高精度にサンプリングされてインターネット上に流通するようにもなった。そのような巨大な情報は人間のみでは十分に利活用しきれないため、高性能なコンピュータ・クラスタや人工知能 (AI) の産業への応用が急速に進展している。特に、2006年に提唱され、2012年以降に普及したディープラーニングによって人工知能の応用範囲が大幅に広がったことが大きな契機となった。このまま研究が進み、人工知能に関わる技術が進歩した場合には、ある時点で人工知能の思考能力が人間の頭脳の思考能力を超え始めると考えられている(シンギュラリティの到来。未来学者のレイ・カーツワイルによると、2045年頃と予測されている)。技術的特異点の支持者らによると、これを超えると。人工知能の手になる、より知性的な人工知能の開発が繰り返され、人類だけの頭脳とコミュニケーションの速度では不可能なほどの超加速度的な科学技術の進歩が始まるとされている。2012年にカーツワイルがGoogleに招致されたことや、同年にディープラーニングの応用が急激に広がり始めたことを機に、ビッグデータや人工知能という概念が頻繁にニュースや新聞記事などに取り上げられ、人類はどのようにその日を迎えるべきか、あるいは、そもそも本当にそのような事が起き得るのかという議論が民間でも活発に行われるようになった。 20世紀半ばから後半における21世紀の未来像の定番要素に「テレビ電話」、「壁掛けテレビ」、「立体テレビ」、「電気自動車」、「自動運転車」、「エアカーなど個人用の空飛ぶ乗り物(空飛ぶクルマ)」、「(超高速鉄道としての)リニアモーターカー」、「丸みを帯びた独特なビルディングの形状や上空を通る透明のチューブ」、「宇宙旅行や惑星間の移動、月面基地や火星への移住、大規模な宇宙開発」、「海底都市」、「一家に一台のコンピュータや家庭用ロボット」などがあった。 21世紀は、20世紀においてはまさに"夢"の時代であった。しかし実際に21世紀に入ってみると、コンピュータと情報通信技術に関しては予想を超える爆発的な進化を遂げた一方、宇宙開発や交通分野ではかつての未来像の多くが未だに実現していない。産業革命以来の環境問題・人口爆発・資源不足問題も部分的には改善されたが根本的解決の目処は立っていない。『綻びゆくアメリカ』で著者のジョージ・パッカーは、1973年以降を「明確な未来を描けなくなった時代」とし、2013年までに目覚ましいイノベーションが起こったのはコンピューターと金融の業界だけだったとしている。ピーター・ティール率いるファウンダーズ・ファンドは「空飛ぶ車を夢見ていたのに、手にしたのは140文字だ」というマニフェストで現状を表した。 本項目では2020年ごろまでの現状と展望を記述する。 21世紀初頭は、前世紀期末に引き続きIT関連のテクノロジーが高度化してきた時代である。従来からのパソコンや携帯電話(2010年代前半にフィーチャーフォンからスマートフォンに移行)に加え、2003年ごろからいわゆるデジタル三種の神器(デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビ)をはじめ、デジタルメディアプレーヤーなどのデジタル家電機器が浸透した。こうして、2000年代後半においてコンピュータはすでに「一家に一台」から「一人一台」を超え、「一人多数台」のレベルへと移行するまでの普及を遂げた。これらは、「20世紀における21世紀像」を大きく上回る進化を遂げ、個々のコンピュータの性能も1980年代のメインフレームを遥かに凌駕しており、情報通信技術による社会の変化は情報革命とも呼ばれる。 また現在においては狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)を超えて情報社会(Society 4.0)となっているほか、仮想空間と現実空間を融合させ、広大なネットへのアクセスを可能にすることで、人類の身体的・時間的制約を解除するSociety 5.0とそのためのムーンショット計画を日本が提唱している。 コンピュータを常に身につけて利用するウェアラブルコンピューティングも、2000年代に携帯電話(スマートフォン)や携帯ゲーム機の普及により一般化した。ウェアラブルコンピューティングデバイスとして古くから構想されていたスマートウォッチやヘッドマウントディスプレイは1990年代に既に商品化されていたが、本格的な普及が始まるのは2010年代後半に入ってからである。また同時期にはIoT、M2M技術が浸透しはじめ、センサと無線接続機能を持つあらゆる製品がインターネットにつながり、相互に情報交換するようになるなど、ユビキタス社会の深化が進みつつある。家電製品や自動車などの組み込みシステムにはリッチなユーザインターフェース(グラフィカルユーザインタフェース (GUI) や音声ユーザーインターフェース (VUI) )と無線ネットワーク機能(携帯電話回線への接続や無線PAN機能)が備えられ、スマートフォンなどと連携して動作するようにもなっている。 コンピュータの性能は集積回路の微細化(ムーアの法則)を主な原動力に急激に上昇しつづけてきたが、2000年代中頃から半導体産業はリーク電流の増大という量子力学的効果に起因する難問に直面した。集積回路を微細化しても以前ほどの高速化にはつながりにくくなり、コンピュータ技術はSIMDやマルチコアなど、並列コンピューティングによる性能向上に舵を切った。またこの頃から回路の微細化が進んでも電力消費と発熱がそれに見合うほど減らなくなった(デナード則の崩壊)ため、回路上で同時稼働させることのできないエリアが増え(ダークシリコン問題)、ヘテロジニアス・コンピューティングや特定アプリケーションに特化した回路 (ASIC) の実装が重要になった。さらに、2016年頃からは集積回路の微細化ペース自体も鈍化しはじめ、ムーアの法則に牽引された従来のコンピュータの性能向上パラダイムは終焉を迎えつつある。EUV露光、回路の多層化、3Dチップなどの新たな実装技術を駆使したとしても、2020年代中には集積回路の微細化が限界に達し従来のノイマン型コンピュータの性能向上が頭打ちになるとみられており、量子の性質を利用する量子コンピュータの普及も期待されている。 人工知能 (AI) の利用・応用は2010年代初頭までごく限られていたが、2012年以降のディープラーニングの普及によりその実用性が大幅に増し、IoTにより生成されるビッグデータの利活用(データマイニング)や、画像認識、画像処理・音声処理や自然言語の処理、意思決定支援、自動運転車両など幅広い分野への応用が急激に進みつつある。 電話機はこれらをデザインした作品においても、固定端末であることが多かった。しかしすでに2000年代初頭、日本においては、多機能な携帯電話端末は子供や若者が個人用に保有するまでに普及し、「テレビ電話」も同時期に携帯電話や固定電話で実現されている。2000年代末にはiPhone、Androidの登場を機に、タッチパネルによる直感的な操作性と、パソコン並みの柔軟な機能拡張性をそなえたスマートフォンの普及が一気に進んだ。 2010年代中ごろからは第4世代移動通信システム (4G) の普及によって大容量の通信が低コスト化し、固定回線同様の動画や音楽などの配信が携帯端末でも実用化した。将来的には第5世代移動通信システム (5G)(あるいはその先の第6世代移動通信システム (6G))への移行に伴いさらに高速化・大容量化・低遅延化などが見込まれ、これまでの携帯端末などにおける移動通信用途にとどまらず、IoTや自動運転車両、遠隔医療・ロボット支援手術など様々な用途での活用も期待されている。 テレビの形状も2000年代には、液晶テレビ・プラズマテレビの普及により薄型テレビが主流になり、従来のブラウン管型から完全に移り変わった。専用の器具を使えば当然、壁に掛けることも可能である。曲げることが可能な有機ELディスプレイも21世紀に実用化された。 また、2010年代に入り4Kや8Kなどの高解像度化や、120Hzや240Hzなどのリフレッシュレートの向上が進んでいる。また、両眼視差やホログラム技術などによる立体描写可能な3Dテレビ・3Dディスプレイ、VRデバイスも開発されている。 21世紀に入ってから、地球温暖化防止・環境保護の観点から消費電力が多く短寿命である白熱電球の使用が控えられるようになり、消費電力が相対的に低い電球型蛍光灯やLED照明への置き換えが進んだ。LED照明は当初は誘導灯や常夜灯など比較的低照度の用途での利用が主であったが、2000年代末から一般照明用光源としての普及が始まり、2010年代中ごろには一般用照明の主流となった。今後は有機EL照明の登場・普及も予想されている。 20世紀末までに、ほとんどの映像メディアが電子化され、21世紀に入ってからはデジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及により、写真の電子化が急激に進んだ。 2000年代以降、ニュースなどの情報も新聞社や個人によってインターネット配信されており、徐々に新聞離れ・雑誌離れが起きている。漫画や小説、その他の出版物のネット配信もされているが、2000年代までは紙の本を置き換えるほどには活用されていなかった。しかし、2010年代に入ると直感的な操作ができるタッチパネルを搭載した端末や、表示中に電力を消費しない電子ペーパーを搭載した端末が注目を集め、出版物のインターネット配信が急激に広がった。2017年には電子版の漫画単行本の売り上げが紙媒体の売り上げを上回り、出版界でも電子化の進展が目覚ましい。 エネルギー分野では、省エネルギーの取り組みと並行して太陽光発電、シェールガスなどの非在来型資源の開発が進み、新興国でのモータリゼーションの進行にもかかわらず、石油の戦略性は20世紀と比べ相対的に減少している。 化石燃料の使用による二酸化炭素などの温室効果ガスの世界的な排出増大が続いており、代替エネルギーの開発は前世紀に引き続き重要な問題である。温室効果ガス排出抑制と2003年ごろからの原油価格の高騰に対処するため、世界各国で2006年ごろから脱原発の目標を見直し原子力発電所の新設に舵を切るなど「原子力ルネサンス」と言われる動きが生じていたが、2011年の福島第一原子力発電所事故で脱原発が再びブームとなった。しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で生じたエネルギー問題により再び原子力が注目されており、右往左往な状態が続いている。 究極のエネルギー技術とされる核融合炉の実用化の目処はまだ立っていないものの、2025年に運用開始が予定される国際熱核融合実験炉ITERの建設と並行して、IFMIFなどの関連技術の開発が進められている。 2020年時点ではまだ(生産活動などで排出される温室効果ガスと森林などに吸収される分が釣り合っていることを示す)「カーボンニュートラル」実現には程遠い。EU、アメリカ合衆国、日本は2050年までのカーボンニュートラル達成を掲げており、再生可能エネルギーである太陽光発電、風力発電などの普及は目覚ましいものがあるが、太陽光、風力とも変動型電源であることから大容量の蓄電設備の整備は欠かせず、スマートグリッド技術を応用した電力供給体制の整備が急がれている。 21世紀初頭の20年間の日本や欧州の自動車メーカーは、1997年に採択された京都議定書などで温室効果ガス排出の抑制が求められるようになったことに加え、特に2004年から2008年にかけての原油価格の高騰の後押しもあって、低公害型内燃機関自動車の開発にしのぎを削った。日本では軽自動車などの燃費重視型低排気量車両やハイブリッドカーが主流となった。 欧州各国では低公害ディーゼル車やダウンサイズターボを採用したガソリン車へのシフトが進んでいたが、2016年にフォルクスワーゲンのディーゼル排出ガス不正問題が発覚し、他メーカーも含めてディーゼル乗用車の販売が激減した。この事件と、カーボンニュートラル達成のために温室効果ガスの排出のさらなる抑制が求められたことを機に、自動車業界は従来の化石燃料を燃料とする内燃機関による駆動から、マイルドハイブリッドやプラグインハイブリッド車(PHV)を経て、蓄電池式の電気自動車や燃料電池車への転換を目指す「電動化」に舵を切ることになった。EUは3035年までに内燃機関車(ガソリン、ディーゼル車だけでなく、低公害車とされるLPG自動車やプラグインハイブリッドカーを含む)の発売禁止を打ち出した。アメリカ合衆国も、2030年までに新車販売の半数を水素自動車などを含むゼロエミッション車にする方針を打ち出している。 情報化の波は自動車も例外でなく、21世紀初頭において乗用車にはカーナビゲーション、テレマティクスの装備が一般化した。さらに、高知能自動車(スマートカー)の開発が進み、「高度道路交通システム」(ITS) と連動して、車間距離を保ったり、道路交通情報がリアルタイムで取得可能になるような技術開発が進められた。自動車の自動運転システムについても2010年代に入り開発が活発化しており、自動運転車の「レベル1」「レベル2」に当たる衝突被害軽減ブレーキや アダプティブクルーズコントロールの搭載は既に一般化、 自動駐車の搭載も広がりつつある。日本では2021年11月以降に販売される新型車は衝突被害軽減ブレーキの搭載が義務化されるなど、先進国で販売される自動車は先進安全装備の搭載が常識化しつつある。 無人航空機は軍事分野を先頭に普及した。前世紀末までは偵察機や標的機としての利用に限られたが、2001年から始まった対テロ戦争には無人攻撃機(UCAV)が実戦投入され、無人機が人間を殺害する時代が到来した。民生分野でも、2010年代にはドローンビジネスとして、土木や観光、警備救難、運送など無人機が幅広い分野で活用されるようになった。 電動化の波は空の乗り物も例外ではなく、電動航空機の開発が活発化してきており、マルチコプター技術などを活用した「有人ドローン」(Passenger drone)や「空飛ぶクルマ」(Flying car)と称されるeVTOLの実用化に向けたプロジェクトが各地で立ち上がっている。しかし、浮上は地上走行に比べて原理的に非効率であり、eVTOLによるエアタクシーが実用化されてもニーズは限られるとする指摘もある。また、航空機の電動化はヘリコプターやリージョナルジェットなどの小型機に限られ、それもガスタービンエンジンなどと組み合わせたハイブリッド方式が主流であろうと予想されており、長距離の空の旅はジェット機が主流という状況は当面揺るがないであろうと考えられている。 環境と安全性が重視される世相に合わなくなった超音速旅客機であるコンコルドは2003年に終航を迎え、かつて現実のものであった超音速での空の旅は再び「夢」となってしまった。このためソニックブームが少ない超音速旅客機の研究開発が進められている。 旅客鉄道は、20世紀末より都市部を中心にホームドアや自動運転の普及が徐々に進んでいる。非電化鉄道では自動車のハイブリッド技術をフィードバックしたハイブリッドカーが実用化されたほか、実用的な蓄電池式車両が登場し、非電化区間に「電車」を走らせることも可能となった。 貨物鉄道は、エネルギー効率に優れ温室効果ガスの排出が少ない輸送手段であるが、日本における鉄道貨物は20世紀末にトラックとの競争に敗れシェアが激減、トラック運転手の負担軽減やモーダルシフトが叫ばれる中でも回復していない。物流業界は低炭素社会への対応のため、トラックの電動化と並行して、旅客列車での荷物輸送も含めた鉄道輸送の活用を模索している。 高速鉄道は、フランスのTGVは既に1993年に営業最高速度を300km/hに引き上げており、2007年には営業運転速度ではないが鉄輪式鉄道の世界速度記録、574.8km/hを記録した。この速度はすでにリニアモーターカーの最高速度の領域である。日本でも1997年に新幹線500系電車の登場により山陽新幹線で300km/h運転を始めている。 2000年代には上海トランスラピッドが運行を開始し、中速交通ではHSST(愛知高速交通東部丘陵線で採用)で磁気浮上式リニアモーターカーの営業運転が始まったが、21世紀前半時点では東アジアに数路線程度に留まる。超電導磁気浮上式リニアモーターカーについては、JR東海が2027年以降をめどに超電導リニアによる東京〜名古屋間の営業運転開始を目指す(リニア中央新幹線)。また、新技術としてハイパーループが研究されている。 世界的には20世紀後期にハイテク建築・ポストモダン建築など新奇なデザインへの試みが精力的になされた。21世紀に入ってからは設計にコンピューターを駆使 (CAM) した脱構築主義建築なども登場した。中国やシンガポール、中東を中心に現代建築が各地で建てられ、アジア新興国の中心部では現代建築が林立する景観が見られる。 21世紀に入ってからの建築技術の進歩としては、先述のCAMのほか、CLTの使用により、木造の高層建築が登場していることが特筆される。また、前世紀末からの流れではあるが、特に住宅建築は省エネルギー化の要請により気密性能の強化、断熱構造の高度化が進んだ。1980年代以降、寒冷地から複層ガラスや樹脂サッシ、高性能な断熱材が徐々に広がり、2010年代頃から温暖な地域でも一般化しつつある。気密性の強化により新築住宅では24時間自動換気が標準化(日本では2003年に義務化)し、極寒の地でも、暖房なしでも過ごせるパッシブハウスも現れた。 日本の街並みは全国的には20世紀末期以降から劇的な変化は無いが、家庭の気密化と商業施設の高層化が進み、都市部においては中高層のオフィスビルやタワーマンション、現代建築も都市再開発とともに林立するようになった。 宇宙開発の分野は、20世紀のフィクションと比べて著しく遅れている。これは、冷戦下における超大国同士の競争として莫大な資金をつぎ込まれていた宇宙開発が、米ソ両国の財政状況により1970年代以降鈍化し、冷戦の終結とともに停滞したことや、宇宙速度を振り切って大量の資材を搬送するという宇宙開発の原理的困難が解決される見通しがついていないことが要因に挙げられる。 21世紀に入りアメリカ航空宇宙局 (NASA) は、ブッシュ大統領の宇宙政策に基づき、2020年までに再度月面の有人探査を行い、その後に火星の有人探査も実現するという「コンステレーション計画」を発表したが、計画の遅れや予算の圧迫などを理由に中止となった。この計画では月面基地の建設も構想されていた。一方で、オバマ大統領は2030年代半ばの実現に向けた有人火星探査計画を2010年に発表している。月より遠距離に到達可能な新型ロケットの2025年までの開発、小惑星の有人探査に続き、2030年代の火星軌道への到達、そして有人火星探査を実現するというものである。その後、次の政権に就いたトランプ大統領は月面開発を足がかりにして火星への有人探査を目指す新たな方針を2017年に表明しており、NASAも2024年までに再び月面への有人着陸を目指す「アルテミス計画」を2019年に発表している(2021年11月時点で有人月面着陸計画は、2025年以降に遅れる見込み)。 アメリカ合衆国以外では、中国が月面での有人探査と基地建設を目指している他、ロシアや欧州宇宙機関 (ESA) でも有人火星探査計画が構想されている。 宇宙旅行については、ヴァージン・ギャラクティックやスペースXなど複数の民間企業が企画・研究開発しており、ヴァージン・ギャラクティックは日本円で1席約5000万円とかなりの高額ではあるが、宇宙旅行チケットを販売している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "21世紀(にじゅういっせいき)とは、西暦2001年から西暦2100年までの100年間を指す世紀。3千年紀における最初の世紀である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2022年には国連による世界人口の推計が80億人に達した。今後については多くの予測で、21世紀中に世界人口がピークを迎え発展途上国にも高齢化社会が到来すると分析されている。", "title": "21世紀に関する予測" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "急激な文明の進歩の途上で発生した問題が山積している。現在、解決に向けた取り組みが世界各国で行われている。", "title": "21世紀における課題" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "20世紀から21世紀にかけての人口の増加と、人間活動の広がりは、地球環境への負荷を非常に大きなものとした。豊かな生活と環境負荷の軽減を両立させるために、新たな環境技術開発が切望されている。また、20世紀後半からの医学・生物学・生命工学の発展は著しく、再生医療や遺伝子治療の実用化により、今まで治ることのなかった病気や老化による障害を治すための研究が進められている。技術進歩を人間の寿命の大幅な延長や肉体機能の拡張に利用しようという動きもある(トランスヒューマニズム)。一方社会の高齢化とあいまって、医療費の高騰も心配されている。", "title": "21世紀における課題" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "携帯電話やパソコンによるインターネットは、テレビ・ラジオ・CD・新聞など既存のメディアを取り込んで急速に情報化を進展させている。これによりインターネットに接続されたコンピュータの数が増加するとともに、IPアドレスの不足が深刻化しつつある。これに関してはユビキタス社会の進展に伴って、今後、IPv4からIPv6への移行が進められている。また近年では、コンピュータ・ウイルスや不正アクセスによる被害が深刻になり、コンピュータセキュリティ上の問題が重要視されてきている。", "title": "21世紀における課題" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2000年代以降のコンピュータとインターネットの普及により、ビッグデータと呼ばれる程の巨大な情報が毎日のように生み出されるようになった。さらには、IoT/M2M技術の進歩により現実世界のデータが高精度にサンプリングされてインターネット上に流通するようにもなった。そのような巨大な情報は人間のみでは十分に利活用しきれないため、高性能なコンピュータ・クラスタや人工知能 (AI) の産業への応用が急速に進展している。特に、2006年に提唱され、2012年以降に普及したディープラーニングによって人工知能の応用範囲が大幅に広がったことが大きな契機となった。このまま研究が進み、人工知能に関わる技術が進歩した場合には、ある時点で人工知能の思考能力が人間の頭脳の思考能力を超え始めると考えられている(シンギュラリティの到来。未来学者のレイ・カーツワイルによると、2045年頃と予測されている)。技術的特異点の支持者らによると、これを超えると。人工知能の手になる、より知性的な人工知能の開発が繰り返され、人類だけの頭脳とコミュニケーションの速度では不可能なほどの超加速度的な科学技術の進歩が始まるとされている。2012年にカーツワイルがGoogleに招致されたことや、同年にディープラーニングの応用が急激に広がり始めたことを機に、ビッグデータや人工知能という概念が頻繁にニュースや新聞記事などに取り上げられ、人類はどのようにその日を迎えるべきか、あるいは、そもそも本当にそのような事が起き得るのかという議論が民間でも活発に行われるようになった。", "title": "21世紀における課題" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "20世紀半ばから後半における21世紀の未来像の定番要素に「テレビ電話」、「壁掛けテレビ」、「立体テレビ」、「電気自動車」、「自動運転車」、「エアカーなど個人用の空飛ぶ乗り物(空飛ぶクルマ)」、「(超高速鉄道としての)リニアモーターカー」、「丸みを帯びた独特なビルディングの形状や上空を通る透明のチューブ」、「宇宙旅行や惑星間の移動、月面基地や火星への移住、大規模な宇宙開発」、「海底都市」、「一家に一台のコンピュータや家庭用ロボット」などがあった。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "21世紀は、20世紀においてはまさに\"夢\"の時代であった。しかし実際に21世紀に入ってみると、コンピュータと情報通信技術に関しては予想を超える爆発的な進化を遂げた一方、宇宙開発や交通分野ではかつての未来像の多くが未だに実現していない。産業革命以来の環境問題・人口爆発・資源不足問題も部分的には改善されたが根本的解決の目処は立っていない。『綻びゆくアメリカ』で著者のジョージ・パッカーは、1973年以降を「明確な未来を描けなくなった時代」とし、2013年までに目覚ましいイノベーションが起こったのはコンピューターと金融の業界だけだったとしている。ピーター・ティール率いるファウンダーズ・ファンドは「空飛ぶ車を夢見ていたのに、手にしたのは140文字だ」というマニフェストで現状を表した。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本項目では2020年ごろまでの現状と展望を記述する。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": 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"21世紀に入ってから、地球温暖化防止・環境保護の観点から消費電力が多く短寿命である白熱電球の使用が控えられるようになり、消費電力が相対的に低い電球型蛍光灯やLED照明への置き換えが進んだ。LED照明は当初は誘導灯や常夜灯など比較的低照度の用途での利用が主であったが、2000年代末から一般照明用光源としての普及が始まり、2010年代中ごろには一般用照明の主流となった。今後は有機EL照明の登場・普及も予想されている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "20世紀末までに、ほとんどの映像メディアが電子化され、21世紀に入ってからはデジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及により、写真の電子化が急激に進んだ。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2000年代以降、ニュースなどの情報も新聞社や個人によってインターネット配信されており、徐々に新聞離れ・雑誌離れが起きている。漫画や小説、その他の出版物のネット配信もされているが、2000年代までは紙の本を置き換えるほどには活用されていなかった。しかし、2010年代に入ると直感的な操作ができるタッチパネルを搭載した端末や、表示中に電力を消費しない電子ペーパーを搭載した端末が注目を集め、出版物のインターネット配信が急激に広がった。2017年には電子版の漫画単行本の売り上げが紙媒体の売り上げを上回り、出版界でも電子化の進展が目覚ましい。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "エネルギー分野では、省エネルギーの取り組みと並行して太陽光発電、シェールガスなどの非在来型資源の開発が進み、新興国でのモータリゼーションの進行にもかかわらず、石油の戦略性は20世紀と比べ相対的に減少している。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "化石燃料の使用による二酸化炭素などの温室効果ガスの世界的な排出増大が続いており、代替エネルギーの開発は前世紀に引き続き重要な問題である。温室効果ガス排出抑制と2003年ごろからの原油価格の高騰に対処するため、世界各国で2006年ごろから脱原発の目標を見直し原子力発電所の新設に舵を切るなど「原子力ルネサンス」と言われる動きが生じていたが、2011年の福島第一原子力発電所事故で脱原発が再びブームとなった。しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で生じたエネルギー問題により再び原子力が注目されており、右往左往な状態が続いている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "究極のエネルギー技術とされる核融合炉の実用化の目処はまだ立っていないものの、2025年に運用開始が予定される国際熱核融合実験炉ITERの建設と並行して、IFMIFなどの関連技術の開発が進められている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2020年時点ではまだ(生産活動などで排出される温室効果ガスと森林などに吸収される分が釣り合っていることを示す)「カーボンニュートラル」実現には程遠い。EU、アメリカ合衆国、日本は2050年までのカーボンニュートラル達成を掲げており、再生可能エネルギーである太陽光発電、風力発電などの普及は目覚ましいものがあるが、太陽光、風力とも変動型電源であることから大容量の蓄電設備の整備は欠かせず、スマートグリッド技術を応用した電力供給体制の整備が急がれている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "21世紀初頭の20年間の日本や欧州の自動車メーカーは、1997年に採択された京都議定書などで温室効果ガス排出の抑制が求められるようになったことに加え、特に2004年から2008年にかけての原油価格の高騰の後押しもあって、低公害型内燃機関自動車の開発にしのぎを削った。日本では軽自動車などの燃費重視型低排気量車両やハイブリッドカーが主流となった。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "欧州各国では低公害ディーゼル車やダウンサイズターボを採用したガソリン車へのシフトが進んでいたが、2016年にフォルクスワーゲンのディーゼル排出ガス不正問題が発覚し、他メーカーも含めてディーゼル乗用車の販売が激減した。この事件と、カーボンニュートラル達成のために温室効果ガスの排出のさらなる抑制が求められたことを機に、自動車業界は従来の化石燃料を燃料とする内燃機関による駆動から、マイルドハイブリッドやプラグインハイブリッド車(PHV)を経て、蓄電池式の電気自動車や燃料電池車への転換を目指す「電動化」に舵を切ることになった。EUは3035年までに内燃機関車(ガソリン、ディーゼル車だけでなく、低公害車とされるLPG自動車やプラグインハイブリッドカーを含む)の発売禁止を打ち出した。アメリカ合衆国も、2030年までに新車販売の半数を水素自動車などを含むゼロエミッション車にする方針を打ち出している。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "情報化の波は自動車も例外でなく、21世紀初頭において乗用車にはカーナビゲーション、テレマティクスの装備が一般化した。さらに、高知能自動車(スマートカー)の開発が進み、「高度道路交通システム」(ITS) と連動して、車間距離を保ったり、道路交通情報がリアルタイムで取得可能になるような技術開発が進められた。自動車の自動運転システムについても2010年代に入り開発が活発化しており、自動運転車の「レベル1」「レベル2」に当たる衝突被害軽減ブレーキや アダプティブクルーズコントロールの搭載は既に一般化、 自動駐車の搭載も広がりつつある。日本では2021年11月以降に販売される新型車は衝突被害軽減ブレーキの搭載が義務化されるなど、先進国で販売される自動車は先進安全装備の搭載が常識化しつつある。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "無人航空機は軍事分野を先頭に普及した。前世紀末までは偵察機や標的機としての利用に限られたが、2001年から始まった対テロ戦争には無人攻撃機(UCAV)が実戦投入され、無人機が人間を殺害する時代が到来した。民生分野でも、2010年代にはドローンビジネスとして、土木や観光、警備救難、運送など無人機が幅広い分野で活用されるようになった。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "電動化の波は空の乗り物も例外ではなく、電動航空機の開発が活発化してきており、マルチコプター技術などを活用した「有人ドローン」(Passenger drone)や「空飛ぶクルマ」(Flying car)と称されるeVTOLの実用化に向けたプロジェクトが各地で立ち上がっている。しかし、浮上は地上走行に比べて原理的に非効率であり、eVTOLによるエアタクシーが実用化されてもニーズは限られるとする指摘もある。また、航空機の電動化はヘリコプターやリージョナルジェットなどの小型機に限られ、それもガスタービンエンジンなどと組み合わせたハイブリッド方式が主流であろうと予想されており、長距離の空の旅はジェット機が主流という状況は当面揺るがないであろうと考えられている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "環境と安全性が重視される世相に合わなくなった超音速旅客機であるコンコルドは2003年に終航を迎え、かつて現実のものであった超音速での空の旅は再び「夢」となってしまった。このためソニックブームが少ない超音速旅客機の研究開発が進められている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "旅客鉄道は、20世紀末より都市部を中心にホームドアや自動運転の普及が徐々に進んでいる。非電化鉄道では自動車のハイブリッド技術をフィードバックしたハイブリッドカーが実用化されたほか、実用的な蓄電池式車両が登場し、非電化区間に「電車」を走らせることも可能となった。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "貨物鉄道は、エネルギー効率に優れ温室効果ガスの排出が少ない輸送手段であるが、日本における鉄道貨物は20世紀末にトラックとの競争に敗れシェアが激減、トラック運転手の負担軽減やモーダルシフトが叫ばれる中でも回復していない。物流業界は低炭素社会への対応のため、トラックの電動化と並行して、旅客列車での荷物輸送も含めた鉄道輸送の活用を模索している。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "高速鉄道は、フランスのTGVは既に1993年に営業最高速度を300km/hに引き上げており、2007年には営業運転速度ではないが鉄輪式鉄道の世界速度記録、574.8km/hを記録した。この速度はすでにリニアモーターカーの最高速度の領域である。日本でも1997年に新幹線500系電車の登場により山陽新幹線で300km/h運転を始めている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年代には上海トランスラピッドが運行を開始し、中速交通ではHSST(愛知高速交通東部丘陵線で採用)で磁気浮上式リニアモーターカーの営業運転が始まったが、21世紀前半時点では東アジアに数路線程度に留まる。超電導磁気浮上式リニアモーターカーについては、JR東海が2027年以降をめどに超電導リニアによる東京〜名古屋間の営業運転開始を目指す(リニア中央新幹線)。また、新技術としてハイパーループが研究されている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "世界的には20世紀後期にハイテク建築・ポストモダン建築など新奇なデザインへの試みが精力的になされた。21世紀に入ってからは設計にコンピューターを駆使 (CAM) した脱構築主義建築なども登場した。中国やシンガポール、中東を中心に現代建築が各地で建てられ、アジア新興国の中心部では現代建築が林立する景観が見られる。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "21世紀に入ってからの建築技術の進歩としては、先述のCAMのほか、CLTの使用により、木造の高層建築が登場していることが特筆される。また、前世紀末からの流れではあるが、特に住宅建築は省エネルギー化の要請により気密性能の強化、断熱構造の高度化が進んだ。1980年代以降、寒冷地から複層ガラスや樹脂サッシ、高性能な断熱材が徐々に広がり、2010年代頃から温暖な地域でも一般化しつつある。気密性の強化により新築住宅では24時間自動換気が標準化(日本では2003年に義務化)し、極寒の地でも、暖房なしでも過ごせるパッシブハウスも現れた。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本の街並みは全国的には20世紀末期以降から劇的な変化は無いが、家庭の気密化と商業施設の高層化が進み、都市部においては中高層のオフィスビルやタワーマンション、現代建築も都市再開発とともに林立するようになった。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "宇宙開発の分野は、20世紀のフィクションと比べて著しく遅れている。これは、冷戦下における超大国同士の競争として莫大な資金をつぎ込まれていた宇宙開発が、米ソ両国の財政状況により1970年代以降鈍化し、冷戦の終結とともに停滞したことや、宇宙速度を振り切って大量の資材を搬送するという宇宙開発の原理的困難が解決される見通しがついていないことが要因に挙げられる。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "21世紀に入りアメリカ航空宇宙局 (NASA) は、ブッシュ大統領の宇宙政策に基づき、2020年までに再度月面の有人探査を行い、その後に火星の有人探査も実現するという「コンステレーション計画」を発表したが、計画の遅れや予算の圧迫などを理由に中止となった。この計画では月面基地の建設も構想されていた。一方で、オバマ大統領は2030年代半ばの実現に向けた有人火星探査計画を2010年に発表している。月より遠距離に到達可能な新型ロケットの2025年までの開発、小惑星の有人探査に続き、2030年代の火星軌道への到達、そして有人火星探査を実現するというものである。その後、次の政権に就いたトランプ大統領は月面開発を足がかりにして火星への有人探査を目指す新たな方針を2017年に表明しており、NASAも2024年までに再び月面への有人着陸を目指す「アルテミス計画」を2019年に発表している(2021年11月時点で有人月面着陸計画は、2025年以降に遅れる見込み)。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国以外では、中国が月面での有人探査と基地建設を目指している他、ロシアや欧州宇宙機関 (ESA) でも有人火星探査計画が構想されている。", "title": "20世紀における21世紀像" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "宇宙旅行については、ヴァージン・ギャラクティックやスペースXなど複数の民間企業が企画・研究開発しており、ヴァージン・ギャラクティックは日本円で1席約5000万円とかなりの高額ではあるが、宇宙旅行チケットを販売している。", "title": "20世紀における21世紀像" } ]
21世紀(にじゅういっせいき)とは、西暦2001年から西暦2100年までの100年間を指す世紀。3千年紀における最初の世紀である。
{{出典の明記|date=2013年4月}} {{centurybox}} {| class="infobox" style="font-size:80%" | align="right" | '''日本の[[元号]]:''' | align="center" | [[平成]] - [[令和]] - |} '''21世紀'''(にじゅういっせいき)とは、[[西暦]][[2001年]]から西暦[[2100年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[3千年紀]]における最初の世紀である。 == 21世紀の主なできごと == [[ファイル:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|アメリカ同時多発テロ事件]] <!---重大な世界的出来事のみ記述、その他の出来事は各年や各年代の記事へ---> === 戦争と政治 === * [[2001年]] ** [[9月11日]] - [[アメリカ同時多発テロ事件]]発生<ref>{{cite book|title=The Globalization of Martyrdom: Al Qaeda, Salafi Jihad, and the Diffusion of Suicide Attacks|last=Moghadam|first=Assaf|publisher=Johns Hopkins University|year=2008|isbn=978-0-8018-9055-0|page=48}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/front/special/sala.html|title=Special Reports&nbsp;– The Salafist Movement: Al Qaeda's New Front|last=Livesey|first=Bruce|date=January 25, 2005|website=PBS Frontline|publisher=WGBH educational foundation|accessdate=May 12, 2021}}{{cite book|title=US Counter-Terrorism Strategy and al-Qaeda: Signalling and the Terrorist World-View|last1=Geltzer|first1=Joshua A.|date=2011|publisher=Routledge|isbn=978-0415664523|edition=Reprint|page=83}}</ref>{{sfnp|Wright|2006|p=79}}。[[イスラーム過激派]]によって[[ハイジャック]]された4機の旅客機が[[アメリカ合衆国]]内の複数の地上施設めがけ激突。死者2,993人。 ** [[10月7日]] - [[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン戦争]]開戦。 * [[2002年]] ** [[5月20日]] - [[東ティモール]]がインドネシアの占領から独立した。 ** 10月 - [[モスクワ劇場占拠事件]]発生。鎮圧にあたった[[スペツナズ]]による有毒ガス使用の結果、人質129人が窒息死した。 * [[2003年]] ** 2月 - [[スーダン]]西部で[[ダルフール紛争]]勃発。 ** [[3月19日]] - [[イラク戦争]]開戦。[[4月9日]]、[[バグダード]]陥落。[[イラク]]はアメリカ合衆国を中心とした[[連合国暫定当局]]の統治下におかれる(〜[[2004年]]6月)。 * [[2004年]] ** [[3月11日]] - [[マドリード列車爆破テロ事件]]。191人が死亡。 ** [[9月1日]] - [[ベスラン学校占拠事件]]。1181人が人質となり、犯人グループと治安部隊との間でおこなわれた銃撃戦の結果386人以上が死亡した。 * [[2005年]] ** [[7月7日]] - [[ロンドン同時爆破事件]]発生。[[イギリス]]の首都[[ロンドン]]において[[ロンドン地下鉄|地下鉄]]の3か所がほぼ同時に、その約1時間後にバスが爆破され、56人が死亡。 * [[2006年]] ** [[6月3日]] - [[モンテネグロ]]が[[セルビア]]から分離独立した。 ** [[7月12日]] - [[イスラエル]]による[[レバノン侵攻 (2006年)|レバノン侵攻]]。 ** [[10月9日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が初の[[核実験]]。 ** [[12月30日]] - [[サッダーム・フセイン]]元イラク大統領の死刑執行。 * [[2008年]] ** [[3月10日]] - [[2008年のチベット騒乱]]が発生。[[中華人民共和国|中国]]当局による武力鎮圧が行われる。 ** [[11月26日]] - [[ムンバイ同時多発テロ]]が発生。爆破と銃撃により、172人以上が死亡。 ** [[8月7日]] - [[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア戦争]]が勃発。ロシアおよび[[南オセチア]]・[[アブハジア]]の分離独立派がグルジアに勝利。 * [[2009年]] ** [[1月20日]] - [[バラク・オバマ]]がアメリカ合衆国建国以来、初の[[黒人]]大統領として第44代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。 * [[2010年]] ** [[2010年欧州ソブリン危機]]。[[ギリシャの経済|ギリシャが財政危機]]に陥る。同時に[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[アイルランド]]などが深刻な経済危機に見舞われ、[[スペイン経済危機 (2012年)|2012年にはスペインが財政危機]]に陥った。[[欧州連合の経済通貨統合|欧州通貨統合]]による[[ユーロ]]防衛のためにとられている[[欧州]]諸国の緊縮[[財政政策]]により[[ユーロ圏]]の[[失業率]]は極端に上がり、スペインや[[ギリシャ]]の若年層は過半数が失業する事態に。 * [[2011年]] ** [[チュニジア]]の[[ジャスミン革命]]が各国に波及し、アラブ各国で独裁政権に対するデモに発展([[アラブの春]])。[[エジプト]]では[[2011年エジプト騒乱|ムバーラク政権が崩壊]]、[[リビア]]では[[北大西洋条約機構|NATO]]が軍事介入し半年間の[[内戦]]の末に[[2011年リビア騒乱|カダフィ政権が崩壊]]するもさらなる内戦へ突入、[[2011年イエメン騒乱|イエメンも内戦へ突入]]し[[アリー・アブドッラー・サーレハ|サーレハ]]大統領が殺害され、[[シリア]]では[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]政権と反政権側の対立に加え、[[アルカーイダ]]系組織らの介入などもあり[[シリア内戦|内戦が泥沼化]]した。 ** [[5月2日]] - アルカーイダの最高指導者でアメリカ同時多発テロ事件の首謀者ともされる[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]が、[[パキスタン]]・[[アボッターバード]]にてアメリカ合衆国特殊部隊との[[ウサーマ・ビン・ラーディンの死|銃撃戦の末に殺害]]された。 ** [[7月9日]] - [[南スーダン]]が[[スーダン]]から分離独立した。 * [[2014年]] ** 2月 - [[ウクライナ紛争 (2014年-)]]勃発。 ** [[サラフィー・ジハード主義]]のイスラーム過激派組織「[[ISIL]]」がシリア・イラク両国内で勢力を伸ばし、地域情勢が深刻化。アメリカ合衆国などが[[空爆]]を実施する事態となった。 * [[2015年]] ** [[パリ同時多発テロ事件]]などISIL支持者によるテロが世界的に多発する。 * [[2016年]] ** [[アラブの春]]を始めとした出来事に起因する難民問題などにより、欧米を中心として[[ポピュリズム]]が支持を拡大、[[ドナルド・トランプ]]アメリカ合衆国大統領が誕生する<!--[[11月8日]]の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]で勝利、翌年1月20日就任-->。 *[[2020年]] **1月30日 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]:[[世界保健機関]]が「[[国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態]]」を宣言<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200131/k10012266621000.html WHO「緊急事態」を宣言 医療のぜい弱な国への感染拡大懸念](NHKニュース〈NHKオンライン〉 2020年1月31日付、同日閲覧)</ref>。 ** [[9月27日]] - [[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争|第2次ナゴルノ・カラバフ紛争]]勃発。 *** [[11月10日]] - [[アゼルバイジャン共和国軍|アゼルバイジャン軍]]優勢の戦況で停戦。[[2020年ナゴルノ・カラバフ停戦協定|停戦協定]]により[[アルツァフ共和国]]が領土の大部分を失う。 * [[2021年]] ** 1月6日 - [[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件]]:ドナルド・トランプ支持者が[[アメリカ合衆国議会議事堂|議事堂]]を襲撃。 ** [[1月20日]] - [[ジョー・バイデン]]が第46代アメリカ合衆国大統領に就任。 ** [[8月30日]] - [[アメリカ軍]]が[[アフガニスタン]]からの撤退を完了し、約20年間行われた[[軍事作戦]]を終結<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/127972 米軍アフガニスタン撤退完了 米最長20年の戦争終結もなお米国人100人残留、協力者ら含めると6万人] 東京新聞 (2021年8月31日)</ref>。 * [[2022年]] ** [[2月24日]] - [[ロシア]]による[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]。 === 科学技術 === <!--21世紀を通して、特に注目された科学技術に関する事柄の列挙--> * [[2001年]] ** [[10月1日]] [[NTTドコモ]]が[[FOMA]]([[W-CDMA]]方式)の正式サービスを開始した。世界初の商用[[第3世代移動通信システム]]。 * [[2003年]] ** [[2月1日]] - [[スペースシャトル]][[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]号が大気圏再突入後にテキサス州上空で[[コロンビア号空中分解事故|空中分解]]。搭乗員7人死亡。 ** [[4月14日]] - [[ヒトゲノム計画]]が[[ヒトゲノム]]の解読完了を宣言。 ** [[10月15日]] - [[中華人民共和国|中国]]、初の有人宇宙船、[[神舟5号]]の打ち上げ成功。 * [[2006年]] ** [[8月24日]] - [[国際天文学連合]]で、[[冥王星]]が[[惑星]]から[[準惑星]]に分類が変更される。また、同時に[[小惑星]][[ケレス (準惑星)|ケレス]]と[[エリス (小惑星)|エリス]]も準惑星に分類される。 * [[2007年]] ** [[5月4日]] - [[IPCC第4次評価報告書]]が承認され、[[地球温暖化]]問題の進行と人類の責任が明確化される。 ** [[6月29日]] - [[IPhone (初代)|初代iPhone]]が[[アメリカ合衆国]]で発売。 ** [[11月21日]] - [[京都大学]]の[[山中伸弥]]らのグループが、[[ヒト]]の[[皮膚]][[細胞]]に遺伝子を組み込むことにより[[人工多能性幹細胞]](iPS細胞)を生成する技術を発表。 * [[2010年]] ** [[5月10日]] - [[クレイグ・ヴェンター|クレイグ・ヴェンター研究所]]が人工ゲノムのバクテリアへの導入に成功。初の[[合成生物学|合成生命]]の誕生。 ** [[6月13日]] - [[JAXA]]の小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」が60億kmの旅を終え、[[地球]]の大気圏へ再突入した。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸しての[[サンプルリターン]]は世界初であった。 * [[2012年]] **[[6月28日]] - [[エマニュエル・シャルパンティエ]]と[[ジェニファー・ダウドナ]]は[[CRISPR]]-Cas9が外来DNAを切断する詳細な仕組みを明らかにする論文を発表し、[[ゲノム編集]]の効率が飛躍的に向上した。 ** [[7月4日]] - [[物質]]が[[質量]]を持つに至ったことに深く関わっているとされ、[[標準模型|標準理論]]における最後の未発見[[素粒子]]であった[[ヒッグス粒子]]が[[欧州原子核研究機構]](CERN)により発見された(この時点では「新たな粒子の発見」と発表、ヒッグス粒子であることの確定は翌年)<ref name="sankei131021">[http://sankei.jp.msn.com/science/news/131021/scn13102109300000-n1.htm 2013年の自然科学部門のノーベル賞 物理学賞](MSN産経ニュース/産経新聞 2013年10月21日付){{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 **10月 - [[人工知能]]の[[画像解析|画像認識]]の精度を競う国際コンテストILSVRC で[[ジェフリー・ヒントン]]率いる[[トロント大学]]のチームが他のチームに圧倒的差をつけて優勝し、[[ディープラーニング]]の有用性が認められるきっかけとなった。 * [[2019年]] **[[4月3日]] - [[ベライゾン・コミュニケーションズ]]は[[IMT-2020]]に基づく初の一般消費者向け[[第5世代移動通信システム]]をサービス開始した。 ** [[4月10日]] - 「[[イベントホライズンテレスコープ]](EHT)」プロジェクトにより、[[ブラックホール]]直接撮影の成功が発表される。 === 自然災害 === <!--21世紀を通して、特に世界的に有名・注目された自然災害の列挙--> * [[2001年]] ** [[1月26日]] - [[インド西部地震]] (Mw 7.7) 発生。約2万人が死亡。 * [[2003年]] ** 6月〜8月 - 西ヨーロッパで記録的な[[熱波]]。[[熱中症]]などにより5万2千人以上が死亡(詳細は「[[ヨーロッパ熱波 (2003年)]]」を参照)。 ** [[12月26日]] - イラン・[[バム地震]] (Mw 6.6) 発生。3万5千人以上が死亡。[[アルゲ・バム]]が壊滅的な損傷を受けた。 * [[2004年]] ** アメリカ合衆国本土に[[ハリケーン・チャーリー|チャーリー]]、[[ハリケーン・フランシス|フランシス]]、[[ハリケーン・アイバン|アイバン]]、[[ハリケーン・ジーン|ジーン]]と[[ハリケーン]]が次々と上陸した。 <!-- --確かに大地震だが、被害・地震の規模を考慮して21世紀(百年単位)の出来事の記事に記述すべきかは要検討-- ** [[10月23日]] - 日本で[[新潟県中越地震]] (M 6.8) 発生。68人が死亡。 --> ** [[12月26日]] - [[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]] ('''Mw 9.1 - 9.3''') 発生。[[インドネシア]]・[[スマトラ島]]沖で発生した[[超巨大地震]]、[[巨大津波|大津波]]により[[インド洋]]沿岸各国に甚大な被害。20万人以上の死者・行方不明者が発生。その後も近海では[[スマトラ島沖地震|大きな地震が続発]]<!--[[スマトラ島沖地震 (2005年)|2005年]]、[[スマトラ島沖地震 (2007年)|2007年]]、[[スマトラ島沖地震 (2009年)|2009年]]、[[スマトラ島沖地震 (2010年)|2010年]]-->している。 * [[2005年]] ** 大西洋北部の[[ハリケーン]]の発生数が史上最多となった。アメリカ合衆国に[[ハリケーン・カトリーナ|カトリーナ]]、[[ハリケーン・リタ|リタ]]、[[ハリケーン・ウィルマ|ウィルマ]]といった強い[[ハリケーン]]が次々と上陸し、[[ニューオーリンズ]]市に甚大な被害をもたらした。史上3番目に経済損失額の多い災害<!--2011年時点-->。 ** [[10月8日]] - [[パキスタン地震 (2005年)|パキスタン地震]] (Mw 7.6) 発生。9万人以上が死亡、約250万人が家を失う。 <!-- --「新潟県中越沖地震」は確かに大地震(15人亡くなってる)だが、被害・地震の規模を考慮して21世紀(百年単位)の出来事の記事に記述すべきかは要検討-- * [[2007年]] ** 日本・[[新潟県中越沖地震]]、[[能登半島地震]] --> * [[2008年]] <!-- ** [[岩手・宮城内陸地震]] --> ** [[サイクロン・ナルギス]]が発生、ミャンマーを中心に死者・行方不明者は13万4千人以上。 ** [[5月12日]] - [[中華人民共和国|中国]]で[[四川大地震]] (Mw 7.9) 発生。累計で4千万人以上が被災し、6万9千人以上が死亡。 * [[2010年]] ** [[1月12日]] - [[ハイチ地震 (2010年)|ハイチ地震]] (Mw 7.0) 発生。約300万人が被災、死者31万人以上。 ** [[2月27日]] - [[チリ地震 (2010年)|チリ地震]] ('''Mw 8.8''') 発生。大きな[[津波]]も観測され、死者800人以上。 ** [[4月14日]] - 中国・[[青海地震]] (Mw 6.9) 発生。死者2,500人以上。 ** 6月〜8月 - ロシアで記録的な高温と小雨。死者1万5千人以上、国際的な穀物価格の高騰が発生。 * [[2011年]] ** [[3月11日]] - 日本で[[東北地方太平洋沖地震]] ('''Mw 9.0 - 9.1''') 発生。ピーク時の避難者は40万人以上<!--被災者はどこまでを被災とすべきか曖昧なので、ここでは表記していない-->に上り、死者1万5千人以上、[[東北地方]]・[[関東地方]]に[[東日本大震災|甚大な被害]]。また、大津波により[[岩手県]]・[[宮城県]]・[[福島県]]の太平洋沿岸の広い地域が壊滅状態となった<!--被害全容および死者数は未だ確定していません-->。自然災害による経済損失額としてはワースト1位。 ** [[7月]]以降 - [[東アフリカ大旱魃 (2011年)|東アフリカで旱魃による大飢饉]]。1,200万人以上が生活を脅かされ、数万人が死亡。 ** 7月 - 翌年1月 - [[タイ洪水 (2011年)|タイで大洪水]]。300万人以上が被災。死者800人以上。史上4番目に経済損失額の多い災害<!--2011年時点-->。 * [[2013年]] ** [[11月8日]] - フィリピンに[[平成25年台風第30号|台風30号]]が上陸。約1,000万人が被災。死者6,000人以上。 * [[2015年]] ** [[4月25日]] - [[ネパール地震 (2015年)|ネパール地震]] (Mw 7.8) 発生。約800万人が被災。死者約9,000人。 <!--* [[2016年]] ** [[4月14日]] - 日本で[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]] (Mw 7.0) 発生。日本国内では5例目の[[震度7]]を観測した。 --> * [[2019年]] ** ヨーロッパに熱波。フランスでは約1,500人が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3243567 フランス、今夏の熱波による死者約1500人  写真6枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。 * [[2023年]] ** [[2月6日]] - [[トルコ・シリア地震]] (Mw 7.8) 発生。死者5万6千人以上。 === 社会 === <!--21世紀を通して、特に注目された社会の事柄の列挙--> * [[2003年]] ** [[重症急性呼吸器症候群]](SARS)の世界的な大流行。2003年7月に新型肺炎制圧宣言が出されるまでの間に8,069人が感染し、775人が死亡した。 * [[2007年]] ** 日本の[[人口]]がピークの1億2771万人(内閣府の推計)、以降人口は減少に転じる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2009np/pdf/gaiyou.pdf#page=1 |title=人口推計(平成21年10月1日現在)1.人口の動向 |publisher=総務省 |accessdate=2011-04-03 }} 表1 総人口及び日本人人口の推移(平成14年〜21年)を参照。</ref>。<!--ただし、2010年国勢調査の速報値の結果では、1億2,805万6千人という結果が出ている。http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/jinsoku/pdf/gaiyou.pdf--> ** [[サブプライムローン]]問題が深刻化、アメリカ合衆国を中心に[[世界金融危機 (2007年-)|世界的な市場の混乱]]が発生。2008年には新興国にも[[恐慌]]が波及し、世界同時不況へ発展した。 * [[2009年]] ** [[A型インフルエンザウイルス|A型]]、[[H1N1亜型]]による[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザの世界的流行]]。[[ブタ|豚]]のあいだで流行していた[[ウイルス]]が農場などで豚から人に直接感染し、それから人の間で広まったとされる。 * [[2011年]] ** [[2月3日]]、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]の管理する[[IPアドレス枯渇問題|IPv4アドレスで新規に配布する予備が枯渇]]。4月15日、他の地域([[地域インターネットレジストリ|RIR]])に先駆けて、日本の[[日本ネットワークインフォメーションセンター|JPNIC]]を含む[[Asia-Pacific Network Information Centre|APNIC]]の新規に配布する在庫も事実上枯渇した。これまでの[[IPv4]]アドレスの再配置やIPv4アドレスの有効利用、[[IPv6]]の段階的な利用以外で新規グローバル[[IPアドレス]]は取得できなくなった。IPv4アドレスの有効利用については、[[インターネットプロバイダ]]経由においてはローカルアドレスを有効利用する方法も考えられる。 ** [[3月11日]] - [[日本]]の[[東北地方]]と[[関東地方]]で、[[原子力発電所]]5カ所が[[東北地方太平洋沖地震]]により被災。[[福島第一原子力発電所|福島第一原発]]では[[炉心溶融]]が発生、[[福島第一原子力発電所事故|日本史上最悪レベルの原子力事故]]となった。 * [[2014年]] ** [[エボラ出血熱]]が[[西アフリカ]]で過去最大の流行となり、1万人を超える感染者と数千人の死者を出す深刻な事態<!--2014年11月13日時点-->となっている([[2014年の西アフリカエボラ出血熱流行]])。 * [[2020年]] ** [[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]](SARS-CoV-2)による[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|急性呼吸器疾患]](COVID-19)が[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的流行]]となり、[[2022年]]8月下旬時点で全世界の累計感染者数は6億人を超え<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220827/k10013790801000.html |title=新型コロナの感染者 世界全体で6億人超える 最多はアメリカ |date=2022-08-27 |accessdate= 2022-08-29 |publisher=NHKニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220829054629/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220827/k10013790801000.html |archivedate=2022-08-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220827-OYT1T50100/ |title=世界のコロナ感染者、累計6億人を突破…日本は国別で10番目の約1800万人 |date=2022-08-27 |accessdate= 2022-08-29 |publisher=読売新聞オンライン}}</ref>、さらに死者数も<!--メディアや調査機関により差があるが同年3月上旬時点で-->600万人を超える甚大な被害となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220307/k10013519411000.html |title=新型コロナ 世界の死者数600万人超 WHO「感染対策の徹底を」 |date=2022-03-07 |accessdate= 2022-04-13 |publisher=NHKニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220326123420/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220307/k10013519411000.html |archivedate=2022-03-26}}</ref><!--感染者が今後も増えた場合、大台突破など区切りの良い時に更新し頻繁には更新しない-->。 === スポーツ === * [[2002年]] ** [[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ日韓大会]] ** [[2002年ソルトレークシティオリンピック|ソルトレークシティオリンピック]](冬季) * [[2004年]] - [[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]](夏季) * [[2006年]] ** [[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]](冬季) ** [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック]] ** [[2006 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップドイツ大会]] * [[2008年]] - [[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]](夏季) * [[2009年]] - [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回ワールド・ベースボール・クラシック]] * [[2010年]] ** [[2010年バンクーバーオリンピック|バンクーバーオリンピック]](冬季) ** [[2010 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ南アフリカ大会]] - [[FIFAワールドカップ]]では[[アフリカ大陸]]初の開催となった。 * [[2012年]] - [[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]](夏季) * [[2013年]] - [[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回ワールド・ベースボール・クラシック]] * [[2014年]] ** [[2014年ソチオリンピック|ソチオリンピック]](冬季) ** [[2014 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップブラジル大会]] * [[2016年]] - [[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]](夏季) - [[近代オリンピック]]では[[南アメリカ大陸|南米大陸]]初の開催となった。 * [[2017年]] - [[2017 ワールド・ベースボール・クラシック|第4回ワールド・ベースボール・クラシック]] * [[2018年]] ** [[2018年平昌オリンピック|平昌オリンピック]](冬季) ** [[2018 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップロシア大会]] * [[2021年]] - [[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]](夏季) - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|COVID-19パンデミック]]の影響で、近代オリンピック史上初めて1年延期された。 * [[2022年]] ** [[2022年北京オリンピック|北京オリンピック]](冬季) - 2008年の夏季大会に続き、世界で初めて夏冬の両五輪を同一都市で開催。          ** [[2022 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップカタール大会]] - FIFAワールドカップでは[[中東]]初開催となり、また冬季開催も初である。 === 天文現象 === <!--21世紀を通して、特に世界的に注目・関心を集めた天文現象の列挙--> * [[2001年]] ** [[11月19日]] - [[しし座流星群]]がピークを迎え、1時間に数百から数千以上となる[[流星雨]]が観測された。 <!--(日本ローカルな話題のため、コメントアウト) * [[2009年]][[7月22日]] - インド、中国南部、南西諸島、西太平洋で観測された皆既日食 * [[2012年]][[5月20日]] - 日本の九州南部から近畿、東海、関東、東北にかけて[[2012年5月20日の日食|金環日食]](日本時間では[[5月21日]])。--> * [[2013年]] ** [[2月15日]] - ロシアの[[チェリャビンスク州]]に[[2013年チェリャビンスク州の隕石落下|隕石が落下]]。[[ソニックブーム|衝撃波]]により窓ガラスなどが割れ1,500人近くが負傷した。 ** この年の半ば以降に[[太陽活動]]の[[太陽極大期|極大期]]が予測されていたが、通常の極大期よりも[[黒点]]数が少なく活動自体も低調に推移しており<ref>[https://wired.jp/2013/09/18/sun-all-quiet/ 極大期でも低調な太陽活動:長期的活動低下も?]([[WIRED (雑誌)|WIRED]] 2013年9月18日)</ref>、また極大期に起こる現象として[[太陽]]の[[北極]]部では前年より[[磁場]]の反転が起きたが、一方の[[南極]]部では反転が1年以上遅れたため、一時的に北極部と南極部が同じ[[磁極]]となる特殊な状態が見られた<ref>[http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702304368604579193003074797332.html 太陽活動に異常―黒点や磁極反転に異例の現象]([[ウォール・ストリート・ジャーナル]]日本版 2013年11月12日)</ref>。 == 予測される天文現象 == * [[2029年]][[4月13日]] - [[小惑星]][[アポフィス (小惑星)|アポフィス]]が32,500km([[静止軌道]]近く)の距離まで地球に接近する。 * [[2030年]][[6月1日]] - [[北海道]]で[[金環食]]。 * [[2030年]][[9月21日]] - [[地球近傍天体|小惑星状物体]] [[2000 SG344|2000 SG<sub>344</sub>]] が[[月]]までの距離の13倍程度まで地球に接近する。 * [[2035年]][[9月2日]] - [[本州]]の[[能登半島]]から[[鹿島灘]]([[茨城県]])にかけての範囲で[[皆既日食]]。 * [[2036年]]4月13日 - 小惑星アポフィスが地球に再接近。 * [[2038年]] - [[2039年]] - [[土星の環]]の消失現象観測(3回観測、地球から見て完全に水平になる)。 * [[2040年]][[2月5日]] - 小惑星 [[(367789) 2011 AG5|2011 AG<sub>5</sub>]] が地球に接近。 * [[2041年]][[10月25日]] - 本州中央部(北陸から東海)で金環食。 * [[2048年]][[6月3日]] - 小惑星 [[2007 VK184|2007 VK<sub>184</sub>]] が地球に接近。 * [[2042年]][[4月20日]] - [[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]近海で皆既日食。 * [[2061年]] - [[ハレー彗星]]の接近が予測される。 * [[2063年]][[8月24日]] - [[津軽海峡]]沿岸で皆既日食、[[青森県]]北部や[[道南]]で観測できる。 * [[2068年]][[4月12日]] - 小惑星アポフィスが地球に再接近(<!--2020年時点の-->衝突確率は15万分の1程度、[[トリノスケール]]は0)<ref>[https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/ Sentry: Earth Impact Monitoring]: [https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/details.html#?des=99942 99942 Apophis (2004 MN4) -- Earth Impact Risk Summary] - NASA Jet Propulsion Laboratory (JPL), 2020年11月3日閲覧.</ref>。 * [[2070年]][[4月11日]] - [[ベヨネース列岩]]で皆既日食。 * [[2071年]][[9月16日]] - 小惑星状物体 2000 SG<sub>344</sub> が地球に再接近(<!--2020年時点の-->衝突確率は1100分の1程度、<!--サイズが小さいため-->トリノスケールは0)<ref>[https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/ Sentry: Earth Impact Monitoring]: [https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/details.html#?des=2000%20SG344 2000 SG344 -- Earth Impact Risk Summary] - NASA Jet Propulsion Laboratory (JPL), 2020年11月3日閲覧.</ref>。 * [[2074年]][[1月27日]] - [[鹿児島県]]南部の[[薩摩半島]]から[[大隅海峡]]沿岸で金環食。 * [[2085年]][[6月22日]] - [[沖縄県]]で金環食。 * [[2089年]][[10月4日]] - [[宮古島]]北部で皆既日食。 * [[2095年]][[11月27日]] - [[中国地方]]と[[四国]]で金環食。 * [[2098年]][[6月30日]] - 宵、太陽と月、[[惑星]]が地球から見て日月火水木金土の順に並ぶ。 == 予定されている事柄 == [[ファイル:JR-Maglev-MLX01-2.jpg|thumb|[[中央新幹線]]で使用される予定の[[超電導リニア]]実験車両]] * [[2024年]] ** [[2024年パリオリンピック|パリオリンピック]](夏季)開催予定。 ** この年の3月に、[[北陸新幹線]]の[[金沢駅]] - [[敦賀駅]]間が開業予定(2022年度末から延期)。なお、敦賀以西([[大阪駅]]方面)については2021年時点で整備・開業時期未定。 * [[2025年]] ** [[昭和100年問題]]。 ** [[2025年日本国際博覧会|大阪で国際博覧会]](大阪・関西万博)が開催予定。 ** [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が[[アルテミス計画]]によりこの年以降、半世紀ぶりに[[宇宙飛行士]]を[[月面]]に[[月面着陸|着陸]]させる予定。 * [[2026年]] ** [[2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック|ミラノ・コルティナオリンピック]](冬季)開催予定。 ** [[2026 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップカナダ・メキシコ・アメリカ大会]]開催予定。今大会より出場枠(参加国数)をこれまでの32チームから48チームに拡大。 ** 公式発表による、[[サグラダ・ファミリア]]完成予定([[アントニ・ガウディ|ガウディ]]没後100周年)。しかし、2021年時点では[[コロナ禍]]の影響もあり遅れる見込みで、完成は[[2256年]]前後という専門家の予測もある。 * [[2027年]] ** [[中央新幹線|リニア中央新幹線]]が[[東京都]]内 - [[名古屋市]]内で部分開通予定。ただし、2021年時点で[[静岡県]]内での着工の目処は立っておらず、遅れる見込み。 ** [[5月23日]]、[[ミッキーマウス]]の、日本国内での[[映画]]を除く[[著作権の保護期間#1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の保護期間|著作権保護期間]]満了(2006年現在の[[著作権法]]上)。 * [[2028年]] - [[2028年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]](夏季)開催予定。 * [[2030年]] ** [[持続可能な開発目標]](SDGs)の達成目標年。 ** [[スイス連邦鉄道]]の[[バーン2000計画]]がこの頃に完了予定。 ** [[2030 FIFAワールドカップ]](開催国未定)開催予定。[[1930年]]に開催された[[1930 FIFAワールドカップ|第1回大会]]から100周年となる。 ** [[国際宇宙ステーション]](ISS)は、この頃まで運用予定(NASAの計画)。 * [[2031年]] - この年の3月まで(2030年度)に、[[北海道新幹線]]が[[札幌駅]]までの全線で開業となる予定。 * [[2032年]] - [[2032年ブリスベンオリンピック|ブリスベンオリンピック]](夏季)開催予定。 * [[2037年]] - リニア中央新幹線の名古屋市内〜[[大阪市]]内間が開通し、全通する予定。 * [[2038年]] - [[コンピュータ]][[2038年問題]]。 * [[2045年]] - この頃までに、高レベル[[放射性廃棄物]]の最終処分場の操業を開始する計画になっている。 * [[2046年]] - [[香港]]の[[イギリス]]から[[中華人民共和国|中国]]への[[1997年]]返還前の制度維持の保証期限。 * [[2050年]] - [[欧州連合]](EU)や日本などは、この年までに[[温室効果ガス]]排出量の実質ゼロ([[カーボンニュートラル]])を目指している([[脱炭素社会]])。 == 21世紀に関する予測 == === 全般的な予測 === * [[2024年]] - ドライバー不足により「モノが運べない」物流危機が始まる([[2024年問題]])。 * [[2025年]] - [[団塊の世代]]が後期高齢者(75歳以上)に達し、厚生労働省は社会保障給付費の総額が144兆円に達すると試算している([[2025年問題]])。 * [[2030年]] - [[少子高齢化]]、[[超高齢化社会]]がさらに進み、国内人口の3人に1人が65歳以上になる。[[生産年齢人口]]の減少により[[人材不足]]になる([[2030年問題]])。 === 環境問題に関連した予測 === * [[2040年]] - [[地球温暖化]]により、関東平野が[[ウンシュウミカン]]の適地に。 * [[2050年]] ** [[国立環境研究所]]などのチームは、[[南極]]上空で[[オゾン層]]の回復が進み、この頃には[[オゾンホール]]ができなくなるとしている。 ** [[気候変動に関する政府間パネル]]の[[IPCC第4次評価報告書|第4次報告書]]([[2007年]])によると、気温上昇を2℃程度に食い止めるには、[[2050年代]]までに[[温室効果ガス]]の排出量を[[2000年]]頃の[[新世紀]]より半減させる必要があるとの指摘がされている。 * [[2100年]] ** 2100年までに海面水位は平成初期の[[1990年]]の時点より50cm高くなる見通しであり、その不確実さの範囲は20〜86cmである<ref>財団法人高度情報科学技術研究機構の試算による([https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_01-08-05-11.html 海面上昇の現状と予測 (01-08-05-11)])。</ref>。 ** 地球の平均気温は1990年時より最大約1.4℃〜5.8℃上昇する。 ; 日本 * [[気象庁]]によると、21世紀末([[2076年]] - [[2095年]])の日本の年平均気温は20世紀末との比較で約3℃上昇、また最高気温が35℃以上の[[猛暑日]]は[[東日本]]・[[西日本]]で10日程、[[北日本]]で2日程、[[沖縄県|沖縄]]・[[奄美地方]]で15日程増加する。雨の降らない日も5日から10日の1週間程度増えて、[[降雪]]量は東日本の[[日本海]]側で平均150cm減るなど全国的に減少傾向にある(空気中の[[二酸化炭素]]濃度が現在の1.8倍になるという[[国際連合|国連]]予測に基づく)<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20130315-OYT1T01099.htm?from=ylist 今世紀末の平均気温、3度上昇…気象庁予測](''[[読売新聞]] 2013年3月16日''){{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 === 人口予測 === [[ファイル:World-Population-1800-2100.png|thumb|250px|1800年から2100年までの世界人口予測(国連 (2004) 及び[[アメリカ合衆国国勢調査局|アメリカ国勢調査局]]の評価・推計に基づく) <br />{{legend-line|black solid 2px|推定値}} {{legend-line|blue solid 2px|統計値}} {{legend-line|red solid 2px|国連の推計値 高位}} {{legend-line|orange solid 2px|国連の推計値 中位}} {{legend-line|green solid 2px|国連の推計値 低位}}]] [[2022年]]には国連による[[世界人口]]の推計が80億人に達した<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022"/>。今後については多くの予測で、21世紀中に世界人口がピークを迎え[[発展途上国]]にも[[高齢化社会]]が到来すると分析されている。 * 今後の[[人口]]に関する推移予測(世界人口は中位値)<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022">[https://tokyo.unfpa.org/ja/news/wpp2022 世界人口は今年11月に80億人に:国連が「世界人口推計2022年版」を発表]([[国際連合人口基金|国連人口基金]]駐日事務所 2022年7月12日、2022年8月7日閲覧)</ref> ** [[2030年]] - この頃までに世界人口が85億人に達する<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022"/><ref name="syakaijitsujyodate-jinkosuikei">[https://honkawa2.sakura.ne.jp/1151.html 図録▽世界と主要国の将来人口推計](社会実情データ図録 2022年8月7日閲覧)</ref>。 ** [[2040年]] - この頃までに世界人口が90億人に達する<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022"/><ref name="syakaijitsujyodate-jinkosuikei"/>{{refnest|group="注"|国連による『世界人口予測』 (''World Population Prospects'') の2022年版では、世界人口が90億人に達するのは2037年と予測されている(中位値)<ref>[https://www.jircas.go.jp/ja/program/proc/blog/20220713 578. 国連「世界人口予測2022」~2022年11月15日 80億人到達と予測~](国立研究開発法人[[国際農林水産業研究センター]] 2022年7月13日、2022年8月7日閲覧)</ref>。}}。 ** [[2060年]] - この頃までに世界人口が100億人に達する<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022"/><ref name="syakaijitsujyodate-jinkosuikei" />{{refnest|group="注"|国連による『世界人口予測』 (''World Population Prospects'') の2022年版では、世界人口が100億人に達するのは2058年と予測されているが、その後は増加のペースが鈍化して2086年に約104億人でピークとなり、2100年まで同水準を維持すると予測されている(いずれも中位値)<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022"/><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM122RH0S2A710C2000000/ 世界の人口増1%割れ 戦後成長の支え、転機に](日本経済新聞 2022年7月12日、2022年8月7日閲覧)</ref>。}}。 * [[人口]]予測に関するデータ ** [https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/suikei07/suikei.html#chapt11-1 日本の将来推計人口(平成18年12月推計)](人口問題研究所) ** [http://www.jarc.net/aging/jp/06feb/060203JARC_Population.pdf 日本人人口の将来推計] ** 国際連合経済社会局の人口推計 *** [http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2008/wpp2008_text_tables.pdf WPP2008(国際連合経済社会局人口推計 2008年版)] **** 2050年の世界人口は、低位79.59億人、中位91.5億人、高位104.61億人、コンスタント110.3億人と予測している。 **** 各国の人口予測(2015年、2025年、2050年)については、p20-24(TABLE A.2. TOTAL POPULATION BY COUNTRY, 1950, 2009, 2015, 2025 AND 2050)を参照。 *** 過去のその他のデータ **** [http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2006/WPP2006_Highlights_rev.pdf WPP2006(国際連合経済社会局人口推計 2006年版)] **** [http://www.un.org/esa/population/publications/WPP2004/2004Highlights_finalrevised.pdf WPP2004(国際連合経済社会局人口推計 2004年版)] **** [http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2002/WPP2002-HIGHLIGHTSrev1.PDF WPP2002(国際連合経済社会局人口推計 2002年版)] === 科学技術予測 === * [[2025年]] - [[齊藤元章]]はこの頃までにプレ・シンギュラリティ(社会的特異点)が到来し、GNR革命([[遺伝子工学]]、[[ナノテクノロジー]]、[[人工知能]]の爆発的進歩)が始まると予測している。 * [[2045年]] - 未来学者[[レイ・カーツワイル]]は、この頃にシンギュラリティ([[技術的特異点]])が到来すると予測している。 * [http://jvsc.jst.go.jp/shiryo/yosoku/index.htm JSTバーチャル科学館|未来技術年表] * [http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/mirai/index.html NEDO:未来社会見学会] * [http://www.nistep.go.jp/index-j.html NISTEP HOMEPAGE TopFrame Japanese] * [http://www.iftech.or.jp/ 財団法人 未来工学研究所] * [http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000951&f=cnet&vos=nytecnta000000000002 20XX年のユビキタス、ロボット、Web/Tech総研] * [https://web.archive.org/web/20120812092042/http://wired.jp/wv/archives/2002/04/08/%E9%95%B7%E6%9C%9F%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E4%BA%88%E6%B8%AC%E3%81%A7%E8%B3%AD%E3%81%91%E3%82%92%E8%A1%8C%E3%81%AA%E3%81%86%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%80%8E/ 長期的な未来予測で賭けを行なうプロジェクト『ロング・ベッツ』] * [http://sme.fujitsu.com/tips/column/column099.html 未来技術予測 : 富士通] * [https://news.mynavi.jp/news/2007/02/28/380.html 「超小型ロボットが体内で手術」は2018年に実現、未来のIT社会を韓国が予測 (MYCOMジャーナル)] == 21世紀における課題 == 急激な[[文明]]の進歩の途上で発生した問題が山積している。現在、解決に向けた取り組みが世界各国で行われている。 [[ファイル:オトンルイ風力発電所_1.jpg|thumb|環境技術(オトンルイ[[風力発電|風力発電所]])]] * [[地球温暖化]] * [[宗教]]紛争・民族紛争 * [[戦争]]・[[テロリズム]] * [[原子力事故]]と[[放射性廃棄物]]による[[放射能]]汚染 * [[核兵器]]の存在と[[生物兵器]]・[[化学兵器]]の脅威 * [[感染症]] - [[後天性免疫不全症候群|エイズ]]、[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]([[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]を含む)、[[新型インフルエンザ]]など。 * [[南北問題]] * [[貧困]] * [[砂漠化]]と[[森林]]の喪失 * 漁業資源の枯渇・[[海洋汚染]] * [[化石燃料]]・[[希土類元素|レアアース]]の枯渇 * [[開発途上国]]における[[人口]]爆発 * [[先進国]]における[[少子化]]・[[高齢化]] === 科学技術 === 20世紀から21世紀にかけての人口の増加と、人間活動の広がりは、地球[[環境]]への負荷を非常に大きなものとした。豊かな生活と[[環境負荷]]の軽減を両立させるために、新たな[[環境技術]]開発が切望されている。また、20世紀後半からの[[医学]]・[[生物学]]・[[バイオテクノロジー|生命工学]]の発展は著しく、[[再生医療]]や[[遺伝子治療]]の実用化により、今まで治ることのなかった病気や老化による障害を治すための研究が進められている。技術進歩を人間の[[寿命]]の大幅な延長や肉体機能の拡張に利用しようという動きもある([[トランスヒューマニズム]])。一方[[高齢化社会|社会の高齢化]]とあいまって、[[医療費]]の高騰も心配されている。 [[携帯電話]]や[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]による[[インターネット]]は、テレビ・ラジオ・CD・新聞など既存のメディアを取り込んで急速に[[情報化]]を進展させている。これによりインターネットに接続されたコンピュータの数が増加するとともに、[[IPアドレス]]の不足が深刻化しつつある。これに関しては[[ユビキタス]]社会の進展に伴って、今後、[[IPv4]]から[[IPv6]]への移行が進められている。また近年では、[[コンピュータ・ウイルス]]や[[クラッキング (コンピュータ)|不正アクセス]]による被害が深刻になり、[[コンピュータセキュリティ]]上の問題が重要視されてきている。 [[2000年代]]以降のコンピュータとインターネットの普及により、[[ビッグデータ]]と呼ばれる程の巨大な情報が毎日のように生み出されるようになった。さらには、[[モノのインターネット|IoT]]/[[マシンツーマシン|M2M]]技術の進歩により現実世界のデータが高精度にサンプリングされてインターネット上に流通するようにもなった。そのような巨大な情報は人間のみでは十分に利活用しきれないため、高性能なコンピュータ・クラスタや[[人工知能]] (AI) の産業への応用が急速に進展している。特に、2006年に提唱され、[[2012年]]以降に普及した[[ディープラーニング]]によって人工知能の応用範囲が大幅に広がったことが大きな契機となった。このまま研究が進み、人工知能に関わる技術が進歩した場合には、ある時点で人工知能の思考能力が人間の頭脳の思考能力を超え始めると考えられている([[技術的特異点|シンギュラリティ]]の到来。未来学者の[[レイ・カーツワイル]]によると、2045年頃と予測されている)。技術的特異点の支持者らによると、これを超えると。人工知能の手になる、より知性的な人工知能の開発が繰り返され、人類だけの頭脳とコミュニケーションの速度では不可能なほどの超加速度的な[[科学技術]]の進歩が始まるとされている。2012年にカーツワイルが[[Google]]に招致されたことや、同年にディープラーニングの応用が急激に広がり始めたことを機に、ビッグデータや人工知能という概念が頻繁にニュースや新聞記事などに取り上げられ、人類はどのようにその日を迎えるべきか、あるいは、そもそも本当にそのような事が起き得るのかという議論が民間でも活発に行われるようになった。 == 20世紀における21世紀像 == {{独自研究|date=2017年10月27日 (金) 18:16 (UTC)|section=1}} [[ファイル:Curtis-wright-gem-2500.jpg|サムネイル|[[カーチス・ライト]]社製の浮上可能な自動車(エアカー)]] 20世紀半ばから後半における21世紀の[[未来]]像の定番要素に「[[テレビ電話]]」、「[[薄型テレビ|壁掛けテレビ]]」、「[[立体テレビ放送|立体テレビ]]」、「[[電気自動車]]」、「[[自動運転車]]」、「[[エアカー]]など個人用の空飛ぶ乗り物([[空飛ぶクルマ]])」、「(超高速鉄道としての)[[リニアモーターカー]]」、「丸みを帯びた独特な[[建築物#建築物とビルディング|ビルディング]]の形状や[[真空チューブ列車|上空を通る透明のチューブ]]」、「[[宇宙旅行]]や[[惑星]]間の移動、[[月面基地]]や[[火星]]への移住、大規模な[[宇宙開発]]」、「[[海底都市]]」、「一家に一台の[[コンピュータ]]や[[家庭用ロボット]]」などがあった。 21世紀は、20世紀においてはまさに"夢"の時代であった。しかし実際に21世紀に入ってみると、コンピュータと情報通信技術に関しては予想を超える爆発的な進化を遂げた一方、宇宙開発や交通分野ではかつての未来像の多くが未だに実現していない。産業革命以来の[[環境問題]]・[[人口爆発]]・資源不足問題も部分的には改善されたが根本的解決の目処は立っていない。『綻びゆくアメリカ』で著者のジョージ・パッカーは、1973年以降を「明確な未来を描けなくなった時代」とし、2013年までに目覚ましいイノベーションが起こったのはコンピューターと金融の業界だけだったとしている<ref name="insider">{{Cite web|和書|title=ピーター・ティールがトランプ支持の本当の意味——テクノロジーが政治を飲み込み始めた|url=https://www.businessinsider.jp/post-34264|website=www.businessinsider.jp|date=2017-06-10|accessdate=2021-05-11|language=ja|last=松島倫明}}</ref>。[[ピーター・ティール]]率いるファウンダーズ・ファンドは「[[空飛ぶ車]]を夢見ていたのに、手にしたのは[[Twitter|140文字]]だ」というマニフェストで現状を表した<ref name="insider"/>。 === 21世紀初期における現状 === 本項目では[[2020年]]ごろまでの現状と展望を記述する。 ==== コンピュータ・インターネット ==== 21世紀初頭は、前世紀期末に引き続き[[情報技術|IT]]関連のテクノロジーが高度化してきた時代である。従来からの[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[携帯電話]]([[2010年代]]前半に[[フィーチャーフォン]]から[[スマートフォン]]に移行)に加え、[[2003年]]ごろから[[三種の神器 (電化製品)#デジタル三種の神器|いわゆるデジタル三種の神器]]([[デジタルカメラ]]・[[DVDレコーダー]]・[[薄型テレビ]])をはじめ、[[デジタルメディアプレーヤー]]などの[[デジタル家庭電化製品|デジタル家電]]機器が浸透した。こうして、[[2000年代]]後半においてコンピュータはすでに「一家に一台」から「一人一台」を超え、「一人多数台」のレベルへと移行するまでの普及を遂げた。これらは、「20世紀における21世紀像」を大きく上回る進化を遂げ、個々のコンピュータの性能も[[1980年代]]の[[メインフレーム]]を遥かに凌駕しており、[[情報通信技術]]による社会の変化は[[情報革命]]とも呼ばれる。 また現在においては[[狩猟採集社会|狩猟社会(Society 1.0)]]、[[農耕社会|農耕社会(Society 2.0)]]、[[工業社会|工業社会(Society 3.0)]]を超えて[[情報社会|情報社会(Society 4.0)]]となっているほか、[[サイバースペース|仮想空間]]<!--電脳空間-->と[[現実|現実空間]]を融合させ、<!--電脳化により-->広大なネットへのアクセスを可能にすることで、人類の身体的・時間的制約を解除する[[ソサエティー5.0|Society 5.0]]とそのための[[ムーンショット型研究開発制度|ムーンショット計画]]を日本が提唱している。 コンピュータを常に身につけて利用する[[ウェアラブルコンピュータ|ウェアラブルコンピューティング]]も、2000年代に携帯電話(スマートフォン)や[[携帯ゲーム機]]の普及により一般化した。ウェアラブルコンピューティングデバイスとして古くから構想されていた[[スマートウォッチ]]や[[ヘッドマウントディスプレイ]]は[[1990年代]]に既に商品化されていたが、本格的な普及が始まるのは[[2010年代]]後半に入ってからである。また同時期には[[モノのインターネット|IoT]]、[[マシンツーマシン|M2M]]技術が浸透しはじめ、[[センサ]]と無線接続機能を持つあらゆる製品がインターネットにつながり、相互に情報交換するようになるなど、[[ユビキタス]]社会の深化が進みつつある。家電製品や自動車などの[[組み込みシステム]]にはリッチな[[ユーザインターフェース]]([[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) や[[音声ユーザーインターフェース]] (VUI) )と無線ネットワーク機能(携帯電話回線への接続や[[無線PAN]]機能)が備えられ、スマートフォンなどと連携して動作するようにもなっている。 コンピュータの性能は[[集積回路]]の微細化([[ムーアの法則]])を主な原動力に急激に上昇しつづけてきたが、2000年代中頃から半導体産業は[[リーク電流]]の増大という[[量子力学]]的効果に起因する難問に直面した。集積回路を微細化しても以前ほどの高速化にはつながりにくくなり、コンピュータ技術は[[SIMD]]や[[マルチコア]]など、[[並列コンピューティング]]による性能向上に舵を切った。またこの頃から回路の微細化が進んでも電力消費と発熱がそれに見合うほど減らなくなった([[デナード則]]の崩壊)ため、回路上で同時稼働させることのできないエリアが増え(ダークシリコン問題)、[[ヘテロジニアス・コンピューティング]]や特定アプリケーションに特化した回路 ([[ASIC]]) の実装が重要になった<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/549137.html モバイルSoCにおけるダークシリコンの呪縛] PC Watch(2012年 7月 26日)2021年1月6日閲覧</ref>。さらに、[[2016年]]頃からは集積回路の微細化ペース自体も鈍化しはじめ、ムーアの法則に牽引された従来のコンピュータの性能向上パラダイムは終焉を迎えつつある<ref>[http://eetimes.jp/ee/articles/1706/05/news053.html 「ムーアの法則は終わった」、NVIDIAのCEOが言及] EEtimes Japan(2017年6月5日)2017年6月5日閲覧</ref>。[[極端紫外線リソグラフィ|EUV露光]]、回路の多層化、[[:en:Three-dimensional_integrated_circuit|3Dチップ]]などの新たな実装技術を駆使したとしても、[[2020年代]]中には集積回路の微細化が限界に達し従来の[[ノイマン型コンピュータ]]の性能向上が頭打ちになるとみられており、[[量子]]の性質を利用する[[量子コンピュータ]]の普及も期待されている。 [[人工知能]] (AI) の利用・応用は2010年代初頭までごく限られていたが、[[2012年]]以降の[[ディープラーニング]]の普及によりその実用性が大幅に増し、IoTにより生成される[[ビッグデータ]]の利活用([[データマイニング]])や、[[画像認識]]、画像処理・[[音声処理]]や[[自然言語処理|自然言語の処理]]、[[エキスパートシステム|意思決定支援]]、[[自動運転車|自動運転車両]]など幅広い分野への応用が急激に進みつつある。 ==== 電話・移動通信 ==== [[電話機]]はこれらをデザインした作品においても、固定端末であることが多かった。しかしすでに2000年代初頭、日本においては、多機能な[[携帯電話]]端末は子供や若者が個人用に保有するまでに普及し、「[[テレビ電話]]」も同時期に携帯電話や[[固定電話]]で実現されている。2000年代末には[[iPhone (初代)|iPhone]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]の登場を機に、[[タッチパネル]]による直感的な操作性と、パソコン並みの柔軟な機能拡張性をそなえた[[スマートフォン]]の普及が一気に進んだ。 2010年代中ごろからは[[第4世代移動通信システム]] (4G) の普及によって大容量の通信が低コスト化し、固定回線同様の動画や音楽などの配信が携帯端末でも実用化した。将来的には[[第5世代移動通信システム]] (5G)(あるいはその先の[[第6世代移動通信システム]] (6G))への移行に伴いさらに高速化・大容量化・低遅延化などが見込まれ、これまでの携帯端末などにおける[[移動体通信|移動通信]]用途にとどまらず、IoTや自動運転車両、[[遠隔医療]]・[[ロボット支援手術]]など様々な用途での活用も期待されている。 ==== テレビ・ディスプレイ ==== [[テレビ]]の形状も2000年代には、[[液晶テレビ]]・[[プラズマテレビ]]の普及により[[薄型テレビ]]が主流になり、従来の[[ブラウン管]]型から完全に移り変わった。専用の器具を使えば当然、壁に掛けることも可能である。曲げることが可能な[[有機EL]][[ディスプレイ]]も21世紀に実用化された。 また、2010年代に入り[[2160p|4K]]や[[4320p|8K]]などの高[[画面解像度|解像度]]化や、120Hzや240Hzなどの[[リフレッシュレート]]の向上が進んでいる。また、[[両眼視差]]や[[ホログラム]]技術などによる立体描写可能な[[3Dテレビ]]・[[3Dディスプレイ]]、[[バーチャルリアリティ|VRデバイス]]も開発されている。 ==== 照明 ==== 21世紀に入ってから、[[地球温暖化]]防止・[[環境保護]]の観点から[[消費電力]]が多く短寿命である[[白熱電球]]の使用が控えられるようになり、消費電力が相対的に低い[[電球型蛍光灯]]や[[LED照明]]への置き換えが進んだ。LED照明は当初は誘導灯や[[常夜灯]]など比較的低照度の用途での利用が主であったが、2000年代末から一般照明用光源としての普及が始まり、2010年代中ごろには一般用照明の主流となった。今後は[[有機エレクトロルミネッセンス#有機EL照明|有機EL照明]]の登場・普及も予想されている。 ==== メディアの電子化 ==== 20世紀末までに、ほとんどの映像メディアが[[デジタイズ|電子化]]され、21世紀に入ってからは[[デジタルカメラ]]やカメラ付き携帯電話の普及により、[[写真]]の電子化が急激に進んだ。 2000年代以降、ニュースなどの[[情報]]も[[新聞社]]や個人によって[[インターネット]]配信されており、徐々に新聞離れ・雑誌離れが起きている。漫画や小説、その他の出版物のネット配信もされているが、2000年代までは紙の本を置き換えるほどには活用されていなかった。しかし、2010年代に入ると直感的な操作ができる[[タッチパネル]]を搭載した端末や、表示中に電力を消費しない[[電子ペーパー]]を搭載した端末が注目を集め、出版物のインターネット配信が急激に広がった。2017年には電子版の漫画単行本の売り上げが紙媒体の売り上げを上回り、出版界でも電子化の進展が目覚ましい。 ==== エネルギー・環境 ==== [[エネルギー]]分野では、[[省エネルギー]]の取り組みと並行して[[太陽光発電]]、[[シェールガス]]などの非在来型資源の開発が進み、新興国での[[モータリゼーション]]の進行にもかかわらず、[[石油]]の戦略性は20世紀と比べ相対的に減少している。 化石燃料の使用による[[二酸化炭素]]などの[[温室効果ガス]]の世界的な排出増大が続いており、[[代替エネルギー]]の開発は前世紀に引き続き重要な問題である。温室効果ガス排出抑制と[[2003]]年ごろからの[[原油価格]]の高騰に対処するため、世界各国で[[2006年]]ごろから[[脱原発]]の目標を見直し[[原子力発電所]]の新設に舵を切るなど「原子力ルネサンス」と言われる動きが生じていたが、[[2011年]]の[[福島第一原子力発電所事故]]で脱原発が再びブームとなった。しかし、[[2022年]]の[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]で生じたエネルギー問題により再び原子力が注目されており、右往左往な状態が続いている。 究極のエネルギー技術とされる[[核融合炉]]の実用化の目処はまだ立っていないものの、[[2025年]]に運用開始が予定される国際熱核融合実験炉[[ITER]]の建設と並行して、[[国際核融合材料照射施設|IFMIF]]などの関連技術の開発が進められている。 2020年時点ではまだ(生産活動などで排出される温室効果ガスと森林などに吸収される分が釣り合っていることを示す)「[[カーボンニュートラル]]」実現には程遠い。EU、アメリカ合衆国、日本は[[2050年]]までのカーボンニュートラル達成を掲げており、[[再生可能エネルギー]]である太陽光発電、[[風力発電]]などの普及は目覚ましいものがあるが、太陽光、風力とも変動型電源であることから大容量の蓄電設備の整備は欠かせず、[[スマートグリッド]]技術を応用した電力供給体制の整備が急がれている。 ==== 自動車 ==== 21世紀初頭の20年間の日本や欧州の自動車メーカーは、1997年に採択された[[京都議定書]]などで[[温室効果ガス]]排出の抑制が求められるようになったことに加え、特に[[2004年]]から[[2008年]]にかけての[[原油価格]]の高騰の後押しもあって、[[低公害車|低公害型内燃機関自動車]]の開発にしのぎを削った。日本では[[軽自動車]]などの[[ダウンサイジングコンセプト|燃費重視型低排気量車両]]や[[ハイブリッドカー]]が主流となった。 欧州各国では[[ディーゼルエンジン|低公害ディーゼル]]車やダウンサイズターボを採用したガソリン車へのシフトが進んでいたが、[[2016年]]に[[フォルクスワーゲン]]のディーゼル排出ガス不正問題が発覚し、他メーカーも含めて[[ディーゼル自動車|ディーゼル乗用車]]の販売が激減した。この事件と、[[カーボンニュートラル]]達成のために温室効果ガスの排出のさらなる抑制が求められたことを機に、自動車業界は従来の[[化石燃料]]を燃料とする[[内燃機関]]による駆動から、[[マイルドハイブリッド]]や[[プラグインハイブリッド]]車(PHV)を経て、蓄電池式の[[電気自動車]]や[[燃料電池車]]への転換を目指す「電動化」に舵を切ることになった。EUは3035年までに内燃機関車(ガソリン、ディーゼル車だけでなく、低公害車とされる[[LPG自動車]]や[[プラグインハイブリッドカー]]を含む)の発売禁止を打ち出した。アメリカ合衆国も、2030年までに新車販売の半数を[[水素自動車]]などを含むゼロエミッション車にする方針を打ち出している。 情報化の波は自動車も例外でなく、21世紀初頭において乗用車には[[カーナビゲーション]]、[[テレマティクス]]の装備が一般化した。さらに、高知能自動車([[スマートカー]])の開発が進み、「[[高度道路交通システム]]」(ITS) と連動して、車間距離を保ったり、道路交通情報がリアルタイムで取得可能になるような技術開発が進められた。自動車の[[自動運転車|自動運転システム]]についても2010年代に入り開発が活発化しており、自動運転車の「レベル1」「レベル2」に当たる[[衝突被害軽減ブレーキ]]や [[アダプティブクルーズコントロール]]の搭載は既に一般化、 [[自動駐車]]の搭載も広がりつつある。日本では2021年11月以降に販売される新型車は衝突被害軽減ブレーキの搭載が義務化されるなど、先進国で販売される自動車は[[先進安全自動車|先進安全装備]]の搭載が常識化しつつある。 ==== 航空機 ==== [[File:Volocopter,IAA_2017,_Frankfurt_(1Y7A1911).jpg|サムネイル|eVTOL ([[ボロコプター2X]])]] [[無人航空機]]は軍事分野を先頭に普及した。前世紀末までは偵察機や標的機としての利用に限られたが、2001年から始まった[[対テロ戦争]]には無人攻撃機([[UCAV]])が実戦投入され、無人機が人間を殺害する時代が到来した。民生分野でも、2010年代には[[ドローンビジネス]]として、土木や観光、警備救難、運送など無人機が幅広い分野で活用されるようになった。 電動化の波は空の乗り物も例外ではなく、[[電動航空機]]の開発が活発化してきており、[[マルチコプター]]技術などを活用した「[[有人ドローン]]」(''Passenger drone'')や「[[空飛ぶクルマ]]」(''Flying car'')と称される[[eVTOL]]の実用化に向けたプロジェクトが各地で立ち上がっている。しかし、浮上は地上走行に比べて原理的に非効率であり、eVTOLによる[[エアタクシー]]が実用化されてもニーズは限られるとする指摘もある<ref>[https://asahi-kasei-mobility.com/topics/vol2_3/ 正しい利用で、空飛ぶクルマが環境に優しい乗り物に](Asahi Kasei AUTOMOTIVE)</ref>。また、航空機の電動化は[[ヘリコプター]]や[[リージョナルジェット]]などの小型機に限られ、それも[[ガスタービンエンジン]]などと組み合わせたハイブリッド方式が主流であろうと予想されており、長距離の空の旅は[[ジェット機]]が主流という状況は当面揺るがないであろうと考えられている<ref>[https://www.aviationwire.jp/archives/172870 航空機の電動化、ハイブリッドが当面主流に 特集・ロールスロイス スタインCTOに聞く(後編)(Aviation Wire、2019年5月)]</ref>。 環境と安全性が重視される世相に合わなくなった[[超音速輸送機|超音速旅客機]]である[[コンコルド]]は2003年に終航を迎え、かつて現実のものであった超音速での空の旅は再び「夢」となってしまった。このため[[ソニックブーム]]が少ない超音速旅客機の研究開発が進められている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC15ED80V10C21A6000000/ 超音速旅客機、JAXAやIHIなど開発 2030年想定 米ボーイングなどと](日本経済新聞 2021年6月16日)</ref>。 ==== 鉄道 ==== 旅客鉄道は、20世紀末より都市部を中心に[[ホームドア]]や[[ATO|自動運転]]の普及が徐々に進んでいる。非電化鉄道では自動車のハイブリッド技術をフィードバックした[[ハイブリッドカー]]が実用化されたほか、実用的な[[蓄電池]]式車両が登場し、非電化区間に「電車」を走らせることも可能となった。 [[貨物列車|貨物鉄道]]は、エネルギー効率に優れ温室効果ガスの排出が少ない輸送手段であるが、日本における鉄道貨物は20世紀末に[[貨物自動車|トラック]]との競争に敗れシェアが激減、トラック運転手の負担軽減や[[モーダルシフト]]が叫ばれる中でも回復していない。物流業界は低炭素社会への対応のため、トラックの電動化と並行して、旅客列車での[[荷物列車|荷物輸送]]も含めた鉄道輸送の活用を模索している。 [[高速鉄道]]は、フランスの[[TGV]]は既に[[1993年]]に営業最高速度を300km/hに引き上げており、[[2007年]]には営業運転速度ではないが鉄輪式鉄道の世界速度記録、574.8km/hを記録した。この速度はすでに[[リニアモーターカー]]の最高速度の領域である。日本でも[[1997年]]に[[新幹線500系電車]]の登場により[[山陽新幹線]]で300km/h運転を始めている。 2000年代には[[上海トランスラピッド]]が運行を開始し、中速交通では[[HSST]]([[愛知高速交通東部丘陵線]]で採用)で[[磁気浮上式鉄道|磁気浮上式リニアモーターカー]]の営業運転が始まったが、21世紀前半時点では東アジアに数路線程度に留まる。[[超電導]]磁気浮上式リニアモーターカーについては、[[東海旅客鉄道|JR東海]]が[[2027年]]以降をめどに[[超電導リニア]]による[[東京]]〜[[名古屋市|名古屋]]間の営業運転開始を目指す([[中央新幹線|リニア中央新幹線]])。また、新技術として[[ハイパーループ]]が研究されている。 ==== 街並み・建築 ==== 世界的には20世紀後期に[[ハイテク建築]]・[[ポストモダン建築]]など新奇なデザインへの試みが精力的になされた。21世紀に入ってからは設計にコンピューターを駆使 ([[CAM]]) した[[脱構築主義建築]]なども登場した。中国やシンガポール、[[中東]]を中心に現代建築が各地で建てられ、アジア[[新興国]]の中心部では現代建築が林立する景観が見られる。 21世紀に入ってからの建築技術の進歩としては、先述のCAMのほか、[[構造用合板|CLT]]の使用により、[[木構造 (建築)|木造]]の高層建築が登場していることが特筆される。また、前世紀末からの流れではあるが、特に住宅建築は[[省エネルギー住宅|省エネルギー化]]の要請により気密性能の強化、断熱構造の高度化が進んだ。1980年代以降、寒冷地から[[複層ガラス]]や樹脂サッシ、高性能な[[断熱材]]が徐々に広がり、2010年代頃から温暖な地域でも一般化しつつある。気密性の強化により新築住宅では24時間自動換気が標準化(日本では2003年に義務化)し、極寒の地でも、暖房なしでも過ごせる[[パッシブハウス]]も現れた。 日本の街並みは全国的には20世紀末期以降から劇的な変化は無いが、家庭の気密化と商業施設の高層化が進み、都市部においては中高層の[[オフィスビル]]や[[タワーマンション]]、現代建築も[[都市再開発]]とともに林立するようになった。 ==== 宇宙開発 ==== [[宇宙開発]]の分野は、20世紀のフィクションと比べて著しく遅れている。これは、[[冷戦]]下における[[超大国]]同士の競争として莫大な資金をつぎ込まれていた宇宙開発が、米ソ両国の財政状況により[[1970年代]]以降鈍化し、冷戦の終結とともに停滞したことや、[[宇宙速度]]を振り切って大量の資材を搬送するという宇宙開発の原理的困難が解決される見通しがついていないことが要因に挙げられる。 <!--一方で、資材の搬送を容易にするために、[[赤道]]付近に[[軌道エレベータ]]を建設するプロジェクトが全米宇宙協会などにより進められている。材料に[[カーボンナノチューブ]]を使用し、[[2031年]][[10月27日]](当初は[[2018年]][[4月12日]]を予定していた)の開通を目指している。--> 21世紀に入り[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) は、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ大統領]]の宇宙政策に基づき、[[2020年]]までに再度[[月面]]の[[有人探査]]を行い、その後に[[火星]]の有人探査も実現するという「[[コンステレーション計画]]」を発表したが、計画の遅れや予算の圧迫などを理由に中止となった。この計画では[[月面基地]]の建設も構想されていた。一方で、[[バラク・オバマ|オバマ大統領]]は[[2030年代]]半ばの実現に向けた[[有人火星探査]]計画を[[2010年]]に発表している。月より遠距離に到達可能な新型[[ロケット]]の[[2025年]]までの開発、[[小惑星]]の有人探査に続き、2030年代の火星軌道への到達、そして有人火星探査を実現するというものである。その後、次の政権に就いた[[ドナルド・トランプ|トランプ大統領]]は月面開発を足がかりにして火星への有人探査を目指す新たな方針を[[2017年]]に表明しており<ref>[https://www.sankei.com/article/20171212-56MTNY32DZKZRD7NO46KZFDSKY/ 月を足がかりに火星へ有人探査 大統領令に署名、中国意識「リーダーであり続ける」](産経ニュース 2017年12月12日)</ref>、NASAも[[2024年]]までに再び月面への有人[[月面着陸|着陸]]を目指す「[[アルテミス計画]]」を[[2019年]]に発表している<ref>[https://www.cnn.co.jp/fringe/35136898.html NASA、初の女性飛行士の月面着陸目指す 24年までに](CNN.co.jp 2019年5月14日)</ref><ref>[https://gigazine.net/news/20190515-nasa-artemis-project/ 2024年までに人類を再び月面に送る「アルテミス計画」をNASAが発表、史上初となる女性の月面到達も目指す](GIGAZINE 2019年5月15日)</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3226543 NASA、有人月面着陸計画「アルテミス」のスケジュール発表](AFPBB News 2019年5月24日)</ref>(2021年11月時点で有人月面着陸計画は、[[2025年]]以降に遅れる見込み<ref>[https://sorae.info/space/20211113-nasa-artemis.html NASA「アルテミス計画」有人月面着陸は2025年以降に、新型コロナや訴訟も影響] - sorae (2021年11月13日)</ref>)。 {{seealso|アメリカ合衆国の宇宙開発}} アメリカ合衆国以外では、[[中華人民共和国|中国]]が月面での有人探査と基地建設を目指している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3222449 中国、月面基地を「10年以内に」建設へ](AFPBB News 2019年4月25日)</ref>他、[[ロシア]]や[[欧州宇宙機関]] (ESA) でも有人火星探査計画が構想されている。 [[宇宙旅行]]については、[[ヴァージン・ギャラクティック]]や[[スペースX]]など複数の民間企業が企画・研究開発しており、ヴァージン・ギャラクティックは日本円で1席約5000万円とかなりの高額ではあるが、宇宙旅行チケットを販売している。 == 架空のできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年世紀21|date=2011年7月}} * [[2001年]] ** 表向きは遷都を目的として、[[第2新東京市]]が建設された。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』) ** 月で[[1999年]]に発見された[[モノリス (2001年宇宙の旅)|モノリス]]の信号を元に、[[HAL 9000]]に操作されたディスカバリー号が[[木星]]へ向かう。(映画・小説『[[2001年宇宙の旅]]』) ** 「大消滅」が起こり、地上の3分の2が消滅する。(特撮テレビ番組『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』) ** 謎の存在「アンノウン」が現れ人々を襲い始める。時を同じくして、謎の戦士「アギト」出現。(特撮テレビ番組『[[仮面ライダーアギト]]』) ** [[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]と[[メガギラス]]が[[お台場]]で激突。(映画『[[ゴジラ×メガギラス G消滅作戦]]』) * [[2003年]] ** [[4月7日]] - 東京でアトム誕生。(漫画・アニメ『[[鉄腕アトム]]』) ** [[10月13日]]15:34 - [[陸上自衛隊]]第三特別実験中隊が人工磁場シールドの暴走事故により、演習場ごと[[1547年]]へ飛ばされる。直後に世界各地で[[虚数空間]]が出現。(映画『[[戦国自衛隊1549]]』) ** 自立思考型コンピュータシステム「[[スカイネット]]」起動。世界各地に核爆弾が投下され30億以上の人命が失われる。(映画『[[ターミネーター3]]』) * [[2004年]] - 南極で発見された古代遺跡の調査に向かったウェイランド社の調査チームが遺跡内部で異性人種族「[[エイリアン (架空の生物)|エイリアン]]」と「[[プレデター (架空の生物)|プレデター]]」の争いに巻き込まれる。(映画『[[エイリアンVSプレデター (映画)|エイリアンVSプレデター]]』) * [[2006年]] - 世界で超異常気象発生。東京でゴルフボール大の雹が、ニューヨークで大津波、ハワイで強力な台風、インドで大雪、遂に世界は氷河期へと突入することとなる。(映画『[[デイ・アフター・トゥモロー]]』) * [[2007年]] - パラレルワールド間の壁を破って[[ダーレク]]と[[サイバーマン]]が地球を蹂躙、人類も抵抗し三つ巴の戦争「[[カナリー・ワーフ]]の戦い」が勃発する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[2008年]] ** [[タイムマシン]]が発明される。(漫画・アニメ『[[ドラえもん]]』) ** 超磁力兵器により、五大陸沈没。(アニメ『[[未来少年コナン]]』) ** 6代目マスターが[[ターディス]]をパラドックスマシンに改造し、歴史の改変を可能とする。60億のトクラフェインを動員して地球人の1割を抹殺し、地球を支配下に置く。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[2009年]] ** [[マクロス (架空の兵器)|マクロス]]進宙。(アニメ『[[超時空要塞マクロス]]』) ** [[ダーレク]]艦隊が[[ダヴロス]]をリーダーとして地球を含む27の惑星を襲撃。リアリティ・ボムを利用してダーレクを除く万物の破壊を計画する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[2010年]](皇暦)[[8月10日]] - ブリタニア帝国が日本に宣戦布告。(アニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』) * [[2010年]] ** 9年前に起こったディスカバリー号による木星探査計画の失敗の原因を探るため、コスモナウト・アレクセイ・レオーノフ号が木星へ向かう。(小説『[[2010年宇宙の旅]]』、映画『[[2010年 (映画)|2010年]]』) ** 6代目マスターが復活、全人類をマスター化する。同時に、彼を利用してタイムロードの上層部が惑星ギャリフレイとともにタイムロックを破り地球に出現する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[2012年]] - [[エンリコ・プッチ|プッチ神父]]の[[スタンド (ジョジョの奇妙な冒険)|スタンド]]「メイド・イン・ヘブン」(連載時「ステアウェイ・トゥ・ヘブン」)により時が無限に加速、宇宙が一巡し殆どの生命が一巡後の世界に到達。(漫画『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』第六部「[[ストーンオーシャン]]」) * [[2015年]] ** [[7月30日]] 人類の粛清を決定した天の神が遣わした異形の生物「バーテックス」が世界中に出現し、人類の虐殺を開始する。(小説『[[乃木若葉は勇者である]]』) ** [[10月21日]]16:29 - マーティが、未来の自分の息子に会うために30年前の[[1985年]]から[[タイムトラベル]]してくる。(映画『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2]]』)<ref name="HUFFPOST20151020">{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/10/20/back-to-the-future-2-2015-october-21_n_8342330.html|title=「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」で描かれた2015年10月21日が到来 映画と現実の違いは?|publisher=HUFFPOST|date=2015-10-20|accessdate=2018-9-6}}</ref> ** 10月21日 - [[シカゴ・カブス]]が[[2015年のワールドシリーズ]]を制覇。(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』)<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1611/03/news042.html|title=カブスが108年ぶりの世界シリーズ優勝 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の予言とニアミスだとファン歓喜|publisher=ねとらぼ|date=2016-11-03|accessdate=2018-9-6}}</ref><ref group="注">実際のカブスは、奇しくも映画内の日付と同じ日にリーグ戦の敗退が決まり、映画の再現とはならなかった。</ref> ** 映画『[[ジョーズ]]』シリーズの最新作『ジョーズ19』が上映される。(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』)<ref name="HUFFPOST20151020" /><ref group="注">ユニバーサル・ピクチャーズ・ホーム・エンターテインメントは2015年10月、実際に『ジョーズ19』の[[予告編|トレーラー]]映像を制作し[[YouTube]]上で公開した。</ref> ** [[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)|使徒]]、襲来。(アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』) ** マルス誕生。(アニメ『[[ジェッターマルス]]』) * [[2016年]] - [[ゼーレ]]に操作された戦略自衛隊がNERV本部に侵攻、ゼーレにより[[人類補完計画]]発動、全生物がLCLに還元される。(アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』) * [[2018年]] ** 地球連邦政府樹立。(ゲーム『[[Princess Holiday 〜転がるりんご亭千夜一夜〜]]』) ** 大規模なバーテックスの侵攻により勇者・白鳥歌野が守護する[[諏訪市|諏訪]]が陥落。人類の大半が残る四国へバーテックスの侵攻が本格的に開始される。(小説『乃木若葉は勇者である』) * [[2019年]] ** ネオ東京でのアキラをめぐる戦い。(漫画・アニメ『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』) ** バーテックスの四国侵攻を勇者の活躍により一定期間食い止めるも、勇者3名死亡、1名が行方不明となる。奉火祭が執り行われ、人類は神樹の庇護下にある四国外から出ないことを条件に天の神と和睦を結ぶ。西暦の終了。(小説『乃木若葉は勇者である』) ** 全人類が石化する。(漫画・アニメ『[[Dr.STONE]]) * [[2010年代]]頃 - [[ケンタウルス座アルファ星]]および[[プロキシマ・ケンタウリ|プロクシマ星]]の住人が太陽系の人類と接触する。(書籍『{{仮リンク|テラン連邦交通貿易局ハンドブック|en|Terran Trade Authority}}』シリーズ)<ref>[[スチュアート・カウリー]] [[チャールズ・ヘリッジ]] 『スターライナーズ 23世紀に活躍する宇宙船』 [[旺文社]]、1981年、10,28頁。{{NCID|BN06788919}}。</ref> * [[2020年]] ** レプリカントが地球に逃亡する。(映画『[[ブレードランナー]]』) ** [[サイルリアン]]が復活する。(テレビドラマ『ドクター・フー』) ** 普通人と超能力者の戦争。(漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』) ** 西暦から神世紀へ移行。(小説『乃木若葉は勇者である』) * [[2024年]] ** 21世紀最大の劇場型犯罪と同時にサイバーテロ事件である「[[笑い男事件]]」が発生。(アニメ『[[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX]]』) ** [[サンフランシスコ]]でベル暴動が勃発する。(テレビドラマ『[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]』 ** [[ジャン=リュック・ピカード]]ら、タイムトラベルによって2401年から現れ、歴史改変を防ぐ。(配信ドラマ『[[スタートレック:ピカード]]』) * [[2026年]] ** OCU(オシアナ共同連合)発足。(ゲーム『[[フロントミッションシリーズ|フロントミッション]]』) ** 各国が宇宙開発の際に撒き散らしたスペースデブリが隕石に衝突し、地球に墜落。人類を含むほとんどの生物が死滅し、文明が崩壊。(テレビドラマ『[[ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と]]』) ** アメリカ合衆国とECON(東部連合)間で[[第三次世界大戦]]が勃発する。2053年に停戦するまで約6億人が犠牲となる。(映画『[[スタートレック ファーストコンタクト]]』) <!-- 現在の設定では宇宙世紀と西暦の関係は“不明”になっているようです* [[2029年]] - 人類の宇宙移民開始。同時にこの年を宇宙世紀0001年とする。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) ---> * [[2027年]] - 高石タケルが少年時代の冒険を本にして出版する。(アニメ『[[デジモンアドベンチャー02]]』) * [[2020年代]]頃 - 人造の豊穣神「ユグドラシル」が生じさせた厄災「大崩壊」によって、世界人口の半数以上が死亡。その後、異形の生物「樹獣」「樹竜」が地上に出現し、生き残った人類は海上都市への生活圏の移行を余儀なくされる。(小説『[[空飛ぶ卵の右舷砲]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 喜多川信 |authorlink = 喜多川信 |title = 空飛ぶ卵の右舷砲 |publisher = [[小学館]] |year = 2018 |pages = 10,11,52 |isbn = 978-4-09-451743-9}}</ref> * [[2030年]]前後 - 異星勢力「粛正者」の強行型無人探査機が太陽系に侵入し、地球連邦宇宙軍および銀河文明評議会地球連邦派遣保安軍と交戦。銀河文明評議会と粛正者との戦争に、地球が銀河文明評議会側として加わる。(小説『[[宇宙軍士官学校]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 鷹見一幸 |authorlink = 鷹見一幸 |title = 宇宙軍士官学校―前哨― 3 |publisher = [[早川書房]] |year = 2013 |pages = 277,283-285 |isbn = 978-4-15-031108-7}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 鷹見一幸 |title = 宇宙軍士官学校―前哨― 5 |publisher = 早川書房 |year = 2014 |pages = 7-111 |isbn = 978-4-15-031161-2}}</ref> * [[2032年]] - [[7月4日]] - ターミネーター、T-850により人間軍のリーダー『ジョン・コナー』が殺害される。(映画『[[ターミネーター3]]』) * [[2035年]]・[[2036年]] - [[恐怖の大王]]「[[ドラキュラ伯爵]]」が再びこの世に現れる。(ゲーム『[[キャッスルヴァニア 〜暁月の円舞曲〜]]』『[[悪魔城ドラキュラ 蒼月の十字架]]』)。 * [[2039年]] - 北方連合国家と三大陸合州国の間で「13日間戦争」が勃発し、無数の熱核兵器によって世界の殆どの都市は壊滅する。その後[[2129年]]の地球統一政府樹立まで「90年戦争」が続き、人口は約10億人まで激減する。(小説『[[銀河英雄伝説]]』) * [[2040年]] - SARF設立。絋瀬玲名、フィオナ・クリス・フィッツジェラルド、エーリッヒ・イェーガーに無期限の待機命令が下される。(ゲーム『[[エースコンバット3]]』) * [[2041年]] - 正体不明の敵「ゼラバイア」が地球に襲来。(アニメ『[[超重神グラヴィオン]]』) * [[2048年]] - 作中年表・新世紀29年、香川県の中学生2名が大赦管轄の神樹外壁付近の立ち入り禁止区域に侵入、大赦の巫女および勇者が出向く事態となる。四国各地の地名が改変される。(小説『[[乃木若葉は勇者である#神世紀29年の観音寺|勇者史外典]]』) * 2040年頃 - [[金星]]への移住者の一団を乗せた宇宙船「プロスペリティ」が「宇宙クジラ」に捕食される。その後、移住者たちは宇宙クジラの体内の空間に植民地を建設する。(小説『[[ジョナサンと宇宙クジラ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = ロバート・F・ヤング |authorlink = ロバート・F・ヤング |title = ジョナサンと宇宙クジラ |publisher = 早川書房 |year = 2006 |pages = 90-92,96 |isbn = 978-4-15-011584-5}}</ref> * [[2050年]] ** [[月]]の大異変による地震が起きて、月に空気と重力が出来る。(アニメ『[[魔動王グランゾート]]』) ** [[木星]]圏まで進出していた人類に、謎の異星人であるエルダー軍が襲来。木星の衛星[[イオ (衛星)|イオ]]が侵略を受ける。(アニメ『[[宇宙大帝ゴッドシグマ]]』) * [[2051年]] - リュウ・スザク、任務中の事故で大怪我を負う。凶悪犯罪者ゾーダ、永久冷凍刑に処せられる。(アニメ『[[F-ZERO ファルコン伝説]]』) * [[2059年]] - [[火星]]の水のウイルスによって火星に住んでいる人々がゾンビになる。(テレビドラマ『ドクター・フー』) * [[2050年代]]頃 - [[こと座|琴座]]と[[はくちょう座|白鳥座]]の間、太陽系から5.8[[光年]]弱の空間に、全長2光年、直径1.5光年の円筒形の物体「SS」が出現。SSはその形状や有意信号らしきものの観測により人工物と判断され、世界連邦恒星間航行研究所によって、知的存在との接触に備えて人工実存(AE)を搭載した宇宙船による探査計画が開始される。(小説『[[虚無回廊]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 小松左京 |authorlink = 小松左京 |title = 虚無回廊I |publisher = [[角川春樹事務所]] |year = 2000 |pages = 14,34,75-105 |isbn = 978-4-89456-690-3}}</ref><ref>[https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1974PhRvD...9.2203T/abstract Rotating cylinders and the possibility of global causality violation] - [[天体物理データシステム|NASA Astrophysics Data System]](英語)。2018年3月16日閲覧。</ref> * [[2063年]] ** [[4月5日]] - [[ゼフラム・コクレーン]]操縦のロケット(フェニックス号)が、[[ワープ]]航法実験に成功する。(テレビドラマ『[[宇宙大作戦]]』、映画『スタートレック ファーストコンタクト』) ** [[11月21日]] - 強欲王が地球に来訪し、「来るべき災厄」が起こる。(小説・アニメ『[[狂乱家族日記]]』) * [[2067年]] - 国連による[[バイオテクノロジー]]・[[ロボット]]産業の規制に反発した日本が完全なる鎖国を敷く。(アニメ『[[ベクシル 2077日本鎖国]]』) * [[2068年]][[7月13日]] - 高度150キロメートル付近において、オーベルト・エアロスペース社の高々度旅客機「アルナイル8型」(タイ発イギリス行き)に[[スペースデブリ]]が衝突する事故が発生。(漫画・アニメ『[[プラネテス]]』) * [[2070年]] - サイバーマンが地球を侵略する。(テレビドラマ『ドクター・フー』) * [[2071年]] - ビバップ号、犯罪者を追う。(アニメ『[[カウボーイビバップ]]』) * [[2073年]] - ジュラル星人、地球侵略を開始。(アニメ『[[チャージマン研!]]』) * [[2076年]] - 月が独立宣言。(小説『[[月は無慈悲な夜の女王]]』) * [[2077年]] - アメリカ合衆国と中華人民共和国の間で世界的核戦争が勃発。(ゲーム『[[Fallout 3|Fallout]]』) * [[2089年]] - ガイチ帝国が月に軍隊を送り、ほぼ全土を占領。(ゲーム『[[ネクタリス]]』) * [[2090年]] - イオリア・シュヘンベルグ、[[軌道エレベーター]]・[[太陽光発電|太陽光発電システム]]・[[モビルスーツ]]の基礎理論を築く。(アニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』) * [[2091年]] - 作中年表・神世紀72年、天の神を崇めるカルト集団による四国での大規模テロを勇者が鎮圧。バーテックス侵攻を経験した最後の人物が老衰のため死亡。(小説『乃木若葉は勇者である』及びゲーム『[[結城友奈は勇者である 花結いのきらめき]]』) * [[2093年]] - 有人恒星探査船「ビーグル二世号」が太陽系外の地球型惑星を発見し、初めて地球外生命体と遭遇する。(漫画・アニメ『ドラえもん』) * [[2099年]] ** [[6月22日]] - 第一次外惑星動乱が勃発する。(小説『航空宇宙軍史』)<ref name = "Owarinaki">{{Cite book |和書 |author= 谷甲州 |authorlink = 谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 終わりなき索敵〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 1996 |page = 348 |isbn = 978-4-15-030570-3}}</ref> ** [[12月31日]] - [[日本]]で出土した窯から、「黒き獣」が突如として出現する。(ゲーム『[[BLAZBLUE]]』) * [[2100年]] <!--** [[4月7日]] - [[航空宇宙軍史#外惑星連合|外惑星連合]]軍の仮装巡洋艦「バシリスク」が、[[航空宇宙軍史#航空宇宙軍|航空宇宙軍]]のフリゲート艦「タウルス」と交戦中にタウルスの攻撃によってエンジンが暴走。その影響によって太陽系外へと飛び出してしまう。(小説『[[仮装巡洋艦バシリスク]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 仮装巡洋艦バシリスク |publisher = 早川書房 |year = 1985 |pages = 200,223-231 |isbn = 978-4-15-030200-9}}</ref>--> ** [[7月13日]] - 第一次外惑星動乱が終結する。(小説『航空宇宙軍史』)<ref name = "Owarinaki" /><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 エリヌス―戒厳令― |publisher = 早川書房 |year = 1988 |page = 447 |isbn = 978-4-15-030281-8}}</ref> ** 太陽系外縁部に存在する小型[[ブラックホール]]「カーリー」が発見される。(小説『[[AADDシリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 林譲治 |authorlink = 林譲治 (作家) |title = ウロボロスの波動 |publisher = 早川書房 |year = 2005 |pages = 7,8,16 |isbn = 978-4-15-030815-5}}</ref> ** 悪のコンピュータプログラム「デリトロス」によって、仮想現実空間「マジカルゲート」内に多くの子供たちが捕らわれる。(アニメ『[[電脳冒険記ウェブダイバー]]』) ** 遙大地、夏休みを利用して、町内の福引きで当たった月[[旅行]]へと出発する。(アニメ『[[魔動王グランゾート]]』) * 20××年夏 - 「銀座事件」発生。[[銀座]]に出現した『異世界への門(ゲート)』から現れた異世界の軍勢による大量殺戮が行われる。その後、「特地」と呼称された異世界への自衛隊の派遣が開始される。(小説・漫画・アニメ『[[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 柳内たくみ |authorlink = 柳内たくみ |title = ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり 1. 接触編〈上〉|publisher = [[アルファポリス]] |year = 2013 |pages = 5-10 |isbn = 978-4-434-17474-2}}</ref> * 20××年10月 - 日本の領空内に「[[天使]]」が出現し、[[東京国際空港|羽田空港]]上空で[[ボーイング747]]を撃墜した後に空港に着陸。人間に対する天使の襲撃が始まる。(小説『[[神狩り|神狩り2 リッパー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 山田正紀 |authorlink = 山田正紀 |title = 神狩り2 リッパー |publisher = [[徳間書店]] |year = 2010 |pages = 12-16,55-69 |isbn = 978-4-19-893177-3}}</ref> * 20××年 - 関係性上に構築される知性体「異妹(アウタ・シス)」が、自身を「妹」と認識させる概念撹乱能力によって人間の精神を支配しつつ侵略を開始。[[西アフリカ]]から始まったアウタ・シスの侵食は同年冬には日本に達し、大晦日までに[[関東地方|関東地域]]全域が「妹圏(シス・ゾーン)」に覆われる。(小説『[[妹戦記デバイシス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 日下一郎 |authorlink = 日下一郎 |title = 妹戦機デバイシス |publisher = [[PHP研究所]] |year = 2013 |pages = 16,17,51,59,60,254 |isbn = 978-4-569-67943-3}}</ref><ref>[https://www.php.co.jp/books/detail.php?code=67943 妹戦記デバイシス] - PHP研究所公式サイト。2020年8月16日閲覧。</ref> * 20××年 - 飛来した隕石の内部から出現した宇宙アメーバが、その圧倒的な増殖力によって地球全土に進攻。世界人口の3分の2が犠牲となり、地球連邦はこれに対する「最終作戦」の発動を決議する。(小説『[[最終作戦]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = [[眉村卓]]他 |title = SF未来戦記 全艦発進せよ! |publisher = 徳間書店 |year = 1986 |pages = 381-383 |isbn = 978-4-19-578034-3}}</ref> * 20XX年[[6月18日]] - 午後4時19分に[[霧島]]北部で[[水蒸気爆発]]として火山噴火が開始され、同29分には霧島全体が「[[破局噴火|破局的噴火]]」に至る。(小説『[[死都日本]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 石黒耀 |authorlink = 石黒耀 |title = 死都日本 |publisher = [[講談社]] |year = 2008 |pages = 15,76,126-200 |isbn = 978-4-06-276195-6}}</ref> * 20XX年 - 「スカイフォール」発生。異星の高等生命体の航宙艦が空間転移門を通って地球軌道に飛来し、人類と交戦状態に突入。これを撃破した人類は、異星人が用いた人型ロボット兵器を世界各国共同でリバースエンジニアリングし、新兵器体系「エグザマクス」を誕生させる。(玩具『[[30 MINUTES MISSIONS]]』)<ref>''[[BANDAI SPIRITS]] ホビー事業部 {{Cite Tweet |user = HobbySite |number = 1125947603235946496 |title = "30 MINUTES MISSIONS"コーナーでは、巨大なアルトの立像が皆様をお出迎え! 初公開となる新商品展示のほか、様々な作例の展示を用意してお待ちしております。 |date = 2019-05-08 |accessdate = 2020-07-04}}''</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = |title = 30 MINUTES MISSIONS COMPLETION |publisher = [[ホビージャパン]] |year = 2021 |page = 7 |isbn = 978-4-7986-2320-7}}</ref> * 20XX年 - 宇宙からの侵略者が世界各国を攻撃。各国軍がこれに立ち向かうが、10年以上におよぶ戦いの中で地球人口は2000年代初頭の500分の1にまで減少する。そして、侵略者の最終攻撃が始まる中、各国共同で開発された対侵略者用スーパーウェポンを用いた総力戦が開始される。(ゲーム『[[THE 宇宙大戦争]]』)<ref>『THE 宇宙大戦争』パッケージ [[ディースリー・パブリッシャー]]、2005年、裏面。</ref><ref>[https://www.d3p.co.jp/s_20/s20_078.html SIMPLE2000シリーズ Vol.78 THE 宇宙大戦争] - ディースリー・パブリッシャー公式サイト。2018年3月16日閲覧。</ref> * 20XX年 - 第一次サイテックスプロジェクトによって建造された宇宙実験室「ラボス」がコントロール不能に陥り消息を絶つ。3年後、第二次サイテックスプロジェクトによる大型探査スペースシップが、暴走・巨大化し人類消滅を画策するラボスと遭遇し、船内で製造された各種バトルメカを用いてこれに対抗する。(玩具『[[サイテックス]]』)<ref>『SCITEX』カタログ [[トミー (企業)|トミー]]、1986年、13,14頁。</ref> * 20XX年 - 太陽系外から襲来した[[ケイ素生物|ケイ素生命体]]「原罪」が地球の侵略を開始。数千万人の犠牲者が生じる。通常兵器の通用しない原罪に対抗すべく、人型機動兵器「A.V.G.システム」を用いる「A.V.G.F.」、通称「ソラヒメ」が原罪と戦うことになる。(ゲーム『[[ソラヒメ ACE VIRGIN -銀翼の戦闘姫-]]』)<ref>[https://sorahime.6waves.jp/6waves/about/ 世界観] - 『ソラヒメ ACE VIRGIN -銀翼の戦闘姫-』公式サイト。2018年3月20日閲覧。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=wEp26Fgg5XM 『ソラヒメ~ACE VIRGIN~ -銀翼の戦闘姫-』 オープニングムービー] - [[YouTube]](ソラヒメ公式チャンネル)。2016年12月13年、2018年3月20日閲覧。</ref> * 20XX年 - 環境汚染を自然浄化させるために人類が一時的に捨てた地球を、他の天体の超機械生命体「マゼル」が侵略し環境を改造。火星に移住していた人類はこれを受け「地球解放軍ジアース」を結成して地球奪還に挑み、数十回の敗北の後に最終兵器「ミライダ01」を出撃させる。(ゲーム『[[地球解放軍ジアース]]』)<ref>『地球解放軍ジアース』取扱説明書 [[T&E SOFT|ティーアンドイーソフト]]、1992年、2頁。</ref> * 20**年 - 地球統合が目前に迫る中、「アギーマ帝国」なる組織が声明文によって地球壊滅計画を予告。アギーマ帝国の飛行型機動兵器による総攻撃が開始され、地球統合軍準備委員会が開発した特殊機動戦闘機「XA-1」が「地球防衛軍」として緊急発進する。(ゲーム『[[E.D.F.]]』)<ref>『SUPER E.D.F.』取扱説明書 [[ジャレコ]]、1991年、2,3頁。</ref> * 20■■年■月■日 - 世界中の時計が「[[閏秒|修正の1秒]]」を刻むのと同時に、人工知能による意志を持つ携帯秘書「D-phone」のセキュリティプログラム「3D」が[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]を受け、全てのD-phoneが接続。それによって世界から人類が姿を消す。(玩具『[[デスクトップアーミー]]』)<ref>[https://dt-a.jp/about/ World[世界観]] - 『デスクトップアーミー』公式サイト。2015年11月24日、2020年6月21日閲覧。</ref> * 初頭 - 「ガーベラ遭難事件」発生。地球から火星へ資材・物資を輸送していた中型宇宙輸送艦「ガーベラ」と小型護衛艦2隻が、地球防衛ライン外で所属不明の[[未確認飛行物体]]の攻撃によって撃破される。その後、パニックを避けるためガーベラの遭難はスペースデブリとの衝突によるものと発表される。(小説『[[ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 朱川湊人 |authorlink = 朱川湊人 |title = ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント |publisher = [[光文社]] |year = 2013 |pages = 255-258 |isbn = 978-4-334-76663-4}}</ref> * 初頭 - コンツェルン連合体に支配された極東経済圏をはじめとする地球上に、昆虫型の宇宙人が出現。人工頭脳によって個人ごとに制御された聴覚情報を用いて一般市民を統制する「イミジェックス」に干渉し始める。(小説『[[幻影の構成]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author = 眉村卓 |title = 幻影の構成 |publisher = 早川書房 |year = 1973 |page = 12,18-25,180-193,208,209 |isbn = 978-4-15-030004-3}}</ref> * 初頭 - 15歳から17歳までの少女が突然死の後に[[ゾンビ]]「ステーシー」となる現象が、突如世界中で発生し始める。(小説『[[ステーシー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 大槻ケンヂ |authorlink = 大槻ケンヂ |title = ステーシーズ 少女再殺全談 |publisher = [[角川書店]] |year = 2008 |page = 27 |isbn = 978-4-04-184717-6}}</ref> * 初頭 - 春、[[メルボルン]]と日本の[[コメットハンター]]によって、固体の核を持たず、天然ではあり得ない電波放射を発する「ニコルソン・ハセガワ彗星」が発見される。その正体は直径10マイクロメートルのユニット3.2×10<sup>15</sup>個からなる異星生命であり、人類からは「スター・フォッグ」と名付けられる。スター・フォッグは[[地球#公転|地球軌道]]に接近したところで、地球人女性の姿のコミュニケーション用模造体を用いて各国言語のチャンネルによるメッセージを発し始める。(小説『[[野尻抱介#単発作品|ふわふわの泉]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 野尻抱介 |authorlink = 野尻抱介 |title = ふわふわの泉 |publisher = 早川書房 |year = 2012 |pages = 7,181-190 |isbn = 978-4-15-031074-5}}</ref> * 初頭 - 植民星ル・タウにおいて、機械化改造を施された動植物からなる生体機動兵器軍団が、植民者たちの都市への攻撃を開始。連邦宇宙軍司令部がル・タウの放棄を決定する中、所属不明の重機動メカ「HEAVY UNIT」が生体機動兵器に立ち向かう。(ゲーム『[[ヘビーユニット|ヘビー・ユニット]]』)<ref>[[PCエンジン]]版『ヘビー・ユニット』取扱説明書 [[タイトー]]、1989年、3,4,9頁。</ref> * 初頭 - 日本国内の山中で、約5千年前に落下したと思しき地球外文明の宇宙船が発見されるが、国連の調査団が爆破により船内に強行突入したところ、宇宙船は調査団を船外へ排除した後に大気圏外へと飛び去り消滅する。(小説『[[星虫]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 岩本隆雄 |authorlink = 岩本隆雄 |title = 星虫 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |year = 2000 |pages = 16-19,383 |isbn = 978-4-257-76907-1}}</ref> * 前半 - 「ルナ・ショック」発生。国連主導の共同探査隊が、[[月の溶岩洞|月の地下の空洞]]で異星文明「帝国」が残した大量の遺留物「帝国の遺産」を発見。スーパーテクノロジーが用いられた帝国の遺産は人類の生活環境を激変させ、2年後には国連主導による地球連邦の設立と、西暦から「宇宙世紀」への紀年法のリセットが行われる。(小説『[[再就職先は宇宙海賊]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 鷹見一幸 |title = 再就職先は宇宙海賊 |publisher = 早川書房 |year = 2018 |pages = 7-12 |isbn = 978-4-15-031324-1}}</ref> * 前半 - 地球外生命の手によるものと見られる彗星「パンドラ」から生じた大規模な[[いて座|射手座]]流星群が地球に降り注ぎ、地球の生態系などの環境を改変する「[[テラフォーミング|パンドラ・フォーミング]]」の進行が表面化。脳の機能の増大などをもたらす形で異常進化させられた動物による[[ボルネオ島|ボルネオ]]、[[アフリカ大陸|アフリカ]]、[[南アメリカ大陸|南米]]での大規模な獣害や、[[国際宇宙ステーション]]を経由しての共生体の核生命「アルジャーノン」の[[珊瑚海]]への侵入などが発生する。(小説『[[パンドラ (小説)|パンドラ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = パンドラ 1 |publisher = 早川書房 |year = 2007 |pages = 32,57-80,108,235-299,314-321 |isbn = 978-4-15-030907-7}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = パンドラ 2 |publisher = 早川書房 |year = 2007 |pages = 22,27-31,47-49,58-62,335-337 |isbn = 978-4-15-030908-4}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = パンドラ 3 |publisher = 早川書房 |year = 2007 |pages = 25-36,40-44 |isbn = 978-4-15-030909-1}}</ref> * 中頃 - [[技術的特異点|シンギュラリティ]]に到ったソフトウェアの集合体と見られる「エシャトン」によって、約90億人が1日のうちに巨視的[[ワームホール]]を用いて過去[[光円錐]]内の[[テラフォーミング]]された数千の惑星に転送される。その後、太陽系内の各所に、[[因果律]]侵犯に対して警告するメッセージが刻まれた質量ゼロの立方体が残される。(小説『{{仮リンク|シンギュラリティ・スカイ|en|Singularity Sky}}』『{{仮リンク|アイアン・サンライズ|en|Iron Sunrise}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author = チャールズ・ストロス |authorlink = チャールズ・ストロス |title = シンギュラリティ・スカイ |publisher = 早川書房 |year = 2006 |pages = 211-213 |isbn = 978-4-15-011567-8}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = チャールズ・ストロス |title = アイアン・サンライズ |publisher = 早川書房 |year = 2006 |pages = 90-93 |isbn = 978-4-15-011593-7}}</ref> * 中頃 - 物理学者レナタ・コズチによって、すべての[[素粒子]]は「コズチ - [[ジョン・ホイーラー|ホイーラー]]・ワームホール」の口であるとする暫定的[[統一場理論|統一理論]]「コズチ理論」が提唱される。(小説『{{仮リンク|ディアスポラ (小説)|label = ディアスポラ|en|Diaspora (novel)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author = グレッグ・イーガン |authorlink = グレッグ・イーガン |title = ディアスポラ |publisher = 早川書房 |year = 2005 |pages = 216-220,485,486 |isbn = 978-4-15-011531-9}}</ref> * 半ば - [[恒星船#バサード・ラムジェット|バサード式ラムジェット]]を用いる国連の一群の[[無人探査機|自動探査艇]](ラムロボット)が、植民地となりうる[[惑星の居住可能性|居住可能な惑星]]の発見を目指し、[[プロキオン]]、[[シリウス]]、[[くじら座タウ星|鯨座タウ星]]などの太陽系近傍の恒星界へと発進。うち5隻が居住可能な「地点」を持つ惑星を発見する。(小説『[[ノウンスペース]]』シリーズ)<ref>{{Cite book |和書 |author = ラリイ・ニーヴン|authorlink = ラリー・ニーヴン |title = ノウンスペース・シリーズ 太陽系辺境空域 |publisher = 早川書房 |year = 1979 |page = 140 |isbn = 978-4-15-010348-4}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = ラリイ・ニーヴン |title = ノウンスペース・シリーズ 地球からの贈り物 |publisher = 早川書房 |year = 1979 |pages = 9,10 |isbn = 978-4-15-010359-0}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = ラリイ・ニーヴン |title = ノウンスペース・シリーズ 中性子星 |publisher = 早川書房 |year = 1980 |pages = 269,270 |isbn = 978-4-15-010400-9}}</ref> * 後半 - メインコンピュータ「ラクーン」を擁する恒星間有人探査機「セプテミウス2」が、先発した無人探査機「セプテミウス1」を追う形で[[バーナード星]]へと発進する。(ゲーム『[[サイオブレード]]』)<ref>[[メガドライブ]]版『サイオブレード』取扱説明書 [[アドアーズ|シグマ商事]]、1990年、5頁。</ref> * 後半 - [[いて座アルファ星|いて座α]]方面に向かっていた無人探測機が、太陽から3[[光秒|光日]]の地点で[[太陽定数|太陽常数]]の70万倍に達する強烈な光の中に突入。これを受けて行われた2年間の調査によって、光の正体は[[りゅう座]]方面と[[かじき座]]方面の間にのびる直径1,200万キロメートル、全長5,380光年におよぶ[[定常波|定在波]]のレーザー光線の光軸であることが判明し、「バビロニア・ウェーブ」と名付けられる。(小説『[[バビロニア・ウェーブ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 堀晃 |authorlink = 堀晃 |title = バビロニア・ウェーブ |publisher = [[東京創元社]] |year = 2007 |pages = 31-33,41-46,88 |isbn = 978-4-488-72201-2}}</ref><ref>[https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1966Natur.211...22M/abstract Interstellar Vehicle Propelled By Terrestrial Laser Beam] - NASA Astrophysics Data System(英語)。2016年10月27日閲覧。</ref> * 後半 - 言語学者ヴォルフガング・ディートゼル率いる科学者たちが、流刑先の[[トリトン (衛星)|トリトン]]の採掘場から[[冥王星]]へ脱走。その後、太陽系にかつて存在していた惑星で栄えた「シュレール人」が遺した地下都市と、未完成の制御電子頭脳「グラヴィトロン」を発見する。(小説『[[遥かなり幻の星]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author = 豊田有恒 |authorlink = 豊田有恒 |title = 遥かなり幻の星 |publisher = 角川書店 |year = 1981 |page = 156-162,166-169,176 |isbn = 978-4-04-137723-9}}</ref> * 末 - 機械生命体「ヴァイス」が宇宙進出を進めていた人類への攻撃を開始。人類は滅亡の危機に陥った地球圏から、月面自治政府が月を分割し建造した宇宙船団「ムーンシャード」によって脱出する。(ゲーム『[[アリス・ギア・アイギス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 編集 [[アスキー・メディアワークス| 電撃ゲーム書籍編集部]] |title = アリス・ギア・アイギス オフィシャル設定資料集 |publisher = [[KADOKAWA]] |year = 2020 |pages = 18,444 |isbn = 978-4-04-912723-2}}</ref> * 末 - 世界各地の女性が[[暗黒星雲]]内の惑星「ザンクス」へと誘拐される事件が発生。女性たちを救出すべく、対地球外防衛機構の宇宙戦闘機「メガブラスト」が旅立つ。(ゲーム『[[メガブラスト]]』)<ref>『メガブラスト』チラシ タイトー、1989年、裏面。</ref> <!--* 年代不明 - 正体不明の「霧の艦隊」と人類最後の艦隊が交戦。海戦に敗北した人類は制海権・制空権を完全に喪失し、すべての大陸と島嶼は孤立する。(漫画・アニメ『[[蒼き鋼のアルペジオ]]』)--> * 年代不明 - 天文学者ハリスン率いる「アレス探検隊」がロケット「アレス号」で初の火星着陸に成功。補助ロケットで探検中に遭難した化学者ディック・ジャーヴィスが、[[時の海]](マーレ・クロニウム)を横断する10日間の旅の間に、知能を持つ駝鳥型の「トゥイール」を始めとする様々な生物と遭遇する。(小説『[[火星のオデッセイ]]』)<ref>『[[世界SF全集]] 31 世界のSF(短篇集)古典篇』 早川書房、1971年、341-372頁。{{全国書誌番号|75009564}}。</ref> * 年代不明 - 異星種族「グランド・ギャラクティクス」の知的従属種族「ナイン・リムズ」が、[[低軌道]]から[[月の軌道|月軌道]]の間での[[太陽帆|ソーラーセイル]]・レースに参加していたナターシャ・スーブラマニアンと接触した後、ナターシャの模造幻影(シミュラクラ)を用いて人類の前に姿を現す。その後、グランド・ギャラクティクスより地球の「減菌」命令を受けて[[ケンタウルス座]]方面から地球へ向かっていた知的従属種族「ワン・ポイント・ファイヴス」の艦隊が、命令の撤回に伴い生じた物資の不足から[[カッターラ低地]]に着陸する。(小説『{{仮リンク|最終定理 (小説)|label=最終定理|en|The Last Theorem}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author1 = アーサー・C・クラーク |authorlink1 = アーサー・C・クラーク |author2 = フレデリック・ポール |authorlink2 = フレデリック・ポール |title = 最終定理 |publisher = 早川書房 |year = 2013 |pages = 117-119,311-314,427-473,487-491 |isbn = 978-4-15-011894-5}}</ref> * 年代不明 - 火星[[火星の人面岩|シャール遺跡]]の調査を行っていた環太平洋諸国機構の共同探検隊が、数十個の正体不明の物体を発掘。これにより作業は一時中止され、物体は地球へ運ばれる。その後、探検隊に参加していた記録員ルー・風は、志願し補充要員として金星の衛星基地「ヴィーナスター」に配属される。(小説『[[創星記]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 川又千秋 |authorlink = 川又千秋 |title = 創星記〔上〕 |publisher = 早川書房 |year = 1989 |pages = 27,30,48,49,62-66 |isbn = 978-4-15-030290-0}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 川又千秋 |title = 創星記〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 1989 |pages = 170,171 |isbn = 978-4-15-030291-7}}</ref> * 年代不明 - 「大出発」。世界各国のスターシップ公社による宇宙船団が、核戦争や環境破壊などで汚染された地球から「新しい地球」へと移民のために出発。「新しい地球」への到着後に、イタリア隊の隊員がエンピレオ高原にて数百基の建造物「治療塔」を発見し、各国船団員がこれを利用する。その後、宇宙船団は「新しい地球」からの全面撤退を決定し、大出発から10年後に地球へ帰還する。(小説『[[治療塔]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 大江健三郎 |authorlink = 大江健三郎 |title = 治療塔 |publisher = 講談社 |year = 2008 |pages = 8,24-30,50-57,219-231 |isbn = 978-4-06-275981-6}}</ref> * 年代不明 - [[モスクワ大学]]、[[京都大学]]、[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]、ヴァージニア大学都市で発生した異様な予告殺人事件の調査を発端として、[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン流域]]に赴いた世界連邦科学警察などによる捜索隊が、[[ロンドニア州|ロンドニア直轄地]]の原始林の中で「電気・電波人間」たる新人類「ククルスク族」の1支族と初めて会合する。(小説『[[継ぐのは誰か?]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 小松左京 |title = 継ぐのは誰か? |publisher = 角川春樹事務所 |year = 1998 |pages = 46,47,59,68-75,89-101,212-226,249,255-263,267-271,282-310,333-335 |isbn = 978-4-89456-381-0}}</ref> * 年代不明 - 氷の戦士の襲撃。(テレビドラマ『ドクター・フー』) * 年代不明 - 宇宙船「ゾフィーエル」による太陽系第10番惑星「魔王星」の探査によって、魔王星系すべてが[[反物質]]の塊であることが発見される。その後、魔王星の反物質をエネルギー源として用いた人工マイクロ・[[ブラックホール]]による[[超光速航法|超空間航法]]「ミュー駆動」が実用化され、太陽系外の星系への人類の進出が始まる。(漫画『[[2001夜物語]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 星野之宣 |authorlink = 星野之宣 |title = 2001夜物語【1】 |publisher = [[双葉社]] |year = 1995 |pages = 64,74-85,98,161-195,205,257 |isbn = 978-4-575-72030-3}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 星野之宣 |title = 2001夜物語【2】 |publisher = 双葉社 |year = 1995 |pages = 4-32,59,60,136,137 |isbn = 978-4-575-72031-0}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 星野之宣 |title = 2001夜物語【3】 |publisher = 双葉社 |year = 1995 |page = 221 |isbn = 978-4-575-72032-7}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 注釈 {{Reflist|group=注}} ; 出典 {{Reflist}} == 関連項目 == * [[年表]] * [[平成]] * [[令和]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 21 | 年代 = 2000 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:21せいき}} [[Category:21世紀|*]] [[Category:ポストモダニズム]] [[Category:レトロフューチャー]]
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記憶装置
記憶装置()は、コンピュータの処理対象であるデータと処理内容のプログラムとを記憶させ参照と変更ができる装置。一部の記憶装置は変更できないものがある。 コンピュータは処理対象のデータをプログラムによる処理内容に応じて、自動的に制御し処理する。 処理対象のデータは、一定の規則で符号化された数値(整数や浮動小数点数)を基本とし、それらを組合せた文章や画像や音声など様々である。 また処理内容のプログラムは、データ転送や算術演算や論理演算、条件分岐やジャンプなどの基本的な命令を、これも一定の規則で符号化し組合せて並べている。 現在のコンピュータでは、データとプログラムを共に符号化された数値とし、同じように記憶や処理することができる。 これはプログラムを用いて、データ処理するかのように別のプログラムを作成や修正して記憶することができる(処理中のプログラム自体の修正も可能だが難易度が上がる)。そのため、1種類あるいは1台のコンピュータで様々なプログラムを作成記憶させ、用途に応じてプログラムを取替えることで汎用的に用いることができる。 この汎用性のために元々の科学技術的な数値解析に限定されず、会計や出版や通信、あるいはコンピュータゲームや音楽など、組織や個人を問わず様々に利用され発展している。コンピュータの発展に伴いその一部である記憶装置も、読み書きの速度や記憶容量の拡大、用途に応じた種類の増加などが行われている。 情報理論の観点からは、記憶装置は通信路と同じように扱うことができる。これはプログラムやデータを、インターネット経由で受取るのと、フラッシュメモリ等で受取るのと、(時間や労力は異なるが)同じように扱えることを意味する。 コンピュータで扱う符号化した数値は、有限桁の2進数を意味する。1桁であれば0か1の2種類の値を表現でき、2桁であれば00、01、10、11の4種類の値を表現でき、この表現方法をデジタルと呼ぶ。 情報理論観点から、真偽の2種類を表現できる1桁デジタルの0と1とをビットと呼ぶ。 情報量と同義の記憶容量が1ビットなら2である2種類の数値を、8ビットなら2の256種類の数値を記憶できる。デジタル数値をそのまま整数として扱う方式を符号無し整数と呼び、8ビット符号無し整数なら0から255まで扱える。 コンピュータの発達により1命令で計算や記憶したりできる数値が、16ビット、32ビット、64ビットと拡大されてきた。 また8ビットを1バイトとする単位も使われ、32ビットが4バイト、64ビットが8バイトに対応する。 記憶装置の規模の拡大により、10進接頭辞であるキロ、メガ、ギガや、2の1024による2進接頭辞であるキビ、メビ等も、併用されている。 また読み書きや通信の性能の指標として、単位時間あたりの情報量や記憶容量も用いられる。 コンピュータの構成要素および記憶装置は、様々な観点から分類することができるが、 算術論理演算装置(Arithmetic Logic Unit、ALU)と制御装置(Control Unit)などを一体化したプロセッサ、プロセッサが処理する命令のプログラムとデータを記憶するメモリモジュールからなる主記憶装置は、必須要素でコンピュータの中枢を担う。それ以外は入出力装置と呼ばれ、コンピュータの用途に応じて各種装置を接続する。入出力装置の一種である補助記憶装置は、電源断でコンピュータが停止状態でも記憶を保持することができる。 現在の主記憶装置は、8ビット=1バイト毎に、アドレス、番地が割当てられているバイトアドレス方式が主流である。 プロセッサ内部にもレジスタと呼ばれる記憶装置が構成されている。 プロセッサが命令やデータを主記憶装置から読み込み処理する流れとして、 などの基本的な命令で逐次処理される。 2000年ごろまではプロセッサが倍々の指数的性能向上が成されたが、主記憶装置へのアクセス性能はさほど向上しなかった。上記のプロセッサ内部のレジスタアクセス(命令デコードやプログラムカウンタ加算等)は、クロックに従い1サイクルで処理できる一方で、主記憶アクセス(命令フェッチやロード等)は数十から百サイクル以上の桁違いの時間が必要となる。 これを解決するため高速なプロセッサ内部レジスタと低速な主記憶装置の間に、中間のキャッシュメモリの階層を設ける。キャッシュメモリは高速だが容量が小さいため、主記憶装置の一部をキャッシュメモリにもコピーしておく。主記憶参照の命令があっても、キャッシュに有効な命令やデータがあればそれを利用し、主記憶へのアクセス頻度を減らすものである。キャッシュの管理はプロセッサ機能が自動で行うが、利用者も命令やデータの配置をキャッシュを意識して行う必要がある。 現在のプロセッサは内部にキャッシュメモリを実装し、また2次、3次キャッシュなど多段階かつ大容量化されている。 一方で補助記憶装置はストレージともよばれ、現在はハードディスクドライブやソリッドステートドライブ、磁気テープドライブや光ディスクドライブなどが広く用いられている。これらのストレージは専用コントローラ(プロセッサに相当)とキャッシュ(主記憶装置に相当)に磁気ディスクやフラッシュメモリが接続され、ストレージ専用コンピュータのような下位構成要素となっている。 ストレージの記憶単位として512バイトや4キビバイトなどからなる、ブロック、あるいはセクターなどと呼ばれる単位が多い。 プロセッサが主記憶装置へ、ストレージから読み込ませる処理として、 のような手順で行われる。 記憶装置を分類するいくつかの特性がある。特性には、揮発性/不揮発性、ダイナミック/スタティック、書き換え可能/不可能、破壊読み出し/非破壊読み出し、アクセス方式、アドレス指定方式、などがある。また、容量と性能は重要なスペックである。 なお、RAM(Random Access Memory)は、本来は上記のランダムアクセスのメモリという意味だが、もっぱらROM(Read only memory)に対するものとして「(ランダムアクセスで)書き込み可能」という意味で使われている。本来の書き込み可能という意味ではRWM(Read Write Memory)という表現もあるが、ほとんど使われない。 SRAMチップでは、8ビットや16ビット単位のチップが多い。それに対し、古くはDRAMチップは1ビット単位であり、8個や16個並べて実際のメモリを構成していた(そのため、コンピュータ業界ではバイト単位がもっぱらであるのに対し、メモリ業界ではビット単位が使われることも多い)。現在でもDRAMチップは4ビットか8ビット程度と、比較的少ないビット数のものを並べて利用している。 また、データの転送方法についてもバリエーションがある所で、非同期SRAMのように単純にアドレスを印加すればデータが出てくるといったものから、DDR SDRAMのように複雑なプロトコルを持つものまで、色々のものがある。 容量単位は一般的な距離や速度を表すものと異なる特殊な単位と使われ方をする 2018年現在、よく使われている記憶装置技術としては、半導体、磁気、光学があり、紙も限定的に使われ続けている。他にも、かつて使われていた記憶装置技術や、開発が進んでいる新技術もある。 半導体メモリは、半導体による集積回路に情報を格納する。半導体メモリには数百万個の微細なトランジスタやコンデンサが集積されている。揮発性と不揮発性の半導体メモリがある。現代のコンピュータでは、一次記憶装置にはほぼ必ずダイナミックな揮発性半導体メモリ(DRAM)を使っている。21世紀に入ったころから、フラッシュメモリと呼ばれる不揮発性半導体メモリがオフラインストレージとしてシェアを伸ばし続けている。不揮発性半導体メモリは、各種電子機器や特殊なコンピュータの二次記憶装置としても使われている。 磁気記憶装置は、ディスクやテープの表面に塗布された磁性体の磁化パターンを変化させることで情報を記憶する。磁気記憶装置は不揮発性である。情報へのアクセスに1つまたは複数の読み書き用ヘッドを使う。ヘッドには電気信号と磁気信号を相互に変換する変換器がある。ヘッドは媒体表面のごく一部にしかアクセスできないので、ヘッドや媒体を移動させることでデータにアクセスする。現在のコンピュータでは、以下のような磁気記憶装置がある。 初期のコンピュータでは、磁気ドラムメモリ、磁気コアメモリ、コアロープメモリ、薄膜メモリ、磁気バブルメモリなどが一次記憶装置としても使われていた。また、磁気テープは二次記憶装置として使われることが多かった。 光学記憶装置(英語版)は、円板表面の性質を変化させることで情報を格納し、光学ドライブに搭載された半導体レーザーを表面に当てて反射光を測定することで情報を読み取る。光ディスクは不揮発性である。表面の変化が永久的なもの(読み取り専用媒体)、一度だけ変化させられるもの(ライトワンス媒体)、何度も書き換え可能なもの(リライタブル媒体)がある。次のような形式がよく使われている。 3次元光ディスクなどの3次元光学記憶装置(英語版)や5次元光記録も提案されている。蛍光多層ディスクは、C3D が開発した新技術で3次元光ディスクの一種だが、反射光ではなく蛍光を使用することで記録層を100層にまで拡張できる。 光磁気ディスクは強磁性の表面の磁場の形で情報を記憶するストレージである。読み取りは光学的に行い、書き込みは磁気と光学を組み合わせて行う。光磁気ディスクは不揮発性で、シーケンシャルアクセス式で、書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速である。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用する。 紙による記憶媒体としては、紙テープやパンチカードがあり、コンピュータ黎明期から広く使われてきた。情報は紙に穴を開けることで記録され、機械的または光学的に穴の位置を知ることで情報を読み取る。 二次または三次記憶装置は、コンピュータネットワークを使ってコンピュータと接続することもある。一次記憶装置ではそのような概念はふさわしくないが、マルチプロセッサでメモリを共有するのも多少それに似ている。 大量の磁気テープ(または光ディスクや光磁気ディスク)を自動化された三次記憶装置に格納したものである。磁気テープの場合はテープライブラリ、光ディスクの場合は光ジュークボックスあるいは光ディスクライブラリ装置などと呼ぶ。最小構成の装置では、装置内にドライブは1つだけで、オートローダまたはオートチェンジャなどと呼ばれる。 ロボット型ストレージの場合、多数のスロットがあってそこに媒体が格納されており、ロボットアームがそれをピックアップして組み込みのドライブに挿入する。スロットの配置とピックアップ機構が性能に影響を与える。重要な特性として拡張性があり、スロットやドライブやロボット機構を追加できるようになっている。テープライブラリの場合、10から10万スロットを有し、テラバイトからペタバイト級の情報を格納できる。光ジュークボックスはそれより若干小規模で、せいぜい1000スロットである。 ロボット型ストレージはバックアップ、画像やビデオなどを大量に保管する必要のある業界(医療、映像産業など)で使われる。階層型ストレージ管理は、このようなストレージ装置も含め、自動的にデータを適切なストレージ階層に移動させる手法である。低い階層に格納してあるファイルが必要になると、自動的にそれを上位のハードディスクなどに取り出すことができる。
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ストレージの記憶単位として512バイトや4キビバイトなどからなる、ブロック、あるいはセクターなどと呼ばれる単位が多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "プロセッサが主記憶装置へ、ストレージから読み込ませる処理として、", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "のような手順で行われる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "記憶装置を分類するいくつかの特性がある。特性には、揮発性/不揮発性、ダイナミック/スタティック、書き換え可能/不可能、破壊読み出し/非破壊読み出し、アクセス方式、アドレス指定方式、などがある。また、容量と性能は重要なスペックである。", "title": "特性とスペック" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、RAM(Random Access Memory)は、本来は上記のランダムアクセスのメモリという意味だが、もっぱらROM(Read only memory)に対するものとして「(ランダムアクセスで)書き込み可能」という意味で使われている。本来の書き込み可能という意味ではRWM(Read Write Memory)という表現もあるが、ほとんど使われない。", "title": "特性とスペック" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "SRAMチップでは、8ビットや16ビット単位のチップが多い。それに対し、古くはDRAMチップは1ビット単位であり、8個や16個並べて実際のメモリを構成していた(そのため、コンピュータ業界ではバイト単位がもっぱらであるのに対し、メモリ業界ではビット単位が使われることも多い)。現在でもDRAMチップは4ビットか8ビット程度と、比較的少ないビット数のものを並べて利用している。", "title": "特性とスペック" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": 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"paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "初期のコンピュータでは、磁気ドラムメモリ、磁気コアメモリ、コアロープメモリ、薄膜メモリ、磁気バブルメモリなどが一次記憶装置としても使われていた。また、磁気テープは二次記憶装置として使われることが多かった。", "title": "基本的な記憶装置技術" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "光学記憶装置(英語版)は、円板表面の性質を変化させることで情報を格納し、光学ドライブに搭載された半導体レーザーを表面に当てて反射光を測定することで情報を読み取る。光ディスクは不揮発性である。表面の変化が永久的なもの(読み取り専用媒体)、一度だけ変化させられるもの(ライトワンス媒体)、何度も書き換え可能なもの(リライタブル媒体)がある。次のような形式がよく使われている。", "title": "基本的な記憶装置技術" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "3次元光ディスクなどの3次元光学記憶装置(英語版)や5次元光記録も提案されている。蛍光多層ディスクは、C3D が開発した新技術で3次元光ディスクの一種だが、反射光ではなく蛍光を使用することで記録層を100層にまで拡張できる。", "title": "基本的な記憶装置技術" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "光磁気ディスクは強磁性の表面の磁場の形で情報を記憶するストレージである。読み取りは光学的に行い、書き込みは磁気と光学を組み合わせて行う。光磁気ディスクは不揮発性で、シーケンシャルアクセス式で、書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速である。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用する。", "title": "基本的な記憶装置技術" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "紙による記憶媒体としては、紙テープやパンチカードがあり、コンピュータ黎明期から広く使われてきた。情報は紙に穴を開けることで記録され、機械的または光学的に穴の位置を知ることで情報を読み取る。", "title": "基本的な記憶装置技術" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "二次または三次記憶装置は、コンピュータネットワークを使ってコンピュータと接続することもある。一次記憶装置ではそのような概念はふさわしくないが、マルチプロセッサでメモリを共有するのも多少それに似ている。", "title": "関連技術" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大量の磁気テープ(または光ディスクや光磁気ディスク)を自動化された三次記憶装置に格納したものである。磁気テープの場合はテープライブラリ、光ディスクの場合は光ジュークボックスあるいは光ディスクライブラリ装置などと呼ぶ。最小構成の装置では、装置内にドライブは1つだけで、オートローダまたはオートチェンジャなどと呼ばれる。", "title": "関連技術" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ロボット型ストレージの場合、多数のスロットがあってそこに媒体が格納されており、ロボットアームがそれをピックアップして組み込みのドライブに挿入する。スロットの配置とピックアップ機構が性能に影響を与える。重要な特性として拡張性があり、スロットやドライブやロボット機構を追加できるようになっている。テープライブラリの場合、10から10万スロットを有し、テラバイトからペタバイト級の情報を格納できる。光ジュークボックスはそれより若干小規模で、せいぜい1000スロットである。", "title": "関連技術" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ロボット型ストレージはバックアップ、画像やビデオなどを大量に保管する必要のある業界(医療、映像産業など)で使われる。階層型ストレージ管理は、このようなストレージ装置も含め、自動的にデータを適切なストレージ階層に移動させる手法である。低い階層に格納してあるファイルが必要になると、自動的にそれを上位のハードディスクなどに取り出すことができる。", "title": "関連技術" } ]
記憶装置は、コンピュータの処理対象であるデータと処理内容のプログラムとを記憶させ参照と変更ができる装置。一部の記憶装置は変更できないものがある。
{{redirect3|メモリ|コンピュータの構成部品のうちメモリと呼ばれるもの全般|メインメモリ|主記憶装置|その他|メモリ (曖昧さ回避)}} {{読み仮名|'''記憶装置'''|きおくそうち}}は、'''[[コンピュータ]]'''の処理対象である'''データ'''と処理内容の'''プログラム'''とを'''記憶'''させ参照と変更ができる装置。一部の記憶装置は変更できないものがある。 <ref name="CompOrgDesign">{{cite book |和書 |title=コンピュータの構成と設計 第5版 上 |author=[[デイビッド・パターソン (計算機科学者)|デイビッド・パターソン]]、[[ジョン・ヘネシー]] |publisher=[[日経BP]] |isbn=978-4-8222-9842-5 }}</ref> <ref name="MicroProcessor">{{cite book |和書 |title=マイクロプロセッサ・アーキテクチャ入門 インターフェース増刊 TECHI Vol.20 |author=中森章 |publisher=[[CQ出版]] }}</ref> <ref name="i486">{{cite book |和書 |title=はじめて読む486 |author=蒲地輝尚 |publisher=[[アスキー出版]] |isbn=4-7561-0213-1 }}</ref> == 概要 == コンピュータは処理対象のデータをプログラムによる処理内容に応じて、自動的に制御し処理する。 処理対象のデータは、一定の規則で[[符号理論|符号化]]された数値([[整数]]や[[浮動小数点数]])を基本とし、それらを組合せた[[文章]]や[[画像]]や[[音声]]など様々である。 また処理内容のプログラムは、データ転送や[[算術|算術演算]]や[[論理演算]]、[[分岐命令|条件分岐やジャンプ]]などの基本的な命令を、これも一定の規則で符号化し組合せて並べている。 現在のコンピュータでは、データとプログラムを共に符号化された数値とし、同じように記憶や処理することができる。 これはプログラムを用いて、データ処理するかのように別のプログラムを作成や修正して記憶することができる(処理中のプログラム自体の修正も可能だが難易度が上がる)。そのため、1種類あるいは1台のコンピュータで様々なプログラムを作成記憶させ、用途に応じてプログラムを取替えることで汎用的に用いることができる。 この汎用性のために元々の科学技術的な[[数値解析]]に限定されず、[[会計]]や[[出版]]や[[通信]]、あるいは[[コンピュータゲーム]]や[[音楽]]など、組織や個人を問わず様々に利用され発展している。コンピュータの発展に伴いその一部である記憶装置も、読み書きの速度や記憶容量の拡大、用途に応じた種類の増加などが行われている。 [[情報理論]]の観点からは、記憶装置は通信路と同じように扱うことができる。これはプログラムやデータを、[[インターネット]]経由で受取るのと、[[フラッシュメモリ]]等で受取るのと、(時間や労力は異なるが)同じように扱えることを意味する。 コンピュータで扱う符号化した数値は、有限桁の2進数を意味する。1桁であれば0か1の2種類の値を表現でき、2桁であれば00、01、10、11の4種類の値を表現でき、この表現方法を'''[[デジタル]]'''と呼ぶ。 情報理論観点から、真偽の2種類を表現できる1桁デジタルの0と1とを'''[[ビット]]'''と呼ぶ。 '''情報量'''と同義の'''記憶容量'''が1ビットなら2<sup>1</sup>である2種類の数値を、8ビットなら2<sup>8</sup>の256種類の数値を記憶できる。デジタル数値をそのまま整数として扱う方式を符号無し整数と呼び、8ビット符号無し整数なら0から255まで扱える。 コンピュータの発達により1命令で計算や記憶したりできる数値が、16ビット、32ビット、64ビットと拡大されてきた。 また8ビットを1[[バイト]]とする単位も使われ、32ビットが4バイト、64ビットが8バイトに対応する。 記憶装置の規模の拡大により、10進接頭辞である[[キロ]]、[[メガ]]、[[ギガ]]や、2<sup>10</sup>の1024による[[2進接頭辞]]であるキビ、メビ等も、併用されている。 また読み書きや通信の性能の指標として、単位時間あたりの情報量や記憶容量も用いられる。 <ref name="CompOrgDesign"></ref> <ref name="MicroProcessor"></ref> <ref name="i486"></ref> <ref name="InformationTheoryITText">{{cite book |和書 |title=情報理論 |publisher=[[オーム社]] |author=村松純、岩田賢一、有村光晴、渋谷智治 |isbn=978-4-274-20595-8 }}</ref> == 分類 == コンピュータの構成要素および記憶装置は、様々な観点から分類することができるが、 '''[[演算装置|算術論理演算装置]]'''(Arithmetic Logic Unit、ALU)と'''[[制御装置]]'''(Control Unit)などを一体化した'''[[プロセッサ]]'''、プロセッサが処理する命令のプログラムとデータを記憶する'''メモリモジュール'''からなる'''[[主記憶装置]]'''は、必須要素でコンピュータの中枢を担う。それ以外は[[入出力|入出力装置]]と呼ばれ、コンピュータの用途に応じて各種装置を接続する。入出力装置の一種である[[補助記憶装置]]は、電源断でコンピュータが停止状態でも記憶を保持することができる。 === プロセッサと主記憶装置 === 現在の主記憶装置は、8ビット=1バイト毎に、'''アドレス'''、番地が割当てられているバイトアドレス方式が主流である。 プロセッサ内部にも'''レジスタ'''と呼ばれる記憶装置が構成されている。 プロセッサが命令やデータを主記憶装置から読み込み処理する流れとして、 *'''プログラムカウンタ'''、PCと呼ばれるレジスタ値をアドレスとして、主記憶装置から命令レジスタへ読み込む('''フェッチ''') *命令レジスタの内容が、メモリから64ビットBBレジスタへの読み込みの'''ロード'''命令と解釈('''デコード''') *対象BBレジスタに、AAレジスタ値+24を先頭アドレスとして、主記憶装置から連続8バイトを読み込む('''ロード'''の'''エグゼキュート''') *プログラムカウンタが命令レジスタの容量分加算される などの基本的な命令で逐次処理される。 2000年ごろまではプロセッサが倍々の指数的性能向上が成されたが、主記憶装置へのアクセス性能はさほど向上しなかった。上記のプロセッサ内部のレジスタアクセス(命令デコードやプログラムカウンタ加算等)は、クロックに従い1サイクルで処理できる一方で、主記憶アクセス(命令フェッチやロード等)は数十から百サイクル以上の桁違いの時間が必要となる。 これを解決するため'''高速'''なプロセッサ内部レジスタと'''低速'''な主記憶装置の間に、'''中間'''の'''[[キャッシュメモリ]]'''の階層を設ける。キャッシュメモリは高速だが容量が小さいため、主記憶装置の一部をキャッシュメモリにもコピーしておく。主記憶参照の命令があっても、キャッシュに有効な命令やデータがあればそれを利用し、主記憶へのアクセス頻度を減らすものである。キャッシュの管理はプロセッサ機能が自動で行うが、利用者も命令やデータの配置をキャッシュを意識して行う必要がある。 現在のプロセッサは内部にキャッシュメモリを実装し、また2次、3次キャッシュなど多段階かつ大容量化されている。 <ref name="CompOrgDesign"></ref> <ref name="MicroProcessor"></ref> <ref name="i486"></ref> <ref name="InformationTheoryITText"></ref> <ref name=IntelManual>https://www.intel.com/content/www/us/en/developer/articles/technical/intel-sdm.html]"</ref> <ref name=ArmManual>https://developer.arm.com/documentation/ddi0487/latest/</ref> === 補助記憶装置 === 一方で補助記憶装置は'''ストレージ'''ともよばれ、現在は'''[[ハードディスクドライブ]]'''や'''[[ソリッドステートドライブ]]'''、[[テープドライブ|磁気テープドライブ]]や[[光ディスク|光ディスクドライブ]]などが広く用いられている。これらのストレージは'''専用コントローラ'''(プロセッサに相当)と'''キャッシュ'''(主記憶装置に相当)に'''磁気ディスク'''や'''フラッシュメモリ'''が接続され、ストレージ専用コンピュータのような下位構成要素となっている。 ストレージの記憶単位として512バイトや4キビバイトなどからなる、'''ブロック'''、あるいは'''セクター'''などと呼ばれる単位が多い。 プロセッサが主記憶装置へ、ストレージから読み込ませる処理として、 *プロセッサがストレージコントローラに読み込み命令を発行する (ブロックXXからYYブロック分を主記憶のCCに読み込み) *ストレージコントローラは命令受付完了をプロセッサに通知 *ストレージコントローラは指定された下位のブロックを読み込み上位の主記憶装置にデータを転送 *ストレージコントローラはプロセッサに命令処理完了を通知 のような手順で行われる。 <ref name=NVMeSpecification>https://nvmexpress.org/specification/nvm-express-base-specification/</ref> == 特性とスペック == [[画像:DDR RAM-2.jpg|thumb|250px|1GB DDR RAM メモリモジュール]] 記憶装置を分類するいくつかの特性がある。特性には、揮発性/不揮発性、ダイナミック/スタティック、書き換え可能/不可能、破壊読み出し/非破壊読み出し、アクセス方式、アドレス指定方式、などがある。また、容量と性能は重要なスペックである。 === 揮発性と不揮発性 === ; [[不揮発性メモリ]] : 電力を供給しなくとも格納した情報を保持できる。長期間の記憶に適している。現在は主に二次/三次記憶装置やオフラインストレージで使われている。1950年代から1960年代にかけては、[[磁気コアメモリ]]が一次記憶装置にも使われていた。 ; [[揮発性メモリ]] : 情報を保持するには、電力供給が必要である。現在最も高速なメモリ技術は揮発性である(普遍的法則ではない)。一次記憶装置は高速性を求められるため、揮発性メモリを使うことが多い。 === ダイナミックとスタティック === ; ダイナミックメモリ : [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]など。揮発性メモリのうち、定期的な再読み取りと再書き込み([[メモリリフレッシュ]])をしないと格納してある情報が消えてしまうもの。 ; スタティックメモリ : [[Static Random Access Memory|SRAM]]など。揮発性メモリのうち、リフレッシュを必要としないもの。 === 書き換え可能か否か === ; 読み書き可能(リードライト) : 情報をいつでも上書きできる。一次記憶装置としてある程度の容量の読み書き可能ストレージを持たないコンピュータは、ほとんどの場合役に立たない。現在のコンピュータは通常、二次記憶装置にも読み書き可能ストレージを使っている。言葉の文字通りの意味とはズレるのだが[[Random Access Memory|RAM]]と呼ばれている。 ; 読み取り専用(リードオンリー) : [[Read Only Memory|ROM]]。媒体製造時に情報を記憶させる。組込みコンピュータや、起動時のためのプログラムを書き込むためや、三次記憶装置やオフラインストレージに使う。例えば、[[CD-ROM]]がある。 ; 一度だけ書き込み可能(ライトワンス) : 製造後に一度だけ書き込むことができる。[[Write Once Read Many|WORM]]とも言う。ROMを少数生産する目的や、三次記憶装置やオフラインストレージに使う。例えば、[[PROM]]や[[CD-R]]がある。 ; リライタブル : 読み出しは自由にできるが、上書きは自由にできず、ブロック単位で一旦消去が必要であったり書き込み操作が読み取り操作よりも遥かに低速であったりする。例えば、[[EPROM]]や[[フラッシュメモリ]]や[[CD-RW]]などがある。 === 破壊読み出しと非破壊読み出し === ; 破壊読み出し : 書き込まれたデータを読み出す時に、内容を破壊してしまうものが破壊読み出しである。読み出し後も元の内容が以後も必要なのであれば、書き戻して(再生、等と言う)やらなければならない。代表的なものはDRAMや磁気コアメモリなど。DRAMは静電容量に記憶しているので原理的には破壊読み出しだが、普通はチップ内部の読み出し動作の中で書き戻しまでやってしまうので、ユーザーは指定されたタイミングで信号を与えて内容を読み出すだけでよい。 ; 非破壊読み出し : 書き込まれたデータを読み出す時に、内容を残したまま読み出せるものが非破壊読み出しである。代表的なものはSRAMである。 === アクセス方法 === ; [[ランダムアクセス]] : 任意の位置へのアクセスをほぼ一定の時間で行える。一次記憶装置や二次記憶装置に適している。 ; [[シーケンシャルアクセス]] : 決められた先頭位置から逐次的にしかアクセスできない。従って、ある情報へのアクセスにかかる時間は、先頭位置からの距離に依存する。[[磁気テープ]]などの特性で、オフラインストレージに適している。 なお、RAM([[Random Access Memory]])は、本来は上記のランダムアクセスのメモリという意味だが、もっぱらROM([[Read only memory]])に対するものとして「(ランダムアクセスで)書き込み可能」という意味で使われている。本来の書き込み可能という意味ではRWM(Read Write Memory)という表現もあるが、ほとんど使われない。 === アクセス単位 === SRAMチップでは、8ビットや16ビット単位のチップが多い。それに対し、古くはDRAMチップは1ビット単位であり、8個や16個並べて実際のメモリを構成していた(そのため、コンピュータ業界ではバイト単位がもっぱらであるのに対し、メモリ業界ではビット単位が使われることも多い<ref group="※">これを利用(?)したのが初期のゲーム業界で、ROMカセットによってソフトが供給されていたためという理由もあるが、しばしば容量をビット単位で表現していた。</ref>)。現在でもDRAMチップは4ビットか8ビット程度と、比較的少ないビット数のものを並べて利用している。 また、データの転送方法についてもバリエーションがある所で、非同期SRAMのように単純にアドレスを印加すればデータが出てくるといったものから、[[DDR SDRAM]]のように複雑なプロトコルを持つものまで、色々のものがある。 === アドレス指定方法 === ; 位置による指定 : 0番地(あるいは1番地)から順番に振られた[[メモリアドレス]]で位置を指定する。主記憶ではもっぱらバイト単位、補助記憶ではブロック単位でアドレスが振られる(後者は以前はシリンダ・サーフェス・ヘッド、というような物理機構に依った構造のアドレスだったが、基本的には同様) ; [[ファイルシステム]]による指定 : 可変な大きさのサイズなどを持つ[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]として補助記憶に情報が格納されているものである。ほとんどのシステムがファイル名を使ってファイルを指定できる。さらに現代の多くのシステムは階層型[[ディレクトリ]]などによって木構造(ツリー状)の名前空間も提供しており、ファイル以外のシステム資源や情報にアクセスできるものもある(伝統的な /dev や、Linuxの /proc や /sys など)。ファイルシステムは、一般に[[オペレーティングシステム]]によって提供されている。またオープンされたファイルという形で、主記憶の管理も一部行われる。 ; データベース : 何らかのDBMSにより管理する。 ; [[連想メモリ]] : 連想記憶(associative memory、他に Content-Addressable Memory, CAM とも)、記憶内容自体によってアクセスしアドレスを得る、あるいは記憶内容の一部でアクセスし、その全体を読み出す、といったことができる。例えば、[[キャッシュメモリ]]には、本体の記憶装置のあるアドレスの内容がキャッシュに入っているか、ということを問い合わせる必要があり、一種の連想メモリが使われる。ソフトウェアで実装したもの、あるいは抽象データ構造としては「[[連想配列]]」と呼ばれている。 === 容量 === [[2進接頭辞|容量単位]]は一般的な距離や速度を表すものと異なる特殊な単位と使われ方をする ; 記憶容量 : デバイスまたは媒体が記憶できる全容量。[[ビット]]数や[[バイト (情報)|バイト]]数で表される。 ; 記憶密度 : 情報をどれだけコンパクトに記憶できるかの尺度。単位長、単位面積、単位体積あたりの記憶容量。 === 性能 === ; [[レイテンシ]] : ストレージの特定位置にアクセスするのにかかる時間。一次記憶装置の場合はナノ秒単位、二次記憶装置ではミリ秒単位、三次記憶装置では秒単位程度である。読み取りと書き込みでレイテンシが異なる場合もある。シーケンシャルアクセス式の場合、ばらつきが大きいので、最小・最大・平均で表す。 ; [[スループット]] : 単位時間当たりの読み書きの速度。[[ビット毎秒]]も使うことがあるが、通常はメガバイト毎秒などの単位を使う。レイテンシと同様、読み取りと書き込みで異なる場合もある。また、逐次的なアクセスの方がランダムなアクセスよりスループットが高くなる。 == 基本的な記憶装置技術 == 2018年現在、よく使われている記憶装置技術としては、半導体、磁気、光学があり、紙も限定的に使われ続けている。他にも、かつて使われていた記憶装置技術や、開発が進んでいる新技術もある。 === 半導体 === {{半導体メモリ}} '''[[半導体メモリ]]'''は、[[半導体]]による[[集積回路]]に情報を格納する。半導体メモリには数百万個の微細な[[トランジスタ]]や[[コンデンサ]]が集積されている。揮発性と不揮発性の半導体メモリがある。現代のコンピュータでは、一次記憶装置にはほぼ必ずダイナミックな揮発性半導体メモリ([[Dynamic Random Access Memory|DRAM]])を使っている。21世紀に入ったころから、[[フラッシュメモリ]]と呼ばれる不揮発性半導体メモリがオフラインストレージとしてシェアを伸ばし続けている。不揮発性半導体メモリは、各種電子機器や特殊なコンピュータの二次記憶装置としても使われている。 === 磁気 === {{磁気記録媒体}} '''[[磁気記憶装置]]'''は、ディスクやテープの表面に塗布された[[磁性体]]の[[磁化]]パターンを変化させることで情報を記憶する。磁気記憶装置は不揮発性である。情報へのアクセスに1つまたは複数の読み書き用ヘッドを使う。ヘッドには電気信号と磁気信号を相互に変換する変換器がある。ヘッドは媒体表面のごく一部にしかアクセスできないので、ヘッドや媒体を移動させることでデータにアクセスする。現在のコンピュータでは、以下のような磁気記憶装置がある。 * [[ディスクドライブ]] ** [[フロッピーディスク]](オフラインストレージとして使用) ** [[ハードディスクドライブ]](二次記憶装置として使用) * [[磁気テープ]]装置(三次記憶装置およびオフラインストレージとして使用) 初期のコンピュータでは、[[磁気ドラムメモリ]]、[[磁気コアメモリ]]、[[コアロープメモリ]]、[[薄膜メモリ]]、[[磁気バブル]]メモリなどが一次記憶装置としても使われていた。また、磁気テープは二次記憶装置として使われることが多かった。 === 光学 === {{光ディスク}} '''{{仮リンク|光学記憶装置|en|Optical storage}}'''は、円板表面の性質を変化させることで情報を格納し、[[光学ドライブ]]に搭載された[[半導体レーザー]]を表面に当てて反射光を測定することで情報を読み取る。[[光ディスク]]は不揮発性である。表面の変化が永久的なもの(読み取り専用媒体)、一度だけ変化させられるもの(ライトワンス媒体)、何度も書き換え可能なもの(リライタブル媒体)がある。次のような形式がよく使われている<ref>[http://www.dvddemystified.com/dvdfaq.html DVD FAQ] - DVD技術に関する包括的情報源</ref>。 * [[CD-ROM]], [[DVD-ROM]], [[Blu-ray Disc|BD-ROM]]: 読み取り専用ストレージ。デジタル情報(音楽、ビデオ、コンピュータプログラムなど)の大量配布/販売に使用。 * [[CD-R]], [[DVD-R]], [[DVD+R]] [[Blu-ray Disc|BD-R]]: ライトワンス・ストレージ。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用。 * [[CD-RW]], [[DVD-RW]], [[DVD+RW]], [[DVD-RAM]], [[Blu-ray Disc|BD-RE]]: 書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用。 * [[Ultra Density Optical]] (UDO) は BD-R や BD-RE と同程度の容量を持つ。書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用。 [[3次元光ディスク]]などの{{仮リンク|3次元光学記憶装置|en|3D optical data storage}}や[[5次元光記録]]も提案されている。[[蛍光多層ディスク]]は、[[Constellation 3D|C3D]] が開発した新技術で3次元光ディスクの一種だが、反射光ではなく[[蛍光]]を使用することで記録層を100層にまで拡張できる。 [[光磁気ディスク]]は[[強磁性]]の表面の磁場の形で情報を記憶するストレージである。読み取りは光学的に行い、書き込みは磁気と光学を組み合わせて行う。光磁気ディスクは不揮発性で、シーケンシャルアクセス式で、書き込みは低速だが、読み取りは比較的高速である。三次記憶装置またはオフラインストレージとして使用する。 === 紙 === {{紙記録媒体}} 紙による記憶媒体としては、[[紙テープ]]や[[パンチカード]]があり、コンピュータ黎明期から広く使われてきた。情報は紙に穴を開けることで記録され、機械的または光学的に穴の位置を知ることで情報を読み取る。 === その他の古い技術 === ; 記憶用真空管 : [[ブラウン管]]の一種である[[ウィリアムス管]]や、[[セレクトロン管]]といった真空管があった。ウィリアムス管は論理動作に際しコンマ数ボルトという微妙な電圧の違いを検出する必要があり、また、セレクトロン管は高価という欠点があった。そういった理由から採用例は多くなく、[[コアメモリ]]によって速やかに置き換えられた。 ; [[遅延記憶装置]] : [[水銀]]などの媒体中を伝わる[[音波]]などに波に情報を格納するものである。分類としては、ダイナミック、揮発性、シーケンシャルアクセス、読み書き可能、となる。時代が比較的遅いものとしては、同軸ケーブルを利用した電磁遅延線として1960年代の使用例がある。 === その他の新技術 === ; [[PRAM]]([[相変化記録技術]]) : 相変化する材質で相変化させることで情報を記録し、[[電気抵抗]]や光の反射率を観測することで情報を読み取る。不揮発性、ランダムアクセス式、読み書き可能なストレージ。二次記憶装置またはオフラインストレージに使用するが、場合によっては一次記憶装置に使用する可能性もある。ライトワンスまたはリライタブルの光ディスクは、既に相変化記録技術を使っているものが多い。 ; [[ホログラフィー|ホログラフィックメモリ]] : [[結晶]]または[[フォトポリマー]]の内部に情報を光学的に記憶する。容積全体を記憶に利用できる。不揮発性、シーケンシャルアクセス式、ライトワンスまたは読み書き可能なストレージ。二次記憶装置またはオフラインストレージとして使用する可能性がある。[[HVD]](ホログラフィック・バーサタイル・ディスク)も参照。 ; [[分子メモリ]] : [[重合体|ポリマー]]の中に電荷の形で情報を記憶する。一次記憶装置に適しているのではないかと言われている。 ; [[DNAメモリ]] : [[DNA]]の[[塩基配列]]を書き換えて記憶する。最大500TBほど記憶可能と言われている。[[マイクロソフト]]が研究中。 == 関連技術 == === ネットワーク接続 === 二次または三次記憶装置は、[[コンピュータネットワーク]]を使ってコンピュータと接続することもある。一次記憶装置ではそのような概念はふさわしくないが、[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]でメモリを共有するのも多少それに似ている。 ; [[ダイレクトアタッチトストレージ]] (DAS) : ネットワークを使わずに接続される普通のストレージ。現在も最も一般的手法。この用語は、NAS や SAN と同時期に(区別・対比するために)考案された。 ; [[ネットワークアタッチトストレージ]] (NAS) : [[Local Area Network|LAN]]やプライベート[[Wide Area Network|WAN]]上でファイルレベルで他のコンピュータからアクセスできるストレージ。[[オンラインストレージ]]の場合は、[[インターネット]]経由でアクセス可能。NASは通常[[Network File System|NFS]]や[[Common Internet File System|CIFS/SMB]]プロトコルを使用する。 ; [[ストレージエリアネットワーク]] (SAN) : 複数のコンピュータにストレージ容量を供給する専用ネットワーク。NAS と SAN の大きな違いは、NAS がファイルシステムとして存在し、クライアントへのアクセスを提供するのに対して、SAN はブロックデバイスレベルのアクセスを提供し、供給した容量はそのクライアントコンピュータ専用のストレージとなる点である。SAN では[[ファイバーチャネル]]ネットワークを主に使用する。 === ロボット型ストレージ === 大量の磁気テープ(または光ディスクや光磁気ディスク)を自動化された三次記憶装置に格納したものである。磁気テープの場合は[[テープライブラリ]]、光ディスクの場合は[[光ジュークボックス]]あるいは光ディスクライブラリ装置などと呼ぶ。最小構成の装置では、装置内にドライブは1つだけで、[[オートローダ]]または[[オートチェンジャ]]などと呼ばれる。 ロボット型ストレージの場合、多数のスロットがあってそこに媒体が格納されており、ロボットアームがそれをピックアップして組み込みのドライブに挿入する。スロットの配置とピックアップ機構が性能に影響を与える。重要な特性として拡張性があり、スロットやドライブやロボット機構を追加できるようになっている。テープライブラリの場合、10から10万スロットを有し、[[テラバイト]]から[[ペタバイト]]級の情報を格納できる。光ジュークボックスはそれより若干小規模で、せいぜい1000スロットである。 ロボット型ストレージは[[バックアップ]]、画像やビデオなどを大量に保管する必要のある業界(医療、映像産業など)で使われる。[[階層型ストレージ管理]]は、このようなストレージ装置も含め、自動的にデータを適切なストレージ階層に移動させる手法である。低い階層に格納してあるファイルが必要になると、自動的にそれを上位のハードディスクなどに取り出すことができる。 == 関連項目 == === 主記憶装置関連 === * [[主記憶装置]] * [[Random Access Memory]] * [[メモリ管理]] ** [[仮想記憶]] - [[単一レベル記憶]] ** [[動的メモリ確保]] *** [[メモリリーク]] * [[メモリ保護機能]] * [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] (Dynamic Random Access Memory) * [[Static Random Access Memory|SRAM]] (Static Random Access Memory) * [[磁気抵抗メモリ]] (Magnestic Random Access Memory) === 補助記憶装置関連 === * [[ファイルシステム]] * [[フラッシュメモリ]] * [[ソリッドステートドライブ]]<!-- メモリディスク --> ---- * [[動作環境]] == 注釈 == {{Reflist|group="※"}} == 出典 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きおくそうち}} [[Category:記憶装置|*]] [[Category:コンピュータの仕組み]]
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PHP
PHP
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PHP PHP (プログラミング言語) - Webページ作成のために用いられることの多い汎用プログラミング言語の一種。 PHP研究所 - 松下幸之助によって創設された出版社・民間シンクタンク。 PHP新書 - PHP研究所が刊行する新書。 PHP (雑誌) - PHP研究所が発行する雑誌。 PHP文庫 - PHP研究所が発行する文庫。 Personal Handy Phone - PHSの旧名称。 フィリピンの通貨、フィリピン・ペソのISO 4217コード。 鳩の巣原理: Pidgeon Hole Principle - n+1羽の鳩をn個の巣に入れたとき2羽以上入る巣が存在するという数学の理論。 Preferential Handling Procedure - 少数輸入自動車のために特別に設けられた認証制度。
'''PHP''' * [[PHP (プログラミング言語)]] - Webページ作成のために用いられることの多い汎用プログラミング言語の一種。 * [[PHP研究所]] - 松下幸之助によって創設された出版社・民間シンクタンク。 ** [[PHP新書]] - PHP研究所が刊行する新書。 ** [[PHP (雑誌)]] - PHP研究所が発行する雑誌。 ** [[PHP文庫]] - PHP研究所が発行する文庫。 * Personal Handy Phone - [[PHS]]の旧名称。 * フィリピンの通貨、[[フィリピン・ペソ]]のISO 4217コード。 * [[鳩の巣原理|鳩の巣原理: Pidgeon Hole Principle]] - n+1羽の鳩をn個の巣に入れたとき2羽以上入る巣が存在するという数学の理論。 * Preferential Handling Procedure - 少数輸入自動車のために特別に設けられた認証制度。 {{Aimai}}
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波動関数
波動関数(はどうかんすう、英: wave function)は、量子力学において純粋状態を表す複素数値関数。量子論における状態については量子状態を参照。 ここでは量子状態を表す状態ベクトルから波動関数を定義する。ただし状態ベクトルと波動関数は等価であるため(後述)、扱う問題に応じて状態ベクトルと波動関数による表現を行き来することができる。 あるオブザーバブルを表すエルミート演算子 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} を考え、その固有値 a n {\displaystyle a_{n}} が離散的であるとする。エルミート演算子 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の性質として、全ての固有ベクトルの集合 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} は完全系をなすため、任意の状態ベクトル | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } は { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} の線形結合(重ね合わせ)として表すことができる。 上記の展開係数 ψ ( a n ) {\displaystyle \psi (a_{n})} を「基底 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} 表示での波動関数」と呼ぶ。 またエルミート演算子の固有ベクトルは互いに直交する(ように選べる)。 { | a n ⟩ } {\displaystyle \{|a_{n}\rangle \}} が正規直交基底をなすとすると、この式と | a n ⟩ {\displaystyle |a_{n}\rangle } との内積をとることで | a n ⟩ {\displaystyle |a_{n}\rangle } にかかる展開係数が得られる。 このように基底を一つに決めると、状態ベクトルと波動関数は片方が分かればもう片方を求めることができ、一対一対応の関係になっている。したがって波動関数は、その変数が決まっているときには状態ベクトルと等価である。このため波動関数は量子状態を表す関数として用いることができる。 一般的に量子状態は複素ヒルベルト空間上のベクトルで表されるため、波動関数は一般的に複素数関数である。 基底として位置を表す演算子 x ^ {\displaystyle {\hat {x}}} の固有ベクトル、つまり位置が定まった状態の全体 { | x ⟩ } {\displaystyle \{|x\rangle \}} を選んだ場合、任意の状態を { | x ⟩ } {\displaystyle \{|x\rangle \}} の重ね合わせで表現できる。この基底に対する係数 ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を座標表示での波動関数、あるいはシュレーディンガーの波動関数などと呼ぶ。 通常、位置は連続的な値を取るため、状態ベクトルの展開は形式的に積分形で表される: 波動関数 ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を定めれば | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } は一意的に決まるので、 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle } の代わりに ψ ( x ) {\displaystyle \psi (x)} を用いても状態を表すことができる。 基底として運動量を表す演算子 p ^ {\displaystyle {\hat {p}}} の固有ベクトル、つまり運動量が定まった状態の全体 { | p ⟩ } {\displaystyle \{|p\rangle \}} を選んだ場合、 ψ ( p ) {\displaystyle \psi (p)} を運動量表示での波動関数と呼ぶ。 ここでは関数のラベルとして位置表示と同じ文字 ψ {\displaystyle \psi } を用いたが、その関数形は全く異なることに注意。 ボルンの規則によると、ある状態 | ψ ⟩ {\displaystyle |\psi \rangle \ } における物理量(オブザーバブル) A {\displaystyle A\ } の測定(理想測定)をしたとき、その測定値の確率分布は次のように、物理量 A {\displaystyle A} による表示をした波動関数 ψ ( a ) = ⟨ a | ψ ⟩ {\displaystyle \psi (a)=\langle a|\psi 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になっていて、長さの次元を持つことからも分かる通り、物理量の固有値が連続的に存在する場合(連続スペクトル)、対応する確率分布の次元は、無次元ではなく、物理量の逆の次元、この場合は「 L − 1 {\displaystyle L^{-1}} (長さの逆数)」になる。このとき、 P ( x , t ) {\displaystyle P(x,t)} は「単位長さ当たりの確率」、すなわち確率密度として解釈される。 なお、波動関数の絶対値二乗が「存在確率」と言われることもあるが、正確ではない。確率解釈では、ボルンの規則は「理想測定を行った場合の測定結果の確率分布」であって、測定を行っていない場合の「存在」や「確率」について何かを言っているわけではない。 離散スペクトルと連続スペクトルの規格化条件を見比べてみると、それぞれの波動関数の次元は異なることがわかる。 波動関数の線形結合によって別の波動関数を作ることができる。 例えば2つの異なる波動関数 ψ 1 {\displaystyle \psi _{1}} と ψ 2 {\displaystyle \psi _{2}} の線形結合として、新たな波動関数 ψ {\displaystyle \psi } を考えることができる。 この波動関数の二乗絶対値は以下のように書ける。 第1, 4項はそれぞれ ψ 1 {\displaystyle \psi _{1}} および ψ 2 {\displaystyle \psi _{2}} の与える確率密度に(係数を除き)一致するが、第2, 3項はどちらにも一致しない。第2, 3項は2つの波動関数 ψ 1 , ψ 2 {\displaystyle \psi _{1},\psi _{2}} の干渉を生じさせる。 逆に、ある状態をいくつかの状態の重ね合わせに分解することもできる。重ね合わせに関する有名な思考実験にシュレーディンガーの猫がある。 物理量を表すエルミート演算子の固有関数は、その物理量の固有状態と呼ばれる。固有状態は、物理量が確定した値をもつような状態である。 特に重要なのは、全エネルギーを表すハミルトニアンの固有関数であり、エネルギー固有状態と呼ばれる。ハミルトニアンの固有値方程式は時間に依存しないシュレーディンガー方程式と呼ばれる。 化学や物性物理学の分野では、エネルギー固有状態は軌道(関数)とも呼ばれる。 波動関数の時間変化は、次の式に従う。 ここで ħ {\displaystyle \hbar } は換算プランク定数、 H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} はハミルトニアンである。 この式は時間に依存するシュレーディンガー方程式と呼ばれる。 この時間変化はユニタリー変換であり、時間変化しても確率が保存されている。 波動関数 ψ {\displaystyle \psi } で表される量子状態に対して、物理量 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の測定(理想測定)を行ったとする。ボルンの規則によれば、 A ^ {\displaystyle {\hat {A}}} の固有値のいずれかが測定値として得られる。測定値が a i {\displaystyle a_{i}} だったとすると、測定後の(測定結果を条件とした)量子状態は固有値 a i {\displaystyle a_{i}} に対応する固有状態となり(射影仮説)、 測定後の量子状態を表す波動関数は測定前の ψ {\displaystyle \psi } と大きく異なることがある。 これを「波動関数の収縮」ということがある。 このような測定に伴う波動関数の変化(ないし更新)は、前述のシュレーディンガー方程式で表されるものとは異なる。 ボルンの規則に従って、波動関数の絶対値の2乗は、その波動関数の基底となる固有状態を見出す確率ないし確率密度関数と対応付けられることが知られている。 他方、量子力学の枠組みにおいて、系の状態は波動関数によって指定される。これは古典力学において適当な物理量の値の組で系の状態を指定できたことと対照的である。 古典力学に基づくなら、物理量の値は測定せずとも定まっていると考えることができたが、量子力学に基づくなら、物理量の値そのものを決定することはできず、その確率分布しか知ることができない。 系が確率的に振る舞うことに対して、古典的な確率現象のように何らかの粗視化や系に対する知識の不足によって生じていると考えるのではなく、本質的に確率的な振る舞いをしていると考えるならば、前述の古典力学的な描像で系の状態を考えることは困難となる。 また、測定に伴って被測定系へ及ぼされる影響についても古典力学と量子力学で異なる点がある。 古典論では被測定系の状態を変化させずに物理量を測定できると考えることができたが、量子論においては、例えばある物理量を正確に測定した場合、測定系にとっての被測定系の状態は、測定に伴って測定値に対応する固有状態に変化していると考えなければならない。 前述の通り、波動関数は測定値の確率分布に関連しているため、確率分布が測定に伴って変化するならば、測定に伴って波動関数もまた変化しなければならない。 特に、物理量を正確に測定した場合、波動関数は対応する固有状態へ「収縮」する。 もし波動関数が(例えば電磁場のような)物理的実体を伴うものだと考えると、この「波動関数の収縮」の解釈には困難が伴うことが知られている。例えばEPRパラドックスとして指摘されたように、(量子力学の理論上)測定に伴って光速を超えて(従って相対性理論に整合しない)「収縮」が生じているように見える系について、そのような「収縮」が起こり得ないことを説明する必要が生じる。 もう一つの波動関数の重要な性質として、波動関数の重ね合わせとそれに伴う干渉がある。例えば二重スリット実験では、単スリット実験から得られる波動関数の重ね合わせによって、二重スリット系の波動関数が得られる。二重スリット系の粒子の存在確率分布は、単スリットの波動関数同士の干渉により、単スリット系での分布の重ね合わせとは異なることが知られている。この干渉は、スリットを通過する粒子の運動を(純粋に)古典力学的に解釈する限り説明できない。 確率的な振る舞いと重ね合わせに関連して、量子系と古典系が相互作用する系では「シュレーディンガーの猫」のような微妙な状態が存在し得る。通常、「猫」のような巨視的な対象は古典力学に従った振る舞いをすると考えられるが、測定器系を通じて崩壊性原子のような系と相関している場合、量子力学に従うならば、「猫の生死」のような巨視的な事象まで被測定系の振る舞いに依存してしまうことが示唆される。特に測定前の状態においては、猫系もまた量子力学的な重ね合わせ状態として記述されなければならない。 波動関数の「実在」を認めるなら、猫の重ね合わせ状態もまた何らかの形で「実在」すると考えなければならない。 「シュレーディンガーの猫」の思考実験から発展して、「ウィグナーの友人」のような系を考えることができる。「ウィグナーの友人」系では何らかの量子系に対して測定を行う系1(「友人」)と、系1に対して測定を行う系2(「ウィグナー」)が登場する。系1にとって測定結果を得た時点で対象の量子系の波動関数は「収縮」したように見えるが、系2にとっては系1の測定結果を(系1を通じて)観測するまで、量子系の波動関数は「収縮」していないように見える。このように「収縮」がいつどのように生じたかは、観測者の立場に依存しているように見える。 以上のような波動関数によって示唆される「現象」に対して、その解釈を巡って様々な提案がなされている。よく知られている例として、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈などが挙げられる。これらの解釈は波動関数がシュレーディンガー方程式に従って時間発展することは認めるが、観測に伴う干渉の消失(デコヒーレンス)や「波動関数の収縮」のメカニズムや波動関数が測定値の確率分布に対応する理由に対する説明が異なっており、そのため理論の適用範囲や検証可能性がしばしば議論の対象となっている。 典型的なコペンハーゲン解釈においては、波動関数は客観的な実体あるものではなく、観測者の主観によって定まるとされる。従ってコペンハーゲン解釈の下では、「波動関数の収縮」は非物理的な現象であり、相対論を破るものとは考えない。 多世界解釈では、「波動関数の収縮」は生じず、量子系はあくまでシュレーディンガー方程式に従って連続的に(ユニタリ)時間発展をすると考える。多世界解釈において「波動関数の収縮」に相当する過程は、観測者が辿り得た歴史の(互いに干渉することのない)分岐として表現される。 2つの波動関数の重ね合わせ(加算)が物理的に意味を持つので、波動関数は加算に関する数学である線形代数に従うと期待される。しかし、波動関数の線形代数での次数を有限な自然数Nと仮定すると、正準交換関係と両立しない。したがって線形代数を使うことにこだわるならば、いわば「無限次元」の線形代数を使用しなければならない。ノイマンはユークリッド空間の無限次元版であるヒルベルト空間を用い、質点の量子力学での波動関数の数学的定義を作成した。しかし、同じ手法は多粒子の量子論、場の量子論では十分な成功を収めておらず、波動関数・量子場の数学的定式化は未解決の問題である。 波動関数の数学的定式化に関する試みの一つとして、ノイマンとは異なる数学的定義を用い、虚数を廃した実数だけの量子力学を建設する試みが複数行われている。ある試みでは、水素原子からの光の波長についてはシュレーディンガー方程式と同じ結果になるが、多粒子系については通常の量子力学と異なる結果になり、実験値との差が大きいため、複素数を使う通常の量子力学より優位であるとは言えない。 この「実数だけの量子力学を作る」という試みは、通常の量子力学とは別の基礎方程式を出して優劣を議論する、というものであり、基礎方程式を変更しない多世界解釈とは異なる。多世界解釈は実験に対応する物理量の定義を変更しようとするものであるが、上記の実数だけの量子力学は物理量の定義を変更するものではない。 熱力学では数学的定式化の改良において、熱力学の公理系の変更と並んで物理量の定義の変更も試みられている。それと比較して、量子力学の数学的定式化の理解、すなわち、波動関数の数学的定義、量子力学の公理系、量子力学の数理論理的な性質(量子論理)についての理解は不十分である。
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系が確率的に振る舞うことに対して、古典的な確率現象のように何らかの粗視化や系に対する知識の不足によって生じていると考えるのではなく、本質的に確率的な振る舞いをしていると考えるならば、前述の古典力学的な描像で系の状態を考えることは困難となる。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、測定に伴って被測定系へ及ぼされる影響についても古典力学と量子力学で異なる点がある。 古典論では被測定系の状態を変化させずに物理量を測定できると考えることができたが、量子論においては、例えばある物理量を正確に測定した場合、測定系にとっての被測定系の状態は、測定に伴って測定値に対応する固有状態に変化していると考えなければならない。 前述の通り、波動関数は測定値の確率分布に関連しているため、確率分布が測定に伴って変化するならば、測定に伴って波動関数もまた変化しなければならない。 特に、物理量を正確に測定した場合、波動関数は対応する固有状態へ「収縮」する。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "もし波動関数が(例えば電磁場のような)物理的実体を伴うものだと考えると、この「波動関数の収縮」の解釈には困難が伴うことが知られている。例えばEPRパラドックスとして指摘されたように、(量子力学の理論上)測定に伴って光速を超えて(従って相対性理論に整合しない)「収縮」が生じているように見える系について、そのような「収縮」が起こり得ないことを説明する必要が生じる。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "もう一つの波動関数の重要な性質として、波動関数の重ね合わせとそれに伴う干渉がある。例えば二重スリット実験では、単スリット実験から得られる波動関数の重ね合わせによって、二重スリット系の波動関数が得られる。二重スリット系の粒子の存在確率分布は、単スリットの波動関数同士の干渉により、単スリット系での分布の重ね合わせとは異なることが知られている。この干渉は、スリットを通過する粒子の運動を(純粋に)古典力学的に解釈する限り説明できない。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "確率的な振る舞いと重ね合わせに関連して、量子系と古典系が相互作用する系では「シュレーディンガーの猫」のような微妙な状態が存在し得る。通常、「猫」のような巨視的な対象は古典力学に従った振る舞いをすると考えられるが、測定器系を通じて崩壊性原子のような系と相関している場合、量子力学に従うならば、「猫の生死」のような巨視的な事象まで被測定系の振る舞いに依存してしまうことが示唆される。特に測定前の状態においては、猫系もまた量子力学的な重ね合わせ状態として記述されなければならない。 波動関数の「実在」を認めるなら、猫の重ね合わせ状態もまた何らかの形で「実在」すると考えなければならない。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「シュレーディンガーの猫」の思考実験から発展して、「ウィグナーの友人」のような系を考えることができる。「ウィグナーの友人」系では何らかの量子系に対して測定を行う系1(「友人」)と、系1に対して測定を行う系2(「ウィグナー」)が登場する。系1にとって測定結果を得た時点で対象の量子系の波動関数は「収縮」したように見えるが、系2にとっては系1の測定結果を(系1を通じて)観測するまで、量子系の波動関数は「収縮」していないように見える。このように「収縮」がいつどのように生じたかは、観測者の立場に依存しているように見える。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以上のような波動関数によって示唆される「現象」に対して、その解釈を巡って様々な提案がなされている。よく知られている例として、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈などが挙げられる。これらの解釈は波動関数がシュレーディンガー方程式に従って時間発展することは認めるが、観測に伴う干渉の消失(デコヒーレンス)や「波動関数の収縮」のメカニズムや波動関数が測定値の確率分布に対応する理由に対する説明が異なっており、そのため理論の適用範囲や検証可能性がしばしば議論の対象となっている。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "典型的なコペンハーゲン解釈においては、波動関数は客観的な実体あるものではなく、観測者の主観によって定まるとされる。従ってコペンハーゲン解釈の下では、「波動関数の収縮」は非物理的な現象であり、相対論を破るものとは考えない。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "多世界解釈では、「波動関数の収縮」は生じず、量子系はあくまでシュレーディンガー方程式に従って連続的に(ユニタリ)時間発展をすると考える。多世界解釈において「波動関数の収縮」に相当する過程は、観測者が辿り得た歴史の(互いに干渉することのない)分岐として表現される。", "title": "解釈問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2つの波動関数の重ね合わせ(加算)が物理的に意味を持つので、波動関数は加算に関する数学である線形代数に従うと期待される。しかし、波動関数の線形代数での次数を有限な自然数Nと仮定すると、正準交換関係と両立しない。したがって線形代数を使うことにこだわるならば、いわば「無限次元」の線形代数を使用しなければならない。ノイマンはユークリッド空間の無限次元版であるヒルベルト空間を用い、質点の量子力学での波動関数の数学的定義を作成した。しかし、同じ手法は多粒子の量子論、場の量子論では十分な成功を収めておらず、波動関数・量子場の数学的定式化は未解決の問題である。", "title": "数学的定式化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "波動関数の数学的定式化に関する試みの一つとして、ノイマンとは異なる数学的定義を用い、虚数を廃した実数だけの量子力学を建設する試みが複数行われている。ある試みでは、水素原子からの光の波長についてはシュレーディンガー方程式と同じ結果になるが、多粒子系については通常の量子力学と異なる結果になり、実験値との差が大きいため、複素数を使う通常の量子力学より優位であるとは言えない。", "title": "数学的定式化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この「実数だけの量子力学を作る」という試みは、通常の量子力学とは別の基礎方程式を出して優劣を議論する、というものであり、基礎方程式を変更しない多世界解釈とは異なる。多世界解釈は実験に対応する物理量の定義を変更しようとするものであるが、上記の実数だけの量子力学は物理量の定義を変更するものではない。", "title": "数学的定式化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "熱力学では数学的定式化の改良において、熱力学の公理系の変更と並んで物理量の定義の変更も試みられている。それと比較して、量子力学の数学的定式化の理解、すなわち、波動関数の数学的定義、量子力学の公理系、量子力学の数理論理的な性質(量子論理)についての理解は不十分である。", "title": "数学的定式化" } ]
波動関数は、量子力学において純粋状態を表す複素数値関数。量子論における状態については量子状態を参照。
'''波動関数'''(はどうかんすう、{{lang-en-short|wave function}})は、[[量子力学]]において[[純粋状態]]を表す[[複素数]]値[[関数 (数学)|関数]]。量子論における状態については'''[[量子状態]]'''を参照。 == 定義 == ここでは量子状態を表す[[状態ベクトル]]から波動関数を定義する。ただし状態ベクトルと波動関数は等価であるため(後述)、扱う問題に応じて状態ベクトルと波動関数による表現を行き来することができる。 ある[[オブザーバブル]]を表す[[エルミート演算子]] <math>\hat{A}</math> を考え、その[[固有値]] <math>a_n</math> が[[離散的]]であるとする。エルミート演算子 <math>\hat{A}</math> の性質として、全ての[[固有ベクトル]]の集合 <math>\{ | a_n \rangle \}</math> は[[完全系]]をなすため、任意の状態ベクトル <math>| \psi \rangle</math> は <math>\{ | a_n \rangle \}</math> の[[線形結合]]([[重ね合わせ]])として表すことができる。 :<math>| \psi \rangle = \sum_n \psi(a_n)| a_n \rangle</math> 上記の展開係数 <math>\psi(a_n)</math> を「'''[[基底 (線型代数学)|基底]] <math>\{ | a_n \rangle \}</math> 表示での波動関数'''」と呼ぶ。 またエルミート演算子の固有ベクトルは互いに[[直交]]する(ように選べる)。<math>\{ | a_n \rangle \}</math> が[[正規直交基底]]をなすとすると、この式と <math>| a_n \rangle</math> との[[内積]]をとることで <math>| a_n \rangle</math> にかかる展開係数が得られる。 :<math>\langle a_n | \psi \rangle = \psi(a_n)</math> このように基底を一つに決めると、状態ベクトルと波動関数は片方が分かればもう片方を求めることができ、[[一対一対応]]の関係になっている。したがって波動関数は、その変数が決まっているときには状態ベクトルと等価である。このため波動関数は量子状態を表す関数として用いることができる。 一般的に量子状態は複素[[ヒルベルト空間]]上のベクトルで表されるため、波動関数は一般的に[[複素数]]関数である。 === 位置表示 === 基底として[[位置]]を表す演算子 <math>\hat{x}</math> の[[固有ベクトル]]、つまり位置が定まった状態の全体 <math>\{ | x \rangle \}</math> を選んだ場合、任意の状態を <math>\{ | x \rangle \}</math> の[[重ね合わせ]]で表現できる。この基底に対する係数 <math> \psi(x)</math> を'''座標表示での波動関数'''、あるいは'''[[エルヴィン・シュレーディンガー|シュレーディンガー]]の波動関数'''などと呼ぶ。 通常、位置は連続的な値を取るため、状態ベクトルの展開は形式的に積分形で表される: :<math> | \psi \rangle = \int \psi(x)| x \rangle dx</math> 波動関数 <math>\psi(x)</math> を定めれば <math>| \psi \rangle</math> は一意的に決まるので、<math>| \psi \rangle</math> の代わりに <math>\psi(x)</math> を用いても状態を表すことができる。 === 運動量表示 === 基底として[[運動量]]を表す演算子 <math>\hat{p}</math> の固有ベクトル、つまり運動量が定まった状態の全体 <math>\{ | p \rangle \}</math> を選んだ場合、<math>\psi(p)</math> を'''運動量表示での波動関数'''と呼ぶ。 :<math>| \psi \rangle = \int \psi(p)| p \rangle dp</math> ここでは関数のラベルとして位置表示と同じ文字 <math>\psi</math> を用いたが、その関数形は全く異なることに注意。 == 確率振幅 == [[ボルンの規則]]によると、ある状態<math>|\psi\rang \ </math>における物理量([[オブザーバブル]])<math>A \ </math>の測定([[理想測定]])をしたとき、その測定値の[[確率分布]]は次のように、物理量<math>A</math>による表示をした波動関数<math>\psi(a)=\langle a|\psi\rangle</math>の絶対値の二乗となる。このように (絶対値) 二乗が確率を与えるものを'''確率振幅'''と呼ぶ。 :<math> P(a) =\langle\psi|a\rangle\langle a|\psi\rangle = | \psi (a) |^2 \ </math> 例えば、ある状態<math>|\psi\rang \ </math>における[[運動量]]<math>p \ </math>の測定を数多くしたとき、測定値が「運動量を表すエルミート演算子<math>\hat{p} \ </math>の[[固有値]]の一つ<math>p_1 \ </math>」である頻度は :<math> P(p_1) = | \psi (p_1) |^2 \ </math> に[[収束]]する。 他にも、波動関数 <math>\left. \Psi(x,t) \right.</math> の絶対値二乗は、位置の測定を行った場合の測定値の確率分布を与える。 より正確には、位置<math>\hat{x}</math>の固有値が離散的である場合、「状態 <math>|\Psi\rangle</math> において時刻 <math>t \ </math> で位置 <math>\hat{x}</math> の理想測定をしたとき、測定値のバラつきを表す確率分布が <math>P(x,t)=| \Psi(x,t)|^2 \ </math> である」。 <!-- 「時刻 <math> \left. t \right.</math> における、位置 <math>\left. x \right.</math> での存在確率」と解釈される。←不正確。--> しかし、そのためには、全空間のどこかで観測される確率は1 (100%) であることから、 :<math>\sum_i P(x_i,t)=1</math> のように[[規格化]]される。 位置の観測量が連続的に与えられている場合は、「測定値がある一点<math>x</math>である確率<math>P(x,t)</math>」は意味を成さない。そのような場合、<math>P(x,t)</math>は、確率ではなく、「小区間 <math>[x,x+\delta x]</math> の中に観測される[[確率密度]]」として扱われ、規格化条件も[[総和|和]]から[[積分]]へ変わる。 :<math>\int_{V}P(x,t)dx=1</math> 積分変数が位置<math>x</math>になっていて、長さの[[量の次元|次元]]を持つことからも分かる通り、物理量の固有値が連続的に存在する場合([[スペクトル|連続スペクトル]])、対応する確率分布の次元は、無次元ではなく、物理量の逆の次元、この場合は「<math>L^{-1}</math>([[長さの逆数]])」になる。このとき、<math>P(x,t)</math>は「単位長さ当たりの確率」、すなわち確率密度として解釈される。 なお、波動関数の絶対値二乗が「存在確率」と言われることもあるが、正確ではない。確率解釈では、ボルンの規則は「理想測定を行った場合の測定結果の確率分布」であって、測定を行っていない場合の「存在」や「確率」について何かを言っているわけではない。 === 波動関数の次元について === 離散スペクトルと連続スペクトルの規格化条件を見比べてみると、それぞれの波動関数の[[次元#物理量の次元|次元]]は異なることがわかる。 *離散固有値の固有関数で表示した波動関数は、常に無次元量である。 *連続固有値の固有関数で表示した波動関数は、状況によって様々な規格化条件があるので、波動関数の次元は状況によって異なる。 == 重ね合わせ == 波動関数の[[線形結合]]によって別の波動関数を作ることができる。 例えば2つの異なる波動関数 <math>\psi_1</math> と <math>\psi_2</math> の線形結合として、新たな波動関数 <math>\psi</math> を考えることができる。 <math display="block">\psi=c_1\psi_1 + c_2\psi_2.</math> この波動関数の二乗絶対値は以下のように書ける。 <math display="block">|\psi|^2=|c_1|^2|\psi_1|^2 + c_1^*c_2\psi_1^*\psi_2 + c_2^*c_1\psi_2^*\psi_1+ |c_2|^2|\psi_2|^2.</math> 第1, 4項はそれぞれ <math>\psi_1</math> および <math>\psi_2</math> の与える確率密度に(係数を除き)一致するが、第2, 3項はどちらにも一致しない。第2, 3項は2つの波動関数 <math>\psi_1, \psi_2</math> の[[干渉 (物理学)|干渉]]を生じさせる。 逆に、ある状態をいくつかの状態の重ね合わせに分解することもできる。重ね合わせに関する有名な思考実験に'''[[シュレーディンガーの猫]]'''がある。 == 固有状態 == 物理量を表すエルミート演算子の[[固有関数]]は、その物理量の'''[[固有状態]]'''と呼ばれる。固有状態は、物理量が確定した値をもつような状態である。 特に重要なのは、全エネルギーを表す[[ハミルトニアン]]の固有関数であり、[[エネルギー固有状態]]と呼ばれる。ハミルトニアンの固有値方程式は'''時間に依存しない[[シュレーディンガー方程式]]'''と呼ばれる。 :<math>\hat{H}\psi(x)=E\psi(x)</math> [[化学]]や[[物性物理学]]の分野では、エネルギー固有状態は[[電子軌道|軌道]](関数)とも呼ばれる。 == 波動関数の時間変化 == {{main|シュレーディンガー方程式}} 波動関数の[[時間変化]]は、次の式に従う。{{要説明|date=2021年10月|title=状態ベクトル(波動関数)で記述している系が孤立系(と見なせる)なら}} <math display="block">i\hbar\frac{d}{dt} \psi(x,t) = \hat{H} \psi(x,t)</math> ここで <math>\hbar</math> は[[換算プランク定数]]、<math>\hat{H}</math> は[[ハミルトニアン]]である。 この式は'''時間に依存する[[シュレーディンガー方程式]]'''と呼ばれる。 この時間変化は[[ユニタリー変換]]であり、時間変化しても確率が保存されている。 == 測定に伴う変化 == 波動関数 <math>\psi</math> で表される[[量子状態]]に対して、[[物理量]] <math>\hat{A}</math> の測定(理想測定)を行ったとする。[[ボルンの規則]]によれば、<math>\hat{A}</math> の[[固有値]]のいずれかが測定値として得られる。測定値が <math>a_i</math> だったとすると、測定後の(測定結果を条件とした)量子状態<!--(波動関数)-->は固有値 <math>a_i</math> に対応する固有状態<!-- <math>\psi_{A}</math> 式を書くなら測定値に依存することがわかる形にしたい -->となり([[射影仮説]])、 測定後の量子状態を表す波動関数は測定前の <math>\psi</math> と大きく異なることがある。 これを「[[波動関数の収縮]]」ということがある。 このような測定に伴う波動関数の変化(ないし更新)は、前述の[[シュレーディンガー方程式]]で表されるものとは異なる。<!-- 過程と見なければならない。 --> == 解釈問題 == {{複数の問題|section=1 |出典の明記 = 2021年9月 |正確性 = 2021年9月 }} {{main|観測問題}} [[ボルンの規則]]に従って、波動関数の[[複素数の絶対値|絶対値]]の2乗は、その波動関数の[[基底 (線型代数学)|基底]]となる[[固有状態]]を見出す[[確率]]ないし[[確率密度関数]]と対応付けられることが知られている。 他方、量子力学の枠組みにおいて、系の状態は波動関数によって指定される。これは[[古典力学]]において適当な物理量の値の組で系の状態を指定できたことと対照的である。 古典力学に基づくなら、物理量の値は測定せずとも定まっていると考えることができたが、量子力学に基づくなら、物理量の値そのものを決定することはできず、その確率分布しか知ることができない。 系が確率的に振る舞うことに対して、古典的な確率現象のように何らかの粗視化や系に対する知識の不足によって生じていると考えるのではなく、本質的に確率的な振る舞いをしていると考えるならば、前述の古典力学的な描像で系の状態を考えることは困難となる。 また、測定に伴って被測定系へ及ぼされる影響についても古典力学と量子力学で異なる点がある。 古典論では被測定系の状態を変化させずに物理量を測定できると考えることができたが、量子論においては、例えばある物理量を正確に測定した場合、測定系にとっての被測定系の状態は、測定に伴って測定値に対応する固有状態に変化していると考えなければならない。 前述の通り、波動関数は測定値の確率分布に関連しているため、確率分布が測定に伴って変化するならば、測定に伴って波動関数もまた変化しなければならない。 特に、物理量を正確に測定した場合、波動関数は対応する固有状態へ「収縮」する。 もし波動関数が(例えば[[電磁場]]のような)物理的実体を伴うものだと考えると、この「波動関数の収縮」の解釈には困難が伴うことが知られている。例えば[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス|EPRパラドックス]]として指摘されたように、(量子力学の理論上)測定に伴って[[光速]]を超えて(従って[[相対性理論]]に整合しない)「収縮」が生じているように見える系について、そのような「収縮」が起こり得ないことを説明する必要が生じる{{要校閲|date=2021年11月|title=全体にわかりにくい文。EPRパラドックスは波動関数を実在と見なしたらどうなるかという話ではないし。}}。 もう一つの波動関数の重要な性質として、波動関数の[[重ね合わせ]]とそれに伴う[[干渉]]がある。例えば[[二重スリット実験]]では、単スリット実験から得られる波動関数の重ね合わせによって、二重スリット系の波動関数が得られる。二重スリット系の粒子の存在確率分布は、単スリットの波動関数同士の干渉により、単スリット系での分布の重ね合わせとは異なることが知られている。この干渉は、スリットを通過する粒子の運動を(純粋に)古典力学的に解釈する限り説明できない。 確率的な振る舞いと重ね合わせに関連して、量子系と古典系{{要校閲|date=2021年11月|title=古典論で扱うなら別に変わったことにはならない。}}が相互作用する系では「[[シュレーディンガーの猫]]」のような微妙な状態が存在し得る。通常、「猫」のような[[巨視的]]な対象は古典力学に従った振る舞いをすると考えられるが、測定器系を通じて[[放射性崩壊|崩壊性原子]]のような系と相関している場合、量子力学に従うならば、「猫の生死」のような巨視的な事象まで被測定系の振る舞いに依存してしまうことが示唆される。特に測定前の状態においては、猫系もまた量子力学的な重ね合わせ状態として記述されなければならない。 波動関数の「実在」を認めるなら、猫の重ね合わせ状態もまた何らかの形で「実在」すると考えなければならない。 「シュレーディンガーの猫」の思考実験から発展して、「[[ウィグナーの友人]]」のような系を考えることができる。「ウィグナーの友人」系では何らかの量子系に対して測定を行う系1(「友人」)と、系1に対して測定を行う系2(「ウィグナー」)が登場する。系1にとって測定結果を得た時点で対象の量子系の波動関数は「収縮」したように見えるが、系2にとっては系1の測定結果を(系1を通じて)観測するまで、量子系の波動関数は「収縮」していないように見える。このように「収縮」がいつどのように生じたかは、観測者の立場に依存しているように見える。{{sfn|Everett|1956|p=4}} 以上のような波動関数によって示唆される「現象」に対して、その解釈を巡って様々な提案がなされている。よく知られている例として、[[コペンハーゲン解釈]]、[[エヴェレットの多世界解釈|多世界解釈]]、[[ボーム解釈]]などが挙げられる。これらの解釈は波動関数がシュレーディンガー方程式に従って時間発展することは認めるが、観測に伴う干渉の消失([[デコヒーレンス]])や「波動関数の収縮」のメカニズムや波動関数が測定値の確率分布に対応する理由に対する説明が異なっており、そのため理論の適用範囲や検証可能性がしばしば議論の対象となっている。 典型的な[[コペンハーゲン解釈]]においては、波動関数は客観的な実体あるものではなく、観測者の主観によって定まるとされる。従ってコペンハーゲン解釈の下では、「波動関数の収縮」は非物理的な現象であり、相対論を破るものとは考えない。 [[エヴェレットの多世界解釈|多世界解釈]]では、「波動関数の収縮」は生じず、量子系はあくまで[[シュレーディンガー方程式]]に従って連続的に([[ユニタリ作用素|ユニタリ]])時間発展をすると考える{{sfn|Everett|1956|p=8}}。多世界解釈において「波動関数の収縮」に相当する過程は、観測者が辿り得た歴史の(互いに干渉することのない)分岐として表現される。 == 数学的定式化 == 2つの波動関数の重ね合わせ(加算)が物理的に意味を持つので、波動関数は加算に関する数学である線形代数に従うと期待される。しかし、波動関数の線形代数での次数を有限な自然数Nと仮定すると、正準交換関係と両立しない。したがって線形代数を使うことにこだわるならば、いわば「無限次元」の線形代数を使用しなければならない。ノイマンはユークリッド空間の無限次元版であるヒルベルト空間を用い、質点の量子力学での波動関数の数学的定義を作成した。しかし、同じ手法は多粒子の量子論、場の量子論では十分な成功を収めておらず、波動関数・量子場の数学的定式化は未解決の問題である。 波動関数の数学的定式化に関する試みの一つとして、ノイマンとは異なる数学的定義を用い、虚数を廃した実数だけの量子力学を建設する試みが複数行われている。ある試みでは、水素原子からの光の波長についてはシュレーディンガー方程式と同じ結果になるが、多粒子系については通常の量子力学と異なる結果になり、実験値との差が大きいため、複素数を使う通常の量子力学より優位であるとは言えない。 この「実数だけの量子力学を作る」という試みは、通常の量子力学とは別の基礎方程式を出して優劣を議論する、というものであり、基礎方程式を変更しない多世界解釈とは異なる。多世界解釈は実験に対応する物理量の定義を変更しようとするものであるが、上記の実数だけの量子力学は物理量の定義を変更するものではない。 熱力学では数学的定式化の改良において、熱力学の公理系の変更と並んで物理量の定義の変更も試みられている。それと比較して、量子力学の数学的定式化の理解、すなわち、波動関数の数学的定義、量子力学の公理系、量子力学の数理論理的な性質(量子論理)についての理解は不十分である。 == 注釈 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |last=清水 |first=明 |date=2004 |title=新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために― |publisher=[[サイエンス社]] |isbn=4-7819-1062-9 |ref=harv }} * {{Cite book|和書 |title=別冊・数理科学 量子の新世紀 量子論のパラダイムとミステリーの交錯 |publisher=サイエンス社 |date=2006}} * {{cite book |last=Everett |first=Hugh |date=1956 |chapter=The Theory of the Universal Wavefunction |pages=3–140 |editor=Bryce DeWitt |editor2=R. Neill Graham |url=https://www.pbs.org/wgbh/nova/manyworlds/pdf/dissertation.pdf |title=The Many-Worlds Interpretation of Quantum Mechanics |series=Princeton Series in Physics |publisher=Princeton University Press |isbn=0-691-08131-X |ref=harv }} == 関連項目 == *[[量子力学]] *[[シュレーディンガー方程式]] *[[波動力学]] *[[第一原理バンド計算]] *[[シュレーディンガーの猫]] *[[量子デコヒーレンス]] *[[多体波動関数]] {{量子力学}} {{DEFAULTSORT:はとうかんすう}} [[Category:量子力学]] [[Category:関数|はとう]] [[Category:数学に関する記事]]
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並列化
並列化(へいれつか、英: parallelization)は、コンピュータにおいて、同時に複数の演算処理を実行すること(並列計算)によって処理のスループットを上げるプログラミング手法である。対義語は逐次化(英: serialization)。ハードウェアの資源を有効活用するための最適化手法のひとつである。 コンピュータにおいて処理を実行する場合、もっとも単純な方法は、与えられたプログラムステップを最初から最後までひとつずつ順番に実行していくことである。これを逐次処理 (serial processing) と呼ぶ。一方、SIMD命令をサポートするプロセッサや、複数のプロセッサ(マルチソケットプロセッサあるいはマルチコアプロセッサ)を搭載するコンピュータでは、複数の異なるデータを同時に処理したり、複数の異なるステップを同時に実行したりすることもできる。これを並列処理 (parallel processing) と呼ぶ。逐次処理を並列処理にすることを並列化という。シングルコア性能の向上が頭打ちになるにつれ、並列化による高速化は重要性を増している手法である。 複数の異なるステップ(タスク)を並列実行できることをタスク並列性、複数の異なるデータに対して同じ処理を並列実行できることをデータ並列性という。 並列化の主な内容は、全体の問題をいくつかの独立したタスクあるいはデータストリームに分割し、タスクあるいはデータストリームを複数のプロセッサ (具体的にはCPUやGPUなどにおける各コア) に割り当て、処理を同時実行させ、最後に分割されたタスクを同調させたり、あるいはデータストリームを統合したりして最終結果を得ることである。ソフトウェアレベルでは並列化の実装単位にプロセスやスレッドが利用される。並列化は本質的に並列化可能な(主にデータ間に相互依存性のない)問題にのみ適用できる。問題の分割手法には領域分割(データ分割)、機能分割(タスク分割)があり、両方を組み合わせることもある。 並列化には主に2つのアプローチがある。 多くの要因・手法が並列化のパフォーマンスに影響を及ぼす。並列化により、プロセッサの数(あるいはSIMD命令により同時処理できるデータの数)に比例してプログラムの処理速度が倍速化されるが、実際にはプログラム中に占める並列化可能な領域の割合に左右されたり、並列アルゴリズムの内容やハードウェアのキャッシュ能力に依存したりする。アムダールの法則や偽共有(英語版)も参照。 ロードバランシングは負荷の高いプロセッサから負荷の低いプロセッサへとタスクを移すことで、すべてのプロセッサをビジーに保とうとする。 単一CPUのシステムで正しく動作するプログラムでも並列環境ではそうではないこともある。これは同一のプログラムの複数のコピーが互いに干渉しあう(例えば、同時に同じメモリ領域を読み書きする)からである。そのため、並列環境では入念なプログラミング(排他制御)が必要となる。 もしコンピュータにプロセッサがひとつしかなく、なおかつSIMD命令をサポートしない場合は逐次処理しかできず、並列処理(並列計算)はできない。一方、並行処理(並行計算)は可能である場合もある。例えば汎用的なオペレーティングシステムではごく短時間で実行タスクを切り替えて複数のタスクを疑似的に同時実行することのできるマルチタスクシステムが採用されることが多い。並行処理はスループットの改善のためではなく、主にシステムの応答性の改善のために利用される。 自動並列化とは、並列化コンパイラを使用して、字面的にそのまま解釈すれば逐次的に計算を行うようなプログラムのソースコードを変換し、並列計算を行うようなオブジェクトコードを得る手法である。並列計算機の並列計算能力を活用するために行われる。自動並列化の目的はプログラマを退屈でエラーの起きやすい並列化作業から解放することである。技術的には非常に進歩したが、必要なプログラム解析の複雑さやコンパイル時には不明な要因(例えば、入力データの範囲)などのために、逐次的なプログラムの完全な自動並列化は未だ達成されていない。 自動並列化で主に焦点が当てられるプログラム制御構造はループである。なぜなら、一般的にプログラムの実行時間のほとんどは何らかのループの中で消費されるからである。自動並列化コンパイラはループを分解し、繰り返しが別々のプロセッサで並行に実行されるようにする。 並列プログラミングモデルとは、並列なアルゴリズムを表現し、アプリケーションを動作環境である並列システムに適合させるためのソフトウェア群である。これらのソフトウェアは並列化ツールキットなどとも呼ばれる。並列プログラミングモデルが扱う領域には、アプリケーション、言語、コンパイラ、ライブラリ、通信システム、並列入出力などがある。これは明示的な並列化の手法であり、自動並列化の適用の難しさを避けている。並列プログラムの生産性を高めるため、並列アプリケーションの開発者は適切な(単一または複数の)並列プログラミングモデルを選んで使用する。 並列プログラミングモデルの実装方法にはいくつか種類がある。既存の逐次処理言語用のライブラリ、言語の拡張仕様、またはまったく新しい実行モデルなどである。それらはさらに2種類に大まかに分類される。メモリ共有型とメモリ分散型である。しかしながら、この2つの境界は曖昧なものとなっている。
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並列化は、コンピュータにおいて、同時に複数の演算処理を実行すること(並列計算)によって処理のスループットを上げるプログラミング手法である。対義語は逐次化。ハードウェアの資源を有効活用するための最適化手法のひとつである。
{{Otheruses|コンピュータ関連技術|[[サイエンス・フィクション|SF]]作品の[[攻殻機動隊]]における並列化|同期 (計算機科学)}} {{出典の明記|date=2022-12-19}} '''並列化'''(へいれつか、{{lang-en-short|parallelization}})は、[[コンピュータ]]において、同時に複数の[[演算]]処理を実行すること([[並列計算]])によって処理の[[スループット]]を上げる[[プログラミング]]手法である。対義語は[[逐次化]]({{lang-en-short|serialization}})。ハードウェアの資源を有効活用するための[[最適化 (情報工学)|最適化]]手法のひとつである。 == 概要 == コンピュータにおいて処理を実行する場合、もっとも単純な方法は、与えられたプログラムステップを最初から最後までひとつずつ順番に実行していくことである。これを逐次処理 (serial processing) と呼ぶ。一方、[[SIMD]]命令をサポートするプロセッサや、複数のプロセッサ(マルチソケットプロセッサあるいは[[マルチコア]]プロセッサ)を搭載するコンピュータでは、複数の異なるデータを同時に処理したり、複数の異なるステップを同時に実行したりすることもできる。これを並列処理 (parallel processing) と呼ぶ。逐次処理を並列処理にすることを並列化という。シングルコア性能の向上が頭打ちになるにつれ、並列化による高速化は重要性を増している手法である。 複数の異なるステップ(タスク)を並列実行できることを[[タスク並列性]]、複数の異なるデータに対して同じ処理を並列実行できることを[[データ並列性]]という。 並列化の主な内容は、全体の問題をいくつかの独立したタスクあるいはデータストリームに分割し、タスクあるいはデータストリームを複数のプロセッサ (具体的には[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]などにおける各コア) に割り当て、処理を同時実行させ、最後に分割されたタスクを同調させたり、あるいはデータストリームを統合したりして最終結果を得ることである。ソフトウェアレベルでは並列化の実装単位に[[プロセス]]や[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]が利用される。並列化は本質的に並列化可能な(主にデータ間に相互依存性のない)問題にのみ適用できる。問題の分割手法には[[領域分割]](データ分割)、[[機能分割]](タスク分割)があり、両方を組み合わせることもある。 並列化には主に2つのアプローチがある。 {{indent| ; 明示的な並列化または手動での並列化 : プログラマが明示的にプログラムおよびデータの分割方法を指定する ; 暗黙的な並列化または自動並列化 : [[処理系]]([[コンパイラ]]など)が自動的に問題のタスクおよびデータを分割する }} 多くの要因・手法が並列化のパフォーマンスに影響を及ぼす。並列化により、プロセッサの数(あるいはSIMD命令により同時処理できるデータの数)に比例してプログラムの処理速度が倍速化されるが、実際にはプログラム中に占める並列化可能な領域の割合に左右されたり、[[並列アルゴリズム]]の内容やハードウェアのキャッシュ能力に依存したりする。[[アムダールの法則]]や{{仮リンク|偽共有|en|False sharing}}も参照。 [[ロードバランシング]]は負荷の高いプロセッサから負荷の低いプロセッサへとタスクを移すことで、すべてのプロセッサをビジーに保とうとする。 単一CPUのシステムで正しく動作するプログラムでも並列環境ではそうではないこともある。これは同一のプログラムの複数のコピーが互いに干渉しあう(例えば、同時に同じメモリ領域を読み書きする)からである。そのため、並列環境では入念なプログラミング([[排他制御]])が必要となる。 もしコンピュータにプロセッサがひとつしかなく、なおかつ[[SIMD]]命令をサポートしない場合は逐次処理しかできず、並列処理([[並列計算]])はできない。一方、並行処理([[並行計算]])は可能である場合もある。例えば汎用的な[[オペレーティングシステム]]ではごく短時間で実行タスクを切り替えて複数のタスクを疑似的に同時実行することのできる[[マルチタスク]]システムが採用されることが多い。並行処理はスループットの改善のためではなく、主にシステムの応答性の改善のために利用される。 == 自動並列化 == 自動並列化とは、並列化コンパイラを使用して、字面的にそのまま解釈すれば逐次的に計算を行うような[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の[[ソースコード]]を変換し、[[並列計算]]を行うような[[オブジェクトファイル|オブジェクトコード]]を得る手法である。並列計算機の並列計算能力を活用するために行われる。自動並列化の目的はプログラマを退屈でエラーの起きやすい並列化作業から解放することである。技術的には非常に進歩したが、必要なプログラム解析の複雑さやコンパイル時には不明な要因(例えば、入力データの範囲)などのために、逐次的なプログラムの完全な自動並列化は未だ達成されていない。 自動並列化で主に焦点が当てられるプログラム制御構造は[[制御構造#ループ|ループ]]である。なぜなら、一般的にプログラムの実行時間のほとんどは何らかのループの中で消費されるからである。自動並列化コンパイラはループを分解し、繰り返しが別々のプロセッサで並行に実行されるようにする。 == 並列プログラミングモデル == 並列プログラミングモデルとは、並列な[[アルゴリズム]]を表現し、アプリケーションを動作環境である並列システムに適合させるためのソフトウェア群である。これらのソフトウェアは並列化ツールキットなどとも呼ばれる。並列プログラミングモデルが扱う領域には、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]、[[プログラミング言語|言語]]、コンパイラ、[[ライブラリ]]、通信システム、並列入出力などがある。これは明示的な並列化の手法であり、自動並列化の適用の難しさを避けている。並列プログラムの生産性を高めるため、並列アプリケーションの開発者は適切な(単一または複数の)並列プログラミングモデルを選んで使用する。 並列プログラミングモデルの実装方法にはいくつか種類がある。既存の逐次処理言語用のライブラリ、言語の拡張仕様、またはまったく新しい実行モデルなどである。それらはさらに2種類に大まかに分類される。メモリ共有型とメモリ分散型である。しかしながら、この2つの境界は曖昧なものとなっている。 === 並列プログラミングモデルの例 === * [[OpenMP]] * [[Message Passing Interface|MPI]] * [[PVM]] * [[Linda]] * [[ストリーム・プロセッシング]] (stream processing) * [[並行論理プログラミング]] (concurrent logic programming) * [[Intel Threading Building Blocks]] * [[X10 (プログラミング言語)|X10]] == 関連項目 == * [[制御依存]] * [[演算の独立性]] * [[並列アルゴリズム]] * [[グローバルコンピューティング]] * [[データフローコンピューティング]] * [[グリッドコンピュータ]] * [[スーパーコンピュータ]] * [[スレッド (コンピュータ)]] * [[VLIW]] * [[スーパースカラー]] * [[Lock-freeとWait-freeアルゴリズム]] * [[イベンチュアル・コンシステンシー]] {{並列コンピューティング}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:へいれつか}} [[Category:並列コンピューティング]]
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高速フーリエ変換
高速フーリエ変換(こうそくフーリエへんかん、英: fast Fourier transform, FFT)は、離散フーリエ変換(英: discrete Fourier transform, DFT)を計算機上で高速に計算するアルゴリズムである。高速フーリエ変換の逆変換を逆高速フーリエ変換(英: inverse fast Fourier transform, IFFT)と呼ぶ。 複素関数 f(x) の離散フーリエ変換である複素関数 F(t) は以下で定義される。 このとき、{x = 0, 1, 2, ..., N − 1} を標本点と言う。 これを直接計算したときの時間計算量は、ランダウの記号を用いて表現すると O(N) である。 高速フーリエ変換は、この結果を、次数Nが2の累乗のときに O(N log N) の計算量で得るアルゴリズムである。より一般的には、次数が N = ∏ ni と素因数分解できるとき、O(N∑ni) の計算量となる。次数が 2 の累乗のときが最も高速に計算でき、アルゴリズムも単純になるので、0 詰めで次数を調整することもある。 高速フーリエ変換を使って、畳み込み積分などの計算を高速に求めることができる。これも計算量を O(N) から O(N log N) まで落とせる。 現在は、初期の手法 をより高速化したアルゴリズムが使用されている。 逆変換は正変換と同じと考えて良いが、指数の符号が逆であり、係数 1/N が掛かる。 高速フーリエ変換のプログラム中、どの符号が逆転するかを一々分岐させると、分岐の判定に時間がかかり、パフォーマンスが落ちる。一方、正変換のプログラムと、逆変換のプログラムを両方用意しておくことも考えられるが、共通部分が多いため、無駄が多くなる。このため、複素共役を使った次のような方法が考えられる。 離散フーリエ変換を で定義したとき、逆変換は となる。 このため、F(t) の離散フーリエ逆変換を求めるには、 とすれば良く、正変換の高速フーリエ変換のプログラムがあれば、逆変換は容易に作ることができる。 クーリー–テューキー型アルゴリズムは、代表的な高速フーリエ変換 (FFT) アルゴリズムである。 分割統治法を使ったアルゴリズムで、N = N1 N2 のサイズの変換を、より小さいサイズである N1, N2 のサイズの変換に分割していくことで高速化を図っている。 最もよく知られたクーリー–テューキー型アルゴリズムは、ステップごとに変換のサイズをサイズ N/2 の2つの変換に分割するので、2 の累乗次数に限定される。しかし、一般的には次数は 2 の累乗にはならないので、素因数が偶数と奇数とで別々のアルゴリズムに分岐する。 伝統的なFFTの処理実装の多くは、再帰的な処理を、系統だった再帰をしないアルゴリズムにより実現している。 クーリー–テューキー型アルゴリズムは変換をより小さい変換に分解していくので、後述のような他の離散フーリエ係数のアルゴリズムと任意に組み合わせることができる。とりわけ、N ≤ 8 あたりまで分解すると、固定次数の高速なアルゴリズムに切り替えることが多い。 離散フーリエ係数は、1の原始 N 乗根の1つ WN = e を使うと、次のように表せる。 例えば、N = 4 のとき、 F ( t ) = X t {\displaystyle F(t)=X_{t}} 、 f ( k ) = x k {\displaystyle f(k)=x_{k}} とすれば、離散フーリエ係数は行列を用いて表現すると(W = W4 と略記) となる。入力列 xk を添字の偶奇で分けて、以下のように変形する。 ( ∵ W k + N = W k {\displaystyle \because W^{k+N}=W^{k}} ) すると、サイズ 2 のFFTの演算結果を用いて表現でき、サイズの分割ができる。 また、この分割手順を図にすると蝶のような図になることから、バタフライ演算とも呼ばれる。 バタフライ演算は、計算機上ではビット反転で実現される。DSPの中には、このバタフライ演算のプログラムを容易にするため、ビット反転アドレッシングを備えているものがある。 N = PQ とする。N 次離散フーリエ変換を、以下のようにP 次離散フーリエ変換とQ 次離散フーリエ変換に分解する。 N 次離散フーリエ変換: を、n = 0, 1, ..., N − 1 について計算することを考える。n, k を次のように書き換える。ただし 0 ≤ n ≤ N − 1 また 0 ≤ k ≤ N − 1 である。 すると ここで、 と置くと、 となる。即ち、F(n) = F(sQ + r) の計算は、次の2ステップになる。 ステップ1、2は、N = PQ 次の離散フーリエ変換を、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算の実行により、Q 組 (r = 0, 1, ..., Q − 1) の P 次離散フーリエ変換に分解したと見ることができる。 N = Q (P = Q) の場合には、上を繰り返せば、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算を繰り返すことだけで次数を下げることができ、最終的に1次離散フーリエ変換(何もしないことと同じ)にまで下げると、F(t)を求めることができる。特に、Q が2または4の場合は、Q次の離散フーリエ変換は非常に簡単な計算になる。 このため、2の累乗あるいは4の累乗次の離散フーリエ変換は簡単に計算できる。実務的に用いられるのは、Q = 2 か Q = 4 の場合のみである。なお、Q = 2 かQ = 4 の場合のこの部分のQ次の離散フーリエ変換のことを、バタフライ演算と言う。 また、Q = 2かQ = 4の場合において、計算を終了するまでに何回の「掛け算」が必要かを考える。符号の逆転、実部虚部の交換は「掛け算」として数えなければ、回転因子の掛け算のみが「掛け算」である。N = Qの次数を1落とすためにN回の「掛け算」が必要であり、次数をkから0に落とすにはそれをk回繰り返す必要があるため、「掛け算」の数は Nk = N logQ N となる。高速フーリエ変換の計算において時間がかかるのは「掛け算」の部分であるため、これが「高速フーリエ変換では計算速度は O(N' log N) になる」ことの根拠になっている。 上記の説明で、 N = Q k ( P = Q k − 1 ) {\displaystyle N=Q^{k}(P=Q^{k-1})} の場合、N = Q 個のデータ f ( q Q k − 1 + p ) {\displaystyle f(qQ^{k-1}+p)} から、N = Q 個の計算結果 を計算する場合に、メモリの節約のため、0 ≤ q ≤ Q − 1 と 0 ≤ r ≤ Q − 1 を利用し、計算結果 f 1 ( p , r ) {\displaystyle f_{1}(p,r)} を元データ f ( r Q k − 1 + p ) {\displaystyle f(rQ^{k-1}+p)} のあった場所に格納することが多い。これが次の次数 Q でも繰り返されるため、 p = q 2 Q k − 2 + p 2 {\displaystyle p=q_{2}Q^{k-2}+p_{2}} とすると、次の次数の計算結果 f 2 ( p 2 , q 2 , q ) {\displaystyle f_{2}(p_{2},q_{2},q)} は f ( q Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + p 2 ) {\displaystyle f(qQ^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+p_{2})} のあった場所に格納される。繰り返せば、 t = q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k {\displaystyle t=q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\cdots +q_{k}} とすると、計算結果 f k ( p k , q k , q k − 1 , ... , q 2 , q 1 ) {\displaystyle f_{k}(p_{k},q_{k},q_{k-1},\dots ,q_{2},q_{1})} は f ( q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k − 1 Q + p k ) {\displaystyle f(q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\cdots +q_{k-1}Q+p_{k})} のあった場所に格納される。 一方、 を、r を固定し s を変数とした Q 次離散フーリエ変換と見なして、 s = s 2 Q + r 2 {\displaystyle s=s_{2}Q+r_{2}} とすると、 となる。繰り替えせば、 となるが、左辺について より sk = 0, また右辺について より pk = 0。このため、 これは f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されている。 このように、求める解 F ( r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 ) {\displaystyle F(r_{k}Q^{k-1}+\cdots +r_{2}Q+r_{1})} が f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されていることを、ビット反転と言う。これは、Q 進法で表示した場合、 r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 {\displaystyle r_{k}Q^{k-1}+\cdots +r_{2}Q+r_{1}} は ( r k r k − 1 ... r 2 r 1 ) Q {\displaystyle (r_{k}r_{k-1}\dots r_{2}r_{1})_{Q}} となるのに対し、 r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 + r k {\displaystyle r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\cdots +r_{k-1}+r_{k}} は逆から読んだ ( r 1 r 2 ... r k − 1 r k ) Q {\displaystyle (r_{1}r_{2}\dots r_{k-1}r_{k})_{Q}} となるためである。 以下は、高速フーリエ変換のプログラムを Q = 4 の場合にMicrosoft Visual Basicの文法を用いて書いた例である。 この例では、最深部 (For k、Next k の間の部分)の繰り返し回数が Ndeg log4 Ndeg となっている。 多くの応用において、FFTに対する入力データは実数の列(実入力)であり、このとき変換された出力の列は次の対称性を満たす( は複素共役): そこで、多くの効率的なFFTアルゴリズム は入力データが実数であることを前提に設計されている。 入力データが実数の場合の効率化の手段としては、次のようなものがある。 かつては実数の入力データに対するフーリエ係数を求めるのには、実数計算だけで行える離散ハートリー変換(英語版) (discrete Hartley transform, DHT)を用いると効率的であろうと思われていた。しかしその後に、最適化された離散フーリエ変換 (discrete Fourier transform, DFT) アルゴリズムの方が、離散ハートリー変換アルゴリズムに比べて必要な演算回数が少ないということが判明した。また当初は、実数入力に対してブルーン (Bruun) FFT アルゴリズムは有利であると云われていたが、その後そうではないことが判った。 また、偶奇の対称性を持つ実入力の場合には、DFTはDCTやDST(英語版)となるので、演算と記憶に関してほぼ2倍の効率化が得られる。よって、そのような場合にはDFTのアルゴリズムをそのまま適用するよりも、DCTやDSTを適用してフーリエ係数を求める方が効率的である。 高速フーリエ変換といえば一般的には1965年、ジェイムズ・クーリー(英語版) (J. W. Cooley) とジョン・テューキー (J. W. Tukey) が発見した とされているクーリー–テューキー型FFTアルゴリズム(英語版)を呼ぶ。同時期に高橋秀俊がクーリーとテューキーとは全く独立にフーリエ変換を高速で行うためのアルゴリズムを考案していた。しかし、1805年頃に既にガウスが同様のアルゴリズムを独自に発見していた(本ページの外部リンク先に同じ文章PDFへのリンクがある)。ガウスの論文以降、地球物理学や気候や潮位解析などの分野などで測定値に対する調和解析は行われていたので、計算上の工夫を必要とする応用分野で受け継がれていたようである(たとえば、Robart L. Nowack: "Development of the FFT and Applications in Geophysics", in Proceedings of the Cornelius Lanczos International Centenary Conference,SIAM, ISBN 978-0898713398 (1994), pp.395--397、の中では Danielson and Lanczos(1942年)などの先行例をあげている。和書でも沼倉三郎:「測定値計算法」、森北出版、(1956年)には,一般の合成数Nに対してではないが人が計算を行う場合にある程度の大きさの合成数Nに対してどのように計算すればよいかについての説明をみることができる)。 以下の書籍にも、天体観測の軌道の補間のためにガウスが高速フーリエ変換を利用したことが書かれている。 今後記述を追加の予定
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高速フーリエ変換(こうそくフーリエへんかん、英: fast Fourier transform, FFT)は、離散フーリエ変換(英: discrete Fourier transform, DFT)を計算機上で高速に計算するアルゴリズムである。高速フーリエ変換の逆変換を逆高速フーリエ変換(英: inverse fast Fourier transform, IFFT)と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "複素関数 f(x) の離散フーリエ変換である複素関数 F(t) は以下で定義される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "このとき、{x = 0, 1, 2, ..., N − 1} を標本点と言う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これを直接計算したときの時間計算量は、ランダウの記号を用いて表現すると O(N) である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "高速フーリエ変換は、この結果を、次数Nが2の累乗のときに O(N log N) の計算量で得るアルゴリズムである。より一般的には、次数が N = ∏ ni と素因数分解できるとき、O(N∑ni) の計算量となる。次数が 2 の累乗のときが最も高速に計算でき、アルゴリズムも単純になるので、0 詰めで次数を調整することもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "高速フーリエ変換を使って、畳み込み積分などの計算を高速に求めることができる。これも計算量を O(N) から O(N log N) まで落とせる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在は、初期の手法 をより高速化したアルゴリズムが使用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "逆変換は正変換と同じと考えて良いが、指数の符号が逆であり、係数 1/N が掛かる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "高速フーリエ変換のプログラム中、どの符号が逆転するかを一々分岐させると、分岐の判定に時間がかかり、パフォーマンスが落ちる。一方、正変換のプログラムと、逆変換のプログラムを両方用意しておくことも考えられるが、共通部分が多いため、無駄が多くなる。このため、複素共役を使った次のような方法が考えられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "離散フーリエ変換を", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "で定義したとき、逆変換は", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このため、F(t) の離散フーリエ逆変換を求めるには、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "とすれば良く、正変換の高速フーリエ変換のプログラムがあれば、逆変換は容易に作ることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "クーリー–テューキー型アルゴリズムは、代表的な高速フーリエ変換 (FFT) アルゴリズムである。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "分割統治法を使ったアルゴリズムで、N = N1 N2 のサイズの変換を、より小さいサイズである N1, N2 のサイズの変換に分割していくことで高速化を図っている。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "最もよく知られたクーリー–テューキー型アルゴリズムは、ステップごとに変換のサイズをサイズ N/2 の2つの変換に分割するので、2 の累乗次数に限定される。しかし、一般的には次数は 2 の累乗にはならないので、素因数が偶数と奇数とで別々のアルゴリズムに分岐する。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "伝統的なFFTの処理実装の多くは、再帰的な処理を、系統だった再帰をしないアルゴリズムにより実現している。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "クーリー–テューキー型アルゴリズムは変換をより小さい変換に分解していくので、後述のような他の離散フーリエ係数のアルゴリズムと任意に組み合わせることができる。とりわけ、N ≤ 8 あたりまで分解すると、固定次数の高速なアルゴリズムに切り替えることが多い。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "離散フーリエ係数は、1の原始 N 乗根の1つ WN = e を使うと、次のように表せる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "例えば、N = 4 のとき、 F ( t ) = X t {\\displaystyle F(t)=X_{t}} 、 f ( k ) = x k {\\displaystyle f(k)=x_{k}} とすれば、離散フーリエ係数は行列を用いて表現すると(W = W4 と略記)", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "となる。入力列 xk を添字の偶奇で分けて、以下のように変形する。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "( ∵ W k + N = W k {\\displaystyle \\because W^{k+N}=W^{k}} )", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "すると、サイズ 2 のFFTの演算結果を用いて表現でき、サイズの分割ができる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、この分割手順を図にすると蝶のような図になることから、バタフライ演算とも呼ばれる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "バタフライ演算は、計算機上ではビット反転で実現される。DSPの中には、このバタフライ演算のプログラムを容易にするため、ビット反転アドレッシングを備えているものがある。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "N = PQ とする。N 次離散フーリエ変換を、以下のようにP 次離散フーリエ変換とQ 次離散フーリエ変換に分解する。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "N 次離散フーリエ変換:", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "を、n = 0, 1, ..., N − 1 について計算することを考える。n, k を次のように書き換える。ただし 0 ≤ n ≤ N − 1 また 0 ≤ k ≤ N − 1 である。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "すると", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ここで、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "と置くと、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "となる。即ち、F(n) = F(sQ + r) の計算は、次の2ステップになる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ステップ1、2は、N = PQ 次の離散フーリエ変換を、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算の実行により、Q 組 (r = 0, 1, ..., Q − 1) の P 次離散フーリエ変換に分解したと見ることができる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "N = Q (P = Q) の場合には、上を繰り返せば、Q 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算を繰り返すことだけで次数を下げることができ、最終的に1次離散フーリエ変換(何もしないことと同じ)にまで下げると、F(t)を求めることができる。特に、Q が2または4の場合は、Q次の離散フーリエ変換は非常に簡単な計算になる。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このため、2の累乗あるいは4の累乗次の離散フーリエ変換は簡単に計算できる。実務的に用いられるのは、Q = 2 か Q = 4 の場合のみである。なお、Q = 2 かQ = 4 の場合のこの部分のQ次の離散フーリエ変換のことを、バタフライ演算と言う。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、Q = 2かQ = 4の場合において、計算を終了するまでに何回の「掛け算」が必要かを考える。符号の逆転、実部虚部の交換は「掛け算」として数えなければ、回転因子の掛け算のみが「掛け算」である。N = Qの次数を1落とすためにN回の「掛け算」が必要であり、次数をkから0に落とすにはそれをk回繰り返す必要があるため、「掛け算」の数は Nk = N logQ N となる。高速フーリエ変換の計算において時間がかかるのは「掛け算」の部分であるため、これが「高速フーリエ変換では計算速度は O(N' log N) になる」ことの根拠になっている。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上記の説明で、 N = Q k ( P = Q k − 1 ) {\\displaystyle N=Q^{k}(P=Q^{k-1})} の場合、N = Q 個のデータ f ( q Q k − 1 + p ) {\\displaystyle f(qQ^{k-1}+p)} から、N = Q 個の計算結果", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "を計算する場合に、メモリの節約のため、0 ≤ q ≤ Q − 1 と 0 ≤ r ≤ Q − 1 を利用し、計算結果 f 1 ( p , r ) {\\displaystyle f_{1}(p,r)} を元データ f ( r Q k − 1 + p ) {\\displaystyle f(rQ^{k-1}+p)} のあった場所に格納することが多い。これが次の次数 Q でも繰り返されるため、 p = q 2 Q k − 2 + p 2 {\\displaystyle p=q_{2}Q^{k-2}+p_{2}} とすると、次の次数の計算結果 f 2 ( p 2 , q 2 , q ) {\\displaystyle f_{2}(p_{2},q_{2},q)} は f ( q Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + p 2 ) {\\displaystyle f(qQ^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+p_{2})} のあった場所に格納される。繰り返せば、 t = q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k {\\displaystyle t=q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\\cdots +q_{k}} とすると、計算結果 f k ( p k , q k , q k − 1 , ... , q 2 , q 1 ) {\\displaystyle f_{k}(p_{k},q_{k},q_{k-1},\\dots ,q_{2},q_{1})} は f ( q 1 Q k − 1 + q 2 Q k − 2 + ⋯ + q k − 1 Q + p k ) {\\displaystyle f(q_{1}Q^{k-1}+q_{2}Q^{k-2}+\\cdots +q_{k-1}Q+p_{k})} のあった場所に格納される。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一方、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "を、r を固定し s を変数とした Q 次離散フーリエ変換と見なして、 s = s 2 Q + r 2 {\\displaystyle s=s_{2}Q+r_{2}} とすると、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "となる。繰り替えせば、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "となるが、左辺について", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "より sk = 0, また右辺について", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "より pk = 0。このため、", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "これは f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されている。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このように、求める解 F ( r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 ) {\\displaystyle F(r_{k}Q^{k-1}+\\cdots +r_{2}Q+r_{1})} が f ( r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 Q + r k ) {\\displaystyle f(r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\\cdots +r_{k-1}Q+r_{k})} のあった場所に格納されていることを、ビット反転と言う。これは、Q 進法で表示した場合、 r k Q k − 1 + ⋯ + r 2 Q + r 1 {\\displaystyle r_{k}Q^{k-1}+\\cdots +r_{2}Q+r_{1}} は ( r k r k − 1 ... r 2 r 1 ) Q {\\displaystyle (r_{k}r_{k-1}\\dots r_{2}r_{1})_{Q}} となるのに対し、 r 1 Q k − 1 + r 2 Q k − 2 + ⋯ + r k − 1 + r k {\\displaystyle r_{1}Q^{k-1}+r_{2}Q^{k-2}+\\cdots +r_{k-1}+r_{k}} は逆から読んだ ( r 1 r 2 ... r k − 1 r k ) Q {\\displaystyle (r_{1}r_{2}\\dots r_{k-1}r_{k})_{Q}} となるためである。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "以下は、高速フーリエ変換のプログラムを Q = 4 の場合にMicrosoft Visual Basicの文法を用いて書いた例である。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この例では、最深部 (For k、Next k の間の部分)の繰り返し回数が Ndeg log4 Ndeg となっている。", "title": "アルゴリズム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "多くの応用において、FFTに対する入力データは実数の列(実入力)であり、このとき変換された出力の列は次の対称性を満たす( は複素共役):", "title": "実数および対称的な入力への最適化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "そこで、多くの効率的なFFTアルゴリズム は入力データが実数であることを前提に設計されている。", "title": "実数および対称的な入力への最適化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "入力データが実数の場合の効率化の手段としては、次のようなものがある。", "title": "実数および対称的な入力への最適化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "かつては実数の入力データに対するフーリエ係数を求めるのには、実数計算だけで行える離散ハートリー変換(英語版) (discrete Hartley transform, DHT)を用いると効率的であろうと思われていた。しかしその後に、最適化された離散フーリエ変換 (discrete Fourier transform, DFT) アルゴリズムの方が、離散ハートリー変換アルゴリズムに比べて必要な演算回数が少ないということが判明した。また当初は、実数入力に対してブルーン (Bruun) FFT アルゴリズムは有利であると云われていたが、その後そうではないことが判った。", "title": "実数および対称的な入力への最適化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、偶奇の対称性を持つ実入力の場合には、DFTはDCTやDST(英語版)となるので、演算と記憶に関してほぼ2倍の効率化が得られる。よって、そのような場合にはDFTのアルゴリズムをそのまま適用するよりも、DCTやDSTを適用してフーリエ係数を求める方が効率的である。", "title": "実数および対称的な入力への最適化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "高速フーリエ変換といえば一般的には1965年、ジェイムズ・クーリー(英語版) (J. W. Cooley) とジョン・テューキー (J. W. Tukey) が発見した とされているクーリー–テューキー型FFTアルゴリズム(英語版)を呼ぶ。同時期に高橋秀俊がクーリーとテューキーとは全く独立にフーリエ変換を高速で行うためのアルゴリズムを考案していた。しかし、1805年頃に既にガウスが同様のアルゴリズムを独自に発見していた(本ページの外部リンク先に同じ文章PDFへのリンクがある)。ガウスの論文以降、地球物理学や気候や潮位解析などの分野などで測定値に対する調和解析は行われていたので、計算上の工夫を必要とする応用分野で受け継がれていたようである(たとえば、Robart L. Nowack: \"Development of the FFT and Applications in Geophysics\", in Proceedings of the Cornelius Lanczos International Centenary Conference,SIAM, ISBN 978-0898713398 (1994), pp.395--397、の中では Danielson and Lanczos(1942年)などの先行例をあげている。和書でも沼倉三郎:「測定値計算法」、森北出版、(1956年)には,一般の合成数Nに対してではないが人が計算を行う場合にある程度の大きさの合成数Nに対してどのように計算すればよいかについての説明をみることができる)。 以下の書籍にも、天体観測の軌道の補間のためにガウスが高速フーリエ変換を利用したことが書かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "今後記述を追加の予定", "title": "学習用図書" } ]
高速フーリエ変換は、離散フーリエ変換を計算機上で高速に計算するアルゴリズムである。高速フーリエ変換の逆変換を逆高速フーリエ変換と呼ぶ。
'''高速フーリエ変換'''(こうそくフーリエへんかん、{{lang-en-short|fast Fourier transform, '''FFT'''}})は、[[離散フーリエ変換]]({{lang-en-short|discrete Fourier transform, DFT}})を計算機上で高速に計算する[[アルゴリズム]]である。高速フーリエ変換の逆変換を逆高速フーリエ変換({{lang-en-short|inverse fast Fourier transform, IFFT}})と呼ぶ。 == 概要 == 複素関数 {{math|''f''(''x'')}} の離散フーリエ変換である複素関数 {{math|''F''(''t'')}} は以下で定義される。 :<math>F(t)= \sum_{x=0}^{N-1} f(x) \exp\left(-i\frac{2 \pi t x}{N} \right) .</math> このとき、{{math|1={{mset|''x'' {{=}} 0, 1, 2, ..., ''N'' − 1}}}} を標本点と言う。 これを直接計算したときの[[計算複雑性理論|時間計算量]]は、[[ランダウの記号]]を用いて表現すると {{math|''O''(''N''<sup>2</sup>)}} である。 高速フーリエ変換は、この結果を、次数{{mvar|N}}が2の累乗のときに {{math|''O''(''N'' log ''N'')}} の計算量で得るアルゴリズムである。より一般的には、次数が {{math|1=''N'' = ∏ ''n{{sub|i}}''}} と素因数分解できるとき、{{math|''O''(''N''∑''n''{{sub|''i''}})}} の計算量となる。次数が {{math|2}} の累乗のときが最も高速に計算でき、アルゴリズムも単純になるので、{{math|0}} 詰めで次数を調整することもある。 高速フーリエ変換を使って、[[畳み込み]]積分などの計算を高速に求めることができる。これも計算量を {{math|''O''(''N''<sup>2</sup>)}} から {{math|''O''(''N'' log ''N'')}} まで落とせる。 現在は、初期の手法<ref name=Math /> をより高速化したアルゴリズムが使用されている。 ===逆変換=== 逆変換は正変換と同じと考えて良いが、指数の符号が逆であり、係数 {{math|1/''N''}} が掛かる。 高速フーリエ変換のプログラム中、どの符号が逆転するかを一々分岐させると、分岐の判定に時間がかかり、パフォーマンスが落ちる。一方、正変換のプログラムと、逆変換のプログラムを両方用意しておくことも考えられるが、共通部分が多いため、無駄が多くなる。このため、複素共役を使った次のような方法が考えられる。 [[離散フーリエ変換]]を :<math>F(t) = \sum_{x=0}^{N-1} f(x) \exp\left(-i\frac{2 \pi t x}{N}\right)</math> で定義したとき、逆変換は :<math> f(x) = \frac{1}{N} \sum_{t=0}^{N-1} F(t) \exp\left(i\frac{2\pi{tx}}{N}\right) = \frac{1}{N} \overline{ \sum_{t=0}^{N-1} \overline{F(t)} \exp\left(-i\frac{2 \pi t x}{N} \right)}</math> となる。 このため、{{math|''F''(''t'')}} の離散フーリエ逆変換を求めるには、 :(1) [[複素共役]]を取り、{{math|{{overline|''F''(''t'')}}}} を求める、 :(2) {{math|{{overline|''F''(''t'')}}}} の正変換の離散フーリエ変換を高速フーリエ変換で行う、 :(3) その結果の複素共役を取り、{{mvar|N}} で割る とすれば良く、正変換の高速フーリエ変換のプログラムがあれば、逆変換は容易に作ることができる。 == アルゴリズム == === クーリー–テューキー型FFTアルゴリズム === {{main|{{仮リンク|クーリー–テューキー型FFTアルゴリズム|en|Cooley–Tukey FFT algorithm}}}} クーリー–テューキー型アルゴリズムは、代表的な高速フーリエ変換 (FFT) アルゴリズムである。 [[分割統治法]]を使ったアルゴリズムで、{{math|1=''N'' = ''N''{{sub|1}} ''N''{{sub|2}}}} のサイズの変換を、より小さいサイズである {{math|''N''{{sub|1}}}}, {{math|''N''{{sub|2}}}} のサイズの変換に分割していくことで高速化を図っている。 最もよく知られたクーリー–テューキー型アルゴリズムは、ステップごとに変換のサイズをサイズ {{math|''N''/2}} の2つの変換に分割するので、{{math|2}} の累乗次数に限定される。しかし、一般的には次数は {{math|2}} の累乗にはならないので、素因数が偶数と奇数とで別々のアルゴリズムに分岐する。 伝統的なFFTの処理実装の多くは、再帰的な処理を、系統だった再帰をしないアルゴリズムにより実現している。 クーリー–テューキー型アルゴリズムは変換をより小さい変換に分解していくので、後述のような他の離散フーリエ係数のアルゴリズムと任意に組み合わせることができる。とりわけ、{{math|''N'' &le; 8}} あたりまで分解すると、固定次数の高速なアルゴリズムに切り替えることが多い。 ==== 原理の簡単な説明 ==== [[File:FFT visual 12.jpg|thumb|upright=1.5|データ数12の離散フーリエ変換の模式図。時計を模した図形は1の12乗根の一つを表している。時計の針の向きと色は1の12乗根の偏角を表す。この図で表される行列をデータ列にかけることで離散フーリエ変換が得られる。上図で表されるような列の並べ替えを行うことで、元の行列のパターンはデータ数6の離散フーリエ変換のパターンに分解できる。この繰り返しにより最終的にはデータ数3のフーリエ変換に帰着される。]] [[File:FFT visual 100.jpg|thumb|upright=1.5|データ数100の離散フーリエ変換の模式図。色は1の100乗根の偏角を表す。バタフライ演算により元の行列のパターンは最終的にデータ数5の離散フーリエ変換のパターンに分解される。]] [[Image:FFT Butterfly radix8.svg|right|thumb|200px|FFTのバタフライ演算]] 離散フーリエ係数は、[[1の冪根|{{math|1}}の原始 {{mvar|N}} 乗根]]の1つ {{math|1=''W{{sub|N}}'' = ''e''{{sup|−2''&pi;i''/''N''}}}} を使うと、次のように表せる。 :<math>F(t) = \sum_{x=0}^{N-1} f(x) W_N^{tx} .</math> 例えば、{{math|1=''N'' = 4}} のとき、<math>F(t)=X_t</math>、<math>f(k ) = x_k</math>とすれば、離散フーリエ係数は[[行列 (数学)|行列]]を用いて表現すると({{math|1=''W'' = ''W''{{sub|4}}}} と略記) :<math> \begin{bmatrix}X_0\\X_1\\X_2\\X_3\end{bmatrix}= \begin{bmatrix} W^0&W^0&W^0&W^0\\ W^0&W^1&W^2&W^3\\ W^0&W^2&W^4&W^6\\ W^0&W^3&W^6&W^9 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}x_0\\x_1\\x_2\\x_3\end{bmatrix} </math> となる。入力列 {{mvar|x{{sub|k}}}} を添字の偶奇で分けて、以下のように変形する。 :<math> \begin{align} \begin{bmatrix}X_0\\X_1\\X_2\\X_3\end{bmatrix} & = \begin{bmatrix} W^0&W^0&W^0&W^0\\ W^0&W^2&W^1&W^3\\ W^0&W^4&W^2&W^6\\ W^0&W^6&W^3&W^9 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}x_0\\x_2\\x_1\\x_3\end{bmatrix} \\ & = \begin{bmatrix} W^0&W^0&W^0W^0&W^0W^0\\ W^0&W^2&W^1W^0&W^1W^2\\ W^0&W^0&W^2W^0&W^2W^0\\ W^0&W^2&W^3W^0&W^3W^2 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}x_0\\x_2\\x_1\\x_3\end{bmatrix} \end{align} </math> <!--:<math> \begin{bmatrix}X_0\\X_1\\X_2\\X_3\end{bmatrix}= \begin{bmatrix} W^0&W^0&W^0&W^0\\ W^0&W^2&W^1&W^3\\ W^0&W^4&W^2&W^6\\ W^0&W^6&W^3&W^9 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}x_0\\x_2\\x_1\\x_3\end{bmatrix}= \begin{bmatrix} W^0&W^0&W^0W^0&W^0W^0\\ W^0&W^2&W^1W^0&W^1W^2\\ W^0&W^0&W^2W^0&W^2W^0\\ W^0&W^2&W^3W^0&W^3W^2 \end{bmatrix} \begin{bmatrix}x_0\\x_2\\x_1\\x_3\end{bmatrix} </math>.--> (<math>\because W^{k+N}=W^k</math>) すると、サイズ {{math|2}} のFFTの演算結果を用いて表現でき、サイズの分割ができる。 :<math>\begin{bmatrix}X_0\\X_1\\X_2\\X_3\end{bmatrix}= \begin{bmatrix} 1&0&W^0&0\\ 0&1&0&W^1\\ 1&0&W^2&0\\ 0&1&0&W^3 \end{bmatrix}\, \begin{bmatrix} W_2^0&W_2^0&0&0\\ W_2^0&W_2^1&0&0\\ 0&0&W_2^0&W_2^0\\ 0&0&W_2^0&W_2^1 \end{bmatrix}\, \begin{bmatrix} x_0\\ x_2\\ x_1\\ x_3 \end{bmatrix} </math> また、この分割手順を図にすると蝶のような図になることから、'''バタフライ演算'''とも呼ばれる。 バタフライ演算は、計算機上では[[ビット演算#NOT|ビット反転]]で実現される。[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]の中には、このバタフライ演算のプログラムを容易にするため、ビット反転[[アドレッシングモード|アドレッシング]]を備えているものがある。 ==== 原理の説明 ==== {{math|1=''N'' = ''PQ''}} とする。{{mvar|N}} 次離散フーリエ変換を、以下のように{{mvar|P}} 次離散フーリエ変換と{{mvar|Q}} 次離散フーリエ変換に分解する。 {{mvar|N}} 次離散フーリエ変換: :<math>F(n) = \sum_{k=0}^{N-1}f(k)\exp\left(-2\pi i\frac{nk}{N}\right)</math> を、{{math|1=''n'' = 0, 1, ..., ''N'' − 1}} について計算することを考える。{{mvar|''n''}}, {{mvar|''k''}} を次のように書き換える。ただし {{math|0 &le; ''n'' &le; ''N'' − 1}} また {{math|0 &le; ''k'' &le; ''N'' − 1}} である。 :<math>\begin{align} n &= sQ+r \qquad 0\le s\le P-1,\,0\le r\le Q-1 \\ k &= qP+p \qquad 0\le p\le P-1,\;0\le q\le Q-1 \end{align}</math> すると :<math>\begin{align} F(n) &= F(sQ+r) = \sum_{p=0}^{P-1}\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\frac{(qP+p)(sQ+r)}{PQ}\right) \\ &= \sum_{p=0}^{P-1}\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\left(\frac{rq}{Q}+\frac{sp}{P}+\frac{pr}{PQ}\right)\right) \\ &= \sum_{p=0}^{P-1}\left[\exp\left(-2\pi i\left(\frac{sp}{P}+\frac{pr}{PQ}\right)\right)\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\frac{rq}{Q}\right)\right]\end{align}</math> ここで、 :<math>f_1(p,r) = \exp\left(-2\pi i\frac{pr}{PQ}\right)\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\frac{rq}{Q}\right)</math> と置くと、 :<math>F(n) = F(sQ+r) = \sum_{p=0}^{P-1}\exp\left(-2\pi i\frac{sp}{P}\right)f_1(p,r)</math> となる。即ち、{{math|1=''F''(''n'') = ''F''(''sQ'' + ''r'')}} の計算は、次の2ステップになる。 ;ステップ1: {{math|1=''p'' = 0, 1, ..., ''P'' − 1}} と {{math|1=''r'' = 0, 1, ..., ''Q'' − 1}} について ::<math>f_1(p,r)= \exp\left(-2\pi i\frac{pr}{PQ}\right)\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\frac{rq}{Q}\right)</math> :を計算する。これは、{{mvar|Q}}次の離散フーリエ変換 ::<math>\sum_{q=0}^{Q-1}f(qP+p)\exp\left(-2\pi i\frac{rq}{Q}\right)</math> :の実行と、回転因子 {{math|exp(−2''&pi;ipr''/''PQ'')}} の掛け算を、全ての {{mvar|p}}, {{mvar|r}} の組({{math|1=''PQ'' = ''N''}} 通り)に対して行うことと見ることができる。 ;ステップ2: {{math|1=''s'' = 0, 1, ..., ''P'' − 1}} と {{math|1=''r'' = 0, 1, ..., ''Q'' − 1}} について ::<math>F(sQ+r) = \sum_{p=0}^{P-1}\exp\left(-2\pi i\frac{sp}{P}\right)f_1(p,r)</math> :を計算する。ここで、右辺は {{mvar|r}} を固定すれば、{{mvar|P}} 次の離散フーリエ変換である。 ステップ1、2は、{{math|1=''N'' = ''PQ''}} 次の離散フーリエ変換を、{{mvar|Q}} 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算の実行により、{{mvar|Q}} 組 ({{math|1=''r'' = 0, 1, ..., ''Q'' − 1}}) の {{mvar|P}} 次離散フーリエ変換に分解したと見ることができる。 {{math|1=''N'' = ''Q<sup>k</sup>''}} ({{math|1=''P'' = ''Q''<sup>''k'' − 1</sup>}}) の場合には、上を繰り返せば、{{mvar|Q}} 次の離散フーリエ変換と回転因子の掛け算を繰り返すことだけで次数を下げることができ、最終的に1次離散フーリエ変換(何もしないことと同じ)にまで下げると、{{math|''F''(''t'')}}を求めることができる。特に、{{mvar|Q}} が{{math|2}}または{{math|4}}の場合は、{{mvar|Q}}次の離散フーリエ変換は非常に簡単な計算になる。 *{{math|1=''Q'' = 2}} の場合は、{{math|exp(−2''&pi;irq''/''Q'')}} は {{math|1}} か {{math|−1}} なので、{{mvar|Q}} 次の離散フーリエ変換は符号の逆転と足し算だけで計算できる。 *{{math|1=''Q'' = 4}} の場合は、{{math|exp(−2''&pi;irq''/''Q'')}} は {{math|1}}, {{math|−1}}, {{mvar|i}}, {{math|−''i''}} のいずれかなので、{{mvar|Q}} 次の離散フーリエ変換の計算は、符号の逆転、実部虚部の交換と足し算だけで計算できる。 このため、{{math|2}}の累乗あるいは{{math|4}}の累乗次の離散フーリエ変換は簡単に計算できる。実務的に用いられるのは、{{math|1=''Q'' = 2}} か {{math|1=''Q'' = 4}} の場合のみである。なお、{{math|1=''Q'' = 2}} か{{math|1=''Q'' = 4}} の場合のこの部分の{{mvar|Q}}次の離散フーリエ変換のことを、'''バタフライ演算'''と言う。 また、{{math|1=''Q'' = 2}}か{{math|1=''Q'' = 4}}の場合において、計算を終了するまでに何回の「掛け算」が必要かを考える。符号の逆転、実部虚部の交換は「掛け算」として数えなければ、回転因子の掛け算のみが「掛け算」である。{{math|1=''N'' = ''Q{{sup|k}}''}}の次数を1落とすために{{mvar|N}}回の「掛け算」が必要であり、次数を{{mvar|''k''}}から{{math|0}}に落とすにはそれを{{mvar|''k''}}回繰り返す必要があるため、「掛け算」の数は {{math|1=''Nk'' = ''N'' log{{sub|''Q''}} ''N''}} となる。高速フーリエ変換の計算において時間がかかるのは「掛け算」の部分であるため、これが「高速フーリエ変換では計算速度は {{math|''O''(''N' log ''N'')}} になる」ことの根拠になっている。 ==== ビットの反転 ==== 上記の説明で、<math>N=Q^k (P=Q^{k-1})</math> の場合、{{math|1=''N'' = ''Q{{sup|k}}''}} 個のデータ<math>f(qQ^{k-1}+p)</math>から、{{math|1=''N'' = ''Q{{sup|k}}''}} 個の計算結果 :<math>f_1(p,r)= \exp\left(-2\pi i\frac{pr}{Q^k}\right)\sum_{q=0}^{Q-1}f(qQ^{k-1}+p)\exp\left(-2\pi i\frac{rq}{Q}\right)</math> を計算する場合に、メモリの節約のため、{{math|0 &le; ''q'' &le; ''Q'' − 1}} と {{math|0 &le; ''r'' &le; ''Q'' − 1}} を利用し、計算結果 <math>f_1(p,r)</math> を元データ<math>f(rQ^{k-1}+p)</math> のあった場所に格納することが多い。これが次の次数 {{math| ''Q''{{sup|''k'' − 1}}}} でも繰り返されるため、<math>p=q_2Q^{k-2}+p_2</math>とすると、次の次数の計算結果<math>f_2(p_2,q_2,q)</math>は<math>f(qQ^{k-1}+q_2Q^{k-2}+p_2)</math>のあった場所に格納される。繰り返せば、<math>t=q_1Q^{k-1}+q_2Q^{k-2}+\cdots+q_k</math>とすると、計算結果<math>f_k(p_k,q_k,q_{k-1},\dots,q_2,q_1)</math>は<math>f(q_1Q^{k-1}+q_2Q^{k-2}+\cdots+q_{k-1}Q+p_k)</math>のあった場所に格納される。 一方、 :<math>F(sQ+r)=\sum_{p=0}^{Q^{k-1}-1}\exp\left(-2\pi i\frac{sp}{Q^{k-1}}\right)f_1(p,r)</math> を、{{mvar|r}} を固定し {{mvar|s}} を変数とした {{math| ''Q''{{sup|''k'' − 1}}}} 次離散フーリエ変換と見なして、<math>s=s_2Q+r_2</math>とすると、 :<math>F(s_2Q^2+r_2Q+r) = \sum_{p_2=0}^{Q^{k-2}-1}\exp\left(-2\pi i\frac{s_2p_2}{Q^{k-2}}\right)f_2(p_2,r_2,r)</math> となる。繰り替えせば、 :<math>F(s_kQ^k+r_kQ^{k-1}+\cdots+r_2Q+r_1) = \sum_{p_k=0}^{Q^{k-k}-1}\exp\left(-2\pi i\frac{s_kp_k}{Q^{k-k}}\right)f_k(p_k,r_k,r_{k-1},\dots,r_2,r_1)</math> となるが、左辺について :<math>s_kQ^k+r_kQ^{k-1}+\cdots+r_2Q+r_1<Q^k</math> より {{math|1=''s{{sub|k}}'' = 0}}, また右辺について :<math>Q^{k-k}-1=0</math> より {{math|1=''p{{sub|k}}'' = 0}}。このため、 :<math>F(r_kQ^{k-1}+\cdots+r_2Q+r_1)=f_k(0,r_k,r_{k-1},\dots,r_2,r_1).</math> これは <math>f(r_1Q^{k-1}+r_2Q^{k-2}+\cdots+r_{k-1}Q+r_k)</math> のあった場所に格納されている。 このように、求める解 <math>F(r_kQ^{k-1}+\cdots+r_2Q+r_1)</math> が <math>f(r_1Q^{k-1}+r_2Q^{k-2}+\cdots+r_{k-1}Q+r_k)</math> のあった場所に格納されていることを、'''ビット反転'''と言う。これは、{{mvar|Q}} 進法で表示した場合、<math>r_kQ^{k-1}+\cdots+r_2Q+r_1</math> は <math>(r_kr_{k-1}\dots r_2r_1)_Q</math>となるのに対し、<math>r_1Q^{k-1}+r_2Q^{k-2}+\cdots+r_{k-1}+r_k</math>は逆から読んだ<math>(r_1r_2\dots r_{k-1}r_k)_Q</math>となるためである。 ==== プログラムの例 ==== 以下は、高速フーリエ変換のプログラムを {{math|1=''Q'' = 4}} の場合に[[Microsoft Visual Basic]]の文法を用いて書いた例である。 <syntaxhighlight lang="vb"> Const pi As Double = 3.14159265358979 '円周率 Dim Ndeg As Long '4^deg Dim Pdeg As Long '4^(deg-i) Dim CR() As Double '入力実数部 Dim CI() As Double '入力虚数部 Dim FR() As Double '出力実数部 Dim FI() As Double '出力虚数部 deg=5 '任意に設定。5ならN=4^5=1024で計算 Ndeg=4^deg ReDim CR(Ndeg - 1) As Double '入力実数部 ReDim CI(Ndeg - 1) As Double '入力虚数部 ReDim FR(Ndeg - 1) As Double '出力実数部 ReDim FI(Ndeg - 1) As Double '出力虚数部 'ここで、変換される関数の実部をCR(0)からCR(Ndeg-1)に、虚部をCI(0)からCI(Ndeg-1)に入力しておくこと 'フーリエ変換 For i = 1 To deg Pdeg = 4 ^ (deg - i) For j0 = 0 To 4 ^ (i - 1) - 1 For j1 = 0 To Pdeg - 1 j = j1 + j0 * Pdeg * 4 'バタフライ演算(Q=4) w1 = CR(j) + CR(j + Pdeg) + CR(j + 2 * Pdeg) + CR(j + 3 * Pdeg) w2 = CI(j) + CI(j + Pdeg) + CI(j + 2 * Pdeg) + CI(j + 3 * Pdeg) w3 = CR(j) + CI(j + Pdeg) - CR(j + 2 * Pdeg) - CI(j + 3 * Pdeg) w4 = CI(j) - CR(j + Pdeg) - CI(j + 2 * Pdeg) + CR(j + 3 * Pdeg) w5 = CR(j) - CR(j + Pdeg) + CR(j + 2 * Pdeg) - CR(j + 3 * Pdeg) w6 = CI(j) - CI(j + Pdeg) + CI(j + 2 * Pdeg) - CI(j + 3 * Pdeg) w7 = CR(j) - CI(j + Pdeg) - CR(j + 2 * Pdeg) + CI(j + 3 * Pdeg) w8 = CI(j) + CR(j + Pdeg) - CI(j + 2 * Pdeg) - CR(j + 3 * Pdeg) CR(j) = w1 CI(j) = w2 CR(j + Pdeg) = w3 CI(j + Pdeg) = w4 CR(j + 2 * Pdeg) = w5 CI(j + 2 * Pdeg) = w6 CR(j + 3 * Pdeg) = w7 CI(j + 3 * Pdeg) = w8 '回転因子 For k = 0 To 3 w1 = Cos(2 * pi * j * k / Pdeg / 4) w2 = -Sin(2 * pi * j * k / Pdeg / 4) w3 = CR(j + k * Pdeg) * w1 - CI(j + k * Pdeg) * w2 w4 = CR(j + k * Pdeg) * w2 + CI(j + k * Pdeg) * w1 CR(j + k * Pdeg) = w3 CI(j + k * Pdeg) = w4 Next k Next j1 Next j0 Next i 'ビット反転 For i = 0 To Ndeg - 1 k = i k1 = 0 For j = 1 To deg k1 = k1 + (k - Int(k / 4) * 4) * 4 ^ (deg - j) k = Int(k / 4) Next j FR(i) = CR(k1) FI(i)=CI(k1) Next i </syntaxhighlight> この例では、最深部 (<code lang="vb">For k</code>、<code lang="vb">Next k</code> の間の部分)の繰り返し回数が <code lang="vb">Ndeg</code> {{math|log{{sub|4}}}} <code lang="vb">Ndeg</code> となっている。 === その他のアルゴリズム === * {{仮リンク|Prime Factor Algorithm|en|Prime-factor FFT algorithm}} (PFA) * {{仮リンク|Bruun's FFT algorithm|en|Bruun's FFT algorithm}} * [[レーダーのFFTアルゴリズム]] * {{仮リンク|Bluestein's FFT algorithm|en|Bluestein's FFT algorithm}} (see "Chirp Z-transform") 任意長のデータ列に対する変換が高速に可能である。 * {{仮リンク|オドリツコ・ショーンハーゲ法|en|Odlyzko–Schönhage algorithm}} - {{仮リンク|アンドリュー・オドリツコ|en|Andrew Odlyzko}}、{{仮リンク|アーノルド・ショーンハーゲ|en|Arnold Schönhage}}。 * [[FFTW]] * {{仮リンク|Fast Walsh–Hadamard transform|en|Fast Walsh–Hadamard transform}} {{節スタブ}} == 実数および対称的な入力への最適化 == 多くの応用において、FFTに対する入力データは実数の列(実入力)であり、このとき変換された出力の列は次の対称性を満たす({{math|{{overline|&nbsp;&nbsp;&nbsp;}}}} は複素共役): :<math>F(-t) = \overline{F(t)} .</math> そこで、多くの効率的なFFTアルゴリズム<ref>例えば、H. V. Sorensen, D. L. Jones, M. T. Heideman, and C. S. Burrus, "Real-valued fast Fourier transform algorithms," ''IEEE Trans. Acoust. Speech Sig. Processing'' '''ASSP-35''', 849&ndash;863 (1987).</ref> は入力データが実数であることを前提に設計されている。 入力データが実数の場合の効率化の手段としては、次のようなものがある。 *クーリー-テューキー型アルゴリズムなど典型的なアルゴリズムを利用して、時間とメモリーの両方のコストを低減する。 *入力データが偶数の長さのフーリエ係数はその半分の長さの複素フーリエ係数として表現できる(出力の実数/虚数成分は、それぞれ入力の偶関数/奇関数成分に対応する)ことを利用する。 かつては実数の入力データに対するフーリエ係数を求めるのには、実数計算だけで行える{{仮リンク|離散ハートリー変換|en|Discrete Hartley transform}} (discrete Hartley transform, DHT)を用いると効率的であろうと思われていた。しかしその後に、最適化された[[離散フーリエ変換]] (discrete Fourier transform, DFT) アルゴリズムの方が、離散ハートリー変換アルゴリズムに比べて必要な演算回数が少ないということが判明した。また当初は、実数入力に対してブルーン (Bruun) FFT アルゴリズムは有利であると云われていたが、その後そうではないことが判った。 また、[[偶関数と奇関数|偶奇の対称性を持つ]]実入力の場合には、DFTは[[離散コサイン変換|DCT]]や{{仮リンク|離散サイン変換|en|Discrete sine transform|label=DST}}となるので、演算と記憶に関してほぼ2倍の効率化が得られる。よって、そのような場合にはDFTのアルゴリズムをそのまま適用するよりも、DCTやDSTを適用してフーリエ係数を求める方が効率的である。 == 応用 == * [[スペクトラムアナライザ]] * [[直交周波数分割多重方式|OFDM変復調器]] *:[[直交周波数分割多重方式|OFDM]]([[日本]]および[[欧州]]で[[地上デジタルテレビジョン放送]]や[[ADSL]]等に用いられる[[変調方式]])の実装は、[[集積回路|LSI]]化されたFFTおよびIFFT(逆変換)をそれぞれ復調器および変調器を用いて行われている。 * [[フーリエ変換NMR]] *:[[核磁気共鳴]] (NMR) スペクトルを得るために使用される。 * [[コンピュータ断層撮影]] (CT)、[[核磁気共鳴画像法]] (MRI) 等 *:受像素子を360度回転させながら連続撮影した映像をフーリエ変換する事により、回転面の透過画像を合成する。 * 多[[倍精度浮動小数点数|倍精度]]の乗除算 * [[自動列車停止装置]] (例: [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の最新型車両。[[地上子]]が[[発振]]する周波数の検出に、高速フーリエ変換が用いられている) * [[FFTアナライザ]] *:周波数の分布を調べるために使用される。以前はハードウェアで信号を処理していたが、近年は[[CPU]]の性能が向上した為[[ソフトウェア]]で処理される。[[ノートパソコン]]と[[USB]]で接続して使用するもの<ref>[http://www.stjapan.co.jp/products/1004 FFT spectrum analyzer]</ref> や、近年は[[デジタルオシロスコープ]]にFFTの機能を内蔵している物もある。 * [[電波天文学]] *:[[FX型デジタル分光相関器]]等を使用して[[星間分子]]のスペクトルを解析する<ref>[http://www.astro.s.osakafu-u.ac.jp/research/spart.html 惑星大気の観測「SPART」]</ref><ref>[http://search.ieice.org/bin/summary.php?id=j98-a_3_296 空間FFT電波干渉計による電波天体の高速撮像]</ref>。 == 歴史 == 高速フーリエ変換といえば一般的には1965年、{{仮リンク|ジェイムズ・クーリー|en|James Cooley}} (J. W. Cooley) と[[ジョン・テューキー]] (J. W. Tukey) が発見した<ref name=Math>J. W. Cooley and J. W. Tukey: Math. of Comput. '''19''' (1965) 297.</ref> とされている{{仮リンク|クーリー–テューキー型FFTアルゴリズム|en|Cooley–Tukey FFT algorithm}}を呼ぶ<ref>[http://www.ieeeghn.org/wiki/index.php/Archives:History_of_FFT_with_Cooley_and_Tukey IEEE Archives: History of FFT with Cooley and Tukey].</ref>。同時期に[[高橋秀俊]]がクーリーとテューキーとは全く独立にフーリエ変換を高速で行うためのアルゴリズムを考案していた<ref>{{cite journal|和書|journal=東京大学大型計算機センターニュース |volume=2 |issue=Supplement 2 |date=1970 }}</ref>。しかし、[[1805年]]頃に既に[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]が同様のアルゴリズムを独自に発見していた<ref>Carl Friedrich Gauss, "[https://books.google.co.jp/books?id=WFxYAAAAYAAJ&hl=ja&pg=PA265#v=onepage&q&f=false Nachlass: Theoria interpolationis methodo nova tractata]", Werke band 3, 265–327 (Konigliche Gesellschaft der Wissenschaften, Gottingen, 1866). See also M. T. Heideman, D. H. Johnson, and C. S. Burrus, "Gauss and the history of the fast Fourier transform", IEEE ASSP Magazine 1 (4), 14–21 (1984).</ref>(本ページの外部リンク先に同じ文章PDFへのリンクがある)。ガウスの論文以降、地球物理学や気候や潮位解析などの分野などで測定値に対する調和解析は行われていたので、計算上の工夫を必要とする応用分野で受け継がれていたようである(たとえば、Robart L. Nowack: "Development of the FFT and Applications in Geophysics", in Proceedings of the Cornelius Lanczos International Centenary Conference,SIAM, ISBN 978-0898713398 (1994), pp.395--397、の中では Danielson and Lanczos(1942年)などの先行例をあげている。和書でも沼倉三郎:「測定値計算法」、森北出版、(1956年)には,一般の合成数Nに対してではないが人が計算を行う場合にある程度の大きさの合成数Nに対してどのように計算すればよいかについての説明をみることができる)。 以下の書籍にも、天体観測の軌道の補間のためにガウスが高速フーリエ変換を利用したことが書かれている。 * Elena Prestini:"The Evolution of Applied Harmonic Analysis", Springer, ISBN 978-0-8176-4125-2 (2004)のSec.3.10 'Gauss and the asteroids: history of the FFT'. == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連記事 == * [[フーリエ変換]] * [[離散フーリエ変換]] (DFT) * {{仮リンク|Butterfly diagram|en|Butterfly diagram}} * {{仮リンク|Overlap–add method|en|Overlap–add method}} / {{仮リンク|Overlap–save method|en|Overlap–save method}} * {{仮リンク|Spectral music|en|Spectral music}} * [[スペクトラムアナライザ]] * [[FFTPACK]] * [[時系列]] * [[Math Kernel Library]] * [[ショーンハーゲ・ストラッセン法]]({{仮リンク|乗算アルゴリズム|en|Multiplication algorithm}}) * {{仮リンク|Sparse Fourier transform|en|Sparse Fourier transform}} ※ (高速)スパース・フーリエ変換(SFT) == 学習用図書 == 今後記述を追加の予定 * Henri J. Nussbaumer: "Fast Fourier Transform and Convolution Algorithms",2nd Ed.,Springer-Verlag, ISBN 978-3-540-11825-1 (1982年). * E.Oran Brigham:「高速フーリエ変換」、科学技術出版社 (1985年). * Henri J. Nussbaumer:「高速フーリエ変換のアルゴリズム」、科学技術出版社、ISBN 978-4876530069 (1989年). * William L. Briggs and Van Emden Henson: "The DFT: An Owners' Manual for the Discrete Fourier Transform", SIAM, ISBN 978-0-898713-42-8 (1995年). * Gerlind Plonka, Daniel Potts, Gabriele Steidl and Manfred Tasche: "Numerical Fourier Analysis", Birkhaeuser, ISBN 978-3030043056 (2019年2月). * 谷萩隆嗣:「高速アルゴリズムと並列信号処理」、コロナ社、ISBN 4-339-01124-X(2000年7月26日)。 ==外部リンク== *{{britannica|topic|fast-Fourier-transform|fast Fourier transform (Mathematics)}} *{{Kotobank|2=世界大百科事典 第2版}} *[http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.331.4791&rep=rep1&type=pdf Michael T. Heideman, Don H. Johnson, and C. Sidney Burrus: "Gauss and the History of the Fast Fourier Transform", IEEE ASSP Magazine, Vol.1,pp.14-21(1984). (PDF File)] *[https://arxiv.org/abs/1808.06736 Alex H. Barnett, Jeremy F. Magland, Ludvig af Klinteberg:A parallel non-uniform fast Fourier transform library based on an "exponential of semicircle" kernel] *[http://www.rist.or.jp/rnews/57/57s4.pdf 高橋大介:「高速フーリエ変換におけるキャッシュ最適化」、RISTニュース、No.57,pp.24-31 (2014).] *[https://qiita.com/HMMNRST/items/14b990534d7b6d04307d 「2の累乗専用のFFTを用いて任意長FFTを実装:チャープZ変換」(Qiita記事,2018年11月13日)] *[http://www.fft.report WEB SITE "FFT REPORT"] *[http://www.na.scitec.kobe-u.ac.jp/~yamamoto/lectures/parallelFFT/parallelFFT1.PDF 山本有作:「高速フーリエ変換とその並列化 (I)」(2003年6月6日)] *[http://wwwa.pikara.ne.jp/okojisan/stockham/index.html 「Stockham FFT アルゴリズムの解説」(OK おじさんのホームページ)] {{normdaten}} {{デフォルトソート:こうそくふうりえへんかん}} [[Category:数値解析]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:信号処理]] [[Category:フーリエ解析]] [[Category:ジョゼフ・フーリエ]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]]
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局所密度近似
局所密度近似(きょくしょみつどきんじ、英: Local Density Approximation、略称LDA)は、密度汎関数理論(DFT)における理論に現れる交換相関(XC)エネルギー汎関数に対する近似の一部類である。空間中の各点での電子密度(英語版)の値だけに依っている(密度の導関数やコーン–シャム軌道には依存しない)。多くのアプローチによってXCエネルギーに対する局所近似を得ることができる。しかしながら、圧倒的に成功を収めている局所近似は均一電子ガス(HEG)モデルから導かれたものである。この点に関しては、LDAはHEG近似に基づく汎関数と一般的に同義である。 一般に、スピン非偏極系について、交換相関エネルギーに対する局所密度近似は次のような関数系を仮定する。 上式において、ρは電子密度、εxcは電荷密度ρを持つ均一電子ガスの粒子毎の交換相関エネルギーである。この仮定では空間の各点で(つまり局所的に)電子の交換・相関エネルギー密度 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} が決まっており、 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} はその場所の電子密度 n ( r ) {\displaystyle n({\boldsymbol {r}})} だけの関数になっている。この交換相関エネルギーは交換項と相関項に線形に分解される。 こうすることで、ExとEcについて別々の式を探すことができる。交換項はHEGに対して単純な解析形を取る。相関密度については限定的な式しか厳密に知られておらず、εcに対する膨大な数の異なる近似が生み出された。 ホーヘンベルグ・コーンの定理によれば、この E x c {\displaystyle E_{\rm {xc}}} は取り扱う系に依存しない普遍的な関数である。よって、もし局所密度近似が妥当であれば、 ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} は(計算しやすい)一様電子系について求めた値でも、実際に計算したい系の値でも同じはずである。このようにして、一様電子系についてもとめた ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} を用いることが正当化され、実際の計算に用いることができる。 実際に用いられる ε x c {\displaystyle \epsilon _{\rm {xc}}} の関数形は、厳密に求められる低密度、高密度の極限からの外挿によるものや、モンテカルロ法を使ったものなどがある。 局所密度近似は、一般化勾配近似(GGA)や混成汎関数といった交換相関エネルギーに対するより洗練された近似の構築において重要である。これは、いかなる近似交換相関汎関数も均一電子ガスの厳密な結果を再現することが望まれるためである。こういったものとして、LDAはこういった汎関数の陽な混成要素としてしばしば取り入れられている。 局所密度近似はGGAと同様に固体物理学者によって半導体酸化物やスピントロニクスを含む半導体素材中の電子および磁気相互作用を解釈するためのDFT研究において広範に利用されている。これらの計算研究の重要性は、第一原理に基づく解析を必要とする合成パラメータに対する高い感受性を引き起す系の複雑さに由来する。ドープされた半導体酸化物中のフェルミ準位とバンド構造の予測はCASTEPやDMol3といったシミュレーションパッケージに取り入れられたLDAを使ってしばしば行われる。しかしながら、LDAおよびGGAとしばしば関係しているバンドギャップ値の過小評価は、こういった系における不純物媒介伝導性とキャリア媒介磁性の両方またはいずれか一方の誤った予測をもたらしうる。1998年に始まった固有値についてのレイリーの定理(英語版)の応用によって、LDAポテンシャルを使って、材料のほとんど正確なバンドギャップの計算が可能となっている。DFTの第2定理に対する誤解は、LDAおよびGGA計算によるバンドギャップの過小評価の大半を説明するように思われる。 電子密度にのみ依存したεxcに対する近似は数多くのやり方で開発することができる。最も成功を収めているやり方は均一電子ガス(HEG)に基づく。これは、相互作用のあるN個の電子を、系を中性に保つ正の背景電荷を有する体積Vに置くことによって構築される。NおよびVは次に、電子密度 (ρ = N / V) を有限に保つようなやり方で無限大まで持っていかれる。これは、全エネルギーが運動エネルギーおよび交換-相関エネルギーのみからの寄与によって構成され、波動関数が平面波の観点から表現できるため有用な近似である。具体的には、一定密度ρに対して、交換エネルギー密度はρに比例する。 HEGの交換エネルギー密度は解析的に知られている。交換に対するLDAは、密度が均一でない系における交換エネルギーがHEGの結果を各点に適用することによって得られるという近似の下でこの式を使用して、以下の式を得る。 HEGの相関エネルギーに対する解析表式は、それぞれ無限に弱い相関と無限に強い相関に対応する高密度および低密度限界で利用可能である。電子密度ρを持つHEGについて、相関エネルギー密度の高密度限界は であり、低密度限界は である。上式において、Wigner-Seitzパラメータ r s {\displaystyle r_{s}} は無次元である。これは、厳密に1つの電子を包含する球の半径をボーア半径で割った値として定義される。Wigner-Seitzパラメータ r s {\displaystyle r_{s}} は密度と以下の式で結び付けられる。 密度の全領域に対する解析表式は多体摂動論に基づいて提案されてきた。計算された相関エネルギーは2ミリハートリー以内で量子モンテカルロシミュレーションの結果と一致する。 HEGのエネルギーに対する精密な量子モンテカルロシミュレーションは複数の中間的値の密度について実行され、次々に相関エネルギー密度の精密な値を与えてきた。相関エネルギー密度に対する最も人気のあるLDAは、厳密に知られている漸近挙動を再現しながら、シミュレーションから得られたこれらの正確な値を内挿する。εcに対する異なる解析形式を使った様々なアプローチによって相関汎関数に対する複数のLDAが生み出されてきた。 これらや、DFTそれ自身の形式的樹立よりさえも前から存在するのがHEGモデルから摂動論的に得られるWigner相関汎関数である。 スピン偏極系への密度汎関数の拡張は、厳密なスピンスケーリングが知られている交換については明快であるが、相関についてはさらなる近似が用いられなければならない。DFTにおけるスピン偏極系は2つのスピン密度ραおよびρβ( ρ = ρα + ρβ)を用い、局所スピン密度近似(Local Spin Density Approximation, LSDA)の形式は である。LSDAはバンド計算において磁性(強磁性、反強磁性、ハーフメタリックなど)やスピンの問題(スピン分極)を扱う時に使用される。 交換エネルギーについては、(局所密度近似に対してのみではない)厳密な結果がスピン非偏極汎関数の観点から知られている。 相関エネルギー密度のスピン依存性は相対スピン偏極度 を導入することによってアプローチする。 ζ = 0 {\displaystyle \zeta =0\,} は等しい α {\displaystyle \alpha \,} および β {\displaystyle \beta \,} スピン密度を持つ常磁性スピン非偏極状況に対応しするが、 ζ = ± 1 {\displaystyle \zeta =\pm 1} は一方のスピン密度が消滅する強磁性状況に対応する。全密度および相対偏極度の所与の値に対するスピン相関エネルギー密度εc(ρ,ς) は極値を内挿するように構築される。いくつかの形式がLDA相関汎関数と共に開発されてきた。 LDA計算は実験値とまあまあの一致を示す。 局所密度近似に対する交換-相関エネルギーに対応する交換-相関ポテンシャルは以下の式で与えられる。 有限の系においては、LDAポテンシャルは指数関数的な形で漸近的に減衰する。これは誤りである。真の交換-相関ポテンシャルはクーロン的によりゆっくりと減衰する。人為的に急速な減衰は、ポテンシャルが束縛できるコーン・シャム軌道の数(つまり、ゼロ未満のエネルギーを持つ軌道の数)に現れる。LDAポテンシャルはリュードベリ系列を支持できず、ポテンシャルが束縛するそれらの状態はエネルギーが高過ぎる。これはエネルギー的に高過ぎるHOMOエネルギーをもたらし、クープマンズの定理に基づくイオン化ポテンシャルに対する予測は精度が低い。そのうえ、LDAは陰イオンといった電子豊富種のまずい描写を与える。こういった場合、LDAはしばしば追加の電子を束縛することができず、陰イオン種が不安定であると誤って予測する。 LDAを越える試みとは、局所密度近似 (LDA) の問題点を解消する新たな手法を見出す試みの総称である。 局所密度近似は大変成功した近似であるが、実際の系に対する様々な計算の結果、その限界もまた露わになってきた。代表的な問題点とその克服に向けたアプローチについて記述する。 以下のようなものが提案、試行されている。 さらに、交換項を(ハートリー-フォック法での交換項として)厳密に取り扱うアプローチ (Exact Exchange)、密度汎関数理論の有限温度への拡張や、電子の多体問題をより直接的に扱う方法(量子モンテカルロ法による)、また動的平均場法などの強相関電子系でのモデル計算で開発された手法と組み合わせ、電子相関の効果を導入する研究がされているが、まだ汎用的な計算手法とは言い難く、簡単な系でのテスト計算どまりである。
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局所密度近似は、密度汎関数理論(DFT)における理論に現れる交換相関(XC)エネルギー汎関数に対する近似の一部類である。空間中の各点での電子密度の値だけに依っている(密度の導関数やコーン–シャム軌道には依存しない)。多くのアプローチによってXCエネルギーに対する局所近似を得ることができる。しかしながら、圧倒的に成功を収めている局所近似は均一電子ガス(HEG)モデルから導かれたものである。この点に関しては、LDAはHEG近似に基づく汎関数と一般的に同義である。 一般に、スピン非偏極系について、交換相関エネルギーに対する局所密度近似は次のような関数系を仮定する。 上式において、ρは電子密度、εxcは電荷密度ρを持つ均一電子ガスの粒子毎の交換相関エネルギーである。この仮定では空間の各点で(つまり局所的に)電子の交換・相関エネルギー密度 ϵ x c が決まっており、 ϵ x c はその場所の電子密度 n だけの関数になっている。この交換相関エネルギーは交換項と相関項に線形に分解される。 こうすることで、ExとEcについて別々の式を探すことができる。交換項はHEGに対して単純な解析形を取る。相関密度については限定的な式しか厳密に知られておらず、εcに対する膨大な数の異なる近似が生み出された。 ホーヘンベルグ・コーンの定理によれば、この E x c は取り扱う系に依存しない普遍的な関数である。よって、もし局所密度近似が妥当であれば、 ϵ x c は(計算しやすい)一様電子系について求めた値でも、実際に計算したい系の値でも同じはずである。このようにして、一様電子系についてもとめた ϵ x c を用いることが正当化され、実際の計算に用いることができる。 実際に用いられる ϵ x c の関数形は、厳密に求められる低密度、高密度の極限からの外挿によるものや、モンテカルロ法を使ったものなどがある。 局所密度近似は、一般化勾配近似(GGA)や混成汎関数といった交換相関エネルギーに対するより洗練された近似の構築において重要である。これは、いかなる近似交換相関汎関数も均一電子ガスの厳密な結果を再現することが望まれるためである。こういったものとして、LDAはこういった汎関数の陽な混成要素としてしばしば取り入れられている。
'''局所密度近似'''(きょくしょみつどきんじ、{{lang-en-short|Local Density Approximation}}、略称'''LDA''')は、[[密度汎関数理論]](DFT)における理論に現れる[[交換相関エネルギー|交換相関]](XC)エネルギー[[汎関数]]に対する近似の一部類である。空間中の各点での{{仮リンク|電子密度|en| Electron density|preserve=1}}の値だけに依っている(密度の導関数や[[コーン–シャム方程式|コーン–シャム軌道]]には依存しない)。多くのアプローチによってXCエネルギーに対する局所近似を得ることができる。しかしながら、圧倒的に成功を収めている局所近似は[[ジェリウムモデル|均一電子ガス]](HEG)モデルから導かれたものである。この点に関しては、LDAはHEG近似に基づく汎関数と一般的に同義である。 一般に、スピン非偏極系について、交換相関エネルギーに対する局所密度近似は次のような関数系を仮定する。 :<math>E_{\mathrm{xc}}^{\mathrm{LDA}}[\rho] = \int \rho(\boldsymbol{r})\epsilon_{\mathrm{xc}}(\rho(\boldsymbol{r}))\ \mathrm{d}\boldsymbol{r}\ </math> 上式において、''ρ''は[[電子密度]]、''ε''<sub>xc</sub>は電荷密度''ρ''を持つ均一電子ガスの粒子毎の交換相関エネルギーである。この仮定では空間の各点で(つまり局所的に)電子の'''交換・相関エネルギー密度'''<math>\epsilon_{\rm xc}</math>が決まっており、<math>\epsilon_{\rm xc}</math>はその場所の電子密度<math>n(\boldsymbol{r})</math>だけの関数になっている。この交換相関エネルギーは交換項と相関項に線形に分解される。 :<math>E_{\mathrm{xc}} = E_{\mathrm{x}} + E_{\mathrm{c}}</math> こうすることで、''E''<sub>x</sub>と''E''<sub>c</sub>について別々の式を探すことができる。交換項はHEGに対して単純な解析形を取る。相関密度については限定的な式しか厳密に知られておらず、''ε''<sub>c</sub>に対する膨大な数の異なる近似が生み出された。 [[密度汎関数理論#ホーヘンベルク・コーンの定理|ホーヘンベルグ・コーンの定理]]によれば、この<math>E_{\rm xc}</math>は取り扱う系に依存しない普遍的な関数である。よって、もし局所密度近似が妥当であれば、<math>\epsilon_{\rm xc}</math>は(計算しやすい)一様電子系について求めた値でも、実際に計算したい系の値でも同じはずである。このようにして、一様電子系についてもとめた<math>\epsilon_{\rm xc}</math>を用いることが正当化され、実際の計算に用いることができる。 実際に用いられる<math>\epsilon_{\rm xc}</math>の関数形は、厳密に求められる低密度、高密度の極限からの[[外挿]]によるもの<ref name=wigner/><ref name="von_Barth"/><ref name="JanakMoruzzi1975">{{cite journal|last1=Janak|first1=J. F.|last2=Moruzzi|first2=V. L.|last3=Williams|first3=A. R.|title=Ground-state thermomechanical properties of some cubic elements in the local-density formalism|journal=Physical Review B|volume=12|issue=4|year=1975|pages=1257–1261|doi=10.1103/PhysRevB.12.1257}}</ref><ref name="GunnarssonLundqvist1976">{{cite journal|last1=Gunnarsson|first1=O.|last2=Lundqvist|first2=B. I.|title=Exchange and correlation in atoms, molecules, and solids by the spin-density-functional formalism|journal=Physical Review B|volume=13|issue=10|year=1976|pages=4274–4298|doi=10.1103/PhysRevB.13.4274}}</ref><ref name="MacDonaldVosko1979">{{cite journal|last1=MacDonald|first1=A H|last2=Vosko|first2=S H|title=A relativistic density functional formalism|journal=Journal of Physics C: Solid State Physics|volume=12|issue=15|year=1979|pages=2977–2990|doi=10.1088/0022-3719/12/15/007}}</ref>や、[[モンテカルロ法]]を使ったもの<ref name="Ceperley1978">{{cite journal|last1=Ceperley|first1=D.|title=Ground state of the fermion one-component plasma: A Monte Carlo study in two and three dimensions|journal=Physical Review B|volume=18|issue=7|year=1978|pages=3126–3138|doi=10.1103/PhysRevB.18.3126}}</ref><ref name="CeperleyAlder1980">{{cite journal|last1=Ceperley|first1=D. M.|last2=Alder|first2=B. J.|title=Ground State of the Electron Gas by a Stochastic Method|journal=Physical Review Letters|volume=45|issue=7|year=1980|pages=566–569|doi=10.1103/PhysRevLett.45.566}}</ref><ref name="PerdewZunger1981">{{cite journal|last1=Perdew|first1=J. P.|last2=Zunger|first2=Alex|title=Self-interaction correction to density-functional approximations for many-electron systems|journal=Physical Review B|volume=23|issue=10|year=1981|pages=5048–5079|doi=10.1103/PhysRevB.23.5048}}</ref>などがある。 局所密度近似は、[[一般化勾配近似]](GGA)や[[混成汎関数]]といった交換相関エネルギーに対するより洗練された近似の構築において重要である。これは、いかなる近似交換相関汎関数も均一電子ガスの厳密な結果を再現することが望まれるためである。こういったものとして、LDAはこういった汎関数の陽な混成要素としてしばしば取り入れられている。 == 応用 == 局所密度近似はGGAと同様に[[固体物理学|固体物理学者]]によって半導体酸化物や[[スピントロニクス]]を含む半導体素材中の電子および磁気相互作用を解釈するためのDFT研究において広範に利用されている。これらの計算研究の重要性は、第一原理に基づく解析を必要とする合成パラメータに対する高い感受性を引き起す系の複雑さに由来する。ドープされた半導体酸化物中の[[フェルミ準位]]とバンド構造の予測はCASTEPやDMol3といったシミュレーションパッケージに取り入れられたLDAを使ってしばしば行われる<ref>{{cite journal| last1=Segall| first1=M.D.| last2=Lindan| first2=P.J | title= First-principles simulation: ideas, illustrations and the CASTEP code | journal= Journal of Physics: Condensed Matter | year= 2002| volume=14| issue=11| pages=2717|bibcode = 2002JPCM...14.2717S |doi = 10.1088/0953-8984/14/11/301 }}</ref>。しかしながら、LDAおよび[[一般化勾配近似|GGA]]としばしば関係している[[バンドギャップ]]値の過小評価は、こういった系における不純物媒介伝導性とキャリア媒介磁性の両方またはいずれか一方の誤った予測をもたらしうる<ref>{{cite journal| last1=Assadi| first1=M.H.N| title= Theoretical study on copper's energetics and magnetism in TiO<sub>2</sub> polymorphs| journal= Journal of Applied Physics | year=2013| volume=113| issue=23| pages= 233913–233913–5| doi=10.1063/1.4811539|arxiv = 1304.1854 |bibcode = 2013JAP...113w3913A | s2cid=94599250|display-authors=etal}}</ref>。1998年に始まった{{仮リンク|固有値についてのレイリーの定理|en|Rayleigh theorem for eigenvalue}}の応用によって、LDAポテンシャルを使って、材料のほとんど正確なバンドギャップの計算が可能となっている<ref>{{Cite journal|last1=Zhao|first1=G. L.|last2=Bagayoko|first2=D.|last3=Williams|first3=T. D.|date=1999-07-15|title=Local-density-approximation prediction of electronic properties of GaN, Si, C, andRuO2|journal=Physical Review B|volume=60|issue=3|pages=1563–1572|doi=10.1103/physrevb.60.1563|issn=0163-1829}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Bagayoko|first=Diola|date=December 2014|title=Understanding density functional theory (DFT) and completing it in practice|journal=AIP Advances|volume=4|issue=12|pages=127104|doi=10.1063/1.4903408|issn=2158-3226|doi-access=free}}</ref>。[[密度汎関数理論#ホーヘンベルク・コーンの定理|DFTの第2定理]]に対する誤解は、LDAおよびGGA計算によるバンドギャップの過小評価の大半を説明するように思われる。 == 均一電子ガス == 電子密度にのみ依存した''ε''<sub>xc</sub>に対する近似は数多くのやり方で開発することができる。最も成功を収めているやり方は均一電子ガス(HEG)に基づく。これは、相互作用のある''N''個の電子を、系を中性に保つ正の背景電荷を有する体積''V''に置くことによって構築される。''N''および''V''は次に、電子密度 (''ρ''&nbsp;=&nbsp;''N''&nbsp;/&nbsp;''V'') を有限に保つようなやり方で無限大まで持っていかれる。これは、全エネルギーが運動エネルギーおよび交換-相関エネルギーのみからの寄与によって構成され、波動関数が平面波の観点から表現できるため有用な近似である。具体的には、一定密度''ρ''に対して、交換エネルギー密度は''ρ''<sup>⅓</sup>に比例する。 == 交換汎関数 == HEGの交換エネルギー密度は解析的に知られている。交換に対するLDAは、密度が均一でない系における交換エネルギーがHEGの結果を各点に適用することによって得られるという近似の下でこの式を使用して、以下の式を得る<ref name="parryang">{{cite book|last=Parr|first=Robert G|author2=Yang, Weitao |title=Density-Functional Theory of Atoms and Molecules|publisher=Oxford University Press|location=Oxford |year=1994|isbn=978-0-19-509276-9}}</ref><ref>{{cite journal|last=Dirac|first=P. A. M.|year=1930|title=Note on exchange phenomena in the Thomas-Fermi atom|journal=Proc. Camb. Phil. Soc.|volume=26|pages=376–385|doi=10.1017/S0305004100016108|issue=3|bibcode = 1930PCPS...26..376D |doi-access=free}}</ref>。 :<math>E_{\mathrm{x}}^{\mathrm{LDA}}[\rho] = - \frac{3}{4}\left( \frac{3}{\pi} \right)^{1/3}\int\rho(\boldsymbol{r})^{4/3}\ \mathrm{d}\boldsymbol{r}</math> == 相関汎関数 == HEGの相関エネルギーに対する解析表式は、それぞれ無限に弱い相関と無限に強い相関に対応する高密度および低密度限界で利用可能である。電子密度''ρ''を持つHEGについて、相関エネルギー密度の高密度限界<ref name="parryang"/>は :<math>\epsilon_{\mathrm{c}} = A\ln(r_{s}) + B + r_{s}(C\ln(r_{s}) + D)</math> であり、低密度限界は :<math>\epsilon_{\mathrm{c}} = \frac{1}{2}\left(\frac{g_{0}}{r_{s}} + \frac{g_{1}}{r_{s}^{3/2}} + \dotsb\right)</math> である。上式において、Wigner-Seitzパラメータ<math>r_{s}</math>は無次元である<ref name="Murray Gell-Mann and Keith A. Brueckner 1957 364">{{cite journal | title = Correlation Energy of an Electron Gas at High Density | author = Murray Gell-Mann and Keith A. Brueckner | journal = Phys. Rev. | volume = 106 | pages = 364–368 | year = 1957 | doi = 10.1103/PhysRev.106.364 | issue = 2| bibcode = 1957PhRv..106..364G | url = https://authors.library.caltech.edu/3713/1/GELpr57b.pdf }}</ref>。これは、厳密に1つの電子を包含する球の半径をボーア半径で割った値として定義される。Wigner-Seitzパラメータ<math>r_s</math>は密度と以下の式で結び付けられる。 :<math>\frac{4}{3}\pi r_{s}^{3} = \frac{1}{\rho}</math> 密度の全領域に対する解析表式は多体摂動論に基づいて提案されてきた。計算された相関エネルギーは2ミリハートリー以内で[[量子モンテカルロ法|量子モンテカルロ]]シミュレーションの結果と一致する。 HEGのエネルギーに対する精密な量子モンテカルロシミュレーションは複数の中間的値の密度について実行され、次々に相関エネルギー密度の精密な値を与えてきた<ref>{{cite journal | title = Ground State of the Electron Gas by a Stochastic Method | author = D. M. Ceperley and B. J. Alder | journal = Phys. Rev. Lett. | volume = 45 | pages = 566–569 | year = 1980 | doi = 10.1103/PhysRevLett.45.566 | bibcode=1980PhRvL..45..566C | issue = 7| url = https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc1059358/ }}</ref>。相関エネルギー密度に対する最も人気のあるLDAは、厳密に知られている漸近挙動を再現しながら、シミュレーションから得られたこれらの正確な値を内挿する。''ε''<sub>c</sub>に対する異なる解析形式を使った様々なアプローチによって相関汎関数に対する複数のLDAが生み出されてきた。 * Vosko-Wilk-Nusair (VWN)<ref name="vwn">{{cite journal | title = Accurate spin-dependent electron liquid correlation energies for local spin density calculations: a critical analysis | author = S. H. Vosko, L. Wilk and M. Nusair | journal = Can. J. Phys. | volume = 58 | pages = 1200–1211 | year = 1980 | doi = 10.1139/p80-159 |bibcode = 1980CaJPh..58.1200V | issue = 8 | url = https://escholarship.org/content/qt23j4q7zm/qt23j4q7zm.pdf?t=obc5l4 }}</ref> * Perdew-Zunger (PZ81)<ref name="pz81">{{cite journal | title = Self-interaction correction to density-functional approximations for many-electron systems | author = J. P. Perdew and A. Zunger | journal = Phys. Rev. B | volume = 23 | pages = 5048–5079 | year = 1981 | doi = 10.1103/PhysRevB.23.5048 |bibcode = 1981PhRvB..23.5048P | issue = 10 | doi-access = free }}</ref> * Cole-Perdew (CP)<ref>{{cite journal | title = Calculated electron affinities of the elements | author = L. A. Cole and J. P. Perdew | journal = Phys. Rev. A | volume = 25 | pages = 1265–1271 | year = 1982 | doi = 10.1103/PhysRevA.25.1265 |bibcode = 1982PhRvA..25.1265C | issue = 3 }}</ref> * Perdew-Wang (PW92)<ref name=pw92>{{cite journal | title = Accurate and simple analytic representation of the electron-gas correlation energy | author = John P. Perdew and Yue Wang | journal = Phys. Rev. B | volume = 45 | pages = 13244–13249 | year = 1992 | doi = 10.1103/PhysRevB.45.13244 | pmid = 10001404 |bibcode = 1992PhRvB..4513244P | issue = 23 }}</ref> これらや、DFTそれ自身の形式的樹立よりさえも前から存在するのがHEGモデルから[[メラー=プレセット法|摂動論的]]に得られるWigner相関汎関数である<ref name=wigner>{{cite journal | title = On the Interaction of Electrons in Metals | author = E. Wigner | journal = Phys. Rev. | volume = 46 | pages = 1002–1011 | year = 1934 | doi = 10.1103/PhysRev.46.1002 |bibcode = 1934PhRv...46.1002W | issue = 11 }}</ref>。 == スピン偏極 == [[スピン偏極]]系への密度汎関数の拡張は、厳密なスピンスケーリングが知られている交換については明快であるが、相関についてはさらなる近似が用いられなければならない。DFTにおけるスピン偏極系は2つのスピン密度''ρ''<sub>α</sub>および''ρ''<sub>β</sub>( ''ρ''&nbsp;=&nbsp;''ρ''<sub>α</sub>&nbsp;+&nbsp;''ρ''<sub>β</sub>)を用い、局所スピン密度近似(Local Spin Density Approximation, LSDA)の形式は :<math>E_{\mathrm{xc}}^{\mathrm{LSDA}}[\rho_{\alpha},\rho_{\beta}] = \int\mathrm{d}\boldsymbol{r}\ \rho(\boldsymbol{r})\epsilon_{\mathrm{xc}}(\rho_{\alpha},\rho_{\beta})</math> である。LSDAは[[バンド計算]]において[[磁性]]([[強磁性]]、[[反強磁性]]、[[ハーフメタリック]]など)やスピンの問題(スピン分極)を扱う時に使用される。 交換エネルギーについては、(局所密度近似に対してのみではない)厳密な結果がスピン非偏極汎関数の観点から知られている<ref>{{cite journal|last=Oliver|first=G. L.|author2=Perdew, J. P. |year=1979|title=Spin-density gradient expansion for the kinetic energy|journal=Phys. Rev. A|volume=20|pages=397–403|doi=10.1103/PhysRevA.20.397|bibcode = 1979PhRvA..20..397O|issue=2 }}</ref>。 :<math>E_{\mathrm{x}}[\rho_{\alpha},\rho_{\beta}] = \frac{1}{2}\bigg( E_{\mathrm{x}}[2\rho_{\alpha}] + E_{\mathrm{x}}[2\rho_{\beta}] \bigg)\ .</math> 相関エネルギー密度のスピン依存性は相対スピン偏極度 :<math>\zeta(\boldsymbol{r}) = \frac{\rho_{\alpha}(\boldsymbol{r})-\rho_{\beta}(\boldsymbol{r})}{\rho_{\alpha}(\boldsymbol{r})+\rho_{\beta}(\boldsymbol{r})}</math> を導入することによってアプローチする。<math>\zeta = 0\,</math>は等しい<math>\alpha\,</math>および<math>\beta\,</math>スピン密度を持つ常磁性スピン非偏極状況に対応しするが、<math>\zeta = \pm 1</math>は一方のスピン密度が消滅する強磁性状況に対応する。全密度および相対偏極度の所与の値に対するスピン相関エネルギー密度''ε''<sub>c</sub>(''ρ'',''ς'') は極値を内挿するように構築される。いくつかの形式がLDA相関汎関数と共に開発されてきた<ref name="vwn"/><ref name="von_Barth">{{cite journal|last=von Barth|first=U.|author2=Hedin, L. |year=1972|title=A local exchange-correlation potential for the spin polarized case|journal=J. Phys. C: Solid State Phys.|volume=5|pages=1629–1642|doi=10.1088/0022-3719/5/13/012|bibcode = 1972JPhC....5.1629V|issue=13 }}</ref>。 == 実例となる計算 == LDA計算は実験値とまあまあの一致を示す。 {| class="wikitable" |+ イオン化ポテンシャル (eV) <ref name="parryang"/> |- ! ! LSDA ! LDA ! [[ハートリー=フォック方程式|HF]] ! 実験値 |- align="center" | H || 13.4 || 12.0 || 13.6 || 13.6 |- align="center" | He || 24.5 || 26.4 || || 24.6 |- align="center" | Li || 5.7 || 5.4 || 5.3 || 5.4 |- align="center" | Be || 9.1 || || 8.0 || 9.3 |- align="center" | B || 8.8 || || 7.9 || 8.3 |- align="center" | C || 12.1 || || 10.8 || 11.3 |- align="center" | N || 15.3 || || 14.0 || 14.5 |- align="center" | O || 14.2 || 16.5 || 11.9 || 13.6 |- align="center" | F || 18.4 || || 16.2 || 17.4 |- align="center" | Ne || 22.6 || 22.5 || 19.8 || 21.6 |} {| class="wikitable" |+ 結合長(オングストローム)<ref name="parryang"/> |- ! ! 実験値 ! LSDA ! 誤差 |- align="center" | H<sub>2</sub> || 0.74 || 0.77 || 0.03 |- align="center" | Li<sub>2</sub> || 2.67 || 2.71 || 0.04 |- align="center" | B<sub>2</sub> || 1.59 || 1.60 || 0.02 |- align="center" | C<sub>2</sub> || 1.24 || 1.24 || 0.00 |- align="center" | N<sub>2</sub> || 1.10 || 1.10 || 0.00 |- align="center" | O<sub>2</sub> || 1.21 || 1.20 || 0.01 |- align="center" | F<sub>2</sub> || 1.42 || 1.38 || 0.04 |- align="center" | Na<sub>2</sub> || 3.08 || 3.00 || 0.08 |- align="center" | Al<sub>2</sub> || 2.47 || 2.46 || 0.01 |- align="center" | Si<sub>2</sub> || 2.24 || 2.27 || 0.03 |- align="center" | P<sub>2</sub> || 1.89 || 1.89 || 0.01 |- align="center" | S<sub>2</sub> || 1.89 || 1.89 || 0.00 |- align="center" | Cl<sub>2</sub> || 1.99 || 1.98 || 0.01 |- align="center" | Average || || || 0.02 |} == 交換-相関ポテンシャル == 局所密度近似に対する交換-相関エネルギーに対応する交換-相関ポテンシャルは以下の式で与えられる<ref name="parryang"/>。 :<math>v_{\mathrm{xc}}^{\mathrm{LDA}}(\boldsymbol{r}) = \frac{\delta E^{\mathrm{LDA}}}{\delta\rho(\boldsymbol{r})} = \epsilon_{\mathrm{xc}}(\rho(\boldsymbol{r})) + \rho(\boldsymbol{r})\frac{\partial \epsilon_{\mathrm{xc}}(\rho(\boldsymbol{r}))}{\partial\rho(\boldsymbol{r})}</math> 有限の系においては、LDAポテンシャルは指数関数的な形で漸近的に減衰する。これは誤りである。真の交換-相関ポテンシャルはクーロン的によりゆっくりと減衰する。人為的に急速な減衰は、ポテンシャルが束縛できるコーン・シャム軌道の数(つまり、ゼロ未満のエネルギーを持つ軌道の数)に現れる。LDAポテンシャルはリュードベリ系列を支持できず、ポテンシャルが束縛するそれらの状態はエネルギーが高過ぎる。これはエネルギー的に高過ぎる[[HOMO]]エネルギーをもたらし、[[クープマンズの定理]]に基づく[[イオン化ポテンシャル]]に対する予測は精度が低い。そのうえ、LDAは[[陰イオン]]といった電子豊富種のまずい描写を与える。こういった場合、LDAはしばしば追加の電子を束縛することができず、陰イオン種が不安定であると誤って予測する<ref name="pz81"/><ref>{{cite book|last=Fiolhais|first=Carlos|author2=Nogueira, Fernando |author3=Marques Miguel |title=A Primer in Density Functional Theory|publisher=Springer|year=2003|isbn=978-3-540-03083-6|page=60}}</ref>。 == LDAを越える試み== LDAを越える試みとは、局所密度近似 (LDA) の問題点を解消する新たな手法を見出す試みの総称である。 局所密度近似は大変成功した近似であるが、実際の系に対する様々な計算の結果、その限界もまた露わになってきた。代表的な問題点とその克服に向けたアプローチについて記述する。 === 代表的な問題点(限界) === #[[半導体]]、[[絶縁体]]において[[バンドギャップ]]が実験値より過小な値となる。 #[[鉄]]の[[強磁性]]結晶構造(体心立方構造:BCC)が安定とならない。(他にも安定構造や電子状態がLDAが原因で、実際のものと一致しない場合がある。GGA近似を行うことで修正される場合がある。)。 #[[活性化エネルギー]]の過小評価。 #鏡像ポテンシャルが記述できない([[表面]])。 #[[自己相互作用補正]]の問題。 #絶対零度(基底状態)での計算が前提。←[[密度汎関数理論]] #励起状態に対する計算の正しさの保証がない(これは、むしろ密度汎関数理論の問題)。など === 問題を克服する手段・手法 === 以下のようなものが提案、試行されている。 *[[一般化勾配近似|GGA]](Generalized Gradient Approximation, 一般化された密度勾配近似) *SIC(Self-Interaction Correction, [[自己相互作用補正]]) *[[GW近似]] *[[LDA plus U|LDA+U]] (LSDA+U) *[[TDDFT]] ([[TDLDA]])(Time-Dependent DFT, 時間発展を考慮した密度汎関数理論) さらに、交換項を([[ハートリー-フォック法]]での交換項として)厳密に取り扱うアプローチ (Exact Exchange)、[[密度汎関数理論]]の[[有限温度への拡張]]や、[[電子]]の[[多体問題]]をより直接的に扱う方法([[量子モンテカルロ法]]による)、また動的平均場法などの強相関電子系でのモデル計算で開発された手法と組み合わせ、電子相関の効果を導入する研究がされているが、まだ汎用的な計算手法とは言い難く、簡単な系でのテスト計算どまりである。 == 脚注 == {{reflist|2}} ==参考文献== * {{cite journal | title=Self-Consistent Equations Including Exchange and Correlation Effects | journal=Physical Review | year=1965 | author=W. Kohn |coauthors=L. J. Sham | volume=140 | issue=4A | pages=A1133-1138| doi=10.1103/PhysRev.140.A1133}} ==関連項目== *[[電子相関]] *[[Xα法]] *[[密度汎関数法]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:きよくしよみつときんし}} [[Category:密度汎関数理論]]
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状態密度
固体物理学および物性物理学において、系の状態密度(じょうたいみつど、英: density of states, DOS)とは、微小なエネルギー区間内に存在する、系の占有しうる状態数を各エネルギーごとに記述する物理量である。気相中の原子や分子のような孤立系とは異なり、密度分布はスペクトル密度のような離散分布ではなく連続分布となる。あるエネルギー準位において DOS が高いことは、そこに占有しうる状態が多いことを意味する。DOS がゼロとなることは、系がそのエネルギー準位を占有しえないことを意味する。一般的に DOS とは、空間的および時間的に平均されたものを言う。局所的な変動は局所状態密度 (local density of states, LDOS) と呼ばれ区別される。 量子系において、波もしくは波動的粒子は系によって定まる波長と伝播方向をもつモードもしくは状態を占める。特定の状態のみが許容されることも多く、系によっては物質の原子間距離と原子核電荷により特定の波長の電子のみが存在を許容される場合もある。また、物質の結晶構造により波が一方向にのみ伝播を許容され、別の方向への伝播が抑制されるような系もある。したがって、特定の波長においては多くの状態が許容され、別のエネルギー準位には全く許容される状態が存在しないということがありうる。量子系により、電子や光子、フォノンの状態密度をエネルギーもしくは波数ベクトル k の関数として計算することができる。DOS を表わす記号としては、g, ρ, D, n, N などが用いられる。エネルギーの関数としての DOS と波数ベクトルの関数としての DOS の間の変換は、系ごとに決まる E と k との間の分散関係が分かっていれば行うことができる。 たとえば、半導体中の電子の状態密度は伝導帯端においては低く、電子の占有できる状態は少ない。電子のエネルギーが増えるにつれて状態密度も増加し、占有できる状態が増える。しかし、バンドギャップ中には電子の占有できる状態は存在しないため、伝導帯端の電子は別のモードへと遷移するために少くとも Eg だけのエネルギーを失う必要がある。 一般的に、系の位相幾何学的性質が状態密度の主な性質を決定する。中性子星中のニュートロニウムや金属中の自由電子ガス(縮退物質とフェルミ気体の例)のような最も良く知られた系では、3次元ユークリッド空間の位相構造を持つ。より知られていない系としては、グラファイト層中の二次元電子ガスや MOSFET 型素子中の量子ホール効果系は二次元ユークリッド空間の位相構造を持つ。さらに知られていないものとしては、カーボンナノチューブや量子ワイヤ(英語版)、朝永・ラッティンジャー液体などは1次元位相幾何を持つ。1D および 2D 位相幾何を持つ系は、ナノテクノロジーと物質科学の進展につれてよりよく知られるようになると考えられる。 系が状態 i をとるときの系のエネルギーが E i {\displaystyle {\mathcal {E}}_{i}} で与えられるとき、状態密度は で定義される。 系の状態が連続パラメータ λ で指定される場合の定義は である。ここで μ はパラメータ λ の張る状態空間の体積を与える測度である。 古典系の状態は正準変数の組 (p, q) で指定され、系のエネルギーはハミルトン関数で与えられる。正準変数の張る位相空間の体積は、一対の dpdq ごとにプランク定数 h で割る約束で、自由度が 2f での状態密度は となる。 状態密度をエネルギー E まで積分すれば として、系のエネルギーが E i < E {\displaystyle {\mathcal {E}}_{i}<E} である状態の数を与える。状態数が微分可能である場合には、状態密度は で与えられる。エネルギーが E である状態の縮退度は で与えられる。ここで最後の等式は、積分の平均値の定理が妥当なときのみ成り立つ。 DOS 計算の行える系は多種多様である。凝縮系において重要な性質は系の微視的構造のもつ対称性である。 流体、ガラス、アモルファス固体は回転対称性のある分散関係を持つ。球対称な系では、たとえば関数の積分などは一次元となる。なぜなら、計算が分散関係の動径パラメータにのみ依存するからである。 例えば単結晶からなる系などの非等方な系においては、状態密度がある結晶学的方位と別の方位とでは異るので、角度に依存する計算および計測が必要となる。非等方な問題は計算が難しくなり、また非等方な状態密度は可視化するのも難しくなる。そのため、ある特定の点のみを計算したり、射影状態密度 (projected density of states, PDOS) を計算したりといった手法がよく用いられる。 粉末試料や多結晶試料に対する測定には、系の分散関係の定義域(一つのブリュアンゾーンとすることが多い)全体にわたる積分が必要となる。系の対称性が高い場合、系の分散関係を表わす関数の形は分散関係の定義域全体にわたって何度も繰り返し表われる。このような場合、DOS の計算は還元ゾーンのみについての計算に帰着し、相当に省力化できる。面心立方格子のブリュアンゾーンは点群 Oh の、完全八面体対称性(英語版)をもつ48重対称性を持つ。よって、ブリュアンゾーン全体にわたる積分をその48分の1の部分領域にわたる積分に帰着することができる。結晶構造の周期表(英語版)に示される通り、面心立方格子をとる元素はダイヤモンド、シリコン、白金など多く、これらのブリュアンゾーンおよび分散関係は48重対称性を持つ。 良く知られている結晶構造として、体心立方格子と六方最密充填格子の二つが挙げられる。体心立方格子は点群 Th の24重黄鉄鉱型対称性(英語版)を持つ。六方最密充填格子は点群 D3h の12重プリズム二面体対称性(英語版)を持つ。点群の対称性の特性の網羅的リストについては、点群指標表(英語版)を参照のこと。 一般に、対称性が高く位相的次元の低い系ほど DOS の計算は容易である。回転対称性のある分散関係の状態密度は解析的に計算可能であることが多い。鋼やシリコンなど、実用上の興味の対象となる物質は高い対称性を持っていることが多いので、このことは幸運である。 状態密度は対象の次元に依存する。次元の果たす役割は、DOS の単位 (EnergyVolume) からも明らかである。系が二次元的になる極限において体積は面積となり、一次元的となる極限においては長さとなる。ここでいう体積とは波数空間上の、分散関係から導かれる等エネルギー面(英語版)で囲われる領域の体積であることに注意が必要である。固体中の電子の分散関係はバンド構造を成している。三次元的波数空間の例を図1に示す。系の次元そのものが系内の粒子の運動量を規定することが見てとれる。 DOS を計算するにはまずある k に対して波数空間上の領域 [k, k+dk] 内に含まれる状態数 N を数える必要がある。これは、ある k に対する n 次元波数空間全体の体積 Ωn, k を k で微分することで得られる。三次元、二次元、一次元波数空間の体積、面積、長さは次のように表わされる。 ここで、 cn は波数空間の次元 n に依存して位相幾何学的に定まる定数で、一次元、二次元、三次元ユークリッド波数空間に対してはそれぞれ以下のように定まる。 この式によれば、波数ベクトル状態密度 N は Ωn, k を k で微分することにより次のように得られる。 これを一次元、二次元、三次元の場合に明示的に書き下すと次のようになる。 一つの状態は波長 λJ の粒子を含むことができる程度に大きい。波長と波数 k との間の関係式は以下のようになる。 長さ λ の量子系は粒子を閉じ込める系の大きさ L に依存する。最後に、状態密度 N に係数 s/Vk をかける。ここで、s はスピンや偏極などの物理現象に起因する内部自由度である。このような物理現象が無い場合は s=1 となる。Vk は波数空間上の、ある k よりも小さい波数ベクトルを全て含む体積である。 DOS の計算の最後として、あるエネルギー E {\displaystyle E} に対して 定まる区間 [E, E+dE] に含まれる体積あたりの状態数を計算する。一般的な系の DOS は次のような形式となる。 ここまでの式は、分散関係が単調増加する球対称な系に対してのみ成り立つ。 一般に、分散関係 E(k) は球対称ではなく、単調増加でもないことが多い。D を E の関数として分散関係 E(k) の逆関数を用いてここまでの式中に現われていた k の関数 Ωn(k) をエネルギーの関数 Ωn(E) に置き換える必要がある。これは分散関係が球対称でなかったり単調増加しなかったりする場合は容易ではなく、ほとんどの場合において DOS は数値的に計算される。より詳細な導出もある。 粒子の運動エネルギーは波数ベクトル k の大きさと向きに依存する。たとえばフェルミ気体中の電子の運動エネルギーは以下のように得られる。 ここで m は電子質量である。この分散関係は球対称かつ単調増加であるから、DOS を容易に計算することができる。 原子鎖の縦モードフォノンの分散関係は、図2に示すような 1 次元 k 空間上の運動エネルギーについての関数となり、数式で表わすと以下のようになる。 ここで ω 0 = k F / m {\displaystyle \omega _{0}={\sqrt {k_{F}/m}}} は振動子周波数、m は原子の質量、kF は原子間に働く力の力定数、a は原子間距離である。力定数が小さく、k ≪ π / a が満たされるような値である場合は分散関係は線形となる。 k ≈ π / a の場合は以下のようになる。 変数変換 q = k − π/a を施して q が小さくなるとき、分散関係は以下のように書ける。 ここで言及した二つの例は次のように書ける。 この種の分散関係はエネルギーが波数ベクトルの長さのみに依存し、向きに依存しないため等方的な分散関係といえる。このとき逆に、波数ベクトルの大きさはエネルギーを用いて以下のように書ける。 また、k よりも小さい波数ベクトルを含む n 次元 k 空間上の体積は次のように書ける。 したがって、等方的分散関係から、被占有状態の体積は以下のように書ける。 この体積をエネルギーで微分すれば等方的分散関係に対する DOS を得ることができる。 フェルミ気体中の自由電子などのように分散関係が放物線を描く (p = 2) 場合、n 次元系における状態密度 D n ( E ) {\displaystyle D_{n}\left(E\right)} は以下のようになる。 ここで E > E 0 {\displaystyle E>E_{0}} とし、 D ( E ) = 0 {\displaystyle D(E)=0} と E < E 0 {\displaystyle E<E_{0}} の場合はする。 1 次元系では DOS は E が E0 に落ちる際に発散する。2 次元系では E に依存しなくなる。3 次元系では状態密度はエネルギーの平方根に比例して増加する。 係数部分を全て書き下すと、3 次元系における DOS は以下のように書ける。 ここで V は総体積であり、N(E−E0) には2重のスピン縮退を含む。 光子や音響フォノン、特定の固体中の電子バンドのように分散関係が線形 (p = 1) のとき、1、2、3 次元系におけるエネルギーに対する DOS はそれぞれ以下のようになる。 状態密度は固体中の運動エネルギー理論において重要な役割を果たす。状態密度と確率密度分布との積は熱平衡状態にある系について、あるエネルギーにおける単位体積あたりの被占有状態数を与える。この値は物質の様々な物性を調べる際に広く用いられている。ここで、確率密度分布と状態密度からどのように物性を得るかの例をいくつか挙げる。 フェルミ・ディラック統計: 図4に示すフェルミ・ディラック分布は、熱平衡状態においてフェルミオンが特定の量子状態を占有する確率を与える。フェルミオンはパウリの排他律に従う粒子であり、例えば電子、陽子、中性子などが挙げられる。この分布関数は次のように書ける。 μ は化学ポテンシャル(T = 0 の場合フェルミ準位と呼び EF と書く)、kB はボルツマン定数、T は温度である。図4に示す、フェルミ・ディラック分布関数と3次元半導体の状態密度の積がキャリア密度やエネルギーバンドギャップなどの物性についての知識を得るために用いられる。 ボース・アインシュタイン統計: ボース・アインシュタイン分布関数は熱平衡にある系においてボソンがある量子状態を占有する確率を表わす。ボソンはパウリの排他律に従わない粒子で、例えばフォノンや光子が挙げられる。この分布関数は以下のように書ける。 これら二つの分布関数から、内部エネルギー U、粒子数 n、比熱容量 C、熱伝導率 k を計算することができる。 これらの物性値と、密度関数と分布関数との関係式は、状態密度を D(E) ではなく g(E) と書くと、以下のようになる。 d は次元数、ν は音速、Λ は平均自由行程である。 状態密度は物理学の多くの分野で登場し、量子力学的現象の説明の助けとなる。 微視的構造に対して状態密度を計算すると、次元が減るにつれて電子の分布が変化することがわかる。特定のエネルギー領域において量子ワイヤー(英語版)の DOS は、バルク半導体の DOS に比べて実際に高くなり、量子ドットの DOS は特定のエネルギーに量子化される。 光の波長スケールの繰り返し構造を用いると光子の状態密度を操作することができる。構造によっては特定の色(エネルギー)の光を完全に禁止し、DOS がゼロとなるエネルギー領域、フォトニックバンドギャップを作り出すことができる。また、別種の構造ではある方向にのみ光の伝搬を抑制し、鏡、導波管、発振器を構成することもできる。このような繰り返し構造をフォトニック結晶と呼ぶ。ナノ構造を施した媒質では状態密度よりも場所ごとに異なる局所状態密度 (LDOS) の考え方のほうがより適している。 化合物や生体分子、高分子など、興味の対象となる系は一般的に複雑である。これらの系は解析的に状態密度を計算するには複雑すぎ、ほとんどの場合それは不可能である。高精度の状態密度をコンピュータシミュレーションにより計算するアルゴリズムがいくつか知られている。その一つとしてワン・ランダウのアルゴリズムが挙げられる。 ワン・ランダウ法の枠組みの中では、状態密度に関する事前知識は一切必要がない。まず系のコスト関数(たとえばエネルギー)を離散化し、階級 i に到達するごとに状態密度のヒストグラム g(i) を次のように更新する。 ここで f は修正因子である。この階級に特定の回数 (10–15) だけ到達するごとに修正因子は何らかの基準により減少させる。例えば以下のように処理する。 ここで n は更新が n 回目であることを示す。特定の閾値に修正因子が到達したとき、たとえば fn < 10 となったときにシミュレーションを終了する。 ワン・ランダウ法はマルチカノニカル法やレプリカ交換法などに比べていくつかの利点を持っている。たとえば、状態密度がシミュレーションの主目的として算出される。また、ワン・ランダウ法は完全に温度非依存である。この性質により、タンパク質のような非常にでこぼこしたエネルギー地形を持つ系に対しても状態密度を計算することができる。 数学的には、状態密度は被覆写像を用いて形式化することができる。
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"例えば単結晶からなる系などの非等方な系においては、状態密度がある結晶学的方位と別の方位とでは異るので、角度に依存する計算および計測が必要となる。非等方な問題は計算が難しくなり、また非等方な状態密度は可視化するのも難しくなる。そのため、ある特定の点のみを計算したり、射影状態密度 (projected density of states, PDOS) を計算したりといった手法がよく用いられる。", "title": "対称性と状態密度" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "粉末試料や多結晶試料に対する測定には、系の分散関係の定義域(一つのブリュアンゾーンとすることが多い)全体にわたる積分が必要となる。系の対称性が高い場合、系の分散関係を表わす関数の形は分散関係の定義域全体にわたって何度も繰り返し表われる。このような場合、DOS の計算は還元ゾーンのみについての計算に帰着し、相当に省力化できる。面心立方格子のブリュアンゾーンは点群 Oh の、完全八面体対称性(英語版)をもつ48重対称性を持つ。よって、ブリュアンゾーン全体にわたる積分をその48分の1の部分領域にわたる積分に帰着することができる。結晶構造の周期表(英語版)に示される通り、面心立方格子をとる元素はダイヤモンド、シリコン、白金など多く、これらのブリュアンゾーンおよび分散関係は48重対称性を持つ。", "title": "対称性と状態密度" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "良く知られている結晶構造として、体心立方格子と六方最密充填格子の二つが挙げられる。体心立方格子は点群 Th の24重黄鉄鉱型対称性(英語版)を持つ。六方最密充填格子は点群 D3h の12重プリズム二面体対称性(英語版)を持つ。点群の対称性の特性の網羅的リストについては、点群指標表(英語版)を参照のこと。", "title": "対称性と状態密度" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一般に、対称性が高く位相的次元の低い系ほど DOS 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"これを一次元、二次元、三次元の場合に明示的に書き下すと次のようになる。", "title": "波数空間の位相幾何" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一つの状態は波長 λJ の粒子を含むことができる程度に大きい。波長と波数 k との間の関係式は以下のようになる。", "title": "波数空間の位相幾何" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "長さ λ の量子系は粒子を閉じ込める系の大きさ L に依存する。最後に、状態密度 N に係数 s/Vk をかける。ここで、s はスピンや偏極などの物理現象に起因する内部自由度である。このような物理現象が無い場合は s=1 となる。Vk は波数空間上の、ある k よりも小さい波数ベクトルを全て含む体積である。", "title": "波数空間の位相幾何" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "DOS の計算の最後として、あるエネルギー E {\\displaystyle E} に対して 定まる区間 [E, E+dE] に含まれる体積あたりの状態数を計算する。一般的な系の DOS は次のような形式となる。", "title": "波数空間の位相幾何" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ここまでの式は、分散関係が単調増加する球対称な系に対してのみ成り立つ。 一般に、分散関係 E(k) は球対称ではなく、単調増加でもないことが多い。D を E の関数として分散関係 E(k) の逆関数を用いてここまでの式中に現われていた k の関数 Ωn(k) をエネルギーの関数 Ωn(E) に置き換える必要がある。これは分散関係が球対称でなかったり単調増加しなかったりする場合は容易ではなく、ほとんどの場合において DOS は数値的に計算される。より詳細な導出もある。", "title": "波数空間の位相幾何" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "粒子の運動エネルギーは波数ベクトル k の大きさと向きに依存する。たとえばフェルミ気体中の電子の運動エネルギーは以下のように得られる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここで m は電子質量である。この分散関係は球対称かつ単調増加であるから、DOS を容易に計算することができる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "原子鎖の縦モードフォノンの分散関係は、図2に示すような 1 次元 k 空間上の運動エネルギーについての関数となり、数式で表わすと以下のようになる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ここで ω 0 = k F / m {\\displaystyle \\omega _{0}={\\sqrt {k_{F}/m}}} は振動子周波数、m は原子の質量、kF は原子間に働く力の力定数、a は原子間距離である。力定数が小さく、k ≪ π / a が満たされるような値である場合は分散関係は線形となる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "k ≈ π / a の場合は以下のようになる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "変数変換 q = k − π/a を施して q が小さくなるとき、分散関係は以下のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ここで言及した二つの例は次のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この種の分散関係はエネルギーが波数ベクトルの長さのみに依存し、向きに依存しないため等方的な分散関係といえる。このとき逆に、波数ベクトルの大きさはエネルギーを用いて以下のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、k よりも小さい波数ベクトルを含む n 次元 k 空間上の体積は次のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "したがって、等方的分散関係から、被占有状態の体積は以下のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この体積をエネルギーで微分すれば等方的分散関係に対する DOS を得ることができる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "フェルミ気体中の自由電子などのように分散関係が放物線を描く (p = 2) 場合、n 次元系における状態密度 D n ( E ) {\\displaystyle D_{n}\\left(E\\right)} は以下のようになる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ここで E > E 0 {\\displaystyle E>E_{0}} とし、 D ( E ) = 0 {\\displaystyle D(E)=0} と E < E 0 {\\displaystyle E<E_{0}} の場合はする。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1 次元系では DOS は E が E0 に落ちる際に発散する。2 次元系では E に依存しなくなる。3 次元系では状態密度はエネルギーの平方根に比例して増加する。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "係数部分を全て書き下すと、3 次元系における DOS は以下のように書ける。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ここで V は総体積であり、N(E−E0) には2重のスピン縮退を含む。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "光子や音響フォノン、特定の固体中の電子バンドのように分散関係が線形 (p = 1) のとき、1、2、3 次元系におけるエネルギーに対する DOS はそれぞれ以下のようになる。", "title": "分散関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "状態密度は固体中の運動エネルギー理論において重要な役割を果たす。状態密度と確率密度分布との積は熱平衡状態にある系について、あるエネルギーにおける単位体積あたりの被占有状態数を与える。この値は物質の様々な物性を調べる際に広く用いられている。ここで、確率密度分布と状態密度からどのように物性を得るかの例をいくつか挙げる。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フェルミ・ディラック統計: 図4に示すフェルミ・ディラック分布は、熱平衡状態においてフェルミオンが特定の量子状態を占有する確率を与える。フェルミオンはパウリの排他律に従う粒子であり、例えば電子、陽子、中性子などが挙げられる。この分布関数は次のように書ける。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "μ は化学ポテンシャル(T = 0 の場合フェルミ準位と呼び EF と書く)、kB はボルツマン定数、T は温度である。図4に示す、フェルミ・ディラック分布関数と3次元半導体の状態密度の積がキャリア密度やエネルギーバンドギャップなどの物性についての知識を得るために用いられる。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ボース・アインシュタイン統計: ボース・アインシュタイン分布関数は熱平衡にある系においてボソンがある量子状態を占有する確率を表わす。ボソンはパウリの排他律に従わない粒子で、例えばフォノンや光子が挙げられる。この分布関数は以下のように書ける。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これら二つの分布関数から、内部エネルギー U、粒子数 n、比熱容量 C、熱伝導率 k を計算することができる。 これらの物性値と、密度関数と分布関数との関係式は、状態密度を D(E) ではなく g(E) と書くと、以下のようになる。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "d は次元数、ν は音速、Λ は平均自由行程である。", "title": "状態密度と分布関数" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "状態密度は物理学の多くの分野で登場し、量子力学的現象の説明の助けとなる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "微視的構造に対して状態密度を計算すると、次元が減るにつれて電子の分布が変化することがわかる。特定のエネルギー領域において量子ワイヤー(英語版)の DOS は、バルク半導体の DOS に比べて実際に高くなり、量子ドットの DOS は特定のエネルギーに量子化される。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "光の波長スケールの繰り返し構造を用いると光子の状態密度を操作することができる。構造によっては特定の色(エネルギー)の光を完全に禁止し、DOS がゼロとなるエネルギー領域、フォトニックバンドギャップを作り出すことができる。また、別種の構造ではある方向にのみ光の伝搬を抑制し、鏡、導波管、発振器を構成することもできる。このような繰り返し構造をフォトニック結晶と呼ぶ。ナノ構造を施した媒質では状態密度よりも場所ごとに異なる局所状態密度 (LDOS) の考え方のほうがより適している。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "化合物や生体分子、高分子など、興味の対象となる系は一般的に複雑である。これらの系は解析的に状態密度を計算するには複雑すぎ、ほとんどの場合それは不可能である。高精度の状態密度をコンピュータシミュレーションにより計算するアルゴリズムがいくつか知られている。その一つとしてワン・ランダウのアルゴリズムが挙げられる。", "title": "状態密度の計算" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ワン・ランダウ法の枠組みの中では、状態密度に関する事前知識は一切必要がない。まず系のコスト関数(たとえばエネルギー)を離散化し、階級 i に到達するごとに状態密度のヒストグラム g(i) を次のように更新する。", "title": "状態密度の計算" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ここで f は修正因子である。この階級に特定の回数 (10–15) だけ到達するごとに修正因子は何らかの基準により減少させる。例えば以下のように処理する。", "title": "状態密度の計算" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ここで n は更新が n 回目であることを示す。特定の閾値に修正因子が到達したとき、たとえば fn < 10 となったときにシミュレーションを終了する。", "title": "状態密度の計算" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ワン・ランダウ法はマルチカノニカル法やレプリカ交換法などに比べていくつかの利点を持っている。たとえば、状態密度がシミュレーションの主目的として算出される。また、ワン・ランダウ法は完全に温度非依存である。この性質により、タンパク質のような非常にでこぼこしたエネルギー地形を持つ系に対しても状態密度を計算することができる。", "title": "状態密度の計算" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "数学的には、状態密度は被覆写像を用いて形式化することができる。", "title": "状態密度の計算" } ]
固体物理学および物性物理学において、系の状態密度とは、微小なエネルギー区間内に存在する、系の占有しうる状態数を各エネルギーごとに記述する物理量である。気相中の原子や分子のような孤立系とは異なり、密度分布はスペクトル密度のような離散分布ではなく連続分布となる。あるエネルギー準位において DOS が高いことは、そこに占有しうる状態が多いことを意味する。DOS がゼロとなることは、系がそのエネルギー準位を占有しえないことを意味する。一般的に DOS とは、空間的および時間的に平均されたものを言う。局所的な変動は局所状態密度 と呼ばれ区別される。
{{翻訳直後|[[:en:Special:Redirect/revision/767410454|en:Density of states (19:29, 25 February 2017 UTC)]]|date=2017年5月}} [[固体物理学]]および[[物性物理学]]において、系の'''状態密度'''(じょうたいみつど、{{Lang-en-short|density of states}}, '''DOS''')とは、微小なエネルギー区間内に存在する、系の占有しうる状態数を各エネルギーごとに記述する物理量である。[[気相]]中の[[原子]]や[[分子]]のような{{仮リンク|孤立系|en|Isolated_system}}とは異なり、[[確率密度関数|密度分布]]は[[スペクトル密度]]のような[[離散]]分布ではなく[[連続]]分布となる。あるエネルギー準位において DOS が高いことは、そこに占有しうる状態が多いことを意味する。DOS がゼロとなることは、系がそのエネルギー準位を占有しえないことを意味する。一般的に DOS とは、空間的および時間的に平均されたものを言う。局所的な変動は[[局所状態密度]] ({{Lang|en|local density of states}}, LDOS) と呼ばれ区別される。 == 概要 == 量子系において、波もしくは波動的粒子は系によって定まる波長と伝播方向をもつモードもしくは状態を占める。特定の状態のみが許容されることも多く、系によっては物質の原子間距離と原子核電荷により特定の波長の電子のみが存在を許容される場合もある。また、物質の結晶構造により波が一方向にのみ伝播を許容され、別の方向への伝播が抑制されるような系もある。したがって、特定の波長においては多くの状態が許容され、別のエネルギー準位には全く許容される状態が存在しないということがありうる。量子系により、[[電子]]や[[光子]]、[[フォノン]]の状態密度をエネルギーもしくは[[波数ベクトル]] {{mvar|k}} の関数として計算することができる。DOS を表わす記号としては、{{mvar|g, ρ, D, n, N}} などが用いられる。エネルギーの関数としての DOS と波数ベクトルの関数としての DOS の間の変換は、系ごとに決まる {{mvar|E}} と {{mvar|k}} との間の[[分散関係]]が分かっていれば行うことができる。 たとえば、半導体中の電子の状態密度は伝導帯端においては低く、電子の占有できる状態は少ない。電子のエネルギーが増えるにつれて状態密度も増加し、占有できる状態が増える。しかし、バンドギャップ中には電子の占有できる状態は存在しないため、伝導帯端の電子は別のモードへと遷移するために少くとも {{math|''E''<sub>g</sub>}} だけのエネルギーを失う必要がある。 一般的に、系の[[位相幾何学]]的性質が状態密度の主な性質を決定する。[[中性子星]]中の[[ニュートロニウム]]や[[金属]]中の自由電子ガス([[フェルミ縮退|縮退物質]]と[[フェルミ気体]]の例)のような最も良く知られた系では、3次元[[ユークリッド空間]]の位相構造を持つ。より知られていない系としては、[[グラファイト]]層中の[[二次元電子ガス]]や [[MOSFET]] 型素子中の[[量子ホール効果]]系は二次元ユークリッド空間の位相構造を持つ。さらに知られていないものとしては、[[カーボンナノチューブ]]や{{仮リンク|量子ワイヤ|en|Quantum_wire}}、[[朝永–ラッティンジャー液体|朝永・ラッティンジャー液体]]などは1次元位相幾何を持つ。1D および 2D 位相幾何を持つ系は、[[ナノテクノロジー]]と[[物質科学]]の進展につれてよりよく知られるようになると考えられる。 == 定義 == 系が状態 i をとるときの系のエネルギーが <math>\mathcal{E}_i</math> で与えられるとき、状態密度は :<math>D(E) =\sum_i \delta(E-\mathcal{E}_i)</math> で定義される。 系の状態が連続パラメータ {{Mvar|λ}} で指定される場合の定義は :<math>D(E) =\int \delta(E-\mathcal{E}(\lambda))\, \mu(\lambda)\, \mathrm d^f\lambda</math> である。ここで {{Mvar|μ}} はパラメータ {{Mvar|λ}} の張る状態空間の体積を与える[[測度]]である。 古典系の状態は正準変数の組 {{Math|(''p'', ''q'')}} で指定され、系のエネルギーは[[ハミルトン関数]]で与えられる。正準変数の張る[[位相空間 (物理学)|位相空間]]の体積は、一対の {{Math|d''p''d''q''}} ごとに[[プランク定数]] {{Mvar|h}} で割る約束で、自由度が {{Math|2''f''}} での状態密度は :<math>D(E) =\frac{1}{h^f} \int \delta(E-\mathcal{H}(p,q))\, \mathrm d^fp\, \mathrm d^fq</math> となる。 状態密度をエネルギー {{Mvar|E}} まで積分すれば :<math>N(E) =\int^E_{-\infty} D(E')\, \mathrm dE' =\sum_i \int^E_{-\infty} \delta(E'-\mathcal{E}_i)\, \mathrm dE'</math> として、系のエネルギーが <math>\mathcal{E}_i < E</math> である[[状態数|状態の数]]を与える。状態数が微分可能である場合には、状態密度は :<math>D(E) =\frac{\mathrm dN}{\mathrm dE}</math> で与えられる。エネルギーが E である状態の[[縮退度]]は :<math> g(E) = \lim _{\Delta E\to 0} \int^E_{E-\Delta E} D(E')\, \mathrm dE' = \lim _{\Delta E\to 0} D(E)\, \Delta E</math> で与えられる。ここで最後の等式は、積分の[[平均値の定理]]が妥当なときのみ成り立つ。 == 対称性と状態密度 == [[ファイル:Brillouin_Zone_(1st,_FCC).svg|サムネイル|260x260ピクセル|[[面心立方格子]]における第一[[ブリルアンゾーン|ブリュアンゾーン]]。[[切頂八面体]]となっている。高対称性線および点に対称性ラベルを付記してある。]] DOS 計算の行える系は多種多様である。凝縮系において重要な性質は系の[[結晶構造|微視的構造]]のもつ[[対称性]]である。 [[流体]]、[[ガラス]]、[[アモルファス]]固体は回転対称性のある分散関係を持つ。球対称な系では、たとえば関数の積分などは一次元となる。なぜなら、計算が分散関係の動径パラメータにのみ依存するからである。 例えば[[単結晶]]からなる系などの[[等方的と異方的|非等方]]な系においては、状態密度がある結晶学的方位と別の方位とでは異るので、角度に依存する計算および計測が必要となる。非等方な問題は計算が難しくなり、また非等方な状態密度は可視化するのも難しくなる。そのため、ある特定の点のみを計算したり、射影状態密度 ({{Lang|en|projected density of states}}, PDOS) を計算したりといった手法がよく用いられる。 [[ファイル:Dual_Cube-Octahedron.svg|左|サムネイル|151x151ピクセル|八面体]] 粉末試料や多結晶試料に対する測定には、系の分散関係の定義域(一つの[[ブリュアンゾーン]]とすることが多い)全体にわたる積分が必要となる。系の対称性が高い場合、系の分散関係を表わす関数の形は分散関係の定義域全体にわたって何度も繰り返し表われる。このような場合、DOS の計算は還元ゾーンのみについての計算に帰着し、相当に省力化できる<ref name="Harrison">{{cite book|author=Walter Ashley Harrison|title=Electronic Structure and the Properties of Solids|url=https://books.google.com/books?id=R2VqQgAACAAJ|year=1989|publisher=Dover Publications|isbn=0-486-66021-4}}</ref>。面心立方格子のブリュアンゾーンは[[点群]] ''O<sub>h</sub>'' の、完全{{仮リンク|八面体対称性|en|Octahedral_symmetry}}をもつ48重対称性を持つ。よって、ブリュアンゾーン全体にわたる積分をその48分の1の部分領域にわたる積分に帰着することができる。{{仮リンク|結晶構造の周期表|en|Periodic_table_(crystal_structure)}}に示される通り、面心立方格子をとる元素は[[ダイヤモンド]]、[[ケイ素|シリコン]]、[[白金]]など多く、これらのブリュアンゾーンおよび分散関係は48重対称性を持つ。 [[ファイル:Rhombicdodecahedron.gif|サムネイル|256x256ピクセル|[[立方晶系|体心立方格子]]の第一ブリュアンゾーン。 [[菱形十二面体]]となる。]] 良く知られている結晶構造として、体心立方格子と六方最密充填格子の二つが挙げられる。体心立方格子は点群 ''T<sub>h</sub>'' の24重{{仮リンク|label=黄鉄鉱型対称性|四面体対称性|en|Tetrahedral_symmetry}}を持つ。六方最密充填格子は点群 ''D<sub>3h</sub>'' の12重{{仮リンク|label=プリズム二面体対称性|二面体対称性|en|Dihedral_symmetry_in_three_dimensions}}を持つ。点群の対称性の特性の網羅的リストについては、{{仮リンク|点群指標表|en|List_of_character_tables_for_chemically_important_3D_point_groups#Character_tables}}を参照のこと。 一般に、対称性が高く位相的次元の低い系ほど DOS の計算は容易である。回転対称性のある分散関係の状態密度は解析的に計算可能であることが多い。鋼やシリコンなど、実用上の興味の対象となる物質は高い対称性を持っていることが多いので、このことは幸運である。 == 波数空間の位相幾何 == [[ファイル:K-space.JPG|右|サムネイル|250x250ピクセル|図1: 三次元自由度を持つ電子の波数空間における球面]] 状態密度は対象の次元に依存する。次元の果たす役割は、DOS の単位 (Energy<sup>−1</sup>Volume<sup>−1</sup>) からも明らかである。系が二次元的になる極限において体積は面積となり、一次元的となる極限においては長さとなる。ここでいう体積とは波数空間上の、分散関係から導かれる{{仮リンク|等エネルギー面|en|Constant_energy_surface}}で囲われる領域の体積であることに注意が必要である。固体中の電子の分散関係は[[バンド構造]]を成している。三次元的波数空間の例を図1に示す。系の次元そのものが系内の粒子の運動量を規定することが見てとれる。 === 波数ベクトル状態密度(球) === DOS を計算するにはまずある {{mvar|k}} に対して波数空間上の領域 {{math|[''k'', ''k''+d''k'']}} 内に含まれる状態数 {{Mvar|N}} を数える必要がある。これは、ある {{Mvar|k}} に対する {{Mvar|n}} 次元波数空間全体の体積 {{Math|&Omega;<sub>''n'', ''k''</sub>}} を {{Mvar|k}} で微分することで得られる。三次元、二次元、一次元波数空間の体積、面積、長さは次のように表わされる。 : <math>\Omega_n(k) = c_n k^n</math> ここで、 {{Math|''c''<sub>''n''</sub>}} は波数空間の次元 {{Mvar|n}} に依存して位相幾何学的に定まる定数で、一次元、二次元、三次元ユークリッド波数空間に対してはそれぞれ以下のように定まる。 : <math>c_1 = 2,\quad c_2 = \pi,\quad c_3 = \frac{4 \pi}{3}</math> この式によれば、波数ベクトル状態密度 {{Mvar|N}} は {{Math|&Omega;<sub>''n'', ''k''</sub>}} を {{Mvar|k}} で微分することにより次のように得られる。 : <math>N_n(k) = \frac{\mathrm d\Omega_n(k)}{\mathrm dk} = n\, c_n\, k^{(n - 1)} </math> これを一次元、二次元、三次元の場合に明示的に書き下すと次のようになる。 : <math>N_1(k) = 2</math> : <math> N_2(k) = 2 \pi k </math> : <math> N_3(k) = 4 \pi k^2 </math> 一つの状態は波長 {{Mvar|λ}}J の粒子を含むことができる程度に大きい。波長と波数 {{Mvar|k}} との間の関係式は以下のようになる。 : <math>k = \frac{2\pi}{\lambda}</math> 長さ {{Mvar|λ}} の量子系は粒子を閉じ込める系の大きさ {{Mvar|L}} に依存する。最後に、状態密度 {{Mvar|N}} に係数 {{Math|''s''/''V''<sub>''k''</sub>}} をかける。ここで、{{Mvar|s}} はスピンや偏極などの物理現象に起因する内部自由度である。このような物理現象が無い場合は {{Math|1=''s''=1}} となる。{{Math|''V''<sub>''k''</sub>}} は波数空間上の、ある {{mvar|k}} よりも小さい波数ベクトルを全て含む体積である。 === エネルギー状態密度 === DOS の計算の最後として、あるエネルギー <math>E</math> に対して 定まる区間 {{Math|[''E'', ''E''+d''E'']}} に含まれる体積あたりの状態数を計算する。一般的な系の DOS は次のような形式となる。 : <math>D_n\left(E\right) = \frac{\mathrm d\Omega_n(E)}{\mathrm dE}</math> ここまでの式は、分散関係が[[単調増加]]する球対称な系に対してのみ成り立つ。 一般に、分散関係 {{Math|''E''(''k'')}} は球対称ではなく、単調増加でもないことが多い。{{Mvar|D}} を {{Mvar|E}} の関数として分散関係 {{Math|''E''(''k'')}} の[[逆関数]]を用いてここまでの式中に現われていた {{Mvar|k}} の関数 {{Math|&Omega;<sub>''n''</sub>(''k'')}} をエネルギーの関数 {{Math|&Omega;<sub>''n''</sub>(''E'')}} に置き換える必要がある。これは分散関係が球対称でなかったり単調増加しなかったりする場合は容易ではなく、ほとんどの場合において DOS は数値的に計算される。より詳細な導出もある<ref>[http://britneyspears.ac/physics/dos/dos.htm Sample density of states calculation]</ref><ref>[http://ece-www.colorado.edu/~bart/book/book/chapter2/ch2_4.htm Another density of states calculation]</ref>。 == 分散関係 == 粒子の[[運動エネルギー]]は波数ベクトル {{Mvar|k}} の大きさと向きに依存する。たとえば[[フェルミ気体]]中の[[電子]]の運動エネルギーは以下のように得られる。 : <math>E = E_0 + \frac{(\hbar k)^2}{2m}</math> ここで {{Mvar|m}} は電子質量である。この分散関係は球対称かつ単調増加であるから、DOS を容易に計算することができる。 [[ファイル:Monoatomic_chain_phonon_dispersion.svg|右|サムネイル|300x300ピクセル|図2:単原子鎖フォノンの分散関係]] 原子鎖の縦モード[[フォノン]]の分散関係は、図2に示すような 1 次元 {{Mvar|k}} 空間上の運動エネルギーについての関数となり、数式で表わすと以下のようになる。 : <math>E = 2 \hbar \omega_0 |\sin(ka/2)| </math> ここで <math>\omega_0 = \sqrt{k_F / m}</math> は振動子周波数、{{Mvar|m}} は原子の質量、{{Math|''k''<sub>F</sub>}} は原子間に働く力の力定数、{{Mvar|a}} は原子間距離である。力定数が小さく、{{Math|''k'' ≪ ''&pi;'' / ''a''}} が満たされるような値である場合は分散関係は線形となる。 : <math>E = \hbar \omega_0 ka </math> {{Math|''k'' &asymp; ''&pi;'' / ''a''}} の場合は以下のようになる。 : <math>E = 2 \hbar \omega_0 |\cos(\pi/2 - ka/2)| </math> 変数変換 {{Math|1=''q'' = ''k'' &minus; ''&pi;''/''a''}} を施して {{Mvar|q}} が小さくなるとき、分散関係は以下のように書ける。 : <math>E = 2 \hbar \omega_0 [1 - (qa/2)^2] </math> === 等方的分散関係 === ここで言及した二つの例は次のように書ける。 : <math>E = E_0 + c_k k^p </math> この種の[[分散関係]]はエネルギーが波数ベクトルの長さのみに依存し、向きに依存しないため[[等方性媒質|等方]]的な分散関係といえる。このとき逆に、波数ベクトルの大きさはエネルギーを用いて以下のように書ける。 : <math> k = \left(\frac{E-E_0}{c_k}\right)^{1/p} </math> また、{{Mvar|k}} よりも小さい波数ベクトルを含む {{Mvar|n}} 次元 {{Mvar|k}} 空間上の体積は次のように書ける。 : <math>\Omega_n(k) = c_n k^n</math> したがって、等方的分散関係から、被占有状態の体積は以下のように書ける。 : <math>\Omega_n(E) = \frac{c_n}{c_k^{n/p}}\left(E-E_0\right)^{n/p}\ ,</math> この体積をエネルギーで微分すれば等方的分散関係に対する DOS を得ることができる。 : <math>D_n\left(E\right) = \frac {\mathrm d}{\mathrm dE}\Omega_n(E) = \frac{n c_n}{p c_k^{n/p}}\left(E-E_0\right)^{(n/p - 1)} </math> === 放物線分散関係 === [[ファイル:Free-electron_DOS.svg|右|サムネイル|300x300ピクセル|Figure 3: Free-electron DOS in 3-dimensional k-space]] フェルミ気体中の自由電子などのように分散関係が放物線を描く ({{Math|1=''p'' = 2}}) 場合、{{Mvar|n}} 次元系における状態密度 <math>D_n\left(E\right)</math> は以下のようになる。 : <math>D_1\left(E\right) = \frac {1}{ \sqrt{c_k(E-E_0)}}</math> : <math>D_2\left(E\right) = \frac {\pi}{c_k}</math> : <math>D_3\left(E\right) = 2 \pi \sqrt{\frac{E-E_0}{c_k^3}} </math> ここで <math>E > E_0</math> とし、<math>D(E) = 0</math> と <math>E < E_0</math> の場合はする。 1 次元系では DOS は {{Mvar|E}} が {{Math|''E''<sub>0</sub>}} に落ちる際に発散する。2 次元系では {{Mvar|E}} に依存しなくなる。3 次元系では状態密度はエネルギーの平方根に比例して増加する<ref name="Kittel">{{cite book|author=Charles Kittel|title=Introduction to Solid State Physics|edition=7th|year=1996|publisher=Wiley|page=Equation (37), p. 216|nopp=true|isbn=0-471-11181-3}}</ref>。 係数部分を全て書き下すと、3 次元系における DOS は以下のように書ける。 : <math>N(E) = \frac {V}{2\pi^2} \left(\frac {2m}{\hbar^2}\right)^{3/2}\sqrt{E-E_0}</math> ここで {{Mvar|V}} は総体積であり、{{Math|''N''(''E''&minus;''E''<sub>0</sub>)}} には2重のスピン縮退を含む。 === 線形分散関係 === [[フォノン|光子]]や[[フォノン|音響フォノン]]、特定の固体中の電子バンドのように分散関係が線形 ({{Math|1=''p'' = 1}}) のとき、1、2、3 次元系におけるエネルギーに対する DOS はそれぞれ以下のようになる。 : <math>D_1\left(E\right) = \frac{1}{c_k} </math> : <math>D_2\left(E\right) = \frac{2 \pi}{c_k^2}\left(E-E_0\right) </math> : <math>D_3\left(E\right) = \frac{4 \pi}{c_k^3}\left(E-E_0\right)^2 </math> == 状態密度と分布関数 == 状態密度は[[フォノン|固体中の運動エネルギー理論]]において重要な役割を果たす。状態密度と[[確率密度関数|確率密度分布]]との積は熱平衡状態にある系について、あるエネルギーにおける単位体積あたりの被占有状態数を与える。この値は物質の様々な物性を調べる際に広く用いられている。ここで、確率密度分布と状態密度からどのように物性を得るかの例をいくつか挙げる。 [[ファイル:Fermi-Dirac_product_with_Density_of_States.svg|サムネイル|320x320ピクセル|図4: ある半導体におけるフェルミ・ディラック分布(青色)、状態密度(橙色)、それらの積(緑色)。緑の線のふくらみのうち下の方は[[正孔]]のエネルギーであるから、確率分布関数としては {{Math|1 &minus; ''f''(''x'')}} を用いてある。]] [[フェルミ分布関数|フェルミ・ディラック統計]]: 図4に示すフェルミ・ディラック分布は、熱平衡状態においてフェルミオンが特定の量子状態を占有する確率を与える。[[フェルミ粒子|フェルミオン]]は[[パウリの排他原理|パウリの排他律]]に従う粒子であり、例えば電子、陽子、中性子などが挙げられる。この分布関数は次のように書ける。 : <math>f_{\mathrm{FD}}(E) = \frac{1}{\exp\left(\frac{E-\mu}{k_\mathrm{B} T}\right)+1}</math> {{Mvar|&mu;}} は[[化学ポテンシャル]]({{Math|1=''T'' = 0}} の場合[[フェルミ準位]]と呼び {{Math|''E''<sub>F</sub>}}  と書く)、{{Math|''k''<sub>B</sub>}} は[[ボルツマン定数]]、{{Mvar|T}} は[[温度]]である。図4に示す、フェルミ・ディラック分布関数と3次元半導体の状態密度の積がキャリア密度やエネルギーバンドギャップなどの物性についての知識を得るために用いられる。 [[ボース分布関数|ボース・アインシュタイン統計]]: ボース・アインシュタイン分布関数は熱平衡にある系においてボソンがある量子状態を占有する確率を表わす。[[ボース粒子|ボソン]]はパウリの排他律に従わない粒子で、例えばフォノンや光子が挙げられる。この分布関数は以下のように書ける。 : <math>f_{\mathrm{BE}}(E) = \frac{1}{\exp\left(\frac{E-\mu}{k_BT}\right)-1}</math> これら二つの分布関数から、[[内部エネルギー]] {{Mvar|U}}、粒子数 {{Mvar|n}}、[[熱容量|比熱容量]] {{Mvar|C}}、[[熱伝導率]] {{Mvar|k}} を計算することができる。 これらの物性値と、密度関数と分布関数との関係式は、状態密度を {{Math|''D''(''E'')}} ではなく {{Math|''g''(''E'')}} と書くと、以下のようになる。 : <math>U = \int E\, f(E)\, g(E)\,\mathrm dE</math> : <math>n = \int f(E)\, g(E)\,\mathrm dE</math> : <math>C = \frac{\partial}{\partial T}\int E\, f(E)\, g(E) \,\mathrm dE</math> : <math>k = \frac{1}{d}\frac{\partial}{\partial T}\int E f(E)\, g(E)\, \nu(E)\, \Lambda(E)\,\mathrm dE</math> {{Mvar|d}} は次元数、{{Mvar|&nu;}} は音速、{{Math|&Lambda;}} は[[平均自由行程]]である。 == 応用 == 状態密度は物理学の多くの分野で登場し、量子力学的現象の説明の助けとなる。 === 量子化 === 微視的構造に対して状態密度を計算すると、次元が減るにつれて電子の分布が変化することがわかる。特定のエネルギー領域において{{仮リンク|量子ワイヤー|en|Quantum_wires}}の DOS は、バルク半導体の DOS に比べて実際に高くなり、[[量子ドット]]の DOS は特定のエネルギーに量子化される。 === フォトニック結晶 === 光の波長スケールの繰り返し構造を用いると光子の状態密度を操作することができる。構造によっては特定の色(エネルギー)の光を完全に禁止し、DOS がゼロとなるエネルギー領域、フォトニックバンドギャップを作り出すことができる。また、別種の構造ではある方向にのみ光の伝搬を抑制し、鏡、導波管、発振器を構成することもできる。このような繰り返し構造を[[フォトニック結晶]]と呼ぶ。ナノ構造を施した媒質では状態密度よりも場所ごとに異なる[[局所状態密度]] (LDOS) の考え方のほうがより適している。 == 状態密度の計算 == [[化合物]]や[[生体物質|生体分子]]、[[高分子]]など、興味の対象となる系は一般的に複雑である。これらの系は解析的に状態密度を計算するには複雑すぎ、ほとんどの場合それは不可能である。高精度の状態密度をコンピュータシミュレーションにより計算するアルゴリズムがいくつか知られている。その一つとして[[ワン・ランダウ法|ワン・ランダウのアルゴリズム]]が挙げられる<ref>{{cite journal|date=Mar 2001|title=Efficient, Multiple-Range Random Walk Algorithm to Calculate the Density of States|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=86|issue=10|pages=2050–2053|publisher=American Physical Society|arxiv=cond-mat/0011174|bibcode=2001PhRvL..86.2050W|author1=Wang, Fugao|author2=Landau, D. P.|pmid=11289852|doi=10.1103/PhysRevLett.86.2050}}</ref>。 ワン・ランダウ法の枠組みの中では、状態密度に関する事前知識は一切必要がない。まず系のコスト関数(たとえばエネルギー)を離散化し、階級 {{Mvar|i}} に到達するごとに状態密度の[[ヒストグラム]] {{Math|''g''(''i'')}} を次のように更新する。 : <math> g(i) \rightarrow g(i) + f </math> ここで {{Mvar|f}} は修正因子である。この階級に特定の回数 ({{Val|10|-|15}}) だけ到達するごとに修正因子は何らかの基準により減少させる。例えば以下のように処理する。 : <math> f_{n+1} \rightarrow (1/2)f_{n}</math> ここで {{Mvar|n}} は更新が {{Mvar|n}} 回目であることを示す。特定の閾値に修正因子が到達したとき、たとえば {{Math|''f''<sub>n</sub> < {{1e-|8}}}} となったときにシミュレーションを終了する。 ワン・ランダウ法は[[マルチカノニカル法]]や[[レプリカ交換法]]などに比べていくつかの利点を持っている。たとえば、状態密度がシミュレーションの主目的として算出される。また、ワン・ランダウ法は完全に温度非依存である。この性質により、[[タンパク質]]のような非常にでこぼこした[[エネルギー地形]]を持つ系に対しても状態密度を計算することができる<ref name="ojeda">{{cite journal|year=2010|title=Electric Field-Driven Disruption of a Native beta-Sheet Protein Conformation and Generation of a Helix-Structure|journal=Biophysical Journal|volume=99|issue=2|pages=595–599|bibcode=2010BpJ....99..595O|author1=Ojeda, P.|author2=Garcia, M.|doi=10.1016/j.bpj.2010.04.040|pmid=20643079|pmc=2905109}}</ref>。 数学的には、状態密度は[[被覆写像]]を用いて形式化することができる<ref>{{cite journal|author=Adachi T. and [[Toshikazu Sunada|Sunada. T]]|date=1993|title=Density of states in spectral geometry of states in spectral geometry|journal=Comment. Math. Helvetici|volume=68|pages=480–493}}</ref>。 == 関連項目 == {{Columns-list|colwidth=20em| * [[有効質量]] * [[バンド構造]] * [[:en:k·p perturbation theory|k·p perturbation theory]] * [[半導体]] * [[電気伝導体]] * [[価電子帯]] * [[クローニッヒ・ペニーのモデル]] * [[強結合近似]] * [[マフィンティンポテンシャル]] }} == 出典 == {{Reflist|2}} == 関連文献 == * Chen, Gang. Nanoscale Energy Transport and Conversion. New York: Oxford, 2005 * Streetman, Ben G. and Sanjay Banerjee. Solid State Electronic Devices. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall, 2000. * Muller, Richard S. and Theodore I. Kamins. Device Electronics for Integrated Circuits. New York: John Wiley and Sons, 2003. * Kittel, Charles and Herbert Kroemer. Thermal Physics. New York: W.H. Freeman and Company, 1980 * Sze, Simon M. Physics of Semiconductor Devices. New York: John Wiley and Sons, 1981 == 外部リンク == * [http://nanohub.org/resources/5784 Online lecture:ECE 606 Lecture 8: Density of States] by M. Alam * [https://web.archive.org/web/20121208070536/http://sapienzalab.org:80/scientists-shed-light-on-glowing-materials/ Scientists shed light on glowing materials] How to measure the Photonic LDOS {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようたいみつと}} [[Category:密度]] [[Category:固体物理学]] [[Category:量子力学]] [[Category:物理学の概念]] [[Category:物性物理学]] [[Category:バンド計算]] [[Category:統計力学]]
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単位胞
単位胞(たんいほう、英語: unit cell)とは、結晶中の空間格子の格子点がつくる繰り返し単位のことである。単位格子(たんいこうし、英語: unit lattice)とも言う。 格子点の位置に物質中の原子がある必要はない。物質中のどこか一点を代表させ、この点を平行移動させて、元の点と周りの環境が同一の点を格子点と呼ぶ。結晶構造では、格子点が周期的に存在している。つまり、3次元空間における格子点は R n = n 1 a + n 2 b + n 3 c {\displaystyle {\boldsymbol {R}}_{n}=n_{1}{\boldsymbol {a}}+n_{2}{\boldsymbol {b}}+n_{3}{\boldsymbol {c}}} で表される(n1, n2, n3 は整数)。単位胞の頂点から伸び、単位胞の3つの稜を成す3本のベクトル〈a, b, c〉は3次元空間における基本並進ベクトルである。基本並進ベクトルの成す角、α=∠bc, β=∠ca, γ=∠ab と a, b, c は単位胞の格子定数と呼ばれる。単位胞の平行六面体はこの格子定数で規定され、結晶構造は単位胞によって隙間なく重なりなく敷き詰められる。 単位胞の取り方は無数にある。繰り返し単位の内、面積が最小になる単位胞を基本単位胞(primitive unit cell)あるいは基本単位格子(primitive unit lattice)と呼び、それ以外を慣用単位胞と呼ぶ。慣用単位胞には体心格子、面心格子、底心格子が含まれる。 基本単位胞のうち、距離 a, b, c が最短になるように選択したものは既約単位胞と呼ばれ、その場合の α、β、γ はすべて鈍角かすべて鋭角となる。 ある空間格子が存在するとき、格子点に違いがなければ一つの空間格子に対して複数種類の単位胞を設定することが可能である。イオン結晶などの実際の結晶では、格子点に異なる原子・分子等が配置されるため単位胞の選択に対して対称性・並進性に関する制約が発生する。
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単位胞とは、結晶中の空間格子の格子点がつくる繰り返し単位のことである。単位格子とも言う。 格子点の位置に物質中の原子がある必要はない。物質中のどこか一点を代表させ、この点を平行移動させて、元の点と周りの環境が同一の点を格子点と呼ぶ。結晶構造では、格子点が周期的に存在している。つまり、3次元空間における格子点は R n = n 1 a + n 2 b + n 3 c で表される。単位胞の頂点から伸び、単位胞の3つの稜を成す3本のベクトル〈a, b, c〉は3次元空間における基本並進ベクトルである。基本並進ベクトルの成す角、α=∠bc, β=∠ca, γ=∠ab と a, b, c は単位胞の格子定数と呼ばれる。単位胞の平行六面体はこの格子定数で規定され、結晶構造は単位胞によって隙間なく重なりなく敷き詰められる。 単位胞の取り方は無数にある。繰り返し単位の内、面積が最小になる単位胞を基本単位胞あるいは基本単位格子と呼び、それ以外を慣用単位胞と呼ぶ。慣用単位胞には体心格子、面心格子、底心格子が含まれる。 基本単位胞のうち、距離 a, b, c が最短になるように選択したものは既約単位胞と呼ばれ、その場合の α、β、γ はすべて鈍角かすべて鋭角となる。 ある空間格子が存在するとき、格子点に違いがなければ一つの空間格子に対して複数種類の単位胞を設定することが可能である。イオン結晶などの実際の結晶では、格子点に異なる原子・分子等が配置されるため単位胞の選択に対して対称性・並進性に関する制約が発生する。
'''単位胞'''(たんいほう、{{lang-en|unit cell}})とは、[[結晶]]中の[[結晶構造|空間格子]]の格子点がつくる繰り返し単位のことである。'''単位格子'''(たんいこうし、{{Lang-en|unit lattice}})とも言う。 [[Image:Celda unitaria1.jpg|thumb|空間格子と単位胞<br />a, b, c, ''α'', ''β'', ''γ''は格子定数であり、これが格子点と単位胞の平行六面体を規定する。|257x257ピクセル]] 格子点の位置に物質中の原子がある必要はない。物質中のどこか一点を代表させ、この点を平行移動させて、元の点と周りの環境が同一の点を'''格子点'''と呼ぶ<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=初歩から学ぶ固体物理学 |date=2017年 |publisher=講談社 |pages=5-8 |author=矢口裕之 |isbn=9784061532946}}</ref>。結晶構造では、格子点が周期的に存在している。つまり、3次元空間における格子点は <math>\boldsymbol{R}_n=n_1\boldsymbol{a}+n_2\boldsymbol{b}+n_3\boldsymbol{c}</math> で表される({{Mvar|n<sub>1</sub>, n<sub>2</sub>, n<sub>3</sub>}} は整数)。単位胞の頂点から伸び、単位胞の3つの稜を成す3本の[[空間ベクトル|ベクトル]]〈'''{{Mvar|a, b, c}}'''〉は3次元空間における'''基本並進ベクトル'''である。基本並進ベクトルの成す角、{{Mvar|1=α=∠bc, β=∠ca, γ=∠ab}} と '''{{Mvar|a, b, c}}''' は単位胞の'''格子定数'''と呼ばれる。単位胞の平行六面体はこの格子定数で規定され、結晶構造は単位胞によって隙間なく重なりなく敷き詰められる。 単位胞の取り方は無数にある。繰り返し単位の内、面積が最小になる単位胞<ref name=":0" />を'''基本単位胞'''(primitive unit cell)あるいは'''基本単位格子'''(primitive unit lattice)と呼び、それ以外を'''慣用単位胞'''<ref group="注釈">複合格子、多重単位格子とも呼ばれる。</ref>と呼ぶ。慣用単位胞には[[体心格子]]、[[面心格子]]、[[底心格子]]が含まれる<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=岩波 理化学辞典 第5版 |date=1998年 |publisher=岩波書店 |page=808 |editor=長倉三郎、井口洋夫、江沢洋、岩村秀、佐藤文隆、久保亮五}}</ref>。 基本単位胞のうち、距離 ''a'', ''b'', ''c'' が最短になるように選択したものは'''既約単位胞'''と呼ばれ、その場合の ''α''、''β''、''γ'' はすべて鈍角かすべて鋭角となる<ref name=":1" />。 ある空間格子が存在するとき、格子点に違いがなければ一つの空間格子に対して複数種類の単位胞を設定することが可能である。イオン結晶などの実際の結晶では、格子点に異なる[[原子]]・[[分子]]等が配置されるため単位胞の選択に対して[[対称性]]・[[並進対称性|並進性]]に関する制約が発生する。 == 関連項目 == * [[結晶格子]] * [[物性物理学]] * [[スーパーセル法]] * [[第一原理バンド計算]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === <references /> == 参考文献 == * [[長倉三郎]]、[[井口洋夫]]、[[江沢洋]]、[[岩村秀]]、[[佐藤文隆]]、[[久保亮五]] 編『岩波 理化学辞典 第5版』「単位格子」岩波書店、1998年、808頁。 * [[定永両一]] 著、[[下中直人]] 編『世界大百科事典 8』「結晶」平凡社、1998年、642-646頁。 == 外部リンク == * {{Kotobank|単位格子}} {{DEFAULTSORT:たんいほう}} [[Category:結晶学]] [[Category:固体物理学]] [[en:Crystal structure#Unit cell]]
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断熱近似
断熱近似(だんねつきんじ、英: Adiabatic approximation, Born-Oppenheimer approximation)とは、原子核の動きに対し電子が即座に追随できるとした近似。カー・パリネロ法においては、この近似が成り立っていることが大前提である。現実の化学反応等では、断熱近似が成り立たない場合もある(非断熱遷移)。 扱う系において、原子の原子核と周りを回る電子全体のハミルトニアンをH とし、原子核部分をHnc 、電子部分をHel とすると、 であり、全体のハミルトニアンH に対する固有関数をΦとして、 とする。Ψは電子部分の固有関数、φは原子核部分の固有関数である。r は電子の位置座標、R は原子核の位置座標である。以上から、 となる。Eel は電子部分の固有値。ここで問題となるのは、上式右辺の第二項で、ハミルトニアン Hnc は、 であり(MI は原子核の質量、I は原子核を表す指標)、ポテンシャルU はΨ、φに対して可換であるが、第一項は演算子であり、またΨは R にも依るから、∇(Ψφ)の部分に着目すると、 が得られる。ここで、∇はナブラを参照。上式で右辺第二項が非断熱項の非対角部分、第三項が非断熱項の対角部分である(第一項は原子核に関しての断熱項)。非断熱項は1/MI のオーダー(MI :原子核の質量)であり、電子部分の1/m のオーダー(m :電子の質量←陽子のおよそ1800分の1の質量)の数千から数万分の一の寄与しかない。 ボルン-オッペンハイマー近似と断熱近似は厳密には違いがある。 しかし、非断熱項の対角部分の計算も現実には大変困難であり、実際に行われることはあまりない。また、ボルン‐オッペンハイマー近似と断熱近似が、ほぼ同義のものとして扱われることも多い。 非断熱項が関係するものとして、電子格子相互作用がある。関連する用語として、ボルン‐オッペンハイマーポテンシャル曲面、断熱ポテンシャル曲面(単に断熱ポテンシャル面とも言う)がある。
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断熱近似とは、原子核の動きに対し電子が即座に追随できるとした近似。カー・パリネロ法においては、この近似が成り立っていることが大前提である。現実の化学反応等では、断熱近似が成り立たない場合もある(非断熱遷移)。
'''断熱近似'''(だんねつきんじ、{{lang-en-short|Adiabatic approximation}}, {{lang|en|Born-Oppenheimer approximation}})とは、[[原子核]]の動きに対し[[電子]]が即座に追随できるとした近似。[[カー・パリネロ法]]においては、この近似が成り立っていることが大前提である。現実の[[化学反応]]等では、断熱近似が成り立たない場合もある([[非断熱遷移]])。 ==詳細== 扱う系において、原子の原子核と周りを回る電子全体の[[ハミルトニアン#量子力学|ハミルトニアン]]を''H'' とし、原子核部分を''H''<sub>nc</sub> 、電子部分を''H''<sub>el</sub> とすると、 :<math>\hat{H} = \hat{H}_{\mathrm{el}} + \hat{H}_{\mathrm{nc}}</math> であり、全体のハミルトニアン''H'' に対する[[固有関数]]を&Phi;として、 :<math>\Phi (\vec{r}_1,\dots,\vec{R}_1,\dots) = \Psi (\vec{r}_1,\dots,\vec{R}_1,\dots) \phi (\vec{R}_1,\dots) = \Psi \phi</math> とする。&Psi;は電子部分の固有関数、&phi;は原子核部分の固有関数である。'''''r''''' は電子の位置座標、'''''R''''' は原子核の位置座標である。以上から、 :<math>\begin{align} \hat{H}_{\mathrm{el}} {\Psi} &= E_{\mathrm{el}} {\Psi} \\ \hat{H} \Psi \phi &= (\hat{H}_{\mathrm{el}} + \hat{H}_{\mathrm{nc}}) \Psi \phi = \hat{H}_{\mathrm{el}} \Psi \phi + \hat{H}_{\mathrm{nc}} \Psi \phi = {E_{\mathrm{el}}} \Psi \phi + \hat{H}_{\mathrm{nc}} \Psi \phi \end{align}</math> :(ここで&phi;は '''''R''''' にしか依らないので、<math> \hat{H}_{\mathrm{el}} \phi = 0 </math>) となる。''E''<sub>el</sub> は電子部分の固有値。ここで問題となるのは、上式右辺の第二項で、ハミルトニアン ''H''<sub>nc</sub> は、 :<math> \hat{H}_{\mathrm{nc}} = - \sum_I \frac{\hbar^2}{2M_I} \nabla_I^2 + U(\vec{R}) </math> であり(''M<sub>I</sub>'' は原子核の質量、''I'' は原子核を表す指標)、ポテンシャル''U'' は&Psi;、&phi;に対して可換であるが、第一項は演算子であり、また&Psi;は '''''R''''' にも依るから、&nabla;<sup>2</sup>(&Psi;&phi;)の部分に着目すると、 :<math> \nabla_I^2 (\Psi \phi) = \Psi (\nabla_I^2 \phi) + 2 (\nabla_I \Psi)(\nabla_I \phi) + \phi (\nabla_I^2 \Psi) </math> が得られる。ここで、&nabla;は[[ナブラ]]を参照。上式で右辺第二項が非断熱項の非対角部分、第三項が非断熱項の対角部分である(第一項は原子核に関しての断熱項)。非断熱項は1/''M<sub>I</sub>'' のオーダー(''M<sub>I</sub>'' :原子核の質量)であり、電子部分の1/''m'' のオーダー(''m'' :電子の質量←[[陽子]]のおよそ1800分の1の質量)の数千から数万分の一の寄与しかない。 == ボルン-オッペンハイマー近似との関係 == '''[[ボルン-オッペンハイマー近似]]'''と断熱近似は厳密には違いがある。 * 非断熱項全てを無視する : ボルン‐オッペンハイマー近似<ref>M. Born and J. R. Oppenheimer, Ann. Phys. 84, (1927) 457.</ref> * 非断熱項の非対角部分のみを無視する : 断熱近似 しかし、非断熱項の対角部分の計算も現実には大変困難であり、実際に行われることはあまりない。また、ボルン‐オッペンハイマー近似と断熱近似が、ほぼ同義のものとして扱われることも多い。 非断熱項が関係するものとして、[[電子格子相互作用]]がある。関連する用語として、[[ボルン‐オッペンハイマーポテンシャル曲面]]、[[断熱ポテンシャル曲面]](単に断熱ポテンシャル面とも言う)がある。 ==参考文献== {{reflist}} ==関連記事== *[[第一原理バンド計算]] *[[物性物理学]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんねつきんし}} [[Category:固体物理学]] [[Category:量子化学]]
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マイルス・デイヴィス
マイルス・デイヴィス(英語: Miles Davis、本名:マイルス・デューイ・デイヴィス3世(英語: Miles Dewey Davis III)、1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国出身のジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家。アルバム『ウォーキン』『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』など多くの作品で知られている。日本には彼を「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。いわゆるジャズの巨人の一人。クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。 イリノイ州オールトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち(マイルスの父によると「複式簿記ではアーカンソーで右に出る者はいないといわれた人で、白人たちが帳簿を直してもらいに夜陰に乗じてやってきた」という)、父は音楽家を志望していたほど音楽に造詣の深い歯科医、母はピアノとヴァイオリンをマスターし、教会でオルガンの教師をしたこともあり、姉も家でピアノを弾くという裕福かつ音楽と身近な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。 母にプロのミュージシャンになるのに反対されていたが、16歳のころ、アイリーン・バースという少女を妊娠させ、マイルスにとって最初の結婚をし、その生活費を稼ぐ名目で音楽活動をある程度許されるようになった。 18歳のころ、マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。 1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。 パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのクロード・ソーンヒルの音楽から受けた影響を発展させたものだった。その後もギルとは度々共同制作を行う。 1950年代に入ると、J・J・ジョンソン、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ジョン・ルイス、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。 1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第1期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第1作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5か月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏で録音したというのが伝説になっている。 1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7か月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。 1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。 1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・スティット、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第2期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。 1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。この年の後半には、リズム・セクションがチック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットに交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライブ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。 1969年、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンの参加を得て、『イン・ア・サイレント・ウェイ』を制作。さらに翌年にはLP2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』を発表する。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスなどのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。 1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライブを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。 1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。 1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライブ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。 1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、1981年の『マン・ウィズ・ザ・ホーン』はフュージョン色が濃かった。1985年に制作された『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」やシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などを取り上げた。 1986年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、プリンスなどにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲスト出演している。また、コーポレート・ロックのTOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。 1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。さらにヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始。 1991年9月28日午前10時40分、肺炎と呼吸不全などの合併症のため、カリフォルニア州のサンタモニカの病院で死去、満65歳没。 そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。 なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。 マイルスのトランペット・プレイは、ミュートを(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し、自身の特性を考慮し、ヴィブラートをあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。また、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階を用いている。なお、これらの奏法が「リリシズム」に例えられることがある。 作曲としては、1950年代中頃より「楽曲全体の構成」を重視した作品が多くなり、テーマの入り方にも趣向を凝らしたものが多くなった。また時にアドリブとは思えないような、尺(空間)を大胆に持たせ丁寧なメロディーラインを有したソロ演奏も見受けられた。キャノンボール・アダレイのアルバム『サムシン・エルス』の中の一曲「枯葉」における演奏は、これらの特徴が顕著に表れている。またこういった特徴と先述のミュート奏法から、1950 - 1960年代のバラードやスローテンポナンバーは総じて評価が高い。「楽曲全体の構成」に重きを置く彼の音楽性は、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていき、特にそれは後年になると音楽プロデューサー的な役割となって彼の音楽性に強く表れていった。 楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽ることはあっても、アドリブ演奏を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏することもあった。 クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に、マイルスが導入したスタイルにモード (旋法)・ジャズ(Modal Jazz)がある。これらは、チャーリー・パーカーらが創出したビバップに限界を感じ、コードが導入される以前の古い教会旋法を積極的に採りいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、モード・ジャズの発端を開いた。 他にも、ブルースやロック、はたまたヒップホップなども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた(70年代のキャリアに於けるマイルスのトランペットにもエレクトリック・サウンドへ対応するための改造が施され、ワウ・ワウ・ペダルを駆使した唯一無二のサウンド・スタイルを確立させたのは有名である)。ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスの音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった。ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパー(「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。 音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、フリー・ジャズは演奏せず、オーネット・コールマンを批判したこともあった。 マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間掛かる」と喧伝していた。マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。 また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。 しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う」と発言したと伝えられている。 第1期クインテット時代に、一時的にビル・エヴァンスをバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、ジョー・ザヴィヌルやジョン・マクラフリンの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もチック・コリアやキース・ジャレット、デイヴ・リーブマンなど多くの白人メンバーが在席した。唯一のアジア系人種として、ピアニストのケイ赤城が1989年から2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト菊地雅章が未発表セッションに参加していた。 速いものを好み常にフェラーリなどのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツであることから、ボクシングをたしなんでいた。このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗ることに固執し、3時間かかってしまったことにも現れている。1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『スター・ピープル』のジャケットは自分で描いている。 カムバック後 グラミー賞に通算8回受賞、32回ノミネートされている。またアルバム11枚がグラミー殿堂賞を受賞、本人には特別功労賞生涯業績賞が授与されている。その他ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(1998年)、死後15年経った2006年にロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたハービー・ハンコックが務めた。 デンマークによって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。
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"paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "18歳のころ、マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのクロード・ソーンヒルの音楽から受けた影響を発展させたものだった。その後もギルとは度々共同制作を行う。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1950年代に入ると、J・J・ジョンソン、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ジョン・ルイス、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第1期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第1作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5か月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏で録音したというのが伝説になっている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7か月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・スティット、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第2期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。この年の後半には、リズム・セクションがチック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットに交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライブ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1969年、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンの参加を得て、『イン・ア・サイレント・ウェイ』を制作。さらに翌年にはLP2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』を発表する。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスなどのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライブを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライブ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、1981年の『マン・ウィズ・ザ・ホーン』はフュージョン色が濃かった。1985年に制作された『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」やシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などを取り上げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1986年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、プリンスなどにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲスト出演している。また、コーポレート・ロックのTOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。さらにヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1991年9月28日午前10時40分、肺炎と呼吸不全などの合併症のため、カリフォルニア州のサンタモニカの病院で死去、満65歳没。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マイルスのトランペット・プレイは、ミュートを(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し、自身の特性を考慮し、ヴィブラートをあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。また、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階を用いている。なお、これらの奏法が「リリシズム」に例えられることがある。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "作曲としては、1950年代中頃より「楽曲全体の構成」を重視した作品が多くなり、テーマの入り方にも趣向を凝らしたものが多くなった。また時にアドリブとは思えないような、尺(空間)を大胆に持たせ丁寧なメロディーラインを有したソロ演奏も見受けられた。キャノンボール・アダレイのアルバム『サムシン・エルス』の中の一曲「枯葉」における演奏は、これらの特徴が顕著に表れている。またこういった特徴と先述のミュート奏法から、1950 - 1960年代のバラードやスローテンポナンバーは総じて評価が高い。「楽曲全体の構成」に重きを置く彼の音楽性は、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていき、特にそれは後年になると音楽プロデューサー的な役割となって彼の音楽性に強く表れていった。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽ることはあっても、アドリブ演奏を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏することもあった。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に、マイルスが導入したスタイルにモード (旋法)・ジャズ(Modal Jazz)がある。これらは、チャーリー・パーカーらが創出したビバップに限界を感じ、コードが導入される以前の古い教会旋法を積極的に採りいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、モード・ジャズの発端を開いた。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "他にも、ブルースやロック、はたまたヒップホップなども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた(70年代のキャリアに於けるマイルスのトランペットにもエレクトリック・サウンドへ対応するための改造が施され、ワウ・ワウ・ペダルを駆使した唯一無二のサウンド・スタイルを確立させたのは有名である)。ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスの音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった。ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパー(「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、フリー・ジャズは演奏せず、オーネット・コールマンを批判したこともあった。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間掛かる」と喧伝していた。マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う」と発言したと伝えられている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "第1期クインテット時代に、一時的にビル・エヴァンスをバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、ジョー・ザヴィヌルやジョン・マクラフリンの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もチック・コリアやキース・ジャレット、デイヴ・リーブマンなど多くの白人メンバーが在席した。唯一のアジア系人種として、ピアニストのケイ赤城が1989年から2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト菊地雅章が未発表セッションに参加していた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "速いものを好み常にフェラーリなどのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツであることから、ボクシングをたしなんでいた。このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗ることに固執し、3時間かかってしまったことにも現れている。1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『スター・ピープル』のジャケットは自分で描いている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カムバック後", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "グラミー賞に通算8回受賞、32回ノミネートされている。またアルバム11枚がグラミー殿堂賞を受賞、本人には特別功労賞生涯業績賞が授与されている。その他ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(1998年)、死後15年経った2006年にロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたハービー・ハンコックが務めた。", "title": "受賞歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "デンマークによって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。", "title": "受賞歴" } ]
マイルス・デイヴィスは、アメリカ合衆国出身のジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家。アルバム『ウォーキン』『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』など多くの作品で知られている。日本には彼を「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。いわゆるジャズの巨人の一人。クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。
{{Infobox Musician |Name = マイルス・デイヴィス<br />Miles Davis |Img = Miles Davis by Palumbo cropped.jpg |Img_capt = ニューヨークの自宅にて(1955~1956年) |Img_size = 220px |Background = non_vocal_instrumentalist |Birth_name = Miles Dewey Davis III |Alias = |Born = [[1926年]][[5月26日]] |Origin = {{USA}}<br />[[イリノイ州]][[オールトン (イリノイ州)|オールトン]] |Died = {{死亡年月日と没年齢|1926|5|26|1991|9|28}}<br />{{USA}}<br />[[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]] |Instrument = [[トランペット]]、[[フリューゲルホーン]]、[[オルガン]] |Genre = [[ジャズ]]、[[ビバップ]]、[[クール・ジャズ]]、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]] |Occupation = [[ジャズ]]・ミュージシャン、[[作曲家]]、編曲家 |Years_active = [[1944年]] - [[1991年]] |Label = [[プレスティッジ・レコード]]<br />[[コロムビア・レコード]]<br />[[ワーナー・ブラザース]](現[[ワーナー・ミュージック・グループ]]) |Associated_acts = |URL = https://www.milesdavis.com/ |Current_members = |Past_members = }} '''マイルス・デイヴィス'''({{Lang-en|'''Miles Davis'''}}、本名:マイルス・デューイ・デイヴィス3世({{Lang-en|'''Miles Dewey Davis III'''}})、[[1926年]][[5月26日]] - [[1991年]][[9月28日]])は、[[アメリカ合衆国]]出身の[[ジャズ]][[トランペット]]奏者、作曲家、編曲家。アルバム『[[ウォーキン (マイルス・デイヴィスのアルバム)|ウォーキン]]』『[[カインド・オブ・ブルー]]』『[[ビッチェズ・ブリュー]]』など多くの作品で知られている。日本には彼を「'''モダン・ジャズの帝王'''」<ref>[http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0624.html ETV特集 6月24日(日)]</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2011/110925.html これまでの放送]NHKアーカイブス(番組)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.emimusic.jp/artist/m-davis/ |title=マイルス・デイヴィス (Miles Davis) |publisher=EMI Music Japan |archiveurl=https://archive.vn/XUZw8 |archivedate=2013-05-01 |accessdate=2021-04-25}}</ref><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0036913 モダン・ジャズの帝王、マイルス・デイヴィスの伝記映画の制作が本格的に始動!]シネマトゥデイ 2011年11月11日</ref><ref>[http://eiga.com/news/20111111/16/ マイルス・デイビスの伝記映画が製作へ]映画.com 映画ニュース 2011年11月11日</ref>と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。いわゆるジャズの巨人の<ref group="注釈">マイルス、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンらは、しばしば「ジャズの巨人」として名前をあげられる</ref>一人。[[クール・ジャズ]]、[[ハード・バップ]]、[[モード・ジャズ]]、エレクトリック・ジャズ、[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。 == 来歴 == === 出生 - 1940年代 === [[File:Charlie Parker, Tommy Potter, Miles Davis, Duke Jordan, Max Roach (Gottlieb 06851).jpg|thumb|200px|1947年 (中央)]] [[イリノイ州]][[オールトン (イリノイ州)|オールトン]]生まれ。翌年に[[イーストセントルイス]]へ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち(マイルスの父によると「[[複式簿記]]ではアーカンソーで右に出る者はいないといわれた人で、白人たちが[[会計帳簿|帳簿]]を直してもらいに夜陰に乗じてやってきた<ref>{{Cite book|和書|title=マイルス・デイビス物語|year=1982年|publisher=スイングジャーナル社|page=8|author=イアン・カー|authorlink=イアン・カー|translator=小山さち子}}</ref>」という)、父は音楽家を志望していた<ref group="注釈">その当時、黒人が音楽家をするなら、旅芸人か売春宿で演奏するかしかなく、どちらもデイヴィス家の家風から許されなかった。</ref>ほど音楽に造詣の深い歯科医、母は[[ピアノ]]と[[ヴァイオリン]]をマスターし、教会で[[オルガン]]の教師をしたこともあり、姉も家でピアノを弾くという裕福かつ音楽と身近な環境で育った<ref group="注釈">当時のジャズやブルースの黒人音楽家で、中流家庭の出身者は非常に珍しい。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=マイルス・デイヴィスの真実|date=2002年10月1日|publisher=平凡社|author=小川隆夫}}</ref>。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、[[セントルイス]]のクラブに出演するようになる。当時のセントルイスには[[アフリカ系アメリカ人]]の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。 母にプロのミュージシャンになるのに反対されていたが、16歳のころ、アイリーン・バースという少女を妊娠させ、マイルスにとって最初の結婚をし、その生活費を稼ぐ名目で音楽活動をある程度許されるようになった。 18歳のころ、マイルスは、セントルイスに[[ビリー・エクスタイン]]楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、[[チャーリー・パーカー]]、[[ディジー・ガレスピー]]<ref group="注釈">バードとディズはビバップの創始者である</ref>との共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐに[[ニューヨーク]]に出て[[ジュリアード音楽院]]に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。 1945年、[[ライオネル・ハンプトン]]の楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーや[[マックス・ローチ]]のサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。 パーカーの元での[[ビバップ]]からキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に[[編曲家]]の[[ギル・エヴァンス]]や[[ジェリー・マリガン]]らと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーの[[クロード・ソーンヒル]]の音楽から受けた影響を発展させたものだった<ref>{{Cite book|title=Owarinaki yami : Chietto beikā no subete|url=https://www.worldcat.org/oclc/675035125|publisher=Kawade Shobō Shinsha|date=2006|location=Tōkyō|isbn=4-309-26868-4|oclc=675035125|others=Gavin, James., Suzuki, Reiko., 鈴木, 玲子, 翻訳家}}</ref>。その後もギルとは度々共同制作を行う。 === 1950年代 === 1950年代に入ると、[[J・J・ジョンソン]]、[[ソニー・ロリンズ]]、[[ホレス・シルヴァー]]、[[ジョン・ルイス (ジャズ演奏者)|ジョン・ルイス]]、[[アート・ブレイキー]]などと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年[[プレスティッジ・レコード]]から発表した『[[ウォーキン (マイルス・デイヴィスのアルバム)|ウォーキン]]』は高く評価され、[[ハード・バップ]]のトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』で[[セロニアス・モンク]]と共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。 1955年、[[ジョン・コルトレーン]]、[[レッド・ガーランド]]、[[ポール・チェンバース]]、[[フィリー・ジョー・ジョーンズ]]のメンバーで、第1期クインテットを結成。同年、[[ニューポート・ジャズフェスティバル]]において、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなり[[コロムビア・レコード]]と契約。1956年に移籍第1作『[[ラウンド・アバウト・ミッドナイト]]』発表<ref>http://rateyourmusic.com/.../round-about-midnight-3/lists/</ref>。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5か月のブランクがある。これらの演奏は『[[ワーキン]]』『[[スティーミン]]』『[[リラクシン]]』『[[クッキン]]』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『[[死刑台のエレベーター]]』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら[[即興演奏]]で録音したというのが伝説になっている<ref>[http://www.zaziefilms.com/shikeidai/staffcast/ スタッフ/キャスト]死刑台のエレベーター</ref><ref>[https://www.cinematoday.jp/movie/T0009076 映画『死刑台のエレベーター』]シネマトゥデイ</ref>。 1958年には[[キャノンボール・アダレイ]]<ref group="注釈">ソウル・ジャズの代表的ジャズマンで「マーシーマーシーマーシー」が有名</ref>を加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『[[サムシン・エルス (キャノンボール・アダレイのアルバム)|サムシン・エルス]]』に参加。また、[[レッド・ガーランド]]が退団したため、[[ピアノ]]に[[ビル・エヴァンス]]を迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特に[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]])の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7か月余りで脱退。[[ウィントン・ケリー]]が代わって参加した。 1959年代表作の一つ『[[カインド・オブ・ブルー]]』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆる[[モード・ジャズ]]の方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。 === 1960年代 === [[File:Miles Davis (Antibes Juan-les-Pins 1963).jpg|thumb|170px|1963年]] 1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期[[ソニー・スティット]]、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年[[ジョージ・コールマン]]、[[ハービー・ハンコック]]、[[ロン・カーター]]、[[トニー・ウィリアムス]]がグループに参加。サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。同年秋には[[ウェイン・ショーター]]を迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第2期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『[[ネフェルティティ (マイルス・デイヴィスのアルバム)|ネフェルティティ]]』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも[[4ビート]]スタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。 1968年、[[8ビート]]のリズムとエレクトリック楽器を導入した、『[[マイルス・イン・ザ・スカイ]]』を発表。この年の後半には、リズム・セクションが[[チック・コリア]]、[[デイヴ・ホランド]]、[[ジャック・ディジョネット]]に交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやく[[ライブ・アルバム|ライブ盤]]『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。 1969年、[[ジョー・ザヴィヌル]]、[[ジョン・マクラフリン]]の参加を得て、『[[イン・ア・サイレント・ウェイ]]』を制作。さらに翌年にはLP2枚組の大作『[[ビッチェズ・ブリュー]]』<ref group="注釈">エレクトリック・ジャズ、ジャズ・ロックの代表アルバム</ref>を発表する。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスは[[ジェームス・ブラウン]]や[[スライ・ストーン]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]などのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。 === 1970年代 === [[File:Miles Davis-140916-0016-103WPA.jpg|thumb|140px|1971年]] 1970年代に入るとマイルスは[[ファンク]]色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音と[[演奏会|ライブ]]を積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年公式に発表した『[[オン・ザ・コーナー]]』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。 1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『[[パンゲア (アルバム)|パンゲア]]』を最後に、以降は長い休息期間となる。 === 1980年代 === [[File:Miles Davis Strasbourg face 2.jpg|thumb|140px|1987年]] 1980年に活動再開。ドラムの[[アル・フォスター]]以外は[[ビル・エヴァンス (サックス奏者)|ビル・エヴァンス]](サックス)、[[マイク・スターン]]、[[マーカス・ミラー]]など、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライブ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。 1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、1981年の『マン・ウィズ・ザ・ホーン』はフュージョン色が濃かった。1985年に制作された『[[ユア・アンダー・アレスト]]』では[[マイケル・ジャクソン]]の「[[ヒューマン・ネイチャー]]」や[[シンディ・ローパー]]の「[[タイム・アフター・タイム (シンディ・ローパーの曲)|タイム・アフター・タイム]]」などを取り上げた。 1986年、長年在籍したコロンビアから[[ワーナー・ミュージック]]へ移籍。同年発表の『[[TUTU]]』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみ[[ジョージ・デューク]]のプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]などにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲスト出演している。また、コーポレート・ロックの[[TOTO (バンド)|TOTO]]によるアルバム『[[ファーレンハイト (アルバム)|ファーレンハイト]]』にも、ゲストとして参加。以降も、[[チャカ・カーン]]や[[スクリッティ・ポリッティ]]など、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。 === 1990年代 === [[File:Sir Miles Davis Gravesite.JPG|thumb|200px|NYブロンクス区[[ウッドローン墓地]]にあるマイルスの墓]] 1990年には[[東京ドーム]]にて行われた[[ジョン・レノン]]追悼コンサートに出演し、[[ビートルズ]]の「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」をカバーした。さらに[[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]]のミュージシャンである[[イージー・モー・ビー]]をゲストに迎えた新アルバムの制作を開始。 1991年9月28日午前10時40分、[[肺炎]]と[[呼吸不全]]などの[[合併症]]のため、[[カリフォルニア州]]の[[サンタモニカ]]の病院で死去、満65歳没。 そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『[[ドゥー・バップ]]』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。 なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。 == 音楽性 == マイルスのトランペット・プレイは、[[弱音器#金管楽器の弱音器|ミュート]]を(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し<ref>http://www.quora.com/What-type-of-mute-did-Miles-Davis-use</ref>、自身の特性を考慮し、[[ビブラート|ヴィブラート]]をあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。また、[[ディジー・ガレスピー]]のようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、[[半音階]]を用いている。なお、これらの奏法が「[[叙情|リリシズム]]」に例えられることがある。 作曲としては、1950年代中頃より「楽曲全体の構成」を重視した作品が多くなり、テーマの入り方にも趣向を凝らしたものが多くなった。また時に[[即興演奏|アドリブ]]とは思えないような、尺(空間)を大胆に持たせ丁寧な[[メロディー]]ラインを有したソロ演奏も見受けられた。[[キャノンボール・アダレイ]]のアルバム『[[サムシン・エルス (キャノンボール・アダレイのアルバム)|サムシン・エルス]]』の中の一曲「[[枯葉 (歌曲)|枯葉]]」における演奏は、これらの特徴が顕著に表れている。またこういった特徴と先述のミュート奏法から、1950 - 1960年代のバラードやスローテンポナンバーは総じて評価が高い。「楽曲全体の構成」に重きを置く彼の音楽性は、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていき、特にそれは後年になると[[音楽プロデューサー]]的な役割となって彼の音楽性に強く表れていった。 楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽ることはあっても、アドリブ演奏を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏することもあった。 クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に、マイルスが導入したスタイルに[[モード (旋法)]]・ジャズ(Modal Jazz)<ref>http://www.jazzstandards.com/theory/modal-jazz.htm</ref>がある。これらは、[[チャーリー・パーカー]]らが創出した[[ビバップ]]に限界を感じ、コードが導入される以前の古い[[教会旋法]]を積極的に採りいれたアルバム『[[カインド・オブ・ブルー]]』で、モード・ジャズの発端を開いた。 他にも、[[ブルース]]や[[ロック (音楽)|ロック]]、はたまた[[ヒップホップ]]なども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた(70年代のキャリアに於けるマイルスのトランペットにもエレクトリック・サウンドへ対応するための改造が施され、ワウ・ワウ・ペダルを駆使した唯一無二のサウンド・スタイルを確立させたのは有名である)。ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、[[ジミ・ヘンドリックス]]の音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった<ref>http://www.rollingstone.com/.../jimi-hendrix-sought-paul-mccartney...</ref>。ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。ただし、[[海賊版|ブート]]というかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。この曲は元々、アルバム『[[TUTU]]』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。また、『[[ユア・アンダー・アレスト]]』では、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]がナレーションでゲスト参加し、[[マイケル・ジャクソン]]や[[シンディ・ローパー]](「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。 音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、[[フリー・ジャズ]]は演奏せず、[[オーネット・コールマン]]を批判したこともあった<ref>http://www-cs.canisius.edu/~bucheger/OrnetteReview.html</ref>。 == 人物 == [[File:Aankomst jazz-trompetist Miles Davis op Schiphol. Miles Davis en zijn vrouw Ceci, Bestanddeelnr 932-1250.jpg|thumb|220px|1982年当時の妻で女優の[[シシリー・タイソン]]と]] マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「[[フィデル・カストロ|カストロ]]はアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間掛かる」と喧伝していた{{要出典|date=2021年6月}}。マイルス自身も、人種差別の被害にあった経験があった。 また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、[[ギル・エヴァンス]]と妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている{{要出典|date=2021年6月}}。 しかし、音楽性の追求のためには[[人種]]は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、[[ギル・エヴァンス]]には生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』には[[リー・コニッツ]]や[[ジェリー・マリガン]]といった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う<ref>http://ilovejazz.tripod.com/jazz/milesdavis.html Miles Davis Biography</ref>」と発言したと伝えられている。 第1期クインテット時代に、一時的に[[ビル・エヴァンス]]をバンド・メンバーに迎え入れ、ビルは音楽的には貢献をしたものの、客による白人バッシングに耐えきれず、わずか1年程度で脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、[[ジョー・ザヴィヌル]]や[[ジョン・マクラフリン]]の存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後も[[チック・コリア]]や[[キース・ジャレット]]、[[デイヴ・リーブマン]]など多くの白人メンバーが在席した。唯一のアジア系人種として、ピアニストの[[ケイ赤城]]が[[1989年]]から2年間レギュラー・メンバーとして活躍した。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト[[菊地雅章]]が未発表セッションに参加していた。 速いものを好み常に[[フェラーリ]]などのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツであることから、[[ボクシング]]をたしなんでいた。このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗ることに固執し、3時間かかってしまったことにも現れている。1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『[[スター・ピープル]]』のジャケットは自分で描いている。 == バンドメンバー及びレコーディングメンバー、ライブゲストの変遷 == === 1955年 - 1958年 === * 第1期クインテット・セクステット ** [[ジョン・コルトレーン]]([[サクソフォーン|サックス]]) ** [[レッド・ガーランド]]([[ピアノ]]) ** [[ポール・チェンバース]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]) ** [[フィリー・ジョー・ジョーンズ]]([[ドラムセット|ドラム]]) ** [[キャノンボール・アダレイ]](サックス) === 1958年 - 1963年 === * 『カインド・オブ・ブルー』時代 ** ジョン・コルトレーン(サックス) (-1961年) ** ポール・チェンバース(ベース) ** キャノンボール・アダレイ(サックス) ** [[ビル・エヴァンス]](ピアノ) (-1959年) ** [[ジミー・コブ]](ドラム) ** [[ウィントン・ケリー]](ピアノ) (1958年-) ** [[ソニー・スティット]](サックス) (1960年) ** [[ハンク・モブレー]](サックス) (1961年) === 1963年 - 1968年 === * 第2期クインテット ** [[ジョージ・コールマン]](サックス) (-1964年) ** [[ハービー・ハンコック]](ピアノ) ** [[ロン・カーター]](ベース) ** [[トニー・ウィリアムス]](ドラム) ** [[サム・リヴァース]](サックス) (1964年) ** [[ウェイン・ショーター]](サックス) (1964年-) === 1968年 - 1970年 === * ロスト・クインテット ** ウェイン・ショーター(サックス) ** [[チック・コリア]]([[キーボード (楽器)|キーボード]]) ** [[デイヴ・ホランド]](ベース) ** [[ジャック・ディジョネット]](ドラム) (1969年-) ** トニー・ウィリアムス(ドラム) (1968年) === 1970年 === * 『ビッチェズ・ブリュー』期 ** ウェイン・ショーター(サックス) (-1970年春) ** [[スティーヴ・グロスマン]](サックス) ** [[ゲイリー・バーツ]](サックス) (1970年夏-) ** [[ジョン・マクラフリン]](ギター) (不定期) ** チック・コリア(キーボード) ** [[キース・ジャレット]](キーボード) ** [[デイヴ・ホランド]](ウッドベース・エレクトリックベース) ** ジャック・ディジョネット(ドラム) ** [[アイアート・モレイラ]](パーカッション) **[[ベニー・モウピン]](バスクラリネット) **[[ハーヴィー・ブルックス]](エレクトリックベース) === 1970年 - 1971年 === * 『ライヴ・イヴル』期 ** ゲイリー・バーツ(サックス) ** ジョン・マクラフリン(ギター) (不定期) ** キース・ジャレット(キーボード) ** [[マイケル・ヘンダーソン]](ベース) ** ジャック・ディジョネット(ドラム) (-1970年前期) ** [[レオン・チャンクラー|レオン・ンドゥグ・チャンクラー]](ドラム) (1970年後期-) ** [[ジム・ライリー]](パーカッション) (-1970年初期) ** アイアート・モレイラ(パーカッション) (-1970年前期) ** [[ジェームズ・エムトゥーメ]](パーカッション) (1970年後期-) ** [[ドン・アライアス]](パーカッション) (1970年後期-) === 1972年 - 1973年 === * 『オン・ザ・コーナー』期 ** [[カルロス・ガーネット]](サックス) ** [[レジー・ルーカス]](ギター) ** [[セドリック・ローソン]](キーボード) ** マイケル・ヘンダーソン(ベース) ** [[アル・フォスター]](ドラム) ** ジェームズ・エムトゥーメ(パーカッション) ** [[カリル・バラクリシュナ]]([[シタール]]) ** [[バダル・ロイ]]([[タブラ]]) === 1973年 - 1976年 === * 一時引退直前期 ** [[デイヴ・リーブマン]](サックス)(-1974年) ** [[ソニー・フォーチュン]](サックス)(1974年-1975年) ** [[サム・モリソン]](サックス)(1975年-) ** [[レジー・ルーカス]](ギター) ** [[ピート・コージー]](ギター) ** [[ロニー・リストン・スミス]](キーボード)(-1973年初期) ** マイケル・ヘンダーソン(ベース) ** アル・フォスター(ドラム) ** ジェームズ・エムトゥーメ(パーカッション) ** カリル・バラクリシュナ(シタール) (-1973年初期) ** バダル・ロイ(タブラ) (-1973年初期) === 1976年 - 1980年 === * 一時引退期 ** [[ラリー・コリエル]](ギター)(1978年) ** [[菊地雅章]](キーボード)(1978年) ** [[ジョージ・パヴリス]](キーボード)(1978年) ** [[T.M.スティーヴンス]](ベース)(1978年) ** [[アル・フォスター]](ドラム)(1978年) === 1980年 - 1984年 === * カムバック後 前期 ** [[ビル・エヴァンス (サックス奏者)|ビル・エヴァンス]](サックス)(第1期のピアノとは別人) ** [[マイク・スターン]](ギター) ** [[マーカス・ミラー]](ベース) ** アル・フォスター(ドラム) ** [[ミノ・シネル]](パーカッション) ** [[バリー・フィナティー]](ギター) ** [[サミー・フィゲロア]](パーカッション) === 1984年 - 1986年 === * カムバック後 中期 ** [[ボブ・バーグ]](サックス) ** [[ジョン・スコフィールド (音楽家)|ジョン・スコフィールド]](ギター) ** [[ロバート・アーヴィング3世]](キーボード) ** [[ダリル・ジョーンズ]](ベース) ** [[フェルトン・クルーズ]](ベース) ** [[ヴィンセント・ウィルバーン]](ドラム) ** [[スティーヴ・ソートン]](パーカッション) ** [[ロベン・フォード]](ギター) ** [[ガース・ウェッバー]](ギター) ** [[カルロス・サンタナ]](ギター)※1986年ライブ・ゲスト === 1987年 - 1991年 === * カムバック後 後期 ** [[ケニー・ギャレット]](サックス) ** [[フォーリー (ミュージシャン)|フォーリー]](ギター) ** [[アダム・ホルツマン]](キーボード) ** [[ケイ赤城]](キーボード) ** [[ジョーイ・デフランセスコ]](キーボード)※ライブ・ゲスト ** [[ベニー・リートヴェルド]](ベース) ** [[リッキー・ウェルマン]](ドラム) ** [[マリリン・マズール]](パーカッション) ** [[ムニュンゴ・ジャクソン]](パーカッション) ** [[エリン・デイヴィス]](パーカッション) ** [[チャカ・カーン]](ボーカル)※1989年モントゥルーライブ・ゲスト === 1991年 === * ラスト・バンド ** ケニー・ギャレット(サックス) ** フォーリー(ギター) ** [[デロン・ジョンソン]](キーボード) ** [[リチャード・パターソン]](ベース) ** リッキー・ウェルマン(ドラム) == ディスコグラフィ == === Capitol === *『クールの誕生』 - ''Birth of the Cool''(1949年-1950年録音。12インチ (30cm) LPとしての発売は[[1957年]]頃) === Blue note === * 10インチ (25cm) LPオリジナル・アルバム **『[[ヤング・マン・ウィズ・ア・ホーン]]』 - ''Young Man With a Horn'' (1952年) **『[[マイルス・デイヴィス Vol.2]]』 - ''Miles Davis Vol.2'' (1953年) **『[[マイルス・デイヴィス Vol.3]]』 - ''Miles Davis Vol.3'' (1954年) * 12インチ (30cm) LP編集盤(上記の10インチのアルバムを、別テイクを入れて再構成し、2枚にしたもの) **『[[マイルス・デイヴィス・オールスターズ Vol.1]]』 - ''Miles Davis Vol.1'' (1952年-1954年) **『[[マイルス・デイヴィス・オールスターズ Vol.2]]』 - ''Miles Davis Vol.2'' (1952年-1954年) === Prestige === *『ディグ』 - ''Dig'' (1951年) *『ブルー・ヘイズ』 - ''Blue Haze'' (1954年) *『[[ウォーキン (マイルス・デイヴィスのアルバム)|ウォーキン]]』 - ''Walkin''' (1954年) *『[[バグス・グルーブ]]』 - ''Bags Groove'' (1954年) *『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』 - ''Miles Davis and the Modern Jazz Giants'' (1954年) *『マイルス〜ザ・ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット』 - ''Miles'' (1955年) *『ザ・ミュージングス・オブ・マイルス』 - ''The Musings of Miles'' (1955年) *『ブルー・ムーズ』 - ''Blue Moods'' (1955年) *『クインテット / セクステット』 - ''Quintet / Sextet'' (1955年) *『[[クッキン]]』 - ''Cookin''' (1956年) *『[[リラクシン]]』 - ''Relaxin''' (1956年) *『[[スティーミン]]』 - ''Steamin''' (1956年) *『[[ワーキン]]』 - ''Workin''' (1956年) *『マイルス・デイビス・アンド・ホーンズ』 - ''Miles Davis and Horns'' (1951年-1953年) *『コレクターズアイテム』 - ''Collector's Item'' (1953年-1955年) === CBS === *『[[ラウンド・アバウト・ミッドナイト]]』 - ''Round About Midnight'' (1955年-1956年) *『マイルス・アヘッド』 - ''Miles Ahead'' (1957年) *『[[マイルストーンズ (マイルス・デイヴィスのアルバム)|マイルストーンズ]]』 - ''Milestones'' (1958年) *『[[1958マイルス]]』 - ''1958Miles''(日本編集盤)(1958年) *『ポーギー&ベス』 - ''Porgy And Bess'' (1958年) *『マイルス・デイヴィス・アット・ニューポート』 - ''Miles Davis at Newport'' (1958年) *『ジャズ・アット・ザ・プラザ』 - ''Jazz at the Plaza Vol.1'' (1958年) *『[[カインド・オブ・ブルー]]』 - ''Kind of Blue'' (1959年) *『[[スケッチ・オブ・スペイン]]』 - ''Sketches of Spain'' (1959年) *『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』 - ''Someday My Prince Will Come'' (1961年) *『ブラックホークのマイルス・デイビス』 - ''At the Blackhawk'' (1961年) *『マイルス・デイヴィス・アット・カーネギーホール』 - ''Miles Davis at Carnegie Hall'' (1962年) *『クワイエット・ナイト』 - ''Quiet Nights'' (1963年) *『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』 - ''Seven Steps to Heaven'' (1963年) *『マイルス・デイヴィス・イン・ヨーロッパ』 - ''Miles Davis in Europe'' (1963年) *『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』 - ''My Funny Valentine'' (1964年) *『フォア&モア』 - ''Four & More'' (1964年) *『マイルス・イン・トーキョー』 - ''Miles in Tokyo'' (1964年) *『マイルス・イン・ベルリン』 - ''Miles in Berlin'' (1964年) *『E.S.P.』 - ''E.S.P.'' (1965年) *『ライヴ・アット・ザ・プラグド・ニッケル』 - ''Live at the Plugged Nickel'' (1965年) *『マイルス・スマイルズ』 ''Miles Smiles'' (1966年) *『ソーサラー』 - ''Sorcerer'' (1967年) *『[[ネフェルティティ (マイルス・デイヴィスのアルバム)|ネフェルティティ]]』 - ''Nefertiti'' (1967年) *『[[マイルス・イン・ザ・スカイ]]』 - ''Miles in the Sky'' (1968年) *『キリマンジャロの娘』 - ''Filles De Kilimanjaro'' (1968年) *『[[イン・ア・サイレント・ウェイ]]』 - ''In a Silent Way'' (1969年) *『1969マイルス』 - ''1969Miles'' (1969年)(1993年発売) *『[[ビッチェズ・ブリュー]]』 - ''Bitches Brew'' (1969年) *『ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト』 - ''Live at the Fillmore East : It's About That Time'' (1970年)(2001年発売) *『ブラック・ビューティ』 - ''Black Beauty''(日本編集盤)(1970年) *『マイルス・アット・フィルモア』 - ''Miles Davis at Fillmore'' (1970年) *『[[ライヴ・イヴル]]』 - ''Live=Evil'' (1970年-1971年) *『[[オン・ザ・コーナー]]』 - ''On the Corner'' (1972年) *『イン・コンサート』 - ''Miles Davis in Concert'' (1972年) *『ゲット・アップ・ウィズ・イット』 - ''Get Up With It'' (1970年-1974年) *『ダーク・メイガス』 - ''Dark Magus'' (1974年) *『[[アガルタ (アルバム)|アガルタ]]』 - ''Agharta'' (1975年) *『[[パンゲア (アルバム)|パンゲア]]』 - ''Pangaea'' (1975年) '''カムバック後''' *『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』 - ''The Man With the Horn'' (1981年) *『ウィ・ウォント・マイルス』 - ''We Want Miles'' (1981年) *『[[スター・ピープル]]』 - ''Star People'' (1983年) *『[[デコイ (アルバム)|デコイ]]』 - ''Decoy'' (1984年) *『[[ユア・アンダー・アレスト]]』 - ''You're Under Arrest'' (1985年) *『オーラ』 - ''Aura'' (1985年) === Warner Bros. === *『[[TUTU]]』 - ''TUTU'' (1986年) *『アマンドラ』 - ''Amandra'' (1988年-1989年) *『ライヴ・アット・モントルー』 - ''Miles & Quincy Live at Montreux'' (1991年) *『ライヴ・アラウンド・ザ・ワールド』 - ''Live Around the World'' (1987年-1991年)(1996年発売) *『[[ドゥー・バップ]]』 - ''Doo-Bop'' (1991年) === 映画音楽 === *『[[死刑台のエレベーター]]』 - ''Ascenseur Pour L'Echafaud (Lift to the Scaffold)'' (1958年) *『ジャック・ジョンソン』 - ''A Tribute to Jack Johnson'' (1970年) *『[[シエスタ (1987年の映画)|シェスタ]]』 - ''Music From Siesta'' (1987年) *『ディンゴ』 - ''Dingo'' (1990年) *『コラテラル』 - ''Collateral'' (2004年) === 編集盤 === *『サークル・イン・ザ・ラウンド』 - ''Circle in the Round'' (1955年-1970年)(1979年発売) *『ディレクションズ』 - ''Directions'' (1960年-1970年)(1980年発売) *『ウォーター・ベイビーズ』 - ''Water Babies'' (1967年-1968年)(1976年発売) *『[[ビッグ・ファン]]』 - ''Big Fun'' (1969年-1972年)(1974年発売) === ボックスセット === *『マイルス・デイヴィス 1955-1985』 - ''The Columbia Years 1955-1985'' (1955年-1985年)(1988年発売) *『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス&ギル・エヴァンス』 - ''Miles Davis and Gil Evans: The Complete Columbia Studio Recordings'' (1957年-1968年)(1996年発売) *『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス&ジョン・コルトレーン 1955-1961』 - ''The Complete Columbia Recordings: Miles Davis & John Coltrane'' (1955年-1961年)(2000年発売) *『コンプリート・ブラックホーク』 - ''In Person Friday and Saturday Nights at the Blackhawk, Complete'' (1961年)(2003年発売) *『セブン・ステップス:ザ・コンプリート・マイルス・デイビス 1963-1964』 - ''Seven Steps: The Complete Columbia Recordings 1963-1964''(1963年-1964年)(2004年発売) *『コンプリート・ライヴ・アット・プラグド・ニッケル1965』 - ''The Complete Live at the Plugged Nickel 1965''(1995年発売) *『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・クインテット 1965-1968』 - ''The Complete Columbia Studio Recordings 1965-1968'' (1965年-1968年)(1998年発売) *『ザ・コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ』 - ''The Complete in a Silent Way Sessions'' (1968年-1969年)(2001年発売) *『ザ・コンプリート・ビッチェズ・ブリュー・セッションズ』 - ''The Complete Bitches Brew Sessions'' (1969年-1970年)(1998年発売) *『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンソン・セッションズ』 - ''The Complete Jack Johnson Sessions'' (1970年)(2003年発売) *『ザ・セラー・ドア・セッションズ1970』 - ''The Cellar Door Sessions 1970'' (1970年)(2005年発売) *『[[ザ・コンプリート・オン・ザ・コーナー・セッションズ]]』 - ''The Complete on the Corner Sessions'' (1972年-1975年)(2007年発売) *『ザ・コンプリート・マイルス・デイヴィス・アット・モントルー1973-1991』 - ''The Complete Miles Davis at Montreux 1973-1991'' (1973年-1991年)(2002年発売) == 受賞歴 == [[グラミー賞]]に通算8回受賞、32回ノミネートされている。またアルバム11枚がグラミー殿堂賞を受賞、本人には特別功労賞生涯業績賞が授与されている<ref>[https://www.grammy.com/grammys/artists/miles-davis GRAMMY AWARDS - Miles Davis]</ref>。その他[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]](1998年)、死後15年経った2006年に[[ロックの殿堂]]入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていた[[ハービー・ハンコック]]が務めた。 === ジャズ部門 (グラミー賞) === *最優秀オリジナル・ジャズ作曲賞 - ''[[:en:Grammy Award for Best Original Jazz Composition|Best Original Jazz Composition]]'' **1960年 『スケッチ・オブ・スペイン 』- Sketches of Spain *最優秀大規模ジャズ・アンサンブル・アルバム賞 - ''[[:en:Grammy Award for Best Large Jazz Ensemble Album|Best Large Jazz Ensemble Album]]'' **1970年 『ビッチェズ・ブリュー』- Bitches Brew **1989年 『オーラ』- Aura **1993年 『ライヴ・アット・モントルー』- Miles & Quincy Live at Montreux *最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・ソロ賞 - ''[[:en:Grammy Award for Best Jazz Instrumental Solo|Best Improvised Jazz Solo]]'' **1982年 『ウィ・ウォント・マイルス』- We Want Miles **1986年 『TUTU』- TUTU **1989年 『オーラ』- Aura === R&B部門 (グラミー賞) === *最優秀R&B・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞 - ''[[:en:Grammy Award for Best R&B Instrumental Performance|Best R&B Instrumental Performance]]'' **1992年 『ドゥー・バップ』- Doo-Bop === 特別賞 (グラミー賞) === *グラミー殿堂賞'' - [[:en:Grammy Hall of Fame Award|Grammy Hall of Fame Award]]'' **1982年 『クールの誕生』- Birth of the Cool **1992年 『カインド・オブ・ブルー』- Kind of Blue ** 1994年 『マイルス・アヘッド』- Miles Ahead **1999年 『ビッチェズ・ブリュー』- Bitches Brew **1997年 『スケッチ・オブ・スペイン』- Sketches of Spain **2000年 『ポーギー・アンド・ベス』- Porgy And Bess **2001年 『イン・ア・サイレント・ウェイ』 - In a Silent Way **2004年 『[[マイルストーンズ (マイルス・デイヴィスのアルバム)|マイルストーンズ]]』- Milestones **2014年 『[[リラクシン]]』- Relaxin' **2016年 『マイルス・スマイルズ』- Miles Smiles **2019年 『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』- Round About Midnight *特別功労賞生涯業績賞 - ''[[:en:Grammy Lifetime Achievement Award|Lifetime Achievement Award]]'' **1990年 受賞 ===レオニー・ソニング音楽賞=== [[デンマーク]]によって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。 *1984年 受賞   === オーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞=== *作曲賞 **1991年 『ディンゴ』- Dingo == フィルモグラフィ == === 映画 === *『[[3人のゴースト]]』 (1988年) ※ストリート・ミュージシャン役で[[カメオ出演]]。 *『ディンゴ』 (1990年) ※ビリー・クロス役で出演。 *『MILES AHEAD』 (2016年) ※1970年代後半のマイルス・デイヴィスを描いた作品。<ref>[https://www.sonypictures.jp/he/2115619/ MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間]</ref> === テレビ === * 「[[特捜刑事マイアミ・バイス]]」シーズン2の1エピソードにゲスト出演 (1986年) * 『巨匠たちの青の時代 Miles Davis 帝王への扉を開けたサウンド』 (2011年12月33日、NHK BSプレミアム)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2021-04-09/10/2999/2325722/ |title=巨匠たちの青の時代 帝王への扉を開けたサウンド |date=2021-04-09 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/xY2vu |archivedate=2021-04-15 |accessdate=2021-04-15}}</ref> === CM === * 三楽の焼酎 VAN(1985年) * [[TDK]] [[カセットテープ]](1990年) == 関連文献 == * [[菊地成孔]]、[[大谷能生]]『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』(エスクアイア・マガジン・ジャパン、2008年3月)ISBN 978-4872951141 * 菊地成孔、大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』上・下(河出文庫 [[河出書房新社]]、2011年8月5日)ISBN 978-4309410968 ISBN 978-4309411064 * マイルス・デイヴィス、クインシー・トループ 『マイルス・デイビス自叙伝』1・2([[中山康樹]]訳、[[宝島社]]、1999年12月) ISBN 978-4796616829 ISBN 978-4796616836 * マイルス・デイヴィス、クインシー・トループ 『マイルス・デイビス自叙伝』(中山康樹訳、[[シンコーミュージック]]、2015年3月30日) ISBN 978-4401641192 * 『マイルスを聴け! Version8』([[双葉社]]、2008年) ISBN 978-4-575-71350-3 * {{Cite book|和書 |author = 中山康樹 |editor = |title = 新マイルスを聴け!アコースティック1945-1967 |year = 2011 |publisher = 双葉社 |series = 双葉文庫 |isbn = 4575713805 |page = }} * フランク・アルカイヤー『マイルス・デイヴィス・リーダー [[ダウンビート]]誌に残された全記録』(上西園誠訳、[[シンコーミュージック]]・エンタテイメント 2009年3月)ISBN 978-4401632688 * ジョン・スウェッド『マイルス・デイヴィスの生涯』(丸山京子訳、シンコーミュージック・エンタテイメント 2004年10月)ISBN 978-4401618897 * [[小川隆夫]]『マイルス・デイヴィスの真実』([[平凡社]]、2002年10月)ISBN 978-4582831276 * 小川隆夫『マイルス・デイヴィスコンプリート・ディスク・ガイド』(東京キララ社、2002年12月)ISBN 978-4575291612 * 『マイルス・デイヴィスとは誰か 「ジャズの帝王」を巡る21人』 *: 小川隆夫・[[平野啓一郎]]共著、[[平凡社新書]]、2007年9月 ISBN 978-4582853926 * 中山康樹『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて』[[講談社現代新書]]、2000年2月 ISBN 4-06-149490-2 * {{Cite book|和書 |author = 中山康樹 |editor = |title = マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ |year = 2010 |publisher = 小学館 |series = 小学館101新書 |isbn = 4098250942 |page = }} * {{Cite book|和書 |author = ポール・メイハー、マイケル・ドーア |editor = |title = マイルス・オン・マイルス マイルス・デイヴィス インタヴュー選集 |year = 2011 |publisher = 宝島社 |series = |isbn = 4796676724 |page = }} * アシュリー・カーン『マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 モード・ジャズの原点を探る』(川嶋文丸訳、[[DU BOOKS]]、2014年) ISBN 9784907583224 * {{Cite book|和書 |author = |editor = ジャズ批評編集部 |title = 定本マイルス・デイヴィス |year = 1999 |publisher = [[松坂 (企業)|松坂]] |series = ジャズ批評ブックス |isbn = 4915557022 |page = }} * {{Cite book|和書 |author = |editor = ジャズ批評編集部 |title = JAZZトランペット |year = 2001 |publisher = 松坂 |series = ジャズ批評ブックス |isbn = 491555709X |pages = 80-81 }} * {{Cite book|和書 |author = |editor = ジャズ批評編集部 |title = 決定版ブルーノート・ブック 〜史上最強のジャズ・レーベルのすべて〜 |year = 1999 |publisher = 松坂 |series = ジャズ批評ブックス |isbn = 4915557014 |pages = 65,69,77,99 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ビバップ]] * [[クール・ジャズ]] * [[モード・ジャズ]] * [[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]] * [[:Category:マイルス・デイヴィスのアルバム]] * [[鎌状赤血球症]] == 外部リンク == {{wikiquote|en:Miles Davis|マイルス・デイヴィス}} {{commonscat|Miles Davis}} * [https://www.milesdavis.com/ MilesDavis.com](英語) * [https://wmg.jp/miles-davis/ ワーナーミュージック・ジャパン - マイルス・デイヴィス] * [https://www.universal-music.co.jp/miles-davis/ ユニバーサル ミュージック マイルス・デイヴィス] * [https://www.sonymusic.co.jp/artist/MilesDavis/ ソニーミュージック マイルス・デイヴィス] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ていういす まいるす}} [[Category:イリノイ州マディソン郡出身の人物]] [[Category:ロックの殿堂入りの人物]] [[Category:アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン]] [[Category:アメリカ合衆国のジャズ・トランペット奏者]] [[Category:フュージョン・ミュージシャン]] [[Category:EMIグループのアーティスト]] [[Category:コロムビア・レコードのアーティスト]] [[Category:ワーナー・ミュージック・グループのアーティスト]] [[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]] [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:グラミー賞受賞者]] [[Category:1926年生]] [[Category:1991年没]]
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1,997
Standard Generalized Markup Language
Standard Generalized Markup Language(スタンダード ジェネラライズド マークアップ ランゲージ、略:SGML)は、マニュアルなどの文書のためのマークアップ言語である。 1980年代、軍艦や軍用機などの際限のない高度化は、マニュアルの際限のない膨張という結果をもたらした。改良が加えられた時などにもマニュアルを書き直す作業が発生して業務の負担となっていた。このことから、マニュアルを電子化して容易に書き換えられるようにし、印刷用紙を大幅に削減することで、メンテナンスの簡素化をはかるための技術が必要とされた。 ただし、軍艦や軍用機などは数十年という長期間の保有が必要になるため、長期間にわたりデータが利用可能とならなければならない。電子文書は特定の企業のワープロソフトを用いるとそのソフトのバージョンが上がったり、最悪の場合そのソフトを開発している会社が開発を中止したり、倒産したりしてソフトウェアが無くなった場合は、今まで作成したデータが読めなくなるという問題が発生してしまう。そこで、プレーンテキストのみを用いて、「タグ」を使うことによってデータに意味を持たせることが考えられた。 1979年、IBMでプロジェクトマネージャをしていたチャールズ・ゴールドファーブ(英語版) は、Edward MosherおよびRaymond Lorieらとともに、「GML」(Generalized Markup Language) を発表し、それは「DCF」(Document Composition Facility) の名で商業化された。この成功でゴールドファーブは有名になり、IBMを退職してGMLの後継言語であるSGMLを開発することになったのである。 ISOのSGML規約は1986年の出版後2ヶ月も経たないうちにベストセラーとなった(その10年前に発売されたFORTRANのISO規約の部数を2ヶ月で超えた)。 SGMLは、ISOから正式に承認される以前から、すでに、アメリカ国防総省やECの公式出版事務局など、数々の公的機関で使用され始めていた。ゴールドファーブの古巣のIBM社でも導入され、同社の文書システムに大変革をおこした。ヨーロッパでもCERN(欧州原子核研究機構)など、広く採用され、例えばフランスを例に挙げると、エアバス社、SNECMA(フランス国営の航空機エンジンメーカー)およびフランス軍などで採用されることになった。 日本においては、厚生省への新薬申請のデータ形式としてSGMLが採用された。それに伴い製薬会社やその関連企業においても導入された。他にも特許庁などでも導入された。航空機産業・防衛産業、自動車産業においても海外との共同開発や部品供給時の情報交換やマニュアル・報告書の電子化などに利用されることとなった。 SGML文書を、人間が読めるように、レイアウトして表示することは、SGMLパーサという名のプログラムが行う。つまり構文解析およびレイアウトを行うプログラムである。SGMLパーサの最も初期の市販品としては、ブリュッセルのSOBEMAP社のものおよび、シカゴのDatalogics データロジックス社のものがあった。 SGMLは機能が満載されていたことにより、そのままでは全てを実装することは困難であった。また、タグの構造が原因で、パーサのアルゴリズムが比較的複雑になることも難点だった。そこで後に、SGMLを簡略化および改良した形のXMLが開発され、普及してゆくことになった。SGML文書はXML文書へと順次、変換・移行されることになった。 SGMLはこれら2つのマークアップ言語の源流であり、現在のインターネット利用者は皆SGMLの恩恵に浴しているのである。
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Standard Generalized Markup Languageは、マニュアルなどの文書のためのマークアップ言語である。
{{独自研究|date=2016年2月}} {{参照方法|date=2016年2月}} {{Infobox file format | name = Standard Generalized Markup Language | icon = | logo = | screenshot = [[ファイル:SGML.svg|200px]] | caption = | extension = | mime = application/sgml, text/sgml | type code = | uniform type = public.xml | magic = | owner = [[国際標準化機構|ISO]] | genre = [[メタ言語]] | container for = | contained by = | extended from = [[Generalized Markup Language|GML]] | extended to = [[HyperText Markup Language|HTML]], [[Extensible Markup Language|XML]] | standard = [http://www.iso.org/iso/en/CatalogueDetailPage.CatalogueDetail?CSNUMBER=16387 ISO 8879] }} {{lang|en|'''Standard Generalized Markup Language'''}}(スタンダード ジェネラライズド マークアップ ランゲージ、略:'''SGML''')は、[[マニュアル]]などの[[文書]]のための[[マークアップ言語]]である。 == 背景 == [[ファイル:OED-LEXX-Bungler.jpg|right|framed|[[オックスフォード英語辞典]]の電子版を記述するのにSGMLが利用された。]] 1980年代、[[軍艦]]や軍用機などの際限のない高度化は、マニュアルの際限のない膨張という結果をもたらした。改良が加えられた時などにもマニュアルを書き直す作業が発生して業務の負担となっていた。このことから、マニュアルを電子化して容易に書き換えられるようにし、印刷用紙を大幅に削減することで、メンテナンスの簡素化をはかるための技術が必要とされた。 ただし、軍艦や軍用機などは数十年という長期間の保有が必要になるため、長期間にわたりデータが利用可能とならなければならない。[[電子文書]]は特定の企業の[[ワープロソフト]]を用いるとそのソフトのバージョンが上がったり、最悪の場合そのソフトを開発している会社が開発を中止したり、倒産したりしてソフトウェアが無くなった場合は、今まで作成したデータが読めなくなるという問題が発生してしまう。そこで、[[プレーンテキスト]]のみを用いて、「タグ」を使うことによってデータに意味を持たせることが考えられた。 == 歴史 == [[1979年]]、[[IBM]]で[[プロジェクトマネージャ]]をしていた{{仮リンク|チャールズ・ゴールドファーブ|en|Charles Goldfarb}} は、Edward MosherおよびRaymond Lorieらとともに、「[[Generalized Markup Language|GML]]」(Generalized Markup Language) を発表し、それは「DCF」(Document Composition Facility) の名で商業化された。この成功でゴールドファーブは有名になり、IBMを退職してGMLの後継言語であるSGMLを開発することになったのである。 ISOのSGML規約は[[1986年]]の出版後2ヶ月も経たないうちに[[ベストセラー]]となった(その10年前に発売された[[FORTRAN]]のISO規約の部数を2ヶ月で超えた)。 SGMLは、[[国際標準化機構|ISO]]から正式に承認される以前から、すでに、[[アメリカ国防総省]]や[[欧州共同体|EC]]の公式出版事務局など、数々の公的機関で使用され始めていた。ゴールドファーブの古巣のIBM社でも導入され、同社の文書システムに大変革をおこした。ヨーロッパでもCERN([[欧州原子核研究機構]])など、広く採用され、例えばフランスを例に挙げると、[[エアバス]]社、[[SNECMA]](フランス国営の航空機エンジンメーカー)およびフランス軍などで採用されることになった。 日本においては、[[厚生省]]への[[新薬]]申請のデータ形式としてSGMLが採用された。それに伴い[[製薬会社]]やその関連企業においても導入された。他にも[[特許庁]]などでも導入された。[[航空機産業]]・[[防衛産業]]、[[自動車産業]]においても海外との[[共同開発]]や部品供給時の[[情報交換]]や[[マニュアル]]・報告書の[[電子化]]などに利用されることとなった。 == 特徴 == * SGMLは「'''インスタンス'''」、「'''[[Document Type Definition|DTD]]'''」、「'''SGML宣言'''」の3つで構成されている。 * SGMLのデータ自体は[[プレーンテキスト]]で作られている。 * [[レイアウト]]情報は[[スタイルシート]]を組み合わせて記述される。 * [[スタイルシート]]は「スタイルシート言語」で記述されている。 * 通常、人が読む時は、上記[[スタイルシート]]に沿って、レイアウトを整えられたうえで表示(出力)される。 * SGMLで使うことができるスタイルシート言語として、[[Document Style Semantics and Specification Language|DSSSL]] (Document Style Semantics and Specification Language) の規格が定められた<ref group="注">HTMLでのスタイルの記述は [[Cascading Style Sheets|CSS]] (Cascading Style Sheets) による。</ref>。 == 簡単な例 == <syntaxhighlight lang="xml"> <!DOCTYPE memo PUBLIC "-//SuzukiCorp//DTD Memo//JP"> <memo> <from>木村 <to>富田様 <date>2001/10/01 <subject>役員会議 <para>役員会議の場所は会議室Bに変更になりました。 </memo> </syntaxhighlight> == パーサ == SGML文書を、人間が読めるように、レイアウトして表示することは、'''SGMLパーサ'''という名のプログラムが行う。つまり[[構文解析]]およびレイアウトを行うプログラムである。SGMLパーサの最も初期の市販品としては、ブリュッセルの[[SOBEMAP]]社のものおよび、シカゴのDatalogics [[データロジックス]]社<ref group="注">http://www.datalogics.com/</ref>のものがあった。<ref group="注">注:SGMLパーサは、SGML文書の文法が規則に適合しているか検証する機能も持っており、そうした機能のためにだけ使われることもある。出典 http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/rec-html401j/sgml/intro.html#h-19.1</ref> == 問題 == SGMLは機能が満載されていたことにより、そのままでは全てを実装することは困難であった。また、タグの構造が原因で、パーサのアルゴリズムが比較的複雑になることも難点だった。そこで後に、SGMLを簡略化および改良した形の[[Extensible Markup Language|XML]]が開発され、普及してゆくことになった。SGML文書はXML文書へと順次、変換・移行されることになった。 == 貢献 == * 上記のごとく、SGMLをもとにして、[[Extensible Markup Language|XML]]が開発された<ref group="注">SGMLとXMLの対応(比較)については、[[ジェームズ・クラーク (ソフトウェア技術者)|ジェームズ・クラーク]]による「Comparison of SGML and XML」というタイトルの、1997年12月15日に議論のためにまとめられた(何らかの公式のものではない)ノートがあり、それによればSGML (ISO 8879) とXMLの関係はスーパーセットともサブセットとも結論付けられてはいない。XML 1.0のAppendix CではNon-Normative(参考)として、XMLはSGMLのサブセットとなる'''べく'''設計され(designed to be)、全てのXML文書は同時にSGMLにもconforming(準拠)でもある'''べき'''(should)と書かれており、前述のノートを参照せよとされている。国際標準は [[国際標準化機構|ISO]] 8879:1986 であり、対応するJISとして JIS X 4151:1992 が存在する。</ref>。 * SGMLを基にした応用技術の一つが、[[HyperText Markup Language|HTML]]である<ref group="注">HTML4までのHTMLはSGML応用系とされていたが、[[HTML5]]以降はSGML応用系ではない。</ref>。[[ウェブページ]]を記述する言語[[HyperText Markup Language|HTML]]なくしては現在の爆発的なインターネットの普及は考えられない。 SGMLはこれら2つの[[マークアップ言語]]の源流であり、現在のインターネット利用者は皆SGMLの恩恵に浴しているのである。 == 参考文献 == * 『SGML入門』Martin Bryan 著、山崎俊一、福島誠 訳、アスキー出版局、1991年 ISBN 4-7561-0069-4 == 注釈 == <references group="注"/> == 出典 == <references/> == 関連項目 == * [[Document Type Definition]] (DTD) ** [[文書型宣言]] * [[Document Style Semantics and Specification Language]] (DSSSL) * [[Extensible Markup Language]] (XML) * [[HyperText Markup Language]] (HTML) * [[マークアップ言語]] * [[SGML実体]] == 外部リンク == * [http://www.sgmlsource.com/history/index.htm The SGML History Niche] * [http://xml.coverpages.org/tunnicliffe.html SGML: In memory of William W. Tunnicliffe] * [http://www1.u-netsurf.ne.jp/~7l1rll/SGMLindex.html JIS X 4151-1992 文書記述言語SGML] {{Normdaten}} [[Category:マークアップ言語]] [[Category:データモデリング]] [[Category:JIS]] [[Category:ISO標準]]
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1,998
リズム・アンド・ブルース
リズム・アンド・ブルース(英: rhythm and blues)は、ポピュラー・音楽のジャンルである。略称はR&B(アール・アンド・ビー)。 激しいビートに乗せて、ブルースやゴスペルに影響された歌を叫ぶように歌うのが特徴である。ロックンロールなどのジャンルにも影響を与えた。第二次世界大戦後、ニューヨークやデトロイト、シカゴ、メンフィ、フィラデルフィア、ニューオリンズのような都市でジャズやブルース、ゴスペルなどが混ざり合い、誕生した。 戦前にすでに存在した黒人音楽と関係の深いジャンルには、ラグタイム、ブルース、ジャズ、スウィング、ジャイブなどがあった。R&Bは戦前には、まだジャンルとしては確立されていなかったが、ビルボード誌上では1943年ごろには、早くも記事の中にリズム&ブルースの記述が見られた。正式に音楽ジャンル名としてビルボードが使用したのは、1947年にビルボード誌のジェリー・ウェクスラーの提案によるものである。ウェクスラーが名付けるまでは、アフリカ系アメリカ人の音楽を「レイス・ミュージック」と呼び、ビルボード誌でも順位をレイス・ミュージック・チャートとして発表していた。しかし1947年に、もう人種的視点で呼ぶ時代ではないだろう、という議論がビルボード誌編集部内でおこなわれた。後日ウェクスラーが「リズム・アンド・ブルースはどうか」と提案した事から、これが採用されている。 ロックンロールは白人のカントリーと黒人のブルースの融合から、1954年か55年ごろに生まれたとされているが、R&Bの影響も大きかった。その後、リズム・アンド・ブルースは、1960年代にはソウルミュージックとも呼ばれるようになる。当時、両ジャンルに明確な区別をつけるのは難しかった。1960年代のアメリカでは公民権運動による黒人たちの地位向上と共に、彼らのアイデンティティを高揚し、アフリカンアメリカンとしてのルーツを誇示する傾向があらわれた。ソウル/R&Bは彼らの音楽であるだけでなく、もっと幅広い黒人生活全般を示すキーワードにもなった。 Motownは、1960年にスモーキー・ロビンソン&ミラクルズの "Shop Around"をヒットさせた。また南部では1961年にカーラ・トーマスの "Gee Whiz!がヒットした Staxレコードの次のメジャーヒットであるThe Mar-Keysの "Last Night"(1961年にリリース)によりメンフィスの純粋な南部サウンドをリリースするスタックス・レコードが知名度をあげた。 ジャマイカでは、R&Bがスカの発展に影響を与えた。R&B界には、サム・クックやジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、オーティス・レディングらの大スターが誕生した。1970年代にはストリングスを使用したフィリー・ソウルも登場した。フィリー・ソウルの代表的なミュージシャンには、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ、ビリー・ポールらがいた。北部・東部のソウルだけでなく、1970年代にはアル・グリーンを擁したハイ・レコードのような南部のレーベルも活発に活動していた。 歌唱なしのR&Bインストルメンタルの音楽家には、ビル・ドゲット、ブッカーT&MGs、キング・カーティスや、ジュニア・ウォーカー&オール・スターズらがいた。他にもザ・JBズ、ハイ・リズム、マーキーズ、フェイム・ギャング、マッスルショールズ・リズム・セクションらも活躍した。ジュニア・ウォーカーのヒット曲には一部ヴォーカルも入っているが、フォリナーの曲をカバーした「アージェント」などは、完全にインスト曲になっている。 1960年代にリズム・アンド・ブルースはヨーロッパにも渡り、流行に敏感な若者たちの一部を虜にし、やがて彼らは自らリズム・アンド・ブルースを演奏するようになった。ヴァン・モリソンとゼムや、スティーヴ・ウィンウッドとスペンサー・デイヴィス・グループ、アニマルズらはR&Bを演奏し、レコードを発表した。こうして、リズム・アンド・ブルースは米国から世界へと広がっていった。 日本でも1960年代には内田正人のキングトーンズ、和田アキ子、ザ・ボルテージ(桜井ユタカが歌唱指導)、安田明とビートフォークらが和製R&Bとして登場した。1970年以降は、大橋純子、宮本典子(mimi)、シャネルズ/ラッツ&スター、鈴木雅之、鈴木聖美らが和製R&Bの曲を録音した。その後、1980年代から1990年代には久保田利伸やバブルガム・ブラザーズがヒット曲を発表した。 小柳ゆきの「あなたのキスを数えましょう」は1990年代の代表的な楽曲だった。ブラザー・トムは、HUMAN SOUL 、REAL BLOODなどのR&Bグループを結成した。カンニング竹山は、左とん平の「ヘイ・ユウ・ブルース」をカバーしている。 やがてリズム・アンド・ブルースはより洗練された方向に発展していき、1980年代以降はブラック・コンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれることもあった。代表的な歌手にはフレディ・ジャクソン、ルーサー・ヴァンドロスらがいたが、本来のR&Bの名にふさわしいのは、グレン・ジョーンズのような「ゴスペル・ルーツ」の歌手である。1990年代以降は、ソウルがブルース的位置づけで分離され、当時の若手のガイやジョディシィ、メアリー・J. ブライジなどがリズム・アンド・ブルース (R&B) と呼ばれるようになった。呼称は1960年代と同じであるものの、ヴォーカルやサウンドが洗練され、大きく変化してしまっている1950〜1970年代の黒人音楽を聴いてきた層にとっては、現在の「リズム・アンド・ブルース (R&B)」と呼ばれる音楽に違和感を覚える者も多い。
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リズム・アンド・ブルースは、ポピュラー・音楽のジャンルである。略称はR&B(アール・アンド・ビー)。 激しいビートに乗せて、ブルースやゴスペルに影響された歌を叫ぶように歌うのが特徴である。ロックンロールなどのジャンルにも影響を与えた。第二次世界大戦後、ニューヨークやデトロイト、シカゴ、メンフィ、フィラデルフィア、ニューオリンズのような都市でジャズやブルース、ゴスペルなどが混ざり合い、誕生した。
{{Redirect|リズム&ブルース|バディ・ガイのアルバム|リズム&ブルース (バディ・ガイのアルバム)|ロバート・パーマーのアルバム|リズム&ブルース (ロバート・パーマーのアルバム)}} {{Redirect|R&B}} {{Otheruses||また現代的なスタイルの“R&B”と呼ばれるジャンル|コンテンポラリー・R&B}} {{Infobox Music genre | name = リズム・アンド・ブルース | color = white | bgcolor = #0000E9 | stylistic_origins =[[ブルース]]<ref>[http://www.tapthepop.net/news/42875 R&B] 2023年3月31日閲覧</ref>、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]<ref>[https://gospelmusic.org/black-history-month-new-radio-doc-examines-the-gospel-roots-of-rock-soul-rb/ ゴスペル] 2023年3月31日閲覧</ref> | instruments = [[ドラムセット]]、[[ベース・ギター]]、[[サクソフォーン]]、[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[ピアノ]]、[[オルガン]]、[[エレクトリック・ギター]] | popularity = 1940年代後半-1970年代前半 | derivatives = [[ファンク]]、[[スカ]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[レゲエ]]、[[ロック・ステディ]]、[[ヒップホップ]] |subgenrelist = |subgenres = [[コンテンポラリー・R&B]] |fusiongenres = [[アーバン・コンテンポラリー]] |regional_scenes = |local_scenes = |other_topics = }} '''リズム・アンド・ブルース'''({{lang-en-short|''rhythm and blues''}})は、ポピュラー・[[音楽のジャンル]]である。略称は'''R&B'''(アール・アンド・ビー)。 激しい[[ビート_(音楽)|ビート]]に乗せて、[[ブルース]]や[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]に影響された歌を叫ぶように歌うのが特徴である。[[ロックンロール]]などのジャンルにも影響を与えた<ref>松村明『大辞林』三省堂</ref>。[[第二次世界大戦]]後、[[ニューヨーク]]や[[デトロイト]]、[[シカゴ]]、[[メンフィ]]、[[フィラデルフィア]]、[[ニューオリンズ]]のような都市で[[ジャズ]]や[[ブルース]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]などが混ざり合い、誕生した<ref>[https://www.encyclopedia.com/history/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/rhythm-and-blues R&B] - Encyclopedia.com</ref>。 == 概要 == [[戦前]]にすでに存在した[[黒人]]音楽と関係の深いジャンルには、[[ラグタイム]]、ブルース、ジャズ、スウィング、[[ジャイブ]]などがあった。R&Bは戦前には、まだジャンルとしては確立されていなかったが、ビルボード誌上では1943年ごろには、早くも記事の中にリズム&ブルースの記述が見られた。正式に音楽ジャンル名としてビルボードが使用したのは、[[1947年]]に[[ビルボード|ビルボード誌]]の[[ジェリー・ウェクスラー]]<ref>Weber, Bruce (August 15, 2008). "Jerry Wexler, a Behind-the-Scenes Force in Black Music, Is Dead at 91". The New York Times. Retrieved July 27, 2019. "Jerry Wexler, who as a reporter for Billboard magazine in the late 1940s christened black popular music with the name 'rhythm and blues,' and who as a record producer helped lead the genre to mainstream popularity, propelling the careers of Ray Charles, Wilson Pickett, Aretha Franklin and other performers, died on Friday at his home in Sarasota, Fla. He was 91." </ref>の提案によるものである<ref name="sacks">Sacks,Leo(Aug. 29, 1993). [http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE7D7163BF93AA1575BC0A965958260 "The Soul of Jerry Wexler"]. ''New York Times''. Retrieved on Jan. 11, 2007.</ref>。ウェクスラーが名付けるまでは、[[アフリカ系アメリカ人]]の音楽を「レイス・ミュージック」と呼び、[[ビルボード]]誌でも順位をレイス・ミュージック・チャートとして発表していた。しかし[[1947年]]に、もう人種的視点で呼ぶ時代ではないだろう、という議論がビルボード誌編集部内でおこなわれた。後日ウェクスラーが「リズム・アンド・ブルースはどうか」と提案した事から、これが採用されている。 [[ロックンロール]]は白人のカントリーと黒人のブルースの融合から、1954年か55年ごろに生まれた<ref group="注">エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ビル・ヘイリーと彼のコメッツらが、ロックンロールの代表的な音楽家である</ref>とされているが、R&Bの影響も大きかった。その後、リズム・アンド・ブルースは、[[1960年代]]には[[ソウルミュージック]]とも呼ばれるようになる。当時、両ジャンルに明確な区別をつけるのは難しかった。1960年代の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では公民権運動による[[黒人]]たちの地位向上と共に、彼らの[[アイデンティティ]]を高揚し、アフリカンアメリカンとしてのルーツを誇示する傾向があらわれた。ソウル/R&Bは彼らの音楽であるだけでなく、もっと幅広い黒人生活全般を示すキーワードにもなった。 == 詳細 == Motownは、1960年に[[スモーキー・ロビンソン|スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ]]の "Shop Around"をヒットさせた。また南部では1961年に[[カール・トーマス (歌手)|カーラ・トーマス]]の "Gee Whiz!がヒットした [[スタックス・レコード|Staxレコード]]の次のメジャーヒットであるThe Mar-Keysの "Last Night"(1961年にリリース)によりメンフィスの純粋な南部サウンドをリリースする[[スタックス・レコード]]が知名度をあげた<ref>{{cite web|url=http://www.mp3fiesta.com/mar_keys_last_night_song1014658/|title=Mar-Keys – Last Night – Billboard Top 100 – 1961 – Top Billboard – mp3 song hits download full albums in mp3|website=Mp3fiesta.com|accessdate=December 11, 2019}}</ref>。 ジャマイカでは、R&Bがスカの発展に影響を与えた。R&B界には、[[サム・クック]]や[[ジェームス・ブラウン]]、[[アレサ・フランクリン]]、[[オーティス・レディング]]<ref group="注">飛行機事故で死亡後に「ドック・オブ・ザ・ベイ」がヒット。</ref>らの大スターが誕生した。[[1970年代]]には[[ストリングス]]を使用した[[フィラデルフィア・ソウル|フィリー・ソウル]]も登場した。フィリー・ソウルの代表的なミュージシャンには、[[オージェイズ]]、[[ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ|ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ]]、[[ビリー・ポール]]らがいた。北部・東部のソウルだけでなく、1970年代には[[アル・グリーン]]を擁した[[ハイ・レコード]]<ref group="注">ウィリー・ミッチェルが所有したレーベル</ref>のような南部のレーベルも活発に活動していた。 == R&Bインスト == 歌唱なしのR&Bインストルメンタルの音楽家には、[[ビル・ドゲット]]、[[ブッカー・T&ザ・MG's|ブッカーT&MGs]]、[[キング・カーティス]]や、[[ジュニア・ウォーカー|ジュニア・ウォーカー&オール・スターズ]]<ref>{{cite web |title=Junior Walker |url=https://www.allmusic.com/artist/junior-walker-mn0000304284/biography |website=AllMusic |accessdate=8 August 2020}}</ref>らがいた。他にも[[ザ・JBズ]]、ハイ・リズム、[[マーキーズ]]、フェイム・ギャング、[[マッスルショールズ・リズム・セクション]]らも活躍した。ジュニア・ウォーカーのヒット曲には一部ヴォーカルも入っているが、[[フォリナー]]の曲をカバーした「アージェント」などは、完全にインスト曲になっている。 == ホワイトR&B == 1960年代にリズム・アンド・ブルースは[[ヨーロッパ]]にも渡り、流行に敏感な若者たちの一部を虜にし、やがて彼らは自らリズム・アンド・ブルースを演奏するようになった。[[ヴァン・モリソン]]と[[ゼム]]や、[[スティーヴ・ウィンウッド]]と[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]<ref group="注">「ギミ・サム・ラヴィン」などのブルーアイド・ソウル曲が有名</ref>、[[アニマルズ]]らはR&Bを演奏し、レコードを発表した<ref>[https://www.theguardian.com/culture/2014/nov/18/how-we-made-keep-on-running-spencer-davis-group Spencer Davis group] Guardian. 2023年2月3日閲覧</ref>。こうして、リズム・アンド・ブルースは米国から世界へと広がっていった。 == 和製R&B == 日本でも1960年代には[[内田正人 (ミュージシャン)|内田正人]]の[[ザ・キング・トーンズ|キングトーンズ]]<ref>https://www.billboard-japan.com/goods/detail/567266</ref>、[[和田アキ子]]、[[ザ・ボルテージ]]([[桜井ユタカ]]が歌唱指導)、[[安田明とビートフォーク]]らが和製R&Bとして登場した。1970年以降は、[[大橋純子]]、[[宮本典子|宮本典子(mimi)]]、[[ラッツ&スター|シャネルズ/ラッツ&スター]]、[[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[鈴木聖美]]らが和製R&Bの曲を録音した。その後、1980年代から1990年代には[[久保田利伸]]や[[バブルガム・ブラザーズ]]がヒット曲を発表した。 [[小柳ゆき]]の「あなたのキスを数えましょう」は1990年代の代表的な楽曲だった。[[ブラザー・トム]]は、HUMAN SOUL 、REAL BLOODなどのR&Bグループを結成した。[[カンニング竹山]]は、[[左とん平]]の「ヘイ・ユウ・ブルース」をカバーしている。 == 1980年代以降 == やがてリズム・アンド・ブルースはより洗練された方向に発展していき、[[1980年代]]以降は[[ブラック・コンテンポラリー]](ブラコン)と呼ばれることもあった。代表的な歌手にはフレディ・ジャクソン<ref group="注">1985年に「ロック・ミー・トゥナイト」がポップ、ソウル両チャートでヒット。</ref>、ルーサー・ヴァンドロスらがいたが、本来のR&Bの名にふさわしいのは、[[グレン・ジョーンズ]]のような「ゴスペル・ルーツ」の歌手である。[[1990年代]]以降は、ソウルがブルース的位置づけで分離され、当時の若手のガイ<ref group="注">テディ・ライリーによるニュー・ジャック・スウィングの代表的なグループ</ref>やジョディシィ、[[メアリー・J. ブライジ]]などがリズム・アンド・ブルース (R&B) と呼ばれるようになった。呼称は1960年代と同じであるものの、{{要出典範囲| ヴォーカルやサウンドが洗練され、大きく変化してしまっている1950〜1970年代の黒人音楽を聴いてきた層にとっては、現在の「リズム・アンド・ブルース (R&B)」と呼ばれる音楽に違和感を覚える者も多い |date=2023年7月}}。 == サブ・ジャンル == * [[ブラックミュージック]] ** [[ブルース]] ** [[ゴスペル・ミュージック]] ** リズム・アンド・ブルース ** [[ソウルミュージック]] *** [[ブルー・アイド・ソウル]] *** [[サザン・ソウル]] **** [[メンフィス・ソウル]] *** [[ノーザン・ソウル]] **** [[モータウン]] **** [[シカゴ・ソウル]] **** [[フィリー・ソウル]] *** [[ファンク]] **** [[ジャズ・ファンク]] *** [[ブラック・コンテンポラリー]] *** [[ニュージャックスウィング]] *** [[ヒップホップ・ソウル]] *** [[グラウンド・ビート]]<ref group="注">日本独自表現。ソウルIIソウルが有名</ref> *** [[クワイエット・ストーム]] *** [[ネオ・ソウル]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アメリカ合衆国南部]] * [[アメリカ合衆国の音楽]] * [[ブルース]] * [[青山ミチ]] - 父親はアメリカ白人である {{音楽}} {{ブルース}} {{リズム・アンド・ブルース}} {{日本の音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りすむあんとふるうす}} [[Category:R&B|*]] [[Category:アメリカ合衆国の音楽]] [[Category:ポピュラー音楽]] [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の歴史]]
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Unicode
Unicode(ユニコード)は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界標準規格。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること(「Uni」という名はそれに由来する)などが特徴である。 従来、各国の標準化団体あるいは各コンピュータメーカーによって独自に開発されていた個々の文字コードの間には互換性がなかった。ISO/IEC 2022のように複数の文字コードを共存させる方法も考案されたが、例えば日本語の漢字と中国語の漢字のように、文字が重複する短所がある。一方Unicodeは、微細な差異はあっても本質的に同じ文字であれば一つの番号を当てる方針で各国・各社の文字コードの統合を図った規格である。1980年代に、Starワークステーションの日本語化(J-Star)などを行ったゼロックスが提唱し、マイクロソフト、Apple、IBM、サン・マイクロシステムズ、ヒューレット・パッカード、ジャストシステムなどが参加するユニコードコンソーシアムにより作られた。国際規格のISO/IEC 10646とUnicode規格は同じ文字コード表になるように協調して策定されている。 Unicodeは世界で使われる全ての文字を共通の文字集合にて利用できるようにしようという考えで作られ、Unix、Windows、macOS、Plan 9などの様々なオペレーティングシステムでサポートされている。Javaや.NETのようなプログラミング環境でも標準的にサポートされている。現代の文字だけでなく古代の文字や歴史的な文字、数学記号、絵文字なども含む。 Unicode以前の文字コードとの相互運用性もある程度考慮されており、歴史上・実用上の識別が求められる場合には互換領域がとられ、元のコード→Unicode→元のコードというような変換(ラウンドトリップ変換)において、元通りに戻るよう配慮されている文字もある。しかし、正規のJIS X 0208の範囲内であればトラブルは少ないが、複数の文字集合が混在していたり、文字集合の亜種ごとにマッピング(対応づけ)が異なる文字(機種依存文字)を含んでいたりする場合、変換テーブルによるマッピングが不可逆変換となり文字化けを起こすことがある。 文字コードは、Unicode文字符号化モデルによると以下の4段階に分けられる: その後、バイト列を、gzipなどで圧縮したり、7ビット伝送路に通すためにBase64やQuoted-printableなどで変換したりすることがあるが、これらは文字コードの管轄範囲外である。 Unicodeの文字集合の符号空間は0 - 10FFFF16で111万4,112の符号位置がある。Unicode 12.1(2019年5月7日公表)では13万7,929個 (12%) の文字が割り当てられ、65個を制御文字に使い、13万7,468符号位置 (12%) を私用文字として確保している。また、2,048文字分をUTF-16のための代用符号位置に使用しており、加えて66の特別な符号位置は使われない。残りの83万6,536符号位置 (75%) は未使用である。 文字を特定する場合にはUnicode符号位置や一意につけられた名前が使われる。例えば、アルファベット小文字の「a」はU+0061 (LATIN SMALL LETTER A)、八分音符「♪」はU+266A (EIGHTH NOTE) である。Unicode符号位置を文章中などに記す場合は "U+" の後に十六進法で符号位置を4桁から6桁続けることで表す。また、符号空間のうち代用符号位置を除く符号位置をUnicodeスカラ値という。 収録されている文字は、各国で標準として規定されている文字集合や実際に使用されている文字を持ち寄り、委員会により取捨選択されている。日本の文字については当初よりJIS X 0201、JIS X 0208、JIS X 0212を、Unicode 3.1からはJIS X 0213の内容も収録している。 また収録において、元の各文字集合内で分離されている文字は尊重するが、異なる文字集合に同一の文字が収録されているとみなされるものは、同じ符号位置に割り当てる方針を取っている。この際に集合が膨大であるという理由で、漢字について、中国、日本、韓国の各規格の漢字を統合しCJK統合漢字としたことは大きな議論となった。 現在では独自創作の絵文字の追加等、当初の目的である「各国・各社の文字コードの統合」から外れた動きも進んでいる。 Unicodeに収録されている文字については、「ブロックの一覧」を参照。 Unicodeでは文字符号化形式としてUTF-8、UTF-16、UTF-32の3種類が定められている。 UTF-8は1符号化文字を1〜4符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は8ビットである。 UTF-16は1符号化文字を1〜2符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は16ビットである。基本多言語面の文字を符号単位一つで、その他の文字をサロゲートペア(代用対)という仕組みを使い符号単位二つで表現する。 UTF-32は1符号化文字を1符号単位で表す固定幅文字符号化形式で、1符号単位は32ビットである。ただし、Unicodeの符号空間がU+10FFFFまでであるため、実際に使われるのは21ビットまでである。 Unicodeでは文字符号化方式としてUTF-8、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LE、UTF-32、UTF-32BE、UTF-32LEの7種類が定められている。それぞれの符号化形式に対応する符号化方式は表の通り。 文字符号化形式との違いは、文字符号化形式がプログラム内部で文字を扱う場合に符号なし整数として文字を表現する方法なのに対し、文字符号化方式は入出力時にバイト列として表現する方法である。UTF-8は符号単位が8ビットであるため区別する意味はない。 以下はエイプリルフールに公開されたジョークRFCである (RFC 4042)。UTF-9に関しては同名の規格が実際に検討されていた(ただし、内容は大きく異なる)が、ドラフト段階で破棄されているため重複にはならない。 以下はドラフト段階で破棄された規格案。 1980年代の当初の構想では、Unicodeは16ビット固定長で、2 = 6万5,536 個の符号位置に必要な全ての文字を収録する、というもくろみであった。しかし、Unicode 1.0公表後、拡張可能な空き領域2万字分を巡り、各国から文字追加要求が起こった。その内容は中国、日本、台湾、ベトナム、シンガポールの追加漢字約1万5千字、古ハングル約5千字、未登録言語の文字などである。このようにしてUnicodeの、16ビットの枠内に全世界の文字を収録するという計画は早々に破綻し、1996年のUnicode 2.0の時点で既に、文字集合の空間を16ビットから広げることが決まった。この時、それまでの16ビットを前提としてすでに設計されていたシステム(たとえばJavaのchar型や、Windows NT・Windows 95のAPI)をなるべくそのままにしたまま、広げられた空間にある符号位置を表現する方法として、サロゲートペアが定義された。 サロゲートペア(代用対)は16ビットUnicodeの領域1,024文字分を2つ使い(前半 U+D800 〜 U+DBFF、後半 U+DC00 〜 U+DFFF)、各々1個ずつからなるペアで1,024 × 1,024 = 1,048,576文字を表す。これはちょうど16面分であり、第1面〜第16面(U+010000 〜 U+10FFFF)の文字をこれで表すこととした。加えて第0面(基本多言語面)も使用可能なので、Unicodeには合計で 1,048,576 + 65,536 - 2,048 = 111万2,064文字分の空間が確保されたことになる。Unicodeの符号空間が10FFFF16まで(サロゲート領域を除いて111万2,064文字)とされているのはUTF-16が表現可能な限界だからである。 サロゲートはUnicodeの符号位置の U+010000 〜 U+10FFFF の範囲を16ビットユニットのペア(2つ)で表現する集合で、最初の16ビットユニットを前半サロゲートもしくはハイサロゲート、二番目を後半サロゲートもしくはローサロゲートと称する。ハイサロゲートは U+D800 〜 U+DBFF の範囲、ローサロゲートは U+DC00 〜 U+DFFF の範囲である。 サロゲートペアはUTF-16でのみ使われ、UTF-8、UTF-32ではすべての符号位置を符号化できるためこのような特別な処理は必要ない。 サロゲートのエンコーディングは、符号位置を C P {\displaystyle CP} 、ハイサロゲートを H S G {\displaystyle HSG} 、ローサロゲートを L S G {\displaystyle LSG} とすると次の通りに計算する。 デコーディングは、 である。 次の表は、この文字変換と他をまとめたものである。 色は、コードポイントからのビットがUTF-16バイトにどのように分配されるかを示した。 なお、UTF-16エンコーディングプロセスによって追加された追加ビットは黒で示されている。 一つの面は6万5536個の符号位置がある。 日本では2000年にJIS X 0208を拡張する目的でJIS X 0213(いわゆるJIS第3・第4水準)が制定されたが、この際、新たに採用された文字でUnicodeになかったものの一部は、BMPに収録できず、第2面への収録となった(Unicodeが最終的にJIS X 0213への対応を完了したのは2002年である)。このため、JIS X 0213収録文字をUnicodeで完全にサポートするには、追加漢字面をサポートしたOS、フォント、アプリケーションが必要となる。Shift_JISなど、Unicodeにて規定されるもの以外のエンコーディングを利用する場合であっても、JIS X 0213に対応するフォントやアプリケーションが必要である。 常用漢字の2010年改定で追加された字のうち「𠮟」はU+20B9Fで、追加漢字面に含まれる。そのため、改定後の常用漢字完全サポートを謳う場合、Unicodeに対応していて更にこの拡張領域にも対応している必要があると言える。ただ、現状ではこの字は、JIS X 0208に含まれる(=当然、Unicode策定当初からBMPに収録されている)異体字の「叱」(U+53F1) で代用されることが多い。 1984年、ISOの文字コード規格委員会 (ISO/TC 97/SC2) は文字セットの切り替えを行わずに世界中の文字を単一の文字集合として扱える文字コード規格 (ISO 10646) を作成することを決定し、専門の作業グループ (ISO/TC 97/SC 2/WG 2) を設置し、作業を始めていた。1980年代後半にはこの作業グループにおいてさまざまな提案が検討されている。1990年になって出来あがったISO/TC 97/SC 2/WG 2作成のISO 10646の初版ドラフト(DIS 10646#DIS 10646第1版)では、漢字コードは32ビットで表現され、各国の漢字コードはそのまま入れることになった。しかし中国は漢字を各国でばらばらに符号化するのではなく、あくまで統一して扱うことを求めてこのドラフトには当初から反対しており、今後の漢字コードの方針を決めるため、WG 2は CJK-JRG (Joint Research Group) と呼ばれるグループを別途設置し、そこで引き続き検討することにした。 このような公的機関の動きとは別に、1987年頃からXeroxのJoe BeckerとLee Collinsは、後にUnicodeと呼ばれるようになる、世界中の文字を統一して扱える文字コードを開発していた。1989年9月には「Unicode Draft 1」が発表された。ここではその基本方針として、2オクテット(16ビット)固定長で全ての文字を扱えることを目指しており、そのために日本・中国・韓国の漢字を統一することで2万弱の漢字コードを入れ、さらに将来の拡張用に、3万程度の漢字の空き領域が別に用意されていた。このドラフトは少しずつ改良を加えられながら1990年4月にUnicode Draft 2、同年12月Unicode Final Draftとなった。さらに1991年1月にはこのUnicode Final Draftに賛同する企業によって、ユニコードコンソーシアムが設立された。 1991年6月、ISO/IEC 10646による4オクテット固定長コードを主体としたドラフト「DIS 10646第1版」は、2オクテット固定長コードであるUnicodeとの一本化を求める各国により否決され、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。また中国およびユニコードコンソーシアムの要請により、CJK-JRGにおいて、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。CJK-JRGは各国の漢字コードに基づき独自の統合規準を定め、ISO 10646 / Unicode用の統合漢字コード表を作成することになった。CJK-JRGの会合は第1回が7月22日から24日にかけて東京で、第2回の会合が9月17日から19日にかけて北京で、第3回が11月25日から29日にかけて香港で開催された。これらの討議の結果、1991年末になって「ISO 10646=Unicode」用の統合漢字コード表が Unified Repertoire and Ordering (URO) の第1版として完成した。 Unicodeの最初に印刷されたドキュメントであるUnicode 1.0は、統合漢字表の完成に先行して漢字部分を除いたUnicode 1.0, Vol.1が1991年10月に出版され、後に1992年になって漢字部分だけのUnicode 1.0, Vol.2が出版された。 1992年、CJK統合漢字URO第二版が完成し、これを取り込んだ(ただし、UROには若干の間違いが発見されており、それらの修正が行われている。)DIS 10646第2版が、5月30日の国際投票で可決された。 1993年5月1日 「ISO/IEC 10646-1: 1993 Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane」が制定される。同年翌6月にUnicode 1.0は ISO/IEC 10646-1:1993にあわせた変更を行いUnicode 1.1となり、以後UnicodeとISO/IEC 10646とは歩調を合わせて改訂されていくことになる。 Unicodeのバージョンは、メジャーバージョン (the major version)、マイナーバージョン (the minor version)、アップデートバージョン (the update version) の3つの部分から構成され、ピリオドでつなげて表示される。ただし、マイナーバージョン及びアップデートバージョンについては0の場合には省略して表示されることもある。メジャーバージョンはレパートリーの追加のような重要な変更が行われたときに改定される。Unicodeのドキュメントは書籍形態と電子版ドキュメント形態の両方で公表され、どちらもUnicodeについての正式なドキュメントであるとされている。新たなバージョンがリリースされたときは新たなドキュメントが公表されるが、書籍として刊行されるのはメジャーバージョンが改定された場合および重要なマイナーバージョンの改定があった場合のみである。書籍版のバージョン1.0は、2巻に分けて刊行され、統合漢字部分を除いた第1巻は1991年10月に、統合漢字部分の第2巻は1992年6月に刊行された。そのため第1巻のみのものをUnicode 1.0.0、第2巻を含めたものをUnicode 1.0.1と呼ぶことがある。 Unicodeのそれぞれのバージョン番号とその制定年月日、収録文字数他の特徴は以下の通りである。 Unicodeのバージョンには、上記のような「Unicodeの規格全体に付けられたバージョン」の他に「Unicodeを構成する個々の要素の規格に付けられたバージョン」が存在する。これに該当するものとしては、Unicodeを構成する各面ごとに付けられたバージョンや、Unicodeに収録されないこととされたスクリプトのリスト (NOR = Not The Roadmap) に付けられたバージョン、規格の一部を構成するUnicode Technical Note(Unicode技術ノート)、Unicode Technical Report(Unicode技術報告)、Unicode Technical Standard(Unicode技術標準)のバージョンなどが存在する。 Unicodeは同一のコードでもバージョンが変わったとき完全に異なった文字を定義し直したことがある。 そのうち最大のものがUnicode 2.0での「ハングルの大移動」である。これはUnicode 1.1までで定義されていたハングルの領域を破棄し、新しいハングルの領域を別の位置に設定し、破棄された領域には別の文字の領域を割り当てることとなった。その後、Unicode 3.0では、従来ハングルが割り当てられていた領域にCJK統合漢字拡張A、ついでUnicode 4.0で六十四卦が割り当てられた。このように、Unicode 1.1以前でハングルを記述した文書とUnicode 2.0以降でCJK統合漢字拡張Aを記述した文書には互換性がない。JCS委員長の芝野耕司はUnicodeに日本語の漢字を収録させる議論の中で、ハングル大移動について「韓国のとった滅茶苦茶な行動」と述べている。 Shift JIS では JIS X 0201 における(日本や中国の通貨の)円記号 "¥" が 0x5C に置かれている。これを Unicode のマッピングに合わせると YEN SIGN (U+00A5) にマップされる。しかし、0x5C は ASCII ではバックスラッシュ "\" に相当し、C言語などでエスケープ文字として使われる事から、この文字のコードを変更すると問題が起きる。極端な例として、0x5C が円記号とエスケープ文字の両方の目的で使われているケース(たとえばC言語のprintf関数で printf("¥¥%d¥n", price); など)も考えられる。 そのため、Unicode を利用するアプリケーションでは、U+007F 以下のコードに関しては移動させないという暗黙のルールができている。 そうなると、Unicode 環境では円記号がバックスラッシュの表示に変わってしまうように思われるが、これは日本語用のフォントデータの 0x5C の位置には円記号の字形を当ててしまうことで対処している。これによって、日本語環境での表示上は 0x5C の位置で円記号を用いることができる。 この問題は日本語環境に限ったことではない。もともと ISO 646 上では、0x5C を含む数種の文字は自由領域(バリアント)として各国での定義を認めていた。そのため、日本語以外でも ASCII でバックスラッシュに相当するコードに異なる記号を当てているケースが多い。例えば、韓国では通貨のウォン記号 (WON SIGN, U+20A9, "₩")、デンマークやノルウェーではストローク付きO (LATIN CAPITAL LETTER O WITH STROKE, U+00D8, "Ø") などである。(後者は後の時代には、0x5C はバックスラッシュのままとし、ISO 8859 シリーズを用いることが一般化した。) JIS X 0221 規定の JIS X 0208 と JIS X 0221 の対応表では、波ダッシュは WAVE DASH (U+301C, "〜") に対応させているが、マイクロソフトは Windows の Shift_JIS と Unicode の変換テーブルを作成する際に、JIS X 0208 において 1 区 33 点に割り当てられている波ダッシュ "〜" を、Unicode における全角チルダ (FULLWIDTH TILDE, U+FF5E, "~") に割り当てたため不整合が生じた。 この結果、macOS 等の JIS X 0221 準拠の Shift_JIS ⇔ Unicode 変換テーブルをもつ処理系と Windows との間で Unicode データをやり取りする場合、文字化けを起こすことになる。そこで Windows 以外の OS 上で動くアプリケーションの中には、CP932 という名前でマイクロソフト仕様の Shift_JIS コード体系を別途用意して対応しているケースが多い。この原因とされている Unicode 仕様書の例示字形の問題に関しては、波ダッシュ#Unicodeに関連する問題を参照すること。 上記に加え、マイクロソフト仕様は変換時にも問題が起こる文字を以下に示す。 このうちセント・ポンド・否定については、IBMのメインフレームではShift_JISを拡張してこれらの半角版をコードポイント 0xFD-0xFF に割り当て、別途JIS X 0208からマップされた位置に全角版を収録していたため、WindowsをIBMメインフレームの端末として用いるケースを想定したといわれている。 なお、Windows Vista や Microsoft Office 2007 に付属する IME パッドの文字一覧における JIS X 0213 の面区点の表示は、上記の文字についても JIS で規定されているものと同じマッピングを使用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Unicode(ユニコード)は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界標準規格。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること(「Uni」という名はそれに由来する)などが特徴である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "従来、各国の標準化団体あるいは各コンピュータメーカーによって独自に開発されていた個々の文字コードの間には互換性がなかった。ISO/IEC 2022のように複数の文字コードを共存させる方法も考案されたが、例えば日本語の漢字と中国語の漢字のように、文字が重複する短所がある。一方Unicodeは、微細な差異はあっても本質的に同じ文字であれば一つの番号を当てる方針で各国・各社の文字コードの統合を図った規格である。1980年代に、Starワークステーションの日本語化(J-Star)などを行ったゼロックスが提唱し、マイクロソフト、Apple、IBM、サン・マイクロシステムズ、ヒューレット・パッカード、ジャストシステムなどが参加するユニコードコンソーシアムにより作られた。国際規格のISO/IEC 10646とUnicode規格は同じ文字コード表になるように協調して策定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Unicodeは世界で使われる全ての文字を共通の文字集合にて利用できるようにしようという考えで作られ、Unix、Windows、macOS、Plan 9などの様々なオペレーティングシステムでサポートされている。Javaや.NETのようなプログラミング環境でも標準的にサポートされている。現代の文字だけでなく古代の文字や歴史的な文字、数学記号、絵文字なども含む。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Unicode以前の文字コードとの相互運用性もある程度考慮されており、歴史上・実用上の識別が求められる場合には互換領域がとられ、元のコード→Unicode→元のコードというような変換(ラウンドトリップ変換)において、元通りに戻るよう配慮されている文字もある。しかし、正規のJIS X 0208の範囲内であればトラブルは少ないが、複数の文字集合が混在していたり、文字集合の亜種ごとにマッピング(対応づけ)が異なる文字(機種依存文字)を含んでいたりする場合、変換テーブルによるマッピングが不可逆変換となり文字化けを起こすことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "文字コードは、Unicode文字符号化モデルによると以下の4段階に分けられる:", "title": "Unicode文字符号化モデル" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、バイト列を、gzipなどで圧縮したり、7ビット伝送路に通すためにBase64やQuoted-printableなどで変換したりすることがあるが、これらは文字コードの管轄範囲外である。", "title": "Unicode文字符号化モデル" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Unicodeの文字集合の符号空間は0 - 10FFFF16で111万4,112の符号位置がある。Unicode 12.1(2019年5月7日公表)では13万7,929個 (12%) の文字が割り当てられ、65個を制御文字に使い、13万7,468符号位置 (12%) を私用文字として確保している。また、2,048文字分をUTF-16のための代用符号位置に使用しており、加えて66の特別な符号位置は使われない。残りの83万6,536符号位置 (75%) は未使用である。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "文字を特定する場合にはUnicode符号位置や一意につけられた名前が使われる。例えば、アルファベット小文字の「a」はU+0061 (LATIN SMALL LETTER A)、八分音符「♪」はU+266A (EIGHTH NOTE) である。Unicode符号位置を文章中などに記す場合は \"U+\" の後に十六進法で符号位置を4桁から6桁続けることで表す。また、符号空間のうち代用符号位置を除く符号位置をUnicodeスカラ値という。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "収録されている文字は、各国で標準として規定されている文字集合や実際に使用されている文字を持ち寄り、委員会により取捨選択されている。日本の文字については当初よりJIS X 0201、JIS X 0208、JIS X 0212を、Unicode 3.1からはJIS X 0213の内容も収録している。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また収録において、元の各文字集合内で分離されている文字は尊重するが、異なる文字集合に同一の文字が収録されているとみなされるものは、同じ符号位置に割り当てる方針を取っている。この際に集合が膨大であるという理由で、漢字について、中国、日本、韓国の各規格の漢字を統合しCJK統合漢字としたことは大きな議論となった。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在では独自創作の絵文字の追加等、当初の目的である「各国・各社の文字コードの統合」から外れた動きも進んでいる。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Unicodeに収録されている文字については、「ブロックの一覧」を参照。", "title": "文字集合" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "Unicodeでは文字符号化形式としてUTF-8、UTF-16、UTF-32の3種類が定められている。", "title": "文字符号化形式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "UTF-8は1符号化文字を1〜4符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は8ビットである。", "title": "文字符号化形式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "UTF-16は1符号化文字を1〜2符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は16ビットである。基本多言語面の文字を符号単位一つで、その他の文字をサロゲートペア(代用対)という仕組みを使い符号単位二つで表現する。", "title": "文字符号化形式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "UTF-32は1符号化文字を1符号単位で表す固定幅文字符号化形式で、1符号単位は32ビットである。ただし、Unicodeの符号空間がU+10FFFFまでであるため、実際に使われるのは21ビットまでである。", "title": "文字符号化形式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Unicodeでは文字符号化方式としてUTF-8、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LE、UTF-32、UTF-32BE、UTF-32LEの7種類が定められている。それぞれの符号化形式に対応する符号化方式は表の通り。", "title": "文字符号化方式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "文字符号化形式との違いは、文字符号化形式がプログラム内部で文字を扱う場合に符号なし整数として文字を表現する方法なのに対し、文字符号化方式は入出力時にバイト列として表現する方法である。UTF-8は符号単位が8ビットであるため区別する意味はない。", "title": "文字符号化方式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下はエイプリルフールに公開されたジョークRFCである (RFC 4042)。UTF-9に関しては同名の規格が実際に検討されていた(ただし、内容は大きく異なる)が、ドラフト段階で破棄されているため重複にはならない。", "title": "文字符号化方式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以下はドラフト段階で破棄された規格案。", "title": "文字符号化方式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1980年代の当初の構想では、Unicodeは16ビット固定長で、2 = 6万5,536 個の符号位置に必要な全ての文字を収録する、というもくろみであった。しかし、Unicode 1.0公表後、拡張可能な空き領域2万字分を巡り、各国から文字追加要求が起こった。その内容は中国、日本、台湾、ベトナム、シンガポールの追加漢字約1万5千字、古ハングル約5千字、未登録言語の文字などである。このようにしてUnicodeの、16ビットの枠内に全世界の文字を収録するという計画は早々に破綻し、1996年のUnicode 2.0の時点で既に、文字集合の空間を16ビットから広げることが決まった。この時、それまでの16ビットを前提としてすでに設計されていたシステム(たとえばJavaのchar型や、Windows NT・Windows 95のAPI)をなるべくそのままにしたまま、広げられた空間にある符号位置を表現する方法として、サロゲートペアが定義された。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "サロゲートペア(代用対)は16ビットUnicodeの領域1,024文字分を2つ使い(前半 U+D800 〜 U+DBFF、後半 U+DC00 〜 U+DFFF)、各々1個ずつからなるペアで1,024 × 1,024 = 1,048,576文字を表す。これはちょうど16面分であり、第1面〜第16面(U+010000 〜 U+10FFFF)の文字をこれで表すこととした。加えて第0面(基本多言語面)も使用可能なので、Unicodeには合計で 1,048,576 + 65,536 - 2,048 = 111万2,064文字分の空間が確保されたことになる。Unicodeの符号空間が10FFFF16まで(サロゲート領域を除いて111万2,064文字)とされているのはUTF-16が表現可能な限界だからである。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "サロゲートはUnicodeの符号位置の U+010000 〜 U+10FFFF の範囲を16ビットユニットのペア(2つ)で表現する集合で、最初の16ビットユニットを前半サロゲートもしくはハイサロゲート、二番目を後半サロゲートもしくはローサロゲートと称する。ハイサロゲートは U+D800 〜 U+DBFF の範囲、ローサロゲートは U+DC00 〜 U+DFFF の範囲である。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "サロゲートペアはUTF-16でのみ使われ、UTF-8、UTF-32ではすべての符号位置を符号化できるためこのような特別な処理は必要ない。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "サロゲートのエンコーディングは、符号位置を C P {\\displaystyle CP} 、ハイサロゲートを H S G {\\displaystyle HSG} 、ローサロゲートを L S G {\\displaystyle LSG} とすると次の通りに計算する。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "デコーディングは、", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "である。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "次の表は、この文字変換と他をまとめたものである。 色は、コードポイントからのビットがUTF-16バイトにどのように分配されるかを示した。 なお、UTF-16エンコーディングプロセスによって追加された追加ビットは黒で示されている。", "title": "拡張領域" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一つの面は6万5536個の符号位置がある。", "title": "面" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本では2000年にJIS X 0208を拡張する目的でJIS X 0213(いわゆるJIS第3・第4水準)が制定されたが、この際、新たに採用された文字でUnicodeになかったものの一部は、BMPに収録できず、第2面への収録となった(Unicodeが最終的にJIS X 0213への対応を完了したのは2002年である)。このため、JIS X 0213収録文字をUnicodeで完全にサポートするには、追加漢字面をサポートしたOS、フォント、アプリケーションが必要となる。Shift_JISなど、Unicodeにて規定されるもの以外のエンコーディングを利用する場合であっても、JIS X 0213に対応するフォントやアプリケーションが必要である。", "title": "面" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "常用漢字の2010年改定で追加された字のうち「𠮟」はU+20B9Fで、追加漢字面に含まれる。そのため、改定後の常用漢字完全サポートを謳う場合、Unicodeに対応していて更にこの拡張領域にも対応している必要があると言える。ただ、現状ではこの字は、JIS X 0208に含まれる(=当然、Unicode策定当初からBMPに収録されている)異体字の「叱」(U+53F1) で代用されることが多い。", "title": "面" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1984年、ISOの文字コード規格委員会 (ISO/TC 97/SC2) は文字セットの切り替えを行わずに世界中の文字を単一の文字集合として扱える文字コード規格 (ISO 10646) を作成することを決定し、専門の作業グループ (ISO/TC 97/SC 2/WG 2) を設置し、作業を始めていた。1980年代後半にはこの作業グループにおいてさまざまな提案が検討されている。1990年になって出来あがったISO/TC 97/SC 2/WG 2作成のISO 10646の初版ドラフト(DIS 10646#DIS 10646第1版)では、漢字コードは32ビットで表現され、各国の漢字コードはそのまま入れることになった。しかし中国は漢字を各国でばらばらに符号化するのではなく、あくまで統一して扱うことを求めてこのドラフトには当初から反対しており、今後の漢字コードの方針を決めるため、WG 2は CJK-JRG (Joint Research Group) と呼ばれるグループを別途設置し、そこで引き続き検討することにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このような公的機関の動きとは別に、1987年頃からXeroxのJoe BeckerとLee Collinsは、後にUnicodeと呼ばれるようになる、世界中の文字を統一して扱える文字コードを開発していた。1989年9月には「Unicode Draft 1」が発表された。ここではその基本方針として、2オクテット(16ビット)固定長で全ての文字を扱えることを目指しており、そのために日本・中国・韓国の漢字を統一することで2万弱の漢字コードを入れ、さらに将来の拡張用に、3万程度の漢字の空き領域が別に用意されていた。このドラフトは少しずつ改良を加えられながら1990年4月にUnicode Draft 2、同年12月Unicode Final Draftとなった。さらに1991年1月にはこのUnicode Final Draftに賛同する企業によって、ユニコードコンソーシアムが設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1991年6月、ISO/IEC 10646による4オクテット固定長コードを主体としたドラフト「DIS 10646第1版」は、2オクテット固定長コードであるUnicodeとの一本化を求める各国により否決され、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。また中国およびユニコードコンソーシアムの要請により、CJK-JRGにおいて、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。CJK-JRGは各国の漢字コードに基づき独自の統合規準を定め、ISO 10646 / Unicode用の統合漢字コード表を作成することになった。CJK-JRGの会合は第1回が7月22日から24日にかけて東京で、第2回の会合が9月17日から19日にかけて北京で、第3回が11月25日から29日にかけて香港で開催された。これらの討議の結果、1991年末になって「ISO 10646=Unicode」用の統合漢字コード表が Unified Repertoire and Ordering (URO) の第1版として完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Unicodeの最初に印刷されたドキュメントであるUnicode 1.0は、統合漢字表の完成に先行して漢字部分を除いたUnicode 1.0, Vol.1が1991年10月に出版され、後に1992年になって漢字部分だけのUnicode 1.0, Vol.2が出版された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1992年、CJK統合漢字URO第二版が完成し、これを取り込んだ(ただし、UROには若干の間違いが発見されており、それらの修正が行われている。)DIS 10646第2版が、5月30日の国際投票で可決された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1993年5月1日 「ISO/IEC 10646-1: 1993 Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane」が制定される。同年翌6月にUnicode 1.0は ISO/IEC 10646-1:1993にあわせた変更を行いUnicode 1.1となり、以後UnicodeとISO/IEC 10646とは歩調を合わせて改訂されていくことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Unicodeのバージョンは、メジャーバージョン (the major version)、マイナーバージョン (the minor version)、アップデートバージョン (the update version) の3つの部分から構成され、ピリオドでつなげて表示される。ただし、マイナーバージョン及びアップデートバージョンについては0の場合には省略して表示されることもある。メジャーバージョンはレパートリーの追加のような重要な変更が行われたときに改定される。Unicodeのドキュメントは書籍形態と電子版ドキュメント形態の両方で公表され、どちらもUnicodeについての正式なドキュメントであるとされている。新たなバージョンがリリースされたときは新たなドキュメントが公表されるが、書籍として刊行されるのはメジャーバージョンが改定された場合および重要なマイナーバージョンの改定があった場合のみである。書籍版のバージョン1.0は、2巻に分けて刊行され、統合漢字部分を除いた第1巻は1991年10月に、統合漢字部分の第2巻は1992年6月に刊行された。そのため第1巻のみのものをUnicode 1.0.0、第2巻を含めたものをUnicode 1.0.1と呼ぶことがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "Unicodeのそれぞれのバージョン番号とその制定年月日、収録文字数他の特徴は以下の通りである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Unicodeのバージョンには、上記のような「Unicodeの規格全体に付けられたバージョン」の他に「Unicodeを構成する個々の要素の規格に付けられたバージョン」が存在する。これに該当するものとしては、Unicodeを構成する各面ごとに付けられたバージョンや、Unicodeに収録されないこととされたスクリプトのリスト (NOR = Not The Roadmap) に付けられたバージョン、規格の一部を構成するUnicode Technical Note(Unicode技術ノート)、Unicode Technical Report(Unicode技術報告)、Unicode Technical Standard(Unicode技術標準)のバージョンなどが存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Unicodeは同一のコードでもバージョンが変わったとき完全に異なった文字を定義し直したことがある。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "そのうち最大のものがUnicode 2.0での「ハングルの大移動」である。これはUnicode 1.1までで定義されていたハングルの領域を破棄し、新しいハングルの領域を別の位置に設定し、破棄された領域には別の文字の領域を割り当てることとなった。その後、Unicode 3.0では、従来ハングルが割り当てられていた領域にCJK統合漢字拡張A、ついでUnicode 4.0で六十四卦が割り当てられた。このように、Unicode 1.1以前でハングルを記述した文書とUnicode 2.0以降でCJK統合漢字拡張Aを記述した文書には互換性がない。JCS委員長の芝野耕司はUnicodeに日本語の漢字を収録させる議論の中で、ハングル大移動について「韓国のとった滅茶苦茶な行動」と述べている。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "Shift JIS では JIS X 0201 における(日本や中国の通貨の)円記号 \"¥\" が 0x5C に置かれている。これを Unicode のマッピングに合わせると YEN SIGN (U+00A5) にマップされる。しかし、0x5C は ASCII ではバックスラッシュ \"\\\" に相当し、C言語などでエスケープ文字として使われる事から、この文字のコードを変更すると問題が起きる。極端な例として、0x5C が円記号とエスケープ文字の両方の目的で使われているケース(たとえばC言語のprintf関数で printf(\"¥¥%d¥n\", price); など)も考えられる。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "そのため、Unicode を利用するアプリケーションでは、U+007F 以下のコードに関しては移動させないという暗黙のルールができている。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そうなると、Unicode 環境では円記号がバックスラッシュの表示に変わってしまうように思われるが、これは日本語用のフォントデータの 0x5C の位置には円記号の字形を当ててしまうことで対処している。これによって、日本語環境での表示上は 0x5C の位置で円記号を用いることができる。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この問題は日本語環境に限ったことではない。もともと ISO 646 上では、0x5C を含む数種の文字は自由領域(バリアント)として各国での定義を認めていた。そのため、日本語以外でも ASCII でバックスラッシュに相当するコードに異なる記号を当てているケースが多い。例えば、韓国では通貨のウォン記号 (WON SIGN, U+20A9, \"₩\")、デンマークやノルウェーではストローク付きO (LATIN CAPITAL LETTER O WITH STROKE, U+00D8, \"Ø\") などである。(後者は後の時代には、0x5C はバックスラッシュのままとし、ISO 8859 シリーズを用いることが一般化した。)", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "JIS X 0221 規定の JIS X 0208 と JIS X 0221 の対応表では、波ダッシュは WAVE DASH (U+301C, \"〜\") に対応させているが、マイクロソフトは Windows の Shift_JIS と Unicode の変換テーブルを作成する際に、JIS X 0208 において 1 区 33 点に割り当てられている波ダッシュ \"〜\" を、Unicode における全角チルダ (FULLWIDTH TILDE, U+FF5E, \"~\") に割り当てたため不整合が生じた。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この結果、macOS 等の JIS X 0221 準拠の Shift_JIS ⇔ Unicode 変換テーブルをもつ処理系と Windows との間で Unicode データをやり取りする場合、文字化けを起こすことになる。そこで Windows 以外の OS 上で動くアプリケーションの中には、CP932 という名前でマイクロソフト仕様の Shift_JIS コード体系を別途用意して対応しているケースが多い。この原因とされている Unicode 仕様書の例示字形の問題に関しては、波ダッシュ#Unicodeに関連する問題を参照すること。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "上記に加え、マイクロソフト仕様は変換時にも問題が起こる文字を以下に示す。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "このうちセント・ポンド・否定については、IBMのメインフレームではShift_JISを拡張してこれらの半角版をコードポイント 0xFD-0xFF に割り当て、別途JIS X 0208からマップされた位置に全角版を収録していたため、WindowsをIBMメインフレームの端末として用いるケースを想定したといわれている。", "title": "Unicodeの諸問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、Windows Vista や Microsoft Office 2007 に付属する IME パッドの文字一覧における JIS X 0213 の面区点の表示は、上記の文字についても JIS で規定されているものと同じマッピングを使用している。", "title": "Unicodeの諸問題" } ]
Unicode(ユニコード)は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界標準規格。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること(「Uni」という名はそれに由来する)などが特徴である。 従来、各国の標準化団体あるいは各コンピュータメーカーによって独自に開発されていた個々の文字コードの間には互換性がなかった。ISO/IEC 2022のように複数の文字コードを共存させる方法も考案されたが、例えば日本語の漢字と中国語の漢字のように、文字が重複する短所がある。一方Unicodeは、微細な差異はあっても本質的に同じ文字であれば一つの番号を当てる方針で各国・各社の文字コードの統合を図った規格である。1980年代に、Starワークステーションの日本語化(J-Star)などを行ったゼロックスが提唱し、マイクロソフト、Apple、IBM、サン・マイクロシステムズ、ヒューレット・パッカード、ジャストシステムなどが参加するユニコードコンソーシアムにより作られた。国際規格のISO/IEC 10646とUnicode規格は同じ文字コード表になるように協調して策定されている。
{{転送|ユニコード|声優ユニット「UniChØrd」|D4DJ#UniChØrd(ユニコード)}} {{JIS2004}} [[ファイル:New_Unicode_logo.svg|thumb|right|200px]] {{Table Unicode}} '''Unicode'''(ユニコード)は、[[符号化文字集合]]や[[文字符号化方式]]などを定めた、[[文字コード]]の業界標準規格。文字集合(文字セット)が単一の[[大規模文字セット]]であること(「Uni」という名はそれに由来する)などが特徴である。 従来、各国の標準化団体あるいは各コンピュータメーカーによって独自に開発されていた個々の文字コードの間には互換性がなかった<ref name="COM">{{Cite Journal|和書|author=[[師茂樹]]|date=2009|title=Unicodeとのつきあい方 ―漢字文化圏を中心に―|url=https://doi.org/10.14949/konpyutariyoukyouiku.27.12|journal=|volume=27|pages=12-17|publisher=一般社団法人 CIEC|accessdate=2020-05-14|Journal=コンピュータ&エデュケーション}}</ref>。[[ISO/IEC 2022]]のように複数の文字コードを共存させる方法も考案されたが、例えば日本語の漢字と中国語の漢字のように、文字が重複する短所がある。一方Unicodeは、微細な差異はあっても本質的に同じ文字であれば一つの番号を当てる方針で各国・各社の文字コードの統合を図った規格である<ref name="COM" />。[[1980年代]]に、[[Xerox Star|Starワークステーション]]の日本語化(J-Star)などを行った[[ゼロックス]]が提唱し、[[マイクロソフト]]、[[Apple]]、[[IBM]]、[[サン・マイクロシステムズ]]、[[ヒューレット・パッカード]]、[[ジャストシステム]]などが参加する[[ユニコードコンソーシアム]]により作られた。国際規格の[[ISO/IEC 10646]]とUnicode規格は同じ文字コード表になるように協調して策定されている<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-02-23 | page=921 | quote=Today both organizations are firmly committed to maintaining the synchronization between the Unicode Standard and ISO/IEC 10646. }}</ref>。 == 概要 == Unicodeは世界で使われる全ての文字を共通の文字集合にて利用できるようにしようという考えで作られ、[[UNIX|Unix]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]{{efn|UTF-8はPlan 9が由来。}}などの様々な[[オペレーティングシステム]]でサポートされている。[[Java]]や[[.NET]]のようなプログラミング環境でも標準的にサポートされている。現代の文字だけでなく古代の文字や歴史的な文字、数学記号、絵文字なども含む<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-15 | page=3 }}</ref>。 Unicode以前の[[文字コード]]との相互運用性もある程度考慮されており、歴史上・実用上の識別が求められる場合には互換領域がとられ、元のコード→Unicode→元のコードというような変換(ラウンドトリップ変換)において、元通りに戻るよう配慮されている文字もある。しかし、正規の[[JIS X 0208]]の範囲内であればトラブルは少ないが、複数の文字集合が混在していたり、文字集合の亜種ごとにマッピング(対応づけ)が異なる文字([[機種依存文字]])を含んでいたりする場合{{efn|例えば[[Shift_JIS]]の実装である[[Microsoftコードページ932|CP932]]や[[MacJapanese]]、[[EUC-JP#EUC-JPの亜種|EUC-JPの亜種]]であるCP51932とeucJP-ms、など。}}、変換テーブルによるマッピングが不可逆変換となり文字化けを起こすことがある。 == Unicode文字符号化モデル == 文字コードは、Unicode文字符号化モデル<ref>{{Cite web |url=https://www.unicode.org/reports/tr17/tr17-7.html |title=UTR#17: Unicode Character Encoding Model |access-date=2019-05-21 |date=2008-11-11 |publisher=The Unicode Consortium |language=English}}</ref>によると以下の4段階に分けられる: ; {{Visible anchor|抽象文字集合|ACR}} ({{abbr|ACR|abstract character repertoire}}) : 符号化の対象とする順序のない文字の集合。 ; {{Visible anchor|符号化文字集合|CCS}} ({{abbr|CCS|coded character set}}) : 抽象文字集合を非負整数に対応させたもの。この非負整数の範囲を符号空間、各値を[[符号点|符号位置]] (コードポイント) といい、抽象文字は対応後、符号化文字となる<ref>{{Cite web |url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf |title=The Unicode Standard Version 12.0 |access-date=2019-05-21 |date=2019-05-07 |format=PDF |publisher=The Unicode Consortium |page=29 |quote=The range of integers used to code the abstract characters is called the codespace. A particular integer in this set is called a code point. When an abstract character is mapped or assigned to a particular code point in the codespace, it is then referred to as an encoded character. |language=English}}</ref>。抽象文字は複数の符号化文字に対応されることもある<ref>{{Cite web |url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf |title=The Unicode Standard Version 12.0 |access-date=2019-05-21 |date=2019-05-07 |format=PDF |publisher=The Unicode Consortium |page=29 |quote=an abstract character may be represented by a sequence of two (or more) other encoded characters. |language=English}}</ref>。 ; {{Visible anchor|文字符号化形式|CEF}} ({{abbr|CEF|character encoding form}}) : 符号化文字集合の非負整数を符号単位列に変換する方法。文字符号化形式はコンピュータ中に実際にデータとして文字を表現することを可能にする。 ; {{Visible anchor|文字符号化方式|CES}} ({{abbr|CES|character encoding scheme}}) : 符号単位列をバイト列に[[直列化]]する方法。符号単位が8ビットより大きい場合は[[エンディアン]]が関係する。 その後、バイト列を、[[gzip]]などで圧縮したり、7ビット伝送路に通すために[[Base64]]や[[Quoted-printable]]などで変換したりすることがあるが、これらは文字コードの管轄範囲外である。 == 文字集合 == <!-- {{redirect|U+|その他}} --> {{下付き文字}} Unicodeの文字集合の符号空間は0 - 10FFFF<sub>[[16進数|16]]</sub>で111万4,112の符号位置がある<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-15 | page=1,29 }}</ref>。Unicode 12.1(2019年5月7日公表)では13万7,929個 (12%) の文字{{efn|図形文字、書式文字。}}が割り当てられ、65個を制御文字に使い、13万7,468符号位置 (12%) を私用文字として確保している。また、2,048文字分をUTF-16のための代用符号位置に使用しており、加えて66の特別な符号位置は使われない。残りの83万6,536符号位置 (75%) は未使用である<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 12.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2019-05-07 | accessdate=2019-05-21 | page=954 }}</ref>。 文字を特定する場合にはUnicode符号位置や一意につけられた名前が使われる。例えば、アルファベット小文字の「a」はU+0061 (LATIN SMALL LETTER A)、[[八分音符]]「♪」はU+266A (EIGHTH NOTE) である。Unicode符号位置を文章中などに記す場合は "U+" の後に[[十六進法]]で符号位置を4桁から6桁続けることで表す。また、符号空間のうち代用符号位置を除く符号位置をUnicodeスカラ値という<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-15 | page=120 | quote=D76 Unicode scalar value: Any Unicode code point except high-surrogate and low-surrogate code points. }}</ref>。 収録されている文字は、各国で標準として規定されている文字集合や実際に使用されている文字を持ち寄り、委員会により取捨選択されている。日本の文字については当初より[[JIS X 0201]]、[[JIS X 0208]]、[[JIS X 0212]]を、Unicode 3.1からは[[JIS X 0213]]の内容も収録している。 また収録において、元の各文字集合内で分離されている文字は尊重するが、異なる文字集合に同一の文字が収録されているとみなされるものは、同じ符号位置に割り当てる方針を取っている。この際に集合が膨大であるという理由で、漢字について、[[中国]]、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]の各規格の[[Unihan|漢字を統合]]し[[CJK統合漢字]]としたことは大きな議論となった。 現在では独自創作の絵文字の追加等、当初の目的である「各国・各社の文字コードの統合」から外れた動きも進んでいる。 Unicodeに収録されている文字については、「[[ブロック (Unicode)#ブロックの一覧|ブロックの一覧]]」を参照。 == 文字符号化形式 == {{特殊文字|説明=「AΩ語」の次の文字は笑顔を示す[[顔文字]]}} Unicodeでは文字符号化形式として[[UTF-8]]、[[UTF-16]]、[[UTF-32]]の3種類が定められている。 UTF-8は1符号化文字を1〜4符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は8ビットである。 UTF-16は1符号化文字を1〜2符号単位で表す可変幅文字符号化形式で、1符号単位は16ビットである。[[基本多言語面]]の文字を符号単位一つで、その他の文字を[[#サロゲートペア|サロゲートペア]](代用対)という仕組みを使い符号単位二つで表現する。 UTF-32は1符号化文字を1符号単位で表す固定幅文字符号化形式で、1符号単位は32ビットである。ただし、Unicodeの符号空間がU+10FFFFまでであるため、実際に使われるのは21ビットまでである。 {|class="wikitable" |+ 各文字符号化形式の符号化例 |- !<!-- 幅調節行 --> |00 |01 |02 |03 |04 |05 |06 |07 |08 |09 |0A |0B |0C |0D |0E |0F |- !rowspan="2"|UTF-8 |style="text-align:center;"|A |colspan="2" style="text-align:center;"|Ω |colspan="3" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |colspan="99" rowspan="2"| |- |style="text-align:center;"|41 |style="text-align:center;"|CE |style="text-align:center;"|A9 |style="text-align:center;"|E8 |style="text-align:center;"|AA |style="text-align:center;"|9E |style="text-align:center;"|F0 |style="text-align:center;"|9F |style="text-align:center;"|98 |style="text-align:center;"|8A |- !rowspan="2"|UTF-16 |colspan="2" style="text-align:center;"|A |colspan="2" style="text-align:center;"|Ω |colspan="2" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |colspan="99" rowspan="2"| |- |colspan="2" style="text-align:center;"|0041 |colspan="2" style="text-align:center;"|03A9 |colspan="2" style="text-align:center;"|8A9E |colspan="2" style="text-align:center;"|D83D |colspan="2" style="text-align:center;"|DE0A |- !rowspan="2"|UTF-32 |colspan="4" style="text-align:center;"|A |colspan="4" style="text-align:center;"|Ω |colspan="4" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |- |colspan="4" style="text-align:center;"|00000041 |colspan="4" style="text-align:center;"|000003A9 |colspan="4" style="text-align:center;"|00008A9E |colspan="4" style="text-align:center;"|0001F60A |} == 文字符号化方式 == {|class="wikitable floatright" !文字符号化形式<br />(CEF)!!文字符号化方式<br />(CES) |- |UTF-8||UTF-8 |- |rowspan="3"|UTF-16||UTF-16 |- |UTF-16BE |- |UTF-16LE |- |rowspan="3"|UTF-32||UTF-32 |- |UTF-32BE |- |UTF-32LE |} Unicodeでは文字符号化方式として'''UTF-8'''、'''UTF-16'''、'''UTF-16BE'''、'''UTF-16LE'''、'''UTF-32'''、'''UTF-32BE'''、'''UTF-32LE'''の7種類が定められている。それぞれの符号化形式に対応する符号化方式は表の通り。 文字符号化形式との違いは、文字符号化形式がプログラム内部で文字を扱う場合に符号なし整数として文字を表現する方法なのに対し、文字符号化方式は入出力時にバイト列として表現する方法である。UTF-8は符号単位が8ビットであるため区別する意味はない。 {|class="wikitable floatright" !文字符号化方式<br />(CES)!!エンディアン!!BOMの付与 |- |UTF-8||{{n/a}}||{{yes2|可}} |- |UTF-16||ビッグ/リトル||{{yes2|可}} |- |UTF-16BE||ビッグエンディアン||{{no2|不可}} |- |UTF-16LE||リトルエンディアン||{{no2|不可}} |- |UTF-32||ビッグ/リトル||{{yes2|可}} |- |UTF-32BE||ビッグエンディアン||{{no2|不可}} |- |UTF-32LE||リトルエンディアン||{{no2|不可}} |} ; UTF-8 {{main|UTF-8}} : 可変長(1-4バイト)の8ビット符号単位で表現する文字符号化方式。ASCIIに対して[[上位互換]]となっており、文字の境界が明確である、UTF-16符号化方式やUTF-32符号化方式との変換・逆変換に際して乗除算などの高負荷処理が必要ない、などの特長を持ち、インターネットではもっとも一般的に利用されている。 :なお、UTF-8はもともと8ビットを符号単位とするため[[バイト順マーク]](BOM;後述)は必要ないが、UTF-8であることが識別できるよう、データストリームの先頭に EF BB BF(U+FEFFのUTF-8での表現)の3バイトが付与されることがある。UTF-8のBOMはバイト順を表すものではなく、UTF-16符号化方式等における「真の意味でのBOM」と同じコードポイントを利用しているがゆえに慣用的にこう呼ばれているに過ぎない。UTF-8でのBOMの使用は非推奨<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 12.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2019-05-07 | accessdate=2019-09-26 | page=40 | quote=Use of a BOM is neither required nor recommended for UTF-8, }}</ref>。 ; UTF-16 {{main|UTF-16}} : UTF-16符号化方式では、通常はファイルの先頭にバイト順マーク (BOM) が付与される。BOMとは、通信やファイルの読み書き等、8ビット単位の処理で[[エンディアン|バイト順]]を識別するための印であり、データストリームの先頭に付与される。値はU+FEFF。システムが読み込んだ先頭2バイトが FF FEならリトルエンディアン、FE FFならビッグエンディアンとして後に続く文書を処理する。 :{{IETF RFC|2781}} ではBOMが付いていないUTF-16文書はビッグエンディアンとして解釈することになっている。[[Microsoft Windows]]のメモ帳で作成した「Unicodeテキスト」はBOMが付与されるようになっている。ビッグエンディアンの符号化方式を'''UTF-16BE'''、リトルエンディアンの符号化方式を'''UTF-16LE'''として区別することもある。プロトコルもしくはアプリケーションの設定などの手段で符号化方式に'''UTF-16BE'''や'''UTF-16LE'''を指定している場合にはBOMを付与することは許容されない。Windows上の文書における「Unicodeテキスト」は特に明記のない場合、リトルエンディアンのUTF-16符号化方式のことを指す。TCP/IPネットワークでは、プロトコルヘッダやMIME等の手段で符号化方式が指定されずBOMも付与されない場合、ビッグエンディアンとして扱うと決められている。 ; UTF-32 {{main|UTF-32}} : UTF-32符号化方式でもUTF-16符号化方式と同じく、ビッグエンディアンとリトルエンディアンが存在し、それぞれ'''UTF-32BE'''、'''UTF-32LE'''と呼ばれる。プロトコルもしくはアプリケーションの設定などの手段で符号化方式に'''UTF-32BE'''や'''UTF-32LE'''を指定している場合にはBOMを付与することは許容されない。 : 単純な符号化方式であるが、テキストファイルなどではファイルのサイズが大きくなる(すべてBMPの文字からなる文章の場合はUTF-16符号化方式の2倍、すべてASCII文字の場合はASCII/UTF-8の4倍のサイズとなる)ため、ストレージ用として使われることは稀である。そのためか、[[Microsoft Office]]での「エンコードされたテキストファイル」の読み書きでは、Office 2016 でもいまだに符号化方式には対応していない。[[フリーウェア]]・[[シェアウェア]]の[[テキストエディタ]]のうち多数の符号化方式に対応しているものでも、この符号化方式には対応していないものが存在する。 : ただし、すべてのUnicode文字を処理する場合には、すべての文字を単一の符号単位で表現したほうが処理に適するため、内部の処理ではUTF-32符号化形式(あるいはUCS-4)で扱うこともある。実例として、[[Linux]] 上の[[C言語]]環境では <code>wchar_t</code> は32ビット整数型である。 :UTF-16符号化方式などと同様にUTF-32符号化方式にもBOMがあり、データストリームの先頭に付される。先頭の4バイトがFF FE 00 00ならリトルエンディアン、00 00 FE FFならビッグエンディアンになる。UTF-16のリトルエンディアンとUTF-32のリトルエンディアンは最初の2バイトが等しいため、4バイトまで読んで判断する必要がある。 {|class="wikitable" |+ 各文字符号化方式の符号化例 |- !rowspan="2" style="border-bottom-width: 2px;"|UTF-8 |style="text-align:center;"|A |colspan="2" style="text-align:center;"|Ω |colspan="3" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |colspan="99" rowspan="2" style="border-bottom-width: 2px;"| |- |style="border-bottom-width: 2px;"|41 |style="border-bottom-width: 2px;"|CE |style="border-bottom-width: 2px;"|A9 |style="border-bottom-width: 2px;"|E8 |style="border-bottom-width: 2px;"|AA |style="border-bottom-width: 2px;"|9E |style="border-bottom-width: 2px;"|F0 |style="border-bottom-width: 2px;"|9F |style="border-bottom-width: 2px;"|98 |style="border-bottom-width: 2px;"|8A |- !rowspan="2" style="border-bottom-width: 2px;"|UTF-16BE |colspan="2" style="text-align:center;"|A |colspan="2" style="text-align:center;"|Ω |colspan="2" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |colspan="99" rowspan="4" style="border-bottom-width: 2px;"| |- |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|41 |style="border-bottom-width: 2px;"|03 |style="border-bottom-width: 2px;"|A9 |style="border-bottom-width: 2px;"|8A |style="border-bottom-width: 2px;"|9E |style="border-bottom-width: 2px;"|D8 |style="border-bottom-width: 2px;"|3D |style="border-bottom-width: 2px;"|DE |style="border-bottom-width: 2px;"|0A |- !rowspan="2" style="border-bottom-width: 2px;"|UTF-16LE |colspan="2" style="text-align:center;"|A |colspan="2" style="text-align:center;"|Ω |colspan="2" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |- |style="border-bottom-width: 2px;"|41 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|A9 |style="border-bottom-width: 2px;"|03 |style="border-bottom-width: 2px;"|9E |style="border-bottom-width: 2px;"|8A |style="border-bottom-width: 2px;"|3D |style="border-bottom-width: 2px;"|D8 |style="border-bottom-width: 2px;"|0A |style="border-bottom-width: 2px;"|DE |- !rowspan="2" style="border-bottom-width: 2px;"|UTF-32BE |colspan="4" style="text-align:center;"|A |colspan="4" style="text-align:center;"|Ω |colspan="4" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |- |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|41 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|03 |style="border-bottom-width: 2px;"|A9 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|8A |style="border-bottom-width: 2px;"|9E |style="border-bottom-width: 2px;"|00 |style="border-bottom-width: 2px;"|01 |style="border-bottom-width: 2px;"|F6 |style="border-bottom-width: 2px;"|0A |- !rowspan="2"|UTF-32LE |colspan="4" style="text-align:center;"|A |colspan="4" style="text-align:center;"|Ω |colspan="4" style="text-align:center;"|語 |colspan="4" style="text-align:center;"|😊 |- |41 |00 |00 |00 |A9 |03 |00 |00 |9E |8A |00 |00 |0A |F6 |01 |00 |} === その他 === ; UTF-7 {{main|UTF-7}} : UTF-16で表したUnicodeを[[Base64]]で変換して表す符号化方式。ただし、[[ASCII]]のアルファベット範囲等についてはBase64に変換しない等、特殊な符号化方式を行う。{{IETF RFC|2152}}で定められており、Unicode規格及びUnicodeの関連規格には含まれない。かつての[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]等のように、7ビット単位でしかデータを扱えない通信方式を利用する場合を想定して作られている。ステートフルエンコーディングであり、運用上問題が多いため、現在ではこの方式は推奨されていない。Unicode文字を7ビット単位伝送通信にどうしても通さなければならない場合は、替わりにUTF-8をQuoted-printableあるいはBase64で変換するなどの方式が好ましい。 <br /> 以下は[[エイプリルフール]]に公開された[[Request for Comments#一風変わったRFC|ジョークRFC]]である ({{IETF RFC|4042}})。UTF-9に関しては同名の規格が実際に検討されていた(ただし、内容は大きく異なる)が、ドラフト段階で破棄されているため重複にはならない。 ; UTF-9 : 可変長の9ビット符号単位で表現する符号化方式。1[[バイト (情報)|バイト]]が[[8ビット]]([[オクテット (コンピュータ)|オクテット]])ではなく9ビット([[ノネット]])であるような環境での利用を想定している。UTF-8と比較した場合、Latin-1領域が1バイト、[[CJK統合漢字]]領域が2バイトで表現できる特長があり、データ量が少なくなる。[[ワード]]長が9の倍数のコンピュータ([[PDP-10]]や[[ACOS-6]]など)であれば計算コストも低い。 ; UTF-18 : Unicode符号位置を単一の18ビット符号単位で表現する符号化方式。UTF-8に対するUTF-16のようなものだが、RFC公開時点のUnicodeで文字が定義されていた4つの[[面 (文字コード)|面]](BMP、U+1xxxx、U+2xxxx、U+Exxxx)を余った2ビットで識別するため、[[Unicode文字のマッピング#代用符号位置|代用符号位置]]は使わない。 以下はドラフト段階で破棄された規格案。 ; UTF-5 : [[国際化ドメイン名]]での利用を想定し、0-9、A-Vの32文字で表現する文字符号化方式。国際化ドメイン名には[[Punycode]]が採用されたため、利用されていない。 ; UTF-9 : 可変長(1-5バイト)の8ビット符号単位で表現する文字符号化形式または文字符号化方式。ISO-8859-1に対して一部互換である。しかし、UTF-8が普及しつつあり、それと比べて欠点がいくつかあったため、破棄された。 == 拡張領域 == 1980年代の当初の構想では、Unicodeは16ビット固定長で、2<sup>16</sup> = 6万5,536 個の符号位置に必要な全ての文字を収録する、というもくろみであった。しかし、Unicode 1.0公表後、拡張可能な空き領域2万字分を巡り、各国から文字追加要求が起こった。その内容は中国、日本、台湾、ベトナム、シンガポールの追加漢字約1万5千字、[[古ハングル]]約5千字、未登録言語の文字などである。このようにしてUnicodeの、16ビットの枠内に全世界の文字を収録するという計画は早々に破綻し、1996年のUnicode 2.0の時点で既に、文字集合の空間を16ビットから広げることが決まった。この時、それまでの16ビットを前提としてすでに設計されていたシステム(たとえば[[Java]]の<code>char</code>型や、[[Windows NT]]・[[Windows 95]]のAPI)をなるべくそのままにしたまま、広げられた空間にある符号位置を表現する方法として、サロゲートペアが定義された。 === サロゲートペア === サロゲートペア(代用対)は16ビットUnicodeの領域1,024文字分を2つ使い(前半 U+D800 〜 U+DBFF、後半 U+DC00 〜 U+DFFF)、各々1個ずつからなるペアで1,024 × 1,024 = 1,048,576文字を表す。これはちょうど16面分であり、第1面〜第16面(U+010000 〜 U+10FFFF)の文字をこれで表すこととした。加えて第0面([[基本多言語面]])も使用可能なので、Unicodeには合計で 1,048,576 + 65,536 - 2,048 = 111万2,064文字分の空間が確保されたことになる。Unicodeの符号空間が10FFFF<sub>16</sub>まで(サロゲート領域を除いて111万2,064文字)とされているのはUTF-16が表現可能な限界だからである。 サロゲートはUnicodeの符号位置の U+010000 〜 U+10FFFF の範囲を16ビットユニットのペア(2つ)で表現する集合で、最初の16ビットユニットを前半サロゲートもしくはハイサロゲート、二番目を後半サロゲートもしくはローサロゲートと称する。ハイサロゲートは U+D800 〜 U+DBFF の範囲、ローサロゲートは U+DC00 〜 U+DFFF の範囲である。 サロゲートペアはUTF-16でのみ使われ<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-15 | page=119 | quote=Surrogate pairs are used only in UTF-16. }}</ref>、UTF-8、UTF-32ではすべての符号位置を符号化できるためこのような特別な処理は必要ない。 ==== コーディング ==== サロゲートのエンコーディングは、符号位置を <math>CP</math>、ハイサロゲートを <math>HSG</math>、ローサロゲートを <math>LSG</math> とすると次の通りに計算する。 : <math>HSG = \mathrm{floor}\left(\frac{CP - 10000_{16}}{400_{16}}\right) + {\rm D800}_{16}</math> : <math>LSG = \left(CP - 10000_{16}\right)\bmod 400_{16} + {\rm DC00}_{16}</math> デコーディングは、 : <math>CP = 10000_{16} + \left(HSG - {\rm D800}_{16}\right)\times 400_{16} + \left(LSG - {\rm DC00}_{16}\right)</math> である。 ; コード変換例:「[[wikt:𠮷|𠮷]]{{efn|name="U+20BB7"|「吉」U+5409 の[[異体字]]で、上部が「士」ではなく「土」となっており、下の棒が長い。「つちよし」とも。}}」U+20BB7 のエンコードを考えてみる。 :: <math>{\color{green}0010\ 0000\ 10}{\color{blue}11\ 1011\ 0111}_2\ ({\rm 20BB7}_{16})</math> から :: <math>0001\ 0000\ 0000\ 0000\ 0000_2\ (10000_{16})</math> を引くと、結果は :: <math>{\color{green}0001\ 0000\ 10}{\color{blue}11\ 1011\ 0111}_2\ ({\rm 10BB7}_{16})</math> となる。 : これを上位10ビット値と下位10ビット値に分割する。 :: <math>{\color{green}0001\ 0000\ 10}_2\ ({\color{green}0042}_{16}),\ \ {\color{blue}11\ 1011\ 0111}_2\ ({\rm\color{blue}03B7}_{16})</math> : ハイ(上位)サロゲートを形成するために上位ビットに <math>{\rm D800}_{16}</math>を加える。 :: <math>{\color{green}00\ 0100\ 0010}_2\ ({\color{green}0042}_{16}) + 1101\ 1000\ 0000\ 0000_2\ ({\rm D800}_{16}) = 1101\ 10{\color{green}00\ 0100\ 0010}_2 ({\rm D842}_{16})</math> : ロー(下位)サロゲートを形成するために下位ビットに <math>{\rm DC00}_{16}</math> を加える。 :: <math>{\color{blue}11\ 1011\ 0111}_2\ ({\rm\color{blue}03B7}_{16}) + 1101\ 1100\ 0000\ 0000_2\ ({\rm DC00}_{16}) = 1101\ 11{\color{blue}11\ 1011\ 0111}_2 ({\rm DFB7}_{16})</math> : 結果 :: <math>{\rm\color{green}D842}_{16},\ {\rm\color{blue}DFB7}_{16}</math> (UTF-16 符号単位列) :: <math>{\rm\color{green}D8}_{16},\ {\rm\color{green}42}_{16},\ {\rm\color{blue}DF}_{16},\ {\rm\color{blue}B7}_{16}</math>(UTF-16BEでの符号化バイト列) :: <math>{\rm\color{green}42}_{16},\ {\rm\color{green}D8}_{16},\ {\rm\color{blue}B7}_{16},\ {\rm\color{blue}DF}_{16}</math>(UTF-16LEでの符号化バイト列) 次の表は、この文字変換と他をまとめたものである。 色は、コードポイントからのビットがUTF-16バイトにどのように分配されるかを示した。 なお、UTF-16エンコーディングプロセスによって追加された追加ビットは黒で示されている。 {| class="wikitable" |- !colspan=2|文字<br>(符号位置) ! 符号位置(2進数) ! UTF-16<br>符号単位列(2進数) ! UTF-16<br>符号単位列 ! UTF-16BE<br>符号化バイト列 ! UTF-16LE<br>符号化バイト列 |- |[[$]] || <code>U+0024</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|0000 0000 0010 0100}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|0000 0000 0010 0100}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|0024}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|00 24}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|24 00}}</code> |- |[[€]]{{efn|[[通貨]]の[[ユーロ記号]]。}} || <code>U+20AC</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|0010 0000 1010 1100}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|0010 0000 1010 1100}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|20AC}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|20 AC}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#0070FF|AC 20}}</code> |- |[[wikt:𠮷|𠮷]]{{efn|name="U+20BB7"}} || <code>U+20BB7</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|0010 0000 10}}{{Font color|#0070FF|11 1011 0111}}</code> |align=right|<code>1101 10{{Font color|#00AA00|00 0100 0010}} 1101 11{{Font color|#0070FF|11 1011 0111}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|D842}} {{Font color|#0070FF|DFB7}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|D8 42}} {{Font color|#0070FF|DF B7}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|42 D8}} {{Font color|#0070FF|B7 DF}}</code> |- |最大値 || <code>U+10FFFF</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|1 0000 1111 11}}{{Font color|#0070FF|11 1111 1111}}</code> |align=right|<code>1101 10{{Font color|#00AA00|11 1111 1111}} 1101 11{{Font color|#0070FF|11 1111 1111}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|DBFF}} {{Font color|#0070FF|DFFF}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|DB FF}} {{Font color|#0070FF|DF FF}}</code> |align=right|<code>{{Font color|#00AA00|FF DB}} {{Font color|#0070FF|FF DF}}</code> |} == 面 == 一つの面は6万5536個の符号位置がある。 {|class="wikitable" style="font-size:95%" !style="white-space:nowrap"|面!!style="white-space:nowrap"|符号位置!!style="white-space:nowrap"|英語での名称!!style="white-space:nowrap"|略称!!style="white-space:nowrap"|日本語での名称!!style="white-space:nowrap"|収録されている主な文字 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第0面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+0000 - U+FFFF</code>||Basic Multilingual Plane||BMP||[[基本多言語面]]||基本的な文字。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第1面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+10000 - U+1FFFF</code>||Supplementary Multilingual Plane||SMP||[[追加多言語面]]||古代文字や記号・[[絵文字]]類など。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第2面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+20000 - U+2FFFF</code>||Supplementary Ideographic Plane||SIP||[[追加漢字面]]||漢字専用領域。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第3面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+30000 - U+3FFFF</code>||Tertiary Ideographic Plane||TIP||[[第三漢字面]]||追加漢字面に入りきらなかった漢字。また、将来的には古代漢字や甲骨文字などが収録される予定{{efn|2019年3月現在では、古代漢字や甲骨文字はまだ1文字も収録されていない。}}。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第4面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+40000 - U+4FFFF</code>||colspan="4" rowspan="10" style="text-align:center" |未使用(将来どのような目的で使用するのかすら決まっていない)。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第5面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+50000 - U+5FFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第6面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+60000 - U+6FFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第7面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+70000 - U+7FFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第8面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+80000 - U+8FFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第9面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+90000 - U+9FFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第10面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+A0000 - U+AFFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第11面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+B0000 - U+BFFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第12面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+C0000 - U+CFFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第13面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+D0000 - U+DFFFF</code> |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第14面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+E0000 - U+EFFFF</code>||Supplementary Special-purpose Plane||SSP||[[追加特殊用途面]]||制御コード専用領域。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第15面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+F0000 - U+FFFFF</code>||rowspan="2" |Private Use Plane||rowspan="2" |PUP||rowspan="2" |[[私用面]]||rowspan="2" |BMPの U+E000 - U+F8FF の領域の拡張。 |- !style="white-space:nowrap; text-align:right"|第16面 |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|<code>U+100000 - U+10FFFF</code> |- |} 日本では2000年に[[JIS X 0208]]を拡張する目的でJIS X 0213(いわゆるJIS第3・第4水準)が制定されたが、この際、新たに採用された文字でUnicodeになかったものの一部は、BMPに収録できず、第2面への収録となった(Unicodeが最終的にJIS X 0213への対応を完了したのは[[2002年]]である)。このため、JIS X 0213収録文字をUnicodeで完全にサポートするには、追加漢字面をサポートした[[オペレーティングシステム|OS]]、[[フォント]]、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が必要となる。Shift_JISなど、Unicodeにて規定されるもの以外のエンコーディングを利用する場合であっても、JIS X 0213に対応するフォントやアプリケーションが必要である。 [[常用漢字]]の[[2010年]]改定で追加された字のうち<span style="font-size:150%;">「{{JIS2004フォント|&#x20B9F;}}」</span>はU+20B9Fで、追加漢字面に含まれる。そのため、改定後の常用漢字完全サポートを謳う場合、Unicodeに対応していて更にこの拡張領域にも対応している必要があると言える。ただ、現状ではこの字は、JIS X 0208に含まれる(=当然、Unicode策定当初からBMPに収録されている)異体字の<span style="font-size:150%;">「叱」</span>(U+53F1) で代用されることが多い。 == 歴史 == 1984年、ISOの文字コード規格委員会 (ISO/TC 97/SC2) は文字セットの切り替えを行わずに世界中の文字を単一の文字集合として扱える文字コード規格 (ISO 10646) を作成することを決定し、専門の作業グループ (ISO/TC 97/SC 2/WG 2) を設置し、作業を始めていた。1980年代後半にはこの作業グループにおいてさまざまな提案が検討されている。1990年になって出来あがったISO/TC 97/SC 2/WG 2作成のISO 10646の初版ドラフト([[DIS 10646#DIS 10646第1版]])では、漢字コードは32ビットで表現され、各国の漢字コードはそのまま入れることになった。しかし中国は漢字を各国でばらばらに符号化するのではなく、あくまで統一して扱うことを求めてこのドラフトには当初から反対しており、今後の漢字コードの方針を決めるため、WG 2は CJK-JRG (Joint Research Group) と呼ばれるグループを別途設置し、そこで引き続き検討することにした。 このような公的機関の動きとは別に、1987年頃から[[Xerox]]のJoe BeckerとLee Collinsは、後にUnicodeと呼ばれるようになる、世界中の文字を統一して扱える文字コードを開発していた。1989年9月には「Unicode Draft 1」が発表された。ここではその基本方針として、2オクテット(16ビット)固定長で全ての文字を扱えることを目指しており、そのために日本・中国・韓国の漢字を統一することで2万弱の漢字コードを入れ、さらに将来の拡張用に、3万程度の漢字の空き領域が別に用意されていた。このドラフトは少しずつ改良を加えられながら1990年4月にUnicode Draft 2、同年12月Unicode Final Draftとなった。さらに1991年1月にはこのUnicode Final Draftに賛同する企業によって、[[ユニコードコンソーシアム]]が設立された。 1991年6月、ISO/IEC 10646による4オクテット固定長コードを主体としたドラフト「DIS 10646第1版」は、2オクテット固定長コードであるUnicodeとの一本化を求める各国により否決され、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。また中国およびユニコードコンソーシアムの要請により、CJK-JRGにおいて、ISO 10646とUnicodeの一本化が図られることになった。CJK-JRGは各国の漢字コードに基づき独自の統合規準を定め、ISO 10646 / Unicode用の統合漢字コード表を作成することになった。CJK-JRGの会合は第1回が7月22日から24日にかけて東京で、第2回の会合が9月17日から19日にかけて北京で、第3回が11月25日から29日にかけて香港で開催された。これらの討議の結果、1991年末になって「ISO 10646=Unicode」用の統合漢字コード表が Unified Repertoire and Ordering (URO) の第1版として完成した。 Unicodeの最初に印刷されたドキュメントであるUnicode 1.0は、統合漢字表の完成に先行して漢字部分を除いたUnicode 1.0, Vol.1が1991年10月に出版され、後に1992年になって漢字部分だけのUnicode 1.0, Vol.2が出版された。 1992年、CJK統合漢字URO第二版が完成し、これを取り込んだ(ただし、UROには若干の間違いが発見されており、それらの修正が行われている。)DIS 10646第2版が、5月30日の国際投票で可決された。 1993年5月1日 「ISO/IEC 10646-1: 1993 Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane」が制定される。同年翌6月にUnicode 1.0は ISO/IEC 10646-1:1993にあわせた変更を行いUnicode 1.1となり、以後UnicodeとISO/IEC 10646とは歩調を合わせて改訂されていくことになる。 === Unicodeのバージョン === Unicodeのバージョンは、メジャーバージョン (the major version)、マイナーバージョン (the minor version)、アップデートバージョン (the update version) の3つの部分から構成され、ピリオドでつなげて表示される<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/standard/versions/ | title=About Versions of the Unicode® Standard | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-06-18 | accessdate=2015-07-31 }}</ref>。ただし、マイナーバージョン及びアップデートバージョンについては0の場合には省略して表示されることもある。メジャーバージョンはレパートリーの追加のような重要な変更が行われたときに改定される。Unicodeのドキュメントは書籍形態と電子版ドキュメント形態の両方で公表され、どちらもUnicodeについての正式なドキュメントであるとされている。新たなバージョンがリリースされたときは新たなドキュメントが公表されるが、書籍として刊行されるのはメジャーバージョンが改定された場合および重要なマイナーバージョンの改定があった場合のみである。書籍版のバージョン1.0は、2巻に分けて刊行され、統合漢字部分を除いた第1巻は1991年10月に、統合漢字部分の第2巻は1992年6月に刊行された。そのため第1巻のみのものをUnicode 1.0.0、第2巻を含めたものをUnicode 1.0.1と呼ぶことがある。 === 各バージョンとその特徴 === Unicodeのそれぞれのバージョン番号とその制定年月日、収録文字数他の特徴は以下の通りである。 {| class="wikitable" style="font-size:90%" !制定年月日!! style="white-space:nowrap;" |バージョン番号!! style="white-space:nowrap;" |収録文字数!!概要!! style="white-space:nowrap;" |日本語における主要な追加文字 |- |1991年10月|| style="white-space:nowrap;" |Unicode 1.0.0 <ref name="unicode_components_1.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-1.0.0.html | title=Components of The Unicode Standard Version 1.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-03 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||7,161||初期バージョン、16ビットの文字コード||[[JIS X 0201]] |- |1992年6月||Unicode 1.0.1 <ref name="unicode_components_1.0.1">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-1.0.1.html | title=Components of The Unicode Standard Version 1.0.1 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-03 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||28,359||CJK統合漢字を導入||[[JIS X 0208]]、[[JIS X 0212]] |- |1993年6月||Unicode 1.1.0 <ref name="unicode_components_1.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-1.1.0.html | title=Components of The Unicode Standard Version 1.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-03 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||34,233||ISO/IEC 10646-1:1993にあわせ変更|| |- |1993年7月||Unicode 1.1.5 <ref name="unicode_components_1.1.5">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-1.1.5.html | title=Components of The Unicode Standard Version 1.1.5 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-03 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |1996年7月||Unicode 2.0.0 <ref name="unicode_components_2.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-2.0.0.html | title=Components of The Unicode Standard Version 2.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2011-01-12 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||38,950||ISO/IEC 10646-1:1993の追補Amd.1からAmd.7に対応。[[ハングル]]の大移動を行いUnicode1.xとの互換性を失う (Amd.5)、サロゲートペア(代用対)を導入し[[追加面]]を可能にして収容可能な文字を大幅に増やす、21ビット領域に拡張 (Amd.1)|| |- |1998年5月||Unicode 2.1.0 <ref name="unicode_components_2.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/Unicode2.1.0/ | title=Unicode 2.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2011-01-12 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||38,952||[[ユーロ記号]]と正誤表を追加|| |- |1998年5月||Unicode 2.1.2 <ref name="unicode_components_2.1.2">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-2.1.2.html | title= Components of The Unicode Standard Version 2.1.2 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-15 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |1998年8月||Unicode 2.1.5 <ref name="unicode_components_2.1.5">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-2.1.5.html | title= Components of The Unicode Standard Version 2.1.5 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-15 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |1998年10月||Unicode 2.1.8 <ref name="unicode_components_2.1.8">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-2.1.8.html | title= Components of The Unicode Standard Version 2.1.8 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-15 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |1999年4月||Unicode 2.1.9 <ref name="unicode_components_2.1.9">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-2.1.9.html | title= Components of The Unicode Standard Version 2.1.9 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-15 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |1999年9月||Unicode 3.0.0 <ref name="unicode_components_3.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-3.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 3.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-21 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||49,259||ISO/IEC 10646-1:2000が発行されるまでの追補Amd.8からAmd.31の文字すべてに対応。[[CJK統合漢字]]の[[拡張漢字|拡張A]]で漢字6582字を追加 (Amd.17)||[[JIS X 0213]]の一部(地名や人名などに用いられる漢字) |- |2000年8月||Unicode 3.0.1 <ref name="unicode_components_3.0.1">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-3.0.1.html | title= Components of The Unicode Standard Version 3.0.1 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-18 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |2001年3月||Unicode 3.1.0 <ref name="unicode_components_3.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-3.1.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 3.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-23 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||94,205||ISO/IEC 10646-2:2001に対応。BMP以外の拡張。CJK統合漢字の拡張Bで漢字42711字を追加||JIS X 0213の一部(地名や人名などに用いられる漢字) |- |2001年8月||Unicode 3.1.1 <ref name="unicode_components_3.1.1">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-3.1.1.html | title= Components of The Unicode Standard Version 3.1.1 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-18 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |2002年3月||Unicode 3.2.0 <ref name="unicode_components_3.2.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-3.2.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 3.2.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-23 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||95,221||ISO/IEC 10646-1:2000の追補Amd.1に対応||JIS X 0213(正式対応) |- |2003年4月||Unicode 4.0.0 <ref name="unicode_components_4.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-4.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 4.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-22 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||96,447||ISO/IEC 10646:2003に対応|| |- |2004年5月||Unicode 4.0.1 <ref name="unicode_components_4.0.1">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-4.0.1.html | title= Components of The Unicode Standard Version 4.0.1 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-01 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> || || || |- |2005年3月31日||Unicode 4.1.0 <ref name="unicode_components_4.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-4.1.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 4.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2010-12-01 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||97,720||ISO/IEC 10646:2003の追補Amd.1に対応|| |- |2006年7月14日||Unicode 5.0.0 <ref name="unicode_components_5.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-5.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 5.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2011-01-07 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||99,089 ||ISO/IEC 10646:2003の追補Amd.2と[[シンド語]](Amd.3に含まれる)に対応|| |- | style="white-space:nowrap;" |[[2008年]]4月4日 <ref name="unicode_components_5.1.0">{{cite web |author=[[ユニコードコンソーシアム|Unicode Consortium]]|url=http://www.unicode.org/versions/components-5.1.0.html |title=Components of The Unicode Version 5.1.0 |accessdate=2008-04-05 }}</ref> ||Unicode 5.1.0 ||100,713 ||ISO/IEC 10646:2003の追補Amd.3とAmd.4に対応。[[異体字セレクタ]]を漢字に対して使い始める <ref>{{cite web |author=[[ユニコードコンソーシアム|Unicode Consortium]]|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode5.1.0/ |title=Unicode 5.1.0 |accessdate=2008-04-08 }}</ref> ||[[麻雀牌]]、割り算の[[筆算]](長除法)の記号、[[スターマーク|電話機の星印]]、[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-6]]の漢字字形 <ref>{{cite web |author=[[ユニコードコンソーシアム|Unicode Consortium]] |url=http://www.unicode.org/ivd/ |title=Ideographic Variation Database |accessdate=2008-04-07 }}</ref> |- |2009年10月1日 ||Unicode 5.2.0 <ref name="unicode_components_5.2.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-5.2.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 5.2.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2011-01-12 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||107,361 ||ISO/IEC 10646:2003の追補Amd.6までに対応 ||[[ARIB外字]] |- |{{nowrap|2010年10月11日}} ||Unicode 6.0.0 <ref name="unicode_components_6.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-6.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 6.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2011-03-18 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||109,449 ||ISO/IEC 10646:2010 ||[[携帯電話の絵文字]] |- |2012年1月31日 ||Unicode 6.1.0 <ref name="unicode_components_6.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-6.1.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 6.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2012-05-15 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||110,181 ||ISO/IEC 10646:2012|| |- |2012年9月26日 ||Unicode 6.2.0 <ref name="unicode_components_6.2.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-6.2.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 6.2.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2012-11-17 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||110,182 ||[[新トルコリラ]]の通貨記号の追加など|| |- |2013年9月30日 ||Unicode 6.3.0 <ref name="unicode_components_6.3.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-6.3.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 6.3.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2013-09-28 | accessdate=2013-10-05 }}</ref> ||110,187 || || |- |2014年6月16日 ||Unicode 7.0.0 <ref name="unicode_components_7.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-7.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 7.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-06-16 | accessdate=2014-06-18 }}</ref> ||113,021 ||ISO/IEC 10646:2012の追補Amd.1とAmd.2に対応。[[ルーブル]]、[[アゼルバイジャン・マナト]]の通貨記号、北米・中国・インド・アフリカの言語のための歴史的なスクリプトの追加。 ||約250字の絵文字の追加。 |- |2015年6月17日 ||Unicode 8.0.0 <ref name="unicode_components_8.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-8.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 8.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-06-17 | accessdate=2015-06-19 }}</ref> ||120,737 ||ISO/IEC 10646:2014の追補Amd.1に対応。 ||U+301C [[波ダッシュ|WAVE DASH]]の修正(後述) |- |2016年6月21日 ||Unicode 9.0.0 <ref name="unicode_components_9.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-9.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 9.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-21 | accessdate=2016-07-05 }}</ref> ||128,172 ||ISO/IEC 10646:2014の追補Amd.2に対応。 ||91個の絵文字の追加、4KTV放送用シンボル19個の追加 |- |2017年6月20日 ||{{nowrap|Unicode 10.0.0}} <ref name="unicode_components_10.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-10.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 10.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-20 | accessdate=2017-06-23 }}</ref> ||136,690 ||ISO/IEC 10646:2017 ||[[変体仮名]]285文字追加 |- |2018年6月5日 ||{{nowrap|Unicode 11.0.0 <ref name="unicode_components_11.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-11.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 11.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-04-13 }}</ref>}} ||137,374 ||ISO/IEC 10646:2017の追補Amd.1に対応 || |- |2019年3月5日 ||Unicode 12.0.0 <ref name="unicode_components_12.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-12.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 12.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2019-03-05 | accessdate=2019-04-13 }}</ref> ||137,928 ||ISO/IEC 10646:2017の追補Amd.1とAmd.2に対応 ||小文字の「ゐ」「ゑ」「を」「ヰ」「ヱ」「ヲ」「ン」追加 |- |2019年5月7日 ||Unicode 12.1.0 <ref name="unicode_components_12.1.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-12.1.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 12.1.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2019-05-07 | accessdate=2019-05-07 }}</ref> ||137,929 || || 「&#x32FF;」(日本の元号「令和」の合字)追加 |- |2020年3月10日 ||Unicode 13.0.0 <ref name="unicode_components_13.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-13.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 13.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2020-03-10 | accessdate=2020-03-13 }}</ref> ||143,859 ||ISO/IEC 10646:2020 || |- |2021年9月22日 ||Unicode 14.0.0 <ref name="unicode_components_14.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-14.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 14.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2021-09-22 | accessdate=2021-09-22 }}</ref> ||144,697 ||ISO/IEC 10646:2021 || |- |2022年9月13日 ||Unicode 15.0.0 <ref name="unicode_components_15.0.0">{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/components-15.0.0.html | title= Components of The Unicode Standard Version 15.0.0 | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2022-09-13 | accessdate=2022-09-13 }}</ref> ||149,186 ||ISO/IEC 10646:2022 || |- |} === 構成要素のバージョン === {{更新|date=2022年7月|section=1}} Unicodeのバージョンには、上記のような「Unicodeの規格全体に付けられたバージョン」の他に「Unicodeを構成する個々の要素の規格に付けられたバージョン」が存在する。これに該当するものとしては、Unicodeを構成する各面ごとに付けられたバージョンや、Unicodeに収録されないこととされたスクリプトのリスト (NOR = Not The Roadmap) に付けられたバージョン、規格の一部を構成するUnicode Technical Note(Unicode技術ノート)、Unicode Technical Report(Unicode技術報告)、Unicode Technical Standard(Unicode技術標準)のバージョンなどが存在する。 {| class="wikitable" style="font-size:95%" !style="white-space:nowrap"|日付 !style="white-space:nowrap"|全体<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/versions/enumeratedversions.html | title=Enumerated Versions of The Unicode Standard | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-20 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|[[基本多言語面|BMP]]<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/index.html | title=Roadmap to the BMP | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|[[追加多言語面|SMP]]<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/ | title=Roadmap to the SMP | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2018-01-10 | accessdate=2018-01-14 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|[[追加漢字面|SIP]]<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/ | title=Roadmap to the SIP | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|[[第三漢字面|TIP]]<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/ | title=Roadmap to the TIP | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-12-27 | accessdate=2018-01-01 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|[[追加特殊用途面|SSP]]<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ | title=Roadmap to the SSP | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> !style="white-space:nowrap"|NOR<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/not-the-roadmap/ | title=Roadmap to the NOR | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> |- !style="white-space:nowrap"|1991年10月 |1.0.0<ref name="unicode_components_1.0.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1992年6月 |1.0.1<ref name="unicode_components_1.0.1" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1993年6月 |1.1.0<ref name="unicode_components_1.1.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1993年7月 |1.1.5<ref name="unicode_components_1.1.5" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1996年7月 |2.0.0<ref name="unicode_components_2.0.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1998年5月 |2.1.0<ref name="unicode_components_2.1.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1998年5月 |2.1.2<ref name="unicode_components_2.1.2" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1998年8月 |2.1.5<ref name="unicode_components_2.1.5" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1998年10月 |2.1.8<ref name="unicode_components_2.1.8" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1999年4月 |2.1.9<ref name="unicode_components_2.1.9" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|1999年9月 |3.0.0<ref name="unicode_components_3.0.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2000年8月 |3.0.1<ref name="unicode_components_3.0.1" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2001年3月 |3.1.0<ref name="unicode_components_3.1.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2001年8月 |3.1.1<ref name="unicode_components_3.1.1" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2001年10月10日 | |3.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-0.html | title=Roadmap to the BMP 3.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-10 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |3.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-0.html | title=Roadmap to the SMP 3.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-10 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |3.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-3-0.html | title=Roadmap to the SIP 3.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-10 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | |1.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/not-the-roadmap/not-the-roadmap-1-0.html | title=Roadmap to the NOR 1.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-10 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |- !style="white-space:nowrap"|2001年10月12日 | | |3.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-1.html | title=Roadmap to the SMP 3.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-12 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2001年10月27日 | |3.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-1.html | title=Roadmap to the BMP 3.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-10-27 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2001年11月27日 | | | | | |3.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ssp-3-0.html | title=Roadmap to the SSP 3.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2001-11-27 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | |- !style="white-space:nowrap"|2002年1月22日 | |3.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-2.html | title=Roadmap to the BMP 3.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-01-22 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | |3.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ssp-3-1.html | title=Roadmap to the SSP 3.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-01-22 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | |- !style="white-space:nowrap"|2002年1月29日 | |3.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-3.html | title=Roadmap to the BMP 3.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-01-29 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年2月5日 | |3.4<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-4.html | title=Roadmap to the BMP 3.4 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-02-05 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年3月 |3.2.0<ref name="unicode_components_3.2.0" /> | | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年4月3日 | | |3.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-2.html | title=Roadmap to the SMP 3.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-04-03 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年4月4日 | |3.5<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-5.html | title=Roadmap to the BMP 3.5 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-04-04 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年6月7日 | |3.6<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-6.html | title=Roadmap to the BMP 3.6 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-06-07 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |3.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-3.html | title=Roadmap to the SMP 3.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode 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url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-5.html | title=Roadmap to the SMP 3.5 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-12-03 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2002年12月11日 | |3.11<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-11.html | title=Roadmap to the BMP 3.11 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2002-12-11 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2003年3月12日 | |3.12<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-3-12.html | title=Roadmap to the BMP 3.12 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2003-03-12 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |3.6<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-3-6.html | title=Roadmap to the SMP 3.6 | author= Michael 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| |- !style="white-space:nowrap"|2003年10月31日 | | |4.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-4-3.html | title=Roadmap to the SMP 4.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2003-10-31 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2003年12月23日 | |4.7<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-4-7.html | title=Roadmap to the BMP 4.7 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2003-12-23 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> |4.4<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-4-4.html | title=Roadmap to the SMP 4.4 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2003-12-23 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2004年5月 |4.0.1<ref name="unicode_components_4.0.1" /> | | | | | | |- 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|4.14<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-4-14.html | title=Roadmap to the SMP 4.14 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2005-09-17 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2005年9月19日 | |4.16<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-4-16.html | title=Roadmap to the BMP 4.16 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2005-09-19 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2005年12月8日 | | |4.15<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-4-15.html | title=Roadmap to the SMP 4.15 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2005-12-08 | accessdate=2012-05-05 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2006年1月11日 | |4.17<ref>{{Cite web | 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Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-08-07 | accessdate=2014-08-09 }}</ref> |7.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-7-0-0.html | title=Roadmap to the SMP 7.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-08-07 | accessdate=2014-08-09 }}</ref> |7.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-7-0-0.html | title=Roadmap to the SIP 7.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-08-07 | accessdate=2014-08-09 }}</ref> |7.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-7-0-0.html | title=Roadmap to the TIP 7.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. 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Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-09-18 | accessdate=2014-09-28 }}</ref> |7.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-7-0-1.html | title=Roadmap to the SMP 7.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-09-18 | accessdate=2014-09-28 }}</ref> |7.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-7-0-1.html | title=Roadmap to the SIP 7.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-09-18 | accessdate=2014-09-28 }}</ref> | | | |- !style="white-space:nowrap"|2014年10月24日 | | |7.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-7-0-2.html | title=Roadmap to the SMP 7.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-10-24 | accessdate=2014-10-30 }}</ref> |7.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-7-0-2.html | title=Roadmap to the SIP 7.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-10-24 | accessdate=2014-10-26 }}</ref> |7.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-7-0-1.html | title=Roadmap to the TIP 7.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2014-10-24 | accessdate=2014-10-31 }}</ref> | | |- !style="white-space:nowrap"|2015年3月26日 | |7.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-7-0-2.html | title=Roadmap to the BMP 7.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-03-26 | accessdate=2015-03-28 }}</ref> |7.0.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-7-0-3.html | title=Roadmap to the SMP 7.0.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-03-26 | accessdate=2015-03-28 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2015年6月3日 | |7.0.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-7-0-3.html | title=Roadmap to the BMP 7.0.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-06-03 | accessdate=2015-06-13 }}</ref> |7.0.4<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-7-0-4.html | title=Roadmap to the SMP 7.0.4 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-06-03 | accessdate=2015-06-13 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2015年6月17日 |8.0.0<ref name="unicode_components_8.0.0" /> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2015年6月26日 | |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-8-0-0.html | title=Roadmap to the BMP 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-8-0-0.html | title=Roadmap to the SMP 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-8-0-0.html | title=Roadmap to the SIP 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-8-0-0.html | title=Roadmap to the TIP 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ssp-8-0-0.html | title=Roadmap to the SSP 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |8.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/not-the-roadmap/not-the-roadmap-8-0-0.html | title=Roadmap to the NOR 8.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-07-09 | accessdate=2015-07-10 }}</ref> |- !style="white-space:nowrap"|2015年8月17日 | | |8.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-8-0-1.html | title=Roadmap to the SMP 8.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2015-08-17 | accessdate=2015-08-22 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年1月21日 | |8.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-8-0-1.html | title=Roadmap to the BMP 8.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-01-21 | accessdate=2016-01-25 }}</ref> |8.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-8-0-2.html | title=Roadmap to the SMP 8.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-01-21 | accessdate=2016-01-25 }}</ref> | |8.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-8-0-1.html | title=Roadmap to the TIP 8.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-01-21 | accessdate=2016-01-22 }}</ref> | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年2月3日 | | |8.0.3<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-8-0-3.html | title=Roadmap to the SMP 8.0.3 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-02-03 | accessdate=2016-02-05 }}</ref> |8.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-8-0-1.html | title=Roadmap to the SIP 8.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-02-03 | accessdate=2016-02-05 }}</ref> | | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年5月3日 | |8.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-8-0-2.html | title=Roadmap to the BMP 8.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-05-03 | accessdate=2016-06-13 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年6月10日 | | |8.0.4<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-8-0-4.html | title=Roadmap to the SMP 8.0.4 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-10 | accessdate=2016-06-13 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年6月21日 |9.0.0<ref name="unicode_components_9.0.0" /> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2016年6月23日 | |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-9-0-0.html | title=Roadmap to the BMP 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-9-0-0.html | title=Roadmap to the SMP 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-9-0-0.html | title=Roadmap to the SIP 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-9-0-0.html | title=Roadmap to the TIP 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ssp-9-0-0.html | title=Roadmap to the SSP 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |9.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/not-the-roadmap/not-the-roadmap-9-0-0.html | title=Roadmap to the NOR 9.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2016-06-23 | accessdate=2016-06-25 }}</ref> |- !style="white-space:nowrap"|2017年1月12日 | | |9.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-9-0-1.html | title=Roadmap to the SMP 9.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-01-12 | accessdate=2017-01-25 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2017年5月24日 | |9.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-9-0-1.html | title=Roadmap to the BMP 9.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-05-24 | accessdate=2017-05-28 }}</ref> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2017年6月6日 | | |9.0.2<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-9-0-2.html | title=Roadmap to the SMP 9.0.2 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-06 | accessdate=2017-06-09 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2017年6月20日 |10.0.0<ref name="unicode_components_10.0.0" /> | | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2017年6月21日 | |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/bmp/bmp-10-0-0.html | title=Roadmap to the BMP 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> | |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/sip/sip-10-0-0.html | title=Roadmap to the SIP 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-10-0-0.html | title=Roadmap to the TIP 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/ssp/ssp-10-0-0.html | title=Roadmap to the SSP 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/not-the-roadmap/not-the-roadmap-10-0-0.html | title=Roadmap to the NOR 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-21 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> |- !style="white-space:nowrap"|2017年6月29日 | | |10.0.0<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-10-0-0.html | title=Roadmap to the SMP 10.0.0 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-06-29 | accessdate=2017-07-22 }}</ref> | | | | |- !style="white-space:nowrap"|2017年12月27日 | | | | |10.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/tip/tip-10-0-1.html | title=Roadmap to the TIP 10.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2017-12-27 | accessdate=2018-01-01 }}</ref> | | |- !style="white-space:nowrap"|2018年1月10日 | | |10.0.1<ref>{{Cite web | url=http://www.unicode.org/roadmaps/smp/smp-10-0-1.html | title=Roadmap to the SMP 10.0.1 | author= Michael Everson, Rick McGowan, Ken Whistler, V.S. Umamaheswaran | publisher= Unicode Consortium | language=English | date=2018-01-10 | accessdate=2018-01-14 }}</ref> | | | ||- |} == Unicodeの諸問題 == === バージョンごとの非互換性 === Unicodeは同一のコードでもバージョンが変わったとき完全に異なった文字を定義し直したことがある。 そのうち最大のものがUnicode 2.0での「[[ハングル#Unicode|ハングルの大移動]]」である。これはUnicode 1.1までで定義されていたハングルの領域を破棄し、新しいハングルの領域を別の位置に設定し、破棄された領域には別の文字の領域を割り当てることとなった。その後、Unicode 3.0では、従来ハングルが割り当てられていた領域にCJK統合漢字拡張A、ついでUnicode 4.0で六十四卦が割り当てられた。このように、Unicode 1.1以前でハングルを記述した文書とUnicode 2.0以降でCJK統合漢字拡張Aを記述した文書には互換性がない{{efn|RFC 3629の [https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3629#section-5 5. Versions of the standards] でKorean mess(ハングル大移動)について、[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3629#section-8 8. MIME registration] でUTF-8にバージョン指定がない理由についての言及がある。}}。JCS委員長の[[芝野耕司]]はUnicodeに日本語の漢字を収録させる議論の中で、ハングル大移動について「韓国のとった滅茶苦茶な行動」と述べている<ref>{{Cite web|和書| url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/column/ogata/part2_8.htm | title=小形克宏の「文字の海、ビットの舟」| author=[[小形克宏]] | date=2000-07-20 | publisher=[[INTERNET Watch]] | accessdate=2011-02-24}}</ref>。 === 日本語環境でのUnicodeの諸問題 === ==== YEN SIGN 問題 ==== {{未検証|section=1|date=2010年7月}}<!-- ここで述べられているのはシフト符号化表現のマイクロソフトコードページでの運用に関する問題ではないか。ISO/IEC 646国別バリアントでナショナルユースの区点をUS-ASCIIにマップすることはない。つまり既存キャラクタセットのマッピングの問題であって、ユニコードの問題ではない。 --> <!-- 先立ちの[[ASCII]]の文字定義を乗っ取りして、:よくわからない。日本語が母語でない方の文? --> [[Shift JIS]] では [[JIS X 0201]] における([[日本]]や[[中国]]の[[通貨]]の)[[円記号]] "¥" が 0x5C に置かれている。これを Unicode のマッピングに合わせると YEN SIGN (U+00A5) にマップされる。しかし、0x5C は [[ASCII]] では[[バックスラッシュ]] "{{Backslash}}" に相当し、[[C言語]]などで[[エスケープ文字]]として使われる事から、この文字のコードを変更すると問題が起きる。極端な例として、0x5C が円記号とエスケープ文字の両方の目的で使われているケース(たとえば[[C言語]]の[[printf]]関数で <code>printf("¥¥%d¥n", price);</code> など)も考えられる。 そのため、Unicode を利用するアプリケーションでは、U+007F 以下のコードに関しては移動させないという暗黙のルールができている。 そうなると、Unicode 環境では円記号がバックスラッシュの表示に変わってしまうように思われるが、これは日本語用の[[フォント]]データの 0x5C の位置には円記号の字形を当ててしまうことで対処している。これによって、日本語環境での表示上は 0x5C の位置で円記号を用いることができる。 この問題は日本語環境に限ったことではない。もともと [[ISO 646]] 上では、0x5C を含む数種の文字は自由領域(バリアント)として各国での定義を認めていた。そのため、日本語以外でも ASCII でバックスラッシュに相当するコードに異なる記号を当てているケースが多い。例えば、[[大韓民国|韓国]]では通貨の[[ウォン記号]] (WON SIGN, U+20A9, "{{Unicode|&#x20A9;}}")、[[デンマーク]]や[[ノルウェー]]ではストローク付きO (LATIN CAPITAL LETTER O WITH STROKE, U+00D8, "{{Unicode|[[&#x00D8;]]}}") などである。(後者は後の時代には、0x5C はバックスラッシュのままとし、[[ISO 8859]] シリーズを用いることが一般化した。) ==== 波ダッシュ・全角チルダ問題 ==== [[JIS X 0221]] 規定の JIS X 0208 と JIS X 0221 の対応表では、[[波ダッシュ]]は WAVE DASH (U+301C, "{{JIS2004フォント|&#x301C;}}") に対応させているが、[[マイクロソフト]]は Windows の Shift_JIS と Unicode の変換テーブルを作成する際に、JIS X 0208 において 1 区 33 点に割り当てられている波ダッシュ "{{JIS2004フォント|&#x301C;}}" を、Unicode における全角チルダ (FULLWIDTH TILDE, U+FF5E, "&#xFF5E;") に割り当てたため不整合が生じた。 この結果、[[macOS]] 等の JIS X 0221 準拠の Shift_JIS ⇔ Unicode 変換テーブルをもつ処理系と Windows との間で Unicode データをやり取りする場合、[[文字化け]]を起こすことになる。そこで Windows 以外の OS 上で動くアプリケーションの中には、[[Microsoftコードページ932|CP932]] という名前でマイクロソフト仕様の Shift_JIS コード体系を別途用意して対応しているケースが多い。この原因とされている Unicode 仕様書の例示字形の問題に関しては、[[波ダッシュ#Unicodeに関連する問題]]を参照すること。 =====マイクロソフト仕様に起因する問題===== 上記に加え、マイクロソフト仕様は変換時にも問題が起こる文字を以下に示す。 {| class="wikitable sortable" |- ! JIS X 0208<br />区点 !! Shift JIS !! JIS X 0208<br />日本語通用名称 !! SJISでデコード !! MS932でデコード<br />(マイクロソフト仕様) !! 関連記事 |- |style="text-align: center"| <code>1-29</code> || style="text-align: center"|<code>0x815c</code> || ダッシュ(全角) || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x2014;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+2014</code>) EM DASH || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x2015;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+2015</code>) HORIZONTAL BAR || [[ダッシュ (記号)#全角ダッシュのマッピング問題|ダッシュ (記号)]] |- |style="text-align: center"| <code>1-33</code> || style="text-align: center"|<code>0x8160</code> || 波ダッシュ || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x301C;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+301C</code>) WAVE DASH || {{font|text={{JIS2004フォント|&#xFF5E;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+FF5E</code>) FULLWIDTH TILDE || [[波ダッシュ#Unicodeに関連する問題|波ダッシュ]]、[[チルダ#全角チルダ|全角チルダ]] |- |style="text-align: center"| <code>1-34</code> || style="text-align: center"|<code>0x8161</code> || 双柱 || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x2016;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+2016</code>) DOUBLE VERTICAL LINE || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x2225;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+2225</code>) PARALLEL TO || [[双柱]]、[[平行記号#文字コードにおける問題|平行記号]] |- |style="text-align: center"| <code>1-61</code> || style="text-align: center"|<code>0x817c</code> || 負符号、減算記号 || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x2212;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+2212</code>) MINUS SIGN || {{font|text={{JIS2004フォント|&#xFF0D;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+FF0D</code>) FULLWIDTH HYPHEN-MINUS || [[プラス記号とマイナス記号#マイナス記号|マイナス記号]]、[[ハイフンマイナス]] |- |style="text-align: center"| <code>1-81</code> || style="text-align: center"|<code>0x8191</code> || セント記号 || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x00A2;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+00A2</code>) CENT SIGN || {{font|text={{JIS2004フォント|&#xFFE0;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+FFE0</code>) FULLWIDTH CENT SIGN || [[セント (通貨)#符号位置|セント (通貨)]] |- |style="text-align: center"| <code>1-82</code> || style="text-align: center"|<code>0x8192</code> || ポンド記号 || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x00A3;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+00A3</code>) POUND SIGN || {{font|text={{JIS2004フォント|&#xFFE1;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+FFE1</code>) FULLWIDTH POUND SIGN || [[£#コンピュータでの扱い|£]] |- |style="text-align: center"| <code>2-44</code> || style="text-align: center"|<code>0x81ca</code> || 否定 || {{font|text={{JIS2004フォント|&#x00AC;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+00AC</code>) NOT SIGN || {{font|text={{JIS2004フォント|&#xFFE2;}}|font=monospace|size=200%}} (<code>U+FFE2</code>) FULLWIDTH NOT SIGN || [[否定記号]] |} このうちセント・ポンド・否定については、IBMのメインフレームではShift_JISを拡張してこれらの半角版をコードポイント 0xFD-0xFF に割り当て、別途JIS X 0208からマップされた位置に全角版を収録していたため、WindowsをIBMメインフレームの端末として用いるケースを想定したといわれている{{要出典|date=2016年4月}}。 なお、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] や Microsoft Office 2007 に付属する IME パッドの文字一覧における JIS X 0213 の面区点の表示は、上記の文字についても JIS で規定されているものと同じマッピングを使用している{{要出典|date=2022年5月}}。 == ブロックの一覧 == {{main|ブロック (Unicode)}} {| class="toccolours" style="text-align:cnter; padding:1px;margin-left:auto; margin-right:auto;" ! colspan="7" style="background-color:#ccf;" | 索引 |- style="text-align:center; font-family:'Osaka−等幅','Osaka-Mono','IPAゴシック','MS ゴシック',monospace;vertical-align: top;" | [[Unicode一覧 0000-0FFF|0000-0FFF]]<br /> [[Unicode一覧 1000-1FFF|1000-1FFF]]<br /> [[Unicode一覧 2000-2FFF|2000-2FFF]]<br /> [[Unicode一覧 3000-3FFF|3000-3FFF]]<br /> [[Unicode一覧 4000-4FFF|4000-4FFF]]<br /> [[Unicode一覧 5000-5FFF|5000-5FFF]]<br /> [[Unicode一覧 6000-6FFF|6000-6FFF]]<br /> [[Unicode一覧 7000-7FFF|7000-7FFF]]<br /> [[Unicode一覧 8000-8FFF|8000-8FFF]]<br /> [[Unicode一覧 9000-9FFF|9000-9FFF]]<br /> [[Unicode一覧 A000-AFFF|A000-AFFF]]<br /> [[Unicode一覧 B000-BFFF|B000-BFFF]]<br /> [[Unicode一覧 C000-CFFF|C000-CFFF]]<br /> [[Unicode一覧 D000-DFFF|D000-DFFF]]<br /> [[Unicode一覧 E000-EFFF|E000-EFFF]]<br /> [[Unicode一覧 F000-FFFF|F000-FFFF]] | [[Unicode一覧 10000-10FFF|10000-10FFF]]<br /> [[Unicode一覧 11000-11FFF|11000-11FFF]]<br /> [[Unicode一覧 12000-12FFF|12000-12FFF]]<br /> [[Unicode一覧 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{{Unicode blocks}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *用語の日本語表記は原則として次にならった。{{Cite web|和書| url = https://www.unicode.org/terminology/term_en_ja.html | title = Unicode Terminology English - Japanese | publisher = Unicode, Inc | accessdate = 2010-01-01}} *{{Cite book|others=[[The Unicode Consortium]]|title=The Unicode standard worldwide character encoding, Version 1.0|volume=Vol.1|year=1991|publisher=Addison-Wesley Pub.|isbn=0-201-56788-1|ref=UnicodeConsortium1991}} *{{Cite book|others=[[The Unicode Consortium]]|title=The Unicode standard worldwide character encoding, Version 1.0|volume=Vol.2|year=1992|publisher=Addison-Wesley Pub.|isbn=0-201-60845-6|ref=UnicodeConsortium1992}} **{{Cite book|others=[[The Unicode Consortium]]|title=The Unicode standard, Version 1.1|year=1993|publisher=|isbn=|ref= UnicodeConsortium1993}} **{{Cite book|others=[[The Unicode Consortium]]|title=The Unicode standard, Version 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book|和書|first=Ken|last=Lunde|authorlink=ケン・ランディ|others=[[小松章]]・[[逆井克己]]訳|year=2002|month=12|title=CJKV日中韓越情報処理|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=4-87311-108-0|ref=ランディ2002}} == 関連項目 == * [[ISO/IEC 10646]] * [[OpenType]] * [[Unicode一覧]] * [[Unicode一覧表]] * [[ブロック (Unicode)]] * [[Unicode参照アルゴリズム]] * [[機種依存文字]] * [[国際化と地域化]] * [[中西亮]] * [[文字コード]] * [[異体字セレクタ]] == 外部リンク == * [https://www.unicode.org/ The Unicode Consortium] {{en icon}} * [https://decodeunicode.org/ DecodeUnicode] {{en icon}} * [https://www.babelstone.co.uk/Software/BabelMap.html BabelMap] - Unicode Character Map for Windows {{文字コード}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:UNICODE}} [[Category:Unicode|*]]
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ノイズ
ノイズ (英: noise) とは、処理対象となる情報以外の不要な情報のことである。歴史的理由から雑音(ざつおん)に代表されるため、しばしば工学分野の文章などでは(あるいは日常的な慣用表現としても)音以外に関しても「雑音」と訳したり表現したりして、音以外の信号等におけるノイズの意味で扱っていることがある。映像に関連する文脈では雑像とも呼ばれる。西洋音楽では噪音(そうおん)と訳し、「騒音」や「雑音」と区別している。 情報の形態・分野によりノイズの具体的な例は様々である。 ノイズのスペクトルは様々だが、そのうち周波数とパワースペクトル密度 (PSD) とが両対数線形関係にあるいくつかの種類のノイズには、カラースペクトルからのアナロジーで、いくつかの分類する名前がある(カラードノイズ)。 信号の量を雑音の量で割った比を、SN比と呼ぶ。それぞれの「量」は分散(電力)で定義される。 SN比が高ければデータ伝送に対するノイズの影響は小さい。低ければ、ノイズの影響が大きく、通信効率が悪くなる。 物理量を測定する機器の雑音は測定値の小さな変動の原因となる。連続測定ではラインの変動として現れる。信号を増幅しても雑音も増幅されるので信号が雑音に比して十分大きくない場合には信号が分かりにくくなり、測定機器の感度を制約する要因になる(「感度」の項目の「検出限界」「機器の雑音と検出限界との関係」を参照)。 測定値との関係から次の3種類に分類できる。 独立した雑音が複数重なった場合はそれぞれをrms noiseで表した値の2乗の和の平方根で与えられる。 雑音は不規則な変動であるが、コンピューターによるフーリエ解析を経て、その中に含まれる波動の周波数とエネルギーとの関係をプロット(統計図表化)することが可能で、この関係をパワースペクトルと呼び、その雑音の特性を表す。 全ての波が同じエネルギーで重なっている雑音をホワイトノイズと呼ぶが、実際の雑音は低周波の成分の方がエネルギーが大きい傾向があり、ピンクノイズ、マルコフ過程等の低周波部分のエネルギーが大きいモデルをホワイトノイズに重ねて雑音を近似的に表すことが行われている。こうした雑音の特性は機器の設計や使用上の注意、雑音の軽減法等を考察する際に有用である。雑音の解析から測定の標準偏差を予測するソフトウェアも存在する。 最近はノイズキャンセリング・ヘッドフォンが商品化され、外部のノイズを遮断する事ができる。一般的な仕組みは、ヘッドフォンに内蔵されているマイクから外部の音を拾い、逆位相の音を出して打ち消すようになっている。低域周波数成分の除去に高い効果があり、工事現場や踏切などの近くでは特に有用とされている。同様の原理を用いたものに消音スピーカーがあり、室内の静粛性が重視される高級乗用車に採用事例がある。 メタリックケーブルを用いたアナログ伝送系における雑音は、一般に、伝送系内部で発生する雑音と外部から侵入する雑音に分けられ、さらに、伝送系内部で発生する雑音は、信号を伝送していない場合でも存在する基本雑音と信号伝送に伴って発生する準漏話雑音とに分けることができる。基本雑音は、通話の有無と無関係であることから、信号レベルの低いところで問題となり、一般に、大きな妨害になるものは増幅器で発生する雑音であり、その主な成分の一つは、周波数に対して一様に分布している熱雑音である。一方、伝送系の入力系の入力側に加えられた信号波形と出力側に現れる信号波形が異なる現象は、ひずみといわれる。このうち、位相ひずみは、伝送系の位相量が周波数に対して比例関係にないため、すなわち群伝搬時間が周波数により異なるため生ずるひずみであり、伝送品質に影響を及ぼす。また、非直線ひずみは、伝送系の入力と出力が比例関係にないために生ずるひずみである。伝送路中の増幅器などの非直線ひずみによる高調波及び混変調波の発生は、雑音の原因となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ノイズ (英: noise) とは、処理対象となる情報以外の不要な情報のことである。歴史的理由から雑音(ざつおん)に代表されるため、しばしば工学分野の文章などでは(あるいは日常的な慣用表現としても)音以外に関しても「雑音」と訳したり表現したりして、音以外の信号等におけるノイズの意味で扱っていることがある。映像に関連する文脈では雑像とも呼ばれる。西洋音楽では噪音(そうおん)と訳し、「騒音」や「雑音」と区別している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "情報の形態・分野によりノイズの具体的な例は様々である。", "title": "ノイズの例" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ノイズのスペクトルは様々だが、そのうち周波数とパワースペクトル密度 (PSD) とが両対数線形関係にあるいくつかの種類のノイズには、カラースペクトルからのアナロジーで、いくつかの分類する名前がある(カラードノイズ)。", "title": "ノイズの色" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "信号の量を雑音の量で割った比を、SN比と呼ぶ。それぞれの「量」は分散(電力)で定義される。", "title": "SN比" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "SN比が高ければデータ伝送に対するノイズの影響は小さい。低ければ、ノイズの影響が大きく、通信効率が悪くなる。", "title": "SN比" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "物理量を測定する機器の雑音は測定値の小さな変動の原因となる。連続測定ではラインの変動として現れる。信号を増幅しても雑音も増幅されるので信号が雑音に比して十分大きくない場合には信号が分かりにくくなり、測定機器の感度を制約する要因になる(「感度」の項目の「検出限界」「機器の雑音と検出限界との関係」を参照)。", "title": "測定機器の雑音" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "測定値との関係から次の3種類に分類できる。", "title": "測定機器の雑音" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "独立した雑音が複数重なった場合はそれぞれをrms noiseで表した値の2乗の和の平方根で与えられる。", "title": "測定機器の雑音" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "雑音は不規則な変動であるが、コンピューターによるフーリエ解析を経て、その中に含まれる波動の周波数とエネルギーとの関係をプロット(統計図表化)することが可能で、この関係をパワースペクトルと呼び、その雑音の特性を表す。", "title": "測定機器の雑音" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "全ての波が同じエネルギーで重なっている雑音をホワイトノイズと呼ぶが、実際の雑音は低周波の成分の方がエネルギーが大きい傾向があり、ピンクノイズ、マルコフ過程等の低周波部分のエネルギーが大きいモデルをホワイトノイズに重ねて雑音を近似的に表すことが行われている。こうした雑音の特性は機器の設計や使用上の注意、雑音の軽減法等を考察する際に有用である。雑音の解析から測定の標準偏差を予測するソフトウェアも存在する。", "title": "測定機器の雑音" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最近はノイズキャンセリング・ヘッドフォンが商品化され、外部のノイズを遮断する事ができる。一般的な仕組みは、ヘッドフォンに内蔵されているマイクから外部の音を拾い、逆位相の音を出して打ち消すようになっている。低域周波数成分の除去に高い効果があり、工事現場や踏切などの近くでは特に有用とされている。同様の原理を用いたものに消音スピーカーがあり、室内の静粛性が重視される高級乗用車に採用事例がある。", "title": "ノイズキャンセラ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メタリックケーブルを用いたアナログ伝送系における雑音は、一般に、伝送系内部で発生する雑音と外部から侵入する雑音に分けられ、さらに、伝送系内部で発生する雑音は、信号を伝送していない場合でも存在する基本雑音と信号伝送に伴って発生する準漏話雑音とに分けることができる。基本雑音は、通話の有無と無関係であることから、信号レベルの低いところで問題となり、一般に、大きな妨害になるものは増幅器で発生する雑音であり、その主な成分の一つは、周波数に対して一様に分布している熱雑音である。一方、伝送系の入力系の入力側に加えられた信号波形と出力側に現れる信号波形が異なる現象は、ひずみといわれる。このうち、位相ひずみは、伝送系の位相量が周波数に対して比例関係にないため、すなわち群伝搬時間が周波数により異なるため生ずるひずみであり、伝送品質に影響を及ぼす。また、非直線ひずみは、伝送系の入力と出力が比例関係にないために生ずるひずみである。伝送路中の増幅器などの非直線ひずみによる高調波及び混変調波の発生は、雑音の原因となる。", "title": "アナログ伝送系における雑音" } ]
ノイズ とは、処理対象となる情報以外の不要な情報のことである。歴史的理由から雑音(ざつおん)に代表されるため、しばしば工学分野の文章などでは(あるいは日常的な慣用表現としても)音以外に関しても「雑音」と訳したり表現したりして、音以外の信号等におけるノイズの意味で扱っていることがある。映像に関連する文脈では雑像とも呼ばれる。西洋音楽では噪音(そうおん)と訳し、「騒音」や「雑音」と区別している。
{{Otheruses}} '''ノイズ''' ({{lang-en-short|noise}}) とは、処理対象となる[[情報]]以外の不要な情報のことである。歴史的理由から'''雑音'''(ざつおん)に代表されるため、しばしば[[工学]]分野の文章などでは(あるいは日常的な慣用表現としても)音以外に関しても「雑音」と訳したり表現したりして、音以外の信号等におけるノイズの意味で扱っていることがある。映像に関連する文脈では'''雑像'''とも呼ばれる<ref>https://doi.org/10.3169/itej1954.11.349</ref>。[[西洋音楽]]では'''噪音'''(そうおん)と訳し、「騒音」や「雑音」と区別している。 == ノイズの例 == 情報の形態・分野によりノイズの具体的な例は様々である。 ; [[音響]]分野一般 : うるさい音、[[騒音]]。 ; 録音技術分野 : [[音声]]の[[録音]]をする上で[[障害]]となる[[サウンド]]の[[成分]]以外のうち、上記以外の雑音。代表的なものに、[[マイクロフォン]]や[[電気楽器]]の[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]の音が巡回して起こる[[ハウリング]]ノイズ、録音機材が[[電源]]や[[蛍光灯]]などからも音として拾ってしまう「バズノイズ」や、[[スイッチング電源]]に由来する「スイッチングノイズ」や「リップルノイズ」などがある。その他録音[[テープ]]媒体で録音再生に伴って発生する高域の雑音である「ヒスノイズ」、[[歌手]]の発声時に、マイクロフォンで拾ってしまう音声以外の音である「リップノイズ」などが挙げられる。また、吹き替えやアフレコの分野において台本をめくる音を「ペーパーノイズ」という。「ポップノイズ」は、パフッ、ボフッという音全般を指し、[[回路]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}の切り替え(スイッチング)によるものと、マイクロホンが[[ヒト]]の[[息|吐息]]を拾う場合の両方に用いる。 ; 映像分野 : 電波障害や受信感度が悪いとき、または古いビデオテープを再生した際に発生する画面のちらつき。最近ではデジタルカメラの[[固体撮像素子]]に生じるノイズや、[[非可逆圧縮]]において特に知覚できる元信号との差異によるノイズ([[モスキートノイズ]]、[[ブロックノイズ]]といった映像の荒れ)もある。 ; [[工学]]分野(特に[[電子工学]]、[[制御工学]]など) : 機器の動作を妨げる余計な電気信号。⇒[[ノイズ (電子工学)]] ; [[機械学習]]分野 : 学習したいものとは別の余計なデータ。 ; [[天文学]]分野 : 観測をする上で障害となる人工的あるいは観測目的以外の(自然的理由で発生している)周波数の[[電磁波]]。 ; 生活・人間関係の分野 : 集中を妨げる、あるいは判断に迷いを生ずるような他人の言動、社会的圧力。 ; [[統計学]]分野 : 統計上一般的に存在し得ない、特定の数値・見解が、統計対象の一部において過大・過少の発生があり、その結果として当該統計の信頼性に影響を及ぼすもの。 ; [[特別支援教育]]分野 : [[障害]]のある子どもにとって、障害そのものを含めた学習行動を行う上での阻害要因のこと。広義には、上述の「生活・人間関係の分野」にある、「集中を妨げる」何かしらの要因(障害のある子ども本人の手や服の汚れ([[絵具]]や[[糊]]などの付着を気にする)等)も含まれる。あるいは、[[ルビンの杯]]で、2つの側面の1方しか見いだせない、いわゆる「[[図-地知覚障害]]」についても、「ノイズ」の一種とされる。なお、騒音そのものが「ノイズ」となる子どもが利用する[[ヘッドフォン|ヘッドホン]]型のノイズカッターとして、[[イヤーマフ]]などがある。また、[[言語障害]]の観点でみると、以下に記述された「''心理学・カウンセリングの分野''」の内容も該当する。このため、特別支援教育分野で「ノイズ」という用語を利用する場合は、かなりの広範囲の意味を有する。 ; [[心理学]]分野 : [[コミュニケーション]]を妨害するあらゆるものを「ノイズ」と定義し、「物理的ノイズ」、「心理的ノイズ」、「意味的ノイズ」の3つに分類される<ref>深田博己著『インターパーソナルコミュニケーション』(北大路書房、1998年)pp.22-23</ref>。「物理的ノイズ」とは、騒音などを指し、「心理的ノイズ」は送り手のメッセージの記号化(生成)あるいは受け手側の記号解読(解釈)を妨害する心理的な原因を指し、さらに「意味的ノイズ」はお互いが共通理解していない表現や言葉のもたらす妨害により、送り手の記号化と受け手の記号解読にずれを生じさせる意味的要因を指す。 == ノイズの色 == ノイズの[[スペクトル]]は様々だが、そのうち[[周波数]]と[[パワースペクトル密度]] (PSD) とが[[冪乗則|両対数線形関係]]にあるいくつかの種類のノイズには、カラースペクトルからのアナロジーで、いくつかの分類する名前がある([[カラードノイズ]])。 ; [[ホワイトノイズ]] : PSDが周波数に関わらず一定。 ; [[ブラウンノイズ]](レッドノイズ) : PSDが周波数の2乗に[[反比例]]。なお、「ブラウン」は茶色ではなく人名[[ロバート・ブラウン]]([[ブラウン運動]]の発見者でもある)から。 ; [[ピンクノイズ]](1/fノイズ) : PSDが周波数に[[反比例]]。ホワイトとレッドの中間であることからピンクと呼ばれる。 ; ブルーノイズ : PSDが周波数に[[比例]]。 ; バイオレットノイズ : PSDが周波数の二乗に比例。 == SN比 == {{main|SN比}} [[信号 (電気工学)|信号]]の量を雑音の量で割った[[比]]を、[[SN比]]と呼ぶ。それぞれの「量」は[[分散 (確率論)|分散]]([[電力]])で定義される。 SN比が高ければデータ伝送に対するノイズの影響は小さい。低ければ、ノイズの影響が大きく、通信効率が悪くなる。 == 測定機器の雑音 == 物理量を測定する機器の雑音は測定値の小さな変動の原因となる。連続測定ではラインの変動として現れる。信号を増幅しても雑音も増幅されるので信号が雑音に比して十分大きくない場合には信号が分かりにくくなり、測定機器の感度を制約する要因になる(「[[感度]]」の項目の「[[検出限界]]」「機器の雑音と検出限界との関係」を参照)。<ref>J.D.Ingle & S.R.Crouch, ''"Spectrochemical Analysis"'' Prentice Hall, 1988.</ref> === 定義 === ; {{lang|en|rms noise}} : 平均値からの変動の2乗の和をn-1(nは観測回数)で割ったものの平方根。理論的にはこれを用いるが実際の機器の性能表示には余り用いられない。 ; {{lang|en|peak to peak noise}} : 一定時間連続測定し、その中の最高点と最低点との差、またはその平均値(例:10分間測定し、10秒ごとに60区間に分け、各区間の最大値と最小値の平均)。機器の性能表示によく用いられる。 === 種類 === 測定値との関係から次の3種類に分類できる。 # 測定値と無関係なもの([[熱雑音]]、機械的または電気的な雑音等) # 測定値の平方根に比例するもの(例:光測定の場合光電子の放出が確率的過程であることによる[[ショット雑音]]) # 測定値に比例するもの(例:光測定の場合光源の変動によるフリッカー雑音) 独立した雑音が複数重なった場合はそれぞれをrms noiseで表した値の2乗の和の平方根で与えられる。 === パワースペクトル === 雑音は不規則な変動であるが、コンピューターによる[[フーリエ解析]]を経て、その中に含まれる波動の周波数とエネルギーとの関係を[[プロット]]([[統計図表]]化)することが可能で、この関係を[[パワースペクトル]]と呼び、その雑音の特性を表す。 全ての波が同じエネルギーで重なっている雑音を[[ホワイトノイズ]]と呼ぶが、実際の雑音は低周波の成分の方がエネルギーが大きい傾向があり、[[ピンクノイズ]]、マルコフ過程等の低周波部分のエネルギーが大きいモデルをホワイトノイズに重ねて雑音を近似的に表すことが行われている。こうした雑音の特性は機器の設計や使用上の注意、雑音の軽減法等を考察する際に有用である。雑音の解析から測定の標準偏差を予測する[[ソフトウェア]]も存在する。 === 雑音の軽減 === * 機器の反応性の抑制 - [[高周波|高周波数]]の成分が軽減される。 * 時間積分 - 一定時間の出力を[[積分]]すると周期が積分時間より短い成分は著しく抑制される。 * [[光源]]の補償 - [[フリッカー]]雑音を軽減 * [[デジタルフィルタ]] == ノイズキャンセラ == 最近はノイズキャンセリング・[[ヘッドフォン]]が商品化され、外部のノイズを遮断する事ができる。一般的な仕組みは、ヘッドフォンに内蔵されているマイクから外部の音を拾い、逆位相の音を出して打ち消すようになっている。[[低周波|低域周波数]]成分の除去に高い効果があり、[[工事]]現場や[[踏切]]などの近くでは特に有用とされている。同様の原理を用いたものに[[消音スピーカー]]があり、室内の[[静粛性能|静粛性]]が重視される[[高級乗用車]]に採用事例がある。 == アナログ伝送系における雑音 == [[メタリックケーブル]]を用いた[[アナログ]]伝送系における雑音は、一般に、伝送系内部で発生する雑音と外部から侵入する雑音に分けられ、さらに、伝送系内部で発生する雑音は、信号を伝送していない場合でも存在する[[基本雑音]]と信号伝送に伴って発生する[[準漏話雑音]]とに分けることができる。基本雑音は、[[通話]]の有無と無関係であることから、[[信号 (電気工学)|信号]][[レベル]]の低いところで問題となり、一般に、大きな妨害になるものは[[増幅器]]で発生する雑音であり、その主な成分の一つは、[[周波数]]に対して一様に分布している[[熱雑音]]である。一方、伝送系の入力系の入力側に加えられた信号波形と出力側に現れる信号波形が異なる現象は、[[歪み (電子機器)|ひずみ]]といわれる。このうち、[[位相ひずみ]]は、伝送系の[[位相量]]が[[周波数]]に対して比例関係にないため、すなわち[[群伝搬時間]]が[[周波数]]により異なるため生ずるひずみであり、伝送品質に影響を及ぼす。また、[[非直線ひずみ]]は、伝送系の入力と出力が比例関係にないために生ずるひずみである。伝送路中の[[増幅器]]などの[[非直線ひずみ]]による高調波及び混変調波の発生は、雑音の原因となる。 == 関連項目 == {{Wiktionary|noise}} * [[騒音]] ** [[消音スピーカー]](ノイズキャンセラー) * [[ベリノイズ]] * [[モスキートノイズ]] * [[スノーノイズ]] * [[ノイズ (電子工学)]] ** [[熱雑音]] ** [[ショット雑音]] ** [[雑音指数]] ** [[量子化雑音]] ** [[ハムノイズ]] ** [[ノイズフィルター]] ** [[流合雑音]] ** [[誘導障害]] ** [[電波伝播]] *** [[電波障害]] *** [[フェージング]] * [[インターネットバックグラウンドノイズ]] - インターネット上の、受け取り手がない[[パケット]]のこと。 * [[流星のロックマン3]] - 「ノイズ」を物語のキーワードとしている。 * [[クワイエット・アワー]] == 脚注 == <references/> == 外部リンク == {{Spedia|Signal-to-Noise_Ratio|Signal-to-Noise Ratio|SN比}} {{特別支援教育|その他}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のいす}} [[Category:ノイズ|*]] [[Category:電子工学]] [[Category:信号処理]] [[Category:音響工学]] [[Category:無線工学]] [[Category:特別支援教育]] [[Category:メンタルヘルス]] [[Category:カウンセリング]] {{tech-stub}} {{education-stub}}
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2,001
ゲームアーツ
株式会社ゲームアーツ(英: GAME ARTS Co., Ltd.) は、日本のゲームソフトウェア制作会社である。 1985年設立。アクションシューティングゲーム『テグザー』は、開発中のゲーム画面を見たNECより発売から半年前の最新機種PC-8801mkII SRを提供されるなど支援を受け、1985年4月に発売。海外のPCにも数多く移植され全世界累計で50万本を売り上げる大ヒットを記録するなど、その技術力を知らしめた。その後も『ファイアーホーク』や『シルフィード』などPC-8800シリーズを中心にプログラム技術を駆使したゲームを数多くリリースする。OPN、OPM、OPNA等に搭載されるCSMモードを利用した音声合成を使ったメーカーロゴ、演出があった。 家庭用ゲーム機ソフトはライセンス契約による移植タイトルのみで、発売は他社に一任していたが、1990年12月にメガドライブ版『ぎゅわんぶらあ自己中心派 片山まさゆきの麻雀道場』を自社で発売し、コンシューマゲーム市場への参入を果たした。以降メガCD、セガサターン、ドリームキャストといったセガのゲーム機向けにゲームソフトを積極的にリリース、有力サードパーティーとしての地位を確立し、セガハード専門誌、セガユーザーからも高く評価されていた。かつては、アルファ・システムやトレジャーなど他のゲーム開発会社と共同でパブリッシング専門の会社ESP(Entertainment Software Publishing)を設立していた。 メガドライブ参入後は『SDガンダムワールド ガチャポン戦士』シリーズなど他機種家庭用ゲーム機ソフトの開発も手掛けるようになり、『グランディア』の移植を機にプレイステーションにも参入。2005年10月17日からガンホー・オンライン・エンターテイメントの連結子会社となった。親会社となったガンホーの意向によりオンラインゲームの開発を行っている。また任天堂のWii用ソフト『大乱闘スマッシュブラザーズX』の開発には『グランディアIII』の開発を終えたゲームアーツのスタッフが多数参加した。
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株式会社ゲームアーツ は、日本のゲームソフトウェア制作会社である。
{{Pathnav|[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]]|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社ゲームアーツ |英文社名 = GAME ARTS Co., Ltd. |ロゴ = [[File:Game Arts logo.svg|250px]] |画像 = <!-- [[ファイル:***|250px|###]] --> |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = <!-- {{上場情報|取引市場|コード|上場日|上場廃止日}} --> |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 100-6221 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]一丁目11番1号<br />[[パシフィックセンチュリープレイス丸の内]] |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = [[1985年]](昭和60年)[[3月2日]] |業種 = 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = オンラインゲーム及びコンシューマー用ゲーム・ソフトウェア開発 |代表者 = [[森下一喜]](代表取締役社長) |資本金 = 78,367,500円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = 230万2000円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/436db/296539 株式会社ゲームアーツ 第39期決算公告]</ref> |純資産 = |総資産 = 3億0826万9000円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |従業員数 =30名 |支店舗数 = |決算期 = |主要株主 = [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]]株式会社 100.0% |主要子会社 = |関係する人物 = [[宮路洋一]]<br />[[宮路武]]<br />[[五代響]]<br />[[岩垂徳行]] |外部リンク = [https://www.gamearts.co.jp/ja/ www.gamearts.co.jp/ja/] |特記事項 = }} '''株式会社ゲームアーツ'''({{Lang-en-short|GAME ARTS Co., Ltd.}}) は、[[日本]]のゲームソフトウェア制作会社である。 == 概要 == 1985年設立。アクションシューティングゲーム『[[テグザー]]』は、開発中のゲーム画面を見た[[日本電気|NEC]]より発売から半年前の最新機種[[PC-8800シリーズ|PC-8801mkII SR]]を提供されるなど支援を受け、[[1985年]]4月に発売<ref>[[太田出版]] CONTINUE 『メガドライブ大全』 Special Interview Vol.3 ゲームアーツ社長宮路洋一氏、p206参照</ref>。海外のPCにも数多く移植され全世界累計で50万本を売り上げる大ヒットを記録するなど、その技術力を知らしめた。その後も『[[ファイアーホーク (ゲーム)|ファイアーホーク]]』や『[[シルフィード (ゲーム)|シルフィード]]』などPC-8800シリーズを中心にプログラム技術を駆使したゲームを数多くリリースする。OPN、OPM、OPNA等に搭載されるCSMモードを利用した音声合成を使ったメーカーロゴ、演出があった。 家庭用ゲーム機ソフトはライセンス契約による移植タイトルのみで、発売は他社に一任していたが、[[1990年]]12月に[[メガドライブ]]版『[[ぎゅわんぶらあ自己中心派]] [[片山まさゆき]]の麻雀道場』を自社で発売し、コンシューマゲーム市場への参入を果たした<!-- [[PCエンジン]]版は[[ハドソン]]からの発売だが、[[岩崎啓眞]]によると、開発は同社が行ったという。[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/index.php?e=28 1989年 - ハドソンで作られていたゲームについて] --><!-- 実際はPCエンジン版『[[アフターバーナーII]]』や『[[スーパーダライアス]]』などの移植で知られるビッツラボラトリーが下請けで製作しているため、一時回避 -->。以降[[メガCD]]、[[セガサターン]]、[[ドリームキャスト]]といった[[セガ]]のゲーム機向けにゲームソフトを積極的にリリース、有力サードパーティーとしての地位を確立し、セガハード専門誌、セガユーザーからも高く評価されていた。かつては、[[アルファ・システム]]や[[トレジャー]]など他のゲーム開発会社と共同でパブリッシング専門の会社[[ESP (ゲーム会社)|ESP]](Entertainment Software Publishing)を設立していた。 メガドライブ参入後は『[[SDガンダムワールド ガチャポン戦士]]』シリーズなど他機種家庭用ゲーム機ソフトの開発も手掛けるようになり、『[[グランディア]]』の移植を機に[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]にも参入。[[2005年]][[10月17日]]から[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]]の連結子会社となった。親会社となったガンホーの意向によりオンラインゲームの開発を行っている。また[[任天堂]]の[[Wii]]用ソフト『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』の開発には『[[グランディアIII]]』の開発を終えたゲームアーツのスタッフが多数参加した<ref>{{Cite web|和書|url= https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080224/gdc_sma.htm |title=Game Developers Conference 2008現地レポート |accessdate=2019/12/13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rsbj/vol1/index3.html |title=任天堂株式会社ホームページ 社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』 |accessdate=2010/12/18}}</ref>。 == 作品 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !発売年 !! タイトル !! 機種 !! 発売元 !! 備考 |- | rowspan="3"|1985 || [[テグザー]] || MSX、PC-88 || rowspan="2"|ゲームアーツ || |- | [[キュービーパニック]] || PC-88 || |- | [[テグザー]] || FC || [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]] || |- | 1986 || [[シルフィード (ゲーム)|シルフィード]] || PC-88 || rowspan="10"|ゲームアーツ || |- | rowspan="4"|1987 || [[ぎゅわんぶらあ自己中心派]] || PC-88、PC-98、MSX || |- | {{仮リンク|ゼリアード|en|Zeliard}} || PC-88 || |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派2 自称! 強豪雀士編]] || PC-88、PC-98、MSX2 || |- | [[雀皇登龍門]] || PC-98 || |- | rowspan="4"|1988 || [[ソリテア ロイヤル]] || MSX2、PC-88 || |- | [[プロ野球ファミリースタジアム ペナントレース版]] || rowspan="3"|PC-88 || |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派3 望郷さすらい雀士編]] || |- | [[ヴェイグス]] || |- | rowspan="4"|1989 || [[ファイアーホーク (ゲーム)|ファイアーホーク]] || MSX2、PC-88 || |- | {{仮リンク|ファリア 封印の剣|en|Faria: A World of Mystery and Danger!}} || FC || [[ハイスコアメディアワーク]] || |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派 麻雀パズルコレクション]] || rowspan="3"|PC-88 || rowspan="10"|ゲームアーツ || |- | [[プロ野球ファミリースタジアム '89年度ペナントレース版]] || |- | rowspan="3"|1990 || [[HARAKIRI]] || |- | [[プロ野球ファミリースタジアム '90年度ペナントレース版]] || FM-TOWNS || |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派 片山まさゆきの麻雀道場]] || MD || |- | rowspan="2"|1991 || [[天下布武~英雄たちの咆哮~]] || MCD || |- | [[雀皇登龍門II]] || PC-98、DOS/V || |- | rowspan="4"|1992 || [[アリシアドラグーン]] || MD || |- | [[ルナ ザ・シルバースター]] || rowspan="2"|MCD || |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派 2 激闘! 東京マージャンランド編]] || |- | [[ワンダーMIDI]] || [[ワンダーメガ]] || [[日本ビクター]] || |- | rowspan="3"|1993 || [[ゆみみみっくす]] || MCD ||ゲームアーツ |- | [[Jリーグチャンピオンサッカー]] || MD || [[小学館集英社プロダクション|小学館プロダクション]] || |- | [[シルフィード (ゲーム)|シルフィード]] || rowspan="3"|MCD || rowspan="6"|ゲームアーツ || |- | rowspan="2"|1994 || [[うる星やつら 〜ディア マイ フレンズ〜]] || |- | [[ルナ エターナルブルー]] || |- | 1995 || [[ゆみみみっくすREMIX]] || SS || |- | rowspan="5"|1996 || [[LUNAR さんぽする学園]] || GG || |- | [[ガングリフォン]] || rowspan="9"|SS || |- | [[LUNAR シルバースターストーリー]] || [[角川書店]] || 日本アートメディアと共同開発 |- | [[ぎゅわんぶらあ自己中心派 トーキョーマージャンランド]] || rowspan="3"|ゲームアーツ || |- | [[だいなあいらん|だいな♥あいらん <予告編>]] || |- | rowspan="4"|1997 || [[だいなあいらん|だいな♥あいらん]] || |- | [[LUNAR シルバースターストーリー COMPLETE]] || rowspan="2"|角川書店 || 日本アートメディアと共同開発 |- | [[魔法学園LUNAR!]] || |- | [[グランディア]] || ゲームアーツ、ESP || |- | rowspan="5"|1998 || [[ガングリフォンII]] || ESP || |- | [[LUNAR シルバースターストーリー]] || PS || 角川書店 || 日本アートメディアと共同開発 |- | [[グランディア デジタルミュージアム]] || rowspan="2"|SS || ESP || |- | [[LUNAR 2 エターナルブルー]] || 角川書店 || |- | [[LUNAR シルバースターストーリー]] || PC || ESP || 日本アートメディアと共同開発 |- | rowspan="2"|1999 || [[LUNAR 2 エターナルブルー]] || rowspan="3"|PS || 角川書店 || |- | [[グランディア]] || rowspan="2"|ESP || |- | rowspan="5"|2000 || [[ぎゅわんぶらあ自己中心派 〜イッパツ勝負!〜]] || |- | [[グランディアII]] || DC || セガ || |- | [[ガングリフォン ブレイズ]] || rowspan="2"|PS2 || rowspan="2"|[[カプコン]] || |- | [[SILPHEED -THE LOST PLANET-]] || [[トレジャー]]と共同開発 |- | [[グランディア パラレルトリッパーズ]] || GBC || ESP || |- | rowspan="2"|2001 || [[LUNAR 〜レジェンド〜]] || GBA || [[メディアリング]] || 日本アートメディアと共同開発 |- | [[鄭問之三國誌]] || rowspan="3"|PS2 || ESP || |- | rowspan="3"|2002 || [[グランディアII]] || rowspan="2"|[[エニックス]] || |- | [[グランディア エクストリーム]] || |- | [[ボンバーマンジェネレーション]] || GC || [[ハドソン]] || |- | 2004 || [[ガングリフォン アライド ストライク]] || XB || [[テクモ]] || |- | rowspan="2"|2005 || {{仮リンク|LUNAR -ジェネシス-|en|Lunar: Dragon Song}} || DS || [[パック・イン・ビデオ|マーベラスインタラクティブ]] || 日本アートメディアと共同開発 |- | [[グランディアIII]] || PS2 || [[スクウェア・エニックス]] || |- | 2006 || [[PROJECT SYLPHEED]] || Xb360 || [[スクウェア・エニックス]] || スクウェア・エニックス、セタと共同開発 |- | 2008 || [[刀龍-Legend of Kroll-]] || iOS || rowspan="2"|[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント]] || |- | rowspan="4"|2009 || [[グランディア オンライン]] || PC || |- | {{仮リンク|Teenage Mutant Ninja Turtles: Smash-Up|en|Teenage Mutant Ninja Turtles: Smash-Up}} || Wii、PS2 || [[ユービーアイソフト]] || |- | [[Shadow Walker 影の少年と光の妖精]] || Wiiウェア || rowspan="12"|ガンホー・オンライン・エンターテイメント || |- | {{仮リンク|LUNAR ハーモニーオブシルバースター|en|Lunar: Silver Star Harmony}} || PSP || 日本アートメディアと共同開発 |- | rowspan="2"|2010 || [[霊界電話]] || rowspan="3"|Android || |- | [[シルフィード オルタナティブ]] || |- | 2011 || [[ツイモン]] || |- | rowspan="3"|2012 || [[ピコットナイト]] || rowspan="2"|PS Vita || |- | [[ラグナロクオデッセイ]] || |- | [[Dokuro (ゲーム)|Dokuro]] || rowspan="2"|PS Vita、PS3 || |- | 2013 || [[ラグナロクオデッセイエース]] || |- | 2014 || [[ピコットナイト]] || iOS、Android || |- | rowspan="2"|2015 || Grandia II Anniversary Edition || PC || |- | [[レジェンド オブ キングダム〜王国騎士団の絆〜]] || iOS、Android || |} == 関連項目 == * [[宮路洋一]] * [[宮路武]] * [[岩垂徳行]] * [[五代響]] * [[上坂哲]] * [[メカノアソシエイツ]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * {{Cite web|和書|title=製品情報 |url=https://www.gamearts.co.jp/ja/products/products.html |publisher=ゲームアーツ |accessdate=2019-12-13}} == 外部リンク == * [https://www.gamearts.co.jp/ja/ ゲームアーツ] * {{Mediaarts-db}} {{ガンホー・オンライン・エンターテイメント}} {{うる星やつら}} {{デフォルトソート:けむああつ}} [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:1985年設立の企業]] [[Category:ガンホー・オンライン・エンターテイメント]] [[Category:ソフトバンクグループの歴史]]
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2,002
シンガーソングライター
シンガーソングライター(英: singer-songwriter)は、ポピュラー音楽において、自分で作詞・作曲をして歌う人を指す。音楽論評などで “SSW” と表記される場合もある。 ポピュラー音楽において自ら歌う曲の、作詞、作曲(編曲も自ら行う事がある)を自分自身で行う歌手を指す。作曲しかしない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞しかしない場合にはシンガーソングライターとは言わないことが多い(後述)。また、自作をしていても、自演曲の中で自作曲の割合が小さい場合には、シンガーソングライターとはいわないことが多く、逆に 100%自作曲でなくても、自作曲の割合が大きい場合にはシンガーソングライターと呼ぶこともある。 楽曲の制作方法は、歌手により様々である。先に作曲、後に作詞(「曲先(きょくせん)」や「メロ先」、「はめ込み作詞」等と呼ばれる手法)という手法をとる者もいれば、逆に先に作詞、後に作曲(こちらは「詞先(しせん)」と呼ばれる)する者もいる。 「シンガーソングライター」という言葉は、1970年代初頭にアメリカでジェームス・テイラーが注目され、続いて英国でエルトン・ジョン、アメリカのキャロル・キングなどのめざましい活躍もあって、彼らが「シンガーソングライター」と呼ばれ、それが日本でも普及したもの。 元々、ポップ・ミュージック(ポップス)の世界では、英米でも日本でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていた。英米ではそれらを今日オールディーズなどと称しているが、日本でいえば歌謡曲と、どちらも基本的には分業であった。そこへ自作自演の流れを持ち込んだのはビートルズやボブ・ディランらである。1960年代には多くの自作自演のミュージシャンが高い人気を得ていた。にもかかわらず1970年代初頭、あえてアメリカで「シンガー・ソングライター」という呼び名が使われた要因は、「ロック的な狂熱とは縁の薄いパフォーマンスの価値を、歌やソングライティングを強調することで補う必要があったから」とレコード・コレクターズ誌は解説している。英米の「シンガー・ソングライター」は、「大きな夢や怒りではなく、身のまわりの出来事に目を向けた歌を作って歌う」「誠実な自己告白的の歌を歌う」というような意味合いがあった。ローリング・ストーン誌のロック史では、「シンガー・ソングライター」は映画『卒業』のダスティン・ホフマンのように、スターらしからぬスターが誕生したニューシネマの現象と関連づけて語られているという。本来の「シンガー・ソングライター」という言葉には「ロックのアンチテーゼ」のような意味があった。しかしこの言葉が日本に輸入された当時は、まだ日本でロックはメジャーになっておらず、日本での「シンガー・ソングライター」には歌謡曲のアンチテーゼとしての役割が最初は与えられていたものと考えられる。 1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている。 また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した。 日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。作詞家&演者だった添田唖蝉坊なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。 1930年代には演歌師の石田一松が自作自演した「酋長の娘」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる林伊佐緒は1930年代から「出征兵士を送る歌」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、1958年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた。 1960年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた。 歌謡曲には古くからレコード会社とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、"自分たちの言葉で歌にしていく"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない。小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲やグループ・サウンズですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」等と述べている。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである。 「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎のブレイク以降である。『ニューミュージック・マガジン』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは~」という内田裕也の発言が見られ、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある。1973年の「guts」1月号には、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚などのシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化~」といった記事が見られる。吉田拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった。 1972年7月に荒井由実をデビューさせた村井邦彦は、「最初は荒井を作家として契約したが、シンガーソングライターの時代にだんだん変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べている。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、マスメディアも「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられる。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1972年以降で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされた。 「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた1970年代初めには、高石友也や岡林信康といった「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていた。ただし彼らはマイナーレーベル所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らなかった。しかし、その後の吉田拓郎や小椋佳、かぐや姫、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否しアルバム作品の制作とコンサート活動に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになった。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの 4人が自分たちのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立した1975年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有した。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになった。彼らの多くが自ら作詞作曲した楽曲を、ギターを弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付いた。 一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていなかった。前述の内田裕也発言は(シンガー=ソングライターは)「ロカビリーがだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といった主旨だったし、富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことをすべてうまくやるってことは、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話している。当事者の一人だった南こうせつ自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と話しており、シンガーソングライターによるフォークブームは短命に終わるのではないかという見方もあった。しかし、1970年代に才能あるシンガーソングライターが多く続いたために、一過性のものではなく、日本の音楽界のメインストリームになっていった。 特に1973年頃から、五輪真弓、金延幸子、りりぃ、荒井由実、吉田美奈子、小坂明子、小坂恭子、中島みゆきらが台頭した時、彼女たちの中にギターを持たずにピアノを弾いて歌うというような、フォーク臭の全くない者がいたため彼女らを「女性フォークシンガー」とも呼び辛く、適当な言い方がなく「女性シンガーソングライター」という言い方が非常に多く使われた。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度アップに影響があったと考えられる。勿論、多くの「シンガーソングライター」を輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」の功績も非常に大きい。なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に小薗江圭子の詞に自分で曲をつけた「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や洋楽のカバー曲を歌うことが多く1970年代半ばまで"歌謡曲歌手"というイメージがついていた。 今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けは、1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が1973年12月に出した「あなた」である。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていった。歌謡曲のフィールドでも渡辺真知子のように自作曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている。 小西良太郎は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で、「1974年10月最終週のLPレコードの売り上げは「1位『二色の独楽』(井上陽水)、2位『かぐや姫LIVE』(かぐや姫)、3位『氷の世界』(井上陽水)、4位『NSP III』(NSP)、5位『陽水ライヴ』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』(カーペンターズ)、7位『追憶』(沢田研二)、8位『オン・ステージ』(八代亜紀)、9位『ぼくがつくった愛のうた』(チューリップ)、10位『ライブ3』(五木ひろし)と、フォーク勢が上位を独占。シングル盤でも話題は豊富で、ガロ、かぐや姫、あのねのね、なぎらけんいち、海援隊、加藤登紀子・長谷川きよし、りりぃ、山本コータローとウィークエンド、NSP、ダ・カーポ、三輪車、チェリッシュ、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。ダークホースが大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や流行り歌世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは70年安保を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた"支流"を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「ニューミュージック」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。 当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルにかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった。 所ジョージは1977年のデビュー時から"シンガーソング・コメディアン"と名乗り、1981年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを"大人の味を持ったシンガーソングライター"、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手・松岡弘を"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!"と紹介した。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は"シンガーソングティーチャー登場"と書いている。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている。 先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。なぎら健壱は「(1970年代後半に出現したシンガーソングライター)と自分のやっていたフォークとの結びつきは感じられない。拓郎さんやかぐや姫には繋がりがあったかもしれないけど、それがすごくメジャーになって、商業資本と結びついて、すごく人気が出て、大きな音楽になってゆくにつれ、フォークだった部分は無くなっていったと思います。生ギターが入っていたり、曲調や歌の内容がそうだったとしても、精神そのものがフォークじゃなくなっていったと思う」などと述べている。 現在、「シンガーソングライター」を「歌手を兼ねる作曲家」と答える人はいないと思われるが、かつては違った。毎日新聞社が1978年に出した『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』という本に「ちかごろは、シンガー・ソング・ライターなどといって、自作自演する者が増えたが、戦前は大変珍しかった。とくに作曲家が、歌手を兼ねて、どちらもヒットする、などということは、まったくマレなことだった」という記述があり、ここで林伊佐緒を紹介している。林は作詞はしない作曲家兼歌手であり「シンガー・ソング・ライター」と呼ばれる以前は「自作自演歌手」は「作詞+作曲もする歌手」はもちろん「作曲だけする歌手」の両方を指していたものと考えられる。そして現在でも「作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わない」ことが多い。 「ヤマハポピュラーソングコンテスト」でプロデビューしたアーティストが所属するヤマハ音楽振興会(現ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、ゴダイゴらが所属するABCプロモーションと共に、1979年の所属アーティスト・歌手のレコード・テープの総売上げが1969年創立以来"タレント帝国"の名をほしいままにしてきた渡辺プロダクション(ナベプロ)を抜いて1位・2位となった。これは芸能界支配構造の再編成を象徴する出来事だった。膨大な利権構造を独占する大手芸能プロを中心とする芸能共同体に反旗を翻した最も有名な事件が、先述した1975年のシンガーソングライター4人によるフォーライフ・レコードの設立であるが、これをきっかけとして芸能界の利権の仕組みを知った多くのシンガーソングライターが以降、個人事務所などを設立した。世良公則&ツイスト(のちツイスト)は最初はヤマハに所属していたが、1979年9月にヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を立ち上げた。出演契約の業務はヤマハに委嘱したものの原盤権や著作権を自分たちで握り、人気自体は下降していったが、利益は莫大になったといわれる。シンガーソングライターは上手くやれば、100%利益を独占することも可能といわれる。当時公表されていた長者番付の歌手部門で、ニューミュージック系のシンガーソングライターが上位を独占したのはこのような事情があった。 「シンガーソングライター」という言葉が 理由として、その答えのような阿久悠の言及が1985年の和田誠との共著の中にある。ここで阿久は「GSが流行ってきてギターが普及して、素人が曲をつくるようになりましたね。で、それからずーっとフォークの段階がきて、5年ぐらい前までは、やっぱり曲のほうが専門的で詞は誰でも書けるという意識があったわけです。字が書けますから。何となく詞らしきものはできる。その代わり、曲は専門的な知識とか才能が必要だって思い込みがあったんですけどね。近頃すっかり逆になってきちゃってね、曲の方が簡単になってきてるんですね。で、詞を書ける人がいないんですよ」と発言している。 シンガーソングライターが主流となった1980年代以降はあまり見られなくなったが、かつてはラジオや歌謡誌などで一般(素人)から募集した詞に対して作曲家が曲を付けてプロの歌手が歌うということがよくあった。逆に素人から曲を募集して作詞家が詞を付けるということはなかった。こうした影響もあって、かつては作詞家は作曲家より下、「作詞だけする歌手」をシンガーソングライターとは呼べない、という感覚があったものと考えられる。 しかし2000年代頃からはむしろ作詞家が注目される機会が増えている。と言うよりも、作曲家、歌い手の功績を無視して、作詞家が時代を創ったかのような論調が増えている。また古くから存在する「作曲だけする歌手」に比べ「作詞だけする歌手」の出現は比較的最近のことで、まだ評価が定まっていないとも考えられる。この「作詞だけする歌手」は、シングルレベルでは森高千里あたりが最初と思われ、森高の歌詞を当時のマスメディアがユニーク等と好意的に紹介したことも「作詞だけする女性歌手」のその後の急増に繋がったかも知れない。金澤寿和は「重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているか否か。シンガーなのだから、曲を書けるのが基本。森高千里のように、作詞はするが作曲は他人任せというケースは、広義ではシンガーソングライターに当てはまるものの、敢えてそう呼びたくない。つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガーソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガーソングライターということになる」などと論じている。2013年『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』という書は、「自身で作曲(作詞だけではなく)をしているシンガー」のみを掲載しており、「作詞だけするシンガー」をシンガー・ソングライターと認めていない。 1980年前後に"軟弱""ネクラ"などと世間から叩かれてイメージを悪くした「ニューミュージック」という言葉に比べると、「シンガーソングライター」という言葉は好イメージが持続した。1980年に突如、漫才ブームが勃興したが、人気を集めた当時の(若手と表現された)B&B・ツービート・紳助・竜介たちは、それまでの漫才師が台本作家が書いたネタを演じていたのに比べて、自分たちでネタを書いた。これを当時のマスメディアが「彼らはそれぞれが自分たちで考えたネタで勝負。いわばシンガーソング・ライター。彼らの本音をぶつけたネタがヤングの共鳴を受けている」と、「シンガーソング・ライター」という言葉を自作自演の良い例えとして使用している。 1970年代に「シンガーソングライター」という言葉は定着したものの、1980年代以降に言われ始めた「J-POP」というカテゴリーでは、自作自演であることが強調されなくなった時期もあった。ビーイングや小室哲哉、つんく♂等のプロデューサー主導による楽曲や、バンドブーム以降のロックバンドやヒップホップグループによるグループ単位での音楽活動が目立ったため、ソロシンガーのイメージがある「シンガーソングライター」とはあまり呼ばれなかったのかも知れない。しかし現在のミュージシャンは大抵曲を自作しており、むしろ自分で曲を作らない人が少数派になっている。宇崎竜童は「ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。『歌謡曲』というものは一回滅びたのかなと思います」と述べている。 「シンガーソングライター」という表現が使われ始めて長年が経過したが、この表現は再び誇りを持って非常に多く使われるようになった。2000年代頃よりテレビ朝日『ミュージックステーション』は、自作自演歌手をシンガーソングライターと紹介することが多く、オリコンがCDの売り上げ1位記録を「女性シンガー・ソングライターとして○○以来の快挙」等と報道したり、専門学校や音楽スクールに「シンガーソングライター科」等が置かれたりするのは、「シンガーソングライター」という言葉自体が定着しているといえる。また、モーニング娘。の市井紗耶香が「シンガーソングライターになりたい」と、モーニング娘。を卒業したり、中村あゆみのシンガーソングライターの名曲カバーアルバムの発売等は、シンガーソングライターの先人をリスペクトする事例と言える。日本経済新聞は、ポール・マッカートニーを"英シンガー・ソングライター"と紹介している。また、現在の若いシンガーは、肩書を「シンガーソングライター○○」と称したり、「○歳の時に、シンガーソングライターになろうと決めた」「生涯シンガー・ソングライター」等と話す者も多く、ベテランミュージシャンの中にも肩書を「シンガーソングライター○○」と称する人が増えてきた。2022年、松任谷由実が文化功労者に選出されたが、文部科学省は松任谷の「職名等」に「シンガーソングライター」と書いた。国からシンガーソングライターが職業として認められたと見られる。本項のシンガーソングライターの説明は"ソロ形態"と書かれているが、"職業"と置き換えてもいいのかもしれない。ホコ天上がりの元バンドマンでプロデューサーの寺岡呼人は、こうした傾向を「シンガーソングライター至上主義」と表現し「1970年代の分業制の方が結果的に後生に残るようなものを作ってる気がする」と疑問を呈している。寺岡は「シンガーソングライターという言葉の持つ意味合いがどんどん変わってきているなと感じる。もともとは『歌謡曲をぶっつぶそう』みたいな形でシンガーソングライターが出てきて、専業の作家やアレンジャーを追い払っていったと思うんです。でも今いろんな人たちと仕事していると、自分で歌う歌詞が直前までできあがっていないみたいなのって本末転倒だな(プロデューサーと最初から共同作業をしようとしている)と思う」などと話している。 ライブハウスやストリートなどで活躍しているアーティストの中にも、インディーズ事務所に属するしないを問わず、多数のシンガー・ソングライターと自称する若者達もいる。自らの演奏と歌声でメッセージをダイレクトに観客に伝えるというこのムーブメントに関わる個々のアーティストの動機・年齢層は様々で、メジャーデビューを夢見る者、趣味として続けていく者など多岐にわたる。また、この背景にはかつて音源の制作やその音楽配信が膨大な資本と組織を必要としたのに対し、インターネットによる様々な技術やサービスによって音楽配信が個人もしくは小規模のレーベル等のレベルで可能になったことが大きい。これらの事が「次世代のシンガーソングライター」を産み出す要因となりつつある。 なお演歌業界では、21世紀に入ってからも作曲家・大御所歌手への弟子入りなどを経てデビューという事実上の徒弟制が残っており、吉幾三のように自分で作詞作曲できる一部の例外を除き、多くの歌手がベテランになっても師匠や外部から曲を貰えるのを待つしかない状態である。
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"元々、ポップ・ミュージック(ポップス)の世界では、英米でも日本でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていた。英米ではそれらを今日オールディーズなどと称しているが、日本でいえば歌謡曲と、どちらも基本的には分業であった。そこへ自作自演の流れを持ち込んだのはビートルズやボブ・ディランらである。1960年代には多くの自作自演のミュージシャンが高い人気を得ていた。にもかかわらず1970年代初頭、あえてアメリカで「シンガー・ソングライター」という呼び名が使われた要因は、「ロック的な狂熱とは縁の薄いパフォーマンスの価値を、歌やソングライティングを強調することで補う必要があったから」とレコード・コレクターズ誌は解説している。英米の「シンガー・ソングライター」は、「大きな夢や怒りではなく、身のまわりの出来事に目を向けた歌を作って歌う」「誠実な自己告白的の歌を歌う」というような意味合いがあった。ローリング・ストーン誌のロック史では、「シンガー・ソングライター」は映画『卒業』のダスティン・ホフマンのように、スターらしからぬスターが誕生したニューシネマの現象と関連づけて語られているという。本来の「シンガー・ソングライター」という言葉には「ロックのアンチテーゼ」のような意味があった。しかしこの言葉が日本に輸入された当時は、まだ日本でロックはメジャーになっておらず、日本での「シンガー・ソングライター」には歌謡曲のアンチテーゼとしての役割が最初は与えられていたものと考えられる。", "title": "語源と背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『スウィート・ベイビー・ジェームス』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた。また、『ファイアー・アンド・レイン』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている。", "title": "欧米での歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、フォークブーム期であった1960年代末にはカナダのシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、レナード・コーエン、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した。", "title": "欧米での歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。作詞家&演者だった添田唖蝉坊なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1930年代には演歌師の石田一松が自作自演した「酋長の娘」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる林伊佐緒は1930年代から「出征兵士を送る歌」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には大橋節夫が自作曲を歌いヒットしハワイアンブームの先駆となった他、1958年には「ロカビリー3人男」と言われた平尾昌晃も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1960年代には森繁久彌、加山雄三、荒木一郎、市川染五郎、美輪明宏といった人気俳優が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "歌謡曲には古くからレコード会社とプロダクションの主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た。加山のケースでいえば自身の主演作『ハワイの若大将』の劇中歌に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、\"自分たちの言葉で歌にしていく\"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる。また音楽的ベースも加山はグループ・サウンズであり、ロック寄りで、これも後の「シンガーソングライター」がボブ・ディランやPP&Mなど、アメリカのフォークソングをベースにしたものとは異なる。加山自身「俺は俳優。歌は趣味的なもの」と話しており、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる。荒木一郎は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている。岡林信康や吉田拓郎、小室等、井上陽水らは、加山らを先達とは考えてはいない。小室等は「平尾さんとかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲やグループ・サウンズですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」等と述べている。1960年代後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、吉田拓郎のブレイク以降である。『ニューミュージック・マガジン』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは~」という内田裕也の発言が見られ、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある。1973年の「guts」1月号には、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚などのシングル盤ヒットにより、\"シンガー・ソング・ライター\"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「\"シンガー・ソング・ライター\"の大衆化~」といった記事が見られる。吉田拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1972年7月に荒井由実をデビューさせた村井邦彦は、「最初は荒井を作家として契約したが、シンガーソングライターの時代にだんだん変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べている。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、マスメディアも「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられる。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1972年以降で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた1970年代初めには、高石友也や岡林信康といった「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていた。ただし彼らはマイナーレーベル所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らなかった。しかし、その後の吉田拓郎や小椋佳、かぐや姫、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否しアルバム作品の制作とコンサート活動に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになった。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの 4人が自分たちのレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立した1975年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有した。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになった。彼らの多くが自ら作詞作曲した楽曲を、ギターを弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付いた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていなかった。前述の内田裕也発言は(シンガー=ソングライターは)「ロカビリーがだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といった主旨だったし、富澤一誠とかまやつひろしの対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことをすべてうまくやるってことは、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話している。当事者の一人だった南こうせつ自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と話しており、シンガーソングライターによるフォークブームは短命に終わるのではないかという見方もあった。しかし、1970年代に才能あるシンガーソングライターが多く続いたために、一過性のものではなく、日本の音楽界のメインストリームになっていった。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "特に1973年頃から、五輪真弓、金延幸子、りりぃ、荒井由実、吉田美奈子、小坂明子、小坂恭子、中島みゆきらが台頭した時、彼女たちの中にギターを持たずにピアノを弾いて歌うというような、フォーク臭の全くない者がいたため彼女らを「女性フォークシンガー」とも呼び辛く、適当な言い方がなく「女性シンガーソングライター」という言い方が非常に多く使われた。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度アップに影響があったと考えられる。勿論、多くの「シンガーソングライター」を輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」の功績も非常に大きい。なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に小薗江圭子の詞に自分で曲をつけた「この広い野原いっぱい」でデビューした森山良子という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や洋楽のカバー曲を歌うことが多く1970年代半ばまで\"歌謡曲歌手\"というイメージがついていた。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けは、1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲はヤマハポプコン出身の小坂明子が1973年12月に出した「あなた」である。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークはニューミュージックという呼び方に吸収されていった。歌謡曲のフィールドでも渡辺真知子のように自作曲で日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "小西良太郎は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で、「1974年10月最終週のLPレコードの売り上げは「1位『二色の独楽』(井上陽水)、2位『かぐや姫LIVE』(かぐや姫)、3位『氷の世界』(井上陽水)、4位『NSP III』(NSP)、5位『陽水ライヴ』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』(カーペンターズ)、7位『追憶』(沢田研二)、8位『オン・ステージ』(八代亜紀)、9位『ぼくがつくった愛のうた』(チューリップ)、10位『ライブ3』(五木ひろし)と、フォーク勢が上位を独占。シングル盤でも話題は豊富で、ガロ、かぐや姫、あのねのね、なぎらけんいち、海援隊、加藤登紀子・長谷川きよし、りりぃ、山本コータローとウィークエンド、NSP、ダ・カーポ、三輪車、チェリッシュ、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。ダークホースが大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や流行り歌世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは70年安保を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた\"支流\"を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「ニューミュージック」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人はジャンルにかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "所ジョージは1977年のデビュー時から\"シンガーソング・コメディアン\"と名乗り、1981年の週刊誌は、俳優・寺尾聰の大ヒットを\"大人の味を持ったシンガーソングライター\"、『男道』という自作曲のレコードを出したプロ野球選手・松岡弘を\"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!\"と紹介した。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は\"シンガーソングティーチャー登場\"と書いている。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。なぎら健壱は「(1970年代後半に出現したシンガーソングライター)と自分のやっていたフォークとの結びつきは感じられない。拓郎さんやかぐや姫には繋がりがあったかもしれないけど、それがすごくメジャーになって、商業資本と結びついて、すごく人気が出て、大きな音楽になってゆくにつれ、フォークだった部分は無くなっていったと思います。生ギターが入っていたり、曲調や歌の内容がそうだったとしても、精神そのものがフォークじゃなくなっていったと思う」などと述べている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在、「シンガーソングライター」を「歌手を兼ねる作曲家」と答える人はいないと思われるが、かつては違った。毎日新聞社が1978年に出した『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』という本に「ちかごろは、シンガー・ソング・ライターなどといって、自作自演する者が増えたが、戦前は大変珍しかった。とくに作曲家が、歌手を兼ねて、どちらもヒットする、などということは、まったくマレなことだった」という記述があり、ここで林伊佐緒を紹介している。林は作詞はしない作曲家兼歌手であり「シンガー・ソング・ライター」と呼ばれる以前は「自作自演歌手」は「作詞+作曲もする歌手」はもちろん「作曲だけする歌手」の両方を指していたものと考えられる。そして現在でも「作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わない」ことが多い。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「ヤマハポピュラーソングコンテスト」でプロデビューしたアーティストが所属するヤマハ音楽振興会(現ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、ゴダイゴらが所属するABCプロモーションと共に、1979年の所属アーティスト・歌手のレコード・テープの総売上げが1969年創立以来\"タレント帝国\"の名をほしいままにしてきた渡辺プロダクション(ナベプロ)を抜いて1位・2位となった。これは芸能界支配構造の再編成を象徴する出来事だった。膨大な利権構造を独占する大手芸能プロを中心とする芸能共同体に反旗を翻した最も有名な事件が、先述した1975年のシンガーソングライター4人によるフォーライフ・レコードの設立であるが、これをきっかけとして芸能界の利権の仕組みを知った多くのシンガーソングライターが以降、個人事務所などを設立した。世良公則&ツイスト(のちツイスト)は最初はヤマハに所属していたが、1979年9月にヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を立ち上げた。出演契約の業務はヤマハに委嘱したものの原盤権や著作権を自分たちで握り、人気自体は下降していったが、利益は莫大になったといわれる。シンガーソングライターは上手くやれば、100%利益を独占することも可能といわれる。当時公表されていた長者番付の歌手部門で、ニューミュージック系のシンガーソングライターが上位を独占したのはこのような事情があった。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「シンガーソングライター」という言葉が 理由として、その答えのような阿久悠の言及が1985年の和田誠との共著の中にある。ここで阿久は「GSが流行ってきてギターが普及して、素人が曲をつくるようになりましたね。で、それからずーっとフォークの段階がきて、5年ぐらい前までは、やっぱり曲のほうが専門的で詞は誰でも書けるという意識があったわけです。字が書けますから。何となく詞らしきものはできる。その代わり、曲は専門的な知識とか才能が必要だって思い込みがあったんですけどね。近頃すっかり逆になってきちゃってね、曲の方が簡単になってきてるんですね。で、詞を書ける人がいないんですよ」と発言している。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "シンガーソングライターが主流となった1980年代以降はあまり見られなくなったが、かつてはラジオや歌謡誌などで一般(素人)から募集した詞に対して作曲家が曲を付けてプロの歌手が歌うということがよくあった。逆に素人から曲を募集して作詞家が詞を付けるということはなかった。こうした影響もあって、かつては作詞家は作曲家より下、「作詞だけする歌手」をシンガーソングライターとは呼べない、という感覚があったものと考えられる。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし2000年代頃からはむしろ作詞家が注目される機会が増えている。と言うよりも、作曲家、歌い手の功績を無視して、作詞家が時代を創ったかのような論調が増えている。また古くから存在する「作曲だけする歌手」に比べ「作詞だけする歌手」の出現は比較的最近のことで、まだ評価が定まっていないとも考えられる。この「作詞だけする歌手」は、シングルレベルでは森高千里あたりが最初と思われ、森高の歌詞を当時のマスメディアがユニーク等と好意的に紹介したことも「作詞だけする女性歌手」のその後の急増に繋がったかも知れない。金澤寿和は「重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているか否か。シンガーなのだから、曲を書けるのが基本。森高千里のように、作詞はするが作曲は他人任せというケースは、広義ではシンガーソングライターに当てはまるものの、敢えてそう呼びたくない。つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガーソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガーソングライターということになる」などと論じている。2013年『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』という書は、「自身で作曲(作詞だけではなく)をしているシンガー」のみを掲載しており、「作詞だけするシンガー」をシンガー・ソングライターと認めていない。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1980年前後に\"軟弱\"\"ネクラ\"などと世間から叩かれてイメージを悪くした「ニューミュージック」という言葉に比べると、「シンガーソングライター」という言葉は好イメージが持続した。1980年に突如、漫才ブームが勃興したが、人気を集めた当時の(若手と表現された)B&B・ツービート・紳助・竜介たちは、それまでの漫才師が台本作家が書いたネタを演じていたのに比べて、自分たちでネタを書いた。これを当時のマスメディアが「彼らはそれぞれが自分たちで考えたネタで勝負。いわばシンガーソング・ライター。彼らの本音をぶつけたネタがヤングの共鳴を受けている」と、「シンガーソング・ライター」という言葉を自作自演の良い例えとして使用している。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1970年代に「シンガーソングライター」という言葉は定着したものの、1980年代以降に言われ始めた「J-POP」というカテゴリーでは、自作自演であることが強調されなくなった時期もあった。ビーイングや小室哲哉、つんく♂等のプロデューサー主導による楽曲や、バンドブーム以降のロックバンドやヒップホップグループによるグループ単位での音楽活動が目立ったため、ソロシンガーのイメージがある「シンガーソングライター」とはあまり呼ばれなかったのかも知れない。しかし現在のミュージシャンは大抵曲を自作しており、むしろ自分で曲を作らない人が少数派になっている。宇崎竜童は「ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。『歌謡曲』というものは一回滅びたのかなと思います」と述べている。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「シンガーソングライター」という表現が使われ始めて長年が経過したが、この表現は再び誇りを持って非常に多く使われるようになった。2000年代頃よりテレビ朝日『ミュージックステーション』は、自作自演歌手をシンガーソングライターと紹介することが多く、オリコンがCDの売り上げ1位記録を「女性シンガー・ソングライターとして○○以来の快挙」等と報道したり、専門学校や音楽スクールに「シンガーソングライター科」等が置かれたりするのは、「シンガーソングライター」という言葉自体が定着しているといえる。また、モーニング娘。の市井紗耶香が「シンガーソングライターになりたい」と、モーニング娘。を卒業したり、中村あゆみのシンガーソングライターの名曲カバーアルバムの発売等は、シンガーソングライターの先人をリスペクトする事例と言える。日本経済新聞は、ポール・マッカートニーを\"英シンガー・ソングライター\"と紹介している。また、現在の若いシンガーは、肩書を「シンガーソングライター○○」と称したり、「○歳の時に、シンガーソングライターになろうと決めた」「生涯シンガー・ソングライター」等と話す者も多く、ベテランミュージシャンの中にも肩書を「シンガーソングライター○○」と称する人が増えてきた。2022年、松任谷由実が文化功労者に選出されたが、文部科学省は松任谷の「職名等」に「シンガーソングライター」と書いた。国からシンガーソングライターが職業として認められたと見られる。本項のシンガーソングライターの説明は\"ソロ形態\"と書かれているが、\"職業\"と置き換えてもいいのかもしれない。ホコ天上がりの元バンドマンでプロデューサーの寺岡呼人は、こうした傾向を「シンガーソングライター至上主義」と表現し「1970年代の分業制の方が結果的に後生に残るようなものを作ってる気がする」と疑問を呈している。寺岡は「シンガーソングライターという言葉の持つ意味合いがどんどん変わってきているなと感じる。もともとは『歌謡曲をぶっつぶそう』みたいな形でシンガーソングライターが出てきて、専業の作家やアレンジャーを追い払っていったと思うんです。でも今いろんな人たちと仕事していると、自分で歌う歌詞が直前までできあがっていないみたいなのって本末転倒だな(プロデューサーと最初から共同作業をしようとしている)と思う」などと話している。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ライブハウスやストリートなどで活躍しているアーティストの中にも、インディーズ事務所に属するしないを問わず、多数のシンガー・ソングライターと自称する若者達もいる。自らの演奏と歌声でメッセージをダイレクトに観客に伝えるというこのムーブメントに関わる個々のアーティストの動機・年齢層は様々で、メジャーデビューを夢見る者、趣味として続けていく者など多岐にわたる。また、この背景にはかつて音源の制作やその音楽配信が膨大な資本と組織を必要としたのに対し、インターネットによる様々な技術やサービスによって音楽配信が個人もしくは小規模のレーベル等のレベルで可能になったことが大きい。これらの事が「次世代のシンガーソングライター」を産み出す要因となりつつある。", "title": "日本での歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお演歌業界では、21世紀に入ってからも作曲家・大御所歌手への弟子入りなどを経てデビューという事実上の徒弟制が残っており、吉幾三のように自分で作詞作曲できる一部の例外を除き、多くの歌手がベテランになっても師匠や外部から曲を貰えるのを待つしかない状態である。", "title": "日本での歴史" } ]
シンガーソングライターは、ポピュラー音楽において、自分で作詞・作曲をして歌う人を指す。音楽論評などで “SSW” と表記される場合もある。
{{Otheruses|[[自作自演]]歌手}} '''シンガーソングライター'''({{lang-en-short|singer-songwriter}})は、[[ポピュラー音楽]]において、自分で作詞・作曲をして歌う人を指す<ref>{{Cite web|和書|title=シンガーソングライター(singer-songwriter)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC/ |website=goo辞書 |access-date=2023-02-08 |language=ja}}</ref>。音楽論評などで “SSW” と表記される場合もある。 == 概要 == [[ポップ・ミュージック|ポピュラー音楽]]において自ら歌う曲の、[[作詞]]、[[作曲]]([[編曲]]も自ら行う事がある)を自分自身で行う[[歌手]]を指す。作曲しかしない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞しかしない場合にはシンガーソングライターとは言わないことが多い(後述)<ref name="W100">『W100 シンガー・ソングライター 今という時代を探る』、[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]、2011年、p4-9、214-217</ref><ref name="女性SSW">『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』、シンコーーミュージック・エンタテイメント、2013年、p2</ref>。また、自作をしていても、自演曲の中で自作曲の割合が小さい場合には、シンガーソングライターとはいわないことが多く{{efn|たとえば、後述の[[林伊佐緒]]と同世代の[[藤山一郎]]は、作曲の仕事も多数行っており「[[ラジオ体操のうた]]」をはじめ自ら歌唱した曲も存在するが、藤山のヒット曲の数々は他人の作曲であり藤山が「シンガーソングライター」といわれることはほとんどなかった。}}、逆に 100%自作曲でなくても、自作曲の割合が大きい場合にはシンガーソングライターと呼ぶこともある<ref name="W100"/>。  楽曲の制作方法は、歌手により様々である。先に作曲、後に作詞(「曲先(きょくせん)」や「メロ先」、「はめ込み作詞」等と呼ばれる手法)という手法をとる者もいれば、逆に先に作詞、後に作曲(こちらは「詞先(しせん)」と呼ばれる)する者もいる。 == 語源と背景 == 「シンガーソングライター」という言葉は、1970年代初頭に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[ジェームス・テイラー]]が注目され、続いて[[イギリス|英国]]で[[エルトン・ジョン]]、アメリカの[[キャロル・キング]]などのめざましい活躍もあって<ref>[https://tower.jp/article/feature_item/2021/09/01/0109 Carole King(キャロル・キング)|発売50周年記念!1971年発売『つづれおり』(原題:Tapestry)が、モービル・フィデリティ社の究極のアナログ盤規格「ULTRADISC ONE-STEP」×「MoFi SuperVinyl」で復刻!]</ref>、彼らが「シンガーソングライター」と呼ばれ、それが日本でも普及したもの<ref>「レコード・コレクターズ 2010年3月号、ミュージックマガジン、p41-97</ref><ref>[http://mediasabor.jp/2008/01/ssw.html シンガー・ソングライター(SSW)の源流 ジェイムス・テイラーが集大成ライブ・アルバム『ワン・マン・バンド』発表]</ref><ref name="新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s">『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、[[自由国民社]]、2003年、p88</ref><ref name="200CD フォーク"/>。 元々、[[ポップ・ミュージック|ポップ・ミュージック(ポップス)]]の世界では、英米でも日本でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていた<ref name="W100"/><ref name="asagei12814" >[https://www.asagei.com/7272 俺たちのビートルズを熱く語ろう(1) |アサ芸プラス]</ref>。英米ではそれらを今日[[オールディーズ]]などと称しているが、日本でいえば[[歌謡曲]]と、どちらも基本的には分業であった<ref name="戦後70年4">{{Cite news |title=戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター |newspaper=[[読売新聞]] |date=2015-8-6 |author=清川仁 |url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html |accessdate=2015-10-23 |publisher=[[YOMIURI ONLINE]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html |archivedate=2015-10-23 }}</ref>。そこへ自作自演の流れを持ち込んだのは[[ビートルズ]]や[[ボブ・ディラン]]らである<ref name="W100"/><ref name="asagei12814" /><ref name="戦後70年4"/><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/191943 ボブ・ディラン追いかけ50年…吉田拓郎と井上陽水の現在]</ref>。1960年代には多くの自作自演のミュージシャンが高い人気を得ていた。にもかかわらず1970年代初頭、あえて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で「シンガー・ソングライター」という呼び名が使われた要因は、「ロック的な狂熱とは縁の薄いパフォーマンスの価値を、歌やソングライティングを強調することで補う必要があったから」と[[レコード・コレクターズ|レコード・コレクターズ誌]]は解説している<ref name="Collectors20105">[[レコード・コレクターズ]]5月号増刊<レココレ・アーカイブス5>2010年5月1日発行、[[ミュージック・マガジン|ミュージックマガジン]]、p25 - 29</ref>。英米の「シンガー・ソングライター」は、「大きな夢や怒りではなく、身のまわりの出来事に目を向けた歌を作って歌う」「誠実な自己告白的の歌を歌う」というような意味合いがあった<ref name="Collectors20105" />。[[ローリング・ストーン|ローリング・ストーン誌]]のロック史では、「シンガー・ソングライター」は映画『[[卒業 (1967年の映画)|卒業]]』の[[ダスティン・ホフマン]]のように、スターらしからぬスターが誕生した[[ニューシネマ]]の現象と関連づけて語られているという<ref name="Collectors20105"/>。本来の「シンガー・ソングライター」という言葉には「ロックの[[アンチテーゼ]]」のような意味があった。しかしこの言葉が日本に輸入された当時は、まだ日本でロックはメジャーになっておらず、[[日本]]での「シンガー・ソングライター」には歌謡曲のアンチテーゼとしての役割が最初は与えられていたものと考えられる<ref name="W100"/><ref name="natalie201409">[https://natalie.mu/music/pp/teraokayohito/page/3 寺岡呼人「Baton」発売記念特集 寺岡呼人×桜井和寿(Mr.Children)対談]</ref>。 == 欧米での歴史 == 1960年代後半から1970年代前半にかけてのロック界やソウルでは社会的なメッセージ性の強いヒット曲が多く生まれた<ref name="pops19">{{Cite book |和書 |year=2006 |title=ロック&ポップス名曲徹底ガイド(3) 1970-74年編 |page=19 |publisher=音楽出版社 }}</ref>。1970年にジェームズ・テイラーはアルバム『[[スウィート・ベイビー・ジェームス]]』を発表したが、このアルバムはシンガーソングライターによるオリジナルバージョンがヒットしたことで当時としては珍しい例であり注目を浴びた<ref name="pops19" /><ref name="standard101">{{Cite book |和書 |year=2006 |title=スタンダード・ヴォーカル名曲徹底ガイド 上巻 |page=101 |publisher=音楽出版社 }}</ref>。また、『[[ファイアー・アンド・レイン]]』はジェームズ・テイラーのごくごく私的な体験を告白した歌詞の曲だったが、『スウィート・ベイビー・ジェームス』に収録されたのちシングルカットされ、1970年秋に大ヒットとなりこれがシンガーソングライターブームの幕開けと言われている<ref name="pops19" /><ref name="standard101" />。 また、フォークブーム期であった1960年代末には[[カナダ]]のシンガーソングライターであるゴードン・ライトフット、[[レナード・コーエン]]、イアン&シルビア、トム・ラッシュらも米国に進出した<ref>{{Cite book |和書 |year=2006 |title=スタンダード・ヴォーカル名曲徹底ガイド 上巻 |page=52 |publisher=音楽出版社 }}</ref>。 == 日本での歴史 == === 前史 === 日本においても、自作曲を自ら歌う歌手は古くからいた。[[作詞家]]&[[歌手|演者]]だった<ref>『歌謡の百年』 第 6巻 戦後の歌、監修[[堀内敬三]]、レコード制作 [[日本ビクター]]、[[実業之日本社]]、1969年、p35</ref>[[添田唖蝉坊]]なども広義ではシンガーソングライターといえるかも知れない。 1930年代には演歌師の[[石田一松]]が[[自作自演]]した「[[酋長の娘]]」をヒットさせた。広義における本格的なシンガーソングライターの嚆矢と言われる[[林伊佐緒]]は1930年代から「[[出征兵士を送る歌]]」など、自身の曲の大半を自ら作曲・歌唱した。1950年代には[[大橋節夫]]が自作曲を歌いヒットし[[ハワイアン]]ブームの先駆となった他、1958年には「[[ロカビリー]]3人男」と言われた[[平尾昌晃]]も自作曲「ミヨちゃん」をヒットさせた<ref>[[ビリー諸川]]『昭和浪漫 ロカビリー』 [[平凡社]]、2005年、140頁</ref><ref name="ritsumei">[https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/08jasrac/zenki/10/kougi10.htm ビートルズ・日本・イギリス - www.ritsumei.ac.jp]</ref>。 1960年代には[[森繁久彌]]、[[加山雄三]]、[[荒木一郎]]、[[松本白鸚 (2代目)|市川染五郎]]、[[美輪明宏]]といった人気[[俳優]]が自作曲でヒットを出すというケースも出てきた<ref name="200CD フォーク">200CDフォーク編集委員会編『200CD フォーク』、[[立風書房]]、2003年、p2、12-33、118-215</ref>。 [[歌謡曲]]には古くから[[レコード会社]]と[[プロダクション]]の主導により職業作家の作った楽曲を歌手が歌うという厳格な分業システムがあったが<ref name="戦後70年4"/><ref>[[加山雄三]]『若大将の履歴書』、[[日本経済新聞出版社]]、2010年、p100、101</ref>、彼ら歌手にも音楽的才能があるため作曲能力があり、知名度も相まって自作曲をリリースすることが出来た<ref>「[[ミュージック・マガジン|ニューミュージック・マガジン]]」1972年5月号、p48、49</ref>。加山のケースでいえば自身の主演作『[[ハワイの若大将]]』の[[サウンドトラック|劇中歌]]に自作曲が採用されてヒットした後、自作曲を多く歌うようになった<ref>[[スポーツニッポン]]、2010年7月11日7面</ref>。しかし加山は作曲のみ自分で行い、作詞は職業作詞家によるものだったため、そのほとんどがラブソングであり歌謡曲と変わりがない<ref name="jcast141114" >[https://www.j-cast.com/tv/2014/11/14220765.html 岩谷時子ヒット曲生み続けた「92年の幸せな生涯独身」加山雄三に100曲以上の詞とは驚いた]</ref>。後に現れた「フォークシンガー」や「シンガーソングライター」が、反体制歌や非歌謡曲を志向した点や、"自分たちの言葉で歌にしていく"と、自己表現した歌詞にも特徴があった点で異なる<ref name="ロック激動のイヤー">[http://wmg.jp/wmlife/sp/1969/hagiwara02.html ロック激動のイヤー、1969年にタイムスリップ! 私の1969 - 第2回 萩原健太]</ref><ref name="メディア時代の音楽と社会">[[小川博司 (社会学者)|小川博司]]『メディア時代の音楽と社会』、[[音楽之友社]]、1993年、p143</ref><ref>[[長田暁二]]『歌でつづる20世紀』、[[ヤマハミュージックメディア]]、2003年、p194、195</ref><ref name="rs200727">{{Cite web|和書|title = 吉田拓郎と井上陽水、1970年代のライブアルバムを振り返る |work = [[ローリング・ストーン#日本版|Rolling Stone Japan]] |date = 2020-07-27 |author = [[田家秀樹]]/Rolling Stone Japan 編集部 |url = https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34197?n=2&e=34309 |accessdate = 2021-10-26 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20211026001906/https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34309/7/1/1 |archivedate = 2021-10-26 }}</ref><ref name="hominis">{{Cite web|和書|title = インタビュー ラジオDJ・赤坂泰彦が語る、吉田拓郎と谷村新司が変えたフォークソングのイメージ |work = HOMINIS |date = 2021-06-07 |author = 田中隆信 |url = https://hominis.media/category/musician/post7448/ |accessdate = 2021-10-26 |publisher = [[スカパーJSAT]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20211025234726/https://hominis.media/category/musician/post7448/ |archivedate = 2021-08-25 }}</ref>。また音楽的ベースも加山は[[グループ・サウンズ]]であり、[[ロック (音楽)|ロック]]寄りで、これも後の「シンガーソングライター」が[[ボブ・ディラン]]や[[PP&M]]など、アメリカの[[フォークソング]]をベースにしたものとは異なる<ref name="メディア時代の音楽と社会"/><ref name="歌謡ポップス・クロニクル">『歌謡ポップス・クロニクル』[[小西康陽]]、[[近田春夫]]、[[阿久悠]]、[[鈴木慶一]]、[[サエキけんぞう]]他、[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、1998年、27、89、120</ref>。<!--『[[ミュージック・マガジン|ニューミュージック・マガジン]]』1972年5月号の「日本のロック史を再検討する」という記事では、加山と[[荒木一郎]]を「フォーク歌謡曲」と論じている<ref>「ニューミュージック・マガジン」1972年5月号、p38</ref>。-->加山自身「俺は[[俳優]]。歌は趣味的なもの」と話しており<ref>[[高平哲郎]]『みんな不良少年だった』、[[河出書房新社]]、1985年、p142</ref>、この点からも、その後の「シンガーソングライター」と系統的に繋がってはいないといえる<ref name="1970音楽人大百科">『1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック』、[[学習研究社]]、1994年、p20-21、31、52、53</ref>。[[荒木一郎]]は「当時では、俺だけが純粋に作詞・作曲で、しかも商業的でなかった。そのまんまだったんだ」と述べている<ref>『[[映画秘宝]]』、2012年1月号、[[洋泉社]]、p79</ref>。[[岡林信康]]や[[吉田拓郎]]、[[小室等]]、[[井上陽水]]らは、加山らを先達とは考えてはいない<ref>[[阿川佐和子]]『阿川佐和子の会えばドキドキ この人に会いたい 7』、[[文藝春秋]]、2009年、p53</ref><ref name="goethe2012">{{Cite news |title = 吉田拓郎インタビュー |newspaper = 日経電子版 WEB GOETHE |date = 2012 |author = |url = http://goethe.nikkei.co.jp/human/090623/03.html |accessdate = 2020-12-27 |publisher = [[日本経済新聞]] |archiveurl = https://archive.fo/qYfl |archivedate = 2010-08-03 }}</ref><ref name="佐高信対談集">[[佐高信]]対談集 『佐高信の丁々発止』、七つ森書館、2006年、p362-363</ref>。[[小室等]]は「[[平尾昌晃|平尾さん]]とかそういうとか人たちは歌謡曲に積極的に寄りそう形で出てきたシンガーソングライターだったけど、ぼくらはその糸を切ってある。彼らとは違う」「あの当時のフォークソングをはじめた連中というのは、アンチ商業主義だった」<ref name="佐高信対談集"/>、吉田拓郎は「音楽の世界での僕の諸先輩方は、歌謡曲や[[グループ・サウンズ]]ですから。ソングライティングはしていない。日本の音楽界に関しては、僕の上の世代はいない。僕がいつも最初なんです」<ref name="goethe2012"/>等と述べている。[[1960年代]]後半から現れたフォーク系シンガーソングライターの多くは、既存の歌謡曲とは、ほぼ無縁の活動から誕生した人たちである<ref name="高護">[http://www.hmv.co.jp/news/article/1111100042/ 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE]</ref>。 === 1970年代〜 === 「シンガーソングライター」という言葉が日本で認知されたのは1972年で、[[吉田拓郎]]のブレイク以降である<ref name="高護"/><ref>[http://www.e-onkyo.com/news/286/ 『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 ] - ハイレゾ音源配信サイト、[https://www.tanimura.com/forum/article-5708 谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 ] - Shinji Tanimura Official site。</ref><ref name="安井">{{Cite book|和書|author=島崎今日子|title=安井かずみがいた時代|publisher=集英社|year=2013|pages=282-283|chapter=ジャスト・ア・Ronin 吉田拓郎}}</ref><ref name="nikkei201016">{{Cite news |title = 吉田拓郎と重なる 中銀の投資家救済 |newspaper = [[日本経済新聞]] |date = 2020-10-16 |author = 重見吉徳 |url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65008910U0A011C2000000/ |accessdate = 2021-10-26 |publisher = [[日本経済新聞社]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20201016120416/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65008910U0A011C2000000/ |archivedate = 2020-10-16 }}</ref>。『[[ミュージック・マガジン|ニューミュージック・マガジン]]』1972年5月号の記事には「いま、シンガー=ソングライターなんて騒がれてる連中のやっていることは~」という[[内田裕也]]の発言が見られ<ref name="ニューミュージック・マガジン1972558">「[[ミュージック・マガジン|ニューミュージック・マガジン]]」1972年5月号、p58</ref>、同じく1972年7月に刊行された『爆発するロック』という本の中の[[富澤一誠]]と[[かまやつひろし]]の対談では、富澤が「今、話題になっているシンガー・ソングライターなんかどう思いますか」と、かまやつに質問する場面がある<ref name="爆発するロック">伊藤仁康『爆発するロック』ブロンズ社、1972年、p82 - 84</ref>。1973年の「guts」1月号には、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、[[あがた森魚]]などのシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化~」といった記事が見られる<ref>guts、表現技術出版、1973年1月、p30</ref><ref>[https://www.cinra.net/article/interview-2012-10-09-000000-php あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話 -インタビュー ]</ref>。吉田拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった<ref name="nikkei201016"/><ref>[https://web.archive.org/web/20161117161008/http://showplace.jp/interview/70s_yokosuka/talk04_03.html Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp3(archive)]、[https://web.archive.org/web/20161213120144/http://showplace.jp/interview/70s_yokosuka/talk04_04.html なぎら健壱インタビューp4(archive)]、[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004646497 吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響]、[http://music-book.jp/music/news/column/38635 発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』]、[http://www.drillspin.com/articles/view/819 第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ]、[http://www.hmv.co.jp/news/article/1111100042/ 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE]</ref><ref name="ニューミュージック白書">『ニューミュージック白書』、エイプリル・ミュージック、1977年、p43、74、75、113、146</ref>。 1972年7月に[[松任谷由実|荒井由実]]をデビューさせた[[村井邦彦]]は、「最初は荒井を作家として契約したが、シンガーソングライターの時代にだんだん変わっていくときだったので、荒井をシンガーソングライターとしてデビューさせた」と述べている<ref>[https://www.musicman.co.jp/interview/19598 第88回 村井 邦彦 氏 |Musicman-NET 6. ユーミンとの出会いとスタジオA]</ref>。当時はまだ自作曲を歌い、さらにその曲をヒットさせることが珍しかったため、[[マスメディア]]も「シンガーソングライター」を大きく取り上げたと考えられる<ref>[http://lmc.yamaha.co.jp/interview/010/index.html#main インタビュー |ヤマハイベントヒストリー |YAMAHA]</ref>。「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1972年以降で、それまでは特に定着した呼び名はなく、あえていえば「自作自演」という言い方をされた<ref name="1970音楽人大百科"/><ref name="歌でつづる20世紀">古茂田信男『新版 日本流行歌史 下』、[[社会思想社]]、1995年、p127、128</ref><ref name="ニューミュージック白書">『ニューミュージック白書』、エイプリル・ミュージック、1977年、p43、74、75、113、146</ref><ref>『歌謡の百年』 第 7巻 現代の歌、監修[[堀内敬三]]、レコード制作 [[日本ビクター]]、[[実業之日本社]]、1969年、p22、[http://www.joqr.co.jp/topics/dankai.html AM1134kHz 文化放送 JOQR]</ref>。 「シンガー・ソングライター」という言葉が日本に入ってきた1970年代初めには、[[高石ともや|高石友也]]や岡林信康といった「自作自演」のフォークシンガーが若者の支持を得ていた。ただし彼らは[[インディーズ|マイナーレーベル]]所属であったため、レコード自体はあまり売れておらず<ref>[https://archives.bs-asahi.co.jp/densetsu/ BS朝日「伝説のメロディ 蘇る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫・・・」]</ref>、歌謡界のシステムを揺らがすまでには至らなかった<ref name="ロック激動のイヤー"/><ref>陣馬虫太郎『70's STAR・DUST』、[[ヒット出版社]]、1996年、p113</ref>。しかし、その後の吉田拓郎や[[小椋佳]]、[[かぐや姫 (フォークグループ)|かぐや姫]]、井上陽水ら、テレビへの出演を拒否し[[アルバム]]作品の[[制作]]とコンサート活動に重きを置く「自作自演」のフォークシンガーたちは、メガヒットを出し、また演歌や歌謡曲歌手に楽曲提供をおこなう等、長く話題を提供して世間の注目を集め、既存の芸能界に影響を及ぼすまでになった<ref name="戦後70年4"/><ref name="ロック激動のイヤー"/><ref name="hominis"/><ref name="barks52258361">[https://www.barks.jp/news/?id=52258361 新人アーティスト・キンモクセイを紐解く“歌謡ロック”講座 / BARKS 特集]</ref><ref name="ロック・クロニクル・ジャパンVol.2">『ロック・クロニクル・ジャパンVol.2 1981-1999』、[[音楽出版社]]、1999年、p22 - 24、52-54</ref><ref>[http://www.stage007.com/enter/music/elec_talk02.html 70年代のフォークを語ろう - シニアコム.JP]、[https://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック下巻 (CDジャーナルムック) p111]、[http://www.nikkei.co.jp/digitalcore/report/030630/01.html NIKKEI Digital Core]、[http://www.j-wave.co.jp/blog/fmkameda/2013/05/post_150.html なんでも答えます、音楽のギモン! - BEHIND THE MELODY .2013年05月21日.. - J-Wave]、[https://www.asagei.com/12027 百恵と淳子、身を削って提供された作品 |アサ芸プラス]、[https://www.billboard-japan.com/special/detail/1803 「チャート自体に大きな宣伝力がある」牧村憲一(音楽プロデューサー)インタビュー(Billboard JAPAN)](※井上陽水のアルバム『氷の世界』が100万枚を売り上げたのは1975年8月)、野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男』、[[新潮社]]、2006年、p155-160、[[金子修介]]『失われた歌謡曲』、[[小学館]]、1999年、p86-93</ref>。小室等、吉田拓郎、井上陽水、[[泉谷しげる]]の 4人が自分たちのレコード会社「[[フォーライフ・レコード]]」を設立した1975年には、シンガー・ソングライターによるフォークがレコード・シェアの四割近くを占有した<ref>『軟派昭和史』、[[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社文化部]]、1975年、p297 - 299、[[牧村憲一]]『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p70 - 71</ref>。こうして、借り物ではない、自分の言葉で、個性で、歌を唄う、表現する、シンガーソングライターが、若者たちの支持を勝ち得て定着していくことになった<ref name="W100"/><ref name="戦後70年4"/><ref name="rs200727"/><ref name="明治大学">[https://academy.meiji.jp/course/detail/1446/ 日本のフォークソングとその時代 |伊藤 真弓 |明治大学リバティアカデミー]</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/koukai/kouhyou/14nenmatsunenshi/pdf/h14_bs.pdf 「シンガーソングライター夢の名曲大全集」 (NHK BS-2、2001年12月21日放送)]、[https://www.musicman.co.jp/interview/19558 第68回 吉田 建 氏 7 |Musicman-NET]</ref>。彼らの多くが自ら作詞作曲した楽曲を、[[ギター]]を弾きながら歌う「ソロのフォークシンガー」であったため「シンガーソングライター=フォーク系のソロシンガー」のイメージが付いた<ref name="ニューミュージック白書"/><ref name="ロック・クロニクル・ジャパンVol.2"/><ref name="松井五郎">[http://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_6/matsui_in1.html 「作家で聴く音楽」第六回 松井五郎]</ref><ref>[http://jaima.net/modules/celebrity/index.php?content_id=6 まよなかしんや|やいま×インタビュー - 石垣島発八重山ポータル ]、[http://cache001.ranking.goo.ne.jp/crnk/ranking/025/singersong_male/ 好きな男性シンガーソングライターランキング - 音楽ランキング - goo ]、[http://cache001.ranking.goo.ne.jp/crnk/ranking/025/singersong_female_2008/ 好きな女性シンガーソングライターランキング - 音楽ランキング - goo ]、[http://listenjapan.com/store/genre_10380.htm シンガー・ソングライター]</ref>。 一方で、当時は職業作詞家・作曲家が作るようなレベルの楽曲を歌手が容易に作れるとは思われていなかった。前述の[[内田裕也]]発言は<ref name="ニューミュージック・マガジン1972558"/>(シンガー=ソングライターは)「[[日劇ウエスタンカーニバル|ロカビリー]]がだんだん歌謡曲になったのと同じ。長く続かない」といった主旨だったし、[[富澤一誠]]と[[かまやつひろし]]の対談では、富澤が「ぼくから見ると、作詞・作曲・歌と三つのことをすべてうまくやるってことは、困難じゃないかと思えるんですがねえ。だから、三つのことをそれぞれプロフェッショナルがやった方が、いいものが生まれると思うんですけど」と話している<ref name="爆発するロック"/>。当事者の一人だった[[南こうせつ]]自身も「ブームが続くとは思ってなかった」と話しており<ref>[[週刊ポスト]]、2008年8月1日号、p57</ref>、シンガーソングライターによるフォークブームは短命に終わるのではないかという見方もあった。しかし、1970年代に才能あるシンガーソングライターが多く続いたために、一過性のものではなく、日本の音楽界のメインストリームになっていった<ref name="戦後70年4"/><ref name="ロック・クロニクル・ジャパンVol.2"/><ref>[http://review.macrart.com/i/184n/ ポプコン・エイジ・クロニクル1975 - 1977]、[https://www.musicman.co.jp/interview/19558 Musicman'sリレー]</ref><ref name="読むJ-POP ">[[田家秀樹]]『読むJ-POP 1945-1999私的全史』、[[徳間書店]]、1999年、p154-193</ref><ref name="ニューミュージックの本">[[富澤一誠]](監修)『ニューミュージックの本/日本のフォーク&ロック』、[[共同通信社]]、1978年、p40、41、45-50、146、『エイティーズ』、[[河出書房新社]]、1990年、p136-141</ref>。 特に1973年頃から、[[五輪真弓]]、[[金延幸子]]、[[りりぃ]]、[[松任谷由実|荒井由実]]、[[吉田美奈子]]、[[小坂明子]]、[[小坂恭子]]、[[中島みゆき]]らが台頭した時<ref name="W100"/><ref name="大貫妙子">[http://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_20/inner1.html 「作家で聴く音楽」第二十回 大貫妙子 - JASRAC]</ref><ref>北中正和『にほんのうた―戦後歌謡曲史』、[[新潮社]]、1995年、186-189、『別冊太陽 日本のロック 50's~90's』、[[平凡社]]、1993年、p120、[http://www.emimusic.jp/emirocksthefirst/liner/ ライナーノーツ|EMI ROCKS The First - EMIミュージック・ジャパン]、[https://www.barks.jp/news/?id=52279727 “生き様”を“音”に変換 リアル・ロックヴォーカリスト 亜矢 / BARKS 特集]</ref>、彼女たちの中にギターを持たずに[[ピアノ]]を弾いて歌うというような、フォーク臭の全くない者がいたため彼女らを「女性フォークシンガー」とも呼び辛く、適当な言い方がなく「女性シンガーソングライター」という言い方が非常に多く使われた<ref name="ニューミュージック白書"/><ref name="ニューミュージックの本"/>。これも「シンガーソングライター」という言葉の認知度アップに影響があったと考えられる<ref>鈴木勝生『風に吹かれた神々』、[[シンコー・ミュージック]]、1987年、p146-153</ref>。勿論、多くの「シンガーソングライター」を輩出した「[[ヤマハポピュラーソングコンテスト]]」の功績も非常に大きい<ref>[http://www.yamaha-mf.or.jp/history/e-history/popcon/ ポピュラーソングコンテスト |イベントヒストリー |財団法人ヤマハ ]<br>[http://www.yamahamusic.co.jp/goods.php?id=454&a_id=97 LIVE!!POPCON HISTORY Ⅵ つま恋本選会]</ref><ref name="showa-record">[https://conex-eco.co.jp/showa-record/109523/ 【わが昭和歌謡はドーナツ盤】16歳で作った小坂明子の「あなた」は、発売48周年で全世界へ配信。半世紀を経ても親しまれるスタンダードナンバー]</ref>。なお、「女性シンガーソングライター」の原型は、1967年に[[小薗江圭子]]の詞に自分で曲をつけた「[[この広い野原いっぱい]]」でデビューした[[森山良子]]という見方もあるが、森山は職業作詞家・作曲家の作品や[[洋楽]]の[[カバー曲]]を歌うことが多く1970年代半ばまで"歌謡曲歌手"というイメージがついていた<ref name="W100"/><ref>[[富澤一誠]]『青春のバイブル』、[[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコー・ミュージック]]、p160<br>[[和田誠 (評論家)|和田誠]]『和田誠インタビュー その三』、[[話の特集]]、1989年、p122-142</ref>。 今日に繋がる「女性シンガーソングライター」の草分けは、1972年にアルバムデビューした金延幸子、五輪真弓、りりぃあたりで、「女性シンガーソングライター」による最初の大ヒット曲は[[ヤマハポピュラーソングコンテスト|ヤマハポプコン]]出身の小坂明子が1973年12月に出した「[[あなた (小坂明子の曲)|あなた]]」である<ref name="W100"/><ref name="showa-record"/>。シンガー・ソングライターの台頭は、職業作詞家・作曲家の安定を揺るがす存在になっていく<ref name="安井"/><ref>[http://book.asahi.com/booknews/interview/2012111500007.html なかにし礼 時には娼婦のように 世間の常識にノン - インタビュー ]、[http://www.j-wave.co.jp/blog/fmkameda/2013/05/post_150.html 音楽のギモン! こんにちは! 亀田誠治です。「BEHIND THE MELODY ~FM KAMEDA」2013年05月21日 ]</ref>。また歌謡曲歌手にも大きな影響を与えた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/11/02/kiji/K20121102004464460.html 由紀さおり 紫綬褒章に「長く歌ってきたご褒美」 - スポニチ Sponichi]</ref>。1970年代も半ばになると、フォークという言葉ではフォローできない音楽がたくさん出てきて、フォークは[[ニューミュージック]]という呼び方に吸収されていった<ref name="読むJ-POP "/><ref>[[週刊朝日]]、1981年1月23日号、p39、[http://jinz-bar.jp/modules/tinyd0/ jinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第1回]</ref>。歌謡曲のフィールドでも[[渡辺真知子]]のように自作曲で[[日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞するような者も出てきた。1980年以降には、シンガーソングライターの影響を受けた職業作詞家・作曲家が出てくるようになった<ref name="松井五郎"/><ref>[http://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_25/inner1.html 「作家で聴く音楽」 及川眠子 - JASRAC]</ref>。現在の音楽界は、シンガーソングライターたちが成し遂げた変革の上に成り立っている<ref name="barks52258361"/><ref name="明治大学"/>。 [[小西良太郎]]は『スタア』1975年1月号の「歌は世につれ世は歌につれ 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考」という記事で<ref name="STAR7501">{{Cite journal |和書 |author = 小西良太郎 |authorlink = 小西良太郎 |title = 歌は世につれ世は歌につれ 歌謡特集(2) 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考』 |journal = スタア |issue = 1975年1月号 |publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] |pages = 227–231頁 }}</ref>、「1974年10月最終週の[[レコード#LP盤|LPレコード]]の売り上げは「1位『[[二色の独楽]]』(井上陽水)、2位『[[かぐや姫LIVE]]』(かぐや姫)、3位『[[氷の世界 (アルバム)|氷の世界]]』(井上陽水)、4位『NSP III』([[NSP (バンド)|NSP]])、5位『[[陽水ライヴ もどり道|陽水ライヴ]]』(井上陽水)、6位『ゴールデン・プライズ第2集』([[カーペンターズ]])、7位『[[JEWEL JULIE 追憶|追憶]]』([[沢田研二]])、8位『オン・ステージ』([[八代亜紀]])、9位『[[ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜|ぼくがつくった愛のうた]]』([[チューリップ (バンド)|チューリップ]])、10位『ライブ3』([[五木ひろし]])と、フォーク勢が上位を独占。[[シングル#シングル・レコード|シングル盤]]でも話題は豊富で、[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]、かぐや姫、[[あのねのね]]、[[なぎら健壱|なぎらけんいち]]、[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]、[[加藤登紀子]]・[[長谷川きよし]]、りりぃ、[[山本コウタロー|山本コータローとウィークエンド]]、NSP、[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]、[[三輪車 (フォークグループ)|三輪車]]、[[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]]、よしだたくろうも健在で大にぎわい。このほとんどが、自作自演である。彼や彼女らは年齢的にも、感性の点でも、聞き手の若者たちと同じか、近いところにいる。それが自分に素直に手作りの歌を作っていくから、ファンの気分にフィットする率が高い。そんな要素がファン不在に近い歌作りに堕した歌謡曲プロデューサーの失点をうまいぐあいに挽回してしまったといえる。[[ダークホース (慣用句)|ダークホース]]が大当たりしたのが1974年一年のヒット曲の三分の一、若年寄り扱いになりかかった中堅どころのヒットが三分の一、残り三分の一がフォーク系という大ざっぱな計算が成り立つのだから、フォークは今や[[流行歌|流行り歌]]世界の一大勢力にのし上がったとことになる。そこから、歌謡化したフォークへの異議が生まれる。このジャンルが芽を吹いたのは[[70年安保]]を控えての岡林信康や高石ともやあたりからだが、昨今のフォークの、精神不在を嘆く声が出るのもムリのない話ではある。しかしここで大事なのは、ファンをつかみはじめた"支流"を排斥することではなく、全員がそれぞれの立場から、フォークの意味を再確認し、よって来るところを踏まえ直すことだろう」などと論じている<ref name="STAR7501"/>。5頁に及ぶこの記事内で、小西は一度も「[[ニューミュージック]]」という言葉を使用していないため、記事を書いたと見られる1974年暮れには音楽関係者の間でも、まだ「ニューミュージック」という言葉は普及していないものと考えられる。 当初は「歌謡曲のアンチテーゼ」としての意味が含まれていた「シンガーソングライター」という言葉だったが、ニューミュージックが、フォーク以上に歌謡曲との区別がつき辛いこともあって、1970年代後半には、歌謡曲側の自作自演歌手も含め、自ら書いた歌を自ら歌う人は[[ジャンル]]にかかわらず全員「シンガーソングライター」と呼ぶようになった<ref>guts、表現技術出版、1973年1月、p25</ref>。 [[所ジョージ]]は1977年のデビュー時から"シンガーソング・コメディアン"と名乗り<ref>[http://r25.yahoo.co.jp/interview/detail/?id=20080104-90000021-r25&page=3&order=1 所ジョージ |web R25]</ref>、1981年の週刊誌は、俳優・[[寺尾聰]]の大ヒットを"大人の味を持ったシンガーソングライター"<ref>[[サンデー毎日]]、1981年6月14日号、p160</ref>、『男道』という自作曲のレコードを出した[[プロ野球選手]]・[[松岡弘]]を"プロ野球界初のシンガーソングライター誕生!"と紹介した<ref name="サンケイ1981122">[[週刊サンケイ]]、1981年1月22日号、p162</ref>。土田明人という本職が小学校の先生がレコードを出した時は"シンガーソングティーチャー登場"と書いている<ref name="サンケイ1981122"/>。またそれまでの「自作自演」という言い方よりも、ちょうど「シンガーソングライター」という「自作自演」そのままの意味を持つ語感のいい言葉が定着したため、単純に「歌を作って歌う人」は全員「シンガー・ソングライター」、遡って、あの人も昔、歌を作って歌っていたから「シンガー・ソングライター」と言い出したものと考えられる。こうした理由もあって現在、前述した人物の多くが、文献やネットで「シンガーソングライター第1号」「シンガーソングライターの草分け」等と紹介されている<ref name="ritsumei"/><ref>[http://store.shopping.yahoo.co.jp/yamano/3199040863.html 大橋節夫/ベスト・オブ・大橋節夫 倖せはここに~オリジナル・ヒット集]<br>[http://www.riaj.or.jp/issue/record/2004/200406.pdf Essay ~レコードと私~]<br>[https://artist.cdjournal.com/a/araki-ichiro/101345 荒木一郎(Araki Ichiro)]<br>[http://you-choru.net/concerts/concert_detail/C000000171/ 美輪明宏 音楽会〈愛〉 - コンサート |Yamaguchi cross STYLE 遊ちょるnet]<br>[https://web.archive.org/web/20130314124036/http://e-days.cc/features/legend/kiyoshihasegawa/ LIVING LEGEND 伝説人 Vol.3 長谷川きよし|WEBマガジン e-days ]<br>[http://www.cpra.jp/web/interview/vol006/ 小室等 INTERVIEWCPRA 実演家著作隣接権センター]<br>[https://www.oricon.co.jp/prof/30849/ オリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう]</ref>。 先に挙げたように「シンガーソングライター」という言葉が使われ始めたのは1971年、1972年以降で、これ以前に活躍した前述の加山雄三や荒木一郎、1960年代後半に現れた高石友也や岡林信康といった人たちは、リアルタイムでは「シンガーソングライター」と呼ばれず、のちにそう呼ばれるようになった<ref name="新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s"/><ref name="200CD フォーク"/>。高石は「フォークシンガーです。と自己紹介すると『シンガーソングライターですよね』と聞き返される。そんな大層なもんじゃないんですけど」と話している<ref>『関口宏の昭和青春グラフィティ』、[[BS-TBS]]、2011年8月30日放送 昭和のフォークソング「フォークソングは僕らの魂の叫びだった」</ref>。高石にとっては「シンガーソングライター」という呼ばれ方には馴染みもなく違和感があるのか、あるいは、商業的に大きな成功を手にした1970年代以降の(一部の)「シンガーソングライター」たちは、自分たち「フォークシンガー」とは違うという意識があったのかもしれない。[[なぎら健壱]]は「(1970年代後半に出現したシンガーソングライター)と自分のやっていたフォークとの結びつきは感じられない。拓郎さんやかぐや姫には繋がりがあったかもしれないけど、それがすごくメジャーになって、商業資本と結びついて、すごく人気が出て、大きな音楽になってゆくにつれ、フォークだった部分は無くなっていったと思います。生ギターが入っていたり、曲調や歌の内容がそうだったとしても、精神そのものがフォークじゃなくなっていったと思う」などと述べている<ref>{{Cite book|和書|title=FOLK LIFE倶楽部 vol.1―大人のための“フォーク”マガジン|series=OAK MOOK 183|chapter=フォーク名盤100選|year2008|publisher=[[オークラ出版]]|page=75|isbn=978-4-7755-1086-5}}</ref>。 現在、「シンガーソングライター」を「歌手を兼ねる作曲家」と答える人はいないと思われるが、かつては違った。[[毎日新聞社]]が1978年に出した『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』という本に「ちかごろは、シンガー・ソング・ライターなどといって、自作自演する者が増えたが、戦前は大変珍しかった。とくに作曲家が、歌手を兼ねて、どちらもヒットする、などということは、まったくマレなことだった」という記述があり、ここで[[林伊佐緒]]を紹介している<ref>『別冊一億人の昭和史 昭和の流行歌手』 [[毎日新聞社]]、1978年、p86</ref>。林は作詞はしない作曲家兼歌手であり「シンガー・ソング・ライター」と呼ばれる以前は「自作自演歌手」は「作詞+作曲もする歌手」はもちろん「作曲だけする歌手」の両方を指していたものと考えられる。そして現在でも「作詞と作曲のうち、作曲のみしかしていない場合でも、一般的にはシンガーソングライターというのに対し、作詞のみしかしていない場合には、シンガーソングライターとは言わない」ことが多い<ref name="jcast141114" />。 「[[ヤマハポピュラーソングコンテスト]]」でプロデビューしたアーティストが所属する[[ヤマハ音楽振興会]](現[[ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス]])は<ref name="噂の眞相8008">{{Cite journal |和書 |author = 藤原行二 |title = 岐路に立つ大手芸能プロダクションの内憂外患 |journal = [[噂の眞相]] |issue = 1980年8月号 |publisher = 噂の眞相 |pages = 38–44頁 }}</ref>、[[ゴダイゴ]]らが所属するABCプロモーションと共に、1979年の所属アーティスト・歌手のレコード・テープの[[売上高|総売上げ]]が1969年創立以来"タレント帝国"の名をほしいままにしてきた[[渡辺プロダクション]](ナベプロ)を抜いて1位・2位となった<ref name="噂の眞相8008"/>。これは[[芸能界]]支配構造の再編成を象徴する出来事だった<ref name="噂の眞相8008"/>。膨大な[[利権]]構造を独占する大手[[芸能事務所|芸能プロ]]を中心とする芸能共同体に反旗を翻した最も有名な事件が、先述した1975年のシンガーソングライター4人による[[フォーライフ・レコード]]の設立であるが<ref name="噂の眞相8008"/>、これをきっかけとして[[芸能界]]の利権の仕組みを知った多くのシンガーソングライターが以降、個人事務所などを設立した<ref name="噂の眞相8008"/>。[[世良公則&ツイスト]](のちツイスト)は最初はヤマハに所属していたが、1979年9月にヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を立ち上げた<ref name="噂の眞相8008"/>。出演契約の業務はヤマハに委嘱したものの[[原盤権]]や[[著作権]]を自分たちで握り、人気自体は下降していったが、利益は莫大になったといわれる<ref name="噂の眞相8008"/>。シンガーソングライターは上手くやれば、100%[[利益]]を独占することも可能といわれる<ref name="噂の眞相8008"/>。当時公表されていた[[高額納税者公示制度|長者番付]]の歌手部門で、ニューミュージック系のシンガーソングライターが上位を独占したのはこのような事情があった<ref name="噂の眞相8008"/>。 === 1980年代〜 === 「シンガーソングライター」という言葉が 理由として、その答えのような[[阿久悠]]の言及が1985年の[[和田誠]]との共著の中にある。ここで阿久は「[[グループ・サウンズ|GS]]が流行ってきてギターが普及して、素人が曲をつくるようになりましたね。で、それからずーっとフォークの段階がきて、5年ぐらい前までは、やっぱり曲のほうが専門的で詞は誰でも書けるという意識があったわけです。字が書けますから。何となく詞らしきものはできる。その代わり、曲は専門的な知識とか才能が必要だって思い込みがあったんですけどね。近頃すっかり逆になってきちゃってね、曲の方が簡単になってきてるんですね。で、詞を書ける人がいないんですよ」と発言している<ref>[[阿久悠]]・[[和田誠]]『A面B面』[[文藝春秋]]、1985年 → [[筑摩書房]]、1999年、p260</ref>。 シンガーソングライターが主流となった1980年代以降<ref>『A面B面』、p281</ref>はあまり見られなくなったが、かつてはラジオや歌謡誌などで一般(素人)から募集した詞に対して作曲家が曲を付けてプロの歌手が歌うということがよくあった。逆に素人から曲を募集して作詞家が詞を付けるということはなかった。こうした影響もあって、かつては作詞家は作曲家より下、「作詞だけする歌手」をシンガーソングライターとは呼べない、という感覚があったものと考えられる<ref>[http://tulip.gr.jp/ennkyuu/daisuki.html さいたさいたちゅーりっぷの花 - 日本チューリップ協会公式サイト ]</ref>。 しかし2000年代頃からはむしろ作詞家が注目される機会が増えている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007030517.html 川内康範氏、独占手記「森は歌の心がわからない」 - ZAKZAK]</ref><ref>[http://www.moto.co.jp/songwriters/ 佐野元春のザ・ソングライターズ - Moto's Web Server]</ref>。と言うよりも、作曲家、歌い手の功績を無視して、作詞家が時代を創ったかのような論調が増えている。また古くから存在する「作曲だけする歌手」に比べ「作詞だけする歌手」の出現は比較的最近のことで、まだ評価が定まっていないとも考えられる。この「作詞だけする歌手」は、[[シングル|シングルレベル]]では[[森高千里]]あたりが最初と思われ、森高の歌詞を当時のマスメディアがユニーク等と好意的に紹介したことも「作詞だけする女性歌手」のその後の急増に繋がったかも知れない。金澤寿和は「重要なのは、自己表現の手段として有効に機能しているか否か。シンガーなのだから、曲を書けるのが基本。森高千里のように、作詞はするが作曲は他人任せというケースは、広義ではシンガーソングライターに当てはまるものの、敢えてそう呼びたくない。つまり、音や旋律で自分を表現する欲求を持つのが、シンガーソングライターの第一歩。更に自分自身の言葉を持っていれば、それが理想的なシンガーソングライターということになる」などと論じている<ref name="W100"/>。2013年『Disc Collection 日本の女性シンガー・ソングライター』という書は、「自身で作曲(作詞だけではなく)をしているシンガー」のみを掲載しており、「作詞だけするシンガー」をシンガー・ソングライターと認めていない<ref name="女性SSW"/>。 1980年前後に"軟弱""[[ネクラ]]"などと世間から叩かれてイメージを悪くした「[[ニューミュージック]]」という言葉に比べると<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/news/2616/6699/ |date=2014-01-09 |title=さだまさし 歌手生活40年…しんどかった「さだは暗い」批判【さだまさし】 |website=[[女性自身]] |publisher=[[光文社]] |accessdate=2023年5月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119050123/http://jisin.jp/news/2616/6699/ |archivedate=2014年1年19日 }}{{Cite journal |和書 |author = [[山下裕二]] |title = 歌謡曲の逆襲 音楽はオモシロクなくてはいけないのだ |journal = [[月刊音楽の世界|音楽の世界]] |issue = 1983年7、8月号 |publisher = 日本音楽舞踊会議 |pages = 6–9頁 }}[https://allabout.co.jp/gm/gc/452480/ タモリ・小田和正「歴史的和解」までの長い道のり]{{Cite book |和書 |author = 片田直久 |year = 2014 |title = タモリ伝 |publisher = [[コアマガジン]] |ISBN = 9784864366045 |pages = 176-178 }}</ref>、「シンガーソングライター」という言葉は好イメージが持続した<ref name="サンデー毎日800817">{{Cite journal |和書 |author = |title = 本音で勝負する新人漫才ブーム |journal = [[サンデー毎日]] |issue = 1980年8月17日号 |publisher = [[毎日新聞社]] |pages = 147頁 }}</ref>。1980年に突如、[[漫才ブーム]]が勃興したが<ref>{{Cite web|和書|author=河瀬大作|title=1980年「MANZAI」に賭けた男たち 鬱屈した野心の化学反応が、大革命を起こした|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/15/070300016/043000019/|website=[[日経ビジネス]]|date=2016-05-03|publisher=[[日経BP]]|accessdate=2023年5月30日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190202212333/https://business.nikkei.com/atcl/report/15/070300016/043000019/|archivedate=2019年2月2日}}{{Cite web|和書||date = 2022-01-08 |title = 漫才ブーム、モスクワ五輪、そして1億円拾得事件…1980年(昭和55年)特集 |url = https://www.1242.com/kininaru/kininaru_blog/blog20220108-267938/ |accessdate = 2023年5月30日 |website = [[高嶋ひでたけ・森田耕次のキニナル・サタデー]] |publisher = [[ニッポン放送]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20220123145949/https://www.1242.com/kininaru/kininaru_blog/blog20220108-267938/ |archivedate = 2022年1月23日 }}</ref>、人気を集めた当時の(若手と表現された)[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]]・[[ツービート]]・[[島田紳助・松本竜介|紳助・竜介]]たちは、それまでの[[漫才|漫才師]]が台本作家が書いたネタを演じていたのに比べて<ref name="サンデー毎日800817"/><ref name="W現代810122">{{cite journal|和書|title=《総力テーマワイド特集》 紳助・竜介ほか『ザ・マンザイ』のTVではわからない全内幕|journal=[[週刊現代]]|issue = 1981年1月22日号|publisher=[[講談社]]|pages = 178-184頁}}</ref><ref name="brutus161101">{{Cite web|和書|date=2016-11-01|url=https://brutus.jp/article/835/33947|title=エンタツ・アチャコから知ってます、僕は。糸井重里 人生を変えた、 あの漫才。|website=[[BRUTUS]]|publisher=[[マガジンハウス]]|accessdate=2023年5月30日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200313154912/https://brutus.jp/article/835/33947|archivedate=2020年3月13}}</ref>、自分たちでネタを書いた<ref name="サンデー毎日800817"/><ref name="W現代810122"/><ref name="brutus161101"/>。これを当時のマスメディアが「彼らはそれぞれが自分たちで考えたネタで勝負。いわばシンガーソング・ライター。彼らの本音をぶつけたネタがヤングの共鳴を受けている」と、「シンガーソング・ライター」という言葉を自作自演の良い例えとして使用している<ref name="サンデー毎日800817"/>。 1970年代に「シンガーソングライター」という言葉は定着したものの、1980年代以降に言われ始めた「[[J-POP]]」という[[カテゴリー]]では、自作自演であることが強調されなくなった時期もあった。[[ビーイング]]や[[小室哲哉]]、[[つんく♂]]等のプロデューサー主導による楽曲や、[[バンドブーム]]以降の[[ロックバンド]]や[[日本のヒップホップ|ヒップホップ]]グループによるグループ単位での音楽活動が目立ったため、ソロシンガーのイメージがある「シンガーソングライター」とはあまり呼ばれなかったのかも知れない<ref name="W100"/>。しかし現在のミュージシャンは大抵曲を自作しており、むしろ自分で曲を作らない人が少数派になっている<ref name="ロック・クロニクル・ジャパンVol.2"/><ref name="大貫妙子"/>。[[宇崎竜童]]は「ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。『歌謡曲』というものは一回滅びたのかなと思います」と述べている<ref>[http://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_23/inner1.html 「作家で聴く音楽」 宇崎竜童]</ref>。 <!-- これは何ですか? 1990年には、ミリオン楽曲3曲(提供曲含み)--> === 2000年代〜 === 「シンガーソングライター」という表現が使われ始めて長年が経過したが、この表現は再び誇りを持って非常に多く使われるようになった。2000年代頃より[[テレビ朝日]]『[[ミュージックステーション]]』は、自作自演歌手をシンガーソングライターと紹介することが多く、[[オリコン]]がCDの売り上げ1位記録を「女性シンガー・ソングライターとして○○以来の快挙」等と報道したり<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/76988/full/ YUI、女性シンガー・ソングライター2人目の5作連続首位 宇多田以来6年ぶりの快挙]<br>[https://www.oricon.co.jp/news/53545/full/ 加藤ミリヤが宇多田ヒカル以来となる快挙達成 ニュース-ORICON STYLE]</ref>、[[専門学校]]や音楽スクールに「シンガーソングライター科」等が置かれたりするのは<ref>[http://www.kma.co.jp/html/lesson/singersongwriter.html 音楽学校 東京の音楽学校 英国音楽大学と提携 音楽専門校国立音楽院]<br>[http://www.macc-ms.jp/course21.html 音楽学校:マックミュージックスクール |シンガーソングライター科]<br>[http://www.yamahamusic.jp/lesson/tokyo/contents/etc/2829 ヤマハ渋谷店3F 音楽教室 シンガーソングライターコース |その他 ... ]</ref>、「シンガーソングライター」という言葉自体が定着しているといえる<ref>[https://www.j-cast.com/2021/11/29425921.html?p=all 鬼束ちひろ容疑者は「自称シンガー・ソングライター」? 朝日新聞が記事修正]</ref>。また、[[モーニング娘。]]の[[市井紗耶香]]が「シンガーソングライターになりたい」と、モーニング娘。を卒業したり<ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20090901/enn0909011507008-n2.htm 市井紗耶香5年ぶり子連れ復帰“モー烈”反響と不安 - 芸能 - ZAKZAK]</ref>、[[中村あゆみ]]のシンガーソングライターの名曲カバーアルバムの発売<ref>[https://jisin.jp/entertainment/interview/1600363/ 中村あゆみ 日本を代表する男性シンガーソングライターの名曲をカバー ]</ref>等は、シンガーソングライターの先人をリスペクトする事例と言える。[[日本経済新聞]]は、[[ポール・マッカートニー]]を"英シンガー・ソングライター"と紹介している<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO15749240V20C17A4000000/|title=ポールさん武道館公演 2年ぶり、ファン1万人熱狂 |date=2017-04-25|accessdate=2017-10-03|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。また、現在の若いシンガーは、肩書を「シンガーソングライター○○」と称したり、「○歳の時に、シンガーソングライターになろうと決めた」「生涯シンガー・ソングライター」等と話す者も多く<ref>[http://abemao.com/live_schedule/live_syousai.html?id=36682 20100221|LIVE|阿部真央オフィシャルサイト]<br>[http://www.city.yao.osaka.jp/0000003129.html 記念対談(シンガーソングライター 清水翔太さん) |八尾市]<br>[http://www.nhk.or.jp/idenshi/special/sp03/index.html Special -これまでの放送&more- アンジェラ・アキ |こころの遺伝子]<br>[http://www.clearsky.co.jp/kana/profile.html PROFILE - 植村花菜 Official web site]<br>[http://news.jp.myspace.com/NewsArticles/7567.aspx 秋元康のお墨付き! 札幌の女子高生シンガー・ソングライター ]<br>[http://www.asahi.com/business/pressrelease/N2U201007230008.html asahi.com(朝日新聞社):ケータイユーザーが注目するのは、19歳の美少女シンガーソングライター]<br>[http://npn.co.jp/feature/detail/mizutaniyu/ 史上最年少のシンガーソングライター『水谷ゆう』Debut ... - リアルライブ]<br>スポーツニッポン、2011年6月12日29面</ref>、ベテランミュージシャンの中にも肩書を「シンガーソングライター○○」と称する人が増えてきた<ref>[http://www.やもり.com/profile プロフィール |やもり(森山良子と矢野顕子)オフィシャルホームページ]<br>[http://www.radiodays.jp/item/show/200111 ラジオデイズ : 対談・講演 |3 大貫妙子の世界(2)]<br>[https://www.daily.co.jp/gossip/man_in_the_news/2013/06/03/0006023791.shtml シンガー・ソングライター 遠藤賢司/いまこの人/デイリースポーツ online]<br>[http://sadoyama.jp/item/663 佐渡山豊ブログ 沖縄シンガーソングライターといえば ]<br>[http://www.cpra.jp/web/interview/vol009/ 南佳孝INTERVIEWCPRA 実演家著作隣接権センター][http://a-kosaka.com/ 小坂明子公式サイト【MUCAL】]<br>[http://www.odekake.us/index/brilliant_people19.htm 嘉門 達夫 TATSUO KAMON]<br>[http://gomkun.jugem.jp/?pid=1 関口誠人 超個人的日記]<br>[http://www.mylohas.net/lifestyle/article/09030401/ シンガーソングライター馬場俊英さんインタビュー(前編) |MYLOHAS ]</ref>。[[2022年]]、松任谷由実が[[文化功労者]]に選出されたが、[[文部科学省]]は松任谷の「職名等」に「シンガーソングライター」と書いた<ref>{{Cite web|和書|title = 令和4年度 文化功労者 |website = |date = 2022-11-03 |author = |url = https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2022/attach/1422025_00001.htm |accessdate = 2022-12-15 |publisher = [[文部科学省]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20221104124804/https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2022/attach/1422025_00001.htm |archivedate = 2022-11-04 }}</ref>。国からシンガーソングライターが[[職業]]として認められたと見られる。本項のシンガーソングライターの説明は"ソロ形態"と書かれているが、"職業"と置き換えてもいいのかもしれない。[[歩行者天国|ホコ天]]上がりの元バンドマンでプロデューサーの[[寺岡呼人]]は、こうした傾向を「シンガーソングライター至上主義」と表現し「1970年代の分業制の方が結果的に後生に残るようなものを作ってる気がする」と疑問を呈している<ref>[https://web.archive.org/web/20120117111709/http://yohito.com/uemura/index.html =TOP=ofUEMURA KANA](Internet Archive)</ref>。寺岡は「シンガーソングライターという言葉の持つ意味合いがどんどん変わってきているなと感じる。もともとは『歌謡曲をぶっつぶそう』みたいな形でシンガーソングライターが出てきて、専業の作家やアレンジャーを追い払っていったと思うんです。でも今いろんな人たちと仕事していると、自分で歌う歌詞が直前までできあがっていないみたいなのって本末転倒だな(プロデューサーと最初から共同作業をしようとしている)と思う」などと話している<ref name="natalie201409"/>。 [[ライブハウス]]や[[ストリートミュージシャン|ストリート]]などで活躍している[[アーティスト]]の中にも、[[インディーズ]]事務所に属するしないを問わず、多数のシンガー・ソングライターと自称する若者達もいる。自らの演奏と歌声でメッセージをダイレクトに観客に伝えるというこのムーブメントに関わる個々のアーティストの動機・年齢層は様々で、[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャーデビュー]]を夢見る者、趣味として続けていく者など多岐にわたる。また、この背景にはかつて[[音源]]の制作やその[[音楽配信]]が膨大な[[資本]]と[[組織 (社会科学)|組織]]を必要としたのに対し、[[インターネット]]による様々な技術やサービスによって[[音楽配信]]が個人もしくは小規模の[[レコードレーベル|レーベル]]等のレベルで可能になったことが大きい。これらの事が「次世代のシンガーソングライター」を産み出す要因となりつつある。 なお[[演歌]]業界では、[[21世紀]]に入ってからも[[作曲家]]・大御所歌手への弟子入りなどを経て[[デビュー]]という事実上の[[徒弟|徒弟制]]が残っており、[[吉幾三]]のように自分で作詞作曲できる一部の例外を除き、多くの歌手が[[ベテラン]]になっても師匠や外部から曲を貰えるのを待つしかない状態である。 == 各国のシンガーソングライター == {{main|Category:各国のシンガーソングライター}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[リズム・アンド・ブルース]] * [[ニューミュージック]] * [[ラジオ情報誌]] * [[自作自演]] {{DEFAULTSORT:しんかあそんくらいたあ}} [[Category:シンガーソングライター|*]] [[Category:音楽関連の職業]]
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2,004
4月1日
4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。 運用の都合で先の変化が4月の第1週や4月1日を含む3月の最終週の月曜日に行われることもあり、また会計年度を任意に設定することが可能な民間企業では4月以外を節目にしている場合もある。 日本においては、学齢期が満6歳に達した日の翌日以後における最初の「学年の初め」から始まる。ここでいう「学年の初め」とは4月1日である。 1902年(明治35年)に公布された年齢計算ニ関スル法律により、年齢計算は誕生日前日の午後12時に加齢することになっている。 6年前の4月1日に生まれた子どもは法律上、6歳の誕生日前日の3月31日午後12時をもって6歳となる。したがって、満6歳に達した日(3月31日)の翌日(4月1日)以後の「学年の初め」は、その年の4月1日ということになり、前年生まれの者と同じ学年に組み入れられる早生まれには、4月1日生まれの者も含まれることになる。 つまり「1学年」は4月2日生まれから翌年4月1日生まれの者で構成されることになる(詳しくは、学齢#早生まれ、年齢計算ニ関スル法律#本法の適用、満年齢を参照のこと)。 同様に日本の義務教育は法律上、年度初日時点で6歳以上15歳未満(6歳から14歳まで)となっており、 6年前の4月1日に生まれた人から15年前の4月2日に生まれた人までとなる。 このため、この日に生まれた人は必ず学年の中では最年少になる。 有名なのは、1968年(昭和43年)4月1日生まれで元プロ野球選手の桑田真澄であり、PL学園高等学校在学時代に同学年で1967年(昭和42年)8月18日生まれの清原和博とのKKコンビが話題になった(桑田清原世代、KKドラフト事件を参照)。
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4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。 運用の都合で先の変化が4月の第1週や4月1日を含む3月の最終週の月曜日に行われることもあり、また会計年度を任意に設定することが可能な民間企業では4月以外を節目にしている場合もある。
{{カレンダー 4月}} '''4月1日'''(しがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から91日目([[閏年]]では92日目)にあたり、[[年末]]まであと274日ある。 日本や一部の国では4月1日は[[会計年度]]・[[学校年度]]の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。 運用の都合で先の変化が4月の第1週や4月1日を含む3月の最終週の月曜日に行われることもあり、また会計年度を任意に設定することが可能な民間企業では4月以外を節目にしている場合もある。 == できごと == [[ファイル:ChineseAndJapaneseExhibitsAtThe1867WorldFair.JPG|thumb|220x220px|[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]開催(1867)。画像は日本と中国の出展]] [[ファイル:AKADAMA_sweet_wine_poster.jpg|thumb|180px|[[赤玉スイートワイン]]発売(1907)。画像のポスターは1922年のもの]] [[ファイル:Founding_of_the_Hebrew_University.jpg|thumb|200px|[[ヘブライ大学]]設立(1925)。画像は創立祝祭式典]] [[ファイル:Marines_land_on_Okinawa_shores.jpg|thumb|220x220px|[[第二次世界大戦]]:[[沖縄戦]]、米軍が[[沖縄本島]]上陸(1945)]] [[ファイル:HiroshimaCenotaph_2008_01.JPG|thumb|220x220px|[[広島平和記念公園]]完成(1954)]] [[ファイル:YS11ARIGATOUNIPPONNOTSUBASA.JPG|thumb|220px|戦後初の日本国産旅客機[[YS-11]]初就航 (1965)]] [[ファイル:Apple_I.jpg|thumb|220px|[[Apple|Apple Computer]]設立 (1976)。画像は同年発売の[[Apple I]]]] {{multiple image | footer = [[イラン革命]]により[[イラン|イラン・イスラム共和国]]成立(1979) | caption1 = | image1 = Mass_demonstration.jpg | width1 = 145 | alt1 = イラン革命 | caption2 = | image2 = 1979_Iranian_Revolution.jpg | width2 = 75 | alt2 = イラン革命 }} [[ファイル:Communications-Museum-Tokyo.jpg|thumb|180px|[[日本電信電話公社]]が[[民営化]]し[[日本電信電話|NTT]]発足(1985)]] [[ファイル:JR logo JRgroup.svg|thumb|150px|[[JR]]発足(1987)]] [[ファイル:EXPO_1990.JPG|thumb|220x220px|[[国際花と緑の博覧会]]開幕(1990)]] [[ファイル:Tokyo Metropolitan Government Building No.1 200908.jpg|thumb|200px|新[[東京都庁舎]]開庁(1991)。設計は[[丹下健三]]]] [[ファイル:Weddinginholland.jpg|thumb|220x220px|[[オランダ]]で世界初の[[同性結婚]]法施行(2001)。画像はオランダの結婚式]] [[ファイル:Tokyo Metro logo (full).svg|thumb|200px|[[帝都高速度交通営団]]が民営化し[[東京メトロ]]へ移行(2004)]] [[ファイル:Osaka Metro logo.svg|thumb|200px|[[大阪市営地下鉄]]が民営化し[[Osaka Metro]]へ移行(2018)]] [[ファイル:Yoshihide_Suga_announcing_new_imperial_era_Reiwa_2_(cropped).jpg|thumb|200px|新[[元号]]「[[令和]]」の墨書を掲げる[[菅義偉]]内閣官房長官(2019)]] * [[803年]]([[延暦]]22年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - 征夷大将軍・[[坂上田村麻呂]]に[[志波城]]の築城命令。 * [[1084年]] - [[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世]]の息子[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ]]がハインリヒ4世として[[神聖ローマ皇帝]]に就任した。 * [[1520年]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]艦隊の元船長、[[フアン・デ・カルタヘナ]]らによる反乱。翌日に鎮圧。 * [[1772年]]([[明和]]9年/[[安永 (元号)|安永]]元年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[明和の大火]]。 * [[1810年]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]がオーストリア皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の娘[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリ・ルイーズ]]と再婚。 * [[1853年]] - [[インド]]の[[ムンバイ|ボンベイ]]と郊外を結ぶ[[インド鉄道|鉄道]]が開業。アジア初の鉄道。 * [[1865年]] - [[南北戦争]]: [[ファイブフォークスの戦い]] * [[1867年]] - [[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]開幕。[[日本]]からは[[江戸幕府|幕府]]と薩摩政府([[薩摩藩]])が出展。 * 1867年 - [[シンガポール]]等海峡植民地が[[イギリス]]の[[イギリスの海外領土|直轄植民地]]となる。 * [[1873年]] - 郵便料金が全国均一となる(書状は市内1銭・市外2銭) * [[1889年]] - [[市制]]・[[町村制]]施行。全国で31市が市制施行。 * [[1893年]] - [[碓氷峠]]越えの官設鉄道・[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]](後の[[信越本線]]、現在廃止)が開業。[[高崎駅]] - [[直江津駅]]が全通。 * [[1897年]] - [[伝染病予防法]]公布。 * [[1907年]] - [[樺太庁]]設置。 * 1907年 - [[南満洲鉄道]](満鉄)が営業を開始。 * 1907年 - 寿屋(現・[[サントリーホールディングス]])が赤玉ポートワイン(現・[[赤玉スイートワイン]])を発売。 * [[1912年]] - [[吉本吉兵衛]]・[[吉本せい|せい]]夫婦が寄席小屋「第二文芸館」の経営に参画。[[吉本興業ホールディングス|吉本興業]]創業。 * [[1913年]] - [[北陸本線]]が全通。 * [[1914年]] - 宝塚少女歌劇(現在の[[宝塚歌劇団]])が初公演<ref>{{Cite web|和書|url=https://kageki.hankyu.co.jp/fun/history1914.html |title=プールを改造したパラダイス劇場で、宝塚少女歌劇第一回公演 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[宝塚歌劇団]]}}</ref>。 * [[1918年]] - [[イギリス陸軍航空隊|陸軍航空隊]]と[[イギリス海軍航空隊|海軍航空隊]]を統合して[[イギリス空軍]]が発足。 * 1918年 - 北海道帝国大学(現在の[[北海道大学]])設立。 * [[1921年]] - [[北大阪電気鉄道]](現・[[阪急電鉄]][[阪急京都本線|京都本線]]・[[阪急千里線|千里線]])[[十三駅]] - [[豊津駅 (大阪府)|豊津駅]]間が開業。 * 1920年 - 建設中の[[丹那トンネル]](現[[東海道本線]])で崩落事故。16人が死亡するも同月8日に17人救出<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p343 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。 * [[1924年]] - [[第1回選抜中等学校野球大会]]が開幕。 * [[1925年]] - [[ヘブライ大学]]開校。 * [[1927年]] - 小田原急行鉄道・[[新宿駅]] - [[小田原駅]](現・[[小田急小田原線]])が開業。 * [[1933年]] - [[満洲国]]が非承認国に対して門戸閉鎖。 * [[1937年]] - [[アデン]]が[[イギリス]]の直轄植民地となる。 * [[1938年]] - [[国家総動員法]]公布。 * [[1939年]] - [[フランシスコ・フランコ]]が[[スペイン内戦]]の終結を宣言。 * 1939年 - 十二試艦上戦闘機(のちの[[零式艦上戦闘機]])が初飛行。 * [[1940年]] - 勤労所得の[[源泉徴収]]が始まる。 * [[1941年]] - [[国民学校令]]施行。[[小学校]]を[[国民学校]]に改称。 * [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[日本放送協会]]が米軍向け放送「ゼロ・アワー」を開始。女性アナウンサー[[東京ローズ]]が米軍兵士の間で話題となる。 * 1942年 - 外国人の[[永代借地権]]が撤廃。[[安政]]5年以来続いていた永代貸借権([[地租]]の負担が不要)が解消され、一般的な[[土地所有権]]に変更された<ref>全国で十一万坪、八十五年の禍根一掃(昭和17年3月28日 東京日日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p41 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1943年]] - [[第一銀行]]と[[三井銀行]]が合併して[[帝国銀行]]が発足。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦: 米軍が中立国スイスの[[シャフハウゼン]]を誤爆して40人の死者。([[第二次世界大戦中のスイスへの空襲#シャフハウゼン|第二次世界大戦中のスイスへの空襲]]) * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[沖縄戦]]:米軍が[[沖縄本島]]に上陸。 * 1945年 - [[阿波丸事件]]。 * [[1946年]] - [[アリューシャン地震 (1946年)|アリューシャン地震]]が発生、[[アラスカ]]・[[ハワイ]]を[[津波]]が襲来。初めて「Tsunami」の呼称が国際的に使われる。 * [[1947年]] - [[教育基本法]]・[[学校教育法]]施行。6・3制の新学制を実施。 * [[1948年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の軍政当局が[[西ベルリン]]に入る人や貨物の検問を開始。([[ベルリン封鎖]]) * 1948年 - [[児童福祉法]]全面施行。 * 1948年 - 新制[[高等学校]]が発足。 * [[1949年]] - [[ニューファンドランド島]]が[[カナダ]]の連邦政府に加入。 * 1949年 - [[エール共和国|エール]]が[[イギリス連邦]]を脱退し、[[アイルランド共和国]]成立。 * 1949年 - [[東京証券取引所]]設立。 * [[1951年]] - 沖縄の[[琉球列島米国民政府]]が[[琉球臨時中央政府]]を設立。 * [[1952年]] - [[琉球政府]]が発足。 * 1952年 - [[ラジオ関西|神戸放送(現・ラジオ関西)]]開局。 * [[1953年]] - 保安大学校(現在の[[防衛大学校]])が開校。 * [[1954年]] - [[広島平和記念公園]]完成。 * 1954年 - [[琉球放送|琉球放送ラジオ]]開局。 * [[1955年]] - [[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ]](KRT、後の東京放送→TBSテレビ)開局。 * [[1957年]] - 北海道初の民放テレビ局・[[北海道放送|北海道放送(HBC)テレビ]]が[[札幌市|札幌]]で開局。 * [[1958年]] - [[売春防止法]]の罰則規定を施行。 * [[1959年]] - 東北地方初の民放テレビ局・[[東北放送]]開局。この他、[[NHK福島放送局]]、[[札幌テレビ放送]]、[[北日本放送]]、[[NHK大阪放送局|NHK大阪教育テレビジョン]]、ラジオ中国(現・[[中国放送]])、[[四国放送]]、ラジオ高知(現・[[高知放送]])、ラジオ熊本(現・[[熊本放送]])、ラジオ南日本(現・[[南日本放送]])の9局のテレビ局、ならびに[[和歌山放送]]ラジオ、以上10局が開局。 * [[1960年]] - [[東京スポーツ]]が創刊。 * 1960年 - [[東海ラジオ放送]]が開局。 * 1960年 - アメリカが世界初の[[気象衛星]]「[[タイロス1号]]」を打上げ。 * 1960年 - [[国連安保理]]が[[国際連合安全保障理事会決議134|決議134]]を採択。同年[[3月21日]]に発生した[[シャープビル虐殺事件]]を強く非難。 * [[1962年]] - [[高等専門学校]]が設置される。 * [[1963年]] - ソ連が無人月探査機「[[ルナ4号]]」を打上げ。 * [[1964年]] - 日本の海外渡航が自由化。 * 1964年 - NETテレビ(現在の[[テレビ朝日]])で『[[モーニングショー|木島則夫モーニングショー]]』が放送開始。日本初の[[ワイドショー]]。 * [[1965年]] - 戦後初の日本国産旅客機[[YS-11]]の国内初就航([[東京国際空港|東京]] - [[徳島飛行場|徳島]] - [[高知空港|高知]])。 * 1965年 - [[朝日新聞]]夕刊に[[サトウサンペイ]]の[[4コマ漫画]]『[[フジ三太郎]]』が連載開始([[1979年]]1月に朝刊に移行、[[1991年]][[9月30日]]連載終了)。 * [[1966年]] - [[板橋浄水場]]廃止。 * 1966年 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](NTV)、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]](ytv)などを中心として[[日本ニュースネットワーク]](NNN)発足。加盟19局。 * [[1967年]] - [[アメリカ合衆国運輸省]]が業務開始。 * [[1969年]] - [[極超短波|UHF]]([[アナログテレビ放送|アナログ]])を親局とする[[民間放送|民放]][[テレビ局]]が日本各地に開局。この日開局したのは、[[長野放送]]、[[富山テレビ放送]]、[[石川テレビ放送]]、中京ユー・エッチ・エフテレビ放送(現・[[中京テレビ放送]])、近畿放送(現・[[京都放送]])、[[岡山放送]]<ref group="注">開局時は「テレビ岡山」の愛称を使用していた。</ref>、[[瀬戸内海放送]]、[[福岡放送]]、[[サガテレビ]]、[[テレビ長崎]]、[[テレビ熊本]]、[[鹿児島テレビ放送]]、以上12局。 * [[1976年]] - [[Apple|Apple Computer]]が[[スティーブ・ジョブズ]]と[[スティーブ・ウォズニアック]]により設立される。 * [[1977年]] - 日本教育テレビ(NETテレビ)が「全国朝日放送」に社名変更(愛称・[[テレビ朝日]])。 * [[1979年]] - [[イラン革命]]: [[イラン]]でイスラム共和制を宣言しイラン・イスラム共和国が成立。 * [[1980年]] - 80年代を代表するアイドル歌手として[[松田聖子]]がメジャー・デビュー。 * [[1982年]] - [[五百円硬貨]]発行。 * 1982年 - [[読売新聞]]朝刊に[[植田まさし]]の[[4コマ漫画]]『[[コボちゃん]]』が連載開始(現在も連載継続中)。 * [[1984年]] - [[三陸鉄道]]開業。 * [[1985年]] - [[日本電信電話公社]]が[[民営化]]、NTT([[日本電信電話]])発足。 * 1985年 - [[日本専売公社]]が民営化、[[日本たばこ産業]](JT)発足。 * 1985年 - [[放送大学]]の授業開始。 * 1985年 - 『[[夕やけニャンニャン]]』の放送がスタート。 * [[1986年]] - [[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]施行。 * 1986年 - [[献血|400ml献血と成分献血]]がスタート。 * [[1987年]] - [[日本国有鉄道]](国鉄)が分割民営化、[[JR]]グループ7社が発足<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/67452 |title=国鉄からJR、変わったのは体制だけじゃない? 字をよく見てみると… |access-date=2 Apr 2023 |work=乗りものニュース |date=1 Apr 2017 |publisher=[[メディア・ヴァーグ|mediavague Co., ltd.]]}}</ref>。 * [[1989年]] - 日本で[[消費税]]導入。税率3%。なお、郵便料金も同時に3%分引き上げられた。 * [[1990年]] - 大阪市で[[国際花と緑の博覧会]]開幕。[[9月30日]]まで。 * [[1991年]] - [[東京都庁舎]]が[[千代田区]][[丸の内]]から現在の[[新宿区]][[西新宿]]に移転する。 * 1991年 - 日本初の民間[[衛星放送|衛星テレビ局]]・[[WOWOW]](当時の正式社名・JSB日本衛星放送)本放送開始。有料テレビ放送の先駆け。 * 1991年 - 日本初のストラップ用の穴が開けられた携帯電話「ムーバTZ-804」が発売。 * 1991年 - TXN九州(現・[[TVQ九州放送]])が開局。 * [[1992年]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]勃発。 * [[1995年]] - [[阪神・淡路大震災]]で不通になっていた[[JR神戸線]]が全線復旧。 * [[1996年]] - [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)が開場。 * 1996年 - [[東京三菱銀行]]発足。 * 1996年 - 国内初の商用検索サイト「[[Yahoo! JAPAN]]」がサービスを開始。 * 1996年 - 日本初のインターネット株取引(オンライントレード)を[[大和証券]]が開始。 * 1996年 - 「[[らい予防法]]の廃止に関する法律」が施行。 * [[1997年]] - 日本の消費税率が3%から5%に増税される。 * 1997年 - [[さくらんぼテレビジョン]]、[[高知さんさんテレビ]]開局。 * 1997年 - [[ゲームソフト]]『[[ポケットモンスター (ゲーム)|ポケットモンスター]]』を原作とした[[テレビアニメ]]『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』第1シリーズが[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]で放送開始。 * [[1998年]] - 日本版[[金融ビッグバン]]スタート。 * [[1999年]] - [[カナダ]]で[[ノースウエスト準州]]の一部を分割して[[エスキモー|イヌイット]]の自治準州・[[ヌナブト準州]]を創設。 * [[2000年]] - [[介護保険制度]]・[[成年後見制度]]施行([[高齢化社会]]のための制度)。 * 2000年 - [[愛知国際放送|愛知国際放送(RADIO-i)]]開局。 * [[2001年]] - [[戦争犯罪]]の罪に問われていた[[ユーゴスラビア]]大統領[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]が警察の特殊部隊に投降。 * 2001年 - [[三井住友銀行]]が発足<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smfg.co.jp/chronicle20/company/smbc.html |title=SMBCグループ二十年史 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[三井住友銀行]]}}</ref>。 * 2001年 - 世界で初めて[[オランダ]]が[[同性結婚]]法を施行。 * 2001年 - [[海南島事件]]が発生<ref>{{Cite web |url=https://www.cambridge.org/core/books/abs/constructing-national-security/collision-course-the-2001-hainan-island-ep3-incident/942F152971091092B6B15A381B7696E4 |title=5 - Collision Course: The 2001 Hainan Island EP-3 Incident |access-date=2 Apr 2023 |publisher=CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS |date=5 Sep 2013}}</ref>。 * [[2002年]] - [[みずほ銀行]]、[[みずほコーポレート銀行]]が発足。初日からコンピュータシステムのトラブルが相次ぐ。 * 2002年 - [[配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律|DV防止法]]が全面施行。 * 2002年 - [[学習指導要領]]の見直しが図られ、完全週5日制の[[ゆとり教育]]スタート。 * [[2003年]] - [[郵政事業庁]]が[[日本郵政公社]]に。 * [[2004年]] - 日本航空が[[日本航空インターナショナル]]、[[日本エアシステム]]が[[日本航空ジャパン]]に。 * 2004年 - [[帝都高速度交通営団]]が民営化され、[[東京地下鉄]]株式会社(東京メトロ)に移行する。 * 2004年 - 日本育英会、財団法人日本国際教育協会、財団法人内外学生センター、国際学友会、財団法人関西国際学友会が合併し、[[日本学生支援機構]]設立。 * [[2005年]] - [[個人情報保護法]]全面施行。 * 2005年 - [[ペイオフ (預金保護)|ペイオフ]]全面解禁。 * [[2006年]] - [[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタルテレビ放送]]が始まっている地域の放送区域で、[[ワンセグ]]が本放送開始。 * 2006年 - [[地域団体商標登録]]出願受付開始。 * 2006年 - [[ハイウェイカード]]廃止。 * [[2007年]] - [[学校教育法]]の一部が改正される。 * [[2009年]] - [[教育職員免許状|教員免許]]の更新制度が始まる。 * 2009年 - 東京放送(TBS)が日本で2番目となる[[放送持株会社]]に移行、「東京放送ホールディングス」(略称・TBSHD、現・[[TBSホールディングス]])に商号変更。旧東京放送のテレビ放送免許および放送事業などの現業全般を「株式会社[[TBSテレビ]]」(2000年法人設立)へ承継。 * 2009年 - [[日本通運]]が「ペリカン便」に関わる事業を[[JPエクスプレス]]に譲渡。 * 2009年 - [[アルバニア]]と[[クロアチア]]が[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟。 * [[2010年]] - [[東京証券取引所]]で[[第一生命保険]]株が初上場。 * [[2011年]] - [[大相撲八百長問題]]で[[日本相撲協会]]は八百長に関与したと見られる力士、親方への処分を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG01036_R00C11A4CR8001/ |title=相撲協会、八百長関与23人「追放」 北の湖親方ら降格 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。 * [[2012年]] - [[大韓民国]][[京畿道]][[水原市]]で[[水原バラバラ殺人事件|バラバラ殺人事件]]が発生。 * [[2013年]] - [[中部日本放送]](CBC)がラジオ事業の放送免許を「株式会社[[CBCラジオ]]」へ承継、これに伴い[[CBCテレビ]]の[[コールサイン]]が「JOAR-DTV」から「JOGX-DTV」に変更される。 * [[2014年]] - 日本の消費税率が5%から8%に増税される<ref>{{Cite web|和書|title=消費税8%に 17年ぶり税率上げ、国民負担年間8兆円増 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS3102X_R30C14A3MM8000/ |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=1 Apr 2014}}</ref>。 * 2014年 - [[テレビ朝日]](旧法人)が在京キー局では最後となる放送持株会社に移行し、商号を[[テレビ朝日ホールディングス]]に変更、テレビ放送免許をテレビ朝日(新法人)に承継する。 * 2014年 - 中部日本放送(CBC)が放送持株会社に移行、テレビ放送免許および放送事業などの現業全般を、会社分割により設立された「株式会社CBCテレビ」へ承継。 * [[2015年]] - 同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める「パートナーシップ証明書」を発行するための日本で初めての『[[渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例]]』が、[[渋谷区]]で施行<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASH3Z6RQGH3ZUTIL05G.html |title=渋谷区同性カップル条例が成立 全国初、4月1日施行 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=31 Mar 2015 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150504043830/http://www.asahi.com/articles/ASH3Z6RQGH3ZUTIL05G.html |archive-date=4 May 2015}}</ref>。 * [[2016年]] - [[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律]]が施行。[[障害者差別]]の禁止、[[障害者]]に対して日本国政府や事業者などが[[合理的配慮]]を求められる。 * 2016年 - 日本の[[電力自由化]]が家庭用途まで適用される。10大電力会社([[北海道電力]]・[[東北電力]]・[[東京電力ホールディングス|東京電力]]・[[中部電力]]・[[北陸電力]]・[[関西電力]]・[[中国電力]]・[[四国電力]]・[[九州電力]]・[[沖縄電力]])の電力地域独占販売が崩れ、日本における電力販売自由化が100%に達する。 * 2016年 - [[RKB毎日放送]](旧法人)が放送持株会社に移行、「[[RKB毎日ホールディングス]]」に商号変更。テレビ・ラジオの放送免許および放送事業などの現業全般を会社分割により設立された新法人の「RKB毎日放送」へ承継。 * [[2017年]] - [[都市ガス]]の小売全面自由化が家庭用途まで適用される。一般ガス事業者による地域独占販売が崩れることになった。 * 2017年 - [[富士重工業]]が「[[スバル|SUBARU]]」に商号変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/67247 |title=さよなら富士重工業、新社名「SUBARU」へ 社名変更にともなう影響は限定的? |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[メディア・ヴァーグ|mediavague Co., ltd.]] |date=31 Mar 2017 |work=乗りものニュース}}</ref>。 * 2017年 - [[毎日放送]](MBS)が、複数の放送局を傘下に置く放送持株会社「[[MBSメディアホールディングス]]」に移行、商号を変更した。テレビ・[[MBSラジオ|ラジオ]]の放送免許および放送事業などの現業全般は、会社分割により設立された新法人の「毎日放送」(2代目)へ承継された。 * [[2018年]] - [[大阪市交通局]]が民営化され、[[大阪市営地下鉄|市営地下鉄]]事業は[[大阪市高速電気軌道]]株式会社(Osaka Metro)に、[[大阪市営バス|市営バス]]事業は[[大阪シティバス]]株式会社に移行する<ref>{{Cite web|和書|title=平成30年4月1日に、大阪市交通局は民営化しました。 |url=https://www.city.osaka.lg.jp/toshikotsu/page/0000432367.html |website= |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[大阪市]] |date=3 Sep 2018}}</ref>。 * [[2019年]] - 「[[元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)]]」が公布され、[[平成]]に代わる新しい[[元号一覧 (日本)|元号]]が「[[令和]]」であることが[[菅義偉]][[内閣官房長官]]によって発表される<ref>{{Cite web|和書|date=1 Apr 2019 |url=https://japanese.joins.com/article/895/251895.html |title=日本の新元号「令和」に決定…国民、新時代に期待感 |publisher=[[中央日報]] |accessdate=2 Apr 2023}}</ref>。 * 2019年 - 三井生命保険株式会社が[[大樹生命保険|大樹生命保険株式会社]]に社名変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.taiju-life.co.jp/corporate/news/pdf/20190401_8.pdf |title=「大樹生命 第 46回苗木プレゼント」のお知らせ |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[大樹生命]] |format=[[PDF]] |date=1 Apr 2019}}</ref>。 * [[2020年]] - 日本で[[健康増進法]]が大きく改正され、喫煙のルールがより一層厳しくなる<ref>{{Cite web|和書|title=禁煙法施行、なお世界と差 - 日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57505710R00C20A4EAC000/ |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=3 Apr 2020}}</ref>。 * [[2022年]] - [[民法 (日本)|民法]]の定める[[成年]]年齢が20歳から18歳に引き下げられる。2002年4月2日から2004年4月1日に生まれた人は、この日をもって[[成人]]となる<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201808/2.html |title=18歳から“大人”に! 成年年齢引下げで変わること、変わらないこと。 |accessdate=2 Apr 2023 |publisher=政府広報オンライン |date=23 Dec 2022}}</ref>。 * 2022年 - [[少年法]]が改正され、18、19歳([[特定少年]])が「[[死刑]]、[[無期懲役|無期]]または1年以上の[[懲役]]・[[禁錮]]の罪」を犯した場合、[[家庭裁判所]]から[[逆送]]後[[起訴]]された段階で[[実名報道|実名]]や[[顔写真]]などの報道が可能になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE289XL0Y2A320C2000000/ |title=18、19歳の実名報道可能に 改正少年法きょう施行 |accessdate=2 Apr 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=1 Apr 2022}}</ref>。 * [[2024年]] - [[2024年問題]]: 働き方改革により、残業時間の厳格化がスタート。(予定) === 日本の自治体改編 === {{警告|日本の自治体数は2023年1月時点で1788あり、その改編を全て記載するには多すぎるため、ページの軽量化を兼ねて削除しました。}} == 誕生日 == === 人物 === [[ファイル:Antoine_Fran%C3%A7ois_Pr%C3%A9vost.jpg|thumb|upright|小説『[[マノン・レスコー]]』(1731)の作者[[アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ|アベ・プレヴォ]](1697-1763)誕生]] [[ファイル:%D0%9F%D0%BE%D1%80%D1%82%D1%80%D0%B5%D1%82_%D0%93%D0%BE%D0%B3%D0%BE%D0%BB%D1%8F.jpg|thumb|upright|小説家[[ニコライ・ゴーゴリ]](1809-1852)誕生]] [[ファイル:Bismarck1836.jpg|thumb|upright|[[ドイツ帝国]]初代[[ドイツ国首相|帝国宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク]](1815-1898)誕生。画像は21歳の若きビスマルク]] [[ファイル:Prianishnikov 1812.jpg|thumb|328px|[[移動派]]の画家[[イラリオン・プリャニシニコフ]](1840-1894)。画像は『1812年』(1874)]] [[ファイル:Ferruccio Busoni, ca 1895.jpg|thumb|200px|[[新古典主義音楽]]を提唱した音楽家[[フェルッチョ・ブゾーニ]](1866-1924)]] [[ファイル:Rach10.jpg|thumb|140px|作曲家・ピアニスト、[[セルゲイ・ラフマニノフ]](1873-1943)]] [[ファイル:Rashomon poster 2.jpg|thumb|210px|「世界のミフネ」の異名を取った俳優[[三船敏郎]](1920-1997)。画像は『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950)]] [[ファイル:Anne_McCaffrey_1.jpg|thumb|100px|[[サイエンス・フィクション|SF]]作家[[アン・マキャフリイ]](1926-2011)。代表作『{{仮リンク|パーンの竜騎士|en|Dragonriders of Pern}}』]] [[ファイル:Edo-Tokyo_Museum.jpg|thumb|220px|建築家[[菊竹清訓]](1928-2011)。画像は[[東京都江戸東京博物館]]]] * [[1220年]]([[承久]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[後嵯峨天皇]]、第88代[[天皇]](+ [[1272年]]) * [[1578年]] - [[ウイリアム・ハーベー]]、[[医学者]](+ [[1657年]]) * [[1647年]] - [[ジョン・ウィルモット (第2代ロチェスター伯)|ジョン・ウィルモット]]<ref>{{Cite web |title=John Wilmot, 2nd earl of Rochester {{!}} English poet |url=https://www.britannica.com/biography/John-Wilmot-2nd-earl-of-Rochester |website=Britannica |access-date=2 Apr 2023}}</ref>、[[詩人]](+ [[1680年]]) * [[1697年]] - [[アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ]]、[[小説家]](+ [[1763年]]) * [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[小笠原長興]]、初代[[安志藩|安志藩主]](+ [[1786年]]) * [[1753年]] - [[ジョゼフ・ド・メーストル]]、[[思想家]](+ [[1821年]]) * [[1755年]] - [[ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン]]、政治家、法律家、著者(+ [[1826年]]) * [[1776年]] - [[ソフィ・ジェルマン]]、[[数学者]](+ [[1831年]]) * [[1809年]]([[ユリウス暦]]3月20日) - [[ニコライ・ゴーゴリ]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1852年]]) * [[1815年]] - [[オットー・フォン・ビスマルク]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]首相、[[ドイツ帝国]]初代宰相(+ [[1898年]]) * [[1840年]] - [[イラリオン・プリャニシニコフ]]、[[画家]](+ [[1894年]]) * [[1842年]] - [[エドムント・ノイペルト]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1888年]]) * [[1847年]]([[弘化]]4年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[北白川宮能久親王]]、[[皇族]]、[[陸軍軍人]](+ [[1895年]]) * [[1848年]]([[嘉永]]元年[[2月28日 (旧暦) |2月28日]]) - [[堀田正養]]、第9代[[近江宮川藩|宮川藩主]]・[[子爵]](+ [[1911年]]) * [[1855年]]([[安政]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[大井玄洞]]、[[薬学|薬学者]](+ [[1930年]]) * [[1861年]]([[文久]]元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[加藤友三郎]]、第21代[[内閣総理大臣]](+ [[1923年]]) * [[1865年]] - [[リヒャルト・ジグモンディ]]、[[化学者]](+ [[1929年]]) * [[1866年]] - [[フェルッチョ・ブゾーニ]]、作曲家、ピアニスト、[[指揮者]](+ [[1924年]]) * [[1868年]] - [[エドモン・ロスタン]]、[[劇作家]](+ [[1918年]]) * [[1873年]]([[ユリウス暦]]3月20日) - [[セルゲイ・ラフマニノフ]]、作曲家、ピアニスト(+ [[1943年]]) * [[1878年]] - [[カール・シュテルンハイム]]、[[作家]](+ [[1942年]]) * [[1883年]] - [[ロン・チェイニー]]、[[俳優]](+ [[1930年]]) * [[1885年]] - [[ウォーレス・ビアリー]]、俳優(+ [[1949年]]) * [[1887年]] - [[レナード・ブルームフィールド]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1949年]]) * [[1889年]] - [[木村庄之助 (21代)]]、[[大相撲]][[立行司]](+ [[1970年]]) * [[1892年]] - [[大ノ里萬助]]、大相撲[[力士]](+ [[1938年]]) * [[1893年]] - [[丹羽保次郎]]、[[電気工学|電気工学者]](+ [[1975年]]) * [[1897年]] - [[我妻栄]]、[[法学者]](+ [[1973年]]) * 1897年 - [[ニタ・ナルディ]]、[[俳優|女優]](+ [[1961年]]) * [[1898年]] - [[小野アンナ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1979年]]) * [[1902年]] - [[福田一]]、[[政治家]](+ [[1997年]]) * [[1903年]] - [[石原幹市郎]]、政治家(+ [[1989年]]) * 1903年 - [[村山リウ]]、[[評論家]](+ [[1994年]]) * 1903年 - [[ベルトラメリ能子]]、[[声楽家]]、[[ソプラノ歌手]](+ [[1973年]]) * [[1904年]] - [[竹中郁]]、[[詩人]](+ [[1982年]]) * 1904年 - [[長崎抜天]]、[[漫画家]](+ [[1981年]]) * [[1907年]] - [[犬養孝]]、[[万葉学者]](+ [[1998年]]) * [[1908年]] - [[アブラハム・マズロー]]、[[心理学者]](+ [[1970年]]) * [[1909年]] - 森熊猛、[[漫画家]](+ [[2004年]]) * [[1909年]] - [[安井琢磨]]、[[経済学者]](+ [[1995年]]) * [[1910年]] - [[小川正太郎]]、[[野球選手]](+ [[1980年]]) * [[1912年]] - [[長谷川峻]]、政治家(+ [[1992年]]) * 1912年 - [[前川八郎]]、元[[プロ野球選手]]、指導者(+ [[2010年]]) * [[1914年]] - [[山茶花究]]、俳優(+ [[1971年]]) * [[1915年]] - [[波平暁男]]、[[歌手]](+ [[1983年]]) * 1915年 - [[直井潔]]、小説家(+ [[1997年]]) * 1915年 - [[鈴木鶴雄]]、プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1917年]] - [[内海倫]]、[[官僚]](+ [[2012年]]) * [[1919年]] - [[ホルスト=ギュンター・フォン・ファッソング]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1945年]]) * 1919年 - [[ジョセフ・マレー]]、[[医学|医学者]](+ [[2012年]]) * [[1920年]] - [[三船敏郎]]、映画俳優(+ [[1997年]]) * [[1921年]] - [[滝平二郎]]、[[切り絵]][[画家]]、[[版画家]](+ [[2009年]]) * [[1922年]] - [[元良誠三]]、[[船舶工学|船舶工学者]] (+ [[2020年]]) * 1922年 - [[土田國保]]、[[日本の警察官|警察官僚]](+ [[1999年]]) * 1922年 - [[アラン・パリス]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[1990年]]) * [[1924年]] - [[益子かつみ]]、漫画家(+ [[1971年]]) * [[1925年]] - [[石田一雄]]、[[阪神電気鉄道]]常務取締役(+ [[1985年]]) * [[1926年]] - [[升味準之輔]]、[[政治学者]](+ [[2010年]]) * 1926年 - [[アン・マキャフリイ]]、[[SF作家]]、[[ファンタジー作家]](+ [[2011年]]) * [[1927年]] - [[エイモス・ミルバーン]]、[[歌手]]、ピアニスト(+ 1980年) * 1927年 - [[ジャック・マイヨール]]、フリー[[潜水士|ダイバー]](+ [[2001年]]) * [[1928年]] - [[古在由秀]]、[[天文学者]](+ [[2018年]]) * 1928年 - [[菊竹清訓]]、[[建築家]](+ [[2011年]]) * 1928年 - [[塩沢とき]]、女優(+ [[2007年]]) * [[1929年]] - [[ミラン・クンデラ]]、[[小説家]](+ 2023年) * [[1930年]] - [[木村尚三郎]]、[[西洋史]]学者(+ [[2006年]]) * 1930年 - [[武敬子]]、[[テレビプロデューサー]] * [[1931年]] - [[吉田直哉]]、[[演出家]](+ [[2008年]]) * [[1932年]] - [[デビー・レイノルズ]]、女優、歌手(+ [[2016年]]) * 1932年 - [[古川智映子]]、[[作家]] * 1932年 - [[大戸雄記]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2018年]]) * [[1933年]] - [[石原藤夫]]、SF作家 * 1933年 - [[クロード・コーエン=タヌージ]]、[[物理学者]] * 1933年 - [[ダン・フレイヴィン]]、[[ミニマリズム]]芸術家(+ [[1996年]]) * [[1934年]] - [[坂口力]]、[[政治家]] * 1934年 - [[後藤修]]、元プロ野球選手(+ [[2019年]]) * [[1936年]] - [[若松孝二]]、[[映画監督]](+ [[2012年]]) * [[1937年]] - [[瓦力]]、政治家(+ [[2013年]]) * 1937年 - [[会田豊彦]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/03/23/kiji/K20120323002889470.html |title=元中日選手 会田豊彦さん死去、74歳 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=23 Mar 2012 |accessdate=2 Apr 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>) * [[1938年]] - [[近藤昭仁]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]](+ 2019年) * 1938年 - [[青木昌彦]]、経済学者(+ [[2015年]]) * [[1939年]] - [[アリ・マッグロー]]、女優 * 1939年 - [[フィル・ニークロ]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]]) * [[1940年]] - [[ワンガリ・マータイ]]、[[環境保護]]活動家(+ [[2011年]]) * [[1941年]] - [[伊藤エミ]]、[[歌手]]([[ザ・ピーナッツ]])(+ [[2012年]]) * 1941年 - [[伊藤ユミ]]、歌手(ザ・ピーナッツ)(+ [[2016年]]) * 1941年 - [[阿部豪一]]、[[洋画家]] * 1941年 - [[浜田輝男]]、[[実業家]]、[[AIRDO]]創業者(+ [[2000年]]) * [[1942年]] - [[サミュエル・R・ディレイニー]]、SF作家 * [[1943年]] - [[マリオ・ボッタ]]、建築家 * [[1944年]] - [[倉石功]]、[[俳優]] * 1944年 - [[佐野嘉幸]]、元プロ野球選手 * 1944年 - [[石山修武]]、建築家 * 1944年 - [[ウラジミール・クライネフ]]、ピアニスト、音楽教師(+ [[2011年]]) * 1944年 - [[矢野悦子]]、[[スタイリスト]] * [[1946年]] - [[アリゴ・サッキ]]、[[サッカー]]指導者 * [[1948年]] - [[加藤典洋]]、[[文芸評論家]](+ [[2019年]]) * 1948年 - [[ジミー・クリフ]]、[[レゲエ]][[ミュージシャン]] * [[1949年]] - [[星田良子]]、TVドラマディレクター * [[1951年]] - [[小川誠子]]、[[女流棋士 (囲碁)|女流囲碁棋士]](+[[2019年]]) * [[1952年]] - [[ベルナール・スティグレール]]、[[哲学者]](+ [[2020年]]) * 1952年 - [[アネット・オトゥール]]、女優 * [[1953年]] - [[バリー・ソネンフェルド]]、[[映画監督]] * 1953年 - [[アルベルト・ザッケローニ]]、サッカー指導者 * 1953年 - [[渡邉芳樹]]、厚生・厚生労働官僚、元在スウェーデン日本国大使館[[特命全権大使]] * [[1954年]] - [[平沢進]]、ミュージシャン * [[1954年]] - [[林裕人]]、[[シェフ|料理人]]、[[パティシエ]] * 1954年 - [[林真理子]]、[[小説家]] * 1954年 - [[ジャンカルロ・アントニョーニ]]、元サッカー選手 * 1954年 - [[ジェフ・ポーカロ]]、ミュージシャン(+ [[1992年]]) * [[1955年]] - [[岡村猛]]、アマチュア野球指導者 * [[1957年]] - [[姚濱]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1958年]] - [[川上弘美]]、小説家 * 1958年 - [[杉浦文夫]]、[[経済評論家]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/bl/news/national/okuyami-detail.aspx?kid=20161026000009 |title=杉浦文夫氏死去/元浜松市立高校長 |publisher=BUSINESS LIVE [[四国新聞]] |date=26 Oct 2016 |accessdate=2 Apr 2023}}</ref>) * [[1959年]] - [[クリスティアン・ティーレマン]]、[[指揮者]] * 1959年 - [[難波奨二]]、政治家 * 1959年 - [[ヘルムート・ドゥカダム]]、サッカー選手 * [[1961年]] - [[高橋克実]]、俳優 * 1961年 - [[羽場裕一]]、俳優 * 1961年 - [[スーザン・ボイル]]、歌手 * [[1967年]] - [[相原勇]]、[[タレント]] * 1967年 - [[鷲尾いさ子]]、女優 * [[1968年]] - [[桑田真澄]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[武田良太]]、政治家 * 1968年 - 立迫文明、漫画家 * 1968年 - [[ユリオカ超特Q]]、[[お笑いタレント]] * [[1969年]] - [[関川浩一]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[伊藤智恵理]]、歌手 * 1971年 - [[中野信治]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]] * [[1972年]] - [[雷門幸福]]、[[落語家]] * [[1973年]] - [[八木沼純子]]、スポーツコメンテーター、プロ[[フィギュアスケート]]選手 * [[1974年]] - [[パオロ・ベッティーニ]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * 1974年 - [[鈴森勘司]]、声優 * [[1975年]] - [[脇阪薫一]]、レーシングドライバー * [[1976年]] - [[クラレンス・セードルフ]]、元サッカー選手、指導者 * 1976年 - [[デヴィッド・オイェロウォ]]、俳優 * [[1977年]] - [[ビクトー・ベウフォート]]、総合格闘家 * [[1978年]] - [[オルガ・シャルテンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1979年]] - [[イヴァノ・バリッチ]]、[[ハンドボール]]選手 * 1979年 - [[ジア・ルイス=スモールウッド]]、陸上競技選手 * [[1980年]] - [[ランディ・オートン]]、[[プロレスラー]] * 1980年 - [[竹内結子]]、女優(+ [[2020年]]) * 1980年 - [[ヤセール・ゴメス]]、野球選手 * 1980年 - [[ヴァレリー・マルコー]]、フィギュアスケート選手 * [[1981年]] - [[KEI (イラストレーター)|KEI]]、漫画家、[[イラストレーター]] * 1981年 - [[細川慎弥]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]] * 1981年 - [[ハナ・スピアリット|ハンナ・スピアリット]]、女優、歌手、[[ファッションモデル]] * [[1982年]] - [[アンドレアス・トルキルドセン]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]] * [[1983年]] - 甲田良美、プロゴルファー * [[1983年]] - [[ジョン・アックスフォード]]、プロ野球選手 * [[1984年]] - [[神田咲実]]、ファッションモデル * 1984年 - [[近藤さや香]]、[[ニュースキャスター|キャスター]]、[[アイドル]](元[[SDN48]]) * [[1986年]] - [[Shunn]]、歌手 * 1986年 - [[中村友梨香]]、元[[陸上競技]]選手 * 1986年 - ひるちゃん、お笑いタレント([[インポッシブル (お笑い)|インポッシブル]]) * [[1987年]] - [[ジョシュ・ショート]]、プロ野球選手 * [[1989年]] - [[浦彩恵子]]、歌手 * 1989年 - [[大野雄大 (音楽アーティスト)|大野雄大]]、歌手、パフォーマー([[Da-iCE]]) * 1989年 - [[杉本有美]]、ファッションモデル * 1989年 - [[クリス・ウィズロウ]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[森本サイダー]]、お笑いタレント * [[1990年]] - [[伊藤恭子]]、バスケットボール選手 * [[1991年]] - [[シーザー・プエロ]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[ドゥバン・サパタ]]、サッカー選手 * 1991年 - [[友永翔太]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[本仮屋リイナ]]、アナウンサー * [[1992年]] - [[瀬戸口祥侑]]、お笑いタレント、俳優 * 1992年 - [[アルノシュト・ドゥボビー]]、野球選手 * [[1993年]] - [[ニコ・シュルツ]]、サッカー選手 * 1993年 - [[岡本圭人]]、タレント([[Hey! Say! JUMP]]) * 1993年 - [[柴田阿弥]]、キャスター、タレント(元[[SKE48]]) * [[1994年]] - [[Emma (モデル)|Emma]]、ファッションモデル * [[1995年]] - 浦谷はるな、元アイドル(元[[WHY@DOLL]]) * [[1997年]] - [[アレックス・パロウ]]、レーシングドライバー * 1997年 - [[丸山礼]]、お笑いタレント * [[1998年]] - [[日高優月]]、アイドル(SKE48) * 1998年 - [[酒井大成]]、俳優 * [[2000年]] - [[岸本ゆめの]]、アイドル([[つばきファクトリー]]) * 2000年 - [[柊くるみ]]、プロレスラー * 生年不明 - [[塚本やよい]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ciao.shogakukan.co.jp/message/tsukamoto/index.html |title=塚本やよい |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[小学館]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20100203162652/http://www.ciao.shogakukan.co.jp/message/tsukamoto/index.html |archive-date=3 Feb 2010 |work=MANGA DATE & MESSAGE}}</ref>、漫画家 * 生年不明 - [[襟川麻衣子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyo.co.jp/profile/print.php?ActorID=13013&ImageFile=1 |title=襟川 麻衣子 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[俳協]]}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[立花十四朗]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hormone.co.jp/peach/voice/tachibana.html |title=立花十四朗/たちばなじゅうしろう |publisher=アトリエピーチ |accessdate=2 Apr 2023}}</ref>、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1764年]] - [[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]、サラブレッド[[三大始祖]]の1頭(+ [[1789年]]) * [[1977年]] - [[モンテプリンス]]、[[競走馬]](+ [[2002年]]) * [[1979年]] - [[ハギノカムイオー]]、競走馬(+ [[2013年]]) * [[1988年]] - [[アースサミット (競走馬)|アースサミット]]、競走馬(+ [[2005年]]) * [[1997年]] - [[アッミラーレ]]、競走馬 * [[1999年]] - [[サクセスビューティ]]、競走馬(+ [[2018年]]) * [[2001年]] - [[ヤマニンシュクル]]、競走馬 * [[2013年]] - [[レインボーライン (競走馬)|レインボーライン]]、競走馬 * [[2017年]] - [[コントレイル (競走馬)|コントレイル]]、競走馬 == 忌日 == [[ファイル:Gisant_alienor_d_aquitaine_et_henri2.jpg|thumb|220px|フランス王妃・イングランド王妃、[[アリエノール・ダキテーヌ]](1122-1204)没]] [[ファイル:Usdollar100front.jpg|thumb|220px|肖像画家[[ジョゼフ・デュプレシ]](1725-1802)没。画像はデュプレシによる[[ベンジャミン・フランクリン|フランクリン]]の肖像]] [[ファイル:Sarg_kaiser_karl_monte.jpg|thumb|upright|[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]](1887-1922)没]] * [[1085年]]([[元豊 (宋)|元豊]]8年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[神宗 (宋)|神宗]]、[[北宋]]の第6代[[皇帝]](* [[1048年]]) * [[1204年]] - [[アリエノール・ダキテーヌ]]、[[アキテーヌ公|アキテーヌ女公]](* [[1122年]]) * [[1528年]] - [[フランシスコ・デ・ペニャローサ]]、[[作曲家]](* [[1470年]]頃) * [[1580年]] - [[アロンソ・ムダーラ]]、作曲家(* [[1510年]]頃) * [[1607年]]([[慶長]]12年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[松平忠吉]]、[[清洲城]]主、[[徳川家康]]の四男(* [[1580年]]) * [[1637年]]([[寛永]]14年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[丹羽長重]]、[[武将|戦国武将]]、[[白河藩|白川藩主]](* [[1571年]]) * [[1802年]] - [[ジョゼフ・デュプレシ]]、[[画家]](* [[1725年]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[伏原宣明]]、[[江戸時代]]の[[公卿]]、[[儒教|儒学者]](* [[1790年]]) * [[1890年]] - [[アレクサンドル・モジャイスキー]]、[[航空]]技術者(* [[1825年]]) * [[1914年]] - [[ルーブ・ワッデル]]、[[プロ野球選手]](* [[1876年]]) * [[1917年]] - [[スコット・ジョプリン]]、[[作曲家]](* [[1868年]]) * [[1922年]] - [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の皇帝(* [[1887年]]) * [[1924年]] - [[スタンリー・ローリー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1876年]]) * [[1930年]] - [[コジマ・ワーグナー]]、作曲家[[リヒャルト・ワーグナー]]の妻(* [[1837年]]) * [[1940年]] - [[ジョン・アトキンソン・ホブソン]]、[[経済学者]](* [[1858年]]) * [[1945年]] - [[高野百介]]、プロ野球選手(* [[1912年]]) * [[1946年]] - [[桑野通子]]、[[俳優|女優]](* [[1915年]]) * [[1947年]] - [[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ王]](* [[1890年]]) * [[1952年]] - [[モルナール・フェレンツ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1878年]]) * [[1958年]] - [[香月弘美]]、[[宝塚歌劇団41期生]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]娘役(* [[1936年]]) * [[1965年]] - [[ヘレナ・ルビンスタイン]]、[[実業家]](* [[1872年]]) * [[1968年]] - [[レフ・ランダウ]]、[[物理学者]](* [[1908年]]) * [[1973年]] - [[横山操]]、画家(* [[1920年]]) * [[1976年]] - [[マックス・エルンスト]]、画家(* [[1891年]]) * [[1980年]] - [[五味康祐]]、[[小説家]](* [[1921年]]) * [[1984年]] - [[マーヴィン・ゲイ]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]歌手(* [[1939年]]) * [[1985年]] - [[林竹二]]、[[教育哲学|教育哲学者]](* [[1906年]]) * [[1987年]] - [[春日照代]]、[[漫才師]](* [[1935年]]) * [[1988年]] - [[鶴田知也]]、小説家(* [[1902年]]) * 1988年 - [[成田理助]]、野球評論家(* [[1909年]]) * [[1991年]] - [[マーサ・グレアム]]、[[舞踏家]]、[[振付師]](* [[1894年]]) * [[1993年]] - [[ソリー・ズッカーマン]]、[[動物学|動物学者]](* [[1904年]]) * [[1994年]] - [[ロベール・ドアノー]]、[[写真家]](* [[1912年]]) * [[1996年]] - [[ジョン・マクシェリー (審判員)|ジョン・マクシェリー]]、メジャーリーグ審判員(* [[1944年]]) * [[2001年]] - [[チン・コン・ソン]]、[[シンガーソングライター]](* [[1939年]]) * [[2002年]] - [[シモ・ヘイヘ]]、[[軍人]]、[[狙撃手]](* [[1905年]]) * [[2003年]] - [[鯨岡兵輔]]、[[政治家]](* [[1915年]]) * 2003年 - [[レスリー・チャン]](張國榮)、[[歌手]]、俳優(* [[1956年]]) * [[2004年]] - [[中谷一郎]]、俳優(* [[1930年]]) * [[2006年]] - [[松平勇雄]]、政治家(* [[1907年]]) * 2006年 - [[アイ高野]]、[[歌手]](* [[1951年]]) * 2006年 - [[松本竜助]]、[[お笑いタレント]](* [[1956年]]) * [[2011年]] - [[小淵泰輔]]、プロ野球選手(* [[1935年]]) * [[2012年]] - [[森亘]]、[[病理学者]]、東京大学総長(* [[1926年]]) * [[2013年]] - [[沼波輝枝]]、女優、[[声優]](* [[1923年]]) * [[2014年]] - [[ジャック・ル・ゴフ]]、中世史家(* [[1924年]]) * 2014年 - [[小黒恵子]]、詩人、童話作家(* [[1928年]]) * [[2015年]] - [[大川ミサヲ]]、[[長寿|最高齢女性]](* [[1898年]]) * 2015年 - [[栗山尚一]]、[[外交官]](* [[1931年]]) * 2015年 - [[山岸一雄]]、料理人、ラーメン店「[[東池袋大勝軒]]」創業者(* [[1934年]]) * 2015年 - [[安原達佳]]、プロ野球選手(* [[1936年]]) * [[2017年]] - [[エフゲニー・エフトゥシェンコ]]、詩人、作家(* [[1932年]]) * [[2018年]] - [[剛しいら]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://siiragou.jimdo.com/ |title=剛しいらを応援して下さる皆様へ |date=4 Apr 2018 |accessdate=2 Apr 2023 |publisher=剛しいら組}}</ref>、小説家(* 生年不明) * [[2020年]] - [[山西義政]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=629672&comment_sub_id=0&category_id=256 |title=イズミの創業者、山西義政さん死去 97歳 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=[[中國新聞]]デジタル |archive-url=https://web.archive.org/web/20200403133355/https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=629672&comment_sub_id=0&category_id=256 |archive-date=3 Apr 2020}}</ref>、[[実業家]]、[[イズミ]]創業者(* [[1922年]]) * [[2021年]] - [[赤﨑勇]]、物理学者(* [[1929年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2019年]] - [[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]、[[競走馬]](* [[2004年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[ファイル:Aprilsnar 2001.png|thumb|240px|[[エイプリルフール]]。画像はスウェーデンでのいたずら]] * [[エイプリルフール]]({{World}}) *綿抜(わたぬき)、更衣([[衣替え]])({{JPN}}) *:かつては、冬の間に防寒として着物に詰めた綿を[[4月1日 (旧暦)|旧暦4月1日]]に抜いていた。ここから、 「[[四月一日]](四月朔日)」と書いて「わたぬき」と読む姓も存在する。 *トレーニングの日({{JPN}}) *:スポーツ用品メーカー・[[ミズノ]]の直営店・エスポートミズノが[[1994年]]に制定。年度始めから[[トレーニング]]を始めようという日。 *ストラップの日({{JPN}}) *:ストラップの販売・制作会社ストラップヤ(現・[[Hamee]])が[[2009年]]に制定。[[1991年]]4月1日に日本初のストラップ用の穴が開けられた携帯電話「[[mova]] TZ-804」が発売されたことに由来。 *東スポの日({{JPN}}) *:日本の[[スポーツ新聞]]・[[東京スポーツ]](略称・東スポ)の発行元である東京スポーツ新聞社が[[2022年]]に制定。[[1960年]]4月1日に東京スポーツの第1号(創刊号)が発行されたことに由来<ref>{{Cite web|和書|title=『東スポの日』4・1に制定 エイプリルフールが創刊日だった |url=https://www.oricon.co.jp/news/2229877/full/ |website=[[ORICON NEWS]] |access-date=2 Apr 2023 |date=31 Mar 2023}}</ref>。 *新社会人おめでとう *:[[サントリー|サントリースピリッツ]]が毎年この日に『新社会人おめでとう』というコラムを各新聞社の広告欄に掲載する。執筆者は[[伊集院静]]。 * その年の[[会計年度]]・[[学校年度]]([[年度]])が始まる日({{JPN}}) ** この日生まれの人は[[学齢]]期の法制度における「[[学齢#早生まれ|早生まれ]]」となる。早生まれとなる最後の日であり、当該年の年度であると同時に早生まれでもある唯一の日である。4月1日が早生まれになる根拠については下記を参照。 == 4月1日生まれと「早生まれ」 == 日本においては、学齢期が満6歳に達した日の翌日以後における最初の「学年の初め」から始まる<ref>学校教育法第17条第1項。</ref>。ここでいう「学年の初め」とは4月1日である<ref>学校教育法施行規則第59条。</ref>。 [[1902年]]([[明治]]35年)に公布された[[年齢計算ニ関スル法律]]により、年齢計算は誕生日前日の午後12時に加齢することになっている。 6年前の4月1日に生まれた子どもは法律上、6歳の誕生日前日の[[3月31日]]午後12時をもって6歳となる。したがって、満6歳に達した日(3月31日)の翌日(4月1日)以後の「学年の初め」は、その年の4月1日ということになり、前年生まれの者と同じ学年に組み入れられる[[学齢|早生まれ]]には、4月1日生まれの者も含まれることになる。 つまり「1学年」は[[4月2日]]生まれから翌年4月1日生まれの者で構成されることになる(詳しくは、[[学齢#早生まれ]]、[[年齢計算ニ関スル法律#本法の適用]]、[[満年齢]]を参照のこと)。 同様に[[日本の義務教育]]は法律上、年度初日時点で6歳以上15歳未満(6歳から14歳まで)となっており、 6年前の4月1日に生まれた人から15年前の4月2日に生まれた人までとなる。 このため、この日に生まれた人は必ず学年の中では最年少になる。 有名なのは、[[1968年]]([[昭和]]43年)4月1日生まれで元[[プロ野球選手]]の[[桑田真澄]]であり、[[PL学園高等学校]]在学時代に同学年で[[1967年]](昭和42年)[[8月18日]]生まれの[[清原和博]]との[[KKコンビ]]が話題になった([[桑田清原世代]]、[[KKドラフト事件]]を参照)。 {{clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0401|date=2023年4月}} * [[1939年]](昭和14年) - [[大日本帝国海軍]][[中将]]・[[次官]]高野五十六暗殺未遂事件。(『[[紺碧の艦隊]]』) * [[1968年]](昭和43年) - エイプリルフール、花村家の三つ子が夢野サリーの嘘に騙され、その三つ子は、サリーの家庭教師・ウルトラ婆さんを騙す。婆さんは仕返しとばかりカブと共に花村家に行き、婆さんはワル子、カブはポン作に化け、花村家で大騒ぎを起こす。(アニメ『[[魔法使いサリー]]』第69話「魔法のエイプリルフール」) * [[2010年]] - 鈴原奈緒が道木怜南を誘拐。(ドラマ『[[Mother (テレビドラマ)|Mother]]』) * [[2016年]] - [[エストバキア連邦]]軍が[[エメリア共和国]]に侵攻したことから始まった、[[エメリア・エストバキア戦争]]が終結。(ゲーム『[[エースコンバット6 解放への戦火]]』) * [[2018年]] - みずき銀行にノーフェイスが強盗に入る。(アニメ『[[ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[地球連邦軍]]、[[V作戦]]を発動。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) * [[コズミック・イラ|C.E.]]70年 - エイプリルフール・クライシス発動。(アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』) * 年不詳 - ぐりとぐら、くるりくらに出会う<ref>母の友編集部(編)『ぼくらのなまえはぐりとぐら-絵本「ぐりとぐら」のすべて。』福音館書店、2001年、83頁。{{ISBN2|4-8340-1777-X}}。大本の出典は『[[こどものとも]]』373号(1987年4月号)折込付録「絵本のたのしみ」。</ref>。(絵本『[[ぐりとぐら|ぐりとぐらとくるりくら]]』) *年不詳 - [[江戸川コナン]]と[[黒羽快斗|怪盗キッド]]の初邂逅。(漫画・アニメ『[[名探偵コナン]]』) *年不詳 - [[ドラえもん]]が現代に戻ってくる。(漫画・アニメ「[[ドラえもん]]」) === 誕生日(フィクション) === * 1958年 - 浪花十三、アニメ『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』に登場するキャラクター<ref>第1話の特別許可証より</ref> * 1960年 - [[キン肉スグル]]、漫画・アニメ『[[キン肉マン]]』の主人公<ref>ゆでたまご「運命の子供たち!!の巻」『キン肉マン 第24巻』[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉、1986年2月15日、{{ISBN2|978-4-08-851804-6}}、18頁。</ref> * 1993年 - [[バッドばつ丸]]、[[サンリオ]]でデザインされたキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/characters/badtzmaru/ |title=バッドばつ丸 |access-date=2022-09-15 |publisher=[[サンリオ]]}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]519年<ref>『[[スターオーシャン5 -Integrity and Faithlessness-]]』に登場するウェルチの設定。</ref>/宇宙暦521年<ref>『[[スターオーシャン:アナムネシス]]』に登場するウェルチの設定。</ref> - ウェルチ・ビンヤード、ゲーム『[[スターオーシャンシリーズ|スターオーシャン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=10|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=82|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - [[面堂終太郎]]、漫画・アニメ『[[うる星やつら]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[桜木花道]]、漫画・アニメ『[[SLAM DUNK]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author=井上雄彦|authorlink=井上雄彦 |year = 1995 |title = SLAM DUNK |volume = 第23巻 |page = 47 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-871843-7 }}</ref> * 生年不明 - 御坊茶魔、漫画・アニメ『[[おぼっちゃまくん]]』の主人公 * 生年不明 - [[パタリロ・ド・マリネール8世]]、漫画・アニメ『[[パタリロ!|パタリロ!]]』の主人公<ref>{{Twitter status|patalliro100|1509446303134416901}}</ref> * 生年不明 - 木之本桜、漫画・アニメ『[[カードキャプターさくら]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |year = 1996 |title = カードキャプターさくら(1) |page = 43 |volume = 第1巻 |publisher = [[講談社]] |series = KCデラックス |isbn = 978-4-06-319743-3 }}</ref> * 生年不明 - 津上翔一、特撮ドラマ『[[仮面ライダーアギト]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kashu_toshiki|1245201015634153472}}</ref> * 生年不明 - 四月一日君尋、漫画・アニメ『[[xxxHOLiC]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/472067 |title=「ホリック xxxHOLiC」4月1日は四月一日の誕生日、神木隆之介の割烹着姿を公開 |access-date=2022-09-15 |publisher=コミックナタリー |date=2022-04-01}}</ref> * 生年不明 - 宮川あつし、漫画・アニメ『[[リコーダーとランドセル]]』の主人公 * 生年不明 - 小橋若葉、漫画・アニメ『[[わかば*ガール]]』の主人公<ref>{{Twitter status|_harayui|1509687900006645760}}</ref> * 生年不明 - [[常守朱]]、アニメ『[[PSYCHO-PASS サイコパス]]』の主人公<ref>{{Twitter status|psychopass_tv|583199244242141186}}</ref> * 生年不明 - ナツキ・スバル、小説・漫画・アニメ・ゲーム『[[Re:ゼロから始める異世界生活]]』の主人公<ref>{{Twitter status|re_zero_rezelos|1377471562018775043}}</ref> * 生年不明 - 萌田薫子、漫画・アニメ『[[こみっくがーるず]]』の主人公<ref>{{Twitter status|comiga_anime|1377274484911038464}}</ref> * 生年不明 - 桜遥、漫画・アニメ『[[WIND BREAKER (漫画)|WIND BREAKER]]』の主人公<ref>{{Twitter status|winbre_sakura|1509546075287339012}}</ref> * 生年不明 - 九井一、漫画・アニメ『[[東京リベンジャーズ]]』のキャラクター * 生年不明 - 潔世一、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』の主人公<ref>{{Twitter status|bluelock_wm|1377274510160711680}}</ref> * 生年不明 - 草津結衣奈、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/kusatsu_yuina |title=群馬 草津結衣奈 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 玉名満美、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/tamana_mami |title=熊本 玉名満美 |access-date=2 Apr 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - サイボーグ007 / グレート・ブリテン、漫画『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mangattan.jp/manga/mangattan_info/9560/ |title=4/1 「サイボーグ007のグレートな誕生日(バースデー)‼ |access-date=2022-09-15 |publisher=石ノ森萬画館}}</ref> * 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#南葛中学校|石崎了]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 56 }}</ref> * 生年不明 - エスパー絽場、漫画『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋和希|title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書|publisher=集英社|series=Vジャンプブックス|year=2015|page=147|ISBN=978-4-08-779722-0}}。</ref> * 生年不明 - [[ウソップ]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』の登場人物<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/usopp.html |title=ウソップ |accessdate=2022-09-15 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref> * 生年不明 - カーシー、漫画・アニメ『ONE PIECE』の登場人物<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kashii.html |title=カーシー |access-date=2022-09-15 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref> * 生年不明 - ガマ吉、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』の登場人物<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1509546103771119631}}</ref> * 生年不明 - 山田花太郎、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=久保帯人 |authorlink=久保帯人 |year=2006 |title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page=119 |publisher=[[集英社]] |series=ジャンプ・コミックス |isbn=4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#ザスティン|ザスティン]] 、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-]]』『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year=2011|title=To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page=90|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-874852-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=矢吹健太朗、長谷見沙貴|year=2014|title=To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page=123|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-880260-2}}</ref> * 生年不明 - 月島基、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kamuy_official|1509735344232546311}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ゴールデンカムイ公式ファンブック 探究者たちの記録|publisher=集英社|year=2020|page=70|isbn=978-4-08-891732-0}}</ref> * 生年不明 - 児玉憲太郎、漫画・アニメ『[[MAJOR]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=満田拓也|authorlink=満田拓也|year=1999|title=Major―Dramatic baseball comic|volume=第24巻|page=125|publisher=[[小学館]]|series=少年サンデーコミックス|isbn=978-4-09-125504-4}}</ref> * 生年不明 - 安底羅、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[りぶねす#猪口のり子|猪口のり子]]、漫画『[[りぶねす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=堂本裕貴|authorlink=堂本裕貴|year=2018|title=りぶねす|volume=10巻|page=193|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4-06-511272-4}}</ref> * 生年不明 - キング、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|7_taizai|1245002915514847232}}</ref> * 生年不明 - 萩生響、漫画・アニメ『[[あんハピ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://anne-happy.com/character/4 |title=萩生響(はぎゅう ひびき) |publisher=[[琴慈]]・[[芳文社]]/あんハピ製作委員会 |accessdate=2 Apr 2023 |work=『あんハピ♪』}}</ref> * 生年不明 - 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2,008
俳優
俳優(はいゆう、英: actor)は、演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。 上で「演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと」という広辞苑の定義文を挙げた。「演劇・映画 等」というのは、演劇・映画・テレビドラマ・ミュージカルなどがある。俳優は別の短い言い方をすると「役を演じる人」のことである。 ギリシア悲劇は、はじめ1人の俳優によって演じられていた。その後アイスキュロスが俳優を2人に増やし、ソポクレースが3人に増やしたと伝えられている。古代ギリシアの俳優というのはポリスから報酬を得ていた。 古代ローマやヨーロッパの中世では、俳優の数は少なかったという。だが、15世紀のフランスおよび周辺国では聖史劇(神秘劇)が流行しており、旧約聖書・新約聖書に題材を得てイエス・キリストの生誕・受難・復活の物語が演じられ、街の中心にある聖堂前の広場などで、地元の住民などが臨時の俳優となって参加する形で、数日間にわたり上演される、ということが各地で行われていた。 16世紀になると、コメディア・デラルテという仮面を用いる歌・踊りを交えた即興劇が流行するようになり、俳優が職業として成立するようになった。男性の俳優が主に活動していたのであったが、16世紀末の段階でイタリアやフランスで職業的女優も登場するようになった。ただしイギリスに目を向けると16世紀ではまだおらず、例えばエリザベス朝演劇においては女の役は少年が女装して演じていたのであり、職業的女優が登場するのは17世紀後半になってからのことであった。 俳優の社会的地位というのは概してかなり低いものだった。が、19世紀になると俳優の社会的地位は向上する傾向が生まれ、イギリスではナイトの称号を授けられる者まで現れた。 俳優という漢字表現については、『字通』(平凡社)によれば〔荀子、王覇〕に「俳優侏儒(しゆじゆ)」という表現があり、また〔韓非子、難三〕には「俳優侏儒は固(もと)より人主の與(とも)に燕(たの)しむ所なり」という表現がある(親字「俳」の項)。つまり、漢籍での表現が、日本語表現よりはるかにさかのぼる。 『話のネタ』という本では、日本語の「俳優」という語は坪内逍遥によるもの、と書かれた。 俳優は、それぞれの特色や得意な分野に着目してキャスティングされたり、ジャンル分けされることがある。しかし、このジャンル分けに明確な基準はなく、流動的である。 俳優をその主な活動範囲に注目して分類することがあり、「舞台俳優」「映画俳優」「テレビ俳優」「ミュージカル俳優」などといった分類が行われることがある。 欧米では主にコメディ映画・ドラマで演技を行う人はコメディアンと分類されている。 舞台演劇を中心に活動している俳優が舞台俳優である。映画俳優とは、もっぱら映画に出演している俳優のことで、米国・ハリウッドには多数存在する。「テレビ俳優」とはもっぱら劇場公開されないテレビドラマばかりに出演している俳優で、棲みわけのはっきりしている米国では舞台俳優、映画俳優のほかに「テレビ俳優」も区別され成立している。米国では他の職業同様に、俳優業も厳格な契約によって成立しており、映画やテレビの世界では細かな職業分類がなされて法的な権利の確保や職種別の労働組合活動が行われてきた歴史があり、契約書で書かれたこと以外は一切しない、それをさせたら違法とされ裁判沙汰になるのが通例である。米国の映画俳優は原則的にテレビ広告にも出演しない。 俳優は男性であることが当然視されていた時代があったので、例外的な女性の俳優を特に女優(じょゆう)と呼び分けていた時代もあった。そして女優が登場した時代以降に、男性の俳優をレトロニムで男優(だんゆう)と呼ぶことも行われた。現在でも俳優の性別に着目して「女優」「男優」という分類がされることもあるが、現代では性差別は良くない、という認識も広まってきているので、そういう呼び分けは避けて性差を強調しない「俳優」という呼び方で首尾一貫して通す場合もある。英語圏でも「actor」をジェンダー中立的な用語として男女問わずに使い、従来の「actor(男優) / actress(女優)」という呼び分けを廃する動きがあるほか、演劇などの分野では男女問わず舞台俳優を「player」と呼ぶ習慣がある。 男性のみの俳優で催す歌舞伎の場合は「立役」「女形」と呼び分けられる。一方、女性のみの俳優で催す宝塚歌劇団では「男役」「娘役」がある。ただし、例えばNHKの場合は、「俳優」と男女差別せずに言及される。なお、日本においては「女優」が女性俳優を指す用語として広く用いられているのに対し「男優」という語が用いられることは少ない。ただしアダルトビデオ業界ではAV女優、AV男優と呼ぶ習慣がある。 様々な分類がありうるが、たとえば二枚目俳優、性格俳優、喜劇俳優、悪役俳優、アクション俳優、老け役俳優、個性派俳優(怪優(かいゆう))、子役、脇役俳優、端役俳優(チョイ役俳優)、エキストラ俳優、スーツアクター、プライベートアクター、美人女優、脱ぎ女優、動物俳優などがある。 日本では名題役者、時代劇俳優、剣劇俳優、大部屋俳優などという分類もある。 また俳優はキャリアの長さに応じて、大御所俳優、中堅俳優、駆け出し俳優、新人などに分類されることもある。 アニメや洋画の吹き替えなどに声だけで出演する俳優は声優と称される。ただし、俳優でもナレーションなどで顔を出さない作品も存在する。逆に声優でも舞台やテレビ等で顔を出して出演することもあり、線引きが曖昧になっている。 職業俳優の業務は、観客に公開することを目的とした劇作品を製作するために、その脚本(シナリオ)に基づき、プロデューサー・演出家・映画監督などの指導・指示の下、共演者や製作スタッフなどと協力して、その上演や撮影にあたって、与えられたキャスト(配役)を演じることにある。 俳優業は、まず自身の役を得ることが、ひとつの大仕事となる。ハリウッドでは一般的に、主要な役はすべてオーディションによって選ばれる。まずオーディションで選ばれないことには、俳優としての仕事が始まらない。大物俳優もオーディションに応募し、ひとつの役を巡って数倍から数十倍や数百倍におよぶ厳しい倍率の競争を勝ち抜いて役を得る。大物俳優もそうしたオーディションへの応募を年中繰り返すことでひとつひとつ自分の仕事を得ており、それを止めると仕事がパタリと無くなってしまう。 俳優の中には、ある役で高く評価されて人気が出る人も(ごく少数ではあるが)いる。大きく評価を受けた役を「当たり役」と呼ぶ。運よく類似の役が次々と出てくるようなことがあれば、その役を回してもらいやすくなり(指名してもらいやすくなり)、そうした「流れ」のようなものができて役獲得の労苦を免れる日々を人生の一時期過ごす俳優もわずかだがいる。 役を得た後の俳優の仕事の流れは、国・現場の種類・監督などによって異なっている面がある。香港映画ではしっかりした脚本が存在せず、あくまで監督の心に作品概略やアイディアだけがあり、俳優に事前に脚本が与えられず、主に撮影現場で監督が台詞を(思いつきで)与え、俳優の動作を指示しつつ撮影を進めてゆくことが多い。インド・ボリウッドでは、脚本がしばしば存在せず、撮影現場で監督の思いつきでストーリーが作られ台詞が与えられ、しかもボリウッド映画の定番である集団ダンス・シーンでは、ダンス担当監督が現場で自身の身体を使って手本を一度だけ見せ、主演俳優から多数の脇役(エキストラ・ダンサー)までが、それを見て一発で見事に模倣し撮影する、ということを次々と繰り返しつつ撮影が進む。日本では、上質の演技を行うために、通常は脚本が事前に渡され、俳優はそれを読み込み、役作りの上、打ち合わせ・稽古・リハーサルなどを繰り返すといった膨大な下準備を行い、その上で本番の演技を行う。 舞台や撮影は一般に、きわめて多人数の人々が携わることによって成立している。一般に俳優ひとりが欠ける(「穴をあける」)だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまう。したがって俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができない。特に舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立する。観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運んでおり、それを裏切るわけにはいかない。また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることが多い。俳優が舞台に穴をあけてしまうようなことをすると、次の仕事が来なくなると言われていたり、俳優を仕事に選んだら「親の死に目にも会えない」と言われていたりする。 日本では平安時代末期に田楽や猿楽という演劇があり、これを演ずる田楽法師や猿楽法師が日本での職業的俳優のはじまりだと考えられている。 その後、能を演じる能役者が現れた。また、江戸時代初期には歌舞伎を演ずる歌舞伎役者が現れた。 明治時代になると新派や新劇と呼ばれる新しい演劇ジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの俳優が活躍するようになった。 戦前の大スター・月形龍之介や、阪東妻三郎、大河内傳次郎といった人たちは、映画監督より圧倒的に立場が上で、監督がいちいち「先生、ここでお"アップ"1枚ちょうだいします」と言っていたという。 1950年代から1960年代にかけて五社協定という取り決めがあり、映画会社と専属契約を結んだいわゆる映画俳優は、自社製作の映画以外への出演が制限されるなど、明確に活動範囲を区分されていた。そのため初期の大河ドラマは、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の民放のテレビドラマも同様で、海外ドラマを輸入して放送したり、テレビ局で制作するドラマには、映画俳優以外の俳優や新人を起用することで対処していた。 1970年代になり、邦画の斜陽化に伴って五社協定が自然崩壊し、さらには映画会社がテレビドラマの外注先になってテレビ映画を制作するなど、映画とテレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマの制作現場では映画俳優に頼らないシステムが確立され、別ジャンルから俳優業に参入するケースは以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優の実力よりも、テレビ局と所属事務所、あるいは番組スポンサーとの関係や、俳優個人の人気すなわち視聴率を取れるかどうかを重視してキャスティングすることが多く、視聴者が疑問を感じるキャスティングがされる場合もある。 現在の日本国内においてもっぱら劇場用映画に出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった。 1990年代以降、テレビ局主導で映画製作が行われるケースも一般的になり、テレビドラマの制作スタイル(俳優業を本業としない者が俳優を兼業するスタイル)の領域も拡大傾向にある。一方で、俳優と名乗りながらバラエティ番組などで活動している者も多数おり、職業としての俳優という区分は曖昧になりつつある。これについて、映画俳優の設定が確立しているアメリカと違い、拘束時間が長い割に金銭的に恵まれない日本の俳優の環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人の価値観や所属事務所の方針の問題も大きい。また、それぞれの出身の職業をあくまで本業としつつ、俳優業を含めて様々な活動を行う者もおり、マルチタレントと呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。 俳優業は華やかな一面、厳しい世界だと言われている。俳優を志望しても俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度の収入を得られる)人はごくわずかで、収入も安定していないため、俳優として食べられるようになる段階に到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事が増えても、そのままずっと俳優でいられる保証はなく、一時的には第一線で活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。 日本では、歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国のように、江戸時代初期には女性が芝居に出演していたが、寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されたため、それ以降女性が芝居に出ることは原則として不可能になった。代わって男性が女形として女性の役を演じ、この伝統が明治に入っても続いていた。1899年、川上音二郎一座に所属する川上貞奴が女形の代役として、サンフランシスコ公演にて急遽出演して成功をおさめ、これによって川上貞奴は、「日本初の女優」と呼ばれるようになった。 川上貞奴は1908年、渋沢栄一などの後援を得て東京・芝に「帝国女優養成所」を開所し、本格的に女優育成の事業を開始した。一期生には森律子、村田嘉久子などがいた。 1914年、小林一三が宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)を設立し、女性が男性役も演じる、女性による歌劇・芝居の形式も誕生した。宝塚歌劇団に所属する女優(女性団員)は「タカラジェンヌ」(宝塚とパリジェンヌの合成語)と呼ばれている。 俳優のほとんどは、統計的に見ると、他の職業に比べて平均生涯年収が低い。 ほとんど俳優は、舞台俳優であれ、テレビ俳優であれ、俳優の収入だけでは生活できない。収入の大半は不定期のアルバイトで得ている。しかもほとんどは、テレビ画面などとは関係の無いアルバイトである。俳優の変則的な時間都合を優先するために、勤務の日や時刻の変更が比較的自由なアルバイトが多い。(たとえば飲食店の皿洗い・配膳・注文受け・簡単な調理。あるいは(男性だと)ちから仕事系の引っ越しの単発アルバイト、単発で入る店舗売場・オフィス・イベント会場などの什器の運搬や組み立てなどの「軽作業」など。誰からも見られていない仕事が意外に多い。)俳優の仕事を得る可能性を残すために自由度を優先するとアルバイトの種類もそれなりに限られる。必ず決まった曜日の決まった時間帯に年中しなければならないアルバイトというのは、俳優をしたい人にはやりづらい。ハリウッドの俳優や韓国の俳優、その中でも容姿が良いことが「売り」の人の場合は、それを利用して(テレビ画面には出ていないが)バーテンダーのアルバイトをして生活費を稼ぐパターンもある(これの場合は、一応は「人から見られる」仕事ではある)。 テレビや映画に「ある程度」出演できるようになった俳優でも、実際には収入の主たる部分は、そうしたアルバイトである。テレビや映画に出演している俳優のリストをじっくり見れば分かることだが、たいてい出演者は数十名~数百名ほどおり、そのほとんどはいわゆる「脇役」である。観客は主役級2~3名のことばかり意識して他の(脇役)俳優を忘れてしまったり、意識からほとんど消し去ってしまっているが、俳優をしている側から見ると俳優仲間のほとんどは脇役しかしていないのである。大多数の俳優(脇役しか演じていない俳優)はアルバイトで生活費の大部分を稼いでいる。 「ある程度は出演」のレベルを超えて、「(それなりに)顔が知られている」レベルになっても、俳優は他の芸能界の職業よりも収入が低い。その原因として、1時間のバラエティ番組が、2時間程度で収録できるのに対し、1時間のドラマは撮影に1週間以上かかることや、ミュージシャンや芸人のように自分で自ら企画して仕事をするのが難しいことが挙げられる。 そのため、かなり有名になった俳優ですら、日本の俳優はドラマや映画ではなくコマーシャルのギャラで生活している。 しかし、俳優が何本ものコマーシャルに出演するのは、アジア独自の文化であり、ハリウッドの俳優の多くは、コマーシャルの収入がない。そのため、ごく一部の俳優を除き、日本の俳優より遥かに収入が少なく、大作映画のメインキャストや、地上波ドラマのレギュラーキャストもアルバイトで生計を立てているのが実情である。
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"title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "俳優の社会的地位というのは概してかなり低いものだった。が、19世紀になると俳優の社会的地位は向上する傾向が生まれ、イギリスではナイトの称号を授けられる者まで現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "俳優という漢字表現については、『字通』(平凡社)によれば〔荀子、王覇〕に「俳優侏儒(しゆじゆ)」という表現があり、また〔韓非子、難三〕には「俳優侏儒は固(もと)より人主の與(とも)に燕(たの)しむ所なり」という表現がある(親字「俳」の項)。つまり、漢籍での表現が、日本語表現よりはるかにさかのぼる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『話のネタ』という本では、日本語の「俳優」という語は坪内逍遥によるもの、と書かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "俳優は、それぞれの特色や得意な分野に着目してキャスティングされたり、ジャンル分けされることがある。しかし、このジャンル分けに明確な基準はなく、流動的である。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "俳優をその主な活動範囲に注目して分類することがあり、「舞台俳優」「映画俳優」「テレビ俳優」「ミュージカル俳優」などといった分類が行われることがある。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "欧米では主にコメディ映画・ドラマで演技を行う人はコメディアンと分類されている。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "舞台演劇を中心に活動している俳優が舞台俳優である。映画俳優とは、もっぱら映画に出演している俳優のことで、米国・ハリウッドには多数存在する。「テレビ俳優」とはもっぱら劇場公開されないテレビドラマばかりに出演している俳優で、棲みわけのはっきりしている米国では舞台俳優、映画俳優のほかに「テレビ俳優」も区別され成立している。米国では他の職業同様に、俳優業も厳格な契約によって成立しており、映画やテレビの世界では細かな職業分類がなされて法的な権利の確保や職種別の労働組合活動が行われてきた歴史があり、契約書で書かれたこと以外は一切しない、それをさせたら違法とされ裁判沙汰になるのが通例である。米国の映画俳優は原則的にテレビ広告にも出演しない。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "俳優は男性であることが当然視されていた時代があったので、例外的な女性の俳優を特に女優(じょゆう)と呼び分けていた時代もあった。そして女優が登場した時代以降に、男性の俳優をレトロニムで男優(だんゆう)と呼ぶことも行われた。現在でも俳優の性別に着目して「女優」「男優」という分類がされることもあるが、現代では性差別は良くない、という認識も広まってきているので、そういう呼び分けは避けて性差を強調しない「俳優」という呼び方で首尾一貫して通す場合もある。英語圏でも「actor」をジェンダー中立的な用語として男女問わずに使い、従来の「actor(男優) / actress(女優)」という呼び分けを廃する動きがあるほか、演劇などの分野では男女問わず舞台俳優を「player」と呼ぶ習慣がある。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "男性のみの俳優で催す歌舞伎の場合は「立役」「女形」と呼び分けられる。一方、女性のみの俳優で催す宝塚歌劇団では「男役」「娘役」がある。ただし、例えばNHKの場合は、「俳優」と男女差別せずに言及される。なお、日本においては「女優」が女性俳優を指す用語として広く用いられているのに対し「男優」という語が用いられることは少ない。ただしアダルトビデオ業界ではAV女優、AV男優と呼ぶ習慣がある。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "様々な分類がありうるが、たとえば二枚目俳優、性格俳優、喜劇俳優、悪役俳優、アクション俳優、老け役俳優、個性派俳優(怪優(かいゆう))、子役、脇役俳優、端役俳優(チョイ役俳優)、エキストラ俳優、スーツアクター、プライベートアクター、美人女優、脱ぎ女優、動物俳優などがある。 日本では名題役者、時代劇俳優、剣劇俳優、大部屋俳優などという分類もある。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また俳優はキャリアの長さに応じて、大御所俳優、中堅俳優、駆け出し俳優、新人などに分類されることもある。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アニメや洋画の吹き替えなどに声だけで出演する俳優は声優と称される。ただし、俳優でもナレーションなどで顔を出さない作品も存在する。逆に声優でも舞台やテレビ等で顔を出して出演することもあり、線引きが曖昧になっている。", "title": "俳優の種類・分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "職業俳優の業務は、観客に公開することを目的とした劇作品を製作するために、その脚本(シナリオ)に基づき、プロデューサー・演出家・映画監督などの指導・指示の下、共演者や製作スタッフなどと協力して、その上演や撮影にあたって、与えられたキャスト(配役)を演じることにある。", "title": "仕事の内容と流れ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "俳優業は、まず自身の役を得ることが、ひとつの大仕事となる。ハリウッドでは一般的に、主要な役はすべてオーディションによって選ばれる。まずオーディションで選ばれないことには、俳優としての仕事が始まらない。大物俳優もオーディションに応募し、ひとつの役を巡って数倍から数十倍や数百倍におよぶ厳しい倍率の競争を勝ち抜いて役を得る。大物俳優もそうしたオーディションへの応募を年中繰り返すことでひとつひとつ自分の仕事を得ており、それを止めると仕事がパタリと無くなってしまう。", "title": "仕事の内容と流れ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "俳優の中には、ある役で高く評価されて人気が出る人も(ごく少数ではあるが)いる。大きく評価を受けた役を「当たり役」と呼ぶ。運よく類似の役が次々と出てくるようなことがあれば、その役を回してもらいやすくなり(指名してもらいやすくなり)、そうした「流れ」のようなものができて役獲得の労苦を免れる日々を人生の一時期過ごす俳優もわずかだがいる。", "title": "仕事の内容と流れ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "役を得た後の俳優の仕事の流れは、国・現場の種類・監督などによって異なっている面がある。香港映画ではしっかりした脚本が存在せず、あくまで監督の心に作品概略やアイディアだけがあり、俳優に事前に脚本が与えられず、主に撮影現場で監督が台詞を(思いつきで)与え、俳優の動作を指示しつつ撮影を進めてゆくことが多い。インド・ボリウッドでは、脚本がしばしば存在せず、撮影現場で監督の思いつきでストーリーが作られ台詞が与えられ、しかもボリウッド映画の定番である集団ダンス・シーンでは、ダンス担当監督が現場で自身の身体を使って手本を一度だけ見せ、主演俳優から多数の脇役(エキストラ・ダンサー)までが、それを見て一発で見事に模倣し撮影する、ということを次々と繰り返しつつ撮影が進む。日本では、上質の演技を行うために、通常は脚本が事前に渡され、俳優はそれを読み込み、役作りの上、打ち合わせ・稽古・リハーサルなどを繰り返すといった膨大な下準備を行い、その上で本番の演技を行う。", "title": "仕事の内容と流れ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "舞台や撮影は一般に、きわめて多人数の人々が携わることによって成立している。一般に俳優ひとりが欠ける(「穴をあける」)だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまう。したがって俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができない。特に舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立する。観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運んでおり、それを裏切るわけにはいかない。また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることが多い。俳優が舞台に穴をあけてしまうようなことをすると、次の仕事が来なくなると言われていたり、俳優を仕事に選んだら「親の死に目にも会えない」と言われていたりする。", "title": "仕事の内容と流れ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では平安時代末期に田楽や猿楽という演劇があり、これを演ずる田楽法師や猿楽法師が日本での職業的俳優のはじまりだと考えられている。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その後、能を演じる能役者が現れた。また、江戸時代初期には歌舞伎を演ずる歌舞伎役者が現れた。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "明治時代になると新派や新劇と呼ばれる新しい演劇ジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの俳優が活躍するようになった。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "戦前の大スター・月形龍之介や、阪東妻三郎、大河内傳次郎といった人たちは、映画監督より圧倒的に立場が上で、監督がいちいち「先生、ここでお\"アップ\"1枚ちょうだいします」と言っていたという。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1950年代から1960年代にかけて五社協定という取り決めがあり、映画会社と専属契約を結んだいわゆる映画俳優は、自社製作の映画以外への出演が制限されるなど、明確に活動範囲を区分されていた。そのため初期の大河ドラマは、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の民放のテレビドラマも同様で、海外ドラマを輸入して放送したり、テレビ局で制作するドラマには、映画俳優以外の俳優や新人を起用することで対処していた。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1970年代になり、邦画の斜陽化に伴って五社協定が自然崩壊し、さらには映画会社がテレビドラマの外注先になってテレビ映画を制作するなど、映画とテレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマの制作現場では映画俳優に頼らないシステムが確立され、別ジャンルから俳優業に参入するケースは以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優の実力よりも、テレビ局と所属事務所、あるいは番組スポンサーとの関係や、俳優個人の人気すなわち視聴率を取れるかどうかを重視してキャスティングすることが多く、視聴者が疑問を感じるキャスティングがされる場合もある。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "現在の日本国内においてもっぱら劇場用映画に出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1990年代以降、テレビ局主導で映画製作が行われるケースも一般的になり、テレビドラマの制作スタイル(俳優業を本業としない者が俳優を兼業するスタイル)の領域も拡大傾向にある。一方で、俳優と名乗りながらバラエティ番組などで活動している者も多数おり、職業としての俳優という区分は曖昧になりつつある。これについて、映画俳優の設定が確立しているアメリカと違い、拘束時間が長い割に金銭的に恵まれない日本の俳優の環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人の価値観や所属事務所の方針の問題も大きい。また、それぞれの出身の職業をあくまで本業としつつ、俳優業を含めて様々な活動を行う者もおり、マルチタレントと呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "俳優業は華やかな一面、厳しい世界だと言われている。俳優を志望しても俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度の収入を得られる)人はごくわずかで、収入も安定していないため、俳優として食べられるようになる段階に到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事が増えても、そのままずっと俳優でいられる保証はなく、一時的には第一線で活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本では、歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国のように、江戸時代初期には女性が芝居に出演していたが、寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されたため、それ以降女性が芝居に出ることは原則として不可能になった。代わって男性が女形として女性の役を演じ、この伝統が明治に入っても続いていた。1899年、川上音二郎一座に所属する川上貞奴が女形の代役として、サンフランシスコ公演にて急遽出演して成功をおさめ、これによって川上貞奴は、「日本初の女優」と呼ばれるようになった。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "川上貞奴は1908年、渋沢栄一などの後援を得て東京・芝に「帝国女優養成所」を開所し、本格的に女優育成の事業を開始した。一期生には森律子、村田嘉久子などがいた。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1914年、小林一三が宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)を設立し、女性が男性役も演じる、女性による歌劇・芝居の形式も誕生した。宝塚歌劇団に所属する女優(女性団員)は「タカラジェンヌ」(宝塚とパリジェンヌの合成語)と呼ばれている。", "title": "日本の俳優" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "俳優のほとんどは、統計的に見ると、他の職業に比べて平均生涯年収が低い。", "title": "他" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ほとんど俳優は、舞台俳優であれ、テレビ俳優であれ、俳優の収入だけでは生活できない。収入の大半は不定期のアルバイトで得ている。しかもほとんどは、テレビ画面などとは関係の無いアルバイトである。俳優の変則的な時間都合を優先するために、勤務の日や時刻の変更が比較的自由なアルバイトが多い。(たとえば飲食店の皿洗い・配膳・注文受け・簡単な調理。あるいは(男性だと)ちから仕事系の引っ越しの単発アルバイト、単発で入る店舗売場・オフィス・イベント会場などの什器の運搬や組み立てなどの「軽作業」など。誰からも見られていない仕事が意外に多い。)俳優の仕事を得る可能性を残すために自由度を優先するとアルバイトの種類もそれなりに限られる。必ず決まった曜日の決まった時間帯に年中しなければならないアルバイトというのは、俳優をしたい人にはやりづらい。ハリウッドの俳優や韓国の俳優、その中でも容姿が良いことが「売り」の人の場合は、それを利用して(テレビ画面には出ていないが)バーテンダーのアルバイトをして生活費を稼ぐパターンもある(これの場合は、一応は「人から見られる」仕事ではある)。", "title": "他" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "テレビや映画に「ある程度」出演できるようになった俳優でも、実際には収入の主たる部分は、そうしたアルバイトである。テレビや映画に出演している俳優のリストをじっくり見れば分かることだが、たいてい出演者は数十名~数百名ほどおり、そのほとんどはいわゆる「脇役」である。観客は主役級2~3名のことばかり意識して他の(脇役)俳優を忘れてしまったり、意識からほとんど消し去ってしまっているが、俳優をしている側から見ると俳優仲間のほとんどは脇役しかしていないのである。大多数の俳優(脇役しか演じていない俳優)はアルバイトで生活費の大部分を稼いでいる。", "title": "他" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「ある程度は出演」のレベルを超えて、「(それなりに)顔が知られている」レベルになっても、俳優は他の芸能界の職業よりも収入が低い。その原因として、1時間のバラエティ番組が、2時間程度で収録できるのに対し、1時間のドラマは撮影に1週間以上かかることや、ミュージシャンや芸人のように自分で自ら企画して仕事をするのが難しいことが挙げられる。 そのため、かなり有名になった俳優ですら、日本の俳優はドラマや映画ではなくコマーシャルのギャラで生活している。 しかし、俳優が何本ものコマーシャルに出演するのは、アジア独自の文化であり、ハリウッドの俳優の多くは、コマーシャルの収入がない。そのため、ごく一部の俳優を除き、日本の俳優より遥かに収入が少なく、大作映画のメインキャストや、地上波ドラマのレギュラーキャストもアルバイトで生計を立てているのが実情である。", "title": "他" } ]
俳優は、演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと。またその職業。役者(やくしゃ)とも呼ばれる。
{{Redirect|役者|楽曲|役者 (ちあきなおみの曲)}} {{Redirect|旅役者|映画|旅役者 (1940年の映画)}} [[File:Antoine Watteau - Actors from the Comédie Française - WGA25475.jpg|thumb|286x286px|[[コメディ・フランセーズ]]の俳優たち([[1720年]])]] [[File:Danjūrō Ichikawa VIII and Baikō Onoe IV in Yowa Nasake Ukina no Yoko-gushi 1853 (composite).jpg|thumb|right|280px|[[歌舞伎俳優]]([[1853年]])]] '''俳優'''(はいゆう、{{lang-en-short|actor}})は、[[演劇]]・[[映画]]等において、その人物に扮して[[台詞]]・[[ジェスチャー|身振り]]・[[表情]]などで[[演技|演じる]]人のこと<ref>[[広辞苑]] 第五版 【俳優】</ref>。またその[[職業]]。 == 概要 == 上で「演劇・映画等において、その人物に扮して台詞・身振り・表情などで演じる人のこと」という[[広辞苑]]の定義文を挙げた。「演劇・映画 等」というのは、[[演劇]]・[[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[ミュージカル]]などがある。俳優は別の短い言い方をすると「役を演じる人」のことである。 == 歴史 == [[ギリシア悲劇]]は、はじめ1人の俳優によって演じられていた。その後[[アイスキュロス]]が俳優を2人に増やし、[[ソポクレス|ソポクレース]]が3人に増やしたと伝えられている<ref name="britan">ブリタニカ百科事典【俳優】。「[https://kotobank.jp/word/%E4%BF%B3%E5%84%AA-113153 俳優]」『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』[[コトバンク]]。2021年3月30日閲覧。</ref>。[[古代ギリシア]]の俳優というのは[[ポリス]]から報酬を得ていた<ref name="britan" />。 [[古代ローマ]]や[[ヨーロッパ]]の[[中世]]では、俳優の数は少なかったという<ref name="britan" />。だが、[[15世紀]]の[[フランス]]および周辺国では聖史劇([[神秘劇]])が流行しており、[[旧約聖書]]・[[新約聖書]]に題材を得て[[イエス・キリスト]]の[[キリストの降誕|生誕]]・[[受難]]・[[復活 (キリスト教)|復活]]の物語が演じられ、街の中心にある[[聖堂]]前の広場などで、地元の住民などが臨時の俳優となって参加する形で、数日間にわたり上演される、ということが各地で行われていた。 [[16世紀]]になると、[[コンメディア・デッラルテ|コメディア・デラルテ]]という仮面を用いる歌・踊りを交えた即興劇が流行するようになり、俳優が職業として成立するようになった<ref name="britan" />。男性の俳優が主に活動していたのであったが、16世紀末の段階で[[イタリア]]やフランスで職業的女優も登場するようになった<ref name="britan" />。ただし[[イギリス]]に目を向けると16世紀ではまだおらず、例えば[[イギリス・ルネサンス演劇|エリザベス朝演劇]]においては女の役は少年が女装して演じていたのであり、職業的女優が登場するのは[[17世紀]]後半になってからのことであった<ref name="britan" />。 俳優の社会的地位というのは概してかなり低いものだった<ref name="britan" />。が、[[19世紀]]になると俳優の社会的地位は向上する傾向が生まれ、イギリスでは[[ナイト]]の称号を授けられる者まで現れた<ref name="britan" />。 {{Seealso|演劇の歴史}} ;日本語の呼び名の歴史、語源 <!--どの漢和辞典にこのようなことが書かれている? {{要出典範囲|俳優の「優」には「芝居を職業とする人」という意味がある。|date=2022年4月}}--> 俳優という漢字表現については、『[[字通]]』([[平凡社]])によれば〔[[荀子]]、[[王覇]]〕に「俳優侏儒(しゆじゆ)」という表現があり、また〔[[韓非子]]、難三〕には「俳優侏儒は固(もと)より人主の與(とも)に燕(たの)しむ所なり」という表現がある(親字「俳」の項)。つまり、[[漢籍]]での表現が、日本語表現よりはるかにさかのぼる。 『話のネタ』という本では、日本語の「俳優」という語は[[坪内逍遥]]によるもの、と書かれた<!--よるものとされる、ってどういう意味でしょうか。その語を作ったということでしょうか、それとも最初に使ったということでしょうか。出典がそのとおりの表記ならしかたありませんが、そうでなければもうちょっとわかりやすく書いてください。--><ref name="hanashinoneta_p55">[[毎日新聞社]]編『話のネタ』[[PHP文庫]] p.55 1998年。</ref>。 <!--「俳優」は広義には演技者全体を指す名称である{{要出典|date=2021年7月}}。--> <!--意味不明。まともな日本人でも言おうとしている意味が理解不能。{{要検証|しかし、主として歌舞伎俳優の団体である[[日本俳優協会]](歴代会長は全員歌舞伎俳優である)も俳優の名を団体名に冠しており、団体における会員は自らを単に「俳優」と呼称する例もある。|date=2021年7月}}--> == 俳優の種類・分類 == {{出典の明記|date=2020年6月|section=1}} [[File:Lexi Belle at AVN Awards 2011 1.jpg|thumb|200px]] 俳優は、それぞれの特色や得意な分野に着目してキャスティングされたり、ジャンル分けされることがある。しかし、このジャンル分けに明確な基準はなく、流動的である。 === 活動範囲での分類 === 俳優をその主な活動範囲に注目して分類することがあり、「舞台俳優」「映画俳優」「テレビ俳優」「[[ミュージカル]]俳優」などといった分類が行われることがある。 欧米では主に[[コメディ]]映画・ドラマで演技を行う人は[[コメディアン]]と分類されている。 舞台演劇を中心に活動している俳優が舞台俳優である<ref group="注">当該国で一流の「舞台俳優」と認識されている俳優のことを、たまたま日本人がそれを知らず、映画でしか観たことがなく「映画俳優」と誤解していることがある。</ref>。映画俳優とは、もっぱら映画に出演している俳優のことで、米国・[[ハリウッド]]には多数存在する。「テレビ俳優」とはもっぱら劇場公開されない[[テレビドラマ]]ばかりに出演している俳優で、棲みわけのはっきりしている米国では舞台俳優、映画俳優のほかに「テレビ俳優」も区別され成立している。米国では他の職業同様に、俳優業も厳格な契約によって成立しており、映画やテレビの世界では細かな職業分類がなされて法的な権利の確保や職種別の[[労働組合]]活動が行われてきた歴史があり、契約書で書かれたこと以外は一切しない、それをさせたら違法とされ裁判沙汰になるのが通例である。米国の映画俳優は原則的にテレビ広告にも出演しない<ref group="注">日本の俳優が広告にもさかんに出演するのと対照的である。</ref>。 === 性別での分類 === 俳優は男性であることが当然視されていた時代があったので、例外的な女性の俳優を特に女優(じょゆう)と呼び分けていた時代もあった。そして女優が登場した時代以降に、男性の俳優をレトロニムで男優(だんゆう)と呼ぶことも行われた。現在でも俳優の性別に着目して「女優」「男優」という分類がされることもあるが、現代では性差別は良くない、という認識も広まってきているので、そういう呼び分けは避けて性差を強調しない「俳優」という呼び方で首尾一貫して通す場合もある。英語圏でも「actor」をジェンダー中立的な用語として男女問わずに使い、従来の「actor(男優) / actress(女優)」という呼び分けを廃する動きがあるほか、演劇などの分野では男女問わず舞台俳優を「player」と呼ぶ習慣がある。 男性のみの俳優で催す[[歌舞伎]]の場合は「[[立役]]」「[[女形]]」と呼び分けられる。一方、女性のみの俳優で催す[[宝塚歌劇団]]では「[[男役]]」「娘役」がある<ref group="注">主演の男役は「トップスター」、主演の娘役は「トップ娘役」と呼ばれる。</ref>。ただし、例えば[[日本放送協会|NHK]]の場合は、「俳優」と男女差別せずに言及される。なお、日本においては「女優」が女性俳優を指す用語として広く用いられているのに対し「男優」という語が用いられることは少ない。ただし[[アダルトビデオ]]業界では[[AV女優]]、[[AV男優]]と呼ぶ習慣がある。<!--日本語で単に「俳優」と言った場合は男性俳優を指すことが多い{{要出典|date=2021年3月}}。--> === その他の分類 === 様々な分類がありうるが、たとえば[[二枚目]]俳優<ref group="注">対比されるのは、性格俳優、二枚目半俳優、三枚目俳優など。</ref>、[[性格俳優]]、[[喜劇]]俳優、[[悪役]]俳優、アクション俳優、老け役俳優、個性派俳優([[怪優]](かいゆう))、[[子役]]、[[脇役]]俳優、[[端役]]俳優([[端役|チョイ役]]俳優)、[[エキストラ]]俳優、[[スーツアクター]]、プライベートアクター、美人女優、脱ぎ女優、動物俳優などがある。 日本では[[名題#役者の格付|名題役者]]、[[時代劇]]俳優、剣劇俳優、[[大部屋俳優]]などという分類もある。 また俳優はキャリアの長さに応じて、大御所俳優、中堅俳優、駆け出し俳優、新人などに分類されることもある。 [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[映画|洋画]]の[[吹き替え]]などに声だけで出演する俳優は[[声優]]と称される。ただし、俳優でもナレーションなどで顔を出さない作品も存在する。逆に声優でも舞台やテレビ等で顔を出して出演することもあり、線引きが曖昧になっている。 == 仕事の内容と流れ == {{出典の明記|date=2020年6月|section=1}} 職業俳優の業務は、観客に公開することを目的とした劇作品を製作するために、その[[脚本]](シナリオ)に基づき、[[プロデューサー]]・[[演出家]]・[[映画監督]]などの指導・指示の下、共演者や製作スタッフなどと協力して、その上演や撮影にあたって、与えられた[[キャスティング|キャスト]](配役)を演じることにある。 俳優業は、まず自身の役を得ることが、ひとつの大仕事となる。[[ハリウッド]]では一般的に、主要な役はすべて[[オーディション]]によって選ばれる。まずオーディションで選ばれないことには、俳優としての仕事が始まらない。大物俳優もオーディションに応募し、ひとつの役を巡って数倍から数十倍や数百倍におよぶ厳しい倍率の競争を勝ち抜いて役を得る。大物俳優もそうしたオーディションへの応募を年中繰り返すことでひとつひとつ自分の仕事を得ており、それを止めると仕事がパタリと無くなってしまう。 俳優の中には、ある役で高く評価されて人気が出る人も(ごく少数ではあるが)いる。大きく評価を受けた役を「当たり役」と呼ぶ。運よく類似の役が次々と出てくるようなことがあれば、その役を回してもらいやすくなり(指名してもらいやすくなり)、そうした「流れ」のようなものができて役獲得の労苦を免れる日々を人生の一時期過ごす俳優もわずかだがいる。 役を得た後の俳優の仕事の流れは、国・現場の種類・監督などによって異なっている面がある。[[香港映画]]ではしっかりした脚本が存在せず、あくまで監督の心に作品概略やアイディアだけがあり、俳優に事前に脚本が与えられず、主に撮影現場で監督が台詞を(思いつきで)与え、俳優の動作を指示しつつ撮影を進めてゆくことが多い。インド・[[ボリウッド]]では、脚本がしばしば存在せず、撮影現場で監督の思いつきでストーリーが作られ台詞が与えられ、しかもボリウッド映画の定番である集団ダンス・シーンでは、ダンス担当監督が現場で自身の身体を使って手本を一度だけ見せ、主演俳優から多数の脇役(エキストラ・ダンサー<ref group="注">ボリウッドでは、こうした集合シーンのダンサーらは、当日の朝、撮影所で、まるで日雇い人夫が集められるようにかき集められ、撮影現場で踊り、日当を得る。だが、彼らは集合ダンスのプロで覚えがよく、一発でダンスを覚え模倣することができる。</ref>)までが、それを見て一発で見事に模倣し撮影する、ということを次々と繰り返しつつ撮影が進む。日本では、上質の演技を行うために、通常は脚本が事前に渡され、俳優はそれを読み込み、[[役作り]]の上、打ち合わせ・[[稽古]]・[[リハーサル]]などを繰り返すといった膨大な下準備を行い、その上で本番の演技を行う。 {{Seealso|役作り}} 舞台や撮影は一般に、きわめて多人数の人々が携わることによって成立している。一般に俳優ひとりが欠ける(「穴をあける」)だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまう。したがって俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができない。特に舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立する。観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運んでおり、それを裏切るわけにはいかない。また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることが多い。俳優が舞台に穴をあけてしまうようなことをすると、次の仕事が来なくなると言われていたり、俳優を仕事に選んだら「親の死に目にも会えない」と言われていたりする。 == 日本の俳優 == === 歴史 === [[日本]]では[[平安時代]]末期に[[田楽]]や[[猿楽]]という演劇があり、これを演ずる田楽法師や猿楽法師が日本での職業的俳優のはじまりだと考えられている<ref name="britan" />。 その後、[[能]]を演じる能役者が現れた。また、[[江戸時代]]初期には[[歌舞伎]]を演ずる[[歌舞伎#役者|歌舞伎役者]]が現れた<ref name="britan" />。 [[明治|明治時代]]になると[[新派]]や[[新劇]]と呼ばれる新しい演劇ジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの俳優が活躍するようになった<ref name="britan" />。 ==== 昭和 - 平成 ==== {{出典の明記|date=2020年6月|section=1}} [[戦前#日本|戦前]]の大スター・[[月形龍之介]]や、[[阪東妻三郎]]、[[大河内傳次郎]]といった人たちは、[[映画監督]]より圧倒的に立場が上で<ref name="sinsou8011">{{Cite journal |和書 |title = 匿名鼎談 『製作現場で目撃した"スターの驕り"あれこれ』 |journal = [[噂の眞相]] |issue = 1980年11月号 |publisher = 噂の眞相 |page = 59 }}</ref>、監督がいちいち「先生、ここでお"[[クローズアップ|アップ]]"1枚ちょうだいします」と言っていたという<ref name="sinsou8011"/>。 [[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて[[五社協定]]という取り決めがあり、映画会社と専属契約を結んだいわゆる映画俳優は、自社製作の映画以外への出演が制限されるなど、明確に活動範囲を区分されていた。そのため初期の[[大河ドラマ]]は、歌舞伎界や新劇などの俳優に頼らざるを得なかった事情がある。同時期の[[民間放送|民放]]のテレビドラマも同様で、[[海外ドラマ]]を輸入して放送したり、[[テレビジョン放送局|テレビ局]]で制作するドラマには、映画俳優以外の俳優や新人を起用することで対処していた。 [[1970年代]]になり、邦画の斜陽化に伴って五社協定が自然崩壊し、さらには映画会社がテレビドラマの外注先になって[[テレビ映画]]を制作するなど、映画とテレビとの垣根はほぼ消滅した。既にテレビドラマの制作現場では映画俳優に頼らないシステムが確立され、別ジャンルから俳優業に参入するケースは以前より増えた。ただし、テレビドラマにおいては俳優の実力よりも、テレビ局と所属事務所、あるいは番組[[スポンサー]]との関係や、俳優個人の人気すなわち[[視聴率]]を取れるかどうかを重視してキャスティングすることが多く、視聴者が疑問を感じるキャスティングがされる場合もある。 {{いつ範囲|現在の|date=2020年6月}}日本国内においてもっぱら劇場用映画に出演して生活を成り立たせることができる者は皆無に近い。つまり「映画俳優」はほぼいなくなった。 [[1990年代]]以降、テレビ局主導で映画製作が行われるケースも一般的になり、テレビドラマの制作スタイル(俳優業を本業としない者が俳優を兼業するスタイル)の領域も拡大傾向にある。一方で、俳優と名乗りながら[[バラエティ番組]]などで活動している者も多数おり、職業としての俳優という区分は曖昧になりつつある。これについて、映画俳優の設定が確立しているアメリカと違い、拘束時間が長い割に金銭的に恵まれない日本の俳優の環境のちがいの指摘もあるが、俳優個人の価値観や所属事務所の方針の問題も大きい。また、それぞれの出身の職業をあくまで本業としつつ、俳優業を含めて様々な活動を行う者もおり、[[マルチタレント]]と呼ばれる場合がある。これは評価される場合もあるが、否定的な見方をされることも多い。 俳優業は華やかな一面、厳しい世界だと言われている。俳優を志望しても俳優として食べられる(それ自体で生活を維持できる程度の収入を得られる)人はごくわずかで、収入も安定していないため、俳優として食べられるようになる段階に到達する人の数よりも、中途半端な状態で挫折してしまう人の数のほうがはるかに多い。また、一旦ある程度仕事が増えても、そのままずっと俳優でいられる保証はなく、一時的には第一線で活躍していた俳優でもその後はほとんど仕事がない人もいる。 <!-- もし書くなら、印象論を書かず、出典を示して、日本に男性俳優は何人、日本に女優は何人、と具体的な数字を書くべき。{{要検証|date=2021年7月}} {{要出典範囲|俳優の数を性別に分けると男性が多い。|date=2021年7月}}--> ==== 日本における女優の歴史 ==== {{出典の明記|date=2020年6月|section=1}} 日本では、[[歌舞伎]]の創始者といわれる[[出雲阿国]]のように、江戸時代初期には女性が芝居に出演していたが、[[寛永]]年間(1624年 - 1643年)に[[遊女]]歌舞伎が禁止されたため、それ以降女性が芝居に出ることは原則として不可能になった。代わって男性が[[女形]]として女性の役を演じ、この伝統が明治に入っても続いていた。1899年、川上音二郎一座に所属する[[川上貞奴]]が女形の代役として、サンフランシスコ公演にて急遽出演して成功をおさめ、これによって川上貞奴は、「日本初の女優」と呼ばれるようになった。 川上貞奴は1908年、[[渋沢栄一]]などの後援を得て東京・[[芝 (東京都港区)|芝]]に「帝国女優養成所」を開所し、本格的に女優育成の事業を開始した。一期生には[[森律子]]、[[村田嘉久子]]などがいた。 1914年、[[小林一三]]が宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)を設立し、女性が男性役も演じる、女性による歌劇・芝居の形式も誕生した。宝塚歌劇団に所属する女優(女性団員)は「[[タカラジェンヌ]]」(宝塚とパリジェンヌの合成語)と呼ばれている。 <!-- ==== 出身 ==== {{複数の問題 | 出典の明記 = 2014年1月 | 独自研究 = 2014年1月 | section = 1 }} {{Clearleft}} 俳優は同じ舞台や映画、テレビドラマなどで共演するが、それぞれの出身は様々である。[[劇団|劇団員]]、[[歌舞伎#役者|歌舞伎役者]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[歌手]]、[[タレント]]、[[アイドル]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[AV女優]]、[[アスリート|スポーツ選手]]など、様々な職種から俳優業に参入する場合がある。傾向として、{{いつ範囲|近年においては|date=2020年6月}}男女ともにモデル出身者が急増している。特に女性の場合、1980年代後半ごろからモデル出身者が激増している。また、アイドルも冬の時代を迎える直前である1980年代の中盤から増え始め、今やアイドル的な活動はごく初期のうちにとどめ、早々に俳優に転向する者も急増しており、かつては一定数の勢力があった劇団や舞台出身者、子役出身者は特に女優においては主演助演級に限定すれば相当の減少が認められる。 --> == 他 == ;収入 俳優のほとんどは、統計的に見ると、他の職業に比べて平均生涯年収が低い。 ほとんど俳優は、舞台俳優であれ、テレビ俳優であれ、俳優の収入だけでは生活できない。収入の大半は不定期のアルバイトで得ている。しかもほとんどは、テレビ画面などとは関係の無いアルバイトである。俳優の変則的な時間都合を優先するために、勤務の日や時刻の変更が比較的自由なアルバイトが多い。(たとえば[[飲食店]]の皿洗い・配膳・注文受け・簡単な調理。あるいは(男性だと)ちから仕事系の[[引っ越し]]の単発アルバイト、単発で入る店舗売場・オフィス・イベント会場などの什器の運搬や組み立てなどの「軽作業」など。誰からも見られていない仕事が意外に多い。)俳優の仕事を得る可能性を残すために自由度を優先するとアルバイトの種類もそれなりに限られる。必ず決まった曜日の決まった時間帯に年中しなければならないアルバイトというのは、俳優をしたい人にはやりづらい。ハリウッドの俳優や韓国の俳優、その中でも容姿が良いことが「売り」の人の場合は、それを利用して(テレビ画面には出ていないが)[[バーテンダー]]のアルバイトをして生活費を稼ぐパターンもある(これの場合は、一応は「人から見られる」仕事ではある)。 テレビや映画に「ある程度」出演できるようになった俳優でも、実際には収入の主たる部分は、そうしたアルバイトである。テレビや映画に出演している俳優のリストをじっくり見れば分かることだが、たいてい出演者は数十名~数百名ほどおり、そのほとんどはいわゆる「脇役」である。観客は主役級2~3名のことばかり意識して他の(脇役)俳優を忘れてしまったり、意識からほとんど消し去ってしまっているが、俳優をしている側から見ると俳優仲間のほとんどは脇役しかしていないのである。大多数の俳優(脇役しか演じていない俳優)はアルバイトで生活費の大部分を稼いでいる。 「ある程度は出演」のレベルを超えて、「(それなりに)顔が知られている」レベルになっても、俳優は他の芸能界の職業よりも収入が低い。その原因として、1時間のバラエティ番組が、2時間程度で収録できるのに対し、1時間のドラマは撮影に1週間以上かかることや、ミュージシャンや芸人のように自分で自ら企画して仕事をするのが難しいことが挙げられる。 そのため、かなり有名になった俳優ですら、日本の俳優はドラマや映画ではなくコマーシャルのギャラで生活している。 しかし、俳優が何本ものコマーシャルに出演するのは、アジア独自の文化であり、ハリウッドの俳優の多くは、コマーシャルの収入がない。そのため、ごく一部の俳優を除き、日本の俳優より遥かに収入が少なく、大作映画のメインキャストや、地上波ドラマのレギュラーキャストもアルバイトで生計を立てているのが実情である。<ref>{{Cite web|和書|url= https://trilltrill.jp/articles/1843151 |title=マーベル俳優、家賃払えず|publisher=frontrow |accessdate=2021-06-20}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020年6月|section=1}} * [[戸板康二]]『物語近代日本女優史』([[中公文庫]]) [[中央公論社]] 1983 ISBN 4122010691(「日本における女優の歴史」参考文献) == 関連項目 == {{Commonscat|Actors}} {{Commonscat|Actresses|女優}} * [[:Category:各国の俳優]] ** [[日本の男優一覧]] ** [[日本の女優一覧]] * [[劇団]] * [[大根役者]] * [[女優 (曖昧さ回避)]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいゆう}} [[Category:俳優|*]] [[Category:演劇]] [[Category:テレビドラマ]] [[Category:芸能関連の職業]]
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インド
インド(ヒンディー語: भारत、英語: India) またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India) は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。 インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。 1947年に大英帝国から独立。世界第一位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。 インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第1位の人口を持つ国である。14億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。国際連合(UN)の予測では、総人口は2023年に中華人民共和国を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている。 南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラデシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。 インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。 初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。 2022年、インドの経済は国内総生産(GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、購買力平価(PPP)では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。 ヒンドゥー教徒が最も多く、ムスリム(イスラム教徒)、シーク教徒がこれに次ぐ。カースト制度による差別はインド憲法で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル - 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している。 連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は約9億人である。 州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉) を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった。 インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。 バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。 英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった。 「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した。 イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。 1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている。 紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。 インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。 前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年ごろ、カリンガ戦争でカリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。 ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。 これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、中国の唐から玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ僧院で学び、657部の仏典を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア各地のパガン仏教寺院、アンコール仏教寺院、ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。 10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。 11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、南インドでは、10世紀後半ごろからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は北宋)との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。 13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。 14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後にムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。 14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。 16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、第6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国、メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国(1686年滅亡)とゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。 アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。 ヨーロッパ諸国が大航海時代に入り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年 - 1961年)を築いた。 1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 - 1869年)を獲得。1623年のオランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。 一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権、Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した。 1833年、ベンガル総督は、その職にあったウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称された。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン(英語版)がカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始した。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われ、三角貿易体制が形成された。そしてこのころにタタ財閥やバンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。 インド大反乱(1857 - 1858年)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡させた(1858年)。その後、旱魃によるオリッサ飢饉、ラージプーターナー飢饉、ビハール飢饉(英語版)、大飢饉(英語版)が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。 1870年代から1890年代にかけて、4,000万人近いインド人が相次いで飢饉で命を落とした。歴史家のニール・ファーガソンによれば、「飢餓の窮状に対する無能、怠慢、無関心の明らかな証拠がある」というが、植民地行政はただ受動的であっただけで、直接的な責任はない。それどころか、ジャーナリストのヨハン・ハリ氏は、「イギリスは飢饉の間、何もしなかったどころか、事態を悪化させるために多くのことをした」と言う。当局は、インド国内で何百万人もの死者が出ていることを気にすることなく、大都会への輸出を奨励し続けたことだろう。歴史学者で政治活動家のマイク・デービスも、飢饉の時に「ロンドンがインドのパンを食べていた」という説を支持している。さらに、ロバート・リットン総督は、「不摂生」「労働能力なし」と言われることもある飢えた人々への援助を禁止した。被災していない地域の新聞は、飢饉のことをできるだけ報道しないようにと指示された。マイク・デイビスによれば、リットン卿は、「自由主義経済に固執することで、インドの人々を曖昧に助けている」という考えに導かれていたという。 イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。 イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。 1905年の日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年に始まった第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして、英印軍が参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。 1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、ヒラーファト運動とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、全インド労働組合会議やインド共産党が活動するようになった。 1930年にはインド自治のあり方を検討するための英印円卓会議(英語版)が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求めるジャワハルラール・ネルーが台頭してきた。また、再起したガンディーによる塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した。 1939年に始まった第二次世界大戦においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争において、有色人種国家である日本の軍隊が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に大打撃を与えて(インド洋作戦)インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したスバス・チャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「インドを立ち去れ運動(英語版)」を展開していたが、ファシズムとの闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本側が反日的だと見なしていたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった。 1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、ソ連と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった。また、1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こり、国内の宗教間対立も激化した。 第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンとインド連邦は分離独立した。両国は、独立直後の10月にカシミール帰属問題から印パ戦争を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めている。 インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。 1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。 インドは政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、独立時の英連邦王国から1950年1月26日に共和制に移行した。 憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、一党優位政党制となっていた。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかなかった。1954年、フランス領インドが返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年に中印国境紛争が勃発し、アクサイチンを失った。 1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリーも1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った。 東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとはカシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドがともに東パキスタンを支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立や米国ニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定でバングラデシュ独立をパキスタンが承認した。 1974年5月18日、核実験(コードネーム「微笑むブッダ」)が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。 1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義 共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したため平和維持軍を派遣した。 1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラの自爆テロでラジーヴも暗殺された。後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化(英語版)によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた。1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドがヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。 1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。 1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ」を突如実施。核保有国であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。 2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した。同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。 2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。 連邦下院の総選挙が2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方、最大野党インド人民党(BJP)は116議席にとどまった。 2014年5月開票の総選挙ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。 インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法は1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。 2019年インド総選挙では、インド人民党が過半数の議席を獲得した。党の基盤となっているのが、国父ガンジーの暗殺者、ナトラム・ゴドセを輩出したヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体民族義勇団(RSS)であり、党首のナレンドラ・モディもこのRSSの元活動家である。 国連人権審査は、人民党が人権活動家、ジャーナリスト、平和的なデモ参加者を訴追しており、イスラム教徒や宗教的少数派への攻撃とその為の扇動、差別、ヘイトスピーチを発生させているとして警告している。 国家元首は大統領。実権はなく、内閣(Union Council of Ministers)の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。 副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。 行政府の長は首相であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。 議会は両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。 上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians、イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。 任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。 なお、インドは民主的なプロセスを経て選挙が行われている国の中で世界最大の人口を誇る。そのためしばしば「世界最大の民主主義国家」と呼ばれることがある。 司法権は最高裁判所と高等裁判所の2ヶ所に委ねられている。 独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。 カシミール地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)、現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領となっている。中国の実効支配地域にはレアメタルが埋蔵されている。 これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は、中国との間で中印国境紛争があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。 近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。 1903年に日印協会が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。 1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある 1957年5月24日、インドを訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ジャワハルラール・ネルーは、日露戦争における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情に重きを置くからにほかならない」と演説した。 チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が基礎となって独立戦争を戦ったインドは、その過程での日本との関わりから、東京裁判史観に否定的であり、1994年に駐日インド大使館の協力で日本の取材班が訪印し、インドの識者に対して、日本の戦争賠償や戦争犯罪に対する告発に賛成しなかったラダ・ビノード・パールの評価を尋ねたところ、インド教育省(英語版)事務次官だったP.N. チョプラ博士は、ラダ・ビノード・パールはインド政府の立場を十分に説明しており、過去と現在を問わずインド政府は全てのインド人とともにラダ・ビノード・パールの判決を支持しており、インド政府が公式に東京裁判史観否定の立場をとっていることを明らかにした。 広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどである。また、1970年代ごろからは、日本プロレス界でインド出身のタイガー・ジェット・シンが活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。 2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。日本政府は「価値観外交」を進め、2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された。日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日 - 26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。 2011年8月1日に日本・インド経済連携協定が発効した。2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された。2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した。 17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。 イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。 しかし、非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。 第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。 インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスター、レスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。 インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。 冷戦期は非同盟中立(実態は旧ソ連寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。 また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。 一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。 英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。 アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝である。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もある。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。 アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万 - 200万人ほどいると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。 また、アイビー・リーグなどのアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトしたりするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、アメリカ合衆国移民・関税執行局 (ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM)分野を学んでいる。 また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られない。強いて言うならばアメリカ同時多発テロの際にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。 インドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、様々な分野にわたって提供しているという。インド工業連盟(CII)は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業、エネルギー、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画、メディア、エンターテインメント、小売り、金融と活用されている分野を挙げた。 オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるため多くが留学・移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民しており、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行くことを選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。 2005年ごろからオーストラリアの若者たちがレバノン人を暴行する事件が相次ぎ、2007年ごろからインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。インド人学生に対する暴行は、おもにメルボルンやシドニーなどオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング」だった。相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交問題にまで発展した。ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。 古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の法顕、玄奘、義浄らを通じ、交流があった。植民地時代は三角貿易でつながり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟)を掲げ、非共産圏ではビルマに次いで中華人民共和国を国家承認して最初に大使館を設置した国であった。平和五原則で友好を深めようとするも、1950年代以降は中印国境紛争や、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府をインドが中華人民共和国から匿い、パキスタンを印パ戦争で中華人民共和国が支援したことで冷戦時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。 しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認め、中印国境紛争以来64年ぶりに国境貿易を再開する合意を交わした。さらに中華人民共和国の主導する上海協力機構に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。経済面では2014年に中華人民共和国はインド最大の貿易相手国にもなった一方、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた中国人民解放軍にインド側の塹壕を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こったりするなど、いまだに国境問題は解決されていない。 宗教の違いや度重なる国境紛争で独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪く、互いに核兵器を向けてにらみ合っている。近年もムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には2国間貿易の規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。 2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意したほか、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた。しかし、カシミールをめぐっては対立を続けており、空中戦(バーラーコート空爆)や双方の砲撃と銃撃戦も起き両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている。 ロシアとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客となっている。 インド軍は、インド陸軍、インド海軍、インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府(Government of India)のトップ(政府の長)である首相(Prime Minister of India)が有している。インド軍の管理・運営は国防省(Ministry of Defence)・国防大臣(Minister of Defence)が担当する。 インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5,000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事組織は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別辺境部隊(1万人)である。以前は準軍事部隊とされた国境警備部隊、中央予備警察などを含む中央武装警察隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。 グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願兵制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度もない。 近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM、SLBM、戦略爆撃機(先述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。また、最近では武器そのものの国産化を目指す動きが強くなっており、2023年時点での共和国記念日に開催された軍事パレードにおいては国産化へのシフト変更傾向が現れているとの指摘がされている。 インドは10の民兵組織を維持している。 パキスタン、中華人民共和国(中国)、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。 中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州とシッキム州北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部、マニプル州、ミゾラム州、ナガランド州東部と接している。 インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロメートルの海岸線を持つ。多くの地域では雨季が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インドと中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。 インドの発展が遅れた主因は水不足であった。インド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州や西ガーツ山脈では1万ミリメートル以上であり、シンド州の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は、灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す。 広大な国土を持つため、地域により気候は大きく異なる。雨季には大きな洪水が発生するほどの豪雨がある地域も多い。2016年5月19日には西部ラジャスタン州ファロディで最高気温が51°Cを記録し、1956年に同州アルワルで観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6°Cを60年ぶりに更新した。 バラナシやタージマハルのあるアーグラーが属する北インド平野では5月が最も気温が高くなり、45°Cを超すこともある。3月下旬から9月下旬までは厳しい暑さが続き、特に4月から6月は酷暑となる。7月から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月中旬から1月下旬にはショールが必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州エリアは典型的な砂漠気候で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月ごろは特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい。 南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20°C超、普段は30 - 35°C程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生してムンバイのような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インドでもベンガルールは標高が800メートルある高原であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まるIT都市として発展したほどである。 コルカタや東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40°C近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある。 年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い。 冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラーやダージリンは他地方が酷暑の時期に避暑地となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い。 インドは28の州と8つの連邦直轄領から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール連邦直轄領、ラダック連邦直轄領はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、アルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている。 多くの少数民族や先住民を抱える民主主義国家であることから、州の分割を求める動きは繰り返し発生し、世論を二分してきた。実際に分割に至った州もあり、2000年には中部と北部、東部で3州が新たに誕生した。14年にも南東部アンドラプラデシュ州の一部がテランガナ州として分割となった。 インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 - 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率を達成している。 インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。 貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が国内総生産(GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維などである。輸入は原油・石油製品、金、機械製品などである。 世界銀行によると、インドのGDPは2021年には3兆1,700憶ドルであり、世界で5番目に大きな経済である。 またインドのGDP PPPは8.6兆であり、アメリカと中国に次ぐ3番目に大きな経済となる。 2030年代には15億人を超え、2050年には16.6億人になると予想されている。 農業をはじめとする第一次産業は世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった。米の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万ヘクタール あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が経済成長率に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。 農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たない零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の経済連携協定であるRCEP交渉から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した。 穀物収穫面積の約4割が水田であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 - 2013年に世界一を記録した。小麦も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない。2003年時点で砂糖、魚介類、野菜・果実は完全自給できている。大豆の自給率が96パーセントであった。綿花は植民地時代からデカン高原で栽培されており、糸車をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶も同様である。鶏卵生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏は国内需要の高い鶏肉の生産量を向上させている。インドでは牛が宗教上神聖な動物とされており、牛乳の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった。カシューナッツ、マンゴー、ココナッツ、生姜、ウコンと胡椒、ジュート、落花生なども生産している。 灌漑はムガル帝国時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、アスワンダム建設に経験が活かされた。 1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 - 2000年の間に化学肥料の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナーという北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない。 デルタが多いベンガル地方は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラのパンデミックの震源となった。カルカッタは西のフーグリー川と東の塩湖に囲まれ、かつては海抜10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった。 鉱業は後述の化石燃料のほか、インド・ウラン公社がウランやトリウムを採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される。現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。 インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした。経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている 。 製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープやバジャージ・オート、ホンダなどが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、タタ・モーターズ、マヒンドラ&マヒンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーのほか、スズキやルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。造船、航空機製造も成長の兆しを見せている。 石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な天然ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGCが国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。 製薬産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。 IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドはアフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。ソフトウェアや金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。 ソフトウェア産業 近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、インド工科大学やインド科学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。 情報サービス業 1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している。 当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティングなどの高度なサービス提供によって差別化を図っている。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている。 こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている。 小売業は大型店や電子商取引も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。 医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの医療観光ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。 他の部門ではバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、通信、観光が高成長の兆しを見せている。 ジム・コーベット国立公園やハワー・マハル、アンベール城を始めとした数多くの名所を抱えている。 高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー、コルカタ、チェンナイ、ムンバイを結ぶ延長約5,800キロメートルの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7,300キロメートルの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、ところどころに料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十キロメートル郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。 インドの鉄道は国有(インド鉄道)であり、総延長は6万2,000キロメートルを超えて世界第5位である。現在では鉄道が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う(例としてムンバイ、デリー間では、飛行機の外国人料金が6,000ルピーなのに対し、二等の寝台列車は400ルピーである)。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。 インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。 以下の鉄道は公社化されている。 かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社(LCC)が多数設立され、それにあわせて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。 航空会社としては以下のものがある。 首都のニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港をはじめ、各地に空港がある。インド政府は、地方都市の割安な航空路線を支援するUDANという制度を設けている。滑走路を備えた空港を整備できない地域も多く、2020年10月末には、グジャラート州アーメダバードとその南東200キロメートルにあるケバディアを結ぶ、インド初の水上飛行機による定期便が就航した。 チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてインド宇宙研究機関(ISRO)による5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した。 2013年11月5日、最初の火星探査機打ち上げに成功した。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった。 2023年国勢調査の人口は14億2000万人 であり、総人口は世界第2位の中華人民共和国(14億1,000万人)より僅かに多く、世界第1位である。 インドの人口は1950年以降、毎年1,000万から1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加すると考えられており、2023年に中国を追い抜き、世界一の人口を擁する国となった。ただし、2030年代以降は毎年500万から700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。 インドは増える若年層に十分な雇用や生活インフラを提供できておらず、地域間の出稼ぎも多い。このため一部の州は、子供が2人以下の世帯を経済的に優遇するなど人口抑制策をとっている。インド全体の人口増加率は、1971年から2001年までに、2%台から1%台の1.97%に下落している。 インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。 大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。 Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。 ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。 インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。 インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。 方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。 植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。 1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を母語にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。 インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。 ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。 インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。 1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりとともに、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。 インド憲法第343条1項により、連邦公用語はデーヴァナーガリー文字で書かれたヒンディー語と定められている。 多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進めるうえで、また実際に行政運営を行ううえで言語は常に重要な位置を占める。独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があり、それが反映された。憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府は折につけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。 それ以外にもインド憲法の第8付則では22言語が列挙され、「指定言語」(Scheduled languages) や「第8付則言語」と呼ばれる)。 これら22言語は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。たとえば、サンスクリット語やシンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。 公的に認定された言語 第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示す。英語は全ての地方の公用語となっている。 連邦首都圏と連邦直轄領 インドにおける結婚式は、地方や宗教、地域社会によって異なる面がある。また、その違いには新郎新婦の個人的な嗜好も絡んで来る場合がある 。 インドは年間約1,000万件の結婚式を祝っており 、その内の約80%がヒンドゥー教の結婚式(英語版)で占められている。 一方で、インドは児童婚大国の1国と見做されるほど、児童婚が広く蔓延している現状がある。児童婚の程度と規模については、情報源の間で推定が広く異なっている。例えばUNICEFによる2015年から2016年の報告書はインドの児童婚の割合を27%であると推定した。 また幾つかの州では結婚を遅らせようとするインセンティブを導入している。 インドにおける姓は、地域毎に異なる様々な制度と命名規則に基づく形で成立している。名前は宗教やカーストの影響も受け、宗教や叙事詩から引用される場合もある。 2002年の憲法改正および、2009年の無償義務教育権法により、6 - 14歳の子どもに対する初等教育の義務化、無償化が図られている。後期中等教育(日本の高等学校に相当)は2年制と4年制に分かれている。高等教育を受けるために大学へ進学するには、4年制の高校で学ぶ必要がある。インドの学校は日本などと同じ4月入学を採用している。 インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある英語の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育から教授言語が英語である。インドの私立学校では初等教育から英語で教育が行われている。 インドの人口に占める各宗教の割合はヒンドゥー教徒79.8パーセント、イスラム教徒14.2パーセント、キリスト教徒2.3パーセント、シク教徒1.7パーセント、 仏教徒0.7パーセント、ジャイナ教徒0.4パーセント(2011年国勢調査)。また、『ブリタニカ国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72パーセント、イスラム教徒11.96パーセント、キリスト教徒6.08パーセント、シク教徒2.16パーセント、仏教徒0.71パーセント、ジャイナ教徒0.40パーセント、アイヤーヴァリ教徒0.12パーセント、ゾロアスター教徒0.02パーセント、その他1.44パーセントである。 ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目である。 ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制などを特徴とする宗教である。 世界最大の党員数(一億人以上)を有するインド人民党(BJP)の母体となっているのが、ヒンドゥー至上主義団体民族義勇団であり、党首のナレンドラ・モディも同団体出身者である。RSSやモディ政権によるインドと国内外における非ヒンドゥー教徒などへの弾圧が問題化している。 ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀 - 前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。 仏教発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。 1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。 一説では、東南アジア・東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。 1956年、インド憲法起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民とともに仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。 ラダック連邦直轄領、ヒマーチャル・プラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。 16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。 イスラム教徒(ムスリム)もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。インドネシア、パキスタンについで、インドは世界第3位のムスリム人口を擁する。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。 インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀に北インド(合同)教会(Church of North India)、南インド(合同)教会などが起こった。 サーサーン朝の滅亡を機にイスラム化が進んだイランでは、ゾロアスター教徒の中にはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。 現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad MehtaとKetan Parekh、金融インフラSatyam スキャンダル、Chain Roop Bhansali のミューチュアル・ファンド、複合企業主のSubrata Roy、Saradha Group の金融スキャンダル、NSEL をめぐる金融犯罪、石炭割当をめぐる政治スキャンダル、2G周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズに募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着。2016年4月から12月にかけてインド準備銀行が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行が最大件数となり、SBIホールディングス、スタンダード・チャータード銀行、HDFCが順に続いた。 2004年から高度成長期に入り、2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 - 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった。世界銀行によれば、貧困率(一日2.15ドル未満で暮らしている人の割合)は、1993年には47.6%であったが、2004年には39.9%となり、2019年には10%にまで低下している 。 2019年に行われた独立系の反汚職組織の調査では、過去1年の間、賄賂を支払った経験があるとする国民は少なくとも2人に1人の割合になると報告された。特に汚職が著しいのは不動産登記や土地問題の分野で、4分の1以上が関連当局に支払ったと回答した。警察が19%で、税務当局、運輸関連や自治体関連企業などが後に続いた 。 電力の供給能力は経済成長に追いつけず、日常的に停電が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。 インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の大気汚染が起きており、2018年時点で世界保健機関によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである。大気汚染対策として二輪車および三輪タクシーなどの電気自動車化を推し進めている。インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合(EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。 インドではトイレを持たない家庭も多く、政府は屋外排泄行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている。 インドは長い間、テロの被害を受け続けている。インド政府内務省によると、インド国内のいくつかの州は戦闘行為やナクザリズム(ヒンディー語版)の影響を受けており、特にジャンムー・カシミール州、オリッサ州、チャッティースガル州、ジャールカンド州、および北東部の7つの姉妹州が危険な状況に見舞われている。2012年には、国内640地区のうち少なくとも252地区が程度の差こそあれ、反政府勢力やテロ活動の被害に遭っていた。 印僑は華僑、ユダヤ人、アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI=印僑)は、インド外務省によれば、2,500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカのタンザニアや、ケニア、モーリシャス、南アメリカのガイアナ、西インド諸島のトリニダード・トバゴ、オセアニアのフィジーなどが挙げられる。 インドは現時点において着実な経済発展を遂げており社会情勢は全般的に安定しているが、それに反して都市部では人口の集中、失業者の増大、貧富差の拡大を背景として一般犯罪の発生件数が増加傾向にある。主な犯罪として窃盗や強盗、詐欺、強姦などが多発しており、同国に滞在する際には充分な注意が必要となる。 他方では宗教間対立や多民族といった複雑な国内事情もあり、過激派組織が活動している点からテロ事件も発生していて危険性が高まっている現状がある。 インド警察庁(英語版)(IPS)が主体となっている。 少数派への迫害、下位カーストへの暴力が後を絶たない。 パキスタンとの係争地で実効支配を続けるジャム・カシミール州では分離運動もありインド軍による拷問、暴力が報告されている。 1992年~1993年の統計データによると、インドで女性が世帯主となっている世帯はわずか 9.2% となっている。しかし、貧困線以下の世帯の約 35% は女性が世帯主であることが判明した。 インドには500を超える衛星放送チャンネル(内80以上はニュース専用チャンネル)、約7万社の新聞社が存在し、同時に毎日1億部以上が売られる世界最大の新聞市場を抱えている。 現在インドには約1000紙のヒンディー語の日刊紙が存在し、総発行部数は約8千万部となっている。第二言語である英字紙は、日刊紙の数で見ると約250紙あり、総発行部数は約4千万部となっている。影響力のあるヒンディー語新聞にはDainik Jagranや Dainik Bhaskar、Amar Ujala、Devbhumi Mirror、Navbharat Times、Hindustan Dainik、Prabhat Khabar、Rajasthan Patrika,Dainik Aajがある。 ラジオ放送は1927年に開始されたが、1930年には国家の責任に限られるようになった 1937年に全印ラジオと命名され、1957年からはAkashvaniとも呼ばれるようになった。テレビ番組は放送期間を限定しながら1959年に始まり、1965年に完全に放送を開始した。1991年の経済改革以前、インド国内では情報・放送省が、テレビ局であるドゥールダルシャンを含む視聴覚機構を所有・管理していた インドの国民の祝日(National Holidays)は以下の3日である。 このほかに全国的な行事(Gazetted Holidays)と、州ごとに異なる地方的行事(Restricted Holidays)をあわせた年中行事が数百あり、それぞれがひとつないし複数の宗教と関係がある。日付は宗教ごとに決まった暦を使用するため、大部分は移動祝日になる。主要な行事には以下のものがある。 クリケットはインド国内で最も人気のスポーツとなっている。最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、ボリウッド映画より人気が高いと評される。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。歴史的には1700年代後半にイギリスの植民地主義者の好意によってインドに伝わり、1792年にインドで最初のクラブであるカルカッタ・クリケットクラブが設立された。イギリス領インド帝国時代には、マハーラージャであるランジットシンジがケンブリッジ大学を卒業し、クリケット選手として大きな功績を残した。インドのクリケットの発展・普及に大きく貢献したことから、「インドクリケットの父」と呼ばれている。 ナショナルチームのインド代表は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップで2度の優勝(1983年、2011年)、ICC T20ワールドカップで1度の優勝(2007年)、ICCチャンピオンズトロフィーで2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には国際クリケット評議会が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した。 インドクリケット管理委員会(BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。またトゥエンティ20ルールのプロリーグであるインディアン・プレミアリーグ(IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。IPLの1試合当たり放映権料では約11億4000万ルピー(約20億円)であり、サッカーのプレミアリーグを超えている。女子クリケットも急速に普及しており、2023年には女子プレミアリーグ(WPL)が開幕した。 インドを代表する歴代の選手では、「クリケットの神様」とも評されるサチン・テンドルカールが挙げられる。その高い功績からマザー・テレサも受賞歴のあるバーラト・ラトナ賞をスポーツ界の人物として初受賞した。ランジットシンジ、スニール・ガヴァスカール、カピル・デヴ、ラーフル・ドラヴィド、マヘンドラ・シン・ドーニも歴代のインドクリケット界を代表する選手である。ヴィラット・コーリは2010年代から2020年代におけるインドを代表する選手である。2020年に国際クリケット評議会より、過去10年間における世界最優秀選手賞を受賞した。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、インド映画のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い著名人に選出された。コーリは2023年にInstagram公式アカウントのフォロワー数がアジア人として史上初の2億5000万を超えた。 イギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーも盛んであり、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金8個・銀1個・銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年より『プレミア・ホッケーリーグ』があり、テレビ中継も開始されている。 インド国内では近年サッカーの人気が若者を中心に急上昇しており、クリケットに次ぐ地位を得ている。2014年にプロサッカーリーグのインディアン・スーパーリーグが、かつて欧州主要リーグで活躍し晩年を迎えた選手を、助っ人として次々とリーグに参戦させ華々しく開幕した。国際的なスポーツマン・芸能人のマネージメントを引き受けるIMGや、インド最大のエンターテインメント企業であるSTARとのタイアップを図ることで、国技であるクリケットに次ぐインド国民が熱狂する「スポーツエンターテインメント」の確立を目指している。 全インドサッカー連盟(AIFF)によって構成されるサッカーインド代表は、FIFAワールドカップには未出場(1950年大会は予選通過するも、本大会は出場辞退)であるが、AFCアジアカップには4度の出場歴があり1964年大会では準優勝に輝いている。また、南アジアサッカー選手権では大会最多8度の優勝を誇る。AFCチャレンジカップでは2008年大会で初優勝を飾っている。 2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まっていき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。 2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤが、インド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。 インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー(英語版)、ギリ・ダンダ(英語版)なども全国で広く競技されている。さらにインド南部ケララ地方古来の武術であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライ(英語版)も行われている。2008年の北京五輪の男子エアライフルではアビナブ・ビンドラー(英語版)が優勝し、同国で個人競技として初めての金メダルを獲得した。また、近年ではテニスもデビスカップインド代表の活躍もあって、急速に人気を博している。他方で、競馬などのスポーツも存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "インド(ヒンディー語: भारत、英語: India) またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India) は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1947年に大英帝国から独立。世界第一位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第1位の人口を持つ国である。14億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。国際連合(UN)の予測では、総人口は2023年に中華人民共和国を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラデシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年、インドの経済は国内総生産(GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、購買力平価(PPP)では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教徒が最も多く、ムスリム(イスラム教徒)、シーク教徒がこれに次ぐ。カースト制度による差別はインド憲法で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル - 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は約9億人である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉) を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年ごろ、カリンガ戦争でカリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、中国の唐から玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ僧院で学び、657部の仏典を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア各地のパガン仏教寺院、アンコール仏教寺院、ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、南インドでは、10世紀後半ごろからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は北宋)との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後にムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、第6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国、メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国(1686年滅亡)とゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ諸国が大航海時代に入り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年 - 1961年)を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 - 1869年)を獲得。1623年のオランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権、Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1833年、ベンガル総督は、その職にあったウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称された。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン(英語版)がカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始した。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われ、三角貿易体制が形成された。そしてこのころにタタ財閥やバンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "インド大反乱(1857 - 1858年)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡させた(1858年)。その後、旱魃によるオリッサ飢饉、ラージプーターナー飢饉、ビハール飢饉(英語版)、大飢饉(英語版)が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1870年代から1890年代にかけて、4,000万人近いインド人が相次いで飢饉で命を落とした。歴史家のニール・ファーガソンによれば、「飢餓の窮状に対する無能、怠慢、無関心の明らかな証拠がある」というが、植民地行政はただ受動的であっただけで、直接的な責任はない。それどころか、ジャーナリストのヨハン・ハリ氏は、「イギリスは飢饉の間、何もしなかったどころか、事態を悪化させるために多くのことをした」と言う。当局は、インド国内で何百万人もの死者が出ていることを気にすることなく、大都会への輸出を奨励し続けたことだろう。歴史学者で政治活動家のマイク・デービスも、飢饉の時に「ロンドンがインドのパンを食べていた」という説を支持している。さらに、ロバート・リットン総督は、「不摂生」「労働能力なし」と言われることもある飢えた人々への援助を禁止した。被災していない地域の新聞は、飢饉のことをできるだけ報道しないようにと指示された。マイク・デイビスによれば、リットン卿は、「自由主義経済に固執することで、インドの人々を曖昧に助けている」という考えに導かれていたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1905年の日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年に始まった第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして、英印軍が参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、ヒラーファト運動とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、全インド労働組合会議やインド共産党が活動するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1930年にはインド自治のあり方を検討するための英印円卓会議(英語版)が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求めるジャワハルラール・ネルーが台頭してきた。また、再起したガンディーによる塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1939年に始まった第二次世界大戦においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争において、有色人種国家である日本の軍隊が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に大打撃を与えて(インド洋作戦)インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したスバス・チャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「インドを立ち去れ運動(英語版)」を展開していたが、ファシズムとの闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本側が反日的だと見なしていたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、ソ連と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった。また、1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こり、国内の宗教間対立も激化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンとインド連邦は分離独立した。両国は、独立直後の10月にカシミール帰属問題から印パ戦争を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "インドは政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、独立時の英連邦王国から1950年1月26日に共和制に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、一党優位政党制となっていた。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかなかった。1954年、フランス領インドが返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年に中印国境紛争が勃発し、アクサイチンを失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリーも1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとはカシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドがともに東パキスタンを支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立や米国ニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定でバングラデシュ独立をパキスタンが承認した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1974年5月18日、核実験(コードネーム「微笑むブッダ」)が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。 1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義 共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したため平和維持軍を派遣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラの自爆テロでラジーヴも暗殺された。後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化(英語版)によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた。1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドがヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ」を突如実施。核保有国であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した。同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "連邦下院の総選挙が2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方、最大野党インド人民党(BJP)は116議席にとどまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2014年5月開票の総選挙ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法は1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2019年インド総選挙では、インド人民党が過半数の議席を獲得した。党の基盤となっているのが、国父ガンジーの暗殺者、ナトラム・ゴドセを輩出したヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体民族義勇団(RSS)であり、党首のナレンドラ・モディもこのRSSの元活動家である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "国連人権審査は、人民党が人権活動家、ジャーナリスト、平和的なデモ参加者を訴追しており、イスラム教徒や宗教的少数派への攻撃とその為の扇動、差別、ヘイトスピーチを発生させているとして警告している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "国家元首は大統領。実権はなく、内閣(Union Council of Ministers)の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "行政府の長は首相であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "議会は両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians、イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお、インドは民主的なプロセスを経て選挙が行われている国の中で世界最大の人口を誇る。そのためしばしば「世界最大の民主主義国家」と呼ばれることがある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所と高等裁判所の2ヶ所に委ねられている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "カシミール地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)、現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領となっている。中国の実効支配地域にはレアメタルが埋蔵されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は、中国との間で中印国境紛争があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1903年に日印協会が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1957年5月24日、インドを訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ジャワハルラール・ネルーは、日露戦争における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情に重きを置くからにほかならない」と演説した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が基礎となって独立戦争を戦ったインドは、その過程での日本との関わりから、東京裁判史観に否定的であり、1994年に駐日インド大使館の協力で日本の取材班が訪印し、インドの識者に対して、日本の戦争賠償や戦争犯罪に対する告発に賛成しなかったラダ・ビノード・パールの評価を尋ねたところ、インド教育省(英語版)事務次官だったP.N. チョプラ博士は、ラダ・ビノード・パールはインド政府の立場を十分に説明しており、過去と現在を問わずインド政府は全てのインド人とともにラダ・ビノード・パールの判決を支持しており、インド政府が公式に東京裁判史観否定の立場をとっていることを明らかにした。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどである。また、1970年代ごろからは、日本プロレス界でインド出身のタイガー・ジェット・シンが活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。日本政府は「価値観外交」を進め、2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された。日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日 - 26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2011年8月1日に日本・インド経済連携協定が発効した。2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された。2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "しかし、非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスター、レスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "冷戦期は非同盟中立(実態は旧ソ連寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝である。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もある。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万 - 200万人ほどいると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、アイビー・リーグなどのアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトしたりするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、アメリカ合衆国移民・関税執行局 (ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM)分野を学んでいる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られない。強いて言うならばアメリカ同時多発テロの際にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "インドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、様々な分野にわたって提供しているという。インド工業連盟(CII)は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業、エネルギー、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画、メディア、エンターテインメント、小売り、金融と活用されている分野を挙げた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるため多くが留学・移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民しており、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行くことを選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2005年ごろからオーストラリアの若者たちがレバノン人を暴行する事件が相次ぎ、2007年ごろからインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。インド人学生に対する暴行は、おもにメルボルンやシドニーなどオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング」だった。相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交問題にまで発展した。ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の法顕、玄奘、義浄らを通じ、交流があった。植民地時代は三角貿易でつながり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟)を掲げ、非共産圏ではビルマに次いで中華人民共和国を国家承認して最初に大使館を設置した国であった。平和五原則で友好を深めようとするも、1950年代以降は中印国境紛争や、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府をインドが中華人民共和国から匿い、パキスタンを印パ戦争で中華人民共和国が支援したことで冷戦時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認め、中印国境紛争以来64年ぶりに国境貿易を再開する合意を交わした。さらに中華人民共和国の主導する上海協力機構に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。経済面では2014年に中華人民共和国はインド最大の貿易相手国にもなった一方、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた中国人民解放軍にインド側の塹壕を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こったりするなど、いまだに国境問題は解決されていない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "宗教の違いや度重なる国境紛争で独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪く、互いに核兵器を向けてにらみ合っている。近年もムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には2国間貿易の規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意したほか、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた。しかし、カシミールをめぐっては対立を続けており、空中戦(バーラーコート空爆)や双方の砲撃と銃撃戦も起き両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ロシアとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "インド軍は、インド陸軍、インド海軍、インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府(Government of India)のトップ(政府の長)である首相(Prime Minister of India)が有している。インド軍の管理・運営は国防省(Ministry of Defence)・国防大臣(Minister of Defence)が担当する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5,000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事組織は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別辺境部隊(1万人)である。以前は準軍事部隊とされた国境警備部隊、中央予備警察などを含む中央武装警察隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願兵制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度もない。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM、SLBM、戦略爆撃機(先述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。また、最近では武器そのものの国産化を目指す動きが強くなっており、2023年時点での共和国記念日に開催された軍事パレードにおいては国産化へのシフト変更傾向が現れているとの指摘がされている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "インドは10の民兵組織を維持している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "パキスタン、中華人民共和国(中国)、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州とシッキム州北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部、マニプル州、ミゾラム州、ナガランド州東部と接している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロメートルの海岸線を持つ。多くの地域では雨季が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インドと中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "インドの発展が遅れた主因は水不足であった。インド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州や西ガーツ山脈では1万ミリメートル以上であり、シンド州の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は、灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "広大な国土を持つため、地域により気候は大きく異なる。雨季には大きな洪水が発生するほどの豪雨がある地域も多い。2016年5月19日には西部ラジャスタン州ファロディで最高気温が51°Cを記録し、1956年に同州アルワルで観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6°Cを60年ぶりに更新した。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "バラナシやタージマハルのあるアーグラーが属する北インド平野では5月が最も気温が高くなり、45°Cを超すこともある。3月下旬から9月下旬までは厳しい暑さが続き、特に4月から6月は酷暑となる。7月から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月中旬から1月下旬にはショールが必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州エリアは典型的な砂漠気候で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月ごろは特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20°C超、普段は30 - 35°C程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生してムンバイのような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インドでもベンガルールは標高が800メートルある高原であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まるIT都市として発展したほどである。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "コルカタや東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40°C近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラーやダージリンは他地方が酷暑の時期に避暑地となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "インドは28の州と8つの連邦直轄領から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール連邦直轄領、ラダック連邦直轄領はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、アルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "多くの少数民族や先住民を抱える民主主義国家であることから、州の分割を求める動きは繰り返し発生し、世論を二分してきた。実際に分割に至った州もあり、2000年には中部と北部、東部で3州が新たに誕生した。14年にも南東部アンドラプラデシュ州の一部がテランガナ州として分割となった。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 - 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率を達成している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が国内総生産(GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維などである。輸入は原油・石油製品、金、機械製品などである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "世界銀行によると、インドのGDPは2021年には3兆1,700憶ドルであり、世界で5番目に大きな経済である。 またインドのGDP PPPは8.6兆であり、アメリカと中国に次ぐ3番目に大きな経済となる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "2030年代には15億人を超え、2050年には16.6億人になると予想されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "農業をはじめとする第一次産業は世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった。米の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万ヘクタール あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が経済成長率に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たない零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の経済連携協定であるRCEP交渉から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "穀物収穫面積の約4割が水田であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 - 2013年に世界一を記録した。小麦も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない。2003年時点で砂糖、魚介類、野菜・果実は完全自給できている。大豆の自給率が96パーセントであった。綿花は植民地時代からデカン高原で栽培されており、糸車をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶も同様である。鶏卵生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏は国内需要の高い鶏肉の生産量を向上させている。インドでは牛が宗教上神聖な動物とされており、牛乳の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった。カシューナッツ、マンゴー、ココナッツ、生姜、ウコンと胡椒、ジュート、落花生なども生産している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "灌漑はムガル帝国時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、アスワンダム建設に経験が活かされた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 - 2000年の間に化学肥料の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナーという北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "デルタが多いベンガル地方は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラのパンデミックの震源となった。カルカッタは西のフーグリー川と東の塩湖に囲まれ、かつては海抜10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "鉱業は後述の化石燃料のほか、インド・ウラン公社がウランやトリウムを採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される。現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした。経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている 。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープやバジャージ・オート、ホンダなどが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、タタ・モーターズ、マヒンドラ&マヒンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーのほか、スズキやルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。造船、航空機製造も成長の兆しを見せている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な天然ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGCが国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "製薬産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドはアフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。ソフトウェアや金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ソフトウェア産業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、インド工科大学やインド科学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "情報サービス業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティングなどの高度なサービス提供によって差別化を図っている。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "小売業は大型店や電子商取引も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの医療観光ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "他の部門ではバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、通信、観光が高成長の兆しを見せている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "ジム・コーベット国立公園やハワー・マハル、アンベール城を始めとした数多くの名所を抱えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー、コルカタ、チェンナイ、ムンバイを結ぶ延長約5,800キロメートルの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7,300キロメートルの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、ところどころに料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十キロメートル郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "インドの鉄道は国有(インド鉄道)であり、総延長は6万2,000キロメートルを超えて世界第5位である。現在では鉄道が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う(例としてムンバイ、デリー間では、飛行機の外国人料金が6,000ルピーなのに対し、二等の寝台列車は400ルピーである)。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "以下の鉄道は公社化されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社(LCC)が多数設立され、それにあわせて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "航空会社としては以下のものがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "首都のニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港をはじめ、各地に空港がある。インド政府は、地方都市の割安な航空路線を支援するUDANという制度を設けている。滑走路を備えた空港を整備できない地域も多く、2020年10月末には、グジャラート州アーメダバードとその南東200キロメートルにあるケバディアを結ぶ、インド初の水上飛行機による定期便が就航した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてインド宇宙研究機関(ISRO)による5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "2013年11月5日、最初の火星探査機打ち上げに成功した。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "2023年国勢調査の人口は14億2000万人 であり、総人口は世界第2位の中華人民共和国(14億1,000万人)より僅かに多く、世界第1位である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "インドの人口は1950年以降、毎年1,000万から1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加すると考えられており、2023年に中国を追い抜き、世界一の人口を擁する国となった。ただし、2030年代以降は毎年500万から700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "インドは増える若年層に十分な雇用や生活インフラを提供できておらず、地域間の出稼ぎも多い。このため一部の州は、子供が2人以下の世帯を経済的に優遇するなど人口抑制策をとっている。インド全体の人口増加率は、1971年から2001年までに、2%台から1%台の1.97%に下落している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を母語にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりとともに、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "インド憲法第343条1項により、連邦公用語はデーヴァナーガリー文字で書かれたヒンディー語と定められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進めるうえで、また実際に行政運営を行ううえで言語は常に重要な位置を占める。独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があり、それが反映された。憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府は折につけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "それ以外にもインド憲法の第8付則では22言語が列挙され、「指定言語」(Scheduled languages) や「第8付則言語」と呼ばれる)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "これら22言語は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。たとえば、サンスクリット語やシンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "公的に認定された言語", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示す。英語は全ての地方の公用語となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "連邦首都圏と連邦直轄領", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "インドにおける結婚式は、地方や宗教、地域社会によって異なる面がある。また、その違いには新郎新婦の個人的な嗜好も絡んで来る場合がある 。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "インドは年間約1,000万件の結婚式を祝っており 、その内の約80%がヒンドゥー教の結婚式(英語版)で占められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "一方で、インドは児童婚大国の1国と見做されるほど、児童婚が広く蔓延している現状がある。児童婚の程度と規模については、情報源の間で推定が広く異なっている。例えばUNICEFによる2015年から2016年の報告書はインドの児童婚の割合を27%であると推定した。 また幾つかの州では結婚を遅らせようとするインセンティブを導入している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "インドにおける姓は、地域毎に異なる様々な制度と命名規則に基づく形で成立している。名前は宗教やカーストの影響も受け、宗教や叙事詩から引用される場合もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "2002年の憲法改正および、2009年の無償義務教育権法により、6 - 14歳の子どもに対する初等教育の義務化、無償化が図られている。後期中等教育(日本の高等学校に相当)は2年制と4年制に分かれている。高等教育を受けるために大学へ進学するには、4年制の高校で学ぶ必要がある。インドの学校は日本などと同じ4月入学を採用している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある英語の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育から教授言語が英語である。インドの私立学校では初等教育から英語で教育が行われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "インドの人口に占める各宗教の割合はヒンドゥー教徒79.8パーセント、イスラム教徒14.2パーセント、キリスト教徒2.3パーセント、シク教徒1.7パーセント、 仏教徒0.7パーセント、ジャイナ教徒0.4パーセント(2011年国勢調査)。また、『ブリタニカ国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72パーセント、イスラム教徒11.96パーセント、キリスト教徒6.08パーセント、シク教徒2.16パーセント、仏教徒0.71パーセント、ジャイナ教徒0.40パーセント、アイヤーヴァリ教徒0.12パーセント、ゾロアスター教徒0.02パーセント、その他1.44パーセントである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制などを特徴とする宗教である。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "世界最大の党員数(一億人以上)を有するインド人民党(BJP)の母体となっているのが、ヒンドゥー至上主義団体民族義勇団であり、党首のナレンドラ・モディも同団体出身者である。RSSやモディ政権によるインドと国内外における非ヒンドゥー教徒などへの弾圧が問題化している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀 - 前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "仏教発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "一説では、東南アジア・東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "1956年、インド憲法起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民とともに仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "ラダック連邦直轄領、ヒマーチャル・プラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "イスラム教徒(ムスリム)もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。インドネシア、パキスタンについで、インドは世界第3位のムスリム人口を擁する。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀に北インド(合同)教会(Church of North India)、南インド(合同)教会などが起こった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "サーサーン朝の滅亡を機にイスラム化が進んだイランでは、ゾロアスター教徒の中にはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad MehtaとKetan Parekh、金融インフラSatyam スキャンダル、Chain Roop Bhansali のミューチュアル・ファンド、複合企業主のSubrata Roy、Saradha Group の金融スキャンダル、NSEL をめぐる金融犯罪、石炭割当をめぐる政治スキャンダル、2G周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズに募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着。2016年4月から12月にかけてインド準備銀行が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行が最大件数となり、SBIホールディングス、スタンダード・チャータード銀行、HDFCが順に続いた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "2004年から高度成長期に入り、2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 - 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった。世界銀行によれば、貧困率(一日2.15ドル未満で暮らしている人の割合)は、1993年には47.6%であったが、2004年には39.9%となり、2019年には10%にまで低下している 。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "2019年に行われた独立系の反汚職組織の調査では、過去1年の間、賄賂を支払った経験があるとする国民は少なくとも2人に1人の割合になると報告された。特に汚職が著しいのは不動産登記や土地問題の分野で、4分の1以上が関連当局に支払ったと回答した。警察が19%で、税務当局、運輸関連や自治体関連企業などが後に続いた 。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "電力の供給能力は経済成長に追いつけず、日常的に停電が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の大気汚染が起きており、2018年時点で世界保健機関によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである。大気汚染対策として二輪車および三輪タクシーなどの電気自動車化を推し進めている。インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合(EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "インドではトイレを持たない家庭も多く、政府は屋外排泄行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "インドは長い間、テロの被害を受け続けている。インド政府内務省によると、インド国内のいくつかの州は戦闘行為やナクザリズム(ヒンディー語版)の影響を受けており、特にジャンムー・カシミール州、オリッサ州、チャッティースガル州、ジャールカンド州、および北東部の7つの姉妹州が危険な状況に見舞われている。2012年には、国内640地区のうち少なくとも252地区が程度の差こそあれ、反政府勢力やテロ活動の被害に遭っていた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "印僑は華僑、ユダヤ人、アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI=印僑)は、インド外務省によれば、2,500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカのタンザニアや、ケニア、モーリシャス、南アメリカのガイアナ、西インド諸島のトリニダード・トバゴ、オセアニアのフィジーなどが挙げられる。", "title": "印僑" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "インドは現時点において着実な経済発展を遂げており社会情勢は全般的に安定しているが、それに反して都市部では人口の集中、失業者の増大、貧富差の拡大を背景として一般犯罪の発生件数が増加傾向にある。主な犯罪として窃盗や強盗、詐欺、強姦などが多発しており、同国に滞在する際には充分な注意が必要となる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "他方では宗教間対立や多民族といった複雑な国内事情もあり、過激派組織が活動している点からテロ事件も発生していて危険性が高まっている現状がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "インド警察庁(英語版)(IPS)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "少数派への迫害、下位カーストへの暴力が後を絶たない。 パキスタンとの係争地で実効支配を続けるジャム・カシミール州では分離運動もありインド軍による拷問、暴力が報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "1992年~1993年の統計データによると、インドで女性が世帯主となっている世帯はわずか 9.2% となっている。しかし、貧困線以下の世帯の約 35% は女性が世帯主であることが判明した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "インドには500を超える衛星放送チャンネル(内80以上はニュース専用チャンネル)、約7万社の新聞社が存在し、同時に毎日1億部以上が売られる世界最大の新聞市場を抱えている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "現在インドには約1000紙のヒンディー語の日刊紙が存在し、総発行部数は約8千万部となっている。第二言語である英字紙は、日刊紙の数で見ると約250紙あり、総発行部数は約4千万部となっている。影響力のあるヒンディー語新聞にはDainik Jagranや Dainik Bhaskar、Amar Ujala、Devbhumi Mirror、Navbharat Times、Hindustan Dainik、Prabhat Khabar、Rajasthan Patrika,Dainik Aajがある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "ラジオ放送は1927年に開始されたが、1930年には国家の責任に限られるようになった 1937年に全印ラジオと命名され、1957年からはAkashvaniとも呼ばれるようになった。テレビ番組は放送期間を限定しながら1959年に始まり、1965年に完全に放送を開始した。1991年の経済改革以前、インド国内では情報・放送省が、テレビ局であるドゥールダルシャンを含む視聴覚機構を所有・管理していた", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "インドの国民の祝日(National Holidays)は以下の3日である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "このほかに全国的な行事(Gazetted Holidays)と、州ごとに異なる地方的行事(Restricted Holidays)をあわせた年中行事が数百あり、それぞれがひとつないし複数の宗教と関係がある。日付は宗教ごとに決まった暦を使用するため、大部分は移動祝日になる。主要な行事には以下のものがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "クリケットはインド国内で最も人気のスポーツとなっている。最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、ボリウッド映画より人気が高いと評される。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。歴史的には1700年代後半にイギリスの植民地主義者の好意によってインドに伝わり、1792年にインドで最初のクラブであるカルカッタ・クリケットクラブが設立された。イギリス領インド帝国時代には、マハーラージャであるランジットシンジがケンブリッジ大学を卒業し、クリケット選手として大きな功績を残した。インドのクリケットの発展・普及に大きく貢献したことから、「インドクリケットの父」と呼ばれている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "ナショナルチームのインド代表は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップで2度の優勝(1983年、2011年)、ICC T20ワールドカップで1度の優勝(2007年)、ICCチャンピオンズトロフィーで2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には国際クリケット評議会が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "インドクリケット管理委員会(BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。またトゥエンティ20ルールのプロリーグであるインディアン・プレミアリーグ(IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。IPLの1試合当たり放映権料では約11億4000万ルピー(約20億円)であり、サッカーのプレミアリーグを超えている。女子クリケットも急速に普及しており、2023年には女子プレミアリーグ(WPL)が開幕した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "インドを代表する歴代の選手では、「クリケットの神様」とも評されるサチン・テンドルカールが挙げられる。その高い功績からマザー・テレサも受賞歴のあるバーラト・ラトナ賞をスポーツ界の人物として初受賞した。ランジットシンジ、スニール・ガヴァスカール、カピル・デヴ、ラーフル・ドラヴィド、マヘンドラ・シン・ドーニも歴代のインドクリケット界を代表する選手である。ヴィラット・コーリは2010年代から2020年代におけるインドを代表する選手である。2020年に国際クリケット評議会より、過去10年間における世界最優秀選手賞を受賞した。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、インド映画のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い著名人に選出された。コーリは2023年にInstagram公式アカウントのフォロワー数がアジア人として史上初の2億5000万を超えた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "イギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーも盛んであり、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金8個・銀1個・銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年より『プレミア・ホッケーリーグ』があり、テレビ中継も開始されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "インド国内では近年サッカーの人気が若者を中心に急上昇しており、クリケットに次ぐ地位を得ている。2014年にプロサッカーリーグのインディアン・スーパーリーグが、かつて欧州主要リーグで活躍し晩年を迎えた選手を、助っ人として次々とリーグに参戦させ華々しく開幕した。国際的なスポーツマン・芸能人のマネージメントを引き受けるIMGや、インド最大のエンターテインメント企業であるSTARとのタイアップを図ることで、国技であるクリケットに次ぐインド国民が熱狂する「スポーツエンターテインメント」の確立を目指している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "全インドサッカー連盟(AIFF)によって構成されるサッカーインド代表は、FIFAワールドカップには未出場(1950年大会は予選通過するも、本大会は出場辞退)であるが、AFCアジアカップには4度の出場歴があり1964年大会では準優勝に輝いている。また、南アジアサッカー選手権では大会最多8度の優勝を誇る。AFCチャレンジカップでは2008年大会で初優勝を飾っている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まっていき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤが、インド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー(英語版)、ギリ・ダンダ(英語版)なども全国で広く競技されている。さらにインド南部ケララ地方古来の武術であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライ(英語版)も行われている。2008年の北京五輪の男子エアライフルではアビナブ・ビンドラー(英語版)が優勝し、同国で個人競技として初めての金メダルを獲得した。また、近年ではテニスもデビスカップインド代表の活躍もあって、急速に人気を博している。他方で、競馬などのスポーツも存在する。", "title": "スポーツ" } ]
インド またはインド共和国 は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。 インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。 1947年に大英帝国から独立。世界第一位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2021-12-22 10:03(UTC)}} {{インド系文字}} {{基礎情報 国 | 略名 = インド | 日本語国名 = インド共和国 | 公式国名 = {{lang|bn|'''भारत गणराज्य'''}} {{smaller|(ヒンディー語)}}<br />{{lang|en|'''Republic of India'''}} {{smaller|(英語)}} | 国旗画像 = Flag of India.svg | 国章画像 = [[ファイル:Emblem of India.svg|80px|インドの国章]] | 国章リンク =([[インドの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|sa|'''सत्यमेव जयते'''}}<br />[[ラテン文字]]転写: "satyameva jayate"<br />([[サンスクリット]]: まさに真理は自ずと勝利する) | 位置画像 = India (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ヒンディー語]](連邦[[公用語]])<br />[[インド英語|英語]](連邦[[準公用語]])<br />その他[[インドの公用語の一覧|複数の各州公用語]] | 首都 = [[デリー|デリー連邦直轄地]]([[ニューデリー]])<ref group="注釈">日本の学校教育では(財)世界の動き社『[[世界の国一覧表]]』の[[2002年]]度版が[[デリー首都圏]]の行政機構改革によりニューデリーが包摂されたことを反映して首都を従前の「ニューデリー」から「デリー」に変更しており、同年以降は[[文部科学省]]の[[学習指導要領]]でも首都を「デリー」としている。</ref> | 最大都市 = [[ムンバイ]](行政人口)<br />[[デリー]](都市圏人口) | 元首等肩書 = [[インドの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ドラウパディ・ムルム]] | 首相等肩書 = 副大統領・[[ラージヤ・サバー|上院議長]] | 首相等氏名 = ジャグディープ・ダンカール | 他元首等肩書1 = [[インドの首相|首相]] | 他元首等氏名1 = [[ナレンドラ・モディ]] | 他元首等肩書2 = [[ローク・サバー|下院議長]] | 他元首等氏名2 = オム・ビルラ | 他元首等肩書3 = 最高裁判所長官 | 他元首等氏名3 = シャラド・アービンド・ボブデ | 面積順位 = 7 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 3,287,263 | 水面積率 = 9.6% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 1 | 人口大きさ = 1 E9 | 人口値 = 14億2860万 | 人口密度値 = 464.1<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2021 | GDP値元 = 224兆6102億4400万<ref name="imf2021">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=534,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate = 2021-10-13}}</ref> | GDP統計年MER = 2021 | GDP順位MER = 6 | GDP値MER = 2兆9460億6100万<ref name="imf2021"/> | GDP MER/人 = 2116.444(推計)<ref name="imf2021"/> | GDP統計年 = 2021 | GDP順位 = 3 | GDP値 = 10兆1811億6600万<ref name="imf2021"/> | GDP/人 = 7314.129(推計)<ref name="imf2021"/> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[イギリス]]より<br />[[1947年]][[8月15日]] | 通貨 = [[インド・ルピー]] | 通貨コード = INR | 時間帯 = (+5:30) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[ジャナ・ガナ・マナ|{{lang|hi|जन गण मन}}{{ hi icon}}]]<br />''[[ジャナ・ガナ・マナ]]''<br />{{center|[[ファイル:Jana Gana Mana instrumental.ogg]]}} | ISO 3166-1 = IN / IND | ccTLD = [[.in]] | 国際電話番号 = 91 | 注記 = <references group="注" /> |位置画像説明=薄緑色は領有権をめぐり紛争中の地域。}} '''インド'''({{lang-hi|भारत}}、{{lang-en|India}})<ref group="注釈">[[インド憲法]]上の正式名称。</ref> または'''インド共和国'''(インドきょうわこく、{{lang-hi|भारत गणराज्य}}、{{lang-en|Republic of India}})<ref group="注釈">[[ヒンディー語]]の名称'''भारत गणराज्य'''(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)を日本語訳したもの。</ref> は<ref name=":1" />、[[南アジア]]に位置し、[[インド亜大陸]]の大半を領して[[インド洋]]に面する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]。首都は[[デリー]]([[ニューデリー]])<ref name=":1" />、最大都市は[[ムンバイ]]<ref>{{Cite web|和書|title=ムンバイとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A4-173269 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-10 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 |last=三訂版}}</ref>。 西から時計回りに[[パキスタン]]、[[中華人民共和国]]、[[ネパール]]、[[ブータン]]、[[ミャンマー]]、[[バングラデシュ]]と[[国境]]を接する<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=インドとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89-33048 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-10 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。海を挟んでインド本土が[[スリランカ]]や[[モルディブ]]と、インド洋東部の[[アンダマン・ニコバル諸島]]が[[インドネシア]]や[[タイ南部]]、[[マレーシア]]に近接している。 インド本土はインド洋のうち西の[[アラビア海]]と東の[[ベンガル湾]]という2つの海湾に挟まれて、北東部を[[ガンジス川]]が流れている。 [[1947年]]に[[大英帝国]]から独立。世界第一位の人口を持つ<ref name=":2" />。[[国花]]は[[ハス|蓮]]、国樹は[[インドボダイジュ|印度菩提樹]]、[[国獣]]は[[ベンガルトラ]]、[[国鳥]]は[[インドクジャク]]、国の遺産動物は[[インドゾウ]]である。 {| class="infobox borderless" |+ {{仮リンク|インドの国の象徴|en|National symbols of India}}<br />(公式) |- ! '''国の遺産動物'''<br />''[[インドゾウ]]'' | | [[ファイル:2005-bandipur-tusker.jpg|50px]] |- ! '''国鳥'''<br />''[[インドクジャク]]'' | | [[ファイル:Pavo muticus (Tierpark Berlin) - 1017-899-(118).jpg|50px]] |- ! '''国樹'''<br />''[[インドボダイジュ|印度菩提樹]]'' | | [[ファイル:Banyan tree on the banks of Khadakwasla Dam.jpg|50px]] |- ! '''国花'''<br />''[[ハス|蓮]]'' | | [[ファイル:Sacred lotus Nelumbo nucifera.jpg|50px]] |- ! '''国獣'''<br />''[[ベンガルトラ]]'' | | [[ファイル:Panthera tigris.jpg|50px]] |- ! '''国の海洋哺乳類'''<br />''[[ガンジスカワイルカ]]'' | | [[ファイル:PlatanistaHardwicke.jpg|50px]] |- ! '''国の爬虫類'''<br />''[[キングコブラ]]'' | | [[ファイル:King-Cobra.jpg|50px]] |- ! '''国の遺産哺乳類'''<br />''[[ハヌマンラングール]]'' | | [[ファイル:Hanuman Langur.jpg|50px]] |- ! '''国果'''<br />''[[マンゴー]]'' | | [[ファイル:An Unripe Mango Of Ratnagiri (India).JPG|50px]] |- ! '''国の象徴の寺'''<br />''[[アークシャルダーム寺院 (デリー)|アークシャルダーム寺院]]'' | | [[ファイル:New Delhi Temple.jpg|50px]] |- ! '''国の象徴の川'''<br />''[[ガンジス川]]'' | | [[ファイル:River Ganges.JPG|50px]] |- ! '''国の象徴の山'''<br />''[[ナンダ・デヴィ]]'' | | [[ファイル:Nanda Devi 2006.JPG|50px]] |- |} == 概要 == インドは南アジア随一の面積([[国の面積順リスト|世界では7位]])と[[国の人口順リスト|世界第1位]]の人口を持つ国である<ref name=":2" />。14億人を超える[[国民]]は、多様な[[民族]]、[[言語]]、[[宗教]]によって構成されている。[[国際連合]](UN)の予測では、総人口は[[2023年]]に[[中華人民共和国]]を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/fp/3439735 |title=人口爆発 インドの都市を待ち受ける困難な未来 |publisher=AFP |date=2022-11-27 |accessdate=2022-11-29}}</ref>。 南には[[インド洋]]があり、南西の[[アラビア海]]と南東の[[ベンガル湾]]に挟まれている。西は[[パキスタン]]、北東は[[中華人民共和国|中国]]と[[ネパール]]と[[ブータン]]、東は[[バングラデシュ]]と[[ミャンマー]]と地境になっている。インド洋では[[スリランカ]]と[[モルディブ]]が近くにあり、[[アンダマン・ニコバル諸島]]では[[タイ王国|タイ]]と[[インドネシア]]との間に海上の国境がある。 [[インドの歴史|インド亜大陸の歴史]]は[[紀元前3千年紀]]の[[インダス文明]]に遡る。その時代において数々の最古の聖典は[[ヒンドゥー教]]としてまとまっていった。[[紀元前1千年紀|紀元前1千年]]には、[[カースト]]に基づく身分制度が現れ、[[仏教]]と[[ジャイナ教]]が起こった。 初期の統一国家は[[マウリヤ朝]]と[[グプタ朝]]において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世では[[ユダヤ教]]、[[ゾロアスター教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]が伝わり、[[シク教]]が成立した。北の大部分は[[デリー・スルターン朝]]に、南の大部分は[[ヴィジャヤナガル王国]]に支配された。[[17世紀]]の[[ムガル帝国]]において経済は拡大していった。[[18世紀]]の半ば、インドは[[イギリス東インド会社]]の支配下に置かれ、[[19世紀]]半ばには[[イギリス領インド帝国]]となった。19世紀末に独立運動が起こり、[[マハトマ・ガンディー]]の非暴力抵抗や[[第二次世界大戦]]などのあと、[[1947年]]に独立した。 [[2022年]]、[[インドの経済]]は[[国内総生産]](GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、[[購買力平価説|購買力平価]](PPP)では世界第3位である。[[1991年]]に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、[[新興国]]と言われるようになった{{誰2|date=2023年10月}}。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の[[識字率]]は74.04%である。 [[ヒンドゥー教徒]]が最も多く、[[ムスリム]]([[イスラム教]]徒)、[[シーク教]]徒がこれに次ぐ。[[カースト制度]]による差別は[[インド憲法]]で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。[[アジア開発銀行]]はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル - 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている<ref>「[https://news.nna.jp.edgesuite.net/news/show/306833 中間層、15年で人口の7割:ア開銀予想、30年に12億人]」『[[エヌ・エヌ・エー|NNA]] ASIA アジア経済ニュース』2019年12月23日閲覧</ref>。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している<ref>{{Citation|author=経済産業省|authorlink=経済産業省|date=2019-03|title=医療国際展開カントリーレポート 新興国等のヘルスケア市場環境に関する基本情報 インド編|url=https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/countryreport_India.pdf|pages=8|format=PDF|accessdate=2020-02-18}}</ref>。 連邦[[公用語]]は[[ヒンディー語]]だが、他に[[インド憲法]]で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、[[インド・ルピー]]の紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の[[議会制民主主義]]国家であり、有権者数は約9億人である<ref>{{Cite news|title=アングル:有権者9億人のインド総選挙、主な争点は|newspaper=[[ロイター通信]]|language=日本語|date=2019-04-11|url=https://jp.reuters.com/article/india-election-idJPKCN1RM0YM|accessdate=2020-02-17}}</ref>。 州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。[[核保有国の一覧|核保有国]]そして[[地域大国]]であり、2016年以降は[[モンゴル国|モンゴル]]の人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉)<ref>{{Cite web|author =世界銀行|authorlink=世界銀行|url=https://data.worldbank.org/indicator/MS.MIL.TOTL.P1?most_recent_value_desc=true|title=Armed forces personnel, total(軍事力人数)|date=2017|accessdate=2020-02-17}}</ref> を保有し、[[軍事費|軍事支出]]は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった<ref name="SIPRI">{{Citation|author=Dr Nan Tian|author2=Alexandra Kuimova|author3=Dr Aude Fleurant|author4=Pieter D. Wezeman|author5=Siemon T. Wezeman|date=2019-04 |title=TRENDS IN WORLD MILITARY EXPENDITURE, 2018(2018年の世界の軍事費の動向)|url=https://www.sipri.org/sites/default/files/2019-04/fs_1904_milex_2018.pdf|publisher=STOCKHOLM INTERNATIONAL PEACE RESEARCH INSTITUTE([[ストックホルム国際平和研究所]])|format=PDF|location =[[スウェーデン]] [[ソルナ]]|accessdate=2020-02-17}}</ref>。 == 名称 == {{Main|{{仮リンク|インドの国名|en|Names for India}}}} インド憲法によれば正式名称はヒンディー語の'''भारत'''([[ラテン文字]]転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は {{lang|en|India}} (インディア)である<ref>Article 1.(1) of [https://www.indiacode.nic.in/bitstream/123456789/15240/1/constitution_of_india.pdf the Constituion of INDIA]: India, that is Bharat, shall be a Union of States. (retrived at 6th September, 2023)</ref>。政体名を付け加えたヒンディー語の {{lang|hi|भारत गणराज्य}}(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の {{lang|en|Republic of India}} を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。 '''バーラト'''(サンスクリットでは'''バーラタ''')の名は[[プラーナ]]文献に見え、[[バラタ族]]に由来する{{要出典|date=2023年10月}}。 英語([[ラテン語]]を借用)の India は、[[インダス川]]を意味する Indus([[サンスクリット]]の Sindhu に対応する[[古代ペルシア語]]の {{unicode|Hinduš}}を[[古代ギリシア語]]経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した<ref>{{cite book|author=Charlton T. Lewis|title=A Latin Dictionary|origyear=1879|year=1980|location=Oxford|publisher=Clarendon Press|isbn=0198642016|page=933|quote=India, a country extending from the Indus to China}}</ref>。古くは非常に曖昧に用いられ、[[アフリカ大陸]]東海岸をも India と呼ぶことがあった<ref>{{Cite book|和書|author=マルコ・ポーロ|authorlink=マルコ・ポーロ|title=[[東方見聞録]]|year=2000|translator=[[愛宕松男]]|publisher=[[平凡社ライブラリー]]|volume=2|isbn=4582763278|pages=329-330}}</ref>。 「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える{{誰2|date=2023年10月}}。[[第18回20か国・地域首脳会合|2023年のG20サミット]]では、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した<ref>{{Cite web|和書|title=インドはなぜ国名を「バーラト」に変更? |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3481091 |website=www.afpbb.com |date=2023-09-11 |access-date=2023-09-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=インド、国名を「バーラト」と表記 G20晩餐会招待状が物議 |url=https://jp.reuters.com/life/4ROCCSLHQNJ45LSPCEIHB7CMWA-2023-09-06/ |work=Reuters |date=2023-09-07}}</ref>。 [[イラン語派]]の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを'''身毒'''(『[[史記]]』)または'''[[天竺]]'''(『[[後漢書]]』)のような漢字で音訳した<ref>{{cite journal|url=https://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/1110cxVuiEg.PDF |journal=Asia Major, New Series|volume=9|issue=1|title=The Consonantal System of Old Chinese|year=1962|author=E.G. Pulleyblank|authorlink=エドウィン・プリーブランク|page=117}}</ref>。ただし水谷真成はこれらを[[サンスクリット]]の Sindhu の音訳とする<ref name="mizutani"/>。初めて'''印度'''の[[外国地名および国名の漢字表記一覧|字をあてた]]のは[[玄奘三蔵]]であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている<ref name="mizutani">玄奘 [https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2087_,51,0875b 『大唐西域記』] 水谷真成訳注、中国古典文学大系22, 1971年, 56頁.</ref>。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%AB%BA-102341 kotobank 天竺]</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=石﨑貴比古 |year=2021 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.69.2_951 |title=天竺の語源に関する一考察 |journal=印度學佛教學研究 |volume=69 |issue=2 |pages=951-947 |doi=10.4259/ibk.69.2_951}}</ref>。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった<ref>{{Cite journal|和書|author=西脇保幸 |year=1995 |url=https://doi.org/10.5996/newgeo.42.4_1 |title=明治期以降における外国国名の呼称変遷について |journal=新地理 |volume=42 |issue=4 |pages=1-12 |doi=10.5996/newgeo.42.4_1}}</ref>。 == 国旗 == {{Main|インドの国旗}} [[1931年]]に[[インド国民会議|インド国民議会]]が定めた[[三色旗|3色旗]]を基にした[[デザイン]]。トップの[[サフラン]](オレンジ)色は[[ヒンドゥー教]]を、または[[勇気]]と[[犠牲]]を意味する。[[緑色]]は[[イスラム教]]を、[[白]]は[[平和]]と[[真理]]を意味し両宗教の和合を表している。中央には、[[アショカ王]]の記念塔になぞらえた[[法輪|チャクラ(法輪)]]がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、[[仏教]]のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている<ref>[http://www.abysse.co.jp/world/flag/asia/india.html 世界の国旗]</ref>。 == 歴史 == {{Main|インドの歴史|南アジア史}} === ヴェーダ時代からラージプート時代まで === [[ファイル:Nalanda University India ruins.jpg|thumb|[[ナーランダ僧院]]跡(ナーランダ大学)]] 紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間に[[インダス川]]流域に[[インダス文明]]が栄えた。前1500年ごろに[[インド・アーリア人]]([[トリツ族]]、[[バラタ族]]、[[プール族]]など)が[[パンジャーブ]]地方に移住。のちに[[ガンジス川]]流域の先住民[[ドラヴィダ人]]を支配して定住生活に入った。 インド・アーリア人は、司祭階級([[バラモン]])を頂点とした身分制度社会([[カースト制度]])に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特に[[バラタ族]]の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。 前6世紀には[[十六大国]]が栄えたが、[[紀元前521年]]ごろに始まった[[アケメネス朝]]の[[ダレイオス1世]]によるインド遠征で敗れ、[[パンジャブ]]、[[シンド]]、[[ガンダーラ]]を失った。前5世紀に[[釈迦]]が[[仏教]]を説いた。[[紀元前330年]]ごろ、[[アレクサンドロス3世]]の{{仮リンク|アレキサンダー大王の戦争|en|Wars of Alexander the Great|label=東方遠征}}では、インド北西部の[[パンジャーブ]]で行われた[[ヒュダスペス河畔の戦い]]で[[ポロス (古代インドの王)|ポロス]]率いる[[プール族|パウラヴァ族]]が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、[[マケドニア王国]]は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた([[マッロイ戦役]])。[[紀元前317年]]、[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]によって[[パータリプトラ]]({{lang-sa|पाटलिपुत्रः}}、現・[[パトナ]])を都とする最初の統一国家である[[マウリヤ朝]][[マガダ国]]が成立し、[[紀元前305年]]ごろに[[ディアドコイ戦争]]中の[[セレウコス朝]]の[[セレウコス1世]]からインダス川流域や[[バクトリア]]南部の領土を取り戻した。[[紀元前265年]]ごろ、[[カリンガ戦争]]で[[カリンガ国]](現・[[オリッサ州]])を併合。このころ、[[初期仏教#根本分裂|初期仏教の根本分裂]]が起こった。[[紀元前232年]]ごろ、マウリヤ朝3代目の[[アショーカ王]]が死去するとマウリヤ朝は分裂し、[[北インド]]は混乱期に入った。 ギリシア系[[エジプト人]]商人が著した『[[エリュトゥラー海案内記]]』によれば、1世紀には[[デカン高原]]に[[サータヴァーハナ朝]]が[[ローマ帝国]]との[[モンスーン#各地の季節風|季節風交易]]で繁栄した([[シルクロード#海の道|海のシルクロード]])。3世紀後半に[[タミル]]系の[[パッラヴァ朝]]、4世紀にデカン高原で{{仮リンク|カダンバ朝|en|Kadamba Dynasty}}が興り、[[インドネシア]]の[[クタイ王国]]や[[タルマヌガラ王国]]に影響を及ぼした。 これらの古代王朝の後、5世紀に、[[グプタ朝]]が北インドを統一した。サンスクリット[[文学]]が盛んになる一方、[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]や[[エローラ石窟群]]などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まった[[エフタル]]のインド北西部への侵入は、{{仮リンク|ミヒラクラ|en|Mihirakula}}の治世に最高潮に達した。[[インドにおける仏教の弾圧|仏教弾圧]]でグプタ朝は衰退し、[[550年]]ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、中国の[[唐]]から[[玄奘三蔵]]が[[ヴァルダナ朝]]および[[前期チャールキヤ朝]]を訪れ、[[ナーランダ僧院]]で学び、657部の[[仏典]]を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンの[[ラージプート]]王朝の[[ラーシュトラクータ朝]]、北西インドの[[プラティーハーラ朝]]と[[ベンガル地方|ベンガル]]・[[ビハール州|ビハール]]地方の[[パーラ朝]]が分立した。パーラ朝が仏教を保護して[[パハルプールの仏教寺院遺跡群|パハルプールの仏教寺院]](現在はバングラデシュ領内)が建設され、[[東南アジア]]各地の[[パガン王朝|パガン仏教寺院]]、[[アンコール遺跡|アンコール仏教寺院]]、[[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール仏教寺院]]の建設に影響を与えた。[[日本]]でも同時期に[[東大寺]]が建立された。 10世紀からラージプート王朝の[[チャンデーラ朝]]が[[カジュラーホー]]を建設した。 === 北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝 === [[11世紀]]初めより、[[ガズナ朝]]、[[ゴール朝]]などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、[[南インド]]では、10世紀後半ごろから[[タミル人|タミル系]]の[[チョーラ朝]]が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は[[北宋]])との海洋貿易の[[制海権]]を確保する目的で東南アジアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]に2度の遠征を敢行し、衰退させた。 13世紀にゴール朝で内紛が続き、[[クトゥブッディーン・アイバク|アイバク]]が[[デリー・スルターン朝]]([[奴隷王朝]])を興して[[デリー]]に都を置き、北インドを支配した。[[ギヤースッディーン・バルバン|バルバン]]の治世から、[[中央アジア]]を制覇した[[モンゴル帝国]]の圧力が始まった。 14世紀初頭に[[デリー・スルターン朝]]([[ハルジー朝]])がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。[[アラー・ウッディーン・ハルジー]]の治世にはモンゴル帝国系の[[チャガタイ・ハン国]]が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝([[トゥグルク朝]])は、内紛と[[1398年]]の[[ティムール]]による[[ティムールの征服戦争#インド遠征|インド北部侵攻]]で衰退し、独立した[[ヴィジャヤナガル王国]]や[[バフマニー朝]](その後に[[デカン5王国|ムスリム5王国]]に分裂した)へと覇権が移った。 === ヴィジャヤナガル王国 === 14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立した[[ヴィジャヤナガル王国]]が南インドで栄え、16世紀前半[[クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ]]王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、[[1565年]]に[[ターリコータの戦い]]で[[デカン・スルターン朝]]に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君[[ヴェンカタ2世]](位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、[[ムガル帝国]]がムスリム5王国全域を支配した。 === ムガル帝国 === [[ファイル:Moghol ja.png|thumb|[[ムガル帝国]]の版図の変遷]] 16世紀、[[ティムール帝国]]の末裔であった[[バーブル]]が北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝([[ローディー朝]])を倒して [[ムガル帝国]]を立てた。ムガルは[[モンゴル]]を意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝の[[アクバル]]は、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、第6代皇帝の[[アウラングゼーブ]]は、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教[[スンナ派]]のイスラム法([[シャーリア]])に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こした[[シーク教徒]]や、ヒンドゥー教の[[ラージプート]]族([[マールワール王国]]、[[メーワール王国]])や、[[シヴァージー]]率いる新興のマラーター王国(のちに[[マラーター同盟]]の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわち[[ビジャープル王国]]([[1686年]]滅亡)と[[ゴールコンダ王国]]([[1687年]]滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、[[ダイヤモンド]]生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。 アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。 === インドの植民地化 === [[ファイル:Taj Mahal, Agra, India edit3.jpg|thumb|250px|[[タージ・マハル]]]] [[ヨーロッパ]]諸国が[[大航海時代]]に入り、[[1498年]]に[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がカリカット([[コーリコード]])へ来訪し、[[1509年]]に[[ディーウの戦い (1509年)|ディーウ沖海戦]]で[[オスマン帝国]]から[[ディーウ]]を奪取した。[[1511年]]に[[マラッカ王国]]を占領して{{仮リンク|ポルトガル領マラッカ|en|Portuguese Malacca}}を[[要塞]]化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、[[ポルトガル海上帝国]]は沿岸部[[ゴア州|ゴア]]に拠点を置く[[ポルトガル領インド]]([[1510年]] - [[1961年]])を築いた。 [[1620年]]、[[デンマーク東インド会社]]が[[トランケバル]]に[[デンマーク領インド]]([[1620年]] - [[1869年]])を獲得。[[1623年]]の[[オランダ領東インド]](現・インドネシア)で起きた[[アンボイナ事件]]で[[イギリス]]はオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落して[[イギリス東インド会社]]と[[フランス東インド会社]]が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点[[ポンディシェリ]]をめぐる[[カーナティック戦争]]が勃発した。[[1757年]]6月の[[プラッシーの戦い]]でムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月には[[マラーター同盟]]がデリーを占領し、{{仮リンク|マラーターのインド北西部侵攻|en|Maratha conquest of North-west India|label=インド北西部侵攻}}([[1757年]] - [[1758年]])でインド全域を占領する勢いを見せた。[[1760年]]の[[ヴァンデヴァッシュの戦い]]でフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。 一方、翌[[1761年]]に[[第三次パーニーパットの戦い]]でマラーター同盟は、[[ドゥッラーニー朝|ドゥッラーニー朝アフガニスタン]]に敗北していた。[[1764年]]の[[ブクサールの戦い]]でムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、[[1765年]]に[[アラーハーバード条約]]を締結し、[[ベンガル地方]]の[[ディーワーニー]](行政徴税権、[[:en:Diwan (title)#Title|Diwani Rights]])を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の[[植民地]]化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争([[マイソール戦争]]、[[マラーター戦争]]、[[アングロ・シク戦争|シク戦争]])を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは[[1814年]]まで世界最大の[[綿]]製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで[[産業革命]]中のイギリスは[[関税]]を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した<ref>四宮圭「第三世界の政治学」『エコノミスト』1966年2月15日</ref>。 [[ファイル:Map BEIC 1837.jpg|thumb|[[1837年]]のインド]] [[1833年]]、[[インドの総督#ベンガル総督|ベンガル総督]]は、その職にあった[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (インド総督)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]の下で[[インドの総督#インド総督|インド総督]]に改称された。[[1835年]]から{{仮リンク|ウィリアム・ヘンリー・スリーマン|en|William Henry Sleeman}}が[[カーリー]]を崇拝する殺人教団「[[タギー|サギー教]]」の掃討戦([[1835年]] - [[1853年]])を開始した。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。インドで栽培された[[アヘン]]を中国へ輸出するための[[アヘン戦争]]([[1840年]])が行われ、[[三角貿易]]体制が形成された。そしてこのころに[[タタ・グループ|タタ財閥]]や[[オリエンタル・バンク|バンク・オブ・ウェスタン・インディア]]が誕生した。 [[インド大反乱]](1857 - 1858年)をきっかけにして、[[イギリス政府]]は{{仮リンク|1858年インド統治法|en|Government of India Act 1858}}を成立させてインドの[[藩王国]]による[[間接統治]]体制に入り、[[バハードゥル・シャー2世]]を[[ミャンマー|ビルマ]]に追放してムガル帝国を滅亡させた([[1858年]])。その後、[[旱魃]]による[[オリッサ飢饉 (1866年)|オリッサ飢饉]]、[[ラージプーターナー飢饉 (1869年)|ラージプーターナー飢饉]]、{{仮リンク|ビハール飢饉 (1873年 - 1874年)|en|Bihar famine of 1873–1874|label=ビハール飢饉}}、{{仮リンク|大飢饉 (1876年 - 1878年)|en|Great Famine of 1876–1878|label=大飢饉}}が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、[[1877年]]に[[イギリス領インド帝国]]が成立した。 1870年代から1890年代にかけて、4,000万人近いインド人が相次いで飢饉で命を落とした。歴史家のニール・ファーガソンによれば、「飢餓の窮状に対する無能、怠慢、無関心の明らかな証拠がある」というが、植民地行政はただ受動的であっただけで、直接的な責任はない。それどころか、ジャーナリストのヨハン・ハリ氏は、「イギリスは飢饉の間、何もしなかったどころか、事態を悪化させるために多くのことをした」と言う。当局は、インド国内で何百万人もの死者が出ていることを気にすることなく、大都会への輸出を奨励し続けたことだろう。歴史学者で政治活動家のマイク・デービスも、飢饉の時に「ロンドンがインドのパンを食べていた」という説を支持している。さらに、ロバート・リットン総督は、「不摂生」「労働能力なし」と言われることもある飢えた人々への援助を禁止した。被災していない地域の新聞は、飢饉のことをできるだけ報道しないようにと指示された。マイク・デイビスによれば、リットン卿は、「自由主義経済に固執することで、インドの人々を曖昧に助けている」という考えに導かれていたという<ref>https://www.independent.co.uk/voices/commentators/johann-hari/johann-hari-the-truth-our-empire-killed-millions-404631.html</ref>。 === イギリス統治時代 === {{see also|[[インド独立運動]]}} イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、[[1885年]]12月には諮問機関として[[インド国民会議]]を設けた。[[1896年]]にボンベイ(現・[[ムンバイ]])で[[ペスト]]の{{仮リンク|ボンベイ感染爆発|en|Bombay plague epidemic|label=感染爆発}}が発生した際に強硬な住民[[疎開]]を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に[[暗殺]]された。このとき、関与を疑われた[[バール・ガンガーダル・ティラク|ロークマンニャ・ティラク]]が逮捕され、出所後に「[[スワラージ]]」({{lang-hi|स्वराज}})を唱えた。1899年、屈辱的な[[金為替本位制]]が採用され、15[[インド・ルピー]]と1[[スターリング・ポンド]]が等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の[[分割統治]]を狙って[[1905年]]に[[ベンガル分割令]]を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。 イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り[[1906年]]に親英的組織として[[全インド・ムスリム連盟]]を発足させたものの、[[1911年]]には[[バール・ガンガーダル・ティラク|ロークマンニャ・ティラク]]などのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。 [[1905年]]の[[日露戦争]]における[[日本]]の勝利([[非白人]]国家による[[白人]]国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、[[民族自決]]の理念が高まったことに影響され、[[ビルラ|ビルラ財閥]]などの[[民族資本]]家の形成に伴い[[インドの財閥]]が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。[[1914年]]に始まった[[第一次世界大戦]]ではインド帝国は[[イギリス帝国]]内の自治領の一つとして、[[英印軍]]が参戦した。[[挙国一致内閣 (イギリス)|挙国一致内閣]]の[[インド相]]は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。 [[1916年]]には[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]ら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間に{{仮リンク|ラクナウ協定|en|Lucknow Pact}}を締結し、「{{仮リンク|全インド自治同盟|en|Indian Home Rule Movement}}」({{lang|en|Indian Home Rule Movement}})が設立された。第一次世界大戦に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は勝利したものの、[[インド統治法]]によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。[[1919年]]4月6日から[[マハトマ・ガンディー]]が主導していた非暴力独立運動([[サティヤーグラハ]])は、[[1919年]]4月13日の[[アムリットサル事件]]を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、[[ヒラーファト運動]]とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、[[全インド労働組合会議]]や[[インド共産党]]が活動するようになった。 [[1930年]]にはインド自治のあり方を検討するための{{仮リンク|英印円卓会議|en|Round Table Conferences (India)}}が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求める[[ジャワハルラール・ネルー]]が台頭してきた。また、再起したガンディーによる[[塩の行進]]が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した<ref>{{Cite journal|和書|author=内藤雅雄 |date=2015-05 |url=http://id.nii.ac.jp/1682/00007085/ |title=1939年インドの政治危機 : スバース・チャンドラ・ボースをめぐって |journal=専修大学人文科学研究所月報 |ISSN=0387-8694 |publisher=専修大学人文科学研究所 |volume=276 |pages=17-41 |doi=10.34360/00007085 |naid=120006793483 |CRID=1390009224825935616}}</ref>。 [[1939年]]に始まった[[第二次世界大戦]]においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。[[太平洋戦争]]において、有色人種国家である日本の軍隊が、[[マレー半島]]や[[香港]]、[[シンガポール]]などアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り([[南方作戦]])、さらにインド洋で[[イギリス海軍]]に大打撃を与えて([[インド洋作戦]])インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂した[[スバス・チャンドラ・ボース]]が日本の援助で[[インド国民軍]]を結成するなど、[[枢軸国]]に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「{{仮リンク|インドを立ち去れ運動|en|Quit India Movement}}」を展開していたが、[[ファシズム]]との闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=四宮宏貴 |date=1982-03 |url=https://hdl.handle.net/10108/21697 |title=「インドを立去れ」運動におけるガンディーと国民会議派 |journal=アジア・アフリカ言語文化研究 |ISSN=0387-2807 |publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |volume=23 |pages=1-37 |hdl=10108/21697 |naid=120000997430 |CRID=1050001337707278592}}</ref>。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本側が反日的だと見なしていたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった<ref name=":3" />。 === 独立 === [[ファイル:Nehru Gandhi 1937 touchup.jpg|thumb|インド初代首相[[ジャワハルラール・ネルー]](左)と、インド独立の父[[マハトマ・ガンディー]](右)]] [[1945年]]7月5日にイギリスで[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]が行われ[[クレメント・アトリー|アトリー]]内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し[[日本の降伏|日本が降伏]]した。それに先立って、[[インパール作戦]]に失敗した日本軍は[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている<ref name=":4">{{Cite journal|和書|author=堀江洋文 |date=2015-05 |url=https://doi.org/10.34360/00007086 |title=スバス・チャンドラ・ボースの再評価 |journal=専修大学人文科学研究所月報 |ISSN=0387-8694 |publisher=専修大学人文科学研究所 |volume=276 |pages=43-79 |doi=10.34360/00007086 |naid=120006793484 |CRID=1390572174779347712}}</ref>。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、[[ソ連]]と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みた[[インド国民軍]]の将兵3人が1945年11月、「[[イギリス国王|国王]]に対する反逆罪」で[[レッド・フォート]]で裁判にかけられ、[[死刑|極刑]]にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった<ref name=":4" />。また、[[1946年]]8月16日、[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]が{{仮リンク|直接行動の日|en|Direct Action Day}}を定めると、[[カルカッタの虐殺]]が起こり、国内の宗教間対立も激化した。 第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立した[[イスラム国家]]の[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]と[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]は[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]した。両国は、独立直後の10月に[[カシミール]]帰属問題から[[印パ戦争]]を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに[[核兵器|核]]開発を競うなど憎しみを深めている。 インドの初代首相(外相兼任)には[[ジャワハルラール・ネルー]]が、副首相兼内相には[[ヴァッラブバーイー・パテール]]が就任し、この新内閣が[[行政]]権を行使した。1946年12月から1950年まで[[憲法制定議会]]が[[立法権]]を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置の[[インド最高裁判所]]に移行した。さらに憲法制定議会議長の[[ラージェーンドラ・プラサード|R.プラサード]]が大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長の[[ビームラーオ・アンベードカル|B.R.アンベードカル]]が法務大臣に就任した。 [[1948年]]1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教の[[マラータ同盟]]のあった[[マハーラーシュトラ州]]出身の[[ヒンドゥー・ナショナリズム|ヒンドゥー至上主義]]「[[民族義勇団]]」(RSS)活動家の[[ナトラム・ゴドセ]]によって、同じヒンドゥー教の[[マールワール]]商人[[ビルラ]]の邸で射殺された。インドは同年9月13日、[[ポロ作戦]]で[[ニザーム王国]]を併合した。 === 独立後 === インドは[[政教分離]]の[[世俗主義]]という柱で国の統一を図ることになり、[[1949年]]11月26日にインド憲法が成立し、独立時の[[英連邦王国]]から[[1950年]]1月26日に共和制に移行した。 憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、[[一党優位政党制]]となっていた{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=215-217}}。独立後、他の[[社会主義国]]ほど[[義務教育]]の完全普及や身分[[差別]]廃止の徹底はうまくいかなかった。[[1954年]]、[[フランス領インド]]が返還されて[[ポンディシェリ連邦直轄領]]となった。[[1961年]]12月、[[ゴア併合|インドのゴア軍事侵攻]]が起き、[[1961年]]12月19日に[[ポルトガル領インド]]がインドに併合された。[[1962年]]に[[中印国境紛争]]が勃発し、[[アクサイチン]]を失った。 [[ファイル:Indira Gandhi in 1967.jpg|thumb|160px|第5・8代首相[[インディラ・ガンディー]]]] 1964年にはネルーが死去し、その後継の[[ラール・バハードゥル・シャーストリー]]も[[1966年]]に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、[[インディラ・ガンディー]]の[[国民会議派]]が[[政権]]を担った{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=220-221}}。 東西[[冷戦]]時代は、[[非同盟]]運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとは[[カシミール#カシミール紛争|カシミール問題]]と、3度の[[印パ戦争]]が勃発し、長く対立が続いた。特に[[第三次印パ戦争]]([[1971年]]12月3日 - 12月16日)には[[ソビエト連邦|ソ連]]とインドがともに[[東パキスタン]]を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する[[中華人民共和国]]と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、[[中ソ対立]]や米国[[ニクソン大統領の中国訪問]]([[1972年]]2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、[[シムラー協定]]で[[バングラデシュ]]独立をパキスタンが[[国家の承認|承認]]した。 [[1974年]]5月18日、[[核実験]](コードネーム「[[インドの核実験 (1974年)|微笑むブッダ]]」)が成功し、世界で6番目の[[核兵器]]保有国となった。 [[1976年]]11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを[[社会主義国一覧|社会主義]]・世俗主義的[[民主主義]]<ref>http://indiacode.nic.in/coiweb/amend/amend42.htmー1947年にイギリスから独立して以来、インドは[[クーデター]]などの非合法な政権交代を経験したことのない、南アジアでは珍しい議会制民主主義国家である。</ref> 共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、[[1977年]]の選挙では[[ジャナタ党]]を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=226}}。しかし成立した[[モラルジー・デーサーイー]]政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=228}}。インディラはその後も首相の座を維持したが、[[1984年]]6月に実施した[[シク教]]過激派に対する[[ブルースター作戦]]への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより[[暗殺]]された。そこで息子の[[ラジーヴ・ガンディー]]が首相を引き継いだ。[[1983年]]、隣国で[[スリランカ内戦]]が勃発したため[[インド平和維持軍|平和維持軍]]を派遣した。 [[1987年]]4月、[[ボフォース|ボフォール]]社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た<ref>絵所2008年 64頁</ref>。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。[[1991年]]5月にタミル系武装組織[[タミル・イーラム解放のトラ]]の[[自爆テロ]]でラジーヴも暗殺された。後を継いだ[[ナラシンハ・ラーオ]]政権では、[[マンモハン・シン]]蔵相の元で[[1991年]]7月から始まった{{仮リンク|インドの経済自由化|en|Economic liberalisation in India|label=経済自由化}}によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=284}}。1992年12月、[[アヨーディヤー]]のイスラム建築[[バーブリー・マスジド]]が[[ヒンドゥー・ナショナリズム|ヒンドゥー原理主義者]]らに破壊される事件が発生、宗派対立となった{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=237}}。 [[ファイル:Ab vajpayee.jpg|thumb|160px|第13・16代首相[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]]] [[1996年]]の総選挙で[[インド人民党]]が勢力を伸ばし[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、[[コチェリル・ラーマン・ナラヤナン]]が就任した。 [[1998年]]5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「[[インドの核実験 (1998年)|シャクティ]]」を突如実施。[[核保有国の一覧|核保有国]]であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の[[パキスタンの核実験 (1998年)|核実験]]が成功した。[[1999年]]5月、パキスタンとの[[カシミール]]領有権をめぐる国境紛争が{{仮リンク|カルギル戦争|en|Kargil War|label=カルギル紛争}}に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=240-241}}。 [[2004年インド総選挙|2004年の総選挙]]では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=242}}。同年12月26日、[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]が起こった。震源地に近い[[アンダマン・ニコバル諸島]]を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。 [[2008年]]11月26日、[[デカン・ムジャーヒディーン]]による[[ムンバイ同時多発テロ]]では、死者172人、負傷者239人を出した。 [[2009年インド総選挙|連邦下院の総選挙]]が[[2009年]]4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。[[有権者]]は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して[[政権]]を維持した{{sfn|『南アジア史4 近現代』|p=244}}。一方、最大野党[[インド人民党]](BJP)は116議席にとどまった。 [[2014年インド総選挙|2014年5月開票の総選挙]]ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに[[政権交代]]が実現。5月26日、[[ナレンドラ・モディ]]が第18代首相に就任し、人民党政権が発足した<ref>「[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0E61SW20140526 インドでモディ政権発足、集権的な内閣目指すと表明]」[[ロイター]](2014年5月27日)</ref>。2017年6月、印パ両国が[[上海協力機構]]へ正式に加盟した。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|インドの政治|hi|भारत की राजनीति|en|Politics of India}}|インド憲法}} {{Vertical_images_list |幅= 250px |枠幅= 250px | 1=Indian_President_House.jpg | 2=[[ラシュトラパティ・バワン|大統領府]] | 3=Delhi_India_Government.jpg | 4=[[首相府]](サウス・ブロック政府合同庁舎) | 5=Sansad_Bhavan-1.jpg | 6=円形[[国会議事堂 (インド)|国会議事堂]] | 7= | 8= }} インドの政治の大要は憲法に規定されている。[[インド憲法]]は1949年に制定、[[1976年]]に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。 [[2019年インド総選挙]]では、[[インド人民党]]が過半数の議席を獲得した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/05/8322791d56f1e7c2.html |title=下院総選挙、モディ政権与党のBJPが圧勝(インド)ビジネス短信―ジェトロの海外ニュース |accessdate=2022-10-16}}</ref>。党の基盤となっているのが、国父[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]の[[暗殺者]]、[[ナトラム・ゴドセ]]を輩出した[[ヒンドゥー・ナショナリズム|ヒンドゥー至上主義]]の[[極右]]・[[ファシスト]]団体[[民族義勇団]](RSS)であり、党首の[[ナレンドラ・モディ]]もこのRSSの元活動家である<ref name=":22">{{Cite web|和書 |title=【巨象の未来 インド・モディ政権2期目へ】下 過激化するヒンズー教徒 宗教分断どう食い止める |url=https://www.sankei.com/article/20190526-4FJZRAC4IZPOPCIYFALIQJ3KYE/ |website=産経ニュース |date=2019-05-26 |access-date=2023-05-20 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=ナレンドラ・モディ新首相が直面するインド内政の課題 {{!}} 研究プログラム |url=https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=1930 |website=東京財団政策研究所 |access-date=2023-06-05 |language=ja}}</ref>。 [[国際連合|国連]]人権審査は、人民党が[[人権擁護者|人権活動家]]、[[ジャーナリスト]]、平和的な[[デモ活動|デモ]]参加者を[[訴追]]しており、イスラム教徒や宗教的少数派への攻撃とその為の[[扇動]]、[[差別]]、[[ヘイトスピーチ]]を発生させているとして警告している<ref>{{Cite web |title=Human Rights Watch Submission to the Universal Periodic Review of India |url=https://www.hrw.org/news/2022/03/31/human-rights-watch-submission-universal-periodic-review-india |website=Human Rights Watch |date=2022-03-31 |access-date=2023-06-05 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=インド:国連人権審査で深刻な懸念 |url=https://www.hrw.org/ja/news/2022/11/18/india-serious-concerns-raised-un-rights-review |website=Human Rights Watch |date=2022-11-17 |access-date=2023-06-05 |language=ja}}</ref>。 === 行政 === 国家[[元首]]は[[インドの大統領|大統領]]。実権はなく、内閣([[:en:Union Council of Ministers|Union Council of Ministers]])の助言に従い国務を行う。[[議会]]の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。 {{See also|インドの大統領}} 副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。 [[行政機関|行政府]]の長は[[インドの首相|首相]]であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した[[政党]]が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う([[議院内閣制]])。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。 {{See also|インドの歴代首相}} === 立法 === 議会は[[両院制]]で、州代表の[[上院]]([[ラージヤ・サバー]])と、国民代表の[[下院]]([[ローク・サバー]])の二院により構成される。 {{See also|インドの国会}} 上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による[[小選挙区制]]選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン([[:en:British Indian|British Indians]]、イギリス系インド人。植民地時代に[[イギリス人]]とインド人との間に生まれた[[混血]]のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。 任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。 なお、インドは民主的なプロセスを経て選挙が行われている国の中で世界最大の人口を誇る。そのためしばしば「世界最大の民主主義国家」と呼ばれることがある。 {{See also|インドの政党}} <!-- === 政党 === --> === 司法 === {{main|{{仮リンク|インドの司法|en|Judiciary of India}}}} [[司法権]]は最高裁判所と高等裁判所の2ヶ所に委ねられている。 {{節スタブ}} ==== 法律 ==== {{main|{{仮リンク|インドの法律|en|Law of India}}}} {{節スタブ}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|インドの国際関係|hi|भारत के विदेश संबंध|en|Foreign relations of India}}}} [[ファイル:Diplomatic missions of India.PNG|thumb|520px|インドが外交使節を派遣している諸国の一覧図(青)]] 独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。 * 1947年3月、デリーでアジア問題会議が開催され、新生のアジア諸国が直面視する諸問題が討議された。 * 1949年2月、デリーでアジア19か国会議が開催され、[[オランダ]]のインドネシア再植民地化が、批判すべき緊急の政治課題として討議された。 * 1949年11月、コルカタでインド平和擁護大会が開催された。 * 1949年12月、ビルマ(ミャンマー)に続いて中華人民共和国を承認した。 * 1950年10月、北インドの[[ラクナウ]]で太平洋問題調査会の第11回国際大会が開催された。ネルーが「アジアの理解のために」と題して基調演説を行った。 * 1954年4月、中国の首都・[[北京]]で中印双方は「中印両国の中国チベット地方とインドとの間の通商と交通に関する協定」に調印し、そこで[[平和五原則]](パンチャ・シーラ)を確定した。それは領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存からなっていた。 * 1955年4月、[[バンドン (インドネシア)|バンドン]](インドネシア)で[[アジア・アフリカ会議]]が開催された。14億の諸民族を代表する29か国の指導者が参加した。平和五原則に基づく諸原則を承認した。[[スカルノ]]、[[周恩来]]、[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]、[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル]]などが参加していた。 * 1961年9月、[[ベオグラード]]([[ユーゴスラビア]])で第1回[[非同盟諸国首脳会議]]が開催された。チトー、ナセル、ネルーなどがアジアとアフリカの25か国代表が参加した。[[戦争]]の危機回避を求めるアピールが採択された。 [[File:The Prime Minister, Shri Narendra Modi meeting the Prime Minister of Malaysia, Dr. Mahathir Bin Mohamad, in Kuala Lumpur, Malaysia on May 31, 2018.JPG|thumb|[[インドの首相]][[ナレンドラ・モディ]]と[[マレーシアの首相]][[マハティール・ビン・モハマド]](2018年5月31日)]] === 領土紛争 === {{main|カシミール|アクサイチン|印パ戦争|中印国境紛争}} [[カシミール]]地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され([[印パ戦争]])、現在は[[停戦]]状態にある。インドの主張するカシミール地方は、[[ジャンムー・カシミール連邦直轄領]]及び[[ラダック連邦直轄領]]となっている。中国の実効支配地域には[[レアメタル]]が埋蔵されている。 これとは別に、インド東部[[アッサム州]]北部の[[ヒマラヤ山脈]]南壁は、中国との間で[[中印国境紛争]]があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドの[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]となっている。 === 日本との関係 === {{main|日印関係}} 近代以前の[[日本]]では、中国経由で伝わった[[仏教]]に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを[[天竺]]と呼んでいた)。[[東大寺]]の大仏の[[開眼供養]]を行った[[菩提僊那]]が中国を経由して渡来したり、[[高岳親王]]のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・[[震旦]]([[中華人民共和国|中国]])・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。 1903年に[[日印協会]]が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が[[日本軍]]の援助の下で[[インド国民軍]]を結成し、日本軍とともに[[インパール作戦]]を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物に[[ラース・ビハーリー・ボース]](中村屋のボース)や[[A.M.ナイル]]らがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式[[カレー (代表的なトピック)|カレー]]を伝えたことでもよく知られている。 [[1948年]]、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)において、インド代表判事パール判事([[ラダ・ビノード・パール]]、[[1885年]][[1月27日]] - [[1957年]][[1月10日]])は、「イギリスやアメリカが[[無罪]]なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは[[1951年]]の[[サンフランシスコ講和条約|サンフランシスコで開かれた講和会議]]に欠席。[[1952年]]4月に2国間の[[国交]]が回復し、同年[[6月9日]]に[[日本国とインドとの間の平和条約|平和条約]]が締結された。インドは[[親日]]国であり、[[日本人]]の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある<ref>[http://pmindia.nic.in/speech/content.asp?id=114 Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister] National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office</ref> [[1957年]][[5月24日]]、インドを訪問した[[岸信介]][[内閣総理大臣|首相]]を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、[[ジャワハルラール・ネルー]]は、[[日露戦争]]における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えて[[日本国との平和条約|サンフランシスコ条約]]に参加しなかった。そして日本に対する[[戦争賠償|賠償]]の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも[[友情]]に重きを置くからにほかならない」と演説した<ref name="江崎道朗">{{Cite book|和書|author=江崎道朗|authorlink=江崎道朗|date=2016-10-08 |title=マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 |series=|publisher=[[青林堂]] |isbn=978-4792605681 |page=100 |url=https://books.google.co.jp/books?id=91CJDQAAQBAJ&pg=PT100#v=onepage&q&f=false }}</ref>。 [[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]率いる[[インド国民軍]]が基礎となって独立戦争を戦ったインドは、その過程での日本との関わりから、[[自虐史観|東京裁判史観]]に否定的であり、[[1994年]]に[[駐日インド大使館]]の協力で日本の取材班が訪印し、インドの識者に対して、日本の[[戦争賠償]]や[[戦争犯罪]]に対する告発に賛成しなかった[[ラダ・ビノード・パール]]の評価を尋ねたところ、{{仮リンク|教育省 (インド)|label=インド教育省|en|Ministry of Education (India)}}事務次官だったP.N. チョプラ博士は、[[ラダ・ビノード・パール]]は[[インド政府]]の立場を十分に説明しており、過去と現在を問わず[[インド政府]]は全ての[[インド#国民|インド人]]とともに[[ラダ・ビノード・パール]]の判決を支持しており、[[インド政府]]が公式に[[自虐史観|東京裁判史観]]否定の立場をとっていることを明らかにした<ref name="江崎道朗"/>。 [[広島市|広島]]の[[広島市への原子爆弾投下|原爆記念日]]である毎年[[8月6日]]に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、[[昭和天皇]][[崩御]]の際には3日間[[喪]]に服したほどである<ref name="江崎道朗"/>。また、1970年代ごろからは、日本[[プロレス]]界でインド出身の[[タイガー・ジェット・シン]]が活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。 2001年の[[インド西部地震]]では日本は[[自衛隊インド派遣]]を行い支援活動を行った。[[日本政府]]は「[[価値観外交]]」を進め、[[2008年]]10月22日には、[[麻生太郎]]、[[マンモハン・シン|シン]]両首相により[[日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言|日印安全保障宣言]]が締結された<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/visit/0810_ahks.html</ref>。日本の閣僚としては、[[2000年]]に[[森喜朗]][[内閣総理大臣|総理大臣]]([[8月18日]] - [[8月26日|26日]]の[[東南アジア]]訪問の一貫)、[[2005年]]に[[小泉純一郎]]総理大臣([[デリー]])、[[2006年]]1月に麻生太郎[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](デリー)、[[2006年]][[アジア開発銀行]]年次総会の際に[[谷垣禎一]][[財務大臣#日本|財務大臣]]([[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]])、[[2007年]]1月に[[菅義偉]][[総務大臣]](デリーと[[チェンナイ]])、[[2007年]]8月に[[安倍晋三]]総理大臣([[ニューデリー]]と[[コルカタ]])、[[2009年]]12月に[[鳩山由紀夫]]総理大臣([[ムンバイ]]とデリー)がそれぞれ訪問している。 [[2011年]][[8月1日]]に[[日本・インド経済連携協定]]が発効した。[[2012年]]4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/ji60/index.html 日インド国交樹立60周年](日本国外務省)</ref>。[[2014年]]8月30日、モディが首相として初来日し、[[安倍晋三|安倍首相]]主催による非公式の夕食会が[[京都市]]の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、[[シーレーン]]の安全確保に向けた[[海上自衛隊]]と[[インド海軍]]の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した<ref>[https://www.sankei.com/article/20140902-R4BHVMTZDZK23DKIYAN2YOJTYM/]『産経新聞』2014年9月2日閲覧</ref>。 === イギリスとの関係 === {{main|{{仮リンク|英印関係|en|India–United Kingdom relations}}}} 17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布([[キャラコ]])がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる[[英蘭戦争]]が起こり、[[フランス東インド会社]]の連合軍を打ち破り([[プラッシーの戦い]])、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年に[[ベンガル地方]]の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りに[[イギリス東インド会社]]主導の植民地化が進み、[[パリ条約 (1763年)|1763年のパリ条約]]によってフランス勢力をインドから駆逐すると、[[マイソール戦争]]、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、[[アヘン]]、[[インディゴ]]などの[[プランテーション]]を拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。 イギリス支配に対する不満は各地で高まり、[[インド大反乱]](セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、[[インドの総督|インド総督]]を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]がインド女帝を兼任する[[イギリス領インド帝国]]が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、[[ウッドロウ・ウィルソン]]らの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、[[アムリットサル事件]]が起きた。 しかし、[[非暴力]]を唱える[[マハトマ・ガンディー]]、[[ジャワハルラール・ネルー]]により反英・独立運動が展開された。ガンディーは「[[塩の行進]]」を開始したが成功しなかった。 第二次世界大戦では日本に[[亡命]]した[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が日本の援助によって[[インド国民軍]]を結成し、インド人兵士は多くが志願した。 インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、[[景気]]の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、[[イギリス政府|英国政府]]は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国の[[パキスタン人]]が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、[[ウェンブリー]]、ハウンズロー、バーネット、[[クロイドン・ロンドン特別区|クロイドン]]、郊外では東西ミッドランズ、[[マンチェスター]]、[[レスター]]にコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。 インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧[[宗主国]]が普及させた世界共通語である[[英語]]を使い、[[英語圏]]中心に商売をしている。 === アメリカ合衆国との関係 === {{main|{{仮リンク|米印関係|en|India–United States relations}}}} [[冷戦]]期は[[非同盟中立]](実態は旧[[ソビエト連邦|ソ連]]寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていた[[アメリカ合衆国]]との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。[[インドの核実験 (1998年)|1998年の核実験]]を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドでは[[ソフトウェア]]産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、[[インターネット]]を通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。[[NHKスペシャル]]の「インドの衝撃」では、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]のエンジニアの1割はインド人([[在外インド人]])だと伝えている。 また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→[[オフショアリング]])。 一時期、[[シリコンバレー]]は“IC”でもつと言われたことがあるが{{誰2|date=2009年5月}}、この場合のICは[[集積回路]]の''I''ntegrated ''C''ircuitsを指すのではなくインド人と[[中国人]]を意味する。 英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にした[[コールセンター]]業務はインドの会社に委託([[アウトソーシング]])されている場合が多い。多くの[[アメリカ人]]の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された([[アングロサクソン]]系)アメリカ人風の名前を名乗っている。 アメリカとの[[時差]]は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝である。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もある。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。 アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、[[マイクロソフト]]の従業員の34%、[[IBM]]の従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%が[[インド系アメリカ人]]であり、インド系アメリカ人は100万 - 200万人ほどいると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。 また、[[アイビー・リーグ]]などのアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトしたりするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、[[アメリカ合衆国移民・関税執行局]] (ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学([[STEM教育|STEM]])分野を学んでいる。 また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られない。強いて言うならば[[アメリカ同時多発テロ]]の際に[[アラブ人|アラブ系]]と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。 === オーストラリアとの関係 === {{main|{{仮リンク|豪印関係|en|Australia–India relations}}}} インドは[[オーストラリア]]にとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、様々な分野にわたって提供しているという。インド工業連盟(CII)は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、[[資源]]開発、[[鉱業]]、[[エネルギー]]、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、[[映画]]、[[メディア (媒体)|メディア]]、[[エンターテインメント]]、小売り、金融と活用されている分野を挙げた。 オーストラリアは移民政策として[[アジア人]]を受け入れており、特にインド人は英語が話せるため多くが留学・移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民しており、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行くことを選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。 2005年ごろからオーストラリアの若者たちが[[レバノン]]人を暴行する事件が相次ぎ、2007年ごろからインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。インド人学生に対する暴行は、おもに[[メルボルン]]や[[シドニー]]などオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・[[在豪インド人連続襲撃事件|カレー・バッシング]]」だった。相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、[[外交]]問題にまで発展した。[[ボリウッド]]の大物俳優[[アミターブ・バッチャン]]は、[[クイーンズランド大学]]から授与されるはずだった[[名誉博士号]]を辞退したほか、[[ブリスベン]]で行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。[[ケビン・ラッド]]首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に[[人種差別]]があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。 === 中国との関係 === {{main|中印関係}} 古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の[[法顕]]、[[玄奘]]、[[義浄]]らを通じ、交流があった。植民地時代は[[三角貿易]]でつながり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟<ref>{{cite news | url = http://foreignpolicy.com/2014/09/18/the-rise-and-fall-of-hindi-chini-bhai-bhai/ | title = The Rise and Fall of Hindi Chini Bhai Bhai | newspaper = Foreign Policy | date = 2014-09-18 | accessdate = 2017-05-26 }}</ref>)を掲げ、非共産圏では[[ビルマ]]に次いで中華人民共和国を国家承認して最初に大使館を設置した国であった<ref>{{cite web|url= https://mea.gov.in/Portal/ForeignRelation/China-January-2012.pdf|title=INDIA-CHINA BILATERAL RELATIONS|format=PDF|accessdate=2019-02-22}}</ref>。[[平和五原則]]で友好を深めようとするも、1950年代以降は[[中印国境紛争]]や、[[ダライ・ラマ14世]]と[[チベット亡命政府]]をインドが中華人民共和国から匿い、パキスタンを印パ戦争で中華人民共和国が支援したことで[[冷戦]]時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。 しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認め<ref>{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3015840.stm| title = India and China agree over Tibet| newspaper = [[BBC]]| date = 2003-06-24| accessdate = 2019-11-20}}</ref>、中印国境紛争以来64年ぶりに国境貿易を再開する合意を交わした<ref>{{cite news| url = http://www.chinadaily.com.cn/china/2006-07/06/content_634253.htm| title = China, India reopen border trade| newspaper = [[チャイナデイリー]]| date = 2006-07-06| accessdate = 2019-11-20}}</ref>。さらに中華人民共和国の主導する[[上海協力機構]]に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。経済面では2014年に中華人民共和国はインド最大の貿易相手国にもなった一方<ref>{{cite news |title=China is now India's top trading partner—and one of its least liked|newspaper=Quartz |date=2014-03-03 |url=https://qz.com/183134/china-is-now-indias-top-trading-partner-and-one-of-its-least-liked/ |accessdate=2019-11-08}}</ref>、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた[[中国人民解放軍]]にインド側の[[塹壕]]を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こったりするなど、いまだに国境問題は解決されていない。 {{seealso|真珠の首飾り戦略}} === パキスタンとの関係 === {{main|[[インド・パキスタン関係]]}} 宗教の違いや度重なる国境紛争で独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪く、互いに[[核兵器]]を向けてにらみ合っている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3247759 「印パ核戦争」なら死者1億人に すすが地球寒冷化誘発 研究] [[フランス通信社|AFP]](2019年10月3日)2020年12月5日閲覧</ref>。近年も[[ムンバイ同時多発テロ]]以降、関係は悪化していたが、2011年には2国間貿易の[[規制緩和]]やインドからパキスタンへの[[石油製品]]輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。 2012年9月8日、[[イスラマバード]]で会談をして、[[査証|ビザ]]発給条件の緩和について合意したほか、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた<ref>{{Cite news |url=http://www.emeye.jp/disp%2FOWA%2F2012%2F0911%2Fstockname_0911_007%2F0%2F1/ |title=インド・パキスタン外相会談、二国間ビザ緩和などで合意 |work= |newspaper= |date=2012-09-11 |accessdate=2012-09-17 }}</ref>。しかし、[[カシミール]]をめぐっては対立を続けており<ref>[http://www.sankei.com/world/news/151024/wor1510240026-n1.html インドに「対抗措置」警告 パキスタン首相、軍拡非難]『産経新聞』2015年11月10日閲覧</ref>、空中戦([[バーラーコート空爆]])や双方の砲撃と銃撃戦も起き両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている<ref>「インドのモディ首相、パキスタンでの首脳会議出席を拒否 カシミールのテロで関係緊張『産経新聞』2016年9月28日</ref><ref>「印パ、実効支配線で銃撃=軍事作戦に発展-主張食い違い、非難応酬・カシミール」[[時事通信]](2016年9月30日)</ref><ref>{{cite news |title=印パ両軍が砲撃の応酬 カシミール、双方に死者|newspaper=『日本経済新聞』 |date=2019-10-21 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51212840R21C19A0EAF000/ |accessdate=2019-11-20|author=}}</ref>。 === ロシアとの関係 === {{Main|{{仮リンク|印露関係|en|India–Russia relations}}}} [[ロシア]]とは大幅な防衛・戦略上の関係([[:en:India–Russia relations#Military relationship|India–Russia military relations]])を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客となっている。 {{節スタブ}} == 軍事 == [[File:PBG (my own photo).JPG|thumb|[[共和国記念日 (インド)|共和国記念日パレード]]]] [[File:Basin Trials of Indigenous Aircraft Carrier 2.jpg|thumb|[[航空母艦]][[ヴィクラント (空母・2代)|ヴィクラント]](建造中)]] {{main|インド軍}} インド軍は、[[インド陸軍]]、[[インド海軍]]、[[インド空軍]]および、その他の[[準軍事組織]]を含むインドの[[軍隊]]である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権は[[インド政府]]([[:en:Government of India|Government of India]])のトップ([[政府の長]])である首相([[:en:Prime Minister of India|Prime Minister of India]])が有している。インド軍の管理・運営は[[国防省 (インド)|国防省]]([[:en:Ministry of Defence (India)|Ministry of Defence]])・国防大臣([[:en:Minister of Defence (India)|Minister of Defence]])が担当する。 インド軍の正規兵力は陸海空軍と[[戦略核兵器|戦略核戦力]]部隊、[[インド沿岸警備隊]]の約132万5,000人と、[[予備役]]は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・[[原子力潜水艦]]保有国でもある。インドの準軍事組織は、[[アッサム・ライフル部隊]](5万人)、[[:en:Special Frontier Force|特別辺境部隊]](1万人)である。以前は準軍事部隊とされた[[国境警備部隊]]、[[中央予備警察]]などを含む[[中央武装警察隊]](約77万人)や、[[民兵]]組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。 グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の[[軍事力]]となっている。[[志願兵制]]を採用しており、[[徴兵制]]が行われたことは一度もない。 近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、[[ICBM]]、[[SLBM]]、[[戦略爆撃機]](先述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、[[ミサイル防衛]]システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。また、最近では武器そのものの国産化を目指す動きが強くなっており、2023年時点での共和国記念日に開催された軍事パレードにおいては国産化へのシフト変更傾向が現れているとの指摘がされている<ref group="注釈">2023年現在、同国軍が保有する武器の約半分はロシア製となっている。</ref><ref>{{Cite news|url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29496|title=ロシアに幻滅したインド 進む武器の国産化|newspaper=WedgeONLINE|date=2023-02-21|accessdate=2023-03-03}}</ref>。 === 準軍事組織 === インドは10の[[民兵組織]]を維持している<ref>{{cite journal|title=Chapter Six: Asia |pages=205–302 |journal=The Military Balance|volume=112|number=1|author1=IISS|author1-link=International Institute for Strategic Studies|date=2012|publisher=[[Routledge]]|location=[[London]] |doi=10.1080/04597222.2012.663215|s2cid=219626887}}</ref>。 == 地理 == [[ファイル:India Geographic Map.jpg|thumb|インドの地形図]] {{Main|インドの地理}} [[パキスタン]]、[[中華人民共和国|中華人民共和国(中国)]]、[[ネパール]]、[[ブータン]]、[[バングラデシュ]]、[[ミャンマー]]とは陸上で、[[スリランカ]]、[[モルディブ]]、[[インドネシア]]とは海上で[[国境]]を接する。パキスタンや中国とは[[領土問題]]を抱える。 中国とブータンは、東北部と[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]と[[シッキム州]]北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュは[[メーガーラヤ州]]、[[トリプラ州]]、[[西ベンガル州]]の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州と[[アソム州]]東部、[[マニプル州]]、[[ミゾラム州]]、[[ナガランド州]]東部と接している。 インドの陸地はほとんどが[[インド洋]]に突き出した[[南アジア]]の[[半島]]上にあり、南西を[[アラビア海]]に、南東を[[ベンガル湾]]に区切られて7,000キロメートルの[[海岸|海岸線]]を持つ。多くの地域では[[雨季]]が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。[[北インド]]と中央インドはほぼ全域に肥沃な[[ヒンドスタン平野]]が広がり、[[南インド]]のほとんどは[[デカン高原]]が占める。国土の西部には岩と砂の[[タール砂漠]]があり、東部と北東部の国境地帯は峻険な[[ヒマラヤ山脈]]が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと[[領土紛争|係争中]]の[[カシミール地方]]にある[[K2]]峰([[標高]]8,611メートル)である。確定した[[領土]]の最高点は[[カンチェンジュンガ]]峰(同8,598メートル)である。気候は南端の[[赤道]]地帯から[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]の[[山|高山地帯]]まで多様性に富む。 インドの発展が遅れた主因は水不足であった<ref>W. Arthur Lewis ''Grouth and Flunctuations, 1870-1913'', London, 1978, p.205.</ref>。[[インド亜大陸]]の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえば[[アッサム州]]や[[西ガーツ山脈]]では1万ミリメートル以上であり、[[シンド州]]の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。[[モンスーン]]のもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、[[旱魃]]による[[飢饉]]は、[[灌漑]]がなければ百万人単位で餓死者を出す<ref name="dry"/>。 == 気候 == {{Main|{{仮リンク|インドの気候|en|Climate of India}}}} 広大な国土を持つため、地域により[[気候]]は大きく異なる。雨季には大きな[[洪水]]が発生するほどの豪雨がある地域も多い<ref name="All">[https://allabout.co.jp/gm/gc/20010/ All About インドの季節(気候・気温)・祝日・イベント]</ref>。[[2016年]][[5月19日]]には西部[[ラジャスタン州]]ファロディで最高[[気温]]が51[[セルシウス度|℃]]を記録し、[[1956年]]に同州[[アルワル]]で観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6℃を60年ぶりに更新した<ref name="msn.com">[http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e3%81%a7%e5%8f%b2%e4%b8%8a%e6%9c%80%e9%ab%98%e6%b0%97%e6%b8%a9%ef%bc%95%ef%bc%91%e5%ba%a6%e3%80%81%e7%86%b1%e4%b8%ad%e7%97%87%e3%82%84%e5%81%9c%e9%9b%bb%e9%a0%bb%e7%99%ba/ar-BBtiUPP?ocid=spartandhp msnニュース - インドで史上最高気温51度、熱中症や停電頻発]</ref>。 === 北インド === [[バラナシ]]や[[タージマハル]]のある[[アーグラー]]が属する[[北インド平野]]では[[5月]]が最も気温が高くなり、45℃を超すこともある。[[3月]]下旬から[[9月]]下旬までは厳しい暑さが続き、特に[[4月]]から[[6月]]は酷暑となる。[[7月]]から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月に[[ヒマラヤ]]周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に[[12月]]中旬から[[1月]]下旬には[[ショール]]が必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたる[[ラジャスターン州]]エリアは典型的な[[砂漠気候]]で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月ごろは特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい<ref name="All" />。 === 南インド === 南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20℃超、普段は30 - 35℃程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生して[[ムンバイ]]のような大都市の都市機能が麻痺することもある。[[南インド]]でも[[ベンガルール]]は[[標高]]が800メートルある[[高原]]であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まる[[情報技術|IT]]都市として発展したほどである<ref name="All" />。 === 東海岸とコルカタ === [[コルカタ]]や東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40℃近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある<ref name="All" />。 === [[ケララ州]] === 年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い<ref name="All" />。 === ヒマラヤ地方 === 冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。[[シムラー (インド)|シムラー]]や[[ダージリン]]は他地方が酷暑の時期に[[避暑地]]となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い<ref name="All" />。 == 地方行政区分 == {{main|インドの地方行政区画}} インドは28の州と8つの[[インドの地方行政区画|連邦直轄領]]から構成される。ただし、[[ジャンムー・カシミール連邦直轄領]]、[[ラダック連邦直轄領]]はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]のほとんどを中国との間で、それぞれ[[領有権]]をめぐって[[外交]]・[[国際政治]]の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている<ref>{{Cite book|和書|ref=|author=刈安望|editor=|title=世界地方旗図鑑|url=|edition=初版第一刷|series=|date=2015年2月10日|year=2015|publisher=[[えにし書房]]|isbn=978-4908073151|page=13|pages=|chapter=アジア編|translator=|volume=|location=}}</ref>。 多くの少数民族や先住民を抱える民主主義国家であることから、州の分割を求める動きは繰り返し発生し、世論を二分してきた。実際に分割に至った州もあり、2000年には中部と北部、東部で3州が新たに誕生した。14年にも南東部アンドラプラデシュ州の一部がテランガナ州として分割となった<ref>{{Cite web|和書|title=インド、州分割論が再燃 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69070330X00C23A3FFJ000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-03-08 |access-date=2023-03-08 |language=ja}}</ref>。 === 主要都市 === {{Main|インドの都市の一覧|インドの都市圏人口の順位}} {| class="wikitable" style="text-align:center; width:97%; margin-right:10px; font-size:90%" |- ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | [[インドの地方行政区画|行政区分]] ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 行政区分 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 |- !align="center"| 1 |align="center"| '''[[ムンバイ]]''' |align="center"| [[マハーラーシュトラ州]] |align="right"| 13,662,885 !align="center"| 11 |align="center"| '''[[ジャイプル]]''' |align="center"| [[ラージャスターン州]] |align="right"| 2,997,114 |- !align="center"| 2 |align="center"| '''[[デリー]]''' |align="center"| [[デリー]] |align="right"| 11,954,217 !align="center"| 12 |align="center"| '''[[ラクナウ]]''' |align="center"| [[ウッタル・プラデーシュ州]] |align="right"| 2,621,063 |- !align="center"| 3 |align="center"| '''[[ベンガルール]]''' |align="center"| [[カルナータカ州]] |align="right"| 5,180,533 !align="center"|13 |align="center"| '''[[ナーグプル]]''' |align="center"| [[マハーラーシュトラ州]] |align="right"| 2,359,331 |- !align="center"| 4 |align="center"| '''[[コルカタ]]''' |align="center"| [[西ベンガル州]] |align="right"| 5,021,458 !align="center"| 14 |align="center"| '''[[インドール (インド)|インドール]]''' |align="center"| [[マディヤ・プラデーシュ州]] |align="right"| 1,768,303 |- !align="center"| 5 |align="center"| '''[[チェンナイ]]''' |align="center"| [[タミル・ナードゥ州]] |align="right"| 4,562,843 !align="center"| 15 |align="center"| '''[[パトナ]]''' |align="center"| [[ビハール州]] |align="right"| 1,753,543 |- !align="center"| 6 |align="center"| '''[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]''' |align="center"| [[テランガーナ州]] |align="right"| 3,980,938 !align="center"| 16 |align="center"| '''[[ボーパール]]''' |align="center"| [[マディヤ・プラデーシュ州]] |align="right"| 1,742,375 |- !align="center"| 7 |align="center"| '''[[アフマダーバード]]''' |align="center"| [[グジャラート州]] |align="right"| 3,867,336 !align="center"| 17 |align="center"| '''[[ターネー]]''' |align="center"| [[マハーラーシュトラ州]] |align="right"| 1,673,465 |- !align="center"| 8 |align="center"| '''[[プネー]]''' |align="center"| [[マハーラーシュトラ州]] |align="right"| 3,230,322 !align="center"| 18 |align="center"| '''[[ルディヤーナー]]''' |align="center"| [[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]] |align="right"| 1,662,325 |- !align="center"| 9 |align="center"| '''[[スーラト]]''' |align="center"| [[グジャラート州]] |align="right"| 3,124,249 !align="center"| 19 |align="center"| '''[[アーグラ]]''' |align="center"| [[ウッタル・プラデーシュ州]] |align="right"| 1,590,073 |- !align="center"| 10 |align="center"| '''[[カーンプル]]''' |align="center"| [[ウッタル・プラデーシュ州]] |align="right"| 3,067,663 !align="center"| 20 |align="center"| '''[[ヴァドーダラー]]''' |align="center"| [[グジャラート州]] |align="right"| 1,487,956 |- | colspan="8" align=center style="background:#f5f5f5;" | 1991年・2001年実施の[[国勢調査]]データを元にした2008年時点の推定予測値<ref name="gazetteer">"[https://webcitation.org/query?url=http://www.world-gazetteer.com/wg.php?x=%26men=gcis%26lng=en%26dat=80%26geo=-104%26srt=pnan%26col=aohdq%26msz=1500%26va=%26pt=a&date=2010-02-28+18:24:37 World Gazetteer: India - Metropolitan areas 2008 calculation]", [[2008年]]9月28日</ref> |} {{-}} == 経済 == {{Main|インドの経済}} インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる。1997年5月に政府は低品質の[[米]]の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の[[小麦]]を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいものの[[バイオテクノロジー|バイオ]]・[[医薬品]]といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 - 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い[[経済成長率]]を達成している。 インドの[[労働力]]人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。 {{also|{{仮リンク|インドにおける協同組合運動|en|Cooperative movement in India}}}} 貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が[[国内総生産]](GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が[[石油製品]]、後述する農産物と[[海老]]、輸送機器、[[宝飾製品]]や医薬品、[[化学品]]、[[繊維]]などである。輸入は原油・石油製品、[[金]]、機械製品などである。 世界銀行によると、インドのGDPは2021年には3兆1,700憶ドルであり、世界で5番目に大きな経済である<ref name="worldbank">[https://databank.worldbank.org/reports.aspx?source=2&series=NY.GDP.MKTP.CD&country=IND# World Development Indicators]</ref>。 またインドのGDP PPPは8.6兆であり、アメリカと中国に次ぐ3番目に大きな経済となる。 2030年代には15億人を超え、2050年には16.6億人になると予想されている{{sfn|及川|2009|pp=82 - 84}}。 {{wide image|Mumbai panaroma.jpg|1300px|{{Center| インド都市圏第2位のムンバイ。インド国内経済の中心地である。}} }} === 主な産業 === ==== 第一次産業 ==== [[ファイル:Major crop areas India.png|right|200px|thumb|主な農産物の生産地域]] {{Main|{{仮リンク|インドの農業|en|Agriculture in India}}}} [[農業]]をはじめとする[[産業#分類|第一次産業]]は世界第2位の規模を誇り、植物育種や[[灌漑]]設備の整備、[[農薬]]の普及といった「[[緑の革命]]」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、[[自給自足]]達成国となった<ref>[http://www.osaka-c.ed.jp/ed/h14/kankyou/security/food/jikyuu2.htm 出典名不明]{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。[[米]]の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万[[ヘクタール]] あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が[[経済成長率]]に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。 農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たない零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の[[経済連携協定]]である[[地域的な包括的経済連携協定|RCEP交渉]]から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM00001_W0A201C2000000/ 「インド農業改革 反発拡大/取引自由化 首都でデモ続く/モディ政権に打撃も」]『日本経済新聞』朝刊2020年12月7日(国際面)2021年2月7日閲覧</ref>。 [[穀物]]収穫面積の約4割が[[水田]]であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 - 2013年に世界一を記録した<ref>日本・[[農林水産省]]「インドの農林水産業概況」平成28年10月3日更新 web上公開[[PDF]]</ref>。[[小麦]]も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない{{sfn|及川|2009|p=83|loc=インドの農林水産業概況}}。2003年時点で[[砂糖]]、[[魚介類]]、野菜・果実は完全自給できている。[[大豆]]の自給率が96パーセントであった{{sfn|及川|2009|p=83}}。[[綿花]]は植民地時代から[[デカン高原]]で栽培されており、[[糸車]]をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。[[茶]]も同様である。[[鶏卵]]生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの[[養鶏]]は国内需要の高い[[鶏肉]]の生産量を向上させている。インドでは[[牛]]が宗教上神聖な動物とされており、[[牛乳]]の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった<ref>[[矢ケ﨑典隆|矢ケ崎典隆]]他『地誌学概論』([[朝倉書店]] 2012年)pp.73-75.</ref>。[[カシューナッツ]]、[[マンゴー]]、[[ココナッツ]]、[[生姜]]、[[ウコン]]と[[胡椒]]、[[コウマ|ジュート]]、[[落花生]]なども生産している{{要出典|date=2016年7月10日 (日) 23:27 (UTC)}}。 灌漑は[[ムガル帝国]]時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に[[凶作]]による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特に[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ]]地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、[[アスワンダム]]建設に経験が活かされた<ref name="dry">Daniel R. Headrick ''The Tentacles of Progress : Technology Transfer in the Age of Imperialism, 1850-1940'', Oxford University Press, 1988, Chapter.6 Hydraulic Imperialism in India and Egypt</ref>。 1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式[[井戸]]主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 - 2000年の間に[[化学肥料]]の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブや[[ハリヤーナー]]という北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない<ref>矢ヶ崎典隆他『地誌学概論』(朝倉書店 2012年)p.73.</ref>。 [[三角州|デルタ]]が多い[[ベンガル地方]]は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半に[[コレラ]]の[[パンデミック]]の震源となった。[[カルカッタ]]は西の[[フーグリー川]]と東の[[塩湖]]に囲まれ、かつては[[海抜]]10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった<ref>Headrick ''The Tentacles of Progress'', Chapter.5 Cities, Sanitation, and Segregation</ref>。 ==== 第二次産業 ==== [[ファイル:Asean_India_Car_Rally_While_Reached_Numaligarh.jpg|thumb|250px|[[マヒンドラ&マヒンドラ|マヒンドラ]]マヒンドラXUV500]] 鉱業は後述の[[化石燃料]]のほか、[[インド・ウラン公社]]が[[ウラン]]や[[トリウム]]を採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される<ref>[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]] [http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2013-04/india_13.pdf 『世界の工業の趨勢2013』インド]</ref>。現在、国営企業であった[[:en:Coal India|コール・インディア]]の株売却が進行しており、このまま[[民営化]]するのか注目される。 インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした<ref name="theecon-india-economic-structure">{{cite news | title=Economic structure| date= 2003年10月6日 | publisher=The Economist | url=http://www.economist.com/countries/India/profile.cfm?folder=Profile%2DEconomic%20Structure}}</ref>。経済改革後、これまで[[寡占]]状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている<ref>{{cite news | title=Indian manufacturers learn to compete | date=2004年2月12日 | publisher=The Economist | url=http://www.economist.com/displaystory.cfm?story_id=S%27%298%3C%2FPQ%3B%21%21P%214%0A}}</ref> 。 [[製造業]]の花形である輸送機械産業は[[オートバイ]]、[[スクーター]]、[[オート三輪]]の生産が盛んであり、[[ヒーロー・モトコープ]]や[[バジャージ・オート]]、[[ホンダ]]などが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、[[2012年]]には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、[[2020年]]までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、[[タタ・モーターズ]]、[[マヒンドラ&マヒンドラ]]、[[ヒンドゥスタン・モーターズ]]などの地場資本の自動車メーカーのほか、[[スズキ (企業)|スズキ]]や[[ルノー]]などが、[[1991年]]まであった[[:en:Licence Raj|ライセンス・ラージ]]のためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は[[1994年]]が24.5万台であったが、[[2011年]]には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。[[造船]]、航空機製造も成長の兆しを見せている。 石油・エネルギー産業は1984年に[[ボパール化学工場事故]]を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業[[リライアンス・インダストリーズ]]社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な[[天然ガス]]田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からは[[ONGC]]が国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。 [[製薬]]産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。[[鉄鋼]]業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。 ==== 第三次産業 ==== IT時代の到来と[[英語]]を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドは[[アフターサービス]]や技術サポートの世界的な[[アウトソーシング]]の重要なバックオフィスとなりつつある。[[ソフトウェア]]や金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。 '''ソフトウェア産業''' [[ファイル:UB_City,_Bangalore.JPG|250px|thumb|IT企業の集まる[[ベンガルール]]]] 近年の高成長は主に[[情報技術|IT]]部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務の[[アウトソーシング]]の受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の[[大学]]を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、[[インド工科大学]]や[[インド科学大学院]]といった優れた[[教育機関]]を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカの[[シリコンバレー]]などに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの[[国際収支]]を支える重要な[[外貨]]獲得源となっている。 '''情報サービス業''' [[ファイル:Mysore_India_Infosys.JPG|250px|thumb|インドの大手IT企業[[インフォシス]]社]] [[ファイル:In_Orbit_Mall.jpg|250px|thumb|[[テランガーナ州]]のショッピングモール]] 1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど[[情報サービス]]業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している<ref name="20070824nikkeibo">[http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20070823/132945/ 『アウトソーシング大国、インドの岐路』2007年8月24日付配信 日経ビジネスオンライン]</ref>。 当初、インド企業の強みであった低コストは、[[為替]]変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務の[[アウトソーシング]]に留まらず、[[ビジネス]][[コンサルティング]]などの高度なサービス提供によって[[差別化]]を図っている<ref name="20070824nikkeibo"/>。特に[[IBM]]の動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている<ref name="20070824nikkeibo"/>。 こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという<ref name="20070824nikkeibo"/>。また、ギルフォード証券の[[証券アナリスト|アナリスト]]、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している<ref name="20070824nikkeibo"/>。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルの[[パラボラアンテナ]]が地上や屋上に設えてあり、[[人工衛星]]を用いて[[インターネット]]接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている<ref>http://www.mugendai-web.jp/archives/1534</ref>。 [[小売業]]は大型店や[[電子商取引]]も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める<ref>「インド零細店、デジタル化 仕入れや在庫管理支援」『[[日経産業新聞]]』2020年11月10日(16面)</ref>。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。 医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの[[医療観光]]ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の[[歯科]]医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、[[カナダ]]、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは[[外科]]医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。 他の部門では[[バイオテクノロジー]]、[[ナノテクノロジー]]、通信、観光が高成長の兆しを見せている。 === 観光 === {{Main|{{仮リンク|インドの観光|en|Tourism in India}}}} [[ジム・コーベット国立公園]]や[[ハワー・マハル]]、[[アンベール城]]を始めとした数多くの名所を抱えている。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|インドの交通|en|Transport in India}}}} === 道路 === {{Main|{{仮リンク|インドの道路|en|Roads in India}}|{{仮リンク|インドの高速道路|en|Expressways of India}}}} [[ファイル:Mumbai Pune ExpresswayDec2007.jpg|thumb|{{仮リンク|ムンバイ・プネー高速道路|en|Mumbai Pune Expressway}}]] [[高速道路]]などは計画・建設中の段階である。[[デリー]]、[[コルカタ]]、[[チェンナイ]]、[[ムンバイ]]を結ぶ延長約5,800キロメートルの道路(通称「黄金の四角形」)が[[2006年]]中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7,300キロメートルの道路(通称「東西南北回廊」)も[[2007年]]末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、ところどころに料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十キロメートル郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の[[馬車]]や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。 === 鉄道 === {{main|インドの鉄道|[[インド高速鉄道計画|インドの高速鉄道]]}} [[ファイル:Nilgiri_Mountain_Railway_on_Bridge,_May_2010.JPG|thumb|right|200px|[[ニルギリ山岳鉄道]]]] [[ファイル:HUDA_City_Center_(Delhi_Metro).jpg|thumb|right|200px|[[デリーメトロ]]]] [[インドの鉄道]]は国有([[インド鉄道]])であり、総延長は6万2,000キロメートルを超えて世界第5位である。現在では[[鉄道]]が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う(例としてムンバイ、デリー間では、飛行機の外国人料金が6,000ルピーなのに対し、二等の[[寝台列車]]は400ルピーである)。また日本の[[新幹線]]を基にした[[高速鉄道]]や[[貨物鉄道]]も計画されている。 インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。 {{colbegin}} *[[インド北部鉄道]](Nothern Railway) *[[インド南部鉄道]](Southern Railway):[[チェンナイ]]、[[トリヴァンドラム]]を含んだ、[[タミル・ナードゥ州]]、[[ポンディシェリ|パーンディッチェーリ]]連合区、[[ケーララ州]]、および[[アーンドラ・プラデーシュ州]]の一部に跨る路線。 *[[インド東部鉄道]](Eastern Railway) *[[インド西部鉄道]](Western Railway) *[[インド北東辺境鉄道]](Northeast Frontier Railway) *[[インド北東部鉄道]](North Eastern Railway) *[[インド南東部鉄道]](South Eastern Railway) *[[インド中南部鉄道]](South Central Railway) *[[インド中部鉄道]](Central Railway) *[[インド中東部鉄道]](East Central Railway) *[[インド東海岸鉄道]](East Coast Railway) *[[インド中北部鉄道]](North Central Railway) *[[インド北西部鉄道]](North Western Railway) *[[インド南西部鉄道]](South Western Railway) *[[インド中西部鉄道]](West Central Railway) *[[インド南東部中央鉄道]](South East Central Railway):[[チャッティースガル州]]の[[ビラースプル]]を中心とした、同州と[[マディヤ・プラデーシュ州]]東部、[[マハラシュトラ州]]東部、[[オリッサ州]]西端を含む地域の路線。 {{colend}} 以下の鉄道は公社化されている。 *[[:en:Kolkata Metro|コルカタメトロ]] *[[デリーメトロ]] *[[ムンバイメトロ]] *[[ベンガルール・メトロ]] *[[コンカン鉄道]]:[[マハラシュトラ州]]の[[ローハー]]から[[カルナータカ州]]の[[トークール]]の南方でインド南部鉄道の路線につながる地点までを結ぶ西海岸の路線。 === 航空 === {{Main|{{仮リンク|インドの航空|en|Aviation in India}}}} [[ファイル:Mumbai Airport.jpg|thumb|[[ムンバイ]]の[[チャットラパティー・シヴァージー国際空港]]]] [[ファイル:Mudras_at_Indira_Gandhi_Delhi_1007.jpg|thumb|right|[[インディラ・ガンディー国際空港]]]] かつて[[旅客機]]は一部の富裕層でしか使われていなかったが、[[2000年代]]に入り国内大手資本により[[格安航空会社]](LCC)が多数設立され、それにあわせて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。 {{main|インドの空港の一覧}} 航空会社としては以下のものがある。 * [[エア・インディア]](国営の[[フラッグ・キャリア]]) * [[ジェットエアウェイズ]](運航停止中) * [[スパイスジェット]](格安航空会社) * [[ジェットライト]](格安航空会社) * [[IndiGo]](格安航空会社) * [[GoAir]] * [[:en:Paramount Airways|Paramount Airways]] 首都のニューデリーの[[インディラ・ガンディー国際空港]]をはじめ、各地に空港がある。インド政府は、地方都市の割安な航空路線を支援するUDANという制度を設けている。[[滑走路]]を備えた空港を整備できない地域も多く、2020年10月末には、グジャラート州[[アーメダバード]]とその南東200キロメートルにあるケバディアを結ぶ、インド初の[[水上飛行機]]による定期便が就航した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66344840X11C20A1FFJ000/ 【ASIAトレンド】水上飛行機初の定期運航インド観光の救世主?]『日本経済新聞』朝刊2020年11月28日(国際面)2020年12月5日閲覧</ref>。 {{-}} == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|インドの科学技術|en|Science and technology in India}}}} {{節スタブ}} === 宇宙開発 === {{Main|インドの宇宙開発}} [[File:Mars Orbiter Mission - India - ArtistsConcept.jpg|thumb|[[火星探査]]計画[[マーズ・オービター・ミッション]]]] [[チャンドラヤーン1号]](サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の[[月探査機]]である。無人の月探査の任務には軌道周回機と[[ムーン・インパクト・プローブ]]と呼ばれる装置が含まれる。[[PSLV]]ロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近[[赤外線]]、[[蛍光X線]]による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査において[[インド宇宙研究機関]](ISRO)による5台の観測機器と[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)や[[欧州宇宙機関]](ESA)、[[ブルガリア宇宙局]]など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した<ref>{{cite web|url=http://www.hindu.com/2009/08/30/stories/2009083060730100.htm|title=‘Mission definitely over’|date=2009-08-30|publisher=The Hindu|work=90-95% of the job done|accessdate=2009-08-29}}</ref>。 2013年11月5日、最初の[[火星探査機]]打ち上げに成功した<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/3003166 インドの火星探査機、周回軌道の高度上昇に成功]」[[フランス通信社|AFPBBNews]](2013年11月12日)</ref>。正式名称は「[[マーズ・オービター・ミッション]]」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%B3-191503 マンガルヤーン] - [[コトバンク]]</ref>。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった<ref>{{Cite web|和書|title=インドの探査機、火星周回軌道に到達 アジア初の成功|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM24H0Q_U4A920C1EAF000/|publisher=『[[日本経済新聞]]』|date=2014-09-24|accessdate=2014-09-24}}</ref>。 == 国民 == === 人口 === [[ファイル:Indian Railways Network Connectivity Map with cities and population density.png|thumb|250px|インドの[[鉄道網]]と[[人口密度]]を示した地図。特に北部に人口が集中している。]] 2023年[[国勢調査]]の人口は14億2000万人<ref>{{Cite web|和書|title=インド人口、中国抜き世界最多に 今年半ばに14億2860万人=国連 |url=https://www.bbc.com/japanese/65332263 |website=BBCニュース |date=2023-04-20 |access-date=2023-07-07 |language=ja}}</ref> であり、総人口は世界第2位の[[中華人民共和国]](14億1,000万人)より僅かに多く、世界第1位である。 インドの人口は1950年以降、毎年1,000万から1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加すると考えられており、[[2023年]]に中国を追い抜き、世界一の人口を擁する国となった。ただし、[[2030年代]]以降は毎年500万から700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。 インドは増える若年層に十分な雇用や生活インフラを提供できておらず、地域間の[[出稼ぎ]]も多い。このため一部の州は、子供が2人以下の世帯を経済的に優遇するなど人口抑制策をとっている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM081810Y1A800C2000000/ インド各州、人口抑制策「子供2人以下」優遇検討 雇用や必需品、不足の恐れ]『日本経済新聞』朝刊2021年8月12日(国際面)2021年8月25日閲覧</ref>。インド全体の人口増加率は、1971年から2001年までに、2%台から1%台の1.97%に下落している<ref>井上恭子「人口増加率・識字率・男女比の地域差が示すもの」/ 広瀬崇子・近藤正規・井上恭子・南埜猛編著『現代インドを知るための60章』([[明石書店]] 2007年)213ページ</ref>。 [[ファイル:Indiapop.svg|thumb|right|300px|インドの[[人口ピラミッド]](2017年)]] {| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-left:1em; text-align:right" |+インドの人口の推移と予測 !年 !! 人口(万人) !!増加率 (%) |- |{{rh}}| 1950 |3億5,756|| × |- |{{rh}}| 1960 |4億4,234|| 2.2 |- |{{rh}}| 1970 |5億5,491|| 2.3 |- |{{rh}}| 1980 |6億8,885|| 2.2 |- |{{rh}}| 1990 |8億4,641|| 2.1 |- |{{rh}}| 2000 |10億169|| 1.9 |- |{{rh}}| 2005 |11億337|| × |- |{{rh}}| 2007 |11億3,104|| × |- |{{rh}}| 2010 |11億7,380|| 1.4 |- |{{rh}}| 2020 |13億1,221|| 1.1 |- |{{rh}}| 2030 |14億1,657|| 0.8 |- |- |{{rh}}| 2040 |14億8,571|| 0.5 |- |{{rh}}| 2050 |15億9,000|| 0.3 |- |{{rh}}| 2100 |17億9,000|| 0.3 |} {{-}} === 人種・民族 === {{main|[[インド人]]|{{仮リンク|南アジアの民族|en|South Asian ethnic groups}}}} インド亜大陸の民族については、[[インド・ヨーロッパ語族]]、[[ドラヴィダ語族]]、[[オーストロアジア語族]]、モンゴロイド系の[[シナ・チベット語族]]の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。 大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。 [[Y染色体]]や[[MtDNA]]の研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有の[[ハプログループ]]を有している<ref>http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1380230</ref><ref>http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=516768</ref>。 [[ミャンマー]]と国境が接している北東部は、[[チベット・ビルマ語族]]の民族がいる。 === 言語 === {{main|インドの言語|インドの公用語の一覧|インドの言語の話者数一覧}} [[ファイル:South_Asian_Language_Families.png|right|thumb|南アジアの言語の分布(緑=[[インド・アーリア語派]]、暗緑=[[イラン語派]]、黄=[[ヌーリスターン語派]]、青=[[ドラヴィダ語族]]、橙=[[チベット・ビルマ語族]]、紫=[[オーストロアジア語族]])]] {| class="wikitable sortable" style="text-align:center;" |+インド国内の主要言語割合 (2011年国勢調査)<ref name="fulllangdatacensus 2011">{{cite web|url=https://www.hindustantimes.com/india-news/how-languagesintersect-in-india/story-g3nzNwFppYV7XvCumRzlYL.html|title=How languages intersect in India|publisher=Hindustan Times|accessdate=2021-03-20}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.hindustantimes.com/static/iframes/language_probability_interactive/index.html|title=How many Indians can you talk to?|accessdate=2021-03-20}}</ref> !言語 !第一言語者数<br/>(万人)<ref name="1971-2001">{{cite web|url=http://www.censusindia.gov.in/2011Census/C-16_25062018_NEW.pdf|title=Census of India: Comparative speaker's strength of Scheduled Languages-1951, 1961, 1971, 1981, 1991 ,2001 and 2011|first=|last=ORGI|publisher=|accessdate=2021-03-20}}</ref> !第一言語割合<br/>% !第二言語者数<br/>(万人)<ref name=":0">http://www.censusindia.gov.in/2011census/C-17.html{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20191113211224/http://www.censusindia.gov.in/2011census/C-17.html |date=2019-11-13 |accessdate=2021-03-20}}</ref> !第三言語者数<br/>(万人)<ref name=":0" /> !総話者数<br/>(万人) !総話者数÷人口<br/>% |- | style="background-color:#d2ea01"|[[ヒンディー語]] |5億2835 |43.63 |1億3900 |2400 |6億9200 |57.1{{0}} |- |[[英語]] |{{0000}}26 |{{0}}0.02 |{{00}}8300 |4600 |1億2900 |10.6{{0}} |- | style="background-color:#d2ea01"|[[ベンガル語]] |{{00}}9724 |{{0}}8.3{{0}} |{{000}}900 |{{0}}100 |1億0700 |{{0}}8.9{{0}} |- | style="background-color:#d2ea01"|[[マラーティー語]] |{{00}}8303 |{{0}}7.09 |{{00}}1300 |{{0}}300 |{{00}}9900 |{{0}}8.2{{0}} |- | style="background-color:#5a81a5"|[[テルグ語]] |{{00}}8113 |{{0}}6.93 |{{00}}1200 |{{0}}100 |{{00}}9500 |{{0}}7.8{{0}} |- | style="background-color:#5a81a5"|[[タミル語]] |{{00}}6903 |{{0}}5.89 |{{000}}700 |{{0}}100 |{{00}}7700 |{{0}}6.3{{0}} |- | style="background-color:#d2ea01"|[[ウルドゥー語]] |{{00}}5077 |{{0}}4.34 |{{00}}1100 |{{0}}100 |{{00}}6300 |{{0}}5.2{{0}} |- | style="background-color:#d2ea01"|[[グジャラート語]] |{{00}}5549 |{{0}}4.74 |{{000}}400 |{{0}}100 |{{00}}6000 |{{0}}5{{00}} |- | style="background-color:#5a81a5"|[[カンナダ語]] |{{00}}4371 |{{0}}3.73 |{{00}}1400 |{{0}}100 |{{00}}5900 |{{0}}4.94 |- | style="background-color:#d2ea01"|[[オリアー語]] |{{00}}3752 |{{0}}3.2{{0}} |{{000}}500 |{{00}}39 |{{00}}4300 |{{0}}3.56 |- | style="background-color:#d2ea01"|[[パンジャーブ語]] |{{00}}3312 |{{0}}2.83 |{{000}}223 |{{00}}72 |{{00}}3660 |{{0}}3{{00}} |- | style="background-color:#5a81a5"|[[マラヤーラム語]] |{{00}}3484 |{{0}}2.97 |{{0000}}50 |{{00}}21 |{{00}}3600 |{{0}}2.9{{0}} |- | style="background-color:#d2ea01"|[[サンスクリット語]] |0<ref>{{Cite web|title=Searching for Sanskrit Speakers in the Indian Census|url=https://thewire.in/culture/india-census-sanskrit|access-date=2021-02-09|website=The Wire}}</ref><ref>{{Cite web|title=The Myth of 'Sanskrit Villages' and the Realm of Soft Power|url=https://thewire.in/society/sanskrit-soft-power|access-date=2021-02-09|website=The Wire}}</ref><ref>{{Cite news|last=Sreevatsan|first=Ajai|date=2014-08-10|title=Where are the Sanskrit speakers?|language=en-IN|work=The Hindu|url=https://www.thehindu.com/news/national/where-are-the-sanskrit-speakers/article6299433.ece|access-date=2021-02-09|issn=0971-751X}}</ref> |{{0}}0{{00}} |{{000}}123 |{{0}}196 |{{000}}319 |{{0}}0.19 |} インドは[[ヒンディー語]]を連邦[[公用語]]とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。 インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。 [[方言]]を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。 植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。 1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を[[母語]]にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。 インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。 ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれ[[ムンバイ]]、[[コルカタ]]、[[チェンナイ]]という現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内での[[ナショナリズム]]の拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部[[タミル・ナードゥ州]]などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。 インドの言語は北部の[[インド・ヨーロッパ語族]]インド語派と南部の[[ドラヴィダ語族]]に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部の[[アーンドラ・プラデーシュ州]]、[[カルナータカ州]]、[[ケーララ州]]、[[タミル・ナードゥ州]]で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。 1980年代以降の[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]の高まりとともに、[[サンスクリット]]を公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の[[共通語]]であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位[[カースト]]である[[ブラフミン]]の間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。 ==== 連邦公用語 ==== インド憲法第343条1項により、連邦公用語は[[デーヴァナーガリー]]文字で書かれた[[ヒンディー語]]と定められている<ref>[http://labo.kuis.ac.jp/module/module/en_in.html#/jp-00 インド英語] [[神田外語大学]]×[[東京外国語大学]] 英語モジュール(2020年12月5日閲覧)</ref>。 多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進めるうえで、また実際に行政運営を行ううえで言語は常に重要な位置を占める。独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用する[[ヒンドゥスターニー語]]を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうという[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]らの意見があり、それが反映された。憲法起草段階から現在に至るまで南部の[[タミル・ナードゥ州]]を中心に反対意見が根強いが、連邦政府は折につけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。 それ以外にもインド憲法の第8付則では22言語が列挙され、「指定言語」(Scheduled languages)<ref>[https://content.swu.ac.jp/gendai-blog/2020/07/ 現代教養学科ブログリレー フフバートル:多民族・多宗教・多言語国家インドの言語問題](2020年12月5日閲覧)。[[昭和女子大学]]における、インド出身の言語学者であるプラシャント・パルデシ[[国立国語研究所]]教授の講義による。</ref> や「第8付則言語」と呼ばれる)。 これら22言語は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。たとえば、[[サンスクリット|サンスクリット語]]や[[シンディー語]]などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆に[[ミゾラム州]]の公用語の一つである[[ミゾ語]]などは、この22言語の中に含まれていない。 '''公的に認定された言語''' {{colbegin}} * [[アッサム語]] * [[ウルドゥー語]] * [[オリヤー語]] * [[カシミール語]] ([[ジャンムー・カシミール連邦直轄領]]に話者がいるが、州の公用語とはしていない) * [[カンナダ語]] * [[グジャラート語]] * [[コーンカニー語]] * [[サンスクリット語]] (古典言語であるため日常語としての話者はほとんどいない) * [[サンタル語]] * [[シンディー語]] ([[グジャラート州]]に話者がいるが、州の公用語とはしていない) * [[タミル語]] * [[テルグ語]] * [[ドグリ語]] * [[ネパール語]] * [[パンジャーブ語]] * [[ヒンディー語]] * [[ベンガル語]] * [[ボド語]] * [[マイティリー語]] * [[マニプリ語]] ([[マニプル州]]の第二公用語としてのみ使用されている) * [[マラーティー語]] * [[マラヤーラム語]] {{colend}} ==== 州・連邦首都圏・連邦直轄領の公用語 ==== 第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は'''太字'''で示す。英語は全ての地方の公用語となっている。 {{colbegin}} * [[アッサム州]] (英語、'''[[アッサム語]]''') * [[アルナーチャル・プラデーシュ州]] (英語) * [[アーンドラ・プラデーシュ州]] (英語、'''[[テルグ語]]''') * [[ウッタラーカンド州]] (英語、'''[[ヒンディー語]]''') * [[ウッタル・プラデーシュ州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[オリッサ州]] (英語、'''[[オリヤー語]]''') * [[カルナータカ州]] (英語、'''[[カンナダ語]]''') * [[グジャラート州]] (英語、'''[[グジャラート語]]'''、'''ヒンディー語''') * [[ケーララ州]] (英語、'''[[マラヤーラム語]]''') * [[ゴア州]] (英語、'''[[コーンカニー語]]'''、'''[[マラーティー語]]''') * [[シッキム州]] (英語、'''[[ネパール語]]''') * [[ジャールカンド州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[タミル・ナードゥ州]] (英語、'''[[タミル語]]''') * [[チャッティースガル州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[トリプラ州]] (英語、'''[[ベンガル語]]'''、[[コクバラ語]]) * [[ナガランド州]] (英語) * [[西ベンガル州]] (英語、'''ベンガル語''') * [[ハリヤーナー州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]] (英語、'''[[パンジャーブ語]]''') * [[ビハール州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[ヒマーチャル・プラデーシュ州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[マディヤ・プラデーシュ州]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[マニプル州]] (英語、'''[[マニプリ語]]''') * [[マハラシュトラ州]] (英語、'''マラーティー語''') * [[ミゾラム州]] (英語、[[ミゾ語]]) * [[メーガーラヤ州]] (英語) * [[ラージャスターン州]] (英語、'''ヒンディー語''') {{colend}} '''連邦首都圏と連邦直轄領''' {{colbegin}} * [[デリー首都圏]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[アンダマン・ニコバル諸島|アンダマン・ニコバル諸島連邦直轄領]] (英語、'''ヒンディー語''') * [[ジャンムー・カシミール連邦直轄領]] (英語、'''ヒンディー語'''、'''[[ウルドゥー語]]''') * [[ダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄領]] (英語) * [[ダマン・ディーウ連邦直轄領]] (英語、'''グジャラート語''') * [[チャンディーガル連邦直轄領]] (英語) * [[ポンディシェリ連邦直轄領]] (英語、'''タミル語'''、'''テルグ語'''、'''マラヤーラム語''') * [[ラクシャディープ諸島|ラクシャディープ連邦直轄領]] (英語) * [[ラダック連邦直轄領]] (英語、'''ヒンディー語'''、[[チベット語]]、[[ラダック語]]) {{colend}} === 婚姻 === {{Main|{{仮リンク|インドにおける婚姻|en|Weddings in India}}}} インドにおける[[結婚式]]は、地方や宗教、地域社会によって異なる面がある。また、その違いには新郎新婦の個人的な嗜好も絡んで来る場合がある<ref>[http://www.ft.com/cms/s/2/7498e59c-2233-11dd-a50a-000077b07658.html#axzz2aqrbE3eF Sari nights and henna parties], Amy Yee, The Financial Times, May 17, 2008</ref> 。 インドは年間約1,000万件の結婚式を祝っており<ref>[http://www.cbsnews.com/8301-18560_162-57376057/indias-love-affair-with-gold/ India's love affair with gold], CBS News, February 12, 2012</ref> 、その内の約80%が{{仮リンク|ヒンドゥー教における結婚式|label=ヒンドゥー教の結婚式|en|Hindu wedding}}で占められている。 一方で、インドは[[児童婚]]大国の1国と見做されるほど、児童婚が広く蔓延している現状がある。児童婚の程度と規模については、情報源の間で推定が広く異なっている。例えば[[UNICEF]]による2015年から2016年の報告書はインドの児童婚の割合を27%であると推定した<ref>{{Cite web |date=2019-02-28 |title=Ending Child Marriage: A profile of progress in India |url=https://data.unicef.org/resources/ending-child-marriage-a-profile-of-progress-in-india/ |access-date=2022-03-20 |website=UNICEF DATA |language=en-US}}</ref>。 また幾つかの州では結婚を遅らせようとするインセンティブを導入している。 {{See also|{{仮リンク|インドにおける児童婚|en|Child marriage in India}}}} {{節スタブ}} === 人名 === {{main|[[インド人の名前|インドの人名]]}} インドにおける姓は、地域毎に異なる様々な制度と命名規則に基づく形で成立している。名前は宗教やカーストの影響も受け、宗教や叙事詩から引用される場合もある。 {{節スタブ}} === 教育 === {{main|インドの教育}} 2002年の憲法改正および、2009年の無償義務教育権法により、6 - 14歳の子どもに対する[[初等教育]]の義務化、無償化が図られている。[[後期中等教育]](日本の[[高等学校]]に相当)は2年制と4年制に分かれている。[[高等教育]]を受けるために[[大学]]へ進学するには、4年制の高校で学ぶ必要がある。インドの学校は日本などと同じ4月[[入学]]を採用している<ref>{{cite web|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/01asia/infoC10100.html|title=諸外国・地域の学校情報|publisher=外務省|accessdate=2020-6-13}}</ref>。 インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある[[英語]]の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では[[初等教育]]から[[教授言語]]が英語である。インドの私立学校では初等教育から英語で教育が行われている。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|インドの保健|en|Health in India}}}} ==== 医療 ==== {{Main|インドの医療}} {{See also|{{仮リンク|インド赤十字社|en|Indian Red Cross Society}}}} == 宗教 == {{Vertical_images_list |幅 = 250px |枠幅 = 250px | 1 = Akshardham_Delhi_Ricky_W.jpg | 2 = アクシャルダム寺院(ヒンドゥー教) | 3 = Balabhai Tonk.jpg | 4 = [[シャトルンジャヤのジャイナ教寺院都市]] | 5 = Monlam assembly in Bodhgaya.jpg | 6 = [[ブッダガヤの大菩提寺]] | 7 = Golden Temple India.jpg | 8 = [[ハリマンディル]]([[シク教]]寺院) | 9 = Mmside.jpg | 10 = メッカマジスト(イスラム教[[モスク]]) | 11 = St Paul%27s Cathedral, Kolkata.jpg | 12 = [[コルカタ]]のセントポール大聖堂 | 13 = | 14 = }} [[ファイル:Maneckji Seth_Agiary, Mumbai.jpg|thumb|150px|[[ムンバイ]]のゾロアスター教寺院]] {{Main|インドの宗教}} インドの人口に占める各宗教の割合はヒンドゥー教徒79.8パーセント、[[イスラム教徒]]14.2パーセント、[[キリスト教徒]]2.3パーセント、[[シク教]]徒1.7パーセント、 [[仏教]]徒0.7パーセント、[[ジャイナ教]]徒0.4パーセント(2011年国勢調査)<ref name=":1">{{cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/data.html |publisher=外務省 |title=インド基礎データ|date=2020-3-24|accessdate=2020-6-13}}</ref><ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/in.html CIA – The World Factbook – India]</ref>。また、『[[ブリタニカ]]国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72パーセント、イスラム教徒11.96パーセント、キリスト教徒6.08パーセント、シク教徒2.16パーセント、仏教徒0.71パーセント、ジャイナ教徒0.40パーセント、[[アイヤーヴァリ]]教徒0.12パーセント、[[ゾロアスター教]]徒0.02パーセント、その他1.44パーセントである。 === ヒンドゥー教徒 === [[ヒンドゥー教徒]]の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]に続いて、人口の上で世界で第3番目である。 ヒンドゥー教は[[バラモン教]]から聖典や[[カースト]]制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた[[多神教]]である。[[ヴェーダ]]聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に[[輪廻]]や[[解脱]]といった独特な概念を有し、[[四住期]]に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだ[[カースト|カースト制]]などを特徴とする宗教である。 世界最大の党員数(一億人以上)を有する[[インド人民党]](BJP)の母体となっているのが、[[ヒンドゥー・ナショナリズム|ヒンドゥー至上主義]]団体[[民族義勇団]]であり、党首の[[ナレンドラ・モディ]]も同団体出身者である<ref>{{Cite web |title=US woos India's far-right PM Modi to help wage new cold war on China |url=https://geopoliticaleconomy.com/2023/06/23/us-india-far-right-modi-cold-war-china/ |website=Geopolitical Economy Report |date=2023-06-23 |access-date=2023-06-30 |language=en-US |first=Ben |last=Norton}}</ref><ref>{{Cite web |title=【巨象の未来 インド・モディ政権2期目へ】下 過激化するヒンズー教徒 宗教分断どう食い止める |url=https://www.sankei.com/article/20190526-4FJZRAC4IZPOPCIYFALIQJ3KYE/ |website=産経ニュース |date=2019-05-26 |access-date=2023-05-20 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=ナレンドラ・モディ新首相が直面するインド内政の課題 {{!}} 研究プログラム |url=https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=1930 |website=東京財団政策研究所 |access-date=2023-09-30 |language=ja}}</ref>。RSSやモディ政権によるインドと国内外における非ヒンドゥー教徒などへの弾圧が問題化している。 {{main|民族義勇団|ナレンドラ・モディ}} === ジャイナ教 === ジャイナ教とは、[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ、[[紀元前6世紀|前6世紀]] - [[紀元前5世紀|前5世紀]])を祖師と仰ぎ、特に[[アヒンサー]](不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した[[苦行]]・[[禁欲主義]]をもって知られるインドの[[宗教]]。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。 === 仏教 === {{main|インドの仏教}} [[仏教]]発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。 [[1203年]]のイスラム教徒[[ムハンマド・バフティヤール・ハルジー]]将軍による[[ヴィクラマシーラ大学|ヴィクラマシーラ大僧院]]の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、[[ベンガル地方]]でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。 一説では、[[東南アジア]]・[[東アジア]]に仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。 1956年、インド憲法起草者の一人で初代法務大臣を務めた[[ビームラーオ・アンベードカル|アンベードカル]]が死の直前に、自らと同じ50万人の[[不可触民]]とともに仏教徒に改宗し、[[新仏教運動|インド仏教復興の運動]]が起こった。 ; チベット仏教 [[ラダック連邦直轄領]]、[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]の北部、[[シッキム州]]など、チベット系住民が居住する地方では、[[チベット仏教]]が伝統的に信仰されている。 === シク教 === [[16世紀]]に[[グル・ナーナク]]がインドで始めた宗教。シクとは[[サンスクリット|サンスクリット語]]の「シシュヤ」に由来する語で、[[弟子]]を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している([[グル]]とは導師または聖者という意味である)。[[総本山]]はインドの[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]の[[アムリトサル]]に所在する[[ハリマンディル]](ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。[[教典]]は『[[グル・グラント・サーヒブ]]』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳され[[インターネット]]でも公開されている。 === イスラム教 === {{see|インドにおけるイスラーム}} イスラム教徒([[ムスリム]])もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。[[インドネシア]]、[[パキスタン]]についで、インドは世界第3位のムスリム人口を擁する。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教の[[モスク]]を破壊したりといった事件も後を絶たない。近年は[[イスラム主義]]過激派による[[テロリズム|テロ]]も頻発している。 === キリスト教 === {{main|トマス派|インドのキリスト教}} インドのキリスト教徒の多くはローマ・[[カトリック教会]]に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは[[東方教会]]の一派である[[トマス派]]が存在しており、[[マイノリティ]]であるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックや[[プロテスタント]]諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは[[20世紀]]に[[北インド教会|北インド(合同)教会]]([[:en:Church of North India|Church of North India]])、[[南インド教会|南インド(合同)教会]]などが起こった。 === ゾロアスター教 === [[サーサーン朝]]の滅亡を機にイスラム化が進んだ[[イラン]]では、[[ゾロアスター教|ゾロアスター教徒]]の中にはインド西海岸の[[グジャラート州|グジャラート地方]]に退避する集団があった。[[:en:Qissa-i Sanjan|Qissa-i Sanjan]]の[[伝承]]では、[[ホラーサーン]]の{{仮リンク|サンジャーン (ホラーサーン)|en|Sanjan (Khorasan)|label=サンジャーン}}から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部の{{仮リンク|サンジャーン (グジャラート州)|en|Sanjan (Gujarat)|label=サンジャーン}}にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路[[イラン高原]]の[[ホラーサーン]]に派遣し、同地の[[アータシュ・バフラーム級聖火]]をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「[[ペルシア人]]」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の[[風習]]を採り入れてインド化していった。 == 社会 == {{Main|{{仮リンク|インドにおける社会経済問題|hi|भारत के सामाजिक-आर्थिक मुद्दे}}}} === 社会問題 === {{Main|{{仮リンク|インドにおける貧困|hi|भारत में ग़रीबी|en|Poverty in India}}|{{仮リンク|インドの環境|en|Environment of India}}|{{仮リンク|インドの環境問題|en|Environmental issues in India}}|{{仮リンク|インドにおける汚職|hi|भारत में भ्रष्टाचार}}}} ;金融 現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーの[[:en:Harshad Mehta|Harshad Mehta]]と[[:en:Ketan Parekh|Ketan Parekh]]、金融インフラ[[:en:Satyam scandal|Satyam スキャンダル]]、Chain Roop Bhansali<ref>[http://www.indianmirror.com/indian-industries/indian-scams/bhansaliscam.html Bhansali Scam]</ref> の[[ミューチュアル・ファンド]]、複合企業主の[[:en:Subrata Roy|Subrata Roy]]、[[:en:Saradha Group financial scandal|Saradha Group の金融スキャンダル]]、[[:en:NSEL case|NSEL をめぐる金融犯罪]]、[[:en:Indian coal allocation scam|石炭割当をめぐる政治スキャンダル]]、[[2G]]周波数システム設計を政府が[[N・M・ロスチャイルド&サンズ]]に募らせるなどの[[:en:2G spectrum scam|モバイルをめぐる数々の癒着]]<ref>GoodReturns [http://www.goodreturns.in/classroom/2014/12/7-top-famous-financial-scams-india-326946.html 9 Famous Financial Scams in India] January 9, 2017</ref>。2016年4月から12月にかけて[[インド準備銀行]]が実施した金融犯罪統計で、[[ICICI銀行]]が最大件数となり、[[SBIホールディングス]]、[[スタンダード・チャータード銀行]]、[[HDFC]]が順に続いた<ref>NDTV Profit, "[http://profit.ndtv.com/news/banking-finance/article-icici-bank-sbi-stanchart-top-bank-frauds-list-rbi-1668851 ICICI Bank, SBI, StanChart Top Bank Frauds List, Says Reserve Bank Data]", March 12, 2017</ref>。 ;貧困 2004年から高度成長期に入り、2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65[[ルピー]]未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。[[アジア開発銀行]]が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 - 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった<ref>Government of India [planningcommission.gov.in/plans/planrel/12thplan/welcome.html Twelfth Five Year Plan 2012-17]</ref>。世界銀行によれば、貧困率(一日2.15ドル未満で暮らしている人の割合)は、1993年には47.6%であったが、2004年には39.9%となり、2019年には10%にまで低下している<ref>[https://data.worldbank.org/indicator/SI.POV.DDAY?locations=IN Poverty headcount ratio at $2.15 a day (2017 PPP) (% of population) - India]</ref> 。 ;汚職 2019年に行われた独立系の反汚職組織の調査では、過去1年の間、[[賄賂]]を支払った経験があるとする国民は少なくとも2人に1人の割合になると報告された。特に汚職が著しいのは不動産登記や土地問題の分野で、4分の1以上が関連当局に支払ったと回答した。警察が19%で、税務当局、運輸関連や自治体関連企業などが後に続いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/business/35146189.html|title=国民の半分、少なくとも1回は賄賂の支払い経験 インド調査|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN.co.jp]]|date=2019-12-01|accessdate=2019-12-25}}</ref> 。 ;電力供給 [[ファイル:Wind_turbines_in_Jaisalmer,_Rajasthan.jpg|250px|thumb|砂漠地帯の風力発電パーク]] [[電力]]の供給能力は経済成長に追いつけず、日常的に[[停電]]が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。 ;大気汚染 インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の[[大気汚染]]が起きており、2018年時点で[[世界保健機関]]によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである<ref>{{cite news |title=世界で最も大気汚染が深刻な14の都市は、全てインドにあった|newspaper=[[ビジネスインサイダー]] |date=2018-5-25 |url=https://www.businessinsider.jp/post-167855 | accessdate=2019-07-19 }}</ref>。大気汚染対策として二輪車および[[三輪タクシー]]などの[[電気自動車]]化を推し進めている<ref>{{cite news |title=インドEV普及、現実的な目標設定「30年に3割」|newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2018-3-12 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28006520S8A310C1FFE000/ | accessdate=2019-07-19 }}</ref>。インドの公的調査機関「科学環境センター」は[[大気汚染]]の最大要因を車の[[排気ガス]]と分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する[[濃霧]]期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として[[欧州連合]](EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。 ;衛生 インドでは[[トイレ]]を持たない家庭も多く、政府は[[屋外排泄]]行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている<ref>[https://web.archive.org/web/20190224062538/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/171225/mcb1712250500006-n1.htm 印「クリーン・インディア」開始3年 遅れるトイレ普及、商機620億ドル] SankeiBiz(2017年12月25日)2019年2月24日閲覧</ref>。 ;ナクザリズムとテロリズム インドは長い間、[[テロ]]の被害を受け続けている。[[内務省 (インド)|インド政府内務省]]によると、インド国内のいくつかの州は戦闘行為や{{仮リンク|ナクザリズム|hi|नक्सलवाद}}の影響を受けており、特にジャンムー・カシミール州、オリッサ州、チャッティースガル州、ジャールカンド州、および北東部の7つの姉妹州が危険な状況に見舞われている。2012年には、国内640地区のうち少なくとも252地区が程度の差こそあれ、反政府勢力やテロ活動の被害に遭っていた<ref>{{cite web | url=http://www.satp.org/satporgtp/countries/india/index.html|title=India Assessment – 2013 |accessdate=7 July 2023 |publisher=साउथ एशिया इंटेलिजेंस रिव्यू | archive-url=https://web.archive.org/web/20130816230507/http://satp.org/satporgtp/countries/india/index.html| archive-date=16 August 2013 |url-status=dead }}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|インドにおけるテロリズム|hi|भारत में आतंकवाद}}}} == 印僑 == {{main|インド系移民と在外インド人}} [[インド系移民と在外インド人|印僑]]は[[華僑]]、[[ユダヤ人]]、[[アルメニア人]]に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。[[イギリス帝国|大英帝国]]の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった[[英語圏]]に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人([http://www.nriol.com/ NRI]=[[印僑]])は、[[インド外務省]]によれば、2,500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として[[東アフリカ]]の[[タンザニア]]や、[[ケニア]]、[[モーリシャス]]、[[南アメリカ]]の[[ガイアナ]]、[[西インド諸島]]の[[トリニダード・トバゴ]]、[[オセアニア]]の[[フィジー]]などが挙げられる。 == 治安 == {{Main|{{仮リンク|インドにおける犯罪|en|Crime in India}}}} インドは現時点において着実な経済発展を遂げており社会情勢は全般的に安定しているが、それに反して都市部では人口の集中、失業者の増大、貧富差の拡大を背景として一般犯罪の発生件数が増加傾向にある。主な犯罪として[[窃盗]]や[[強盗]]、[[詐欺]]、[[強姦]]などが多発しており、同国に滞在する際には充分な注意が必要となる。 他方では宗教間対立や多民族といった複雑な国内事情もあり、過激派組織が活動している点からテロ事件も発生していて危険性が高まっている現状がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_001.html#ad-image-0|title=インド 危険・スポット・広域情報|accessdate=2021-11-23|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|インドの組織犯罪|en|Organised crime in India}}}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|インドの法執行機関|en|Law enforcement in India}}}} ==== 警察 ==== [[ファイル:Nizamabad_Police_Vehicle.jpg|200px|thumb|ニザマバード市警察の[[パトカー]] <br> ベースとなっている車両は[[トヨタ・イノーバ]]クリスタ]] {{仮リンク|インド警察庁|en|Indian Police Service}}(IPS)が主体となっている。 {{see also|{{仮リンク|インドにおける州および連邦直轄地の警察|en|Police forces of the states and union territories of India}}}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|インドにおける人権|en|Human rights in India}}}}少数派への迫害、下位カーストへの暴力が後を絶たない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44029728 |title=インドの「不可触民」 今も続く差別の形 |access-date=2023年6月28日 |publisher=BBC}}</ref>。 パキスタンとの係争地で実効支配を続けるジャム・カシミール州では分離運動もありインド軍による拷問、暴力が報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/49519985 |title=「殴るくらいなら撃ち殺してくれ」 カシミール住民がインド軍の拷問を訴え |access-date=2023年6月28日 |publisher=BBC}}</ref>。{{節スタブ}} ==== 女性の権利 ==== {{Main|{{仮リンク|インドの女性|hi|भारत में महिलाएँ}}}} 1992年~1993年の統計データによると、インドで女性が世帯主となっている世帯はわずか 9.2% となっている。しかし、貧困線以下の世帯の約 35% は女性が世帯主であることが判明した<ref>{{cite web |title=Asia's women in agriculture, environment and rural production: India |url=http://www.fao.org/sd/wpdirect/WPre0108.htm |accessdate=07 July 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140630002611/http://www.fao.org/sd/wpdirect/WPre0108.htm |archive-date=30 june 2014 |url-status=live }}</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|インドにおける売春|hi|भारत में वेश्यावृत्ति}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|インドのメディア|en|Media of India}}}} {{節スタブ}} インドには500を超える[[衛星放送]]チャンネル(内80以上はニュース専用チャンネル)、約7万社の新聞社が存在し、同時に毎日1億部以上が売られる世界最大の新聞市場を抱えている<ref>{{cite news | url=https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-india-16524711 | publisher=[[BBC News]] | title=Why are India's media under fire? | date=19 January 2012 | access-date=20 June 2018 | archive-date=3 June 2018 | archive-url=https://web.archive.org/web/20180603020926/http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-india-16524711 | url-status=live }}</ref>。 === 新聞 === 現在インドには約1000紙の[[ヒンディー語]]の日刊紙が存在し、総発行部数は約8千万部となっている。[[第二言語]]である英字紙は、日刊紙の数で見ると約250紙あり、総発行部数は約4千万部となっている<ref>{{cite web |title=Livemint Archive |url=http://www.livemint.com/2009/02/05230335/Hindi-dailies-with-local-news.html |access-date=25 December 2019 |language=en |archive-date=15 June 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090615022436/http://livemint.com/2009/02/05230335/Hindi-dailies-with-local-news.html |url-status=live }}</ref>。影響力のあるヒンディー語新聞には''[[Dainik Jagran]]''や ''[[Dainik Bhaskar]]''、''[[Amar Ujala]]''、''Devbhumi Mirror''、''[[Navbharat Times]]''、''[[Hindustan Dainik]]''、''[[Prabhat Khabar]]''、''[[Rajasthan Patrika]]'',''Dainik Aaj''がある。 ==== インドの日刊紙 ==== *'''10大ヒンディー語新聞''' {{Columns-list|colwidth=20em| #''[[Dainik Jagran]]'' #''[[Dainik Bhaskar]]'' #''[[Amar Ujala]]'' #''[[Rajasthan Patrika]]'' #''[[Prabhat Khabar]]'' #''[[Punjab Kesari]]'' #''Patrika''{{clarify|date=October 2022|reason=The cited source doesn't specify which paper this is}} #''[[Navbharat Times]]'' #''Nai Dunia'' #''[[Hari Bhoomi]]'' }} :''<small>Ref: Indian Readership Survey Q4 2019 pdf</small>'' *'''10大英字紙''' {{Columns-list|colwidth=20em| #''[[The Times of India]]'' #''[[The Hindu]]'' #''[[The Economic Times]]'' #''[[Mumbai Mirror]]'' #''[[The Telegraph (Calcutta)|The Telegraph]]'' #''[[The Indian Express]]'' #''[[The New Indian Express]]'' #''[[Deccan Chronicle]]'' #''[[Mid-Day]]'' #''[[Mint (newspaper)|Mint]]''}} :''<small>Ref: Indian Readership Survey [https://mruc.net/uploads/posts/8e428e54a95edcd6e8be593a7021a185.pdf <nowiki>Q1 2019 [1]</nowiki>]</small>'' *'''10大地方紙''' {{Columns-list|colwidth=20em|#''[[Daily Thanthi]]'' (Tamil) #''[[Lokmat]]'' (Marathi) #''[[Malayala Manorama]]'' (Malayalam) #''[[Eenadu]]'' (Telugu) #''[[Mathrubhumi]]'' (Malayalam) #''Mandsaur Today ( Hindi)'' #''[[Dinakaran]]'' (Tamil) #''[[Anandabazar Patrika]]'' (Bengali) #''[[Gujarat Samachar]]'' (Gujarati) #''[[Sakal]]'' (Marathi) }} :''<small>Ref: Indian Readership Survey Q1 2019 [https://mruc.net/uploads/posts/8e428e54a95edcd6e8be593a7021a185.pdf]</small>'' === 放送 === {{Main|{{仮リンク|インドにおけるラジオ放送|en|Radio in India}}|{{仮リンク|インドにおけるテレビ放送|en|Television in India}}}} ラジオ放送は1927年に開始されたが、1930年には国家の責任に限られるようになった<ref name=Schwartzberg>Schwartzberg, Joseph E. (2008), ''India'', [[Encyclopædia Britannica]].</ref> 1937年に全印ラジオと命名され、1957年からは''[[:en:Akashvani (radio broadcaster)|Akashvani]]''とも呼ばれるようになった<ref name=Schwartzberg />。テレビ番組は放送期間を限定しながら1959年に始まり、1965年に完全に放送を開始した<ref name=Schwartzberg />。[[:en:P. V. Narasimha Rao#Economic reforms|1991年の経済改革]]以前、インド国内では[[:en:Ministry of Information and Broadcasting (India)|情報・放送省]]が、テレビ局である[[ドゥールダルシャン]]を含む視聴覚機構を所有・管理していた<ref name=Raju106>Thomas, Raju G. C. (2006), "Media", ''Encyclopaedia of India (vol. 3)'' edited by Stanley Wolpert, pp.&nbsp;105–107, Thomson Gale, {{ISBN|0-684-31352-9}}.</ref> == 文化 == {{main|[[インドの文化]]}} === 食文化 === {{main|インド料理}} === 文学 === {{main|インド文学}} === 哲学 === {{main|インド哲学}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|インド音楽|en|Music of India}}|インドの伝統音楽}} === 映画 === {{main|インドの映画}} === 美術 === {{main|インドの美術}} === 被服 === {{main|{{仮リンク|インドの衣服|en|Clothing in India}}|{{仮リンク|インドのファッション|en|Fashion in India}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|インドの建築|en|Architecture of India}}}} === 世界遺産 === {{main|インドの世界遺産}} === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|インドの祝日|en|Public holidays in India}}}} インドの国民の祝日(National Holidays)は以下の3日である<ref name="asakura">{{cite book|和書|title=朝倉世界地理大百科事典5 アジア・オセアニアII|year=2002|isbn=4254166656|chapter=インド|page=118}}</ref>。 * [[共和国記念日 (インド)|共和国記念日]](1月26日) * [[独立記念日 (インド)|独立記念日]](8月15日) * [[ガンディー生誕記念日]](10月2日) このほかに全国的な行事(Gazetted Holidays)と、州ごとに異なる地方的行事(Restricted Holidays)をあわせた年中行事が数百あり、それぞれがひとつないし複数の宗教と関係がある{{r|asakura}}。日付は宗教ごとに決まった暦を使用するため、大部分は[[移動祝日]]になる。主要な行事には以下のものがある{{r|asakura}}。 * [[マハー・シヴァラートリー|マハー・シヴァラートリ]](ヒンドゥー教) * [[ラーキー|ラクシャー・バンダン]](ヒンドゥー教) * [[ホーリー祭]](ヒンドゥー教) * [[ガネーシュ・フェスティバル|ガネーシャ・チャトゥルティー]](ヒンドゥー教) * {{仮リンク|ドゥルガー・プージャー|en|Durga Puja}}(ヒンドゥー教) * [[ダサイン|ダシャラー]](ヒンドゥー教) * [[イド・アル=フィトル|イードゥル・フィトル]](イスラム教) * [[ディーワーリー]](ヒンドゥー教) * [[クリスマス]](キリスト教) == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|インドのスポーツ|en|Sport in India}}}} {{See also|オリンピックのインド選手団}} === クリケット === [[ファイル:Narendra_Modi_Stadium_view_from_the_gallery.jpg|thumb|250px|クリケット専用スタジアムの[[ナレンドラ・モディ・スタジアム]]。収容人数は13万2000人<ref>[https://www.espncricinfo.com/cricket-grounds/narendra-modi-stadium-motera-ahmedabad-57851 Narendra Modi Stadium] ESPN cricinfo 2023年9月16日閲覧。</ref>。]] [[クリケット]]はインド国内で最も人気の[[スポーツ]]となっている<ref>[https://www.cnbctv18.com/sports/ipl-only-third-most-popular-cricket-event-in-india-international-competitions-more-favoured-survey-reveals-3311121.htm IPL only third-most popular cricket event in India, international competitions more favoured, survey reveals] CNBC TV18 2019年7月6日閲覧。</ref><ref>[https://www.hakuhodo.co.jp/uploads/2016/09/global_habit.pdf アジア15都市生活者の好きなスポーツ、スポーツイベント] 博報堂 2019年7月6日閲覧。</ref>。最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、[[ボリウッド]]映画より人気が高いと評される<ref>[https://www.ft.com/content/bb671712-c8e8-45cd-86dc-a5d4e675004b What India needs is more cricket and less Bollywood] Financial Times 2023年9月16日閲覧。</ref>。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。歴史的には1700年代後半にイギリスの植民地主義者の好意によってインドに伝わり、1792年にインドで最初のクラブであるカルカッタ・クリケットクラブが設立された<ref>[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/full/14 Board of Control for Cricket in India] 国際クリケット日評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。[[イギリス領インド帝国]]時代には、[[マハーラージャ]]である[[ランジットシンジ]]が[[ケンブリッジ大学]]を卒業し、クリケット選手として大きな功績を残した<ref>[https://www.thecricketmonthly.com/story/1334519/photo-feature---royals-playing-cricket Kings, queens and suchlike personages frequently appear in the history of cricket] The Cricket Monthly 2023年10月6日閲覧。</ref>。インドのクリケットの発展・普及に大きく貢献したことから、「インドクリケットの父」と呼ばれている<ref>[https://www.indiatimes.com/sports/ranji-trophy-is-named-after-ranjitsinhji-father-of-indian-cricket-who-never-played-for-india-558447.html Ranji Trophy Is Named After Ranjitsinhji, Father Of Indian Cricket Who Never Played For India] India Times 2023年10月6日閲覧。</ref>。 ナショナルチームの[[クリケットインド代表|インド代表]]は世界屈指の強豪チームであり、[[クリケット・ワールドカップ]]で2度の優勝([[1983 クリケット・ワールドカップ|1983年]]、[[2011 クリケット・ワールドカップ|2011年]])、[[ICC T20ワールドカップ]]で1度の優勝(2007年)、[[ICCチャンピオンズトロフィー]]で2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にある[[パキスタン]]との一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には[[国際クリケット評議会]]が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した<ref>[https://wisden.com/series-stories/india-v-australia-2023/india-become-second-team-in-history-to-top-icc-rankings-in-all-three-formats India become second team in history to top ICC rankings in all three formats] WISDEN 2023年9月29日閲覧。</ref>。 [[インドクリケット管理委員会]](BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。また[[トゥエンティ20]]ルールのプロリーグである[[インディアン・プレミアリーグ]](IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。IPLの1試合当たり放映権料では約11億4000万ルピー(約20億円)であり、サッカーの[[プレミアリーグ]]を超えている<ref name="revenue">[https://economictimes.indiatimes.com/news/sports/ipl-media-rights-sold-for-rs-48390-crore-for-a-five-year-period-bcci-secretary-jay-shah/articleshow/92208961.cms IPL media rights sold for Rs 48,390 crore for a 5 year period: BCCI Secretary Jay Shah]The Economic Times 2023年9月16日閲覧。</ref>。女子クリケットも急速に普及しており、2023年には[[女子プレミアリーグ]](WPL)が開幕した。 インドを代表する歴代の選手では、「クリケットの神様」とも評される[[サチン・テンドルカール]]が挙げられる。その高い功績から[[マザー・テレサ]]も受賞歴のある[[バーラト・ラトナ賞]]をスポーツ界の人物として初受賞した。[[ランジットシンジ]]、[[スニール・ガヴァスカール]]、[[カピル・デヴ]]、[[ラーフル・ドラヴィド]]、[[マヘンドラ・シン・ドーニ]]も歴代のインドクリケット界を代表する選手である。[[ヴィラット・コーリ]]は2010年代から2020年代におけるインドを代表する選手である。2020年に国際クリケット評議会より、過去10年間における世界最優秀選手賞を受賞した<ref>[https://www.icc-cricket.com/media-releases/1956755 The ICC Awards of the Decade winners announced] ICC 2023年9月16日閲覧。</ref>。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、[[インド映画]]のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い[[セレブリティ|著名人]]に選出された<ref>[https://economictimes.indiatimes.com/industry/services/advertising/virat-kohli-tops-powerful-celebrity-brands-list-with-a-brand-value-of-170-9-million/articleshow/67469396.cms Virat Kohli tops powerful celebrity brands list with a brand value of $170.9 million] The Economic Times 2019年7月3日閲覧。</ref>。コーリは2023年に[[Instagram]]公式アカウントのフォロワー数がアジア人として史上初の2億5000万を超えた<ref>[https://www.sportingnews.com/in/cricket/news/virat-kohli-first-asian-250-million-followers-instagram/smsrhob9rdryqg7kqhfwsxdg Virat Kohli becomes first Asian to cross 250 million followers on Instagram] The Sporting News 2023年9月16日閲覧。</ref>。 === フィールドホッケー === [[ファイル:Chandigarh hockey stadium.JPG|thumb|[[フィールドホッケー]]の国際試合]] [[イギリス]]統治時代から盛んだった[[フィールドホッケー]]も盛んであり、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。[[ホッケー・ワールドカップ]]でも[[1975年]]大会の優勝実績があり、[[近代オリンピック|オリンピック]]では金8個・銀1個・銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては[[2005年]]より『プレミア・ホッケーリーグ』があり、テレビ中継も開始されている。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|インドのサッカー|en|Football in India}}}} インド国内では近年[[サッカー]]の人気が若者を中心に急上昇しており、クリケットに次ぐ地位を得ている。[[2014年]]にプロサッカーリーグの'''[[インディアン・スーパーリーグ]]'''が、かつて欧州主要リーグで活躍し晩年を迎えた選手を、助っ人として次々とリーグに参戦させ華々しく開幕した。国際的なスポーツマン・芸能人のマネージメントを引き受けるIMGや、インド最大の[[エンターテインメント]]企業であるSTARとの[[タイアップ]]を図ることで、国技であるクリケットに次ぐインド国民が熱狂する「スポーツエンターテインメント」の確立を目指している。 [[全インドサッカー連盟]](AIFF)によって構成される[[サッカーインド代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には未出場([[1950 FIFAワールドカップ|1950年大会]]は予選通過するも、本大会は出場辞退<ref>松岡完「ワールドカップの国際政治学」朝日新聞社、1994年、P71</ref>)であるが、[[AFCアジアカップ]]には4度の出場歴があり[[AFCアジアカップ1964|1964年大会]]では準優勝に輝いている。また、[[南アジアサッカー選手権]]では大会最多8度の優勝を誇る。[[AFCチャレンジカップ]]では[[AFCチャレンジカップ2008|2008年大会]]で初優勝を飾っている。 === モータースポーツ === [[2011年]]からは、インド国内としては初めての[[フォーミュラ1|F1]]開催である[[インドグランプリ|インドGP]]を開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の[[2009年]]から[[2010年]]、そして[[2011年]]と延期が続いた。インドにとってのF1は[[2005年]]より関係が深まっていき、その年に[[ジョーダン・グランプリ]]から参戦し[[2006年]]と[[2007年]]は[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]のテストドライバーを担当していた[[ナレイン・カーティケヤン]]が初のインド人ドライバーとなった。 [[2008年]]より[[キングフィッシャー航空]]の創業者で[[:en:United Breweries Group|ユナイテッド・ブリュワリーズ・グループ]]の会長を務めるインド人実業家の[[ビジェイ・マリヤ]]が、インド初のF1チームである[[フォース・インディア]]を設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーである[[カルン・チャンドック]]が[[ヒスパニア・レーシング・F1チーム]]よりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。 === その他の競技 === インドの伝統的なスポーツである[[カバディ]]、{{仮リンク|コーコー|en|kho kho}}、{{仮リンク|ギリ・ダンダ|en|Gilli-danda}}なども全国で広く競技されている。さらにインド南部ケララ地方古来の[[wikt:武術|武術]]である[[カラリパヤット]]や、{{仮リンク|ヴァルマ・カライ|en|Varma kalai}}も行われている。[[2008年]]の[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]の男子[[エアライフル]]では{{仮リンク|アビナブ・ビンドラー|en|Abhinav Bindra}}が優勝し、同国で個人競技として初めての金メダルを獲得した。また、近年では[[テニス]]も[[デビスカップ]]インド代表の活躍もあって、急速に人気を博している。他方で、[[競馬]]などのスポーツも存在する。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:インドの人物}} {{See also|分野・時代別のインド人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs=<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/in.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31 }}</ref> }} == 参考文献 == * 絵所秀紀『離陸したインド経済』[[ミネルヴァ書房]] 2008年 * {{Cite book |和書 |last=及川 |first=忠 |author=及川|year=2009 |title=図解入門ビジネス最新食料問題の基本とカラクリがよーくわかる本 |publisher=秀和システム |ref=harv}} * {{Cite book|和書|title=南アジア史4 近現代 |series=世界歴史大系 |publisher=山川出版社 |year=2019 |ISBN=9784634462113 |id={{全国書誌番号|23205607}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029582715-00 |ref={{harvid|『南アジア史4 近現代』}}}} == 関連項目 == {{Col-begin}} {{Col-2}} * [[インド関係記事の一覧]] * [[インド国定暦]] - [[ヒンドゥー暦]] * [[インドの歴史]] * {{仮リンク|インドの社会主義|hi|भारत में समाजवाद}} * [[インドの世界遺産]] * [[インドの美術]] * [[インド文化圏]] * [[インドの言語]]・[[インドの公用語の一覧]] * [[インドの言語の話者数一覧]] * [[インド英語]] * [[インド哲学]] * [[インドのナショナリズム]] * [[インドの数学]] * [[インド人の名前]] * [[分野・時代別のインド人の一覧]] * [[マハトマ・ガンディー]] {{Col-2}} * [[インド・バングラデシュ国境の飛地群]] * [[インドの財閥]] * [[インド工科大学]] * [[ヒンドゥー文明]] * [[BRICS]] * [[BRICS銀行]] * [[南インド]] * [[インド系移民と在外インド人]] * [[インドにおける性に関する問題]] * [[インドの有人宇宙飛行計画]] * [[インド宇宙研究機関]] * [[インド地域航法衛星システム]] * [[マーズ・オービター・ミッション]] * [[インドの観光地の一覧]] * [[ヨーガ]] {{Col-end}} == 外部リンク == {{Sisterlinks|commons=India|commonscat=India|voy=India|d=Q668|q=no|b=no|v=no}} {{Wikipedia|hi}} {{osm box|r|304716}} * インド政府 ** [https://www.india.gov.in/ インド政府] {{en icon}}{{hi icon}} ** [https://presidentofindia.nic.in/ インド大統領府] {{en icon}}{{hi icon}} ** [http://pmindia.nic.in/ インド首相府] {{en icon}} ** [https://www.indembassy-tokyo.gov.in/ 在日インド大使館] {{en icon}}{{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/ 日本外務省 - インド] {{ja icon}} ** [https://www.in.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在インド日本国大使館] {{ja icon}}{{en icon}} * その他 ** [https://www.jetro.go.jp/world/asia/in/ JETRO - インド] {{ja icon}} ** [https://www.bbc.com/news/world-south-asia-12557384 インド・プロフィール] [[BBCニュース]] {{en icon}} ** {{CIA World Factbook link|in|India}} {{en 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2,011
ムーンライダーズ
ムーンライダーズ(moonriders)は、日本のロックバンドである。1975年に結成し、2011年に無期限活動休止を発表するが、2016年7月1日、期間限定で「活動休止の休止」を発表。その後、再び活動休止に入り、2020年8月より活動を再開した。 1975年、ロックバンド「はちみつぱい」(1971年結成、1974年解散)のメンバーだった鈴木慶一、岡田徹、武川雅寛、かしぶち哲郎、椎名和夫と、鈴木慶一の実弟の鈴木博文により結成。鈴木博文は「オリジナル・ムーンライダーズ」(1972年結成、1974年解散。メンバーは鈴木順、鈴木博文、松本隆、矢野誠、山本浩美)に在籍していた。 「ムーンライダーズ」とは、稲垣足穂の小説「一千一秒物語」の一節から鈴木慶一が命名したもので、オリジナル・ムーンライダーズの解散後に鈴木博文、松本らに名前の再利用の承諾を得て、その名前を譲り受けることとなった。アルバム『火の玉ボーイ』の名義が「鈴木慶一とムーンライダース」だったため、クラウンレコードに移籍するまでの数年間、雑誌やテレビ・ラジオ等では「ムーンライダース」とされることが多かった。英語での表記は『DON'T TRUST OVER THIRTY』までは「MOON RIDERS」だったが、『最後の晩餐』からは「MOONRIDERS」または「Moonriders」、『dis-covered』からは「moonriders」が用いられている。 彼らははちみつぱいで為せなかった「音楽で食べていく」事を優先させるため、まず、アグネス・チャンのバックバンドを行うことにより、バンドの経済的基盤を確立させた。1975年2月1日、青森県五所川原市にて初めてアグネスのステージに立った。その後、香港ツアーにも同行するなどしてバックバンド活動は1976年2月まで続き、1975年7月25日の演奏の模様はアグネスのライブアルバム『ファミリー・コンサート』に収録されている。収録されていないが、各ステージでは「酔いどれダンス・ミュージック」も演奏していた。人気歌手のバッキング活動は、その後もキャンディーズなどへと続いたが、かしぶち哲郎は途中で活動から離脱し、細野晴臣のトロピカル・ダンディーズに参加するなどした。かしぶち哲郎の離脱中は、土井正二郎(元はちみつぱい)がツアーのサポートとして参加した。 1976年1月25日、「鈴木慶一とムーンライダース」として『火の玉ボーイ』(ワーナー・パイオニア)をリリース。メンバーが全面的に参加しているが、実際は鈴木慶一のソロ・アルバムとして制作が進められており、手違いに近い形でバンド名がクレジットされることになった。本作を鈴木慶一のソロとするか、ムーンライダーズのアルバムとするかについて、鈴木慶一の見解は時代により変遷している。再発の際に鈴木慶一の単独名義になった時期もあったが、現在リリースされている物は再び「鈴木慶一とムーンライダース」名義になっており、事後的にデビュー・アルバムとして扱われることとなった。 1977年2月25日、「ムーンライダーズ」としてアルバム『ムーンライダーズ』(クラウンレコード)を発表。サウンドがアメリカ的なものからイギリス的になるにつれ椎名和夫と他のメンバーの音楽的距離は離れていった。岡田徹のアイデアにより、後任のギタリストとしてアルバム『火の玉ボーイ』にも参加していた白井良明が候補に挙がる。岡田徹の働きかけにより、当時、ムーンライダーズオフィスに所属しムーンライダーズのライブにも前座として出演していた「ホットランディング」に白井良明が参加。その後、1977年3月24日のライブを最後に椎名和夫が脱退し、白井良明がムーンライダーズに加入した。 『イスタンブール・マンボ』(1977年)『ヌーベル・バーグ』(1978年)ではさらにその路線を押し進め、サウンドはイギリス的から無国籍な物へと変化していった。『ヌーベル・バーグ』の収録曲「いとこ同士」でシンセサイザーを積極的に楽曲に取り入れたことを皮切りに、バンド内でニュー・ウェイヴ化とアメリカ受容が進み、『MODERN MUSIC』(1979年)の頃には、ディーヴォのような格好をして、既存の楽曲を解体・再構築するニュー・ウェイヴ・バンドと化した。その格好はすぐに止める事になるが、アルバム制作の際に「縛り」を入れるというルールが残った。『カメラ=万年筆』(1980年)は「架空の映画のサウンドトラック」をテーマにヌーヴェルヴァーグの映画のタイトルを借用した楽曲が中心となるコンセプト・アルバムになった。 1981年、ジャパン・レコードへ移籍。移籍第1弾アルバム『MANIA MANIERA』は全編にコンピュータを取り入れ、またドラム等の楽器をパーツごとに別々に録音するなど、実験的なレコーディングが試みられ、テクノ・ミュージックやニュー・ウェイヴの頂点ともいうべき作品に仕上がっている。しかし、経費が高額となりレコード会社から「難解すぎる」「これでは売れない」と評されたため、メンバー自ら発売中止を決定した。直後、次作『青空百景』のレコーディングを開始。『MANIA MANIERA』は、当時まったく普及していなかったCDで発売(後に1984年にカセットブック、1986年にキャニオン・レコードよりLPが発売)された。 以来、RVC、キャニオン・レコードへ移籍しながらコンスタントにアルバムを発表した。その後、1986年11月21日の『DON'T TRUST OVER THIRTY』発表後、結成10周年記念として行われた、東京・恵比寿ファクトリー(東京都渋谷区:現在は閉鎖)でのライブの影響や、鈴木慶一の耳などの病気により5年間にわたって活動を停止。メンバーは任天堂のゲームソフト「MOTHER」の音楽制作(鈴木慶一の作品)や音楽プロデュース、ソロアルバムの制作など活発なソロ活動を展開していた。 活動停止期間中には、メンバーそれぞれのバンド外活動も活発化するなど、このまま自然消滅かとの憶測も流れたが、1991年4月26日に東芝EMI移籍第1弾アルバム『最後の晩餐』を発表。この年のNHKホール(東京都渋谷区)におけるライブのチケットは即日ソールドアウトとなり、待望の復活を果たした。この後もファンハウス、キューンソニーと移籍を繰り返しながらも(音楽業界の江夏豊と冗談半分で称された)作品を次々と発表し、1999年にはワーナーミュージック・ジャパンのDREAM MACHINEレーベルに移籍、関係者を驚かせた。そして2年後の2001年には、デビュー25周年を記念してアルバム『Dire Moron TRIBUNE』とファーストアルバム『火の玉ボーイ』の再発売盤をリリースした。2004年には自らのバンド名を冠したレーベルMoonriders Recordsを創立する。2006年にはデビュー30周年を迎え、日比谷野外音楽堂での多くのゲストを招いての記念ライブ、年末の全国ツアーライブ、アルバム『MOON Over the ROSEBUD』のリリースなど、活発な活動を行った。 35周年となる2011年11月11日、公式サイトにて2011年内をもって無期限活動休止に入ることを発表した。日本最初期の現役ロックバンドのこの活動休止宣言に多くのメディアやファンが驚いた。同時に、2011年11月11日午後11時11分より12月31日までの期間限定で、新曲「Last Serenade」を無料配信することも発表された。2011年12月30日にはタワーレコード新宿店の屋上でフリーライブを開催、ルーフトップ・コンサートと銘打たれた(ライブの模様はほぼ日刊イトイ新聞でも生配信された)。そして12月31日、ファンクラブ限定のラストライブの開催をもって全てのライブ活動を終了した。 2013年12月17日、メンバーのかしぶち哲郎が死去したことが、同年12月20日に発表された。 かしぶち哲郎の一周忌にあたる2014年12月17日、日本青年館で一夜限定の復活ライブを開催した(翌12月18日に追加公演)。 結成40周年となる2016年5月10日、8月28日開催のロック・フェスティバル「ワールド・ハピネス2016」に出場することが発表され、一夜限定ライブを除くと5年ぶりに復活した。同年7月1日、期間限定で「活動休止の休止」をすることを発表。秋にライブツアー「Moonriders Outro Clubbing Tour」(同年10月6日より6カ所7公演)を行うことをアナウンスした。2016年12月15日に行われた「moonriders Final Banquet 2016 ~最後の饗宴~」を以て「活動休止の休止の休止」となる。 2020年8月、アルバム『カメラ=万年筆』40周年を記念した無観客ライブ「Special Live『カメラ=万年筆』」を行い、活動再開を発表した。これに伴い、2006年からかしぶち哲郎のサポート役を務め、逝去後は単独でドラムスを担当していた夏秋文尚が正式にメンバーとして加入した。 2022年4月、約11年ぶりとなるオリジナルアルバム「it's the moooonriders」を発表。 2023年2月14日、メンバーの岡田徹が死去したことが、同年2月22日に発表された。 彼らの音楽的先進性については、『ムーン・ライダーズ』『イスタンブール・マンボ』でのワールド・ミュージック的要素の積極的な導入(以降のアルバムでも独特の「無国籍」感は保たれる)に始まり、『ヌーベル・バーグ』において当時登場したばかりのシンセサイザーを積極的に活用、続く『MODERN MUSIC』での当時最先端であったニュー・ウェイヴへの接近とヴォコーダーの使用、『MANIA MANIERA』(1981年11月24日から録音開始)に至ってはローランド MC-4(ミュージックシーケンサー)を大々的に導入しレコーディングにおける個人作業を活性化させるなどの様々な試みからもわかる。 活動休止まで、バンドと平行しながらのソロ活動、別バンド(ユニット)、音楽プロデューサーなどメンバー個人の活動のほか、アルバム制作やライブ活動も精力的におこなっている。メンバー全員がバンド内でのソングライティング(作詞・作曲・編曲・ボーカル)や職業作曲家、プロデュース業、スタジオ・ミュージシャン業をこなすという稀有なバンド。作詞は鈴木慶一・鈴木博文・かしぶち哲郎が手がける比率が高い。その膨大な作品群は2001年より『ムーンライダーズのイイ仕事』シリーズとしてビクターエンタテインメント、フォーライフ、ユニバーサルミュージック、徳間ジャパン、日本クラウン、東芝EMI、ワーナーミュージック、ポニーキャニオンなど各社よりコンピレーション・アルバムとしてリリースされている。それぞれ多くのCM曲を手がけており(アルバム「MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006」等でリリースされている)、近年では「マツダ(1996年のマツダに乗りに行こうシリーズ。キャロル、カペラ、ボンゴフレンディなど)」「PlayStation」、「アロエリーナ」、「ドコモダケ」等がある。楽曲のスタイルは常に変遷し、また曲ごとのアプローチもしばしば異なるが、メンバーの全員がリードボーカルを担当できる強みから、男性ユニゾンとコーラスワークを基本とするのみならず、各々のスタイルを活かして複数のメンバーがリードを取ることも多々ある柔軟なスタンスが特徴。 一時期の作品タイトルは映画や書籍などから引用したものが多く、それ以降も時事的なトピックや先行する創作物からの影響で作られた楽曲も間々存在する。またタイトルや歌詞に犬が頻繁に登場することも特徴である。 アルバム収録曲は基本的にメンバーの投票によって決定されるが、0票だから収録されないということもないという。初期のアルバムでは先着順もあった。なお毎回50曲ほどのボツ曲があるが、それらの曲はソロや提供曲で再利用されることもあるという。 鈴木慶一曰く「自分は出だしはいいがサビが苦手なので、他のメンバーの意見を積極的に取り入れたり、他のコンポーザーのサビと繋げたりもする」という。 (moonriders_net (@moonriders_net) - X(旧Twitter) に基づく) ※1990年代以降の作品のレコーディングでは、メンバー全員が自身の作曲したレパートリーで、ギター、キーボード、プログラミングなどを兼ねる事が多くある。 ※活動再開後のライブでは、岡田徹の体調不良もあり、以前からトリビュート・アルバムなどに参加していた澤部渡と佐藤優介がサポートメンバーに入ることが多い。また、2022年のアルバム『it's the moooonriders』では夏秋文尚と共に、作詞・作曲にも参加している。また、近年はセットリストを考えることも多い。
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21, "tag": "p", "text": "鈴木慶一曰く「自分は出だしはいいがサビが苦手なので、他のメンバーの意見を積極的に取り入れたり、他のコンポーザーのサビと繋げたりもする」という。", "title": "音楽性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "(moonriders_net (@moonriders_net) - X(旧Twitter) に基づく)", "title": "メンバー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "※1990年代以降の作品のレコーディングでは、メンバー全員が自身の作曲したレパートリーで、ギター、キーボード、プログラミングなどを兼ねる事が多くある。", "title": "メンバー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "※活動再開後のライブでは、岡田徹の体調不良もあり、以前からトリビュート・アルバムなどに参加していた澤部渡と佐藤優介がサポートメンバーに入ることが多い。また、2022年のアルバム『it's the moooonriders』では夏秋文尚と共に、作詞・作曲にも参加している。また、近年はセットリストを考えることも多い。", "title": "メンバー" } ]
ムーンライダーズ(moonriders)は、日本のロックバンドである。1975年に結成し、2011年に無期限活動休止を発表するが、2016年7月1日、期間限定で「活動休止の休止」を発表。その後、再び活動休止に入り、2020年8月より活動を再開した。
{{出典の明記|date=2015年7月22日 (水) 05:30 (UTC)}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = ムーンライダーズ | 背景色 = band | 別名 = 鈴木慶一とムーンライダース | 出身地 = {{JPN}} | ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロックンロール]]<ref name="okmusic">{{Cite web|和書|title=ムーンライダーズ(ムーンライダーズ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BA |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-06-03 }}</ref>|[[ジャズ]]<ref name="okmusic" />|[[ファンク]]<ref name="okmusic" />|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]<ref name="okmusic" />}} | 活動期間 = {{Plainlist| * [[1975年]] - [[2011年]] * [[2016年]] * [[2020年]] - }} | レーベル = {{Hlist-comma|[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]|[[日本クラウン|クラウンレコード]]|[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|ジャパン・レコード]]|[[BMG JAPAN#RVC|RVC]]|[[ポニーキャニオン|キャニオン/T・E・N・T]]|[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI/EASTWORLD]]|[[BMG JAPAN#ファンハウス|ファンハウス]]|[[キューンミュージック|キューンレコード]]|JOYRIDE|[[ワーナーミュージック・ジャパン|east west/Dream machine]]|Moonriders RecordS|[[日本コロムビア|BETTER DAYS]]}} | 事務所 = | 共同作業者 = | 公式サイト = [http://www.moonriders.net/ ムーンライダーズ オフィシャルウェブサイト] | メンバー = {{Plainlist| * [[鈴木慶一]]([[ボーカル]]・[[ギター]]・[[キーボード (楽器)|キーボード]]) * [[武川雅寛]]([[ヴァイオリン]]・[[トランペット]]・[[マンドリン]]・コーラス・ボーカル) * [[鈴木博文]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]・ギター・コーラス・ボーカル) * [[白井良明 (音楽家)|白井良明]](ギター・シタール・ギタギドラ・コーラス・ボーカル) * [[夏秋文尚]](ドラムス) * '''死去したメンバー''' * [[かしぶち哲郎]]([[ドラムセット|ドラムス]]・コーラス・ボーカル) * [[岡田徹]](キーボード・[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]・ボーカル) }} | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[椎名和夫]](ギター) }} }} '''ムーンライダーズ'''(''moonriders'')は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]である。[[1975年]]に結成し、[[2011年]]に無期限活動休止を発表するが、[[2016年]][[7月1日]]、期間限定で「活動休止の休止」を発表<ref name="shiraitwit20160701">{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/guitar_bancho/status/749130475592036352 |title=2016年7月1日23時39分のツイート |author=[[白井良明 (音楽家)|白井良明]] |publisher=[[Twitter]] |accessdate=2016-07-24 }}</ref><ref name="natalie20160702">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/193128 |title=ムーンライダーズが「活動休止の休止」、秋に7公演のツアー開催 |work=ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-07-02 |accessdate=2016-07-24 }}</ref>。その後、再び活動休止に入り、[[2020年]][[8月]]より活動を再開した。 == 略歴 == === 結成 === [[1975年]]、ロックバンド「[[はちみつぱい]]」([[1971年]]結成、[[1974年]]解散)のメンバーだった[[鈴木慶一]]、[[岡田徹]]、[[武川雅寛]]、[[かしぶち哲郎]]、[[椎名和夫]]と、鈴木慶一の実弟の[[鈴木博文]]により結成。鈴木博文は「'''オリジナル・ムーンライダーズ'''<ref group="注">正式名称は「ムーンライダーズ」であるが、[[鈴木博文]]が在籍していた事を除けば、完全に別のグループである。</ref>」([[1972年]]結成、[[1974年]]解散。メンバーは鈴木順、鈴木博文、[[松本隆]]、[[矢野誠 (ミュージシャン)|矢野誠]]、[[山本浩美]])に在籍していた。 「ムーンライダーズ」とは、[[稲垣足穂]]の小説「[[一千一秒物語]]」の一節から鈴木慶一が命名したもので、オリジナル・ムーンライダーズの解散後に鈴木博文、松本らに名前の再利用の承諾を得て、その名前を譲り受けることとなった。アルバム『火の玉ボーイ』の名義が「鈴木慶一とムーンライダー'''ス'''」だったため、[[日本クラウン|クラウンレコード]]に移籍するまでの数年間、雑誌やテレビ・ラジオ等では「ムーンライダース」とされることが多かった。英語での表記は『[[DON'T TRUST OVER THIRTY]]』までは「MOON RIDERS」だったが、『[[最後の晩餐]]』からは「MOONRIDERS」または「Moonriders」、『dis-covered』からは「moonriders」が用いられている。 彼らは[[はちみつぱい]]で為せなかった「音楽で食べていく」事を優先させるため、まず、[[アグネス・チャン]]のバックバンドを行うことにより、バンドの経済的基盤を確立させた<ref name="20世紀のムーンライダーズ・23頁">月面探査委員会・編「20世紀のムーンライダーズ」、23頁</ref>。1975年[[2月1日]]、青森県[[五所川原市]]にて初めてアグネスのステージに立った。その後、香港ツアーにも同行するなどしてバックバンド活動は1976年2月まで続き<ref group="注">[[アグネス・チャン]]との共演は、その後、2009年[[9月2日]]発売のシングル『あなたの忘れ物』の演奏やプロモーションビデオへの参加、2010年[[3月16日]]の[[日本武道館]]でのコンサートの一部[[伴奏|バッキング]]という形で再現された。</ref>、1975年[[7月25日]]の演奏の模様はアグネスのライブアルバム『ファミリー・コンサート』に収録されている。収録されていないが、各ステージでは「酔いどれダンス・ミュージック」も演奏していた。人気歌手のバッキング活動は、その後も[[キャンディーズ]]などへと続いたが、かしぶち哲郎は途中で活動から離脱し、[[細野晴臣]]のトロピカル・ダンディーズに参加するなどした<ref name="20世紀のムーンライダーズ・23頁"></ref>。かしぶち哲郎の離脱中は、土井正二郎(元はちみつぱい)がツアーのサポートとして参加した<ref>月面探査委員会・編「20世紀のムーンライダーズ」、24頁</ref>。 [[1976年]][[1月25日]]、「鈴木慶一とムーンライダー'''ス'''」として『[[火の玉ボーイ (アルバム)|火の玉ボーイ]]』([[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]])をリリース。メンバーが全面的に参加しているが、実際は鈴木慶一のソロ・アルバムとして制作が進められており<ref name="20世紀のムーンライダーズ・23頁"></ref><ref>鈴木慶一「火の玉ボーイとコモンマン」、141頁</ref><ref name="ムーンライダーズ誕生の頃【前編">[https://web.archive.org/web/20161230141010/https://entertainmentstation.jp/61214 鈴木慶一が語る、ムーンライダーズ誕生の頃【前編】]</ref>、手違いに近い形でバンド名がクレジットされることになった。本作を鈴木慶一のソロとするか、ムーンライダーズのアルバムとするかについて、鈴木慶一の見解は時代により変遷している。再発の際に鈴木慶一の単独名義になった時期もあったが、現在リリースされている物は再び「鈴木慶一とムーンライダー'''ス'''」名義になっており、事後的にデビュー・アルバムとして扱われることとなった<ref name="ムーンライダーズ誕生の頃【前編"></ref>。 === クラウン時代 === [[1977年]][[2月25日]]、「ムーンライダーズ」としてアルバム『[[ムーンライダーズ (アルバム)|ムーンライダーズ]]』([[日本クラウン|クラウンレコード]])を発表。サウンドがアメリカ的なものからイギリス的になるにつれ椎名和夫と他のメンバーの音楽的距離は離れていった<ref>月面探査委員会・編「20世紀のムーンライダーズ」、26頁</ref>。岡田徹のアイデアにより、後任のギタリストとしてアルバム『火の玉ボーイ』にも参加していた[[白井良明 (音楽家)|白井良明]]が候補に挙がる。岡田徹の働きかけにより、当時、ムーンライダーズオフィスに所属しムーンライダーズのライブにも前座として出演していた「ホットランディング」に白井良明が参加<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/987c3512c6bd1f82690a9bfa6fe8f556f5b3d98d ムーンライダーズのギタリスト・白井良明インタビュー~芸歴45周年は新しい自分の夜明け]</ref>。その後、[[1977年]][[3月24日]]のライブを最後に椎名和夫が脱退し、白井良明がムーンライダーズに加入した。 『イスタンブール・マンボ』([[1977年]])『[[ヌーベル・バーグ]]』([[1978年]])ではさらにその路線を押し進め、サウンドはイギリス的から無国籍な物へと変化していった。『[[ヌーベル・バーグ]]』の収録曲「いとこ同士」で[[シンセサイザー]]を積極的に楽曲に取り入れたことを皮切りに、バンド内で[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]化とアメリカ受容が進み、『[[MODERN MUSIC]]』([[1979年]])の頃には、[[ディーヴォ]]のような格好をして、既存の楽曲を解体・再構築するニュー・ウェイヴ・バンドと化した。その格好はすぐに止める事になるが、アルバム制作の際に「縛り」を入れるというルールが残った。『[[CAMERA EGAL STYLO / カメラ=万年筆|カメラ=万年筆]]』([[1980年]])は「架空の映画の[[サウンドトラック]]」をテーマに[[ヌーヴェルヴァーグ]]の映画のタイトルを借用した楽曲が中心となる[[コンセプト・アルバム]]になった。 === ジャパン・レコード - キャニオン・レコード時代 === 1981年、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|ジャパン・レコード]]へ移籍。移籍第1弾アルバム『[[MANIA MANIERA]]』は全編にコンピュータを取り入れ、また[[ドラムセット|ドラム]]等の楽器をパーツごとに別々に録音するなど、実験的なレコーディングが試みられ、[[テクノポップ|テクノ・ミュージック]]やニュー・ウェイヴの頂点ともいうべき作品に仕上がっている。しかし、経費が高額となりレコード会社から「難解すぎる」「これでは売れない」と評されたため、メンバー自ら発売中止を決定した。直後、次作『[[青空百景]]』のレコーディングを開始。『MANIA MANIERA』は、当時まったく普及していなかった[[コンパクトディスク|CD]]で発売(後に[[1984年]]に[[カセットブック]]、[[1986年]]に[[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード]]よりLPが発売)された。 以来、[[BMG JAPAN|RVC]]、キャニオン・レコードへ移籍しながらコンスタントにアルバムを発表した。その後、[[1986年]][[11月21日]]の『'''[[DON'T TRUST OVER THIRTY]]'''』発表後、結成10周年記念として行われた、東京・恵比寿ファクトリー([[東京都]][[渋谷区]]:現在は閉鎖)でのライブの影響や、鈴木慶一の耳などの病気により5年間にわたって活動を停止。メンバーは[[任天堂]]のゲームソフト「[[MOTHER (ゲーム)|MOTHER]]」の音楽制作(鈴木慶一の作品)や音楽プロデュース、ソロアルバムの制作など活発なソロ活動を展開していた。 === 東芝EMI時代 - 無期限活動休止 - 活動再開 === 活動停止期間中には、メンバーそれぞれのバンド外活動も活発化するなど、このまま自然消滅かとの憶測も流れたが、[[1991年]][[4月26日]]に[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]移籍第1弾アルバム『'''[[最後の晩餐 (アルバム)|最後の晩餐]]'''』を発表。この年の[[NHKホール]]([[東京都]][[渋谷区]])におけるライブのチケットは即日ソールドアウトとなり、待望の復活を果たした。この後も[[BMG JAPAN|ファンハウス]]、[[キューンミュージック|キューンソニー]]と移籍を繰り返しながらも(音楽業界の[[江夏豊]]と冗談半分で称された)作品を次々と発表し、[[1999年]]には[[ワーナーミュージック・ジャパン]]のDREAM MACHINEレーベルに移籍、関係者を驚かせた。そして2年後の[[2001年]]には、デビュー25周年を記念してアルバム『'''Dire Moron TRIBUNE'''』とファーストアルバム『火の玉ボーイ』の再発売盤をリリースした。[[2004年]]には自らのバンド名を冠したレーベル'''Moonriders Records'''を創立する。[[2006年]]にはデビュー30周年を迎え、[[日比谷野外音楽堂]]での多くのゲストを招いての記念ライブ、年末の全国ツアーライブ、アルバム『'''MOON Over the ROSEBUD'''』のリリースなど、活発な活動を行った。 35周年となる[[2011年]][[11月11日]]、公式サイトにて2011年内をもって無期限活動休止に入ることを発表した。日本最初期の現役ロックバンドのこの活動休止宣言に多くのメディアやファンが驚いた。同時に、2011年11月11日午後11時11分より12月31日までの期間限定で、新曲「Last Serenade」を無料配信することも発表された。2011年12月30日には[[タワーレコード]]新宿店の屋上でフリーライブを開催、[[ルーフトップ・コンサート]]と銘打たれた(ライブの模様は[[ほぼ日刊イトイ新聞]]でも生配信された)。そして12月31日、ファンクラブ限定のラストライブの開催をもって全てのライブ活動を終了した。 [[2013年]][[12月17日]]、メンバーのかしぶち哲郎が死去したことが、同年12月20日に発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/94269 |title=ムーンライダーズのドラマー、かしぶち哲郎が逝去。享年63歳 |work=[[ロッキング・オン|Ro69]] |publisher=[[ロッキング・オン]] |date=2013-12-20 |accessdate=2013-12-20 }}</ref>。 かしぶち哲郎の一周忌にあたる[[2014年]][[12月17日]]、[[日本青年館]]で一夜限定の復活ライブを開催した(翌[[12月18日]]に追加公演)。 結成40周年となる2016年5月10日、8月28日開催の[[ロック・フェスティバル]]「[[ワールド・ハピネス]]2016」に出場することが発表され、一夜限定ライブを除くと5年ぶりに復活した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/186557 |title=ムーンライダーズがワーハピで復活、スカパラ&Ykiki Beat出演も決定 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |publisher=ナターシャ |date=2016-05-10 |accessdate=2016-07-24 }}</ref>。同年7月1日、期間限定で「活動休止の休止」をすることを発表<ref name="shiraitwit20160701"/>。秋にライブツアー「Moonriders Outro Clubbing Tour」(同年10月6日より6カ所7公演)を行うことをアナウンスした<ref name="natalie20160702"/>。2016年12月15日に行われた「moonriders Final Banquet 2016 ~最後の饗宴~」を以て「活動休止の休止の休止」となる。 2020年8月、アルバム『カメラ=万年筆』40周年を記念した無観客ライブ「Special Live『カメラ=万年筆』」を行い、活動再開を発表した。これに伴い、2006年からかしぶち哲郎のサポート役を務め、逝去後は単独でドラムスを担当していた[[夏秋文尚]]が正式にメンバーとして加入した。 2022年4月、約11年ぶりとなるオリジナルアルバム「'''it's the moooonriders'''」を発表。 2023年2月14日、メンバーの岡田徹が死去したことが、同年2月22日に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ムーンライダーズのキーボーディスト岡田徹さん死去、73歳 プリプリや坂本美雨らプロデュース - おくやみ : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302220000931.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-02-22}}</ref>。 == 音楽性 == 彼らの音楽的先進性については、『'''ムーン・ライダーズ'''』『'''イスタンブール・マンボ'''』でのワールド・ミュージック的要素の積極的な導入(以降のアルバムでも独特の「無国籍」感は保たれる)に始まり、『'''ヌーベル・バーグ'''』において当時登場したばかりの[[シンセサイザー]]を積極的に活用、続く『'''[[MODERN MUSIC]]'''』での当時最先端であった[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]への接近と[[ヴォコーダー]]の使用、『'''[[MANIA MANIERA]]'''』([[1981年]][[11月24日]]から録音開始)に至っては[[ローランド]] MC-4([[ミュージックシーケンサー]])を大々的に導入しレコーディングにおける個人作業を活性化させるなどの様々な試みからもわかる。 活動休止まで、バンドと平行しながらのソロ活動、別バンド(ユニット)、[[音楽プロデューサー]]などメンバー個人の活動のほか、アルバム制作やライブ活動も精力的におこなっている。メンバー全員がバンド内でのソングライティング(作詞・作曲・編曲・ボーカル)や職業作曲家、プロデュース業、スタジオ・ミュージシャン業をこなすという稀有なバンド。作詞は鈴木慶一・鈴木博文・かしぶち哲郎が手がける比率が高い。その膨大な作品群は2001年より『'''ムーンライダーズのイイ仕事'''』シリーズとして[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]、[[フォーライフミュージックエンタテイメント|フォーライフ]]、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]、[[日本クラウン]]、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]、[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーミュージック]]、[[ポニーキャニオン]]など各社より[[コンピレーション・アルバム]]としてリリースされている。それぞれ多くの[[コマーシャルソング|CM曲]]を手がけており(アルバム「MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006」等でリリースされている)、近年では「[[マツダ]](1996年のマツダに乗りに行こうシリーズ。[[マツダ・キャロル|キャロル]]、[[マツダ・カペラ|カペラ]]、[[マツダ・ボンゴフレンディ|ボンゴフレンディ]]など)」「[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]」、「アロエリーナ」、「[[ドコモダケ]]」等がある。楽曲のスタイルは常に変遷し、また曲ごとのアプローチもしばしば異なるが、メンバーの全員がリードボーカルを担当できる強みから、男性[[ユニゾン]]とコーラスワークを基本とするのみならず、各々のスタイルを活かして複数のメンバーがリードを取ることも多々ある柔軟なスタンスが特徴。 一時期の作品タイトルは映画や書籍などから引用したものが多く、それ以降も時事的なトピックや先行する創作物からの影響で作られた楽曲も間々存在する。またタイトルや歌詞に犬が頻繁に登場することも特徴である。 アルバム収録曲は基本的にメンバーの投票によって決定されるが、0票だから収録されないということもないという。初期のアルバムでは先着順もあった。なお毎回50曲ほどのボツ曲があるが、それらの曲はソロや提供曲で再利用されることもあるという。 鈴木慶一曰く「自分は出だしはいいがサビが苦手なので、他のメンバーの意見を積極的に取り入れたり、他のコンポーザーのサビと繋げたりもする」という。 == メンバー == === メンバー === ({{Twitter|moonriders_net|moonriders_net}} に基づく) * [[鈴木慶一]]([[ボーカル]]、[[ギター]]、キーボード、ドラム) * [[武川雅寛]]([[ヴァイオリン]]、[[トランペット]]、[[マンドリン]]、ギター、コーラス、[[ヴォコーダー]]、ボーカル) * [[鈴木博文]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]、ギター、コーラス、ボーカル) * [[白井良明 (音楽家)|白井良明]]([[ギター]]、[[シタール]]、[[GITADORA|ギタドラ]]、[[ツィター]]、コーラス、ボーカル) ** 1977年、椎名和夫の脱退に伴い加入。 * [[夏秋文尚]]([[ドラムセット|ドラムス]]) ** 2020年の活動再開時に加入。 ※1990年代以降の作品のレコーディングでは、メンバー全員が自身の作曲したレパートリーで、ギター、キーボード、プログラミングなどを兼ねる事が多くある。 === サポート === * [[スカート (バンド)|澤部渡]](ギター、ボーカル、コーラス) * [[佐藤優介]](キーボード、コーラス) ※活動再開後のライブでは、[[岡田徹]]の体調不良もあり、以前から[[トリビュート・アルバム]]などに参加していた澤部渡と佐藤優介がサポートメンバーに入ることが多い。また、2022年のアルバム『'''[[it's the moooonriders]]'''』では夏秋文尚と共に、作詞・作曲にも参加している。また、近年はセットリストを考えることも多い。 === 死去したメンバー === ; [[かしぶち哲郎]](ドラムス、[[パーカッション]]、ギター、コーラス、ボーカル) : オリジナルメンバー。2013年12月17日死去。 ; [[岡田徹]]([[キーボード (楽器)|キーボード]]、ピアノ、[[アコーディオン]]、[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]、ボーカル) : オリジナルメンバー。2023年2月14日死去。 === 元メンバー === ; [[椎名和夫]] (ギター) : 元[[はちみつぱい]]。オリジナルメンバー。1977年、[[鈴木慶一]]との音楽性の相違で脱退。[[山下達郎]]のサポートメンバーを経て、[[編曲家]]に転進。 == ディスコグラフィ == === シングル === # '''[[スカンピン]]''' c/w あの娘のラブレター([[1977年]]) # '''ジェラシー''' c/w Beep Beep Be オーライ(1977年) # '''ヴァージニティ''' c/w ヴィデオ・ボーイ([[1979年]]) # '''モダーン・ラヴァーズ''' c/w 鬼火([[1980年]]) # '''彼女について知っている二・三の事柄''' c/w 地下水道(KANAL DUB)(1980年) # '''エレファント''' c/w ヴィデオ・ボーイ(NEW RECORDING)([[1981年]]) # '''僕はスーパーフライ''' c/w くれない埠頭([[1982年]]) # '''M.I.J.''' c/w GYM([[1984年]]) # '''花咲く乙女よ穴を掘れ''' c/w 滑車と振子([[1986年]]) # '''夏の日のオーガズム''' c/w 今すぐ君をぶっとばせ、夏の日のオーガズム(Poolside Mix)(1986年) # '''ダイナマイトとクールガイ''' c/w シリコン・ボーイ([[1992年]]) # '''海の家''' c/w Love Me Tonight(Fuge Garage Mix)([[1995年]]) # '''冷えたビールがないなんて''' c/w おかわり人生、ボクハナク(Beach House Mix)(1995年) # '''9月の海はクラゲの海''' c/w 9月の海はクラゲの海(DEEP SEE MIX)、9月の海はクラゲの海(COSMIC TRAVELER MIX)(1995年) # '''HAPPY/BLUE'95''' c/w ぼくはタンポポを愛す(1995年) # '''ニットキャップマン''' c/w ビアティテュード([[1996年]]) # '''恋人が眠ったあとに唄う歌''' c/w 酔いどれダンス・ミュージック([[1998年]]) # '''Sweet Bitter Candy -秋〜冬-''' c/w Sweet Bitter Candy-秋〜冬-(Tabacology Mix)、月夜のドライヴ(Sweet Bitter Candyのみムーンライダーズ feat. [[奥田民生]]、1998年) # '''kissin' you till I die/pissism a go go''' c/w pissism a go go([[2001年]]、配信限定曲『pissin' till I die/pissism a go go』を一部変更したもの) # '''ゆうがたフレンド(公園にて)'''([[2006年]]、「ゆうがたフレンド」として[[iTunes Store]]バージョンが公開されている) # '''Cool Dynamo, Right on''' c/w Cool Dynamo, Right on ([[RIOW ARAI]] MIX)([[2007年]]) # '''Tokyo, Round and Round'''([[2008年]]、配信) # '''恋はアマリリス'''([[2009年]]、配信) # '''You & Us'''(2009年、配信) # '''Tokyo Navi'''(2009年、配信) # '''三日月の翼'''(2009年、配信) # '''Come Up'''(2009年、配信) # '''ゲゲゲの女房のうた(A Ge Ge Version)''' c/w 日曜はダメよ、くれない埠頭 2010(「ムーンライダーズ feat. [[小島麻由美]]」名義、[[2010年]]。[[映画]]版『[[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]]』[[主題歌]]) # '''魂メラめら一兆℃!''' c/w みんなくたばるサァサァサァ(「[[遠藤正明]]とムーンライダーズ」「ムーンライダーズ feat.[[上野洋子|yoko]]」名義、[[2011年]]。[[テレビアニメ|TVアニメ]]「[[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]]」主題歌。 === アルバム === # '''[[火の玉ボーイ (アルバム)|火の玉ボーイ]]'''([[1976年]][[1月25日]])※鈴木慶一とムーンライダース名義 # '''[[MOON RIDERS]] / ムーンライダーズ'''([[1977年]][[2月25日]])※[[ディスクジャケット|ジャケット]]が赤いことから、メンバーによる[[通称]]は「赤いアルバム」<ref name="music_steady_198303">{{Cite journal |和書 |author=鈴木慶一 |authorlink=鈴木慶一 |title=MUSICIAN FILE ムーンライダーズ徹底研究 |date=1983-02-20 |publisher=ステディ出版 |journal=隔月刊[[ミュージック・ステディ]] 1983年3月号 |volume=3 |number=1 |pages= |ref= |quote=}}</ref>。 # '''[[Istanbul mambo]] / イスタンブール・マンボ'''([[1977年]][[10月25日]]) # '''[[NOUVELLES VAGUES]] / ヌーベル・バーグ'''([[1978年]][[12月25日]]) # '''[[MODERN MUSIC]] / モダーン・ミュージック'''([[1979年]][[10月25日]]) # '''[[CAMERA EGAL STYLO / カメラ=万年筆]]'''([[1980年]][[8月25日]]) # '''[[青空百景]]'''([[1982年]][[9月25日]]) # '''[[MANIA MANIERA]] / マニア・マニエラ'''([[1982年]][[12月15日]]) # '''[[AMATEUR ACADEMY]] / アマチュア・アカデミー'''([[1984年]][[8月21日]]) # '''[[ANIMAL INDEX]] / アニマル・インデックス'''([[1985年]][[10月21日]]) # '''[[DON'T TRUST OVER THIRTY]]'''(1986年[[11月21日]]) # '''[[最後の晩餐 (アルバム)|最後の晩餐]]'''([[1991年]][[4月26日]]) # '''[[A.O.R.]]'''([[1992年]][[9月30日]]) # '''[[ムーンライダーズの夜]]'''(1995年[[12月1日]]) # '''[[Bizarre Music For You]]'''([[1996年]][[12月4日]]) # '''[[月面讃歌]]'''([[1998年]][[7月18日]]) # '''dis-covered'''([[1999年]][[11月25日]]) # '''Dire Morons TRIBUNE'''([[2001年]][[12月12日]]) # '''[[P.W Babies Paperback]]'''([[2005年]][[5月11日]]) # '''MOON OVER the ROSEBUD'''([[2006年]][[10月25日]]) # '''Tokyo7'''([[2009年]][[9月16日]]) # '''[[Ciao! (ムーンライダーズのアルバム)|Ciao!]]'''([[2011年]][[12月14日]]) # '''[[it's the moooonriders]]'''([[2022年]][[4月20日]]) === ミニ・アルバム === # '''夏の日のオーガズム'''([[1986年]][[6月21日]]) # '''Beautiful Young Generation HIGH SCHOOL BASEMENT 1'''([[1995年]][[3月1日]]、カバーアルバム) # '''La Café de la Plage'''([[1995年]][[6月25日]]、セルフカバーアルバム) # '''Six musicians on their way to the last exit'''([[2000年]][[12月15日]]) # '''No.9'''([[2004年]][[2月23日]]、映画「[[東京ゴッドファーザーズ]]」のエンディングテーマ「No.9」などを[[サラウンド|5.1ch]]で収録した[[Super Audio CD|SACD]]。[[サウンドトラック]]アルバム未収録の[[アウトテイク]]を含む全8曲を収録) # '''Here we go'round HQD'''(2009年[[9月1日]]、配信限定シングル・コレクション) # '''Happenings Nine Months Time Ago in June 2022'''(2023年3月15日:CD/2023年6月25日:LP) === サウンドトラック === # '''[[東京ゴッドファーザーズ]]'''(2003年) === ライブ・アルバム === # '''THE WORST OF MOONRIDERS'''([[1986年]][[9月5日]]) # '''a touch of fullmoon shows in the night'''([[2000年]][[7月7日]]) # '''マニアの受難 PASSION MANIACS Original Soundtrack'''([[2006年]][[11月2日]]) # '''moonriders LIVE at MIELPARQUE TOKYO HALL 2011.05.05“火の玉ボーイコンサート”'''([[2012年]][[1月25日]]) # '''Radio Moon and Roses 1979Hz'''([[2022年]][[8月3日]])ムーンライダーズ+佐藤奈々子名義 === ベスト・アルバム === # '''[[東京一は日本一]]'''([[1981年]][[5月25日]]) # '''12コレクト'''([[1984年]][[9月21日]]) # '''ベスト・セレクション'''([[1986年]][[3月15日]]) # '''ティン・パン・アレー+ムーンライダーズ'''([[1986年]][[9月5日]]) # '''ベスト16 スイマー〜ジェラシー'''([[1987年]][[3月1日]]) # '''全曲集'''([[1988年]][[9月21日]]) # '''ベスト'''([[1989年]][[10月5日]]) # '''ベスト15'''([[1992年]][[8月21日]]) # '''The Best of Luck!'''([[1993年]][[5月21日]]) # '''[[Best of MOONRIDERS 1982→1992 Keiichi Suzuki sings MOONRIDERS]]'''([[1994年]][[3月23日]]) # '''短くも美しく燃え'''([[1997年]][[12月17日]]) # '''アンソロジー 1976-1996'''([[1998年]][[5月2日]]) # '''かしぶち哲郎SONGBOOK'''([[1998年]][[5月2日]]) # '''TWIN BEST'''([[1999年]][[3月10日]]) # '''MOONRIDERS SELECTION'''([[2003年]][[5月1日]]) # '''Anthology moon riders BEST'''([[2003年]][[7月16日]]) # '''[[GOLDEN☆BEST ムーンライダーズ]]'''([[2004年]][[9月17日]]) # '''NEW DIRECTIONS OF MOONRIDERS vol.1'''([[2006年]][[10月4日]]) # '''クラウン・イヤーズ・ベスト&LIVE'''([[2011年]][[1月12日]]) === アーカイブシリーズ === # '''Moonlight Recital 1976'''([[2005年]][[12月7日]]) # '''1979.7.7 at KUBOKODO'''([[2007年]][[4月4日]]) # '''1980.2.23 リサイタル―MODERN MUSICの彼方'''([[2007年]][[12月19日]]) # '''LIVE at HIROSHIMA KENSHINKODO 1980.10.11'''([[2009年]][[3月18日]]) # '''IN SEARCH OF LOST TIME VOL.1'''([[2009年]][[10月21日]]) # '''LIVE at SHIBUYA 2010.3.23 "Tokyo 7"'''([[2010年]][[8月4日]]) # '''moonriders LIVE at SHIBUYA KOKAIDO 1982.11.16 青空百景'''([[2013年]][[3月27日]]) # '''LIVE at SHIBUYA KOKAIDO 1984.7.14'''([[2013年]][[3月27日]]) === 参加作品 === * 「銀紙の星飾り」 - クリスマス [[コンピレーション・アルバム]]『[[WE WISH YOU A MERRY CHRISTMAS]]』(1983年11月28日) * 「[[ヤー・ブルース|YER BLUES]]」 - [[ビートルズ]] カバー・アルバム『LOVE ME DO』(1992年9月30日) * 「[[アイ・ニード・ユー (ビートルズの曲)|I NEED YOU]]」 - [[ジョージ・ハリスン]] トリビュートアルバム『Gentle Guitar Dreams』(2002年5月29日) === 映像作品 === # '''DREAM MATERIALIZER''' # '''moonriders LIVE at SHINJUKU LOFT 2006.4.15''' (2008年) # '''The Postwar Babies Show'''(2005年) # '''月面讃画〜ムーンライダーズ・月面サマーツアー1998''' # '''PASSION MANIACS マニアの受難'''([[2006年]]) # '''Ciao!THE MOONRIDERS LIVE 2011'''([[2012年]]) === テレビ === * [[高原へいらっしゃい]](1976)演奏 * [[Dororonえん魔くん メ~ラめら]](2011)Anime 音楽   === 映画 === * [[サチコの幸]](1976)音楽 * 毛ぼうし(1997)<OV>出演 月光下騎士団 * MOONRIDERS THE MOVIE 「PASSION MANIACS マニアの受難」(2006)出演   * [[転々]](2007)エンディングテーマ * [[世界のどこにでもある、場所]](2010)演奏 * [[ゲゲゲの女房 (映画)]](2010)エンディングテーマ - ムーンライダーズ feat. [[小島麻由美]] * [[ジ、エクストリーム、スキヤキ]](2013)エンディングテーマ   === 書籍 === * ムーンライダーズ詩集(1986年) * フライト・レコーダー(1990年)ムーンライダーズ,アストロ・チンプス(著) * 火の玉ボーイとコモンマン 東京・音楽・家族 1951〜1990(1989年)鈴木慶一著 * 20世紀のムーンライダーズ(1998年)月面探査委員会 (編集) * [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 2005年6月号 特集 ムーンライダーズ 薔薇がなくちゃ生きてゆけないんだってば! * [[ミュージック・マガジン]]増刊 ムーンライダーズの30年(2006年) * 月光下騎士団大事典~ムーンライダーズデビュー30周年記念目録(2007年)月面探索者一同 * Ciao! ムーンライダーズ・ブック(2015年) == テレビ == * [[MUSIC JAPAN]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2010年12月5日)出演 == 配信 == * [[2017年]]、[[フジテレビオンデマンド]]「[[PARK (FOD番組)|PARK]]」スピンオフコーナー【PARKSIDE】出演 == その他 == * 後の[[ミュージシャン]]、[[漫画家]]、[[作家]]などにも多大な影響を与えた。[[江口寿史]]<ref>「あとがき」『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』[[双葉社]]、1991年6月。ISBN 9784575281125。</ref>、[[貞本義行]]<ref group="注">ファンであることを公言。アルバム『[[DON'T TRUST OVER THIRTY]]』の収録曲「マニアの受難」「ボクハナク」が、コミック版『[[新世紀エヴァンゲリオン (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン]]』([[角川書店]])のサブタイトルに引用されている。これが縁で、ベストアルバム『アンソロジー 1976-1996』のジャケットのイラストを執筆する。</ref>、[[わかつきめぐみ]]<ref group="注">コミックで紹介しており、イメージアルバム『[[わかつきめぐみの宝船ワールド]]』のプロデューサーを鈴木慶一が担当。武川雅寛と白井良明を除くメンバーが楽曲制作に参加している。</ref>、[[松田洋子]]<ref>『[[マンガ・エロティクス・エフ|F]]』[[太田出版]]、vol.41より。</ref>、[[やまだないと]]{{Refnest |group="注" |コミック『ビアティチュードBEATITUDE 1』(2008年10月、講談社)のタイトルは、アルバム『Bizarre Music For You』に収録されている楽曲から引用。作中には鈴木慶一がモデルの流しのギター弾きが登場する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mangataisho.com/archives/2009/01/070.html |title=『ビアティチュード(BEATITUDE)』やまだないと|2009年ノミネート作品 |work=[[マンガ大賞]] |publisher=、マンガ大賞実行委員会 |accessdate=2016-07-24 }}</ref>。また、鈴木慶一とのコラボ作品『Yの思い出』がある。}}、[[山本直樹]]<ref group="注">大学時代からのファン。『F vol.41』では対談も果たしている。</ref>、[[谷川史子]]{{Refnest |group="注" |公式サイトのプロフィールより<ref>{{Cite web|和書|url=http://cookie.shueisha.co.jp/profile/ta.html |title=作家プロフィール|谷川史子 |work=[[Cookie (雑誌)|Cookie]] |publisher=[[集英社]] |accessdate=2016-07-24 }}</ref>。[[かしぶち哲郎]]の[[トリビュートアルバム]]『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』の[[ディスクジャケット|ジャケット]]イラストを執筆した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/131428 |title=谷川史子がジャケ執筆、矢野顕子ら参加のかしぶち哲郎トリビュート盤 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]] |publisher=ナターシャ |date=2014-11-17 |accessdate=2016-07-24 }}</ref>。}}、[[犬上すくね]]<ref group="注">自作のタイトルに、ムーンライダーズの曲名をもじったものが多数存在する。</ref>、[[久保ミツロウ]]<ref group="注">『モテキ』のサブタイトルにおいて、ムーンライダーズの曲名を引用している。</ref>、[[みうらじゅん]]<ref group="注">影響されて作った楽曲があり、メンバーとの交流もある</ref>、[[いしかわじゅん]]<ref>「20世紀のムーンライダーズ '98」より</ref>、[[まえだくん]]<ref group="注">Twitter上でファンであることを公言。また『[[ぷにるはかわいいスライム]]』の1話目のタイトルに曲名を引用している。</ref>、[[及川光博]]<ref group="注">いくつかの楽曲をカヴァーしている。</ref>、[[aiko]]<ref group="注">ファンクラブのイベント『BABY PEENATS MEETING vol.1』で「ニットキャップマン」をカバーしている。</ref>、ハヤシ([[POLYSICS]])<ref group="注">80年代から気に入って聞いており、現在でも新作を聴いている。(WEBマガジン『Tune in』「鈴木慶一×サエキけんぞう×ハヤシ」の対談より)</ref>、[[辻仁成]]<ref group="注">戯曲「フラジャイル」にスズキケイイチA、B、Cなる人物が登場し、単行本では鈴木慶一と対談している</ref>、[[ナンシー関]]<ref group="注">ムーンライダーズ公式サイトに、ナンシーによるメンバー全員の消しゴムアートが掲載されている。またネット上で行われたチャットにも参加している。</ref>、[[岩井俊二]]<ref group="注">監督作に[[鈴木慶一]]を役者として起用。またバンドの20周年記念プロモーションビデオ(ニットキャップマン)の監督を担当。このP.V.を中心にして、ビデオ作品『毛ぼうし』を製作。</ref>、[[かがみふみを]]<ref group="注">自作のタイトルやセリフにムーンライダーズの曲名を引用したりもじったものが多数存在する他、自作「きみといると」では岩井良明なる人物が登場する。</ref>、[[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]、[[よしもとよしとも]]、[[アーバンギャルド]]、[[及川眠子]]ら。また、「ムーンライダーズの弟バンド」と称されたバンドに[[カーネーション (バンド)|カーネーション]]、[[GRANDFATHERS]]がいて、互いの音楽活動によく参加している。 * アニメーション作品『[[魔法遣いに大切なこと]] 〜夏のソラ〜』に登場するストリートミュージシャンであるYASUKOが楽曲を歌う。『[[神様のメモ帳]]』でサブタイトルに楽曲名が引用される。 * 2011年7月27日、[[森山良子]]がデビュー45周年記念シングルとして「6つの来し方行く末」をカバー、11月6日に『[[ミュージックフェア]]』に出演した際はバックバンドとしてムーンライダーズ全員が出演。歌詞の内容に合わせて、メンバー全員の氏名と誕生月が表示された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[1976年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手 * [[日本のバンド一覧]] * [[ミュージシャン一覧 (グループ)]] * [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・グループ)]] * [[P-MODEL]] == 外部リンク == * {{Official website|http://www.moonriders.net/|ムーンライダーズ オフィシャルウェブサイト}} * {{Twitter|moonriders_net|moonriders_net}} * [https://twilog.org/moonriders_net moonriders_net] (@moonriders_net) - Twilog * {{Facebook|MoonridersRecords|MOONRIDERS RecordS}} * [https://web.archive.org/web/20090518045029/http://www.myspace.com/moonriders1976 ムーンライダーズオフィシャルMYSPACE] * [https://web.archive.org/web/20090528233554/http://recommuni.jp/feature/index.php/20090516 ムーンライダーズ特集] - recommuni * [https://web.archive.org/web/20090905063118/http://recommuni.jp/feature/index.php/20090901 鈴木慶一 インタビュー] - recommuni {{ムーンライダーズ}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:むうんらいたあす}} [[Category:ムーンライダーズ|*]] [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:ロックンロール・バンド]] [[Category:ニュー・ウェイヴ・バンド]] [[Category:日本クラウンのアーティスト]] [[Category:ワーナーミュージック・ジャパンのアーティスト]] [[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]] [[Category:アリオラジャパンのアーティスト]] [[Category:キューンミュージックのアーティスト]] [[Category:ポニーキャニオンのアーティスト]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:1975年に結成した音楽グループ]]
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2,012
スキー場
スキー場(スキーじょう)とは、スキーで雪斜面を滑降する目的で山肌を切り開き、斜面上部へ利用者を運ぶ何らかの動力運搬手段を常備し、滑走に適するよう常時圧雪整備されている雪面である。 多くのスキー場と言われる施設ではやスノーボードなど斜面を滑走するスキー類似のスポーツも制限されずに行うことが出来る。狭義としては「スキー」のみ滑走可能な施設を示す。 クロスカントリーコースやジャンプ台を持つ例もあるが、これらのみの施設の場合スキー場と呼ばれることはない。 元々は冬季の登山に際して交通機関のある山麓の人里から山へのアプローチにスキーを利用しそれを楽しむ登山者が泊まり込みで練習するための場所(=ゲレンデ)だったが、次第に練習場でスキーを楽しむことだけを目的とする人々が増えてスキー場と広く一般的に呼ばれるようになり、もとの目的から独立したスポーツ・レジャーとしてそこで滑ることをスキーと呼ぶまでになった。 日本における最初のスキー場は1911年(明治44年)に開設された五色温泉スキー場(山形県)であり、民間用にチェアリフトが最初に設けられたのは草津国際スキー場(1948年(昭和23年)・群馬県)である。草津国際スキー場以前では、進駐軍が1946年(昭和21年)に建設した札幌スキー場と1947年(昭和22年)に建設した志賀高原丸池があった。 世界初の屋内スキー場は1958年(昭和33年)に開設された、豊島園インドアスキー場(東京都)である。 現在ではスキー場は全国各地に点在し、特に長野県北部や新潟県、山形県などの豪雪地帯では主要産業となっている。スキー場の周囲には宿泊施設や飲食店、土産物店などが点在し、温泉施設が充実している所も多い。これらが冬はスキー、夏はハイキング、パラグライダーなどのアウトドアスポーツの拠点として、またリゾート施設や避暑地として利用される傾向が強い。 日本語では、チェアリフト・ロープウェイ・ゴンドラリフト・滑走式リフト等のことを索道と言う。 多くのスキー場はチェアリフト・ロープウェイ・ゴンドラリフト等によって山頂付近まで上り、スキーやスノーボードでゲレンデを滑り降りてくる。しかし初心者には、チェアリフトに乗ること自体が難しいこともあり、チェアリフトの乗降に失敗すると、動いているシートに身体や頭をぶつけたり、スキー板・スノーボードが搬器に引きずられて足を骨折するなどの危険がある。また非常時にはチェアリフトが緊急停止するため他の客にも迷惑がかかることもある。そのため、まず最初はスキーやスノーボードを履かないでブーツ(スキーはストックも併用)のみで歩行して脚を慣らした後、スキー板やスノーボードなどを担いでゲレンデの端を歩いて登る。スキーの場合は板を履いたまま階段登行・開脚登行と呼ばれる登り方で、スノーボードの場合はビンディングの片足だけを外して歩く登り方で短い距離を登っては滑り下りる練習を繰り返すことから開始し、「滑る」「曲がる」「止まる」ができるようになってから、続けてチェアリフトの乗り降りの方法を覚えた上で、山の中腹程度までしか行かないチェアリフトなどを利用し、徐々にステップアップしていくのが一般的である。これらをスキースクールやインストラクターの指導の下で行うこともある スポーツ・レジャーとして定着する頃にはこうした初心者やファミリーユーザを念頭においたコースの整備が進み、ブームとなった頃には1つのスキー場に初心者向けから上級者向けまで様々なコースが揃った広大なスキー場が一般的な存在となった。結果、ゴンドラリフトやチェアリフトも多種多様なものが生まれている. 通常、ゴンドラリフトは4~12人程度が同時に乗れて、ある程度の長距離を比較的高速で登る輸送能力が高いものが多い。乗降時にはメインのワイヤーから離れてゆっくり進み(自動循環式と呼ばれる)、スキー板やボードはゴンドラリフト外側に取り付けられた専用のスキー・スノーボード立てに立て掛けておいて中に乗り込む小型のロープウェイであるので、チェアリフトほどの落下の危険がないためかかなりの高度となる場合もあり、素晴らしい眺望を堪能できる。降車後は終点や山頂から一気に麓を目指し、難易度の高い急斜面での滑降、あるいは緩斜面の滑降ながら抜群の眺望を楽しむ、林間のコースをロングランで滑り降りる等といった複数の選択肢を取って楽しむことができる。また、最近のゴンドラリフトでは、ニセコHANAZONOリゾートのHANAZONOシンフォニーゴンドラなどのように路線途中に中間駅を設けて途中下車できる構造としたり、ニセコビレッジのアッパービレッジゴンドラやビレッジエクスプレスなどのように初級者向けエリアに設置して、初心者も利用しやすくしたものもある。 一方、一部の長距離の物を除いた、例えばゴンドラリフト路線間に2~3線程度配置されているチェアリフトは、麓付近で滑ることの多い初心者、検定やレースなどの決まったコースでの利用、景色や特定のコース自体(スキーのモーグルコースやスノーボードのハーフパイプ等フリースタイルコースなど)を楽しみたい場合、あるいは「山頂は無理でも途中の中腹位からなら...」という場合等において、乗り継ぎも含めた巧みな配置でゴンドラリフトを補っている。 チェアリフトはスキー板やスノーボードを履いたまま搬器(イス)に座るものが主流で、通常は1~8人が乗車でき、いかなる定員の場合でも1座席200kgまで耐えられるように設計されている。1~4人乗りはそれぞれシングル、ペア(ロマンス)、トリプル、クワッドの名称が付くが、6人以上のリフトは現在の日本において独自の呼称が無い。なお、石打丸山スキー場やニセコビレッジなどに設置されている、同じケーブルで6人乗りリフト搬器とゴンドラリフト搬器が混合運用されているものもあり、これは「コンビリフト」と呼ばれている。 旧来からのシングル(1人乗り)リフトは乗車時や風などで前後左右に揺れることがあるために幾分心許ないものもあり、乗車時は、搬器のバーにしっかり掴まるか腕を掛けるよう推奨されている。また、後に出現した高速タイプ(通常2.0 - 2.5 m/sの速度)の物は、乗降時に速度が速くてタイミングが取りにくいことがあるので乗降に技術が必要で、初心者にはあまり勧められない。 ペアリフト以上の乗車定員の物は、搬器がケーブル(支曳索)に固定されて一定速度で動く固定循環式の他に、乗降車停留場で搬器がケーブルから離れてゆっくりと動く自動循環式の物もある。初心者は自動循環式のリフトの方が乗車しやすいことになるが、自動循環式のリフトは長距離リフトである場合もあり、その関係でリフト乗降停留場間の範囲内にあるゲレンデに急斜面箇所も含まれることがあるので、あらかじめリフトの運行範囲間にあるゲレンデの傾斜、あるいは「初級」「中級」「上級」といった表記などを把握する必要がある。 その他、後述のロープトゥ・リフト、Jバーリフト、Tバーリフト、プラッターリフト、マジックカーペットと呼ばれる、雪面上を滑りながら上昇する滑走式リフトという物もある。 日本最長のゴンドラリフトは苗場スキー場とかぐらスキー場を結ぶドラゴンドラであり、その距離は5481mで、約15分で結ばれている。 多くのスキー場では遊園地のように入場料は徴収していないが、チェアリフトやゴンドラリフトに乗るためにリフト券と呼ばれる券を購入する必要がある。 チェアリフト、ゴンドラリフトの両方があるスキー場では両方に乗ることのできる共通リフト券を発行しており、しばしば共通リフト券のみとなっている。 リフト券は1回券・回数券・1日券・半日券・各種時間券・ナイター券・シーズン券など複数の種類がある。 多くのスキー場では視認性の高い紙製のリフト券(最近では偽造防止対策が施されたリフト券もある)を用いていて、これを透明な窓のついたリフト券ホルダーに入れた状態で係員に見せて入場するのが通例である。 1回券・回数券はスキー場によりカード式か紙の回数券タイプがあり、カード式は改札機のカードリーダーの挿入口に差し込むか、ICカードの場合はカードリーダーにタッチする。回数券タイプは係員に規定の枚数の券をちぎって渡すか、改札口にてまたは係員から直接改札鋏で入鋏してもらってから入場する。1回券・回数券は余っても基本的に払い戻しはできないが、余った券はシーズン終了までであれば後日利用することもできる。 リフト券ホルダーは腕やウェアの金具につけたり首から下げたりするものをリフト券売場などで購入でき、小物入れと一体になったものもあるほか、ウェアに専用ポケットとして付いているものもある。 一部のスキー場では非接触型ICカード技術を用いたICチケットをリフト券としており、リフト乗り場の入場口ゲートにあるカードリーダーでチケットを認識させて入場する。たいていのICチケットリフト券は高価で、購入時に保証金を徴収してチケットの返却時に保証金を償還するデポジット制や、購入後にICカードへのチャージ等をして来シーズン以降を含めて複数回使用できる方法(一例として、後述する北海道のニセコアンヌプリにある4つのスキー場など)が取られているが、現在ではカード本体を紙製にするなどして低価格化したICカードが作られるようになり、保証金及び返却不要の使い捨てとしたICチケットも出てきている。ICチケットは視認性を要求されないので好みの場所に収納できる。ただ、ICチケットは利用者の利便性というよりは、複数の索道会社が一つのスキー場で営業を行っている、あるいは同じ山に複数のスキー場が開設されて相互にスキー場の往来可能なことから各スキー場共通リフト券を発行しているなどといった場合に、利用実績を明確にして収益の配分を行うことが主要な目的だというのが実際のところである。 基本的にリフト券を有償・無償を問わず他人に譲渡・転売することは禁止されている。地域によっては条例によって罰せられることもある。ICカード式の場合は、不正利用禁止のためゲートを通過したら一定時間使えない仕組みがある。スキー場にもよるがコース外滑降等のスキー場の規則に違反した場合、リフト券を没収されることもある。 欧米やオセアニアなどのスキー場では、リフト券は針金のついた紙製シールになっていて、針金をスキーウェアのファスナーのスライダーの取っ手などに通してからシール面同士を貼り合わせて固定し、利用が終わったら破り捨てるものが多い。これは、紛失などのトラブルを防ぎ、また使用済の券の譲渡などの不正行為の予防策である。 リフト券は、通常はスキー場のリフト券売り場で購入する方法が多く、スキー場によってはスキー場内ショップのレジカウンターを兼用したり、自動発券機(後述するニセコの例など)が使われることもある。 旅行代理店で販売している宿泊を伴うパックツアーではリフト券の料金が旅行費用に含まれていることがあり、その場合引換券を入手した上でリフト券売り場に渡してリフト券を受け取ることが多いが、旅行費用に含まれていなくてもリフト券の割引券が入手できる場合もある。 近年では主要なコンビニエンスストアの端末で目的のリフト券チケットを事前に購入できることもあり、その場合は割引価格での販売であったり、通常のリフト券料金分を支払うとリフト券引換券の他に一定額のスキー場内施設利用金券やスキー場内レストランの飲食券も一緒に付いてきて、実質的な割引となっている物もある。 オンライン決済によるリフト券の事前購入も行われ始めている。一例として、北海道のニセコアンヌプリにある、ニセコユナイテッドに加盟する4つのスキー場において、2019年よりウェブサイト上で共通リフト券のネット販売が開始されている。初回利用時は事前にウェブサイト上でクレジットカードを使うオンライン決済を行って購入し、現地ではスキー場内の自動発券機にQRコード(プリントアウトするか、スマートフォンやタブレットの画面に表示させた物)を認識させてICカードを購入する。リフト券となるICカードは引き続き所持することになり、2回目からは翌シーズン以降も含めてオンライン決済だけでそのままスキー場の自動改札機を利用できる。また、この方式による割引制度も行われている。 スキーコース(英語版)を整備する作業をスノーグルーミング(英語版)、整備された斜面をグルーミングバーンという。整備する車両としてゲレンデ整備車、圧雪車などと呼ばれる雪上車が使われる。 雪が少ない場合は、人工降雪機が使用される。 雪崩が起きそうな場合は、スキー場始業前にアバランチコントロールという人口雪崩誘発で爆破などが行われる。 アルプス山脈では、DIN 32912によって以下のように定められている。 スキー場の多くでスキー板やスノーボードのレンタルをしていることがあり、他にもブーツ・ウェア・手袋・ゴーグル等のレンタルも合わせて行うスキー場もあるので、その様な場所では手ぶらでスキー・スノーボードを楽しめることもある。またレンタル以外にもスキー場内のショップで手袋やゴーグル等の小物を販売していて、急な破損等にも対応できることがある。 スキー場直営以外のレンタル店がスキー場付近にあることも多く、さらにスキー場付近での宿泊施設でもレンタルを行っていたり、あるいはレンタル店と宿泊施設が提携していることもあり、従業員等への問い合わせでレンタルに関する情報を教えてもらえることもある。 スキー場では、スキースクール、スノーボードスクールといった滑り方に関する教育を受ける環境を用意しているところもある。 一般的なスクールは、1人から申し込みができ、受講を申し込んだ人が集まって複数人で実地の教育を受ける。用具はスクールでレンタルできる場合もあるが、通常は各自で事前に用意する。 スクールを受講するには、受講開始時刻までに事務所等で予約をしておく必要がある。時間は半日コース、一日コースなどから選ぶことになる。半日コースは1回2時間、一日コースは午前2時間、午後2時間程度のものが多い。 スクールは、初心者や中級者、上級者などのコースに分かれており、全く経験がない初めての人から、ある程度経験のある人まで自分の技量に合わせて学習することができる。未経験者が初めてスキー、スノーボードを始める場合には、リフトの乗り方、降り方、道具の装着方法や使い方などの最小限の知識もないことから危険なため、安全面、上達面からみて、初めて始める場合には、初心者向けのスクールに入って学ぶことが最適である。 プライベートスクールと呼ばれるスクールでは、見知らぬ人の集団ではなく、個人やグループ単位で教育を受けることができる。また、キッズスクールなどの子供を対象にしたスクールや、市町村単位やスポーツ運営企業などで独自に構成されているスキー・スノーボードクラブ等の団体が主催でスキー場の利用許可を受けてスクールを開いているところもある。 多くのスクールでは、スキー技術の習得の度合いを客観的に判断する検定会が行われている。この場合、日程を定めた全日本スキー連盟(SAJ)によるスキーバッジテストやスノーボードバッジ(級別)テストなどを開催し、受験してもらうことも多い。 スノーボードの草創期には、その認知度の低さもあって特に滑走規制をもうける必要は無かったが、ボーダー人口の増加とともにスノーボードを全面禁止にしたり、部分的に解禁したりするなど、スキー場によって対応が分かれていた。現在ではスノースポーツとしてスキーに匹敵するほど一般化しているため、営業的な兼ね合いも相まって規制は順次緩和されており、現在は大半のスキー場でスノーボードは全面利用可能である。
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スキー場(スキーじょう)とは、スキーで雪斜面を滑降する目的で山肌を切り開き、斜面上部へ利用者を運ぶ何らかの動力運搬手段を常備し、滑走に適するよう常時圧雪整備されている雪面である。 多くのスキー場と言われる施設ではやスノーボードなど斜面を滑走するスキー類似のスポーツも制限されずに行うことが出来る。狭義としては「スキー」のみ滑走可能な施設を示す。 クロスカントリーコースやジャンプ台を持つ例もあるが、これらのみの施設の場合スキー場と呼ばれることはない。
{{Redirect|ゲレンデ|「ゲレンデ」と呼ばれる[[メルセデス・ベンツ]]の車種|メルセデス・ベンツ・Gクラス}} {{出典の明記| date = 2018年1月}} [[ファイル:Hyonosen02s1760.jpg|300px|right|ゲレンデとリフト]] [[ファイル:Vail front side.jpg|300px|right|スキー場遠景]] '''スキー場'''(スキーじょう)とは、[[スキー]]で雪斜面を滑降する目的で山肌を切り開き、斜面上部へ利用者を運ぶ何らかの動力運搬手段を常備し、滑走に適するよう常時圧雪整備されている雪面である。<br /> 多くのスキー場と言われる施設ではや[[スノーボード]]など斜面を滑走するスキー類似のスポーツも制限されずに行うことが出来る。狭義としては「スキー」のみ滑走可能な施設を示す。 [[クロスカントリースキー|クロスカントリー]]コースや[[スキージャンプ|ジャンプ]]台を持つ例もあるが、これらのみの施設の場合スキー場と呼ばれることはない。 == 発祥 == 元々は冬季の[[登山]]に際して交通機関のある山麓の人里から山へのアプローチにスキーを利用しそれを楽しむ登山者が泊まり込みで練習するための場所(=ゲレンデ)だったが、次第に練習場でスキーを楽しむことだけを目的とする人々が増えてスキー場と広く一般的に呼ばれるようになり、もとの目的から独立したスポーツ・レジャーとしてそこで滑ることをスキーと呼ぶまでになった。 日本における最初のスキー場は[[1911年]]([[明治]]44年)に開設された[[五色温泉 (山形県)|五色温泉]]スキー場([[山形県]])であり、民間用にチェアリフトが最初に設けられたのは草津国際スキー場([[1948年]]([[昭和]]23年)・[[群馬県]])である。草津国際スキー場以前では、[[進駐軍]]が[[1946年]](昭和21年)に建設した[[札幌スキー場]]と[[1947年]](昭和22年)に建設した志賀高原丸池があった。 世界初の屋内スキー場は[[1958年]](昭和33年)に開設された、[[としまえん|豊島園]]インドアスキー場([[東京都]])である。 現在ではスキー場は全国各地に点在し、特に[[長野県]]北部や新潟県、山形県などの[[豪雪地帯]]では主要産業となっている。スキー場の周囲には[[宿泊施設]]や[[飲食店]]、[[土産物店]]などが点在し、[[温泉]]施設が充実している所も多い。これらが冬はスキー、夏は[[ハイキング]]、[[パラグライダー]]などの[[アウトドア]]スポーツの拠点として、また[[リゾート]]施設や[[避暑地]]として利用される傾向が強い。 == 索道(リフトなど)== [[ファイル:Telesiege.JPG|240px|thumb|right|リフト]] [[ファイル:Bariloche_-Argentina-.jpeg|240px|thumb|right|スキー場 [[サン・カルロス・デ・バリローチェ]]([[アルゼンチン]])]] [[ファイル:Ruka Village (8361909910).jpg|240px|thumb|right|ルカのリゾートタウン([[クーサモ]]、[[フィンランド]])]] 日本語では、[[チェアリフト]]・[[索道#搬器の種類|ロープウェイ・ゴンドラリフト]]・[[滑走式リフト]]等のことを[[索道]]と言う。 [[ファイル:Pista Azzurra Gambarie.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|スキー場 [[サント・ステーファノ・イン・アスプロモンテ|Gambarie]] [[メッシーナ海峡]]]] 多くのスキー場はチェアリフト・ロープウェイ・ゴンドラリフト等によって山頂付近まで上り、[[スキー]]や[[スノーボード]]でゲレンデを滑り降りてくる。しかし初心者には、チェアリフトに乗ること自体が難しいこともあり、チェアリフトの乗降に失敗すると、動いているシートに身体や頭をぶつけたり、スキー板・スノーボードが搬器に引きずられて足を骨折するなどの危険がある。また非常時にはチェアリフトが緊急停止するため他の客にも迷惑がかかることもある。そのため、まず最初はスキーやスノーボードを履かないでブーツ(スキーは[[ストック (スキー)|ストック]]も併用)のみで歩行して脚を慣らした後、スキー板やスノーボードなどを担いでゲレンデの端を歩いて登る<ref group="注釈" name="Ski slope-FIS Rule-01">[[国際スキー連盟|国際スキー連盟(FIS)]]が定めるルールにより、「コースを歩く時は真ん中を歩かない」とされていて、[http://www.nikokyo.or.jp/safety-snow/ 全国スキー安全対策協議会]によって{{PDFlink|[http://www.nikokyo.or.jp/safety-snow/10fisrules.pdf このような啓発活動]}}が行われている。</ref><ref name="Ski slope-FIS Rule-02">参考文献:公益財団法人 北海道スキー連盟 2019年度教育本部メモ(著者:公益財団法人 北海道スキー連盟 教育本部、発行所:[[山と溪谷社]]、2018年11月1日初版)</ref>。スキーの場合は板を履いたまま[[アルペンスキー#階段登行・開脚登行|階段登行・開脚登行]]と呼ばれる登り方で、スノーボードの場合はビンディングの片足だけを外して歩く登り方で短い距離を登っては滑り下りる練習を繰り返すことから開始し、「滑る」「曲がる」「止まる」ができるようになってから、続けてチェアリフトの乗り降りの方法を覚えた上で、山の中腹程度までしか行かないチェアリフトなどを利用し、徐々にステップアップしていくのが一般的である。これらをスキースクールやインストラクターの指導の下で行うこともある スポーツ・レジャーとして定着する頃にはこうした初心者やファミリーユーザを念頭においたコースの整備が進み、ブームとなった頃には1つのスキー場に初心者向けから上級者向けまで様々なコースが揃った広大なスキー場が一般的な存在となった。結果、ゴンドラリフトやチェアリフトも多種多様なものが生まれている. 通常、ゴンドラリフトは4~12人程度が同時に乗れて、ある程度の長距離を比較的高速で登る輸送能力が高いものが多い。乗降時にはメインのワイヤーから離れてゆっくり進み([[索道#走行方式|自動循環式]]と呼ばれる)、スキー板やボードはゴンドラリフト外側に取り付けられた専用のスキー・スノーボード立てに立て掛けておいて中に乗り込む<ref group="注釈" name="Gondola lift-Ski & Snowboard career-01">中には、スノーボードを立てる設備が付いていない、[[カービングスキー]]や[[ファットスキー]]等の幅広のスキー板がスキー立てに入らない、子ども用や[[スキーボード|スキーボード(ファンスキー)]]等の短小スキー板でスキー立てが使えない、そもそもスキー立てがキャビン内にある構造といった場合、スキー板やスノーボードをキャビン内に持ち込んで乗車することがある。</ref>小型のロープウェイであるので、チェアリフトほどの落下の危険がないためかかなりの高度となる場合もあり、素晴らしい眺望を堪能できる。降車後は終点や山頂から一気に麓を目指し、難易度の高い急斜面での滑降、あるいは緩斜面の滑降ながら抜群の眺望を楽しむ、林間のコースをロングランで滑り降りる等といった複数の選択肢を取って楽しむことができる。また、最近のゴンドラリフトでは、[[ニセコHANAZONOリゾート#スキー場|ニセコHANAZONOリゾートのHANAZONOシンフォニーゴンドラ]]などのように路線途中に中間駅を設けて途中下車できる構造としたり<ref name="NISEKO UNITED 2021-2022 Winter-1">{{Cite web|和書|url=https://hanazononiseko.com/ja/winter/resort/maps |title=ニセコユナイテッドゲレンデマップ 2021-2022 |publisher=ニセコHANAZONOリゾート |accessdate=2021-10-20}}</ref>、[[ニセコビレッジ#スキー場|ニセコビレッジのアッパービレッジゴンドラやビレッジエクスプレス]]などのように初級者向けエリアに設置して<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.niseko-village.com/ja/wp/wp-content/uploads/2021/10/2021-2022-NV-SKI-MAP.pdf |title=ニセコビレッジスキーリゾートコースマップ |format=PDF |publisher=ニセコビレッジ |date= |accessdate=2021-12-03}}</ref>、初心者も利用しやすくしたものもある。 {{Main|索道#搬器の種類}} 一方、一部の長距離の物を除いた、例えばゴンドラリフト路線間に2~3線程度配置されているチェアリフトは、麓付近で滑ることの多い初心者、検定やレースなどの決まったコースでの利用、景色や特定のコース自体(スキーの[[モーグル]]コースやスノーボードのハーフパイプ等[[スノーボード#フリースタイル(FS)|フリースタイル]]コースなど)を楽しみたい場合、あるいは「山頂は無理でも途中の中腹位からなら…」という場合等において、乗り継ぎも含めた巧みな配置でゴンドラリフトを補っている。 チェアリフトはスキー板やスノーボードを履いたまま搬器(イス)に座るものが主流で、通常は1~8人<!--現在、海外のみであるが最大乗車8人乗りリフトが存在するため-->が乗車でき、いかなる定員の場合でも1座席200kgまで耐えられるように設計されている。1~4人乗りはそれぞれシングル、ペア(ロマンス)、トリプル、クワッドの名称が付くが、6人以上のリフトは現在の日本において独自の呼称が無い。なお、[[石打丸山スキー場]]や[[ニセコビレッジ]]などに設置されている、同じケーブルで6人乗りリフト搬器とゴンドラリフト搬器が混合運用されているものもあり、これは「コンビリフト」と呼ばれている。 旧来からのシングル(1人乗り)リフトは乗車時や風などで前後左右に揺れることがあるために幾分心許ないものもあり、乗車時は、搬器のバーにしっかり掴まるか腕を掛けるよう推奨されている。また、後に出現した高速タイプ(通常2.0 - 2.5 m/sの速度<ref name="speed-1">[http://cable.cocolog-nifty.com/sakudo/2005/11/post_e166.html 索道入門5 ~索道の輸送能力 その2] 2018年10月20日閲覧</ref>)の物は、乗降時に速度が速くてタイミングが取りにくいことがあるので<ref group="注釈" name="speed down-1">ただし係員への申し出により、乗降時の減速操作を行ってくれる場合がある。</ref>乗降に技術が必要で、初心者にはあまり勧められない。 ペアリフト以上の乗車定員の物は、搬器がケーブル(支曳索)に固定されて一定速度で動く[[索道#走行方式|固定循環式]]の他に、乗降車停留場で搬器がケーブルから離れてゆっくりと動く自動循環式の物もある。初心者は自動循環式のリフトの方が乗車しやすいことになるが、自動循環式のリフトは長距離リフトである場合もあり、その関係でリフト乗降停留場間の範囲内にあるゲレンデに急斜面箇所も含まれることがあるので、あらかじめリフトの運行範囲間にあるゲレンデの傾斜、あるいは「初級」「中級」「上級」といった表記などを把握する必要がある。 {{Main|チェアリフト}} その他、[[#リフトの種類|後述]]のロープトゥ・リフト、Jバーリフト、Tバーリフト、プラッターリフト、マジックカーペットと呼ばれる、雪面上を滑りながら上昇する[[滑走式リフト]]という物もある。 {{Main|滑走式リフト}} 日本最長のゴンドラリフトは[[苗場スキー場]]と[[かぐらスキー場]]を結ぶ[[ドラゴンドラ]]であり、その距離は5481mで、約15分で結ばれている。 === リフトの種類 === * [[チェアリフト|チェアリフト(もっとも一般的な椅子式のリフト)]] ** シングルリフト(1人用) ** ペアリフト・ロマンスリフト(2人用) ** トリプルリフト(3人用) ** クワッドリフト(4人用) ** 6人乗りリフト ** 8人乗りリフト * [[ゴンドラリフト]] ** [[フニテル]] * [[ロープウェイ]] ** [[3Sロープウェイ]] * [[滑走式リフト]] ** ロープトゥ・リフト[[:en:Ski_tow|(英語)]]:ケーブルに付いているバーや握り玉等の支持具に掴まるか、バーを体の横から引っかける、もしくは旧来のロープタイプの場合でロープそのものに掴まる一人用。 ** Jバーリフト[[:en:J-bar_lift|(英語)]]:J形をしたバーに掴まるか、バーを体の横から引っ掛けて使う一人用。日本では後述の物とまとめてTバーリフトとも呼称する場合がある。 ** Tバーリフト[[:en:T-bar_lift|(英語)]]:T形をしたバーに掴まるか、バーを体の横から引っ掛けて使う二人用。一人で乗車する場合はバーに掴まるかバーの片側に跨がるなどする。 ** プラッターリフト(ボタンリフト)[[:en:Platter_lift|(英語)]]:プラッター(ボタンとも)と呼ばれる円盤が付いたバーを跨ぐ、またはスノーボーダーが脇に抱えるか山側の脚の膝裏に引っ掛けて使う一人用。日本ではTバーリフトと呼称する場合もある。 ** マジックカーペット(スキー・スノーボード用動く歩道)[[:en:Magic_carpet_(ski_lift)|(英語)]]:雪面とほぼ同じ高さに設置された[[ベルトコンベア]]様のベルトの上に乗って移動する。 === リフト券 === 多くのスキー場では遊園地のように入場料は徴収していないが、チェアリフトやゴンドラリフトに乗るためにリフト券と呼ばれる券を購入する必要がある。 チェアリフト、ゴンドラリフトの両方があるスキー場では両方に乗ることのできる共通リフト券を発行しており、しばしば共通リフト券のみとなっている。 リフト券は1回券・回数券・1日券・半日券・各種時間券・ナイター券・シーズン券など複数の種類がある。 多くのスキー場では視認性の高い紙製のリフト券(最近では偽造防止対策が施されたリフト券もある)を用いていて、これを透明な窓のついたリフト券ホルダーに入れた状態で係員に見せて入場するのが通例である。 1回券・回数券はスキー場によりカード式か紙の回数券タイプがあり、カード式は改札機のカードリーダーの挿入口に差し込むか、[[ICカード]]の場合はカードリーダーにタッチする。回数券タイプは係員に規定の枚数の券をちぎって渡すか、改札口にてまたは係員から直接[[改札#改札鋏・改札スタンプ・途中下車印|改札鋏]]で入鋏してもらってから入場する。1回券・回数券は余っても基本的に払い戻しはできないが、余った券はシーズン終了までであれば後日利用することもできる。 リフト券ホルダーは腕やウェアの金具につけたり首から下げたりするものをリフト券売場などで購入でき、小物入れと一体になったものもあるほか、ウェアに専用ポケットとして付いているものもある。 一部のスキー場では非接触型[[ICカード]]技術を用いたICチケットをリフト券としており、リフト乗り場の入場口ゲートにあるカードリーダーでチケットを認識させて入場する。たいていのICチケットリフト券は高価で、購入時に保証金を徴収してチケットの返却時に保証金を償還する[[デポジット]]制や、購入後にICカードへのチャージ等をして来シーズン以降を含めて複数回使用できる方法(一例として、後述する[[北海道]]の[[ニセコアンヌプリ#スキー場|ニセコアンヌプリにある4つのスキー場]]など<ref name="NISEKO UNITED-01">[https://www.niseko.ne.jp/ja/online-liftpass/ ニセコユナイテッド/オンラインリフト券販売]より</ref>)が取られているが、現在ではカード本体を[[紙]]製にするなどして低価格化したICカードが作られるようになり、保証金及び返却不要の使い捨てとしたICチケットも出てきている<ref name="NISEKO UNITED-02">一例として、[https://www.grand-hirafu.jp/winter/gelande/lift.html Lift Ticket Prices Niseko Grand HIRAFU / HANAZONO リフト料金(ニセコ東急 グラン・ヒラフ、HANAZONO共通)]および[https://www.grand-hirafu.jp/winter/gelande/lift_united.html Lift Ticket Prices Niseko All Mountain リフト料金(ニセコ全山)]より。「シーズン券・長期間券のご購入のご案内 ニセコ東急 グラン・ヒラフ券、ニセコ全山共通券」に記載されている内容以外では保証金の徴収は行われていない</ref>。ICチケットは視認性を要求されないので好みの場所に収納できる。ただ、ICチケットは利用者の利便性というよりは、複数の索道会社が一つのスキー場で営業を行っている、あるいは同じ山に複数のスキー場が開設されて相互にスキー場の往来可能なことから各スキー場共通リフト券を発行しているなどといった場合に、利用実績を明確にして収益の配分を行うことが主要な目的だというのが実際のところである。 基本的にリフト券を有償・無償を問わず他人に譲渡・転売することは禁止されている。地域によっては条例によって罰せられることもある。ICカード式の場合は、不正利用禁止のためゲートを通過したら一定時間使えない仕組みがある。スキー場にもよるがコース外滑降等のスキー場の規則に違反した場合、リフト券を没収されることもある。 欧米やオセアニアなどのスキー場では、リフト券は[[針金]]のついた紙製シールになっていて、針金をスキーウェアの[[線ファスナー|ファスナー]]のスライダーの取っ手などに通してからシール面同士を貼り合わせて固定し、利用が終わったら破り捨てるものが多い。これは、紛失などのトラブルを防ぎ、また使用済の券の譲渡などの不正行為の予防策である。 リフト券は、通常はスキー場のリフト券売り場で購入する方法が多く、スキー場によってはスキー場内ショップの[[レジスター|レジカウンター]]を兼用したり、自動発券機(後述するニセコの例など)が使われることもある。 旅行代理店で販売している宿泊を伴うパックツアーではリフト券の料金が旅行費用に含まれていることがあり、その場合引換券を入手した上でリフト券売り場に渡してリフト券を受け取ることが多いが、旅行費用に含まれていなくてもリフト券の割引券が入手できる場合もある。 近年では主要な[[コンビニエンスストア]]の端末で目的のリフト券チケットを事前に購入できることもあり、その場合は割引価格での販売であったり、通常のリフト券料金分を支払うとリフト券引換券の他に一定額のスキー場内施設利用金券やスキー場内レストランの飲食券も一緒に付いてきて、実質的な割引となっている物もある。 オンライン決済によるリフト券の事前購入も行われ始めている。一例として、[[北海道]]の[[ニセコアンヌプリ#スキー場|ニセコアンヌプリにある、ニセコユナイテッドに加盟する4つのスキー場]]において、2019年よりウェブサイト上で共通リフト券のネット販売が開始されている<ref name="NISEKO UNITED-01"/><ref name="Hokkaido-NP-01">北海道新聞 第4社会面 2019年(令和元年)11月26日記事「『共通リフト券ネットで販売』ニセコ4スキー場」より</ref>。初回利用時は事前にウェブサイト上で[[クレジットカード]]を使うオンライン決済を行って購入し、現地ではスキー場内の自動発券機に[[QRコード]](プリントアウトするか、[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]の画面に表示させた物)を認識させてICカードを購入する。リフト券となるICカードは引き続き所持することになり、2回目からは翌シーズン以降も含めてオンライン決済だけでそのままスキー場の自動改札機を利用できる。また、この方式による割引制度も行われている。 ==管理== [[File:Skate skiing track.jpg|thumb|整備された後の斜面グルーミングバーン]] [[File:Latukone.jpg|thumb|斜面を整備するゲレンデ整備車]] {{ill2|スキーコース|en|Piste}}を整備する作業を{{ill2|スノーグルーミング|en|Snow grooming}}、整備された斜面をグルーミングバーンという<ref>{{Cite web|和書|url=https://tenki.jp/season/ski/column/romisan/2023/01/09/31590.html |title=〈北海道のスキー場〉北海道のサラサラなパウダースノーを満喫しよう!!(季節・暮らしの話題 2023年01月09日) |access-date=2023-02-18 |website=tenki.jp |language=ja}}</ref>。整備する車両としてゲレンデ整備車、圧雪車などと呼ばれる[[雪上車]]が使われる。 雪が少ない場合は、[[人工降雪機]]が使用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/20221209/1040018771.html |title=富士山のふもとのスキー場でゲレンデ作り本格化 山梨 鳴沢村|NHK 山梨県のニュース |access-date=2023-02-18 |last=日本放送協会 |website=NHK NEWS WEB}}</ref>。 雪崩が起きそうな場合は、スキー場始業前に[[アバランチコントロール]]という人口雪崩誘発で爆破などが行われる<ref>{{Cite video |df=ja |title=雪崩からスキーヤーを守れ! アバランチコントロール ニセコで約20年続く爆破作業とは |date=2023-02-18 |url=https://www.youtube.com/watch?v=ND-nT9WR4K8 |accessdate=2023-02-18 |publication-date=2023-02-14 |work=北海道新聞 どうしん動画ニュース}}</ref>。 ;パトロール隊 :救助したり、事前に危険が無いようロープを張るなどを行う従業員{{ill2|スキーパトロール|en|Ski patrol}}を雇う場合がある<ref name=MBS2023>{{Cite web|和書|url=https://www.mbs.jp/news/feature/kansai/article/2023/02/093187.shtml |title=関西人気1位のスキー場で『安全守るパトロール隊』密着取材...次々やってくるケガ人対応で大忙し「傷病者をいかに早く病院まで運ぶか」 | 特集 |access-date=2023-02-18 |last=毎日放送 |first=MBS |website=MBSニュース |language=ja}}</ref>。 ;バックカントリー :スキー場の管轄以外の場所を[[バックカントリー]]という。新雪を滑りたいスキーヤーを引き留める法律はなく、警告やロープを張るなどで安全に配慮は行われるものの、自己責任で滑走が行われる。この際に雪崩や遭難が起きることもあり、スキーパトロールが出動する事態になる場合がある<ref name=MBS2023/>。 === 難易度表示 === [[アルプス山脈]]では、[[ドイツ工業規格|DIN]] 32912によって以下のように定められている。 {| class="wikitable" |- ! シンボル ! 色/<br />対象 ! 説明 |- |[[file:Pictogram Ski Slope blue.svg|54px]] |style="text-align:center;"|'''青'''/<br />'''初級者向け''' | ごく短い区間以外、横縦全てで最大勾配が25%以下 |- |[[file:Pictogram Ski Slope red.svg|54px]] |style="text-align:center;"|'''赤'''/<br />'''中級者向け''' | ごく短い区間以外、横縦全てで最大勾配が40%以下 |- |[[file:Pictogram Ski Slope black.svg|54px]] |style="text-align:center;"|'''黒'''/<br />'''上級者向け''' | 勾配が40%以上 |} == レンタル == スキー場の多くで[[スキー板]]や[[スノーボード]]のレンタルをしていることがあり、他にも[[スキーブーツ|ブーツ]]・[[スキーウェア|ウェア]]・[[手袋]]・[[スキーゴーグル|ゴーグル]]等のレンタルも合わせて行うスキー場もあるので、その様な場所では手ぶらでスキー・スノーボードを楽しめることもある。またレンタル以外にもスキー場内のショップで手袋やゴーグル等の小物を販売していて、急な破損等にも対応できることがある。 スキー場直営以外のレンタル店がスキー場付近にあることも多く、さらにスキー場付近での宿泊施設でもレンタルを行っていたり、あるいはレンタル店と宿泊施設が提携していることもあり、従業員等への問い合わせでレンタルに関する情報を教えてもらえることもある。 == スクール == スキー場では、スキースクール、スノーボードスクールといった滑り方に関する教育を受ける環境を用意しているところもある。 一般的なスクールは、1人から申し込みができ、受講を申し込んだ人が集まって複数人で実地の教育を受ける。用具はスクールでレンタルできる場合もあるが、通常は各自で事前に用意する。 スクールを受講するには、受講開始時刻までに事務所等で予約をしておく必要がある。時間は半日コース、一日コースなどから選ぶことになる。半日コースは1回2時間、一日コースは午前2時間、午後2時間程度のものが多い。 スクールは、初心者や中級者、上級者などのコースに分かれており、全く経験がない初めての人から、ある程度経験のある人まで自分の技量に合わせて学習することができる。未経験者が初めてスキー、スノーボードを始める場合には、リフトの乗り方、降り方、道具の装着方法や使い方などの最小限の知識もないことから危険なため、安全面、上達面からみて、初めて始める場合には、初心者向けのスクールに入って学ぶことが最適である。 プライベートスクールと呼ばれるスクールでは、見知らぬ人の集団ではなく、個人やグループ単位で教育を受けることができる。また、キッズスクールなどの子供を対象にしたスクールや、市町村単位やスポーツ運営企業などで独自に構成されているスキー・スノーボードクラブ等の団体が主催でスキー場の利用許可を受けてスクールを開いているところもある。 多くのスクールでは、スキー技術の習得の度合いを客観的に判断する検定会が行われている。この場合、日程を定めた[[全日本スキー連盟]](SAJ)による[[スキーバッジテスト]]やスノーボードバッジ(級別)テストなどを開催し、受験してもらうことも多い。 == スノーボード禁止== [[スノーボード]]の草創期には、その認知度の低さもあって特に滑走規制をもうける必要は無かったが、ボーダー人口の増加とともにスノーボードを全面禁止にしたり、部分的に解禁したりするなど、スキー場によって対応が分かれていた。現在ではスノースポーツとしてスキーに匹敵するほど一般化しているため、営業的な兼ね合いも相まって規制は順次緩和されており、現在は大半のスキー場でスノーボードは全面利用可能である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Ski resorts}} {{Commons|Category:Ski resorts in Japan|日本のスキー場}} * [[日本のスキー場一覧]] * [[日本のクロスカントリースキー場一覧]] == 外部リンク == * [https://sbn.japaho.com/ SBN FREERUN] {{ja icon}} * [https://yukibancho.jp/ 雪番長] {{ja 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2,013
LDA
LDA
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "LDA", "title": null } ]
LDA 局所密度近似 の略。 線形判別分析 の略。 リチウムジイソプロピルアミド の略。 潜在的ディリクレ配分法の略。 ライブドアオート(Live Door Auto) の略。現在は、カーチスに社名を変更している。 Localizer-Type Directional Aidの略。計器着陸装置を参照。 レーザドップラー流速計。
'''LDA''' * [[局所密度近似]] ('''L'''ocal '''D'''ensity '''A'''pproximation) の略。 * 線形[[判別分析]] ('''L'''inear '''D'''iscriminant '''A'''nalysis) の略。 * [[リチウムジイソプロピルアミド]] ('''L'''ithium '''D'''iisopropyl '''A'''mide) の略。 * {{仮リンク|潜在的ディリクレ配分法|en|Latent Dirichlet allocation}}('''L'''atent '''D'''irichlet '''A'''llocation)の略。 * ライブドアオート('''L'''ive '''D'''oor '''A'''uto) の略。現在は、[[カーチスホールディングス|カーチス]]に社名を変更している。 * '''L'''ocalizer-Type '''D'''irectional '''A'''idの略。[[計器着陸装置]]を参照。 * [[レーザドップラー流速計]]('''L'''aser '''D'''oppler '''A'''nemometer)。 {{aimai}} [[pt:LDA]]
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2,014
GW近似
GW近似(ジー・ダブルきんじ、英: GW approximation)とは量子力学の近似法の一つで、電子のグリーン関数 G と遮蔽されたクーロンポテンシャル W の積を電子の自己エネルギー Σ とする近似方法。 GW近似の意味で自己無撞着なグリーン関数ではなく、LDAのグリーン関数が用いられる事が多い。 GW近似ではKohn-Sham状態のような仮想状態ではなく物理的な準粒子状態を近似計算するため、電子エネルギー損失スペクトルや光吸収スペクトルを密度汎関数法より正確に計算できる。 さらに実験結果との不一致を軽減するにはベーテ・サルピータ方程式をもちいて電子-ホール対まで考慮すればよい。また、スペクトルの計算は時間依存密度汎関数法(TDDFT)でも可能である。 GW近似という名称は、クーロンポテンシャルを表すダイアグラムが波線つまり Wave のため W という変数名が使われ、これとグリーン関数の G を合わせて付けられている。 GW近似が初めて登場した当時は、通常のバンド計算(LDA)による結果からグリーン関数を非自己無撞着に求めて、LDAの結果からの一定の改善が得られた。その後、自己無撞着な過程を導入すると精度(実験結果との一致が)がむしろ悪くなる傾向があることが分かっている。これを回避し、より正しい結果を導く試みがなされている。更に、GW近似における全エネルギーの計算も可能となりつつある(2003年段階)が、それはLDAによる通常のバンド計算と比べはるかに大量の計算量を要求する(GW近似そのものも計算量は膨大である)。 近年では、self-consistent GW近似(原則的にはLDAの結果に依存しない)を用いた研究も多く行われている。
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GW近似とは量子力学の近似法の一つで、電子のグリーン関数 G と遮蔽されたクーロンポテンシャル W の積を電子の自己エネルギー Σ とする近似方法。 GW近似の意味で自己無撞着なグリーン関数ではなく、LDAのグリーン関数が用いられる事が多い。
{{出典の明記 | date = 2016年8月 }} '''GW近似'''(ジー・ダブルきんじ、{{lang-en-short|GW approximation}})とは[[量子力学]]の近似法の一つで、[[電子]]の[[グリーン関数]] {{Mvar|G}} と遮蔽されたクーロンポテンシャル {{Mvar|W}} の積を電子の[[自己エネルギー]] {{Mvar|Σ}} とする近似方法。 GW近似の意味で[[自己無撞着]]なグリーン関数ではなく、[[局所密度近似|LDA]]のグリーン関数が用いられる事が多い。 == 特徴 == GW近似ではKohn-Sham状態のような仮想状態ではなく物理的な[[準粒子]]状態を近似計算するため、[[電子エネルギー損失スペクトル]]や[[光吸収スペクトル]]を[[密度汎関数法]]より正確に計算できる。 さらに実験結果との不一致を軽減するには[[ベーテ・サルピータ方程式]]をもちいて電子-ホール対まで考慮すればよい。また、スペクトルの計算は[[時間依存密度汎関数法]](TDDFT)でも可能である。 == 名称の由来 == GW近似という名称は、クーロンポテンシャルを表すダイアグラムが波線つまり {{Lang|en|Wave}} のため {{Mvar|W}} という変数名が使われ、これとグリーン関数の {{Mvar|G}} を合わせて付けられている。 == 歴史と発展 == GW近似が初めて登場した当時<ref>{{cite journal|date=1986年10月|title=Electron correlation in semiconductors and insulators: Band gaps and quasiparticle energies|url=http://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevB.34.5390|journal=Phys. Rev. B|volume=34|issue=8|pages=5390–5413|ref=harv|first1=Mark S.|last1=Hybertsen|first2=Steven G.|last2=Louie|doi=10.1103/PhysRevB.34.5390}}</ref>は、通常のバンド計算(LDA)による結果からグリーン関数を非自己無撞着に求めて、LDAの結果からの一定の改善が得られた。その後、自己無撞着な過程を導入すると精度(実験結果との一致が)がむしろ悪くなる傾向があることが分かっている。これを回避し、より正しい結果を導く試みがなされている。更に、GW近似における[[全エネルギー]]の計算も可能となりつつある([[2003年]]段階)が、それはLDAによる通常のバンド計算と比べはるかに大量の計算量を要求する(GW近似そのものも計算量は膨大である)。 近年では、self-consistent GW近似(原則的にはLDAの結果に依存しない)を用いた研究も多く行われている。 == 参考文献 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[LDAを越える試み]] [[Category:固体物理学]] [[Category:量子力学]]
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2,016
キリスト教
キリスト教(キリストきょう、ギリシア語: Χριστιανισμός、ラテン語: Christianitas、英語: Christianity)は、イエスを救い主(キリスト、メシア)として信仰する宗教。キリスト教では、イエスが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(「三位一体」)として信仰する。基督教とも表記される。 2020年時点で、世界における信者数(キリスト教徒)は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての宗教の中で最も多い。イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教の一つである。 キリスト教は、イエス・キリストを救い主と信じる宗教であり、自らをキリスト教徒と呼ぶすべての人々を包含するものである。キリスト教には、その歴史的経緯から様々な教派、教団、組織、信条が存在している。キリスト教は普遍的な宗教(世界宗教)であり、特定の民族や人種あるいは限定された身分や社会階層のためのものではなく、すべての人に向けられたものである。実際、キリスト教は、異なる文化・多くの民族の様々な人々に広く受け入れられて、政治構造や社会状況および科学知識や哲学思想、世界観の歴史的な変化や移り変わりがあった各地域で何世紀にもわたって教会・教団や組織を維持してきた。ただし、カトリック教会の場合、あるいはプロテスタントの宗教改革がドイツやスイスを舞台としていたように、組織はヨーロッパ中心主義であり続けた。また、『聖書』は主に地中海世界から中東を舞台にしたものである。 日本でも多く使用される西暦が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように、キリスト教は中世ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。 中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教(主にイスラム教)との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に代えてキリスト教を説いた。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある。 また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある。福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した。 キリスト教は、「旧約聖書」を聖典としていることから、ヤハウェによる天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである。 キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった。 このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の説を切り捨てることにより、キリスト教における一神教的世界観での正統派信仰を確立した。 キリスト教という名の中の「キリスト」は、日本伝来当時は「キリシト」であったが、江戸時代後期から「キリスト」となった。中国イエズス会士によって、音訳語「基利斯督」およびその略語「基督」がつくられ、日本においても明治初年から、「基督」が当て字として新教系の刊行物(片仮名表記「キリスト」を採用した邦訳聖書を除く)で用いられ、明治中期までには一般的表記法として確立した。耶蘇教(やそきょう)とも呼ばれる。 キリスト教会は、イエス・キリストが『旧約聖書』で預言された救い主(救世主)であると教えている。『新約聖書』所収の手紙でパウロは次のように述べる:「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(「ガラテヤの信徒への手紙」4章4-5節)。イエスは神がいかなる存在であるかをまったく新しい方法で、それまでのイスラエル人の理解をより深く掘り下げて示したのであり、イエスは神ヤハウェを自分の父として示した。イエスの中心メッセージは「神の国」の教えである(『マルコによる福音書』1:15他参照)。イエスはこの象徴的な表現をたとえ話によって豊かな内容で満たした。「神の国」は、人間の歴史の中に、そして歴史の終りにおいても神が現存することを教えている。 キリスト教における教えの源泉は、教派によって共通するものと異なるものとがある。全教派(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・非カルケドン派・アナバプテスト)に共通する教えは聖書(旧約聖書・新約聖書)である。しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに相違がある。 正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会は聖伝(「聖伝」とは言わず「伝統」とのみ言う場合もある)を認める。カトリック教会では、聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「(聖書と)同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされる。正教会でも「聖書と聖伝」と述べられることはあるが、むしろ「聖伝がただ一つの源泉であり、聖伝の中に聖書が含まれるのであり、分離や対比は両者の価値を減じる」とし、「聖伝の中に聖書」という捉え方もされる。 聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別される。諸伝承の中から異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取り、その大伝承に照合され、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持・修正・放棄される。正教会では、「天上の永遠なる神の国に属する真の『聖伝』と、地上の人間的な暫定的な単なる伝統」が区別される。 一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいる(「プロテスタント」は様々な教派の総称であり、内実は様々である)。後者を表す宗教改革の原則の一つに「聖書のみ」がある。ただし、聖書に優越する、あるいは並び立つ、ないし聖書を包含するといった意味での聖伝(伝統)を認めないプロテスタントであっても、「宗教改革の伝統」「改革派教会の伝統」といった用語がプロテスタントで使われる場合はある。 ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年に、第1コンスタンティノポリス公会議で定められたキリスト教の信条(教えを要約した定型文)である。東方教会と西方教会のいずれでも、最も広く普遍的に、共通して使われる信条である。「ニカイア信条」「ニケヤ信経」「ニケア信条」「信経」とも呼ばれる。一方、西方教会では広く使われている使徒信条は、東方教会はその内容は否定しないものの、信条としては使っていない。このため、東西教会の両方に言及する本記事では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を骨格としつつも、必要な箇所では使徒信条の内容も必要に応じて補足して、信仰内容を詳述する。 なお、西方教会の一角を占めるプロテスタント諸教派の間では信条の使用に差異があり、ルーテル教会・改革派教会、メソジストはニカイア・コンスタンティノポリス信条を使用するが、バプテスト教会では信条の使用自体に議論が発生する。しかしバプテスト教会内にも、信条の強制は否定するものの、その使用の意義は認める見解も存在する。 ニカイア・コンスタンティノポリス信条は(そして使徒信条も)、父、子、聖霊の順に、三位一体について言及している。 キリスト教において、神は一つであり、かつ父・子・聖霊(聖神)と呼ばれる三つの位格があるとされる。このことから、キリスト教において神は三位一体(正教会では至聖三者)と呼ばれる(あるいはこうした理解をする教理を三位一体と呼ぶ)。 「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人(神人)となったのが、イエス・キリストであるとされる。 三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。例えばカトリック教会においては、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる。正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。 難解な三位一体論を説明するにあたり、「(いわゆる正統派における)三位一体論ではないもの」を説明する、いわば消去法のような形で、(いわゆる正統派における)三位一体論に接近する手法がある。 キリスト教は現代において多くの教派に分かれている。これを歴史的にみると、教義上の違いから325年に異端とされたアリウス派などを別にすれば、まずは正教会に代表される東方キリスト教と、カトリック教会に代表される西方キリスト教に大きく分けられる。これは古代にキリスト教を国教としたローマ帝国が395年に東と西の2つの帝国に分離したことなどにその端を発する。東方では451年のカルケドン公会議を画期として正統とされた教会から異端とされた教会が分離した。分離した教会は東方諸教会と呼ばれる。カルケドン公会議で正統とされた教会においては東西でその教義に関して聖霊の発出という神学上の問題などが原因となって中世に東方と西方のキリスト教会の亀裂が深まり、1054年に分裂した。その後1204年に第4回十字軍が東方キリスト教の中心地コンスタンティノープルを攻撃して占領・略奪し分裂が決定的になった。これ以降、東方の教会は正教会、西方の教会はカトリック教会となった。 西方では1077年のカノッサの屈辱として知られる事件に象徴されるようにカトリック教会やその首長である教皇が宗教上のみならず俗権においても国家や王を上回る権力を有するようになった。カトリック教会はその後堕落や腐敗が問題にされるようになる。カトリック教会を批判したフスはカトリック教会から異端とされて1415年に火刑に処された。16世紀になり、1517年のルターの九十五か条の提題をきっかけとして始まった宗教改革によって西方においてはプロテスタントの教会が誕生した。イギリスではイングランド王ヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)が自身の離婚問題をきっかけにしてイギリスの教会をカトリック教会から分離してイングランド国教会とした。イングランド国教会の系統の教会は日本などでは聖公会と称する。 その後プロテスタントの教会は分裂・分離を重ねて多くの様々な教派が現れた。すなわちルーテル教会、改革派教会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会、アナバプテスト、ペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチストなどである。 キリスト教は世界で最大の信者を擁する宗教である。2013年現在、世界に約23億人の信者がいて、世界総人口の約33パーセントすなわち世界の約3人に1人はキリスト教徒である。その内カトリック教会の信者は約12億人、プロテスタント諸派の信者は約5億人、正教会の信者は約3億人である。その他にユニテリアンや末日聖徒イエス・キリスト教会やエホバの証人の信者など自称を含めたキリスト教諸派の信者が約4億人いる。なお、キリスト教以外の宗教では、イスラム教の信者は約16億人で世界総人口の約23パーセント、ヒンドゥー教の信者は約10億人で世界総人口の約14パーセント、仏教の信者は約5億人で世界総人口の約7パーセントである。 韓国・フィリピン・東ティモール等を除くと、アジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派であるところが多い。 日本ではフランシスコ・ザビエルが室町時代に宣教師として来日し、宣教を始めたのが日本キリストの始まりである。江戸時代にヨーロッパに、キリスト教ではない日本人が奴隷として連れ去られているなどとして豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、その後の江戸幕府も禁教・鎖国を行い、以後日本では公にキリスト教を信仰することが不可能となった。 しかし、幕府に隠れてキリストの信仰を守った人が後に隠れキリシタンと呼ばれるようになる。江戸幕府の禁教以降、日本ではキリスト教を信仰する人が少なくなり、一般民衆も邪宗門と信じてきたキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。 明治維新以降も国家神道から度々排斥され、大衆の西欧化が進んだ第一次世界大戦前後や第二次世界大戦後の民主化後も、一般大衆に人気の日蓮系宗教団体や社会主義運動などの急拡大に対して増加をみなかった。増えない理由の考察としては、 などがあるが、定説は無い。 1970年代以降になると、韓国人宣教師の来日が相次いで統一協会や摂理などが社会問題化するほか、正統派の教会では韓国人宣教師によるセクハラ裁判などの冤罪事件が起きているが「いろんなルートで宣教師たちが入ってくるので、信頼できる人なのかをこちら側で見極めるのは難しい」(日本福音同盟の中島秀一理事長)という状況となっている。 しかし、20世紀に入り増加したミッションスクールや、1980年代の半ばから庶民にも流行したキリスト教会の結婚式、クリスマス、ハロウィンなどは、ファッションや商業主義的な要素が強いものの人気を集めて、非キリスト教徒の間にも定着している。 文化庁が公表した2019年版の『宗教年鑑』によると日本のキリスト教人口は約192万で、2019年12月時点の日本の総人口約1億2600万の約1.5 %に当たるが、これは『宗教年鑑』が「キリスト教系」と分類した宗教団体の総信者数で、一般にキリスト教として非正統的と目されるものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)の信者約21万、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者約13万、世界平和統一家庭連合(統一教会)の信者約56万を除いた総信徒数は約102万で日本の総人口の約0.8 %となり1 %を下回る。 なお、日本では行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのためキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、日本国内における全宗教の正確な信徒の数は不明である。実際、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは『宗教年鑑』の数値が各宗教団体による自己申告に基づいていることで、結果として1人が複数の宗教に帰属することによる重複のためと考えられる。 キリスト教の聖典(聖書)には、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、キリスト教独自の聖典である新約聖書がある。 「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた"旧来の契約"であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であるとみなしている事による。 新約聖書は、以下の文書群を含んでいる これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂されたと考える者が多い。 高等批評によると聖書の本来の著者は以下のように推測されている。 聖書に属すると認められている文書群を聖書正典と呼ぶが、どこまでを正典とみなすかには教派毎に差がある。(教派毎の詳細な正典一覧はBiblical canonを参照)。 新約聖書に関しては、正典の範囲に教派毎の差がほとんどなく、カトリック、プロテスタント、東方正教会、ほとんどの東方諸教会が同一の27書を正典とする。 一方、旧約聖書に関しては教派ごとの異同が激しい。プロテスタント(39書)よりもカトリック(46書)の方が多くの文書を含み、カトリックよりも東方正教会(51書)や東方諸教会の方が多くの文書を含む。プロテスタントがカトリックよりも文書数が少ないのは、カトリックが使っていた旧約の文書のうちヘブライ語で書かれたもののみを正典と認めたことによる。こうした理由により、プロテスタントの旧約聖書に含まれている文書はユダヤ教の正典であるタナハに含まれる文書と同じである。 各教派において聖書正典に含まれなかった文書群を第二正典、続編、外典、偽典等と称するが、これらが示す範囲は言葉ごとに異なる。 キリスト教の各教派によって使う用語には以下のような対応がある。ただし、教派ごとの教義の違いがあるため、完全に対応しているわけではない。 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教(イスラーム)は、唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有していることから、「アブラハムの宗教」として類縁関係を強調されることがある。ほかにミトラ教、マニ教などとの関係も宗教学・歴史学などで研究されている。 正統派とされるキリスト教では、多神教世界に布教する際、他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてしれいさまなどが指摘される。 中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は見る者を圧倒する。それらは教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。 さらにキリスト教の教会に由来する共同体概念、とりわけプロテスタントの理念である「見えざる教会(Unsichtbare Kirche)」は、バウハウスなど近代建築にも影響を与えた。ヴァルター・グロピウスはバウハウスの雑誌の表紙に教会を現した自作の版画を沿え、「見えざる教会」がバウハウス運動の理念でもあると語っている。 東欧ではビザンティン建築が独自の発展を遂げたが、近現代に至って新古典主義の影響を西欧から若干受けている。 初期キリスト教美術はローマ美術をもとに始まったが、やがて写実性より精神性などを重視するようになり様式化が進んだ。中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。 一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期にはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活(12世紀ルネサンス)するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。 対して東方教会では、イコン(聖像)の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。また近世以降はヴィクトル・ヴァスネツォフなどのように、イコンから離れた美術の領域で正教会の題材を用いる藝術家も現れた。 なお、キリスト教はかなり緩いながらも偶像崇拝を禁止しているため、キリスト教美術の場合には彫刻や絵画が直接の信仰の対象になることはない。 キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。 教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。 作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいてイタリアのパレストリーナやスペインのビクトリアといった大家が現れた。しかしバッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲やレクイエムはベルリオーズやブルックナーをはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会ではパイプオルガンが好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら、現在も使われていることが多い。 また20世紀に入るとアメリカのアフリカ系市民の間で歌われていた賛美歌(ゴスペル)が、レイ・チャールズなどの手によってポップ・ミュージックに導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。 一方、器楽の使用を原則として禁じた正教会においては、東ローマ帝国地域でビザンティン聖歌が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンティン聖歌にロシア固有の要素を取り入れたズナメニ聖歌といわれる無伴奏声楽曲が発達した。ビザンティン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。 18世紀以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアでボルトニャンスキーが活躍。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌ではラフマニノフの『徹夜禱』が有名であり、聖歌を専門にした作曲家ではアルハンゲルスキーが著名であるが、ブルガリアのフリストフやセルビアのフリスティッチ、エストニアのペルトも正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが19世紀後半から正教会では行われていたが、共産主義政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている。 中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている。 また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、『旧約聖書』の『創世記』、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、士師たちの年代記、そして教義の根幹を支える『福音書』の受難物語などは、文学者たちにインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。 キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、フランシスコ会の神学を参照しつつキリスト教的世界像を提出するダンテの『神曲』、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。 また、アウグスティヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式が西ヨーロッパで成立するにあたり、大きな影響を与えた。 西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアニ)であった。 11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は、ことに有名である。すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われている。 15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。 「scientist(科学者)」という名称がヒューウェルによって造語されて用いられ始めたのは19世紀のことだが、それは近代的な意味での「科学」を扱っていた自然哲学者を、他の自然哲学者から区別するためであった。とはいえ、科学者たちの社会的認知度・社会的地位はすぐには上がったわけではなく、それを向上させようとした科学関係者(科学者、科学史家ら)たちは、世の人々に対して、"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた"という図式で、ものごとを説明したがる傾向があった。そして、そのような図式を描くためには、たいていは迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイの事例を、特定の視点で取り上げ、強調した。結果として、"キリスト教(カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった"といったような単純化された説明が(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになった。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっていたこともあって、その観点は広く共有された。 しかし、キリスト教と科学の実際の関係はもっと豊穣で複雑なものであった。例えば科学史家村上陽一郎がヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったと指摘している。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘である。また、近世における科学の発展の背後には「神による啓示の書として自然界と聖書がある」というキリスト教信者としての意識があったという指摘もある。科学者達の多くもむしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであった点は指摘されなければならない。例えば西洋近代科学の祖となった科学者たち、すなわちコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらの発言からは、いずれも熱心なキリスト教信仰が認められるし、アンペールやアインシュタインなど、偉大な科学者と呼ばれた多くの人々は創造主である神の存在を信じていた。カトリック教会・聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデルは、遺伝に関する法則(メンデルの法則、1865年に報告)を発見した事で有名である。また、宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者である宇宙物理学者のジョルジュ・ルメートルはカトリックの司祭でもあった。『ネイチャー』が物理学者や数学者など1000人に行ったアンケートでは「神を信じる」との回答が39パーセントであった。 修道院が先進技術の発展に貢献した例も多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会の荒野修道院群であったと考えられている。 ただし、現代において創造論と進化論や、クローン技術、脳科学、同性愛等の研究分野においてプロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること(進化論裁判)も稀ではない。人が自身の常識に反することに対して、宗教を拠り所にして抑圧するという問題はキリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化においても起こりえる事である。しかし、その中でもキリスト教は規模と政治力が巨大なため、しばしば世界的な問題に発展するのである。地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは火刑に処せられてしまった。 医療・病院のルーツの多くが修道院にある。旅人を宿泊させる巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、がんで余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したこと、歓待(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもあることはあまり知られていない。 修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来し、今日でも多くのリキュール・ワイン・ビールといったアルコール類が一部の修道院で醸造されている(ワインはミサ・聖餐式・聖体礼儀用でもある)。これらの酒類の中には、シャルトリューズなど有名なブランドとなっているものも珍しく無い。 また、アイプス会といったキリスト教の教義を一部採用した友愛団体も存在する。 キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、またそれによって信者の生活を規定するが、一方で各地の習俗と融合した教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説する。この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在している。クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、枝の主日/聖枝祭、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、大勢の聖人の祝日や記念日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。これらに関しては教会暦を参照されたい。 ツァドク暦の祝祭日ではない。クリスマス(降誕祭)はイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、正解なイエスの誕生日は今なお不明である。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。 また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係であり、キリスト教が布教されるにあたって土着の習俗を飲み込んでいったことを物語る。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀に南ドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスの Father Christmass の伝承などを基礎に、ニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。 ツァドク暦の祝祭日ではない。復活祭(イースター、復活大祭、パスハ)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつ最古に成立した祭のひとつである。西方教会における現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。 宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘跡(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、カトリック教会では典礼は略式化され、東方教会・正教会では奉神礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教派・教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。プロテスタントにおける結婚は、カトリックの秘跡に相当する聖礼典には含まれない(そのため、聖礼典執行資格のない伝道師など下位教職でもこれを行うことが出来る)。ただし、人生の節目であることに違いはなく、新たに結婚する二人を祝福する。 キリスト教式の結婚式では、「誓いのキス」が必須であると思われることがときにあるが、西方教会主要教派の典礼は基本的にそのようなものを含まないことが多い。ただし、正教会では婚配機密の最後にキスをする。 現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっている。結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された「牧師」の下に司式されることが多い。そういった司式者の資格やその下に挙行された結婚式の有効性についての議論も存在する。 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。これもキリスト教の教義には根拠がなく、もともとはローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であり、それが後になって殉教聖人のバレンタインに結び付けられたとみられる。 日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へチョコレートを贈る習慣が定着し、1990年代ごろから他の業界も積極的に販売政策に利用した。俳句の季語にもある、なじみのある行事となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "キリスト教(キリストきょう、ギリシア語: Χριστιανισμός、ラテン語: Christianitas、英語: Christianity)は、イエスを救い主(キリスト、メシア)として信仰する宗教。キリスト教では、イエスが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(「三位一体」)として信仰する。基督教とも表記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2020年時点で、世界における信者数(キリスト教徒)は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての宗教の中で最も多い。イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "キリスト教は、イエス・キリストを救い主と信じる宗教であり、自らをキリスト教徒と呼ぶすべての人々を包含するものである。キリスト教には、その歴史的経緯から様々な教派、教団、組織、信条が存在している。キリスト教は普遍的な宗教(世界宗教)であり、特定の民族や人種あるいは限定された身分や社会階層のためのものではなく、すべての人に向けられたものである。実際、キリスト教は、異なる文化・多くの民族の様々な人々に広く受け入れられて、政治構造や社会状況および科学知識や哲学思想、世界観の歴史的な変化や移り変わりがあった各地域で何世紀にもわたって教会・教団や組織を維持してきた。ただし、カトリック教会の場合、あるいはプロテスタントの宗教改革がドイツやスイスを舞台としていたように、組織はヨーロッパ中心主義であり続けた。また、『聖書』は主に地中海世界から中東を舞台にしたものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本でも多く使用される西暦が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように、キリスト教は中世ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教(主にイスラム教)との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に代えてキリスト教を説いた。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある。福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "キリスト教は、「旧約聖書」を聖典としていることから、ヤハウェによる天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の説を切り捨てることにより、キリスト教における一神教的世界観での正統派信仰を確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "キリスト教という名の中の「キリスト」は、日本伝来当時は「キリシト」であったが、江戸時代後期から「キリスト」となった。中国イエズス会士によって、音訳語「基利斯督」およびその略語「基督」がつくられ、日本においても明治初年から、「基督」が当て字として新教系の刊行物(片仮名表記「キリスト」を採用した邦訳聖書を除く)で用いられ、明治中期までには一般的表記法として確立した。耶蘇教(やそきょう)とも呼ばれる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "キリスト教会は、イエス・キリストが『旧約聖書』で預言された救い主(救世主)であると教えている。『新約聖書』所収の手紙でパウロは次のように述べる:「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(「ガラテヤの信徒への手紙」4章4-5節)。イエスは神がいかなる存在であるかをまったく新しい方法で、それまでのイスラエル人の理解をより深く掘り下げて示したのであり、イエスは神ヤハウェを自分の父として示した。イエスの中心メッセージは「神の国」の教えである(『マルコによる福音書』1:15他参照)。イエスはこの象徴的な表現をたとえ話によって豊かな内容で満たした。「神の国」は、人間の歴史の中に、そして歴史の終りにおいても神が現存することを教えている。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "キリスト教における教えの源泉は、教派によって共通するものと異なるものとがある。全教派(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・非カルケドン派・アナバプテスト)に共通する教えは聖書(旧約聖書・新約聖書)である。しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに相違がある。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会は聖伝(「聖伝」とは言わず「伝統」とのみ言う場合もある)を認める。カトリック教会では、聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「(聖書と)同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされる。正教会でも「聖書と聖伝」と述べられることはあるが、むしろ「聖伝がただ一つの源泉であり、聖伝の中に聖書が含まれるのであり、分離や対比は両者の価値を減じる」とし、「聖伝の中に聖書」という捉え方もされる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別される。諸伝承の中から異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取り、その大伝承に照合され、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持・修正・放棄される。正教会では、「天上の永遠なる神の国に属する真の『聖伝』と、地上の人間的な暫定的な単なる伝統」が区別される。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいる(「プロテスタント」は様々な教派の総称であり、内実は様々である)。後者を表す宗教改革の原則の一つに「聖書のみ」がある。ただし、聖書に優越する、あるいは並び立つ、ないし聖書を包含するといった意味での聖伝(伝統)を認めないプロテスタントであっても、「宗教改革の伝統」「改革派教会の伝統」といった用語がプロテスタントで使われる場合はある。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年に、第1コンスタンティノポリス公会議で定められたキリスト教の信条(教えを要約した定型文)である。東方教会と西方教会のいずれでも、最も広く普遍的に、共通して使われる信条である。「ニカイア信条」「ニケヤ信経」「ニケア信条」「信経」とも呼ばれる。一方、西方教会では広く使われている使徒信条は、東方教会はその内容は否定しないものの、信条としては使っていない。このため、東西教会の両方に言及する本記事では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を骨格としつつも、必要な箇所では使徒信条の内容も必要に応じて補足して、信仰内容を詳述する。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、西方教会の一角を占めるプロテスタント諸教派の間では信条の使用に差異があり、ルーテル教会・改革派教会、メソジストはニカイア・コンスタンティノポリス信条を使用するが、バプテスト教会では信条の使用自体に議論が発生する。しかしバプテスト教会内にも、信条の強制は否定するものの、その使用の意義は認める見解も存在する。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ニカイア・コンスタンティノポリス信条は(そして使徒信条も)、父、子、聖霊の順に、三位一体について言及している。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "キリスト教において、神は一つであり、かつ父・子・聖霊(聖神)と呼ばれる三つの位格があるとされる。このことから、キリスト教において神は三位一体(正教会では至聖三者)と呼ばれる(あるいはこうした理解をする教理を三位一体と呼ぶ)。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人(神人)となったのが、イエス・キリストであるとされる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。例えばカトリック教会においては、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる。正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "難解な三位一体論を説明するにあたり、「(いわゆる正統派における)三位一体論ではないもの」を説明する、いわば消去法のような形で、(いわゆる正統派における)三位一体論に接近する手法がある。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "キリスト教は現代において多くの教派に分かれている。これを歴史的にみると、教義上の違いから325年に異端とされたアリウス派などを別にすれば、まずは正教会に代表される東方キリスト教と、カトリック教会に代表される西方キリスト教に大きく分けられる。これは古代にキリスト教を国教としたローマ帝国が395年に東と西の2つの帝国に分離したことなどにその端を発する。東方では451年のカルケドン公会議を画期として正統とされた教会から異端とされた教会が分離した。分離した教会は東方諸教会と呼ばれる。カルケドン公会議で正統とされた教会においては東西でその教義に関して聖霊の発出という神学上の問題などが原因となって中世に東方と西方のキリスト教会の亀裂が深まり、1054年に分裂した。その後1204年に第4回十字軍が東方キリスト教の中心地コンスタンティノープルを攻撃して占領・略奪し分裂が決定的になった。これ以降、東方の教会は正教会、西方の教会はカトリック教会となった。", "title": "教派の概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西方では1077年のカノッサの屈辱として知られる事件に象徴されるようにカトリック教会やその首長である教皇が宗教上のみならず俗権においても国家や王を上回る権力を有するようになった。カトリック教会はその後堕落や腐敗が問題にされるようになる。カトリック教会を批判したフスはカトリック教会から異端とされて1415年に火刑に処された。16世紀になり、1517年のルターの九十五か条の提題をきっかけとして始まった宗教改革によって西方においてはプロテスタントの教会が誕生した。イギリスではイングランド王ヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)が自身の離婚問題をきっかけにしてイギリスの教会をカトリック教会から分離してイングランド国教会とした。イングランド国教会の系統の教会は日本などでは聖公会と称する。 その後プロテスタントの教会は分裂・分離を重ねて多くの様々な教派が現れた。すなわちルーテル教会、改革派教会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会、アナバプテスト、ペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチストなどである。", "title": "教派の概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "キリスト教は世界で最大の信者を擁する宗教である。2013年現在、世界に約23億人の信者がいて、世界総人口の約33パーセントすなわち世界の約3人に1人はキリスト教徒である。その内カトリック教会の信者は約12億人、プロテスタント諸派の信者は約5億人、正教会の信者は約3億人である。その他にユニテリアンや末日聖徒イエス・キリスト教会やエホバの証人の信者など自称を含めたキリスト教諸派の信者が約4億人いる。なお、キリスト教以外の宗教では、イスラム教の信者は約16億人で世界総人口の約23パーセント、ヒンドゥー教の信者は約10億人で世界総人口の約14パーセント、仏教の信者は約5億人で世界総人口の約7パーセントである。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "韓国・フィリピン・東ティモール等を除くと、アジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派であるところが多い。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本ではフランシスコ・ザビエルが室町時代に宣教師として来日し、宣教を始めたのが日本キリストの始まりである。江戸時代にヨーロッパに、キリスト教ではない日本人が奴隷として連れ去られているなどとして豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、その後の江戸幕府も禁教・鎖国を行い、以後日本では公にキリスト教を信仰することが不可能となった。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、幕府に隠れてキリストの信仰を守った人が後に隠れキリシタンと呼ばれるようになる。江戸幕府の禁教以降、日本ではキリスト教を信仰する人が少なくなり、一般民衆も邪宗門と信じてきたキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "明治維新以降も国家神道から度々排斥され、大衆の西欧化が進んだ第一次世界大戦前後や第二次世界大戦後の民主化後も、一般大衆に人気の日蓮系宗教団体や社会主義運動などの急拡大に対して増加をみなかった。増えない理由の考察としては、", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "などがあるが、定説は無い。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1970年代以降になると、韓国人宣教師の来日が相次いで統一協会や摂理などが社会問題化するほか、正統派の教会では韓国人宣教師によるセクハラ裁判などの冤罪事件が起きているが「いろんなルートで宣教師たちが入ってくるので、信頼できる人なのかをこちら側で見極めるのは難しい」(日本福音同盟の中島秀一理事長)という状況となっている。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、20世紀に入り増加したミッションスクールや、1980年代の半ばから庶民にも流行したキリスト教会の結婚式、クリスマス、ハロウィンなどは、ファッションや商業主義的な要素が強いものの人気を集めて、非キリスト教徒の間にも定着している。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "文化庁が公表した2019年版の『宗教年鑑』によると日本のキリスト教人口は約192万で、2019年12月時点の日本の総人口約1億2600万の約1.5 %に当たるが、これは『宗教年鑑』が「キリスト教系」と分類した宗教団体の総信者数で、一般にキリスト教として非正統的と目されるものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)の信者約21万、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者約13万、世界平和統一家庭連合(統一教会)の信者約56万を除いた総信徒数は約102万で日本の総人口の約0.8 %となり1 %を下回る。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、日本では行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのためキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、日本国内における全宗教の正確な信徒の数は不明である。実際、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは『宗教年鑑』の数値が各宗教団体による自己申告に基づいていることで、結果として1人が複数の宗教に帰属することによる重複のためと考えられる。", "title": "信徒数" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "キリスト教の聖典(聖書)には、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、キリスト教独自の聖典である新約聖書がある。 「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた\"旧来の契約\"であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であるとみなしている事による。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "新約聖書は、以下の文書群を含んでいる", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂されたと考える者が多い。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "高等批評によると聖書の本来の著者は以下のように推測されている。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "聖書に属すると認められている文書群を聖書正典と呼ぶが、どこまでを正典とみなすかには教派毎に差がある。(教派毎の詳細な正典一覧はBiblical canonを参照)。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "新約聖書に関しては、正典の範囲に教派毎の差がほとんどなく、カトリック、プロテスタント、東方正教会、ほとんどの東方諸教会が同一の27書を正典とする。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、旧約聖書に関しては教派ごとの異同が激しい。プロテスタント(39書)よりもカトリック(46書)の方が多くの文書を含み、カトリックよりも東方正教会(51書)や東方諸教会の方が多くの文書を含む。プロテスタントがカトリックよりも文書数が少ないのは、カトリックが使っていた旧約の文書のうちヘブライ語で書かれたもののみを正典と認めたことによる。こうした理由により、プロテスタントの旧約聖書に含まれている文書はユダヤ教の正典であるタナハに含まれる文書と同じである。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "各教派において聖書正典に含まれなかった文書群を第二正典、続編、外典、偽典等と称するが、これらが示す範囲は言葉ごとに異なる。", "title": "聖書" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "キリスト教の各教派によって使う用語には以下のような対応がある。ただし、教派ごとの教義の違いがあるため、完全に対応しているわけではない。", "title": "教派による用語の違い" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "キリスト教、ユダヤ教、イスラム教(イスラーム)は、唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有していることから、「アブラハムの宗教」として類縁関係を強調されることがある。ほかにミトラ教、マニ教などとの関係も宗教学・歴史学などで研究されている。", "title": "他宗教との関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "正統派とされるキリスト教では、多神教世界に布教する際、他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が聖母マリアに捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例としてしれいさまなどが指摘される。", "title": "他宗教との関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は見る者を圧倒する。それらは教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "さらにキリスト教の教会に由来する共同体概念、とりわけプロテスタントの理念である「見えざる教会(Unsichtbare Kirche)」は、バウハウスなど近代建築にも影響を与えた。ヴァルター・グロピウスはバウハウスの雑誌の表紙に教会を現した自作の版画を沿え、「見えざる教会」がバウハウス運動の理念でもあると語っている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "東欧ではビザンティン建築が独自の発展を遂げたが、近現代に至って新古典主義の影響を西欧から若干受けている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "初期キリスト教美術はローマ美術をもとに始まったが、やがて写実性より精神性などを重視するようになり様式化が進んだ。中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期にはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活(12世紀ルネサンス)するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "対して東方教会では、イコン(聖像)の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。また近世以降はヴィクトル・ヴァスネツォフなどのように、イコンから離れた美術の領域で正教会の題材を用いる藝術家も現れた。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、キリスト教はかなり緩いながらも偶像崇拝を禁止しているため、キリスト教美術の場合には彫刻や絵画が直接の信仰の対象になることはない。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいてイタリアのパレストリーナやスペインのビクトリアといった大家が現れた。しかしバッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲やレクイエムはベルリオーズやブルックナーをはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会ではパイプオルガンが好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら、現在も使われていることが多い。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また20世紀に入るとアメリカのアフリカ系市民の間で歌われていた賛美歌(ゴスペル)が、レイ・チャールズなどの手によってポップ・ミュージックに導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一方、器楽の使用を原則として禁じた正教会においては、東ローマ帝国地域でビザンティン聖歌が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンティン聖歌にロシア固有の要素を取り入れたズナメニ聖歌といわれる無伴奏声楽曲が発達した。ビザンティン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "18世紀以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアでボルトニャンスキーが活躍。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌ではラフマニノフの『徹夜禱』が有名であり、聖歌を専門にした作曲家ではアルハンゲルスキーが著名であるが、ブルガリアのフリストフやセルビアのフリスティッチ、エストニアのペルトも正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが19世紀後半から正教会では行われていたが、共産主義政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、『旧約聖書』の『創世記』、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、士師たちの年代記、そして教義の根幹を支える『福音書』の受難物語などは、文学者たちにインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、フランシスコ会の神学を参照しつつキリスト教的世界像を提出するダンテの『神曲』、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、アウグスティヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式が西ヨーロッパで成立するにあたり、大きな影響を与えた。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアニ)であった。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は、ことに有名である。すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "「scientist(科学者)」という名称がヒューウェルによって造語されて用いられ始めたのは19世紀のことだが、それは近代的な意味での「科学」を扱っていた自然哲学者を、他の自然哲学者から区別するためであった。とはいえ、科学者たちの社会的認知度・社会的地位はすぐには上がったわけではなく、それを向上させようとした科学関係者(科学者、科学史家ら)たちは、世の人々に対して、\"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた\"という図式で、ものごとを説明したがる傾向があった。そして、そのような図式を描くためには、たいていは迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイの事例を、特定の視点で取り上げ、強調した。結果として、\"キリスト教(カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった\"といったような単純化された説明が(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになった。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっていたこともあって、その観点は広く共有された。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "しかし、キリスト教と科学の実際の関係はもっと豊穣で複雑なものであった。例えば科学史家村上陽一郎がヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったと指摘している。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘である。また、近世における科学の発展の背後には「神による啓示の書として自然界と聖書がある」というキリスト教信者としての意識があったという指摘もある。科学者達の多くもむしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであった点は指摘されなければならない。例えば西洋近代科学の祖となった科学者たち、すなわちコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらの発言からは、いずれも熱心なキリスト教信仰が認められるし、アンペールやアインシュタインなど、偉大な科学者と呼ばれた多くの人々は創造主である神の存在を信じていた。カトリック教会・聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデルは、遺伝に関する法則(メンデルの法則、1865年に報告)を発見した事で有名である。また、宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者である宇宙物理学者のジョルジュ・ルメートルはカトリックの司祭でもあった。『ネイチャー』が物理学者や数学者など1000人に行ったアンケートでは「神を信じる」との回答が39パーセントであった。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "修道院が先進技術の発展に貢献した例も多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会の荒野修道院群であったと考えられている。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ただし、現代において創造論と進化論や、クローン技術、脳科学、同性愛等の研究分野においてプロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること(進化論裁判)も稀ではない。人が自身の常識に反することに対して、宗教を拠り所にして抑圧するという問題はキリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化においても起こりえる事である。しかし、その中でもキリスト教は規模と政治力が巨大なため、しばしば世界的な問題に発展するのである。地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノは火刑に処せられてしまった。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "医療・病院のルーツの多くが修道院にある。旅人を宿泊させる巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、がんで余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したこと、歓待(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもあることはあまり知られていない。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来し、今日でも多くのリキュール・ワイン・ビールといったアルコール類が一部の修道院で醸造されている(ワインはミサ・聖餐式・聖体礼儀用でもある)。これらの酒類の中には、シャルトリューズなど有名なブランドとなっているものも珍しく無い。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、アイプス会といったキリスト教の教義を一部採用した友愛団体も存在する。", "title": "キリスト教の文化的影響" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、またそれによって信者の生活を規定するが、一方で各地の習俗と融合した教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説する。この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在している。クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、枝の主日/聖枝祭、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、大勢の聖人の祝日や記念日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。これらに関しては教会暦を参照されたい。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ツァドク暦の祝祭日ではない。クリスマス(降誕祭)はイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、正解なイエスの誕生日は今なお不明である。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係であり、キリスト教が布教されるにあたって土着の習俗を飲み込んでいったことを物語る。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀に南ドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスの Father Christmass の伝承などを基礎に、ニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ツァドク暦の祝祭日ではない。復活祭(イースター、復活大祭、パスハ)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつ最古に成立した祭のひとつである。西方教会における現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘跡(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、カトリック教会では典礼は略式化され、東方教会・正教会では奉神礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教派・教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。プロテスタントにおける結婚は、カトリックの秘跡に相当する聖礼典には含まれない(そのため、聖礼典執行資格のない伝道師など下位教職でもこれを行うことが出来る)。ただし、人生の節目であることに違いはなく、新たに結婚する二人を祝福する。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "キリスト教式の結婚式では、「誓いのキス」が必須であると思われることがときにあるが、西方教会主要教派の典礼は基本的にそのようなものを含まないことが多い。ただし、正教会では婚配機密の最後にキスをする。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっている。結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された「牧師」の下に司式されることが多い。そういった司式者の資格やその下に挙行された結婚式の有効性についての議論も存在する。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。これもキリスト教の教義には根拠がなく、もともとはローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であり、それが後になって殉教聖人のバレンタインに結び付けられたとみられる。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へチョコレートを贈る習慣が定着し、1990年代ごろから他の業界も積極的に販売政策に利用した。俳句の季語にもある、なじみのある行事となっている。", "title": "キリスト教に基づくとされている習俗" } ]
キリスト教は、イエスを救い主(キリスト、メシア)として信仰する宗教。キリスト教では、イエスが神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。ほとんどのキリスト教派は、「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(「三位一体」)として信仰する。基督教とも表記される。 2020年時点で、世界における信者数(キリスト教徒)は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての宗教の中で最も多い。イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教の一つである。
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|work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |publisher=[[朝日新聞社]] |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201027012842/https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-53666 |archivedate=2020-10-27 }}</ref> | 創始者 = [[ナザレのイエス]]<ref name="Stefon">{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Christianity |title=Christianity &#124; Definition, Origin, History, Beliefs, Symbols, Types, & Facts |accessdate=2021-01-13 |last=Stefon |first=Matt |coauthors=et al. |date=2020-11-26 |website=[[Encyclopædia Britannica]] |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc. |language=en }}</ref> | 信仰対象 = 三位一体 | 聖典 = [[旧約聖書]]/[[ヘブライ語聖書]]{{R|Stefon}}<br />[[新約聖書]]{{R|Stefon}} | 母体 = [[ユダヤ教]]{{R|buritanika|高橋1980_p76}} | 宗派 = [[キリスト教諸教派の一覧]] | 主な指導者 = [[教皇]]([[カトリック教会]]) | 聖地 = [[エルサレム]]<br />{{VAT}} | 発祥地 = [[イスラエル]]{{R|buritanika}} | 本拠地 = | 教義 = {{See also|[[#教義|教義]]}}<!-- ヤハウェに創られた最初の人間アダムとイブの罪を引き継いだ人類が、ヤハウェの律法と預言によって予定されていたイエスキリストの血の贖いによって救われる。--> | 備考 = [[世界宗教]]のひとつ }} '''キリスト教'''(キリストきょう、{{lang-el|Χριστιανισμός}}{{Efn|{{lang|el|Χριστιανισμός}}は[[ギリシア文字]]表記。仮にこれを[[ローマ字]]で表記すればChristianismos.}}、{{lang-la|Christianitas}}{{R|Christianitas}}、{{lang-en|Christianity}})は、[[イエス・キリスト|イエス]]を[[救い主]]([[キリスト]]、[[メシア]])として信仰する[[宗教]]<ref name="shukyogaku146">「キリスト教」『宗教学辞典』[[東京大学出版会]]、1973年、146頁。</ref><ref name="daiji714">「キリスト教」『[[大辞泉]]』増補・新装版、[[小学館]]、1998年、第一版、714頁。「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-53666#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 キリスト教]」デジタル大辞泉、小学館、[[コトバンク]]。</ref>。キリスト教では、イエスが[[神の王国|神の国]]の[[福音]]を説き、[[原罪|罪ある]]人間を[[救済史|救済]]するために自ら[[十字架]]にかけられ、[[復活 (キリスト教)|復活]]したものと信じる{{R|daiji714}}。ほとんどの[[教派#キリスト教|キリスト教派]]{{Efn|[[カトリック教会]]<ref name="rc">[https://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message117.htm 教皇ベネディクト十六世の2006年6月11日の「お告げの祈り」のことば]</ref>、[[聖公会]]<ref name="ac">[http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/39kajyo.html 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一]</ref>、[[プロテスタント]]<ref>[[ルーテル教会]]([http://jelc.or.jp/belief/ 私たちルーテル教会の信仰])</ref><ref>[[改革派教会]]([https://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm ウェストミンスター信仰基準])</ref><ref>[[バプテスト]]([https://www.ccel.org/creeds/bcf/bcfc02.htm#chapter2 Of God and of the Holy Trinity.])</ref><ref>[[メソジスト]]([[フスト・ゴンサレス]]著『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩 訳、pp. 103-105, [[教文館]]、2010年、ISBN 9784764240353)</ref>、[[正教会|ビザンティウム正教会]]<ref>[[正教会]]([https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou01.html 信仰-信経:日本正教会 The Orthodox Church in Japan])</ref>、[[東方諸教会]]<ref>[[東方諸教会]]([http://www.syrian.jp/001-1-3.htm ■信仰と教義(シリア正教会)])</ref>など。}}は、「[[父なる神]]」{{Efn|「御父」(おんちち〈[[新共同訳聖書]]『[[ヨハネによる福音書]]』3:35〉)。}}と「[[イエス・キリスト|その子キリスト]]」{{Efn|「御子」(みこ〈新共同訳聖書『ヨハネによる福音書』3:35〉)、「子なる神」。}}と「[[聖霊]]」を唯一の神(「[[三位一体]]」{{Efn|[[日本ハリストス正教会]]では「[[三位一体]]」ではなく「[[至聖三者]]」と呼ぶ。}})として信仰する。'''基督教'''とも表記される<ref>「767 宗教」【キリスト教】『角川類語新辞典』[[KADOKAWA]]。[[ジャパンナレッジ]]。2022年11月11日閲覧。</ref>。 [[2020年]]時点で、世界における信者数([[キリスト教徒]])は23億8200万人ほどで、世界人口に占める比率は約31%であり全ての[[宗教]]の中で最も多い{{R|Pew}}。[[イスラム教]]、[[仏教]]と並ぶ[[世界三大宗教]]の一つである。 == 概説 == キリスト教は、[[イエス・キリスト]]{{Efn|「イエス」({{lang-he|יְהוֹשֻׁעַ}}, Yehoshúa/{{lang-el|Ιησούς}}, Iēsoûs)は「[[ヤハウェ]]は救い」という意味の[[ヘブライ語]]人名、「[[キリスト]]」({{lang-el|Χριστός}}, Khrīstós)=「[[メシア]]」({{lang-he|משיח}}, mašīaḥ)は「油注がれた者」という意味。}}を[[救い主]]と信じる宗教であり、自らを[[キリスト教徒]]と呼ぶすべての人々を包含するものである{{R|Knox1911}}。キリスト教には、その歴史的経緯から様々な[[教派]]、[[教団]]、組織、[[信条]]が存在している{{R|Knox1911}}<ref>「[[#歴史|歴史]]」および「[[#教派の概要|教派の概要]]」を参照</ref>。キリスト教は普遍的な宗教([[世界宗教]])であり{{Efn|name="異論"}}、特定の民族や人種あるいは限定された身分や社会階層のためのものではなく、すべての人に向けられたものである{{R|Knox1911}}{{Efn|name="山我2002"}}。実際、キリスト教は、異なる文化・多くの民族の様々な人々に広く受け入れられて、政治構造や社会状況および科学知識や哲学思想、世界観の歴史的な変化や移り変わりがあった各地域で何世紀にもわたって教会・教団や組織を維持してきた{{R|Knox1911}}。ただし、[[カトリック教会]]の場合{{Efn|[[カトリック教会]]は、2013年に就任した教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が8世紀の[[グレゴリウス3世 (ローマ教皇)|グレゴリウス3世]]以来のヨーロッパ外出身者であるが、その間1000年以上にわたってヨーロッパ出身者が教皇を務めていた。}}、あるいは[[プロテスタント]]の[[宗教改革]]がドイツやスイスを舞台としていたように、組織は[[ヨーロッパ中心主義]]であり続けた。また、『[[聖書]]』は主に[[地中海]]世界から[[中東]]を舞台にしたものである。 日本でも多く使用される[[西暦]]が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように{{Efn|イエスは紀元元年には生まれていないと推定されている。}}、キリスト教は[[中世]]{{Efn|キリスト教の全盛時代でもあり、暗黒の中世とも言われる。[[ルネサンス#中世=暗黒時代観]]参照}}ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。 中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教(主に[[イスラム教]])との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に代えてキリスト教を説いた{{Efn|アステカ帝国等、いくつかの帝国とその文明ならびに土着の宗教は滅んでいった。[[アステカ#植民地時代の人口減少]]参照}}。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての[[贖罪]]信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている{{Efn|1-4世紀の古代教会の内外に発生した「キリスト教グノーシス派」は、個々の人間のうちに宿る神的本質・心魂・肉体の三元を用いて啓示を解釈し、異端とされた。(岩波キリスト教辞典P332 グノーシスの項目 大貫隆)}}。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある{{Efn|プロテスタントの三大原理の中には、 聖書は神の言葉であり、信仰生活は聖書の啓示をよりどころとする「[[聖書のみ]]」がある<ref>岩波キリスト教辞典P994 プロテスタンティズムの項目 川中子義勝</ref><ref>ガラテヤ人への手紙1:11</ref>}}。 また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある<ref>[[ルカによる福音書]]21:15</ref>{{Efn|聖霊現象がいくつか記されている福音書等([[使徒言行録|使徒行伝]]2章)を含む新約聖書が神の言葉と考えられ、そこから神話・伝説の多い旧約もそのまま神の言葉と信じられていった。そのため現代においても天地創造の時期等で科学的見解と大きく異なる見解に導かれやすい部分がある。}}。[[福音書]]が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている<ref>『新約聖書』岩波書店2004年、(新約聖書翻訳委員会による、補注 用語解説P24)</ref>[[聖霊|聖霊現象]]と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、[[黙示|黙示思想]]はその重要な背景として存在した{{Efn|神の王国、メシア、最後のさばき、蘇り・復活などの観念は黙示的とされる<ref>『新約聖書』岩波書店2004年、(新約聖書翻訳委員会による、補注 用語解説P41)</ref>。}}。 キリスト教は、「旧約聖書」{{Efn|将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。}}を聖典としていることから、ヤハウェによる[[天地創造]]から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典{{Efn|ユダヤ教にとっては、旧約とは容認できない『聖書』は唯一の正典であり、現在も行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において文化的な一体性を与える書でもある。[[旧約聖書#ユダヤ教]]を参照}}の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである<ref>[https://www.bible.or.jp/know/know01.html 日本聖書協会、聖書を知る]</ref>。 == 歴史 == {{Main|キリスト教の歴史|日本のキリスト教史}} {{See also|キリスト教年表}} === 古代 === {{main|原始キリスト教|初期キリスト教}} キリスト教は[[ユダヤ教]]の預言と律法を引き継ぐ<ref name="高橋1980_p76">[[#高橋 1980|高橋 1980]], p. 76.</ref>。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時の[[古代ローマ|ローマ世界]]へと広めていった<ref>[[#高橋 1980|高橋 1980]], p. 69.</ref>。 * 紀元前6年ないし紀元前4年ごろ[[ナザレのイエス]]が[[ベツレヘム]]に生まれる。 * ナザレのイエスが[[刑死]]する3年ほど前、ナザレのイエスは[[ガリラヤ]]で宣教を開始する。[[山上の垂訓]]の中核に位置するものとして、[[主の祈り]]がある<ref name="ReferenceA">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 91.(マタイ6:9における注7 佐藤)</ref>。 * 紀元後30年ごろ<ref>{{cite book |url=https://global.britannica.com/biography/Jesus |author=[[ヤロスラフ・ペリカン|Jaroslav Jan Pelikan]] |author2=E. P. Sanders |chapter=Jesus |title=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]] |accessdate=2020-05-04}}</ref>ナザレのイエスが刑死した。 {{main|ナザレのイエス}} ==== イエスの復活信仰の確立 ==== * [[50年]]ころ[[パウロ]]は[[テサロニケ人への第一の手紙]]を記し<ref name="ReferenceB">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 920.(テサロニケ第一の手紙の解説、青野)</ref>、生ける真の[[神]]によって、死んだはずのナザレのイエスが死者たちの中から起こされたことを表明した<ref>テサロニケ人への第一の手紙 1:9</ref>。テサロニケの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。 * [[54年]]ころパウロは[[コリント人への第一の手紙]]を記し<ref name="ReferenceC">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 921.(コリント第一の手紙の解説、青野)</ref>、神によって、死者たちの中から三日目にナザレのイエスが復活したことを表明した<ref>コリント人への第一の手紙 15:4</ref>{{Efn|パウロは、コリント第一の手紙15:5において弟子12人に、死んだはずのイエスが現れたことを記しているが、ルカはこの時点の「12人」を常に「11人」に修正している。その修正のないことは、イエス顕現の伝承が早い時期に成立したことを示唆している<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004,p.543コリント人への第一の手紙 15:5における注1 青野</ref>。}}。コリントの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。 * [[70年]]ころ無名の著者は[[マルコによる福音書]]を記し<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 915.(マルコ福音書の解説、佐藤)</ref>、ナザレのイエスの死後女性信者たちに何らかの事象が起きたことを表明する<ref>マルコによる福音書 16:5</ref>。空になった墓を見たという記述以降は、後代の加筆であるとされている<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004.P.71.(マルコ16:8における注3、佐藤)</ref>。南[[シリア]]の信者はこれより、イエスの生涯を[[福音]]的視座をもって眺めることとなる{{Efn|マルコ福音書の作者は、物語形式を用いることによって、イエス伝承を生々しい社会的現実の舞台に戻すことが出来たとされる<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004.P.915.(マルコ福音書の解説、佐藤)</ref>。}}。 * 80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し<ref name="ReferenceD">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 916.(マタイ福音書の解説、佐藤)</ref>、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した<ref>マタイ福音書 28:9</ref>。西シリアの信者は、死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。 * 80年代、無名の著者は[[ルカによる福音書|ルカ福音書]]を記す<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 917.(rルカ福音書の解説、佐藤)</ref>。イエスの復活信仰が確立した。 ==== ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰の確立 ==== * 50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、来たらんとしている[[神の怒り]]からイエスが救い出してくれることを表明した<ref>テサロニケ人への第一の手紙 1:10</ref>。テサロニケの信者は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。 * 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した<ref>コリント人への第一の手紙 15:3</ref>。コリントの信者はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。また、パウロはコリント人への第一の手紙を記し、[[アダム]]においてすべての者が死ぬように、そのように[[キリスト]]においてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信者はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた<ref>コリント人への第一の手紙 15:20</ref>。 * 80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し{{R|ReferenceD}}、イエスはヨセフの子ではなく、[[聖霊]]によって身ごもった神の御子であることを表明した<ref>マタイ福音書 1:18</ref>。そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した<ref>マタイ福音書 1:21</ref>。西シリアの信者は イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であるという信仰を始めた。そしてかれの民をもろもろの罪から救うという信仰を始めた。また、マタイ福音書の記者は、山上の垂訓の中に主の祈りを記した{{R|ReferenceA}}。これにより西シリアの信者は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信者は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。 * 80年代、無名の著者はルカ福音書を記す{{Efn|ルカ福音書は、2-4世紀の「初期カトリシズム」の形成に大きく関与しているとされる。対内的には、伝統的な終末論的時間感覚をもはや共有しない異邦人キリスト教界に、新たな自己理解と歴史展開、そして教会理解を与えようとしたとされる<ref name="ReferenceE">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 917.(ルカ福音書の解説、佐藤)</ref>。}}。イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。 ==== 主イエス・キリスト信仰の確立 ==== * 50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、イエスは主としてすぐに[[来臨]]してくることを表明した<ref>テサロニケ人への第一の手紙 3:13</ref>。テサロニケの信者はナザレのイエスは主イエス・キリストであるという信仰を始めた。 * 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した<ref>コリント人への第一の手紙 15:27</ref>。コリントの信者はイエスは私たちの主なるイエス・キリストであるというキリスト信仰を始めた。 * 80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し{{R|ReferenceD}}、ナザレのイエスの父ヨセフは、[[アブラハム]]、[[ダビデ]]の子孫であり、ヨセフの子であるナザレのイエスは[[予言]]されていたキリストであることを表明した<ref>マタイ福音書 1:1</ref>{{Efn|イエスの系図は、イエスがヨセフの子であることを前提にしていて、マタイ1:18節以下の処女降誕伝承の意図と齟齬をきたしている。しかし、マタイ福音書の記者がその点を気にとめている様子はないとされている<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 76.(マタイ1:16の注2、佐藤)</ref>。}}。西シリアの信者は、イエスはヨセフの子であり、予言されていたキリストであるという信仰を始めた。 * 80年代、無名の著者はルカ福音書を記す<ref name="ReferenceE">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 917.(ルカ福音書の解説、佐藤)</ref>。 * 90年代、無名の著者は使徒行伝を記し<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 919.(使徒行伝の解説、荒井)</ref>、ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する<ref>使徒行伝 7:54</ref>。信者は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。[[ユダヤ教]]に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。 ==== 終末信仰の確立 ==== * 50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの[[終末観]]を表明した{{Efn|執筆の主な目的は、再臨の時まで生き残るパウロたちに比較して、再臨前に死亡した信徒たちは何らかの不利益を蒙るのではないかというテサロニケの信徒たちからの問いに答えるためであった<ref name="ReferenceB">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 920.(テサロニケ第一の手紙の解説、青野)</ref>。}}。この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 494.(テサロニケ第一の手紙4:15における注12 保坂)</ref>。テサロニケの信者は下記の予測についての[[終末]]信仰を始めた。 * パウロが生きているうちに主の[[来臨]]がおきる。 * パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。 * パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。 * パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。 * パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる<ref>テサロニケ人への第一の手紙 4:15</ref>。 * 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した{{R|ReferenceC}}。コリントの信者は再臨の時までパウロが生き残ることと、[[不死]]なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた{{Efn|この手紙においてもテサロニケの手紙と同様に、再臨の時まで生き残るというパウロの確信が依然として表明されている<ref>[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p546コリント人への第一の手紙第15:51における注6</ref>。}}。 * 95年から96年ごろ、著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され<ref name="ReferenceF">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 939.(ヨハネ黙示録の解説 小河)</ref>、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される<ref>ヨハネ黙示録 12:10</ref>。パウロの死んだ年は60年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された{{Efn|この黙示録は、旧約預言に関連するイメージや文体によって、新しい神支配の経綸を象徴的に解釈開示している<ref name="ReferenceF">[[#岩波委員会訳|新約聖書翻訳委員会]] 2004, p. 939.(ヨハネ黙示録の解説 小河)</ref>。}}。小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた。キリスト教的な終末信仰が確立した。 ==== ユダヤ教からのキリスト教の自立 ==== * 60年代、ヤコブ、ペトロ、パウロが死ぬ。 * 66年から70年、第一次[[ユダヤ戦争]]の結果として[[エルサレム神殿]]が崩壊したころ、ユダヤ教からキリスト教が自立した。 * 4世紀以降[[キリスト教神学|神学]]論争が激しくなり、[[教会 (キリスト教)|教会]]が分裂をするようになる。暴力を用いる過激な教派が生まれてくる。 * [[301年]]、[[アルメニア王国]]が初めてキリスト教を[[国教]]化。 * [[325年]]、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]は[[第1ニカイア公会議|ニカイア公会議]]を開いた。それとともに、キリスト教の勢力を利用してローマ帝国の求心力低下の課題解決に図ることもコンスタンティヌスは意図していた。 * 325年、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、[[アリウス派]]は[[異端]]の教派とされ追放された。 * [[380年]]、[[テオドシウス1世|テオドシウス]]帝はキリスト教をローマ帝国の[[国教]]と宣言した。 * [[381年]]、[[コンスタンティノープル]]で[[第1コンスタンティノポリス公会議]]が[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]を採択した。 * [[392年]]、国教となったキリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の信仰活動が帝国内において禁止される<ref>{{Cite web|和書|author=[[赤司道雄]]|url=https://kotobank.jp/word/キリスト教-53666#教会とローマ帝国|title=キリスト教「教会とローマ帝国」|website=コトバンク|work=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=小学館、朝日新聞社|accessdate=2020-04-01}}</ref>。 * [[405年]]頃、[[ヒエロニムス]]が[[聖書]]の[[ラテン語]]訳である『[[ウルガタ]]』を完成させる。 * [[5世紀]]前半、[[アウグスティヌス]]が『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』を著述。 * [[431年]]、[[エフェソス公会議]]において、[[ネストリウス派]]が異端の教派とされて追放された。 * [[451年]]、[[カルケドン公会議]]において[[カルケドン信条]]が採択された。また、[[単性説|単性論]]が異端の教義とされたが、[[エジプト]]、[[シリア]]や[[アルメニア]]を中心に[[合性論]](正統派とされた側からは単性論の一種と見なされたが、合性論派はその見解を否定した)を支持する教会が多くあったため、各教会で対立[[主教]]が立つほどの分裂が生じた([[非カルケドン派正教会]]の分立)。 このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の[[異端]]教派の説を切り捨てることにより、キリスト教における[[一神教]]的世界観での正統派信仰を確立した。 === 中世 === * [[6世紀]]前半、[[ユスティニアヌス1世]]が『[[ローマ法大全]]』を編纂させた。 * [[800年]]、[[カール大帝]]は[[ローマ教皇]]の[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]から戴冠され、以てキリスト教の守護者を自認した。 * [[927年]]、[[ブルガリア正教会]]に五大[[総主教]]庁以外で初めて総主教位が認められた。 * [[1054年]]の[[東西教会の分裂]]により、[[カトリック教会]]と[[正教会]]の分断が決定的となった。 * [[13世紀]]後半、[[トマス・アクィナス]]が『[[神学大全]]』を著述。 * [[1415年]]、[[コンスタンツ]]で[[コンスタンツ公会議]]が[[ジョン・ウィクリフ]]を[[異端]]宣告し、また[[ヤン・フス]]が[[火刑]]に処された。 * [[1448年]]、[[ロシア正教会]]が[[コンスタンティノープル総主教庁]]から事実上独立。 * [[1453年]]、[[コンスタンティノープルの陥落]]により、[[東ローマ帝国]]が名実ともに消滅した。 === 近世 === * 16世紀初頭、[[マルティン・ルター]]による[[カトリック教会]]批判により、[[宗教改革]]の時代が始まった。 * [[1519年]]、[[チューリッヒ]]で[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]が[[説教]]の活動を開始。 * [[1521年]]、[[セブ島]]に[[フェルディナンド・マゼラン]]が上陸し、ラジャ・フマボン([[:en:Rajah Humabon|Rajah Humabon]])が[[洗礼]]を受けた。 * [[1534年]]、[[イングランド国教会]]が[[カトリック教会]]から分離。 * [[1536年]]、[[バーゼル]]で[[ジャン・カルヴァン]]が『[[キリスト教綱要]]』を出版。 * [[1545年]]〜[[1563年]]、[[トリエント公会議]]が開催され、[[対抗宗教改革]]が始まった。 * [[1565年]]、[[ポーランド]]でポーランド兄弟団([[:en:Polish Brethren|Polish Brethren]])が分派した。 * [[1618年]]〜[[1619年]]、[[ドルトレヒト]]で『建白書』([[:en:Five Articles of Remonstrance|Five Articles of Remonstrance]])などを議題に[[ドルト会議]]が開催された。 * [[1620年]]、[[メイフラワー号]]が現[[マサチューセッツ州]][[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス]]に到着し、「[[ピルグリム・ファーザーズ]]」が入植を開始した。現在では[[ピューリタン]]による[[信教の自由]]のための[[プリマス植民地]]建設開始に位置付けられる。 * [[1646年]]、[[ロンドン]]で[[ウェストミンスター会議]]が『[[ウェストミンスター信仰告白]]』を作成。 * [[1738年]]、[[ロンドン]]で[[ジョン・ウェスレー]]が[[確証の教理|救いの確信]]を得た。 * [[1741年]]、[[13植民地]]で[[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]が『[[怒れる神の御手の中にある罪人]]』を出版。 * [[1791年]]、[[アメリカ合衆国憲法]]修正第1条で[[信教の自由]]が明記された。 === 近代 === * [[1830年]]、[[ニューヨーク州]]で[[ジョセフ・スミス・ジュニア]]が『[[モルモン書]]』を出版。 * [[1833年]]、[[ギリシア正教会]]が[[ギリシャ独立戦争]]を経て[[コンスタンティノープル総主教庁]]から事実上独立。 * [[1843年]]、ウィリアム・ミラー([[:en:William Miller (preacher)|William Miller]])が予告した[[再臨]]の時を迎えた。([[再臨待望運動]]) * [[1905年]]、[[フランス]]で[[政教分離法]]成立。 * [[1906年]]、[[ロサンゼルス]]で[[アズサ・ストリート・リバイバル]]({{仮リンク|伝道集会|en|Revival meeting}})が開始された。 * [[1917年]]、[[ロシア革命]]により[[ロシア]]で宗教、特に[[ロシア正教会]]に対する大弾圧が開始された。 == 名称 == キリスト教という名の中の「キリスト」は、日本伝来当時は「キリシト」であったが、江戸時代後期から「キリスト」となった。中国イエズス会士によって、音訳語「基利斯督」およびその略語「基督」がつくられ、日本においても明治初年から、「'''基督'''」が当て字として新教系の刊行物(片仮名表記「キリスト」を採用した邦訳聖書を除く)で用いられ、明治中期までには一般的表記法として確立した。耶蘇教(やそきょう)とも呼ばれる。 == 教義 == {{see also|キリスト教神学|Category:キリスト教神学}} === キリスト教会の教え === キリスト教会は、イエス・キリストが『[[旧約聖書]]』で預言された[[救い主]]([[救世主]])であると教えている。『[[新約聖書]]』所収の手紙で[[パウロ]]は次のように述べる:「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも[[モーセ五書|律法]]のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(「[[ガラテヤの信徒への手紙]]」4章4-5節)。イエスは神がいかなる存在であるかをまったく新しい方法で、それまでのイスラエル人の理解をより深く掘り下げて示したのであり、イエスは神ヤハウェを自分の父として示した<ref>{{Cite web|和書|title=43.キリスト教のメッセージとは何ですか?|url=https://opusdei.org/ja-jp/article/43-kirisutojiao-nometsusezitohahe-desuka/|website=opusdei.org|accessdate=2020-09-23|language=ja}}</ref>。イエスの中心メッセージは「[[神の王国|神の国]]」の教えである(『[[マルコによる福音書]]』1:15他参照)。イエスはこの象徴的な表現をたとえ話によって豊かな内容で満たした。「神の国」は、人間の歴史の中に、そして歴史の終りにおいても神が現存することを教えている。 === 教えの源泉(特徴) === キリスト教における教えの源泉は、教派によって共通するものと異なるものとがある。全教派([[カトリック教会]]・[[聖公会]]・[[プロテスタント]]・[[正教会]]・[[非カルケドン派]]・[[アナバプテスト]])に共通する教えは[[聖書]]([[旧約聖書]]・[[新約聖書]])である。しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに相違がある。 正教会<ref name="HM89">ホプコ著、水口訳 2012, pp. 8-9.</ref><ref name="seidenOCJ">[https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/oshie01.html 教え-聖伝:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>、非カルケドン派<ref>[http://www.armenianchurch-ed.net/faith-and-worship/sacraments/ Armenian Apostolic Church (The Sacraments)] より、''"The Armenian understanding of baptism draws upon the evidence of Scripture and '''Tradition''' to baptize infants—who are pledged to a life in Christ by godparents and the community—as well as adults."''</ref>、カトリック教会<ref>[https://www.vatican.va/archive/ccc_css/archive/catechism/p1s1c2a2.htm Catechism of the Catholic Church - The Transmission of Divine Revelation]</ref>、聖公会<ref>[https://stpeterswestfield.org/who-we-are/tradition-reason/ Tradition - St. Peter's Episcopal Church]</ref><ref>[http://www.nskk.org/osaka/seikoukai1.html 聖公会とは? 聖公会の特徴]</ref>は[[聖伝]](「聖伝」とは言わず「伝統」とのみ言う場合もある)を認める。カトリック教会では、聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「(聖書と)同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされる<ref>『[[カトリック教会のカテキズム]]』30頁、31頁(78番、80番、81番、82番)</ref>。正教会でも「聖書と聖伝」と述べられることはあるが<ref>[http://ww1.antiochian.org/content/scripture-and-tradition Scripture and Tradition | Antiochian Orthodox Christian Archdiocese]</ref>、むしろ「聖伝がただ一つの源泉であり、聖伝の中に聖書が含まれるのであり、分離や対比は両者の価値を減じる」とし、「聖伝の中に聖書」{{R|seidenOCJ}}という捉え方もされる<ref name="HM9">ホプコ著、水口訳 2012, p. 9。参照箇所は[[カリストス・ウェア]]による"The Orthodox Church"からの引用翻訳部分。</ref><ref>[https://www.oca.org/orthodoxy/the-orthodox-faith/doctrine-scripture/sources-of-christian-doctrine/tradition The Orthodox Faith - Volume I - Doctrine - Sources of Christian Doctrine - Tradition - Orthodox Church in America]</ref>。 聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別される<ref name="RCC83">『[[カトリック教会のカテキズム]]』31頁(83番)</ref>。諸伝承の中から異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取り、その大伝承に照合され、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持・修正・放棄される{{R|RCC83}}。正教会では、「天上の永遠なる神の国に属する真の『聖伝』と、地上の人間的な暫定的な単なる伝統」が区別される<ref name="HM8">ホプコ著、水口訳 2012, p. 8.</ref>。 一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいる(「プロテスタント」は様々な教派の総称であり、内実は様々である){{Efn|聖伝(伝統)を認めないプロテスタント(この出典は[[改革派教会]]のもの)の例。{{cite web|url=https://www.crcna.org/welcome/beliefs/reformed-accent/what-reformed|title=What is Reformed? | Christian Reformed Church|accessdate=2021-07-31}}より、''"The Bible alone is the authoritative Word of God for our lives—not church tradition or what church leaders say."'' 「教会の伝統や教会の指導者が言う事ではなく、聖書だけが私たちの人生において権威ある神の言葉である。」}}{{Efn|聖伝(伝統)を認めるプロテスタント(この出典は[[メソジスト]]のもの)の例。{{cite web|url=https://www.umc.org/en/content/theological-guidelines-scripture|title=Theological Guidelines: Scripture | The United Methodist Church|accessdate=2021-07-31}}より、''"The story of the church reflects the most basic sense of tradition, the continuing activity of God’s Spirit transforming human life."'' 「教会の来歴は、伝統の最も基本的な意義、すなわち神の霊が人間の生活を変える継続的な活動を反映している。」}}。後者を表す[[宗教改革]]の原則の一つに「[[聖書のみ]]」がある<ref>[http://sky.geocities.jp/igmpastor/gss/0.html#0 『現代神学小史』序章 近代神学以前、 C.F.ヴィスロフ著 鍋谷尭爾・勝原忠明 共訳編]</ref><ref>[http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/20141104_kbi_jets-zenkoku_Mitsuru_Fujimoto_resume-in-detail.pdf 聖書信仰――その歴史と可能性 藤本満 2014年10月11日](PDF、[http://www.evangelical-theology.jp/ 『日本福音主義神学会』] 公式サイト内)</ref>。ただし、聖書に優越する、あるいは並び立つ、ないし聖書を包含するといった意味での聖伝(伝統)を認めないプロテスタントであっても、「宗教改革の伝統」「改革派教会の伝統」といった用語がプロテスタントで使われる場合はある<ref>[https://www.presbyterianmission.org/ministries/today/reformed/ What do Presbyterians believe about ‘Ecclesia Reformata, Semper Reformanda?’ — Presbyterians Today Magazine — Mission and Ministry — Presbyterian Mission Agency]</ref><ref>[https://www.rts.edu/site/about/reformed_tradition/reformed_tradition.aspx The Reformed Tradition] (Reformed Theological Seminary)</ref>。 {| class="wikitable" style="width:100%;" |- | colspan="4" style="text-align:center; background-color:#ffd;"|教えの源泉の、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]別対照表 |- | colspan="3" style="width:60%; text-align:center; background-color:#dfd;" | '''[[西方教会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#dfd;" | '''[[東方教会]]''' |- | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[カトリック教会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[聖公会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[プロテスタント]]'''{{Efn|name="varipro"|プロテスタントは、[[ルーテル教会|ルター派(ルーテル教会)]]、[[改革派教会]]、[[バプテスト教会|バプテスト]]、[[メソジスト]]、[[ホーリネス教会|ホーリネス]]等の様々な派の総称であり、プロテスタントの一例が示されていても、それが全てのプロテスタントに当てはまる・適用される・使用されているとは限らない。}} | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[正教会]]''' |- | style="text-align:left; font-size:1em;" |[[聖書]]は[[聖伝]]において解釈・理解されるべきである | style="text-align:left; font-size:1em;" |聖書・伝統・理性の三本柱を大切にする | style="text-align:left; font-size:1em;" |◆ [[聖書のみ]]<br />◆ 聖書のほかに、伝統も認める<br />以上二類型の混在 | style="text-align:left; font-size:1em;" |聖伝の中に聖書が含まれ、聖書は聖伝の中で第一の位置を占める{{R|HM89}}{{Efn|「聖書と聖伝」という言い方も全くされないわけではない。}}。 |} === ニカイア・コンスタンティノポリス信条にみる信仰内容 === ==== ニカイア・コンスタンティノポリス信条の位置付け ==== [[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]は、[[381年]]に、[[第1コンスタンティノポリス公会議]]で定められたキリスト教の信条(教えを要約した定型文<ref name="GS138">ゴンサレス著、鈴木訳 2010, p. 138.</ref>)である<ref>{{Cite web|和書|title=53.ニケア公会議で何が起こりましたか?|url=https://opusdei.org/ja-jp/article/53-nikeagong-hui-yi-dehe-gaqi-korimashitaka/|website=opusdei.org|accessdate=2020-09-23|language=ja}}</ref>。[[東方教会]]と[[西方教会]]のいずれでも、最も広く普遍的に、共通して使われる信条である{{R|GS138}}<ref name="RCC195">『[[カトリック教会のカテキズム]]』65頁(195番)</ref><ref name="OCJshinkei">[https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou01.html 信仰-信経:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。「'''ニカイア信条'''{{R|GS138}}」「ニケヤ信経<ref>[http://www.nskk.org/province/seikoukai.html 日本聖公会 日本聖公会とは]</ref>」「'''ニケア信条'''<ref name="ルーテル教会の信仰">[http://jelc.or.jp/belief/ ルーテル教会の信仰]</ref>」「'''信経'''{{R|OCJshinkei}}」とも呼ばれる。一方、西方教会では広く使われている[[使徒信条]]は、東方教会はその内容は否定しないものの、信条としては使っていない{{R|OCJshinkei}}<ref>久松 2012, p. 151.</ref>。このため、[[東西教会]]の両方に言及する本記事では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を骨格としつつも、必要な箇所では使徒信条の内容も必要に応じて補足して、信仰内容を詳述する。 なお、西方教会の一角を占める[[プロテスタント]]諸教派の間では信条の使用に差異があり、[[ルーテル教会]]{{R|ルーテル教会の信仰}}・[[改革派教会]]<ref>リフォームド神学事典 236頁。</ref>、[[メソジスト]]<ref>[https://www.umc.org/en/content/why-do-we-say-creeds Why do we say creeds? | The United Methodist Church]</ref>はニカイア・コンスタンティノポリス信条を使用するが、[[バプテスト教会]]では信条の使用自体に議論が発生する{{Efn|例えば、[[南部バプテスト連盟]]の公式サイト内で「ニカイア信条」(Nicene Creed)を検索しても({{Cite web|和書|url=https://www.google.co.jp/search?as_q=Nicene+Creed+&as_epq=&as_oq=&as_eq=&as_nlo=&as_nhi=&lr=&cr=&as_qdr=all&as_sitesearch=http%3A%2F%2Fwww.sbc.net%2F&as_occt=any&safe=images&as_filetype=&as_rights=|title=検索結果|accessdate=2016-03-13}})、2016年3月13日現在、ヒットするコンテンツが無い。}}<ref name="SRH">[https://ecclesialtheology.blogspot.com/2010/10/do-real-baptists-recite-creeds.html Ecclesial Theology: Do Real Baptists Recite Creeds?]([https://www.blogger.com/profile/09802367585251116641 Steven R. Harmon])</ref>。しかしバプテスト教会内にも、信条の強制は否定するものの、その使用の意義は認める見解も存在する{{R|SRH}}。 ==== ニカイア・コンスタンティノポリス信条の全文 ==== {| class="wikitable" style="width:100%;" |- | colspan="4" style="text-align:center; background-color:#ffd;"|[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]の[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]別対照表 |- | colspan="3" style="width:60%; text-align:center; background-color:#dfd;" | '''[[西方教会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#dfd;" | '''[[東方教会]]''' |-りやはるゆまみむ おけ | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[カトリック教会]]'''<br />(日本カトリック[[司教]]協議会認可) | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[聖公会]]'''<br />([[日本聖公会]] 祈祷書より) | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[プロテスタント]]'''の一例{{Efn|name="varipro"}}([[日本基督教団]]<br />[[日本基督教団改革長老教会協議会|改革長老教会協議会]]教会研究所訳) | style="width:20%; text-align:center; background-color:#eef;" | '''[[正教会]]'''<br />([[日本正教会]] [[時課経]]145頁より{{Efn|中黒・句読点はウェブ上の [http://www.orthodox-jp.com/pandane/cyril/symbol/nikekon.html コンスタンティノポリ第二全地公会百五十人の諸聖父の信経] に従った。漢字とルビ、および改行は時課経記載の通りであるが、一部旧字体を新字体に変えている。}}) |- | style="text-align:left; font-size:0.9em;" | わたしは{{Efn|name="sgorpl"|信条文が作成された際は1人称複数現在形({{lang-el|Πιστεύομεν}})であったが、現代の[[ギリシャ正教会]]で使われている版においてはこのように1人称単数現在形({{lang-el| Πιστεύω}})である([https://orthodoxwiki.org/Nicene-Constantinopolitan_Creed Nicene-Constantinopolitan Creed - OrthodoxWiki])。[[カトリック教会]]におけるラテン語訳版でも1人称単数現在形({{lang-la|Credo}})となっており1人称複数現在形({{lang-la|Credimus}})ではない([https://www.vatican.va/archive/catechism_lt/p1s1c3a2_lt.htm SYMBOLUM FIDEI Nicaenum-Constantinopolitanum])。現代の日本における[[カトリック教会]]、および[[正教会]]([[日本正教会]])では、1人称単数現在形の日本語訳となっている。一方で、上記における[[日本聖公会]]、および[[日本基督教団]]改革長老教会協議会教会研究所訳においては、公会議の際の1人称複数現在形を反映した日本語訳となっている。}}信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られました。主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。アーメン。<ref>[https://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/prayers/nicene.htm ニケア・コンスタンティノープル信条]([[カトリック中央協議会]])</ref> | style="text-align:left; font-size:0.9em;" | わたしたちは{{Efn|name="sgorpl"}}、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審(さば)くため、光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます。アーメン。<ref>『祈祷書』167頁、[[日本聖公会]]、1991年6月20日 第1刷</ref> | style="text-align:left; font-size:0.9em;" | わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、信じ告白します。わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます。アーメン<ref name="NKKKC">[http://www.kaichokyo.jp/statemants/381.htm ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381)(日本基督教団改革長老教会協議会教会研究所訳)]</ref> | style="text-align:left; font-size:0.9em;" | <ruby>我<rt>われ</rt>信<rt>しん</rt></ruby>ず<ruby>一<rp>(</rp><rt>ひとつ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>神<rp>(</rp><rt>かみ</rt><rp>)</rp>父<rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>全<rp>(</rp><rt>ぜん</rt><rp>)</rp>能<rp>(</rp><rt>のう</rt><rp>)</rp>者<rp>(</rp><rt>しゃ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>天<rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby>地<rp>(</rp><rt>ち</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>見<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>ゆると<ruby>見<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>えざる<ruby>萬<rp>(</rp><rt>ばん</rt><rp>)</rp>物<rp>(</rp><rt>ぶつ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>造<rp>(</rp><rt>つく</rt><rp>)</rp></ruby>りし<ruby>主<rp>(</rp><rt>しゅ</rt><rp>)</rp></ruby>を。<ruby>又<rp>(</rp><rt>また</rt><rp>)</rp>信<rp>(</rp><rt>しん</rt><rp>)</rp></ruby>ず<ruby>一<rp>(</rp><rt>ひとつ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>主<rp>(</rp><rt>しゅ</rt><rp>)</rp></ruby>イイススハリストス・<ruby>神<rp>(</rp><rt>かみ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>獨<rp>(</rp><rt>どく</rt><rp>)</rp>生<rp>(</rp><rt>せい</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>子<rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>萬<rp>(</rp><rt>よろづ</rt><rp>)</rp>世<rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>前<rp>(</rp><rt>さき</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>父<rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>より<ruby>生<rp>(</rp><rt>う</rt><rp>)</rp></ruby>まれ・<ruby>光<rp>(</rp><rt>ひかり</rt><rp>)</rp></ruby>よりの<ruby>光<rp>(</rp><rt>ひかり</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>眞<rp>(</rp><rt>まこと</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>神<rp>(</rp><rt>かみ</rt><rp>)</rp></ruby>よりの<ruby>眞<rp>(</rp><rt>まこと</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>神<rp>(</rp><rt>かみ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>生<rp>(</rp><rt>うま</rt><rp>)</rp></ruby>れし<ruby>者<rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>にて<ruby>造<rp>(</rp><rt>つく</rt><rp>)</rp></ruby>られしに<ruby>非<rp>(</rp><rt>あら</rt><rp>)</rp></ruby>ず、<ruby>父<rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby>一<rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp>躰<rp>(</rp><rt>たい</rt><rp>)</rp></ruby>にして<ruby>萬<rp>(</rp><rt>ばん</rt><rp>)</rp>物<rp>(</rp><rt>ぶつ</rt><rp>)</rp>彼<rp>(</rp><rt>かれ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>造<rp>(</rp><rt>つく</rt><rp>)</rp></ruby>られ<ruby>我<rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby>ら<ruby>人々<rp>(</rp><rt>ひとびと</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>爲<rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>め<ruby>又我<rp>(</rp><rt>またわれ</rt><rp>)</rp>等<rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>救<rp>(</rp><rt>すく</rt><rp>)</rp></ruby>ひの<ruby>爲<rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>天<rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>より<ruby>降<rp>(</rp><rt>くだ</rt><rp>)</rp></ruby>り、<ruby>聖神及<rp>(</rp><rt>せいしんおよ</rt><rp>)</rp></ruby>び<ruby>童貞女<rp>(</rp><rt>どうていぢよ</rt><rp>)</rp></ruby>マリヤより<ruby>身<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>取<rp>(</rp><rt>と</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby>人<rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby>爲<rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby>我<rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp>等<rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>爲<rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>にポンティイピラトの<ruby>時十<rp>(</rp><rt>ときじふ</rt><rp>)</rp>字架<rp>(</rp><rt>じか</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>釘<rp>(</rp><rt>くぎ</rt><rp>)</rp></ruby>うたれ<ruby>苦<rp>(</rp><rt>くるしみ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>受<rp>(</rp><rt>う</rt><rp>)</rp></ruby>け<ruby>葬<rp>(</rp><rt>はうむ</rt><rp>)</rp></ruby>られ<ruby>第三日<rp>(</rp><rt>だいさんじつ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>聖書<rp>(</rp><rt>せいしょ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>應<rp>(</rp><rt>かな</rt><rp>)</rp></ruby>ふて<ruby>復<rp>(</rp><rt>ふく</rt><rp>)</rp>活<rp>(</rp><rt>くわつ</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby>天<rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>升<rp>(</rp><rt>のぼ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby>父<rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>右<rp>(</rp><rt>みぎ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>坐<rp>(</rp><rt>ざ</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby>光<rp>(</rp><rt>くわう</rt><rp>)</rp>榮<rp>(</rp><rt>えい</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>顕<rp>(</rp><rt>あら</rt><rp>)</rp></ruby>はして<ruby>生<rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>ける<ruby>者<rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby>死<rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>せし<ruby>者<rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>審判<rp>(</rp><rt>しんぱん</rt><rp>)</rp></ruby>する<ruby>爲<rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>還<rp>(</rp><rt>ま</rt><rp>)</rp></ruby>た<ruby>來<rp>(</rp><rt>きた</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby>其國終<rp>(</rp><rt>そのくにをは</rt><rp>)</rp></ruby>りなからんを。<br /> <ruby>又信<rp>(</rp><rt>またしん</rt><rp>)</rp></ruby>ず<ruby>聖神<rp>(</rp><rt>せいしん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>主<rp>(</rp><rt>しゅ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby>生<rp>(</rp><rt>いのち</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>施<rp>(</rp><rt>ほどこ</rt><rp>)</rp></ruby>す<ruby>者<rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby>父<rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>より<ruby>出<rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>で<ruby>父及<rp>(</rp><rt>ちちおよ</rt><rp>)</rp></ruby>び<ruby>子<rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby>共<rp>(</rp><rt>とも</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>拝<rp>(</rp><rt>おが</rt><rp>)</rp></ruby>まれ<ruby>讚<rp>(</rp><rt>ほ</rt><rp>)</rp></ruby>められ<ruby>預<rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp>言者<rp>(</rp><rt>げんしゃ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>以<rp>(</rp><rt>もつ</rt><rp>)</rp></ruby>て<ruby>嘗<rp>(</rp><rt>かつ</rt><rp>)</rp></ruby>て<ruby>言<rp>(</rp><rt>い</rt><rp>)</rp></ruby>ひしを。<ruby>又信<rp>(</rp><rt>またしん</rt><rp>)</rp></ruby>ず<ruby>一<rp>(</rp><rt>ひとつ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>聖<rp>(</rp><rt>せい</rt><rp>)</rp></ruby>なる<ruby>公<rp>(</rp><rt>おほやけ</rt><rp>)</rp></ruby>なる<ruby>使徒<rp>(</rp><rt>しと</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>敎<rp>(</rp><rt>けう</rt><rp>)</rp>會<rp>(</rp><rt>くわい</rt><rp>)</rp></ruby>を。<ruby>我認<rp>(</rp><rt>われみと</rt><rp>)</rp></ruby>む<ruby>一<rp>(</rp><rt>ひとつ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>洗禮以<rp>(</rp><rt>せんれいもつ</rt><rp>)</rp></ruby>て<ruby>罪<rp>(</rp><rt>つみ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>赦<rp>(</rp><rt>ゆるし</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby>得<rp>(</rp><rt>う</rt><rp>)</rp></ruby>るを。<ruby>我望<rp>(</rp><rt>われのぞ</rt><rp>)</rp></ruby>む<ruby>死<rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp>者<rp>(</rp><rt>しや</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>復<rp>(</rp><rt>ふく</rt><rp>)</rp>活<rp>(</rp><rt>くわつ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>並<rp>(</rp><rt>ならび</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>來世<rp>(</rp><rt>らいせい</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby>生命<rp>(</rp><rt>いのち</rt><rp>)</rp></ruby>を。「アミン」。 |- | colspan="4" style="text-align:left; font-size:0.9em;" | {{lang-el| Πιστεύω{{Efn|name="sgorpl"}} εἰς ἕνα Θεόν, Πατέρα, Παντοκράτορα, ποιητὴν οὐρανοῦ καὶ γῆς, ὁρατῶν τε πάντων καὶ ἀοράτων. Καὶ εἰς ἕνα Κύριον Ἰησοῦν Χριστόν, τὸν Υἱόν τοῦ Θεοῦ τὸν Μονογενῆ, τὸν ἐκ τοῦ Πατρὸς γεννηθέντα πρὸ πάντων τῶν αἰώνων. Φῶς ἐκ φωτός, Θεὸν ἀληθινὸν ἐκ Θεοῦ ἀληθινοῦ γεννηθέντα, οὐ ποιηθέντα, ὁμοούσιον τῷ Πατρί, δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο. Τον δι' ἡμᾶς τοὺς ἀνθρώπους καὶ διὰ τὴν ἡμετέραν σωτηρίαν κατελθόντα ἐκ τῶν οὐρανῶν καὶ σαρκωθέντα ἐκ Πνεύματος Ἁγίου καὶ Μαρίας τῆς Παρθένου καὶ ἐνανθρωπήσαντα. Σταυρωθέντα τε ὑπὲρ ἡμῶν ἐπὶ Ποντίου Πιλάτου καὶ παθόντα καὶ ταφέντα. Καὶ ἀναστάντα τῇ τρίτῃ ἡμέρᾳ κατὰ τὰς Γραφάς. Καὶ ἀνελθόντα εἰς τοὺς Οὐρανοὺς καὶ καθεζόμενον ἐκ δεξιῶν τοῦ Πατρός. Καὶ πάλιν ἐρχόμενον μετὰ δόξης κρῖναι ζῶντας καὶ νεκρούς, οὗ τῆς βασιλείας οὐκ ἔσται τέλος. Καὶ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, τὸ Κύριον, τὸ Ζωοποιόν, τὸ ἐκ τοῦ Πατρὸς ἐκπορευόμενον, τὸ σὺν Πατρὶ καὶ Υἱῷ συμπροσκυνούμενον καὶ συνδοξαζόμενον, τὸ λαλῆσαν διά τῶν Προφητῶν. Εἰς Μίαν, Ἁγίαν, Καθολικὴν καὶ Ἀποστολικὴν Ἐκκλησίαν. Ὁμολογῶ ἕν Βάπτισμα εἰς ἄφεσιν ἁμαρτιῶν. Προσδοκῶ ἀνάστασιν νεκρῶν. Καὶ ζωήν τοῦ μέλλοντος αἰῶνος. Ἀμήν.}}<ref>[http://glt.xyz/texts/Oro/Sun_Liturgy.uni.htm {{lang|el|ΛΕΙΤΟΥΡΓΙΑ ΚΥΡΙΑΚΗ}}] ([http://glt.xyz/ {{lang|el|ΕΛΛΗΝΙΚΑ ΛΕΙΤΟΥΡΓΙΚΑ ΚΕΙΜΕΝΑ ΤΗΣ ΟΡΘΟΔΟΞΗΣ ΕΚΚΛΗΣΙΑΣ}}])</ref> |} === 三位一体の神 === [[ファイル:Shield-Trinity-Scutum-Fidei-earliest-and-latest-major-variants.svg|thumb|right|350px|左側は1210年頃に描かれた図式を抽出したもの。右側は20世紀末の[[プロテスタント]]の書籍に使われた図式<ref>"The Moody Handbook of Theology" by Paul P. Enns (1989) and "Charts of Christian Theology and Doctrine" by H. Wayne House (1992), etc.</ref>。]] [[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]は(そして[[使徒信条]]も)、父、子、聖霊の順に、[[三位一体]]について言及している。 キリスト教において、神は一つであり、かつ父・子・[[聖霊|聖霊(聖神)]]と呼ばれる三つの位格があるとされる<ref name="ocjshinkokami">[https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou02.html 信仰-神:日本正教会 The Orthodox Church in Japan] より「神が(は)「父」「子」「聖神」の三位一体の神である」</ref><ref>『[[カトリック教会のカテキズム]]』75頁(233番)より「神は唯一で、全能の父、そのひとり子、聖霊は、至聖なる三位一体」</ref><ref name="RT160">リフォームド神学事典 160頁より「唯一の神は父・子・聖霊の三重の実在である」</ref><ref name="GS103">ゴンサレス著、鈴木訳 2010, p. 103より「神は一人であるが、通常は、父、子、聖霊と呼ばれる三つの「位格」において永遠に存在している」</ref>{{Efn|三位一体については、各教派ごとに様々な記述があり、それらはそれぞれ、背景にある様々な考え方を反映している。}}。このことから、キリスト教において神は[[三位一体]]([[正教会]]では[[至聖三者]]<ref>[https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan01.html 信仰-神:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>)と呼ばれる(あるいはこうした理解をする[[教理]]を三位一体と呼ぶ{{R|RT160|GS103}})。 「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人([[神人]])となったのが、[[イエス・キリスト]]であるとされる<ref>『[[カトリック教会のカテキズム]]』142頁(464番)</ref><ref>[https://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou03.html 信仰-イイスス・ハリストス:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。 三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。例えば[[カトリック教会]]においては、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、[[神の子|神の御子]]の[[受肉]]と[[聖霊]]の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる<ref>『[[カトリック教会のカテキズム]]』76頁(237番)</ref>。[[正教会]]においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される{{R|OCJshinkei}}。 難解な三位一体論を説明するにあたり、「(いわゆる正統派における)三位一体論ではないもの」を説明する、いわば消去法のような形で、(いわゆる正統派における)三位一体論に接近する手法がある{{R|ocjshinkokami}}。 * 「『子』と『聖霊』は、被造物(造られたもの)」ではない{{R|ocjshinkokami}}<ref name="ac59">リチャードソン著、パウルス訳 1978, p. 59.</ref>。 * 「『父』、『子』、『聖霊』とは、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」ではない{{R|ocjshinkokami}}<ref name="GS251">ゴンサレス著、鈴木訳 2010, p. 251.</ref><ref name="RCmonarchians">[http://www.newadvent.org/cathen/10448a.htm CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Monarchians]</ref>。 * 「一人三役のようなもの」ではない{{R|ocjshinkokami|GS251|RCmonarchians}}。 * 「『父』だけが神であり、イエスに宿ったのは神の『力』に過ぎない」は誤り{{R|GS251|RCmonarchians}}。 * 「『父』『子』『聖霊』は、三つの神」ではない{{R|ocjshinkokami}}<ref name="RCC253">『[[カトリック教会のカテキズム]]』80頁(253番)</ref><ref>リチャードソン著、パウルス訳 1978, p. 71.</ref><ref>『[[キリスト教大事典]] 改訂新版』452頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版</ref>。 == 教派の概要 == [[ファイル:ChristianityBranches-2ja.svg|thumb|700px|center|キリスト教諸教派の系統概略図]] {{See also|キリスト教諸教派の一覧}} キリスト教は現代において多くの教派に分かれている。これを歴史的にみると、教義上の違いから[[325年]]に異端とされた[[アリウス派]]<ref>[[赤司道雄]]、[https://kotobank.jp/word/キリスト教-53666#カトリック教会の成立 キリスト教、カトリック教会の成立] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>などを別にすれば、まずは'''[[正教会]]'''に代表される東方キリスト教と、'''[[カトリック教会]]'''に代表される西方キリスト教に大きく分けられる<ref name="中世のキリスト教">赤司道雄、[https://kotobank.jp/word/キリスト教-53666#中世のキリスト教 キリスト教、中世のキリスト教] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。これは古代にキリスト教を国教とした[[ローマ帝国]]が[[395年]]に東と西の2つの帝国に分離した<ref>[https://kotobank.jp/word/東ローマ帝国-119182 東ローマ帝国] コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>ことなどにその端を発する{{R|中世のキリスト教}}。東方では[[451年]]の[[カルケドン公会議]]を画期として正統とされた教会から異端とされた教会が分離した<ref name="単性説">島創平、[https://kotobank.jp/word/単性説-1560139 単性説] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。分離した教会は'''[[非カルケドン派正教会|東方諸教会]]'''と呼ばれる{{R|単性説}}。カルケドン公会議で正統とされた教会においては東西でその教義に関して[[フィリオクェ問題|聖霊の発出]]<ref>[https://kotobank.jp/word/聖霊発出論争-86623 聖霊発出論争] ブリタニカ国際大百科事典、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>という神学上の問題などが原因となって中世に東方と西方のキリスト教会の亀裂が深まり、[[1054年]]に分裂した<ref>[https://kotobank.jp/word/東西両教会の分裂-103553 東西両教会の分裂] ブリタニカ国際大百科事典、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。その後[[1204年]]に[[第4回十字軍]]が東方キリスト教の中心地[[コンスタンティノープル]]を攻撃して占領・略奪し<ref>[[永田雄三]]、[https://kotobank.jp/word/イスタンブール-30782#歴史 イスタンブール、歴史] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>分裂が決定的になった<ref name="東方正教会">[[田口貞夫]]、[https://kotobank.jp/word/東方正教会-104169#歴史と本質 東方正教会、歴史と本質] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。これ以降、東方の教会は正教会、西方の教会はカトリック教会となった{{R|東方正教会}}。 西方では[[1077年]]の[[カノッサの屈辱]]<ref>[https://kotobank.jp/word/カノッサの屈辱-46035 カノッサの屈辱] コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>として知られる事件に象徴されるようにカトリック教会やその首長である[[教皇]]が宗教上のみならず俗権においても国家や王を上回る権力を有するようになった{{R|中世のキリスト教}}。カトリック教会はその後堕落や腐敗が問題にされるようになる{{R|宗教改革}}。カトリック教会を批判した[[フス]]はカトリック教会から[[異端]]とされて[[1415年]]に[[火刑]]に処された<ref>[[中村賢二郎 (歴史学者)|中村賢二郎]]、[https://kotobank.jp/word/フス-124754#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 フス] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。16世紀になり、[[1517年]]の[[マルティン・ルター|ルター]]の[[95か条の論題|九十五か条の提題]]をきっかけとして始まった[[宗教改革]]によって西方においては'''[[プロテスタント]]'''の教会が誕生した<ref name="宗教改革">[[森田安一]]、[https://kotobank.jp/word/宗教改革-76847#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 宗教改革] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。イギリスではイングランド王[[ヘンリー8世]](在位:[[1509年]] - [[1547年]])が自身の[[ヘンリー8世 (イングランド王)#離婚問題とカトリック教会からの破門|離婚問題]]をきっかけにしてイギリスの教会をカトリック教会から分離して'''[[イングランド国教会]]'''とした<ref>[https://kotobank.jp/word/ヘンリー8世-131469 ヘンリー8世] ブリタニカ国際大百科事典、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref><ref>八代崇、[https://kotobank.jp/word/イングランド教会-1506468 イングランド教会] 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館、コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。イングランド国教会の系統の教会は日本などでは[[聖公会]]と称する<ref>[https://kotobank.jp/word/聖公会-85750 聖公会] コトバンク、2020年5月27日閲覧。</ref>。 その後プロテスタントの教会は分裂・分離を重ねて多くの様々な教派が現れた。すなわち'''[[ルーテル教会]]'''、'''[[改革派教会]]'''、'''[[会衆派教会]]'''、'''[[メソジスト教会]]'''、'''[[バプテスト教会]]'''、'''[[アナバプテスト]]'''、'''[[ペンテコステ派]]'''、'''[[セブンスデー・アドベンチスト教会|セブンスデー・アドベンチスト]]'''などである。 [[ファイル:Protestantbranches ja.svg|thumb|600px|center|西方教会・宗教改革諸派の系統概略図]] === 関連項目 === * [[世界教会協議会]] == 信徒数 == {{See also|キリスト教徒}} === 世界全体 === {{multiple image |align="right" |direction =vertical |width = 350 |image1 =Percent of Christians by Country–Pew Research 2011.svg |caption1 = 世界各国の信徒数の割合(2012年)<ref>{{cite web|author=ANALYSIS |url=https://www.pewresearch.org/religion/2012/12/18/table-religious-composition-by-country-in-percentages/ |title=Table: Religious Composition by Country, in Percentages |publisher=Pewforum.org |date=19 December 2011 |accessdate=17 August 2012}}</ref>。青が濃いほど信徒の割合が高い。 |image2 = Map of state religions.svg |caption2 = キリスト教を[[国教]]にしている国([[青]]) }} キリスト教は'''世界で最大の信者を擁する宗教'''である。2013年現在、世界に約23億人の信者がいて、世界総人口の約33パーセントすなわち'''世界の約3人に1人は[[キリスト教徒]]'''である{{R|BBY2014}}。その内[[カトリック教会]]の信者は約12億人、[[プロテスタント|プロテスタント諸派]]の信者は約5億人、[[正教会]]の信者は約3億人である{{R|BBY2014}}。その他に[[ユニテリアン主義|ユニテリアン]]や[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]や[[エホバの証人]]の信者など自称を含めたキリスト教諸派の信者が約4億人いる{{R|BBY2014}}。なお、キリスト教以外の宗教では、[[イスラム教]]の信者は約16億人で世界総人口の約23パーセント、[[ヒンドゥー教]]の信者は約10億人で世界総人口の約14パーセント、[[仏教]]の信者は約5億人で世界総人口の約7パーセントである{{R|BBY2014}}。 === アジア地域 === 韓国・フィリピン・[[東ティモール]]等を除くと、アジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派であるところが多い。 {{main|{{仮リンク|アジアにおけるキリスト教|en|Christianity in Asia}}}}   * '''[[中華人民共和国|中国]]''':無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも[[道教]]・仏教が主であって、キリスト教の信徒数は極めて少ないと推定されていた。しかし、近年キリスト教徒の数が急増し、公式統計で約3000万人、内訳はプロテスタントが約2300万人、カトリックが600万人、ロシア正教会が約100万人とされている。さらに、アメリカの複数の機関は、実際のキリスト教徒の人口は6700万人~1億3000万人と推定しており、これは人口の10%近くになる<ref>廣田壽子 「[https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A7%E6%80%A5%E5%A2%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%BE%92-%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%9B%A3%E8%A6%96%E4%B8%8B%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%9C%EF%BC%9F/ar-BB1c3nH6 中国で急増するキリスト教徒 共産党監視下なのになぜ?]」 Forbes JAPAN (2020/12/19 11:00) 2021年1月28日閲覧</ref>。しかし人口の10%にしては影響力が感じられないため水増しではないかとも言われる{{R|kohara}}。 * '''[[大韓民国|韓国]]''':第二次世界大戦後にキリスト教徒の数が急増した。信仰を持つ宗教人口は国民の53.1%を示し、うち仏教が42.9%、プロテスタントが34.5%、カトリックが20.6%、その他が2.0%となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/data.html 日本国政府外務省HP:大韓民国]</ref>。 * '''[[タイ王国|タイ]]''':公式統計は不詳だが、カトリックが主な宗派であり、カトリック信徒数は388,468人、人口の0.58%を占めている<ref>Asaree Thaitrakulpanich 「[https://www.khaosodenglish.com/news/2019/10/02/heres-pope-francis-schedule-for-his-thailand-visit/ HERE’S POPE FRANCIS' SCHEDULE FOR HIS THAILAND VISIT]」 Khaosod English (2019/10/2 15:26) 2021年1月28日閲覧</ref>。地域的には北部に多い<ref>"[https://tuthai.org/harvest/mapping/CP/map.html?displaylang=EN&lang=pri Interactive, colour-coded maps]" Church Cloud Solutions (2021/1/27) 2021年1月28日閲覧</ref>。 {{see also|中国のキリスト教|韓国のキリスト教|タイのカトリック}} * '''[[フィリピン]]''':カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html 日本国政府外務省HP:フィリピン共和国]</ref>。 * '''[[ベトナム]]''':仏教徒が80%<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vietnam/data.html 日本国政府外務省HP:ベトナム社会主義共和国]</ref>で、カトリック信徒が少数だけ存在する。 * '''[[中央アジア]]''':[[正教会]]、[[西アジア]]では[[東方諸教会]]の信徒が少ない割合で存在している。{{See also|{{仮リンク|中央アジアにおけるキリスト教の歴史|ru|История христианства в Центральной Азии}} }} ==== 日本におけるキリスト教 ==== {{main|日本のキリスト教史}} 日本では[[フランシスコ・ザビエル]]が[[室町時代]]に[[宣教師]]として来日し、宣教を始めたのが日本キリストの始まりである。[[江戸時代]]にヨーロッパに、キリスト教ではない日本人が奴隷として連れ去られているなどとして[[豊臣秀吉]]が[[バテレン追放令]]を発布し、その後の[[江戸幕府]]も[[禁教]]・[[鎖国]]を行い、以後日本では公にキリスト教を[[信仰]]することが不可能となった。 しかし、幕府に隠れてキリストの信仰を守った人が後に[[隠れキリシタン]]と呼ばれるようになる。江戸幕府の禁教以降、日本ではキリスト教を信仰する人が少なくなり、一般民衆も[[邪宗門]]と信じてきたキリスト教への恐怖から解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。 明治維新以降も[[国家神道]]から度々排斥され、大衆の[[西欧]]化が進んだ[[第一次世界大戦]]前後や[[第二次世界大戦]]後の民主化後も、一般大衆に人気の[[日蓮]]系宗教団体や[[社会主義]]運動などの急拡大に対して増加をみなかった。増えない理由の考察としては、 * [[中流階級]]以上の[[インテリ]]で留まって[[庶民]]に入らなかった<ref name="kohara">[http://www.kohara.ac/blog/2006/02/post-275.html 日本においてクリスチャンが増えない理由? | 新聞記事 | KOHARA BLOG | 小原克博 On-Line]</ref><ref name="kusa">草原克豪 [https://www.elec.or.jp/teacher/communication/essay/print/kaitakusha_18.html 異文化交流の開拓者たち 第18回「なぜ日本ではキリスト教が広がらなかったのか」]</ref>{{R|hiromi}} * 一神教が[[八百万の神]]の信仰と合わない{{R|kusa}}<ref name="hiromi">[https://web.archive.org/web/20151216171018/http://blogos.com/article/150184/ キリスト教が日本で広まらなかった理由 - 島田裕巳(宗教学者)]</ref> * [[浄土真宗]]、[[日蓮]]系新宗教などと競合した{{R|kusa|hiromi}} * 西欧に占領されなかった<ref>[https://www.gentosha.jp/article/9392/ クリスマスを祝う日本でキリスト教が広まらない理由|知ったかぶりキリスト教入門|中村圭志 - 幻冬舎plus]</ref> などがあるが、定説は無い。 [[1970年代]]以降になると、韓国人宣教師の来日が相次いで[[統一協会]]や[[キリスト教福音宣教会|摂理]]などが社会問題化するほか、正統派の教会では[[卞在昌|韓国人宣教師によるセクハラ裁判]]などの冤罪事件が起きているが「いろんなルートで宣教師たちが入ってくるので、信頼できる人なのかをこちら側で見極めるのは難しい」([[日本福音同盟]]の[[中島秀一]]理事長)という状況となっている<ref>{{Cite news|title=AERA「日本の聖域」で卞氏続報 “韓国への弱さ”指摘|date=2010年2月6日|url=http://www.kirishin.com/2010/02/06/38547/|newspaper=[[キリスト新聞]]}}</ref>。 しかし、[[20世紀]]に入り増加した[[ミッションスクール]]や、[[1980年代]]の半ばから庶民にも流行したキリスト教会の結婚式<ref>{{Cite journal|author=ジェシー・ラフィーバー|year=2015|title=キリスト教の結婚式:現代日本における無宗教|journal=Japanese Journal of Religious Studies|volume=42/2|page=185-203}}</ref>、[[クリスマス]]、[[ハロウィン]]などは、[[ファッション]]や商業主義的な要素が強いものの人気を集めて、非キリスト教徒の間にも定着している。 [[文化庁]]が公表した2019年版の『宗教年鑑』によると日本のキリスト教人口は約192万で、2019年12月時点の日本の総人口約1億2600万{{R|christiantoday20200109}}の約1.5 %に当たるが、これは『宗教年鑑』が「キリスト教系」と分類した宗教団体の総信者数で、一般にキリスト教として非正統的と目される<ref>参考:「[http://www.kirishin.com/2022/08/02/55519/ 『キリスト教年鑑』が統一協会の掲載をやめた理由 【再録】『キリスト教年鑑』と世界基督教統一神霊協会]」『[[キリスト新聞]]』(1989年3月25日)。2022年12月27日閲覧。</ref>[[ものみの塔聖書冊子協会]](エホバの証人)の信者約21万、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教)の信者約13万、[[世界平和統一家庭連合]](統一教会)の信者約56万{{R|christiantoday20200109}}を除いた総信徒数は約102万で日本の総人口の約0.8 %となり1 %を下回る<ref name="christiantoday20200109">参考:「[https://www.christiantoday.co.jp/articles/27582/20200109/christian-population-in-japan-denomination-prefecture-ranking.htm 日本の最新のキリスト教人口は? 『宗教年鑑』2019年版教団別・都道府県別ランキング]」『[[クリスチャントゥデイ]]』(2020年1月9日)。2022年12月27日閲覧。</ref>{{Efn|2022年刊の『The Oxford Dictionary of the Christian Church』第4版では「今日の」日本のキリスト教徒の数を約200万、総人口の1 %(Derek Massarella, "Japan, Christianity in", ''The Oxford Dictionary of the Christian Church'', [[OUP]], Oxford, p. 4186. Kindle版)としている。}}。 なお、日本では行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのためキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、日本国内における全宗教の正確な信徒の数は不明である。実際、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは『宗教年鑑』の数値が各宗教団体による自己申告に基づいていることで、結果として1人が複数の宗教に帰属することによる重複のためと考えられる{{R|christiantoday20200109}}。 == 聖書 == {{出典の明記|date=2016年1月|section=1}} {{Main|新約聖書|旧約聖書}} キリスト教の聖典('''[[聖書]]''')には、ユダヤ教から受け継いだ'''[[旧約聖書]]'''と、キリスト教独自の聖典である'''[[新約聖書]]'''がある。 「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた"旧来の契約"であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であるとみなしている事による。 新約聖書は、以下の文書群を含んでいる * '''[[福音書]]''':イエスの伝記。全部で4つあり、内容には重複が見られる。 * '''[[パウロ書簡]]''':精力的に布教をした弟子である'''[[パウロ]]'''が各地の教徒に向かって書いたとされる手紙。 * '''[[公同書簡]]''':キリスト教徒一般に向けて信仰のあり方を説いたとされる書簡。 * '''[[ヨハネの黙示録]]''':ユダヤ教でいう[[黙示文学]]に属する文書で、[[終末論]]についてかかれている。 これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂されたと考える者が多い。 === 福音書等の成立年代と著者 === [[高等批評]]によると聖書の本来の著者は以下のように推測されている。 ;マタイによる福音書 :成立年代は80年代、場所は西シリア、著者は異邦人出身の無名のキリスト者とされる<ref>『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P916 (マタイ福音書の解説 佐藤)</ref>。 ;マルコによる福音書 :執筆年代は70年代、場所は正確には不明(南シリア説が説得的)、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、便宜的に伝説上のマルコという名前を使ったとされる<ref>『新約聖書』岩波書店P915(マルコ福音書の解説 佐藤)</ref>。 ;ルカによる福音書 :執筆年代は80年代、場所は地中海沿岸の都市(エジプトとパレスチナ以外)、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、便宜上伝説にしたがって「ルカ」と呼ぶ<ref>『新約聖書』岩波書店P917 (ルカ福音書の解説 佐藤)</ref>。 ;ヨハネによる福音書 :執筆年代は90年代、場所はシリアかエフェソで成立したようである。著者は無名の作者で、彼をよく理解した別の人物が今の形に成したとされる<ref>『新約聖書』岩波書店P918 (ヨハネ福音書の解説 小林)</ref>。 ;使徒行伝 :執筆年代は90年代、場所は地中海沿岸の都市のどこか、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、彼を「ルカ」としたのは古代教会の俗説<ref>『新約聖書』岩波書店P919 (使徒行伝の解説 荒井)</ref>。 ;パウロ書簡 :パウロ自身が記したのは、 :*テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)<ref>『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P920 テサロニケ人への第一の手紙解説 青野</ref> :*コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P921 コリント人への第一の手紙解説 青野</ref> :*コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)<ref>『新約聖書』岩波書店P922 コリント人への第二の手紙解説 青野</ref> :*ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P924 ガラテヤ人への手紙解説 青野</ref> :*フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P925 フィリピ人への手紙解説 青野</ref> :*フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P927 フィレモンへの手紙解説 青野</ref> :*ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)<ref>『新約聖書』岩波書店P928 ローマ人への手紙解説 青野</ref> :と推測される。これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる<ref>『新約聖書』岩波書店P929~P933 (コロサイ、テサロニケ第二、テモテ第一、第二、ヘブルにおける各解説)保坂 小林 </ref>。 ;公同書簡 :使徒の名前を付けているが、各々の書簡を名前も人物も不祥の別々の者が書いたとされる<ref>『新約聖書』岩波書店P934~P938 (ヤコブ、ヨハネ、ペトロ第一、第二、ユダにおける各解説)小林、大貫</ref>。 ;ヨハネの黙示録 :著者は小アジアに住み着いた無名のパレスチナユダヤ人、執筆年代は95年から96年頃とされる<ref>『新約聖書』岩波書店P939 ヨハネ黙示録の解説 小河</ref>。 === 正典、続編、外典、偽典など === {{Main|正典|聖書正典|第二正典|旧約聖書続編|タナハ|外典|偽典|en:Biblical canon}} 聖書に属すると認められている文書群を'''[[聖書正典]]'''と呼ぶが、どこまでを正典とみなすかには教派毎に差がある。(教派毎の詳細な正典一覧は[[:en:Biblical canon|Biblical canon]]を参照)。 新約聖書に関しては、正典の範囲に教派毎の差がほとんどなく、カトリック、プロテスタント、東方正教会、ほとんどの東方諸教会が同一の27書を正典とする{{Efn|ただし、ルターはうち4つ([[ヤコブの手紙|ヤコ]]、[[ユダの手紙|ユダ]]、[[ヘブライ人への手紙|ヘブ]]、[[ヨハネの黙示録|黙]])に疑問符をつけた。[[シリア正教会]]では古くは[[ヨハネの手紙二|2ヨハ]]、[[ヨハネの手紙三|3ヨハ]]、[[ペトロの手紙二|2ペト]]、[[ユダの手紙|ユダ]]、[[ヨハネの黙示録|黙]]を除いていたが、現在ではこれらも正典に入れている。また[[非カルケドン派正教会|非カルケドン派]]のTewahedo正教会<sub>([[:en:Orthodox Tewahedo|英語版]])</sub>は通常の27書の他にさらに8書を「border cannon」として含める<sub>([[:en:Orthodox Tewahedo biblical canon|英語版]])</sub>)。}}。 一方、旧約聖書に関しては教派ごとの異同が激しい。プロテスタント(39書)よりもカトリック(46書)の方が多くの文書を含み、カトリックよりも東方正教会(51書)や東方諸教会の方が多くの文書を含む<ref name="en-Biblical-Old">[[:en:Biblical canon|Biblical canon]]、[[:en:Old Testament|Old Testament]]</ref>。プロテスタントがカトリックよりも文書数が少ないのは、カトリックが使っていた旧約の文書のうち[[ヘブライ語聖書|ヘブライ語で書かれたもの]]のみを正典と認めたことによる。こうした理由により、プロテスタントの旧約聖書に含まれている文書はユダヤ教の正典である[[タナハ]]に含まれる文書と同じである{{Efn|ただし、文書の区切り方が違うので、タナハでは全24書となっている。}}。 各教派において聖書正典に含まれなかった文書群を'''[[第二正典]]、[[旧約聖書続編|続編]]、[[外典]]、[[偽典]]'''等と称するが、これらが示す範囲は言葉ごとに異なる。 == 教派による用語の違い == {{Main|教派別のキリスト教用語一覧|キリスト教用語一覧}} キリスト教の各教派によって使う用語には以下のような対応がある。ただし、教派ごとの教義の違いがあるため、完全に対応しているわけではない。 {| class="wikitable" style="width:90%;" |- | colspan="5" style="text-align:center; background-color:#cfc;"|祈祷・儀礼用語の[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]別対応表 |- | style="width:20%; text-align:center;" | 教派 | style="width:20%; text-align:center; background-color:#ddf;" | '''[[カトリック教会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#ddf;" | '''[[聖公会]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#ddf;" | '''[[プロテスタント]]''' | style="width:20%; text-align:center; background-color:#ddf;" | '''[[正教会]]''' |- | style="text-align:center;" | 祈祷・儀礼の総称 | style="text-align:center;" | '''[[典礼]]''' | style="text-align:center;" | '''[[礼拝]]''' | style="text-align:center;" | '''[[礼拝]]''' | style="text-align:center;" | '''[[奉神礼]]''' |- | style="text-align:center;" | [[ラテン語|羅]]: '''[[サクラメント]]'''<br />[[ギリシャ語|希]]: '''ミスティリオン''' | style="text-align:center;" | '''[[秘跡]]''' | style="text-align:center;" | '''[[聖奠]]''' | style="text-align:center;" | '''[[礼典]]''' | style="text-align:center;" | '''[[機密 (正教会)|機密]]''' |} == 他宗教との関係 == {{Main|キリスト教と他宗教との関係|キリスト教とユダヤ教|キリスト教とイスラム教}} キリスト教、[[ユダヤ教]]、[[イスラム教]](イスラーム)は、唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有していることから、「[[アブラハムの宗教]]」として類縁関係を強調されることがある。ほかに[[ミトラ教]]、[[マニ教]]などとの関係も宗教学・歴史学などで研究されている。 === 古代異教由来の事物の取り込みと一神教の変容 === {{出典の明記|date=2020年5月|section=1}} 正統派とされるキリスト教では、[[多神教]]世界に布教する際、他の宗教の神殿の場所に教会を建立することを奨励した。この結果、多く女神の神殿が[[聖母マリア]]に捧げられる教会に変えられた。そのような女神の例として[[ミネルウァ|しれいさま]]などが指摘される。 == キリスト教の文化的影響 == {{出典の明記|date=2016年1月|section=1}} [[ファイル:Notre-Dame_de_Paris_2792x2911.jpg|right|thumb|180px|[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|パリのノートルダム大聖堂]]。[[ゴシック建築]]を代表する建物]] === 建築への影響 === 中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は見る者を圧倒する。それらは教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。 さらにキリスト教の教会に由来する共同体概念、とりわけプロテスタントの理念である「見えざる教会({{lang|de|Unsichtbare Kirche}})」は、[[バウハウス]]など近代建築にも影響を与えた。[[ヴァルター・グロピウス]]はバウハウスの雑誌の表紙に教会を現した自作の版画を沿え、「見えざる教会」がバウハウス運動の理念でもあると語っている{{要出典|date=2018年9月}}。 [[東ヨーロッパ|東欧]]では[[ビザンティン建築]]が独自の発展を遂げたが、近現代に至って[[新古典主義]]の影響を[[西ヨーロッパ|西欧]]から若干受けている{{要出典|date=2018年9月}}。 === 美術への影響 === [[ファイル:Canterbury_Cathedral_020_Poor_Mans_Bbible_Window_01.jpg|thumb|right|150px|[[カンタベリー大聖堂]]の[[ステンドグラス]]]] {{See also|初期キリスト教美術|キリスト教美術史}} 初期キリスト教美術は[[ローマ美術]]をもとに始まったが、やがて写実性より精神性などを重視するようになり様式化が進んだ。中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、[[聖人]]の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。 一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期にはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より[[古典古代]]への関心が復活([[12世紀ルネサンス]])するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえば[[ボッティチェッリ]]『[[ヴィーナスの誕生]]』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。 対して東方教会では、[[イコン]](聖像)の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、[[印象派]]風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。また近世以降は[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]などのように、イコンから離れた美術の領域で正教会の題材を用いる藝術家も現れた{{要出典|date=2018年9月}}。 なお、キリスト教はかなり緩いながらも偶像崇拝を禁止しているため、キリスト教美術の場合には彫刻や絵画が直接の信仰の対象になることはない<ref>島田裕巳『日本人の信仰』p.147 扶桑社新書、2017年、ISBN 978-4594077426</ref>。 === 音楽への影響 === {{Main|キリスト教音楽}} {{Main2|正教会聖歌作曲家の一覧は[[:Category:正教会聖歌作曲家]]を}} [[ファイル:gregorian_chant.gif|thumb|150px|right|[[グレゴリオ聖歌]]の楽譜の一例。『[[リベル・ウズアリス]]』[[キリエ]]・エレイソン(オルビス・ファクトール)の冒頭部の[[ネウマ譜]]]] キリスト教会では典礼での必要上、独特の[[教会音楽]]を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる[[教会旋法]]が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日[[グレゴリオ聖歌]]として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律([[モノフォニー]])であるが、9世紀頃には、これに[[オルガヌム]]声部を加えた複旋律([[ポリフォニー]])が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための[[楽譜]]が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが[[五線譜]]を用いた[[記譜法]]、[[和声|和声法]]や[[対位法]]などの[[音楽理論]]へと発展していくことになる。 教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる<ref>岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中央公論新社〈中公新書〉、2005年、ISBN 9784121018168 など</ref>。 作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいて[[イタリア]]の[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]や[[スペイン]]の[[トマス・ルイス・デ・ビクトリア|ビクトリア]]といった大家が現れた。しかし[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]までは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえ[[ミサ曲]]や[[レクイエム]]は[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]や[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]をはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会では[[オルガン|パイプオルガン]]が好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら、現在も使われていることが多い。 また20世紀に入るとアメリカの[[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系市民]]の間で歌われていた賛美歌([[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]])が、[[レイ・チャールズ]]などの手によって[[ポップ・ミュージック]]に導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。 [[ファイル:PGRS_2_009_Bortniansky_-_crop.jpg|thumb|100px|[[ドミトリー・ボルトニャンスキー]]]] 一方、器楽の使用を原則として禁じた[[正教会]]においては、[[東ローマ帝国]]地域で[[ビザンティン聖歌]]が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンティン聖歌にロシア固有の要素を取り入れた[[ズナメニ聖歌]]といわれる無伴奏声楽曲が発達した。ビザンティン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。 [[18世紀]]以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアで[[ドミトリー・ボルトニャンスキー|ボルトニャンスキー]]が活躍。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]や[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]といった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌では[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の『[[徹夜祷 (ラフマニノフ)|徹夜禱]]』が有名であり、聖歌を専門にした作曲家では[[アレクサンドル・アルハンゲルスキー|アルハンゲルスキー]]が著名であるが、[[ブルガリア]]の[[ドーブリ・フリストフ|フリストフ]]や[[セルビア]]の[[ステヴァン・フリスティッチ|フリスティッチ]]、[[エストニア]]の[[アルヴォ・ペルト|ペルト]]も正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが[[19世紀]]後半から正教会では行われていたが、[[共産主義]]政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている<ref>コンスタンチン・P・コワリョフ『ロシア音楽の原点 ボルトニャンスキーの生涯』ウサミ・ナオキ訳、新読書社、1996年、ISBN 9784788061057 など</ref>。 === 文学への影響 === [[ファイル:Inferno_Canto_3_Charon_strikes_lines_107-108.jpg|thumb|right|250px|『神曲』「地獄篇」の挿絵]] 中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネの『[[レゲンダ・アウレア|黄金伝説]]』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている<ref>ヤコブス・ア・ウォラギネ『黄金伝説抄』新版、[[藤代幸一]]訳、新泉社、1994年、ISBN 9784787794246、<!-- ページ数不明 -->訳者解説など</ref>。 また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、『旧約聖書』の『[[創世記]]』、[[ノアの方舟|ノアの箱舟]]、[[モーセ]]の[[出エジプト記|出エジプト]]、士師たちの[[年代記]]、そして教義の根幹を支える『福音書』の受難物語などは、文学者たちにインスピレーションを与え続けてきた。[[ジョン・ミルトン]]の『[[失楽園]]』、[[オスカー・ワイルド]]の『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば日本の[[ライトノベル]]に至るまで多くの分野に影響は及んでいる。 キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、[[フランシスコ会]]の神学を参照しつつキリスト教的世界像を提出する[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済される[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』、キリストと異端審問官とを対決させた[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』(「大審問官」の章)などが有名である。 また、[[アウグスティヌス]]や[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・ロヨラ]]などの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式が西ヨーロッパで成立するにあたり、大きな影響を与えた。 === 哲学への影響 === [[ファイル:St-thomas-aquinas.jpg|thumb|150px|トマス・アクィナス]] 西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」([[ペトルス・ダミアニ]])であった。 11世紀頃より西ヨーロッパでは[[スコラ学]]が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介された[[アリストテレス]]哲学をキリスト教神学に融合させた[[トマス・アクィナス]]の業績は、ことに有名である。すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った[[普遍論争]]など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われている。 15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。 === 科学への影響 === [[ファイル:Copernicus.jpg|thumb|120px|著書『[[天球の回転について]]』をローマ教皇庁に一時閲覧禁止とされたカトリック司祭コペルニクス]] 「[[科学者|scientist(科学者)]]」という名称がヒューウェルによって造語されて用いられ始めたのは19世紀のことだが、それは近代的な意味での「科学」を扱っていた[[自然哲学者]]を、他の自然哲学者から区別するためであった。とはいえ、科学者たちの社会的認知度・社会的地位はすぐには上がったわけではなく、それを向上させようとした科学関係者(科学者、科学史家ら)たちは、世の人々に対して、"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた"という図式で、ものごとを説明したがる傾向があった。そして、そのような図式を描くためには、たいていは迫害を恐れて自説を公表しなかった[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]や、[[ガリレオ・ガリレイ]]の事例を、特定の視点で取り上げ、強調した。結果として、"キリスト教(カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった"といったような単純化された説明が(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになった。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっていたこともあって、その観点は広く共有された。 しかし、キリスト教と科学の実際の関係はもっと豊穣で複雑なものであった。例えば科学史家[[村上陽一郎]]がヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったと指摘している<ref>村上陽一郎『科学史からキリスト教をみる』創文社〈長崎純心レクチャーズ〉、2003年、ISBN 9784423301142</ref>。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘である。また、近世における科学の発展の背後には「神による啓示の書として自然界と聖書がある」というキリスト教信者としての意識があったという指摘もある<ref>渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社〈講談社ブルーバックス〉</ref>。科学者達の多くもむしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであった点は指摘されなければならない。例えば西洋近代科学の祖となった科学者たち、すなわち[[コペルニクス]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]、[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]らの発言からは、いずれも熱心なキリスト教信仰が認められるし、[[アンドレ=マリ・アンペール|アンペール]]や[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]など、偉大な科学者と呼ばれた多くの人々は創造主である神の存在を信じていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://opusdei.org/ja-jp/gallery/gallery-4/|title=神を信じる著名な科学者たち - Opus Dei|accessdate=2018-04-06|website=opusdei.org|language=ja}}</ref>。[[カトリック教会]]・[[聖アウグスチノ修道会]]の[[修道士]]かつ[[司祭]]であり、のちには[[修道院長]]も務めた[[グレゴール・ヨハン・メンデル]]は、遺伝に関する法則([[メンデルの法則]]、[[1865年]]に報告)を発見した事で有名である。また、宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者である宇宙物理学者の[[ジョルジュ・ルメートル]]はカトリックの司祭でもあった。『[[ネイチャー]]』が[[物理学者]]や[[数学者]]など1000人に行ったアンケートでは「神を信じる」との回答が39パーセントであった<ref>山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106<!-- ページ数不明 --></ref>。 [[ファイル:Gregor Mendel.png|thumb|right|120px|[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]]] [[修道院]]が先進技術の発展に貢献した例も多数ある。[[14世紀]]・[[15世紀]]において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の[[輪作|輪作技術]]を導入したのは、[[ロシア正教会]]の[[ロシア正教会の歴史#荒野修道院の成立|荒野修道院]]群であったと考えられている<ref>三浦清美『ロシアの源流』講談社選書メチエ、2003年、pp. 150-152, ISBN 978-4-06-258274-2</ref>。 ただし、現代において[[創造論]]と[[進化論]]や、[[クローン]]技術、[[脳科学]]、[[同性愛]]等の研究分野において[[プロテスタント]]の一部に根強い[[聖書無謬説|聖書主義]]の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること([[進化論裁判]])も稀ではない。人が自身の常識に反することに対して、宗教を拠り所にして抑圧するという問題はキリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化においても起こりえる事である。しかし、その中でもキリスト教は規模と政治力が巨大なため、しばしば世界的な問題に発展するのである。地動説を唱えた[[ジョルダーノ・ブルーノ]]は火刑に処せられてしまった。 === 生活・その他への影響 === [[医療]]・病院のルーツの多くが修道院にある。旅人を宿泊させる巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス({{lang|en|hospice}})が、がんで余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したこと、歓待({{lang|en|hospitality}})が、病院({{lang|en|hospital}})の[[語源]]でもあることはあまり知られていない。 修道院で[[リキュール]](薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来し、今日でも多くのリキュール・[[ワイン]]・[[ビール]]といったアルコール類が一部の修道院で醸造されている(ワインは[[ミサ]]・[[聖餐|聖餐式]]・[[聖体礼儀]]用でもある)。これらの[[酒|酒類]]の中には、[[シャルトリューズ]]など有名なブランドとなっているものも珍しく無い。 また、[https://aipus.jimdo.com/ アイプス会]といったキリスト教の教義を一部採用した友愛団体も存在する。 === キリスト教に起源を持つ諺や慣用句 === {{See also|Category:聖書の語句|Category:イエス・キリストのたとえ話}} * 笛ふけど踊らず(マタ1:17、ルカ7:32) * 人はパンのみにて生きるにあらず(申命8:3、マタ4:4、ルカ4:4) * [[地の塩、世の光]](マタ5:13-16、マコ9:48-50、ルカ14:34-35) * 目には目を、歯には歯を(出エ21:24-25。ただし、この言葉はさらに古く[[ハンムラビ法典]]に遡れる) * 右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい(マタ5:39) * 豚に真珠(マタ7:6) * 求めよ、さらば、与えられん(マタ7:7) * 狭き門より入れ(マタ7:13) * 羊の皮を被った狼(マタ7:15) * 砂上の楼閣(マタ7:26、ルカ6:49) * [[カエサルのものはカエサルに]](マタ 22:17-21、マコ12:14-17、ルカ 20:22-25)なお、当時の[[カエサル (称号)|カエサル]](ローマ皇帝の称号)は[[ティベリウス]]である。 * [[善きサマリア人の法]]([[善きサマリア人のたとえ]]、ルカ10:25-37) * 目から鱗(使徒9:18) * [[働かざる者食うべからず]](2テサ3:10) * [[エピメニデスのパラドックス|クレタ人のパラドックス]](テト1:12) * [[獣の数字]](黙13:18) * [[ハルマゲドン]](黙16:16) * [[三位一体]] * [[アーメン]] * [[ハレルヤ]] * 美術の題材として[[メメント・モリ]]、[[ヴァニタス]]、[[死の舞踏]]、[[トランジ]]、[[エマオ]](ルカ24:13-3)、[[落穂拾い]](レビ19:9-10、ルツ) * 英語の間投詞として「God bless you」、「Oh my God」、「Jesus」など。 * 文学作品のタイトル ** 『[[エデンの東]]』(創4:16)、『[[怒りの葡萄]]』(黙14:10)[[ジョン・スタインベック]]著。なお「怒りの葡萄」は[[リパブリック賛歌]]の歌詞でも使われている。 ** 『[[クォ・ヴァディス]]』((主よ)、どこに行かれるのですか。ヨハ13:36)。[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]著 ** 『[[この人を見よ (ニーチェ)|この人を見よ]]』([[エッケ・ホモ]]。ヨハ19:5)、『[[アンチ・クリスト]]』([[反キリスト]]、1ヨハ2:18、2:22、4:3、2ヨハ1:7)[[フリードリヒ・ニーチェ]]著 ** 『メトセラへ還れ』([[メトシェラ]]。創5:21) [[ジョージ・バーナード・ショウ]]著 * その他 ** 牧師でもあった[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]の演説「[[I Have a Dream]]」では詩30:5、アモ5:24、イザ40:4-5が引用されている。 == キリスト教に基づくとされている習俗 == {{出典の明記|date=2020年5月|section=1}} キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い<ref>[[#高尾 1996|高尾 1996]], p. 260.</ref>、またそれによって信者の生活を規定するが、一方で各地の習俗と融合した教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説する。この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在している。クリスマス前の[[アドベント]](待降節)、[[公現祭]]、[[謝肉祭]](カーニバル)、[[灰の水曜日]]、[[枝の主日]]/[[聖枝祭]]、[[ペンテコステ]](聖霊降臨祭)、大勢の[[聖人]]の祝日や記念日、また[[四旬節]]/[[大斎 (東方正教会)|大斎]]や曜日を定めての節制などがある。これらに関しては'''[[教会暦]]'''を参照されたい。 === クリスマス === [[ファイル:Juletræet.jpg|thumb|150px|クリスマスツリー]] {{main|クリスマス}}{{see also|神現祭}} ツァドク暦の祝祭日ではない。クリスマス(降誕祭)はイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、正解なイエスの誕生日は今なお不明である。[[ローマ帝国]]時代、[[ミトラ教]]の[[冬至]]の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、[[12月25日]]に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに[[1月6日]]に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。[[ヨハネス・クリュソストモス]]は12月25日をクリスマスとすることを支持した[[386年]]の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。 また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係であり、キリスト教が布教されるにあたって土着の習俗を飲み込んでいったことを物語る。たとえば[[クリスマスツリー]]を飾る習慣は15世紀に南ドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。[[サンタクロース]]は[[ミラのニコラオス|聖ニコラス]]の伝説や、イギリスの {{lang|en|Father Christmass}} の伝承などを基礎に、ニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである<ref>クロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952、17-27頁など</ref>。 === 復活祭(イースター) === [[ファイル:Easter-Eggs-1.jpg|thumb|right|150px|チョコレートのイースター・エッグ]] {{main|復活祭}} ツァドク暦の祝祭日ではない。[[復活祭]](イースター、[[復活大祭]]、パスハ)はイエス・キリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつ最古に成立した祭のひとつである。[[西方教会]]における現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵([[イースター・エッグ|イースターエッグ]])を配るなどの習俗がそれに該当する<ref>[[#高尾 1996|高尾 1996]], p. 258.</ref>。なおユダヤ教の[[過越|過ぎ越し]]にも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。 === 結婚式 === [[ファイル:Resort_wedding.jpg|thumb|right|150px|「教会式」結婚式]] 宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの[[秘跡]]([[機密 (正教会)|機密]])のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の[[典礼]]として行われる。結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、[[カトリック教会]]では典礼は略式化され、[[東方教会]]・[[正教会]]では[[奉神礼]]の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教派・教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。[[プロテスタント]]における結婚は、カトリックの秘跡に相当する[[礼典|聖礼典]]には含まれない(そのため、聖礼典執行資格のない伝道師など下位教職でもこれを行うことが出来る)。ただし、人生の節目であることに違いはなく、新たに結婚する二人を[[祝福]]する<ref>[[徳善義和]]・[[百瀬文晃]]編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』教文館、1998年、ISBN 9784764263482、160-161頁。</ref>。 キリスト教式の結婚式では、「誓いの[[接吻|キス]]」が必須であると思われることがときにあるが、西方教会主要教派の典礼は基本的にそのようなものを含まないことが多い{{Efn|例えば『[[日本聖公会]]祈祷書』の「聖婚式」の章には接吻についての記述は一度も出てこない。}}。ただし、[[正教会]]では[[婚配機密]]の最後にキスをする<ref name="seiji35">{{Cite | 和書 | title = 聖事経 | publisher = 大日本正教会 | year = 1895 | url = {{NDLDC|824745}} | id = {{NDLJP|824745}} | page = [{{NDLDC|824745/67}} 122]}}</ref>。 {{Main|婚配機密}} 現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっている。結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された「牧師」の下に司式されることが多い。そういった司式者の資格やその下に挙行された結婚式の有効性についての議論も存在する。 === バレンタインデー === {{Main|バレンタインデー}} 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。これもキリスト教の教義には根拠がなく、もともとはローマ帝国時代の女神[[ユーノー|ユノ]]の祝日が起源であり、それが後になって殉教聖人のバレンタインに結び付けられたとみられる。 日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へチョコレートを贈る習慣が定着し、1990年代ごろから他の業界も積極的に販売政策に利用した。俳句の季語にもある、なじみのある行事となっている。 == キリスト教が影響した出来事 == ===国教としての唯一神教関連=== * 1096年、[[民衆十字軍]]は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺した。この詳細については[[十字軍#民衆十字軍]]を参照。 * 1096年 - 1099年、[[第1回十字軍]]はイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行う。この詳細については[[十字軍#第1回十字軍]]を参照。 * 1107年 - 1110年、ノルウェー十字軍は聖地へと航海をする途上、各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返す。この詳細については[[ノルウェー十字軍]]を参照。 * 1198年 北方十字軍。1193年に教皇はバルト海沿岸の異教徒に対する十字軍を布告し、1198年に十字軍の使節団がリヴォニア(現在のラトビアのリガ湾に囲まれたところ)に上陸した。この詳細については[[北方十字軍]]を参照。 * 1204年、[[第4回十字軍]]おいては、当初の目的であった聖地には向かわず、同じキリスト教国であった東ローマ帝国を攻略し、ギリシア人住民2000人以上が死亡した。この詳細については [[第4回十字軍]]、[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|コンスタンティノープル包囲戦(1204年)]]を参照。 * 1493年、コロンブスの率いるスペイン軍は、数ヶ月で5万人以上のインディアンを殺害した。以後10年間にわたり毎回数千人の住民を殺害する。この詳細については[[クリストファー・コロンブス#インディアンへの大虐殺]]を参照。 * 1533年、スペイン人のコンキスタドールにインカ帝国は滅ぼされる。この詳細については[[インカ帝国]]を参照。 * 1521年エルナン・コルテスはメキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。この詳細については[[アステカ#滅亡]]を参照。アステカ帝国の征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。この詳細については[[アステカ#植民地時代の人口減少]]を参照。 * ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植。この詳細については[[イギリスによるアメリカ大陸の植民地化]]、および、[[フランスによるアメリカ大陸の植民地化]]を参照。 === 正統派信仰と異端信仰関連 === * 1309年、貧者十字軍は、各地で強盗掠奪騒動を起こした。この詳細については、[[貧者十字軍]]を参照。 * 1209年 - 1215年、アルビジョア十字軍は約1万人の住民をアルビ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。この詳細については、[[アルビジョア十字軍#初期]]を参照。 * 1633年、地動説を唱えたガリレオは有罪となる。地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を、ガリレオは読み上げた{{Efn|ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。}}。この詳細については、[[ガリレオ・ガリレイ#第2回の裁判]]を参照{{Efn|異端排斥は天体科学への障害ともなっていた。異端尋問は、中世=暗黒時代観やジャンヌダルクの刑死とも関連が深い。}}。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist| refs= {{Efn|name="異論"|「[[カトリック (概念)]]」を参照。ただし、異論はある。異論は[[小田垣雅也]]『現代のキリスト教』[[講談社学術文庫]]、1996年、ISBN 4061592548、166頁を参照。}} {{Efn|name="山我2002"|新約聖書は神を固有名詞では呼ばず、単に「主」や「神」、「父」というように普通名詞で呼んでいる。固有名詞は特殊性を表現するが、普通名詞は普遍性を表現するということも、世界宗教として広がっていくうえで有利に働いた要素の一つである。([[山我哲雄]]「神名」『[[岩波キリスト教辞典]]』2002年、608頁)}} }} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="BBY2014">{{cite book |url=https://books.google.co.jp/books?id=LccRAwAAQBAJ&pg=PA324&dq=%22Worldwide+Adherents+of+All+Religions+by+Six+Continental+Areas,+Mid-2013%22&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjZ8tDQ4djqAhWGA4gKHTPaBacQ6AEwAHoECAYQAg#v=onepage&q=%22Worldwide%20Adherents%20of%20All%20Religions%20by%20Six%20Continental%20Areas%2C%20Mid-2013%22&f=true |chapter=Worldwide Adherents of All Religions by Six 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[[Google Books]] |accessdate=2020-05-26 |isbn=1625131224 |editor=[[Encyclopaedia Britannica]] |year=2014 |page=324}}</ref> <ref name=Christianitas>[[高柳俊一]]「キリスト教」『[[新カトリック大事典]]』[[研究社]]、[https://kod.kenkyusha.co.jp/service/ KOD]. 2022年11月11日閲覧。</ref> <ref name="Knox1911">[[ジョージ・ウィリアム・ノックス]] "[[wikisource:en:1911 Encyclopædia Britannica/Christianity|Christianity]]"『[[ブリタニカ百科事典第11版]]』第6巻、1911年。2020年7月26日閲覧、参照。</ref> }} == 参考文献 == * [[岡田暁生]]『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2005年、ISBN 9784121018168 * [[フスト・ゴンサレス]]著『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩 訳、[[教文館]]、2010年、ISBN 9784764240353 * コンスタンチン・P・コワリョフ『ロシア音楽の原点 [[ドミトリー・ボルトニャンスキー|ボルトニャンスキー]]の生涯』ウサミ・ナオキ訳、新読書社、1996年、ISBN 9784788061057 * {{cite book |和書 |author=高尾利数|authorlink=高尾利数|title=キリスト教を知る事典 |publisher=[[東京堂出版]] |year=1996 |isbn=9784490104356 |ref=高尾 1996}} * {{cite book |和書 |author=高橋保行|authorlink=高橋保行|title=ギリシャ正教 |series=[[講談社学術文庫]] |publisher=[[講談社]] |year=1980 |isbn=9784061585003 |ref=高橋 1980}} * 高橋保行『東方の光と影』[[春秋社]]、1991年、ISBN 9784393261033 * 千代崎秀雄『聖書おもしろ事典』[[有斐閣]]〈有斐閣新書〉、1985年、ISBN 9784641090514 * 徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』教文館、1998年、ISBN 9784764263482 * 久松英二『ギリシア正教 東方の智』講談社選書メチエ、2012年、ISBN 9784062585255 * トマス・ホプコ著『正教入門シリーズ1 正教要理』ダヴィド水口優明 訳、[[日本正教会]]西日本主教区、2012年 * ドナルド・K・マッキム編著『リフォームド神学事典』石丸新、望月明、村瀬俊夫 監修、[[いのちのことば社]]、2009年、ISBN 9784264027294 * [[村上陽一郎]]『科学史からキリスト教をみる』[[創文社]]〈長崎純心レクチャーズ〉、2003年、ISBN 9784423301142 * [[山北宣久]]『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106 * アラン・リチャードソン著『キリスト教教理史入門』シリル・H・パウルス訳、聖公会出版、1978年5月10日第2刷 * [[クロード・レヴィ=ストロース]]『サンタクロースの秘密』[[中沢新一]]訳、[[せりか書房]]〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952 * 『[[カトリック教会のカテキズム]]』[[カトリック中央協議会]]、ISBN 9784877501013 * {{cite book |和書 |author=新約聖書翻訳委員会 |title=[[岩波訳聖書#旧約聖書翻訳委員会訳聖書・新約聖書翻訳委員会訳聖書|新約聖書]] |publisher=[[岩波書店]] |year=2004 |ref=岩波委員会訳}} 訳者、 佐藤研 小林稔 荒井献 青野太潮 保坂高殿 大貫隆 小河陽 (解説 、佐藤研 小林稔 青野太潮 保坂高殿 大貫隆 小河陽) 補注・用語解説 新約聖書翻訳委員会   * 岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年 編集者 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 執筆者 青木茂 他多数  == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|キリスト教|[[画像:Golden_Christian_Cross.svg|35px|Portal:キリスト教]]}} {{Sisterlinks|commons=Category:Christianity|d=Q5043}} * [[キリスト教年表]] * [[キリスト教諸教派の一覧]] * [[日本のプロテスタント教派一覧]] * [[キリスト教用語一覧]] * [[教派別のキリスト教用語一覧]] * [[キリスト教の聖人一覧]] * [[神学者の一覧]] * [[日本のキリシタン一覧]] * [[日本のプロテスタント人名一覧]] * [[キリスト教文学一覧]] {{キリスト教 横}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きりすときよう}} [[Category:キリスト教|*]] [[Category:宗教の歴史]] __目次強制__ __インデックス__
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儒教
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教(中国語版)ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。 中国やその周辺の東アジア諸国で信仰・研究されていた宗教、または学問。一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度や当時の習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問など、または、社会規範や習俗として行われた。 アニミズムやシャーマニズムを背景に成立し、東周・春秋時代に魯の孔子やその後の儒者によって自覚された。主な教義として、堯舜・文武周公の古の聖賢の政治を理想として「周礼」を復活させることや、家族や君臣の秩序を守ることなどが挙げられる(#教義・学説を見よ)。孔子やその弟子たちの教団は儒家と呼ばれ、諸子百家の一つに数えられる。また、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生などと呼ぶ。孟子は徳によって天下を治め(王道政治)、武力による覇道を批判し、禅譲と放伐により歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。時の為政者に法家、老荘思想や道教などが信仰されたこともあり、儒教は弾圧されることもあったが、前漢になると保護され、新・後漢で国教とされた。唐代には仏教が広く信仰され、再び影を潜めた。宋代には朱子学が起こり、より哲学的な宋明理学体系が生み出された。朱子学は政治と密接な関係を持ち、「修己治人」(有徳者が為政者となる)や「修身・斉家・治国・平天下」(自分・家・地方を治め得る人物が天下を握る)「経世済民」(世を治め人々を救う)といった教えがあり、科挙受験のために必要不可欠となった。 儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。 春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれる。 『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を造()す」という記述がある。 孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった。 漢の武帝のとき、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。霊帝のとき、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。このとき作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。 宋代に朱熹が『礼記』のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。これを道統説という。 朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く 儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。 この他にも、忠義、孝、悌という教えもある。 子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」周礼は五礼て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する。五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。 『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある。孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている。易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」 とある。乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。では天地とは何色であるのだろうか。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。ゆえに、祭礼用の衣装である冕服(袞衣)の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。また、『書経』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。 中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟・孔廟・夫子廟ともいう(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名)。中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。 日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。 儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」 として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。 東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。 春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。 その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 秦は商鞅の変法によって伝統で氏族社会を解体し、韓非子に代表される法家思想によって中華統一の基盤を整備した。始皇帝が六国を滅ぼし中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。 陳勝・呉広の乱後、項羽を倒して中華を再統一した劉邦は、漢(前漢)を建国した。そして地域差のある氏族制解体に対応するため、郡国制を採用し、黄老思想(黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。この政策は文帝・景帝にも引き継がれた。道家系の黄老思想が流行る中で、叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。 武帝のとき、漢は匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。班固『漢書』によれば儒者・董仲舒は五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けたという(ただし、『史記』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてという説もある)。武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の公孫弘のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された。 また、五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。 前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝のときには経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。 董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した。 前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の王莽も後漢の光武帝も盛んに利用した。一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。 前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写され『今文経』と言われる。これに対し、孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『古文経』が発見された。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようと、今文経学と学派争いを引き起こした。平帝のときには『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢では、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけた。章帝のとき、今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。 古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、六経全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。 今文学では古文学説の弱点を研究して反駁した。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けた。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。 魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。 この時代老荘思想と『易』に基づく玄学が隆盛した。玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。 南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、南朝梁の武帝のときには五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。 南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。南朝梁の費甝の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。 北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉炫が出た。 北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝のとき、劉焯・劉炫の二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。 隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。 唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。 こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。 唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。 また、唐代は儒教・仏教・道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、劉禹錫(772年-842年)は仏教・儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていたが、玄宗は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える。 宋ははじめ唐の継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。宋初三先生の一人の石介は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った。 しかし、宋の天下が安定した仁宗のときになると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。 漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。 神宗のときになると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程顥・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。 この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程顥の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。 宋代は北方を金代に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。 孝宗のときには、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子の胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦・輔広・邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。 同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。 また、朱熹は経書を用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。朱熹は科挙をただ暗記するだけの学問であると批判した。というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた。 陸九淵の学は明代の王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。 寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相の趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。 理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗のときには『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。 従来、金代では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。 元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。 元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。また、金代(1115年-1234年)に成立した全真教においては、儒教道教仏教の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく。 明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。 永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。 明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。 明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。 この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。 理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。 社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。 明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。 一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿がうかがえる。 明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。 明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。 一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。 こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。 清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。 乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州府を中心とする呉派、徽州府出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。 道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。 アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曽国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。 変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した「孔教」を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。この他に賛同した著名人として厳復がいる。 1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。 清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。 マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国が成立すると、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。なお毛沢東は『三国志』を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。 だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。 孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を孔子学院と名付け世界展開を進めている。また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。 ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている。 ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会主義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている。 朝鮮は本家中国以上に儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。李氏朝鮮の統治階層であった両班は自らを儒教の継承人と見做し、儒教の浸透に深く関わった。 漢王朝(北属期)の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。10世紀に李朝が成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。15世紀に後黎朝が成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、中国文化圏としての色彩を強めるに至った。18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。17世紀から19世紀にかけて馮克寛・黎貴惇・呉時任・阮文超・嗣徳帝などの著名な儒家を輩出した。 日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道や仏教に比べても、宗教として意識されることは少ない(次節を参照)。ただし、年賀状のような儀礼がほぼ「儒教文化圏」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が東アジア共通のものとして基底的にあると考えられる。 日本に儒教が伝来したのは、5世紀の五経博士によってである。朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた(五山文学)。藤原惺窩と林羅山は仏教から朱子学に転じ、徳川幕府に仕えた。近世の代表的な朱子学者として、谷時中・南村梅軒・野中兼山・新井白石・室鳩巣・雨森芳洲などがいる。新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。朱子学は寛政異学の禁により官学化された。朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人により懐徳堂が開かれた。 山崎闇斎や貝原益軒は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。中江藤樹は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。弟子の熊沢蕃山は農本思想を説いた。山鹿素行は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。伊藤仁斎は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。荻生徂徠は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。徂徠の弟子には文人の服部南郭や、『経済録』の太宰春台がおり、後世には本居宣長や、海保青陵らの経世家に影響を与えていった。懐徳堂では中井竹山らが朱子学を教えたが、中井履軒など朱子学に疑念を呈するものや、富永仲基や山片蟠桃など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。 昌平坂学問所の佐藤一斎は朱子学のほかに陽明学を修め、渡辺崋山・佐久間象山・横井小楠ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。陽明学者の大塩平八郎は、大塩平八郎の乱を起こして、幕府に挑戦した。 尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長・平田篤胤・頼山陽・蒲生君平・高山彦九郎・林子平らによって展開されていった。朱舜水を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『大日本史』編纂の過程から水戸学が形成され、藤田東湖・藤田幽谷らが尊王思想を展開した。会沢正志斎は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。吉田松陰はその一人であり、孟子・水戸学・陽明学を松下村塾で教え、弟子からは高杉晋作ら倒幕の志士が現れた。 明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉しており、明治以後にも研究が行われた。並行して廃仏毀釈運動が大規模に行われた。井上哲次郎は朱子学、陽明学、古学を研究した。漢学者の元田永孚は教育勅語を起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。天皇制国家と国家神道が作られ、政府中枢にも漢学者がおり、たとえば安岡正篤は終戦の詔勅に関与した。民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。村岡典嗣や津田左右吉や和辻哲郎らは日本の儒教を研究した。 戦後は、江戸時代に近代化に反対した人々の思想、国家神道の構成イデオロギーという位置づけがなされ、丸山真男らによって批判的に研究されたほか、マルクスの「アジア的停滞性論」も広く受け入れられた。そのため、歴史的な存在として儒教が学ばれたり、ビジネスマンの処世術・教養として『論語』が読まれるに留まる。 ヘーゲルは易学を高く評価した一方で、儒教を批判し、アジアでは自由を知るのは専制君主ただ一人であるとした。 宗教社会学者のマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている。 また、マルクス主義では、「アジア的生産様式」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。カール・ウィットフォーゲルは、それが「アジア的専制」を産み出したという。 1990年代後半からの日韓は、高い自殺率、財閥や富裕層への富の集中、苛烈な受験戦争、薄い社会保障、来るべき少子高齢化社会など兵役を除けば多くの共通点があり、ネオリベラリズムと儒教がミックスした社会になっているという意見がある。 一方で、1990年代以降、中国の改革開放の成功やアジア四小竜の台頭を迎えると、リー・クアンユーや李登輝などは儒教が近代化の原因だと述べた。 儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的 だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。 しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事も可能なのである。 儒教が宗教かが法廷で問われた例として至聖廟を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教(中国語版)ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中国やその周辺の東アジア諸国で信仰・研究されていた宗教、または学問。一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度や当時の習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問など、または、社会規範や習俗として行われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アニミズムやシャーマニズムを背景に成立し、東周・春秋時代に魯の孔子やその後の儒者によって自覚された。主な教義として、堯舜・文武周公の古の聖賢の政治を理想として「周礼」を復活させることや、家族や君臣の秩序を守ることなどが挙げられる(#教義・学説を見よ)。孔子やその弟子たちの教団は儒家と呼ばれ、諸子百家の一つに数えられる。また、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生などと呼ぶ。孟子は徳によって天下を治め(王道政治)、武力による覇道を批判し、禅譲と放伐により歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。時の為政者に法家、老荘思想や道教などが信仰されたこともあり、儒教は弾圧されることもあったが、前漢になると保護され、新・後漢で国教とされた。唐代には仏教が広く信仰され、再び影を潜めた。宋代には朱子学が起こり、より哲学的な宋明理学体系が生み出された。朱子学は政治と密接な関係を持ち、「修己治人」(有徳者が為政者となる)や「修身・斉家・治国・平天下」(自分・家・地方を治め得る人物が天下を握る)「経世済民」(世を治め人々を救う)といった教えがあり、科挙受験のために必要不可欠となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれる。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を造()す」という記述がある。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "漢の武帝のとき、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。霊帝のとき、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。このとき作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "宋代に朱熹が『礼記』のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。これを道統説という。", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く", "title": "教典" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。", "title": "教義・学説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この他にも、忠義、孝、悌という教えもある。", "title": "教義・学説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」周礼は五礼て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する。五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。", "title": "制度・習慣" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある。孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている。易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」 とある。乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。では天地とは何色であるのだろうか。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。ゆえに、祭礼用の衣装である冕服(袞衣)の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。また、『書経』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。", "title": "制度・習慣" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟・孔廟・夫子廟ともいう(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名)。中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。", "title": "制度・習慣" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。", "title": "制度・習慣" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」 として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "秦は商鞅の変法によって伝統で氏族社会を解体し、韓非子に代表される法家思想によって中華統一の基盤を整備した。始皇帝が六国を滅ぼし中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "陳勝・呉広の乱後、項羽を倒して中華を再統一した劉邦は、漢(前漢)を建国した。そして地域差のある氏族制解体に対応するため、郡国制を採用し、黄老思想(黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。この政策は文帝・景帝にも引き継がれた。道家系の黄老思想が流行る中で、叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "武帝のとき、漢は匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。班固『漢書』によれば儒者・董仲舒は五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けたという(ただし、『史記』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてという説もある)。武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の公孫弘のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝のときには経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の王莽も後漢の光武帝も盛んに利用した。一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写され『今文経』と言われる。これに対し、孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『古文経』が発見された。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようと、今文経学と学派争いを引き起こした。平帝のときには『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢では、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけた。章帝のとき、今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、六経全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "今文学では古文学説の弱点を研究して反駁した。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けた。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この時代老荘思想と『易』に基づく玄学が隆盛した。玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、南朝梁の武帝のときには五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。南朝梁の費甝の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉炫が出た。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝のとき、劉焯・劉炫の二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、唐代は儒教・仏教・道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、劉禹錫(772年-842年)は仏教・儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていたが、玄宗は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える。", "title": "歴史(古代・中世)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "宋ははじめ唐の継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。宋初三先生の一人の石介は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "しかし、宋の天下が安定した仁宗のときになると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "神宗のときになると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程顥・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程顥の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "宋代は北方を金代に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "孝宗のときには、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子の胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦・輔広・邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、朱熹は経書を用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。朱熹は科挙をただ暗記するだけの学問であると批判した。というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "陸九淵の学は明代の王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相の趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗のときには『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "従来、金代では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。また、金代(1115年-1234年)に成立した全真教においては、儒教道教仏教の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿がうかがえる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州府を中心とする呉派、徽州府出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曽国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。", "title": "歴史(近世)" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した「孔教」を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。この他に賛同した著名人として厳復がいる。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国が成立すると、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。なお毛沢東は『三国志』を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を孔子学院と名付け世界展開を進めている。また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会主義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている。", "title": "歴史(近現代)" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "朝鮮は本家中国以上に儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。李氏朝鮮の統治階層であった両班は自らを儒教の継承人と見做し、儒教の浸透に深く関わった。", "title": "東アジア周辺諸国の儒教" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "漢王朝(北属期)の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。10世紀に李朝が成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。15世紀に後黎朝が成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、中国文化圏としての色彩を強めるに至った。18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。17世紀から19世紀にかけて馮克寛・黎貴惇・呉時任・阮文超・嗣徳帝などの著名な儒家を輩出した。", "title": "東アジア周辺諸国の儒教" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道や仏教に比べても、宗教として意識されることは少ない(次節を参照)。ただし、年賀状のような儀礼がほぼ「儒教文化圏」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が東アジア共通のものとして基底的にあると考えられる。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "日本に儒教が伝来したのは、5世紀の五経博士によってである。朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた(五山文学)。藤原惺窩と林羅山は仏教から朱子学に転じ、徳川幕府に仕えた。近世の代表的な朱子学者として、谷時中・南村梅軒・野中兼山・新井白石・室鳩巣・雨森芳洲などがいる。新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。朱子学は寛政異学の禁により官学化された。朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人により懐徳堂が開かれた。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "山崎闇斎や貝原益軒は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。中江藤樹は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。弟子の熊沢蕃山は農本思想を説いた。山鹿素行は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。伊藤仁斎は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。荻生徂徠は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。徂徠の弟子には文人の服部南郭や、『経済録』の太宰春台がおり、後世には本居宣長や、海保青陵らの経世家に影響を与えていった。懐徳堂では中井竹山らが朱子学を教えたが、中井履軒など朱子学に疑念を呈するものや、富永仲基や山片蟠桃など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "昌平坂学問所の佐藤一斎は朱子学のほかに陽明学を修め、渡辺崋山・佐久間象山・横井小楠ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。陽明学者の大塩平八郎は、大塩平八郎の乱を起こして、幕府に挑戦した。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長・平田篤胤・頼山陽・蒲生君平・高山彦九郎・林子平らによって展開されていった。朱舜水を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『大日本史』編纂の過程から水戸学が形成され、藤田東湖・藤田幽谷らが尊王思想を展開した。会沢正志斎は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。吉田松陰はその一人であり、孟子・水戸学・陽明学を松下村塾で教え、弟子からは高杉晋作ら倒幕の志士が現れた。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉しており、明治以後にも研究が行われた。並行して廃仏毀釈運動が大規模に行われた。井上哲次郎は朱子学、陽明学、古学を研究した。漢学者の元田永孚は教育勅語を起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。天皇制国家と国家神道が作られ、政府中枢にも漢学者がおり、たとえば安岡正篤は終戦の詔勅に関与した。民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。村岡典嗣や津田左右吉や和辻哲郎らは日本の儒教を研究した。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "戦後は、江戸時代に近代化に反対した人々の思想、国家神道の構成イデオロギーという位置づけがなされ、丸山真男らによって批判的に研究されたほか、マルクスの「アジア的停滞性論」も広く受け入れられた。そのため、歴史的な存在として儒教が学ばれたり、ビジネスマンの処世術・教養として『論語』が読まれるに留まる。", "title": "日本における儒教" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ヘーゲルは易学を高く評価した一方で、儒教を批判し、アジアでは自由を知るのは専制君主ただ一人であるとした。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "宗教社会学者のマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "また、マルクス主義では、「アジア的生産様式」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。カール・ウィットフォーゲルは、それが「アジア的専制」を産み出したという。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1990年代後半からの日韓は、高い自殺率、財閥や富裕層への富の集中、苛烈な受験戦争、薄い社会保障、来るべき少子高齢化社会など兵役を除けば多くの共通点があり、ネオリベラリズムと儒教がミックスした社会になっているという意見がある。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "一方で、1990年代以降、中国の改革開放の成功やアジア四小竜の台頭を迎えると、リー・クアンユーや李登輝などは儒教が近代化の原因だと述べた。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的 だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。 しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事も可能なのである。", "title": "儒教に関する研究と論点" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "儒教が宗教かが法廷で問われた例として至聖廟を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した。", "title": "儒教に関する研究と論点" } ]
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
{{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}} {{儒教}} {{諸子百家}} [[image:Konfuzius.jpg|thumb|right|220px|儒教の始祖、孔子]] '''儒教'''(じゅきょう)は、'''[[孔子]]'''を始祖とする[[宗教|思考・信仰の体系]]。紀元前の[[中国]]に興り、[[東アジア]]各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から'''儒学'''、思想的側面からは'''名教'''・'''{{仮リンク|礼教|zh|礼教}}'''ともいう。大成者の[[孔子]]から、'''孔教'''・'''孔子教'''とも呼ぶ。中国では、[[哲学]]・[[思想]]としては'''儒家思想'''という。 == 概要 == === 定義 === 中国やその周辺の東アジア諸国で信仰・研究されていた宗教、または学問。一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度や当時の習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問など、または、社会規範や習俗として行われた。 === 略史 === [[アニミズム]]や[[シャーマニズム]]を背景に成立し、[[東周]]・[[春秋時代]]に[[魯]]の[[孔子]]やその後の儒者によって自覚された。主な教義として、[[堯]][[舜]]・[[文王 (周)|文]][[武王 (周)|武]][[周公旦|周公]]の古の聖賢の政治を理想として<ref>『礼記・中庸』</ref>「[[周礼]]」を復活させることや、[[家族]]や君臣の秩序を守ることなどが挙げられる([[#教義・学説]]を見よ)。孔子やその弟子たちの教団は'''儒家と呼ばれ、'''[[諸子百家]]の一つに数えられる。また、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを'''[[儒学者]]'''、'''儒者'''、'''儒生'''などと呼ぶ<ref group="注釈">なお儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「''儒学者''」といわずに、「''儒教研究者''」と呼ぶべきとする見方もある{{要出典|date=2011年11月}}。ただし京都大学教授の[[吉川幸次郎]]や、評論家の[[呉智英]]は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。</ref>。[[孟子]]は[[徳]]によって天下を治め([[孟子#王覇|王道政治]])、武力による[[覇道]]を批判し、[[禅譲]]と[[放伐]]により歴史が推移してきたとする[[徳治主義]]を主張した。時の為政者に[[法家]]、[[老荘思想]]や[[道教]]などが信仰されたこともあり、儒教は弾圧されることもあったが、前漢になると保護され、[[新]]・[[後漢]]で国教とされた。[[唐|唐代]]には[[仏教]]が広く信仰され、再び影を潜めた。[[宋 (王朝)|宋代]]には[[朱子学]]が起こり、より哲学的な[[宋明理学]]体系が生み出された。朱子学は政治と密接な関係を持ち、「[[修己治人]]」(有徳者が為政者となる)や「[[修身]]・[[斉家]]・[[治国]]・[[平天下]]」(自分・家・地方を治め得る人物が天下を握る)「[[経世済民]]」(世を治め人々を救う)といった教えがあり、[[科挙]]受験のために必要不可欠となった。 == 教典 == {{main|経書}} ===五経=== 儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の[[六芸]]([[六経]])である。 春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、[[五経]]になったといわれる。 『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を{{読み仮名|造|な}}す」という記述がある。 孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった<ref>[[荘子]]天運篇</ref>。 [[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]のとき、賢良文学の士で挙げられた[[董仲舒]]は儒学を正統の学問として[[五経博士]]を設置することを献策した。[[霊帝 (漢)|霊帝]]のとき、諸儒を集めて五経の文字を校訂、[[太学]]の門外に[[石経]]を立てた。このとき作られた[[熹平石経]]は[[183年]]([[光和]]6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。 {| class="wikitable" |- ! [[経書|経]] !! [[伝]] !! 記 !! 注疏 |- | [[易経]] || || || 周易正義 |- | [[書経|尚書]] || 尚書孔安伝 || || 尚書正義 |- | [[詩経]] || 毛詩 || || 毛詩正義 |- | [[楽経]] || || || |- | [[儀礼 (経書)|儀礼]] || [[礼記]] || || 儀礼注疏、礼記注疏 |- | [[周礼]] || || || 周礼注疏 |- | 春秋 || [[春秋公羊伝]] || || 春秋公羊伝注疏 |- | || [[春秋左氏伝]] || || 春秋左氏伝注疏 |- | || [[春秋穀梁伝]] || || 春秋穀梁伝注疏 |- | || || [[論語]] || 論語注疏 |- | || || [[孝経]] || 孝経注疏 |- | || || [[孟子 (書物)|孟子]] || 孟子注疏 |- | || || [[爾雅]] || 爾雅注疏 |} === 四書 === [[File:Zhu xi.jpg|thumb|170px|朱熹]] 宋代に[[朱熹]]が『礼記』のうち2篇を「[[大学 (書物)|大学]]」「[[中庸]]」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。これを道統説という。 朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く<ref>朱子・語類巻14より。これは即ち、四書の読み順まで記している。(儒教の世界観においては)天から与えられた至徳を明らかにする事、知を致し物に格る。中こそは天下の大本であり、和こそは天下の達道である。中と和を極致に達せしめた時、天地の秩序は定まり、万物は生成発展する。儒教の目的とその目的達成への目標が掲げられたのが「三綱領」・「八条目」であり、朱熹は[[道統論]]を唱え自らの「学」の正当性を主張した。堯舜孔孟に「御目にはかかわらずとも、あの道理が心へ来れば[[道統]]、朱子の理与心と云はるるが大切の事なり。孟子の後あとの賑かな漢の経術に斯く云は見て取たるに極まる。偖、文章は下卑たこと。孟子と文選幷べたときに、文の上では腕押しなり(=孟子を文選の上位に置く事は愚かしき事)。韓氏が見て、孟子の後道を得たもの無し、と。そこで程子のみ来て、非是蹈襲前人云々なり。道統は中庸の心法、それは大学の事。其致知がすま子ば道統は得られぬ。」</ref> == 教義・学説 == 儒教は、[[五常]](仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより[[五倫]](父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。 ;[[仁]] :人を思い遣る事。白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。 :「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。 ;[[義]] :利欲に囚われず、すべきことをすること。<!--(語源的には宜に通じる)この箇所は、康煕字典に引く『釋名』に記される「義,宜也。裁制事物,使各宜也」を根拠にできそうですが、字源論をすると、「羊」+音符「我(のこぎり)」で「羊を公平に分ける」というものもあり、きりがないのでコメントアウト--> ;[[礼]] :仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼での[[タブー]]や伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。 ;智 :ただ学問に励むだけでなく道徳的認識判断力であることともされている<ref>{{Cite book|和書|author=土田健次郎|title=儒教入門|date=2011年12月19日|edition=新|publisher=東京大学出版会|page=29|isbn=978-4-13-013150-6|}}</ref>。智は『論語』では知と表記され意味としては聡明、明智などの意味がある<ref>{{Cite book|和書|author=孔祥林|title=図説孔子|edition=新|date=2014年12月22日|publisher=科学出版社|series=国書刊行会|isbn=978-4-336-05848-5|page=113}}</ref>。 ;[[信]] :言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。 この他にも、忠義、孝、悌という教えもある<ref>{{Cite book|和書|author=高畑常信|title=中国思想の理想と現実|date=2014年10月6日|edition=新|publisher=木耳社|page=31|isbn=978-4-8393-7187-6|}}</ref>。 {{Div col}} *[[人性論]] *[[天人の辨]] *[[義利の辨]] *[[名分論]] *[[命定論]] *[[形神論]] *[[正統論]] *[[復讐論]] *[[道統論]] *[[理気論]] *[[儒仏道論争]] *[[朱陸論争]] *[[格物致知]] *[[未発已発]] *[[良知]] *[[無善無悪]] *[[万物一体論]] *[[井田論]] *[[封建論]] *[[今文]]・[[古文]] *[[道器論]] {{div col end}} == 制度・習慣 == === 礼儀 === 子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」周礼は[[五礼]]て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する<ref>『周礼・春官宗伯』</ref>。五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。 {| class="wikitable" |- ! 周礼 !! 解説 !! 名系 |- | 吉礼 || 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) || 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊 |- | 凶礼 || 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) || 既夕礼、士虞礼 |- | 賓礼 || 外交(邦国に親しむ) || 士相見礼、燕礼、公食大夫礼、覲礼 |- | 軍礼 || 出陣・凱旋(邦国を同じくする) || 大射、大儺 |- | 嘉礼 || 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) || 飲食之礼、婚冠之礼、賓射之礼、饗燕之礼、脤膰之礼、賀慶之礼 |} === 冠服制度 === 『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある<ref>論語 衛霊公第十五 10</ref>。孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo008_3.html 『論語』の泰伯篇]</ref>{{出典無効|date=2015-03-27 |title=Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源}}。易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」<ref>[http://mokusai.web.infoseek.co.jp/shushigakukihonsho/ekikyou/shuuekihongi/08_ka_keijiden.html 『易経 下繫辭傳』] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120313073559/http://mokusai.web.infoseek.co.jp/shushigakukihonsho/ekikyou/shuuekihongi/08_ka_keijiden.html |date=2012年3月13日 }}</ref> とある。乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。では天地とは何色であるのだろうか。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。ゆえに、祭礼用の衣装である冕服([[袞衣]])の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。また、『[[書経]]』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。 === 孔子廟 === {{Main|孔子廟|日本の儒教#関連史蹟}} 中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを'''文廟'''といい、'''[[孔子廟]]'''・'''孔廟'''・'''[[夫子廟]]'''ともいう(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた'''[[孔廟]]'''が有名)。中国国内の[[孔子廟]]の多くは[[文化大革命]]時に破壊されたり損傷を受けている。 日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に[[朱子学]])を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。[[湯島聖堂]]が、その代表である。 == 歴史(古代・中世) == === 起源 === '''儒'''(じゅ)の起源については、[[胡適]]が「[[殷]]の遺民で[[礼]]を教える[[士]]」<ref>[[胡適]]論文「説儒」([[1924年]])</ref> として以来、様々な説がなされてきたが、近年は[[冠婚葬祭]]、特に[[葬儀|葬送儀礼]]を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。 東洋学者の[[白川静]]は、紀元前、アジア一帯に流布していた[[シャーマニズム]]および死後の世界と交通する「[[巫祝]]」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした<ref>白川「孔子伝」</ref>。 === 孔子とその時代 === {{Main|孔子}} [[File:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Yan Hui Ziyuan (顏回 子淵).jpg|thumb|160px|顔回]] [[春秋時代]]の[[周]]末に[[孔子|孔丘]](孔子、[[紀元前551年]]‐[[紀元前479年]])は[[魯]]国に生まれた。当時は[[実力主義]]が横行し[[身分制]][[秩序]]が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、'''儒家'''となって[[諸子百家]]の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『[[論語]]』にまとめられた。 孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として[[七十子]]がいた<ref>『[[史記]]』孔子世家</ref>。そのうち特に優れた高弟は[[孔門十哲]]と呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。 * 徳行 - [[顔回]]・[[閔子騫]]・[[冉伯牛]]・[[仲弓]] * 言語 - [[宰我]]・[[子貢]] * 政事 - [[冉有]]・[[子路]] * 文学(学問) - [[子游]]・[[子夏]] その他、[[孝]]の実践で知られ、『[[孝経]]』の作者とされる[[曾参]](曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『[[中庸]]』の作者とされる[[子思]]がいる。 [[孔子]]の死後、儒家は八派に分かれた。その中で[[孟子|孟軻]](孟子)は[[性善説]]を唱え、孔子が最高の徳目とした[[仁]]に加え、実践が可能とされる徳目[[義]]の思想を主張し、[[荀子|荀況]](荀子)は[[性悪説]]を唱えて[[礼]]治主義を主張した。『[[詩経|詩]]』『[[書経|書]]』『[[儀礼 (経書)|礼]]』『[[楽経|楽]]』『[[易経|易]]』『[[春秋]]』といった[[周]]の書物を[[六経]]として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『[[礼記]]』や『易伝』『[[春秋左氏伝]]』『[[春秋公羊伝]]』『[[春秋穀梁伝]]』といった注釈書や論文集である[[伝]]が整理された(完成は漢代)。 === 焚書坑儒 === [[File:战国时楚兰陵令荀况.jpg|thumb|180px|[[性悪説]]を唱えた[[荀子]]。その思想は[[法家]]の[[韓非子]]や同じく法家で秦の[[丞相]]である[[李斯]]に批判的に継承された]] [[秦]]は[[商鞅]]の変法によって伝統で氏族社会を解体し、[[韓非子]]に代表される[[法家]]思想によって中華統一の基盤を整備した<ref name="ReferenceA">『世界哲学史2』([[ちくま新書]]、2020年)119-121ページ</ref>。[[始皇帝]]が[[六国]]を滅ぼし中国を統一すると、[[法家]]思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、[[焚書坑儒]]を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の[[経書]]が全く滅びたというわけではなく、[[楚漢戦争|楚漢の戦火]]を経ながらも、[[漢]]に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば[[叔孫通]]は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。 === 国教化 === [[image:Dong zhongshu.jpg|thumb|190px|董仲舒]] [[陳勝・呉広の乱]]後、[[項羽]]を倒して中華を再統一した[[劉邦]]は、[[漢]]([[前漢]])を建国した。そして地域差のある氏族制解体に対応するため、[[郡国制]]を採用し、[[黄老思想]](黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。この政策は[[文帝 (漢)|文帝]]・[[景帝 (漢)|景帝]]にも引き継がれた<ref name="ReferenceA"/>。[[道家]]系の黄老思想が流行る中で、[[叔孫通]]が漢の宮廷儀礼を定め、[[陸賈]]が[[南越国|南越]]王を朝貢させ、[[伏生]]が『[[今文尚書]]』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは[[賈誼]]が活躍した。 [[武帝 (漢)|武帝]]のとき、漢は[[匈奴]]から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。[[班固]]『[[漢書]]』によれば儒者・[[董仲舒]]は[[五経博士]]を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、[[建元 (漢)|建元]]5年([[紀元前136年]])、五経博士を設けたという(ただし、『[[史記]]』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは[[前漢]]末から[[後漢]]初にかけてという説もある)。武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の[[公孫弘]]のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された<ref name=世界哲学2-p121>『世界哲学史2』121-123ページ</ref>。 また、五経博士が設置されたことで、儒家の[[経書]]が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。 前漢の[[経学]]は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった([[章句の学]])。[[宣帝 (漢)|宣帝]]のときには経文の異同や経説の違いを論議する[[石渠閣会議]]が開かれている。この会議で『[[春秋]]』では[[春秋公羊伝|公羊家]]に対して[[春秋穀梁伝|穀梁家]]が優位に立った。 [[董仲舒]]ら公羊家は[[陰陽五行思想]]を取り入れて[[天人相関]]の[[災異説]]を説いた。前漢末には[[揚雄]]が現れ、儒教顕彰のために『[[易経]]』を模した『[[太玄]]』や『[[論語]]』を模した『[[法言]]』を著作している。こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した<ref name=世界哲学2-p121/>。 前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の[[王莽]]も後漢の[[光武帝]]も盛んに利用した。一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。 === 古文学と今文学 === [[前漢]]から[[五経博士]]たちが使っていた[[五経]]の[[写本]]は、漢代通行の[[隷書体]]に書き写され『[[今文経]]』と言われる。これに対し、[[孔子]]旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『[[古文経]]』が発見された。前漢末、[[劉歆]]が[[古文経]]を学官に立てようと、[[今文経学]]と学派争いを引き起こした。[[平帝 (漢)|平帝]]のときには『[[春秋左氏伝]]』『[[儀礼|逸礼]]』『[[毛詩]]』『[[書経|古文尚書]]』が、[[新]]朝では『[[周礼|周官]]』が学官に立てられた。[[後漢]]では、[[古文経]]が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の[[訓詁]]解釈学を発展させて力をつけた。[[章帝 (漢)|章帝]]のとき、[[今文経]]の写本の異同を論じる[[白虎観会議]]が開かれたが、この中で[[古文学]]は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。この会議の記録は[[班固]]によって『[[白虎通義]]』にまとめられた。 [[古文学]]は、[[今文学]]が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、[[六経]]全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、[[経書]]を総合的に解釈することを目指した。[[賈逵 (漢)|賈逵]]は『左氏伝』を[[讖緯]]と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、[[許慎]]は『[[説文解字]]』を著して[[今文]]による文字解釈の妥当性を否定し、[[古文学]]の発展に大きく寄与している。[[馬融]]は[[経学]]を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、[[鄭玄]]は[[三礼]]注を中心に[[五経]]全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。 [[今文学]]では古文学説の弱点を研究して反駁した。[[李育]]は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。[[何休]]は博学をもって『[[公羊伝]]』に注を作り、『[[春秋公羊解詁]]』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一で『[[周礼]]』を「[[六国]]陰謀の書」として斥けた。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。 === 三国時代・晋代 === [[魏 (三国)|魏]]に入ると、[[王粛]]が[[鄭玄]]を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『[[孔子家語]]』を偽作したことでも知られる。[[西晋]]では[[杜預]]が『[[春秋左氏伝]]』に注して『[[春秋経伝集解]]』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『[[春秋穀梁伝]]』には[[范寧]]が注を作っている。 ==== 玄学 ==== この時代[[老荘思想]]と『[[易]]』に基づく[[玄学]]が隆盛した。玄学の側からも儒教の[[経書]]に注を作るものが現れ、[[王弼 (三国)|王弼]]は費氏易に注して『周易注』を作り、[[何晏]]は『[[論語集解]]』を作った([[正始の音]])。[[呉 (三国)|呉]]には[[今文]]孟氏易を伝えた[[虞翻]]、『国語注』を遺した[[韋昭]]がいる。[[西晋]]末には[[永嘉の乱]]が起こり、これによって[[今文経学]]の多くの伝承が途絶えた。[[東晋]]になると、永嘉の乱で亡佚していた『[[古文尚書]]』に対して[[梅サク|梅賾]]が[[孔安国]]伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、[[清]]の[[閻若璩]]によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。 === 南北朝時代・南学と北学 === [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[南朝 (中国)|南朝]]の儒学を'''南学'''、[[北朝 (中国)|北朝]]の儒学を'''北学'''という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭衍|武帝]]のときには[[五経博士]]が置かれ、一時儒教が盛んになった。 南学では魏晋の学風が踏襲され、『[[毛詩]]』「[[三礼]]」の[[鄭玄]]注以外に、『周易』は[[王弼 (三国)|王弼]]注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は[[杜預]]注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、[[玄学]]や[[仏教]]理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である[[義疏]]の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった[[訓詁学]]的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。南朝梁の[[費カン|費甝]]の『尚書義疏』や[[皇侃]]の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、[[唐]]の『尚書正義』のもとになり、『[[論語義疏]]』は亡佚することなく現在まで伝えられている。 北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に[[北周]]ではその国名が示すとおり[[周]]王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では[[後漢]]の[[古文学]]が行われ、『[[易経|周易]]』・『[[書経|尚書]]』・『[[毛詩]]』「[[三礼]]」は[[鄭玄]]注、『春秋左氏伝』は後漢の[[服虔]]の注、『[[春秋公羊伝]]』は後漢の[[何休]]の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく[[章句]][[訓詁]]の学を墨守した。[[北魏]]には[[徐遵明]]がおり、[[劉献之]]の『[[毛詩]]』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の[[熊安生]]がおり、とりわけ[[三礼]]に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは[[隋]]の二大学者である[[劉焯]]・[[劉炫]]が出た。 === 隋代 === 北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の[[儒学]]は北学中心であったが、[[煬帝]]のとき、劉焯・劉炫の二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『[[五経正義]]』の底本となった。在野の学者に[[王通 (隋)|王通]](文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、[[六経]]の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『[[論語]]』に擬した『[[中説]]』が現存している。唐末、孔孟[[道統論]]が起こる中で再評価され[[韓愈]]の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である[[聖人#儒教|聖人]]とする立場がのちの[[宋学]]に影響を与えた。 隋の[[楊堅|文帝]]は初めて[[科挙]]を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。 === 唐代 === 唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、[[貞観 (唐)|貞観]]7年([[633年]])には[[顔師古]]が[[五経]]を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年([[640年]])には[[孔穎達]]を責任者として五経の注疏をまとめた『[[五経正義]]』が撰定された(二度の改訂を経て[[永徽]]4年([[653年]])に完成)。永徽年間には[[賈公彦]]に『[[十三経注疏|周礼疏]]』『[[十三経注疏|儀礼疏]]』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、[[漢唐訓詁学]]の成果はここに極まった。 こうして正義が確定される一方、中唐([[8世紀]]中葉)になると[[注疏]]批判の動きが生じた。『[[春秋]]』では[[啖助]]・[[趙匡 (唐)|趙匡]]・[[陸淳]]が[[春秋三伝]]は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『[[左伝]]』を排斥した。『[[易経|周易]]』では[[李鼎祚]]が[[王弼 (三国)|王弼]]注の[[義理易]]に反対して[[鄭玄]]を始めとする漢代[[象数易]]を伝えた。『[[詩経]]』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の[[子夏]]制作を否定している。 唐代は一概に[[仏教]]隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や[[李翺]]たちである。韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「[[人性論|性]]」は本来的に善であり、その性に復することで[[聖人#儒教|聖人]]になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の[[道統論]]の先駆けとなった。彼らは文学史上、[[古文復興運動]]の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい[[経学]]を生む要因の一つとなった。 また、唐代は儒教・仏教・道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、[[劉禹錫]](772年-842年)は仏教・儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていたが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える<ref>{{Cite book|和書|author=湯浅邦弘|title=概説中国思想史|date=2010年|edition=新|page=87|isbn=978-4-623-05820-4|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ書房}}</ref>。 == 歴史(近世) == === 宋代 === [[北宋|宋]]ははじめ[[唐]]の継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。[[聶崇義]]の『三礼図』、[[邢昺]]・[[孫奭]]らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。[[南宋]]になると、漢唐の[[注疏]]にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『[[十三経注疏]]』がまとめられた。また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。宋初三先生の一人の[[石介]]は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った<ref>{{Cite book|和書|author=吾妻重二|title=宋代思想の研究|date=2009年3月18日|edition=新|page=72|isbn=978-4-87354-468-7|publisher=関西大学出版部|series=遊文舎}}</ref>。 ==== 道統論 ==== しかし、宋の天下が安定した[[仁宗 (宋)|仁宗]]のときになると、唐末の[[古文復興運動]]が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く[[道統論]]が盛んになった。例えば、古文家の[[柳開]]は「[[孔子]] - [[孟子]] - [[荀子]] - [[揚雄]] - [[韓愈]]」の系譜を提出し、石介はこれに[[隋]]の[[王通 (隋)|王通]]を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。[[王安石]]は[[科挙]]改革で従来の『[[孝経]]』『[[爾雅]]』に代わって『孟子』を挙げ、[[南宋]]になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。[[人性論]]としても伝統的な[[性三品説]]から[[性善説]]が主張されるようになっていく。逆に[[性悪説]]の荀子や[[性善悪混説]]の揚雄は評価の対象から外されていった。 漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。[[胡瑗]]・[[孫復]]・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に[[欧陽脩]]によって'''宋初三先生'''と称されている。 ==== 新学 ==== [[神宗 (宋)|神宗]]のときになると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の'''[[新学]]'''である。王安石は『[[周礼]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて[[科挙]]の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『[[周礼]]』に基づく[[中央集権国家]]の樹立を目指し、さまざまな[[新法・旧法の争い|新法]]を実施した。新学に異議を唱えたものに[[程顥]]・[[程頤]]らの'''洛学'''([[道学]])、[[蘇軾]]・[[蘇轍]]らの'''蜀学'''、[[張載]]らの'''関学'''があった。[[12世紀]]を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。 ==== 天論 ==== この時代、「[[天]]」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ[[理]]があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の[[柳宗元]]の「天説」・[[劉禹錫]]の『天論』であり、[[北宋]]においては[[欧陽脩]]の『[[新唐書]]』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程顥の天理は後の[[朱熹]]に影響を与えた。このような天観の変化によって『[[易経]]』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。[[邵雍]]は「[[先天図]]」を作って「数」で宇宙生成を説明し、[[周敦頤]]は「[[太極図]]」に基づいて『[[太極図説]]』を著し、「無極→[[太極]]→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、[[気]]が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「[[人性論|性]]」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期の[[パラダイム]]シフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。 ==== 南宋時代 ==== 宋代は北方を[[金 (王朝)|金代]]に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である[[楊時]]は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして[[科挙]]に王安石の解釈を用いるべきではないと[[高宗 (宋)|高宗]]に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した[[胡安国]]は『[[春秋]]』に注して『[[胡氏春秋伝]]』を著し、『[[周礼]]』に基づく新学を批判した。[[謝良佐]]の弟子である[[朱震]]は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった[[象数易]]と『程氏易伝』や張載の『[[正蒙]]』といった[[義理易]]を総合して『[[漢上易伝]]』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮[[秦檜]]の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。 ==== 朱熹 ==== [[File:Zhu xi.jpg|thumb|180px|朱熹]] [[孝宗 (宋)|孝宗]]のときには、後に[[朱子学]]と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という[[李侗 (南宋)|李侗]]との出会、胡安国の子の[[胡宏]]の学を承けた[[張栻]](湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「[[性即理]]」による定論を得、一家を成して'''閩学'''(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても[[形而上学]]的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、[[孟子]]に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「[[居敬]]」と外界の観察や読書による「[[格物]]」とを主張した。[[経学]]では、[[五経]]を学ぶ前段階として[[四書]]の学を設け、『[[四書集注]]』を著した。さらに『[[易経]]』には経を占いの書として扱った『[[周易本義]]』、『[[詩経]]』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『[[詩集伝]]』、「礼」には『[[儀礼 (経書)|儀礼]]』を経とし『[[礼記]]』を伝とした『[[儀礼経伝通解]]』を著した。『[[書経]]』には弟子の[[蔡沈]]に『[[書集伝]]』を作らせている。朱熹の弟子には、[[黄榦]]・[[輔広]]・邵雍の易学を研鑽した[[蔡元定]]と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『[[北渓字義]]』に朱熹の用語を字書風にまとめた[[陳淳]]などがいる。 同時代、永康学派の[[陳亮]]や永嘉学派の[[葉適]](しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする'''事功の学'''を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の[[陸九淵]]は心の構造論において朱熹と考えを異にし、[[心即理]]説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが([[鵝湖の会]])、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。 また、朱熹は[[経書]]を用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。朱熹は[[科挙]]をただ暗記するだけの学問であると批判した。というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた<ref>{{Cite book|和書|author=湯浅邦弘|title=概説中国思想史|date=2010年10月25日|edition=新|isbn=978-4-623-05820-4|page=116|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ書房}}</ref>。 ==== 道学 ==== 陸九淵の学は[[明|明代]]の[[王守仁]]によって顕彰され、'''心学'''(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて[[道学]]と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、[[鄭樵]]・[[洪邁]]・[[程大昌]]らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。 [[寧宗 (宋)|寧宗]]の[[慶元]]3年([[1197年]])、[[外戚]]の[[韓侂冑]]が宰相の[[趙汝愚]]に与する一党を権力の座から追放する[[慶元の党禁]]が起こり、趙汝愚・[[周必大]]・[[朱熹]]・[[彭亀年]]・[[陳傅良]]・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は[[慶元]]6年([[1200年]])、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は[[嘉定 (宋)|嘉定]]4年([[1211年]])に解かれた。 [[理宗]]はその[[廟号]]「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、[[魏了翁]]・[[真徳秀]]らが活躍した。真徳秀の『[[大学衍義]]』は後世、帝王学の教科書とされている。[[度宗]]のときには『[[黄氏日抄]]』の[[黄震]]、『[[玉海]]』『[[困学紀聞]]』で知られる[[王応麟]]がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。 === 元代 === 従来、金代では道学は行われず、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の捕虜となった[[趙復]]が[[姚枢]]・[[王惟中]]に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。 [[元 (王朝)|元代]]、姚枢から学を承けた[[許衡]]が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており[[南宋]]は意識されていなかった。許衡は[[クビライ]]の近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では[[呉澄]]が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として'''北許南呉'''と称された。 元代、[[科挙]]で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『[[十三経注疏]]』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。また、金代(1115年-1234年)に成立した全真教においては、儒教[[道教]][[仏教]]の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく<ref>{{Cite book|和書|author=湯浅邦弘|title=概説中国思想史|date=2010年10月25日|edition=新|page=264|isbn=978-4-623-05820-4|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ書房}}</ref>。 === 明代 === [[明]]を興した太祖[[朱元璋]]のもとには[[劉基]]や[[宋濂]]といった道学者が集まった。劉基は明の[[科挙]]制度の制定に取り組み、出題科目として[[四書]]を採用し、また試験に使う文章に後に言う「[[八股文]]」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には[[建文帝]]に仕えて[[永楽帝]]に仕えることを潔しとしなかった[[方孝孺]]がいる。 永楽帝は[[胡広 (明)|胡広]]らに[[道学]]の文献を収集させて百科事典的な『[[四書大全]]』『[[五経大全]]』『[[性理大全]]』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『[[十三経注疏]]』は廃され、朱子学が体制教学となった。 明代前期を代表する道学者として[[薛瑄]]・[[呉与弼]]が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「[[格物]]」と「[[居敬]]」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から[[胡居仁]]・[[婁諒]]・[[陳献章]]が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は[[静坐]]を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は[[禅]]だと批判された。陳献章門下には[[王陽明|王守仁]]と親交が深かった[[湛若水]]がいる。 ==== 王陽明 ==== [[File:王守仁容像.jpg|thumb|180px|王陽明]] 明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『[[大学]]』の「[[格物致知]]」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、[[陸九淵]]の[[心即理]]説を引用して、[[理]]は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『[[孟子]]』にある「[[良知]]」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「[[致良知]]」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一([[知行合一]])が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が[[禅]]に流れる弊があるのを鑑み、[[事上磨練]]を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな[[聖人#儒教|聖人]]観をもたらした。王守仁の学は[[陽明学派]](姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。 この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、[[気]]の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として[[羅欽順]]がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「[[万物一体の仁]]」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは[[王廷相]]である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、[[人性論]]においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。 理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を[[無善無悪]]とする説を唱えている。弟子の[[王畿]]はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする[[四無説]]を主張したが、同門の[[銭徳洪]]は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした[[四有説]]を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは[[王艮]]の[[泰州学派]](王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の[[李贄]](李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで[[孔子]]や[[六経]]『[[論語]]』『孟子』さえ否定するに到った。 ==== 東林学派 ==== 社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする[[東林学派]]が興った。彼らは[[陽明学]]の心即理や[[無善無悪]]を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の[[経世致用の学]]へと結実していく。その思想は東林学派の一員である[[黄尊素]]の子で、[[劉宗周]]の弟子である[[黄宗羲]]の『[[明夷待訪録]]』に総括されることになる。 ==== 朱元璋の六諭 ==== 明代は儒教が[[士大夫]]から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は[[六諭]]を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、[[郷約]]・[[保甲]]による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や[[東林学派]]の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。 一方、王守仁と同時代の[[黄佐]]は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『[[家礼]]』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて[[丘濬 (明)|丘濬]]『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、[[宗族]]という家族形態とともに庶民にまで普及した。[[王艮]]の[[泰州学派]]には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿がうかがえる。 明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、[[経書]]に対する実証学的研究の萌芽も見られる。[[梅サク (明)|梅鷟]]は『尚書考異』を著し、通行の「[[書経#偽古文尚書|古文尚書]]」が偽書であることを証明しようとした。[[陳第]]は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代[[中国音韻学|音韻学]]研究の道を開いている。 === 清代 === [[明]]朝滅亡と異民族の[[清]]朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった[[陽明学|心学]]にあると考え、実用的な学問、'''[[経世致用の学]]'''を唱えた。その代表は[[黄宗羲]]や[[顧炎武]]、[[王夫之]]である。彼らはその拠り所を[[経書]]・史書に求め、[[六経]]への回帰を目指した。そのアプローチの方法は[[実事求是]](客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である[[考証学]]を生む。 一方、[[顔元]]は[[朱子学]]・[[陽明学]]ともに批判し、[[聖人#儒教|聖人]]となる方法は読書でも[[静坐]]でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「[[格物]]」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の[[李塨]]によって喧伝され、'''[[顔李学派]]'''と呼ばれる。 こういった清初の思想家たちは[[理気論]]上、一様に'''気一元論'''であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「[[理]]」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「[[気]]」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、[[戴震]]が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理('''分理''')とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。 ==== 考証学 ==== 清の支配が安定してくると、実学よりも[[経書]]を始めとする[[古典]]を実証的に解明しようとする[[考証学]]が興った。[[毛奇齢]]は[[朱子学]]の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。[[閻若璩]]は『[[尚書古文疏証]]』を著して「[[書経#偽古文尚書|偽古文尚書]]」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。[[胡渭]]は『[[易図明弁]]』を著し朱子学が重視した「[[太極図]]」や「[[先天図]]」「[[河図洛書]]」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。 [[乾隆]]・[[嘉慶 (清)|嘉慶]]年間は[[考証学]]が隆盛した時代である。その[[年号]]から'''乾嘉の学'''と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、[[恵棟]]を始めとする[[蘇州府]]を中心とする'''呉派'''、[[徽州府]]出身の[[戴震]]らの影響を受けた'''皖派'''(かんぱ)がある。彼らは[[中国音韻学|音韻学]]・[[文字学]]・[[校勘学]]や[[礼学]]などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする[[古文学]]に基づいており、'''漢学'''とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ'''[[浙東学派]]'''は史学に長じ、その代表である[[章学誠]]は'''六経皆史'''の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて[[阮元]]を始めとする'''[[揚州学派]]'''が起こり、乾嘉漢学を発展させている。 [[道光]]以降になると、'''[[常州学派]]'''の前漢[[今文学]]が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる[[古文経学]]を排除して今文経、ひいては[[孔子]]へと回帰することを目指した。その拠り所とする'''[[公羊学]]'''に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、[[康有為]]を始めとする[[変法自強運動]]の理論的根拠となった。 ==== 洋務運動 ==== [[アヘン戦争]]の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという[[洋務運動]]が興った。洋務派官僚の[[曽国藩]]は[[朱子学]]を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の[[王夫之]]を顕彰して実学の必要を説いた。[[張之洞]]は[[康有為]]の学説に反対して『[[勧学篇]]』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。 == 歴史(近現代) == === 中華民国時代 === ==== 孔教運動 ==== [[Image:Kang-youwei2-large.jpg|thumb|180px|康有為]] [[変法自強運動]]を進める[[康有為]]は、『[[孔子改制考]]』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した「孔教」を提唱した。康有為の孔教運動は[[年号|年号紀年]]を廃して[[孔子紀年]]を用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。しかし、[[辛亥革命]]が起こると、康有為は[[上海市|上海]]に孔教会を設立して布教に努め、孔教を[[中華民国]]の国教にする運動を展開した。彼らの運動は[[信仰の自由]]を掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、[[1917年]]、[[張勲 (清末民初)|張勲]]の[[張勲復辟|清帝復辟]]のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の[[陳煥章]]が積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。この他に賛同した著名人として[[厳復]]がいる。 ==== 新文化運動 ==== [[1910年代]]後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする[[新文化運動]]を興した。雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』を主宰する[[陳独秀]]・[[呉虞]]・[[魯迅]]らは「孔家店打倒」をスローガンに[[家父長制]]的な[[宗法]]制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する[[柳詒徴]]・[[呉宓]]・[[梅光迪]]・[[胡先驌]]ら[[学衡派]]は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。 清末から隆盛した[[今文学派]]による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、[[1927年]]、[[顧頡剛]]を始めとする[[疑古派]]が経書や古史の偽作を論ずる『[[古史弁]]』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに[[銭玄同]]は[[六経]]は[[周公]]と無関係であるばかりでなく[[孔子]]とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。 *[[新儒家]] **[[熊十力]] **[[梁漱溟]] **[[牟宗三]] **[[唐君毅]] **[[杜維明]] === 中華人民共和国時代 === [[マルクス主義]]的[[無神論]]を掲げる[[中華人民共和国]]が成立すると、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。特に[[文化大革命]]期には、[[文化大革命#批林批孔運動|批林批孔運動]]として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった[[熊十力]]は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、[[共産主義|社会主義共和制]]の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。なお[[毛沢東]]は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』を愛読し、[[曹操]]をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。 ==== 再評価と「儒教社会主義」 ==== だが、[[21世紀]]に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。 孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を[[孔子学院]]と名付け世界展開を進めている。また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、[[論語]]を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。 ほかにも[[改革開放]]が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である[[国学 (中国)|国学]]が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている<ref>[[園田茂人]] 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 [[中央公論新社]]、2008年5月25日、177-178頁。ISBN 9784121019509</ref>。 ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京[[清華大学]]哲学教授によれば、近年、中国共産党は「[[儒教社会主義]]」または[[新儒教主義]](宋の時代にもあった)を唱えている<ref>[http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2009/jul/26/confucianism-china What can we learn from Confucianism? Daniel A Bell] guardian.co.uk, Sunday 26 July 2009]。 [http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2006/oct/16/danielbell 2006年の記事]</ref>。 == 東アジア周辺諸国の儒教 == === 朝鮮 === {{Main|朝鮮の儒教}} [[ファイル:Korean_Confucian_scholar.JPG|右|サムネイル|240x240ピクセル|朝鮮の儒学者]] [[朝鮮]]は本家中国以上に儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が[[朝鮮の文化]]の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。[[李氏朝鮮]]の統治階層であった[[両班]]は自らを儒教の継承人と見做し、儒教の浸透に深く関わった。 * [[李退渓]]:嶺南学派 * [[李栗谷]]:畿湖学派 * [[曺植]]:南冥学派 === ベトナム === [[File:19世紀末參與科舉考試的越南儒生.jpg|thumb|19世紀末の[[科挙]]の風景]] 漢王朝([[北属期]])の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。10世紀に[[李朝 (ベトナム)|李朝]]が成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。15世紀に[[後黎朝]]が成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、[[漢字文化圏|中国文化圏]]としての色彩を強めるに至った<ref>{{cite journal|author1=黄俊傑|author2=阮金山|title=〈越南儒學資料簡介〉|url=http://www.eastasia.ntu.edu.tw/member/eastasia/temp/6-2/6-2-9.pdf|journal=《台灣東亞文明研究學刊》|year=2009|volume=12|pages=221-226|accessdate=2019-03-03|language=zh-hant|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141021124223/http://www.eastasia.ntu.edu.tw/member/eastasia/temp/6-2/6-2-9.pdf|archivedate=2014-10-21}}</ref>。18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。17世紀から19世紀にかけて[[馮克寛]]・[[黎貴惇]]・[[呉時任]]・[[阮文超]]・[[嗣徳帝]]などの著名な儒家を輩出した。 == 日本における儒教 == {{main|日本の儒教}} 日本では儒教は[[学問]](儒学)として受容され、国家統治の[[経世済民]]思想や[[帝王学]]的な受容をされたため、[[神道]]や[[仏教]]に比べても、宗教として意識されることは少ない([[#儒教研究上の論争|次節]]を参照)。ただし、[[年賀状]]のような[[儀礼]]がほぼ「[[儒教文化圏]]」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が[[東アジア]]共通のものとして基底的にあると考えられる。 === 儒学の伝来 === 日本に儒教が伝来したのは、5世紀の[[五経博士]]によってである。朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた([[五山文学]])。[[藤原惺窩]]と[[林羅山]]は仏教から朱子学に転じ、[[徳川幕府]]に仕えた。近世の代表的な朱子学者として、[[谷時中]]・[[南村梅軒]]・[[野中兼山]]・[[新井白石]]・[[室鳩巣]]・[[雨森芳洲]]などがいる。新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。朱子学は[[寛政異学の禁]]により官学化された。朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人により[[懐徳堂]]が開かれた。 === 朱子学批判 === [[山崎闇斎]]や[[貝原益軒]]は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。[[中江藤樹]]は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。弟子の[[熊沢蕃山]]は農本思想を説いた。[[山鹿素行]]は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。[[伊藤仁斎]]は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。[[荻生徂徠]]は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。徂徠の弟子には文人の[[服部南郭]]や、『経済録』の[[太宰春台]]がおり、後世には[[本居宣長]]や、[[海保青陵]]らの経世家に影響を与えていった。[[懐徳堂]]では[[中井竹山]]らが朱子学を教えたが、[[中井履軒]]など朱子学に疑念を呈するものや、[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。 === 幕末の儒学 === [[昌平坂学問所]]の[[佐藤一斎]]は朱子学のほかに陽明学を修め、[[渡辺崋山]]・[[佐久間象山]]・[[横井小楠]]ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。陽明学者の[[大塩平八郎]]は、[[大塩平八郎の乱]]を起こして、幕府に挑戦した。 尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長・[[平田篤胤]]・[[頼山陽]]・[[蒲生君平]]・[[高山彦九郎]]・[[林子平]]らによって展開されていった。[[朱舜水]]を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『[[大日本史]]』編纂の過程から[[水戸学]]が形成され、[[藤田東湖]]・[[藤田幽谷]]らが尊王思想を展開した。[[会沢正志斎]]は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。[[吉田松陰]]はその一人であり、孟子・水戸学・[[陽明学]]を[[松下村塾]]で教え、弟子からは[[高杉晋作]]ら倒幕の志士が現れた。 === 近代の儒学 === 明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉しており、明治以後にも研究が行われた。並行して[[廃仏毀釈]]運動が大規模に行われた。[[井上哲次郎]]は朱子学、陽明学、古学を研究した。漢学者の[[元田永孚]]は[[教育勅語]]を起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。天皇制国家と[[国家神道]]が作られ、政府中枢にも漢学者がおり、たとえば[[安岡正篤]]は[[玉音放送|終戦の詔勅]]に関与した。民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。[[村岡典嗣]]や[[津田左右吉]]や[[和辻哲郎]]らは日本の儒教を研究した。 === 戦後の儒学 === 戦後は、[[江戸時代]]に[[近代化]]に反対した人々の思想<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/emanuel-pastreich/modern-society-neo-confucianism_b_15508858.html 朱子学の伝統は現代社会の危機を救える | ハフポスト LIFE]</ref>、[[国家神道]]の構成イデオロギー<ref>[[子安室邦]] 1993「儒教にとっての近代J 『季刊 日本思想史』 41号</ref>という位置づけがなされ、[[丸山真男]]らによって批判的に研究されたほか<ref>奥谷 浩一「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120005614593 丸山眞男の日本思想史論の問題点]」『札幌学院大学総合研究所紀要』p.63</ref>、マルクスの「アジア的停滞性論」も広く受け入れられた<ref>永井 和「[http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/pwmarxism.html 戦後マルクス主義のアジア認識]」</ref>。そのため、歴史的な存在として儒教が学ばれたり、ビジネスマンの処世術・教養として『論語』が読まれるに留まる。 == 儒教に関する研究と論点 == === 東アジアの近代化と儒教 === [[ヘーゲル]]は[[易学]]を高く評価した一方で、儒教を批判し、アジアでは自由を知るのは専制君主ただ一人であるとした<ref>[https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a051.html 吉本隆明の183講演 - ほぼ日刊イトイ新聞] 〈アジア的〉ということ</ref>。 宗教社会学者の[[マックス・ヴェーバー]]は『[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている<ref name="ohashi"/>。 また、[[マルクス主義]]では、「[[アジア的生産様式]]」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。[[カール・ウィットフォーゲル]]は、それが「アジア的専制」を産み出したという<ref name="ohashi"/>。 1990年代後半からの日韓は、高い自殺率、財閥や富裕層への富の集中、苛烈な受験戦争、薄い社会保障、来るべき少子高齢化社会など兵役を除けば多くの共通点があり、[[新自由主義|ネオリベラリズム]]と儒教がミックスした社会になっているという意見がある<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20160322-00055711 「中世ジャップランド」と「ヘル朝鮮」──SMAPとJYJで繋がった日韓のネットスラングの共通性(松谷創一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース]</ref>。 一方で、1990年代以降、中国の[[改革開放]]の成功や[[アジア四小龍|アジア四小竜]]の台頭を迎えると、[[リー・クアンユー]]や[[李登輝]]などは儒教が近代化の原因だと述べた<ref name="ohashi">{{Cite journal|和書|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SK000600002615 |author=大橋松行 |title=東アジアにおける近代化と儒教倫理 |journal=佛教大学総合研究所紀要 |ISSN=1340-5942 |publisher=佛教大学総合研究所 |year=1999 |month=mar |issue=6 |pages=79-89 |naid=120007022442}}</ref>。 === 儒教は宗教か === 儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、[[仏教]]との思想的関係、[[理]]や[[気]]の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的<ref>[[湯浅赳男]]『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』[[日本文芸社]]、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN 4-537-11501-7、p72</ref> だが、[[孟子]]以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが[[唯物論]]と反する考えになっているという指摘もある。[[加地伸行]]などは、宗教を「[[死生観]]に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている<ref>加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 [[筑摩書房]]〈ちくまライブラリー〉/ 改訂版・[[ちくま学芸文庫]]、2011年</ref>。<!---このため、“儒教を思想と看做すか(狭義の)宗教と看做すか”では完全に見解が分かれており、たびたび論争の焦点になっている。儒教を[[宗教]]と定義した場合は教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている{{誰2|date=2009年10月}}---> しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事も可能なのである。 儒教が宗教かが法廷で問われた例として[[至聖廟]]を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210224/k10012883031000.html 孔子まつる那覇の施設 使用料免除は憲法違反 最高裁大法廷 | 憲法 | NHKニュース]</ref>。 {{See also|zh:儒教 (宗教)}} == 文献 == ; 概説書 * [[加地伸行]] 『儒教とは何か』 [[中公新書]]、増補版2015年 ISBN 978-4121909893 *加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 [[筑摩書房]]〈ちくまライブラリー〉/ 改訂版・[[ちくま学芸文庫]]、2011年 * [[串田久治]] 『儒教の知恵-矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 978-4121016850 * [[鈴木利定]] 『儒教哲学の研究』 [[明治書院]] ISBN 9784625483028 *T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 [[青土社]] ISBN 9784791752980 * [[狩野直禎]]編 『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 論語』[[ナツメ社]]、2001年、ISBN 4816330461 * [[緑川佑介]] 『孔子の一生と論語』 [[明治書院]]、2007年、ISBN 9784625684036 * [[土田健次郎]]編 『21世紀に儒教を問う』 [[早稲田大学出版部]]〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225 *永冨青地編 『儒教 その可能性』 [[早稲田大学出版部]]〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145 ;伝記 * [[白川静]] 『孔子伝』 [[中公文庫]]、1991年 ISBN 4122041600 * [[諸橋轍次]] 『如是我聞 孔子伝』(上下)、[[大修館書店]]、1990年 * [[金谷治]] 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 978-4061589353 * [[武内義雄]] 『論語之研究』 [[岩波書店]]、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊 * [[津田左右吉]] 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊 * [[宮崎市定]] 『論語の新しい読み方』 [[礪波護]]編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227 ;五経 *[[易経]] **[[今井宇三郎]] 『易経』 全3巻:[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉<br> (上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146 **[[本田済]] 『易』 新版:[[朝日選書]]〈中国古典選〉、1997年 ISBN 9784022590107 **[[高田眞治]]・[[後藤基巳]] 『易経』 [[岩波文庫]] <br> (上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129 *[[書経]] **[[加藤常賢]] 『書経 (上)』 [[明治書院]]〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570254 **[[小野沢精一]] 『書経 (下)』 [[明治書院]]〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570261 **池田末利 『[[書経|尚書]] 』 [[集英社]]〈[[全釈漢文大系]]〉 *[[詩経]] **[[石川忠久]] 『詩経』 全3巻:[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉。他に新書漢文大系(抄訳版)がある。<br>(上)ISBN 9784625571107、(中)ISBN 9784625571114、(下)ISBN 9784625673009 **[[白川静]] 『詩経国風』 [[平凡社東洋文庫]]、ISBN 9784582805185 **[[白川静]] 『詩経雅頌』 [[平凡社]]東洋文庫 全2巻、(1) ISBN 9784582806359 、(2) ISBN 9784582806366 *[[礼記]] **[[竹内照夫]] 『礼記』全3巻:[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉<br>(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292 **[[市原亨吉]]など 『礼記』全3巻:[[集英社]]〈[[全釈漢文大系]]〉 **『礼記』 「漢文大系」[[冨山房]]、初版1913年。改訂版1984年 **[[桂湖村]] 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:[[早稲田大学出版部]]、初版1914年 **[[安井小太郎]] 『礼記』 「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年 **[[下見隆雄]] 『礼記』 [[明徳出版社]]〈中国古典新書〉、初版1973年 *[[春秋]] **[[春秋左氏伝]] ***[[鎌田正]] 『春秋左氏伝』全4巻、[[明治書院]]〈新釈漢文大系〉 <br> (1) ISBN 9784625570308 、(2) ISBN 9784625570315 、(3) ISBN 9784625570322、(4) ISBN 9784625570339 ***竹内照夫 『春秋左氏伝』全3巻、[[集英社]]〈[[全釈漢文大系]]〉 ***[[小倉芳彦]] 『春秋左氏伝』全3巻、岩波文庫<br> (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638 **[[春秋公羊伝]] ***[[林羅山]]訓点 菜根出版(復刻) ***『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝(日原利国訳) 筑摩書房、1970年 ****[[日原利国]]著 『春秋公羊伝の研究』 [[創文社]]〈東洋学叢書〉、1978年 **[[春秋穀梁伝]] ***[[野間文史]]著 『[[春秋学]] 公羊伝と穀梁伝』 [[研文出版]]〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011 ;四書 *[[大学 (書物)|大学]] **[[宇野哲人]] 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940 **[[金谷治]] 『大学 中庸』 [[岩波文庫]] 2004年 ISBN 4003322215 **[[赤塚忠]] 『大学・中庸』 [[明治書院]]〈新釈漢文大系〉 1998年 ISBN 4625570026 *[[中庸]] ** [[島田虔次]] 『大学・中庸』 朝日新聞社〈中国古典選〉、1967年 / [[朝日文庫]](上下)、1978年 ** [[宇野哲人]] 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959 ** [[俣野太郎]] 『大学・中庸』 [[明徳出版社]]〈中国古典新書〉、1968年 *[[論語]] ** [[吉田賢抗]] 『論語』 明治書院〈[[新釈漢文大系]] 1〉、初版1960年、ISBN 4625570018。[[新書漢文大系]](抄訳版)がある ** [[吉川幸次郎]] 『論語』 各(上下) 新版:[[朝日選書]]〈中国古典選〉、1996年 / 改訂版・[[角川ソフィア文庫]]、2020年 ** [[金谷治]] 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 400-3320212。ワイド版2001年 ** [[宮崎市定]] 『現代語訳 論語』 [[岩波現代文庫]]、2000年、ISBN 4006000170 ** [[貝塚茂樹]] 『論語』 [[中公文庫]]、改版2020年、ISBN 4122068487 ** [[加地伸行]] 『論語』 [[講談社学術文庫]]、2004年、増訂版2009年 *[[孟子]] **[[小林勝人]] 『孟子』 [[岩波文庫]](上下) ISBN 978-4003320419&ISBN 978-4003320426 **貝塚茂樹 『孟子』 [[中公クラシックス]]。抄訳版 **[[内野熊一郎]]・[[加藤道理]] 『孟子』、[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉。新書漢文大系(抄訳版)がある。 **[[宇野精一]] 『孟子』 [[集英社]]〈[[全釈漢文大系]]〉/ 講談社学術文庫、2019年 ;関連古典 *[[周礼]] *[[儀礼 (経書)|儀礼]] ** 池田末利編訳、全5巻:[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]〈東海古典叢書〉 *[[爾雅]] *[[孝経]] **加地伸行 『孝経』 講談社学術文庫、2007年 **栗原圭介 『孝経』 [[明治書院]]〈新釈漢文大系〉、ISBN 9784625570353 *[[荀子]] **[[金谷治]] 『荀子』 岩波文庫(上下)、ISBN 9784003320815&ISBN 9784003320822 **藤井専英 『荀子』 全2巻:[[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉。ほかに新書漢文大系(抄訳版)がある。 **金谷治・佐川修 『荀子』 全2巻:[[集英社]]〈[[全釈漢文大系]]〉 *[[大戴礼記]] **栗原圭介 『大戴礼記』 [[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉、ISBN 9784625571138 === 史書 === *[[史記]] **孔子[[世家]] **[[仲尼]]弟子[[列伝]] **孟子荀卿列伝 **[[儒林]]列伝 *[[漢書]] **[[董仲舒伝]] **[[儒林伝]] *[[孔子家語]] **[[宇野精一]]訳 『孔子家語』 [[明治書院]]〈[[新釈漢文大系]]〉 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。 **[[藤原正]]訳 『孔子家語』 [[岩波文庫]] ISBN 9784003320228 ;[[論語集解]] *[[渡邉義浩]]主編『全譯 論語集解』[[汲古書院]] 上・下 2020年 ;[[朱子学]] *[[朱熹|朱子]] 『[[論語集註]]』 **[[笠間書院]] ISBN 978-4305001559。真田但馬・吹野安編 **[[簡野道明]]編、明治書院 ISBN 978-4625733017、新版2003年 **『[[論語集注]]』[[土田健次郎]]訳注、[[平凡社]]東洋文庫 全4巻 *『[[近思録]]』 **湯浅幸孫訳著、新版・たちばな出版(選書版)<br> (上)ISBN 978-4886926036、(中)ISBN 978-4886926043 、(下)ISBN 978-4886926050 **市川安司訳著 『近思録』 明治書院〈[[新釈漢文大系]]〉 ISBN 978-4625570377 *『「[[朱子語類]]」抄』 [[三浦國雄]]訳注、[[講談社学術文庫]] ISBN 9784061598959 *[[島田虔次]]著 『[[朱子学]]と[[陽明学]]』 [[岩波新書]] ISBN 9784004120285 ;[[陽明学]] *[[王陽明]] 『[[伝習録]]』 [[溝口雄三]]訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820 ;[[朝鮮の儒教|朝鮮の儒教と儒学]] ::史料に朝鮮王朝での五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」がある。 ;[[日本の儒教|日本の儒学]] *[[荻生徂徠]] 『論語徴』 [[小川環樹]]訳註、全2巻:[[平凡社東洋文庫]] ISBN 9784582805758&ISBN 9784582805765 *[[伊藤仁斎]] 『論語古義』 **[[子安宣邦]]著『論語古義』[[子安宣邦]]『仁斎論語 『論語古義』現代語訳と評釈』[[ぺりかん社]] 上・下 **『[[日本の名著]]13 伊藤仁斎』貝塚茂樹責任編集、中央公論社 1977年、新版・中公バックス 1983年。現代語訳のみ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{See|儒学者一覧}} {{Div col}} * [[十三経]] * [[漢唐訓詁学]] * [[宋明理学]]([[朱子学]]・[[陽明学]]) * [[唐君毅]] * [[牟宗三]] * [[杜維明]] * [[聖人]] * [[道 (哲学)|道]] * [[徳]] * [[忠]] * [[孝]] * [[心]] * [[理]] * [[気]] * [[東学]]([[天道教]]) <!--* [[仏教]] * [[道教]] * [[神道]] --> * [[反儒]] * [[名 (倫理)]] * [[分 (倫理)]] * [[修身]] * [[明経道]] * [[明経問者生]] * [[進士]] * [[科挙]] <!--* [[哲学]] --> * [[律令制]] * [[鬼道]] - 儒教的価値観にそぐわない政治体制 {{div col end}} == 外部リンク == {{Commonscat|Confucianism}} * [http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=47084&if=gb 早期儒学著作]{{Zh-hk icon}}・{{Zh-smpl icon}}・{{En icon}}の表示変換が出来る。 * {{Kotobank}} {{中国のテーマ史}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆきよう}} [[Category:儒教|*]] [[Category:中国の思想史]] [[Category:宗教の歴史]] [[Category:中国哲学]] [[Category:倫理学の理論]]
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2,023
WebDAV
WebDAV(Web-based Distributed Authoring and Versioning、ウェブダブ)はHypertext Transfer Protocolを拡張したもので、Webサーバ上のファイル管理を目的とした分散ファイルシステムを実現するプロトコルである。 WebDAVは、Webサーバに対して直接ファイルのコピーや削除を行ったり、ファイル所有者や更新日時などのファイル情報を取得・設定するといった機能を持つ分散ファイルシステムで、HTTP 1.1を拡張したプロトコルで実現される。元々はファイルのバージョン管理機能も内包していたが、後に RFC 3253 で定義されたDelta-Vに分離された。 マイクロソフトによって最初に開発され、1999年2月に RFC 2518 が発表された。2007年6月に発表された RFC 4918 が2008年1月現在最新の定義である。 Webサーバ等でコンテンツのアップロードや更新を行う際に、FTPやscpのような別のサービス・プロトコルを使うことなく、HTTPだけで全てのコンテンツ管理を完結できる。また、HTTPの拡張のみによって実装されているため、ファイアウォールによって既存のファイル転送サービスが利用できない環境や、HTTPプロキシを経由した環境でも利用できる。 WebDAVには、元となるHTTP 1.1に加え次のメソッドが存在する。HTTPのヘッダ部でメソッドおよびURIを指定する。ボディ部では、クライアント・サーバ双方ともXMLを用いる。 Windows 98以降は「Webフォルダ」という名称のWebDAVクライアント機能を内蔵し、ネットワーク上に置かれたファイルとしてアクセスできる。 Windows XP SP2以降でBasic認証を行うには、HTTPS (SSL) での接続が必要であり、HTTP接続ではレジストリの設定を変更する必要がある。 Windows VistaではWebDAV機能は動作しない。「Web フォルダのソフトウェア更新プログラム: KB907306」を適応すれば32bit版に限り利用可能であったが、これも2022年現在は利用できない。 Windows 7以降は再び標準で利用可能となっている。 その他、Windows用のクライアントとして、CarotDAVやNetDrive、TeamFileクライアントなどがある。 Finderは、WebDAVクライアント機能を内蔵している。Appleが運営するストレージサービスiDiskへのアクセスには、WebDAVを利用している。 GNOMEにおいてファイルアクセス抽象化機能を提供するGnomeVFSは、WebDAVクライアント機能を備えている。GNOMEのファイルなどファイルアクセスにGnomeVFSを用いているアプリケーションは、シームレスにWebDAVサーバ上のファイルにアクセスできる。 cadaverは、キャラクタユーザインタフェースを持つWebDAVクライアントである。 PerlにおけるHTTP::DAV、PythonのPyDAVなどのように、各種スクリプト言語向けのクライアントライブラリが複数存在する。 Subversionやarchでは、リモートリポジトリへのアクセスプロトコルにWebDAVが利用できる。 ハロウィーン文書内でのHTTP-DAVとは、WebDAVのことを指している。
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WebDAVはHypertext Transfer Protocolを拡張したもので、Webサーバ上のファイル管理を目的とした分散ファイルシステムを実現するプロトコルである。
{{Infobox networking protocol |title = WebDAV |is stack = no |purpose = [[Webサーバ]]上のファイル管理 |developer = {{仮リンク|ジム・ホワイトヘッド (計算機科学者)|en|Jim Whitehead (computer scientist)|label=ジム・ホワイトヘッド}}、[[Internet Engineering Task Force]](IETF) |date = {{Start date and age|1996}} |based on = [[Hypertext Transfer Protocol]](HTTP) |influenced = [[Delta-V]]、[[CalDAV]]、[[GroupDAV]] |osilayer = [[アプリケーション層]] |ports = 80, 443 |rfcs = {{IETF RFC|2518}}, {{IETF RFC|4918}} }} '''WebDAV'''('''Web-based Distributed Authoring and Versioning'''、ウェブダブ)は[[Hypertext Transfer Protocol]]を拡張したもので、[[Webサーバ]]上のファイル管理を目的とした[[分散ファイルシステム]]を実現するプロトコルである。 == 概要 == WebDAVは、[[Webサーバ]]に対して直接ファイルのコピーや削除を行ったり、ファイル所有者や更新日時などのファイル情報を取得・設定するといった機能を持つ分散ファイルシステムで、HTTP 1.1を拡張したプロトコルで実現される。元々はファイルの[[バージョン管理システム|バージョン管理]]機能も内包していたが、後に {{IETF RFC|3253}} で定義されたDelta-Vに分離された。 [[マイクロソフト]]によって最初に開発され、1999年2月に {{IETF RFC|2518}} が発表された。2007年6月に発表された {{IETF RFC|4918}} が2008年1月現在最新の定義である。 === 特徴 === [[Webサーバ]]等でコンテンツのアップロードや更新を行う際に、[[File Transfer Protocol|FTP]]や[[Secure copy|scp]]のような別のサービス・プロトコルを使うことなく、HTTPだけで全てのコンテンツ管理を完結できる。また、HTTPの拡張のみによって実装されているため、[[ファイアウォール]]によって既存のファイル転送サービスが利用できない環境や、[[プロキシ|HTTPプロキシ]]を経由した環境でも利用できる。 == 設計 == WebDAVには、元となるHTTP 1.1に加え次のメソッドが存在する。HTTPのヘッダ部でメソッドおよびURIを指定する。ボディ部では、クライアント・サーバ双方ともXMLを用いる。 ; PROPFIND:指定したURIが示す資源の属性を取得する。具体的には、要求する属性をクライアントがWebサーバに送信すると、サーバはそれに対応した属性値を返す。また、その資源の属性全てを取得することも出来る。 ; PROPPATCH:指定したURIが示す資源の属性の設定や削除を行う。 ; MKCOL:指定したURIの場所に新たな資源を作成する。 ; COPY:指定したURIが示す資源およびその属性値を別のURIにコピーする。 ; MOVE:指定したURIが示す資源およびその属性値を別のURIに移動する。 ; LOCK:指定したURIが示す資源の[[ファイルロック]]を設定する。[[ファイルロック#共有ロック|共有ロック]]と[[ファイルロック#排他ロック|排他ロック]]の二種類が利用できる。 ; UNLOCK:指定したURIが示す資源のロックを解除する。 == 実装 == === Webサーバ === ; [[Internet Information Services]] : [[Windows Server]]におけるWebサーバInternet Information Servicesは、バージョン5.0からWebDAVをサポートしている<ref>[http://www.microsoft.com/japan/technet/prodtechnol/windows2000serv/techinfo/howitworks/iis/iis5techoverview.mspx Windows 2000 ホーム ‐ Internet Information Services 5.0 技術概要]</ref>。 ; [[Apache HTTP Server]] : バージョン1.3から既存のApache HTTP Serverに追加する形でのWebDAVモジュールが存在していた<ref>[http://www.webdav.org/mod_dav/ mod_dav: a DAV module for Apache]</ref>。バージョン2.0からは標準搭載され<ref>[http://httpd.apache.org/docs/2.0/ja/new_features_2_0.html Apache 2.0 の新機能の概要]</ref>、設定のみで利用できる。 ; [[Ruby on Rails]] : WebDAVサーバ機能を実現する追加モジュール<ref>[http://wiki.rubyonrails.org/rails/pages/WebDAV WebDAV in Ruby on Rails]</ref>が存在する。 ; [http://www.soft3304.net/04WebServer/ 04WebServer] : 2003年10月1日公開のバージョン0.40から実装されている。 === クライアント === ==== Windows ==== [[Microsoft Windows 98|Windows 98]]以降は「Webフォルダ」という名称のWebDAVクライアント機能を内蔵し、ネットワーク上に置かれたファイルとしてアクセスできる。 [[Microsoft Windows XP|Windows XP]] SP2以降で[[Basic認証]]を行うには、[[HTTPS]] ([[Transport Layer Security|SSL]]) での接続が必要であり、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]接続ではレジストリの設定を変更する必要がある<ref>[http://support.microsoft.com/?kbid=841215 Windows シェル コマンドを使って、または エクスプローラ表示 を使って、 Windows SharePoint Services 3.0 または Windows SharePoint Services 2.0 にドキュメントライブラリに接続できません。]</ref><ref>{{Cite web |title=Using the WebDAV Redirector |url=https://docs.microsoft.com/en-us/iis/publish/using-webdav/using-the-webdav-redirector |website=microsoft.com |access-date=2022-06-05 |language=en-us |last= |publisher=[[Microsoft]] |date=2022-03-22}}</ref>。 [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]ではWebDAV機能は動作しない。「[http://www.microsoft.com/downloads/details.aspx?FamilyID=17c36612-632e-4c04-9382-987622ed1d64&displaylang=ja Web フォルダのソフトウェア更新プログラム: KB907306]」を適用すれば32bit版に限り<ref>{{Cite web |title=How do I access WebDAV in Windows XP/Vista? {{!}} QNAP |url=https://www.qnap.com/en/how-to/tutorial/article/how-do-i-access-webdav-in-windows-xpvista |website= |access-date=2022-06-05 |language=en |first= |last= |publisher=[[QNAP]] |date=2022-03-20}}</ref>利用可能であったが<ref>{{Cite web|和書|title=Windows Vista からの WebDAV 接続 - KAGOYA Internet Routing |url=https://support.kagoya.jp/kir/manual/webdav/vista/index.html |website=kagoya.jp |access-date=2022-06-05 |publisher=[[カゴヤ・ジャパン]]}}</ref>、これも2022年現在は利用できない。 [[Microsoft Windows 7|Windows 7]]以降は再び標準で利用可能となっている<ref>{{Cite web |title=Can't access WebDAV Web folder - Windows Client |url=https://docs.microsoft.com/en-us/troubleshoot/windows-client/networking/cannot-access-webdav-web-folder |website=microsoft.com |access-date=2022-06-05 |language=en-us |last= |publisher=[[Microsoft]] |date=2021-09-23}}</ref>。 その他、Windows用のクライアントとして、CarotDAV<ref>[http://www.rei.to/carotdav.html 麗の小屋 - WebDAV Client CarotDAV -]</ref>やNetDrive<ref>[http://www.netdrive.net/ Solution Box Inc.]</ref>、TeamFileクライアント<ref>[http://www.teamfile.com チームファイル]</ref>などがある。 ==== OS X ==== [[Finder]]は、WebDAVクライアント機能を内蔵している。[[Apple]]が運営するストレージサービス[[iDisk]]へのアクセスには、WebDAVを利用している<ref>[http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=31327-ja#faq7 .Mac Services: iDisk についてよくお問い合わせいただく質問と解答 (FAQ) - 4/5]</ref>。 ==== UNIX ==== [[GNOME]]においてファイルアクセス抽象化機能を提供する[[GnomeVFS]]は、WebDAVクライアント機能を備えている。[[GNOME]]の[[ファイル (GNOME)|ファイル]]などファイルアクセスにGnomeVFSを用いているアプリケーションは、シームレスにWebDAVサーバ上のファイルにアクセスできる。 cadaver<ref>[http://www.webdav.org/cadaver/ cadaver - command-line WebDAV client]</ref>は、[[キャラクタユーザインタフェース]]を持つWebDAVクライアントである。 ==== その他 ==== [[Perl]]におけるHTTP::DAV<ref>[http://search.cpan.org/~pcollins/HTTP-DAV-0.31/DAV.pm HTTP::DAV]</ref>、[[Python]]のPyDAV<ref>[http://pypi.python.org/pypi/PyDAV PyDAV]</ref>などのように、各種[[スクリプト言語]]向けのクライアントライブラリが複数存在する。 [[Apache Subversion|Subversion]]や[[arch]]では、リモートリポジトリへのアクセスプロトコルにWebDAVが利用できる。 == WebDAVを使用した規格 == ; [[CalDAV]]:カレンダーの情報を交換するための規格。 ; [[CardDAV]]:アドレス帳の情報を交換するための規格。 == その他 == [[ハロウィーン文書]]内でのHTTP-DAV<ref>[http://www.catb.org/~esr/halloween/halloween1.html#comment28 Halloween Document 10]</ref><ref>[https://cruel.org/freeware/halloween1j.html#comment28 Halloween I:Japanese ([[山形浩生]]による日本語訳)]</ref>とは、WebDAVのことを指している。 == 脚注 == <references/> == 外部リンク == * [http://webdav.todo.gr.jp/ WebDAV日本語情報ページ] * [http://www.todo.ne.jp/webdav/ WebDAV-jpメーリングリスト] * [http://test.webdav.org/ WebDAV Testing Server] 接続テスト用に公開されているWebDAVサーバ。 {{URI scheme}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:WebDAV}} [[Category:RFC|2518]] [[Category:Hypertext Transfer Protocol]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/WebDAV
2,028
JavaScript
JavaScript(ジャバスクリプト)は、プログラミング言語であり、HyperText Markup Language(HTML)やCascading Style Sheets(CSS)と並ぶ World Wide Web(WWW)の中核技術の一つである。 プロトタイプベースのオブジェクト指向スクリプト言語であるが、クラスなどのクラスベースに見られる機能も取り込んでいる。 利用される場面はウェブサイト、ウェブアプリケーション、バックエンド、デスクトップアプリケーション、モバイルアプリケーションなど、ウェブブラウザからサーバ、デスクトップからスマートフォンまで多岐にわたっている。 Javaと似た名称を持つが、異なるプログラミング言語である(#歴史を参照)。 JavaScriptはWebブラウザNetscape Navigatorに起源を持ち、現在では様々な用途に利用されるプログラミング言語である。 JavaScriptの言語仕様はECMAScriptとして標準化され、実装は各種のJavaScriptエンジンによって提供されている。JavaScriptエンジンの例としてChromium系ブラウザのV8、Mozilla FirefoxのSpiderMonkey、SafariのJavaScriptCoreが挙げられる。 言語仕様を定義するECMAScriptのほかに、WebブラウザへアクセスするためのAPI仕様にDOMなどがある。これらはECMAScriptから独立しており、JavaScriptからも独立した概念である。 JavaScriptは以下のような様々なスタイルのプログラミングが可能である。 これらを可能にしているプログラミング言語としての特徴に、以下のことが挙げられる。オブジェクト指向の面では、JavaScriptのオブジェクトはクラスベースではなくプロトタイプベースである。関数型の面では、第一級関数をサポートし関数を第一級オブジェクトとして扱える。 AptanaやEclipse, NetBeans, IntelliJ IDEAなどの統合開発環境はJavaScriptをサポートしており、大規模開発が可能になっている。さらにExt JSなどの本格的なGUIライブラリの登場により、デスクトップアプリケーションと遜色ないユーザインタフェースの構築が可能になった。 JavaScriptではしばしば、ネットワークを介したリクエストのような "待ち" がある処理を行う。これに対処するために非同期処理をサポートし並行処理が可能となる。 もしも待ちの間にプログラムを停止/sleep させると、その間に他の処理をそのスレッドで行うことが出来ない(ブロッキング)。もしネットワークリクエストが返ってくるまでブロッキングしたとすると、その間ブラウザのレンダリングも停止してしまう。 非同期処理を記述する方法としてコールバック関数がある。JavaScriptはコールバック関数記法をラップするPromise、Promiseを同期的なコードのように記述できるAsync/await構文をもつ。 またJavaScriptは並列処理による並行処理もサポートしている(下記参照)。 JavaScriptでは複数スレッドを用いた並列処理が可能である。共有メモリ上のバッファを表現するSharedArrayBuffer、バッファ操作オブジェクトAtomicsが定義されている。スレッドそのものの仕様は環境ごとに異なる(ECMAScriptでは定義されていない)。ブラウザの場合はWorker、Node.jsの場合はworker_threadsで定義されている。ただこの2環境ではほぼ共通の仕組みとなっており、例えばpostMessageによるメッセージングが両者でサポートされている。 JavaScriptはネットスケープコミュニケーションズのブレンダン・アイクによって、1995年5月に10日間で開発された。上司からの指示に「Javaのような外観にしてくれ」「初心者に優しく」「Netscapeブラウザのほとんどなんでも制御できるように」との注文があった。Netscape Navigator 2.0で実装された。 開発当初はLiveScriptと呼ばれていたが、1995年にサン・マイクロシステムズ(現・オラクル)が開発したプログラミング言語Javaが当時大きな注目を浴びており、ネットスケープとサン・マイクロシステムズが業務提携していた事もあったため、JavaScriptという名前に変更された。最初のJavaScriptエンジンはブレンダン・アイクによりNetscape Navigatorのために作成されたものであった。このエンジンはSpiderMonkeyと呼ばれており、C言語で実装されていた。また、全てJavaで記述されたJavaScriptエンジンであるRhinoも同じくNetscapeのNorris Boyd(後にGoogleに移籍)らにより作成された。 1996年にマイクロソフトのInternet Explorer 3.0に搭載されるようになると、その手軽さからJavaScriptは急速に普及していく。1997年、通信に関する標準を策定する国際団体EcmaインターナショナルによってJavaScriptの中核的な仕様がECMAScriptとして標準化され、多くのウェブブラウザで利用できるようになった。 ネットスケープは、ウェブアプリケーション開発言語として自社のサーバ製品に実装したLiveWire JavaScriptも発表したが、こちらはあまり普及しなかった。 JavaScriptの登場初期は、ブラウザベンダー間で言語仕様の独自拡張が行われていたため、ブラウザ間の互換性が極めて低かった。ECMAScriptの策定以降は実装間の互換性は向上し、DOMなど関連仕様の実装に関する互換性も高くなっていった。 かつてはJavaScriptという言葉が「ECMAScript標準」を指す、あるいは「独自実装を含んだ広義のJavaScript」を指し幅広い意味で使われていた。ゆえにどちらの意味でJavaScriptという言葉が使われているかは文脈で判断する必要があった。たとえばかつてマイクロソフトによる実装はJScriptと呼ばれたが、JScriptをJavaScriptと呼ぶような場面があった。 ECMAScriptは仕様自体に独自の拡張を条件付きで認める記述があり、ブラウザが実装しているスクリプト言語はすべてECMAScriptに準拠していることになる。広義の意味でこれをJavaScriptと呼ぶ場合、主要なブラウザが実装しているスクリプト言語はマイクロソフトやGoogle、Appleの実装も含めてJavaScriptである。 実装間での差異を吸収するためにPrototype JavaScript Frameworkなどのライブラリが用いられた。 市場のブラウザ間互換性がある程度確立された2000年ごろには、GoogleやAmazonなどのGAFAMもJavaScriptを積極的に利用し始めた。 また、JavaScriptはウェブブラウザの拡張機能を開発するための言語としても使われるようになった。当初は拡張機能用のAPIが統一されていなかったが、互換性を高めようとする動きがある。 当初はインタプリタ方式で実行されることが一般的であったためJavaScriptの実行速度はさほど速くなかったが、現在ではJITコンパイルなどを利用した各種の最適化がなされており、各ウェブブラウザのベンダーともに高速化を図ってしのぎを削っている。さらには、この高速化を受ける形で、Node.jsのようにサーバサイドでもJavaScriptを使う動きが見られるようになった。 次世代のJavaScriptとして、"JavaScript 2.0" を作ろうとした動きは2度あったが、いずれもまとまらなかった。 1度目はECMAScript 3が完成したのち2000年から2003年にかけて発生したが、ネットスケープとマイクロソフトの対立でまとまらなかった。当時ネットスケープが提案していた案はアドビのActionScript 2.0に引き継がれ、マイクロソフトの案はJScript .NETへと引き継がれた。 その後もネットスケープ及びMozilla FoundationはECMAScriptの策定に並行してJavaScriptを拡張し、JavaScript 1.x系列としてバージョンアップを繰り返していた。ECMAScript側ではECMAScript 4の策定が1999年以降進められており、2006年の時点でMozilla Foundationはこれに基づいてJavaScript 2.0を作成することを表明していた。MozillaはECMAScript 4の策定にあたって、Pythonの文法を一部取り込んだ案を提案しており、自身でもこれを実装していた。 しかしその後、ECMAScriptの標準化作業がMozilla, Adobe, Opera, Googleらが推す ECMAScript 4 と、Microsoft, Yahoo! らが推す ECMAScript 3.1 に事実上分裂してしまった影響から、2008年8月に大きな方針転換があり、ECMAScript 4は破棄され後者がECMAScript 5として2009年に標準化された。ECMAScript 4に入る予定だった機能は新たに発足した「ECMAScript Harmony」に先送りとなった。これは後にECMAScript 2015として標準化が完了した。 なお、ECMAScript 5が標準化されて以降、MozillaのJavaScript実装はECMAScriptへの準拠を謳うようになった。そしてバージョン番号での呼称は行われなくなり、JavaScript 2.0は事実上死語となった。 JavaScriptの変数は var, letおよびconst キーワードを使用して宣言できる。 上記例のスラッシュ2文字以降はコメントである。 JavaScriptは言語仕様にI/Oが組み込まれておらず、それらは実行環境により提供される。ECMAScript 5.1の仕様では以下のように言及されている。 この仕様の中では外部データの入力または計算結果の出力は供給しない。 (... indeed, there are no provisions in this specification for input of external data or output of computed results.) しかし、ほとんどの実行環境はConsole Standardで規定されている console オブジェクトを持っており、そこにコンソール出力を行える。以下に最小のHello worldプログラムを示す。 再帰関数は以下のように書ける。 無名関数(またはラムダ式)の構文とクロージャの例は以下である。 可変長引数は以下のように記述する。 即時実行関数式(英語版) (IIFE) の例。関数を用いることで変数をクロージャに閉じ込めることができる。 以下のサンプルコードは、様々なJavaScriptの機能を示したものである。 上記コードをウェブブラウザ上で実行すると、以下の結果が表示される。 JavaScriptはコードの最上階層に属するグローバルオブジェクトを提供している。JavaScriptにおけるグローバルオブジェクトはglobalThisである。 それぞれのJavaScript実行環境において様々なAPIが存在しており、JavaScriptからそれらを呼び出すことができる。 HTML要素をJavaScriptから操作するためのDOM API(例: document.querySelector)、HTTPリクエストを送信するFetch API、マルチスレッドを可能にするWorkerなどが定義されている。これらは言語仕様であるECMAScriptからは独立した各々の仕様書でAPIが定義され、ブラウザ実装がJavaScriptバインディングを提供することでJavaScriptからの呼び出しが可能になっている。 ファイルシステムにアクセスするためのfs API(モジュール)や実行プロセスと相互作用するprocess APIなどが定義されている。Webブラウザがもつ強いサンドボックス要件が緩和されている点がNode.js APIの特徴の1つである。 alternative JavaScript (altJS) はJavaScriptへトランスパイルされるプログラミング言語の総称である。 JavaScriptへ新たな機能を追加する方法の1つに、新しい言語を定義しそのコードをJavaScriptへ変換する方法がある。そのようなJavaScriptへトランスパイルされる言語はaltJSと総称される。altJSの例としてCoffeeScriptやTypeScript、PureScriptが挙げられる。altJSを用いることで、新たな演算子や記法を導入し効率の良いJavaScript開発を行うことができる。素のJavaScriptはaltJSと対比してVanilla JSとしばしば呼ばれる。 例えばTypeScriptは型の導入を可能にする。JavaScriptは動的型付けである。静的コード解析でJavaScriptコードへの型検査は実行可能だが、コード上に型表記をおこなうことはできない。altJSの1つであるTypeScriptはJavaScriptへ型ノーテーションを導入しトランスパイル時に型検査をおこなうことで、型をもったJavaScriptを実現している。 JavaScriptエコシステムには多様なライブラリ(パッケージ)が存在する。パッケージの導入・バージョン調整・廃棄を担う管理ソフトウェアとしてnpmやyarnがある。 WebブラウザにおけるHTML操作を目的として作られたJavaScriptは、2020年現在幅広い領域で利用されている。 JavaScriptの最も歴史の長い使用法はHTMLページにクライアント側のふるまいを持たせることである。これは当初はダイナミックHTML (DHTML) として知られていた。JavaScriptはHTMLに直接埋め込まれまたは別のファイルからインクルードされ、Webブラウザ上のJavaScript実行環境で動作する。Webブラウザは通常、Document Object Model (DOM) を扱うためのホストオブジェクトを提供する。 JavaScriptの使用例としては、以下のようなものがある。 JavaScriptはユーザーのブラウザ上で動作できることから、ユーザーの操作に対して素早く反応することができ、アプリケーションをよりレスポンシブにすることができる。さらにJavaScriptはHTML単独では対応できない操作、例えばキー入力などにも応答することができる。Gmailのようなアプリケーションでは、JavaScriptでUIロジックを実装し、さらにJavaScriptでサーバから情報(例えばeメールのメッセージ)を取得することで、こうしたメリットを享受している。このような利点からAjaxは大きなトレンドとなった。 様々な言語やフレームワークをウェブブラウザ上で動作させるために、JavaScriptはそれらのコンパイル先出力言語となっている(例: TypeScript)。 以下はJavaScriptとDOMを含むWebページのごく単純な例である。 登場当初は、htmlの補助的なスクリプトとして、クラスや非同期処理などの処理が貧弱であったが、近年のWebアプリケーションの浸透に伴い、様々な機能が拡張された。 現在では、クラスの作成や非同期処理など、C#やJavaでなければ実装できなかったものも手軽に実装できるようになっている。以下はクラスや非同期処理のごく単純な実装例である。 ウェブブラウザ以外のJavaScript実行環境も存在する(サーバーサイドJavaScript実装の一覧(英語版)を参照)。データベースやWebサーバに組み込まれ、それらのAPIやHTTPリクエストやレスポンスのアクセスが提供されているものもある。 また、Node.jsのようにOSの機能(ネットワークやファイルシステムなど)にアクセスできる環境も存在する。加えてElectronなどのアプリケーションフレームワークの登場により、Atomなどのアプリケーションが広まりつつある。 いくつかのアプリケーションではマクロ言語としても採用されている。例えばAdobe Acrobatは、JavaScriptによるマクロ機能を搭載している。 代表的なJavaScriptライブラリは以下のとおり。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "JavaScript(ジャバスクリプト)は、プログラミング言語であり、HyperText Markup Language(HTML)やCascading Style Sheets(CSS)と並ぶ World Wide Web(WWW)の中核技術の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プロトタイプベースのオブジェクト指向スクリプト言語であるが、クラスなどのクラスベースに見られる機能も取り込んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "利用される場面はウェブサイト、ウェブアプリケーション、バックエンド、デスクトップアプリケーション、モバイルアプリケーションなど、ウェブブラウザからサーバ、デスクトップからスマートフォンまで多岐にわたっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Javaと似た名称を持つが、異なるプログラミング言語である(#歴史を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JavaScriptはWebブラウザNetscape Navigatorに起源を持ち、現在では様々な用途に利用されるプログラミング言語である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JavaScriptの言語仕様はECMAScriptとして標準化され、実装は各種のJavaScriptエンジンによって提供されている。JavaScriptエンジンの例としてChromium系ブラウザのV8、Mozilla FirefoxのSpiderMonkey、SafariのJavaScriptCoreが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "言語仕様を定義するECMAScriptのほかに、WebブラウザへアクセスするためのAPI仕様にDOMなどがある。これらはECMAScriptから独立しており、JavaScriptからも独立した概念である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JavaScriptは以下のような様々なスタイルのプログラミングが可能である。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらを可能にしているプログラミング言語としての特徴に、以下のことが挙げられる。オブジェクト指向の面では、JavaScriptのオブジェクトはクラスベースではなくプロトタイプベースである。関数型の面では、第一級関数をサポートし関数を第一級オブジェクトとして扱える。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "AptanaやEclipse, NetBeans, IntelliJ IDEAなどの統合開発環境はJavaScriptをサポートしており、大規模開発が可能になっている。さらにExt JSなどの本格的なGUIライブラリの登場により、デスクトップアプリケーションと遜色ないユーザインタフェースの構築が可能になった。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "JavaScriptではしばしば、ネットワークを介したリクエストのような \"待ち\" がある処理を行う。これに対処するために非同期処理をサポートし並行処理が可能となる。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "もしも待ちの間にプログラムを停止/sleep させると、その間に他の処理をそのスレッドで行うことが出来ない(ブロッキング)。もしネットワークリクエストが返ってくるまでブロッキングしたとすると、その間ブラウザのレンダリングも停止してしまう。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "非同期処理を記述する方法としてコールバック関数がある。JavaScriptはコールバック関数記法をラップするPromise、Promiseを同期的なコードのように記述できるAsync/await構文をもつ。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "またJavaScriptは並列処理による並行処理もサポートしている(下記参照)。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "JavaScriptでは複数スレッドを用いた並列処理が可能である。共有メモリ上のバッファを表現するSharedArrayBuffer、バッファ操作オブジェクトAtomicsが定義されている。スレッドそのものの仕様は環境ごとに異なる(ECMAScriptでは定義されていない)。ブラウザの場合はWorker、Node.jsの場合はworker_threadsで定義されている。ただこの2環境ではほぼ共通の仕組みとなっており、例えばpostMessageによるメッセージングが両者でサポートされている。", "title": "プログラミング言語としての特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "JavaScriptはネットスケープコミュニケーションズのブレンダン・アイクによって、1995年5月に10日間で開発された。上司からの指示に「Javaのような外観にしてくれ」「初心者に優しく」「Netscapeブラウザのほとんどなんでも制御できるように」との注文があった。Netscape Navigator 2.0で実装された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "開発当初はLiveScriptと呼ばれていたが、1995年にサン・マイクロシステムズ(現・オラクル)が開発したプログラミング言語Javaが当時大きな注目を浴びており、ネットスケープとサン・マイクロシステムズが業務提携していた事もあったため、JavaScriptという名前に変更された。最初のJavaScriptエンジンはブレンダン・アイクによりNetscape Navigatorのために作成されたものであった。このエンジンはSpiderMonkeyと呼ばれており、C言語で実装されていた。また、全てJavaで記述されたJavaScriptエンジンであるRhinoも同じくNetscapeのNorris Boyd(後にGoogleに移籍)らにより作成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1996年にマイクロソフトのInternet Explorer 3.0に搭載されるようになると、その手軽さからJavaScriptは急速に普及していく。1997年、通信に関する標準を策定する国際団体EcmaインターナショナルによってJavaScriptの中核的な仕様がECMAScriptとして標準化され、多くのウェブブラウザで利用できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ネットスケープは、ウェブアプリケーション開発言語として自社のサーバ製品に実装したLiveWire JavaScriptも発表したが、こちらはあまり普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "JavaScriptの登場初期は、ブラウザベンダー間で言語仕様の独自拡張が行われていたため、ブラウザ間の互換性が極めて低かった。ECMAScriptの策定以降は実装間の互換性は向上し、DOMなど関連仕様の実装に関する互換性も高くなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつてはJavaScriptという言葉が「ECMAScript標準」を指す、あるいは「独自実装を含んだ広義のJavaScript」を指し幅広い意味で使われていた。ゆえにどちらの意味でJavaScriptという言葉が使われているかは文脈で判断する必要があった。たとえばかつてマイクロソフトによる実装はJScriptと呼ばれたが、JScriptをJavaScriptと呼ぶような場面があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ECMAScriptは仕様自体に独自の拡張を条件付きで認める記述があり、ブラウザが実装しているスクリプト言語はすべてECMAScriptに準拠していることになる。広義の意味でこれをJavaScriptと呼ぶ場合、主要なブラウザが実装しているスクリプト言語はマイクロソフトやGoogle、Appleの実装も含めてJavaScriptである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "実装間での差異を吸収するためにPrototype JavaScript Frameworkなどのライブラリが用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "市場のブラウザ間互換性がある程度確立された2000年ごろには、GoogleやAmazonなどのGAFAMもJavaScriptを積極的に利用し始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、JavaScriptはウェブブラウザの拡張機能を開発するための言語としても使われるようになった。当初は拡張機能用のAPIが統一されていなかったが、互換性を高めようとする動きがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "当初はインタプリタ方式で実行されることが一般的であったためJavaScriptの実行速度はさほど速くなかったが、現在ではJITコンパイルなどを利用した各種の最適化がなされており、各ウェブブラウザのベンダーともに高速化を図ってしのぎを削っている。さらには、この高速化を受ける形で、Node.jsのようにサーバサイドでもJavaScriptを使う動きが見られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "次世代のJavaScriptとして、\"JavaScript 2.0\" を作ろうとした動きは2度あったが、いずれもまとまらなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1度目はECMAScript 3が完成したのち2000年から2003年にかけて発生したが、ネットスケープとマイクロソフトの対立でまとまらなかった。当時ネットスケープが提案していた案はアドビのActionScript 2.0に引き継がれ、マイクロソフトの案はJScript .NETへと引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その後もネットスケープ及びMozilla FoundationはECMAScriptの策定に並行してJavaScriptを拡張し、JavaScript 1.x系列としてバージョンアップを繰り返していた。ECMAScript側ではECMAScript 4の策定が1999年以降進められており、2006年の時点でMozilla Foundationはこれに基づいてJavaScript 2.0を作成することを表明していた。MozillaはECMAScript 4の策定にあたって、Pythonの文法を一部取り込んだ案を提案しており、自身でもこれを実装していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "しかしその後、ECMAScriptの標準化作業がMozilla, Adobe, Opera, Googleらが推す ECMAScript 4 と、Microsoft, Yahoo! らが推す ECMAScript 3.1 に事実上分裂してしまった影響から、2008年8月に大きな方針転換があり、ECMAScript 4は破棄され後者がECMAScript 5として2009年に標準化された。ECMAScript 4に入る予定だった機能は新たに発足した「ECMAScript Harmony」に先送りとなった。これは後にECMAScript 2015として標準化が完了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、ECMAScript 5が標準化されて以降、MozillaのJavaScript実装はECMAScriptへの準拠を謳うようになった。そしてバージョン番号での呼称は行われなくなり、JavaScript 2.0は事実上死語となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "JavaScriptの変数は var, letおよびconst キーワードを使用して宣言できる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "上記例のスラッシュ2文字以降はコメントである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "JavaScriptは言語仕様にI/Oが組み込まれておらず、それらは実行環境により提供される。ECMAScript 5.1の仕様では以下のように言及されている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この仕様の中では外部データの入力または計算結果の出力は供給しない。 (... indeed, there are no provisions in this specification for input of external data or output of computed results.)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、ほとんどの実行環境はConsole Standardで規定されている console オブジェクトを持っており、そこにコンソール出力を行える。以下に最小のHello worldプログラムを示す。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "再帰関数は以下のように書ける。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "無名関数(またはラムダ式)の構文とクロージャの例は以下である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "可変長引数は以下のように記述する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "即時実行関数式(英語版) (IIFE) の例。関数を用いることで変数をクロージャに閉じ込めることができる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下のサンプルコードは、様々なJavaScriptの機能を示したものである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "上記コードをウェブブラウザ上で実行すると、以下の結果が表示される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "JavaScriptはコードの最上階層に属するグローバルオブジェクトを提供している。JavaScriptにおけるグローバルオブジェクトはglobalThisである。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "それぞれのJavaScript実行環境において様々なAPIが存在しており、JavaScriptからそれらを呼び出すことができる。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "HTML要素をJavaScriptから操作するためのDOM API(例: document.querySelector)、HTTPリクエストを送信するFetch API、マルチスレッドを可能にするWorkerなどが定義されている。これらは言語仕様であるECMAScriptからは独立した各々の仕様書でAPIが定義され、ブラウザ実装がJavaScriptバインディングを提供することでJavaScriptからの呼び出しが可能になっている。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ファイルシステムにアクセスするためのfs API(モジュール)や実行プロセスと相互作用するprocess APIなどが定義されている。Webブラウザがもつ強いサンドボックス要件が緩和されている点がNode.js APIの特徴の1つである。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "alternative JavaScript (altJS) はJavaScriptへトランスパイルされるプログラミング言語の総称である。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "JavaScriptへ新たな機能を追加する方法の1つに、新しい言語を定義しそのコードをJavaScriptへ変換する方法がある。そのようなJavaScriptへトランスパイルされる言語はaltJSと総称される。altJSの例としてCoffeeScriptやTypeScript、PureScriptが挙げられる。altJSを用いることで、新たな演算子や記法を導入し効率の良いJavaScript開発を行うことができる。素のJavaScriptはaltJSと対比してVanilla JSとしばしば呼ばれる。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "例えばTypeScriptは型の導入を可能にする。JavaScriptは動的型付けである。静的コード解析でJavaScriptコードへの型検査は実行可能だが、コード上に型表記をおこなうことはできない。altJSの1つであるTypeScriptはJavaScriptへ型ノーテーションを導入しトランスパイル時に型検査をおこなうことで、型をもったJavaScriptを実現している。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "JavaScriptエコシステムには多様なライブラリ(パッケージ)が存在する。パッケージの導入・バージョン調整・廃棄を担う管理ソフトウェアとしてnpmやyarnがある。", "title": "エコシステム" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "WebブラウザにおけるHTML操作を目的として作られたJavaScriptは、2020年現在幅広い領域で利用されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "JavaScriptの最も歴史の長い使用法はHTMLページにクライアント側のふるまいを持たせることである。これは当初はダイナミックHTML (DHTML) として知られていた。JavaScriptはHTMLに直接埋め込まれまたは別のファイルからインクルードされ、Webブラウザ上のJavaScript実行環境で動作する。Webブラウザは通常、Document Object Model (DOM) を扱うためのホストオブジェクトを提供する。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "JavaScriptの使用例としては、以下のようなものがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "JavaScriptはユーザーのブラウザ上で動作できることから、ユーザーの操作に対して素早く反応することができ、アプリケーションをよりレスポンシブにすることができる。さらにJavaScriptはHTML単独では対応できない操作、例えばキー入力などにも応答することができる。Gmailのようなアプリケーションでは、JavaScriptでUIロジックを実装し、さらにJavaScriptでサーバから情報(例えばeメールのメッセージ)を取得することで、こうしたメリットを享受している。このような利点からAjaxは大きなトレンドとなった。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "様々な言語やフレームワークをウェブブラウザ上で動作させるために、JavaScriptはそれらのコンパイル先出力言語となっている(例: TypeScript)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "以下はJavaScriptとDOMを含むWebページのごく単純な例である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "登場当初は、htmlの補助的なスクリプトとして、クラスや非同期処理などの処理が貧弱であったが、近年のWebアプリケーションの浸透に伴い、様々な機能が拡張された。 現在では、クラスの作成や非同期処理など、C#やJavaでなければ実装できなかったものも手軽に実装できるようになっている。以下はクラスや非同期処理のごく単純な実装例である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ウェブブラウザ以外のJavaScript実行環境も存在する(サーバーサイドJavaScript実装の一覧(英語版)を参照)。データベースやWebサーバに組み込まれ、それらのAPIやHTTPリクエストやレスポンスのアクセスが提供されているものもある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、Node.jsのようにOSの機能(ネットワークやファイルシステムなど)にアクセスできる環境も存在する。加えてElectronなどのアプリケーションフレームワークの登場により、Atomなどのアプリケーションが広まりつつある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "いくつかのアプリケーションではマクロ言語としても採用されている。例えばAdobe Acrobatは、JavaScriptによるマクロ機能を搭載している。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "", "title": "バージョンとブラウザの対応表" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "代表的なJavaScriptライブラリは以下のとおり。", "title": "ライブラリ" } ]
JavaScript(ジャバスクリプト)は、プログラミング言語であり、HyperText Markup Language(HTML)やCascading Style Sheets(CSS)と並ぶ World Wide Web(WWW)の中核技術の一つである。 プロトタイプベースのオブジェクト指向スクリプト言語であるが、クラスなどのクラスベースに見られる機能も取り込んでいる。 利用される場面はウェブサイト、ウェブアプリケーション、バックエンド、デスクトップアプリケーション、モバイルアプリケーションなど、ウェブブラウザからサーバ、デスクトップからスマートフォンまで多岐にわたっている。 Javaと似た名称を持つが、異なるプログラミング言語である(#歴史を参照)。
{{WikipediaPage|各利用者のJavaScriptの使用法|Wikipedia:カスタムJS}} {{混同|Java}} {{Infobox プログラミング言語 | logo = Unofficial JavaScript logo 2.svg | logo caption = [https://github.com/voodootikigod/logo.js logo.js]によるJavaScriptの非公式ロゴ | fetchwikidata = ALL | onlysourced = true | name = JavaScript | paradigm = [[マルチパラダイムプログラミング言語|マルチパラダイム]] | released = {{start date and age|1995}} | latest release version = {{wikidata|property|edit|reference|P548=Q2804309|P348}} | latest release date = {{start date and age2|{{wikidata2|qualifier|single|raw|P548=Q2804309|P348|P577}}}} | latest preview version = {{wikidata|property|edit|reference|P548=Q51930650|P348}} | latest preview date = {{start date and age2|{{wikidata2|qualifier|single|raw|P548=Q51930650|P348|P577}}}} | designer = [[ブレンダン・アイク]] | developer = [[ネットスケープコミュニケーションズ]]、[[Mozilla Foundation]] | dialects = [[JScript]] | typing = [[ダック・タイピング]] | implementations = [[WebKit#JavaScriptCore|JavaScriptCore]]、[[KJS]]、[[Nitro]]、[[Rhino]]、[[SpiderMonkey]]、[[V8 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JavaScriptの言語仕様は[[ECMAScript]]として標準化され、実装は各種のJavaScriptエンジンによって提供されている。JavaScriptエンジンの例として[[Chromium]]系ブラウザの[[V8 (JavaScriptエンジン)|V8]]、[[Mozilla Firefox]]の[[SpiderMonkey]]、[[Safari]]のJavaScriptCoreが挙げられる。 言語仕様を定義するECMAScriptのほかに、Webブラウザへアクセスするための[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]仕様に[[Document Object Model|DOM]]などがある。これらはECMAScriptから独立しており、JavaScriptからも独立した概念である。 ==プログラミング言語としての特徴== JavaScriptは以下のような様々なスタイルのプログラミングが可能である。 * <code>if</code>・<code>for</code>などの[[制御構造]]による[[手続き型プログラミング]]スタイル * <code>.prototype</code>・<code>class</code>などのオブジェクトによる[[オブジェクト指向プログラミング]]スタイル * <code>map</code>・高階関数などの関数操作による[[関数型プログラミング]]スタイル これらを可能にしているプログラミング言語としての特徴に、以下のことが挙げられる。オブジェクト指向の面では、JavaScriptのオブジェクトはクラスベースではなく[[プロトタイプベース]]である<ref group="注釈">新しい (ES2015以降) JavaScriptではクラスの構文によりプロトタイプを意識せずに[[オブジェクト指向]]プログラミングをすることが可能になったが、言語設計は[[プロトタイプベース]]の設計を維持している。</ref>。関数型の面では、[[第一級関数]]をサポートし関数を[[第一級オブジェクト]]として扱える。 [[Aptana]]や[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]], [[NetBeans]], [[IntelliJ IDEA]]などの統合開発環境はJavaScriptをサポートしており、大規模開発が可能になっている。さらに[[Ext JS]]などの本格的な[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ライブラリの登場により、デスクトップアプリケーションと遜色ないユーザインタフェースの構築が可能になった。 === 並行処理 === JavaScriptではしばしば、ネットワークを介したリクエストのような "待ち" がある処理を行う。これに対処するために[[非同期処理]]をサポートし[[並行処理]]が可能となる。 もしも待ちの間にプログラムを停止/sleep させると、その間に他の処理をそのスレッドで行うことが出来ない([[ブロッキング (インターネット)|ブロッキング]])。もしネットワークリクエストが返ってくるまでブロッキングしたとすると、その間ブラウザのレンダリングも停止してしまう。 非同期処理を記述する方法としてコールバック関数がある。JavaScriptはコールバック関数記法をラップする<code>Promise</code>、<code>Promise</code>を同期的なコードのように記述できる[[Async/await]]構文をもつ。 またJavaScriptは並列処理による並行処理もサポートしている(下記参照)。 === 並列処理 === JavaScriptでは複数[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]を用いた[[並列計算|並列処理]]が可能である。共有メモリ上のバッファを表現する<code>SharedArrayBuffer</code>、バッファ操作オブジェクト<code>Atomics</code>が定義されている。スレッドそのものの仕様は環境ごとに異なる(ECMAScriptでは定義されていない)。ブラウザの場合は<code>Worker</code>、[[Node.js]]の場合は<code>worker_threads</code>で定義されている。ただこの2環境ではほぼ共通の仕組みとなっており、例えば<code>postMessage</code>によるメッセージングが両者でサポートされている。 == 歴史 == === 誕生 === JavaScriptは[[ネットスケープコミュニケーションズ]]の[[ブレンダン・アイク]]によって、1995年5月に10日間で開発された。上司からの指示に「Javaのような外観にしてくれ」「初心者に優しく」「Netscapeブラウザのほとんどなんでも制御できるように」との注文があった<ref name="Effective JavaScript">Effective JavaScript([[翔泳社]]、2013)iii。</ref>。Netscape Navigator 2.0で実装された。 開発当初は''LiveScript''と呼ばれていたが、[[1995年]]に[[サン・マイクロシステムズ]](現・[[オラクル (企業)|オラクル]])が開発したプログラミング言語'''Java'''が当時大きな注目を浴びており、ネットスケープとサン・マイクロシステムズが業務提携していた事もあったため、'''JavaScript'''という名前に変更された<ref>{{cite web |title=INNOVATORS OF THE NET: BRENDAN EICH AND JAVASCRIPT |url=http://wp.netscape.com/columns/techvision/innovators_be.html |author=Marc Andreessen |accessdate=2008年1月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080704182514/http://wp.netscape.com/columns/techvision/innovators_be.html |archivedate=2008-07-04 |deadlinkdate=2022-04}}</ref><ref name="newsrelease67">{{cite web |title=NETSCAPE AND SUN ANNOUNCE JAVASCRIPT, THE OPEN, CROSS-PLATFORM OBJECT SCRIPTING LANGUAGE FOR ENTERPRISE NETWORKS AND THE INTERNET |url=http://wp.netscape.com/newsref/pr/newsrelease67.html |accessdate=2008年1月22日 |archivedate=2008-05-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080528134623/http://wp.netscape.com/newsref/pr/newsrelease67.html |deadlinkdate=2022-04}}</ref>。最初の[[JavaScriptエンジン]]はブレンダン・アイクによりNetscape Navigatorのために作成されたものであった。このエンジンは[[SpiderMonkey]]と呼ばれており、[[C言語]]で実装されていた。また、全てJavaで記述されたJavaScriptエンジンである[[Rhino]]も同じくNetscapeのNorris Boyd(後に[[Google]]に移籍)らにより作成された。 [[1996年]]に[[マイクロソフト]]の[[Internet Explorer]] 3.0に'''[[JScript]]'''という名前で搭載されるようになると、その手軽さからJavaScriptは急速に普及していく。[[1997年]]、通信に関する標準を策定する国際団体[[Ecmaインターナショナル]]によってJavaScriptの中核的な仕様が'''[[ECMAScript]]'''として標準化され<ref>ECMA 262, ISO/IEC 16262, JIS X 3060</ref>、多くのウェブブラウザで利用できるようになった。 ネットスケープは、ウェブアプリケーション開発言語として自社のサーバ製品に実装したLiveWire JavaScriptも発表したが<ref name="newsrelease67" />、こちらはあまり普及しなかった。 JavaScriptの登場初期は、ブラウザベンダー間で言語仕様の独自拡張が行われていたため、ブラウザ間の互換性が極めて低かった。ECMAScriptの策定以降は実装間の互換性は向上し、[[Document Object Model|DOM]]など関連仕様の実装に関する互換性も高くなっていった。 かつてはJavaScriptという言葉が「ECMAScript標準」を指す、あるいは「独自実装を含んだ広義のJavaScript」を指し幅広い意味で使われていた。ゆえにどちらの意味でJavaScriptという言葉が使われているかは文脈で判断する必要があった<ref name="OREILLY JavaScript">JavaScript 第5版([[オライリー・ジャパン]]、2007)P2。</ref>。たとえばかつてマイクロソフトによる実装は[[JScript]]と呼ばれたが、JScriptをJavaScriptと呼ぶような場面があった。 ECMAScriptは仕様自体に独自の拡張を条件付きで認める記述があり<ref name="ECMA-262 5th">[https://www.ecma-international.org/ecma-262/5.1/index.html#sec-2 ECMA-262 第5版 2.Conformance]</ref>、ブラウザが実装しているスクリプト言語はすべてECMAScriptに準拠していることになる。広義の意味でこれをJavaScriptと呼ぶ場合、主要なブラウザが実装しているスクリプト言語はマイクロソフトやGoogle、[[Apple]]の実装も含めてJavaScriptである。 実装間での差異を吸収するために[[Prototype JavaScript Framework]]などの[[ライブラリ]]が用いられた。 === 発展 === 市場のブラウザ間互換性がある程度確立された[[2000年]]ごろには、Googleや[[Amazon.com|Amazon]]などの[[ビッグ・テック|GAFAM]]もJavaScriptを積極的に利用し始めた。 また、JavaScriptはウェブブラウザの拡張機能を開発するための言語としても使われるようになった。当初は拡張機能用のAPIが統一されていなかったが、互換性を高めようとする動きがある<ref>[https://developer.mozilla.org/ja/Add-ons/WebExtensions WebExtensions], [https://browserext.github.io/browserext/ Browser Extensions]</ref>。 当初は[[インタプリタ]]方式で実行されることが一般的であったためJavaScriptの実行速度はさほど速くなかったが、現在では[[実行時コンパイラ|JITコンパイル]]などを利用した各種の最適化がなされており、各ウェブブラウザのベンダーともに高速化を図ってしのぎを削っている。さらには、この高速化を受ける形で、Node.jsのように[[サーバサイドスクリプト|サーバサイド]]でもJavaScriptを使う動きが見られるようになった。 === JavaScript 2.0 === 次世代のJavaScriptとして、"JavaScript 2.0" を作ろうとした動きは2度あったが、いずれもまとまらなかった。 1度目はECMAScript 3が完成したのち2000年から2003年にかけて発生したが、ネットスケープとマイクロソフトの対立でまとまらなかった。当時ネットスケープが提案していた案は[[アドビ]]の[[ActionScript]] 2.0に引き継がれ、マイクロソフトの案は[[JScript#JScript .NET|JScript .NET]]へと引き継がれた。 その後もネットスケープ及び[[Mozilla Foundation]]はECMAScriptの策定に並行してJavaScriptを拡張し、JavaScript 1.x系列としてバージョンアップを繰り返していた。ECMAScript側ではECMAScript 4の策定が1999年以降進められており<ref>[https://www.ecma-international.org/ecma-262/8.0/index.html ECMAScript® 2017 Language Specification (ECMA-262, 8th edition, June 2017)] Introduction</ref>、2006年の時点で[[Mozilla Foundation]]はこれに基づいてJavaScript 2.0を作成することを表明していた。MozillaはECMAScript 4の策定にあたって、[[Python]]の文法を一部取り込んだ案を提案しており、自身でもこれを実装していた<ref>{{cite web |date=2006-02-19 |url=http://weblogs.mozillazine.org/roadmap/archives/2006/02/js_and_python_news.html |title=Python and JavaScript |work=Brendan's Roadmap Updates |language=英語 |accessdate=2007年9月5日 |deadlinkdate=2018-01 |archivedate=2010-01-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100125014441/http://weblogs.mozillazine.org/roadmap/archives/2006/02/js_and_python_news.html}} </ref>。 しかしその後、ECMAScriptの標準化作業がMozilla, Adobe, Opera, Googleらが推す ECMAScript 4 と、Microsoft, Yahoo! らが推す ECMAScript 3.1 に事実上分裂してしまった影響から、2008年8月に大きな方針転換があり、ECMAScript 4は破棄され後者がECMAScript 5として2009年に標準化された。ECMAScript 4に入る予定だった機能は新たに発足した「'''ECMAScript Harmony'''」に先送りとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/news/2008/08/18/027/index.html |title=JavaScript 2.0はECMAScript 3.1ベースに、ECMAScript 4は譲歩 |accessdate=2022-04-11 |deadlinkdate=2018-01 |author=後藤大地 |date=2008-08-18 |website=マイナビニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130301011836/https://news.mynavi.jp/news/2008/08/18/027/index.html |archivedate=2013-03-01}}</ref>。これは後にECMAScript 2015として標準化が完了した。 なお、ECMAScript 5が標準化されて以降、MozillaのJavaScript実装はECMAScriptへの準拠を謳うようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/JavaScript/ECMAScript_5_support_in_Mozilla |title=Mozilla における ECMAScript 5 のサポート |accessdate=2022-04-11 |deadlinkdate=2022-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210420063623/https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/JavaScript/ECMAScript_5_support_in_Mozilla |archivedate=2021-04-20}}</ref>。そしてバージョン番号での呼称は行われなくなり、JavaScript 2.0は事実上[[廃語|死語]]となった。 == 文法 == {{Main|{{仮リンク|JavaScriptの文法|en|JavaScript syntax}} }} === 基本的な文法 === JavaScriptの[[変数 (プログラミング)|変数]]は <tt>var</tt><ref>{{Cite web | url=https://developer.mozilla.org/en-US/docs/JavaScript/Reference/Statements/var | title=var – JavaScript – MDN | publisher=The [[Mozilla Developer Network]] | accessdate=22 December 2012}}</ref>, <tt>let</tt><ref>{{Cite web | url=https://developer.mozilla.org/en-US/docs/JavaScript/Reference/Statements/let | title=let – JavaScript – MDN | publisher=The [[Mozilla Developer Network]] | accessdate=24 January 2018}}</ref>および<tt>const</tt><ref>{{Cite web | url=https://developer.mozilla.org/en-US/docs/JavaScript/Reference/Statements/const | title=const – JavaScript – MDN | publisher=The [[Mozilla Developer Network]] | accessdate=24 January 2018}}</ref> キーワードを使用して宣言できる。 <syntaxhighlight lang="javascript"> let x; // 変数xの宣言。値が未指定のため、特殊な値である undefined が入った状態となる。 let y = 2; // 変数yの宣言。同時に 2 が代入される。 const z = 5; // 定数zの宣言。同時に 5 が代入される。定数であるため、書き換えることはできない。 </syntaxhighlight> 上記例の[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]]2文字以降は[[コメント (コンピュータ)|コメント]]である。 JavaScriptは言語仕様に[[入出力|I/O]]が組み込まれておらず、それらは実行環境により提供される。ECMAScript 5.1の仕様では以下のように言及されている。<ref>{{Cite web | url=http://www.ecma-international.org/ecma-262/5.1/#sec-4 | title=ECMAScript Language Specification – ECMA-262 Edition 5.1|publisher=[[Ecmaインターナショナル]] | accessdate=22 December 2012}}</ref> <blockquote>この仕様の中では外部データの入力または計算結果の出力は供給しない。<br/> (… indeed, there are no provisions in this specification for input of external data or output of computed results.)</blockquote> しかし、ほとんどの実行環境はConsole Standard<ref>{{Cite web |url=https://console.spec.whatwg.org/|title=Console Living Standard|accessdate=2017-05-24|date=2017-05-18|publisher=[[WHATWG]]|language=英語}}</ref>で規定されている <tt>console</tt> オブジェクトを持っており<ref>{{Cite web | title=console|url=https://developer.mozilla.org/en-US/docs/DOM/console|work=Mozilla Developer Network|publisher=[[Mozilla]]|accessdate=6 April 2013}}</ref>、そこにコンソール出力を行える。以下に最小の[[Hello world]]プログラムを示す。 <syntaxhighlight lang="javascript"> console.log("Hello World!"); </syntaxhighlight> [[再帰]]関数は以下のように書ける。 <syntaxhighlight lang="javascript"> function factorial(n) { if (n == 0) { return 1; } return n * factorial(n - 1); } </syntaxhighlight> [[無名関数]](またはラムダ式)の構文と[[クロージャ]]の例は以下である。 <syntaxhighlight lang="javascript"> // ECMAScript 5以前の記法 var displayClosure = function() { let count = 0; // ECMAScript 2015以降で可能な記法 return ()=> { return ++count; }; } var inc = displayClosure(); inc(); // 1 が返る inc(); // 2 が返る inc(); // 3 が返る </syntaxhighlight> [[可変長引数]]は以下のように記述する<ref>{{Cite web | title=Rest parameters - JavaScript|url=https://developer.mozilla.org/en-US/docs/Web/JavaScript/Reference/Functions/rest_parameters|work=Mozilla Developer Network|publisher=[[Mozilla]]|accessdate=24 January 2018}}</ref>。 <syntaxhighlight lang="javascript"> var sum = function(...args) { let x = 0; for (const v of args) { x += v; } return x; } sum(1, 2, 3); // 6 が返る </syntaxhighlight> {{仮リンク|即時実行関数式|en|Immediately-invoked function expression}} (IIFE) の例。関数を用いることで変数を[[クロージャ]]に閉じ込めることができる。 <syntaxhighlight lang="JavaScript"> var v; v = 1; var getValue = (function(v) { return function() {return v;}; })(v); v = 2; getValue(); // 1 が返る </syntaxhighlight> === 複雑な例 === 以下のサンプルコードは、様々なJavaScriptの機能を示したものである。 <syntaxhighlight lang="javascript"> "use strict"; // strictモードの宣言 /* 2つの数値の最小公倍数を求める */ function LCMCalculator(x, y) { // コンストラクタ関数 const checkInt = (x)=> { // 入れ子の関数 if (x % 1 !== 0) { throw new TypeError(x + " is not an integer"); // 例外のスロー } return x; }; // 行末のセミコロンは省略可能な場合があるが、省略は推奨されない。 this.a = checkInt(x) this.b = checkInt(y); } // オブジェクトのプロトタイプはコンストラクタ関数の prototype プロパティに格納する LCMCalculator.prototype = { // オブジェクトリテラル constructor: LCMCalculator, // このようにプロトタイプを上書きする場合は、 // constructorプロパティにコンストラクタ関数名を再指定する gcd: function () { // 最大公約数を計算するメソッド // 「ユークリッドの互除法」アルゴリズムで計算 let a = Math.abs(this.a), b = Math.abs(this.b); if (a < b) { // 変数の入れ替え const t = b; b = a; a = t; } while (b !== 0) { const t = b; b = a % b; a = t; } // 最大公約数の計算は一度でよいため、自分自身を計算済みの結果を返すメソッドで再定義(上書き)する。 // (これにより LCMCalculator.prototype.gcd の代わりに this.gcd が呼ばれるようになる。 // ただし、計算後にプロパティ a や b が変更されてしまうと、結果は誤りとなる。) // なお 'gcd' === "gcd", this['gcd'] === this.gcd である。 this['gcd'] = function () { return a; }; return a; }, lcm : function () { // 最小公倍数を計算するメソッド // 変数名は、オブジェクトのプロパティと衝突しない。例)lcm は this.lcm とは異なる。 // 以下では、浮動小数の精度の問題を避けるために this.a * this.b としていない。 const lcm = this.a/this.gcd()*this.b; // 最小公倍数の計算も一度でよいため、自分自身を計算済みの結果を返すメソッドで再定義(上書き)する。 this.lcm = function () { return lcm; }; return lcm; }, toString: function () { // toStringはオブジェクトを文字列に変換するときに呼ばれるメソッド。 // テンプレート文字列により文字列中に値を埋め込むことができる。 return `LCMCalculator: a = ${this.a}, b = ${this.b}`; } }; // 汎用の出力関数の定義。この実装はWebブラウザ上でのみ動作する。 function output(x) { document.body.appendChild(document.createTextNode(x)); document.body.appendChild(document.createElement('br')); } // 無名関数はさまざまな書き方が可能 [[25, 55], [21, 56], [22, 58], [28, 56]].map(([a, b])=> new LCMCalculator(a, b)) // 配列リテラル + マッピング関数 .sort((a, b)=> a.lcm() - b.lcm()) // 指定した比較関数を用いたソート .forEach(obj=> { output(obj + ", gcd = " + obj.gcd() + ", lcm = " + obj.lcm()); }); </syntaxhighlight> 上記コードをウェブブラウザ上で実行すると、以下の結果が表示される。 <syntaxhighlight lang="html"> LCMCalculator: a = 28, b = 56, gcd = 28, lcm = 56 LCMCalculator: a = 21, b = 56, gcd = 7, lcm = 168 LCMCalculator: a = 25, b = 55, gcd = 5, lcm = 275 LCMCalculator: a = 22, b = 58, gcd = 2, lcm = 638 </syntaxhighlight> == 機能 == === グローバルオブジェクト === JavaScriptはコードの最上階層に属するグローバルオブジェクトを提供している。JavaScriptにおけるグローバルオブジェクトは<code>globalThis</code>である<ref>2020-04-10現在 tc39 stage-4 (finished proposal). ECMAScript2020へ採用予定 [https://github.com/tc39/proposals/blob/master/finished-proposals.md tc39]</ref>。 == エコシステム == === 実行環境API === それぞれのJavaScript実行環境において様々なAPIが存在しており、JavaScriptからそれらを呼び出すことができる。 ==== Webブラウザ ==== HTML要素をJavaScriptから操作するための'''[[Document Object Model|DOM]] API'''(例: <code>document.querySelector</code>)、HTTPリクエストを送信する'''Fetch API'''、マルチスレッドを可能にする'''Worker'''などが定義されている。これらは言語仕様であるECMAScriptからは独立した各々の仕様書でAPIが定義され、ブラウザ実装がJavaScriptバインディングを提供することでJavaScriptからの呼び出しが可能になっている。 ==== Node.js ==== ファイルシステムにアクセスするための'''<code>fs</code>''' API(モジュール)や実行プロセスと相互作用する<code>'''process'''</code> APIなどが定義されている。Webブラウザがもつ強いサンドボックス要件が緩和されている点がNode.js APIの特徴の1つである。 === altJS === alternative JavaScript ('''altJS''') はJavaScriptへ[[トランスコンパイラ|トランスパイル]]されるプログラミング言語の総称である。 JavaScriptへ新たな機能を追加する方法の1つに、新しい言語を定義しそのコードをJavaScriptへ変換する方法がある。そのようなJavaScriptへトランスパイルされる言語は'''altJS'''と総称される。altJSの例として[[CoffeeScript]]や[[TypeScript]]、[[PureScript]]が挙げられる。altJSを用いることで、新たな演算子や記法を導入し効率の良いJavaScript開発を行うことができる。素のJavaScriptはaltJSと対比して[[バニラ (ソフトウェア)|Vanilla]] JSとしばしば呼ばれる<ref>{{Cite web|title=Vanilla JS|url=http://vanilla-js.com/|accessdate=2021-09-04|website=vanilla-js.com|archive-date=June 16, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200616052335/http://vanilla-js.com/|url-status=live}}</ref>。 例えばTypeScriptは[[型システム|型]]の導入を可能にする。JavaScriptは動的型付けである。静的コード解析でJavaScriptコードへの型検査は実行可能だが、コード上に型表記をおこなうことはできない。altJSの1つであるTypeScriptはJavaScriptへ型ノーテーションを導入しトランスパイル時に型検査をおこなうことで、型をもったJavaScriptを実現している。 === パッケージ管理 === JavaScriptエコシステムには多様なライブラリ(パッケージ)が存在する。パッケージの導入・バージョン調整・廃棄を担う管理ソフトウェアとして[[Npm (パッケージ管理ツール)|<code>npm</code>]]や<code>yarn</code>がある。 == 利用 == WebブラウザにおけるHTML操作を目的として作られたJavaScriptは、2020年現在幅広い領域で利用されている。 * [[ウェブページ]]・[[ウェブサイト]]・[[ウェブアプリケーション]](ブラウザクライアント上での動作) * ウェブバックエンドサーバ ([[Node.js]]) * [[デスクトップアプリケーション]](例: [[Electron (ソフトウェア)]]) * [[モバイルアプリケーション]] (例: [[React Native]]) === Webページでの利用 === {{See also|ダイナミックHTML|Ajax|Document Object Model}} JavaScriptの最も歴史の長い使用法はHTMLページにクライアント側のふるまいを持たせることである。これは当初は[[ダイナミックHTML]] (DHTML) として知られていた。JavaScriptはHTMLに直接埋め込まれまたは別のファイルからインクルードされ、Webブラウザ上のJavaScript実行環境で動作する。Webブラウザは通常、[[Document Object Model]] (DOM) を扱うためのホストオブジェクトを提供する。 JavaScriptの使用例としては、以下のようなものがある。 * ページの再読み込みなしで新しいコンテンツを読み込むまたはサーバに投稿する([[Ajax]]。例えば、SNSでページを離れることなく新しい投稿を表示することができる)。 * ゲームなどの動的なコンテンツを提供する。 * データをサーバーに送信せずに[[フォーム (ウェブ)|フォーム]]入力値の{{仮リンク|データバリデーション|en|Data validation|label=検証}}を行う。 * [[アクセス解析]]や{{仮リンク|広告追跡|en|ad tracking}}、[[パーソナライゼーション]]などのためにユーザーの閲覧情報を収集する<ref>{{Cite web | url=http://piwik.org/docs/javascript-tracking/ | title=JavaScript tracking – Piwik | publisher=[[Piwik]] | accessdate=31 March 2012<!-- 17:56 (UTC)-->}}</ref>。 JavaScriptはユーザーのブラウザ上で動作できることから、ユーザーの操作に対して素早く反応することができ、アプリケーションをよりレスポンシブにすることができる。さらにJavaScriptはHTML単独では対応できない操作、例えばキー入力などにも応答することができる。[[Gmail]]のようなアプリケーションでは、JavaScriptでUIロジックを実装し、さらにJavaScriptでサーバから情報(例えばeメールのメッセージ)を取得することで、こうしたメリットを享受している。このような利点から[[Ajax]]は大きなトレンドとなった{{要出典|date=2018年1月}}。 様々な言語やフレームワークをウェブブラウザ上で動作させるために、JavaScriptはそれらの[[コンパイラ|コンパイル]]先出力言語となっている(例: [[TypeScript]])。 ==== 例 ==== 以下はJavaScriptとDOMを含むWebページのごく単純な例である。 <syntaxhighlight lang="html"> <!DOCTYPE html> <html> <meta charset="utf-8"> <title>単純な例</title> <body> <h1 id="header">これはJavaScriptです</h1> <script> document.body.appendChild(document.createTextNode('Hello World!')); var h1 = document.getElementById('header'); // id='header'の<h1>要素の参照を取得。 h1 = document.getElementsByTagName('h1')[0]; // または<h1>要素を全て取得してそこから先頭を取得。 </script> <noscript>表示中のブラウザはJavaScriptをサポートしていないか、OFFになっています。</noscript> </body> </html> </syntaxhighlight> 登場当初は、htmlの補助的なスクリプトとして、[[クラス (コンピュータ)|クラス]]や[[非同期転送モード|非同期処理]]などの処理が貧弱であったが、近年の[[Webアプリケーション]]の浸透に伴い、様々な機能が拡張された。 現在では、クラスの作成や非同期処理など、[[C Sharp|C#]]や[[Java]]でなければ実装できなかったものも手軽に実装できるようになっている。以下はクラスや非同期処理のごく単純な実装例である。 <syntaxhighlight lang="javascript"> // クラス名 class Cyber_Crusade { // コンストラクタ constructor(limit) { // 1秒ごとの送信頻度を設定 this.CONCURRENCY_LIMIT = limit; // 非同期関数を定義 this.fetchWithTimeout = this.fetchWithTimeout.bind(this); // リクエスト送信。 this.punish_heterodoxy = this.punish_heterodoxy.bind(this); // 各サイトにデータリクエストを送る。 } // 対象のサイトを指定 heresy_sites = { 'https://example.com/': { number_of_requests: 0, number_of_errored_responses: 0 }, 'https://www.example.com/': { number_of_requests: 0, number_of_errored_responses: 0 }, }; // 1秒ごとの送信頻度 CONCURRENCY_LIMIT = 1000; queue = []; // リクエスト送信 async fetchWithTimeout(resource, options) { // コントローラーを取得 const controller = new AbortController(); // IDを取得 const id = setTimeout(() => controller.abort(), options.timeout); // リクエスト処理を返す。 return fetch(resource, { method: 'GET', // GET方式 mode: 'no-cors', // CORS-safelisted methodsとCORS-safelisted request-headersだけを使ったリクエストを送る。 signal: controller.signal // オブジェクトのインスタンスを返 }).then((response) => { // 成功した場合 clearTimeout(id); // タイムアウトを消す。 return response; // 応答結果を返す。 }).catch((error) => { // 失敗した場合 console.log(error.code); // エラーコードを出力 clearTimeout(id); // タイムアウトを消す。 throw error; // エラーを投げる。 }); } // 各ターゲットにデータ送信する。 async punish_heterodoxy(target) { //for文を使った無限ループ for (var i = 0;; ++i) { // リクエストの数が規定数になったら if (this.queue.length > this.CONCURRENCY_LIMIT) { // 最初のリクエストを削除する。 await this.queue.shift() } // 乱数を生成 var rand = i % 3 === 0 ? '' : ('?' + Math.random() * 2000) // 送信リクエストを追加する。 this.queue.push( // 関数を実行する(時間制限:1秒) this.fetchWithTimeout(target+rand, { timeout: 1000 }) // エラーがある場合はエラーを取得する。 .catch((error) => { if (error.code === 20 /* ABORT */) { return; } this.heresy_sites[target].number_of_errored_responses++; }) // 処理後の処理をする。 .then((response) => { // エラーがある場合はエラー処理を入れる。 if (response && !response.ok) { this.heresy_sites[target].number_of_errored_responses++; } // リクエスト数を追加する。 this.heresy_sites[target].number_of_requests++; }) ) } } // 実行関数 inquisitio(){ // 全てのターゲット要素に対してデータ送信処理を実行する。 Object.keys(this.heresy_sites).map(this.punish_heterodoxy); } } // オブジェクト呼び出し var cyber_crusade = new Cyber_Crusade(500); // 実行 cyber_crusade.inquisitio(); </syntaxhighlight> === その他の環境での利用 === ウェブブラウザ以外のJavaScript実行環境も存在する({{仮リンク|サーバーサイドJavaScript実装の一覧|en|List of server-side JavaScript implementations}}を参照)。[[データベース]]や[[Webサーバ]]に組み込まれ、それらのAPIや[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]リクエストやレスポンスのアクセスが提供されているものもある。 また、Node.jsのように[[オペレーティングシステム|OS]]の機能([[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]や[[ファイルシステム]]など)にアクセスできる環境も存在する。加えて[[Electron (ソフトウェア)|Electron]]などの[[アプリケーションフレームワーク]]の登場により、[[Atom (テキストエディタ)|Atom]]などのアプリケーションが広まりつつある。 いくつかの[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]では[[マクロ言語]]としても採用されている。例えば[[Adobe Acrobat]]は、JavaScriptによるマクロ機能を搭載している。 == バージョンとブラウザの対応表 == {{See also|ECMAScript#バージョン}} {| class="wikitable" style="font-size: smaller; text-align: center;" |- ! バージョン !! 日付 !! 規格 !! Netscape<br />Navigator !! Mozilla<br />Firefox !! Internet<br />Explorer !! Opera !! Safari |- | 1.0 || 1996年3月 || || 2.0 || || 3.0 || || |- | 1.1 || 1996年8月 || || 3.0 || || || || |- | 1.2 || 1997年7月 || || 4.0-4.05 || || || || |- | 1.3 || 1998年10月 || ECMA-262 1st edition / ECMA-262 2nd edition || 4.06-4.7x || || 4.0 || 5.0 || |- | 1.4 || || || Netscape<br />Server || || || 6.0 || |- | 1.5 || 2000年11月 || ECMA-262 3rd edition || 6.0 || 1.0 || 5.5 (JScript 5.5),<br />6.0 (JScript 5.6),<br />7.0 (JScript 5.7),<br />8.0 (JScript 6.0) || || |- | 1.6 || 2005年11月 || 1.5 + Array extras + Array and String generics + E4X || 7.0-8.0 || 1.5 || || 7.0-9.0 || 3.0, 3.1 |- | 1.7 || 2006年10月 || 1.6 + Pythonic generators + Iterators + let || || 2.0 || || || 3.2-5.1 |- | 1.8 || 2008年7月 || 1.7 + Generator expressions + Expression closures || || 3.0 || || || |- | 1.8.1 || || 1.8 + Minor Updates || || 3.5 || || || |- | 1.9 || || 1.8.1 + [[ECMAScript]] 5<ref>{{Cite web|和書|author=後藤大地 |url=https://news.mynavi.jp/news/2009/12/09/030/?rt=na |title=JavaScriptのブラウザ非互換に解決のみとおし |publisher=journal.mycom.co.jp |date=2009-12-09 |accessdate=2009-12-09}}</ref> Compliance || || 4.0-11.0 || || || |} <ref>{{cite web|author=John Resig |url=http://ejohn.org/blog/versions-of-javascript |title=Versions of JavaScript |publisher=Ejohn.org |date= |accessdate=2009-05-19}}</ref> == ライブラリ == 代表的なJavaScriptライブラリは以下のとおり。 {{div col |colwidth=24em |cols=4 |rules=yes}} * [[AngularJS]] * [[Backbone.js]] * [[Dojo Toolkit]] * [[Express.js]] * [[Ext JS]] * [[Google Web Toolkit]] (GWT) * [[Impact]] * [[jQuery]] * [[MochiKit]] * [[MooTools]] * [[Prototype JavaScript Framework]] (prototype.js) * [[QUnit]] * [[Yahoo!ユーザーインターフェイスライブラリ]] * [[WinJS]] * [[React]] * [[Vue.js]] {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Wikibooks}} {{Commonscat|JavaScript}} * JSON([[JavaScript Object Notation]])- JavaScriptにおけるオブジェクトの記法をベースとした軽量な[[データ記述言語]]。 * [[:Category:JavaScriptを生成する言語]]も参照。 == 外部リンク == * 英語 ** [https://developer.mozilla.org/en-US/docs/Web/JavaScript JavaScript - MDN] ** [https://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-262.htm Standard ECMA-262] * 日本語 ** [https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/JavaScript JavaScript - MDN] ** [https://rfs.jp/sb/javascript JavaScript講座] - リズムファクトリー社 ** [https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/cc427807.aspx JScript] - Microsoft {{JavaScript}} {{ECMAScript}} {{プログラミング言語一覧}} {{Normdaten}} [[Category:JavaScript|*]] [[Category:スクリプト言語]] [[Category:ウェブ開発]] [[Category:ウェブサイトの構成]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JavaScript
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帝国大学
帝国大学(ていこくだいがく、旧字体: 帝󠄁國大學)は、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された日本の旧制高等教育機関(大学)。略称は帝大(ていだい)。また、1886年〜1897年(京都帝国大学設立)までの現在の東京大学の旧称。 この項目では、帝国大学を前身とする日本の国立大学の概略についても扱う。 明治時代から昭和時代戦前にかけて、内地に7校(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、外地に2校(京城、台北)の計9校が設置された。第二次世界大戦後、内地の帝大は1947年(昭和22年)10月より国立総合大学(こくりつそうごうだいがく、旧字体:國立總合大學)に改められ、続く学制改革で1949年(昭和24年)より新制国立大学へ移行し、外地の帝大は日本政府の管理から離れて別個の変遷をたどった。 1877年(明治10年)創立の東京大学が、1886年(明治19年)に帝国大学令に基づいて「帝国大学」(略称:帝大)に改称された。それから約10年は同校を指す名称であった。 1897年(明治30年)に「京都帝国大学」が創立されると、従前の「帝国大学(旧東京大学)」は「東京帝国大学」に改称された。これから1947年(昭和22年)の日本国内における新制大学移行による改称までの半世紀は、同令によって設置された大学群9校の総称が「帝国大学」であった。 新制大学移行後は、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれている。ただし、ソウル大学校に関しては部分的に連続性を認めている学部もあるが、大学全体の見解として京城帝大の後身校ではないとされている。 初期の帝大は、大日本帝国最上位の国立高等教育機関(最高学府)および研究機関として設置された。各帝大は、複数の専攻科を擁する「分科大学」を包含し、学際的な研究を理念とする「大学院」を設置した。 第一次世界大戦後の1919年(大正8年)に施行された大学令と同期して、東京・京都・東北・九州・北海道の既存5帝大における分科大学は独立性を失って、大学本部の統制下にある学部に改組された。学部制後の帝国大学は「綜合大学」(新制大学の国立総合大学に相当)とも称され、拠点都市以外も含めて各地で帝大あるいは綜合大学の設立運動があった(#設立過程参照)。 一方、各帝大内では、学部よりさらに下位に当たる各「講座」が優勢になり、大学より上位にあって学際的な研究を期待された大学院をも大学の講座による支配が及んだ。このような大学の講座が大学院まで影響力を持つ体制は、戦後の新制大学成立後も続いている。 各帝大は、前身となる高等教育機関を包摂して改組・改称したり、学部を新設したりするなどしてその組織を整備し、時代が下って大学令に基いて設立された官立(国立)・公立の単科大学や私立の総合大学が設置される中でも日本の高等教育や研究をリードした。戦後は「帝国大学」の名称を廃し「国立総合大学」と改められたが、日本で有数の総合大学である状況は変わらなかった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀の者には天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられた。同会の入会資格は、新制大学以前の旧帝大出身者と、新制大学後の国内の旧7帝大出身者などである。 2016年度(平成28年度)に国から国立大全86校に支給された運営費交付金のうち、旧帝大の7校にその33.7%の額が配分されており、旧帝大は現在も特別の地位にあることがわかる。 旧帝大7校への進学率は、出身高校所在都道府県毎に18歳人口あたりで標準化すると、3.0%以上が奈良県のみ、2.5%以上が北海道と福岡県、2.0%以上が宮城県・富山県・石川県・愛知県・京都府・兵庫県となっており、旧帝大7校が所在していない奈良・富山・石川・兵庫の4県が上位に入る一方、所在している東京都・大阪府はより下位にいる。 かつて存在した帝国大学は次の通り。番号は帝国大学として設置・昇格された順番を示す。 1877年(明治10年)設立の「東京大学」は帝国大学令(1886年)の公布により、東京大学と工部大学校を統合して「帝国大学」に改称・改組した。このとき、大学院も設置された。初代の総長は渡辺洪基。詳細は「東京大学 (1877-1886)」参照。 帝国大学設立期から、関西にも大学設置を望む声があった。 1890年(明治23年)になると、第1次山縣有朋内閣の芳川顕正文相(徳島藩出身)が教育勅語発布に尽力する一方、大学令案を閣議に提出して、地方大学の設立および高等中学校の拡張を主張した。 同1890年7月1日には第1回衆議院議員総選挙が実施され、11月25日には第1回帝国議会が召集される。 翌1891年2月20日に、長谷川泰衆議院議員(日本医科大学の前身である済生学舎を1876年設立)が帝国大学新設案を議会に提示し、1892年の第4回帝国議会にも「関西ニ帝国大学ヲ新設スル建議案」を提出したが、設立には至らなかった。 日清戦争(1894年7月~1895年4月)による好景気、および、下関条約によって清から賠償金を得たことにより、第2次伊藤博文内閣の西園寺公望文相が「清国賠償金ノ一部ヲ東京及京都ノ帝国大学基本金トシテ交付セラレンコトヲ請フノ議」を、首相宛に執筆し、京都帝国大学の設置を主張した。 これを受け、翌1896年の第9回帝国議会にて、京都帝国大学創立費および京都帝国大学医科大学創立費の予算案が可決された。翌1897年(明治30年)、第三高等学校の一部の施設を利用して、京都帝国大学が設立(第三高等学校は移転した)。これにより「帝国大学」は「東京帝国大学」と改称した。 帝国議会と政府との関係、資金面の問題、校舎建設の問題、前身となる高等教育機関と新設各帝国大学との関係から、この時期の帝国大学の設立経緯は複雑であり、盛岡藩出身で藩校作人館修文所で原敬と同級生だった佐藤昌介(札幌農学校最後の校長、東北帝国大学農科大学初代学長、北海道帝国大学初代総長)も関係している。 また、この時期設立の帝大は全て地方名が大学名として採用され、その他の帝大が都市名を冠しているのとは対照的となっている。 1890年(明治23年)に帝国議会が成立したことにより、帝大設立のための多くの「建議案」が議会に提出された。ただし、建議案が採択されて「建議」となっても、これは大日本帝国憲法下で議院が政府に意思を示すことであり、法案ではないため法的拘束力はない。 京都帝国大学創立期の1898年に成立した第2次山縣有朋内閣の樺山資紀文相が、東北と九州にも帝国大学を設置したいと言明した。 東北では第二高等学校がある宮城県に設置する意思が表明されたが、九州においては設置する県を明言しなかった。すると、官営八幡製鉄所がある福岡県と、古くから医学が盛んで第五高等学校医学部がある長崎県が、「50万円を寄付する用意がある」とそれぞれ言明。また、第五高等学校の本部がある熊本県は、土地の提供を申し出た。しかし、「寄付で設立されても運営費が捻出できない」と、帝国議会から消極論が出て両帝国大学の設立は見送りとなった。 1900年(明治33年)、第14帝国議会において、野党・政友会(伊藤博文総裁)によって「九州東北帝国大学設置建議案」および「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。建議案は衆議院特別委員会にて可決され、東北・九州・北海道の各帝国大学設立の要求が議会から政府に表明された。 しかし、野党案であったことや、建議に拘束力がなかったこと、1900-01年の日本は不況期であったことなどから、政府は消極姿勢であった。対して議会では、1901年(明治34年)「北海道帝国大学設立建議」、1902年(明治35年)「東北帝国大学設立建議」と重ねて採択が行われ、政府へ働きかけた。 1902年(明治35年)、第1次桂太郎内閣の菊地大麓文相(元東京帝大総長)が、「東京・京都以外に帝大は設立不要」とし、実用的な専門学校の設置案を提案した。衆議院解散で設置案は流れたが、九州帝大設置のために巨額の寄付を申し出ていた各県に専門の高等教育機関の設置が決まり、まず、国から150万円の予算を得て1903年(明治36年)に福岡県立福岡病院を基に京都帝国大学福岡医科大学が設立された。 その後、1905年(明治38年)に長崎高等商業学校が、1906年(明治39年)に仙台高等工業学校、および、第五高等学校工学部を基に熊本高等工業学校が設置された。 1906年(明治39年)、京都帝大の設置に尽力し、高等教育機関の設置に前向きな西園寺公望を首相とする第1次西園寺内閣が成立した。同年6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が文部省に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を宮城県仙台市に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった。 西園寺内閣は、1907年度(明治40年度)予算に東北帝国大学(仙台市)および九州帝国大学(福岡市)の設置予算を組み込んだが、日露戦争後の不況期に入ったことを理由に板谷蔵相によって予算は削減され、設立は絶望的となった。このとき、古河鉱業副社長であった原敬内務大臣(盛岡藩盛岡城外・本宮村、現:岩手県盛岡市本宮出身)が、古河財閥(初代の古河市兵衛が盛岡の親戚筋で働いていた時期あり)の二代目オーナーの古河虎之助(当時17歳)を説得し、両帝国大学設立のための資金を献納させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。日露戦争による好況(1904-05年)によって財を成した古河財閥は、一方で足尾銅山の鉱毒による公害問題を抱えており、公のために寄付をすることで世論の沈静化を願った。北海道大学に現存する古河講堂(登録有形文化財)はこれにより建てられた。 1907年(明治40年)9月には、東北帝国大学が設置され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学(札幌区)に昇格した。勅令第236号では、東北帝国大学の設置場所は仙台と定められていたが、この時点の仙台では一切の校舎その他建造物が存在しない状態であった。 当時の帝国大学令では、帝国大学は複数の分科大学により運営される必要があったが、東北帝国大学の場合は当面の間札幌の農科大学のみで完結させる必要があり、特例として農科大学のみで運営することを前提とした東北帝国大学農科大学官制を施行することとなった。 1911年1月には、東北帝国大学理科大学(仙台市)が新設され、名実ともに東北帝国大学の本部が仙台に置かれるようになった。同時期には九州帝国大学本部の設置および九州帝国大学工科大学の新設もなされた(両者とも福岡市)。同年4月には、京都帝国大学福岡医科大学が移管されて九州帝国大学医科大学となった。 これらの大学設置には、地元からの寄付金等も用いられたが、1907年度から5年間で約106万円に上った古河財閥の寄付金が用いられた(内訳は建築費が987,739円、事務費用69,137円)。古河財閥からの校舎建設資金は、東北帝大分が、農科大学135,519円、理科大学244,170円、九州帝大分が工科大学608,050円であった。北海道大学のシンボルの一つであり、現在は文学部の研究室として使用されている古河記念講堂は、この資金を用いて建設されたものである。 1911年(明治44年)、3度目の「北海道帝国大学設立建議案」が議会で採択されたが、政府は消極的だった。しかし、第一次世界大戦による好況(1915-18年)に入ると風向きが変わり、大学令公布に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、1918年(大正7年)4月、札幌区所在の東北帝国大学農科大学を東北帝大から分離して北海道帝国大学が設立された。同年、原敬内閣の下、「高等諸学校創設及拡張計画」が帝国議会で可決され、東京帝国大学・京都帝国大学に各々経済学部が、東北帝国大学・九州帝国大学には各々法文学部が設置された。 なお、六大都市の大阪市(125万人)や名古屋市(43万人)、あるいは、広島市(16万人)や金沢市(13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、福岡市(9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位)。 十四か条の平和原則(1918年1月8日)、ヴェルサイユ条約(1919年)によって、第一次世界大戦後に民族自決が広まり、朝鮮では三・一独立運動(1919年)が発生し、民族系およびアメリカ系宣教団で私立大学設立の動きが見られた。日本は、1920年(大正9年)の国際連盟発足に伴い常任理事国の一員となり、国際的地位を得る中、朝鮮・台湾・関東州などにおいて「内地延長主義」(外地の同化政策)を採って、数々の高等教育機関を設立していった(→旧外地の高等教育機関)。 外地での帝国大学設立は、外地での民族自決を抑え込む意味合いがあったものの、学部数や定員は限定され、また、教授陣は日本人、かつ、学生の多くも日本人であったため、民族差別を訴える民族系新聞もあった。また、全ての内地(日本国内)の大学・高等教育機関が文部省管轄下にあったのに対し、京城・台北の両帝国大学を始め、外地のほとんどの学校・大学が台湾総督府・朝鮮総督府・関東局あるいは外務省の管轄下に置かれた。 なお、1920年代には、大学令による大学が多く設立されている。→旧制大学 1923年に発生した関東大震災により、東京が壊滅的な打撃を受けた一方、関東およびその近郊からの移住者により、大阪市や名古屋市の人口は急増し、特に大阪市においては、首都機能こそなかったものの、当時の東京市の人口を抜いて日本最大の都市に躍進し、また当時世界各国の主要都市の中でも6番目の人口数となり、いわゆる大大阪時代を迎えていた(同記事および都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位も参照)。 両市のある府県では帝大設立運動が起きたが、昭和金融恐慌(1927年)、世界恐慌(1929年)のため帝大創設の政府予算は付かず、全額を地元が国庫に寄付するという形で両帝大は設立された。大阪帝国大学は大阪医科大学、名古屋帝国大学は名古屋医科大学を前身として設立されている。 1931年の満州事変以後、軍部の台頭によって財政は軍事費優先傾向が強くなり、また、両帝大の先例から、新たな帝大の設立には全額地元負担が必須となり、他地域での帝大新設は行われなかった。しかし、その他の高等教育機関の設立・改組などは行われた。 帝大は後期高等教育機関であり専門教育を行っていたが、前期高等教育で教養教育(外国語教育)を行っていた旧制高等学校とは密接不可分な関係にあった。 大学予科を付設していない帝国大学は旧制高校出身者を最優先に入学させる方針であったため、旧制高校卒業生は大学・学部を問わなければどこかの帝大に入学できた。もっとも、旧制高校卒業生であっても人気学部への進学は難関であり、各帝大医学部、東京帝大法・経済・工部、京都帝大工学部等へは数倍程度の倍率を要したとされる。 一方で、京都帝国大学文系は定員無視の全入状態であり、東北・名古屋・九州の各帝大は旧制高校卒のみでは定員の半数程度しか埋められず、後述する北海道帝大のように大学予科を付設することも認められなかったため、旧制専門学校からの傍系入学を認めていた。 したがって帝大入試は現在のエスカレーター式高校から大学学部選抜のような位置であり、高等教育入試の主戦場は旧制高校入試であった。旧制高校の選抜の厳しさ、現在は存在しない知的特権性から、帝国大学卒業生の多くは出身帝国大学より出身旧制高校にアイデンティティを置いていた。旧制高校生は旧制中学生の憧れの的であり、密接不可分な旧制高校と帝国大学が2つに分かれ共鳴しあって魅力を高めあっていた。 明治・大正時代の考え方では、外国語(英語・ドイツ語・フランス語)で専門高等教育を行うのが旧制大学であり、その準備教育として旧制高等学校や大学予科で外国語教育を受け、日本語で簡易な高等専門教育を行うのが旧制専門学校であるという棲み分けであった。しかし、昭和時代に入ると旧制大学の教育も日本語で行うようになり、旧制大学と旧制専門学校の違いが教育年限と入学難易度だけということになり、戦前の昭和時代にも学制の改革は議論されていたが具体化するのは戦後である。 明治時代に開拓使によって設立され、東京帝大・京都帝大・東京高等商業学校と同様に学士号授与権が与えられた高等教育機関である札幌農学校の帝大昇格にあたっては、札幌農学校予修科を東北帝大農科大学予科に改組する方策が採られた。 これは、札幌農学校が伝統的に「予科と本科の一貫教育」を基軸としていたことに加え、北海道という地域性から他帝大と同様の選抜方式では定員充足が困難と見込まれたものに伴う措置である。東北帝大農科大学では農科大学予科出身者を最優先に入学させ、農科大学予科出身者のみで欠員が生じる場合のみ旧制高校出身者等を受け入れることとされた。この進学カリキュラムは後に北海道帝大となった後も同帝大予科として引き継がれ、新制大学である北海道大学の総合教育部・恵迪寮などに受け継がれていく。その他、外地に所在した京城帝大、台北帝大においても大学予科が付設された。 1945年(昭和20年)8月15日の終戦により、外地の帝国大学2校は日本政府の手を離れることとなった。同年9月9日から連合国軍政が敷かれた朝鮮では、10月に京城帝国大学が京城大学に改称した(翌1946年に一旦閉鎖した上で10月15日に他の高等教育機関と統合して「ソウル大学校」として創立)。 また、同年11月15日には中華民国政府が台北帝国大学を接収して「国立台湾大学」と改称した。帝国大学9校における職員人事を規定してきた帝国大学官制(明治26年8月11日勅令第83号)は、外地の2校を除いた内地7校を対象とする同名の勅令(昭和21年4月1日勅令第205号)によって1946年(昭和21年)4月1日をもって引き継がれた。同令附則により同日、内地7校各校毎の官制も廃止された。一方、外地2校各校毎の官制は同日以降も存続し続けていたが、1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して連合国軍の日本占領が終了すると失効した。 外地の2校では、日本の敗戦によって教授陣(日本人)が大量に日本に引き揚げたため、大学の建物は残っても修業年限全てに渡って充分な講義をすることが困難になった。そのような大学組織の内部事情と日本の統治の仕方の違い(→日本統治時代の朝鮮、日本統治時代の台湾)も影響して、台湾大学は、設立母体を台北帝国大学としているが、ソウル大学校は1946年(昭和21年)に新設した大学として、設立母体を京城帝国大学とはしていない。また、講義に用いられる言語については、戦前は日本語が用いられたが、戦後、ソウル大学校では朝鮮語、台湾大学では中国語への変更がなされた。なお、台湾大学では、日本各地の小・中・高の教育を受けた国民党側の子弟の留学枠が存在し、中国語が拙いこれらの学生に対し、戦前に日本語で教育された教授陣が個人的に日本語で教育する例も見られた。 内地においては、1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立総合大学令と名称変更されて帝国大学は「国立総合大学」と改称された。これに伴い各大学は校名から「帝国」を除く改称を行ったため、旧制大学としての学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学もなくなった。 かつて帝国大学であった大学は旧帝国大学、または旧帝大と呼ばれる。学士会はそのまま存続し、内地の七大学(と外地の帝大卒業生)共通の同窓会組織として機能している。また、七大学の定期対抗戦である全国七大学総合体育大会(通称して七大戦、もしくは七帝戦)が毎年開催されている。また九つの帝国大学が存在したことから「九帝大」とも呼ばれていたが、「旧帝大」と同音異義語であることと国外の旧帝大との交流が減ったことにより、現在は死語となっている。 2021年(令和3年)現在、東北大学、東京大学、京都大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学は、指定国立大学法人に指定されている(指定順)。 政府が率先して設置した帝国大学もあったが、帝国議会が成立した後は、帝大(綜合大学)設立の建議案が議会に次々と提出され、一部は採択されて建議となり、政府に設置を働きかけた。しかし、建議は法的拘束力がない上、帝国大学以外の他の高等教育機関が比較的安価に設立できたのに対し、帝国大学は格付けが高く、設立に多大な費用を必要とした。そのため、財政的裏付けのない議会の帝大設立建議が、すぐに設立に結びつくとは言い難かった。 旧帝国大学(きゅうていこくだいがく)とは、帝国大学を前身とする8つの国立大学を示す通称である。また、旧外地の大学を含まないことを明確にする場合は旧七帝国大学と称する。略称は旧帝大、旧七帝大。 各大学の詳細については北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、台湾大学を参照。 学部学生の出身高校所在地方(全国8地方)別入学者の人数および比率は、以下のようになっている。 北海道大学:2,591人 東北大学:2,538人 東京大学:3,108人 名古屋大学:2,219人 京都大学:2,886人 大阪大学:3,411人 九州大学:2,687人 旧帝大における学部生の男女比は、女性の方が比率が低い傾向にある。 以下は論文の被引用数による順位(1999年~2009年)。その他の観点による各大学の評価については「世界大学ランキング」を参照。 全ての国立大学法人の中で、研究費が多い上位7法人は旧帝国大学の7校となっている。以下の表には、大学共同利用機関法人も含む。 旧帝国大学は、研究成果の一部を特許として多数公開している。研究成果を基した起業については大学発ベンチャーを参照。 企業の「売上高」に当たるのが、国公立大学(国立大学法人および公立大学法人)では「経常収益」であり、私立大学(学校法人等)では「帰属収入」(2015年度の決算から「事業活動収入」に改称)であり、これらはいずれも本業における1年間の金銭的な収入を表す。旧帝国大学の経常収益は大きく、国公立大学の上位を占めている。また、医学部および大学病院を持つ大学を経営している法人も上位にいる(表中において法人単位で赤で表示)。なお参考として、旧帝国大以外の国公立大学で最も経常収益が大きい筑波大学も以下のグラフに加える。
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"新制大学移行後は、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれている。ただし、ソウル大学校に関しては部分的に連続性を認めている学部もあるが、大学全体の見解として京城帝大の後身校ではないとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "初期の帝大は、大日本帝国最上位の国立高等教育機関(最高学府)および研究機関として設置された。各帝大は、複数の専攻科を擁する「分科大学」を包含し、学際的な研究を理念とする「大学院」を設置した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後の1919年(大正8年)に施行された大学令と同期して、東京・京都・東北・九州・北海道の既存5帝大における分科大学は独立性を失って、大学本部の統制下にある学部に改組された。学部制後の帝国大学は「綜合大学」(新制大学の国立総合大学に相当)とも称され、拠点都市以外も含めて各地で帝大あるいは綜合大学の設立運動があった(#設立過程参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方、各帝大内では、学部よりさらに下位に当たる各「講座」が優勢になり、大学より上位にあって学際的な研究を期待された大学院をも大学の講座による支配が及んだ。このような大学の講座が大学院まで影響力を持つ体制は、戦後の新制大学成立後も続いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "各帝大は、前身となる高等教育機関を包摂して改組・改称したり、学部を新設したりするなどしてその組織を整備し、時代が下って大学令に基いて設立された官立(国立)・公立の単科大学や私立の総合大学が設置される中でも日本の高等教育や研究をリードした。戦後は「帝国大学」の名称を廃し「国立総合大学」と改められたが、日本で有数の総合大学である状況は変わらなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀の者には天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられた。同会の入会資格は、新制大学以前の旧帝大出身者と、新制大学後の国内の旧7帝大出身者などである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2016年度(平成28年度)に国から国立大全86校に支給された運営費交付金のうち、旧帝大の7校にその33.7%の額が配分されており、旧帝大は現在も特別の地位にあることがわかる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "旧帝大7校への進学率は、出身高校所在都道府県毎に18歳人口あたりで標準化すると、3.0%以上が奈良県のみ、2.5%以上が北海道と福岡県、2.0%以上が宮城県・富山県・石川県・愛知県・京都府・兵庫県となっており、旧帝大7校が所在していない奈良・富山・石川・兵庫の4県が上位に入る一方、所在している東京都・大阪府はより下位にいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "かつて存在した帝国大学は次の通り。番号は帝国大学として設置・昇格された順番を示す。", "title": "一覧" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1877年(明治10年)設立の「東京大学」は帝国大学令(1886年)の公布により、東京大学と工部大学校を統合して「帝国大学」に改称・改組した。このとき、大学院も設置された。初代の総長は渡辺洪基。詳細は「東京大学 (1877-1886)」参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "帝国大学設立期から、関西にも大学設置を望む声があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)になると、第1次山縣有朋内閣の芳川顕正文相(徳島藩出身)が教育勅語発布に尽力する一方、大学令案を閣議に提出して、地方大学の設立および高等中学校の拡張を主張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同1890年7月1日には第1回衆議院議員総選挙が実施され、11月25日には第1回帝国議会が召集される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "翌1891年2月20日に、長谷川泰衆議院議員(日本医科大学の前身である済生学舎を1876年設立)が帝国大学新設案を議会に提示し、1892年の第4回帝国議会にも「関西ニ帝国大学ヲ新設スル建議案」を提出したが、設立には至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日清戦争(1894年7月~1895年4月)による好景気、および、下関条約によって清から賠償金を得たことにより、第2次伊藤博文内閣の西園寺公望文相が「清国賠償金ノ一部ヲ東京及京都ノ帝国大学基本金トシテ交付セラレンコトヲ請フノ議」を、首相宛に執筆し、京都帝国大学の設置を主張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これを受け、翌1896年の第9回帝国議会にて、京都帝国大学創立費および京都帝国大学医科大学創立費の予算案が可決された。翌1897年(明治30年)、第三高等学校の一部の施設を利用して、京都帝国大学が設立(第三高等学校は移転した)。これにより「帝国大学」は「東京帝国大学」と改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "帝国議会と政府との関係、資金面の問題、校舎建設の問題、前身となる高等教育機関と新設各帝国大学との関係から、この時期の帝国大学の設立経緯は複雑であり、盛岡藩出身で藩校作人館修文所で原敬と同級生だった佐藤昌介(札幌農学校最後の校長、東北帝国大学農科大学初代学長、北海道帝国大学初代総長)も関係している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、この時期設立の帝大は全て地方名が大学名として採用され、その他の帝大が都市名を冠しているのとは対照的となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)に帝国議会が成立したことにより、帝大設立のための多くの「建議案」が議会に提出された。ただし、建議案が採択されて「建議」となっても、これは大日本帝国憲法下で議院が政府に意思を示すことであり、法案ではないため法的拘束力はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "京都帝国大学創立期の1898年に成立した第2次山縣有朋内閣の樺山資紀文相が、東北と九州にも帝国大学を設置したいと言明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "東北では第二高等学校がある宮城県に設置する意思が表明されたが、九州においては設置する県を明言しなかった。すると、官営八幡製鉄所がある福岡県と、古くから医学が盛んで第五高等学校医学部がある長崎県が、「50万円を寄付する用意がある」とそれぞれ言明。また、第五高等学校の本部がある熊本県は、土地の提供を申し出た。しかし、「寄付で設立されても運営費が捻出できない」と、帝国議会から消極論が出て両帝国大学の設立は見送りとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)、第14帝国議会において、野党・政友会(伊藤博文総裁)によって「九州東北帝国大学設置建議案」および「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。建議案は衆議院特別委員会にて可決され、東北・九州・北海道の各帝国大学設立の要求が議会から政府に表明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし、野党案であったことや、建議に拘束力がなかったこと、1900-01年の日本は不況期であったことなどから、政府は消極姿勢であった。対して議会では、1901年(明治34年)「北海道帝国大学設立建議」、1902年(明治35年)「東北帝国大学設立建議」と重ねて採択が行われ、政府へ働きかけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1902年(明治35年)、第1次桂太郎内閣の菊地大麓文相(元東京帝大総長)が、「東京・京都以外に帝大は設立不要」とし、実用的な専門学校の設置案を提案した。衆議院解散で設置案は流れたが、九州帝大設置のために巨額の寄付を申し出ていた各県に専門の高等教育機関の設置が決まり、まず、国から150万円の予算を得て1903年(明治36年)に福岡県立福岡病院を基に京都帝国大学福岡医科大学が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、1905年(明治38年)に長崎高等商業学校が、1906年(明治39年)に仙台高等工業学校、および、第五高等学校工学部を基に熊本高等工業学校が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1906年(明治39年)、京都帝大の設置に尽力し、高等教育機関の設置に前向きな西園寺公望を首相とする第1次西園寺内閣が成立した。同年6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が文部省に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を宮城県仙台市に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "西園寺内閣は、1907年度(明治40年度)予算に東北帝国大学(仙台市)および九州帝国大学(福岡市)の設置予算を組み込んだが、日露戦争後の不況期に入ったことを理由に板谷蔵相によって予算は削減され、設立は絶望的となった。このとき、古河鉱業副社長であった原敬内務大臣(盛岡藩盛岡城外・本宮村、現:岩手県盛岡市本宮出身)が、古河財閥(初代の古河市兵衛が盛岡の親戚筋で働いていた時期あり)の二代目オーナーの古河虎之助(当時17歳)を説得し、両帝国大学設立のための資金を献納させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。日露戦争による好況(1904-05年)によって財を成した古河財閥は、一方で足尾銅山の鉱毒による公害問題を抱えており、公のために寄付をすることで世論の沈静化を願った。北海道大学に現存する古河講堂(登録有形文化財)はこれにより建てられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1907年(明治40年)9月には、東北帝国大学が設置され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学(札幌区)に昇格した。勅令第236号では、東北帝国大学の設置場所は仙台と定められていたが、この時点の仙台では一切の校舎その他建造物が存在しない状態であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "当時の帝国大学令では、帝国大学は複数の分科大学により運営される必要があったが、東北帝国大学の場合は当面の間札幌の農科大学のみで完結させる必要があり、特例として農科大学のみで運営することを前提とした東北帝国大学農科大学官制を施行することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1911年1月には、東北帝国大学理科大学(仙台市)が新設され、名実ともに東北帝国大学の本部が仙台に置かれるようになった。同時期には九州帝国大学本部の設置および九州帝国大学工科大学の新設もなされた(両者とも福岡市)。同年4月には、京都帝国大学福岡医科大学が移管されて九州帝国大学医科大学となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これらの大学設置には、地元からの寄付金等も用いられたが、1907年度から5年間で約106万円に上った古河財閥の寄付金が用いられた(内訳は建築費が987,739円、事務費用69,137円)。古河財閥からの校舎建設資金は、東北帝大分が、農科大学135,519円、理科大学244,170円、九州帝大分が工科大学608,050円であった。北海道大学のシンボルの一つであり、現在は文学部の研究室として使用されている古河記念講堂は、この資金を用いて建設されたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1911年(明治44年)、3度目の「北海道帝国大学設立建議案」が議会で採択されたが、政府は消極的だった。しかし、第一次世界大戦による好況(1915-18年)に入ると風向きが変わり、大学令公布に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、1918年(大正7年)4月、札幌区所在の東北帝国大学農科大学を東北帝大から分離して北海道帝国大学が設立された。同年、原敬内閣の下、「高等諸学校創設及拡張計画」が帝国議会で可決され、東京帝国大学・京都帝国大学に各々経済学部が、東北帝国大学・九州帝国大学には各々法文学部が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、六大都市の大阪市(125万人)や名古屋市(43万人)、あるいは、広島市(16万人)や金沢市(13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、福岡市(9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "十四か条の平和原則(1918年1月8日)、ヴェルサイユ条約(1919年)によって、第一次世界大戦後に民族自決が広まり、朝鮮では三・一独立運動(1919年)が発生し、民族系およびアメリカ系宣教団で私立大学設立の動きが見られた。日本は、1920年(大正9年)の国際連盟発足に伴い常任理事国の一員となり、国際的地位を得る中、朝鮮・台湾・関東州などにおいて「内地延長主義」(外地の同化政策)を採って、数々の高等教育機関を設立していった(→旧外地の高等教育機関)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "外地での帝国大学設立は、外地での民族自決を抑え込む意味合いがあったものの、学部数や定員は限定され、また、教授陣は日本人、かつ、学生の多くも日本人であったため、民族差別を訴える民族系新聞もあった。また、全ての内地(日本国内)の大学・高等教育機関が文部省管轄下にあったのに対し、京城・台北の両帝国大学を始め、外地のほとんどの学校・大学が台湾総督府・朝鮮総督府・関東局あるいは外務省の管轄下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、1920年代には、大学令による大学が多く設立されている。→旧制大学", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1923年に発生した関東大震災により、東京が壊滅的な打撃を受けた一方、関東およびその近郊からの移住者により、大阪市や名古屋市の人口は急増し、特に大阪市においては、首都機能こそなかったものの、当時の東京市の人口を抜いて日本最大の都市に躍進し、また当時世界各国の主要都市の中でも6番目の人口数となり、いわゆる大大阪時代を迎えていた(同記事および都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "両市のある府県では帝大設立運動が起きたが、昭和金融恐慌(1927年)、世界恐慌(1929年)のため帝大創設の政府予算は付かず、全額を地元が国庫に寄付するという形で両帝大は設立された。大阪帝国大学は大阪医科大学、名古屋帝国大学は名古屋医科大学を前身として設立されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1931年の満州事変以後、軍部の台頭によって財政は軍事費優先傾向が強くなり、また、両帝大の先例から、新たな帝大の設立には全額地元負担が必須となり、他地域での帝大新設は行われなかった。しかし、その他の高等教育機関の設立・改組などは行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "帝大は後期高等教育機関であり専門教育を行っていたが、前期高等教育で教養教育(外国語教育)を行っていた旧制高等学校とは密接不可分な関係にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大学予科を付設していない帝国大学は旧制高校出身者を最優先に入学させる方針であったため、旧制高校卒業生は大学・学部を問わなければどこかの帝大に入学できた。もっとも、旧制高校卒業生であっても人気学部への進学は難関であり、各帝大医学部、東京帝大法・経済・工部、京都帝大工学部等へは数倍程度の倍率を要したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一方で、京都帝国大学文系は定員無視の全入状態であり、東北・名古屋・九州の各帝大は旧制高校卒のみでは定員の半数程度しか埋められず、後述する北海道帝大のように大学予科を付設することも認められなかったため、旧制専門学校からの傍系入学を認めていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "したがって帝大入試は現在のエスカレーター式高校から大学学部選抜のような位置であり、高等教育入試の主戦場は旧制高校入試であった。旧制高校の選抜の厳しさ、現在は存在しない知的特権性から、帝国大学卒業生の多くは出身帝国大学より出身旧制高校にアイデンティティを置いていた。旧制高校生は旧制中学生の憧れの的であり、密接不可分な旧制高校と帝国大学が2つに分かれ共鳴しあって魅力を高めあっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "明治・大正時代の考え方では、外国語(英語・ドイツ語・フランス語)で専門高等教育を行うのが旧制大学であり、その準備教育として旧制高等学校や大学予科で外国語教育を受け、日本語で簡易な高等専門教育を行うのが旧制専門学校であるという棲み分けであった。しかし、昭和時代に入ると旧制大学の教育も日本語で行うようになり、旧制大学と旧制専門学校の違いが教育年限と入学難易度だけということになり、戦前の昭和時代にも学制の改革は議論されていたが具体化するのは戦後である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "明治時代に開拓使によって設立され、東京帝大・京都帝大・東京高等商業学校と同様に学士号授与権が与えられた高等教育機関である札幌農学校の帝大昇格にあたっては、札幌農学校予修科を東北帝大農科大学予科に改組する方策が採られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "これは、札幌農学校が伝統的に「予科と本科の一貫教育」を基軸としていたことに加え、北海道という地域性から他帝大と同様の選抜方式では定員充足が困難と見込まれたものに伴う措置である。東北帝大農科大学では農科大学予科出身者を最優先に入学させ、農科大学予科出身者のみで欠員が生じる場合のみ旧制高校出身者等を受け入れることとされた。この進学カリキュラムは後に北海道帝大となった後も同帝大予科として引き継がれ、新制大学である北海道大学の総合教育部・恵迪寮などに受け継がれていく。その他、外地に所在した京城帝大、台北帝大においても大学予科が付設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)8月15日の終戦により、外地の帝国大学2校は日本政府の手を離れることとなった。同年9月9日から連合国軍政が敷かれた朝鮮では、10月に京城帝国大学が京城大学に改称した(翌1946年に一旦閉鎖した上で10月15日に他の高等教育機関と統合して「ソウル大学校」として創立)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、同年11月15日には中華民国政府が台北帝国大学を接収して「国立台湾大学」と改称した。帝国大学9校における職員人事を規定してきた帝国大学官制(明治26年8月11日勅令第83号)は、外地の2校を除いた内地7校を対象とする同名の勅令(昭和21年4月1日勅令第205号)によって1946年(昭和21年)4月1日をもって引き継がれた。同令附則により同日、内地7校各校毎の官制も廃止された。一方、外地2校各校毎の官制は同日以降も存続し続けていたが、1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して連合国軍の日本占領が終了すると失効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "外地の2校では、日本の敗戦によって教授陣(日本人)が大量に日本に引き揚げたため、大学の建物は残っても修業年限全てに渡って充分な講義をすることが困難になった。そのような大学組織の内部事情と日本の統治の仕方の違い(→日本統治時代の朝鮮、日本統治時代の台湾)も影響して、台湾大学は、設立母体を台北帝国大学としているが、ソウル大学校は1946年(昭和21年)に新設した大学として、設立母体を京城帝国大学とはしていない。また、講義に用いられる言語については、戦前は日本語が用いられたが、戦後、ソウル大学校では朝鮮語、台湾大学では中国語への変更がなされた。なお、台湾大学では、日本各地の小・中・高の教育を受けた国民党側の子弟の留学枠が存在し、中国語が拙いこれらの学生に対し、戦前に日本語で教育された教授陣が個人的に日本語で教育する例も見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "内地においては、1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立総合大学令と名称変更されて帝国大学は「国立総合大学」と改称された。これに伴い各大学は校名から「帝国」を除く改称を行ったため、旧制大学としての学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学もなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "かつて帝国大学であった大学は旧帝国大学、または旧帝大と呼ばれる。学士会はそのまま存続し、内地の七大学(と外地の帝大卒業生)共通の同窓会組織として機能している。また、七大学の定期対抗戦である全国七大学総合体育大会(通称して七大戦、もしくは七帝戦)が毎年開催されている。また九つの帝国大学が存在したことから「九帝大」とも呼ばれていたが、「旧帝大」と同音異義語であることと国外の旧帝大との交流が減ったことにより、現在は死語となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)現在、東北大学、東京大学、京都大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学は、指定国立大学法人に指定されている(指定順)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "政府が率先して設置した帝国大学もあったが、帝国議会が成立した後は、帝大(綜合大学)設立の建議案が議会に次々と提出され、一部は採択されて建議となり、政府に設置を働きかけた。しかし、建議は法的拘束力がない上、帝国大学以外の他の高等教育機関が比較的安価に設立できたのに対し、帝国大学は格付けが高く、設立に多大な費用を必要とした。そのため、財政的裏付けのない議会の帝大設立建議が、すぐに設立に結びつくとは言い難かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "旧帝国大学(きゅうていこくだいがく)とは、帝国大学を前身とする8つの国立大学を示す通称である。また、旧外地の大学を含まないことを明確にする場合は旧七帝国大学と称する。略称は旧帝大、旧七帝大。 各大学の詳細については北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、台湾大学を参照。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "学部学生の出身高校所在地方(全国8地方)別入学者の人数および比率は、以下のようになっている。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "北海道大学:2,591人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "東北大学:2,538人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "東京大学:3,108人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "名古屋大学:2,219人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "京都大学:2,886人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "大阪大学:3,411人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "九州大学:2,687人", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "旧帝大における学部生の男女比は、女性の方が比率が低い傾向にある。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "以下は論文の被引用数による順位(1999年~2009年)。その他の観点による各大学の評価については「世界大学ランキング」を参照。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "全ての国立大学法人の中で、研究費が多い上位7法人は旧帝国大学の7校となっている。以下の表には、大学共同利用機関法人も含む。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "旧帝国大学は、研究成果の一部を特許として多数公開している。研究成果を基した起業については大学発ベンチャーを参照。", "title": "旧帝国大学" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "企業の「売上高」に当たるのが、国公立大学(国立大学法人および公立大学法人)では「経常収益」であり、私立大学(学校法人等)では「帰属収入」(2015年度の決算から「事業活動収入」に改称)であり、これらはいずれも本業における1年間の金銭的な収入を表す。旧帝国大学の経常収益は大きく、国公立大学の上位を占めている。また、医学部および大学病院を持つ大学を経営している法人も上位にいる(表中において法人単位で赤で表示)。なお参考として、旧帝国大以外の国公立大学で最も経常収益が大きい筑波大学も以下のグラフに加える。", "title": "旧帝国大学" } ]
帝国大学は、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された日本の旧制高等教育機関(大学)。略称は帝大(ていだい)。また、1886年〜1897年(京都帝国大学設立)までの現在の東京大学の旧称。 この項目では、帝国大学を前身とする日本の国立大学の概略についても扱う。
{{otheruses|日本の帝国大学|フランスの帝国大学|帝国大学 (フランス)}} '''帝国大学'''(ていこくだいがく、{{旧字体|'''帝󠄁國大學'''}})は、[[1886年]]([[明治]]19年)に公布された[[帝国大学令]]によって設立された[[日本]]の[[旧制高等教育機関]]([[大学]])。略称は'''帝大'''(ていだい)。また、1886年〜1897年(京都帝国大学設立)までの現在の東京大学の旧称。 この項目では、[[#旧帝国大学|帝国大学を前身とする日本の国立大学]]の概略についても扱う。 == 概要 == 明治時代から[[昭和]]時代[[戦前]]にかけて、[[内地]]に7校(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、[[外地]]に2校(京城、台北)の計9校が設置された。[[第二次世界大戦]]後、内地の帝大は[[1947年]]([[昭和]]22年)10月より'''国立総合大学'''(こくりつそうごうだいがく、旧字体:國立總合大學)に改められ、続く[[学制改革]]で[[1949年]](昭和24年)より新制国立大学へ移行し、外地の帝大は日本政府の管理から離れて別個の変遷をたどった。 [[1877年]]([[明治]]10年)創立の[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]が、[[1886年]](明治19年)に[[帝国大学令]]に基づいて「帝国大学」(略称:'''帝大''')に改称された。それから約10年は同校を指す名称であった。 [[1897年]](明治30年)に「京都帝国大学」が創立されると、従前の「帝国大学(旧東京大学)」は「東京帝国大学」に改称された。これから[[1947年]](昭和22年)の日本国内における[[新制大学]]移行による改称までの[[半世紀]]は、同令によって設置された大学群9校の総称が「帝国大学」であった。 新制大学移行後は、「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれている。ただし、[[ソウル大学校]]に関しては部分的に連続性を認めている学部もあるが、大学全体の見解として京城帝大の後身校ではないとされている。 初期の帝大は、[[大日本帝国]]最上位の国立高等教育機関(最高学府)および研究機関として設置された。各帝大は、複数の[[専攻科]]を擁する「[[分科大学]]」を包含し<ref group="†">東大法学部はこの当時「東京帝国大学法科大学」だった</ref>、学際的な研究を理念とする「[[大学院]]」を設置した。 [[第一次世界大戦]]後の[[1919年]]([[大正]]8年)に施行された[[大学令]]と同期して、東京・京都・東北・九州・北海道の既存5帝大における分科大学は独立性を失って、大学本部の統制下にある[[学部]]に改組された。学部制後の帝国大学は「綜合大学」([[新制大学]]の[[国立大学|国立]][[単科大学と総合大学|総合大学]]に相当)とも称され、拠点都市以外も含めて各地で帝大あるいは綜合大学の設立運動があった([[#設立過程]]参照)。 一方、各帝大内では、学部よりさらに下位に当たる各「[[講座制と学科目制|講座]]」が優勢になり、大学より上位にあって学際的な研究を期待された大学院をも大学の講座による支配が及んだ。このような大学の講座が大学院まで影響力を持つ体制は、戦後の新制大学成立後も続いている。 各帝大は、前身となる高等教育機関を包摂して改組・改称したり、学部を新設したりするなどしてその組織を整備し、時代が下って大学令に基いて設立された官立(国立)・公立の[[単科大学と総合大学|単科大学]]や私立の総合大学が設置される中でも日本の高等教育や研究をリードした。戦後は「帝国大学」の名称を廃し「国立総合大学」と改められたが、日本で有数の総合大学である状況は変わらなかった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀の者には[[天皇]]から[[銀時計#恩賜の銀時計|恩賜の銀時計]]が下賜された。[[1886年]](明治19年)には、卒業生のクラブとして[[学士会]](本部・東京都)が設けられた。同会の入会資格は、新制大学以前の旧帝大出身者と、新制大学後の国内の旧7帝大出身者などである。 2016年度(平成28年度)に国から国立大全86校に支給された運営費交付金のうち、旧帝大の7校にその33.7%の額が配分されており、旧帝大は現在も特別の地位にあることがわかる<ref name="LDnews20180221">[http://news.livedoor.com/article/detail/14330173/ 旧七帝大進学率、中部・近畿・北陸が圧倒](livedoor NEWS、2018年2月21日)</ref>。 旧帝大7校への[[進学率]]は、出身高校所在[[都道府県]]毎に18歳人口あたりで[[標準化]]すると、3.0%以上が[[奈良県]]のみ、2.5%以上が[[北海道]]と[[福岡県]]、2.0%以上が[[宮城県]]・[[富山県]]・[[石川県]]・[[愛知県]]・[[京都府]]・[[兵庫県]]となっており、旧帝大7校が所在していない奈良・富山・石川・兵庫の4県が上位に入る一方、所在している[[東京都]]・[[大阪府]]はより下位にいる<ref name="LDnews20180221"/>。 == 一覧 == かつて存在した帝国大学は次の通り。番号は帝国大学として設置・昇格された順番を示す。 {|class="wikitable" style="text-align:left;font-size:80%" !rowspan="2"| !rowspan="2"|帝大認定年 !rowspan="2"|大学名 !colspan="4"|終戦時 !colspan="3"|戦後 !rowspan="2"|画像 !rowspan="2" style="width:1em"|位置 |- !style="width:1em"|[[大学予科|予科]] ![[大学専門部 (旧制)|専門部]] ![[学部]] !style="width:1em"|[[大学院|院]] !style="width:9em"|[[新制大学]] !学部 !style="width:1em"|院 |- |1||style="white-space:nowrap"|[[1886年]]<br>[[明治]]19年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''帝国大学'''<br>→'''東京帝国大学'''||style="text-align:center" |-||[[旧制専門学校#臨時附属医学専門部(附属医学専門部)|医学]]||[[理学部|理]]・[[工学部|一工]]・[[第二工学部|二工]]・[[医学部|医]]・[[農学部|農]]<br>[[法学部|法]]・[[文学部|文]]・[[経済学部|経]]||style="text-align:center"|○||{{Flagicon|JPN}}'''[[東京大学]]''' ||[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理]]・[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|工]]・[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|医]]・[[東京大学大学院薬学系研究科・薬学部|薬]]・[[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|農]]<br>[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法]]・[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文]]・[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|経]]・[[東京大学教育学部・大学院教育学研究科|教育]]・[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|教養]]||style="text-align:center" |○||[[画像:YasudaAuditorium.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|35|42|48.39|N|139|45|44.03|E|region:JP|地図|name=東京帝国大学(現・東京大学)}} |- |2||[[1897年]]<br>明治30年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''京都帝国大学'''||style="text-align:center"|-||医学||理・工・医・農<br>法・文・経||style="text-align:center"|○||{{Flagicon|JPN}}'''[[京都大学]]'''||[[京都大学大学院理学研究科・理学部|理]]・[[京都大学大学院工学研究科・工学部|工]]・[[京都大学大学院医学研究科・医学部|医]]・[[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬]]・[[京都大学大学院農学研究科・農学部|農]]<br>[[京都大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[京都大学大学院文学研究科・文学部|文]]・[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経]]・[[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|教育]]・[[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総人]]||style="text-align:center"|○||[[画像:Kyoto University.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|35|1|33.77|N|135|46|51|E|region:JP|地図|name=京都帝国大学(現・京都大学)}} |- |3||[[1907年]]<br>明治40年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''東北帝国大学'''||style="text-align:center"|-||医学||理・工・医<br>法文|| style="text-align:center" |○||{{Flagicon|JPN}}'''[[東北大学]]'''||[[東北大学大学院理学研究科・理学部|理]]・[[東北大学大学院工学研究科・工学部|工]]・医・[[歯学部|歯]]・[[東北大学大学院薬学研究科・薬学部|薬]]・[[東北大学大学院農学研究科・農学部|農]]<br>[[東北大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[東北大学大学院文学研究科・文学部|文]]・[[東北大学大学院経済学研究科・経済学部|経]]・[[東北大学大学院教育学研究科・教育学部|教育]]||style="text-align:center"|○||[[画像:Katahira head office.png|none|100px]]||{{ウィキ座標|38|15|15.45|N|140|52|27.81|E|region:JP|地図|name=東北帝国大学(現・東北大学)}} |- |4||[[1911年]]<br>明治44年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''九州帝国大学'''||style="text-align:center"|-||医学・[[高等工業学校#附属専門部|工学]]||理・工・医・農<br>法文||style="text-align:center"|○||{{Flagicon|JPN}}'''[[九州大学]]'''||[[九州大学大学院理学研究院・大学院理学府・理学部|理]]・[[九州大学大学院工学研究院・大学院工学府・工学部|工]]・医・[[九州大学大学院歯学研究院・大学院歯学府・歯学部|歯]]・薬・[[九州大学大学院農学研究院・大学院生物資源環境科学府・農学部|農]]・[[芸術工学部|芸工]]<br>[[九州大学大学院法学研究院・大学院法学府・法学部|法]]・[[九州大学大学院人文科学研究院・大学院人文科学府・文学部|文]]・[[九州大学大学院経済学研究院・大学院経済学府・経済学部|経]]・[[九州大学教育学部|教育]]・[[教養学部|共創]]|| style="text-align:center" |○||[[画像:The administrative building of Kyushu University 20130711.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|33|37|21.9|N|130|25|31.19|E|region:JP|地図|name=九州帝国大学(現・九州大学)}} |- |5||[[1918年]]<br>[[大正]]7年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''北海道帝国大学'''||style="text-align:center"|○||医学・<br>[[高等農林学校#大学附属専門部|農林]]・<br>[[室蘭工業大学|土木]]||理・工・医・農||style="text-align:center"|○||{{Flagicon|JPN}}'''[[北海道大学]]'''||[[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理]]・[[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工]]・医・歯・薬・[[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農]]・[[獣医学部|獣]]・[[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水]]<br>[[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文]]・[[北海道大学大学院経済学研究院・経済学院・経済学部|経]]・[[北海道大学大学院教育学研究院・大学院教育学院・教育学部|教育]]||style="text-align:center"|○||[[画像:Hokkaido-Univ-Furukawa-Hall-01.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|43|4|17.45|N|141|20|48.19|E|region:JP|地図|name=北海道帝国大学(現・北海道大学)}} |- |6||[[1924年]]<br>大正13年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''[[京城帝国大学]]'''||style="text-align:center"|○||style="text-align:center"|-||[[理工学部|理工]]・医<br>法文||style="text-align:center"|○||colspan="3" nowrap|無し(→施設等は新設の{{Flagicon|KOR}}'''[[ソウル大学校]]'''が引き継ぎ)||[[画像:SNU gate.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|37|27|33.63|N|126|57|7.51|E|region:KR|地図|name=京城帝国大学(現・ソウル大学校)}} |- |7||[[1928年]]<br>[[昭和]]3年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''[[台北帝国大学]]'''||style="text-align:center"|○||医学||理・工・医・農<br>文政|| style="text-align:center" |○||{{Flagicon|ROC}}'''[[国立台湾大学]]'''||理・工・医・電機情報・生物資源農・生命科学・公衆衛生<br>文・法・社会科学・管理||style="text-align:center"|○||[[画像:National Taiwan University Library 20060802.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|25|0|50.1|N|121|31|47.42|E|region:TW|地図|name=台北帝国大学(現・台湾大学)}} |- |8||[[1931年]]<br>昭和6年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''大阪帝国大学'''||style="text-align:center"|-||医学||理・工・医<br>||style="text-align:center" |○||{{Flagicon|JPN}}'''[[大阪大学]]'''||[[大阪大学大学院理学研究科・理学部|理]]・[[大阪大学大学院工学研究科・工学部|工]]・[[大阪大学大学院医学系研究科・医学部|医]]・[[大阪大学大学院歯学研究科・歯学部|歯]]・[[大阪大学大学院薬学研究科・薬学部|薬]]・[[大阪大学大学院基礎工学研究科・基礎工学部|基礎工]]<br>[[大阪大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[大阪大学文学部|文]]・[[大阪大学大学院経済学研究科・経済学部|経]]・[[大阪大学大学院人間科学研究科・人間科学部|人科]]・[[大阪大学外国語学部|外語]]|| style="text-align:center" |○||[[画像:Osaka University toyonaka daigaku-hall.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|34|49|7.23|N|135|31|26.23|E|region:JP|地図|name=大阪帝国大学(現・大阪大学)}} |- |9||[[1939年]]<br>昭和14年||{{flagicon|Empire of Japan}}'''名古屋帝国大学'''||style="text-align:center"|-||医学||理・工・医||style="text-align:center"|○||{{Flagicon|JPN}}'''[[名古屋大学]]'''||[[名古屋大学大学院理学研究科・理学部|理]]・[[名古屋大学大学院工学研究科・工学部|工]]・医・[[名古屋大学大学院生命農学研究科・農学部|農]]<br>[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|法]]・[[名古屋大学大学院人文学研究科・文学部|文]]・[[名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部|経]]・[[名古屋大学大学院教育発達科学研究科・教育学部|教育]]・[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|情報]]||style="text-align:center"|○||[[画像:Nagoya University 001.jpg|none|100px]]||{{ウィキ座標|35|9|15.8|N|136|57|55.73|E|region:JP|地図|name=名古屋帝国大学(現・名古屋大学)}} |} == 歴史 == {{legend|orange|帝国大学 → 東京帝国大学 (→ 東京大学)}} {{legend|yellowgreen|京都帝国大学 (→ 京都大学)}} {{legend|purple|東北帝国大学 (→ 東北大学)}} {{legend|magenta|九州帝国大学 (→ 九州大学)}} {{legend|blue|北海道帝国大学 (→ 北海道大学)}} {{legend|olive|京城帝国大学}} {{legend|maroon|台北帝国大学 (→ 国立台湾大学)}} {{legend|skyblue|大阪帝国大学 (→ 大阪大学)}} {{legend|green|名古屋帝国大学 (→ 名古屋大学)}} :{{legend|white|ソウル大学校}}(京城帝大から改名した京城大学の施設等を転用し、新大学を設立) {{#tag:timeline| Define $width = 600 Define $height = 250 Define $start = 01/01/1885 Define $end = {{#time: d}}/{{#time: m}}/{{#time: Y | +1 year }} Define $now = {{#time: d/m/Y }} ImageSize = width:$width height:$height PlotArea = right:10 left:25 bottom:25 top:10 DateFormat = dd/mm/yyyy Period = from:$start till:$end TimeAxis = orientation:horizontal Colors = id:bg value:rgb(0.9,0.9,0.9) id:lightline value:rgb(0.7,0.7,0.7) id:lighttext value:rgb(0.5,0.5,0.5) id:tokyo value:rgb(1,0.5,0.2) id:kyoto value:rgb(0.35,0.75,0.35) id:tohoku value:rgb(0.47,0.08,0.53) id:kyushu value:rgb(1,0.4,0.8) id:hokkaido value:rgb(0,0,0.8) 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color:keijo from:10/05/1924 till:07/10/1945 bar:6 width:15 color:seoul from:07/10/1945 till:15/10/1946 bar:6 width:10 color:seoul from:15/10/1946 till:$now bar:7 width:20 color:taihoku from:16/03/1928 till:15/11/1945 bar:7 width:10 color:taihoku from:15/11/1945 till:$now bar:8 width:20 color:osaka from:01/05/1931 till:01/09/1947 bar:8 width:10 color:osaka from:01/09/1947 till:$now bar:9 width:20 color:nagoya from:01/04/1939 till:01/09/1947 bar:9 width:10 color:nagoya from:01/09/1947 till:$now }} === 東京 === [[File:PSM V64 D470 Imperial university of tokyo.png|thumb|250px|東京帝国大学(1903年から1904年に撮影)]] :1. '''帝国大学'''(後の'''東京帝国大学'''。現在の[[東京大学]]) [[1877年]](明治10年)設立の「[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]」は[[帝国大学令]]([[1886年]])の公布により、東京大学と[[工部大学校]]を統合して「帝国大学」に改称・改組した。このとき、[[大学院]]も設置された。初代の総長は[[渡辺洪基]]。詳細は「[[東京大学 (1877-1886)]]」参照。 === 京都 === [[File:Kyoto Imperial University-old1.jpg|thumb|250px|京都帝国大学(撮影年不明)]] :2. '''京都帝国大学'''(現在の[[京都大学]]) 帝国大学設立期から、[[関西]]にも大学設置を望む声があった。 [[1890年]](明治23年)になると、[[第1次山縣内閣|第1次山縣有朋内閣]]の[[芳川顕正]][[文部大臣|文相]]([[徳島藩]]出身)が[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]発布に尽力する一方、[[大学令]]案を[[閣議 (日本)|閣議]]に提出して、地方大学の設立および[[高等中学校]]の拡張を主張した。 同1890年7月1日には[[第1回衆議院議員総選挙]]が実施され、11月25日には[[第1回帝国議会]]が召集される。 翌1891年2月20日に、[[長谷川泰]][[衆議院|衆議院議員]]([[日本医科大学]]の前身である済生学舎を1876年設立)が帝国大学新設案を議会に提示し、1892年の[[第4回帝国議会]]にも「関西ニ帝国大学ヲ新設スル[[建議案]]」を提出したが、設立には至らなかった。 [[日清戦争]](1894年7月~1895年4月)による好景気、および、[[下関条約]]によって[[清]]から[[戦争賠償|賠償金]]を得たことにより、[[第2次伊藤内閣|第2次伊藤博文内閣]]の[[西園寺公望]]文相が「清国賠償金ノ一部ヲ東京及京都ノ帝国大学基本金トシテ交付セラレンコトヲ請フノ議」を、首相宛に執筆し、京都帝国大学の設置を主張した。 これを受け、翌1896年の第9回帝国議会にて、京都帝国大学創立費および京都帝国大学医科大学創立費の予算案が可決された。翌[[1897年]](明治30年)、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]の一部の施設を利用して、京都帝国大学が設立(第三高等学校は移転した)。これにより「帝国大学」は「東京帝国大学」と改称した。 === 東北・九州・北海道 === [[File:Tohoku Imperial University,1913.jpg|thumb|250px|東北帝国大学(1913年撮影)]] [[File:Kyushu Imperial University-old1.jpg|thumb|250px|九州帝国大学(撮影年不明)]] [[File:Hokkaido Imperial University.jpg|thumb|250px|北海道帝国大学(1934年撮影)]] :3. '''東北帝国大学'''(現在の[[東北大学]]) :4. '''九州帝国大学'''(現在の[[九州大学]]) :5. '''北海道帝国大学'''(現在の[[北海道大学]]) 帝国議会と政府との関係、資金面の問題、校舎建設の問題、前身となる高等教育機関と新設各帝国大学との関係から、この時期の帝国大学の設立経緯は複雑であり、盛岡藩出身で[[藩校]][[作人館]]修文所で原敬と[[wikt:級友|同級生]]だった[[佐藤昌介]]([[札幌農学校]]最後の校長、東北帝国大学農科大学初代学長、北海道帝国大学初代総長)も関係している<ref name=a>逸見勝亮、「[https://hdl.handle.net/2115/20441 札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介]」『北海道大学大学文書館年報』2007年 第2号 p.29-48, 北海道大学大学文書館</ref>。 また、この時期設立の帝大は全て地方名が大学名として採用され、その他の帝大が[[都市]]名を冠しているのとは対照的となっている。 1890年(明治23年)に[[帝国議会]]が成立したことにより、帝大設立のための多くの「建議案」が議会に提出された。ただし、建議案が採択されて「[[建議]]」となっても、これは[[大日本帝国憲法]]下で議院が政府に意思を示すことであり、法案ではないため法的拘束力はない。 [[京都帝国大学]]創立期の1898年に成立した[[第2次山縣内閣|第2次山縣有朋内閣]]の[[樺山資紀]]文相が、[[東北地方|東北]]と[[九州]]にも帝国大学を設置したいと言明した。 東北では[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]がある[[宮城県]]に設置する意思が表明されたが、九州においては設置する県を明言しなかった。すると、[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]がある[[福岡県]]と、古くから医学が盛んで[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]][[医学部]]がある[[長崎県]]が、「50万円を寄付する用意がある」とそれぞれ言明。また、第五高等学校の本部がある[[熊本県]]は、土地の提供を申し出た。しかし、「寄付で設立されても運営費が捻出できない」と、帝国議会から消極論が出て両帝国大学の設立は見送りとなった。 [[1900年]](明治33年)、第14帝国議会において、[[野党]]・[[政友会]]([[伊藤博文]][[総裁]])によって「九州東北帝国大学設置建議案」および「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。建議案は[[衆議院]]特別委員会にて可決され、東北・九州・北海道の各帝国大学設立の要求が議会から政府に表明された。 しかし、野党案であったことや、建議に拘束力がなかったこと、1900-01年の日本は不況期であったことなどから、政府は消極姿勢であった。対して議会では、1901年(明治34年)「北海道帝国大学設立建議」、1902年(明治35年)「東北帝国大学設立建議」と重ねて採択が行われ、政府へ働きかけた。 [[1902年]](明治35年)、[[第1次桂内閣|第1次桂太郎内閣]]の[[菊地大麓]]文相(元東京帝大総長)が、「東京・京都以外に帝大は設立不要」とし、実用的な専門学校の設置案を提案した。[[衆議院解散]]で設置案は流れたが、九州帝大設置のために巨額の寄付を申し出ていた各県に専門の高等教育機関の設置が決まり、まず、国から150万円の予算を得て1903年(明治36年)に福岡県立福岡病院を基に京都帝国大学福岡医科大学が設立された。 その後、1905年(明治38年)に[[長崎高等商業学校]]が、1906年(明治39年)に[[仙台高等工業学校]]、および、第五高等学校工学部を基に[[熊本高等工業学校]]が設置された。 [[1906年]](明治39年)、京都帝大の設置に尽力し、高等教育機関の設置に前向きな[[西園寺公望]]を[[内閣総理大臣|首相]]とする[[第1次西園寺内閣]]が成立した。同年6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が[[文部省]]に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を[[宮城県]][[仙台市]]に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった<ref>[[東北大学金属材料研究所]](編)(2016)「[[片平丁|片平]]の散歩道 金研百年の歩みとともに」[[河北新報]]出版センター</ref>。 西園寺内閣は、[[1907年]]度(明治40年度)[[予算]]に東北帝国大学([[仙台市]])および九州帝国大学([[福岡市]])の設置予算を組み込んだが、[[日露戦争]]後の[[不況]]期に入ったことを理由に板谷蔵相によって予算は削減され、設立は絶望的となった。このとき、[[古河鉱業]]副社長であった[[原敬]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]([[盛岡藩]][[盛岡城]]外・[[本宮村]]、現:[[岩手県]][[盛岡市]]本宮出身)が、[[古河財閥]](初代の[[古河市兵衛]]が盛岡の親戚筋で働いていた時期あり)の二代目オーナーの[[古河虎之助]](当時17歳)を説得し、両帝国大学設立のための資金を献納させることを取り付け、予算削減から17日目に両帝国大学の設置が閣議決定された。日露戦争による好況(1904-05年)によって財を成した古河財閥は、一方で[[足尾銅山]]の鉱毒による[[公害]]問題を抱えており、公のために寄付をすることで[[世論]]の沈静化を願った。北海道大学に現存する[[古河記念講堂|古河講堂]]([[登録有形文化財]])はこれにより建てられた。 [[1907年]](明治40年)9月には、東北帝国大学が設置され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学([[札幌市|札幌区]])に昇格した。[[勅令]]第236号では、東北帝国大学の設置場所は仙台と定められていたが、この時点の仙台では一切の校舎その他建造物が存在しない状態であった。 当時の帝国大学令では、帝国大学は複数の分科大学により運営される必要があったが、東北帝国大学の場合は当面の間札幌の農科大学のみで完結させる必要があり、特例として農科大学のみで運営することを前提とした[[帝国大学官制|東北帝国大学農科大学官制]]を施行することとなった。 [[1911年]]1月には、東北帝国大学理科大学(仙台市)が新設され、名実ともに東北帝国大学の本部が仙台に置かれるようになった。同時期には九州帝国大学本部の設置および九州帝国大学工科大学の新設もなされた(両者とも福岡市)。同年4月には、京都帝国大学福岡医科大学が移管されて九州帝国大学医科大学となった。 これらの大学設置には、地元からの寄付金等も用いられたが、1907年度から5年間で約106万円に上った古河財閥の寄付金が用いられた(内訳は建築費が987,739円、事務費用69,137円)。古河財閥からの校舎建設資金は、東北帝大分が、農科大学135,519円、理科大学244,170円、九州帝大分が工科大学608,050円であった<ref name=a />。北海道大学のシンボルの一つであり、現在は文学部の研究室として使用されている古河記念講堂は、この資金を用いて建設されたものである。 1911年(明治44年)、3度目の「北海道帝国大学設立建議案」が議会で採択されたが、政府は消極的だった。しかし、[[第一次世界大戦]]による好況(1915-18年)に入ると風向きが変わり、[[大学令]]公布に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、[[1918年]]([[大正]]7年)4月、札幌区所在の東北帝国大学農科大学を東北帝大から分離して北海道帝国大学が設立された。同年、[[原内閣|原敬内閣]]の下、「高等諸学校創設及拡張計画」が帝国議会で可決され、東京帝国大学・京都帝国大学に各々[[経済学部]]が、東北帝国大学・九州帝国大学には各々[[法文学部]]が設置された。 なお、[[六大都市]]の[[大阪市]](125万人)や[[名古屋市]](43万人)、あるいは、[[広島市]](16万人)や[[金沢市]](13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、[[福岡市]](9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位]])。 === 京城・台北 === [[File:Keijo Imperial University.JPG|thumb|250px|京城帝国大学(1930年頃撮影)]] [[File:Taihoku Imperial University.JPG|thumb|250px|台北帝国大学(撮影年不明)]] <!--設立の法案、財源の裏づけ等の資料追加をお願い致します。--> :6. '''[[京城帝国大学]]'''(在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁法令102号によって閉鎖) :7. '''[[台北帝国大学]]'''(現在の[[国立台湾大学]]) [[十四か条の平和原則]](1918年1月8日)、[[ヴェルサイユ条約]]([[1919年]])によって、第一次世界大戦後に[[民族自決]]が広まり、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]では[[三・一独立運動]](1919年)が発生し、民族系およびアメリカ系宣教団で私立大学設立の動きが見られた。日本は、[[1920年]](大正9年)の[[国際連盟]]発足に伴い[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]の一員となり、国際的地位を得る中、朝鮮・[[日本統治時代の台湾|台湾]]・[[関東州]]などにおいて「[[内地]]延長主義」([[外地]]の[[同化政策]])を採って、数々の高等教育機関を設立していった(→[[旧外地の高等教育機関]])。 外地での帝国大学設立は、外地での民族自決を抑え込む意味合いがあったものの、学部数や定員は限定され、また、教授陣は[[日本人]]、かつ、学生の多くも日本人であったため、民族[[差別]]を訴える民族系新聞もあった。また、全ての[[内地]](日本国内)の大学・高等教育機関が[[文部省]]管轄下にあったのに対し、京城・台北の両帝国大学を始め、外地のほとんどの学校・大学が[[台湾総督府]]・[[朝鮮総督府]]・[[関東局]]あるいは[[外務省]]の管轄下に置かれた。 なお、1920年代には、[[大学令]]による大学が多く設立されている。→[[旧制大学]] === 大阪・名古屋 === [[File:Osaka Imperial University.jpg|thumb|250px|大阪帝国大学(撮影年不明)]] [[File:Nagoya Imperial University-old1.jpg|thumb|250px|名古屋帝国大学(撮影年不明)]] :8. '''大阪帝国大学'''(現在の[[大阪大学]]) :9. '''名古屋帝国大学'''(現在の[[名古屋大学]]) [[1923年]]に発生した[[関東大震災]]により、東京が壊滅的な打撃を受けた一方、関東およびその近郊からの移住者により、[[大阪市]]や[[名古屋市]]の人口は急増し、特に大阪市においては、首都機能こそなかったものの、当時の東京市の人口を抜いて日本最大の都市に躍進し、また当時世界各国の主要都市の中でも6番目の人口数となり、いわゆる[[大大阪時代]]を迎えていた(同記事および[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位]]も参照)。 両市のある府県では帝大設立運動が起きたが、[[昭和金融恐慌]]([[1927年]])、[[世界恐慌]]([[1929年]])のため帝大創設の政府予算は付かず、全額を地元が[[国庫]]に寄付するという形で両帝大は設立された。大阪帝国大学は[[大阪医科大学 (大阪市)|大阪医科大学]]、名古屋帝国大学は[[名古屋医科大学]]を前身として設立されている。<!--設立の法案、財源の裏づけ等の資料追加をお願い致します。--> [[1931年]]の[[満州事変]]以後、[[軍部]]の台頭によって財政は[[軍事費]]優先傾向が強くなり、また、両帝大の先例から、新たな帝大の設立には全額地元負担が必須となり、他地域での帝大新設は行われなかった。しかし、その他の高等教育機関の設立・改組などは行われた。 === 旧制高等学校との関係 === 帝大は後期高等教育機関であり専門教育を行っていたが、前期高等教育で教養教育(外国語教育)を行っていた[[旧制高等学校]]とは密接不可分な関係にあった。 大学予科を付設していない帝国大学は旧制高校出身者を最優先に入学させる方針であったため、旧制高校卒業生は大学・学部を問わなければどこかの帝大に入学できた。もっとも、旧制高校卒業生であっても人気学部への進学は難関であり、各帝大医学部、東京帝大法・経済・工部、京都帝大工学部等へは数倍程度の倍率を要したとされる。 一方で、京都帝国大学文系は定員無視の全入状態であり、東北・名古屋・九州の各帝大は旧制高校卒のみでは定員の半数程度しか埋められず、後述する北海道帝大のように大学予科を付設することも認められなかったため、[[旧制専門学校]]からの傍系入学を認めていた。 したがって帝大入試は現在のエスカレーター式高校から大学学部選抜のような位置であり、高等教育入試の主戦場は旧制高校入試であった。旧制高校の選抜の厳しさ、現在は存在しない知的特権性から、帝国大学卒業生の多くは出身帝国大学より出身旧制高校にアイデンティティを置いていた。旧制高校生は旧制中学生の憧れの的であり、密接不可分な旧制高校と帝国大学が2つに分かれ共鳴しあって魅力を高めあっていた<ref>中央公論新社 『学歴貴族の栄光と挫折』 竹内洋、1999年。</ref>。 明治・[[大正|大正時代]]の考え方では、[[外国語]]([[英語]]・[[ドイツ語]]・[[フランス語]])で専門高等教育を行うのが[[旧制大学]]であり、その準備教育として[[旧制高等学校]]や[[大学予科]]で外国語教育を受け、[[日本語]]で簡易な高等専門教育を行うのが[[旧制専門学校]]であるという棲み分けであった。しかし、[[昭和|昭和時代]]に入ると旧制大学の教育も日本語で行うようになり、旧制大学と旧制専門学校の違いが教育年限と入学難易度だけということになり、戦前の昭和時代にも学制の改革は議論されていたが具体化するのは戦後である。 === 帝国大学予科との関係 === 明治時代に[[開拓使]]によって設立され、東京帝大・京都帝大・[[東京高等商業学校]]と同様に[[学士]]号授与権が与えられた高等教育機関である[[札幌農学校]]の帝大昇格にあたっては、札幌農学校予修科を東北帝大農科大学予科に改組する方策が採られた<ref>[http://www.hokkaido.med.or.jp/cmsdesigner/dlfile.php?entryname=medical_report&entryid=00012&fileid=00000092&/1033-11.pdf&disp=inline 北海道医学教育史年表(4)] 2019-08-05閲覧</ref>。 これは、札幌農学校が伝統的に「予科と本科の一貫教育」を基軸としていたことに加え、[[北海道]]という地域性から他帝大と同様の選抜方式では定員充足が困難と見込まれたものに伴う措置である。東北帝大農科大学では農科大学予科出身者を最優先に入学させ、農科大学予科出身者のみで欠員が生じる場合のみ旧制高校出身者等を受け入れることとされた。この進学カリキュラムは後に北海道帝大となった後も同帝大予科として引き継がれ、新制大学である北海道大学の総合教育部・[[恵迪寮]]などに受け継がれていく<ref>江津和也、「[https://hdl.handle.net/2065/5869 東北帝国大学農科大学附属大学予科に関する一考察 : 大学令施行 (一九一八年) 以前における帝国大学予科の性格]」『早稲田大学大学院 教育学研究科紀要 別冊』 2004年 11巻 2号 p.39-48, 早稲田大学大学院教育学研究科。</ref>。その他、外地に所在した京城帝大、台北帝大においても大学予科が付設された。 === 戦後 === [[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]の[[日本の降伏|終戦]]により、外地の帝国大学2校は日本政府の手を離れることとなった。同年9月9日から[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合国軍政が敷かれた朝鮮]]では、10月に京城帝国大学が京城大学に改称した(翌[[1946年]]に一旦閉鎖した上で[[10月15日]]に他の高等教育機関と統合して「[[ソウル大学校]]」として創立)。 また、同年[[11月15日]]には[[中華民国の政治|中華民国政府]]が台北帝国大学を接収して「[[国立台湾大学]]」と改称した。帝国大学9校における職員人事を規定してきた[[帝国大学官制]](明治26年[[8月11日]]勅令第83号)は、[[外地]]の2校を除いた[[内地]]7校を対象とする同名の勅令(昭和21年4月1日勅令第205号)によって1946年(昭和21年)4月1日をもって引き継がれた。同令附則により同日、内地7校各校毎の官制も廃止された。一方、外地2校各校毎の官制は同日以降も存続し続けていたが、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が発効して[[連合国軍占領下の日本|連合国軍の日本占領]]が終了すると失効した。 外地の2校では、日本の敗戦によって教授陣(日本人)が大量に日本に引き揚げたため、大学の建物は残っても修業年限全てに渡って充分な講義をすることが困難になった。そのような大学組織の内部事情と日本の統治の仕方の違い(→[[日本統治時代の朝鮮]]、[[日本統治時代の台湾]])も影響して、台湾大学は、設立母体を台北帝国大学としているが、ソウル大学校は[[1946年]](昭和21年)に新設した大学として、設立母体を京城帝国大学とはしていない。また、講義に用いられる言語については、戦前は[[日本語]]が用いられたが、戦後、ソウル大学校では[[朝鮮語]]、台湾大学では[[中国語]]への変更がなされた。なお、台湾大学では、日本各地の小・中・高の教育を受けた[[中国国民党|国民党]]側の子弟の留学枠が存在し、中国語が拙いこれらの学生に対し、戦前に日本語で教育された教授陣が個人的に日本語で教育する例も見られた。<!--日本出身、台湾出身の別なく、台湾の[[医学部]]を卒業して医師国家試験を合格した者は、予備試験なしで日本の[[医師国家試験]](日本語)を受験出来たため、日本出身の国民党側子弟が日本の医学部に行かず、台湾大学に留学して、卒後に日本に医師として戻ってくる例が見られた。--> 内地においては、[[1947年]]([[昭和]]22年)に帝国大学令が国立総合大学令と名称変更されて帝国大学は「国立総合大学」と改称された。これに伴い各大学は校名から「帝国」を除く改称を行ったため、[[旧制大学]]としての[[学制]]は保持しつつも帝国大学の名は消えた。その後、[[1949年]](昭和24年)に[[新制大学]]に包括され([[学制改革]])、[[1962年]](昭和37年)に各大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学もなくなった。 かつて帝国大学であった大学は'''旧帝国大学'''、または'''旧帝大'''と呼ばれる。[[学士会]]はそのまま存続し、内地の七大学(と外地の帝大卒業生)共通の同窓会組織として機能している。また、七大学の定期対抗戦である[[全国七大学総合体育大会]](通称して七大戦、もしくは七帝戦)が毎年開催されている。また九つの帝国大学が存在したことから「九帝大」とも呼ばれていたが、「旧帝大」と同音異義語であることと国外の旧帝大との交流が減ったことにより、現在は[[廃語|死語]]となっている。 [[2021年]]([[令和]]3年)現在、東北大学、東京大学、京都大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学は、[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定されている(指定順)。 === 設立過程 === 政府が率先して設置した帝国大学もあったが、帝国議会が成立した後は、帝大(綜合大学)設立の建議案が議会に次々と提出され、一部は採択されて建議となり、政府に設置を働きかけた。しかし、建議は法的拘束力がない上、帝国大学以外の他の高等教育機関が比較的安価に設立できたのに対し、帝国大学は格付けが高く、設立に多大な費用を必要とした。そのため、財政的裏付けのない議会の帝大設立建議が、すぐに設立に結びつくとは言い難かった。 {|class="sortable wikitable" style="font-size:80%" |+帝国議会の本会議における帝国大学(または国立[[総合大学]])新設の議論<ref>[https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/ 帝国議会会議録検索システム](国立国会図書館)</ref> !rowspan="2"|年 !rowspan="2"|月日 !colspan="2"|建議案/請願 !colspan="2"|設立要望地 |- !提出先 !名称 !地方 !公法人 |- |[[1893年]]([[明治]]26年) |[[2月28日]] |[[衆議院]] |關西に帝國大學を新設する建議案 |[[関西]] |<span style="display:none">京都市</span>[[西京]]([[京都市]]) |-bgcolor="silver" |[[1897年]](明治30年) |[[6月22日]]<!--公布日。--> |colspan="2" align="center"|京都帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000004216&searchDiv=1&current=4 京都帝国大学ニ関スル件(明治30年6月22日勅令第209号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |関西 |京都市 |- |[[1899年]](明治32年) |[[1月21日]] |[[貴族院 (日本)|貴族院]] |高等學校及帝國大學増設に關する建議案 |- | |- |rowspan="3"|[[1900年]](明治33年) |rowspan="2"|[[1月26日]]-<!--[[1月31日]]-->[[2月2日]] |rowspan="2"|衆議院 |rowspan="2"|九州東北帝國大學設置建議案 |[[東北地方|東北]] |<span style="display:none">仙台市</span>([[宮城県]]) |- |[[九州]] |<span style="display:none">福岡市</span>(候補複数) |- |[[2月22日]] |衆議院 |北海道帝國大學設立の請願 |[[北海道]] |北海道地方費 |- |rowspan="2"|[[1901年]](明治34年) |rowspan="2"|[[3月24日]] |貴族院 |rowspan="2"|北海道帝國大學設立の請願 |rowspan="2"|北海道 |rowspan="2"|北海道地方費 |- |衆議院 |-bgcolor="silver" |[[1907年]](明治40年) |[[6月22日]]<!--公布日。同9月1日より施行。--> |colspan="2" align="center"|東北帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000009587&searchDiv=1&current=4 東北帝国大学ニ関スル件(明治40年6月22日勅令第236号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |東北 |[[仙台市]] |-bgcolor="silver" |[[1910年]](明治43年) |[[12月22日]]<!--公布日。翌年1月1日より施行。--> |colspan="2" align="center"|九州帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000011531&searchDiv=1&current=2 九州帝国大学ニ関スル件(明治43年12月22日勅令第448号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |九州 |[[福岡市]] |- |rowspan="3"|[[1911年]](明治44年) |2月2日-<!--[[2月16日]]-->[[2月18日|18日]] |衆議院 |北陸帝國大學設立に關する建議案<!--2月06日 - 衆議院:北陸帝国大学設立に関する建議案委員会--> |[[北陸地方|北陸]] | |- |[[3月20日]] |衆議院 |rowspan="2"|北海道帝國大學設立の請願 |rowspan="2"|北海道 |rowspan="2"|北海道地方費 |- |[[3月21日]] |貴族院 |- |[[1916年]]([[大正]]5年) |[[2月28日]] |衆議院 |廣島縣下に中國帝國大學設置の請願 |[[中国地方|中国]] |[[広島県]] |-bgcolor="silver" |[[1918年]](大正7年) |[[4月1日]]<!--公布日。同日より施行。--> |colspan="2" align="center"|北海道帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=G%2B38Rc6T9CQTJpGLiNKPDA%3D%3D 北海道帝国大学ニ関スル件(大正7年4月1日勅令第43号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |北海道 |[[札幌市|札幌区]] |-bgcolor="silver" |[[1924年]](大正13年) |[[5月2日]]<!--公布日。即日施行。--> |colspan="2" align="center"|京城帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000018937&searchDiv=1&current=30 京城帝国大学官制(大正13年5月2日勅令第103号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]] |[[京城府]] |- |1924年(大正13年) |[[7月15日]]-<!--[[7月16日]]・[[7月17日]]-->[[7月18日|18日]] |衆議院 |名古屋に綜合大學設置に關する建議案 |[[東海地方|東海]] |[[名古屋市]] |- |[[1925年]](大正14年) |[[3月20日]]・[[3月23日|23日]] |衆議院 |名古屋に綜合大學設置に關する建議案 |東海 |名古屋市 |- |[[1926年]](大正15年) |[[3月24日]]・[[3月25日|25日]] |衆議院 |金澤市に綜合大學設置に關する建議案 |北陸 |[[金沢市]] |- |rowspan="7"|[[1927年]]([[昭和]]2年) |[[2月19日]]-<!--[[2月22日|22日]]・[[2月24日|24日]]・[[2月26日|26日]]・[[3月1日]]-->[[3月11日]] |衆議院 |岡山市に綜合中國帝國大學設置に關する建議案 |中国 |[[岡山市]] |- |2月19日-<!--22日・24日・26日・3月1日-->3月11日 |衆議院 |松江市に[[山陰地方|山陰]]帝國大學設置に關する建議案 |中国 |[[松江市]] |- |2月19日-<!--22日・24日・26日・3月1日・11日-->[[3月25日]] |衆議院 |金澤市に綜合大學設置に關する建議案 |北陸 |金沢市 |- |2月24日-<!--26日・3月1日・11日-->3月25日 |衆議院 |廣島市に綜合大學設置に關する建議案 |中国 |[[広島市]] |- |2月24日-<!--26日・3月1日・11日-->3月25日 |衆議院 |西宮市に綜合大學設置に關する建議案 |関西 |[[西宮市]] |- |[[3月24日]]・25日 |衆議院 |名古屋市に綜合帝國大學建設に關する建議案 |東海 |名古屋市 |- |3月11日-<!--24日-->25日 |衆議院 |新潟縣に綜合大學設置に關する建議案 |北陸 |[[新潟県]] |-bgcolor="silver" |[[1928年]](昭和3年) |[[3月17日]]<!--公布日。即日施行。--> |colspan="2" align="center"|台北帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000021222&searchDiv=1&current=1 台北帝国大学ニ関スル件(昭和3年3月17日勅令第30号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |[[日本統治時代の台湾|台湾]] |[[台北市]]<!--[[富田町 (台北市)|]]--> |- |rowspan="3"|[[1928年]](昭和3年) |[[5月6日]] |衆議院 |松江市に山陰帝國大學設置に關する建議案 |中国 |松江市 |- |5月6日 |衆議院 |名古屋市に綜合帝國大學建設に關する建議案 |東海 |名古屋市 |- |5月6日 |衆議院 |廣島市に綜合大學設置に關する建議案 |中国 |広島市 |- |rowspan="5"|[[1929年]](昭和4年) |[[3月19日]]-<!--[[3月23日|23日]]-->[[3月25日|25日]] |衆議院 |廣島市に綜合大學設置に關する建議案 |中国 |広島市 |- |3月19日-<!--23日-->25日 |衆議院 |四國に國立綜合大學設置に關する建議案 |[[四国]] | |- |3月19日-<!--23日-->25日 |衆議院 |名古屋市に綜合帝國大學設置に關する建議案 |東海 |名古屋市 |- |3月19日-<!--23日-->25日 |衆議院 |金澤市に綜合大學設置に關する建議案 |北陸 |金沢市 |- |3月23日・25日 |衆議院 |大阪市に綜合大學設置に關する建議案 |関西 |[[大阪市]] |- |[[1930年]](昭和5年) |[[5月13日]] |衆議院 |岡山市に綜合中國帝國大學設置に關する建議案 |中国 |岡山市 |- |rowspan="3"|[[1931年]](昭和6年) |[[3月23日]] |衆議院 |四國に國立綜合大學設置に關する建議案 |四国 | |- |3月23日 |衆議院 |廣島市に綜合大學設置に關する建議案 |中国 |広島市 |- |[[3月25日]]・[[3月26日|26日]] |衆議院 |岡山市に中國帝國大學設置に關する建議案 |中国 |岡山市 |-bgcolor="silver" |1931年(昭和6年) |[[4月30日]]<!--公布日。同年5月1日施行。--> |colspan="2" align="center"|大阪帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000022731&searchDiv=1&current=20 大阪帝国大学官制(昭和6年4月30日勅令第67号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |関西 |大阪市 |- |[[1938年]](昭和13年) |[[3月8日]]・[[3月25日|25日]] |衆議院 |名古屋帝國大學設立に關する建議案 |東海 |名古屋市 |- |[[1939年]](昭和14年) |[[3月11日]]・25日 |衆議院 |徳島縣に四國帝國大學設置に關する建議案 |四国 |[[徳島県]] |-bgcolor="silver" |1939年(昭和14年) |[[3月31日]]<!--公布日。同年4月1日施行。--> |colspan="2" align="center"|名古屋帝国大学設立の勅令<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000028547&searchDiv=1&current=8 名古屋帝国大学官制(昭和14年3月31日勅令第112号)](国立国会図書館「日本法令索引」)</ref> |東海 |名古屋市 |- |rowspan="2"|[[1940年]](昭和15年) |[[3月24日]]・25日 |衆議院 |徳島市に四國帝國大學設置に關する建議案 |四国 |[[徳島市]] |- |3月24日 |衆議院 |新潟縣に綜合大學設立の請願 |北陸 |新潟県 |- |rowspan="2"|[[1941年]](昭和16年) |rowspan="2"|3月25日 |貴族院 |新潟縣に綜合大學設置の請願 |rowspan="2"|北陸 |rowspan="2"|新潟県 |- |衆議院 |新潟縣に綜合大學開設の請願 |- |[[1942年]](昭和17年) |[[2月3日]]・[[2月13日|13日]] |衆議院 |[[皇學館大学|神宮皇學館大學]]を綜合大學として擴張變更に關する建議案 |東海 |[[伊勢市|宇治山田市]] |- |[[1943年]](昭和18年) |3月25日 |衆議院 |徳島市に帝國大學開設の請願 |四国 |徳島市 |- |rowspan="7"|[[1946年]](昭和21年) |[[7月30日]] |衆議院 |奈良女子帝國大學設置に關する建議案 |関西 |[[奈良県]] |- |[[8月6日]] |衆議院 |四國綜合大學設置に關する建議案 |四国 | |- |[[8月13日]] |衆議院 |金澤市に北陸帝國大學設置に關する建議案 |北陸 |金沢市 |- |[[9月10日]] |衆議院 |[[東京女子高等師範学校|東京女子高等師範學校]]の女子綜合大學昇格に關する建議案 |[[関東地方|関東]] |[[東京都]] |- |[[9月27日]] |貴族院 |四國綜合大學設置に關する請願 |四国 | |- |[[10月11日]] |衆議院 |四國綜合大學設置に關する建議案 |四国 | |- |10月11日 |衆議院 |金澤市に北陸帝國大學設立の請願 |北陸 |金沢市 |- |[[1947年]](昭和22年) |3月31日 |衆議院 |善通寺町に四國總合大學設立の請願 |四国 |[[善通寺町]] |} == 旧帝国大学 == '''旧帝国大学'''(きゅうていこくだいがく)とは、帝国大学を前身とする8つの[[国立大学]]を示す通称である。また、旧外地の大学を含まないことを明確にする場合は'''旧七帝国大学'''と称する。略称は'''旧帝大'''、'''旧七帝大'''。<br /> 各大学の詳細については[[北海道大学]]、[[東北大学]]、[[東京大学]]、[[名古屋大学]]、[[京都大学]]、[[大阪大学]]、[[九州大学]]、[[国立台湾大学|台湾大学]]を参照。 === 入学状況 === {{更新|section=1|date=2018年7月14日 (土) 20:05 (UTC)}} 学部学生の出身高校所在地方([[日本の地域|全国8地方]])別入学者の人数および比率は、以下のようになっている。 * [[三重県]]は近畿地方に含め、中部地方には含めないが、名古屋大学および大阪大学では三重県を近畿地方に含めず、中部地方に含める。また、[[山梨県]]は中部地方に含め、関東地方には含めていない。 * 九州大学は、下位4地方全てを「その他」にまとめて発表している。 * 各大学において第1位の[[都道府県]]を全体に対する比率と共に記載。 * 1500人以上、1000人以上、500人以上、250人以上、100人以上、50人以上、50人以下で区切って色分けする。 {|class="sortable wikitable" style="text-align:right;font-size:95%" |+[[2015年]]度(平成27年度) 地方別入学者数(単位:人) |- !大学 ![[北海道]] ![[東北地方|東北]] ![[関東地方|関東]] ![[中部地方|中部]] ![[近畿地方|近畿]] ![[中国地方|中国]] ![[四国]] ![[九州]] !その他 !総数 |- !<span style="display:none">37.8</span>北海道大学<ref>[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2015/student/statistics.html 平成27年度 学部入学者の都道府県分布及び地域比率 平成27年5月1日現在](北海道大学)</ref><br /><small>({{flagicon|北海道}}[[北海道]]:37.8%) |style="background:#ffcc99"|'''980''' |style="background:#ffffcc"|133 |style="background:#ffcc99"|547 |style="background:#ffff99"|366 |style="background:#ffff99"|323 |style="background:#ccffff"|69 |style="background:#ccccff"|42 |style="background:#ccffff"|82 |59 |bgcolor=white|2,591 |- !<span style="display:none">15.4</span>東北大学<ref>[http://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/06/about0602/ 入学状況](東北大学)</ref><br /><small>({{flagicon|宮城県}}[[宮城県]]:15.4%) |style="background:#ccffff"|98 |style="background:#ff9999"|'''1,030''' |style="background:#ffcc99"|794 |style="background:#ffff99"|409 |style="background:#ccffff"|81 |style="background:#ccccff"|29 |style="background:#ccccff"|25 |style="background:#ccccff"|41 |31 |bgcolor=white|2,538 |- !<span style="display:none">37.9</span>東京大学<ref>{{PDFlink|[http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400032904.pdf 2016年版 大学案内]}}(東京大学)</ref><br><small>({{flagicon|東京都}}[[東京都]]:37.9%) |style="background:#ccccff"|45 |style="background:#ccffff"|71 |style="background:#ff6699"|'''1,837''' |style="background:#ffff99"|348 |style="background:#ffff99"|405 |style="background:#ffffcc"|129 |style="background:#ccffff"|58 |style="background:#ffffcc"|210 |5 |bgcolor=white|3,108 |- !<span style="display:none">50.7</span>名古屋大学<ref>[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/history-data/figure/admission/enrolled-student.html 出身高校所在都道府県別入学者状況](名古屋大学)</ref><br><small>({{flagicon|愛知県}}[[愛知県]]:50.7%) |style="background:#ccccff"|9 |style="background:#ccccff"|10 |style="background:#ffffcc"|117 |style="background:#ff6699"|'''1,773''' |style="background:#ffffcc"|140 |style="background:#ccffff"|50 |style="background:#ccccff"|38 |style="background:#ccccff"|46 |36 |bgcolor=white|2,219 |- !<span style="display:none">18.7</span>京都大学<ref>{{PDFlink|[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/admissions/undergrad/admission/documents/2016/06.pdf 入試関連資料]}}(京都大学「[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/admissions/undergrad/admission/pdf.html 知と自由への誘い]」)</ref><br><small>({{flagicon|京都府}}[[京都府]]:18.7%) |style="background:#ccccff"|29 |style="background:#ccffff"|53 |style="background:#ffff99"|376 |style="background:#ffff99"|459 |style="background:#ff6699"|'''1,543''' |style="background:#ffffcc"|155 |style="background:#ccffff"|68 |style="background:#ffffcc"|203 | |bgcolor=white|2,886 |- !<span style="display:none">24.2</span>大阪大学<ref>{{PDFlink|[http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/profile/files/profile2015_10.pdf 大阪大学プロフィール 2015年版]}}(大阪大学「[http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about 大学の概要]」)</ref><br><small>({{flagicon|大阪府}}[[大阪府]]:24.2%) |style="background:#ccccff"|35 |style="background:#ccccff"|17 |style="background:#ffffcc"|196 |style="background:#ffff99"|477 |style="background:#ff6699"|'''1,885''' |style="background:#ffff99"|293 |style="background:#ffffcc"|151 |style="background:#ffff99"|283 |74 |bgcolor=white|3,411 |- !<span style="display:none">37.6</span>九州大学<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou27jpn/H27gaiyo_P27-28.pdf 入学状況](九州大学「[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou27jpn/index.php 九州大学概要 平成27年度]」)</ref><br><small>({{flagicon|福岡県}}[[福岡県]]:37.6%) | | | | |style="background:#ffffcc"|164 |style="background:#ffff99"|354 |style="background:#ccffff"|93 |style="background:#ff6699"|'''1,834''' |242 |bgcolor=white|2,687 |- !合計 | | | | | |1,079 |475 |2,699 | |19,440 |} <div><!-- ここから:入学状況 2015 円グラフ --> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''北海道大学''':2,591人 | label1 = 北海道:980人 | value1 = 37.8 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:133人 | value2 = 5.1 | color2 = green | label3 = 関東:547人 | value3 = 21.1 | color3 = Red | label4 = 中部:366人 | value4 = 14.1 | color4 = Coral | label5 = 近畿:323人 | value5 = 12.5 | color5 = Orange | label6 = 中国:69人 | value6 = 2.7 | color6 = blue | label7 = 四国:42人 | value7 = 1.6 | color7 = aqua | label8 = 九州:82人 | value8 = 3.2 | color8 = purple | label9 = その他:59人 | value9 = 1.9 | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''東北大学''':2,538人 | label1 = 北海道:98人 | value1 = 3.9 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:1,030人 | value2 = 40.6 | color2 = green | label3 = 関東:794人 | value3 = 31.3 | color3 = Red | label4 = 中部:409人 | value4 = 16.1 | color4 = Coral | label5 = 近畿:81人 | value5 = 3.2 | color5 = Orange | label6 = 中国:29人 | value6 = 1.1 | color6 = blue | label7 = 四国:25人 | value7 = 1.0 | color7 = aqua | label8 = 九州:41人 | value8 = 1.6 | color8 = purple | label9 = その他:31人 | value9 = 1.2 | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''東京大学''':3,108人 | label1 = 北海道:45人 | value1 = 1.4 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:71人 | value2 = 2.3 | color2 = green | label3 = 関東:1,837人 | value3 = 59.1 | color3 = Red | label4 = 中部:348人 | value4 = 11.2 | color4 = Coral | label5 = 近畿:405人 | value5 = 13.0 | color5 = Orange | label6 = 中国:129人 | value6 = 4.2 | color6 = blue | label7 = 四国:58人 | value7 = 1.9 | color7 = aqua | label8 = 九州:210人 | value8 = 6.8 | color8 = purple | label9 = その他:5人 | value9 = 0.2 | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''名古屋大学''':2,219人 | label1 = 北海道:9人 | value1 = 0.41 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:10人 | value2 = 0.45 | color2 = green | label3 = 関東:117人 | value3 = 5.27 | color3 = Red | label4 = 中部(三重県含む):1,773人 | value4 = 79.9 | color4 = Coral | label5 = 近畿(三重県含まず):140人 | value5 = 6.31 | color5 = Orange | label6 = 中国:50人 | value6 = 2.25 | color6 = blue | label7 = 四国:38人 | value7 = 1.71 | color7 = aqua | label8 = 九州:46人 | value8 = 2.07 | color8 = purple | label9 = その他:36人 | value9 = 1.62 | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''京都大学''':2,886人 | label1 = 北海道:29人 | value1 = 1.0 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:53人 | value2 = 1.8 | color2 = green | label3 = 関東:376人 | value3 = 13.0 | color3 = Red | label4 = 中部:459人 | value4 = 15.9 | color4 = Coral | label5 = 近畿:1,543人 | value5 = 53.5 | color5 = Orange | label6 = 中国:155人 | value6 = 5.4 | color6 = blue | label7 = 四国:68人 | value7 = 2.4 | color7 = aqua | label8 = 九州:203人 | value8 = 7.0 | color8 = purple | label9 = その他:0人 | value9 = | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''大阪大学''':3,411人 | label1 = 北海道:35人 | value1 = 1.0 | color1 = yellowgreen | label2 = 東北:17人 | value2 = 0.5 | color2 = green | label3 = 関東:196人 | value3 = 5.7 | color3 = Red | label4 = 中部(三重県含む):477人 | value4 = 14.0 | color4 = Coral | label5 = 近畿(三重県含まず):1,885人 | value5 = 55.3 | color5 = Orange | label6 = 中国:293人 | value6 = 8.6 | color6 = blue | label7 = 四国:151人 | value7 = 4.4 | color7 = aqua | label8 = 九州:283人 | value8 = 8.3 | color8 = purple | label9 = その他:74人 | value9 = 2.2 | color9 = white }} </div> <div style="display:inline-block;vertical-align:top;"> {{Pie chart | thumb = left | caption = '''九州大学''':2,687人 | label1 = 北海道: | value1 = | color1 = yellowgreen | label2 = 東北: | value2 = | color2 = green | label3 = 関東: | value3 = | color3 = Red | label4 = 中部: | value4 = | color4 = Coral | label5 = 近畿:164人 | value5 = 6.1 | color5 = Orange | label6 = 中国:354人 | value6 = 13.2 | color6 = blue | label7 = 四国:93人 | value7 = 3.4 | color7 = aqua | label8 = 九州:1,834人 | value8 = 68.3 | color8 = purple | label9 = その他:242人 | value9 = 9.0 | color9 = white }} </div> </div><!-- ここまで:入学状況 2015 円グラフ --> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[2009年]](平成20年)度 </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *[[日本の地域|全国8地方]]中、各大学において上位5[[地方]]と第1位の[[都道府県]]を全体に対する比率と共に記載した。 *その地方出身が最も入学している大学に、地方の内部リンクを設定した。 *[[三重県]]は近畿地方に含め、中部地方には含めないが、異なる場合には但し書きする。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |+[[2009年]](平成21年)度 |- !大学 !colspan="2"|1位 !colspan="2"|2位 !colspan="2"|3位 !colspan="2"|4位 !colspan="2"|5位 |- |'''[[北海道大学#基礎データ|北海道大学]]'''<br><ref name="Hokudai2009">[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2009/p29/p29.htm 学生数統計](北海道大学)</ref> |[[北海道]]<br><small>([[北海道]]49.2%) |bgcolor=white|49.2% |中部 |bgcolor=white|13.7% |関東 |bgcolor=white|12.9% |近畿 |bgcolor=white|10.4% |東北 |bgcolor=white|6.5% |- |'''[[東北大学#基礎データ|東北大学]]'''<br><ref>[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2009/pdf/gaiyo2009p30-31.pdf 東北大学概要 2009](東北大学)</ref> |[[東北地方|東北]]<br><small>([[宮城県]]13.7%) |bgcolor=white|43.5% |関東 |bgcolor=white|26.6% |中部 |bgcolor=white|17.7% |近畿 |bgcolor=white|3.3% |北海道 |bgcolor=white|3.3% |- |'''[[東京大学#基礎データ|東京大学]]'''<br><ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1385/pdf/1385.pdf 東京大学 学内広報 No.1385](東京大学広報委員会 2009年4月23日)64頁目より、平成21年度分を記載。</ref> |[[関東地方|関東]]<br><small>([[東京都]]29.0%) |bgcolor=white|47.2% |近畿 |bgcolor=white|14.5% |中部 |bgcolor=white|10.5% |九州 |bgcolor=white|9.9% |中国 |bgcolor=white|5.1% |- |'''[[名古屋大学#基礎データ|名古屋大学]]'''<br><ref name="Meidai2009">[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/history-data/figure/ 数字で見る名古屋大学](名古屋大学)</ref> |[[中部地方|中部]]<small>(三重県含む)<br>([[愛知県]]50.8%) |bgcolor=white|81.8% |近畿<br><small>(三重県除く) |bgcolor=white align="right"|4.9% |関東 |bgcolor=white align="right"|3.0% |中国 |bgcolor=white|2.9% |九州 |bgcolor=white|2.2% |- |'''[[京都大学#基礎データ|京都大学]]'''<br><ref>[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education/admissions/undergrad/documents/h21shotoukei.pdf 平成21年度 京都大学入学試験諸統計](京都大学)6頁目より。</ref> |[[近畿地方|近畿]]<br><small>([[大阪府]]19.8%) |bgcolor=white|57.7% |中部 |bgcolor=white|15.4% |関東 |bgcolor=white align="right"|8.0% |中国 |bgcolor=white|6.6% |九州 |bgcolor=white|6.0% |- |'''[[大阪大学]]'''<br><ref name="Handai2009">[http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/files/profile2009.pdf 大阪大学プロフィール2009](大阪大学)23-24頁目より。</ref> |近畿<small>(三重県除く)<br>(大阪府23.0%) |bgcolor=white|53.4% |中部<br><small>(三重県含む) |bgcolor=white|16.2% |中国 |bgcolor=white align="right"|10.8% |九州 |bgcolor=white|6.9% |[[四国]] |bgcolor=white|5.5% |- |'''[[九州大学#基礎データ|九州大学]]'''<br><ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou21jpn/H21gaiyo_P24-25.pdf 入学状況](九州大学)</ref> |[[九州]]<br><small>([[福岡県]]40.5%) |bgcolor=white|78.0% |[[中国地方|中国]] |bgcolor=white|11.4% |四国 |bgcolor=white align="right"|4.0% |近畿 |bgcolor=white|2.8% |その他 |bgcolor=white|4.8% |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[2008年]](平成20年)度 </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *全国8地方中、各大学において上位5地方と第1位の都道府県を全体に対する比率と共に記載した。 *その地方出身が最も入学している大学に、地方の内部リンクを設定した。 *三重県は近畿地方に含め、中部地方には含めないが、異なる場合には但し書きする。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |+[[2008年]](平成20年)度 |- !大学 !colspan="2"|1位 !colspan="2"|2位 !colspan="2"|3位 !colspan="2"|4位 !colspan="2"|5位 |- |'''[[北海道大学#基礎データ|北海道大学]]'''<br><ref>[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2008/p29/p29.htm 学生数統計](北海道大学)</ref> |[[北海道]]<br><small>([[北海道]]53.0%) |bgcolor=white|53.0% |関東 |bgcolor=white|13.4% |中部 |bgcolor=white|10.1% |近畿 |bgcolor=white|8.8% |東北 |bgcolor=white|6.8% |- |'''[[東北大学#基礎データ|東北大学]]'''<br><ref>[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2008/ja/pdf/2008p32.pdf 東北大学概要 2008](東北大学)</ref> |[[東北地方|東北]]<br><small>([[宮城県]]16.4%) |bgcolor=white|43.9% |関東 |bgcolor=white|26.3% |中部 |bgcolor=white|18.2% |近畿 |bgcolor=white|3.7% |北海道 |bgcolor=white|2.3% |- |'''[[東京大学#基礎データ|東京大学]]'''<br><ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1372/pdf/1372.pdf 東京大学 学内広報 No.1372](東京大学広報委員会 2008年4月18日)47頁目より、平成20年度分を記載。</ref> |[[関東地方|関東]]<br><small>([[東京都]]29.8%) |bgcolor=white|48.1% |中部 |bgcolor=white|14.9% |近畿 |bgcolor=white|14.9% |九州 |bgcolor=white|8.7% |中国 |bgcolor=white|5.0% |- |'''[[名古屋大学#基礎データ|名古屋大学]]'''<br><ref>[http://www.nagoya-u.ac.jp/admis/pdf/h20exam_result2.pdf 出身高校所在都道府県別入学者状況(学部)](名古屋大学)</ref> |[[中部地方|中部]]<small>(三重県含む)<br>([[愛知県]]53.2%) |bgcolor=white|83.7% |近畿<br><small>(三重県除く) |bgcolor=white align="right"|5.1% |関東 |bgcolor=white align="right"|2.9% |中国 |bgcolor=white|2.7% |九州 |bgcolor=white|2.1% |- |'''[[京都大学#基礎データ|京都大学]]'''<br><ref>[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education/admissions/undergrad/documents/H20shotoukei.pdf 平成20年度 京都大学入学試験諸統計](京都大学)6頁目より。</ref> |[[近畿地方|近畿]]<br><small>([[大阪府]]18.8%) |bgcolor=white|57.7% |中部 |bgcolor=white|14.5% |関東 |bgcolor=white align="right"|8.7% |九州 |bgcolor=white|6.7% |中国 |bgcolor=white|6.5% |- |'''[[大阪大学]]'''<br><ref>[http://www.osaka-u.ac.jp/jp/annai/about/profile2008.pdf 大阪大学プロフィール2008](大阪大学)21頁目より。</ref> |近畿<small>(三重県除く)<br>(大阪府23.5%) |bgcolor=white|55.1% |中部<br><small>(三重県含む) |bgcolor=white|15.2% |中国 |bgcolor=white align="right"|10.7% |九州 |bgcolor=white|7.2% |[[四国]] |bgcolor=white|5.2% |- |'''[[九州大学#基礎データ|九州大学]]'''<br><ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou20jpn/H20gaiyo_P24-25.pdf 入学状況](九州大学)</ref> |[[九州]]<br><small>([[福岡県]]42.1%) |bgcolor=white|76.9% |[[中国地方|中国]] |bgcolor=white|12.1% |四国 |bgcolor=white align="right"|3.0% |近畿 |bgcolor=white|2.8% |その他 |bgcolor=white|5.2% |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[2007年]](平成19年)度 </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *全国8地方中、各大学において上位5地方と第1位の都道府県を全体に対する比率と共に記載した。 *その地方出身が最も入学している大学に、地方の内部リンクを設定した。 *三重県は近畿地方に含め、中部地方には含めないが、異なる場合には但し書きする。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |+[[2007年]](平成19年)度 |- !大学 !colspan="2"|1位 !colspan="2"|2位 !colspan="2"|3位 !colspan="2"|4位 !colspan="2"|5位 |- |'''[[北海道大学#基礎データ|北海道大学]]'''<br><ref>[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2007/p24/p24.htm 学生数統計](北海道大学)</ref> |[[北海道]]<br><small>([[北海道]]49.9%) |bgcolor=white|49.9% |中部 |bgcolor=white|12.9% |関東 |bgcolor=white|12.1% |近畿 |bgcolor=white|9.9% |東北 |bgcolor=white|6.1% |- |'''[[東北大学#基礎データ|東北大学]]'''<br><ref>[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/campus_guide/2008.pdf 2008年度入学者用キャンパスガイド](東北大学)60頁目より。</ref> |[[東北地方|東北]]<br><small>([[宮城県]]16.7%) |bgcolor=white|46.0% |関東 |bgcolor=white|23.9% |中部 |bgcolor=white|17.8% |近畿 |bgcolor=white|4.0% |北海道 |bgcolor=white|2.5% |- |'''[[東京大学#基礎データ|東京大学]]'''<br><ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1372/pdf/1372.pdf 東京大学 学内広報 No.1372](東京大学広報委員会 2008年4月18日)47頁目より、平成19年度分を記載。</ref> |[[関東地方|関東]]<br><small>([[東京都]]33.6%) |bgcolor=white|51.8% |近畿 |bgcolor=white|14.5% |中部 |bgcolor=white|12.2% |九州 |bgcolor=white|9.0% |中国 |bgcolor=white|4.2% |- |'''[[名古屋大学#基礎データ|名古屋大学]]'''<br><ref>[http://www.nagoya-u.ac.jp/admis/h19exam_pref.html 平成19年度入学試験 出身高等学校所在都道府県別入学者状況](名古屋大学)</ref> |[[中部地方|中部]]<small>(三重県含む)<br>([[愛知県]]52.4%) |bgcolor=white|83.5% |近畿<br><small>(三重県除く) |bgcolor=white align="right"|4.4% |中国 |bgcolor=white align="right"|2.9% |関東 |bgcolor=white|2.3% |九州 |bgcolor=white|2.3% |- |'''[[京都大学#基礎データ|京都大学]]'''<br><ref>[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education/admissions/undergrad/documents/H19shotoukei.pdf 平成19年度 京都大学入学試験諸統計](京都大学)6頁目より。</ref> |[[近畿地方|近畿]]<br><small>([[大阪府]]20.3%) |bgcolor=white|59.8% |中部 |bgcolor=white|14.7% |関東 |bgcolor=white align="right"|7.8% |九州 |bgcolor=white|5.9% |中国 |bgcolor=white|5.7% |- |'''[[大阪大学]]'''<br><ref>[http://www.osaka-u.ac.jp/jp/annai/about/profile2007.pdf 大阪大学プロフィール2007](大阪大学)21頁目より。</ref> |近畿<small>(三重県除く)<br>(大阪府24.9%) |bgcolor=white|56.8% |中部<br><small>(三重県含む) |bgcolor=white|14.9% |中国 |bgcolor=white align="right"|10.7% |[[四国]] |bgcolor=white|6.8% |九州 |bgcolor=white|5.9% |- |'''[[九州大学#基礎データ|九州大学]]'''<br><ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou19jpn/H19gaiyo_P24-25.pdf 入学状況](九州大学)</ref> |[[九州]]<br><small>([[福岡県]]42.5%) |bgcolor=white|76.4% |[[中国地方|中国]] |bgcolor=white|12.3% |四国 |bgcolor=white align="right"|3.3% |近畿 |bgcolor=white|3.3% |その他 |bgcolor=white|4.7% |} </div></div> === 学部生の男女比 === 旧帝大における学部生の男女比は、[[女性]]の方が比率が低い傾向にある。 {|class="wikitable sortable" style="text-align:right" |+女子学部学生比率と人数<small>([[2016年|2022年]][[5月1日]])</small> |- !rowspan="2"|大学 !rowspan="2"|女子<br/>比率 !colspan="2"|学部生数(人) |- !女子数 !総数 |- |align="center"|北海道大学<ref>[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2016/student/students_number.html 学生数](北海道大学)</ref>||28.9 %||3,249||11,224 |- |align="center"|東北大学<ref>{{PDFlink|[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2016/pdf/gaiyo2016_29.pdf 学生数]}}(東北大学)</ref>||26.3 %||2,819||10,695 |- |align="center"|東京大学<ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/e08_02_01_j.html 学生数の詳細について](東京大学)</ref>||20.1 %||2,802||13,962 |- |align="center"|名古屋大学<ref name="Meidai2009"/>||31.5 %||3,103||9,838 |- |align="center"|京都大学<ref>{{Cite web|和書|title=学生数 |url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/data/students |website=京都大学 |access-date=2022-08-21 |language=ja}}</ref>||22.2 %||2,896||13,038 |- |align="center"|大阪大学<ref>[http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/data/students.html 学生数(学部学生、大学院学生、非正規生)](大阪大学)</ref>||33.5 %||4,988||14,890 |- |align="center"|九州大学<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/f/28472/H28gaiyo_P25-26.pdf 学生定員及び在籍学生数](九州大学)</ref>||29.5 %||3,449||11,683 |} <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">2009年度 </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="text-align:right" |+女子学部学生比率と人数<small>([[2009年]]5月1日)</small> |- !大学 !比率 !女子学部生数<br>(人) !学部生総数<br>(人) |- |align="center"|北海道大学<ref>[http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2009/p23-24/p23-24.htm 学生数](北海道大学)</ref>||27.3%||3,171||11,610 |- |align="center"|東北大学<ref>[http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2009/pdf/gaiyo2009p29.pdf 学生数](東北大学)</ref>||24.4%||2,675||10,967 |- |align="center"|東京大学<ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/e08_02_j.html 学生数](東京大学)</ref>||19.0%||2,671||14,057 |- |align="center"|名古屋大学<ref name="Meidai2009"/>||31.7%||3,052||9,640 |- |align="center"|京都大学<ref>[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/data/students.htm 学生数](京都大学)</ref>||21.6%||2,859||13,255 |- |align="center"|大阪大学<ref name="Handai2009"/>||35.7%||5,688||15,937 |- |align="center"|九州大学<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/university/data/gaiyou21jpn/H21gaiyo_P22-23.pdf 学生定員及び在籍学生数](九州大学)</ref>||29.6%||3,468||11,713 |} </div></div> === ノーベル賞およびフィールズ賞 === {{seealso|日本人のノーベル賞受賞者}} {| class="wikitable sortable" |+[[ノーベル賞]]および[[フィールズ賞]]の受賞者(学部卒時点) !rowspan="2"|大学 !colspan="4"|ノーベル賞 !rowspan="2"|フィールズ賞 !rowspan="2"|小計 |- !理系 !class="unsortable"|受賞者 !文系 !class="unsortable"|受賞者 |- !北海道帝国大学<br />北海道大学 |{{0}}1||[[鈴木章]]||{{0}}0||-||-||{{0}}1 |- !東北帝国大学<br />東北大学 |{{0}}1||[[田中耕一]]||{{0}}0||-||-||{{0}}1 |- !東京帝国大学<br />東京大学 |{{0}}5||[[江崎玲於奈]]<br />[[南部陽一郎]]<br />[[小柴昌俊]]<br />[[根岸英一]]<br />[[大隅良典]]||{{0}}3||[[川端康成]]<br />[[佐藤栄作]]<br />[[大江健三郎]]||[[小平邦彦]]||{{0}}9 |- !名古屋帝国大学<br />名古屋大学 |{{0}}3||[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]<br />[[益川敏英]]<br />[[天野浩]]||{{0}}0||-||-||{{0}}3 |- !京都帝国大学<br />京都大学 |{{0}}8||[[湯川秀樹]]<br />[[朝永振一郎]]<br />[[福井謙一]]<br />[[利根川進]]<br />[[野依良治]]<br />[[山中伸弥]]<br />[[赤﨑勇]]<br />[[本庶佑]] |{{0}}0||-||[[広中平祐]]<br />[[森重文]]||{{0}}10 |- !大阪帝国大学<br />大阪大学 |{{0}}0||-||{{0}}0||-||-||{{0}}0 |- !九州帝国大学<br />九州大学 |{{0}}0||-||{{0}}0||-||-||{{0}}0 |- !台北帝国大学<br />国立台湾大学 |{{0}}1||[[李遠哲]]||{{0}}0||-||-||{{0}}1 |- !合計 |18 | |{{0}}3 | |{{0}}4 |25 |} === 論文の引用動向 === 以下は[[論文]]の被引用数による順位([[1999年]]~[[2009年]])<ref>[http://science.thomsonreuters.jp/press/releases/esi2010/ 論文の引用動向からみる日本の研究機関ランキングを発表]([[トムソン・ロイター]])</ref>。その他の観点による各大学の評価については「[[世界大学ランキング]]」を参照。 ;自然科学分野・総合(4,272機関中) *「論文数」で見ると国内上位7法人は旧帝国大学が占めている。 {|class="wikitable sortable" !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|11 |style="text-align:left"|'''[[東京大学]]''' |1,041,057 |71,838 |14.49 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|31 |style="text-align:left"|'''[[京都大学]]''' |732,732 |52,735 |13.89 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|37 |style="text-align:left"|'''[[大阪大学]]''' |628,365 |44,707 |14.06 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|65 |style="text-align:left"|'''[[東北大学]]''' |473,014 |42,509 |11.13 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|67 |style="text-align:left"|[[科学技術振興機構]] |462,433 |22,899 |20.19 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|110 |style="text-align:left"|'''[[名古屋大学]]''' |338,129 |28,093 |12.04 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|124 |style="text-align:left"|'''[[九州大学]]''' |312,666 |29,457 |10.61 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|129 |style="text-align:left"|[[理化学研究所]] |306,754 |17,657 |17.37 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|146 |style="text-align:left"|'''[[北海道大学]]''' |284,189 |28,809 |9.86 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|151 |style="text-align:left"|[[産業技術総合研究所]] |270,838 |26,247 |10.32 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|11 |style="text-align:center;font-size:80%"|171 |style="text-align:left"|[[東京工業大学]] |255,204 |24,825 |10.28 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|12 |style="text-align:center;font-size:80%"|231 |style="text-align:left"|[[筑波大学]] |197,384 |17,911 |11.02 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|13 |style="text-align:center;font-size:80%"|287 |style="text-align:left"|[[慶應義塾大学]] |159,647 |13,893 |11.49 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|14 |style="text-align:center;font-size:80%"|292 |style="text-align:left"|[[自然科学研究機構]] |157,795 |9,912 |15.92 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|15 |style="text-align:center;font-size:80%"|298 |style="text-align:left"|[[広島大学]] |155,650 |16,356 |9.52 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|16 |style="text-align:center;font-size:80%"|311 |style="text-align:left"|[[千葉大学]] |148,811 |12,659 |11.76 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|17 |style="text-align:center;font-size:80%"|343 |style="text-align:left"|[[岡山大学]] |130,575 |13,558 |9.63 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|18 |style="text-align:center;font-size:80%"|356 |style="text-align:left"|[[神戸大学]] |124,372 |11,832 |10.51 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|19 |style="text-align:center;font-size:80%"|384 |style="text-align:left"|[[東京医科歯科大学]] |114,439 |7,930 |14.43 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|20 |style="text-align:center;font-size:80%"|396 |style="text-align:left"|[[金沢大学]] |108,928 |9,374 |11.62 |} <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[材料科学]](637機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[材料科学]](637機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|3 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |43,561 |5,873 |7.42 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|4 |style="text-align:left"|産業技術総合研究所 |36,313 |4,518 |8.04 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|6 |style="text-align:left"|[[物質・材料研究機構]] |32,531 |3,900 |8.34 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|10 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |27,902 |3,821 |7.30 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|16 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |24,226 |3,223 |7.52 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|18 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |22,671 |2,744 |8.26 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|22 |style="text-align:left"|東京工業大学 |21,044 |2,781 |7.57 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|29 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |17,884 |1,431 |12.50 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|44 |style="text-align:left"|'''九州大学''' |13,715 |1,757 |7.81 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|69 |style="text-align:left"|'''名古屋大学''' |10,748 |1,671 |6.43 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[物理学]](686機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[物理学]](686機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|2 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |195,722 |14,720 |13.30 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|10 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |129,103 |10,566 |12.22 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|22 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |97,202 |9,331 |10.42 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|24 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |92,550 |8,185 |11.31 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|30 |style="text-align:left"|東京工業大学 |79,960 |6,406 |12.48 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|33 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |74,401 |6,017 |12.37 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|40 |style="text-align:left"|[[高エネルギー加速器研究機構]] |67,700 |3,829 |17.68 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|47 |style="text-align:left"|産業技術総合研究所 |63,111 |6,261 |10.08 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|62 |style="text-align:left"|'''名古屋大学''' |53,506 |4,443 |12.04 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|66 |style="text-align:left"|理化学研究所 |52,561 |4,738 |11.09 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[化学]](950機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[化学]](950機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|4 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |138,816 |9,373 |14.81 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|5 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |134,348 |8,372 |16.05 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|11 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |91,939 |7,393 |12.44 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|14 |style="text-align:left"|産業技術総合研究所 |86,946 |7,099 |12.25 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|18 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |83,144 |6,326 |13.14 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|19 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |82,144 |5,148 |15.96 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|22 |style="text-align:left"|東京工業大学 |77,563 |7,138 |10.87 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|37 |style="text-align:left"|'''九州大学''' |59,143 |4,894 |12.08 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|39 |style="text-align:left"|'''名古屋大学''' |58,143 |4,029 |14.43 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|46 |style="text-align:left"|'''北海道大学''' |54,181 |4,467 |12.13 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[生物学]]・[[生化学]](720機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[生物学]]・[[生化学]](720機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|3 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |133,359 |6,679 |19.97 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|19 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |92,242 |4,847 |19.03 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|28 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |77,318 |4,371 |17.69 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|32 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |70,255 |2,814 |24.97 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|47 |style="text-align:left"|理化学研究所 |53,060 |2,483 |21.37 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|90 |style="text-align:left"|'''名古屋大学''' |37,762 |2,381 |15.86 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|95 |style="text-align:left"|'''九州大学''' |36,482 |2,495 |14.62 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|112 |style="text-align:left"|'''北海道大学''' |33,151 |2,657 |12.48 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|114 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |32,458 |2,256 |14.39 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|151 |style="text-align:left"|筑波大学 |26,960 |1,547 |17.43 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[免疫学]](307機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[免疫学]](307機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|5 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |58,468 |1,058 |55.26 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|16 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |38,918 |420 |92.66 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|20 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |31,623 |1,177 |26.87 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|24 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |29,375 |624 |47.08 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|65 |style="text-align:left"|理化学研究所 |15,527 |317 |48.98 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|73 |style="text-align:left"|'''九州大学''' |14,193 |481 |29.51 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|103 |style="text-align:left"|[[順天堂大学]] |11,240 |389 |28.89 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|123 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |9,615 |387 |24.84 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|128 |style="text-align:left"|[[兵庫医科大学]] |9,224 |144 |64.06 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|173 |style="text-align:left"|[[国立感染症研究所]] |7,410 |502 |14.76 |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">[[薬理学]]・[[毒物学]](392機関中) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable sortable" style="font-size:small" |+[[薬理学]]・[[毒物学]](392機関中) !style="font-size:80%"|国内<br>被引用<br>順 !style="font-size:60%"|世界<br>被引<br>用数<br>順 !法人名 !被引用<br>数 !論文<br>数 !平均被引<br>用数 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|1 |style="text-align:center;font-size:80%"|5 |style="text-align:left"|'''東京大学''' |17,385 |1,087 |15.99 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|2 |style="text-align:center;font-size:80%"|32 |style="text-align:left"|'''京都大学''' |10,909 |946 |11.53 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|3 |style="text-align:center;font-size:80%"|64 |style="text-align:left"|'''東北大学''' |7,956 |655 |12.15 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|4 |style="text-align:center;font-size:80%"|84 |style="text-align:left"|'''九州大学''' |6,984 |673 |10.38 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|5 |style="text-align:center;font-size:80%"|104 |style="text-align:left"|金沢大学 |6,469 |496 |13.04 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|6 |style="text-align:center;font-size:80%"|121 |style="text-align:left"|千葉大学 |6,037 |508 |11.88 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|7 |style="text-align:center;font-size:80%"|128 |style="text-align:left"|[[富山大学]] |5,933 |690 |8.60 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|8 |style="text-align:center;font-size:80%"|129 |style="text-align:left"|科学技術振興機構 |5,916 |282 |20.98 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|9 |style="text-align:center;font-size:80%"|138 |style="text-align:left"|[[熊本大学]] |5,585 |409 |13.66 |-style="text-align:right" |style="text-align:center"|10 |style="text-align:center;font-size:80%"|143 |style="text-align:left"|'''大阪大学''' |5,486 |537 |10.22 |} </div></div> === 研究費 === 全ての[[国立大学法人]]の中で、研究費が多い上位7法人は旧帝国大学の7校となっている。以下の表には、[[大学共同利用機関法人]]も含む。 *[[2005年]]度の値<ref>[https://www8.cao.go.jp/cstp/siryo/haihu60/siryo3-4-1.pdf 国立大学法人等の科学技術関係活動に関する調査結果]([[内閣府]]・科学技術政策担当)</ref> *「主要研究経費」は、研究経費と[[科学研究費補助金]](直接経費)の合算値とする。 {|class="wikitable" !順位 !法人名 !主要研究経費 |- |style="text-align:center"|1 |'''[[東京大学]]''' |style="text-align:right"|435.3億円 |- |style="text-align:center"|2 |'''[[東北大学]]''' |style="text-align:right"|259.5億円 |- |style="text-align:center"|3 |'''[[京都大学]]''' |style="text-align:right"|248.4億円 |- |style="text-align:center"|4 |'''[[大阪大学]]''' |style="text-align:right"|242.7億円 |- |style="text-align:center"|5 |[[自然科学研究機構]] |style="text-align:right"|238.2億円 |- |style="text-align:center"|6 |[[高エネルギー加速器研究機構]] |style="text-align:right"|162.7億円 |- |style="text-align:center"|7 |[[情報・システム研究機構]] |style="text-align:right"|157.2億円 |- |style="text-align:center"|8 |'''[[九州大学]]''' |style="text-align:right"|147.1億円 |- |style="text-align:center"|9 |'''[[名古屋大学]]''' |style="text-align:right"|136.3億円 |- |style="text-align:center"|10 |'''[[北海道大学]]''' |style="text-align:right"|128.7億円 |} <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">研究経費(2005年度) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> {|class="wikitable" style="font-size:small" |+研究経費(2005年度) !順位 !法人名 !研究経費 |- |style="text-align:center"|1 |'''東京大学''' |style="text-align:right"|255.9億円 |- |style="text-align:center"|2 |自然科学研究機構 |style="text-align:right"|219.8億円 |- |style="text-align:center"|3 |'''東北大学''' |style="text-align:right"|175.3億円 |- |style="text-align:center"|4 |'''大阪大学''' |style="text-align:right"|161.9億円 |- |style="text-align:center"|5 |高エネルギー加速器研究機構 |style="text-align:right"|153.2億円 |- |style="text-align:center"|6 |情報・システム研究機構 |style="text-align:right"|141.5億円 |- |style="text-align:center"|7 |'''京都大学''' |style="text-align:right"|131.5億円 |- |style="text-align:center"|8 |'''九州大学''' |style="text-align:right"|94.8億円 |- |style="text-align:center"|9 |'''名古屋大学''' |style="text-align:right"|78.2億円 |- |style="text-align:center"|10 |'''北海道大学''' |style="text-align:right"|77.7億円 |} </div></div> *公的な研究費の出所については、以下も参照。 **[[科学研究費補助金#採択件数上位機関一覧]] **[[世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラム#採択拠点]] **[[グローバルCOEプログラム#採択]] **[[21世紀COEプログラム#上位機関]] === 特許 === 旧帝国大学は、研究成果の一部を[[特許]]として多数公開している。研究成果を基した起業については[[ベンチャー#大学発ベンチャー|大学発ベンチャー]]を参照。 ;大学別特許登録件数(2012年)<ref>[http://sangakukan.jp/top/databook_contents/2012/cover/2012-2013_databook_ALL.pdf#search='%E7%89%B9%E8%A8%B1+%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0+%E5%85%AC%E9%96%8B%E4%BB%B6%E6%95%B0' 2012年国内大学別特許公開件数]([[経済産業省]][[特許庁]])</ref> {|class="wikitable" !順位 !機関名 !件数 |- |style="text-align:center"|1 |'''[[東北大学]]''' |style="text-align:right"|178 |- |style="text-align:center"|2 |'''[[東京大学]]''' |style="text-align:right"|147 |- |style="text-align:center"|3 |[[東京工業大学]] |style="text-align:right"|129 |- |style="text-align:center"|4 |'''[[名古屋大学]]''' |style="text-align:right"|98 |- |style="text-align:center"|5 |'''[[北海道大学]]''' |style="text-align:right"|96 |- |style="text-align:center"|6 |[[広島大学]] |style="text-align:right"|95 |- |style="text-align:center"|7 |'''[[京都大学]]''' |style="text-align:right"|93 |- |style="text-align:center"|8 |'''[[大阪大学]]''' |style="text-align:right"|90 |- |style="text-align:center"|9 |[[日本大学]] |style="text-align:right"|85 |- |style="text-align:center"|10 |[[慶應義塾大学]] |style="text-align:right"|74 |- |style="text-align:center"|11 |[[山口大学]] |style="text-align:right"|72 |- |style="text-align:center"|12 |'''[[九州大学]]''' |style="text-align:right"|68 |} === 財務 === 企業の「[[売上高]]」に当たるのが、[[国公立大学]]([[国立大学法人]]および[[公立大学法人]])では「経常[[収益]]」であり、[[私立大学]]([[学校法人]]等)では「帰属収入」(2015年度の決算から「事業活動収入」に改称<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/184087 「私立大学収入ランキング」トップ200法人](東洋経済 2017年8月11日)</ref>)であり、これらはいずれも本業における1年間の金銭的な収入を表す<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO64457870S3A221C1NN1000/ 大学の決算 国立と私立、収支構造に違い]([[日本経済新聞]] 2013年12月22日)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.senshu-u.ac.jp/~off1010/pdf/sho3901.pdf 私立大学と国立大学の経営比較と会計情報のパラドックス]}}([[専修大学]]商学研究所「商学研究所報」第39巻 第1号 2007年6月)</ref><ref>{{PDFlink|[http://eic.obunsha.co.jp/resource/topics/0510/1004.pdf 16年度国立大学法人決算]}}([[旺文社]]教育情報センター 2005年10月)</ref>。旧帝国大学の経常収益は大きく、国公立大学の上位を占めている<ref name="TK20170829">[http://toyokeizai.net/articles/-/186204 「売上高が大きい国公立大学」ランキング150](東洋経済 2017年8月29日)</ref>。また、[[医学部]]および[[大学病院]]を持つ大学を経営している法人も上位にいる<ref name="TK20170829"/>(表中において法人単位で{{Color|red|赤}}で表示)。なお参考として、旧帝国大以外の国公立大学で最も経常収益が大きい[[筑波大学]]も以下のグラフに加える。 {{Col| {{Line chart | color_background = white | color_series_1 = blue | thickness_series1 = 1.5 | color_series_2 = purple | thickness_series2 = 1.5 | color_series_3 = orange | thickness_series3 = 1.5 | color_series_4 = green | thickness_series4 = 1.5 | color_series_5 = yellowgreen | thickness_series5 = 1.5 | color_series_6 = skyblue | thickness_series6 = 1.5 | color_series_7 = magenta | thickness_series7 = 1.5 | color_series_8 = yellow | thickness_series8 = 1.5 | width = 300 | height = 500 | padding_left = 40 | padding_right = 10 | padding_top = 5 | padding_bottom = 15 | number_of_series = 8 | number_of_x-values = 15 |label_x1=|label_x2=|label_x3=2005|label_x4=|label_x5=|label_x6=|label_x7=|label_x8=2010|label_x9=|label_x10=|label_x11=|label_x12=|label_x13=2015|label_x14=|label_x15=| | y_max = 2400 | y_min = 500 | scale = yes | interval_primary_scale = 500 | interval_secondary_scale = 100 |S01V01=|S01V02=829.06|S01V03=850.95|S01V04=870.07|S01V05=886.33|S01V06=894.77|S01V07=879.77|S01V08=878.94|S01V09=892.14|S01V10=878.60|S01V11=905.84|S01V12=950.86|S01V13=995.33|S01V14=953.58|S01V15=972.71<!--北海道大--> |S02V01=|S02V02=1031.47|S02V03=1077.33|S02V04=1118.84|S02V05=1162.88|S02V06=1201.36|S02V07=1202.36|S02V08=1165.25|S02V09=1262.13|S02V10=1284.79|S02V11=1409.74|S02V12=1462.74|S02V13=1453.51|S02V14=1416.98|S02V15=1403.45<!--東北大--> |S03V01=|S03V02=1771.2|S03V03=1861.4|S03V04=1846.5|S03V05=1951.8|S03V06=2059.8|S03V07=2099.0|S03V08=2061.2|S03V09=2172.6|S03V10=2138.3|S03V11=2233.3|S03V12=2334.8|S03V13=2357.88|S03V14=2273.77|S03V15=2347.49<!--東京大--> |S04V01=|S04V02=739.32511|S04V03=748.83956|S04V04=793.50895|S04V05=820.00830|S04V06=843.95116|S04V07=855.93637|S04V08=870.59120|S04V09=912.31830|S04V10=916.95462|S04V11=958.26665 |S04V12=1037.03542|S04V13=1060.30528|S04V14=1049.35786|S04V15=1050.78777<!--名古屋大--> |S05V01=|S05V02=1193.5|S05V03=1215.3|S05V04=1250.9|S05V05=1288.6|S05V06=1349.6|S05V07=1418.3|S05V08=1391.0|S05V09=1449.6|S05V10=1466.6|S05V11=1500.5|S05V12=1591.0|S05V13=1646.09227|S05V14=1597.97673|S05V15=1585.92475<!--京都大--> |S06V01=|S06V02=1063.67|S06V03=1095.55|S06V04=1110.90|S06V05=1224.72|S06V06=1263.47|S06V07=1258.89|S06V08=1274.40|S06V09=1311.97|S06V10=1295.97|S06V11=1342.15|S06V12=1416.08|S06V13=1449.21|S06V14=1409.54|S06V15=1409.99<!--大阪大--> |S07V01=|S07V02=918.83538|S07V03=977.05542|S07V04=1002.26395|S07V05=1051.93516|S07V06=1039.38922|S07V07=1087.38013|S07V08=1076.37371|S07V09=1101.43312|S07V10=1114.71987|S07V11=1105.59385|S07V12=1214.75896|S07V13=1269.30704|S07V14=1264.23285|S07V15=1267.93016<!--九州大--> |S08V01=|S08V02=706.56123|S08V03=724.41734|S08V04=738.12235|S08V05=727.01358|S08V06=745.21601|S08V07=771.61876|S08V08=785.38147|S08V09=823.77287|S08V10=829.20979|S08V11=882.75681|S08V12=943.77434|S08V13=937.31796|S08V14=937.41642|S08V15=951.55866<!--筑波大--> | points = yes }} |;経常収益合計(単位:億円)<ref name="hokudaiFS">[http://www.hokudai.ac.jp/pr/johokokai/pub/22jo/finance/ 財務に関する情報](国立大学法人北海道大学)</ref><ref name="tohokuFS">[http://www.tohoku.ac.jp/japanese/disclosure/disclosure/02/disclosure0203/ 財務に関する情報](国立大学法人東北大学)</ref><ref name="u-tokyoFS">[http://www.u-tokyo.ac.jp/index/b06_j.html 財務情報](国立大学法人東京大学)</ref><ref name="nagoya-uFS">[http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/objectives/financial-affairs/ 財務諸表など](国立大学法人名古屋大学)</ref><ref name="kyoto-uFS">[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/disclosure/guide/accounting 決算](国立大学法人京都大学)</ref><ref name="osaka-uFS">[http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/information/joho/zaimu 財務情報](国立大学法人大阪大学)</ref><ref name="kyushu-uFS">[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/publication/financial_statements 財務諸表等](国立大学法人九州大学)</ref><ref name="tsukubaFS">[https://www.tsukuba.ac.jp/public/misc/teikyo_22.html 情報公開法第22条における情報提供](筑波大学)</ref> {{legend-line|orange solid 4px|[[東京大学]]}} {{legend-line|yellowgreen solid 4px|[[京都大学]]}} {{legend-line|skyblue solid 4px|[[大阪大学]]}} {{legend-line|purple solid 4px|[[東北大学]]}} {{legend-line|magenta solid 4px|[[九州大学]]}} {{legend-line|green solid 4px|[[名古屋大学]]}} {{legend-line|blue solid 4px|[[北海道大学]]}} <small>参考:{{legend-line|yellow solid 4px|[[筑波大学]]}}</small> }} <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">財務諸表(2013年度) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *国公立大学名の後ろの数値は、その大学を運営する法人の2013年度(平成25年4月1日~平成26年3月31日)の[[財務諸表]]の損益計算書における「経常収益合計」。 *私立大学名の後ろの数値は、その大学を運営する法人の2013年度の事業報告書の消費収支計算書における「帰属収入合計」。 *法人が複数の大学・大学院あるいは短大以下の学校を経営している場合、大学名のみを列記し、大学以外も含めた「経常収益合計」または「帰属収入合計」を記す。 *「経常収益合計」または「帰属収入合計」が500億円以上の法人を記載。 {|class="wikitable" style="text-align:left" |+経常収益合計または帰属収入合計(2013年度、単位:億円) ! ![[国公立大学]]<ref name="MEXTcat1">[https://www.mext.go.jp/b_menu/link/daigaku1.htm 国立大学](文部科学省)</ref><ref name="MEXTcat2">[https://www.mext.go.jp/b_menu/link/daigaku2.htm 公立大学](文部科学省)</ref><br>(経常収益合計) ![[私立大学]]<ref name="MEXTcat3">[https://www.mext.go.jp/b_menu/link/daigaku4.htm 私立大学](文部科学省)</ref><br>(帰属収入合計) |- |nowrap style="background-color:#ff99cc"|'''2200億円台''' |'''[[東京大学|{{Color|red|東京大学}}]]''' (2233.3)<ref name="u-tokyoFS"/> | |- |style="background-color:#ff99cc"|'''2100億円台''' | | |- |style="background-color:#ff99cc"|'''2000億円台''' | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1900億円台''' | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1800億円台''' | |[[日本大学|{{Color|red|日本大学}}]] (1847.5)<ref name="nihon-uFS">[http://www.nihon-u.ac.jp/about_nu/disclosure/document/ 事業計画・事業報告書・財務状況等]([[学校法人日本大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1700億円台''' | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1600億円台''' | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1500億円台''' |'''[[京都大学|{{Color|red|京都大学}}]]''' (1500.5)<ref name="kyoto-uFS"/> |[[慶應義塾大学|{{Color|red|慶應義塾大学}}]] (1513.5)<ref name="keioFS">[http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/data/access_to_information/012.html 財務情報](学校法人[[慶應義塾]])</ref> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1400億円台''' |'''[[東北大学|{{Color|red|東北大学}}]]''' (1409.7)<ref name="tohokuFS"/> |[[順天堂大学|{{Color|red|順天堂大学}}]] (1474.6)<ref name="juntendoFS">[http://www.juntendo.ac.jp/about/information/report.html 事業報告]([[学校法人順天堂]])</ref>、[[東海大学|{{Color|red|東海大学}}]] (1414.9)<ref name="u-tokaiFS">[http://www.u-tokai.ac.jp/public_information/ 情報の公表]([[学校法人東海大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1300億円台''' |'''[[大阪大学|{{Color|red|大阪大学}}]]''' (1302.7)<ref name="osaka-uFS"/> |[[近畿大学|{{Color|red|近畿大学}}]] (1332.0)<ref name="kindaiFS">[http://www.kindai.ac.jp/about-kindai/disclosure/financial-report.html 財務・事業報告]([[学校法人近畿大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1200億円台''' | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1100億円台''' |'''[[九州大学|{{Color|red|九州大学}}]]''' (1105.6)<ref name="kyushu-uFS"/> | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1000億円台''' | |[[帝京大学|{{Color|red|帝京大学}}]] (1035.1)<ref name="teikyo-uFS">[http://www.teikyo-u.ac.jp/university/finance/ 事業・財務情報]([[帝京大学グループ|学校法人帝京大学]])</ref><ref group="†">[[帝京大学グループ]]の学校法人帝京平成大学が経営する[[帝京平成大学]]等(帰属収入合計179.1億円)、および、学校法人帝京科学大学が経営する[[帝京科学大学]]等(帰属収入合計75.7億円)は含まない。</ref>、[[早稲田大学]]<!--大学院9,279人、大学44,295人(総計56,749人) 2013年5月1日現在--> (1008.9)<ref name="wasedaFS">[http://www.waseda.jp/top/about/work/organizations/financial-affairs/financial-statements 決算書関連情報]([[学校法人早稲田大学]])</ref>、[[昭和大学|{{Color|red|昭和大学}}]] (1001.7)<ref name="showa-uFS">[http://www.showa-u.ac.jp/about_us/financia/archives/ 財務情報等の公開]([[学校法人昭和大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}900億円台''' |'''[[名古屋大学|{{Color|red|名古屋大学}}]]''' (958.3)<ref name="nagoya-uFS"/>、'''[[北海道大学|{{Color|red|北海道大学}}]]''' (905.8)<ref name="hokudaiFS"/> |[[東京女子医科大学|{{Color|red|東京女子医科大学}}]] (988.4)<ref name="twmuFS">[http://www.twmu.ac.jp/corporation.html 情報公開]([[学校法人東京女子医科大学]])</ref>、[[北里大学|{{Color|red|北里大学}}]] (980.1)<ref name="kitasatoFS">[http://www.kitasato.ac.jp/houjin/zaimu/index.html 財務状況]([[学校法人北里研究所]])</ref>、[[東京慈恵会医科大学|{{Color|red|東京慈恵会医科大学}}]] (979.2)<ref name="jikeiFS">[http://www.jikei.ac.jp/jikei/finance/index.html 情報公開]([[学校法人慈恵大学]])</ref>、[[埼玉医科大学|{{Color|red|埼玉医科大学}}]] (965.2)<ref name="saitama-medFS">[http://www.saitama-med.ac.jp/koukai.html 情報公開]([[学校法人埼玉医科大学]])</ref>、[[獨協大学|{{Color|red|獨協大学}}]]&[[獨協医科大学|{{Color|red|獨協医科大学}}]]&[[姫路獨協大学|{{Color|red|姫路獨協大学}}]] (950.7)<ref name="dacFS">[http://www.dac.ac.jp/finance/index.html 獨協学園の事業報告及び財務情報]([[学校法人獨協学園]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}800億円台''' |[[筑波大学|{{Color|red|筑波大学}}]] (882.8)<ref name="tsukubaFS"/> |[[日本医科大学|{{Color|red|日本医科大学}}]] (846.5)<ref name="nmsFS">[http://home.nms.ac.jp/houjin/joho.html 情報公開等]([[学校法人日本医科大学]])</ref>、[[東京医科大学|{{Color|red|東京医科大学}}]] (828.5)<ref name="tokyo-medFS">[http://www.tokyo-med.ac.jp/company/management/ 経営情報]([[学校法人東京医科大学]])</ref>、[[東邦大学|{{Color|red|東邦大学}}]] (823.1)<ref name="toho-uFS">[http://www.toho-u.ac.jp/corporation/finance/index.html 財務状況]([[学校法人東邦大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}700億円台''' |[[広島大学|{{Color|red|広島大学}}]] (716.0)<ref name="hiroshima-uFS">[http://www.hiroshima-u.ac.jp/top/houjin/jyoho/zaimu/ 財務に関する情報](広島大学)</ref> |[[立命館大学]]<!--大学院2,924人、大学32,280人(総計47,500人) 2013年5月1日現在-->&[[立命館アジア太平洋大学]]<!--大学院164人、大学5,330人--> (764.9)<ref name="ritsumeiFS">[http://www.ritsumei.jp/public-info/public02_j.html 学園財政]([[学校法人立命館]])</ref>、[[自治医科大学|{{Color|red|自治医科大学}}]] (762.6)<ref name="jichiFS">[http://www.jichi.ac.jp/gaiyo/public_info/finance.html 財務情報]([[学校法人自治医科大学]])</ref>、[[福岡大学|{{Color|red|福岡大学}}]] (726.3)<ref name="fukuoka-uFS">[http://www.fukuoka-u.ac.jp/disclosure/reporting/ 事業計画・事業報告]([[学校法人福岡大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}600億円台''' |[[神戸大学|{{Color|red|神戸大学}}]] (661.7)<ref name="kobe-uFS">[http://www.kobe-u.ac.jp/info/public-info/financial/index.html 財務報告書(ファイナンシャルレポート)](神戸大学)</ref>、[[横浜市立大学|{{Color|red|横浜市立大学}}]] (642.7)<ref name="yokohama-cuFS">[http://www.yokohama-cu.ac.jp/univ/corp/finance/finance.html 財務情報](横浜市立大学)</ref>、[[岡山大学|{{Color|red|岡山大学}}]] (618.7)<ref name="okayama-u">[http://www.okayama-u.ac.jp/tp/profile/johokoukai_j.html 法人情報の公開](岡山大学)</ref>、[[千葉大学|{{Color|red|千葉大学}}]] (614.1)<ref name="chiba-uFS"/> |[[川崎医科大学|{{Color|red|川崎医科大学}}]]&[[川崎医療福祉大学|{{Color|red|川崎医療福祉大学}}]] (692.0)<ref name="kawasaki-mFS">[http://www.kawasaki-m.ac.jp/gakuen/gaiyou/06.php 財務状況]([[学校法人川崎学園]])</ref>、[[藤田保健衛生大学|{{Color|red|藤田保健衛生大学}}]] (657.9)<ref name="fujita-huFS">[http://www.fujita-hu.ac.jp/corporate/disclosure/enterprise/index.html 事業報告・計画書]([[学校法人藤田学園]])</ref>、[[同志社大学]]<!--大学院2,377人、大学26,522人(総計42,687人) 2013年5月1日現在-->&[[同志社女子大学]]<!--大学院52人、大学6,486人--> (611.7)<ref name="doshishaFS">[http://www.doshisha.ed.jp/works/report.html 事業報告書]([[学校法人同志社]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}500億円台''' |[[東京医科歯科大学|{{Color|red|東京医科歯科大学}}]] (555.6)<ref name="tmdFS">[http://www.tmd.ac.jp/outline/disclosure/legal/index.html 法定公開情報](東京医科歯科大学)</ref>、[[新潟大学|{{Color|red|新潟大学}}]] (528.5)<ref name="niigata-uFS">[http://www.niigata-u.ac.jp/profile1/70_accountability_050.html 財務情報](新潟大学)</ref>、[[金沢大学|{{Color|red|金沢大学}}]] (514.6)<ref name="kanazawa-uFS">[http://www.adm.kanazawa-u.ac.jp/ad_syomu/jyouhoukoukai/zaimu/index.htm 財務に関する情報](金沢大学)</ref>、[[熊本大学|{{Color|red|熊本大学}}]] (511.6)<ref name="kumamoto-uFS">[http://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/jouhoukoukai/zaimu 財務に関する情報](熊本大学)</ref>、[[長崎大学|{{Color|red|長崎大学}}]] (505.2)<ref name="nagasaki-uFS">[http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/disclosure/legal/open/ 国立大学法人長崎大学の財務諸表等の公表について](長崎大学)</ref>、[[大阪市立大学|{{Color|red|大阪市立大学}}]] (502.4)<ref name="osaka-cuFS">[http://www.osaka-cu.ac.jp/ja/about/corporation/finance 財務](大阪市立大学)</ref> |[[聖マリアンナ医科大学|{{Color|red|聖マリアンナ医科大学}}]] (583.9)<ref name="marianna-uFS">[http://www.marianna-u.ac.jp/houjin/gaiyo/gaiyo03/index.html 財務情報]([[学校法人聖マリアンナ医科大学]])</ref>、[[関西医科大学|{{Color|red|関西医科大学}}]] (575.7)<ref name="kmuFS">[http://www.kmu.ac.jp/general_info/u-annai12.html 情報公開]([[学校法人関西医科大学]])</ref>、[[明治大学]]<!--大学院2,531人、大学29,902人(総計33,742人) 2013年5月1日現在--> (526.9)<ref name="meijiFS">[https://www.meiji.ac.jp/chousaka/jigyo.html 事業報告書]([[学校法人明治大学]])</ref>、[[久留米大学|{{Color|red|久留米大学}}]] (521.0)<ref name="kurume-uFS">[http://www.kurume-u.ac.jp/keiri/zaimu/ 財務状況]([[学校法人久留米大学]])</ref>、[[岩手医科大学|{{Color|red|岩手医科大学}}]] (505.2)<ref name="iwate-medFS">[http://www.iwate-med.ac.jp/education/information/ 情報公開]([[学校法人岩手医科大学]])</ref>、[[関西大学]]<!--大学院1,658人、大学27,511人(総計34,055人) 2013年5月1日現在--> (500.1)<ref name="kansai-uFS">[http://www.kansai-u.ac.jp/zaimu/ 財務情報]([[学校法人関西大学]])</ref> |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">財務諸表(2012年度) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *国公立大学名の後ろの数値は、その大学を運営する法人の2012年度(平成24年4月1日~平成25年3月31日)の[[財務諸表]]の損益計算書における「経常収益合計」。 *私立大学名の後ろの数値は、その大学を運営する法人の2012年度の事業報告書の消費収支計算書における「帰属収入合計」。 *法人が複数の大学・大学院あるいは短大以下の学校を経営している場合、大学名のみを列記し、大学以外も含めた「経常収益合計」または「帰属収入合計」を記す。 *国立大学法人は86法人全て記載。「経常収益合計」が250億円以上の法人は[[東京工業大学]]以外全て、医学部および大学病院を持つ大学を経営している。 *公立大学法人は財務諸表を公表していない23法人<ref group="†">財務諸表を公表していない23法人 : [[釧路公立大学]]、[[名寄市立大学]]、[[秋田公立美術大学]]<!--2013年度から公表-->、[[茨城県立医療大学]]、[[群馬県立県民健康科学大学]]、[[群馬県立女子大学]]、[[前橋工科大学]]、[[千葉県立保健医療大学]]、[[産業技術大学院大学]]、[[神奈川県立保健福祉大学]]、[[新潟県立看護大学]]、[[長野県看護大学]]、[[富山県立大学]]、[[岐阜薬科大学]]、[[情報科学芸術大学院大学]]、[[神戸市看護大学]]、[[兵庫県立大学]]、[[奈良県立大学]]、[[福山市立大学]]、[[香川県立保健医療大学]]、[[宮崎県立看護大学]]、[[沖縄県立芸術大学]]、[[沖縄県立看護大学]]</ref> を除き記載。「経常収益合計」が300億円以上の法人は全て、医学部および大学病院を持つ大学を経営している。 *私立大学は多数あるため、大学在籍者数<!--大学院・大学通信課程・短大を除く-->が1万人以上<ref>{{PDFlink|[http://eic.obunsha.co.jp/resource/pdf/jitsuryoku/20130412.pdf 大学の真の実力 2012~2013 情報公開BOOK 偏差値だけに頼らない大学選び! Miniデータファイル File21 学生数の多い大学 私立大]}}(旺文社教育情報センター 2013年4月12日)</ref>、または、医学部を持つ法人をのみを記載。 *[[省庁大学校]]である[[防衛医科大学校]]は財務諸表を公表していないため不記載。 {|class="wikitable" style="text-align:left" |+経常収益合計または帰属収入合計(2012年度、単位:億円) !style="width:5%"| !style="width:35%"|[[国立大学]]<ref name="MEXTcat1"/><br>(経常収益合計) !style="width:30%"|[[公立大学]]<ref name="MEXTcat2"/><br>(経常収益合計) !style="width:30%"|[[私立大学]]<ref name="MEXTcat3"/><br>(帰属収入合計) |- |style="background-color:#ff99cc"|'''2100億円台''' |'''[[東京大学|{{Color|red|東京大学}}]]''' (2138.3)<ref name="u-tokyoFS"/> | | |- |style="background-color:#ff99cc"|'''2000億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1900億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1800億円台''' | | |[[日本大学|{{Color|red|日本大学}}]]<!--大学院3,315人、大学68,675人、大学通信課程6,722人(総計97,990人) 2012年5月1日現在--> (1870.0)<ref name="nihon-uFS"/> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1700億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1600億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1500億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1400億円台''' |'''[[京都大学|{{Color|red|京都大学}}]]''' (1466.6)<ref name="kyoto-uFS"/> | |[[順天堂大学|{{Color|red|順天堂大学}}]] (1421.6)<ref name="juntendoFS"/>、[[東海大学|{{Color|red|東海大学}}]]<!--大学院1,096人、大学28,598人(総計46,009人) 2012年5月1日現在--> (1410.2)<ref name="u-tokaiFS"/>、[[慶應義塾大学|{{Color|red|慶應義塾大学}}]]<!--大学院3,461人、大学28,844人、大学通信課程8,713人(総計49,436人) 2012年5月1日現在--> (1409.4)<ref name="keioFS"/> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1300億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1200億円台''' |'''[[大阪大学|{{Color|red|大阪大学}}]]''' (1296.0)<ref name="osaka-uFS"/>、'''[[東北大学|{{Color|red|東北大学}}]]''' (1284.8)<ref name="tohokuFS"/> | |[[近畿大学|{{Color|red|近畿大学}}]]<!--大学院1,067人、大学30,941人、大学通信課程1,512人(総計52,252人) 2012年5月1日現在--> (1298.6)<ref name="kindaiFS"/> |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1100億円台''' |'''[[九州大学|{{Color|red|九州大学}}]]''' (1114.7)<ref name="kyushu-uFS"/> | | |- |style="background-color:#ffcccc"|'''1000億円台''' | | | |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}900億円台''' |'''[[名古屋大学|{{Color|red|名古屋大学}}]]''' (917.0)<ref name="nagoya-uFS"/> | |[[昭和大学|{{Color|red|昭和大学}}]] (981.2)<ref name="showa-uFS"/>、[[帝京大学|{{Color|red|帝京大学}}]]<!--大学22,972人(総計25,952人) 2012年5月1日現在--> (977.1)<ref name="teikyo-uFS"/><ref group="†">[[帝京大学グループ]]の学校法人帝京平成大学が経営する[[帝京平成大学]]等(帰属収入合計169億円)、および、学校法人帝京科学大学が経営する[[帝京科学大学]]等(帰属収入合計67.5億円)は含まない。</ref>、[[早稲田大学]]<!--大学院9,357人、大学43,974人、大学通信課程782人(総計57,440人) 2012年5月1日現在--> (976.0)<ref name="wasedaFS"/>、[[北里大学|{{Color|red|北里大学}}]] (970.9)<ref name="kitasatoFS"/>、[[東京慈恵会医科大学|{{Color|red|東京慈恵会医科大学}}]] (970.6)<ref name="jikeiFS"/>、[[東京女子医科大学|{{Color|red|東京女子医科大学}}]] (959.3)<ref name="twmuFS"/>、[[埼玉医科大学|{{Color|red|埼玉医科大学}}]] (951.2)<ref name="saitama-medFS"/>、[[獨協大学|{{Color|red|獨協大学}}]]&[[獨協医科大学|{{Color|red|獨協医科大学}}]]&[[姫路獨協大学|{{Color|red|姫路獨協大学}}]] (928.6)<ref name="dacFS"/> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}800億円台''' |'''[[北海道大学|{{Color|red|北海道大学}}]]''' (878.6)<ref name="hokudaiFS"/>、[[筑波大学|{{Color|red|筑波大学}}]] (829.2)<ref name="tsukubaFS"/> | |[[東邦大学|{{Color|red|東邦大学}}]] (826.8)<ref name="toho-uFS"/>、[[日本医科大学|{{Color|red|日本医科大学}}]] (826.7)<ref name="nmsFS"/> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}700億円台''' | | |[[自治医科大学|{{Color|red|自治医科大学}}]] (764.0)<ref name="jichiFS"/>、[[立命館大学]]<!--大学院3,190人、大学32,524人(総計47,883人) 2012年5月1日現在-->&[[立命館アジア太平洋大学]]<!--大学院195人、大学5,262人--> (762.5)<ref name="ritsumeiFS"/>、[[東京医科大学|{{Color|red|東京医科大学}}]] (753.6)<ref name="tokyo-medFS"/>、[[福岡大学|{{Color|red|福岡大学}}]]<!--大学院744人、大学19,603人(総計23,764人) 2012年5月1日現在--> (712.1)<ref name="fukuoka-uFS"/> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}600億円台''' |[[広島大学|{{Color|red|広島大学}}]] (674.0)<ref name="hiroshima-uFS"/>、[[神戸大学|{{Color|red|神戸大学}}]] (671.1)<ref name="kobe-uFS"/>、[[千葉大学|{{Color|red|千葉大学}}]] (629.5)<ref name="chiba-uFS">[http://www.chiba-u.ac.jp/general/disclosure/announce/finance.html 財務情報](千葉大学)</ref>、[[岡山大学|{{Color|red|岡山大学}}]] (609.2)<ref name="okayama-u"/> |[[横浜市立大学|{{Color|red|横浜市立大学}}]] (627.3)<ref name="yokohama-cuFS"/> |[[聖マリアンナ医科大学|{{Color|red|聖マリアンナ医科大学}}]] (681.4)<ref name="marianna-uFS"/>、[[藤田保健衛生大学|{{Color|red|藤田保健衛生大学}}]] (614.6)<ref name="fujita-huFS"/>、[[同志社大学]]<!--大学院2,466人、大学26,176人(総計42,266人) 2012年5月1日現在-->&[[同志社女子大学]]<!--大学院61人、大学6,411人--> (603.1)<ref name="doshishaFS"/> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}500億円台''' |[[東京医科歯科大学|{{Color|red|東京医科歯科大学}}]] (531.4)<ref name="tmdFS"/>、[[新潟大学|{{Color|red|新潟大学}}]] (526.6)<ref name="niigata-uFS"/>、[[金沢大学|{{Color|red|金沢大学}}]] (501.7)<ref name="kanazawa-uFS"/> |[[大阪市立大学|{{Color|red|大阪市立大学}}]] (501.8)<ref name="osaka-cuFS"/> |[[川崎医科大学|{{Color|red|川崎医科大学}}]]&[[川崎医療福祉大学|{{Color|red|川崎医療福祉大学}}]] (554.3)<ref name="kawasaki-mFS"/>、[[関西医科大学|{{Color|red|関西医科大学}}]] (543.7)<ref name="kmuFS"/>、[[久留米大学|{{Color|red|久留米大学}}]] (525.9)<ref name="kurume-uFS"/>、[[明治大学]]<!--大学院2,722人、大学29,861人(総計33,876人) 2012年5月1日現在--> (511.1)<ref name="meijiFS"/> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}400億円台''' |[[熊本大学|{{Color|red|熊本大学}}]] (493.7)<ref name="kumamoto-uFS"/>、[[長崎大学|{{Color|red|長崎大学}}]] (487.5)<ref name="nagasaki-uFS"/>、[[信州大学|{{Color|red|信州大学}}]] (466.4)<ref>[http://www.shinshu-u.ac.jp/guidance/plan/statements/ 財務諸表等](信州大学)</ref>、[[鹿児島大学|{{Color|red|鹿児島大学}}]] (434.8)<ref>[http://www.kagoshima-u.ac.jp/about/zaimu.html 財務諸表等](鹿児島大学)</ref>、[[群馬大学|{{Color|red|群馬大学}}]] (431.3)<ref>[http://www.gunma-u.ac.jp/html_zaimu/aboutus_20.html 財務情報](群馬大学)</ref>、[[東京工業大学]] (428.5)<ref>[http://www.titech.ac.jp/about/disclosure/finance.html 財務情報](東京工業大学)</ref>、[[山口大学|{{Color|red|山口大学}}]] (409.8)<ref>[http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~syukei/11zaimushohyou/16zaimushohyou.html 財務諸表](山口大学)</ref>、[[徳島大学|{{Color|red|徳島大学}}]] (407.2)<ref>[http://www.tokushima-u.ac.jp/about/financial/ 財務情報](徳島大学)</ref> | |[[関西大学]]<!--大学院1,865人、大学27,205人(総計33,875人) 2012年5月1日現在--> (497.9)<ref name="kansai-uFS"/>、[[岩手医科大学|{{Color|red|岩手医科大学}}]] (484.4)<ref name="iwate-medFS"/>、[[兵庫医科大学|{{Color|red|兵庫医科大学}}]] (473.6)<ref>[http://www.corp.hyo-med.ac.jp/guide/financial_statement.html 財務諸表]([[学校法人兵庫医科大学]])</ref>、[[法政大学]]<!--大学院2,206人、大学27,436人、大学通信課程5,925人(総計39,637人) 2012年5月1日現在--> (473.4)<ref>[http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/johokokai/hokoku.html 予算・決算・事業報告]([[学校法人法政大学]])</ref>、[[杏林大学|{{Color|red|杏林大学}}]] (473.3)<ref>[http://www.kyorin-u.ac.jp/univ/outline/financial/ 経営・財務情報]([[学校法人杏林学園]])</ref>、[[中央大学]]<!--大学院2,319人、大学25,329人、大学通信課程4,630人(総計36,289人) 2012年5月1日現在--> (434.3)<ref>[http://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/overview/biz_overview/ 事業概要と報告]([[学校法人中央大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}300億円台''' |[[愛媛大学|{{Color|red|愛媛大学}}]] (399.0)<ref>[http://www.ehime-u.ac.jp/information/open/legal/ 法定公開情報](愛媛大学)</ref>、[[岐阜大学|{{Color|red|岐阜大学}}]] (382.9)<ref>[http://www.gifu-u.ac.jp/about/financial_affairs/account.html 財務に関する情報](岐阜大学)</ref>、[[三重大学|{{Color|red|三重大学}}]] (381.7)<ref>[http://www.mie-u.ac.jp/disclosure/finance.html 財務諸表等](三重大学)</ref>、[[山形大学|{{Color|red|山形大学}}]] (371.7)<ref>[http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/university1/index.php?id=46 財務に関する情報](山形大学)</ref>、[[鳥取大学|{{Color|red|鳥取大学}}]] (371.2)<ref>[http://www.tottori-u.ac.jp/dd.aspx?menuid=1306 財務諸表](鳥取大学)</ref>、[[富山大学|{{Color|red|富山大学}}]] (368.0)<ref>[http://www.u-toyama.ac.jp/outline/public/corporate/index.html 法人情報](富山大学)</ref>、[[弘前大学|{{Color|red|弘前大学}}]] (355.4)<ref>[http://www.hirosaki-u.ac.jp/information/soshiki/zaimu/ 財務に関する情報](弘前大学)</ref>、[[琉球大学|{{Color|red|琉球大学}}]] (350.7)<ref>[http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/general/houjin_siryou/zaimu_syohyo/ 財務諸表等決算関係書類](琉球大学)</ref>、[[佐賀大学|{{Color|red|佐賀大学}}]] (324.3)<ref>[http://www.saga-u.ac.jp/koukai/kokaizaimu.html 財務について](佐賀大学)</ref>、[[宮崎大学|{{Color|red|宮崎大学}}]] (316.7)<ref>[http://www.miyazaki-u.ac.jp/guide/legal/financial/index 財務諸表・報告書](宮崎大学)</ref>、[[山梨大学|{{Color|red|山梨大学}}]] (314.8)<ref>[http://www.yamanashi.ac.jp/modules/ynsprofile/index.php?content_id=12 財務に関する情報](山梨大学)</ref>、[[香川大学|{{Color|red|香川大学}}]] (306.5)<ref>[http://www.kagawa-u.ac.jp/information/outline/zaimu/ 財務に関する情報](香川大学)</ref>、[[大分大学|{{Color|red|大分大学}}]] (302.9)<ref>[http://www.oita-u.ac.jp/13joho/johokokai/hojnjoho-zaimu.html 法人情報提供-財務に関する情報](大分大学)</ref>、[[秋田大学|{{Color|red|秋田大学}}]] (302.2)<ref>[http://www.akita-u.ac.jp/honbu/publicinfo/legal/pu_zaimu.html 財務情報](秋田大学)</ref>、[[高知大学|{{Color|red|高知大学}}]] (300.4)<ref>[http://www.kochi-u.ac.jp/outline/jouhou_koukai/jyouhou_teikyo/index.html 独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律(第22条に規定する情報)](高知大学)</ref> |[[福島県立医科大学|{{Color|red|福島県立医科大学}}]] (363.7)<ref>[http://www.fmu.ac.jp/univ/houjin/info.html 法人情報](福島県立医科大学)</ref>、[[京都府立医科大学|{{Color|red|京都府立医科大学}}]]&[[京都府立大学|{{Color|red|京都府立大学}}]] (353.5)<ref>[http://www.kpu-m.ac.jp/corporation/zaimu.html 財務諸表等]([[京都府公立大学法人]])</ref>、[[奈良県立医科大学|{{Color|red|奈良県立医科大学}}]] (336.9)<ref>[http://www.naramed-u.ac.jp/info/disclosure/financial.html 財務などに関する情報](奈良県立医科大学)</ref>、[[名古屋市立大学|{{Color|red|名古屋市立大学}}]] (330.1)<ref>[http://www.nagoya-cu.ac.jp/1839.htm 財務諸表等](名古屋市立大学)</ref>、[[和歌山県立医科大学|{{Color|red|和歌山県立医科大学}}]] (319.6)<ref>[http://www.wakayama-med.ac.jp/intro/houjin/gyoumu/index.html 業務・財務に関する情報](和歌山県立医科大学)</ref>、[[札幌医科大学|{{Color|red|札幌医科大学}}]] (308.5)<ref>[http://web.sapmed.ac.jp/jp/section/foundation/03bqho00000006e8.html 財務に関する情報](札幌医科大学)</ref> |[[東洋大学]]<!--大学院901人、大学28,773人、大学通信課程1,096人(総計34,524人) 2012年5月1日現在--> (399.4)<ref>[http://www.toyo.ac.jp/site/data/financial.html 学校法人 東洋大学 財務情報公開]([[学校法人東洋大学]])</ref>、[[関西学院大学]]<!--大学院1,336人、大学23,116人(総計27,795人) 2012年5月1日現在-->&[[聖和大学]]<!--大学7人--> (389.6)<ref>[http://www.kwansei.ac.jp/pr/pr_001260.html 事業報告書及び財務状況]([[学校法人関西学院]])</ref>、[[愛知医科大学|{{Color|red|愛知医科大学}}]] (372.2)<ref>[http://www.aichi-med-u.ac.jp/su01/su0105/ 事業計画・事業報告書]([[学校法人愛知医科大学]])</ref>、[[東京理科大学]]<!--大学院3,552人、大学16,671人(総計21,880人) 2012年5月1日現在-->&[[公立諏訪東京理科大学|諏訪東京理科大学]]<!--大学院49人、大学986人-->&[[山陽小野田市立山口東京理科大学|山口東京理科大学]]<!--大学院15人、大学607人--> (360.3)<ref>[https://www.tus.ac.jp/info/foundation/business.html 事業計画・事業報告]([[学校法人東京理科大学]])</ref>、[[青山学院大学]]<!--大学院1,397人、大学18,379人(総計24,684人) 2012年5月1日現在--> (339.1)<ref>[http://www.aoyamagakuin.jp/introduction/data/finance/index.html 財務状況 事業計画書・事業報告書 財務に関する情報]([[学校法人青山学院]])</ref>、[[立教大学]]<!--大学院1,441人、大学19,469人(総計24,027人) 2012年5月1日現在--> (331.4)<ref>[http://www.rikkyogakuin.jp/profile/finance/ 財務状況・事業計画・事業報告]([[学校法人立教学院]])</ref>、[[大阪医科薬科大学|{{Color|red|大阪医科大学}}]] (328.3)<ref>[http://office.osaka-med.ac.jp/zaimu/annual.html 財務情報公開 Annual Report]([[学校法人大阪医科薬科大学|学校法人大阪医科大学]])</ref>、[[産業医科大学|{{Color|red|産業医科大学}}]] (317.3)<ref>[http://www.uoeh-u.ac.jp/JP/University/aboutCorporation/financial.html 財務情報]([[学校法人産業医科大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}200億円台''' |[[島根大学|{{Color|red|島根大学}}]] (295.4)<ref>[http://www.shimane-u.ac.jp/introduction/finance/financial_report/ 財務情報(財務諸表,事業報告書など)](島根大学)</ref>、[[福井大学|{{Color|red|福井大学}}]] (281.8)<ref>[http://www.u-fukui.ac.jp/cont_about/outline/management.html 大学運営(中期目標・中期計画、評価 等)](福井大学)</ref>、[[滋賀医科大学|{{Color|red|滋賀医科大学}}]] (274.5)<ref>[http://www.shiga-med.ac.jp/info/zaimu/zaimu.html 財務に関する情報](滋賀医科大学)</ref>、[[旭川医科大学|{{Color|red|旭川医科大学}}]] (258.6)<ref>[http://www.asahikawa-med.ac.jp/index.php?f=public+k_zaimu 財務に関する情報](旭川医科大学)</ref>、[[浜松医科大学|{{Color|red|浜松医科大学}}]] (250.2)<ref>[https://www.hama-med.ac.jp/uni_introduction_report_hjyouhou_financial.html 財務に関する情報](浜松医科大学)</ref> |[[首都大学東京]] (252.2)<ref>[http://www.houjin-tmu.ac.jp/about/finance.html 財務情報など](首都大学東京)</ref>、[[大阪府立大学]] (216.6)<ref>[http://www.osakafu-u.ac.jp/info/disclosure/zaimu/ 財務情報](大阪府立大学)</ref> |[[金沢医科大学|{{Color|red|金沢医科大学}}]] (276.3)<ref>[http://www.kanazawa-med.ac.jp/~keirika/zaimu-index.htm 決算書関連情報]([[学校法人金沢医科大学]])</ref>、[[東京農業大学]]<!--大学院561人、大学12,000人(総計20,457人) 2012年5月1日現在-->&[[東京情報大学]]<!--大学1,911人--> (269.5)<ref>[http://www.nodai.ac.jp/hojin/zaimu/index.html 財務情報]([[学校法人東京農業大学]])</ref>、[[神奈川大学]]<!--大学院579人、大学18,114人(総計19,998人) 2012年5月1日現在--> (265.3)<ref>[http://www.kanagawa-u.ac.jp/disclosure/finance/index.html 財務情報]([[神奈川大学|学校法人神奈川大学]])</ref>、[[名城大学]]<!--大学院874人、大学14,917人(総計17,724人) 2012年5月1日現在--> (249.3)<ref>[http://www.meijo-u.ac.jp/about/outline/report.html 事業計画・報告]([[学校法人名城大学]])</ref>、[[愛知学院大学]]<!--大学院388人、大学11,723人(総計14,571人) 2012年5月1日現在--> (248.1)<ref>[https://www.agu.ac.jp/about/summary.html 事業・財務概要]([[学校法人愛知学院]])</ref>、[[龍谷大学]]<!--大学院928人、大学17,931人(総計19,342人) 2012年5月1日現在--> (248.0)<ref>[http://www.ryukoku.ac.jp/about/outline/info_disclosure/bizreport/ 事業報告]([[学校法人龍谷大学]])</ref>、[[専修大学]]&[[石巻専修大学]]<!--大学院450人、大学21,069人(総計21,523人) 2012年5月1日現在--> (244.5)<ref>[http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/info_edu_ress/proj_index.html 事業報告書]([[学校法人専修大学]])</ref>、[[上智大学]]&[[聖母大学]]<!--大学院1,420人、大学10,886人(総計13,964人) 2012年5月1日現在--> (229.5)<ref>[http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/data/zaimu_joho 財務情報]([[学校法人上智学院]])</ref>、[[駒澤大学]]<!--大学院450人、大学15,676人(総計17,034人) 2012年5月1日現在--> (208.1)<ref>[http://www.komazawa-u.ac.jp/cms/infopub/zaimu_info 財務情報の公開について]([[学校法人駒澤大学]])</ref>、[[中部大学]]<!--大学院312人、大学10,088人(総計13,108人) 2012年5月1日現在--> (203.2)<ref>[http://www.chubu.ac.jp/about/finance/ 事業報告・財務情報]([[学校法人中部大学]])</ref> |- |style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}100億円台''' |[[静岡大学]] (171.4)<ref>[https://www.shizuoka.ac.jp/outline/info/kokai/index.html 法定公開情報](静岡大学)</ref>、[[横浜国立大学]] (167.5)<ref>[https://www.ynu.ac.jp/about/information/financial/index.html 財務情報](横浜国立大学)</ref>、[[茨城大学]] (141.4)<ref>[http://www.ibaraki.ac.jp/generalinfo/disclosure/corporate/financial/index.html 財務に関する情報](茨城大学)</ref>、[[東京農工大学]] (138.5)<ref>[http://www.tuat.ac.jp/outline/houjin/zaimu/index.html 財務に関する情報](東京農工大学)</ref>、[[岩手大学]] (127.5)<ref>[http://www.iwate-u.ac.jp/unei/zaimu.shtml 財務諸表等](岩手大学)</ref>、[[埼玉大学]] (126.9)<ref>[http://www.saitama-u.ac.jp/guide/info.html 国立大学法人埼玉大学情報](埼玉大学)</ref>、[[東京学芸大学]] (119.5)<ref>[http://www.u-gakugei.ac.jp/jouhou/01/ 国立大学法人としての公表事項](東京学芸大学)</ref>、[[一橋大学]] (107.0)<ref>[http://www.hit-u.ac.jp/guide/information/zaimu.html 財務諸表](一橋大学)</ref>、[[電気通信大学]] (103.8)<ref>[http://www.uec.ac.jp/about/publicinfo/open.html 法定公開情報|独立行政法人情報公開法](電気通信大学)</ref>、[[北海道教育大学]] (102.8<!--10,284,972千円-->)<ref>[http://www.hokkyodai.ac.jp/public/info/financial-statement.html 財務諸表](北海道教育大学)</ref>、[[九州工業大学]] (102.8<!--10,283,601千円-->)<ref>[https://www.kyutech.ac.jp/information/zaimu/l 財務に関する情報](九州工業大学)</ref>、[[名古屋工業大学]] (100.0<!--9,997,086千円-->)<ref>[http://www.nitech.ac.jp/intro/corporative/zaimu/ 財務諸表](名古屋工業大学)</ref> | |[[関東学院大学]]<!--大学院255人、大学生11,294人(総計15,372人) 2012年5月1日現在--> (199.6)<ref>[http://www.kanto-gakuin.ac.jp/?info=p554 事業計画・事業報告および財務状況]([[学校法人関東学院]])</ref>、[[京都産業大学]]<!--大学院237人、大学生12,970人(総計14,999人) 2012年5月1日現在--> (193.9)<ref>[https://www.kyoto-su.ac.jp/outline/zaimu/ 財務状況 / 事業計画・報告]([[学校法人京都産業大学]])</ref>、[[中京大学]]<!--大学院290人、大学生12,972人(総計16,823人) 2012年5月1日現在-->&[[三重中京大学]]<!--大学院2人、大学生115人--> (191.1)<ref>[http://www.chukyo-u.ac.jp/information/umemuragakuen/d3.html 事業報告書(事業概要、財務情報等)]([[学校法人梅村学園]])</ref>、[[国士舘大学]]<!--大学院309人、大学13,470人(総計15,169人) 2012年5月1日現在--> (190.4)<ref>[https://www.kokushikan.ac.jp/information/disclose/010600_0538.html 財務状況]([[学校法人国士舘]])</ref>、[[國學院大学]]<!--大学院342人、大学10,382人(総計15,606人) 2012年5月1日現在--> (190.0)<ref>[http://www.kokugakuin.ac.jp/guide/finance.html 財務情報]([[学校法人國學院大學]])</ref>、[[明治学院大学]]<!--大学院269人、大学生12,030人(総計14,426人) 2012年5月1日現在--> (186.3)<ref>[http://www.meijigakuin.jp/finance/ 財務情報]([[学校法人明治学院]])</ref>、[[立正大学]]<!--大学院249人、大学生10,474人(総計11,899人) 2012年5月1日現在--> (179.9)<ref>[http://www.ris.ac.jp/rissho_school/about_school/plan_report/business_reporting.html 事業報告]([[学校法人立正大学学園]])</ref>、[[東北学院大学]]<!--大学院159人、大学生11,928人(総計15,035人) 2012年5月1日現在--> (177.3)<ref>[http://www.tohoku-gakuin.jp/report/ 事業・財務報告]([[学校法人東北学院]])</ref>、[[大東文化大学]]<!--大学院388人、大学生12,600人(総計14,162人) 2012年5月1日現在--> (170.0)<ref>[http://www.daito.ac.jp/information/open/report.html 事業・財務報告]([[学校法人大東文化学園]])</ref>、[[関西外国語大学]]<!--大学院55人、大学生10,781人(総計13,085人) 2012年5月1日現在--> (164.1)<ref>[https://www.kansaigaidai.ac.jp/contents/info/msg/financial.html 財務情報]([[学校法人関西外国語大学]])</ref>、[[神戸学院大学]]<!--大学院115人、大学生10,351人(総計11,040人) 2012年5月1日現在--> (149.9)<ref>[http://www.kobegakuin.ac.jp/information/outline/financial/ 財務状況]([[学校法人神戸学院]])</ref>、[[九州産業大学]]<!--大学院173人、大学生11,016人(総計11,425人) 2012年5月1日現在--> (136.0)<ref>[http://www.kyusan-u.ac.jp/guide/summary/zaimu.html 財務状況]([[学校法人中村産業学園]])</ref> |- |nowrap style="background-color:#ffffcc"|'''{{0}}100億円以下''' |[[宇都宮大学]] (97.6)<ref>[http://www.utsunomiya-u.ac.jp/jyouhoukoukai/kessan.php 財務に関する情報](宇都宮大学)</ref>、[[大阪教育大学]] (91.0)<ref>[http://osaka-kyoiku.ac.jp/university/zaimu/zaimujoho/index.html 財務に関する情報](大阪教育大学)</ref>、[[奈良先端科学技術大学院大学]] (86.0)<ref>[http://www.naist.jp/corporate/finance_j.html 財務に関する情報](奈良先端科学技術大学院大学)</ref>、[[東京海洋大学]] (89.1)<ref>[http://www.kaiyodai.ac.jp/johokokai/joho-kokaiho/index.html 組織・業務・財務・評価・監査・出資法人に関する情報](東京海洋大学)</ref>、[[京都工芸繊維大学]] (78.0)<ref>[http://www.kit.ac.jp/08/08_090000.html 財務情報](京都工芸繊維大学)</ref>、[[北陸先端科学技術大学院大学]] (75.2)<ref>[http://www.jaist.ac.jp/general_info/kessan/index.html 決算](北陸先端科学技術大学院大学)</ref>、[[愛知教育大学]] (74.3)<ref>[http://www.aichi-edu.ac.jp/intro/release/zaimu.html 財務に関する情報](愛知教育大学)</ref>、[[お茶の水女子大学]] (74.0)<ref>[http://www.ocha.ac.jp/introduction/publication/ 国立大学法人としての公表事項](お茶の水女子大学)</ref>、[[東京芸術大学|東京藝術大学]] (73.8)<ref>[http://www.geidai.ac.jp/information/info_public/legal 法定公開情報](東京藝術大学)</ref>、[[福島大学]] (70.3)<ref>[http://www.fukushima-u.ac.jp/new/6-syokai/naiyo/zaimu.html 財務に関する情報](福島大学)</ref>、[[和歌山大学]] (69.5)<ref>[http://www.wakayama-u.ac.jp/financial.html 財務諸表等](和歌山大学)</ref>、[[豊橋技術科学大学]] (69.2)<ref>[http://www.tut.ac.jp/about/information.html 情報公開](豊橋技術科学大学)</ref>、[[長岡技術科学大学]] (67.2)<ref>[http://www.nagaokaut.ac.jp/j/jouhou/zaimu.html 財務に関する情報](長岡技術科学大学)</ref>、[[滋賀大学]] (58.7)<ref>[http://www.shiga-u.ac.jp/information/info_public-info/legal-public-information/legal-public-information_financial/ 財務に関する情報](滋賀大学)</ref>、[[東京外国語大学]] (58.4)<ref>[http://www.tufs.ac.jp/abouttufs/outline/public_info/ 法律にもとづき提供する情報](東京外国語大学)</ref>、[[奈良女子大学]] (56.1)<ref>[http://www.nara-wu.ac.jp/joho-gyousei.html 法人情報/法人文書の公開](奈良女子大学)</ref>、[[福岡教育大学]] (53.1)<ref>[http://www.fukuoka-edu.ac.jp/view.rbz?ik=1&nd=120&pnp=100&pnp=120&cd=502 独立行政法人情報公開法◇財務に関する情報](福岡教育大学)</ref>、[[室蘭工業大学]] (52.5)<ref>[http://www.muroran-it.ac.jp/guidance/info_dis/disclosure_c/fin_info.html 財務に関する情報](室蘭工業大学)</ref>、[[京都教育大学]] (50.6)<ref>[http://www.kyokyo-u.ac.jp/jyohokokai/koukaihou22jyo/zaimu.html 財務に関する情報](京都教育大学)</ref>、[[兵庫教育大学]] (50.0)<ref>[http://www.hyogo-u.ac.jp/disclosure/document.php 貸借対照表、損益計算書その他の財務に関する書類の内容](兵庫教育大学)</ref>、[[鳴門教育大学]] (41.6)<ref>[http://www.naruto-u.ac.jp/information/08/004001.html 財務諸表](鳴門教育大学)</ref>、[[帯広畜産大学]] (40.2<!--4,017,613,274円-->)<ref>[http://www.obihiro.ac.jp/kokai/agency/ 法人について](帯広畜産大学)</ref>、[[宮城教育大学]] (40.2<!--4,017,510,224円-->)<ref>[http://www.miyakyo-u.ac.jp/about/disclosure/ct1_2.html 組織・業務・財務に関する情報](宮城教育大学)</ref>、[[上越教育大学]] (40.2<!--4,016,570千円-->)<ref>[http://www.juen.ac.jp/050about/070koukai/050admindoc/zaim/ 財務諸表等](上越教育大学)</ref>、[[北見工業大学]] (37.9)<ref>[http://www.kitami-it.ac.jp/public_relations/outline/pubdoc/pubdoc_about_kit/zaimujoho.html 財務に関する情報](北見工業大学)</ref>、[[奈良教育大学]] (34.0)<ref>[http://www.nara-edu.ac.jp/guide/release/article22.html 情報公開法第22条に規定する情報](奈良教育大学)</ref>、[[政策研究大学院大学]] (28.4)<ref>[http://www.grips.ac.jp/jp/about/disclose/houteikoukaijouhou_1/ I.独立行政法人等情報公開法第22条等に基づき公開する情報](政策研究大学院大学)</ref>、[[筑波技術大学]] (28.3)<ref>[http://www.tsukuba-tech.ac.jp/introduction/openinfo/corporation_info/ 法人としての公表事項](筑波技術大学)</ref>、[[小樽商科大学]] (27.1)<ref>[http://www.otaru-uc.ac.jp/info/johokokai/hojin/financial.html 財務に関する情報](小樽商科大学)</ref>、[[総合研究大学院大学]] (25.3)<ref>[http://www.soken.ac.jp/disclosure/houjin/financial/ 財務に関する情報](総合研究大学院大学)</ref>、[[鹿屋体育大学]] (20.3)<ref>[http://www.nifs-k.ac.jp/outline/achieves/exch.html 財務関連](鹿屋体育大学)</ref> |[[愛知県立大学]]&[[愛知県立芸術大学]] (81.8)<ref>[http://www.puc.aichi-pu.ac.jp/osirase.html 法人からのお知らせ]([[愛知県公立大学法人]])</ref>、[[静岡県立大学]] (74.2)<ref>[https://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/corporation_info/plan_results/005/index.html 財務情報]([[静岡県公立大学法人]])</ref>、[[北九州市立大学]] (68.3)<ref>[http://www.kitakyu-u.ac.jp/outline/kouhyou.html 公表情報](北九州市立大学)</ref>、[[秋田県立大学]] (62.5)<ref>[http://www.akita-pu.ac.jp/houjin/houjin020800.htm 予算規模・会計財務諸表](秋田県立大学)</ref>、[[岩手県立大学]] (56.9)<ref>[http://www.iwate-pu.ac.jp/information/info.html 情報公開](岩手県立大学)</ref>、[[県立広島大学]] (55.5)<ref>[https://www.pu-hiroshima.ac.jp/soshiki/46/09-zaimuinf.html 情報公開](県立広島大学)</ref>、[[高知工科大学]] (48.5)<ref>[http://www.kochi-tech.ac.jp/kut/about_KUT/disclosure_of_information/university_corporation_info3.html 財務に関する情報](高知工科大学)</ref>、[[広島市立大学]] (47.2)<ref>[http://www.hiroshima-cu.ac.jp/aboutus/content0013.html 財務情報](広島市立大学)</ref>、[[滋賀県立大学]] (46.2)<ref>[http://www.usp.ac.jp/japanese/campus/joho/zaimusyohyo.html 財務諸表](滋賀県立大学)</ref>、[[会津大学]] (44.0)<ref>[https://www.u-aizu.ac.jp/intro/outline/zaimu/zaimu.html 財務情報](会津大学)</ref>、[[宮城大学]] (36.8<!--3,684,012,701円-->)<ref>[http://www.myu.ac.jp/soshiki/co/co5.html 予算・決算・財務諸表](宮城大学)</ref>、[[福井県立大学]] (36.7<!--3,668,689,753円-->)<ref>[http://www.fpu.ac.jp/about/administration/plan.html 中期目標・中期計画など](福井県立大学)</ref>、[[岡山県立大学]] (35.0)<ref>[http://www.oka-pu.ac.jp/?page_id=1169 大学情報](岡山県立大学)</ref>、[[長崎県立大学]] (32.8)<ref>[http://sun.ac.jp/corporation/legal/financial/ 財務諸表](長崎県立大学)</ref>、[[埼玉県立大学]] (32.6)<ref>[http://www.spu.ac.jp/view.rbz?nd=206&ik=1&pnp=202&pnp=206&cd=1493 財務諸表等](埼玉県立大学)</ref>、[[九州歯科大学]] (32.3)<ref>[https://www.kyu-dent.ac.jp/about/corporation 法人情報](九州歯科大学)</ref>、[[島根県立大学]] (30.6)<ref>[http://www.u-shimane.ac.jp/foundation/publication/ 公開情報](島根県立大学)</ref>、[[高崎経済大学]] (29.2)<ref>[http://www.tcue.ac.jp/about/hojin/zaimu-info.html 財務に関する情報](高崎経済大学)</ref>、[[名桜大学]] (28.5)<ref>[http://www.meio-u.ac.jp/disclosure.html 情報公開](名桜大学)</ref>、[[石川県立大学]]&[[石川県立看護大学]] (27.2)<ref>[http://www.ishikawa-pu.ac.jp/corporation/index6.html 財務諸表等]([[石川県公立大学法人]])</ref>、[[高知県立大学]] (26.1)<ref>[http://www.cc.u-kochi.ac.jp/~kppuc/finance.html 財務に関する情報]([[高知県公立大学法人]])</ref>、[[神戸市外国語大学]] (25.1)<ref>[http://www.kobe-cufs.ac.jp/about/administration/ 法人情報](神戸市外国語大学)</ref>、[[都留文科大学]] (24.5)<ref>[http://www.tsuru.ac.jp/guide/disclosure/public/assessment/ 大学評価・財務情報](都留文科大学)</ref>、[[静岡文化芸術大学]] (24.3)<ref>[http://www.suac.ac.jp/about/operation/disclosure/finance.html 財務情報](静岡文化芸術大学)</ref>、[[熊本県立大学]] (23.6)<ref>[http://www.pu-kumamoto.ac.jp/site2010/menu_sub/info_hojin/info_hoteikohyo_zaimusyohyo.html 財務諸表等](熊本県立大学)</ref>、[[公立はこだて未来大学]] (22.5)<ref>[http://210.225.229.196/univoutline/univ_finance.html 財務に関する情報(財務諸表等)](公立はこだて未来大学)</ref>、[[京都市立芸術大学]] (21.8)<ref>[http://www.kcua.ac.jp/profile/plan/ 法人情報](京都市立芸術大学)</ref>、[[山口県立大学]] (21.1)<ref>[http://www.yamaguchi-pu.ac.jp/annai/houjin/zaimuitiran.html 財務情報](山口県立大学)</ref>、[[国際教養大学]] (20.5)<ref>[http://web.aiu.ac.jp/about/disclosure_info/accounting_financial_statements 会計財務諸表](国際教養大学)</ref>、[[札幌市立大学]] (20.3)<ref>[https://www.scu.ac.jp/johokoukai/ 情報公開](札幌市立大学)</ref>、[[福岡県立大学]] (19.2)<ref>[http://www.fukuoka-pu.ac.jp/corpoInfo/finance.html 財務に関する情報](福岡県立大学)</ref>、[[福岡女子大学]] (18.9)<ref>[http://www.fwu.ac.jp/disclosure/com.html 法人情報(法定公表情報)](福岡女子大学)</ref>、[[山梨県立大学]] (18.7)<ref>[http://www.yamanashi-ken.ac.jp/info/corporation/finance 財務状況](山梨県立大学)</ref>、[[青森県立保健大学]] (18.1)<ref>[http://www.auhw.ac.jp/about/corp-info/zaimu.html 財務状況](青森県立保健大学)</ref>、[[新潟県立大学]] (15.2)<ref>[http://www.unii.ac.jp/overview/public/legal/ 法定公開情報](新潟県立大学)</ref>、[[鳥取環境大学]] (15.1)<ref>[http://www.kankyo-u.ac.jp/about/announcement/report_since2012/ 決算情報、事業報告書(公立大学法人 鳥取環境大学)](鳥取環境大学)</ref>、[[下関市立大学]] (14.8)<ref>[http://ryouji.shimonoseki-cu.ac.jp/hojin/zaimu.html 財務に関する情報](下関市立大学)</ref>、[[青森公立大学]] (13.7<!--1,371,904,067円-->)<ref>[http://www.nebuta.ac.jp/corporation/ 法人案内](青森公立大学)</ref>、[[金沢美術工芸大学]] (13.7<!--1,368,719,698円-->)<ref>[http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/www/contents/gaiyou/houjinka.html 法人情報](金沢美術工芸大学)</ref>、[[尾道市立大学]] (12.7)<ref>[http://www.onomichi-u.ac.jp/about/hojinjoho_zaimu.html 財務情報](尾道市立大学)</ref>、[[三重県立看護大学]] (10.4)<ref>[http://www.mcn.ac.jp/about/person/finance 財務諸表等](三重県立看護大学)</ref><!--、[[秋田公立美術大学]] (※2013年度:9.8)<ref>[http://www.akibi.ac.jp/aua/information.html 情報公開](秋田公立美術大学)</ref>-->、[[宮崎公立大学]] (9.7)<ref>[http://www.miyazaki-mu.ac.jp/university/plan.html 中期目標・中期計画関連情報](宮崎公立大学)</ref>、[[愛媛県立医療技術大学]] (9.0<!--900,671,259円-->)<ref>[http://www.epu.ac.jp/soshiki/2/houjin.html 法人情報](愛媛県立医療技術大学)</ref>、[[山形県立保健医療大学]] (9.0<!--898,047,849円-->)<ref>[http://www.yachts.ac.jp/off/houjin/ 法人情報](山形県立保健医療大学)</ref>、[[大分県立看護科学大学]] (8.9<!--891,209,959円-->)<ref>[http://www.oita-nhs.ac.jp/corporation_inf/-top/cat198/ 財務諸表](大分県立看護科学大学)</ref>、[[岐阜県立看護大学]] (8.7)<ref>[http://www.gifu-cn.ac.jp/information/financial.html 財務情報](岐阜県立看護大学)</ref>、[[新見公立大学]] (7.5)<ref>[http://www.niimi-c.ac.jp/hojin/ 法人情報](新見公立大学)</ref> | |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:left">財務諸表(2006年度) </div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> *「順位」は経常収益による。 {|class="wikitable sortable" style="text-align:right" |+主な国立大学法人の[[財務諸表]]([[2006年]](平成18年)度)<ref>[http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat150j/idx150j.html 国立大学法人の財務分析]([[文部科学省]]科学技術政策研究所 2008年1月)</ref> !順位<br> !法人名<br> ![[資産]]<br>(億円) !経常収益<br>(億円) ![[経常利益]]<br>(億円) |- |style="text-align:center"|1 |style="text-align:left"|'''[[東京大学]]''' |13030 |1846 |23.2 |- |style="text-align:center"|2 |style="text-align:left"|'''[[京都大学]]''' |3976 |1251 |51.8 |- |style="text-align:center"|3 |style="text-align:left"|'''[[東北大学]]''' |3336 |1119 |25.2 |- |style="text-align:center"|4 |style="text-align:left"|'''[[大阪大学]]''' |4053 |1111 |45.3 |- |style="text-align:center"|5 |style="text-align:left"|'''[[九州大学]]''' |3644 |1002 |25.0 |- |style="text-align:center"|6 |style="text-align:left"|'''[[北海道大学]]''' |2610 |870 |57.2 |- |style="text-align:center"|7 |style="text-align:left"|'''[[名古屋大学]]''' |2155 |794 |14.5 |- |style="text-align:center"|8 |style="text-align:left"|[[筑波大学]] |3516 |738 |19.6 |- |style="text-align:center"|9 |style="text-align:left"|[[広島大学]] |1999 |617 |11.3 |- |style="text-align:center"|10 |style="text-align:left"|[[神戸大学]] |1935 |587 |6.1 |- |style="text-align:center"|11 |style="text-align:left"|[[岡山大学]] |1289 |527 |10.3 |- |style="text-align:center"|12 |style="text-align:left"|[[新潟大学]] |1262 |482 |8.1 |- |style="text-align:center"|13 |style="text-align:left"|[[千葉大学]] |1998 |481 |9.4 |- |style="text-align:center"|14 |style="text-align:left"|[[東京医科歯科大学]] |1631 |457 |26.0 |- |style="text-align:center"|15 |style="text-align:left"|[[金沢大学]] |1589 |443 |&minus;1.2 |- |style="text-align:center"|16 |style="text-align:left"|[[熊本大学]] |1262 |425 |3.6 |- |style="text-align:center"|17 |style="text-align:left"|[[信州大学]] |992 |418 |16.2 |- |style="text-align:center"|18 |style="text-align:left"|[[鹿児島大学]] |1050 |415 |12.0 |- |style="text-align:center"|19 |style="text-align:left"|[[長崎大学]] |1069 |403 |14.6 |- |style="text-align:center"|20 |style="text-align:left"|[[東京工業大学]] |2254 |387 |13.2 |- |style="text-align:center"|21 |style="text-align:left"|[[山口大学]] |380 |378 |14.3 |- |style="text-align:center"|22 |style="text-align:left"|[[徳島大学]] |1010 |378 |20.0 |} </div></div> === 帝国大学に由来する組織など === *[[学士会]] *[[全国七大学総合体育大会]] *[[七帝柔道]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"|}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} {{Wikisource|帝国大学令}} {{Wikisourcecat|帝国大学}} {{ウィキプロジェクトリンク|大学|[[File:P Education.png|39px|ウィキプロジェクト 大学]]}} * [[日本の学校制度の変遷]] - [[学制]] - [[大学令]] * [[旧制大学]] * [[旧官立大学]] * [[旧制高等学校]] * [[旧制専門学校]] * [[旧外地の高等教育機関]] * [[大学]] - [[大学院]] * [[大学院進学率]] * [[学制改革]] - [[新制大学]] * [[高等教育]] * [[学歴]] - [[学歴貴族]] - [[高等遊民]] * [[学閥]] * [[エリート]] * [[世界大学ランキング]] * [[研究大学強化促進事業]] * [[学術研究懇談会]] * [[貴族院 (日本)#勅任議員]] * [[講座制と学科目制]] {{旧帝国大学}} {{日本の大学群}} {{univ-stub}} == 外部リンク == *帝国大学案内(国立国会図書館デジタルコレクション) **[https://dl.ndl.go.jp/pid/1456992/ 昭和13年度版]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1453958/ 昭和16年度版] {{DEFAULTSORT:ていこくたいかく}} [[Category:日本の旧制大学|*ていこくたいかく]] [[Category:日本の大学群|*ていこくたいかく]]
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2,033
京城帝国大学
京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく、旧字体: 京城󠄀帝󠄁國大學、朝鮮語: 경성제국대학)は、京畿道京城府に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は城大(じょうだい、朝鮮語: 성대)。 1924年(大正13年)に、日本としては6番目の帝国大学として設立された朝鮮唯一の旧制大学。内地の帝国大学が文部省管轄であったのに対し、城大は朝鮮総督府管轄だった。1946年、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁法令102号により、閉鎖された。 李氏朝鮮では、1895年(開国504年)の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年(光武9年)、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。1906年(光武10年)には韓国統監府より普通学校令が公布され、6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた。一方民間では、愛国啓蒙運動の一環で私立学校を設立し、日本の統治や普通学校に反発し朝鮮語でハングルの習得や民族の歴史などの教育を行った。 1910年(明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府は第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を推進した。当初、少ない朝鮮人就学者の多くは民族系の私立学校や書堂に通学していた。そこで総督府は、1911年の改正私立学校規則の公布、1918年(大正7年)の書堂規則の公布により民間教育を抑圧し、日本語の使用を強制する同化教育を推し進めた。その結果、初等学校への就学率は上昇し、併合時代の最末期で50%を超えた。 朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる(台湾でもこの頃同様な政策転換があった→日本統治時代の台湾#内地延長主義時期(1915年 - 1937年))。他方、「内鮮共学」に対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ系宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。 1924年(大正13年)に予科を設置し、1926年(大正15年)に法文学部・医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。 1929年(昭和4年)から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年(昭和6年)の満洲事変と1932年(昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年(昭和16年)には理工学部が設置された。 城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変(日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。しかし、1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年(昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年(昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。 終戦により連合軍軍政期に入ると、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げ、京城帝国大学は閉鎖された。現在のソウル大学校は、城大の固定資産を受け継いで新設されたものであり、他の旧帝国大学のような連続性はない(日本が所有していた城大関連の固定資産の移転に関する法的根拠は以下の年表を参照)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく、旧字体: 京城󠄀帝󠄁國大學、朝鮮語: 경성제국대학)は、京畿道京城府に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は城大(じょうだい、朝鮮語: 성대)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)に、日本としては6番目の帝国大学として設立された朝鮮唯一の旧制大学。内地の帝国大学が文部省管轄であったのに対し、城大は朝鮮総督府管轄だった。1946年、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁法令102号により、閉鎖された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "李氏朝鮮では、1895年(開国504年)の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年(光武9年)、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。1906年(光武10年)には韓国統監府より普通学校令が公布され、6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた。一方民間では、愛国啓蒙運動の一環で私立学校を設立し、日本の統治や普通学校に反発し朝鮮語でハングルの習得や民族の歴史などの教育を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1910年(明治43年)の韓国併合後、朝鮮総督府は第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を推進した。当初、少ない朝鮮人就学者の多くは民族系の私立学校や書堂に通学していた。そこで総督府は、1911年の改正私立学校規則の公布、1918年(大正7年)の書堂規則の公布により民間教育を抑圧し、日本語の使用を強制する同化教育を推し進めた。その結果、初等学校への就学率は上昇し、併合時代の最末期で50%を超えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "朝鮮総督府の武断政治から文化政治への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる(台湾でもこの頃同様な政策転換があった→日本統治時代の台湾#内地延長主義時期(1915年 - 1937年))。他方、「内鮮共学」に対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮アメリカ系宣教師団体が専門学校の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)に予科を設置し、1926年(大正15年)に法文学部・医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1929年(昭和4年)から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年(昭和6年)の満洲事変と1932年(昭和7年)の満洲国設立により、資源が豊富な満洲での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年(昭和16年)には理工学部が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、支那事変(日中戦争)勃発(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。しかし、1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における1930年(昭和5年)の第1期卒業生が日本人43人と朝鮮人12人、城大全体では1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%、1942年(昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "終戦により連合軍軍政期に入ると、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に引き揚げ、京城帝国大学は閉鎖された。現在のソウル大学校は、城大の固定資産を受け継いで新設されたものであり、他の旧帝国大学のような連続性はない(日本が所有していた城大関連の固定資産の移転に関する法的根拠は以下の年表を参照)。", "title": "歴史" } ]
京城帝国大学は、京畿道京城府に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は城大。 1924年(大正13年)に、日本としては6番目の帝国大学として設立された朝鮮唯一の旧制大学。内地の帝国大学が文部省管轄であったのに対し、城大は朝鮮総督府管轄だった。1946年、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁法令102号により、閉鎖された。
{{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 京城帝国大学<br /><small>{{kyujitai|京城&#xe0100;帝&#xe0101;國大學}}</small><br /><small>{{lang|ko|경성제국대학}}</small> |ふりがな = けいじょうていこくだいがく |ロゴ = |ロゴ説明 = |英称 = Keijo Imperial University |画像 = [[ファイル:Keijo Imperial University.JPG|250px]] |画像説明 = 法文学部正門 |大学設置年 = 1924年 |創立年 = 1924年 |廃止年 = 1945年 |学校種別 = 帝国 |設置者 = [[朝鮮総督府]] |本部所在地 = {{JPN1947}} [[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]][[鍾路区]]東崇町 |緯度度 = 37 |緯度分 = 27 |緯度秒 = 36 |経度度 = 126 |経度分 = 57 |経度秒 = 9 |地図国コード = JP |キャンパス = |学部 = [[法文学部]]<br />[[医学部]]<br />[[理工学部]] |研究科 = |ウェブサイト = }}{{右| [[ファイル:Keijo Imperial University-old1.jpg|thumb|none|理工学部正門]] [[ファイル:Keijo Imperial University - Preliminary School.jpg|サムネイル|none|予科]] }} '''京城帝国大学'''(けいじょうていこくだいがく、[[旧字体]]: 京城&#xe0100;帝&#xe0101;國大學、{{lang-ko|경성제국대학}})は、[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]][[京城府]]に本部を置いていた[[日本]]の[[帝国大学]]。[[大学の略称|略称]]は'''城大'''(じょうだい、{{lang-ko|성대}})。 [[1924年]]([[大正]]13年)に、[[日本]]としては6番目の帝国大学として設立された朝鮮唯一の[[旧制大学]]。[[内地]]の帝国大学が[[文部省]]管轄であったのに対し、城大は[[朝鮮総督府]]管轄だった。1946年、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]法令102号により、閉鎖された<ref>{{Cite book|和書|author=キム・ワンソプ|authorlink=金完燮|others=荒木和博・荒木信子|year=2002|title=親日派のための弁明|publisher=草思社|isbn=4-7942-1152-X}}135頁</ref>。 == 歴史 == [[File:Korean Government General Hospital during Japanese rule.jpg|thumb|[[朝鮮総督府]]医院 (本学医学部の前身)]] === 前史 === [[李氏朝鮮]]では、[[1895年]]([[開国 (李氏朝鮮)|開国]]504年)の[[甲午改革]]により近代教育制度が始まった。[[日露戦争]]後の[[1905年]]([[光武 (元号)|光武]]9年)、[[ポーツマス条約]]と[[第二次日韓協約]]により、[[大韓帝国]]([[1897年]]~)は日本の[[保護国]]となった。1906年(光武10年)には[[韓国統監府]]より[[普通学校]]令が公布され、6年制であった小学校を4年制に改編し、教育が進められた<ref name="Inoue"> {{Cite journal |和書 |author=井上薫 |title=日本統治下朝鮮の日本語普及・強制政策 : 1910年代初期における私立学校・書堂の利用・弾圧 |journal= 北海道大學教育學部紀要 |volume=69 |publisher= |date=1995-12 |pages=157-220 }}</ref>。一方民間では、[[愛国啓蒙運動]]の一環で私立学校を設立し、日本の統治や普通学校に反発し[[朝鮮語]]で[[ハングル]]の習得や民族の歴史などの教育を行った。<ref>{{cite | last=金 | first=泰勲 | title=旧韓末韓国における民族主義教育 : 島山安昌浩の大成学校を中心に | publisher=日本大学教育学会 | volume=23 | issue=0 | issn=02884038 | doi=10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.23.0_63 | language=ja | pages=63–81}}</ref> [[1910年]]([[明治]]43年)の[[韓国併合]]後、[[朝鮮総督府]]は第一次「[[朝鮮教育令]]」を公布([[1911年]])して[[普通教育]]を推進した。当初、少ない朝鮮人就学者の多くは民族系の私立学校や[[書堂]]に通学していた。そこで総督府は、[[1911年]]の改正私立学校規則の公布、[[1918年]](大正7年)の書堂規則の公布により民間教育を抑圧し、日本語の使用を強制する同化教育を推し進めた<ref name="Inoue"/>。その結果、初等学校への就学率は上昇し、併合時代の最末期で50%を超えた。 朝鮮総督府の武断政治から[[文化政治]]への政策転換は「内地延長主義」と呼ばれるが、朝鮮での教育に関しては「内鮮共学」と呼ばれる([[台湾]]でもこの頃同様な政策転換があった→[[日本統治時代の台湾#内地延長主義時期(1915年 - 1937年)]])。他方、「内鮮共学」に対抗し、三・一独立運動以降の1920年頃からは、民族系の団体が私立の「朝鮮民立大学」設立の動きを見せ、また、在朝鮮[[アメリカ合衆国|アメリカ]]系[[宣教師]]団体が[[旧制専門学校|専門学校]]の大学昇格の動きもあった。このような日本の朝鮮統治への抵抗としての大学設立機運が朝鮮民衆の中で高まる中、かかる動きを制するために、日本政府及び朝鮮総督府主導下での大学設置が急がれることとなった。 *1918年(大正7年) - [[大正デモクラシー]] *1919年(大正8年) - [[三・一独立運動]] *1920年(大正9年)[[12月]] - 臨時教育調査委員会(総督府令第68号)が設置。 *1922年(大正11年)[[2月]] - 「第二次朝鮮教育令」([[勅令]]第19号)が公布。「内鮮共学」の方針を採用。 *[[1923年]](大正12年)[[11月]] - 朝鮮帝国大学創設委員会を組織 === 大学沿革 === {{Wikisource|京城帝國大學ニ關スル件}} {{右| [[Image:Keijo map circa 1930.PNG|thumb|none|[[1930年]]頃の[[京城府]]。東崇町は[[宗廟 (ソウル特別市)|宗廟]]の北東麓にあり、地図では右上方。清涼里は府東方(地図外)にあり、[[ソウル市電|京城市電]]が通じていた。]] }} [[1924年]](大正13年)に<!--大学本部と-->[[大学予科|予科]]を設置し、[[1926年]](大正15年)に[[法文学部]]・[[医学部]]の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。 [[1929年]]([[昭和]]4年)から大規模な[[水力発電所]]が[[鴨緑江]]とその支流に造られ、[[1930年代]]の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、[[1931年]](昭和6年)の[[満州事変|満洲事変]]と[[1932年]](昭和7年)の[[満州国|満洲国]]設立により、資源が豊富な[[満州|満洲]]での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として[[1941年]](昭和16年)には[[理工学部]]が設置された。 城大の教授陣は[[東京大学|東京帝国大学]]卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。[[日本語]]で[[専門教育]]の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での[[普通教育]]が必要であり、[[支那事変]]([[日中戦争]])勃発([[1937年]])後には「第三次朝鮮教育令」が公布([[1938年]])され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた。しかし、[[1942年]](昭和17年)の朝鮮人の[[就学率]]は55%、日本語普及率は20%に留まり、城大でも医学部における[[1930年]](昭和5年)の第1期卒業生が[[日本人]]43人と[[朝鮮民族|朝鮮人]]12人<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/27/9000000000AJP20090227003500882.HTML 今日の歴史(3月25日)] 聯合ニュース 2009/03/25</ref>、城大全体では[[1937年]](昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2[[パーセント|%]]と29.8%、[[1942年]](昭和17年)のそれが60.4%と39.6%と、朝鮮人学生が過半を占めるに至らなかった。 *1924年(大正13年)[[5月]] - 朝鮮総督府所管の帝国大学として設立。[[大学予科]]([[修業年限]]2年)を設置。 *1926年(大正15年)5月 - [[法文学部]]・[[医学部]]設置。 **法文学部は憲法・行政法/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法/経済学/政治学・政治史/羅馬法/哲学・哲学史/支那哲学/倫理学/心理学/宗教学・宗教史/美学・美術史/教育学/社会学/国史学/朝鮮史学/東洋史学/国語学・国文学/朝鮮語学・朝鮮文学/支那語学・支那文学/外国語学・外国文学の各講座を設置。 **医学部は解剖学・生理学・医化学・薬物学・病理学・微生物学の各講座を設置。 *[[1934年]](昭和9年)- 予科の修業年限を3年に延長。 *1938年(昭和13年)- 理工学部の予科生が入学。 *1941年(昭和16年)- [[理工学部]]設置。 *1941年(昭和16年)[[10月]] - 授業年限の短縮令。[[太平洋戦争]]開戦で短縮期間は延長。 *1942年(昭和17年)5月 - 高地療養研究所を附置。 *[[1945年]](昭和20年)[[6月]] - 大陸資源科学研究所を附置。 === 戦後 === [[終戦]]により[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]に入ると、教職員や学生の半数以上を占める日本人学生は日本に[[引き揚げ]]、京城帝国大学は閉鎖された。現在の[[ソウル大学校]]は、城大の固定資産を受け継いで新設されたものであり、他の旧帝国大学のような連続性はない(日本が所有していた城大関連の固定資産の移転に関する法的根拠は以下の年表を参照)。 * 1945年 ** [[8月15日]] - 日本が[[ポツダム宣言]]を受諾。 ** [[9月2日]] - 日本が[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印。 ** [[9月7日]] - アメリカ合衆国極東軍司令部が、[[38度線|北緯38度線]]以南の朝鮮において[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政]]を開始すると宣言。 ** [[9月9日]] - [[朝鮮総督府]]が降伏文書に署名。 ** [[9月11日]] - [[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]] (USAMGIK) による南朝鮮の直接統治開始。 ** [[10月17日]] - 京城帝国大学を京城大学に改称<ref name="NSH">{{PDFlink|[http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/2013-03-29/s001/s022/pdf/article.pdf 国立ソウル大学校の発展過程にみる植民地高等教育の「遺産」 ─ 医科大学における教員組織の変化に注目して]}}([[大学共同利用機関法人]][[人間文化研究機構]][[国際日本文化研究センター]])</ref>。 ** [[10月22日]] - 「'''京城大学'''」として開学<ref name="NSH"/>。 ** [[12月6日]] - 軍令第33号「朝鮮内にある日本人財産取得に関する件」により、USAMGIK管轄内の日本の総ての公私有財産([[8月9日]]時点<ref group="※">日本からのポツダム宣言受諾に向けた交渉申し入れを、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側が受けた日。</ref>)が、[[9月25日]]付けでUSAMGIKに移転された<ref name="sangiin20080401">{{PDFlink|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2008pdf/20080401090.pdf 国会から見た経済協力・ODA (7) ~ 日韓基本条約、請求権・経済協力協定を中心に(その1) ~]}}([[参議院]][[行政監視委員会調査室]])</ref>。 * [[1946年]] ** [[8月22日]] - [[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]法令102号によって閉鎖。 == 大学関係者 == === 歴代総長 === #[[有吉忠一]](事務取扱;[[1924年]]5月-1924年7月) #[[下岡忠治]](同上;1924年7月-[[1925年]]11月) #[[湯浅倉平]](同上;1925年12月-[[1926年]]4月) #[[服部宇之吉]](兼任;1926年4月-[[1927年]]7月) #[[松浦鎮次郎]](1927年7月-[[1929年]]10月) #[[志賀潔]](1929年10月-[[1931年]]10月) #[[山田三良]](1931年10月-[[1936年]]1月) #[[速水滉]](1936年1月-[[1940年]]7月) #[[篠田治策]](1940年7月-[[1944年]]3月) #山家信次(1944年3月-[[1945年]]8月?) === 著名な教員 === {{See also|Category:京城帝国大学の教員}} {{colbegin|3}} * [[白南雲]] - 経済史 * [[尹日善]] - 病理学 * [[安倍能成]] - 哲学 * [[宮本和吉]] - 哲学・フッサール研究 * [[松月秀雄]] - 教育学 * [[高橋亨 (朝鮮学者)|高橋亨]] - 儒教史・朝鮮仏教史 * [[阿部吉雄]] - 儒教史・李退渓研究 * [[田保橋潔]] - 国史学・政治史・近代日朝関係史 * [[藤塚鄰]] - 東洋史 * [[鳥山喜一]] - 東洋史・渤海史 * [[西順蔵]] - 中国思想史 * [[小田省吾]] - 朝鮮史・李朝史 * [[藤田亮策]] - 考古学 * [[今西龍]] - 朝鮮古代史 * [[末松保和]] - 朝鮮古代史・任那史 * [[高木市之助]] - 国文学 * [[麻生幾次]] - 国文学・万葉集研究 * [[佐藤清 (英文学者)|佐藤清]] - 英文学・英詩研究 * [[辛島驍]] - 支那文学・戯曲研究 * [[小倉進平]] - 言語学・朝鮮語学史 * [[時枝誠記]] - 言語学 * [[河野六郎]] - 言語学・文字論 * [[赤松智城]] - 宗教学・朝鮮[[巫俗]]研究 * [[秋葉隆]] - 社会学・家族学 * [[鈴木栄太郎]] - 社会学 * [[尾高朝雄]] - 法哲学 * [[清宮四郎]] - 法学・憲法学 * [[松岡修太郎]] - 法学・憲法学 * [[安田幹太]] - 法学・民法学 * [[山中康雄]] - 法学・民法学 * [[船田享二]] - 羅馬法 * [[泉哲]] - [[植民政策学]] * [[三宅鹿之助]] - 経済学・マルクス経済史 * [[鈴木武雄]] - 経済学 * [[四方博]] - 経済史 * [[奥平武彦]] - 政治外交史 * [[高井俊夫]] - 小児科学 * [[宇野利雄]] - 数学 * [[黒田幹一]] - (予科)独語 * [[佐々木忠義]] - (予科)物理学 * [[津田栄]] - (予科)化学・数学 * [[森為三]] - (予科)動物、植物、自然科学 * [[桜井義之]] - 朝鮮経済研究所研究員 * [[レジナルド・ブライス]] - (予科)英語・ラテン語 * [[鈴木清 (医学者)|鈴木清]] - 生殖細胞染色<ref>淡路の誇 上巻 片山喜一郎 實業之淡路社 1929 P.346</ref> {{colend|3}} === 著名な出身者 === {{colbegin|3}} *金鍾烈 - 政治家 *金会漢 - 法学者 *閔復基 - 大韓民国[[大法院 (大韓民国)|大法院]]長 *成楽緖 - 制憲議員、[[忠南大学校|忠南大]]総長 *[[申鉉碻]] - 政治家、[[国務総理 (大韓民国)|大韓民国国務総理]] *[[兪鎮午]] - 小説家、法学・憲法学者、普成専門学校教授、[[高麗大学校|高麗大]]教授、憲法起草委員、国会議員、韓日国交正常化交渉韓国側代表 *李康国 - 政治家 *[[李大源 (画家)|李大源]] - 画家 *李道栄 - 政治家、企業人 *李林学 - 数学者 *李在鶴 - 政治家 *李周衡 - 政治家 *李恒寧 - 法学者、[[弘益大学校|弘益大]]総長 *[[李孝石]] - 小説家 *柳洪烈 - 歴史学、ソウル大学教授 *金錫亨 - 歴史学、[[金日成総合大学]]教授  *田鳳徳 - 弁護士 *崔丙柱 - 政治家 *洪璡基 - 判事 *洪翼杓 - 政治家 *林学洙 - 詩人、金日成総合大学教授 *崔載瑞 - 詩人、英文学者 *申奭鎬 - 韓国史、[[朝鮮史編修会]]修史官、高麗大教授、[[国史編纂委員会]]委員長 *金聖七 - 史学科(選科)卒 *森田芳夫 - 朝鮮史研究、外務事務官、[[誠信女子大学校|誠信女子大]]教授、『[[朝鮮終戦の記録]]』著者 *田川孝三 - 李朝史研究、[[朝鮮史編修会]]修史官、[[東洋文庫]]、[[東京大学]]助教授、『[[李朝貢納制の研究]]』著者 *[[泉靖一]] - [[文化人類学]]、[[東京大学東洋文化研究所]]教授 *[[嶋崎昌]] - [[歴史学者]]、[[中央大学]]17代学長 *前田利一 - 外交官、韓国大使、[[日韓文化交流基金]]理事長 *[[黒田嘉一郎]] - [[徳島大学]]医学部教授、同・医学部長、[[徳島文理大学]]学長 *[[橋本正之]] - 元[[山口県]][[知事]](1960~76)、朝鮮総督府官僚出身 *坪井幸生 - 道警視([[咸鏡北道 (日本統治時代)|咸鏡北道]]警察部外事警察課長)、道事務官([[忠清北道 (日本統治時代)|忠清北道]]警察部長)、九州管区警察局長、[[大分県]]副知事 *[[三谷好憲]]- [[宗教哲学者]]、元[[京都産業大学]]教授 (1946年閉校まで。) *柴田平 - 元[[西松建設]]社長(1983~95) *長谷川隆太郎 - 元[[佐世保重工業]]社長(1988~98) {{colend|3}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="※"|}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{PDFlink|[http://www.nuedu-db.on.arena.ne.jp/pdf/040/40-r-002.pdf 植民地朝鮮の高等工業教育に関する一考察]}}(李吉魯 [[日本大学]]文理学部人文科学研究所) * [[泉靖一]] 「旧植民地帝国大学考」 『[[中央公論]]』[[1970年]]7月号、所収 * 阿部洋 「日本統治下朝鮮の高等教育 ─京城帝国大学と民立大学設立運動をめぐって─」 『[[思想]]』[[1971年]]7月号、所収 * 京城帝国大学同窓会 『紺碧遙かに ─京城帝国大学創立五十周年記念誌─』 [[1974年]] * 馬越徹 『韓国近代大学の成立と展開 ─大学モデルの伝播研究─』 名古屋大学出版会、[[1995年]] ISBN 4815802513 ** 第四章「日本型植民地大学としての京城帝国大学」・第五章「米軍統治下の高等教育」。 * 稲葉継雄 『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』 九州大学出版会、[[2005年]] ISBN 4873788846 ** 第14章「京城帝国大学予科」。 * [[石川健治]] 「コスモス ─京城学派公法学の光芒─」 酒井哲哉(編) 『「帝国」編成の系譜』(岩波講座「「帝国」日本の学知」第1巻) [[岩波書店]]、[[2006年]]、所収 * [[通堂あゆみ]]「京城帝国大学[[法文学部]]の再検討―法科系学科の組織・人事・学生動向を中心に―」(『[[史学雑誌]]』117-2、2008年2月) == 関連項目 == {{Commonscat|Keijō Imperial University}} {{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像(帝国大学)}} *[[ソウル大学校]] *[[帝国大学]] *[[京城高等商業学校]] *[[旧外地の高等教育機関]] == 外部リンク == * [https://ci.nii.ac.jp/naid/110006263239 京城帝国大学予科について:「朝鮮的要素」と「内地的要素」を中心に](稲葉継雄 九州大学大学院教育学研究紀要 2004年) *[http://qsay55.starfree.jp/KJ.html 華麗なる旧制高校巡礼 - 旧制京城帝国大学予科] {{旧制大学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいしようていこく}} [[Category:日本の旧制大学]] [[Category:日本統治時代の朝鮮の教育機関]] [[Category:京城府]] [[Category:学校記事]]
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台北帝国大学
台北帝国大学(たいほくていこくだいがく、旧字体: 臺北帝󠄁國大學、繁体字中国語: 臺北帝國大學)は、台北州台北市に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は台大(たいだい、繁体字中国語: 臺大)。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に7番目の帝国大学として設立された。内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄だった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月に開講した。さらに、1941年(昭和16年)には予科(豫科)も設立された。1945年(昭和20年)度時点では、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部で構成されていた。1945年11月15日に、中華民国が接収し、国立台湾大学に改称。 大学設立の準備段階では当初「台湾大学」との名称が用いられ、その後、「台湾帝国大学」が用いられたが、「台湾帝国大学」では台湾帝国の大学との誤解が生じるとの理由から1927年に「台北帝国大学」に名称が決まった。 昭和20年度時点における組織は以下の通りであった。
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台北帝国大学は、台北州台北市に本部を置いていた日本の帝国大学。略称は台大。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に7番目の帝国大学として設立された。内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄だった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月に開講した。さらに、1941年(昭和16年)には予科(豫科)も設立された。1945年(昭和20年)度時点では、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部で構成されていた。1945年11月15日に、中華民国が接収し、国立台湾大学に改称。
{{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 台北帝国大学<br /><small>{{kyujitai|臺北帝&#xe0101;國大學}}</small> |ふりがな = たいほくていこくだいがく |ロゴ = |ロゴ説明 = |英称 = Taihoku Imperial University |画像 = [[ファイル:Taihoku Imperial University.JPG|250px]] |画像説明 = 正門 |大学設置年 = 1928年 |創立年 = 1928年 |廃止年 = 1945年 |学校種別 = 帝国 |設置者 = [[台湾総督府]] |本部所在地 = {{JPN1947}} [[台北州]][[台北市]][[富田町 (台北市)|富田町]]47番地 |緯度度 = 25 |緯度分 = 1 |緯度秒 = 4.7 |経度度 = 121 |経度分 = 32 |経度秒 = 14.2 |地図国コード = JP |キャンパス = |学部 = [[文政学部]]<br />[[理学部]]<br />[[農学部]]<br />[[医学部]]<br />[[工学部]] |研究科 = |ウェブサイト = }} '''台北帝国大学'''(たいほくていこくだいがく、[[旧字体]]: 臺北帝&#xe0101;國大學、{{lang-zh-hant|臺北帝國大學}})は、[[台北州]][[台北市]]に本部を置いていた[[日本]]の[[帝国大学]]。[[大学の略称|略称]]は'''台大'''(たいだい、{{lang-zh-hant|臺大}})。 [[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の[[1928年]]([[昭和]]3年)3月16日に7番目の帝国大学として設立された。内地の帝国大学が[[文部省]]の管轄であったのに対し、台北帝国大学は[[台湾総督府]]の管轄だった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月に開講した。さらに、[[1941年]](昭和16年)には[[大学予科|予科]](豫科)も設立された。[[1945年]](昭和20年)度時点では、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部で構成されていた。[[1945年]][[11月15日]]に、[[中華民国]]が接収し、'''[[国立台湾大学]]'''に改称。 == 沿革 == 大学設立の準備段階では当初「台湾大学」との名称が用いられ、その後、「台湾帝国大学」が用いられたが、「台湾帝国大学」では台湾帝国の大学との誤解が生じるとの理由から[[1927年]]に「台北帝国大学」に名称が決まった<ref>李恒全、「[https://doi.org/10.24546%2F80060006 台北帝国大学設立計画案に関する一考察 : 幣原坦の設立構想を中心に]」 『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要』 2007年 第1巻 第1号, 45-64頁, {{doi|10.24546/80060006}}</ref>。 * [[1928年]]3月16日 - [[勅令]]第30号([[:s:臺北帝國大學ニ關スル件|臺北帝國大學ニ關スル件]])により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 ** 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 ** 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/地質学/化学/生物化学/植物病理学の各講座より構成(勅令第33号)。 * 1928年4月1日 - 文政学部及び理農学部開講。理農学部に附属植物園、附属農場を設置。台北高等農林学校を統合し、附属農林専門部を設置。 ** 文政学部に東洋倫理学・西洋倫理学/西洋文学/経済学/民法・民事訴訟法/刑法・刑事訴訟法、理農学部に気象学/農芸化学第一(土壤肥料学)/応用菌学/昆虫学・養蚕学の各講座を増設し、文政学部12講座、理農学部10講座で開講(勅令第49号)。 * 1928年12月26日 - 1929年度における開講講座拡充準備のため、文政学部4講座、理農学部9講座を増設(勅令第287号)。 ** 文政学部に南洋史学/東洋哲学/教育学・教育史/政治学・政治史、理農学部に植物学第二/数学/物理学/化学第二/農学・熱帯農学第一(農業経済学)/農学・熱帯農学第二(園芸学)/農芸化学第二(農産利用学)/農産製造学・製糖化学/農業工学の各講座を増設。 * [[1929年]]4月10日 - 文政学部4講座、理農学部1講座を増設し、各学部を20講座に拡充(勅令第60号)。 ** 文政学部に東洋文学/国史学/法律哲学/経済学第二、理農学部に動物学第二の各講座を増設。 * [[1930年]]2月26日 - 1930年度における開講講座拡充準備のため、文政学部4講座、理農学部4講座を増設し、各学部を24講座に拡充(勅令第32号)。 ** 文政学部に国語学・国文学第二/言語学/西洋史学・史学・地理学/民法・民事訴訟法第二、理農学部に農学・熱帯農学第三(作物学)/農学・熱帯農学第四(育種学)/農芸化学第三(営養化学)/畜産学の各講座を増設。 * [[1931年]] - 学位令による学位授与が制度化。 *[[1936年]]1月1日 - 医学部を設置。 ** 医学部は解剖学第一/解剖学第二/生理学第一/生理学第二/生化学/病理学第一/細菌学の各講座により構成。 * 1936年3月31日 - 医学部開講。台北医学専門学校を統合し、附属医学専門部を設置。 * [[1937年]]1月1日 - 医学部に5講座を増設し、計12講座に拡充。 ** 病理学第二/寄生虫学/薬理学/法医学/内科学の各講座を増設。 * 1937年8月7日 - 文政学部1講座、理農学部2講座を増設し、文政学部25講座、理農学部26講座に拡充(勅令第409号)。 ** 文政学部に商法、理農学部に地質学第二/化学第三の各講座を増設。 *[[1938年]]1月11日 - 医学部に臨床系の8講座を増設し、計20講座に拡充。 ** 内科学第二/外科学第一/外科学第二/産科学・婦人科学/小児科学/眼科学/皮膚科学・泌尿器科学/耳鼻咽喉科学の各講座を増設。 * 1938年4月1日 - [[台湾総督府]]台北医院を統合し、医学部附属医院を設置。 *[[1939年]]1月1日 - 医学部に4講座を増設し、計24講座で完成。 ** 衛生学/内科学第三/精神病学/歯科学の各講座を増設。 * 1939年4月27日 - 熱帯医学研究所を附置。 * [[1940年]]3月30日 - 理農学部に醸造学講座を増設、農産製造学・製糖化学講座を製糖化学講座と改称し、理農学部を計27講座に拡充。 * [[1941年]]4月4日 - 予科設置。理農学部に家畜衛生学講座を増設し、計28講座に拡充 * [[1943年]]1月1日 - 工学部設置。 * 1943年3月13日 - 南方人文研究所(勅令第124号)・南方資源科学研究所(勅令第125号)を附置。 * 1943年4月1日 - 理農学部を理学部・農学部に分離(勅令第298号)。附属農林専門部が台中高等農林学校として分離独立。 ** 理学部に植物学第三、農学部に畜産学・熱帯畜産学第二/家畜病理学の各講座を増設し、理学部12講座、農学部19講座とする。 * 1943年7月1日 - 工学部開講。 ** 工学部は機械工学第一(機械設計法、機械学、機械力学)~第二(蒸汽原動機)/電気工学第一(電気理論)、第二(電気通信)、第三(電気機械)/応用化学第一(酸鹸工業、塩類、肥料及瓦斯等)、第二(珪酸、塩、工業化学(水泥及玻璃))、第三(工業電気化学)、第四(炭水化学及発酵)/土木工学第一(混凝土工学)、第二(橋梁)、第三(上水及下水)/材料強弱学/工業物理学/応用数学・力学/工業分析学の計16講座により構成。 * [[1944年]]4月4日 - 理学部に1講座、農学部に2講座を増設し、理学部13講座、農学部21講座に拡充(勅令第229号)。 ** 理学部に化学第四、農学部に農学・熱帯農学第五(工芸作物学)/家畜内科学の各講座を増設。 * 1944年7月1日 - 工学部に10講座を増設し、計26講座に拡充。 ** 工学部に機械工学第三(内燃機関)、第四(水力学及水力機械)、第五(機械工作法)/電気工学第四(電力及応用)~第五(電気測定法)/応用化学第五(石油及燃料)/土木工学第四(河川及港湾)~第五(鉄道及道路)/金属材料学/工業地質学の各講座を増設。工業分析学講座を工業分析化学講座に改称。 * [[1945年]]4月10日 - 農学部に1講座、工学部に5講座を増設し、農学部22講座、工学部31講座に拡充。 ** 農学部に家畜外科学、工学に機械工学第六(冷凍機冷藏法及冷房化学機械)/電気工学第六(高周波電気工学)/応用化学第六(脂肪油、芳香油、合成化学工業)/土木工学第六(構造力学)/建築学の各講座を増設。 * 1945年11月15日 - 中華民国政府が接収。国立台湾大学に改称される。 * 1952年4月28日 - [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]により官制上も廃止。 == 組織 == 昭和20年度時点における組織は以下の通りであった。 * 本部 ** 庶務課 ** 会計課 * 学生課 * 附属図書館 * 文政学部 ** 哲学科 ** 史学科 ** 文学科 ** 政学科 * 理学部 ** 化学科 ** 動物学科 ** 植物学科 ** 地質学科 ** 附属植物園 * 農学部 ** 農学科 ** 農業経済学科 ** 農業土木学科 ** 農芸化学科 ** 獣医学専攻 ** 附属農場 * 医学部 ** 附属医院 * 工学部 ** 機械工学科 ** 電気工学科 ** 応用化学科 ** 土木工学科 * 予科 ** 文科 ** 理科理農類 ** 理科医類 ** 理科工類 * 附属医学専門部 * 熱帯医学研究所 ** 熱帯病学科 ** 熱帯衛生学科 ** 細菌血清学科 ** 化学科 ** 厚生医学科 ** 庶務課 ** 士林支所 ** 台中支所 ** 台南支所 * 南方人文研究所 ** 第一部(政治及び法制に関する調査及び研究、財政及び経済に関する調査及び研究) ** 第二部(文化に関する調査及び研究、民族に関する調査及び研究) ** 庶務係 * 南方資源科学研究所 ** 第一部(農作物及び家畜の改良、増産及び新品種の育成に関する農学的研究及び調査) ** 第二部(農林資源に関する加工及び製造に関する農芸科学的研究及び調査) ** 第三部(天然資源に関する理化学的研究及び調査、天然資源に関する地質学的及び鉱物学的研究及び調査) ** 実験所(現地に於ける資源に関する実験及び調査) ** 庶務係 <gallery> File:Cca110001-hp-pb1203016p024-i.jpg|航空写真 File:Cca110001-hp-pb1397568p021-i.jpg|文政学部 File:Cca110001-hp-pb1397568p041-i.jpg|医学部 File:Cca110001-hp-pb20122120051-i.jpg|理農学部 </gallery> == 歴代総長 == # [[幣原坦]]([[1928年]]3月-[[1937年]]9月) # [[三田定則]]([[1937年]]9月-[[1941年]]4月) # [[安藤正次]]([[1941年]]4月-[[1945年]]5月) # 安藤一雄([[1945年]]5月-[[1945年]]8月?) == 出身者 == * [[辜振甫]] - 実業家・政治家 * [[尾崎秀樹]](医学専門部中退) - 文芸評論家 * [[青木茂 (豊橋市長)|青木茂]] - [[豊橋市#市長|豊橋市]]長 *[[山根敏子]] - 女性初外交官 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連書籍 == * 鍾清漢 『日本植民地下における台湾教育史』 多賀出版、[[1993年]] ISBN 4811532015 == 関連項目 == {{Commonscat|Taihoku Imperial University}} {{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像(帝国大学)}} * [[帝国大学]](帝大) * [[日本統治時代の台湾の高等教育機関]] * [[旧外地の高等教育機関]] * [[台北高等商業学校]] == 外部リンク == * [http://taiwanhistoryjp.com/taihoku-imperial-university_part1/ 台北帝国大学(台北帝大)の歴史]ー台湾史.jp *[http://qsay55.starfree.jp/TI.html 華麗なる旧制高校巡礼-旧制台北帝国大学予科] {{旧制大学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいほくていこくたいかく}} [[Category:日本の旧制大学]] [[Category:日本統治時代の台湾の学校]] [[Category:日本のアジア研究史]] [[Category:国立台湾大学]] [[Category:台北市の歴史]] [[Category:大安区 (台北市)]] [[Category:学校記事]]
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須藤真澄
須藤 真澄(すどう ますみ、1964年12月17日 - )は、日本の漫画家。東京都墨田区出身。女性。東京都立城東高等学校を経て東京学芸大学教育学部卒業。 同人誌活動から、プロデビューに至る。プロデビューは『DUO』別冊『すとろベリィ』(朝日ソノラマ)掲載の『わたくしどものナイーヴ』。『あずきちゃん』の作者木村千歌とは学生時代からの友人で、同時にデビューしている。 代表作に『振袖いちま』、『アクアリウム』、『おさんぽ大王』、『ゆず』、『どんぐりくん』など。『アクアリウム』は1998年に映画化された。また『ごきんじょ冒険隊』は、同名の家庭用ゲーム機(スーパーファミコン)向けRPGの製作とパラレル展開したもの。 2010年から『コミックビーム』(エンターブレイン)に『庭先案内』の続編である『庭先塩梅』が2016年まで連載された。 「一点鎖線」状の描線が最大の特徴(後述)。初期は日常に奇妙な空間が開く幻想的な雰囲気のファンタジー漫画作品が主であったが、近年は愛猫「ゆず」(2005年1月に病気で死去)を題材としたり、作者とその周りの人々との日常を描いたエッセイ的な作品でも活躍している。ゆずはエッセイ漫画『ゆず』、『ゆずとまま』などのシリーズに描かれたほか、『どんぐりくん』の主人公のモデルになった。また、雑誌『ゴジラマガジン』の『怪獣対策本部物語』とコラムページのカット(怪獣対策本部)で怪獣「ネコンタ」(普段は飼い猫だが、籠から出すと巨大化する)としても登場しており、同読者にも愛される存在として知られていた。 ファンタジー作品では、下町や日本の田舎町、あるいはネパールやバリ島を中心とした東南アジアを舞台とすることが多い。青年や少年少女だけではなく、老人、熟年の男女、幼い子供など、様々な年齢の人々の交流をコミカルに、人情味豊かに描写する。 エッセイ作品では、実在の人物の特徴を上手にデフォルメした似顔絵を得意としている。既婚者だが作品には夫がほとんど出てこないので、漫画だけ読んでいると独身であるように見える。 人物の輪郭線や、物体の輪郭の大半が、「・-・-・-」といった粘っこい強弱のついた一点鎖線で描かれ、逆光が溢れ出しているような印象を与える。 さらに、美少女の描写には、以下の要素が加わる。 初期はやや尖った描線の、白っぽく線の細い画風だったが、その後はやや線が太い、丸っこい描線になっている。
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須藤 真澄は、日本の漫画家。東京都墨田区出身。女性。東京都立城東高等学校を経て東京学芸大学教育学部卒業。 同人誌活動から、プロデビューに至る。プロデビューは『DUO』別冊『すとろベリィ』(朝日ソノラマ)掲載の『わたくしどものナイーヴ』。『あずきちゃん』の作者木村千歌とは学生時代からの友人で、同時にデビューしている。 代表作に『振袖いちま』、『アクアリウム』、『おさんぽ大王』、『ゆず』、『どんぐりくん』など。『アクアリウム』は1998年に映画化された。また『ごきんじょ冒険隊』は、同名の家庭用ゲーム機(スーパーファミコン)向けRPGの製作とパラレル展開したもの。 2010年から『コミックビーム』(エンターブレイン)に『庭先案内』の続編である『庭先塩梅』が2016年まで連載された。
'''須藤 真澄'''(すどう ますみ、[[1964年]][[12月17日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[墨田区]]出身。女性。[[東京都立城東高等学校]]を経て[[東京学芸大学]][[教育学部]]卒業。 [[同人誌]]活動から、プロデビューに至る。プロデビューは『[[DUO (マンガ雑誌)|DUO]]』別冊『すとろベリィ』([[朝日ソノラマ]])掲載の『わたくしどものナイーヴ』。『[[あずきちゃん]]』の作者[[木村千歌]]とは学生時代からの友人で、同時にデビューしている。 代表作に『[[振袖いちま]]』、『[[アクアリウム (須藤真澄の漫画)|アクアリウム]]』、『[[おさんぽ大王]]』、『[[ゆず (漫画)|ゆず]]』、『[[どんぐりくん]]』など。『アクアリウム』は[[1998年]]に映画化された。また『[[ごきんじょ冒険隊]]』は、同名の家庭用ゲーム機([[スーパーファミコン]])向け[[コンピュータRPG|RPG]]の製作とパラレル展開したもの。 [[2010年]]から『[[コミックビーム]]』(エンターブレイン)に『[[庭先案内]]』の続編である『庭先塩梅』が[[2016年]]まで連載された。 == 作風 == 「一点鎖線」状の描線が最大の特徴(後述)。初期は日常に奇妙な空間が開く幻想的な雰囲気の[[ファンタジー漫画]]作品が主であったが、近年は愛猫「ゆず」([[2005年]]1月に病気で死去)を題材としたり、作者とその周りの人々との日常を描いた[[随筆|エッセイ]]的な作品でも活躍している。ゆずはエッセイ漫画『ゆず』、『ゆずとまま』などのシリーズに描かれたほか、『どんぐりくん』の主人公のモデルになった。また、雑誌『[[ゴジラマガジン]]』の『怪獣対策本部物語』とコラムページのカット(怪獣対策本部)で怪獣「ネコンタ」(普段は飼い猫だが、籠から出すと巨大化する)としても登場しており、同読者にも愛される存在として知られていた。 ファンタジー作品では、下町や日本の田舎町、あるいは[[ネパール]]や[[バリ島]]を中心とした[[東南アジア]]を舞台とすることが多い。青年や少年少女だけではなく、老人、熟年の男女、幼い子供など、様々な年齢の人々の交流をコミカルに、人情味豊かに描写する。 エッセイ作品では、実在の人物の特徴を上手にデフォルメした[[似顔絵]]を得意としている。既婚者だが作品には夫がほとんど出てこないので、漫画だけ読んでいると独身であるように見える。 === 画風 === 人物の輪郭線や、物体の輪郭の大半が、「・-・-・-」といった粘っこい強弱のついた'''一点鎖線'''で描かれ、逆光が溢れ出しているような印象を与える。 さらに、美少女の描写には、以下の要素が加わる。 *黒目は、瞳や輝きを描かず黒く塗り潰す。 *目の上1/3ほど全体が真っ黒に塗り潰される、睫毛を強調した表現であるらしい。 *両目尻下部に下睫毛を表現したものと思われる黒い三角形がある。 *両目尻に(上記三角形の上部)、潤んだような印象を与える小円弧が描いてある。 初期はやや尖った描線の、白っぽく線の細い画風だったが、その後はやや線が太い、丸っこい描線になっている。 == 作品リスト == === コミックス・絵本 === * 電氣ブラン([[1985年]]) * [[観光王国]]([[1989年]]) * 子午線を歩く人([[1990年]]) * 天国島(パライソじま)より([[1992年]]) * [[振袖いちま]] 全3巻([[1993年]]-) * ゆず 生きていく私とゆず(1993年) * ナナカド町綺譚([[1994年]]) * [[アクアリウム (須藤真澄の漫画)|アクアリウム]](1994年) * ゆずとまま ([[1996年]]) * [[おさんぽ大王]] 全7巻([[1997年]]-[[2003年]]、[[コミックビーム]]連載) * じーばーそだち(1997年) * [[ごきんじょ冒険隊]](1997年) * てぬのほそみち([[1999年]]) * 金魚銀魚(1999年) * [[どんぐりくん]] 全4巻(1999年-) * あゆみ([[2001年]]) * ゆずのどんぐり童話(2001年) * どんぐりがくえん(2003年) * [[マヤ (漫画)|マヤ]]([[2004年]]) - 『[[鶏頭樹]]』他の短編を収録 * [[庭先案内]] 全6巻(2004年-[[2010年]]、コミックビーム連載) * 長い長いさんぽ([[2006年]]) * 萌葱(2010年) - 自選短編集 * 梅鼠(2010年) - 自選短編集 * ナナナバニ・ガーデン(2010年) * 水蜻蛉の庭([[2011年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第1巻 * 金魚草の池([[2012年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第2巻 * 地図苔の森([[2012年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第3巻 * 火輪花の丘([[2013年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第4巻 * 木珊瑚の島([[2015年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第5巻 * 土筆柑の空([[2016年]]) - 『コミックビーム』連載の庭先塩梅の第6巻(最終巻) * どこか遠くの話をしよう(「上」[[2017年]]) - 「下」[[2018年]]) *[[おさんぽ大王|おさんぽマスターズ]]([[2003年|2021年]]、コミックビーム連載) === 画集 === * ますびえ 須藤真澄画集([[2000年]]) * よいこ-どんぐりくんポストカード(2000年) === その他 === * どと~のムー民くん(1988年 - 1998年) - [[ムー (雑誌)|ムー]]に「ひらはら平太」名義で連載されていた[[4コマ漫画|4コママンガ]]。 * 鈴木浩彦『一つ目小僧の秘密』(1989年) - イラストを担当 * ゆざわなつき『たっくんみーちゃん ろくおんえほん』(1994年) - イラストを担当 * 加藤由子『あなたの猫の偏差値は?』(2001年) - 漫画を担当 * 加藤由子『あなたの猫の愛情診断』(2001年)- 漫画を担当 * 加藤由子『猫を飼う資格!?猫検』([[2007年]]) - 漫画を担当 * [[有川浩]]『[[三匹のおっさん]]』(2009年) - イラストを担当 * [[ひょうたん書店]] - イメージキャラクターのデザインを担当 * MSDのしたてやノート(2008年 - 2011年) - お人形ムック『Dolly*Dolly』連載のコラム。[[スーパードルフィー|MSD]]用のドール服の作り方を、雑談を交えつつ紹介している。 === CD-ROM === * バザール 須藤真澄の世界(1996年) === 携帯電話コンテンツ === * ネコ好き天国(イラスト) == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.catnet.ne.jp/masumi/welcome.html |title=須藤真澄・おさんぽ王国 |date=20220128030627}} - 公式サイト * {{Twitter|Bulsara55844268}} - アカウント開設は2021年8月、初Tweetは2021年12月6日 * {{Wayback |url=http://meta-metaphysica.net/manga/writer/sudoh_m.html |title=須藤真澄データ集 |date=20070707103038}} - プロフィール等 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:すとう ますみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京学芸大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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2,037
ラジオシティ
ラジオシティ (Radiosity) とは、3次元コンピュータグラフィックスのレンダリングにおける、グローバル・イルミネーションの計算法のひとつである。 一般に多用されているレイトレーシングのように、仮想のカメラから、そこに届く光線を求めていくという方向ではなく、光源の側から、光として発せられたエネルギーの行方を熱力学的に処理することで(エネルギー保存則)、複数の物体が光を乱反射させて、お互いを照らす効果などが計算できる。たとえば壁紙が赤いために部屋にあるものが赤く見えるといった効果がより現実的に再現できる。 この方法を用いると柔らかな陰影が表現でき、特に室内などの風景で画像の写実性が高くなる。現在では、リアルタイム描画以外の3次元グラフィックスではラジオシティを何らかの形で援用することが多い。ラジオシティ法はレイトレーシング法などのモンテカルロ法に基づいた手法と異なり、あらゆる種類の照明現象を再現することはできない。典型的なラジオシティ法は場面が拡散面によってのみ構成されていることを前提としているため、光源から放射された光が何度か拡散面によって反射されたあとで視点にいたるという現象しか再現できない。この現象を一般的な光経路の表記法であるHeckbertの表記法により表すと「LD*E」となる。ラジオシティ法の利点として、一度計算を行っておけば、オブジェクトや照明を変更しない限り、カメラ設定を変更しても再レンダリングを容易に行えるということが挙げられ、近年はリアルタイムレンダラーでも使用例がある。 ラジオシティの基本的な手法は熱移動の研究分野で1950年に初めて提案されたものである。後の1984年にコーネル大学の研究チームがコンピュータグラフィックスによるレンダリングにこれを応用した。そのためラジオシティ法のような大域照明を行うための有名なサンプル(ユタ・ティーポットなど)にコーネルボックスがある。また日本のコンピュータグラフィックス研究の第一人者としても知られる西田友是も、独立に全く同時期に先駆的な研究をしていたことでも有名である。 ラジオシティ法では、実世界の現象に近い光の挙動を模しているため最終的なレンダリング結果がより現実に近いものとなる。単純な部屋のシーンを想定してみる。 左の画像は直接照明レンダリングによって得られたものである。この場面では3種類の照明現象を分けて扱うことで、より現実に近い結果を得ている。これらの照明現象はデザイナーなどにより調整されなくてはならない。3種類の照明現象とはスポット照明(窓から差し込み柱の影を作る)、環境照明(光が直接当たっていないような暗い場所を再現)、無指向性照明(環境光の一様さを低減するような成分)である。 右の画像はラジオシティ法によりレンダリングされた場面である。この場面で用いた光源は窓の外から差し込む光のみであるが、左の画像との違いが見て取れる。部屋全体が柔らかく光っており、床の影もより現実的で、間接照明による効果がよく再現されている。さらに左奥の壁は床に反射した光によってやや赤色になっており、より穏やかな印象を与えている。これらの現象は全てラジオシティ法の計算結果によるものでありデザイナーなどによる照明効果の調整などは一切行う必要がない。 場面を構成する物体の表面は多くの小さな平面に分割されている。角関係 (view factor) は各々の小平面に対して計算されなくてはならない。角関係とは面と面とが互いに見えているかどうかを表す係数である。角関係は互いの面が離れている場合やお互いに傾いて存在している場合には小さな値の係数によってあらわされる。また2つの小平面の間に他の平面が存在する場合には、その平面によって2平面間が完全に遮られているか部分的に遮られているかで、係数を0にしたり小さくしたりする。 これらの角関係は線形のレンダリング方程式(英語版)における係数として扱われる。この方程式を解くことがラジオシティ法の主な処理であり、これにより小平面間の拡散や相互反射、柔らかな陰影などを扱うことができる。 漸進的なラジオシティ法ではこの方程式を繰り返し計算によって解き、その計算の過程でそれぞれの小平面における放射発散度(ラジオシティ)の中間値を得る。これらの中間値は光子の反射回数と関係がある。つまり1回の繰り返し計算で得られる中間値は光子が光源を出発してから1度だけ反射をした場合の放射発散度を表しており、繰り返しが2回、3回と増えるごとに得られる中間値が表すものが2回、3回反射した光子による効果へと変わっていく。さらにある繰り返し回数で十分なレンダリング結果が得られると判断される場合には計算の収束を待つことなく計算を終了することもできる。 ラジオシティ法におけるレンダリング方程式を解く手法として、この他にシューティングラジオシティという手法がある。この手法は繰り返し計算を行うごとにエラーが最も多い小平面から光子を放つことによりレンダリング方程式を解く方法である。1回の繰り返し計算では光が直接あたるような小平面しか照らされないが2回目以降の繰り返し計算では場面のあらゆる場所から光が反射してくるため、より多くの小平面が照らされることとなる。この繰り返し計算を行うことで、照明状態が一定の安定状態に至る。 ラジオシティ法の考え方の根底には熱輻射の考え方があり、場面を構成する小平面間での光エネルギーの遷移を計算している。計算を単純にするため、ラジオシティ法では全ての光の拡散がランバート反射に基づくと考える。すなわちある光が拡散面に入射した場合、拡散後の光は全ての方向に均等な明るさで反射されると考える。また小平面は四角形あるいは三角形のポリゴンであるとし、その平面群に対して多項式が定義される。 このようにして場面を小平面群に分解すると、光エネルギーの遷移は反射面の反射性質および2つの小平面間の角関係によって計算することができる。この無次元量は2つの面の向きから計算され、ある平面から放出された光が他の平面にどの程度到達するかを表すことができる。より詳しく言えば、放射発散度Bは小平面上の単位平面から単位時間に放出される光エネルギーを表しており、これは光の放射エネルギーと反射エネルギーによって次のように表現される。 平面が有限の小平面による集合として与えられる場合には、連続量としてあらわされていた方程式が差分式の形で書き直せる。すなわち各々の小平面が持つ放射発散度をBi、反射度をρiとあらわして次のように書く。 Fijは面iと面jとの間の角関係を表す。この方程式は各々の小平面に対し計算可能である。この方程式はモノクロ画像のためのものであるので、カラー画像を扱う場合には色を構成するチャネルそれぞれについてこの方程式を解く必要がある。
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ラジオシティ (Radiosity) とは、3次元コンピュータグラフィックスのレンダリングにおける、グローバル・イルミネーションの計算法のひとつである。
{{Otheruses|画像処理の方法}} [[ファイル:Cornell Box With and Without Radiosity Enabled.gif|thumb|350px|right|ラジオシティ法を用いた大域照明の結果とラジオシティ法を用いない大域照明の結果。ラジオシティ法を用いない場合には光源により直接照らされる平面を除いては全体的に暗く細部を見ることはできない。またラジオシティ法による結果では色のついた左右の壁により反射された光が後ろの白色の壁にあたって色づいている。]] [[ファイル:Radiosity - RRV, step 79.png|thumb|300px|right|RRVによるレンダリングの例(RRVとはOpenGLによるラジオシティ法の単純な実装である)。79回の繰り返し計算を行っている。]] '''ラジオシティ''' (Radiosity) とは、[[3次元コンピュータグラフィックス]]のレンダリングにおける、[[グローバル・イルミネーション]]の計算法のひとつである。 == 概説 == 一般に多用されている[[レイトレーシング]]のように、仮想のカメラから、そこに届く光線を求めていくという方向ではなく、光源の側から、光として発せられたエネルギーの行方を[[熱力学]]的に処理することで([[エネルギー保存の法則|エネルギー保存則]])、複数の物体が光を乱反射させて、お互いを照らす効果などが計算できる。たとえば壁紙が赤いために部屋にあるものが赤く見えるといった効果がより現実的に再現できる。 この方法を用いると柔らかな陰影が表現でき、特に室内などの風景で画像の写実性が高くなる。現在では、リアルタイム描画以外の3次元グラフィックスではラジオシティを何らかの形で援用することが多い。ラジオシティ法はレイトレーシング法などの[[モンテカルロ法]]に基づいた手法と異なり、あらゆる種類の照明現象を再現することはできない。典型的なラジオシティ法は場面が拡散面によってのみ構成されていることを前提としているため、光源から放射された光が何度か拡散面によって反射されたあとで視点にいたるという現象しか再現できない。この現象を一般的な光経路の表記法であるHeckbertの表記法により表すと「LD*E」となる。ラジオシティ法の利点として、一度計算を行っておけば、オブジェクトや照明を変更しない限り、カメラ設定を変更しても再レンダリングを容易に行えるということが挙げられ、近年はリアルタイムレンダラーでも使用例がある。 ラジオシティの基本的な手法は[[伝熱|熱移動]]<!--「熱伝導」と訳すのは誤訳です。「伝熱」の記事を読んでください-->の研究分野で1950年に初めて提案されたものである。後の1984年にコーネル大学の研究チームがコンピュータグラフィックスによるレンダリングにこれを応用した。そのためラジオシティ法のような大域照明を行うための有名なサンプル([[ユタ・ティーポット]]など)に[[コーネルボックス]]がある。また日本のコンピュータグラフィックス研究の第一人者としても知られる[[西田友是]]も、独立に全く同時期に先駆的な研究をしていたことでも有名である<ref>M. Cohen, J. Wallaceの "Radiosity and Realistic Image Synthesis" §1.2.3に、In 1984, researchers at Fukuyama and Hiroshima Universities in Japan and at the Program of Computer Graphics at Cornell University in the United States began to apply radiosity methods from the field of radiative heat transfer to image synthesis. とある。「福山大の研究者」とは[[西田友是]]らを指している。</ref>。 == 視覚的特徴 == [[ファイル:Radiosity Comparison.jpg|thumb|484px|right|直接照明法とラジオシティ法との結果の比較]] ラジオシティ法では、実世界の現象に近い光の挙動を模しているため最終的なレンダリング結果がより現実に近いものとなる。単純な部屋のシーンを想定してみる。 左の画像は直接照明レンダリングによって得られたものである。この場面では3種類の照明現象を分けて扱うことで、より現実に近い結果を得ている。これらの照明現象はデザイナーなどにより調整されなくてはならない。3種類の照明現象とはスポット照明(窓から差し込み柱の影を作る)、環境照明(光が直接当たっていないような暗い場所を再現)、無指向性照明(環境光の一様さを低減するような成分)である。 右の画像はラジオシティ法によりレンダリングされた場面である。この場面で用いた光源は窓の外から差し込む光のみであるが、左の画像との違いが見て取れる。部屋全体が柔らかく光っており、床の影もより現実的で、間接照明による効果がよく再現されている。さらに左奥の壁は床に反射した光によってやや赤色になっており、より穏やかな印象を与えている。これらの現象は全てラジオシティ法の計算結果によるものでありデザイナーなどによる照明効果の調整などは一切行う必要がない。 == アルゴリズムの概要 == 場面を構成する物体の表面は多くの小さな平面に分割されている。角関係 ([[:en:View factor|view factor]]) は各々の小平面に対して計算されなくてはならない。角関係とは面と面とが互いに見えているかどうかを表す係数である。角関係は互いの面が離れている場合やお互いに傾いて存在している場合には小さな値の係数によってあらわされる。また2つの小平面の間に他の平面が存在する場合には、その平面によって2平面間が完全に遮られているか部分的に遮られているかで、係数を0にしたり小さくしたりする。 これらの角関係は線形の{{仮リンク|レンダリング方程式|en|Rendering equation}}における係数として扱われる。この方程式を解くことがラジオシティ法の主な処理であり、これにより小平面間の拡散や相互反射、柔らかな陰影などを扱うことができる。 漸進的なラジオシティ法ではこの方程式を繰り返し計算によって解き、その計算の過程でそれぞれの小平面における放射発散度(ラジオシティ)の中間値を得る。これらの中間値は光子の反射回数と関係がある。つまり1回の繰り返し計算で得られる中間値は光子が光源を出発してから1度だけ反射をした場合の放射発散度を表しており、繰り返しが2回、3回と増えるごとに得られる中間値が表すものが2回、3回反射した光子による効果へと変わっていく。さらにある繰り返し回数で十分なレンダリング結果が得られると判断される場合には計算の収束を待つことなく計算を終了することもできる。 [[ファイル:Radiosity Progress.png|thumb|680px|right|繰り返し計算ごとに拡散面により反射される回数が多い光の効果が反映されていく。複数回反射した光の効果を再現するとより写実的なレンダリング結果を得ることができている。]] ラジオシティ法におけるレンダリング方程式を解く手法として、この他にシューティングラジオシティという手法がある。この手法は繰り返し計算を行うごとにエラーが最も多い小平面から光子を放つことによりレンダリング方程式を解く方法である。1回の繰り返し計算では光が直接あたるような小平面しか照らされないが2回目以降の繰り返し計算では場面のあらゆる場所から光が反射してくるため、より多くの小平面が照らされることとなる。この繰り返し計算を行うことで、照明状態が一定の安定状態に至る。 == 数学的な説明 == [[File:Nusselt analog.svg|thumb|right|幾何学的角関係''F''<sub>ij</sub>(投影立体角とも)。''F''<sub>ij</sub>は投影面''A''<sub>j</sub>を単位半球上に投影した面によって与えられ、面''A''<sub>i</sub>上にある注目点を中心とした単位円によって表される。]] ラジオシティ法の考え方の根底には熱輻射の考え方があり、場面を構成する小平面間での光エネルギーの遷移を計算している。計算を単純にするため、ラジオシティ法では全ての光の拡散がランバート反射に基づくと考える。すなわちある光が拡散面に入射した場合、拡散後の光は全ての方向に均等な明るさで反射されると考える。また小平面は四角形あるいは三角形のポリゴンであるとし、その平面群に対して多項式が定義される。 このようにして場面を小平面群に分解すると、光エネルギーの遷移は反射面の反射性質および2つの小平面間の角関係によって計算することができる。この無次元量は2つの面の向きから計算され、ある平面から放出された光が他の平面にどの程度到達するかを表すことができる。より詳しく言えば、放射発散度''B''は小平面上の単位平面から単位時間に放出される光エネルギーを表しており、これは光の放射エネルギーと反射エネルギーによって次のように表現される。 <!-- 英語版のWikipediaからそのままコピーしてきた数式のようですが、微分記号dはイタリック体でなく、立体に統一するよう修正しています。 --> :<math>B(x)\,\mathrm dA = E(x) \,\mathrm dA +\rho(x) \,\mathrm dA \int_{S}B(x') \frac{1}{\pi r^2} \cos\theta_x\cos\theta_{x'} \cdot \mathrm{Vis}(x,x') \,\mathrm dA'</math> * ''B''(''x'')d''A''<sub>''i''</sub> - ''x''の近傍である小領域d''A''<sub>''i''</sub>から放出される光エネルギー * ''E''(''x'')d''A'' - 放射エネルギー。 * ''&rho;''(''x'') - 点''x''における反射度であり、単位平面あたりの反射光のエネルギーと入射光のエネルギーの積であらわされる。 * ''S'' - ''x''を平面全体について積分したもの。 * ''r'' - 点''x''と点''<nowiki>x'</nowiki>''との距離。 * &theta;<sub>x</sub>, &theta;<sub>x'</sub> - 点''x''と点''<nowiki>x'</nowiki>''とを結んだ直線と各々の点が存在する平面とが作る角。 * Vis(''x'', ''<nowiki>x'</nowiki>'') - 点''x''と点''<nowiki>x'</nowiki>''が互いに見えている場合には1を、見えていない場合には0を取る関数(可視関数とも言う)。 平面が有限の小平面による集合として与えられる場合には、連続量としてあらわされていた方程式が差分式の形で書き直せる。すなわち各々の小平面が持つ放射発散度を''B''<sub>''i''</sub>、反射度を''&rho;''<sub>''i''</sub>とあらわして次のように書く。 :<math>B_i = E_i + \rho_i \sum_{j=1}^n F_{ij} B_j</math> ''F''<sub>''ij''</sub>は面''i''と面''j''との間の角関係を表す。この方程式は各々の小平面に対し計算可能である。この方程式はモノクロ画像のためのものであるので、カラー画像を扱う場合には色を構成するチャネルそれぞれについてこの方程式を解く必要がある。 == 関連項目 == * [[3次元コンピュータグラフィックス]] * [[グローバルイルミネーション]] * [[レイトレーシング]] * [[フォトンマッピング]] == 参照 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{3Dレンダリング}} {{DEFAULTSORT:らしおしてい}} [[category:画像処理]] [[Category:3DCG]]
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2022-08-19T21:17:08Z
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ラグランジュ力学
ラグランジュ力学(ラグランジュりきがく、英語:Lagrangian mechanics)は、一般化座標とその微分を基本変数として記述された古典力学である。フランスの物理学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュが創始した。後のハミルトン力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一形式である。 ラグランジュ形式の解析力学は最小作用の原理によって構成される。 元々はニュートン的な力学の分野において成立したが、電磁気学や相対性理論でも応用することが出来て、これらの分野における基礎方程式(マクスウェル方程式、アインシュタイン方程式)を導き出すことが出来る。 また、量子力学においても、経路積分の方法は最小作用の原理に関連して考え出された方法である。 ラグランジュ形式では一般化座標によって記述されており、変数の取り方が任意である。 ニュートンの運動方程式はベクトルの方程式であり、デカルト座標以外では煩雑な座標変換が必要となるが、ラグランジュ形式においてはラグランジアンはスカラーであり座標変換が簡単である。 実際の計算上でも、例えば長さが一定の振り子などで円周上を運動する場合には、平面内の運動なのでニュートンの運動方程式では2つの方向の2変数が必要となるが、ラグランジュ形式では一般化座標として角度を選ぶことにより1変数の方程式が得られる。 もちろんニュートンの運動方程式はラグランジュ形式と等価なので適当な変換により同じ式が得られるが、ラグランジュ形式では直接得られる点で便利である。 ラグランジュ形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は一般化座標 q ( t ) = ( q 1 ( t ) , ... ) {\displaystyle q(t)=(q_{1}(t),\ldots )} である。力学系の性質は一般化座標とその微分(一般化速度)、および時間を変数とする関数 L ( q ( t ) , q ̇ ( t ) , t ) {\displaystyle L(q(t),{\dot {q}}(t),t)} によって記述される。この力学系の性質を記述する関数 L はラグランジュ関数(ラグランジアン)と呼ばれる。 ラグランジュ形式において、作用汎関数はラグランジュ関数の時間積分 S [ q ] = ∫ t I t F L ( q ( t ) , q ̇ ( t ) , t ) d t {\displaystyle S[q]=\int _{t_{\text{I}}}^{t_{\text{F}}}L(q(t),{\dot {q}}(t),t)\,dt} として与えられる。 一般化座標は実際には起こらない運動の値も取りうるが、そこから実際の運動を導く方法が最小作用の原理である。すなわち、作用汎関数が最小となる運動が実際に起こる運動である。 作用の停留条件から、ラグランジュの運動方程式(オイラー=ラグランジュ方程式) δ S [ q ] δ q i ( t ) = ∂ L ∂ q i − d d t ∂ L ∂ q ̇ i = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S[q]}{\delta q_{i}(t)}}={\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}-{\frac {d}{dt}}{\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}=0} が得られる。 これはニュートンの運動方程式と同等である。 一般化座標に共役な一般化運動量は、ラグランジアンの一般化速度による偏微分 p i ≡ ∂ L ∂ q ̇ i {\displaystyle p_{i}\equiv {\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}} によって定義される。 これは並進対称性から導かれる保存量である。 一般化運動量を用いると、ラグランジュの運動方程式は p ̇ i = ∂ L ∂ q i {\displaystyle {\dot {p}}_{i}={\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}} となる。ニュートンの運動方程式との比較から、右辺は一般化された力と見ることも出来る。 ハミルトン形式では一般化座標と一般化運動量によって記述されている。 一般化運動量は正準共役量であり、共役運動量や正準運動量と呼ばれることもある。 ラグランジュ関数(ラグランジアン、Lagrangian)は、物理的な力学系の動力学を記述するために用いられる関数である。 ラグランジアン L ( q , q ̇ , t ) {\displaystyle L(q,{\dot {q}},t)} は一般に運動エネルギー T とポテンシャル V の差 L ( q , q ̇ , t ) = T − V {\displaystyle L(q,{\dot {q}},t)=T-V} の形で書かれる。 ラグランジアンはエネルギーの次元を持つスカラーであるが、観測可能な物理量ではなく、その値自体に物理的な意味があるわけではない。特に、座標と時間の任意関数 f ( q , t ) {\displaystyle f(q,t)} の時間による全微分を加える変換 L ′ ( q , q ̇ , t ) = L ( q , q ̇ , t ) + d d t f ( q , t ) {\displaystyle L'(q,{\dot {q}},t)=L(q,{\dot {q}},t)+{\frac {d}{dt}}f(q,t)} を行っても全く同じ力学系を表す。 この全微分は連鎖律により d d t f ( q , t ) = q ̇ i ⋅ ∂ f ∂ q i + ∂ f ∂ t {\displaystyle {\frac {d}{dt}}f(q,t)={\dot {q}}_{i}\cdot {\frac {\partial f}{\partial q_{i}}}+{\frac {\partial f}{\partial t}}} となるので、この変換に対して、共役運動量は p i ′ = ∂ L ′ ∂ q ̇ i = p i + ∂ f ∂ q i {\displaystyle p'_{i}={\frac {\partial L'}{\partial {\dot {q}}_{i}}}=p_{i}+{\frac {\partial f}{\partial q_{i}}}} と変換される。したがって、新たな共役運動量の時間微分は p ̇ i ′ = p ̇ i + d d t ∂ f ∂ q i {\displaystyle {\dot {p}}'_{i}={\dot {p}}_{i}+{\frac {d}{dt}}{\frac {\partial f}{\partial q_{i}}}} となる。一方、一般化された力は ∂ L ′ ∂ q i = ∂ L ∂ q i + ∂ ∂ q i d d t f {\displaystyle {\frac {\partial L'}{\partial q_{i}}}={\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}+{\frac {\partial }{\partial q_{i}}}{\frac {d}{dt}}f} と変換される。任意関数 f に作用する全微分 d/dt と座標の偏微分 ∂/∂q が交換可能なので、この変換に対して運動方程式が保たれる。 座標変換 q ↦ Q {\displaystyle q\mapsto Q} が q i = g i ( Q , t ) {\displaystyle q_{i}=g_{i}(Q,t)} で表されるとき、新たな座標の下でのラグランジアンは L ~ ( Q , Q ̇ , t ) = L ( g ( Q , t ) , g ̇ ( Q , t ) , t ) {\displaystyle {\tilde {L}}(Q,{\dot {Q}},t)=L(g(Q,t),{\dot {g}}(Q,t),t)} で与えられ、新たなラグランジアンから導かれる運動方程式は δ S ~ [ Q ] δ Q I ( t ) = ∂ L ~ ∂ Q I − d d t ∂ L ~ ∂ Q ̇ I = 0 {\displaystyle {\frac {\delta {\tilde {S}}[Q]}{\delta Q_{I}(t)}}={\frac {\partial {\tilde {L}}}{\partial Q_{I}}}-{\frac {d}{dt}}{\frac {\partial {\tilde {L}}}{\partial {\dot {Q}}_{I}}}=0} である。このように写像の合成で座標変換を容易に行えることが一般化座標で表されるラグランジュ形式の利点の一つである。 座標変換の時間微分は連鎖律により g ̇ i ( Q , t ) = d g i d t ( Q , t ) = Q ̇ I ⋅ ∂ g i ∂ Q I ( Q , t ) + ∂ g i ∂ t ( Q , t ) {\displaystyle {\dot {g}}_{i}(Q,t)={\frac {dg_{i}}{dt}}(Q,t)={\dot {Q}}_{I}\cdot {\frac {\partial g_{i}}{\partial Q_{I}}}(Q,t)+{\frac {\partial g_{i}}{\partial t}}(Q,t)} であるため、新たな座標に共役な運動量は P I ( t ) = ∂ L ~ ∂ Q ̇ I = ∂ L ∂ q ̇ i ∂ g i ∂ Q I = p i ⋅ ∂ g i ∂ Q I {\displaystyle P_{I}(t)={\frac {\partial {\tilde {L}}}{\partial {\dot {Q}}_{I}}}={\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}{\frac {\partial g_{i}}{\partial Q_{I}}}=p_{i}\cdot {\frac {\partial g_{i}}{\partial Q_{I}}}} となる。 座標変換は W ( p , Q , t ) = p i ⋅ g i ( Q , t ) {\displaystyle W(p,Q,t)=p_{i}\cdot g_{i}(Q,t)} で定義される母関数により生成される。 座標変換は q i = ∂ W ∂ p i {\displaystyle q_{i}={\frac {\partial W}{\partial p_{i}}}} で与えられ、新たな運動量は P I = ∂ W ∂ Q I {\displaystyle P_{I}={\frac {\partial W}{\partial Q_{I}}}} で与えられる。 先の任意関数によるラグランジュ関数の変換を伴う場合の母関数は W ( p , Q , t ) = p i ⋅ g i ( Q , t ) + f ( Q , t ) {\displaystyle W(p,Q,t)=p_{i}\cdot g_{i}(Q,t)+f(Q,t)} で与えられる。 拘束条件が課された系にラグランジュ形式を用いる際に、一般座標を適当に選ぶことによって、拘束条件が常に満たされるようにすることができる。上で挙げた振り子の例であれば、座標変数に角度を選ぶことによって長さが一定という拘束条件が常に満たされるようにしている。 これの手法とは別に、ラグランジュの未定乗数法を用いて作用汎関数(ラグランジュ関数)に拘束条件を取り入れる方法がある。 一般化座標 q に対して、拘束条件 Φ ( q , t ) = 0 {\displaystyle \varPhi (q,t)=0} が課されている場合を考える。 このとき、作用は S b [ q , β ] = S [ q ] + ∫ t I t F β ( t ) Φ ( q , t ) d t {\displaystyle S_{\text{b}}[q,\beta ]=S[q]+\int _{t_{\text{I}}}^{t_{\text{F}}}\beta (t)\,\varPhi (q,t)\,dt} によって拘束条件が取り入れられる。ここで導入された β(t) がラグランジュの未定乗数である。 拘束条件は全ての時間で成り立つので、未定乗数も各々の時間に対して導入される時間の関数である。 拘束条件が取り入れられた作用に対して最小作用の原理を適用して δ S b [ q , β ] δ q i ( t ) = ∂ L ∂ q i + β ( t ) ∂ Φ ∂ q i − d d t ∂ L ∂ q ̇ i = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S_{\text{b}}[q,\beta ]}{\delta q_{i}(t)}}={\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}+\beta (t){\frac {\partial \varPhi }{\partial q_{i}}}-{\frac {d}{dt}}{\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}=0} δ S b [ q , β ] δ β ( t ) = Φ ( q , t ) = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S_{\text{b}}[q,\beta ]}{\delta \beta (t)}}=\varPhi (q,t)=0} が得られる。力学変数 q に対応する運動方程式には「拘束力」β(∂Φ/∂q) が加えられ、未定乗数に対応する運動方程式として拘束条件が導かれる。 ハミルトン形式とラグランジュ形式はルジャンドル変換を通して等価である。ただし、ラグランジアンが退化している場合は、ルジャンドル変換が微分同相写像ではなくなり、ラグランジュ系からハミルトン系へ移行することができなくなる。この退化している場合の処方としてディラックの拘束理論が知られている。 特に相対論的な場の理論の場合では、ラグランジュ形式から出発するのが一般的である。その方が相対論的不変性などの対称性が見やすいからである。 力学変数としては場 φ ( x ) {\displaystyle \phi (x)} を考える。作用積分はラグランジアン密度 L ( φ , ∂ φ , x ) {\displaystyle {\mathcal {L}}(\phi ,\partial \phi ,x)} により S [ φ ] = 1 c ∫ L ( φ , ∂ φ , x ) − g d d x {\displaystyle S[\phi ]={\frac {1}{c}}\int {\mathcal {L}}(\phi ,\partial \phi ,x){\sqrt {-g}}\,d^{d}x} で書かれる。その変分は δ S = 1 c ∫ ( ∂ L ∂ φ δ φ + ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) ∂ μ δ φ ) − g d d x = 1 c ∫ [ ∂ L ∂ φ − 1 − g ∂ μ ( ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) − g ) ] δ φ − g d d x + 1 c ∮ ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) δ φ − g d Σ μ {\displaystyle {\begin{aligned}\delta S&={\frac {1}{c}}\int \left({\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial \phi }}\delta \phi +{\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial (\partial _{\mu }\phi )}}\partial _{\mu }\delta \phi \right){\sqrt {-g}}\,d^{d}x\\&={\frac {1}{c}}\int \left[{\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial \phi }}-{\frac {1}{\sqrt {-g}}}\partial _{\mu }\left({\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial (\partial _{\mu }\phi )}}{\sqrt {-g}}\right)\right]\delta \phi {\sqrt {-g}}\,d^{d}x+{\frac {1}{c}}\oint {\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial (\partial _{\mu }\phi )}}\delta \phi {\sqrt {-g}}\,d\varSigma _{\mu }\\\end{aligned}}} となり、ラグランジュの運動方程式として c − g δ S [ φ ] δ φ ( x ) = ∂ L ∂ φ − 1 − g ∂ μ ( ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) − g ) = 0 {\displaystyle {\frac {c}{\sqrt {-g}}}{\frac {\delta S[\phi ]}{\delta \phi (x)}}={\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial \phi }}-{\frac {1}{\sqrt {-g}}}\partial _{\mu }\left({\frac {\partial {\mathcal {L}}}{\partial (\partial _{\mu }\phi )}}{\sqrt {-g}}\right)=0} が得られる。 座標の2階微分 ··q について高々1次である次の運動方程式 (ただし q = (q, ..., q))を導くラグランジュ関数が局所的に存在する必要十分条件は以下であることがヘルムホルツにより調べられている: このとき、ラグランジュ関数は以下で与えられる: ここで G は q, t の任意関数である。 相対論的な系では、時間は位置と共に4元ベクトルとなるので、時間は力学変数となり、運動のパラメータではなくなる。パラメータを λ として、力学変数を X = ( X i μ ( λ ) ) = ( c t i ( λ ) , x i ( λ ) ) {\displaystyle X=(X_{i}^{\mu }(\lambda ))=(ct_{i}(\lambda ),{\boldsymbol {x}}_{i}(\lambda ))} とする。ここで μ は時空の添え字で、i は粒子を区別する添え字である。 自由粒子系を考えると、作用積分は S [ X ] = ∫ L ( X , X ̇ , λ ) d λ = − ∫ ∑ i ( m i c − η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν ) d λ {\displaystyle S[X]=\int L(X,{\dot {X}},\lambda )\,d\lambda =-\int \sum _{i}\left(m_{i}c{\sqrt {-\eta _{\mu \nu }\,{\dot {X}}_{i}^{\mu }{\dot {X}}_{i}^{\nu }}}\right)\,d\lambda } である。ここで η は平坦な時空の計量で η = d i a g ( − 1 , 1 , ... , 1 ) {\displaystyle \eta =\mathrm {diag} (-1,1,\ldots ,1)} である。 平方根の中が正である為に、作用積分の段階で運動は時間的なものに限定されている。 ラグランジュの運動方程式は δ S [ X ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S[X]}{\delta X_{i}^{\mu }(\lambda )}}=-{\dot {p}}_{i\mu }(\lambda )=0} となる。 ここで、一般化運動量は p i μ ( λ ) = ∂ L ∂ X ̇ i μ = m i c η μ ν X ̇ i ν ( λ ) − ( X ̇ i ) 2 {\displaystyle p_{i\mu }(\lambda )={\frac {\partial L}{\partial {\dot {X}}_{i}^{\mu }}}=m_{i}c{\frac {\eta _{\mu \nu }\,{\dot {X}}_{i}^{\nu }(\lambda )}{\sqrt {-({\dot {X}}_{i})^{2}}}}} p i μ ( λ ) = η μ ν p i ν ( λ ) = m i c X ̇ i μ ( λ ) − ( X ̇ i ) 2 {\displaystyle p_{i}^{\mu }(\lambda )=\eta ^{\mu \nu }\,p_{i\nu }(\lambda )={\frac {m_{i}c{\dot {X}}_{i}^{\mu }(\lambda )}{\sqrt {-({\dot {X}}_{i})^{2}}}}} である。 固有時間 c 2 d τ i 2 = η ρ σ d X i ρ d X i σ {\displaystyle c^{2}d\tau _{i}^{2}=\eta _{\rho \sigma }dX_{i}^{\rho }dX_{i}^{\sigma }} を使うと p i μ ( τ i ) = m i d X i ν d τ i = ( m i c d t i d τ i , m i d x i d τ i ) = ( E i / c , p i ) {\displaystyle p_{i}^{\mu }(\tau _{i})=m_{i}{\frac {dX_{i}^{\nu }}{d\tau _{i}}}=\left(m_{i}c{\frac {dt_{i}}{d\tau _{i}}},m_{i}{\frac {d{\boldsymbol {x}}_{i}}{d\tau _{i}}}\right)=(E_{i}/c,{\boldsymbol {p}}_{i})} となる。 この作用は平方根の中に微分を含む形のため扱いが困難である。 補助変数 γi(λ) を導入して別の形に書くことが出来る。 S [ X , γ ] = 1 2 ∫ ∑ i ( 1 γ i 2 η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν − m i 2 c 2 ) γ i d λ {\displaystyle S[X,\gamma ]={\frac {1}{2}}\int \sum _{i}\left({\frac {1}{{\gamma _{i}}^{2}}}\eta _{\mu \nu }{\dot {X}}_{i}^{\mu }{\dot {X}}_{i}^{\nu }-m_{i}^{2}c^{2}\right)\gamma _{i}d\lambda } この作用積分は多くの系の運動項と同じく一般化速度の二次形式で書かれている。作用積分の段階では運動は時間的なものに限定されない。また、質量 m がゼロの場合にも意味を持つ。 力学変数 X に関する運動方程式は δ S [ X , γ ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S[X,\gamma ]}{\delta X_{i}^{\mu }(\lambda )}}=-{\dot {p}}_{i\mu }(\lambda )=0} であり、一般化運動量は p i μ ( λ ) = 1 γ i ( λ ) η μ ν X ̇ i ν ( λ ) {\displaystyle p_{i\mu }(\lambda )={\frac {1}{\gamma _{i}(\lambda )}}\eta _{\mu \nu }{\dot {X}}_{i}^{\nu }(\lambda )} である。 補助変数 γi は、作用に微分が含まれておらず、非物理的な量である。補助変数の拘束条件は δ S [ X , γ ] δ γ i ( λ ) = 1 2 ( − 1 γ i 2 η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν − m i 2 c 2 ) = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S[X,\gamma ]}{\delta \gamma _{i}(\lambda )}}={\frac {1}{2}}\left(-{\frac {1}{\gamma _{i}^{2}}}\eta _{\mu \nu }{\dot {X}}_{i}^{\mu }{\dot {X}}_{i}^{\nu }-m_{i}^{2}c^{2}\right)=0} となる。質量 m がゼロでないときには γ i 2 = − η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν m i 2 c 2 {\displaystyle \gamma _{i}^{2}=-{\frac {\eta _{\mu \nu }{\dot {X}}_{i}^{\mu }{\dot {X}}_{i}^{\nu }}{m_{i}^{2}c^{2}}}} γ i = 1 m i c − ( X ̇ i ) 2 {\displaystyle \gamma _{i}={\frac {1}{m_{i}c}}{\sqrt {-({\dot {X}}_{i})^{2}}}} となって上の作用積分と等価であることが確認される。補助変数の実数性を仮定すれば、運動が時間的なものに限定される。 電磁場の力学変数は電磁ポテンシャル A である。 自由空間において電磁場が物質 X と相互作用する系の作用汎関数は S [ X , A ] = S X [ X ] + S A [ A ] + S int [ X , A ] {\displaystyle S[X,A]=S_{X}[X]+S_{A}[A]+S_{\text{int}}[X,A]} の形で書かれる。 ここで SX は物質の項、SA は電磁場の項、Sint は電磁場と物質の相互作用項であり、電磁場の項は S A [ A ] = − 1 4 Z 0 ∫ F μ ν F μ ν ( x ) − g d 4 x {\displaystyle S_{A}[A]=-{\frac {1}{4Z_{0}}}\int F^{\mu \nu }F_{\mu \nu }(x){\sqrt {-g}}\,d^{4}x} と書かれる。ここで F は電磁場テンソルである。 このとき、電磁場 A に対する運動方程式 c − g δ S [ X , A ] δ A μ ( x ) = j μ ( x ) + c Z 0 D ν F ν μ ( x ) = 0 {\displaystyle {\frac {c}{\sqrt {-g}}}{\frac {\delta S[X,A]}{\delta A_{\mu }(x)}}=j^{\mu }(x)+{\frac {c}{Z_{0}}}D_{\nu }F^{\nu \mu }(x)=0} としてマクスウェルの方程式が導かれる。 物質場として相対論的な粒子系を考え、相互作用項として S int [ X , A ] = ∑ i q i ∫ X ̇ i μ ( λ ) A μ ( X i ) d λ = ∫ ∑ i q i ( ∫ X ̇ i μ ( λ ) δ 4 ( X i ( λ ) − x ) d λ ) A μ ( x ) d 4 x {\displaystyle {\begin{aligned}S_{\text{int}}[X,A]&=\sum _{i}q_{i}\int {\dot {X}}_{i}^{\mu }(\lambda )\,A_{\mu }(X_{i})\,d\lambda \\&=\int \sum _{i}q_{i}\left(\int {\dot {X}}_{i}^{\mu }(\lambda )\,\delta ^{4}(X_{i}(\lambda )-x)\,d\lambda \right)A_{\mu }(x)\,d^{4}x\\\end{aligned}}} を考える。 このとき、物質 X に関する運動方程式は δ S X [ X ] δ X i μ ( λ ) + δ S int [ X , A ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) + q i X ̇ i ν ( λ ) F ν μ ( X i ) = 0 {\displaystyle {\frac {\delta S_{X}[X]}{\delta X_{i}^{\mu }(\lambda )}}+{\frac {\delta S_{\text{int}}[X,A]}{\delta X_{i}^{\mu }(\lambda )}}=-{\dot {p}}_{i\mu }(\lambda )+q_{i}{\dot {X}}_{i}^{\nu }(\lambda )\,F_{\nu \mu }(X_{i})=0} となり、ローレンツ力を再現する。 また、4元電流密度は j μ ( x ) = c − g δ S int [ X , A ] δ A μ ( x ) = ∑ i q i c − g ∫ X ̇ i μ ( λ ) δ 4 ( X i ( λ ) − x ) d λ {\displaystyle j^{\mu }(x)={\frac {c}{\sqrt {-g}}}{\frac {\delta S_{\text{int}}[X,A]}{\delta A_{\mu }(x)}}=\sum _{i}{\frac {q_{i}c}{\sqrt {-g}}}\int {\dot {X}}_{i}^{\mu }(\lambda )\,\delta ^{4}(X_{i}(\lambda )-x)\,d\lambda } となる。 一般相対性理論においては、平坦な時空の計量は曲がった時空の計量 g に置き換えられ、これが力学変数となる。 作用積分は S [ g , X ] = S X [ g , X ] + S g [ g ] {\displaystyle S[g,X]=S_{X}[g,X]+S_{g}[g]} と書かれる。 重力場の項は S g [ g ] = 1 2 κ c ∫ R − g d 4 x {\displaystyle S_{g}[g]={\frac {1}{2\kappa c}}\int R{\sqrt {-g}}\,d^{4}x} である。 ここで R はスカラー曲率である。 アインシュタイン方程式は時空の計量 g の運動方程式として導かれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラグランジュ力学(ラグランジュりきがく、英語:Lagrangian mechanics)は、一般化座標とその微分を基本変数として記述された古典力学である。フランスの物理学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュが創始した。後のハミルトン力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一形式である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ラグランジュ形式の解析力学は最小作用の原理によって構成される。 元々はニュートン的な力学の分野において成立したが、電磁気学や相対性理論でも応用することが出来て、これらの分野における基礎方程式(マクスウェル方程式、アインシュタイン方程式)を導き出すことが出来る。 また、量子力学においても、経路積分の方法は最小作用の原理に関連して考え出された方法である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ラグランジュ形式では一般化座標によって記述されており、変数の取り方が任意である。 ニュートンの運動方程式はベクトルの方程式であり、デカルト座標以外では煩雑な座標変換が必要となるが、ラグランジュ形式においてはラグランジアンはスカラーであり座標変換が簡単である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "実際の計算上でも、例えば長さが一定の振り子などで円周上を運動する場合には、平面内の運動なのでニュートンの運動方程式では2つの方向の2変数が必要となるが、ラグランジュ形式では一般化座標として角度を選ぶことにより1変数の方程式が得られる。 もちろんニュートンの運動方程式はラグランジュ形式と等価なので適当な変換により同じ式が得られるが、ラグランジュ形式では直接得られる点で便利である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ラグランジュ形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は一般化座標 q ( t ) = ( q 1 ( t ) , ... ) {\\displaystyle q(t)=(q_{1}(t),\\ldots )} である。力学系の性質は一般化座標とその微分(一般化速度)、および時間を変数とする関数 L ( q ( t ) , q ̇ ( t ) , t ) {\\displaystyle L(q(t),{\\dot {q}}(t),t)} によって記述される。この力学系の性質を記述する関数 L はラグランジュ関数(ラグランジアン)と呼ばれる。", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ラグランジュ形式において、作用汎関数はラグランジュ関数の時間積分", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "S [ q ] = ∫ t I t F L ( q ( t ) , q ̇ ( t ) , t ) d t {\\displaystyle S[q]=\\int _{t_{\\text{I}}}^{t_{\\text{F}}}L(q(t),{\\dot {q}}(t),t)\\,dt}", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "として与えられる。 一般化座標は実際には起こらない運動の値も取りうるが、そこから実際の運動を導く方法が最小作用の原理である。すなわち、作用汎関数が最小となる運動が実際に起こる運動である。", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "作用の停留条件から、ラグランジュの運動方程式(オイラー=ラグランジュ方程式)", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "δ S [ q ] δ q i ( t ) = ∂ L ∂ q i − d d t ∂ L ∂ q ̇ i = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S[q]}{\\delta q_{i}(t)}}={\\frac {\\partial L}{\\partial q_{i}}}-{\\frac {d}{dt}}{\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}=0}", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "が得られる。 これはニュートンの運動方程式と同等である。", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一般化座標に共役な一般化運動量は、ラグランジアンの一般化速度による偏微分", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "p i ≡ ∂ L ∂ q ̇ i {\\displaystyle p_{i}\\equiv {\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}}", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "によって定義される。 これは並進対称性から導かれる保存量である。", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一般化運動量を用いると、ラグランジュの運動方程式は", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "p ̇ i = ∂ L ∂ q i {\\displaystyle {\\dot {p}}_{i}={\\frac {\\partial L}{\\partial q_{i}}}}", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "となる。ニュートンの運動方程式との比較から、右辺は一般化された力と見ることも出来る。", "title": "定式化" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ハミルトン形式では一般化座標と一般化運動量によって記述されている。 一般化運動量は正準共役量であり、共役運動量や正準運動量と呼ばれることもある。", 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( q , t ) = q ̇ i ⋅ ∂ f ∂ q i + ∂ f ∂ t {\\displaystyle {\\frac {d}{dt}}f(q,t)={\\dot {q}}_{i}\\cdot {\\frac {\\partial f}{\\partial q_{i}}}+{\\frac {\\partial f}{\\partial t}}}", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "となるので、この変換に対して、共役運動量は", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "p i ′ = ∂ L ′ ∂ q ̇ i = p i + ∂ f ∂ q i {\\displaystyle p'_{i}={\\frac {\\partial L'}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}=p_{i}+{\\frac {\\partial f}{\\partial q_{i}}}}", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "と変換される。したがって、新たな共役運動量の時間微分は", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "p ̇ i ′ = p ̇ i + d d t ∂ f ∂ q i {\\displaystyle {\\dot {p}}'_{i}={\\dot {p}}_{i}+{\\frac {d}{dt}}{\\frac {\\partial f}{\\partial q_{i}}}}", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "となる。一方、一般化された力は", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "∂ L ′ ∂ q i = ∂ L ∂ q i + ∂ ∂ q i d d t f {\\displaystyle {\\frac {\\partial L'}{\\partial q_{i}}}={\\frac {\\partial L}{\\partial q_{i}}}+{\\frac {\\partial }{\\partial q_{i}}}{\\frac {d}{dt}}f}", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "と変換される。任意関数 f に作用する全微分 d/dt と座標の偏微分 ∂/∂q が交換可能なので、この変換に対して運動方程式が保たれる。", "title": "ラグランジュ関数" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "座標変換 q ↦ Q {\\displaystyle q\\mapsto Q} が", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "q i = g i ( Q , t ) {\\displaystyle q_{i}=g_{i}(Q,t)}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "で表されるとき、新たな座標の下でのラグランジアンは", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "L ~ ( Q , Q ̇ , t ) = L ( g ( Q , t ) , g ̇ ( Q , t ) , t ) {\\displaystyle {\\tilde {L}}(Q,{\\dot {Q}},t)=L(g(Q,t),{\\dot {g}}(Q,t),t)}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "で与えられ、新たなラグランジアンから導かれる運動方程式は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "δ S ~ [ Q ] δ Q I ( t ) = ∂ L ~ ∂ Q I − d d t ∂ L ~ ∂ Q ̇ I = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta {\\tilde {S}}[Q]}{\\delta Q_{I}(t)}}={\\frac {\\partial {\\tilde {L}}}{\\partial Q_{I}}}-{\\frac {d}{dt}}{\\frac {\\partial {\\tilde {L}}}{\\partial {\\dot {Q}}_{I}}}=0}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "である。このように写像の合成で座標変換を容易に行えることが一般化座標で表されるラグランジュ形式の利点の一つである。", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "座標変換の時間微分は連鎖律により", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "g ̇ i ( Q , t ) = d g i d t ( Q , t ) = Q ̇ I ⋅ ∂ g i ∂ Q I ( Q , t ) + ∂ g i ∂ t ( Q , t ) {\\displaystyle {\\dot {g}}_{i}(Q,t)={\\frac {dg_{i}}{dt}}(Q,t)={\\dot {Q}}_{I}\\cdot {\\frac {\\partial g_{i}}{\\partial Q_{I}}}(Q,t)+{\\frac {\\partial g_{i}}{\\partial t}}(Q,t)}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "であるため、新たな座標に共役な運動量は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "P I ( t ) = ∂ L ~ ∂ Q ̇ I = ∂ L ∂ q ̇ i ∂ g i ∂ Q I = p i ⋅ ∂ g i ∂ Q I {\\displaystyle P_{I}(t)={\\frac {\\partial {\\tilde {L}}}{\\partial {\\dot {Q}}_{I}}}={\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}{\\frac {\\partial g_{i}}{\\partial Q_{I}}}=p_{i}\\cdot {\\frac {\\partial g_{i}}{\\partial Q_{I}}}}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "座標変換は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "W ( p , Q , t ) = p i ⋅ g i ( Q , t ) {\\displaystyle W(p,Q,t)=p_{i}\\cdot g_{i}(Q,t)}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "で定義される母関数により生成される。 座標変換は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "q i = ∂ W ∂ p i {\\displaystyle q_{i}={\\frac {\\partial W}{\\partial p_{i}}}}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "で与えられ、新たな運動量は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "P I = ∂ W ∂ Q I {\\displaystyle P_{I}={\\frac {\\partial W}{\\partial Q_{I}}}}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "で与えられる。", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "先の任意関数によるラグランジュ関数の変換を伴う場合の母関数は", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "W ( p , Q , t ) = p i ⋅ g i ( Q , t ) + f ( Q , t ) {\\displaystyle W(p,Q,t)=p_{i}\\cdot g_{i}(Q,t)+f(Q,t)}", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "で与えられる。", "title": "座標変換" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "拘束条件が課された系にラグランジュ形式を用いる際に、一般座標を適当に選ぶことによって、拘束条件が常に満たされるようにすることができる。上で挙げた振り子の例であれば、座標変数に角度を選ぶことによって長さが一定という拘束条件が常に満たされるようにしている。 これの手法とは別に、ラグランジュの未定乗数法を用いて作用汎関数(ラグランジュ関数)に拘束条件を取り入れる方法がある。", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一般化座標 q に対して、拘束条件", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Φ ( q , t ) = 0 {\\displaystyle \\varPhi (q,t)=0}", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "が課されている場合を考える。 このとき、作用は", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "S b [ q , β ] = S [ q ] + ∫ t I t F β ( t ) Φ ( q , t ) d t {\\displaystyle S_{\\text{b}}[q,\\beta ]=S[q]+\\int _{t_{\\text{I}}}^{t_{\\text{F}}}\\beta (t)\\,\\varPhi (q,t)\\,dt}", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "によって拘束条件が取り入れられる。ここで導入された β(t) がラグランジュの未定乗数である。 拘束条件は全ての時間で成り立つので、未定乗数も各々の時間に対して導入される時間の関数である。", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "拘束条件が取り入れられた作用に対して最小作用の原理を適用して", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "δ S b [ q , β ] δ q i ( t ) = ∂ L ∂ q i + β ( t ) ∂ Φ ∂ q i − d d t ∂ L ∂ q ̇ i = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S_{\\text{b}}[q,\\beta ]}{\\delta q_{i}(t)}}={\\frac {\\partial L}{\\partial q_{i}}}+\\beta (t){\\frac {\\partial \\varPhi }{\\partial q_{i}}}-{\\frac {d}{dt}}{\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}=0}", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "δ S b [ q , β ] δ β ( t ) = Φ ( q , t ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S_{\\text{b}}[q,\\beta ]}{\\delta \\beta (t)}}=\\varPhi (q,t)=0}", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "が得られる。力学変数 q に対応する運動方程式には「拘束力」β(∂Φ/∂q) が加えられ、未定乗数に対応する運動方程式として拘束条件が導かれる。", "title": "拘束系" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ハミルトン形式とラグランジュ形式はルジャンドル変換を通して等価である。ただし、ラグランジアンが退化している場合は、ルジャンドル変換が微分同相写像ではなくなり、ラグランジュ系からハミルトン系へ移行することができなくなる。この退化している場合の処方としてディラックの拘束理論が知られている。", "title": "ハミルトン形式との関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "特に相対論的な場の理論の場合では、ラグランジュ形式から出発するのが一般的である。その方が相対論的不変性などの対称性が見やすいからである。", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "力学変数としては場 φ ( x ) {\\displaystyle \\phi (x)} を考える。作用積分はラグランジアン密度 L ( φ , ∂ φ , x ) {\\displaystyle {\\mathcal {L}}(\\phi ,\\partial \\phi ,x)} により", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "S [ φ ] = 1 c ∫ L ( φ , ∂ φ , x ) − g d d x {\\displaystyle S[\\phi ]={\\frac {1}{c}}\\int {\\mathcal {L}}(\\phi ,\\partial \\phi ,x){\\sqrt {-g}}\\,d^{d}x}", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "で書かれる。その変分は", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "δ S = 1 c ∫ ( ∂ L ∂ φ δ φ + ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) ∂ μ δ φ ) − g d d x = 1 c ∫ [ ∂ L ∂ φ − 1 − g ∂ μ ( ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) − g ) ] δ φ − g d d x + 1 c ∮ ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) δ φ − g d Σ μ {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\delta S&={\\frac {1}{c}}\\int \\left({\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial \\phi }}\\delta \\phi +{\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial (\\partial _{\\mu }\\phi )}}\\partial _{\\mu }\\delta \\phi \\right){\\sqrt {-g}}\\,d^{d}x\\\\&={\\frac {1}{c}}\\int \\left[{\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial \\phi }}-{\\frac {1}{\\sqrt {-g}}}\\partial _{\\mu }\\left({\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial (\\partial _{\\mu }\\phi )}}{\\sqrt {-g}}\\right)\\right]\\delta \\phi {\\sqrt {-g}}\\,d^{d}x+{\\frac {1}{c}}\\oint {\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial (\\partial _{\\mu }\\phi )}}\\delta \\phi {\\sqrt {-g}}\\,d\\varSigma _{\\mu }\\\\\\end{aligned}}}", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "となり、ラグランジュの運動方程式として", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "c − g δ S [ φ ] δ φ ( x ) = ∂ L ∂ φ − 1 − g ∂ μ ( ∂ L ∂ ( ∂ μ φ ) − g ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {c}{\\sqrt {-g}}}{\\frac {\\delta S[\\phi ]}{\\delta \\phi (x)}}={\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial \\phi }}-{\\frac {1}{\\sqrt {-g}}}\\partial _{\\mu }\\left({\\frac {\\partial {\\mathcal {L}}}{\\partial (\\partial _{\\mu }\\phi )}}{\\sqrt {-g}}\\right)=0}", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "が得られる。", "title": "ラグランジュ形式による場の理論" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "座標の2階微分 ··q について高々1次である次の運動方程式", "title": "ラグランジュ関数の存在条件" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "(ただし q = (q, ..., q))を導くラグランジュ関数が局所的に存在する必要十分条件は以下であることがヘルムホルツにより調べられている:", "title": "ラグランジュ関数の存在条件" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "このとき、ラグランジュ関数は以下で与えられる:", "title": "ラグランジュ関数の存在条件" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ここで G は q, t の任意関数である。", "title": "ラグランジュ関数の存在条件" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "相対論的な系では、時間は位置と共に4元ベクトルとなるので、時間は力学変数となり、運動のパラメータではなくなる。パラメータを λ として、力学変数を", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "X = ( X i μ ( λ ) ) = ( c t i ( λ ) , x i ( λ ) ) {\\displaystyle X=(X_{i}^{\\mu }(\\lambda ))=(ct_{i}(\\lambda ),{\\boldsymbol {x}}_{i}(\\lambda ))}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "とする。ここで μ は時空の添え字で、i は粒子を区別する添え字である。 自由粒子系を考えると、作用積分は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "S [ X ] = ∫ L ( X , X ̇ , λ ) d λ = − ∫ ∑ i ( m i c − η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν ) d λ {\\displaystyle S[X]=\\int L(X,{\\dot {X}},\\lambda )\\,d\\lambda =-\\int \\sum _{i}\\left(m_{i}c{\\sqrt {-\\eta _{\\mu \\nu }\\,{\\dot {X}}_{i}^{\\mu }{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }}}\\right)\\,d\\lambda }", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "である。ここで η は平坦な時空の計量で η = d i a g ( − 1 , 1 , ... , 1 ) {\\displaystyle \\eta =\\mathrm {diag} (-1,1,\\ldots ,1)} である。 平方根の中が正である為に、作用積分の段階で運動は時間的なものに限定されている。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ラグランジュの運動方程式は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "δ S [ X ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S[X]}{\\delta X_{i}^{\\mu }(\\lambda )}}=-{\\dot {p}}_{i\\mu }(\\lambda )=0}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "となる。 ここで、一般化運動量は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "p i μ ( λ ) = ∂ L ∂ X ̇ i μ = m i c η μ ν X ̇ i ν ( λ ) − ( X ̇ i ) 2 {\\displaystyle p_{i\\mu }(\\lambda )={\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {X}}_{i}^{\\mu }}}=m_{i}c{\\frac {\\eta _{\\mu \\nu }\\,{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }(\\lambda )}{\\sqrt {-({\\dot {X}}_{i})^{2}}}}}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "p i μ ( λ ) = η μ ν p i ν ( λ ) = m i c X ̇ i μ ( λ ) − ( X ̇ i ) 2 {\\displaystyle p_{i}^{\\mu }(\\lambda )=\\eta ^{\\mu \\nu }\\,p_{i\\nu }(\\lambda )={\\frac {m_{i}c{\\dot {X}}_{i}^{\\mu }(\\lambda )}{\\sqrt {-({\\dot {X}}_{i})^{2}}}}}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "である。 固有時間 c 2 d τ i 2 = η ρ σ d X i ρ d X i σ {\\displaystyle c^{2}d\\tau _{i}^{2}=\\eta _{\\rho \\sigma }dX_{i}^{\\rho }dX_{i}^{\\sigma }} を使うと", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "p i μ ( τ i ) = m i d X i ν d τ i = ( m i c d t i d τ i , m i d x i d τ i ) = ( E i / c , p i ) {\\displaystyle p_{i}^{\\mu }(\\tau _{i})=m_{i}{\\frac {dX_{i}^{\\nu }}{d\\tau _{i}}}=\\left(m_{i}c{\\frac {dt_{i}}{d\\tau _{i}}},m_{i}{\\frac {d{\\boldsymbol {x}}_{i}}{d\\tau _{i}}}\\right)=(E_{i}/c,{\\boldsymbol {p}}_{i})}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "この作用は平方根の中に微分を含む形のため扱いが困難である。 補助変数 γi(λ) を導入して別の形に書くことが出来る。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "S [ X , γ ] = 1 2 ∫ ∑ i ( 1 γ i 2 η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν − m i 2 c 2 ) γ i d λ {\\displaystyle S[X,\\gamma ]={\\frac {1}{2}}\\int \\sum _{i}\\left({\\frac {1}{{\\gamma _{i}}^{2}}}\\eta _{\\mu \\nu }{\\dot {X}}_{i}^{\\mu }{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }-m_{i}^{2}c^{2}\\right)\\gamma _{i}d\\lambda }", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "この作用積分は多くの系の運動項と同じく一般化速度の二次形式で書かれている。作用積分の段階では運動は時間的なものに限定されない。また、質量 m がゼロの場合にも意味を持つ。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "力学変数 X に関する運動方程式は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "δ S [ X , γ ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S[X,\\gamma ]}{\\delta X_{i}^{\\mu }(\\lambda )}}=-{\\dot {p}}_{i\\mu }(\\lambda )=0}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "であり、一般化運動量は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "p i μ ( λ ) = 1 γ i ( λ ) η μ ν X ̇ i ν ( λ ) {\\displaystyle p_{i\\mu }(\\lambda )={\\frac {1}{\\gamma _{i}(\\lambda )}}\\eta _{\\mu \\nu }{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }(\\lambda )}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "である。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "補助変数 γi は、作用に微分が含まれておらず、非物理的な量である。補助変数の拘束条件は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "δ S [ X , γ ] δ γ i ( λ ) = 1 2 ( − 1 γ i 2 η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν − m i 2 c 2 ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S[X,\\gamma ]}{\\delta \\gamma _{i}(\\lambda )}}={\\frac {1}{2}}\\left(-{\\frac {1}{\\gamma _{i}^{2}}}\\eta _{\\mu \\nu }{\\dot {X}}_{i}^{\\mu }{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }-m_{i}^{2}c^{2}\\right)=0}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "となる。質量 m がゼロでないときには", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "γ i 2 = − η μ ν X ̇ i μ X ̇ i ν m i 2 c 2 {\\displaystyle \\gamma _{i}^{2}=-{\\frac {\\eta _{\\mu \\nu }{\\dot {X}}_{i}^{\\mu }{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }}{m_{i}^{2}c^{2}}}}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "γ i = 1 m i c − ( X ̇ i ) 2 {\\displaystyle \\gamma _{i}={\\frac {1}{m_{i}c}}{\\sqrt {-({\\dot {X}}_{i})^{2}}}}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "となって上の作用積分と等価であることが確認される。補助変数の実数性を仮定すれば、運動が時間的なものに限定される。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "電磁場の力学変数は電磁ポテンシャル A である。 自由空間において電磁場が物質 X と相互作用する系の作用汎関数は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "S [ X , A ] = S X [ X ] + S A [ A ] + S int [ X , A ] {\\displaystyle S[X,A]=S_{X}[X]+S_{A}[A]+S_{\\text{int}}[X,A]}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "の形で書かれる。 ここで SX は物質の項、SA は電磁場の項、Sint は電磁場と物質の相互作用項であり、電磁場の項は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "S A [ A ] = − 1 4 Z 0 ∫ F μ ν F μ ν ( x ) − g d 4 x {\\displaystyle S_{A}[A]=-{\\frac {1}{4Z_{0}}}\\int F^{\\mu \\nu }F_{\\mu \\nu }(x){\\sqrt {-g}}\\,d^{4}x}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "と書かれる。ここで F は電磁場テンソルである。 このとき、電磁場 A に対する運動方程式", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "c − g δ S [ X , A ] δ A μ ( x ) = j μ ( x ) + c Z 0 D ν F ν μ ( x ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {c}{\\sqrt {-g}}}{\\frac {\\delta S[X,A]}{\\delta A_{\\mu }(x)}}=j^{\\mu }(x)+{\\frac {c}{Z_{0}}}D_{\\nu }F^{\\nu \\mu }(x)=0}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "としてマクスウェルの方程式が導かれる。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "物質場として相対論的な粒子系を考え、相互作用項として", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "S int [ X , A ] = ∑ i q i ∫ X ̇ i μ ( λ ) A μ ( X i ) d λ = ∫ ∑ i q i ( ∫ X ̇ i μ ( λ ) δ 4 ( X i ( λ ) − x ) d λ ) A μ ( x ) d 4 x {\\displaystyle {\\begin{aligned}S_{\\text{int}}[X,A]&=\\sum _{i}q_{i}\\int {\\dot {X}}_{i}^{\\mu }(\\lambda )\\,A_{\\mu }(X_{i})\\,d\\lambda \\\\&=\\int \\sum _{i}q_{i}\\left(\\int {\\dot {X}}_{i}^{\\mu }(\\lambda )\\,\\delta ^{4}(X_{i}(\\lambda )-x)\\,d\\lambda \\right)A_{\\mu }(x)\\,d^{4}x\\\\\\end{aligned}}}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "を考える。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "このとき、物質 X に関する運動方程式は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "δ S X [ X ] δ X i μ ( λ ) + δ S int [ X , A ] δ X i μ ( λ ) = − p ̇ i μ ( λ ) + q i X ̇ i ν ( λ ) F ν μ ( X i ) = 0 {\\displaystyle {\\frac {\\delta S_{X}[X]}{\\delta X_{i}^{\\mu }(\\lambda )}}+{\\frac {\\delta S_{\\text{int}}[X,A]}{\\delta X_{i}^{\\mu }(\\lambda )}}=-{\\dot {p}}_{i\\mu }(\\lambda )+q_{i}{\\dot {X}}_{i}^{\\nu }(\\lambda )\\,F_{\\nu \\mu }(X_{i})=0}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "となり、ローレンツ力を再現する。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "また、4元電流密度は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "j μ ( x ) = c − g δ S int [ X , A ] δ A μ ( x ) = ∑ i q i c − g ∫ X ̇ i μ ( λ ) δ 4 ( X i ( λ ) − x ) d λ {\\displaystyle j^{\\mu }(x)={\\frac {c}{\\sqrt {-g}}}{\\frac {\\delta S_{\\text{int}}[X,A]}{\\delta A_{\\mu }(x)}}=\\sum _{i}{\\frac {q_{i}c}{\\sqrt {-g}}}\\int {\\dot {X}}_{i}^{\\mu }(\\lambda )\\,\\delta ^{4}(X_{i}(\\lambda )-x)\\,d\\lambda }", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "一般相対性理論においては、平坦な時空の計量は曲がった時空の計量 g に置き換えられ、これが力学変数となる。 作用積分は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "S [ g , X ] = S X [ g , X ] + S g [ g ] {\\displaystyle S[g,X]=S_{X}[g,X]+S_{g}[g]}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "と書かれる。 重力場の項は", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "S g [ g ] = 1 2 κ c ∫ R − g d 4 x {\\displaystyle S_{g}[g]={\\frac {1}{2\\kappa c}}\\int R{\\sqrt {-g}}\\,d^{4}x}", "title": "具体例" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "である。 ここで R はスカラー曲率である。 アインシュタイン方程式は時空の計量 g の運動方程式として導かれる。", "title": "具体例" } ]
ラグランジュ力学は、一般化座標とその微分を基本変数として記述された古典力学である。フランスの物理学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュが創始した。後のハミルトン力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一形式である。
{{出典の明記|date=2011年7月}} {{古典力学}} '''ラグランジュ力学'''(ラグランジュりきがく、[[英語]]:{{lang|en|Lagrangian mechanics}})は、[[一般化座標]]とその[[微分]]を基本変数として記述された[[古典力学]]である。フランスの物理学者[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]が創始した。後の[[ハミルトン力学]]と同様に[[ニュートン力学]]を再定式化した[[解析力学]]の一形式である。 == 概要 == ラグランジュ形式の解析力学は'''[[最小作用の原理]]'''によって構成される。 元々はニュートン的な力学の分野において成立したが、[[電磁気学]]や[[相対性理論]]でも応用することが出来て、これらの分野における基礎方程式([[マクスウェル方程式]]、[[アインシュタイン方程式]])を導き出すことが出来る。 また、[[量子力学]]においても、[[経路積分]]の方法は最小作用の原理に関連して考え出された方法である。 ラグランジュ形式では[[一般化座標]]によって記述されており、変数の取り方が任意である。 ニュートンの運動方程式はベクトルの方程式であり、[[デカルト座標]]以外では煩雑な[[座標変換]]が必要となるが、ラグランジュ形式においてはラグランジアンはスカラーであり座標変換が簡単である。 実際の計算上でも、例えば長さが一定の[[振り子]]などで[[円周]]上を運動する場合には、平面内の運動なのでニュートンの運動方程式では2つの方向の2変数が必要となるが、ラグランジュ形式では一般化座標として角度を選ぶことにより1変数の方程式が得られる。 もちろんニュートンの運動方程式はラグランジュ形式と等価なので適当な変換により同じ式が得られるが、ラグランジュ形式では直接得られる点で便利である。 == 定式化 == ラグランジュ形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は'''一般化座標''' <math>q(t)=(q_1(t),\ldots)</math> である。力学系の性質は一般化座標とその微分(一般化速度)、および時間を変数とする関数 <math>L(q(t), \dot{q}(t), t)</math> によって記述される。この力学系の性質を記述する関数 L は'''ラグランジュ関数'''('''ラグランジアン''')と呼ばれる。 ラグランジュ形式において、作用汎関数はラグランジュ関数の時間積分 {{Indent| <math>S[q] = \int_{t_\text{I}}^{t_\text{F}} L(q(t), \dot{q}(t), t)\, dt</math> }} として与えられる。 一般化座標は実際には起こらない運動の値も取りうるが、そこから実際の運動を導く方法が'''[[最小作用の原理]]'''である。すなわち、作用汎関数が最小となる運動が実際に起こる運動である<ref group="注釈">実際は極小値。計算上は停留条件が用いられる。</ref>。 作用の停留条件から、'''ラグランジュの運動方程式'''([[オイラー=ラグランジュ方程式]]<ref group="注釈">オイラー=ラグランジュ方程式やオイラー方程式という用語は、運動方程式以外でも用いられる用法である。</ref>) {{Indent| <math>\frac{\delta S[q]}{\delta q_i(t)} =\frac{\partial L}{\partial q_i} -\frac{d}{dt}\frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i} =0</math> }} が得られる。 これは[[ニュートンの運動方程式]]と同等である。 === 運動量 === 一般化座標に共役な一般化[[運動量]]は、ラグランジアンの一般化速度による偏微分 {{Indent| <math>p_i \equiv \frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i}</math> }} によって定義される。 これは[[並進対称性]]から導かれる[[保存量]]である。 一般化運動量を用いると、ラグランジュの運動方程式は {{Indent| <math>\dot{p}_i = \frac{\partial L}{\partial q_i}</math> }} となる。ニュートンの運動方程式との比較から、右辺は一般化された[[力 (物理学)|力]]と見ることも出来る。 ハミルトン形式では一般化座標と一般化運動量によって記述されている。 一般化運動量は正準共役量であり、共役運動量や正準運動量と呼ばれることもある。 == ラグランジュ関数 == '''ラグランジュ関数'''('''ラグランジアン'''、{{en|Lagrangian}})は、物理的な[[力学系]]の[[動力学]]を記述するために用いられる関数である。 ラグランジアン <math>L(q,\dot{q},t)</math> は一般に[[運動エネルギー]] {{mvar|T}} と[[ポテンシャル]] {{mvar|V}} の差 {{Indent| <math>L(q, \dot{q}, t) = T -V</math> }} の形で書かれる。 ラグランジアンは[[エネルギー]]の[[量の次元|次元]]を持つ[[スカラー (物理学)|スカラー]]であるが、観測可能な[[物理量]]ではなく、その値自体に物理的な意味があるわけではない。特に、座標と時間の任意関数 <math>f(q,t)</math> の時間による全微分を加える変換 {{Indent| <math>L'(q, \dot{q}, t) = L(q, \dot{q}, t) +\frac{d}{dt}f(q,t)</math> }} を行っても全く同じ力学系を表す。 この全微分は[[連鎖律]]により {{Indent| <math>\frac{d}{dt}f(q,t) =\dot{q}_i \cdot \frac{\partial f}{\partial q_i} +\frac{\partial f}{\partial t}</math> }} となるので、この変換に対して、共役運動量は {{Indent| <math>p'_i =\frac{\partial L'}{\partial\dot{q}_i} =p_i +\frac{\partial f}{\partial q_i}</math> }} と変換される。したがって、新たな共役運動量の時間微分は {{Indent| <math>\dot{p}'_i =\dot{p}_i +\frac{d}{dt} \frac{\partial f}{\partial q_i}</math> }} となる。一方、一般化された力は {{Indent| <math>\frac{\partial L'}{\partial q_i} =\frac{\partial L}{\partial q_i} +\frac{\partial}{\partial q_i} \frac{d}{dt} f</math> }} と変換される。任意関数 {{mvar|f}} に作用する全微分 {{math|''d''/''dt''}} と座標の偏微分 {{math|''&part;''/''&part;q''}} が交換可能なので、この変換に対して運動方程式が保たれる。 == 座標変換 == 座標変換 <math>q \mapsto Q</math> が {{Indent| <math>q_i =g_i(Q,t)</math> }} で表されるとき、新たな座標の下でのラグランジアンは {{Indent| <math>\tilde{L}(Q,\dot{Q},t) =L(g(Q,t),\dot{g}(Q,t),t)</math> }} で与えられ、新たなラグランジアンから導かれる運動方程式は {{Indent| <math>\frac{\delta\tilde{S}[Q]}{\delta Q_I(t)} =\frac{\partial\tilde{L}}{\partial Q_I} -\frac{d}{dt} \frac{\partial\tilde{L}}{\partial\dot{Q}_I} =0</math> }} である。このように[[写像の合成]]で座標変換を容易に行えることが一般化座標で表されるラグランジュ形式の利点の一つである。 座標変換の時間微分は[[連鎖律]]により {{Indent| <math>\dot{g}_i(Q,t) =\frac{dg_i}{dt}(Q,t) =\dot{Q}_I\cdot \frac{\partial g_i}{\partial Q_I}(Q,t) +\frac{\partial g_i}{\partial t}(Q,t)</math> }} であるため、新たな座標に共役な運動量は {{Indent| <math>P_I(t) =\frac{\partial\tilde{L}}{\partial\dot{Q}_I} =\frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i} \frac{\partial g_i}{\partial Q_I} =p_i \cdot \frac{\partial g_i}{\partial Q_I}</math> }} となる。 === 母関数 === 座標変換は {{Indent| <math>W(p,Q,t) =p_i\cdot g_i(Q,t)</math> }} で定義される[[母関数]]により生成される。 座標変換は {{Indent| <math>q_i =\frac{\partial W}{\partial p_i}</math> }} で与えられ、新たな運動量は {{Indent| <math>P_I =\frac{\partial W}{\partial Q_I}</math> }} で与えられる。 先の任意関数によるラグランジュ関数の変換を伴う場合の母関数は {{Indent| <math>W(p,Q,t) =p_i\cdot g_i(Q,t) +f(Q,t)</math> }} で与えられる。 == 拘束系 == [[拘束条件]]が課された系にラグランジュ形式を用いる際に、一般座標を適当に選ぶことによって、拘束条件が常に満たされるようにすることができる。上で挙げた振り子の例であれば、座標変数に角度を選ぶことによって長さが一定という拘束条件が常に満たされるようにしている。 これの手法とは別に、[[ラグランジュの未定乗数法]]を用いて作用汎関数(ラグランジュ関数)に拘束条件を取り入れる方法がある。 一般化座標 {{mvar|q}} に対して、拘束条件 {{Indent| <math>\varPhi(q,t) =0</math> }} が課されている場合を考える。 このとき、作用は {{Indent| <math>S_\text{b}[q,\beta] =S[q] +\int_{t_\text{I}}^{t_\text{F}} \beta(t)\, \varPhi(q,t)\, dt</math> }} によって拘束条件が取り入れられる。ここで導入された {{math|''&beta;''(''t'')}} がラグランジュの未定乗数である。 拘束条件は全ての時間で成り立つので、未定乗数も各々の時間に対して導入される時間の関数である。 拘束条件が取り入れられた作用に対して最小作用の原理を適用して {{Indent| <math>\frac{\delta S_\text{b}[q,\beta]}{\delta q_i(t)} =\frac{\partial L}{\partial q_i} +\beta(t) \frac{\partial\varPhi}{\partial q_i} -\frac{d}{dt} \frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i} =0</math> }} {{Indent| <math>\frac{\delta S_\text{b}[q,\beta]}{\delta\beta(t)} =\varPhi(q,t) =0</math> }} が得られる。力学変数 {{mvar|q}} に対応する運動方程式には「拘束力」{{math|''&beta;''(&part;''&Phi;''/&part;''q'')}} が加えられ、未定乗数に対応する運動方程式として拘束条件が導かれる。 == ハミルトン形式との関係 == [[ハミルトン形式]]とラグランジュ形式は[[ルジャンドル変換]]を通して等価である。ただし、ラグランジアンが退化している場合は、ルジャンドル変換が[[位相同型|微分同相写像]]ではなくなり、ラグランジュ系からハミルトン系へ移行することができなくなる。この退化している場合の処方として[[ディラック]]の[[拘束理論]]が知られている。 == ラグランジュ形式による場の理論 == {{main|ラグランジアン (場の理論)}} 特に[[相対性理論|相対論]]的な場の理論の場合では、ラグランジュ形式から出発するのが一般的である。その方が相対論的[[不変量 (物理学)|不変性]]などの[[対称性]]が見やすいからである<ref>[[#shimizu|清水(2004)]]</ref>。 力学変数としては場 <math>\phi(x)</math>を考える。作用積分は'''ラグランジアン密度''' <math>\mathcal{L}(\phi, \partial\phi, x)</math> により {{Indent| <math>S[\phi] =\frac{1}{c} \int \mathcal{L}(\phi, \partial\phi, x) \sqrt{-g}\, d^dx</math> }} で書かれる。その変分は {{Indent| <math>\begin{aligned} \delta S &=\frac{1}{c} \int \left( \frac{\partial\mathcal{L}}{\partial\phi} \delta\phi +\frac{\partial\mathcal{L}}{\partial(\partial_\mu\phi)}\partial_\mu\delta\phi \right) \sqrt{-g}\, d^dx \\ &=\frac{1}{c} \int \left[ \frac{\partial\mathcal{L}}{\partial\phi} -\frac{1}{\sqrt{-g}} \partial_\mu \left( \frac{\partial\mathcal{L}}{\partial(\partial_\mu\phi)} \sqrt{-g} \right) \right] \delta\phi \sqrt{-g}\, d^dx +\frac{1}{c} \oint \frac{\partial\mathcal{L}}{\partial(\partial_\mu\phi)} \delta\phi \sqrt{-g}\, d\varSigma_\mu \\ \end{aligned}</math> }} となり、ラグランジュの運動方程式として {{Indent| <math>\frac{c}{\sqrt{-g}} \frac{\delta S[\phi]}{\delta\phi(x)} =\frac{\partial\mathcal{L}}{\partial\phi} -\frac{1}{\sqrt{-g}} \partial_\mu \left( \frac{\partial\mathcal{L}}{\partial(\partial_\mu\phi)} \sqrt{-g} \right) =0</math> }} が得られる。 == ラグランジュ関数の存在条件 == 座標の2階微分 {{mvar|{{ddot|q}}}} について高々1次である次の運動方程式 :<math>A_{ij}(q,\dot{q},t)\ddot{q}^j + B_i(q,\dot{q},t)=0, \quad (i,j=1,\dots,N)</math> (ただし {{math|1=''q'' = (''q''{{sup|1}}, ..., ''q{{sup|N}}'')}})を導くラグランジュ関数が局所的に存在する必要十分条件は以下であることが[[ヘルムホルツ]]により調べられている<ref>{{cite|和書 |editor= |author=木村利栄|author2=菅野礼司 |title=微分形式による解析力学 |edition=改訂増補 |publisher=吉岡書店 |year=1996 |isbn=4-8427-0261-3 |pages=56-66}}</ref>: :<math>\begin{align} A_{ij} &= A_{ji},\\ \frac{\partial A_{jk}}{\partial \dot{q}^i} &= \frac{\partial A_{ki}}{\partial \dot{q}^j},\\ \frac{\partial B_i}{\partial \dot{q}^j}+\frac{\partial B_j}{\partial \dot{q}^i} &= 2\left(\dot{q}^k\frac{\partial }{\partial q^k}+\frac{\partial }{\partial t}\right)A_{ij},\\ 2\left(\frac{\partial B_i}{\partial q^j}-\frac{\partial B_j}{\partial q^i}\right) &= \left(\dot{q}^k\frac{\partial }{\partial q^k}+\frac{\partial }{\partial t}\right) \left(\frac{\partial B_i}{\partial \dot{q}^j}-\frac{\partial B_j}{\partial \dot{q}^i}\right). \end{align}</math> このとき、ラグランジュ関数は以下で与えられる: :<math>\begin{align} L(q,\dot{q},t) &= K(q,\dot{q},t)+D_i(q,t)\dot{q}^i+C(q,t),\\ K(q,\dot{q},t) &= \int_0^1 \dot{q}^iH_i(q,\dot{q}\tau,t)\mathrm{d}\tau,\\ D_i(q,t) &= q^j\int_0^1 \mathrm{d}\tau\ \tau Z_{[i,j]}(\tau q,t)+\frac{\partial G}{\partial q^i},\\ C(q,t) &= q^i\int_0^1 \mathrm{d}\tau\ Y_i(q\tau,t),\\ H_i(q,\dot{q},t) &:= \int_0^1 \mathrm{d}\tau\ A_{ij}(q,\tau\dot{q},t)\dot{q}^j,\\ Z_{[i,j]}(q,t) &\equiv -Z_{[j,i]}(q,t) := \frac{1}{2}\left(\frac{\partial B_i}{\partial \dot{q}^j}-\frac{\partial B_j}{\partial \dot{q}^i}\right)+\frac{\partial^2 K}{\partial q^i \partial \dot{q}^j}-\frac{\partial^2 K}{\partial \dot{q}^i \partial q^j},\\ Y_i(q,t) &:= \left\{\frac{\partial^2 K}{\partial q^i \partial \dot{q}^j}+\frac{1}{2}\left(\frac{\partial B_i}{\partial \dot{q}^j}-\frac{\partial B_j}{\partial \dot{q}^i}\right)\right\}\dot{q}^j - \frac{\partial K}{\partial q^i} - B_i + \frac{\partial^2 K}{\partial \dot{q}^i \partial t} + \frac{\partial D_i}{\partial t}. \end{align}</math> ここで {{mvar|G}} は {{math|''q'', ''t''}} の任意関数である。 == 具体例 == === 相対論的な粒子系 === [[特殊相対性理論|相対論的]]な系では、時間は位置と共に[[4元ベクトル]]となるので、時間は力学変数となり、運動のパラメータではなくなる。パラメータを {{mvar|&lambda;}} として、力学変数を {{Indent| <math>X=(X_i^\mu(\lambda))=(ct_i(\lambda), \boldsymbol{x}_i(\lambda))</math> }} とする。ここで {{mvar|&mu;}} は時空の添え字で、{{mvar|i}} は粒子を区別する添え字である。 自由粒子系を考えると、作用積分は {{Indent| <math>S[X] = \int L(X, \dot{X}, \lambda)\, d\lambda = -\int \sum_i \left( m_ic \sqrt{-\eta_{\mu\nu}\, \dot{X}_i^\mu \dot{X}_i^\nu} \right)\, d\lambda</math> }} である。ここで {{mvar|&eta;}} は平坦な[[時空]]の[[計量]]で <math>\eta = \mathrm{diag}(-1, 1, \ldots, 1)</math> である。 平方根の中が正である為に、作用積分の段階で運動は時間的なものに限定されている。 ラグランジュの運動方程式は {{Indent| <math>\frac{\delta S[X]}{\delta X_i^\mu(\lambda)} = -\dot{p}_{i\mu}(\lambda) = 0</math> }} となる。 ここで、一般化運動量は {{Indent| <math>p_{i\mu}(\lambda) = \frac{\partial L}{\partial\dot{X}_i^\mu} = m_ic \frac{\eta_{\mu\nu}\,\dot{X}_i^\nu(\lambda)}{\sqrt{-(\dot{X}_i)^2}}</math> }} {{Indent| <math>p_i^\mu(\lambda) =\eta^{\mu\nu}\, p_{i\nu}(\lambda) = \frac{m_ic \dot{X}_i^\mu(\lambda)}{\sqrt{-(\dot{X}_i)^2}}</math> }} である。 [[固有時間]] <math>c^2d\tau_i^2 = \eta_{\rho\sigma}dX_i^\rho dX_i^\sigma</math> を使うと {{Indent| <math>p_i^\mu(\tau_i) = m_i \frac{dX_i^\nu}{d\tau_i} = \left( m_ic\frac{dt_i}{d\tau_i}, m_i\frac{d\boldsymbol{x}_i}{d\tau_i} \right) =(E_i/c, \boldsymbol{p}_i) </math> }} となる。 ==== 補助変数の導入 ==== この作用は平方根の中に微分を含む形のため扱いが困難である。 補助変数 {{math|''&gamma;''{{sub|i}}(''&lambda;'')}} を導入して別の形に書くことが出来る。 {{Indent| <math>S[X,\gamma] = \frac{1}{2}\int \sum_i \left( \frac{1}{{\gamma_i}^2}\eta_{\mu\nu}\dot{X}_i^\mu \dot{X}_i^\nu -m_i^2c^2 \right) \gamma_i d\lambda</math> }} この作用積分は多くの系の運動項と同じく一般化速度の二次形式で書かれている。作用積分の段階では運動は時間的なものに限定されない。また、質量 {{mvar|m}} がゼロの場合にも意味を持つ。 力学変数 {{mvar|X}} に関する運動方程式は {{Indent| <math>\frac{\delta S[X,\gamma]}{\delta X_i^\mu(\lambda)} = -\dot{p}_{i\mu}(\lambda) = 0</math> }} であり、一般化運動量は {{Indent| <math>p_{i\mu}(\lambda) = \frac{1}{\gamma_i(\lambda)} \eta_{\mu\nu}\dot{X}_i^\nu(\lambda)</math> }} である。 補助変数 {{mvar|&gamma;{{sub|i}}}} は、作用に微分が含まれておらず、非物理的な量である。補助変数の拘束条件は {{Indent| <math>\frac{\delta S[X,\gamma]}{\delta\gamma_i(\lambda)} = \frac{1}{2}\left( -\frac{1}{\gamma_i^2} \eta_{\mu\nu}\dot{X}_i^\mu\dot{X}_i^\nu -m_i^2c^2 \right) = 0</math> }} となる。質量 {{mvar|m}} がゼロでないときには {{Indent| <math>\gamma_i^2 =-\frac{\eta_{\mu\nu}\dot{X}_i^\mu\dot{X}_i^\nu}{m_i^2c^2}</math> }} {{Indent| <math>\gamma_i =\frac{1}{m_ic}\sqrt{-(\dot{X}_i)^2}</math> }} となって上の作用積分と等価であることが確認される。補助変数の実数性を仮定すれば、運動が時間的なものに限定される。 === 電磁気学 === 電磁場の力学変数は[[電磁ポテンシャル]] {{mvar|A}} である。 [[自由空間]]において電磁場が物質 {{mvar|X}} と相互作用する系の作用汎関数は {{Indent| <math>S[X,A] =S_X[X] +S_A[A] +S_\text{int}[X,A]</math> }} の形で書かれる。 ここで {{mvar|S{{sub|X}}}} は物質の項、{{mvar|S{{sub|A}}}} は電磁場の項、{{math|''S''{{sub|int}}}} は電磁場と物質の相互作用項であり、電磁場の項は {{Indent| <math>S_A[A] = -\frac{1}{4Z_0} \int F^{\mu\nu} F_{\mu\nu}(x) \sqrt{-g}\, d^4x</math> }} と書かれる。ここで {{mvar|F}} は[[電磁場テンソル]]である。 このとき、電磁場 {{mvar|A}} に対する運動方程式 {{Indent| <math>\frac{c}{\sqrt{-g}} \frac{\delta S[X,A]}{\delta A_\mu(x)} =j^\mu(x) +\frac{c}{Z_0} D_\nu F^{\nu\mu}(x) =0</math> }} として[[マクスウェルの方程式]]が導かれる。 {{Main|古典電磁気学の共変定式#電磁気学のラグランジュ形式}} ==== 電磁場中の粒子系 ==== 物質場として相対論的な粒子系を考え、相互作用項として {{Indent| <math>\begin{aligned} S_\text{int}[X,A] &=\sum_i q_i \int \dot{X}_i^\mu(\lambda)\, A_\mu(X_i)\, d\lambda \\ &=\int \sum_i q_i \left( \int \dot{X}_i^\mu(\lambda)\, \delta^4(X_i(\lambda)-x)\, d\lambda \right) A_\mu(x)\, d^4x \\ \end{aligned}</math> }} を考える。 このとき、物質 {{mvar|X}} に関する運動方程式は {{Indent| <math>\frac{\delta S_X[X]}{\delta X_i^\mu(\lambda)} +\frac{\delta S_\text{int}[X,A]}{\delta X_i^\mu(\lambda)} = -\dot{p}_{i\mu}(\lambda) +q_i\dot{X}_i^\nu(\lambda)\, F_{\nu\mu}(X_i) = 0</math> }} となり、[[ローレンツ力]]を再現する。 また、[[4元電流密度]]は {{Indent| <math>j^\mu(x) =\frac{c}{\sqrt{-g}} \frac{\delta S_\text{int}[X,A]}{\delta A_\mu(x)} =\sum_i \frac{q_ic}{\sqrt{-g}} \int \dot{X}_i^\mu(\lambda)\, \delta^4(X_i(\lambda)-x)\, d\lambda</math> }} となる。 === 一般相対性理論 === [[一般相対性理論]]においては、平坦な時空の計量は曲がった時空の計量 {{mvar|g}} に置き換えられ、これが力学変数となる。 作用積分は {{Indent| <math>S[g,X] = S_X[g,X] +S_g[g]</math> }} と書かれる。 重力場の項は {{Indent| <math>S_g[g] = \frac{1}{2\kappa c} \int R \sqrt{-g}\,d^4x</math> }} である。 ここで {{mvar|R}} は[[スカラー曲率]]である。 [[アインシュタイン方程式]]は時空の計量 {{mvar|g}} の運動方程式として導かれる。 {{Main|アインシュタイン・ヒルベルト作用}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author1=L.D.ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|author2=E.M.リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=力学 |publisher=[[東京図書出版]] |series=[[理論物理学教程]] |year=1974 |isbn=4-489-01160-1 }} * {{Cite book|和書 |author1=L.D.ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|author2=E.M.リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=場の古典論 |publisher=[[東京図書出版]] |series=[[理論物理学教程]] |year=1978 |isbn=4-489-01161-X }} * {{Cite book|和書 |author=清水明|authorlink=清水明 |title=新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために― |publisher=[[サイエンス社]] |year=2004 |isbn=4-7819-1062-9 |ref=shimizu }} * {{Cite book|和書 |author=江沢洋|authorlink=江沢洋 |title=解析力学 |publisher=[[培風館]] |series=新物理学シリーズ |year=2007 |isbn=978-4-563-02436-9 }} == 関連項目 == * [[オイラー=ラグランジュ方程式]] * [[最小作用の原理]] * [[解析力学]] - [[ハミルトン力学]] * [[ネーターの定理]] == 外部リンク == * {{Spedia|Lagrangian_mechanics|Lagrangian mechanics}} {{Physics-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らくらんしゆりきかく}} [[Category:ラグランジュ力学|*]] [[Category:変分法]] [[Category:ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]] [[Category:物理学のエポニム]]
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2,041
産業財産権法
産業財産権法(さんぎょうざいさんけんほう)とは「Industrial Property Law」の訳語で、知的財産権の中でも、特に産業政策的な諸権利について取り扱う法律の総称。 従来は「工業所有権法」と訳されていたが、現代の経済社会が必ずしも工業を中心とするものではなくなってきており、それに応じて「Industrial Property」の範囲も、公正な商業活動を図るための不正競争防止法や農業分野の種苗法、近年のデジタル社会において重要度が増している著作権法等を含んだ広範なものになってきたため、より適切と考えられる「産業財産権法」という語が用いられるようになった。 一般的には、特許法、実用新案法、意匠法、商標法からなる、いわゆる「工業所有権四法」と産業活動に関連を有する知的財産関連諸法を指すが、厳密な定義は時と場合によって若干異なることもあるため、注意が必要である。
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産業財産権法(さんぎょうざいさんけんほう)とは「Industrial Property Law」の訳語で、知的財産権の中でも、特に産業政策的な諸権利について取り扱う法律の総称。
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2,042
作家
作家(さっか)は、芸術や趣味の分野で作品を創作する作者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。 芸術家に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・肩書きとして、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の職業名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では詩人・画家・作曲家・映画監督などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○クリエイター(wikt:creator)という用い方がされる。 ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。 ただ単に「作家」と言った場合、物書き、つまり著作家、とくに小説家を指す場合が多い。だが、「作家」という職業は、様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、小説は書いていないが単に作家と称する例が多い(猪瀬直樹、麻生千晶など)。
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作家(さっか)は、芸術や趣味の分野で作品を創作する作者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。
{{Otheruseslist|芸術・趣味作品創作家としての広義の「作家」|著作家としての狭義の「作家」|著作家|放送局や新聞社・出版社に雇われて記事を書く作家|記者}} {{出典の明記|date=2016年8月12日 (金) 04:21 (UTC)}} '''作家'''(さっか)は、[[芸術]]や[[趣味]]の分野で'''[[作品]]を[[創造|創作]]する[[作者]]'''のうち作品創作を[[職業]]とする者または職業としていない者でも[[専門家]]として認められた者をいう。 == 解説 == {{出典の明記| date = 2023年8月| section = 1}} {{独自研究|date=2023年8月28日 (月) 02:20 (UTC)|section=1}} [[芸術家]]に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・[[肩書き]]として、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の[[職業]]名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では[[詩人]]・[[画家]]・[[作曲家]]・[[映画監督]]などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○[[クリエイター]]([[wikt:creator]])という用い方がされる。 ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。 ただ単に「作家」と言った場合、物書き、つまり[[著作家]]、とくに[[小説家]]を指す場合が多い。だが、「作家」という職業は、様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、[[小説]]は書いていないが単に作家と称する例が多い([[猪瀬直樹]]、[[麻生千晶]]など)。 {{Main|著作家#狭義の作家}} == 「作家」と称されている主な例 == {{columns-list|colwidth=18em| ;[[著作家]] * [[小説家]] * [[ノンフィクション作家]] * [[劇作家]] * [[コラムニスト]] * [[随筆家]]/エッセイスト * [[詩人]]・[[歌人]] * [[放送作家]]・構成作家 ** [[脚本家]]([[シナリオライター]]) * [[絵本作家]] * [[漫画家]] ** [[漫画原作者]] * [[作詞家]] ;[[芸術家]] * [[アニメーション]]作家 * [[コンピュータグラフィックス|CG]]作家/CGクリエイター * [[映像作家]] * [[画家]] * [[彫刻家]] * [[陶芸家]] * [[華道家]] * [[美術家]] * [[建築家]]([[住宅]]作家など) * [[造園家]]・[[作庭家]] * [[音楽作家]]([[作曲家]]、[[作詞家]]) * [[書道家]] * [[写真家]]([[カメラマン]]) * [[模型]]作家([[モデラー (模型)#プロモデラー|プロモデラー]]) * [[フィギュア]]作家 * {{C|人形作家}} * {{C|折り紙作家}} * {{C|パズル作家}} * ゲーム作家({{C|コンピュータゲーム開発者}}、{{C|ゲームクリエイター}}など) * {{C|クイズ作家}} }} <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} --> == 関連項目 == {{wiktionary}} {{Wikibooks|作家}} * [[職人]] * [[著作権]] * [[作家主義]] * [[著者紹介]] ‐ 著作の中で、著者の最近とられた写真である著者近影、紹介などが行われる。 * {{ill2|著者代理人|en|Author surrogate}} ‐ 主人公や物語の語り部、あとがきなどに登場する作者自身か作者の代弁者として作中に登場する存在。 == 外部リンク == * {{kotobank}} {{Narrative}} {{Normdaten}} {{Job-stub}} {{DEFAULTSORT:さつか}} [[Category:作家|*]] [[Category:和製漢語]]
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