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矢口高雄
矢口 高雄(やぐち たかお、1939年10月28日 - 2020年11月20日)は、日本の漫画家・エッセイスト。株式会社矢口プロダクション代表取締役。本名:高橋 高雄(たかはし たかお 戸籍上は「高」が異体字(はしご髙)で髙橋 髙雄)。血液型A型。 自然の中での生活をテーマにした作品を描き、代表作の『釣りキチ三平』、『幻の怪蛇バチヘビ』で、釣りとツチノコブームを起こした。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現:横手市)生まれ。町の中心部から20km離れた山村に生まれ、自然に囲まれて育つ。この子供時代の生活が、後に漫画の題材となった。 4歳の時に、母親に読み聞かせてもらった宮尾しげをの『西遊記』や田河水泡の『のらくろ』で漫画に接し、以来無類の漫画好きになる。特に手塚治虫の『流線型事件』『メトロポリス』に強い影響を受け、手塚が連載する漫画雑誌を買うために杉皮背負いのアルバイトで小遣いを稼ぐほどであった。また漫画を読む一方で自ら描く事にも興味を持ち、手持ちの漫画の模写をするようになり、手塚に手紙を出して、予想外の返事を受けて感激した。 中学生時代に生徒会長を務め、秋田県立増田高等学校を卒業する。 地元の羽後銀行(合併を経て、現在は北都銀行。その縁から合併直前の時期には釣りキチ三平が同行のキャラクターとなっていた。)に入行。当初は銀行員としての仕事をこなすので精一杯であったが、ある日、同僚が読んでいた『ガロ』に強い影響を受け、再び漫画を描き始める。1966年頃から漫画誌の編集部へ自作品の投稿を繰り返すが、よい返事はなかった。 1968年の夏期休暇で上京し、『ガロ』の編集部へ落選した原稿を改めて持ち込み批評を頼むと、編集長である長井勝一から「絵がヘタである」と否定的な評価を得る。この時水木しげるの職場に案内されるが、水木は矢口の漫画を高く評価、池上遼一、つげ義春ら水木プロの面々からも様々なアドバイスを受ける。 1969年、『ガロ』で入賞作の『長持唄考』が掲載され、アマチュア作家として本名でデビュー。 読み切り作品を数作掲載の後1970年に銀行を退職し、妻と娘2人を郷里に残して単身上京、この際妻からは反対はなく、むしろ「早速東京に引っ越しね」と言われたという。『ガロ』の原稿料だけでは生活できず、長井に紹介された『週刊少年サンデー』で読み切り作品『鮎』が採用されメジャー誌デビューとなる。 同年、梶原一騎原作の『おとこ道』を同誌で連載開始。当時30歳と漫画家としては遅めのスタートだったが、自身の趣味である釣りの経験を基にした『釣りキチ三平』(昭和版)を週刊少年マガジンで連載開始すると「釣り」ブームが巻き起こり、一躍人気作家となった。 同作の完結後は、野生生物や自然を題材とした中編作品の連載と並行して、自身の半生を年代順に自叙伝形式で描いた「オーイ!!やまびこ」「蛍雪時代」「9で割れ!!」の連載や、エッセイ「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」の執筆・発売を行った。1989年に敬愛する手塚治虫が逝去すると、大いに悲嘆した。 1995年には出身地の増田町で画業の功績を称えられ町営(現:横手市営)の横手市増田まんが美術館が開館し名誉館長に就任。2003年には石ノ森章太郎と生前交わした約束から石ノ森萬画館の館長(2代目)を歴任。 2001年から『釣りキチ三平 平成版』を連載していたが気力、体力の限界から筆を置き未完となっている。また、2003年4月からは自身の公式ホームページ上で、身の回りの出来事をエッセイ風に綴る日記(ブログ)「矢口高雄の独り言」を掲載している。 2020年11月20日、膵臓がんにより東京都内の病院で死去。81歳没。 ペンネームは初連載作品である『おとこ道』の原作者梶原一騎の発案によるもので、居住地の最寄り駅である大田区矢口渡駅から抜き出した。 矢口は梶原一騎に対し「先生の原作のおかげで、どれだけドラマ作りやセリフの勉強をさせてもらったかわかりませんよ」と語っている。梶原には「いやあ、君はいいね。いつもへりくだっている。それが人生で一番大事なことなんだ。その気持ちを忘れるなよ」と言われたそうである。 手塚治虫とは、映画『スター・ウォーズ』の日本での試写会(1978年)の際、たまたま席が隣同士となったことがある。手塚は日本公開の前にアメリカで同作品を見ていたため、矢口に対しても途中でネタバレの内容を喋ってしまうが、後に娘に対し「手塚先生の解説付き『スター・ウォーズ』なんて、こんな素晴らしい体験があるものか」と語ったという。 故郷である横手市増田にある横手市増田まんが美術館にて、矢口は美術館の初代名誉館長に就任。同館で催されるイベントにも度々参加し、市内外から訪れる人々との交流を積極的に行った。矢口の死後、同美術館では名誉館長不在の状況が続いたが、矢口の出生地の隣村にあたる秋田県東成瀬村出身の漫画家、高橋よしひろが二代目名誉館長に就任した。 井上陽水の大ファンである。 矢口が書いたエッセイ集の「ボクの学校は山と川」(単行本初版1987年(昭和62年)9月)「ボクの先生は山と川」は発売されるや教育関係者の注目を浴びるところとなった。まずNHKラジオ第一の朗読番組「私の本棚」に採用され、毎日15分間、12回に渡って朗読放送された。続いて「ボクの学校は山と川」は全国学校図書館協議会主催の第34回青少年読書感想文全国コンクールの高校生の課題図書に選定された。 またそれまで時々「マンガについて」「釣り」などのテーマで講演依頼があったが、この2冊のエッセイを出版して以来、これらのテーマに加えて「河川や水を通した環境問題」「村おこし、町づくりをテーマとした農業問題」となり、ついには「教育問題」をテーマとする講演依頼が異常に増えた。岡山県備前市で行われた学校図書館協議会主催の研究会では、学校図書館に携わる教員500名を前に「マンガは若者に支えられた文化である。この素晴らしいパワーをぜひ教育の場に取り入れてほしい。先生方にもマンガを読み、研究しその利点を教室で生かしてほしい」と講演した。 更に学校用教科書の出版社から教科用図書・高校教科書への採択依頼が相次ぎ、1990年版に以下の作品が採択された。 矢口のエッセイ文を教科書に採択するに当たり、ある教科書出版社社員が「ご専門であるイラストもお願いしたい」と矢口に伝えると、「ボクに1ページください。関連したイラストを、その1ページにマンガでやらせてください。教科書にマンガです。中学時代からの夢だったんです。いいえ、描かせてもらえるなら原稿料なんかいりません。お願いします」と逆に頼み込んだ。出版社は矢口からの依頼を承諾し、矢口の描いたマンガ付き教科書は文部省の教科書検定を見事通過し、国語の教科書にマンガを載せることに成功した。 その後も矢口作品の教科書採択は続き、1996年度の東京書籍「新しい社会」下巻(小学5年社会科)には大判の教科書に見開きで、釣りキチ三平が釧路湿原の近くでイトウを釣っている迫力満点のイラストが掲載された。
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矢口 高雄は、日本の漫画家・エッセイスト。株式会社矢口プロダクション代表取締役。本名:高橋 高雄。血液型A型。 自然の中での生活をテーマにした作品を描き、代表作の『釣りキチ三平』、『幻の怪蛇バチヘビ』で、釣りとツチノコブームを起こした。
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 矢口 高雄 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = &#39641;橋 &#39641;雄 | 生地 = {{JPN}}・[[秋田県]][[雄勝郡]][[西成瀬村]] | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日|1939|10|28}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1939|10|28|2020|11|20}}<ref name="mangajapaninfo" /><ref name="tw" /><ref name="oricon"/> | 職業 = [[漫画家]]・[[随筆家]] | 活動期間 = [[1969年]] - [[2020年]] | ジャンル = [[青年漫画]]・釣り漫画 | 代表作 = 『[[釣りキチ三平]]』 | 受賞 = 第5回[[講談社漫画賞|講談社出版文化賞]](『[[釣りキチ三平]]』『[[幻の怪蛇バチヘビ]]』)<br />第5回[[日本漫画家協会賞]]大賞<br />(『マタギ』) | 公式サイト = [https://www.yaguchitakao.com/ 矢口高雄公式サイト] }} '''矢口 高雄'''(やぐち たかお、[[1939年]][[10月28日]] - [[2020年]][[11月20日]]<ref name="mangajapaninfo" /><ref name="tw" />)は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[エッセイスト]]。株式会社矢口プロダクション代表取締役。本名:'''高橋 高雄'''(たかはし たかお 戸籍上は「高」が[[異体字]](はしご髙)で'''髙'''橋 '''髙'''雄<ref>2002年9月「ふるさとって何ですか [[課外授業ようこそ先輩]] 別冊」KTC中央出版</ref>)。[[血液型]]A型。 自然の中での生活をテーマにした作品を描き、代表作の『[[釣りキチ三平]]』、『[[幻の怪蛇バチヘビ]]』で、[[釣り]]と[[ツチノコ]]ブームを起こした。 == 経歴 == === 生い立ち === [[秋田県]][[雄勝郡]][[西成瀬村]](現:[[横手市]])生まれ。町の中心部から20[[キロメートル|km]]離れた山村に生まれ、自然に囲まれて育つ。この子供時代の生活が、後に漫画の題材となった。 4歳の時に、母親に読み聞かせてもらった[[宮尾しげを]]の『[[西遊記]]』や[[田河水泡]]の『[[のらくろ]]』で漫画に接し、以来無類の漫画好きになる。特に[[手塚治虫]]の『流線型事件』『メトロポリス』に強い影響を受け、手塚が連載する漫画雑誌を買うために杉皮背負いのアルバイトで小遣いを稼ぐほどであった。また漫画を読む一方で自ら描く事にも興味を持ち、手持ちの漫画の模写をするようになり、手塚に手紙を出して、予想外の返事を受けて感激した<ref name="yaguchi">『ボクの手塚治虫』([[講談社文庫]])より。</ref>。 中学生時代に[[生徒会]]長を務め、[[秋田県立増田高等学校]]を卒業する。 === 就職後に漫画執筆 === 地元の[[羽後銀行]](合併を経て、現在は[[北都銀行]]。その縁から合併直前の時期には[[釣りキチ三平]]が同行のキャラクターとなっていた。)に入行。当初は銀行員としての仕事をこなすので精一杯であったが、ある日、同僚が読んでいた『ガロ』に強い影響を受け、再び漫画を描き始める。1966年頃から漫画誌の編集部へ自作品の投稿を繰り返すが、よい返事はなかった。 [[1968年]]の夏期休暇で上京し、『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』の編集部へ落選した原稿を改めて持ち込み批評を頼むと、編集長である[[長井勝一]]から「絵がヘタである」と否定的な評価を得る。この時[[水木しげる]]の職場に案内されるが、水木は矢口の漫画を高く評価{{efn2|この時の様子は水木の自伝的マンガにも登場しているが、水木は「そりゃあ銀行員の方がいいですよ」「はやく東北にかえりなさい」と矢口に述べ、「彼(矢口)は間もなく[[ガロ (雑誌)|ガロ]]にかき有名になった」と終わらせている<ref>{{Cite book|和書|author=水木しげる |authorlink=水木しげる |title=ボクの一生はゲゲゲの楽園だ マンガ水木しげる自叙伝 |year=2001 |month=10 |publisher=(eBook版) |volume=6 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|website=[[産経新聞ニュース#産経ニュース (ウェブ)|産経ニュース]] |publisher=[[産経新聞]] |date=2017-12-25 |accessdate=2020-11-26}}</ref>。また、2003年4月からは自身の公式ホームページ上で、身の回りの出来事をエッセイ風に綴る[[日記]]([[ブログ]])「矢口高雄の独り言」を掲載している。 2020年11月20日、[[膵臓がん]]により東京都内の病院で死去<ref name="mangajapaninfo">{{Cite web|和書|url=https://mangajapaninfo.blogspot.com/2020/11/blog-post_25.html|title=訃報・会員 矢口高雄先生|publisher=一般社団法人マンガジャパン|date=2020-11-25|accessdate=2020-11-26}}</ref><ref name="tw">{{Cite tweet|user=yaguchi_takao |number=1331447586524258306 |title=矢口の次女 かおるです。父・矢口高雄は11/20に家族が見守るなか、眠るように息を引き取りました。 |date=2020-11-25 |accessdate=2020-11-26}}</ref><ref name="oricon">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2177630/full/|title=『釣りキチ三平』矢口高雄さん死去 81歳 すい臓がんで闘病|website=[[オリコン]]|publisher=[[オリコン|オリコンニュース]]|date=2020-11-25|accessdate=2020-11-26}}</ref>。{{没年齢|1939|10|28|2020|11|20}}。 == 人物 == [[ペンネーム]]は初連載作品である『おとこ道』の原作者[[梶原一騎]]の発案によるもので、居住地の最寄り駅である[[大田区]][[矢口渡駅]]から抜き出した<ref>『オーイ!! やまびこ』6巻収録「名前の付け方」</ref>。 矢口は[[梶原一騎]]に対し「先生の原作のおかげで、どれだけドラマ作りやセリフの勉強をさせてもらったかわかりませんよ」と語っている。梶原には「いやあ、君はいいね。いつもへりくだっている。それが人生で一番大事なことなんだ。その気持ちを忘れるなよ」と言われたそうである<ref>以上のエピソードは、[[斎藤貴男]]著『夕やけを見ていた男―評伝 梶原一騎』による。</ref>。 手塚治虫とは、映画『[[スター・ウォーズ]]』の日本での試写会(1978年)の際、たまたま席が隣同士となったことがある。手塚は日本公開の前にアメリカで同作品を見ていたため、矢口に対しても途中でネタバレの内容を喋ってしまうが、後に娘に対し「手塚先生の解説付き『スター・ウォーズ』なんて、こんな素晴らしい体験があるものか」と語ったという<ref name="gnavi">{{Cite web|和書|url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2635 |title=【田中圭一のペンと箸―漫画家の好物ー】第16話:『釣りキチ三平』矢口高雄と自由が丘の焼肉 |website=ぐるなび みんなのごはん。 |publisher=[[ぐるなび]] |date=2015-10-15 |accessdate=2020-11-26}}</ref>。 故郷である横手市増田にある[[横手市増田まんが美術館]]にて、矢口は美術館の初代名誉館長に就任。同館で催されるイベントにも度々参加し、市内外から訪れる人々との交流を積極的に行った。矢口の死後、同美術館では名誉館長不在の状況が続いたが、矢口の出生地の隣村にあたる秋田県[[東成瀬村]]出身の漫画家、[[高橋よしひろ]]が二代目名誉館長に就任した。<ref>横手市増田まんが美術館公式ホームページに記載</ref> [[井上陽水]]の大ファンである<ref>{{Cite tweet|user=yaguchi_takao |number=1142766570373935104 |title=ボクは井上陽水の大ファンで、東京と横浜で3日間コンサートがあれば全てのチケットをゲットして聴きほれる。 |date=2019-06-23 |accessdate=2020-11-26}}</ref>。 == 学校教科書への採択 == {{出典の明記|section=1|date=2013年2月|ソートキー=人}} 矢口が書いたエッセイ集の「ボクの学校は山と川」(単行本初版1987年(昭和62年)9月)「ボクの先生は山と川」は発売されるや教育関係者の注目を浴びるところとなった。まずNHKラジオ第一の朗読番組「[[私の本棚]]」に採用され、毎日15分間、12回に渡って朗読放送された<ref>講談社文庫 ボクの先生は山と川(あとがき(1988年4月15日)より)</ref>。続いて「ボクの学校は山と川」は全国学校図書館協議会主催の第34回青少年読書感想文全国コンクールの高校生の課題図書に選定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-sla.or.jp/contest/youngr/pastbook/314019851994.html |title=過去の課題図書 第31回~第40回(1985年度~1994年度) |website= |publisher=[[全国学校図書館協議会]] |date= |accessdate=2020-11-26}}</ref>。 またそれまで時々「マンガについて」「釣り」などのテーマで講演依頼があったが、この2冊のエッセイを出版して以来、これらのテーマに加えて「河川や水を通した環境問題」「村おこし、町づくりをテーマとした農業問題」となり、ついには「教育問題」をテーマとする講演依頼が異常に増えた。岡山県備前市で行われた学校図書館協議会主催の研究会では、学校図書館に携わる教員500名を前に「マンガは若者に支えられた文化である。この素晴らしいパワーをぜひ教育の場に取り入れてほしい。先生方にもマンガを読み、研究しその利点を教室で生かしてほしい」と講演した<ref>「ボクの先生は山と川」あとがきおよび解説、自選 釣れづれの記 「連載最終回によせて」「千曲川の鮎つり」「身辺雑記」 より</ref>。 更に学校用教科書の出版社から[[教科用図書]]・高校[[教科書]]への採択依頼が相次ぎ、1990年版に以下の作品が採択された。 *「カジカの夜突き」中学1年国語 教育出版 *「にくい青虫」中学1年国語 教育出版 *「あけびとり」高校1年英語 三友社出版 *「バチヘビ始末」中学2年国語 教材文理 *「底なし沼の極小トンボ」高校1年国語 尚学図書 *「心のかけ橋」小学5年道徳 学習研究社 *「弟の死」中学3年道徳 大阪書籍 *「校門を掘る子」中学3年道徳 光村図書<ref>1993年8月発行 講談社文庫 ボクの学校は山と川(あとがきの 文庫版によせて)より および 講談社文庫 ボクの先生は山と川(文庫化にあたって(平成7年6月15日))より</ref> 矢口のエッセイ文を教科書に採択するに当たり、ある教科書出版社社員が「ご専門であるイラストもお願いしたい」と矢口に伝えると、「ボクに1ページください。関連したイラストを、その1ページにマンガでやらせてください。教科書にマンガです。中学時代からの夢だったんです。いいえ、描かせてもらえるなら原稿料なんかいりません。お願いします」と逆に頼み込んだ。出版社は矢口からの依頼を承諾し、矢口の描いたマンガ付き教科書は文部省の教科書検定を見事通過し、国語の教科書にマンガを載せることに成功した<ref>1993年8月発行 講談社文庫 ボクの学校は山と川(解説より)および 講談社文庫 ボクの先生は山と川(あとがき(1988年4月15日)より)</ref>。 その後も矢口作品の教科書採択は続き、1996年度の東京書籍「新しい社会」下巻(小学5年社会科)には大判の教科書に見開きで、釣りキチ三平が釧路湿原の近くでイトウを釣っている迫力満点のイラストが掲載された<ref>「ボクの先生は山と川」解説より</ref>。 == 受賞歴 == * [[1974年]] - 第4回[[講談社漫画賞|講談社出版文化賞 児童まんが部門]]受賞(『釣りキチ三平』、『幻の怪蛇バチヘビ』) * [[1976年]] - 第5回[[日本漫画家協会賞]]大賞受賞(『マタギ』) * [[2009年]] - 平成21年度[[地域文化功労者]] 表彰 == 主要作品 == * おとこ道(原作:[[梶原一騎]]、1970年 - 1971年、[[週刊少年サンデー]]) * マタギ列伝(1972年 - 1974年、トップコミック(秋田書店)) * 釣りバカたち(1972年 - 1983年、[[漫画アクション|週刊漫画アクション]]) * 幻の怪蛇バチヘビ(1973年、[[週刊少年マガジン]]) * [[おらが村]](1973年 - 1975年、漫画アクション) ** [[新・おらが村]](1988年 - 1990年、地上([[家の光協会]])) * [[釣りキチ三平]](1973年 - 1983年、週刊少年マガジン) ** 釣りキチ三平 平成版(2001年 - 、矢口作品のみを掲載したプライベートコミック雑誌『平成版 釣りキチ三平』(名目上 [[週刊少年マガジン増刊号]]扱い)で連載後、[[KCデラックス]]から単行本化される。) * [[マタギ (漫画)|マタギ]](1975年 - 1976年、週刊漫画アクション) * [[かつみ]](1976年 - 1977年、週刊少年サンデー) * [[ニッポン博物誌]](1977年 - 1979年、週刊少年サンデー) * 劇的十二支考(1983年 - 1984年、[[週刊モーニング|コミックモーニング]]) * [[ふるさと (漫画)|ふるさと]](1983年 - 1985年、週刊漫画アクション) * オーイ!!やまびこ(1988年 - 1990年、[[毎日中学生新聞]]、[[毎日新聞社]]から単行本化・[[講談社文庫]]) - 漫画家デビュー前の経緯を描いた「昭和三部作」の一つ。子供時代を描いた自伝的な作品 * ボクの手塚治虫(毎日新聞社) * [[激濤 Magnitude 7.7]](1989年 - 1990年、[[ビッグコミック]]) * [[蛍雪時代]](1993年 - 1995年、[[しんぶん赤旗]]日曜版、講談社から単行本・講談社文庫化) - 漫画家デビュー前の経緯を描いた「昭和三部作」の一つ。中学校時代を描いた自伝的な作品 *[[9で割れ!!―昭和銀行田園支店]](1993年 - 1995年、小説中公,2008-2009年に未完部分を[[週刊少年マガジン増刊号|平成版 釣りキチ三平]]で書き下ろし連載し完結。[[講談社文庫]]版で纏められた。) - 漫画家デビュー前の経緯を描いた「昭和三部作」の一つ。銀行員時代を描いた自伝的な作品 * 野性伝説(原作:[[戸川幸夫]]、1995年 - 1998年、[[ビッグゴールド|月刊ビッグゴールド]](小学館)) ** 収録作「爪王」「羆風」「北へ帰る」「飴色角と三本指」 * マンガ日本の古典 25巻「[[奥の細道]]」(原作:[[松尾芭蕉]]、1995年、[[中央公論社]]) - 2001年に文庫版、2022年にワイド版が出る。 * LOVE FISH三平クラブ(1998年 - 1999年、[[コミックアルファ]]([[メディアファクトリー]])) * バスボーイQ(1999年 - 2002年、Crazy Bass([[双葉社]]から刊行されていた[[バスフィッシング]]雑誌)) * トキ(1976年、[[笠倉出版社]]刊、2011年3月に[[復刊ドットコム]]から単行本として復刊) === その他 === * [[日本放送協会|NHK]]の[[歌番組]]『[[みんなのうた]]』で[[1978年]]8・9月に放送していた歌・[[だるまさんがころんだ#題材とした作品|だるまさんがころんだ]]の[[静止画]]の制作(アニメーション制作:[[南家こうじ]])(歌:[[斉藤こず恵]]) == 派生作品 == * テレビアニメ「釣りキチ三平」(フジテレビ、1980年4月7日 - 1982年6月28日、全109話) == 出演 == === テレビ番組 === * [[TVチャンピオン]](テレビ東京) ** 「少年マンガ王選手権」1999年7月1日 - 挑戦者が仕事場を訪れ、出題が行われた。 ** 「魚通選手権」2001年2月22日 - 出題用の画を描いた(解答者の中には[[さかなクン]]がいた)。 * [[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]] 第1526回 「矢口高雄 奥能登 潮騒遥か魚三昧(石川県 輪島市〜珠洲市)」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.to-ku.com/midokoro/1526.htm |title=第1526回 矢口高雄 奥能登 潮騒遥か魚三昧 |website= |publisher=[[テレビマンユニオン]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]] |date= |accessdate=2020-11-26}}</ref>(2000年11月26日 読売テレビ) * [[課外授業 ようこそ先輩]]「ふるさとって何ですか」(2002年4月14日 NHK) - 小学生を相手に特別授業を行った。 === CM === * 1982年 『ひとりから、みんなへ』公共広告機構(現:[[ACジャパン]]) == アシスタント == * [[岩井渓]] * しもん雅之 * 長尾ともひさ(長尾朋寿) * [[西川淳 (漫画家)|西川淳]] * [[はやせ淳]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{ページ番号|date=2023年1月|secition=1}} * 矢口高雄:『ボクの手塚治虫』(1989年、[[毎日新聞社]]、{{ISBN2|978-4-6207-7040-6}}) ** 矢口高雄:『ボクの手塚治虫』[[講談社文庫]](1994年、[[講談社]]、{{ISBN2|978-4-0618-5582-3}}) * 矢口高雄:『マンガ万歳ー画業50年への軌跡』(2020年9月28日、秋田魁新報社、{{ISBN2|978-4-8702-0414-0}}) * 藤澤志穂子:『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』、世界文化社、{{ISBN2| 978-4-4181-9501-5}}(2020年12月19日)。 == 関連項目 == * [[行列のできる法律相談所#有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト|有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト]] * [[クニマス]] * [[タキタロウ]] == 外部リンク == * [https://www.yaguchitakao.com 矢口高雄公式サイト] * {{Twitter|yaguchi_takao}} * {{NHK人物録|D0009072640_00000}} * 産経新聞インタビュー記事 話の肖像画 全5回(2017年12月25日 - 29日) ** [https://www.sankei.com/article/20171225-HBCLX6YIJVI2XO4X77M4I63LAM/ 「漫画家・矢口高雄(1)40年ぶりに「マタギ」問う」] ** [https://www.sankei.com/article/20171226-EL5NJKF7RRPDRMMDBPFZVOQUHE/ 「漫画家・矢口高雄(2)村で初めて高校進学、銀行員に」] ** [https://www.sankei.com/article/20171227-CXG64RBIQBJR3EQXQ3ENEZVNPM/ 「漫画家・矢口高雄(3)ツチノコと「釣りキチ三平」」] ** [https://www.sankei.com/article/20171228-QQ2WYSWIEZM2BE57ICNAATEQ6I/ 「漫画家・矢口高雄(4)「やったぜ」作品が教科書に」] ** [https://www.sankei.com/article/20171229-EX67VLMPE5PYFHSHG3MSTVTB24/ 「漫画家・矢口高雄(5)文化遺産であるはずの原画を散逸させたくない」] * [https://www.asahi.com/articles/DA3S14710399.html (天声人語)矢口高雄さん逝く(朝日新聞 2020年11月27日)] * [https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64095 マンガ家矢口高雄が最後に憂えた「マンガ原画保存」横手市増田まんが美術館が目指す“原画の殿堂”(JBpress、2021年2月21日記事)] {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やくち たかお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:20世紀日本の随筆家]] [[Category:21世紀日本の随筆家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:フィデアホールディングスの人物]] [[Category:北都銀行|人やくち たかお]] [[Category:みんなのうたの映像制作者]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]] [[Category:1939年生]] [[Category:2020年没]]
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八神健
八神 健(やがみ けん、1966年5月31日 - )は、日本の漫画家。広島県広島市出身。埼玉県所沢市在住。代表作は『密・リターンズ!』・『ななか6/17』など。
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八神 健は、日本の漫画家。広島県広島市出身。埼玉県所沢市在住。代表作は『密・リターンズ!』・『ななか6/17』など。
'''八神 健'''(やがみ けん、[[1966年]][[5月31日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[広島県]][[広島市]]出身。[[埼玉県]][[所沢市]]在住。代表作は『[[密・リターンズ!]]』・『[[ななか6/17]]』など。 == 略歴 == * 漫画家になる前は邦宅杉太(くにやけ さんた)の[[ペンネーム]]で、『[[ジャンプ放送局]]』の[[ハガキ職人]]をしていた(7代目レースで優勝。サングラスをかけた写真が本誌に掲載されると、個人宛のファンレターが編集部に多く寄せられた)。 * [[1993年]]、週刊少年ジャンプで行われていた月例新人漫画賞『[[ホップ☆ステップ賞]]』に応募。同年12月期第94回で佳作を受賞。受賞作『サボテンの剣』は後に発売された短編集「ふわふわ」に収録されている<ref>[http://vw.zeppan.com/murasame/trialview/32373/p:5/trial:on#i:2 絶版マンガ図書館「八神健『ふわふわ』試し読み(P.2)]</ref>。 * [[1995年]]、『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])にて『密・リターンズ!』を連載開始するも打ち切り終了。次作の『きりん〜The Last Unicorn〜』も短期打ち切りとなる。以降、ジャンプから離れた。 * 『ななか6/17』の[[パイロット版]]前後二話編を『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])にて掲載。[[2000年]]53号より連載に昇格、[[2003年]]24号までの連載した。連載中の2003年1月には[[テレビアニメ]]化もされた。 * [[2006年]]9号から『[[ヤングアニマル]]』([[白泉社]])で『[[ふたばの教室]]』の連載を開始したが、思うように支持を得られず打ち切りとなった。 * [[2007年]]、[[竹書房]]の成年向け漫画雑誌『[[ナマイキッ!]]』に読み切りを掲載。同人誌では18禁作品を過去に描いた経歴はあるが、商業誌での本格的な[[成人向け漫画|成人向け作品]]の執筆は初となった。ただし商業作品は18禁作品ではなく、いわゆる「ソフトエッチコミック」の部類に属する。 * 『[[チャンピオンRED]]』2007年9月号より、[[ニンテンドーDS]]ソフト『[[どきどき魔女神判!]]』の漫画版連載を開始。2008年7月号で最終回を迎えたが、同時に続編となる『[[どきどき魔女神判2]]』の執筆を発表。2008年9月号から2009年8月号までの約1年間連載した。 == 人物 == * [[赤松健]]と親交があり、自身のHPに掲示板を設置する際に協力してもらっている仲である。 * ハガキ職人時代はいわゆる美男子(20代後半の時点で[[さくまあきら]]に「[[松田優作]]似」と評される)としても有名であった。 * ゲーム版の『どきどき魔女神判2』に彼のパロディキャラクターの「矢雅ミケ」が名前だけ登場しており、それを受けて漫画版にも自虐ネタなどを織り交ぜたキャラクターとして登場させている。現在は自身のHPで自画像の代理として載せており、さらに『どきどき魔女神判!』のリメイク版である『どき魔女ぷらす』にて立ち絵も用意されて登場した。また、同作のキャラクターデザイン担当の[[藤ノ宮深森]]が描いたミケのイラストを送られている。 == 作品リスト == === 漫画 === * あおいとナミのベースボール探検隊([[月刊ジャイアンツ]]、[[報知新聞社]]) - 原作は[[須野豪]]が担当。 * [[ふわふら]] 八神健傑作選① - 短編集。「ふわふわ」4編、第94回「ホップ☆ステップ賞」佳作受賞作『サボテンの剣』を収録。 * [[密・リターンズ!]](1995年 - [[1996年]]、週刊少年ジャンプ、集英社) - 全7巻 : 現在集英社版は絶版。[[ぺんぎん書房]]から全3巻で復刊されたが同社倒産により再び絶版となり、[[宙出版]]より[[ペーパーバック]]の全2巻(本編全58話中40話までとAnother Story前後編を2巻に分けて)で再復刊。2011年4月より、[[マンガ図書館Z]]で公開されている。 * [[きりん 〜The Last Unicorn〜]]([[1997年]] - [[1998年]]、週刊少年ジャンプ) - 全3巻 * [[ななか6/17]](2000年 - 2003年、週刊少年チャンピオン、秋田書店) - 全12巻 ** ななか6/17+ 〜八神健短編集〜 - 2冊目の短編集。連載前に読み切り作品として掲載された『ななか6/17』パイロット版・前後2編と短編4作品を収録。 * [[もけもけ大正電動娘ARISA]](mixwill soft 、原画) * [[ありさ2|ありさ<sup>2</sup>]](ありさのじじょう)([[2004年]]、[[月刊少年エース]]、[[角川書店]]) - 全1巻 * [[ふたばの教室]](2006年、ヤングアニマル、白泉社) - 全2巻 * [[どきどき魔女神判!]](2007年 - 2008年、チャンピオンRED、秋田書店) - 全2巻 * [[どきどき魔女神判2]](2008年 - 2009年、チャンピオンRED、秋田書店) - 全2巻 * えろまん。(仮)(2011年 - 2013年、[[ナマイキッ!]]、[[竹書房]]) - 全1巻 * ユキのいた街 八神健短編集(2013年12月、竹書房) - 3冊目の短編集。7作品を収録。 * ラブコメ彼氏と18禁彼女(2013年 - 2015年、[[コミックヘヴン]]、[[日本文芸社]]) - 全1巻 * [[名探偵コナン]]歴史まんが [[日本史探偵コナン]]2 [[弥生時代]](2017年11月、[[小学館]]) : 原作・[[青山剛昌]]、[[太田勝 (漫画家)|太田勝]]と共著。 * [[名探偵コナン]]歴史まんが [[日本史探偵コナン]]5 [[平安時代]] [[十二単]]の好敵手(2018年3月、小学館) : 原作・[[青山剛昌]]、[[狛枝和生]]と共著。 === OVA === * もけもけ大正電動娘ARISA (2005年) : 同名のゲームのOVA作品で全2話。OVA第2話で一部シーンの原画とエンディングを担当。 == アシスタント == * [[月島薫]] * [[ハラヤヒロ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * [http://8th-gods.la.coocan.jp/ 公式サイト][https://web.archive.org/web/20090614035213/http://www.kiwi-us.com/~8th_gods/] * [https://web.archive.org/web/20040930042912/http://www.os01.com/i/past/prof_view.php3?a=121 Little Information] * {{twitter|yagamike|八神健}} * {{マンガ図書館Z作家|39|八神健}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やかみ けん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島市出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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安彦良和
安彦 良和(やすひこ よしかず、1947年12月9日 - )は、日本の漫画家、アニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、小説家。 北海道紋別郡遠軽町出身。埼玉県所沢市在住。 遠軽高校、弘前大学を経て、1970年虫プロ養成所に入りアニメーターとなる。虫プロ倒産後はフリーとなり『宇宙戦艦ヤマト』『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『無敵超人ザンボット3』など数多くのアニメ作品に携わる。その中でもキャラクターデザインおよび作画監督を務めたアニメ『機動戦士ガンダム』は、その後放映された劇場版とも併せ社会現象ともいえるブームを巻き起こし、2022年の時点でも根強い人気を誇る。 1990年以降、アニメ製作現場を離れて専業漫画家となり、『ナムジ』『虹色のトロツキー』『王道の狗』など主に歴史ものを描いて第19回日本漫画家協会賞優秀賞(『ナムジ』)、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『王道の狗』)などを受賞した。 2001年から2011年まで漫画雑誌『ガンダムエース』で連載した『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は、累計発行部数1,000万部を超えるヒット作となり、同作のアニメ化作品『機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル』(2015年2月公開)では総監督を務め、約25年ぶりにアニメの現場に復帰した。 日本漫画家協会会員。日本SF作家クラブ会員だったが2023年5月時点では退会している。 1947年、北海道オホーツク管内遠軽町東社名淵(ひがししゃなふち、現在の若松)に、姉三人、兄二人(ただし長男は生後間もなく亡くなった)、妹一人の三男として生まれる。曽祖父は福島県伊達郡(桑折町)半田の半田銀山で絵図面描きをしていたといい、1891年に祖父が屯田兵として遠軽町に移り住み、開拓を始めた。安彦の父は東社名淵のハッカ作りの代表格で、1938年から1942年までは町会議員もつとめており、自身いわく「普通の、裕福でも悲惨でもない農家」であったという。 幼いころから3歳年上の兄が買っていた学年誌を読むなどして漫画に興味を持ち、小学校3年生のころには鈴木光明の『織田信長』に惹かれ「川中島の合戦」のシーンを自己流でノートに鉛筆書きしていた。漫画はもっぱら友人から借りて読むことが多く小学校5・6年のころには横山光輝の『鉄人28号』が好きで、ノートの余ったページなどに誰に見せるでもなく漫画を描いていた。安彦の父はそれを「ポンチ絵」と呼んで人に見せるなど無邪気に喜んでいたが、母は「そんなしょうもないことしてるんなら家の手伝いをしろ」と嫌がっていた。またこの頃見たアニメ映画『白蛇伝』が安彦が初めて見たアニメ映画であった。 小学校6年のとき、赴任してきた校長が個展をひらくほど絵が好きで安彦も絵のみならず様々なことを教わった。安彦は中学・高校を通じて絵の指導を受けたことがなく、アニメの世界に入っても誰かに教わったということがないため「僕の絵に、お師匠さんはいないんです。あえて探せば、この校長先生だけですね」と語っている。 また小学校時代には手塚治虫の『漫画の書き方』を読んで「ケント紙に墨で書く」という技法を真似て20数ページの漫画を描き、漫画誌『冒険王』に投稿したこともある。 1960年に社名淵中学校に入学。このころ手塚治虫の『フウムーン』に触発され、スパイと女の子が国家権力に殺されるという、後の映画『レオン』のような漫画も描いていた。中学1年のとき安彦の父が脳梗塞で倒れ、半年間の入院後、安彦が中学2年のときに亡くなった。 1963年、安彦は北海道遠軽高等学校に入学し、同時に安彦の兄も遠軽高校から北海道大学に進学した。兄が進学で遠軽を離れ農家を継ぐ者がいなくなった安彦家は、ハッカ作りをやめ離農し一時は安彦の姉が住む湧別町に移り住んだ。だが半年後には安彦の母が家を建て遠軽に皆で戻ったという。安彦はこれを「意地だったんでしょう。おふくろは『夜逃げしたんじゃない』とよく言ってました」と振り返っている。 なお、遠軽高校の2学年下に湖川友謙がいたが、当時は面識がなかった。また、湖川の作ったアニメ制作会社ビーボォーの出身で、『Ζガンダム』や『ガンダムΖΖ』、『閃光のハサウェイ』に作画監督として関わる恩田尚之も同校の卒業生である。 高校時代、教師からは「お前の兄は優秀だった」と比較されることが多々あり、実際勉強も趣味も何をやっても勝てないと感じていた安彦は兄に劣等感を覚えていた。一方で弁論大会でのスピーチや部活の壮行式司会などの生徒会活動で顔が知られていたためか、3年のときには生徒会長もつとめている。当時の(現在も)友人が日本民主青年同盟(民青)の活動を少し行っており、安彦もその影響を受け"左傾化"したという。 中学生ごろまでは「漫画家になりたい」という思いもあったが、このころから「そんな夢みたいなことを言っててもしょうがない」と諦めをつけ、卒業後の進路には、内地の国立大学のなかで北海道にはない「お城」がある街がいいとして金沢大学、弘前大学などを希望し、合格した弘前大学に入学した。 1966年、北海道遠軽高等学校卒業、弘前大学人文学部西洋史学科に入学。このとき弘前大の同郷会で後の妻となる女性と出会っている。高校時代の友人の影響で大学でも民青の集まりにも参加したが、やがて活動が型どおりでつまらないと民青を抜け、1968年、ベトナム戦争に反対する学生団体「ベトナムの平和を守る会」を結成し、ベトナム戦争反対の講演を企画するなど反戦運動を展開した。当時既にパターン化していたアジビラや街頭演説、ファッション化していたヘルメット姿などを嫌い、普通にしゃべって普通に書くという活動をしたところ「お前の話は分かりやすい」となり、一般学生への説明などに駆り出され、全共闘のリーダー的な存在になっていった。 1969年1月の安田講堂事件では安彦の仲間が逮捕され(安彦自身は「極端に金がなく上京できなかった」)「僕だけおとなしく大学に残って勉強する気になんかならん」として授業にも出席しなくなった。同年9月、弘前大本部を全共闘が3週間占拠し、機動隊による封鎖解除の後占拠当初半月ほど校舎にいた(東京での「活動」のため途中で抜けた)安彦も後に建造物侵入、不退去罪の疑いで逮捕された。この結果1970年1月に弘前大学から除籍(退学)処分を受ける。このときの安彦は「もう終わった。反戦も左翼運動もどんづまり。それまでの22年間、何のために生きてきたんだ」という思いであったという。 保釈後、「もう弘前にはいられない」と上京し友人の協力もあって写植屋に3か月ほど勤めた。だが写植の仕事はどうしても好きになれず、そのときにたまたま目にした虫プロの求人新聞広告に子供の頃に漫画家になりたかった事を思い出し応募した。面接では高校時代まで大学ノートに描いていた漫画を見せて合格した。 1970年、新聞広告をみて旧虫プロダクション虫プロ養成所の2期生として入社。養成所教官の沼本清海から「高橋信也に女の描き方を習え」と言われ、まだ動画マンであったにも拘らず『さすらいの太陽』で作画設定に抜擢される。その後、先輩アニメーターの進藤満尾、同じく新人だった川尻善昭との3人チームで『新ムーミン』に原画マンとして参加。オープニング冒頭のムーミンが逆立ちするカットが初の原画仕事となった。 1973年虫プロの倒産後はフリーとなって、オフィス・アカデミーやサンライズの前身の創映社に活動の場を移す。オフィスアカデミーでは、『宇宙戦艦ヤマト』の絵コンテ、創映社(日本サンライズ)では『ゼロテスター』(1973年 - 1974年)、『勇者ライディーン』、『超電磁ロボ コン・バトラーV』などのSF、ロボット作品、『ろぼっ子ビートン』『わんぱく大昔クムクム』といったギャグ、ファンタジー作品などに携わる。 根っからのアニメ好きというわけではなかった安彦は、学生運動時代の友人から「アニメやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われ、「ただの絵描きじゃなく(中略)責任領域を広げてやりがいを拡大しないと合わせる顔がなかった」とアニメの仕事に罪悪感のようなものも覚えていた。だが1974年に『ヤマト』の仕事を手掛けるようになってからは西崎義展プロデューサーの影響もあり「いい大人が本気でやってもよい仕事なんだ」と感じるようになったという。『わんぱく大昔クムクム』では自ら企画書を出し、脚本、演出、作画にも関わった。この主人公クムクムは、1973年に生まれた安彦の長男がモデルとなっている。 創映社が日本サンライズになり制作された『無敵超人ザンボット3』ではキャラクターデザインを担当。1978年の「さらば宇宙戦艦ヤマト」をもってヤマトとは「それこそさらばだ」と思っていた安彦であったが、西崎プロデューサーの強い慰留にあい後のテレビシリーズなどにも参加した。だが1979年に『機動戦士ガンダム』が始まった際についに電話で大げんかして『ヤマト』と袂を分かつ。 1979年4月から放映された『機動戦士ガンダム』ではキャラクターデザインおよび作画監督を務めた。だがテレビシリーズ制作中に病気(肋膜)で5か月ほど入院したため、全43話中最後の10話には参加していない。その後、映画化された際に、この10話を含めた修正を行ったという。 1983年、劇場用アニメ『クラッシャージョウ』で初監督をつとめる。原作の高千穂遙は安彦の友人でもあり断れる雰囲気ではなかったが、後に本人としては「必ずしもやりたくなかった」「スペースオペラって面白さがいまいち分からなかった」と語っている。原作・監督をつとめた1984年の『巨神ゴーグ』は商業的に振るわず、「アニメ屋としての気持ちが切れた」。 1979年に『リュウ』誌(徳間書店)に『アリオン』を発表し漫画家デビュー。1986年には劇場用アニメ『アリオン』を自ら監督。数年間アニメと漫画の二足のわらじをはいていたが、1989年に『ヴイナス戦記』を監督した以降は専業漫画家になる。 アニメ業界をやめた理由は二つあり、一つは『風の谷のナウシカ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を見て、そのクオリティの高さにとても敵わないと思ったこと。もう一つは自ら監督した『巨神ゴーグ』を演出的に盛り上げられず、能力の限界を感じたためであるという。その後も、キャラクターデザイナーとしていくつかのアニメに参加。イラストや小説も手掛ける。 1982年に『アニメージュ』に連載したエッセイ「月づきの雑記帳」の中で、当時その内容をめぐって議論を呼んでいた東映の劇場アニメ『FUTURE WAR 198X年』について批判的な意見を記した。これに対する読者からの反応の多くが、安彦の主張を確認した上でそれが正しいかどうかは自分で考えてみるという「真摯なもの」であることが嬉しかったと連載の最終回で記している。また、安彦は「事が政治というようなことになると、どうしても自分の30..年の人生、その中での政治体験というようなものが、発言の中身にならざるを得ない。そういう発言は(中略)若い人たち(読者の方たち)に向けたものとしてはついつい高飛車なモノいいになってしまう」とも記している。 1989年の『ヴイナス戦記』では「お客がそこそこ来たらもう一本つくろう」との思いもあったが、同作品は振るわず、不本意ながらもアニメを辞めざるを得なかった。 1989年、『ナムジ』(1989年-1991年)で専業漫画家としての活動を始める。その後『虹色のトロツキー』(1990年-1996年)、『王道の狗』(1998年-2000年)、『韃靼タイフーン』(2000年-2002年)などを手掛け、第19回日本漫画家協会賞優秀賞(『ナムジ』、1990年)、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『王道の狗』、2000年)などを受賞した。後に、「『ナムジ』が日本漫画家協会賞を受賞したことで、漫画家として認められてもらった気がする」と『ヤマトタケル』6巻の後書きにて記している。 2001年6月、アニメーター時代に主要スタッフとして関わった作品『機動戦士ガンダム』をコミカライズした『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の連載をガンダム専門の月刊誌『ガンダムエース』にてスタートさせる。連載は2001年6月号から2011年8月号まで約10年間におよんだ。執筆動機について、アニメのガンダムがヒットし一部ファンや自称評論家が「ニュータイプが世界を変えるのがガンダムのテーマ」と発言しているのを耳にし、これは学生運動時代に聞いた「革命的な党をつくったら革命ができる」といった観念を弄ぶような言葉と同じもので非常に危ない、「最初につくって裏表知る人間が知らん顔しちゃいけない」「当時、どんな考えでガンダムが作られたか自分は知っている。それを描けるのは僕だけだ」としてこの仕事を引き受けたという。 2006年、神戸芸術工科大学メディア表現学科教授に就任。2015年3月まで教員を勤めた。 2012年3月、北海道新聞夕刊において、自らの半生について語った「私のなかの歴史」を連載。また、2013年11月11日から12月28日まで中日新聞・東京新聞夕刊などで連載されている自身の半生やエピソードを綴るコラム「この道」を執筆した。 2014年5月、OVA『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の総監督を務めることが発表された。アニメ制作に携わるのは約25年ぶりである。 2019年12月14日、安彦が住む所沢市と、ガンダム関連の書籍を出版するKADOKAWAが主催する「第5回ところざわ文化創造会議」(COOL JAPAN FOREST構想の一環として開始した会議)にて、講演を行う。 このほか、アボジ、ネオデビルマン、週刊マンガ日本史第34号『勝海舟』などがある。
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安彦 良和は、日本の漫画家、アニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、小説家。 北海道紋別郡遠軽町出身。埼玉県所沢市在住。 遠軽高校、弘前大学を経て、1970年虫プロ養成所に入りアニメーターとなる。虫プロ倒産後はフリーとなり『宇宙戦艦ヤマト』『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『無敵超人ザンボット3』など数多くのアニメ作品に携わる。その中でもキャラクターデザインおよび作画監督を務めたアニメ『機動戦士ガンダム』は、その後放映された劇場版とも併せ社会現象ともいえるブームを巻き起こし、2022年の時点でも根強い人気を誇る。 1990年以降、アニメ製作現場を離れて専業漫画家となり、『ナムジ』『虹色のトロツキー』『王道の狗』など主に歴史ものを描いて第19回日本漫画家協会賞優秀賞(『ナムジ』)、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『王道の狗』)などを受賞した。 2001年から2011年まで漫画雑誌『ガンダムエース』で連載した『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は、累計発行部数1,000万部を超えるヒット作となり、同作のアニメ化作品『機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル』(2015年2月公開)では総監督を務め、約25年ぶりにアニメの現場に復帰した。 日本漫画家協会会員。日本SF作家クラブ会員だったが2023年5月時点では退会している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 安彦 良和 | 画像 = Yasuhiko Yoshikazu "The World of Gundam" at Opening Ceremony of the 28th Tokyo International Film Festival (22442053681) (cropped).jpg | 画像サイズ = 180px | 脚注 = [[2015年]]、[[第28回東京国際映画祭]]にて | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1947|12|9}}<ref>{{Cite book|和書|author=おしぐちたかし |year=2003 |title=漫画魂(スピリット) おしぐちたかしインタビュー集 |publisher=[[白夜書房]] |isbn=978-4-8936-7911-6}}</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[紋別郡]][[遠軽町]]東社名淵(現・若松) | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]]<br />[[アニメーター]]<br />[[アニメ監督]] など | 称号 = | 活動期間 = [[1970年]] - | ジャンル = | 代表作 = アニメ:『[[機動戦士ガンダム]]』(キャラクターデザインおよび作画監督) ほか<br>漫画:『[[ナムジ]]』『[[王道の狗]]』『[[虹色のトロツキー]]』『[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]]』 ほか | 受賞 = 第19回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『ナムジ』)<br>第4回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞受賞(『王道の狗』)<br>第43回[[星雲賞]]コミック部門(『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』) | サイン = | 公式サイト = }} '''安彦 良和'''(やすひこ よしかず、[[1947年]][[12月9日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]]、[[アニメ監督]]、[[イラストレーター]]、[[小説家]]。 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name="asahi20150228">{{Cite news |title=シャアとセイラの生い立ち、アニメ化 安彦良和総監督 |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |date=2015-02-28 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH2P5JQBH2PUCVL00H.html |accessdate=2015-03-24}}</ref>。 [[日本漫画家協会]]会員。[[日本SF作家クラブ]]会員だったが<ref>日本SF作家クラブ編『SF入門』(早川書房、2001年、巻末名簿)</ref>2023年5月時点では退会している。 == 経歴 == ===生い立ち=== [[1947年]]、[[北海道]][[オホーツク総合振興局|オホーツク管内]][[遠軽町]]東社名淵(ひがししゃなふち、現在の若松)に、姉三人、兄二人(ただし長男は生後間もなく亡くなった)、妹一人の三男として生まれる<ref name="北海道新聞20120306">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 2 |newspaper=[[北海道新聞]] |edition=夕刊 |date=2012-03-06}}</ref>。曽祖父は[[福島県]][[伊達郡]](桑折町)半田の半田銀山で絵図面描きをしていたといい、1891年に祖父が[[屯田兵]]として遠軽町に移り住み、開拓を始めた。安彦の父は東社名淵の[[ニホンハッカ|ハッカ]]作りの代表格で、1938年から1942年までは町会議員もつとめており<ref>{{Cite web|和書|url=http://itokhotsk.iobb.net/ganbo/tyousi/gyousei/data3.htm |title=遠軽町史 第二次町会(昭和13年6月30日選挙)定数24人 |publisher=がんぼネットワークス |accessdate=2014-09-22}}</ref>、自身いわく「普通の、裕福でも悲惨でもない農家」であったという<ref name="北海道新聞20120306" />。 幼いころから3歳年上の兄が買っていた学年誌を読むなどして漫画に興味を持ち、小学校3年生のころには[[鈴木光明]]の『織田信長』に惹かれ「川中島の合戦」のシーンを自己流でノートに鉛筆書きしていた<ref name="北海道新聞20120307">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 3 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-07}}</ref>。漫画はもっぱら友人から借りて読むことが多く小学校5・6年のころには[[横山光輝]]の『[[鉄人28号]]』が好きで、ノートの余ったページなどに誰に見せるでもなく漫画を描いていた。安彦の父はそれを「ポンチ絵」と呼んで人に見せるなど無邪気に喜んでいたが、母は「そんなしょうもないことしてるんなら家の手伝いをしろ」と嫌がっていた<ref name="北海道新聞20120307" />。またこの頃見たアニメ映画『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』が安彦が初めて見たアニメ映画であった。 小学校6年のとき、赴任してきた校長が個展をひらくほど絵が好きで安彦も絵のみならず様々なことを教わった。安彦は中学・高校を通じて絵の指導を受けたことがなく、アニメの世界に入っても誰かに教わったということがないため「僕の絵に、お師匠さんはいないんです。あえて探せば、この校長先生だけですね」と語っている<ref name="北海道新聞20120307" />。 また小学校時代には手塚治虫の『漫画の書き方』を読んで「[[ケント紙]]に墨で書く」という技法を真似て20数ページの漫画を描き、漫画誌『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』に投稿したこともある<ref>{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 14 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-21}}</ref>。 === 中学・高校時代 === 1960年に社名淵中学校に入学<ref name="北海道新聞20120308">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 4 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-08}}</ref>。このころ[[手塚治虫]]の『[[来るべき世界 (漫画)|フウムーン]]』に触発され、スパイと女の子が国家権力に殺されるという、後の映画『[[レオン (映画)|レオン]]』のような漫画も描いていた<ref name="北海道新聞20120308" />。中学1年のとき安彦の父が脳梗塞で倒れ、半年間の入院後、安彦が中学2年のときに亡くなった<ref name="北海道新聞20120308" />。 1963年、安彦は[[北海道遠軽高等学校]]に入学し、同時に安彦の兄も遠軽高校から[[北海道大学]]に進学した。兄が進学で遠軽を離れ農家を継ぐ者がいなくなった安彦家は、ハッカ作りをやめ離農し一時は安彦の姉が住む[[湧別町]]に移り住んだ。だが半年後には安彦の母が家を建て遠軽に皆で戻ったという<ref name="北海道新聞20120308" />。安彦はこれを「意地だったんでしょう。おふくろは『夜逃げしたんじゃない』とよく言ってました」と振り返っている<ref name="北海道新聞20120308" />。 なお、遠軽高校の2学年下に[[湖川友謙]]がいたが、当時は面識がなかった。また、湖川の作ったアニメ制作会社ビーボォーの出身で、『[[機動戦士Ζガンダム|Ζガンダム]]』や『[[機動戦士ガンダムΖΖ|ガンダムΖΖ]]』、『[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ|閃光のハサウェイ]]』に作画監督として関わる[[恩田尚之]]も同校の卒業生である。 高校時代、教師からは「お前の兄は優秀だった」と比較されることが多々あり、実際勉強も趣味も何をやっても勝てないと感じていた安彦は兄に劣等感を覚えていた<ref name="北海道新聞20120309">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 5 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-09}}</ref>。一方で弁論大会でのスピーチや部活の壮行式司会などの生徒会活動で顔が知られていたためか、3年のときには生徒会長もつとめている。当時の(現在も)友人が[[日本民主青年同盟]](民青)の活動を少し行っており、安彦もその影響を受け"左傾化"したという<ref name="北海道新聞20120309" />。 中学生ごろまでは「漫画家になりたい」という思いもあったが、このころから「そんな夢みたいなことを言っててもしょうがない」と諦めをつけ<ref name="北海道新聞20120309" />、卒業後の進路には、[[内地#日常語としての用法|内地]]の国立大学のなかで北海道にはない「お城」がある街がいいとして[[金沢大学]]、[[弘前大学]]などを希望し、合格した弘前大学に入学した<ref name="北海道新聞20120309" />。 === 学生運動 === 1966年、[[北海道遠軽高等学校]]卒業、[[弘前大学]]人文学部西洋史学科に入学。このとき弘前大の同郷会で後の妻となる女性と出会っている<ref name="北海道新聞20120310">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 6 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-10}}</ref>。高校時代の友人の影響で大学でも民青の集まりにも参加したが、やがて活動が型どおりでつまらないと民青を抜け、1968年、[[ベトナム戦争]]に反対する学生団体「ベトナムの平和を守る会」を結成し、ベトナム戦争反対の講演を企画するなど[[反戦運動]]を展開した<ref name="北海道新聞20120310" />。当時既にパターン化していたアジビラや街頭演説、ファッション化していたヘルメット姿などを嫌い、普通にしゃべって普通に書くという活動をしたところ「お前の話は分かりやすい」となり、一般学生への説明などに駆り出され<ref name="北海道新聞20120310" />、[[全学共闘会議|全共闘]]のリーダー的な存在になっていった{{sfn|&M|2020}}。 1969年1月の[[東大安田講堂事件|安田講堂事件]]では安彦の仲間が逮捕され(安彦自身は「極端に金がなく上京できなかった」)「僕だけおとなしく大学に残って勉強する気になんかならん」として授業にも出席しなくなった。同年9月、弘前大本部を全共闘が3週間占拠し、機動隊による封鎖解除の後占拠当初半月ほど校舎にいた(東京での「活動」のため途中で抜けた{{sfn|&M|2020}})安彦も後に建造物侵入、不退去罪の疑いで逮捕された。この結果[[1970年]]1月に弘前大学から除籍(退学)処分を受ける<ref>この時代の学生運動を描いた[[山本直樹]]の漫画『[[レッド (山本直樹)|レッド]]』の登場人物・安田は安彦がモデルとされている{{要出典|date=2020年2月}}。</ref><ref name="北海道新聞20120312">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 7 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-12}}</ref>{{efn2|このとき一緒に処分を受けた人物の中には、のちに連合赤軍に参加する[[植垣康博]]と青砥幹夫もいた{{sfn|&M|2020}}。}}。このときの安彦は「もう終わった。反戦も左翼運動もどんづまり。それまでの22年間、何のために生きてきたんだ」という思いであったという<ref name="北海道新聞20120312" />。 保釈後、「もう弘前にはいられない」と上京し友人の協力もあって[[写真植字|写植屋]]に3か月ほど勤めた。だが写植の仕事はどうしても好きになれず、そのときにたまたま目にした[[虫プロ]]の求人新聞広告に子供の頃に漫画家になりたかった事を思い出し応募した。面接では高校時代まで大学ノートに描いていた漫画を見せて合格した<ref name="北海道新聞20120312" />。 === アニメーター時代 === 1970年、新聞広告をみて[[虫プロダクション#株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)|旧虫プロダクション]]虫プロ養成所の2期生として入社。養成所教官の沼本清海から「[[高橋信也]]に女の描き方を習え」と言われ、まだ動画マンであったにも拘らず『[[さすらいの太陽]]』で作画設定に抜擢される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mushi-pro.co.jp/2010/09/%E3%81%95%E3%81%99%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E5%A4%AA%E9%99%BD/|title=さすらいの太陽|accessdate=2019-03-09|publisher=虫プロダクション株式会社}}</ref>。その後、先輩アニメーターの[[進藤満尾]]、同じく新人だった[[川尻善昭]]との3人チームで『[[ムーミン (アニメ)|新ムーミン]]』に原画マンとして参加。オープニング冒頭のムーミンが逆立ちするカットが初の原画仕事となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://otocoto.jp/interview/furukawa-yasuhiko-03/|title=戦友・富野由悠季と安彦良和、そして古川登志夫の駆け抜けた“ガンダム前夜”70年代アニメ史 レジェンドクリエイターインタビュー安彦良和×古川登志夫[安彦良和 THE ORIGIN編]|date=2017-03-19|accessdate=2019-03-09|publisher=otoCoto}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v16/|title=クリエイターズ・セレクションVol.16 監督:川尻善昭 インタビュー|date=2014-11-25|accessdate=2019-03-09|publisher=バンダイチャンネル}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=スタジオ雄 |year=2008 |title=PLUS MADHOUSE(プラス マッドハウス) 2 川尻善昭|publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn=978-4-8737-6304-0}}</ref><ref name="北海道新聞20120313">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 8 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-13}}</ref>。 [[1973年]]虫プロの倒産後はフリーとなって、[[オフィス・アカデミー]]や[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]の前身の[[創映社]]に活動の場を移す。オフィスアカデミーでは、『[[宇宙戦艦ヤマト]]』の絵コンテ、創映社(日本サンライズ)では『[[ゼロテスター]]』([[1973年]] - [[1974年]])、『[[勇者ライディーン]]』、『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』などのSF、ロボット作品、『[[ろぼっ子ビートン]]』『[[わんぱく大昔クムクム]]』といったギャグ、ファンタジー作品などに携わる。 根っからのアニメ好きというわけではなかった安彦は、学生運動時代の友人から「アニメやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われ、「ただの絵描きじゃなく(中略)責任領域を広げてやりがいを拡大しないと合わせる顔がなかった」とアニメの仕事に罪悪感のようなものも覚えていた<ref name="北海道新聞20120313" />。だが1974年に『ヤマト』の仕事を手掛けるようになってからは[[西崎義展]]プロデューサーの影響もあり「いい大人が本気でやってもよい仕事なんだ」と感じるようになったという<ref name="北海道新聞20120314">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 9 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-14}}</ref>。『わんぱく大昔クムクム』では自ら企画書を出し、脚本、演出、作画にも関わった。この主人公クムクムは、1973年に生まれた安彦の長男がモデルとなっている<ref name="北海道新聞20120314" />。 なお次男は現在安彦のアシスタントを務めている<ref>https://www.tokyo-np.co.jp/article/89894</ref>。 創映社が[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ]]になり制作された『[[無敵超人ザンボット3]]』ではキャラクターデザインを担当。1978年の「さらば宇宙戦艦ヤマト」をもってヤマトとは「それこそさらばだ」と思っていた安彦であったが、西崎プロデューサーの強い慰留にあい後のテレビシリーズなどにも参加した<ref name="北海道新聞20120315">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 10 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-15}}</ref>。だが1979年に『機動戦士ガンダム』が始まった際についに電話で大げんかして『ヤマト』と袂を分かつ<ref name="北海道新聞20120315" />。 1979年4月から放映された『[[機動戦士ガンダム]]』ではキャラクターデザインおよび作画監督を務めた。だがテレビシリーズ制作中に病気([[胸膜炎|肋膜]])で5か月ほど入院したため、全43話中最後の10話には参加していない<ref name="北海道新聞20120315" />。その後、映画化された際に、この10話を含めた修正を行ったという。 1983年、劇場用アニメ『[[クラッシャージョウ]]』で初監督をつとめる。原作の[[高千穂遙]]は安彦の友人でもあり断れる雰囲気ではなかったが、後に本人としては「必ずしもやりたくなかった」「[[スペースオペラ]]って面白さがいまいち分からなかった」と語っている<ref name="北海道新聞20120316">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 11 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-16}}</ref>。原作・監督をつとめた1984年の『[[巨神ゴーグ]]』は商業的に振るわず、「アニメ屋としての気持ちが切れた」<ref name="北海道新聞20120316" />。 [[1979年]]に『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』誌([[徳間書店]])に『[[アリオン (漫画)|アリオン]]』を発表し漫画家デビュー。1986年には劇場用アニメ『アリオン』を自ら監督。数年間アニメと漫画の二足のわらじをはいていたが、1989年に『[[ヴイナス戦記]]』を監督した以降は専業漫画家になる。 アニメ業界をやめた理由は二つあり、一つは『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』や『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』を見て、そのクオリティの高さにとても敵わないと思ったこと。もう一つは自ら監督した『[[巨神ゴーグ]]』を演出的に盛り上げられず、能力の限界を感じたためであるという<ref>『機動戦士ガンダム20周年トリビュートマガジン G20』☆Vol.4 特集:安彦良和-アニメの終わりと物語の始まり(エンターブレイン、2005年)</ref>{{efn2|そもそもアニメ業界に入ったきっかけというのも「絵を描くだけでとりあえずは食える」というものだった<ref>{{Cite book|和書|editor=Web現代「ガンダム者」取材班 |others=サンライズ 監修 |title=ガンダム者 ガンダムを創った男たち |year=2002 |month=10 |publisher=講談社 |isbn=978-4-0633-0181-6 |page={{要ページ番号|date=2023年1月}} }}</ref>。}}<ref>『[[週刊文春]]』2017年11月16日号掲載「新・家の履歴書」では、「宮崎アニメが天下を獲り、大友克洋や新しい才能が登場した八〇年代のアニメ界で、僕の監督作品は失敗続きでした。才能もないのに作り続けることが惨めで、オタク的な流れにもついて行けなかった。だから退場したんです」とコメントしている。</ref>。その後も、[[キャラクターデザイナー]]としていくつかのアニメに参加。イラストや小説も手掛ける。 1982年に『[[アニメージュ]]』に連載したエッセイ「月づきの雑記帳」の中で、当時その内容をめぐって議論を呼んでいた[[東映]]の劇場アニメ『[[FUTURE WAR 198X年]]』について批判的な意見を記した。これに対する読者からの反応の多くが、安彦の主張を確認した上でそれが正しいかどうかは自分で考えてみるという「真摯なもの」であることが嬉しかったと連載の最終回で記している<ref name="『アニメージュ』1982年12月号">『アニメージュ』1982年12月号、徳間書店、pp. 144-145。</ref>。また、安彦は「事が政治というようなことになると、どうしても自分の30‥年の人生、その中での政治体験というようなものが、発言の中身にならざるを得ない。そういう発言は(中略)若い人たち(読者の方たち)に向けたものとしてはついつい高飛車なモノいいになってしまう」とも記している<ref name="『アニメージュ』1982年12月号" />。 1989年の『ヴイナス戦記』では「お客がそこそこ来たらもう一本つくろう」との思いもあったが、同作品は振るわず、不本意ながらもアニメを辞めざるを得なかった<ref name="北海道新聞20120316" />。 === 漫画家時代 === 1989年、『[[ナムジ]]』(1989年-1991年)で専業漫画家としての活動を始める。その後『虹色のトロツキー』(1990年-1996年)、『王道の狗』(1998年-2000年)、『韃靼タイフーン』(2000年-2002年)などを手掛け、第19回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『[[ナムジ]]』、1990年)、第4回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞(『[[王道の狗]]』、2000年)などを受賞した<ref name="北海道新聞20120317">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 12 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-17}}</ref>。後に、「『ナムジ』が日本漫画家協会賞を受賞したことで、漫画家として認められてもらった気がする」と『[[ヤマトタケル (安彦良和の漫画)|ヤマトタケル]]』6巻の後書きにて記している。 2001年6月、アニメーター時代に主要スタッフとして関わった作品『機動戦士ガンダム』をコミカライズした『[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]]』の連載をガンダム専門の月刊誌『[[ガンダムエース]]』にてスタートさせる。連載は2001年6月号から2011年8月号まで約10年間におよんだ。執筆動機について、アニメのガンダムがヒットし一部ファンや自称評論家が「ニュータイプが世界を変えるのがガンダムのテーマ」と発言しているのを耳にし、これは学生運動時代に聞いた「革命的な党をつくったら革命ができる」といった観念を弄ぶような言葉と同じもので非常に危ない、「最初につくって裏表知る人間が知らん顔しちゃいけない」「当時、どんな考えでガンダムが作られたか自分は知っている。それを描けるのは僕だけだ」としてこの仕事を引き受けたという<ref name="北海道新聞20120317">{{Cite news|和書|title=私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 12 |newspaper=北海道新聞 |edition=夕刊 |date=2012-03-17}}</ref>。 2006年、[[神戸芸術工科大学]]メディア表現学科教授に就任<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kobe-du.ac.jp/faculty_member/yasuhiko-y/ |title=客員教授 |publisher=[[神戸芸術工科大学]] |accessdate=2014-09-12}}</ref>。2015年3月まで教員を勤めた<ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-17 |url=https://www.kobe-du.ac.jp/2015/11/50484/ |title=第20回アニメーション神戸 授賞式 |publisher=神戸芸術工科大学 |accessdate=2020-08-12}}</ref>。 2012年3月、[[北海道新聞]]夕刊において、自らの半生について語った「私のなかの歴史」を連載<ref>『[[北海道新聞]]』2012年3月5日付夕刊</ref>。また、2013年11月11日から12月28日まで[[中日新聞]]・[[東京新聞]]夕刊などで連載されている自身の半生やエピソードを綴るコラム「この道」を執筆した。 2014年5月、[[OVA]]『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の総監督を務めることが発表された。アニメ制作に携わるのは約25年ぶりである<ref name="asahi20150228" />。 2018年に始まった「乾と巽 -ザバイカル戦記-」を最後の連載作品としている<ref>https://afternoon.kodansha.co.jp/c/inuitotatsumi/</ref>。 2019年12月14日、安彦が住む所沢市と、ガンダム関連の書籍を出版する[[KADOKAWA]]が主催する「第5回ところざわ文化創造会議」([[ところざわサクラタウン|COOL JAPAN FOREST構想]]の一環として開始した会議)にて、講演を行う。 2022年に公開された[[機動戦士ガンダム_ククルス・ドアンの島]]を最後のアニメ作品としている<ref>https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220602-gundam-yasuhiko-intv</ref>。 == 作風 == * 漫画作品には、歴史や神話を題材としたものが多い。『[[王道の狗]]』『[[天の血脈]]』『[[虹色のトロツキー]]』のように近現代史を舞台として、実在の人物を実名で登場させた作品もある<ref>登場人物には、[[山口淑子|李香蘭(大鷹淑子)]]のように執筆当時存命だった人物も含まれる。</ref>。雑誌連載のほかに、[[イエス・キリスト]]や[[ジャンヌ・ダルク]]を題材に全ページ彩色した漫画を描き下ろしで発表している。 * 本人曰く筆圧が高いので、ペンではなく'''削用筆'''を使って作画を行なっている。一部を除き、極細の線もすべてこの筆を使っており職人芸と評されている。『THE ORIGIN』では作品の性格上から一部にCG処理も導入されているものの、独特のタッチとアナログで力強い彩色を行なった。 * [[劇画]]が嫌いで、劇画調の『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』や『[[ゼロテスター]]』は苦手であった<ref>『動画王』vol.7 キネマ旬報社、1998年 pp. 162-183</ref>。また[[手塚治虫]]の画風も駄目だと考えており、自身の画風は[[永井豪]]の画風が近いと述べている。 * S字型に腰を前方突出させた立ち姿を描き、その独特の色気のある立ち姿は、ファンから「やすひ腰」「安彦立ち」(主に「[[大河原邦男|ガワラ立ち]]」、「[[カトキハジメ|カトキ立ち]]」との対比で呼ばれる)と親しまれているが、本人曰く「虫プロ在籍時代に習った」とのこと。 == 評価 == === 幾原邦彦 === アニメーション監督で音楽プロデューサーの[[幾原邦彦]]は、『[[アリオン]]』や『[[ヴィナス戦記]]』を例に挙げた上で、男性が主役の場合、いつも傍にいる幼なじみの女性と結ばれるストーリー展開が多く、[[マザコン]]の極致であるとして、「よく考えると、非常に気持ち悪い話ですよね」と語り、年上で食わせ者の女性に、年下の男性が惹かれるパターンの心理描写を全く理解していないのではないかと推察している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P80</ref>。 == 受賞歴 == * 1981年 第12回[[星雲賞]](アート部門)受賞。 * 1990年 『[[ナムジ]]』により第19回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を受賞。 * 2000年 『[[王道の狗]]』により第4回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞受賞。 * 2012年 『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』により第43回星雲賞(コミック部門)を受賞。 * 2015年 第20回[[アニメーション神戸|アニメーション神戸賞]]特別賞を受賞。 * 2021年 [[第44回日本アカデミー賞]]協会特別賞を受賞<ref>[https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/44.html 第44回 日本アカデミー賞 優秀賞決定!]、日本アカデミー賞公式サイト、2021年2月17日閲覧。</ref>。 * 2022年 [[文化庁]]映画賞<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93766301_01.pdf 【報道資料】令和4年度文化庁映画賞(文化記録映画部門・映画功労部門)を決定しました]</ref> * 2022年 テレビ番組『[[浦沢直樹の漫勉|浦沢直樹の漫勉neo]] 〜安彦良和〜』により第25回[[文化庁メディア芸術祭]]エンターテインメント部門大賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://j-mediaarts.jp/award/single/naoki-urasawa-presents-manben-neo-yoshikazu-yasuhiko/ |title=浦沢直樹の漫勉neo 〜安彦良和〜 |website=文化庁メディア芸術祭 |accessdate=2023-09-28}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === {| class="wikitable sortable" |- ! style="width:15%"| 作品名 ! 出版社/巻数/発行年月 ! 連載 ! 備考 |- |[[アリオン (漫画)|アリオン]] |[[徳間書店]]・アニメージュコミックス/全5巻/1980年11月-1985年1月発行 ほか |徳間書店『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』1979年5月号-1984年11月号 |漫画家デビュー作。1986年劇場アニメ化。 |- |[[クルドの星]] |徳間書店・少年キャプテンコミックス/全3巻/1986年1月-1987年6月発行 ほか |徳間書店『[[月刊少年キャプテン]]』 1985年2月号-1987年4月号 |『アリオン』映画化の際、取材旅行先でトルコを訪れたことで生まれた作品。この旅行は安彦自身初の海外旅行でもあった{{sfn|ユリイカ|2007|p=196}}。文春デジタル漫画館から全2巻で電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692062400000000000Q</ref>。 |- |[[ヴイナス戦記]] |[[学習研究社]]・ノーラコミックス/全4巻/1987年9月-1990年5月発行 ほか |学習研究社『[[月刊コミックNORA]]』1986年9月号-1990年4月号 |1989年劇場アニメとして公開。 |- |Cコート |徳間書店・少年キャプテンコミックス/全1巻/1988年7月発行。新版・リュウコミックス/2010年9月 |徳間書店『月刊少年キャプテン』 1987年12月号-1988年5月号 |安彦初のスポーツ漫画で、テニスを題材にしている。映画『ヴイナス戦記』のため未完となった{{sfn|ユリイカ|2007|p=198}}。 |- |[[ナムジ]] |徳間書店・ハードカバー版/全5巻/1989年8月-1991年11月発行 ほか |描き下ろし |初描き下ろし作品。漫画家に専念してからの第1作目。第19回日本漫画家協会賞優秀賞。 |- |[[虹色のトロツキー]] |[[潮出版社]]・希望コミックス/全8巻/1992年7月-1997年1月発行 ほか |潮出版社『[[コミックトム]]』1990年11月号-1996年11月号 |文化人類学者[[山口昌男]]など著名人が巻末あとがきを担当。 |- |[[神武 (漫画)|神武]] |徳間書店・ハードカバー版/全5巻/1992年6月-1995年3月発行 ほか |描き下ろし |『ナムジ』の続編。登場人物の再登場も多い。 |- |安東 ANTON |[[学習研究社]]・ノーラコミックスデラックス/全3巻/1993年10月-1995年6月発行 |学習研究社『月刊コミックNORA』1992年9月号-1995年4月号 |[[源義経]]の忘れ形見・星若丸が、十三安東氏などの協力を得て親の仇である[[鎌倉幕府]]を打倒しようとする物語。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692098500000000000J</ref>。 |- |[[三河物語]] マンガ日本の古典 23 |中央公論社・ハードカバー/1995年2月発行<br />中公文庫/2001年2月発行<br />ワイド版/21年5月発行 |描き下ろし |徳川家に仕えた[[大久保忠教]](彦左衛門)を、少年である魚屋[[一心太助]]の視点で描く{{sfn|ユリイカ|2007|pp=203-204}}。 |- |ジャンヌ Jeanne |[[NHK出版]]・ソフトカバー/全3巻/1995年10月-1996年7月発行。新版/全1巻/2002年3月 |描き下ろし(原作[[大谷暢順]]) |初のオールカラーの描き下ろし作。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692057900000000000I</ref>。 |- |イエス JESUS |NHK出版・ソフトカバー/全2巻/1997年4月-1997年9月発行。新版/全1巻/2003年3月 |描き下ろし |オールカラーの描き下ろし。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692057800000000000F</ref>。 |- |マラヤ MARAYA |[[メディアワークス]]・DengekiComics EX/全4巻/1998年5月-2000年10月発行。新版・チクマ秀版社/全1巻/2005年11月 |メディアワークス『電撃 Adventures』VOL.18-27、『電撃 hp』VOL.5-7 |オールカラー第三作目。SFファンタジー作。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692117300000000000E</ref>。 |- |[[我が名はネロ]] |文藝春秋・ビンゴコミックス/全2巻/1998年11月-1999年9月発行 ほか |[[文藝春秋]]『コミックビンゴ』1998年3月号-1999年5月号。第13話-15話描き下ろし |[[ローマ皇帝]][[ネロ]]の即位から死までを描いた作品。掲載誌廃刊のため、第13話以降は単行本描き下ろし。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1609004000000000000A</ref>。 |- |[[王道の狗]] |[[講談社]]・ミスターマガジンKC/全6巻/1998年6月-2000年3月発行<br />[[白泉社]]・JETS COMICS/全4巻 ほか |講談社『[[ミスターマガジン]]』1998年1号-2000年3号 |白泉社版の31話・47話は新規描き下ろし。安彦は「白泉社版を正規の『王道の狗』と思いたい」(白泉社版第4巻あとがき)と述べている<br>第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。 |- |[[韃靼タイフーン]] |メディアファクトリー・MFコミックスフラッパーシリーズ/全4巻/2001年1月-2002年5月発行 ほか |メディアファクトリー『コミックフラッパー』2000年3月号-2002年5月号 |近未来の[[函館市|函館]]を舞台にした冒険活劇。 |- |[[蚤の王]] |講談社・モーニングKCDX/全1巻/2001年7月発行 ほか |講談社『モーニング新マグナム増刊』2001年14号-20号 |『神武』の続編ではあるが、登場人物が血縁(子孫)であることを除けば前作とのつながりは薄い。 |- |[[アレクサンドロス (漫画)|アレクサンドロス 世界帝国への夢]] |NHK出版・NHKスペシャル文明の道 COMIC Version/全1巻/2003年7月発行、完全版2008年3月 |描き下ろし |[[NHKスペシャル]]『[[文明の道]]』のコミカライズ作品。文春デジタル漫画館から電子書籍化<ref>https://books.bunshun.jp/ud/book/num/1692058000000000000H</ref>。 |- |[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]] |[[角川書店]]・角川コミックエース/全24巻/2002年6月-2011年11月、2015年2月発行<br />角川書店・愛蔵版/全12巻/2005年5月-2014年8月発行 |角川書店『[[ガンダムエース]]』創刊号(2001年6月号)-2011年8月号 |安彦によるアニメ『機動戦士ガンダム』の漫画版。設定・デザインに一部アニメ版との差異があり「シャア・セイラ編」など漫画版独自のストーリーも加えられた。第43回星雲賞(コミック部門)受賞。<br>2015年2月には番外編をまとめた24巻特別編も刊行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321410000165/ |title= 機動戦士ガンダム THE ORIGIN (24)特別編 |publisher=[[角川書店]] |accessdate=2015-03-25}}</ref>。 |- |[[麗島夢譚]](うるわしじま ゆめものがたり) |徳間書店・リュウコミックス/全4巻/2009年1月-2012年12月 |徳間書店『[[月刊COMICリュウ]]』2006年11月号-2012年9月(不定期連載) |江戸時代前期の麗島([[台湾]]のこと。[[ポルトガル語]]の{{lang|pt|Ilha Formosa}}=「麗しの島」に由来)周辺を舞台に、[[天草四郎]]、[[松浦党]]の流れをくむ海賊青年、[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]の遺児らが、麗島を巡る[[スペイン]]と[[オランダ]]との争いに巻き込まれ、冒険を繰り広げる。 |- |[[天の血脈]] |講談社・アフタヌーンKC/全8巻/2012年8月-2016年10月 ほか |講談社『月刊アフタヌーン』2012年3月号-2016年11月号 |明治末期の日本・アジアを舞台にした作品。『虹色のトロツキー』『王道の狗』と共に近代史3部作とも称される<ref>{{Cite web|和書|url=https://konomanga.jp/guide/27419-2 |title=『天の血脈』第5巻 安彦良和 【日刊マンガガイド】 |work=このマンガがすごい! WEB |publisher=[[宝島社]] |accessdate=2019-03-12}}</ref>。第20回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]審査委員会推薦作品<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2017/manga/works/20mj_ten_no_ketsumyaku/ |title=第20回文化庁メディア芸術祭 マンガ部門 審査委員会推薦作品 |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2019-03-12}}</ref>。 |- |[[ヤマトタケル (安彦良和の漫画)|ヤマトタケル]] |角川書店・カドカワコミックス・エース/全6巻/2013年2月-2018年10月 ほか |角川書店『[[サムライエース]]』VOL.1-10(休刊)、ComicWalker 2014年8月20日配信号-2018年6月20日配信号<ref>{{Cite web|和書|url=https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CW01000040010000_68/|title=ヤマトタケル 無料漫画詳細|publisher=無料コミック ComicWalker|date=2018-06-20|accessdate=2018-09-25}}</ref> |『ナムジ』『神武』『蚤の王』に続く日本古代史物。[[ヤマトタケル]]を主人公として、その生涯を描く。 |- |乾と巽 -ザバイカル戦記- |講談社・アフタヌーンKC/既刊9巻/2019年4月- |講談社『月刊アフタヌーン』2018年11月号- |[[シベリア出兵]]を題材とした作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180924/dyo/00m/200/012000c|title=安彦良和 70歳の“最後の新連載”「乾と巽」が「アフタヌーン」でスタート|publisher=[[毎日新聞]]|date=2018-09-25|accessdate=2018-09-25}}</ref>。 |- |} このほか、アボジ、[[ネオデビルマン]]、[[週刊マンガ日本史]]第34号『[[勝海舟]]』などがある。 === 小説 === * 『シアトル喧嘩エレジー』徳間書店、1980年 * 『蒼い人の伝説―ルウは風の中で』角川書店・カドカワノベルズ、1988年/角川文庫 1990年 * 『[[鋼馬章伝]]』全5巻 [[カドカワノベルズ]]/[[徳間デュアル文庫]] 2002年 - 2003年 ** ボナベナの騎士 鋼馬章伝I 1988年 ** ザオの騎士王 鋼馬章伝II 1988年 ** ガンゴトリの疾風(かぜ) 鋼馬章伝III 1989年 ** ノルブの光輪 鋼馬章伝IV 1990年 ** クルガンの竜 鋼馬章伝V 1990年 ** 伝説の鋼馬(ドルー) 鋼馬章伝後章 - ファンタジー王国II(カドカワノベルズ) 所収 * 『テングリ大戦』 全4巻 [[カドカワノベルズ]] 1990年 - 1992年 * 『聖王子ククルカン』(上・下) [[角川スニーカー文庫]] 1993年 === 対談・討論 === * 『安彦良和対談集 アニメ・マンガ・戦争』 [[角川書店]]、2005年 ** [[松本健一]]、[[福井晴敏]]、[[矢作俊彦]]ほか 全19名との対談 * 『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』[[岩波書店]]、2017年。聞き手:[[斉藤光政]] * 『革命とサブカル 「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』言視舎、2018年 * [[杉田俊介]]『安彦良和の戦争と平和-ガンダム、マンガ、日本』[[中公新書]]ラクレ、2019年。インタビュー討論 * 『安彦良和マイ・バック・ページズ』[[太田出版]]、2020年。聞き手:石井誠 * 『安彦良和マイ・バック・ページズ 『[[機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島]]』編』太田出版、2023年。聞き手:石井誠 * 『安彦良和の歴史画報 著者が語る歴史マンガガイド』玄光社、2023年11月。ビジュアルガイド === アニメーション作品 === ==== 監督作品 ==== * [[クラッシャージョウ]] '''監督'''・キャラクターデザイン・作画監督・第一原画 * [[巨神ゴーグ]] 原作・'''監督'''・キャラクターデザイン・作画監督・第一原画 * [[アリオン (漫画)|アリオン]] 原作・'''監督'''・キャラクターデザイン・作画監督 * [[風と木の詩]] '''監督'''・絵コンテ * [[ヴイナス戦記]] 原作・'''監督'''・脚本・キャラクターデザイン・絵コンテ・原画(ノンクレジット) * [[機動戦士ガンダム THE ORIGIN#アニメ|機動戦士ガンダム THE ORIGIN]] 原作・'''総監督'''・キャラクターデザイン・絵コンテ・原画 * [[機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島]] '''監督'''<ref name="yt20211221" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2112/21/news092.html |title=映画「ククルス・ドアンの島」22年初夏公開 「機動戦士ガンダム」の名エピソードを安彦良和監督が映画化 |website=ITmedia NEWS |publisher=ITmedia |date=2021-12-21 |accessdate=2021-12-21}}</ref>・キャラクターデザイン<ref name="yt20211221">{{Cite video |url=https://www.youtube.com/watch?v=Zj5nfqmt8qU&t=28s |title=『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』超特報映像 |publisher=ガンダムチャンネル |time=28s |medium=YouTube配信 |date=2021-12-21 |accessdate=2021-12-21}}</ref>・原画 ==== デザイン ==== * [[勇者ライディーン]] キャラクターデザイン・作画監督 * [[わんぱく大昔クムクム]] 原案・キャラクターデザイン(※主人公のクムクムは実子がモデル)・作画監督・絵コンテ・原画 * [[超電磁ロボ コン・バトラーV]] キャラクターデザイン・作画監督・絵コンテ・原画 * [[無敵超人ザンボット3]] キャラクターデザイン * [[テラホークス|テラホーク ー地球奪還指令ー(企画のみ)]] キャラクターデザイン・メカニックデザイン * [[機動戦士ガンダム]] アニメーションディレクター・キャラクターデザイン・作画監督 * [[白い牙 ホワイトファング物語]] キャラクターデザイン * [[機動戦士Ζガンダム]] キャラクターデザイン * [[機動戦士ガンダムF91]] キャラクターデザイン * [[地球SOS それいけコロリン]] キャラクターデザイン * [[新海底軍艦]] キャラクターデザイン * [[GUNDAM EVOLVE]](EVOLVE../9) キャラクターデザイン * [[機動戦士ガンダムUC]] オリジナルキャラクターデザイン ==== 作画・演出スタッフとして参加の作品 ==== * [[さすらいの太陽]] 作画設定 * ファミリークラシック「マッド・マッド・マッド・モンスター」 原画・レイアウト * [[科学忍者隊ガッチャマン]] 原動画 * [[ワンサくん]] 原画 * [[ろぼっ子ビートン]] フィニッシュ担当(作画監督) * [[ゼロテスター]] 原画・演出 * [[宇宙戦艦ヤマト]] 絵コンテ・原画(最終話) * [[さらば宇宙戦艦ヤマト]] 原案協力(ノン・クレジット){{efn2|[[西崎義展]]プロデューサーのブレインとして、白色彗星や新造戦艦等のアイディアを提出している。これらは会議の席上では西崎義展名義で発表された<ref name="松本零士">『松本零士・初期SF作品集 限定版BOX』、インタビューより</ref>。}}。・絵コンテ・原画(ノン・クレジット){{efn2|[[西崎義展]]プロデューサーの指名で巨大戦艦出現からヤマト特攻までの一連の原画を担当。作画監督には「一切修正を加えるな」との厳命が下された<ref>「アニメ大好き!~ヤマトからガンダムへ~」での氷川竜介(中谷達也名義)の解説による</ref>。}}。 * [[宇宙戦艦ヤマト2]] シリーズ構成(ノン・クレジット){{efn2|[[西崎義展]]プロデューサーの依頼によって、脚本陣とともにテレビ用の構成と設定の変更を行ったとのこと<ref name="松本零士" />。}}。・絵コンテ * [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]] 絵コンテ・原画 * [[闘将ダイモス]] 絵コンテ * [[無敵鋼人ダイターン3]] 作画監督・絵コンテ・原画(只野泰彦 名義) * [[星の王子さま|星の王子さま プチ☆プランス]] 演出 * [[日本アニメ(ーター)見本市]] 「安彦良和・板野一郎原撮集」レイアウト・原画・作画修正([[板野一郎]]と共同) === カバーイラスト・挿絵 === * 『[[クラッシャージョウ]]』シリーズ([[高千穂遙]]) * 『[[ダーティペア]]』シリーズ(高千穂遙) * 「異次元騎士カズマ」シリーズ([[王領寺静]]) ** 『黄金拍車』※第1巻挿絵は除く ** 『骸骨旗(ジョリー・ロジャー)トラベル』 ** 『剣奴王ウォーズ』 * 『[[機動戦士ガンダムUC]]』([[福井晴敏]]) *: [[角川グループパブリッシングの漫画レーベル#カドカワコミックス・エース|角川コミックエース]]版カバーイラスト、第1巻から第3巻の口絵・挿絵 * 『[[将軍たちの夜]]』([[ハンス・ヘルムート・キルスト]]) === CM === * [[サッポロビール]] “第95回箱根駅伝用オリジナルCM”年始特別バージョン(2018年1月2日・3日 日本テレビ系『[[第95回東京箱根間往復大学駅伝競走]]』内にて放送)安彦良和描き下ろし線画アニメーション<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12-26 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000163121 |title=安彦良和が描くサッポロビール『箱根駅伝』CM、楽曲はBUMP OF CHICKEN「ロストマン」 |publisher=BARKS |accessdate=2019-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018-12-26 |url=https://natalie.mu/comic/news/313896 |title=安彦良和がサッポロビールの箱根駅伝CMで線画を担当、大迫・設楽選手の走り描く |publisher=コミックナタリー |accessdate=2019-12-01}}</ref> === その他 === * [[大魔界村]] パッケージデザイン([[PCエンジンスーパーグラフィックス]]版) * [[ニュートピアII]] パッケージデザイン * マイト&マジック パッケージデザイン([[PCエンジンスーパーグラフィックス]]版) * [[重装機兵ヴァルケン|重装機兵ヴァルケン2]] キャラクターデザイン(製作途中で[[衣谷遊]]に変更) * [[俗・さよなら絶望先生]] 第六話 エンドカード * [[ハチワンダイバー]] 第7巻 世界一の絵師のカード「やすひ子」 * [[ストレンジ・プラス]] #08 エンドカード * 『慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼 比叡山の歩き方』([[ダイヤモンド社]]) * 『親鸞の歩き方』(ダイヤモンド社) * 『決断の本質 日本人の戦争と平和』(ダイヤモンド社) == テレビ出演 == * 機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版(2009年4月26日、[[アニマックス]]) * [[めざましテレビ]](2014年11月21日、フジテレビ)<ref>[https://datazoo.jp/tv/%E3%82%81%E3%81%96%E3%81%BE%E3%81%97%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93/806541/4 めざましテレビ|2014/11/21(金)放送 | TVでた蔵]</ref> * [[漫道コバヤシ]](2015年5月19日、フジテレビONE) * [[ゴロウ・デラックス]](2015年9月3日、TBS)<ref>[https://www.gundam.info/news/video-music/news_video-music_20150903_13810p.html ガンダムインフォHP、TBS系列「ゴロウ・デラックス」に安彦良和氏が出演!本日9月3日深夜0:41より放送!]</ref> * [[ノージーのひらめき工房]](2018年12月8日{{要出典|date=2021年10月}}・2020年12月12日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/nozy/ts/K15G627MP9/episode/te/P8487M1V19/ |title=「クラフト流 こすりだしの特訓」 - ノージーのひらめき工房 |website=NHK |accessdate=2021-10-04}}</ref>、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) * [[こころの時代]]〜宗教・人生〜「わかり合えないをわかりたい」(2019年5月、NHK Eテレ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/3GYZL4ZG84/|title=選「わかり合えないをわかりたい」 |publisher=NHK|accessdate=2020-07-06}}</ref> * 『[[浦沢直樹の漫勉|浦沢直樹の漫勉neo]]』(2021年6月9日、NHK Eテレ) * [[有吉×怪物]](2021年9月29日、日本テレビ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/447105 |title=トム・クルーズをしのぐ俳優、手塚治虫が嫉妬するアニメーター!?“怪物”に迫る特番放送 |website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-09-29 |accessdate=2021-10-04}}</ref> == 連載 == * 時のかたち(2001年6月19日 - 22日、[[朝日新聞]] 夕刊) - 『THE ORIGIN』の執筆、検査入院、同郷の骨董品店主、[[石神井]]の[[三宝寺 (練馬区)|三宝寺]]について。 * 私のなかの歴史〜オホーツクから『ガンダム』へ(2012年、[[北海道新聞]] 夕刊) * この道(2013年、[[中日新聞]]・[[東京新聞]] 夕刊) * マイ・バック・ページズ(2018年7月 - 2019年11月、[[太田出版]] 隔月刊『[[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]』Vol.54<!--2018年7月21日発売--> - Vol.62<!--2019年11月26日発売-->) - 連載・刊行 == その他 == * プロ野球では[[広島東洋カープ]]のファンで[[アンチ巨人]]<ref>『アニメージュ』1982年11月号、[[徳間書店]]、pp. 148-149</ref>。 * 「不滅の少年ボイス」と称するほど[[田中真弓]]のファンである事を公言している<ref name="『エンタミクス』2015年5月号">エンターブレイン『エンタミクス』2015年5月号、pp. 70-71「安彦良和が『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN』を描いた理由」より。</ref>。アニメの仕事から離れた為、一緒に仕事をする事はないと思っていたが、『THE ORIGIN』で声を頂いた事に喜んでいる<ref name="『エンタミクス』2015年5月号" />。 * [[湖川友謙]]とは同郷、出身高校も同じ(湖川が2学年下)であるが、アニメ業界に入るまでお互いに面識がなかったという。 * 終戦にともなっておこなわれた一億総懺悔のなかにはそこまで反省しなくてもいい問題がいっぱいあるので国家の安定とともに復元の動きが出るのはあたりまえだとしつつも、方向をまちがってしまうと『日本は侵略なんかしていない』とか『植民地支配は悪だというけど、日本はいいことだってしたではないか』ともどりすぎてしまう。安倍晋三首相のやっていることも、もどっちゃいけない方向だと思うと著書の『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』で述べている<ref>https://lite-ra.com/2017/05/post-3158_3.html</ref>。 == 弟子 == * アニメーターとしての弟子に[[板野一郎]]、九月社時代の弟子として[[高橋久美子 (アニメーター)|高橋久美子]]、[[佐藤元]]がいる。安彦曰く、サンライズで募集採用されたアニメーターの4人のうち二番に高橋、四番目に佐藤が上手かったそうである。そして安彦はこの4人の中で高橋と佐藤を九月社に採用した<ref>{{Cite book|和書|author=石井誠 |title=クラッシャージョウ デザイナーズノート |publisher=SB Creative |date=2016-04-01 |page=40}}</ref>。 * なお、[[神村幸子]]、[[川元利浩]]は安彦の弟子と語られることが多いが、実際には間違いである。神村はもともと東京ムービー系のスタジオイルカ所属であり、安彦との初仕事も『[[アリオン]]』の原画でありそれ以前の関わりはない。川元は『[[機動戦士ガンダムZZ]]』のときにその実力を神村に見出だされたのであり、正しくは安彦ではなく神村の弟子である<ref>{{Cite book|和書|author=石井誠 |title=ヴイナス戦記 Blu-ray特別限定版ブックレット THE VENUS WARS special Booklet |publisher=EMOTION |date=2018-07-26|page=54}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date=2007-08-01 |title=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集=安彦良和『アリオン』から『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』まで |publisher=2007年9月号・[[青土社]] |isbn=978-4-7917-0167-4 |ref={{sfnref|ユリイカ|2007}} }} * {{Cite web|和書|author=石川智也|url=https://www.asahi.com/and_M/20200221/9894662/ |title=人はめぐりあい、過ちを繰り返す 『ガンダム』で描いた正義なき世界 安彦良和のTHE ORIGIN(前編) |website=朝日新聞デジタル&M(アンド・エム) |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2020-02-20 |accessdate=2021-08-05 |ref={{sfnref|&M|2020}} }} == 外部リンク == * {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20110903073755/http://www.add-system.co.jp/yasuhiko/top.html |title=安彦良和原画展}} <!-- * [http://www.animation-nerima.jp/ 練馬アニメーションサイト「ネリマアニメウォーク2 安彦良和先生」インタビュー動画]{{リンク切れ|date=2023年1月}} --> <!-- * [http://www.youtube.com/watch?v=uTK_m3Te2N8&feature=player_embedded 「安彦良和さんの描画風景」動画]{{リンク切れ|date=2023年1月}} --> * 安彦良和ラボ-オンラインコミュニティ- ** {{Twitter|yasuhikolab|安彦良和ラボ公式}} ** {{Facebook|yasuhikolab|安彦良和ラボ}} ** {{Campfire community|231391|安彦良和公式オンラインコミュニティ「安彦良和ラボ」}} {{ガンダムシリーズ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:やすひこ よしかす}} [[Category:安彦良和|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:ガンダムシリーズの監督]] [[Category:ガンダムのデザイナー]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:日本の男性イラストレーター]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:20世紀日本の著作家]] [[Category:21世紀日本の著作家]] [[Category:神戸芸術工科大学の教員]] [[Category:弘前大学出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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2,047
柳沢きみお
柳沢 きみお(やなぎさわ きみお、本名柳澤 公夫(読み方は同じ)、1948年9月26日 - )は、日本の漫画家。新潟県五泉市出身。代表作に『翔んだカップル』『特命係長 只野仁』など。 新潟県五泉市の資産家の家庭に生まれる。小学校の低学年の頃より漫画家を目指す。新潟県立村松高等学校卒業、和光大学人文学部芸術学科を中退。1970年、「週刊少年ジャンプ」掲載『ズンバラビン』でデビュー。とりいかずよしのアシスタントを務めたのち、1972年、『負けるな紀三郎』で第4回手塚賞佳作を受賞(柳沢公夫名義)。 翌、1973年より1975年まで「週刊少年ジャンプ」で『女だらけ』を、1975年12月より1976年4月まで『温泉ボーイ』を連載。 その後はフリーランスになり、『温泉ボーイ』が終了した翌月の1976年5月から「週刊少年チャンピオン」で『月とスッポン』を連載開始。さらに1977年から『すくらんぶるエッグ』(「週刊少年キング」)と『ミニぱと』(「月刊少年チャンピオン」)を連載。ここまではとりいかずよしの延長線上にある、美少女と冴えない少年の青春ギャグ漫画が基本的な作風だったが、1978年からリアルな青春描写を取り入れた『翔んだカップル』(「週刊少年マガジン」)を連載開始。映画化、テレビドラマ化もされる大ヒットとなり、ラブコメ漫画家として人気を得る。ピーク時は週刊少年誌3誌と月刊少年誌1誌で連載を持った。 『翔んだカップル』以降は絵柄が大きく変化し、青年誌や男性週刊誌を中心に活動。『妻をめとらば』『男の自画像』『DINO』『100%』などがヒットする。1991年より連載のエッセイ的漫画『大市民』シリーズは複数の雑誌をまたいだロングランとなった。1998年には「週刊現代」で『特命係長 只野仁』を連載。映画・ドラマ化された。 2011年には自身の漫画家人生を振り返る自伝『なんだかなァ人生』を出版。 青年誌へ移ってからは、中年世代のミッドライフ・クライシスを描きつつもエンタテインメントに徹した作風だが、嗜好としては情念や哀愁を伴うペーソスやユーモアを重視している。そのため、同業者ではつげ義春、ジョージ秋山、小林まことの三人を評価し、敬意を表している。 2022年、漫画家生活50周年記念として『柳沢きみお大全集』の電子書籍が配信開始。
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柳沢 きみおは、日本の漫画家。新潟県五泉市出身。代表作に『翔んだカップル』『特命係長 只野仁』など。
{{出典の明記|section=1|date=2017年4月}} {{Infobox 漫画家 |名前=柳沢 きみお |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名=柳澤 公夫 |生年={{生年月日と年齢|1948|9|26}} |生地=[[新潟県]][[五泉市]] |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1972年]] - |ジャンル=[[ギャグ漫画]]、[[少年漫画]]、[[青年漫画]]、[[レディースコミック]] |代表作=『[[女だらけ]]』<br />『[[月とスッポン (漫画)|月とスッポン]]』<br />『[[翔んだカップル]]』<br />『[[特命係長 只野仁]]』 |受賞=第4回[[手塚賞]](1972年)<br />第3回[[講談社漫画賞]]少年部門([[1979年]]) |サイン= |公式サイト= }} '''柳沢 きみお'''(やなぎさわ きみお、本名:柳澤 公夫〈読み方は同じ〉、[[1948年]][[9月26日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]][[五泉市]]出身。代表作に『[[翔んだカップル]]』『[[特命係長 只野仁]]』など。 == 来歴 == 新潟県五泉市の資産家の家庭に生まれ、小学校の低学年の頃より漫画家を目指す。[[新潟県立村松高等学校]]卒業、[[和光大学]][[人文学部]]芸術学科を中退。1970年に「[[週刊少年ジャンプ]]」掲載『ズンバラビン』でデビュー。[[とりいかずよし]]のアシスタントを務めたのち、[[1972年]]、『負けるな紀三郎』で第4回[[手塚賞]]佳作を受賞(柳沢公夫名義)。 翌1973年より1975年まで「週刊少年ジャンプ」で『[[女だらけ]]』を、1975年12月より1976年4月まで『[[温泉ボーイ]]』を連載。 その後は[[フリーランス]]になり、『温泉ボーイ』が終了した翌月の1976年5月から「[[週刊少年チャンピオン]]」で『[[月とスッポン (漫画)|月とスッポン]]』を連載開始。さらに1977年から『すくらんぶるエッグ』(「[[少年キング|週刊少年キング]]」)と『[[ミニぱと]]』(「[[月刊少年チャンピオン]]」)を連載。ここまではとりいかずよしの延長線上にある、美少女と冴えない少年の青春ギャグ漫画が基本的な作風だったが、1978年からリアルな青春描写を取り入れた『[[翔んだカップル]]』(「[[週刊少年マガジン]]」)を連載開始。映画化、テレビドラマ化もされる大ヒットとなり、ラブコメ漫画家として人気を得る。ピーク時は週刊少年誌3誌と月刊少年誌1誌で連載を持った。 『翔んだカップル』以降は絵柄が大きく変化し、青年誌や男性週刊誌を中心に活動。『妻をめとらば』『[[男の自画像]]』『[[DINO (漫画)|DINO]]』『100%』などがヒットする。1991年より連載のエッセイ的漫画『[[大市民]]』シリーズは複数の雑誌をまたいだロングランとなった。1998年には「[[週刊現代]]」で『[[特命係長 只野仁]]』を連載。映画・ドラマ化された。 2011年には自身の漫画家人生を振り返る自伝『なんだかなァ人生』を出版。 青年誌へ移ってからは、中年世代の[[中年の危機|ミッドライフ・クライシス]]を描きつつもエンタテインメントに徹した作風だが、嗜好としては情念や哀愁を伴うペーソスやユーモアを重視している。そのため、同業者では[[つげ義春]]、[[ジョージ秋山]]、[[小林まこと]]の三人を評価し、敬意を表している。 2022年、漫画家生活50周年記念として『柳沢きみお大全集』の電子書籍が配信開始<ref>{{Cite news |和書 |title=漫画家生活50周年記念!常に時代の先端を走り続け「翔んだカップル」「特命係長 只野仁」などの大ヒットを出し続けた巨匠、柳沢きみおの50年に渡る全仕事を完全網羅した「柳沢きみお大全集」が電子書籍で登場! |newspaper=ドリームニュース |date=2022-09-09 |url=https://www.dreamnews.jp/press/0000265975/ |access-date=2023-02-01}}</ref>。 == 作品リスト == === 単行本 === * [[これで兄妹]] * [[女だらけ]] * [[温泉ボーイ]] * [[月とスッポン (漫画)|月とスッポン]] * [[正平記]] * [[ミニぱと]] * [[薔薇美少女]] * [[すくらんぶるエッグ]] * [[翔んだカップル|翔んだカップル・シリーズ]] * Good Girl * [[朱に赤]] * [[羽なしティンカー・ベル]] * あ!MYみかん * スターズ * [[瑠璃色ゼネレーション]] * 100% * [[妻をめとらば]] * [[大市民|大市民・シリーズ]] * 寝物語 * [[愛人 (漫画)|愛人]] * [[SEWING]] * [[青き炎 (漫画)|青き炎]] * [[DINO (漫画)|DINO]] * [[男の自画像]] * [[俺にもくれ]] * [[おいしい水 (漫画)|おいしい水]] * [[SHOP自分]] * [[自分が好き]] * [[東京BJ]] * [[未望人]] * [[形式結婚]] * [[極悪貧乏人]] * [[夜に蠢く]] * 流行唄 * [[特命係長 只野仁]] * [[特命女子アナ 並野容子]] * [[市民ポリス69]] * [[悪の華 (柳沢きみお)|悪の華]] ** 闇華(続・悪の華) * [[大好き愛せない]] * [[スーパーレディ]] * [[魔天使 小夜子]] === エッセイ集 === * マンガの方法論 おれ流 柳沢的マンガの創り方(2010年、[[朝日新聞出版]]) ISBN 9784022140524 * なんだかなァ人生(2011年、[[新潮社]]) ISBN 4103316713 === CM === * [[NTT-BJ]]・[[タウンページ]]TVCM『[[病院]]・[[医院]]編』(2010年) - [[石原良純]]とのコラボアニメCM == 師匠 == * [[とりいかずよし]] == アシスタント == * [[村生ミオ]] * [[小多魔若史]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{マンガ図書館Z作家|1117|柳沢きみお}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やなきさわ きみお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:和光大学出身の人物]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:新潟県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]]
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矢也晶久
矢也 晶久(やなり あきひさ)は、日本の漫画家。代表作にOVA化された『タトゥーン★マスター』などがある。
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矢也 晶久は、日本の漫画家。代表作にOVA化された『タトゥーン★マスター』などがある。
'''矢也 晶久'''(やなり あきひさ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作にOVA化された『タトゥーン★マスター』などがある。 == 作品リスト == * [[SETSUNA]](1989年 - 1990年、[[ベアーズクラブ]]、[[集英社]]、全1巻) * [[Chinします?]](1990年 - 1991年、ベアーズクラブ、全2巻) * [[裸の青]](1993年、[[週刊ヤングジャンプ]]、集英社、全1巻) * [[カミラTRIANGLE]] 傑作短編集(1994年、集英社、全1巻) * [[タトゥーン★マスター]](1993年 - 1997年、ベアーズクラブ・週刊ヤングジャンプ・[[ウルトラジャンプ]]、集英社、全3巻)1996年に[[OVA]]化。 * [[フェアプレイス]](1997年 - 1998年、週刊ヤングジャンプ、全4巻) * [[ブギーキャットNAVI]](2000年 - 2001年、[[月刊少年ジャンプ]]、集英社、全2巻) * [[ワカムラサキ]](原作:[[桐籐さない]]、2001年、[[漫革]]、集英社) * [[なんだかコワレ丸]](2001年 - 2004年、月刊少年ジャンプ、全6巻) * [[ZOO (乙一)|ZOO]](原作:[[乙一]]、2006年、漫革、全1巻) * [[21-G]] 矢也晶久短編集(2007年、集英社、全1巻) * [[ひぐらしのなく頃に]]コミックアラカルト 女誑し編(2007年、[[角川書店]]) * [[TATTOON MASTER 2]](2008年、[[MiChao!]]、[[講談社]]) {{Normdaten}} {{Manga-artist-substub}} {{DEFAULTSORT:やなり あきひさ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:存命人物]]
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矢野健太郎
矢野 健太郎(やの けんたろう)
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矢野 健太郎 矢野健太郎 (数学者) 矢野健太郎 (漫画家) 矢野健太郎 (サッカー選手) 矢野健太郎 (声優)
'''矢野 健太郎'''(やの けんたろう) *[[矢野健太郎 (数学者)]] *[[矢野健太郎 (漫画家)]] *[[矢野健太郎 (サッカー選手)]] *[[矢野健太郎 (声優)]] {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:やの けんたろう}}
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2,050
山口かつみ
山口 かつみ(やまぐち かつみ、1965年1月24日 - )は、日本の漫画家。福岡県北九州市出身。男性。専門学校九州デザイナー学院卒業。 1985年、山口克己名義で『らじかる好キャンティ』が第13回ちばてつや賞佳作ヤング部門佳作を受賞し、『ヤングマガジン』(講談社)にて同作を連載しデビュー。以降青年誌などを中心に執筆している。 プロ野球福岡ソフトバンクホークスのファンであることと、巨漢漫画家であることを自身のブログなどで公表している(身長180センチメートル、体重100キログラム)。代表作に『オーバーレブ!』がある。
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山口 かつみは、日本の漫画家。福岡県北九州市出身。男性。専門学校九州デザイナー学院卒業。 1985年、山口克己名義で『らじかる好キャンティ』が第13回ちばてつや賞佳作ヤング部門佳作を受賞し、『ヤングマガジン』(講談社)にて同作を連載しデビュー。以降青年誌などを中心に執筆している。 プロ野球福岡ソフトバンクホークスのファンであることと、巨漢漫画家であることを自身のブログなどで公表している(身長180センチメートル、体重100キログラム)。代表作に『オーバーレブ!』がある。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 山口 かつみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = | 生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[北九州市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1985年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[オーバーレブ!]]』{{R|mangapedia}} | 受賞 = 第13回[[ちばてつや賞]]佳作ヤング部門佳作(『らじかる好キャンティ』) | サイン = | 公式サイト = }} '''山口 かつみ'''(やまぐち かつみ、[[1965年]][[1月24日]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/山口かつみ-5avx6hv1v|title=山口 かつみ(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2021-11-18}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]{{R|mangapedia}}。[[福岡県]][[北九州市]]出身<ref>まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}</ref>。[[男性]]{{R|mangapedia}}。[[専門学校九州デザイナー学院]]卒業{{R|mangapedia}}。 [[1985年]]、山口克己名義で『らじかる好キャンティ』が第13回[[ちばてつや賞]]佳作ヤング部門佳作を受賞し、『[[週刊ヤングマガジン|ヤングマガジン]]』([[講談社]])にて同作を連載しデビュー{{R|mangapedia}}。以降青年誌などを中心に執筆している。 プロ野球[[福岡ソフトバンクホークス]]のファンであることと、巨漢漫画家であることを自身のブログなどで公表している(身長180センチメートル、体重100キログラム)。代表作に『[[オーバーレブ!]]』がある{{R|mangapedia}}。 == 作品リスト == === 連載作品 === * らじかる好キャンティ(『[[週刊ヤングマガジン]]』、講談社、全7巻) * ソフトにGiGoLo(『週刊ヤングマガジン』、講談社、全2巻) * 学悶ノススメ(<!-- 掲載誌不明、 -->[[ぶんか社]]、全1巻) * 悶々 MONJIRO(<!-- 掲載誌不明、 -->ぶんか社、全4巻) * HARAN万丈(『[[週刊少年マガジン]]』、講談社、全2巻) * 平成DOSEI物語(『[[マガジンSPECIAL]]』、講談社、全3巻) * 上をむいて歩こう(『[[ヤングキング]]』、少年画報社、全7巻) * エロ純万遊記(『[[週刊ヤングサンデー]]』、[[小学館]]、全4巻) * 快尻グラマンチェ(『[[ヤングキングアワーズ]]』、少年画報社、全1巻) * [[モザイク (漫画)|モザイク]](『ヤングサンデー増刊大漫王』、小学館、全2巻) * 夢中道中ちちくり記(『ヤングテイオー』、ぶんか社、全1巻) * [[オーバーレブ!]](『週刊ヤングサンデー』、小学館、全31巻) * My Favorite BIKE(短編集、小学館、既刊5巻+番外編1巻) * [[たくなび]](『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、小学館、全5巻) * 72 The Soul of Bikes(『[[週刊ヤングジャンプ]]』、[[集英社]]、全5巻) * ホークスキッズ(『[[月刊ホークス]]』、全2巻) * C.U.B(『[[月刊ヤングキング]]』、少年画報社、全3巻+番外編2巻) * =イッパツ(『ヤングキング』、少年画報社、既刊3巻)※原作担当 漫画:谷嶋イサオ * Mon!もん!!悶!!!(『ヤングキング』、少年画報社、全1巻) <!--*疾れ!六等星 *My Favorite シリーズ--> * レクレスV(『[[コミックバーズ]]』、[[幻冬舎コミックス]]、全3巻) * [[クロスオーバーレブ!]](『[[マンガクロス]]』、[[秋田書店]]、2019年3月14日 - 連載中、既刊10巻) * オーバーレブ! '90s -音速の美少女たち-(『[[ヤングチャンピオン烈]]』<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/420578|title=峠で噂の美少女の正体は?山口かつみ「オーバーレブ!」のアナザーストーリー1巻|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-03-18|accessdate=2021-11-18}}</ref>、秋田書店、2020年No.5<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/yc-retsu/2020/5|title=ヤングチャンピオン烈 2020年No5|publisher=秋田書店|accessdate=2021-11-18}}</ref> - 連載中、既刊4巻) === 読み切り作品 === * [[杉内俊哉]]物語 * Is it My Favorite BIKE!? * [[川﨑宗則]]物語 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ameblo.jp/cub-72/ 山口かつみのマンガ天獄からの独り言] 公式ブログ {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまくち かつみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北九州市出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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2,051
やまと虹一
やまと 虹一(やまと こういち、1953年11月1日 - )は、秋田県出身の日本の漫画家。代表作は『プラモ狂四郎』(クラフト団との共作)。 ダイナミックプロダクションに勤務しながら、1972年『少年ジャンプ別冊』で『エレジーママロボット』でデビュー。『がんばれ!!ロボコン』『秘密戦隊ゴレンジャー』のコミカライズなどを担当。 『プラモ狂四郎』のヒットにより漫画家としての知名度が上がる一方で「ガンプラ作家」というレッテルを貼られたことを嫌い、ガンプラ関係の漫画の連載終了後に一度漫画家を辞めていたが、7年のブランクを経て復帰してからは、ガンプラ、ガンダム関係以外の漫画では「プラモ狂四郎の名誉のため」として基本的に別のペンネーム(※特に公表はしていない)を用いている。 上記のとおりガンプラ関係の漫画家やデザイナーとして知られているが、プラモ狂四郎の連載と同時期に「わんぱっくコミック」(徳間書店)で主にゲームコミカライズ作品を執筆し、「魔界村」や「謎の村雨城」でのスプラッタ描写は読者に衝撃を与えた。一時期ダイナミックプロでアシスタントも務めていた。
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やまと 虹一は、秋田県出身の日本の漫画家。代表作は『プラモ狂四郎』(クラフト団との共作)。
'''やまと 虹一'''(やまと こういち、[[1953年]][[11月1日]]<ref> 『[[映画秘宝]]』関係者の中にいたガンダム野郎編「コレ書いたの誰? 執筆者紹介(50音順)」『ガンダム・エイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』[[洋泉社]]、1999年4月9日、ISBN 4-89691-379-5、254頁。</ref> - )は、[[秋田県]]出身の[[日本]]の[[漫画家]]。代表作は『[[プラモ狂四郎]]』([[ストリームベース#クラフト団|クラフト団]]との共作)。 ==略歴== ダイナミックプロダクションに勤務しながら、1972年『少年ジャンプ別冊』で『エレジーママロボット』でデビュー<ref> 『映画秘宝』関係者の中にいたガンダム野郎編「やまと虹一INTERVIEW 『プラモ狂四郎』誕生までの道のりを語る」『ガンダム・エイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』177-178頁。</ref>。『[[がんばれ!!ロボコン]]』『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のコミカライズなどを担当。 『プラモ狂四郎』のヒットにより漫画家としての知名度が上がる一方で「ガンプラ作家」というレッテルを貼られたことを嫌い、ガンプラ関係の漫画の連載終了後に一度漫画家を辞めていたが、7年のブランクを経て復帰してからは、[[ガンプラ]]、[[機動戦士ガンダム|ガンダム]]関係以外の漫画では「プラモ狂四郎の名誉のため」として基本的に別のペンネーム(※特に公表はしていない)を用いている<ref>[http://kyamatospirit.blog50.fc2.com/blog-entry-189.html 拝啓「プラモ狂四郎」さま。 - 続・やまと屋ブログ堂] を参照。</ref>。 上記のとおりガンプラ関係の漫画家やデザイナーとして知られているが、プラモ狂四郎の連載と同時期に「[[わんぱっくコミック]]」(徳間書店)で主にゲームコミカライズ作品を執筆し、「[[魔界村]]」や「[[謎の村雨城]]」での[[スプラッタ]]描写は読者に衝撃を与えた。一時期[[ダイナミックプロ]]で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]も務めていた。 == 作品 == === 漫画 === *おいらそんごくん(小学四年生 1977年4月号 - 8月号) *わんぱくパトロール([[小学二年生]] 1978年4月号 - 1979年3月号) *[[プラモ狂四郎]] *[[新プラモ狂四郎]] *[[超戦士ガンダム野郎]] *[[SD武者ガンダム風雲録]] *[[SD戦国伝 武者七人衆編]] *[[SDガンダム BB戦士]]コミックワールド **[[超SD戦国伝 武神輝羅鋼]](大旋鬼頑駄無編、撃流破頑駄無編) **[[超SD戦国伝 刕覇大将軍]] **[[新SD戦国伝 天星七人衆]] **[[大時空SD戦国伝]] **[[ムシャ戦記]] *ホビーボーイ飛人くん *[[ケンカ太平記]] *プラモテクニック教室 *キャンバス小僧 *ゲームのコミカライズ **[[魔界村]] **[[忍者くん]] **[[チャレンジャー (ゲーム)|チャレンジャー]] **[[謎の村雨城]] **[[アトランチスの謎]] - ラストページがわんぱっくコミック本誌と単行本収録版とで違っている。 **[[セクターゾーン|セクロス]] **[[マイティボンジャック]] - コミックボンボン増刊に掲載。 *特撮番組のコミカライズ **[[サンダーマスク]]([[別冊少年サンデー]]) **[[アクマイザー3]]([[月刊少年マガジン]]1975年10・11月号、[[テレビマガジン]] 1976年1月号増刊 人気ヒーロージャンボ号、[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] 1975年10月号 - 1976年7月号、[[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]] 1975年11月号 - 1976年8月号) **[[超神ビビューン]](テレビマガジン 1976年8月号増刊 夏休み新ヒーローせいぞろいジャンボ号) **[[宇宙鉄人キョーダイン]](別冊テレビランド 1976年) **[[秘密戦隊ゴレンジャー]]([[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]] 1976年4月号 - 1977年3月号、小学四年生 1975年6月号 - 1976年3月号、[[テレビランド]] 1976年) **[[がんばれ!!ロボコン]](小学四年生 1976年4月号 - 1977年2月号) **[[ジャッカー電撃隊]](テレビランド 1977年) ***(※[[スーパー戦隊シリーズの他媒体展開#コミカライズ]]) *スタードキュメントシリーズ([[月刊少年チャンピオン]]にて人気芸能人の伝記を[[田辺節雄]]、[[岡崎優]]、[[桜多吾作]]と交代で執筆) **[[浅田美代子]]物語 - 1973年9月号 **[[山口百恵]]物語 - 1974年1月号 **[[和田アキ子]]物語 - 1974年5月号 **[[小坂明子]]物語 - 1974年7月号 **[[伊藤咲子]]物語 - 1974年9月号 **[[マギー・ミネンコ]]物語 - 1974年11月号 **[[小林麻美]]物語 - 1975年1月号 **ほか === イラスト提供 === *非核まんが・アニメーション&アート展 == 関連項目 == *[[ストリームベース#クラフト団|クラフト団]] *[[モビルスーツバリエーション]] *[[武者ガンダム]] *[[パーフェクトガンダム]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == * [http://kyamatospirit.blog50.fc2.com/ 続・やまと屋ブログ堂] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やまと こういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ダイナミックプロの人物]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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やまさき拓味
やまさき 拓味(やまさき ひろみ、1949年12月22日 - )は、日本の漫画家。和歌山県新宮市出身。男性。血液型B型。代表作は、競馬を題材とした漫画『優駿の門』シリーズ。 和歌山県新宮市出生。和歌山県立新宮商業高等学校(現・和歌山県立新翔高等学校)卒業後、劇画家を目指して、 1968年3月10日に上京「さいとう・プロダクション」入社。3年半後、さいとうプロの友人だった山本又一朗と小山ゆう、田中視一らと、オリオンプロを設立し、キャラクター商品(トムとジェリー、ミラーマン、シルバー仮面、怪傑ライオン丸など)のデザインや挿絵やカットの仕事をTV局から請け負っていた。漫画の仕事もすべく、先にさいとうプロを独立した小池一夫のスタジオシップ(現・小池書院)へ1971年に合併した。 1972年、『漫画ストーリー』(双葉社)に掲載の『鬼輪番』(原作:小池一夫)にてデビュー。その後、『週刊少年サンデー』で『英雄失格』(原作:梶原一騎)を連載。続いて『青春動物園ズウ』、『ラブZ』(いずれも原作:小池一夫)を連載。 1989年にスタジオシップを退社。同年バディプロダクション設立。『月刊ベアーズクラブ』(集英社)で『バディ』連載開始。 1990年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で『若葉の恋』連載開始。『バトルハート』『恐竜くん』と続く。 1995年に少年誌では珍しい本格的競馬漫画『優駿の門』がスタート。同時期、『ビジネスジャンプ』で『優駿たちの蹄跡』も連載開始。こちらは実在した競走馬たちを一頭一頭、作者が丁寧に取材し、作り上げた漫画である。 『優駿の門』はシリーズ化され、GI、ピエタ、チャンプ、グランプリと続いている。『優駿たちの蹄跡』は集英社から始まり、様々な雑誌で連載された。 2019年から『マンガクロス』(秋田書店)にて、『優駿の門2020馬術』を毎週金曜日更新で連載。 2021年、『漫画アクション』(双葉社)にて24号より『令和 優駿たちの蹄跡』の連載を開始。同社での連載は『鬼輪番』以来46年ぶりとなる。
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やまさき 拓味は、日本の漫画家。和歌山県新宮市出身。男性。血液型B型。代表作は、競馬を題材とした漫画『優駿の門』シリーズ。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = やまさき 拓味 | ふりがな = やまさき ひろみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1949|12|22}} | 生地 = [[日本]]・[[和歌山県]][[新宮市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1972年]] - | ジャンル = [[少年漫画]] | 代表作 =『[[優駿の門]]』{{R|mangapedia}} | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''やまさき 拓味'''(やまさき ひろみ、[[1949年]][[12月22日]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/やまさき拓味-sdmtpbwld|title=やまさき 拓味(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2022-07-28}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]{{R|mangapedia}}。[[和歌山県]][[新宮市]]出身{{R|mangapedia}}。[[男性]]。[[ABO式血液型|血液型]]B型。代表作は、[[競馬]]を題材とした漫画『[[優駿の門]]』シリーズ{{R|mangapedia}}。 == 来歴 == [[和歌山県]][[新宮市]]出生{{R|mangapedia}}。[[和歌山県立新宮商業高等学校]](現・[[和歌山県立新翔高等学校]])卒業後、劇画家を目指して、 [[1968年]]3月10日に上京「[[さいとう・たかを#さいとう・プロダクション|さいとう・プロダクション]]」入社。3年半後、さいとうプロの友人だった[[山本又一朗]]と[[小山ゆう]]、田中視一らと、オリオンプロを設立し、キャラクター商品(トムとジェリー、ミラーマン、シルバー仮面、怪傑ライオン丸など)のデザインや挿絵やカットの仕事をTV局から請け負っていた。漫画の仕事もすべく、先にさいとうプロを独立した[[小池一夫]]のスタジオシップ(現・[[小池書院]])へ[[1971年]]に合併した。 [[1972年]]、『漫画ストーリー』([[双葉社]])に掲載の『鬼輪番』(原作:[[小池一夫]])にてデビュー{{R|mangapedia}}。その後、『[[週刊少年サンデー]]』で『英雄失格』(原作:[[梶原一騎]])を連載。続いて『青春動物園ズウ』、『ラブZ』(いずれも原作:小池一夫)を連載。 [[1989年]]にスタジオシップを退社。同年バディプロダクション設立。『月刊ベアーズクラブ』([[集英社]])で『バディ』連載開始。 [[1990年]]に『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])で『若葉の恋』連載開始。『バトルハート』『恐竜くん』と続く。 <!--[[1994年]]に短期集中連載した『グリーンボーイ =最後の挑戦=』をきっかけに --> [[1995年]]に少年誌では珍しい本格的競馬漫画『[[優駿の門]]』がスタート。同時期、『[[ビジネスジャンプ]]』で『優駿たちの蹄跡』も連載開始。こちらは実在した競走馬たちを一頭一頭、作者が丁寧に取材し、作り上げた漫画である。 『優駿の門』はシリーズ化され、GI、ピエタ、チャンプ、グランプリと続いている。『優駿たちの蹄跡』は集英社から始まり、様々な雑誌で連載された。 2019年から『[[マンガクロス]]』(秋田書店)にて、『優駿の門2020馬術』を毎週金曜日更新で連載。 2021年、『[[漫画アクション]]』(双葉社)にて24号より『令和 優駿たちの蹄跡』の連載を開始<ref name="natalie20211207">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/456605|title=「優駿の門」やまさき拓味が紡ぐ人と競走馬のドラマ、「令和 優駿たちの蹄跡」連載開始|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-07|accessdate=2021-12-21}}</ref>。同社での連載は『鬼輪番』以来46年ぶりとなる{{R|natalie20211207}}。 == 作品リスト == <!--シリーズ物は統一したうえで時系列順に修正予定--> * [[優駿の門]](『[[週刊少年チャンピオン]]』、全33巻) ** [[優駿の門GI]](『週刊少年チャンピオン』、全13巻) ** 優駿の門番外編 白蹄のライバル(『週刊少年チャンピオン』、全1巻) ** 優駿の門番外編 瞳の中のライバル(『週刊少年チャンピオン』、全1巻) ** ディープインパクト 優駿の門特別編(『週刊少年チャンピオン』、全1巻) ** [[優駿の門 -ピエタ-]](『[[プレイコミック]]』、全11巻) ** 優駿の門 -チャンプ-(『プレイコミック』、全8巻) ** 優駿の門 GP-グランプリ-(『[[チャンピオンクロス]]』、全5巻) ** 優駿の門 2020馬術(『[[マンガクロス]]』<!--2019年9月6日 - 2021年8月-->、全8巻) ** 優駿の門-アスミ-(『プレイコミック』、全7巻、監修担当)<ref>{{Cite web|和書|title=優駿の門 ASUMI {{!}} 秋田書店|url=https://www.akitashoten.co.jp/series/2657|website=www.akitashoten.co.jp|accessdate=2021-11-16}}</ref> ** 優駿の門 ムンク(『マンガクロス』、既刊4巻) - フルカラー作品<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/474744|title=「優駿の門」最新作がフルカラーで、勝ち星から遠ざかる騎手と競走馬の行方は|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-20|accessdate=2022-04-24}}</ref> * 優駿劇場(『週刊漫画ゴラク』、全3巻) * 優駿たちの蹄跡(『[[ビジネスジャンプ]]』、全15巻、文庫版全4巻) ** 新・優駿たちの蹄跡([[BOOK☆WALKER]]) ** 令和 優駿たちの蹄跡(『[[漫画アクション]]』2021年24号 - 2023年16号、全22話、既刊3巻) * 手騎-テキ-(『ビジネスジャンプ』、全4巻) * 九人の車輪(『ビジネスジャンプ』) * バディ(『[[ヤングジャンプ]]』、全4巻) * 英雄失格(『[[週刊少年サンデー]]』、原作:[[梶原一騎]]、全6巻) * 青春動物園ズウ(『週刊少年サンデー』、原作:[[小池一夫]]、全16巻) * ラブZ(『週刊少年サンデー』、原作:小池一夫、全9巻) * ノストラダムス愛伝説(原作:小池一夫、全5巻、ワイド版全3巻) * まんが茶会入門(原作:小池一夫・池本朗、監修:[[千宗之]]) ** まんが茶会入門〈正午の茶事・炉編〉(原作:小池一夫・小畑俊彦、監修:千宗之) ** まんが茶会への招待(原作:小池一夫・小畑俊彦、監修:千宗之) * 恐竜くん(『週刊少年チャンピオン』) * バトル・ハート(『週刊少年チャンピオン』) * さんごくし(『週刊少年チャンピオン』、全5巻) * 生死命-いのち-(『[[ビッグコミック]]』、原作:稲本雅之、全2巻) * MARENGO-ナポレオンが愛した馬-(『[[スーパージャンプ]]』、全2巻) * Gの蹄音(『週刊漫画ゴラク』、全3巻) * 馬の旅人(『プレイコミック』、全1巻) * 俺のシーク(原作:小池一夫、全2巻) * 用心棒稼業(『[[コミック乱ツインズ]]』<!--2018年1月号 - 2019年9月号-->、全4巻) * 竜蹄の門(『コミック乱ツインズ』、全4巻) * 月見草の咲く頃に(『週刊漫画ゴラク』、全1巻) * いっぺんさん(『週刊漫画サンデー』、原作:[[朱川湊人]]、全1巻) * ゴルファーの星の時間(『週刊ゴルフダイジェスト』、構成:冬片) * 雑兵物語 明日はどっちへ(『コミック乱ツインズ』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/493556|title=新人雑兵たちが天下取り目指す戦国合戦物語「雑兵物語 明日はどっちへ」1巻|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-13|accessdate=2022-09-17}}</ref><!--2020年9月号 - -->、既刊1巻) == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [https://yamasakihiromi.net やまさき拓味公式ウェブサイト【小慾知足】] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまさき ひろみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ウマの美術家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物]] [[Category:和歌山県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
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やまだ浩一
やまだ 浩一(やまだ こういち、1956年7月26日 - )は、日本の漫画家。福岡県柳川市出身。福岡大学卒業。血液型AB型。一部の作品では本名の山田 浩一の表記もある。 1979年、大学在学中に集英社の新人賞に相当する赤塚賞佳作に「吾輩は猫ふんじゃった」にて入選。同作が『月刊少年ジャンプ』増刊号に掲載され、漫画家としてデビュー。 1987年、講談社の青年向け漫画誌『コミックモーニング』で開催されていた新人賞に相当するコミックオープンに「SHOKO」にて佳作入選。初連載作は1988年より『コミックモーニング』の増刊にて連載された『すみれんち』。以降、多くの出版社で青年向けの漫画雑誌を中心に執筆活動をしている。
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やまだ 浩一は、日本の漫画家。福岡県柳川市出身。福岡大学卒業。血液型AB型。一部の作品では本名の山田 浩一の表記もある。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = やまだ 浩一(やまだ こういち) | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 山田 浩一 | 生年 = {{生年月日と年齢|1956|7|26}} | 生地 = {{JPN}}[[福岡県]][[柳川市]] | 没年 = | 没地 = | 血液型 = | 国籍 = [[日本]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1979年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 突撃!!屯田村青年団<br />飯盛り侍 | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''やまだ 浩一'''(やまだ こういち、[[1956年]][[7月26日]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福岡県]][[柳川市]]出身<!-- {{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}} -->。[[福岡大学]]卒業<!-- {{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}} -->。[[ABO式血液型|血液型AB型]]{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}}。一部の作品では本名の山田 浩一の表記もある。 == 概要 == [[1979年]]、大学在学中に[[集英社]]の新人賞に相当する[[赤塚賞]]佳作に「吾輩は猫ふんじゃった」にて入選。同作が『[[月刊少年ジャンプ]]』増刊号に掲載され、漫画家としてデビュー{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}}。 [[1987年]]、講談社の青年向け漫画誌『[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]』で開催されていた新人賞に相当するコミックオープンに「SHOKO」にて佳作入選{{sfn|漫画家人名事典|2003|p=400}}。初連載作は[[1988年]]より『コミックモーニング』の増刊にて連載された『すみれんち』。以降、多くの出版社で青年向けの[[漫画雑誌]]を中心に執筆活動をしている。 == 単行本リスト == * いつも心に太陽を([[双葉社]])全3巻 # {{ISBN2|978-4-575-81526-9}}(1989年3月) # {{ISBN2|978-4-575-81566-5}}(1989年8月) # {{ISBN2|978-4-575-81591-7}}(1990年1月) * すみれんち([[講談社]])全2巻 # {{ISBN2|978-4-063-15009-4}}(1989年6月) # {{ISBN2|978-4-063-15029-2}}(1991年1月) * [[突撃!!屯田村青年団]]([[リイド社]])全8巻 # {{ISBN2|978-4-845-80791-8}}(1991年1月) # {{ISBN2|978-4-845-80792-5}}(1991年5月) # {{ISBN2|978-4-845-80793-2}}(1991年9月) # {{ISBN2|978-4-845-80794-9}}(1992年1月) # {{ISBN2|978-4-845-80795-6}}(1992年6月) # {{ISBN2|978-4-845-80796-3}}(1992年11月) # {{ISBN2|978-4-845-80797-0}}(1993年2月) # {{ISBN2|978-4-845-80798-7}}(1993年7月) * 世紀末喜劇王エノケン([[秋田書店]])全2巻 # {{ISBN2|978-4-253-14384-4}}(1991年10月) # {{ISBN2|978-4-253-14385-1}}(1992年2月) * 格闘無制限巨娘ターミー(秋田書店)全3巻 # {{ISBN2|978-4-253-14463-6}}(1992年9月) # {{ISBN2|978-4-253-14464-3}}(1993年2月) # {{ISBN2|978-4-253-14465-0}}(1993年7月) * 平成爺メン([[学研ホールディングス|学研]])全2巻 # {{ISBN2|978-4-056-00134-1}}(1993年7月) # {{ISBN2|978-4-056-00480-9}}(1994年4月) * 愚零斗鏖(秋田書店)全2巻 # {{ISBN2|978-4-253-04151-5}}(1993年10月) # {{ISBN2|978-4-253-04152-2}}(1993年12月) * けつカッチン!(講談社)全2巻 原作:[[只野礼太]] # {{ISBN2|978-4-063-28092-0}}(1995年6月) # {{ISBN2|978-4-063-28109-5}}(1995年11月) * ミスターストレート([[日本文芸社]])全1巻 # {{ISBN2|978-4-537-09647-7}}(1996年2月) * 隠し球ガンさん([[文藝春秋]])全4巻 原作:木村公一 # {{ISBN2|978-4-160-90006-6}}(1997年5月) # {{ISBN2|978-4-160-90020-2}}(1997年11月) # {{ISBN2|978-4-160-90032-5}}(1998年7月) # {{ISBN2|978-4-160-90046-2}}(1999年4月) * イケないママ([[メディアックス]]) # {{ISBN2|978-4-896-13306-6}}(1997年5月) * パローレ([[竹書房]]) # {{ISBN2|978-4-812-45224-0}}(1998年8月) * 飯盛り侍(双葉社)全6巻 原作:井川公彦 # {{ISBN2|978-4-575-83065-1}}(2005年2月) # {{ISBN2|978-4-575-83104-7}}(2005年6月) # {{ISBN2|978-4-575-83156-6}}(2005年10月) # {{ISBN2|978-4-575-83215-0}}(2006年3月) # {{ISBN2|978-4-575-83263-1}}(2006年7月) # {{ISBN2|978-4-575-83318-8}}(2007年1月) * ラーメン大百科(双葉社)全4巻 # {{ISBN2|978-4-575-83384-3}}(2007年7月) # {{ISBN2|978-4-575-83430-7}}(2007年11月) # {{ISBN2|978-4-575-83489-5}}(2008年5月) # {{ISBN2|978-4-575-83543-4}}(2008年10月) == 師匠 == * [[小林よしのり]] - [[小林よしのりの関連人物]]を参照 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=まんがseek、日外アソシエーツ編集部 |title=漫画家人名事典 |date=2003-02-01 |publisher=日外アソシエーツ |isbn=978-4-816-91760-8 |page=400 |chapter= |ref={{sfnref|漫画家人名事典|2003}} }} == 外部リンク == * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/kurukuru~yuzu/ |title=くるくるパークだよん♪ |date=20121210174050}} - 公式ページ * {{マンガ図書館Z作家|171}} - 「山田浩一」名義を含む * {{マンガ図書館Z作家|4234}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまた こういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:福岡大学出身の人物]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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山田貴敏
山田 貴敏(やまだ たかとし、1959年3月4日 - )は、漫画家。岐阜県岐阜市出身。岐阜県立長良高等学校卒。中央大学商学部中退。モータースポーツA級ライセンス取得。 中央大学在学中は漫画研究会に所属。この時の仲間に山本貴嗣、ひろもりしのぶ、河合単らがいた。 大学4年から本格的に漫画を書き始め、処女作『二人ぼっち』で講談社新人漫画賞佳作を受賞、『マシューズ -心の叫び-』(『週刊少年マガジン』)で同賞に入選しデビューした。1990年から『マッシュ ―時代より熱く―』の連載開始で小学館へ移籍、以降は『週刊少年サンデー』などで執筆している。 出世作は『Dr.コトー診療所』で、単行本は売り上げ部数累計1,200万部を超える大ヒットを記録した。テレビドラマ化され、さらに2004年度、第49回小学館漫画賞一般部門を受賞し、大ヒットしたが、その後は相次ぐ事故や病気のリハビリで作画が困難なため、長期休載が続いている。 本人は実直な作風からは想像がつかない陽気な人物で、ビデオ投稿番組に「結婚式で着ぐるみが脱げなくなった情けない新郎」という題材で登場したことがある。無類の動物好き漫画家として知られる。 酒好きではあるが、仕事場、自宅では一滴も飲まないという。ただ、酔って帰って花壇に財布を埋めてなくしたことがあるという。また、岐阜県の人々から「岐阜のぶなが大使」と称されている。 CBCラジオの『つボイノリオの聞けば聞くほど』に、準レギュラー並みに出演していたことがある。ゲリラ出演もある。番組のグッズ製作にもいくつか携わっている。 2016年、脚本、演出も担当し、本人初の舞台作品として上演される『W』を手掛けた(漫画家と舞台のコラボレーション企画『漫劇』にて)。『Dr.コトー診療所』休載以来で最初の作品であり、ミスインターナショナル鳳恵弥が主演、アカデミー賞俳優の黒田勇樹も本作で本格俳優復帰となる。 『マッシュ』からアシスタントを導入し、画風を確立した。 初期作品のうち、『マシューズ ―心の叫び―』、『風のマリオ』(以上講談社)、『マッシュ』はいわば神童芸術家三部作であり、天才少年が生い立ちの逆境と闘い人生を切り開き、栄光を掴んでゆくさまが描き出されている。この三部作では、甘い感傷を漂わせた抒情的なストーリー展開において、後の『Dr.コトー診療所』の先触れとなっている。 また、早くもこの三部作と『エクシス』(講談社)では、手塚治虫のようなスター・システムが使われて、主人公ならびにヒロインがいずれも同一人物と言ってよいほど同じ顔をしており、さらにどちらも、『いただきます!』(小学館)において準主人公として再登場する。ヒロインを気の強いしっかり者の恋女房とする設定は、『マッシュ』に始まり、『いただきます!』や、いくつかの少年向けスポーツ漫画を経て、『Dr.コトー』に受け継がれている。現実批判は、災害・事故調査官を主人公とした『アクシデンツ -事故調クジラの事件簿-』にも受け継がれている。 『いただきます!』の成功を受け、青年誌にも進出、しかし短編集『過去への旅人』では、再び抒情的な語り口に戻っているばかりか、一切のギャグを斥けた重厚でシリアスなストーリー構成を行い、ストーリーテリングのうまさを見せ付けた。一方の『ONE&ONLY』は、『いただきます!』や『アクシデンツ』にも部分的に出てきた、自動車に対する作者の情熱が表現されている。 『Dr.コトー診療所』は、さしずめこれまでの創作活動の総決算といった趣があり、少年漫画の創作で培った、程よくギャグを交えたストーリー、写実性と劇画的画面の巧みなバランスが認められる。この作品では「スターシステム」の実験も見られ、旧作の登場人物が転用される(原健裕=『風のマリオ』のポトフ、主人公の祖父=『いただきます!』の主人公ゴダイ、古志木漁協にあらわれたチンピラ=『いただきます!』クラウナウア共和国の傭兵)だけでなく、旧作の特徴的な人物の性格や役柄が借用されている(安藤漁労長=『マッシュ』の画家の卵ノルウォーター、内つる子=『いただきます!』のババァ)ほか、さらには主要なキャラクターに、文字通りの現実のスターの顔が利用されている。 また、プロ野球中日ドラゴンズのファンで、チームがリーグ優勝した2004年に『中日新聞』の優勝特集紙面で、優勝に歓喜するドラゴンズナインを見開きで描いた。2006年10月11日付(ドラゴンズ優勝の翌日)の『中日スポーツ』紙面には、五島健助(Dr.コトー)が「ファン代表」として胴上げされているイラストが描かれた。 なお、画風として登場人物全員が垂れ目であるのが特徴的である。
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山田 貴敏は、漫画家。岐阜県岐阜市出身。岐阜県立長良高等学校卒。中央大学商学部中退。モータースポーツA級ライセンス取得。
'''山田 貴敏'''(やまだ たかとし、[[1959年]][[3月4日]] - )は、[[漫画家]]。[[岐阜県]][[岐阜市]]出身。[[岐阜県立長良高等学校]]卒。[[中央大学]][[商学部]]中退。[[モータースポーツライセンス|モータースポーツA級ライセンス]]取得<ref>[[小学館]][[ビッグコミックス]]発行「[[少年探偵団]] 第2巻 205頁」より</ref>。 == 来歴・人物 == 中央大学在学中は漫画研究会に所属。この時の仲間に[[山本貴嗣]]、[[みやすのんき|ひろもりしのぶ]]、[[河合単]]らがいた。 大学4年から本格的に漫画を書き始め、処女作『二人ぼっち』で[[講談社]]新人漫画賞佳作を受賞、『マシューズ -心の叫び-』(『[[週刊少年マガジン]]』)で同賞に入選しデビューした。[[1990年]]から『マッシュ ―時代より熱く―』の連載開始で[[小学館]]へ移籍、以降は『[[週刊少年サンデー]]』などで執筆している。 出世作は『[[Dr.コトー診療所]]』で、単行本は売り上げ部数累計1,200万部を超える大ヒットを記録した。テレビドラマ化され、さらに[[2004年]]度、第49回[[小学館漫画賞]]一般部門を受賞し、大ヒットしたが、その後は相次ぐ事故や病気のリハビリで作画が困難なため、長期休載が続いている。 本人は実直な作風からは想像がつかない陽気な人物で、ビデオ投稿番組に「結婚式で着ぐるみが脱げなくなった情けない新郎」という題材で登場したことがある。無類の動物好き漫画家として知られる。 酒好きではあるが、仕事場、自宅では一滴も飲まないという。ただ、酔って帰って花壇に財布を埋めてなくしたことがあるという。また、岐阜県の人々から「岐阜のぶなが大使」と称されている。 [[CBCラジオ]]の『[[つボイノリオの聞けば聞くほど]]』に、準レギュラー並みに出演していたことがある。ゲリラ出演もある。<ref>出演の度に[[小高直子]]から、「何しに来た?」などと雑に扱われるのがお約束になっている。</ref>番組のグッズ製作にもいくつか携わっている。 2016年、脚本、演出も担当し、本人初の舞台作品として上演される『W』を手掛けた(漫画家と舞台のコラボレーション企画『漫劇』にて)。『Dr.コトー診療所』休載以来で最初の作品であり、ミスインターナショナル[[鳳恵弥]]が主演、アカデミー賞俳優の[[黒田勇樹]]も本作で本格俳優復帰となる。 == 作品リスト == *エクシス (週刊少年マガジン、1984年連載) *風のマリオ (週刊少年マガジン、1983年-1987年連載) *マッシュ -時代より熱く- (週刊少年サンデー、1990年~) *いただきます! (週刊少年サンデー) *[[アクシデンツ -事故調クジラの事件簿-]] (週刊少年サンデー) *ONE&ONLY ([[ビッグコミックスピリッツ]]) *過去への旅人 ([[ビッグコミックオリジナル]]) *へなへな -外科医 龍浪誠のカルテより- ([[週刊ヤングサンデー]]、1999年6月10日号) シナリオ協力/市村正晃 - 『孤島の診療所を舞台に描く青年外科医の感動ストーリー』と表紙にある。 *[[Dr.コトー診療所]] (週刊ヤングサンデー → ビッグコミックオリジナル連載、長期休載中) **Dr.コトー診療所 島の子供達 ([[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]] → [[GAKUMANplus]]) *[[少年探偵団]]シリーズ(原作・[[江戸川乱歩]]) ([[小学館の学年別学習雑誌|小学館学年誌]]) *[[週刊マンガ日本史]] 第19号 [[織田信長]] ([[朝日新聞出版]]) *W(2016年5月11日-15日 中野テアトルBONBONにて、主演[[鳳恵弥]]、共演[[黒田勇樹]]、他) == 作風など == {{独自研究|section=1|date=2023年1月}} 『マッシュ』から[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を導入し、画風を確立した。 初期作品のうち、『マシューズ ―心の叫び―』、『風のマリオ』(以上講談社)、『マッシュ』はいわば神童芸術家三部作であり、天才少年が生い立ちの逆境と闘い人生を切り開き、栄光を掴んでゆくさまが描き出されている。この三部作では、甘い感傷を漂わせた抒情的なストーリー展開において、後の『Dr.コトー診療所』の先触れとなっている。 また、早くもこの三部作と『エクシス』(講談社)では、[[手塚治虫]]のような[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]が使われて、主人公ならびにヒロインがいずれも同一人物と言ってよいほど同じ顔をしており、さらにどちらも、『いただきます!』(小学館)において準主人公として再登場する。ヒロインを気の強いしっかり者の恋女房とする設定は、『マッシュ』に始まり、『いただきます!』や、いくつかの少年向けスポーツ漫画を経て、『Dr.コトー』に受け継がれている。現実批判は、災害・事故調査官を主人公とした『アクシデンツ -事故調クジラの事件簿-』にも受け継がれている。 『いただきます!』の成功を受け、青年誌にも進出、しかし短編集『過去への旅人』では、再び抒情的な語り口に戻っているばかりか、一切のギャグを斥けた重厚でシリアスなストーリー構成を行い、ストーリーテリングのうまさを見せ付けた。一方の『ONE&ONLY』は、『いただきます!』や『アクシデンツ』にも部分的に出てきた、[[自動車]]に対する作者の情熱が表現されている。 『Dr.コトー診療所』は、さしずめこれまでの創作活動の総決算といった趣があり、[[少年漫画]]の創作で培った、程よく[[ギャグ]]を交えたストーリー、写実性と劇画的画面の巧みなバランスが認められる。この作品では「スターシステム」の実験も見られ、旧作の登場人物が転用される(原健裕=『風のマリオ』のポトフ、主人公の祖父=『いただきます!』の主人公ゴダイ、古志木漁協にあらわれたチンピラ=『いただきます!』クラウナウア共和国の傭兵)だけでなく、旧作の特徴的な人物の性格や役柄が借用されている(安藤漁労長=『マッシュ』の画家の卵ノルウォーター、内つる子=『いただきます!』のババァ)ほか、さらには主要なキャラクターに、文字通りの現実のスターの顔が利用されている。 また、プロ野球[[中日ドラゴンズ]]のファンで、チームがリーグ優勝した2004年に『[[中日新聞]]』の優勝特集紙面で、優勝に歓喜するドラゴンズナインを見開きで描いた。[[2006年]][[10月11日]]付([[中日ドラゴンズ|ドラゴンズ]]優勝の翌日)の『[[中日スポーツ]]』紙面には、五島健助([[Dr.コトー診療所|Dr.コトー]])が「ファン代表」として胴上げされているイラストが描かれた。 なお、画風として登場人物全員が垂れ目であるのが特徴的である。 == アシスタント == *[[武村勇治]] *[[本そういち]] *[[黒丸 (漫画家)|黒丸]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://ameblo.jp/yamada-takatoshi/ ヤマダタカトシ日記]-公式ブログ {{Normdaten}} {{デフォルトソート:やまた たかとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:岐阜県立長良高等学校出身の人物]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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一般化勾配近似
一般化勾配近似(いっぱんかこうばいきんじ、英: Generalized Gradient Approximation, GGA)は、電子状態計算で用いられる局所密度近似を越える試みの一つ。一般化された密度勾配近似などとも訳される。 密度汎関数法では電子間の相互作用である交換相関項は電荷密度で表現されるが、その電荷密度は一様な電子ガスとして解かれた表式を利用するのが局所密度近似である。現実の電荷密度の分布は一様でないので、この一様とする近似を超えて電荷密度の勾配の効果を導入することにより局所密度近似の精度を上げようという試みは古くからあった。 1985年、パデュー等による改良により精度が向上し、実際のバンド計算にも利用されるようになった。このパデュー等による改良版とそれ以降の派生版が一般化勾配近似と呼ばれている。一般化勾配近似により、系の凝集エネルギーなどの精度が改善される。 一般化勾配近似には、PW91、PBEなどが存在する。 メタGGAはGGAを電子密度のラプラシアンや運動エネルギー密度によって補正したものである。 例: 混成GGA/メタGGAは交換汎関数にハートリー・フォック交換を混合したものである。 例:
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一般化勾配近似は、電子状態計算で用いられる局所密度近似を越える試みの一つ。一般化された密度勾配近似などとも訳される。 密度汎関数法では電子間の相互作用である交換相関項は電荷密度で表現されるが、その電荷密度は一様な電子ガスとして解かれた表式を利用するのが局所密度近似である。現実の電荷密度の分布は一様でないので、この一様とする近似を超えて電荷密度の勾配の効果を導入することにより局所密度近似の精度を上げようという試みは古くからあった。 1985年、パデュー等による改良により精度が向上し、実際のバンド計算にも利用されるようになった。このパデュー等による改良版とそれ以降の派生版が一般化勾配近似と呼ばれている。一般化勾配近似により、系の凝集エネルギーなどの精度が改善される。 一般化勾配近似には、PW91、PBEなどが存在する。
'''一般化勾配近似'''(いっぱんかこうばいきんじ、{{lang-en-short|Generalized Gradient Approximation, '''GGA'''}})は、電子状態計算で用いられる[[局所密度近似]]を越える試みの一つ。一般化された密度勾配近似などとも訳される。 [[密度汎関数法]]では電子間の相互作用である交換相関項は[[電荷密度]]で表現されるが、その電荷密度は一様な[[電子ガス]]として解かれた表式を利用するのが局所密度近似である。現実の電荷密度の分布は一様でないので、この一様とする近似を超えて電荷密度の[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]の効果を導入することにより局所密度近似の精度を上げようという試みは古くからあった{{Sfnp|Langreth|Perdew|1979}}{{Sfnp|Langreth|Mehl|1982}}。 [[1985年]]、[[ジョン・パデュー (物理学者)|パデュー]]等による改良{{Sfnp|Perdew|1985}}により精度が向上し、実際の[[バンド計算]]にも利用されるようになった。このパデュー等による改良版とそれ以降の派生版が一般化勾配近似と呼ばれている。一般化勾配近似により、系の凝集エネルギーなどの精度が改善される。 一般化勾配近似には、PW91{{Sfnp|Perdew|Chevary|Vosko|Jackson|1991}}、PBE{{Sfnp|Perdew|Burke|Ernzerhof|1996}}などが存在する。 == メタGGA == {{節スタブ}} メタGGAはGGAを電子密度の[[ラプラシアン]]や運動エネルギー密度によって補正したものである。 例: * B97M-V<ref>{{cite journal|first1=Narbe|last1=Mardirossian|first2=Martin|last2=Head-Gordon|year=2015|title=Mapping the genome of meta-generalized gradient approximation density functionals: The search for B97M-V|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=142|page=074111|doi=10.1063/1.4907719}}</ref> * TPSS<ref>{{cite journal|first1=Jianmin|last2=Perdew|first2=John P.|last3=Staroverov|first3=Viktor N.|last4=Scuseria|first4=Gustavo E.|last1=Tao|journal=Physical Review Letters|doi=10.1103/PhysRevLett.91.146401|year=2003|title=Climbing the Density Functional Ladder: Nonempirical Meta–Generalized Gradient Approximation Designed for Molecules and Solids|volume=91|page=146401}}</ref> == 混成汎関数 == {{詳細記事|混成汎関数}} 混成GGA/メタGGAは交換汎関数にハートリー・フォック交換を混合したものである。 例: * 混成GGA ** B3LYP{{Sfnp|Becke|1992}}(BはBecke、3はパラメータが3つあること、LYPはLee–Yang–Parrの略である)パラメータの決定が経験的に行われているので、厳密にはこれによる計算結果は[[第一原理]]的に求められていないが、実験結果と良く合う。 * 混成メタGGA ** TPSSh<ref>{{cite journal|first1=Viktor N.|last2=Scuseria|first2=Gustavo E.|last3=Tao|first3=Jianmin|last4=Perdew|first4=John P.|last1=Staroverov|year=2003|title=Comparative assessment of a new nonempirical density functional: Molecules and hydrogen-bonded complexes|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=119|pages=12129–12137|doi=10.1063/1.1626543}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite journal|first1=D. C.|last1=Langreth|first2=J. P.|last2=Perdew|authorlink2=:en:John Perdew|title=Theory of nonuniform electronic systems. I. Analysis of the gradient approximation and a generalization that works|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[アメリカ物理学会|APS]]|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. B]]|volume=21|issue=12|date=6 November 1979|pages=5469-5493|issn=1098-0121|oclc=985853146|doi=10.1103/PhysRevB.21.5469|ref=harv}} * {{cite journal|first1=D. C.|last1=Langreth|first2=M. J.|last2=Mehl|title=Beyond the local-density approximation in calculations of ground-state electronic properties|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[アメリカ物理学会|APS]]|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. B]]|volume=28|issue=4|date=9 December 1982|pages=1809-1834|issn=1098-0121|oclc=985853146|doi=10.1103/PhysRevB.28.1809|ref=harv}} * {{cite journal|first=J. P.|last=Perdew|title=Accurate Density Functional for the Energy: Real-Space Cutoff of the Gradient Expansion for the Exchange Hole|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[アメリカ物理学会|APS]]|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. Lett.]]|volume=55|issue=16|date=11 July 1985|pages=1665-1668|issn=0031-9007|lccn=59037543|oclc=1715834|doi=10.1103/PhysRevLett.55.1665|ref=harv}} * {{cite journal|author=John P. Perdew|author2=J. A. Chevary|author3=S. H. Vosko|author4=Koblar A. Jackson|author5=Mark R. Pederson|author6=D. J. Singh|author7=Carlos Fiolhais|title=Atoms, molecules, solids, and surfaces: Applications of the generalized gradient approximation for exchange and correlation|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[アメリカ物理学会|APS]]|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. B.]]|volume=46|issue=11|date=10 December 1991|pages=6671-6687|issn=1098-0121|oclc=985853146|doi=10.1103/PhysRevB.46.6671|ref={{SfnRef|Perdew|Chevary|Vosko|Jackson|1991}}}} * {{cite journal|date=21 May 1996|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[アメリカ物理学会|APS]]|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. Lett.]]|volume=77|issue=18|pages=3865-3868|first1=J. P.|last1=Perdew|first2=K.|last2=Burke|first3=M.|last3=Ernzerhof|title=Generalized Gradient Approximation Made Simple|issn=0031-9007|lccn=59037543|oclc=1715834|doi=10.1103/PhysRevLett.77.3865|ref=harv}} * {{cite journal|first=Axel D.|last=Becke|authorlink=アクセル・D・ベッケ|title=Density‐functional thermochemistry. III. The role of exact exchange|location=[[カレッジパーク (メリーランド州)|College Park, Md.]]|publisher=[[米国物理学協会|AIP]]|journal={{enlink|Journal of Chemical Physics|J. Chem. Phys.|p=off|s=off}}|volume=98|issue=7|page=5648|month=December|year=1992|issn=0021-9606|oclc=638700058|doi=10.1063/1.464913|ref=harv}} == 関連項目 == *[[LDAを越える試み]] *[[局所密度近似|LDA]] *[[混成汎関数]] {{Physics-stub}} {{DEFAULTSORT:いつはんかこうはいきんし}} [[Category:バンド計算]] [[Category:近似法]] [[Category:計算化学]] [[Category:量子化学]] [[Category:密度汎関数理論]]
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大和和紀
大和 和紀(やまと わき、1948年3月13日 - )は、日本の女性漫画家。北海道札幌市出身。北星学園女子短期大学(現:北星学園大学短期大学部)卒業。代表作に『はいからさんが通る』、『ヨコハマ物語』、『N.Y.小町』、『あさきゆめみし』など。 旧姓は一ノ関で、一ノ関 和紀名義による作品もある。ペンネームは、実母の旧姓「大和」と本名「和紀」を組み合わせたもの。幼少の頃から和紀を「かずのり」と読まれることも多く、男性によく間違われたために女子校に進学した。高校生の時に漫画を描き始める。この時期、別の高校の同学年だった山岸凉子と知り合っていて、二人で手塚治虫にネームを見てもらっている。 1966年、『週刊少女フレンド』(講談社)37号に掲載の「どろぼう天使」で読み切りデビュー。北星学園女子短期大学卒業後に上京し、編集者の仲介で同郷の忠津陽子とアパートに半同居しながら漫画を執筆する。以後、同誌や『別冊少女フレンド』などの講談社の少女・女性漫画雑誌に作品を掲載する。「はいからさんが通る」で1977年(昭和52年)度・第1回講談社漫画賞少女部門受賞。 2015年12月〜2016年1月、画業50周年を記念し近鉄百貨店あべのハルカス近鉄本店にて初の回顧展を開催した。 かつて講談社編集者で、弘兼憲史の漫画『島耕作』シリーズを長年担当した夫との間に一女あり。夫は2008年に講談社を定年退職。夫婦共に時代小説では池波正太郎のファン。 なお、指揮者の小林研一郎は義兄(小林の妹のソプラノ歌手一ノ関佑子が大和の兄の妻)にあたる。
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大和 和紀は、日本の女性漫画家。北海道札幌市出身。北星学園女子短期大学卒業。代表作に『はいからさんが通る』、『ヨコハマ物語』、『N.Y.小町』、『あさきゆめみし』など。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 大和 和紀 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 木野 和紀(旧姓:一ノ関)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%92%8C%E7%B4%80-1118073 大和和紀(やまと わき)とは - コトバンク]</ref><br/>(きの わき) | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[札幌市]] | 国籍 = [[日本]] | 血液型 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1948|3|13}} | 没年 = | ジャンル = [[少女漫画]] | 活動期間 = [[1966年]] - | 代表作 = 『[[はいからさんが通る]]』<br/>『[[ヨコハマ物語 (漫画)|ヨコハマ物語]]』<br/>『[[N.Y.小町]]』<br/>『[[あさきゆめみし]]』 | 受賞 = 第1回[[講談社漫画賞]]少女部門<br />(『はいからさんが通る』) | 公式サイト = }} '''大和 和紀'''(やまと わき、[[1948年]][[3月13日]]{{Sfn|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992|p=978-979}} - )は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]。[[北海道]][[札幌市]]出身、血液型は[[ABO式血液型|O型]]{{Efn2|p.978より:結婚後の本名・出身地・生年月日・血液型を記載{{Sfn|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992|p=978-979}}。}}。[[北星学園大学短期大学部|北星学園女子短期大学(現:北星学園大学短期大学部)]]卒業{{Efn2|p.404より:生年月日・本名(出生名)・最終学歴を記載{{Sfn|日外アソシエーツ編集部|2003|p=404}}。}}。代表作に『[[はいからさんが通る]]』、『[[ヨコハマ物語 (漫画)|ヨコハマ物語]]』、『[[N.Y.小町]]』、『[[あさきゆめみし]]』など。 == 来歴 == [[旧姓]]は一ノ関で、'''一ノ関 和紀'''名義による作品もある。ペンネームは、実母の旧姓「大和」と本名「和紀」を組み合わせたもの。幼少の頃から和紀を「かずのり」と読まれることも多く、男性によく間違われたために女子校に進学した。高校生の時に漫画を描き始める。この時期、別の高校の同学年だった[[山岸凉子]]と知り合っていて、二人で手塚治虫にネームを見てもらっている<ref>第6回THE GATE審査員・山岸凉子さんインタビュー(前編)(2017/11/24)</ref>。 [[1966年]]、『[[少女フレンド|週刊少女フレンド]]』([[講談社]])37号に掲載の「どろぼう天使」で読み切りデビュー。北星学園女子短期大学卒業後に上京し、編集者の仲介で同郷の[[忠津陽子]]とアパートに半同居しながら漫画を執筆する。以後、同誌や『[[別冊フレンド|別冊少女フレンド]]』などの講談社の少女・女性漫画雑誌に作品を掲載する。「はいからさんが通る」で[[1977年]]([[昭和]]52年)度・第1回[[講談社漫画賞]]少女部門受賞。 2015年12月〜2016年1月、画業50周年を記念し[[近鉄百貨店]][[あべのハルカス]]近鉄本店にて初の回顧展を開催した<ref>[http://mainichi.jp/articles/20151120/ddn/012/040/041000c 毎日新聞 社告]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20160304114249/http://area.walkerplus.com/walker47/article/detail/ar0727100/le2036/20160102/2_201601021641272110/ ウォーカープラス)地域トピックス]</ref>。 == 人物 == かつて[[講談社]]編集者で、[[弘兼憲史]]の漫画『[[課長島耕作の登場人物#歴代の初芝・TECOT社長|島耕作]]』シリーズを長年担当した夫との間に一女あり。夫は[[2008年]]に講談社を定年退職。夫婦共に時代小説では[[池波正太郎]]のファン<ref>講談社漫画文庫『にしむく士』より。</ref>。 なお、指揮者の[[小林研一郎]]は義兄(小林の妹のソプラノ歌手[[一ノ関佑子]]が大和の兄の妻)にあたる<ref>小林研一郎『指揮者のひとりごと』p.251(騎虎書房、1993年)</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === <div style="font-size:smaller"> * KC:[[講談社コミックス]](KCデラックスも含む) / 講漫:[[講談社漫画文庫]](KCデラックス文庫も含む) / 講青:[[青い鳥文庫|講談社青い鳥文庫]] :{| class="wikitable sortable" !作品名!!掲載誌!!掲載年!!単行本!!文庫本!!注記 |- |<span style="display:none">とろほうてんし<br /></span>どろぼう天使 |週刊[[少女フレンド]] |<span style="display:none">1966<br /></span>1966年<!--37号--> | | |デビュー作。講談社新人まんが賞佳作。 |- |<span style="display:none">ゆうたあんきんし<br /></span>[[Uターン禁止]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1968<br /></span>1968年<!-- 9月17日号-12月3日号 --> | | | |- |<span style="display:none">おれんしにきつす<br /></span>[[オレンジにキッス!]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1968<br /></span>1968年 - 1969年<!-- 3月11日 --> | | | |- |<span style="display:none">はんとはんとはんと<br /></span>[[ハント ハント ハント]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1969<br /></span>1969年<!--11月25日号(48号)--> - 1970年 | | | |- |<span style="display:none">まゆこのにつき<br /></span>[[真由子の日記]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1970<br /></span>1970年 - 1971年 | | | |- |<span style="display:none">もんしえりここ<br /></span>[[モンシェリCoCo]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1971<br /></span>1971年 |KC全3巻 | |日仏混血のヒロインがファッション界で奮闘するサクセスストーリー。1972年に[[テレビアニメ]]化。 |- |<span style="display:none">はろうしえみに<br /></span>[[ハロージェミニ!]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1972<br /></span>1972年 - 1973年 |KC全2巻 | | |- |<span style="display:none">らふはつく<br /></span>[[ラブパック]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1973<br /></span>1973年 - 1974年 |KC全3巻 |講漫全2巻 |平安朝が舞台。[[光源氏]]が主要キャラとして登場。1979年に[[宝塚歌劇団]]のテレビオリジナル公演形式で[[テレビドラマ]]化。 |- |<span style="display:none">しんでれらのし<br /></span>[[シンデレラの死]] | | |若木書房全1巻 | |サンレモにかんぱい! アンジェラの3作品掲載(1974年初版) |- |<span style="display:none">ひとりぼつちるか<br /></span>[[ひとりぼっち流花]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1974<br /></span>1974年 | |講漫全2巻 | |- |<span style="display:none">れていみつこ<br /></span>[[レディーミツコ]] |別冊少女フレンド |<span style="display:none">1975<br /></span>1975年 - 1976年 |KC全1巻 |講漫「春はあけぼの殺人事件」に併録 |[[明治時代]]に[[オーストリア]]貴族と結婚した女性・[[クーデンホーフ光子|青山ミツ]]の伝記。 |- |<span style="display:none">はいからさんかとおる<br /></span>[[はいからさんが通る]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1975<br /></span>1975年 - 1977年 |KCフレンド全8巻<br/>KCデザート全8巻 |講漫全4巻<br/>講青全2巻 |[[大正時代]]を舞台にした作品。第1回[[講談社漫画賞]]少女部門受賞。1978年に[[テレビアニメ]]化、1979年に宝塚歌劇団のテレビオリジナル公演形式でドラマ化され、2017年と2020年には宝塚歌劇団の劇場公演として舞台化された他、宝塚歌劇団以外の主演者による公演も1978年、1980年、1991年、1995年に行われた。また1987年には実写映画化、2017年〜2018年にかけて、2部作で劇場アニメ化。[[青い鳥文庫]]で小説化(全2巻、[[時海結以]]) |- |<span style="display:none">はらししやく<br /></span>[[薔薇子爵]] |月刊[[mimi (雑誌)|mimi]] |<span style="display:none">1976<br /></span>1976年<!--3月号、11月号--> |KC全1巻 |講漫全1巻 | |- |<span style="display:none">きら<br /></span>[[KILLA]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1977<br /></span>1977年 - 1978年 |KC全5巻 |講漫全3巻 | |- |<span style="display:none">かりふおるにあららはい<br /></span>[[カリフォルニアララバイ]] |別冊少女フレンド |<span style="display:none">1978<br /></span>1978年 |KC全1巻 |講漫全1巻 | |- |<span style="display:none">あらみすななしゆうはち<br /></span>[[アラミス'78]] |月刊mimi |<span style="display:none">1978<br /></span>1978年<!--7月号--> - 1984年<!--8月号--> |KC全4巻 |講漫全2巻 | |- |<span style="display:none">てんのはてちのかきり<br /></span>[[天の果て 地の限り]] |月刊mimi |<span style="display:none">1978<br /></span>1978年<!--12月号--> - 1979年<!--2月号--> |KC全1巻 |講漫全1巻 |[[額田王]]の物語。1984年、「NUKATA 愛の嵐」の題名で[[松竹歌劇団]]で舞台化された。 |- |<span style="display:none">あさきゆめみし<br /></span>[[あさきゆめみし]] |月刊mimi<br/>mimi Excellent |<span style="display:none">1979<br /></span>1979年 - 1993年 |KCmimi全13巻<br/>KC完全版全10巻 |講漫全7巻<br/>講青全5巻 |「[[源氏物語]]」を描いた作品。宝塚歌劇団で舞台化された。青い鳥文庫で小説化(全5巻、時海結以) |- |<span style="display:none">きけんにせんろつひやくねんのふれいほうる<br /></span>[[紀元2600年のプレイボール]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1979<br /></span>1979年 |KC全5巻 |講漫全3巻 | |- |<span style="display:none">つはさあるもの<br /></span>[[翼ある者]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1980<br /></span>1980年<!-- 10号-12号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻 | |- |<span style="display:none">けつこうしゆ<br /></span>[[月光樹]] |別冊少女フレンド |<span style="display:none">1980<br /></span>1980年<!-- 6月号-8月号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻 | |- |<span style="display:none">あいいろしんわ<br /></span>[[あい色神話]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1980<br /></span>1980年<!-- 20号-23号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻 | |- |<span style="display:none">よこはまものかたり<br /></span>[[ヨコハマ物語 (漫画)|ヨコハマ物語]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1981<br /></span>1981年<!--3号--> - 1983年<!--16号 --> |KC全8巻 |講漫全4巻 | 明治時代の[[横浜市|横浜]]で暮らす2人の少女の成長を描いた物語。舞台化された。 |- |<span style="display:none">かけのいそるて<br /></span>影のイゾルデ |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1983<br /></span>1983年 |KC全1巻 |講漫全1巻 |19世紀後半[[ボルチモア]]が舞台のホラーサスペンス |- |<span style="display:none">ふすまらんと<br /></span>[[フスマランド4.5]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1984<br /></span>1984年<!-- 3号-8号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻「月光樹」に収録 | |- |<span style="display:none">にゆうようくこまち<br /></span>[[N.Y.小町]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1985<br /></span>1985年<!--16号--> - 1988年<!--17号--> |KC全8巻 |講漫全4巻 |跡取りの男子がいない事から男子として育てられたヒロインが出奔し、紆余曲折の末に[[写真家]]となり、自らの道を切り開いていくサクセスストーリー。 |- |<span style="display:none">ほたいしゆ<br /></span>[[菩提樹 (漫画)|菩提樹]] |週刊少女フレンド |<span style="display:none">1984<br /></span>1984年<!--13号--> - 1985年<!--13号--> |KC全3巻 |講漫全2巻 |医学生の青春を描いた作品。[[南野陽子]]主演で映画化(1989年)された。 |- |<span style="display:none">はいひいるこつふ<br /></span>[[ハイヒールCOP]] |Fortnightly mimi<br/>月刊mimi |<span style="display:none">1989<br /></span>1989年 - 1993年 |KC全5巻 |講漫全3巻 | イケメンと犯罪者の検挙をこよなく愛する女性刑事・巡市子が活躍するコメディーシリーズ。 |- |<span style="display:none">しんはいひいるこつふ<br /></span>新・ハイヒールCOP |mimi Carnival |<span style="display:none"><br />1995</span>1995年 |KC全1巻 |同上(3) | |- |<span style="display:none">ねむらないまちから<br /></span>[[眠らない街から]] |少女フレンド |<span style="display:none">1989<br /></span>1989年<!-- 1-3号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻 |[[東京]]・[[銀座]]で建築家の父と2人で暮らす小学生の少女の日常を描いた叙情短編シリーズ。 |- |<span style="display:none">ええれつしやていこう<br /></span>[[A列車でいこう]] |少女フレンド |<span style="display:none">1989<br /></span>1989年 - 1990年 |KC全1巻 |講漫全1巻 |「眠らない街から」と同シリーズ。 |- |<span style="display:none">なんとおうしさま<br /></span>[[なんと王子さま!?]] |少女フレンド |<span style="display:none"><br />1990</span>1990年<!-- 10-11号 --> |KC全1巻 |講漫全1巻 |アジアの秘境の国(モデルは[[ブータン]])[[皇太子|王太子]]と日本人少女モデルとの[[ラブコメ]]。 |- |<span style="display:none">はるはあけほのさつしんしけん<br /></span>[[春はあけぼの殺人事件]] |別冊少女フレンド |<span style="display:none">1991<br /></span>1991年<!--6月・7月号--> | |講漫全1巻 |[[清少納言]]を主人公に、[[一条天皇|一条帝]]の[[中宮]]・[[藤原定子|定子]]の周りで起きる事件に挑むストーリー。 |- |<span style="display:none">てんしのかしつ<br /></span>[[天使の果実]] |月刊mimi |<span style="display:none">1993<br /></span>1993年 - 1994年 |KC全3巻 | |[[伊集院静]]の小説「潮流」を原案に漫画化。モデルの主人公は[[夏目雅子]]。 |- |<span style="display:none">にしのなたあしや<br /></span>[[虹のナターシャ]] |月刊mimi |<span style="display:none">1995<br /></span>1995年 - 1997年 |KC全5巻 |講漫全2巻 |[[林真理子]]による原作書き下ろし。宝塚歌劇団で舞台化された。 |- |<span style="display:none">へひいしつたあきん<br /></span>[[ベビーシッター・ギン!]] |[[Kiss (雑誌)|Kiss]] |<span style="display:none">1997<br /></span>1997年 - 2007年 |KC全9巻 |講漫全4巻 |英国で修業した育児のスペシャリスト・[[ナニー (イギリス)|ナニー]]のギンさんの活躍を描く作品。 |- |<span style="display:none">にしむくさむらい<br /></span>[[にしむく士]] |[[BE・LOVE]] |<span style="display:none"><br />1997</span>1997年 - 2001年 |KC全5巻 |講漫全3巻 |[[江戸時代]]後期のとある[[江戸]][[藩]]屋敷が舞台。 |- |<span style="display:none">くれないにおふ<br /></span>[[紅匂ふ]] |BE・LOVE |<span style="display:none"><br />2003</span>2003年<!--19号--> - 2007年<!--10号--> |KC全4巻 |講漫全3巻 |原案は[[岩崎峰子]]「芸妓峰子の花いくさ」。京都東山[[祇園]]が舞台。 |- |<span style="display:none">せふいるすのもり<br /></span>[[ゼフィルスの森]] |BE・LOVE |<span style="display:none"><br />2008</span>2008年 |KC全1巻 | | |- |<span style="display:none">ほけつとのなかのきせき<br /></span>[[ポケットの中の奇跡]] |Kiss |<span style="display:none"><br />2008</span>2008年 - 2009年 |KC全2巻 | |短編集 |- |<span style="display:none">いしゆたるのむすめ<br /></span>[[イシュタルの娘〜小野於通伝〜]] |BE・LOVE |<span style="display:none">2009<br /></span>2009年 - 2017年 |KC全16巻 | |[[安土桃山時代]]に実在した[[小野お通]]を主人公にした歴史漫画。 |} </div> === その他 === * はいからちゃんがやってきた!〈EKUBOママシリーズ〉講談社 1998年 - 子育てエッセイ。 * こうさぎのうみ〈世界の絵本〉講談社 1998年 - ガビン・ビショップ作の絵本を翻訳。 * 夢・花・麗紗 大和和紀自選集<ref>1996年に「大和和紀自選集」講談社コミックデラックス版 全5巻が、1999年に文庫判が刊。</ref> 南風社 1992年 * 彩―大和和紀画業50周年記念画集 講談社 2016年3月 - 画集は「[[あさきゆめみし]]」関連も刊 *「はいからさんが通る」と大和和紀ワールド [[宝島社]] 2017年9月 - 50周年展図録、外舘惠子編 * 総特集 大和和紀 [[河出書房新社]]〈[[文藝]]別冊〉2021年7月 - デビュー55周年記念ムック * 大和和紀『あさきゆめみし』と源氏物語の世界 [[平凡社]]〈太陽の地図帖〉、2023年 == その他の活動 == * [[講談社漫画賞]]・選考委員 - 第42回(2018年)から第46回(2022年)まで == アシスタント == * [[小野弥夢]] * [[西尚美]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/248864|title=「はいからさんが通る」大和和紀のファンブック、単行本未収録作を収録|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-09-15|accessdate=2021-05-13}}</ref> * [[河あきら]] == 関連番組 == * [[趣味百科]]『少女コミックを描く』第11回(1991年6月11日 NHK教育) - アトリエ訪問コーナーに登場 * [[おしゃれ工房]]『大和和紀の源氏物語』(1998年7月 NHK教育) * [[BSマンガ夜話]]『はいからさんが通る』(2004年2月23日 NHK BS2) - 本人出演なし。ゲストは[[わかぎゑふ|わかぎえふ]]。 == 関連商品 == * 『大和和紀のスチュワーデスゲーム』 - 1977年から1980年にかけて[[エポック社]]が出していた「まんがゲームシリーズ」のひとつ。[[すごろく]]形式でヨーロッパの主要都市を回る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=「日本漫画家名鑑500」編集委員会(委員長:[[石ノ森章太郎]])・[[加藤昇]] 編|date=1992-12-18 |title=日本漫画家名鑑500:[[1945]]-[[1992]] |pages=1069 |publisher=アクア・プランニング|id={{全国書誌番号|93037702}} |ref={{SfnRef|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992}} }}<!--奥付及び編集後記より:1991年夏・東京池袋にて開催『まんが大博覧会:作家500人展』の一環で編纂された名鑑。限定5千部印刷し、協賛した漫画家・図書館・マスコミ各社等に無料配布との事。--> * {{Citation|和書|author=まんがseek・日外アソシエーツ編集部 共著|date=2003-02-25 |title=漫画家人名事典|pages=482 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |edition=第1刷 |isbn=4816917608 |ref={{SfnRef|日外アソシエーツ編集部|2003}} }} == 外部リンク == * [http://www.asakiyumemisi.com/ あさきゆめみし大辞典] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:やまと わき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:札幌市出身の人物]] [[Category:北星学園大学出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]]
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小説家一覧
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'''小説家一覧'''(しょうせつかいちらん) [[Wikipedia]]内に記事が存在する人物を中心とする。 == アジア == === イスラエル === *[[アハロン・アッペルフェルド]](出身はルーマニア) *[[エフライム・キション]] *[[デイヴィッド・グロスマン]] === インド === {{Colbegin}} *[[アラヴィンド・アディガ]] *[[クリシュナ・バルデーオ・ヴァイド]] *[[アミタヴ・ゴーシュ]] *[[ビーシュム・サーヘニー]] *[[クシュワント・シン]] *[[カルパナ・スワミナタン]] *[[ヴィカス・スワラップ]] *[[ラビンドラナート・タゴール]] *[[シャシ・タルール]] *[[クリシャン・チャンダル]] *[[キラン・デサイ]] *[[アショーカ・バンカー]] *[[マンヌー・バンダーリー]] *[[ウダイ・プラカーシ]] *[[ムンシー・プレームチャンド]] *[[パドマ・ヴェンカトラマン]] *[[タラションコル・ボンドパッダエ]] *[[ビブティブション・ボンドパッダエ]] *[[サタジット・レイ]] *[[アルンダティ・ロイ]] {{Colend}} === インドネシア === *[[プラムディヤ・アナンタ・トゥール]] *[[アルメイン・パネ]] *[[ユディスティラ・ANM・マサルディ]] *[[アイプ・ロシディ]] === 韓国 === {{Colbegin}} *[[安正孝]] *[[安寿吉]] *[[李垠 (小説家)]] *[[李恩成]] *[[李璟子]] *[[李祭夏]] *[[イ・ジョンホ (小説家)]] *[[イ・スグァン]] *[[李舜源]] *[[イ・チャンドン]] *[[李清俊]] *[[李恵敬]] *[[李浩哲]] *[[李文烈]] *[[李文求]] *[[李仁星]] *[[李仁和]] *[[李起昊]] *[[李均永]] *[[李承雨]] *[[李東河]] *[[李万教]] *[[林達永]] *[[林哲佑]] *[[李無影]] *[[李潤基]] *[[尹白南]] *[[殷熙耕]] *[[呉圭原]] *[[呉水娟]] *[[呉貞姫]] *[[呉永寿]] *[[呉尚原]] *[[姜石景]] *[[カン・ビョンユン]] *[[カン・ミョンウン]] *[[金愛爛]] 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*[[廉想渉]] {{Colend}} === カンボジア === *[[ヌー・ハーイ]] === スリランカ === *[[マーティン・ウィクラマシンハ]] *[[アーサー・C・クラーク]] === タイ王国 === *[[ルワン・ウィチットワータカーン]] *[[スチャート・サワッシー]] *[[シーブーラパー]] *[[チャオプラヤー・タンマサックモントリー]] *[[ナラーティッププラパンポン]] *[[ナリッサラーヌワッティウォン]] *[[スントーン・プー]] *[[チット・プーミサック]] === 中国 === {{Colbegin}} *[[疑遅]] *[[金庸]] *[[古丁]] *[[古龍]] *[[爵青]] *[[蕭紅]] *[[小松]] *[[張承志]] *[[鄭義]] *[[巴金]] *[[白行簡]] *[[莫言]] *[[賈平凹]] *[[李公佐]] *[[梁羽生]] *[[老舎]] *[[魯迅]] *[[郁秀]] *[[残雪 (作家)|残雪]] *[[和菜頭]] *[[韓寒]] {{Colend}} === トルコ === * [[ハリデ・エディプ・アドゥヴァル]] * [[アッティラ・イルハン]] * [[ヤシャル・ケマル]] * [[ラティフェ・テキン]] * [[オルハン・パムク]] * [[サイト・ファーイク]] === 日本 === [[日本の小説家一覧]]を参照。 === パキスタン === *[[アフマド・ナディーム・カースミー]] *[[ハディージャ・マストゥール]] === パレスチナ === *[[ガッサーン・カナファーニー]] === バングラデシュ === *[[セリナ・フセイン]] *[[ハッサン・アジズル・ホク]] *[[ショイヨド・ワリウッラー]] === ベトナム === *[[ズオン・トゥー・フォン]] *[[ソット・ポーリン]] *[[タック・ラム]] *[[パル・ヴァンナリーレアク]] *[[マイ・ソン・ソティアリー]] *[[レ・リュー]] === ミャンマー === *[[マァウン・ティン]] == ヨーロッパ == === アイルランド === {{Colbegin}} *[[エドナ・オブライエン]] *[[ベネディクト・カイリー]] *[[ダレン・シャン]] *[[ジェイムズ・ジョイス]] 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*[[ヨーゼフ・ロート]] {{Colend}} === オランダ === *[[ヤンウィレム・ヴァン・デ・ウェテリンク]] *[[ヤン・ヴォルカース]] *[[ルイ・クペールス]] *[[セース・ノーテボーム]] *[[ヘラ・S・ハーセ]] *[[ロバート・ファン・ヒューリック]] *[[ハリー・ムリシュ]] *[[ムルタトゥーリ]] === スウェーデン === *[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]] *[[ルーネル・ヨンソン]] *[[セルマ・ラーゲルレーヴ]] *[[アストリッド・リンドグレーン]] === スペイン === {{Colbegin}} *[[マクス・アウブ]] *[[ラファエル・アスコナ]] *[[アソリン]] *[[フランシスコ・アヤラ (作家)]] *[[レオポルド・アラス]] *[[ペドロ・アントニオ・デ・アラルコン]] *[[フェルナンド・アランブル]] *[[マテオ・アレマン]] *[[エンリーク・ヴァロール・イ・ヴィーヴェス]] *[[ミゲル・デ・ウナムーノ]] *[[エスピード・フレイレ]] *[[ルシア・エチェバリア]] *[[ラウラ・ガジェゴ・ガルシア]] *[[アドルフォ・ガルシア・オルテガ]] *[[アルムデナ・グランデス・エルナンデス]] *[[フアン・ゴイティソーロ]] *[[カルロス・ルイス・サフォン]] *[[ホセバ・サリオナンディア]] *[[ラファエル・サンチェス・フェルロシオ]] *[[カミーロ・ホセ・セラ]] *[[ハビエル・セルカス]] *[[ミゲル・デ・セルバンテス]] *[[ロサ・チャセル]] *[[ミゲル・デリーベス]] *[[マルーハ・トーレス]] *[[サンティアーゴ・パハーレス]] *[[アンドレス・バルバ]] *[[ピオ・バローハ]] *[[アントニア・ビセンス・イ・ピコルネリ]] *[[エンリーケ・ビラ=マタス]] *[[ビセンテ・ブラスコ・イバニェス]] *[[ベニート・ペレス・ガルドス]] *[[アルトゥーロ・ペレス=レベルテ]] *[[アナ・マリア・マトゥテ]] *[[ハビエル・マリアス]] *[[フアン・マルセー]] *[[フアン・ホセ・ミリャス]] *[[アントーニオ・ムーニョス・モリーナ]] *[[フアン・ハシント・ムーニョス・レンヘル]] *[[キム・ムンゾー]] 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*[[トーマス・マン]] *[[ハインリヒ・マン]] *[[エルンスト・ユンガー]] *[[ウーヴェ・ヨーンゾン]] *[[クルト・リュートゲン]] *[[エーリヒ・マリア・レマルク]] {{Colend}} === ノルウェー === *[[クリスチャン・クローグ]] *[[ヨースタイン・ゴルデル]] *[[クヌート・ハムスン]] *[[ビョルンスティエルネ・ビョルンソン]] *[[アルフ・プリョイセン]] === ハンガリー === *[[エフライム・キション]] *[[アーサー・ケストラー]] *[[ケルテース・イムレ]] *[[バロネス・オルツィ]] *[[クラスナホルカイ・ラースロー]] === フィンランド === *[[トーベ・ヤンソン]] *[[ミカ・ワルタリ]] === フランス === [[フランスの小説家一覧]]を参照。 === ベルギー === *[[アメリー・ノートン]] *[[ジョルジュ・シムノン]] *[[ヒューバート・ランポ]] === ポーランド === *[[ショーレム・アッシュ]] *[[ジョーゼフ・オパトシュ]] *[[ジャージ・コジンスキー]] *[[ヤヌシュ・コルチャック]] *[[ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ]] *[[ヘンリク・シェンキェヴィチ]] *[[ブルーノ・シュルツ]] *[[イェジー・フィツォフスキ]] *[[スタニスワフ・レム ]] === ポルトガル === *[[フィアーリョ・デ・アルメイダ]] *[[エッサ・デ・ケイロス]] *[[ジョゼ・サラマーゴ]] *[[テオフィロ・ブラガ]] *[[フェルナンド・ペソア]] *[[アントニオ・ロボ・アントゥーネス]] === ルーマニア === *[[ミルチャ・エリアーデ]] *[[エミール・シオラン]] === ロシア === {{Colbegin}} *[[ボリス・アクーニン]] *[[ウラディミール・アルセーニエフ]] *[[マルク・アルダーノフ]] *[[セルゲイ・アントーノフ]] *[[ニコラーイ・オストロフスキー]] *[[イワン・エフレーモフ]] *[[ヴィクトル・エロフェーエフ]] *[[ブラート・オクジャワ]] *[[ニコライ・ゴーゴリ]] *[[マクシム・ゴーリキー]] *[[イワン・ゴンチャロフ]] *[[ボリス・サヴィンコフ]] 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*[[ルイーズ・ペニー]] *[[ナロ・ホプキンスン]] *[[ヤン・マーテル]] *[[ロス・マクドナルド]] *[[エイミー・マッケイ]] *[[ディヴィッド・マレル]] *[[アリス・マンロー]] *[[O・R・メリング]] *[[L・M・モンゴメリ]] *[[ジェフ・ライマン]] *[[トム・ラックマン]] *[[ホセ・ラトゥール]] *[[ダニー・ラフェリエール]] *[[セルジュ・ラモット]] *[[ジョージ・リガ]] *[[モルデカイ・リッチラー]] *[[チャールズ・デ・リント]] *[[ガブリエル・ロワ]] *[[ピーター・ワッツ]] {{Colend}} === メキシコ === *[[マリアノ・アスエラ]] *[[ロドルフォ・ウシグリ]] *[[パコ・イグナシオ・タイボ二世]] *[[ギレルモ・デル・トロ]] *[[ホセ・エミリオ・パチェーコ]] *[[フアン・ビジョーロ]] *[[カルロス・フエンテス]] *[[ホルヘ・ボルピ]] *[[フェルナンダ・メルチョール]] *[[クリスティーナ・ラスコン]] *[[フアン・ルルフォ]] *[[アルフォンソ・レイエス]] == 南アメリカ == === アルゼンチン === *[[フリオ・コルタサル]] *[[マヌエル・プイグ]] *[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]] === ウルグアイ === *[[フアン・カルロス・オネッティ]] === ガイアナ === *[[エドワード・R・ブレイスウェイト]] === キューバ === *[[レイナルド・アレナス]] *[[アレホ・カルペンティエル]] *[[ギリェルモ・カブレラ=インファンテ]] === コロンビア === *[[ガブリエル・ガルシア=マルケス]] === ハイチ === *[[フランケチエンヌ]] === ブラジル === *[[マシャード・デ・アシス]] *[[ジョルジェ・アマード]] *[[ジョゼ・デ・アレンカール]] *[[パウロ・コエーリョ]] *[[ギマランイス・ローザ]] === ペルー === *[[マリオ・バルガス=リョサ]] === チリ === *[[イサベル・アジェンデ]] *[[ルイス・セプルベダ]] *[[ホセ・ドノソ]] *[[ロベルト・ボラーニョ]] == アフリカ == === アルジェリア === * 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山本智
山本 智(やまもと さとし)
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山本 智 山本智 - 宇宙物理学者。東京大学大学院教授(理学系研究科物理学専攻)。1993年に日本IBM科学賞を受賞 山本サトシ - 長岡京市議会議員。公明党長岡京支部 副支部長。長岡京市日本中国友好協会 会長。京都岐阜県人会 副会長。洛南高校時代は陸上部に所属。
'''山本 智'''(やまもと さとし) * 山本智(1957年 - ) - 宇宙物理学者。[[東京大学]]大学院教授(理学系研究科物理学専攻)。1993年に[[日本IBM科学賞]]を受賞 * [[山本サトシ]](旧ペンネーム:山本智)(1965年12月17日 - ) - 漫画家。主に[[小学館]]で執筆している。 * 山本智(1964年8月22日 - ) - [[長岡京市]]議会議員。[[公明党]]長岡京支部 副支部長。長岡京市日本中国友好協会 会長。京都岐阜県人会 副会長。[[洛南高校]]時代は陸上部に所属<ref>{{Cite web |title=長岡京市議会議員 山本さとしのホームページ |url=https://www.komei.or.jp/km/nagaokakyo-yamamoto-satoshi/ |website=長岡京市議会議員 山本さとしのホームページ |access-date=2023-11-15 |language=ja}}</ref>。 ;脚注 {{Reflist}} {{人名の曖昧さ回避|やまもと さとし}}
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山本鈴美香
山本 鈴美香 (やまもと すみか、1949年6月17日 - )は、日本の漫画家。女性。山梨県塩山市(現甲州市)出身。代表作は、『エースをねらえ!』。 1949年(昭和24年)、山梨県塩山市(現在の甲州市)に生まれ、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)育ち。埼玉県立浦和西高等学校卒業。1970年(昭和45年)、武蔵野美術大学商業デザイン科を卒業した後、翌1971年(昭和46年)、『その一言がいえなくて...』で漫画家としてのデビューを果たした。1973年(昭和48年)、テニスをテーマにした『エースをねらえ!』の連載が少女漫画雑誌『週刊マーガレット』上で開始、メイン層である女性だけでなく、男性層にも爆発的な人気を得た。作品は、1980年(昭和55年)まで長期連載され、数度にわたるアニメ化、テレビドラマ化が実現している。長編としては、ほかに16世紀のヨーロッパを舞台にした『7つの黄金郷』を発表している。 1981年(昭和56年)頃から家族と一緒に塩山市に移住し、「神山会」という新興宗教の巫女となった。以降は体調面が不安定なこともあり、メディア出演や執筆活動よりも宗教活動や療養を主軸とした生活をしており神山会の教祖となっているが、ホームページが消滅しているため近年の活動状況は不明である。さらに2020年の時点で「神山会」は宗教法人の登録からも外れているため、既に解散消滅した可能性もある。
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山本 鈴美香 は、日本の漫画家。女性。山梨県塩山市(現甲州市)出身。代表作は、『エースをねらえ!』。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 山本 鈴美香 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1949|6|17}} |生地 = {{JPN}}・[[山梨県]][[甲州市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]]・[[宗教家]] |活動期間 = [[1971年]] - |ジャンル = |代表作 = 『[[エースをねらえ!]]』<br />『[[7つの黄金郷]]』 |受賞 = |サイン = }} '''山本 鈴美香''' (やまもと すみか、[[1949年]][[6月17日]] - )は、[[日本]]の女性[[漫画家]]。[[山梨県]][[塩山市]](現[[甲州市]])出身<!-- もともと「[[北巨摩郡]]出身」となっていたが、出典不明なので、『漫画家人名事典』に基づき修正した。-->。代表作は、『[[エースをねらえ!]]』。 == 経歴 == [[1949年]]([[昭和]]24年)、[[山梨県]][[塩山市]](現在の[[甲州市]])に生まれ、[[埼玉県]][[浦和市]](現在の[[さいたま市]])育ち。[[埼玉県立浦和西高等学校]]卒業。[[1970年]](昭和45年)、[[武蔵野美術大学]]商業デザイン科を卒業した後<ref name = "jiten407">まんがseek・日外アソシエーツ編集部共編 『漫画家人名事典』 [[日外アソシエーツ]]、2003年、p.407.</ref>、翌[[1971年]](昭和46年)、『その一言がいえなくて…』で漫画家としてのデビューを果たした。[[1973年]](昭和48年)、[[テニス]]をテーマにした『[[エースをねらえ!]]』の連載が少女漫画雑誌『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』上で開始、メイン層である女性だけでなく、男性層にも爆発的な人気を得た。作品は、[[1980年]](昭和55年)まで長期連載され、数度にわたるアニメ化、テレビドラマ化が実現している<ref group="注">漫画評論家[[米澤嘉博|米沢嘉博]]は、本作品が『[[ベルサイユのばら]]』とともに『[[マーガレット (雑誌) |マーガレット]]』の黄金期を築きあげたと述べるとともに、作品の発表から長い年月を経過しても、いまだに[[少女漫画]]の代表的作品としての地位を保っていると評している。米沢嘉博 『戦後少女マンガ史』 [[筑摩書房]]<[[ちくま文庫]]>、2007年、p.237.</ref>。長編としては、ほかに16世紀のヨーロッパを舞台にした『[[7つの黄金郷]]』を発表している。 [[1981年]](昭和56年)頃から家族と一緒に塩山市に移住し、「神山会」という[[新興宗教]]の[[巫女]]となった<ref name = "jiten407" />。以降は体調面が不安定なこともあり、メディア出演や執筆活動よりも宗教活動や療養を主軸とした生活をしており神山会の[[教祖]]となっているが、ホームページが消滅しているため近年の活動状況は不明である。さらに[[2020年]]の時点で「神山会」は宗教法人の登録からも外れているため、既に解散消滅した可能性もある。 == 作品リスト == ; [[集英社]] :* 『恋しちゃおかナ?』 1972/10/20 {{ISBN2|978-4088501055}} :* 『キッスにご用心!』 1973/6/20 {{ISBN2|978-4088501215}} :* 『[[エースをねらえ!]]』(全18巻) 1973/8/25 - 1980/6/25 :* 『ひっくりかえったおもちゃ箱』 1978/5/1 {{ISBN2|978-4086120708}} :** 『H2O!前代未聞!!』 1979/10/1 {{ISBN2|978-4086121002}} :* 『[[7つの黄金郷]]』(既刊7巻 未完) 1977/4/20 - 1977/5/20 : ; [[小学館]] :* 『白蘭青風』(未完) 1983/11/1 {{ISBN2|978-4091784612}} :* 『愛の黄金率』(未完) 1983/12/1 {{ISBN2|978-4091784711}} : ; [[学研プラス]] :* 『[[ムー (雑誌)|ムー]]』1985年5月号付録『山本鈴美香霊視画 勝利を呼ぶ[[諏訪大社]]の竜神 』ポスター<ref>原画が諏訪大社宝物殿に奉納されている。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <div class="references-small"><references group="注"/></div> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * まんがseek・日外アソシエーツ編集部共編 『漫画家人名事典』 [[日外アソシエーツ]]、2003年(平成15年)、ISBN 4-8169-1760-8 *: 生年月日、出身地、出身大学、略歴などが確認できる。 == 関連項目 == * [[少女漫画]] * [[武蔵野美術大学の人物一覧]] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまもと すみか}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:武蔵野美術大学出身の人物]] [[Category:山梨県出身の人物]] [[Category:さいたま市出身の人物]] [[Category:日本の宗教家]] [[Category:女性の宗教家]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
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詩人一覧
詩人一覧(しじんいちらん)は、主な詩人の一覧である。
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詩人一覧(しじんいちらん)は、主な詩人の一覧である。
'''詩人一覧'''(しじんいちらん)は、主な[[詩人]]の[[一覧]]である。 == あ == *[[アイスキュロス]] *[[葵生川玲]] *[[相田みつを]] *[[相沢史郎]] *[[会津太郎]] *[[青山みゆき (詩人)]] *[[ムハンマド・フサイン・アーザード]] *[[アル=アーシャー]] *[[AZUKI七]] *[[麻生直子]] *[[アドニス (詩人)|アドニス]] *[[アフタル]] *[[アブー・ヌワース]] *[[アブー・タンマーム]] *[[アブー・アル=アターヒヤ]] *[[阿部岩夫]] *[[阿部学]] *[[ギヨーム・アポリネール]] *[[ジョン・アッシュベリー]] *[[尼崎安四]] *[[天沢退二郎]] *[[ルイ・アラゴン]] *[[ダンテ・アリギエーリ]] *[[アリストパネス]] *[[有馬敲]] *[[鮎川信夫]] *[[荒川洋治]] *[[アラキ・ヤスサダ]] *[[アリーナ・レイエス]] *[[アブー・アル・ファラジュ・アル・イスファハーニー]] *[[サミーハ・アル=カーシム]] *[[アントナン・アルトー]] *[[アル・ハマザーニー]] *[[アル・ハリーリー]] *[[アンカーン・カンラヤーナポン]] *[[安西冬衛]] *[[ムハンマド・イクバール]] *[[池澤夏樹]] *[[飯島耕一]] *[[池田大作]] *[[石垣りん]] *[[石川啄木]] *[[伊東静雄]] *[[伊藤整]] *[[伊藤信吉]] *[[伊藤比呂美]] *[[糸屋鎌吉]] *[[井上清子 (詩人)]] *[[井上靖]] *[[茨木のり子]] *[[井伏鱒二]] *[[イブン・アル=ハティーブ]] *[[イブン・ザイドゥーン]] *[[イーラジ・ミールザー]] *[[伊良子清白]] *[[入沢康夫]] *[[彩葉ちも]] *[[岩佐東一郎]] *[[岩田宏]] *[[岩野泡鳴]] *[[犬童球渓]] *[[ポール・ヴァレリー]] *[[フランソワ・ヴィヨン]] *[[上田敏]] *[[ポール・ヴェルレーヌ]] *[[ウェルギリウス]] *[[ウィルフレッド・オーエン]] *[[エウリピデス]] *[[江原岳瑤]] *[[江馬天江]] *[[エフゲニー・エフトゥシェンコ]] *[[ミハイ・エミネスク]] 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2,062
山本まゆり
山本 まゆり(やまもと まゆり)は日本の漫画家。神奈川県川崎市出身。血液型はB型。麻布大学附属渕野辺高等学校卒業。 1979年、第4回白泉社アテナ大賞デビュー優秀者賞を受賞。以後、同誌などに少女漫画作品を発表。その後、『ほんとにあった怖い話』(朝日新聞出版)、『心霊事件簿DX』(実業之日本社)などに、霊や霊能者をテーマにした作品を発表。代表作は「魔百合の恐怖報告」シリーズ、2009年にテレビドラマ化された「リセット」。 実兄は、フルート奏者の山本俊自。
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山本 まゆりは日本の漫画家。神奈川県川崎市出身。血液型はB型。麻布大学附属渕野辺高等学校卒業。 1979年、第4回白泉社アテナ大賞デビュー優秀者賞を受賞。以後、同誌などに少女漫画作品を発表。その後、『ほんとにあった怖い話』(朝日新聞出版)、『心霊事件簿DX』(実業之日本社)などに、霊や霊能者をテーマにした作品を発表。代表作は「魔百合の恐怖報告」シリーズ、2009年にテレビドラマ化された「リセット」。 実兄は、フルート奏者の山本俊自。
'''山本 まゆり'''(やまもと まゆり)は[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[川崎市]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。[[麻布大学附属渕野辺高等学校]]卒業。 [[1979年]]、第4回[[白泉社アテナ新人大賞|白泉社アテナ大賞]]デビュー優秀者賞を受賞。以後、同誌などに少女漫画作品を発表。その後、『[[ほんとにあった怖い話 (雑誌)|ほんとにあった怖い話]]』([[朝日新聞出版]])、『心霊事件簿DX』([[実業之日本社]])などに、霊や霊能者をテーマにした作品を発表。代表作は「魔百合の恐怖報告」シリーズ、2009年に[[テレビドラマ]]化された「[[リセット (漫画)|リセット]]」。 実兄は、[[フルート]]奏者の[[山本俊自]]。 ==作品リスト== * [[魔百合の恐怖報告]]シリーズ 『[[ハロウィン (雑誌)|月刊ハロウィン]]』([[朝日ソノラマ]])、『[[ほんとにあった怖い話 (雑誌)|ほんとにあった怖い話]]』([[朝日新聞出版]]) 〈ほんとにあった怖い話コミックス〉、『[[HONKOWA (雑誌)|不思議と神秘のパワーコミックHONKOWA-ほん怖-]]』([[朝日新聞出版]]) 〈ほん怖コミックス〉 : 霊能者への取材に基づく作品。霊能者・寺尾玲子(仮名)は、作者の高校時代の同級生がモデル。 * 霊能者緒方克巳シリーズ ([[実業之日本社]])〈MBコミックス〉 * 新・霊能者緒方克己シリーズ (実業之日本社)〈MBコミックス〉 * 霊能者加世田隆宗シリーズ ([[朝日ソノラマ]])〈ソノラマコミック文庫〉 * 『[[リセット (漫画)|リセット]]』([[講談社]])〈講談社漫画文庫〉全3巻 * 『[[リセット (漫画)|RESET 〜リセットnew 崩壊家族編〜]]』(講談社)〈講談社コミックス〉全1巻 * 『御霊振り』(『[[BE・LOVE]]』講談社、2010年)〈講談社コミックス〉全1巻 * 『[[せんせい、誤診です!|せんせい、誤診です! ホラー漫画家の本当にあった怖い闘病]]』 (ぶんか社) 全1巻 == 外部リンク == * [http://totonae.blog66.fc2.com/ 山本まゆりの仕事場事件簿] * <s>twitter 山本まゆり(@LuceSolare61)</s> {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:やまもと まゆり}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:川崎市出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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山本優子
山本 優子(やまもと ゆうこ、本名同じ、1948年12月10日 - )は、漫画家。東京都出身。 1967年、雑誌「マーガレット」48号(集英社)掲載の『青空おじさん』でデビュー。 以後、「りぼん」で執筆を行う。 典型的な70年代の少女漫画の絵柄で基本的にはラブコメディーなのだが、随所にギャグが盛り込まれ、その延長としてお色気も多少含まれているのが特徴。また、当時の芸能人や有名人の名前を一部変更してキャラクターに名付けることが多かった。 代表作に『新・美季とアップルパイ』など。
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山本 優子は、漫画家。東京都出身。 1967年、雑誌「マーガレット」48号(集英社)掲載の『青空おじさん』でデビュー。 以後、「りぼん」で執筆を行う。 典型的な70年代の少女漫画の絵柄で基本的にはラブコメディーなのだが、随所にギャグが盛り込まれ、その延長としてお色気も多少含まれているのが特徴。また、当時の芸能人や有名人の名前を一部変更してキャラクターに名付けることが多かった。 代表作に『新・美季とアップルパイ』など。
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2,065
ハミルトン力学
ハミルトン力学(ハミルトンりきがく、英語:Hamiltonian mechanics)は、一般化座標と一般化運動量を基本変数として記述された古典力学である。イギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンが創始した。ラグランジュ力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一つの定式化/記述法である。 ハミルトン形式の解析力学は、ラグランジュ形式からルジャンドル変換で移行することにより得られる。 最初はニュートン力学の分野において成立したものであるが、ラグランジュ形式と同様に幅広い分野に応用されている。 特に量子力学においては、古典力学のハミルトン形式での物理量を演算子に置き換え、演算子の間に正準交換関係を設定する正準量子化の手続きによって量子化を行う。 また量子多体論において用いられるTDHF近似は、ある変換の下でハミルトン力学と等価である事が知られている。この事は古典力学が単なる量子力学の近似ではなくて、この世界における何らかの事実を表しているという期待を持たせる。 ハミルトン形式では運動方程式は一般化座標と一般化運動量を用いて記述されており、その方程式は両者に対して(符号を除いて)対称的となっている。力学変数の数が2倍になるので運動方程式の数も増すが、二階微分方程式は一階微分方程式になる。 ハミルトン形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は一般化座標 q ( t ) = ( q 1 ( t ) , ... ) {\displaystyle q(t)=(q_{1}(t),\ldots )} と一般化運動量 p ( t ) = ( p 1 ( t ) , ... ) {\displaystyle p(t)=(p_{1}(t),\ldots )} である。力学系の性質は一般化座標と一般化運動量、および時間を変数とするハミルトン関数(ハミルトニアン) H ( p , q ; t ) {\displaystyle H(p,q;t)} によって記述される。 ハミルトン形式において、作用汎関数は時間積分 S [ p , q ] = ∫ t i t f [ ∑ i p i ( t ) q ̇ i ( t ) − H ( p , q ; t ) ] d t {\displaystyle S[p,q]=\int _{t_{\text{i}}}^{t_{\text{f}}}\left[\sum _{i}p_{i}(t)\,{\dot {q}}_{i}(t)-H(p,q;t)\right]dt} として与えられる。力学変数 p,q は束縛条件の下で可能なあらゆる運動状態を取り得るが、最小作用の原理(変分原理、停留条件)により実際に起こる運動が導かれる。 作用の停留条件から導かれる運動方程式は ∂ S [ p , q ] δ p i ( t ) = q ̇ i ( t ) − ∂ H ∂ p i = 0 {\displaystyle {\frac {\partial S[p,q]}{\delta p_{i}(t)}}={\dot {q}}_{i}(t)-{\frac {\partial H}{\partial p_{i}}}=0} ∂ S [ p , q ] δ q i ( t ) = − p ̇ i ( t ) − ∂ H ∂ q i = 0 {\displaystyle {\frac {\partial S[p,q]}{\delta q_{i}(t)}}=-{\dot {p}}_{i}(t)-{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}}=0} である。この運動方程式は正準方程式、或いはハミルトン方程式と呼ばれる。 ハミルトン形式において物理量は一般化座標、一般化運動量、および時間の関数 A ( p , q , t ) {\displaystyle A({\boldsymbol {p}},{\boldsymbol {q}},t)} として書かれる。物理量の時間微分は A ̇ = q ̇ i ∂ A ∂ q i + ∂ A ∂ p i p ̇ i + ∂ A ∂ t = ∂ H ∂ p i ∂ A ∂ q i − ∂ A ∂ p i ∂ H ∂ q i + ∂ A ∂ t {\displaystyle {\dot {A}}={\dot {q}}_{i}\,{\frac {\partial A}{\partial q_{i}}}+{\frac {\partial A}{\partial p_{i}}}{\dot {p}}_{i}+{\frac {\partial A}{\partial t}}={\frac {\partial H}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial A}{\partial q_{i}}}-{\frac {\partial A}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}}+{\frac {\partial A}{\partial t}}} となる。特にハミルトニアンの時間微分は H ̇ = ∂ H ∂ p i ∂ H ∂ q i − ∂ H ∂ p i ∂ H ∂ q i + ∂ H ∂ t = ∂ H ∂ t {\displaystyle {\dot {H}}={\frac {\partial H}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}}-{\frac {\partial H}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}}+{\frac {\partial H}{\partial t}}={\frac {\partial H}{\partial t}}} である。 ハミルトニアンはラグランジアンから H ( p , q , t ) = ∑ i p i q ̇ i ( p , q , t ) − L ( q , q ̇ ( p , q , t ) , t ) {\displaystyle H(p,q,t)=\sum _{i}p_{i}\,{\dot {q}}_{i}(p,q,t)-L(q,{\dot {q}}(p,q,t),t)} で定義される。 ラグランジアンが L ( q , q ̇ , t ) = ∑ i α i ( q ) 2 q ̇ i 2 − V ( q ) {\displaystyle L(q,{\dot {q}},t)=\sum _{i}{\frac {\alpha _{i}(q)}{2}}{\dot {q}}_{i}^{2}-V(q)} の形で書かれている場合のハミルトニアンは H ( p , q , t ) = ∑ i 1 2 α i ( q ) p i 2 + V ( q ) {\displaystyle H(p,q,t)=\sum _{i}{\frac {1}{2\alpha _{i}(q)}}p_{i}^{2}+V(q)} となり、運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和、すなわち、系の全エネルギーであることが分かる。 ハミルトニアンの時間微分は H ̇ = ∂ H ∂ t {\displaystyle {\dot {H}}={\frac {\partial H}{\partial t}}} であり、ハミルトニアンが陽に時間に依存しないときには全系のエネルギーが保存する。 なお、ハミルトニアンは一般化座標、一般化運動量、および時間の関数として書かれている量であり、引数が違えば大きさが同じであってもハミルトニアンではない。 ハミルトニアンの定義式内での一般化速度は、一般化運動量の定義式を逆に解いて一般化座標、一般化運動量、および時間の関数 q ̇ i ( p , q , t ) {\displaystyle {\dot {q}}_{i}(p,q,t)} として書かれている。 一般化座標 q、一般化運動量 p から、変換を行って P i = P i ( p , q , t ) , Q i = Q i ( p , q , t ) {\displaystyle P_{i}=P_{i}(p,q,t),\quad Q_{i}=Q_{i}(p,q,t)} をしたとき、P,Q と時間の関数として書かれた新たなハミルトニアン H'(P,Q,t) を用いて、 Q ̇ i = ∂ H ′ ∂ P i , P ̇ i = − ∂ H ′ ∂ Q i {\displaystyle {\dot {Q}}_{i}={\frac {\partial H'}{\partial P_{i}}},~{\dot {P}}_{i}=-{\frac {\partial H'}{\partial Q_{i}}}} となるとき、この変換を正準変換と言う。 一般化座標と一般化運動量は正準変換によって相互に混ざり合い、両者の区別は曖昧なものとなる。 一般化座標と一般化運動量を総称して正準共役量と呼ぶ。 正準共役量 p,q によって張られる空間は位相空間と呼ばれ、正準変換は二つの位相空間を対応付ける変換である。 ポアソン括弧(ポアソンの括弧式)とは、正準変数と時間の関数として書かれた物理量 A, Bに対して、 { A , B } = ∑ i ( ∂ A ∂ p i ∂ B ∂ q i − ∂ B ∂ p i ∂ A ∂ q i ) {\displaystyle \{A,B\}=\sum _{i}{\biggl (}{\frac {\partial A}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial B}{\partial q_{i}}}-{\frac {\partial B}{\partial p_{i}}}{\frac {\partial A}{\partial q_{i}}}{\biggr )}} で定義される物理量である。 物理量の時間微分はハミルトニアンとのポアソン括弧を用いて A ̇ = { H , A } + ∂ A ∂ t {\displaystyle {\dot {A}}=\{H,A\}+{\frac {\partial A}{\partial t}}} となる。物理量が陽に時間に依存しないときは A ̇ = { H , A } {\displaystyle {\dot {A}}=\{H,A\}} となる。 量子力学ではポアソン括弧は正準量子化の手続きによって、正準交換関係と対応付けられる。 ラグランジアン L ( q i , q ̇ i , t ) {\displaystyle L(q_{i},{\dot {q}}_{i},t)} の全微分は d L = ∑ i ( d q i ∂ L ∂ q i + d q ̇ i ∂ L ∂ q ̇ i ) + ∂ L ∂ t d t {\displaystyle dL=\sum _{i}{\biggl (}dq_{i}\,{\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}+d{\dot {q}}_{i}\,{\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}{\biggr )}+{\frac {\partial L}{\partial t}}dt} である。 一般化運動量は p i = ∂ L ∂ q ̇ i {\displaystyle p_{i}={\frac {\partial L}{\partial {\dot {q}}_{i}}}} で定義され、ラグランジュの運動方程式から p ̇ i = ∂ L ∂ q i {\displaystyle {\dot {p}}_{i}={\frac {\partial L}{\partial q_{i}}}} である。これを用いて先ほどの全微分を書き換えれば、 d L = ∑ i ( d q i p ̇ i + d q ̇ i p i ) + ∂ L ∂ t d t = ∑ i ( d q i p ̇ i − q ̇ i d p i + d ( q ̇ i p i ) ] + ∂ L ∂ t d t {\displaystyle {\begin{aligned}dL&=\sum _{i}(dq_{i}\,{\dot {p}}_{i}+d{\dot {q}}_{i}\,p_{i})+{\frac {\partial L}{\partial t}}dt\\&=\sum _{i}(dq_{i}\,{\dot {p}}_{i}-{\dot {q}}_{i}\,dp_{i}+d({\dot {q}}_{i}\,p_{i})]+{\frac {\partial L}{\partial t}}dt\\\end{aligned}}} となる。全微分を移項して d ( ∑ i q ̇ i p i − L ) = ∑ i ( q ̇ i d p i − d q i p ̇ i ) − ∂ L ∂ t d t {\displaystyle d{\Bigl (}\sum _{i}{\dot {q}}_{i}\,p_{i}-L{\Bigr )}=\sum _{i}({\dot {q}}_{i}\,dp_{i}-dq_{i}\,{\dot {p}}_{i})-{\frac {\partial L}{\partial t}}dt} となる。ハミルトニアン H ( p , q , t ) = ∑ i q ̇ i ( p , q , t ) p i − L ( q , q ̇ ( p , q , t ) , t ) {\displaystyle H(p,q,t)=\sum _{i}{\dot {q}}_{i}(p,q,t)\,p_{i}-L(q,{\dot {q}}(p,q,t),t)} を定義すれば、 d H = ∑ i ( ∂ H ∂ p i d p i + d q i ∂ H ∂ q i ) + ∂ H ∂ t d t = ∑ i ( q ̇ i d p i − d q i p ̇ i ) − ∂ L ∂ t d t {\displaystyle {\begin{aligned}dH&=\sum _{i}{\bigg (}{\frac {\partial H}{\partial p_{i}}}dp_{i}+dq_{i}{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}}{\biggr )}+{\frac {\partial H}{\partial t}}dt=\sum _{i}({\dot {q}}_{i}\,dp_{i}-dq_{i}\,{\dot {p}}_{i})-{\frac {\partial L}{\partial t}}dt\end{aligned}}} となり、 q ̇ i = ∂ H ∂ p i , p ̇ i = − ∂ H ∂ q i , ∂ H ∂ t = − ∂ L ∂ t {\displaystyle {\dot {q}}_{i}={\frac {\partial H}{\partial p_{i}}},~{\dot {p}}_{i}=-{\frac {\partial H}{\partial q_{i}}},~{\frac {\partial H}{\partial t}}=-{\frac {\partial L}{\partial t}}} を得る。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハミルトン力学(ハミルトンりきがく、英語:Hamiltonian mechanics)は、一般化座標と一般化運動量を基本変数として記述された古典力学である。イギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンが創始した。ラグランジュ力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一つの定式化/記述法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ハミルトン形式の解析力学は、ラグランジュ形式からルジャンドル変換で移行することにより得られる。 最初はニュートン力学の分野において成立したものであるが、ラグランジュ形式と同様に幅広い分野に応用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特に量子力学においては、古典力学のハミルトン形式での物理量を演算子に置き換え、演算子の間に正準交換関係を設定する正準量子化の手続きによって量子化を行う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また量子多体論において用いられるTDHF近似は、ある変換の下でハミルトン力学と等価である事が知られている。この事は古典力学が単なる量子力学の近似ではなくて、この世界における何らかの事実を表しているという期待を持たせる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ハミルトン形式では運動方程式は一般化座標と一般化運動量を用いて記述されており、その方程式は両者に対して(符号を除いて)対称的となっている。力学変数の数が2倍になるので運動方程式の数も増すが、二階微分方程式は一階微分方程式になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ハミルトン形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は一般化座標 q ( t ) = ( q 1 ( t ) , ... ) {\\displaystyle 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一般化座標と一般化運動量は正準変換によって相互に混ざり合い、両者の区別は曖昧なものとなる。 一般化座標と一般化運動量を総称して正準共役量と呼ぶ。", "title": "正準変換" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "正準共役量 p,q によって張られる空間は位相空間と呼ばれ、正準変換は二つの位相空間を対応付ける変換である。", "title": "正準変換" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ポアソン括弧(ポアソンの括弧式)とは、正準変数と時間の関数として書かれた物理量 A, Bに対して、", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "{ A , B } = ∑ i ( ∂ A ∂ p i ∂ B ∂ q i − ∂ B ∂ p i ∂ A ∂ q i ) {\\displaystyle \\{A,B\\}=\\sum _{i}{\\biggl (}{\\frac {\\partial A}{\\partial p_{i}}}{\\frac {\\partial B}{\\partial q_{i}}}-{\\frac {\\partial B}{\\partial p_{i}}}{\\frac {\\partial A}{\\partial q_{i}}}{\\biggr )}}", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "で定義される物理量である。", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "物理量の時間微分はハミルトニアンとのポアソン括弧を用いて", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "A ̇ = { H , A } + ∂ A ∂ t {\\displaystyle {\\dot {A}}=\\{H,A\\}+{\\frac {\\partial A}{\\partial t}}}", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "となる。物理量が陽に時間に依存しないときは", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "A ̇ = { H , A } {\\displaystyle {\\dot {A}}=\\{H,A\\}}", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "量子力学ではポアソン括弧は正準量子化の手続きによって、正準交換関係と対応付けられる。", "title": "ポアソン括弧" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ラグランジアン L ( q i , q ̇ i , t ) {\\displaystyle L(q_{i},{\\dot {q}}_{i},t)} の全微分は", "title": "導出" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "d L = ∑ i ( d q i ∂ L ∂ q i + d q ̇ i ∂ L ∂ q ̇ i ) + ∂ L ∂ t d t {\\displaystyle dL=\\sum _{i}{\\biggl (}dq_{i}\\,{\\frac {\\partial L}{\\partial q_{i}}}+d{\\dot {q}}_{i}\\,{\\frac {\\partial L}{\\partial {\\dot {q}}_{i}}}{\\biggr )}+{\\frac {\\partial L}{\\partial t}}dt}", "title": "導出" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "である。 一般化運動量は p i = ∂ L ∂ q ̇ i {\\displaystyle p_{i}={\\frac 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ハミルトン力学は、一般化座標と一般化運動量を基本変数として記述された古典力学である。イギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンが創始した。ラグランジュ力学と同様にニュートン力学を再定式化した解析力学の一つの定式化/記述法である。
{{出典の明記|date=2011年7月}} {{古典力学}} '''ハミルトン力学'''(ハミルトンりきがく、[[英語]]:{{lang|en|Hamiltonian mechanics}})は、[[一般化座標]]と一般化運動量を基本変数として記述された[[古典力学]]である。[[イギリス]]の物理学者[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]が創始した。[[ラグランジュ力学]]と同様に[[ニュートン力学]]を再定式化した[[解析力学]]の一つの定式化/記述法である。 == 概要 == ハミルトン形式の解析力学は、[[ラグランジュ形式]]から'''[[ルジャンドル変換]]'''で移行することにより得られる。 最初はニュートン力学の分野において成立したものであるが、ラグランジュ形式と同様に幅広い分野に応用されている。 特に[[量子力学]]においては、古典力学のハミルトン形式での[[物理量]]を[[演算子]]に置き換え、演算子の間に正準交換関係を設定する[[正準量子化]]の手続きによって量子化を行う。 また量子多体論において用いられる[[TDHF]]近似は、ある変換の下でハミルトン力学と等価である事が知られている。この事は[[古典力学]]が単なる[[量子力学]]の近似ではなくて、この世界における何らかの事実を表しているという期待を持たせる。 ハミルトン形式では運動方程式は[[一般化座標]]と一般化運動量を用いて記述されており、その方程式は両者に対して(符号を除いて)対称的となっている。力学変数の数が2倍になるので運動方程式の数も増すが、二階微分方程式は一階微分方程式になる。 == 定式化 == [[File:Hamiltonian and Equation of motion.jpg|thumb|ハミルトン力学における[[ルジャンドル変換]]に{{仮リンク|Thermodynamic square|en|Thermodynamic square}}を適用したときの正準方程式。]] ハミルトン形式において、力学系の運動状態を指定する力学変数は'''[[一般化座標]]''' <math>q(t) = (q_1(t),\ldots )</math> と'''一般化運動量''' <math>p(t) = (p_1(t),\ldots )</math> である。力学系の性質は一般化座標と一般化運動量、および時間を変数とする'''ハミルトン関数'''('''ハミルトニアン''') <math>H(p,q;t)</math> によって記述される。 ハミルトン形式において、作用汎関数は時間積分 {{Indent| <math>S[p,q] =\int_{t_\text{i}}^{t_\text{f}} \left[ \sum_i p_i(t)\, \dot{q}_i(t) -H(p,q;t) \right] dt</math> }} として与えられる。力学変数 p,q は束縛条件の下で可能なあらゆる運動状態を取り得るが、[[最小作用の原理]](変分原理、停留条件)により実際に起こる運動が導かれる。 作用の停留条件から導かれる運動方程式は {{Indent| <math>\frac{\partial S[p,q]}{\delta p_i(t)} =\dot{q}_i(t) -\frac{\partial H}{\partial p_i} =0</math> }} {{Indent| <math>\frac{\partial S[p,q]}{\delta q_i(t)} =-\dot{p}_i(t) -\frac{\partial H}{\partial q_i} =0</math> }} である。この運動方程式は'''正準方程式'''、或いは'''ハミルトン方程式'''と呼ばれる。 ハミルトン形式において[[物理量]]は一般化座標、一般化運動量、および時間の関数 <math>A(\boldsymbol{p},\boldsymbol{q},t)</math> として書かれる。物理量の時間微分は {{Indent| <math>\dot{A} = \dot{q}_i\, \frac{\partial A}{\partial q_i} +\frac{\partial A}{\partial p_i} \dot{p}_i +\frac{\partial A}{\partial t} = \frac{\partial H}{\partial p_i} \frac{\partial A}{\partial q_i} -\frac{\partial A}{\partial p_i} \frac{\partial H}{\partial q_i} +\frac{\partial A}{\partial t}</math> }} となる。特にハミルトニアンの時間微分は {{Indent| <math>\dot{H}= \frac{\partial H}{\partial p_i} \frac{\partial H}{\partial q_i} -\frac{\partial H}{\partial p_i} \frac{\partial H}{\partial q_i} +\frac{\partial H}{\partial t} =\frac{\partial H}{\partial t}</math> }} である。 === ハミルトニアン === '''ハミルトニアン'''は[[ラグランジアン]]から {{Indent| <math>H(p,q,t) = \sum_i p_i\, \dot{q}_i(p,q,t) -L(q, \dot{q}(p,q,t), t)</math> }} で定義される。 ラグランジアンが {{Indent| <math>L(q,\dot{q},t) = \sum_i \frac{\alpha_i(q)}{2}\dot{q}_i^2 -V(q)</math> }} の形で書かれている場合のハミルトニアンは {{Indent| <math>H(p,q,t)=\sum_i \frac{1}{2\alpha_i(q)}p_i^2+V(q)</math> }} となり、[[運動エネルギー]]と[[ポテンシャルエネルギー]]の和、すなわち、系の全[[エネルギー]]であることが分かる。 ハミルトニアンの時間微分は {{Indent| <math>\dot{H} =\frac{\partial H}{\partial t}</math> }} であり、ハミルトニアンが陽に時間に依存しないときには全系のエネルギーが保存する。 なお、ハミルトニアンは一般化座標、一般化運動量、および時間の関数として書かれている量であり、引数が違えば大きさが同じであってもハミルトニアンではない。 ハミルトニアンの定義式内での一般化速度は、一般化運動量の定義式を逆に解いて一般化座標、一般化運動量、および時間の関数 <math>\dot{q}_i(p,q,t)</math> として書かれている。 == 正準変換 == 一般化座標 q、一般化運動量 p から、変換を行って {{Indent| <math>P_i = P_i(p,q,t),\quad Q_i=Q_i(p,q,t)</math> }} をしたとき、P,Q と時間の関数として書かれた新たなハミルトニアン H'(P,Q,t) を用いて、 {{Indent| <math>\dot{Q}_i = \frac{\partial H'}{\partial P_i},~ \dot{P}_i = -\frac{\partial H'}{\partial Q_i}</math> }} となるとき、この変換を'''正準変換'''と言う。 一般化座標と一般化運動量は正準変換によって相互に混ざり合い、両者の区別は曖昧なものとなる。 一般化座標と一般化運動量を総称して'''正準共役量'''と呼ぶ。 正準共役量 p,q によって張られる空間は[[位相空間 (物理学)|位相空間]]と呼ばれ、正準変換は二つの位相空間を対応付ける変換である。 == ポアソン括弧 == '''[[ポアソン括弧]]'''(ポアソンの括弧式)とは、正準変数と時間の関数として書かれた[[物理量]] A, Bに対して、 {{Indent| <math>\{ A, B \} = \sum_i \biggl( \frac{\partial A}{\partial p_i}\frac{\partial B}{\partial q_i} -\frac{\partial B}{\partial p_i}\frac{\partial A}{\partial q_i} \biggr)</math> }} で定義される物理量である。 物理量の時間微分はハミルトニアンとのポアソン括弧を用いて {{Indent| <math>\dot{A} = \{ H, A \} +\frac{\partial A}{\partial t}</math> }} となる。物理量が陽に時間に依存しないときは {{Indent| <math>\dot{A} = \{ H, A \}</math> }} となる。 [[量子力学]]ではポアソン括弧は[[正準量子化]]の手続きによって、[[正準交換関係]]と対応付けられる。 == 導出 == ラグランジアン <math>L(q_i,\dot{q}_i,t)</math> の[[全微分]]は {{Indent| <math>dL = \sum_i \biggl( dq_i\, \frac{\partial L}{\partial q_i} +d\dot{q}_i\, \frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i} \biggr) +\frac{\partial L}{\partial t} dt </math> }} である。 一般化運動量は <math>p_i=\frac{\partial L}{\partial\dot{q}_i}</math> で定義され、[[ラグランジュ力学|ラグランジュの運動方程式]]から <math>\dot{p}_i=\frac{\partial L}{\partial q_i}</math> である。これを用いて先ほどの全微分を書き換えれば、 {{Indent| <math> \begin{align} dL &=\sum_i (dq_i\, \dot{p}_i +d\dot{q}_i\, p_i) +\frac{\partial L}{\partial t}dt \\ &= \sum_i (dq_i\, \dot{p}_i -\dot{q}_i\, dp_i +d(\dot{q}_i\, p_i)] +\frac{\partial L}{\partial t} dt \\ \end{align}</math> }} となる。全微分を移項して {{Indent| <math>d\Bigl(\sum_i \dot{q}_i\, p_i -L \Bigr) = \sum_i (\dot{q}_i\, dp_i -dq_i\, \dot{p}_i) -\frac{\partial L}{\partial t} dt </math> }} となる。ハミルトニアン {{Indent| <math>H(p,q,t) =\sum_i \dot{q}_i(p,q,t)\, p_i -L(q, \dot{q}(p,q,t), t)</math> }} を定義すれば、 {{Indent| <math> \begin{align} dH & =\sum_i \bigg(\frac{\partial H}{\partial p_i} dp_i +dq_i \frac{\partial H}{\partial q_i} \biggr) +\frac{\partial H}{\partial t} dt = \sum_i (\dot{q}_i\, dp_i -dq_i\, \dot{p}_i) -\frac{\partial L}{\partial t} dt \end{align} </math> }} となり、 {{Indent| <math>\dot{q}_i = \frac{\partial H}{\partial p_i},~ \dot{p}_i = -\frac{\partial H}{\partial q_i},~ \frac{\partial H}{\partial t} =-\frac{\partial L}{\partial t}</math> }} を得る。 <!-- == 脚注 == <references />--> == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author1=L.D.ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|author2=E.M.リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=力学 |publisher=[[東京図書出版]] |series=[[理論物理学教程]] |year=1974 |isbn=4-489-01160-1 }} * {{Cite book|和書 |author=江沢洋|authorlink=江沢洋 |title=解析力学 |publisher=[[培風館]] |series=新物理学シリーズ |year=2007 |isbn=978-4-563-02436-9 }} == 関連項目 == *[[変分原理]] *[[シンプレクティック幾何学]] - [[ハミルトンベクトル場]] *[[ハミルトン場の理論]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はみるとんりきかく}} [[Category:ハミルトン力学|*]] [[Category:ウィリアム・ローワン・ハミルトン]] [[Category:物理学のエポニム]]
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雪見野ユキオ
雪見野 ユキオ(ゆきみの ユキオ、 - )は、日本の漫画家。神奈川県鎌倉市出身。主に成人向けのストーリー漫画を執筆している。 1995年、東京三世社の成人向け雑誌であった『コットンコミック』5月号にて『放課後のぴゅっ!』でデビュー。以降同社の成人向け雑誌を中心に作品を発表している。コラムなども執筆していた。『コットンコミック』では1996年後半から2000年前半までてぃるよし、走為上らと共に3ヶ月に1回のペースで表紙イラストを担当していた。 他に小説の挿絵を担当した作品もある。またいくつかの作品は台湾、アメリカでも出版されている。 東京三世社から発行されています。 東京三世社のグループ会社であるフロム出版から発行されています。 キニナルキモチというタイトルで全4話製作された。Vol.4のみスタッフが異なり絵柄や描写も他の3話と異なるものとなっている。(後述のスタッフなどはVol.1~Vol.3まで該当。)
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雪見野 ユキオは、日本の漫画家。神奈川県鎌倉市出身。主に成人向けのストーリー漫画を執筆している。
'''雪見野 ユキオ'''(ゆきみの ユキオ、 - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[鎌倉市]]出身。主に成人向けの[[ストーリー漫画]]を執筆している。 == 概要 == [[1995年]]、[[東京三世社]]の成人向け雑誌であった『コットンコミック』5月号にて『放課後のぴゅっ!』でデビュー。以降同社の成人向け雑誌を中心に作品を発表している。コラムなども執筆していた。『コットンコミック』では[[1996年]]後半から[[2000年]]前半まで'''てぃるよし'''、'''走為上'''らと共に3ヶ月に1回のペースで表紙イラストを担当していた。 他に小説の挿絵を担当した作品もある。またいくつかの作品は[[台湾]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも出版されている。 == 単行本作品リスト == <!-- 基本的に初版日順にソートしております --> === 成人指定単行本 === 東京三世社から発行されています。 * 街角フェロモン(1996年6月)ISBN 9784885709852 新装版 ISBN 978-4812605912 ※1 * 黒髪にいたずら(1997年8月)ISBN 9784812601020 * 股間にエクボ(1998年2月)ISBN 9784812601419 ※1 * 色白お嬢さん(1999年9月)ISBN 9784812604823 ※1、※2 * 爆乳道(2000年5月)ISBN 9784812605431 ※1 * セナカニシセン(2001年12月)ISBN 978-4812606827 === 非成人指定単行本 === 東京三世社のグループ会社であるフロム出版から発行されています。 * となりのあの子(2002年8月)ISBN 9784894471153 * キミのきまぐれ(2003年3月)ISBN 9784894471399 * キニナルキモチ(2003年7月)ISBN 9784894471450 * 恋色着信(2004年5月)ISBN 9784894471573 * 恋愛診断(2004年10月)ISBN 9784894471627 * ほおづえ天使(2006年6月)ISBN 9784894471832 * 恥じらいキッス(2007年11月)ISBN 9784894472570 ※1 アメリカにて出版。 ※2 台湾にて出版。 == イラスト担当作品 == * 邪神伝説-美少女戦士茜(原作:石動彰([[蒼竜社]]))カバー絵と作中イラスト担当 * 美少女戦士と白い狼(原作:深町薫(蒼竜社))カバー絵と作中イラスト担当 == アニメ関連 == キニナルキモチというタイトルで全4話製作された。Vol.4のみスタッフが異なり絵柄や描写も他の3話と異なるものとなっている。(後述のスタッフなどはVol.1~Vol.3まで該当。) ;アニメ :*キニナルキモチ Vol.1 妄想エレベーター :*キニナルキモチ Vol.2 箱詰め奥さん :*キニナルキモチ Vol.3 痴漢ブラ :*キニナルキモチ Vol.4 夕暮れ給湯室 ;スタッフ :*原作 - 株式会社フロム出版 ベルコミックス刊 雪見野ユキオ「キニナルキモチ」 :*監督 - 矢部良勝 :*コンテ - 樽一平、亜沖 :*演出 - 今川蒼二 :*作画監督 - タオ・ミン :*パッケージ - 拷問侍 :*色彩設計 - 宮元俊行 :*美術・背景 - 横瀬直人 :*音響・効果・音響制作 - lip on hip :*撮影・編集 - デジタルギア :*制作:schoolzone ;キャスト :*沢田梨花子 - 一宮 桜 :*男・客B - 安藤正輝 :*支配人 - 吉川作創 :*客・客C - ミノベサトル :*奥さん - 一宮 桜/男:吉川作創 :*葉子 - かわの亜衣 :*鏡子 - 福元コヒロ :*A子 - 細田なな :*男A - 五反田正人 :*男B - 神森伸臣 :*男C - 出辞目権蔵 :*男 - 真島隆司 :*その他 - 中瀬ひな、忍、高橋一休、所塚青斧、内匠屋 == 関連項目 == * [[東京三世社]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20131108100711/http://yukimino.com:80/index.htm 爆乳道] - 本人公式ページ。 * [http://yukimino.blog88.fc2.com 街角フェロモン] * [https://twitter.com/yukimino_bot YUKIMINO YUKIO] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ゆきみの ゆきお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:成人向け漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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弓月光
弓月 光(ゆづき ひかる、本名:西村 司、1949年12月5日 - )は、日本の漫画家。男性。高知県吾川郡伊野町(現・いの町)出身。淳心学院高等学校卒業。 1968年(昭和43年)に第1回りぼん新人漫画賞で準入選してデビュー。集英社の雑誌を主として少女漫画・少年漫画・青年漫画と幅広く活動する。代表作に『ボクの初体験』・『エリート狂走曲』・『みんなあげちゃう♡』など。『グランドジャンプ』誌上において「甘い生活 2nd season」および「瞬きのソーニャ」を連載中。日本漫画家協会の参与を務めている。 淳心学院高等学校3年の時に『まんが王』(秋田書店)と『少年』(光文社)の新人賞に応募、佳作に入賞し、『少年』に応募したものについては付録に掲載されている。 神戸大学受験に失敗して大学進学を断念し、漫画家となる。 1968年、男子校の級友に知られないようにと弓月光というペンネームを作った上で第1回りぼん新人漫画賞に応募し、準入選してデビュー。同賞での同期受賞者に、一条ゆかり、もりたじゅん(本宮ひろ志夫人)がいる。 『りぼん』『週刊マーガレット』での少女漫画、『月刊少年ジャンプ』などでの少年漫画、『週刊ヤングジャンプ』『ビジネスジャンプ』での青年漫画と、舞台を移すとともにテーマも変えて長期に渡り最前線で活躍している。作品はコメディ系が主体。 また、早くからMacintoshでのCG描画やパソコン通信を積極的に活用していた。その縁かFM-TOWNS版『ザックマックラッケン』のパッケージのアートデザインを担当した。 過去に著作2作品が有害図書指定を受け発売禁止となっているが、逆に発奮材料になり『甘い生活』の長期連載につながっている。 2019年時点で、単行本の総発行部数は約4000万部に達する。 発行は特記のない限り全て集英社より。レーベルについては以下の略号を用いる。 RMC:りぼんマスコットコミックス / MC:マーガレットコミックス / SGC:集英社ガールズコミックス / JC:ジャンプ・コミックス / JCS:ジャンプコミックスセレクション(発行:ホーム社、発売:集英社) / JSC:ジャンプスーパーコミックス(発行:創美社、発売:集英社) / YJC:ヤングジャンプ・コミックス / YJCS:ヤングジャンプコミックスセレクション(発行:ホーム社、発売:集英社) / SMB:集英社漫画文庫 / SBC:集英社文庫コミック版
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弓月 光は、日本の漫画家。男性。高知県吾川郡伊野町(現・いの町)出身。淳心学院高等学校卒業。 1968年(昭和43年)に第1回りぼん新人漫画賞で準入選してデビュー。集英社の雑誌を主として少女漫画・少年漫画・青年漫画と幅広く活動する。代表作に『ボクの初体験』・『エリート狂走曲』・『みんなあげちゃう♡』など。『グランドジャンプ』誌上において「甘い生活 2nd season」および「瞬きのソーニャ」を連載中。日本漫画家協会の参与を務めている。
{{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 弓月 光 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 西村 司<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、411頁</ref><ref name="nyumon">弓月光『弓月光の少女まんが家入門』集英社、1985年7月、pp101-174。</ref> |生年 = {{生年月日と年齢|1949|12|5}}{{R|mangaseek|nyumon}} |生地 = [[高知県]][[吾川郡]][[伊野町]]{{R|mangaseek|nyumon}} |没年 = |没地 = |国籍 = <!-- {{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}} --> |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1968年]](昭和43年) - |ジャンル = [[少女漫画]]、[[少年漫画]]、[[青年漫画]] |代表作 = * [[ボクの初体験]] * [[エリート狂走曲]] * [[みんなあげちゃう|みんなあげちゃう&#9825;]]{{R|mangaseek}} * [[甘い生活 (漫画)|甘い生活]] |受賞 = 第1回りぼん新人漫画賞・準入賞 |サイン = |公式サイト = [https://yuzukihikaru.com/ YUZUKI HIKARU OFFICIAL WEB SITE] }} '''弓月 光'''(ゆづき ひかる、本名:西村 司{{R|mangaseek|nyumon}}、[[1949年]][[12月5日]]{{R|mangaseek|nyumon}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[高知県]][[吾川郡]][[伊野町]](現・[[いの町]])出身{{R|mangaseek|nyumon}}。[[淳心学院中学校・高等学校|淳心学院高等学校]]卒業{{R|mangaseek|nyumon}}。 [[1968年]](昭和43年)に第1回りぼん新人漫画賞で準入選してデビュー{{R|nyumon}}。[[集英社]]の雑誌を主として[[少女漫画]]・[[少年漫画]]・[[青年漫画]]と幅広く活動する。代表作に『[[ボクの初体験]]』・『[[エリート狂走曲]]』・『[[みんなあげちゃう|みんなあげちゃう&#9825;]]』など{{R|mangaseek}}。『[[グランドジャンプ]]』誌上において「[[甘い生活 (漫画)|甘い生活 2nd season]]」および「[[瞬きのソーニャ]]」を連載中{{Efn2|name="date"|2023年5月現在}}。[[日本漫画家協会]]の参与を務めている。 == 経歴・人物 == 淳心学院高等学校3年の時に『[[まんが王]]』([[秋田書店]])と『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])の新人賞に応募、佳作に入賞し、『少年』に応募したものについては付録に掲載されている{{R|nyumon}}。 [[神戸大学]]受験に失敗して大学進学を断念し、漫画家となる{{R|nyumon}}。 1968年、男子校の級友に知られないようにと弓月光というペンネームを作った上で第1回りぼん新人漫画賞に応募し<ref>{{Cite tweet|user=h_yuzuki |number=1479717578952298498 |title=りぼんの第一回新人漫画賞に応募する際に |accessdate=2022-10-24}}</ref>、準入選してデビュー{{R|nyumon}}。同賞での同期受賞者に、[[一条ゆかり]]、[[もりたじゅん]]([[本宮ひろ志]]夫人)がいる。 『[[りぼん]]』『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』での[[少女漫画]]、『[[月刊少年ジャンプ]]』などでの[[少年漫画]]、『[[週刊ヤングジャンプ]]』『[[ビジネスジャンプ]]』での[[青年漫画]]と、舞台を移すとともにテーマも変えて長期に渡り最前線で活躍している。作品はコメディ系が主体。 また、早くから[[Macintosh]]での[[2次元コンピュータグラフィックス|CG]]描画や[[パソコン通信]]を積極的に活用していた。その縁か[[FM-TOWNS]]版『ザックマックラッケン』のパッケージのアートデザインを担当した。 過去に著作2作品が有害図書指定を受け発売禁止となっているが、逆に発奮材料になり『甘い生活』の長期連載につながっている<ref>{{Cite web|和書|title=エロティックコメディの元祖、漫画家・弓月 光インタビュー「50年間、自分の頭の中にあるかわいい女のコをひたすら描いてきただけなんです」 - エンタメ - ニュース|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2019/05/23/108922/|website=週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]|date=2019-05-23|accessdate=2019-06-27|language=ja}}</ref>。 2019年時点で、単行本の総発行部数は約4000万部に達する<ref>[https://www.sanspo.com/article/20190913-54FD4VOMENKKLOSTKPNOSZQB2I/ 「甘い生活」弓月光氏、50年の漫画家人生で手にした巨額印税を告白]、[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]、2019年9月13日。</ref>。 == 単行本リスト == 発行は特記のない限り全て集英社より。レーベルについては以下の略号を用いる。 {{small|'''RMC''':[[りぼんマスコットコミックス]] / '''MC''':[[マーガレットコミックス]] / '''SGC''':集英社ガールズコミックス / '''JC''':[[ジャンプ・コミックス]] / '''JCS''':ジャンプコミックスセレクション(発行:ホーム社、発売:集英社) / '''JSC''':[[ジャンプ・コミックス#ジャンプスーパーコミックス|ジャンプスーパーコミックス]](発行:創美社、発売:集英社) / '''YJC''':[[ヤングジャンプ・コミックス]] / '''YJCS''':ヤングジャンプコミックスセレクション(発行:ホーム社、発売:集英社) / '''SMB''':集英社漫画文庫 / '''SBC''':[[集英社文庫]]コミック版}} * にくいあんちきしょう(1970年、RMC全2巻) ** ワイド版(1995年、JSC全1巻) * [[これでも奥様]](1971年、RMC全1巻) * どろん(1972年、RMC全1巻) * おでんグツグツ(1973年、RMC全1巻) * 新婚は甘くない(1973年、RMC全1巻) * [[出発シンコー!]](1974年、RMC全1巻) * ナオミあ・ら・かると(1976年、RMC全1巻) * [[ボクの初体験]](1976年、MC全3巻) ** ワイド版(1995年、JSC全2巻) ** 文庫版(SBC全2巻) * [[変人クラブ]](MC全2巻) ** ワイド版(1995年、JSC全1巻) * [[エリート狂走曲]](1978年、MC全7巻) ** ワイド版(1995年、JSC全4巻) ** 文庫版(2001年 - 2002年、SBC全4巻) * [[おたすけ人走る!!]](1980年、MC全3巻) * 不作法な関係(1978年、SMB全1巻) * ラクラクBF獲得法(1979年、SMB全1巻) * うっふんレポート(1980年、SMB全1巻) * 手術しちゃうから!(1981年、SMB全1巻) * [[おちこぼれ忍法帖]](1981年、MB全2巻) * [[ホールドアップ!]](原作:[[武論尊]])(1982年、MC全4巻) * トラブル急行(エクスプレス)(1983年、MC全2巻) ** ワイド版(1995年、JSC全2巻) * エイリアン1/2(1983年、MC全1巻) * 白い変人たち(1983年、MC全1巻) * [[ボクの婚約者]](1983年、JC全7巻) ** ワイド版(JCS全4巻) ** 文庫版(2002年 - 2003年、SBC全5巻) * [[みんなあげちゃう|みんなあげちゃう&#9825;]](1983年、YJC全19巻) ** ワイド版(1994年 - 1995年、YJCS全11巻) ** 文庫版(2008年 - SBC全13巻) * [[天使のような悪魔チャン]](1984年、SMB全1巻) * 弓月光の少女まんが家入門(1984年、SBC全1巻) * [[まじだよ!!]](1988年、JC全2巻)(原作:[[武論尊]]) * リトルビッグママ(1988年、YJC全2巻) * [[シンデレラ・エクスプレス (漫画)|シンデレラエクスプレス]](1989年、YJC全4巻) * 不作法な関係・ラクラクBF獲得法(1989年、SGC全1巻) * [[HOT STUFF]](1990年、YJC全1巻) * [[甘い生活 (漫画)|甘い生活]](1990年 - 2011年、YJC、全40巻) ** 文庫版(2007年 - 2008年、SBC:全12巻) ** 『[[ビジネスジャンプ]]』の廃刊ならびに『グランドジャンプ』へ連載誌の移籍に伴い『甘い生活 2nd season』に改題 * 弓月光のお仕事 〜40th anniversary BOX〜(2008年、ビジネスジャンプ愛蔵版コミックス、3冊組) * めたボリカ(2008年、YJC全1巻) * [[瞬きのソーニャ]] (2012年 - 、ヤングジャンプコミックスGJ、既刊3巻{{Efn2|name="date"}}) * 甘い生活 2nd season(2012年 - 、ヤングジャンプコミックスGJ、既刊16巻{{Efn2|name="date"}}) == ゲーム == *ザックマックラッケン (FM-TOWNS版パッケージ) *[[ラブクエスト]] (キャラクターデザイン) *ヴァージン・ドリーム (キャラクターデザイン) == その他 == * [[トリビアの泉]]「[[清少納言]]は股間を丸出しにして女であることを証明した事がある」(2004年3月24日放送分、VTR中の再現イラスト提供) == 関連人物 == === アシスタント === * [[宮のぶなお]]{{R|nyumon}} === その他 === ; [[一条ゆかり]] : 互いのデビューのきっかけとなったりぼん新人賞以来の友人。新人の頃には互いに互いの[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めたこともあり、弓月が一条の元に一ヶ月程居候するなど友人として深い交流があった。<ref>「デビュー40周年記念 同期対談:弓月光×一条ゆかり 完全版」『弓月光のお仕事 〜40th anniversary BOX〜 1 甘い生活 FAN BOOK』2008年6月24日初版発行、{{ISBN2|978-4-08-782174-1}}、167 - 174頁</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://yuzukihikaru.com/ YUZUKI HIKARU OFFICIAL WEB SITE] - 公式サイト * {{twitter|h_yuzuki}} * {{facebook|yuzuki.hikaru.5}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ゆつき ひかる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:高知県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
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ゆでたまご
ゆでたまごは、日本の漫画家ユニット。嶋田 隆司(しまだ たかし)と中井 義則(なかい よしのり)の合同ペンネームである。 ともに私立初芝高等学校卒業。10代で『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載デビュー。代表作には、『キン肉マン』『キン肉マンII世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを集英社のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。 設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特にプロレス・格闘技を題材としたギャグ漫画がメインである。 原作担当。1960年10月28日生まれ。大阪府大阪市西淀川区出身。1984年頃までは父方姓の金山 隆司(かねやま たかし)だったが、父親の死去を機に母方の「嶋田」に改姓。『キン肉マン』5話には新聞記事に「金山たかし逮捕」という小ネタが挿入されている。左利きであり、ゲスト出演した時代劇『必殺仕事人V』においては投球、食事(箸)も左で行っていた。『キン肉マン』は嶋田が中井に出会う前から大学ノートに描いていたものが元になっている。 映画の試写会などイベントや、インタビューなどメディアへの露出は嶋田のみであることが多い。単行本の著者近影でも遊んでいる写真がよく選ばれるなど、執筆以外の露出が多く、読者からは「仕事しないほうのゆで」などと揶揄されることがある。 少年時代はやんちゃで、幼稚園では女の子にキスをせまるなどませた子供だったが、近所の子供の寄り合いなどは嫌いだったという。その頃から絵を見ただけで作者の名前が分かったり、目をつぶってインクの匂いを嗅いだだけで雑誌名を特定したりと、相当の漫画好きであった。 高校では女の子目当てにデザイン科希望の中井を置いて商業科を希望したが、実際に入ってみると女子の入科は0人であった。そればかりか尖った耳から不良生徒のいじめの対象になり、ある日「宇宙人」と馬鹿にされて喧嘩に発展、電車で拉致されそうになったが、停車の隙に「イエーイ!」と相手を挑発して逃げ帰ったというエピソードがある。報復を恐れて中退しようと一度は思ったが、我慢すれば通い続けられると母に説得されて学業を継続することにした。そうすると割と友達ができ、プロレスが好きな柔道部の友達がいじめから守ってくれるようになった。 テレビ好きで、好きな番組は『プレイガール』。2007年12月8日に15歳年下の女性と結婚した。 2012年末、左太ももにインスタントラーメンをこぼし、火傷を負った。その際に合併症を併発し、全治6か月の重症になった。「火傷を甘く見ていた。引退も考えた」などとSNS上で述べた。 2023年10月、 変形性膝関節症手術のため入院、復帰まで『キン肉マン』は休載となった。 作画担当。1961年1月11日生まれ。大阪府大阪市浪速区出身。1981年頃までは父方姓を名乗っていたため岩元 義則(いわもと よしのり)だったが、成人したことを機に母方の「中井」に改姓。 ゆでたまごのプロダクション、スタジオ・エッグ代表。出不精であると本人は述べている。 小学校入学前からの熱烈な野球少年で、将来の夢はプロ野球選手だった。また、プロレスラーにもなりたかったという。絵を描くことが好きだったが、漫画は嶋田に出会うまではあまり読んだことがなかった。21歳の時に結婚し、長女・長男・次男の3子がいる。長男の中井光義はお笑い芸人(芸名なまたまご)を経て、プロレスラー、総合格闘家として活動。 デビュー当初はまだ画力に乏しかったため、『キン肉マン』の連載開始からしばらくの間は、『ジャンプ』の表紙を飾るキン肉マンの絵をイラストレーターに代行されてしまった。 長男の光義からは「真面目で前向きな人」と評されており、50歳を過ぎても画力の更なる向上のために正体を隠して絵画教室に通っているという。光義がプロレスラーを目指すことにも、かつて自身が同じ道を進みたかったため好意的だった。 現在はキャラクターの作画・造形にソフトウェアのPoserで制作した3Dモデルを骨組みとして使用しており、『キン肉マン』における超人の筋肉の描写は『ジャンプ』連載時代と比べて写実性が増し、また立体的になっている。顔の輪郭も身体つきとのバランスを重視し『ジャンプ』時代と比べて細長めに描いている。 高校時代は、いじめられっ子だった嶋田とは対照的に番長として一目置かれ、女の子にもモテモテであったという。 「どんなペンネームが良いかと考えている際に、嶋田が放屁したらゆで卵のような臭いがしたため、それでいいかと思い決まった」とする中井説と、「ペンネームを考えている時に食べていたものが、ゆで卵だったので『ゆでたまご』になった」とする嶋田説がある。2人とも記憶が曖昧でどちらが正しいのかは不明だが、嶋田は後のインタビュー中に中井説の方を認めている。 赤塚賞の授賞式の際、審査員がペンネームについて尋ねたところ、嶋田が「ゆでたま」で中井が「ご」と説明されたとしている。だが、『週刊少年ジャンプ』の目次の作者コメント欄では嶋田が「ゆで」中井が「たまご」と表記されていた。1982年(昭和57年)9号のグラビアページ企画「作者手相」では「ゆでたま」と「ご」となっている。 小学4年生の3学期(1971年)、嶋田の通う大阪市立住之江小学校に中井が転入する。クラスは違ったが同じ団地に住んでおり、通学バスで時々乗り合わせる内に知り合った。小学5年生の時に中井が嶋田の家に遊びに行った際、嶋田の描いた『キン肉マン』を気に入り意気投合した。 ともに大阪市立南稜中学校に進み、当時『週刊少年チャンピオン』で連載中だった藤子不二雄Aの『まんが道』の影響を受け漫画の合作を本格的に開始する。最初に描いたのがバトルアクション漫画『野獣の牙』で、これを始めとして野球、空手、純愛など様々なジャンルに挑戦する。当初は大学ノートにお互いが描き合うという形だったが、中学2年で『ラーメン屋のトンやん』を初めてペンで描き、これが近鉄漫画賞に入賞する。当時のペンネームは2人の名前を合わせた本山たか義(もとやま たかよし)。自作の漫画をクラスメイトに読ませていたが、嶋田が2019年頃にFacebookを通じて約45年ぶりに再会した中学時代の友人は、「漫画の感想を言わないと怒るから、感想を求められるのがプレッシャーだった」と苦笑していたという。 二人とも勉強は全く力を入れていなかったため、当時落ちこぼれと不良の巣窟であった私立初芝高等学校に揃って進学。漫画家になることを目標に投稿を続けた。この頃から原作と作画をそれぞれ嶋田と中井が分担し始める。2人とも母子家庭で、高校を卒業すると就職のために漫画を描けなくなるということから、高校卒業までに漫画家になるという目標を持っていた。16歳の時、赤塚賞に『ゴングですよ』、手塚賞に『マンモス』(共にプロレス漫画)を投稿するも選外、しかし担当編集者がつくこととなった。 1978年、『キン肉マン』で第9回赤塚賞準入選し、これが『週刊少年ジャンプ』1979年2号(1978年12月)に掲載されデビューとなった。編集部内では稚拙な作品と評判が良くなかったが、当時の編集長・西村繁男は、低年齢向け漫画としての資質があることを見抜いており、担当の中野和雄と大阪まで出向いてスカウトした。この時2人は既に就職が決まっていたが、「漫画が続かなかったら就職の世話をする」と西村が2人の親を説得し、東京にアパートまで用意したという。2010年代後半の日本の社会では漫画家というと家族も雑誌のパーティに一緒に出席してくれるほど理解された職業となっているが、当時は水商売扱いであり中井も嶋田も両親が猛反対していたため、西村が説得に成功するまで大変苦労したという。 1979年5月、2人の高校卒業を待って、『キン肉マン』が『週刊少年ジャンプ』で連載開始。初期はプロレスネタを交えたギャグ漫画だったが、途中からバトル重視のプロレス漫画に路線変更、大ヒットとなり、TVアニメーションも展開される。劇場用アニメーション作品も何本か作られた。また、作中に登場する「超人」をかたどった消しゴム人形「キン肉マン消しゴム(キン消し)」集めが子供達の間で流行した。 1982年に『週刊少年ジャンプ』の別冊『フレッシュジャンプ』で、『キン肉マン』に登場する人気キャラクターのラーメンマンを主人公としたスピンオフ作品『闘将!!拉麵男』を『キン肉マン』との同時進行で連載開始。TVアニメ化もされた。 1985年には吉本新喜劇(当時)の高石太とともに『必殺仕事人V』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。 1985年3月、第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞(『キン肉マン』)。 『キン肉マン』終了後は、格闘漫画以外のジャンルを模索しながらもこれといったヒットが出ない冬の時代が続き、1990年代半ばになると世間からは過去の人と扱われた。『蹴撃手マモル』終了後、都合良く読み切りばかり書かされる状況に中井が飼い殺しを恐れるようになり、集英社との専属契約を解消したが、この頃嶋田は吉祥寺を歩いていたら通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒されて頭を叩かれる経験をした。 そんな中、1996年1月に『キン肉マン』の後日談となる読み切り『マッスル・リターンズ』が『格闘エース』に掲載された。角川書店は『キン肉マン』の権利関係から集英社に確認を取ったが、集英社はあっさりと許可した。ただ、ゆでたまごが作品を少年ジャンプで書きたいと申し出ると集英社はその必要はないと断った。悔しさに燃えるゆでたまごであったが『マッスル・リターンズ』への反響は大きく、『キン肉マン』シリーズの続編連載の機運が高まった。 そうして1997年に『週刊プレイボーイ』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『キン肉マンII世』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌1998年より連載となる。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。 2004年、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。 2007年に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。 2008年には生誕29(ニク)周年を記念し『週刊少年ジャンプ』29号に復活掲載、記念本『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』、画集『筋肉画廊』、アニメDVD『キン肉マン コンプリート DVD-BOX』が発売され、イベントも2月に新宿バルト9で『キン肉マン映画祭』、6月に秋葉原の東京アニメセンターイベントギャラリーで『キン肉マン展』、12月にはさいたまスーパーアリーナで開催された『Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜』にキン肉万太郎が出場、ボブ・サップと対戦し、敗れはしたものの瞬間最高視聴率18.1%を記録した。 2009年には生誕30周年を迎え、5月29日にJCBホールでプロレス興行『キン肉マニア2009』を開催。キン肉マンや超人達が実際に試合を見せ話題となる。2010年1月29日には22年振りのジャンプ・コミックス新刊『キン肉マン』37巻が発売された。発売記念のサイン会が紀伊国屋書店で開催され、用意された整理券は30分で配布終了となるなど変わらぬ人気を見せた。 2011年5月9日より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。 2011年11月28日より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。 ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が上げられる。 これは『キン肉マン』連載デビュー当時、作品作りのイロハを理解しておらず、右も左も分からない状態で執筆していたことが原因であるという。そのため周囲からは破綻が多い、いい加減な作品だと随分非難を受けて、ゆでたまご自身一時期大変落ち込んだことを明かしている。しかし読者からは高い支持を受けていたことと、当時は車田正美など同様の作風の作家がいたことなどを理由に自信を取り戻し、以後ゆでたまごの作風として定着させた。その後はストーリーの統合性などは二の次として、読者の度肝を抜く展開を心がけ、毎週締め切り過ぎまでアイディアを粘るため、原稿が完成するのが連載作家の中で1、2を争うほど遅くなったという。 嶋田はインタビューなどで「細かい設定にこだわっていると、結果としてつまらなくなってしまう」「ツッコミ所が多い方が、読者が親近感を持ってくれる」と述べている。また、誤植や作画のミスに関しても、ゆでたまご自身少年時代に読んだ漫画のあら捜しをして楽しんでいた思い出もあるので、指摘があってもあえて修正していない部分もあると語っている。後付け設定もたくさんあり、後になり整合性が取れていなかったり辻褄が合わなくなることがよくあるが、そういう整合性のない部分を読者があとで、あれこれ議論したり推理する材料になればいいと思っているから、単行本化されるときも、あえて修正したりはしていないと語っている。 これらのこと(例:7人の悪魔超人が8人いた等)をファンからは「ゆで理論」と呼ばれている。 代表作の『キン肉マン』を始め、ゆでたまごの作品では登場人物などを読者から募集するのが通例となっている。『キン肉マン』の主要キャラクターであるロビンマスクやラーメンマンなども読者応募によるものであり、中井はファンを「3人目のゆでたまご」であると語っている。 ゆでたまごが『キン肉マン』でデビューして間もない頃、読者からのファンレターが来ても返事を書く余裕がなく、担当編集者の中野和雄の発案で、読者の考案した怪獣を漫画に登場させ、主人公のキン肉マンと戦わせることで読者に応えようとした。反響は大きく、のちに作品が怪獣退治からプロレス主体になると「超人募集」として企画は継続され、当初数十通だった応募は回を重ねるごとに数百通・数千通と増えていった。あまりの葉書の量に、当時の嶋田の下宿は床が抜け、引越しを余儀なくされた。 応募作品の選考にあたって、ゆでたまごは極力低年齢の子供のものを採用するようにしたという。ルービックキューブ(キューブマン)など当時の流行に基づいた超人を採用すると、以降は時事や流行を反映した超人が多く応募されるようになった。 やがて『キン肉マン』は読者参加型の流れが出来上がり、『ゆうれい小僧がやってきた!』の「妖怪募集」、『トータルファイターK』の「カオの対戦相手募集」などに続いていく。この方式はゆでたまごの作風として読者に認知され、募集告知を全くせずに新連載を始めても登場キャラクターの応募が送られてくるほどになった。『キン肉マンII世』の開始にあたって行われた超人募集には10万通以上の応募があったと嶋田は述べる。 超人募集は読者を対象としたもの以外にも、『キン肉マン 77の謎』などのムックで他の漫画家や芸能人・格闘家が新超人を考案する企画が数度行われている。テレビ番組『アメトーーク!』の「キン肉マン芸人」の回では、お笑い芸人たちが新超人を考案し、ゆでたまごに選考してもらう企画が催された。 各作品の詳細については当該記事を参照。番号は発表順、年は発表年。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌および単行本については以下の略号を用いる。 番号は発表順、年は発表号・年月等。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌については以下の略号を用いる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゆでたまごは、日本の漫画家ユニット。嶋田 隆司(しまだ たかし)と中井 義則(なかい よしのり)の合同ペンネームである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ともに私立初芝高等学校卒業。10代で『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載デビュー。代表作には、『キン肉マン』『キン肉マンII世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを集英社のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特にプロレス・格闘技を題材としたギャグ漫画がメインである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "原作担当。1960年10月28日生まれ。大阪府大阪市西淀川区出身。1984年頃までは父方姓の金山 隆司(かねやま たかし)だったが、父親の死去を機に母方の「嶋田」に改姓。『キン肉マン』5話には新聞記事に「金山たかし逮捕」という小ネタが挿入されている。左利きであり、ゲスト出演した時代劇『必殺仕事人V』においては投球、食事(箸)も左で行っていた。『キン肉マン』は嶋田が中井に出会う前から大学ノートに描いていたものが元になっている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "映画の試写会などイベントや、インタビューなどメディアへの露出は嶋田のみであることが多い。単行本の著者近影でも遊んでいる写真がよく選ばれるなど、執筆以外の露出が多く、読者からは「仕事しないほうのゆで」などと揶揄されることがある。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "少年時代はやんちゃで、幼稚園では女の子にキスをせまるなどませた子供だったが、近所の子供の寄り合いなどは嫌いだったという。その頃から絵を見ただけで作者の名前が分かったり、目をつぶってインクの匂いを嗅いだだけで雑誌名を特定したりと、相当の漫画好きであった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "高校では女の子目当てにデザイン科希望の中井を置いて商業科を希望したが、実際に入ってみると女子の入科は0人であった。そればかりか尖った耳から不良生徒のいじめの対象になり、ある日「宇宙人」と馬鹿にされて喧嘩に発展、電車で拉致されそうになったが、停車の隙に「イエーイ!」と相手を挑発して逃げ帰ったというエピソードがある。報復を恐れて中退しようと一度は思ったが、我慢すれば通い続けられると母に説得されて学業を継続することにした。そうすると割と友達ができ、プロレスが好きな柔道部の友達がいじめから守ってくれるようになった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "テレビ好きで、好きな番組は『プレイガール』。2007年12月8日に15歳年下の女性と結婚した。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2012年末、左太ももにインスタントラーメンをこぼし、火傷を負った。その際に合併症を併発し、全治6か月の重症になった。「火傷を甘く見ていた。引退も考えた」などとSNS上で述べた。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2023年10月、 変形性膝関節症手術のため入院、復帰まで『キン肉マン』は休載となった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "作画担当。1961年1月11日生まれ。大阪府大阪市浪速区出身。1981年頃までは父方姓を名乗っていたため岩元 義則(いわもと よしのり)だったが、成人したことを機に母方の「中井」に改姓。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ゆでたまごのプロダクション、スタジオ・エッグ代表。出不精であると本人は述べている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "小学校入学前からの熱烈な野球少年で、将来の夢はプロ野球選手だった。また、プロレスラーにもなりたかったという。絵を描くことが好きだったが、漫画は嶋田に出会うまではあまり読んだことがなかった。21歳の時に結婚し、長女・長男・次男の3子がいる。長男の中井光義はお笑い芸人(芸名なまたまご)を経て、プロレスラー、総合格闘家として活動。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "デビュー当初はまだ画力に乏しかったため、『キン肉マン』の連載開始からしばらくの間は、『ジャンプ』の表紙を飾るキン肉マンの絵をイラストレーターに代行されてしまった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "長男の光義からは「真面目で前向きな人」と評されており、50歳を過ぎても画力の更なる向上のために正体を隠して絵画教室に通っているという。光義がプロレスラーを目指すことにも、かつて自身が同じ道を進みたかったため好意的だった。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在はキャラクターの作画・造形にソフトウェアのPoserで制作した3Dモデルを骨組みとして使用しており、『キン肉マン』における超人の筋肉の描写は『ジャンプ』連載時代と比べて写実性が増し、また立体的になっている。顔の輪郭も身体つきとのバランスを重視し『ジャンプ』時代と比べて細長めに描いている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "高校時代は、いじめられっ子だった嶋田とは対照的に番長として一目置かれ、女の子にもモテモテであったという。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「どんなペンネームが良いかと考えている際に、嶋田が放屁したらゆで卵のような臭いがしたため、それでいいかと思い決まった」とする中井説と、「ペンネームを考えている時に食べていたものが、ゆで卵だったので『ゆでたまご』になった」とする嶋田説がある。2人とも記憶が曖昧でどちらが正しいのかは不明だが、嶋田は後のインタビュー中に中井説の方を認めている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "赤塚賞の授賞式の際、審査員がペンネームについて尋ねたところ、嶋田が「ゆでたま」で中井が「ご」と説明されたとしている。だが、『週刊少年ジャンプ』の目次の作者コメント欄では嶋田が「ゆで」中井が「たまご」と表記されていた。1982年(昭和57年)9号のグラビアページ企画「作者手相」では「ゆでたま」と「ご」となっている。", "title": "プロフィール" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "小学4年生の3学期(1971年)、嶋田の通う大阪市立住之江小学校に中井が転入する。クラスは違ったが同じ団地に住んでおり、通学バスで時々乗り合わせる内に知り合った。小学5年生の時に中井が嶋田の家に遊びに行った際、嶋田の描いた『キン肉マン』を気に入り意気投合した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ともに大阪市立南稜中学校に進み、当時『週刊少年チャンピオン』で連載中だった藤子不二雄Aの『まんが道』の影響を受け漫画の合作を本格的に開始する。最初に描いたのがバトルアクション漫画『野獣の牙』で、これを始めとして野球、空手、純愛など様々なジャンルに挑戦する。当初は大学ノートにお互いが描き合うという形だったが、中学2年で『ラーメン屋のトンやん』を初めてペンで描き、これが近鉄漫画賞に入賞する。当時のペンネームは2人の名前を合わせた本山たか義(もとやま たかよし)。自作の漫画をクラスメイトに読ませていたが、嶋田が2019年頃にFacebookを通じて約45年ぶりに再会した中学時代の友人は、「漫画の感想を言わないと怒るから、感想を求められるのがプレッシャーだった」と苦笑していたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "二人とも勉強は全く力を入れていなかったため、当時落ちこぼれと不良の巣窟であった私立初芝高等学校に揃って進学。漫画家になることを目標に投稿を続けた。この頃から原作と作画をそれぞれ嶋田と中井が分担し始める。2人とも母子家庭で、高校を卒業すると就職のために漫画を描けなくなるということから、高校卒業までに漫画家になるという目標を持っていた。16歳の時、赤塚賞に『ゴングですよ』、手塚賞に『マンモス』(共にプロレス漫画)を投稿するも選外、しかし担当編集者がつくこととなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1978年、『キン肉マン』で第9回赤塚賞準入選し、これが『週刊少年ジャンプ』1979年2号(1978年12月)に掲載されデビューとなった。編集部内では稚拙な作品と評判が良くなかったが、当時の編集長・西村繁男は、低年齢向け漫画としての資質があることを見抜いており、担当の中野和雄と大阪まで出向いてスカウトした。この時2人は既に就職が決まっていたが、「漫画が続かなかったら就職の世話をする」と西村が2人の親を説得し、東京にアパートまで用意したという。2010年代後半の日本の社会では漫画家というと家族も雑誌のパーティに一緒に出席してくれるほど理解された職業となっているが、当時は水商売扱いであり中井も嶋田も両親が猛反対していたため、西村が説得に成功するまで大変苦労したという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1979年5月、2人の高校卒業を待って、『キン肉マン』が『週刊少年ジャンプ』で連載開始。初期はプロレスネタを交えたギャグ漫画だったが、途中からバトル重視のプロレス漫画に路線変更、大ヒットとなり、TVアニメーションも展開される。劇場用アニメーション作品も何本か作られた。また、作中に登場する「超人」をかたどった消しゴム人形「キン肉マン消しゴム(キン消し)」集めが子供達の間で流行した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1982年に『週刊少年ジャンプ』の別冊『フレッシュジャンプ』で、『キン肉マン』に登場する人気キャラクターのラーメンマンを主人公としたスピンオフ作品『闘将!!拉麵男』を『キン肉マン』との同時進行で連載開始。TVアニメ化もされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1985年には吉本新喜劇(当時)の高石太とともに『必殺仕事人V』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1985年3月、第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞(『キン肉マン』)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『キン肉マン』終了後は、格闘漫画以外のジャンルを模索しながらもこれといったヒットが出ない冬の時代が続き、1990年代半ばになると世間からは過去の人と扱われた。『蹴撃手マモル』終了後、都合良く読み切りばかり書かされる状況に中井が飼い殺しを恐れるようになり、集英社との専属契約を解消したが、この頃嶋田は吉祥寺を歩いていたら通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒されて頭を叩かれる経験をした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そんな中、1996年1月に『キン肉マン』の後日談となる読み切り『マッスル・リターンズ』が『格闘エース』に掲載された。角川書店は『キン肉マン』の権利関係から集英社に確認を取ったが、集英社はあっさりと許可した。ただ、ゆでたまごが作品を少年ジャンプで書きたいと申し出ると集英社はその必要はないと断った。悔しさに燃えるゆでたまごであったが『マッスル・リターンズ』への反響は大きく、『キン肉マン』シリーズの続編連載の機運が高まった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "そうして1997年に『週刊プレイボーイ』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『キン肉マンII世』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌1998年より連載となる。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2004年、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2007年に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2008年には生誕29(ニク)周年を記念し『週刊少年ジャンプ』29号に復活掲載、記念本『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』、画集『筋肉画廊』、アニメDVD『キン肉マン コンプリート DVD-BOX』が発売され、イベントも2月に新宿バルト9で『キン肉マン映画祭』、6月に秋葉原の東京アニメセンターイベントギャラリーで『キン肉マン展』、12月にはさいたまスーパーアリーナで開催された『Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜』にキン肉万太郎が出場、ボブ・サップと対戦し、敗れはしたものの瞬間最高視聴率18.1%を記録した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2009年には生誕30周年を迎え、5月29日にJCBホールでプロレス興行『キン肉マニア2009』を開催。キン肉マンや超人達が実際に試合を見せ話題となる。2010年1月29日には22年振りのジャンプ・コミックス新刊『キン肉マン』37巻が発売された。発売記念のサイン会が紀伊国屋書店で開催され、用意された整理券は30分で配布終了となるなど変わらぬ人気を見せた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2011年5月9日より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2011年11月28日より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が上げられる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "これは『キン肉マン』連載デビュー当時、作品作りのイロハを理解しておらず、右も左も分からない状態で執筆していたことが原因であるという。そのため周囲からは破綻が多い、いい加減な作品だと随分非難を受けて、ゆでたまご自身一時期大変落ち込んだことを明かしている。しかし読者からは高い支持を受けていたことと、当時は車田正美など同様の作風の作家がいたことなどを理由に自信を取り戻し、以後ゆでたまごの作風として定着させた。その後はストーリーの統合性などは二の次として、読者の度肝を抜く展開を心がけ、毎週締め切り過ぎまでアイディアを粘るため、原稿が完成するのが連載作家の中で1、2を争うほど遅くなったという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": 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ゆでたまごは、日本の漫画家ユニット。嶋田 隆司と中井 義則の合同ペンネームである。 ともに私立初芝高等学校卒業。10代で『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載デビュー。代表作には、『キン肉マン』『キン肉マンII世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを集英社のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。 設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特にプロレス・格闘技を題材としたギャグ漫画がメインである。
{{otheruses|キン肉マンなどで知られる漫画家コンビ|その他の用法|ゆでたまご (曖昧さ回避)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = ゆでたまご<br />(嶋田 隆司・中井 義則) | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = 嶋田 隆司(しまだ たかし)<br />{{生年月日と年齢|1960|10|28}}<br />{{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[西淀川区]]<br />中井 義則(なかい よしのり)<br />{{生年月日と年齢|1961|1|11}}<br />{{JPN}}・大阪府大阪市[[浪速区]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1978年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[ギャグ漫画]]<br />[[格闘漫画]] | 代表作 = 『[[キン肉マン]]』<br />『[[キン肉マンII世]]』<br />『[[闘将!!拉麺男|闘将!!拉麵男]]』 『[[ゆうれい小僧がやってきた!]]』など | 受賞 = [[1978年]]:第9回[[赤塚賞]]準入選(『[[キン肉マン]]』)<br />[[1985年]]:第30回(昭和59年度)[[小学館漫画賞]]受賞(『キン肉マン』) | 公式サイト = [http://www.yudetamago.jp/ ゆでたまご公式サイト] }} '''ゆでたまご'''は、[[日本]]の[[漫画家]]ユニット。'''嶋田 隆司'''(しまだ たかし)と'''中井 義則'''(なかい よしのり)の合同[[ペンネーム]]である。 ともに[[初芝立命館中学校・高等学校|私立初芝高等学校]]卒業。10代で『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])にて連載デビュー。代表作には、『[[キン肉マン]]』『[[キン肉マンII世]]』『[[闘将!!拉麺男|闘将!!拉麵男]]』『[[ゆうれい小僧がやってきた!]]』などがある<ref>「著者紹介」『生たまご』410頁。</ref>。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを[[集英社]]のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。 設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特に[[プロレス]]・[[格闘技]]を題材とした[[ギャグ漫画]]がメインである。 == プロフィール == === 嶋田隆司 === 原作担当。[[1960年]][[10月28日]]生まれ。[[大阪府]][[大阪市]][[西淀川区]]出身。[[1984年]]頃までは父方姓の'''金山 隆司'''(かねやま たかし)だったが、父親の死去を機に母方の「嶋田」に改姓。『キン肉マン』5話には新聞記事に「金山たかし逮捕」という小ネタが挿入されている。[[左利き]]であり、ゲスト出演した時代劇『[[必殺仕事人V]]』においては投球、食事(箸)も左で行っていた。『キン肉マン』は嶋田が中井に出会う前から大学ノートに描いていたものが元になっている。 映画の試写会などイベントや、インタビューなどメディアへの露出は嶋田のみであることが多い。単行本の著者近影でも遊んでいる写真がよく選ばれるなど、執筆以外の露出が多く、読者からは「仕事しないほうのゆで」などと揶揄されることがある<ref>{{Cite web|和書 |author=嶋田隆司 |date=2009-07-22 |url=http://pehlwansblog2.jugem.jp/?eid=1 |title=はじめまして &#124; Pehlwans / blog / TAKASHI SHIMADA |language=日本語 |accessdate=2010-04-24 }}</ref>。 少年時代はやんちゃで、幼稚園では女の子にキスをせまるなどませた子供だったが<ref name="nettou">週刊少年ジャンプ特別編集「浪花のド根性!! ゆでたまごサクセス・ストーリー」『キン肉マン熱闘スペシャル』集英社、1984年8月25日、雑誌29936-8/25、79-82頁。</ref>、近所の子供の寄り合いなどは嫌いだったという。その頃から絵を見ただけで作者の名前が分かったり、目をつぶってインクの匂いを嗅いだだけで雑誌名を特定したりと、相当の漫画好きであった。 高校では女の子目当てにデザイン科希望の中井を措いて商業科を希望したが、実際に入ってみると女子の入科は0人であった。そればかりか尖った耳から不良生徒のいじめの対象になり、ある日「宇宙人」と馬鹿にされて喧嘩に発展、電車で拉致されそうになったが、停車の隙に「イエーイ!」と相手を挑発して逃げ帰ったというエピソードがある。報復を恐れて中退しようと一度は思ったが、我慢すれば通い続けられると母に説得されて学業を継続することにした。そうすると割と友達ができ、プロレスが好きな柔道部の友達がいじめから守ってくれるようになった<ref name="dynamitekaminoge">東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.36-51</ref>。 テレビ好きで、好きな番組は『[[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]]』。[[2007年]][[12月8日]]に15歳年下の女性と結婚した。 [[2012年]]末、左太ももにインスタントラーメンをこぼし、火傷を負った。その際に合併症を併発し、全治6か月の重症になった<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-15|url=https://www.j-cast.com/tv/2013/02/15165622.html|title=「キン肉マン」ゆでたまご嶋田「ラーメンこぼして大やけど。合併症で一時危なかった」|publisher=j-castニュース|accessdate=2013-02-17}}</ref>。「火傷を甘く見ていた。引退も考えた」などとSNS上で述べた。 2023年10月、 変形性膝関節症手術のため入院、復帰まで『キン肉マン』は休載となった。 === 中井義則 === 作画担当。[[1961年]][[1月11日]]生まれ。[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]出身<ref>『生たまご』の著者紹介では[[西成区]]出身と記載されている</ref>。[[1981年]]頃までは父方姓を名乗っていたため'''岩元 義則'''(いわもと よしのり)だったが、成人したことを機に母方の「中井」に改姓。 ゆでたまごのプロダクション、スタジオ・エッグ代表。出不精であると本人は述べている。 小学校入学前からの熱烈な野球少年で、将来の夢は[[プロ野球選手]]だった。また、[[プロレスラー]]にもなりたかったという。絵を描くことが好きだったが、漫画は嶋田に出会うまではあまり読んだことがなかった。21歳の時に結婚し、長女・長男・次男の3子がいる<ref>『生たまご』233-235頁。</ref>。長男の[[中井光義]]はお笑い芸人(芸名なまたまご)を経て、[[プロレスラー]]、[[総合格闘家]]として活動。 デビュー当初はまだ画力に乏しかったため、『キン肉マン』の連載開始からしばらくの間は、『ジャンプ』の表紙を飾る[[キン肉スグル|キン肉マン]]の絵をイラストレーターに代行されてしまった。 長男の光義からは「真面目で前向きな人」と評されており、50歳を過ぎても画力の更なる向上のために正体を隠して絵画教室に通っているという<ref>{{Cite web|和書|title=【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第12話:『キン肉マン』ゆでたまごと西麻布の黒胡麻担々鍋 |url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/2299 |website=ぐるなび みんなのごはん |date=2015-05-21 |access-date=2023-02-12 |language=ja |last=mgohan_cn}}</ref>。光義がプロレスラーを目指すことにも、かつて自身が同じ道を進みたかったため好意的だった。 現在はキャラクターの作画・造形に[[ソフトウェア]]の[[Poser]]で制作した[[3次元コンピュータグラフィックス|3Dモデル]]を骨組みとして使用しており、『キン肉マン』における超人の[[筋肉]]の描写は『ジャンプ』連載時代と比べて写実性が増し、また立体的になっている。顔の輪郭も身体つきとのバランスを重視し『ジャンプ』時代と比べて細長めに描いている。 高校時代は、いじめられっ子だった嶋田とは対照的に番長として一目置かれ、女の子にもモテモテであったという<ref name="dynamitekaminoge"/>。 === ペンネームの由来 === 「どんなペンネームが良いかと考えている際に、嶋田が放屁したらゆで卵のような臭いがしたため、それでいいかと思い決まった」とする中井説と、「ペンネームを考えている時に食べていたものが、ゆで卵だったので『ゆでたまご』になった」とする嶋田説がある。2人とも記憶が曖昧でどちらが正しいのかは不明だが、嶋田は後のインタビュー<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/212873/2/ ゆでたまご嶋田先生が語るキン肉マン1 - [プロレス]All About]</ref>中に中井説の方を認めている。 赤塚賞の授賞式の際、審査員がペンネームについて尋ねたところ、嶋田が「ゆでたま」で中井が「ご」と説明されたとしている<ref>[[西村繁男]]「IV ヒット作の舞台裏 (4)一九七七年〜一九八〇年 マネーメイキング・システムの確立」 『まんが編集術』[[白夜書房]]、1999年4月25日、{{ISBN2|4-89367-595-8}}、209頁。</ref>。だが、『週刊少年ジャンプ』の目次の作者コメント欄では嶋田が「ゆで」中井が「たまご」と表記されていた。[[1982年]]([[昭和]]57年)9号のグラビアページ企画「作者手相」では「ゆでたま」と「ご」となっている。 == 来歴 == === 出会いからデビューまで === 小学4年生の3学期([[1971年]])、嶋田の通う[[大阪市立住之江小学校]]に中井が転入する。クラスは違ったが同じ団地に住んでおり、通学バスで時々乗り合わせる内に知り合った。小学5年生の時に中井が嶋田の家に遊びに行った際、嶋田の描いた『キン肉マン』を気に入り意気投合した<ref name="nettou" />。 ともに[[大阪市立真住中学校|大阪市立南稜中学校]]に進み、当時『[[週刊少年チャンピオン]]』で連載中だった[[藤子不二雄A]]の『[[まんが道]]』の影響を受け漫画の合作を本格的に開始する。最初に描いたのがバトルアクション漫画『野獣の牙』で、これを始めとして野球、空手、純愛など様々なジャンルに挑戦する。当初は大学ノートにお互いが描き合うという形だったが、中学2年で『ラーメン屋のトンやん』を初めてペンで描き、これが近鉄漫画賞に入賞する。当時のペンネームは2人の名前を合わせた'''本山たか義'''(もとやま たかよし)。自作の漫画をクラスメイトに読ませていたが、嶋田が2019年頃に[[Facebook]]を通じて約45年ぶりに再会した中学時代の友人は、「漫画の感想を言わないと怒るから、感想を求められるのがプレッシャーだった」と苦笑していたという<ref name="dynamitekaminoge" />。 二人とも勉強は全く力を入れていなかったため、当時落ちこぼれと不良の巣窟であった[[初芝立命館中学校・高等学校|私立初芝高等学校]]に揃って進学。漫画家になることを目標に投稿を続けた。この頃から原作と作画をそれぞれ嶋田と中井が分担し始める。2人とも母子家庭で、高校を卒業すると就職のために漫画を描けなくなるということから、高校卒業までに漫画家になるという目標を持っていた。16歳の時、[[赤塚賞]]に『ゴングですよ』、[[手塚賞]]に『マンモス』(共にプロレス漫画)を投稿するも選外、しかし担当編集者がつくこととなった。 === 『キン肉マン』で漫画家デビュー === [[1978年]]、『キン肉マン』で第9回[[赤塚賞]]準入選し、これが『週刊少年ジャンプ』[[1979年]]2号(1978年12月)に掲載されデビューとなった。編集部内では稚拙な作品と評判が良くなかったが、当時の編集長・[[西村繁男]]は、低年齢向け漫画としての資質があることを見抜いており、担当の[[中野和雄]]と大阪まで出向いてスカウトした。この時2人は既に就職が決まっていたが、「漫画が続かなかったら就職の世話をする」と西村が2人の親を説得し、東京にアパートまで用意したという。2010年代後半の日本の社会では漫画家というと家族も雑誌のパーティに一緒に出席してくれるほど理解された職業となっているが、当時は水商売扱いであり中井も嶋田も両親が猛反対していたため、西村が説得に成功するまで大変苦労したという<ref name="dynamitekaminoge"/>。 [[1979年]]5月、2人の高校卒業を待って、『キン肉マン』が『週刊少年ジャンプ』で連載開始。初期はプロレスネタを交えたギャグ漫画だったが、途中からバトル重視のプロレス漫画に路線変更、大ヒットとなり、TVアニメーションも展開される。劇場用アニメーション作品も何本か作られた。また、作中に登場する「超人」をかたどった消しゴム人形「[[キン肉マン消しゴム]](キン消し)」集めが子供達の間で流行した。 [[1982年]]に『週刊少年ジャンプ』の別冊『[[フレッシュジャンプ]]』で、『キン肉マン』に登場する人気キャラクターのラーメンマンを主人公としたスピンオフ作品『[[闘将!!拉麺男|闘将!!拉麵男]]』を『キン肉マン』との同時進行で連載開始。TVアニメ化もされた。 [[1985年]]には[[吉本新喜劇]](当時)の[[高石太]]とともに『[[必殺仕事人V]]』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。 1985年3月、第30回(昭和59年度)[[小学館漫画賞]]受賞(『キン肉マン』)。 ===『キン肉マン』終了後=== 『キン肉マン』終了後は、格闘漫画以外のジャンルを模索しながらもこれといったヒットが出ない[[冬の時代]]が続き、[[1990年代]]半ばになると世間からは過去の人と扱われた<ref>『[[別冊宝島]]』内のコーナー「なつかしの1980年代で話題となった流行」としてゆでたまごを取り上げていた([[1996年]]7月号)。</ref>。『[[蹴撃手マモル]]』終了後、都合良く読み切りばかり書かされる状況に中井が飼い殺しを恐れるようになり、集英社との専属契約を解消したが、この頃嶋田は吉祥寺を歩いていたら通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒されて頭を叩かれる経験をした<ref name="dynamitekaminoge"/>。 そんな中、1996年1月に『キン肉マン』の後日談となる読み切り『マッスル・リターンズ』が『[[月刊少年エース|格闘エース]]』に掲載された。角川書店は『キン肉マン』の権利関係から集英社に確認を取ったが、集英社はあっさりと許可した。ただ、ゆでたまごが作品を少年ジャンプで書きたいと申し出ると集英社はその必要はないと断った。悔しさに燃えるゆでたまごであったが『マッスル・リターンズ』への反響は大きく、『キン肉マン』シリーズの続編連載の機運が高まった<ref name="dynamitekaminoge"/>。 ===『キン肉マンII世』の連載開始=== そうして[[1997年]]に『[[週刊プレイボーイ]]』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『[[キン肉マンII世]]』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌[[1998年]]より連載となる<ref>『肉萬』『肉萬』30 - 31p</ref>。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。 [[2004年]]、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。 [[2007年]]に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。 [[2008年]]には生誕29(ニク)周年を記念し『週刊少年ジャンプ』29号に復活掲載、記念本『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』、画集『筋肉画廊』、アニメDVD『キン肉マン コンプリート DVD-BOX』が発売され、イベントも2月に新宿バルト9で『キン肉マン映画祭』、6月に秋葉原の東京アニメセンターイベントギャラリーで『キン肉マン展』、12月には[[さいたまスーパーアリーナ]]で開催された『Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜』にキン肉万太郎が出場、[[ボブ・サップ]]と対戦し、敗れはしたものの瞬間最高視聴率18.1%を記録した。 [[2009年]]には生誕30周年を迎え、[[5月29日]]にJCBホールでプロレス興行『キン肉マニア2009』を開催。キン肉マンや超人達が実際に試合を見せ話題となる。[[2010年]][[1月29日]]には22年振りのジャンプ・コミックス新刊『キン肉マン』37巻が発売された。発売記念のサイン会が紀伊国屋書店で開催され、用意された整理券は30分で配布終了となるなど変わらぬ人気を見せた。 ===近年の活躍=== [[2011年]][[5月9日]]より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。 2011年[[11月28日]]より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。 == 作風 == === ストーリー展開 === ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が挙げられる。 これは『キン肉マン』連載デビュー当時、作品作りのイロハを理解しておらず、右も左も分からない状態で執筆していたことが原因であるという。そのため周囲からは破綻が多い、いい加減な作品だと随分非難を受けて、ゆでたまご自身一時期大変落ち込んだことを明かしている。しかし読者からは高い支持を受けていたことと、当時は[[車田正美]]など同様の作風の作家がいたことなどを理由に自信を取り戻し、以後ゆでたまごの作風として定着させた<ref>「リングにかけた日々」『炎の魂 リングにかけろ究極解説書』126頁。</ref>。その後はストーリーの統合性などは二の次として、読者の度肝を抜く展開を心がけ、毎週締め切り過ぎまでアイディアを粘るため、原稿が完成するのが連載作家の中で1、2を争うほど遅くなったという。 嶋田はインタビューなどで「細かい設定にこだわっていると、結果としてつまらなくなってしまう<ref>ゆでたまご「これがゆで流創作術!キン肉マン―運命の選択肢― 〜夢の超人タッグ編〜」『キン肉マン 夢の超人タッグ (3) 決着!!栄光のトロフィー編』集英社〈ジャンプリミックス ワイド版〉、[[2006年]][[9月30日]]、{{ISBN2|978-4-08-109270-3}}、322頁。</ref>」「ツッコミ所が多い方が、読者が親近感を持ってくれる<ref>[[徳間書店]]『プロ論。2』嶋田隆司インタビュー。</ref>」と述べている。また、[[誤植]]や作画のミスに関しても、ゆでたまご自身少年時代に読んだ漫画のあら捜しをして楽しんでいた思い出もあるので、指摘があってもあえて修正していない部分もあると語っている<ref>『闘将!! ゆでたまご』493頁。</ref>。後付け設定もたくさんあり、後になり整合性が取れていなかったり辻褄が合わなくなることがよくあるが、そういう整合性のない部分を読者があとで、あれこれ議論したり推理する材料になればいいと思っているから、単行本化されるときも、あえて修正したりはしていないと語っている<ref>{{Cite book|和書|author=ゆでたまご|authorlink=ゆでたまご|title=ゆでたまごのリアル超人伝説|date=2014-06-23|publisher=宝島社|isbn=978-4-8002-2571-9|page=264|chapter=第6章 プロレスが教えてくれたこと}}</ref>。 これらのこと(例:[[7人の悪魔超人]]が8人いた等)をファンからは「'''ゆで理論'''」と呼ばれている<ref>『キン肉マンジャンプ vol.2 運命の五王子最強ストーリー列伝!!』より。</ref>。 === 読者参加型 === 代表作の『キン肉マン』を始め、ゆでたまごの作品では登場人物などを読者から募集するのが通例となっている。『キン肉マン』の主要キャラクターである[[ロビンマスク]]や[[ラーメンマン]]なども読者応募によるものであり、中井はファンを「3人目のゆでたまご」であると語っている<ref name="tatakae"/>。 ゆでたまごが『キン肉マン』でデビューして間もない頃、読者からのファンレターが来ても返事を書く余裕がなく、担当編集者の中野和雄の発案で<ref name="allabout2-1">[http://allabout.co.jp/sports/prowrestling/closeup/CU20060517A/index.htm ゆでたまご嶋田先生が語るキン肉マン2 - [プロレス]All About]</ref><ref name="vjump-gc">『キン肉マンII世 新世代超人VS伝説超人 完璧 ファイティングマニュアル』208頁。</ref><ref name="figureou119">中山基編「伝説超人インタビュー (3) ゆでたまご」『[[フィギュア王]] No.119』[[ワールドフォトプレス]]、2008年1月30日、{{ISBN2|978-4-8465-2701-3}}、56頁。</ref>、読者の考案した[[怪獣]]を漫画に登場させ、主人公の[[キン肉スグル|キン肉マン]]と戦わせることで読者に応えようとした。反響は大きく、のちに作品が怪獣退治からプロレス主体になると「超人募集」として企画は継続され、当初数十通だった応募は回を重ねるごとに数百通・数千通と増えていった<ref name="figureou119"/>。あまりの葉書の量に、当時の嶋田の下宿は床が抜け、引越しを余儀なくされた<ref name="otonafami200808">『オトナファミ 2008 August』66-67頁。</ref>。 応募作品の選考にあたって、ゆでたまごは極力低年齢の子供のものを採用するようにしたという<ref name="vjump-gc"/><ref name="figureou119"/><ref name="otonafami200808"/>。[[ルービックキューブ]](キューブマン)など当時の流行に基づいた超人を採用すると、以降は時事や流行を反映した超人が多く応募されるようになった<ref name="otonafami200808"/>。 やがて『キン肉マン』は読者参加型の流れが出来上がり<ref name="otonafami200808"/>、『[[ゆうれい小僧がやってきた!]]』の「妖怪募集」、『トータルファイターK』の「カオの対戦相手募集」などに続いていく<ref name="tatakae">『闘将!! ゆでたまご』534頁。</ref>。この方式はゆでたまごの作風として読者に認知され、募集告知を全くせずに新連載を始めても登場キャラクターの応募が送られてくるほどになった<ref name="tatakae"/>。『キン肉マンII世』の開始にあたって行われた超人募集には10万通以上の応募があったと嶋田は述べる<ref>『キン肉マン超人大全』45頁。</ref>。 超人募集は読者を対象としたもの以外にも、『キン肉マン 77の謎』などのムックで他の漫画家や芸能人・格闘家が新超人を考案する企画が数度行われている。テレビ番組『[[アメトーーク!]]』の「キン肉マン芸人」の回では、お笑い芸人たちが新超人を考案し、ゆでたまごに選考してもらう企画が催された。 == 作品 == === 連載 === 各作品の詳細については当該記事を参照。番号は発表順、年は発表年。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌および単行本については以下の略号を用いる。 * {{Small|〈'''掲載'''〉(特記のない限り全て[[集英社]])'''WJ''':[[週刊少年ジャンプ]] / '''FJ''':[[フレッシュジャンプ]] / '''WPB''':[[週刊プレイボーイ]] / '''PBN''':週プレNEWS / '''VJ''':[[Vジャンプ]] / '''DB''':[[デラックスボンボン]]([[講談社]]) / '''MG''':[[月刊少年ガンガン]]([[エニックス]]、当時) / '''MA''':[[月刊少年エース]]([[角川書店]])}} {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #ff6; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 連載中の作品 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" ! !! style="white-space:nowrap" | 作品名 !! style="white-space:nowrap" | 年 !! style="white-space:nowrap" | 掲載 !! class="unsortable" | 注記 |- style="background-color:#ff6" ! 1 | <span style="display:none"> きんにくまん <br /></span> '''[[キン肉マン]]''' || <sup>01</sup><br />1979年22号(同年5月) -<br />1987年21号(同年4月)<br />2011年11月28日 -<br /> '''連載中''' || WJ →<br /> PBN || 連載デビュー作。[[アニメ化]]など[[メディアミックス]]化された。<br />1978年:第9回赤塚賞準入選<br />1985年:第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞 |- ! 2 | <span style="display:none"> たたかえらあめんまん <br /></span> '''[[闘将!!拉麺男|闘将!!拉麵男]]''' || <sup>02</sup><br />創刊号{{small|(1982年6月)}} -<br /> 1989年1月号(1988年12月) || FJ || [[ラーメンマン]]を主人公に据えた『キン肉マン』のスピンオフ作品。 |- ! 3 | <span style="display:none"> ゆうれいこそうかやつてきた <br /></span> '''[[ゆうれい小僧がやってきた!]]''' || <sup>03</sup><br />1987年34号(同年8月) -<br /> 1988年24号(同年5月) || WJ || |- ! 4 | <span style="display:none"> すくらつふさんたゆう <br /></span> '''[[SCRAP三太夫]]''' || <sup>04</sup><br />1989年24号(同年5月) -<br /> 同年40号(同年8月) || WJ || 物語の終盤において『キン肉マン』世界との繋がりが示唆されている。 |- ! 5 | <span style="display:none"> きつくほくさあまもる <br /></span> '''[[蹴撃手マモル]]''' || <sup>05</sup><br />1990年33号(同年7月) -<br /> 1991年13号(同年2月) || WJ || [[ムエタイ]]を題材とした格闘技漫画。<br />この作品の終了以後、ゆでたまごは他誌に活動の場を広げる。 |- ! 6 | <span style="display:none"> とおたるふあいたあかお <br /></span> '''[[トータルファイターK]]''' || <sup>06</sup><br />1993年8月号(同年7月) -<br /> 1995年1月号(1994年12月) || DB || 集英社以外で発表された初の漫画作品。 |- ! 7 | <span style="display:none"> らいおんはあと <br /></span> '''[[ライオンハート (ゆでたまご)|ライオンハート]]''' || <sup>07</sup><br />1993年9月号(同年8月) -<br /> 1995年4月号(同年3月) || MG || |- ! 8 | <span style="display:none"> くるまんくん <br /></span> '''[[グルマンくん]]''' || <sup>08</sup><br />1994年11月号(同年10月) -<br /> 1996年6月号(同年5月) || MA || [[料理・グルメ漫画]]。 |- ! 9 | <span style="display:none"> きんにくまんにせい <br /></span> '''[[キン肉マンII世]]''' || <sup>09</sup><br />1998年19・20合併号(同年4月) -<br /> 2011年19・20合併号(同年4月) →<br /> 2011年5月9日 -<br /> 2011年10月3日 || WPB →<br /> PBN || 『キン肉マン』の続編。 |- ! 10 | <span style="display:none"> きんにくまんにせいおおるちようしんたいしんけき <br /></span> '''[[キン肉マンII世〜オール超人大進撃〜]]''' || <sup>10</sup><br />2001年7月号(同年5月) -<br /> 2007年5月号(同年3月) || VJ || 『キン肉マンII世』のアナザーストーリー。 |} === 読切 === {{main|ゆでたまごの読み切り作品一覧}} 番号は発表順、年は発表号・年月等。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌については以下の略号を用いる。 * {{Small|〈'''掲載'''〉(特記のない限り全て[[集英社]])'''WJ''':[[週刊少年ジャンプ]] / '''FJ''':[[フレッシュジャンプ]] / '''WPB''':[[週刊プレイボーイ]] / '''KM''':[[超こち亀]] / '''NM''':肉萬 / '''KA''':格闘エース([[角川書店]]) / '''RI''':Rintama([[ワニマガジン社]])}} {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #cff; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | キン肉マン関係 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" ! !! style="white-space:nowrap" | 作品名 !! style="white-space:nowrap" | 年 !! style="white-space:nowrap" | 掲載 !! class="unsortable" | 注記 |- style="background-color:#cff;" ! 1 | <span style="display:none"> きんにくまんおかまらすのまき <br /></span> キン肉マン オカマラスの巻 || <sup>01</sup><br />1979年2号(1978年12月) || WJ || 掲載デビュー作。 |- style="background-color:#cff;" ! 2 | <span style="display:none"> きんにくまんえらきねすのまき <br /></span> キン肉マン エラギネスの巻 || <sup>02</sup><br />1979年14号(同年3月) || WJ || 『キン肉マン』読切2作目。 |- ! 3 | <span style="display:none"> したまちせんそう <br /></span> 下町戦争 || <sup>03</sup><br />1979年4月増刊 || WJ || |- ! 4 | <span style="display:none"> てすけえむ <br /></span> デスゲーム || <sup>04</sup><br />1980年16号(同年3月) || WJ || |- ! 5 | <span style="display:none"> あすとろほおや1 <br /></span> あすとろボーヤI || <sup>05</sup><br />1981年1月増刊 || WJ || |- ! 6 | <span style="display:none"> あすとろほおや2 <br /></span> あすとろボーヤII || <sup>06</sup><br />1981年4月増刊 || WJ || |- style="background-color:#cff;" ! 7 | <span style="display:none"> きんにくまんきんにくふらつしゆのまき <br /></span> キン肉マン キン肉フラッシュの巻 || <sup>07</sup><br />1981年8月 || WJ || 1981年9月30日増刊号掲載。 |- style="background-color:#cff;" ! 8 | <span style="display:none"> たたかえらあめんまん <br /></span> 闘将!!拉麵男 || <sup>08</sup><br />1982年15号(同年3月) || WJ || 『闘将!!拉麵男』の原型。 |- ! 9 | <span style="display:none"> ゆうしやひつくほてい <br /></span> 勇者ビッグボディ || <sup>09</sup><br />1983年15号(同年3月) || WJ || |- style="background-color:#cff;" ! 10 | <span style="display:none"> きんにくまんろひんめものまき <br /></span> キン肉マン ロビン・メモの巻 || <sup>10</sup><br />1984年7月 || WJ || WJ特別編集「キン肉マン 熱闘スペシャル」掲載。 |- ! 11 | <span style="display:none"> ゆうれいこそうかやつてきた <br /></span> ゆうれい小僧がやってきた! || <sup>11</sup><br />1987年19号(同年4月) || WJ || 『ゆうれい小僧がやってきた!』の原型。 |- ! 12 | <span style="display:none"> くいたおれやろう <br /></span> 喰いだおれ野郎 || <sup>12</sup><br />1988年8月号(同年7月) || FJ || |- ! 13 | <span style="display:none"> すくらつふさんたゆう <br /></span> SCRAP三太夫 || <sup>13</sup><br />1988年43号(同年10月) || WJ || 『SCRAP三太夫』の原型。 |- ! 14 | <span style="display:none"> すくらつふさんたゆう <br /></span> SCRAP三太夫 || <sup>14</sup><br />1989年5・6合併号(同年1月) || WJ || 『SCRAP三太夫』の原型。 |- ! 15 | <span style="display:none"> きつくほくさあまもる <br /></span> Kick Boxer マモル || <sup>15</sup><br />1990年12号(同年2月) || WJ || 『蹴撃手マモル』の原型。 |- ! 16 | <span style="display:none"> らいおんはあと <br /></span> ライオンハート || <sup>16</sup><br />1991年10月 || WJ || WJ1991年11月増刊「Autumn Special」掲載。『ライオンハート』の原型。 |- style="background-color:#cff;" ! 17 | <span style="display:none"> まつするりたあんす <br /></span> マッスル・リターンズ || <sup>17</sup><br />1996年1月 || KA || 連載終了後初の『キン肉マン』の読切。 |- ! 18 | <span style="display:none"> はたかあん <br /></span> ハダカーン || <sup>18</sup><br />No.3(1996年12月) || RI || |- style="background-color:#cff;" ! 19 | <span style="display:none"> きんにくまんにせい <br /></span> キン肉マンII世 || <sup>19</sup><br />1997年34・35合併号(同年8月) -<br /> 1998年7号(同年1月) || WPB || 全5回<ref>『肉萬』30p。</ref>。『キン肉マンII世』の読切。後に連載となる。 |- style="background-color:#cff;" ! 20 | <span style="display:none"> こちらかつしかくかめありこうえんまえはしゆつしよきんにくまんせいきちようしんかめありたいしゆうけつのまき <br /></span> こちら葛飾区亀有公園前派出所×キン肉マン<br />正義超人亀有大集結!! の巻 || <sup>20</sup><br />2006年9月 || KM || 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』30周年記念合作読切。 |- style="background-color:#cff;" ! 21 | <span style="display:none"> きんにくまん <br /></span> キン肉マン || <sup>21</sup><br />2008年29号(同年6月) || WJ || WJ40周年記念特別読み切りとして掲載。 |- style="background-color:#cff;" ! 22 | <span style="display:none"> うおおすまんひきんすかめんのこくはくのまき <br /></span> ウォーズマンビギンズ 仮面の告白!の巻 || <sup>22</sup><br />2008年8月 || NM || キン肉マン生誕29周年記念出版『肉萬』掲載作品。 |} === その他の作品 === * 超人たちの虹の架け橋 - [[2008年]]、『[[行列のできる法律相談所]]』の[[カンボジア]]に学校を建てるプロジェクトで、チャリティーオークションに出品された絵。 *[[イヌナキン]] - [[2013年]]、[[大阪府]][[泉佐野市]]のイメージキャラクター。一般公募のデザインを基にリデザイン。 * [[剛力彩芽]] アルバム「[[剛力彩芽 (アルバム)|剛力彩芽]]」ジャケット (2015年4月8日発売) - キン肉マンの超人「[[キン肉マンの登場人物#第1次怪獣退治編 初登場|ゴーリキ]]」と[[剛力彩芽]]を合わせてデザインして描き下ろした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0071691|title=剛力彩芽、怪獣“ゴーリキ”に!ゆでたまごが描き下ろし|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-03-19|accessdate=2015-03-19}}</ref>。 * [[THE BLUE HEARTS]] コラボレーションアルバム「30th anniversary THE BLUE HEARTS re-mix『re-spect』」 ジャケット(2016年1月26日発売)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/168704|title=ゆでたまご、THE BLUE HEARTSのコラボアルバムでメンバー描き下ろし|date=2015-12-10|accessdate=2015-12-10}}</ref> * ラジオ番組「[[ザ・ラジオショー|サンドウィッチマン ザ・ラジオショーサタデー]]」番組ステッカー(2021年12月) - 番組でメッセージを紹介されたリスナーにプレゼントするステッカーで、[[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]のイラストの絵を描きおろし<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/457216|title=ゆでたまごがプロレススタイルのサンドイッチマンを描き下ろし、ラジオ番組ステッカーに|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-11|accessdate=2021-12-11}}</ref>。 == 主な著書 == === コミックス === * [[ジャンプ・コミックス]] キン肉マン 1 - 82巻 * ジャンプ・コミックス 闘将!! 拉麵男 全12巻 * ジャンプ・コミックス ゆうれい小僧がやってきた! 全5巻 * ジャンプ・コミックス SCRAP三太夫 全2巻 * ジャンプ・コミックス 蹴撃手マモル 全4巻 * ジャンプ・コミックス お〜い!!マンガだよ〜ん 1巻 - * ガンガンコミックス ライオンハート 全5巻 * ボンボンコミックス トータルファイターK 全4巻 * カドカワAコミックス グルマンくん 全4巻 * カドカワAコミックス マッスル・リターンズ * ジャンプコミックスセレクション キン肉マン 全26巻 * ジャンプコミックスセレクション 闘将!! 拉麵男 全9巻 * 集英社コミック文庫 キン肉マン 全18巻 * 集英社コミック文庫 闘将!! 拉麵男 全8巻 * 集英社コミック文庫 キン肉マンII世 全21巻 * スーパー・プレイボーイ・コミックス キン肉マンII世 全29巻 * 週刊プレイボーイ・コミックス キン肉マンII世 究極の超人タッグ編 全28巻 * Vジャンプコミックス キン肉マンII世〜オール超人大進撃〜 全4巻 <!-- * 集英社アニメシリーズ キン肉マン 全4巻 ←著者ではなさそうなので一旦コメント化 --> === 総集編 === * 週刊少年ジャンプ特別編集 キン肉マン熱闘スペシャル * 週刊プレイボーイ増刊 キン肉マンII世総集編 * コミックアイズ増刊号 キン肉マン名勝負総集編 * Vジャンプ特別編集増刊 キン肉マンII世〜オール超人大進撃〜 * 週刊プレイボーイ増刊 キン肉マン&II世激闘列伝〜ザ・バスト・バウト・オブ・ジェネレーションズ〜 * [[集英社ジャンプリミックス]] キン肉マン ** 7人の悪魔超人編 (1) - (4)((1)(2)の[[ローソン]]マッスルスペシャル版はキン消しつき) ** 黄金のマスク編 (1) - (5)(キン消しつき版もあり) ** [[超人オリンピック]] ザ・ビッグファイト編 (1) - (3)(キン消しつき) ** 名勝負スペシャル (1) 〜栄光への道編〜 ** 名勝負スペシャル (2) 〜友と師と…編〜 ** 名勝負スペシャル (3) 〜正義超人賛歌編〜(キン消し付き) ** 夢の超人タッグ編 (1) - (7) ** キン肉星王位争奪編 (1) - (13) * 集英社ジャンプリミックス ワイド版 キン肉マン ** 第1回超人オリンピック編 ** アメリカ遠征編 ** 第2回超人オリンピック編 ** 7人の悪魔超人編 (1)・(2) ** 悪魔将軍!! 白銀仮面編 / 黄金仮面編 ** 夢の超人タッグ (1) - (3) ** キン肉星王位争奪戦 (1) - (6) ** ギャグ編 * [[集英社インターナショナルリミックス]] 闘将!!拉麵男 (1) - (12) * 集英社ジャンプリミックス ワイド版 闘将!!拉麵男 (1) - (5) * 集英社ジャンプリミックス ワイド版 キン肉マンII世 ** 伝説の序章編 ** サンシャインの野望編 ** 正義超人入替え戦! 編 ** 師弟の絆! ブロッケン&ジェイド編 ** 完成! マッスル・ミレニアム編 ** 火事場のクソ力修練(チャレンジ)編 全2巻 ** 開幕! 史上最強の超人オリンピック!! 編 ** 超人オリンピック死のトーナメント!! 編 ** 超人オリンピック!! 最強の遺伝子編 ** 超人オリンピック!! ベスト4の死闘編 ** 超人オリンピック!! 宿命の決勝 ** 恐怖の将1 完全復活悪魔超人!! 編 ** 恐怖の将2 集結! アイドル超人軍!! 編 ** 恐怖の将3 結成! 最凶タッグ!! 編 ** 恐怖の将4 決着! キン肉マンVSアシュラマン!! 編 * 集英社ジャンプリミックス ワイド版 闘将!! ゆでたまご(読切短編等を収録) === 関連本 === * ジャンプ・コミックス デラックス キン肉マン 闘将!! 拉麵男超人大名鑑 * ジャンプコミックスセレクション キン肉マン超人大全 * ジャンプコミックスセレクション キン肉マン77の謎 * ジャンプコミックスセレクション キン肉マン特盛 * キン肉マン超人大全集 * スーパー・プレイボーイ・コミックス キン肉マンII世超人大全 * スーパーダッシュ文庫 キン肉マンII世1 〜伝説の序章〜ヘラクレス・ファクトリー編 * ジャンプジェイブックス キン肉マンII世SP 伝説超人全滅! === 絵本 === * いただき!! キン肉マン さくれつ! ゆうじょうパワーのまき * いただき!! キン肉マン たいけつ! テンドンかいじゅうテンドーンのまき * いただき!! キン肉マン かるただよ! ちょう人大しゅうごう!! のまき * いただき!! キン肉マン だじゃれだよ! ちょう人大しゅうごう!! のまき * いただき!! キン肉マン さいきょうタッグ!ザ・マシンガンズたんじょうのまき === その他の著書 === * 集英社ジャンプリミックス ワイド版 [[赤塚不二夫]]漫画家生活50周年記念出版 赤塚ベスト(ゆでたまご)セレクション! * こち亀30周年記念本 超こち亀(『キン肉マン』と『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の合作が掲載) * 生たまご ゆでたまごのキン肉マン青春録(ゆでたまごの自伝) * 宝島社宝島社新書 ゆでたまごのリアル超人伝説 2014年6月23日、{{ISBN2|978-4-8002-2571-9}}(ゆでたまごの自伝に加え、キン肉マンの名勝負、超人、実在のプロレスラーについての解説) * ワニブックスPLUS新書 火事場の仕事力(嶋田の単著) * ワニブックスPLUS新書 火事場の仕事術(中井の単著) == 出演 == *[[必殺シリーズ]][[必殺仕事人V]]第9話「主水、キン肉オトコに会う」 - 1985年3月15日(ABCテレビ発、テレビ朝日系)松之助役を嶋田隆司、竹吉役を中井義則 * ゆでたまごの[[オールナイトニッポンGOLD]] - 2019年6月21日(ニッポン放送発、NRN系)キン肉マン連載40周年記念として放送。アシスタントは[[清野茂樹]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * ゆでたまご「ゆでたまご作品年表」『集英社ジャンプリミックス ワイド版 闘将!! ゆでたまご』[[集英社]]、[[2004年]][[9月13日]]、{{ISBN2|4-08-106729-5}}、536-541頁。 * ゆでたまご「ゆでたまご先生のすべて」『キン肉マン 闘将!! 拉麵男 超人大名鑑』集英社〈ジャンプ・コミックス デラックス〉、[[1985年]][[7月15日]]、{{ISBN2|978-4-08-858125-5}}、288 - 291頁。 * ゆでたまご「ゆでたまご先生のキン肉トーク」『キン肉マン超人大全』集英社〈ジャンプコミックスセレクション〉、[[1998年]][[7月22日]]、{{ISBN2|978-4-8342-1677-6}}、36-45頁。 * ゆでたまご「ゆでたまごロングインタビュー!! 僕らとキン肉マンの25年」『キン肉マンII世 29』集英社〈スーパー・プレイボーイ・コミックス〉[[2005年]][[8月24日]]、{{ISBN2|978-4-08-857450-9}}、188-193頁。 * Vジャンプ編集部「ゆでたまごインタビュー」『キン肉マンII世 新世代超人VS伝説超人 完璧 ファイティングマニュアル』集英社〈Vジャンプブックス〉、[[2002年]][[12月6日]]、{{ISBN2|978-4-08-779207-2}}、206-209頁。 * 「伝説超人インタビュー (3) ゆでたまご」『フィギュア王 No.119』ワールドフォトプレス、[[2008年]][[1月30日]]、{{ISBN2|978-4-8465-2701-3}}、56-57頁。 * 「キン肉マン29周年ヒストリー」『オトナファミ 2008 August』エンターブレイン、[[2008年]][[7月25日]]、雑誌26457-7、66-67頁。 * ゆでたまご(嶋田隆司、中井義則)『生たまご ゆでたまごのキン肉マン青春録』[[エンターブレイン]]、2009年7月1日、{{ISBN2|978-4-7577-5005-0}} == 関連項目 == * [[中野和雄]] - 集英社の編集者。ゆでたまごを見出し担当を務めたほか、『キン肉マン』などのゆでたまごの作品中で「アデランスの中野」として登場する。2023年没。 * [[車田正美]] - 親友。出世作『[[リングにかけろ]]』で『キン肉マン』とともに、その後の『週刊少年ジャンプ』のカラーである超人的格闘ヒーロー路線を確立した。 * [[春一番 (お笑い芸人)|春一番]] - [[お笑いタレント|お笑い芸人]]。[[アントニオ猪木]]の[[ものまね|物真似]]で有名。彼が猪木の物真似を始めたきっかけはゆでたまごからの勧めとされた。[[2014年]]没。 == 外部リンク == ; 公式サイト等 * [http://www.yudetamago.jp/ ゆでたまご公式サイト] * [http://pehlwansblog2.jugem.jp/ Pehlwans - blog - TAKASHI SHIMADA] - 原作担当・嶋田のブログ。 * {{Twitter|yude_shimada|ゆでたまご嶋田}} * {{facebook|takashi.shimada.3110|嶋田隆司}} * [https://www.instagram.com/takashi_shimada/ ゆでたまご嶋田隆司](@takashi_shimada) • Instagram写真と動画 ; インタビュー * [https://allabout.co.jp/gm/gc/212873/ ゆでたまご嶋田先生が語るキン肉マン1] - [https://allabout.co.jp/gm/gc/212874/ 2] - [https://allabout.co.jp/gm/gc/212875/ 3] * [https://web.archive.org/web/20090330011325/http://manganohi.com/interview/10/4975.html 『ゆでたまご先生』1] -[https://web.archive.org/web/20090905151935/http://manganohi.com/interview/10/4976.html 2] -[https://web.archive.org/web/20090905151941/http://manganohi.com/interview/10/4977.html 3] -[https://web.archive.org/web/20090905151946/http://manganohi.com/interview/10/4978.html 4] {{ゆでたまご}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆてたまこ}} [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:共有筆名]]
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2,069
非線形物理学
非線形物理学(ひせんけいぶつりがく、英: Nonlinear physics)は、非線形な系を扱う物理学の分野である。カオス理論、ソリトン、格子振動で調和近似の成り立たない場合、線形な方程式では記述できない流体力学分野などがこの学問分野の対象となる。
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非線形物理学は、非線形な系を扱う物理学の分野である。カオス理論、ソリトン、格子振動で調和近似の成り立たない場合、線形な方程式では記述できない流体力学分野などがこの学問分野の対象となる。
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2,070
横山まさみち
横山 まさみち(よこやま まさみち、男性、1930年4月29日 - 2003年10月14日)は、日本の漫画家。代表作は『やる気まんまん』。 愛知県名古屋市出身。本名:横山正雄。愛知県立明和高等学校卒。 1950年、明治大学在学中に『ウサギのかごや』でデビューし主に貸し本漫画を多数執筆。1960年代頃からは横山プロダクションを立ち上げ、自身やアシスタントの作品を発表すると同時に、活動の場を少年週刊誌や月刊誌、少女雑誌に広げて活躍した。 1970年代に入って貸本が廃れてくると活動の場を少年誌から成年誌に変えて執筆するようになった。少年向け劇画作家から成年向けアダルトコミックに転身し成功した一人で、日刊ゲンダイに連載した、男性器をオットセイに、女性器を貝に擬したアダルトコミックで一般にもよく知られていた。主人公は、やや太めガッチリ体型で丸顔のキャラクターに固定されており、コミカルな中に美しい叙情性も織り込んだ作風で根強い人気を誇った。ヒロインの美女は、横山の絵柄とは異なる少女マンガ風のものであり、アシスタントの松尾啓子が担当したという。そうしたアダルトコミックを執筆する一方で、硬派な歴史漫画なども執筆している。 2003年10月14日、前立腺がんのため死去。73歳没。朝日新聞社の雑誌『AERA』では、オットセイの解説付きで死を悼む記事が掲載された。
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横山 まさみちは、日本の漫画家。代表作は『やる気まんまん』。
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横山光輝
横山 光輝(よこやま みつてる、1934年〈昭和9年〉6月18日 - 2004年〈平成16年〉4月15日)は、日本の漫画家。兵庫県神戸市須磨区出身。本名:横山 光照。代表作に『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人である。 1934年(昭和9年)、神戸市須磨区に生まれる。戦時中は鳥取県に疎開していた。1946年(昭和21年)、神戸市立太田中学校に入学、この頃から漫画を描き始める。1949年(昭和24年)、神戸市立須磨高等学校に入学。手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け本格的に漫画を志し、『漫画少年』『探検王』などの雑誌に作品を投稿するようになる。1951年(昭和26年)には横山みつてるの筆名で10数本の作品が商業誌に掲載される。1953年(昭和28年)、高校を卒業し神戸銀行(現:三井住友銀行)に入社するが4か月で退社、その後、友達の大阪府堺市の自転車工場で働くが数か月で辞める。1955年(昭和30年)には神戸に戻り、映画会社の宣伝部員として勤務しながら漫画の投稿を続ける。 1954年(昭和29年)、貸本漫画会社、大阪東光堂の注文で貸本漫画を描いていた横山は、出版社の社長に連れられ手塚の下に赴き、横山が描いた時代物『魔剣烈剣』に目を通した手塚は「売れる漫画家」と判断した。横山は、『魔剣烈剣』の読者からの好評に自信を得て漫画家を志すようになり、この作品におけるスピード感と娯楽性は今後の漫画作りの姿勢の基本になったと言う。 1955年(昭和30年)、貸し本向け単行本『音無しの剣』で漫画家デビュー。2作目の『白百合物語』が認められ、光文社の『少女』で初の雑誌連載『白ゆり行進曲』が開始される。手塚はそのデビュー当時を「かれほど『彗星のように』という形容のあてはまる男はいない」と評している。この頃に原作手塚治虫、作画横山光輝で『黄金都市』、『ターザンの洞窟』、『海流発電』、『仮面の冒険児』で4作発表している。横山はトキワ荘の住人ではなかったが、手塚の「鉄腕アトム」のアシスタントとして活動したこともあった。 1956年(昭和31年)、映画会社を退職した後、光文社『少年』に発表した『鉄人28号』が人気を博し作家的地位を確立。『鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分するヒット作となった。この年より上京し、以降映画会社勤務時に多くの映画を見た経験を生かして、名作を次々と生み出した。この時、鉄人28号のヒットにより本気で漫画家になろうと考えたと語っている。 1964年(昭和39年)には、神田三崎町に株式会社光プロダクションを設立する。 『魔法使いサリー』などの例外を除けば連続物語(ストーリー漫画)を多く描き、笑いの要素のほとんどない、ある意味でハードボイルドな世界の構築を得意とした。展開も絵柄も奇をてらわない正攻法でわかりやすく、後年歴史もので名を成す下地となっている。 アニメ化された作品も多く、『鉄人28号』で巨大ロボットアニメ、『魔法使いサリー』で魔法少女アニメの歴史が始まったと言われ、分野の先駆け的存在となった。 1991年(平成3年)、『三国志』により第20回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。受賞作『三国志』は、1971年(昭和46年)から1986年(昭和61年)までの15年の時間を要し、全60巻(文庫版は全30巻)というスケールで劉備登場から蜀漢の滅亡までが描かれた大作である。『水滸伝』『三国志』以降、横山は日本や中国の歴史漫画中心に力を注ぐことになる。中には毛沢東の長征を描いた『長征』のような近代中国史を描いた作品もある。 1999年(平成11年)には大病を患い療養。 2004年(平成16年)に日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞した。同年4月7日『鉄人28号』(第4作)が放送開始。4月11日に東京都古書籍協同組合が組合員を対象として14~15日に開く全古書連大市会にて横山の未発表作品が入札にかけられると報道され、これに対し「売りに出されるのは不愉快」と発言していた。 それから間もない同年4月15日朝方、東京都豊島区千早の自宅で火事に見舞われ、全身火傷を負って意識不明の重体となり、同日22時に日本大学医学部附属板橋病院にて死去した。69歳だった。出火原因は寝煙草の不始末で、約3年前に足を骨折した後遺症のため逃げ遅れたという。遺作は2001年7月に完結した『殷周伝説』。次作については、兵法書『孫子』で著名な兵法家・孫武の物語を構想していたと編集部が明かしている。 遺産は長男の横山輝利(てるとし、光プロダクション代表取締役の一人)と長女が相続したという。後に輝利は光プロのパーティで亡父の昔の単行本の再発行版決定に関してのスピーチの際に「大変読み易く、亡父が見ても納得してくれると思う」と述べている。 横山の生前時、「私の納得できる最善の出来ではない」という理由で、単行本化されない作品が多数あった。しかし横山の死後は『ジャイアントロボ』等々のこうした作品が相次いで単行本化されている。 2007年、生地である兵庫県神戸市長田区の新長田駅周辺の商店街などでは毎年夏頃に「三国志祭」が開かれ、2009年9月29日には同駅近くの若松公園内に高さ15.6m(全長18m)の実物大の鉄人28号モニュメント像が完成した。総工費は1億3,500万円で神戸市の補助金の他に寄付や協賛金などで集められた。 少年・少女向けから大人向けまで、幅広い分野で多彩な技量を見せていた。 新分野への挑戦にも意欲的であり、番長漫画が流行した当時には、自らも『あばれ天童』を描いている。その単行本の前書きにおいては「新人になったつもりで描いた」とコメントしている。 手塚は「彼の作品は、計算の上にサービス精神を横溢させている」と評している。漫画家のゆうきまさみはコラム『はてしない物語』などで「コマとコマの間を読ませるという意味で、横山氏の右に出る者はいない」と語っている。 自作品の映像化に関して、横山はその点については現実的かつ寛容で、商業作品は第一に経済的に成功させなければならないという点に対して理解を持っていた。白土三平が『ワタリ』について先に制作された映画版の表現や完成度への不満からテレビドラマ化を拒否し、手配されていたスタッフやキャスト、予算などが宙に浮いてしまった際に、代替企画の原作者として横山に急遽白羽の矢が立てられ、このために『飛騨の赤影』(仮面の忍者 赤影)の連載を開始し、こちらは正統派の忍者漫画であったのに対して、テレビドラマ版は東映スタッフが知恵を絞り原作とは大幅に毛色の異なる作品となりながらも、いずれも人気作品となった。 数多くの横山作品を原作としてテレビアニメ・特撮などの映像作品が制作され、多くのクリエイターが横山の了承を得て大いに独自の手腕を振るっている。たとえば『マーズ』では、その最初のアニメ化(『六神合体ゴッドマーズ』)に際して、漫画作品の発表からかなりの時間が経ち、内容も時代に合わせて変える必要があるからとして、「すべてお任せしますから、自由に書いてください」と言われたことをシリーズ構成の藤川桂介は述べている。一方で、自身の作品に対するポリシーやアニメ化された作品に対する観察眼も一貫したものを持っており、『鉄人28号FX』については、雑誌のコメントで「鉄人のデザイン、物語ともどもにもっとわかりやすいものがよかったのでは?」という比較的辛口のコメントを残している。 30代の時点で、横山は既に漫画業界では大御所と呼ばれる存在になっていたが、内容の保守にとらわれず、過去の代表作の続編を作成したり、「今、読者が何を求めているのか?」を研究するために頻繁に映画館に足を運ぶという進取の人物であった。 『殷周伝説』を連載していた雑誌『コミックトムプラス』の巻末で、「私が今まで感銘を受けた本は、山岡荘八さんの小説『徳川家康』全26巻でしたね」と語っており、実際に横山の手によって漫画化されている。その他にも横山は『織田信長』『豊臣秀吉(異本太閤記)』『伊達政宗』と、次々と山岡作品を漫画化している。 無類の競馬好きで、それが高じて茨城県美浦村の牧場で自分の競走馬を飼っていた。馬主としては株式会社千早クラブ名義で登録していた、勝負服の柄は緑、茶鋸歯形。また、所有馬の『ジャックボーイ』は1987年(昭和62年)の第48回菊花賞にも出走している(結果は18頭中15着)。 麻雀も強く、1981年には第12期麻雀名人(『週刊大衆』)のタイトルを獲得している。 ヘビースモーカーとしても有名だが、喫煙による火災が命取りになってしまった。 締切に関しては非常に誠実で、『三国志』連載中は当日の朝に編集者が仕事場に行くと、玄関口に完成原稿が封筒に入れられて置かれていたという。
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横山 光輝は、日本の漫画家。兵庫県神戸市須磨区出身。本名:横山 光照。代表作に『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人である。
{{複数の問題|出典の明記=2023年11月|独自研究=2023年11月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 横山 光輝 | ふりがな = よこやま みつてる | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 =横山 光照 | 生地 = {{JPN}}・[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1934|6|18|no}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1934|6|18|2004|4|15}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[豊島区]][[千早 (豊島区)|千早]] | ジャンル = | 活動期間 = [[1954年]] - [[2004年]] | 職業 = [[漫画家]] | 公式サイト = [https://yokoyama-mitsuteru.com/ 横山光輝オフィシャルサイト] | 代表作 = 『[[鉄人28号]]』<br />『[[伊賀の影丸]]』<br />『[[仮面の忍者 赤影]]』<br />『[[魔法使いサリー]]』<br />『[[コメットさん]]』<br />『[[バビル2世]]』<br />『[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]』 | 受賞 =第20回:[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『三国志』)<br />第33回:日本漫画家協会賞文部科学大臣賞 }} '''横山 光輝'''(よこやま みつてる、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[6月18日]] - [[2004年]]〈[[平成]]16年〉[[4月15日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]出身。本名:横山 光照。代表作に『[[鉄人28号]]』『[[伊賀の影丸]]』『[[仮面の忍者 赤影]]』『[[魔法使いサリー]]』『[[コメットさん]]』『[[バビル2世]]』『[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]』等々多数。長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、{{要出典範囲|手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された|date=2023年8月}}漫画界の巨匠の一人である。 == 経歴 == === 生い立ち === 1934年(昭和9年)、神戸市須磨区に生まれる<ref name="plofile">[https://yokoyama-mitsuteru.com/profile.html 横山光輝 Official Web - Plofile](2021年8月18日閲覧)</ref>。戦時中は[[鳥取県]]に疎開していた<ref>『横山光輝のすべて』辰巳出版、2005年、p.238</ref>。1946年(昭和21年)、[[神戸市立太田中学校]]に入学、この頃から漫画を描き始める。1949年(昭和24年)、[[神戸市立須磨高等学校]]に入学<ref name="plofile" />。[[手塚治虫]]の『[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]』に感銘を受け本格的に漫画を志し、『[[漫画少年]]』『探検王』などの雑誌に作品を投稿するようになる<ref name="plofile" />。1951年(昭和26年)には横山みつてるの筆名で10数本の作品が商業誌に掲載される<ref name="plofile" />。1953年(昭和28年)、高校を卒業し[[神戸銀行]](現:[[三井住友銀行]])に入社するが4か月で退社<ref name="plofile" />、その後、友達の大阪府堺市の自転車工場で働くが数か月で辞める<ref>徳永俊子「兄・光輝の真実」『横山光輝のすべて』辰巳出版、2005年、p.222-227</ref><ref name="plofile" />。1955年(昭和30年)には神戸に戻り、映画会社の宣伝部員として勤務しながら漫画の投稿を続ける<ref name="plofile" />。 === 活躍 === [[ファイル:Wakamatsu Park Nagata-ku Kobe03nLR.jpg|thumb|240px|[[鉄人28号]]モニュメント([[若松公園]]・[[神戸市]][[長田区]])]] [[ファイル:Nerima Oizumi-animegate Chronological table Mahotsukai Sally 1.jpg|thumb|240px|[[魔法使いサリー]](アニメ版)レリーフ([[大泉アニメゲート]]・[[練馬区]])]] [[ファイル:KOBE鉄人三国志ギャラリー壁画.jpg|thumb|240px|[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]壁画([[KOBE鉄人三国志ギャラリー]]・神戸市長田区)]] [[1954年]](昭和29年)、[[貸本漫画]]会社、大阪東光堂の注文で貸本漫画を描いていた横山は、出版社の社長に連れられ手塚の下に赴き、横山が描いた時代物『魔剣烈剣』に目を通した手塚は「売れる漫画家」と判断した。横山は、『魔剣烈剣』の読者からの好評に自信を得て漫画家を志すようになり、この作品におけるスピード感と娯楽性は今後の漫画作りの姿勢の基本になったと言う。 1955年(昭和30年)、貸し本向け単行本『音無しの剣』で漫画家デビュー<ref name="plofile" />。2作目の『白百合物語』が認められ、[[光文社]]の『[[少女 (雑誌)|少女]]』で初の雑誌連載『白ゆり行進曲』が開始される<ref>[https://kotobank.jp/word/横山%20光輝-1658251 横山 光輝とは - コトバンク](2021年8月18日閲覧)</ref>。手塚はそのデビュー当時を「かれほど『彗星のように』という形容のあてはまる男はいない」と評している<ref name="boku">手塚治虫『ぼくはマンガ家』大和書房、1988年、115p</ref>。この頃に原作[[手塚治虫]]、作画横山光輝で『[[黄金都市]]』、『ターザンの洞窟』、『海流発電』、『仮面の冒険児』で4作発表している<ref group="注釈">後に未発表の『蜘蛛島の巻』の原稿が発見され手塚治虫原作は5作。</ref>。横山は[[トキワ荘]]の住人ではなかったが、手塚の「[[鉄腕アトム]]」のアシスタントとして活動したこともあった。 [[1956年]](昭和31年)、映画会社を退職した後、光文社『[[少年 (雑誌)|少年]]』に発表した『[[鉄人28号]]』が人気を博し作家的地位を確立。『鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分するヒット作となった。この年より上京し、以降映画会社勤務時に多くの映画を見た経験を生かして、名作を次々と生み出した。この時、鉄人28号のヒットにより本気で漫画家になろうと考えたと語っている。 [[1964年]](昭和39年)には、神田三崎町に株式会社光プロダクションを設立する<ref name="plofile" />。 『[[魔法使いサリー]]』などの例外を除けば連続物語(ストーリー漫画)を多く描き、笑いの要素のほとんどない、ある意味でハードボイルドな世界の構築を得意とした。展開も絵柄も奇をてらわない正攻法でわかりやすく、後年歴史もので名を成す下地となっている。 [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化された作品も多く、『鉄人28号』で巨大[[ロボットアニメ]]、『魔法使いサリー』で[[魔法少女アニメ]]の歴史が始まったと言われ、分野の先駆け的存在となった。 1991年(平成3年)、『三国志』により第20回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://nihonmangakakyokai.or.jp/about/about07 |title=日本漫画家協会賞 第20回(1991年度) |access-date=2023-07-21 |publisher=公益社団法人日本漫画家協会}}</ref>。受賞作『三国志』は、[[1971年]](昭和46年)から[[1986年]](昭和61年)までの15年の時間を要し、全60巻(文庫版は全30巻)というスケールで[[劉備]]登場から[[蜀|蜀漢]]の滅亡までが描かれた大作である<!--(その偉大さを称えて{{誰範囲|date=2020年5月|ファンや関係者}}から{{要出典範囲|date=2020年5月|「漫画界の万里の長城」という呼び名が与えられている}})-->。『水滸伝』『三国志』以降、横山は日本や中国の[[歴史漫画]]中心に力を注ぐことになる。中には[[毛沢東]]の[[長征]]を描いた『長征』のような近代中国史を描いた作品もある。<!--それ以降から、手塚治虫が「漫画の神様」と呼ばれたのに対して、歴史漫画に全力を注いだ横山は、{{誰範囲|date=2020年5月|同業者や読者}}から{{要出典範囲|date=2020年5月|『鉄人28号』にちなんで、「漫画の鉄人」と呼ばれるようになった}}。--> [[1999年]](平成11年)には大病を患い療養。 === 晩年 === [[2004年]](平成16年)に[[日本漫画家協会賞]]文部科学大臣賞を受賞した。同年[[4月7日]]『[[鉄人28号 (2004年版アニメ)|鉄人28号]]』(第4作)が放送開始。[[4月11日]]に東京都古書籍協同組合が組合員を対象として14~15日に開く全古書連大市会にて横山の未発表作品が入札にかけられると報道され、これに対し「売りに出されるのは不愉快」と発言していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/book/news/TKY200404100290.html|title=未発表の横山漫画が入札に 落札額注目、本人「不愉快」|work=asahi.com|language=日本語 |accessdate=2009年5月10日 }}</ref>。 それから間もない同年[[4月15日]]朝方、東京都[[豊島区]][[千早 (豊島区)|千早]]の自宅で[[火災|火事]]に見舞われ、全身[[熱傷|火傷]]を負って意識不明の[[重体]]となり、同日22時に[[日本大学医学部附属板橋病院]]にて死去した。69歳だった。出火原因は寝[[紙巻きたばこ|煙草]]の不始末で、約3年前に足を骨折した[[後遺症]]のため逃げ遅れたという<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/flash/20130914330.shtml 「鉄人28号」「魔法使いサリー」 横山光輝さん自宅火事で全身やけどで死去/芸能/デイリースポーツ online](2004年4月16日)</ref>。遺作は[[2001年]]7月に完結した『[[殷周伝説]]』。次作については、[[兵法書]]『[[孫子 (書物)|孫子]]』で著名な[[兵家|兵法家]]・[[孫武]]の物語を構想していたと編集部が明かしている。 === 没後 === 遺産は長男の横山輝利(てるとし、光プロダクション代表取締役の一人)と長女が相続したという。後に輝利は光プロのパーティで亡父の昔の単行本の再発行版決定に関してのスピーチの際に「大変読み易く、亡父が見ても納得してくれると思う」と述べている。 横山の生前時、「私の納得できる最善の出来ではない」という理由で、単行本化されない作品が多数あった。しかし横山の死後は『ジャイアントロボ』等々のこうした作品が相次いで単行本化されている。 2007年、生地である兵庫県神戸市[[長田区]]の[[新長田駅]]周辺の商店街などでは毎年夏頃に「三国志祭」が開かれ、2009年9月29日には同駅近くの[[若松公園]]内に高さ15.6m(全長18m)の実物大の鉄人28号[[モニュメント]]像が完成した。総工費は1億3,500万円で神戸市の補助金の他に寄付や協賛金などで集められた。 == 評価 == 少年・少女向けから大人向けまで、幅広い分野で多彩な技量を見せていた。 新分野への挑戦にも意欲的であり、[[番長]]漫画が流行した当時には、自らも『あばれ天童』を描いている。その単行本の前書きにおいては「新人になったつもりで描いた」とコメントしている。 手塚は「彼の作品は、計算の上にサービス精神を横溢させている」と評している<ref name="boku" />。漫画家の[[ゆうきまさみ]]はコラム『はてしない物語』などで「コマとコマの間を読ませるという意味で、横山氏の右に出る者はいない」と語っている。 == 人物 == 自作品の映像化に関して、横山はその点については現実的かつ寛容で、商業作品は第一に経済的に成功させなければならないという点に対して理解を持っていた。[[白土三平]]が『ワタリ』について先に制作された映画版の表現や完成度への不満からテレビドラマ化を拒否し、手配されていたスタッフやキャスト、予算などが宙に浮いてしまった際に、代替企画の原作者として横山に急遽白羽の矢が立てられ、このために『飛騨の赤影』([[仮面の忍者 赤影]])の連載を開始し、こちらは正統派の[[忍者]]漫画であったのに対して、テレビドラマ版は東映スタッフが知恵を絞り原作とは大幅に毛色の異なる作品となりながらも、いずれも人気作品となった。 数多くの横山作品を原作として[[テレビアニメ]]・[[特撮]]などの映像作品が制作され、多くのクリエイターが横山の了承を得て大いに独自の手腕を振るっている。たとえば『[[マーズ (漫画)|マーズ]]』では、その最初のアニメ化(『[[六神合体ゴッドマーズ]]』)に際して、漫画作品の発表からかなりの時間が経ち、内容も時代に合わせて変える必要があるからとして、「すべてお任せしますから、自由に書いてください」と言われたことを[[シリーズ構成]]の[[藤川桂介]]は述べている<ref>藤川桂介『アニメ・特撮 ヒーロー誕生のとき』ネスコ/[[文藝春秋]]、[[1998年]] ISBN 4-89036-979-1、157-158頁。</ref>。一方で、自身の作品に対するポリシーやアニメ化された作品に対する観察眼も一貫したものを持っており、『鉄人28号FX』については、雑誌のコメントで「鉄人のデザイン、物語ともどもにもっとわかりやすいものがよかったのでは?」という比較的辛口のコメントを残している。 30代の時点で、横山は既に漫画業界では大御所と呼ばれる存在になっていたが、内容の保守にとらわれず、過去の代表作の続編を作成したり、「今、読者が何を求めているのか?」を研究するために頻繁に映画館に足を運ぶという進取の人物であった。 『殷周伝説』を連載していた雑誌『[[コミックトム|コミックトムプラス]]』の巻末で、「私が今まで感銘を受けた本は、[[山岡荘八]]さんの小説『徳川家康』全26巻でしたね」と語っており、実際に横山の手によって漫画化されている。その他にも横山は『織田信長』『豊臣秀吉(異本太閤記)』『伊達政宗』と、次々と山岡作品を漫画化している。 無類の[[競馬]]好きで、それが高じて[[茨城県]][[美浦村]]の牧場で自分の[[競走馬]]を飼っていた。馬主としては'''株式会社千早クラブ'''名義で登録していた、[[勝負服 (競馬)|勝負服]]の柄は緑、茶鋸歯形。また、所有馬の『ジャックボーイ』は[[1987年]]([[昭和]]62年)の第48回[[菊花賞]]にも出走している(結果は18頭中15着)。 [[麻雀]]も強く、[[1981年]]には第12期麻雀名人(『[[週刊大衆]]』)のタイトルを獲得している。 [[喫煙|ヘビースモーカー]]としても有名だが、喫煙による火災が命取りになってしまった。 締切に関しては非常に誠実で、『三国志』連載中は当日の朝に編集者が仕事場に行くと、玄関口に完成原稿が封筒に入れられて置かれていたという。 == 作品リスト == === 少年向け === ==== ロボットもの ==== * [[鉄人28号]] * [[ジャイアントロボ]] - 初期のみ[[小澤さとる|小沢さとる]]と共作。 * てつのサムソン * [[サンダー大王]] * [[ダイモス (漫画)|ダイモス]] * むてきごうりき * みどりの魔王 ==== 忍者もの ==== * [[伊賀の影丸]] * [[仮面の忍者 赤影]](飛騨の赤影) * [[仮面の忍者 赤影#新・仮面の忍者赤影 (1987年)|新・仮面の忍者 赤影]] * [[忍法十番勝負]]・十番勝負 * 少年忍者風よ * ムササビ ==== SFもの ==== * レッドマスク * [[バビル2世]] * [[その名は101]](ワンゼロワン) - 『バビル2世』の続編 * 宇宙船レッドシャーク(短編作品) * [[マーズ (漫画)|マーズ]] * [[時の行者]] * セカンドマン * [[魔界衆]] * 地球ナンバーV7 * 昆虫惑星(短編) ==== 時代もの ==== * [[闇の土鬼]] * 音無しの剣 * 風盗伝 * [[恋と十手とお銀ちゃん]](短編作品) ==== その他 ==== * あばれ天童 * コマンドJ * グランプリ野郎 * 邪神グローネ * [[白髪鬼]] - [[江戸川乱歩]]原作 * 少年ロケット部隊 === 少女向け === * [[魔法使いサリー]] * [[コメットさん]] (漫画版、原作は[[TBSテレビ|TBS]]) * おてんば天使 * クイーンフェニックス<ref>{{Cite web|和書|title=くだん書房:目録:マンガ:雑誌:集英社 |url=http://www.kudan.jp/EC/w-comi1975.html |website=www.kudan.jp |access-date=2023-04-19 |quote=週刊少女コミック 1975年3月16日号(12) (新連載)横山光輝「クイーン・フェニックス」巻頭8ページカラー}}</ref> === 大人向け === * [[兵馬地獄旅]] * [[片目猿]] * [[ウイグル無頼]] * 血笑鴉 * 鬼火(短編) * 長征 * 戦国獅子伝 - 辻真先原作 * [[狼の星座]] - [[小日向白朗]]がモデルの日本人青年・健作が大陸で[[馬賊]]となって活躍する冒険譚 === 歴史もの === ==== 中国 ==== * [[殷周伝説]] - 『[[封神演義]]』と[[南宋|宋代]]の『武王伐紂平話』がモチーフ * [[史記 (横山光輝の漫画)|史記]] - 『史記列伝』も含む * [[項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)|項羽と劉邦]] - 『通俗漢楚軍談』がモチーフ * [[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]] * [[水滸伝 (漫画)|水滸伝]] ==== モンゴル ==== * チンギスハーン - [[チンギス・カン|チンギス・ハーン(チンギス・カン)]]の生涯を記した[[モンゴル語]][[歴史書|史書]]の『[[元朝秘史]]』をモチーフ ==== 日本 ==== * 平家物語 * [[山岡荘八]]原作 ** [[織田信長 (山岡荘八・横山光輝の漫画)|織田信長]] ** 豊臣秀吉([[太閤記|異本太閤記]]) ** 徳川家康 ** 伊達政宗 * 松平忠輝 - [[隆慶一郎]]の『捨て童子・松平忠輝』を[[漫画化]] * [[新田次郎]]原作 ** 武田信玄 ** 武田勝頼(『武田信玄』の続編) * [[隻眼の竜]]([[山本勘助]]が主人公) * [[蛟竜]]([[黒田孝高|黒田如水]]が主人公) * 元禄御畳奉行の日記 - 尾張藩士・[[朝日重章|朝日文左衛門]]の日記である『[[鸚鵡籠中記]]』を基本とした[[神坂次郎]]の著本を漫画化 == アシスタント == * [[赤塚不二夫]](出張アシスタントとして)<ref>{{Cite book|和書|title=中国の群雄 諸葛孔明(赤塚不二夫 眩しき男たち)|date=1985年1月25日|year=1985|publisher=[[旺文社]]|page=128-129頁}}</ref>。 * [[岸本修 (漫画家)|岸本修]] * [[鳴島生]] * [[井上英沖]] * [[乱丸]] * 加来あきら * 森正 * [[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]] * [[大友康匠]] == 関連項目 == {{Commonscat|Mitsuteru Yokoyama}} * [[ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日]] - 『水滸伝』『三国志』『鉄人28号』など、横山漫画作品の登場人物が総登場([[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]])する[[OVA]]。 * [[六神合体ゴッドマーズ]] * [[神世紀伝マーズ]] * [[横山光輝 三国志]] ** [[横山光輝 三国志 (ゲーム)]] * [[三国志大戦]] - SEGAのアーケードゲーム。LE(レジェンド)カードとして、劉備、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲を初め、横山のイラストを使った多数の武将が登場する。 * [[GR-GIANT ROBO-]] * [[豊島区]] - 2012年7月、区制施行80年を記念するイベントの一環として、同区に45年在住していた横山光輝の作品の主人公たち(夢野サリー、バビル2世、赤影)に特別住民票を発行、特別区民とした<ref>[https://www.city.toshima.lg.jp/132/bunka/kanko/moyoshi/tsunen/027231.html 豊島区HP『文化・観光』項「横山光輝作品・特別住民票」]。期間限定で職員の名刺などにもキャラクターのイラストを印刷したものを使用している。</ref>。 * [[KOBE鉄人三国志ギャラリー]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『横山光輝のすべて』辰巳出版、2005年 ISBN 978-4777801350 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|ウィキポータル 漫画]]}} * [https://yokoyama-mitsuteru.com/ 横山光輝 Official Web](オフィシャル) * [https://www.kobe-tetsujin.com/ KOBE鉄人PROJECT] * [https://www.kobe-tetsujin.com/3594maturi/ 三国志祭] {{横山光輝}} {{鉄人28号シリーズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:よこやま みつてる}} [[Category:横山光輝|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:神戸市出身の人物]] [[Category:火災で死亡した人物]] [[Category:馬主]] [[Category:1934年生]] [[Category:2004年没]]
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吉田聡
𠮷田 聡(よしだ さとし、1960年12月8日 - )は、日本の漫画家。福岡県生まれ、神奈川県藤沢市辻堂出身。血液型B型。苗字の「吉」の正確な表記は「𠮷」(「土」の下に「口」、つちよし)である。 高校卒業後、東京デザイナー学院商業デザイン科中退。スキー事故で全治6か月の骨折入院中に漠然と漫画家になることを決意。 アイスクリーム店でアルバイト中、常連客からの情報を辿って押しかけた地元の漫画家ムッシュー・田中に師事、チーフアシスタントを務める。 師匠から「鶏口となるも牛後となるなかれ(強い勢力につき従うより、たとえ小さくてもその中で長となれという諺)」とアドバイスを受け当時の少年誌の中でも発行部数の少なかった『週刊少年キング』(少年画報社)へ作品を持ち込み。1982年(昭和57年)同誌の漫画賞である第4回まんが道大賞において『天上界Story』があすなろ賞を受賞。『週刊少年キング』は休刊するも、直後に発行された増刊号にて『天上界Story』掲載、デビューとなった。 同年『週刊少年キング』がリニューアル創刊された『少年KING』に読切作品『湘南爆走族』3本が掲載、翌年初頭に初の連載作品となる。『湘爆』は爆発的ヒット作品となり、ビデオアニメや映画、グッズなど多岐にわたって展開され社会現象を呼び起こした。 1985年(昭和60年)には『週刊少年サンデー』(小学館)に『ちょっとヨロシク!』連載開始。 1987年(昭和62年)に『湘南爆走族』を人気絶頂の中終了させるも、『ヤングサンデー』(小学館)で『純ブライド』、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で『スローニン』、『ヤングキング』(少年画報社)で『湘南グラフィティ』の3作品を同時連載。 1995年(平成7年)から『ヤングキング』(少年画報社)にて開始された『荒くれKNIGHT』は、掲載誌を『ヤングチャンピオン』(秋田書店)に変えつつ、現在まで25年以上も連載が続くロングランシリーズとなった。 その後も少年誌から青年誌、果ては学年誌にまで幅広く、コンスタントに作品を発表し続けている。 宮崎駿は吉田の作品のファンであり、『バードマン・ラリー 鳥人伝説』の解説で、『湘南爆走族』を「管理社会に対する異議申し立ての傑作」と絶賛している。
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𠮷田 聡は、日本の漫画家。福岡県生まれ、神奈川県藤沢市辻堂出身。血液型B型。苗字の「吉」の正確な表記は「𠮷」(「土」の下に「口」、つちよし)である。
{{記事名の制約|title={{拡張漢字|吉}}田聡|disablerealtitle=yes}} {{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 吉田聡 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = [[1960年]][[12月8日]] | 生地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[藤沢市]][[辻堂 (藤沢市)|辻堂]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = 1982年 - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[湘南爆走族]]』<br />『[[荒くれKNIGHT]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|http://www.example.org}}や[http://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''𠮷田 聡'''(よしだ さとし、[[1960年]][[12月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福岡県]]生まれ、[[神奈川県]][[藤沢市]][[辻堂 (藤沢市)|辻堂]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]B型。苗字の「吉」の正確な表記は「{{拡張漢字|吉}}」(「土」の下に「口」、つちよし)である<ref>Unicodeでは U+20BB7、「{{拡張漢字|吉}}」。</ref>。 == 来歴 == 高校卒業後、[[専門学校東京デザイナー学院|東京デザイナー学院]]商業デザイン科中退。スキー事故で全治6か月の骨折入院中に漠然と漫画家になることを決意。 アイスクリーム店でアルバイト中、常連客からの情報を辿って押しかけた地元の漫画家ムッシュー・田中に師事、チーフアシスタントを務める。 師匠から「鶏口となるも牛後となるなかれ(強い勢力につき従うより、たとえ小さくてもその中で長となれという諺)」とアドバイスを受け当時の少年誌の中でも発行部数の少なかった『週刊少年キング』(少年画報社)へ作品を持ち込み。1982年(昭和57年)同誌の漫画賞である第4回まんが道大賞において『天上界Story』があすなろ賞を受賞。『週刊少年キング』は休刊するも、直後に発行された増刊号にて『天上界Story』掲載、デビューとなった。 同年『週刊少年キング』がリニューアル創刊された『少年KING』に読切作品『湘南爆走族』3本が掲載、翌年初頭に初の連載作品となる。『湘爆』は爆発的ヒット作品となり、ビデオアニメや映画、グッズなど多岐にわたって展開され社会現象を呼び起こした。 1985年(昭和60年)には『週刊少年サンデー』(小学館)に『ちょっとヨロシク!』連載開始。 1987年(昭和62年)に『湘南爆走族』を人気絶頂の中終了させるも、『ヤングサンデー』(小学館)で『純ブライド』、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で『スローニン』、『ヤングキング』(少年画報社)で『湘南グラフィティ』の3作品を同時連載。 1995年(平成7年)から『ヤングキング』(少年画報社)にて開始された『荒くれKNIGHT』は、掲載誌を『ヤングチャンピオン』(秋田書店)に変えつつ、現在まで25年以上も連載が続くロングランシリーズとなった。 その後も少年誌から青年誌、果ては学年誌にまで幅広く、コンスタントに作品を発表し続けている。 == 人物== [[宮崎駿]]は吉田の作品のファンであり、『バードマン・ラリー 鳥人伝説』の解説で、『湘南爆走族』を「管理社会に対する異議申し立ての傑作」と絶賛している。 == 作品リスト == * [[湘南爆走族]](1982年 - 1987年、『[[少年KING]]』、[[少年画報社]]) * [[ちょっとヨロシク!|ちょっとヨロシク!]](1985年 - 1987年、『[[週刊少年サンデー]]』、[[小学館]]) * 笑ルーム(1986年 - 1987年、『小二教育技術』、[[小学館]]) * [[純ブライド]](1987年 - 1988年、『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』、小学館) * [[スローニン]](1987年 - 1988年、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、小学館) * [[湘南グラフィティ]](1987年 - 1988年、『[[ヤングキング]]』、少年画報社) * 鬼のヒデトラ(1988年 - 1990年、『ヤングキング』、少年画報社) * ダックテール(1989年、『ヤングサンデー』、小学館) * 天翔ける鈴(1989年、『週刊少年サンデー』、小学館) * バードマン・ラリー 鳥人伝説(1989年、『週刊少年サンデー』、小学館) * DADA!(1989年 - 1991年、『週刊少年サンデー』、小学館) * [[ハートブレイクパパ]](1991年 - 1993年、『[[ミスターマガジン]]』、[[講談社]]) * ホンキな家族(1991年 - 1992年、『ヤングキング』、少年画報社) * 関東ドドンパ男(1992年 - 1993年、『ヤングキング』、少年画報社) * トラキーヨ(1992年 - 1993年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館) * 噂の男前!(1993年 - 1995年、『週刊少年サンデー』、小学館) * 渚のジェントル(1994年 - 1995年、『[[ビッグコミックスペリオール]]』、小学館) * BLACK NIGHT HAWK(1994年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館) * [[荒くれKNIGHT]](1995年 - 2005年、『ヤングキング』、少年画報社→2006年、月刊荒くれKNIGHTマガジン) ** 荒くれKNIGHT 黒い残響 完結編(2007年 - 2016年、『[[ヤングチャンピオン]]』、[[秋田書店]]) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー(2018年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー アフター・バーナー(2018年 - 2019年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー ダークサイド・エンジェル(2019年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー スライト リターン(2019年 - 2020年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー ゴーストノート(2020年 - 2021年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) ** 荒くれKNIGHT リメンバー・トゥモロー デッドフラワー(2021年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) * 吉(マルヨシ)商店特盛劇場(1995年 - 1996年、『週刊少年サンデー超』、小学館) * 走れ!天馬(1996年 - 1997年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館) * DUMPERS(1998年 - 1999年、『ヤングキング別冊キングダム』、少年画報社) * ジャイアンツ(1998年 - 1999年、『スーパージャンプ』、集英社) * 江戸川キング(1999年 - 2000年、『ヤングマガジンアッパーズ』、講談社) * てんねん(2001年 - 2004年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館) * GOE(2001年 - 2002年、『小学三年生』、小学館) * ばるこん(2002年、『小学三年生』、小学館) * ジナス(プロット協力、[[長崎尚志|ビッグ・オー]]、2005年 - 2008年、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』、講談社) * ケンとメリー(2008年 - 2009年、『モーニング』、講談社) * 七月の骨(2010年 - 2011年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館→2011年 - 2013年、『[[月刊!スピリッツ]]』、小学館) * 親鸞(2011年、『[[週刊マンガ日本史#週刊新マンガ日本史|週刊新マンガ日本史]]』14号、[[朝日新聞出版]]) * [[サラリーマン拝!|サラリーマン拝!]](2013年 - 2016年、『[[ビッグコミック]]』、小学館) * セブングレイズ(2016年 - 2017年、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) * そのたくさんが愛のなか。(2017年 - 2018年、 『ビッグコミック』、小学館)<ref>[http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/news/big-201705-yoshida-satoshi/ 『湘爆』の吉田聡、新連載! バイクの音と湘南の海をバックに描かれる、大人の青春!]、 コミスン(comic soon)、2017年2月25日閲覧。</ref> * 湘南爆走族 ファーストフラッグ(2022年 - 、『ヤングチャンピオン』、秋田書店) == アシスタント == * [[村枝賢一]] * [[落合裕介]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{twitter|manga_satoshi}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:よした さとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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2,074
自己相互作用補正
自己相互作用補正(じこそうごさようほせい、英: Self Interaction Correction, SIC)とは、電子間の相互作用を局所密度近似で取り扱う過程で、電子が自分自身と相互作用する項が完全には相殺されなくなるときに施される補正である。 電子間の相互作用を密度汎関数法で取り扱う場合には、ハートリー項を のように表す。この項の中には電子がその電子自身と相互作用する項(自己相互作用項)が含まれるが、交換相互作用の項を足し上げていく過程でこの項は相殺されるべきものである。 しかし、局所密度近似によって交換相関項が近似されると、電子の自己相互作用項の相殺が完全ではなくなってしまう。自己相互作用項が中途半端に残るため、局所密度近似では、一例として次のような問題が生じる。空間内で孤立した系(電子と正電荷からなる系で、総電荷は中性であるとする)から電子を一個だけ十分な遠方に遠ざけた時(系には正孔が残る)、その遠ざけた電子が感じるポテンシャルは、e /r (e は素電荷、r は系からの距離)となるはずだが、局所密度近似ではそうならず、ポテンシャルの形は系から遠ざけた距離に対し指数関数的に減少してしまい、正しいポテンシャルの形を与えない。自己相互作用補正を導入すると、これを改善することができる。 局所密度近似を用いた場合の自己相互作用補正の見積もり方としてはパデューとZungerによるものが有名である。
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2,075
3次元コンピュータグラフィックス
3次元コンピュータグラフィックス(さんじげんコンピュータグラフィックス、英: three-dimensional computer graphics)は、コンピュータの演算によって3次元空間内の仮想的な立体物を2次元である平面上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある画像を作る手法である。3DCG()と略記されることも多い。20世紀末からのコンピュータ技術の急速な発達と性能向上によって、従来は大企業や大きな研究所でしか得られなかった高精細で高品質の3次元画像が、21世紀初頭現在ではパーソナルコンピュータ (PC) やゲーム機、スマートフォンでも実時間で得られるようになっている。 毎年夏にアメリカ合衆国で開催されるCGの祭典「SIGGRAPH」(シーグラフ)にて、世界中の多くの研究者により最新のCGの論文が発表され、技術更新がなされている。 3DCGは、ユーザーが仮想的な視点や対象物の変更を操作して直ちに更新された画像を得るCADのようなシミュレーションやコンピュータゲームのように実時間処理の動画像と、CG映画のように製作者側があらかじめ時間を掛けて動画像を製作しておくもの、そして、静止画の3種類に大別できる。十分に高い技術を用いれば、無生物では実写と見分けがつかないほど遜色のない画像が得られるが、人物画ではCG特有の無機質なものとなることが多く、ロボットでの不気味の谷現象と同じく一般に人の表情を描くのは不得手である。 ユーザーの操作や時間経過など、何らかのパラメータ観測および情報入力に対応して即座に映像を動的生成する処理を指す。 代表的な実時間処理による動画生成の用途はコンピュータゲームである。PCや据え置き型のゲーム機(家庭用ゲーム機やゲームセンターで使われる業務用のアーケードゲーム機)、携帯ゲーム機や携帯電話(スマートフォンおよび一部のフィーチャーフォン)でのゲームにまで3DCGを用いた動画像が利用されている。 工業用途では製品の設計段階でCAD/CAMによって部品同士の接続や製品の完成図を描いたり、建築でのパースを描画したりする目的で利用されている(建築パースの作成では設計図面さえあれば建築イメージを確認できるため、古代遺跡の復元モデルなどをフォトリアリスティックに描画する用途などにも用いられている。立体地図の場合は地形の起伏や大縮尺の場合の建物形状をいろいろな視点から眺められるように用いる)。また、現実世界での運動や周囲状況をコンピュータ・シミュレーションで再現することで効果的な訓練が行える、ドライブシミュレータやフライトシミュレータなども実時間処理での3DCG技術の利用例である。X線CTやMRIのように、多数の断層画像から3次元データを再構築した後、任意断面の観察をする際にもリアルタイム3DCGの技術が使用される。 動画生成における実時間処理は、そうでないものに比べて画像の精度よりも実時間内に如何にそれらしい画像を生み出すかが求められるため、簡易的な局所照明モデルを採用したり、ローポリゴンモデルにテクスチャマップで質感を表現したりするなど、できる限り事象を近似または演算処理を簡略化したり事前計算したりして、時間的・空間的コストを低減する工夫がなされている。PC用の3DCG動画を並列計算により高速生成するための専用ICとしてGPUが登場している。プログラマブルシェーダーの登場以後、リアルタイムでレイトレーシングや大域照明(グローバルイルミネーション)を実行する技術やハードウェアも開発されているが、いまだ発展途上の領域である。 ゲーム内でユーザーの操作や対話(インタラクション)を必要としないムービーシーン(デモシーン)の再生には、事前にプロダクションレンダリングソフトウェアおよび高精細モデルを使って生成された高品質な動画が使用されることもあるが、ゲーム内で使われるアセット(素材)をそのまま利用したリアルタイムレンダリングがなされることもある。 3DCGによる映画の制作が代表的な「実時間処理ではない」動画生成用途である。多くの映画では、写実的(フォトリアル)な画像を制作する目的や、反対にマンガ的なアニメーションのように非現実的な画像を制作する目的で利用され、実写との合成映像も含めれば大半の商業用映画に何らかの形で3DCGの技術が用いられている。VFXを多用するSF映画やアニメ映画などでは長時間の3DCG画像が必要とされることがあり、そのような場合には、3DCG演算専用の多数のコンピュータから構成される「レンダリング・ファーム」と呼ばれるサーバー施設で数ヶ月単位で動画像の生成が行われる。 広告宣伝用途での3DCG動画像も広告製作会社内やメーカー自身の内部で、映画と同じような環境で製作されている(自動車産業が3DCG動画による広告の代表であるが、他の産業でも設計過程でコンピュータ・シミュレーションを必要とする航空宇宙、軍事、船舶といった分野の企業が物理現象のシミュレーションと共に画像表示のための3DCG技術を利用している)。 広告や芸術、そしてあらゆる種類のイラストレーション用途に3DCGを用いた静止画が製作されている。 3次元CGの基本原理は、カメラの基本原理と同じであり、3次元空間内の対象物を2次元平面の仮想スクリーン上に投影することで実現される。単純な2次元コンピュータグラフィックス (2DCG) では、一般的に平面的な物体同士の重なりを考慮するだけでよく、奥行きによる尺度の違いや照明および遮蔽による陰影の違いを演算する必要はないが、3DCGでは立体物ゆえに奥行きを考慮した複雑な座標変換や画素の塗り分けを行わなければならない。コンピュータグラフィックスは計算幾何学分野における問題のひとつであり、行列やベクトルといった線型代数学が多用される。 まず[図1]のような3次元座標を考える。原点に視点があるとして、座標空間内の3次元座標を持つ点Aの見え方は、投影法によって左右される。 [図2]のように原点と点Aの間にスクリーンを置いた場合、スクリーン平面上に映し出される点Aの投影座標は h = x × s / z {\displaystyle h=x\times {}s/z} 、 v = y × s / z {\displaystyle v=y\times {}s/z} で求められる。 z {\displaystyle z} が大きくなれば、スクリーン上の点Aは限りなく原点に近づく。つまり遠くのものは小さく見えるわけである。スクリーンを置く座標 s {\displaystyle s} は大きくなればパース(遠近感)が緩く、小さくなればパースがきつくなるので、レンズの画角(視野角)を表現することができる。これが透視投影 (perspective projection) の原理である。 透視投影によりスクリーン上で各物体の遠近関係が表現されるが、画角によって画面上のサイズや印象が大きく変わるため、モデリングの際の正確な寸法や形状確認といった目的には適さないことがある。その場合、視点と物体の間の距離とは無関係にそのまま平行に投影する手法が使われることがあり、平行投影 (parallel projection) または正射影 (orthographic projection / orthogonal projection) と呼ばれる。平行投影の視錐台は直方体となる。 いずれにしても、3次元座標を持つ図形を2次元座標系に変換した後で、図形の各点を幾何学的なつながり情報(トポロジー)に基づいてそれぞれ結べばワイヤーフレーム画像が生成され、また結んだ点から面を作ればポリゴンによる表現が可能となる。リアルタイムコンピュータグラフィックスでは、ハードウェア的な制約から、実際にサポートされる最小の図形(プリミティブ)は点・線分・三角形のみであり、それ以上の多角形や立体図形は多数の三角形を組み合わせて表現する。 3DCGの制作は次のような行程にわけることができる。 モデリング(英: modeling)とは、仮想3次元空間上に個々の物体の形状をつくる作業のことである。多くの3DCGソフトウェアでは、一つの面を三角形や四角形といった多角形の集合として表現する。三角形しか扱えないソフトウェアも多い(四角形以上は、それを構成する全ての頂点が同一平面上にない可能性があるため)。これらの多角形はポリゴン(英語で多角形の意)と呼ぶ。各形状はポリゴンの集合で表現される。モデリングで作られた形状をモデルやオブジェクトと呼ぶ。 四角形が扱える場合は、ポリゴンの流れの見やすさなどからも四角形の面をメインとして構成するのが一般的であるが、同一平面上にない空間上の4点を結んで四角形を折り曲げた2つの三角形の面とする方法は2通りあるため、それを1通りに確定するためや、あるいは最後の仕上げなどに三角形の面が用いられることがある。また、3DCGにおいては五角形以上の多角形は、三角形や四角形と区別して単に「多角形」と呼ぶことがあるが、エラーや問題を引き起こしやすいため、基本的に五角形以上の多角形の面(ポリゴン)の使用はタブーとされ、制作過程でこの面が出てきた場合、最終的には全て四角形ないし三角形に分割するのが普通である。 他に面を定義する方法としては自由曲面がある。自由曲面はNURBS曲線、スプライン曲線、ベジェ曲線などで曲面を構成する方法で、ポリゴンのみでモデリングされた形状に比べ滑らかで正確な形状が得られる。ポリゴンのみでモデリングすることを、ポリゴンモデリングと呼んで、自由曲面を利用したモデリングと区別することがある。 形状が出来たら、オブジェクトに材質(マテリアル)を設定する。材質を設定しなければ、オブジェクトはただ一様に光を反射するだけの均質な物体になる。多くの3DCGソフトウェアでは、色、透明度、反射、屈折率、自己発光、バンプ、ディスプレイスメントなどの設定項目がある。 モデリングで制作したオブジェクトを、仮想3次元空間上に配置する。現実世界と同様、光源も配置しなければ何も表示されない(黒一色の画像が出力される)。また、仮想的なカメラを配置することで視点を設定する。これらを配置・設定した仮想的な舞台をシーンと呼ぶ。 レンダリング(英: rendering)は、これまでに設定したシーンから、仮想的なカメラに写されるはずの画像を生成する工程である。オブジェクトの形状や位置、光のあたり具合などをコンピュータが計算し、最終的な画像が生成される。レンダリングのアルゴリズムには、それぞれ処理速度や品質の違う多くの種類があり、用途に合わせて使い分ける。各種の設定を済ませレンダリングを開始した後は、レンダリングが終了するまで制作者がすることは特にない。一般にレンダリングには多くの時間を要する。シーン内に多くの形状があったり、高度なレンダリングアルゴリズムを利用している場合、数時間から数日かかる場合もある。ゲームなどリアルタイムにレンダリングしなければならないときは、単純で高速なレンダリングアルゴリズムを適用したり、シーンの総ポリゴン数を少なくするなど、大きな制限が加えられる。映画など大規模な制作現場では、同時に複数のコンピュータにレンダリング処理をさせて、計算時間を短縮することがある。 レンダリング手法によっては空気による遠近法・光の照り返しなども計算される。そういった複雑な計算をするレンダリング処理は専用回路(GPU)で行われることも多い。高い対話性と双方向性が得られるので、ゲームに用いられる場合はこの形態をとる。 レタッチ(英: retouch)とは、手直しする作業のことである。レンダリングで得られた画像が、完全に制作者の意図したものになるとは限らない。PhotoshopやAdobe After Effectsなどのフォトレタッチツールなどで、コントラストや色味を手直しすることもある。 3DCGのモデルに画像を貼り付けることをテクスチャマッピング(英: texture mapping)、その貼り付けられる画像をテクスチャという。テクスチャを貼ることにより、モデリングやシェーダーのみでは表現の困難な、モデル表面の細かな色彩情報や質感などを設定することができる。 テクスチャの貼り付け方としては、単純にカメラ方向からモデルにテクスチャを投影するだけの方法や、UV座標によって切り出されたテクスチャの2次元画像領域をモデル表面に分割投影する方法などがある。 反射の強度を設定する反射マッピング、小さな凹凸を擬似的に表現するバンプマッピング/法線マッピング、透明度を設定する透明度マッピングなどがある。形状の表面に画像の情報を加えることによって、表面の模様や質感が表現されて、より現実的な画像になる。ディスプレースメントマッピングのように、画像情報をもとに実際の凹凸形状を動的に生成する手法もある。 特にコンピュータゲームにおいては、リアルタイムで3DCGキャラクターを描画する必要から、極力少ないポリゴンで作成されたモデル(ローポリゴンモデル)に、ディテールや陰影などを描き込んだテクスチャを貼り付ける手法が行われている。 モデルの表面の法線の方向を変化させることによって、擬似的に凹凸を表現する技術。グレースケール画像で元形状に対する高低を定義する。少ないポリゴンで細かな陰影をリアルに表現できる利点があるが、実際に表面に立体的な凹凸があるわけではないので、ズーム時や、面を横から見た場合などに違和感のある画像となる。 近年は法線の方向(3次元ベクトル)を直接定義する法線マッピング(ノーマルマッピング)も用いられるが、法線マップを手作業で作成するのは困難であるため、通常は高精細モデルのディティールを法線マップに変換して単純化モデルに適用する手法が採られている。 3Dモデルの頂点を実際に表面に対して上下に移動させて凹凸を表現する技術。バンプマッピングに比べて、実際に立体的な凹凸となるため違和感のない画像が得られるが、表現する凹凸に応じてポリゴン数が増大する欠点がある。リアルタイム3DCGの分野ではDirect3D 10およびOpenGL 3.2でジオメトリシェーダーが標準化された後、Direct3D 11/OpenGL 4にてテッセレーションが標準化され、GPUによるディスプレースメントマッピングが可能となった。 バンプマッピングによる凹凸の表現はあくまで擬似的に陰影を表現し、またディスプレースメントマッピングによる凹凸は3Dモデルそのものの頂点を移動させて凹凸を表現するだけであるのに対して、3Dモデルに立体的な濃度関数を掛け合わせることにより、小さな凹凸はもとより、深い溝や貫通した穴のような大きな構造も表現することができる技術。 ポリゴンはあくまで多角形の面なので、モデルにはっきりとした表面が無かったり、モデルの数が膨大であったり、動きが不規則な煙や炎などを表現するのには不向きである。また、毛髪や草木など、ポリゴンで表現しようとするとその量から大変な人的労力やリソースが必要になるものがある。パーティクル (particle) はこれらの問題を解決するための技術である。パーティクルはこれらを微小な粒子の集合として表現し、確率モデルでその動き・形状を処理する。高度なモデリングまたはレンダリングソフトウェアで扱うことができる。これをレンダリングする際にはビルボーディングやメタボールなどの技術が使用される。 サブディビジョンサーフェス(英: subdivision surface)とは、大まかにモデリングされたポリゴンメッシュをメモリ上で細分化して、滑らかで継ぎ目の無い形状にする技術。少ないポリゴン数で形状を滑らかに表現できるため、編集や変形も容易になる。ただし、工業用CADなど形状に高い精度が要求されるときには利用できない。 複数のオブジェクトどうしを集合演算する技術。他の形状と結合する(和)、一方の形状から他方の形状を削り取る(差)、重なっている部分のみを形状として抜き出す(積)ことなどができる。 複数の3次元座標上の点を中心として濃度分布を設定し、濃度の閾値を形状の表面とする技術。球状の形状が引き付けあうようにみえる融合と、反発しあうように見える反転融合がある。正確な形状を作ることは難しいが、有機的な形状を少ない制御点で作るのに向いている。3DCG特有の概念ではなく、2Dの画像表現にも使われることもある。当初はその呼び名の通り球体を基本としていたが、その後改良が進められ、球体以外の形状も利用できるようになり、有機的な形状をモデリングする技術として活用されている。 モデリングの他に、流れる液体の表現等にも使われる。レンダリングに必要な計算量は多くともメモリの使用量が少ないのが利点だったが、現在ではそれらのリソースが充実している上、流体力学の計算法も進歩しているため、映像制作の現場では、見た目のチープなメタボールはほぼ使われることのない技術になっている。 インバースキネマティクス(英: inverse kinematics)は3次元コンピュータグラフィックスの専門用語ではない。もともと力学の一分野であり、ロボティクス等のほうが「本家」である。 人間など多くの関節を持つ動物において、関節の末端部分の位置は常にその親となる部分の位置と角度に依存している。そのため、通常では関節の末端部分の位置を求める場合においてモデルの中心から末端にかけて順番に関節の角度計算をする、という向きが「順方向」である。しかし、その方向で計算したのでは、例えば「机の上を掌でなでるような動き」を実現するのは面倒なものとなる。なぜなら、関節の末端部分の位置の変化を求めるためには複雑な計算をモデルの中心から全て順方向に再計算しなおさなければならないため非常に非効率的だからである。この解決のため、末端部分の位置を先に決めてその関節の末端位置を実現するための親となる関節の角度を、一種の「逆問題」を解くようにして求めることが考えられる。 以上の説明からもわかるように、物理的な運動学に関して一般に考えることができる逆問題的な考え方のひとつである。 股-ひざ-足のような形状を想定してみると、足の裏が自転車のペダルにくっついたままペダルが回転運動をするアニメーションを作る場合に、ペダルの回転運動に合うように股・そしてひざや足の角度の変更を行なっていくのではなく、足部分の移動に追随する形で、逆に足-ひざ-股の順に各関節の動きを順次割りだして決定する方が、見た目も自然なアニメーションが作成できる。 3次元空間上に光源を設定することをライティング(英: lighting)と呼ぶ。光源によってモデルは可視物となる。光源には次のような種類がある。 3DCGソフトウェアによっては、球や円柱などの単純なオブジェクト(プリミティブ)を、ポリゴンではなく中心点や半径、高さといった数値で扱う場合がある。これらの細部を編集したりレンダリングする場合は、ポリゴンメッシュに変換する必要がある。これをtessellationと呼ぶ(tessellateはモザイク模様にするという意味)。ただし、オブジェクトが本来持っていた形状情報である球体、円錐などのような抽象的な表現は失われてしまう。 現在の3DCGにおいて、速度面などの理由により単純化された照明モデル・反射モデルを利用する場合、多くはPhongの反射モデル (Phong reflection model) を採用している。Phong反射モデルは経験則であり、ローカルイルミネーション(局所照明)の代表例である。より写実的なシーンを描画するためには、後述するラジオシティなどのグローバルイルミネーション(大域照明)をサポートする、光学的・物理学的に正しい照明モデル・反射モデルが使われるが、現実世界をシミュレートするには非常に複雑かつ膨大な計算を伴うため、レンダリングに時間がかかるようになる。レンダリング方程式(英語版)はエネルギー保存則をもとに光の伝播を記述するものであり、物理ベースのレンダリングの基本となる理論である。 反射モデルは物体の性質にも左右される。コンピュータグラフィックスにおいて、物体の性質は材質(マテリアル)として定義・抽象化されるが、プラスチックや金属、皮膚や毛髪の質感をコンピュータグラフィックスで正確に再現するためには、それぞれの材質に応じた適切な反射モデルを使う必要がある。物体の色は光のRGB各成分の反射・吸収係数の違いによって生まれ、また鏡面ハイライトの色や形状は面の粗さや光源の特性にも左右される。金属光沢や回折模様を再現する場合は、物質の物理的・化学的特性や表面性状を考慮する必要がある。 また光の屈折現象をコンピュータグラフィックスで再現する場合、物質の特性として屈折率が重要な要素となる。多くの3DCGソフトウェアでは、屈折率 (index of refraction) を略してIORと表記する。 シェーディングとは、物体の陰影を計算することである。広義では反射モデルによる反射光の強度計算を含むが、狭義では後述の陰影補間技法を指す。 ポリゴンモデルから2次元画像を生成する過程での陰影の補間法には次のような種類がある。 隠面消去方法のひとつ。 ポリゴンの座標(大抵は中心点)を基準に、画面の奥(視線からもっとも遠いポリゴン)から、全てのポリゴンを順番に描画する。 後述のZバッファ法のような特殊な処理をせず、基本的に多角形を描画すればよいだけなので、実装が簡単であり、消費メモリが少なく非常に処理が高速にできる利点がある。Zバッファ法が普及するまでは古くは3DCG全般で利用され、また、最近まで家庭用ゲーム機におけるリアルタイム3DCGでは一般的に利用されていた。しかし、ポリゴン数が増えた場合は、ポリゴンをソートするコストがかかる、またフィルレートが膨大になるため、Zバッファ法と比較して速度的なメリットがなくなる。 ポリゴンが交差した場合に正しく表示することができないという欠点があるが、この解決策として、ポリゴンが互いに交差しないように静的、あるいは動的に細分化する方法がとられることがある。 Zバッファ法と異なり、半透明ポリゴンの描画に関しては、ポリゴンが交差する場合を除いて、概ね正しく扱うことができる。 隠面消去方法のひとつ。 多数のポリゴンが重なった場合、奥のポリゴンが手前に描かれてしまうような不都合が生じることがある。 これを防ぐために、各ポリゴンを描画する際、各画素について視点からの距離を全て記録し、現在記録されている深度よりも近い画素だけを描画する。 Zソート法と異なり、通常は、視点にもっとも近いポリゴンからレンダリングする(Zバッファで判定することで、奥に隠れたポリゴンのレンダリングをスキップできるため)。 Zバッファとは、深度を記憶するメモリ領域のことであり、Zバッファ法はアルゴリズムが簡単なためハードウェア化しやすい利点があるが、Zバッファ用のメモリの分だけ、Zソート法よりもメモリは多く消費する。単純に、ピクセル単位で奥行きを判定して、ポリゴンのピクセルを塗るか塗らないかを判定しているだけなので、半透明なポリゴンは、Zバッファ法だけでは正しく処理できない(この場合、一度Zバッファ法で不透明なポリゴンだけ描画し、さらにZソート法で半透明なポリゴンを重ねて描く)。また、互いに接近した平行、あるいは低い角度で交差するポリゴンにおいて、Zバッファに記録される深度の精度によっては、隠面消去が正しく行われない、Zファイティング(Z-fighting)と呼ばれる現象が起きる。 ゲームやCADソフトウェアのプレビュー表示など、リアルタイムでの描画によく利用される。 スキャンライン(英: scanline rendering)とは、スクリーンを横一行ごとに分割して、その一行ごとに深度を計算してレンダリングする手法のことである。透過を表現したり、シェーディングと併用することで陰影も表現できる。スキャンラインとは走査線を意味する。比較的高速だが、得られる画像の品質は基本的にレイトレーシングよりも劣る。 レイトレーシング(英: ray tracing)は、視点から光源までの光を追跡することでレンダリングする手法。視点から描画する各画素の方向へ直線を伸ばし、物体と交錯する可否を数学的に判定する。照度は光源との方向ベクトルで計算する。反射と屈折は反射率および屈折率をもとに再帰的に探索を繰り返す。物体との交錯がなくなれば計算は終了する。スキャンラインでは得られない反射や屈折などの表現が可能になる。フォトリアリスティックな画像が得られる反面、大変なレンダリング時間が掛かる。そのため屈折の計算処理については、簡略化あるいは制限を設けるのが一般的である。リアルタイム3DCGの分野では、GPUの発展と共に、レイトレーシングのリアルタイム化が試みられており、Adobe After Effects CCではNVIDIA OptiX(英語版)が採用された。 ラジオシティ(英: radiosity)は、各ポリゴンに光のエネルギー量を持たせて形状の相互反射を計算することで、間接光(やわらかい光の回り込み)などを表現する技術。大域照明(グローバルイルミネーション)の代表例である。計算に膨大な時間が必要になるが、完全拡散面で構成されるシーンでは、一旦物体相互間の光の反射を計算し終えれば、物体や光源が移動しない限り、その計算結果を保存して別のアングルからのレンダリングへ再利用することができる。照明工学の分野で発達した技術を3DCGのレンダリングに応用した。 フォトンマッピング(英: photon mapping)は、光をモデル化したフォトンを光源からばらまいてフォトンマップを作成し、次に作成されたフォトンマップに対し、光線追跡法を適用することでレンダリングする手法。計算量を抑えつつ、物体や媒質の質感や透明感を表現できる。ラジオシティと同様、計算結果の再利用が可能。 通常のレイトレーシングと同様にカメラから視線を飛ばし、オブジェクトと交わった点を始点としてさらに大量に2次視線を飛ばす。ここで得られた色や明るさを平均してその点の色とする。この手法をパストレーシング(英: path tracing)という。物体表面での光の乱反射を再現できるが、明暗差が大きいシーンではノイズが出やすい。 2次元の画像の最小単位をピクセルと呼ぶのに対し、3次元座標上に取り入れた最小単位をボクセル(voxel)と呼ぶ。多くの3DCGソフトウェアで採用されているのが、物体の表面のみを処理するサーフェスモデルであるのに対して、ボクセルは中身を持ったボリュームモデルである。液体や雲、煙といった流体計算で主に活用されている。現在では、炎、爆発、溶岩、髪の毛といった表現までも可能にしている。ボクセルモデルでは、正確な形状を作るにはボクセルの密度を上げなければならず、またメモリを大量に必要とする。 レンダリングに必要なオブジェクトを選別し、レンダリングを効率的に処理するために利用されることもある。これをボクセル分割と呼ぶ。 オープンソースプロジェクトでは、OsiriXなど有名である。 衣服を始め、布に関する多くの表現を可能にするための技術。衣服を着たキャラクターの動きや風の影響による布の形状変化のシミュレーションを行ない、デザイナーが手付けで布のアニメーションをつける負担を軽減させる。最終的には、人間の皮膚を始め、あらゆる事象をシミュレーション可能にすることが目指されている。 クロス(英: cloth)の基本的な考え方としては、質量を持ったメッシュノードを擬似的なばねでリンクさせ、伸縮制限(拘束条件)を持たせることによって、布の伸縮・弾性を再現させる。この質感再現のために、技術者によって様々な計算方法が提案されている。 クロスシミュレーションが大々的に使用された最初の映画を挙げると、ネズミが主役のCG映画『スチュアート・リトル』がある。 キャラクターに衣服を着せる制作手法としては、「擬似的な型紙を作り、結合し、キャラクターに被せる」といったMayaに実装されているClassic Clothと呼ばれる手法と、Syflexのように「普通のモデリングと同様な衣服のモデリングをし、クロスに変換する」という2種類の方法に大別される。 現在は、MayaもSyflexと同様の方法のnClothという機能が搭載されている。 Syflexはスクウェアによる映画『ファイナルファンタジー』のプロジェクトでジェラール・バネル(Gerard Banel)が開発したクロスシミュレーションをさらに発展させたもの。非常に高速で安定しており、Mayaのように布同士が反発して暴れるようなおかしなシミュレーション結果を出すことは少ない。 リアルタイムの3DCGは科学的なシミュレーションの可視化や、シミュレーターおよび3D CADオペレーションといったインタラクティブ用途に使われる。コンピュータゲーム(テレビゲームやPCゲーム)でも3DCGが一般的になっている。3DCG専用のAPIは主にPCゲームで描画処理を高速化するためにグラフィックスハードウェア(GPU、グラフィックスチップ、ビデオカード/グラフィックスカード)を利用するとき、プログラマが抽象化レイヤーを通してグラフィックスハードウェアにアクセスする方法を提供し、プログラマの負担を軽減する。次のようなAPIはインターフェイスの汎用化が必要となるパーソナルコンピュータやスマートフォンなどのモバイル機器において特によく使われる。 ハードウェアベンダー各社が各々のグラフィックスハードウェア上でこれらの汎用化APIをサポートすることで、同一のプログラムを異なるハードウェア上で動作させることができる。なおゲーム専用機の場合は必ずしも汎用化・抽象化が必要ではないため、各機器ごとに最適化された独自のローレベルAPIが用意されることがほとんどである。 OpenGL 1.5/Direct3D 8.0以降はそれぞれプログラマブルシェーダーをサポートし、プログラマがシェーディング言語によりシェーディング処理をカスタマイズできるようになった。ハードウェア性能の向上に加え、プログラマブルシェーダーによってリアルタイム3DCGの品質は飛躍的に向上した。 そのほか、AMDによるMantleの登場以降は、AppleによるMetal、マイクロソフトによるDirect3D 12、そしてクロノス・グループによるVulkanなど、ゲーム専用機向けAPIのようにハードウェア抽象化の度合いを下げてローレベルなハードウェア制御を可能とする描画効率重視のAPIが出現している。 世界で最も3DCGの研究・実用化が進んだ国はアメリカである。ACM(国際計算機学会)におけるSIGGRAPHの主催など研究での盛んさに加え、ハリウッドの映画産業がバックボーンにあり、計算機科学の先駆研究者達を擁するピクサーなどの制作会社によって3DCGアニメが大量に制作され、実写作品にも盛んに3DCG技術が用いられている。アメリカでの特に重要な研究業績には、アイバン・サザランドによるヘッドマウントディスプレイ(1966年)、エドウィン・キャットマルによるテクスチャマッピングやZバッファ(共に1974年)、サブディビジョンサーフェス(1978年)、ジム・ブリンによる環境マッピング(1976年)やBlinn-Phongの反射モデル(英語版)(1977年)やバンプマッピング(1978年)、ジェームズ・クラークによるジオメトリエンジン(1980年)、ターナー・ウィッテッド(英語版)による再帰的レイトレーシング(1980年)、ジム・カジヤによるレンダリング方程式(英語版)やパストレーシング(英語版)(1986年)などがある。1995年には初のフル3DCGの長編映画『トイ・ストーリー』が制作された。 フランスのピエール・ベジェはベジェ曲面を考案(1970年)し、アンリ・グーロー(英語版)はグーローシェーディングを考案(1971年)した。 ベトナムのブイ・ツォン・フォン(英語版)はPhongの反射モデルやフォンシェーディングを考案(1975年)した。 カナダでは初のフル3DCGのテレビ向け30分枠アニメシリーズとして『リブート』(1994年)が制作された。 フランスでは同じくフル3DCGのテレビアニメシリーズ『インセクターズ』(1994年)が公開された。 デンマークのヘンリク・ヤンセン(英語版)はフォトンマッピングを考案(1996年)した。 日本の大阪大学大村皓一らはメタボールを実用化(1982年)し、福山大学西田友是らはMichael F. Cohenらとほぼ同時にラジオシティを考案(1985年)した。 コンピュータゲームにおいては、アメリカではパソコンが主流のため技術革新に対応しやすく、その点では世界のビデオゲーム産業の盟主たる日本を追い越す結果となった(セガの『バーチャレーシング』、『バーチャファイター』シリーズ、PlayStationなどといった3DCGの採用は早かったものの、蓄積されたのは専用に近いアーケードゲーム基板や家庭用ゲーム機など数年間は性能が固定されるハードウェアに依存した技術が多かったとも言われている)。 日本のアニメでは、劇場版『ゴルゴ13』やテレビアニメ『子鹿物語』(共に1983年)での部分的に用いられた3DCGの導入の時期は世界的にも早かった。ゴルゴ13のCGパートはトーヨーリンクスと大阪大学大村皓一らチームの開発による3DCGシステムで制作されるなど、当時は国産システムの開発が行われていたが、こうした動向は次第に廃れている。国内でのフル3DCG作品では、写実調ではテレビ用映画『VISITOR』(1998年)、アニメ絵調では劇場版『アップルシード』(2004年)が長編作品の端緒に挙げられる。テレビ向けのフル3DCG作品は数分程度の短尺な作品が多いが、30分枠テレビシリーズも『SDガンダムフォース』(2004年)の頃から少数ずつ制作されている。 日本では漫画文化を背景として線画表現への親しみが深く、1990年代後半頃からアニメーターによる手描きアニメに3DCGを馴染ませた表現が普及している。3DCGは背景動画やロボット、群衆シーンなどの作画に労力のかかる部分に多く使われるほか、近年はトゥーンレンダリングの表現力向上により、キャラクター描写を部分的に3DCGでおこなう作品(プリキュアシリーズ〈2009年シリーズ以降〉など)も現れている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "3次元コンピュータグラフィックス(さんじげんコンピュータグラフィックス、英: three-dimensional computer graphics)は、コンピュータの演算によって3次元空間内の仮想的な立体物を2次元である平面上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある画像を作る手法である。3DCG()と略記されることも多い。20世紀末からのコンピュータ技術の急速な発達と性能向上によって、従来は大企業や大きな研究所でしか得られなかった高精細で高品質の3次元画像が、21世紀初頭現在ではパーソナルコンピュータ (PC) やゲーム機、スマートフォンでも実時間で得られるようになっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "毎年夏にアメリカ合衆国で開催されるCGの祭典「SIGGRAPH」(シーグラフ)にて、世界中の多くの研究者により最新のCGの論文が発表され、技術更新がなされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "3DCGは、ユーザーが仮想的な視点や対象物の変更を操作して直ちに更新された画像を得るCADのようなシミュレーションやコンピュータゲームのように実時間処理の動画像と、CG映画のように製作者側があらかじめ時間を掛けて動画像を製作しておくもの、そして、静止画の3種類に大別できる。十分に高い技術を用いれば、無生物では実写と見分けがつかないほど遜色のない画像が得られるが、人物画ではCG特有の無機質なものとなることが多く、ロボットでの不気味の谷現象と同じく一般に人の表情を描くのは不得手である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ユーザーの操作や時間経過など、何らかのパラメータ観測および情報入力に対応して即座に映像を動的生成する処理を指す。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "代表的な実時間処理による動画生成の用途はコンピュータゲームである。PCや据え置き型のゲーム機(家庭用ゲーム機やゲームセンターで使われる業務用のアーケードゲーム機)、携帯ゲーム機や携帯電話(スマートフォンおよび一部のフィーチャーフォン)でのゲームにまで3DCGを用いた動画像が利用されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "工業用途では製品の設計段階でCAD/CAMによって部品同士の接続や製品の完成図を描いたり、建築でのパースを描画したりする目的で利用されている(建築パースの作成では設計図面さえあれば建築イメージを確認できるため、古代遺跡の復元モデルなどをフォトリアリスティックに描画する用途などにも用いられている。立体地図の場合は地形の起伏や大縮尺の場合の建物形状をいろいろな視点から眺められるように用いる)。また、現実世界での運動や周囲状況をコンピュータ・シミュレーションで再現することで効果的な訓練が行える、ドライブシミュレータやフライトシミュレータなども実時間処理での3DCG技術の利用例である。X線CTやMRIのように、多数の断層画像から3次元データを再構築した後、任意断面の観察をする際にもリアルタイム3DCGの技術が使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "動画生成における実時間処理は、そうでないものに比べて画像の精度よりも実時間内に如何にそれらしい画像を生み出すかが求められるため、簡易的な局所照明モデルを採用したり、ローポリゴンモデルにテクスチャマップで質感を表現したりするなど、できる限り事象を近似または演算処理を簡略化したり事前計算したりして、時間的・空間的コストを低減する工夫がなされている。PC用の3DCG動画を並列計算により高速生成するための専用ICとしてGPUが登場している。プログラマブルシェーダーの登場以後、リアルタイムでレイトレーシングや大域照明(グローバルイルミネーション)を実行する技術やハードウェアも開発されているが、いまだ発展途上の領域である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲーム内でユーザーの操作や対話(インタラクション)を必要としないムービーシーン(デモシーン)の再生には、事前にプロダクションレンダリングソフトウェアおよび高精細モデルを使って生成された高品質な動画が使用されることもあるが、ゲーム内で使われるアセット(素材)をそのまま利用したリアルタイムレンダリングがなされることもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "3DCGによる映画の制作が代表的な「実時間処理ではない」動画生成用途である。多くの映画では、写実的(フォトリアル)な画像を制作する目的や、反対にマンガ的なアニメーションのように非現実的な画像を制作する目的で利用され、実写との合成映像も含めれば大半の商業用映画に何らかの形で3DCGの技術が用いられている。VFXを多用するSF映画やアニメ映画などでは長時間の3DCG画像が必要とされることがあり、そのような場合には、3DCG演算専用の多数のコンピュータから構成される「レンダリング・ファーム」と呼ばれるサーバー施設で数ヶ月単位で動画像の生成が行われる。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "広告宣伝用途での3DCG動画像も広告製作会社内やメーカー自身の内部で、映画と同じような環境で製作されている(自動車産業が3DCG動画による広告の代表であるが、他の産業でも設計過程でコンピュータ・シミュレーションを必要とする航空宇宙、軍事、船舶といった分野の企業が物理現象のシミュレーションと共に画像表示のための3DCG技術を利用している)。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "広告や芸術、そしてあらゆる種類のイラストレーション用途に3DCGを用いた静止画が製作されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "3次元CGの基本原理は、カメラの基本原理と同じであり、3次元空間内の対象物を2次元平面の仮想スクリーン上に投影することで実現される。単純な2次元コンピュータグラフィックス (2DCG) では、一般的に平面的な物体同士の重なりを考慮するだけでよく、奥行きによる尺度の違いや照明および遮蔽による陰影の違いを演算する必要はないが、3DCGでは立体物ゆえに奥行きを考慮した複雑な座標変換や画素の塗り分けを行わなければならない。コンピュータグラフィックスは計算幾何学分野における問題のひとつであり、行列やベクトルといった線型代数学が多用される。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "まず[図1]のような3次元座標を考える。原点に視点があるとして、座標空間内の3次元座標を持つ点Aの見え方は、投影法によって左右される。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "[図2]のように原点と点Aの間にスクリーンを置いた場合、スクリーン平面上に映し出される点Aの投影座標は h = x × s / z {\\displaystyle h=x\\times {}s/z} 、 v = y × s / z {\\displaystyle v=y\\times {}s/z} で求められる。 z {\\displaystyle z} が大きくなれば、スクリーン上の点Aは限りなく原点に近づく。つまり遠くのものは小さく見えるわけである。スクリーンを置く座標 s {\\displaystyle s} は大きくなればパース(遠近感)が緩く、小さくなればパースがきつくなるので、レンズの画角(視野角)を表現することができる。これが透視投影 (perspective projection) の原理である。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "透視投影によりスクリーン上で各物体の遠近関係が表現されるが、画角によって画面上のサイズや印象が大きく変わるため、モデリングの際の正確な寸法や形状確認といった目的には適さないことがある。その場合、視点と物体の間の距離とは無関係にそのまま平行に投影する手法が使われることがあり、平行投影 (parallel projection) または正射影 (orthographic projection / orthogonal projection) と呼ばれる。平行投影の視錐台は直方体となる。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "いずれにしても、3次元座標を持つ図形を2次元座標系に変換した後で、図形の各点を幾何学的なつながり情報(トポロジー)に基づいてそれぞれ結べばワイヤーフレーム画像が生成され、また結んだ点から面を作ればポリゴンによる表現が可能となる。リアルタイムコンピュータグラフィックスでは、ハードウェア的な制約から、実際にサポートされる最小の図形(プリミティブ)は点・線分・三角形のみであり、それ以上の多角形や立体図形は多数の三角形を組み合わせて表現する。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "3DCGの制作は次のような行程にわけることができる。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "モデリング(英: modeling)とは、仮想3次元空間上に個々の物体の形状をつくる作業のことである。多くの3DCGソフトウェアでは、一つの面を三角形や四角形といった多角形の集合として表現する。三角形しか扱えないソフトウェアも多い(四角形以上は、それを構成する全ての頂点が同一平面上にない可能性があるため)。これらの多角形はポリゴン(英語で多角形の意)と呼ぶ。各形状はポリゴンの集合で表現される。モデリングで作られた形状をモデルやオブジェクトと呼ぶ。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "四角形が扱える場合は、ポリゴンの流れの見やすさなどからも四角形の面をメインとして構成するのが一般的であるが、同一平面上にない空間上の4点を結んで四角形を折り曲げた2つの三角形の面とする方法は2通りあるため、それを1通りに確定するためや、あるいは最後の仕上げなどに三角形の面が用いられることがある。また、3DCGにおいては五角形以上の多角形は、三角形や四角形と区別して単に「多角形」と呼ぶことがあるが、エラーや問題を引き起こしやすいため、基本的に五角形以上の多角形の面(ポリゴン)の使用はタブーとされ、制作過程でこの面が出てきた場合、最終的には全て四角形ないし三角形に分割するのが普通である。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "他に面を定義する方法としては自由曲面がある。自由曲面はNURBS曲線、スプライン曲線、ベジェ曲線などで曲面を構成する方法で、ポリゴンのみでモデリングされた形状に比べ滑らかで正確な形状が得られる。ポリゴンのみでモデリングすることを、ポリゴンモデリングと呼んで、自由曲面を利用したモデリングと区別することがある。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "形状が出来たら、オブジェクトに材質(マテリアル)を設定する。材質を設定しなければ、オブジェクトはただ一様に光を反射するだけの均質な物体になる。多くの3DCGソフトウェアでは、色、透明度、反射、屈折率、自己発光、バンプ、ディスプレイスメントなどの設定項目がある。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "モデリングで制作したオブジェクトを、仮想3次元空間上に配置する。現実世界と同様、光源も配置しなければ何も表示されない(黒一色の画像が出力される)。また、仮想的なカメラを配置することで視点を設定する。これらを配置・設定した仮想的な舞台をシーンと呼ぶ。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "レンダリング(英: rendering)は、これまでに設定したシーンから、仮想的なカメラに写されるはずの画像を生成する工程である。オブジェクトの形状や位置、光のあたり具合などをコンピュータが計算し、最終的な画像が生成される。レンダリングのアルゴリズムには、それぞれ処理速度や品質の違う多くの種類があり、用途に合わせて使い分ける。各種の設定を済ませレンダリングを開始した後は、レンダリングが終了するまで制作者がすることは特にない。一般にレンダリングには多くの時間を要する。シーン内に多くの形状があったり、高度なレンダリングアルゴリズムを利用している場合、数時間から数日かかる場合もある。ゲームなどリアルタイムにレンダリングしなければならないときは、単純で高速なレンダリングアルゴリズムを適用したり、シーンの総ポリゴン数を少なくするなど、大きな制限が加えられる。映画など大規模な制作現場では、同時に複数のコンピュータにレンダリング処理をさせて、計算時間を短縮することがある。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "レンダリング手法によっては空気による遠近法・光の照り返しなども計算される。そういった複雑な計算をするレンダリング処理は専用回路(GPU)で行われることも多い。高い対話性と双方向性が得られるので、ゲームに用いられる場合はこの形態をとる。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "レタッチ(英: retouch)とは、手直しする作業のことである。レンダリングで得られた画像が、完全に制作者の意図したものになるとは限らない。PhotoshopやAdobe After Effectsなどのフォトレタッチツールなどで、コントラストや色味を手直しすることもある。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "3DCGのモデルに画像を貼り付けることをテクスチャマッピング(英: texture mapping)、その貼り付けられる画像をテクスチャという。テクスチャを貼ることにより、モデリングやシェーダーのみでは表現の困難な、モデル表面の細かな色彩情報や質感などを設定することができる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "テクスチャの貼り付け方としては、単純にカメラ方向からモデルにテクスチャを投影するだけの方法や、UV座標によって切り出されたテクスチャの2次元画像領域をモデル表面に分割投影する方法などがある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "反射の強度を設定する反射マッピング、小さな凹凸を擬似的に表現するバンプマッピング/法線マッピング、透明度を設定する透明度マッピングなどがある。形状の表面に画像の情報を加えることによって、表面の模様や質感が表現されて、より現実的な画像になる。ディスプレースメントマッピングのように、画像情報をもとに実際の凹凸形状を動的に生成する手法もある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特にコンピュータゲームにおいては、リアルタイムで3DCGキャラクターを描画する必要から、極力少ないポリゴンで作成されたモデル(ローポリゴンモデル)に、ディテールや陰影などを描き込んだテクスチャを貼り付ける手法が行われている。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "モデルの表面の法線の方向を変化させることによって、擬似的に凹凸を表現する技術。グレースケール画像で元形状に対する高低を定義する。少ないポリゴンで細かな陰影をリアルに表現できる利点があるが、実際に表面に立体的な凹凸があるわけではないので、ズーム時や、面を横から見た場合などに違和感のある画像となる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近年は法線の方向(3次元ベクトル)を直接定義する法線マッピング(ノーマルマッピング)も用いられるが、法線マップを手作業で作成するのは困難であるため、通常は高精細モデルのディティールを法線マップに変換して単純化モデルに適用する手法が採られている。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "3Dモデルの頂点を実際に表面に対して上下に移動させて凹凸を表現する技術。バンプマッピングに比べて、実際に立体的な凹凸となるため違和感のない画像が得られるが、表現する凹凸に応じてポリゴン数が増大する欠点がある。リアルタイム3DCGの分野ではDirect3D 10およびOpenGL 3.2でジオメトリシェーダーが標準化された後、Direct3D 11/OpenGL 4にてテッセレーションが標準化され、GPUによるディスプレースメントマッピングが可能となった。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "バンプマッピングによる凹凸の表現はあくまで擬似的に陰影を表現し、またディスプレースメントマッピングによる凹凸は3Dモデルそのものの頂点を移動させて凹凸を表現するだけであるのに対して、3Dモデルに立体的な濃度関数を掛け合わせることにより、小さな凹凸はもとより、深い溝や貫通した穴のような大きな構造も表現することができる技術。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ポリゴンはあくまで多角形の面なので、モデルにはっきりとした表面が無かったり、モデルの数が膨大であったり、動きが不規則な煙や炎などを表現するのには不向きである。また、毛髪や草木など、ポリゴンで表現しようとするとその量から大変な人的労力やリソースが必要になるものがある。パーティクル (particle) はこれらの問題を解決するための技術である。パーティクルはこれらを微小な粒子の集合として表現し、確率モデルでその動き・形状を処理する。高度なモデリングまたはレンダリングソフトウェアで扱うことができる。これをレンダリングする際にはビルボーディングやメタボールなどの技術が使用される。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "サブディビジョンサーフェス(英: subdivision surface)とは、大まかにモデリングされたポリゴンメッシュをメモリ上で細分化して、滑らかで継ぎ目の無い形状にする技術。少ないポリゴン数で形状を滑らかに表現できるため、編集や変形も容易になる。ただし、工業用CADなど形状に高い精度が要求されるときには利用できない。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "複数のオブジェクトどうしを集合演算する技術。他の形状と結合する(和)、一方の形状から他方の形状を削り取る(差)、重なっている部分のみを形状として抜き出す(積)ことなどができる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "複数の3次元座標上の点を中心として濃度分布を設定し、濃度の閾値を形状の表面とする技術。球状の形状が引き付けあうようにみえる融合と、反発しあうように見える反転融合がある。正確な形状を作ることは難しいが、有機的な形状を少ない制御点で作るのに向いている。3DCG特有の概念ではなく、2Dの画像表現にも使われることもある。当初はその呼び名の通り球体を基本としていたが、その後改良が進められ、球体以外の形状も利用できるようになり、有機的な形状をモデリングする技術として活用されている。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モデリングの他に、流れる液体の表現等にも使われる。レンダリングに必要な計算量は多くともメモリの使用量が少ないのが利点だったが、現在ではそれらのリソースが充実している上、流体力学の計算法も進歩しているため、映像制作の現場では、見た目のチープなメタボールはほぼ使われることのない技術になっている。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "インバースキネマティクス(英: inverse kinematics)は3次元コンピュータグラフィックスの専門用語ではない。もともと力学の一分野であり、ロボティクス等のほうが「本家」である。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "人間など多くの関節を持つ動物において、関節の末端部分の位置は常にその親となる部分の位置と角度に依存している。そのため、通常では関節の末端部分の位置を求める場合においてモデルの中心から末端にかけて順番に関節の角度計算をする、という向きが「順方向」である。しかし、その方向で計算したのでは、例えば「机の上を掌でなでるような動き」を実現するのは面倒なものとなる。なぜなら、関節の末端部分の位置の変化を求めるためには複雑な計算をモデルの中心から全て順方向に再計算しなおさなければならないため非常に非効率的だからである。この解決のため、末端部分の位置を先に決めてその関節の末端位置を実現するための親となる関節の角度を、一種の「逆問題」を解くようにして求めることが考えられる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "以上の説明からもわかるように、物理的な運動学に関して一般に考えることができる逆問題的な考え方のひとつである。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "股-ひざ-足のような形状を想定してみると、足の裏が自転車のペダルにくっついたままペダルが回転運動をするアニメーションを作る場合に、ペダルの回転運動に合うように股・そしてひざや足の角度の変更を行なっていくのではなく、足部分の移動に追随する形で、逆に足-ひざ-股の順に各関節の動きを順次割りだして決定する方が、見た目も自然なアニメーションが作成できる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "3次元空間上に光源を設定することをライティング(英: lighting)と呼ぶ。光源によってモデルは可視物となる。光源には次のような種類がある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "3DCGソフトウェアによっては、球や円柱などの単純なオブジェクト(プリミティブ)を、ポリゴンではなく中心点や半径、高さといった数値で扱う場合がある。これらの細部を編集したりレンダリングする場合は、ポリゴンメッシュに変換する必要がある。これをtessellationと呼ぶ(tessellateはモザイク模様にするという意味)。ただし、オブジェクトが本来持っていた形状情報である球体、円錐などのような抽象的な表現は失われてしまう。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "現在の3DCGにおいて、速度面などの理由により単純化された照明モデル・反射モデルを利用する場合、多くはPhongの反射モデル (Phong reflection model) を採用している。Phong反射モデルは経験則であり、ローカルイルミネーション(局所照明)の代表例である。より写実的なシーンを描画するためには、後述するラジオシティなどのグローバルイルミネーション(大域照明)をサポートする、光学的・物理学的に正しい照明モデル・反射モデルが使われるが、現実世界をシミュレートするには非常に複雑かつ膨大な計算を伴うため、レンダリングに時間がかかるようになる。レンダリング方程式(英語版)はエネルギー保存則をもとに光の伝播を記述するものであり、物理ベースのレンダリングの基本となる理論である。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "反射モデルは物体の性質にも左右される。コンピュータグラフィックスにおいて、物体の性質は材質(マテリアル)として定義・抽象化されるが、プラスチックや金属、皮膚や毛髪の質感をコンピュータグラフィックスで正確に再現するためには、それぞれの材質に応じた適切な反射モデルを使う必要がある。物体の色は光のRGB各成分の反射・吸収係数の違いによって生まれ、また鏡面ハイライトの色や形状は面の粗さや光源の特性にも左右される。金属光沢や回折模様を再現する場合は、物質の物理的・化学的特性や表面性状を考慮する必要がある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また光の屈折現象をコンピュータグラフィックスで再現する場合、物質の特性として屈折率が重要な要素となる。多くの3DCGソフトウェアでは、屈折率 (index of refraction) を略してIORと表記する。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "シェーディングとは、物体の陰影を計算することである。広義では反射モデルによる反射光の強度計算を含むが、狭義では後述の陰影補間技法を指す。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ポリゴンモデルから2次元画像を生成する過程での陰影の補間法には次のような種類がある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "隠面消去方法のひとつ。 ポリゴンの座標(大抵は中心点)を基準に、画面の奥(視線からもっとも遠いポリゴン)から、全てのポリゴンを順番に描画する。 後述のZバッファ法のような特殊な処理をせず、基本的に多角形を描画すればよいだけなので、実装が簡単であり、消費メモリが少なく非常に処理が高速にできる利点がある。Zバッファ法が普及するまでは古くは3DCG全般で利用され、また、最近まで家庭用ゲーム機におけるリアルタイム3DCGでは一般的に利用されていた。しかし、ポリゴン数が増えた場合は、ポリゴンをソートするコストがかかる、またフィルレートが膨大になるため、Zバッファ法と比較して速度的なメリットがなくなる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ポリゴンが交差した場合に正しく表示することができないという欠点があるが、この解決策として、ポリゴンが互いに交差しないように静的、あるいは動的に細分化する方法がとられることがある。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "Zバッファ法と異なり、半透明ポリゴンの描画に関しては、ポリゴンが交差する場合を除いて、概ね正しく扱うことができる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "隠面消去方法のひとつ。 多数のポリゴンが重なった場合、奥のポリゴンが手前に描かれてしまうような不都合が生じることがある。 これを防ぐために、各ポリゴンを描画する際、各画素について視点からの距離を全て記録し、現在記録されている深度よりも近い画素だけを描画する。 Zソート法と異なり、通常は、視点にもっとも近いポリゴンからレンダリングする(Zバッファで判定することで、奥に隠れたポリゴンのレンダリングをスキップできるため)。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "Zバッファとは、深度を記憶するメモリ領域のことであり、Zバッファ法はアルゴリズムが簡単なためハードウェア化しやすい利点があるが、Zバッファ用のメモリの分だけ、Zソート法よりもメモリは多く消費する。単純に、ピクセル単位で奥行きを判定して、ポリゴンのピクセルを塗るか塗らないかを判定しているだけなので、半透明なポリゴンは、Zバッファ法だけでは正しく処理できない(この場合、一度Zバッファ法で不透明なポリゴンだけ描画し、さらにZソート法で半透明なポリゴンを重ねて描く)。また、互いに接近した平行、あるいは低い角度で交差するポリゴンにおいて、Zバッファに記録される深度の精度によっては、隠面消去が正しく行われない、Zファイティング(Z-fighting)と呼ばれる現象が起きる。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゲームやCADソフトウェアのプレビュー表示など、リアルタイムでの描画によく利用される。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "スキャンライン(英: scanline rendering)とは、スクリーンを横一行ごとに分割して、その一行ごとに深度を計算してレンダリングする手法のことである。透過を表現したり、シェーディングと併用することで陰影も表現できる。スキャンラインとは走査線を意味する。比較的高速だが、得られる画像の品質は基本的にレイトレーシングよりも劣る。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "レイトレーシング(英: ray tracing)は、視点から光源までの光を追跡することでレンダリングする手法。視点から描画する各画素の方向へ直線を伸ばし、物体と交錯する可否を数学的に判定する。照度は光源との方向ベクトルで計算する。反射と屈折は反射率および屈折率をもとに再帰的に探索を繰り返す。物体との交錯がなくなれば計算は終了する。スキャンラインでは得られない反射や屈折などの表現が可能になる。フォトリアリスティックな画像が得られる反面、大変なレンダリング時間が掛かる。そのため屈折の計算処理については、簡略化あるいは制限を設けるのが一般的である。リアルタイム3DCGの分野では、GPUの発展と共に、レイトレーシングのリアルタイム化が試みられており、Adobe After Effects CCではNVIDIA OptiX(英語版)が採用された。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ラジオシティ(英: radiosity)は、各ポリゴンに光のエネルギー量を持たせて形状の相互反射を計算することで、間接光(やわらかい光の回り込み)などを表現する技術。大域照明(グローバルイルミネーション)の代表例である。計算に膨大な時間が必要になるが、完全拡散面で構成されるシーンでは、一旦物体相互間の光の反射を計算し終えれば、物体や光源が移動しない限り、その計算結果を保存して別のアングルからのレンダリングへ再利用することができる。照明工学の分野で発達した技術を3DCGのレンダリングに応用した。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "フォトンマッピング(英: photon mapping)は、光をモデル化したフォトンを光源からばらまいてフォトンマップを作成し、次に作成されたフォトンマップに対し、光線追跡法を適用することでレンダリングする手法。計算量を抑えつつ、物体や媒質の質感や透明感を表現できる。ラジオシティと同様、計算結果の再利用が可能。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "通常のレイトレーシングと同様にカメラから視線を飛ばし、オブジェクトと交わった点を始点としてさらに大量に2次視線を飛ばす。ここで得られた色や明るさを平均してその点の色とする。この手法をパストレーシング(英: path tracing)という。物体表面での光の乱反射を再現できるが、明暗差が大きいシーンではノイズが出やすい。", "title": "制作技法" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2次元の画像の最小単位をピクセルと呼ぶのに対し、3次元座標上に取り入れた最小単位をボクセル(voxel)と呼ぶ。多くの3DCGソフトウェアで採用されているのが、物体の表面のみを処理するサーフェスモデルであるのに対して、ボクセルは中身を持ったボリュームモデルである。液体や雲、煙といった流体計算で主に活用されている。現在では、炎、爆発、溶岩、髪の毛といった表現までも可能にしている。ボクセルモデルでは、正確な形状を作るにはボクセルの密度を上げなければならず、またメモリを大量に必要とする。", "title": "サーフェスモデルとボクセル" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "レンダリングに必要なオブジェクトを選別し、レンダリングを効率的に処理するために利用されることもある。これをボクセル分割と呼ぶ。", "title": "サーフェスモデルとボクセル" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "オープンソースプロジェクトでは、OsiriXなど有名である。", "title": "サーフェスモデルとボクセル" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "衣服を始め、布に関する多くの表現を可能にするための技術。衣服を着たキャラクターの動きや風の影響による布の形状変化のシミュレーションを行ない、デザイナーが手付けで布のアニメーションをつける負担を軽減させる。最終的には、人間の皮膚を始め、あらゆる事象をシミュレーション可能にすることが目指されている。", "title": "クロス" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "クロス(英: cloth)の基本的な考え方としては、質量を持ったメッシュノードを擬似的なばねでリンクさせ、伸縮制限(拘束条件)を持たせることによって、布の伸縮・弾性を再現させる。この質感再現のために、技術者によって様々な計算方法が提案されている。", "title": "クロス" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "クロスシミュレーションが大々的に使用された最初の映画を挙げると、ネズミが主役のCG映画『スチュアート・リトル』がある。", "title": "クロス" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "キャラクターに衣服を着せる制作手法としては、「擬似的な型紙を作り、結合し、キャラクターに被せる」といったMayaに実装されているClassic Clothと呼ばれる手法と、Syflexのように「普通のモデリングと同様な衣服のモデリングをし、クロスに変換する」という2種類の方法に大別される。 現在は、MayaもSyflexと同様の方法のnClothという機能が搭載されている。", "title": "クロス" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Syflexはスクウェアによる映画『ファイナルファンタジー』のプロジェクトでジェラール・バネル(Gerard Banel)が開発したクロスシミュレーションをさらに発展させたもの。非常に高速で安定しており、Mayaのように布同士が反発して暴れるようなおかしなシミュレーション結果を出すことは少ない。", "title": "クロス" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "リアルタイムの3DCGは科学的なシミュレーションの可視化や、シミュレーターおよび3D CADオペレーションといったインタラクティブ用途に使われる。コンピュータゲーム(テレビゲームやPCゲーム)でも3DCGが一般的になっている。3DCG専用のAPIは主にPCゲームで描画処理を高速化するためにグラフィックスハードウェア(GPU、グラフィックスチップ、ビデオカード/グラフィックスカード)を利用するとき、プログラマが抽象化レイヤーを通してグラフィックスハードウェアにアクセスする方法を提供し、プログラマの負担を軽減する。次のようなAPIはインターフェイスの汎用化が必要となるパーソナルコンピュータやスマートフォンなどのモバイル機器において特によく使われる。", "title": "3DCG用API" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ハードウェアベンダー各社が各々のグラフィックスハードウェア上でこれらの汎用化APIをサポートすることで、同一のプログラムを異なるハードウェア上で動作させることができる。なおゲーム専用機の場合は必ずしも汎用化・抽象化が必要ではないため、各機器ごとに最適化された独自のローレベルAPIが用意されることがほとんどである。", "title": "3DCG用API" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "OpenGL 1.5/Direct3D 8.0以降はそれぞれプログラマブルシェーダーをサポートし、プログラマがシェーディング言語によりシェーディング処理をカスタマイズできるようになった。ハードウェア性能の向上に加え、プログラマブルシェーダーによってリアルタイム3DCGの品質は飛躍的に向上した。", "title": "3DCG用API" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "そのほか、AMDによるMantleの登場以降は、AppleによるMetal、マイクロソフトによるDirect3D 12、そしてクロノス・グループによるVulkanなど、ゲーム専用機向けAPIのようにハードウェア抽象化の度合いを下げてローレベルなハードウェア制御を可能とする描画効率重視のAPIが出現している。", "title": "3DCG用API" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "世界で最も3DCGの研究・実用化が進んだ国はアメリカである。ACM(国際計算機学会)におけるSIGGRAPHの主催など研究での盛んさに加え、ハリウッドの映画産業がバックボーンにあり、計算機科学の先駆研究者達を擁するピクサーなどの制作会社によって3DCGアニメが大量に制作され、実写作品にも盛んに3DCG技術が用いられている。アメリカでの特に重要な研究業績には、アイバン・サザランドによるヘッドマウントディスプレイ(1966年)、エドウィン・キャットマルによるテクスチャマッピングやZバッファ(共に1974年)、サブディビジョンサーフェス(1978年)、ジム・ブリンによる環境マッピング(1976年)やBlinn-Phongの反射モデル(英語版)(1977年)やバンプマッピング(1978年)、ジェームズ・クラークによるジオメトリエンジン(1980年)、ターナー・ウィッテッド(英語版)による再帰的レイトレーシング(1980年)、ジム・カジヤによるレンダリング方程式(英語版)やパストレーシング(英語版)(1986年)などがある。1995年には初のフル3DCGの長編映画『トイ・ストーリー』が制作された。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "フランスのピエール・ベジェはベジェ曲面を考案(1970年)し、アンリ・グーロー(英語版)はグーローシェーディングを考案(1971年)した。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ベトナムのブイ・ツォン・フォン(英語版)はPhongの反射モデルやフォンシェーディングを考案(1975年)した。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "カナダでは初のフル3DCGのテレビ向け30分枠アニメシリーズとして『リブート』(1994年)が制作された。 フランスでは同じくフル3DCGのテレビアニメシリーズ『インセクターズ』(1994年)が公開された。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "デンマークのヘンリク・ヤンセン(英語版)はフォトンマッピングを考案(1996年)した。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "日本の大阪大学大村皓一らはメタボールを実用化(1982年)し、福山大学西田友是らはMichael F. Cohenらとほぼ同時にラジオシティを考案(1985年)した。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームにおいては、アメリカではパソコンが主流のため技術革新に対応しやすく、その点では世界のビデオゲーム産業の盟主たる日本を追い越す結果となった(セガの『バーチャレーシング』、『バーチャファイター』シリーズ、PlayStationなどといった3DCGの採用は早かったものの、蓄積されたのは専用に近いアーケードゲーム基板や家庭用ゲーム機など数年間は性能が固定されるハードウェアに依存した技術が多かったとも言われている)。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "日本のアニメでは、劇場版『ゴルゴ13』やテレビアニメ『子鹿物語』(共に1983年)での部分的に用いられた3DCGの導入の時期は世界的にも早かった。ゴルゴ13のCGパートはトーヨーリンクスと大阪大学大村皓一らチームの開発による3DCGシステムで制作されるなど、当時は国産システムの開発が行われていたが、こうした動向は次第に廃れている。国内でのフル3DCG作品では、写実調ではテレビ用映画『VISITOR』(1998年)、アニメ絵調では劇場版『アップルシード』(2004年)が長編作品の端緒に挙げられる。テレビ向けのフル3DCG作品は数分程度の短尺な作品が多いが、30分枠テレビシリーズも『SDガンダムフォース』(2004年)の頃から少数ずつ制作されている。", "title": "各国の3DCG" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "日本では漫画文化を背景として線画表現への親しみが深く、1990年代後半頃からアニメーターによる手描きアニメに3DCGを馴染ませた表現が普及している。3DCGは背景動画やロボット、群衆シーンなどの作画に労力のかかる部分に多く使われるほか、近年はトゥーンレンダリングの表現力向上により、キャラクター描写を部分的に3DCGでおこなう作品(プリキュアシリーズ〈2009年シリーズ以降〉など)も現れている。", "title": "各国の3DCG" } ]
3次元コンピュータグラフィックスは、コンピュータの演算によって3次元空間内の仮想的な立体物を2次元である平面上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある画像を作る手法である。3DCGと略記されることも多い。20世紀末からのコンピュータ技術の急速な発達と性能向上によって、従来は大企業や大きな研究所でしか得られなかった高精細で高品質の3次元画像が、21世紀初頭現在ではパーソナルコンピュータ (PC) やゲーム機、スマートフォンでも実時間で得られるようになっている。 毎年夏にアメリカ合衆国で開催されるCGの祭典「SIGGRAPH」(シーグラフ)にて、世界中の多くの研究者により最新のCGの論文が発表され、技術更新がなされている。
{{混同|立体映像}} {{出典の明記|date=2015年7月}} {{3D computer graphics}} '''3次元コンピュータグラフィックス'''(さんじげんコンピュータグラフィックス、{{lang-en-short|three-dimensional computer graphics}})は、[[コンピュータ]]の演算によって[[3次元]]空間内の仮想的な[[立体]]物を[[2次元]]である[[平面]]上の情報に変換することで奥行き感(立体感)のある[[画像]]を作る手法である。{{読み仮名|{{lang|en|'''3DCG'''}}|スリーディーシージー}}と略記されることも多い。[[20世紀]]末からのコンピュータ技術の急速な発達と性能向上によって、従来は[[大企業]]や大きな[[研究所]]でしか得られなかった高精細で高品質の3次元画像が、[[21世紀]]初頭現在では[[パーソナルコンピュータ]] (PC) や[[ゲーム機]]、[[スマートフォン]]でも実時間で得られるようになっている。 毎年夏に[[アメリカ合衆国]]で開催される[[CG]]の祭典「[[SIGGRAPH]]」(シーグラフ)にて、世界中の多くの[[研究者]]により最新のCGの[[論文]]が発表され、技術更新がなされている。 == 用途 == 3DCGは、ユーザーが仮想的な視点や対象物の変更を操作して直ちに更新された画像を得る[[CAD]]のような[[シミュレーション]]や[[コンピュータゲーム]]のように実時間処理の動画像と、CG映画のように製作者側があらかじめ時間を掛けて動画像を製作しておくもの、そして、静止画の3種類に大別できる。十分に高い技術を用いれば、無生物では実写と見分けがつかないほど遜色のない画像が得られるが、人物画ではCG特有の無機質なものとなることが多く、[[ロボット]]での[[不気味の谷現象]]と同じく一般に人の表情を描くのは不得手である。 === 動画(実時間処理:リアルタイム) === ユーザーの操作や時間経過など、何らかのパラメータ観測および情報入力に対応して即座に映像を動的生成する処理を指す。 代表的な実時間処理による動画生成の用途は[[コンピュータゲーム]]である。[[パーソナルコンピュータ|PC]]や据え置き型の[[ゲーム機]]([[家庭用ゲーム機]]や[[ゲームセンター]]で使われる業務用の[[アーケードゲーム機]])、[[携帯ゲーム機]]や携帯電話(スマートフォンおよび一部の[[フィーチャーフォン]])でのゲームにまで3DCGを用いた動画像が利用されている。 工業用途では製品の設計段階で[[CAD]]/[[CAM]]によって部品同士の接続や製品の完成図を描いたり、建築でのパースを描画したりする目的で利用されている([[建築パース]]の作成では設計図面さえあれば建築イメージを確認できるため、古代遺跡の復元[[模型|モデル]]などをフォトリアリスティックに描画する用途などにも用いられている。[[立体地図]]の場合は地形の起伏や大[[縮尺]]の場合の建物形状をいろいろな視点から眺められるように用いる)。また、現実世界での運動や周囲状況を[[コンピュータ]]・[[シミュレーション]]で再現することで効果的な訓練が行える、[[ドライブシミュレータ]]や[[フライトシミュレーション|フライトシミュレータ]]なども実時間処理での3DCG技術の利用例である。[[X線CT]]や[[核磁気共鳴画像法|MRI]]のように、多数の断層画像から3次元データを再構築した後、任意断面の観察をする際にもリアルタイム3DCGの技術が使用される。 動画生成における実時間処理は、そうでないものに比べて画像の精度よりも実時間内に如何にそれらしい画像を生み出すかが求められるため、簡易的な局所照明モデルを採用したり、ローポリゴンモデルにテクスチャマップで質感を表現したりするなど、できる限り事象を近似または演算処理を簡略化したり事前計算したりして、時間的・空間的コストを低減する工夫がなされている。[[パーソナルコンピュータ|PC]]用の3DCG動画を[[並列計算]]により高速生成するための専用ICとして[[Graphics Processing Unit|GPU]]が登場している。[[プログラマブルシェーダー]]の登場以後、リアルタイムで[[レイトレーシング]]や大域照明([[グローバルイルミネーション]])を実行する技術やハードウェアも開発されているが、いまだ発展途上の領域である。 ゲーム内でユーザーの操作や対話(インタラクション)を必要としない[[ムービー]]シーン(デモシーン)の再生には、事前にプロダクションレンダリングソフトウェアおよび高精細モデルを使って生成された高品質な動画が使用されることもあるが、ゲーム内で使われるアセット(素材)をそのまま利用したリアルタイムレンダリングがなされることもある。 === 動画(非実時間処理:プリレンダー) === 3DCGによる[[映画]]の制作が代表的な「実時間処理ではない」動画生成用途である。多くの映画では、写実的(フォトリアル)な画像を制作する目的や、反対にマンガ的な[[アニメーション]]のように非現実的な画像を制作する目的で利用され、実写との合成映像も含めれば大半の商業用映画に何らかの形で3DCGの技術が用いられている。[[VFX]]を多用する[[サイエンス・フィクション|SF]]映画やアニメ映画などでは長時間の3DCG画像が必要とされることがあり、そのような場合には、3DCG演算専用の多数のコンピュータから構成される「レンダリング・ファーム」と呼ばれるサーバー施設で数ヶ月単位で動画像の生成が行われる。 広告宣伝用途での3DCG動画像も広告製作会社内やメーカー自身の内部で、映画と同じような環境で製作されている(自動車産業が3DCG動画による広告の代表であるが、他の産業でも設計過程でコンピュータ・シミュレーションを必要とする航空宇宙、軍事、船舶といった分野の企業が物理現象のシミュレーションと共に画像表示のための3DCG技術を利用している)。 === 静止画 === 広告や芸術、そしてあらゆる種類のイラストレーション用途に3DCGを用いた静止画が製作されている。 == 原理 == 3次元CGの基本原理は、[[カメラ]]の基本原理と同じであり、3次元空間内の対象物を2次元平面の仮想スクリーン上に投影することで実現される。単純な[[2次元コンピュータグラフィックス]] (2DCG) では、一般的に平面的な物体同士の重なりを考慮するだけでよく、奥行きによる尺度の違いや照明および遮蔽による陰影の違いを演算する必要はないが、3DCGでは立体物ゆえに奥行きを考慮した複雑な座標変換や画素の塗り分けを行わなければならない。コンピュータグラフィックスは[[計算幾何学]]分野における問題のひとつであり、[[行列 (数学)|行列]]や[[ベクトル空間|ベクトル]]といった[[線型代数学]]が多用される。 [[ファイル:3DCG_Zu1.png|300px]][[ファイル:3DCG_Zu2.png|350px]] まず[図1]のような3次元座標を考える。原点に[[視点]]があるとして、座標空間内の3次元座標を持つ点Aの見え方は、投影法によって左右される。 === 透視投影 === [図2]のように原点と点Aの間にスクリーンを置いた場合、スクリーン平面上に映し出される点Aの投影座標は <math>h=x\times{}s/z</math>、<math>v=y\times{}s/z</math> で求められる。<math>z</math>が大きくなれば、スクリーン上の点Aは限りなく原点に近づく。つまり遠くのものは小さく見えるわけである。スクリーンを置く座標<math>s</math>は大きくなれば[[遠近法|パース]](遠近感)が緩く、小さくなればパースがきつくなるので、レンズの画角(視野角)を表現することができる。これが[[透視投影]] (perspective projection) の原理である。 === 平行投影 === 透視投影によりスクリーン上で各物体の遠近関係が表現されるが、画角によって画面上のサイズや印象が大きく変わるため、モデリングの際の正確な寸法や形状確認といった目的には適さないことがある。その場合、視点と物体の間の距離とは無関係にそのまま平行に投影する手法<ref>[https://satoh.cs.uec.ac.jp/ja/lecture/ComputerGraphics/3.pdf コンピュータグラフィックス | 3. 3次元変換と投影], 佐藤証, 電気通信大学</ref>が使われることがあり、平行投影 (parallel projection) または正射影 (orthographic projection / orthogonal projection) と呼ばれる。平行投影の視錐台は直方体となる。 いずれにしても、3次元座標を持つ図形を2次元座標系に変換した後で、図形の各点を幾何学的なつながり情報(トポロジー)に基づいてそれぞれ結べば[[ワイヤーフレーム]]画像が生成され、また結んだ点から面を作れば[[ポリゴン]]による表現が可能となる。リアルタイムコンピュータグラフィックスでは、ハードウェア的な制約から、実際にサポートされる最小の図形([[プリミティブ]])は点・線分・三角形のみであり、それ以上の多角形や立体図形は多数の三角形を組み合わせて表現する。 == 制作工程 == 3DCGの制作は次のような行程にわけることができる。 # [[#モデリング|モデリング]] # [[#シーンレイアウト設定|シーンレイアウト設定]] # [[#レンダリング|レンダリング]] # [[#レタッチ|編集・レタッチ]] ===モデリング=== モデリング({{lang-en-short|modeling}})とは、仮想3次元空間上に個々の物体の形状をつくる作業のことである。多くの3DCG[[ソフトウェア]]では、一つの面を三角形や四角形といった[[多角形]]の集合として表現する。三角形しか扱えないソフトウェアも多い(四角形以上は、それを構成する全ての頂点が同一平面上にない可能性があるため)。これらの多角形は[[ポリゴン]](英語で多角形の意)と呼ぶ。各形状はポリゴンの集合で表現される。モデリングで作られた形状を[[模型|モデル]]や[[オブジェクト]]と呼ぶ。 四角形が扱える場合は、ポリゴンの流れの見やすさなどからも四角形の面をメインとして構成するのが一般的であるが、同一平面上にない空間上の4点を結んで四角形を折り曲げた2つの三角形の面とする方法は2通りあるため、それを1通りに確定するためや、あるいは最後の仕上げなどに三角形の面が用いられることがある。また、3DCGにおいては五角形以上の多角形は、三角形や四角形と区別して単に「多角形」と呼ぶことがあるが、エラーや問題を引き起こしやすいため、基本的に五角形以上の多角形の面(ポリゴン)の使用はタブーとされ、制作過程でこの面が出てきた場合、最終的には全て四角形ないし三角形に分割するのが普通である。 他に面を定義する方法としては自由曲面がある。自由曲面は[[NURBS曲線]]、[[スプライン曲線]]、[[ベジェ曲線]]などで曲面を構成する方法で、ポリゴンのみでモデリングされた形状に比べ滑らかで正確な形状が得られる。ポリゴンのみでモデリングすることを、ポリゴンモデリングと呼んで、自由曲面を利用したモデリングと区別することがある。 形状が出来たら、オブジェクトに材質(マテリアル)を設定する。材質を設定しなければ、オブジェクトはただ一様に光を反射するだけの均質な物体になる。多くの[[3DCGソフトウェア]]では、色、透明度、反射、屈折率、自己発光、バンプ、ディスプレイスメントなどの設定項目がある。 === シーンレイアウト設定 === モデリングで制作したオブジェクトを、仮想3次元空間上に配置する。現実世界と同様、光源も配置しなければ何も表示されない(黒一色の画像が出力される)。また、仮想的なカメラを配置することで視点を設定する。これらを配置・設定した仮想的な舞台をシーンと呼ぶ。 === レンダリング=== [[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]({{lang-en-short|rendering}})は、これまでに設定したシーンから、仮想的なカメラに写されるはずの画像を生成する工程である。オブジェクトの形状や位置、光のあたり具合などをコンピュータが計算し、最終的な画像が生成される。レンダリングの[[アルゴリズム]]には、それぞれ処理速度や品質の違う多くの種類があり、用途に合わせて使い分ける。各種の設定を済ませレンダリングを開始した後は、レンダリングが終了するまで制作者がすることは特にない。一般にレンダリングには多くの時間を要する。シーン内に多くの形状があったり、高度なレンダリングアルゴリズムを利用している場合、数時間から数日かかる場合もある。ゲームなどリアルタイムにレンダリングしなければならないときは、単純で高速なレンダリングアルゴリズムを適用したり、シーンの総ポリゴン数を少なくするなど、大きな制限が加えられる。映画など大規模な制作現場では、同時に複数のコンピュータにレンダリング処理をさせて、計算時間を短縮することがある。 レンダリング手法によっては空気による[[遠近法]]・光の照り返しなども計算される。そういった複雑な計算をするレンダリング処理は専用回路(GPU)で行われることも多い。高い対話性と双方向性が得られるので、ゲームに用いられる場合はこの形態をとる。 === レタッチ=== レタッチ({{lang-en-short|retouch}})とは、手直しする作業のことである。レンダリングで得られた画像が、完全に制作者の意図したものになるとは限らない。[[Photoshop]]や[[Adobe After Effects]]などの[[フォトレタッチツール]]などで、コントラストや色味を手直しすることもある。 == 制作技法 == === テクスチャマッピング=== [[ファイル:UV mapping checkered sphere.png|thumb|200px|テクスチャマッピング]] {{main|テクスチャマッピング}} 3DCGのモデルに画像を貼り付けることを[[テクスチャマッピング]]({{lang-en-short|texture mapping}})、その貼り付けられる画像をテクスチャという。テクスチャを貼ることにより、モデリングやシェーダーのみでは表現の困難な、モデル表面の細かな色彩情報や質感などを設定することができる。 テクスチャの貼り付け方としては、単純にカメラ方向からモデルにテクスチャを投影するだけの方法や、[[UVマッピング|UV]]座標によって切り出されたテクスチャの2次元画像領域をモデル表面に分割投影する方法などがある。 反射の強度を設定する反射マッピング、小さな凹凸を擬似的に表現する[[バンプマッピング]]/[[法線マッピング]]、透明度を設定する透明度マッピングなどがある。形状の表面に画像の情報を加えることによって、表面の模様や質感が表現されて、より現実的な画像になる。[[ディスプレースメントマッピング]]のように、画像情報をもとに実際の凹凸形状を動的に生成する手法もある。 特にコンピュータゲームにおいては、リアルタイムで3DCGキャラクターを描画する必要から、極力少ない[[ポリゴン]]で作成されたモデル(ローポリゴンモデル)に、ディテールや陰影などを描き込んだテクスチャを貼り付ける手法が行われている。 === バンプマッピング === [[ファイル:Bump-map-demo-bumpy.png|thumb|200px|バンプマッピング]] {{main|バンプマッピング}} モデルの表面の[[法線]]の方向を変化させることによって、擬似的に凹凸を表現する技術。グレースケール画像で元形状に対する高低を定義する。少ない[[ポリゴン]]で細かな陰影をリアルに表現できる利点があるが、実際に表面に立体的な凹凸があるわけではないので、ズーム時や、面を横から見た場合などに違和感のある画像となる。 {{いつ範囲|近年|date=2017年9月}}は法線の方向(3次元ベクトル)を直接定義する'''[[法線マッピング]]'''(ノーマルマッピング)も用いられるが、法線マップを手作業で作成するのは困難であるため、通常は高精細モデルのディティールを法線マップに変換して単純化モデルに適用する手法が採られている。 === ディスプレースメントマッピング === 3Dモデルの頂点を実際に表面に対して上下に移動させて凹凸を表現する技術。バンプマッピングに比べて、実際に立体的な凹凸となるため違和感のない画像が得られるが、表現する凹凸に応じてポリゴン数が増大する欠点がある。リアルタイム3DCGの分野では[[Direct3D]] 10および[[OpenGL]] 3.2でジオメトリシェーダーが標準化された後、Direct3D 11/OpenGL 4にて[[テッセレーション]]が標準化され、[[Graphics Processing Unit|GPU]]によるディスプレースメントマッピングが可能となった。 === ハイパーテクスチャ === バンプマッピングによる凹凸の表現はあくまで擬似的に陰影を表現し、またディスプレースメントマッピングによる凹凸は3Dモデルそのものの頂点を移動させて凹凸を表現するだけであるのに対して、3Dモデルに立体的な濃度関数を掛け合わせることにより、小さな凹凸はもとより、深い溝や貫通した穴のような大きな構造も表現することができる技術。 === パーティクル === [[ファイル:Particle_billboarding_metaballs.jpg|thumb|250px|[[ビルボーディング]]や[[メタボール]]によりレンダリングされたパーティクル。]] {{main|パーティクル・システム}} ポリゴンはあくまで多角形の面なので、モデルにはっきりとした表面が無かったり、モデルの[[数]]が膨大であったり、動きが不規則な煙や炎などを表現するのには不向きである。また、毛髪や[[植物|草木]]など、ポリゴンで表現しようとするとその量から大変な人的労力やリソースが必要になるものがある。パーティクル (particle) はこれらの問題を解決するための技術である。パーティクルはこれらを微小な粒子の集合として表現し、[[確率]]モデルでその動き・形状を処理する。高度なモデリングまたはレンダリングソフトウェアで扱うことができる。これをレンダリングする際には[[ビルボーディング]]や[[メタボール]]などの技術が使用される。 === サブディビジョンサーフェス(細分割曲面) === {{main|サブディビジョンサーフェス}} サブディビジョンサーフェス({{lang-en-short|subdivision surface}})とは、大まかにモデリングされたポリゴンメッシュを[[主記憶装置|メモリ]]上で細分化して、滑らかで継ぎ目の無い形状にする技術。少ないポリゴン数で形状を滑らかに表現できるため、編集や変形も容易になる。ただし、工業用[[CAD]]など形状に高い精度が要求されるときには利用できない。 === ブーリアン === {{Main|ブーリアン演算}} 複数のオブジェクトどうしを[[集合]]演算する技術。他の形状と結合する(和)、一方の形状から他方の形状を削り取る(差)、重なっている部分のみを形状として抜き出す(積)ことなどができる。 === メタボール === [[ファイル:Metaball3.jpg|thumb|200px|メタボール]] {{main|メタボール}} 複数の3次元座標上の点を中心として濃度分布を設定し、濃度の閾値を形状の表面とする技術。球状の形状が引き付けあうようにみえる融合と、反発しあうように見える反転融合がある。正確な形状を作ることは難しいが、有機的な形状を少ない制御点で作るのに向いている。3DCG特有の概念ではなく、2Dの画像表現にも使われることもある。当初はその呼び名の通り球体を基本としていたが、その後改良が進められ、球体以外の形状も利用できるようになり、有機的な形状をモデリングする技術として活用されている。 モデリングの他に、流れる液体の表現等にも使われる。レンダリングに必要な計算量は多くともメモリの使用量が少ないのが利点だったが、{{いつ範囲|現在|date=2016年4月}}ではそれらのリソースが充実している上、流体力学の計算法も進歩しているため、映像制作の現場では、見た目のチープなメタボールはほぼ使われることのない技術になっている。 === インバースキネマティクス(逆運動学、IK) === インバースキネマティクス({{lang-en-short|inverse kinematics}})は3次元コンピュータグラフィックスの専門用語ではない。もともと力学の一分野であり、ロボティクス等のほうが「本家」である。 人間など多くの関節を持つ動物において、関節の末端部分の位置は常にその親となる部分の位置と角度に依存している。そのため、通常では関節の末端部分の位置を求める場合においてモデルの中心から末端にかけて順番に関節の角度計算をする、という向きが「順方向」である。しかし、その方向で計算したのでは、例えば「机の上を掌でなでるような動き」を実現するのは面倒なものとなる。なぜなら、関節の末端部分の位置の変化を求めるためには複雑な計算をモデルの中心から全て順方向に再計算しなおさなければならないため非常に非効率的だからである。この解決のため、末端部分の位置を先に決めてその関節の末端位置を実現するための親となる関節の角度を、一種の「[[逆問題]]」を解くようにして求めることが考えられる。 以上の説明からもわかるように、物理的な[[運動 (物理学)|運動学]]に関して一般に考えることができる逆問題的な考え方のひとつである。 股-ひざ-足のような形状を想定してみると、足の裏が自転車のペダルにくっついたままペダルが回転運動をするアニメーションを作る場合に、ペダルの回転運動に合うように股・そしてひざや足の角度の変更を行なっていくのではなく、足部分の移動に追随する形で、逆に足-ひざ-股の順に各関節の動きを順次割りだして決定する方が、見た目も自然なアニメーションが作成できる。 === ライティング(照光) === [[ファイル:SixLights.jpg|thumb|300px|左上から順に点光源、スポットライト、平行光源、環境光、天空光、IBL。]] 3次元空間上に光源を設定することを[[ライティング]]({{lang-en-short|lighting}})と呼ぶ。光源によってモデルは可視物となる。光源には次のような種類がある。 * 点光源:電球のように、一点から[[光]]を全方向に放射する光源。光源から離れるにつれて、光は弱くなる。 * スポットライト:点光源の変形で、角度を限定して光を放射する光源。 * 平行光源:[[太陽]]のように、無限遠からの光をシミュレートする光源。太陽は厳密には無限遠にあるわけではないが、地球からはほとんど平行光源のように見える。点光源のように距離によって光の強さが変化することはなく、一定である。 * 環境光:全ての物体を均一に照らす光源。[[間接光]]を擬似的に表現する。処理が高速だが、影が一様な輝度になってしまうなど不自然ではある。 * [[天空光]]:晴天の空のように、仮想の天球全体から光を放射する光源。環境光と似ているが、[[ラジオシティ]]と組み合わせることで自然な間接光が表現できる。 * IBL (Image-Based Lighting) :シーン全体を2次元の画像で覆い、その画像を光源として利用する手法。同じ画像を同時に背景として用いることにより、オブジェクトが周囲と非常によく「馴染んだ」、フォトリアルな画像を作り出すことができる。なお、ここでは[[HDRI]]画像を用いるのが一般的である。 === テッセレーションとポリゴンメッシュ === {{main|テッセレーション|ポリゴンメッシュ}} 3DCGソフトウェアによっては、球や円柱などの単純なオブジェクト(プリミティブ)を、ポリゴンではなく中心点や半径、高さといった数値で扱う場合がある。これらの細部を編集したりレンダリングする場合は、[[ポリゴンメッシュ]]に変換する必要がある。これをtessellationと呼ぶ(tessellateはモザイク模様にするという意味)。ただし、オブジェクトが本来持っていた形状情報である球体、円錐などのような抽象的な表現は失われてしまう。 === 反射とシェーディングモデル === {{いつ範囲|現在|date=2016年4月}}の3DCGにおいて、速度面などの理由により単純化された照明モデル・反射モデルを利用する場合、多くは[[Phongの反射モデル]] (Phong reflection model) を採用している<ref group="注釈">[[Phongシェーディング]] (Phong shading) とはまた違う技術である。</ref>。Phong反射モデルは[[経験則]]であり、ローカルイルミネーション(局所照明)の代表例である。より写実的なシーンを描画するためには、後述する[[ラジオシティ]]などの[[グローバルイルミネーション]](大域照明)をサポートする、光学的・物理学的に正しい照明モデル・反射モデルが使われるが、現実世界をシミュレートするには非常に複雑かつ膨大な計算を伴うため、レンダリングに時間がかかるようになる。{{仮リンク|レンダリング方程式|en|Rendering equation}}は[[エネルギー保存則]]をもとに光の伝播を記述するものであり、物理ベースのレンダリングの基本となる理論である。 反射モデルは物体の性質にも左右される。[[コンピュータグラフィックス]]において、物体の性質は材質(マテリアル)として定義・抽象化されるが、プラスチックや金属、皮膚や毛髪の質感をコンピュータグラフィックスで正確に再現するためには、それぞれの材質に応じた適切な反射モデルを使う必要がある。物体の色は光の[[RGB]]各成分の反射・吸収係数の違いによって生まれ、また[[鏡面ハイライト]]の色や形状は面の粗さや光源の特性にも左右される。金属光沢や回折模様を再現する場合は、物質の物理的・化学的特性や表面性状を考慮する必要がある。 また光の[[屈折]]現象をコンピュータグラフィックスで再現する場合、物質の特性として[[屈折率]]が重要な要素となる。多くの3DCGソフトウェアでは、屈折率 (index of refraction) を略してIORと表記する。 [[シェーディング]]とは、物体の陰影を計算することである。広義では反射モデルによる反射光の強度計算を含むが、狭義では後述の陰影補間技法を指す。 ==== 陰影補間 ==== ポリゴンモデルから2次元画像を生成する過程での陰影の[[補間法]]には次のような種類がある。 {|class=wikitable style="font-size:small" !補間法!!概要!!画像例 |- |style="white-space:nowrap"|[[フラットシェーディング]]<br/>({{lang-en-short|flat shading}}) |ポリゴンの法線ベクトルと光源との角度から各ポリゴンの色を算出する。一つのポリゴンは一色に塗りつぶされる。単純なアルゴリズムなので計算が高速であるが、ポリゴンの継ぎ目ごとに不連続的に色が変化するため、滑らかには見えない。コンスタントシェーディング (constant shading) とも呼ぶ。 |[[File:Flat-shading-sample.jpg|フラットシェーディング|192px]] |- |style="white-space:nowrap"|[[グーローシェーディング]]<br/>({{lang-en-short|Gouraud shading}}) |オブジェクトの各頂点の法線ベクトルを求め、頂点間は一次補間してピクセルの色を算出する。ピクセル間の継ぎ目は目立たなくなる。考案者の名前{{仮リンク|アンリ・グーロー|en|Henri Gouraud (computer scientist)|fr|Henri Gouraud (chercheur)}}に由来する。 |[[File:Gouraud shading.png|グーローシェーディング|192px]] |- |style="white-space:nowrap"|[[フォンシェーディング]]<br/>({{lang-en-short|Phong shading}}) |オブジェクトの各頂点の法線の一次補間から、各ピクセルにおける法線を求めて、それを元に最終的なピクセルの輝度を算出する。グーローシェーディングにおける光沢の不自然さを改善する。考案者の名前{{仮リンク|ブイ・ツォン・フォン|en|Bui Tuong Phong|Phong}}に由来する。 |[[File:Specular highlight.jpg|フォンシェーディング|192px]] |} === Zソート法 === {{Main|画家のアルゴリズム|Zオーダー}} 隠面消去方法のひとつ。 ポリゴンの座標(大抵は中心点)を基準に、画面の奥(視線からもっとも遠いポリゴン)から、全てのポリゴンを順番に描画する。 後述のZバッファ法のような特殊な処理をせず、基本的に多角形を描画すればよいだけなので、実装が簡単であり、消費メモリが少なく非常に処理が高速にできる利点がある。Zバッファ法が普及するまでは古くは3DCG全般で利用され、また、{{いつ範囲|最近|date=2017年9月}}まで家庭用ゲーム機におけるリアルタイム3DCGでは一般的に利用されていた。しかし、ポリゴン数が増えた場合は、ポリゴンをソートするコストがかかる、またフィルレートが膨大になるため、Zバッファ法と比較して速度的なメリットがなくなる。 ポリゴンが交差した場合に正しく表示することができないという欠点があるが、この解決策として、ポリゴンが互いに交差しないように静的、あるいは動的に細分化する方法がとられることがある。 Zバッファ法と異なり、半透明ポリゴンの描画に関しては、ポリゴンが交差する場合を除いて、概ね正しく扱うことができる。 === Zバッファ法 === {{main|Zバッファ}} 隠面消去方法のひとつ。 多数のポリゴンが重なった場合、奥のポリゴンが手前に描かれてしまうような不都合が生じることがある。 これを防ぐために、各ポリゴンを描画する際、各画素について視点からの距離を全て記録し、現在記録されている深度よりも近い画素だけを描画する。 Zソート法と異なり、通常は、視点にもっとも近いポリゴンからレンダリングする(Zバッファで判定することで、奥に隠れたポリゴンのレンダリングをスキップできるため)。 Zバッファとは、深度を記憶するメモリ領域のことであり、Zバッファ法はアルゴリズムが簡単なためハードウェア化しやすい利点があるが、Zバッファ用のメモリの分だけ、Zソート法よりもメモリは多く消費する。単純に、ピクセル単位で奥行きを判定して、ポリゴンのピクセルを塗るか塗らないかを判定しているだけなので、半透明なポリゴンは、Zバッファ法だけでは正しく処理できない(この場合、一度Zバッファ法で不透明なポリゴンだけ描画し、さらにZソート法で半透明なポリゴンを重ねて描く)。また、互いに接近した平行、あるいは低い角度で交差するポリゴンにおいて、Zバッファに記録される深度の精度によっては、隠面消去が正しく行われない、Zファイティング(Z-fighting)と呼ばれる現象が起きる。 ゲームやCADソフトウェアのプレビュー表示など、リアルタイムでの描画によく利用される。 === スキャンライン=== スキャンライン({{lang-en-short|scanline rendering}})とは、スクリーンを横一行ごとに分割して、その一行ごとに深度を計算してレンダリングする手法のことである。透過を表現したり、シェーディングと併用することで陰影も表現できる。スキャンラインとは走査線を意味する。比較的高速だが、得られる画像の品質は基本的にレイトレーシングよりも劣る。 === レイトレーシング(光線追跡法)=== [[ファイル:Raytrace no arealight.png|thumb|200px|レイトレーシングによるサンプル画像。]][[レイトレーシング]]({{lang-en-short|ray tracing}})は、視点から光源までの光を追跡することでレンダリングする手法。視点から描画する各画素の方向へ直線を伸ばし、物体と交錯する可否を数学的に判定する。照度は光源との方向ベクトルで計算する。反射と屈折は反射率および屈折率をもとに再帰的に探索を繰り返す。物体との交錯がなくなれば計算は終了する。スキャンラインでは得られない反射や屈折などの表現が可能になる。フォトリアリスティックな画像が得られる反面、大変なレンダリング時間が掛かる。そのため屈折の計算処理については、簡略化あるいは制限を設けるのが一般的である。リアルタイム3DCGの分野では、[[Graphics Processing Unit|GPU]]の発展と共に、レイトレーシングのリアルタイム化が試みられており、[[Adobe After Effects]] CCでは{{仮リンク|NVIDIA OptiX|en|OptiX}}が採用された。 === ラジオシティ=== [[ファイル:Radiosity_scene.jpg|thumb|200px|ラジオシティによるサンプル画像。床や壁に当たった光が拡散し、軟らかな陰影を表現している。]] [[ラジオシティ]]({{lang-en-short|radiosity}})は、各ポリゴンに光のエネルギー量を持たせて形状の相互反射を計算することで、間接光(やわらかい光の回り込み)などを表現する技術。大域照明([[グローバルイルミネーション]])の代表例である。計算に膨大な時間が必要になるが、完全拡散面で構成されるシーンでは、一旦物体相互間の光の反射を計算し終えれば、物体や光源が移動しない限り、その計算結果を保存して別のアングルからのレンダリングへ再利用することができる。照明工学の分野で発達した技術を3DCGのレンダリングに応用した。 === フォトンマッピング=== [[フォトンマッピング]]({{lang-en-short|photon mapping}})は、光をモデル化したフォトンを光源からばらまいて[[フォトンマップ]]を作成し、次に作成された[[フォトンマップ]]に対し、光線追跡法を適用することでレンダリングする手法。計算量を抑えつつ、物体や媒質の質感や透明感を表現できる。ラジオシティと同様、計算結果の再利用が可能。 === パストレーシング=== [[ファイル:Pathtrace3.png|thumb|200px|パストレーシングによるサンプル画像。]]通常のレイトレーシングと同様にカメラから視線を飛ばし、オブジェクトと交わった点を始点としてさらに大量に2次視線を飛ばす。ここで得られた色や明るさを平均してその点の色とする。この手法をパストレーシング({{lang-en-short|path tracing}})という。物体表面での光の乱反射を再現できるが、明暗差が大きいシーンではノイズが出やすい。 == サーフェスモデルとボクセル == [[ファイル:VoxelSmoke.jpg|thumb|250px|ボクセル(351x464x253)により構成された煙と、その断面。]] [[2次元]]の[[画像]]の最小単位を[[ピクセル]]と呼ぶのに対し、[[3次元]][[座標]]上に取り入れた最小[[単位]]を[[ボクセル]](voxel)と呼ぶ。多くの[[3DCG]][[ソフトウェア]]で採用されているのが、物体の表面のみを処理する[[サーフェスモデル]]であるのに対して、[[ボクセル]]は中身を持った[[ボリューム]]モデルである。[[液体]]や[[雲]]、[[煙]]といった[[流体]][[計算]]で主に活用されている。{{いつ範囲|現在|date=2016年4月}}では、[[炎]]、[[爆発]]、[[溶岩]]、[[髪の毛]]といった表現までも可能にしている。[[ボクセル]]モデルでは、正確な形状を作るにはボクセルの密度を上げなければならず、また[[メモリ]]を大量に必要とする。 [[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]に必要な[[オブジェクト]]を選別し、レンダリングを効率的に処理するために利用されることもある。これを[[ボクセル]]分割と呼ぶ。 [[オープンソース]][[プロジェクト]]では、[[OsiriX]]など有名である。 == クロス== [[衣服]]を始め、[[布]]に関する多くの表現を可能にするための[[技術]]。[[衣服]]を着た[[キャラクター]]の動きや風の影響による布の形状変化の[[シミュレーション]]を行ない、[[デザイナー]]が手付けで布の[[アニメーション]]をつける負担を軽減させる。最終的には、[[人間]]の[[皮膚]]を始め、あらゆる事象をシミュレーション可能にすることが目指されている。 クロス({{lang-en-short|cloth}})の基本的な考え方としては、質量を持った[[メッシュ]]ノードを擬似的な[[ばね]]で[[リンク]]させ、伸縮制限(拘束条件)を持たせることによって、布の伸縮・弾性を再現させる。この[[質感]]再現のために、技術者によって様々な計算方法が提案されている。 クロスシミュレーションが大々的に使用された最初の映画を挙げると、ネズミが主役のCG映画『[[スチュアート・リトル]]』がある。 キャラクターに衣服を着せる制作手法としては、「擬似的な[[型紙]]を作り、結合し、キャラクターに被せる」といった[[Maya]]に実装されている[[Classic Cloth]]と呼ばれる手法と、[[Syflex]]のように「普通の[[モデリング]]と同様な衣服のモデリングをし、クロスに変換する」という2種類の方法に大別される。 {{いつ範囲|現在|date=2016年4月}}は、[[Maya]]も[[Syflex]]と同様の方法の[[nCloth]]という機能が搭載されている。 [[Syflex]]は[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]による映画『[[ファイナルファンタジー (映画)|ファイナルファンタジー]]』のプロジェクトで[[ジェラール・バネル]]([[Gerard Banel]])が開発したクロスシミュレーションをさらに発展させたもの。非常に高速で安定しており、[[Maya]]のように布同士が反発して暴れるようなおかしなシミュレーション結果を出すことは少ない。 == 3DCG用API == === リアルタイム用途 === リアルタイムの3DCGは科学的なシミュレーションの可視化や、シミュレーターおよび3D CADオペレーションといったインタラクティブ用途に使われる。[[コンピュータゲーム]]([[テレビゲーム]]や[[PCゲーム]])でも3DCGが一般的になっている。3DCG専用の[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]は主に[[PCゲーム]]で描画処理を高速化するためにグラフィックス[[ハードウェア]]([[Graphics Processing Unit|GPU]]、グラフィックスチップ、[[ビデオカード]]/グラフィックスカード)を利用するとき、[[プログラマ]]が[[抽象化レイヤー]]を通してグラフィックスハードウェアにアクセスする方法を提供し、プログラマの負担を軽減する。次のようなAPIはインターフェイスの汎用化が必要となる[[パーソナルコンピュータ]]や[[スマートフォン]]などのモバイル機器において特によく使われる。 ; [[OpenGL]] : オープン規格のAPI。さまざまな[[オペレーティングシステム|OS]]でサポートされており、移植性に優れている。3DCG作成ツールやCADのようなアプリケーションをはじめ、ゲームなどにも幅広く利用される。モバイルおよび組み込み環境向けのサブセットとして[[OpenGL ES]]、また[[Webブラウザ]]向けのサブセットとして[[WebGL]]が存在する。 ; [[Direct3D]] : [[マイクロソフト]]製[[オペレーティングシステム|OS]]用のマルチメディアAPIである[[DirectX]]のコンポーネントの一つ。ベンダーによるコンシューマー向けGPU製品のハードウェア最適化が進んでいることから、特に3Dゲーム開発に適している。 <!-- [[QuickDraw 3D]] --><!-- QuickDraw 3Dはオープンソース化されQuesaという呼び名に変わった。OS XではOpenGLを使うため{{いつ範囲|現在|date=2016年4月}}殆ど使われていない --> ハードウェアベンダー各社が各々のグラフィックスハードウェア上でこれらの汎用化APIをサポートすることで、同一のプログラムを異なるハードウェア上で動作させることができる。なおゲーム専用機の場合は必ずしも汎用化・抽象化が必要ではないため、各機器ごとに最適化された独自のローレベルAPIが用意されることがほとんどである。 OpenGL 1.5/Direct3D 8.0以降はそれぞれ[[プログラマブルシェーダー]]をサポートし、プログラマが[[シェーディング言語]]によりシェーディング処理をカスタマイズできるようになった。ハードウェア性能の向上に加え、プログラマブルシェーダーによってリアルタイム3DCGの品質は飛躍的に向上した。 そのほか、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]による[[Mantle (API)|Mantle]]の登場以降は、[[Apple]]による[[Metal (API)|Metal]]、マイクロソフトによる[[Direct3D]] 12、そして[[クロノス・グループ]]による[[Vulkan (API)|Vulkan]]など、ゲーム専用機向けAPIのようにハードウェア抽象化の度合いを下げてローレベルなハードウェア制御を可能とする描画効率重視のAPIが出現している。 === プロダクション用途 === ; {{仮リンク|RenderManインタフェース仕様|en|RenderMan Interface Specification}} : [[PIXAR]]によって開発された、プロダクションレンダリング用のソフトウェアインターフェイス。[[RenderMan Shading Language]]によるカスタマイズが可能。 == 各国の3DCG == [[世界]]で最も3DCGの研究・実用化が進んだ国は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]である。[[Association for Computing Machinery|ACM]](国際計算機学会)における[[SIGGRAPH]]の主催など研究での盛んさに加え、[[ハリウッド]]の[[映画産業]]がバックボーンにあり、[[計算機科学]]の先駆研究者達を擁する[[ピクサー]]などの[[アニメ制作会社|制作会社]]によって3DCG[[アニメーション|アニメ]]が大量に制作され、実写作品にも盛んに3DCG技術が用いられている。アメリカでの特に重要な研究業績には、[[アイバン・サザランド]]による[[ヘッドマウントディスプレイ]](1966年)、[[エドウィン・キャットマル]]による[[テクスチャマッピング]]や[[Zバッファ]](共に1974年)、[[サブディビジョンサーフェス]](1978年)、[[ジム・ブリン]]による[[環境マッピング]](1976年)や{{仮リンク|Blinn-Phongの反射モデル|en|Blinn–Phong shading model}}(1977年)や[[バンプマッピング]](1978年)、[[ジェームズ・クラーク (事業家)|ジェームズ・クラーク]]による[[ジオメトリエンジン]](1980年)、{{仮リンク|ターナー・ウィッテッド|en|J. Turner Whitted}}による再帰的[[レイトレーシング]](1980年)、[[ジム・カジヤ]]による{{仮リンク|レンダリング方程式|en|Rendering equation}}や{{仮リンク|パストレーシング|en|Path tracing}}(1986年)などがある。1995年には初のフル3DCGの長編映画『[[トイ・ストーリー]]』が制作された。 フランスの[[ピエール・ベジェ]]は[[ベジェ曲線|ベジェ曲面]]を考案(1970年)し、{{仮リンク|アンリ・グーロー|en|Henri Gouraud (computer scientist)}}は[[グーローシェーディング]]を考案(1971年)した。 ベトナムの{{仮リンク|ブイ・ツォン・フォン|en|Bui Tuong Phong}}は[[Phongの反射モデル]]や[[フォンシェーディング]]を考案(1975年)した。 カナダでは初のフル3DCGのテレビ向け30分枠アニメシリーズとして『[[リブート (アニメ)|リブート]]』(1994年)が制作された。 フランスでは同じくフル3DCGのテレビアニメシリーズ『[[インセクターズ]]』(1994年)が公開された。 デンマークの{{仮リンク|ヘンリク・ヤンセン|en|Henrik Wann Jensen}}は[[フォトンマッピング]]を考案(1996年)した。 日本の[[大阪大学]][[大村皓一]]らは[[メタボール]]を実用化(1982年)し、[[福山大学]][[西田友是]]らはMichael F. Cohenらとほぼ同時に[[ラジオシティ]]を考案(1985年)した。 [[コンピュータゲーム]]においては、アメリカでは[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]が主流のため技術革新に対応しやすく、その点では世界の[[ビデオゲーム]]産業の盟主たる日本を追い越す結果となった([[セガ]]の『[[バーチャレーシング]]』、『[[バーチャファイター]]』シリーズ、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]などといった3DCGの採用は早かったものの、蓄積されたのは専用に近い[[アーケードゲーム]]基板や[[家庭用ゲーム機]]など数年間は性能が固定される[[ハードウェア]]に依存した技術が多かったとも言われている)。 [[日本のアニメ]]では、劇場版『[[ゴルゴ13]]』やテレビアニメ『[[子鹿物語 (アニメ)|子鹿物語]]』(共に1983年)での部分的に用いられた3DCGの導入の時期は世界的にも早かった。ゴルゴ13のCGパートは[[トーヨーリンクス]]と大阪大学大村皓一らチームの開発による3DCGシステムで制作されるなど、当時は国産システムの開発が行われていたが、こうした動向は次第に廃れている。国内でのフル3DCG作品では、写実調ではテレビ用映画『[[VISITOR]]』(1998年)、[[アニメ絵]]調では劇場版『[[アップルシード]]』(2004年)が長編作品の端緒に挙げられる。テレビ向けのフル3DCG作品は数分程度の短尺な作品が多いが、30分枠テレビシリーズも『[[SDガンダムフォース]]』(2004年)の頃から少数ずつ制作されている。 日本では[[漫画]]文化を背景として線画表現への親しみが深く、1990年代後半頃から[[アニメーター]]による手描きアニメに3DCGを馴染ませた表現が普及している<ref>{{Cite web|和書|url=https://cgworld.jp/regular/001-hikawa.html|title=日本にフルCGアニメは根付くのか?|work=CGWORLD.jp/Enhanced-Endorphin|publisher=ボーンデジタル/東映アニメーション|date=2012-2013|accessdate=2019-11-13}}</ref>。3DCGは背景動画や[[ロボット]]、群衆シーンなどの作画に労力のかかる部分に多く使われるほか、近年は[[トゥーンレンダリング]]の表現力向上により、キャラクター描写を部分的に3DCGでおこなう作品([[プリキュアシリーズ]]〈2009年シリーズ以降〉など)も現れている。 <!--=== 日本 === {{出典の明記|date=2012年3月|section=1}} 日本では技術発展を支えるための地盤が固まっておらず、その導入はやや遅れたものとなっている。 ;実写動画 :実写動画では旧来からの手法の優位を頑なに守ろうとする流れが存在したのも事実である。 2011年6月にAKB48“新メンバー”・[[江口愛実]]がようやく“実在するのか? CGか?”と話題になった。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[2次元コンピュータグラフィックス]] (2DCG) * [[グラフィックソフトウェア]] <!-- DXF、STLやWavefront OBJ、ColladaやFBXならばともかく、廃れてマイナーになったフォーマットには、関連項目としての特筆性があるとは思えない。 * [[VRML]] --> * [[Lightprobe]]{{要説明|date=2017年9月}} * [[RADIANCE]]{{要説明|date=2017年9月}}<!-- 本当に必要か? --> * [[Studio MOMO]]<!-- 本当に必要か? --> * [[マッチムーブ]] * [[グローバル・イルミネーション]] * [[プリミティブ図形]] * [[3D回転]] * [[コンピュータグラフィックスの研究者]]<!-- 本当に必要か? --> <!-- APIの節でまとめられているので不要。 * [[Microsoft DirectX]] --> <!-- 製品群を記載するのではなく、GPUでまとめる。 * [[NVIDIA GeForce]] * [[NVIDIA Quadro]] * [[AMD Radeon]] * [[AMD FirePro]] --> == 参考文献 == * {{Cite journal|title=コンピュータグラフィックスの歴史と基本技術および最新動向|author=大村皓一|authorlink=大村皓一|journal=電気学会誌|volume=124|issue=6|pages=337-340|date=2004|doi=10.1541/ieejjournal.124.337}} * {{Cite web|url=http://nishitalab.org/user/nis/ourworks/history/CGhistory.html|title=CG History|author=西田友是|authorlink=西田友是|work=東京大学大学院 西田研究室ウェブサイト|accessdate=2019-11-13}} * 三谷純(編)、高山健志、土橋宜典、向井智彦、藤澤誠:「3DCGの数理と応用」、コロナ社、ISBN 978-4-339-01371-9 (2023年7月7日)。 == 外部リンク == {{Commons&cat}} * [https://cgworld.jp/ CGWORLD.jp] - CG・映像の専門情報サイト(ボーンデジタル) * [https://www.toei-anim.co.jp/sp/ee_cgmovie/ Enhanced-Endorphin] - CGアニメーションの情報サイト。日本の主要な3DCG作品リストや3DCG映像の開発史などを掲載。([[東映アニメーション]]) {{Animation}} {{3D software}} {{DEFAULTSORT:3しけんこんひゆうたくらふいつくす}} [[Category:3DCG|*]] [[Category:コンピュータグラフィックス]] [[Category:3次元映像]] [[Category:視覚効果]]
2003-02-16T10:41:59Z
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地球シミュレータ
地球シミュレータ(ちきゅうシミュレータ、英: Earth Simulator)は、NEC SXシリーズベース(現行機は第4世代のSX-Aurora TSUBASA B401-8)のスーパーコンピュータシステムである。 神奈川県横浜市金沢区の海洋研究開発機構 (JAMSTEC) 横浜研究所に設置されている。 1993年~1995年にTOP500首位となった数値風洞計画(NAL、富士通)を先導した三好甫が、それに引き続き日本のスーパーコンピュータをリードするシステムとして、JAMSTECと日本電気を先導したのが本計算機計画である。また科学技術庁(1998年度当時)としては地球規模の環境変動の解明・予測といった大義の他、バブル崩壊により著しく落ち込んでいた業界の維持といった目的もあり、600億円を投じて開発が開始された。2001年下旬に三好は逝去したが、残された計画通りシステムは完成、2002年3月15日に運用を開始し、目標通りの威力を発揮した。まず、その実性能自体が「コンピュートニク」とすら呼ばれるほどの印象を高性能計算関連の(主として米国の)産官学に与えた。また科学的な成果としては、地球温暖化や地殻変動といった、文字通り地球規模でのシミュレーションに利用され、気候変動に関する政府間パネルの2007年ノーベル平和賞受賞にも大きく貢献し、他にも多くの計算科学による成果を上げた。その後も公募により、地球科学、先進・創出分野での共同利用が行われている他、2007年からは産業界による成果専有型の有償利用も可能となっている。 2009年3月に2代目のシステムへ更新、2015年3月には3代目、2021年3月には4代目のシステムに更新された。また初代以来、日本のHPCの旗艦としての役割を京・富岳と分担する他、名実共にNEC SXシリーズの旗艦という存在になっている。 SX-5ベースである。SX-5では32チップで構成されていた計算モジュールを1チップ化し、それを8個集積した1ノードが8GFLOPS、それに16GBのメモリをともなう。640ノード(5,120CPU)を単段クロスバースイッチで接続、最大理論性能は40.96TFLOPSであった。このシステムのために開発された、計算モジュールを集積したチップは、SXシリーズの次の世代のSX-6にも活用された。 SX-9ベースである。102.4GFLOPSの性能を持つプロセッサ8個と128GBのメモリを持つベクトル計算機ノード(地球シミュレータではPNと呼ばれる)160台(1,280CPU,1,280コア)を2段のクロスバースイッチでファットツリー状に接続し、最大理論性能131TFLOPSを実現している。 SX-ACEベースである。256GFLOPSの性能を持つプロセッサ1個(4コア)と256GBのメモリを持つベクトルノード5,120台(20,480コア)を2段のクロスバースイッチでファットツリー状に接続し、最大理論性能1.3PFLOPSを実現している。 AMDのCPUとNVIDIA A100及び、684台のSX-Aurora TSUBASA B401-8により、5,472台のベクトルエンジン(43,776コア)を搭載し、最大理論性能19.5PFLOPSを達成する見込みで、2021年3月1日より運用開始。200Gb/s HDR InfiniBandが使われている。また、データセンター環境監視システムにiDCNaviが使われている。 単体能力を改善し、多目的に活用を図ることを目的として、スカラプロセッサからなるサーバを併用している。また、日本の学術研究のインフラストラクチャであるSINETに接続し、遠隔利用を可能にしている。AVS, Mathematica, Maple等の商用ソフトウェアやオープンソースソフトウェアも利用可能である。 第3世代までのOSはSXシリーズ用のSUPER-UXをベースに特化した拡張をしたものであり、プログラミング言語処理系としてはFortran 90・C/C++コンパイラが利用できる(いずれも地球シミュレータ専用のカスマイズや調整(チューニング)が入っている)。並列化にあたっては、「ハイブリッド並列化」と「フラット並列化」の二つのプログラミングモデルがある。前者はノード間並列化をMPI、ノード内並列をマイクロタスクまたはOpenMPで記述する一方、後者はノード間・ノード内の両方の並列化をいずれもMPIで書く。一般的には前者はパフォーマンス重視、後者はプログラミング効率重視のモデルとされている。ユーザはこれらの並列化に対応したプログラムをバッチジョブとして投入する。名前が与えるイメージとは裏腹に、GRAPEのような専用計算機ではなくあくまで汎用計算機であるので、地球科学とは直接にかかわりのない分子動力学計算などにも利用されている。 2002年3月15日に運用を開始した。2002年6月にLINPACKベンチマークで実効性能35.86TFLOPSを記録し、スーパーコンピュータの計算性能の世界ランキングであるTOP500で第2位の IBM ASCI White に5倍の差をつけてトップを獲得して以来、2004年11月に IBM Blue Gene に首位を明け渡すまで、5期連続でトップを維持した。これは全640ノードの内638ノード(5,104プロセッサ)を用いて得られたもので、ピーク性能に対する実測性能比は87.2%となる。ASCI Whiteが7.226TFLOPS(ピーク性能12.288TFLOPS:ピーク性能比58.8%)であったのと比較して、理論ピーク性能に対する実効性能の比が非常に高く、ベクトル計算機特有の高速メモリシステムおよび単段クロスバーネットワーク接続によるものと分析された。 初代のシステムを2009年3月に更新して、4月運用を開始した。コストを抑え、さらに性能向上を図るため、2008年度に維持費とは別に5億円を計上し、6年間185億7600万円のレンタルにより新機種のSX-9/Eに更新し、ピーク計算能力を初代の3.2倍となる131TFLOPSに引き上げた。これにより、設置面積は半分の650平方メートル、電気代は従来の7-8割程度となる。さらに、2009年6月にはLINPACKベンチマークで122.4TFLOPS(実行効率93.38%)を達成した。これは2008年11月発表のTOP500リストで実行効率世界1位、実行性能日本1位、世界ランキング16位に相当する。また、LINPACKを補完し、多面的な観点から性能を評価する目的で開発された性能指標を競うDARPA HPC Challenge Award Competitionにおいて、2009年11月には4部門(Global HPL, Global RandomAccess, EP STREAM, Global FFT)のうちEP STREAM、 Global FFT部門で3位、2010年11月にはGlobal FFT部門で1位を獲得した。 SX-ACE 5120ノードへ2015年3月に更新。このシステム更新で1.31PFLOPS、メモリ容量320TB、消費電力は約2MW以下(初代は約5MW、ES2は約3MW)となっている。 SX-Aurora TSUBASA B401-8, Vector Engine Type20B 8C 1.6GHz 5,472台へ2021年3月に更新。ピーク性能は19.5PFLOPS、前世代と比較して消費電力は同等ながら、設置面積は半減した。2021年6月のTOP500では、39位、ピーク性能13.448PFLOPSを記録している。 初代システムの維持費用は年間約50億円(内訳は電気代約5億円、ガス・水道代1億5000万円、保守費用45億円)であった。消費電力は約6MWで、実アプリケーションの性能を確保するための高速メモリとネットワークに必要な電力とされた。 地球シミュレータのような専用のベクトルプロセッサを用いた計算機は、近年主流となっているPCクラスタに比べ価格性能比が低く、性能当たりの消費電力が多いとされる。ベクトル計算機とPCクラスタは得意分野の違いもあり、単純比較することは必ずしも適切ではないが、例えば2006年から運用開始された東京工業大学のTSUBAMEは、2002年に運用開始時の地球シミュレータと比較して導入費用は20分の1、電気代は5分の1、計算速度は1.6倍(LINPACK性能比)である(導入時期が異なることに注意。現在はどちらも新システムに更新し、それぞれ性能が向上している)。
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地球シミュレータは、NEC SXシリーズベースのスーパーコンピュータシステムである。 神奈川県横浜市金沢区の海洋研究開発機構 (JAMSTEC) 横浜研究所に設置されている。
{{Infobox custom computer |Image= |Space= |Website={{URL|https://www.jamstec.go.jp/es/jp/}} |Emulators= |Legacy= |Purpose= |ChartDate= |ChartPosition= |ChartName= |Cost=75億4050万[[円 (通貨)|円]]<ref>[http://www.jamstec.go.jp/bid/pdf/R201008-101.pdf 公共調達の適正化について(平成18年8月25日付財計第2017号)に基づく競争入札に係る情報の公表(物品役務等) 次期地球シミュレータ]</ref> |Power=2[[ワット (単位)|MW]] |Caption= |OS= [[CentOS|CentOS 8]] |Speed={{Plainlist|19.5 PFLOPS ([[倍精度浮動小数点数]])}} |Storage={{Plainlist| * 120TB (ホーム領域) * 1.3[[ペタバイト|PB]] (ワーク領域) * 60PB(データ領域) }} |Memory=556.5[[テビバイト|TiB]]|Architecture={{Plainlist| * [[NEC SX-Aurora TSUBASA]] * [[NVIDIA Tesla|NVIDIA A100]] * [[EPYC|AMD EPYC 7742]](HPE Apollo 2000) }} |Location=横浜市金沢区昭和町3173番25<ref>[https://www.jamstec.go.jp/j/about/access/yokohama.html 拠点・交通アクセス 横浜研究所]</ref> |Sponsors=[[NEC]]<ref>{{Cite web|title=AI Bridging Cloud Infrastructure|url=https://www.top500.org/system/179927/|publisher=TOP500.org|accessdate=2021-07-10}}</ref> |Operators= [[file:Emblem of JAMSTEC.svg|30px]][[海洋研究開発機構]] |Dates=(4代目)[[2021年]]3月1日 - |Sources= }} '''地球シミュレータ'''(ちきゅうシミュレータ、英: {{en|Earth Simulator}})は、[[NEC_SX|NEC SXシリーズ]]ベース(現行機は第4世代の[[NEC SX-Aurora TSUBASA|SX-Aurora TSUBASA]] B401-8)の[[スーパーコンピュータ]]システムである。 [[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]の[[海洋研究開発機構]] (JAMSTEC) 横浜研究所に設置されている。 == 目的・経緯 == === 初代 === 1993年~1995年<ref>1994年春を除く</ref>に[[TOP500]]首位となった[[NSシステム|数値風洞]]計画(NAL、富士通)を先導した[[三好甫]]が、それに引き続き[[日本]]の[[スーパーコンピュータ]]をリードするシステムとして、JAMSTECと日本電気を先導したのが本計算機計画である。また[[科学技術庁]](1998年度当時)としては地球規模の環境変動の解明・予測といった大義の他、[[バブル崩壊]]により著しく落ち込んでいた業界の維持といった目的もあり、600億円を投じて開発が開始された。2001年下旬に三好は逝去したが、残された計画通りシステムは完成、2002年3月15日に運用を開始し、目標通りの威力を発揮した。まず、その実性能自体が「[[スーパーコンピュータ技術史#コンピュートニク|コンピュートニク]]」とすら呼ばれるほどの印象を[[高性能計算]]関連の(主として米国の)産官学に与えた。また科学的な成果としては、[[地球温暖化]]や[[地殻変動]]といった、文字通り地球規模での[[シミュレーション]]に利用され、[[気候変動に関する政府間パネル]]の2007年[[ノーベル平和賞]]受賞にも大きく貢献し、他にも多くの[[計算科学]]による成果を上げた。その後も公募により、地球科学、先進・創出分野での共同利用が行われている他、2007年からは産業界による成果専有型の有償利用も可能となっている。 === 2代目以降 === 2009年3月に2代目のシステムへ更新、2015年3月には3代目、2021年3月には4代目のシステムに更新された。また初代以来、日本のHPCの旗艦としての役割を[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]・[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]と分担する他、名実共に[[NEC_SX|NEC SXシリーズ]]の旗艦という存在になっている<!--と共に「最後のパイプライン[[ベクトル計算機|ベクトルスーパーコンピュータ]]」となっている--><!--富岳はベクトルの特性も持つので(出典 https://www.fujitsu.com/jp/about/businesspolicy/tech/fugaku/pickup/interview01/ より「A64FXは、ベクトルプロセッサとスカラープロセッサ両方の性質を兼ね備えている」)SXが唯一というわけでもなくなった-->。 == 構成 == === 初代 === [[画像:EarthSimulator.jpg|250px|thumb|地球シミュレータ(初代)]][[NEC SX#SX-5|SX-5]]ベースである。SX-5では32チップで構成されていた計算モジュールを1チップ化し、それを8個集積した1ノードが8[[ギガ|G]][[FLOPS]]、それに16GBのメモリをともなう<ref>{{Cite web|和書|title=コンピュータアーキテクチャの話(444) 地球シミュレータのCPUは1チップ|url=https://news.mynavi.jp/article/architecture-444/|website=TECH+|date=2020-10-02|accessdate=2021-03-04|language=ja}}</ref>。640ノード(5,120CPU)を単段[[クロスバースイッチ]]で接続、最大理論性能は40.96[[テラ|T]]FLOPSであった。このシステムのために開発された、計算モジュールを集積したチップは、SXシリーズの次の世代の[[NEC_SX#SX-6.2CSX-6i|SX-6]]にも活用された。 {{-}} === 第2世代 === [[画像:Earth_simulator_ES2.jpg|250px|thumb|地球シミュレータ(2代目、2015年2月までの旧システム)]] [[NEC SX#SX-9|SX-9]]ベースである。102.4[[ギガ|G]][[FLOPS]]の性能を持つプロセッサ8個と128GBのメモリを持つ[[ベクトル計算機]]ノード(地球シミュレータではPNと呼ばれる)160台(1,280CPU,1,280コア)を2段の[[クロスバースイッチ]]でファットツリー状に接続し、最大理論性能131[[テラ|T]]FLOPSを実現している<ref>[https://www.jamstec.go.jp/es/jp/es2/system/hardware.html 2009年3月に新たなシステム(NEC SX-9/E)に更新しました。]</ref>。 {{-}} === 第3世代 === [[ファイル:150601 es 1s.jpg|代替文=地球シミュレータ(3代目、2021年2月までの旧システム)|サムネイル|地球シミュレータ(3代目、2021年2月までの旧システム)]] [[NEC SX-ACE|SX-ACE]]ベースである。256[[ギガ|G]][[FLOPS]]の性能を持つプロセッサ1個(4コア)と256GBのメモリを持つベクトルノード5,120台(20,480コア)を2段の[[クロスバースイッチ]]でファットツリー状に接続し、最大理論性能1.3[[ペタ|P]]FLOPSを実現している<ref>[https://www.jamstec.go.jp/es/jp/system/hardware.html 地球シミュレータは、NEC社製のスーパーコンピュータSX-ACEで構成される、世界最大規模の分散メモリ型ベクトル並列計算機です。総計5120ノードの計算ノードを有し、各計算ノードは1基のCPU(4コア)と64GBのメモリを搭載しています。]</ref>。 {{-}} === 第4世代 === [[EPYC|AMDのCPU]]と[[NVIDIA Tesla|NVIDIA A100]]及び、684台の[[NEC SX-Aurora TSUBASA|SX-Aurora TSUBASA B401-8]]により、5,472台のベクトルエンジン(43,776コア)を搭載し、最大理論性能19.5PFLOPSを達成する見込みで、2021年3月1日より運用開始<ref>{{Cite web|和書|title=地球シミュレータ|url=https://www.jamstec.go.jp/es/|website=www.jamstec.go.jp|accessdate=2021-03-04|first=JAMSTEC|last=CEIST}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=NEC、「次期地球シミュレータ」をベクトル型スーパーコンピュータ「SX-Aurora TSUBASA」で受注|url=https://jpn.nec.com/press/202009/20200925_01.html|website=NEC|accessdate=2020-09-27|language=ja}}</ref>。200Gb/s HDR [[InfiniBand]]が使われている<ref>{{Cite web|和書|title=地球上の最も困難な課題に対処する、新しい地球シミュレータが誕生 {{!}} NVIDIA|url=https://blogs.nvidia.co.jp/2020/09/29/jamstec-earth-simulator/|website=NVIDIA Japan Blog|date=2020-09-29|accessdate=2021-03-21|language=en-US}}</ref>。また、データセンター環境監視システムにiDCNaviが使われている<ref>{{Cite web|和書|title=導入事例: 国立研究開発法人 海洋研究開発機構(JAMSTEC)様 - DCIM データセンター環境監視システム iDCNavi|url=https://www.jnovel.co.jp/service/idcnavi/jirei/jirei-jamstec.html|website=日本ノーベル株式会社|accessdate=2021-07-10|language=ja|first=Japan Novel|last=Corporation}}</ref>。 == 運用 == 単体能力を改善し、多目的に活用を図ることを目的として、[[スカラー計算機|スカラプロセッサ]]からなる[[サーバ]]を併用している。また、日本の学術研究のインフラストラクチャである[[SINET]]に接続し、遠隔利用を可能にしている。AVS, [[Mathematica]], [[Maple]]等の商用ソフトウェアや[[オープンソースソフトウェア]]も利用可能である。 第3世代までの[[オペレーティングシステム|OS]]はSXシリーズ用の[[SUPER-UX]]をベースに特化した拡張をしたものであり、[[プログラミング言語]]処理系としては[[FORTRAN#Fortran 90|Fortran 90]]・[[C言語|C]]/[[C++]]コンパイラが利用できる(いずれも地球シミュレータ専用のカスマイズや調整(チューニング)が入っている)。[[並列化]]にあたっては、「ハイブリッド並列化」と「フラット並列化」の二つのプログラミングモデルがある。前者はノード間並列化を[[Message Passing Interface|MPI]]、ノード内並列をマイクロタスクまたは[[OpenMP]]で記述する一方、後者はノード間・ノード内の両方の並列化をいずれもMPIで書く。一般的には前者はパフォーマンス重視、後者はプログラミング効率重視のモデルとされている。ユーザはこれらの並列化に対応したプログラムを[[バッチ処理|バッチジョブ]]として投入する。名前が与えるイメージとは裏腹に、[[GRAPE]]のような[[専用計算機]]ではなくあくまで汎用計算機であるので、地球科学とは直接にかかわりのない[[分子動力学]]計算などにも利用されている<ref>{{Cite journal|和書|author=斎藤稔 |title=地球シミュレータによるタンパク質の分子動力学シミュレーションの高速化(理論/実験 技術) |date=2006-09-25 |publisher=日本生物物理学会 |journal=生物物理 |volume=46 |number=5 |naid=110004810277 |doi=10.2142/biophys.46.283 |pages=283-286 |ref=harv}}</ref>。 == 性能 == === 初代 === [[2002年]][[3月15日]]に運用を開始した<ref>https://www.jamstec.go.jp/es/jp/es1/index.html</ref>。2002年[[6月]]に[[Linpack|LINPACK]]ベンチマークで実効性能35.86[[テラ|T]][[FLOPS]]を記録し、スーパーコンピュータの計算性能の世界ランキングである[[TOP500]]で第2位の [[IBM]] {{interlang|en|ASCI White}} に5倍の差をつけてトップを獲得して<ref>[http://www.top500.org/lists/2002/06 TOP500 List, June 2002]</ref>以来、[[2004年]][[11月]]に [[IBM]] [[Blue Gene]] に首位を明け渡す<ref>[http://www.top500.org/lists/2004/11 TOP500 List, Nov.2004]</ref>まで、5期連続でトップを維持した。これは全640ノードの内638ノード(5,104プロセッサ)を用いて得られたもので、ピーク性能に対する実測性能比は87.2%となる。ASCI Whiteが7.226TFLOPS(ピーク性能12.288TFLOPS:ピーク性能比58.8%)であったのと比較して、理論ピーク性能に対する実効性能の比が非常に高く、[[ベクトル計算機]]特有の高速[[主記憶装置|メモリ]]システムおよび単段クロスバーネットワーク接続<ref>多数のマシン(あるいは、[[CPU|PU]]:ProcessUnit)同士を結合するネットワーク結合部にスイッチを配する。その結合方法が、マシン(PU)単位で観ると1対1結合であり転送速度は高速である(ワンステップで転送出来る)。その特徴より、理論ピーク性能に対する実効性能の比が他のネットワーク結合方式に比べて非常に高い。その反面、スイッチの数がマシン(PU)の数の2乗に比例するため、マシン(PU)の数が増える分スイッチを増やすのは予算的に難しくなる。また、多数のスイッチの同調を取りづらくなる特徴を持つ。</ref>によるものと分析された。 === 第2世代 === 初代のシステムを[[2009年]][[3月]]に更新して、[[4月]]運用を開始した<ref>https://www.jamstec.go.jp/es/jp/es2/index.html</ref>。コストを抑え、さらに性能向上を図るため、[[2008年]]度に維持費とは別に5億円を計上し、6年間185億7600万円のレンタルにより新機種のSX-9/Eに更新し、ピーク計算能力を初代の3.2倍となる131TFLOPSに引き上げた。これにより、設置面積は半分の650平方メートル、電気代は従来の7-8割程度となる<ref>[https://www.jamstec.go.jp/es/jp/es2/index.html 地球シミュレータの更新について]、海洋研究開発機構計算システム計画・運用部、2008年11月14日 </ref><ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090227k0000e040019000c.html 「地球シミュレータ」:計算能力毎秒131兆回 機種更新]、毎日新聞、2009年2月27日</ref>。さらに、2009年6月にはLINPACKベンチマークで122.4TFLOPS(実行効率93.38%)を達成した。これは2008年11月発表のTOP500リストで実行効率世界1位、実行性能日本1位、世界ランキング16位に相当する<ref>[https://news.mynavi.jp/news/2009/06/04/058/index.html 新型「地球シミュレータシステム」、LINPACKベンチで122.4TFLOPSを達成]、マイコミジャーナル、2009年6月4日</ref>。また、LINPACKを補完し、多面的な観点から性能を評価する目的で開発された性能指標を競う[[:en:HPC Challenge Benchmark|DARPA HPC Challenge Award Competition]]において、2009年11月には4部門(Global HPL, Global RandomAccess, EP STREAM, Global FFT)のうちEP STREAM、 Global FFT部門で3位<ref>[https://www.jamstec.go.jp/j/jamstec_news/award/20091201.html 「地球シミュレータ」がHPCチャレンジアワードの2指標で第3位を受賞]、海洋研究開発機構、2009年12月1日</ref>、2010年11月にはGlobal FFT部門で1位を獲得した<ref>[http://www.nec.co.jp/press/ja/1011/1702.html 地球シミュレータがHPCチャレンジアワードの1指標で第1位を獲得]、日本電気、2010年11月17日</ref>。 === 第3世代 === SX-ACE 5120ノードへ2015年3月に更新<ref>[http://www.jamstec.go.jp/es/jp/DOC/h27koubo-youkou.pdf 平成27年度 地球シミュレータ産業戦略利用プログラム公募要領 独立行政法人海洋研究開発機構]</ref>。このシステム更新で1.31PFLOPS、メモリ容量320TB、消費電力は約2MW以下(初代は約5MW、ES2は約3MW)となっている<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/703697.html 第3世代「地球シミュレータ」システムが本格稼働へ~1.31PFLOPS/320TB、実効性能で約10倍に]</ref>。 === 第4世代 === SX-Aurora TSUBASA B401-8, Vector Engine Type20B 8C 1.6GHz 5,472台へ2021年3月に更新<ref>{{Citation|title=スーパーコンピュータ 地球シミュレータ(ES4)設置作業|url=https://www.youtube.com/watch?v=E9GixZAXlWE|accessdate=2021-07-05|language=ja-JP}}</ref>。ピーク性能は19.5PFLOPS、前世代と比較して消費電力は同等ながら、設置面積は半減した<ref>{{Citation|title=次期地球シミュレータにNECの「SX-Aurora TSUBASA」採用 処理能力15倍、21年3月から運用|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2009/25/news123.html|accessdate=2021-08-25|language=ja-JP}}</ref>。2021年6月のTOP500では、39位、ピーク性能13.448PFLOPSを記録している<ref>{{Cite web|title=Earth Simulator -SX-Aurora TSUBASA - SX-Aurora TSUBASA A401-8, Vector Engine Type20B 8C 1.6GHz, Infiniband HDR200 {{!}} TOP500|url=https://www.top500.org/system/179927/|website=www.top500.org|accessdate=2021-07-02}}</ref>。 == 維持費 == 初代システムの維持費用は年間約50億円(内訳は電気代約5億円、ガス・水道代1億5000万円、保守費用45億円)であった。消費電力は約6M[[ワット (単位)|W]]で、実アプリケーションの性能を確保するための高速メモリとネットワークに必要な電力とされた。 地球シミュレータのような専用のベクトルプロセッサを用いた計算機は、近年主流となっているPC[[コンピュータ・クラスター|クラスタ]]に比べ価格性能比が低く、性能当たりの消費電力が多いとされる。ベクトル計算機とPCクラスタは得意分野の違いもあり、単純比較することは必ずしも適切ではないが、例えば2006年から運用開始された[[東京工業大学]]の[[TSUBAME]]は、2002年に運用開始時の地球シミュレータと比較して導入費用は20分の1、電気代は5分の1、計算速度は1.6倍([[LINPACK]]性能比)である(導入時期が異なることに注意。現在はどちらも新システムに更新し、それぞれ性能が向上している)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.jamstec.go.jp/es/jp/ JAMSTEC 地球シミュレータ] * [http://www.top500.org/ Top500] * [http://ascii.jp/elem/000/000/331/331603/ これが世界最速スパコン“地球シミュレータ”だ!(ASCIIデジタル記事2002年06月14日)] 初代地球シミュレータ * [https://www.asahi.com/articles/ASM9453H2M94PLBJ002.html 「京」の前に世界一目指したスパコン その開発秘話とは(朝日新聞デジタル記事2019年9月9日)] * [https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/04756/ 地球シミュレータ第4世代へ、台風の卵発見や月間天気予報視野に(日経エレクトロニクス記事2020年10月23日)] * [https://www.jamstec.go.jp/es/jp/publication/pdf/Development_ES.pdf 「地球シミュレータ開発史」(海洋研究開発機構)PDF] {{NEC supercomputers}} {{coord|35|22|51|N|139|37|34.8|E|type:edu_region:JP|display=title}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちきゆうしみゆれえた}} [[Category:スーパーコンピュータ]] [[Category:日本のスーパーコンピュータ]] [[Category:NECのスーパーコンピュータ]] [[Category:著名なコンピュータ]] [[Category:計算科学]] [[Category:気候・気象モデル]] [[Category:海洋研究開発機構]] [[Category:金沢区の建築物]]
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小林源文
小林 源文(こばやし もとふみ、1951年1月28日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。戦場劇画の第一人者。 福島県生まれ、小学校低学年から東京育ち、東京都在住。川崎市立工業高等学校(現:川崎市立川崎総合科学高等学校)卒業。中西立太に師事し、共著の『壮烈!ドイツ機甲軍団』でデビュー。主要作品に『黒騎士物語』『Cat Shit One』など。2008年に個人で『GENBUNマガジン』を創刊。出版社カンプグルッペ・ゲンブンを経営。 1951年、警察官の両親の間に生まれる。母は元看護婦で、戦後福島県警の婦人警察官第1号となった人物である。父は戦争中帝国陸軍の憲兵だったが、終戦後警察官となった。父は問題を起こして警察を辞め、その後の再就職先でもトラブルが絶えず、職を転々としていた。 イラストレーターの中西立太に影響を受けて、絵の世界を目指す。絵の勉強のために、中西に弟子入りを申し出るが断られる。しかし、中西よりいつでも仕事場に遊びにきて良いとの許可をもらっており、見様見まねと独学で絵の勉強をした。 プロデビューは師と仰ぐ中西との共同執筆の『壮烈!ドイツ機甲軍団』であり、小林が24歳のときであった。その後、一旦はプロ活動を休止するが、『月刊ホビージャパン』の連載で人気が確立すると、サラリーマンを退職しプロの漫画家としての活動を開始した。十数年間、会社で運転手をしていたが、クリスマスにバイクの自損事故を起こし、職場に戻ったらクビになっており、そのまま絵に専念するようになる。 作風としては、戦争劇画ともいえる作風で、戦争を題材とした劇画を描く漫画家としては第一人者とも呼ばれる。小林自身は元々は漫画家を志していたのではなく、挿絵画家を目指していたこともあり、緻密な画風を得意とし、スクリーントーンは使わず、薄墨による独特のタッチを用いている。 昨今才能があるイラストレーターが誰も育ってないと危惧しており、自ら本物の絵描きを育てたいという目的で、アートスクールを開講し後進の指導にも努めている。 また、萌え絵や萌えミリ嫌いでも知られており、過去に『ガールズ&パンツァー』の感想を求められた際「兵器の描写は大変良い、ストーリーには一切共感できないが」と発言している。その一方で、小学館『コロコロアニキ』では『劇画ガールズ&パンツァー』を2018年冬号から2021年春号まで連載。『ガールズ&パンツァー』と自作品のコラボ企画も続けている。 その他にも、リトルアーモリーのイラストレーターで知られるdaitoが表紙イラストを担当した内田弘樹の同人誌(第二次世界大戦時ドイツ陸軍として東部戦線に従軍した日本人義勇兵について記した本)を「同人誌レベルを越えた優れた資料なんだが、表紙がこれじゃー余りにも情けない」「増刷するときは自分が表紙イラストを描くよ」と断じ、商業誌には「内容は表紙を除いてお薦めします」という評価を下している。 趣味は小学生以来の映画鑑賞、現在の仕事のベースになっていると本人は認識している。 多数の作品でスターシステム的に登場するコメディリリーフ・佐藤中村コンビのモデルは、小説家の佐藤大輔と、作者の娘婿で元アシスタントの中村正徳である。作者本人が登場して自虐ギャグ的に理不尽な婿いびりをすることもある。 1980年代前半に小林の名を騙った人物が起こした「偽小林源文事件」が発生した。 当時タミヤニュースの読書投稿欄「声」ではシェパード・ペイン派とフランソワ・バーリンデン派のモデラーの間で激しい論争が繰り返されていた。その投稿者に「小林源文」を名乗る者から仙台中央郵便局の消印がある脅迫状が次々と送りつけられるという事件が発生した。当時は投稿者の氏名と住所が番地まで掲載されており、タミヤ模型では事件を受けて投稿者の住所を市町村名までしか掲載しなくなった。しかし、偽「小林源文」は電話帳などで同じ市町村の同姓の家を調べ、脅迫状を送りつけてきたために、投稿者の住所は都道府県名までしか掲載されなくなった。事件は飛び火し、小林が連載を担当していた『ホビージャパン』誌、『モデルグラフィックス』誌などの投稿者、出版社、小林本人にも及んだ。さらに脅迫状だけでなく、投稿者や小林の名前で勝手に通信販売に申し込むなどの行為に及んだ。 偽手紙の筆跡などから犯人は以前より小林に対して抗議を繰り返していた人物と思われ、小林は彼の名前をあげて警察に相談したが「プライベートな事」として全く取り合ってもらえなかったという。事件は朝日新聞が赤報隊事件を契機に言論に対する暴力をテーマにした特集記事で紹介され、世間に広く知られるようになった。そしてその直後、脅迫文が宮内庁や首相官邸にも差し出された事で警察がやっと重い腰をあげ、偽「小林源文」が逮捕され、事件は収まった。犯人は予想通りの人物で彼は仙台市在住の軍事マニアで小林のファンでもあった。 事件の社会的影響は大きく、それまで雑誌読書投稿欄で、投稿者の住所が公開されるのは一般的だったが、以降非公開が原則となった。 また、小林とホビー・ジャパン社との関係がギクシャクしたのもこの事件が原因だと言われているが、小林は「全然違うよ。HJの社長が交代したので話しましょう。HJで最初に『黒騎士物語』大判の本が出たんだ、印税は5%。これは完売した。その後に日本出版で単行本(他社での出版の連絡は当時のHJ編集長に2回伝えた)を出した。これは印税10%だった。出版界では同じタイトルでも版形が違えば出版出来るんだ。当時のHJ社長はこれが気に入らないので、弁護士に訴状を作らせて俺に送らせたんだよ。この社長は正当性に関係なく商売敵に訴状を送って黙らせる手法で、裁判闘争はかなりやってましたね。...ミニカーとHOゲージの薄い本から初めて、一代で会社を築いた経営者なんで大したもんだと俺は思うね。...俺は著作権専門の弁護士を同行して社長に、著作権は作家そのものにあると証明して頂いて一件落着したんだ。著作権は出版社にあると間違ってる出版社はまだまだあるよ。」と語っている。 小林源文オフィシャルサイト内の著作リストに準拠。カッコ内は出版年と初出出版社を記載する。 大日本絵画から小林本人による兵器の図解イラストやエッセイを掲載する図解本が刊行されている。
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小林 源文は、日本の漫画家、イラストレーター。戦場劇画の第一人者。
{{存命人物の出典明記|date=2014年9月}} '''小林 源文'''(こばやし もとふみ、[[1951年]][[1月28日]]<ref name=prof>[http://www.genbun.net/biography.html 小林源文オフィシャルサイト:ゲンブンワールド] 1999年</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[戦場]][[劇画]]の第一人者<ref name=ebj>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manten/manten_08a.asp 第8回 小林源文] まんてん インタビュー</ref>。 == 来歴 == [[福島県]]生まれ、小学校低学年から東京育ち、[[東京都]]在住<ref name=prof/>。川崎市立工業高等学校(現:[[川崎市立川崎総合科学高等学校]])卒業<ref>[https://twitter.com/sakamachi21KN/status/1015462603575816193 2018年7月7日 本人によるツイート]</ref>。[[中西立太]]に師事し、共著の『壮烈!ドイツ機甲軍団』でデビュー<ref name=ebj/>。主要作品に『黒騎士物語』『Cat Shit One』など<ref name=ebj/>。2008年に個人で『GENBUNマガジン』を創刊<ref name=ebj/>。出版社カンプグルッペ・ゲンブンを経営<ref name=ebj/>。 == 人物 == 1951年、警察官の両親の間に生まれる。母は元[[看護婦]]で、戦後[[福島県警察|福島県警]]の[[婦人警察官]]第1号となった人物である。父は戦争中[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[憲兵]]だったが、終戦後[[警察官]]となった。父は問題を起こして警察を辞め、その後の再就職先でもトラブルが絶えず、職を転々としていた<ref>小林源文『ゲンブンマガジンVol.001 』 ゲンブンマガジン、2009年1月、{{ASIN|B001P9DA4S}}</ref>。 イラストレーターの[[中西立太]]に影響を受けて、絵の世界を目指す。絵の勉強のために、中西に弟子入りを申し出るが断られる。しかし、中西よりいつでも仕事場に遊びにきて良いとの許可をもらっており、見様見まねと独学で絵の勉強をした。 プロデビューは師と仰ぐ中西との共同執筆の『壮烈!ドイツ機甲軍団』であり、小林が24歳のときであった。その後、一旦はプロ活動を休止するが、『[[月刊ホビージャパン]]』の連載で人気が確立すると、サラリーマンを退職しプロの漫画家としての活動を開始した<ref name=ebj/>。十数年間、会社で運転手をしていたが、クリスマスにバイクの自損事故を起こし、職場に戻ったらクビになっており、そのまま絵に専念するようになる<ref>漫画スーパーテクニック講座</ref>。 作風としては、戦争劇画ともいえる作風で、戦争を題材とした劇画を描く漫画家としては第一人者とも呼ばれる。小林自身は元々は漫画家を志していたのではなく、挿絵画家を目指していたこともあり<ref name=ebj/>、緻密な画風を得意とし、[[スクリーントーン]]は使わず、薄墨による独特のタッチを用いている。 昨今才能があるイラストレーターが誰も育ってないと危惧しており、自ら本物の絵描きを育てたいという目的で、アートスクールを開講し後進の指導にも努めている<ref name=prof>[http://www.genbun.net/biography.html 小林源文オフィシャルサイト:ゲンブンワールド] 1999年</ref>。 また、[[萌え絵]]や[[萌えミリ]]嫌いでも知られており、過去に『[[ガールズ&パンツァー]]』の感想を求められた際「兵器の描写は大変良い、ストーリーには一切共感できないが」と発言している。その一方で、小学館『[[コロコロアニキ]]』では『劇画ガールズ&パンツァー』を2018年冬号から2021年春号<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/420177|title=紙版ラストのコロコロアニキで「ペンギンの問題」復活、誌面連載作の今後も告知|date=2021-03-15|accessdate=2021-03-26}}</ref>まで連載。『ガールズ&パンツァー』と自作品のコラボ企画も続けている。 その他にも、[[リトルアーモリー]]のイラストレーターで知られるdaitoが表紙イラストを担当した[[内田弘樹]]の同人誌<ref>https://twitter.com/uchidahiroki/status/1071755836962160641</ref>([[第二次世界大戦]]時[[ドイツ陸軍]]として東部戦線に従軍した日本人義勇兵について記した本)を「同人誌レベルを越えた優れた資料なんだが、表紙がこれじゃー余りにも情けない」「増刷するときは自分が表紙イラストを描くよ」と断じ、商業誌には「内容は表紙を除いてお薦めします」という評価を下している。 趣味は小学生以来の映画鑑賞、現在の仕事のベースになっていると本人は認識している<ref name="prof">[http://www.genbun.net/biography.html 小林源文オフィシャルサイト:ゲンブンワールド] 1999年</ref>。 多数の作品で[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]]的に登場するコメディリリーフ・佐藤中村コンビのモデルは、小説家の[[佐藤大輔]]と、作者の娘婿で元アシスタントの中村正徳である。作者本人が登場して自虐ギャグ的に理不尽な婿いびりをすることもある。 == 偽小林源文事件 == [[1980年代]]前半に小林の名を騙った人物が起こした「偽小林源文事件」<ref>小林源文『ゲンブンマガジンVol.009』(ゲンブンマガジン) - 『偽小林源文事件の顛末』より。</ref>が発生した。 当時[[タミヤ#刊行物|タミヤニュース]]の読書投稿欄「声」では[[シェパード・ペイン]]派と[[フランソワ・バーリンデン]]派の[[モデラー (模型)|モデラー]]の間で激しい論争が繰り返されていた。その投稿者に「小林源文」を名乗る者から[[仙台中央郵便局]]の消印がある脅迫状が次々と送りつけられるという事件が発生した。当時は投稿者の氏名と住所が番地まで掲載されており、[[タミヤ|タミヤ模型]]では事件を受けて投稿者の住所を市町村名までしか掲載しなくなった。しかし、偽「小林源文」は電話帳などで同じ市町村の同姓の家を調べ、脅迫状を送りつけてきたために、投稿者の住所は都道府県名までしか掲載されなくなった。事件は飛び火し、小林が連載を担当していた『[[ホビージャパン]]』誌、『[[モデルグラフィックス]]』誌などの投稿者、出版社、小林本人にも及んだ。さらに脅迫状だけでなく、投稿者や小林の名前で勝手に[[通信販売]]に申し込むなどの行為に及んだ。 偽手紙の筆跡などから犯人は以前より小林に対して抗議を繰り返していた人物と思われ、小林は彼の名前をあげて警察に相談したが「プライベートな事」として全く取り合ってもらえなかったという。事件は[[朝日新聞]]が[[赤報隊事件]]を契機に言論に対する暴力をテーマにした特集記事で紹介され、世間に広く知られるようになった。そしてその直後、脅迫文が宮内庁や首相官邸にも差し出された事で警察がやっと重い腰をあげ、偽「小林源文」が逮捕され、事件は収まった。犯人は予想通りの人物で彼は[[仙台市]]在住の軍事マニアで小林のファンでもあった。 事件の社会的影響は大きく、それまで雑誌読書投稿欄で、投稿者の住所が公開されるのは一般的だったが、以降非公開が原則となった。 また、小林と[[ホビージャパン|ホビー・ジャパン社]]との関係がギクシャクしたのもこの事件が原因だと言われているが、小林は「全然違うよ。HJの社長が交代したので話しましょう。HJで最初に『黒騎士物語』大判の本が出たんだ、印税は5%。これは完売した。その後に日本出版で単行本(他社での出版の連絡は当時のHJ編集長に2回伝えた)を出した。これは印税10%だった。出版界では同じタイトルでも版形が違えば出版出来るんだ。当時のHJ社長はこれが気に入らないので、弁護士に訴状を作らせて俺に送らせたんだよ。この社長は正当性に関係なく商売敵に訴状を送って黙らせる手法で、裁判闘争はかなりやってましたね。…ミニカーとHOゲージの薄い本から初めて、一代で会社を築いた経営者なんで大したもんだと俺は思うね。…俺は著作権専門の弁護士を同行して社長に、著作権は作家そのものにあると証明して頂いて一件落着したんだ。著作権は出版社にあると間違ってる出版社はまだまだあるよ。」と語っている。 == 作品リスト == 小林源文オフィシャルサイト内の著作リストに準拠<ref>[http://www.genbun.net/bibliography.html GENBUN WORLD 小林源文著作リスト]</ref>。カッコ内は出版年と初出出版社を記載する。 === シリーズ === * [[Cat Shit One]]([[1998年]] - [[2005年]] / [[SBクリエイティブ|ソフトバンククリエイティブ]]) ** Cat Shit One '80([[2008年]] - /ソフトバンククリエイティブ) ** Cat Shit One JP([[2011年]]) * [[オメガ7]]([[1994年]] - / [[日本出版社]] ) **オメガJ([[1997年]]) **オメガ7―自衛隊特殊部隊([[2002年]]) **自衛隊特殊部隊SOG(2011年) * 歴史群像シリーズ([[2001年]] - / [[学研ホールディングス]]) : 学習研究社(現学研ホールディングス)が刊行している専門雑誌『[[歴史群像]]』巻末の戦記漫画として描き下ろされたもの。単行本はボムコミックスから刊行されている。 :* [[バルバロッサ作戦]](2001年) :* [[モスクワの戦い|タイフーン作戦]](2002年) :* [[ブラウ作戦]]([[2003年]]) :* [[クルスクの戦い|ツィタデル作戦]](2005年) :* [[ドイツアフリカ軍団|アフリカ軍団]]([[2006年]]) :* ザームラント1945([[2007年]]) - 大戦末期の[[東プロイセン]]での戦い。 :* ヴィットマン戦記1943(2008年) :* ノルマンディー1944([[2009年]]) * [[ヘルマン・ビックス]]戦記(2001年 - 2002年) === 長編 === * [[黒騎士物語]]([[1985年]] / [[月刊ホビージャパン]]別冊) :* 黒騎士物語外伝(2001年 / 世界文化社) * パンツァーフォー!([[1986年]] / 月刊ホビージャパン別冊) : [[バルバロッサ作戦]]発動から敗戦にかけての[[ドイツ軍]]戦車兵の活躍を描く。通信手兼前方機関銃手だった主人公はモスクワ前面の戦闘で負傷して後送され、戦車長教育を受けて[[ドイツアフリカ軍団|アフリカ軍団]]に移り、アフリカ撤退後は再び東部戦線に転属している。 * ソルジャーブルース(1986年 / 月刊ホビージャパン4月別冊) : 国際紛争を未然に防ごうとする秘密国際組織の物語。オメガシリーズの原型のような作品であり、1980年代初頭の国際情勢を反映した内容である。日本・アメリカ・ソ連から選抜された3人の男たちが「ゾンビーコマンド」として、各国のタカ派による軍事策謀を未然に阻止してゆく。『パンツァーフォー!』の主人公が西ドイツ軍の軍人となり、ゾンビーコマンドの「司令」として登場している。 * 街道上の怪物(1986年 / [[モデルグラフィックス|月刊モデルグラフィックス]]1月号別冊) : ドイツ軍の進撃路に立ちふさがった一輌の[[KV-1]]戦車を描く。 * ワンマンアーミーゲイツ([[1987年]] / 日本出版社) : 核戦争後の荒廃した世界では、なおも米ソの戦いが続いていた。主人公ゲイツは将校としてモスクワ侵攻作戦に参加した際、部下を全員失ったうえに記憶喪失となり、一兵卒に降格されていた。あるパワードスーツ部隊に配属されたゲイツと、彼を狙って襲ってくる敵の戦闘機械との戦いを描く。 * 装甲擲弾兵(1987年 / 月刊モデルグラフィックス12月号別冊) : 武装親衛隊に入隊したドイツの青年が、フランス侵攻作戦を皮切りにロシアを含むヨーロッパ各国を転戦し、敗戦時に[[ヒトラーの日記]]を託されるまでを描く。 * パンツァークリーク([[1988年]] / 日本出版社) : 東部戦線に出征した[[グロースドイッチュラント師団]]の奮戦を、歴戦のヴェルナー軍曹を軸に描く。「戦車戦」を意味するタイトルに反して、主人公たち歩兵による戦闘が展開される。 * 鋼鉄の死神(1988年 / 月刊モデルグラフィックス3月号別冊) : 武装親衛隊の伝説的な戦車兵[[ミハエル・ヴィットマン]]の半生を描く。 * 士官候補生ハイト([[1989年]] / 日本出版社) : 人類が太陽系外に進出した未来、植民地第5惑星に無人大気改造機を設置したところ、何者かの介入が察知された。確認のために現地へ派遣された宇宙海兵隊は、謎の知的生命体に襲撃される。地上で生き残った海兵たちと降下艇パイロットである海軍士官候補生ハイト、そして衛星軌道上の母艦は、人類の存亡を賭けた戦いに直面する。 * タイムトルーパー(1989年 / 大日本絵画) : [[22世紀]]の[[火星]]のユニオンフォースに所属する兵士たちが、月面での降下訓練中に事故に巻き込まれ、[[1944年]][[6月6日]]の[[フランス]]・[[ノルマンディー]]にタイムスリップする。降下艇の暴走事故は、史実では成功しなかったドイツ軍の[[原爆]]開発を阻止するため、あらかじめ仕組まれたものだった。一行は上官からの映像メッセージをもとに、20世紀の世界とのテクノロジー差に戸惑いつつ動き出すが、彼らの持つ未来技術の奪取を目論む親衛隊将校ケストナーに追われることとなる。作中、『[[コンバット!]]』の主人公たちに酷似したアメリカ兵が登場する場面がある。 * バトルオーバー北海道(1989年 / 日本出版社) : ソ連による日本侵攻を描いた架空戦記。ソ連軍のヨーロッパ侵攻と連動して、[[北海道]]占領を目論むソ連軍機甲師団と自衛隊の戦闘を描く。中村が[[陸上自衛隊]]の戦車砲手として登場しているが、小林作品では珍しくまともな人物として描かれている。 * 炎の騎士([[1990年]] / 大日本絵画) : 武装親衛隊の名指揮官として知られた[[ヨアヒム・パイパー]]の半生を描く。 * RAID ON TOKYO / TOKYO WARS([[1991年]]、[[1992年]] / 日本出版社、[[世界文化社]]) : 日本が[[日米安保条約]]を破棄し、日ソ善隣条約を締結した架空の1990年代が舞台。日本の新政府の要請によって[[新潟県|新潟]]と東京・[[横田飛行場|横田基地]]に着上陸し、[[東京]]占領を目指すソ連軍を阻止し、日本の独立と民主主義を守るため、超法規行動によって抗戦する自衛隊が描かれる。佐藤大輔は新潟県の戦いの中で次第に狂気に染まっていく幹部として、また中村は東京の都心に出動した第一空挺団の隊員として登場する。2003年の新装版ではTOKYO WARSと改名されているが、2008年の新装版ではレイド・オン・トーキョーに戻されている。 * [[狼の砲声]](1992年 / 大日本絵画) * [[カンプグルッペZbv]]([[1993年]] / 大日本絵画) * [[ハッピータイガー]](1993年 / 大日本絵画) * 東亜総統特務隊([[1995年]] / 大日本絵画) : [[1945年|昭和20年]]、南方から生還(上述の『ハッピータイガー』)に続く物語であることを示唆する)した[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]中尉佐藤大輔が、[[満州]]で軍刑務所から集めたごろつきたちからなる東亜総統特務隊を指揮し、ドイツからの依頼にもとづいてソ連の[[シベリア鉄道]]破壊作戦を実行する。多くの隊員たちを失いながらも生還した佐藤たちは、さらに[[クルスクの戦い]]の後方破壊工作や、日本への第3の原子爆弾投下阻止に出動する。 * 第2次朝鮮戦争 ユギオII([[1996年]] / 大日本絵画) : [[朝鮮戦争]]が題材。[[1990年代]]後半に祖国統一を掲げ、[[38度線]]を突破した[[朝鮮人民軍]]が[[韓国軍]]と衝突。日本国内でも北朝鮮工作員によるテロ攻撃が始まり、これに対処するためオメガが出動する。韓国軍の若い徴募兵たちが北朝鮮の大軍を相手に奮戦する一方、アメリカ軍の全面介入を実現するため、オメガは韓国軍部了承のもと、北朝鮮領内にある秘密核施設の破壊に出動する。「ユギオ」とは[[韓国語]]で625、すなわち朝鮮戦争が勃発した[[6月25日]]を意味する。斎藤[[統合幕僚長|統幕議長]]と面談する[[内閣総理大臣]]として、当初のコンバットコミック誌連載時には[[村山富市]]が描かれていたが、単行本では[[橋本龍太郎]]に変更された。 * 御巣鷹山の暑い夏([[2010年]] / ゲンブンマガジン別冊) : [[1985年]]に実際に起きた[[日本航空123便墜落事故]]を題材に、救難活動にあたった若い自衛官たちの姿を描く。 * ZERO-太平洋戦記「開戦編」(2010年 / ゲンブンマガジン別冊) * DROP!([[2012年]] / ゲンブンマガジン別冊) : 現代軍事物が多い小林作品では珍しく執筆されたファンタジー物語。 * 劇画ガールズ&パンツァー([[2021年]] / [[小学館]][[てんとう虫コミックス]]スペシャル) : 『ガールズ&パンツァー』を題材とした漫画。2018年に『[[コロコロアニキ]]』での読み切りから、好評につき同紙にて連載化され、単行本化に到った。 === 短編 === * チタデレ/クリストローゼ(1975年 / 立風書房) : 「壮烈!ドイツ機甲軍団」収録のデビュー作。「チタデレ」は[[クルスクの戦い]]におけるティーガー戦車対T-34の戦車戦を、「クリストローゼ」は[[バルジの戦い]]におけるパイパー戦闘団を描いている。現代ほど資料がない時代の作品のため、それぞれ「[[ヨーロッパの解放]]・第一部」「[[バルジ大作戦]]」など、映画で作られたイメージが強く見られる。 * コンフリクト(1987年 / 日本出版社) : ベトナムに出征した若いアメリカ陸軍兵士が捕虜になりかかったところを、モイ族の戦士たちを率いるグリーンベレー将校に救われ、帰還まで行動を共にすることになる。続編の『コンフリクト2』では、非番中の主人公が[[テト攻勢]]の渦中に巻き込まれる。 * 第3次世界大戦 WORLD WAR III(1988年 / 日本出版社) : [[笠原俊夫]]らと執筆したオムニバス作品。ソ連軍が西ドイツ国境を突破したことで[[第三次世界大戦]]が勃発、西ドイツをはじめとしたヨーロッパ各地で繰り広げられるソビエト軍とNATO軍との戦いが描かれる。ドイツ軍装甲教導旅団長ハント准将(『パンツァーフォー!』)とソ連軍戦車連隊長(後師団長)ゴロドク大佐(『狼の砲声』アナートリイ・ゴロドク少佐の息子)の対決を軸に、クルツ(『黒騎士物語』)、ハンス(『ソルジャーブルース』のゾンビーコマンド現場指揮官)などが登場、他作品とのクロスオーバーが図られている。なお作中、ソ連KGB兵士の肩章に書かれている「GB」が、本来の[[キリル文字]](ГБ)ではなく[[ラテン文字]]で表記されている。 * サムライ・バトル・イン・アフガン / サムライ・ソルジャー(1989年、1999年 / 日本出版社、世界文化社) : みずから起こした交通事故で友人たちを死傷させて傷心の末、[[アフガン戦争]]下の[[アフガニスタン]]に流れ着き、傭兵となった主人公およびアフガンゲリラとソ連軍特殊部隊との攻防を描いた作品。1999年の新装版で「サムライ・バトル・イン・アフガン」から「サムライ・ソルジャー」に改称された。 * AMBUSH-待ち伏せ(1990年 / 日本出版社) : 上記『コンフリクト』の主人公が所属するアメリカ陸軍の小隊が、北ベトナム正規軍が潜むジャングルへ戦闘パトロールに出動する。 * カノンフォーゲル(1990年 / 日本出版社) * 砂漠の豹(1991年 / 日本出版社) : [[湾岸戦争]]に参戦した[[ドイツ連邦軍]]戦車部隊の物語。 * CALL SIGN EMERGENCY CHANNEL9 OVER!!(1991年 / 日本出版社) : 湾岸戦争における[[A-6 (航空機)|A-6攻撃機]]の空爆任務を描いた短編。佐藤大輔と中村がゲストキャラクターとして登場する。 * アポカリプス・プログラムT(1991年 / 日本出版社) : 湾岸戦争に派遣された陸上自衛隊の佐藤大輔と中村が、[[バグダード|バグダッド]]に対する核攻撃を誘発してしまう。時系列としては、上述の『RAID ON TOKYO/TOKYO WARS』よりも後となる。 * B-17(1991年 / 日本出版社) : アメリカ軍によるドイツ・[[シュヴァインフルト]]空襲を、一機のB-17の搭乗員たちの目線で描く。 * ゴジラ1991(1991年 / [[宝島社]]) : 小林源文の世界観に[[ゴジラ]]を加えたオマージュ作品。名称に繋がりはないが、バトルオーバー北海道の続編的な台詞が用いられている。ゴジラ来襲と日本経済との関連を調べる[[課長島耕作|島耕作]]と、その調査を阻止しようとする佐藤・中村も登場する。 * RED SUNRISING(1992年 / 日本出版社) : [[2025年]]、日本が経済封鎖への報復として、超越したテクノロジーを駆使してアメリカに侵攻するという内容。本作執筆当時に問題となっていた[[日米貿易摩擦]]を題材にアメリカを批判的に描いている。 * LA SALIDA DEL SOL(1993年 / 日本出版社) : [[1991年]]に実際に起きた[[日産自動車]][[リマ]]支店襲撃事件を基に、オメガに似た自衛隊特殊部隊が人質救出作戦を展開する短編。事件直前に作者が[[コロンビア]]を旅行しており、テロに対し報復手段を持たない日本への問題提起として描かれたものである<ref>「平成維新 戦う自衛隊」188頁</ref>。 * スターリングラード 42/43(1994年 / 日本出版社) - スターリングラード攻防戦を描く。主人公は『黒騎士物語』のエルンスト・フォン・バウアー、そして彼の弟クルトである。 * イギリス本土侵攻作戦 Seelöwe(1994 / [[徳間書店]]) : 第二次世界大戦中に実行されなかったドイツ軍の[[アシカ作戦]]を題材とした短編。[[グロースドイッチュラント師団|グロースドイッチュラント連隊]]に所属する将校を主人公に、イギリスへのグライダー降下から、ロンドン攻略までを描く。作中冒頭、先行着陸していた空挺部隊の指揮官として[[フリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ|フォン・デア・ハイテ]]が登場する。 * 帝都決戦(1995年 / 日本出版社) : ポツダム宣言を受諾しなかった1945年9月の日本が舞台。連合軍が[[ダウンフォール作戦|コルネット作戦]]を実行し、日本側が絶望的な防戦を試みる中、佐藤大輔が陸海軍混成部隊の指揮を執り、国会議事堂の守備に就くという内容。 * 上海侵攻作戦(1997年 / 日本出版社) : [[台湾海峡危機]]から米中間の武力衝突に発展した近未来。米軍の要請で参戦した陸上自衛隊のパワードスーツ部隊を描いた短編。 * ゲルマンの騎士([[1999年]] / 世界文化社) * 平成維新([[2000年]] / 日本出版社) : 日本政府に不満を持って蜂起、東京の中心部を占拠した自衛隊の反乱部隊に対し、佐藤大輔らが鎮圧作戦を行うという内容。 * タイフーンの空(2000年 / 学習研究社) * ブダペスト救出作戦(2006年 / 学習研究社) * 大和特攻(2007年 / [[コーエー]]) === ゲーム関連 === * [[機動戦士ガンダム外伝 コロニーの落ちた地で…]] - キャラクターデザインを担当。 * [[パンツァーフロント|Panzer Front bis.]] - コンストラクション機能サンプルゲーム「1943年秋 オクチャブリスキ」の監修。 * [[スペースボンバー]] - 広告用の1ページ劇画、大統領のキャラクターデザイン、インストカード用イラストなど。 * [[真・女神転生IMAGINE|女神転生オンライン]] - オンラインコミック執筆。 * [[ゴーストリコン]]・[[ゴーストリコン ジャングルストーム]]([[PlayStation 2|PS2]] / レッド・ストーム) - 日本版パッケージおよび予約特典コミック執筆。 * アクセルブリッド * [[大戦略シリーズ#コンシューマー|大戦略エキスパートWWII WAR IN EUROPE]]([[スーパーファミコン|SFC]]/アスキー) - マニュアル・イラストレーターを担当。 * ブリッツクリークII パンツァーカイル([[PC-9801]]/システムソフト) - パッケージ絵などのイラストを担当。 === 小林作品を原作としたゲーム === * 黒騎士物語 Black Knights : 1987年に雑誌『新[[シミュレイター]]13号小林源文特集号』<ref>[http://legalalien.sakura.ne.jp/wiki/index.php?%E5%8D%93%E4%B8%8A%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0/%E3%80%8C%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%8D%EF%BC%88%E6%96%B0%EF%BC%89%E7%B7%8F%E7%9B%AE%E9%8C%B2#a1dacb85 卓上ウォーゲーム/「シミュレイター」(新)総目録]</ref>の付録として発表されたシミュレーション・ゲーム * 俺のケツをなめろ! EAST FRONT 1944 : 1980年代のアナログ・カードゲームブームの際出版された。ブランドは「天下布武かあどげえむ」。カードのイラストなどは『黒騎士物語』から使用されている。[[2015年]]11月に[[クラウドファンディング]]によってリニューアルされ発売された<ref>[https://motion-gallery.net/projects/OREKETSU/updates 名作カードゲーム「俺のケツをなめろ!」リニューアル製品化プロジェクト]</ref>。2016年には[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]向けアプリ版の制作が予定されている<ref>[https://www.4gamer.net/games/325/G032550/20151120164/ ミリタリーカードゲーム「俺のケツをなめろ!」がAndroid向けアプリとなって2016年に配信予定 - 4gamer.net]</ref>。 === 図解 === 大日本絵画から小林本人による兵器の図解イラストやエッセイを掲載する図解本が刊行されている。 * ティーガー重戦車写真集(1998年) * パンツァーズ・アット・ソミュール(1989年 - 1992年) * 世界の戦車(1996年) * 武器と爆弾【悪夢のメカニズム図解】(2007年) === その他の作品 === * 「壮烈!ドイツ機甲軍団」([[1975年]] / [[立風書房]]) - 中西立太と共同執筆した小林のデビュー作。2017年に復刊ドットコムより 「壮烈! ドイツ機甲軍団 復刻版」として復刻。 * 「X図鑑「戦車」」(1975年 / 学習研究社) - モノクロとカラーイラストを担当した。 * [[防衛庁]]の依頼で「未来の自衛官(タクティカルベスト+暗視ゴーグル)」のイラスト。 * 「学習漫画 世界の歴史 13巻」(1987年 / [[集英社]]) - 巻末の「おもしろ歴史資料館」の[[第一次世界大戦]]時の各国の軍服、装備、銃器、武器、兵器のイラスト。 * 「[[今宵、銀河を杯にして]]」(1987年 / [[ハヤカワ文庫]]) - 表紙イラスト。 * 陸上自衛隊マスコットキャラデザイン * 「超能力戦闘集団サイコノーツ」(1994年 / 日本出版社) : マーベルコミック向けアメコミ作品の作画を担当。戦乱や天変地異・環境破壊を避け、一部の人類が宇宙コロニーへ逃避して暮らすようになった時代。宇宙コロニーでも社会問題は解消されず、地球への帰還の可能性を調査するため、超能力者からなる調査チームが結成される。地球に降下した彼らは、地球に残された人類、遺伝子操作技術による怪物、放射能の影響によって生まれた[[ミュータント]]に遭遇するうち、異次元の怪物と融合した狂気の科学者と対決することになる。 * 「[[筋肉少女帯]]」 - CDアルバム「最後の聖戦」のジャケットのイラスト。 * 「日本警察特殊急襲部隊[[特殊急襲部隊|SAT]]」(メディコム) - 付録コミック * 「まりたん集中ドリル2ねんせい」(2006年 / ホビージャパン) - 一部イラストを担当。 * 「Google Earthで偵察!世界の秘密基地」(2006年 / 三才ブックス) - 表紙イラスト。 * 「現代右翼アンダーワールド」(2007年 / 洋泉社) - 付録漫画を掲載。 * 「不思議ナックルズ Vol.10」(2007年 / ミリオン出版) - イラスト寄稿。 * 旧トミー(現[[タカラトミー]])「ヒストリー・オブ・[[ゾイド]]」イラスト * 「どくそせん」(2007年 / [[イカロス出版]]) - 帯イラスト。 * 「[[ガールズ&パンツァー]]」 - 戦車を題材とする同作へのイラスト素材提供。 * 「[[World of Tanks]] 戦術攻略」(2016年 / ソシム) - イラスト寄稿。 * 「マスターファイルBOX [[フレームアームズ・ガール]] 轟雷改Ver.2 [[10式戦車|10式]]カラー」(2019年 / [[壽屋 (玩具店)|壽屋]]・[[ソフトバンクパブリッシング|SBパブリッシング]]) - 轟雷改図解担当。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://www.genbun.net/ 公式サイト GENBUN WORLD] * {{Twitter|sakamachi21KN}} * {{facebook|kobayashi.motofumi}} * [http://www.lambiek.net/artists/k/kobayashi_motofumi.htm Motofumi Kobayashi] * [http://www.shop-online.jp/GENBUNMAGAZINE/ ゲンブンマガジン オンラインショップ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こはやし もとふみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]]
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TRONプロジェクト
TRONプロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健による、リアルタイムオペレーティングシステム(RTOS) 仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。1984年6月開始。 TRONとは、「The Real-time Operating system Nucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)の頭字語である。組み込み向けのRTOSの仕様の策定をプロジェクトの中核としているが、本来は応用(アプリケーション)のユーザインタフェースのデザインやハードウェアの仕様策定など、様々なサブプロジェクトを含む。 TRONプロジェクトの中心人物である坂村健は、TRONプロジェクトが開始した1984年頃より、リアルタイムカーネル(組み込み向け)のITRONと、より大きなシステム(パソコン向け)のBTRON、それらを統合するシステムであるMTRON、といったロードマップを示していたが、1987年に発表した論文『The Objectives of the TRON Project』において、HFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)と言う構想を発表。未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携させるのだという未来像が提示され、TRONはその実現に向け準備するプロジェクトだ、と規定された。すなわち、μITRON3.0仕様書の言葉を借りれば「コンピュータ組み込み機器をネットワーク接続し、それらに積極的に環境を演出させる」という「電脳強化環境(Computer Augumented Environment)」の実現こそがTRONプロジェクトの目標であると提示され、これを一般向けに解りやすく言い換えて「どこでもコンピュータ」とも称していた。 1980年代にTRONプロジェクトの中核とされたサブプロジェクトのうち、組み込み向けオペレーティングシステム(OS)のITRON以外は2000年代を迎える前に頓挫したものの、2000年頃には身の回りのほとんどの電気/電子機器に組み込みシステムが応用されるような時代となった。TRONプロジェクトはこのような「ユビキタス社会」において、組み込みシステム用のリアルタイムカーネルのデファクト標準仕様としてのμITRONを中心として、「どこでもコンピュータ環境、ユビキタスネットワーク社会」をゴールとして掲げた。例えば任天堂が2017年に発売したゲーム機「Nintendo Switch」のコントローラー「Joy-Con」にμITRON4.0が、セイコーエプソンが2008年に発売したプリンター「カラリオ EP-901F」にeT-Kernel Multi-Core Editionが搭載されているなど、TRON系OSは2000年代以降も、主に炊飯器・洗濯機・カメラ・ゲーム機などと言った日本メーカーの家電製品に搭載されたマイコンを制御するための組み込み用OSとして、広く使われている。 坂村は2015年、身の回りのあらゆるものがローカルのネットワークでつながる「ユビキタスコンピューティング」の次の段階として、身の回りのあらゆるものがクラウドコンピューティングを通じてつながるという「アグリゲート・コンピューティング」という構想を発表。TRONは2010年代以降のIoT時代においても、IoTを実現する様々なデバイスを制御するための組み込み用リアルタイムOSの一つとなるべく、クラウドソリューションのMicrosoft Azureを提供する日本マイクロソフト社とも連携しながら、開発が行われている。 TRONプロジェクトは、1990年代後半にインターネットを通じたフリーソフトウェア運動が盛んになる以前より、OSのソースコードや仕様書などを含めた全ての成果物を一般向けに無償で公開しており、その使用に際しては実施料を要求されず、実装・商品化は誰でも自由に行える。2010年代以降にはフリーソフトウェア運動に倣って「オープンソース」「オープンデータ」「オープンAPI」を標榜している。一方で、ユーザー側で実装したアプリケーションについては、クローズでもよいということを表明しており、これが「ノウハウを公開したくない」と言う組み込みメーカーの支持に繋がっている。TRONのライセンスであるT-Licenseは、フリーソフトウェア運動で主流のライセンスであるGPLやBSDライセンスなどと比べてかなり緩く設定されており、派生物においては全てをオープンにする義務が課されず、オープンにしてもしなくても自由で、また一部をオープンにして一部をクローズドにするといったことも可能である。かつてのTRON系OSはトロンフォーラムのみが配布元であり、再配布は原則として禁止されていたが、2011年策定のT-License2.0においては時代に合わせて自由度を高め、ソースの改変履歴をトレースするための「ディストリビューションucode」を付与することを条件として、トロンフォーラムが著作権を持つオリジナルのソースをユーザー側で再配布したり、オリジナルのソースに改変を加えたものを再配布したり、オリジナルのソースを第三者が改変して再配布したものに、さらに自分で改変を加えて再配布したりすることも可能となった。TRON系OSの仕様書やT-LicenseといったTRONプロジェクトのオリジナルの成果物の著作権者はトロンフォーラムあるいは坂村健となっている。 TRONプロジェクトは1984年の開始以来、日本の坂村健が中心となって推進しているが、この活動をサポートする組織としては、2019年現在、坂村が会長を務める「トロンフォーラム」が存在する。トロンフォーラムの会員は日本企業が多いが、幹事会員を務める日本マイクロソフト社を始めとして、外資や海外の企業も存在する。なお、1980年代には「OS」という分野においてTRONプロジェクトとマイクロソフト社の対立が報道されたが、坂村によると実際には「対立していない」とのことで、2003年にはTRONプロジェクトのOSであるT-Engineの上にマイクロソフトのOSであるWindows CEを移植したり、2014年にはIoT分野においてMicrosoft Azureを利用するために日本マイクロソフトとの提携を発表したりなどしている。 2017年には、IoT時代においてTRONのさらなる世界的普及を目指して、坂村健とトロンフォーラムはTRON系の組み込み向けリアルタイムOS「μT-Kernel 2.0」の著作権を米電気電子学会IEEEに譲渡。2018年9月11日、μT-Kernelベースの「IEEE 2050-2018」が、IEEE標準として正式に成立した。これによってTRON系OSが、IEEEによって標準化されるOSの国際標準規格の一つとなった。2019年にはTRONプロジェクトにおいて初めてGitHubが採用され、μT-Kernel 3.0の仕様書やソースコードなどが世界に公開された。2023年、仕様書やサンプルソースコードをオープンかつ自由に提供し、開発者や利用者のイノベーションを促進したことや、世界中で数十億台の組み込み機器に採用されていることを評価され、IEEEによってIEEEマイルストーンに認定された。 「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。 1984年に坂村が開始し、1986年発足のTRON協議会(1988年に「トロン協会」に改称)が中心となって推進した初期のTRONプロジェクトにおいては、組み込み向けOSの「ITRON」、ビジネス向け(現代で言うパソコン向け)OSの「BTRON」、メインフレーム向け(現代で言うサーバー向け)OSの「CTRON」、TRONにおけるヒューマンインターフェイスをデザインする「トロン電子機器HMI研究会」、TRON構想を実現するためのハードウェアを策定する「トロンチップ」、これらを統括する(現代で言う分散コンピューティングに相当する)「MTRON」、の6つが主なプロジェクトとされていた。 「ITRON」プロジェクトの成功を受け、坂村は2000年に開かれたトロン協会の第12回通常総会において、TRONプロジェクトが第2ステージに入ったことを宣言。ITRONの標準化を進めた「μITRON4.0」を継承し、組み込みシステムの高性能化・高機能化に対応した、OSのより強い標準化を進めるため、2001年に次世代のTRONプロジェクト「T-Engineプロジェクト」が発足。2002年発足のT-Engineフォーラムが推進する初期のT-Engineプロジェクトおいては、コミュニケーションマシン(携帯情報端末、携帯電話など)向けの「BTRON3」、旧世代のOSながら依然として広く使われる「μITRON4.0」、などの従来からのサブプロジェクトに加えて、BTRON3で使われるファイル形式の「TAD(TRON Application Databus)」、TRONで16万字以上を扱える多文字環境を実現する「多言語処理環境」、次世代組み込みOSの「T-Kernel」、T-Kernelの開発環境として標準化された「T-Engine」、電子伝票システム(現代で言う公開鍵暗号方式)の「eTRON」が主なサブプロジェクトであった。 2011年、T-Kernel2.0の発表と同時にT-Engineプロジェクトの「Step2」が宣言され、それ以前のT-Engineプロジェクトが「Step1」、μITRON4.0が「Step0」と位置付けられた。2015年にT-Engineフォーラムは「トロンフォーラム」と改称され、IoT時代を見据えてTRON本来の役割に立ち返るべく、再び各種のサブプロジェクトの構想が活発化している。 なお、T-Engineプロジェクトの開始後も、レガシー向けに旧来のITRONの需要がまだ残っていたことから、ITRONを推進するトロン協会とT-Kernelを推進するT-Engineフォーラムはしばらく併存していた。トロン協会は2010年に解散したが、ITRONは未だ広く使われており、サポートはT-Engineフォーラム(2015年3月に「トロンフォーラム」と改称)が継承している。 坂村健が1984年に開始した、初期のTRONプロジェクトである。1986年発足のTRON協議会(1988年に社団法人トロン協会に改称)が中心となって推進していた。 組み込みシステム向け(を重視した)RTOS。TRONプロジェクトにおける最も古いプロジェクトであり、1984年にプロジェクトを開始した。 1982年より、日本電子工業振興協会・マイクロコンピュータ技術委員会・OS分科会において、日本の電機各社とともに日本のマイコン開発をどう進めるかを議論していた中で、主査であった坂村健(当時は東京大学理学部情報科学科助手)が構想したものが、形となったものである。「まず基盤となるリアルタイムOSを含む開発環境整備から進め、その後、そのOSが最も効率よく動くチップを作ろう」と言うことで、まず最初にITRONプロジェクトが開始された。 マイクロコンピュータ技術委員会に参加していたメンバーのうち、門田浩(当時NECの集積回路事業部、退社後に組み込みシステム技術協会専務理事)と桑田薫(同、NEC/ルネサス退社後に東工大副学長。TRONプロジェクトの主要開発者はほとんど男性だったが、坂村がデザインしたトロンOSを最初に実装したプログラマは女性だった)を中心とする日本電気(NEC)のチームによって最初にITRONの実装が進められ、1985年春にはNEC V20/30上で動作するITRONの実装「ITRON/86」がNECによって公開された。1986年8月には68000上で動作するITRON/68K仕様OS「HI68K」が日立によって公開されるなど(日立武蔵の竹山寛らが開発)、ITRONの仕様の策定と各社による実装が同時に行われ、各社の実装がITRON仕様にフィードバックされた。 1984年当時、日本の組み込みシステムはOSを搭載しておらず、そのためITRONの当時のライバルは「他のリアルタイムOS」ではなく「OSを利用していない組み込みシステム」であった。OSを搭載しないシステムと比較して、OSを搭載することでどうしても発生してしまうオーバーヘッドを最小限に減らし、OSの導入による標準化によって生じるソフトウェアの互換性や保守性の面でのメリットが上回るように、「弱い標準化」の方針で仕様の設計が行われた。 1987年5月に16ビットプロセッサ向けの初版(ITRON1)を公開。ITRON1仕様はNEC Vシリーズやモトローラ68000を始めとして数十を超える16ビットシステムに実装が行われた。 1989年にはITRON1仕様に機能の追加やITRON2相互間の互換性強化などを施した32ビットの大規模組み込みプロセッサ(TRONCHIPを想定)向けの「ITRON2」を公開。同時に、小規模組み込みシステム(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサ)向けのITRON2のサブセットとして「μITRON(μITRON2)」も公開された。「ITRON1の標準化の程度を上げて仕様拡張を行ったのがITRON2であり、ITRON1の適応化の程度を上げて仕様を簡略化したのがμITRON」とのこと。システム間で共通する標準OSとしての互換性を保つことと、各システムに合わせてOSを適応化することで得られる性能の向上は、トレードオフの関係になるため、高性能な32ビットシステムと低性能な8ビットシステムの双方において、そのバランスを取れるように策定された仕様である。 ITRON2仕様においては、ITRON間の互換性やアプリケーションプログラムの移植性が高められ、またITRON仕様とBTRON・CTRONとの整合性が強化された。ただし、μITRON仕様が非常に広く普及したのに対して、ITRON2仕様はほとんど利用例が無く、失敗に終わったといえる。 μITRON仕様の基本方針に関して、1989年当時、様々な汎用の16ビットプロセッサにおいてITRONが使われていたが、家電製品や自動車への組み込みを目的としたチップ(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサなど)においては、ROM容量・RAM容量の制限やコストの問題などから標準OSが使われることは少なく、アプリケーション側でOSの機能まで包含してプログラミングを行うのが一般的であった。いくらITRONは適応化によって不要な機能を削除できるといっても、元々16ビットシステム用に策定されたITRON1仕様はこれらのシステムにおいては巨大であり、オーバーヘッドが発生するため、採用できない。そのため、μITRON仕様においては、ITRONのシステムコールインタフェースやパラメータの有無などいくつかの点について、推奨仕様あるいはインプリメント依存仕様に格下げを行うなど自由度大きくし、また、OSレベルでの機能のサブセット化を許し、OSのインプリメンタがプロセッサアーキテクチャに合った機能や必要性の高い機能を自由に選択できるなど、ITRON2の仕様書の言葉を借りるなら、OSとしての標準化が「限界を超える」所まで弱められた。この点から、「μITRONは、一つのOSの仕様を指すものではなく、OSの仕様設計を行ない、システムコールの命名を行うためのガイドライン」に過ぎないと坂村は考えており、「μITRONでは、プロセッサ毎あるいはアプリケーション毎に、一つのガイドラインに沿った別々のOS仕様が存在しており、それらのOSがμITRONというOSのファミリを形成」するものと想定された。ITRONが様々なプロセッサに実装される組み込みにおいては、OSの仕様の違いによる問題よりも、プロセッサ間による違いの方がずっと影響力が大きいため、標準OSとしての互換性が取れなくても問題ない。それでも、どのITRON仕様OSにおいてもμITRON仕様で決めたシステムコール名称を使っているため、プログラマの教育がしやすく、「教育の互換性」というメリットは大きなものだと坂村は考えた。 坂村の考えは成功し、μITRON3.0仕様が策定された1993年の時点で、ほとんどすべての日本メーカー製8ビットMCUにμITRON2が実装され、さらにはμITRON2仕様カーネルを32ビットプロセッサ用に実装するという、当初想定していなかった適用例も出てきた。そのため、1993年発表のμITRON3.0仕様においては、μITRON2における事例のフィードバックを受けて、ITRON2とμITRONの仕様が一本化され、μITRON仕様はITRON全体の新バージョンとして、ITRONのほぼ全てに相当する機能を持つようになった。μITRON3.0においては、標準化と適応化の強化に加えて、「接続機能」が追加されたことが大きな特徴で、1993年当時はコピー機やFAXなど、MCUの低価格化に従って1つの機器の制御に複数のMCUが使われるケースが増えてきていたことから、μITRON仕様カーネルを持ったノードを疎結合ネットワークによって相互接続した分散システムをサポートするための機能が追加された。また、開発環境の標準化などにも取り組んだ。 1994年よりトヨタ社が車載用OSの候補としてITRONを検討し始め、1997年にはITRON専門委員会の下にRTOS自動車応用技術委員会が設立され、1999年にはITRONを搭載した初の自動車、トヨタ・ランドクルーザープラドが発売された。この頃には、民生用機器においては、デジタル家電で広く使用されていた他、1990年代後半から2000代前半にかけて普及したフィーチャーフォンにおいても広く使われていた。 1999年にはμITRON4仕様が公開される。ソフトウェア移植性の向上、外販することを前提とするソフトウェア部品構築のための機能、自動車制御分野おけるRTOSに対する要求、プロセッサの性能向上やメモリ容量の増加への対応(従来はオーバーヘッドが大きかったために見送られた機能も入れることができるようになった)、が主な追加点である。この頃には、ネットワーク応用やインターネット・イントラネット関連機器を中心として、通信やGUI・デバッグ関連のミドルウェアがITRON上で利用される機会が増加し、これらのミドルウェアの移植性向上に対する要求を満足するため、「弱い標準化」と「強い標準化」と言う相反する要求を満たす仕様となった。 組み込み機器の機能の高度化や複雑化・大規模化に対応するため、2001年に「より強い標準化」を目指したT-Engineプロジェクトが開始され、ITRONプロジェクトは終了した。しかし「リアルタイム性、リソースを浪費しないコンパクトさ、柔軟な仕様適合性、オープンアーキテクチャポリシー」が強く支持され、その後も小規模システムにおいてはμITRONが広く使われている。 なお、μITRON4.0の仕様策定の中心人物であり、坂村健の監修のもとでμITRON4.0の仕様書を編纂した東大坂村研究室出身の高田広章は、T-Engineプロジェクトに移行せず、μITRON4.0仕様に準拠した「TOPPERS/JSPカーネル」をベースとするTOPPERSプロジェクトを独自に立ち上げた。 「Business TRON」の略。OA機器(オフィスなどでビジネス用に使われることが想定されるコンピューターで、現代で言うパソコンに相当する)向けのOSの仕様で、1985年に開発がスタートした。ちなみに「BTRON」とはOSの名称ではなく、仕様の名称であり、BTRON仕様に準拠したOSが各社からリリースされることが想定される。 BTRONプロジェクトにおいては、BTRON仕様OSの策定だけでなく、キーボードなどのハードウェア(HMI、ヒューマン・マシン・インターフェース)やデータフォーマットの策定も含め、コンピュータのあらゆる階層が再設計された。むしろBTRONプロジェクトにおいては、OSの仕様策定よりもHMIやデータフォーマットの策定がメインであるとも坂村は考えており、「特定のアプリケーションを動かすためだけなら、アプリケーションの互換性は問題ではない」として、BTRON仕様のHMIとデータ形式をBTRON仕様ではないOSの上に実現した「μBTRON」も想定されていた。 BTRON仕様OSは、1987年8月の時点では、パソコンやワークステーション向けのBTRON(μBTRON、後にBTRON1と呼ばれる)、1987年から1988年にかけて出る予定である専用機(ワープロなど特定の用途に使われる機械)向けのμBTRON、1990年までに完成するはずであるトロンチップ(当時TRONプロジェクトで開発中であったチップ)向けのBTRON(ピュアBTRON、後にBTRON2と呼ばれる)、の3つが構想されていた。ちなみに、BTRON2仕様OSは大澤範高(当時・パーソナルメディア社、後・千葉大学大学院教授)らによって開発されていたらしいが、実装は結局リリースされず、BTRON2の仕様書のみが1992年に出版された。 他のTRONプロジェクトのOSとは違って、BTRON仕様OSを搭載した機器は直接人間が扱うものであるという特徴があることから、坂村はBTRONマシンを「コミュニケーションマシン」と位置付け、人間工学的見地から見て使いやすいデザインや障碍者にも使いやすいデザインなど、開発当初からHMI(ヒューマン・マシン・インタフェース)に重点が置かれて開発が行われた。BTRONのHMIを定める「BTRON HMI」においては、ハードウェアも規定され、例えば入力デバイスとしてキーボードと(マウスではなく)ペンを使うことが規定された。坂村はBTRONで使われる「TRONキーボード」の制作を沖電気に、電子ペン(現代で言うスタイラスペン)の制作をワコムに依頼。TRONキーボードは1986年に完成、ワコムのワイアレス電子ペンは1987年に完成した。 1985年、文部省は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画において、学校へのコンピューター導入のために初めて予算を計上した(初年度は20億円。年々増加し、自治体からの補助金も入れるとかなり巨額の補助金が出る)。同じころ、通商産業省もソフトウェア危機に対応するために予算を計上し、またメーカーに働きかけを行った。1986年より、学校教育へのコンピュータの導入を目指して通商産業省と文部省が設立したCEC(セック、財団法人コンピュータ教育開発センター)によって、日本の教育用パソコンのOSの標準化を図るため、BTRON仕様OSが日本の学校教育における標準OSとして検討された。1987年当時、NEC以外のメーカーはパソコンのシェアが非常に少なかったので、CECの策定した「CECマシン」を作って当時全国に約3万5千校存在した小中学校において国費で確保された教育パソコン市場を取ることでNECの牙城を崩すべく、1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した。教育用パソコンも含めて1987年当時の日本のパソコン市場をほぼ独占していたNECは、当時はPC-8801シリーズからPC-9801シリーズへの移行期にあたり、N88-BASICでの動作を前提とする8ビット機のPC-8801に代わってMS-DOSの搭載を前提とする16ビット次世代機のPC-9801シリーズの普及を推進していたので、NECだけは最後まで渋ったが、半年以上ゴネた末にBTRONとMS-DOSのダブルOSを許可することで説得に応じ、日本の教育市場で使用されるパソコン「CECマシン」においてBTRON仕様のOSを採用することで1989年3月に正式決定。'87、'88、'89、と次第に仕様が固められたCECマシン仕様においては、トロンキーボードは不採用となるなど、CECマシンは坂村が当初構想していた「コミュニケーションマシン」としてのBTRONマシンとは異なる、普通のパソコンとなっていった。 BTRON仕様OSの開発に当たっては、BTRONプロジェクト開始当初よりNECに強力な対抗意識を燃やす松下電器産業が参画し、早川茂専務の即断で200人体制でBTRON仕様の開発に当たらせるなど、松下を中心とする反NEC陣営による強力な開発体制が敷かれた。BTRON1仕様OSは、櫛木好明(当時は松下電器産業情報システム研究所長、後に松下電器常務取締役)率いる松下電器産業中央研究所(大阪府門真市)の情報システム研究所が中心となって開発され、現場は真弓和昭(当時は松下電器産業情報システム研究所次長、退職後に大阪産業大学客員教授)が主導した。松下は1987年3月に試作機を公開(この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成であった)、CECマシンの仕様が固まるにつれて、1988年にはIntel 80286での動作を前提とするBTRON/286 1.1を発表(このBTRON/286仕様がBTRON1仕様となる)、松下は1989年3月にはついにCECマシンの実用機を完成させた。CECマシンのOSであるBTRON仕様OSは、松下が他の11社にライセンスする形式で(BTRON仕様OSは誰でも開発できるとの建前だったが、実際は松下1社のみが供給した。「CECへの納入品のみに搭載できる」という条件で、松下は自社で開発したOSを各社に有料で貸し出した)、同年中にはCECに加盟するAX陣営(「反NEC陣営」から「FMR陣営」の富士通と松下を除いたもの)の共同により、AX陣営の各社が製造したAXアーキテクチャのパソコンにもBTRON仕様OSが移植され、1989年10月に東京国際見本市会場で開催されたデータショウ'89では、松下の策定したBTRON1.2仕様OSを搭載した、様々なBTRONマシンの試作品が展示された(なお、データショウ'89の目玉は、PC-98シリーズの新フラッグシップPC-H98およびPC-98シリーズ初のラップトップパソコン「98NOTE」や、Mac初のラップトップパソコンMacintosh Portableであり、TRONは全く注目されなかった。TRON陣営にしても、例えば東芝は当時世界シェア1位のPC/AT互換ラップトップパソコンDynaBookの展示の方に力を入れていた)。 しかし1988年、アメリカ合衆国通商代表部(USTR)によって「政府調達のOSを松下に限定するのは不公正である」との指摘を受け(この時は日本側は「BTRON仕様OSは誰でも開発できる」と釈明し、USTRは誤解を解いた)、さらに1989年4月、USTRが発表した「貿易障壁年次報告」においてBTRONが取り上げられ、スーパー301条に基づく制裁の候補とされるなど、日米貿易摩擦を背景とした米国からの圧力にさらされた。1989年5月にトロン協会がUSTRに対して「誤解だ」と抗議文を送り、同月中にUSTRは誤解を解いて、この時はトロンはスーパー301条対象品目から外された。なお、スーパー301条とは、市場における不公正な取引慣行に対して撤廃を求めて米国が対象国との交渉を行い、もし撤廃されなければ高額な関税などの制裁を課すというもので、「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」と言う趣旨が協会抗議文への返書に書かれてあったとのこと。 しかしこれを機に、NECがCECに対してBTRONの不採用を要求。6月、CECはBTRON仕様による統一を断念。この経緯を『日経コンピュータ』誌(1989年8月28日号)が「BTRONベースの教育用PC、標準化は事実上不可能に」と報じるなど、「BTRON採用断念」を同時期のマスコミが盛んに報じた。ただしこの時点では、OSの仕様の統一は断念されたと言っても、ほとんどのメーカーはCECマシンのOSとしてBTRON仕様OSを採用していたが、1990年3月にアメリカ合衆国通商代表部が発表した貿易障壁年次報告においても、再びBTRONが取り上げられた。 その結果(経緯の詳細はBTRON#通商問題を参照)、小学校への導入は当初の予定どおりには実現しなかった。BTRONプロジェクトに賛同したパソコンメーカーは、BTRONに教育用パソコンとしての目があるということだったので「ある程度の出費はしかたない」(東芝におけるBTRON仕様開発の中心人物としてNHK「トロン誕生」にも出演した元東芝基本ソフトウェア第2部主幹の小田一博の回想)と考えてBTRONプロジェクトに参加していたが、もはやBTRON採用の目がなくなったので、みなBTRONプロジェクトから手を引いた。1989年2月にはBTRON仕様OS対応ソフトウェア開発の協力のために、松下を中心としてBTRONソフトウェア懇談会が発足していたが、1990年には富士通を始めとするメーカーがBTRONソフトウェア懇談会から次々と脱会。富士通は元々は松下と並ぶBTRON陣営の中核企業として、1987年にパソコン開発において松下と提携していたが、同年中には「CECマシンの仕様を見極められない」として、MS-DOSを搭載した自社独自規格のFMRシリーズを教育市場向けに発売し、1989年時点では教育市場でそれなりのシェアを持っていたので、既に「CECマシン」を開発する意味はなかった。さらに富士通は、FMRシリーズの次世代機として1989年2月にFM-TOWNSを発売していたが、にもかかわらず「反NEC」と言うだけで1990年までBTRONソフトウェア懇談会に参画していた。つまり、CECに加盟する反NEC陣営の各社においては、CECマシンはNECへの対抗手段の一つに過ぎず、それ以外のプロジェクトを同時に進行していた。BTRON仕様OSの開発の中心メーカーであった松下電器産業も、外圧を恐れて1990年にBTRONソフトウェア懇談会を脱会。 松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた松下通信工業に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業からPanacom(松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「N88-BASIC」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機FM-TOWNSを選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそはDOS/VでNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに日本アイ・ビー・エムを盟主とするOADG陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。 1988年1月にNHKで放映された「コンピューターの時代」シリーズ第4話『トロン誕生』では、山中俊治がデザインしたBTRONマシンのモックアップの前に座った坂村を案内人として、BTRONマシンの入力装置である「トロンキーボード」を開発中の沖電気青梅工場、このトロンキーボードと電子ペンを使用したコマンド入力システム(トロン作法)を開発中の東芝青梅工場、BTRON仕様OSを開発中の松下電器産業中央研究所、などにカメラが入り、その未来のコンセプトデザインが当時非常に話題となったが、上記の経緯で、教育用パソコン「CECマシン」の仕様策定が頓座したことをきっかけに、一般向けのBTRONマシンが発売されないうちにBTRONプロジェクトは衰退してしまった。(この番組に出演した東芝の小田一博は、CECが各社からの出向者の寄り合い部隊で確たる信念を持たなかったこと、まずAPIの仕様作成に注力すべきなのに(4年かけて)ハードの仕様を策定したことなど、Σプロジェクトと同じ失敗をしたと後に回想している。また、2003年4月にNHKで放映された「プロジェクトX」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、上記の経緯の裏にあたかもマイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で、当時TRONにWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の古川享は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であり、通産省・総務省・文部省が計上した総計2300億円の国家予算に対しても、技術開発よりも予算欲しさの企業ばかり集まった「国家予算のバラマキ行政」と評している。) そのため、BTRONの一般ユーザーへの普及を目指し、松下のBTRON仕様OSに搭載されたエディタを作成するなどBTRON仕様OS用応用ソフトウェア開発の中心であったパーソナルメディア株式会社を中心として、1991年にBTRONソフトウェア開発機構が発足。パーソナルメディア社が松下からOEMを受け、松下のパソコンにBTRON1仕様OSを搭載した一般向けパソコンの「電房具」シリーズの第1弾となるノートパソコン「1B/note」が1991年8月に発表(9月発売)された。松下が開発したBTRON1仕様OSは(CECマシンを除いて)松下以外のパソコンへの移植を許可しておらず、当初はBTRON仕様OSが他社のパソコン向けに単体で発売されることは無かったが(そのため、BTRONが普及しなかったのは、松下がBTRON仕様OSを他社ハードに移植するのを禁止したためとの指摘もある)、1994年には松下のBTRON1仕様OSをPC/AT互換機に移植した「1B/V1」がパーソナルメディア社によって発売され、PC/AT互換機を所有する一般のパソコンユーザーでもBTRON仕様のOSを利用できるようになった。当時のBTRON仕様OSは、パソコンにおいてはビデオカードのドライバが無い(ビデオカードによるグラフィック表示支援が使えない)ために、起動や動作が早くても画面表示がカクカクで、競合OS(1994年当時はWindows 3.1。Windowsがまともに動くスペックのPCは高額になるのと、ゲームなどのアプリが揃っていないので、当時はMS-DOSもまだ主流だが、1995年にWindows 95が発売されると大ブームとなり、パソコンのOSはWindowsが主流になる)とは実用面で比較にならなかったが、「実身」「仮身」モデルに代表されるBTRON独特のシステムの熱烈な支持者がいたほか、組み込み用でよく利用されるTRON系OSでありながら曲がりなりにもGUIが利用できることから、開発用OSとしてもある程度の支持者がいた。 その後、パーソナルメディア社は、東大坂村研究室が開発したμITRON3.0仕様OS「ItIs Phase3」をベースに、独自に拡張したBTRON3仕様を策定。1995年にはトロンチップ(富士通GMicro F32/300)にBTRON3.0仕様OS「3B」を搭載した「ピュアTRONマシン」であるワークステーションの「MCUBE / BTRON3 Work Station」を発売、ITRONの開発用マシンや業務用ハードウェアの制御用などに利用された。 1998年、パーソナルメディア社は「ItIs Phase3」を「I-right/V」としてDOS/V(i386および互換CPUを搭載した32ビットシステム)に移植し、これを核とした32ビットパソコン用のBTRON3.0仕様OS「B-right/V」を発売。「B-right/V」は、1999年11月発売のバージョン2以降より、多漢字を扱えることをアピールした『超漢字』の名称で発売された。 TRONはパソコン用OSとしてあらゆる文字を扱えることを目標として、約150万字の文字を理論的には扱える文字コードのTRONコードを採用しており、BTRONは1997年発売の「1B/V3」の頃より多数の文字が扱える「多言語対応」をウリとしていた。初代『超漢字』が発売された1999年の時点では、Unicodeにはまだ2万字程度しか収録されておらず、『超漢字』は当時のUnicodeには収録されていなかった異体字、梵字、変体仮名、甲骨文字などが扱えるという点で、漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった。 1999年発売の初代『超漢字』は発売から1年間で7万本、4年で25万本を超える売り上げとなり、これをプリインストールしたパソコンも発売されたが、普及率としてはマイクロソフト社のOS(当時の競合OSはWindows 98)と競合するOSとはなりえず、2006年発売の『超漢字V』においてはWindows上で動くPCエミュレーター上で動作する前提で、事実上Windowsの1アプリケーションとして動作する前提となっている。TRON仕様OSのGUIやキーボードショートカットなどはTRON特有の「TRON作法」に従っており、Windowsに慣れた一般のPCユーザーには慣れるのが難しく、「ハードウェアのドライバが無い」などパソコンのメインOSとして動かすには様々な問題があったが、『超漢字』が事実上Windowsのアプリの1つとなったことで、WindowsのGUIやドライバが利用できるようになり、この問題は解消された。 パソコン用OSとしてのBTRONの流れは上記の通りだが、一方でBTRON3はμITRON3をベースとしているため、一般的なGUIベースのOSが動かないような極めて貧弱な環境においても、μITRON3が動いている限りはBTRON3準拠のGUIを動かすことができるという特徴があった。そのため、1995年頃、パーソナルメディア社がセイコー電子工業など数社から携帯情報端末(PDA)向けのOS制作の依頼があったことを契機として、モバイルで動くBTRONの仕様を策定するというサブプロジェクト「μBTRON」(上記のワープロ専用機向けのμBTRONとは別のプロジェクト)の仕様の策定が開始される。 (なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword 6000i(BTRON1)、1990年に稼働したJALのオンライン予約システム(メインフレームのIBM 3090とやり取りする端末にBTRON1を実装)でBTRONが採用された。) 携帯情報端末(PDA)向けのBTRON。BTRONのサブプロジェクトで、BTRON3仕様をベースに、キーボード未搭載のハードウェアへの対応や、タッチペンへの対応など、モバイル向けの仕様を追加したもの。なお、μITRON4.0の仕様書ではこれを「μBTRON」と呼んでいるが、μBTRON仕様OSを開発したパーソナルメディア社では「携帯端末用BTRON」と呼んでいる。 セイコー電子工業(セイコーインスツルメント、SII)の販売する業務用PDA「TiPO」シリーズの3代目で、1996年10月発表(1997年2月リリース)の「BrainPad TiPO」への搭載を前提として策定された。SIIより依頼を受けてパーソナルメディア社がPDA用に開発したμBTRON3.0仕様OSの名称が『B-right』であり、TiPO用の「B-right」で動くマイクロスクリプト(BTRON用のスクリプト言語)はDOS/V用の「B-right/V」でも動く(つまり、「B-right/V」が搭載されたパソコンを「TiPO」の開発機として利用することができる)。 1996年当時の一般的なモバイル端末は、GUIベースのOSは実用的ではなく、SIIの業務用端末「BrainPad」シリーズもそれまではOSとしてMS-DOSを積んでいたが、「BrainPad TiPO」ではμBTRONベースのシステムを用いることで、当時の極めて貧弱なモバイル用ハードウェアにおいても実用的な解像度と稼働時間を維持しながらGUIのマルチウィンドウシステムを動かすことができた。「BrainPad TiPO」は1997年開催のなみはや国体の競技記録システムや博物館の案内システムなどの業務用で採用されたほか、1997年2月にはパーソナルメディア社から「電房具TiPO」として、SIIのOEM版が一般向けにも市販された。TiPOは単三アルカリ乾電池1本でハーフVGA(640x240)の解像度と50時間の連続稼働時間を誇りながら、NetFront Browser(ver 1.0)を搭載してインターネットの閲覧も可能であった。 しかし、業務用としてはともかく一般消費者用の機器としては、「パソコンと同等の機能を持ったPDA」と言うμBTRONおよびTiPOのコンセプトは、ビジネスマンを中心とする当時の携帯情報端末のユーザー層に受け入れられたとはいいがたい。当時の非力なモバイル端末に、パソコン(それも一般にほとんど普及していない「TRON作法」を採用したBTRON)のGUIをほとんどそのまま載せていることから、シングルタスクとシングルウインドウシステムを採用した同時期の他のモバイル端末と比べると、表示速度が遅く、「ビジネスのための情報ツール」としての使い勝手は、当時ヒットしていたPDAのシリーズであるザウルスやPalmなどと競合するには至らなかった。また、BTRONの特徴である文書の実身・化身機能を生かそうにも、文書を編集するためのキーボードが付いておらず、ソフトウェアキーボードを起動すると画面の大半を占有して文書が見えなくなった。そのため、「文書の編集ツール」という点でも、DOSと物理キーボードの搭載によって高速かつ強力な文書編集機能を持っていたモバイルギアなどと競合するには至らなかった。 TiPOは、このようなユーザーの声を聞きながらインターネットを通じたプログラムのアップデート(当時としては画期的)を繰り返し、1998年にはNetFront(ver 2.0)などを搭載した「TiPO Plus」にソフトウェアがバージョンアップして若干使い勝手が向上しつつも、1999年に販売を終了する。パーソナルメディア社が編纂した『マイクロスクリプト入門』によると、1998年12月の時点で、携帯端末用BTRONを搭載した機器は「TiPO」しか存在していないとのことで、PDAで広く採用されるようにBTRON仕様を拡張した物の、μBTRON仕様OSを搭載したPDAは結局「TiPO」が唯一の製品であったようだ。 携帯情報端末にBTRONのGUIをほとんどそのまま載せた「TiPO」は成功しなかったものの、1999年頃よりITRONを搭載したインターネット対応の携帯電話(2010年代においてはガラパゴスケータイと呼ばれている)が続々と登場し、家電や携帯電話にGUIを持ったTRONが搭載されるのが当然の時代になり、そのGUIの開発の大変さがTRONプロジェクトにおいて問題となった。BTRON3仕様OS「B-right」の制作に携わり、松下の手を離れてからのBTRONの開発の中心人物であった松為彰(当時はパーソナルメディア社TRON特別室室長)は、携帯電話などの小型端末からパソコンやFA機器などの大型端末までにおける、GUIの標準化を目指し、BTRON仕様をベースとするTRON-GUIプロジェクトを1999年に立ち上げた。 TRONを搭載した組み込み向けのGUIの規格。1999年より策定開始。 1990年代後半より、組み込み向けハードウェアでもGUIが動かせるほど性能が向上してきたこともあり、コピー機やVTR機と言った一般の家電にもGUIが搭載され始めたが、ハードによって仕様がバラバラで、システムごとにGUIを個別に作らないといけなかったため、プログラムを制作する技術者の負担が非常に大きかった。そのため、1999年に「TRON-GUI仕様研究会」が発足し、組み込みシステムとしての信頼性を保った上でITRONで軽いGUIを制作でき、そしてその開発期間を短縮できるように、組み込み向けGUIの標準化が試みられた。 松為彰(トロン協会TRON-GUI仕様研究会主査)が執筆した『TRON-GUI仕様の概要』によると、「基本的にはBTRON仕様をベースに、不要な機能を除いたものがTRON-GUI」とのこと。1999年にTRON-GUI仕様のドラフトがリリースされたが、正式な仕様書は出ず、2000年にT-Engineプロジェクトが開始するとともに、T-Engineプロジェクトに吸収された模様。 「Communication and Central TRON」の略。メインフレーム向け(現在で言うサーバーに相当する)のTRON OSで、日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)の主導で、1985年にプロジェクトを開始した。電電公社の電話交換機での使用を前提とし、同時にCTRON上で動くアプリケーションも制作された。 当時の電電公社では、電電公社に近しい国内メーカー(いわゆる「電電ファミリー」)と共同開発した情報機DIPS(Dendenkosha Information Processing System)と交換機DEX(Dendenkosha Electronic eXchange)が稼働していたが、石野福弥(当時は日本電電公社電気通信研究所複合交換研究室長、後に早稲田大学教授)らによって、情報処理用メインフレームと電話交換機用メインフレームの2つを統合した「INSコンピュータ」を作るという「INSコンピュータ計画」が1985年に電電公社横須賀電気通信研究所においてスタートしたことが背景にある。「INSコンピュータ計画」においては、「電電公社による独自ハードを策定する」という当初の目的は早々に破棄され、ハードの設計は各々の協力会社に任せ、共通OSの採用によってDIPSとDEXの間におけるソフトウェアの共通性を高めることとなり、そのためのOSとしてTRONが選ばれた。その結果、電電公社の主導で、TRONに通信処理用のAPIを搭載したCTRON仕様を策定することとなり、1986年よりDIPSとDEXの双方で実装に向けた開発が行われた。 CTRONの開発に当たっては、OSを下位の「基本OSインタフェース」と上位の「拡張OSインタフェース」に分離し、基本OSインタフェースでプロセッサの違いを吸収するとともに、上位の拡張OSインターフェースでソフトウェアの流通性を確保するという方針が取られた。基本OSインタフェースは1986年に完成し、拡張OSインタフェースは1986年から1988年にかけて公開され、異なるプロセッサ間における移植実験が行われた。CTRONインタフェース仕様は1988年に公開され、仕様の変更や改定などを経て、1993年にはCTRON仕様の集大成として『新版 原典CTRON大系』が出版された。 当時の電電公社で使用されるハードウェアは、電電公社が独自に策定した「電電公社仕様」ともいえる特殊なハードウェアが指定されており、「電電ファミリー」と呼ばれる電電公社に近しい電機メーカーとのハードウェア共同開発体制を取ることにより、電電ファミリー各社の技術向上に寄与すると同時に、電電公社仕様に追随できない外資系メーカーを事実上締め出すことに成功していた(ただし、1機あたり数百億の開発費によって電電公社に莫大な赤字をもたらし、電電公社がNTTとして分割・民営化される遠因ともなった)。そのため、米国より「機器納入の自由化」への圧力がかけられていたが、CTRONプロジェクトでは「CTRONが稼働する限りアーキテクチャは問わない」というオープンな仕様となり、さらに機器納入元としてNEC、富士通、沖電気、日立製作所という「電電ファミリー」4社に加え、海外メーカーとして米AT&Tと加ノーテル(ノーザンテレコムジャパン株式会社)を加えることで外圧を乗り切った。1990年4月にはNTTにノーテル製の中継局用交換機が納入されたが、海外メーカー製の交換機を導入するのは電電公社/NTTにとって初めての事であった(TRONプロジェクトの主要な協力メーカーはほとんど日本企業だが、CTRONプロジェクトにおいては外資のノーザンテレコムジャパンも主要な協力企業の一つである)。 電電公社によるCTRONプロジェクトは成功し、1990年頃よりNTT社内において、DEXのOSである「DEX-OS」とDIPSのOSである「DIPS-OS」が、CTRON準拠の「IROS(Interface for Realtime Operating System)」に切り替わった。さらに、1996年には改D70型交換機の後継として、NTTと日本電気・富士通・日立製作所・沖電気・東芝・ノーテルの共同開発による、NS10A形ATM交換機にCTRONベースのソフトウェアを採用した「新ノードシステム」が完成した。また、NTTの交換機としての使用に耐える信頼性が評価され、1990年には全国銀行データ通信システム(全銀システム)の中継コンピューター(全銀RC)にもNTTのDIPS-CTRONが採用された。 電電公社によるCTRONプロジェクトにおいては、各社の独自OSからCTRON仕様OSに変えることで従来のアプリが使用できなくなるため、乗り気ではない企業も存在したが、沖電気がプロジェクト発足当初から積極的で、結果としてNTTへの大量納入に成功している。商用のシステムとしても、沖電気では1990年発売のOKI iOX100でCTRONのサブセットを採用し、1992年に自社独自OSのAPOLLOSを廃止し、1996年発売のOKI iOX200シリーズではCTRONが全面採用された。1990年代には日本の電話交換機のほとんどがCTRONベースのシステムとなり、同時に海外にも輸出され、1990年代後半から2000年代前半にかけてのPHSやISDN(N-ISDN)などの高速通信サービスを支えた。 CTRONが電電公社/NTTグループおよびNTTグループに機器を納入しているメーカーの製品以外のハードで使われた例はあまりなく、もはや1990年代においてはメインフレームのダウンサイジングの流れが大きく、ちょうどインターネットの普及に伴ってUNIXサーバーが一世を風靡した時代であり、同時期のほとんどの会社はUNIXサーバーを用意して顧客に提供した。電電公社仕様コンピュータ・DIPSプロジェクトも、1992年には開発を終了した(2002年に全てのDIPSの稼働が終了)。ただし、市販の汎用のサーバー機にCTRONを載せることも可能(と言うより、NTTに納入される機器はCTRONが稼働することが必須要件となるので、世界有数の通信コングロマリットであるNTTグループに機器を納入するために、たとえ外資系メーカーであっても汎用のUNIXサーバーにCTRONを移植するメリットがある)で、NTT社内では元々UNIX系のOSを搭載しているTANDEMのサーバー機Integrity(MIPS系のアーキテクチャ)にCTRONを移植させて、社内VANとして使っていた。 そのNTTでも、2010年代より電話交換機の廃止とIP網への移行に伴って、「新ノードシステム」の撤去が始まっている。NTTでは、2015年までにD70型より以前の交換機は撤去され、全て「新ノードシステム」に巻き取られたが、2025年には「新ノードシステム」の維持限界がやってくると想定されており、2024年から2025年にかけて全て廃止される予定。電電公社/NTTとともにCTRONプロジェクトを推進した坂村は、TRONプロジェクト30周年におけるNTTドコモ社長との対談において、情報・通信処理に特化したCTRONを採用した電話交換機の時代から、インターネット時代における「汎用のもので代われるというIP化」という時代の流れを振り返っている。 μITRONのタスクと Java仮想マシンのインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。 μITRONにJavaを導入することで、μITRONにおいてGUIやネットワーク機能などのリッチな機能を利用することが可能となる。また、ライブラリーが揃っており、ソフトウェアの移植性が高いJavaを利用することで、開発期間を削減し、開発コストを削減することができる。一方、リアルタイム制御やハードウェアの直接制御などと言ったJavaの不得手な部分はμITRONで行う。このように、μITRONとJavaで不得手な部分を互いに補完しあうことができる。 主な実装としては、アプリックス社の「JBlend」が挙げられる。もともと「JBlend」は、ITRONとJavaを融合するというアプリックス社の構想を元に、1997年4月に試作版、6月に正式版として発表されたOSだったが、これを受けて坂村がアプリックス社に指導を行い、トロン協会のITRON専門委員会に加盟している他の会社とともにJava対応ITRONの標準規格として策定し、1997年12月に発表したものがJTRON1.0仕様である。同時にJBlendも、JTRON仕様OS第1号として改めて発表された。また、JTRONの開発環境として、1998年にはJTRON仕様のパソコン用OS『JTRON/V』もパーソナルメディア社から発売された。 日本で2001年以降に普及した「Java対応携帯電話」においては、NTTドコモでは503iシリーズ以降において、J-フォンとauにおいては全ての製品でJBlendが採用されていた。アプリックス社は2004年に台湾iaSolution社を買収し、同社のJava環境「iaJET」をJBlendに統合。同年には台湾BenQ社の携帯電話に、台湾メーカーとしては初めてJBlendが採用され、JTRONはアジア地域にも進出した。2006年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が3億台を突破するなど、2000年代に販売された極めて多くのJava対応携帯電話で使われた。 しかし、ITRONなどのRTOSは、複数のアプリケーションを安定して動作させる機能が乏しいことや、ツールが整備されておらず、開発に特殊な知識とスキルが要求されるという問題点があった。そのため、1999年に日本のNTTドコモがiモードのサービスを開始して以降、各社の携帯電話プラットフォームにおいて多様で高機能なサービスが提供されるようになると、次第にソフトウェアの複雑化や開発規模の増大に対処できなくなった。1990年代から2000年代前半頃までの携帯電話は、非力なCPUの力を効率的に引き出すためにこのようなRTOSを利用する必要があったが、携帯電話プラットフォーマー各社は2000年代中盤以降のハイスペックな携帯電話への対応をにらんで、μITRONなどの「RTOS」に代わり、マルチスレッドやメモリ保護といったソフトウェア管理機能を標準でサポートしている「高機能OS」の利用を推進することになる。 例えばNTTドコモは、2004年に「MOAPプラットフォーム」を策定し、今後の3Gサービス(FOMA)向けの携帯電話の開発においてはTRONに代わり、Linuxをベースとする「MOAP(L)」か、もしくはSymbian OSベースの「MOAP(S)」のどちらかのプラットフォームを携帯電話メーカー各社に選択させることにした。例えばパナソニック製端末では、2005年2月発売のP901iで早くもMOAPに対応(この時にパナソニックの携帯電話向けOSをLinuxに一本化する決断をしたのが、1987年当時にBTRON1仕様開発の中心人物であった櫛木好明パナソニックモバイルコミュニケーションズ社長である)。2006年にはアプリックス社もNTTドコモとMOAPライセンスを締結し、MOAPプラットフォーム向けのミドルウェアをNTTドコモに提供することになった。さらに、2006年にはモトローラやNTTドコモなど世界各国の携帯電話プラットフォーマー6社により、携帯電話向け組み込みLinuxのAPIを共通化するためのLiMo Foundationが設立され、NTTドコモのMOAPプラットフォームもここに糾合され、2011年には携帯電話向け組み込みOSTizenとして結実したものの、Android(及びアップル専用のiOS)とのシェア争いに負け2010年代中ごろに事実上消滅し、サムスン電子がウェアラブル端末にしばらく使い続けたに留まった。Symbian OSも同様にAndroidに敗北した。 なお、JBlend環境はドコモのMOAPプラットフォームやTIのOMAPプラットフォームなどで動くLinux系OSやSymbian OSなどに移植され、2008年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が5億台を突破するなど、その後もしばらく使われたが、2007年にアプリックス社はGoogle社の求めに応じてオープン・ハンドセット・アライアンスの設立メンバーとして加盟。当時Google社が開発中であった次世代OSであるAndroidの開発に参加すると同時に、アプリックス社で開発中であったJBlendの後継システムは中止された。ITRONに出自を持つJavaプラットフォームとしてのJBlendは、2008年リリースの初代Androidにも「JBlend for Android」として移植され、例えばiモード用アプリがAndroid上で利用できるシステム「iαppli Publisher」など、ガラケーからスマホへの移行期に、ゲームなどガラケー用のJavaアプリをAndroidに移植する用途でしばらく使われた。 TRONプロジェクトにおけるチップ(マイクロプロセッサ、現在で言うCPUに相当)の設計を目的とするサブプロジェクト。1986年開始。 アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占するARM社でも採用されることになる。 トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より32ビットマイコンの自力開発を進めていた。1986年5月、日立がモトローラのセカンドソースを利用して1985年より発売して大ヒット中の「ZTATマイコン」に関して、ついにモトローラからのライセンスを得られず、牧本次生(1986年当時は日立製作所武蔵工場長)率いる日立のマイコン部隊はモトローラに「ワインドダウン」を要求されるという屈辱を受ける。そのため奮起した日立のマイコン部隊は日立独自の新アーキテクチャ「H32」の仕様策定を進めていたが、1社単独で開発を行うのはリスクが大きいと判断し、日立製作所半導体事業部長の金原取締役に働きかけ、インテルのセカンドソースを製造していた富士通と1986年7月に提携して「GMICROグループ」を結成、2社共同開発体制を取ることにする。その過程で、アーキテクチャとして坂村の提唱するトロンチップを採用することで決定。1987年には三菱もGMICROグループに加盟。その頃には他のメーカーもトロンチップに興味を示し始めた。 最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、富士通・三菱電機・日立の3社(GMICROグループ)の共同開発によるGMICROシリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。 TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。 しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSであるRTOS(ITRON)やビジネス用OS(BTRON)の高速処理はもちろんの事、UNIXやその他のOSでも高速処理が行える汎用プロセッサとして設計されていた、と『日立評論』では語られているが、坂村の回想によると、「個人用のパソコンにUNIXを載せる」などの当時の坂村の構想は、実際は全く理解されず、「まずIBMのOSを載せる」と言われたとのこと。 トロン仕様チップでは、MMUなどを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「LX(eXtension)」仕様も策定される予定であった。 トロンチップが各社から出そろった1990年当時、32ビットCPUはほとんど普及していなかったが、今後の普及が予想されており、例えばGMICROグループでは、組み込みやパーソナルワークステーション向けのGMICRO/100(日立の資料では「H32/100」と呼称しているが、実際の製造は三菱が担当し「M32」としてリリース)、エンジニアリングワークステーションやFAコントローラ向けのGMICRO/200(日立が「H32/200」としてリリース)、スーパーミニコンやオフィスワークステーション向けのGMICRO/300(日立の資料では「H32/300」と呼称しているが、実際の製造は富士通が担当し「F32」としてリリース)、と規模に応じて3種類を用意し、幅広い要求に応えられるようにしていた。 しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった(日立のGmicro/200のトランジスタ数は730K、MMUを搭載しない三菱のGmicro/100ですら340Kであり、トランジスタ数70KのHD68000はおろか273Kの68030すら上回る。ちなみに1994年発売のSH-2のトランジスタ数は450Kで、トロンチップH32シリーズと比較するとSHシリーズがどれだけ高コスパであったかが分かる)。例えば日立では、1988年12月にはトロンチップのH32/200(日立版のGMICRO/200)にITRONを載せた開発用シングルボードコンピュータをリリースしており、制御用プロセッサとしての需要を早くから見込んでいたが、組み込み用としてはITRONを搭載した8ビットのH8シリーズ(1988年6月リリース)が主力であり続けた。H8とH16がモトローラの特許侵害として訴えられ、H16は1989年1月より法廷での特許紛争が始まったために製造ができなくなったことにより、1990年頃の日立ではH16を代替する次世代組み込み用マイコンの開発が急務となっていたが、来るべきマルチメディア時代において、日立の既存の技術であるトロンチップのH32やRISC型チップのHPPA(PA-RISC)ではコストパフォーマンスの点で戦えない、と木原利昌が率いる日立のマイコン部門は1990年に判断。次世代CPUの設計は河崎俊平(日立製作所半導体事業部マイコン設計部)に一任され、H8シリーズと並行してSHマイコンの開発が開始された。ちなみにSHシリーズがMMUを搭載するのは日立がマイクロソフトと提携してWindows CEの搭載を前提として開発されたSH-3(1995年リリース)以降である。 パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期にはPA-RISC(日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)やMC68040が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。 組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを32ビット版組み込み用CPUの主力としている。 一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど、トロンチップの開発を続けた。 1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。 坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃ったインテルのチップと比べてパソコンが作りづらかった、としている。そして、パソコンと言う応用を実現できなかったために、組み込みにも使われなかった、結果としてトロンチップは普及しなかった、と考えている。坂村は、1993年にパーソナルメディア社が制作した、日立のGmicro/300にBTRON仕様OSを載せたパソコンの試作機が、Intel iAPX486で動くWindows 3.1と比較して非常に軽快に作動したことや、1993年にリリースされた日立のGmicro/500が、同年にリリースされたインテルのPentiumと比べても遜色ない性能・技術であったことから、トロンチップがパソコンに向いてなかったわけでは無い、と考えている。 1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと。なお、SHマイコンを設計した河崎俊平は、トロンチップの浮動小数点演算ユニット「GMICRO/FPU」の設計の中心人物として『TRONプロジェクト '88-'89』にも名を連ねているが、CPUの設計がしたかったのにFPUの仕事をさせられた上に、当時は既にトロンチップの市場がしぼみかけていたので仕事がイヤだったが、「ガマンして働いていた」とのこと。SHマイコンの命令セットをほぼ一人で設計した河崎は、命令セットの設計に大勢が関わり、各人が提案する命令を寄せ集めてほとんど使わない命令をたくさん搭載するような従来の日立の方式を「まるで万葉集」と批判している(編注:トロンチップが失敗した理由として、マイコンを売りたいマイコン部門と、大型機を売りたいコンピュータ部門との意識の差異を坂村は指摘しているが、トロンチップを設計した日立のマイコン部門・(半セ)の内部でも、日米貿易摩擦に巻き込まれた牧本らの世代と、SHマイコンで成功した木原らの世代では、トロンチップの評価に差異があることが分かる)。 統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「きく7号」に搭載され、32ビットプロセッサとしては初めて宇宙に行った。 パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。 また、日本の電機メーカーは、TRONチップの開発を通じてマイコン開発のノウハウを蓄積した。後の各社の32ビットマイコンの命令セットにいくらかの影響がみられる。特に三菱・M16シリーズはトロンチップM32の下位版として開発され、トロンチップにかなり近い設計思想であり、販売面でも組み込み用として日立のH8シリーズと並ぶほど売れたという。日立(特にSHの開発陣)におけるトロンチップの評価はとても低いが、トロンチップのコスパの悪さを反面教師として開発されたという点で、日立・SHシリーズにも影響を与えた。 TRONにおけるヒューマンインタフェース仕様の策定を行うサブプロジェクト。略称は「トロンHMI仕様」、あるいは「トロン作法」ともいう。 1990年発足の「TRON電子機器HMI研究会」が中心となって策定した。トロンアーキテクチャが考える電子機器や家電製品などのヒューマンインターフェイスの仕様を提示したもので、その成果は1993年に『トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』として書籍化され市販された。 1990年当時、炊飯器や扇風機など様々な電化製品がマイコンや液晶パネルを搭載するようになるなど高機能化していたが、必ずしも使いやすくなったわけでは無く、操作が複雑化するなどして、逆に使いづらくなる場合もあった。TRONプロジェクトの最終目標である「電脳社会」「どこにでもコンピュータ(ユビキタスコンピューティング)」が実現すると、人間は社会においてどこでも多くの電子機器に囲まれている環境になるが、コンピュータがいくら高度な機能やサービスを提供できたとしても、人間がそれを享受できないようでは意味がない。それぞれの機器において「理想的」なデザインを採用しているよりも、全ての機器において統一的なデザインを採用していた方が、一つの機器の使い方を覚えると他の機器でも同じように操作できるようになるので、ユーザーにとって使いやすく利点が大きい。そのような観点から、コンピュータから家電まであらゆるモノにおいて統一的な操作方法を提供する、トロンアーキテクチャにおけるインターフェイスの標準化と、ガイドラインの策定が行われた。 トロンHMI仕様においては、「一貫性のある操作体系の提供」、HMI仕様を満たした機器が誰にでも使用できるような「電子技術への平等なアクセスの提供」、その仕様がいつでもどこでも何にでも使用できるような「広い適用性」、ユーザーの誤動作や機器の誤動作を防止する「安全性の確保」、以上の目的を達成するための「最低限の品質保証」、の5つが重視された。そのために、HMI仕様を満たすために必ず守るべき「事項」と、HMI仕様をより良くするためになるべく満たすことが望ましい「指針(ガイドライン)」に分け、全てのガイドラインを満たすのが難しい状況においてどのガイドラインを採用するべきか、の判断を手助けするためにハンドブックが役立てられた。 トロンHMI仕様においては、ディスプレイを用いたGUIと、物理的なデバイスなどを用いたSUI(ソリッド・ユーザー・インターフェイス)が規定され、双方における操作の一貫性が保証された。また、トロンHMI仕様を採用した複数の機器において操作の手順を一貫させるため、単に個別のパーツやレイアウトを標準化するのではなく、複数のパーツにおいて操作を標準化するという「抽象度の高い標準化」が行われた。例えば当時ユーザーが扱うのに特に困難なものと考えれられていた、時刻を設定する「タイマー」の設定の標準化も行われ、例えばビデオと炊飯器のタイマーの操作を一貫させるため、通電開始時刻ではなく録画開始時刻や炊き上がり時刻を設定することが規定された。 誰もが使いやすいデザインとして、身体が不自由な人や、海外の人でも使いやすいデザインとなるように、デザイナーに注意を促した。TRON仕様を満たした家電製品は、海外にも盛んに輸出され、1990年代以降の日本の家電輸出産業を支えた。 『電脳都市 : SFと未来コンピュータ』を出版した1985年当時の坂村は、「どこでもコンピュータ」の社会の実現のため、まず「トロン電脳住宅」、続いて「トロン電脳ビル」、そして「どこでもコンピュータ」環境の最大の応用として「トロン電脳都市」の建設を構想していた。バブル時代ということもあり、竹中工務店を筆頭に多くのスポンサーがついた。 「千葉TRON電脳都市」の実態はソフトウエア・パーク、「TRON電脳ビル」の実態はインテリジェントビルであった。背景としては、コンピュータに関心が無いにも関わらずイメージアップのために、当時有名だった「TRON」の名前を利用しようとする建設会社や不動産開発会社の思惑があったが、これをTRONの実証実験の場として利用しようと考える坂村との思惑の違いや、バブル崩壊などによって、「TRON電脳都市」構想は幻となった。 障害者や高齢者などのための「TRONイネーブルウェア仕様」(現代で言う「ユニバーサルデザイン」に相当)を定めるサブプロジェクト。1987年に開始。 「イネーブル(enable)」とは「可能にする」と言う意味で、「イネーブルウェア」とは、障害者や高齢者など「何か」ができなくなっている人に、その「何か」を可能にするためのハードウェア群・ソフトウェア群を指す、TRONプロジェクトによる造語である。 「Macro TRON」の略。ITRON、BTRON、CTRONなどのTRON系OSで構成される、超機能分散システム(HFDS)全体を対象とするようなOS(の構想)である。1984年に提唱された。 上記のように、HFDS(どこでもコンピュータ)な社会が実現し、身の回りに存在するあらゆるものにTRON系OSが搭載されることになると、それらを統括するネットワークシステムが必要となる。別々に設計された機器を、MTRONを介して相互に接続することが可能になる。MTRONの存在によって、開いたネットワーク(現在で言う分散コンピューティング)環境が実現すると想定された。 これがTRONプロジェクトの最終目標であるとされたが、結局ITRON以外は普及しなかったため、MTRONは構想だけで終わった。 ITRONで構成されるMTRON。1993年にリリースされたμITRON3.0の仕様書で提唱された。 1993年のμITRON3.0において、同一の機器に搭載された複数のMCUが相互に接続できるような機能が実現されたが、その次の段階として、別々に設計された機器のMCUが相互に接続できるような仕様のμITRONを策定したいと坂村は考えていた。ITRON3.0の次の世代のITRONで実現するはずであったが、μITRON4.0が策定された1999年の時点では、μITRONを搭載したインターネット端末が普及するなど、もはや「弱い標準化」を志向するμITRONでは時代に追いつかなくなってきており、すぐにT-Kernelプロジェクトが開始したため、構想だけで終わった。 坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。 ICカード、特に非接触のものの通信や、認証などのセキュリティなどの規格。2000年発表。 T-Engineを搭載したチップ同士が安全に通信を行うための公開鍵基盤(PKI)である。全てのモノがネットワークで接続されるユビキタス・コンピューティング社会においてはセキュリティを守るため、利用される全てのT-EngineボードにはeTRONが搭載されることが前提となる。 ハードウェアやソフトウェアなどを含む、T-Kernelの開発環境。2001年発表。 ITRONをベースに設計された、組み込み向けRTOS。2002年公開。 ITRONでは1980年代当時のハードウェアの性能による制限から、仕様書だけ策定されており、実装はハードウェアに合わせて各自で行なう「弱い標準化」の方式となっていたため、最小のシステムから大規模システムにまで対応できるスケーラビリティを持つ一方、それぞれの実装で細かい違いがあり、ソフトの再利用などが困難だった。その反省から、T-Kernelでは2000年代のハードウェアの性能に合わせて「強い標準化」を目指し、仕様書だけでなくソースコードもオープンとなっており、それによって細かな実装上の違いをなくし、デバイスドライバやミドルウェアの再利用が促進できるようになっている。 GUIを持つことが前提となる「T-Kernel」とともに、T-Kernelと互換性を持ちつつ必ずしもGUIを持たないような小さいシステムでも利用できる「μT-Kernel」も策定された。このように、ソフトの再利用性やミドルウェアの利用による開発の容易さと言った特徴を持ちつつも、RTOSとして小規模なシステム開発から大規模なシステム構築用途にまで対応する「フルスケーラビリティ」を持つ。 旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。 T-Engineの標準プラットフォームで、T-Kernelが動作するハードウェア。eTRONを搭載している。ソフトウェアの移植性が高く、異なるCPUを搭載したボードでも同一のソースでソフトウェアが使用できる。 2019年現在、パーソナルメディア株式会社よりトロンフォーラム公認のT-Engineリファレンスボード(U00B0021-02-CPU)が販売されており、T-Kernelの評価ができる。標準価格 49,800円。 T-KernelおよびBTRONで多漢字・多言語を実現するための多言語処理環境。 2000年に開始した日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「マルチメディア通信システムにおける多国語処理の研究」プロジェクトにおいて開始され、2001年に東京大学に設置された東京大学多国語処理研究会によって引き継がれ、設計が進められている。 その成果は66,773字セットを搭載した「GT書体」として2000年にリリースされ、2001年にはGT書体を標準装備したBTRON3仕様OS『超漢字3』がパーソナルメディア社から発売され、TRONにおいて多国語言語環境が実現できることが実証された。GT書体の収録文字数は、2011年時点で78,675字。 2011年にはGT書体を収録した、Windowsなどでも利用できるTrueTypeフォント「Tフォント」として公開された。 明朝体・ゴシック体・楷書体がある。 RFIDタグ(無線ICタグ)などに付与する識別コード(ucode)の体系化を目指したプロジェクト。 T-Engineフォーラムに2003年に設置されたユビキタスIDセンター(センター長:坂村健)と、東京大学ユビキタス情報社会基盤センターの坂村健(2009年よりセンター長、2017年に定年退職)および越塚登(坂村の定年退職後にユビキタス情報社会基盤センター長)によって推進されている。 ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに128ビットのucodeが埋め込まれており、ICタグリーダを使用することで情報を読み取ることができる。 BTRON仕様OSにおいて使われるデータ交換形式。BTRONにおいて扱われるデータに関する情報を標準化したもので、このファイル形式を採用することで、アプリケーションのメーカーやバージョンに関係なく、BTRONを搭載した全ての機器におけるデータの完全な互換性が実現される。 2001年頃より爆発的に普及し始めた、GUIを搭載した携帯情報端末において、BTRONの採用が増えるだろうと予測されていたので、BTRON3が主要なプロジェクトと位置付けられていたが、結局1つも発売されなかった。 パーソナルメディア社がBTRON3仕様OS『超漢字』で実装した、「マイクロスクリプトで簡単にGUIが作れる」や「GUI上で17万字の多文字が扱える」と言った要素は、パーソナルメディア社が2003年に発表したT-Kernel仕様OS「PMC T-Kernel」のGUIミドルウェア「T-Shell」にそのまま引き継がれている。元々パソコン向けのOSやHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)を作るプロジェクトであったBTRONプロジェクトの成果は、組み込み向けの「T-Engineプロジェクト」においては、多文字を利用する国である日本・中国・韓国向けの組み込みシステムのGUIや、電子辞書のシステムの開発などで生かされている。 2006年に発売されたBTRON3仕様OS『超漢字V』は、Windows上で動くPCエミュレータ上で稼働する前提で、事実上Windowsのアプリケーションのように動作する。T-Kernelで利用されるスクリプト言語「マイクロスクリプト」が動くので、「WindowsにおけるT-Kernelの開発環境」としての利用が想定されている。 BTRON3仕様OSの設計に関わった松為彰(2008年よりパーソナルメディア社の代表取締役社長)は、T-EngineプロジェクトにおいてはT-Kernelの次世代仕様策定の中心人物として、2010年よりT-Kernel2.0 SWG(サブワーキンググループ)の座長を務めている。 2006年にITRON仕様のVer. 4.03.03がリリースされた。これがμITRON仕様の最終となる。 あくまでT-Kernelへの移行がしやすくなるために改訂されたもので、μITRONからT-Kernelへの移行は不可欠であると坂村は仕様書の冒頭において語っている。 μITRON仕様において、実装定義についての記述を一覧表にまとめ、これまでわかりにくかった部分がわかり易くなった。また、μITRON3.0、μITRON4.0、T-Kernelにおいて同等の機能を持つサービスコールを規定し、将来的にT-Kernelに移行する際、μITRONからT-Kernelへの移植をより容易に行うことができるようになった。 1989年に建設されたTRON電脳住宅の第2弾として、2004年に建設された。トヨタ自動車及びトヨタホームをスポンサーとして、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ博物館向かいに建設された。 第1弾と比べると、屋上がすべて太陽電池になっているなど、「エコ」になっているのが大きな特徴。「愛・地球博」の開催に合わせ、2005年3月25日より9月25日まで一般公開された後、非公開でトヨタの様々な実験に使われ、2014年に解体された。 2010年にはトロン協会が解散している。 YRPユビキタス・ネットワーキング研究所(所長:坂村健)とJAXAが2013年に共同開発した、宇宙航空向けのOS。 宇宙航空分野において、低消費電力とリアルタイム性などが評価され、ITRONやT-Kernelなどが多数採用されていた。そのため、東京大学が2013年に開発した惑星分光観測衛星「ひさき」を含むこれまでのノウハウの蓄積を元に、2011年リリースのT-Kernel 2.0をベースとして、高い信頼性、安全性の向上、高精度の時間管理機能などと言った、宇宙航空分野で必要な機能を追加した。 JAXAが2015年に打ち上げ予定のジオスペース探査衛星「あらせ」に搭載することを前提として開発された。「あらせ」はT-Kernel 2.0 AeroSpaceを搭載して2016年に打ち上げられた。 坂村健が2015年より提唱している「アグリゲート・コンピューティング」を実現するための、T-KernelプロジェクトのStep2である。2015年3月に「T-Engineフォーラム」から改称したトロンフォーラムが中心となって推進している。 IoTのためのオープンな標準プラットフォーム環境を構築するためのプロジェクト。2015年発表。 坂村が2015年に提唱し、2016年発売の著書『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』において詳細に記述された「アグリゲートコンピューティング」構想を実現させるためのもの。「アグリゲートコンピューティング」とは、モノとモノがローカルのネットワークで相互に接続される「ユビキタス・コンピューティング」の次の段階で、モノとモノがクラウドを介して相互に接続される世界である。ネットワークの通信速度が高速化した2010年代において現実化した。 プロジェクトの発足直後となる2016年の時点で、ルネサスエレクトロニクス(日本)、東芝マイクロエレクトロニクス(現・東芝デバイスソリューション、日本)、サイプレス・セミコンダクター(アメリカ)、イマジネーションテクノロジーズ(イギリス)、ヌヴォトン・テクノロジー(台湾)、NXPセミコンダクターズ(オランダ)、STマイクロエレクトロニクス(スイス)という世界6か国7社のマイコンメーカーが賛同した。 実装は協賛企業の各社によって行われるが、OSにはμT-Kernel 2.0を搭載し、クラウドサービスに接続する機能を必須要件とする。製品のOSとして非常に低いリソースでも動くTRONを利用し、高度な処理はクラウドに任せるようにすることで、製品の低コスト化・低消費電力化を図ることができる。またTRONと言うオープンなプラットフォームを各社の製品で採用することで、各社の製品で連携を取ることができるようになる。 2017年に東京大学を定年退職し、東洋大学情報連携学部の学部長となった坂村健のコンセプトに基づいて設計された東洋大学の新キャンパス。 UR都市機構は老朽化した旧UR赤羽台団地の建て替えを2000年代より進めており、その際に余った土地を東洋大学が購入し、2017年に開校した。 キャンパス全体がIoT化されており、TRONプロジェクトを体現したものとなっている。 1989年の「TRON電脳住宅」、2004年の「トヨタ夢の住宅PAPI」に続く、TRON電脳住宅の第3弾。2018年に設置された「URにおけるIoT及びAI等活用研究会」(会長・坂村健)が推進している。 UR都市機構が「ヌーヴェル赤羽台」として再整備を進める旧UR赤羽台団地の一部区画に、坂村健が学部長を務める東洋大学赤羽台キャンパスが開校したことをきっかけとして、UR都市機構と東洋大学情報連携学部が2018年に提携したことにより実現した。 2030年の完成を目指している。 T-Kernel2.0をベースに、産業機器向けの機能安全規格であるIEC 61508 SIL3に対応したTRON。日立製作所、ルネサス エレクトロニクス、日立超LSIシステムズを中心として2017年に策定された。 2000年代以降、特に欧州に産業機器を輸出する際はIEC 61508の認証が必須となり、ISO 26262(自動車)などその他の安全規格への準拠を条件とする場合も増えた。しかし、第三者機関から認証を受けるには5億円程度かかるため、組み込み業界の多くを占める中小企業が認証を得ることは難しい。そのため、トロンフォーラムが代わりにIEC 61508で安全要求レベルが最も厳しい「SIL3」の認証を得た上で無償公開される「TRON Safe Kernel」をOSとして採用することで、海外に製品の輸出がしやすくなり、またメーカーの実装ごとに独自に認証を受けた場合にかかる費用も無くすことができる。 安全水準の異なるソフトウェアを分離して実行するためのドメイン管理機能を備えており、機能安全水準を満たさないアプリケーションを動かす場合はT-Kernel2.0として動作する。 米電気電子学会IEEEによる、リアルタイムオペレーティングシステムの国際標準規格である。2018年策定。 2013年発表のμT-Kernel2.0が、2018年にIEEEによって標準化されたもの。これに準拠したOSとして、2018年発表のμT-Kernel 3.0が存在する。 μT-Kernel2.0の権利がトロンフォーラムからIEEEに譲渡され「IEEE 2050-2018」となったことにより、2018年までμT-Kernel2.0と呼ばれていたものは以後IEEEによってメンテナンスされることとなった。そのため、トロンフォーラムの開発のメインはμT-Kernel 3.0に移行した。 RTOSの国際標準規格であるIEEE 2050-2018に準拠した、μT-Kernel2.0の上位互換OS。2018年発表。 μT-Kernel 2.0が小規模マイコン向けであったのに対して、μT-Kernel 3.0はIoTエッジノード向けに最適化されており、μT-Kernel 2.0からプロセス管理機能や仮想記憶などが省略されている。また、ソースコードが見直され、最新のマイコンへの移植性が高められた。 2019年11月にはARM Cortex-M3マイコンを搭載したIoT-Engineで動作するカーネルのソースコードが、トロンフォーラムのホームページ及びgithubで公開された。 1989年のデザイン。「」(大漢和 5-13536、GT 17106、U+23091「𣂑」)をモチーフとしたもの。「斗」の古字で「升」の意があり、升=計器=規格に通じる、といった考えがある。中央の「十」の部分がTRONの頭文字「t」を模してもいる。 また、この字を使い、TRONを漢字で「論」と当て字したりもする。中国で篆刻してもらおうとしたところ、この字は国字であるために中国でも通用する「斗」にされてしまい、さらに篆書体のために、まるで「毛」という字のような、当初の意図とは全くかけ離れたものが出来上がってしまった、というエピソードがある。 TRONプロジェクトでは、コンピュータ用として新しくデザインし直されたキーボードも製作した。放射状の配列を採用した「TRONキーボード」と、ノートPC等での使用を考慮し、矩形内に配列した「μTRONキーボード」がある。 プロジェクトの当初の時期に設計・試作(一部製品化)されたキーボードは、英字系がDvorak配列ベース、日本語系がプロジェクトでの調査にもとづく独自配列(物理形状としては、M式等との類似もあるが中迫勝らの研究を参考・反映したもの。日本語入力方式はシフトによりひとつのキーに割り当てられた複数のかなを切り替えるという点は親指シフトに類似している)というものであった。 掌に合わせた物理形状であることから、掌の大きさに合わせないと使い辛くなることが予想でき、それに対応するためS・M・Lの複数サイズを最終的には用意することとしていたが、沖による試作品やTK1などでMサイズ以外のものは作られなかった(後述する、2017年初頭現在製造市販されているμTRONキーボードは、左右セパレート型にすることである程度のポジションの違いに対応している)。 「μTRONキーボード」という商品名で2017年初頭現在製造・市販(ユーシーテクノロジ(株)製造・パーソナルメディア(株)販売)されているものは、QWERTYとJISかな配列になっており、TRON本来の配列は添付の厚紙製トレーナーと、ドライバソフトウェアによるサポートとなっている。「TRON配列モード」に切り替えるとUSBから一瞬論理的に切り離され、USBプロダクト IDが変化して再接続する。 坂村が1982年に発表したプレゼンテーションスライド「未来のオフィス」で大枠が示され、1987年の論文『The Objectives of the TRON Project』において明確なビジョンとして示された。 未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携するシステムを「超機能分散システム」、Highly Functionally Distributed System(HFDS)と呼んだ。そして、TRONをその実現に向け準備するプロジェクトと位置付けるものである。 対談などではくだけた表現として「どこでもコンピュータ」などと呼ぶこともあったり、2000年ごろよりマーク・ワイザーによるユビキタスコンピューティングの概念が広まってからは、そちらを使うことが多くなった。2000年代後半以降は「IoT」と呼んでいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健による、リアルタイムオペレーティングシステム(RTOS) 仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。1984年6月開始。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "TRONとは、「The Real-time Operating system Nucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)の頭字語である。組み込み向けのRTOSの仕様の策定をプロジェクトの中核としているが、本来は応用(アプリケーション)のユーザインタフェースのデザインやハードウェアの仕様策定など、様々なサブプロジェクトを含む。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトの中心人物である坂村健は、TRONプロジェクトが開始した1984年頃より、リアルタイムカーネル(組み込み向け)のITRONと、より大きなシステム(パソコン向け)のBTRON、それらを統合するシステムであるMTRON、といったロードマップを示していたが、1987年に発表した論文『The Objectives of the TRON Project』において、HFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)と言う構想を発表。未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携させるのだという未来像が提示され、TRONはその実現に向け準備するプロジェクトだ、と規定された。すなわち、μITRON3.0仕様書の言葉を借りれば「コンピュータ組み込み機器をネットワーク接続し、それらに積極的に環境を演出させる」という「電脳強化環境(Computer Augumented Environment)」の実現こそがTRONプロジェクトの目標であると提示され、これを一般向けに解りやすく言い換えて「どこでもコンピュータ」とも称していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1980年代にTRONプロジェクトの中核とされたサブプロジェクトのうち、組み込み向けオペレーティングシステム(OS)のITRON以外は2000年代を迎える前に頓挫したものの、2000年頃には身の回りのほとんどの電気/電子機器に組み込みシステムが応用されるような時代となった。TRONプロジェクトはこのような「ユビキタス社会」において、組み込みシステム用のリアルタイムカーネルのデファクト標準仕様としてのμITRONを中心として、「どこでもコンピュータ環境、ユビキタスネットワーク社会」をゴールとして掲げた。例えば任天堂が2017年に発売したゲーム機「Nintendo Switch」のコントローラー「Joy-Con」にμITRON4.0が、セイコーエプソンが2008年に発売したプリンター「カラリオ EP-901F」にeT-Kernel Multi-Core Editionが搭載されているなど、TRON系OSは2000年代以降も、主に炊飯器・洗濯機・カメラ・ゲーム機などと言った日本メーカーの家電製品に搭載されたマイコンを制御するための組み込み用OSとして、広く使われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "坂村は2015年、身の回りのあらゆるものがローカルのネットワークでつながる「ユビキタスコンピューティング」の次の段階として、身の回りのあらゆるものがクラウドコンピューティングを通じてつながるという「アグリゲート・コンピューティング」という構想を発表。TRONは2010年代以降のIoT時代においても、IoTを実現する様々なデバイスを制御するための組み込み用リアルタイムOSの一つとなるべく、クラウドソリューションのMicrosoft Azureを提供する日本マイクロソフト社とも連携しながら、開発が行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトは、1990年代後半にインターネットを通じたフリーソフトウェア運動が盛んになる以前より、OSのソースコードや仕様書などを含めた全ての成果物を一般向けに無償で公開しており、その使用に際しては実施料を要求されず、実装・商品化は誰でも自由に行える。2010年代以降にはフリーソフトウェア運動に倣って「オープンソース」「オープンデータ」「オープンAPI」を標榜している。一方で、ユーザー側で実装したアプリケーションについては、クローズでもよいということを表明しており、これが「ノウハウを公開したくない」と言う組み込みメーカーの支持に繋がっている。TRONのライセンスであるT-Licenseは、フリーソフトウェア運動で主流のライセンスであるGPLやBSDライセンスなどと比べてかなり緩く設定されており、派生物においては全てをオープンにする義務が課されず、オープンにしてもしなくても自由で、また一部をオープンにして一部をクローズドにするといったことも可能である。かつてのTRON系OSはトロンフォーラムのみが配布元であり、再配布は原則として禁止されていたが、2011年策定のT-License2.0においては時代に合わせて自由度を高め、ソースの改変履歴をトレースするための「ディストリビューションucode」を付与することを条件として、トロンフォーラムが著作権を持つオリジナルのソースをユーザー側で再配布したり、オリジナルのソースに改変を加えたものを再配布したり、オリジナルのソースを第三者が改変して再配布したものに、さらに自分で改変を加えて再配布したりすることも可能となった。TRON系OSの仕様書やT-LicenseといったTRONプロジェクトのオリジナルの成果物の著作権者はトロンフォーラムあるいは坂村健となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトは1984年の開始以来、日本の坂村健が中心となって推進しているが、この活動をサポートする組織としては、2019年現在、坂村が会長を務める「トロンフォーラム」が存在する。トロンフォーラムの会員は日本企業が多いが、幹事会員を務める日本マイクロソフト社を始めとして、外資や海外の企業も存在する。なお、1980年代には「OS」という分野においてTRONプロジェクトとマイクロソフト社の対立が報道されたが、坂村によると実際には「対立していない」とのことで、2003年にはTRONプロジェクトのOSであるT-Engineの上にマイクロソフトのOSであるWindows CEを移植したり、2014年にはIoT分野においてMicrosoft Azureを利用するために日本マイクロソフトとの提携を発表したりなどしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2017年には、IoT時代においてTRONのさらなる世界的普及を目指して、坂村健とトロンフォーラムはTRON系の組み込み向けリアルタイムOS「μT-Kernel 2.0」の著作権を米電気電子学会IEEEに譲渡。2018年9月11日、μT-Kernelベースの「IEEE 2050-2018」が、IEEE標準として正式に成立した。これによってTRON系OSが、IEEEによって標準化されるOSの国際標準規格の一つとなった。2019年にはTRONプロジェクトにおいて初めてGitHubが採用され、μT-Kernel 3.0の仕様書やソースコードなどが世界に公開された。2023年、仕様書やサンプルソースコードをオープンかつ自由に提供し、開発者や利用者のイノベーションを促進したことや、世界中で数十億台の組み込み機器に採用されていることを評価され、IEEEによってIEEEマイルストーンに認定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。", "title": "サブプロジェクト" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1984年に坂村が開始し、1986年発足のTRON協議会(1988年に「トロン協会」に改称)が中心となって推進した初期のTRONプロジェクトにおいては、組み込み向けOSの「ITRON」、ビジネス向け(現代で言うパソコン向け)OSの「BTRON」、メインフレーム向け(現代で言うサーバー向け)OSの「CTRON」、TRONにおけるヒューマンインターフェイスをデザインする「トロン電子機器HMI研究会」、TRON構想を実現するためのハードウェアを策定する「トロンチップ」、これらを統括する(現代で言う分散コンピューティングに相当する)「MTRON」、の6つが主なプロジェクトとされていた。", "title": "サブプロジェクト" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「ITRON」プロジェクトの成功を受け、坂村は2000年に開かれたトロン協会の第12回通常総会において、TRONプロジェクトが第2ステージに入ったことを宣言。ITRONの標準化を進めた「μITRON4.0」を継承し、組み込みシステムの高性能化・高機能化に対応した、OSのより強い標準化を進めるため、2001年に次世代のTRONプロジェクト「T-Engineプロジェクト」が発足。2002年発足のT-Engineフォーラムが推進する初期のT-Engineプロジェクトおいては、コミュニケーションマシン(携帯情報端末、携帯電話など)向けの「BTRON3」、旧世代のOSながら依然として広く使われる「μITRON4.0」、などの従来からのサブプロジェクトに加えて、BTRON3で使われるファイル形式の「TAD(TRON Application Databus)」、TRONで16万字以上を扱える多文字環境を実現する「多言語処理環境」、次世代組み込みOSの「T-Kernel」、T-Kernelの開発環境として標準化された「T-Engine」、電子伝票システム(現代で言う公開鍵暗号方式)の「eTRON」が主なサブプロジェクトであった。", "title": "サブプロジェクト" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2011年、T-Kernel2.0の発表と同時にT-Engineプロジェクトの「Step2」が宣言され、それ以前のT-Engineプロジェクトが「Step1」、μITRON4.0が「Step0」と位置付けられた。2015年にT-Engineフォーラムは「トロンフォーラム」と改称され、IoT時代を見据えてTRON本来の役割に立ち返るべく、再び各種のサブプロジェクトの構想が活発化している。", "title": "サブプロジェクト" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、T-Engineプロジェクトの開始後も、レガシー向けに旧来のITRONの需要がまだ残っていたことから、ITRONを推進するトロン協会とT-Kernelを推進するT-Engineフォーラムはしばらく併存していた。トロン協会は2010年に解散したが、ITRONは未だ広く使われており、サポートはT-Engineフォーラム(2015年3月に「トロンフォーラム」と改称)が継承している。", "title": "サブプロジェクト" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "坂村健が1984年に開始した、初期のTRONプロジェクトである。1986年発足のTRON協議会(1988年に社団法人トロン協会に改称)が中心となって推進していた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "組み込みシステム向け(を重視した)RTOS。TRONプロジェクトにおける最も古いプロジェクトであり、1984年にプロジェクトを開始した。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1982年より、日本電子工業振興協会・マイクロコンピュータ技術委員会・OS分科会において、日本の電機各社とともに日本のマイコン開発をどう進めるかを議論していた中で、主査であった坂村健(当時は東京大学理学部情報科学科助手)が構想したものが、形となったものである。「まず基盤となるリアルタイムOSを含む開発環境整備から進め、その後、そのOSが最も効率よく動くチップを作ろう」と言うことで、まず最初にITRONプロジェクトが開始された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "マイクロコンピュータ技術委員会に参加していたメンバーのうち、門田浩(当時NECの集積回路事業部、退社後に組み込みシステム技術協会専務理事)と桑田薫(同、NEC/ルネサス退社後に東工大副学長。TRONプロジェクトの主要開発者はほとんど男性だったが、坂村がデザインしたトロンOSを最初に実装したプログラマは女性だった)を中心とする日本電気(NEC)のチームによって最初にITRONの実装が進められ、1985年春にはNEC V20/30上で動作するITRONの実装「ITRON/86」がNECによって公開された。1986年8月には68000上で動作するITRON/68K仕様OS「HI68K」が日立によって公開されるなど(日立武蔵の竹山寛らが開発)、ITRONの仕様の策定と各社による実装が同時に行われ、各社の実装がITRON仕様にフィードバックされた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1984年当時、日本の組み込みシステムはOSを搭載しておらず、そのためITRONの当時のライバルは「他のリアルタイムOS」ではなく「OSを利用していない組み込みシステム」であった。OSを搭載しないシステムと比較して、OSを搭載することでどうしても発生してしまうオーバーヘッドを最小限に減らし、OSの導入による標準化によって生じるソフトウェアの互換性や保守性の面でのメリットが上回るように、「弱い標準化」の方針で仕様の設計が行われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1987年5月に16ビットプロセッサ向けの初版(ITRON1)を公開。ITRON1仕様はNEC Vシリーズやモトローラ68000を始めとして数十を超える16ビットシステムに実装が行われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1989年にはITRON1仕様に機能の追加やITRON2相互間の互換性強化などを施した32ビットの大規模組み込みプロセッサ(TRONCHIPを想定)向けの「ITRON2」を公開。同時に、小規模組み込みシステム(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサ)向けのITRON2のサブセットとして「μITRON(μITRON2)」も公開された。「ITRON1の標準化の程度を上げて仕様拡張を行ったのがITRON2であり、ITRON1の適応化の程度を上げて仕様を簡略化したのがμITRON」とのこと。システム間で共通する標準OSとしての互換性を保つことと、各システムに合わせてOSを適応化することで得られる性能の向上は、トレードオフの関係になるため、高性能な32ビットシステムと低性能な8ビットシステムの双方において、そのバランスを取れるように策定された仕様である。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ITRON2仕様においては、ITRON間の互換性やアプリケーションプログラムの移植性が高められ、またITRON仕様とBTRON・CTRONとの整合性が強化された。ただし、μITRON仕様が非常に広く普及したのに対して、ITRON2仕様はほとんど利用例が無く、失敗に終わったといえる。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "μITRON仕様の基本方針に関して、1989年当時、様々な汎用の16ビットプロセッサにおいてITRONが使われていたが、家電製品や自動車への組み込みを目的としたチップ(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサなど)においては、ROM容量・RAM容量の制限やコストの問題などから標準OSが使われることは少なく、アプリケーション側でOSの機能まで包含してプログラミングを行うのが一般的であった。いくらITRONは適応化によって不要な機能を削除できるといっても、元々16ビットシステム用に策定されたITRON1仕様はこれらのシステムにおいては巨大であり、オーバーヘッドが発生するため、採用できない。そのため、μITRON仕様においては、ITRONのシステムコールインタフェースやパラメータの有無などいくつかの点について、推奨仕様あるいはインプリメント依存仕様に格下げを行うなど自由度大きくし、また、OSレベルでの機能のサブセット化を許し、OSのインプリメンタがプロセッサアーキテクチャに合った機能や必要性の高い機能を自由に選択できるなど、ITRON2の仕様書の言葉を借りるなら、OSとしての標準化が「限界を超える」所まで弱められた。この点から、「μITRONは、一つのOSの仕様を指すものではなく、OSの仕様設計を行ない、システムコールの命名を行うためのガイドライン」に過ぎないと坂村は考えており、「μITRONでは、プロセッサ毎あるいはアプリケーション毎に、一つのガイドラインに沿った別々のOS仕様が存在しており、それらのOSがμITRONというOSのファミリを形成」するものと想定された。ITRONが様々なプロセッサに実装される組み込みにおいては、OSの仕様の違いによる問題よりも、プロセッサ間による違いの方がずっと影響力が大きいため、標準OSとしての互換性が取れなくても問題ない。それでも、どのITRON仕様OSにおいてもμITRON仕様で決めたシステムコール名称を使っているため、プログラマの教育がしやすく、「教育の互換性」というメリットは大きなものだと坂村は考えた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "坂村の考えは成功し、μITRON3.0仕様が策定された1993年の時点で、ほとんどすべての日本メーカー製8ビットMCUにμITRON2が実装され、さらにはμITRON2仕様カーネルを32ビットプロセッサ用に実装するという、当初想定していなかった適用例も出てきた。そのため、1993年発表のμITRON3.0仕様においては、μITRON2における事例のフィードバックを受けて、ITRON2とμITRONの仕様が一本化され、μITRON仕様はITRON全体の新バージョンとして、ITRONのほぼ全てに相当する機能を持つようになった。μITRON3.0においては、標準化と適応化の強化に加えて、「接続機能」が追加されたことが大きな特徴で、1993年当時はコピー機やFAXなど、MCUの低価格化に従って1つの機器の制御に複数のMCUが使われるケースが増えてきていたことから、μITRON仕様カーネルを持ったノードを疎結合ネットワークによって相互接続した分散システムをサポートするための機能が追加された。また、開発環境の標準化などにも取り組んだ。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1994年よりトヨタ社が車載用OSの候補としてITRONを検討し始め、1997年にはITRON専門委員会の下にRTOS自動車応用技術委員会が設立され、1999年にはITRONを搭載した初の自動車、トヨタ・ランドクルーザープラドが発売された。この頃には、民生用機器においては、デジタル家電で広く使用されていた他、1990年代後半から2000代前半にかけて普及したフィーチャーフォンにおいても広く使われていた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1999年にはμITRON4仕様が公開される。ソフトウェア移植性の向上、外販することを前提とするソフトウェア部品構築のための機能、自動車制御分野おけるRTOSに対する要求、プロセッサの性能向上やメモリ容量の増加への対応(従来はオーバーヘッドが大きかったために見送られた機能も入れることができるようになった)、が主な追加点である。この頃には、ネットワーク応用やインターネット・イントラネット関連機器を中心として、通信やGUI・デバッグ関連のミドルウェアがITRON上で利用される機会が増加し、これらのミドルウェアの移植性向上に対する要求を満足するため、「弱い標準化」と「強い標準化」と言う相反する要求を満たす仕様となった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "組み込み機器の機能の高度化や複雑化・大規模化に対応するため、2001年に「より強い標準化」を目指したT-Engineプロジェクトが開始され、ITRONプロジェクトは終了した。しかし「リアルタイム性、リソースを浪費しないコンパクトさ、柔軟な仕様適合性、オープンアーキテクチャポリシー」が強く支持され、その後も小規模システムにおいてはμITRONが広く使われている。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、μITRON4.0の仕様策定の中心人物であり、坂村健の監修のもとでμITRON4.0の仕様書を編纂した東大坂村研究室出身の高田広章は、T-Engineプロジェクトに移行せず、μITRON4.0仕様に準拠した「TOPPERS/JSPカーネル」をベースとするTOPPERSプロジェクトを独自に立ち上げた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「Business TRON」の略。OA機器(オフィスなどでビジネス用に使われることが想定されるコンピューターで、現代で言うパソコンに相当する)向けのOSの仕様で、1985年に開発がスタートした。ちなみに「BTRON」とはOSの名称ではなく、仕様の名称であり、BTRON仕様に準拠したOSが各社からリリースされることが想定される。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "BTRONプロジェクトにおいては、BTRON仕様OSの策定だけでなく、キーボードなどのハードウェア(HMI、ヒューマン・マシン・インターフェース)やデータフォーマットの策定も含め、コンピュータのあらゆる階層が再設計された。むしろBTRONプロジェクトにおいては、OSの仕様策定よりもHMIやデータフォーマットの策定がメインであるとも坂村は考えており、「特定のアプリケーションを動かすためだけなら、アプリケーションの互換性は問題ではない」として、BTRON仕様のHMIとデータ形式をBTRON仕様ではないOSの上に実現した「μBTRON」も想定されていた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "BTRON仕様OSは、1987年8月の時点では、パソコンやワークステーション向けのBTRON(μBTRON、後にBTRON1と呼ばれる)、1987年から1988年にかけて出る予定である専用機(ワープロなど特定の用途に使われる機械)向けのμBTRON、1990年までに完成するはずであるトロンチップ(当時TRONプロジェクトで開発中であったチップ)向けのBTRON(ピュアBTRON、後にBTRON2と呼ばれる)、の3つが構想されていた。ちなみに、BTRON2仕様OSは大澤範高(当時・パーソナルメディア社、後・千葉大学大学院教授)らによって開発されていたらしいが、実装は結局リリースされず、BTRON2の仕様書のみが1992年に出版された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "他のTRONプロジェクトのOSとは違って、BTRON仕様OSを搭載した機器は直接人間が扱うものであるという特徴があることから、坂村はBTRONマシンを「コミュニケーションマシン」と位置付け、人間工学的見地から見て使いやすいデザインや障碍者にも使いやすいデザインなど、開発当初からHMI(ヒューマン・マシン・インタフェース)に重点が置かれて開発が行われた。BTRONのHMIを定める「BTRON HMI」においては、ハードウェアも規定され、例えば入力デバイスとしてキーボードと(マウスではなく)ペンを使うことが規定された。坂村はBTRONで使われる「TRONキーボード」の制作を沖電気に、電子ペン(現代で言うスタイラスペン)の制作をワコムに依頼。TRONキーボードは1986年に完成、ワコムのワイアレス電子ペンは1987年に完成した。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1985年、文部省は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画において、学校へのコンピューター導入のために初めて予算を計上した(初年度は20億円。年々増加し、自治体からの補助金も入れるとかなり巨額の補助金が出る)。同じころ、通商産業省もソフトウェア危機に対応するために予算を計上し、またメーカーに働きかけを行った。1986年より、学校教育へのコンピュータの導入を目指して通商産業省と文部省が設立したCEC(セック、財団法人コンピュータ教育開発センター)によって、日本の教育用パソコンのOSの標準化を図るため、BTRON仕様OSが日本の学校教育における標準OSとして検討された。1987年当時、NEC以外のメーカーはパソコンのシェアが非常に少なかったので、CECの策定した「CECマシン」を作って当時全国に約3万5千校存在した小中学校において国費で確保された教育パソコン市場を取ることでNECの牙城を崩すべく、1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した。教育用パソコンも含めて1987年当時の日本のパソコン市場をほぼ独占していたNECは、当時はPC-8801シリーズからPC-9801シリーズへの移行期にあたり、N88-BASICでの動作を前提とする8ビット機のPC-8801に代わってMS-DOSの搭載を前提とする16ビット次世代機のPC-9801シリーズの普及を推進していたので、NECだけは最後まで渋ったが、半年以上ゴネた末にBTRONとMS-DOSのダブルOSを許可することで説得に応じ、日本の教育市場で使用されるパソコン「CECマシン」においてBTRON仕様のOSを採用することで1989年3月に正式決定。'87、'88、'89、と次第に仕様が固められたCECマシン仕様においては、トロンキーボードは不採用となるなど、CECマシンは坂村が当初構想していた「コミュニケーションマシン」としてのBTRONマシンとは異なる、普通のパソコンとなっていった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "BTRON仕様OSの開発に当たっては、BTRONプロジェクト開始当初よりNECに強力な対抗意識を燃やす松下電器産業が参画し、早川茂専務の即断で200人体制でBTRON仕様の開発に当たらせるなど、松下を中心とする反NEC陣営による強力な開発体制が敷かれた。BTRON1仕様OSは、櫛木好明(当時は松下電器産業情報システム研究所長、後に松下電器常務取締役)率いる松下電器産業中央研究所(大阪府門真市)の情報システム研究所が中心となって開発され、現場は真弓和昭(当時は松下電器産業情報システム研究所次長、退職後に大阪産業大学客員教授)が主導した。松下は1987年3月に試作機を公開(この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成であった)、CECマシンの仕様が固まるにつれて、1988年にはIntel 80286での動作を前提とするBTRON/286 1.1を発表(このBTRON/286仕様がBTRON1仕様となる)、松下は1989年3月にはついにCECマシンの実用機を完成させた。CECマシンのOSであるBTRON仕様OSは、松下が他の11社にライセンスする形式で(BTRON仕様OSは誰でも開発できるとの建前だったが、実際は松下1社のみが供給した。「CECへの納入品のみに搭載できる」という条件で、松下は自社で開発したOSを各社に有料で貸し出した)、同年中にはCECに加盟するAX陣営(「反NEC陣営」から「FMR陣営」の富士通と松下を除いたもの)の共同により、AX陣営の各社が製造したAXアーキテクチャのパソコンにもBTRON仕様OSが移植され、1989年10月に東京国際見本市会場で開催されたデータショウ'89では、松下の策定したBTRON1.2仕様OSを搭載した、様々なBTRONマシンの試作品が展示された(なお、データショウ'89の目玉は、PC-98シリーズの新フラッグシップPC-H98およびPC-98シリーズ初のラップトップパソコン「98NOTE」や、Mac初のラップトップパソコンMacintosh Portableであり、TRONは全く注目されなかった。TRON陣営にしても、例えば東芝は当時世界シェア1位のPC/AT互換ラップトップパソコンDynaBookの展示の方に力を入れていた)。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし1988年、アメリカ合衆国通商代表部(USTR)によって「政府調達のOSを松下に限定するのは不公正である」との指摘を受け(この時は日本側は「BTRON仕様OSは誰でも開発できる」と釈明し、USTRは誤解を解いた)、さらに1989年4月、USTRが発表した「貿易障壁年次報告」においてBTRONが取り上げられ、スーパー301条に基づく制裁の候補とされるなど、日米貿易摩擦を背景とした米国からの圧力にさらされた。1989年5月にトロン協会がUSTRに対して「誤解だ」と抗議文を送り、同月中にUSTRは誤解を解いて、この時はトロンはスーパー301条対象品目から外された。なお、スーパー301条とは、市場における不公正な取引慣行に対して撤廃を求めて米国が対象国との交渉を行い、もし撤廃されなければ高額な関税などの制裁を課すというもので、「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」と言う趣旨が協会抗議文への返書に書かれてあったとのこと。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかしこれを機に、NECがCECに対してBTRONの不採用を要求。6月、CECはBTRON仕様による統一を断念。この経緯を『日経コンピュータ』誌(1989年8月28日号)が「BTRONベースの教育用PC、標準化は事実上不可能に」と報じるなど、「BTRON採用断念」を同時期のマスコミが盛んに報じた。ただしこの時点では、OSの仕様の統一は断念されたと言っても、ほとんどのメーカーはCECマシンのOSとしてBTRON仕様OSを採用していたが、1990年3月にアメリカ合衆国通商代表部が発表した貿易障壁年次報告においても、再びBTRONが取り上げられた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その結果(経緯の詳細はBTRON#通商問題を参照)、小学校への導入は当初の予定どおりには実現しなかった。BTRONプロジェクトに賛同したパソコンメーカーは、BTRONに教育用パソコンとしての目があるということだったので「ある程度の出費はしかたない」(東芝におけるBTRON仕様開発の中心人物としてNHK「トロン誕生」にも出演した元東芝基本ソフトウェア第2部主幹の小田一博の回想)と考えてBTRONプロジェクトに参加していたが、もはやBTRON採用の目がなくなったので、みなBTRONプロジェクトから手を引いた。1989年2月にはBTRON仕様OS対応ソフトウェア開発の協力のために、松下を中心としてBTRONソフトウェア懇談会が発足していたが、1990年には富士通を始めとするメーカーがBTRONソフトウェア懇談会から次々と脱会。富士通は元々は松下と並ぶBTRON陣営の中核企業として、1987年にパソコン開発において松下と提携していたが、同年中には「CECマシンの仕様を見極められない」として、MS-DOSを搭載した自社独自規格のFMRシリーズを教育市場向けに発売し、1989年時点では教育市場でそれなりのシェアを持っていたので、既に「CECマシン」を開発する意味はなかった。さらに富士通は、FMRシリーズの次世代機として1989年2月にFM-TOWNSを発売していたが、にもかかわらず「反NEC」と言うだけで1990年までBTRONソフトウェア懇談会に参画していた。つまり、CECに加盟する反NEC陣営の各社においては、CECマシンはNECへの対抗手段の一つに過ぎず、それ以外のプロジェクトを同時に進行していた。BTRON仕様OSの開発の中心メーカーであった松下電器産業も、外圧を恐れて1990年にBTRONソフトウェア懇談会を脱会。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた松下通信工業に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業からPanacom(松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「N88-BASIC」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機FM-TOWNSを選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそはDOS/VでNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに日本アイ・ビー・エムを盟主とするOADG陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1988年1月にNHKで放映された「コンピューターの時代」シリーズ第4話『トロン誕生』では、山中俊治がデザインしたBTRONマシンのモックアップの前に座った坂村を案内人として、BTRONマシンの入力装置である「トロンキーボード」を開発中の沖電気青梅工場、このトロンキーボードと電子ペンを使用したコマンド入力システム(トロン作法)を開発中の東芝青梅工場、BTRON仕様OSを開発中の松下電器産業中央研究所、などにカメラが入り、その未来のコンセプトデザインが当時非常に話題となったが、上記の経緯で、教育用パソコン「CECマシン」の仕様策定が頓座したことをきっかけに、一般向けのBTRONマシンが発売されないうちにBTRONプロジェクトは衰退してしまった。(この番組に出演した東芝の小田一博は、CECが各社からの出向者の寄り合い部隊で確たる信念を持たなかったこと、まずAPIの仕様作成に注力すべきなのに(4年かけて)ハードの仕様を策定したことなど、Σプロジェクトと同じ失敗をしたと後に回想している。また、2003年4月にNHKで放映された「プロジェクトX」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、上記の経緯の裏にあたかもマイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で、当時TRONにWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の古川享は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であり、通産省・総務省・文部省が計上した総計2300億円の国家予算に対しても、技術開発よりも予算欲しさの企業ばかり集まった「国家予算のバラマキ行政」と評している。)", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "そのため、BTRONの一般ユーザーへの普及を目指し、松下のBTRON仕様OSに搭載されたエディタを作成するなどBTRON仕様OS用応用ソフトウェア開発の中心であったパーソナルメディア株式会社を中心として、1991年にBTRONソフトウェア開発機構が発足。パーソナルメディア社が松下からOEMを受け、松下のパソコンにBTRON1仕様OSを搭載した一般向けパソコンの「電房具」シリーズの第1弾となるノートパソコン「1B/note」が1991年8月に発表(9月発売)された。松下が開発したBTRON1仕様OSは(CECマシンを除いて)松下以外のパソコンへの移植を許可しておらず、当初はBTRON仕様OSが他社のパソコン向けに単体で発売されることは無かったが(そのため、BTRONが普及しなかったのは、松下がBTRON仕様OSを他社ハードに移植するのを禁止したためとの指摘もある)、1994年には松下のBTRON1仕様OSをPC/AT互換機に移植した「1B/V1」がパーソナルメディア社によって発売され、PC/AT互換機を所有する一般のパソコンユーザーでもBTRON仕様のOSを利用できるようになった。当時のBTRON仕様OSは、パソコンにおいてはビデオカードのドライバが無い(ビデオカードによるグラフィック表示支援が使えない)ために、起動や動作が早くても画面表示がカクカクで、競合OS(1994年当時はWindows 3.1。Windowsがまともに動くスペックのPCは高額になるのと、ゲームなどのアプリが揃っていないので、当時はMS-DOSもまだ主流だが、1995年にWindows 95が発売されると大ブームとなり、パソコンのOSはWindowsが主流になる)とは実用面で比較にならなかったが、「実身」「仮身」モデルに代表されるBTRON独特のシステムの熱烈な支持者がいたほか、組み込み用でよく利用されるTRON系OSでありながら曲がりなりにもGUIが利用できることから、開発用OSとしてもある程度の支持者がいた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、パーソナルメディア社は、東大坂村研究室が開発したμITRON3.0仕様OS「ItIs Phase3」をベースに、独自に拡張したBTRON3仕様を策定。1995年にはトロンチップ(富士通GMicro F32/300)にBTRON3.0仕様OS「3B」を搭載した「ピュアTRONマシン」であるワークステーションの「MCUBE / BTRON3 Work Station」を発売、ITRONの開発用マシンや業務用ハードウェアの制御用などに利用された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1998年、パーソナルメディア社は「ItIs Phase3」を「I-right/V」としてDOS/V(i386および互換CPUを搭載した32ビットシステム)に移植し、これを核とした32ビットパソコン用のBTRON3.0仕様OS「B-right/V」を発売。「B-right/V」は、1999年11月発売のバージョン2以降より、多漢字を扱えることをアピールした『超漢字』の名称で発売された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "TRONはパソコン用OSとしてあらゆる文字を扱えることを目標として、約150万字の文字を理論的には扱える文字コードのTRONコードを採用しており、BTRONは1997年発売の「1B/V3」の頃より多数の文字が扱える「多言語対応」をウリとしていた。初代『超漢字』が発売された1999年の時点では、Unicodeにはまだ2万字程度しか収録されておらず、『超漢字』は当時のUnicodeには収録されていなかった異体字、梵字、変体仮名、甲骨文字などが扱えるという点で、漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1999年発売の初代『超漢字』は発売から1年間で7万本、4年で25万本を超える売り上げとなり、これをプリインストールしたパソコンも発売されたが、普及率としてはマイクロソフト社のOS(当時の競合OSはWindows 98)と競合するOSとはなりえず、2006年発売の『超漢字V』においてはWindows上で動くPCエミュレーター上で動作する前提で、事実上Windowsの1アプリケーションとして動作する前提となっている。TRON仕様OSのGUIやキーボードショートカットなどはTRON特有の「TRON作法」に従っており、Windowsに慣れた一般のPCユーザーには慣れるのが難しく、「ハードウェアのドライバが無い」などパソコンのメインOSとして動かすには様々な問題があったが、『超漢字』が事実上Windowsのアプリの1つとなったことで、WindowsのGUIやドライバが利用できるようになり、この問題は解消された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "パソコン用OSとしてのBTRONの流れは上記の通りだが、一方でBTRON3はμITRON3をベースとしているため、一般的なGUIベースのOSが動かないような極めて貧弱な環境においても、μITRON3が動いている限りはBTRON3準拠のGUIを動かすことができるという特徴があった。そのため、1995年頃、パーソナルメディア社がセイコー電子工業など数社から携帯情報端末(PDA)向けのOS制作の依頼があったことを契機として、モバイルで動くBTRONの仕様を策定するというサブプロジェクト「μBTRON」(上記のワープロ専用機向けのμBTRONとは別のプロジェクト)の仕様の策定が開始される。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "(なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword 6000i(BTRON1)、1990年に稼働したJALのオンライン予約システム(メインフレームのIBM 3090とやり取りする端末にBTRON1を実装)でBTRONが採用された。)", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "携帯情報端末(PDA)向けのBTRON。BTRONのサブプロジェクトで、BTRON3仕様をベースに、キーボード未搭載のハードウェアへの対応や、タッチペンへの対応など、モバイル向けの仕様を追加したもの。なお、μITRON4.0の仕様書ではこれを「μBTRON」と呼んでいるが、μBTRON仕様OSを開発したパーソナルメディア社では「携帯端末用BTRON」と呼んでいる。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "セイコー電子工業(セイコーインスツルメント、SII)の販売する業務用PDA「TiPO」シリーズの3代目で、1996年10月発表(1997年2月リリース)の「BrainPad TiPO」への搭載を前提として策定された。SIIより依頼を受けてパーソナルメディア社がPDA用に開発したμBTRON3.0仕様OSの名称が『B-right』であり、TiPO用の「B-right」で動くマイクロスクリプト(BTRON用のスクリプト言語)はDOS/V用の「B-right/V」でも動く(つまり、「B-right/V」が搭載されたパソコンを「TiPO」の開発機として利用することができる)。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1996年当時の一般的なモバイル端末は、GUIベースのOSは実用的ではなく、SIIの業務用端末「BrainPad」シリーズもそれまではOSとしてMS-DOSを積んでいたが、「BrainPad TiPO」ではμBTRONベースのシステムを用いることで、当時の極めて貧弱なモバイル用ハードウェアにおいても実用的な解像度と稼働時間を維持しながらGUIのマルチウィンドウシステムを動かすことができた。「BrainPad TiPO」は1997年開催のなみはや国体の競技記録システムや博物館の案内システムなどの業務用で採用されたほか、1997年2月にはパーソナルメディア社から「電房具TiPO」として、SIIのOEM版が一般向けにも市販された。TiPOは単三アルカリ乾電池1本でハーフVGA(640x240)の解像度と50時間の連続稼働時間を誇りながら、NetFront Browser(ver 1.0)を搭載してインターネットの閲覧も可能であった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし、業務用としてはともかく一般消費者用の機器としては、「パソコンと同等の機能を持ったPDA」と言うμBTRONおよびTiPOのコンセプトは、ビジネスマンを中心とする当時の携帯情報端末のユーザー層に受け入れられたとはいいがたい。当時の非力なモバイル端末に、パソコン(それも一般にほとんど普及していない「TRON作法」を採用したBTRON)のGUIをほとんどそのまま載せていることから、シングルタスクとシングルウインドウシステムを採用した同時期の他のモバイル端末と比べると、表示速度が遅く、「ビジネスのための情報ツール」としての使い勝手は、当時ヒットしていたPDAのシリーズであるザウルスやPalmなどと競合するには至らなかった。また、BTRONの特徴である文書の実身・化身機能を生かそうにも、文書を編集するためのキーボードが付いておらず、ソフトウェアキーボードを起動すると画面の大半を占有して文書が見えなくなった。そのため、「文書の編集ツール」という点でも、DOSと物理キーボードの搭載によって高速かつ強力な文書編集機能を持っていたモバイルギアなどと競合するには至らなかった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "TiPOは、このようなユーザーの声を聞きながらインターネットを通じたプログラムのアップデート(当時としては画期的)を繰り返し、1998年にはNetFront(ver 2.0)などを搭載した「TiPO Plus」にソフトウェアがバージョンアップして若干使い勝手が向上しつつも、1999年に販売を終了する。パーソナルメディア社が編纂した『マイクロスクリプト入門』によると、1998年12月の時点で、携帯端末用BTRONを搭載した機器は「TiPO」しか存在していないとのことで、PDAで広く採用されるようにBTRON仕様を拡張した物の、μBTRON仕様OSを搭載したPDAは結局「TiPO」が唯一の製品であったようだ。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "携帯情報端末にBTRONのGUIをほとんどそのまま載せた「TiPO」は成功しなかったものの、1999年頃よりITRONを搭載したインターネット対応の携帯電話(2010年代においてはガラパゴスケータイと呼ばれている)が続々と登場し、家電や携帯電話にGUIを持ったTRONが搭載されるのが当然の時代になり、そのGUIの開発の大変さがTRONプロジェクトにおいて問題となった。BTRON3仕様OS「B-right」の制作に携わり、松下の手を離れてからのBTRONの開発の中心人物であった松為彰(当時はパーソナルメディア社TRON特別室室長)は、携帯電話などの小型端末からパソコンやFA機器などの大型端末までにおける、GUIの標準化を目指し、BTRON仕様をベースとするTRON-GUIプロジェクトを1999年に立ち上げた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "TRONを搭載した組み込み向けのGUIの規格。1999年より策定開始。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1990年代後半より、組み込み向けハードウェアでもGUIが動かせるほど性能が向上してきたこともあり、コピー機やVTR機と言った一般の家電にもGUIが搭載され始めたが、ハードによって仕様がバラバラで、システムごとにGUIを個別に作らないといけなかったため、プログラムを制作する技術者の負担が非常に大きかった。そのため、1999年に「TRON-GUI仕様研究会」が発足し、組み込みシステムとしての信頼性を保った上でITRONで軽いGUIを制作でき、そしてその開発期間を短縮できるように、組み込み向けGUIの標準化が試みられた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "松為彰(トロン協会TRON-GUI仕様研究会主査)が執筆した『TRON-GUI仕様の概要』によると、「基本的にはBTRON仕様をベースに、不要な機能を除いたものがTRON-GUI」とのこと。1999年にTRON-GUI仕様のドラフトがリリースされたが、正式な仕様書は出ず、2000年にT-Engineプロジェクトが開始するとともに、T-Engineプロジェクトに吸収された模様。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「Communication and Central TRON」の略。メインフレーム向け(現在で言うサーバーに相当する)のTRON OSで、日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)の主導で、1985年にプロジェクトを開始した。電電公社の電話交換機での使用を前提とし、同時にCTRON上で動くアプリケーションも制作された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "当時の電電公社では、電電公社に近しい国内メーカー(いわゆる「電電ファミリー」)と共同開発した情報機DIPS(Dendenkosha Information Processing System)と交換機DEX(Dendenkosha Electronic eXchange)が稼働していたが、石野福弥(当時は日本電電公社電気通信研究所複合交換研究室長、後に早稲田大学教授)らによって、情報処理用メインフレームと電話交換機用メインフレームの2つを統合した「INSコンピュータ」を作るという「INSコンピュータ計画」が1985年に電電公社横須賀電気通信研究所においてスタートしたことが背景にある。「INSコンピュータ計画」においては、「電電公社による独自ハードを策定する」という当初の目的は早々に破棄され、ハードの設計は各々の協力会社に任せ、共通OSの採用によってDIPSとDEXの間におけるソフトウェアの共通性を高めることとなり、そのためのOSとしてTRONが選ばれた。その結果、電電公社の主導で、TRONに通信処理用のAPIを搭載したCTRON仕様を策定することとなり、1986年よりDIPSとDEXの双方で実装に向けた開発が行われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "CTRONの開発に当たっては、OSを下位の「基本OSインタフェース」と上位の「拡張OSインタフェース」に分離し、基本OSインタフェースでプロセッサの違いを吸収するとともに、上位の拡張OSインターフェースでソフトウェアの流通性を確保するという方針が取られた。基本OSインタフェースは1986年に完成し、拡張OSインタフェースは1986年から1988年にかけて公開され、異なるプロセッサ間における移植実験が行われた。CTRONインタフェース仕様は1988年に公開され、仕様の変更や改定などを経て、1993年にはCTRON仕様の集大成として『新版 原典CTRON大系』が出版された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "当時の電電公社で使用されるハードウェアは、電電公社が独自に策定した「電電公社仕様」ともいえる特殊なハードウェアが指定されており、「電電ファミリー」と呼ばれる電電公社に近しい電機メーカーとのハードウェア共同開発体制を取ることにより、電電ファミリー各社の技術向上に寄与すると同時に、電電公社仕様に追随できない外資系メーカーを事実上締め出すことに成功していた(ただし、1機あたり数百億の開発費によって電電公社に莫大な赤字をもたらし、電電公社がNTTとして分割・民営化される遠因ともなった)。そのため、米国より「機器納入の自由化」への圧力がかけられていたが、CTRONプロジェクトでは「CTRONが稼働する限りアーキテクチャは問わない」というオープンな仕様となり、さらに機器納入元としてNEC、富士通、沖電気、日立製作所という「電電ファミリー」4社に加え、海外メーカーとして米AT&Tと加ノーテル(ノーザンテレコムジャパン株式会社)を加えることで外圧を乗り切った。1990年4月にはNTTにノーテル製の中継局用交換機が納入されたが、海外メーカー製の交換機を導入するのは電電公社/NTTにとって初めての事であった(TRONプロジェクトの主要な協力メーカーはほとんど日本企業だが、CTRONプロジェクトにおいては外資のノーザンテレコムジャパンも主要な協力企業の一つである)。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "電電公社によるCTRONプロジェクトは成功し、1990年頃よりNTT社内において、DEXのOSである「DEX-OS」とDIPSのOSである「DIPS-OS」が、CTRON準拠の「IROS(Interface for Realtime Operating System)」に切り替わった。さらに、1996年には改D70型交換機の後継として、NTTと日本電気・富士通・日立製作所・沖電気・東芝・ノーテルの共同開発による、NS10A形ATM交換機にCTRONベースのソフトウェアを採用した「新ノードシステム」が完成した。また、NTTの交換機としての使用に耐える信頼性が評価され、1990年には全国銀行データ通信システム(全銀システム)の中継コンピューター(全銀RC)にもNTTのDIPS-CTRONが採用された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "電電公社によるCTRONプロジェクトにおいては、各社の独自OSからCTRON仕様OSに変えることで従来のアプリが使用できなくなるため、乗り気ではない企業も存在したが、沖電気がプロジェクト発足当初から積極的で、結果としてNTTへの大量納入に成功している。商用のシステムとしても、沖電気では1990年発売のOKI iOX100でCTRONのサブセットを採用し、1992年に自社独自OSのAPOLLOSを廃止し、1996年発売のOKI iOX200シリーズではCTRONが全面採用された。1990年代には日本の電話交換機のほとんどがCTRONベースのシステムとなり、同時に海外にも輸出され、1990年代後半から2000年代前半にかけてのPHSやISDN(N-ISDN)などの高速通信サービスを支えた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "CTRONが電電公社/NTTグループおよびNTTグループに機器を納入しているメーカーの製品以外のハードで使われた例はあまりなく、もはや1990年代においてはメインフレームのダウンサイジングの流れが大きく、ちょうどインターネットの普及に伴ってUNIXサーバーが一世を風靡した時代であり、同時期のほとんどの会社はUNIXサーバーを用意して顧客に提供した。電電公社仕様コンピュータ・DIPSプロジェクトも、1992年には開発を終了した(2002年に全てのDIPSの稼働が終了)。ただし、市販の汎用のサーバー機にCTRONを載せることも可能(と言うより、NTTに納入される機器はCTRONが稼働することが必須要件となるので、世界有数の通信コングロマリットであるNTTグループに機器を納入するために、たとえ外資系メーカーであっても汎用のUNIXサーバーにCTRONを移植するメリットがある)で、NTT社内では元々UNIX系のOSを搭載しているTANDEMのサーバー機Integrity(MIPS系のアーキテクチャ)にCTRONを移植させて、社内VANとして使っていた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "そのNTTでも、2010年代より電話交換機の廃止とIP網への移行に伴って、「新ノードシステム」の撤去が始まっている。NTTでは、2015年までにD70型より以前の交換機は撤去され、全て「新ノードシステム」に巻き取られたが、2025年には「新ノードシステム」の維持限界がやってくると想定されており、2024年から2025年にかけて全て廃止される予定。電電公社/NTTとともにCTRONプロジェクトを推進した坂村は、TRONプロジェクト30周年におけるNTTドコモ社長との対談において、情報・通信処理に特化したCTRONを採用した電話交換機の時代から、インターネット時代における「汎用のもので代われるというIP化」という時代の流れを振り返っている。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "μITRONのタスクと Java仮想マシンのインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "μITRONにJavaを導入することで、μITRONにおいてGUIやネットワーク機能などのリッチな機能を利用することが可能となる。また、ライブラリーが揃っており、ソフトウェアの移植性が高いJavaを利用することで、開発期間を削減し、開発コストを削減することができる。一方、リアルタイム制御やハードウェアの直接制御などと言ったJavaの不得手な部分はμITRONで行う。このように、μITRONとJavaで不得手な部分を互いに補完しあうことができる。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "主な実装としては、アプリックス社の「JBlend」が挙げられる。もともと「JBlend」は、ITRONとJavaを融合するというアプリックス社の構想を元に、1997年4月に試作版、6月に正式版として発表されたOSだったが、これを受けて坂村がアプリックス社に指導を行い、トロン協会のITRON専門委員会に加盟している他の会社とともにJava対応ITRONの標準規格として策定し、1997年12月に発表したものがJTRON1.0仕様である。同時にJBlendも、JTRON仕様OS第1号として改めて発表された。また、JTRONの開発環境として、1998年にはJTRON仕様のパソコン用OS『JTRON/V』もパーソナルメディア社から発売された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本で2001年以降に普及した「Java対応携帯電話」においては、NTTドコモでは503iシリーズ以降において、J-フォンとauにおいては全ての製品でJBlendが採用されていた。アプリックス社は2004年に台湾iaSolution社を買収し、同社のJava環境「iaJET」をJBlendに統合。同年には台湾BenQ社の携帯電話に、台湾メーカーとしては初めてJBlendが採用され、JTRONはアジア地域にも進出した。2006年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が3億台を突破するなど、2000年代に販売された極めて多くのJava対応携帯電話で使われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "しかし、ITRONなどのRTOSは、複数のアプリケーションを安定して動作させる機能が乏しいことや、ツールが整備されておらず、開発に特殊な知識とスキルが要求されるという問題点があった。そのため、1999年に日本のNTTドコモがiモードのサービスを開始して以降、各社の携帯電話プラットフォームにおいて多様で高機能なサービスが提供されるようになると、次第にソフトウェアの複雑化や開発規模の増大に対処できなくなった。1990年代から2000年代前半頃までの携帯電話は、非力なCPUの力を効率的に引き出すためにこのようなRTOSを利用する必要があったが、携帯電話プラットフォーマー各社は2000年代中盤以降のハイスペックな携帯電話への対応をにらんで、μITRONなどの「RTOS」に代わり、マルチスレッドやメモリ保護といったソフトウェア管理機能を標準でサポートしている「高機能OS」の利用を推進することになる。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "例えばNTTドコモは、2004年に「MOAPプラットフォーム」を策定し、今後の3Gサービス(FOMA)向けの携帯電話の開発においてはTRONに代わり、Linuxをベースとする「MOAP(L)」か、もしくはSymbian OSベースの「MOAP(S)」のどちらかのプラットフォームを携帯電話メーカー各社に選択させることにした。例えばパナソニック製端末では、2005年2月発売のP901iで早くもMOAPに対応(この時にパナソニックの携帯電話向けOSをLinuxに一本化する決断をしたのが、1987年当時にBTRON1仕様開発の中心人物であった櫛木好明パナソニックモバイルコミュニケーションズ社長である)。2006年にはアプリックス社もNTTドコモとMOAPライセンスを締結し、MOAPプラットフォーム向けのミドルウェアをNTTドコモに提供することになった。さらに、2006年にはモトローラやNTTドコモなど世界各国の携帯電話プラットフォーマー6社により、携帯電話向け組み込みLinuxのAPIを共通化するためのLiMo Foundationが設立され、NTTドコモのMOAPプラットフォームもここに糾合され、2011年には携帯電話向け組み込みOSTizenとして結実したものの、Android(及びアップル専用のiOS)とのシェア争いに負け2010年代中ごろに事実上消滅し、サムスン電子がウェアラブル端末にしばらく使い続けたに留まった。Symbian OSも同様にAndroidに敗北した。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお、JBlend環境はドコモのMOAPプラットフォームやTIのOMAPプラットフォームなどで動くLinux系OSやSymbian OSなどに移植され、2008年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が5億台を突破するなど、その後もしばらく使われたが、2007年にアプリックス社はGoogle社の求めに応じてオープン・ハンドセット・アライアンスの設立メンバーとして加盟。当時Google社が開発中であった次世代OSであるAndroidの開発に参加すると同時に、アプリックス社で開発中であったJBlendの後継システムは中止された。ITRONに出自を持つJavaプラットフォームとしてのJBlendは、2008年リリースの初代Androidにも「JBlend for Android」として移植され、例えばiモード用アプリがAndroid上で利用できるシステム「iαppli Publisher」など、ガラケーからスマホへの移行期に、ゲームなどガラケー用のJavaアプリをAndroidに移植する用途でしばらく使われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトにおけるチップ(マイクロプロセッサ、現在で言うCPUに相当)の設計を目的とするサブプロジェクト。1986年開始。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占するARM社でも採用されることになる。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より32ビットマイコンの自力開発を進めていた。1986年5月、日立がモトローラのセカンドソースを利用して1985年より発売して大ヒット中の「ZTATマイコン」に関して、ついにモトローラからのライセンスを得られず、牧本次生(1986年当時は日立製作所武蔵工場長)率いる日立のマイコン部隊はモトローラに「ワインドダウン」を要求されるという屈辱を受ける。そのため奮起した日立のマイコン部隊は日立独自の新アーキテクチャ「H32」の仕様策定を進めていたが、1社単独で開発を行うのはリスクが大きいと判断し、日立製作所半導体事業部長の金原取締役に働きかけ、インテルのセカンドソースを製造していた富士通と1986年7月に提携して「GMICROグループ」を結成、2社共同開発体制を取ることにする。その過程で、アーキテクチャとして坂村の提唱するトロンチップを採用することで決定。1987年には三菱もGMICROグループに加盟。その頃には他のメーカーもトロンチップに興味を示し始めた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、富士通・三菱電機・日立の3社(GMICROグループ)の共同開発によるGMICROシリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSであるRTOS(ITRON)やビジネス用OS(BTRON)の高速処理はもちろんの事、UNIXやその他のOSでも高速処理が行える汎用プロセッサとして設計されていた、と『日立評論』では語られているが、坂村の回想によると、「個人用のパソコンにUNIXを載せる」などの当時の坂村の構想は、実際は全く理解されず、「まずIBMのOSを載せる」と言われたとのこと。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "トロン仕様チップでは、MMUなどを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「LX(eXtension)」仕様も策定される予定であった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "トロンチップが各社から出そろった1990年当時、32ビットCPUはほとんど普及していなかったが、今後の普及が予想されており、例えばGMICROグループでは、組み込みやパーソナルワークステーション向けのGMICRO/100(日立の資料では「H32/100」と呼称しているが、実際の製造は三菱が担当し「M32」としてリリース)、エンジニアリングワークステーションやFAコントローラ向けのGMICRO/200(日立が「H32/200」としてリリース)、スーパーミニコンやオフィスワークステーション向けのGMICRO/300(日立の資料では「H32/300」と呼称しているが、実際の製造は富士通が担当し「F32」としてリリース)、と規模に応じて3種類を用意し、幅広い要求に応えられるようにしていた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった(日立のGmicro/200のトランジスタ数は730K、MMUを搭載しない三菱のGmicro/100ですら340Kであり、トランジスタ数70KのHD68000はおろか273Kの68030すら上回る。ちなみに1994年発売のSH-2のトランジスタ数は450Kで、トロンチップH32シリーズと比較するとSHシリーズがどれだけ高コスパであったかが分かる)。例えば日立では、1988年12月にはトロンチップのH32/200(日立版のGMICRO/200)にITRONを載せた開発用シングルボードコンピュータをリリースしており、制御用プロセッサとしての需要を早くから見込んでいたが、組み込み用としてはITRONを搭載した8ビットのH8シリーズ(1988年6月リリース)が主力であり続けた。H8とH16がモトローラの特許侵害として訴えられ、H16は1989年1月より法廷での特許紛争が始まったために製造ができなくなったことにより、1990年頃の日立ではH16を代替する次世代組み込み用マイコンの開発が急務となっていたが、来るべきマルチメディア時代において、日立の既存の技術であるトロンチップのH32やRISC型チップのHPPA(PA-RISC)ではコストパフォーマンスの点で戦えない、と木原利昌が率いる日立のマイコン部門は1990年に判断。次世代CPUの設計は河崎俊平(日立製作所半導体事業部マイコン設計部)に一任され、H8シリーズと並行してSHマイコンの開発が開始された。ちなみにSHシリーズがMMUを搭載するのは日立がマイクロソフトと提携してWindows CEの搭載を前提として開発されたSH-3(1995年リリース)以降である。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期にはPA-RISC(日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)やMC68040が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを32ビット版組み込み用CPUの主力としている。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど、トロンチップの開発を続けた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃ったインテルのチップと比べてパソコンが作りづらかった、としている。そして、パソコンと言う応用を実現できなかったために、組み込みにも使われなかった、結果としてトロンチップは普及しなかった、と考えている。坂村は、1993年にパーソナルメディア社が制作した、日立のGmicro/300にBTRON仕様OSを載せたパソコンの試作機が、Intel iAPX486で動くWindows 3.1と比較して非常に軽快に作動したことや、1993年にリリースされた日立のGmicro/500が、同年にリリースされたインテルのPentiumと比べても遜色ない性能・技術であったことから、トロンチップがパソコンに向いてなかったわけでは無い、と考えている。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと。なお、SHマイコンを設計した河崎俊平は、トロンチップの浮動小数点演算ユニット「GMICRO/FPU」の設計の中心人物として『TRONプロジェクト '88-'89』にも名を連ねているが、CPUの設計がしたかったのにFPUの仕事をさせられた上に、当時は既にトロンチップの市場がしぼみかけていたので仕事がイヤだったが、「ガマンして働いていた」とのこと。SHマイコンの命令セットをほぼ一人で設計した河崎は、命令セットの設計に大勢が関わり、各人が提案する命令を寄せ集めてほとんど使わない命令をたくさん搭載するような従来の日立の方式を「まるで万葉集」と批判している(編注:トロンチップが失敗した理由として、マイコンを売りたいマイコン部門と、大型機を売りたいコンピュータ部門との意識の差異を坂村は指摘しているが、トロンチップを設計した日立のマイコン部門・(半セ)の内部でも、日米貿易摩擦に巻き込まれた牧本らの世代と、SHマイコンで成功した木原らの世代では、トロンチップの評価に差異があることが分かる)。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「きく7号」に搭載され、32ビットプロセッサとしては初めて宇宙に行った。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、日本の電機メーカーは、TRONチップの開発を通じてマイコン開発のノウハウを蓄積した。後の各社の32ビットマイコンの命令セットにいくらかの影響がみられる。特に三菱・M16シリーズはトロンチップM32の下位版として開発され、トロンチップにかなり近い設計思想であり、販売面でも組み込み用として日立のH8シリーズと並ぶほど売れたという。日立(特にSHの開発陣)におけるトロンチップの評価はとても低いが、トロンチップのコスパの悪さを反面教師として開発されたという点で、日立・SHシリーズにも影響を与えた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "TRONにおけるヒューマンインタフェース仕様の策定を行うサブプロジェクト。略称は「トロンHMI仕様」、あるいは「トロン作法」ともいう。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1990年発足の「TRON電子機器HMI研究会」が中心となって策定した。トロンアーキテクチャが考える電子機器や家電製品などのヒューマンインターフェイスの仕様を提示したもので、その成果は1993年に『トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』として書籍化され市販された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1990年当時、炊飯器や扇風機など様々な電化製品がマイコンや液晶パネルを搭載するようになるなど高機能化していたが、必ずしも使いやすくなったわけでは無く、操作が複雑化するなどして、逆に使いづらくなる場合もあった。TRONプロジェクトの最終目標である「電脳社会」「どこにでもコンピュータ(ユビキタスコンピューティング)」が実現すると、人間は社会においてどこでも多くの電子機器に囲まれている環境になるが、コンピュータがいくら高度な機能やサービスを提供できたとしても、人間がそれを享受できないようでは意味がない。それぞれの機器において「理想的」なデザインを採用しているよりも、全ての機器において統一的なデザインを採用していた方が、一つの機器の使い方を覚えると他の機器でも同じように操作できるようになるので、ユーザーにとって使いやすく利点が大きい。そのような観点から、コンピュータから家電まであらゆるモノにおいて統一的な操作方法を提供する、トロンアーキテクチャにおけるインターフェイスの標準化と、ガイドラインの策定が行われた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "トロンHMI仕様においては、「一貫性のある操作体系の提供」、HMI仕様を満たした機器が誰にでも使用できるような「電子技術への平等なアクセスの提供」、その仕様がいつでもどこでも何にでも使用できるような「広い適用性」、ユーザーの誤動作や機器の誤動作を防止する「安全性の確保」、以上の目的を達成するための「最低限の品質保証」、の5つが重視された。そのために、HMI仕様を満たすために必ず守るべき「事項」と、HMI仕様をより良くするためになるべく満たすことが望ましい「指針(ガイドライン)」に分け、全てのガイドラインを満たすのが難しい状況においてどのガイドラインを採用するべきか、の判断を手助けするためにハンドブックが役立てられた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "トロンHMI仕様においては、ディスプレイを用いたGUIと、物理的なデバイスなどを用いたSUI(ソリッド・ユーザー・インターフェイス)が規定され、双方における操作の一貫性が保証された。また、トロンHMI仕様を採用した複数の機器において操作の手順を一貫させるため、単に個別のパーツやレイアウトを標準化するのではなく、複数のパーツにおいて操作を標準化するという「抽象度の高い標準化」が行われた。例えば当時ユーザーが扱うのに特に困難なものと考えれられていた、時刻を設定する「タイマー」の設定の標準化も行われ、例えばビデオと炊飯器のタイマーの操作を一貫させるため、通電開始時刻ではなく録画開始時刻や炊き上がり時刻を設定することが規定された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "誰もが使いやすいデザインとして、身体が不自由な人や、海外の人でも使いやすいデザインとなるように、デザイナーに注意を促した。TRON仕様を満たした家電製品は、海外にも盛んに輸出され、1990年代以降の日本の家電輸出産業を支えた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "『電脳都市 : SFと未来コンピュータ』を出版した1985年当時の坂村は、「どこでもコンピュータ」の社会の実現のため、まず「トロン電脳住宅」、続いて「トロン電脳ビル」、そして「どこでもコンピュータ」環境の最大の応用として「トロン電脳都市」の建設を構想していた。バブル時代ということもあり、竹中工務店を筆頭に多くのスポンサーがついた。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "「千葉TRON電脳都市」の実態はソフトウエア・パーク、「TRON電脳ビル」の実態はインテリジェントビルであった。背景としては、コンピュータに関心が無いにも関わらずイメージアップのために、当時有名だった「TRON」の名前を利用しようとする建設会社や不動産開発会社の思惑があったが、これをTRONの実証実験の場として利用しようと考える坂村との思惑の違いや、バブル崩壊などによって、「TRON電脳都市」構想は幻となった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "障害者や高齢者などのための「TRONイネーブルウェア仕様」(現代で言う「ユニバーサルデザイン」に相当)を定めるサブプロジェクト。1987年に開始。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "「イネーブル(enable)」とは「可能にする」と言う意味で、「イネーブルウェア」とは、障害者や高齢者など「何か」ができなくなっている人に、その「何か」を可能にするためのハードウェア群・ソフトウェア群を指す、TRONプロジェクトによる造語である。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "「Macro TRON」の略。ITRON、BTRON、CTRONなどのTRON系OSで構成される、超機能分散システム(HFDS)全体を対象とするようなOS(の構想)である。1984年に提唱された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "上記のように、HFDS(どこでもコンピュータ)な社会が実現し、身の回りに存在するあらゆるものにTRON系OSが搭載されることになると、それらを統括するネットワークシステムが必要となる。別々に設計された機器を、MTRONを介して相互に接続することが可能になる。MTRONの存在によって、開いたネットワーク(現在で言う分散コンピューティング)環境が実現すると想定された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "これがTRONプロジェクトの最終目標であるとされたが、結局ITRON以外は普及しなかったため、MTRONは構想だけで終わった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ITRONで構成されるMTRON。1993年にリリースされたμITRON3.0の仕様書で提唱された。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1993年のμITRON3.0において、同一の機器に搭載された複数のMCUが相互に接続できるような機能が実現されたが、その次の段階として、別々に設計された機器のMCUが相互に接続できるような仕様のμITRONを策定したいと坂村は考えていた。ITRON3.0の次の世代のITRONで実現するはずであったが、μITRON4.0が策定された1999年の時点では、μITRONを搭載したインターネット端末が普及するなど、もはや「弱い標準化」を志向するμITRONでは時代に追いつかなくなってきており、すぐにT-Kernelプロジェクトが開始したため、構想だけで終わった。", "title": "TRONプロジェクト第1ステージ" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ICカード、特に非接触のものの通信や、認証などのセキュリティなどの規格。2000年発表。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "T-Engineを搭載したチップ同士が安全に通信を行うための公開鍵基盤(PKI)である。全てのモノがネットワークで接続されるユビキタス・コンピューティング社会においてはセキュリティを守るため、利用される全てのT-EngineボードにはeTRONが搭載されることが前提となる。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ハードウェアやソフトウェアなどを含む、T-Kernelの開発環境。2001年発表。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ITRONをベースに設計された、組み込み向けRTOS。2002年公開。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ITRONでは1980年代当時のハードウェアの性能による制限から、仕様書だけ策定されており、実装はハードウェアに合わせて各自で行なう「弱い標準化」の方式となっていたため、最小のシステムから大規模システムにまで対応できるスケーラビリティを持つ一方、それぞれの実装で細かい違いがあり、ソフトの再利用などが困難だった。その反省から、T-Kernelでは2000年代のハードウェアの性能に合わせて「強い標準化」を目指し、仕様書だけでなくソースコードもオープンとなっており、それによって細かな実装上の違いをなくし、デバイスドライバやミドルウェアの再利用が促進できるようになっている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "GUIを持つことが前提となる「T-Kernel」とともに、T-Kernelと互換性を持ちつつ必ずしもGUIを持たないような小さいシステムでも利用できる「μT-Kernel」も策定された。このように、ソフトの再利用性やミドルウェアの利用による開発の容易さと言った特徴を持ちつつも、RTOSとして小規模なシステム開発から大規模なシステム構築用途にまで対応する「フルスケーラビリティ」を持つ。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "T-Engineの標準プラットフォームで、T-Kernelが動作するハードウェア。eTRONを搭載している。ソフトウェアの移植性が高く、異なるCPUを搭載したボードでも同一のソースでソフトウェアが使用できる。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2019年現在、パーソナルメディア株式会社よりトロンフォーラム公認のT-Engineリファレンスボード(U00B0021-02-CPU)が販売されており、T-Kernelの評価ができる。標準価格 49,800円。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "T-KernelおよびBTRONで多漢字・多言語を実現するための多言語処理環境。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2000年に開始した日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「マルチメディア通信システムにおける多国語処理の研究」プロジェクトにおいて開始され、2001年に東京大学に設置された東京大学多国語処理研究会によって引き継がれ、設計が進められている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "その成果は66,773字セットを搭載した「GT書体」として2000年にリリースされ、2001年にはGT書体を標準装備したBTRON3仕様OS『超漢字3』がパーソナルメディア社から発売され、TRONにおいて多国語言語環境が実現できることが実証された。GT書体の収録文字数は、2011年時点で78,675字。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2011年にはGT書体を収録した、Windowsなどでも利用できるTrueTypeフォント「Tフォント」として公開された。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "明朝体・ゴシック体・楷書体がある。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "RFIDタグ(無線ICタグ)などに付与する識別コード(ucode)の体系化を目指したプロジェクト。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "T-Engineフォーラムに2003年に設置されたユビキタスIDセンター(センター長:坂村健)と、東京大学ユビキタス情報社会基盤センターの坂村健(2009年よりセンター長、2017年に定年退職)および越塚登(坂村の定年退職後にユビキタス情報社会基盤センター長)によって推進されている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに128ビットのucodeが埋め込まれており、ICタグリーダを使用することで情報を読み取ることができる。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "BTRON仕様OSにおいて使われるデータ交換形式。BTRONにおいて扱われるデータに関する情報を標準化したもので、このファイル形式を採用することで、アプリケーションのメーカーやバージョンに関係なく、BTRONを搭載した全ての機器におけるデータの完全な互換性が実現される。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2001年頃より爆発的に普及し始めた、GUIを搭載した携帯情報端末において、BTRONの採用が増えるだろうと予測されていたので、BTRON3が主要なプロジェクトと位置付けられていたが、結局1つも発売されなかった。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "パーソナルメディア社がBTRON3仕様OS『超漢字』で実装した、「マイクロスクリプトで簡単にGUIが作れる」や「GUI上で17万字の多文字が扱える」と言った要素は、パーソナルメディア社が2003年に発表したT-Kernel仕様OS「PMC T-Kernel」のGUIミドルウェア「T-Shell」にそのまま引き継がれている。元々パソコン向けのOSやHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)を作るプロジェクトであったBTRONプロジェクトの成果は、組み込み向けの「T-Engineプロジェクト」においては、多文字を利用する国である日本・中国・韓国向けの組み込みシステムのGUIや、電子辞書のシステムの開発などで生かされている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "2006年に発売されたBTRON3仕様OS『超漢字V』は、Windows上で動くPCエミュレータ上で稼働する前提で、事実上Windowsのアプリケーションのように動作する。T-Kernelで利用されるスクリプト言語「マイクロスクリプト」が動くので、「WindowsにおけるT-Kernelの開発環境」としての利用が想定されている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "BTRON3仕様OSの設計に関わった松為彰(2008年よりパーソナルメディア社の代表取締役社長)は、T-EngineプロジェクトにおいてはT-Kernelの次世代仕様策定の中心人物として、2010年よりT-Kernel2.0 SWG(サブワーキンググループ)の座長を務めている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "2006年にITRON仕様のVer. 4.03.03がリリースされた。これがμITRON仕様の最終となる。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "あくまでT-Kernelへの移行がしやすくなるために改訂されたもので、μITRONからT-Kernelへの移行は不可欠であると坂村は仕様書の冒頭において語っている。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "μITRON仕様において、実装定義についての記述を一覧表にまとめ、これまでわかりにくかった部分がわかり易くなった。また、μITRON3.0、μITRON4.0、T-Kernelにおいて同等の機能を持つサービスコールを規定し、将来的にT-Kernelに移行する際、μITRONからT-Kernelへの移植をより容易に行うことができるようになった。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1989年に建設されたTRON電脳住宅の第2弾として、2004年に建設された。トヨタ自動車及びトヨタホームをスポンサーとして、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ博物館向かいに建設された。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "第1弾と比べると、屋上がすべて太陽電池になっているなど、「エコ」になっているのが大きな特徴。「愛・地球博」の開催に合わせ、2005年3月25日より9月25日まで一般公開された後、非公開でトヨタの様々な実験に使われ、2014年に解体された。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2010年にはトロン協会が解散している。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "YRPユビキタス・ネットワーキング研究所(所長:坂村健)とJAXAが2013年に共同開発した、宇宙航空向けのOS。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "宇宙航空分野において、低消費電力とリアルタイム性などが評価され、ITRONやT-Kernelなどが多数採用されていた。そのため、東京大学が2013年に開発した惑星分光観測衛星「ひさき」を含むこれまでのノウハウの蓄積を元に、2011年リリースのT-Kernel 2.0をベースとして、高い信頼性、安全性の向上、高精度の時間管理機能などと言った、宇宙航空分野で必要な機能を追加した。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "JAXAが2015年に打ち上げ予定のジオスペース探査衛星「あらせ」に搭載することを前提として開発された。「あらせ」はT-Kernel 2.0 AeroSpaceを搭載して2016年に打ち上げられた。", "title": "T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ)" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "坂村健が2015年より提唱している「アグリゲート・コンピューティング」を実現するための、T-KernelプロジェクトのStep2である。2015年3月に「T-Engineフォーラム」から改称したトロンフォーラムが中心となって推進している。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "IoTのためのオープンな標準プラットフォーム環境を構築するためのプロジェクト。2015年発表。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "坂村が2015年に提唱し、2016年発売の著書『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』において詳細に記述された「アグリゲートコンピューティング」構想を実現させるためのもの。「アグリゲートコンピューティング」とは、モノとモノがローカルのネットワークで相互に接続される「ユビキタス・コンピューティング」の次の段階で、モノとモノがクラウドを介して相互に接続される世界である。ネットワークの通信速度が高速化した2010年代において現実化した。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "プロジェクトの発足直後となる2016年の時点で、ルネサスエレクトロニクス(日本)、東芝マイクロエレクトロニクス(現・東芝デバイスソリューション、日本)、サイプレス・セミコンダクター(アメリカ)、イマジネーションテクノロジーズ(イギリス)、ヌヴォトン・テクノロジー(台湾)、NXPセミコンダクターズ(オランダ)、STマイクロエレクトロニクス(スイス)という世界6か国7社のマイコンメーカーが賛同した。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "実装は協賛企業の各社によって行われるが、OSにはμT-Kernel 2.0を搭載し、クラウドサービスに接続する機能を必須要件とする。製品のOSとして非常に低いリソースでも動くTRONを利用し、高度な処理はクラウドに任せるようにすることで、製品の低コスト化・低消費電力化を図ることができる。またTRONと言うオープンなプラットフォームを各社の製品で採用することで、各社の製品で連携を取ることができるようになる。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2017年に東京大学を定年退職し、東洋大学情報連携学部の学部長となった坂村健のコンセプトに基づいて設計された東洋大学の新キャンパス。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "UR都市機構は老朽化した旧UR赤羽台団地の建て替えを2000年代より進めており、その際に余った土地を東洋大学が購入し、2017年に開校した。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "キャンパス全体がIoT化されており、TRONプロジェクトを体現したものとなっている。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1989年の「TRON電脳住宅」、2004年の「トヨタ夢の住宅PAPI」に続く、TRON電脳住宅の第3弾。2018年に設置された「URにおけるIoT及びAI等活用研究会」(会長・坂村健)が推進している。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "UR都市機構が「ヌーヴェル赤羽台」として再整備を進める旧UR赤羽台団地の一部区画に、坂村健が学部長を務める東洋大学赤羽台キャンパスが開校したことをきっかけとして、UR都市機構と東洋大学情報連携学部が2018年に提携したことにより実現した。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2030年の完成を目指している。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "T-Kernel2.0をベースに、産業機器向けの機能安全規格であるIEC 61508 SIL3に対応したTRON。日立製作所、ルネサス エレクトロニクス、日立超LSIシステムズを中心として2017年に策定された。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "2000年代以降、特に欧州に産業機器を輸出する際はIEC 61508の認証が必須となり、ISO 26262(自動車)などその他の安全規格への準拠を条件とする場合も増えた。しかし、第三者機関から認証を受けるには5億円程度かかるため、組み込み業界の多くを占める中小企業が認証を得ることは難しい。そのため、トロンフォーラムが代わりにIEC 61508で安全要求レベルが最も厳しい「SIL3」の認証を得た上で無償公開される「TRON Safe Kernel」をOSとして採用することで、海外に製品の輸出がしやすくなり、またメーカーの実装ごとに独自に認証を受けた場合にかかる費用も無くすことができる。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "安全水準の異なるソフトウェアを分離して実行するためのドメイン管理機能を備えており、機能安全水準を満たさないアプリケーションを動かす場合はT-Kernel2.0として動作する。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "米電気電子学会IEEEによる、リアルタイムオペレーティングシステムの国際標準規格である。2018年策定。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2013年発表のμT-Kernel2.0が、2018年にIEEEによって標準化されたもの。これに準拠したOSとして、2018年発表のμT-Kernel 3.0が存在する。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "μT-Kernel2.0の権利がトロンフォーラムからIEEEに譲渡され「IEEE 2050-2018」となったことにより、2018年までμT-Kernel2.0と呼ばれていたものは以後IEEEによってメンテナンスされることとなった。そのため、トロンフォーラムの開発のメインはμT-Kernel 3.0に移行した。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "RTOSの国際標準規格であるIEEE 2050-2018に準拠した、μT-Kernel2.0の上位互換OS。2018年発表。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "μT-Kernel 2.0が小規模マイコン向けであったのに対して、μT-Kernel 3.0はIoTエッジノード向けに最適化されており、μT-Kernel 2.0からプロセス管理機能や仮想記憶などが省略されている。また、ソースコードが見直され、最新のマイコンへの移植性が高められた。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "2019年11月にはARM Cortex-M3マイコンを搭載したIoT-Engineで動作するカーネルのソースコードが、トロンフォーラムのホームページ及びgithubで公開された。", "title": "T-KernelプロジェクトStep2" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "1989年のデザイン。「」(大漢和 5-13536、GT 17106、U+23091「𣂑」)をモチーフとしたもの。「斗」の古字で「升」の意があり、升=計器=規格に通じる、といった考えがある。中央の「十」の部分がTRONの頭文字「t」を模してもいる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "また、この字を使い、TRONを漢字で「論」と当て字したりもする。中国で篆刻してもらおうとしたところ、この字は国字であるために中国でも通用する「斗」にされてしまい、さらに篆書体のために、まるで「毛」という字のような、当初の意図とは全くかけ離れたものが出来上がってしまった、というエピソードがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "TRONプロジェクトでは、コンピュータ用として新しくデザインし直されたキーボードも製作した。放射状の配列を採用した「TRONキーボード」と、ノートPC等での使用を考慮し、矩形内に配列した「μTRONキーボード」がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "プロジェクトの当初の時期に設計・試作(一部製品化)されたキーボードは、英字系がDvorak配列ベース、日本語系がプロジェクトでの調査にもとづく独自配列(物理形状としては、M式等との類似もあるが中迫勝らの研究を参考・反映したもの。日本語入力方式はシフトによりひとつのキーに割り当てられた複数のかなを切り替えるという点は親指シフトに類似している)というものであった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "掌に合わせた物理形状であることから、掌の大きさに合わせないと使い辛くなることが予想でき、それに対応するためS・M・Lの複数サイズを最終的には用意することとしていたが、沖による試作品やTK1などでMサイズ以外のものは作られなかった(後述する、2017年初頭現在製造市販されているμTRONキーボードは、左右セパレート型にすることである程度のポジションの違いに対応している)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "「μTRONキーボード」という商品名で2017年初頭現在製造・市販(ユーシーテクノロジ(株)製造・パーソナルメディア(株)販売)されているものは、QWERTYとJISかな配列になっており、TRON本来の配列は添付の厚紙製トレーナーと、ドライバソフトウェアによるサポートとなっている。「TRON配列モード」に切り替えるとUSBから一瞬論理的に切り離され、USBプロダクト IDが変化して再接続する。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "坂村が1982年に発表したプレゼンテーションスライド「未来のオフィス」で大枠が示され、1987年の論文『The Objectives of the TRON Project』において明確なビジョンとして示された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携するシステムを「超機能分散システム」、Highly Functionally Distributed System(HFDS)と呼んだ。そして、TRONをその実現に向け準備するプロジェクトと位置付けるものである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "対談などではくだけた表現として「どこでもコンピュータ」などと呼ぶこともあったり、2000年ごろよりマーク・ワイザーによるユビキタスコンピューティングの概念が広まってからは、そちらを使うことが多くなった。2000年代後半以降は「IoT」と呼んでいる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "", "title": "その他" } ]
TRONプロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健による、リアルタイムオペレーティングシステム(RTOS) 仕様の策定を中心としたコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。1984年6月開始。
{{出典の明記|date=2011年3月}} '''{{lang|en|TRON}}プロジェクト'''(トロンプロジェクト)は、[[坂村健]]による、[[リアルタイムオペレーティングシステム]](RTOS) 仕様の策定を中心とした[[コンピュータ・アーキテクチャ]]構築プロジェクトである。1984年6月開始{{sfn|坂村健|1987c|p=2}}{{efn|「6月」というのが具体的に何をした時なのかはよくわからない。サーベイ等はもっと前から行っており、前月の5月に研究集会での発表も行っている。}}。 == 概要 == [[File:Full-scale model of Hayabusa 2, JAXA 02.jpg|thumb|right|TRON系OS(T-Kernel 2.0)で制御される小惑星探査機「[[はやぶさ2]]」(2014年打ち上げ、2020年に地球へサンプル帰還後、2031年7月に別の小惑星を調査予定)TRONプロジェクトはリアルタイム制御が必要な場所で使われている、組込み向けのリアルタイムオペレーティングシステム(RTOS)の策定を中核とする]] {{lang|en|'''TRON'''}}とは、「'''T'''he '''R'''eal-time '''O'''perating system '''N'''ucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)の[[頭字語]]である。[[組み込みシステム|組み込み]]向けのRTOSの仕様の策定をプロジェクトの中核としているが、本来は応用(アプリケーション)の[[ユーザインタフェース]]のデザインやハードウェアの仕様策定など、様々なサブプロジェクトを含む。 TRONプロジェクトの中心人物である坂村健は、TRONプロジェクトが開始した1984年頃より、リアルタイムカーネル(組み込み向け)の[[ITRON]]と、より大きなシステム(パソコン向け)の[[BTRON]]、それらを統合するシステムである[[MTRON]]、といったロードマップを示していたが{{efn|先頭のアルファベットを並べると「[[IBM]]」ではないか、という冗談があった。後にCTRONが加わり「[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]」と、より物騒になった、というオチが付く。}}、1987年に発表した論文『The Objectives of the TRON Project』<ref>The Objectives of the TRON Project {{doi|10.1007/978-4-431-68069-7_1}}</ref>において、HFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)と言う構想を発表。未来の地球人類社会では、[[日常生活]]のあらゆる部分([[電球]]1個、壁パネル1枚)にまで[[マイクロコンピュータ|マイコン]]が入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携させるのだという未来像が提示され、TRONはその実現に向け準備するプロジェクトだ、と規定された<ref>坂村健「TRONの目指すもの」、『TRONプロジェクト'87-'88』pp. 3~19</ref>。すなわち、μITRON3.0仕様書の言葉を借りれば「コンピュータ組み込み機器をネットワーク接続し、それらに積極的に環境を演出させる」という「電脳強化環境(Computer Augumented Environment)」の実現こそがTRONプロジェクトの目標であると提示され、これを一般向けに解りやすく言い換えて「どこでもコンピュータ」とも称していた<ref>『μITRON3.0 仕様 Ver. 3.02.02』p.5、監修 坂村健、編集/発行 社団法人トロン協会、1997年</ref>。 1980年代にTRONプロジェクトの中核とされたサブプロジェクトのうち、組み込み向け[[オペレーティングシステム]](OS)のITRON以外は2000年代を迎える前に頓挫したものの、2000年頃には身の回りのほとんどの電気/電子機器に組み込みシステムが応用されるような時代となった<ref>『μITRON4.0仕様 Ver. 4.02.00』p.7、(社)トロン協会ITRON仕様検討グループ、2004年</ref>。TRONプロジェクトはこのような「[[ユビキタス社会]]」において、組み込みシステム用のリアルタイムカーネルの[[デファクトスタンダード|デファクト標準]]仕様としてのμITRONを中心として、「どこでもコンピュータ環境、[[ユビキタス]]ネットワーク社会」<ref>『μITRON4.0仕様書 Ver. 4.03.03 』p.1、T-Engineフォーラム、2010年</ref>をゴールとして掲げた。例えば[[任天堂]]が2017年に発売したゲーム機「[[Nintendo Switch]]」のコントローラー「Joy-Con」にμITRON4.0が{{efn|ジョイコンに搭載されたNFCチップの制御用に使われている。なお、Switchの設定画面の「知的財産の表記」の項目にFreeBSDのライセンス表記があることから、本体のOSはFreeBSDベースだと考えられる。}}、[[セイコーエプソン]]が2008年に発売したプリンター「[[カラリオ]] EP-901F」にeT-Kernel Multi-Core Editionが搭載されているなど<ref>{{Cite web|和書|title=リアルタイムOS・ツール・ミドルウェア ユーザ事例 |publisher=イーソル株式会社 |url=https://www.esol.co.jp/successstory/rtos_middleware.htm l|accessdate=2019-08-30}}</ref>、TRON系OSは2000年代以降も、主に炊飯器・洗濯機・カメラ・ゲーム機などと言った日本メーカーの家電製品に搭載された[[マイコン]]を制御するための組み込み用OSとして、広く使われている<ref>『μITRON4.0仕様書 Ver. 4.03.03 』p.7、T-Engineフォーラム、2010年</ref>。 坂村は2015年、身の回りのあらゆるものがローカルのネットワークでつながる「ユビキタスコンピューティング」の次の段階として、身の回りのあらゆるものが[[クラウドコンピューティング]]を通じてつながるという「アグリゲート・コンピューティング」という構想を発表<ref>『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』坂村健、KADOKAWA、2016年</ref>。TRONは2010年代以降の[[IoT]]時代においても、IoTを実現する様々なデバイスを制御するための組み込み用リアルタイムOSの一つとなるべく、クラウドソリューションの[[Microsoft Azure]]を提供する日本マイクロソフト社とも連携しながら、開発が行われている。 TRONプロジェクトは、1990年代後半にインターネットを通じた[[フリーソフトウェア運動]]が盛んになる以前より、OSの[[ソースコード]]や[[仕様書]]などを含めた全ての成果物を一般向けに無償で公開しており、その使用に際しては[[ロイヤルティー|実施料]]を要求されず、[[実装]]・商品化は誰でも自由に行える。2010年代以降にはフリーソフトウェア運動に倣って「オープンソース」「オープンデータ」「オープンAPI」を標榜している。一方で、ユーザー側で実装したアプリケーションについては、クローズでもよいということを表明しており、これが「ノウハウを公開したくない」と言う組み込みメーカーの支持に繋がっている<ref>{{Cite web|和書|title=IoTは本物か?:坂村健×SEC所長松本隆明(後編) (2/3) |publisher=MONOist(モノイスト) |url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1702/02/news003_2.html |accessdate=2020-05-21}}</ref>。TRONのライセンスであるT-Licenseは、フリーソフトウェア運動で主流のライセンスである[[GNU General Public License|GPL]]や[[BSDライセンス]]などと比べてかなり緩く設定されており、派生物においては全てをオープンにする義務が課されず、オープンにしてもしなくても自由で、また一部をオープンにして一部をクローズドにするといったことも可能である<ref>{{Cite web|和書|title=T-Licenseの考え方 |publisher=トロンフォーラム |date=2004-10-05 |url=https://www.tron.org/ja/wp-content/themes/dp-magjam/pdf/specifications/ja/TW89_P.21-22.pdf |accessdate=2019-08-30}}</ref>。かつてのTRON系OSはトロンフォーラムのみが配布元であり、再配布は原則として禁止されていたが、2011年策定のT-License2.0においては時代に合わせて自由度を高め、ソースの改変履歴をトレースするための「ディストリビューションucode」を付与することを条件として、トロンフォーラムが著作権を持つオリジナルのソースをユーザー側で再配布したり、オリジナルのソースに改変を加えたものを再配布したり、オリジナルのソースを第三者が改変して再配布したものに、さらに自分で改変を加えて再配布したりすることも可能となった<ref>{{Cite web |title=T-License 2.0 FAQ |publisher=トロンフォーラム |date=2011 |url=https://www.tron.org/download/index.php?route=information/information&information_id=57 |accessdate=2019-08-30}}</ref>。TRON系OSの仕様書やT-LicenseといったTRONプロジェクトのオリジナルの成果物の[[著作権]]者はトロンフォーラムあるいは坂村健となっている。 TRONプロジェクトは1984年の開始以来、日本の坂村健が中心となって推進しているが、この活動をサポートする組織としては、[[2019年]]現在、坂村が会長を務める「[https://www.tron.org/ja/ トロンフォーラム]」が存在する{{efn|2015年4月1日に「T-Engineフォーラム」から「トロンフォーラム」に名称変更。さらに以前は社団法人トロン協会が中心となっていたが、2010年1月15日付けで解散し、[[2000年]]頃から併存していたT-Engineフォーラムに吸収された。}}。トロンフォーラムの会員は日本企業が多いが、幹事会員を務める日本マイクロソフト社を始めとして、外資や海外の企業も存在する。なお、1980年代には「OS」という分野においてTRONプロジェクトとマイクロソフト社の対立が報道されたが、坂村によると実際には「対立していない」とのことで<ref>{{Cite web|和書|title=別にマイクロソフトと喧嘩していたわけではない──坂村健所長 (1/2) |publisher=ASCII.jp |url=https://ascii.jp/elem/000/000/913/913982/ |accessdate=2020-05-21}}</ref>、2003年にはTRONプロジェクトのOSであるT-Engineの上にマイクロソフトのOSであるWindows CEを移植したり、2014年にはIoT分野において[[Microsoft Azure]]を利用するために日本マイクロソフトとの提携を発表したりなどしている。 2017年には、IoT時代においてTRONのさらなる世界的普及を目指して、坂村健とトロンフォーラムはTRON系の組み込み向けリアルタイムOS「[[T-Kernel|μT-Kernel 2.0]]」の著作権を米電気電子学会[[IEEE]]に譲渡。2018年9月11日、μT-Kernelベースの「IEEE 2050-2018」が、[[IEEE]]標準として正式に成立した<ref>{{Cite web|和書|title=μT-Kernel 2.0がベースのIEEE 2050-2018がIEEE標準として正式に成立 |website=www.tron.org |publisher=トロンフォーラム |date=2018-09-11 |url=https://www.tron.org/ja/2018/09/press0911/ |accessdate=2019-02-25}}</ref>。これによってTRON系OSが、IEEEによって標準化されるOSの国際標準規格の一つとなった。2019年にはTRONプロジェクトにおいて初めて[[GitHub]]が採用され、μT-Kernel 3.0の仕様書やソースコードなどが世界に公開された。2023年、仕様書やサンプルソースコードをオープンかつ自由に提供し、開発者や利用者のイノベーションを促進したことや、世界中で数十億台の組み込み機器に採用されていることを評価され、IEEEによって[[IEEEマイルストーン]]に認定された<ref>{{Cite web|和書|title=TRONプロジェクトがIEEEマイルストーンに認定 |publisher=MONOist |url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2306/29/news102.html |accessdate=2023-06-29}}</ref>。 == サブプロジェクト == [[File:Samsung NX1.jpg|thumb|260px|TRON系OSを搭載した韓国サムスンのカメラ、Samsung NX1<ref>[http://30th.tron.org/products.html]</ref>(2014年発売)。仕様やソースコードがオープンなので、韓国や中国などアジアを中心とする世界の電機メーカーでも自由に使われている]] 「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。 1984年に坂村が開始し、1986年発足のTRON協議会(1988年に「トロン協会」に改称)が中心となって推進した初期のTRONプロジェクトにおいては、組み込み向けOSの「'''ITRON'''」、ビジネス向け(現代で言うパソコン向け)OSの「'''BTRON'''」、メインフレーム向け(現代で言うサーバー向け)OSの「'''CTRON'''」、TRONにおけるヒューマンインターフェイスをデザインする「'''トロン電子機器HMI研究会'''」、TRON構想を実現するためのハードウェアを策定する「'''トロンチップ'''」、これらを統括する(現代で言う[[分散コンピューティング]]に相当する)「'''MTRON'''」、の6つが主なプロジェクトとされていた。 「ITRON」プロジェクトの成功を受け、坂村は2000年に開かれたトロン協会の第12回通常総会において、TRONプロジェクトが第2ステージに入ったことを宣言。ITRONの標準化を進めた「μITRON4.0」を継承し、組み込みシステムの高性能化・高機能化に対応した、OSのより強い標準化を進めるため、2001年に次世代のTRONプロジェクト「T-Engineプロジェクト」が発足。2002年発足のT-Engineフォーラムが推進する初期のT-Engineプロジェクトおいては、コミュニケーションマシン(携帯情報端末、携帯電話など)向けの「BTRON3」、旧世代のOSながら依然として広く使われる「μITRON4.0」、などの従来からのサブプロジェクトに加えて、BTRON3で使われるファイル形式の「'''TAD'''(TRON Application Databus)」、TRONで16万字以上を扱える多文字環境を実現する「'''多言語処理環境'''」、次世代組み込みOSの「'''T-Kernel'''」、T-Kernelの開発環境として標準化された「'''T-Engine'''」、電子伝票システム(現代で言う[[公開鍵暗号]]方式)の「'''eTRON'''」が主なサブプロジェクトであった。 2011年、T-Kernel2.0の発表と同時にT-Engineプロジェクトの「Step2」が宣言され、それ以前のT-Engineプロジェクトが「Step1」、μITRON4.0が「Step0」と位置付けられた。2015年にT-Engineフォーラムは「トロンフォーラム」と改称され、IoT時代を見据えてTRON本来の役割に立ち返るべく、再び各種のサブプロジェクトの構想が活発化している。 なお、T-Engineプロジェクトの開始後も、レガシー向けに旧来のITRONの需要がまだ残っていたことから、ITRONを推進するトロン協会とT-Kernelを推進するT-Engineフォーラムはしばらく併存していた。トロン協会は2010年に解散したが、ITRONは未だ広く使われており、サポートはT-Engineフォーラム(2015年3月に「トロンフォーラム」と改称)が継承している。 == TRONプロジェクト第1ステージ == [[ファイル:KL NEC V30.jpg|thumb|260px|NEC V30(1984年発売)。1985年、このチップにTRONが最初に実装された]] 坂村健が1984年に開始した、初期のTRONプロジェクトである。1986年発足のTRON協議会(1988年に社団法人トロン協会に改称)が中心となって推進していた。 === ITRON(μITRON)=== [[File:Toyota Land Cruiser Prado 90 005.JPG |thumb|260px|車載用μITRONを史上初めて採用した[[トヨタ・ランドクルーザープラド]] 3.4 RZ(1999年)]] [[組み込みシステム]]向け(を重視した)RTOS。TRONプロジェクトにおける最も古いプロジェクトであり、1984年にプロジェクトを開始した。 1982年より、日本電子工業振興協会・マイクロコンピュータ技術委員会・OS分科会において、日本の電機各社とともに日本のマイコン開発をどう進めるかを議論していた中で、主査であった坂村健(当時は東京大学理学部情報科学科助手)が構想したものが、形となったものである。「まず基盤となるリアルタイムOSを含む開発環境整備から進め、その後、そのOSが最も効率よく動くチップを作ろう」<ref>[http://30th.tron.org/tp30-02.html TRON PROJECT 30th Anniversary]</ref>と言うことで、まず最初にITRONプロジェクトが開始された。 マイクロコンピュータ技術委員会に参加していたメンバーのうち、[[門田浩]](当時NECの集積回路事業部、退社後に組み込みシステム技術協会専務理事)と[[桑田薫]](同、NEC/ルネサス退社後に東工大副学長。TRONプロジェクトの主要開発者はほとんど男性だったが、坂村がデザインしたトロンOSを最初に実装したプログラマは女性だった)を中心とする日本電気(NEC)のチームによって最初にITRONの実装が進められ、1985年春にはNEC V20/30上で動作するITRONの実装「ITRON/86」がNECによって公開された。1986年8月には68000上で動作するITRON/68K仕様OS「HI68K」が日立によって公開されるなど(日立武蔵の竹山寛らが開発)、ITRONの仕様の策定と各社による実装が同時に行われ、各社の実装がITRON仕様にフィードバックされた。 1984年当時、日本の組み込みシステムはOSを搭載しておらず、そのためITRONの当時のライバルは「他のリアルタイムOS」ではなく「OSを利用していない組み込みシステム」であった<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/0511/10/news123_2.html ITRON(API)からT-Engine(インフラ)へ (2/4)] - MONOist(モノイスト)</ref>。OSを搭載しないシステムと比較して、OSを搭載することでどうしても発生してしまうオーバーヘッドを最小限に減らし、OSの導入による標準化によって生じるソフトウェアの互換性や保守性の面でのメリットが上回るように、「弱い標準化」の方針で仕様の設計が行われた。 1987年5月に[[16ビット]]プロセッサ向けの初版(ITRON1)を公開。ITRON1仕様はNEC Vシリーズやモトローラ68000を始めとして数十を超える16ビットシステムに実装が行われた。 1989年にはITRON1仕様に機能の追加やITRON2相互間の互換性強化などを施した[[32ビット]]の大規模組み込みプロセッサ(TRONCHIPを想定)向けの「ITRON2」を公開。同時に、小規模組み込みシステム(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサ)向けのITRON2のサブセットとして「[[μITRON]](μITRON2)」も公開された。「ITRON1の標準化の程度を上げて仕様拡張を行ったのがITRON2であり、ITRON1の適応化の程度を上げて仕様を簡略化したのがμITRON」{{sfn|ITRON標準ハンドブック|1990|p=18}}とのこと。システム間で共通する標準OSとしての互換性を保つことと、各システムに合わせてOSを適応化することで得られる性能の向上は、トレードオフの関係になるため、高性能な32ビットシステムと低性能な[[8ビット]]システムの双方において、そのバランスを取れるように策定された仕様である。 ITRON2仕様においては、ITRON間の互換性やアプリケーションプログラムの移植性が高められ、またITRON仕様とBTRON・CTRONとの整合性が強化された。ただし、μITRON仕様が非常に広く普及したのに対して、ITRON2仕様はほとんど利用例が無く、失敗に終わったといえる。 μITRON仕様の基本方針に関して、1989年当時、様々な汎用の16ビットプロセッサにおいてITRONが使われていたが、家電製品や自動車への組み込みを目的としたチップ(シングルチップコンピュータや8ビットプロセッサなど)においては、ROM容量・RAM容量の制限やコストの問題などから標準OSが使われることは少なく、アプリケーション側でOSの機能まで包含してプログラミングを行うのが一般的であった{{sfn|ITRON標準ハンドブック|1990|p=36}}。いくらITRONは適応化によって不要な機能を削除できるといっても、元々16ビットシステム用に策定されたITRON1仕様はこれらのシステムにおいては巨大であり、オーバーヘッドが発生するため、採用できない。そのため、μITRON仕様においては、ITRONのシステムコールインタフェースやパラメータの有無などいくつかの点について、推奨仕様あるいはインプリメント依存仕様に格下げを行うなど自由度大きくし、また、OSレベルでの機能のサブセット化を許し、OSのインプリメンタがプロセッサアーキテクチャに合った機能や必要性の高い機能を自由に選択できるなど、ITRON2の仕様書の言葉を借りるなら、OSとしての標準化が「限界を超える」{{sfn|ITRON標準ハンドブック|1990|p=37}}所まで弱められた。この点から、「μITRONは、一つのOSの仕様を指すものではなく、OSの仕様設計を行ない、システムコールの命名を行うためのガイドライン」に過ぎないと坂村は考えており、「μITRONでは、プロセッサ毎あるいはアプリケーション毎に、一つのガイドラインに沿った別々のOS仕様が存在しており、それらのOSがμITRONというOSのファミリを形成」{{sfn|ITRON標準ハンドブック|1990|p=38}}するものと想定された。ITRONが様々なプロセッサに実装される組み込みにおいては、OSの仕様の違いによる問題よりも、プロセッサ間による違いの方がずっと影響力が大きいため、標準OSとしての互換性が取れなくても問題ない。それでも、どのITRON仕様OSにおいてもμITRON仕様で決めたシステムコール名称を使っているため、プログラマの教育がしやすく、「教育の互換性」というメリットは大きなものだと坂村は考えた。 坂村の考えは成功し、μITRON3.0仕様が策定された1993年の時点で、ほとんどすべての日本メーカー製8ビットMCUにμITRON2が実装され、さらにはμITRON2仕様カーネルを32ビットプロセッサ用に実装するという、当初想定していなかった適用例も出てきた。そのため、1993年発表のμITRON3.0仕様においては、μITRON2における事例のフィードバックを受けて、ITRON2とμITRONの仕様が一本化され、μITRON仕様はITRON全体の新バージョンとして、ITRONのほぼ全てに相当する機能を持つようになった。μITRON3.0においては、標準化と適応化の強化に加えて、「接続機能」が追加されたことが大きな特徴で、1993年当時はコピー機やFAXなど、MCUの低価格化に従って1つの機器の制御に複数のMCUが使われるケースが増えてきていたことから、μITRON仕様カーネルを持ったノードを疎結合ネットワークによって相互接続した分散システムをサポートするための機能が追加された。また、開発環境の標準化などにも取り組んだ。 1994年よりトヨタ社が車載用OSの候補としてITRONを検討し始め、1997年にはITRON専門委員会の下にRTOS自動車応用技術委員会が設立され、1999年にはITRONを搭載した初の自動車、[[トヨタ・ランドクルーザープラド]]が発売された。この頃には、民生用機器においては、デジタル家電で広く使用されていた他、1990年代後半から2000代前半にかけて普及した[[フィーチャーフォン]]においても広く使われていた。[[ファイル:Nintendo Switch Console.png|thumb|260px|μITRON4.0仕様に準拠したOSをコントローラー(Joy-Con)に搭載したゲーム機、[[Nintendo Switch]](2017年発売)。μITRONは家電製品で広く使われるTRON系のRTOSである]]1999年にはμITRON4仕様が公開される。ソフトウェア移植性の向上、外販することを前提とするソフトウェア部品構築のための機能、自動車制御分野おけるRTOSに対する要求、プロセッサの性能向上やメモリ容量の増加への対応(従来はオーバーヘッドが大きかったために見送られた機能も入れることができるようになった)、が主な追加点である。この頃には、ネットワーク応用やインターネット・イントラネット関連機器を中心として、通信やGUI・デバッグ関連のミドルウェアがITRON上で利用される機会が増加し、これらのミドルウェアの移植性向上に対する要求を満足するため、「弱い標準化」と「強い標準化」と言う相反する要求を満たす仕様となった。 組み込み機器の機能の高度化や複雑化・大規模化に対応するため、2001年に「より強い標準化」を目指したT-Engineプロジェクトが開始され、ITRONプロジェクトは終了した。しかし「リアルタイム性、リソースを浪費しないコンパクトさ、柔軟な仕様適合性、オープンアーキテクチャポリシー」<ref>『ITRON4.0仕様書』Ver. 4.03.03、p.i</ref>が強く支持され、その後も小規模システムにおいてはμITRONが広く使われている。 なお、μITRON4.0の仕様策定の中心人物であり、坂村健の監修のもとでμITRON4.0の仕様書を編纂した東大坂村研究室出身の[[高田広章]]は、T-Engineプロジェクトに移行せず、μITRON4.0仕様に準拠した「TOPPERS/JSPカーネル」をベースとする[[TOPPERSプロジェクト]]を独自に立ち上げた。 === BTRON === [[ファイル:TRON-keyboard-PMC-TK1-up.jpg|thumb|260px|沖電気が1986年に試作した物をベースに、パーソナルメディア社が完成させたTRONキーボード、TK-1(1991年発売)。ワコムのペンタブレットが付属しており、電子ペンを入れる穴がある。]] 「{{lang|en|Business TRON}}」の略。OA機器(オフィスなどでビジネス用に使われることが想定されるコンピューターで、現代で言うパソコンに相当する)向けのOSの仕様で、1985年に開発がスタートした。ちなみに「BTRON」とはOSの名称ではなく、仕様の名称であり、BTRON仕様に準拠したOSが各社からリリースされることが想定される。 BTRONプロジェクトにおいては、BTRON仕様OSの策定だけでなく、キーボードなどのハードウェア(HMI、[[マンマシンインタフェース|ヒューマン・マシン・インターフェース]])やデータフォーマットの策定も含め、コンピュータのあらゆる階層が再設計された。むしろBTRONプロジェクトにおいては、OSの仕様策定よりもHMIやデータフォーマットの策定がメインであるとも坂村は考えており、「特定のアプリケーションを動かすためだけなら、アプリケーションの互換性は問題ではない」として、BTRON仕様のHMIとデータ形式をBTRON仕様ではないOSの上に実現した「μBTRON」も想定されていた。 BTRON仕様OSは、1987年8月の時点では、パソコンやワークステーション向けのBTRON(μBTRON、後にBTRON1と呼ばれる)、1987年から1988年にかけて出る予定である専用機(ワープロなど特定の用途に使われる機械)向けのμBTRON、1990年までに完成するはずであるトロンチップ(当時TRONプロジェクトで開発中であったチップ)向けのBTRON(ピュアBTRON、後にBTRON2と呼ばれる)、の3つが構想されていた<ref>[[坂村健]]、「[https://doi.org/10.2493/jjspe.53.1546 TRONプロジェクトの意義と現状]」『精密工学会誌』 1987年 53巻 10号 p.1546-1549, {{doi|10.2493/jjspe.53.1546}}, 精密工学会</ref>。ちなみに、BTRON2仕様OSは大澤範高(当時・パーソナルメディア社、後・千葉大学大学院教授)らによって開発されていたらしいが、実装は結局リリースされず、BTRON2の仕様書のみが1992年に出版された。 他のTRONプロジェクトのOSとは違って、BTRON仕様OSを搭載した機器は直接人間が扱うものであるという特徴があることから、坂村はBTRONマシンを「コミュニケーションマシン」と位置付け、人間工学的見地から見て使いやすいデザインや障碍者にも使いやすいデザインなど、開発当初からHMI(ヒューマン・マシン・インタフェース)に重点が置かれて開発が行われた。BTRONのHMIを定める「BTRON HMI」においては、ハードウェアも規定され、例えば入力デバイスとしてキーボードと(マウスではなく)ペンを使うことが規定された。坂村はBTRONで使われる「TRONキーボード」の制作を沖電気に、電子ペン(現代で言う[[スタイラスペン]])の制作を[[ワコム]]に依頼。TRONキーボードは1986年に完成、ワコムのワイアレス電子ペンは1987年に完成した。 1985年、文部省は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画において、学校へのコンピューター導入のために初めて予算を計上した(初年度は20億円。年々増加し、自治体からの補助金も入れるとかなり巨額の補助金が出る)。同じころ、通商産業省も[[ソフトウェア危機]]に対応するために予算を計上し、またメーカーに働きかけを行った。1986年より、学校教育へのコンピュータの導入を目指して通商産業省と文部省が設立したCEC(セック、財団法人コンピュータ教育開発センター)によって、日本の教育用パソコンのOSの標準化を図るため、BTRON仕様OSが日本の学校教育における標準OSとして検討された。1987年当時、NEC以外のメーカーはパソコンのシェアが非常に少なかったので、CECの策定した「CECマシン」を作って当時全国に約3万5千校存在した小中学校において国費で確保された教育パソコン市場を取ることでNECの牙城を崩すべく、1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した。教育用パソコンも含めて1987年当時の日本のパソコン市場をほぼ独占していたNECは、当時は[[PC-8801]]シリーズから[[PC-9801]]シリーズへの移行期にあたり、[[N88-BASIC]]での動作を前提とする8ビット機のPC-8801に代わってMS-DOSの搭載を前提とする16ビット次世代機のPC-9801シリーズの普及を推進していたので、NECだけは最後まで渋ったが、半年以上ゴネた末にBTRONとMS-DOSのダブルOSを許可することで説得に応じ、日本の教育市場で使用されるパソコン「CECマシン」においてBTRON仕様のOSを採用することで1989年3月に正式決定。'87、'88、'89、と次第に仕様が固められたCECマシン仕様においては、トロンキーボードは不採用となるなど、CECマシンは坂村が当初構想していた「コミュニケーションマシン」としてのBTRONマシンとは異なる、普通のパソコンとなっていった。 BTRON仕様OSの開発に当たっては、BTRONプロジェクト開始当初よりNECに強力な対抗意識を燃やす[[松下電器産業]]が参画し、早川茂専務の即断で200人体制でBTRON仕様の開発に当たらせるなど、松下を中心とする反NEC陣営による強力な開発体制が敷かれた。BTRON1仕様OSは、[[櫛木好明]](当時は松下電器産業情報システム研究所長、後に松下電器常務取締役)率いる松下電器産業中央研究所(大阪府門真市)の情報システム研究所が中心となって開発され、現場は真弓和昭(当時は松下電器産業情報システム研究所次長、退職後に大阪産業大学客員教授)が主導した<ref>[https://30th.tron.org/tp30-05.html TRON PROJECT 30th Anniversary] TRON Forum</ref>。松下は1987年3月に試作機を公開(この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成であった)、CECマシンの仕様が固まるにつれて、1988年には[[Intel 80286]]での動作を前提とするBTRON/286 1.1を発表(このBTRON/286仕様がBTRON1仕様となる)、松下は1989年3月にはついにCECマシンの実用機を完成させた。CECマシンのOSであるBTRON仕様OSは、松下が他の11社にライセンスする形式で(BTRON仕様OSは誰でも開発できるとの建前だったが、実際は松下1社のみが供給した。「CECへの納入品のみに搭載できる」という条件で、松下は自社で開発したOSを各社に有料で貸し出した)、同年中にはCECに加盟するAX陣営(「反NEC陣営」から「FMR陣営」の富士通と松下を除いたもの)の共同により、AX陣営の各社が製造した[[AX]]アーキテクチャのパソコンにもBTRON仕様OSが移植され、1989年10月に[[東京国際見本市会場]]で開催された[[CEATEC|データショウ]]'89では、松下の策定したBTRON1.2仕様OSを搭載した、様々なBTRONマシンの試作品が展示された(なお、データショウ'89の目玉は、PC-98シリーズの新フラッグシップ[[PC-H98]]およびPC-98シリーズ初のラップトップパソコン「[[98NOTE]]」や、Mac初のラップトップパソコン[[Macintosh Portable]]であり、TRONは全く注目されなかった。TRON陣営にしても、例えば東芝は当時世界シェア1位のPC/AT互換ラップトップパソコン[[DynaBook]]の展示の方に力を入れていた)。 しかし1988年、[[アメリカ合衆国通商代表部]](USTR)によって「政府調達のOSを松下に限定するのは不公正である」との指摘を受け(この時は日本側は「BTRON仕様OSは誰でも開発できる」と釈明し、USTRは誤解を解いた)、さらに1989年4月、USTRが発表した「貿易障壁年次報告」においてBTRONが取り上げられ、[[スーパー301条]]に基づく制裁の候補とされるなど、[[日米貿易摩擦]]を背景とした米国からの圧力にさらされた。1989年5月にトロン協会がUSTRに対して「誤解だ」と抗議文を送り、同月中にUSTRは誤解を解いて、この時はトロンはスーパー301条対象品目から外された。なお、スーパー301条とは、市場における不公正な取引慣行に対して撤廃を求めて米国が対象国との交渉を行い、もし撤廃されなければ高額な関税などの制裁を課すというもので、「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」と言う趣旨が協会抗議文への返書に書かれてあったとのこと。 しかしこれを機に、NECがCECに対してBTRONの不採用を要求。6月、CECはBTRON仕様による統一を断念。この経緯を『[[日経コンピュータ]]』誌(1989年8月28日号)が「BTRONベースの教育用PC、標準化は事実上不可能に」と報じるなど、「BTRON採用断念」を同時期のマスコミが盛んに報じた。ただしこの時点では、OSの仕様の統一は断念されたと言っても、ほとんどのメーカーはCECマシンのOSとしてBTRON仕様OSを採用していたが、1990年3月にアメリカ合衆国通商代表部が発表した貿易障壁年次報告においても、再びBTRONが取り上げられた。 その結果(経緯の詳細は[[BTRON#通商問題]]を参照)、小学校への導入は当初の予定どおりには実現しなかった。BTRONプロジェクトに賛同したパソコンメーカーは、BTRONに教育用パソコンとしての目があるということだったので「ある程度の出費はしかたない」(東芝におけるBTRON仕様開発の中心人物としてNHK「トロン誕生」にも出演した元東芝基本ソフトウェア第2部主幹の小田一博の回想<ref>[https://odakz1941.web.fc2.com/s16.htm TRONプロジェクト]</ref>)と考えてBTRONプロジェクトに参加していたが、もはやBTRON採用の目がなくなったので、みなBTRONプロジェクトから手を引いた。1989年2月にはBTRON仕様OS対応ソフトウェア開発の協力のために、松下を中心としてBTRONソフトウェア懇談会が発足していたが、1990年には富士通を始めとするメーカーがBTRONソフトウェア懇談会から次々と脱会。富士通は元々は松下と並ぶBTRON陣営の中核企業として、1987年にパソコン開発において松下と提携していたが、同年中には「CECマシンの仕様を見極められない」として、MS-DOSを搭載した自社独自規格の[[FMRシリーズ]]を教育市場向けに発売し、1989年時点では教育市場でそれなりのシェアを持っていたので、既に「CECマシン」を開発する意味はなかった。さらに富士通は、FMRシリーズの次世代機として1989年2月に[[FM-TOWNS]]を発売していたが、にもかかわらず「反NEC」と言うだけで1990年までBTRONソフトウェア懇談会に参画していた<ref>[https://dspace.jaist.ac.jp/dspace/bitstream/10119/355/2/1690paper.pdf TRONプロジェクトの標準化における成功・失敗要因]</ref>。つまり、CECに加盟する反NEC陣営の各社においては、CECマシンはNECへの対抗手段の一つに過ぎず、それ以外のプロジェクトを同時に進行していた。BTRON仕様OSの開発の中心メーカーであった松下電器産業も、外圧を恐れて1990年にBTRONソフトウェア懇談会を脱会。 松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた[[松下通信工業]]に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業から[[Panacom]](松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「[[N88-BASIC]]」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機[[FM-TOWNS]]を選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそは[[DOS/V]]でNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに[[日本アイ・ビー・エム]]を盟主とする[[OADG]]陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。 1988年1月にNHKで放映された「コンピューターの時代」シリーズ第4話『トロン誕生』では、[[山中俊治]]がデザインしたBTRONマシンのモックアップの前に座った坂村を案内人として、BTRONマシンの入力装置である「トロンキーボード」を開発中の沖電気青梅工場、このトロンキーボードと電子ペンを使用したコマンド入力システム(トロン作法)を開発中の東芝青梅工場、BTRON仕様OSを開発中の松下電器産業中央研究所、などにカメラが入り、その未来のコンセプトデザインが当時非常に話題となったが、上記の経緯で、教育用パソコン「CECマシン」の仕様策定が頓座したことをきっかけに、一般向けのBTRONマシンが発売されないうちにBTRONプロジェクトは衰退してしまった。(この番組に出演した東芝の小田一博は、CECが各社からの出向者の寄り合い部隊で確たる信念を持たなかったこと、まずAPIの仕様作成に注力すべきなのに(4年かけて)ハードの仕様を策定したことなど、[[Σプロジェクト]]と同じ失敗をしたと後に回想している。また、2003年4月にNHKで放映された「[[プロジェクトX]]」第111回『家電革命 トロンの衝撃』において、上記の経緯の裏にあたかもマイクロソフト社の陰謀があるかのような報道がなされたが、坂村の友人で、当時TRONにWindows CEを移植していた日本マイクロソフト元会長の[[古川享]]は「悪質な印象操作」と断じ、実際にBTRONの発展を阻害したのは通産省の官僚とマスメディアによる印象操作であり、通産省・総務省・文部省が計上した総計2300億円の国家予算に対しても、技術開発よりも予算欲しさの企業ばかり集まった「国家予算のバラマキ行政」と評している<ref>[https://finders.me/articles.php?id=3071 革新的だった国産OS「TRON」の普及を妨げた通産省とマスメディアの横槍。健全な業界発展を阻害したのは誰か?【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(4)] FINDERS</ref>。) そのため、BTRONの一般ユーザーへの普及を目指し、松下のBTRON仕様OSに搭載されたエディタを作成するなどBTRON仕様OS用応用ソフトウェア開発の中心であったパーソナルメディア株式会社を中心として、1991年にBTRONソフトウェア開発機構が発足。パーソナルメディア社が松下からOEMを受け、松下のパソコンにBTRON1仕様OSを搭載した一般向けパソコンの「電房具」シリーズの第1弾となるノートパソコン「1B/note」が1991年8月に発表(9月発売)された。松下が開発したBTRON1仕様OSは(CECマシンを除いて)松下以外のパソコンへの移植を許可しておらず、当初はBTRON仕様OSが他社のパソコン向けに単体で発売されることは無かったが(そのため、BTRONが普及しなかったのは、松下がBTRON仕様OSを他社ハードに移植するのを禁止したためとの指摘もある<ref>『[https://www.sea.jp/office/seamail/1993/1993_8_4.pdf SEAMAIL Newsletter from Software Engineers Association Vol.8, No.4]』、p.38、ソフトウェア技術者協会、1993年8月</ref>)、1994年には松下のBTRON1仕様OSをPC/AT互換機に移植した「1B/V1」がパーソナルメディア社によって発売され、PC/AT互換機を所有する一般のパソコンユーザーでもBTRON仕様のOSを利用できるようになった。当時のBTRON仕様OSは、パソコンにおいてはビデオカードのドライバが無い(ビデオカードによるグラフィック表示支援が使えない)ために、起動や動作が早くても画面表示がカクカクで、競合OS(1994年当時は[[Windows 3.1]]。Windowsがまともに動くスペックのPCは高額になるのと、ゲームなどのアプリが揃っていないので、当時はMS-DOSもまだ主流だが、1995年に[[Windows 95]]が発売されると大ブームとなり、パソコンのOSはWindowsが主流になる)とは実用面で比較にならなかったが、「実身」「仮身」モデルに代表されるBTRON独特のシステムの熱烈な支持者がいたほか、組み込み用でよく利用されるTRON系OSでありながら曲がりなりにもGUIが利用できることから、開発用OSとしてもある程度の支持者がいた。 その後、パーソナルメディア社は、東大坂村研究室が開発したμITRON3.0仕様OS「ItIs Phase3」をベースに、独自に拡張したBTRON3仕様を策定。1995年にはトロンチップ(富士通GMicro F32/300)にBTRON3.0仕様OS「3B」を搭載した「ピュアTRONマシン」であるワークステーションの「MCUBE / BTRON3 Work Station」を発売、ITRONの開発用マシンや業務用ハードウェアの制御用などに利用された。 1998年、パーソナルメディア社は「ItIs Phase3」を「I-right/V」としてDOS/V(i386および互換CPUを搭載した32ビットシステム)に移植し、これを核とした32ビットパソコン用のBTRON3.0仕様OS「B-right/V」を発売。「B-right/V」は、1999年11月発売のバージョン2以降より、多漢字を扱えることをアピールした『[[超漢字]]』の名称で発売された。 TRONはパソコン用OSとしてあらゆる文字を扱えることを目標として、約150万字の文字を理論的には扱える文字コードの[[TRONコード]]を採用しており、BTRONは1997年発売の「1B/V3」の頃より多数の文字が扱える「多言語対応」をウリとしていた。初代『超漢字』が発売された1999年の時点では、[[Unicode]]にはまだ2万字程度しか収録されておらず、『超漢字』は当時のUnicodeには収録されていなかった[[異体字]]、[[梵字]]、[[変体仮名]]、[[甲骨文字]]などが扱えるという点で、漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった。 1999年発売の初代『超漢字』は発売から1年間で7万本<ref>美崎薫『超漢字超解説』、工作舎、2000年</ref>、4年で25万本<ref>[https://www.weeklybcn.com/journal/news/detail/20030609_93166.html パーソナルメディア 「超漢字4」パソコン、2日間で完売 後継機も販売開始] - 週刊BCN+</ref>を超える売り上げとなり、これをプリインストールしたパソコンも発売されたが、普及率としてはマイクロソフト社のOS(当時の競合OSはWindows 98)と競合するOSとはなりえず、2006年発売の『超漢字V』においてはWindows上で動くPCエミュレーター上で動作する前提で、事実上Windowsの1アプリケーションとして動作する前提となっている。TRON仕様OSのGUIやキーボードショートカットなどはTRON特有の「TRON作法」に従っており、Windowsに慣れた一般のPCユーザーには慣れるのが難しく、「ハードウェアのドライバが無い」などパソコンのメインOSとして動かすには様々な問題があったが、『超漢字』が事実上Windowsのアプリの1つとなったことで、WindowsのGUIやドライバが利用できるようになり、この問題は解消された。 パソコン用OSとしてのBTRONの流れは上記の通りだが、一方でBTRON3はμITRON3をベースとしているため、一般的なGUIベースのOSが動かないような極めて貧弱な環境においても、μITRON3が動いている限りはBTRON3準拠のGUIを動かすことができるという特徴があった。そのため、1995年頃、パーソナルメディア社がセイコー電子工業など数社から携帯情報端末(PDA)向けのOS制作の依頼があったことを契機として、モバイルで動くBTRONの仕様を策定するというサブプロジェクト「μBTRON」(上記のワープロ専用機向けのμBTRONとは別のプロジェクト)の仕様の策定が開始される。 (なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword 6000i(BTRON1)、1990年に稼働したJALのオンライン予約システム(メインフレームのIBM 3090とやり取りする端末にBTRON1を実装)でBTRONが採用された。) === μBTRON === [[ファイル:BrainPad-TiPO.JPG|thumb|260px|μBTRON仕様のOSを搭載した携帯情報端末(PDA)、[[BrainPad TiPO]](1996年発売)。]] 携帯情報端末([[携帯情報端末|PDA]])向けのBTRON。BTRONのサブプロジェクトで、BTRON3仕様をベースに、キーボード未搭載のハードウェアへの対応や、タッチペンへの対応など、モバイル向けの仕様を追加したもの。なお、μITRON4.0の仕様書ではこれを「μBTRON」と呼んでいるが、μBTRON仕様OSを開発したパーソナルメディア社では「携帯端末用BTRON」と呼んでいる。 セイコー電子工業([[セイコーインスツル|セイコーインスツルメント]]、SII)の販売する業務用PDA「TiPO」シリーズの3代目で、1996年10月発表(1997年2月リリース)の「[[BrainPad TiPO]]」への搭載を前提として策定された。SIIより依頼を受けてパーソナルメディア社がPDA用に開発したμBTRON3.0仕様OSの名称が『B-right』であり、TiPO用の「B-right」で動くマイクロスクリプト(BTRON用のスクリプト言語)はDOS/V用の「B-right/V」でも動く(つまり、「B-right/V」が搭載されたパソコンを「TiPO」の開発機として利用することができる)。 1996年当時の一般的なモバイル端末は、GUIベースのOSは実用的ではなく、SIIの業務用端末「BrainPad」シリーズもそれまではOSとしてMS-DOSを積んでいたが、「BrainPad TiPO」ではμBTRONベースのシステムを用いることで、当時の極めて貧弱なモバイル用ハードウェアにおいても実用的な解像度と稼働時間を維持しながらGUIのマルチウィンドウシステムを動かすことができた。「BrainPad TiPO」は1997年開催の[[なみはや国体]]の競技記録システムや博物館の案内システムなどの業務用で採用されたほか、1997年2月にはパーソナルメディア社から「電房具TiPO」として、SIIのOEM版が一般向けにも市販された。TiPOは単三アルカリ乾電池1本でハーフVGA(640x240)の解像度と50時間の連続稼働時間を誇りながら、[[NetFront Browser]](ver 1.0)を搭載してインターネットの閲覧も可能であった。 しかし、業務用としてはともかく一般消費者用の機器としては、「パソコンと同等の機能を持ったPDA」と言うμBTRONおよびTiPOのコンセプトは、ビジネスマンを中心とする当時の携帯情報端末のユーザー層に受け入れられたとはいいがたい。当時の非力なモバイル端末に、パソコン(それも一般にほとんど普及していない「TRON作法」を採用したBTRON)のGUIをほとんどそのまま載せていることから、シングルタスクとシングルウインドウシステムを採用した同時期の他のモバイル端末と比べると、表示速度が遅く、「ビジネスのための情報ツール」としての使い勝手は、当時ヒットしていたPDAのシリーズである[[ザウルス]]や[[Palm (PDA)|Palm]]などと競合するには至らなかった。また、BTRONの特徴である文書の実身・化身機能を生かそうにも、文書を編集するためのキーボードが付いておらず、ソフトウェアキーボードを起動すると画面の大半を占有して文書が見えなくなった。そのため、「文書の編集ツール」という点でも、DOSと物理キーボードの搭載によって高速かつ強力な文書編集機能を持っていた[[モバイルギア]]などと競合するには至らなかった。 TiPOは、このようなユーザーの声を聞きながらインターネットを通じたプログラムのアップデート(当時としては画期的)を繰り返し、1998年にはNetFront(ver 2.0)などを搭載した「TiPO Plus」にソフトウェアがバージョンアップして若干使い勝手が向上しつつも、1999年に販売を終了する。パーソナルメディア社が編纂した『マイクロスクリプト入門』によると、1998年12月の時点で、携帯端末用BTRONを搭載した機器は「TiPO」しか存在していないとのことで<ref>『マイクロスクリプト入門』、PMC研究所、1998年、p.7</ref>、PDAで広く採用されるようにBTRON仕様を拡張した物の、μBTRON仕様OSを搭載したPDAは結局「TiPO」が唯一の製品であったようだ。 携帯情報端末にBTRONのGUIをほとんどそのまま載せた「TiPO」は成功しなかったものの、1999年頃よりITRONを搭載したインターネット対応の携帯電話(2010年代においては[[ガラパゴスケータイ]]と呼ばれている)が続々と登場し、家電や携帯電話にGUIを持ったTRONが搭載されるのが当然の時代になり、そのGUIの開発の大変さがTRONプロジェクトにおいて問題となった。BTRON3仕様OS「B-right」の制作に携わり、松下の手を離れてからのBTRONの開発の中心人物であった松為彰(当時はパーソナルメディア社TRON特別室室長)は、携帯電話などの小型端末からパソコンや[[ファクトリーオートメーション|FA]]機器などの大型端末までにおける、GUIの標準化を目指し、BTRON仕様をベースとするTRON-GUIプロジェクトを1999年に立ち上げた。 === TRON-GUI === TRONを搭載した組み込み向けのGUIの規格。1999年より策定開始。 1990年代後半より、組み込み向けハードウェアでもGUIが動かせるほど性能が向上してきたこともあり、コピー機やVTR機と言った一般の家電にもGUIが搭載され始めたが、ハードによって仕様がバラバラで、システムごとにGUIを個別に作らないといけなかったため、プログラムを制作する技術者の負担が非常に大きかった。そのため、1999年に「TRON-GUI仕様研究会」が発足し、組み込みシステムとしての信頼性を保った上でITRONで軽いGUIを制作でき、そしてその開発期間を短縮できるように、組み込み向けGUIの標準化が試みられた。 松為彰(トロン協会TRON-GUI仕様研究会主査)が執筆した『TRON-GUI仕様の概要』によると、「基本的にはBTRON仕様をベースに、不要な機能を除いたものがTRON-GUI」<ref>[http://www.ertl.jp/ITRON/DOC/matsu00.pdf TRON-GUI仕様の概要]</ref>とのこと。1999年にTRON-GUI仕様のドラフトがリリースされたが、正式な仕様書は出ず、2000年にT-Engineプロジェクトが開始するとともに、T-Engineプロジェクトに吸収された模様。 === CTRON === [[ファイル:Yokosukatuuken.JPG|thumb|260px|CTRONが開発された「横須賀通研」こと日本電信電話公社横須賀電気通信研究所(現・NTT横須賀研究開発センタ)]] [[File:Nortel DMS10.jpg|thumb|260px|1990年にNTTに納入された史上初の海外製交換機、ノーテル[[DMS-10]]デジタル交換機。この上でCTRON仕様OS「IROS」が稼働する]] 「Communication and Central TRON」の略。メインフレーム向け(現在で言うサーバーに相当する)のTRON OSで、日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)の主導で、1985年にプロジェクトを開始した。電電公社の電話交換機での使用を前提とし、同時にCTRON上で動くアプリケーションも制作された。 当時の電電公社では、電電公社に近しい国内メーカー(いわゆる「電電ファミリー」)と共同開発した情報機[[DIPS (コンピュータ)|DIPS]](Dendenkosha Information Processing System)と交換機DEX(Dendenkosha Electronic eXchange)が稼働していたが、[[石野福弥]](当時は日本電電公社電気通信研究所複合交換研究室長、後に早稲田大学教授)らによって、情報処理用メインフレームと電話交換機用メインフレームの2つを統合した「INSコンピュータ」を作るという「INSコンピュータ計画」が1985年に電電公社横須賀電気通信研究所においてスタートしたことが背景にある。「INSコンピュータ計画」においては、「電電公社による独自ハードを策定する」という当初の目的は早々に破棄され、ハードの設計は各々の協力会社に任せ、共通OSの採用によってDIPSとDEXの間におけるソフトウェアの共通性を高めることとなり、そのためのOSとしてTRONが選ばれた。その結果、電電公社の主導で、TRONに通信処理用のAPIを搭載したCTRON仕様を策定することとなり、1986年よりDIPSとDEXの双方で実装に向けた開発が行われた。 CTRONの開発に当たっては、OSを下位の「基本OSインタフェース」と上位の「拡張OSインタフェース」に分離し、基本OSインタフェースでプロセッサの違いを吸収するとともに、上位の拡張OSインターフェースでソフトウェアの流通性を確保するという方針が取られた。基本OSインタフェースは1986年に完成し、拡張OSインタフェースは1986年から1988年にかけて公開され、異なるプロセッサ間における移植実験が行われた。CTRONインタフェース仕様は1988年に公開され、仕様の変更や改定などを経て、1993年にはCTRON仕様の集大成として『新版 原典CTRON大系』が出版された。 当時の電電公社で使用されるハードウェアは、電電公社が独自に策定した「電電公社仕様」ともいえる特殊なハードウェアが指定されており、「電電ファミリー」と呼ばれる電電公社に近しい電機メーカーとのハードウェア共同開発体制を取ることにより、電電ファミリー各社の技術向上に寄与すると同時に、電電公社仕様に追随できない外資系メーカーを事実上締め出すことに成功していた(ただし、1機あたり数百億の開発費によって電電公社に莫大な赤字をもたらし、電電公社がNTTとして分割・民営化される遠因ともなった)。そのため、米国より「機器納入の自由化」への圧力がかけられていたが、CTRONプロジェクトでは「CTRONが稼働する限りアーキテクチャは問わない」というオープンな仕様となり、さらに機器納入元としてNEC、富士通、沖電気、日立製作所という「電電ファミリー」4社に加え、海外メーカーとして米[[AT&T]]と加[[ノーテル]](ノーザンテレコムジャパン株式会社)を加えることで外圧を乗り切った。1990年4月にはNTTにノーテル製の中継局用交換機が納入されたが、海外メーカー製の交換機を導入するのは電電公社/NTTにとって初めての事であった(TRONプロジェクトの主要な協力メーカーはほとんど日本企業だが、CTRONプロジェクトにおいては外資のノーザンテレコムジャパンも主要な協力企業の一つである)。 電電公社によるCTRONプロジェクトは成功し、1990年頃よりNTT社内において、DEXのOSである「DEX-OS」とDIPSのOSである「DIPS-OS」が、CTRON準拠の「IROS(Interface for Realtime Operating System)」に切り替わった。さらに、1996年には[[D70形ディジタル交換機|改D70型交換機]]の後継として、NTTと日本電気・富士通・日立製作所・沖電気・東芝・ノーテルの共同開発による、NS10A形[[Asynchronous Transfer Mode|ATM]]交換機にCTRONベースのソフトウェアを採用した「[[NS-8000|新ノードシステム]]」が完成した。また、NTTの交換機としての使用に耐える信頼性が評価され、1990年には[[全国銀行データ通信システム]](全銀システム)の中継コンピューター(全銀RC)にもNTTのDIPS-CTRONが採用された。 電電公社によるCTRONプロジェクトにおいては、各社の独自OSからCTRON仕様OSに変えることで従来のアプリが使用できなくなるため、乗り気ではない企業も存在したが、沖電気がプロジェクト発足当初から積極的で、結果としてNTTへの大量納入に成功している。商用のシステムとしても、沖電気では1990年発売のOKI iOX100でCTRONのサブセットを採用し、1992年に自社独自OSのAPOLLOSを廃止し、1996年発売のOKI iOX200シリーズではCTRONが全面採用された。1990年代には日本の電話交換機のほとんどがCTRONベースのシステムとなり、同時に海外にも輸出され、1990年代後半から2000年代前半にかけてのPHSやISDN(N-ISDN)などの高速通信サービスを支えた。 CTRONが電電公社/NTTグループおよびNTTグループに機器を納入しているメーカーの製品以外のハードで使われた例はあまりなく、もはや1990年代においてはメインフレームのダウンサイジングの流れが大きく、ちょうどインターネットの普及に伴ってUNIXサーバーが一世を風靡した時代であり、同時期のほとんどの会社はUNIXサーバーを用意して顧客に提供した。電電公社仕様コンピュータ・DIPSプロジェクトも、1992年には開発を終了した(2002年に全てのDIPSの稼働が終了)。ただし、市販の汎用のサーバー機にCTRONを載せることも可能(と言うより、NTTに納入される機器はCTRONが稼働することが必須要件となるので、世界有数の通信コングロマリットであるNTTグループに機器を納入するために、たとえ外資系メーカーであっても汎用のUNIXサーバーにCTRONを移植するメリットがある)で、NTT社内では元々UNIX系のOSを搭載している[[タンデムコンピューターズ|TANDEM]]のサーバー機[[HP Integrity|Integrity]](MIPS系のアーキテクチャ)にCTRONを移植させて、社内VANとして使っていた。 そのNTTでも、2010年代より電話交換機の廃止とIP網への移行に伴って、「新ノードシステム」の撤去が始まっている。NTTでは、2015年までにD70型より以前の交換機は撤去され、全て「新ノードシステム」に巻き取られたが、2025年には「新ノードシステム」の維持限界がやってくると想定されており、2024年から2025年にかけて全て廃止される予定。電電公社/NTTとともにCTRONプロジェクトを推進した坂村は、TRONプロジェクト30周年におけるNTTドコモ社長との対談において、情報・通信処理に特化したCTRONを採用した電話交換機の時代から、インターネット時代における「汎用のもので代われるというIP化」という時代の流れを振り返っている<ref>[http://30th.tron.org/docomo.html TRON PROJECT 30th Anniversary]</ref>。 === JTRON === [[ファイル:P503i.jpg|thumb|260px|JTRONを搭載し、Javaアプリケーション([[iアプリ]])に対応した初の携帯電話、[[P503i]](2001年発売)。JTRONは2000年代前半の携帯電話で広く使われた]] μITRONのタスクと [[Java仮想マシン]]のインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。 μITRONにJavaを導入することで、μITRONにおいてGUIやネットワーク機能などのリッチな機能を利用することが可能となる。また、ライブラリーが揃っており、ソフトウェアの移植性が高いJavaを利用することで、開発期間を削減し、開発コストを削減することができる。一方、リアルタイム制御やハードウェアの直接制御などと言ったJavaの不得手な部分はμITRONで行う。このように、μITRONとJavaで不得手な部分を互いに補完しあうことができる。 主な実装としては、アプリックス社の「JBlend」が挙げられる。もともと「JBlend」は、ITRONとJavaを融合するというアプリックス社の構想を元に、1997年4月に試作版、6月に正式版として発表されたOSだったが、これを受けて坂村がアプリックス社に指導を行い、トロン協会のITRON専門委員会に加盟している他の会社とともにJava対応ITRONの標準規格として策定し、1997年12月に発表したものがJTRON1.0仕様である。同時にJBlendも、JTRON仕様OS第1号として改めて発表された。また、JTRONの開発環境として、1998年にはJTRON仕様のパソコン用OS『JTRON/V』もパーソナルメディア社から発売された。 日本で2001年以降に普及した「Java対応携帯電話」においては、NTTドコモでは[[503i]]シリーズ以降において、J-フォンとauにおいては全ての製品でJBlendが採用されていた<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/keyword/10223.html ケータイ用語 第100回:JBlend とは] - ケータイWatch</ref>。アプリックス社は2004年に台湾iaSolution社を買収し、同社のJava環境「iaJET」をJBlendに統合。同年には台湾[[BenQ]]社の携帯電話に、台湾メーカーとしては初めてJBlendが採用され、JTRONはアジア地域にも進出した。2006年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が3億台を突破する<ref>[https://www.aplix.co.jp/images/ir/disclose/ir090331yuho.pdf 有価証券報告書] 株式会社アプリックス</ref>など、2000年代に販売された極めて多くのJava対応携帯電話で使われた。 しかし、ITRONなどのRTOSは、複数のアプリケーションを安定して動作させる機能が乏しいことや、ツールが整備されておらず、開発に特殊な知識とスキルが要求されるという問題点があった<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/corporate/technology/rd/technical_journal/bn/vol13_1/vol13_1_055jp.pdf FOMA端末ソフトウェアプラットフォーム“MOAP”の開発] NTT DoCoMoテクニカル・ジャーナル Vol. 13 No.1、2004年、NTT DoCoMo</ref>。そのため、1999年に日本のNTTドコモが[[iモード]]のサービスを開始して以降、各社の携帯電話プラットフォームにおいて多様で高機能なサービスが提供されるようになると、次第にソフトウェアの複雑化や開発規模の増大に対処できなくなった。1990年代から2000年代前半頃までの携帯電話は、非力なCPUの力を効率的に引き出すためにこのようなRTOSを利用する必要があったが、携帯電話プラットフォーマー各社は2000年代中盤以降のハイスペックな携帯電話への対応をにらんで、μITRONなどの「RTOS」に代わり、マルチスレッドやメモリ保護といったソフトウェア管理機能を標準でサポートしている「高機能OS」の利用を推進することになる。 例えばNTTドコモは、2004年に「[[MOAP]]プラットフォーム」を策定し、今後の3Gサービス([[FOMA]])向けの携帯電話の開発においてはTRONに代わり、[[Linux]]をベースとする「MOAP(L)」か、もしくは[[Symbian OS]]ベースの「MOAP(S)」のどちらかのプラットフォームを携帯電話メーカー各社に選択させることにした。例えばパナソニック製端末では、2005年2月発売の[[P901i]]で早くもMOAPに対応(この時にパナソニックの携帯電話向けOSをLinuxに一本化する決断をしたのが、1987年当時にBTRON1仕様開発の中心人物であった櫛木好明パナソニックモバイルコミュニケーションズ社長である)。2006年にはアプリックス社もNTTドコモとMOAPライセンスを締結し、MOAPプラットフォーム向けのミドルウェアをNTTドコモに提供することになった<ref>[https://mag.osdn.jp/06/11/08/094238 アプリックス、携帯電話Linuxプラットフォーム「MOAP(L)」をライセンス、統合ソリューションを提供] OSDN Magazine</ref>。さらに、2006年にはモトローラやNTTドコモなど世界各国の携帯電話プラットフォーマー6社により、携帯電話向け組み込みLinuxのAPIを共通化するための[[LiMo Foundation]]が設立され、NTTドコモのMOAPプラットフォームもここに糾合され、2011年には携帯電話向け組み込みOS[[Tizen]]として結実したものの、Android(及びアップル専用のiOS)とのシェア争いに負け2010年代中ごろに事実上消滅し、サムスン電子がウェアラブル端末にしばらく使い続けたに留まった。Symbian OSも同様にAndroidに敗北した。 なお、JBlend環境はドコモのMOAPプラットフォームやTIのOMAPプラットフォームなどで動くLinux系OSやSymbian OSなどに移植され、2008年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が5億台を突破するなど、その後もしばらく使われたが、2007年にアプリックス社はGoogle社の求めに応じて[[オープン・ハンドセット・アライアンス]]の設立メンバーとして加盟。当時Google社が開発中であった次世代OSであるAndroidの開発に参加すると同時に、アプリックス社で開発中であったJBlendの後継システムは中止された。ITRONに出自を持つ[[Javaプラットフォーム]]としてのJBlendは、2008年リリースの初代Androidにも「JBlend for Android」として移植され、例えば[[iモード]]用アプリがAndroid上で利用できるシステム「iαppli Publisher」など、ガラケーからスマホへの移行期に、ゲームなどガラケー用のJavaアプリをAndroidに移植する用途でしばらく使われた。 === トロン仕様チップ(TRONCHIP) === [[File:NTT_Gokasho_Telephone_Exchange_Building_20100124.jpg|thumb|260px|NTTの交換局。1990年代から2010年代にかけて、この中でトロンチップの組み込まれた交換機が稼働していた]] TRONプロジェクトにおけるチップ([[マイクロプロセッサ]]、現在で言うCPUに相当)の設計を目的とするサブプロジェクト。1986年開始。 アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占する[[ARM]]社でも採用されることになる。 トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より32ビットマイコンの自力開発を進めていた。1986年5月、日立がモトローラのセカンドソースを利用して1985年より発売して大ヒット中の「ZTATマイコン」に関して、ついにモトローラからのライセンスを得られず、牧本次生(1986年当時は日立製作所武蔵工場長)率いる日立のマイコン部隊はモトローラに「ワインドダウン」を要求されるという屈辱を受ける。そのため奮起した日立のマイコン部隊は日立独自の新アーキテクチャ「H32」の仕様策定を進めていたが、1社単独で開発を行うのはリスクが大きいと判断し、日立製作所半導体事業部長の金原取締役に働きかけ、インテルのセカンドソースを製造していた[[富士通]]と1986年7月に提携して「G<small>MICRO</small>グループ」を結成、2社共同開発体制を取ることにする。その過程で、アーキテクチャとして坂村の提唱するトロンチップを採用することで決定。1987年には三菱もGMICROグループに加盟。その頃には他のメーカーもトロンチップに興味を示し始めた。 最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、[[富士通]]・[[三菱電機|三菱]]電機・[[日立製作所|日立]]の3社(G<small>MICRO</small>グループ)の共同開発によるG<small>MICRO</small>シリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。 TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと<ref>[http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1997DM/DM_CD/DM_TECH/BTRON/PROJ/CHIP.HTM TRON Project/CHIPサブプロジェクト] 東京大学デジタルミュージアム</ref>。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。 しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた<ref>[http://30th.tron.org/renesas.html TRONプロジェクト30周年特別対談]</ref>。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSであるRTOS(ITRON)やビジネス用OS(BTRON)の高速処理はもちろんの事、UNIXやその他のOSでも高速処理が行える汎用プロセッサとして設計されていた、と『日立評論』では語られているが<ref>『日立評論』1987年7月、p.614</ref>、坂村の回想によると、「個人用のパソコンにUNIXを載せる」などの当時の坂村の構想は、実際は全く理解されず、「まずIBMのOSを載せる」と言われたとのこと。 トロン仕様チップでは、[[メモリ管理ユニット|MMU]]などを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「LX(eXtension)」仕様も策定される予定であった。 トロンチップが各社から出そろった1990年当時、32ビットCPUはほとんど普及していなかったが、今後の普及が予想されており、例えばGMICROグループでは、組み込みや[[ワークステーション|パーソナルワークステーション]]向けのGMICRO/100(日立の資料では「H32/100」と呼称しているが、実際の製造は三菱が担当し「M32」としてリリース)、エンジニアリングワークステーションやFAコントローラ向けのGMICRO/200(日立が「H32/200」としてリリース)、スーパーミニコンやオフィスワークステーション向けのGMICRO/300(日立の資料では「H32/300」と呼称しているが、実際の製造は富士通が担当し「F32」としてリリース)、と規模に応じて3種類を用意し<ref>「[http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1990/12/1990_12_06.pdf 日立評論VOL.72No.12]」p.38、1990年12月</ref>、幅広い要求に応えられるようにしていた。 しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった(日立のGmicro/200のトランジスタ数は730K、MMUを搭載しない三菱のGmicro/100ですら340Kであり、トランジスタ数70KのHD68000はおろか273Kの68030すら上回る。ちなみに1994年発売のSH-2のトランジスタ数は450Kで、トロンチップH32シリーズと比較するとSHシリーズがどれだけ高コスパであったかが分かる)。例えば日立では、1988年12月にはトロンチップのH32/200(日立版のGMICRO/200)にITRONを載せた開発用シングルボードコンピュータをリリースしており<ref>『日立評論』1988年12月号、p.102</ref>、制御用プロセッサとしての需要を早くから見込んでいたが、組み込み用としてはITRONを搭載した8ビットのH8シリーズ(1988年6月リリース)が主力であり続けた。H8とH16がモトローラの特許侵害として訴えられ、H16は1989年1月より法廷での特許紛争が始まったために製造ができなくなったことにより、1990年頃の日立ではH16を代替する次世代組み込み用マイコンの開発が急務となっていたが、来るべきマルチメディア時代において、日立の既存の技術であるトロンチップのH32やRISC型チップのHPPA(PA-RISC)ではコストパフォーマンスの点で戦えない、と木原利昌が率いる日立のマイコン部門は1990年に判断。次世代CPUの設計は河崎俊平(日立製作所半導体事業部マイコン設計部)に一任され、H8シリーズと並行してSHマイコンの開発が開始された。ちなみにSHシリーズがMMUを搭載するのは日立がマイクロソフトと提携してWindows CEの搭載を前提として開発された[[SH-3]](1995年リリース)以降である。 パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期には[[PA-RISC]](日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)や[[MC68040]]が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが<ref>『日立評論』1990年1月号、p.96</ref>、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。 組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを32ビット版組み込み用CPUの主力としている。 一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し<ref>『日立評論』1992年1月号p.45</ref>、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど<ref>『日立評論』1994年1月号、p.40</ref>、トロンチップの開発を続けた。 1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。 坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃った[[インテル]]のチップと比べてパソコンが作りづらかった、としている。そして、パソコンと言う応用を実現できなかったために、組み込みにも使われなかった、結果としてトロンチップは普及しなかった、と考えている<ref>{{Cite journal|和書|author=坂村健 |title=TRONプロジェクトの15年:TRON仕様チップ |journal=情報処理 |year=1999 |month=mar |volume=40 |issue=3 |naid=170000056962 |url=http://id.nii.ac.jp/1001/00063087/}}</ref>。坂村は、1993年にパーソナルメディア社が制作した、日立のGmicro/300にBTRON仕様OSを載せたパソコンの試作機が、Intel [[i486|iAPX486]]で動くWindows 3.1と比較して非常に軽快に作動したことや、1993年にリリースされた日立のGmicro/500が、同年にリリースされたインテルの[[Pentium]]と比べても遜色ない性能・技術であったことから、トロンチップがパソコンに向いてなかったわけでは無い、と考えている。 1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで<ref>[http://www.shmj.or.jp/makimoto/pdf/makimoto_02_09.pdf 牧本資料室第2展示室「マイコン事業の回想(アーキテクチャ独立戦争の記録)」第9章マイコン独立戦争]</ref>、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと<ref>[http://www.shmj.or.jp/innovation50/article/ENCORE81_kihara.pdf SHマイコンの開発と事業化] 半導体産業人協会会報、No.81(2013年10月)</ref>。なお、SHマイコンを設計した河崎俊平は、トロンチップの[[浮動小数点演算ユニット]]「GMICRO/FPU」の設計の中心人物として『TRONプロジェクト '88-'89』にも名を連ねているが、CPUの設計がしたかったのにFPUの仕事をさせられた上に、当時は既にトロンチップの市場がしぼみかけていたので仕事がイヤだったが、「ガマンして働いていた」とのこと<ref>[https://web.archive.org/web/20081201064659/http://resource.renesas.com/lib/jpn/superh/theme/01.html SuperH{{sup|TM}} 開発ストーリ] - ルネサステクノロジ</ref>。SHマイコンの命令セットをほぼ一人で設計した河崎は、命令セットの設計に大勢が関わり、各人が提案する命令を寄せ集めてほとんど使わない命令をたくさん搭載するような従来の日立の方式を「まるで万葉集」と批判している(編注:トロンチップが失敗した理由として、マイコンを売りたいマイコン部門と、大型機を売りたいコンピュータ部門との意識の差異を坂村は指摘しているが、トロンチップを設計した日立のマイコン部門・(半セ)の内部でも、日米貿易摩擦に巻き込まれた牧本らの世代と、SHマイコンで成功した木原らの世代では、トロンチップの評価に差異があることが分かる)。 統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「[[きく7号]]」に搭載され、32ビットプロセッサとしては初めて宇宙に行った。 パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。 また、日本の電機メーカーは、TRONチップの開発を通じてマイコン開発のノウハウを蓄積した。後の各社の32ビットマイコンの命令セットにいくらかの影響がみられる。特に三菱・M16シリーズはトロンチップM32の下位版として開発され、トロンチップにかなり近い設計思想であり、販売面でも組み込み用として日立のH8シリーズと並ぶほど売れたという。日立(特にSHの開発陣)におけるトロンチップの評価はとても低いが、トロンチップのコスパの悪さを反面教師として開発されたという点で、日立・SHシリーズにも影響を与えた。 === トロンヒューマンインタフェース仕様 === [[File:Rice_Cookers.JPG|thumb|260px|日本メーカー各社の炊飯器が海外の家電量販店に並んでいる様子(2006年、[[三洋電機|サンヨー]]/[[タイガー魔法瓶|タイガー]]/[[パナソニック]])。TRONアーキテクチャを採用した全ての電子機器がトロンヒューマンインタフェース仕様を守ることで、炊飯器だけでなく全ての日本製家電製品において操作の一貫性が保証された。]] TRONにおけるヒューマンインタフェース仕様の策定を行うサブプロジェクト。略称は「トロンHMI仕様」、あるいは「トロン作法」ともいう<ref>『新版トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』、社団法人トロン協会トロン電子機器HMI研究会編、1996年、はじめに(p. XIV)</ref>。 1990年発足の「TRON電子機器HMI研究会」が中心となって策定した。トロンアーキテクチャが考える電子機器や家電製品などのヒューマンインターフェイスの仕様を提示したもので、その成果は1993年に『トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』<ref>[https://www.personal-media.co.jp/book/tron/141.html トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック - パーソナルメディア書籍サイト]</ref>として書籍化され市販された。 1990年当時、炊飯器や扇風機など様々な電化製品がマイコンや液晶パネルを搭載するようになるなど高機能化していたが、必ずしも使いやすくなったわけでは無く、操作が複雑化するなどして、逆に使いづらくなる場合もあった。TRONプロジェクトの最終目標である「電脳社会」「どこにでもコンピュータ([[ユビキタスコンピューティング]])」が実現すると、人間は社会においてどこでも多くの電子機器に囲まれている環境になるが、コンピュータがいくら高度な機能やサービスを提供できたとしても、人間がそれを享受できないようでは意味がない。それぞれの機器において「理想的」なデザインを採用しているよりも、全ての機器において統一的なデザインを採用していた方が、一つの機器の使い方を覚えると他の機器でも同じように操作できるようになるので、ユーザーにとって使いやすく利点が大きい。そのような観点から、コンピュータから家電まであらゆるモノにおいて統一的な操作方法を提供する、トロンアーキテクチャにおけるインターフェイスの標準化と、ガイドラインの策定が行われた。 トロンHMI仕様においては、「一貫性のある操作体系の提供」、HMI仕様を満たした機器が誰にでも使用できるような「電子技術への平等なアクセスの提供」、その仕様がいつでもどこでも何にでも使用できるような「広い適用性」、ユーザーの誤動作や機器の誤動作を防止する「安全性の確保」、以上の目的を達成するための「最低限の品質保証」、の5つが重視された<ref>『新版トロンヒューマンインタフェース標準ハンドブック』、p.XV</ref>。そのために、HMI仕様を満たすために必ず守るべき「事項」と、HMI仕様をより良くするためになるべく満たすことが望ましい「指針(ガイドライン)」に分け、全てのガイドラインを満たすのが難しい状況においてどのガイドラインを採用するべきか、の判断を手助けするためにハンドブックが役立てられた。 トロンHMI仕様においては、ディスプレイを用いたGUIと、物理的なデバイスなどを用いたSUI(ソリッド・ユーザー・インターフェイス)が規定され、双方における操作の一貫性が保証された。また、トロンHMI仕様を採用した複数の機器において操作の手順を一貫させるため、単に個別のパーツやレイアウトを標準化するのではなく、複数のパーツにおいて操作を標準化するという「抽象度の高い標準化」が行われた。例えば当時ユーザーが扱うのに特に困難なものと考えれられていた、時刻を設定する「タイマー」の設定の標準化も行われ、例えばビデオと炊飯器のタイマーの操作を一貫させるため、通電開始時刻ではなく録画開始時刻や炊き上がり時刻を設定することが規定された。 誰もが使いやすいデザインとして、身体が不自由な人や、海外の人でも使いやすいデザインとなるように、デザイナーに注意を促した。TRON仕様を満たした家電製品は、海外にも盛んに輸出され、1990年代以降の日本の家電輸出産業を支えた。 === トロン電脳都市 === 『電脳都市 : SFと未来コンピュータ』を出版した1985年当時の坂村は、「どこでもコンピュータ」の社会の実現のため、まず「トロン電脳住宅」、続いて「トロン電脳ビル」、そして「どこでもコンピュータ」環境の最大の応用として「トロン電脳都市」の建設を構想していた。バブル時代ということもあり、[[竹中工務店]]を筆頭に多くのスポンサーがついた。 * TRON電脳住宅 - ホームオートメーションの実現のため、1000個のコンピュータが組み込まれた住宅。竹中工務店を中心とする18社がスポンサーとなり、1989年に東京都港区西麻布3-2-19(竹中工務店の子会社として高級住宅を手掛けていた日本ホームズの本社に隣接する住宅展示場「六本木ビレッジ」)にパイロットハウスが完成。1990年4月より一般公開され、マスコミなどにも報道され多くの人が訪れた。その後は非公開となり、実際に人が居住する実証実験が行われた。研究開発費に約10億円かかり、六本木の一等地に333平方メートルの家を維持する費用もスポンサーに負担であったことから、1993年1月に実証実験が終了し、解体された。 * TRON電脳ビル - 1987年より[[間組]]が坂村健とともに進めたプロジェクトで、1989年には間組を中心とする11社による「トロン電脳ビル研究会」が発足。1993年の時点では1号ビルが「まもなく」着工される予定であったが<ref>[http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1997DM/DM_CD/DM_TECH/BTRON/PROJ/ABOUTTP.HTM TRON Project/ トロンプロジェクトとは] 坂村健</ref>、頓挫した。 * トロン電脳都市 - 竹中工務店を中心とする約50社によって1989年に発足した「千葉トロン電脳都市研究会」が進めたプロジェクト。千葉県[[市原市]]を中心とする丘陵地帯に建設され、1989年から1991年まで実験が行われた。2000年ごろの完成を予定していたが、頓挫した(長生郡[[長柄町]]の「Sport & Do Resort リソルの森」の辺り。保養施設やゴルフ場に囲まれた土地で、2022年現在も田畑が広がっており、1990年当時のコンセプトアートで描かれていたような建物は何もない)。 「千葉TRON電脳都市」の実態はソフトウエア・パーク、「TRON電脳ビル」の実態はインテリジェントビルであった。背景としては、コンピュータに関心が無いにも関わらずイメージアップのために、当時有名だった「TRON」の名前を利用しようとする建設会社や不動産開発会社の思惑があったが、これをTRONの実証実験の場として利用しようと考える坂村との思惑の違いや、バブル崩壊などによって、「TRON電脳都市」構想は幻となった<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20080807/156209/ 【電子産業史】1988年:TRON(2ページ目)] 日経クロステック(xTECH)</ref>。 === TRONイネーブルウェア研究会 === 障害者や高齢者などのための「TRONイネーブルウェア仕様」(現代で言う「[[ユニバーサルデザイン]]」に相当)を定めるサブプロジェクト。1987年に開始。 「イネーブル(enable)」とは「可能にする」と言う意味で、「イネーブルウェア」とは、障害者や高齢者など「何か」ができなくなっている人に、その「何か」を可能にするためのハードウェア群・ソフトウェア群を指す、TRONプロジェクトによる造語である。 === MTRON === 「Macro TRON」の略。ITRON、BTRON、CTRONなどのTRON系OSで構成される、超機能分散システム(HFDS)全体を対象とするようなOS(の構想)である。1984年に提唱された。 上記のように、HFDS(どこでもコンピュータ)な社会が実現し、身の回りに存在するあらゆるものにTRON系OSが搭載されることになると、それらを統括するネットワークシステムが必要となる。別々に設計された機器を、MTRONを介して相互に接続することが可能になる。MTRONの存在によって、開いたネットワーク(現在で言う[[分散コンピューティング]])環境が実現すると想定された。 これがTRONプロジェクトの最終目標であるとされたが、結局ITRON以外は普及しなかったため、MTRONは構想だけで終わった。 === IMTRON === ITRONで構成されるMTRON。1993年にリリースされたμITRON3.0の仕様書で提唱された。 1993年のμITRON3.0において、同一の機器に搭載された複数のMCUが相互に接続できるような機能が実現されたが、その次の段階として、別々に設計された機器のMCUが相互に接続できるような仕様のμITRONを策定したいと坂村は考えていた。ITRON3.0の次の世代のITRONで実現するはずであったが、μITRON4.0が策定された1999年の時点では、μITRONを搭載したインターネット端末が普及するなど、もはや「弱い標準化」を志向するμITRONでは時代に追いつかなくなってきており、すぐにT-Kernelプロジェクトが開始したため、構想だけで終わった。 == T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ) == [[ファイル:Pentax K3 jm6729.jpg|thumb|260px|T-Kernel仕様OS(イーソル株式会社製作のeT-Kernel)を搭載したカメラ、[[Pentax K3]](2013年発売)。T-KernelはITRONに引き続いて家電で広く使われている]] 坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。 === eTRON === ICカード、特に非接触のものの通信や、認証などのセキュリティなどの規格。2000年発表。 T-Engineを搭載したチップ同士が安全に通信を行うための[[公開鍵基盤]](PKI)である。全てのモノがネットワークで接続されるユビキタス・コンピューティング社会においてはセキュリティを守るため、利用される全てのT-EngineボードにはeTRONが搭載されることが前提となる。 === T-Engine === ハードウェアやソフトウェアなどを含む、T-Kernelの開発環境。2001年発表。 === T-Kernel === [[File:TOYOTA_PRIUS_ZVW50_A_Touring_Selection_03.jpg|thumb|260px|GUIを持つシステムで使われることが想定されるT-Kernel。[[トヨタ]]の[[カーナビ]]や車両周辺監視システム「パノラミックビューモニター」([[富士通テン]]の開発した「マルチアングルビジョン」)でイーソルのT-Kernel仕様OSが採用されている。]] ITRONをベースに設計された、組み込み向けRTOS。2002年公開。 ITRONでは1980年代当時のハードウェアの性能による制限から、仕様書だけ策定されており、実装はハードウェアに合わせて各自で行なう「弱い標準化」の方式となっていたため、最小のシステムから大規模システムにまで対応できるスケーラビリティを持つ一方、それぞれの実装で細かい違いがあり、ソフトの再利用などが困難だった。その反省から、T-Kernelでは2000年代のハードウェアの性能に合わせて「強い標準化」を目指し、仕様書だけでなくソースコードもオープンとなっており、それによって細かな実装上の違いをなくし、デバイスドライバやミドルウェアの再利用が促進できるようになっている。 GUIを持つことが前提となる「T-Kernel」とともに、T-Kernelと互換性を持ちつつ必ずしもGUIを持たないような小さいシステムでも利用できる「μT-Kernel」も策定された。このように、ソフトの再利用性やミドルウェアの利用による開発の容易さと言った特徴を持ちつつも、RTOSとして小規模なシステム開発から大規模なシステム構築用途にまで対応する「フルスケーラビリティ」を持つ。 旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。 === T-Engineボード === T-Engineの標準プラットフォームで、T-Kernelが動作するハードウェア。eTRONを搭載している。ソフトウェアの移植性が高く、異なるCPUを搭載したボードでも同一のソースでソフトウェアが使用できる。 2019年現在、パーソナルメディア株式会社よりトロンフォーラム公認のT-Engineリファレンスボード(U00B0021-02-CPU)が販売されており、T-Kernelの評価ができる。標準価格 49,800円。 === TRON多国語言語環境 === T-KernelおよびBTRONで多漢字・多言語を実現するための多言語処理環境。 2000年に開始した日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「マルチメディア通信システムにおける多国語処理の研究」プロジェクトにおいて開始され、2001年に東京大学に設置された東京大学多国語処理研究会によって引き継がれ、設計が進められている。 その成果は66,773字セットを搭載した「GT書体」として2000年にリリースされ、2001年にはGT書体を標準装備したBTRON3仕様OS『超漢字3』がパーソナルメディア社から発売され、TRONにおいて多国語言語環境が実現できることが実証された。GT書体の収録文字数は、2011年時点で78,675字。 2011年にはGT書体を収録した、Windowsなどでも利用できるTrueTypeフォント「[[Tフォント]]」として公開された。 明朝体・ゴシック体・楷書体がある。 === ユビキタスID === [[ファイル:Ucode of Intelligent Trig points.jpg|thumb|260px|ucodeが埋め込まれた三角点。右上にucodeのマークが見えるが、屋外なので色褪せている]] RFIDタグ(無線ICタグ)などに付与する識別コード(ucode)の体系化を目指したプロジェクト。 T-Engineフォーラムに2003年に設置されたユビキタスIDセンター(センター長:坂村健)と、東京大学ユビキタス情報社会基盤センターの坂村健(2009年よりセンター長、2017年に定年退職)および[[越塚登]](坂村の定年退職後にユビキタス情報社会基盤センター長)によって推進されている。 ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに[[128ビット]]のucodeが埋め込まれており、ICタグリーダを使用することで情報を読み取ることができる。 === TAD(TRON Application Databus) === BTRON仕様OSにおいて使われるデータ交換形式。BTRONにおいて扱われるデータに関する情報を標準化したもので、このファイル形式を採用することで、アプリケーションのメーカーやバージョンに関係なく、BTRONを搭載した全ての機器におけるデータの完全な互換性が実現される。 === BTRON3 === 2001年頃より爆発的に普及し始めた、GUIを搭載した携帯情報端末において、BTRONの採用が増えるだろうと予測されていたので、BTRON3が主要なプロジェクトと位置付けられていたが、結局1つも発売されなかった。 パーソナルメディア社がBTRON3仕様OS『超漢字』で実装した、「マイクロスクリプトで簡単にGUIが作れる」や「GUI上で17万字の多文字が扱える」と言った要素は、パーソナルメディア社が2003年に発表したT-Kernel仕様OS「PMC T-Kernel」のGUIミドルウェア「T-Shell」にそのまま引き継がれている。元々パソコン向けのOSやHMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)を作るプロジェクトであったBTRONプロジェクトの成果は、組み込み向けの「T-Engineプロジェクト」においては、多文字を利用する国である日本・中国・韓国向けの組み込みシステムのGUIや、電子辞書のシステムの開発などで生かされている。 2006年に発売されたBTRON3仕様OS『超漢字V』は、Windows上で動くPCエミュレータ上で稼働する前提で、事実上Windowsのアプリケーションのように動作する。T-Kernelで利用されるスクリプト言語「マイクロスクリプト」が動くので、「WindowsにおけるT-Kernelの開発環境」としての利用が想定されている。 BTRON3仕様OSの設計に関わった松為彰(2008年よりパーソナルメディア社の代表取締役社長)は、T-EngineプロジェクトにおいてはT-Kernelの次世代仕様策定の中心人物として、2010年よりT-Kernel2.0 SWG(サブワーキンググループ)の座長を務めている。 === μITRON4.0 === 2006年にITRON仕様のVer. 4.03.03がリリースされた。これがμITRON仕様の最終となる。 あくまでT-Kernelへの移行がしやすくなるために改訂されたもので、μITRONからT-Kernelへの移行は不可欠であると坂村は仕様書の冒頭において語っている。 μITRON仕様において、実装定義についての記述を一覧表にまとめ、これまでわかりにくかった部分がわかり易くなった。また、μITRON3.0、μITRON4.0、T-Kernelにおいて同等の機能を持つサービスコールを規定し、将来的にT-Kernelに移行する際、μITRONからT-Kernelへの移植をより容易に行うことができるようになった。 === トヨタ夢の住宅PAPI === 1989年に建設されたTRON電脳住宅の第2弾として、2004年に建設された。[[トヨタ自動車]]及び[[トヨタホーム]]をスポンサーとして、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ博物館向かいに建設された。 第1弾と比べると、屋上がすべて太陽電池になっているなど、「エコ」になっているのが大きな特徴。「[[愛・地球博]]」の開催に合わせ、2005年3月25日より9月25日まで一般公開された後、非公開でトヨタの様々な実験に使われ、2014年に解体された。 2010年にはトロン協会が解散している。 === T-Kernel 2.0 AeroSpace === [[ファイル:Arase ISAS.png|thumb|260px|T-Kernel 2.0 AeroSpaceで制御されるジオスペース探査衛星「[[あらせ]]」(想像図)]] YRPユビキタス・ネットワーキング研究所(所長:坂村健)とJAXAが2013年に共同開発した、宇宙航空向けのOS。 宇宙航空分野において、低消費電力とリアルタイム性などが評価され、ITRONやT-Kernelなどが多数採用されていた。そのため、東京大学が2013年に開発した惑星分光観測衛星「[[ひさき]]」を含むこれまでのノウハウの蓄積を元に、2011年リリースのT-Kernel 2.0をベースとして、高い信頼性、安全性の向上、高精度の時間管理機能などと言った、宇宙航空分野で必要な機能を追加した。 JAXAが2015年に打ち上げ予定のジオスペース探査衛星「[[あらせ]]」に搭載することを前提として開発された。「あらせ」はT-Kernel 2.0 AeroSpaceを搭載して2016年に打ち上げられた。 == T-KernelプロジェクトStep2 == [[ファイル:Zoorasia100403_2.JPG|thumb|260px|IoT-Engineを活用したアプリックス社のロケーションビーコン「MyBeacon」を2018年に動物園内に設置した[[よこはま動物園ズーラシア]]。KDDI社の動物園向けサービス「one zoo」と連携し、専用アプリをインストールしたスマホを持って動物に近づくとビーコンがそれを認識し、音声案内サービスなどを提供する]] 坂村健が2015年より提唱している「アグリゲート・コンピューティング」を実現するための、T-KernelプロジェクトのStep2である。2015年3月に「T-Engineフォーラム」から改称したトロンフォーラムが中心となって推進している。 === IoT-Engine === IoTのためのオープンな標準プラットフォーム環境を構築するためのプロジェクト。2015年発表。 坂村が2015年に提唱し、2016年発売の著書『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』において詳細に記述された「アグリゲートコンピューティング」構想を実現させるためのもの。「アグリゲートコンピューティング」とは、モノとモノがローカルのネットワークで相互に接続される「ユビキタス・コンピューティング」の次の段階で、モノとモノがクラウドを介して相互に接続される世界である。ネットワークの通信速度が高速化した2010年代において現実化した。 プロジェクトの発足直後となる2016年の時点で、[[ルネサスエレクトロニクス]](日本)、東芝マイクロエレクトロニクス(現・[[東芝デバイスソリューション]]、日本)、[[サイプレス・セミコンダクター]](アメリカ)、イマジネーションテクノロジーズ(イギリス)、[[ヌヴォトン|ヌヴォトン・テクノロジー]](台湾)、[[NXPセミコンダクターズ]](オランダ)、[[STマイクロエレクトロニクス]](スイス)という世界6か国7社のマイコンメーカーが賛同した。 実装は協賛企業の各社によって行われるが、OSにはμT-Kernel 2.0を搭載し、クラウドサービスに接続する機能を必須要件とする。製品のOSとして非常に低いリソースでも動くTRONを利用し、高度な処理はクラウドに任せるようにすることで、製品の低コスト化・低消費電力化を図ることができる。またTRONと言うオープンなプラットフォームを各社の製品で採用することで、各社の製品で連携を取ることができるようになる。 === 東洋大学赤羽台キャンパス(INIAD) === 2017年に東京大学を定年退職し、[[東洋大学]]情報連携学部の学部長となった坂村健のコンセプトに基づいて設計された東洋大学の新キャンパス。 [[UR都市機構]]は老朽化した旧UR赤羽台団地の建て替えを2000年代より進めており、その際に余った土地を東洋大学が購入し、2017年に開校した。 キャンパス全体がIoT化されており、TRONプロジェクトを体現したものとなっている。 === ヌーヴェル赤羽台 === 1989年の「TRON電脳住宅」、2004年の「トヨタ夢の住宅PAPI」に続く、TRON電脳住宅の第3弾。2018年に設置された「URにおけるIoT及びAI等活用研究会」(会長・坂村健)が推進している。 UR都市機構が「ヌーヴェル赤羽台」として再整備を進める旧UR赤羽台団地の一部区画に、坂村健が学部長を務める東洋大学赤羽台キャンパスが開校したことをきっかけとして、UR都市機構と東洋大学情報連携学部が2018年に提携したことにより実現した。 2030年の完成を目指している。 === TRON Safe Kernel === T-Kernel2.0をベースに、産業機器向けの機能安全規格である[[IEC 61508]] SIL3に対応したTRON。日立製作所、ルネサス エレクトロニクス、日立超LSIシステムズを中心として2017年に策定された。 2000年代以降、特に欧州に産業機器を輸出する際はIEC 61508の認証が必須となり、[[ISO 26262]](自動車)などその他の安全規格への準拠を条件とする場合も増えた。しかし、第三者機関から認証を受けるには5億円程度かかるため、組み込み業界の多くを占める中小企業が認証を得ることは難しい。そのため、トロンフォーラムが代わりにIEC 61508で安全要求レベルが最も厳しい「SIL3」の認証を得た上で無償公開される「TRON Safe Kernel」をOSとして採用することで、海外に製品の輸出がしやすくなり、またメーカーの実装ごとに独自に認証を受けた場合にかかる費用も無くすことができる。 安全水準の異なるソフトウェアを分離して実行するためのドメイン管理機能を備えており、機能安全水準を満たさないアプリケーションを動かす場合はT-Kernel2.0として動作する。 === IEEE 2050-2018 === 米電気電子学会IEEEによる、リアルタイムオペレーティングシステムの国際標準規格である<ref name=tron2018>{{Cite web|和書|title=μT-Kernel 2.0がベースのIEEE 2050-2018がIEEE標準として正式に成立 |website=www.tron.org |publisher=トロンフォーラム |date=2018-09-11 |url=https://www.tron.org/ja/2018/09/press0911/ |accessdate=2019-02-25}}</ref>。2018年策定<ref name=tron2018/>。 2013年発表のμT-Kernel2.0が、2018年にIEEEによって標準化されたもの<ref name=tron2018/>。これに準拠したOSとして、2018年発表のμT-Kernel 3.0が存在する。 μT-Kernel2.0の権利がトロンフォーラムからIEEEに譲渡され「IEEE 2050-2018」となったことにより、2018年までμT-Kernel2.0と呼ばれていたものは以後IEEEによってメンテナンスされることとなった。そのため、トロンフォーラムの開発のメインはμT-Kernel 3.0に移行した。 === μT-Kernel 3.0 === RTOSの国際標準規格であるIEEE 2050-2018に準拠した、μT-Kernel2.0の上位互換OS。2018年発表。 μT-Kernel 2.0が小規模マイコン向けであったのに対して、μT-Kernel 3.0はIoTエッジノード向けに最適化されており、μT-Kernel 2.0からプロセス管理機能や仮想記憶などが省略されている。また、ソースコードが見直され、最新のマイコンへの移植性が高められた。 2019年11月にはARM Cortex-M3マイコンを搭載したIoT-Engineで動作するカーネルのソースコードが、トロンフォーラムのホームページ及びgithubで公開された<ref>[https://www.tron.org/ja/2019/12/press191209/ μT-Kernel 3.0の仕様書とソースコードを一般公開] - トロンフォーラム</ref>。 == その他 == === シンボル === {{特殊文字|節|説明=[[拡張漢字|CJK統合漢字拡張B]]}} [[File:TRON-symbol.jpg|128px|none]] 1989年のデザイン<ref>『TRON DESIGN』p. 4</ref>。「[[ファイル:TRON 2-D77C.gif]]」(大漢和 5-13536、GT 17106、U+23091「𣂑」)をモチーフとしたもの。「斗」の古字で「[[升]]」の意があり、升=計器=規格に通じる、といった考えがある。中央の「十」の部分がTRONの頭文字「t」を模してもいる。 また、この字を使い、TRONを[[漢字]]で「[[ファイル:TRON 2-D77C.gif]]論」と[[当て字]]したりもする。中国で[[篆刻]]してもらおうとしたところ、この字は[[国字]]であるために中国でも通用する「斗」にされてしまい、さらに[[篆書体]]のために、まるで「毛」という字のような、当初の意図とは全くかけ離れたものが出来上がってしまった、というエピソードがある<ref>『TRONWARE』Vol. 36 p. 7</ref>。 === {{lang|en|TRON}}キーボード === {{lang|en|TRON}}プロジェクトでは、コンピュータ用として新しくデザインし直された[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]も製作した。放射状の配列を採用した「{{lang|en|TRON}}キーボード」と、ノートPC等での使用を考慮し、矩形内に配列した「{{lang|en|μTRON}}キーボード」がある。 <gallery> ファイル:TRON-keyboard-OKI-front.jpg ファイル:TRON-keyboard-PMC-TK1-up.jpg ファイル:TRON-Keyboard-Unit-TK1_001-KeysUp.jpg </gallery> <gallery> ファイル:MicroTRON-keyboard-UCTech-U01C0240-01-front.jpg ファイル:ΜTRON-Keyboard-Trainer.jpg </gallery> プロジェクトの当初の時期に設計・試作(一部製品化)されたキーボードは、英字系が[[Dvorak配列|{{lang|cs-Latn|Dvorak}}配列]]ベース、日本語系がプロジェクトでの調査にもとづく独自配列(物理形状としては、M式等との類似もあるが中迫勝らの研究を参考・反映したもの。日本語入力方式はシフトによりひとつのキーに割り当てられた複数のかなを切り替えるという点は[[親指シフト]]に類似している)というものであった。<!--(確認できないのでコメントとしておく)また、学校教育モデルとして想定された際のキーボードはいわゆる新JIS配列をモディファイしたものであった。--> 掌に合わせた物理形状であることから、掌の大きさに合わせないと使い辛くなることが予想でき、それに対応するためS・M・Lの複数サイズを最終的には用意することとしていた{{sfn|坂村健|1987c|p=171}}が、沖による試作品やTK1などでMサイズ以外のものは作られなかった(後述する、2017年初頭現在製造市販されている{{lang|en|μTRON}}キーボードは、左右セパレート型にすることである程度のポジションの違いに対応している)。 「{{lang|en|μTRON}}キーボード」という商品名で2017年初頭現在製造・市販(ユーシーテクノロジ(株)製造・パーソナルメディア(株)販売)されているものは、[[QWERTY配列|{{lang|en|QWERTY}}]]と[[JISキーボード|{{lang|en|JIS}}かな]]配列になっており、{{lang|en|TRON}}本来の配列は添付の厚紙製トレーナーと、ドライバソフトウェアによるサポートとなっている。「{{lang|en|TRON}}配列モード」に切り替えるとUSBから一瞬論理的に切り離され、USBプロダクト IDが変化して再接続する。 === HFDS === 坂村が1982年に発表したプレゼンテーションスライド「未来のオフィス」で大枠が示され、1987年の論文『The Objectives of the TRON Project』において明確なビジョンとして示された。 未来の地球人類社会では、日常生活のあらゆる部分(電球1個、壁パネル1枚)にまでマイコンが入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携するシステムを「超機能分散システム」、Highly Functionally Distributed System(HFDS)と呼んだ。そして、TRONをその実現に向け準備するプロジェクトと位置付けるものである。 対談などではくだけた表現として「どこでもコンピュータ」などと呼ぶこともあったり、2000年ごろより[[マーク・ワイザー]]による[[ユビキタスコンピューティング]]の概念が広まってからは、そちらを使うことが多くなった。2000年代後半以降は「IoT」と呼んでいる。 == トリビア == * 1982年のヒット映画「[[トロン (映画)|トロン]]」との関連は曖昧にされており、プロジェクト発足直後にあたる時期の坂村の著書『電脳都市』の映画「トロン」の章の注には、よく映画から採ったのか、と聞かれるのだが「そうでもないし、そうでもある、というところで実のところ全く関係ない。でも、このプロジェクトを始める前に映画を見た記憶はある。{{lang|en|TRON}} は {{lang|en|The}}&hellip; の略である。」{{sfn|坂村健|1987a|p=290}}と書かれている。 * 坂村は{{lang|en|[[Unicode]]}}、特に[[CJK統合漢字]]のために行われた {{仮リンク|Han unification|en|Han unification||label={{lang|en|Han unification}}}}を、[[漢字文化圏]]の文化を破壊するものとして、強く批判した。主要な主張は[[日本電子工業振興協会]]発行の『未来の文字コード体系に私達は不安をもっています』({{全国書誌番号|20985671}})にある(このパンフレットは[[1993年]]に発行されており、坂村らの以後の主張が指す「{{lang|en|Unicode}}」は、当時の規格である、{{lang|en|Unicode}} 1.1 と、{{lang|en|Unicode}} との共通性を強く指向したISO/IEC 10646-1:1993を基としている)。 * [[TOPPERSプロジェクト]]は、[[豊橋技術科学大学]]助教授(のち[[名古屋大学]]教授)の[[高田広章]]が2003年に開始した、組み込みシステム開発のためのプロジェクトである。μITRON4.0仕様に準拠したRTOSである「TOPPERS/JSP」カーネルをベースとして、これを独自に拡張した各種のカーネルを開発している。東大を拠点とする坂村に対して、高田は名古屋を拠点とすることから、TOPPERS系OSは主に中京地方の自動車メーカーなどで使われており、車載向けに[[OSEK|OSEK/VDX]]仕様を満たした「TOPPERS/ATK」カーネルなどが存在する。高田は東大坂村研究室の出身で、1999年にはμITRON4.0の仕様策定の中心人物として仕様書の編纂も担当し、また1997年より豊橋技術科学大学にITRON開発の拠点を築いたことでも、当時はTRONプロジェクトにおける主要な人物の一人とされていたが、2003年にTOPPERSプロジェクトを立ち上げて以降は、TRONプロジェクトとは無関係の人物と言うことになっている。具体的に言うと、2004年発表のμITRON(Ver. 4.02.00)の仕様書は高田広章が編纂したことになっているが、2006年発表のμITRON(Ver.4.03.00)の仕様書は「社団法人トロン協会」が編纂したことになっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2013年2月|section=1}}<!--Sfnやharvが使えますので、記事に関連付けてください--> * {{Cite book |和書 |author=坂村健 |authorlink=坂村健 |title=電脳都市:SFと未来コンピュータ |publisher=冬樹社 |date=1985-05 |ncid=BN0063510X |isbn=|oclc=15403647 |ref=harv}} ** {{Cite book |和書 |author=坂村健 |title=電脳都市 |edition=新版 |publisher=岩波書店 |date=1987-11 |ncid=BN01702825 |isbn=4-00005699-9 |oclc=39385803 |ref={{sfnref|坂村健|1987a}}}} * {{Cite book |和書 |author=坂村健 |title=TRONからの発想 |publisher=岩波書店 |date=1987-02 |ncid=BN00799570 |isbn=4000057316 |oclc=47402842 |ref=harv}} * {{Cite book |和書|author=坂村健 |title=TRONを創る |publisher=共立出版 |year=1987 |date=1987-06 |ncid=BN01084963 |isbn=4320023668 |oclc=43168952 |ref={{SfnRef|坂村健|1987c}}}} * {{Cite book |和書 |title=TRON概論 |edition=坂村健・編 |publisher=共立出版 |date=1988-06 |ncid=BN02303734 |isbn=4320024095 |oclc=673697015 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=坂村健 |title=TRONで変わるコンピュータ |edition=新版 |publisher=日本実業出版社 |date=1988-12 |ncid=BN0308394X |isbn=4534014333 |oclc=674167563 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=坂村健 |title=情報文明の日本モデル—TRONが拓く次世代IT戦略 |publisher=PHP研究所 |date=2001-10 |ncid=BA53930401 |isbn=4569618499 |oclc=51897663 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=坂村健 |title=ユビキタス、TRONに出会う |publisher=NTT出版 |date=2004-10 |ncid=BA6919982X |isbn=4757101368 |oclc=169989595 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=吉田典之 |title=トロンが拓くユビキタスの世界 |publisher=電波新聞社 |date=2004-09 |ncid=BA68837942 |isbn=4-88554-764-4 |oclc=56765446 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=坂村健 |title=ITRON・μITRON標準ハンドブック |publisher=パーソナルメディア |date=1990-12-15 |url=https://www.personal-media.co.jp/archive/itron_hb.pdf |isbn=9784893620798 |ref={{sfnref|ITRON標準ハンドブック|1990}}}} == 関連項目 == * [[超漢字]] - BTRON仕様に準拠した市販OS。 * [[Tフォント]] - GT書体と互換性を持つフォント。 * [[東京大学大学院情報学環・学際情報学府]] - Tフォントの開発。 * [[TOPPERSプロジェクト]] - μITRON4.0仕様に準拠したRTOSである「TOPPERS/JSP」カーネルをベースとして、各種のソフトウェアの開発を行うプロジェクト。TRONプロジェクトとは無関係と言うことになっている。 *[[ユビキタスコンピューティング]] == 外部リンク == * [https://www.tron.org/ TRON Forum] * {{Twitter|T_ENGINE_FORUM|TRON Forum}} * [http://www.uidcenter.org/ja/ ユビキタスIDセンター] * [https://www2.ubin.jp/ ユビキタスネットワーキング研究所] * [https://www.toppers.jp/ TOPPERSプロジェクト] * [https://www.nhk.or.jp/special/detail/20050424.html NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」] * [http://charcenter.t-engine.org/ TRON文字収録センター] - GT書体やTフォントのダウンロードが可能。 {{TRON}} {{リアルタイムオペレーティングシステム}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とろんふろしえくと}} [[Category:TRONプロジェクト|*]] [[Category:リアルタイムオペレーティングシステム|TRONふろしえくと]] [[Category:OSファミリ]] [[Category:オペレーティングシステム]] [[Category:コンピュータ史]] [[Category:経済産業省]] [[Category:産学連携]] [[Category:研究プロジェクト]] [[Category:日本の情報技術]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/TRON%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
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人名一覧
人名一覧(じんめいいちらん)は、実在する人物の一覧。 記事へのリンクの後に(△)とあるのはその記事の中に一覧のようなものがある記事である。個別の記事が書かれないような人物は加えないこと。 主なもののみを掲げる。詳しくは出身別の人名記事一覧の一覧(地域別)を参照のこと。 参考: 出身別の人名記事一覧の一覧#日本の大学(五十音順) 注意:特定の職業の従事者の一覧を削除するのは職業差別にあたります。 <職業一覧ではないので、人名一覧のない職業を載せないでください>
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'''人名一覧'''(じんめいいちらん)は、実在する[[人間|人物]]の一覧。 記事へのリンクの後に(△)とあるのはその記事の中に一覧のようなものがある記事である。個別の記事が書かれないような人物は加えないこと。 == 出身別 == === 国籍・民族・出身地別 === 主なもののみを掲げる。詳しくは[[出身別の人名記事一覧の一覧]](地域別)を参照のこと。 * [[アイヌの一覧]] * [[イタリア人の一覧]] * [[分野・時代別のインド人の一覧]] * [[オーストリア人の一覧]] * [[樺太出身者の一覧]] * [[韓国の著名人一覧]] * [[朝鮮民主主義人民共和国の著名人一覧]] * [[ギリシャ人の一覧]] * [[台湾の人物一覧]] * [[ドイツ人の一覧]] * [[フランス人の一覧]] * [[ロシア人の一覧]] * [[中南米出身者の一覧]] * [[日系人]](△) === 出身大学別 === ==== 日本の大学 ==== 参考: [[出身別の人名記事一覧の一覧#日本の大学]](五十音順) ===== 北海道 ===== * [[旭川大学の人物一覧]] * [[小樽商科大学の人物一覧]] * [[帯広畜産大学の人物一覧]] * [[北見工業大学の人物一覧]] * [[札幌医科大学の人物一覧]] * [[札幌学院大学の人物一覧]] * [[札幌大学の人物一覧]] * [[道都大学の人物一覧]] * [[藤女子大学の人物一覧]] * [[北星学園大学の人物一覧]] * [[北海学園大学の人物一覧]] * [[北海商科大学の人物一覧]] * [[北海道大学の人物一覧]] * [[北海道医療大学の人物一覧]] * [[北海道教育大学の人物一覧]] * [[北海道工業大学の人物一覧]] * [[北海道東海大学の人物一覧]] * [[北海道薬科大学の人物一覧]] * [[室蘭工業大学の人物一覧]] * [[酪農学園大学の人物一覧]] ===== 東北 ===== * [[会津大学の人物一覧]] * [[青森大学の人物一覧]] * [[青森公立大学の人物一覧]] * [[秋田大学の人物一覧]] * [[いわき明星大学の人物一覧]] * [[岩手大学の人物一覧]] * [[岩手医科大学の人物一覧]] * [[郡山女子大学の人物一覧]] * 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FFT
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FFT 交通: FFT - フロンティア航空のICAO航空会社コード。 スポーツ、ゲーム、娯楽: フランステニス連盟 - 全仏オープンを主催するテニス組織。 FINAL FANTASY TACTICS - ファイナルファンタジータクティクス。 en:Football Federation Tasmania - オーストラリアタスマニア州のサッカーの運営組織。 科学、技術: Fast Fourier transform - 高速フーリエ変換。 Finite Fourier transform - 離散フーリエ変換の別称。 文化: FourFourTwo - イギリスのサッカーの雑誌。
'''FFT''' '''交通''': * FFT - [[フロンティア航空]](Frontier Airlines)の[[国際民間航空機関|ICAO]][[航空会社コード]]。 '''スポーツ、ゲーム、娯楽''': * [[フランステニス連盟]](Fédération française de tennis) - [[全仏オープン]]を主催するテニス組織。 * FINAL FANTASY TACTICS - [[ファイナルファンタジータクティクス]]。 * [[:en:Football Federation Tasmania]] - [[オーストラリア]][[タスマニア州]]のサッカーの運営組織。 '''科学、技術''': * Fast Fourier transform - [[高速フーリエ変換]]。 * Finite Fourier transform - [[離散フーリエ変換]](discrete Fourier transform)の別称。 '''文化''': * [[フォーフォーツー|FourFourTwo]] - イギリスのサッカーの雑誌。 {{aimai}}
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PostgreSQL
PostgreSQL(ポストグレス キューエル)は、拡張性とSQL準拠を強調するフリーでオープンソースの関係データベース管理システム(RDBMS)である。Postgresとしても知られている。もともとは、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたIngresデータベースの後継としてその起源を根拠としたPOSTGRESという名前であった。1996年に、プロジェクトはSQLのサポートを反映してPostgreSQLに改名された。2007年の検討の結果、開発チームはPostgreSQLという名前とPostgresという別名を維持することを決定した。 PostgreSQLは、原子性、整合性、独立性、耐久性 (ACID)プロパティを持つトランザクション、自動更新可能なビュー、マテリアライズドビュー、トリガ、外部キー、ストアドプロシージャを特徴としている。単一マシンからデータウェアハウスや多数の同時使用ユーザを持つWebサービスまで、さまざまなワークロードを扱えるように設計されている。macOS Serverのデフォルトデータベースであり、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Windowsでも利用可能である。 PostgreSQLはIllustraや、Illustraを買収しその技術を採りいれたInformixとともにオブジェクト関係データベース管理システムを実装してきた。 問い合わせ言語には SQL を用いており、SQL92, 99の大部分と、2003, 2008の一部をサポートしている。 DB-Engines.comによるマーケットシェア調査では、2018年2月現在、Oracle Database、MySQL、Microsoft SQL Server に続いて4位であり、MySQL とのシェアの差は年々縮まる傾向にある。 2012年7月当時は、クラウドサービスプロバイダの Jelastic によると、オープンソースDBの中でのPostgreSQLの世界シェアは Jelastic のユーザー内では14%程度であった(MySQL系 70%(MySQL 56%、MariaDB 14%)、MongoDB 15%)。日本の Jelastic のユーザー内では8%であり(MySQL系 66%(MySQL 50%、MariaDB 16%))、世界的なシェアとは状況が異なる。 関数(ストアドファンクション)によりサーバで実行される処理のまとまりを定義できる。PostgreSQL は行を返却する関数を定義することができる。関数の出力は複数の行であり、クエリの中でテーブルと同様に扱うことができる。実行するユーザまたは定義したユーザのどちらの権限で実行されるかを指定して関数を定義できる。 関数の定義には SQL の他、分岐やループをサポートする下記の言語で実装することが可能である。言語によっては関数をデータベーストリガとして実行することもできる。 PostgreSQL は組み込みで以下のインデックスをサポートしている。デフォルトはB+木。また、ユーザ定義インデックスを追加することもできる。 PostgreSQL のインデックスには以下の特徴がある。 データベーストリガは SQL データ操作言語 (SQL DML) の文 (INSERT, UPDATE / UPDATE OF, DELETE, TRUNCATE) を実行した際に呼び出される。 利用例として、INSERT 文で挿入される値が妥当かの検証がある。 トリガが実行される条件は WHEN 句で与えることができる。 トリガはテーブルに対してのみ定義できる。 ビューに対するトリガが必要な場合には、代わりにルールを使用する。 複数のトリガが定義されている場合、アルファベット順に実行される。 トリガで実行される処理は関数として定義する。 トリガ用の関数の定義には SQL 関数は使用できないが、PL/pgSQL やその他の多くの関数用言語を使うことができる。 ルールにより SQL の内部表現である「クエリ木」を書き換えることができる。 一般的なルールの用途は更新可能ビューを実現することであり、標準 SQL で規定される "INSTEAD OF" トリガ の代わりに用いられる。 多くのデータ型が利用できる。 可変長文字列と可変長バイト列には最大で 1GB を格納できる。一定のサイズを上回るデータ値は TOAST と呼ばれる機能により自動的に圧縮され別領域に配置される。そのため、ページサイズ (通常8KB) を上回るサイズの行であっても保存できる。 さらに、ユーザがデータ型を追加することもでき、それに対してインデックスを作成することもできる。 利用例として、GIS 用の型を GiST インデックスで検索可能な PostGIS プロジェクトがある。 ユーザはほとんどのデータベース・オブジェクトを追加できる。 データベースの大きさの上限はない。テーブルのバイト数の最大は32Tbyteである。 テーブルの列は1600まで可能だが、運用上の上限はデータ型に依存する。 バキューム (VACUUM) とは、追記型アーキテクチャにおける不要領域を回収し、再利用またはOSに返却する処理である。 なお、バージョン8.3からはHeap-Only Tuples (HOT) が採用され、インデックスの変更を伴わない更新については、削除された行を直ちに再利用することが可能となり、バキュームの必要な頻度は下がった。 PostgreSQLは、MVCCの実現のため、追記型のアーキテクチャを採用している。 データを削除する際は実際のレコードは削除せず、該当行に削除マークを付けるのみである。 更新の際も内部的には削除と挿入を同時に行っている。 そのため、更新・削除が繰り返されるテーブルにおいては、たとえ理論的な行数が変わらなくとも、更新・運用を重ねるごとに物理的なファイルサイズが増加する。肥大化によるパフォーマンスの劣化を回避するため、次節に述べるバキューム作業を定期的に行う必要がある。 各バージョンによって以下の差異がある。 PostgreSQL 8.1 より、パーティショニングを組み込みでサポートしている。バージョンが上がる度に機能が追加されている。 テーブル・パーティショニングは継承を用いて実現する。 これは、Oracle Database 7 のパーティション・ビューに近い実装である。 テーブルを作成する際、他テーブルを「親」テーブルとして指定し、継承関係を定義できる。 「子」テーブルに挿入された行は、親テーブルを参照した際にも取得される。 親テーブルに対する列の追加やCHECK制約の定義は自動的に子テーブルにも反映されるが、外部キーや一意性制約は継承をサポートしていない。 パーティショニングされたテーブルへは親テーブルを通してアクセスする。 SELECT, UPDATE, DELETE 文は子テーブルを含むよう展開されるが、クエリの条件が CHECK 制約に適合しない子テーブルは設定により自動的に除外することもできるため効率よく処理できる。 INSERT については、バージョン10以降は宣言的テーブルパーティショニングにより子テーブルに振り分けることが出来る。バージョン9.6までは、子テーブルを直接指定するか、親テーブルにトリガを作成することで挿入先を指示して振り分けることが出来る。 PostgreSQL 9.0 より、ストリーミングレプリケーションを組み込みでサポートしている。トランザクションログを転送し、全てのデータベース・ファイルの変更をコミット後に他のサーバへ非同期に転送する。単一マスタと複数スレーブを構成でき、スレーブは参照の問い合わせを受け付ける。参照処理を複数のノードで負荷分散するスケールアウトが可能である。 PostgreSQL 10 より、ロジカルレプリケーションを組み込みでサポートしている。データベース全体ではなく、指定した部分だけをレプリケーションできる。 LIKE 述語と正規表現による文字列検索のほか、全文検索の機能を持つ。バージョン 8.3 以降は組み込みで、それ以前のバージョンでは contrib/tsearch2 として提供されている。この全文検索では文字列から単語を抽出し、転置テーブル (GIN) または単語空間を多次元木 (GiST) とするインデックスを作成できる。SQL/MM の全文検索とは異なり、「@@」演算子を使用する独自の文法で検索を行う。 標準では日本語の文字列から単語を抽出するパーサを持たないが、外部拡張である textsearch-ja を使用することで形態素解析による検索が可能となる。 また、標準の全文検索以外にも、PGroonga (Groonga を使用), Ludia, textsearch_senna (Senna を使用), pgestraier (Hyper Estraier), pgRast (Rast) などが外部拡張として存在する。 PostgreSQL 9.5 より、データの新規挿入または更新を行う「UPSERT」機能が実装された。「UPSERT」機能とは、データの新規挿入(INSERT)ができれば挿入を行い、新規挿入ができなければ更新(UPDATE)を行うもの。「ON CONFLICT」句を指定すると、データ変更の衝突を適切に処理できるという。 バックアップには主に3つの方法があり、SQLダンプ、ファイルシステムレベルバックアップ、連続アーカイブである。それぞれに長所・短所がある。 SQLダンプではpg_dumpのようなクライアントアプリケーションでバックアップをとり、リモートホストからのバックアップが可能であるがデータベース 全体のバックアップをとる場合にはほぼ常にスーパーユーザー権限が必要である。ファイルシステムレベルバックアップでは、bashコマンドで データファイルのバックアップをとる。この場合はオンラインバックアップやテーブル個別のバックアップは出来ない。連続アーカイブはWALを利用するものであり アドミニストレーターにとって複雑であるが、バックアップでの内部不整合がlog replayで解決されることやWALファイルをアーカイブするだけで連続バックアップできる 利点もある。ただこの方法ではデータベースクラスター全体のバックアップとなるため要求されるストレージは大である。 バージョン 8.1 以降 CPU スケーラビリティは大幅に改善された。 以降、改善を積み重ね、中規模のハードウェアであればスケーラビリティを十分に確保できるRDBMSとなっている。 過去のバージョンの PostgreSQL は他の関係データベース管理システム (RDBMS) と比較して更新処理が遅いと言われていた。追記型アーキテクチャが採用されており、更新処理は削除と挿入の組み合わせとして実現されていた。特に挿入の際にインデックスのキーを追加する必要がある点で性能差が生じていた。 しかし、バージョン 8.3 にて Heap-Only Tuples (HOT) と呼ばれる機能が採用され、インデックスのキーとなっている列の値に変更が無い場合にはインデックスの更新を回避できるようになった。HOT により約2倍のスループット向上が確認されている。 業界標準の規格に則ったベンチマーク結果として 2007年8月の サン・マイクロシステムズ (Sun) による報告がある。以下のハードウェアを使用し、813.73 SPECjAppServer2004 JOPS@Standard であった。 PostgreSQL専用もしくは各種データベース汎用のデータベース接続クライアントを利用して管理できる。 psql は PostgreSQL 付属のコマンドライン・プログラムである。 SQL を直接入力またはファイルから読み込んで実行するほか、スキーマ情報の表示などのメタコマンドを持つ。 また、SQL 構文やテーブル名などをタブキーにより入力補完できる。 pgAdmin は GUI の管理インタフェースである。 PostgreSQL License で配布される オープンソースソフトウェア (OSS) である。 多くのプラットフォームで動作し、日本語を含む多くの言語が利用できる。 また、専用の SQL エディタは psql と同様の入力補完機能を持つ。 Microsoft SQL Server Management Studio と似たインタフェースでデータベースを操作できる。 phpPgAdminはウェブベースの管理ツールである。PHPで作られており GPL で配布されている。名称はphpMyAdminと似ているが、製品同士の関連性は無く、操作性はかなり異なる。 PostgreSQL はバージョン 9.0 よりレプリケーションを標準でサポートするが、サードパーティー製のオプション・ソフトウェアも利用できる。 PostgreSQL はクライアントサーバモデルであり、データベースへの接続は主に TCP/IP ポート番号 5432 を用いて通信を行う。通信プロトコルは「フロントエンド/バックエンドプロトコル」として公開されている。 マイケル・ストーンブレーカーは、自分が開発を主導した関係データベース管理システム (RDBMS) であるIngres の商業化事業を一段落させると、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に戻り、同校で新たなプロジェクトを開始した。 プロジェクトの名称は Postgres と名づけられた。 このプロジェクト名称は、Ingres の後継を意味する Post-Ingres に由来している。 Postgresプロジェクトは、関係モデルを使ったこれまでの既存のデータベース管理システムの限界に対処することを目的として、開始された。 最も重要な課題は、これまでのDBMSではユーザが自分で新たな定義域 (ドメイン、型) を既存の単純な定義域をもとにして定義できない点であった。 Postgresでは型 (定義域) を完全にサポートするために必要な最小限の機能だけを導入した。 Postgres ではデータベースが関係を「理解」すると言われ、「規則」に従って自然な方法で関連する関係 (リレーション、表、テーブル) から情報を得ることができた。 ユーザ自身が型を定義する機能に加えて、関連を完全に記述できる機能も備えていた。 プロジェクトは他にも、追記型メディア (光ディスクなど) への対応、大容量記憶装置への対応、推論、オブジェクト指向型データモデルなどを、取り入れた。 実装においては、データベースとアプリケーションソフトウェアの間の新たなインタフェースを実験的に導入した。 プロジェクトチームは、1986年からPostgresシステムの基盤を説明した多数の論文を公表した。 1988年、Postgres のプロトタイプバージョンを発表した。 1989年6月、数名のユーザに対してPostgresバージョン1を公開した。 1990年6月、ルールシステム (RULE) を実装し直したバージョン2を公開した。 1991年、バージョン3を公開した。 バージョン3では、ルールシステムが再度実装し直され、複数の記憶装置を管理する機構が追加され、クエリエンジンが改良された。 1993年には、非常に多くのユーザが、プロジェクトに対して、サポートと追加機能を要望して、圧倒させるほどの状態となっていた。 1993年、主として雑然とした部分をきれいにしたことを内容とするバージョン4.2が公開された。 バージョン4.2が公開された後、Postgres プロジェクトは終了した。 Postgres は広く使われたが、保守はユーザに任されていた。 マイケル・ストーンブレーカーと Paula Hawthorn は、Postgresを商業化するために、Illustra Information Technologies 社を創業して、Illustraの製品名で開発・販売した。その技術は IBM Informix Dynamic Server (IDS) に導入されている。 一方、オープンソースの世界のソフトウェア開発者たちは、Postgres のコピーを入手してシステムのさらなる開発を進めることができた。 なぜならカリフォルニア大学バークリー校 (UCB) は、Postgres をオープンソースライセンスであるBSDライセンスのもとで公開していたからである。 1994年に、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) の大学院生であった Andrew Yu と Jolly Chen は、システムの問い合わせ言語のインタプリタを、Ingres を基にした QUEL のインタプリタから、SQL のインタプリタに置き換える作業を行った。 SQLインタプリタを備えたこのシステムは、Postgres95 と呼ばれた。 Postgres95 のソースコードは、ワールドワイドウェブに公開された。 1996年7月に Hub.Org Networking Services の Marc Fournier は、大学外の組織としては最初に、開発用サーバをオープンソースソフトウェア開発のために活動する人々に提供した。 Postgres95プロジェクトは、Bruce Momjian と Vadim B. Mikheev とともに、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に由来するソースコードを堅牢にする作業を始めた。 1996年8月1日に、Postgres95の最初のオープンソースのバージョンが公開された。 1996年に Postgres95 プロジェクトは、プロジェクトの名称を、SQL のサポートをしているという意味をこめて PostgreSQLに変更した。 1997年1月に PostgreSQL プロジェクトとしての最初のバージョンである、PostgreSQL バージョン 6.0 が公開された。 このときから、インターネットを通じて世界中のデータベース開発者のグループがPostgreSQLの開発に参加し、共同作業によるプロジェクトをうまく調整する体制ができあがった。 1999年7月23日、日本PostgreSQLユーザ会が設立し、任意団体として活動を開始した。 Postgres は Illustra により商業化されていたが、Illustra は Informix に買収され、Informix は 2001年に IBM に買収された。2001年以降には PostgreSQL を商用サポートする会社が現れた。 2006年2月1日、日本PostgreSQLユーザ会は NPO として再編成された。 2011年7月、オープンソースデータベース技術者認定試験(OSS-DB Exam)において基準のRDBMSとして採用された。 PostgreSQLのバージョンは以下のように表現される。 PostgreSQLをプライマリデータベースとして使用している注目すべき組織や製品には、以下のようなものがある。 2008年の時点で、PostgreSQL は以下の受賞をしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PostgreSQL(ポストグレス キューエル)は、拡張性とSQL準拠を強調するフリーでオープンソースの関係データベース管理システム(RDBMS)である。Postgresとしても知られている。もともとは、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたIngresデータベースの後継としてその起源を根拠としたPOSTGRESという名前であった。1996年に、プロジェクトはSQLのサポートを反映してPostgreSQLに改名された。2007年の検討の結果、開発チームはPostgreSQLという名前とPostgresという別名を維持することを決定した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "PostgreSQLは、原子性、整合性、独立性、耐久性 (ACID)プロパティを持つトランザクション、自動更新可能なビュー、マテリアライズドビュー、トリガ、外部キー、ストアドプロシージャを特徴としている。単一マシンからデータウェアハウスや多数の同時使用ユーザを持つWebサービスまで、さまざまなワークロードを扱えるように設計されている。macOS Serverのデフォルトデータベースであり、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Windowsでも利用可能である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "PostgreSQLはIllustraや、Illustraを買収しその技術を採りいれたInformixとともにオブジェクト関係データベース管理システムを実装してきた。 問い合わせ言語には SQL を用いており、SQL92, 99の大部分と、2003, 2008の一部をサポートしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "DB-Engines.comによるマーケットシェア調査では、2018年2月現在、Oracle Database、MySQL、Microsoft SQL Server に続いて4位であり、MySQL とのシェアの差は年々縮まる傾向にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2012年7月当時は、クラウドサービスプロバイダの Jelastic によると、オープンソースDBの中でのPostgreSQLの世界シェアは Jelastic のユーザー内では14%程度であった(MySQL系 70%(MySQL 56%、MariaDB 14%)、MongoDB 15%)。日本の Jelastic のユーザー内では8%であり(MySQL系 66%(MySQL 50%、MariaDB 16%))、世界的なシェアとは状況が異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "関数(ストアドファンクション)によりサーバで実行される処理のまとまりを定義できる。PostgreSQL は行を返却する関数を定義することができる。関数の出力は複数の行であり、クエリの中でテーブルと同様に扱うことができる。実行するユーザまたは定義したユーザのどちらの権限で実行されるかを指定して関数を定義できる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "関数の定義には SQL の他、分岐やループをサポートする下記の言語で実装することが可能である。言語によっては関数をデータベーストリガとして実行することもできる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "PostgreSQL は組み込みで以下のインデックスをサポートしている。デフォルトはB+木。また、ユーザ定義インデックスを追加することもできる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "PostgreSQL のインデックスには以下の特徴がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": 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を完全にサポートするために必要な最小限の機能だけを導入した。 Postgres ではデータベースが関係を「理解」すると言われ、「規則」に従って自然な方法で関連する関係 (リレーション、表、テーブル) から情報を得ることができた。 ユーザ自身が型を定義する機能に加えて、関連を完全に記述できる機能も備えていた。 プロジェクトは他にも、追記型メディア (光ディスクなど) への対応、大容量記憶装置への対応、推論、オブジェクト指向型データモデルなどを、取り入れた。 実装においては、データベースとアプリケーションソフトウェアの間の新たなインタフェースを実験的に導入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "プロジェクトチームは、1986年からPostgresシステムの基盤を説明した多数の論文を公表した。 1988年、Postgres のプロトタイプバージョンを発表した。 1989年6月、数名のユーザに対してPostgresバージョン1を公開した。 1990年6月、ルールシステム (RULE) を実装し直したバージョン2を公開した。 1991年、バージョン3を公開した。 バージョン3では、ルールシステムが再度実装し直され、複数の記憶装置を管理する機構が追加され、クエリエンジンが改良された。 1993年には、非常に多くのユーザが、プロジェクトに対して、サポートと追加機能を要望して、圧倒させるほどの状態となっていた。 1993年、主として雑然とした部分をきれいにしたことを内容とするバージョン4.2が公開された。 バージョン4.2が公開された後、Postgres プロジェクトは終了した。 Postgres は広く使われたが、保守はユーザに任されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "マイケル・ストーンブレーカーと Paula Hawthorn は、Postgresを商業化するために、Illustra Information Technologies 社を創業して、Illustraの製品名で開発・販売した。その技術は IBM Informix Dynamic Server (IDS) に導入されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、オープンソースの世界のソフトウェア開発者たちは、Postgres のコピーを入手してシステムのさらなる開発を進めることができた。 なぜならカリフォルニア大学バークリー校 (UCB) は、Postgres をオープンソースライセンスであるBSDライセンスのもとで公開していたからである。 1994年に、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) の大学院生であった Andrew Yu と Jolly Chen は、システムの問い合わせ言語のインタプリタを、Ingres を基にした QUEL のインタプリタから、SQL のインタプリタに置き換える作業を行った。 SQLインタプリタを備えたこのシステムは、Postgres95 と呼ばれた。 Postgres95 のソースコードは、ワールドワイドウェブに公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1996年7月に Hub.Org Networking Services の Marc Fournier は、大学外の組織としては最初に、開発用サーバをオープンソースソフトウェア開発のために活動する人々に提供した。 Postgres95プロジェクトは、Bruce Momjian と Vadim B. Mikheev とともに、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に由来するソースコードを堅牢にする作業を始めた。 1996年8月1日に、Postgres95の最初のオープンソースのバージョンが公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1996年に Postgres95 プロジェクトは、プロジェクトの名称を、SQL のサポートをしているという意味をこめて PostgreSQLに変更した。 1997年1月に PostgreSQL プロジェクトとしての最初のバージョンである、PostgreSQL バージョン 6.0 が公開された。 このときから、インターネットを通じて世界中のデータベース開発者のグループがPostgreSQLの開発に参加し、共同作業によるプロジェクトをうまく調整する体制ができあがった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1999年7月23日、日本PostgreSQLユーザ会が設立し、任意団体として活動を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Postgres は Illustra により商業化されていたが、Illustra は Informix に買収され、Informix は 2001年に IBM に買収された。2001年以降には PostgreSQL を商用サポートする会社が現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2006年2月1日、日本PostgreSQLユーザ会は NPO として再編成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2011年7月、オープンソースデータベース技術者認定試験(OSS-DB Exam)において基準のRDBMSとして採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "PostgreSQLのバージョンは以下のように表現される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "PostgreSQLをプライマリデータベースとして使用している注目すべき組織や製品には、以下のようなものがある。", "title": "注目すべきユーザー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2008年の時点で、PostgreSQL は以下の受賞をしている。", "title": "受賞" } ]
PostgreSQLは、拡張性とSQL準拠を強調するフリーでオープンソースの関係データベース管理システム(RDBMS)である。Postgresとしても知られている。もともとは、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたIngresデータベースの後継としてその起源を根拠としたPOSTGRESという名前であった。1996年に、プロジェクトはSQLのサポートを反映してPostgreSQLに改名された。2007年の検討の結果、開発チームはPostgreSQLという名前とPostgresという別名を維持することを決定した。 PostgreSQLは、原子性、整合性、独立性、耐久性 (ACID)プロパティを持つトランザクション、自動更新可能なビュー、マテリアライズドビュー、トリガ、外部キー、ストアドプロシージャを特徴としている。単一マシンからデータウェアハウスや多数の同時使用ユーザを持つWebサービスまで、さまざまなワークロードを扱えるように設計されている。macOS Serverのデフォルトデータベースであり、Linux、FreeBSD、OpenBSD、Windowsでも利用可能である。
{{Infobox Software | 名称 = PostgreSQL | ロゴ = [[ファイル:Postgresql elephant.svg|150px]] | スクリーンショット = PostgreSQL psql screenshot.png | 説明文 = | 開発元 = PostgreSQL Global Development Group | 初版 = {{Start date and age|1997|1|29}}<ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/release-6-0.html PostgreSQL: Documentation: 10: E.343. Release 6.0]</ref><br>前身のPostgresは{{Start date and age|1989|6}}<ref name="brief_history">[https://www.postgresql.org/docs/current/static/history.html PostgreSQL: Documentation: 10: 2. A Brief History of PostgreSQL]</ref> | 最新版 = | 最新版発表日 = | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | frequently_updated = yes <!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新して下さい --> | プログラミング言語 = [[C言語|C]] | 対応OS = [[クロスプラットフォーム]] | 種別 = [[オブジェクト関係データベース]] | ライセンス = {{URL|https://opensource.org/licenses/postgresql|The PostgreSQL Licence}} | 公式サイト = {{URL|https://www.postgresql.org}} }} '''PostgreSQL'''(ポストグレス キューエル<ref group="※">[https://www.postgresql.org/files/postgresql.mp3 発音例]</ref>)は、拡張性とSQL準拠を強調する[[FLOSS|フリーでオープンソース]]の[[関係データベース管理システム]](RDBMS)である。Postgresとしても知られている。もともとは、[[カリフォルニア大学バークレー校]]で開発された[[Ingres]]データベースの後継としてその起源を根拠としたPOSTGRESという名前であった。1996年に、プロジェクトはSQLのサポートを反映してPostgreSQLに改名された。2007年の検討の結果、開発チームはPostgreSQLという名前とPostgresという別名を維持することを決定した。 PostgreSQLは、[[ACID (コンピュータ科学)|原子性、整合性、独立性、耐久性]] (ACID)プロパティを持つトランザクション、自動更新可能な[[ビュー (データベース)|ビュー]]、[[マテリアライズドビュー]]、[[データベーストリガ|トリガ]]、[[外部キー]]、[[ストアドプロシージャ]]を特徴としている。単一マシンから[[データウェアハウス]]や多数の同時使用ユーザを持つ[[Webサービス]]まで、さまざまなワークロードを扱えるように設計されている。[[macOS Server]]のデフォルトデータベースであり、[[Linux]]、[[FreeBSD]]、[[OpenBSD]]、[[Microsoft Windows|Windows]]でも利用可能である。 ==概要== PostgreSQLは[[Illustra]]や、Illustraを買収しその技術を採りいれた[[IBM Informix|Informix]]とともにオブジェクト関係データベース管理システムを実装してきた。<ref>{{Cite book|author=[[マイケル・ストーンブレーカー]]|chapter=Object management in POSTGRES using procedures|publisher= IEEE Computer Society Press|isbn=0-8186-0734-3|title=International Workshop on Object-Oriented Database Systems|date=1986}}</ref> 問い合わせ言語には [[SQL]] を用いており、SQL92, [[SQL:1999|99]]の大部分と、[[SQL:2003|2003]], [[SQL:2008|2008]]の一部をサポートしている。<ref group="※">[https://www.postgresql.jp/document/11/html/features-sql-standard.html D.1. サポートされている機能] / [https://www.postgresql.jp/document/11/html/unsupported-features-sql-standard.html D.2. サポートされていない機能]</ref> === 市場シェア === DB-Engines.comによるマーケットシェア調査では、2018年2月現在、Oracle Database、MySQL、Microsoft SQL Server に続いて4位であり<ref>[https://db-engines.com/en/ranking DB-Engines Ranking - popularity ranking of database management systems]</ref>、MySQL とのシェアの差は年々縮まる傾向にある<ref>[https://db-engines.com/en/ranking_trend historical trend of the popularity ranking of database management systems]</ref>。 2012年7月当時は、クラウドサービスプロバイダの [[:en:Jelastic|Jelastic]] によると、オープンソースDBの中でのPostgreSQLの世界シェアは Jelastic のユーザー内では14%程度であった([[MySQL]]系 70%(MySQL 56%、[[MariaDB]] 14%)、[[MongoDB]] 15%)<ref name="jelastic.com-2012">{{cite web|url=https://jelastic.com/blog/software-stack-market-share-july-2012-2/|title=Software Stack Market Share: July 2012|accessdate=2018-02-10}}</ref>。日本の Jelastic のユーザー内では8%であり(MySQL系 66%(MySQL 50%、[[MariaDB]] 16%))、世界的なシェアとは状況が異なる<ref name="jelastic.com-2012" />。 === プラットフォーム === * [[Unix系]]([[FreeBSD]]、[[OpenBSD]]、[[Linux]]、[[macOS]]、[[Solaris]])および [[Microsoft Windows]] で動作する。Windowsにおいては、バージョン7.4以前は[[Cygwin]]を必要としたが、バージョン8.0以降はネイティブで動作する。 * [[32ビット]] / [[64ビット]] の両アーキテクチャ上で動作する。32ビット版では共有バッファサイズが最大2GBに制限されるが、64ビット版では上限は無い。 * 配布形態は、ソースコードや [[RPM Package Manager|RPM]]・[[APT]] の他、[[EnterpriseDB]] 社よりGUIインストーラが提供されている。このパッケージにはGUIの管理ツールである[[pgAdmin]]やドライバ等の追加インストーラが同梱されている。 == 特徴 == === 関数 === 関数([[ストアドプロシージャ#実装|ストアドファンクション]])によりサーバで実行される処理のまとまりを定義できる。PostgreSQL は[[組 (データベース)|行]]を返却する関数を定義することができる。関数の出力は複数の行であり、クエリの中で[[表 (データベース)|テーブル]]と同様に扱うことができる。実行するユーザまたは定義したユーザのどちらの権限で実行されるかを指定して関数を定義できる。 関数の定義には SQL の他、分岐やループをサポートする下記の言語で実装することが可能である。言語によっては関数を[[データベーストリガ]]として実行することもできる。 ==== 組み込みでサポートされている言語<ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/xplang.html PostgreSQL: Documentation: 10: Chapter 41. Procedural Languages]</ref> ==== * [[PL/pgSQL]]: [[Oracle Database]]で用いられる[[PL/SQL]]を参考にして実装された[[ビルトイン]]言語。 * PL/[[Tcl]] * PL/[[Perl]] * PL/[[Python]] * [[C言語]]<ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/xfunc-c.html PostgreSQL: Documentation: 10: 37.9. C-Language Functions]</ref> <!-- pre-alpha の状態のまま、現在は開発されていないのでコメントアウト * [[PL/PSM]]: SQL:2003 規格の [[SQL/PSM]] に則った構文を持つ。<ref>[http://pgfoundry.org/projects/plpsm/ pgFoundry: plpsm: Project Home]</ref> --> ==== 外部のプロジェクトとして対応している言語 ==== <ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/external-pl.html PostgreSQL: Documentation: 10: H.3. Procedural Languages]</ref> <!-- 開発終了 * [https://projects.commandprompt.com/public/plphp PL/php] * [http://raa.ruby-lang.org/project/pl-ruby PL/Ruby] --> * [[PL/Java]]<ref group="※">[https://tada.github.io/pljava/ PostgreSQL PL/Java – PL/Java: stored procedures, triggers, and functions for PostgreSQL™]</ref> * [[PL/Lua]]<ref group="※">[https://github.com/pllua/pllua GitHub - pllua/pllua: Re-implementation of pllua, embedded Lua for postgresql]</ref> * [[PL/R]]<ref group="※">[http://www.joeconway.com/plr.html Joseph Conway - PL/R]</ref> * [[PL/sh]]<ref group="※">[https://github.com/petere/plsh GitHub - petere/plsh: PL/sh is a procedural language handler for PostgreSQL that allows you to write stored procedures in a shell of your choice.]</ref> * [[PL/v8]]<ref group="※">[https://github.com/plv8/plv8 GitHub - plv8/plv8: V8 Engine Javascript Procedural Language add-on for PostgreSQL]</ref> === インデックス === PostgreSQL は組み込みで以下の[[索引 (データベース)|インデックス]]をサポートしている<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/indexes-types.html 11.2. インデックスの種類]</ref>。デフォルトはB+木。また、ユーザ定義インデックスを追加することもできる。 * [[B+木]] * [[ハッシュテーブル]] * [[汎用検索ツリー|GiST]] (汎用検索ツリー, [[kd木|多次元木]])<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/gist.html 第61章 GiSTインデックス]</ref> * SP-GiST (Space-Partitioned GiST)<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/spgist.html 第62章 SP-GiSTインデックス]</ref> * GIN (汎用[[転置インデックス]])<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/gin.html 第63章 GINインデックス]</ref> * BRIN ([[:en:Block Range Index|Block Range INdex]])<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/brin.html 第64章 BRINインデックス]</ref> PostgreSQL のインデックスには以下の特徴がある。 * 必要に応じて逆順でスキャンできる。逆順スキャン用のインデックスを別に定義する必要は無い。 * [[式インデックス]] (関数インデックス) を定義できる。複数の列の値を引数に取る関数の結果をインデックス化する。 * [[部分インデックス]] (条件付きインデックス) を定義できる。条件を指定し、条件に適合する行のみをインデックス化することで、インデックスのサイズを縮小できる。 * [[クエリオプティマイザ]] (planner) は複数のインデックスを同時に使用する[[クエリ実行計画]]を作成できる。複数のインデックスの結果をメモリ上のビットマップとして併せ、そのビットマップに対応する行をテーブルから取得する。 === トリガ === [[データベーストリガ]]は SQL [[データ操作言語]] (SQL DML) の文 ([[INSERT (SQL)|INSERT]], [[UPDATE (SQL)|UPDATE]] / UPDATE OF, [[DELETE (SQL)|DELETE]], [[TRUNCATE (SQL)|TRUNCATE]]) を実行した際に呼び出される。 利用例として、INSERT 文で挿入される値が妥当かの検証がある。 トリガが実行される条件は WHEN 句で与えることができる。 トリガはテーブルに対してのみ定義できる。 ビューに対するトリガが必要な場合には、代わりに[[PostgreSQL#ルール|ルール]]を使用する。 複数のトリガが定義されている場合、アルファベット順に実行される。 トリガで実行される処理は関数として定義する。 トリガ用の関数の定義には SQL 関数は使用できないが、PL/pgSQL やその他の多くの関数用言語を使うことができる。 === ルール === ルールにより SQL の内部表現である「クエリ木」を書き換えることができる。 一般的なルールの用途は更新可能ビューを実現することであり、標準 SQL で規定される "INSTEAD OF" [[データベーストリガ|トリガ]] の代わりに用いられる。 === データ型 === 多くの[[データ型]]が利用できる<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/datatype.html 第8章 データ型]</ref>。 * 数値型:整数、浮動小数点数、任意の精度を持つ数値、連番 * 通貨型 * 文字列:固定長、可変長 * 可変長バイト列 * 日時、日付、時刻、時間差分 ([[標準時|タイムゾーン]]の有無を指定可能) * [[ブーリアン型]] * 列挙型(8.3以降) * 幾何型:点、直線、線分、矩形、閉経路、開経路、多角形、円 * ネットワークアドレス:[[IPv4]] / [[IPv6]] アドレス, MAC アドレス * ビット列 * テキスト検索に関する型 * [[UUID]] 型 * [[Extensible Markup Language|XML]] 型 * [[JSON]] 型:テキスト形式、バイナリ形式 * [[配列]]型 * 複合型 * 範囲型 可変長文字列と可変長バイト列には最大で 1GB を格納できる。一定のサイズを上回るデータ値は TOAST と呼ばれる機能により自動的に圧縮され別領域に配置される。そのため、ページサイズ (通常8KB) を上回るサイズの行であっても保存できる。 さらに、ユーザがデータ型を追加することもでき、それに対してインデックスを作成することもできる。 利用例として、[[地理空間情報|GIS]] 用の型を [[汎用検索ツリー|GiST]] インデックスで検索可能な [[PostGIS]] プロジェクトがある。 === ユーザ定義オブジェクト === ユーザはほとんどのデータベース・オブジェクトを追加できる。 * [[データ型]] (TYPE) と データの[[定義域 (データベース)|定義域]] (DOMAIN) * [[サブルーチン|関数]] (FUNCTION) と集約 (AGGREGATE) * [[演算子]] (OPERATOR) * [[型変換]] (CAST) * [[文字コード]]変換 (CONVERSION) * [[ストアドプロシージャ|手続き言語]] (LANGUAGE) * [[PostgreSQL#全文検索|全文検索]]の設定 (TEXT SEARCH CONFIGURATION) * インデックス・アクセス・メソッド ===PostgreSQLが規定する上限=== データベースの大きさの上限はない。テーブルのバイト数の最大は32Tbyteである。 テーブルの列は1600まで可能だが、運用上の上限はデータ型に依存する。 === バキューム === バキューム (VACUUM) とは、追記型[[アーキテクチャ]]における不要領域を回収し、再利用またはOSに返却する処理である。 なお、バージョン8.3からは'''Heap-Only Tuples''' (HOT) が採用され、インデックスの変更を伴わない更新については、削除された行を直ちに再利用することが可能となり、バキュームの必要な頻度は下がった。 PostgreSQLは、[[MultiVersion Concurrency Control|MVCC]]の実現のため、追記型の[[アーキテクチャ]]を採用している。 データを削除する際は実際のレコードは削除せず、該当行に削除マークを付けるのみである。 更新の際も内部的には削除と挿入を同時に行っている。 そのため、更新・削除が繰り返されるテーブルにおいては、たとえ理論的な行数が変わらなくとも、更新・運用を重ねるごとに物理的なファイルサイズが増加する。肥大化によるパフォーマンスの劣化を回避するため、次節に述べるバキューム作業を定期的に行う必要がある。 各バージョンによって以下の差異がある。 ; 7.1 以前 : データベースファイル内の未使用領域を解放しOSに返却する処理のみをサポートする。このVACUUMでは、処理中のテーブルに対して排他ロックが獲得されるため、VACUUMの間は対象テーブルへのアクセスがブロックされる。システムの規模やテーブルの行数にもよるが、本バージョンにおいてシステムの停止を伴わない運用は困難であった。 ; 7.2 : 以前の動作を FULL 方式 (VACUUM FULL) とし、新たにコンカレント方式 (VACUUM) が実装された。現在、単にバキュームと言った場合、後者のコンカレントバキュームを指す。コンカレントバキュームでは、テーブルの排他ロックを伴わずに不要領域の回収を行う。不要領域に対して再利用可能フラグを付けるのみの処理となるため、コンカレントバキュームを行っても基本的にデータベースの物理的なサイズは縮小しない。しかし、以降の更新・挿入において、このとき回収した領域が優先的に使用され、更新・削除によるファイルサイズの肥大を防止できる。 ; 7.3 : インデックスもコンカレントバキュームの対象になり、肥大化から回復させるための定期的にインデックスを再編成 (REINDEX) する必要が無くなった。これによりデータベース・オブジェクトの排他ロックを要するメンテナンスが不要になり、無停止での運用が可能になった。 ; 7.4 : 自動的にバキュームを行う contrib/pg_autovacuum モジュールが提供された。autovacuum はシステムを監視し、INSERT/UPDATE/DELETE の回数などの統計情報を利用して、適切なタイミングで適切なテーブルのみに対してバキュームを行う。このため、高度な知識を要すことなく、不要領域の増加を十分に抑えることが可能となった。なお、自動バキューム処理の際に参照される統計情報の記録はデフォルトでオフとなっているため、本機能を利用する際は統計情報の記録オプションもオンにする必要がある。 ; 8.0 : バキュームは多くのI/Oが必要なため、負荷の高い処理である。バキューム実行中のシステムの全体の性能悪化を防ぐため、バキュームを行う速度を制限する機能が追加された。ただし、バキューム自体の処理時間はその分多く要する。 ; 8.1 : contribより提供されていた自動バキューム (autovacuum) 機能が本体に統合された。不要領域の監視が効率化され、コマンドで発行した VACUUM との連携が可能になった。 ; 8.2 : トランザクションIDの周回がテーブル単位で管理されるようになり、定期的にデータベース単位でバキュームを行う必要が無くなった。テーブル単位のバキュームのみが必要である。また複数のバキュームを並列して実行した際の回収効率が向上した。 ; 8.3 : 自動バキューム機能が標準で有効とされ、複数のテーブルに並列してバキュームを行うようになった。加えて '''Heap-Only Tuples'''の採用により、バキューム自体の必要性が低減した。 ; 8.4 : Visibility Map で処理が必要なページを追跡するようになり、バキュームが高速化された。また空き領域のあるページを管理する Free Space Map のメモリ管理が自動化された。 ; 9.0 : VACUUM FULL が CLUSTER と類似の処理に変更され、高速化された。 === パーティショニング === PostgreSQL 8.1 より、パーティショニングを組み込みでサポートしている。バージョンが上がる度に機能が追加されている。 テーブル・[[分割 (データベース)|パーティショニング]]は[[継承 (プログラミング)|継承]]を用いて実現する。 これは、[[Oracle Database]] 7 のパーティション・ビューに近い実装である。 テーブルを作成する際、他テーブルを「親」テーブルとして指定し、継承関係を定義できる。 「子」テーブルに挿入された行は、親テーブルを参照した際にも取得される。 親テーブルに対する列の追加や[[CHECK制約]]の定義は自動的に子テーブルにも反映されるが、[[外部キー]]や[[一意性制約]]は継承をサポートしていない。 パーティショニングされたテーブルへは親テーブルを通してアクセスする。 [[SELECT (SQL)|SELECT]], [[UPDATE (SQL)|UPDATE]], [[DELETE (SQL)|DELETE]] 文は子テーブルを含むよう展開されるが、クエリの条件が CHECK 制約に適合しない子テーブルは設定により自動的に除外することもできるため効率よく処理できる。 INSERT については、バージョン10以降は宣言的テーブルパーティショニングにより子テーブルに振り分けることが出来る<ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/ddl-partitioning.html PostgreSQL: Documentation: 10: 5.10. Table Partitioning]</ref>。バージョン9.6までは、子テーブルを直接指定するか、親テーブルにトリガを作成することで挿入先を指示して振り分けることが出来る。 === レプリケーション === PostgreSQL 9.0 より、ストリーミング[[レプリケーション]]を組み込みでサポートしている<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/high-availability.html 第26章 高可用性、負荷分散およびレプリケーション]</ref>。[[トランザクションログ]]を転送し、全てのデータベース・ファイルの変更をコミット後に他のサーバへ非同期に転送する。単一マスタと複数スレーブを構成でき、スレーブは参照の問い合わせを受け付ける。参照処理を複数のノードで負荷分散する[[スケールアウト]]が可能である。 PostgreSQL 10 より、ロジカルレプリケーションを組み込みでサポートしている<ref>[https://www.postgresql.org/docs/current/static/logical-replication.html PostgreSQL: Documentation: 10: Chapter 31. Logical Replication]</ref>。データベース全体ではなく、指定した部分だけをレプリケーションできる。 === 全文検索 === LIKE 述語と[[正規表現]]による文字列検索のほか、[[全文検索]]の機能を持つ。バージョン 8.3 以降は組み込みで、それ以前のバージョンでは contrib/tsearch2 として提供されている。この全文検索では文字列から単語を抽出し、転置テーブル ([[汎用転置インデックス|GIN]]) または単語空間を多次元木 ([[汎用検索ツリー|GiST]]) とするインデックスを作成できる。[[SQL/MM]] の全文検索とは異なり、「@@」演算子を使用する独自の文法で検索を行う。 <syntaxhighlight lang="sql"> SELECT * FROM テーブル WHERE to_tsvector(文字列カラム) @@ to_tsquery('検索クエリ') </syntaxhighlight> 標準では日本語の文字列から単語を抽出するパーサを持たないが、外部拡張である [http://textsearch-ja.projects.postgresql.org/index-ja.html textsearch-ja] を使用することで[[形態素解析]]による検索が可能となる。 また、標準の全文検索以外にも、[https://pgroonga.github.io/ja/ PGroonga] ([[Groonga]] を使用), [[Ludia]], [http://textsearch-ja.projects.postgresql.org/textsearch_senna.html textsearch_senna] ([[Senna]] を使用), [http://pgestraier.projects.postgresql.org/ pgestraier] ([[Hyper Estraier]]), [http://pgfoundry.org/projects/pgrast/ pgRast] ([http://projects.netlab.jp/rast/ Rast]) などが外部拡張として存在する。 === UPSERT機能 === PostgreSQL 9.5 より、データの新規挿入または更新を行う「UPSERT」機能が実装された<ref>{{Cite web|和書|publisher=Impress Corporation |date=2016-01-09 |title=「PostgreSQL 9.5」リリース |url=https://thinkit.co.jp/news/bn/9014 |accessdate=2016-01-17}}</ref>。「UPSERT」機能とは、データの新規挿入(INSERT)ができれば挿入を行い、新規挿入ができなければ更新(UPDATE)を行うもの。「ON CONFLICT」句を指定すると、データ変更の衝突を適切に処理できるという。 == 基本的機能 == === その他の特徴 === * 副問合せ (サブクエリ) * [[関係代数 (関係モデル)#結合|結合]] ([[関係代数 (関係モデル)#自然結合|自然結合]], [[関係代数 (関係モデル)#左外結合|左外結合]], [[関係代数 (関係モデル)#右外結合|右外結合]], [[関係代数 (関係モデル)#完全外結合|完全外結合]]) * 制約 ([[外部キー]], [[一意性制約]], [[CHECK制約]]) * [[トランザクション]] / サブトランザクション ([[SAVEPOINT (SQL)|SAVEPOINT]]) / [[2相コミット]] * バックアップ直後から[[データ障害]]直前までの任意の時点への復旧 ([[:en:Point-in-time recovery]]) * [[Secure Sockets Layer|SSL]]での接続 * [[表領域]] ==== オンラインオフラインバックアップ ==== バックアップには主に3つの方法があり、SQLダンプ、ファイルシステムレベルバックアップ、連続アーカイブである。それぞれに長所・短所がある。 SQLダンプではpg_dumpのようなクライアントアプリケーションでバックアップをとり、リモートホストからのバックアップが可能であるがデータベース 全体のバックアップをとる場合にはほぼ常にスーパーユーザー権限が必要である。ファイルシステムレベルバックアップでは、bashコマンドで データファイルのバックアップをとる。この場合はオンラインバックアップやテーブル個別のバックアップは出来ない。連続アーカイブはWALを利用するものであり アドミニストレーターにとって複雑であるが、バックアップでの内部不整合がlog replayで解決されることやWALファイルをアーカイブするだけで連続バックアップできる 利点もある。ただこの方法ではデータベースクラスター全体のバックアップとなるため要求されるストレージは大である<ref> {{Cite web |date=2020 |url=https://www.postgresql.org/docs/13/backup.html |publisher=1996-2020 The PostgreSQL Global Development Group |title=Documentation, Chapter 25. Backup and Restore |accessdate=1 Oct 2020}} </ref>。 == 性能 == === CPU スケーラビリティ === バージョン 8.1 以降 [[CPU]] [[スケーラビリティ]]は大幅に改善された。 以降、改善を積み重ね、中規模のハードウェアであればスケーラビリティを十分に確保できるRDBMSとなっている。 ; 7.4 以前 : スケーラビリティは[[ページ置換アルゴリズム]]として採用されていた [[ページ置換アルゴリズム#LRU (Least Recently Used)|LRU]] により抑制されていた。ページを参照するたびにバッファ・プール全体を排他ロックしていたため、スケーラビリティは低かった。SMP 構成で 4CPU 程度が限界だった。 ; 8.0 : LRU に代わり [[:en:Adaptive Replacement Cache|ARC]] が採用された(ただし、特許侵害の回避のため途中で 2Q に変更された<ref>PostgreSQL 文書, "[http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-0-2.html リリース8.0.2]"</ref>)。ARC によりキャッシュヒット率は向上したものの、排他制御にオーバーヘッドが生じた。また、サブトランザクションをサポートするため追加された排他制御も新たなロック競合を生んだ。スケーラビリティは以前のバージョンと比較してむしろ低下しており、2CPU 程度で頭打ちになった。 ; 8.1 : ページ置換アルゴリズムは[[ページ置換アルゴリズム#クロック|クロック]]に変更され、スケーラビリティが大幅に向上した。ページの参照には共有ロックのみが必要であるため並行してアクセスが可能になった。8コア程度が上限となった。<ref>OSS iPedia, "[http://ossipedia.ipa.go.jp/capacity/EV0604180096/ DBT-1によるPostgreSQL8.1の32ビットマシン(IA32)でのCPUスケーラビリティに関する考察(チューニング有り) ]"</ref> <ref>OSS iPedia, "[http://ossipedia.ipa.go.jp/capacity/EV0612250287/ DBT-1によるパッチを適用したPostgreSQL8.1.2の32ビットマシン(IA32)でのCPUスケーラビリティに関する考察(チューニング有り) ]"</ref> ; 8.2 : ページを管理するハッシュテーブルのロックが16個に分割され、共有ロックの実装に使用される[[スピンロック]]へのアクセスが分散された。他にスピンロックの実装やサブトランザクションの排他制御が改良され、16コアまでのスケーラビリティが確認されている。<ref name="rhaas201204">{{cite web |author=Robert Haas |date=2012-04-03 |title=Did I Say 32 Cores? How about 64? |url=http://rhaas.blogspot.com/2012/04/did-i-say-32-cores-how-about-64.html |accessdate=2012-11-03}}</ref><ref>Doug Tolbert (Unisys), "[http://www.pgcon.org/2007/schedule/events/16.en.html Scaling PostgreSQL on SMP Architectures -- An Update]" (PGCon 2007)</ref> ; 9.2 : EnterpriseDB の Robert Haas が Linux カーネル 3.2 および PostgreSQL 9.2 の改善により、64コア(8コア×8CPU)のマシン上でCPUスケールすることを確認した<ref name="rhaas201204"/>。 ; 9.5 : LWLock (Lightweight lock) において、一部、スピンロックからアトミック命令に切り替え<ref>[https://git.postgresql.org/gitweb/?p=postgresql.git;a=commitdiff;h=ab5194e6f617a9a9e7aadb3dd1cee948a42d0755 Improve LWLock scalability - git.postgresql.org Git - postgresql.git/commitdiff]</ref>、また、共有バッファのマッピングのハッシュテーブルのパーティション数を16から128に増やす<ref>[https://git.postgresql.org/gitweb/?p=postgresql.git;a=commitdiff;h=3acc10c997f916f6a741d0b4876126b7b08e3892 Increase the number of buffer mapping partitions to 128 - git.postgresql.org Git - postgresql.git/commitdiff]</ref>などの改善により、並列度が32〜64あたりでのパフォーマンスを改善した<ref>[https://www.enterprisedb.com/node/3418 Read Scalability in PostgreSQL 9.5 | EnterpriseDB]</ref><ref>[https://www.db-tech-showcase.com/library/dbts-tokyo-2015/b15-postgresql-ntt-oss-center 最新PostgreSQLはパフォーマンスが飛躍的に向上する!? – PostgreSQLのCPUスケーラビリティについて – | db tech showcase]</ref>。 === 更新処理 === 過去のバージョンの PostgreSQL は他の[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) と比較して更新処理が遅いと言われていた。追記型アーキテクチャが採用されており、更新処理は削除と挿入の組み合わせとして実現されていた。特に挿入の際にインデックスのキーを追加する必要がある点で性能差が生じていた。 しかし、バージョン 8.3 にて Heap-Only Tuples (HOT) と呼ばれる機能が採用され、インデックスのキーとなっている列の値に変更が無い場合にはインデックスの更新を回避できるようになった。HOT により約2倍のスループット向上が確認されている。<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20070409/267852/ 【PostgreSQLウォッチ】第35回 性能を大幅に改善するPostgreSQL 8.3の新機能「HOT」とは]</ref> === ベンチマーク === 業界標準の規格に則ったベンチマーク結果として 2007年8月の [[サン・マイクロシステムズ]] (Sun) による報告がある。以下のハードウェアを使用し、813.73 SPECjAppServer2004 JOPS@Standard であった。<ref>{{cite web |publisher=[[Standard Performance Evaluation Corporation|SPEC]] |date=2007-07-04 |title=SPECjAppServer2004 Result |url=http://www.spec.org/jAppServer2004/results/res2007q3/jAppServer2004-20070703-00073.html |accessdate=2009-01-02 }}</ref> * PostgreSQL 8.2.4 * [[Sun Java System Application Server]] 9.1 (商用版 [[GlassFish]]) * [[Solaris]] 10 * [[Sun Fire]] T2000 ([[UltraSPARC T1]] 1.2GHz : 4スレッド × 8コア × 1個) == 周辺ツール == === 管理ツール === PostgreSQL専用もしくは各種データベース汎用の[[データベース接続クライアント]]を利用して管理できる。 ==== psql ==== psql は PostgreSQL 付属のコマンドライン・プログラムである。 SQL を直接入力またはファイルから読み込んで実行するほか、スキーマ情報の表示などのメタコマンドを持つ。 また、SQL 構文やテーブル名などをタブキーにより入力補完できる。 ==== pgAdmin ==== [[pgAdmin]]<ref group="※">[https://www.pgadmin.org pgAdmin - PostgreSQL Tools]</ref> は GUI の管理インタフェースである。 PostgreSQL License で配布される [[オープンソースソフトウェア]] (OSS) である。 多くのプラットフォームで動作し、日本語を含む多くの言語が利用できる。 また、専用の SQL エディタは [[PostgreSQL#psql|psql]] と同様の入力補完機能を持つ。 [[Microsoft SQL Server Management Studio]] と似たインタフェースでデータベースを操作できる。 ==== phpPgAdmin ==== [[phpPgAdmin]]<ref group="※">[https://github.com/phppgadmin/phppgadmin GitHub - phppgadmin/phppgadmin: the premier web-based administration tool for postgresql]</ref>はウェブベースの管理ツールである。[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]で作られており [[GNU General Public License|GPL]] で配布されている。名称は[[phpMyAdmin]]と似ているが、製品同士の関連性は無く、操作性はかなり異なる。 ==== その他 ==== * [[Webmin]] (OSS) * [[Navicat for PostgreSQL]]<ref group="※">[https://jp.navicat.com/products/navicat-for-postgresql Navicat for PostgreSQL | PostgreSQL のための強力な管理ツール]</ref> (商用) * [[SQLMaestro]]<ref group="※">[https://www.sqlmaestro.com Database tools for MySQL, SQL Server, PostgreSQL, SQLite, Oracle, DB2, Firebird by SQL Maestro Group]</ref> (商用) * [[Database Master]]<ref group="※">[https://nucleonsoftware.com/products/database-master/ Database Master - Nucleon Software]</ref> (商用) === レプリケーション・アドオン === PostgreSQL はバージョン 9.0 より[[レプリケーション]]を標準でサポートするが、[[サードパーティー]]製のオプション・ソフトウェアも利用できる。 {| class="wikitable" |+ 各種レプリケーションソフトウェアの概要 ! 名前 ! 方式 ! 開発元 ! 特徴 |- | [[Slony-I]] | 非同期型マスタスレーブ | [[Jan Wieck]] | バージョンアップやバックアップにも利用できる。 |- | [[Mammoth Replicator]]<ref group="※">[http://www.commandprompt.com/products/mammothreplicator]</ref> | 非同期型マスタスレーブ | Command Prompt, Inc. | BSDライセンス。 |- | [[Londiste]]<ref group="※">[http://skytools.projects.postgresql.org/doc/londiste.ref.html ]</ref> | 非同期型マスタスレーブ | [[Skype]] | 堅牢性と扱いの容易さを目標とするツール。[[Python]]製。 |- | [[Bucardo]]<ref group="※">[https://bucardo.org Bucardo.org Open Source Projects]</ref> | 非同期型マルチマスタ | Greg Sabino Mullane | BSDライセンス。 |- | [[PGCluster]]<ref group="※">[http://pgcluster.projects.postgresql.org/jp/]</ref> | 同期型マルチマスタ | [[三谷篤]] | [[ロードバランサ]]機能を備える。 |- | [[Postgres-R]]<ref group="※">[https://postgres-r.org Postgres-R: a database replication system for PostgreSQL]</ref> | 同期型マルチマスタ | Markus Wanner | 継続して開発中。 |- | [[Cybercluster]]<ref group="※">[http://www.postgresql.at/english/pr_cybercluster_e.html]</ref> | 同期型マルチマスタ | Cybertec | BSDライセンス。 |- | [[pgpool-II]]<ref group="※">[http://pgpool.projects.postgresql.org]</ref> | 同期型プロキシサーバ | [[SRA]] OSS Inc. | [[フェイルオーバー]]機能を備える。 |- | [[Sequoia]]<ref group="※">[http://www.continuent.com/community/sequoia]</ref> | 同期型プロキシサーバ/ドライバ | Continuent Inc. | 他DBMSにも接続できる。 |- | [[PostgresForest]]<ref group="※">[https://ja.osdn.net/projects/postgresforest/ PostgresForest プロジェクト日本語トップページ - OSDN]</ref> | 同期型プロキシドライバ | [[NTTデータ]] | [[Java Database Connectivity|JDBC]]ラッパ。 |- | [[Fermion]]<ref group="※">[http://www.murakumo-tech.jp/solutions/fermion.html]</ref> | 同期型マルチマスタ | 株式会社Murakumo | 検索および更新処理の負荷分散、自動[[フェイルオーバー]]機能、[[マルチキャスト]]を用いたノードの自動追加処理機能を備える。 |} === 接続インタフェース === PostgreSQL は[[クライアントサーバモデル]]であり、データベースへの接続は主に [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]] ポート番号 5432 を用いて通信を行う。[[通信プロトコル]]は「フロントエンド/バックエンドプロトコル<ref>[https://www.postgresql.jp/document/current/html/protocol.html 第51章 フロントエンド/バックエンドプロトコル]</ref>」として公開されている。 {| class="wikitable" |+ 各プログラミング言語ごとの接続インタフェース ! 言語 ! 名前 ! ライセンス ! 開発元 |- |rowspan="3"| [[C言語|C]] | libpq | BSD | 本体同梱 |- | psql[[Open Database Connectivity|ODBC]] | LGPL | https://odbc.postgresql.org/ |- | ODBCng | GPL | https://projects.commandprompt.com/public/odbcng/ |- | C ([[埋め込みSQL]]) | ecpg | BSD | 本体同梱 |- | [[C++]] | libpqxx | BSD | http://pqxx.org/development/libpqxx/ |- | [[Java]] | [[Java Database Connectivity|JDBC]] TYPE4 | BSD | http://jdbc.postgresql.org/ |- | rowspan="2"| [[.NET]] ([[C Sharp|C#]], [[Microsoft Visual Basic .NET|VB]]) | [[Npgsql]] | BSD | http://npgsql.projects.postgresql.org/ |- | dotConnect for PostgreSQL | | http://www.devart.com/dotconnect/postgresql/ |- | OleDB | PgOleDb | LGPL | http://pgfoundry.org/projects/oledb/ |- | [[Perl]] | DBD::Pg | [[Artistic License|Artistic]], GPL | http://search.cpan.org/dist/DBD-Pg/ |- |rowspan="4"| [[Python]] | [[py-postgresql]] | BSD | http://python.projects.postgresql.org/ {{dead link|date=2019年8月}} |- | [[PyGreSQL]] | BSD | http://www.pygresql.org/ |- | [[psycopg2]] | LGPL <ref>{{cite web|url=http://initd.org/psycopg/docs/license.html|title=psycopg2 and the LGPL|accessdate=2019-08-19}}</ref> | http://initd.org/ |- | [[pg8000]] | BSD | https://github.com/tlocke/pg8000 |- | [[PHP (プログラミング言語)|PHP]] | php_pgsql | [[PHP License]] | http://jp2.php.net/pgsql |- | [[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]] | ruby-pg | Ruby License | http://rubyforge.org/projects/ruby-pg/ |} == 歴史 == [[マイケル・ストーンブレーカー]]は、自分が開発を主導した[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) である[[Ingres]] の商業化事業を一段落させると、[[カリフォルニア大学バークリー校]] (UCB) に戻り、同校で新たなプロジェクトを開始した。 プロジェクトの名称は '''Postgres''' と名づけられた。 このプロジェクト名称は、Ingres の後継を意味する Post-Ingres に由来している。 Postgresプロジェクトは、[[関係モデル]]を使ったこれまでの既存の[[データベース管理システム]]の限界に対処することを目的として、開始された。 最も重要な課題は、これまでのDBMSではユーザが自分で新たな[[定義域 (データベース)|定義域 (ドメイン、型)]] を既存の単純な定義域をもとにして定義できない点であった。 Postgresでは型 (定義域) を完全にサポートするために必要な最小限の機能だけを導入した。 Postgres ではデータベースが関係を「理解」すると言われ、「規則」に従って自然な方法で関連する[[関係 (データベース)|関係]] ([[関係 (データベース)|リレーション]]、[[表 (データベース)|表、テーブル]]) から情報を得ることができた。 ユーザ自身が型を定義する機能に加えて、関連を完全に記述できる機能も備えていた。 プロジェクトは他にも、追記型メディア (光ディスクなど) への対応、大容量記憶装置への対応、推論、[[オブジェクト指向|オブジェクト指向型データモデル]]などを、取り入れた。 実装においては、[[データベース]]と[[アプリケーションソフトウェア]]の間の新たな[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を実験的に導入した。 プロジェクトチームは、1986年からPostgresシステムの基盤を説明した多数の論文を公表した。 1988年、Postgres の[[ソフトウェアプロトタイピング|プロトタイプ]]バージョンを発表した。 1989年6月、数名のユーザに対してPostgresバージョン1を公開した<ref name="brief_history"/>。 1990年6月、ルールシステム (RULE) を実装し直したバージョン2を公開した<ref name="brief_history"/>。 1991年、バージョン3を公開した<ref name="brief_history"/>。 バージョン3では、ルールシステムが再度実装し直され、複数の記憶装置を管理する機構が追加され、クエリエンジンが改良された。 1993年には、非常に多くのユーザが、プロジェクトに対して、サポートと追加機能を要望して、圧倒させるほどの状態となっていた。 1993年、主として雑然とした部分をきれいにしたことを内容とするバージョン4.2が公開された。 バージョン4.2が公開された後、Postgres プロジェクトは終了した<ref name="brief_history"/>。 Postgres は広く使われたが、[[ソフトウェア保守|保守]]はユーザに任されていた。 マイケル・ストーンブレーカーと Paula Hawthorn は、Postgresを商業化するために、Illustra Information Technologies 社を創業して、[[Illustra]]の製品名で開発・販売した。その技術は [[Informix Dynamic Server|IBM Informix Dynamic Server]] (IDS) に導入されている。 一方、[[オープンソース]]の世界の[[ソフトウェア開発者]]たちは、Postgres のコピーを入手してシステムのさらなる開発を進めることができた。 なぜならカリフォルニア大学バークリー校 (UCB) は、Postgres を[[オープンソース|オープンソースライセンス]]である[[BSDライセンス]]のもとで公開していたからである。 1994年に、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) の大学院生であった Andrew Yu と Jolly Chen は、システムの[[問い合わせ言語]]の[[インタプリタ]]を、[[Ingres]] を基にした [[QUEL]] のインタプリタから、[[SQL]] のインタプリタに置き換える作業を行った。 SQLインタプリタを備えたこのシステムは、'''Postgres95''' と呼ばれた。 Postgres95 の[[ソースコード]]は、[[ワールドワイドウェブ]]に公開された。 1996年7月に Hub.Org Networking Services の Marc Fournier は、大学外の組織としては最初に、開発用サーバをオープンソースソフトウェア開発のために活動する人々に提供した。 Postgres95プロジェクトは、Bruce Momjian と Vadim B. Mikheev とともに、カリフォルニア大学バークリー校 (UCB) に由来する[[ソースコード]]を堅牢にする作業を始めた。 1996年8月1日に、Postgres95の最初のオープンソースのバージョンが公開された。 1996年に Postgres95 プロジェクトは、プロジェクトの名称を、[[SQL]] のサポートをしているという意味をこめて '''PostgreSQL'''に変更した<ref name="brief_history"/>。 1997年1月に PostgreSQL プロジェクトとしての最初のバージョンである、PostgreSQL バージョン 6.0 が公開された。 このときから、[[インターネット]]を通じて世界中のデータベース開発者のグループがPostgreSQLの開発に参加し、共同作業によるプロジェクトをうまく調整する体制ができあがった。 1999年7月23日、日本PostgreSQLユーザ会が設立し、任意団体として活動を開始した<ref name="postgresql-jp-about">[https://www.postgresql.jp/npo/about 日本PostgreSQLユーザ会の目的 | 日本PostgreSQLユーザ会]</ref>。 Postgres は [[Illustra]] により商業化されていたが、Illustra は Informix に買収され、Informix は 2001年に IBM に買収された<ref name="brief_history"/>。2001年以降には PostgreSQL を商用サポートする会社が現れた。 * 2001年 Command Prompt, Inc. (Mammoth Replicator; レプリケーション) * 2003年 [[SRA|SRAOSS]] ([[PowerGres]], [[PowerGRES Plus]]) ** PowerGRES Plusは[[富士通]]と[[SRA|SRAOSS]]が開発したRDBMSであり、SRAOSSがPostgreSQLより開発した商用RDB『PowerGres』をベースとして、ストレージ管理部分に富士通『[[Symfoware Server]]』のものを移植している。 * 2005年 [[EnterpriseDB]] 社 (Postgres Plus; [[Oracle Database|Oracle]] との互換性向上) * 2005年 [[Greenplum]] 社 (BizGres; [[データウェアハウス]]や[[ビジネスインテリジェンス|BI]]向け) 2006年2月1日、日本PostgreSQLユーザ会は [[NPO]] として再編成された<ref name="postgresql-jp-about"/>。 2011年7月、[[オープンソースデータベース技術者認定試験]](OSS-DB Exam)において基準のRDBMSとして採用された。 === バージョン履歴 === * 1986年 - [[カリフォルニア大学バークレー校]] (UCB) で[[マイケル・ストーンブレーカー]]がPOSTGRESプロジェクトを発足<ref name="brief_history"/>。 * 1987年 - [[ソフトウェアプロトタイピング|プロトタイプ]]が完成、翌年の[[Special Interest Group on Management of Data|ACM-SIGMOD]]コンファレンスで紹介される<ref name="brief_history"/>。 * 1989年6月 - POSTGRES 1 を数名の外部ユーザーにリリース<ref name="brief_history"/>。 * 1990年6月 - POSTGRES 2 のリリース。前バージョンの批評をもとにルールシステムが再設計された<ref name="brief_history"/>。 * 1991年 - POSTGRES 3 のリリース。複数ストレージの管理機構追加等<ref name="brief_history"/>。 * 1993年 - POSTGRES 4.2 をもってカリフォルニア大学バークレー校におけるPOSTGRESプロジェクトが終了<ref name="brief_history"/>。 {| class="wikitable" |+ Postgres95 |- ! バージョン ! リリース日 ! 追加機能 |- ! 0.01 | {{dts|1995-05-01}} | POSTGRESのソースコードを元にした Postgres95 のリリース |- ! 1.0 | {{dts|1995-09-05}} | [[SQL]] LIKE構文などを実装した Postgres95 の正式リリース |} {|class="wikitable" style="text-align:center" |- |+PostgreSQL |- !メジャーバージョン !リリース日 !最新マイナー版 !最新版リリース日 !サポート期限 !追加機能 |- !6.0 |{{dts|1997-01-29}} |{{n/a}} |{{n/a}} |{{n/a}} |align="left"|PostgreSQL と名称を変え、POSTGRESプロジェクトの連番に戻された |- !6.1 |{{dts|1997-06-08}} |{{Version|o|6.1.1}} |{{dts|1997-07-22}} |{{n/a}} |align="left"| |- !6.2 |{{dts|1997-10-02}} |{{Version|o|6.2.1}} |{{dts|1997-10-17}} |{{n/a}} |align="left"| |- !6.3 |{{dts|1998-03-01}} |{{Version|o|6.3.2}} |{{dts|1998-04-07}} |{{dts|2003-03-01}} |align="left"|[[副問い合わせ]], PL/[[Tcl]] |- !6.4 |{{dts|1998-10-30}} |{{Version|o|6.4.2}} |{{dts|1998-12-20}} |{{dts|2003-10-30}} |align="left"|[[PL/pgSQL]], マルチバイト文字列サポート, [[ビュー (データベース)|ビュー]] |- !6.5 |{{dts|1999-06-09}} |{{Version|o|6.5.3}} |{{dts|1999-10-13}} |{{dts|2004-06-09}} |align="left"|[[MultiVersion Concurrency Control|MVCC]], 一時表, CASE, INTERSECT, EXCEPT |- !7.0 |{{dts|2000-05-08}} |{{Version|o|7.0.3}} |{{dts|2000-11-11}} |{{dts|2004-05-08}} |align="left"|[[外部キー]]制約 |- !7.1 |{{dts|2001-04-13}} |{{Version|o|7.1.3}} |{{dts|2001-08-15}} |{{dts|2006-04-13}} |align="left"|[[ログ先行書き込み|WAL]], TOAST, [[関係代数 (関係モデル)#外結合|OUTER JOIN]] |- !7.2 |{{dts|2002-02-04}} |{{Version|o|7.2.8}} |{{dts|2005-05-09}} |{{dts|2007-02-04}} |align="left"|コンカレントVACUUM, PL/[[Python]] |- !7.3 |{{dts|2002-11-27}} |{{Version|o|7.3.21}} |{{dts|2008-01-07}} |{{dts|2007-11-27}} |align="left"|[[スキーマ (データベース)|スキーマ]], [[定義域 (データベース)|ドメイン]], PREPARE |- !7.4 |{{dts|2003-11-17}} |{{Version|o|7.4.30}} |{{dts|2010-10-04}} |{{dts|2010-10-01}} |align="left"|[[IPv6]], information_schema |- !8.0 |{{dts|2005-01-19}} |{{Version|o|8.0.26}} |{{dts|2010-10-04}} |{{dts|2010-10-01}} |align="left"|[[Microsoft Windows]]対応, [[SAVEPOINT (SQL)|SAVEPOINT]], PITR, [[表領域]] <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2005-01-19|title=リリースノート 8.0|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-0.html|accessdate=2009-08-29}}</ref> |- !8.1 |{{dts|2005-11-08}} |{{Version|o|8.1.23}} |{{dts|2010-12-16}} |{{dts|2010-11-08}} |align="left"|[[2相コミット]], [[ロールベースアクセス制御|ROLE]], 行共有ロック, [[分割 (データベース)|テーブル・パーティショニング]] <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2005-11-08|title=リリースノート 8.1|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-1.html|accessdate=2009-08-29}}</ref> |- !8.2 |{{dts|2006-12-05}} |{{Version|o|8.2.23}} |{{dts|2011-12-05}} |{{dts|2011-12-05}} |align="left"|ウォームスタンバイ, GIN <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2006-12-05|title=リリースノート 8.2|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-2.html|accessdate=2009-08-29}}</ref> |- !8.3 |{{dts|2008-02-04}} |{{Version|o|8.3.23}} |{{dts|2013-02-07}} |{{dts|2013-02-07}} |align="left"|更新処理性能の向上, [[Extensible Markup Language|XML]]データ型, [[全文検索]], [[JIS X 0213]], [[列挙型|ENUM型]], [[汎用一意識別子|UUID]]型 <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2008-02-04|title=リリースノート 8.3|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-3.html|accessdate=2009-08-29}}</ref> |- !8.4 |{{dts|2009-07-01}} |{{Version|o|8.4.22}} |{{dts|2014-07-24}} |{{dts|2014-07-24}} |align="left"|[[再帰クエリ]], [[ウィンドウ関数]], 列単位の[[アクセス制御]], SQLと関数の[[性能解析]]機能 <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2009-07-01|title=リリースノート 8.4|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-8-4.html|accessdate=2009-08-29}}</ref> |- !9.0 |{{dts|2010-09-20}} |{{Version|o|9.0.23}} |{{dts|2015-10-08}} |{{dts|2015-10-08}} |align="left"|[[レプリケーション]], 一括権限変更, 匿名プロシージャ, 64bit Windows サポート, [[移動平均]], 列/条件[[データベーストリガ|トリガ]], [[一意性制約]]の遅延, 排他制約 <ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2010-09-20|title=リリースノート 9.0|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-9-0.html|accessdate=2010-10-06}}</ref> |- !9.1 |{{dts|2011-09-12}} |{{Version|o|9.1.24}} |{{dts|2016-10-27}} |{{dts|2016-10-27}} |align="left"|同期レプリケーション, 外部テーブル, パッケージ管理, UNLOGGEDテーブル, 更新可能なWITH句, 近傍検索, [[Security-Enhanced Linux|SELinux]]権限制御<ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2011-09-12|title=リリースノート 9.1|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-9-1.html|accessdate=2011-11-12}}</ref> |- !9.2 |{{dts|2012-09-10}} |{{Version|o|9.2.24}} |{{dts|2017-11-09}} |{{dts|2017-11-09}} |align="left"|インデックスオンリースキャン, カスケードレプリケーション, JSON型, 範囲型<ref>{{Cite web|和書|work=PostgreSQL 文書|date=2012-09-10|title=リリースノート 9.2|url=http://www.postgresql.jp/document/current/html/release-9-2.html|accessdate=2012-11-03}}</ref> |- !9.3 |{{dts|2013-09-09}} |{{Version|o|9.3.25}} |{{dts|2018-11-08}} |{{dts|2018-11-08}} |align="left"|[[マテリアライズドビュー]], 外部テーブルへの書き出し, イベントトリガ, データページ・[[チェックサム]], LATERAL句<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2013-09-09|title=Release 9.3|url=http://www.postgresql.org/docs/current/static/release-9-3.html|accessdate=2013-09-09}}</ref> |- !9.4 |{{dts|2014-12-18}} |{{Version|o|9.4.26}} |{{dts|2019-11-14}} |{{dts|2020-02-13}} |align="left"|JSONB型, SQLからのサーバー設定の変更(ALTER SYSTEM), レプリケーションスロット<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2014-12-18|title=Release 9.4|url=http://www.postgresql.org/docs/current/static/release-9-4.html|accessdate=2015-08-19}}</ref> |- !9.5 |{{dts|2016-01-07}} |{{Version|o|9.5.25}} |{{dts|2021-02-11}} |{{dts|2021-02-11}} |align="left"|UPSERT機能, ALTER TABLE tablename ENABLE ROW LEVEL SECURITYコマンド, ブロックレンジインデックス(BRIN)<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2016-01-07|title=Release 9.5|url=http://www.postgresql.org/docs/current/static/release-9-5.html|accessdate=2016-05-23}}</ref> |- !9.6 |{{dts|2016-09-29}} |{{Version|o|9.6.24}} |{{dts|2021-11-11}} |{{dts|2021-11-11}} |align="left"|同期レプリケーション機能の強化(「remote_apply」モード), PostgreSQL間のデータ連携ドライバー(「postgres_fdw」)の強化(リモート下にあるサーバーにおいても実行可能となる)<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2016-09-29|title=E.1. Release 9.6|url=https://www.postgresql.org/docs/9.6/static/release-9-6.html|accessdate=2016-10-01}}</ref> |- !10 |{{dts|2017-10-05}} |{{Version|co|10.22}} |{{dts|2022-08-11}} |{{dts|2022-11-10}} |align="left"|ロジカルレプリケーション, 宣言的テーブルパーティショニング(Declarative Table Partitioning)<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2017-10-05|title=E.1. Release 10.0|url=https://www.postgresql.org/docs/10/static/release-10.html|accessdate=2017-10-08}}</ref> |- !11 |{{dts|2018-10-18}} |{{Version|co|11.17}} |{{dts|2022-08-11}} |{{dts|2023-11-09}} |align="left"|ハッシュキーによるデータのパティショニング, (デフォルトでは搭載していないが[[LLVM]]をビルドすることで)クエリの一部の処理時間を短縮する[[実行時コンパイラ|JITコンパイラ]]のサポート<ref>{{cite web|work=PostgreSQL Documentation|date=2018-10-18|title=E.2. Release 11|url=https://www.postgresql.org/docs/11/release-11.html|accessdate=2018-11-09}}</ref> |- !12 |{{dts|2019-10-03}} |{{Version|co|12.12}} |{{dts|2022-08-11}} |{{dts|2024-11-14}} |align="left"| |- !13 |{{dts|2020-09-24}} |{{Version|co|13.8}} |{{dts|2022-08-11}} |{{dts|2025-11-13}} |align="left"| |- !14 |{{dts|2021-09-30}} |{{Version|co|14.5}} |{{dts|2022-08-11}} |{{dts|2026-11-12}} |align="left"| |- !15 |{{dts|2022-10-13}} |{{Version|c|15.0}} |{{dts|2022-10-13}} |{{dts|2027-11-11}} |align="left"| |- |colspan="6"|{{Version|l|show=111111}} |} PostgreSQLのバージョンは以下のように表現される。 * 6.0〜9.6:「x.y.z」(x、y、zはそれぞれ整数) で表現される。「x.y」の部分がメジャーバージョン、「z」がマイナーバージョンである<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木啓修|chapter=PostgreSQLと高可用性システム/大規模システム PostgreSQLの進化の足跡|publisher=技術評論社|page=104|title=WEB+DB PRESS Vol.48|date=2009-01-25|edition=初版第1刷}}</ref>。 * 10以降:整数部がメジャーバージョンを表現する<ref>[https://wiki.postgresql.org/wiki/New_in_postgres_10#Change_in_Version_Numbering Change in Version Numbering - New in postgres 10 - PostgreSQL wiki]</ref>。「x.y」(x、yはそれぞれ整数) で表現され、「x」の部分がメジャーバージョン、「y」がアップデート番号である。 == 注目すべきユーザー == PostgreSQLをプライマリデータベースとして使用している注目すべき組織や製品には、以下のようなものがある。 * 2009年、ソーシャルネットワーキングWebサイト[[Myspace]]は、 [[ Asterデータシステム|Aster Data Systems]]のnClusterデータベースを、変更されていないPostgreSQL上に構築されたデータウェアハウジングに使用した。 * [[ Geni.com|Geni.com]]は、主要な系図データベースにPostgreSQLを使用している。 * [[オープンストリートマップ|OpenStreetMap]]は、無料の編集可能な世界地図を作成するための共同プロジェクトである。 * [[アフィリアス|Afilias]]、 [[.org]]、[[.info]]などのドメインレジストリ。 <ref name="begPHPpg-book">{{Cite book|last=W. Jason Gilmore|last2=R.H. Treat|title=Beginning PHP and PostgreSQL 8: From Novice to Professional|url=https://books.google.com/books?id=BiRC4JtQzFIC&pg=PA577|accessdate=August 30, 2017|year=2006|publisher=Apress|isbn=978-1-43020-136-6}}</ref> * [[デイブレイクゲーム|Sony Online]]マルチプレーヤーオンラインゲーム。 * [[BASF]]、アグリビジネスポータルのショッピングプラットフォーム。 * [[Reddit]]ソーシャルニュースウェブサイト。 * [[Skype]] VoIPアプリケーション、中央[[企業|ビジネス]]データベース。 <ref>{{Cite web|url=https://wiki.postgresql.org/images/a/a9/Postgresql-at-skype.pdf|title=PostgreSQL @Skype|author=Pihlak|first=Martin|date=|website=wiki.postgresql.org|accessdate=January 16, 2019}}</ref> * [[ Sun xVM|Sun xVM]]、Sunの仮想化およびデータセンター自動化スイート。 * [[MusicBrainz]]、オープンオンライン音楽百科事典。 * [[国際宇宙ステーション]] – 軌道上でテレメトリデータを収集し、地上に複製する。 * [[ MyYearbook|MyYearbook]]ソーシャルネットワーキングサイト。 * [[Instagram]]、モバイル写真共有サービス。 * [[Disqus]]、オンラインディスカッションおよびコメントサービス。 * [[トリップアドバイザー]]、主にユーザーが作成したコンテンツの旅行情報ウェブサイト。 * ロシアのインターネット企業[[ヤンデックス|Yandex]]は、Yandex.MailサービスをOracleからPostgresに切り替えた<ref>{{Cite web|url=https://news.ycombinator.com/item?id=12489055|title=Yandex.Mail's successful migration from Oracle to Postgres [pdf]|website=Hacker News: news.ycombinator.com|accessdate=September 28, 2016}}</ref>。 * AWSの一部であるAmazon Redshiftは、ParAccelのPostgres改変版をベースにしたカラム型オンライン分析処理([[OLAP]])システムである。 * [[アメリカ海洋大気庁|National Oceanic and Atmospheric Administration]] (NOAA) [[アメリカ国立気象局|National Weather Service]] (NWS)、Interactive Forecast Preparation System(IFPS)、 [[NEXRAD]] [[気象レーダー]] 、地表、および[[水文学]]システムからのデータを統合して詳細なローカライズされた予測モデルを構築するシステム。 <ref name="begPHPpg-book" /> <ref name="pg9AdminCookEdt2-book">{{Cite book|last=S. Riggs|last2=G. Ciolli|last3=H. Krosing|last4=G. Bartolini|title=PostgreSQL 9 Administration Cookbook - Second Edition|url=https://books.google.com/books?id=rYrwCAAAQBAJ&pg=PA3|accessdate=September 5, 2017|year=2015|publisher=Packt|isbn=978-1-84951-906-9}}</ref> * [[イギリス]]の全国気象サービス[[イギリス気象庁|Met Officeは]] 、より多くのオープンソーステクノロジーを展開するための戦略において、OracleをPostgreSQLに置き換え始めた。 <ref name="pg9AdminCookEdt2-book" /> <ref>{{Cite news|url=https://www.computerweekly.com/ezine/Computer-Weekly/The-Met-Office-turns-to-open-source/Met-Office-swaps-Oracle-for-PostgreSQL|title=Met Office swaps Oracle for PostgreSQL|newspaper=computerweekly.com|date=June 17, 2014|accessdate=September 5, 2017}}</ref> * WhitePages.comはOracleとMySQLを使用していたが、コアディレクトリを社内で移動することになったとき、PostgreSQLを使用することにした。WhitePages.comは複数のソースからの大規模なデータセットを組み合わせる必要があるため、データを高速にロードしてインデックスを作成できるPostgreSQLの能力が、PostgreSQLの使用を決定する鍵となった <ref name="begPHPpg-book" />。 * [[ FlightAware|FlightAware]] 、フライト追跡Webサイト。 <ref>{{Cite web|title=Open Source Software|url=https://flightaware.com/about/code/|website=FlightAware|accessdate=November 22, 2017}}</ref> * [[グローファーズ|Grofers]]は、オンライン食料品配達サービス。 <ref>{{Cite news|url=https://lambda.grofers.com/ansible-at-grofers-part-2-managing-postgresql-c4069ce5855b|title=Ansible at Grofers (Part 2) — Managing PostgreSQL|date=February 28, 2017|newspaper=Lambda - The Grofers Engineering Blog|accessdate=September 5, 2018}}</ref> * ''[[ガーディアン|Guardian]]''は2018年に[[MongoDB]]からPostgreSQLに移行した <ref>{{Cite news|last=McMahon|first=Philip|author2=Chiorean|first2=Maria-Livia|author3=Coleman|first3=Susie|author4=Askoolum|first4=Akash|url=https://www.theguardian.com/info/2018/nov/30/bye-bye-mongo-hello-postgres|title=Digital Blog: Bye bye Mongo, Hello Postgres|date=November 30, 2018|newspaper=[[The Guardian]]|language=en-GB|issn=0261-3077}}</ref>。 == 受賞 == 2008年の時点で、PostgreSQL は以下の受賞をしている<ref>[https://www.postgresql.org/about/awards PostgreSQL: Awards]</ref>。 * 1999 LinuxWorld Editor's Choice Award for Best Database * 2000 Linux Journal Editors' Choice Awards for Best Database * 2002 Linux New Media Editors Choice Award for Best Database * 2003 Linux Journal Editors' Choice Awards for Best Database * 2004 Linux New Media Award For Best Database * 2004 Linux Journal Editors' Choice Awards for Best Database * 2004 ArsTechnica Best Server Application Award * 2005 Linux Journal Editors' Choice Awards for Best Database * 2006 Linux Journal Editors' Choice Awards for Best Database * 2008 Developer.com Product of the Year, Database Tool == 注釈 == {{Reflist|group="※"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考書籍 == * {{Cite book|和書 |author=笠原辰仁, 北川俊広, 坂井潔, 坂本昌彦, 佐藤友章 |year=2011 |title=PostgreSQL徹底入門 第3版 |publisher=[[翔泳社]] |isbn=978-4798123356 }} * {{Cite book|和書 |author1=高塚遙|author2= 松田亮一|author3= 田中ナルミ|author4= 吉岡肇 |year=2009 |title=新標準PostgreSQL |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]] |isbn=978-4797354713 }} * {{Cite book|和書 |author=石井達夫 |year=2009 |title=今すぐ導入!PHP×PostgreSQLで作る最強Webシステム |publisher=[[技術評論社]] |isbn=978-4774138930 }} * {{Cite book|和書 |author1=浅羽義之|author2= 石田朗雄|author3= 稲葉香理|author4= 永安悟史 |year=2008 |title=PostgreSQL徹底入門 第2版 |publisher=[[翔泳社]] |isbn=978-4798115054 }} * {{Cite book|和書 |author=鈴木啓修 |year=2006 |title=PostgreSQL完全機能リファレンス |publisher=[[秀和システム]] |isbn=978-4798014951 }} * {{Cite book|和書 |author=三木秀治 |year=2006 |title=PHP & PostgreSQLで作る実用Webシステム |publisher=[[毎日コミュニケーションズ]] |isbn=978-4839921194 }} == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} {{commonscat}} {{wikibooks}} * {{Official website|https://www.postgresql.org/}} * {{Twitter|postgresql|PostgreSQL}} ** [https://wiki.postgresql.org PostgreSQL Wiki] ** [https://www.pgfoundry.org PgFoundry] (関連プロジェクト) * [[NPO]]法人 [https://www.postgresql.jp 日本PostgreSQLユーザ会] ** [https://www.postgresql.jp/document/ PostgreSQL日本語ドキュメント] ** [https://lets.postgresql.jp Let's Postgres] (JPUGポータル) * {{Wayback|url=http://www2b.biglobe.ne.jp/~caco/pgpage/ |title=PostgreSQL Information Page |date=20050301041041}} 石井達夫によるPostgreSQLの紹介ページ * [http://www.linet.gr.jp/~juk/pgsql/ PostgreSQL Notes for Japanese] くわむらじゅんによるPostgreSQLの紹介ページ * [http://www.planetpostgresql.org Planet PostgreSQL] (Blogの集約) {{Database}} {{Normdaten}} [[Category:PostgreSQL|*]] [[Category:データベース管理システム]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:レッドハット]] [[Category:1989年のソフトウェア]]
2003-02-16T14:20:16Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/PostgreSQL
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NTT (曖昧さ回避)
NTT
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NTT Nippon Telegraph and Telephone Corporation NTTグループ - 日本電信電話株式会社(持株会社)およびその関連会社。 NTT東日本・NTT西日本 - グループ傘下の電気通信事業者。総称して「東西NTT」、「NTT東・西(日本)」などとも表記。 NTT株式会社 - NTTデータ、NTTコミュニケーションズなどを傘下に置くグローバル持株会社であった。現在はNTT DATA, Inc.としてNTTデータグループの海外事業会社となっている。 New Technology Telescope チリのラ・シヤ天文台にある新技術望遠鏡 Nakamaru Taguchi Tanaka 田口淳之介(当時:KAT-TUN)の楽曲「GIRLS」で作詞した時の名義。
'''NTT''' *'''N'''ippon '''T'''elegraph and '''T'''elephone Corporation ** [[NTTグループ]] - [[日本電信電話]]株式会社([[持株会社]])およびその関連会社。 *** [[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]] - グループ傘下の電気通信事業者。総称して「東西NTT」、「NTT東・西(日本)」などとも表記。 *** NTT株式会社(NTT, Inc.) - [[NTTデータ]]、[[NTTコミュニケーションズ]]などを傘下に置くグローバル持株会社であった。現在は[[NTT DATA, Inc.]]として[[NTTデータグループ]]の海外事業会社となっている。 *'''N'''ew '''T'''echnology '''T'''elescope ** [[チリ]]の[[ラ・シヤ天文台]]にある[[新技術望遠鏡]] * '''N'''akamaru '''T'''aguchi '''T'''anaka ** [[田口淳之介]](当時:[[KAT-TUN]])の楽曲「GIRLS」で作詞した時の名義。{{main|[[CHANGE UR WORLD]]}} == 関連項目 == * [[特別:Prefixindex/NTT|NTTで始まる記事の一覧]] {{aimai}}
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深作欣二
深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年〈昭和5年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉1月12日)は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。 6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる。茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。 1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した映画『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、テレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した。日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながらにんじんプロダクションの國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた。 1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録。映画『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』『バトル・ロワイアル』など、発表した一部の映画がヒット・話題作となった。テレビドラマでは前述の『キイハンター』のほか、『傷だらけの天使』、『必殺シリーズ』、『影の軍団II』などを演出している。92年には、ハリウッド映画並みのアクション映画『いつかギラギラする日』を監督したが、大量の車、火薬、銃弾を消費したため、当初予算の3億円が11億円にまで膨張してしまった。 1997年(平成9年)、紫綬褒章受章。2002年(平成14年)にはカプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督を務め、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。 2002年9月25日、前立腺ガンの脊椎転移を公表し、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。 2003年1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで長男・深作健太が監督を代行することとなった。7日、配給を担っている東映が会見を開き、健太と岡田茂が出席。「翌月早々に復帰させたい」と岡田は説明していたが、4日後の11日夕方には容態が悪化。妻・中原早苗と健太、菅原文太、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也が、臨終に立ち会った。12日の午前1時、死去。72歳没。 15日、築地本願寺で通夜が営まれ、喪主を務める深作健太が選曲した20曲が流れるなか、弔問客が献花を行った。中原早苗は終始、ハンカチを離さず悲しみの深さをうかがわせ、健太は弔問客に気丈に応対していたが。ロサンゼルスから駆けつけた千葉真一にねぎらいの言葉をかけられると、健太は涙をあふれさせていた。弔問にビートたけし・梅宮辰夫・緒形拳・津川雅彦・富司純子・三田佳子・藤真利子・渡哲也・小林稔侍・永島敏行・風間杜夫・平田満・藤原竜也・安藤政信・八名信夫・前田愛・前田亜季・竹内力・高岡早紀・薬師丸ひろ子・夏木マリ・宮本真希・柴咲コウ・加藤夏希・南果歩・渡辺えり子・松田美由紀・美輪明宏・山田洋次・崔洋一・降旗康男・沢井信一郎・奥山和由らが参列した。 翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた、千葉真一と菅原文太がそれぞれ弔辞を述べ、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった。映画『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな越路吹雪の『バラ色の人生』、THE BLUE HEARTSの『1001のバイオリン』が流された。深作はフリーとなっていたが、東映は葬儀を全面的にサポートした。 2月7日に勲四等旭日小綬章を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。 アクション映画やヤクザ映画以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』『おもちゃ』のような文芸、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』『宇宙からのメッセージ』『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている。 日本のみならず世界でも劇場公開されており、クエンティン・タランティーノやジョン・ウーらは崇拝していることを明言している。全作品のうち『ファンキーハットの快男児』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした。 深作作品には欠かせない存在だった千葉真一にとって、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった。千葉が1990年代からハリウッドに拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りでロサンゼルスに住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している。千葉はインタビューの際、最も尊敬する映画監督である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、キンジ・フカサクと敬意をこめて呼んでいる。 干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三・志賀勝らを抜擢し、ピラニア軍団として知らしめた。福本清三は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している。初めて東映京都撮影所で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら殺陣や擬斗を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密にリハーサルをしたので大部屋俳優たちに驚かれた。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている。 夜型で徹夜が平気な体質を持ち、深夜になっても撮影に入らない凝り性で、スタッフが疲弊することが多く、苗字をなぞらえて「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長かった。また映画『ファンキーハットの快男児』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され、ストップモーションやナレーションを効果的に使った作品を生み出してきた。時に脚本を変えてしまうことから、映画『仁義なき戦い』では笠原和夫 から監督登用に拒まれたこともあった。製作者として深作と関わった角川春樹は「論理より感覚で撮る人で、凝り性」と述べている。 自主製作的なことは一切行わなず、門下の中田新一は著書『奔れ!助監督』で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられたと記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に共産党系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく特にシンパ活動などは行っていない。『仁義なき戦い』などはむしろ山田和夫ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。しかし、フリーとしての活動はかならずしも順調ではなく、40代で24本、50代で10本の映画を監督した深作も、60代では3本の映画しか撮れなかった。 サム・ペキンパーのファンで、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』を好きな映画に挙げている。ペキンパーが『戦争のはらわた』のプロモーションのためにジェームズ・コバーンと共に来日し、『独占!男の時間』に出演していると、泥酔した川谷拓三が乱入してきた。川谷も深作同様にペキンパーのファンだが、ペキンパーが監督した映画「『ゲッタウェイ』!!!」と吠えながら握手をして、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んでいた。 ※は脚本兼。☆は脚本のみ。★は編集兼。*は構成兼。
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深作 欣二は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。
{{ActorActress | 芸名 = 深作 欣二 | ふりがな = ふかさく きんじ | 画像ファイル = Eiga-Hyoron-1962-January-1.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = <small>『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]』1962年1月号より</small> | 本名 = 深作 欣二 | 別名義 = Kinji Fukasaku | 出生地 = [[茨城県]][[東茨城郡]][[緑岡村]] | 死没地 = [[東京都]] | 国籍 = {{JPN}} | 民族 = [[日本人]] | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1930 | 生月 = 7 | 生日 = 3 | 没年 = 2003 | 没月 = 1 | 没日 = 12 | 職業 = [[映画監督]]・[[脚本家]] | ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]] | 活動期間 = [[1961年]] - [[2003年]] | 活動内容 = | 配偶者 = [[中原早苗]]([[1965年]] - [[2003年]]) | 事務所 = | 公式サイト = |主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力。誰もが認める代表作品を記述してください。記述内容については合意を形成することが推奨されます。 -->『[[風来坊探偵 赤い谷の惨劇|風来坊探偵シリーズ]]』<br>『[[ファンキーハットの快男児シリーズ]]』<br>『[[ギャング対Gメン]]』<br>『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』<br>『[[ガンマー第3号 宇宙大作戦]]』<br>『[[日本暴力団 組長]]』『[[血染の代紋]]』<br>『[[トラ・トラ・トラ!]]』<br>『[[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]]』<br>『[[仁義の墓場]]』『[[県警対組織暴力]]』<br>『[[やくざの墓場 くちなしの花]]』<br>『[[北陸代理戦争]]』『[[ドーベルマン刑事#映画|ドーベルマン刑事]]』<br>『[[柳生一族の陰謀]]』『[[宇宙からのメッセージ]]』<br>『[[赤穂城断絶]]』『[[復活の日#映画|復活の日]]』『[[青春の門]]』<br>『[[魔界転生#映画|魔界転生]]』『[[道頓堀川 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/>'''[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]''' ([[2003年]]) }} '''深作 欣二'''(ふかさく きんじ、[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉[[7月3日]] - [[2003年]]〈[[平成]]15年〉[[1月12日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]。[[愛称]]はサクさん。[[茨城県]][[緑岡村]]出身。 == 生涯 == [[File:Fukasaku Kinji.jpg|thumb|170px|<small>映画芸術社『映画芸術』12月号([[1964年]])より</small>]] 6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる<ref name="yutaro1980">{{Cite book|和書|author=深作雄太郎|editor=森田美比|title=ある茨城県農政史―農林技師・深作雄太郎日記―|year=1980|publisher=昌平社|pages=3,7,37,40}}</ref>。[[茨城大学教育学部附属中学校]]、[[茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校|水戸第一高等学校]]、[[日本大学芸術学部]]卒業。[[1953年]](昭和28年)に[[東映]]へ入社。 [[1961年]](昭和36年)、[[千葉真一]]の初主演作品となる『[[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]]』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく<ref name = "日刊スポーツ">{{Cite news |title = 千葉真一インタビュー <日曜のヒーロー> - 第355回 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2003-3-30 |url = http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html |accessdate = 2011-11-13 |format = |agency = |publisher = [[nikkansports.com]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20050830223728/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html |archivedate = 2005-8-30 }}</ref>。千葉を主演に据え置き演出した映画『[[風来坊探偵シリーズ]]』『[[ファンキーハットの快男児シリーズ]]』、1966年(昭和41年)の映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』は、[[テレビドラマ]]『[[キイハンター]]』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した<ref name = "サムライ140141">[[#千葉2010|千葉流 サムライへの道]]、140 - 141頁。</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原文太 |authorlink = 菅原文太 |coauthors = ほか |year = 2003 |month = |title = 映画監督 深作欣二の軌跡 |journal = キネマ旬報 臨時増刊 |volume = |issue = 1380 |page = 154 |publisher = [[キネマ旬報社]] }}</ref><ref name = "深作欣二">{{Cite web|和書|date = 2012-11-27 |url = https://www.asagei.com/9361 |title = 千葉真一、深作欣二の初監督の怒号に驚いた |work = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |accessdate = 2012-12-5 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/https://www.asagei.com/9361 |archivedate = 2012-12-3--> }}</ref>。日米合作映画『[[トラ・トラ・トラ!]]』の日本側監督を[[黒澤明]]が降板したため、後任となった[[舛田利雄]]から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながら[[文芸プロダクションにんじんくらぶ|にんじんプロダクション]]の國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黒田邦雄 |date = 1982-08-01 |title = ザ・インタビュー [[千葉真一]] |journal = KINEJUN [[キネマ旬報]] |volume = 1655 |issue = 841 |page = 131 |publisher = キネマ旬報社 }}1982年、8月上旬号。</ref>。 [[1973年]](昭和48年)から公開された『[[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]]』は邦画史に残るヒットを記録。映画『[[柳生一族の陰謀]]』『[[復活の日]]』『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』『[[蒲田行進曲#映画|蒲田行進曲]]』『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』『[[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]]』など、発表した一部の映画がヒット・話題作となった。テレビドラマでは前述の『キイハンター』のほか、『[[傷だらけの天使]]』、『[[必殺シリーズ]]<ref group = "注釈">第一作の必殺仕掛人の他、続編の企画に参加し中村主水を生む。</ref>』、『[[影の軍団II]]』などを演出している。92年には、ハリウッド映画並みのアクション映画『いつかギラギラする日』を監督したが、大量の車、火薬、銃弾を消費したため、当初予算の3億円が11億円にまで膨張してしまった。 [[1997年]](平成9年)、[[紫綬褒章]]受章<ref name = "Fuhou">{{Cite news |title = 「仁義なき戦い」シリーズの深作欣二監督が死去 |newspaper = 日刊スポーツ |date = 2003-1-13 |url = http://www.nikkansports.com/jinji/2003/seikyo030113.html |accessdate = 2014-10-31 |format = |agency = |publisher = nikkansports.com |archiveurl = https://web.archive.org/web/20030206060523/http://www.nikkansports.com/jinji/2003/seikyo030113.html |archivedate = 2003-2-6 }}</ref>。[[2002年]](平成14年)には[[カプコン]]のプレイステーション2用ゲームソフト『[[クロックタワー3]]』のイベントCGムービーの監督を務め、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。 2002年9月25日、[[前立腺癌|前立腺ガン]]の[[脊椎]][[転移 (医学)|転移]]を公表し<ref name = "Fuhou"/>、『[[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]]』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。 2003年1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで長男・[[深作健太]]が監督を代行することとなった。7日、配給を担っている東映が会見を開き、健太と[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が出席。「翌月早々に復帰させたい」と岡田は説明していたが、4日後の11日夕方には容態が悪化。妻・[[中原早苗]]と健太、[[菅原文太]]<ref name = "Fuhou"/>、健太から連絡を貰った[[渡瀬恒彦]]や[[藤原竜也]]が<ref>{{Cite book |和書 |editor=金箱隆二|editor-link=金箱隆二 |others = [[川田修]] |title = 追悼! 菅原文太 仁義なき戦い COMPLETE |origdate = 2015-1-10 |series = [[ムック (出版)|TOWN MOOK]] |isbn = 4197103964 |page = 83 |chapter = 『仁義なき戦い』の役者インタビューII 渡瀬恒彦 }}</ref>、臨終に立ち会った。12日の午前1時、死去。{{没年齢|1930|7|3|2003|1|12}}。 15日、[[築地本願寺]]で通夜が営まれ、喪主を務める深作健太が選曲した20曲が流れるなか、弔問客が献花を行った<ref name = ZAK030116>{{Cite web|和書|date = 2003-1-16 |url = http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_01/g2003011606.html |title = 深作監督通夜、来ては困る女優の名前 |work = |publisher = [[ZAKZAK]] |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150504070907/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_01/g2003011606.html |archivedate = 2014-10-31 |accessdate = 2015-10-12 }}</ref>。中原早苗は終始、ハンカチを離さず悲しみの深さをうかがわせ、健太は弔問客に気丈に応対していたが。[[ロサンゼルス]]から駆けつけた千葉真一にねぎらいの言葉をかけられると、健太は涙をあふれさせていた<ref name = ZAK030116/>。弔問に[[ビートたけし]]・[[梅宮辰夫]]・[[緒形拳]]・[[津川雅彦]]・[[富司純子]]・[[三田佳子]]・[[藤真利子]]・[[渡哲也]]・[[小林稔侍]]・[[永島敏行]]・[[風間杜夫]]・[[平田満]]・[[藤原竜也]]・[[安藤政信]]・[[八名信夫]]・[[前田愛 (女優)|前田愛]]・[[前田亜季]]・[[竹内力]]・[[高岡早紀]]・[[薬師丸ひろ子]]・[[夏木マリ]]・[[宮本真希]]・[[柴咲コウ]]・[[加藤夏希]]・[[南果歩]]・[[渡辺えり子]]・[[松田美由紀]]・[[美輪明宏]]・[[山田洋次]]・[[崔洋一]]・[[降旗康男]]・[[沢井信一郎]]・[[奥山和由]]らが参列した<ref name = ZAK030116/>。 翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた<ref name = "中原">{{Cite book |和書 |author= 中原早苗|authorlink=中原早苗 |year = 2009 |title = 女優魂 中原早苗 |publisher = [[ワイズ出版]] |isbn = 9784898302354 |page = 176 }}</ref>、千葉真一と菅原文太がそれぞれ弔辞を述べ<ref name = ZAK030116/><ref>{{Cite web|和書|date = 2014-10-30 |url = http://plaza.rakuten.co.jp/kk0411/diary/201410300000/ |title = 千葉真一、見参! |work = 加瀬健治のブログ |publisher = [[楽天ブログ]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20141031132838/http://plaza.rakuten.co.jp/kk0411/diary/201410300000/ |archivedate = 2014-10-31--> |accessdate = 2014-10-31 }}</ref>、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった<ref name = ZAK030116/>。映画『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな[[越路吹雪]]の『[[ラ・ヴィ・アン・ローズ|バラ色の人生]]』、[[THE BLUE HEARTS]]の『[[1000のバイオリン|1001のバイオリン]]』が流された<ref name = ZAK030116/>。深作はフリーとなっていたが<ref>{{Cite book |和書 |editor=文化通信社|editor-link=新文化通信社 |year = 2012 |title = 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 |publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] |isbn = 978-4-636-88519-4 |page = 176 }}</ref>、東映は葬儀を全面的にサポートした<ref name = "中原"/>。墓所は[[川崎市]][[春秋苑]]。 2月7日に[[勲四等]][[旭日小綬章]]を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。 == 作風 == [[アクション映画]]や[[ヤクザ映画]]以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの[[時代劇]]、『[[火宅の人]]』『[[おもちゃ (1999年の映画)|おもちゃ]]』のような文芸、『[[ガンマー第3号 宇宙大作戦]]』『[[宇宙からのメッセージ]]』『復活の日』などの[[サイエンス・フィクション|SF]]、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のような[[ホラー映画]]、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた<ref name = "観客">{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-29 |title = 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = https://www.asagei.com/9406 |accessdate = 2013-1-1 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/https://www.asagei.com/9406 |archivedate = 2013-1-1--> }}</ref>。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている<ref name = "Fuhou"/>。 日本のみならず世界でも劇場公開されており、[[クエンティン・タランティーノ]]や[[ジョン・ウー]]らは崇拝していることを明言している。全作品のうち『[[ファンキーハットの快男児]]』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした<ref name = "Fuhou"/>。 == 人物 == 深作作品には欠かせない存在だった[[千葉真一]]にとって<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1T0000006385 |title = 必殺4 恨みはらします |publisher = [[東映チャンネル]] |archiveurl = https://archive.is/Nx90N |archivedate = 2013-2-6 |accessdate = 2013-2-6 }}</ref>、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった<ref name = "日刊スポーツ"/><ref name = "観客"/>。千葉が[[1990年代]]から[[ハリウッド]]に拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りで[[ロサンゼルス]]に住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している<ref name = "日刊スポーツ"/><ref name = "観客"/>。千葉はインタビューの際、最も尊敬する[[映画監督]]である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、'''キンジ・フカサク'''と敬意をこめて呼んでいる<ref>[[#千葉2010|千葉流 サムライへの道]]、132頁。</ref>。 干されていた[[室田日出男]]、大部屋でくすぶっていた[[川谷拓三]]・[[志賀勝]]らを抜擢し、[[ピラニア軍団]]として知らしめた<ref name = "深作欣二"/>。[[福本清三]]は「監督は[[大部屋俳優]]の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している<ref name = "福本清三">{{Cite book |和書 |author = 福本清三 |authorlink = 福本清三 |coauthors = 小田豊二 |date = 2001-11-30 |title = どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三 |publisher = [[集英社]] |pages = 211-215 |isbn = 4420310030 }}</ref>。初めて[[東映京都撮影所]]で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら[[殺陣]]や[[擬斗]]を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密に[[リハーサル]]をしたので大部屋俳優たちに驚かれた<ref name = "福本清三"/>。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問<ref name = "福本清三"/>。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した<ref name = "福本清三"/>。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという<ref name = "福本清三"/>。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている<ref name = "福本清三"/>。 夜型で徹夜が平気な体質を持ち、深夜になっても撮影に入らない凝り性で、スタッフが疲弊することが多く<ref name="名前なし-20231105130934">『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P153</ref>、苗字をなぞらえて「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長かった<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-12-7 |title = 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = https://www.asagei.com/10828 |accessdate = 2013-1-1 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/https://www.asagei.com/10828 |archivedate = 2013-1-1--> }}</ref>。また映画『[[ファンキーハットの快男児]]』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され<ref name = "Fuhou"/>、[[ストップモーション]]や[[ナレーション]]を効果的に使った作品を生み出してきた<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-28 |title = 「仁義なき戦い」40年目の壮絶秘話(1)「顔のシワ作り」に励んだ松方 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = https://www.asagei.com/3678 |accessdate = 2012-11-29 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/https://www.asagei.com/3678 |archivedate = 2012-11-29 -->}}</ref>。時に[[脚本]]を変えてしまうことから{{Refnest |group = "注釈" |角川春樹は「話を暗い方へ変えたがる傾向があった」と評している<ref name="名前なし-20231105130934"/>。}}、映画『[[仁義なき戦い]]』では[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]] から監督登用に拒まれたこともあった{{Refnest |group = "注釈" |深作は一切、脚本に手を入れないことを約束している<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-12-25 |title = 深作欣二「仁義なき戦い」の脚本に一目惚れ |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = https://www.asagei.com/11138 |accessdate = 2013-2-2 <!--|archiveurl = https://megalodon.jp/2013-0202-1901-35/www.asagei.com/11138 |archivedate = 2013-2-6--> }}</ref>。}}。製作者として深作と関わった[[角川春樹]]は「論理より感覚で撮る人で、凝り性」と述べている<ref name="名前なし-20231105130934"/>。 自主製作的なことは一切行わなず、門下の[[中田新一]]は著書『奔れ!助監督』で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられたと記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に[[共産党]]系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく特にシンパ活動などは行っていない。『仁義なき戦い』などはむしろ[[山田和夫]]ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。しかし、フリーとしての活動はかならずしも順調ではなく、40代で24本、50代で10本の映画を監督した深作も、60代では3本の映画しか撮れなかった。 [[サム・ペキンパー]]のファンで、『[[ビリー・ザ・キッド/21才の生涯]]』を好きな映画に挙げている{{R|ワイズ出版}}。ペキンパーが『[[戦争のはらわた]]』のプロモーションのために[[ジェームズ・コバーン]]と共に来日し、『[[独占!男の時間]]』に出演していると、泥酔した川谷拓三が乱入してきた<ref name="伊藤">[[伊藤彰彦 (映画史家)|伊藤彰彦]]「映画の奈落 [[北陸代理戦争]]事件」p.227</ref>。川谷も深作同様にペキンパーのファンだが、ペキンパーが監督した映画「『[[ゲッタウェイ]]』!!!」と吠えながら握手をして、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んでいた<ref name="伊藤"/><ref>[[小林信彦]]「映画×東京とっておき雑学ノート」(文藝春秋)P.193</ref>。 == 作品 == <small>※は脚本兼。☆は脚本のみ。★は編集兼。*は構成兼。</small> === 映画 === * [[風来坊探偵シリーズ]] (1961年、[[ニュー東映]]) ** [[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]] <!--(1961年6月9日)--> ** [[風来坊探偵 岬を渡る黒い風]] <!--(1961年6月23日)--> * [[ファンキーハットの快男児シリーズ]] (1961年、ニュー東映) ** [[ファンキーハットの快男児]] <!--(1961年8月5日)--> ** [[ファンキーハットの快男児 二千万円の腕]] <!--(1961年9月13日)--> * 白昼の無頼漢 (1961年<!--11月1日-->、ニュー東映<!--東京-->) * 誇り高き挑戦(1962年<!--3月28日-->、[[東映]]<!--東京-->) * [[ギャング対Gメン]] (1962年<!--11月2日-->、東映<!--東京-->) * ギャング同盟 (1963年<!--7月31日-->、東映<!--東京-->) * [[ジャコ萬と鉄]] (1964年<!--2月8日-->、東映<!--東京-->) * [[:en:Wolves, Pigs and Men|狼と豚と人間]](1964年<!--8月26日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> * 脅迫 (おどし) (1966年<!--2月17日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> *[[顔役 (1965年の映画)|顔役]] (1965年<!--1月3日-->、東映<!--東京-->) <small>☆</small> * [[カミカゼ野郎 真昼の決斗]] (1966年<!--6月4日-->、[[にんじんプロダクション]] / 國光影業) <small>※</small> * 北海の暴れ竜 (1966年<!--10月25日-->、東映<!--東京-->) * [[解散式 (映画)|解散式]] (1967年<!--4月1日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> * [[博徒解散式]] (1968年<!--2月9日-->、東映<!--東京-->) * [[黒蜥蜴]] (1968年<!--8月14日-->、[[松竹]]<!--大船-->) <small>※</small> * 恐喝こそわが人生 (1968年<!--10月26日-->、松竹<!--大船-->) * [[ガンマー第3号 宇宙大作戦]] (1968年<!--12月19日-->、東映<!--東京--> / ラム・フィルム / [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]) * [[黒薔薇の館]] (1969年<!--1月25日-->、松竹<!--大船-->) <small>※</small> * [[日本暴力団 組長]] (1969年<!--7月8日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> * [[血染の代紋]] (1970年<!--1月31日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> * 君が若者なら (1970年<!--5月27日-->、新星映画 / [[文学座]]) <small>※</small> * [[トラ・トラ・トラ!]] (1970年<!--9月25日-->、[[20世紀フォックス]]) * [[博徒外人部隊]] (1971年<!--1月12日-->、東映<!--東映東京-->) <small>※</small> * [[軍旗はためく下に]] (1972年<!--3月12日-->、[[東宝]] / 新星映画) <small>※</small> * [[現代やくざ 人斬り与太]] (1972年<!--5月6日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small> * [[人斬り与太 狂犬三兄弟]] (1972年<!--10月25日-->、東映<!--東京-->) * [[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]] (東映) ** [[仁義なき戦い]] (1973年<!--1月13日-->) ** [[仁義なき戦い 広島死闘篇]] (1973年<!--4月28日-->) ** [[仁義なき戦い 代理戦争]] (1973年<!--9月29日-->) ** [[仁義なき戦い 頂上作戦]] (1974年<!--1月15日-->) ** [[仁義なき戦い 完結篇]] (1974年<!--6月29日-->) ** [[仁義なき戦い]] 総集篇 (1980年<!--4月5日-->) <small>★</small> * 新仁義なき戦いシリーズ (東映) ** [[新仁義なき戦い]] (1974年<!--12月28日-->) ** [[新仁義なき戦い 組長の首]] (1975年<!--11月1日-->) ** [[新仁義なき戦い 組長最後の日]] (1976年<!--4月24日-->) * [[仁義の墓場]] (1975年<!--2月15日-->、東映<!--東京-->) * [[県警対組織暴力]] (1975年<!--4月26日-->、東映<!--京都-->) * [[資金源強奪]] (1975年<!--6月21日-->、東映<!--京都-->) * [[暴走パニック 大激突]] (1976年<!--2月28日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small> * [[やくざの墓場 くちなしの花]] (1976年<!--10月30日-->、東映<!--京都-->) * [[北陸代理戦争]] (1977年<!--2月26日-->、東映<!--京都-->) * [[ドーベルマン刑事]] (1977年<!--7月2日-->、東映<!--京都-->) * [[柳生一族の陰謀]] (1978年<!--1月21日-->、東映<!--京都[[東映太秦映画村]]-->) <small>※</small> * [[宇宙からのメッセージ]] (1978年<!--4月29日-->、東映<!--京都--> / [[東北新社]]<!--(協力:東映太秦映画村)-->) * [[赤穂城断絶]] (1978年<!--10月28日-->、東映<!--京都=東映太秦映画村-->) * [[復活の日]] (1980年<!--6月6日-->、[[角川映画|角川春樹事務所]] / [[TBSテレビ|TBS]]) <small>※</small> * [[青春の門]] (1981年<!--1月15日-->、東映<!--京都-->) * [[魔界転生#映画|魔界転生]] (1981年<!--6月6日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small> * [[道頓堀川 (映画)|道頓堀川]] (1982年<!--6月12日-->、松竹<!--大船-->) <small>※</small> * [[蒲田行進曲#映画|蒲田行進曲]] (1982年<!--10月9日-->、松竹 / 角川春樹事務所) * [[人生劇場 (1983年の映画)|人生劇場]] (1983年<!--1月29日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small> * [[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]] (1983年<!--12月13日-->、角川春樹事務所) <small>※</small> * [[上海バンスキング#1984年版|上海バンスキング]] (1984年<!--10月6日-->、松竹 / [[西武流通グループ]] / [[シネセゾン]] / [[テレビ朝日|ANB]]) <small>※</small> * [[火宅の人#映画|火宅の人]] (1986年<!--4月12日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small> * [[必殺4 恨みはらします]] (1987年<!--6月6日-->、松竹 / [[朝日放送テレビ|ABC]]) <small>※</small> * [[華の乱]] (1988年<!--10月1日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small> * [[いつかギラギラする日]] (1992年<!--9月12日-->、[[日本テレビ放送網|NTV]] / [[バンダイ]] / 松竹第一興行) * [[忠臣蔵外伝 四谷怪談]] (1994年<!--10月22日-->、松竹) <small>※</small> * [[おもちゃ (1999年の映画)|おもちゃ]] (1999年<!--1月15日-->、東映 / [[ライジングプロダクション]]) * [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアルシリーズ]] ** [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]] (2000年<!--12月16日-->、バトル・ロワイアル製作委員会) ** [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル【特別篇】]] (2001年<!--4月7日-->、バトル・ロワイアル製作委員会) ** [[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]] (2003年<!--7月5日-->、東映) === テレビ === ;ドラマ * [[スパイキャッチャーJ3]] (1965年、[[テレビ朝日|NET]]) ** 第1話 「SOSポラリス潜水艦 前編」<!--(10月21日--> ** 第2話 「SOSポラリス潜水艦 後編」<!--(1965年10月28日--> * [[泣いてたまるか]] ([[TBSテレビ|TBS]]) ** 第48話 「先生週刊誌にのる」(1967年<!--7月2日-->) * [[キイハンター]] (TBS) ** 第1話「裏切りのブルース」(1968年<!--4月6日-->) ** 第2話「非常の唇」(1968年<!--4月13日-->) ** 第157話「キイハンター 皆殺し作戦」(1971年<!--4月3日-->) ** 第158話「現金と舌を切られた女」(1971年<!--4月10日-->) ** 第178話「南の国へヌードで新婚珍道中」(1971年<!--8月28日-->) * [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]] 第326話「年上の妻の華麗な犯罪」(1971年、TBS) * [[必殺仕掛人]] ([[朝日放送テレビ|ABC]]) ** 第1話「仕掛けて仕損じなし」(1972年<!--9月2日-->) ** 第2話「暗闘仕掛人殺し」(1972年<!--9月9日-->) ** 第24話「士農工商大仕掛け」(1973年<!--2月10日-->) * [[アイフル大作戦]] 第31話「メロメロお色気大作戦」(1973年<!--11月10日-->、TBS) * [[バーディ大作戦]] 第1話「連続ピストル強盗団」 (1974年<!--5月11日-->、TBS) * [[傷だらけの天使]] (1974年、[[日本テレビ放送網|NTV]]) ** 第1話「宝石泥棒に子守唄を」 (1974年<!--10月5日-->) ** 第3話「ヌードダンサーに愛の炎を」 (1974年<!--10月19日-->) * [[影同心]] 第18話「濡れた女の殺し節」 (1975年<!--8月2日-->、[[MBSテレビ|MBS]]) * [[Gメン'75]] (TBS) ** 第16話「Gメン皆殺しの予告」(1975年<!--9月6日-->) ** 第20話「背番号3長島対Gメン」(1975年<!--10月4日-->) ** 第85話「'77元旦 デカ部屋ぶっ飛ぶ!」(1977年<!--1月1日-->) ** 第354話「吾輩は人喰猫である」 (1982年<!--3月27日-->) * [[柳生一族の陰謀#連続ドラマ|柳生一族の陰謀]] 第1話「将軍毒殺」(1978年<!--10月3日-->、[[関西テレビ放送|KTV]]) * [[影の軍団II]] 第1話「眼には眼を」(1981年<!--10月6日-->、KTV) * 黒い館の女 (1982年<!--2月25日-->、[[テレビ朝日|ANB]]) * ダブル・パニック'90 ロス警察大捜査線(1990年、ANB) * [[阿部一族 (1995年のテレビドラマ)|阿部一族]] (1995年、[[フジテレビジョン|CX]]) ;ドキュメンタリー * 20世紀末黙示録 もの食う人びと (1997年<!--2月23日-->、[[名古屋テレビ放送|NBN]]) === 演劇・ゲーム === ;演劇 * [[仁義なき戦い]] 金子信雄プロデュース新演劇公演 (1974年<!--10月24日 - 11月2日-->、[[紀伊國屋ホール]]) * バラエティショウ ピラニア十六匹大行進 [[ピラニア軍団]]公演 (1977年<!--5月5日-->、[[御堂会館]]) <small>*</small> * [[柳生十兵衛 魔界転生]] (1981年<!--7月3日 - 28日-->、[[新宿コマ劇場]]) ;ゲーム * [[クロックタワー3]] (2002年、ムービー演出) === 企画・監修 === * [[ゆかいな海賊大冒険]] (1982年<!--8月7日 - 9月12日-->、[[新宿コマ劇場]] / 1983年<!--3月25日 - 4月14日-->、[[梅田コマ劇場]] / 1984年<!--3月24日 - 4月17日-->、新宿コマ劇場) * [[酔いどれ公爵]] (1985年<!--4月1日 - 29日-->、新宿コマ劇場) * [[リメインズ 美しき勇者たち]] (1990年、[[松竹]] / [[千葉真一|サニー千葉エンタープライズ]] / [[JTB]] / [[松竹京都撮影所 (企業)|京都映画]]) == 出演 == * [[人間の証明#映画|人間の証明]] (1977年、[[角川映画|角川春樹事務所]]) - 渋江警部補 * [[柳生一族の陰謀#連続ドラマ|柳生一族の陰謀]] 第34話「やわ肌の秘密」(1979年、[[関西テレビ放送|KTV]]) - 深海欣十郎 * [[RAMPO#映画|RAMPO 奥山バージョン]](1994年、[[松竹]]) - 巨匠 == 受賞・受章 == ;受賞 * 第11回[[ゴールデン・アロー賞]] 映画賞 『[[仁義なき戦い]]』 ([[1973年]]) * [[ブルーリボン賞 (映画)#第18回(1975年度)|第18回ブルーリボン賞]] 監督賞 『[[仁義の墓場]]』 『[[県警対組織暴力]]』 ([[1975年]]) * [[第2回日本アカデミー賞]] 優秀脚本賞 『[[柳生一族の陰謀]]』 ([[1979年]]) * [[キネマ旬報#第56回(1982年度)|第56回キネマ旬報ベスト・テン]] 日本映画監督賞 『[[蒲田行進曲]]』 ([[1982年]]) * [[ブルーリボン賞 (映画)#第25回(1982年度)|第25回ブルーリボン賞]] 監督賞 『蒲田行進曲』 (1982年) * [[毎日映画コンクール#第37回(1982年)|第37回毎日映画コンクール]] 監督賞 『蒲田行進曲』 (1982年) * [[第6回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞 『[[蒲田行進曲]]』 ([[1983年]]) * [[第10回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞・最優秀脚本賞 『[[火宅の人]]』 ([[1987年]]) * 第7回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] 監督賞 『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』 ([[1994年]]) * [[第18回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞・最優秀脚本賞 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』 ([[1995年]]) * 第20回[[おおさか映画祭]] 監督賞 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』 (1995年) ;受章 * [[紫綬褒章]] ([[1997年]]) * [[旭日章|勲四等旭日小綬章]] ([[2003年]]) == 血族 == === 著名な血族 === <!-- 姻族は除外(増えすぎるのを防ぐため) --> * 祖父:深作{{ruby|浅|あさ}}{{ruby|次|じ}}{{ruby|郎|ろう}} - 第4・7・10代[[緑岡村]]村長<ref name="mito1993">{{Cite book|和書|editor=水戸市史編さん近現代専門部会|title=水戸市史 下巻|volume=1|year=1993|publisher=水戸市|page=436}}</ref><ref name="mito1995">{{Cite book|和書|editor=水戸市史編さん近現代専門部会|title=水戸市史 下巻|volume=2|year=1995|publisher=水戸市|page=139}}</ref>、[[東茨城郡]]郡会議員<ref name="hattatsushi1928">{{Cite book|和書|title=昭和大典記念 自治業界發達誌|year=1928|publisher=東京日日通信社|page=695}}</ref><ref name="yutaro1980"/> * 大叔父:[[深作安文]] - 浅次郎の弟<ref name="ibaraki1939">{{Cite book|和書|title=茨城人名録|year=1939|publisher=いはらき新聞社|page=561}}</ref>、[[東京大学|東京帝国大学]]文学部教授、[[倫理学]]者、[[水戸学]]研究者 * 父:深作雄太郎 - 浅次郎の長男、軍人(日露戦争経験者)、農業技師、第17代緑岡村村長<ref name="yutaro1980"/><ref name="mito1995"/> * 兄:深作哲太郎 - 雄太郎の長男<ref name="yutaro1980"/>、軍人(太平洋戦争経験者)、林業技師<ref name="tetsutaro1982">{{Cite book|和書|author=深作哲太郎|editor1=深作初枝|editor2=深作律夫|title=深作哲太郎遺作遺稿集|year=1982|publisher=深作初枝|pages=9,11,401}}</ref> * 従兄弟:[[深作清次郎]]<ref name="FukasakuKj20220625">{{Twitter status|FukasakuKj|1540568810344022019}}</ref><ref name="sawyer20220708">{{Twitter status|SawyerMaki|1545201798973165569}}</ref> - 右翼、政治活動家 * 子:[[深作健太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20030116000231|title=深作さんに最後の別れ/映画関係者多数が参列|publisher=四国新聞社|date=2003-01-16|accessdate=2021-05-31}}</ref> - 欣二の長男、映画監督、演出家、脚本家 === 逸話 === * 父の雄太郎は、故郷・緑岡村の地主で、かつ東京帝国大学農学部を卒業した農業技師という、当時の富裕層かつエリートだった<ref name="yutaro1980"/>。映画監督として有名になってからも、父は欣二に対し、地元に戻って農業を継ぐように度々催促した。結局、両親の臨終には立ち会えなかった<ref>{{Cite journal|和書|year=1995|title= |journal=ビッグコミックオリジナル 12月20日号|pages=32-34|publisher=小学館}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mag2.com/p/news/511938|title=深作欣二監督が『仁義なき戦い』ヒット後に父から「田舎に戻れ」と言われた理由|editor=根岸康雄|accessdate=2023-05-05|date=2021-09-21|website=MAG2 NEWS|publisher=まぐまぐ}}</ref>。 * 兄の哲太郎とは12歳離れており、欣二に物心がついた時には、既に進学のために上京していた。このため、兄と一緒に暮らしたのは、終戦から兄が復員した後の数年間のみだった<ref name="tetsutaro1982"/>。 * 姉(雄太郎の三女)は、[[大成建設]]の社長となった藤田武雄の長男に嫁いだ<ref>{{Cite book|和書|title=財界家系図|year=1956|publisher=人事興信所|page=307}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=人事興信録|year=1964|publisher=人事興信所|page=71|chapter=ふ之部|volume=下|edition=22}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist| |refs= <ref name="ワイズ出版">{{Harvnb|ワイズ出版|2003|pp=60|loc=「松竹ヌーヴェルヴァーグの登場」}}</ref> }} == 著書・参考文献 == ;著書 * {{Cite book |和書 |author = 深作欣二 |coauthors = 高野育郎 |title = 仁義なきバトル・ロワイアル |origdate = 2000-12 |publisher = [[アスペクト (企業)|アスペクト]] |isbn = 4757208103 }} * {{Cite book |和書 |author1= 深作欣二 |author= 山根貞男|authorlink=山根貞男 |date=2003-07-12 |publisher = [[ワイズ出版]] |title= 映画監督 深作欣二 |isbn= 489830155X |ref= {{SfnRef|ワイズ出版|2003}}}} * {{Cite book |和書 |author = 深作欣二 |editor = 映像塾プロジェクト |title = 深作欣二 ラスト・メッセージ |origdate = 2005-1-15 |publisher = [[シネマハウス]] |isbn = 4434055011 }} ;参考文献 * {{Cite journal |和書 |author = 中原早苗 |authorlink = 中原早苗 |date = |year = 2003 |month = 3 |title = 夫・深作欣二 最後の戦い |journal = [[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] |volume = |issue = |pages = |publisher = [[文藝春秋社]] }} * {{Cite book |和書 |author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |isbn = 4821142694 |ref = 千葉2010 }} ;評伝 * [[一坂太郎]]『フカサクを観よ 深作欣二監督全映画ガイド』青志社、2018年1月 * [[春日太一]]責任編集『深作欣二 [[KAWADE夢ムック|文藝別冊]]』河出書房新社、2021年9月 == 外部リンク == * {{allcinema name|10594|深作欣二}} * {{Kinejun name|86006|深作欣二}} * {{jmdb name|0200890|深作欣二}} * {{Tvdrama-db name}} *[https://www.dgj.or.jp/about/prof/ 日本映画監督協会 深作欣二プロフィール] * {{NHK人物録|D0009072614_00000}} * [https://cinema-rank.net/list/50366 深作欣二監督が制作した映画ランキング 映画格付] * [https://web.archive.org/web/20040814023328/http://www.bestlife.ne.jp/geino/my_bestlife/31fukasaku/fukasaku1.html ベストライフ・オンライン インタビュー] * {{IMDb name|0297935|Kinji Fukasaku}} {{深作欣二}} {{日本映画監督協会理事長|第6代:[[1996年]]-[[2003年]]}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}} 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賭博
賭博(とばく、英: gambling、独: Glücksspiel、仏: jeu d'argent)とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと。 英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、カタカナでは「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。 賭博とは、金銭や品物などを賭けて勝負を争う遊戯のことである。金銭や品物などの財物を賭けて、(偶然性の要素が含まれる)勝負を行い、その勝負の結果によって、負けた方は賭けた財物を失い、勝った方は(なんらかの取り決めに基づいて)財物を得る、と言う仕組みの遊戯(ゲーム)の総称である。 日常的に賭博を行う者や、賭博を特に好む者は「賭博師」や「ギャンブラー」、「博打打ち」などと呼ばれている。賭け事の遊戯(ゲーム)を主催している者を胴元と言う。 賭博の大前提は、あらかじめ取り決め周知されている厳密なルールに従って勝負を行い、偶然もたらされた結果に従うことである。胴元(主催者)側が、自分に有利になるように、様々な詐術を用いて表向きのゲームとは違うことが起きるように細工をして行う賭博を、いかさま賭博と言う。いかさま賭博は厳密には賭博ではなく詐欺に当たる。よくある手法は、参加者に分からないようなかたちで、なんらかのトリック(技術や道具)を用い、相手を錯誤させ、表向きの確率や期待値(見掛けの確率や期待値)とは違うように、実際の確率及び期待値を改竄して行うことである。いかさま賭博を行う者を「いかさま師」や「ゴト師」などと言う。 商業賭博の配当を決定する方式としては、あらかじめブックメーカーが倍率を決定しているブックメーカー方式や、興業主が全賭け金から一定割合を差し引き、残りの全額を勝ち投票券に分配するパリミュチュエル方式、ガラ馬券などに代表されるロッタリー方式などがある。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用している。 賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である。 賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである。 公営競技、「野球賭博」「ルーレット」「バカラ」などは賭事であり、「賭け麻雀」「賭けゴルフ」「賭けポーカー」などは博戯である。「クラップス」のように、一つのゲームで賭事と博戯が混在する場合もある。 「富くじ」の場合、数字が選べないタイプは購入者が結果を予測することも出来なく、結果にも関与できないため賭事である。数字選択式では、公営競技と同様に結果を予測することは可能であるが同様に結果にも関与できないため賭事である。全ての日本の「宝くじ」として売られているものについては締め切り後には追加購入を含めくじの当選に関わる関与は一切出来ない。 チェス、将棋、囲碁といった偶然の要素が無い二人零和有限確定完全情報ゲームの勝敗を予測することは賭事であるが、プレイヤー同士が自身の勝利に金銭をかけた場合は博戯となる。自身がプレイヤーとなるギャンブラーは真剣師とも呼ばれる。 先秦時代の中国では囲碁と共に六博(博)というすごろくに類似したボードゲームが流行しており、博をプレイする(打つ)ことから「博打」と言う言葉が生まれた。よって「博打を打つ」「博打打ち」という言葉は本来二重表現であるが、「博打」が「賭博」の同義語として扱われるようになると、二重表現とはみなされなくなった。 さまざまな金融商品や相場にも、その賭博性が提起されることがある。金融商品の中でも、保険は娯楽としてのギャンブルと全く同様の技術で実現されている。保険の歴史は賭博から生まれた物であり、事故に遭遇するというギャンブルに金銭を賭けるもの、とされているからである(賭博の用語ではオッズと呼ばれる物は保険用語では「等級」と呼ばれる。医療保険においては病気のリスクの少ない若年層のオッズは高いが、年配者の場合はオッズは低く、逆に自動車保険においては事故率の高い若年層の方がオッズは低くなる。保険商品では「配当金」は固定のためオッズが低い、すなわち保険給付事由が発生する可能性が高いほど保険料は高くなり、その可能性が非常に高いと判断される場合は保険の契約自体ができない)。 先物取引やオプション取引、外国為替相場、株式の購入など、通常であれば商品取引(相場)あるいは株式などのように、投資の範疇に含まれる行為のうち、手持ちの現金以上の金額を投じることのできる信用取引や、投機と呼ばれるハイリスク・ハイリターンな取引を、広い意味でのギャンブルに含むこともある。なお、日本では特定の株の上がり下がりを賭ける合百という直接的な賭博も行われていた。 世界的には歴史上、手品のはじまりといわれるCup and balls(カップアンドボール)が賭け事の対象としてヨーロッパ、中東、地中海地方、遠くは中国まで広がったが、行う者が手品師と同義であることから、いわゆる「いかさま賭博」とも言える。 賭博は世界で広く行われており、各地に多種多様な賭博が存在する。カジノ開設が認められている国では、カジノ内でさまざまな賭博が行われている。またイギリスやオーストラリア、ドイツ等にはブックメーカー(bookmaker)なども存在し、殆どあらゆる事をギャンブルの対象にしている。 カジノで行われるカジノゲームは、大きくテーブルゲーム・ゲームマシン・その他の3種類に分かれる。テーブルゲームはさらに、ブラックジャックやバカラ、ポーカーなどのようにトランプを用いるもの(カードゲーム)、クラップスや大小のようにサイコロ(ダイス)を用いるもの、ルーレットやファンタン、牌九のようにどちらにも属さないものに分けられる。ゲームマシンとしてはスロットマシンなどがある。キノなどのテーブルゲーム、ゲームマシンのいずれにも属さないものはその他に分類される。 ほとんどのカジノゲームは「カジノ」対「客」という形でゲームを行う。例えばルーレットでは、客が勝てばカジノ側がチップを支払う。一方でポーカーの場合は客同士で勝敗を決めるゲームで有り、テーブルでの敗者が勝者にチップを支払う。カジノ側はゲームの進行やサービスを行い、ゲーム毎の手数料を得るシステムである。 動物や人間を競わせ、その勝敗を賭博の対象とすることは古来から広く行われている。 動物を対象とした賭博としては闘犬、闘鶏、闘牛、昆虫相撲など、動物同士を戦わせ、勝敗を賭ける賭博がある。家畜化されていない動物を用いる例もあり、ニワトリが家畜化されたのは本来食用ではなく、祭祀用、または闘鶏に用いるためだったと考えられている。中国では唐の玄宗期以降、コオロギ同士を戦わせる闘蟋が盛んとなった。多数の動物をコースで走らせ、勝敗を予測する賭博として競馬、ラクダレース、ドッグレースなどがあり、その日の全レースや特定の順位まで着順を予想するなど難易度を上げた掛け方もある。特に競馬は馬の飼育や品種改良など、馬の文化に大きく関わった。またブックメーカー、競馬新聞、馬券予想会社など関連産業も発展した。 スポーツの結果を賭博の対象とすることも広く行われており、2009年には、世界の商業賭博総額の内、競馬が7%、スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博に対する態度は国によってさまざまであり、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では競馬(中央競馬と地方競馬)のほか、モーターボート(競艇)、自転車(競輪)、オートバイ(オートレース)が公営競技として認められており、また2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。日本国外では、ハイアライなども賭博スポーツとして認可されている国が存在する。 日本古来の賭博としては手本引や丁半賭博などがある。 宝くじも賭博の一種であり、世界各国で行われている。 世界のほとんどの国家において、賭博行為には何らかの規制がかかっており、完全に禁止している国家も存在する。宝くじは古くから政府や公共事業の重要な財源となる一方、道徳的な問題や絶えない不正から問題視されることも多く、19世紀には一度ヨーロッパのかなりの地域で禁止され、再び解禁されるのは主に第二次世界大戦後のことだった。カジノが開設されている国家においても、例えばネパールやカンボジアのように自国民の利用を禁止し外国人観光客のみが利用できる国家や、韓国のように1カ所を除き外国人専用としている国家、シンガポールのように高額な入場料を設定し失業者の入場を禁じている国家など、さまざまな規制を設けて利用者層を制限する国家も多い。韓国のように国民に対して外国での賭博を禁じる国もあり、マカオなどにある立地国では合法な外国人向けカジノでの賭博が罪となる。 賭博を禁止しているイスラム教の影響が大きい地域では、国民が外国で賭博を行うこと以外にも、賭博と同様の技術で実現されている保険の提供を禁止している場合があり、タカフルと呼ばれる共済のような方法で保険サービスを実現している。 日本においては刑法185条から187条において賭博及び富くじに関する罪が規定されており、違反者には刑罰が科せられる。一方で、競馬、競艇、競輪、オートレースといった公営競技や、宝くじ、スポーツ振興くじに関しては特別法によって公営でのギャンブルが認められている。 公営競技で最も早く認められたものは競馬であり、戦前から馬券発行が公認されていた。第二次世界大戦後、第二次世界大戦中には戦費調達のために政府によって「勝札」と呼ばれる宝くじの発行が開始され、敗戦後は宝くじと名を変えて大々的に行われるようになった。この後、1954年に政府の宝くじ発行は中止され、都道府県や政令指定都市が宝くじ発行の主体となった。1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化された。賭博と同様の技術である保険についても規定が有り保険業法で定められており、販売には制限がある。 日本国内において麻雀は賭け事として行われることもあるが、その場で消費可能な飲食物や食事代金の負担は「一時の娯楽に供するもの」として賭博とみなされないこともある。 賭博規制を緩和する国もある。一例として、1992年にスポーツ賭博を禁止したアメリカにおいて、2018年に最高裁でこの禁止法の違憲判決が出され、スポーツ賭博の解禁を認めたことなどがあげられる。しかしアメリカのプロスポーツ界のほとんどがこの判決に異議を唱えたように、賭博解禁には強い反対の声が上がる場合が多い。 各国において強い規制がかけられている一方で、賭博を楽しむ人々は全世界に存在し、経済的にも大きな存在となっている。2009年には全世界の合法的な商業賭博の総売上は3350億ドルに達した。このうち規模の大きなものは宝くじなどのくじ類と、カジノやゲームマシン、ビンゴ等である。2015年には、オンラインカジノも含む全世界のカジノの売り上げは1828億ドルに達していた。こうした賭博の利益の源泉は、胴元が賭博の売り上げの中から一定の割合で控除する金銭、いわゆるテラ銭である。この控除金額は賭博や地域によって異なっており、一般的にカジノゲームでは2%未満から5%、それぞれ平成20年度で日本の公営競技が25.2%、サッカーくじが50.4%、宝くじが54.3%となっている。宝くじの控除金額は世界的に見ると50%前後が多い。宝くじは古くから公共の利益のために目的税的な利用をされることが多く、国や州などの政府が主体となって販売され、その重要な財源となっている。 世界には、アメリカ・ネバダ州のラスベガスのように、賭博を合法化して観光資源の一つとすることで世界中から観光客を集めている都市もある。カジノ事業に乗り出す地域は増加しており、とくに2010年に始まったシンガポールのカジノが大成功を収めたことでこの流れはアジアにおいて加速した。日本でも2016年12月15日に統合型リゾートの設置を目的とした「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律」(IR推進法)が成立した。 カジノの存在する主な都市は、以下のようになっている。この中でも、古くからカジノを中心として栄えたラスベガス、2002年に外国資本にカジノ経営が開放された後に中国大陸の経済成長に伴って急成長し、2013年にはラスベガスの7倍の売り上げを誇るようになったマカオ、2010年のカジノ開設後急速に成長して2013年にはラスベガスと同程度の売り上げとなったシンガポールの3都市が特に規模としては大きい。このほかにも多くの国にカジノは存在し、約140カ国でカジノは合法化されている。 オーストラリアでは、市中のパブやクラブにスロットマシンが置かれている。店に出入りできる年齢であれば気軽にギャンブルができる環境にあったが、2020年3月23日には、新型コロナウイルスの感染拡大によりパブやクラブが一時閉鎖され、ギャンブルができる環境が失われた。ギャンブル問題を啓発する団体は、閉鎖された後一か月間に少なくとも10億豪ドル(約690億円)がスロットマシンにつぎ込まれずに済んだこと、それら金額が食卓の食べ物、医療費や光熱費、家賃、住宅ローンの支払いに充てられることが可能になったこと、ギャンブル依存症なども緩和されたことなどの効果を指摘した。 賭博・ギャンブルは、人の射倖心をくすぐり、時に中毒的な依存状態を招き、破産や人格崩壊に至り、果てには自殺、殺人に及ぶ場合もある。賭博の問題は人間の歴史が始まった頃から認識されており、「マハーバーラタ」や「千夜一夜物語」など古代の物語に、賭けに熱中するあまり、全財産を失ったりイカサマではめられるというトラブルも描かれている。 また、賭博はいくら多額の金が賭けられても、胴元と参加者、あるいは参加者同士の間でその金が行き来するに過ぎず、経済生産が生じないため、そのような非生産的な行為に人々のエネルギーが費やされてしまうと、生産的な行為を阻害する可能性があるとの主張も存在する。ただしこれに関しては、そもそも賭博はスキーやテレビなどと同じく娯楽に属しており、これらと同様に様々な効用を生み出しているため非生産的な活動とは見なせないとの反論も存在する。 違法賭博が暴力団や犯罪組織などの反社会的勢力の資金源になるなど、社会問題も多く内包する。ただしこれに関しては、当該賭博を合法化し法規制の下に置くことで金の流れを透明化し、反社会的集団との関係を断ち切ることが可能であり、これが賭博合法化の大義名分とされることも多い。 スポーツを賭博の対象とする場合、競技者を買収してわざと勝負に負けさせ、自らの賭けた方に勝利させる、いわゆる八百長が起きることがあり、全世界で重大な問題となっている。八百長が起きるのはスポーツ賭博の合法非合法を問わないが、プロスポーツの前提である公正性を侵害する行為であるため、実行者は厳しく処罰されるのが通例である。またこの公正性への懸念が、既存のプロスポーツへのスポーツ賭博の導入に対する反対論の有力な根拠となっている。 32 か国を対象とした 2020 年の調査では、特定の国でのギャンブル活動の量が多いほど、その国の株式市場の価格がより変動しやすいことがわかった。 ギャンブルを行わないと日常生活に支障が出る人における依存症(精神疾患)であり、世界保健機関(WHO)では「ギャンブル障害(ギャンブリング障害)」「病的賭博」と言う名称を使用している。この疾患にかかった人をギャンブル依存症者と呼ぶ。 自己の生活基盤・価値観、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてでもギャンブルを続けてしまう、と言う進行性を伴う。 この疾患を克服するためには、心理療法、適切な専門職の介入、自助グループへの参加などの方法がある。また当事者に対し、「一生ギャンブルに手を出さない」「新しい生き方を学ぶ必要がある」と言うことを認識させることが必要とされている。それは、再びギャンブルに手を出せば元の依存状態になってしまうからである。 イギリスでは大人の監督下であることやメダルゲームなど賭け対象に制限はあるものの、子供が金を賭けてギャンブルを行うことが合法となっている。子供のギャンブルはイギリス流の休日の楽しみ方のひとつであり、大人としての責任ある行動を経験させるものだという言説もあるが、ギャンブル依存症の患者の中には子供の頃のギャンブル体験を発端に挙げる者も多い。また、ギャンブルが得意な子供はギャンブルでずっと勝ち続けることは自分にとって当然で、その報酬は正当な見返りである、という間違った幻想を抱くリスクがあるとも指摘される。 ギャンブルには働かずに金持ちになれる(不労所得)という誘惑があり、世界宗教を始めとして多くの宗教で戒められている。 イスラム教成立以前の中東では矢を使った籤(賭矢、マイスィル)でラクダの肉を賭けるギャンブルが盛んに行われていた。このほかに競馬やポロが広場で行われ、社交の場としても機能していたとされる。千夜一夜物語には、王達による金銭や奴隷をかけたシャトランジの勝負が描かれている。カードゲームは喫茶店などで行われていた。 イスラム教のクルアーン雌牛の章において、マイスィルは人の利益となる面もあるが悪影響の方が大きいという記述がある。当時は気前の良さを競うため法外な額(に相当する分量)が賭けられることもあったとされ、ムハンマドはこれを諌めたという説もある。また食卓の章にも酒、マイスィル、偶像、占い矢は悪魔の業であるという記述がある。 イスラム教が広まった後も賭博の是非についての記述があることから、違法な賭博は行われていたと推察されている。 現代のイスラム教国では国内での賭博は禁止されているが金銭を賭けない場合は見逃されており、一部の国や地域では競馬やラクダレースが純粋な競技として行われている。勝ち馬の予想を当てた場合は、払戻金ではなく、賞品や商品の引換券がもらえる。これは「賭博ではない」と言い逃れができるようにするための主催者の知恵である。なお、世俗化が進んだ地域ではギャンブルも行われている。 ギャンブルに反対する他の教会には、エホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、イグレシア・ニ・クリスト、およびメンバーズ・チャーチ・オブ・ゴッド・インターナショナルが含まれる。 賭博の起源としては、吉凶を偶然に託す占い、正邪の判断を神に託す裁判(神判)、そして神に捧げるための競技の3つが源流であると考えられている。賭博は自らの所有物や財産を賭して勝負をし、勝てば利益を得て相手の賭けたものを自らの私有物とすることによって成立するため、個々人が私有財産を所持するようになり、原初的な私有財産制が成立してはじめて開始されたと考えられている。 日本では、689年には持統天皇によって雙六(盤双六)賭博禁止令が出されたとの記述が日本書紀に存在し、以後頻繁に時の政権によって賭博禁止令は出されていた。『古事記』にも、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)が、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)に伊豆志八前大神(兵庫県豊岡市出石)の娘の伊豆志袁登売神(いずしおとめのかみ)との結婚の成否で賭けを申込み、兄弟の母神が賭けを申し出た秋山命を懲らしめる話がある。賭博禁止は明治政府もこれを継続した。1884年(明治17年)1月4日、賭博犯処分規則が定められた(太政官布告)。第二次世界大戦後には相次いで公営ギャンブルが認可され、隆盛を迎えた。一方でこれまで私的に行われていた伝統的な賭博は衰退し、私的賭博でもパチンコや麻雀といった新たなゲームが主流となった。 賭博、とくにサイコロ賭博の勝敗に関する考察は、どのような目がどのくらいの率で出てくるか、すなわち確率という考え方につながっていった。16世紀半ばにはイタリアのジェロラモ・カルダーノがサイコロの出目に関して初歩的な確率の計算を行い、17世紀にはサイコロ賭博に関する相談を受けたブレーズ・パスカルがピエール・ド・フェルマーと往復書簡を交わし、この中で理論としての確率論が誕生した。 ギャンブルをテーマにした映画。アクション映画の一種として扱われることがある。 ギャンブルをテーマにした漫画。福本伸行がギャンブル漫画の第一人者とされる。バトル・アクションの要素が取り込まれることがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "賭博(とばく、英: gambling、独: Glücksspiel、仏: jeu d'argent)とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、カタカナでは「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "賭博とは、金銭や品物などを賭けて勝負を争う遊戯のことである。金銭や品物などの財物を賭けて、(偶然性の要素が含まれる)勝負を行い、その勝負の結果によって、負けた方は賭けた財物を失い、勝った方は(なんらかの取り決めに基づいて)財物を得る、と言う仕組みの遊戯(ゲーム)の総称である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日常的に賭博を行う者や、賭博を特に好む者は「賭博師」や「ギャンブラー」、「博打打ち」などと呼ばれている。賭け事の遊戯(ゲーム)を主催している者を胴元と言う。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "賭博の大前提は、あらかじめ取り決め周知されている厳密なルールに従って勝負を行い、偶然もたらされた結果に従うことである。胴元(主催者)側が、自分に有利になるように、様々な詐術を用いて表向きのゲームとは違うことが起きるように細工をして行う賭博を、いかさま賭博と言う。いかさま賭博は厳密には賭博ではなく詐欺に当たる。よくある手法は、参加者に分からないようなかたちで、なんらかのトリック(技術や道具)を用い、相手を錯誤させ、表向きの確率や期待値(見掛けの確率や期待値)とは違うように、実際の確率及び期待値を改竄して行うことである。いかさま賭博を行う者を「いかさま師」や「ゴト師」などと言う。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "商業賭博の配当を決定する方式としては、あらかじめブックメーカーが倍率を決定しているブックメーカー方式や、興業主が全賭け金から一定割合を差し引き、残りの全額を勝ち投票券に分配するパリミュチュエル方式、ガラ馬券などに代表されるロッタリー方式などがある。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "公営競技、「野球賭博」「ルーレット」「バカラ」などは賭事であり、「賭け麻雀」「賭けゴルフ」「賭けポーカー」などは博戯である。「クラップス」のように、一つのゲームで賭事と博戯が混在する場合もある。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「富くじ」の場合、数字が選べないタイプは購入者が結果を予測することも出来なく、結果にも関与できないため賭事である。数字選択式では、公営競技と同様に結果を予測することは可能であるが同様に結果にも関与できないため賭事である。全ての日本の「宝くじ」として売られているものについては締め切り後には追加購入を含めくじの当選に関わる関与は一切出来ない。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "チェス、将棋、囲碁といった偶然の要素が無い二人零和有限確定完全情報ゲームの勝敗を予測することは賭事であるが、プレイヤー同士が自身の勝利に金銭をかけた場合は博戯となる。自身がプレイヤーとなるギャンブラーは真剣師とも呼ばれる。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "先秦時代の中国では囲碁と共に六博(博)というすごろくに類似したボードゲームが流行しており、博をプレイする(打つ)ことから「博打」と言う言葉が生まれた。よって「博打を打つ」「博打打ち」という言葉は本来二重表現であるが、「博打」が「賭博」の同義語として扱われるようになると、二重表現とはみなされなくなった。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さまざまな金融商品や相場にも、その賭博性が提起されることがある。金融商品の中でも、保険は娯楽としてのギャンブルと全く同様の技術で実現されている。保険の歴史は賭博から生まれた物であり、事故に遭遇するというギャンブルに金銭を賭けるもの、とされているからである(賭博の用語ではオッズと呼ばれる物は保険用語では「等級」と呼ばれる。医療保険においては病気のリスクの少ない若年層のオッズは高いが、年配者の場合はオッズは低く、逆に自動車保険においては事故率の高い若年層の方がオッズは低くなる。保険商品では「配当金」は固定のためオッズが低い、すなわち保険給付事由が発生する可能性が高いほど保険料は高くなり、その可能性が非常に高いと判断される場合は保険の契約自体ができない)。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "先物取引やオプション取引、外国為替相場、株式の購入など、通常であれば商品取引(相場)あるいは株式などのように、投資の範疇に含まれる行為のうち、手持ちの現金以上の金額を投じることのできる信用取引や、投機と呼ばれるハイリスク・ハイリターンな取引を、広い意味でのギャンブルに含むこともある。なお、日本では特定の株の上がり下がりを賭ける合百という直接的な賭博も行われていた。", "title": "大分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "世界的には歴史上、手品のはじまりといわれるCup and 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"公営競技で最も早く認められたものは競馬であり、戦前から馬券発行が公認されていた。第二次世界大戦後、第二次世界大戦中には戦費調達のために政府によって「勝札」と呼ばれる宝くじの発行が開始され、敗戦後は宝くじと名を変えて大々的に行われるようになった。この後、1954年に政府の宝くじ発行は中止され、都道府県や政令指定都市が宝くじ発行の主体となった。1948年から1951年にかけて競艇、競輪、オートレースが相次いで公営競技化された。賭博と同様の技術である保険についても規定が有り保険業法で定められており、販売には制限がある。", "title": "規制" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本国内において麻雀は賭け事として行われることもあるが、その場で消費可能な飲食物や食事代金の負担は「一時の娯楽に供するもの」として賭博とみなされないこともある。", "title": "規制" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "賭博規制を緩和する国もある。一例として、1992年にスポーツ賭博を禁止したアメリカにおいて、2018年に最高裁でこの禁止法の違憲判決が出され、スポーツ賭博の解禁を認めたことなどがあげられる。しかしアメリカのプロスポーツ界のほとんどがこの判決に異議を唱えたように、賭博解禁には強い反対の声が上がる場合が多い。", "title": "規制" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "各国において強い規制がかけられている一方で、賭博を楽しむ人々は全世界に存在し、経済的にも大きな存在となっている。2009年には全世界の合法的な商業賭博の総売上は3350億ドルに達した。このうち規模の大きなものは宝くじなどのくじ類と、カジノやゲームマシン、ビンゴ等である。2015年には、オンラインカジノも含む全世界のカジノの売り上げは1828億ドルに達していた。こうした賭博の利益の源泉は、胴元が賭博の売り上げの中から一定の割合で控除する金銭、いわゆるテラ銭である。この控除金額は賭博や地域によって異なっており、一般的にカジノゲームでは2%未満から5%、それぞれ平成20年度で日本の公営競技が25.2%、サッカーくじが50.4%、宝くじが54.3%となっている。宝くじの控除金額は世界的に見ると50%前後が多い。宝くじは古くから公共の利益のために目的税的な利用をされることが多く、国や州などの政府が主体となって販売され、その重要な財源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "世界には、アメリカ・ネバダ州のラスベガスのように、賭博を合法化して観光資源の一つとすることで世界中から観光客を集めている都市もある。カジノ事業に乗り出す地域は増加しており、とくに2010年に始まったシンガポールのカジノが大成功を収めたことでこの流れはアジアにおいて加速した。日本でも2016年12月15日に統合型リゾートの設置を目的とした「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律」(IR推進法)が成立した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "カジノの存在する主な都市は、以下のようになっている。この中でも、古くからカジノを中心として栄えたラスベガス、2002年に外国資本にカジノ経営が開放された後に中国大陸の経済成長に伴って急成長し、2013年にはラスベガスの7倍の売り上げを誇るようになったマカオ、2010年のカジノ開設後急速に成長して2013年にはラスベガスと同程度の売り上げとなったシンガポールの3都市が特に規模としては大きい。このほかにも多くの国にカジノは存在し、約140カ国でカジノは合法化されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "オーストラリアでは、市中のパブやクラブにスロットマシンが置かれている。店に出入りできる年齢であれば気軽にギャンブルができる環境にあったが、2020年3月23日には、新型コロナウイルスの感染拡大によりパブやクラブが一時閉鎖され、ギャンブルができる環境が失われた。ギャンブル問題を啓発する団体は、閉鎖された後一か月間に少なくとも10億豪ドル(約690億円)がスロットマシンにつぎ込まれずに済んだこと、それら金額が食卓の食べ物、医療費や光熱費、家賃、住宅ローンの支払いに充てられることが可能になったこと、ギャンブル依存症なども緩和されたことなどの効果を指摘した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "賭博・ギャンブルは、人の射倖心をくすぐり、時に中毒的な依存状態を招き、破産や人格崩壊に至り、果てには自殺、殺人に及ぶ場合もある。賭博の問題は人間の歴史が始まった頃から認識されており、「マハーバーラタ」や「千夜一夜物語」など古代の物語に、賭けに熱中するあまり、全財産を失ったりイカサマではめられるというトラブルも描かれている。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、賭博はいくら多額の金が賭けられても、胴元と参加者、あるいは参加者同士の間でその金が行き来するに過ぎず、経済生産が生じないため、そのような非生産的な行為に人々のエネルギーが費やされてしまうと、生産的な行為を阻害する可能性があるとの主張も存在する。ただしこれに関しては、そもそも賭博はスキーやテレビなどと同じく娯楽に属しており、これらと同様に様々な効用を生み出しているため非生産的な活動とは見なせないとの反論も存在する。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "違法賭博が暴力団や犯罪組織などの反社会的勢力の資金源になるなど、社会問題も多く内包する。ただしこれに関しては、当該賭博を合法化し法規制の下に置くことで金の流れを透明化し、反社会的集団との関係を断ち切ることが可能であり、これが賭博合法化の大義名分とされることも多い。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スポーツを賭博の対象とする場合、競技者を買収してわざと勝負に負けさせ、自らの賭けた方に勝利させる、いわゆる八百長が起きることがあり、全世界で重大な問題となっている。八百長が起きるのはスポーツ賭博の合法非合法を問わないが、プロスポーツの前提である公正性を侵害する行為であるため、実行者は厳しく処罰されるのが通例である。またこの公正性への懸念が、既存のプロスポーツへのスポーツ賭博の導入に対する反対論の有力な根拠となっている。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "32 か国を対象とした 2020 年の調査では、特定の国でのギャンブル活動の量が多いほど、その国の株式市場の価格がより変動しやすいことがわかった。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ギャンブルを行わないと日常生活に支障が出る人における依存症(精神疾患)であり、世界保健機関(WHO)では「ギャンブル障害(ギャンブリング障害)」「病的賭博」と言う名称を使用している。この疾患にかかった人をギャンブル依存症者と呼ぶ。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "自己の生活基盤・価値観、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてでもギャンブルを続けてしまう、と言う進行性を伴う。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この疾患を克服するためには、心理療法、適切な専門職の介入、自助グループへの参加などの方法がある。また当事者に対し、「一生ギャンブルに手を出さない」「新しい生き方を学ぶ必要がある」と言うことを認識させることが必要とされている。それは、再びギャンブルに手を出せば元の依存状態になってしまうからである。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イギリスでは大人の監督下であることやメダルゲームなど賭け対象に制限はあるものの、子供が金を賭けてギャンブルを行うことが合法となっている。子供のギャンブルはイギリス流の休日の楽しみ方のひとつであり、大人としての責任ある行動を経験させるものだという言説もあるが、ギャンブル依存症の患者の中には子供の頃のギャンブル体験を発端に挙げる者も多い。また、ギャンブルが得意な子供はギャンブルでずっと勝ち続けることは自分にとって当然で、その報酬は正当な見返りである、という間違った幻想を抱くリスクがあるとも指摘される。", "title": "賭博の問題点" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ギャンブルには働かずに金持ちになれる(不労所得)という誘惑があり、世界宗教を始めとして多くの宗教で戒められている。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イスラム教成立以前の中東では矢を使った籤(賭矢、マイスィル)でラクダの肉を賭けるギャンブルが盛んに行われていた。このほかに競馬やポロが広場で行われ、社交の場としても機能していたとされる。千夜一夜物語には、王達による金銭や奴隷をかけたシャトランジの勝負が描かれている。カードゲームは喫茶店などで行われていた。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "イスラム教のクルアーン雌牛の章において、マイスィルは人の利益となる面もあるが悪影響の方が大きいという記述がある。当時は気前の良さを競うため法外な額(に相当する分量)が賭けられることもあったとされ、ムハンマドはこれを諌めたという説もある。また食卓の章にも酒、マイスィル、偶像、占い矢は悪魔の業であるという記述がある。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イスラム教が広まった後も賭博の是非についての記述があることから、違法な賭博は行われていたと推察されている。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現代のイスラム教国では国内での賭博は禁止されているが金銭を賭けない場合は見逃されており、一部の国や地域では競馬やラクダレースが純粋な競技として行われている。勝ち馬の予想を当てた場合は、払戻金ではなく、賞品や商品の引換券がもらえる。これは「賭博ではない」と言い逃れができるようにするための主催者の知恵である。なお、世俗化が進んだ地域ではギャンブルも行われている。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ギャンブルに反対する他の教会には、エホバの証人、末日聖徒イエス・キリスト教会、イグレシア・ニ・クリスト、およびメンバーズ・チャーチ・オブ・ゴッド・インターナショナルが含まれる。", "title": "宗教界での賭博に関する見解" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "賭博の起源としては、吉凶を偶然に託す占い、正邪の判断を神に託す裁判(神判)、そして神に捧げるための競技の3つが源流であると考えられている。賭博は自らの所有物や財産を賭して勝負をし、勝てば利益を得て相手の賭けたものを自らの私有物とすることによって成立するため、個々人が私有財産を所持するようになり、原初的な私有財産制が成立してはじめて開始されたと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本では、689年には持統天皇によって雙六(盤双六)賭博禁止令が出されたとの記述が日本書紀に存在し、以後頻繁に時の政権によって賭博禁止令は出されていた。『古事記』にも、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)が、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)に伊豆志八前大神(兵庫県豊岡市出石)の娘の伊豆志袁登売神(いずしおとめのかみ)との結婚の成否で賭けを申込み、兄弟の母神が賭けを申し出た秋山命を懲らしめる話がある。賭博禁止は明治政府もこれを継続した。1884年(明治17年)1月4日、賭博犯処分規則が定められた(太政官布告)。第二次世界大戦後には相次いで公営ギャンブルが認可され、隆盛を迎えた。一方でこれまで私的に行われていた伝統的な賭博は衰退し、私的賭博でもパチンコや麻雀といった新たなゲームが主流となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "賭博、とくにサイコロ賭博の勝敗に関する考察は、どのような目がどのくらいの率で出てくるか、すなわち確率という考え方につながっていった。16世紀半ばにはイタリアのジェロラモ・カルダーノがサイコロの出目に関して初歩的な確率の計算を行い、17世紀にはサイコロ賭博に関する相談を受けたブレーズ・パスカルがピエール・ド・フェルマーと往復書簡を交わし、この中で理論としての確率論が誕生した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ギャンブルをテーマにした映画。アクション映画の一種として扱われることがある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ギャンブルをテーマにした漫画。福本伸行がギャンブル漫画の第一人者とされる。バトル・アクションの要素が取り込まれることがある。", "title": "関連作品" } ]
賭博とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと。 英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、カタカナでは「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。
{{Redirect|賭け|映画|賭け (映画)}} {{Redirect|ギャンブル}} [[File:The_Cardsharps.jpg|thumb|right|240px|[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラバッジオ]]画『[[トランプ詐欺師]]』]] [[File:A_photo_of_a_gambling_stand_in_Paris.jpg|thumb|right|240px|[[パリ]]の路上賭博]] [[File:Roulette in Las Vegas.jpg|thumb|right|240px|ラスベガスの[[カジノ]]での[[ルーレット]]([[ラスベガス]]、[[アメリカ合衆国|米国]])。]] [[File:US Navy 090620-N-2798F-033 Sailors assigned to the aircraft carrier USS Harry S. Truman (CVN 75) and Carrier Air Wing (CVW) 3 compete in a Texas Hold 'Em Poker tournament aboard Harry S. Truman.jpg|thumb|[[ポーカー]]のゲーム。]] [[File:Betting_on_the_Favorite.jpg|thumb|240px|[[競馬]]で金を賭ける人々([[:en:Harper's Weekly|Harper's Weekly]] 1870年10月号掲載)]] {{読み仮名_ruby不使用|'''賭博'''|とばく|{{lang-en-short|links=no|gambling}}、{{lang-de-short|links=no|Glücksspiel}}、{{lang-fr-short|links=no|jeu d'argent}}}}とは、金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯のこと<ref name="koujien">広辞苑第六版「賭博」</ref>。 英語ではgamblingと呼ぶのが普通であるが、[[片仮名|カタカナ]]では「ギャンブル」と表記されることが多い。gambleは娯楽としての賭博も含む広い考え方であり、危険性の高い冒険や意味のある危険、潜在性のある利益に手を付けること等という意味がある。 == 概説 == 賭博とは、[[貨幣|金銭]]や[[商品|品物]]などを賭けて勝負を争う遊戯のことである<ref name="koujien" />。金銭や品物などの財物を賭けて、([[偶然|偶然性]]の要素が含まれる)[[勝負]]を行い、その勝負の結果によって、負けた方は賭けた財物を失い、勝った方は(なんらかの取り決めに基づいて)財物を得る、と言う仕組みの遊戯(ゲーム)の総称である。 日常的に賭博を行う者や、賭博を特に好む者は「[[賭博師]]」や「[[ギャンブラー]]」、「[[博徒|博打打ち]]」などと呼ばれている。賭け事の遊戯(ゲーム)を主催している者を[[胴元]]と言う。 賭博の大前提は、あらかじめ取り決め周知されている厳密なルールに従って勝負を行い、偶然もたらされた結果に従うことである<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p64-66 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>。胴元(主催者)側が、自分に有利になるように、様々な詐術を用いて表向きのゲームとは違うことが起きるように細工をして行う賭博を、'''[[いかさま賭博]]'''と言う。いかさま賭博は厳密には賭博ではなく[[詐欺]]に当たる<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p45 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>。よくある手法は、参加者に分からないようなかたちで、なんらかの[[トリック]](技術や道具)を用い、相手を[[錯誤]]させ、表向きの[[確率]]や[[期待値]](見掛けの確率や期待値)とは違うように、実際の確率及び期待値を改竄して行うことである。いかさま賭博を行う者を「[[いかさま賭博|いかさま師]]」や「[[ゴト|ゴト師]]」などと言う。 商業賭博の[[配当]]を決定する方式としては、あらかじめブックメーカーが倍率を決定している[[ブックメーカー方式]]や、興業主が全賭け金から一定割合を差し引き、残りの全額を勝ち投票券に分配する[[パリミュチュエル方式]]<ref>「カジノ産業の本質 社会経済的コストと可能性の分析」p94 ダグラス・M・ウォーカー 佐々木一彰・仁木一彦監訳 山田美明・田畑あや子・岡本由香子訳 日経BP社 2015年6月15日第1版第1刷発行</ref>、[[ガラ馬券]]などに代表されるロッタリー方式などがある。日本の公営競技はパリミュチュエル方式を採用している。 ==大分類== 賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である<ref name="oya">大谷實『新版刑法講義各論[追補版]』(成文堂、2002年)533頁</ref>。 賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである<ref name="oya" />。 *賭事(とじ) - 勝負事の結果に参加者が関与できないもの *博戯 - 勝負事の結果に参加者が関与できるもの [[公営競技]]、「[[野球]]賭博」「[[ルーレット]]」「[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]」などは賭事であり、「賭け[[麻雀]]」「賭け[[ゴルフ]]」「賭け[[ポーカー]]」などは博戯である。「[[クラップス]]」のように、一つのゲームで賭事と博戯が混在<ref group="注釈">[[サイコロ]]を投げてその目の出方に掛ける競技であるが、サイコロを投げる役であるシューターがプレイヤーに回り、シューターも他の役と同様に掛けることが出来るため、賭事と博戯が混在している。</ref>する場合もある。 「[[富くじ]]」の場合、数字が選べないタイプは購入者が結果を予測することも出来なく、結果にも関与できないため賭事である。数字選択式では、公営競技と同様に結果を予測することは可能であるが同様に結果にも関与できないため賭事である。全ての日本の「[[宝くじ]]」として売られているものについては締め切り後には追加購入を含めくじの当選に関わる関与は一切出来ない。 [[チェス]]、[[将棋]]、[[囲碁]]といった偶然の要素が無い[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]の勝敗を予測することは賭事であるが、プレイヤー同士が自身の勝利に金銭をかけた場合は博戯となる。自身がプレイヤーとなるギャンブラーは[[真剣師]]とも呼ばれる。 [[先秦]]時代の中国では囲碁と共に[[六博]](博)というすごろくに類似した[[ボードゲーム]]が流行しており、博をプレイする(打つ)ことから「博打」と言う言葉が生まれた<ref>[[呉智英]]『言葉につける薬』([[双葉社]][[1994年]] {{ISBN2|4-575-28339-8}} )93頁「ばくち打ちは二度ばくちを打つ」より</ref>。よって「博打を打つ」「博打打ち」という言葉は本来[[重言|二重表現]]であるが、「博打」が「賭博」の同義語として扱われるようになると、二重表現とはみなされなくなった。 さまざまな[[金融商品]]や[[相場]]にも、その賭博性が提起されることがある。金融商品の中でも、[[保険]]は娯楽としてのギャンブルと全く同様の技術で実現されている。保険の歴史は賭博から生まれた物であり、事故に遭遇するというギャンブルに金銭を賭けるもの、とされているからである(賭博の用語では[[オッズ]]と呼ばれる物は保険用語では「等級」と呼ばれる。[[医療保険]]においては病気のリスクの少ない若年層のオッズは高いが、年配者の場合はオッズは低く、逆に[[自動車保険]]においては事故率の高い若年層の方がオッズは低くなる。保険商品では「配当金」は固定のためオッズが低い、すなわち保険給付事由が発生する可能性が高いほど保険料は高くなり、その可能性が非常に高いと判断される場合は保険の契約自体ができない)。 [[先物取引]]や[[オプション取引]]、[[為替レート|外国為替相場]]、[[株式]]の購入など、通常であれば[[取引|商品取引]](相場)あるいは株式などのように、[[投資]]の範疇に含まれる行為のうち、手持ちの現金以上の金額を投じることのできる[[信用取引]]や、[[投機]]と呼ばれるハイリスク・ハイリターンな取引<ref group="注釈">投資商品の中でも、当たれば巨額の利益が得られるが、相場の値下がりなどによる投資額の損失リスクが高いもの。</ref>を、広い意味でのギャンブルに含むこともある。なお、日本では特定の株の上がり下がりを賭ける[[合百]]という直接的な賭博も行われていた<ref>「合百賭博に手入れ 女もまじえた一味二十二名検挙」『日本経済新聞』昭和24年6月23日2面</ref>。 世界的には歴史上、[[奇術|手品]]のはじまりといわれる[[:en:Cup and balls|Cup and balls]](カップアンドボール)が賭け事の対象として[[ヨーロッパ]]、[[中東]]、[[地中海]]地方、遠くは[[中国]]まで広がったが、行う者が[[マジシャン (奇術)|手品師]]と同義であることから、いわゆる「いかさま賭博」とも言える。 == 世界の賭博 == 賭博は世界で広く行われており、各地に多種多様な賭博が存在する。[[カジノ]]開設が認められている国では、カジノ内でさまざまな賭博が行われている。また[[イギリス]]や[[オーストラリア]]、[[ドイツ]]等には[[ブックメーカー方式|ブックメーカー]](bookmaker)なども存在し、殆どあらゆる事をギャンブルの対象にしている。 === カジノゲーム === カジノで行われる[[カジノゲーム]]は、大きくテーブルゲーム・ゲームマシン・その他の3種類に分かれる。テーブルゲームはさらに、[[ブラックジャック]]や[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]、[[ポーカー]]などのように[[トランプ]]を用いるもの([[カードゲーム]])、[[クラップス]]や[[大小 (賭博)|大小]]のように[[サイコロ]](ダイス)を用いるもの、[[ルーレット]]や[[ファンタン]]、[[牌九]]のようにどちらにも属さないものに分けられる。ゲームマシンとしては[[スロットマシン]]などがある。[[キノ]]などのテーブルゲーム、ゲームマシンのいずれにも属さないものはその他に分類される。 ほとんどのカジノゲームは「カジノ」対「客」という形でゲームを行う。例えばルーレットでは、客が勝てばカジノ側がチップを支払う。一方でポーカーの場合は客同士で勝敗を決めるゲームで有り、テーブルでの敗者が勝者にチップを支払う。カジノ側はゲームの進行やサービスを行い、ゲーム毎の手数料を得るシステムである。 === レース・競技 === 動物や人間を競わせ、その勝敗を賭博の対象とすることは古来から広く行われている。 動物を対象とした賭博としては[[闘犬]]、[[闘鶏]]、[[闘牛]]、[[昆虫相撲]]など、動物同士を戦わせ、勝敗を賭ける賭博がある。家畜化されていない動物を用いる例もあり、[[ニワトリ]]が[[家畜化]]されたのは本来食用ではなく、[[祭#祭祀|祭祀]]用、または[[闘鶏]]に用いるためだったと考えられている<ref>「ニワトリの動物学」(アニマルサイエンス5)p20 岡本新 東京大学出版会 2001年11月6日初版</ref>。中国では[[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]期以降、コオロギ同士を戦わせる[[闘蟋]]が盛んとなった。多数の動物をコースで走らせ、勝敗を予測する賭博として[[競馬]]、ラクダレース、[[ドッグレース]]などがあり、その日の全レースや特定の順位まで着順を予想するなど難易度を上げた掛け方もある。特に競馬は馬の飼育や品種改良など、馬の文化に大きく関わった。また[[ブックメーカー]]、[[競馬新聞]]、[[馬券予想会社]]など関連産業も発展した。 [[スポーツ]]の結果を賭博の対象とすることも広く行われており、2009年には、世界の商業賭博総額の内、[[競馬]]が7%、[[スポーツ振興くじ|スポーツくじ]]が5%を占めていた<ref>「スポーツの世界地図」p104-105 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日</ref>。ただしスポーツ賭博に対する態度は国によってさまざまであり、さらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と、一切禁じている競技とが存在する。日本では競馬([[中央競馬]]と[[地方競馬]])のほか、[[モーターボート]](競艇)、[[自転車]](競輪)、[[オートバイ]](オートレース)が[[公営競技]]として認められており、また2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。日本国外では、[[ハイアライ]]なども賭博スポーツとして認可されている国が存在する。 === その他の賭博 === 日本古来の賭博としては[[手本引]]や[[丁半]]賭博などがある。 [[宝くじ]]も賭博の一種であり、世界各国で行われている<ref name="名前なし-1">{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000088278.pdf 「宝くじ問題検討会報告書 平成22年11月 宝くじ問題検討会」]}} 日本国総務省 2020年2月19日閲覧</ref>。 ==規制== 世界のほとんどの国家において、賭博行為には何らかの規制がかかっており、完全に禁止している国家も存在する。宝くじは古くから政府や公共事業の重要な財源となる一方、道徳的な問題や絶えない不正から問題視されることも多く、19世紀には一度ヨーロッパのかなりの地域で禁止され、再び解禁されるのは主に第二次世界大戦後のことだった<ref>「宝くじの文化史 ギャンブルが変えた世界史」p16-17 ゲイリー・ヒックス著 高橋知子訳 原書房 2011年11月10日第1刷</ref>。カジノが開設されている国家においても、例えば[[ネパール]]や[[カンボジア]]のように自国民の利用を禁止し外国人観光客のみが利用できる国家や、韓国のように1カ所を除き外国人専用としている国家、シンガポールのように高額な入場料を設定し[[失業|失業者]]の入場を禁じている国家など、さまざまな規制を設けて利用者層を制限する国家も多い<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2923941?cx_part=search 「アジア各地に外国人専用カジノ、恩恵と損失の狭間で政府苦肉の策」] AFPBB 2013年1月29日 2020年2月18日閲覧</ref>。韓国のように国民に対して外国での賭博を禁じる国もあり、マカオなどにある立地国では合法な外国人向けカジノでの賭博が罪となる<ref>{{Cite web|和書|title=高級クラブ嬢から借金、税金滞納、闇カジノでバカラ賭博、そして…イチローとWBC決勝で名勝負を演じた林昌勇(46)の転落人生 |url=https://bunshun.jp/articles/-/60842 |website=文春オンライン |access-date=2023-02-22 |first=慎 |last=武宏}}</ref>。 賭博を禁止しているイスラム教の影響が大きい地域では、国民が外国で賭博を行うこと以外にも、賭博と同様の技術で実現されている[[保険]]の提供を禁止している場合があり、[[タカフル]]と呼ばれる[[共済]]のような方法で保険サービスを実現している。 ===日本=== [[File:Toba (Japanese illegal casino) 02.jpg|thumb|right|240px|賭場で賭博。]] {{main|[[賭博及び富くじに関する罪]]}} 日本においては刑法185条から187条において[[賭博及び富くじに関する罪]]が規定されており、違反者には刑罰が科せられる。一方で、[[競馬]]、[[競艇]]、[[競輪]]、[[オートレース]]といった[[公営競技]]や、[[宝くじ]]、[[スポーツ振興くじ]]に関しては[[特別法]]によって公営での[[ギャンブル]]が認められている。 {{main|[[賭博及び富くじに関する罪#違法性阻却]]}} 公営競技で最も早く認められたものは競馬であり、戦前から馬券発行が公認されていた<ref>「公営競技の文化経済学」(文化経済学ライブラリー1)p12-13 佐々木晃彦 芙蓉書房出版 1999年3月31日第1刷</ref>。第二次世界大戦後、第二次世界大戦中には戦費調達のために政府によって「勝札」と呼ばれる宝くじの発行が開始され、敗戦後は宝くじと名を変えて大々的に行われるようになった<ref>「賭博3」(ものと人間の文化史40-3)p337-338 増川宏一 法政大学出版局 1983年10月5日初版第1刷発行</ref>。この後、1954年に政府の宝くじ発行は中止され、[[都道府県]]や[[政令指定都市]]が宝くじ発行の主体となった<ref>{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000088278.pdf 「宝くじ問題検討会報告書 平成22年11月 宝くじ問題検討会」]}} 日本国総務省 2020年2月18日閲覧</ref>。1948年から1951年にかけて競艇<ref>「公営競技の文化経済学」(文化経済学ライブラリー1)p21 佐々木晃彦 芙蓉書房出版 1999年3月31日第1刷</ref>、競輪<ref>「公営競技の文化経済学」(文化経済学ライブラリー1)p28 佐々木晃彦 芙蓉書房出版 1999年3月31日第1刷</ref>、オートレース<ref>「公営競技の文化経済学」(文化経済学ライブラリー1)p34 佐々木晃彦 芙蓉書房出版 1999年3月31日第1刷</ref>が相次いで公営競技化された。賭博と同様の技術である[[保険]]についても規定が有り[[保険業法]]で定められており、販売には制限がある。 日本国内において[[麻雀]]は賭け事として行われることもあるが、その場で消費可能な飲食物や食事代金の負担は「一時の娯楽に供するもの」として賭博とみなされないこともある。 ===その他=== 賭博規制を緩和する国もある。一例として、1992年にスポーツ賭博を禁止した<ref name="名前なし-2">「スポーツの世界地図」p104 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日</ref>アメリカにおいて、2018年に最高裁でこの禁止法の違憲判決が出され、スポーツ賭博の解禁を認めたことなどがあげられる<ref name="名前なし-3">[https://www.afpbb.com/articles/-/3174606 「米、全州でスポーツ賭博解禁へ 最高裁が判断」] AFPBB 2018年5月15日 2020年2月18日閲覧</ref>。しかしアメリカのプロスポーツ界のほとんどがこの判決に異議を唱えた<ref name="名前なし-3"/>ように、賭博解禁には強い反対の声が上がる場合が多い。 == 経済 == 各国において強い規制がかけられている一方で、賭博を楽しむ人々は全世界に存在し、経済的にも大きな存在となっている。2009年には全世界の合法的な商業賭博の総売上は3350億ドルに達した<ref name="名前なし-2"/>。このうち規模の大きなものは宝くじなどのくじ類と、カジノやゲームマシン、ビンゴ等である。2015年には、オンラインカジノも含む全世界のカジノの売り上げは1828億ドルに達していた<ref>「本物のカジノへ行こう!」p88-89 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref>。こうした賭博の利益の源泉は、[[胴元]]が賭博の売り上げの中から一定の割合で控除する金銭、いわゆる[[寺銭|テラ銭]]である。この控除金額は賭博や地域によって異なっており、一般的にカジノゲームでは2%未満から5%<ref>「本物のカジノへ行こう!」p92-94 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref>、それぞれ平成20年度で日本の公営競技が25.2%、サッカーくじが50.4%、宝くじが54.3%となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000084191.pdf 「宝くじ・公営競技・サッカーくじの実効還元率 資料3」]}} 日本国総務省 2020年2月18日閲覧</ref>。宝くじの控除金額は世界的に見ると50%前後が多い<ref name="名前なし-1"/>。宝くじは古くから公共の利益のために目的税的な利用をされることが多く<ref>「宝くじの文化史 ギャンブルが変えた世界史」p13-14 ゲイリー・ヒックス著 高橋知子訳 原書房 2011年11月10日第1刷</ref>、国や州などの政府が主体となって販売され、その重要な財源となっている<ref name="名前なし-1"/>。 世界には、アメリカ・[[ネバダ州]]の[[ラスベガス]]のように、賭博を合法化して観光資源の一つとすることで世界中から観光客を集めている都市もある。カジノ事業に乗り出す地域は増加しており、とくに2010年に始まった[[シンガポール]]のカジノが大成功を収めたことでこの流れは[[アジア]]において加速した<ref name="名前なし-4">「カジノ産業の本質 社会経済的コストと可能性の分析」p20 ダグラス・M・ウォーカー 佐々木一彰・仁木一彦監訳 山田美明・田畑あや子・岡本由香子訳 日経BP社 2015年6月15日第1版第1刷発行</ref>。日本でも[[2016年]]12月15日に[[統合型リゾート]]の設置を目的とした「[[特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律]]」([[特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律|IR推進法]])が成立した<ref>[https://www.sankei.com/article/20161215-UETSDYR6VZIVTKF4ZSLNAGST3U/ 「【IR法成立】「観光立国の実現の第一歩」高まる経済効果への期待」] 産経新聞 2016年12月15日 2019年12月22日閲覧</ref>。 カジノの存在する主な都市は、以下のようになっている。この中でも、古くからカジノを中心として栄えたラスベガス<ref name="名前なし-5">「本物のカジノへ行こう!」p90 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref>、2002年に外国資本にカジノ経営が開放された<ref name=gscs.13.1_26>増子保志, 「[https://doi.org/10.11424/gscs.13.1_26 マカオカジノ産業における構造変化 -転換点としての対外開放-]」 日本国際情報学会 『国際情報研究』13巻 1号 2016年12月25日発行, p.26-36, 2020年2月18日閲覧。</ref>後に中国大陸の経済成長に伴って急成長し、2013年にはラスベガスの7倍の売り上げを誇るようになったマカオ、2010年のカジノ開設後急速に成長して2013年にはラスベガスと同程度の売り上げとなったシンガポールの3都市が特に規模としては大きい<ref name="名前なし-5"/>。このほかにも多くの国にカジノは存在し、約140カ国でカジノは合法化されている<ref>「本物のカジノへ行こう!」p84 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref>。 {| class="wikitable sortable" |+ |- ! 合法化 ! 建設 ! 都市 ! 場所 ! 地図 |- | 1931年<ref name="名前なし-6">「カジノ産業の本質 社会経済的コストと可能性の分析」p19 ダグラス・M・ウォーカー 佐々木一彰・仁木一彦監訳 山田美明・田畑あや子・岡本由香子訳 日経BP社 2015年6月15日第1版第1刷発行</ref> | 1931年<ref name="名前なし-6"/> | [[ラスベガス]] | {{USA}}・[[ネバダ州]][[クラーク郡 (ネバダ州)|クラーク郡]] | {{ウィキ座標|36|11|39|N|115|13|19|W|region:US|地図|name=ラスベガス}} |- | 1933年 | | [[カンピョーネ・ディターリア]] | {{ITA}}・[[ロンバルディア州]][[コモ県]] | {{ウィキ座標|45|58|15|N|8|58|15|E|region:IT|地図|name=カンピョーネ・ディターリア}} |- | 1976年<ref name="名前なし-6"/> | 1978年<ref name="名前なし-6"/> | [[アトランティックシティ]] | {{USA}}・[[ニュージャージー州]][[アトランティック郡 (ニュージャージー州)|アトランティック郡]] | {{ウィキ座標|39|22|38|N|74|27|04|W|region:US|地図|name=アトランティックシティ}} |- | 1847年<ref name=gscs.13.1_26 /> | | [[マカオ]] | {{CHN}}・{{MAC}} | {{ウィキ座標|22|10|00|N|113|33|00|E|region:MO_type:city|地図|name=マカオ}} |- | 2005年<ref name="名前なし-4"/> | 2010年<ref>「本物のカジノへ行こう!」p20 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref> | [[シンガポール]] |{{SIN}} | |- |- | | | [[モンテカルロ]] | {{MCO}} | {{ウィキ座標|43|44|23|N|7|25|38|E|region:MC|地図|name=モンテカルロ}} |- |1962年<ref name="名前なし-7">{{PDFlink|[https://www.jtb.or.jp/wp-content/uploads/2015/01/bunka224_P61-65.pdf 「韓国カジノ産業の動向」p62 柳匡勳 (観光文化224号 January 2015)]}} 公益財団法人日本交通公社 2020年2月18日閲覧</ref> |1968年<ref name="名前なし-7"/> | [[ウォーカーヒル]] | {{KOR}}・[[ソウル特別市]][[広津区]] | {{ウィキ座標|37|33|18.8|N|127|6|39.2|E|region:KR|地図|name=ウォーカーヒル}} |- |} ===ギャンブル禁止の経済効果=== [[オーストラリア]]では、市中の[[パブ]]や[[クラブ]]に[[スロットマシン]]が置かれている。店に出入りできる年齢であれば気軽にギャンブルができる環境にあったが、[[2020年]][[3月23日]]には、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大によりパブやクラブが一時閉鎖され、ギャンブルができる環境が失われた。ギャンブル問題を啓発する団体は、閉鎖された後一か月間に少なくとも10億豪ドル(約690億円)がスロットマシンにつぎ込まれずに済んだこと、それら金額が食卓の食べ物、医療費や光熱費、家賃、住宅ローンの支払いに充てられることが可能になったこと、ギャンブル依存症なども緩和されたことなどの効果を指摘した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-28 |url=https://web.archive.org/web/20200428051530/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042700608&g=int |title=スロット禁止「思わぬ効果」 コロナ感染防止、依存症が緩和―オーストラリア |publisher=時事通信社 |accessdate=2020-04-29}}</ref>。 == 賭博の問題点 == [[File:Casino lisboa.JPG|thumb|250px|[[マカオ]]のカジノ・リスボアの夜景]] 賭博・ギャンブルは、人の[[射幸心|射倖心]]をくすぐり、時に[[中毒]]的な[[依存]]状態を招き、[[破産]]や人格崩壊に至り、果てには[[自殺]]、[[殺人]]に及ぶ場合もある。賭博の問題は人間の歴史が始まった頃から認識されており、「[[マハーバーラタ]]」や「[[千夜一夜物語]]」など古代の物語に、賭けに熱中するあまり、全財産を失ったり[[イカサマ]]ではめられるというトラブルも描かれている。 また、賭博はいくら多額の金が賭けられても、胴元と参加者、あるいは参加者同士の間でその金が行き来するに過ぎず、[[経済生産]]が生じないため、そのような非生産的な行為に人々のエネルギーが費やされてしまうと、生産的な行為を阻害する可能性があるとの主張も存在する。ただしこれに関しては、そもそも賭博は[[スキー]]や[[テレビ]]などと同じく[[エンターテインメント|娯楽]]に属しており、これらと同様に様々な効用を生み出しているため非生産的な活動とは見なせないとの反論も存在する<ref>「カジノ産業の本質 社会経済的コストと可能性の分析」p238-245 ダグラス・M・ウォーカー 佐々木一彰・仁木一彦監訳 山田美明・田畑あや子・岡本由香子訳 日経BP社 2015年6月15日第1版第1刷発行</ref>。 違法賭博が[[暴力団]]や[[組織犯罪#概要|犯罪組織]]などの[[反社会的勢力]]の資金源になるなど、社会問題も多く内包する。ただしこれに関しては、当該賭博を合法化し法規制の下に置くことで金の流れを透明化し、反社会的集団との関係を断ち切ることが可能であり、これが賭博合法化の大義名分とされることも多い<ref>「本物のカジノへ行こう!」p53 松井政就 文藝春秋 2016年3月20日第1刷</ref>。 スポーツを賭博の対象とする場合、競技者を買収してわざと勝負に負けさせ、自らの賭けた方に勝利させる、いわゆる[[八百長]]が起きることがあり、全世界で重大な問題となっている<ref name="名前なし-2"/>。八百長が起きるのはスポーツ賭博の合法非合法を問わないが、プロスポーツの前提である公正性を侵害する行為であるため、実行者は厳しく処罰されるのが通例である。またこの公正性への懸念が、既存のプロスポーツへのスポーツ賭博の導入に対する反対論の有力な根拠となっている<ref name="名前なし-3"/><ref>[https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2018/05/post-1003.php 「スポーツ賭博解禁に揺れるアメリカ、野球界には根強い抵抗」] 冷泉彰彦 ニューズウィーク日本版 2018年05月31日 2020年2月18日閲覧</ref>。 32 か国を対象とした 2020 年の調査では、特定の国でのギャンブル活動の量が多いほど、その国の株式市場の価格がより変動しやすいことがわかった<ref>{{Cite journal|last1=Blau|first1=Benjamin M.|last2=Whitby|first2=Ryan J.|date=2020-09-01|title=Gambling activity and stock price volatility: A cross-country analysis|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2214635019302965|journal=Journal of Behavioral and Experimental Finance|language=en|volume=27|pages=100338|doi=10.1016/j.jbef.2020.100338|s2cid=219415559|issn=2214-6350}}</ref>。 === ギャンブル依存症 === {{main|ギャンブル依存症}} ギャンブルを行わないと日常生活に支障が出る人における[[依存症]]([[精神障害|精神疾患]])であり、[[世界保健機関]](WHO)では「ギャンブル障害(ギャンブリング障害)<ref name="DSM-5">{{Citation|和書|author=アメリカ精神医学会|authorlink=アメリカ精神医学会|others=578-582頁 「物質関連障害および嗜癖性障害群 - 非物質関連障害群 - ギャンブル障害」。日本語版用語監修:[[日本精神神経学会]]、監訳:高橋三郎・[[大野裕]]、訳:染矢俊幸・神庭重信・尾崎紀夫・三村將・[[村井俊哉]]。|date=2014-06-15|year=2014|title=DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル|publisher=[[医学書院]]|isbn=978-4260019071}}</ref>」「病的賭博<ref name="ICD-10">{{Citation|和書|author=WHO|authorlink=WHO|others=221-222頁「F63 習慣および衝動の障害」 監訳・融道男・中根允文・小見山実・岡崎祐士・大久保善朗。|date=2005-11-15 |year=2005|title=ICD-10 精神および行動の障害-臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)|publisher=[[医学書院]]|isbn=978-4260001335}}</ref>」と言う名称を使用している。この疾患にかかった人を'''ギャンブル依存症者'''と呼ぶ。 自己の生活基盤・[[価値観]]、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてでもギャンブルを続けてしまう、と言う進行性を伴う。 この疾患を克服するためには、[[心理療法]]、適切な[[専門職]]の介入、自助グループへの参加などの方法がある。また当事者に対し、「一生ギャンブルに手を出さない」「新しい生き方を学ぶ必要がある」と言うことを認識させることが必要とされている。それは、再びギャンブルに手を出せば元の依存状態になってしまうからである。 === 子供とギャンブル === [[イギリス]]では大人の監督下であることや[[メダルゲーム]]など賭け対象に制限はあるものの、[[子供]]が金を賭けてギャンブルを行うことが合法となっている<ref name="Wolff">ジョナサン・ウルフ 『「正しい政策」がないならどうすべきか:政策のための哲学』 大澤津・原田健二郎訳 勁草書房 2017年 第2刷 ISBN 9784326154401 pp.56-60.</ref>。子供のギャンブルはイギリス流の休日の楽しみ方のひとつであり、大人としての責任ある行動を経験させるものだという言説もあるが、ギャンブル依存症の患者の中には子供の頃のギャンブル体験を発端に挙げる者も多い<ref name="Wolff"/>。また、ギャンブルが得意な子供はギャンブルでずっと勝ち続けることは自分にとって当然で、その報酬は正当な見返りである、という間違った幻想を抱くリスクがあるとも指摘される<ref name="Wolff"/>。 == 宗教界での賭博に関する見解 == ギャンブルには働かずに金持ちになれる([[不労所得]])という誘惑があり、[[世界宗教]]を始めとして多くの宗教で戒められている<ref name="Wolff"/>。 === 賭博とイスラム教 === [[イスラム教]]成立以前の中東では矢を使った籤(賭矢、マイスィル)で[[ラクダ]]の肉を賭けるギャンブルが盛んに行われていた<ref>[http://committees.jsce.or.jp/transmit_project/system/files/basic_knowledge_08.pdf イスラーム契約のシャリーア(イスラーム法)適合性] - 平成30年度土木学会 小林潔司会長情報発信プロジェクト 基礎知識 08_2018.10 月版</ref><ref name=awr_82>[http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/awr_82.html 『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』/第6章 Q82:カフェでトランプをしているようですが、お金を賭けているのでしょうか。] - [[AA研]]</ref>。このほかに競馬や[[ポロ]]が広場で行われ、社交の場としても機能していたとされる<ref name=awr_82 />。[[千夜一夜物語]]には、王達による金銭や奴隷をかけた[[シャトランジ]]の勝負が描かれている。カードゲームは喫茶店などで行われていた<ref name=awr_82 />。 [[イスラム教]]の[[クルアーン]][[雌牛 (クルアーン)|雌牛の章]]において、マイスィルは人の利益となる面もあるが悪影響の方が大きいという記述がある<ref name=awr_82 />。当時は気前の良さを競うため法外な額(に相当する分量)が賭けられることもあったとされ、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]はこれを諌めたという説もある<ref name=awr_82 />。また[[食卓 (クルアーン)|食卓の章]]にも[[イスラム教における飲酒|酒]]、マイスィル、[[偶像]]、占い矢は悪魔の業であるという記述がある。 イスラム教が広まった後も賭博の是非についての記述があることから、違法な賭博は行われていたと推察されている<ref name=awr_82 />。 現代のイスラム教国では国内での賭博は禁止されているが金銭を賭けない場合は見逃されており、一部の国や地域では[[競馬]]やラクダレースが純粋な競技として行われている。勝ち馬の予想を当てた場合は、払戻金ではなく、賞品や商品の引換券<ref group="注釈">この場合の引換券は「ゲームカード」と言われ、当てれば粗品がもらえるカードの意。</ref>がもらえる。これは「賭博ではない」と言い逃れができるようにするための主催者の知恵である。なお、世俗化が進んだ地域ではギャンブルも行われている。 === その他のキリスト教の宗派 === ギャンブルに反対する他の教会には、[[エホバの証人]]、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]<ref>{{Cite web|和書|title=ギャンブル|url=https://goodluckmate.com/jp|access-date=2018-05-14}}</ref>、[[イグレシア・ニ・クリスト]]<ref>{{Cite web | url=http://incworld.faithweb.com/info.htm | title=The Unofficial Site of the Iglesia ni Cristo|access-date=2019-04-17}}</ref>、およびメンバーズ・チャーチ・オブ・ゴッド・インターナショナルが含まれる。 == 歴史 == 賭博の起源としては、吉凶を偶然に託す[[占い]]<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p108 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>、正邪の判断を神に託す[[裁判]]([[神明裁判|神判]])<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p124 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>、そして神に捧げるための[[競技]]<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p138 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>の3つが源流であると考えられている。賭博は自らの所有物や財産を賭して勝負をし、勝てば利益を得て相手の賭けたものを自らの私有物とすることによって成立するため、個々人が私有財産を所持するようになり、原初的な[[私的所有権|私有財産制]]が成立してはじめて開始されたと考えられている<ref>「賭博1」(ものと人間の文化史40-1)p49-50 増川宏一 法政大学出版局 1980年6月20日初版第1刷</ref>。 日本では、[[689年]]には[[持統天皇]]によって雙六([[すごろく#盤双六|盤双六]])賭博禁止令が出されたとの記述が[[日本書紀]]に存在し<ref>「賭博3」(ものと人間の文化史40-3)p5 増川宏一 法政大学出版局 1983年10月5日初版第1刷発行</ref>、以後頻繁に時の政権によって賭博禁止令は出されていた。『[[古事記]]』にも、秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)が、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)に伊豆志八前大神(兵庫県豊岡市出石)の娘の伊豆志袁登売神(いずしおとめのかみ)との結婚の成否で賭けを申込み、兄弟の母神が賭けを申し出た秋山命を懲らしめる話がある。賭博禁止は明治政府もこれを継続した。1884年(明治17年)1月4日、賭博犯処分規則が定められた(太政官布告)。第二次世界大戦後には相次いで公営ギャンブルが認可され、隆盛を迎えた。一方でこれまで私的に行われていた伝統的な賭博は衰退し、私的賭博でも[[パチンコ]]や[[麻雀]]といった新たなゲームが主流となった<ref>「賭博3」(ものと人間の文化史40-3)p339-340 増川宏一 法政大学出版局 1983年10月5日初版第1刷発行</ref>。 == その他 == 賭博、とくにサイコロ賭博の勝敗に関する考察は、どのような目がどのくらいの率で出てくるか、すなわち[[確率]]という考え方につながっていった。16世紀半ばにはイタリアの[[ジェロラモ・カルダーノ]]がサイコロの出目に関して初歩的な確率の計算を行い、17世紀にはサイコロ賭博に関する相談を受けた[[ブレーズ・パスカル]]が[[ピエール・ド・フェルマー]]と往復書簡を交わし、この中で理論としての[[確率論]]が誕生した<ref>「歴史と統計学 人・時代・思想」p94 竹内啓 日本経済新聞出版社 2018年7月25日第1刷</ref>。 == 関連作品 == === 映画 === {{main|ギャンブル映画}} ギャンブルをテーマにした[[映画]]。[[アクション映画]]の一種として扱われることがある。 * 『[[麻雀放浪記]]』、阿佐田哲也、東映、1984年10月10日 * 『[[Mr.Boo!ギャンブル大将]]』、嘉禾電影有限公司、1979年12月15日 === テレビドラマ === * 『[[必殺必中仕事屋稼業]]』、朝日放送・松竹、1975年1月4日 - 3月29日 === 書籍 === ==== 小説 ==== * 『[[賭博者 (小説)|賭博者]]』、フョードル・ドストエフスキー、1866年 ==== ライトノベル ==== * 『[[バクト!]]』、海冬レイジ、富士見ミステリー文庫、2005年 - 2006年 * 『[[ノーゲーム・ノーライフ]]』、榎宮祐、MF文庫J、2012年 - 、漫画・アニメ作品あり * 『[[ギャンブルビート 博打代行]]』、鬼霧宗作、双葉社、2013年 * 『[[賭博師は祈らない]]』、周藤蓮、電撃文庫、2017年 ‐ 2019年 ==== 漫画 ==== ギャンブルをテーマにした[[漫画]]。[[福本伸行]]がギャンブル漫画の第一人者とされる。バトル・アクションの要素が取り込まれることがある。 {{columns-list|3| * 『[[ぎゅわんぶらあ自己中心派]]』[[片山まさゆき]]、ゲーム作品あり * 『[[100万$キッド]]』[[石垣ゆうき]](原案協力・[[宮崎まさる]]) * 『[[まあじゃんほうろうき]]』([[西原理恵子]]) * 『[[賭博黙示録カイジ]]』[[福本伸行]]、アニメ・映画・舞台作品あり * 『[[賭博覇王伝 零]]』福本伸行、ドラマ作品あり * 『[[銀と金]]』福本伸行、ドラマ作品あり * 『[[哲也-雀聖と呼ばれた男]]』[[さいふうめい]]・[[星野泰視]]、アニメ作品あり * 『[[賭博師 梟]]』さいふうめい・星野泰視 * 『[[LIAR GAME|ライアーゲーム]]』[[甲斐谷忍]]、ドラマ・映画作品あり * 『[[ONE OUTS]]』甲斐谷忍、アニメ作品あり * 『[[嘘喰い]]』迫稔雄、アニメ作品あり * 『[[ギャンブルフィッシュ]]』[[青山広美]]・[[山根和俊]] * 『[[ギャンブルッ!]]』[[鹿賀ミツル]] * 『[[ジャンケット]]』[[赤木太陽]]・[[紅林直]] * 『[[賭専]]』東山道彦・[[能田茂]] * 『[[バクト|高校生ギャンブル血風録!! バクト]]』[[志名坂高次]] * 『[[ラッキーセブンスター]]』[[橘賢一]] * 『[[世紀末博狼伝サガ]]』[[宮下あきら]] * 『[[玄人のひとりごと]]』[[中島徹 (漫画家)|中島徹]] * 『[[天啓のアリマリア]]』作元健司・[[伊十楽]] * 『[[ギャンブルレーサー]]』[[田中誠 (漫画家)|田中誠]] * 『[[ACMA:GAME]]』メーブ・[[恵広史]] * 『[[賭ケグルイ]]』[[河本ほむら]]・[[尚村透]]、ドラマ・映画・アニメ作品あり }} === アニメ === * 『[[Rio RainbowGate!]]』、TOKYO MX、2011年1月 - 3月 === ミュージカル === * 『[[ガイズ&ドールズ]]』、デイモン・ラニアン、ブロードウェイ、1950年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{sisterlinks | commons = Category:Gambling }} {{colbegin|2}} * [[賭場]] ** [[賭場荒らし]] * [[国際観光産業振興議員連盟]] ([[国際観光産業振興議員連盟|カジノ議連]]) * [[カジノ]] * [[ノミ屋]] * [[的屋]]、[[射的]]、[[輪投げ]] * [[闘犬]]、[[闘牛]] * [[サッカー賭博]] * [[賭博#大分類|野球賭博]] ** [[大相撲野球賭博問題]] - [[大相撲八百長問題]] ** [[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題]] * [[パチンコ]]、[[スロットマシン|スロット]]、[[スマートボール]] * [[富くじ]]、[[福引]]、[[くじ|くじ引]] * [[ギャンブル宝典]] - [[雑誌|情報雑誌]] * [[賭博における所得税]] * [[射幸心]]、[[パチプロ]]、[[パチプロ|スロプロ]] * [[愚行権]] * [[博奕岬]](「勝負=博奕」と言い換えた地名で、厳密にはギャンブルと直接関係ない) * [[統合型リゾート]] * [[コンプリートガチャ]] * [[ギャンブラーズ・アノニマス]] - 賭博常習者更生会 {{colend}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とはく}} [[Category:賭博|*]] [[Category:カジノ]] [[Category:カジノゲーム|*とはく]]
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クラシック音楽の指揮者一覧
クラシック音楽の指揮者一覧(クラシックおんがくのしきしゃいちらん)では、クラシック音楽の指揮者を列挙する。 日本国外の指揮者を、生年順に並べる。 日本国内の指揮者を、五十音順に並べる。
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{{Portal クラシック音楽}} '''クラシック音楽の指揮者一覧'''(クラシックおんがくのしきしゃいちらん)では、クラシック音楽の[[指揮者]]を列挙する。 == 日本国外の指揮者 == 日本国外の指揮者を、生年順に並べる。 === 1820年代以前 === *[[マイケル・コスタ (指揮者)|マイケル・コスタ]] (Michael Costa, 1808/2/14 - 1884/4/29) *[[フェリックス・メンデルスゾーン]] (Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809/2/3 - 1847/11/4) *[[ガブリイル・ロマーキン]] (Gavriil Lomakin, 1812/4/6 - 1885/5/21) *[[ユリウス・リーツ]] (Julius Rietz, 1812/12/28 - 1877) *[[セオドア・アイスフェルト]] (Theodore Eisfeld, 1816/4/11 - 1882/9/16) *[[チャールズ・ハレ]] (Sir Charles Hallé, 1819/4/11 - 1895/10/25) *[[ジュール・パドルー]] (Jules Etienne Pasdeloup, 1819/9/15 - 1887/8/13) *[[カール・エッケルト]] (Karl Anton Florian Eckert, 1820/12/17 - 1879/10/14) *[[カール・バーグマン]] (Carl Bergmann, 1821/4/12 - 1876/8/10) *[[アンジェロ・マリアーニ]] (Angelo Mariani, 1821/9/11 - 1873/6/13) *[[ベドルジハ・スメタナ]] (Bedřich Smetana, 1824/3/2 - 1884/5/12) === 1830年代 === *[[ハンス・フォン・ビューロー]] (Hans Guido von Bulow, 1830/1/8 - 1894/2/12) *[[ロベルト・ラデッケ]] (Robert Radecke, 1830/10/31 - 1911/6/21) *[[ヨハン・ヘルベック]] (Johann Herbeck, 1831/12/25 - 1877/10/28) *[[フランツ・ヴュルナー]] (Franz Wüllner, 1832/1/28 - 1902/9/7) *[[ルートヴィヒ・フォン・ブレナー]] (Ludwig von Brenner, 1833/9/19 - 1902/2/9) *[[シャルル・ラムルー]] (Charles Lamoureux, 1834/9/28 - 1899/12/21) *[[フェリックス・オットー・デッソフ]] (Felix Otto Dessoff, 1835/1/14 - 1892/10/28) *[[エドゥアルト・シュトラウス1世]] (Eduard Strauss I., 1835/3/15 - 1916/12/28) *[[セオドア・トマス]] (Theodore Thomas, 1835/10/11 - 1905/1/4) *[[ヴィルヘルム・ヤーン]] (Wilhelm Jahn, 1835/11/24 - 1900/4/21) *[[エドゥアール・コロンヌ]] (Edouard Judas Colonne, 1838/7/23 - 1910/3/28) *[[ヴィルヘルム・トライバー]] (Wilhelm Treiber, 1838 - 1889) *[[ヘルマン・レーヴィ]] (Hermann Levi, 1839/11/07 - 1900/5/13) === 1840年代 === *[[フランコ・ファッチョ]] (Franco Faccio, 1840/3/8 - 1891/7/21) *[[アドルフ・チェフ]] (Adolf Čech, 1841/12/11 - 1903/12/27) *[[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]] (Hans Richter, 1843/04/04 - 1916/12/05) *[[ヨーゼフ・ズーハー]] (Josef Sucher, 1843/11/23 - 1908/4/4) *[[ヴィルヘルム・ゲーリケ]] (Wilhelm Gericke, 1845/5/18 - 1925/10/27) *[[エルンスト・フォン・シューフ]] (Ernst von Schuch, 1846/11/23 - 1914/5/10) *[[ゲオルゲ・ディマ]] (Gheorghe Dima, 1847/10/10 or 12/28 - 1925/6/4) *[[ルイージ・マンチネッリ]] (Luigi Mancinelli, 1848/2/5 - 1921/2/2) *[[ヘンリ・ヴィオッタ]] (Henricus Anastasius (Henri) Viotta, 1848/7/16 - 1933/2/17 ) === 1850年代 === *[[ジョージ・ヘンシェル]] (Sir George Henschel, 1850/2/18 - 1934/9/10) *[[ヘルマン・ツンペ]] (Hermann Zumpe, 1850/4/9 - 1903/9/4) *[[アントン・ザイドル]] (Anton Seidl, 1850/5/7 - 1898/3/28) *[[フレデリック・コーウェン]] (Sir Frederic Hymen Cowen, 1852/1/29 - 1935/10/16) *[[フリッツ・シェール]] (Johann Friedrich "Fritz" Ludwig Scheel, 1852/11/7 - 1907/3/13) *[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世]] (Joseph Hellmesberger, Jr., 1855/4/9 - 1907/4/26) *[[フリッツ・シュタインバッハ]] (Fritz Steinbach, 1855/6/17 - 1916/8/13) *[[エーミール・パウア]] (Emil Paur, 1855/7/19 - 1932/7/7) *[[アルトゥル・ニキシュ]] (Arthur Nikisch, 1855/10/12 - 1922/1/23) *[[ウィレム・ケス]] (Willem Kes, 1856/2/16 - 1934/2/22) *[[フェリックス・モットル]] (Felix Josef von Mottl, 1856/8/24 - 1911/7/2) *[[ハンス・ヴィンデルシュテイン]] (Hans Winderstein, 1856/10/29 - 1925/6/23 *[[ロベルト・カヤヌス]] (Robert Kajanus, 1856/12/2 - 1933/7/6) *[[ウジェーヌ・イザイ]] (Eugène-Auguste Ysaÿe, 1858/7/16 - 1931/5/12) *[[フランク・ダムロッシュ]] (Frank Damrosch, 1859/6/22 - 1937/10/22) *[[カミーユ・シュヴィヤール]] (Camille Chevillard, 1859/10/14 - 1923/5/30) *[[カール・ムック]] (Karl Muck, 1859/10/22 - 1940/3/3) *[[マックス・フィードラー]] (August Max Fiedler, 1859/12/21 - 1939/1/21) === 1860年代 === *[[グスタフ・マーラー]] (Gustav Mahler, 1860/7/7 - 1911/5/18) *[[ミハイル・トゥシュマロフ]] (Mikhail Tushmalov, 1861 - 1896) *[[ウォルター・ダムロッシュ]] (Walter Johannes Damrosch, 1862/1/30 - 1950/12/22) *[[ガブリエル・パレス]] (Philippe Charles Gabriel Parès, 1862/11/18 - 1934/1/2) *[[フランツ・シャルク]] (Franz Schalk, 1863/5/27 - 1931/9/2) *[[フェリックス・ワインガルトナー]](Felix von Weingartner, 1863/6/02 - 1942/5/7) *[[カール・ポーリヒ]] (Karl Pohlig, 1864/2/10 - 1928/6/17 ) *[[リヒャルト・シュトラウス]] (Richard Strauss, 1864/6/11 - 1949/9/8) *[[ルートヴィヒ・ロッテンベルク]] (Ludwig Rottenberg, 1864/10/11 - 1932/5/6) *[[フェルディナント・レーヴェ]] (Ferdinand Löwe, 1865/2/19 - 1925/1/6 ) *[[ミヒャエル・バリング]] (Michael Balling, 1866/8/27 - 1925/9/1) *[[アルトゥーロ・トスカニーニ]] (Arturo Toscanini, 1867/3/25 - 1957/1/16) *[[ヘンリー・ウッド]] (Sir Henry J(oseph) Wood, 1869/3/3 - 1944/8/19) === 1870年代 === *[[レフ・シテインベルク]] (Lev Petrovich Steinberg, 1870/09/15 - 1945/1/16) *[[ウィレム・メンゲルベルク]] (Willem Mengelberg, 1871/03/28 - 1951/03/22) *[[オスカー・フリート]] (Oskar Fried, 1871/8/10 - 1941/7/5) *[[セオドア・スピアリング]] (Theodore Bernays Spiering, 1871/9/5 - 1925/8/11) *[[アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー]] (Alexander von Zemlinsky, 1871/10/14 - 1942/3/15) *[[ヘンリー・ハドリー]] (Henry Kimball Hadley, 1871/12/20 - 1937/9/6) *[[アルフレッド・ヘルツ]] (Alfred Hertz, 1872/7/15 - 1942/4/17 ) *[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]] (Siegmund von Hausegger, 1872/8/16 - 1948/10/10) *[[ジョセフ・ストランスキー]] (Josef Stránský, 1872/9/9 - 1936/3/6) *[[イェオリ・シュネーヴォイクト]] (Georg Schnéevoigt, 1872/11/8 - 1947/11/28) *[[フレデリック・ストック]] (Frederick Stock, 1872/11/11 - 1942/10/20) *[[カール・シュトラウベ]] (Montgomery Rufus Karl Siegfried Straube, 1873/1/16 - 1950/4/27) *[[モデスト・アルトシュラー]] (Modest Altschuler, 1873/2/15 - 1963/9/12) *[[ランドン・ロナルド]] (Sir Landon Ronald, 1873/8/14 - 1938/8/14) *[[セルゲイ・クーセヴィツキー]] (Serge Koussevitzky, 1874/06/26-1951/6/4) *[[カール・デントン]] (James Carlyle "Carl" Denton, 1874/11/21-1955/11/14) *[[ピエール・モントゥー]] (Pierre Monteux, 1875/4/4 - 1964/7/1) *[[アーネスト・シェリング]] (Ernest Henry Schelling, 1876/7/26 - 1939/12/8) *[[ブルーノ・ワルター]] (Bruno Walter, 1876/9/15 - 1962/2/17) *[[パブロ・カザルス]] (Pau Casals i Defillo,1876/12/29 - 1973/10/22) *[[ルドルフ・ガンツ]] (Rudolph Ganz, 1877/2/24 - 1972/8/2) *[[アルフレッド・コルトー]] (Alfred Denis Cortot, 1877/9/26 - 1962/6/15) *[[コンスタンチン・サラジェフ]] (Konstantin Solomonovich Saradzhev, 1877/10/8 - 1954/7/22) *[[エミール・クーパー]] (Emil Cooper, 1877/12/13 - 1960/11/16) *[[アルトゥル・ボダンツキー]] (Artur Bodanzky, 1877/12/16 - 1939/11/23) *[[エマヌエル・メッテル]] (Emmanuel Leonievich Metter, 1878/2/28 - 1941/8/28) *[[トゥリオ・セラフィン]] (Tullio Serafin, 1878/9/1 - 1968/2/2) *[[トーマス・ビーチャム]] (Thomas Beecham|Thomas Beecham, 1879/4/29 - 1961/3/8) *[[フォルクマール・アンドレーエ]] (Volkmar Andreae, 1879/6/18 - 1962/6/18) *[[ハミルトン・ハーティ]] (Sir Hamilton Harty, 1879/12/4 - 1941/2/19) === 1880年代 === *[[カール・シューリヒト]] (Carl Schuricht, 1880/7/3 - 1967/1/7) *[[ロベルト・シュトルツ]] (Robert Stolz, 1880/8/25 - 19756/27) *[[デジレ=エミール・アンゲルブレシュト]] (Desire-Emile Inghelbrecht, 1880/9/17 - 1965/2/14) *[[ハインツ・ティーティエン]] (Heinz Tietjen, 1881/6/24 - 1967/11/30) *[[ヘルマン・ツィルヒャー]] (Hermann Karl Josef Zilcher, 1881/8/18 - 1948/1/1) *[[レオポルド・ストコフスキー]] (Leopold Stokowski, 1882/4/18 - 1977/9/13) *[[アルバート・コーツ]] (Albert Coates, 1882/4/23 - 1953/12/11) *[[ニコライ・マルコ]] (Nikolai Malko, 1883/5/4 - 1961/6/23) *[[ヴァーツラフ・ターリヒ]] (Vaclav Talich, 1883/5/28 - 1961/3/16) *[[クラウス・プリングスハイム]] (Klaus Pringsheim, 1883/7/24 - 1972/12/7) *[[フリッツ・シュティードリー]] (Fritz Stiedry, 1883/10/11 - 1968/8/8) *[[エルネスト・アンセルメ]] (Ernest Ansermet, 1883/11/11 - 1969/2/20) *[[アルベール・ヴォルフ]] (Albert Wolff, 1884/1/19 - 1970/2/20) *[[ヘルマン・アーベントロート]] (Hermann Paul Maximilian Abendroth, 1883/1/19 - 1956/5/29) *[[ヴィレム・ヴァン・ホーフストラーテン]] (Willem van Hoogstraten, 1884/3/18 - 1964/9/11) *[[サムイル・サモスード]] (Samuil Samosud, 1884/5/18 - 1964/11/6) *[[ベイジル・キャメロン]] (Basil George Cameron Hindenberg, 1884/8/18 - 1975/6/26) *[[オットー・クレンペラー]] (Otto Klemperer, 1885/5/14 - 1973/7/6) *[[レオ・フンテク]] (Leo Funtek, 1885/8/21 - 1965/1/13) *[[デジレ・デフォー]] (Desire Defauw, 1885/9/5 - 1960/7/25) *[[ヴィットリオ・グイ]] (Vittorio Gui, 1885/9/14 - 1975/10/17) *[[アルトゥール・ローター]] (Artur Martin Rother, 1885/10/12 - 1972/9/22) *[[フランツ・フォン・ヘスリン]] (Franz von Hoeßlin, 1885/12/25 - 1946) *[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]] (Wilhelm Furtwängler, 1886/01/25 - 1954/11/30) *[[ポール・パレー]] (Paul Paray, 1886/5/24 - 1979/10/10) *[[ニコライ・ソコロフ (指揮者)|ニコライ・ソコロフ]] (Nikolai Sokoloff, 1886/5/28 - 1965/9/15) *[[ラウニ・グレンダール]] (Launy Grøndahl, 1886/6/30 - 1960/1/21) *[[ロベルト・ヘーガー]] (Robert Heger, 1886/8/19 - 1978/1/14) *[[エトヴィン・フィッシャー]] (Edwin Fischer, 1886/10/6 - 1960/1/24) *[[ナディア・ブーランジェ]] (Nadia Boulanger, 1887/9/16 - 1979/10/22) *[[ベルンハルト・パウムガルトナー]](Bernhard Paumgartner, 1887/11/14 - 1971/7/21) *[[ハンス・クナッパーツブッシュ]] (Hans Knappertsbusch, 1888/3/12 - 1965/10/25) *[[ピエール・デュポン (指揮者)|ピエール・デュポン]] (Pierre Léon Dupont, 1888/5/3 - 1969/9/18) *[[ピエロ・コッポラ]] (Piero Coppola, 1888/10/11 - 1971/3/17) *[[フリッツ・ライナー]] (Fritz Reiner, 1888/12/19 - 1963/11/15) *[[ジェフリー・トイ]] (Geoffrey Toye, 1889/2/17 - 1942/6/11) *[[エイドリアン・ボールト]] (Adrian Boult, 1889/4/8 - 1983/2/22) === 1890年代 === *[[ユーリー・ファイエル]] (Yuri Fyodorovich Faier, 1890/1/17 - 1971/8/3) *[[フリッツ・ブッシュ]] (Fritz Busch, 1890/3/13 - 1951/9/14) *[[エーリヒ・クライバー]] (Erich Kleiber, 1890/8/5 - 1956/1/27) *[[ウンベルト・ベレットーニ]] (Umberto Berrettoni, 1890/8/28 - 1953) *[[マンフレート・グルリット]] (Manfred Gurlitt, 1890/9/9 - 1972/4/29) *[[ニコライ・ゴロワノフ]] (Nikolay Semyonovich Golovanov, 1891/1/21 - 1953/8/28) *[[ルドルフ・シュルツ=ドルンブルク]] (Rudolf Schulz-Dornburg, 1891/3/31 - 1949/8/16) *[[ヘルマン・シェルヘン]] (Hermann Scherchen, 1891/6/21 - 1966/6/12) *[[シャルル・ミュンシュ]] (Charles Munch, 1891/9/26 - 1968/11/6) *[[カール・エルメンドルフ]] (Karl Elmendorff, 1891/10/25 - 1962/10/21) *[[アルトゥール・ロジンスキ]] (Artur Rodzinski, 1892/1/1 - 1958/11/27) *[[ヴィクトル・デ・サバタ]] (Victor De Sabata, 1892/4/10 - 1967/12/11) *[[イサイ・ドブローウェン]] (Issay Dobrowen, 1893/2/27 - 1953/12/9) *[[クレメンス・クラウス]] (Clemens Krauss, 1893/3/31 - 1954/5/16) *[[パウル・ファン・ケンペン]] (Paul van Kempen, 1893/5/16 - 1955/12/8) *[[ユージン・グーセンス]] (Eugene Aynsley Goossens, 1893/5/26 - 1962/6/13) *[[アレクサンドル・ガウク]] (Aleksandr Vassilievich Gauk, 1893/8/15 - 1963/3/30) *[[アーネスト・マクミラン]] (Sir Ernest Alexander Campbell MacMillan, 1893/8/18 - 1973/3/17) *[[ファビエン・セヴィツキー]] (Fabien Sevitzky, 1893/9/29 - 1967) *[[ウラディミール・ゴルシュマン]] (Vladimir Golschmann, 1893/12/16 - 1972/3/1) *[[カール・ダマー]] (Karl Dammer, 1894/1/2 - 1977/2/4) *[[ニコラス・スロニムスキー]] (Nicolas Slonimsky, 1894/4/27 - 1995/12/25) *[[ヨハネス・シューラー]] (Johannes Schuler, 1894/6/21 - 1966/10/3) *[[クレシミル・バラノヴィッチ]] (Krešimir Baranović, 1894/8/25 - 1975/9/15) *[[カール・ベーム]] (Karl Böhm, 1894/8/28 - 1981/8/14) *[[フランコ・カプアーナ]] (Franco Capuana, 1894/9/29 - 1969/12/10) *[[アーサー・フィードラー]] (Arthur Fiedler, 1894/12/17 - 1979/7/10) *[[パウル・デッサウ]] (Paul Dessau, 1894/12/19 - 1979/6/28) *[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]] (Jozef Rosenstock, 1895/1/27 - 1985/10/17) *[[フアン・ホセ・カストロ]] (Juan José Castro, 1895/3/7 - 1968/9/3) *[[エドゥアルド・トルドラ]] (Eduard Toldrà i Soler, 1895/4/7 - 1962/5/31) *[[マルコム・サージェント]] (Sir Harold Malcolm Watts Sargent, 1895/4/29 - 1967/10/3) *[[ハンス・ロスバウト]] (Hans Rosbaud, 1895/7/22 - 1962/12/29) *[[パウル・ヒンデミット]] (Paul Hindemith, 1895/11/16 - 1963/12/28) *[[ハインツ・ウンガー]] (Heinz Unger, 1895/12/14 - 1965/2/25) *[[エドゥアルド・フリプセ]] (Eduard Flipse, 1896/2/25 - 1973/9/12) *[[タウノ・ハンニカイネン]] (Tauno Heikki Hannikainen, 1896/2/26 - 1968/10/12) *[[ディミトリ・ミトロプーロス]] (Dimitris Mitropoulos, 1896/3/1 - 1960/11/2) *[[アントニーノ・ヴォットー]] (Antonino Votto, 1896/10/30 - 1985/9/9) *[[ペドロ・デ・フレイタス・ブランコ]] (Pedro de Freitas Branco, 1896/10/31 - 1963/3/24) *[[カレル・シェイナ]] (Karel Šejna, 1896/11/1 - 1982/12/17) *[[オズヴァルト・カバスタ]] (Oswald Kabasta, 1896/12/29 - 1946/2/6) *[[ジョージ・セル]] (George Szell, 1897/6/7 - 1970/7/30) *[[ヘンリー・スヴォボダ]] (Henry Swoboda, 1897/10/29 - 1990/8/13) *[[ヤッシャ・ホーレンシュタイン]] (Jascha Horenstein, 1898/5/6 - 1973/4/2) *[[ワシリー・ネボルシン]] (Vassili Nebol'sin, 1898/6/11 - 1958) *[[エッベ・ハメリク]] (Ebbe Hamerik, 1898/9/5 - 1951/8/12) *[[アレクサンドル・クリモフ]] (Alexandr Ignatievich Klimov, 1898/9/12 - 1974) *[[ロジェ・デゾルミエール]] (Roger Desormiere, 1898/9/13 - 1963/10/25) *[[カール・ランクル]] (Karl Rankl, 1898/10/1 - 1968/9/6) *[[アルフレッド・ウォーレンスタイン]] (Alfred Wallenstein, 1898/10/7 - 1983/2/8) *[[ギュンター・ラミン]](Günter Ramin,1898/10/15 - 1956/2/27) *[[フリッツ・ヴェルナー]](Fritz Werner, 1898/12/15 - 1977/12/22) *[[ロヴロ・フォン・マタチッチ]] (Lovlo von Matačić, 1899/2/14 - 1985/1/4) *[[レオ・ボルヒャルト]] (Leo Borchard, 1899/3/31 - 1945/8/23) *[[ウィリアム・スタインバーグ]] (William Steinberg, 1899/8/1 - 1978/5/16) *[[ハンス・スワロフスキー]] (Hans Swarowsky, 1899/9/16 - 1975/9/10) *[[ユージン・オーマンディ]] (Eugene Ormandy, 1899/11/18 - 1985/03/12) *[[ジョン・バルビローリ]] (John Barbirolli, 1899/12/02 - 1970/7/29) === 1900年代 === *[[カール・リステンパルト]] (Karl Ristenpart, 1900/1/26 - 1967/12/24) *[[パウル・クレツキ]] (Paul Kletzki, 1900/3/21 - 1973/3/5) *[[ハンス・シュミット=イッセルシュテット]] (Hans Schmidt-Isserstedt, 1900/5/5 - 1973/5/28) *[[エフレム・クルツ]] (Efrem Kurtz, 1900/11/07 - 1995/6/27) *[[イオネル・ペルレア]] (Ionel Perlea, 1900/12/13 - 1970/7/29) *[[カール・フォン・ガラグリ]] (Carl von Garaguly, 1900/12/28 - 1984/10/04) *[[レジナルド・グッドオール]] (Reginald Goodall, 1901/7/13 - 1990/5/5) *[[フランツ・コンヴィチュニー]] (Franz Konwitschny, 1901/8/14 - 1962/7/18) *[[エドゥアルト・ファン・ベイヌム]] (Eduard van Beinum, 1901/9/3 - 1959/4/13) *[[オーラヴ・シェラン]] (Olav Kielland, 1901/8/16 - 1985/8/5) *[[アンドレ・コステラネッツ]] (Andre Kostelanetz, 1901/12/22 - 1980/1/13) *[[マリオ・ロッシ]] (Mario Rossi, 1902/3/29 - 1992/6/29) *[[ヨーゼフ・クリップス]] (Josef Krips, 1902/4/8 - 1974/10/13) *[[ヘスース・アランバリ]] (Jesús Arámbarri Gárate, 1902/4/13 - 1960/7/10) *[[マックス・ルドルフ]] (Max Rudolf, 1902/6/15 - 1995/3/1) *[[エリク・トゥクセン]] (Erik Tuxen, 1902/7/04 - 1957/8/28) *[[オイゲン・ヨッフム]] (Eugen Jochum, 1902/11/1 - 1987/3/26) *[[リヒャルト・クラウス]] (Richard Kraus, 1902/11/16 - 1978/4/11) *[[モーリス・アブラヴァネル]] (Maurice Abravanel, 1903/1/6 - 1993/9/22) *[[ジャン・モレル]] (Jean Paul Morel, 1903/1/10 - 1975/4/14) *[[エフゲニー・ムラヴィンスキー]] (Evgeni Mravinsky, 1903/6/4 - 1988/1/19) *[[マックス・シェーンヘル]] (Max Schönherr, 1903/11/23 - 1985/12/14) *[[マルク・ラヴリー]] (Marc Lavry, 1903/12/22 - 1967/3/24) *[[ヘルベルト・アルベルト]] (Herbert Albert, 1903/12/26 - 1973/9/15) *[[イリヤ・ムーシン]] (Ilya Musin, 1904/1/6 - 1999/6/6) *[[マニュエル・ロザンタル]] (Manuel Rosenthal, 1904/6/18 - 2003/6/5) *[[ボリス・ハイキン]] (Boris Emmanuilovich Khaykin, 1904/10/26 - 1978/5/10) *[[アンドレ・クリュイタンス]] (André Cluytens, 1905/3/26 - 1967/6/3) *[[ナタン・ラフリン]] (Natan Rakhlin, 1905/12/28 - 1979/6/28) *[[アレクサンドル・メリク=パシャーエフ]] (Alexander Melik-Pashayev, 1905/10/23 - 1964/6/18) *[[ダニエル・ステルネフェルト]] (Daniel Sternefeld, 1905/11/27 - 1986/6/2) *[[ハサン・フェリット・アルナル]] (Hasan Ferit Alnar, 1906/3/11 - 1978) *[[アンタル・ドラティ]] (Antal Dorati, 1906/4/9 - 1988/11/13) *[[パウル・ザッハー]] (Paul Sacher, 1906/4/28 - 1999/5/26) *[[ジョージ・ウェルドン]] (George Weldon, 1906/6/5 - 1963/8/16) *[[ヴァーツラフ・スメターチェク]] (Václav Smetáček, 1906/6/30 - 1986/2/18) *[[ルドヴィート・ライテル]] (Ľudovít Rajter, 1906/7/30 - 2000/7/6) *[[ジョルジュ・セバスティアン]] (Georges Sebastian, 1906/8/17 - 1989/4/12) *[[ロマヌス・フーベルトゥス]](Romanus Hubertus, 1906/10/4 - 1969/7/4) *[[安益泰]] (An Iktae, 1906/12/6 - 1965/9/16) *[[ヤーノシュ・フェレンチク]] (Ferencsik János, 1907/1/18 - 1984/6/12) *[[フェルナンド・プレヴィターリ]] (Fernando Previtali, 1907/2/16 - 1985/8/1) *[[コンスタンティン・イワノフ]] (Konstantin Konstantinovich Ivanov, 1907/5/21 - 1984/4/15) *[[マルク・パヴェルマン]] (Mark Izrailevich Paverman, 1907/6/8 - 1993/6/13) *[[アナトール・フィストゥラーリ]] (Anatole Fistoulari, 1907/8/20 - 1995/8/21) *[[ウィレム・ヴァン・オッテルロー]] (Willem van Otterloo, 1907/12/27 - 1978/7/28) *[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]] (Herbert von Karajan, 1908/4/5 - 1989/7/16) *[[カレル・アンチェル]] (Karel Ančerl, 1908/4/11 - 1973/7/3) *[[ヨーゼフ・カイルベルト]] (Joseph Keilberth, 1908/4/19 - 1968/7/20) *[[ユッシ・ヤラス]] (Jussi Jalas, 1908/6/23 – 1985/10/11) *[[クルト・アイヒホルン]] (Kurt Peter Eichhorn, 1908/8/4 - 1994/6/29) *[[ダヴィッド・オイストラフ]] (David Fiodorovich Oistrakh, 1908/9/30 - 1974/10/24) *[[ヴィクトル・デザルツェンス]] (Victor Desarzens, 1908/10/27 - 1986/2/13) *[[アレクサンダー・シュナイダー]] (Alexander Schneider, 1908/10/21 - 1993/2/2) *[[ヴィルヘルム・ロイブナー]] (Wilhelm Loibner, 1909/1/5 - 1971/4/25) *[[シモン・ゴールドベルク]] (Szymon Goldberg, 1909/6/1 - 1993/7/19) *[[ヴィリー・ボスコフスキー]] (Willi Boskowsky, 1909/6/16 - 1991/4/21) *[[ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ]] (Gianandrea Gavazzeni, 1909/7/25 - 1996/2/5) *[[ラディスラフ・スロヴァーク]] (Ladislav Slovák, 1909/9/10 - 1999/7/22) *[[オットー・アッカーマン]] (Otto Ackermann, 1909/10/18 - 1960/3/9) *[[ハインツ・レトガー]] (Heinz Röttger, 1909/11/6 - 1977/8/26) *[[アルベルト・エレーデ]] (Alberto Erede, 1909/11/8 - 2001/4/12) *[[ボーゴ・レスコヴィチ]] (Bogo Leskovic, 1909/11/29 - 1995/10/22) === 1910年代 === *[[ジャン・マルティノン]] (Jean Martinon, 1910/1/10 - 1976/3/1) *[[エドゥアルト・シュトラウス2世]] (Eduard Strauss II., 1910/3/24 - 1969/4/6) *[[アルチェオ・ガリエラ]] (Alceo Galliera, 1910/5/3 - 1996/4/21) *[[ルドルフ・ケンペ]] (Rudolf Kempe, 1910/6/14 - 1976/5/12) *[[フリッツ・リーガー]] (Fritz Rieger, 1910/6/28 - 1978/11/30) *[[ヴィレム・タウスキー]] (Vilem Tausky, 1910/7/20 - 2004/3/16) *[[エンリケ・ホルダ]] (Enrique Jordá, 1911/3/24 - 1996/3/18) *[[ニーノ・サンツォーニョ]] (Nino Sanzogno, 1911/4/13 - 1983/5/4) *[[フランコ・フェラーラ]] (Franco Ferrara, 1911/7/4 - 1985/9/6) *[[フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ]] (Francesco Molinari-Pradelli, 1911/7/4 - 1996/8/7) *[[ヴァルター・マルティン]] (Walter Martin, 1911/12/11 - 1964/1/9) *[[ヴィルヘルム・シュヒター]] (Wilhelm Schuchter, 1911/12/15 - 1974/5/27) *[[ギュンター・ヴァント]] (Günter Wand, 1912/1/7 - 2002/2/14) *[[ジャン=バティスト・マリ]] (Jean-Baptiste Mari、1912/1/20 - 1991/10/26) *[[エーリヒ・ラインスドルフ]] (Erich Leinsdorf, 1912/2/4 - 1993/9/11) *[[フェルディナント・ライトナー]] (Ferdinand Leitner, 1912/3/4 - 1996/6/3) *[[フェリックス・プロハスカ]] (Felix Prohaska, 1912/5/16 - 1991/1/24) *[[シャーンドル・ヴェーグ]] (Sandor Vegh, 1912/5/17 - 1997/1/7) *[[エレアザール・デ・カルヴァーリョ]] (Eleazar de Carvalho, 1912/6/28 - 1996/9/12) *[[セルジュ・チェリビダッケ]] (Sergiu Celibidache, 1912/7/11 - 1996/8/14) *[[イーゴリ・マルケヴィチ]] (Igor Markevitch, 1912/7/27 - 1983/3/7) *[[クルト・ザンデルリング]] (Kurt Sanderling, 1912/9/19 - 2011/9/18) *[[ゲオルク・ショルティ]] (Georg Solti, 1912/10/21 - 1997/9/5) *[[オスカー・ダノン]] (Oskar Danon, 1913/2/7 - 2009/12/18) *[[ルネ・レイボヴィッツ]] (Rene Leibowitz, 1913/2/17 - 1972/8/29) *[[ヴィトルド・ロヴィツキ]] (Witold Rowicki, 1913/2/26 - 1989/10/1) *[[ジョージ・バラティ]] (George Barati, 1913/4/3 - 1996/6/22) *[[ジャン・フルネ]] (Jean Fournet, 1913/04/14 - 2008/11/3) *[[エルネスト・ブール]] (Ernest Bour, 1913/4/20 - 2001/6/20) *[[ワルター・ジュスキント]] (Walter Susskind 1913/5/1 - 1980/3/25) *[[コンスタンティン・シルヴェストリ]] (Constantin Silvestri, 1913/5/13 - 1969/2/23) *[[フランティシェク・イーレク]] (František Jílek 1913/5/22 - 1993/9/16) *[[ハインリヒ・ホルライザー]] (Heinrich Hollreiser, 1913/6/24 - 2006/7/24) *[[エルネスト・ファン・デル・エイケン]] (Ernest Jozef Leo van der Eyken, 1913/7/23 - 2010/2/6) *[[ベンジャミン・ブリテン]] (Edward Benjamin Britten, 1913/11/22 - 1976/12/4) *[[アタウルフォ・アルヘンタ]] (Ataulfo Exuperio Martin de Argenta Maza, 1913/11/19 - 1958/1/21) *[[ニコラス・ハーサニー]] (Nicholas Harsanyi, 1913/12/13 - 1987/7/19) *[[キリル・コンドラシン]] (Kiril Kondrashin, 1914/3/6 - 1981/3/7) *[[クルト・ヴェス]] (Kurt Woss, 1914/5/2 - 1987/12/4) *[[カルロ・マリア・ジュリーニ]] (Carlo Maria Giulini, 1914/5/9 - 2005/6/14 ) *[[ラファエル・クーベリック]] (Rafael Kubelík 1914/6/29 - 1996/8/11) *[[フレデリック・フェネル]] (Frederick Fennell, 1914/7/2 - 2004/12/7 ) *[[アルヴィド・ヤンソンス]] (Arvid Jansons, 1914/10/24 - 1984/11/21) *[[フェレンツ・フリッチャイ]] (Ferenc Fricsay, 1914/08/09 - 1963/2/20) *[[ディーン・ディクソン]] (Dean Dixon, 1915/1/10 - 1976/10/3) *[[チャールズ・グローヴズ]] (Charles Groves, 1915/3/10 - 1992/6/20) *[[ニコラ・レッシーニョ]] (Nicola Rescigno, 1916/5/28 - 2008/8/4) *[[カール・ミュンヒンガー]] (Karl Münchinger, 1915/5/29 - 1990/3/13) *[[エットーレ・グラチス|エットレ・グラチス]] (Ettore Gracis, 1915/9/24 - 1992/4/12) *[[ランベルト・ガルデルリ]] (Lamberto Gardelli, 1915/11/8 - 1998/7/17) *[[ロバート・ショウ (指揮者)|ロバート・ショウ]] (Robert Shaw, 1916/4/30 - 1999/1/25) *[[ユーディ・メニューイン]] (Yehudi Menuhin, 1916/4/22- 1999/3/12) *[[ヴェロニカ・ドゥダロワ]] (Veronica Dudarova, 1916/12/5 - 2009/1/15) *[[ピエール・デルヴォー]] (Pierre Dervaux, 1917/1/3 - 1992/2/20) *[[ワルター・ヘンドル]] (Walter Hendl, 1917/1/12 - 2007/4/10) *[[アントン・コッポラ]] (Anton Coppola, 1917/3/21 - 2020/3/9) *[[ゲオルク・ティントナー]] (Georg Tintner, 1917/5/22 - 1999/10/2) *[[ルドルフ・バウムガルトナー]] (Rudolf Baumgartner, 1917/9/14 - 2002/3/22) *[[トーマス・シャーマン]] (Thomas Scherman, 1917/2/12 - 1979/5/14) *[[シクステン・エールリンク]] (Sixten Ehrling, 1918/4/3 - 2005/2/13) *[[レナード・バーンスタイン]] (Leonard Bernstein, 1918/8/25 - 1990/10/14) *[[クルト・レーデル]](Kurt Redel, 1918/10/8 - 2013/2/12) *[[ジェイコブ・アヴシャロモフ]](Jacob Avshalomov, 1919/3/28 - 2013/4/25) *[[ペーター・マーク]](Peter Maag, 1919/5/10 - 2001/4/16) *[[ミラン・ホルヴァート]](Milan Horvat, 1919/7/28 - 2014/1/1) *[[ノーマン・デル・マー]](Norman Del Mar, 1919/7/31 - 1994/2/6) === 1920年代 === *[[ヘルムート・ヴィンシャーマン]] (Helmut Winschermann, 1920/3/22 - 2021/3/4) *[[ブルーノ・マデルナ]] (Bruno Maderna, 1920/4/21 - 1973/11/13) *[[ヘルベルト・ケーゲル]] (Herbert Kegel, 1920/7/29 - 1990/11/20) *[[グィード・カンテッリ]] (Guido Cantelli, 1920/8/29 - 1956/11/24) *[[ヴァーツラフ・ノイマン]] (Václav Neumann, 1920/9/29 - 1995/9/2) *[[モーリス・ジャンドロン]](Maurice Gendron, 1920/12/26 - 1990/8/20) *[[エドモン・ド・シュトウツ]] (Edmond de Stoutz, 1920/12/28 - 1997/1/28) *[[ジョン・プリッチャード]] (John Pritchard, 1921/2/5 - 1989/12/5) *[[ジャンフランコ・リヴォリ]] (Gianfranco Rivoli, 1921/6/2 - 2005/10/18) *[[スタニスワフ・ヴィスウォツキ]] (Stanislaw Wisłocki, 1921/7/7 - 1998/5/31) *[[フランシス・トラヴィス]] (Francis Travis, 1921/7/9 - 2017/4/28) *[[ルイ・フレモー]] (Louis Fremaux, 1921/8/13 - 2017/3/20) *[[ゲルハルト・ボッセ]] (Gerhard Bosse, 1922/1/23 - 2012/2/1) *[[オトマール・スウィトナー]] (Otmar Suitner, 1922/5/16 - 2010/1/8) *[[メレディス・デイヴィス]] (Meredith Davies, 1922/7/30 - 2005/3/9) *[[カール・エスターライヒャー]] (Karl Österreicher, 1923/1/3 - 1995/3/11) *[[ハインツ・ワルベルク]] (Heinz Wallberg, 1923/3/16 - 2004/9/27) *[[ジョン・ランチベリー]] (John Arthur Lanchbery, 1923/5/15 - 2003/2/27) *[[フランツ=パウル・デッカー]] (Franz-Paul Decker, 1923/6/22 - 2014/5/19) *[[イルジー・スターレク]] (Jiří Stárek, 1923/7/13 - 2011/9/25) *[[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]] (Wolfgang Sawallisch, 1923/8/26 - 2013/2/22) *[[スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ]](Stanislaw Skrowaczewski, 1923/10/3 - 2017/2/21) *[[クラウディオ・シモーネ]](Claudio Scimone, 1923/12/23 -2018/9/6) *[[アクセル・ヴェレユス]] (Aksel Wellejus, 1924/1/7 - 2015/7/13) *[[シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ]] (Silvio Varviso, 1924/2/26 - 2006/11/1) *[[サラ・コールドウェル]] (Sarah Caldwell, 1924/3/6 - 2006/3/23) *[[ネヴィル・マリナー]] (Neville Marriner, 1924/4/15 - 2016/10/2) *[[エドワード・ダウンズ]] (Edward Downes, 1924/6/17 - 2009/7/10) *[[ジョルジュ・プレートル]] (Georges Prêtre, 1924/8/14 - 2017/1/4) *[[ルドルフ・バルシャイ]] (Rudolf Barshai, 1924/8/28 - 2010/11/2) *[[アーウィン・ホフマン]] (Irwin Hoffman, 1924/11/26 - 2018/3/19) *[[アールパード・ゲーレツ]] (Irwin Hoffman, 1924/12/23 - 1991/5/1) *[[オドン・アロンソ]] (Odón Alonso, 1925/2/28 - 2011/2/21) *[[ピエール・ブーレーズ]] (Pierre Boulez, 1925/3/26 - 2016/1/5) *[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]] (Dietrich Fischer-Dieskau, 1925/5/28 - 2012/5/18) *[[チャールズ・マッケラス]] (Charles Mackerras, 1925/11/17 - 2010/7/14) *[[ゾルターン・ロズニャイ]] (Zoltán Rozsnyai, 1926/1/29 - 1990/9/10) *[[アレクサンダー・ギブソン]] (Alexander Gibson, 1926/2/11 - 1995/1/14) *[[ジェルヴァース・ドゥ・ペイエ]](Gervase Alan de Peyer, 1926/4/11 - 2017/2/4) *[[エドゥアール・ヴァン・ルモーテル]] (Edouard van Remoortel, 1926/5/30 - 1977/5/16) *[[クラウス・テンシュテット]] (Klaus Tennstedt, 1926/6/6 - 1998/1/11) *[[ヤン・クレンツ]] (Jan Krenz, 1926/7/14 - 2020/9/15) *[[ロルフ・ロイター]] (Rolf Reuter, 1926/10/7 - 2007/9/10) *[[カール・リヒター]] (Karl Richter, 1926/10/15 - 1981/2/15) *[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]] (Mustislav Rostropovich, 1927/3/27 - 2007/4/27) *[[ガリー・ベルティーニ]](Gary Bertini, 1927/5/1 - 2005/3/17) *[[アンドレ・ヴァンデルノート]] (Andre Vandernoot, 1927/6/2 - 1992/11/6) *[[ヘルベルト・ブロムシュテット]] (Herbert Blomstedt, 1927/7/11 - ) *[[セルジュ・ボド]] (Serge Baudo, 1927/7/16 - ) *[[クルト・マズア]] (Kurt Masur, 1927/7/18 - 2015/12/19) *[[ミヒャエル・ギーレン]] (Michael Gielen, 1927/7/20 - 2019/3/8) *[[レイモンド・レッパード]] (Raymond Leppard, 1927/8/11 - 2019/10/22 ) *[[コリン・デイヴィス]] (Colin Davis, 1927/9/25 - 2013/4/14) *[[アルベルト・ゼッダ]] (Alberto Zedda,1928/1/2 - 2017/3/6) *[[ズデニェク・コシュラー]] (Zdeněk Košler, 1928/3/25 - 1995/7/2) *[[ジャン=フランソワ・パイヤール]] (Jean-Francois Paillard, 1928/4/12 - 2013/4/15) *[[ホルスト・シュタイン]] (Horst Stein, 1928/5/2 - 2008/7/27 ) *[[グスタフ・レオンハルト]] (Gustav Leonhardt, 1928/5/30 - 2012/1/16) *[[セルジュ・コミッショーナ]] (Sergiu Comissiona, 1928/6/16 - 2005/3/5) *[[オーレ・シュミット]] (Ole Schmidt, 1928/7/14 - 2010/3/6) *[[ブライデン・トムソン]] (Bryden Thomson, 1928/7/16 - 1991/11/14) *[[ルカーチ・エルヴィン|エルヴィン・ルカーチ]] (Ervin Lukács, 1928/8/9 - 2011/2/18) *[[エフゲニー・スヴェトラーノフ]] (Evgeny Svetlanov, 1928/9/6 - 2002/5/3) *[[ハルトムート・クルーク]] (Hartmut Klug, 1928/9/9 - 2019/7/24) *[[マルティン・トゥルノフスキー]] (Martin Turnovsky, 1928/9/29 - 2021/5/19) *[[サウリュス・ソンデツキス]] (Saulius Sondeckis, 1928/10/11 - 2016/2/3) *[[イェジー・セムコフ]] (Jerzy Semkow, 1928/10/12 - 2014/12/23) *[[ペーター=ルーカス・グラーフ]] (Peter-Lukas Graf, 1929/1/5 - ) *[[ハインツ・レーグナー]] (Heinz Rogner, 1929/1/16 - 2001/12/10) *[[ウィン・モリス]] (Wyn Morris, 1929/2/14 - 2010/2/23) *[[ベルナルト・ハイティンク]] (Bernard Haitink, 1929/3/4 - 2021/10/21) *[[アンドレ・プレヴィン]] (André Previn, 1929/4/6 - 2019/2/28) *[[パーヴォ・ベルグルンド]] (Paavo Berglund, 1929/4/14 - 2012/1/25) *[[メンディ・ロダン]] (Mendi Rodan, 1929/4/17 - 2009/5/9) *[[イシュトヴァン・ケルテス]] (István Kertész, 1929/08/28 - 1973/4/16) *[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]] (Christoph von Dohnanyi, 1929/9/8 - ) *[[ハロルド・ファーバーマン]] (Harold Farberman, 1929/11/2 - 2018/11/24) *[[ケネス・シャーマーホーン]] (Kenneth Dewitt Schermerhorn, 1929/11/20 - 2005/4/18) *[[ハンス・ドレヴァンツ]](Hans Drewanz, 1929/12/2 - 2021/6/22) *[[ニコラウス・アーノンクール]] (Nikolaus Harnoncourt, 1929/12/6 - 2016/3/5) === 1930年代 === *[[ロリン・マゼール]] (Lorin Maazel, 1930/3/6 - 2014/7/13) *[[トーマス・シッパーズ]] (Thomas Schippers, 1930/3/9 - 1977/12/16) *[[ポール・ケンツ]](Paul Kuentz, 1930/5/4 - ) *[[カルロス・クライバー]] (Carlos Kleiber, 1930/7/3 - 2004/7/13) *[[ギュラ・ネーメト]] (Gyula Németh, 1930/7/17 - 2016/2/27) *[[ヨルマ・パヌラ]] (Jorma Panula, 1930/8/10 - ) *[[ジェームズ・ロックハート]] (ames Lockhart, 1930/10/16 - ) *[[ヴァーノン・ハンドリー]] (Vernon Handley, 1930/11/11 - 2008/9/10) *[[カジミエシュ・コルト]] (Kazimierz Kord, 1930/11/18 - 2021/4/29) *[[ハンス=マルティン・シュナイト]] (Hanns-Martin Schneidt, 1930/12/6 - 2018/5/28) *[[ラースロー・ヘルタイ]] (László Heltay, 1930 - ) *[[バリー・タックウェル]] (Barry Tuckwell, 1931/3/5 - ) *[[ラドミル・エリシュカ]] (Radomil Eliška, 1931/4/6 - 2019/9/1) *[[ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー]] (Gennady Rozhdestvensky, 1931/5/4 - 2018/6/16) *[[ジェームス・ロッホラン]] (James Loughran, 1931/6/30 - ) *[[モーシェ・アツモン]] (Moshe Atzmon, 1931/7/30 - ) *[[ネルロ・サンティ]] (Nello Santi, 1931/9/22 - 2020/2/6) *[[ギュンター・ヘルビヒ]] (Gunther Herbig, 1931/11/30 - ) *[[ジュゼッペ・パターネ|ジュゼッペ・パタネ]] (Giuseppe Patanè, 1932/1/1 - 1989/5/29) *[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]] (John Towner Williams, 1932/2/8 - ) *[[アルミン・ジョルダン]] (Armin Jordan, 1932/4/9 - 2006/9/20) *[[マルク・エルムレル]] (Mark Ermler, 1932/5/5 - 2002/4/14) *[[ユーリ・アーロノヴィチ]] (Yuri Mikhaylovich Ahronovitch, 1932/5/13 - 2002/10/31) *[[ウラジーミル・フェドセーエフ]] (Vladimir Fedoseev, 1932/8/5 - ) *[[アントン・ナヌート]] (Anton Nanut, 1932/9/13 - 2017/1/13) *[[カルロス・パイタ]] (Carlos Paita, 1932 - 2015/12/19) *[[リボール・ペシェク]] (Libor Pešek, 1933/6/22 - ) *[[ヴィクトル・フェドートフ]] (Viktor Fedotov, 1933/7/9 - 2001/12/4) *[[ヘルムート・ミュラー=ブリュール]] (Helmut Müller-Brühl, 1933/6/28 - 2012/1/2) *[[ヘルムート・リリング]] (Helmuth Rilling, 1933/5/29 - ) *[[クラウディオ・アバド]] (Claudio Abbado, 1933/6/26 - 2014/1/20) *[[ヴァーシャーリ・タマーシュ|タマーシュ・ヴァーシャーリ]] (Tamás Vásáry, 1933/8/11 - ) *[[ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス]] (Rafael Fruhbeck de Burgos, 1933/9/15 - 2014/6/11) *[[リチャード・ボニング]] (Richard Bonynge, 1933/9/29- ) *[[ミシェル・プラッソン]] (Michel Plasson, 1933/10/2- ) *[[ミシェル・コルボ]] (Michel Corboz, 1934/2/14 - ) *[[アルド・チェッカート]] (Aldo Ceccato, 1934/2/18 - ) *[[ロジャー・ノリントン]] (Roger Norrington, 1934/3/16 - ) *[[フィリップ・アントルモン]] (Philippe Entremont, 1934/6/6 - ) *[[フランス・ブリュッヘン]] (Frans Bruggen, 1934/10/30 - 2014/8/13) *[[デーヴィッド・ロイド=ジョーンズ]] (David Lloyd-Jones, 1934/11/19 - ) *[[アレクサンドル・ドミトリエフ]] (Alexander Dmitriev, 1935/1/19 - ) *[[ミシェル・サッソン]] (Michel Sasson, 1935/5/18 - 2013/3/26) *[[エリック・カンゼル]] (Erich Kunzel, 1935/5/21 - 2009/9/1) *[[フランク・シップウェイ]] (Frank Edwin Shipway, 1935/7/9 - 2014/8/6) *[[ゲルト・アルブレヒト]] (Gerd Albrecht,1935/7/19 - 2014/2/2) *[[ペーター・シュライアー]] (Peter Schreier, 1935/7/29 - ) *[[ヴラディミール・ヴァーレク]] (Vladimír Válek, 1935/9/2 - ) *[[マティアス・クンチュ]] (Matthias Kuntzsch, 1935/9/22 - ) *[[レオポルト・ハーガー]] (Leopold Hager, 1935/10/6 - ) *[[フュルスト・ヤーノシュ|ヤーノシュ・フュルスト]] (Furst Janos, 1935 - 2007/1/3) *[[ジャン=クロード・カサドシュ]] (Jean-Claude Casadesus, 1935/12/7 - ) *[[イヴ・クウェラー]] (Eve Queler, 1936/1/1 - ) *[[ズデニェク・マーツァル]] (Zdeněk Mácal, 1936/1/8 - 2023/10/25) *[[エリアフ・インバル]] (Eliahu Inbal, 1936/2/16 - ) *[[ローレンス・レイトン・スミス]] (Lawrence Leighton Smith, 1936/4/8 - 2013/10/25) *[[イェジー・マクシミウク]] (Jerzy Maksymiuk, 1936/4/9 - ) *[[ベルンハルト・クレー]] (Bernhard Klee, 1936/4/19 - ) *[[ズービン・メータ]] (Zubin Mehta, 1936/4/29 - ) *[[金炳華]] (1936/5/16 - ) *[[ヤンスク・カヒッゼ]] (Jansug Kakhidze, 1936/5/26 - 2002/3/8) *[[デイヴィッド・ジンマン]] (David Zinman, 1936/7/10 - ) *[[ピエロ・ガンバ]] (Piero Gamba, 1936/9/16 - ) *[[シャルル・デュトワ]] (Charles Dutoit, 1936/10/7 - ) *[[カール・デイヴィス]] (Carl Davis, 1936/10/28 - ) *[[ブルーノ・マルティノッティ]] (Bruno Martinotti, 1936/11/9 - 1986/3/2) *[[ジェームズ・デプリースト]] (James DePreist, 1936/11/21 - 2013/2/8) *[[ハンス・ツェンダー]] (Hans Zender,1936/11/22 - ) *[[ゾルターン・ペシュコー]] (Zoltan Pesko, 1937/2/15 - ) *[[ヤーノシュ・ペトロー]](János Petró, 1937/3/5 - ) *[[スティーヴン・サイモン]] (Stephen Simon, 1937/5/5 - 2013/1/20) *[[ネーメ・ヤルヴィ]] (Neeme Järvi, 1937/6/7 - ) *[[ウラディーミル・アシュケナージ]] (Vladimir Ashkenazy, 1937/7/6 - ) *[[ロリス・チェクナヴォリアン]] (Loris Tjeknavorian, 1937/10/13 - ) *[[ロベルト・ベンツィ]] (Roberto Benzi, 1937/12/12 - ) *[[イルジー・コウト]] (Jiří Kout, 1937/12/26 - ) *[[スタニスラフ・ゴルコヴェンコ]] (Stanislav Gorkovenko, 1938/1/30 - ) *[[マクシム・ショスタコーヴィチ]] (Maxim Shostakovich, 1938/5/10 - ) *[[サイモン・プレストン]] (Simon Preston, 1938/8/4 - ) *[[ホセ・セレブリエール]] (Jose Serebrier, 1938/12/3 - ) *[[ユーリ・テミルカーノフ]] (Yuri Temirkanov, 1938/12/10 - ) *[[マレク・ヤノフスキ]] (Marek Janowski, 1939/2/18 - ) *[[ペーター・シュナイダー]] (Peter Schneider, 1939/3/26 - ) *[[テオドール・グシュルバウアー]] (Theodor Guschlbauer, 1939/4/14 - ) *[[ハインツ・ホリガー]] (Heinz Holliger, 1939/5/21 - ) *[[ワルター・ウェラー]] (Walter Weller, 1939/11/30 - ) *[[ジェームズ・ゴールウェイ]] (Sir James Galway, 1939/12/8 - ) === 1940年代 === *[[趙貞林]] (1940 - ) *[[クリストフ・エッシェンバッハ]] (Christoph Eschenbach, 1940/2/20 - ) *[[ヘスス・ロペス=コボス]] (Jesus Lopez-Cobos, 1940/2/25 - ) *[[ドミトリー・キタエンコ]] (Dmitri Kitaenko, 1940/8/18 - ) *[[アラン・ロンバール]] (Alain Lombard, 1940/10/4 - ) *[[ジャン=クロード・マルゴワール]] (Jean-Claude Malgoire, 1940/11/25 - ) *[[スティーヴン・コヴァセヴィチ]] (Stephen Kovacevich, 1940/12/17 - ) *[[プラシド・ドミンゴ]] (Placido Domingo, 1941/1/21 - ) *[[ユーリ・シモノフ]](Yuri Simonov, 1941/3/4 - ) *[[エド・デ・ワールト]] (Edo de Waart, 1941/6/1 - ) *[[ハイメ・ラレード]] (Jaime Laredo, 1941/6/7 - ) *[[リッカルド・ムーティ]] (Riccardo Muti, 1941/7/28 - ) *[[ジョルディ・サバール]] (Jordi Savall, 1941/8/1 - ) *[[ウィリアム・サウスゲート]] (Sir William David Southgate, 1941/8/4 - ) *[[クリストファー・ホグウッド]] (Christopher Hogwood, 1941/9/10 - ) *[[サルヴァトーレ・アッカルド]] (Salvatore Accardo, 1941/9/26 - ) *[[ローレンス・フォスター]] (Lawrence Foster, 1941/10/23 - ) *[[ジョン・ネルソン (指揮者)|ジョン・ネルソン ]] (John Nelson, 1941/12/6 - ) *[[ギルバート・キャプラン]] (Gilbert Kaplan, 1942/3/3 - 2016/1/1) *[[クリストファー・シーマン]] (Christopher Seaman, 1942/3/7 - ) *[[エンリケ・バティス]] (Enrique Batiz, 1942/5/4 - ) *[[ハンス・フォンク (指揮者)|ハンス・フォンク]] (Hans Vonk, 1942/6/18 - 2004/8/29) *[[マティアス・バーメルト]] (Matthias Bamert, 1942/7/5 - ) *[[ジャック・デラコート]] (Jacques Delacôte, 1942/8/16 - ) *[[エドゥアルド・マータ]] (Eduardo Mata, 1942/9/5 - 1995/1/4) *[[オンドレイ・レナールト]] (Ondrej Lenárd, 1942/9/9 - ) *[[トーマス・ザンデルリング]] (Thomas Sanderling, 1942/10/2 - ) *[[ダニエル・バレンボイム]] (Daniel Barenboim, 1942/11/15 - ) *[[ローター・ツァグロセク]] (Lothar Zagrosek, 1942/11/23 - ) *[[ミシェル・タバシュニク]] (Michel Tabachnik, 1942/11/10 - ) *[[マリス・ヤンソンス]] (Mariss Jansons, 1943/1/14 - 2019/11/30) *[[ジョン・エリオット・ガーディナー]] (John Eliot Gardiner, 1943/4/20 - ) *[[ジェフリー・テイト]] (Jeffrey Tate, 1943/4/28 - ) *[[ジェームズ・レヴァイン]] (James Levine, 1943/6/23 - ) *[[金貞均]] (1943/8/5 - ) *[[ウラディーミル・ヴェルビツキー]] (Vladimir Verbitsky, 1943/11/24 - ) *[[エトヴェシュ・ペーテル|ペーテル・エトヴェシュ]] (Eotvos Peterrel, 1944/1/2 - ) *[[アンドルー・デイヴィス (指揮者)|アンドルー・デイヴィス]] (Sir Andrew Frank Davis, 1944/2/2 - ) *[[アントニ・ヴィト]] (Antoni Wit, 1944/2/9 - ) *[[シギスヴァルト・クイケン]] (Sigiswald Kuijken, 1944/2/16 - ) *[[ユリ・シーガル]] (Uri Segal, 1944/3/7 - ) *[[マンフレッド・マイヤーホーファー]] (Manfred Mayrhofer, 1944/4/6 - ) *[[デニス・ラッセル・デイヴィス]] (Dennis Russell Davies, 1944/4/16 - ) *[[ウィリアム・クリスティ]] (William Lincoln Christie, 1944/12/19 - ) *[[レナード・スラットキン]] (Leonard Slatkin, 1944/9/1 - ) *[[ウラディーミル・スピヴァコフ]] (Vladimir Spivakov, 1944/9/12 - ) *[[トン・コープマン]] (Ton Koopman, 1944/10/2 - ) *[[パヴェル・ブベリニコフ]] (Pavel Bubelnikov, 1944/10/19 - ) *[[マイケル・ティルソン・トーマス]] (Michael Tilson-Thomas, 1944/12/21 - ) *[[ニコラス・クレーマー]] (Nicholas Kraemer, 1945/3/7 - ) *[[レイフ・セーゲルスタム]] (Leif Segerstam, 1945/5/2 - ) *[[アレクサンドル・ラザレフ]] (Alexander Lazarev, 1945/7/5 - ) *[[グスタフ・クーン]] (Gustav Kuhn, 1945/8/28 - ) *[[イツァーク・パールマン]] (Itzhak Perlman, 1945/8/31 - ) *[[ジャンルイジ・ジェルメッティ]] (Gianluigi Gelmetti,1945/9/11 - ) *[[ジャン=ジャック・カントロフ]] (Jean-Jacques Kantorow, 1945/10/3 - ) *[[クレール・ジボー]] (Claire Gibault, 1945/10/31 - ) *[[ヨス・ファン・インマゼール|ジョス・ファン・インマゼール]] (Jos van Immerseel, 1945/11/9 - ) *[[ピンカス・スタインバーグ]] (Pinchas Steinberg, 1945/12/13 - ) *[[イルジー・ビエロフラーヴェク]] (Jiří Bělohlávek, 1946/2/24 - 2017/5/31) *[[ユベール・スダーン]] (Hubert Soudant, 1946/3/16 - ) *[[オッコ・カム]] (Okko Kamu, 1946/5/7 - ) *[[ジェフリー・サイモン]] (Geoffrey Simon, 1946/7/3 - ) *[[ルネ・ヤーコプス]] (René Jacobs, 1946/10/30 - ) *[[ジュゼッペ・シノーポリ]] (Giuseppe Sinopoli, 1946/11/2 - 2001/4/20) *[[レオン・ボットスタイン]] (Leon Botstein, 1946/12/14 - ) *[[トレヴァー・ピノック]] (Trevor David Pinnock, 1946/12/16 - ) *[[スチュアート・チャレンダー]] (Stuart Challender, 1947/2/19 - 1991/12/13) *[[アンドリュー・パロット]] (Andrew Parrott, 1947/3/10 - ) *[[アレクサンドル・カントロフ]] (Aleksandr Kantorov, 1947/4/7 - ) *[[ヤン・パスカル・トルトゥリエ]] (Yan Pascal Tortelier, 1947/4/19 - ) *[[ヴァシリー・シナイスキー]] (Vassily Sinaisky, 1947/4/20 - ) *[[フィリップ・ヘレヴェッヘ]] (Philippe Herreweghe, 1947/5/2 - ) *[[エマニュエル・クリヴィヌ]] (Emmanuel Krivine, 1947/5/7 - ) *[[マーク・エルダー]] (Mark Elder, 1947/6/2 - ) *[[ジェラード・シュワルツ]] (Gerard Schwarz, 1947/8/19 - ) *[[バリー・ワーズワース]] (Barry Wordsworth, 1948/2/20 - ) *[[リチャード・ヒコックス]] (Richard Hickox, 1948/3/5 - 2008/11/23) *[[アレクサンダー・ラハバリ]] (Alexander Rahbari, 1948/5/26 - ) *[[エミール・チャカロフ]] (Emil Tchakarov, 1948/6/29 - 1991/8/4) *[[マリオ・ヴェンツァーゴ]] (Mario Venzago, 1948/7/1 - ) *[[シルヴァン・カンブルラン]] (Sylvain Cambreling, 1948/7/2 - ) *[[ピンカス・ズーカーマン]] (Pinchas Zukerman, 1948/7/16 - ) *[[ハンスイェルク・シェレンベルガー]] (Hansjörg Schellenberger, 1948/2/13 - ) *[[スティーブン・クレオバリー]] (Stephen Cleobury, 1948/12/31 - ) *[[アンドレイ・チスチャコフ]] (Andrei Chistyakov, 1949/1/4 - 2000/11/29) *[[オーギュスタン・デュメイ]] (Augustin Dumay, 1949/1/17 - ) *[[ハンス・グラーフ]] (Hans Graf, 1949/2/15 - ) *[[メイア・ミンスキー]] (Meir Minsky, 1949/4/16 - ) *[[ヴァレリー・ポリャンスキー]] (Valery Polyansky, 1949/4/19 - ) *[[ジェーン・グラヴァー]] (Jane Glover, 1949/5/13 - ) *[[アダム・フィッシャー]] (Ádám Fischer, 1949/9/9 - ) *[[ジェームズ・ジャッド]] (James Judd, 1949/10/30 - ) *[[ブルーノ・ヴァイル]] (Bruno Weil, 1949/11/24 - ) *[[イリヤ・ストゥーペル]] (Ilya Stupel, 1949/12/13 - ) === 1950年代 === *[[ハワード・シェリー]] (Howard Shelley, 1950/3/9- ) *[[ジェームズ・コンロン]] (James Conlon, 1950/3/18 - ) *[[クリスティアン・ツァハリアス]](Christian Zacharias, 1950/4/27 - ) *[[リオール・シャンバダール]] (Lior Shambadal, 1950/5/14 - ) *[[ローラン・プティジラール]] (Laurent Petitgirard, 1950/6/10 - ) *[[ヨエル・レヴィ]] (Yoel Levi, 1950/8/16- ) *[[イヴァン・フィッシャー]] (Iván Fischer, 1951/1/1 - ) *[[ロイ・グッドマン]] (Roy Goodman, 1951/1/26 - ) *[[ペトル・アルトリフテル]] (Petr Altrichter, 1951/5/24 - ) *[[ハインリヒ・シフ]] (Heinrich Schiff, 1951/11/18 - ) *[[ケント・ナガノ]] (Kent Nagano, 1951/11/22 - ) *[[ギルバート・ヴァルガ]] (Gilbert Varga, 1952/1/17 - ) *[[コチシュ・ゾルターン|ゾルターン・コチシュ]] (Kocsis Zoltan, 1952/5/30 - 2016/11/6) *[[オリヴァー・ナッセン]] (Oliver Knussen, 1952/6/12 - ) *[[ラインハルト・ゲーベル]] (Reinhard Goebel, 1952/7/31 - ) *[[ヤツェク・カスプシク]] (Matthias Kuntzsch, 1952/8/10 - ) *[[セミヨン・ビシュコフ]] (Semyon Bychkov, 1952/11/30 - ) *[[ティモシー・ロウ]] (Timothy Rowe, 1952 - 2005/2/12) *[[チョン・ミョンフン]] (Myung-Whun Chung, 1953/1/22 - ) *[[ユーリ・バシュメット]] (Yury Bashmet, 1953/1/24 - ) *[[リッカルド・シャイー]] (Riccardo Chailly, 1953/2/20 - ) *[[オスモ・ヴァンスカ]] (Osmo Vanska, 1953/2/28 - ) *[[クラウス・ペーター・フロール]] (Claus Peter Flor, 1953/3/16 - ) *[[ヴァレリー・ゲルギエフ]] (Valery Gergiev, 1953/5/2 - ) *[[エミリオ・ポマリコ]] (Emilio Pomàrico, 1953/6/17 - ) *[[エヴェリーノ・ピド]] (Evelino Pido, 1953/8/16 - ) *[[ミカエル・シェーンヴァント]] (Michael Schonwndt, 1953/9/10 - ) *[[ヒュー・ウルフ]] (Hugh Wolff, 1953/10/21 - ) *[[オーラ・ルードナー]] (Ola Rudner, 1953/12/11 - ) *[[ジャン・レイサム=ケーニック]] (Jan Latham-Koenig, 1953/12/15 - ) *[[マルチェッロ・ヴィオッティ]] (Marcello Viotti, 1954/6/23 - 2005/2/16) *[[ドミトリー・シトコヴェツキー]] (Dmitry Sitkovetsky, 1954/9/27 - ) *[[マルテイン・ハーゼルベック]](Martin Hasselboeck, 1954/11 - ) *[[ドナルド・ラニクルズ]] (Donald Runnicles, 1954/11/16 - ) *[[ロベルト・アバド]] (Roberto Abbado, 1954/12/30 - ) *[[アレクサンドル・ティトフ]] (Aleksandr Veniaminovich Titov, 1954 - ) *[[サイモン・ラトル]] (Simon Rattle, 1955/1/19 - ) *[[ピーター・ウンジャン]] (Peter Oundjian, 1955/12/21 - ) *[[ダグラス・ボストック]] (Douglas Bostock, 1955 - ) *[[クリストフ・ポッペン]] (Christoph Poppen, 1956/3/9 - ) *[[パトリック・ガロワ]] (Patrick Gallois, 1956/4/17 - ) *[[ユッカ=ペッカ・サラステ]] (Jukka-Pekka Saraste, 1956/4/22 - ) *[[マリン・オールソップ]] (Marin Alsop, 1956/10/16 - ) *[[キム・イルジン]] (1956 - ) *[[オレグ・カエターニ]] (Oleg Caetani, 1956 - ) *[[ヴィル・フンブルク]] (Will Humburg, 1957/3/16 - ) *[[ミハイル・プレトニョフ]] (Mikhail Vasilievich Pletnev , 1957/4/14 - ) *[[ティエリー・フィッシャー]] (Thierry Fischer, 1957/9/28 - ) *[[エルヴェ・ニケ]] (Herve Niquet, 1957/10/28 - ) *[[インゴ・メッツマッハー]] (Ingo Metzmacher, 1957/11/10 - ) *[[カルロス・カルマー]] (Carlos Kalmar, 1958/2/26 - ) *[[アイヴァー・ボルトン]] (Ivor Bolton, 1958/5/17 - ) *[[トーマス・ヘンゲルブロック]] (Thomas Hengelbrock, 1958/6/9 -) *[[エサ=ペッカ・サロネン]] (Esa-Pekka Salonen, 1958/6/30 - ) *[[デイヴィッド・ロバートソン]] (David Robertson, 1958/7/19 - ) *[[マンフレート・ホーネック]] (Manfred Honeck, 1958/9/17 - ) *[[フィリップ・ピエルロ]] (Philippe Pierlot, 1958 - ) *[[パスカル・ヴェロ]] (Pascal Verrot, 1959/1/9 - ) *[[ファビオ・ルイージ]] (Fabio Luisi, 1959/1/17 - ) *[[準・メルクル]](Jun Märkl, 1959/2/11 - ) *[[クリスティアン・ティーレマン]] (Christian Thielemann, 1959/4/1 - ) *[[アンドルー・リットン]] (Andrew Litton, 1959/5/16 - ) *[[マーティン・ブラビンズ]] (Martyn Brabbins, 1959/8/13 - ) *[[ヤコフ・クライツベルク]] (Yakov Kreizberg, 1959/10/24 - 2011/3/15 ) *[[マイケル・スターン (指揮者)|マイケル・スターン]] (Michael Stern, 1959/12/17 - ) *[[アントニオ・パッパーノ]] (Antonio Pappano, 1959/12/30 - ) *[[ウルフ・シルマー]] (Ulf Schirmer, 1959 - ) *[[ペトラ・ミュレヤンス]] (Petra Müllejans, 1959 - ) === 1960年代 === *[[リナルド・アレッサンドリーニ]] (Rinaldo Alessandrini、1960/1/25 - ) *[[ディルク・ブロッセ]] (Dirk Brossé, 1960/2/18 - ) *[[ポール・マクリーシュ]] (Paul McCreesh, 1960/5/24 - ) *[[カルロ・リッツィ]] (Carlo Rizzi, 1960/7/19 - ) *[[フランツ・ウェルザー=メスト]] (Franz Welser-Möst, 1960/8/16 - ) *[[トーマス・ファイ]] (Thomas Fey, 1960/11/9 - ) *[[ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン]] (Jaap van Zweden, 1960/12/12 - ) *[[葉詠詩]] (1960 - ) *[[ルイ・ラングレー]] (Louis Langree, 1961/1/11 - ) *[[シモーネ・ヤング]] (Simone Young, 1961/3/2 - ) *[[ファビオ・ビオンディ]] (Fabio Biondi, 1961/3/15 - ) *[[クリストフ・ルセ]] (Christophe Rousset, 1961/4/12 - ) *[[ジェルジ・ジョーリヴァーニ=ラート]](György Győriványi-Ráth, 1961/5/6 - ) *[[ダニエレ・ガッティ]] (Daniele Gatti, 1961/11/6 - ) *[[トマス・ツェートマイアー]] (Thomas Zehetmair, 1961/11/23 - ) *[[クラウディオ・カヴィーナ]] (Claudio Cavina, 1961 - 2020/8/30) *[[セバスティアン・ヴァイグレ]] (Sebastian Weigle, 1961 - ) *[[アルフレード・ベルナルディーニ]] (Alfredo Bernardini, 1961 - ) *[[マラト・ビゼンガリエフ]] (Marat Bisengaliev, 1962/3/15 - ) *[[エマニュエル・アイム]] (Emmanuelle Haim, 1962/5/11 - ) *[[ホセ・マリア・フローレンシオJr.]] (José Maria Florêncio Jr., 1962/6/2 - ) *[[マルク・ミンコフスキ]] (Marc Minkowski, 1962/10/4 - ) *[[ホセ・クーラ]] (1962/12/5 - ) *[[パーヴォ・ヤルヴィ]] (Paavo Jarvi, 1962/12/30 - ) *[[ドミトリ・ヤブロンスキー]] (Dmitry Yablonsky, 1962 - ) *[[アンドレーア・マルコン]] (Andrea Marcon, 1963/2/7 - ) *[[トーマス・ダウスゴー]] (Thomas Dausgaard, 1963/7/4 - ) *[[レナート・パルンボ]] (Renato Palumbo, 1963/7/27 - ) *[[ヨン・ストルゴールズ]] (John Storgards, 1963/10/20 - ) *[[張允聖]] (1963/12/9 - ) *[[ジョナサン・ノット]] (Jonathan Nott, 1963/12/25 - ) *[[ジョナサン・カーネイ]] (Jonathan Carney, 1963 - ) *[[アレクサンドル・ヴェデルニコフ (指揮者)|アレクサンドル・ヴェデルニコフ]] (Aleksandr Aleksandrovich Vedernikov, 1964/1/11 - ) *[[ジョージ・ペーリヴァニアン]] (George Pehlivanian, 1964/4/20 - ) *[[ジャナンドレア・ノセダ]] (Gianandrea Noseda, 1964/4/23 - ) *[[ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ]] (Gottfried von der Goltz, 1964/6/1 - ) *[[マーク・ウィッグルスワース]] (Mark Wigglesworth, 1964/7/19 - ) *[[シュテファン・ザンデルリング]] (Stefan Sanderling, 1964/8/2 - ) *[[ペーテル・フェラネツ]] (Peter Feranec, 1964/9/10 - ) *[[ホ・ムンヨン]](1964 - ) *[[アンドレイ・アニハーノフ]](Andrey Anikhanov、1965/1/11 - ) *[[ベルトラン・ド・ビリー]] (Bertrand de Billy, 1965/1/11 - ) *[[アンドルー・マンゼ]] (Andrew Manze, 1965/1/14 - ) *[[ポール・メイエ]] (Paul Meyer, 1965/3/5 - ) *[[サカリ・オラモ]] (Sakari Oramo, 1965/10/26 - ) *[[カルロス・ミゲル・プリエト]](Carlos Miguel Prieto, 1965/11/11 - ) *[[ジョヴァンニ・アントニーニ]] (Giovanni Antonini, 1965 - ) *[[シュテファン・ヴラダー]] (Stefan Vladar, 1965 - ) *[[キム・ホユン]](1965 - ) *[[ミヒャエル・ザンデルリング]] (Michael Sanderling, 1967/2/21 - ) *[[アラン・ギルバート]] (Alan Gilbert, 1967/2/23 - ) *[[オッリ・ムストネン]] (Olli Mustonen, 1967/6/7 - ) *[[ハンヌ・リントゥ]] (Hannu Lintu, 1967/10/13 - ) *[[レオニダス・カヴァコス]] (Leonidas Kavakos, 1967/10/30 - ) *[[ミゲル・ハース=ベドーヤ]] (Miguel Harth-Bedoya, 1968 - ) === 1970年代 === *[[サッシャ・ゲッツェル]] (Sascha Goetzel, 1970 - ) *[[アントネッロ・マナコルダ]] (Antonello Manacorda, 1970 - ) *[[キリル・ペトレンコ]] (Kirill Garrievich Petrenko, 1972/2/11 - ) *[[ダン・エッティンガー]] (Dan Ettinger, 1971/6/10 - ) *[[クリスティアン・アルミンク]] (Christian Arming, 1971/3/18 - ) *[[フランソワ=グザヴィエ・ロト]] (François-Xavier Roth, 1971/11/6 - ) *[[ステファン・ドヌーヴ]] (Stéphane Denève, 1971/11/24 - ) *[[テオドール・クルレンツィス]] (Teodor Currentzis, 1972/2/24 - ) *[[ウラディーミル・ユロフスキ]] (Vladimir Jurowski, 1972/4/4 - ) *[[クリスチャン・ヤルヴィ]] (Kristjan Järvi, 1972/6/13 - ) *[[アレクサンダー・フレイ (指揮者)|アレクサンダー・フレイ]] (Alexander Frey, 1972/10/5 - ) *[[ドナート・カブレラ]] (Donato Cabrera, 1973/2/4 - ) *[[ジェレミー・ローレル]](Jérémie Rhorer, 1973/7/15 - ) *[[フィリップ・ジョルダン]] (Philippe Jordan, 1974/10/18 - ) *[[エドワード・ガードナー]](Edward Gardner, 1974/11/22 - ) *[[ヤニック・ネゼ=セガン]] (Yannick Nézet-Séguin, 1975/3/6 - ) *[[ダニエル・ハーディング]] (Daniel Harding, 1975/8/31 - ) *[[ヴァシリー・ペトレンコ]] (Vasily Petrenko, 1976/7/7 - ) *[[キリル・カラビツ]] (Kirill Ivanovich Karabits, 1976/12/26 - ) *[[ユライ・ヴァルチュハ]] (Juraj Valčuha, 1976 - ) *[[トゥガン・ソヒエフ]] (Tugan Sokhiev, 1977/10/21 - ) *[[パブロ・エラス=カサド]] (Pablo Heras-Casado, 1977/11/21 - ) *[[アンドレス・オロスコ=エストラーダ ]] (Andrés Orozco-Estrada, 1977/12/14 - ) *[[アンドリス・ネルソンス]] (Andris Nelsons, 1978/11/18 - ) *[[ミハウ・ドヴォジンスキ]] (Michał Dworzyński, 1978/11/19 - ) *[[ミッコ・フランク]] (Mikko Franck, 1979/1/2 - ) === 1980年代以降 === *[[ケン・シェ]] (Ken Hsieh, 1980 - ) *[[ピエタリ・インキネン]] (Pietari Inkinen, 1980/4/29 - ) *[[グスターボ・ドゥダメル]] (Gustavo Dudamel, 1981/1/26 - ) *[[ヤクブ・フルシャ]] (Jakub Hrůša, 1981/7/23 - ) *[[ユージン・ツィガーン]] (Eugene Tzigane, 1981/12/17 - ) *[[クシシュトフ・ウルバンスキ]] (Krzysztof Urbański ,1982/10/17 - ) *[[ロビン・ティチアーティ]] (Robin Ticciati, 1983/4/16 - ) *[[ディエゴ・マテウス]] (Diego Matheuz, 1984/8/9 - ) *[[サントゥ=マティアス・ロウヴァリ]] (Santtu-Matias Rouvali ,1985/11/5 - ) *[[リオネル・ブランギエ]] (Lionel Bringuier, 1986/9/24 - ) *[[アンドレア・バッティストーニ]] (Andrea Battistoni, 1987/7/2 - ) *[[クラウス・マケラ]] (Klaus Makela, 1996/1/17 - ) === 生年不明 === *[[フィリップ・エリス]] *[[リチャード・クック (指揮者)|リチャード・クック]] *[[カール・プロコペッツ]] *[[アンドレア・リカータ]] == 日本の指揮者 == 日本国内の指揮者を、五十音順に並べる。 === あ行 === *[[明石好中]] *[[秋山和慶]] *[[朝比奈隆]] *[[朝比奈千足]] *[[天沼裕子]] *[[荒谷俊治]] *[[荒谷正雄]] *[[有田正広]] *[[安藤芳亮]] *[[飯守泰次郎]] *[[飯森範親]] *[[池田明良]] *[[井﨑正浩]] *[[石川星太郎]] *[[石毛保彦]] *[[石丸寛]] *[[磯部省吾]] *[[稲垣雅之]] *[[井上謹次]] *[[井上喜惟]] *[[井上道義]] *[[今西正和]] *[[今村能]] *[[井村誠貴]] *[[岩城宏之]] *[[岩村力]] *[[上田仁]] *[[浮ヶ谷孝夫]] *[[宇宿允人]] *[[梅田俊明]] *[[江原功]] *[[海老原光]] *[[遠藤武夫]] *[[遠藤浩史]] *[[遠藤雅古]] *[[円光寺雅彦]] *[[大井剛史]] *[[大植英次]] *[[大浦智弘]] *[[大勝秀也]] *[[大河内雅彦]] *[[大澤可直]] *[[大澤健一]] *[[大友直人]] *[[大野和士]] *[[大町陽一郎]] *[[大山平一郎]] *[[岡田司]] *[[岡田友弘]] *[[岡田良機]] *[[岡本一郎]] *[[岡本仁 (音楽家)|岡本仁]] *[[奥田道昭]] *[[尾崎晋也]] *[[長田雅人]] *[[小澤征爾]] *尾崎広隆 *[[尾田真昭]] *[[尾高尚忠]] *[[尾高忠明]] *[[小田野宏之]] *[[尾花輝代充]] === か行 === *[[垣内悠希]] *[[金丸克己]] *[[金山隆夫]] *[[金子登]] *[[上岡敏之]] *[[河合尚市]] *[[川勝和哉]] *[[川瀬賢太郎]] *[[河池良智]] *[[川本貢司]] *[[川本統脩]] *[[菅野宏一郎]] *[[貴志康一]] *[[菊池彦典]] *[[北原幸男]] *[[金聖響]] *[[金洪才]] *[[木村康人]] *[[金昌国]] *[[木許裕介]] *[[草川幸雄]] *[[熊谷弘 (指揮者)|熊谷弘]] *[[久山恵子]] *[[黒岩英臣]] *[[黒川和伸]] *[[栗田哲海]] *[[栗田博文]] *[[現田茂夫]] *[[小泉和裕]] *[[小泉ひろし]] *[[小出雄聖]] *[[国分誠]] *[[小島秀夫 (ヴァイオリニスト)|小島秀夫]] *[[児玉宏]] *[[近衛秀健]] *[[近衛秀麿]] *[[小林恵子 (指揮者)|小林恵子]] *[[小林研一郎]] *[[小船幸次郎]] *[[小松一彦]] *[[小松長生]] === さ行 === *[[斉田好男]] *[[齊藤一郎]] *[[斎藤純一郎]] *[[齋藤秀雄]] *[[齋藤友香理]] *[[堺武弥]] *[[榊原栄]] *[[榊原徹]] *[[坂本和彦]] *[[坂本良隆]] *[[佐々木修 (指揮者)|佐々木 修]] *[[佐渡裕]] *[[佐藤菊夫]] *[[佐藤功太郎]] *[[佐藤俊太郎]] *[[佐藤迪]] *[[佐藤正浩 (指揮者)|佐藤正浩]] *[[汐澤安彦]] *[[篠崎靖男]] *[[篠原正雄]] *[[下野竜也]] *[[新通英洋]] *[[柴田謙]] *[[末廣誠]] *[[杉山直樹 (指揮者)|杉山直樹]] *[[鈴木織衛]] *[[鈴木竜哉]] *[[鈴木秀美 (チェリスト)|鈴木秀美]] *[[鈴木雅明]] *[[鈴木優人]] *[[関谷弘志]] *[[曽我大介]] === た行 === *[[高階正光]] *[[高関健]] *[[高橋敏仁]] *[[高橋利幸 (指揮者)|高橋利幸]] *[[高野秀峰]] *[[高曲伸和]] *[[高谷光信]] *[[田久保裕一]] *[[竹本泰蔵]] *[[田代俊文]] *[[橘直貴]] *[[田中一嘉 (指揮者)|田中一嘉]] *[[田中邦彦 (作曲家)|田中邦彦]] *[[田中信昭]] *[[田中祐子 (指揮者)|田中祐子]] *[[田中良和 (指揮者)|田中良和]] *[[田部井剛]] *[[玉置勝彦]] *[[辻博之]] *[[土屋邦雄]] *[[堤俊作]] *[[手塚幸紀]] *[[寺岡清高]] *[[寺神戸亮]] *[[土肥泰]] *[[当間修一]] *[[遠山信二]] *[[時任康文]] *[[十束尚宏]] *[[外山雄三]] *[[高田信一]] === な行 === *[[内藤彰]] *[[中井章徳]] *[[中込治]] *[[長島達也]] *[[中野振一郎]] *[[長野力哉]] *[[西田直道]] *[[西村友]] *[[西本智実]] *[[新田ユリ]] *[[沼尻竜典]] *[[野口剛夫]] *[[延原武春]] === は行 === *[[橋本久喜]] *[[長谷川朝雄]] *[[服部譲二]] *[[花井哲郎]] *[[早川正昭]] *[[早川彌左衛門]] *[[原田幸一郎]] *[[伴有雄]] *[[阪哲朗]] *[[平井秀明]] *[[広上淳一]] *[[福井雄一]] *[[福田一雄]] *[[福村芳一]] *[[藤岡幸夫]] *[[藤掛廣幸]] *[[藤野浩一]] *[[藤本淳也]] *[[船橋洋介]] *[[星出豊]] *[[堀俊輔]] *[[本名徹次]] === ま行 === *[[牧村邦彦]] *[[槇野伸也]] *[[増井信貴]] *[[増田宏三]] *[[松尾葉子]] *[[松岡究]] *[[松本紀久男|松本紀久雄]] *[[三澤洋史]] *[[三石精一]] *[[三ツ橋敬子]] *[[三宅洋一郎 (音楽家)|三宅洋一郎]] *[[宮松重紀]] *[[宮本文昭]] *[[武藤英明 (指揮者)|武藤英明]] *[[村方千之]] *[[村川千秋]] *[[村上寿昭]] *[[本山秀毅]] *[[森正]] === や行 === *[[矢崎彦太郎]] *[[矢澤定明]] *[[八嶋恵利奈]] *[[八尋和美]] *[[山岡重信]] *[[山上純司]] *[[山下一史]] *[[山田一雄]] *[[山田和樹]] *[[山田耕筰]] *[[山本金雄]] *[[山本力]] *[[山本直純]] *[[山本直忠]] *[[山本七雄]] *[[山本訓久]] *[[八幡修身]] *[[湯浅卓雄]] *[[横島勝人]] *[[吉田裕史]] *[[吉田行地]] === わ行 === *[[若杉弘]] *[[和田一樹]] *[[渡邉暁雄]] *[[渡邊一正]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[指揮者]] *[[合唱指揮者]] *[[オーケストラの一覧]] *[[クラシック音楽の演奏家一覧]] {{デフォルトソート:くらしつくおんかくのしきしやいちらん}} [[Category:指揮者|*くらしつくおんかくいちらん]] [[Category:クラシック音楽の一覧|しきしや]] [[Category:音楽の人名一覧]]
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ピアニスト
ピアニスト(pianist;[pɪˈænɪst])またはピアノ奏者(ピアノそうしゃ)は、広義にはピアノの演奏を行う人のこと、狭義には職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで伴奏を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト(accompanist)と呼ぶ場合がある。 ピアノの直接の原型となる楽器が登場した時期は17世紀ごろであったといわれる(ピアノの項参照)が、それ以前から鍵盤楽器は作曲家にとって重要な素養のひとつであり、名オルガニスト・チェンバロ奏者であった大バッハ以降、鍵盤楽器奏者と作曲家を兼ねた人物は多い。著名な作曲家では、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、リスト、ラフマニノフなどがその例である。職業的なピアニストの成立としては、フランツ・リストやフレデリック・ショパンを嚆矢とすることが多い。彼らはすぐれた作曲家であり、カリスマ的な人気を誇った演奏家であった他に、多くの弟子を育成し、その後の奏法や教授法に影響を与えた人物でもある。現在でもピアニストの影響関係の系譜をたどってゆくと、リストかショパンにたどり着くことが多い。 職業的ピアニストとは、もっとも厳密な意味では、ピアノの演奏やピアノ教育などを主たる職業としている者、それによって生活の資を得ている者を指す。ピアノのソリストや伴奏ピアニスト、さらには各種の音楽学校においてピアノ奏法の教授を主として活動している教育家兼ピアニストなども含まれる。クラシック、ジャズなどのジャンルが比較的数が多いが、ポップスや他の新しいジャンルのピアニストも存在する。 ピアノの演奏を通して演奏会や録音などさまざまな音楽活動を行っているが、いずれも再現芸術としての演奏に力点が置かれているところに特徴がある。 現在ではクラシックの世界の職業的ピアニストの大半は、幼年期からさまざまな音楽教育を受け、ピアノの演奏に親しみ、長じて音楽学校などに通いながら演奏技術を高め、10代から20代の時期に各地のピアノ・コンクールに出場して地歩を築いてゆく。特にクラシックの場合、競争は激烈で、真の意味での「世界的ピアニスト」の座につくのは、それを希望する者のごく一部分でしかない。また、そのなかで歴史に名をとどめる名ピアニストとなると、数はいっそう少なくなる。 上述の演奏家はほんの少数、ごく一部であり、音楽学校や音楽大学を卒業し、初期のピアノ教育や音楽教育を行う職業的ピアニストのほうがはるかに多数存在する。また、ピアノの技術を活かして初等・中等教育の音楽教師となる人も多数存在する。 演奏活動に基をおき活動するピアニストだけではなく、他分野で活動をする者がプロのピアニストとしてコンサートを開く場合もある。 ピティナ・ピアノコンペティションや全日本学生音楽コンクールなどで数々の受賞をしている森保まどか (HKT48) や入江麻衣子(声優)、音楽大学出身である生田絵梨花(乃木坂46)、松井咲子 (AKB48) 、小林萌花 (アイドル)、コンサート活動などを行う松下奈緒(女優)、現在もコンクールを受けているまとばゆう(芸人)など、多岐にわたる。 以上のほかに、pianistという英語の原義どおり、「ピアノを弾く人(弾ける人)」としてのピアニストは各地に存在する。純粋に趣味的に演奏する者は多く、中には趣味が高じてセミプロとして演奏する者もいる。 鍵盤のサイズやピアノ全体のサイズ・構造の影響で、奏者は掌が大い方が比較的有利なので、掌が小さい場合は悩まされることも多々ある。 腱鞘炎、手根管症候群、フォーカル・ジストニアはピアニストには3大疾病と言われている。 五十音順。クラシック音楽の演奏家一覧#ピアノ奏者も参照。 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 わ行 あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 あ行 か行 さ行 た行 は行 ま行 や行 生年代順。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ピアニスト(pianist;[pɪˈænɪst])またはピアノ奏者(ピアノそうしゃ)は、広義にはピアノの演奏を行う人のこと、狭義には職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで伴奏を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト(accompanist)と呼ぶ場合がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ピアノの直接の原型となる楽器が登場した時期は17世紀ごろであったといわれる(ピアノの項参照)が、それ以前から鍵盤楽器は作曲家にとって重要な素養のひとつであり、名オルガニスト・チェンバロ奏者であった大バッハ以降、鍵盤楽器奏者と作曲家を兼ねた人物は多い。著名な作曲家では、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、リスト、ラフマニノフなどがその例である。職業的なピアニストの成立としては、フランツ・リストやフレデリック・ショパンを嚆矢とすることが多い。彼らはすぐれた作曲家であり、カリスマ的な人気を誇った演奏家であった他に、多くの弟子を育成し、その後の奏法や教授法に影響を与えた人物でもある。現在でもピアニストの影響関係の系譜をたどってゆくと、リストかショパンにたどり着くことが多い。", "title": "ピアニストの歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "職業的ピアニストとは、もっとも厳密な意味では、ピアノの演奏やピアノ教育などを主たる職業としている者、それによって生活の資を得ている者を指す。ピアノのソリストや伴奏ピアニスト、さらには各種の音楽学校においてピアノ奏法の教授を主として活動している教育家兼ピアニストなども含まれる。クラシック、ジャズなどのジャンルが比較的数が多いが、ポップスや他の新しいジャンルのピアニストも存在する。 ピアノの演奏を通して演奏会や録音などさまざまな音楽活動を行っているが、いずれも再現芸術としての演奏に力点が置かれているところに特徴がある。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在ではクラシックの世界の職業的ピアニストの大半は、幼年期からさまざまな音楽教育を受け、ピアノの演奏に親しみ、長じて音楽学校などに通いながら演奏技術を高め、10代から20代の時期に各地のピアノ・コンクールに出場して地歩を築いてゆく。特にクラシックの場合、競争は激烈で、真の意味での「世界的ピアニスト」の座につくのは、それを希望する者のごく一部分でしかない。また、そのなかで歴史に名をとどめる名ピアニストとなると、数はいっそう少なくなる。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "上述の演奏家はほんの少数、ごく一部であり、音楽学校や音楽大学を卒業し、初期のピアノ教育や音楽教育を行う職業的ピアニストのほうがはるかに多数存在する。また、ピアノの技術を活かして初等・中等教育の音楽教師となる人も多数存在する。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "演奏活動に基をおき活動するピアニストだけではなく、他分野で活動をする者がプロのピアニストとしてコンサートを開く場合もある。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ピティナ・ピアノコンペティションや全日本学生音楽コンクールなどで数々の受賞をしている森保まどか (HKT48) や入江麻衣子(声優)、音楽大学出身である生田絵梨花(乃木坂46)、松井咲子 (AKB48) 、小林萌花 (アイドル)、コンサート活動などを行う松下奈緒(女優)、現在もコンクールを受けているまとばゆう(芸人)など、多岐にわたる。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以上のほかに、pianistという英語の原義どおり、「ピアノを弾く人(弾ける人)」としてのピアニストは各地に存在する。純粋に趣味的に演奏する者は多く、中には趣味が高じてセミプロとして演奏する者もいる。", "title": "ピアニストの種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "鍵盤のサイズやピアノ全体のサイズ・構造の影響で、奏者は掌が大い方が比較的有利なので、掌が小さい場合は悩まされることも多々ある。", "title": "ピアニストの悩み・問題点" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "腱鞘炎、手根管症候群、フォーカル・ジストニアはピアニストには3大疾病と言われている。", "title": "ピアニストの悩み・問題点" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "五十音順。クラシック音楽の演奏家一覧#ピアノ奏者も参照。", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "あ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "か行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "さ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "た行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "な行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "は行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ま行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "や行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "わ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "あ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "か行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "た行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "な行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "は行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ま行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "や行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ら行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "わ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "あ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "か行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "さ行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "た行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "は行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ま行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "や行", "title": "現代の著名なピアニスト" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "生年代順。", "title": "現代の著名なピアニスト" } ]
ピアニスト(pianist;)またはピアノ奏者(ピアノそうしゃ)は、広義にはピアノの演奏を行う人のこと、狭義には職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで伴奏を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト(accompanist)と呼ぶ場合がある。
{{Otheruses||映画|ピアニスト (映画)}} {{複数の問題 | 独自研究 = 2008年10月31日 (金) 11:22 (UTC) | 出典の明記 = 2013年9月20日 (金) 23:42 (UTC) }} [[File:2010-07-09-gdansk-by-RalfR-284.jpg|thumb|ピアニストのイメージ]] {{Portal クラシック音楽}} '''ピアニスト'''({{lang|en|pianist}};{{IPAc-en|p|ɪ|ˈ|æ|n|ɪ|s|t}})または'''ピアノ奏者'''(ピアノそうしゃ)は、広義には[[ピアノ]]の[[演奏]]を行う人のこと、狭義には職業的なピアノ奏者のこと(日本で多く見られる用法)。本記事では狭義、広義のピアニストの両方を解説する。なお、ピアノで[[伴奏]]を行う人(伴奏者)のことを、アカンパニスト(accompanist)と呼ぶ場合がある。 == ピアニストの歴史 == ピアノの直接の原型となる[[楽器]]が登場した時期は[[17世紀]]ごろであったといわれる([[ピアノ]]の項参照)が、それ以前から[[鍵盤楽器]]は作曲家にとって重要な素養のひとつであり、名[[オルガニスト]]・[[チェンバロ]]奏者であった[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|大バッハ]]以降、鍵盤楽器奏者と作曲家を兼ねた人物は多い。著名な作曲家では、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]、[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]などがその例である。<br>職業的なピアニストの成立としては、'''[[フランツ・リスト]]'''<ref group="注">[[フランツ・リスト]]はホールを使った演奏会や演奏旅行によってピアノ演奏のみで生計を立てることが可能になった初めての人物である(現在の一般の評価からは想像しにくいことではあるが、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]が生前、自身で行った演奏会の評判・成功の程度は、あえてリストのそれと比較すれば、かなり小さいものであった)。</ref>や'''[[フレデリック・ショパン]]'''を嚆矢とすることが多い。彼らはすぐれた作曲家であり、[[カリスマ]]的な人気を誇った演奏家であった他に、多くの弟子を育成し、その後の奏法や教授法に影響を与えた人物でもある。現在でもピアニストの影響関係の系譜をたどってゆくと、リストかショパンにたどり着くことが多い。 == ピアニストの種類 == 職業的ピアニストとは、もっとも厳密な意味では、ピアノの演奏やピアノ教育などを主たる職業としている者、それによって生活の資を得ている者を指す。ピアノの[[ソリスト]]や[[伴奏ピアニスト]]、さらには各種の音楽学校においてピアノ奏法の教授を主として活動している教育家兼ピアニストなども含まれる。[[クラシック音楽|クラシック]]、[[ジャズ]]などのジャンルが比較的数が多いが、[[ポピュラー音楽|ポップス]]や他の新しいジャンルのピアニストも存在する。 ピアノの演奏を通して演奏会や録音などさまざまな音楽活動を行っているが、いずれも再現芸術としての演奏に力点が置かれているところに特徴がある。<!--ただし、トップクラスのピアニストたちは、他人によって作られた曲ではあっても、演奏のなかに深い芸術性や精神性を求め、単なる[[楽譜]]の再現ではなく、一つの表現活動としてピアノを演奏する。※「ピアノ」を他の楽器に変えても成り立つ文章で、記載の意義が見出させない。要出典。--> === 職業的なピアニストになるまで === 現在ではクラシックの世界の職業的ピアニストの大半は、幼年期からさまざまな音楽教育を受け、ピアノの演奏に親しみ、長じて音楽学校などに通いながら演奏技術を高め、10代から20代の時期に各地のピアノ・コンクールに出場して地歩を築いてゆく。特にクラシックの場合、競争は激烈で<!--<ref>{{要出典範囲|競争があまりに激烈なため、身体の健康を害したり、精神的に変調をきたす者もそれなりの数がいる}}。</ref>※復帰の際は要出典明記。-->、真の意味での「世界的ピアニスト」の座につくのは、それを希望する者のごく一部分でしかない。<!--<ref>彼らの多くは芸術家として遇される。また、一握りの者が世界的な名声を勝ちうるとともに、先にあげたような演奏会や録音活動によって広い人気を集めることになる(ただしクラシック、ジャズともに欧米を中心・頂点とする地域的な音楽の様式であり、それ以外の地域ではかならずしも欧米と同等の知名度がピアニストに与えられるわけではない)。</ref>。※復帰の際は要出典明記。-->また、そのなかで歴史に名をとどめる名ピアニストとなると、数はいっそう少なくなる。<!--<ref>なお補足的に述べれば、ピアノの演奏は現代の音楽教育、ことにクラシック分野においては、すべての音楽に対する基礎的な素養として位置づけられることが多く、作曲家、演奏家、[[指揮者]]、[[歌手]]を問わず、その教育の一環としてピアノ演奏の習得が求められることが多い。特に作曲家や指揮者には本職のピアニストと比較しても遜色ないほどの名手がまま見られる。</ref>。※復帰の際は要出典明記。--> === ピアノ教育を行うピアニスト === 上述の演奏家はほんの少数、ごく一部であり、音楽学校や[[音楽大学]]を卒業し、初期のピアノ教育<ref group="注">たとえば幼児などを対象としたもの。</ref>や音楽教育を行う職業的ピアニストのほうがはるかに多数存在する<!--(日本ではこうした人々をなぜかピアニストと呼ばず“ピアノの先生”と呼ぶことが多い。海外では日本で言う「ピアノの先生」のことも「ピアニスト」と呼ぶ国は多々ある)※意見。要出典-->。また、ピアノの技術を活かして初等・中等教育の音楽教師となる人も多数存在する。<!--彼らが充実した活動を行うことによってピアノという楽器は社会に深く根を下ろし、全体的な質を向上させているといえる。※主観的記述。復帰の際は要出典明記。--> === 芸能人ピアニスト === 演奏活動に基をおき活動するピアニストだけではなく、他分野で活動をする者がプロのピアニストとしてコンサートを開く場合もある。 [[ピティナ・ピアノコンペティション]]や[[全日本学生音楽コンクール]]などで数々の受賞をしている[[森保まどか]] ([[HKT48]]) や[[入江麻衣子]]([[声優]])、[[音楽大学]]出身である[[生田絵梨花]]([[乃木坂46]])、[[松井咲子]] ([[AKB48]]) 、[[小林萌花]] (アイドル)、コンサート活動などを行う[[松下奈緒]]([[俳優#性別での分類|女優]])、現在もコンクールを受けている[[まとばゆう]]([[芸人]])など、多岐にわたる。 === アマチュアのピアニスト === 以上のほかに、{{lang|en|pianist}}という英語の原義どおり、「ピアノを弾く人(弾ける人)」としてのピアニストは各地に存在する。純粋に趣味的に演奏する者は多く、中には趣味が高じて[[セミプロフェッショナルスポーツ|セミプロ]]として演奏する者もいる。 === ジャズの世界 === {{節スタブ}} == ピアニストの悩み・問題点 == 鍵盤のサイズやピアノ全体のサイズ・構造の影響で、奏者は掌が大い方が比較的有利なので、掌が小さい場合は悩まされることも多々ある。 [[腱鞘炎]]、手根管症候群、フォーカル・ジストニアはピアニストには3大疾病と言われている<ref>{{Cite book|和書|title=ピアニストの脳を科学する:超絶技巧のメカニズム|url=https://www.worldcat.org/oclc/816872639|publisher=春秋社|date=2012.1|isbn=|oclc=|chapter=5.1. ピアニストの3代疾病|author=古屋晋一}}</ref>。 == 現代の著名なピアニスト == {{See also|Category:各国のピアニスト|Category:日本のピアニスト}} === クラシック音楽 === [[五十音順]]。[[クラシック音楽の演奏家一覧#ピアノ奏者]]も参照。 ==== 日本(ピアニスト) ==== {{div col|colwidth=10em|small=yes}} '''あ行''' *[[青柳いづみこ]] *[[青柳晋]] *[[青島広志]] *[[赤松林太郎]] *[[浅倉大介]] *[[安達朋博]] *[[有賀和子]] *[[有森直樹]] *[[有森博]] *[[井口秋子]] *[[井口基成]] *[[石井永子]] *[[石岡久乃]] *[[市田儀一郎]] *[[伊藤京子 (ピアニスト)|伊藤京子]] *[[伊藤憲孝]] *[[伊藤恵]] *[[伊藤康英]] *[[伊藤夢里子]] *[[稲葉瑠奈]] *[[井上郷子]] *[[井上園子]] *[[井上直幸]] *[[井上二葉]] *[[井下洋子]] *[[今岡淑子]] *[[今川裕代]] *[[今田篤]] *[[入江麻衣子]](声優) *[[岩崎淑]] *[[上杉春雄]] *[[上田和子]] *[[植田伸子]] *[[上原彩子 (ピアニスト)|上原彩子]] *[[上原ひろみ]](ジャズピアニスト) *[[牛田智大]] *[[碓井俊樹]] *[[内田光子]] *[[梅田智也]] *[[瓜生繁子]] *[[江戸京子]] *[[江波有紀]] *[[榎本潤]] *[[海老彰子]] *[[江村夏樹]] *[[遠藤郁子]] *[[及川浩治]] *[[大井和郎]] *[[大井浩明]] *[[大崎結真]] *[[大林武司]] *[[大平勉]] *[[大村典子]] *[[岡田博美]] *[[岡田将]] *[[岡谷かおり]] *[[岡原慎也]] *[[岡本麻子]] *[[小川典子]] *[[奥田弦]] *[[尾西秀勝]] *[[小原孝]] '''か行''' *[[梯剛之]] *[[片岡みどり]] *[[金澤攝]] *[[金子三勇士]] *[[加羽沢美濃]] *[[神谷郁代]] *[[亀井聖矢]] *[[辛島輝治]] *[[河合優子 (ピアニスト)|河合優子]] *[[河内仁志]] *[[河江優]] *[[川島基]] *[[川畑伊知郎]] *[[河村尚子]] *[[川村文雄]] *[[KAN]] *[[神戸絢]] *[[菊池洋子]] *[[木原奈津子]] *[[木村綾子 (ピアニスト)|木村綾子]] *[[清塚信也]] *[[久野久 (ピアニスト)|久野久]] *[[神代麻子]] *[[熊本マリ]] *[[久米大作]] *[[倉本裕基]] *[[幸田延]] *[[高野耀子]] *[[児嶋顕一郎]] *[[小菅優]] *[[児玉麻里]] *[[児玉桃]] *[[小林愛実]] *[[小林亜矢乃]] *[[小林仁 (ピアニスト)|小林仁]] *[[小林萌花]](アイドル) *[[小林道夫 (音楽家)|小林道夫]] *[[小室哲哉]] *[[小山実稚恵]] *[[近藤由貴]] *[[近藤嘉宏]] '''さ行''' *[[斎藤雅広]] *[[阪田知樹]] *[[座光寺公明]] *[[佐々木京子]] *[[佐々木祐子]] *[[佐藤美香]] *[[佐藤礼央]] *[[猿田泰寛]] *[[沢田蒼梧]] *[[澤田柳吉]] *[[實川風]] *[[島谷恵介]] *[[清水和音]] *[[白神典子]] *[[菅佐知子]] *[[菅野雅紀]] *[[杉谷昭子]] *[[角野隼斗]] *[[関孝弘]] *[[関野直樹]] *[[関本昌平]] *[[瀬田敦子]] *[[園田高弘]] *[[反田恭平]] '''た行''' *[[高木早苗]] *[[高木東六]] *[[高田匡隆]] *[[鷹羽弘晃]] *[[高橋アキ]] *[[高橋多佳子]] *[[高橋悠治]] *[[竹村浄子]] *[[田崎悦子]] *[[田代美佳]] *[[田隅靖子]] *[[舘野泉]] *[[田中希代子]] *[[田中敬子 (ピアニスト)|田中敬子]] *[[田辺誠 (ピアニスト)|田辺誠]] *[[田辺緑]] *[[谷池重紬子]] *[[谷本聡子]] *[[田部京子]] *[[田村響]] *[[月野そら]] *[[辻井伸行]] *[[津嶋啓一]] *[[土田英介]] *[[津山祐子]] *[[寺嶋陸也]] *[[土肥泰]] *[[遠山慶子]] *[[戸澤正宇]] *[[鳥羽亜矢子]] *[[富田珠里]] *[[外山啓介]] *[[豊増昇]] '''な行''' *[[内藤忠勝 (ピアニスト)|内藤忠勝]] *[[中川俊郎]] *[[中島剛]] *[[中園理沙]] *[[長富彩]] *[[中野亜貴]](ジャズピアニスト) *[[永野英樹]] *[[仲道郁代]] *[[仲道祐子]] *[[中村沙希]] *[[中村姉妹]] *[[中村紘子]] *[[中村芙悠子]] *[[中村由利子]] *[[奈良希愛]] *[[奈良場恒美]] *[[新垣隆]] *[[西川悟平]] *[[西本夏生]] *[[西村由紀江]] *[[沼田宏行]] *[[沼野真弓]] *[[根岸弥生]] *[[野島稔]] *[[野平一郎]] '''は行''' *[[拝田正機]] *[[萩原麻未]] *[[花岡千春]] *[[羽田健太郎]] *[[羽田裕美]] *[[原智恵子]] *[[原田英代]] *[[ハラミちゃん]] *[[樋口あゆ子]] *[[久元祐子]] *[[平井元喜]] *[[平原誠之]] *[[平間さと子]] *[[平松悠歩]] *[[HIROSHI (ピアニスト)|HIROSHI]] *[[広瀬悦子 (ピアニスト)]] *[[広瀬美紀子]] *[[福山孝]] *[[藤井一興]] *[[藤田晴子]] *[[藤田真央]] *[[フジ子・ヘミング]] *[[干野宜大]] *[[本荘玲子]] *[[本田聖嗣]] '''ま行''' *[[前田拓郎]] *[[真木利一]] *[[牧野由依]] *[[松井咲子]](アイドル) *[[松浦豊明]] *[[松尾薫 (ピアニスト)|松尾薫]] *[[松下奈緒]](女優) *[[松本和将]] *[[松谷翠]] *[[まとばゆう]](お笑い芸人) *[[まらしぃ]] *[[丸山耕路]] *[[丸山美由紀]] *[[三浦謙司]] *[[三浦友理枝]] *[[三柴理]] *[[三舩優子]] *[[宮川彬良]] *[[三宅洋一郎 (音楽家)|三宅洋一郎]] *[[宮崎幸夫]] *[[宮澤むじか]] *[[宮沢明子]] *[[宮谷理香]] *[[務川慧悟]] *[[村崎和子]] *[[村松健]] *[[村元絵美]] *[[室井摩耶子]] *[[森本麻衣]] *[[森矢湖亜姫子]] *[[森保まどか]](アイドル) '''や行''' *[[安川加壽子]] *[[安田英主]] *[[安田正昭]] *[[山岸ルツ子]] *[[山口真広]] *[[山崎真 (ピアニスト)|山崎真]] *[[山崎裕]] *[[山城徹]](ピアノスタジオ) *[[山辺絵理]] *[[山本貴志]] *[[ゆゆうた]] *[[横山幸雄]] *[[YOSHIKI]] *[[吉田友昭]] *[[吉武優]] *[[よみぃ]] '''わ行''' *[[若林顕]] *[[和久井冬麦]] *[[渡辺一世]] *[[渡辺健二 (ピアニスト)|渡辺健二]] {{div col end}} ==== 海外 ==== {{div col|colwidth=20em|small=yes}} '''あ行''' *[[ホーカン・アウストボ]] *[[ユリアンナ・アヴデーエワ]] *[[ヴラディーミル・アシュケナージ]] *[[モニク・アース]] *[[ステファン・アスケナーゼ]] *[[ホアキン・アチューカロ]] *[[エルトン・ジョン]] *[[エマニュエル・アックス]] *[[トーマス・アデス]] *[[アリス・アデール]] *[[ダニエル・アドニ]] *[[アグスティン・アニエヴァス]] *[[ワレリー・アファナシエフ]] *[[ベフゾド・アブドゥライモフ]] *[[マルカンドレ・アムラン]] *[[クラウディオ・アラウ]] *[[マルタ・アルゲリッチ]] *[[ドミトリー・アレクセーエフ]] *[[レイフ・オヴェ・アンスネス]] *[[ゲザ・アンダ]] *[[ピョートル・アンデルジェフスキ]] *[[フィリップ・アントルモン]] *[[アンドレイ・イヴァノヴィチ (ピアニスト)|アンドレイ・イヴァノヴィチ]] *[[コンスタンチン・イグームノフ]] *[[ユージン・イストミン]] *[[イム・ドンヒョク]] *[[ヴァーシャーリ・タマーシュ]] *[[パウル・ウィトゲンシュタイン]] *[[エリソ・ヴィルサラーゼ]] *[[アナトリー・ヴェデルニコフ]] *[[マルグリット・ウェーバー]] *[[ファニー・ウォーターマン]] *[[アルカーディ・ヴォロドス]] *[[アナトール・ウゴルスキ]] 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*[[オルガ・シェプス]] *[[ハワード・シェリー]] *[[アーネスト・シェリング]] *[[ゲザ・ジチー]] *[[アンナ・ステラ・シック]] *[[コンスタンティン・シチェルバコフ]] *[[アンドラーシュ・シフ]] *[[ジョルジュ・シフラ]] *[[マイケル・ジャクソン]] *[[テレンス・ジャッド]] *[[バイロン・ジャニス]] *[[ジェルジ・シャンドール]] *[[イーゴリ・ジューコフ]] *[[マルティン・シュタットフェルト]] *[[ベルンハルト・シュターフェンハーゲン]] *[[ナウム・シュタルクマン]] *[[エドゥアルト・シュトイアーマン]] *[[アルトゥール・シュナーベル]] *[[カール・ウルリッヒ・シュナーベル]] *[[ウワディスワフ・シュピルマン]] *[[アンネローゼ・シュミット]] *[[ジャン=ジャック シュミット]] *[[シュテッフェン・シュライエルマッハー]] *[[アイリーン・ジョイス]] *[[リーリャ・ジルベルシュテイン]] *[[ニカ・シロコラッド]] *[[レオ・シロタ]] *[[アレクサンドル・ジロティ]] *[[クリストフ・シロドー]] *[[ニコライ・ズヴェーレフ]] *[[ディミトリス・スグロス]] *[[シャンタル・スティリアニ]] *[[ロナルド・スミス]] *[[ヤン・スメテルリン]] *[[レギナ・スメンジャンカ]] *[[アレクセイ・スルタノフ]] *[[ウィビ・スルヤディ]] *[[カルロ・ゼッキ]] *[[ピーター・ゼルキン]] *[[ルドルフ・ゼルキン]] *[[フセイン・セルメット]] *[[パーヴェル・セレブリャーコフ]] *[[ヴラディーミル・ソフロニツキー]] *[[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ]] *[[グリゴリー・ソコロフ]] *[[マリオン・ソープ]] *[[ソロモン (ピアニスト)|ソロモン]] *[[ソン・ヨルム]] '''た行''' *[[ベラ・ダヴィドヴィチ]] *[[カール・タウジヒ]] *[[タカーチュ・イェネー]] *[[バリー・ダグラス (音楽家)|バリー・ダグラス]] *[[ガブリエル・タッキーノ]] *[[マッシミリアーノ・ダメリーニ]] *[[セルゲイ・タラソフ (ピアニスト)|セルゲイ・タラソフ ]] *[[マグダ・タリアフェロ]] *[[セルゲイ・タルノフスキー]] *[[オイゲン・ダルベール]] *[[ミシェル・ダルベルト]] *[[ジャンヌ=マリー・ダルレ]] *[[アレクサンドル・タロー]] *[[ダン・タイ・ソン]] *[[ディノ・チアーニ]] *[[シューラ・チェルカスキー]] *[[ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ]] *[[アルド・チッコリーニ]] *[[アンジェイ・チャイコフスキ]] *[[ジャン・チャクムル]] *[[ジュリアス・チャロフ]] *[[チャン・ハオチェン]] *[[デイヴィッド・チューダー]] *[[チョ・ソンジン]] *[[ウィンストン・チョイ]] *[[チョン・ミョンフン]] *[[クリスティアン・ツァハリアス]] *[[クリスティアン・ツィマーマン]] *[[ディーター・ツェヒリン]] *[[セルジオ・ティエンポ]] *[[ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン]] *[[ミッシャ・ディヒター]] *[[セドリック・ティベルギアン]] *[[マリア・ティーポ]] *[[ジャン=イヴ・ティボーデ]] *[[イェルク・デームス]] *[[アルテュール・デ・グレーフ]] *[[ニコライ・デミジェンコ]] *[[フランソワ・デュモン]] *[[ロザリン・テューレック]] *[[フランソワ=ルネ・デュシャーブル]] *[[ヴェロニカ・トゥリスコ]] *[[ユゼフ・トゥルチンスキ]] *[[ニコライ・トカレフ]] *[[ピーター・ドノホー]] *[[アレクサンドル・トラーゼ]] *[[ダニール・トリフォノフ]] *[[ウラディミール・トロップ]] '''な行''' *[[エリー・ナイ]] *[[レフ・ナウモフ]] *[[イヴ・ナット]] *[[タチアナ・ニコライエワ]] *[[牛牛]] *[[アイヴァー・ニュートン]] *[[エルヴィン・ニレジハジ]] *[[ゲンリフ・ネイガウス]] *[[スタニスラフ・ネイガウス]] *[[エルダー・ネボルシン]] *[[パスカル・ネミロフスキ]] *[[エドムント・ノイペルト]] *[[ギオマール・ノヴァエス]] '''は行''' *[[ビリージョエル]] *[[ミヒャエル・ナナサコフ]] *[[フェルディナント・バイエル]] *[[エリック・ハイドシェック]] *[[ハロルド・バウアー]] *[[ジョナサン・パウエル]] *[[リシャルト・バクスト]] *[[ドミトリー・バシキーロフ]] *[[エレーナ・バシュキロワ]] *[[ヴェルナー・ハース]] *[[クララ・ハスキル]] *[[ジーナ・バッカウアー]] *[[ヴィルヘルム・バックハウス]] *[[ニコラス・ハッジス]] *[[ジョイス・ハット]] *[[イグナツィ・パデレフスキ]] *[[パウル・バドゥラ=スコダ]] *[[ヤン・パネンカ]] *[[マイケル・ハーバーマン]] *[[ヴラディーミル・ド・パハマン]] *[[スティーヴン・ハフ]] *[[アダム・ハラシェヴィチ]] *[[カール・ハインリヒ・バルト]] *[[ツィモン・バルト]] *[[ピエール・バルビゼ]] *[[アントーニオ・バルボーザ|アントニオ・バルボーザ]] *[[ヨゼフ・パーレニーチェク]] *[[シモン・バレル]] *[[ダニエル・バレンボイム]] *[[レスリー・ハワード (ピアニスト)|レスリー・ハワード]] *[[レナード・バーンスタイン]] *[[イルマリ・ハンニカイネン]] *[[アレクサンドル・ピサレフ]] *[[リカルド・ビニェス]] *[[アンリエット・ピュイグ=ロジェ]] *[[アンジェラ・ヒューイット]] *[[ハンス・フォン・ビューロー]] *[[マリア・ジョアン・ピレシュ]] *[[イディル・ビレット]] *[[フー・ツォン]] *[[セルジオ・フィオレンティーノ]] *[[アニー・フィッシャー]] *[[エドヴィン・フィッシャー]] *[[イシドール・フィリップ]] *[[ルドルフ・フィルクスニー]] *[[ジャック・フェヴリエ]] *[[ウラディーミル・フェルツマン]] *[[フォルデシュ・アンドール|アンドール・フォルデス]] *[[フジ子・ヘミング|イングリット・フジコ・ヘミング]] *[[フェルッチョ・ブゾーニ]] *[[スタニスラフ・ブーニン]] *[[ルドルフ・ブーフビンダー]] *[[レオン・フライシャー]] *[[アレクサンドル・ブライロフスキー]] *[[ジョン・ブラウニング]] *[[ルイ・ブラッサン]] *[[アワダジン・プラット]] *[[サンソン・フランソワ]] *[[ペーター・フランクル]] *[[ユストゥス・フランツ]] *[[フランシス・プランテ]] *[[ヤコフ・フリエール]] 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伊藤君子
伊藤 君子(いとう きみこ、1946年7月11日 - )は、ジャズシンガー。香川県小豆島町生まれ。武蔵野美術大学油絵科卒業。 4歳のとき、ラジオ番組から流れる美空ひばりの歌声に魅了され、歌手を志す。19歳の時に上京後、武蔵野美術大学油絵科を卒業。その後アニメ制作会社に入社。「オバケのQ太郎」や「リボンの騎士」等の作品の下請けでトレースや色塗り等を行っていた。会社の専務の知り合いのハワイアンバンドに加入後、1969年、中原マキの芸名でポップ演歌歌手としてシングル「幸わせにふるえて」でデビューする。5枚ほどシングルを発売し、その後ジャズピアニストとの出会いをきっかけに、ジャズシンガーの道へ進み、1982年、アルバム『BIRDLAND』で伊藤君子として再デビュー。1984年4月より半年間ニューヨークに滞在しクラブ「サットンズ」に出演した。 1987年にエディ・ゴメス『Power Play』(EPIC/SONY)の録音に参加した。1989年、日米同時リリースされたアルバム『Follow Me』が米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門の16位にチャート・イン(日本人女性歌手で初)。 2004年、押井守監督の映画『イノセンス』主題歌を歌い話題となる。
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伊藤 君子は、ジャズシンガー。香川県小豆島町生まれ。武蔵野美術大学油絵科卒業。
{{Infobox Musician | Name = 伊藤君子 | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = singer | Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = [[武蔵野美術大学]] | Born = {{生年月日と年齢|1946|7|11}} | Died = <!-- 個人のみ --> | Origin = {{JPN}}・[[香川県]][[小豆島町]] | Instrument = [[歌]] | Genre = [[ジャズ]] | Occupation = [[歌手]] | Years_active = [[1982年]] - | Label = {{plainlist| *[[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY]]([[1989年]] - [[1991年]]) *[[ビデオアーツ・ミュージック|One Voice]]([[1992年]] - [[2004年]]) *[[日本コロムビア]]([[2015年]] - )}} | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = [http://www.kimikoitoh.com/ Kimiko Itoh official website] | Notable_instruments = }} '''伊藤 君子'''(いとう きみこ、[[1946年]][[7月11日]]<ref name=hagi>{{Cite web|和書|url=http://hagi.jp/genki/20040614.html |title=小曽根真 伊藤君子|village |accessdate=2008-04-13}}</ref> - )は、[[ジャズ]][[歌手|シンガー]]。[[香川県]][[小豆島町]]生まれ。[[武蔵野美術大学]]油絵科卒業。 == 来歴 == 4歳のとき、ラジオ番組から流れる[[美空ひばり]]の歌声に魅了され、歌手を志す。19歳の時に上京後、武蔵野美術大学油絵科を卒業。その後アニメ制作会社に入社。「[[オバケのQ太郎 (アニメ)|オバケのQ太郎]]」や「[[リボンの騎士]]」等の作品の下請けでトレースや色塗り等を行っていた。会社の専務の知り合いのハワイアンバンドに加入後、[[1982年|1969年]]、中原マキの芸名でポップ演歌歌手としてシングル「幸わせにふるえて」でデビューする。5枚ほどシングルを発売し、その後ジャズピアニストとの出会いをきっかけに、ジャズシンガーの道へ進み、[[1982年]]、アルバム『BIRDLAND』で伊藤君子として再デビュー。[[1984年]][[4月]]より半年間[[ニューヨーク]]に滞在しクラブ「サットンズ」に出演した<ref name=itou.pr>{{Cite web|和書|url=http://www.kimikoitoh.com/profile/|title=伊藤君子プロフィール|accessdate=2009-04-12}}</ref>。 1987年に[[エディ・ゴメス]]『Power Play』([[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY]])の録音に参加した。[[1989年]]、日米同時リリースされたアルバム『Follow Me』が米ラジオ&レコード誌のコンテンポラリー・ジャズ部門の16位にチャート・イン(日本人女性歌手で初)<ref name=itou.pr/>。 2004年、[[押井守]]監督の映画『[[イノセンス]]』主題歌を歌い話題となる。 == 音楽 == * 『[[Follow Me (伊藤君子の曲)|Follow Me]]』 **映画『[[イノセンス]]』の主題歌。[[ホアキン・ロドリーゴ|ロドリーゴ]]作曲の[[アランフエス協奏曲]]第2楽章に歌詞を付けたもの。 * 『River of Crystals』 **映画『イノセンス』の挿入歌。 ;アルバム *1982年 『バードランド (THE BIRDLAND)』 *1986年 『ア・タッチ・オブ・ラブ (A TOUCH OF LOVE)』 *1989年 『フォロー・ミー (FOLLOW ME)』 *1993年 『STANDARDS MY WAY』 *2000年 『KIMIKO』 *2004年 『一度恋をしたら (Once You’ve Been In Love)』 *2007年 『JAZZDAGA?JAZZDAJA!』(津軽弁のジャズ)インディーズ発売 ;ミュージッククリップ *2004年 『[[イノセンス|イノセンスの情景 Animated Clips]]』 == 賞歴 == * [[1987年]] 日本ジャズヴォーカル賞 大賞([[ジャズワールド紙]]主催) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.kimikoitoh.com/ Kimiko Itoh official website] * {{Facebook|ItohKimiko|伊藤君子}} * [https://columbia.jp/artist-info/itohkimiko/ 伊藤君子] - [[日本コロムビア]] * [http://www.jazzpage.net/kimiko/ Jazz Page 伊藤君子] {{Singer-stub}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:いとう きみこ}} [[Category:日本の女性ジャズ歌手]] [[Category:エピックレコードジャパンのアーティスト]] [[Category:日本コロムビアのアーティスト]] [[Category:武蔵野美術大学出身の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1946年生]] [[Category:存命人物]]
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狩野派
狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。 室町幕府の御用絵師となった狩野正信(狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。 狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。 狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。 江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派(江戸狩野)は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、葛飾北斎や写生を重んじることで知られる円山四条派や琳派など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。 芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳や渡辺始興・酒井抱一、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。 なお、岩佐又兵衛も狩野派に学び狩野内膳の弟子になったとされるが詳細は不明。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の狩野一信(梅笑)は増上寺の『五百羅漢図』で知られる狩野一信とは別人である。 狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。 正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)であり、狩野宗茂(狩野氏の祖・工藤茂光の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は下野足利(栃木県足利市)の足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。 正信の画業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱(1467年 - 1477年)の直前の寛正4年(1463年)、30歳の時に京都の雲頂院(相国寺塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・宗湛(小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の文明13年(1481年)、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。 文明14年(1482年)、大御所(前将軍)義政は東山殿(銀閣寺の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。延徳2年(1490年)の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた細川氏に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の狩野元信(1476年? - 1559年)に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。 狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・狩野元信は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は相阿弥、元信と弟・狩野之信が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍家や細川氏との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった石山本願寺の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。 元信は晩年には「越前守」を名乗り、法眼の僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父の得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。 元信には宗信(? - 1545年)、秀頼(生没年不詳)、直信(松栄、1519年 - 1692年)の3人の男子があったが、長男の宗信は天文14年(1545年)に早世したため、宗家を継いだのは三男の直信であった。なぜ次男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町時代から桃山時代に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院障壁画制作には息子の狩野永徳(1543年 - 1590年)とともに参加しているが、父と息子がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。 松栄の嫡男・狩野永徳は州信とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。織田信長、豊臣秀吉といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。 現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。 その後、永徳は天正4年から7年(1576年 - 1579年)、織田信長が建立した安土城天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧御物の『唐獅子図屏風』、上杉氏伝来の国宝『洛中洛外図屏風』が名高く、東京国立博物館の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。永徳は細画と大画のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。 近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野秀頼の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。永徳の弟狩野宗秀(1551年 - 1601年)は元秀とも称し、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である狩野長信(1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。狩野家直系以外の絵師としては、川越・喜多院の『職人尽図屏風』の筆者である狩野吉信(1552年 - 1640年)、京都・豊国神社の『豊国祭礼図屏風』の筆者である狩野内膳(1570年 - 1616年)らが知られる。また、関東では元信の弟子筋に当たる小田原狩野派といわれる絵師たちがおり、前島宗祐や玉楽、官南などの名が伝えられている。 天正18年(1590年)、永徳は父に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565年? - 1608年)と次男・狩野孝信(1571年 - 1618年)である。光信は園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。叔父狩野宗秀の後見を受ける中で秀吉存命中は長谷川等伯ら長谷川派の台頭に脅かされるが、秀吉の死後は息子の豊臣秀頼ら豊臣氏からの注文が増え、園城寺勧学院客殿障壁画と都久夫須麻神社障壁画、相国寺法堂天井画『蟠龍図』などを制作する一方で徳川家康にも接近、慶長6年に死亡した宗秀の遺児で従弟の狩野甚之丞(1583年? - 1628年?)の面倒を見たり、秀頼の大坂と家康の伏見の双方へ行き来する多忙な生活を送った。かたやもう1人の叔父で宗秀の弟・狩野長信は家康の子の徳川秀忠に仕えて江戸へ移り、御用絵師を務めることになったが、後に他の狩野一族も長信に呼び寄せられ、江戸狩野を形成して江戸幕府に仕えることになる。 慶長13年(1608年)に狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、叔父で光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。孝信は元和4年(1618年)に亡くなるまで内裏の御用を務め紫宸殿の賢聖障子絵を描いた一方、家康の側近金地院崇伝と書状を交わし徳川氏との結びつきを強めた。豊臣氏との繋がりも保ち、狩野内膳らが豊臣氏の御用絵師になっている。 封建制度の下では光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、元和9年(1623年)に貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602年 - 1674年)、尚信(1607年 - 1650年)、安信(1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末子の安信は従兄の貞信の養子という扱いで狩野宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。 守信は寛永12年(1635年)に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年(1612年)、11歳の時に駿府で家康に対面、元和3年(1617年)に江戸に召されて御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。 探幽の作品のうち、元和9年(1623年)に描いた大坂城の障壁画は慶応4年(明治元年・1868年)に火災に遭い建物とともに消滅した。内裏の障壁画は4度(1623年・1642年・1655年・1662年)、江戸城の障壁画も4度描いたが(1622年・1640年または1647年・1650年・1659年)、この2ヶ所の障壁画も火災で焼失してしまい現存していない。寛永11年(1634年)制作の名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)は第二次世界大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に寛永3年(1626年)制作の二条城二の丸御殿や寛永18年(1641年)制作の大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。二条城二の丸御殿障壁画は寛永3年の25歳の頃の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、寛永18年の40歳の頃に描いた大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。 これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。絵巻や屏風には大和絵風の作品もあり、前者は寛永13年(1636年)から寛永17年(1640年)まで4年をかけて弟子達を集めた工房を動員して制作した『東照宮縁起絵巻』、後者は明暦3年(1657年)作の『桐鳳凰図屏風』、『四季松図屏風』などがある。掛軸は肖像画・富士山図がそれぞれ50点近く残っているが、山水図・花鳥図・人物図なども合わせると数倍に上るという。 探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。 江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本(絵手本)に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。 奥絵師は旗本と同格で、将軍への御目見と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽の系統の鍛冶橋家、尚信の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信の系統の中橋家、それに尚信の孫の狩野岑信(1662年 - 1708年)の系統の浜町家である(岑信は尚信の長男狩野常信(1636年 - 1713年)の次男。母は安信の娘であるため安信の外孫でもある)。また奥絵師代表として狩野派の棟梁同然の立場に触頭(頭取とも呼ばれる。寺社奉行の下にある同名の役割とは別)があり、内裏や江戸城の造営で狩野派を統率、各部屋の絵様案と筆者を決める権限があった。初め探幽・安信が触頭になったが、後に木挽町家が触頭を担当していった。 表絵師は探幽の養子狩野益信(1625年 - 1694年)の系統の駿河台家が筆頭で、当家のみ20人扶持である。山下家は10人扶持で狩野元俊の系統、その他は全て5人扶持で、深川水場町家は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、稲荷橋家は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、御徒士町家は狩野長信の系統、麻布一本松家は長信三男、狩野休円清信の系統、本所緑町家は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、勝田家は勝田竹翁の系統、神田松永町家は狩野宗也種信子孫の系統、芝愛宕下家は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、浅草猿屋町代地家は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、猿屋町代地家分家は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、根岸御行之松家は松栄門人、狩野内膳の系統、築地小田原町家は松栄門人、狩野宗心種永の系統、金杉片町家は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった。 このほか、狩野興以(? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。 一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、永徳の弟子であった狩野山楽(1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1590年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を子の狩野永納(1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。 探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信)を養子としたが、後に探幽が50歳を過ぎて実子狩野探信(守政、1653年 - 1718年)が生まれると益信は別家という形で駿河台家を興し、守政が2代目当主として跡を継いだ。ところが、知行200石のうち半分の100石を相続した弟の狩野探雪(1655年 - 1714年)および甥の狩野探牛(1696年 - 1714年)が早世したため100石は幕府に没収、守政の能力が探幽に及ばないこともあって、知行が半減した鍛冶橋家は家運を衰退させていった。それでも守政の長男の3代目当主狩野探船(1686年 - 1728年)、弟の4代目当主狩野探常(1696年 - 1756年)、探常の息子の5代目当主狩野探林(1732年 - 1777年)は朝鮮通信使へ贈る屏風を描いたことが確認され、探林の孫で2代目と同名の7代目当主狩野探信(守道、1785年 - 1835年)は大和絵に傾倒して探幽の作品や風俗画の模写などを手掛け中興の祖と称えられたが、家格は江戸時代中期に台頭した木挽町家の下風に置かれ、守道以外に見るべき画人は出なかった。 探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。探幽の姪に当たる国を娶り1男1女を儲けたが、息子彦十郎は悪所通いが原因で狩野家から破門された上佐渡へ配流、娘の清原雪信は女性画家となったが後に駆け落ちしたことが伝えられている。守景の破門も2人の子供達の不祥事によるとされるが、真相は分かっていない。守道にも著名な弟子がおり、沖一峨と狩野了承(表絵師の深川水場町家4代目当主)が挙げられる。 鍛冶橋家は最後の当主狩野探道(1890年 - 1948年)が明治に東京美術学校(現在の東京芸術大学)で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている。 前述のとおり、狩野家の宗家は安信の中橋家が継ぐことになった。2人の兄探幽・尚信に比べて安信は画才が無かったとされるが、彼等亡き後は触頭として狩野派の頂点に立ち、画論『画道要訣』を著した。安信の子の狩野時信(1642年 - 1678年)は父に先立って37歳で没し、その子で安信の孫の狩野主信(ゆきのぶ、号は永叔、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(1652年 - 1724年)と中橋家の後見役を務めた狩野昌運(1637年 - 1702年)は安信の弟子であった。 奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の竹川町家(木挽町家)である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信、その嫡男の狩野周信(1660年 - 1728年)と次男の狩野岑信兄弟らが出ている。常信は安信の存命中は不遇だったが、彼亡き後は法眼、法印と僧位が上がり狩野派での地位を向上させた。岑信は6代将軍徳川家宣の寵愛を受け、後に浜町家として独立し、奥絵師家の1つに数えられるようになった。周信も8代将軍徳川吉宗に寵愛されただけでなく、孫の狩野典信(栄川院、1730年 - 1790年)も吉宗と孫の10代将軍徳川家治に寵愛されたことで出世、奥医師並の待遇と新たな土地を授かり屋敷を移転、以後家名は竹川町家から木挽町家に変わった。 木挽町家からは、江戸時代後期に典信と息子狩野惟信(養川院、1753年 - 1808年)、孫狩野栄信(伊川院、1775年 - 1828年)、曾孫狩野養信(晴川院、1796年 - 1846年)などが出ている。この4人はいずれも優秀で代々触頭を務め、最高の僧位である法印に任じられただけでなく、漢画と大和絵を取り入れながらも新画風に挑戦して秀作を残し、養信は天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として鍛冶橋家・中橋家・浜町家など狩野一族を指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。養信は古画の模写や収集にも尽力した。一般に江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、養信は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。 養信の子狩野雅信(勝川院、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828年 - 1888年)と橋本雅邦(川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。雅信は祖先と同じく触頭と法印を歴任、嘉永5年(1852年)の江戸城西の丸障壁画の制作も狩野一族を率いてこなしたが、本人の画力は乏しかったらしく、芳崖から「師匠は絵を知り給わず」と非難された逸話が伝えられている。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。明治時代の雅信は榎本武揚からの江戸脱走の勧誘を断り、明治3年(1870年)に平民となり、博覧会事務局に雇われたことが確認されている。 狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない。 狩野養信の公用日記や狩野派の資料・談話をまとめた『東洋美術大観』に御用絵師の仕事の詳細な内容が書かれており、江戸城出仕(御定日)は月に12日と少ないが、年中行事参加と合わせると20日に増え、自宅で描く作業まで加わる実態は激務だった。しかも江戸城障壁画・内裏障壁画・朝鮮国王へ贈る屏風制作、将軍子女の婚礼道具の屏風制作、将軍の家臣や奥女中などの贈り物を描く仕事、将軍子女の絵画教師、絵の鑑定もあるため、御用絵師の仕事は多大な収入を見込める反面多忙を極めた。 また、仕事で現代における多彩な各分野の才能を求められ、安村敏信は江戸城障壁画制作をインテリアデザイナー、調度・衣装などのデザインを工芸デザイナー、揮毫(席画)をパフォーマー、古画の鑑定を鑑定家に例えている。 橋本雅邦は明治22年(1889年)の『国華』3号で、彼が入門した木挽町家の画塾での教育を回顧して書き綴った。それによると、授業時間は午前7時から夜10時まで、昼は模写で夜は稽古描きと分けられた。入学は原則として武士の子かつ狩野派の弟子続きの子弟が14歳から15歳で入門。画家の子弟の場合は7歳から8歳で茄子などの簡単な形を描き、惟信が初等教育のために描いた花鳥・山水・人物の手本36枚を収めた「三巻物」を模写、ここまでは初級レベルであり、手慣らしと用筆の練習を学習する(入門者はこれ以上の力を持つ)。画塾入門後も中級レベルである粉本模写から始まり、基本形態の用筆の鍛錬を学ぶ。常信が描いた山水・人物図60枚を収めた巻物5巻「御貸画本」を1年半で模写、続いて常信が描いた花鳥図12枚を半年で模写した後は、雪舟・元信・永徳・李龍眠・顔輝・夏珪・馬遠など和漢の大家の名画「一枚物」を模写、最終段階である探幽の賢聖障子の模写で上級レベルとなるが、一枚物の修了は能力で個人差があり、10年で終える者があれば20年でも終わらない者がいたという。 上級レベルは彩色ほか画の全体構成を学び、一枚物を始めて3年で師匠の彩色の手伝いを命ぜられ着色に進み、7年から8年で師家の画号から一字拝領、それから2年後(9年から10年)に師匠の名から一字拝領して卒業となる。順調に進めば入門から卒業まで11年から12年かかる計算になる。雅邦が教育を通じて強調している点は、「臨写を以て始め臨写を以て終わる」とまとめた教育は線描中心の技巧の訓練になり、用筆の熟達のためにはこの方法が得難い効用を上げると書いている。一方、粉本にこだわる余り模倣に終始して創造性に欠けたとの批判もしている。 木挽町家以外に鍛冶橋家では守道が自由な教育がしていたとされ、弟子の沖一峨と狩野了承は狩野派以外の画風を学び取り、琳派風や南蘋派風の絵を作り上げた。一方、他家の教育については明らかになっていない。 狩野派の画論を説いた書に狩野永納の『本朝画史』・狩野安信の『画道要訣』がある。前者は405人の画家小伝上・中・下巻に日本絵画の山水画・人物画・花鳥画の技法・画家を紹介した巻四の「狩野家累世所用画法」があり、彼等に連なるとした狩野派の正統性を主張した書だが、画論とは少し異なる。後者は優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとする一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、昭和4年(1929年)に狩野忠信が筆写した写本が現存する。 『江戸の狩野派』の系図と『狩野派絵画史』の系図、『別冊太陽 狩野派決定版』の特別付録『決定版狩野派系図』を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "室町幕府の御用絵師となった狩野正信(狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派(江戸狩野)は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、葛飾北斎や写生を重んじることで知られる円山四条派や琳派など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳や渡辺始興・酒井抱一、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、岩佐又兵衛も狩野派に学び狩野内膳の弟子になったとされるが詳細は不明。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の狩野一信(梅笑)は増上寺の『五百羅漢図』で知られる狩野一信とは別人である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)であり、狩野宗茂(狩野氏の祖・工藤茂光の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は下野足利(栃木県足利市)の足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "正信の画業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱(1467年 - 1477年)の直前の寛正4年(1463年)、30歳の時に京都の雲頂院(相国寺塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・宗湛(小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の文明13年(1481年)、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "文明14年(1482年)、大御所(前将軍)義政は東山殿(銀閣寺の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。延徳2年(1490年)の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた細川氏に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の狩野元信(1476年? - 1559年)に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・狩野元信は正信の嫡男で、文明8年(1476年)に生まれた。現存する代表作は大徳寺大仙院方丈の障壁画(方丈は永正10年(1513年)に完成)、天文12年(1543年)の妙心寺霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は相阿弥、元信と弟・狩野之信が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍家や細川氏との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった石山本願寺の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "元信は晩年には「越前守」を名乗り、法眼の僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父の得意とした漢画、水墨画に大和絵の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "元信には宗信(? - 1545年)、秀頼(生没年不詳)、直信(松栄、1519年 - 1692年)の3人の男子があったが、長男の宗信は天文14年(1545年)に早世したため、宗家を継いだのは三男の直信であった。なぜ次男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町時代から桃山時代に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院障壁画制作には息子の狩野永徳(1543年 - 1590年)とともに参加しているが、父と息子がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "松栄の嫡男・狩野永徳は州信とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。織田信長、豊臣秀吉といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、永徳は天正4年から7年(1576年 - 1579年)、織田信長が建立した安土城天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧御物の『唐獅子図屏風』、上杉氏伝来の国宝『洛中洛外図屏風』が名高く、東京国立博物館の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。永徳は細画と大画のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野秀頼の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。永徳の弟狩野宗秀(1551年 - 1601年)は元秀とも称し、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である狩野長信(1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。狩野家直系以外の絵師としては、川越・喜多院の『職人尽図屏風』の筆者である狩野吉信(1552年 - 1640年)、京都・豊国神社の『豊国祭礼図屏風』の筆者である狩野内膳(1570年 - 1616年)らが知られる。また、関東では元信の弟子筋に当たる小田原狩野派といわれる絵師たちがおり、前島宗祐や玉楽、官南などの名が伝えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "天正18年(1590年)、永徳は父に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565年? - 1608年)と次男・狩野孝信(1571年 - 1618年)である。光信は園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。叔父狩野宗秀の後見を受ける中で秀吉存命中は長谷川等伯ら長谷川派の台頭に脅かされるが、秀吉の死後は息子の豊臣秀頼ら豊臣氏からの注文が増え、園城寺勧学院客殿障壁画と都久夫須麻神社障壁画、相国寺法堂天井画『蟠龍図』などを制作する一方で徳川家康にも接近、慶長6年に死亡した宗秀の遺児で従弟の狩野甚之丞(1583年? - 1628年?)の面倒を見たり、秀頼の大坂と家康の伏見の双方へ行き来する多忙な生活を送った。かたやもう1人の叔父で宗秀の弟・狩野長信は家康の子の徳川秀忠に仕えて江戸へ移り、御用絵師を務めることになったが、後に他の狩野一族も長信に呼び寄せられ、江戸狩野を形成して江戸幕府に仕えることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "慶長13年(1608年)に狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、叔父で光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。孝信は元和4年(1618年)に亡くなるまで内裏の御用を務め紫宸殿の賢聖障子絵を描いた一方、家康の側近金地院崇伝と書状を交わし徳川氏との結びつきを強めた。豊臣氏との繋がりも保ち、狩野内膳らが豊臣氏の御用絵師になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "封建制度の下では光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、元和9年(1623年)に貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602年 - 1674年)、尚信(1607年 - 1650年)、安信(1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末子の安信は従兄の貞信の養子という扱いで狩野宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "守信は寛永12年(1635年)に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年(1612年)、11歳の時に駿府で家康に対面、元和3年(1617年)に江戸に召されて御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "探幽の作品のうち、元和9年(1623年)に描いた大坂城の障壁画は慶応4年(明治元年・1868年)に火災に遭い建物とともに消滅した。内裏の障壁画は4度(1623年・1642年・1655年・1662年)、江戸城の障壁画も4度描いたが(1622年・1640年または1647年・1650年・1659年)、この2ヶ所の障壁画も火災で焼失してしまい現存していない。寛永11年(1634年)制作の名古屋城上洛殿の障壁画(水墨)は第二次世界大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に寛永3年(1626年)制作の二条城二の丸御殿や寛永18年(1641年)制作の大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。二条城二の丸御殿障壁画は寛永3年の25歳の頃の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、寛永18年の40歳の頃に描いた大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。絵巻や屏風には大和絵風の作品もあり、前者は寛永13年(1636年)から寛永17年(1640年)まで4年をかけて弟子達を集めた工房を動員して制作した『東照宮縁起絵巻』、後者は明暦3年(1657年)作の『桐鳳凰図屏風』、『四季松図屏風』などがある。掛軸は肖像画・富士山図がそれぞれ50点近く残っているが、山水図・花鳥図・人物図なども合わせると数倍に上るという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本(絵手本)に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "奥絵師は旗本と同格で、将軍への御目見と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽の系統の鍛冶橋家、尚信の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信の系統の中橋家、それに尚信の孫の狩野岑信(1662年 - 1708年)の系統の浜町家である(岑信は尚信の長男狩野常信(1636年 - 1713年)の次男。母は安信の娘であるため安信の外孫でもある)。また奥絵師代表として狩野派の棟梁同然の立場に触頭(頭取とも呼ばれる。寺社奉行の下にある同名の役割とは別)があり、内裏や江戸城の造営で狩野派を統率、各部屋の絵様案と筆者を決める権限があった。初め探幽・安信が触頭になったが、後に木挽町家が触頭を担当していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "表絵師は探幽の養子狩野益信(1625年 - 1694年)の系統の駿河台家が筆頭で、当家のみ20人扶持である。山下家は10人扶持で狩野元俊の系統、その他は全て5人扶持で、深川水場町家は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、稲荷橋家は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、御徒士町家は狩野長信の系統、麻布一本松家は長信三男、狩野休円清信の系統、本所緑町家は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、勝田家は勝田竹翁の系統、神田松永町家は狩野宗也種信子孫の系統、芝愛宕下家は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、浅草猿屋町代地家は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、猿屋町代地家分家は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、根岸御行之松家は松栄門人、狩野内膳の系統、築地小田原町家は松栄門人、狩野宗心種永の系統、金杉片町家は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このほか、狩野興以(? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、永徳の弟子であった狩野山楽(1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1590年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を子の狩野永納(1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信)を養子としたが、後に探幽が50歳を過ぎて実子狩野探信(守政、1653年 - 1718年)が生まれると益信は別家という形で駿河台家を興し、守政が2代目当主として跡を継いだ。ところが、知行200石のうち半分の100石を相続した弟の狩野探雪(1655年 - 1714年)および甥の狩野探牛(1696年 - 1714年)が早世したため100石は幕府に没収、守政の能力が探幽に及ばないこともあって、知行が半減した鍛冶橋家は家運を衰退させていった。それでも守政の長男の3代目当主狩野探船(1686年 - 1728年)、弟の4代目当主狩野探常(1696年 - 1756年)、探常の息子の5代目当主狩野探林(1732年 - 1777年)は朝鮮通信使へ贈る屏風を描いたことが確認され、探林の孫で2代目と同名の7代目当主狩野探信(守道、1785年 - 1835年)は大和絵に傾倒して探幽の作品や風俗画の模写などを手掛け中興の祖と称えられたが、家格は江戸時代中期に台頭した木挽町家の下風に置かれ、守道以外に見るべき画人は出なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。探幽の姪に当たる国を娶り1男1女を儲けたが、息子彦十郎は悪所通いが原因で狩野家から破門された上佐渡へ配流、娘の清原雪信は女性画家となったが後に駆け落ちしたことが伝えられている。守景の破門も2人の子供達の不祥事によるとされるが、真相は分かっていない。守道にも著名な弟子がおり、沖一峨と狩野了承(表絵師の深川水場町家4代目当主)が挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鍛冶橋家は最後の当主狩野探道(1890年 - 1948年)が明治に東京美術学校(現在の東京芸術大学)で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "前述のとおり、狩野家の宗家は安信の中橋家が継ぐことになった。2人の兄探幽・尚信に比べて安信は画才が無かったとされるが、彼等亡き後は触頭として狩野派の頂点に立ち、画論『画道要訣』を著した。安信の子の狩野時信(1642年 - 1678年)は父に先立って37歳で没し、その子で安信の孫の狩野主信(ゆきのぶ、号は永叔、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(1652年 - 1724年)と中橋家の後見役を務めた狩野昌運(1637年 - 1702年)は安信の弟子であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の竹川町家(木挽町家)である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信、その嫡男の狩野周信(1660年 - 1728年)と次男の狩野岑信兄弟らが出ている。常信は安信の存命中は不遇だったが、彼亡き後は法眼、法印と僧位が上がり狩野派での地位を向上させた。岑信は6代将軍徳川家宣の寵愛を受け、後に浜町家として独立し、奥絵師家の1つに数えられるようになった。周信も8代将軍徳川吉宗に寵愛されただけでなく、孫の狩野典信(栄川院、1730年 - 1790年)も吉宗と孫の10代将軍徳川家治に寵愛されたことで出世、奥医師並の待遇と新たな土地を授かり屋敷を移転、以後家名は竹川町家から木挽町家に変わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "木挽町家からは、江戸時代後期に典信と息子狩野惟信(養川院、1753年 - 1808年)、孫狩野栄信(伊川院、1775年 - 1828年)、曾孫狩野養信(晴川院、1796年 - 1846年)などが出ている。この4人はいずれも優秀で代々触頭を務め、最高の僧位である法印に任じられただけでなく、漢画と大和絵を取り入れながらも新画風に挑戦して秀作を残し、養信は天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として鍛冶橋家・中橋家・浜町家など狩野一族を指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。養信は古画の模写や収集にも尽力した。一般に江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、養信は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "養信の子狩野雅信(勝川院、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828年 - 1888年)と橋本雅邦(川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。雅信は祖先と同じく触頭と法印を歴任、嘉永5年(1852年)の江戸城西の丸障壁画の制作も狩野一族を率いてこなしたが、本人の画力は乏しかったらしく、芳崖から「師匠は絵を知り給わず」と非難された逸話が伝えられている。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。明治時代の雅信は榎本武揚からの江戸脱走の勧誘を断り、明治3年(1870年)に平民となり、博覧会事務局に雇われたことが確認されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "狩野養信の公用日記や狩野派の資料・談話をまとめた『東洋美術大観』に御用絵師の仕事の詳細な内容が書かれており、江戸城出仕(御定日)は月に12日と少ないが、年中行事参加と合わせると20日に増え、自宅で描く作業まで加わる実態は激務だった。しかも江戸城障壁画・内裏障壁画・朝鮮国王へ贈る屏風制作、将軍子女の婚礼道具の屏風制作、将軍の家臣や奥女中などの贈り物を描く仕事、将軍子女の絵画教師、絵の鑑定もあるため、御用絵師の仕事は多大な収入を見込める反面多忙を極めた。", "title": "御用絵師の仕事" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、仕事で現代における多彩な各分野の才能を求められ、安村敏信は江戸城障壁画制作をインテリアデザイナー、調度・衣装などのデザインを工芸デザイナー、揮毫(席画)をパフォーマー、古画の鑑定を鑑定家に例えている。", "title": "御用絵師の仕事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "橋本雅邦は明治22年(1889年)の『国華』3号で、彼が入門した木挽町家の画塾での教育を回顧して書き綴った。それによると、授業時間は午前7時から夜10時まで、昼は模写で夜は稽古描きと分けられた。入学は原則として武士の子かつ狩野派の弟子続きの子弟が14歳から15歳で入門。画家の子弟の場合は7歳から8歳で茄子などの簡単な形を描き、惟信が初等教育のために描いた花鳥・山水・人物の手本36枚を収めた「三巻物」を模写、ここまでは初級レベルであり、手慣らしと用筆の練習を学習する(入門者はこれ以上の力を持つ)。画塾入門後も中級レベルである粉本模写から始まり、基本形態の用筆の鍛錬を学ぶ。常信が描いた山水・人物図60枚を収めた巻物5巻「御貸画本」を1年半で模写、続いて常信が描いた花鳥図12枚を半年で模写した後は、雪舟・元信・永徳・李龍眠・顔輝・夏珪・馬遠など和漢の大家の名画「一枚物」を模写、最終段階である探幽の賢聖障子の模写で上級レベルとなるが、一枚物の修了は能力で個人差があり、10年で終える者があれば20年でも終わらない者がいたという。", "title": "狩野派の教育" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "上級レベルは彩色ほか画の全体構成を学び、一枚物を始めて3年で師匠の彩色の手伝いを命ぜられ着色に進み、7年から8年で師家の画号から一字拝領、それから2年後(9年から10年)に師匠の名から一字拝領して卒業となる。順調に進めば入門から卒業まで11年から12年かかる計算になる。雅邦が教育を通じて強調している点は、「臨写を以て始め臨写を以て終わる」とまとめた教育は線描中心の技巧の訓練になり、用筆の熟達のためにはこの方法が得難い効用を上げると書いている。一方、粉本にこだわる余り模倣に終始して創造性に欠けたとの批判もしている。", "title": "狩野派の教育" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "木挽町家以外に鍛冶橋家では守道が自由な教育がしていたとされ、弟子の沖一峨と狩野了承は狩野派以外の画風を学び取り、琳派風や南蘋派風の絵を作り上げた。一方、他家の教育については明らかになっていない。", "title": "狩野派の教育" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "狩野派の画論を説いた書に狩野永納の『本朝画史』・狩野安信の『画道要訣』がある。前者は405人の画家小伝上・中・下巻に日本絵画の山水画・人物画・花鳥画の技法・画家を紹介した巻四の「狩野家累世所用画法」があり、彼等に連なるとした狩野派の正統性を主張した書だが、画論とは少し異なる。後者は優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとする一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、昭和4年(1929年)に狩野忠信が筆写した写本が現存する。", "title": "狩野派の画論" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "『江戸の狩野派』の系図と『狩野派絵画史』の系図、『別冊太陽 狩野派決定版』の特別付録『決定版狩野派系図』を参照。", "title": "歴代当主(奥絵師4家)" } ]
狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。 室町幕府の御用絵師となった狩野正信(狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
[[ファイル:Kano Eitoku 002.jpg|thumb|300px|right|[[狩野永徳]]筆『唐獅子図』[[宮内庁]][[三の丸尚蔵館]]]] [[File:Birds and flowers of the four seasons.jpg|thumb|300px|right|狩野永徳筆『花鳥図襖』[[聚光院]]]] '''狩野派'''(かのうは)は、[[日本]]絵画史上最大の画派であり、[[室町時代]]中期([[15世紀]])から[[江戸時代]]末期([[19世紀]])まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門[[画家]]集団である。 [[室町幕府]]の[[御用絵師]]となった[[狩野正信]]([[狩野氏]]の祖・[[藤原南家]][[工藤茂光]]の子の[[狩野宗茂]]の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川宗家|徳川将軍家]]などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。 == 概要 == [[File:Maple viewers.jpg|thumb|300px|right|[[狩野秀頼]]筆『高雄観楓図』[[東京国立博物館]]]] 狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである{{sfn|松木寛|1994|p=5-6}}{{sfn|山下裕二|2004|p=付録}}。 狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]に仕えた初代狩野正信とその嫡男・[[狩野元信]]、元信の孫で[[安土城]]や[[大坂城]]の障壁画を制作した[[狩野永徳]]、永徳の孫で[[京都]]から[[江戸]]に本拠を移し、[[江戸城]]、[[二条城]]などの障壁画制作を指揮した[[狩野探幽]]、京都にとどまって「[[京狩野]]」と称された一派を代表する[[狩野山楽]]などが挙げられる。 [[江戸幕府]]の体制が安定して以後の狩野派([[江戸狩野]])は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、[[葛飾北斎]]や写生を重んじることで知られる[[円山四条派]]や[[琳派]]など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう{{sfn|安村敏信|2006|p=2-3}}。 芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=6}}。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして[[日本美術史|日本の絵画史]]を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の[[尾形光琳]]や[[渡辺始興]]・[[酒井抱一]]、写生派の[[円山応挙]]なども初期には狩野派に学んでいる{{sfn|武田恒夫|1995|p=221-225,296}}。 なお、[[岩佐又兵衛]]も狩野派に学び[[狩野内膳]]の弟子になったとされるが詳細は不明{{sfn|辻惟雄|2008|p=58}}。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の[[狩野一信 (梅笑)|狩野一信]](梅笑)は[[増上寺]]の『五百羅漢図』で知られる[[狩野一信]]とは別人である{{sfn|松嶋雅人|2010|p=20}}。 == 歴史 == === 室町時代 === [[ファイル:Zhou Maoshu Appreciating Lotuses.jpg|thumb|200px|right|[[狩野正信]]筆『周茂叔愛蓮図』<br />[[九州国立博物館]]・[[国宝]]]] [[ファイル:Kano White-robed Kannon, Bodhisattva of Compassion.jpg|thumb|200px|right|[[狩野元信]]筆『白衣観音図』<br />[[ボストン美術館]]]] 狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した[[狩野正信]](1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。 正信の出自は[[上総国|上総]]伊北荘大野(現[[千葉県]][[いすみ市]]大野)であり、[[狩野宗茂]]([[狩野氏]]の祖・[[工藤茂光]]の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている<ref>{{Cite book|和書|title=狩野派の巨匠たち|year=1989|publisher=開館三周年記念展|page=39}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=家系|year=1993|publisher=東京堂出版|page=293|author=豊田 武}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=日本の美術 第13~18号|year=1967|publisher=至文堂|page=95}}</ref>。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は[[下野国|下野]]足利([[栃木県]][[足利市]])の[[長尾氏|足利長尾氏]]と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の[[長林寺 (足利市西宮町)|長林寺]]に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている{{sfn|武田恒夫|1995|p=6-7}}。 正信の画業として記録に残る最初の事例は、[[応仁の乱]](1467年 - 1477年)の直前の[[寛正]]4年([[1463年]])、30歳の時に京都の雲頂院([[相国寺]][[塔頭]])に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である[[相国寺]]は室町幕府3代将軍[[足利義満]]創建の禅寺で、[[如拙]]、[[周文]]、[[雪舟]]らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・[[宗湛]](小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍[[足利義政]]に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の[[文明 (日本)|文明]]13年([[1481年]])、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の<ruby>絵所預<rt>えどころあずかり</rt></ruby>の職にあった大和絵系の[[土佐光信]]と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった{{sfn|松木寛|1994|p=10-12,24-25}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=2-8}}。 文明14年([[1482年]])、大御所(前将軍)義政は東山殿([[銀閣寺]]の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。[[延徳]]2年([[1490年]])の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた[[細川氏]]に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の[[狩野元信]](1476年? - 1559年)に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である{{sfn|松木寛|1994|p=12-16,29-33,38}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=9-23}}。 狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・狩野元信は正信の嫡男で、文明8年([[1476年]])に生まれた。現存する代表作は[[大徳寺]]大仙院方丈の障壁画(方丈は[[永正]]10年([[1513年]])に完成)、[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])の[[妙心寺]]霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は[[相阿弥]]、元信と弟・[[狩野雅楽助|狩野之信]]が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった[[足利将軍家]]や細川氏との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった[[石山本願寺]]の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない{{sfn|松木寛|1994|p=36-47,52-57,65,77-78}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=23-33}}。 元信は晩年には「越前守」を名乗り、法眼の[[僧位]]を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父の得意とした漢画、[[水墨画]]に[[大和絵]]の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている{{sfn|松木寛|1994|p=53-54,65}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=36-37,40,44-45}}{{sfn|山下裕二|2004|p=28-37}}。 === 安土桃山時代 === [[ファイル:NanbanCarrack.jpg|thumb|300px|right|[[狩野内膳]]『南蛮屏風』[[神戸市立博物館]]]] [[ファイル:Kano Eitoku - Cypress Trees.jpg|thumb|300px|right|伝狩野永徳筆『[[檜図屏風]]』<br />東京国立博物館・国宝]] [[ファイル:Aronia Blossoms Screen 2.jpg|thumb|300px|right|[[狩野長信]]筆『花下遊楽図(一双のうち)』<br />東京国立博物館・国宝]] 元信には宗信(? - 1545年)、[[狩野秀頼|秀頼]](生没年不詳)、直信([[狩野松栄|松栄]]、1519年 - 1692年)の3人の男子があったが、長男の宗信は[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に早世したため、宗家を継いだのは三男の直信であった。なぜ次男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町時代から[[安土桃山時代|桃山時代]]に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺[[聚光院]]障壁画制作には息子の[[狩野永徳]](1543年 - 1590年)とともに参加しているが、父と息子がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている{{sfn|松木寛|1994|p=63-65}}{{sfn|松木寛|1994|p=82-86}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=52-58}}{{sfn|山下裕二|2004|p=42-43}}。 松栄の嫡男・狩野永徳は<ruby>州信<rt>くにのぶ</rt></ruby>とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない{{sfn|山下裕二|2004|p=46-47,54}}。 現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、<ruby>室中<rt>しっちゅう</rt></ruby>(方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い{{sfn|松木寛|1994|p=82-86}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=63-67}}。 その後、永徳は[[天正]]4年から7年([[1576年]] - [[1579年]])、織田信長が建立した[[安土城]]天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の[[大坂城]]や[[聚楽第]]の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧[[御物]]の『唐獅子図屏風』、[[上杉氏]]伝来の[[国宝]]『[[洛中洛外図]]屏風』が名高く、[[東京国立博物館]]の『[[檜図屏風]]』も古来永徳筆と伝えるものである{{sfn|松木寛|1994|p=91-95,98-101}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=77-84}}。永徳は<ruby>細画<rt>さいが</rt></ruby>と<ruby>大画<rt>たいが</rt></ruby>のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている{{sfn|武田恒夫|1995|p=70-74}}。 近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野秀頼の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている{{sfn|武田恒夫|1995|p=119-120}}。永徳の弟[[狩野宗秀]](1551年 - 1601年)は元秀とも称し、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である[[狩野長信]](1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い{{sfn|武田恒夫|1995|p=122}}{{sfn|山下裕二|2004|p=64-65}}。狩野家直系以外の絵師としては、川越・[[喜多院]]の『職人尽図屏風』の筆者である[[狩野吉信]](1552年 - 1640年)、京都・[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の『[[豊国祭礼図屏風]]』の筆者である[[狩野内膳]](1570年 - 1616年)らが知られる{{sfn|武田恒夫|1995|p=129,131}}{{sfn|山下裕二|2004|p=62-63}}。また、関東では元信の弟子筋に当たる'''小田原狩野派'''といわれる絵師たちがおり、[[前島宗祐]]や玉楽、官南などの名が伝えられている{{sfn|武田恒夫|1995|p=46,49}}。 === 江戸時代前期 === [[ファイル:'Birds and Flowers, pair of six-panel screens by Kano Koi, 17th centory Japan, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|280px|right|[[狩野興以]]筆『花鳥図』[[ホノルル美術館]]]] 天正18年([[1590年]])、永徳は父に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・[[狩野光信]](1565年? - 1608年)と次男・[[狩野孝信]](1571年 - 1618年)である。光信は[[園城寺]]勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『[[本朝画史]]』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。叔父狩野宗秀の後見を受ける中で秀吉存命中は[[長谷川等伯]]ら長谷川派の台頭に脅かされるが、秀吉の死後は息子の[[豊臣秀頼]]ら[[豊臣氏]]からの注文が増え、園城寺勧学院客殿障壁画と[[都久夫須麻神社]]障壁画、相国寺法堂天井画『蟠龍図』などを制作する一方で[[徳川家康]]にも接近、慶長6年に死亡した宗秀の遺児で従弟の[[狩野甚之丞]](1583年? - 1628年?)の面倒を見たり、秀頼の大坂と家康の[[伏見区|伏見]]の双方へ行き来する多忙な生活を送った。かたやもう1人の叔父で宗秀の弟・狩野長信は家康の子の[[徳川秀忠]]に仕えて[[江戸]]へ移り、御用絵師を務めることになったが、後に他の狩野一族も長信に呼び寄せられ、[[江戸狩野]]を形成して[[江戸幕府]]に仕えることになる{{sfn|松木寛|1994|p=110-123}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=85-98}}。 [[慶長]]13年([[1608年]])に狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の[[狩野貞信]](1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、叔父で光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。孝信は[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に亡くなるまで内裏の御用を務め[[紫宸殿]]の[[賢聖障子]]絵を描いた一方、家康の側近[[以心崇伝|金地院崇伝]]と書状を交わし[[徳川氏]]との結びつきを強めた。豊臣氏との繋がりも保ち、狩野内膳らが豊臣氏の御用絵師になっている{{sfn|松木寛|1994|p=123-130}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=98-106}}。 封建制度の下では光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、元和9年([[1623年]])に貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、[[幕末]]に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信([[狩野探幽|探幽]]、1602年 - 1674年)、[[狩野尚信|尚信]](1607年 - 1650年)、[[狩野安信|安信]](1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、<ruby>木挽町<rt>こびきちょう</rt></ruby>狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末子の安信は従兄の貞信の養子という扱いで狩野宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である{{#tag:ref|狩野派宗家継承は貞信の従弟に当たる守信3兄弟のうち末子の安信が継ぐというやや変則的な継承になっているが、これは孝信の意向で守信が元和3年([[1617年]])に秀忠の命で御用絵師に取り立てられ、別家を立てて孝信の家から独立、孝信の死後代わりに彼の家督を尚信が継承、残った安信が宗家の当主に選ばれたからである。また、狩野派の長老格であった狩野長信・狩野吉信が話し合った末に安信の宗家継承に合意、貞信を説得したことで継承が決まり、狩野一族の主だった絵師達は安信を守り立てることを書いた誓約書に署名した。署名者は長信・守信・甚之丞・尚信・狩野新右衛門・[[狩野元俊]]・[[狩野興以]]の7人で、守信が長信に次ぐ序列2位として狩野派内部で急成長していることが誓約書からうかがえる{{sfn|松木寛|1994|p=130-141}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=159-162}}。|group=*}}{{sfn|松木寛|1994|p=134-135,152-153}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=158-159}}。 守信は[[寛永]]12年([[1635年]])に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年([[1612年]])、11歳の時に[[駿府]]で家康に対面、元和3年([[1617年]])に江戸に召されて御用絵師となり、元和7年([[1621年]])には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した{{sfn|安村敏信|2006|p=18-19}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=14-17,20}}。 探幽の作品のうち、元和9年([[1623年]])に描いた大坂城の障壁画は[[慶応]]4年([[明治]]元年・[[1868年]])に火災に遭い建物とともに消滅した。内裏の障壁画は4度(1623年・[[1642年]]・[[1655年]]・[[1662年]])、江戸城の障壁画も4度描いたが([[1622年]]・[[1640年]]または[[1647年]]・[[1650年]]・[[1659年]])、この2ヶ所の障壁画も火災で焼失してしまい現存していない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=22,28-29,37-38}}。寛永11年([[1634年]])制作の[[名古屋城]]上洛殿の障壁画(水墨)は[[第二次世界大戦]]時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に寛永3年([[1626年]])制作の[[二条城]]二の丸御殿や寛永18年([[1641年]])制作の大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である{{sfn|山下裕二|2004|p=70,76-77}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=23,30}}。二条城二の丸御殿障壁画は寛永3年の25歳の頃の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、寛永18年の40歳の頃に描いた大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである{{sfn|安村敏信|2006|p=18,20-21,27}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=157-162}}。 これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。絵巻や屏風には大和絵風の作品もあり、前者は寛永13年([[1636年]])から寛永17年([[1640年]])まで4年をかけて弟子達を集めた工房を動員して制作した『東照宮縁起絵巻』、後者は[[明暦]]3年([[1657年]])作の『桐鳳凰図屏風』、『四季松図屏風』などがある{{sfn|山下裕二|2004|p=68-73}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=26,58-59,67-69,224-229}}。掛軸は肖像画・富士山図がそれぞれ50点近く残っているが、山水図・花鳥図・人物図なども合わせると数倍に上るという{{sfn|門脇むつみ|2014|p=204}}。 探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている{{sfn|安村敏信|2006|p=40}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=124-132}}。 === 江戸時代中期以降 === ==== 諸家形成 ==== 江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「'''奥絵師'''」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「'''表絵師'''」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「'''町狩野'''」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた{{sfn|安村敏信|2006|p=7}}。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本(絵手本)に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない{{sfn|武田恒夫|1995|p=4-6,200,229-230,236-239}}。 奥絵師は旗本と同格で、将軍への[[御目見]]と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽の系統の'''鍛冶橋家'''、尚信の系統の'''木挽町家'''(当初は「竹川町家」)、安信の系統の'''中橋家'''、それに尚信の孫の[[狩野岑信]](1662年 - 1708年)の系統の'''浜町家'''である(岑信は尚信の長男[[狩野常信]](1636年 - 1713年)の次男。母は安信の娘であるため安信の外孫でもある){{sfn|細野正信|1988|p=18,54}}{{sfn|安村敏信|2006|p=43}}。また奥絵師代表として狩野派の棟梁同然の立場に[[触頭]](頭取とも呼ばれる。[[寺社奉行]]の下にある同名の役割とは別)があり、内裏や江戸城の造営で狩野派を統率、各部屋の絵様案と筆者を決める権限があった。初め探幽・安信が触頭になったが、後に木挽町家が触頭を担当していった{{sfn|松木寛|1994|p=199-201}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=254-255,258-259}}。 表絵師は探幽の養子[[狩野益信]](1625年 - 1694年)の系統の'''駿河台家'''が筆頭で、当家のみ20人扶持である。'''山下家'''は10人扶持で[[狩野元俊]]の系統、その他は全て5人扶持で、'''深川水場町家'''は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、'''稲荷橋家'''は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、'''御徒士町家'''は狩野長信の系統、'''麻布一本松家'''は長信三男、狩野休円清信の系統、'''本所緑町家'''は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、'''勝田家'''は[[勝田竹翁]]の系統、'''神田松永町家'''は狩野宗也種信子孫の系統、'''芝愛宕下家'''は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、'''浅草猿屋町代地家'''は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、'''猿屋町代地家分家'''は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、'''根岸御行之松家'''は松栄門人、狩野内膳の系統、'''築地小田原町家'''は松栄門人、狩野宗心種永の系統、'''金杉片町家'''は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった<ref>『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』[[鎌田純一]]、ブリタニカ・ジャパン、2008年</ref>{{sfn|細野正信|1988|p=70}}{{sfn|安村敏信|2006|p=63}}。 このほか、[[狩野興以]](? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に[[紀州徳川家]]に仕えている{{sfn|細野正信|1988|p=74-75}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=267-268}}。 一方、京都に残って活動を続けた「'''[[京狩野]]'''」という一派もあり、永徳の弟子であった[[狩野山楽]](1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・[[大覚寺]]宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の[[狩野山雪]](1590年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を子の[[狩野永納]](1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である{{sfn|武田恒夫|1995|p=274-292}}{{sfn|山下裕二|2004|p=95-115}}。 ==== 鍛冶橋家 ==== 探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信)を養子としたが、後に探幽が50歳を過ぎて実子[[狩野探信 (守政)|狩野探信]](守政、1653年 - 1718年)が生まれると益信は別家という形で駿河台家を興し、守政が2代目当主として跡を継いだ{{sfn|細野正信|1988|p=70}}{{sfn|松木寛|1994|p=177-178,185}}。ところが、知行200石のうち半分の100石を相続した弟の[[狩野探雪]](1655年 - 1714年)および甥の[[狩野探牛]](1696年 - 1714年)が早世したため100石は幕府に没収、守政の能力が探幽に及ばないこともあって、知行が半減した鍛冶橋家は家運を衰退させていった。それでも守政の長男の3代目当主[[狩野探船]](1686年 - 1728年)、弟の4代目当主[[狩野探常]](1696年 - 1756年)、探常の息子の5代目当主[[狩野探林]](1732年 - 1777年)は[[朝鮮通信使]]へ贈る屏風を描いたことが確認され、探林の孫で2代目と同名の7代目当主[[狩野探信 (守道)|狩野探信]](守道、1785年 - 1835年)は大和絵に傾倒して探幽の作品や風俗画の模写などを手掛け中興の祖と称えられたが、家格は江戸時代中期に台頭した木挽町家の下風に置かれ、守道以外に見るべき画人は出なかった{{sfn|細野正信|1988|p=61-62}}{{sfn|松木寛|1994|p=197-201}}{{sfn|安村敏信|2006|p=78-81}}。 探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した[[久隅守景]]が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。探幽の姪に当たる国を娶り1男1女を儲けたが、息子彦十郎は悪所通いが原因で狩野家から破門された上[[佐渡島|佐渡]]へ配流、娘の[[清原雪信]]は女性画家となったが後に駆け落ちしたことが伝えられている{{sfn|安村敏信|2006|p=50-53}}。守景の破門も2人の子供達の不祥事によるとされるが、真相は分かっていない{{sfn|武田恒夫|1995|p=303-304}}。守道にも著名な弟子がおり、[[沖一峨]]と[[狩野了承]](表絵師の深川水場町家4代目当主)が挙げられる{{sfn|安村敏信|2006|p84-87}}{{sfn|山下裕二|2004|p=137}}。 鍛冶橋家は最後の当主[[狩野探道]](1890年 - 1948年)が[[明治]]に[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている{{sfn|安村敏信|2006|p=29}}。 ==== 中橋家 ==== 前述のとおり、狩野家の宗家は安信の中橋家が継ぐことになった。2人の兄探幽・尚信に比べて安信は画才が無かったとされるが、彼等亡き後は触頭として狩野派の頂点に立ち、画論『画道要訣』を著した{{sfn|松木寛|1994|p=180-184}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=229,254}}{{sfn|安村敏信|2006|p=48-49}}。安信の子の[[狩野時信]](1642年 - 1678年)は父に先立って37歳で没し、その子で安信の孫の[[狩野主信]](ゆきのぶ、号は<ruby>永叔<rt>えいしゅく</rt></ruby>、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=108-110}}。都会的な画風で人気を博した[[英一蝶]](1652年 - 1724年)と中橋家の後見役を務めた[[狩野昌運]](1637年 - 1702年)は安信の弟子であった{{sfn|武田恒夫|1995|p=270,304}}{{sfn|安村敏信|2006|p=54-55}}。 ==== 木挽町家 ==== 奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の竹川町家(木挽町家)である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信、その嫡男の[[狩野周信]](1660年 - 1728年)と次男の狩野岑信兄弟らが出ている。常信は安信の存命中は不遇だったが、彼亡き後は法眼、法印と僧位が上がり狩野派での地位を向上させた。岑信は6代将軍[[徳川家宣]]の寵愛を受け、後に浜町家として独立し、奥絵師家の1つに数えられるようになった。周信も8代将軍[[徳川吉宗]]に寵愛されただけでなく、孫の[[狩野典信]](<ruby>栄川院<rt>えいせんいん</rt></ruby>、1730年 - 1790年)も吉宗と孫の10代将軍[[徳川家治]]に寵愛されたことで出世、奥医師並の待遇と新たな土地を授かり屋敷を移転、以後家名は竹川町家から木挽町家に変わった{{sfn|安村敏信|2006|p=43}}{{sfn|細野正信|1988|p=62-66}}{{sfn|松木寛|1994|p=191-197}}{{sfn|安村敏信|2006|p=58-59}}。 木挽町家からは、江戸時代後期に典信と息子[[狩野惟信]](<ruby>養川院<rt>ようせんいん</rt></ruby>、1753年 - 1808年)、孫[[狩野栄信]](<ruby>伊川院<rt>いせんいん</rt></ruby>、1775年 - 1828年)、曾孫[[狩野養信]](<ruby>晴川院<rt>せいせんいん</rt></ruby>、1796年 - 1846年)などが出ている。この4人はいずれも優秀で代々触頭を務め、最高の僧位である法印に任じられただけでなく、漢画と大和絵を取り入れながらも新画風に挑戦して秀作を残し、養信は[[天保]]9年([[1838年]])と同15年([[1844年]])に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として鍛冶橋家・中橋家・浜町家など狩野一族を指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。養信は古画の模写や収集にも尽力した{{sfn|松木寛|1994|p=199-201}}{{sfn|細野正信|1988|p=66-67}}{{sfn|山下裕二|2004|p=124-127,132}}。一般に江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、養信は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある{{sfn|武田恒夫|1995|p=384-386}}{{sfn|山下裕二|2004|p=130-135}}。 養信の子[[狩野雅信]](<ruby>勝川院<rt>しょうせんいん</rt></ruby>、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった[[狩野芳崖]](下関出身、1828年 - 1888年)と[[橋本雅邦]](川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。雅信は祖先と同じく触頭と法印を歴任、[[嘉永]]5年([[1852年]])の江戸城西の丸障壁画の制作も狩野一族を率いてこなしたが、本人の画力は乏しかったらしく、芳崖から「師匠は絵を知り給わず」と非難された逸話が伝えられている{{sfn|細野正信|1988|p=67-69}}{{sfn|松木寛|1994|p=201,214-218}}。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。明治時代の雅信は[[榎本武揚]]からの江戸脱走の勧誘を断り、明治3年([[1870年]])に平民となり、博覧会事務局に雇われたことが確認されている{{sfn|武田恒夫|1995|p=390-392}}。 狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない{{sfn|安村敏信|2006|p=29}}。 == 御用絵師の仕事 == 狩野養信の公用日記や狩野派の資料・談話をまとめた『東洋美術大観』に御用絵師の仕事の詳細な内容が書かれており、江戸城出仕(御定日)は月に12日と少ないが、年中行事参加と合わせると20日に増え、自宅で描く作業まで加わる実態は激務だった。しかも江戸城障壁画・内裏障壁画・[[李氏朝鮮|朝鮮]]国王へ贈る屏風制作、将軍子女の婚礼道具の屏風制作、将軍の家臣や奥女中などの贈り物を描く仕事、将軍子女の絵画教師、絵の鑑定もあるため、御用絵師の仕事は多大な収入を見込める反面多忙を極めた{{sfn|松木寛|1994|p=202}}{{sfn|安村敏信|2006|p=60-61}}。 また、仕事で現代における多彩な各分野の才能を求められ、[[安村敏信]]は江戸城障壁画制作をインテリアデザイナー、調度・衣装などのデザインを工芸デザイナー、[[揮毫]](席画)をパフォーマー、古画の鑑定を鑑定家に例えている{{sfn|安村敏信|2006|p=61}}。 == 狩野派の教育 == 橋本雅邦は明治22年([[1889年]])の『[[国華]]』3号で、彼が入門した木挽町家の画塾での教育を回顧して書き綴った。それによると、授業時間は午前7時から夜10時まで、昼は模写で夜は稽古描きと分けられた。入学は原則として武士の子かつ狩野派の弟子続きの子弟が14歳から15歳で入門。画家の子弟の場合は7歳から8歳で茄子などの簡単な形を描き、惟信が初等教育のために描いた花鳥・山水・人物の手本36枚を収めた「三巻物」を模写、ここまでは初級レベルであり、手慣らしと用筆の練習を学習する(入門者はこれ以上の力を持つ)。画塾入門後も中級レベルである粉本模写から始まり、基本形態の用筆の鍛錬を学ぶ。常信が描いた山水・人物図60枚を収めた巻物5巻「御貸画本」を1年半で模写、続いて常信が描いた花鳥図12枚を半年で模写した後は、雪舟・元信・永徳・[[李龍眠]]・[[顔輝]]・[[夏珪]]・[[馬遠]]など和漢の大家の名画「一枚物」を模写、最終段階である探幽の賢聖障子の模写で上級レベルとなるが、一枚物の修了は能力で個人差があり、10年で終える者があれば20年でも終わらない者がいたという{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|松木寛|1994|p=207-209}}{{sfn|安村敏信|2006|p=74-75}}。 上級レベルは彩色ほか画の全体構成を学び、一枚物を始めて3年で師匠の彩色の手伝いを命ぜられ着色に進み、7年から8年で師家の画号から一字拝領、それから2年後(9年から10年)に師匠の名から一字拝領して卒業となる。順調に進めば入門から卒業まで11年から12年かかる計算になる{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|安村敏信|2006|p=74-75}}{{sfn|松木寛|1994|p=209}}。雅邦が教育を通じて強調している点は、「臨写を以て始め臨写を以て終わる」とまとめた教育は線描中心の技巧の訓練になり、用筆の熟達のためにはこの方法が得難い効用を上げると書いている。一方、粉本にこだわる余り模倣に終始して創造性に欠けたとの批判もしている{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|松木寛|1994|p=211-212}}{{sfn|安村敏信|2006|p=75}}。 木挽町家以外に鍛冶橋家では守道が自由な教育がしていたとされ、弟子の沖一峨と狩野了承は狩野派以外の画風を学び取り、琳派風や[[沈南蘋|南蘋派]]風の絵を作り上げた。一方、他家の教育については明らかになっていない{{sfn|安村敏信|2006|p=75,78,84-87}}。 == 狩野派の画論 == 狩野派の画論を説いた書に狩野永納の『本朝画史』・狩野安信の『画道要訣』がある。前者は405人の画家小伝上・中・下巻に日本絵画の山水画・人物画・花鳥画の技法・画家を紹介した巻四の「狩野家累世所用画法」があり、彼等に連なるとした狩野派の正統性を主張した書だが、画論とは少し異なる{{sfn|細野正信|1988|p=47-53}}{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}。後者は優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとする一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、[[昭和]]4年([[1929年]])に[[狩野忠信]]が筆写した写本が現存する{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}{{sfn|細野正信|1988|p=27-32}}{{sfn|安村敏信|2006|p=49}}。 == 歴代当主(奥絵師4家) == 『江戸の狩野派』の系図と『狩野派絵画史』の系図、『別冊太陽 狩野派決定版』の特別付録『決定版狩野派系図』を参照{{#tag:ref|中橋家当主の代数が本によって違いがあり、『江戸の狩野派』では元信の長男宗信を3代目に数え弟の松栄を4代目にしているが、『狩野派絵画史』で宗信は数えられていない。安信の息子狩野時信も扱いに違いが見られ、『江戸の狩野派』では当主に数えられていないが、『狩野派絵画史』では8代目になっている{{sfn|山下裕二|2004|p=付録}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=430}}。|group=*}}{{sfn|山下裕二|2004|p=付録}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=429-431}}。 === 宗家(中橋家) === # [[狩野正信]](1434年? - 1530年) - 狩野派の祖 # [[狩野元信]](1476年? - 1559年) - 正信の子 # [[狩野松栄]](1519年 - 1592年) - 元信の三男 # [[狩野永徳]](1543年 - 1590年) - 松栄の長男 # [[狩野光信]](1565年 - 1608年) - 永徳の長男 # [[狩野貞信]](1597年 - 1623年) - 光信の長男 # [[狩野安信]](1613年 - 1685年) - 貞信の従弟、[[狩野孝信]]の三男 # [[狩野主信]](1675年 - 1724年) - 安信の孫、[[狩野時信]]の子 # [[狩野憲信]](1692年 - 1731年) - 主信の長男 # [[狩野英信]](1717年 - 1763年) - 憲信の弟、主信の次男 # [[狩野高信]](1740年 - 1794年) - 英信の長男 # [[狩野泰信]](1767年 - 1798年) - 高信の子 # [[狩野邦信]](1786年 - 1840年) - 鍛冶橋家[[狩野探牧]]の次男 # [[狩野永悳|狩野立信]](1814年 - 1891年) - 永悳、木挽町家[[狩野栄信]]の六男 # [[狩野忠信]](1864年 - ?) - 立信の養子 === 鍛冶橋家 === # [[狩野探幽]](1602年 - 1674年) - 狩野孝信の長男 # [[狩野探信 (守政)|狩野探信]](1653年 - 1718年) - 守政、探幽の三男 # [[狩野探船]](1686年 - 1728年) - 探信守政の長男 # [[狩野探常]](1696年 - 1756年) - 探船の弟、探信守政の次男 # [[狩野探林]](1732年 - 1777年) - 探常の長男 # [[狩野探牧]](1762年 - 1832年) - 探林の子 # [[狩野探信 (守道)|狩野探信]](1785年 - 1835年) - 守道、探牧の長男 # [[狩野探淵]](1805年 - 1853年) - 探信守道の子 # [[狩野探原]](1829年 - 1866年) - 探淵の長男 # [[狩野探美]](1840年 - 1893年) - 探原の弟、探淵の次男 # [[狩野探岳]](1859年 - 1922年) - 探美の甥、探原の子 # [[狩野探道]](1890年 - 1948年) - 探岳の子 === 木挽町家 === # [[狩野尚信]](1607年 - 1650年) - 狩野孝信の次男 # [[狩野常信]](1636年 - 1713年) - 尚信の子 # [[狩野周信]](1660年 - 1728年) - 常信の長男 # [[狩野古信]](1698年 - 1731年) - 周信の子 # [[狩野玄信]](1716年 - 1731年) - 浜町家[[狩野甫信]]の長男 # [[狩野典信]](1730年 - 1790年) - 古信の子 # [[狩野惟信]](1753年 - 1808年) - 典信の長男 # [[狩野栄信]](1775年 - 1828年) - 惟信の長男 # [[狩野養信]](1796年 - 1846年) - 栄信の長男 # [[狩野雅信]](1823年 - 1880年) - 養信の長男 === 浜町家 === # [[狩野岑信]](1662年 - 1708年) - 木挽町家狩野常信の次男 # [[狩野甫信]](1696年 - 1745年) - 岑信の弟、木挽町家狩野常信の三男 # [[狩野幸信]](1717年 - 1770年) - 甫信の次男 # [[狩野昆信]](1747年 - 1792年) - 幸信の子 # [[狩野寛信]](1778年 - 1815年) - 昆信の子 # [[狩野昭信]](? - 1816年) - 寛信の長男 # [[狩野助信]](? - 1831年) - 昭信の弟、寛信の次男 # [[狩野中信]](? - 1871年) - 木挽町家狩野栄信の五男 # [[狩野友信]](1843年 - 1912年) - 中信の子 == 画系図 == === 正信から探幽まで === {{familytree/start|style="font-size:65%"}} {{familytree |border=0| | | | | | | masa| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | masa=[[狩野正信|祐勢正信]]<sup>1434-1530</sup>}} {{familytree |border=0| | | | | | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| }} {{familytree |border=0| | | | | | | moto| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |uta|moto=[[狩野元信|永仙元信]]<sup>1477?-1559</sup>|uta=[[狩野雅楽助|雅楽助之信]]}} {{familytree |border=0| |,|-|-|v|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | | | | | | | | | | | | | |!| }} {{familytree |border=0| mune| hide| syoei| soyu| gyoku| gen| | | | | | | | | | | | | fumei|mune=[[狩野宗信]]<sup>?-1545</sup>|hide=[[狩野秀頼|乗真秀頼]]|syoei=[[狩野松栄|松栄直信]]<sup>1519-1592</sup>|soyu=[[前島宗祐]]|gyoku=[[玉楽]]|gen=[[玄也 (絵師)|玄也]]|fumei=?}} {{familytree |border=0| | | | |!| | |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| | |!| }} {{familytree |border=0| | | |hide| ei| sosyu| tane| naga| 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=== 注釈 === {{Reflist|group=*}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == === 書籍 === * [[細野正信]]編『日本の美術262 江戸の狩野派』[[至文堂]]、1988年3月。 * [[松木寛]]『御用絵師狩野家の血と力』[[講談社]]〈[[講談社#ノンフィクション・学芸|講談社選書メチエ]]〉、1994年10月。ISBN 978-4-0625-8030-4 * [[武田恒夫]]『狩野派絵画史』[[吉川弘文館]]、1995年12月。ISBN 978-4-6420-7475-9 * [[山下裕二]]監修、[[安村敏信]]・[[山本英男]]・[[山下善也]]執筆『別冊太陽 狩野派決定版』[[平凡社]]〈別冊太陽〉、2004年9月。ISBN 978-4-5829-2131-1 * 安村敏信『もっと知りたい狩野派 <small>探幽と江戸狩野派</small>』[[東京美術]]、2006年12月。ISBN 978-4-8087-0815-3 * [[辻惟雄]]『岩佐又兵衛 <small>浮世絵をつくった男の謎</small>』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]〉、2008年。 * [[松嶋雅人]]『日本の美術534 狩野一信』[[ぎょうせい]]、2010年。 * [[門脇むつみ]]『巨匠 狩野探幽の誕生 <small>江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇</small>』[[朝日新聞出版]]([[朝日選書]])、2014年。 === 展覧会図録 === *『知られざる「御用絵師の世界」展 第1回江戸開府-元禄 徳川将軍家・御三家・諸大名家の美の系譜』[[朝日新聞社]]編、1992年。 *『知られざる「御用絵師の世界」展 第2回元禄―寛政』 朝日新聞社編、1998年。 *『狩野派の三百年』[[東京都江戸東京博物館]]、1998年。 == 関連項目 == {{Commonscat|Kano school painters}} * [[桃山文化]] * [[寛永文化]] * [[彦根屏風]] * [[瀟湘八景]] * [[風神雷神図]] * [[花鳥画 (日本)]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かのうは}} [[Category:狩野派|*]] [[Category:狩野氏|*は]] [[Category:日本の画家|+]] [[Category:日本美術の流派]] [[Category:画派]] [[Category:室町時代の文化]] [[Category:安土桃山時代の文化]] [[Category:江戸時代の絵画]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E6%B4%BE
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ビー玉
ビー玉(ビーだま)は、玩具の一種。ガラス製の球で、主に遊戯用・観賞用に用いる。通常のサイズは1.5 - 5センチメートル程度。単色のものや、中に模様の入ったもの、大きい玉、小さい玉といろいろな種類がある。無色透明のものもある。ガラスの他に粘土、鋼、プラスチック、または瑪瑙で作られるものもある。 1897年頃に日本で販売された炭酸飲料(ラムネ)の栓として使われていたガラス玉を取り出し、玩具として使われ出したのがビー玉遊びの普及の始まりである。初期のビー玉は、クレーターのような大きなくぼみや歪みがあるなど、形がいびつなものが多かった。 1933年頃に駄菓子屋等でビー玉単体が商品として販売され始めた。朝鮮半島でも日本統治時代の1936年頃から売られるようになり、ビー玉遊びが普及した。1970年代以前に生まれた年代ではビー玉遊びをしたことのない者はいないほど普及した遊びである。 ビー玉の「ビー」はビードロ(vidro、ポルトガル語でガラスのこと)の略である。「ビー玉」の古い用例としては、大正5年(1916年)に執筆された夏目漱石の『明暗』がある。 フランス語ではbille(ビイ)と言う(ビリヤードやルーレットの球もbille)。 ビー玉の呼び方は地方によって様々で、共通語ではおおむね「ビー玉」「ラムネ玉」が主流だが、近畿地方の一部では「ビーダン」と呼んだり、山陽地方や瀬戸内海島嶼では「マーブル」「マーブロ」も聞かれる。その語源は英語のmarbleと思われ、かつてこの地方がカリフォルニアやハワイへの移民の故郷であったこととの関連が考えられる。他にも、昭和30年代の広島県三原市では、市内中央部の東町では「ビー玉」と呼ばれていたが、隣接する糸崎町以東では(ルールは同じであったが)「ビーごろ」と呼ばれていた。さらに東隣の尾道市では「ラッコー」「ラッター」と呼ばれていた。 また、玉の大きさによって呼び方を区別する者もおり、大きいビー玉を「親玉(がんだま、おやだま)」「でかだん」、小さい玉を「ツブ玉」「ちびだん」等と呼ぶこともある。 ラムネビンの栓として使用するガラス玉の等級をかつて「A玉・B玉」と呼んで区別し、このうち規格外品である「B玉」をおもちゃに転用したものという説も存在する。ただしこの説は1990年以降の書籍にしか見当たらず疑わしいとの指摘がある。 2017年現在日本で唯一のビー玉製造会社である松野工業によれば、戦後大阪でビー玉を製造していた6、7軒の会社のうちどこかが「A玉・B玉」の等級で区分していたという話を聞き、そこから松野工業でも「ビー玉」と呼ぶようになったという。 一方、ラムネメーカーの倉敷鉱泉は、玉に多少のゆがみ・傷があってもビンの口ゴムで問題なく密閉されること、明治から昭和初期の技術で検品は難しいであろうことから「A玉・B玉」の等級の存在自体に否定的な立場を取っている。 ビー玉遊びには地方によって様々なルールがあるが、その基本ルールは、ビー玉の所有権のやりとりである。多くの場合、自分のビー玉を弾いて相手のビー玉にぶつけて遊ぶが、ぶつけることによって玉の所有権の移転が発生し、ぶつけられた玉はぶつけた者の所有となる。つまり、Aが自身の所有する玉aを、Bの所有する玉bにぶつけた場合、ぶつけられた玉bの所有権は、BからAに移転する。玉を取られた方は、新たな玉を出して再戦に臨む。これを繰り返して、時にBが勝ち、時にAが勝って、玉のやりとりが行われる。このやりとりにさらに数人が加わることも可能で、4〜5人で遊ぶ場合も多い。また、単にぶつけることだけを目的とし、所有権の移転が発生しない取り決めのもとに遊ぶ場合もある。 近畿地方の一部地域では、「ビーダン」はビー玉そのものを指す呼称であると同時に、ビー玉を使った屋外遊戯の総称でもあった。厳格なルールのもと数段の手順を踏み、最終的にはビー玉のやりとりを目的とした。以下にそのルールを説明する(このルールはかつて近畿地方の一部で遊ばれていたルールであり、あくまで参考資料として記述する。地方・時代により、この遊びそのものの名称・ルール細目・使用される用語等には小異がある)。 2016年にガンビアで行われた大統領選挙では、政党名などが書かれたドラム缶にビー玉を落とす方法で投票が行われた。
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ビー玉(ビーだま)は、玩具の一種。ガラス製の球で、主に遊戯用・観賞用に用いる。通常のサイズは1.5 - 5センチメートル程度。単色のものや、中に模様の入ったもの、大きい玉、小さい玉といろいろな種類がある。無色透明のものもある。ガラスの他に粘土、鋼、プラスチック、または瑪瑙で作られるものもある。
{{Otheruses|玩具|[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]の楽曲|ヒバリのこころ|[[大塚愛]]の楽曲|SMILY/ビー玉}} {{Infobox game | title = ビー玉 | subtitle = | image_link = Marbles 01.JPG | image_caption = | manufacturer = | designer = | illustrator = | publisher = | date = | years = | genre = | players = | setup_time = | playing_time = | random_chance = | skills = | website = <!-- {{URL|https://〇〇〇.com/|〇〇〇公式サイト}}などの形式で記入 --> | footnotes = }} '''ビー玉'''(ビーだま)は、[[玩具]]の一種。[[ガラス]]製の球で、主に遊戯用・観賞用に用いる。通常のサイズは1.5 - 5センチメートル程度。単色のものや、中に模様の入ったもの、大きい玉、小さい玉といろいろな種類がある。無色透明のものもある。ガラスの他に粘土、[[鋼]]、プラスチック、または[[メノウ|瑪瑙]]で作られるものもある。 == 概要 == 1897年頃に日本で販売された[[炭酸飲料]]([[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]])の栓として使われていたガラス玉を取り出し、玩具として使われ出したのがビー玉遊びの普及の始まりである<ref name="naver">{{Cite web|title='오징어 게임' 속 놀이들이 모두 일본에서 온 것이라고? [김동욱의 하이컬처]|url=https://n.news.naver.com/mnews/article/015/0004608210?sid=001|website=n.news.naver.com|accessdate=2021-09-26|language=ko|first=김동욱|last=기자}}</ref>。初期のビー玉は、クレーターのような大きなくぼみや歪みがあるなど、形がいびつなものが多かった<ref>{{Cite book|和書|author=森戸祐幸|title=ビー玉|publisher=文溪堂|isbn=978-4894233546|date=2003/3/1}}</ref>。 1933年頃に[[駄菓子屋]]等でビー玉単体が商品として販売され始めた。朝鮮半島でも日本統治時代の1936年頃から売られるようになり、ビー玉遊びが普及した<ref name="naver"/>。{{要出典範囲|1970年代以前に生まれた年代ではビー玉遊びをしたことのない者はいないほど普及した遊びである。|date=2023年3月}} == 名称 == ビー玉の「ビー」はビードロ({{lang|pt|[[:pt:vidro|vidro]]}}、[[ポルトガル語]]で[[ガラス]]のこと)の略である<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%BC%E7%8E%89-608095 |title=ビー玉とは |website=コトバンク |accessdate=2022-7-9}}</ref><ref>「ビーだま」[[荒川惣兵衛]]『外来語辞典』[[富山房]]、1941年、781頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1126433/1/406 オンライン版当該ページ]、[[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー-だま」[[新村出]]編『国語博辞典』甲鳥書林、1952年、1111頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2460167/1/563 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー-だま」[[金沢庄三郎]]編『[[広辞林]] 新版』[[三省堂]]、1958年、1702頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2485248/1/862 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー だま」[[金田一京助]]編『三省堂国語辞典』三省堂、1960年、677頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2493159/1/346 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「bīdama」野田良治編『日[[ポルトガル語|葡]]辞典 第1 (A~K)』[[有斐閣]]、1963年、68頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2474574/1/43 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー だま」[[石井庄司]]、[[小西甚一]]編『新国語辞典』[[大修館書店]]、1963年、1027頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2502276/1/521 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー だま」[[久松潜一]]、[[林大]]、[[阪倉篤義]]監修『講談社国語辞典』[[講談社]]、1966年、856頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2511056/1/437 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>「ビー - だま」[[楳垣実]]編『外来語辞典』、[[東京堂出版]]、1966年、332頁。([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2509141/1/170 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 古くは「ビードロ玉」もしくは「ビイドロ玉」と呼ばれており、明治時代から大正時代にかけて用例がみられるほか <ref>「ビンや、ボタンや、ビードロ{{ruby|玉|だま}}などの如き、{{ruby|小|ちい}}さき{{ruby|物|もの}}があれば、{{ruby|拾|ひろ}}ひ{{ruby|取|と}}りて、{{ruby|口|くち}}の{{ruby|中|なか}}に{{ruby|入|い}}れるから」田村貞策、朝夷孤舟 著『育児の務 (家庭百科全書 第7編)』、[[博文館]]、明治41年4月、110頁。([https://dl.ndl.go.jp/pid/849212/1/72 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[[宮武外骨]] 著『川柳や狂句に見えた外来語』、半狂堂、大正13年、16頁。([https://dl.ndl.go.jp/pid/935866/1/15 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、戦後においても「ビー玉」ではなく「ビードロ玉」と呼称している例がみられる<ref>[[宮本百合子]] 著『二つの庭』、[[中央公論社]]、昭和23年、16頁。([https://dl.ndl.go.jp/pid/1134368/1/11 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 略称である「ビー玉」の古い用例としては、大正5年(1916年)に執筆された[[夏目漱石]]の『[[明暗]]』<ref>{{Cite book|和書|author=夏目漱石 |authorlink=夏目漱石 |title=明暗 |publisher=岩波書店|date=1917年(初出1916年) |doi=10.11501/1904876 |page=74 |accessdate=2023-7-17}}「''{{ruby|[[ポケット|隱袋]]|ポツケツト}}の中でビー{{ruby|玉|だま}}の音が{{ruby|屹度|きっと}}ぢゃらぢゃらした。''」([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1904876/43 オンライン版当該ページ]、国会図書館デジタルコレクション)</ref>がある。 フランス語ではbille(ビイ)と言う(ビリヤードやルーレットの球もbille)。 <!-- {{要出典範囲|ビー玉の呼び方は[[地方]]によって様々で、共通語ではおおむね「ビー玉」「[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]玉」が主流だが、[[近畿地方]]の一部では「ビーダン」と呼んだり、[[山陽地方]]や[[瀬戸内海]]島嶼では「[[マーブル]]」「マーブロ」も聞かれる。その語源は英語のmarbleと思われ、かつてこの地方が[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]や[[ハワイ]]への移民の故郷であったこととの関連が考えられる。他にも、昭和30年代の[[広島県]][[三原市]]では、市内中央部の東町では「ビー玉」と呼ばれていたが、隣接する[[糸崎町]]以東では(ルールは同じであったが)「ビーごろ」と呼ばれていた。さらに東隣の尾道市では「ラッコー」「ラッター」と呼ばれていた。|date=2022-7}} {{要出典範囲|また、玉の大きさによって呼び方を区別する者もおり、大きいビー玉を「親玉(がんだま、おやだま)」「でかだん」、小さい玉を「ツブ玉」「ちびだん」等と呼ぶこともある。|date=2022-7}}--> === 「語源はB玉」との俗説 === [[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]][[ラムネ瓶|ビン]]の栓として使用するガラス玉の等級をかつて「A玉・B玉」と呼んで区別し、このうち規格外品である「B玉」をおもちゃに転用したものという説も存在する<ref>{{Cite book|和書|author=山本孝造|title=びんの話|publisher=日本能率協会|isbn=978-4820707233|date=1990-11-01}}</ref><ref name="netorabo">{{Cite news|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1704/17/news123.html|title=ビー玉の語源は「B玉(規格外)」? それとも「ビードロ玉」? ビー玉のプロたちに聞いた|newspaper=[[ITmedia|ねとらぼ]]|date=2017-04-17|accessdate=2017-04-18}}</ref><ref>[https://www.hata-kosen.co.jp/pages/26/ ハタラムネ豆知識|ハタ鉱泉株式会社]</ref>。ただしこの説は1990年以降の書籍にしか見当たらず疑わしいとの指摘がある<ref>{{Cite web|和書|author=赤木智弘 |url=https://president.jp/articles/-/50400?page=2 |title=「ラムネ瓶の玉はビー玉ではなくA玉」こんなデマすらしぶとく残るネット情報の浅はかさ |website=プレジデントオンライン |date=2021-9-30 |page=2 |accessdate=2023-5-31}}</ref>。 2017年現在日本で唯一のビー玉製造会社である松野工業によれば、戦後大阪でビー玉を製造していた6、7軒の会社のうちどこかが「A玉・B玉」の等級で区分していたという話を聞き、そこから松野工業でも「ビー玉」と呼ぶようになったという<ref name="netorabo"/>。 一方、ラムネメーカーの倉敷鉱泉は、玉に多少のゆがみ・傷があってもビンの口ゴムで問題なく密閉されること、明治から昭和初期の技術で検品は難しいであろうことから「A玉・B玉」の等級の存在自体に否定的な立場を取っている<ref name="netorabo"/>。 {{seealso|民間語源}} == 遊び方 == {{出典の明記|section=1|date=2023-7}} ビー玉遊びには地方によって様々なルールがあるが、その基本ルールは、ビー玉の所有権のやりとりである。多くの場合、自分のビー玉を弾いて相手のビー玉にぶつけて遊ぶが、ぶつけることによって玉の所有権の移転が発生し、ぶつけられた玉はぶつけた者の所有となる。つまり、Aが自身の所有する玉aを、Bの所有する玉bにぶつけた場合、ぶつけられた玉bの所有権は、BからAに移転する。玉を取られた方は、新たな玉を出して再戦に臨む。これを繰り返して、時にBが勝ち、時にAが勝って、玉のやりとりが行われる。このやりとりにさらに数人が加わることも可能で、4〜5人で遊ぶ場合も多い。また、単にぶつけることだけを目的とし、所有権の移転が発生しない取り決めのもとに遊ぶ場合もある。 === ビー玉の弾き方 === ; 打撃型:弾くビー玉は弾かれる前の移動がない : この弾き方は、[[おはじき]]の弾き方と同様である。打撃型では、身体の中でも硬い部位である[[爪]]を用いる。硬い部分を用いることで、力の伝達がし易く、ビー玉のコントロールがし易い。基本的に打撃する部位である指の爪部を他の指の[[掌]]側で押さえ、打撃する指の伸ばす力をためる。ある一定以上の力がたまると、打撃する指が押さえから解き放たれて伸展する。この伸展する際の軌道上にビー玉があるとビー玉は弾かれる。 :; 「ビー玉を打撃する部位」と「打撃する指を押さえる部位」との主な組み合わせ ::# 「打撃部位」:[[人差し指]]の爪側 「押さえる部位」:同側の手の[[親指]]の掌側 ::# 「打撃部位」:親指の爪側 「押さえる部位」:同側の手の人差し指の掌側 ::1と2の方法の他に、1の亜型として、「押さえる部位」は同側の手の親指というのは同じだが、「打撃部位」が[[中指]]・[[薬指]]・[[小指]]などの他の指を用いる方法もある。これは、打撃の力を調整するために用いる。また、同様の趣旨で、1のもう1つの亜型として、反対側の手の一部で「打撃部位」を押さえる方法もある。 : ; 圧出型:弾くビー玉を弾く前に動かす必要がある : これは、ビー玉に特徴的な弾き方であるが、全国的に普及している方法かどうかは定かではない<!--仙台で見られる方法です。他の地方の例があったら記載をお願いします-->。圧出型では、同側の親指と人差し指の各々掌側でビー玉をはさみ、圧力をかけて弾きだす方法である。基本的に、人差し指の爪を下側に、親指の爪を上側にするとコントロールし易い。そのため、前腕の屈側が上になり、打撃型で、前腕の屈側が下になるのとは対照的である。圧出型では、ビー玉を弾く前にビー玉を摘み上げるため、そのビー玉があった位置を指定する必要がある。ビー玉があった場所に圧出する手と同側の小指を置くことで場所を指定し、そこを支点として[[ピボット]]のように動かして圧出する方向を決める。また、ビー玉に回転をつけることができるため、[[カーブ (球種)|カーブ]]や[[バックスピン]]などの多様な球種を用いることができ、さらに、上空に圧出することで立体的な攻撃をすることも可能になる。 {{Anchors|「ビーダン」の遊び方}} == [[近畿地方]]のビー玉の遊び方 == 近畿地方の一部地域では、「'''ビーダン'''」はビー玉そのものを指す呼称であると同時に、ビー玉を使った屋外遊戯の総称でもあった。厳格なルールのもと数段の手順を踏み、最終的にはビー玉のやりとりを目的とした。以下にそのルールを説明する(このルールはかつて近畿地方の一部で遊ばれていたルールであり、あくまで参考資料として記述する。地方・時代により、この遊びそのものの名称・ルール細目・使用される用語等には小異がある<ref>{{Cite web|和書|publisher=遊邑舎|url=http://yuuyuu-sya.a.la9.jp/select/ramune/bidama01.html|title=ビー玉あそび「天国と地獄」|accessdate=2017-04-18}}</ref><ref group="注">地域や時代によるルール・用語の差異について、例えば左記ウェブページでは「ビーダン」と同様の遊びが「天国と地獄」という名称で紹介されている。用語にもいくつか違いが見られる(鬼/殺し屋、ジョンジョン/2ちょこ、赤子/ややこ、など)。大筋のルールは同じである。</ref>)。 [[ファイル:Bi-dan-01.png|thumb|250px|right|ビーダンにおける十字型の場合の穴の配置と、目標の穴の順番の一例]] ; 準備と人数 : まず、公園などの地面にいくつかの穴を掘る(右図がその一例)。穴と穴の距離は1〜3m程度とし、穴の大きさは直径3〜15cm程度、深さは浅からず深からずのものが良い。それぞれの穴の大きさや距離を均等に揃える必要はなく、近い穴や遠い穴、入れやすい穴や入れにくい穴が混在していても構わない。プレイヤーの人数は3〜5人が最適だが、2人しかいない場合でも遊べる。 ; ゲームの開始 : 右図のスタート地点から、プレイヤー各人が順番に「地」の穴にビー玉を投げ入れることでゲームが開始される。一投で「地」に入れることができれば自ターンは継続し、次の穴に向かう。逆に「地」にうまく入れられなかった場合自ターンは終了し、順番が回ってくるまで自玉は「地」の穴の周辺に放置される。 ; コースの順序 : 右図の場合は、「地」の穴から次に向かうべきは「中」の穴である。「中」の次は「左」、「左」から再び「中」に戻って、次は「右」へ、「右」からまた「中」に戻って、その次が「天」である。「左」と「右」はどちらが先でもよいが、必ず両方回らなければならず、両方回ってからでないと「天」に行けない。「天」から「中」に戻り、行きと同様に帰りも「左」と「右」を回って、最後は「中」から「地」に戻る。 ; 鬼(殺し屋) : すべての穴を回って「地」に戻ったプレイヤーは、再びスタート地点から「地」に玉を投げ入れ、「地」に入れることに成功した時点で「鬼」となる(鬼ではなく「殺し屋」とも<ref name="Hona/p127">{{Cite book|和書|author=東元|authorlink=東元|date=2013-07-29|title=ほな、また明日! 昭和駄菓子屋日和|page=127|series=マンサンコミックス|publisher=[[実業之日本社]]|isbn=978-4408174532}}</ref><ref group="注">欄外注に「天国と地獄」の名称で簡単な解説。「昭和30〜40年代に流行したビー玉遊びの定番」とある。</ref>)。鬼はルート拘束なしにどの穴へも自由に行くことができ、相手プレイヤーの玉を狙って移動する。鬼になったプレイヤーに自玉をぶつけられるとゲームセットであり、ぶつけられた玉は鬼に接収される<ref name="Hona/p127"/>。ここでようやく所有権の移動が発生する。 ; 玉の射出スタイル : 自玉を射出する際、プレイヤーは自玉のあった位置に左手の親指を置き、左の手の平を広げて、左手の小指と右手の小指を絡ませ、右の親指・人差指・中指を使って玉を射出する<ref name="Hona/p127" /><ref group="注">2〜3コマ目、5〜7コマ目、9コマ目にかけて、この射出スタイルが丹念に再現されている。</ref>。したがって、右指の先から玉が射ち出されるポイントは、元々玉があった位置から手の平一個分ほど前方に押し出されている。これは不正行為ではなく、射出の精度を高めるためのスタイルとして許されている。また、穴の中から自玉を射出する際は、穴の渕を自玉の位置とみなし、左手の親指を穴の渕に掛けて同様のスタイルをとる。 ; <span id="turn">ターン終了の条件とワープ</span> : 次の穴に入れられなかった時点で自ターンは終了する。逆に、次々と目的の穴に入れることに成功すれば、延々と自ターンが続き、相手プレイヤーに大きく差をつけることができる。また、自玉を相手の玉に当てることができた場合も自ターンが継続する。これは相手玉に当てることにより次の穴への[[ワープ]]権が認められ、ワープで次の穴に入ったと見なされるためである。相手玉に当てることができるかどうかはプレイヤーの技量に掛かっており、技量の優るプレイヤーはゲームを有利に展開させることができる。 ; 方向転換 : 自ターンにおいて、相手玉が自玉の近くに位置している場合がある。相手玉が自玉から片手の平の距離内にある場合、この玉を片手の平の距離内の任意の位置に移動することができる。また、片手の平では届かないが両手の平の距離内にある場合は、自玉との距離はそのままにしておかなければならないものの、自玉から見て任意の角度に移動することができる(自玉aと相手玉bを結ぶ線分を半径に、自玉aを中心とする円cを想定し、その円周上の任意の位置に相手玉bを移動できる)。 ; ジョンジョン(2ちょこ) : 自ターンにおいて自玉が「中」の穴におり、且つ2つの相手玉が「中」の穴から片手の平の距離内に位置している場合、上述の「方向転換」をこの2つの相手玉に適用して、「ジョンジョン」が成立する(別称として「2ちょこ」とも<ref name="Hona/p127"/>)。自玉を相手玉にあてた場合次の穴へのワープ権が認められることは既に述べたが、「ジョンジョン」とは、2つの相手玉をくっつけて並べ、一回の動作で同時に2つの玉に当て、2つ分の[[ワープ]]権を得ることである。「中」の穴から2つ分ワープすれば、再び「中」の穴に戻ってくる。ジョンジョンを数回繰り返せば、「左」「右」「天」すべての穴を瞬時に往復したことになり、非常にたやすく鬼になることができる。こうなればもはや勝ったも同然である。 ; 赤子 : 自玉を相手玉にぶつけた時、その相手玉がフィールドの場外まで弾き飛ばされてしまうことがある。例えばスタートラインの向こう側や、砂場の枠あるいは公園の柵の外など、予め定められたラインを割ってしまった場合、そのプレイヤーの状態はリセットされ、スタートラインに戻って「地」の穴に投げ入れるところから再スタートしなければならない。これを「赤子に戻る」ないし「赤子にされる」と言う。狙って相手玉を眠らせる([[#nemuri|次々節参照]])のと同様、相手を赤子に戻すのも戦略のうちである。また、赤子のルールは鬼にも適用される。まだ鬼になっていないプレイヤーにとっては、鬼を赤子にすることで形勢逆転を狙うことができる。 ; ネムリとチョーエキ : 間違って次に入るべき穴とは別の穴に入ってしまった場合、その穴の中で「一回休み」の状態を続けなければならない。これを「ネムリ」という。「ネムリ」が解除されるには、次にその穴を訪れたプレーヤーによる「チョーエキ」(懲役<ref name="Hona/p127"/>)を経なければならない。 : 「チョーエキ」とは、ネムリの状態で穴の中に入っている相手玉を、自玉を使って弾き出すことを言う。通常プレーにおける自玉の射出によって弾き出すのではなく、[[ベーゴマ]]を打ち出す動作と同じ動作で、相手玉を無理やり穴から弾き出す。そのため、力が入りすぎた場合などは片方もしくは双方のビー玉が欠けたり割れたりすることもある。チョーエキは3投までとされており、3投以内にネムリ玉を弾き出せなければ、かわりに自分がネムリになってしまう。この時、元のネムリ玉は入れ替わりでネムリを解除される。また、ネムリ玉を穴の外に弾き出すのと同時に、自玉も穴の外に出ていなければならない。ネムリ玉を弾き出したはいいが自玉が穴の中に残ってしまった場合、やはり元のネムリ玉のネムリは解除され、いれかわりで自玉がネムリになる。 ; <span id="nemuri">ネムリの戦略利用</span> : 自玉を相手玉に当てた際、当てられた相手玉が転がって行き、いずれかの穴に入ってしまうことがある。この場合、その相手玉はネムリ玉となる。ネムリは相手のゲーム進行を大幅に遅らせるため、狙って相手玉を眠らせるのも戦略のひとつである。ただしこれにはある程度の技量が要求される。 : また、これとは逆に、射出した自玉が相手玉に当たった弾みでたまたま穴に入ってしまうことがある。たとえば順番から言って「左」の穴に入れるべき自玉が、穴のそばにあった相手玉に当たったのちに「左」の穴に入ってしまった場合、相手玉に当たった時点で「左」の穴に入ったものとみなされ、さらに物理的に「左」の穴に入ってしまったわけだから、「左」の穴に2回続けて入ったことになってしまい、ネムリの条件に合致する。 ; 鬼とネムリ : 鬼はいかなる場合もネムリにはならない。ネムリの定義上、ネムリが発生する条件は「本来とは違う穴に入ってしまった場合」であり、鬼がどの穴に入ってもいい以上、ネムリの条件を満たさないからである。 : また、プレイヤーの一人がネムリに陥っている間に、別のプレイヤーが鬼になってしまうケースがある。この場合、たいていは鬼がチョーエキをすることになるが、鬼がチョーエキを成功させてもゲームオーバーにはならず、ネムリ玉のネムリが解除されてゲームが続行される。なお、鬼はネムリにならないので、3投のチョーエキ失敗によって身代わりのネムリになることもない。鬼によるチョーエキは、ネムリ玉のネムリが解除されるまで延々と続けられる。 ; 鬼のターン終了条件とワープ : 鬼のターン終了の条件は、基本的には[[#turn|通常時のターン終了条件]]と同じである。ただし鬼はルート拘束されないため、「次の穴に入れられなかった時点でターン終了」ではなく、「任意の穴に入れられなかった時点でターン終了」ということになる。また、鬼が自玉を相手玉に当てた場合、相手玉を接収すると同時に、任意の穴にワープすることができる。たいていは残りのプレイヤーが近くにいる穴にワープし、次なる収穫を狙うこととなる。 ; 穴の配置 : 穴の配置は十字型が一般的ではあるが、必ずしも十字型でなければならないわけではなく、[[北斗七星]]の形にしてもよいし、[[短剣符|二重ダガー]]の形にしてもよい。また、それぞれの穴の深さや大きさにバリエーションを持たせたり、十字の交差角度を変えたりすることで、ゲーム性が増す場合もある。十字型自体も創意工夫の結果生まれてきたものであろうし、今後もこの遊びが受け継がれていくなら、新しい定型が生まれる可能性はある。 == 選挙への利用 == [[2016年]]に[[ガンビア]]で行われた大統領選挙では、[[政党]]名などが書かれた[[ドラム缶]]にビー玉を落とす方法で投票が行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3110075?cx_part=topstory|title=ガンビア大統領選、野党連合候補勝利 22年間のジャメ体制に終止符|newspaper=[[フランス通信社|AFP通信]]|date=2016-12-03|accessdate=2017-04-18}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Marbles}} {{Wiktionary}} * [[ビーダマン]] * [[おはじき]] * [[ザ・ブルー・マーブル]] * ビン玉([[浮き玉]]) * [[こどもの文化]] * [[ラムネ (清涼飲料)]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひいたま}} [[Category:ビー玉|*]] [[Category:子供の遊び]] [[Category:玩具]] [[Category:ガラス工芸]]
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だるまさんがころんだ
だるまさんがころんだ(達磨さんが転んだ)は、鬼ごっこの変種のひとつであるこどもの遊び。もともと鬼が10拍数えるルールだったが、拍を数える代わりに10文字の文章を唱えることが行われ、関東などでは「だるまさんがころんだ」という文章が選ばれたので、(標準語としては)この遊びが「だるまさんがころんだ」と呼ばれるようになった。ただし10文字の文章は地域によりかなり異なっており、この遊びの呼び名も日本の各地域で異なっている。 『みんなのうた』(NHK)で放送された歌については#題材とした作品を参照。 なお「だるまさんがころんだ」など10文字の文章は、この遊びに限らず10拍数える代わりに使われることがある。 鬼ごっこの変種のひとつで、鬼が「だるまさんがころんだ」という掛け声を唱えることからこの名前がついた。日本では一人を鬼、その他多数を普通の人に見立てて、鬼のほうは多数の人を監視し捕えることを目的とする。一方、多数のほうは鬼に動きは見られないように鬼に近づき、何か特定のアクションをとり鬼の力を決定的に削ぐのが目的である。他の鬼ごっこに似た遊びとは違い、基本的に鬼は自陣から動かない。唱える言葉は「だるまさんが転んだ」の他にも、地域によりさまざまなバリエーションがある(「10文字の文章」参照)。 ルール上、他の遊びと異なり「動くこと」でなく「動かないこと」を求められるゲームであり、座ったままあるいは寝たままでのゲーム参加も可能なので、介護の場や特別支援教育でも活用されることが多い。その場合は鬼へのタッチが困難になるため、「既定の回数生き残った者の勝ち」「誰が最後まで残れるか競う」等、独自のルールになる場合も多い。 近頃はこれより派生した「だるまさんの一日」という少し違う遊びがある。 実は、日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。→#世界の類似の遊び 以下、日本のだるまさんがころんだについて解説する。 地域や場面、コミュニティにより様々なルールがあるため一概に言うことはできないが、概ね、ひとりの"鬼"、および多数の普通の人にわかれ、『鬼は「だるまさんが転んだ」など10文字の文章を言う間は参加者に背を向けるなどして、参加者の方を見てはいけない。10文字の文章を唱え終えたら振り返って参加者の動向を見てよい』『鬼が見ている間に動いた者は鬼に捕まる』『参加者は鬼が見ていない間だけ行動を許される』『生き残った参加者が鬼に何らかのアクションを取ったところで捕まっていた者は全員解放され、1回の遊びが終了する』の4点を基本とすることが多い。 この遊びで各人が目指すこと(各人の目的)は、鬼にとっては参加者らが動いているところを発見して参加者全員を捕えることであり、一方、鬼以外の参加者が目指すことは、「鬼が見ていない間」に行動し、鬼の背にタッチするなどの決定的なアクションをとることである。 次に、時間順に具体的な進め方を説明する。 多くの鬼遊びでは次の鬼を決める場合、「最初に鬼に捕まった者」「再びじゃんけんで決め直す」「希望者を募る」など単純な手順で選定される傾向にあるが、「だるまさんが転んだ」においては1ゲームが比較的短く終わるため、次の鬼を決める手順もゲーム化されている場合が多い。以下に実例を示す。 上記のように、派生した遊びである「だるまさんの一日」と呼ばれるゲームも存在する。基本的なルールとしては当該グループで行われる「だるまさんが転んだ」に準じて行われることが多いが、掛け声が『だるまさんが○○(「ご飯を食べた」、「寝た」等何らかの行動が入る)』となり、参加者側は通常と異なり停止ではなく『○○』に入る行動の演技を要求される。従って、指示にもよるが必ずしも静止する必要はなく、あくまで演技であるため意に反した行動をとる必要はない。こうした違いがあるため、鬼は『動いた者』ではなく『指示した行動の演技に見えない者』を捕まえていくことになるが判断基準として難しく、どちらかと言えば如何に上手く(あるいは面白く)演技をするか、もしくは鬼が如何に意表を突いた指示を出すかという遊びになることが多い。 遊びを円滑に進めるため、いくつかの禁則を設ける場合がある。これらの禁則はそのコミュニティの性質などによってローカルルールとして設けられるものがほとんどである。これらの禁則を破ったものは通常、鬼と交代させられたり(鬼以外)、最初からやり直し(鬼)となる。指名や数の指定に関する場合は他の参加者に再考を促されるか、指定権が他者に移譲されることも多いが、場合によっては口論の原因となることがある。 もともとは10拍を「いち、にい、さん、し...」と数えていたが、面倒だから10文字の言葉に置き換えた、あるいは特に幼い子供には難しいので幼い子でも参加しやすいように10文字の文章を言うようになった、と考えられている。 地方や年代によって、10文字の文章は異なっている(なお「だるまさんがころんだ」を、後になって地域ごとに勝手に置き換えたというよりも、古くから地域ごとに10文字文章は異なっていた、と理解したほうがよい)。したがって元々、地域ごとにこの遊びの呼び名も異なっている。 日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。 ルールが日本のものにかなり近い国と、それなりに異なる国がある。世界的には『多数のほうは、動いているのを見られたら、スタートラインまで戻らなければならない』というルールのほうが一般的。英語圏ではレッドライト・グリーンライト(red light, green light)つまり「赤信号・青信号」と呼ばれている。 日本では一人のほうを "鬼" に見立てるが、他の国では「見立て」が異なり、アメリカなどではこの遊びを「statues 彫像」などと呼ぶことがあり、つまり多数のほうが静止した状態を彫像に見立てており、イギリスでは「Fairy Footsteps (妖精の歩み)」などと呼ぶ(つまりイギリスでは、近づく多数のほうを"妖精"に見立てている)。ドイツではOchs am Bergと呼び、「うさぎが野をよこぎる」などと唱え、多数のほうをうさぎに見立てている。 英語圏の類似の遊びに、レッドライト・グリーンライト(Red light, green light)がある。遊び方にはいろいろな変種があるが、基本的には参加者は鬼から離れたところからスタートし、最初に鬼に触った人が勝ちとなる。ただし動くことができるのは鬼が後ろを向いて「グリーンライト」(青信号)と言ったときだけで、鬼はいつでも突然振り返って「レッドライト」(赤信号)と叫ぶことができ、このときただちに静止しないと、その参加者は失格になる。 「ある言葉を言っている間だけ動いて良いというルールで、そっと鬼に近付いていく」という点で、日本のだるまさんがころんだによく似ている。一方、顕著な違いとして、日本のだるまさんがころんだでは鬼にならないことが参加者の目的であり、参加者らは鬼でない「みんな」の中にとどまろうとし、敗者が次の鬼となるのに対し、レッドライト・グリーンライトでは鬼になることが参加者の目的であり、参加者は「みんな」と違う特権的な信号灯役になろうとし、勝者が次の鬼となる。 壁の方を向いて「だるまさんが転んだ」と唱えている間は参加者の様子が全く分からないという性質から「見ていない間に背後で何かが起きているかもしれない」という不気味さが想起されるためか怪談と結び付けられることも多い。パターンは何種類かあるが、唱え終わって振り向くと参加者が消えていた、あるいは振り向くと見知らぬ不気味な参加者が紛れ込んでいるなど、「目隠ししている間に何かが起きた」といった形で語られるケースがほとんどである。また、都市伝説においては「入浴中、目をつぶって洗髪している姿勢は『だるまさんがころんだ』に見えるため、この時に心の中ででも『だるまさんが転んだ』と唱えてしまうと遊びに参加しようとした何者かを引き寄せてしまい、顔を上げると鏡に何らかの怪異が映り込む」とする話もある。
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だるまさんがころんだ(達磨さんが転んだ)は、鬼ごっこの変種のひとつであるこどもの遊び。もともと鬼が10拍数えるルールだったが、拍を数える代わりに10文字の文章を唱えることが行われ、関東などでは「だるまさんがころんだ」という文章が選ばれたので、(標準語としては)この遊びが「だるまさんがころんだ」と呼ばれるようになった。ただし10文字の文章は地域によりかなり異なっており、この遊びの呼び名も日本の各地域で異なっている。 『みんなのうた』(NHK)で放送された歌については#題材とした作品を参照。 なお「だるまさんがころんだ」など10文字の文章は、この遊びに限らず10拍数える代わりに使われることがある。
{{Otheruseslist|こどもの遊び|[[富田靖子]]のアルバム|だるまさんがころんだ (アルバム)|[[坂手洋二]]作の舞台劇|だるまさんがころんだ (戯曲)}} '''だるまさんがころんだ'''('''達磨さんが転んだ''')は、[[鬼ごっこ]]の変種のひとつである[[こどもの文化|こどもの遊び]]。もともと鬼が10拍数えるルールだったが、拍を数える代わりに10文字の文章を唱えることが行われ、関東などでは「だるまさんがころんだ」という文章が選ばれたので、([[標準語]]としては)この遊びが「だるまさんがころんだ」と呼ばれるようになった。ただし10文字の文章は地域によりかなり異なっており、この遊びの呼び名も日本の各地域で異なっている。 『[[みんなのうた]]』([[日本放送協会|NHK]])で放送された歌については[[#題材とした作品]]を参照。 なお「だるまさんがころんだ」など[[#10文字の文章のバリエーション|10文字の文章]]は、この遊びに限らず10拍数える代わりに使われることがある。 == 概説 == 鬼ごっこの変種のひとつで、鬼が「'''だるまさんがころんだ'''」という掛け声を唱えることからこの名前がついた。日本では一人を[[鬼]]、その他多数を普通の人に[[見立て]]て、鬼のほうは多数の人を監視し捕えることを目的とする。一方、多数のほうは鬼に動きは見られないように鬼に近づき、何か特定のアクションをとり鬼の力を決定的に削ぐのが目的である。他の鬼ごっこに似た遊びとは違い、基本的に鬼は自陣から動かない。唱える言葉は「だるまさんが転んだ」の他にも、地域によりさまざまなバリエーションがある(「[[#10文字の文章のバリエーション|10文字の文章]]」参照)。 ルール上、他の遊びと異なり「動くこと」でなく「動かないこと」を求められるゲームであり、座ったままあるいは寝たままでのゲーム参加も可能なので、介護の場や特別支援教育でも活用されることが多い。その場合は鬼へのタッチが困難になるため、「既定の回数生き残った者の勝ち」「誰が最後まで残れるか競う」等、独自のルールになる場合も多い。 近頃はこれより派生した「だるまさんの一日」という少し違う遊びがある。 ;世界的な広がり 実は、日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。→[[#世界の類似の遊び]] 以下、日本のだるまさんがころんだについて解説する。 == 進め方 == 地域や場面、コミュニティにより様々なルールがあるため一概に言うことはできないが、概ね、ひとりの"鬼"、および多数の普通の人にわかれ、『鬼は「だるまさんが転んだ」など10文字の文章を言う間は参加者に背を向けるなどして、参加者の方を見てはいけない。10文字の文章を唱え終えたら振り返って参加者の動向を見てよい』『鬼が見ている間に動いた者は鬼に捕まる』『参加者は鬼が見ていない間だけ行動を許される』『生き残った参加者が鬼に何らかのアクションを取ったところで捕まっていた者は全員解放され、1回の遊びが終了する』の4点を基本とすることが多い。 この遊びで各人が目指すこと(各人の目的)は、鬼にとっては参加者らが動いているところを発見して参加者全員を捕えることであり、一方、鬼以外の参加者が目指すことは、「鬼が見ていない間」に行動し、鬼の背にタッチするなどの決定的なアクションをとることである<ref>なお日本では古来「'''鬼の居ぬ間の洗濯'''」という表現がありこれは多くの国語辞書に掲載されている基本的な表現で、つまり「だるまさんがころんだ」に限らず大人の日常生活でも「鬼(のような怖い存在)に見られていない間に、すべきことをやっておこう」という発想(知恵)が日本人にはあり、この発想がこの子供の遊びにも投影されている。</ref>。 次に、時間順に具体的な進め方を説明する。 # 遊びを始める前に鬼の自陣を決める。普通、[[樹木]]・[[電柱]]・[[ブロック塀]]など地面に立つ[[柱]]や[[壁]]のようなものを使うが、グラウンドの真ん中などでも行うことはできる。鬼以外の参加者は、この自陣からある程度以上離れた場所で遊びを始める。<br>ゲーム開始時に鬼以外の参加者が「はじめの一歩」または「はじめの第一歩」と叫び、スタートラインから一歩だけ前に出てよい場合もある。 # 鬼は自陣の方に向かい、参加者に背を向けた状態で「'''だるまさんがころんだ'''」など決められた'''10文字の文章'''を大きな声で唱える。当然、鬼は他の参加者の行動を見ることはできないが、唱え終わるまで振り返って周囲を見渡してはならない。<br>唱える速度や調子を変えてタイミングをずらすことは一般に駆け引きや遊戯の一環として許容される傾向にあるが、反則とする場合もある。 # 鬼以外の参加者は鬼が背を向けて10文字の文章を唱えている間だけ行動でき、鬼に向かって近づく。 # 10文字文章を言い終わった鬼は振り返って参加者の動向を確認する。この間、他の参加者は身動きをとってはならない。 # 鬼は動いている者を見つけたらその者の名を呼び、[[捕虜]]として自陣に呼び寄せる。捕虜となった者は鬼の陣内に移動{{refn|group="注"|単に鬼の近くで観戦することも多いが、鬼へのタッチではなく鬼と捕虜の鎖を切ることで1ゲームが終わる場合は鬼を起点に手や小指などを繋ぐ。グループの年齢や男女構成により連動して変化する傾向にある。また、捕まった時点で鬼側のプレイヤーになり、鬼と一緒に参加者が動いていないかどうか監視し、指摘する例も多い。}}する。『動いた』という判断基準に関して厳格なものはなく、グループ内での取り決めによるところが大きい。<br>特に鬼が『だるまさんが転んだ』と唱える速度やタイミングをずらすことが許容されている場合は、静止するために制動をかけている状態や何らかの理由で空中にいて着地のために動かざるを得ないとき、その他やむを得ず最低限の動きをしていると判断できるときなど、明確に止まろうとする意思を見せていれば動いていても対象から除外する傾向にある。ただし『一度制動をかけたがバランスを崩して動いてしまう』など新たな動きを取った場合や、行動の結果必要以上に鬼へ接近した場合はやむを得ずとも対象に含める場合が多い。<br>逆にタイミングや速度のずらしが認められていない場合は言い終わるタイミングを考慮するべきとして上記のような例も許されない場合が多い。<br>捕虜は、他の者が鬼に捕まらずに鬼にタッチする(触れる)まで、逃げることはできない。 # 2~5をゲームが終了するまで繰り返す # 他の参加者すべてが捕虜となった場合は鬼の勝ちとなる。多くの場合最初に捕虜となったものが次の鬼となり、最初の状態から遊びを再開する。<br>逆に、参加者のうちの誰かが鬼にタッチした場合は、捕虜を含めた鬼以外の参加者は鬼の自陣から逃げる行動をとる。<br>また、ローカルルールとして、鬼に触れるのではなく、鬼と捕虜をつないでいる手を「'''切る'''」という動作とする場合がある。切る動作を行ったものは行動と同時に「切った」と宣言する。鬼と捕虜との間だけではなく、捕虜同士の部分でも「切る」ことが許される場合があり、その際、鬼より遠いほうの捕虜グループだけが逃げることができる。 == 次のゲームへの準備 == 多くの鬼遊びでは次の鬼を決める場合、「最初に鬼に捕まった者」「再びじゃんけんで決め直す」「希望者を募る」など単純な手順で選定される傾向にあるが、「だるまさんが転んだ」においては1ゲームが比較的短く終わるため、次の鬼を決める手順もゲーム化されている場合が多い{{refn|group="注"|ただしこれもローカルルールや状況に依るところが大きく、特に『鬼がゲームを跨いで捕虜を増やしていく』とするルールの場合は『捕虜がいない状態で鬼がタッチされた場合は鬼の負け』と見做され、他の鬼遊びと同様の手順で選定されることがある。}}。以下に実例を示す{{refn|group="注"|「鬼になった回数をマイナスポイントとして累計し、最終的な戦績を比較する」などのローカルルールもある。}}。 # 鬼は「ストップ」「止まれ」など叫ぶことによって、逃げる者の行動を止められる。 # 捕虜などの行動を止めた後、鬼は指定された歩数や秒数、または自分が履いている靴を蹴り飛ばした距離など、限られた範囲内で逃げた参加者を捕まえる行動をとれる。{{refn|group="注"|歩数・秒数については、「事前に決めておく」「鬼以外の参加者によって多数決」などで決められる。また、鬼にタッチした(切った)者や前回の鬼、あるいは最初に相談して決められたリーダーなど、特定の人物が独断によりその場で歩数などを指定するルールもある。また、歩数についても、「大股○歩」「中股○歩」「小股○歩」など詳細に決められる地域もある。大股小股の判断は鬼にゆだねられるが、参加者の多くから批判を浴びた場合はやりなおしとなる。ただし「助走をとる」「小股と指示されたのに大きくジャンプする」など、明らかに剥離している場合を除けば遊戯の一環として許容される傾向にある。}} # 前項の行動により次のゲームの状況が変化するが、この点についてルールにより大きく分ければ2つのパターンが存在するため、以下に分割して示す。 * 1回1回のゲームが分離しており、毎回鬼を決め直す場合は、鬼がタッチする参加者は一人であることが多い。この場合、許された行動範囲内でタッチできる者であればだれでも良いとする場合と、指定された歩数・秒数を消化しきる{{refn|group="注"|概ね鬼の陣地から離れるように進むものとされるが、指示された範囲が「中股100歩」「100秒」など明らかに過剰な場合や、次の鬼を免れるために自分から明らかに距離が開く歩数を指示した参加者など特定の者を狙い撃ちするために、途中で引き返したり、ぐるぐる回るなどして歩数や秒数を消化する行動は許容される場合が多い。}}までタッチが許されず、行動を終えた段階で手の届く範囲内の参加者をタッチする{{refn|group="注"|最終的な到達地点から足を離さないことを原則とすることが多い。倒れ込んだり、タッチした後にバランスを崩して移動してしまったりするのは許容される傾向にある。}}とされている場合がある。 * 鬼が全ての参加者に触れることができると鬼の勝ちと見做されて鬼役が交代する場合は、鬼は行動が許される範囲において次々と参加者をタッチしていく。これにより無事全ての参加者を捕まえた場合は、最初に触れられた者が次の鬼となる場合が多い。逆に全ての参加者にタッチすることができなかった場合は鬼を交代せずに次のゲームを始める。この際、捕まった者はゲーム開始と同時に解放される場合、ある程度のハンデを持たされる場合、そもそも最初から捕虜となる場合がある。 == だるまさんの一日 == 上記のように、派生した遊びである「だるまさんの一日」と呼ばれるゲームも存在する。<br>基本的なルールとしては当該グループで行われる「だるまさんが転んだ」に準じて行われることが多いが、掛け声が『だるまさんが○○(「ご飯を食べた」、「寝た」等何らかの行動が入る)』となり、参加者側は通常と異なり停止ではなく『○○』に入る行動の演技を要求される。<br>従って、指示にもよるが必ずしも静止する必要はなく、あくまで演技であるため意に反した行動{{refn|group="注"|例えば「服を脱ぐ」はその場でも実行できるが服を脱ぐ演技で良い。ただし往々にして自ら脱ぎ始めるお調子者などは出たり、演技でも恥ずかしがる者が出るときもあるので『トイレに行く』などのいわゆる下ネタも含めてこの手の指示を禁止、あるいは暗黙の了解として避けるものとされている場合もある。}}をとる必要はない。<br>こうした違いがあるため、鬼は『動いた者』ではなく『指示した行動の演技に見えない者』を捕まえていくことになるが判断基準として難しく、どちらかと言えば如何に上手く(あるいは面白く)演技をするか、もしくは鬼が如何に意表を突いた指示を出すかという遊びになることが多い。 == 禁則 == 遊びを円滑に進めるため、いくつかの禁則を設ける場合がある。これらの禁則はその[[コミュニティ]]の性質などによってローカルルールとして設けられるものがほとんどである。これらの禁則を破ったものは通常、鬼と交代させられたり(鬼以外)、最初からやり直し(鬼)となる。指名や数の指定に関する場合は他の参加者に再考を促されるか、指定権が他者に移譲されることも多いが、場合によっては口論の原因となることがある。 * 禁則の例 ** 鬼以外の参加者は、鬼の自陣から見えない障害物に隠れてはならない。 ** 鬼は、掛け声を唱えるときに、周辺の[[鏡]]やガラス窓の反射を利用して様子をうかがってはならない。 ** 鬼以外の参加者は、鬼が掛け声を唱えるときに鬼から離れる方向へ移動してはならない。 ** 鬼は、まばたき・呼吸などの不随意な動作をもって「動いている者」と認定してはならない。 ** 鬼以外の参加者は、事前に決めた範囲外へ逃げてはならない。 ** 鬼に触れた者が鬼の進む歩数や秒数を決められるルールでは、「小股一歩」や「0.1秒」、離れているのに中股五歩など、確実に逃亡者の誰にもタッチできない数を指定するのは反則に当たる。 *:ただし、鬼が上級生や教師だった場合はその運動能力に期待して明らかに無理がある指定でもそのままカウントが始まる場合もある。本人に意思確認を取る場合もあるが、このような状況の場合は鬼が参加者の挑戦を受ける傾向にある。 ** 鬼が「ストップ」「止まれ」と言った位置から動いてはいけない。 ** だるまさんの一日において、演技をしながら鬼の方向へ進んではいけない。似たルールとして『現在位置から動かずに演技をすること』とされている場合も多い。 == 10文字の文章のバリエーション == もともとは10拍を「いち、にい、さん、し...」と数えていたが、面倒だから10文字の言葉に置き換えた、あるいは特に幼い子供には難しいので幼い子でも参加しやすいように10文字の文章を言うようになった、と考えられている。 地方や年代によって、10文字の文章は異なっている(なお「だるまさんがころんだ」を、後になって地域ごとに勝手に置き換えたというよりも、古くから地域ごとに10文字文章は異なっていた、と理解したほうがよい)。したがって元々、地域ごとにこの遊びの呼び名も異なっている。 * 「坊さん(ぼうさん、ぼんさん)が屁をこいた」(近畿地方) * 「練兵場の兵隊さん{{refn|group="注"|縄跳び歌の「郵便屋さん」も同様に「兵隊さん、お入り」と歌われる}}」([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]、[[法円坂]]、[[森ノ宮]]一帯) * 「インディアンのふんどし」(関東地方) * 「インディアンのくろんぼ」 * 「兵隊さんが通る(った)」 * 「くるまん(の)とんてんかん」(宮城県) * 「[[乃木希典|乃木さん]]は偉い人」 * 「インド人の黒ん坊」(九州中国四国地方・石川県) * 「インドのくろんぼじん」(香川県) * 「[[寿がきや]]のやきうどん」 * 「ひみなこと(5文字と短いためか、唱える回数が決まっていない)」(和歌山県) * 「お母さんの貼箱」(新潟県三条市一部地域) * 「[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]」{{どこ|date=2022年12月}} == 題材とした作品 == {{みんなのうた |Singer=[[斎藤こず恵]] |Lyric=[[山本正之]] |Composer=山本正之 |Arranger=[[小山田暁]] |Image=静止画+[[アニメーション]] |Animator=[[矢口高雄]](静止画)<br />[[南家こうじ]](アニメ) |FirstBroadcast=[[1978年]][[8月]] - [[9月]] |ReBroadcast=[[1979年]]8月 - 9月<br />[[2013年]]8月 - 9月<br />[[2020年]][[10月9日]]・[[11月6日]]([[みんなのうたリクエスト|リクエスト]]) |etc=[[2012年]][[3月28日]]の『[[みんなのうた発掘スペシャル|発掘SP]]』(VOL4)で放送。 }} === 音楽 === * 「だるまさんがころんだ」(作詞・作曲 [[山本正之]]、編曲 [[小山田暁]]、歌 [[斎藤こず恵]]) : 『[[みんなのうた]]』([[日本放送協会|NHK]])で1978年8 - 9月に放送。題名の「だるまさんがころんだ」を含めてきっちり10文字(小文字は数えない)で収まる言葉を10個あげ、それで100まで数えたことにしているが、「[[アヴィニョン|アビニオン]]の[[アヴィニョン捕囚|坊さん]]」など難解なものも含まれていた。 : 映像内の一枚絵は[[矢口高雄]]、アニメーションは[[南家こうじ]]が作成した。南家は本作が『みんなのうた』初登板で、現在に至るまで多数のアニメを製作、その一方で矢口の『みんなのうた』担当は最初で最後。 : 『[[おはよう!こどもショー]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)内でも放送されたことがある。 : 再放送は1年後の[[1979年]]8月 - 9月だけだったが、「[[みんなのうた#発掘プロジェクト|みんなのうた発掘プロジェクト]]」で映像が寄せられ、[[2012年]][[3月28日]]深夜の『[[みんなのうた発掘スペシャル]]』(VOL4)で33年振りに再放送、その後[[2013年]]8月 - 9月には定時番組でも再放送、また[[2020年]][[10月9日]]と同年[[11月6日]]には『[[みんなのうたリクエスト]]』でも再放送された。 : 発表当時、斎藤の歌は[[フィリップス・レコード|フィリップス]]からシングルレコードとして発売。[[ポニーキャニオン|キャニオンレコード]]からは、前田友美によるカバー版が発売された(1978年11月発売『NHKテレビ みんなのうたより ゴールデン・ベスト20(第2集)』G15G-0002が初出)。[[日本コロムビア]]からは、[[大和田りつこ]]によるカバー版が発売された。 * 「だるまさんがころんだ」作曲:[[山口恭子]]([[オーケストラ]]作品、[[オーケストラ・アンサンブル金沢]]委嘱[[初演]]) === 漫画 === * 「[[神さまの言うとおり]]」作中に「だるまさんがころんだ」を題材とした[[デスゲーム]]が登場する。 * 「[[放課後さいころ倶楽部]]」作中に「だるまさんがころんだ」を題材とした[[ボードゲーム]]が登場する。 === テレビドラマ === * 「[[イカゲーム]]」作中に「だるまさんがころんだ」(原語版では「むくげの花が咲きました」)を題材としたデスゲームが登場する。 == 世界の類似の遊び == 日本の《だるまさんがころんだ》に類似した子供の遊び、つまり『子供が「一対多」に分かれて、一人のほうは一定の間(ま)をとる間は見てはならず、多数のほうは見られていない間だけに行動でき一人に近づいてゆく』という子供の遊びは、日本だけでなく世界各地に古くからある。 ルールが日本のものにかなり近い国と、それなりに異なる国がある。世界的には『多数のほうは、動いているのを見られたら、スタートラインまで戻らなければならない』というルールのほうが一般的。英語圏ではレッドライト・グリーンライト(red light, green light)つまり「赤信号・青信号」と呼ばれている。 日本では一人のほうを "[[鬼]]" に[[見立て]]るが、他の国では「[[見立て]]」が異なり、アメリカなどではこの遊びを「statues [[彫像]]」などと呼ぶことがあり、つまり多数のほうが静止した状態を彫像に見立てており、[[イギリス]]では「Fairy Footsteps (妖精の歩み)」などと呼ぶ(つまりイギリスでは、近づく多数のほうを"[[妖精]]"に見立てている)。ドイツではOchs am Bergと呼び、「うさぎが野をよこぎる」などと唱え、多数のほうを[[うさぎ]]に見立てている。 <gallery mode="packed" heights="150"> File:Hemlock Overlook - Red light Green light - 04.jpg|Red light, Green light。多数は、一人が背を向け見ていない間に近づく。 File:Hemlock Overlook - Red light Green light - 03.jpg|一人のほうが振り返り見たら、多数のほうは動けない。 </gallery> === 英語圏 === 英語圏の類似の遊びに、'''レッドライト・グリーンライト'''([[:en:Red light, green light|Red light, green light]])がある。遊び方にはいろいろな変種があるが、基本的には参加者は鬼から離れたところからスタートし、最初に鬼に触った人が勝ちとなる。ただし動くことができるのは鬼が後ろを向いて「グリーンライト」(青信号)と言ったときだけで、鬼はいつでも突然振り返って「レッドライト」(赤信号)と叫ぶことができ、このときただちに静止しないと、その参加者は失格になる。 「ある言葉を言っている間だけ動いて良いというルールで、そっと鬼に近付いていく」という点で、日本のだるまさんがころんだによく似ている。一方、顕著な違いとして、日本のだるまさんがころんだでは鬼にならないことが参加者の目的であり、参加者らは鬼でない「みんな」の中にとどまろうとし、敗者が次の鬼となるのに対し、レッドライト・グリーンライトでは鬼になることが参加者の目的であり、参加者は「みんな」と違う特権的な信号灯役になろうとし、勝者が次の鬼となる。 === 各国での掛け声 === ==== アルゼンチン ==== : 「1、2、3、タバコ 43」(Uno, dos, tres, cigarrillo cuarenta y tres) ==== オーストラリア ==== : 「ホットチョコレート」(Hot Chocolate) ==== オーストリア ==== : 「雷、天気、稲妻!」(Donner, Wetter, Blitz!" (tr. "Thunder, weather, lightning!) : 「部屋、台所、キャビネット、オーブンの後ろにベッドがあります!」(Zimmer, Küche, Kabinett, hinterm Ofen steht ein Bett!) ==== バングラデシュ ==== : 「彫像!」(Statue!) : 「L-O-N-Dロンドン、鐘が鳴るタンタン、1、2、3!」(এলন্ডি লন্ডন, ঘড়ি বাজে টনটন, এক, দুই, তিন!) ==== ベルギー ==== : 「1、2、3、ピアノ!」(Eén, twee, drie, piano!)…オランダ語、フランス語 : 「1、2、3、ピアノ!」(Un, deux, trois, piano!)…フランス語 ==== ブラジル ==== : 「小さなフライドポテト、1つ、2つ、3つ!」(Batatinha frita, um, dois, três!) ==== ブルガリア ==== : 「くまのプーさん!」 (Мечо Пух) : 「ネイティブ・アメリカンの目」(Индианско Око) ==== カナダ ==== : 「行け、行け、止まれ!」…(Go, go, stop!)ブリティッシュコロンビア : 「1、2、3、太陽!」…(Un, deux trois, soleil)ケベック州 : 「青、白、赤!」…(Bleu, blanc, rouge!)ケベック州 : 「1、2、3、彫像!」…(Un, deux trois, statue!)ケベック州 ==== チリ ==== : 「1、2、3、それはミイラ!」(Un, dos, tres, momia es) ==== コスタリカ ==== : 「1、2、3、止まれ小さなチーズ」(Un, dos, tres, quesito stop) ==== クロアチア ==== : 「黒い女王、1、2、3」(Crna kraljica, jedan, dva, tri) ==== チェコ ==== : 「砂糖、コーヒー、レモネード……紅茶、ラム酒、バン!」(Cukr, káva, limonáda... čaj, rum, bum!) ==== デンマーク ==== : 「赤、黄、緑、止まれ!」(rød gul grøn stop) ==== エストニア ==== : 「ニシン、ニシン、1、2、3!」(Heeringas, heeringas, üks, kaks, kolm) ==== フィンランド ==== : 「鏡!」(Peili) ==== フランス ==== : 「1、2、3、太陽」([[:fr:Un, deux, trois, soleil|Un, deux, trois, soleil]]) ==== ドイツ ==== : 「1、2、3、山の牛」(Eins, zwei, drei, Ochs am Berg) ==== ギリシャ ==== : 「動かない、話さない、笑わない像...昼か、夜か?」(Αγαλματάκια ακούνητα, αμίλητα, αγέλαστα... Μέρα ή νύχτα) ==== アイスランド ==== : 「1、2、3、4、5、ディマリム」(Einn, tveir, þrír, fjórir, fimm, dimmalimm) ==== インド ==== : 「彫像!」(Statue!) : 「りんご、りんご、バナナ!」(Apple, Apple, Banana) ==== インドネシア ==== : 「彫像!」(Patung) ==== イスラエル ==== : 「1、2、3、塩魚!」(דג מלוח) ==== イタリア ==== : 「1、2、3、星!」(Un, due, tre, stella!) ==== マレーシア ==== : 「虎のおじいちゃん、いま何時?」(Pukul Berapa Datuk Harimau?) ==== メキシコ ==== : 「1、2、3、南瓜!」(Un, dos, tres, calabaza) ==== ネパール ==== : 「L-O-N-D-O-N ロンドン、S-T-O-P 止まれ!」(L-O-N-D-O-N London, S-T-O-P Stop!!) ==== オランダ ==== : 「アンネマリア、コケコッコ!」(Annemaria Koekoek!) ==== ニュージーランド ==== : 「こっそりおばあちゃん!」(Sneak up Granny) ==== ノルウェー ==== : 「1、2、3、赤信号!」(En, to, tre, Rødt lys!) ==== パキスタン ==== : 「P-O-L-O S-T-O-P止まれ、ポロ止まれ!」(P-O-L-O S-T-O-P stop, Polo Stop!) : 「L-O-N-D-O-N、ロンドン止まれ!」(L-O-N-D-O-N London Stop!) ==== パナマ ==== : 「1、2、3、グリルチーズ!」(Un, dos, tres, pan con queso!) ==== フィリピン ==== : 「[[ペプシコーラ|ペプシ]]、[[セブンアップ (飲料)|セブンアップ]]!」(Pepsi 7-Up) ==== ポーランド ==== : 「1、2、3、[[バーバ・ヤーガ]]が見てる!」(Raz, dwa, trzy, Baba Jaga patrzy!) ==== ポルトガル ==== : 「1、2、3、中国の小さな猿!」(Um, dois, três, macaquinho do chinês!) ==== ルーマニア ==== : 「1、2、3、壁の前に佇む!」(Unu, doi, trei, la perete stai) ==== ロシア ==== : 「海には波がある、ひとつ!」(Море волнуется — раз!) : 「灯りを灯す…静かに行くほど遠くへ!」(Тише едешь — дальше будешь!) ==== セルビア ==== : 「ずるい狐、止まれ!」(Лукава лисица, СТОП!) ==== シンガポール ==== : 「ア、エ、イ、オ、ウ」(A, E, I, O, U) ==== スロヴェニア ==== : 「お母さん、いま何時?」(Mati, koliko je ura?) ==== スペイン ==== : 「1、2、3、イギリスのチョコレート」([[:es:Un, dos, tres, chocolate inglés|Un, dos, tres, chocolate inglés]]){{refn|group="注"|[[2007年]]のスペイン・メキシコ映画『[[永遠のこどもたち]]』には冒頭でこの遊びが出てくる。}}。 : 「1、2、3、壁にさわる」(Uno, dos, tres, toca la pared) : 「1、2、3、英語のかくれんぼ」(Un, dos, tres, el escondite inglés) : 「1、2、3、リトルイングリッシュチキン!」(Un, dos, tres, pollito inglés!) : 「壁を叩く」(Pica paret)…カタルーニャ : 「1、2、3、壁を叩く!」(Un, dos, tres, pica paret)…カタルーニャ ==== スウェーデン ==== : 「1、2、3、チーズ!」(Ett, Två, Tre, Ost!) : 「1、2、3、赤信号!」(Ett, Två, Tre, Rött Ljus!) ==== スイス ==== : 「新聞を読む!」(Ziitig läse" (tr. "Reading the Newspaper)…ドイツ側の地域 : 「1、2、3、星!」(Un, due, tre, stella!" (tr. "One, two, three, star!)…イタリア側の地域 ==== タイ ==== : 「ア、エ、イ、オ、ウ」(A, E, I, O, U) ==== トルコ ==== : 「ダヴル、ズルナ、1、2、3」(Davul, Zurna, Bir, İki, Üç) ==== ベネズエラ ==== : 「1、2、3、リトルイングリッシュチキン!」(Un, dos, tres, pollito inglés!) ==== ベトナム ==== : 「赤ちゃん学ぶよ歩きかた!」(Em bé tập đi) : 「木馬!」(Ngựa Gỗ) : 「1、2、3」(Một, Hai, Ba) : 「虎が帰ってきたよ、私たちの村に」(Hổ đã quay lại làng) ==== 英国 ==== : 「ホットチョコレート」(Hot chocolate) : 「おばあちゃんの足跡」(Granny's Footsteps) ==== 台湾 ==== : 「1、2、3、木偶!」(一, 二, 三, 木頭人) ==== 中国 ==== : 「紅い灯り、緑の灯り、白い小さな灯り!(红灯绿灯小白灯)」 : 「1、2、3、赤信号、青信号、道を渡るよ、気をつけて(一二三,紅綠燈,過馬路,要小心)」…香港 : 「1、2、3、私たちみんな木偶!」(一,二,三,我们都是木头人!)…中国大陸 ==== 韓国 ==== : 「[[ムクゲ|むくげ]]の花が咲きました」(무궁화 꽃이 피었습니다)…[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]に成立したとされる<ref>[https://mottokorea.com/mottoKoreaW/QnA_list.do?bbsBasketType=R&seq=3162 Q.韓国の「ムクゲの花が咲きました」という遊びは日本の「だるまさんがころんだ」が起源?]、もっと!コリア、2014年4月29日。</ref>。 ==== 米国 ==== : 「1、2、3、魚!」(Un, dos, tres, pescao)…プエルトリコ : 「一匹の魚、二匹の魚、赤い魚、青い魚」(One Fish, Two Fish, Red Fish, Blue Fish) : 「狐さん、いま何時?」(What time is it, Mr. Fox?) == 怪談との関連 == 壁の方を向いて「だるまさんが転んだ」と唱えている間は参加者の様子が全く分からないという性質から「見ていない間に背後で何かが起きているかもしれない」という不気味さが想起されるためか[[怪談]]と結び付けられることも多い。パターンは何種類かあるが、唱え終わって振り向くと参加者が消えていた、あるいは振り向くと見知らぬ不気味な参加者が紛れ込んでいるなど、「目隠ししている間に何かが起きた」といった形で語られるケースがほとんどである。<br>また、[[都市伝説]]においては「入浴中、目をつぶって洗髪している姿勢は『だるまさんがころんだ』に見えるため、この時に心の中ででも『だるまさんが転んだ』と唱えてしまうと遊びに参加しようとした何者かを引き寄せてしまい、顔を上げると鏡に何らかの怪異が映り込む」とする話もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[鬼ごっこ]] * [[かくれんぼ]] * [[かごめかごめ]] == 外部リンク == * [https://asoppa.com/asopparecipe/makes/8315585/ だるまさんがころんだ-ルール] * [http://we.freeml.com/chousa/daruma.html ウィふり調査団 『だるまさんがころんだのかけ声は?』調査] * {{Cite web|和書|url=http://www2.ocn.ne.jp/~happyman/TOUYOMI.htm|title=とうよみ|publisher=昔の遊び研究所|accessdate=2015-08-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131002102258/http://www2.ocn.ne.jp/~happyman/TOUYOMI.htm|archivedate=2013年10月2日|deadlinkdate=2018年3月}} {{おはよう!こどもショー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たるまさんかころんた}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:鬼ごっこ]] [[Category:日本のゲーム]] [[Category:だるま]] [[Category:みんなのうたの楽曲 (1970年代)]] [[Category:山本正之の楽曲]] [[Category:1978年の楽曲]] [[Category:楽曲 た|るまさんかゆりほわはんんゆなやんやむゃほんよやはひの」の。や「ねわねを」わ」んろらゆろ」りねんころんた]]
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我孫子武丸
我孫子 武丸(あびこ たけまる、1962年10月7日 -)は日本の小説家、推理作家。本名は鈴木 哲(すずき あきら)。ペンネームは島田荘司の命名。 兵庫県西宮市生まれ。京都大学文学部哲学科中退。大学在学中は京都大学推理小説研究会に所属。 1989年、『8の殺人』で小説家デビュー。速水三兄妹・人形シリーズなどのコミカルタッチや女性視点の作品から、腐蝕シリーズ、『殺戮にいたる病』などの重いタッチの作品まで、幅広く手がける。また、漫画作品『半熟探偵団』(絵:河内実加)の原作も手がける。推理小説以外にも『凛の弦音』のような学校を舞台にした青春小説もある。 1994年に発売されたサウンドノベルゲームソフト、『かまいたちの夜』のシナリオを担当し、ゲーム業界において高い名声を得る。本作はいくつかの選択肢があるものの、基本的に小説を読み進めるだけのゲームであるが、内容はこれまでにない本格ミステリーであり、プレイヤーに推理させ文字入力により回答させることが受け、大ヒットとなった。ゲームに詳しい我孫子は、ゲームシステム面でのアドバイスを行っている。 日本テレビの番組、『マジカル頭脳パワー!!』の「マジカルミステリー劇場」に原案ブレーンとして、またTBSで1994・1995年に放送された『超難解推理クイズ 頭脳警察(パート1・2)』にも、問題作成ブレーンとして参加したことがある。 作中で活躍する探偵役としては、速水三兄妹、鞠小路鞠夫が主なシリーズ探偵であるが、近年ではノンシリーズでの執筆が主である。2004年から2007年にかけては作家直送オンライン販売サイトe-novelsの運営を手がけ、また宮崎あおいの昔からのファンとしての一面もある。 2015年から2017年まで、本格ミステリ作家クラブの監事をつとめる。 「」内が我孫子武丸の作品
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我孫子 武丸は日本の小説家、推理作家。本名は鈴木 哲。ペンネームは島田荘司の命名。 兵庫県西宮市生まれ。京都大学文学部哲学科中退。大学在学中は京都大学推理小説研究会に所属。
{{存命人物の出典明記|date=2022年9月}} {{Infobox 作家 |name = {{ruby|我孫子 武丸|あびこ たけまる}} |birth_name = {{ruby|鈴木 哲|すずき あきら}} |birth_date = {{生年月日と年齢|1962|10|7}} |birth_place = [[兵庫県]][[西宮市]] |death_date = |death_place = |occupation = [[推理作家]] |nationality = {{JPN}} |period = 1989年 - |genre = [[推理小説]] |subject = |movement = |notable_works = 『殺戮にいたる病』 |awards = |debut_works = 『[[8の殺人]]』 |website = [http://web.kyoto-inet.or.jp/people/abiko/ 我孫子飯店] }} {{読み仮名 ruby不使用|'''我孫子 武丸'''|あびこ たけまる|1962年10月7日 - }}は[[日本]]の[[小説家]]、[[推理作家]]。本名は{{読み仮名_ruby不使用|'''鈴木 哲'''|すずき あきら}}。ペンネームは[[島田荘司]]の命名<ref>{{Cite book|和書 |title=8の殺人 |chapter=あとがき |author=我孫子武丸 |edition=第17刷 |isbn=978-4-06-185100-9 |page=275 |publisher=講談社 |series=講談社文庫}}</ref>。 [[兵庫県]][[西宮市]]生まれ。[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学文学部]]哲学科中退。大学在学中は京都大学推理小説研究会に所属。 == 概要 == 1989年、『8の殺人』で小説家デビュー。速水三兄妹・人形シリーズなどのコミカルタッチや女性視点の作品から、腐蝕シリーズ、『殺戮にいたる病』などの重いタッチの作品まで、幅広く手がける。また、[[漫画]]作品『半熟探偵団』(絵:[[河内実加]])の原作も手がける。推理小説以外にも『凛の弦音』のような学校を舞台にした青春小説もある。 1994年に発売された[[サウンドノベル]][[ゲームソフト]]、『[[かまいたちの夜]]』のシナリオを担当し、ゲーム業界において高い名声を得る。本作はいくつかの選択肢があるものの、基本的に小説を読み進めるだけのゲームであるが、内容はこれまでにない本格ミステリーであり、プレイヤーに推理させ文字入力により回答させることが受け、大ヒットとなった。ゲームに詳しい我孫子は、ゲームシステム面でのアドバイスを行っている。 日本テレビの番組、『[[マジカル頭脳パワー!!]]』の「[[マジカルミステリー劇場]]」に原案ブレーンとして、またTBSで1994・1995年に放送された『[[超難解推理クイズ 頭脳警察]](パート1・2)』にも、問題作成ブレーンとして参加したことがある。 作中で活躍する探偵役としては、'''速水三兄妹'''、'''鞠小路鞠夫'''が主なシリーズ探偵であるが、近年ではノンシリーズでの執筆が主である。2004年から2007年にかけては作家直送オンライン販売サイトe-novelsの運営を手がけ、また[[宮崎あおい]]の昔からのファンとしての一面もある<ref>ハナシをノベル!!花見の巻 著者紹介より</ref>。 2015年から2017年まで、[[本格ミステリ作家クラブ]]の監事をつとめる。 == ミステリー・ランキング == === このミステリーがすごい! === *1989年 - 『8の殺人』18位 *1992年 - 『探偵映画』16位 *1993年 - 『殺戮にいたる病』16位 *2006年 - 『弥勒の掌』19位 === 本格ミステリー・ベスト10 === *2006年 - 『弥勒の掌』3位 == 作品リスト == === 単行本 === ==== 速水三兄妹シリーズ ==== *8の殺人(1989年3月 [[講談社ノベルス]] / 1992年3月 [[講談社文庫]] / 2008年4月 講談社文庫【新装版】) *0の殺人(1989年8月 講談社ノベルス / 1992年9月 講談社文庫) *メビウスの殺人(1990年2月 講談社ノベルス / 1993年5月 講談社文庫) ==== 人形シリーズ ==== {{Main|鞠夫シリーズ}} *人形はこたつで推理する(1990年8月 [[カドカワノベルズ]] / 1995年6月 講談社文庫) **収録作品:人形はこたつで推理する / 人形はテントで推理する / 人形は劇場で推理する / 人形をなくした腹話術師 *人形は遠足で推理する(1991年4月 カドカワノベルズ / 1995年7月 講談社文庫) *人形は眠れない(1991年9月 カドカワノベルズ / 1996年4月 講談社文庫) *人形はライブハウスで推理する(2001年8月 講談社ノベルス / 2004年8月 講談社文庫) **収録作品:人形はライブハウスで推理する / ママは空に消える / ゲーム好きの死体 / 人形は楽屋で推理する / 腹話術志願 / 夏の記憶 ==== ぼくの推理研究シリーズ ==== *ぼくの推理研究(1993年8月 [[集英社]]) **収録作品:ぼくの推理研究 / 凍てついた季節 *死神になった少年(1997年4月 集英社) **収録作品:死神になった少年 / 少女たちの戦争 *少年たちの四季(2003年2月 [[集英社文庫]]) - 上記2作品を合本 ==== 腐触の街シリーズ ==== *腐触の街(1995年11月 [[双葉社]] / 1999年2月 [[双葉文庫]]) *屍蝋の街(1999年9月 双葉社 / 2002年10月 双葉文庫) ==== 京都探偵シリーズ ==== *ディプロトドンティア・マクロプス(1997年7月 講談社ノベルス / 2000年6月 講談社文庫) *狩人は都を駆ける(2007年12月 [[文藝春秋]] / 2010年6月 [[文春文庫]]) **収録作品:狩人は都を駆ける / 野良猫嫌い / 狙われたヴィスコンティ / 失踪 / 黒い毛皮の女 ==== 警視庁特捜班ドットジェイピーシリーズ ==== *警視庁特捜班ドットジェイピー(2008年6月 [[光文社]] / 2011年6月 [[光文社文庫]]) *特捜班危機一髪 警視庁特捜班ドットジェイピー(2014年9月 光文社) ==== 凛の弦音シリーズ ==== *凛の弦音(2018年10月 光文社 / 2022年7月 光文社文庫) *残心 凛の弦音(2022年5月 光文社) ==== その他 ==== *探偵映画(1990年12月 講談社ノベルス / 1994年7月 講談社文庫 / 2009年12月 文春文庫) *殺戮にいたる病(1992年9月 [[講談社]] / 1994年8月 講談社ノベルス / 1996年11月 講談社文庫 / 2017年10月 講談社文庫【新装版】) *小説たけまる増刊号(1997年11月 集英社)- 短編・コラム・グラビア・インタビューなど、小説誌の体裁をまるまるパロディ化した個人短編集 **収録作品:裏庭の死体 / バベルの塔の犯罪 / 座右のめろでい / 患者 / 猟奇小説家 / JDC振興会潜入記 / 猫恐怖症 / 日本まちまち巡り / 春爛漫 / 卓上の空論 / 芋羊羹 / 再会 / 責任者出てこい! / 青い花嫁 / 嫉妬 / 二重生活 / ぼくはおまえが嫌いだ! / 叙述トリック試論 / ぽてへの詫び状 / 花嫁は涙を流さない / Everybody kills somebody / 夜のヒッチハイカー / 書評・今日の一冊 / 青い鳥を探せ / 小さな悪魔 / 車中の出来事 *たけまる文庫 怪の巻(2000年5月 集英社文庫) **収録作品:猫恐怖症 / 春爛漫 / 芋羊羹 / 再会 / 青い花嫁 / 嫉妬 / 二重生活 / 患者 / 猟奇小説家 *たけまる文庫 謎の巻(2000年7月 集英社文庫) **収録作品:裏庭の死体 / バベルの塔の犯罪 / 花嫁は涙を流さない / Everybody kills somebody / 夜のヒッチハイカー / 青い鳥を探せ / 小さな悪魔 / 車中の出来事 *まほろ市の殺人 夏――夏に散る花(2002年6月 [[祥伝社文庫]]) *弥勒の掌(2005年4月 文藝春秋 / 2008年3月 文春文庫) *さよならのためだけに(2010年3月 [[徳間書店]] / 2012年5月 [[徳間文庫]] / 2021年11月 徳間文庫【新装版】) *眠り姫とバンパイア(2011年3月 講談社 [[ミステリーランド]] / 2014年3月 講談社文庫) *狼と兎のゲーム(2013年7月 講談社 / 2015年10月 講談社文庫) *裁く眼(2016年8月 文藝春秋 / 2019年6月 文春文庫) *怪盗不思議紳士(2018年3月 角川書店 / 2020年8月 [[角川文庫]]) *監禁探偵 (2019年10月 実業之日本社 / 2022年10月 実業之日本社文庫) *修羅の家(2020年4月 講談社 / 2023年8月 講談社文庫) === アンソロジー === 「」内が我孫子武丸の作品 *奇想の復活 ミステリーの愉しみ5(1992年8月 立風書房)「バベルの塔の犯罪」 *白昼夢(1995年8月 集英社文庫)「猫恐怖症」 *推理小説代表作選集 1997年版(1997年6月 講談社)「猟奇小説家」 **【分冊・改題】殺人哀モード ミステリー傑作選37(2000年4月 講談社文庫) *[[異形コレクション|異形コレクション4 悪魔の発明 23人のマッド・サイエンティスト]](1998年5月 廣済堂文庫)「レタッチ」 *異形コレクション14 世紀末サーカス(1999年12月 廣済堂文庫)「理想のペット」 *十二宮12幻想(2000年1月 [[エニックス]] / 2002年5月 講談社文庫)「ビデオレター」 *エロティシズム12幻想(2000年2月 [[スクウェア・エニックス]] / 2002年3月 講談社文庫)「ドールハウスの情景」 *三日月島奇譚 かまいたちの夜2 オリジナルノベルズ(2002年7月 チュンソフト)「底蟲村異聞」 *エロチカ(2004年3月 講談社)「危険な遊び」 *黄昏ホテル(2004年11月 [[小学館]])「オールド・ボーイ」 *気分は名探偵 犯人当てアンソロジー(2006年5月 徳間書店 / 2008年9月 徳間文庫)「漂流者」 *ハナシをノベル!! 花見の巻(2007年11月 講談社)「貧乏花見殺人事件」 *まほろ市の殺人(2009年3月 [[祥伝社]] [[ノン・ノベル]] / 2013年2月 祥伝社文庫)「夏に散る花」 *逆想コンチェルト 奏の2(2010年8月 徳間書店)「記憶の欠片」 *[[探偵Xからの挑戦状!|探偵Xからの挑戦状! season2]](2011年2月 [[小学館文庫]])「記憶のアリバイ」 *Mystery Seller(2012年1月 [[新潮社]])「夏に消えた少女」 *0番目の事件簿(2012年11月 講談社)「フィギュア・フォー」 *[[近藤史恵]]リクエスト! ペットのアンソロジー(2013年1月 光文社 / 2014年7月 光文社文庫)「里親面接」 *[[辻村深月]]選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎008(2013年10月 講談社文庫)「猟奇小説家」 *推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ(2017年8月 角川文庫)※エッセイアンソロジー *落語推理迷宮亭 ミステリー名演集(2017年1月 光文社文庫)「貧乏花見殺人事件」 *7人の名探偵 新本格30周年記念アンソロジー(2017年9月 講談社ノベルス / 2020年8月 公団さ文庫)「プロジェクト:シャーロック」 *[[年刊日本SF傑作選|プロジェクト:シャーロック 年刊日本SF傑作選]](2018年6月 [[創元SF文庫]])「プロジェクト:シャーロック」 === 共著 === *八ヶ岳「雪密室」の謎(2001年3月 原書房) **共著:[[霞流一]]、[[喜国雅彦]]、[[桐野夏生]]、[[鯨統一郎]]、[[斎藤肇]]、[[柄刀一]]、[[二階堂黎人]]、[[貫井徳郎]]、[[布施謙一]] *三人のゴーストハンター 国枝特殊警備ファイル(2001年5月 集英社 / 2002年9月 チュンソフト / 2003年9月 集英社文庫) **共著:[[田中啓文]]、[[牧野修]] === 単著本未収録作品 === *ポルノグラフィック(集英社『[[小説すばる]]』1999年12月号) *第三営業課長・川本の最後の接待(集英社『小説すばる』2001年11月号) *トリニティ(光文社『[[小説宝石]]』2001年12月号) *秘宝館で逢いましょう(集英社『小説すばる』2002年6月号) *危険な遊び(講談社『[[小説現代]]』2003年10月号) *薮の中(集英社『小説すばる』2004年4月号) *二人乗りで行こう(祥伝社『[[小説NON]]』2004年11月号) *ザッピング・ゲーム(集英社『小説すばる』2005年8月号) *禁忌の街(双葉社『小説推理』2006年2月号 - 2008年7月号、連載終了) *フィギュア・フォー(講談社『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』2008年1月号) *夏に消えた少女(新潮社『[[小説新潮]]』2010年9月号) *里親面接(光文社『小説宝石』2012年10月号) *ジャック・ジ・エイリアン(光文社『[[ジャーロ (文芸誌)|ジャーロ]]』2014年秋冬号) == その他の活動 == === ゲームシナリオ === *[[かまいたちの夜]] *[[かまいたちの夜2 監獄島のわらべ唄]](サブシナリオ『わらび唄篇』『ラブテスター篇』、ゲームキャラクターとしても登場) *[[かまいたちの夜×3 三日月島事件の真相]] *[[428 〜封鎖された渋谷で〜]](ボーナスシナリオ『鈴音編』) *[[トリックロジック シーズン1]](事件ファイルNo.1『盗まれたフィギュア』) *[[トリックロジック シーズン2]](事件ファイルNo.10『完全無欠のアリバイ』) *[[真かまいたちの夜 11人目の訪問者]](サイドシナリオ/ダウンロードコンテンツ『みゆきとサトミ編』) *[[GUILD SERIES|宇宙船ダムレイ号]] === 漫画シナリオ === *半熟探偵団(漫画:[[河内実加]]、1997年4月 - 1998年7月、きらら16コミックス、全3巻) *スライハンド(漫画:[[藤谷陽子]]、2005年9月、BLADE COMICS、全1巻) *迷彩都市 -カモフラージュ・シティ-(漫画:[[中山昌亮]]、2006年9月 - 12月、近代麻雀コミックス、全2巻) *探偵になるための893の方法(漫画:[[坂本あきら (漫画家)|坂本あきら]]、2007年12月 - 2008年11月、[[ヤングガンガンコミックス]]、全3巻) *監禁探偵(漫画:[[西崎泰正]]、2011年1月、[[マンサンコミックス]]、2巻) === 監修 === *[[かまいたちの夜 ニワンゴ版]] *[[バクダン★ハンダン]](プロット・ミステリー監修) === 脚本 === *消えた理事長(撮影・編集:[[京極夏彦]] 、[[TBSテレビ|TBS]]、王様のブランチにて放送)元は「作家と遊ぼう!ミステリーカレッジ」のイベントのため作られた。 === 映像化作品 === *[[かまいたちの夜 (テレビドラマ)|かまいたちの夜]](2002年7月3日放送、[[TBSテレビ|TBS]]、[[藤原竜也]]主演) *[[監禁探偵 (映画)|監禁探偵]](2013年6月1日公開、[[夏菜]]主演) *[[謎解きLIVE]] [[美白島殺人事件]](オリジナルストーリー)(2015年7月18日、19日放送、[[NHK BSプレミアム]]、[[金沢美穂]]、[[椎名琴音]]主演) *[[世にも奇妙な物語]] [[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (2016年)|車中の出来事]](2016年10月8日放送、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[北村一輝]]主演) === 対談 === *スペシャル対談(人形はこたつで推理する 1996年9月) *法月綸太郎の特別連続対談「隠れミステリアンを探せ!」(『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』1996年12月号) *ニューウエイヴ・ミステリ読本(原書房、1997年 3月) *ゲーム『YAKATA』は『館』の外伝です!(『メフィスト』1998年05月号) *やっぱりミステリ作家は猫好きが多いのかなぁ(『推理力』アート・サプライ編) *かまいたちの夜2 クリエイターインタビュー(『かまいたちの夜2 ~監獄島のわらべ唄~公式ファンブック』) *作家 対談・プロフィール(『かまいたちの夜2 オリジナルノベルズ 三日月島奇譚』) *対談 我孫子武丸×いっこく堂(『人形はライブハウスで推理する』) *我孫子武丸×落合信也×伊東幸一郎 座談会(『かまいたちの夜×3 三日月島事件の真相 完全攻略本』) *[[ひぐらしのなく頃に]] 公式ファンブック (テレビアニメ) *メフィスト合評バトンタッチ対談 「メフィスト評論の怪・快・解」(『メフィスト』2008年09月号) *トリックロジック (「[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]』2010年 8月号) *合評・メフィストの読書会 「本格のメソッド」とは?(『メフィスト』2011 VOL.1) *対談+《ミステリ大喜利》(『[[ジャーロ (文芸誌)|ジャーロ]]』2011 NO.42) *本 よみうり堂 関西館(『[[読売新聞]]』2013年8月29日) === グラビア === *鍋で温もる!(『[[小説すばる]]』2003年2月号) == 日本国外での刊行 == === 台湾 === *漫画シナリオ **半熟探偵團(全3巻) (2002年3月 - 2004年4月、東立) - 半熟探偵団 **超能之手(全1巻) (2006年4月、東立) - スライハンド **迷彩都市(1巻のみ刊行) (2007年9月、台湾東販) - 迷彩都市 **偵探守則893(全3巻) (2009年1月-3月、東立) - 探偵になるための893の方法 *小説 **殺戮之病 (2007年6月、独歩文化 〈[[日本推理名家傑作選]]〉、ISBN 9789866954603) - 殺戮にいたる病 **彌勒之掌 (2008年1月、[[皇冠文化グループ|皇冠文化出版]] 〈[[推理謎シリーズ]]〉、ISBN 9789573323761) - 弥勒の掌 **京都獵人的冒險 (2010年4月、木馬文化、ISBN 9789866488801) - 狩人は都を駆ける === 中国 === *小説 **{{lang|zh|杀戮之病}} (2010年1月、新星出版社、ISBN 9787802257825) - 殺戮にいたる病 === 韓国 === *小説 **{{lang|ko|미륵의 손바닥}} (2006年12月、[[ユン・ドクチュ]]訳、ISBN 9788959750641) - 弥勒の掌 **{{lang|ko|살육에 이르는 병}} (2007年2月、[[クォン・イリョン]]訳、ISBN 9788952748126) - 殺戮にいたる病 - (韓国では「19禁」になっている) **{{lang|ko|인형, 탐정이 되다}} (2009年10月、[[鶴山文化社]] 〈Book Holic〉、[[チェ・ゴウン]]訳、ISBN 9788925824833) - 人形はこたつで推理する **{{lang|ko|소풍 버스 납치 사건}} (2009年12月、鶴山文化社 〈Book Holic〉、チェ・ゴウン訳、ISBN 9788925824857) - 人形は遠足で推理する **{{lang|ko|인형은 잠들지 않아}} (2010年8月、鶴山文化社 〈Book Holic〉、チェ・ゴウン訳、ISBN 9788925824864) -人形は眠れない **{{lang|ko|라이브 하우스 살인 사건}} (2011年5月、鶴山文化社 〈Book Holic〉、チェ・ゴウン訳、ISBN 9788925824871) -人形はライブハウスで推理する **탐정영화(2012年8月、ISBN 9788954618953) -探偵映画 **0의 살인(2015年2月、ISBN 9788959758036) -0の殺人 **뫼비우스의 살인(2015年8月、ISBN 9788959758548) -メビウスの殺人 *漫画シナリオ **{{lang|ko|초보 탐정단}}(全3巻) (2000年4月 - 6月、[[大元 C.I.]]) - 半熟探偵団 **{{lang|ko|탐정이 되는 893가지 방법}}(全3巻) (2009年2月 - 6月、[[ソウル文化社]]) - 探偵になるための893の方法 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *{{要出典範囲|[[宮﨑あおい]]|date=2022年9月}} == 外部リンク == *[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/abiko/ 我孫子飯店] *[http://blog.textt.net/abiko/ 長文倉庫] - 本人のブログ *{{Twitter|sukiyapotes|あびこ}} *{{Wayback|url=http://theinterviews.jp/sukiyapotes |title=ザ・インタビューズ|date=20150401210352}} *{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/4746/archives/abiko.html |title=我孫子武丸先生質問会 |date=20150728232249}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あひこ たけまる}} [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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鉄腕アトム
『鉄腕アトム』(てつわんアトム、日本での英題はMighty Atom)は、手塚治虫のSF漫画作品及び同作を原作としたテレビアニメ、特撮テレビ番組の作品名、並びに作品内の主人公である架空のロボットの名称である。テレビアニメ版で使用された主題歌の曲名でもあり、同シリーズゲームのタイトル名にもなっている。 21世紀の未来を舞台に原子力(後に核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット・アトムが活躍する物語。米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。1981年には関連書籍の発行部数が累計1億部を突破した。 本作は、1951年4月から1952年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを主人公として、1952年4月から1968年3月にかけて、「少年」(光文社)に連載され、1963年から1966年にかけてフジテレビ系で日本初の30分テレビアニメシリーズとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率27.4%を記録しその後、世界各地でも放映された。詳細は鉄腕アトム (アニメ第1作)の項目を参照。 後に『アトム大使』を『鉄腕アトム』の設定に擦り合わせて改変した『鉄腕アトム 大使の巻』として組み込まれるなど、本編がスピンオフに歩み寄る逆転現象が起きた。 1980年には日本テレビ系でカラー版の第2作目のアニメが制作され、さらに1作目と同じくフジテレビ系にて2003年に『ASTRO BOY 鉄腕アトム』として3回目のリメイクが放映、2009年にはCG映画『ATOM』が公開されている。 現在の日本のロボット工学者たちには幼少時代に『鉄腕アトム』に触れたことがロボット技術者を志すきっかけとなっている者も多く、日本のロボット技術の発展には本作が大きく貢献しているとされる。一方で、反原発派からは原子力の利用に対する現状との関係を批評・批判する書籍も出されている。なお、原作者は原子力発電を推奨する意図はないと述べている。 アトムは初登場の作品である光文社の雑誌「少年」連載の漫画『アトム大使』では脇役だった。その作品自体の人気も今ひとつであったが、『少年』編集長の金井武志は「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられる」と手塚に提案し、アトムを主人公として設定を少し変更した上で描かれたのが本作である。アトム大使連載最終回には、次号からは「鉄人アトム」がはじまりますと予告されていたが「鉄腕アトム」になった。 原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる。製作者は天馬博士。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。トビオは、人間とほぼ同等の感情と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。サーカスにおいて団長に「アトム」と名付けられる。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していたお茶の水博士に引き取られた。そして情操教育としてロボットの家族と家を与えられ、人間の小学校に通わされるようになる。学校での生活は、同級生達と紆余曲折しながらも仲良くやっている。 性格は真面目で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つが、時にロボットである自分に苦悩や葛藤することも多い。また「アルプスの決闘の巻」では複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓を取りつけてもらって人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため、ケン一によって人造心臓を破壊された)。 誕生日の4月7日は本作の連載が始まった「少年」の発売日であった。原作では、「ミーバの巻」(1966年9月号 - 12月号)での天馬博士のセリフなどに誕生日についての記述がある。連載当時と小学館ゴールデンコミックス版では2013年4月7日と記載されており、朝日ソノラマサンコミックス版以後2003年4月7日に改められた。アニメでも第1作目は誕生から約1年後に「ロボットC3号(俗称トビオ)」として売られた日が2001年11月、アニメ第2作は2030年に誕生など設定に違いがある。 アトムの赤い靴はアニメ第2作では名付け親であるロボットサーカスの女の子ロボットのキャシーから譲られ、最終回では形見代わりにニョーカの足が移植されている。 物語の中では苦労して市民権を得たが、現実の2003年4月7日、アトムはお茶の水博士を世帯主として手塚プロの所在地である埼玉県新座市の市民に登録され市役所の前でアニメキャラクターとしては初のアトムの特別住民票が配付された。 アトムの髪型は、作者である手塚のくせ毛がモデル。アトムの特徴はMighty Mouse(マイティ・マウス)を元にしており、英題もMighty Mouseに倣って「Mighty Atom」としている。また、『少年』連載時には手の指は4本で描かれることが多かった。 『アトム大使』の物語では、我々が住んでいる「地球」とは別の、もうひとつの星「地球」の人々が、その星の大爆発によりロケット団で宇宙を長く放浪して偶然に我々の「地球」を発見して着陸したが、どちらの地球人もよく似ており、はじめは友好的関係を保って生活をした。しかし、食糧問題などを心配した「もともと地球に住んでいる地球人」が「宇宙を渡ってきた地球人」と対立(反対派の頭目は天馬博士)。 「地球に住む地球人」のロボットであるアトム(天馬博士のロボット)が両側の間に入って交渉して宇宙人の代表に対して誠実さの証しを見せるための自らの頭部を差し出したことで対立は収まり(天馬博士は自分の作ったクスリでゴミのように小さくなってしまう)、地球人と宇宙人は半分ずつ金星に飛び立つという物語。 なお、最後にお礼として、アトムは「宇宙を渡ってきた」地球の人々から大人の顔を貰う。 アトムは7つの力を持っているが内容は以下の通り多少のバリエーションがある。 その他、身長135センチ、体重30キログラム。電子頭脳は頭部ではなく胴体内上部に設置されていて、頭部は単なる飾りとされ、透視図では頭部にセンサー類が集中しているようだが、作中では頭部が外れてしまったり、頭なしでも活動可能な描写があり、胴体にもセンサー類は搭載されている模様。電子頭脳については、「アトム今昔物語」などの記述によると1970年代に開発された超小型の原子力電子計算機が基になっているとされる。胸にはメンテナンス用の蓋があって、その内側には簡易的な修理のマニュアルと交換用の真空管が備えられていた。また電源スイッチもここにあるようで、原作の「火星探検の巻」ではお茶の水博士がアトムを航空機に乗せる際、手荷物扱いにするためにこの電源スイッチを切ってトランクに収納するシーンがある。原作及びアニメ第1作ではこの蓋の内部と尻の2か所にエネルギーの補給口があり、ここに給油ホース状の物を接続して液体とおぼしきエネルギーを補給する仕組み。またアニメ第2作では胸部ハッチの内部にカセット状の小型エネルギータンクを入れるスペースがあり、タンクごと交換する形で補給を行っていた。なお動力部である原子炉については「原子力モーター」という表現もあり、現在の原子炉と同じ物かどうかは不明。作中でしょっちゅうエネルギー切れを起こす描写がある事から、現在の原子炉とは異なるメカニズムである可能性も高い。使用しているエネルギーは「エネルギーチューブ」とも称されていて作中世界では現在の電力か石油並みに普及している物であり、ほとんどのロボットや兵器などの機械に使われているようである。「アトム今昔物語」の記述によるとこのエネルギーチューブは1990年代にアメリカで開発された物で、当時は非常に高価で用途もごく限られていたという。またエネルギーチューブの成分はウラン化合物とされており、アトムが使用したエネルギーの残りカスを排出するためにトイレに行くシーンもあった。この残りカスが現在の原子炉の使用済み核燃料と同じ物かは不明だが、天馬博士は放射能汚染を心配する妻・星江に「昔の原子力船じゃない、放射能のカスなんか出さんよ」と語っている。 飛行能力に関しては、大気圏内では体内に搭載された原子炉(後に核融合炉)の膨大な熱エネルギーを利用することで、吸入した大気を熱膨張させてジェットの推進力に使用し、大推力と大気中での超音速巡航が可能。宇宙空間(大気圏外)では体内の核融合炉で発生させたプラズマを噴射し、ロケットの推力を得ている。これにより自力での大気圏突破と宇宙巡航が可能である。また、核融合反応によって生成されたプラズマは超電導MHD発電によって電力にも変換されている。 アトムの身体を覆う人工皮膚は、ケブラー繊維とカーボン・ファイバーを織り込んで造られており、防水機能のほかに小火器程度の被弾では損傷しない性能を持っている。この外殻には2タイプの数千個にのぼるセンサーが埋め込まれている。一つは感覚センサーで、触覚と温度を知覚するもの。 ミュンヘン工科大学のゴードン・チャン教授師事の研究チームでは(接触・加速・近接・温度を検出できるセンサとマイクロプロセッサを搭載した)「六角形人工皮膚セル」を開発、全身に1260個の「六角形人工皮膚セル」を装備した試作型人型ロボット『H-1』を開発した。 もう一つは内蔵された小型無線受信機に接続する通信センサーである。整相列の通信センサーによって、アトムはいながらにしてパラボラ・アンテナ機能を持つ事ができ、人工衛星や他の電波源を選択して聴取できるのである。付属機能として、動物の電界を探知でき、それによって暗闇のなかの生物、もしくは隠れた生物の存在を「見る」という(鮫に似た)能力を発揮できる。「アトム今昔物語」などの記述によるとこの人工皮膚は1980年代にプラスチックを基に開発された物で、格段に優れた強度・耐熱性を持つという。ただしさすがに数千°Cレベルの高熱には耐えられないようで、「人工太陽の巻」では人工太陽の高熱で手足と体表が熔けてノッペラボウの丸太のような姿になってしまったり、「エジプト陰謀団の秘密の巻」では身体が熱せられた状態で海中に出たため体表が急冷されてヒビ割れができたりもした。 アトムの視覚映像システムは頭部に収められている。アトムは乏しい光源しかなくても、スターライト・スコープのようにその信号を増幅して見ることができる。また、このシステムは赤外線映像や紫外線映像にも切り替えられる。 アトムが実現するには複数のアクチュエータと関節をフレキシブルに結合し、複数のアクチュエータが必要に応じて協調し大出力や高速動作を実現する多自由度干渉駆動技術が必要。現実にこの技術は筋電義手の研究開発を行なっている電気通信大学・横井 研究室の横井浩史教授が研究している。 飛ぶときは一方の手をゲンコにして突き出し、一方をハスに構える。これは英題『Mighty Atom』の由来でもあるマイティ・マウス (アニメ)の主人公の影響。 アトムの家族の名前はパパ(エタノール)を除き、元素名に由来している。アトムはAtom(原子)、ウランはUranium(ウラン)、コバルトはCobalt(コバルト)など、基本的に原子力に深く関わる元素から取られている。 本作の世界で、人間に準じた権利と地位をロボットに保証し、かつロボットが守るべき義務を定めた法律。アトムがサーカス団からお茶の水博士に引き取られたのも、この法律の制定の結果であるとされている。ただし、最初の『アトム大使』ではこの設定は登場しておらず、その後の連載やテレビアニメ化の過程で内容が徐々に追加されていった。『少年』連載版で具体的な内容が登場するのは「海蛇島の巻」「幽霊製造器の巻」「キリストの目の巻」「青騎士の巻」である。このうち、同法にまつわるジレンマを掘り下げて描いた「青騎士の巻」で最も詳しく紹介されている。 アイザック・アシモフ作品におけるロボット工学三原則と内容的に重なる部分もあるが、手塚自身は、本作のロボット法は独自に考案したものであると説明していた。 ロボット兵器をめぐる議論の中で、この「ロボット法」が取り上げられている。 他に、メインではないがアトムの登場する番外編として「わが名は百科」や、ゲスト出演の「ブラック・ジャック『おまえが犯人だ!!』」などがある。 ISBNは判明しているもののみ表記している。 本項目では『鉄腕アトム』関連の漫画全集のみ表記している。他作品については手塚治虫漫画全集#作品を参照されたい。 『ほるぷ版 手塚治虫選集』(全20巻)の中で1 - 6巻が『鉄腕アトム』の選集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の選集のみ表記している。 手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫作品集』(全11巻)の中で9 - 11巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の作品集のみ表記している。 手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫アニメ名作集』(全16巻)の中で1 - 3巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の名作集のみ表記している。 本項目では『鉄腕アトム』関連の文庫全集のみ表記している。他作品については手塚治虫文庫全集#作品を参照されたい。 注記:「特撮秘宝vol.5」(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)、洋泉社、ISBN 978-4-8003-1127-6(2016年12月5日)に、この紙人形劇鉄腕アトムとテレビ実写版鉄腕アトムに関する資料が掲載されている。 原題は『Little Astro Boy』。2014年3月よりナイジェリアでの放送を主目的として、同国の民間テレビ局「チャンネルズTV(英語版)」にて1話15分で全8話を制作・放送。手塚プロダクションが海外市場の開拓を図るため、様々なリサーチからアフリカ市場に将来性を感じ同局と共同制作した。視聴層を低年齢向けに定め、アトムは原典よりも幼い外見にリ・デザイン。内容も「ロボタウン」を舞台にアトムが人間やロボットの仲間たちと悪者を退治したりカーレースをする日常風景を単純明快に描く。2015年11月には日本向けローカライズ版『ろぼっとアトム』としてDVDソフト化され、ハピネット・ピクチャーズより販売。 最晩年の石ノ森章太郎の対談では、悪書追放運動などの漫画バッシングの中、受けを狙って書いていた駄作であり、僕の好きな作品のトップ100にも入らないとしている。 イタリア技術研究所(IIT)(英語版)を中心に研究・開発がおこなわれている子供型二足歩行ロボット。 身長104cm、体重22kg、全53自由度の3歳半の子供サイズの人型ロボット。設計はオープンソースとなっており、如何様にもカスタマイズ可能。将来的にはドイツの「JETCAT」社製造の模型飛行機用ターボジェット『JETCAT P-100RX』エンジン(推力:10.9kg)および『JETCAT P220-RXi』エンジン(推力:22.4kg)を(左右腕部に各々『JETCAT P-100RX』エンジン1基ずつ2基、左右背部に各々『JETCAT P-220-RXi』1基ずつ2基の合計4基)装着することにより、(短時間ではあるが)時速30km程度での低空下での自律飛行の実現を目指している。
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"本項目では『鉄腕アトム』関連の漫画全集のみ表記している。他作品については手塚治虫漫画全集#作品を参照されたい。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『ほるぷ版 手塚治虫選集』(全20巻)の中で1 - 6巻が『鉄腕アトム』の選集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の選集のみ表記している。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫作品集』(全11巻)の中で9 - 11巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の作品集のみ表記している。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫アニメ名作集』(全16巻)の中で1 - 3巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている。本項目では『鉄腕アトム』の名作集のみ表記している。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "本項目では『鉄腕アトム』関連の文庫全集のみ表記している。他作品については手塚治虫文庫全集#作品を参照されたい。", "title": "書誌情報" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "注記:「特撮秘宝vol.5」(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)、洋泉社、ISBN 978-4-8003-1127-6(2016年12月5日)に、この紙人形劇鉄腕アトムとテレビ実写版鉄腕アトムに関する資料が掲載されている。", "title": "テレビアニメ化の前史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "原題は『Little Astro Boy』。2014年3月よりナイジェリアでの放送を主目的として、同国の民間テレビ局「チャンネルズTV(英語版)」にて1話15分で全8話を制作・放送。手塚プロダクションが海外市場の開拓を図るため、様々なリサーチからアフリカ市場に将来性を感じ同局と共同制作した。視聴層を低年齢向けに定め、アトムは原典よりも幼い外見にリ・デザイン。内容も「ロボタウン」を舞台にアトムが人間やロボットの仲間たちと悪者を退治したりカーレースをする日常風景を単純明快に描く。2015年11月には日本向けローカライズ版『ろぼっとアトム』としてDVDソフト化され、ハピネット・ピクチャーズより販売。", "title": "テレビ用アニメーション作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最晩年の石ノ森章太郎の対談では、悪書追放運動などの漫画バッシングの中、受けを狙って書いていた駄作であり、僕の好きな作品のトップ100にも入らないとしている。", "title": "豆知識" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イタリア技術研究所(IIT)(英語版)を中心に研究・開発がおこなわれている子供型二足歩行ロボット。 身長104cm、体重22kg、全53自由度の3歳半の子供サイズの人型ロボット。設計はオープンソースとなっており、如何様にもカスタマイズ可能。将来的にはドイツの「JETCAT」社製造の模型飛行機用ターボジェット『JETCAT P-100RX』エンジン(推力:10.9kg)および『JETCAT P220-RXi』エンジン(推力:22.4kg)を(左右腕部に各々『JETCAT P-100RX』エンジン1基ずつ2基、左右背部に各々『JETCAT P-220-RXi』1基ずつ2基の合計4基)装着することにより、(短時間ではあるが)時速30km程度での低空下での自律飛行の実現を目指している。", "title": "鉄腕アトムから着想を得た海外の子供型ロボット" } ]
『鉄腕アトム』は、手塚治虫のSF漫画作品及び同作を原作としたテレビアニメ、特撮テレビ番組の作品名、並びに作品内の主人公である架空のロボットの名称である。テレビアニメ版で使用された主題歌の曲名でもあり、同シリーズゲームのタイトル名にもなっている。
{{Otheruses|漫画作品を中心とした鉄腕アトム全般}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = 鉄腕アトム | 画像 = Tetsuwan Atom logo.png | サイズ = 300px | 説明 = | ジャンル = [[サイエンス・フィクション|SF]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[手塚治虫]] | 出版社 = [[光文社]] | 掲載誌 = [[少年 (雑誌)|少年]] | レーベル = | 開始号 = 1952年4月号 | 終了号 = 1968年3月号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = | 話数 = 全65話 | その他 = }} {{Infobox animanga/Other | タイトル = アニメ | コンテンツ = * [[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム(モノクロ版)]] * [[鉄腕アトム (アニメ第2作)|鉄腕アトム(カラー版)]] * [[アストロボーイ・鉄腕アトム]] }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''鉄腕アトム'''』(てつわんアトム、[[日本]]での英題は'''Mighty Atom''')は、[[手塚治虫]]の[[サイエンス・フィクション|SF]][[漫画]]作品及び同作を原作とした[[テレビアニメ]]、[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビ番組]]の作品名、並びに作品内の主人公である架空の[[ロボット]]の名称である。[[テレビアニメ]]版で使用された主題歌の曲名でもあり、同シリーズゲームのタイトル名にもなっている。 == 概要 == 21世紀の未来を舞台に[[原子力]](後に[[核融合]])をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット・アトムが活躍する物語。米題は『'''ASTRO BOY'''(アストロ・ボーイ)』。1981年には関連書籍の発行部数が累計'''1億部'''を突破した{{Efn2|単行本の発行部数のみではなく、絵本や文庫本などを含む<ref>藤島宇策『戦後マンガ民俗史』(河合出版、1990年、{{ISBN2|4-87999-024-8}})p.217、p.328、p.360</ref>。}}。 本作は、1951年4月から1952年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを[[主人公]]として、1952年4月から1968年3月にかけて、「[[少年 (雑誌)|少年]]」([[光文社]])に連載され、1963年から1966年にかけてフジテレビ系で日本初の30分テレビアニメシリーズ{{Efn2|短編テレビアニメとしてはアトムの前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。}}としてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率27.4%を記録しその後、世界各地でも放映された。詳細は[[鉄腕アトム (アニメ第1作)]]の項目を参照。 後に『アトム大使』を『鉄腕アトム』の設定に擦り合わせて改変した『鉄腕アトム 大使の巻』として組み込まれるなど、本編がスピンオフに歩み寄る逆転現象が起きた。 1980年には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系でカラー版の[[鉄腕アトム (アニメ第2作)|第2作目のアニメ]]が制作され、さらに1作目と同じくフジテレビ系にて2003年に『[[アストロボーイ・鉄腕アトム|ASTRO BOY 鉄腕アトム]]』として3回目のリメイクが放映、2009年にはCG映画『[[ATOM (映画)|ATOM]]』が公開されている。 現在の日本のロボット工学者たちには幼少時代に『鉄腕アトム』に触れたことがロボット技術者を志すきっかけとなっている者も多く、日本のロボット技術の発展には本作が大きく貢献しているとされる<ref>福田敏男 「鉄腕アトムのロボット学」(集英社)</ref>。一方で、反原発派からは原子力の利用に対する現状との関係を批評・批判する書籍も出されている。なお、原作者は原子力発電を推奨する意図はないと述べている<ref>20130319静岡新聞夕刊</ref>。 == 登場キャラクター == === アトム === [[ファイル:Atom manhole.png|thumb|right|200px|アトム]] : 声 - [[清水マリ]](第1・2作)、[[田上和枝]](清水マリの産休の代理で第1作97-106話のみ)、[[津村まこと]](第3作)、[[上戸彩]](ハリウッド版)、[[村川梨衣]](ろぼっとアトム)、[[朴璐美]](GO!GO!)、[[日笠陽子]]([[PLUTO]]) アトムは初登場の作品である光文社の雑誌「少年」連載の漫画『アトム大使』では脇役だった。その作品自体の人気も今ひとつであったが、『少年』[[編集長]]の[[金井武志]]は「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられる」と手塚に提案し、アトムを主人公として設定を少し変更した上で描かれたのが本作である{{Efn2|金井の提案については2002年4月1日放映の[[NHK衛星第2テレビジョン]]「BSまるごと大全集 鉄腕アトム誕生」による。}}。アトム大使連載最終回には、次号からは「鉄人アトム」がはじまりますと予告されていたが「鉄腕アトム」になった。 原作の公式設定では、[[2003年]][[4月7日]]がアトムの誕生日とされる{{Efn2|ロボット少年・アトムの[[身元保証人]]であるお茶の水博士が『アトムこそ21世紀科学技術が生み出した最高芸術品』と度々公言しているので、公式誕生日が設定される以前には、『21世紀最後の日である2100年12月31日金曜日に生誕、この事実より“21世紀科学技術が生み出しだ最高芸術品”である』と解釈されていた時期もある{{要出典|date=2023-11}}。}}。製作者は[[天馬博士]]。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。トビオは、人間とほぼ同等の[[感情]]と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。サーカスにおいて団長{{Efn2|団長を演じた[[手塚漫画のキャラクター一覧|手塚スター]]は、『アトム大使』では[[手塚漫画のキャラクター一覧#ま行|ムッシュウ・アンペア]]だったが、アニメ第1作の時に[[手塚漫画のキャラクター一覧#は行|ハム・エッグ]]に代えられ、以後のアニメや漫画『アトム今昔物語』でもハム・エッグが団長役になっている。}}に「アトム」と名付けられる{{Efn2|アニメ第2作ではアトムが天馬博士と客船に乗っていて1人になった時、悪徳サーカス団の団長に騙され、サーカス団員として契約し拉致されるという設定になっている}}。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していた[[手塚漫画のキャラクター一覧#お茶の水博士|お茶の水博士]]に引き取られた。そして[[情操教育]]としてロボットの家族と家を与えられ、人間の小学校に通わされるようになる。学校での生活は、同級生達と紆余曲折しながらも仲良くやっている。 性格は[[wikt:まじめ|真面目]]で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つが、時にロボットである自分に苦悩や葛藤することも多い。また「アルプスの決闘の巻」では複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓を取りつけてもらって人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため、ケン一によって人造心臓を破壊された)。 誕生日の4月7日は本作の連載が始まった「[[少年 (雑誌)|少年]]」の発売日であった。原作では、「ミーバの巻」(1966年9月号 - 12月号)での天馬博士のセリフなどに誕生日についての記述がある。連載当時と[[小学館]]ゴールデンコミックス版では2013年4月7日と記載されており、[[朝日ソノラマ]]サンコミックス版以後2003年4月7日に改められた。アニメでも第1作目は誕生から約1年後に「ロボットC3号(俗称トビオ)」として売られた日が2001年11月、アニメ第2作は2030年に誕生など設定に違いがある。 アトムの赤い靴はアニメ第2作では名付け親であるロボットサーカスの女の子ロボットのキャシーから譲られ、最終回では形見代わりにニョーカの足が移植されている。 物語の中では苦労して[[市民権]]を得たが、現実の2003年4月7日、アトムはお茶の水博士を世帯主として[[手塚プロダクション|手塚プロ]]の所在地である[[埼玉県]][[新座市]]の市民に登録され市役所の前でアニメキャラクターとしては初のアトムの特別住民票が配付された。 アトムの髪型は、作者である手塚のくせ毛がモデル。アトムの特徴は[[:en:Mighty Mouse|Mighty Mouse]]([[マイティ・マウス (アニメ)|マイティ・マウス]])を元にしており、英題もMighty Mouseに倣って「Mighty Atom」としている。また、『少年』連載時には手の指は4本で描かれることが多かった{{Efn2|手塚の著書『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)p.113や、サンコミックス版単行本第2巻の「三人の魔術師」に付した解説漫画(pp.102 - 103)によると、アメリカのかつてのアニメーション(解説漫画では「マンガ映画」と記載)の主人公が4本指だった影響とある。手塚は解説漫画の中で「決まった理由はないのだけれど」と断りながら、「五本かいてアニメーションで動かすと六本に見えるからだという説もある」と記している。アニメ版では第1作のキャラクター設定表にはっきり4本と記されていた。}}。 ==== アトム大使での設定 ==== 『アトム大使』の物語では、我々が住んでいる「[[地球]]」とは別の、もうひとつの星「地球」の人々が、その星の大爆発によりロケット団で宇宙を長く放浪して偶然に我々の「地球」を発見して着陸したが、どちらの地球人もよく似ており、はじめは友好的関係を保って生活をした。しかし、食糧問題などを心配した「もともと地球に住んでいる地球人」が「宇宙を渡ってきた地球人」と対立(反対派の頭目は天馬博士)。 「地球に住む地球人」のロボットであるアトム(天馬博士のロボット)が両側の間に入って交渉して宇宙人の代表に対して誠実さの証しを見せるための自らの頭部を差し出したことで対立は収まり(天馬博士は自分の作ったクスリでゴミのように小さくなってしまう)、地球人と宇宙人は半分ずつ[[金星]]に飛び立つという物語。 なお、最後にお礼として、アトムは「宇宙を渡ってきた」地球の人々から大人の顔を貰う。 ==== アトムの7つの威力 ==== アトムは7つの力を持っているが内容は以下の通り多少のバリエーションがある。 * 原作版 *# 善悪を見分けられる[[CPU|電子頭脳]]。電子頭脳に組み込まれた[[キャッシュメモリ|記憶装置]]の[[データ量の比較|記憶容量]]は15兆8000億ビット{{Efn2|バイト換算で1兆9750億byte。これをキロバイトにすると19億7500万KB、キビバイトなら19億2871万0937.5KiB。更にこれをメガバイトにすれば197万5000MB、メビバイトで約188万3507MiB。ギガバイトにすると1975GB、ギビバイトで約1839GiB。そしてテラバイトだと約2TB、テビバイトだと約1.796TiBで、これは2TBのHDDやSSD等をフォーマットした時とほぼ同程度である。}}。後に「よい人とわるい人の見分けがつく」に変更され、電子頭脳も頭部から胴体へ変更された。 *# 60か国語{{Efn2|連載開始当時、[[国際連合|国連]]に加盟していた国家の数}}を話せる人工声帯。 *# 聴力は1千倍 *# 涙も出るサーチライトの目{{Efn2|涙の成分は食塩水らしい。体内に食塩水を貯蔵しているわけではなく、周囲の空気中の水分を[[除湿機]]と同じ原理で収集し利用しているが、あたりが水浸しになるほど大量の涙を出す描写もある}}。 *# 10万馬力の原子力モーター。「地上最大のロボットの巻」では天馬博士により100万馬力{{Efn2|『エネルギー源である液体[[ウラン]]燃料を爆裂させて[[臨界]]突破した状態の最高出力』(ジェット戦闘機の[[アフターバーナー]]状態に該当する)が100万馬力であり、通常出力は10万馬力}}に改造されている(「アトム大使」の初出版では、五百万[[ダイン]]と表記されていた)。 *#足の[[パルス・デトネーション・エンジン|ジェットエンジン]]。最大マッハ5(マッハ10とも)で[[対流圏|空]]を飛ぶ。[[成層圏|宇宙空間]]ではロケットに切り替わり最大マッハ20で飛ぶ。 *# 鼻がアンテナ。鼻が伸びて送信アンテナに。 ** 以下は図解(1960年発行「少年」1月号)で追加された項目 **# お尻にピストル。 **# 食物ふくろ。食べたものを貯めておく。 **# 記憶倉。覚えたことを記憶しておく。 ** 他にも掲載時期によって、設定が異なっている<ref>[https://tezukaosamu.net/special/atom/ 図解!鉄腕アトムの七つのチカラ]手塚治虫公式WEBサイト</ref>。 ::* 目はサーチライト/空をとび/耳の力は千ばいに聞ける/150カ国語がしゃべれる/ゆびがレーザー光線/十万馬力/おしりはマシンガン ::* 翻訳装置付き人工声帯/高感度ソナー/スーパーセンサー/超高性能マイコン(誕生当時はなんと真空管)/レーザーガン/核融合エネルギーまたは光子エネルギー * 1963年アニメ第1作(モノクロ版) *# どんな計算も1秒でできる電子頭脳。 *# 60か国語を話せる人工声帯。 *# 普通の1000倍も聞こえる聴力。2000万ヘルツ{{Efn2|キロヘルツ換算で2万kHz、これをメガヘルツにすると20MHz}}の超音波を聞き取ることも出来る。 *# サーチライトの目。 *# 10万馬力の原子力モーター。 *# 足のジェットエンジン。 *# お尻からマシンガン。1秒間に500発撃てる。 * 1980年アニメ第2作 *# 胸の中に電子頭脳セット。160か国語を同時通訳ができる。 *# 耳は音を1000倍に聞ける。 *# サーチライトの目。 *# 10万馬力の力。[[重水素]]燃料による[[核融合]]エネルギー。 *# 腕と足はジェットで空を飛べる。 *# お尻にマシンガン。1分間に600発撃てる。 *# 両手人指差し指に[[レーザー|レーザーブラスト]]を装備。 * 2003年ASTROBOY版 *# 高度な[[人工知能|人工頭脳]]。誕生時トビオの記憶を移植<ref>ASTROBOY・鉄腕アトム[DVD]Vol.13、[[ソニーピクチャーズ]]</ref>。<!--アトム時トビオの記憶が断片的表現の為。他書籍の補足を検討。--> *# 人間の1万倍の聴力。 *# [[透視]]能力を持つ目。 *# 10万馬力の力。 *# 足のジェットで空を飛べる。 *# 右手人差し指にフィンガービーム。 *# 左腕に[[荷電粒子砲|アームキャノン砲]]{{Efn2|[[ブラウン管]]式[[テレビ|テレビジョン]]の[[電子銃]]と同じ原理の武器}}。 ** 動力源はアストロシステムと呼ばれる特殊な小型大出力のパワーユニットで、エネルギー源についてはハッキリとは触れられていない。またエネルギーの消耗で出力が低下する事はあったが、原作のように完全に動かなくなる事はなかった。 **「10万馬力」「7つの力」といったこれまでの作品で馴染み深い表現は明確には出てこない。 * 2009年映画[[ATOM (映画)|ATOM]]版 *# ロボットの言語を聞き分ける耳。トビーのDNAと記憶を移植された人工頭脳を持つ。 *# 透視能力がある目。サーチライトの役割も果たす。 *# ブルー・コアが輝く心臓。心臓部に埋め込まれた原子力よりも強力で安全な[[クリーンエネルギー]]。善の心も生み出す。 *# ずばぬけたパワー。 *# ジェット噴射で飛べる足。 *# マシンガンを内蔵するお尻。 *# アームキャノンに変形する腕。 その他、身長135[[センチメートル|センチ]]、体重30[[キログラム]]。電子頭脳は頭部ではなく胴体内上部に設置されていて、頭部は単なる飾りとされ、透視図では頭部にセンサー類が集中しているようだが、作中では頭部が外れてしまったり、頭なしでも活動可能な描写があり、胴体にもセンサー類は搭載されている模様。電子頭脳については、「アトム今昔物語」などの記述によると1970年代に開発された超小型の原子力電子計算機が基になっているとされる。胸にはメンテナンス用の蓋があって、その内側には簡易的な修理のマニュアルと交換用の[[真空チャネルトランジスタ|真空管]]が備えられていた。また電源スイッチもここにあるようで、原作の「火星探検の巻」ではお茶の水博士がアトムを航空機に乗せる際、手荷物扱いにするためにこの電源スイッチを切ってトランクに収納するシーンがある。原作及びアニメ第1作ではこの蓋の内部と尻の2か所にエネルギーの補給口があり、ここに給油ホース状の物を接続して液体とおぼしきエネルギーを補給する仕組み。またアニメ第2作では胸部ハッチの内部にカセット状の小型エネルギータンクを入れるスペースがあり、タンクごと交換する形で補給を行っていた。なお動力部である原子炉については「原子力モーター」という表現もあり、現在の原子炉と同じ物かどうかは不明。作中でしょっちゅうエネルギー切れを起こす描写がある事から、現在の原子炉とは異なるメカニズムである可能性も高い。使用しているエネルギーは「エネルギーチューブ」とも称されていて作中世界では現在の電力か石油並みに普及している物であり、ほとんどのロボットや兵器などの機械に使われているようである。「アトム今昔物語」の記述によるとこのエネルギーチューブは1990年代にアメリカで開発された物で、当時は非常に高価で用途もごく限られていたという。またエネルギーチューブの成分は[[ウラン]]化合物とされており、アトムが使用したエネルギーの残りカスを排出するためにトイレに行くシーンもあった。この残りカスが現在の原子炉の[[使用済み核燃料]]と同じ物かは不明だが、天馬博士は放射能汚染を心配する妻・星江に「昔の[[原子力船]]じゃない、放射能のカスなんか出さんよ」と語っている。 飛行能力に関しては、[[大気圏]]内では体内に搭載された[[原子炉]](後に[[核融合炉]])の膨大な熱エネルギーを利用することで、吸入した大気を熱膨張させてジェットの推進力に使用し、大推力と大気中での[[スーパークルーズ|超音速巡航]]が可能。[[宇宙空間]](大気圏外)では体内の核融合炉で発生させた[[プラズマ]]を噴射し、[[比推力可変型プラズマ推進機|ロケット]]の推力を得ている。これにより自力での大気圏突破と宇宙巡航が可能である。また、[[核融合反応]]によって生成された[[プラズマ]]は[[超電導]][[MHD発電]]によって電力にも変換されている。 アトムの身体を覆う[[人工皮膚]]は、[[ケブラー|ケブラー繊維]]と[[炭素繊維|カーボン・ファイバー]]を織り込んで造られており、防水機能のほかに小火器程度の被弾では損傷しない性能を持っている。この外殻には2タイプの数千個にのぼるセンサーが埋め込まれている。一つは感覚センサーで、触覚と温度を知覚するもの。 [[ミュンヘン工科大学]]のゴードン・チャン教授<ref>[https://www.professoren.tum.de/en/cheng-gordon/ TUM Professoren - Cheng_Gordon]</ref>師事の研究チーム<ref>[http://www.ics.ei.tum.de/en/home/ Institute for Cognitive Systems (ICS)]</ref>では(接触・加速・近接・温度を検出できる[[センサ]]と[[マイクロプロセッサ]]を搭載した)「[[六角形]]人工皮膚セル」を開発、全身に1260個の「六角形人工皮膚セル」を装備した試作型[[ヒューマノイド|人型ロボット]]『H-1』を開発した<ref>[https://ieeexplore.ieee.org/document/8812712 A Comprehensive Realization of Robot Skin: Sensors, Sensing, Control, and Applications - IEEE Journals & Magazine] IEEE.org | 2019年10月10日閲覧</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=M-Y2HW6JcGI Sensitive Skin for Robots - YouTube] YouTube.com | 2019年10月10日閲覧</ref>。 もう一つは内蔵された小型無線受信機に接続する通信センサーである。整相列の通信センサーによって、アトムはいながらにしてパラボラ・アンテナ機能を持つ事ができ、人工衛星や他の電波源を選択して聴取できるのである。付属機能として、動物の[[電場|電界]]を探知でき、それによって暗闇のなかの生物、もしくは隠れた生物の存在を「見る」という([[鮫]]に似た)能力を発揮できる。「アトム今昔物語」などの記述によるとこの人工皮膚は1980年代にプラスチックを基に開発された物で、格段に優れた強度・耐熱性を持つという。ただしさすがに数千℃レベルの高熱には耐えられないようで、「人工太陽の巻」では人工太陽の高熱で手足と体表が熔けてノッペラボウの丸太のような姿になってしまったり、「エジプト陰謀団の秘密の巻」では身体が熱せられた状態で海中に出たため体表が急冷されてヒビ割れができたりもした。 アトムの視覚映像システムは頭部に収められている。アトムは乏しい光源しかなくても、[[暗視装置|スターライト・スコープ]]のようにその信号を増幅して見ることができる。また、このシステムは赤外線映像や紫外線映像にも切り替えられる。 アトムが実現するには複数のアクチュエータと関節をフレキシブルに結合し、複数のアクチュエータが必要に応じて協調し大出力や高速動作を実現する多自由度干渉駆動技術が必要。現実にこの技術は[[筋電義手]]の研究開発を行なっている[[電気通信大学]]・横井 研究室<ref>[http://www.hi.mce.uec.ac.jp/yklab/ 横井・姜・東郷研究室]</ref>の横井浩史[[教授]]<ref>[https://www.uec.ac.jp/research/information/opal-ring/0005620.html 横井 研究室│研究室紹介OPAL‐RING│電気通信大学]</ref>が研究している。 飛ぶときは一方の手をゲンコにして突き出し、一方をハスに構える。これは英題『Mighty Atom』の由来でもある[[マイティ・マウス (アニメ)]]の主人公の影響<ref>{{Cite book |author1=手塚治虫 |year=2013 |title=手塚治虫エッセイ集5巻 |page=91 |publisher=[[手塚プロダクション]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=UVbWAAAAQBAJ&pg=PP91#v=onepage&q&f=false |isbn=9784061759947}}</ref>。 === アトムの家族 === アトムの家族の名前はパパ(エタノール)を除き、元素名に由来している。アトムはAtom([[原子]])、ウランはUranium([[ウラン]])、コバルトはCobalt([[コバルト]])など、基本的に[[原子力]]に深く関わる元素から取られている。 [[ファイル:Uran manhole.png|thumb|200px|right|ウラン]] ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#ウラン|ウラン]] : 声 - [[水垣洋子]]→[[武藤礼子]]・芳川和子(代役)(第1作)、[[菅谷政子]](第2作)、[[丸山美紀]](第3作)、[[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]([[PLUTO]]) : 科学省製;お茶の水博士指揮。 : アトムの誕生日のプレゼント用に、妹として作られた女の子のロボット。アトムのような7つの能力を持たないものの、10万馬力の力を持つ。 : 地上最大のロボットの巻などしばしば悪人にアトムを倒すための人質に取られることがある。お転婆で、まれにお兄さん思いの一面も見せる。学校に通いながらロボットの格闘技「ロボッティング」に出場したいという願望を叶えるために、とある科学者の手で2人に分裂できるよう改造された事もあった。 ; コバルト : 声 - [[小宮山清]](第1作) : 科学省製;お茶の水博士指揮。 : お茶の水博士が作ったアトムの同型機。突如行方不明になったアトムに代わり、水爆の起爆装置を止めるため、当時制作中だった物を急遽完成させた。アトムとまったく同じ設計、同じ性能である{{Efn2|原作の一部ではアトムより能力が劣るとされる}}。ただし、大急ぎで作ったためか、アトムほどの精巧さが無く、細かい作業が出来ない。作中ではアトムより多少長身・痩身に描かれている。 : 体内のオメガレーダー内のイプシロン線が左巻きになっているため、アトムのオメガレーダーと同じ信号を出し、お互いに呼び合うことができる。 : 連載時は「ミドロが沼の巻」で自爆するが、後に改訂されて生き残っている。一度壊れた後はウランと共に再登場した際には飛行能力などのアトムの持っている能力は失われていた。ウランと同様部品の大半はアトムと共通であり、アトムの修理のために自分の部品を提供した事もあった。 : 原作ではアトムの弟という設定だったが、アニメ第1作では科学省倉庫の大掃除の際に見つかった、アトム以前に天馬博士が作ったロボット(アトムの先行試作機ともいわれる)であったために兄となっている。アニメ第2作、同第3作にはコバルトは登場しない{{Efn2|ただし、コバルトの設定のひとつである「お互いに呼び合う」という設定は、アニメ第2作でやはりアトムの[[スーパーコピー]]とされたアトラスが意図せず起こす現象として、第1話での初回起動時から起きている。}}。 ; エタノール(アトムのパパ) : 声 - [[藤岡琢也]]ほか(第1作)、[[桑原たけし]](第2作) : 地方のロボット工場製。 : '''鉄腕アトム'''としての連載第1話である「アトムの両親」にてお茶の水博士が、「アトムにはロボットの親を」というタマオ(大目玉男)の意見から、民間のロボット工場に注文、アトムの進級祝いとしてプレゼントされた{{Efn2|ただし、のちの単行本では「気体人間」のエピソードに含まれる場合がある。また、提案者もケン一に変更}}。『アトム今昔物語』では、お茶の水博士がコツコツつくって、ロボット人権宣言後、サーカスから自由になるのを待って、プレゼントした。 : アトムより後に生まれたため小学校ではアトムの後輩。短絡的な部分もあるがアトムを守ろうとする考えの裏返しでそうなってしまうことが多い。アニメ第2作では、頭部はロボット造形学の権威、タツタ博士がデザインした(第5話)。アニメ第3作にはママ共々登場しない。 : なお『新・鉄腕アトム』ではデザイン変更に伴い後頭部にエネルギーを蓄えるネジのような物が追加された。 ; リン(アトムのママ) : 声 - [[平井道子]]ほか(第1作)、[[日比野美佐子]](第2作) : 地方のロボット工場製。 : パパと同時に作られた。顔はお茶の水博士の亡き妻に似ているという理由{{Efn2|初出時。のちの単行本ではカットされている。}}で博士が選んだ。『アトム今昔物語』ではアトムが生みの親である天馬夫妻の顔を希望したことから、天馬星江の顔となる{{Efn2|生死不明の天馬博士の顔を父に創るのは後々問題が生じる可能性もあるが星江は故人のため希望が通った}}。アトムをよく理解してくれている。アニメ第2作では、頭部はロボット造形学の権威、タツタ博士がデザインした(第5話)。アニメ第3作にはパパ共々登場しない。 : エタノール同様、デザインは徐々に変化が加えられていった。 ; チータン : 声 - [[白石冬美]](第1作) : ウランの弟。 : 最も後期に作られたウランの弟ロボット。1万馬力を誇り、泣き声で周囲を破壊してしまう。外見はほぼ赤ん坊。漫画版はファンクラブ会報である「鉄腕アトムクラブ」にのみ登場し「少年」では登場せず、アニメ第1作では第165話より登場している。 === 人間 === [[ファイル:Ochanomizu manhole.png|thumb|right|200px|お茶の水博士]] ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#お茶の水博士|お茶の水博士]] : 声 - [[勝田久]](第1-3作)、[[西村知道]](ハリウッド版)、[[伊井篤史]](近年のCM)、[[寺島拓篤]](アトム・ザ・ビギニング)、[[岐部公好]](ろぼっとアトム)、[[多田野曜平]](GO!GO!)、[[古川登志夫]](「[[PLUTO]]」) : 現科学省長官。トレードマークの鼻は、作者である手塚治虫の団子っ鼻に由来する。ウランやコバルトなどのロボットを造り、アトムの良き理解者でも保護者でもある。鼻に特徴のある顔立ちは手塚治虫の作品中、「[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]」など多くの作品に継承されている。アトムの生みの親と誤認されることが多いが、正確にはアトムの「育ての親」に当たる。お茶の水という名前の由来は[[御茶ノ水駅]]である。曾孫はタイムマシンの発明者。英語版ではDr. Elefun(Ele+Fun=電子工学愛好者、Elephant=鼻が象のように大きい、というダブルミーニング)、Dr. O'Shayなどの名前になっている。作中では語られないが「火の鳥」に登場する猿田彦を始祖としており、猿田彦を始祖とする者は彼の犯した数々の悪行を清算するために酷い目にあう宿命にあるが、罪の清算が終わりつつある結果としてお茶の水博士が設定され、アトム作中でお茶の水博士が事件に巻き込まれ酷い目にあったり果ては死にかけたりするのはまだ罪が残っているためらしい。 :その体格と推定される年齢(1935年生まれの68歳)から緩慢な動作が多いが、原作ではロボットの国ロボタニア創立を目指したロボット「青騎士」(ブルー・ボン)を、不意をつき破壊したブルグ伯爵へ連打を浴びせ、最後はトレードマークの鼻でくい打ちにしたこともある。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#天馬博士|天馬博士]] : 声 - [[横森久]](第1作)、[[大木民夫]](第2作)、[[大和田伸也]](第3作)、[[役所広司]](ハリウッド版)、[[中村悠一]](アトム・ザ・ビギニング)、[[津田英三]](「[[PLUTO]]」) : 本名は天馬午太郎。[[丙午]]生まれ{{Efn2|「アトム大使」がリライトされた際に書かれたプロフィールでの記述(本名や出身地、科学省の所在地([[高田馬場]])等も同じ。「馬」に引っかけた遊びである)。2003年に最も近い丙午の年は1966年であるためそのように解されているが、プロフィール自体には暦年の明記はない。}}。アトムの生みの親。[[群馬県]]出身。練馬大学卒業。幼くして事故死した息子、飛雄への思いからアトムを製作する。しかし、アトムをサーカスに売ってからはアトムに会うことはほとんどなく、隠遁者として生活している。技術者としては非常に優秀であり、お茶の水博士よりも高い技術を有する。一方で高級官僚的エゴイズムをも持ち合わせている。実は[[生物学|生物]][[学者]]でもあるらしい{{Efn2|これはプロフィールで「海馬の研究では博士の右に出る駒はいない。」との記述があり、この海馬を[[タツノオトシゴ]]や[[セイウチ]]であると解釈した場合である。一方で、彼がロボット技術者である事から、電子頭脳の研究の一環として脳の記憶や空間学習能力に関わる部位としての[[海馬 (脳)|海馬]]を研究していた事を意味するのではないか、とする意見も存在する{{要出典|date=2015年6月}}。}}。影から常にアトムを見守っており、アトムを危機から救うこともある。 : 『アトム大使』において、アトムを製作した経緯がすでに説明されているが、同時に「赤シャツ隊」という実行部隊を率いて「宇宙人」(地球人とほとんど同じ顔かたちをして宇宙を漂流していた。地球に移住する)を、「細胞収縮液」によって矮小化する「粛清」を実行する役どころでもある。最後には自らが細胞収縮液を浴びて「消えて」しまった。このため、『鉄腕アトム』の『少年』連載版で再登場(1956年1月号別冊付録の「アルプスの決闘の巻」)した際には、『アトム大使』では服を脱ぎ捨てていただけで、無事に逃げていたという説明がなされた。この箇所は単行本ではカットされている<ref>小野卓司『描きかえられた鉄腕アトム』NTT出版、2008年、pp.101 - 103。『アトム大使』の初出版では天馬博士が縮んでいくカットはなかった(のちの単行本での追加)。</ref>。一方、光文社の最初の単行本(1956年)1巻冒頭に書き下ろしで追加されたアトムの生いたちでは「そして博士がなくなったとき…飛雄はそのすばらしいちからもしられずに名もないロボットサーカスにうられてしまったのです」と記された上に黒枠のついた天馬の写真が描かれており、「死亡した」ということにされていた<ref>『描きかえられた鉄腕アトム』pp.101 - 103。この「生いたち」の説明漫画は、その後の光文社のカッパコミックス版第6巻や小学館のゴールデンコミックス版1巻にも収録されている。</ref>。 : 性格は原作とアニメなどで微妙に異なり、原作では純粋にアトムに裏切られて以降改心して、かつアトムを愛しているという描写がなされている。科学省長官を解任された後も、自分の隠れ家でロボットの研究を続け、アトム以上のロボットを作り上げている。ただしエゴイスティックな性格は変わっておらず、後に強引にアトムを取り戻そうとして失敗する。 : アニメ第2作では他の作品に比べてかなりマイルドになっており、そもそもアトム製作が科学省の行っている「人間並みに感情を表現可能にする人間型ロボットの製作」というプロジェクトが物語開始時に始まっているものであり、彼の提案のものか不明瞭で、なおかつそれに4度失敗が続いたことでこの時点でかなり精神的に追い詰められていた。しかも、5号機を子供型ロボットにするよう提案したのは当の飛雄であり、放置児気味になっていた飛雄がロボットカーで事故を起こすのは原作通りだが、その5号機を自分の代わりにするよう言い遺したのも飛雄である。悲嘆に暮れ、息子の言い遺した「かっこいい最強のロボット」へと5号機を開発していく過程で狂気じみた言動が見えるのは他の作品同様だが、同時にそれを危険視する部下や上司([[内閣総理大臣|首相]])との板挟みにもあっている。最終的には自身のエゴを優先してアトムを完成させ自分の息子として連れ帰ってしまうが、その後は起動直後はカタログスペックに反してまともに動けないアトムがなめらかに行動できるようになっていくのを時折叱りつつも温かく見守り、アトムが暴走を起こした時に、部下が分解処分を主張するのを強引にでも止めようとする。最終的に、一時的に彼が起こした癇癪が原因(褒められたものではないが、実際の親子同士でもときおり)で、捨てられたと思い込んだアトムがハム・エッグに騙されて自ら身売りしてしまうが、その直前まで「自慢の息子」と言い張り、はぐれてしまった後も自らの言動を深く悔恨しアトムを探し回っていた(アトムの方も、意識が途切れる寸前まで天馬博士に助けを求めていた)。その後、第3話以降は直接登場せず、回想シーンか他人の口で語られるだけとなっている。お茶の水博士の言からするに技術者としてかなり優秀だと認められていたようである。 : アニメ第3作では性格の描写が他と比べ大きく異なり、『天馬博士の真の目的はアトムをロボットの王にし、更に自分もロボットになり、ロボット達の神となることであった』とされ、非常にエゴイスティックな天才科学者として描かれている。アトムをはじめ心を持ったロボットは人間を超えて進化するという主張をし、お茶の水博士と衝突する。つまりアトムを自分の目的のために利用しようとするのであるが、アニメ第3作の最終回ではアトムと親子として和解し、自首した。 : 原作でアトムを10万馬力から100万馬力にしたのも天馬博士である。 : なお[[産経新聞]]版の「アトム今昔物語」の連載時には、彼の少年時代が描かれている。少年時代は「トミー」という名の混血孤児で、「ドロッピー」なる秘密結社に加入していたが、タイムスリップしてきたアトムに出会ったことで改心し、いつの日かあのようなロボットを造ろうと決めていたとあるが、単行本化された時に削られている。 ; [[ヒゲオヤジ]] : 声 - [[矢島正明]]・[[和田文雄]](第1作2代目)、[[熊倉一雄]](第2作)、[[富田耕生]](第3作・ハリウッド版)、[[石住昭彦]](GO!GO!)、[[高木渉]](「[[PLUTO]]」) : 本名、伴俊作(ばん しゅんさく)。アトムの通うお茶の水小学校の先生。元私立探偵。お茶の水博士とも親しく、アトムの良き理解者。江戸っ子で、卑怯なことが大嫌い。手塚治虫の作品中、[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]など数多くの作品に登場する。アニメ第3作では専業の探偵として登場。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#ケン一|敷島健一]] : 声 - [[滝沢久美子]](第2作)、[[佐藤ゆうこ (声優)|佐藤ゆうこ]](第3作) : アトムの同級生。初期の手塚作品で多くの主役を演じたキャラクターであり、「アトム大使」では主人公格だった。ブラジルに移住したこともある。アニメ第3作では海外の視聴者を意識して黒人に変更され、24話ではキーパーソンになっている。 ; 大目玉男(おおめ たまお) : 声 - 滝沢茂、[[池田秀一]]ほか(第1作)、[[松岡洋子 (声優)|松岡洋子]](第2作)、[[くまいもとこ]](第3作) : アトムの同級生。愛称は「タマちゃん」。名前の通り、ひどい近眼のためにかけている大きな眼鏡と帽子が特徴。「アトム大使」から登場。気が弱くて慌て者である。アニメ第3作では、服装と帽子が欧米の子供風に変更されたが眼鏡はそのまま。顔や眼鏡をかけているのは幼少期の手塚治虫のものを流用している。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#四部垣|四部垣]] : 声 - 三木広治(第1作)、[[たてかべ和也]](第2作)、[[千葉進歩]](第3作) : アトムの同級生。「鉄腕アトム」になってから登場。体が大きく、ガキ大将格。また裕福な家庭(原作では父親は「日本一の[[闇市|闇屋]]」と呼称される実業家であり、単に[[富豪]]というだけでなく[[地下経済]]との繋がりも示唆した設定となっている)の子弟で、最新鋭の電化製品等が自宅にある。アニメ第3作では金髪の白人少年風キャラに変更された。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#田鷲警部|田鷲警部]] : 声 - [[兼本新吾]]、[[千葉耕市]](第1作)、[[永井一郎]](第2作)、[[銀河万丈]](第3作)、[[土師孝也]](「[[PLUTO]]」) : 警視庁捜査一課長。痩身で大きな鼻の下にタワシのようなヒゲを生やしている。ロボットに対して厳しいキャラクターで、しばしばロボットやアトムへの不信感を口にし、お茶の水などと対立する。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#中村課長|中村警部]] : 声 - [[坂本新兵]](第1作)、[[屋良有作]](第2作)、[[青山譲]](「[[PLUTO]]」) : 田鷲の同僚。小太りで、田鷲が私服なのに対し常に警官の制服を着ている。田鷲とは対照的にロボットやアトムには温情的。アニメ第3作では登場していない。 ; [[手塚漫画のキャラクター一覧#スカンク草井|スカンク草井]] : 声 - [[家弓家正]](第1作)、[[加藤精三 (声優)|加藤精三]](第2作)、[[矢尾一樹]](第3作) : 「電光人間」(声 - [[菅谷政子]](第2作)、[[かないみか]](第3作))の回で登場した悪役。「アトムは完全じゃねえぜ、何故なら悪い心を持たねえからな」という発言をしてアトムに衝撃を与える。その後も何度か出演している。映画俳優の[[リチャード・ウィドマーク]]がデザインのモデル。 === ロボット === ; アトラス : 声 - [[光枝明彦]](第1作)、[[北条美智留]]・[[森功至]](第2作)、[[檜山修之]](第3作) : 原作では2種類のアトラスが登場している。 : 「少年」版のアトラスは、[[インディオ]]として差別されていたラム博士が、白色人種や黄色人種への復讐のために作ったロボット。オメガ因子という装置が実装されており、いっさいのモラルや良心を持たず人間に対して平気で悪いことをする。やがてラム博士が作った弟ロボット2体(やはりオメガ因子搭載)と共に悪事を働くも、オメガ因子のためにラム博士の命令も聞かなくなり、弟ロボットと共にラム博士を叩きのめし、アトムと戦い壊されてしまうが、アトムが自分のことを考える大きなきっかけとなる。ラム博士も同時に亡くなってしまうが、自分の考えが誤っていたことを悟る。 : 「小学二年生」版のアトラスはアニメ第2作の少年時代とほぼ同じ姿で登場。スカンク草井とワルブス・ギス伯爵がアトムを倒すために、7つの威力に加え「おしっこをかけて相手を爆発させる」という8つ目の威力を加え作ったイタズラ好きのロボット。おしっこはトイレでするものと教えられたアトラスは伯爵の屋敷でおしっこをして屋敷は爆発、その後アトムと友達になる。 : アニメ第1作では原作そのままで登場しているが、オメガ因子は組み込まれていない{{Efn2|「オメガ因子」の設定は、後の第172話「ヘラルド兄弟」で使用}}。 : アニメ第2作ではワルブス・ギス伯爵(「青騎士」のブルグ伯爵を流用)によってアトムの設計図から作られたボディにオメガ因子を組み込んだという設定で、シリーズを通してアトムと対決を繰り返すライバルであり、同じ設計図から生まれた兄弟でもあるという存在。最初は少年の姿だったが、後に姉代わりだった侍女ロボット・リビアン(声 - [[よこざわけい子|横沢啓子(現・よこざわけい子)]])がギス伯爵によって破壊された事に怒り、パワーアップして青年の姿になる(青騎士の設定を流用)。なお、作られたのはアトムが先だが、アトラスが青年の姿になってからはアトムから「兄さん」と呼ばれるシーンもある(第43話)。 : アニメ第3作では天馬博士が徳川財閥の総帥徳川から死んだ徳川の息子・ダイチを再現したロボットを作るように依頼され、ダイチの記憶を移植して作られた。アトムに腕を破壊されたが、天馬博士に改造された。後に青騎士と共に戦う。 : アニメ第2作においてテーマソングをアトラス寺西名義で若き日の[[氷室京介]]が歌っている。 ; プルートゥ : 声 - [[北山年夫]](第1作)、[[森川公也]](第2作)、[[大塚明夫]](第3作)、[[関俊彦]](PLUTO) : 元王族のサルタン(声 - [[横森久]](第1作)、[[飯塚昭三]](第2作))が作らせたロボット。世界最強のロボットとして作られ、一度はアトムも倒す。しかし、アトムの説得に感化され、本当のロボットの使命を知ることになる。 : その後、アトムとの戦いを拒否するが、プルートゥを倒すために作られたロボット、ボラーと戦い、敗北、自爆する。 : アニメ第3作では天馬博士が自分の分身として作ったロボット・シャドウにより造られた。また、ボラーの役割はダーク・プルートゥに置き換わっている。後に復活、青騎士と共に戦う。 : プルートゥが登場するエピソード「地上最大のロボット」は、[[浦沢直樹]]の『[[PLUTO]]』としてリメイクされている。 ; 青騎士 : 声 - [[金内吉男]](第1作)、[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](第3作) : ロッス博士が作ったロボットで、元々3人の兄弟ロボットだった。しかし、その2番目に当たる女性のロボット・マリアがブルグ[[伯爵]]に嫁ぎ、そして些細なことが理由で破壊されてしまう(第2作ではこの部分がアトラスのパワーアップに繋がる経緯として流用された)。その時助けに入った末弟ロボット・トントも破壊され、最後に残った長兄ブルー・ボンが後の青騎士である。青騎士の体には破壊された弟妹の顔等が博士によって組み込まれ、また空気を出し入れすることによって大きさを変えることが出来る。この体を恥じた青騎士は鎧を着用するようになる。 : 伯爵に始まり全ての人間を恨み、伯爵を殺した上でロボットの王国を作ろうとする中で、伯爵や田鷲警部らによって始まった「青騎士ロボット狩り」にたまりかねたアトムが協力、やがて伯爵率いる人間軍と戦い勝利するも、人間軍兵士を抹殺しようとしたのをアトムに拒まれ、更にそこへやって来たロッス博士が生い立ちを語ろうとするのに対し、言わせまいと槍を投げつけるが、ロッス博士をかばったアトムに命中し、再起不能なまでに破壊、自らは伯爵の不意討ちで破壊され、伯爵の卑劣ぶりに怒ったお茶の水博士はその大きな鼻でしこたま殴り「ロボットどころか殺人鬼以下」と罵った。この後、破壊されたアトムはお茶の水博士には修理できず天馬博士が直すが、人間を軽蔑し人間に対して冷淡になるなど心が変わってしまった。その変わりようはウランが戸惑ったほどだった。 : なお初版での御茶ノ水博士がブルグ伯爵へ放ったセリフは「ロボットどころか犬畜生にも劣る奴」であったが、前述のものに差し替えられている。 : この三兄弟のデザインはvとマグマ大使のキャラクターが使われている。 : アニメ第1作では人間軍との戦いまでは原作同様だったが、誕生の生い立ちは自ら語り、決戦後に対立したロボットを破壊したのはアトムではなく、[[インカ]]のロボット・クスコであり、当のアトムは伯爵に止めをさそうと青騎士が投げつけた槍を、伯爵をかばって右腕に命中し、右腕だけがもげた程度だった。なお、アニメ版の伯爵は青騎士が弟妹に変形したのに慌てて槍で撃破したが、その後足場の崖が崩れて転落死してしまった。 : アニメ第3作では元は違法ロボット闘技の修理ロボットで自分の役割に疑問を持ち、[[火星]]に到着する前に逃がそうと計ったが、オーナーのハムエッグに知られ、宇宙の彼方に捨てられたところをシャドウに救われ、青騎士として生まれ変わった。人間に迫害されるロボットを救うために戦って仲間を集め、あわや人間対ロボットの全面戦争というところまで発展するがアトム達の活躍で回避。人間との共存を選んだ仲間を見送り、残った仲間とロボットの理想郷を築くべく宇宙へ旅立つ。 : なおアニメ第2作では登場しなかったが、上述のようにアトラスが青年体となる経緯として設定が流用され、第44話「宇宙ヒョウ」でアトムが搭乗した巨大ロボットが青騎士によく似ていた。 == 人物以外の設定 == === ロボット法 === 本作の世界で、人間に準じた権利と地位をロボットに保証し、かつロボットが守るべき義務を定めた法律。アトムがサーカス団からお茶の水博士に引き取られたのも、この法律の制定の結果であるとされている。ただし、最初の『アトム大使』ではこの設定は登場しておらず、その後の連載やテレビアニメ化の過程で内容が徐々に追加されていった。『少年』連載版で具体的な内容が登場するのは「海蛇島の巻」「幽霊製造器の巻」「キリストの目の巻」「青騎士の巻」である。このうち、同法にまつわるジレンマを掘り下げて描いた「青騎士の巻」で最も詳しく紹介されている。<!--今日の「ロボット法」の設定はこれに基づく。(「今日」とはいつ?現実世界のこと?--> [[アイザック・アシモフ]]作品における[[ロボット工学三原則]]と内容的に重なる部分もあるが、手塚自身は、本作のロボット法は独自に考案したものであると説明していた{{Efn2|本作のロボット法の詳細およびアシモフの三原則との対比については[http://www.jiten.com/dicmi/docs/k19/19459s.htm 鉄腕アトムのロボット法(マルチメディア・インターネット事典)]を参照。}}。 [[ロボット兵器]]をめぐる議論の中で、この「ロボット法」が取り上げられている<ref>日本経済新聞 2014年7月31日朝刊 経済教室 「ロボ兵器の規制論注視を」岩本誠吾</ref>。 == 手塚治虫による漫画作品の連載・掲載誌 == * 1951年4月号 - 1952年3月号 月刊誌の『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])に「アトム大使」を連載{{Efn2|当初の予定では題は「アトム大陸」だったという。}}。 * 1952年4月号 - 1968年3月号 『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])に「鉄腕アトム」として 月刊本誌と付録で連載{{Efn2|連載前の予告では「鉄人アトム」であった。}}。 * 1953年10月号 - 1953年12月号 『[[漫画少年]]』(学童社) 「アトム大使」のリメイク版。 * 1964年8月 - 1966年11月 『鉄腕アトムクラブ』(虫プロダクション友の会) ファンクラブ会報誌。一部の号は代筆作品。 * 1965年1月3日号 『[[サンデー毎日]]』([[毎日新聞社]]) 「ひょうたんなまず危機一発」掲載。 * 1967年1月24日 - 1969年2月28日 『[[産経新聞|サンケイ新聞]]』。単行本時に「アトム今昔物語」に改題、設定も変更(後述){{Efn2|サンケイ連載分のうち「アトムのばくだん列車(改題:爆弾列車)」は別巻扱いになっている。}}。 * 1969年3月号 『[[ビッグコミック]]』 ショートショート「アトムの恋人」掲載。 * 1970年7月号 『[[別冊少年マガジン]]』 「[[アトムの最後]]」掲載。50年後のエピソード。 * 1972年4月号 - 1973年3月号 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]』([[小学館]]) TV最終話の続編。「アトム還る」に改題。前半のみ単行本に収録。 * 1972年4月号 - 1973年3月号 『[[小学一年生]]』(小学館) 小学四年生版と同設定、単行本未収録。 * 1975年6月20日発行 単行本サンコミックス版([[朝日ソノラマ]])で「アトム誕生」書き下ろし。また、サンコミックス版では一部の各話冒頭に描き下ろしで手塚治虫自身が作品を振り返って独白するプロローグ漫画が追加されている。 * 1975年9月号 『文藝春秋デラックス』([[文藝春秋]]) 「アトム二世」掲載。TV最終話の続編にあたるパロディ作品。 * 1976年2月27日号 『[[週刊朝日]]』([[朝日新聞社]]) 「偏差値王国との対決の巻」掲載。 * 1976年4月号 『[[月刊少年ジャンプ]]』([[集英社]]) 「シルバータワーの巻」掲載。 * 1980年9月号 - 1981年12月号 『[[小学二年生]]』(小学館) 鉄腕アトムとして書き下ろされた最後の連載。アニメ第2作のコミカライズ。 * 1986年7月号 - 1987年2月号 『月刊ニコニココミック』([[世界文化社]]) 「[[アトムキャット]]」連載。 他に、メインではないがアトムの登場する番外編として「[[わが名は百科]]」や、ゲスト出演の「ブラック・ジャック『おまえが犯人だ!!』」などがある<ref>『鉄腕アトム 別巻 1』{{ISBN2|978-4-253-06500-9}}</ref>。 == 外伝・後日談 == ; <span id="アトム今昔物語">サンケイ新聞版 鉄腕アトム</span> : コミック掲載時に『'''アトム今昔物語'''』に改題。 : サンケイ新聞掲載時はアニメ1作目の最終回の直接の続きとして描かれた。 ::アニメ版で人類を救うため、核融合抑制装置のカプセルを抱えて太陽に突入したアトムはその後、半ば熔解しカプセルの外殻にくっついた状態で宇宙を漂っていた。しかし、偶然にも通りかかった宇宙人のオハラとスカラによってアトムは修復されることになった。修理を終えたアトムは彼らの宇宙船で地球に戻る事になるが、その宇宙船の速度が光より速かったため[[ウラシマ効果]]で1960年代の日本に時間移動してしまう。仕方なくそこでスカラと共に暮らすことにし、若き日のお茶の水博士やヒゲオヤジと出会う。 ::ある日、アトムはドロッピーのトムという心を閉ざした少年と出会う。ドロッピーのトムは犯罪に手を貸そうとしていたが、アトムがそれを阻止し助ける。ドロッピーのトムはアトムに救われたことで将来アトムみたいなロボットを作ろうと思うようになった。やがてアトムはエネルギーが尽きたためスカラの持つ三次元縮小装置で小さくなり眠りにつく。それから時は流れて2003年、ドロッピーのトムは大きくなり科学省の長官になっていた。実はドロッピーのトムは天馬博士の子供の頃の姿であった。しかし、博士は悲しいことに息子を交通事故で亡くしてしまう。そこで彼は息子の代わりとなるロボットを作り始める。そのロボットの姿は『過去に自分を助けてくれたロボット』に似せたものであった。そのロボットは「アトム」と名付けられ完成したが何故か動かなかった。またその頃、本来のアトムはたまたま近辺に墜落した宇宙船に乗っていたロボットからスカラの手でエネルギーをもらって目覚めていた。そして本来のアトムは、[[タイムトラベル#タイムパラドックス|タイムパラドックス]]のために新たに天馬博士に造られた自分が起動しないことを知り、「もう一人の自分」を誕生させるために自分の存在を消し去ることを決意。新しいアトムの起動操作の時に発生した装置のエネルギー波のスパークに、自ら飛び込み消滅する。その後、無事起動に成功した新しいアトムは天馬博士に可愛がられるが、天馬博士は「アトムは所詮ロボットであり息子の代わりにならない」と悟りアトムをロボットサーカスに売る…。そこからもう一体のアトムの物語が始まり地球に襲いかかる細菌型の宇宙人と戦うことになる。 : このサンケイ新聞版の鉄腕アトムは、ゴールデンコミックス版単行本化の際に連載漫画の続きではないという矛盾があるとの指摘により、冒頭の「アニメ版の続き」という内容は削除された。またその他にスカラの乗った宇宙船の爆発で過去の時代にタイムスリップしたことに変更され、若き日の天馬博士とアトムが出会うエピソードも削除され、朝日ソノラマ版コミックス掲載時にはアトムの最期のエピソードが差し替えられた。 :: この改変では、若き日のお茶の水博士の助手になってその後のロボット技術の基礎を作るも当時の技術では常時アトムを起動させておくだけのエネルギーが高価すぎて確保が難しく、また長い歳月の間に劣化が進んだ部品のメンテナンスも不可能だったため、自分の死期を悟ったアトムは後に自分の家が建てられる事になるとある山奥に飛び、そこで壊れて動かなくなった後野晒しとなって朽ち果てていった。そしてアトム誕生の日に、スカラの手によって[[タイムトラベル#タイムパラドックス|タイムパラドックス]]を避けるため爆破される、という流れになっている。 ; [[アトムの最後]] : 役目を終え博物館に眠るアトムが再び目覚める内容を描いた後日談的ストーリー。 :: 本作ではアトムの存在は脇に置かれており、人間の主人公と、そのガールフレンドとの悲劇が物語の主軸となっており、殺伐とした悲劇として描かれ、救いのないハードな内容になっている。 ; 小学四年生版 鉄腕アトム : 単行本掲載時に『'''アトム還る'''』に改題。 : アトム今昔物語とは別のTV最終回の後日談で、「小学四年生」の'72年度で一年間連載された。冒頭の『宇宙を漂っていたアトムを宇宙人が回収し修理する』という設定は同じだが、その後の展開がアトム今昔物語と異なっている。実写TVドラマも視野に入れ企画されていたが実現にはいたらず、少女にアトムのコスチュームを着せたスチールが数枚撮られたのみとなった。単行本では、連載の前半6回しか収録されていない。 :: 核融合抑制装置のカプセルを抱えて太陽に突入し、半ば熔解しカプセルの外殻にくっついた状態で宇宙を漂っていたアトムを、超科学力を持つ三つ目族の宇宙人ルルル星人が偶然発見し、回収した後に修理改造され、人工皮膚の硬度が10倍となり、身を守るプロテクターと、タイムマシン機能のある第三の目を得た新たな姿で蘇り、様々な姿に変身できるロボット少女・スピカとともに地球へと戻ってくる。 :: 地球に戻ったアトムは、自分の家族がいる時代を求めて、額のタイムマシンで様々な時代を放浪しながら事件に巻き込まれていく。 :: 最終回では、地球を調査する任務を帯びていたスピカが母星の決定で、アトムの故郷である2003年の地球を破壊しようとして、アトムと戦うことになる。しかし、スピカはアトムと和解し、二人でアトムの家族を捜す旅に出るところで物語は終了している。 ; 小学一年生版 鉄腕アトム : 小学四年生版の改造アトムと同設定の作品。1話完結の作品で、単行本化はされていない。作品中で判明するアトムの7つの威力は「空を飛ぶ」「100万馬力」「一千倍の聴力」「マシンガン」「空気から飲み物を作る」「目がカメラ」「タイムマシン」。 ; アトム二世 : 他の後日談と異なりギャグ漫画として描かれたセルフパロディ短編。 :: 他の星からアトムが無事であったとの連絡が入りお茶の水博士は喜んだが、その星がどこなのかはわからず再び落ち込む。そこへ総理([[アセチレン・ランプ_(手塚治虫)|アセチレン・ランプ]]にそっくり)から「第二のアトムを作れ」との要請があり「人間そのもの」の完全なアトム二世を作った。だがこのアトム二世は歯磨きしながらアクビするなど極端に人間に近づけすぎた結果、自己中心的、嘘つき、ぐうたら、強欲、女癖が悪いと人間の欠点ばかりが助長されて「正義ならぬ性戯の味方」と呼ばれるほどのロクデナシな堕落者と化してしまった。しまいには護送を依頼された核兵器を持ち逃げしてそれを元手に企業を興し、自分の同型機を大量生産して世界各地に売り捌きボロ儲けするなどの悪行三昧の末に、背任横領罪で逮捕されてしまう。なお、オリジナルとの外見上の違いは前髪(?)が二つあること。 ; [[アトムキャット]] : リメイクとして描かれたが、主人公はアトムでなく、アトムのような猫。これはリメイクを目指して編集と会話している時、手塚が「ア・[[トムキャット]]」のもじりとして考えついたと言う。雑誌の廃刊で連載中断。 == 手塚治虫以外による作品 == *小学四年生1972年度連載版の改造アトムと同設定の作品 ** 小学二年生 1972年4月号 - 10月号連載 作画:[[馬場秀夫]] ** 小学三年生 1972年4月号 - 10月号連載 作画:[[宮添郁雄]]、[[池原しげと|池原成利]]、手塚プロダクション *1980版アニメのコミカライズ ** [[てれびくん]] 1980年連載 作画:[[林ひさお]] ** 小学一年生 1980年10月号 - 1981年12月号連載 作画:しみずふみお、手塚プロダクション ** 小学三年生 1980年9月号 - 1981年6月号連載 作画:[[甲斐謙二]] === 作者没後の作品 === ; コミック伝説マガジン版 鉄腕アトム : コミック伝説マガジン創刊号([[実業之日本社]] 2001年6月25日発売)に描き下ろし掲載。製作は手塚プロダクション(プロダクション名のみで執筆者未記載)。 ; [[PLUTO]] : [[ビッグコミックオリジナル]](小学館 2003年9月5日号 - 2009年4月20日号)に連載。「地上最大のロボットの巻」のリメイク作品。 ; ASTRO BOY 鉄腕アトム(コミカライズ版) : 小学館各誌、[[別冊コロコロコミック]](2003年4月 - 8月)、小学五年生(2003年3月 - 7月)、小学六年生(2003年4月 - 5月)に掲載。テレビアニメのコミカライズ版。作者は[[姫川明]]。 ; 青騎士(単行本時『青騎士 -鉄腕アトム 青騎士より-』) : [[ケロケロエース]]([[角川書店]] 2009年11月号 - 2010年3月号)に連載。作者は姫川明。「青騎士の巻」のリメイク兼青騎士のスピンオフ作品。 ; [[アトム ザ・ビギニング]] : [[月刊ヒーローズ]](ヒーローズ 2015年1月号 - )に連載。企画原案は[[ゆうきまさみ]]で漫画執筆は[[カサハラテツロー]]。2017年にアニメ化もされている<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/189145|title=「鉄腕アトム」誕生物語がアニメ化!ゆうきまさみ×カサハラテツロー描く新説|date=2016-06-01|accessdate=2016-06-03}}</ref>。 == 書誌情報 == <!-- 本項に記載している作品が全てではありません。もちろん記載漏れもあるかと思います。もし記載されてない書籍があれば、加筆お願いします。 --> ISBNは判明しているもののみ表記している。 === 単行本 === ==== 最初の単行本 ==== * 手塚治虫 『長編冒険漫画 鉄腕アトム』 光文社〈光文社の漫画〉、全8巻 *# 1956年6月1日発行 *# 1957年5月10日発行 *# 1957年12月15日発行 *# 1958年8月25日発行 *# 1958年11月10日発行 *# 1959年9月25日発行 *# 1959年12月20日発行 *# 1960年7月25日発行 ==== 光文社カッパコミックス版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 光文社〈カッパコミックス〉、全34巻 *; 本巻(全32巻) *# 「アトム大使の巻 アトラスの巻」1964年1月1日発行 *# 「火星探検の巻 冷凍人間の巻 海蛇島の巻」1964年2月1日発行 *# 「ZZZ総統の巻 赤いネコの巻」1964年3月1日発行 *# 「電光人間の巻 ゲルニカの巻 イワンのばかの巻」1964年4月1日発行 *# 「十字架島の巻 植物人間の巻」1964年5月1日発行 *# 「人工太陽球の巻 キリストの目の巻」1964年6月1日発行 *# 「ブラック・ルックスの巻 ミドロが沼の巻」1964年7月1日発行 *# 「エジプト陰謀団の秘密の巻」1964年8月1日発行 *# 「ウランちゃんの巻 アトム対ガロンの巻」1964年9月1日発行 *# 「白熱人間の巻 白い惑星の巻 マッド・マシーンの巻」1964年10月1日発行 *# 「ロボットランドの巻 ガデムの巻」1964年11月1日発行 *# 「ホットドック兵団の巻(上)」1964年12月1日発行 *# 「ホットドック兵団の巻(下)」1965年1月1日発行 *# 「悪魔のハチの巻 宇宙ヒョウの巻」1965年2月1日発行 *# 「三人の魔術師の巻」1965年3月1日発行 *# 「デッドクロス殿下の巻」1965年4月1日発行 *# 「地上最大のロボットの巻(上)」1965年5月1日発行 *# 「地上最大のロボットの巻(下)」1965年6月1日発行 *# 「透明巨人の巻 ロボット流しの巻」1965年7月1日発行 *# 「ユウレイ製造機の巻 若返りガスの巻 黄色い馬の巻」1965年8月1日発行 *# 「ロボット爆弾の巻 ガンガラ島の巻 気体人間の巻」1965年9月1日発行 *# 「コウモリ伯爵の巻 ぬすまれたアトムの巻」1965年10月1日発行 *# 「ロボイドの巻(上)」1965年11月1日発行 *# 「ロボイドの巻(下) 地底戦車の巻」1965年12月1日発行 *# 「地球最後の日の巻」1966年1月1日発行 *# 「ロボット宇宙艇の巻」1966年2月1日発行 *# 「宇宙の寄生虫の巻 宇宙放送の巻」1966年4月1日発行 *# 「ロビオとロビエットの巻」1966年5月1日発行 *# 「天馬族の砦の巻 コバルトの巻」1966年6月1日発行 *# 「悪魔と風船の巻」1966年7月1日発行 *# 「青騎士の巻(上)」1966年8月1日発行 *# 「青騎士の巻(下)」1966年9月1日発行 *; 別巻(全2巻) *# 「ふしぎなボールの巻 宇宙飛行の科学」1965年9月15日発行 *# 「アルプスの決闘の巻 ロボットの科学」1966年1月15日発行 ==== 光文社カッパコミックスデラックス版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 光文社〈カッパコミックスデラックス〉、全3巻 *# 「・アトム大使の巻・アトラスの巻・火星探検の巻・冷凍人間の巻・海蛇島の巻」1965年12月5日発行 *# 「・ZZZ総統の巻・赤いネコの巻・電光人間の巻・ゲルニカの巻・イワンのばかの巻」1965年12月5日発行 *# 「・十字架島の巻・植物人間の巻・人工太陽球の巻・キリストの目の巻」1965年12月5日発行 ==== 小学館ゴールデンコミックス版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 小学館〈ゴールデンコミックス〉、全20巻 *# 1968年10月30日発行 *# 1968年10月30日発行 *# 1968年12月10日発行 *# 1968年12月10日発行 *# 1969年1月10日発行 *# 1969年1月10日発行 *# 1969年2月10日発行 *# 1969年2月10日発行 *# 1969年3月10日発行 *# 1969年3月25日発行 *# 1969年5月10日発行 *# 1969年6月10日発行 *# 1969年7月10日発行 *# 1969年8月10日発行 *# 1969年10月10日発行 *# 1969年11月10日発行 *# 1969年12月10日発行 *# 1970年1月10日発行 *# 1970年2月10日発行 *# 1970年3月20日発行 ==== サンコミックス版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、全22巻 *; 本巻(全21巻) *# 1975年6月20日初版発行、{{ISBN2|4-257-91331-2}} *# 1975年6月20日初版発行、{{ISBN2|4-257-91332-0}} *# 1975年7月25日初版発行、{{ISBN2|4-257-91333-9}} *# 1975年7月25日初版発行、{{ISBN2|4-257-91334-7}} *# 1975年8月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91335-5}} *# 1975年8月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91336-3}} *# 1975年10月1日初版発行、{{ISBN2|4-257-91337-1}} *# 1975年10月1日初版発行、{{ISBN2|4-257-91338-X}} *# 1975年10月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91339-8}} *# 1975年10月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91340-1}} *# 1975年11月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91341-X}} *# 1975年11月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91342-8}} *# 1975年12月25日初版発行、{{ISBN2|4-257-91343-6}} *# 1976年1月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91344-4}} *# 1976年2月16日初版発行、{{ISBN2|4-257-91345-2}} *# 1976年3月5日初版発行、{{ISBN2|4-257-91346-0}} *# 1976年3月31日初版発行、{{ISBN2|4-257-91347-9}} *# 1976年4月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91348-7}} *# 1976年5月31日初版発行、{{ISBN2|4-257-91349-5}} *# 1976年6月10日初版発行、{{ISBN2|4-257-91350-9}} *# 1976年7月15日初版発行、{{ISBN2|4-257-91351-7}} *; 別巻(全1巻) *# 1976年9月30日初版発行、{{ISBN2|4-257-91389-4}} ==== 講談社KCスペシャル版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 講談社〈KCスペシャル〉、全7巻 *# 1987年3月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101305-X}} *# 1987年4月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101306-8}} *# 1987年5月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101307-6}} *# 1987年6月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101308-4}} *# 1987年7月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101309-2}} *# 1987年8月6日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101310-6}} *# 1987年9月5日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-101311-4}} ==== 秋田書店サンデーコミックス版 ==== * 手塚治虫 『大人気SFコミックス 鉄腕アトム』 秋田書店〈SUNDAY COMICS〉、全23巻 *; 本巻(全21巻) *# 1999年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064795 |title=鉄腕アトム 1(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06479-5}} *# 1999年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064809 |title=鉄腕アトム 2(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06480-9}} *# 1999年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064817 |title=鉄腕アトム 3(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06481-7}} *# 1999年7月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064825 |title=鉄腕アトム 4(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06482-5}} *# 1999年7月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064833 |title=鉄腕アトム 5(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06483-3}} *# 1999年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064841 |title=鉄腕アトム 6(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06484-1}} *# 1999年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/425306485X |title=鉄腕アトム 7(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06485-X}} *# 1999年9月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064868 |title=鉄腕アトム 8(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06486-8}} *# 1999年9月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064876 |title=鉄腕アトム 9(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06487-6}} *# 1999年10月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064884 |title=鉄腕アトム 10(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06488-4}} *# 1999年10月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064892 |title=鉄腕アトム 11(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06489-2}} *# 1999年11月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064906 |title=鉄腕アトム 12(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06490-6}} *# 1999年11月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064914 |title=鉄腕アトム 13(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06491-4}} *# 1999年12月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064922 |title=鉄腕アトム 14(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06492-2}} *# 1999年12月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064930 |title=鉄腕アトム 15(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06493-0}} *# 2000年1月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064949 |title=鉄腕アトム 16(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06494-9}} *# 2000年1月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064957 |title=鉄腕アトム 17(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06495-7}} *# 2000年2月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064965 |title=鉄腕アトム 18(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06496-5}} *# 2000年2月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064973 |title=鉄腕アトム 19(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06497-3}} *# 2000年3月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253064981 |title=鉄腕アトム 20(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06498-1}} *# 2000年3月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/425306499X |title=鉄腕アトム 21(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06499-X}} *; 別巻(全2巻) *# 2000年4月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253065007 |title=鉄腕アトム 別巻 1(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06500-7}} *# 2000年4月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253065015 |title=鉄腕アトム 別巻 2(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-253-06501-5}} * 手塚治虫 『アトムキャット』 秋田書店〈SUNDAY COMICS〉、2000年6月25日初版発行(5月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253065023 |title=アトムキャット(大人気SFコミックス版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-13}}</ref>)、{{ISBN2|4-253-06502-3}} ==== 小学館ビッグコミックススペシャル版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 小学館〈ビッグコミックススペシャル〉、全5巻 *# 2003年8月発行、{{ISBN2|4-09-187711-7}} *# 2003年8月発行、{{ISBN2|4-09-187712-5}} *# 2003年8月発行、{{ISBN2|4-09-187713-3}} *# 2003年9月発行、{{ISBN2|4-09-187714-1}} *# 2003年9月発行、{{ISBN2|4-09-187715-X}} ==== 小学館ぴっかぴかコミックス版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 小学館〈ぴっかぴかコミックス〉、全2巻 *# 2005年7月5日発行、{{ISBN2|4-09-148086-1}} *# 2005年8月5日発行、{{ISBN2|4-09-148087-X}} ==== 中・短編集 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム ORIGINAL』光文社〈光文社コミックス〉、1997年4月20日発行、{{ISBN2|4-334-80372-5}} === 文庫版 === ==== 秋田文庫版・秋田CD文庫版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 秋田書店〈秋田CD文庫〉、全2巻 *: 「秋田CD文庫版」(全10巻)の中で2冊が『鉄腕アトム』の作品となっている{{Efn2|その他の内訳は、『ブラック・ジャック』『火の鳥』が各2冊、『海のトリトン』『リボンの騎士』『ジャングル大帝』『悟空の大冒険』が各1冊となっている。}}。本項目では『鉄腕アトム』の作品のみ表記している。 *# 「ガロン」1995年6月20日初版発行(5月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/425318216X |title=鉄腕アトム① ガロン(秋田CD文庫版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-253-18216-X}} *# 「史上最大のロボット」1995年7月20日初版発行(7月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/4253182178 |title=鉄腕アトム② 史上最大のロボット(秋田CD文庫版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-253-18217-8}} * 手塚治虫 『アトムキャット』 秋田書店〈秋田文庫〉、2003年4月10日初版発行(3月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/comics/425318216X |title=アトムキャット(秋田文庫版) |publisher=秋田書店 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-253-17412-4}} ==== 光文社文庫版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 光文社〈光文社文庫COMIC SERIES〉、全15巻 *# 1995年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77001-0}} *# 1995年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77002-9}} *# 1995年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77003-7}} *# 1995年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77004-5}} *# 1995年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77005-3}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77006-1}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77007-X}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77008-8}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77009-6}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77010-X}} *# 1995年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77011-8}} *# 1995年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77012-6}} *# 1995年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77013-4}} *# 1995年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77014-2}} *# 1995年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-334-77015-0}} ==== 講談社漫画文庫版 ==== * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 講談社〈講談社漫画文庫〉、全13巻 *# 2002年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040214 |title=鉄腕アトム 1(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360268-0}} *# 2002年6月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040215 |title=鉄腕アトム 2(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360269-9}} *# 2002年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040236 |title=鉄腕アトム 3(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360301-6}} *# 2002年7月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040237 |title=鉄腕アトム 4(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360302-4}} *# 2002年8月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040248 |title=鉄腕アトム 5(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360313-X}} *# 2002年8月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040249 |title=鉄腕アトム 6(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360314-8}} *# 2002年9月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040274 |title=鉄腕アトム 7(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360350-4}} *# 2002年9月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040275 |title=鉄腕アトム 8(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360351-2}} *# 2002年10月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040282 |title=鉄腕アトム 9(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360372-5}} *# 2002年10月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040283 |title=鉄腕アトム 10(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360373-3}} *# 2002年11月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040294 |title=鉄腕アトム 11(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360401-2}} *# 2002年11月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040295 |title=鉄腕アトム 12(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360402-0}} *# 2002年12月4日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000040307 |title=鉄腕アトム 13(講談社漫画文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|4-06-360421-7}} === 手塚治虫作品集 === ==== 手塚治虫漫画全集 ==== <!-- 『手塚治虫漫画全集(236) 鉄腕アトム⑯』のみ発行日が1日(それ以外は殆ど20日)だが、「国立国会図書館サーチ」に記載されていた情報を引用しているため、記載ミスではありません。 --> 本項目では『鉄腕アトム』関連の漫画全集のみ表記している。他作品については[[手塚治虫漫画全集#作品]]を参照されたい。 * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 講談社〈手塚治虫漫画全集〉、全20巻 *; 本巻(全18巻) *# 1979年10月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173221-8}} *# 1980年1月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173222-6}} *# 1980年4月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173223-4}} *# 1980年5月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173224-2}} *# 1980年6月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173225-0|}} *# 1980年7月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173226-9}} *# 1980年8月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173227-7}} *# 1980年9月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173228-5}} *# 1980年10月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173229-3}} *# 1980年11月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173230-7}} *# 1980年12月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173231-5}} *# 1981年1月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173232-3}} *# 1981年2月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173233-1}} *# 1981年3月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173234-X}} *# 1981年4月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173235-8}} *# 1981年5月1日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173236-6}} *# 1981年6月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173237-4}} *# 1981年7月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173238-2}} *; 別巻(全2巻) *# 1982年7月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173251-X}} *# 1982年11月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173252-8}} * 手塚治虫 『アトム今昔物語』 講談社〈手塚治虫漫画全集〉、全3巻 *# 1982年3月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173240-4}} *# 1982年5月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173241-2}} *# 1982年6月20日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-173242-0}} * 手塚治虫 『アトムキャット』 講談社〈手塚治虫漫画全集〉、1993年1月16日第一刷発行、{{ISBN2|4-06-175909-4}} ==== ほるぷ版 手塚治虫選集 ==== 『ほるぷ版 手塚治虫選集』(全20巻)の中で1 - 6巻が『鉄腕アトム』の選集となっている{{Efn2|7 - 8巻が『ハトよ天まで』、9 - 10巻が『ジャングル大帝』、11 - 12巻が『オズマ隊長』、13 - 14巻が『リボンの騎士』、15巻が『火の鳥・あらしの妖精』、16 - 17巻が『ガムガムパンチ』、18巻が『ぼんご・ロップくん』、19巻が『ロップくん』、20巻が『チッポくんこんにちは』の名作集となっている。}}。本項目では『鉄腕アトム』の選集のみ表記している。 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(1) 鉄腕アトム①』1982年6月1日第1刷発行 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(2) 鉄腕アトム②』1982年6月1日第1刷発行 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(3) 鉄腕アトム③』1982年6月1日第1刷発行 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(4) 鉄腕アトム④』1982年6月1日第1刷発行 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(5) 鉄腕アトム⑤』1982年6月1日第1刷発行 * 『ほるぷ版 手塚治虫選集(6) 鉄腕アトム⑥』1982年6月1日第1刷発行 ==== 手塚治虫作品集 ==== 手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫作品集』(全11巻)の中で9 - 11巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている{{Efn2|1巻が『ハトよ天まで』、2巻が『ジャングル大帝』、3巻が『オズマ隊長』、4巻が『リボンの騎士』、5巻が『火の鳥・あらしの妖精』、6巻が『ガムガムパンチ』、7巻が『ぼんご・ロップくん』、8巻が『カラー作品集』の作品集となっている。}}{{Efn2|本作は翠楊社から出版されているが、本作と同タイトルの作品が文民社より1975年から1981年まで刊行されていた。なお、文民社版は全8巻となっており、『鉄腕アトム』を収録したものは刊行されてない。}}。本項目では『鉄腕アトム』の作品集のみ表記している。 * 『手塚治虫作品集(9) 鉄腕アトム①』1984年1月1日発行 * 『手塚治虫作品集(10) 鉄腕アトム②』1984年1月1日発行 * 『手塚治虫作品集(11) 鉄腕アトム③』1984年1月1日発行 ==== 手塚治虫アニメ名作集 ==== 手塚治虫のデビュー40周年を記念して出版された。『手塚治虫アニメ名作集』(全16巻)の中で1 - 3巻が『鉄腕アトム』の名作集となっている{{Efn2|4 - 5巻が『リボンの騎士』、6 - 7巻が『ジャングル大帝』、8 - 9巻が『ユニコ』、10巻が『新宝島』、11巻が『海のトリトン』、12 - 13巻が『悟空の大冒険』、14巻が『ふしぎなメルモ』、15巻が『ワンダースリー』、16巻が『ワンサくん』の名作集となっている。}}。本項目では『鉄腕アトム』の名作集のみ表記している。 * 『手塚治虫アニメ名作集(1) 鉄腕アトム① アトムのたんじょう』1985年5月27日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-190701-8}} * 『手塚治虫アニメ名作集(2) 鉄腕アトム② すてきなプレゼント』1985年6月14日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-190702-6}} * 『手塚治虫アニメ名作集(3) 鉄腕アトム③ アトムとウランちゃん』1985年9月14日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-190703-4}} ==== 手塚治虫文庫全集 ==== 本項目では『鉄腕アトム』関連の文庫全集のみ表記している。他作品については[[手塚治虫文庫全集#作品]]を参照されたい。 * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 講談社〈手塚治虫文庫全集〉、全10巻 *; 本巻(全9巻) *# 2009年10月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042996 |title=鉄腕アトム 1(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373701-1}} *# 2009年10月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042997 |title=鉄腕アトム 2(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373702-8}} *# 2009年10月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042998 |title=鉄腕アトム 3(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373703-5}} *# 2009年11月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042999 |title=鉄腕アトム 4(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373704-2}} *# 2009年11月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043000 |title=鉄腕アトム 5(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373705-9}} *# 2009年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043001 |title=鉄腕アトム 6(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373706-6}} *# 2009年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043002 |title=鉄腕アトム 7(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373707-3}} *# 2010年1月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043003 |title=鉄腕アトム 8(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373708-0}} *# 2010年1月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043004 |title=鉄腕アトム 9(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373709-7}} *; 別巻(全1巻) *# 2010年1月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043028 |title=鉄腕アトム 別巻(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373733-2}} * 手塚治虫 『アトムキャット』 講談社〈手塚治虫文庫全集〉、2009年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043026 |title=アトムキャット(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373731-8}} * 手塚治虫 『アトム今昔物語』 講談社〈手塚治虫文庫全集〉、2010年1月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043027 |title=アトム今昔物語(手塚治虫文庫全集) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373732-5}} === 手塚治虫以外による作品 === <!-- 個別記事がある作品については著者の一部を省略しています。 --> * 手塚治虫(原作) / 姫川明(作画) 『ASTRO BOY 鉄腕アトム』 小学館〈てんとう虫コミックススペシャル〉、全3巻 {{Main|アストロボーイ・鉄腕アトム#コミカライズ}} * 手塚治虫(原作) / 浦沢直樹(作画) 『PLUTO』 小学館〈ビッグコミックス〉、全8巻 {{Main|PLUTO#書誌情報}} * 手塚治虫(原作) / 西島大介(作画) 『アトムちゃん』 角川書店〈単行本コミックス〉、2009年10月1日発行(9月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200908000030/ |title=アトムちゃん |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-854394-1}} * 手塚治虫(原作) / 姫川明(作画) 『青騎士 鉄腕アトム青騎士より』 角川書店〈角川コミックス・エース〉、2010年4月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201001000223/ |title=青騎士 鉄腕アトム青騎士より |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-715434-6}} * 手塚治虫(原案) / ゆうきまさみ(コンセプトワークス) / カサハラテツロー(作画) 『アトム ザ・ビギニング』 ヒーローズ〈ヒーローズコミックス〉、既刊18巻(2023年3月29日現在) {{Main|アトム ザ・ビギニング#書誌情報}} === 愛蔵版 === * 手塚治虫 『豪華愛蔵版 鉄腕アトム』 朝日ソノラマ、全3巻 *# 1978年12月8日発行、{{ISBN2|4-257-90016-4}} *# 1978年12月25日発行、{{ISBN2|4-257-90017-2}} *# 1979年1月31日発行、{{ISBN2|4-257-90018-0}} * 手塚治虫 『豪華愛蔵版 鉄腕アトム』 講談社〈講談社コミックス〉、全15巻 *: 7巻以降については、公式サイトにて発売日の記述がされているため発売日も併記している。 *# 1992年11月24日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313358-3}} *# 1992年11月24日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313360-5}} *# 1992年11月18日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313364-8}} *# 1993年1月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313367-2}} *# 1993年2月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313368-0}} *# 1993年3月23日第1刷発行、{{ISBN2|4-06-313369-9}} *# 1993年4月23日第1刷発行(4月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029886 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 7 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313370-2}} *# 1993年5月22日第1刷発行(5月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029888 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 8 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313372-9}} *# 1993年6月23日第1刷発行(6月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029889 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 9 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313373-7}} *# 1993年7月23日第1刷発行(7月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029890 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 10 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313374-5}} *# 1993年8月23日第1刷発行(8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029891 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 11 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313375-3}} *# 1993年9月22日第1刷発行(9月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029892 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 12 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313376-1}} *# 1993年10月23日第1刷発行(10月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029894 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 13 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313378-8}} *# 1993年11月22日第1刷発行(11月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029896 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 14 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313380-X}} *# 1993年12月18日第1刷発行(12月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029898 |title=豪華愛蔵版 鉄腕アトム 15 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313382-6}} * 手塚治虫 『手塚治虫全集 1 鉄腕アトム』 金の星社、2008年1月発行、{{ISBN2|978-4-323-07101-5}} === 復刻版 === * 手塚治虫 『復刻版 アトム今昔物語』 メディアファクトリー〈MFコミックス フラッパーシリーズ〉、2004年12月22日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201216016972/ |title=復刻版 アトム今昔物語 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-13}}</ref>、{{ISBN2|4-8401-0995-8}} * 手塚治虫 『鉄腕アトム《オリジナル版》復刻大全集』 ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメント→復刊ドットコム{{Efn2|第4巻より出版社が復刊ドットコムに変更となっている。}}、全7巻 *# 2009年9月17日発行、{{ISBN2|978-4-86235-491-4}} *# 2009年12月16日発行、{{ISBN2|978-4-86235-493-8}} *# 2010年3月16日発行、{{ISBN2|978-4-86235-497-6}} *# 2010年7月23日発行、{{ISBN2|978-4-8354-4537-3}} *# 2010年10月10日発行、{{ISBN2|978-4-8354-4538-0}} *# 2010年12月24日発行、{{ISBN2|978-4-8354-4539-7}} *# 2011年4月29日発行、{{ISBN2|978-4-8354-4540-3}} * 手塚治虫(原作) / 小説宝石編集部(編) 『鉄腕アトム 素晴らしき少年の世界』 光文社〈少年王コミックス〉、2014年12月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334807993 |title=鉄腕アトム 素晴らしき少年の世界 |publisher=光文社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-334-80799-3}} * 手塚治虫 『長編冒険漫画 鉄腕アトム 復刻版』 復刊ドットコム、全8巻 *# 「1956 - 57・復刻版①」2014年12月28日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5136-7}} *# 「1956 - 57・復刻版②」2015年2月23日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5137-4}} *# 「1956 - 57・復刻版③」2015年4月27日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5138-1}} *# 「1958 - 60・復刻版④」2015年7月30日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5217-3}} *# 「1958 - 60・復刻版⑤」2015年8月30日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5218-0}} *# 「1958 - 60・復刻版⑥」2015年10月27日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5219-7}} *# 「1958 - 60・復刻版⑦」2015年12月29日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5220-3}} *# 「1958 - 60・復刻版⑧」2016年2月27日発行、{{ISBN2|978-4-8354-5221-0}} === ベストセレクション === * 手塚治虫(カバーイラスト) / 手塚プロダクション(編集) 『ベストセレクション 鉄腕アトム』 角川書店〈単行本コミックス〉、2009年10月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200905000194/ |title=ベストセレクション 鉄腕アトム |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-854392-7}} * 手塚治虫 『MIGHTY ATOM BEST SELECTION』 実業之日本社〈英語コミックス〉、2013年8月29日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-11017-2 |title=MIGHTY ATOM BEST SELECTION |publisher=実業之日本社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-408-11017-2}} === 廉価版コミックス === * 手塚治虫 『鉄腕アトム』 小学館〈My First BIG〉、全9巻 *# 「アトム誕生」2003年3月発行、{{ISBN2|4-09-109113-X}} *# 「地上最大のロボット」2003年4月発行、{{ISBN2|4-09-109121-0}} *# 「ホットドッグ兵団」2003年5月発行、{{ISBN2|4-09-109131-8}} *# 「地球最後の日」2003年5月発行、{{ISBN2|4-09-109140-7}} *# 「青騎士」2003年6月発行、{{ISBN2|4-09-109153-9}} *# 「アトム復活」2003年7月発行、{{ISBN2|4-09-109163-6}} *# 「ロボット宇宙艇」2003年8月発行、{{ISBN2|4-09-109183-0}} *# 「ゾロモンの宝石」2003年9月発行、{{ISBN2|4-09-108005-7}} *# 「顔のないロボット」2003年10月発行、{{ISBN2|4-09-108023-5}} * 手塚治虫 『鉄腕アトム 地上最大のロボット』 講談社〈講談社プラチナコミックス〉、2007年11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000043995 |title=鉄腕アトム 地上最大のロボット(KPC版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-374073-8}} * 手塚治虫 『手塚治虫セレクション 甦る!鉄腕アトム』 三栄書房〈サンエイムック〉、2016年1月発行、{{ISBN2|978-4-7796-2792-7}} === アニメフィルムコミック === * 手塚治虫(原作) / 虫プロダクション(制作) 『テレビ版 鉄腕アトム』 ポプラ社、全5巻 *# 「子象プーラの巻」1970年11月15日発行 *# 「不死鳥の巻」1970年11月25日発行 *# 「新かぐや姫の巻」1970年12月5日発行 *# 「ロボット競技大会の巻」1970年12月15日発行 *# 「お化けは夜来るの巻」1970年12月25日発行 * 手塚治虫 『アニメ版 鉄腕アトム』 日本テレビ放送網〈日本テレビコミックス〉、全11巻 *# 「アトム誕生」1980年12月発行 *# 「アトラス復活」1981年1月発行 *# 「ダムダムの首」1981年2月発行 *# 「ウランはおてんば娘」1981年3月発行 *# 「十字架島のプーク」1981年4月発行 *# 「史上最強のロボット」1981年4月発行 *# 「ブラックジャックの大作戦」1981年6月発行 *# 「地下鉄大暴走」1981年7月発行 *# 「小象プーラ」1981年8月発行 *# 「盗まれた太陽」1981年9月発行 *# 「アトラスよ永遠に」1981年12月発行 === 小説 === * 手塚治虫(原作) / 二階堂黎人(著) 『小説鉄腕アトム 火星のガロン』 講談社〈KCノベルス〉、2007年11月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/book/4063733149/ |title=小説鉄腕アトム 火星のガロン |work=ダ・ヴィンチニュース |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-373314-3}} * 手塚治虫(原作) / 大塚英志(著) 『小説 アトム大使』 角川書店〈角川つばさ文庫〉、2009年10月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200905000553/ |title=小説 アトム大使 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-631059-0}} * 手塚治虫(原作) / トレーシー・ウエスト(著) / 河井直子(訳) 『ATOM』 角川書店〈角川つばさ文庫〉、2009年10月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200907000076/ |title=ATOM(小説) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-631056-9}} === 紙芝居・絵本 === ==== 紙芝居 ==== * 手塚治虫(原作) / 虫プロダクション(監修) 『かみしばい 鉄腕アトム』 童心社〈鉄腕アトムシリーズ〉、全7巻 ** 「アトム誕生のまき」1965年9月5日初版発行 ** 「海へび島のまき」1965年9月5日初版発行 ** 「ウランちゃんのまき」1965年9月5日初版発行 ** 「植物人間のまき」1965年9月5日初版発行 ** 「地上最大のロボットのまき(上)」1965年9月5日初版発行 ** 「地上最大のロボットのまき(下)」1965年9月5日初版発行 ** 「みどろが沼のまき」1965年9月5日初版発行 * 手塚治虫(原作) / 虫プロダクション(画) / 清水えみ子(展開指導) 『鉄腕アトム』 童心社〈美しい心シリーズ〉、全2巻 ** 「火星たんけんのまき(上)」1967年発行 ** 「火星たんけんのまき(下)」1967年発行 * 手塚治虫(作) / 虫プロダクション(画) 『かみしばい 鉄腕アトム』 童心社〈童心社の家庭版かみしばい〉、全2巻 ** 「地上最大のロボットのまき(上)」1982年9月15日初版発行 ** 「地上最大のロボットのまき(下)」1982年9月15日初版発行 ==== 絵本 ==== <!-- 『小学館のテレビ絵本 鉄腕アトム』第2巻の副題について「の」と「まき」の間に空白がありますが、これは原本書籍にも同箇所に空白があるためです。出版社のミスの可能性が高いですが、一応原本書籍通りにしています。 --> * 手塚治虫 『小学館のテレビ絵本 鉄腕アトム』 小学館〈小学館のテレビ絵本シリーズ〉、全3巻 *# 「アトムたんじょうのまき」1980年12月発行、{{ISBN2|4-09-111121-1}} *# 「ロボットランドの まき」1981年1月発行、{{ISBN2|4-09-111122-X}} *# 「スピードきょうそうのまき」1981年3月発行、{{ISBN2|4-09-111123-8}} * 手塚治虫(原作) / 手塚プロダクション(制作) 『アストロボーイ鉄腕アトム』 文渓堂、全5巻 *# 「アトムたんじょう!」2004年10月発行、{{ISBN2|4-89423-404-1}} *# 「アトムとアトラスのたたかい」2006年3月発行、{{ISBN2|4-89423-472-6}} *# 「アトムのいもうとウラン」2006年3月発行、{{ISBN2|4-89423-473-4}} *# 「最強のロボットプルートゥ」2004年10月発行、{{ISBN2|4-89423-474-2}} *# 「最後のたたかい」2004年10月発行、{{ISBN2|4-89423-475-0}} * 『アトムといっしょ!かいておってわたそうおりてがみ』 講談社〈講談社こどもクラブ〉、2008年3月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000223450 |title=アトムといっしょ!かいておってわたそうおりてがみ |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|4-06-378906-3}} * 手塚プロダクション(監修) 『角川アニメ絵本 GO!GO!アトム』 2020年8月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000505/ |title=角川アニメ絵本 GO!GO!アトム |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-109320-7}} * 『0さいからのアトムのちきゅうずかん えいごつき』2019年11月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321977 |title=0さいからのアトムのちきゅうずかん えいごつき |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515622-3}} === 関連書籍 === * 『鉄腕アトムアイテム超百科』1981年11月発行、{{ISBN2|4-651-02514-5}} * 『ファミコン必勝テクニック完ペキ本 鉄腕アトム』1988年4月発行、{{ISBN2|4-19-668042-9}} * 『ファミリーコンピュータコナミスペシャル 鉄腕アトム必勝法マニュアル』1988年4月発行、{{ISBN2|4-87655-015-8}} * 『「少年」傑作集 第1巻 鉄腕アトムほか』1989年8月20日発行、{{ISBN2|4-334-70997-4}} ** 『「少年」傑作集』(全6巻)の中で第1巻が「鉄腕アトムほか」の傑作集となっている{{Efn2|2巻が「鉄人28号ほか」、3巻が「ストップ!にいちゃんほか」、4巻が「矢車剣之助ほか」、5巻が「忍者ハットリくんほか」の傑作集となっている。またこれら5巻の他に巻数表記が付与されていない「小説・絵物語篇」の傑作集も刊行されている。}}。本項目では『鉄腕アトム』の作品のみ表記している。 * 『ORGAN#6 鉄腕アトムの涙 テクノロジーの夢と臨界』1989年1月発行、{{ISBN2|4-7684-6695-8}} * 『鉄腕アトムワールド』1993年3月発行<!-- ISBNは無し。 --> * 『私の「鉄腕アトム」 100人のアーティストによる「私のアトム展」』1993年3月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazineworld.jp/books/paper/441/ |title=私の「鉄腕アトム」 100人のアーティストによる「私のアトム展」 |publisher=マガジンハウス |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|4-8387-0441-0}} * 『鉄腕アトムの秘密 空をゆく10万馬力の面白さ!』1993年6月30日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-89387-063-7}} * 『鉄腕アトムVS鉄人28号 僕たちの「少年」時代』1993年12月発行、{{ISBN2|4-900528-28-5}} * 『鉄腕アトム大図鑑』1993年12月18日第1刷発行(12月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000029897 |title=鉄腕アトム大図鑑 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|4-06-313381-8}} * 『鉄腕アトムロボットサイエンス』1994年11月発行、{{ISBN2|4-09-259065-2}} * 『鉄腕アトム大事典』1996年5月10日初版発行、{{ISBN2|4-7949-6259-2}} ** 「光文社版」2003年3月発行、{{ISBN2|4-334-78210-8}} * 『手塚治虫キャラクター図鑑 1 「鉄腕アトム」とロボット・変身ヒーロー編』1998年8月1日第1刷発行(7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=4428 |title=手塚治虫キャラクター図鑑 1 「鉄腕アトム」とロボット・変身ヒーロー編 |publisher=朝日新聞出版 |accessdate=2021-08-14}}</ref>)、{{ISBN2|4-02-330220-1}} ** 『手塚治虫キャラクター図鑑』(全6巻)の中で第1巻が『鉄腕アトム』のキャラクター図鑑となっている{{Efn2|2巻が『ブラック・ジャック』、3巻が『火の鳥』、4巻が『リボンの騎士』、5巻が『三つ目がとおる』『陽だまりの樹』、6巻が『ジャングル大帝』のキャラクター図鑑となっている。}}。本項目では『鉄腕アトム』の作品のみ表記している。 * 『現代科学はアトムに追いついたか!?』1999年11月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201216015643/ |title=現代科学はアトムに追いついたか!? |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|4-88991-950-3}} * 『鉄腕アトムのタイムカプセル オトナのための手塚治虫論』2002年10月発行、{{ISBN2|4-569-62420-0}} * 『鉄腕アトム55の謎』2003年3月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000880612003.html |title=鉄腕アトム55の謎 |publisher=NHK出版 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|4-14-088061-9}} * 『鉄腕アトム HAPPY BIRTHDAY BOX』2003年4月7日発行、{{ISBN2|4-334-90105-0}} * 『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』2003年3月発行、{{ISBN2|4-7949-6562-1}} * 『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』2003年4月発行、{{ISBN2|4-19-861674-4}} ** 「角川書店版」2009年9月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200904000098/ |title=アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-419127-6}} * 『鉄腕アトムのロボット学』2003年4月発行、{{ISBN2|4-08-781273-1}} * 『決定版鉄腕アトム解体新書』2003年4月発行、{{ISBN2|4-331-50963-X}} * 『鉄腕アトムコンプリートブック』2003年4月11日発行(3月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/201216015643/ |title=鉄腕アトムコンプリートブック |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-08-14}}</ref>)、{{ISBN2|4-8401-0732-7}} * 『図説鉄腕アトム』2003年5月30日発行(5月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309760308/ |title=図説鉄腕アトム |publisher=河出書房新社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>)、{{ISBN2|4-309-76030-9}} * 『鉄腕アトムその夢と冒険』2003年5月発行、{{ISBN2|4-533-04778-5}} * 『アストロボーイ・鉄腕アトム』2003年5月発行、{{ISBN2|4-636-25745-6}} * 『アストロボーイ・鉄腕アトム ピアノ・ソロ・アルバム』2003年5月発行、{{ISBN2|4-8108-2983-9}} * 『鉄腕アトム パワーアップ図鑑』2003年7月発行、{{ISBN2|4-09-750611-0}} * 『僕たちの好きな鉄腕アトム 第1期テレビアニメシリーズ 全193話 完全ガイド』2003年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://tkj.jp/book/?cd=12081901 |title=僕たちの好きな鉄腕アトム 第1期テレビアニメシリーズ 全193話 完全ガイド |publisher=宝島社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|4-7966-3373-1}} * 『鉄腕アトム66の謎 7つの超能力をもつロボット』2003年9月発行、{{ISBN2|4-8113-7658-7}} * 『鉄腕アトムを救った男』2004年11月発行、{{ISBN2|4-408-39561-7}} * 『手塚治虫と6人 日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ 「鉄腕アトム」の誕生秘話』2005年12月発行、{{ISBN2|4-8347-5551-7}} * 『描きかえられた『鉄腕アトム』』2008年3月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001834.html |title=描きかえられた『鉄腕アトム』 |publisher=NTT出版 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7571-4179-7}} * 『やわらかアトムの本』2008年11月発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/8000481.html |title=やわらかアトムの本 |publisher=ポプラ社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-591-10555-9}} * 『アトムBook』2009年2月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000184639 |title=アトムBook |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-214857-3}} ** 「オリジナルフィギュア付き限定版」、{{ISBN2|978-4-06-215037-8}} * 『『鉄腕アトム』の時代 映像産業の攻防』2009年2月25日発行、{{ISBN2|978-4-7907-1390-6}} * 『キュービック アトム』2009年9月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-08296-7.jsp |title=キュービック アトム |publisher=文芸社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-286-08296-7}} * 『鉄腕アトム 連載60周年記念 TVアニメ放送開始50周年記念 カラー版 限定BOX』全5巻 *# 2012年6月25日発行、{{ISBN2|978-4-7780-3217-3}} *# 2012年7月26日発行、{{ISBN2|978-4-7780-3218-0}} *# 2012年8月24日発行、{{ISBN2|978-4-7780-3219-7}} *# 2012年9月24日発行、{{ISBN2|978-4-7780-3220-3}} *# 2012年10月26日発行、{{ISBN2|978-4-7780-3234-0}} * 『DVD BOOK 鉄腕アトム』2012年10月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://tkj.jp/book/?cd=62033301 |title=DVD BOOK 鉄腕アトム |publisher=宝島社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8002-0333-5}} * 『鉄腕アトムと共に生きて 声優が語るアニメの世界』2015年6月発行、{{ISBN2|978-4-87891-420-1}} * 『『鉄腕アトム』の世界』2017年5月1日発行(4月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://tkj.jp/book/?cd=12782701 |title=『鉄腕アトム』の世界 |publisher=宝島社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-8002-6935-5}} * 『ATOMの開発現場に潜入せよ!』2017年7月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000023000 |title=ATOMの開発現場に潜入せよ! |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-09}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-510125-4}} * 『18歳のアトム 手塚治虫の鉄腕アトムから18歳のアトムへ』2019年4月発行、{{ISBN2|978-4-905530-79-4}} * 『鉄腕アトム プロローグ集成』2019年11月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://rittorsha.jp/items/19317410.html |title=鉄腕アトム プロローグ集成 |publisher=立東舎 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-8456-3442-2}} * 『アトムの科学なんでも百科』2019年12月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000322348 |title=アトムの科学なんでも百科 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515735-0}} * 『アトムのサイエンス・アドベンチャー昆虫世界の大冒険』2020年3月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000328255 |title=アトムのサイエンス・アドベンチャー昆虫世界の大冒険 |publisher=講談社 |accessdate=2021-08-14}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-518325-0}} * 『鉄腕アトム 空をこえて』2020年10月発行、{{ISBN2|978-4-86501-470-9}} * 『鉄腕アトム原画画集 FAMILY TIME』2021年7月発行、{{ISBN2|978-4-8354-5815-1}} == テレビアニメ化の前史 == ; 冒険漫画人形劇 鉄腕アトム(紙人形劇 鉄腕アトム) : 1957年4月13日から同年9月28日までラジオ東京テレビ(現[[TBSテレビ]])系列で放送。[[ペープサート|紙人形劇]]。全25回。人形制作は童夢人形劇研究所。放送時間は毎週[[土曜日]]18:00 - 18:30([[日本標準時|JST]]。後の[[毎日放送]]制作『[[毎日放送土曜夕方6時枠|土6]]』枠)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-900|title=鉄腕アトム|publisher=テレビドラマデータベース|accessdate=2019-12-10}}</ref>。声は[[里見京子]]。当時「キングトリスガム」という[[チューインガム]]を発売していた「吉木産業」の[[一社提供]]<ref>{{cite book|和書|title=発掘!歴史に埋もれたテレビCM 見たことない昭和30年代|publisher=[[光文社]]|page=228}}</ref>。映像は現存していない。 {{前後番組 | 放送局=[[TBSテレビ|KRT]] | 放送枠=土曜18時台前半枠 | 番組名=冒険漫画人形劇 鉄腕アトム<br />↓<br />紙人形劇 鉄腕アトム | 前番組=映画枠 | 次番組=おとぼけ問答 }} ; [[鉄腕アトム (実写版)]] : 1959年3月7日から1960年5月28日まで毎日放送制作、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送。製作は松崎プロダクション(第一部は三笠映画との共同製作)。冒頭には既にアトムの物語設定を説明する75秒のセルアニメによるタイトルが付けられていた。このセルアニメの製作は村田映画製作所。 :(第1部:<ruby><rb>ZZZ</rb><rp>(</rp><rt>スリーゼット</rt><rp>)</rp></ruby>団の巻、第2部:メキシコの巻、第3部:フランケンとアトムの巻、第4部:火星探検の巻/第5部:気体人間の巻)。 :(2009年10月23日に、全65話中の原版が現存する58話を8枚のDVDに収めたDVD-BOXが、ジェネオン・ユニバーサル・エンターティンメントから発売された)。 注記:「特撮秘宝vol.5」(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)、洋泉社、{{ISBN2|978-4-8003-1127-6}}(2016年12月5日)に、この紙人形劇鉄腕アトムとテレビ実写版鉄腕アトムに関する資料が掲載されている。 == テレビ用アニメーション作品 == {{external media|video1=[https://www.youtube.com/playlist?list=PL21RTOWbDjogfGcrpVFsty6_Q37-Wr7al 鉄腕アトム]<br />[[YouTube]]:手塚プロダクション公式が2013年12月19日にアップ}} : 本作は日本向けに4回(『ビギニング』も含めれば5回)[[テレビアニメ]]化がなされている。詳しくは各作品の項目を参照。 : ナイジェリア向けアニメ『ろぼっとアトム』については本節に簡単に記載する。 === 連続テレビアニメーション作品 === ; 第1作 - [[鉄腕アトム (アニメ第1作)]] * 1963年1月1日から1966年12月31日までフジテレビ系列にて放送。製作虫プロダクション。全193話(放送期間中の17回ものリピート放送(過去のフィルムをそのまま流すこと)は話数には含めず)。 ; 第2作 - [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]] * 1980年10月1日から1981年12月23日まで[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送。 ; 第3作 - [[アストロボーイ・鉄腕アトム|ASTRO BOY 鉄腕アトム]] * 2003年4月6日から2004年3月28日までフジテレビ系列にて放送。 ; ろぼっとアトム * 2014年3月より[[ナイジェリア]]で放送。詳細後述。 ; [[アトム ザ・ビギニング]] * 2017年放送。 ; [[GO!GO!アトム]] * 2019年 - 2020年に[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]『[[プリスクタイム]]』第2部にて放送。未就学児・小学校低学年向けのアニメ。 === ろぼっとアトム === 原題は『''Little Astro Boy''』。2014年3月より[[ナイジェリア]]での放送を主目的として、同国の民間テレビ局「{{仮リンク|チャンネルズTV|en|Channels TV}}」にて1話15分で全8話を制作・放送<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFE0102Q_R00C14A4000000/?dg=1 幼くなった鉄腕アトム? アフリカで変身したワケ] 日本経済新聞、2014年4月4日掲載</ref>。手塚プロダクションが海外市場の開拓を図るため、様々なリサーチからアフリカ市場に将来性を感じ同局と共同制作した。<br />視聴層を低年齢向けに定め、アトムは原典よりも幼い外見にリ・デザイン。内容も「ロボタウン」を舞台にアトムが人間やロボットの仲間たちと悪者を退治したりカーレースをする日常風景を単純明快に描く。<br />2015年11月には日本向けローカライズ版『'''ろぼっとアトム'''』としてDVDソフト化され、[[ハピネット・ピクチャーズ]]より販売<ref>[http://tezukaosamu.net/jp/dvd/dvd3/index.html ろぼっとアトム](手塚プロダクション ブルーレイ・DVDリリース情報、2015年6月4日掲載</ref>。 <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ==== キャスト(ろぼっとアトム) ==== :* アトム - [[村川梨衣]] :* ピッコ - [[中司ゆう花]] :* レジー - [[菊池正美]] :* タック - [[山口眞弓]] :* キナコ - [[深田愛衣]] :* ケン - [[田野アサミ]] :* ミッチー - [[秋奈]] :* ポール - [[寺崎裕香]] :*オチャノミズ博士 - [[岐部公好]] :* ハムエッグ - [[北沢力]] :* フラー博士 - [[青木強]] :* ゴラー - [[江川大輔]] :* パト兄 - [[利根健太朗]] :* スピードジョー - [[小西克幸]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ==== スタッフ(ろぼっとアトム) ==== * 原作 - 手塚治虫 * 総監督 - [[手塚眞]] * 監督 - [[西田正義]] * シリーズ構成 - [[野崎透]]、森田眞由美 *キャラクターデザイン - 三浦菜奈 * 美術デザイン - [[西田稔]] * 美術監督 - 柴田正人 * 撮影監督 - 川瀬輝之 * 色彩設計 - こばやしみよこ * 音楽 - 明石隼汰 * 音響監督 - 今泉雄一 * 企画 - 松谷孝征、清水義裕 * プロデューサー - 宇田川純男、橋本信太郎 * 製作 - 手塚プロダクション </div>{{clear|left}} ==== 各話リスト(ろぼっとアトム) ==== :# アトム、レーサーになる!?(Astro Becomes a Racer) :# 暴走リサイクル(Recycling Gone Wild) :# アトム、宇宙へ行く(Astro Goes to Space) :# おそうじ大好き(We Love Cleaning) :# 飛べ!ミッチ―(Fly! Mitchy) :# ハートに火がついた(Heart on Fire) :# オ、オイラはモーグラーなんだな(I'm Moler,You See?) :# 時間を盗んだ男vsアトムと5人と冒険隊(Astro and The 5 Adventures) === 関連映像作品 === ; アトム天気予報 : 1964年放映。アトムが出演して天気予報をするミニ番組。DVDに絵コンテが収録されている。 ; [[スター千一夜]] : 1965年10月16日の回に放送(フジテレビ)。司会の三木鶏郎とともにアニメのアトムと手塚治虫が「対話」した。 ; [[巨人の星対鉄腕アトム]] : 1969年9月6日に日本テレビで放映。著名人を競わせるバラエティ番組「[[前田武彦の天下のライバル]]」の内でこの日に放送された約20分のアニメ(「虫プロダクション資料集」によればカラー15分)。これは『[[巨人の星]]』の主人公である[[星飛雄馬]]や仲間達がアトムと野球の試合やマラソンなどをするというコラボレーション企画であった<ref>[[アニメージュ]]編集部編『TVアニメ25年史』[[徳間書店]]、1988年、p.28。</ref>。アニメ部分の演出は[[富野由悠季]]<ref>富野由悠季『増補改訂版 だから僕は…』[[徳間書店]]・アニメージュ文庫、1983年、p.170。</ref>。 : 対戦はチーム対抗の三回戦で、一回戦は野球で巨人の星勝利、二回戦は双方の一般ファン選抜の子供チームによるチャンバラ合戦でアトム勝利、三回戦はマラソンでアトム勝利、試合後表彰式が行われた。 ; [[ジェッターマルス]] : 1977年に『ジェッターマルス』が放映された。当初、「アトムを死なせないで」という要望が強かったため、アトムのリメイク版として企画されたが、手塚の状態から断念。アトムの要素を取り入れたロボットアニメである。 ; [[海底超特急マリンエクスプレス]] : 1979年8月26日放映[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]内放映TV特番。アトムはアダムの名で登場している。 ; [[番組対抗かくし芸大会|第5回 おめでとう!!日本テレビ番組対抗かくし芸大会]] : 1981年1月2日放送。日本テレビ系列の番組出演者が行うかくし芸で、前年秋に開始した『[[鉄腕アトム (アニメ第2作)|鉄腕アトム(新)]]』を始め、『[[あしたのジョー|あしたのジョー2]]』『[[太陽の使者 鉄人28号]]』の3作品のキャラクターがパフォーマンスをする出し物を放送、アニメ制作は[[手塚プロダクション]]と[[トムス・エンタテイメント|東京ムービー新社]]の共同制作。声優はすべてオリジナル。 ; [[この人○○ショー|この人 手塚治虫ショー]] わが夢はるか アトムと飛んだマンガの青春 : 1983年10月6日にNHK総合で放送。番組冒頭、手塚治虫(実写本人)とアトムが共演するアニメが挿入されている。声は清水マリ。 ; 永遠のアトム 手塚治虫物語 : 1999年4月15日放映TVドラマ。テレビ東京開局35周年記念番組。※ 1999年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品。1999年度テレビ東京年間奨励賞受賞作品。 ; ミレニアム・カウントダウン『手塚治虫アカデミー大賞』 : 1999年12月31日放映。年末TV特番放映。 ; [[手塚治虫が消えた!? 20世紀最後の怪事件]] : 2000年12月5日放映。年末TV特番放映。 ; アトムの世紀 〜夢のロボット開発に挑む科学者たち〜 : 原題『ASTROBOY IN ROBOLAND』。2008年、フランスのLes Films d'Ici制作。日本では2008年12月18日にBSハイビジョン映像で放映。番組ディレクターマルク・キャロの演出によって紹介される21世紀の日本のロボット開発最前線に迫るドキュメンタリー映画。 ; やわらかアトム : 2007年より配信の『[[やわらか戦車]]』とのコラボレーションアニメ、パロディ作品。 ; アトムの足音が聞こえる : 2011年5月19日公開。音響監督の[[大野松雄]]についてのドキュメンタリー映画。一部テレビアニメ第1作の映像が使用されている。 ; Peeping Life シリーズ : 2013年、『[[Peeping Life]]』と[[手塚プロ]]&[[タツノコプロ]]とのコラボレーションアニメ。劇場版は2014年11月15日公開、2015年にはテレビシリーズを放送。 ; ROBOT TOWN SAGAMI 2028 : 2016年配信。神奈川県『さがみロボット産業特区』PRアニメ。アトムの声は·[[津村まこと]]。 ; ASTRO BOY REBOOT(仮) : 放送時期・媒体等未発表。海外で1話30分全52話構成の3Dアニメとしてリブート予定。共同製作はフランスのMethod Animation・Mediawan Kids & FamilyとモナコのShibuya Productions(シブヤ プロダクションズ)、監督はトーマス・アストリュック<ref>[https://theriver.jp/astro-boy-anime-reboot/ 手塚治虫『鉄腕アトム』海外CGアニメリブート進行中 ─ 1話30分・全52話構成]RIVER 2022年6月17日</ref>。 ; [[PLUTO]] : 2023年に[[Netflix]]で配信。 === 映画 === ; 鉄腕アトム 宇宙の勇者 ; 鉄腕アトム 地球防衛隊 {{main|鉄腕アトム (アニメ第1作)#劇場版}} ; 鉄腕アトムの交通安全 : 1994年制作16mmフィルム作品。子供向けの交通安全を教える教育映画で、図書館などに置かれている。 ; 手塚治虫の宇宙 W3(ワンダースリー) 〜銀河連盟の使者〜 : 1999年公開。プラネタリウム上映作品。上映時間約31分。手塚治虫が少年の頃に見たプラネタリウムを思い出すといった形で、銀河連盟から派遣された[[W3]]の3人と彼らと合流したアトムが星座を紹介していく。 ; 鉄腕アトム/新撰組 : 1999年7月20日公開<ref>{{Cite web|和書|url= https://tezukaosamu.net/jp/anime/26.html|title= 鉄腕アトム/新撰組|accessdate= 2019年10月26日}}</ref>。手塚治虫ワールド300インチシアター上映作品。火の鳥をストーリーテラーとした二本立ての作品でアトムは「青騎士」のエピソードが描かれている。 ; 鉄腕アトム〜地球最後の日〜 : 2001年7月20日公開。手塚治虫ワールド300インチシアター上映作品。 ; 鉄腕アトムと探ろう! 土星をまわる神秘の星タイタン : 2005年公開。プラネタリウム上映作品。 ; ASTRO BOY 鉄腕アトム特別編 アトム誕生の秘密 ; ASTRO BOY 鉄腕アトム特別編 イワンの惑星〜ロボットと人間の友情〜 ; [[アトムの最後#劇場作品|ASTRO BOY 鉄腕アトム特別編 輝ける地球(ほし)〜あなたは青く、美しい…〜]] ; ASTRO BOY 鉄腕アトム〜月面基地・消えたロボットの謎〜 ; ROBOT〜夢のアストロボーイへ〜 ; ASTRO BOY 鉄腕アトム 10万光年の来訪者・IGZA {{main|アストロボーイ・鉄腕アトム#劇場作品}} ; ASTRO BOY(当初の公開予定は2004年)企画のみ :「ASTRO BOY 鉄腕アトム」に合わせ、エリック・レイトン監督による[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]の100%出資のハリウッド版フルCG映画として企画されたが、公開までにはいたらなかった。 ; ATOM(2009年10月10日公開) {{main|ATOM (映画)}} ; ASTRO BOY(実写映画企画) : 2015年に[[アニマル・ロジック]]より実写アクション映画の製作が発表。公開時期等未定。 == ゲーム == ; 鉄腕アトム : [[ファミリーコンピュータ]]用ソフト : 1988年2月26日発売、発売元は[[コナミ]]<ref name="muri200">マイウェイ出版『死ぬ前にクリアしたい200の無理ゲー ファミコン&スーファミ』 ({{ISBN2|978-4-86511-985-5}}、2018年10月10日発行)、42ページ</ref>、開発はホームデータ(後の[[魔法 (ゲーム会社)|魔法]])。 : 内容は、アクションゲームであるが、謎解き要素も強い。 <!--: 開発はホームデータであるため独自のコナミサウンドは使用していない。 : 内容もキャラクターもオリジナル性が強く、作り込みの緻密さや操作性は評論筋から肯定的に評価されているが、一部コマンドの入力の難しさやライフ設定の分かりづらさなどプレイヤーにとって不親切な設計も見られる{{R|muri200}}。--> ; 鉄腕アトム : [[スーパーファミコン]]用ソフト : 1994年2月18日発売、開発は[[ザムス]]、発売は[[バンプレスト]] ; [[ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-]] : [[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト : 2003年12月18日発売、開発は[[トレジャー]]、発売は[[セガ]] ; ASTRO BOY 鉄腕アトム : [[PlayStation 2]]用ソフト : 2004年3月18日発売、発売は[[セガ]]、開発は同社の[[ソニックチーム]] ; [[ATOM (映画)|ATOM]] : [[PlayStation Portable|PSP]]用ソフト : 2009年10月8日発売、発売は[[ディースリー・パブリッシャー]]。 ; 空想科学模型遊戯鉄盤アトム : [[Mobage]]ソーシャルゲーム。2012年4月より配信<ref>[https://japan.cnet.com/article/35016035/ 手塚治虫の人気漫画「鉄腕アトム」がソーシャルゲームとしてMobageに登場]CNET Japan 2012年4月10日</ref>。 ; 神絵師の絆 : 2020年4月7日よりサービス開始したスマートフォンゲーム。制作コンパイルハート。手塚治虫作品キャラクター美少女化プロジェクト。スマホ版は2022年9月30日サービス終了。 : PC向けDMM GAMES版が2020年5月21日に配信開始、2021年4月30日に終了。 == ミュージカル == ; ミュージカル アトム : 2010年4月17日より公演(東京は2010年6月19日より公演)の、劇団わらび座による『ミュージカル[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]] 鳳凰編』に続くミュージカル第2弾。初回以降、2013年2月24日にかけて全国ツアーを行っているが、時期によってキャストは変更されている。アトムが活躍した時代より未来の話で動くアトムは登場しない。 <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> === スタッフ === *原案 - 手塚治虫 *脚本・演出 - [[横内謙介]] *音楽 - [[甲斐正人]] *振付 - [[ラッキィ池田]]、彩木エリ *監修 - [[手塚眞]] *協賛 - 手塚プロダクション、[[角川エンタテインメント]] *共同制作 - [[新宿区]] *企画制作 - わらび座 </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> === キャスト(初回公演) === *トキオ - [[三重野葵]] *マリア - [[碓井涼子 (女優)|碓井涼子]] *アズリ - 上野哲也 *ダッタン - 宮本昌明 *タケ - [[岩本達郎]] *エミ - 鳥潟知沙 *神楽坂町子 - [[椿千代]] *スーラ - 岡村雄三 *ウメ/ジュリー - 小林すず *クロキ/チルチル - 千葉真琴 *シアン - 森下彰夫 *チータン - 神谷あすみ *ヘレン - 工藤純子 </div>{{clear|left}} == 音楽作品 == === 楽曲 === * 鉄腕アトム(アトムマーチ) - 言わずと知れたアニメ版で使われる楽曲。作曲は[[高井達雄]]、作詞は[[谷川俊太郎]]。様々なアーティストがカバーしている。アメリカNBCフィルムズに向けて輸出されたバージョンでは、一部旋律を変えている箇所があるが概ね同じである。 ** 曲は高井が、[[富士見台駅]]の近くにあった手塚のスタジオから池袋の自宅まで電車で移動していた15分ほどの間に完成させたものである。第1話の放送時点では歌詞が間に合わず[[器楽曲|インストゥルメンタル]]であった<ref name="うたのチカラ_高井達雄">高井達雄「メロディはわずか一五分の電車の中で生まれた」『うたのチカラ JASRACリアルカウントと日本の音楽の未来』2014年、280-282頁。ISBN 978-4-08-781556-6。</ref>。 ** 作詞した詩人の谷川は、(本人曰く)漫画・アニメとは畑違いの分野で活動していたため自信がなかったという。また、作詞の経験はあったものの、先に曲ができてそれに歌詞をつける「曲先」の仕事は初経験だった。ただ、既に『鉄腕アトム』の原作を読んでおり、そのせいか思ったほど難しくはなかったという。歌詞の中の「〜ラララ♪」の部分について、谷川は「言葉が上手くはまらない部分をごまかした」と言うことがあるが、「話を面白くするためのサービスという一面が」あるという。実際は「歌詞は詩よりも言葉数が少なめのほうがいいと考えていたことが基本にありました」という<ref name="うたのチカラ_谷川俊太郎">谷川俊太郎「アトムの哀しみ」『うたのチカラ JASRACリアルカウントと日本の音楽の未来』2014年、278-279頁。ISBN 978-4-08-781556-6。</ref>。また、元は「やさしい心」としていたのを「心やさし」などと、高井のアドバイスにより音楽のリズムに合わせて谷川の最初に用意した詩の語順を変更した{{R|うたのチカラ_高井達雄}}。 ** 1970年10月に手塚治虫原作作品の主題歌をカバーした企画物LP『虫プロ たのしいテレビまんが大パレード』([[日本コロムビア]] KKS-20017)で[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]]がカバー{{Efn2|[http://www.0108.tv/ 音羽ゆりかご会の公式サイト](「History」の2ページ目)によると、コロムビアゆりかご会版は1964年に大ヒットしたことになっているが、その際の具体的な音盤情報は明記されていない。なお、1976年に日本コロムビアから発売されたLP「オリジナル原盤による テレビまんが主題歌のあゆみ 鉄腕アトムから最新ヒット曲まで」(CB-7005〜8)、および2005年発売のCD「テレビまんが主題歌のあゆみ」(COCX-33498〜9)にもコロムビアゆりかご会版が収録された。}}し、1971年1月25日にシングルカットされた(日本コロムビア SCS-121。B面は「ロボットマーチ」)。 ** ZONEによるアニメ版『[[アストロボーイ・鉄腕アトム]]』のエンディングテーマ曲でスカパンクバージョン(『[[ASTRO Girlz & Boyz]]』の6曲目に収録)とバラードバージョン(シングル『[[僕の手紙]]』の2曲目に収録)の両方が使われている。 ** 1997年、[[サントリー]](現・[[サントリー食品インターナショナル]])[[烏龍茶]]のコマーシャルソングとして[[中国語]]でカバーされた{{Efn2|[[中国]]で放映されていたことも関係している。}}。2003年発売のコラボレーションアルバム『烏龍歌集「チャイ」サントリー烏龍茶CMソングコレクション』に収録された。サントリー食品インターナショナルではその後、2019年にも[[伊右衛門]]NEW特茶のCMに男声コーラスによるカバーでコマーシャルソングとして使われた。 ** 1997年4月21日発売のアルバム『ハッピー・チャイルド!〜英語でうたおう こどものうた みんなのうた〜』で、ボイスランド・キッズが英訳詞でカバーした。曲名は「Astro Boy!」。 ** かつては[[マツダ・タイタン]]のCMに使用されたこともある(後述)。 ** [[日本の大学野球]]において[[東京大学運動会硬式野球部|東京大学]]や[[同志社大学体育会硬式野球部|同志社大学]]の[[応援歌]]として採用されて以降、野球応援の定番となった。[[日本の高校野球]]では特に、[[神奈川県]][[横浜市]]の[[横浜中学校・高等学校|横浜高校]]や[[横浜市立横浜商業高等学校|横浜商]]などの演奏が有名である。[[日本プロ野球]]においても[[大石大二郎]]・[[田尾安志]]の応援歌として使用された。 * [[true blue/恋々・・・|true blue]] - ZONEによるアニメ版『[[アストロボーイ・鉄腕アトム]]』のオープニングテーマ曲。同シングルに収録。 * 虫プロ版鉄腕アトムの音響効果を担当した大野松雄による音源を元にしたアルバム「鉄腕アトム・音の世界(roots of electronic sound)」(最初のLPはコジマ録音(1975年)で、後2009年にCD化。発売元:日本伝統文化振興財団、販売:ビクターエンタテインメント:VZCG712)。大野によるアニメ第1作の音響・効果音は日本における電子音響の先駆の1つでもあった{{要出典|date=2019-04}}。 * [https://enc.piano.or.jp/musics/5203 ローゼンブラット :鉄腕アトムの主題によるファンタジー] * [[2019年]]には「[[コレナンデ商会]]」でもカバーされた。この時は童謡風のアレンジで、[[著作権]]の都合上、アトムの代替として四角い[[ロボット]]に扮したジェイが登場した。 === トリビュート・アルバム === * [[MUSIC FOR ATOM AGE♪]] - [[樋口康雄]]による[[トリビュート・アルバム]]。 * [[ASTRO Girlz & Boyz]] - [[ZONE (バンド)|ZONE]]と[[ランタイムミュージックエンタテインメント]]・オールスターによるトリビュート・アルバム。 == 豆知識 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年4月}} === 原作製作秘話 === * 英語圏では「宇宙少年」を意味する「Astro Boy」のタイトルに改められた。命名したのはNBC Filmsのシュミットの子供である<ref>手塚治虫『ぼくはマンガ家』大和書房、1988年、200p</ref>。手塚は生前、「アトム」が「おなら」を意味するスラングであるため改名したと説明していた。実際、このことは「[[クイズダービー]]」の問題{{Efn2|三択問題。ちなみに誤答としての選択肢は「ハゲ」、「水虫」。}}にもなっている。ただし、アメリカにはアニメーション作品の「Atom Ant([[怪力アント]])」、アメリカンコミックの「The Mighty Atom」、「The Atom」、[[キャプテン・マーベル (DCコミックス)|キャプテン・マーベル]]の敵キャラクターとして「Mr.Atom(ミスター・アトム)」が存在することから、これに異を唱える向きもある<ref>草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、58-59頁。{{ISBN2|4-19-861705-8}}</ref>。 * アニメ第1作の人気が絶頂だった時期に「ぼくはアトムをぼく自身の最大の駄作の一つとみているし、あれは名声欲と、金儲けのために描いているのだ」という自虐的な評価をエッセイで記している<ref>「一匹狼になりたい」『[[話の特集]]』1966年5月号</ref>。手塚としては、一雑誌連載作品に過ぎない「アトム」が自らの代名詞のように扱われ、しかもアニメ版はオリジナルのストーリーによって原作から遊離しているという意識があった。 * アトムが人間に反旗を翻す「青騎士の巻」が執筆されたのはテレビアニメ第1作が日本や海外で放映されていた時期だった。1975年 - 1976年に刊行されたサンコミックス([[朝日ソノラマ]])の単行本では、各作品の簡単な解説漫画を付している。この中で「青騎士の巻」について、当時自分の作品、とりわけ『アトム』に対しては「正義の味方で明るく楽天的すぎる」という批判があり、「悪い子のアトムを描くべき」という編集者の意見に従ったが、人気は急落して容易に回復せず、やはりアトムは正義の味方でなくてはならないという思いを抱くに至ったと記している<ref>「青騎士」解説漫画『鉄腕アトム』第19巻、朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、1976年、pp.6 - 9</ref>。 *最晩年の[[石ノ森章太郎]]との対談では、悪書追放運動などの漫画バッシングの中、受けを狙って書いていた駄作であり、僕の好きな作品のトップ100にも入らないとしている<ref>石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年) なお、トップ1は「これから描くもの」。</ref>。 *[[夏目房之介]]によると、『アトム大使』連載の頃の「[[少年 (雑誌)|少年]]」1月号に同誌連載マンガの各主人公が集合写真のように集まっている絵が載ったが、『アトム大使』の主人公としては敷島健一(通称ケン一君、ケンちゃん)だけが出ていたという{{Efn2|同年の正月に手塚が作成した年賀状では同様に当時の作品から主なキャラクターが集合した絵が描かれているが、『アトム大使』からはケン一と玉男が描かれていた。}}。 === マスコットキャラクター === * 初回アニメ放送時は、大和銀行のキャラクターとして、貯金箱が作られた。 * 1966年から1970年にはプロ野球球団[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ(-1968)・アトムズ(1969)・ヤクルトアトムズ(1970-1973)]]のマスコットキャラクターとして、ユニフォームの左袖に空を飛ぶアトムの絵が描かれていた。 * 上記、ヤクルトアトムズのキャラクターであったため、[[ヤクルト本社|ヤクルト]]のマスコットとしても使われた。また、子供向けシャンプーなども発売された。 * 塗装メーカーの[[アトムサポート]]の家庭用塗装具シリーズ・アトムハウスペイントのCMにも起用された。 * [[アトム (飲食業)|株式会社アトム]](現在は、同社のアトムカンパニー)が[[中部地方|中部地域]]に展開している回転寿司チェーン、アトムボーイのマスコットキャラクターでもある。 * 1980年代に[[マツダ]][[マツダ・タイタン|タイタン]](小型トラック)のイメージキャラクターに起用。また、アトムマーチのアレンジ版がCMに採用された。 * [[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン]]のマスコットキャラクターとして1989年の開業時から数年間使われ、開業告知のポスターには「鉄腕アトムのシーサイドライン」と記されていた。 * 1990年に[[日本電気|NEC]]パラボーラのテレビコマーシャルに出演。 * 1992年に[[日本電信電話|NTT]]サンクスフェアのテレビコマーシャルに出演。 * 1996年に[[テルモ]]体温計のテレビコマーシャルに出演。 * 1997年に[[トヨタ自動車|トヨタ]]・[[トヨタ・プリウス|プリウス]]のイメージキャラクターに起用。2007年にもプリウス誕生10周年キャンペーンで再び起用。 * 1999年6月より[[秋田銀行]]の通帳とキャッシュカードのデザインに採用された。 * 1999年に[[デンソー]][[浄水器]]ミズ純子のテレビコマーシャルに出演(ちなみに、出演キャラクターは御茶の水博士のみ)。 * 2000年に[[マイカル]]・[[サティ (チェーンストア)|サティ]]のイメージキャラクターに起用。 * 2003年には[[三菱自動車工業|三菱]]・[[三菱・グランディス|グランディス]]のイメージキャラにも起用。なおアニメ3作目「アストロボーイ - 」は三菱がスポンサーで劇中でCMも流れていた。 * 三井海上火災保険(現:[[三井住友海上火災保険]])のイメージキャラクターに起用。 * 2004年に[[綜合警備保障]]のCMに起用(「鉄腕ALSOK」というキャッチフレーズ)。 * 2004年より[[早稲田]]、[[高田馬場]]で[[地域通貨]]『[http://www.atom-community.jp/ アトム通貨]』を発行(1馬力=1円換算)。2009年第6期には[[川口市]]、[[札幌市]]にも支部拡大。 * 2006年に[[グッドイヤー]]のスタッドレスタイヤのイメージキャラクターに起用。 * 2006年に[[東京電機大学]]開校100周年記念のイメージキャラクターに起用。 * 2007年には[[北越銀行]]のイメージキャラクターに起用<ref>[http://www.hokuetsubank.co.jp/new/070525.html 新イメージキャラクター「鉄腕アトム」(MIGHTY ATOM)の採用についてご案内]、北越銀行、2007年5月25日。</ref>。キャラクターデザインは1980年放映のアニメ第二作に準じている。 * 2007年に[[東武鉄道]]のマンション、[[西新井駅前複合都市開発|リライズガーデン西新井]]のイメージキャラに起用。 * 2008年にプロトンポンプ阻害剤「パリエット」([[エーザイ]])の発売10周年イメージキャラクターに起用。 * 2009年に[[S-1バトル]]CMに起用。 * 2009年10月8日に「2018/2022年 [[FIFAワールドカップ]]日本招致委員会」特別広報大使に就任<ref>[http://mainichi.jp/enta/mantan/graph/anime/20091009/ 鉄腕アトム:サッカーW杯、日本招致特別広報大使に就任] 毎日jp 2009年10月9日</ref>。 * 2010年2月に[[エーザイ]]『ご存知ですか?[[逆流性食道炎]]』CMに起用。 * 2010年3月に[[江崎グリコ]]『ガム・[[POs-Ca]]』CMに起用。アトムの声は[[小栗旬]]が担当<ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/article/2010/02/16/0002715901.shtml アトム役の小栗旬、愛の力10万馬力] デイリースポーツ 2010年2月16日</ref>。 * 2010年4月6日に、高田馬場の区立戸塚第三小学校入学式に参加し特別児童に任命される<ref>[http://mainichi.jp/select/today/news/20100407k0000m040064000c.html 雑記帳:鉄腕アトムが小学校入学式 「特別児童」に任命] 毎日.jp 2010年4月6日</ref>。 * 2012年4月1日、宝くじ「鉄腕アトムスクラッチラッキー3」(第618回全国自治宝くじ)に起用<ref>[https://web.archive.org/web/20120505105850/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0403&f=column_0403_006.shtml 手塚治虫先生のキャラクタが宝くじに・第一弾は鉄腕アトム]サーチナ 2012年4月3日</ref>。 * 2014年7月4日 手塚治虫記念館と[[オトメイト]]のコラボとしてテヅカオトメ展で『[[CLOCK ZERO 〜終焉の一秒〜]]』の夏目ウタによるイラスト。 * 2015年4月27日、[[ラグビーワールドカップ2015]]に出場する[[ラグビー日本代表]]の応援キャラクターに起用<ref>[http://sakura.rugby-japan.jp/japan/2015/id31802.html 日本代表応援キャラクターに「鉄腕アトム」決定のお知らせ] 日本ラグビーフットボール協会 2015年4月27日</ref>。 * 2015年10月からのソフトバンクCM『MOON RIBAR』シリーズで、[[堺雅人]]が元鉄腕アトム役で出演。 * 2016年に[[神奈川県]][[相模原市]]の「さがみロボット産業特区」の理念である「ロボットで支える県民のいのち」を最も分かりやすく伝えるキャラクターとして、「鉄腕アトム」を起用。アニメも制作された<ref>[http://sagamirobot.pref.kanagawa.jp/anime.html さがみロボット産業特区]</ref>。 * 2018年12月から富士ゼロックス(現:[[富士フイルムビジネスイノベーション]])の「Smart Work Innovation アトム Document AI」篇 でスーツを着て社内で人間と一緒に働く大人のアトムとして実写映像内にリアルCG出演<ref>{{cite video |date=2018-12-28 |title=「Smart Work Innovation アトム Document AI」篇 |url=https://www.youtube.com/watch?v=My7i_keKmKo |medium=YouTube |publisher=富士ゼロックス(fujixerox) |accessdate=2019-01-12 }}</ref>。 === その他 === * 虫プロアトムのスポンサーは明治製菓であった.マーブルチョコレートに入っている応募券を送るとアトムシールをプレゼントというキャンペーンを行ったところ、担当郵便局の能力がパンクした、などというような逸話もある。 * 1970年の正月には、鉄腕アトムのカレンダーが40万部を売り上げるヒットとなった<ref>藤島、前掲書p.244</ref>。 * 2003年3月1日に[[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道(JR東日本)]][[山手線]][[高田馬場駅]](手塚プロダクションの最寄り駅であり、設定上の科学省の所在地でもある)、2004年4月11日に同[[武蔵野線]][[新座駅]](手塚プロダクションのスタジオの最寄り駅である)、2014年3月21日に[[阪急電鉄]][[宝塚駅]][[阪急今津線|今津線]]ホーム(青年期を宝塚で過ごした手塚治虫にちなむ)<ref>[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201403044N1.pdf 「宝塚駅」の出発合図音を変更します 宝塚本線は「すみれの花咲く頃」、今津線は「鉄腕アトム」に 〜 阪急電鉄では初めて! ご当地ゆかりの楽曲を“出発メロディー”に採用 〜 ]阪急阪神ホールディングス 2014年3月4日</ref>でアニメ版の主題歌『鉄腕アトム』が[[発車メロディ]]として使われている。なお、いずれの駅もアレンジは異なる。 * [[西武バス新座営業所|西武バス]]運行受託の[[新座市]]コミュニティ系バス「新座市シャトルバス」の車外側面に、アトムが描かれたマグネット式のデザインが貼付され、「ボクの絵は新座で生まれてます」といったコピーが一緒に書かれていた。 * [[プロ野球]][[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]で活躍していた[[大石大二郎]]と[[中日ドラゴンズ]]時代の[[田尾安志]]の応援歌にもアニメ版の主題歌『鉄腕アトム』が使われていた。また高校野球に於いての応援歌の1つとしても、しばしばこの主題歌が演奏される。 * 1991年、[[山下達郎]]が鉄腕アトムを題材にした楽曲『アトムの子』をアルバム『[[ARTISAN]]』収録曲として発売し、1992年にシングルカット(『[[アトムの子/BLOW]]』)した。この曲はアニメ第3作で主題歌を歌った[[ZONE (バンド)|ZONE]]がカバーし、タイアップアルバム『[[ASTRO Girlz & Boyz]]』にも収録されている。ちなみに山下は2009年のライブで『アトムの子』を披露した際に、アトムをモチーフにしたということで曲中に1コーラスだけ「鉄腕アトム」を歌っている。これはシングル『[[僕らの夏の夢/ミューズ]]』の3曲目の[[北海道厚生年金会館]]でのライブバージョンで聞くことができる。 * 設定上におけるアトム誕生日の2003年4月7日は、現実では奇しくも[[阪急電鉄]]経営の「[[宝塚ファミリーランド]]」(兵庫県宝塚市)の閉園日となった。同園は青年期までの手塚が通ったゆかりの地でもある。現在、同園跡に隣接して[[宝塚市立手塚治虫記念館]]が建っている。 * 手塚治虫は[[鈴木光明]]に、アトムの前身は映画『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』のマリアで、着想のヒントになったと語っていた。 * アニメ版の主題歌を作詞した谷川俊太郎は、後に「百三歳になったアトム」という詩を書いている{{R|うたのチカラ_谷川俊太郎}}。 * 1996年4月10日 - 6月26日、日本テレビ系列で放送された『[[竜馬におまかせ!]]』内で「竜馬の寝癖を見て驚いた人が日記に竜馬の肖像画を書きとめ、その日記を昭和になり発見した少年が肖像画をヒントにアトムを産み出した」というコメディ描写があった。 * 2008年4月7日(アトムの誕生日)、検索エンジン[[Google]]が、検索トップページのタイトル画像を、鉄腕アトムをテーマとするデザインに一日限りで変更した。新聞記事によれば、手塚プロ側から、手塚治虫生誕80周年と、アトム5歳の誕生日とを記念し、Googleへコラボを持ちかけたとのこと。 * 2012年、ブラジルの漫画家[[マウリシオ・デ・ソウザ]]の漫画に『[[ジャングル大帝]]』他と共に起用<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20120203-OYT1T00638.htm アトム、熱帯雨林守れ…ブラジルの漫画で共演]読売新聞 2012年2月3日</ref>。 == 鉄腕アトムから着想を得た海外の子供型ロボット == [[File:ICub - Festival Economia 2018 2.jpg|thumb|250px|iCub(2018年6月)]] ;<span id="iCub">{{仮リンク|iCub|en|iCub}}</span>([[イタリア共和国]]・{{仮リンク|イタリア技術研究所(IIT)|en|Istituto Italiano di Tecnologia}}) {{仮リンク|イタリア技術研究所(IIT)|en|Istituto Italiano di Tecnologia}}<ref>[https://www.iit.it/ Istituto Italiano di Tecnologia]</ref>を中心に研究・開発がおこなわれている子供型[[二足歩行ロボット]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=vP70QCZhi8w Dynamic Interaction Control lab's 2018 Year In Review - YouTube]youtube.com | 2019年1月2日閲覧</ref>。 身長104cm、体重22kg、全53自由度の3歳半の[[子供]]サイズの[[ヒューマノイド|人型ロボット]]。設計は[[オープンソース]]となっており、如何様にもカスタマイズ可能<ref>[http://www.icub.org/ iCub.org - an open source cognitive humanoid robotic platform]</ref>。将来的には[[ドイツ]]の「JETCAT」<ref>[https://www.jetcat.de/en Startseite - JetCat]</ref>社製造の模型飛行機用[[ターボジェット]]『JETCAT P-100RX』<ref>[https://www.jetcat.de/en/productdetails/produkte/jetcat/produkte/hobby/Engines/p100_rx P100-RX - JetCat]</ref>エンジン(推力:10.9kg)および『JETCAT P220-RXi』<ref>[https://www.jetcat.de/en/productdetails/produkte/jetcat/produkte/hobby/Engines/p220-rxi P220-RXi - JetCat]</ref>エンジン(推力:22.4kg)を(左右腕部に各々『JETCAT P-100RX』エンジン1基ずつ2基、左右背部に各々『JETCAT P-220-RXi』1基ずつ2基の合計4基)装着することにより、(短時間ではあるが)時速30km程度での低空下での自律飛行の実現を目指している<ref>{{PDFlink|[https://arxiv.org/pdf/1909.13296.pdf Modeling, Identification and Control of Model Jet Engines for Jet Powered Robotics]}}</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=DJv5aXLhQIM Modeling, Identification and Control of Model Jet Engines for Jet Powered Robotics - YouTube]youtube.com | 2020年6月4日公開</ref><ref>[https://spectrum.ieee.org/automaton/robotics/humanoids/jet-powered-icub-could-be-the-first-flying-humanoid-robot Jet-Powered iCub Could Be the First Flying Humanoid Robot - IEEE Spectrum] spectrum.ieee.org | 2017年9月5日閲覧</ref>。 == 著名なファン == * [[大和田伸也]]([[俳優]]) ** テレビで「アトムは理想の息子」と語っている。無数のアトムグッズをコレクションしている。ファンであることが手塚プロダクション関係者に知られたのが縁で、『[[ASTRO BOY 鉄腕アトム]]』では天馬博士とシャドウの声を担当した。 * 下條アトム(俳優) {{main|下條アトム}} * [[山下達郎]](シンガーソングライター) ** 手塚治虫のファンで、コマ割りからセリフまで覚えているという程。手塚治虫死去を受けてトリビュート・ソングとして『[[アトムの子]]』を製作する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[発車メロディ]]使用駅 ** [[高田馬場駅]] ** [[新座駅]] ** [[宝塚駅|阪急宝塚駅]] * [[お茶の水ハカセ]] - 2009年〜2011年のバラエティ番組。番組名とマスコットキャラクターが当作品の「お茶の水博士」。 * [[ジェッターマルス]] * [[浦沢直樹]] [[PLUTO]] * [[谷川俊太郎]] * [[高井達雄]] * [[下條アトム]] * [[松本市立寿小学校]] - 2008年にアトムを原作とした映画を作成 * [[ロックマン (ゲーム)|ロックマン]] - [[ロックマンシリーズ]]の第一作目。当初アトムのゲームとして開発するプランが存在した。また[[手塚プロダクション]]出身の[[池原しげと]]のコミカライズでは当初オマージュとしてアトムに似た顔で描かれていた。 * [[東京ヤクルトスワローズ]](1966年から1968年「サンケイアトムズ」→1969年「アトムズ」([[産経新聞]]と[[ヤクルト本社]]共同経営になったため)→1970年から1973年「ヤクルトアトムズ」として出場) * [[国鉄ED60形電気機関車]] - 「アトム機関車」のあだ名があった。 * [[アトム (飲食業)|アトムボーイ]] - 主に中部地方にある回転寿司チェーン店。アトムの看板が目印。 * [[ヨークベニマル]] - 店内BGMとして主題歌のインストアレンジ版を採用している。 == 外部リンク == {{Commonscat|Astro Boy}} * [https://tezukaosamu.net/jp/manga/291.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ] * [https://tezukaosamu.net/jp/manga/13.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(アトム大使)] * [http://tezukaosamumagazineclub.com/modules/library/library.php?word=%C5%B4%CF%D3%A5%A2%A5%C8%A5%E0&search_target=title 手塚治虫マガジン倶楽部 - 鉄腕アトム] * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/074/atom00.htm |title=赤い馬|date=20130427123913}}{{リンク切れ|date=2021年4月}} (『少年』連載版資料室) * [https://www.warabi.jp/atom/ ミュージカルアトム公式サイト]・[https://www.warabi.jp/atom/special/ 特設ページ] * [https://www.animenewsnetwork.com/encyclopedia/anime.php?id=422 Astro Boy (TV 1/1963)in ANIME NEWS NETWORK] {{鉄腕アトム}} {{手塚治虫}} {{Portal bar|手塚治虫|漫画|アニメ|スペキュレイティブ・フィクション}} {{DEFAULTSORT:てつわんあとむ}} [[Category:鉄腕アトム|*]] [[Category:手塚治虫の作品]] [[Category:漫画作品 て|つわんあとむ]] [[Category:1952年の漫画]] [[Category:少年漫画雑誌掲載漫画]] [[Category:少年 (雑誌)]] [[Category:男性誌掲載漫画作品]] [[Category:日本の新聞漫画]] [[Category:ビッグコミックの漫画作品]] [[Category:小学館の学年誌の漫画作品]] [[Category:雑誌掲載漫画作品]] [[Category:月刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:日本のSF作品]] [[Category:スーパーヒーロー]] [[Category:1957年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:TBSの番組の歴史]] [[Category:日本の人形劇番組]] [[Category:サンケイアトムズ]] [[Category:めばえ]] [[Category:幼稚園 (雑誌)]] [[Category:ロボットを主人公とした漫画作品]] [[Category:楽曲 て|つわんあとむ]] [[Category:谷川俊太郎が制作した楽曲]] [[Category:1963年の楽曲]] [[Category:朝日ソノラマの楽曲]] [[Category:1980年のシングル]] [[Category:フォーライフミュージックエンタテイメントのシングル]] [[Category:2003年の楽曲]] [[Category:マツダのコマーシャルソング]] [[Category:応援歌]] [[Category:ロボット殿堂]]
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形態素解析
形態素解析(けいたいそかいせき、Morphological Analysis)とは、文法的な情報の注記の無い自然言語のテキストデータ(文)から、対象言語の文法や、辞書と呼ばれる単語の品詞等の情報にもとづき、形態素(Morpheme, おおまかにいえば、言語で意味を持つ最小単位)の列に分割し、それぞれの形態素の品詞等を判別する作業である。 自然言語処理の分野における主要なテーマのひとつであり、機械翻訳やかな漢字変換など応用も多い(もちろん、かな漢字変換の場合は入力が通常の文と異なり全てひらがなであり、その先に続く文章もその時点では存在しないなどの理由で、内容は機械翻訳の場合とは異なったものになる)。 もっぱら言語学的な観点を主として言語学で研究されている文法にもとづく解析もあれば、コンピュータ上の自然言語処理としてコンピュータでの扱いやすさに主眼を置いた解析もある。以下は後者のためのツールを用いた例で、「お待ちしております」という文を形態素解析した例である (「茶筌」を使用した)。 自然言語以外の場合では、プログラミング言語などの場合は字句解析が相当する。 英語の文は日本語とは異なり、予め単語と単語の区切りがほとんどの箇所で明確に示される。このため、単語分割の処理は日本語の場合ほど複雑である必要はなく、簡単なルールに基づく場合が多い。 例えば「It's a gift for Mr. Smith.」という文を解析することを考える。単語分割をすると以下のようになる。 it's の分割として it / 's にするか it / is にするかはしばしば議論の対象となるが、所有格末尾の 's が誤って is になることを防ぐために、 's にすることが多い。 品詞付与はルールに基づくものから統計に基づくものまで利用される(下記の例は Stanford POS Tagger による)。 英語の場合と異なり、文節を得るのが目的となることが多い。大まかに言えば文から切り出した単語が属する品詞を辞書(自然言語処理用の)を用いて調べていき、結果得られた並びから正しく文節が構成される並びであるものを正解であるとするといったような方法を取る。 日本語文法では、たとえば動詞のあとに格助詞がくることはできない(「ドアを開けるを」などは不可)といったように、ほとんどの付属語について「このようなものの後には付く」「このようなものの後には付かない」という規則性があり、また動詞の活用はその後に来る品詞を制限することがある(たとえば連体形の後は名詞)。このような性質を利用することによって単語の境界の判別を行う。具体的にこの性質を利用する方法には以下の2つがある: 長尾真らの1970年代後半の研究では、次のようなアルゴリズムによる形態素解析処理を構築した。 前提として、漢字で書かれた部分は基本的に切り分けず、そこが自立語(あるいは自立語の語幹)になると想定している。従って、漢字で書かれた自立語の辞書(テーブル)は持たない。このとき使われるテーブルには、次のものがある。 この中で、接続テーブルが規則に相当する。形態素解析における品詞の接続関係は必ずしも通常の文法通りではなく、解析の効率や、形態素の切り分けがなるべく100%となる(切り分け不能とならない)よう考慮して設計される。このような規則を「文節構造モデル」と呼び、首藤公昭らの研究がある。 昨今の日本語や英語などの形態素解析では統計的な手法が利用される。主な手法に「ラティス上の経路予測」と「点予測」が存在する。 ラティス上の経路予測では、事前に生成可能な単語列 (ラティス) を辞書を使って網羅的に列挙し、各単語間の連結部において両単語が連結して出現する確率に相当するスコアを付与する。文全体でこのスコアの合計がもっとも高くなるような品詞列を答えとする。スコアの計算は隠れマルコフモデル (HMM, Hidden Markov Model) や条件付き確率場 (CRF, Conditional Random Field) などによりモデル化する。 次に点予測 (Pointwise prediction) による手法がある。点予測ではすべての文字の境界に対し、分割可能かどうかをサポートベクターマシン (SVM, Support Vector Machine) 等の分類器により判定する。分割可能な場合はその点が単語区切りとなる。分割判定には、分割点の周りの文字やその種類、部分文字列が単語辞書に含まれるかどうかといった情報が与えられる。品詞推定においても、ある判定箇所について、その単語と周りの単語から SVM などにより判定する。 点予測は、辞書を使って単語ラティスを生成する必要がないというメリットがある。このため、入力文中の単語が辞書に無い場合 (未知語を含む場合) でも、周りの文字列を使って単語らしい部分を識別可能な場合があり、辞書が貧弱でも比較的高い精度で解析できる。さらに、ラティスの生成には原理的に文の長さをnとしてO(n)の時間を要するが、点予測では各文字間について判定するだけのためO(n)の時間で済む。 いずれの手法でも、ある特定の言語の全世界における全文章データを元にモデルを作成することは事実上不可能であるし、さらに、そもそも文章化されたデータからモデルを学習したとしても、それが元となる文章の解析には最適であるものの、それ以外の(たとえばモデルから見ればまったく手付かずで未知の、今から解析しようとする)文章には適しているかどうかは保証が無い事などから次の節で述べるような問題も発生する。 日本語を形態素解析する際においては、以下の4つが大きな問題となる: 単語の境界を判別することはかな漢字変換の基礎となる技術である。しかし、単語の境界判別を正しく行うためには与えられた文以外の様々な知識、情報が必要となる場合があり、そのため解決が困難である。 たとえば「うらにわにはにわとりがいる」という文には、以下の様に(意味的には解釈に失敗しようとも)文法的に正しい異なる読み方が存在する(本当はもっとある): 上記最後の文の意味解釈は、"埴輪取り"と呼ばれる人あるいは物が存在したという特殊な状況下では意味的にも解釈に成功するだろうが、一般にそんな例は全くといっていいほど無い。しかしそれは"埴輪取り"なるものが実際には存在しないという経験的な知識による人間らしい判断であって、コンピューターなどの計算機を用いた解析では、文法や単語の辞書的データを超えるようなそういった知識も導入したとすると必要な知識が膨大に用意される必要があり、現実的ではない。この文の様に、完璧な正解を得るにはその文がおかれている文脈や書き手の意図等の背景をくみとらねばならないため非常に難しい。 文中の品詞が常に一意に確定できるわけではない。 たとえば名詞と形容動詞の間には「別」「イロイロ」など、形容動詞と形容詞の間にも「アタタカ」「ヤワラカ」という連続領域があるという指摘がある。 より具体的には「それとこれは話が別だよ」という文章の場合、「別だ」という形容動詞に「よ」という終助詞がついたもの、「別」という名詞に「だよ」という終助詞がついたものという2通りに解釈することができる。しかもこの場合にどちらで分けても、文章の意味は変わらない上に、形態素の区切りの位置も一定ということが保証されない。 このような品詞分類の曖昧さは他の言語でもよく見られる。たとえば英語で "It is light." という文章は、lightを「光」という名詞にも「軽い」という形容詞にも判別することができる。 形態素解析は普通、その言語の単語を収めた辞書を用いておこなわれる。解析対象の文中の辞書に含まれない単語を未知語と呼ぶ。日本語では漢字の列やカタカナの列はたとえ未知語であってもある程度単語として認識することができる。しかしそれが使えない場合、代表的な方法は「知っている単語が現れるまで読み飛ばす」というものだが、これは後の解析を狂わせてしまい、結果として頑健な解析(より多くの文を解析可能であること)ができなくなってしまう恐れがある。 話し言葉や電子メールなどで使われる言葉は、(たとえば小中学校で習うような)ある特定のモデル化された文法による日本語からはかけ離れたものが多い。たとえば「そんなことは知らないでしょう」が「んなこた知らんしょ」に変化しうる。また電子メールなどでは形態素解析に用いられる辞書には載っていない略語やフェイスマークが使われていることも多い(しかもそれらは一般に常用されるがために日々増えている)。 また、こういった文は校正が不十分なため、書き手の誤りが入っている場合が多くある。しかも、こういった誤りが繰り返されれば正用とみなされる場合すらある。このような文に対応した解析手法を頑健な解析と呼ぶ。このような文に対応するためには、正しい文が入力されるという前提の設計に基づく現在の形態素解析の手法を、誤りが含まれる様な文にも対処可能なように根本から見直す必要があるが、言語資源の不足のためあまり研究はされていない。 英語を含む多くの言語では、単語はふつう空白によってわかち書きされる。このため文を形態素に区切るのは日本語に比べると比較的簡単である (合成語の品詞や、形態素の品詞を見分ける問題は依然として残る)。ドイツ語では複数の単語から合成された名詞が空白による区切りのない一つの単語として表現されるため、わかち書きを行う必要がある。中国語でも単語間の空白がないため、日本語と同様にわかち書きを行う必要がある。また英語や日本語では活用する品詞の種類が少数に限られるため、単語の活用形も含んだものをすべて辞書に収めることができるが、ロシア語、フィンランド語などでは活用はほぼすべての品詞が起こすため、これらの言語では辞書に活用形を全て収めるのは非現実的である。 フリーなライセンスで、自由に入手出来る。
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形態素解析とは、文法的な情報の注記の無い自然言語のテキストデータ(文)から、対象言語の文法や、辞書と呼ばれる単語の品詞等の情報にもとづき、形態素の列に分割し、それぞれの形態素の品詞等を判別する作業である。 自然言語処理の分野における主要なテーマのひとつであり、機械翻訳やかな漢字変換など応用も多い(もちろん、かな漢字変換の場合は入力が通常の文と異なり全てひらがなであり、その先に続く文章もその時点では存在しないなどの理由で、内容は機械翻訳の場合とは異なったものになる)。 もっぱら言語学的な観点を主として言語学で研究されている文法にもとづく解析もあれば、コンピュータ上の自然言語処理としてコンピュータでの扱いやすさに主眼を置いた解析もある。以下は後者のためのツールを用いた例で、「お待ちしております」という文を形態素解析した例である (「茶筌」を使用した)。 自然言語以外の場合では、プログラミング言語などの場合は字句解析が相当する。
{{出典の明記| date = 2021年5月}} {{言語学}} '''形態素解析'''(けいたいそかいせき、''Morphological Analysis'')とは、文法的な情報の注記の無い[[自然言語]]のテキストデータ([[文]])から、対象言語の[[文法]]や、'''辞書'''と呼ばれる[[語|単語]]の品詞等の情報にもとづき、[[形態素]](''Morpheme'', おおまかにいえば、[[言語]]で意味を持つ最小単位)の列に分割し、それぞれの形態素の[[品詞]]等を判別する作業である。 [[自然言語処理]]の分野における主要なテーマのひとつであり、[[機械翻訳]]や[[かな漢字変換]]など応用も多い(もちろん、かな漢字変換の場合は入力が通常の文と異なり全てひらがなであり、その先に続く文章もその時点では存在しないなどの理由で、内容は機械翻訳の場合とは異なったものになる)。 もっぱら[[言語学]]的な観点を主として言語学で研究されている文法にもとづく解析もあれば、コンピュータ上の自然言語処理としてコンピュータでの扱いやすさに主眼を置いた解析もある。以下は後者のためのツールを用いた例で、「お待ちしております」という文を形態素解析した例である (「[[ChaSen|茶筌]]」を使用した)。 {| class="wikitable" !文字列 !読み !原形 !品詞の種類 !活用の種類 !活用形 |- |お待ち |オマチ |お待ち |名詞-サ変接続 |&nbsp; |&nbsp; |- |し |シ |する |動詞-自立 |サ変・スル |連用形 |- |て |テ |て |助詞-接続助詞 |&nbsp; |&nbsp; |- |おり |オリ |おる |動詞-非自立 |五段・ラ行 |連用形 |- |ます |マス |ます |助動詞 |特殊・マス |基本形 |- |。 |。 |。 |記号-句点 |&nbsp; |&nbsp; |} 自然言語以外の場合では、プログラミング言語などの場合は[[字句解析]]が相当する。 == 英語の形態素解析の手法 == 英語の文は日本語とは異なり、予め単語と単語の区切りがほとんどの箇所で明確に示される。このため、単語分割の処理は日本語の場合ほど複雑である必要はなく、簡単なルールに基づく場合が多い。 例えば「It's a gift for Mr. Smith.」という文を解析することを考える。単語分割をすると以下のようになる。 it / 's / a / gift / for / mr. / smith / . # 文全体を小文字化し、単語の位置(文頭かそれ以外か等)により単語が区別されてしまうことを防ぐ # it's や don't 等の省略形を分割する(it's → it / 's 、 don't → do / n't) # 文末のピリオドを前の単語と切り離す(この際、Mr. などに使われる文末とは関係ないピリオドは切り離さない) it's の分割として it / 's にするか it / is にするかはしばしば議論の対象となるが、所有格末尾の 's が誤って is になることを防ぐために、 's にすることが多い。 品詞付与はルールに基づくものから統計に基づくものまで利用される(下記の例は [http://nlp.stanford.edu/software/tagger.shtml Stanford POS Tagger] による)。 {| class="wikitable" !文字列 !品詞の種類 !原形 |- |it |PRP(人称代名詞) |it |- |'s |VBZ(動詞/三単現) |be |- |a |DT(冠詞) |a |- |gift |NN(名詞/単数) |gift |- |for |IN(前置詞) |for |- |mr. |NNP(固有名詞/単数) |mr. |- |smith |NNP(固有名詞/単数) |smith |- |. |. |. |} == 日本語の代表的な形態素解析の手法 == 英語の場合と異なり、[[文節]]を得るのが目的となることが多い。大まかに言えば文から切り出した単語が属する品詞を'''辞書(自然言語処理用の)'''を用いて調べていき、結果得られた並びから正しく文節が構成される並びであるものを正解であるとするといったような方法を取る。 日本語文法では、たとえば[[動詞]]のあとに[[助詞|格助詞]]がくることはできない(「ドアを開けるを」などは不可)といったように、ほとんどの付属語について「このようなものの後には付く」「このようなものの後には付かない」という規則性があり、また動詞の活用はその後に来る品詞を制限することがある(たとえば[[連体形]]の後は[[名詞]])。このような性質を利用することによって単語の境界の判別を行う。具体的にこの性質を利用する方法には以下の2つがある: * [[規則]]による方法 * [[確率的言語モデル]]をもちいる方法 === 規則による形態素解析 === [[長尾真]]らの1970年代後半の研究<ref>長尾真(1979年)「計算機による日本語文章の解析に関する研究」、昭和53年度文部省科学研究費特定研究(1)研究報告書</ref><ref>長尾真・辻井潤一(1978年)「国語辞書の記憶と日本語の自動分割」、情報処理 Vol.19 No.6</ref>では、次のような[[アルゴリズム]]による形態素解析処理を構築した。 # 事前に用意しておいた[[辞書]]や規則をテーブル形式で読み込む。 # 入力文を読み込む。 # [[慣用句]]テーブルとのマッチングを行う。[[最長一致法]]を使う。マッチングした部分は固定され、以降の解析では変更されない。 # [[句読点]]と字種の変わり目(基本的にひらがなから漢字に変わる箇所)で、文節を切り出す。これは文法上の文節ではない。 # 切り出された文節の中で、慣用句にマッチングしていない箇所について、ひらがな書き[[自立語]]テーブルなどとのマッチングを行う。このとき、接続条件を考慮せず、全ての可能性を洗い出す。 # 以上で出てきた慣用句や単語を接続条件に基づいて連鎖させていく。複数の連鎖がありうる場合、全てを出力する。 # 結果をファイルに書き出す。 # 未処理の文節があれば、5 に戻る。 前提として、漢字で書かれた部分は基本的に切り分けず、そこが自立語(あるいは自立語の語幹)になると想定している。従って、漢字で書かれた自立語の辞書(テーブル)は持たない。このとき使われるテーブルには、次のものがある。 * 慣用句テーブル * ひらがな部分の単語切り分け用テーブル ** 付属語テーブル ** ひらがな自立語テーブル ** 活用語尾テーブル - ** ひらがな語幹テーブル ** 特殊動詞テーブル ** 副詞テーブル * 情報テーブル - 上記テーブル内の各項目に対応した[[辞書]]的情報 * 接続テーブル - 形態素間の相互接続関係を記述したテーブル。接続カテゴリ(品詞)毎に、その前に出現可能な形態素のカテゴリや活用形が記されている。 この中で、接続テーブルが規則に相当する。形態素解析における品詞の接続関係は必ずしも通常の文法通りではなく、解析の効率や、形態素の切り分けがなるべく100%となる(切り分け不能とならない)よう考慮して設計される。このような規則を「文節構造モデル」と呼び、首藤公昭らの研究がある<ref>首藤公昭・楢原登志子・吉田将(1979年)「日本語の機械処理のための文節構造モデル」、電子通信学会誌 Vol.62-D No.12</ref><ref>首藤公昭(1980年)「文節構造モデルによる日本語の機械処理に関する研究」福岡大学研究所報 No.45</ref>。 === 確率的言語モデルによる形態素解析 === 昨今の日本語や英語などの形態素解析では[[統計]]的な手法が利用される。主な手法に「ラティス上の経路予測」と「点予測」が存在する。 ラティス上の経路予測では、事前に生成可能な単語列 (ラティス) を辞書を使って網羅的に列挙し、各単語間の連結部において両単語が連結して出現する確率に相当するスコアを付与する。文全体でこのスコアの合計がもっとも高くなるような品詞列を答えとする。スコアの計算は[[隠れマルコフモデル]] (HMM, Hidden Markov Model) や[[条件付き確率場]] (CRF, Conditional Random Field) などにより[[モデル (自然科学)|モデル]]化する。 次に[[点予測]] (Pointwise prediction) による手法がある。点予測ではすべての文字の境界に対し、分割可能かどうかを[[サポートベクターマシン]] (SVM, Support Vector Machine) 等の分類器により判定する。分割可能な場合はその点が単語区切りとなる。分割判定には、分割点の周りの文字やその種類、部分文字列が単語辞書に含まれるかどうかといった情報が与えられる。品詞推定においても、ある判定箇所について、その単語と周りの単語から SVM などにより判定する。 点予測は、辞書を使って単語ラティスを生成する必要がないというメリットがある。このため、入力文中の単語が辞書に無い場合 ([[未知語]]を含む場合) でも、周りの文字列を使って単語らしい部分を識別可能な場合があり、辞書が貧弱でも比較的高い精度で解析できる。さらに、ラティスの生成には原理的に文の長さを''n''として''O(n<sup>2</sup>)''の時間を要するが、点予測では各文字間について判定するだけのため''O(n)''の時間で済む。 いずれの手法でも、ある特定の言語の全世界における全文章データを元にモデルを作成することは事実上不可能であるし、さらに、そもそも文章化されたデータからモデルを学習したとしても、それが元となる文章の解析には最適であるものの、それ以外の(たとえばモデルから見ればまったく手付かずで未知の、今から解析しようとする)文章には適しているかどうかは保証が無い事などから次の節で述べるような問題も発生する。 == 日本語の形態素解析における諸問題 == 日本語を形態素解析する際においては、以下の4つが大きな問題となる: === 単語の境界判別の問題 === 単語の境界を判別することは[[かな漢字変換]]の基礎となる技術である。しかし、単語の境界判別を正しく行うためには与えられた文以外の様々な知識、情報が必要となる場合があり、そのため解決が困難である。 たとえば「うらにわにはにわとりがいる」という文には、以下の様に(意味的には解釈に失敗しようとも)文法的に正しい異なる読み方が存在する(本当はもっとある): * 裏庭 / には / 鶏 / が / いる * 裏庭 / には / 二 / 羽 / トリ / が / いる * 裏 / に / [[ワニ]] / は / 鶏 / が / いる * 裏庭 / に / [[埴輪]] / 取り / が / いる 上記最後の文の意味解釈は、"埴輪取り"と呼ばれる人あるいは物が存在したという特殊な状況下では意味的にも解釈に成功するだろうが、一般にそんな例は全くといっていいほど無い。しかしそれは"埴輪取り"なるものが実際には存在しないという経験的な知識による人間らしい判断であって、コンピューターなどの計算機を用いた解析では、文法や単語の辞書的データを超えるようなそういった知識も導入したとすると必要な知識が膨大に用意される必要があり、現実的ではない。この文の様に、完璧な正解を得るにはその文がおかれている文脈や書き手の意図等の背景をくみとらねばならないため非常に難しい。 === [[品詞]]判別の問題 === 文中の品詞が常に一意に確定できるわけではない。 たとえば名詞と形容動詞の間には「別」「イロイロ」など、形容動詞と形容詞の間にも「アタタカ」「ヤワラカ」という連続領域があるという指摘がある。<ref>{{Cite book |edition=dai 18 satsu [18. Druck] |title=Nihongo no shintakusu to imi. dai 1 kan |publisher=Kuroshio Shuppan |date=2011 |location=Tōkyō |isbn=978-4-87424-002-1 |first=Hideo |last=Teramura}}</ref> より具体的には「それとこれは話が別だよ」という文章の場合、「別だ」という形容動詞に「よ」という終助詞がついたもの、「別」という名詞に「だよ」という終助詞がついたものという2通りに解釈することができる。しかもこの場合にどちらで分けても、文章の意味は変わらない上に、形態素の区切りの位置も一定ということが保証されない。 このような品詞分類の曖昧さは他の言語でもよく見られる。たとえば英語で "It is light." という文章は、lightを「光」という名詞にも「軽い」という形容詞にも判別することができる。 === 未知語の問題 === 形態素解析は普通、その言語の単語を収めた辞書を用いておこなわれる。解析対象の文中の辞書に含まれない単語を[[未知語]]と呼ぶ。日本語では漢字の列やカタカナの列はたとえ未知語であってもある程度単語として認識することができる。しかしそれが使えない場合、代表的な方法は「知っている単語が現れるまで読み飛ばす」というものだが、これは後の解析を狂わせてしまい、結果として頑健な解析(より多くの文を解析可能であること)ができなくなってしまう恐れがある。 === ルーズな文法の問題 === [[話し言葉]]や[[電子メール]]などで使われる言葉は、(たとえば小中学校で習うような)ある特定のモデル化された[[文法]]による日本語からはかけ離れたものが多い。たとえば「そんなことは知らないでしょう」が「んなこた知らんしょ」に変化しうる。また電子メールなどでは形態素解析に用いられる辞書には載っていない[[略語]]や[[フェイスマーク]]が使われていることも多い(しかもそれらは一般に常用されるがために日々増えている)。 また、こういった文は校正が不十分なため、書き手の誤りが入っている場合が多くある。しかも、こういった誤りが繰り返されれば正用とみなされる場合すらある。このような文に対応した解析手法を頑健な解析と呼ぶ。このような文に対応するためには、正しい文が入力されるという前提の設計に基づく現在の形態素解析の手法を、誤りが含まれる様な文にも対処可能なように根本から見直す必要があるが、[[言語資源]]の不足のためあまり研究はされていない。 == 日本語以外の言語の形態素解析 == [[英語]]を含む多くの言語では、単語はふつう空白によって[[わかち書き]]される。このため文を形態素に区切るのは[[日本語]]に比べると比較的簡単である (合成語の品詞や、形態素の品詞を見分ける問題は依然として残る)。[[ドイツ語]]では複数の単語から合成された名詞が空白による区切りのない一つの単語として表現されるため、わかち書きを行う必要がある。[[中国語]]でも単語間の空白がないため、日本語と同様にわかち書きを行う必要がある。また英語や日本語では[[活用]]する品詞の種類が少数に限られるため、単語の活用形も含んだものをすべて辞書に収めることができるが、[[ロシア語]]、[[フィンランド語]]などでは活用はほぼすべての品詞が起こすため、これらの言語では辞書に活用形を全て収めるのは非現実的である。 == 入手可能な英語の形態素解析エンジン == === フリーで入手可能なもの === * Stanford POS Tagger、[http://nlp.stanford.edu/software/tagger.shtml nlp.stanford.edu/software/tagger.shtml] == 入手可能な日本語の形態素解析エンジン == === フリーで入手可能なもの === [[フリーソフトウェア|フリー]]なライセンスで、自由に入手出来る。 * [[ChaSen|ChaSen(茶筌)]]、[http://chasen.naist.jp/hiki/ChaSen/ chasen.naist.jp] (ラティス上の経路予測、[[隠れマルコフモデル|HMM]]) * [[JUMAN]]、[http://nlp.ist.i.kyoto-u.ac.jp/index.php?JUMAN nlp.kuee.kyoto-u.ac.jp] * [[KAKASI|KAKASI(kanji kana simple inverter)]]、[http://kakasi.namazu.org/ kakasi.namazu.org] * [[KyTea|KyTea(キューティー)]]、[http://www.phontron.com/kytea/index-ja.html http://www.phontron.com/kytea/] (点予測、[[線型分類器|線形分類]]) * [[MeCab|MeCab(和布蕪)]]、[http://taku910.github.io/mecab/ taku910.github.io/mecab] (ラティス上の経路予測、[[条件付き確率場|CRF]]) ** [[NMeCab]](MeCabの.NETへの移植)、[https://github.com/komutan/NMeCab/ github.com] ** [[Sen]](MeCabのJavaへの移植)、[http://ultimania.org/sen/ ultimania.org]、[https://sen.dev.java.net/ sen.dev.java.net] ** [[Igo]] (MeCab互換、Java形態素解析器)、[http://igo.sourceforge.jp/ igo.sourceforge.jp] * Janome (Python)、https://pypi.python.org/pypi/Janome * Kagome (Go)、[https://github.com/ikawaha/kagome github.com/ikawaha/kagome] (ラティス上の経路予測、辞書の切り替えで韓国語の形態素解析も可能<ref>{{Cite web|title=How to build kegome v2 on web?|url=https://github.com/ikawaha/kagome/issues/263|website=github.com|accessdate=2021-12-22|language=EN}}</ref>) <!-- 配布終了 * [[すもも (形態素解析システム)|すもも]]、[http://www.t.onlab.ntt.co.jp/sumomo/ www.t.onlab.ntt.co.jp] * [[Breakfast]]、[http://www.labs.fujitsu.com/jp/freesoft/breakfast/ www.labs.fujitsu.com] --> === 商用システム === * Rosette形態素解析システム、[http://www.basistech.co.jp/base-linguistics/japanese/ Basis Technology] : Amazon、MSN、楽天などで利用されており、世界で最も利用者の多い形態素解析エンジンであると言える。 * 形態素解析エンジン言語郎、[http://gengoro.zoo.co.jp/ Zoo Corporation] * 日本語形態素解析MARIMO [http://enterprise.mooter.co.jp/marimo/ ムーター株式会社] : 大規模な辞書を持たず、1000語程度の学習モデルのみで未知語、新語、流行語、略語、話し言葉に対応する。 * [[日本語形態素解析Webサービス]](Yahoo!デベロッパーネットワーク)、[http://developer.yahoo.co.jp/jlp/MAService/V1/parse.html developer.yahoo.co.jp] * 形態素解析API(gooラボ)、[https://labs.goo.ne.jp/api/2015/334/ gooラボ by NTTレゾナント] *IBM Watson Explorer (旧 IBM Watson Content Analytics) <ref>{{Cite web|和書|title=IBM Knowledge Center|url=https://www.ibm.com/support/knowledgecenter/ja/SS5RWK_3.5.0/com.ibm.discovery.es.ta.doc/iiysputai.htm|website=www.ibm.com|accessdate=2019-06-20|language=ja-JP}}</ref> == 形態素解析辞書(解析エンジンと合わせて利用) == === フリーで入手可能なもの === *[https://osdn.net/projects/ipadic/ ipadic] :ChaSen用辞書。 *[https://osdn.net/projects/naist-jdic/ NAIST-jdic] :ChaSen,MeCab用の辞書。 *[https://osdn.net/projects/unidic/ UniDic] :MeCab用の辞書。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[長尾真]] 編 『講座 現代の言語7 言語の機械処理』 [[三省堂]]、1984年、{{ISBN2|4-385-30667-2}}。 == 関連項目 == * [[自然言語処理]] * [[かな漢字変換]] * [[全文検索]] * [[わかち書き]] * [[形式文法]] * [[句構造規則]] * [[構成素]] == 外部リンク == * [https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_451/ 形態素解析](中川裕志、言語情報科学 第1回、2005年度開講、UTokyo OCW) * {{PDFlink|[http://www.wordminer.org/wp-content/uploads/2013/04/63_5.pdf 形態素解析と分かち書き処理]|465&nbsp;[[キビバイト|KiB]]}} 保田明夫 * [http://jefi.info/ 大規模な日本語複単語表現辞書:JMWEL —次世代の日本語処理に向けて](首藤公昭、日本語処理研究工房 ことばの森)<!-- 2020年9月7日時点でのリンク先内容に基づきアンカーテキストを更新しました。 --> {{DEFAULTSORT:けいたいそかいせき}} [[Category:形態論]] [[Category:自然言語処理]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:形態素]]
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4月7日
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4月7日(しがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から97日目(閏年では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。
{{カレンダー 4月}} {{出典の明記|date=2017年4月6日 (木) 21:43 (UTC)}} '''4月7日'''(しがつなのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から97日目([[閏年]]では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。 == できごと == <!-- [[Image:Xavier_f_map_of_voyages_asia.PNG|thumb|300px|[[フランシスコ・ザビエル]]、[[リスボン]]を出発(1541)。4月7日は誕生日でもあった]] --> [[Image:Eroica_Beethoven_title.jpg|thumb|250px|ベートーヴェンの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]初演(1805)]] [[Image:Explosion of the Japanese battleship Yamato, on 7 April 1945 (NH 62582).jpg|thumb|200px|[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]沈没(1945)]] <!--[[Image:Battleship_Yamato_sinking.jpg|thumb|250px|[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]沈没(1945)]]--> * [[527年]] - 「[[ローマ法大全]]」の「旧勅法彙纂」が公布。 * [[1132年]]([[天承]]2年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[平忠盛]]が平氏の武士では初めて[[昇殿|内昇殿]]を許される。 * [[1348年]] - [[プラハ・カレル大学]]創立。 * [[1378年]]([[天授 (日本)|天授]]4年/[[永和 (日本)|永和]]4年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[足利義満]]が、京都室町に造営した室町殿([[花の御所]])に幕府を移転。 * [[1541年]] - [[フランシスコ・ザビエル]]が東アジア布教のため、[[リスボン]]を出発。 * [[1724年]] - [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[ヨハネ受難曲]]』が初演。 * [[1795年]] - [[フランス]]が長さの単位として[[メートル]]を導入。 * [[1798年]] - [[アメリカ合衆国]]が[[ミシシッピ準州]]を創設。 * [[1805年]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]が初演。 * [[1827年]] - 薬剤師[[ジョン・ウォーカー (薬剤師)|ジョン・ウォーカー]]が、前年に発明した[[マッチ]]の販売を開始。 * [[1840年]]([[天保]]11年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - 江戸・[[河原崎座]]で現在の型の歌舞伎『[[勧進帳]]』を初演。 * [[1868年]]([[慶応]]4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - 明治政府が[[五榜の掲示]]の高札を設置。 <!-- と、enにあるが、竣工式は4月9日 * [[1890年]] - [[琵琶湖疏水]]の竣工式。 --> * [[1906年]] - [[ヴェスヴィオ|ヴェスヴィオ火山]]が噴火し、[[ナポリ]]に大損害を与える。 * 1906年 - [[第一次モロッコ事件]]の終結のための[[アルヘシラス会議]]が終了。 * [[1908年]] - [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]がイギリスの第52代首相に就任。 * [[1939年]] - [[イタリアのアルバニア侵攻|イタリアがアルバニアに侵攻]]。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[アメリカ陸軍]]{{仮リンク|第30歩兵師団 (アメリカ軍)|label=第30歩兵師団|en|30th Infantry Division (United States)}}{{仮リンク|第278機甲騎兵連隊|label=第117歩兵連隊|en|278th Armored Cavalry Regiment}}が[[ハーメルン]]を占領する。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]が[[沖縄諸島|沖縄]]への[[坊ノ岬沖海戦|特攻作戦]]の途上、撃沈される。 * 1945年 - [[鈴木貫太郎内閣]]が発足。 * [[1947年]] - [[労働基準法]]公布。 * [[1948年]] - [[国際連合|国連]]により[[世界保健機関]] (WHO) が設立される。 * [[1952年]] - [[手塚治虫]]の漫画作品『[[鉄腕アトム]]』が、月刊誌『少年』で連載開始。 * [[1955年]] - イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相が辞任。[[アンソニー・イーデン]]が第64代首相に就任。 * [[1956年]] - [[スペイン]]が、[[セウタ]]・[[メリリャ]]・[[イフニ]]・[[タルファヤ]]を除く[[モロッコ]]にある保護領を放棄。 * [[1963年]] - [[ユーゴスラビア]]が国名を「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」に改称し、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]が終身大統領に就任。 * 1963年 - NHK[[大河ドラマ]]第1作『[[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]』が放送開始。 * [[1964年]] - [[IBM]]が[[System/360]]を発表。 * [[1966年]] - [[千葉大学医学部附属病院]]の医局員を、[[サルモネラ|チフス菌]]の人体実験をした容疑で逮捕。(千葉大学腸チフス事件) * [[1968年]] - [[神戸高速鉄道]]東西線、南北線が開業。[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]が東西線への乗り入れを通じて相互直通運転開始。[[神戸電鉄]]が南北線に乗り入れ開始。 * [[1969年]] - [[1968年]][[10月11日]]より発生した[[永山則夫連続射殺事件|連続ピストル射殺事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定108号事件]])の犯人・[[永山則夫]]が[[逮捕]]される。 * 1969年 - [[スティーブ・クロッカー]]が[[Request for Comments|RFC]] 1を発表。 * [[1971年]] - 名古屋で開かれた[[世界卓球選手権]]に[[中華人民共和国]]チームが初参加。これをきっかけに、中国がアメリカチームを中国に正式招待し、[[ピンポン外交]]の始まりとなる。 * [[1976年]] - [[華国鋒]]が中華人民共和国[[国務院総理]](首相)に就任。[[鄧小平]]副首相が全ての職務を剥奪される。 * [[1977年]] - [[東京急行電鉄|東急]][[東急新玉川線|新玉川線]](現在は[[東急田園都市線|田園都市線]]の一部)・[[渋谷駅|渋谷]] - [[二子玉川駅|二子玉川]]が開業。 * [[1979年]] - [[江川事件]]: [[セントラル・リーグ]]開幕戦当日、一旦阪神に入団した[[江川卓 (野球)|江川卓]]の巨人への移籍が発表。 * 1979年 - [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]でテレビアニメ『[[機動戦士ガンダム]]』放送開始。1980年1月まで。 * [[1980年]] - [[1979年]]11月の[[イランアメリカ大使館人質事件]]により、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[イラン]]と国交を断絶、経済制裁を発動。 * [[1983年]] - [[STS-6]]にて、{{仮リンク|ストーリー・マスグレーブ|en|Story Musgrave}}と{{仮リンク|ドナルド・H・ピーターソン|en|Donald H. Peterson}}が史上初めて[[スペースシャトル]]からの[[宇宙遊泳]]を行う。 * [[1986年]] - [[TBSラジオ]]のワイド番組『[[大沢悠里のゆうゆうワイド]]』が放送開始。[[2016年]][[4月8日]]の放送終了まで30年続く長寿番組となる。 * [[1989年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の原子力潜水艦[[コムソモレツ (原子力潜水艦)|コムソモレツ]]が、[[ノルウェー]]沿岸の[[バレンツ海]]で火災を起こし、沈没。乗員42名が死亡。 * [[1992年]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]: [[フォチャの虐殺]]がはじまる。 * [[1994年]] - [[フェデックス705便ハイジャック未遂事件]]。 * [[1995年]] - [[ワルシャワ地下鉄]]開業。 * [[1997年]] - [[京浜急行電鉄|京急]][[京急本線|本線]][[京急田浦駅|京急田浦]] - [[安針塚駅|安針塚]]間で土砂崩れによる脱線事故が発生。 * [[2001年]] - 火星探査機「[[2001マーズ・オデッセイ|マーズ・オデッセイ]]」が打ち上げ。 * [[2003年]] - [[宝塚ファミリーランド]]閉園。 * [[2004年]] - [[イラク]]で日本人3人が身柄を拘束される。[[4月15日]]に3名とも無事に解放。([[イラク日本人人質事件]]) * [[2006年]] - [[民主党代表]]に[[小沢一郎]]が就任。 * [[2011年]] - [[日本標準時]]23時32分、[[東北地方太平洋沖地震]]の余震とされる[[マグニチュード]]7.1の地震が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2011年4月8日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2794699 |title=東北地方で強い地震、4人死亡 原発「異常なし」 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-04-13}}</ref>。宮城県内で震度6強を記録<ref>{{Cite web|和書|date=2011年4月8日 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-20507020110408 |title=女川原発で水漏れ、放射能レベルに変化なし=東北電力 |publisher=ロイター |accessdate=2018-04-13}}</ref>。 * [[2017年]] - ストックホルムで[[2017年ストックホルムトラックテロ事件|トラックによるテロ事件]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2017年4月8日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3124396 |title=スウェーデン首都でトラック暴走、4人死亡 運転手逃走 テロか |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-04-13}}</ref>。 * [[2019年]] - 日本時間の午前8時59分42秒に[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の内部時計がオーバーフローして0に戻る([[1999年]][[8月22日]]についで2度目、[[UTC]]では4月6日23時59分42秒) * [[2020年]] - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な拡大]]により、[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[福岡県]]の1都1府5県で、[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]が発令される<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200407/k10012373011000.html?utm_int=all_contents_just-in_001 安倍首相が緊急事態宣言 7都府県対象 効力5月6日まで] - NHKNEWSWEB、2020年4月7日18時48分配信。</ref>。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|160px|宣教師[[フランシスコ・ザビエル]](1506-1552)誕生。1541年の4月7日に東アジアの布教へと旅立った]] [[Image:Gerard_Dou_-_Self-Portrait_-_WGA06660.jpg|thumb|180px|画家[[ヘラルト・ドウ]](1613-1675)誕生。画像は自画像]] [[Image:William_Wordsworth_at_28_by_William_Shuter2.jpg|thumb|140px|[[桂冠詩人]][[ウィリアム・ワーズワース]](1770-1850)誕生。{{Squote|最も強い心というのは、しばしばこの騒がしい世の中がちっとも耳を傾けようとない人達が持っているものだ。――『逍遥』(1814)}}]] [[Image:Michio_Miyagi.jpg|thumb|100px|作曲家、[[宮城道雄]](1894-1956)。代表作「[[春の海]]」(1929)]] [[Image:Billie_Holiday_1917.jpg|thumb|120px|[[ジャズ]]シンガー、[[ビリー・ホリデイ]](1915-1959)。黒人として差別される中で『[[奇妙な果実]]』(1939)を歌った]] <!-- [[Image:Francis_Ford_Coppola%28CannesPhotoCall%29.jpg|thumb|upright|映画監督[[フランシス・フォード・コッポラ]](1939-)。代表作『[[ゴッドファーザー]]』シリーズ]] --> [[Image:Gerhard_Schroeder_MUC-20050910-01.jpg|thumb|upright|[[ドイツ]]第7代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]、[[ゲアハルト・シュレーダー]](1944-)]] [[Image:Jackie_Chan_2002-portrait_edited.jpg|thumb|100px|映画俳優[[ジャッキー・チェン]](1954-)]] * [[1506年]] - [[フランシスコ・ザビエル]]、[[イエズス会]]宣教師(+ [[1552年]]) * [[1613年]] - [[ヘラルト・ドウ]]、[[画家]](+ [[1675年]]) * [[1629年]] - [[フアン・ホセ・デ・アウストリア]]、[[軍人]](+ [[1679年]]) * [[1652年]] - [[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Clement-XII Clement XII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第246代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1740年]]) * [[1720年]]([[享保]]5年[[2月30日 (旧暦)|2月30日]]) - [[徳川宗将]]、[[紀伊国]][[紀州藩]]主(+ [[1765年]]) * [[1727年]] - [[ミシェル・アダンソン]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1806年]]) * [[1752年]]([[宝暦]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[柳沢信有]]、[[越後国]][[黒川藩]]主(+ [[1797年]]) * [[1770年]] - [[ウィリアム・ワーズワース]]、[[詩人]](+ [[1850年]]) * [[1772年]] - [[シャルル・フーリエ]]、[[社会思想|社会思想家]](+ [[1837年]]) * [[1773年]]([[安政]]2年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[牧野康儔]]、[[信濃国]][[小諸藩]]主(+ [[1800年]]) * [[1786年]] - [[ウィリアム・R・キング]]、第13代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1853年]]) * [[1809年]] - [[ジェームズ・グレーシャー]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](+ [[1903年]]) * [[1833年]]([[天保]]4年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[前田利義]]、[[加賀国]][[大聖寺藩]]主(+ [[1855年]]) * [[1836年]] - [[トーマス・ヒル・グリーン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1882年]]) * [[1847年]] - [[イエンス・ペーター・ヤコブセン]]、詩人、[[小説家]](+ [[1885年]]) * [[1860年]] - [[ジョルジュ・ビゴー]]、画家、[[漫画家]](+ [[1927年]]) * [[1861年]] - [[阿部宇之八]]、ジャーナリスト(+ [[1924年]]) * [[1873年]] - [[ジョン・マグロー]]、元プロ野球選手(+ [[1934年]]) * [[1874年]] - [[鈴木梅太郎]]、化学者(+ [[1943年]]) * [[1875年]] - [[岩田宙造]]、[[政治家]](+ [[1966年]]) * [[1882年]] - [[小川未明]]、小説家、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1961年]]) * [[1883年]] - [[ジーノ・セヴェリーニ]]、画家(+ [[1966年]]) * [[1884年]] - [[ブロニスワフ・マリノフスキ]]、[[人類学|人類学者]](+ [[1942年]]) * [[1886年]] - [[エミリオ・プジョル]]、[[作曲家]]、[[ギタリスト]](+ [[1980年]]) * [[1889年]] - [[ガブリエラ・ミストラル]]、詩人(+ [[1957年]]) * [[1894年]] - [[宮城道雄]]、作曲家、[[箏曲|箏曲家]](+ [[1956年]]) * [[1899年]] - [[ロベール・カサドシュ]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1972年]]) * [[1902年]] - [[村上勇]]、政治家(+ [[1991年]]) * [[1904年]] - [[木村毅一]]、物理学者(+ [[1992年]]) * [[1907年]] - [[レ・ズアン]]、[[革命家]]、政治家(+ [[1986年]]) * 1907年 - [[始関伊平]]、政治家(+ [[1991年]]) * [[1908年]] - [[パーシー・フェイス]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[1976年]]) * [[1910年]] - [[斯波四郎]]、小説家(+ [[1989年]]) * [[1914年]] - [[坪内道典]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1997年]]) * [[1915年]] - [[ビリー・ホリデイ]]、[[ジャズ]]歌手(+ [[1959年]]) * 1915年 - [[ヘンリー・カットナー]]、[[SF作家]](+ [[1958年]]) * [[1918年]] - [[伊藤治夫 (野球)|伊藤治夫]]、元プロ野球選手 * [[1920年]] - [[ラヴィ・シャンカル]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[シタール]]奏者(+ [[2012年]]) * [[1924年]] - [[團伊玖磨]]、[[作曲家]]、[[エッセイスト]](+ [[2001年]]) * 1924年 - [[ダニエル・エミルフォーク]]、[[俳優]](+ [[2006年]]) * [[1926年]] - [[麻生美代子]]、[[声優]](+ [[2018年]]) * [[1928年]] - [[アラン・J・パクラ]]、[[映画監督]](+ [[1998年]]) * 1928年 - [[ジェームズ・ガーナー]]、俳優(+ [[2014年]]) * [[1930年]] - [[竹村健一]]、政治評論家(+ [[2019年]]) * 1930年 - [[ロバート・マッカーサー]]、[[生態学|生態学者]](+ [[1972年]]) * [[1931年]] - [[西村暹]]、[[生化学|生化学者]]、[[分子生物学|分子生物学者]] * 1931年 - [[ドナルド・バーセルミ]]、小説家(+ [[1989年]]) * [[1934年]] - [[伊東一雄]]、[[野球評論家]](+ [[2002年]]) * 1934年 - [[高田宏治]]、[[脚本家]] * 1934年 - [[イアン・リチャードソン]]、俳優(+ [[2007年]]) * [[1936年]] - [[岩崎泰頴]]、[[地質学|地質学者]] * [[1937年]] - [[長谷邦夫]]、[[漫画家]](+ [[2018年]]) * [[1938年]] - [[フレディ・ハバード]]、[[ジャズ]][[トランペット]]奏者(+ [[2008年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2553167?cx_amp=all&act=all|title=大物ジャズトランペット奏者、F・ハバードさん死去|publisher=AFPBB News|date=2008-12-30|accessdate=2020-12-11}}</ref>) * [[1939年]] - [[フランシス・フォード・コッポラ]]、映画監督 * 1939年 - [[東京ぼん太]]、[[コメディアン]](+ [[1986年]]) * [[1940年]] - [[安部和春]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * [[1942年]] - [[ジョエル・ドーン]]、[[音楽プロデューサー]](+ [[2007年]]) * 1942年 - [[才所俊郎]]、元プロ野球選手 * [[1944年]] - [[ゲアハルト・シュレーダー]]、第7代[[ドイツ首相|ドイツ連邦首相]] * 1944年 - [[デービッド・ダナ・クラーク]]、[[計算機科学者|コンピューター学者]] * 1944年 - [[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[物理学者]] * 1944年 - [[中村光毅]]、[[アニメーション]][[美術監督]](+ [[2011年]]) * 1944年 - [[雑賀幸男]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[ジョエル・ロブション]]、[[フランス料理]]シェフ(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/world/news/180806/wor1808060019-n1.html|title=J・ロブション氏死去 仏料理の世界的シェフ|publisher=産経新聞|date=2018-08-06|accessdate=2021-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/45093980|title=フランス料理のスター、ロブション氏死去 ミシュラン星30以上|publisher=BBCニュース|date=2018-08-07|accessdate=2020-11-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3185125|title=仏料理界の巨匠、ジョエル・ロブション氏死去 73歳|newspaper=AFPBB NEWS|date=2018-08-06|accessdate=2021-08 -07}}</ref>) * [[1946年]] - [[スタン・ウィンストン]]、[[特殊メイク]]アーティスト(+ [[2008年]]) * [[1947年]] - [[フローリアン・シュナイダー]]、ミュージシャン([[クラフトワーク]]) * [[1948年]] - [[アーニー・ロビンソン]]、元[[陸上競技]]選手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sandiegouniontribune.com/sports/sports-columnists/story/2020-12-01/arnie-robinson-olympics-long-jump-gold-montreal-died-san-diego-aztecs-mesa-college|title=Column: Arnie Robinson dies at 72; Olympic long jump gold medalist, San Diego mainstay|newspaper=San Diego Union Tribute|date=2020-12-01|accessdate=2021-02-03|language=英語}}</ref>) * [[1949年]] - [[ジョン・オーツ]]、ミュージシャン([[ダリル・ホール&ジョン・オーツ]]) * 1949年 - [[フェルナンド・ジョルト]]、[[画家]](+ [[2018年]]) * [[1951年]] - [[ジャニス・イアン]]、[[シンガーソングライター]] * [[1952年]] - [[山本容子]]、[[版画家]] * 1952年 - [[池内豊 (野球)|池内豊]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[甲斐よしひろ]]、ミュージシャン * 1953年 - [[吉田美奈子]]、ミュージシャン * 1953年 - [[山形和幸]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[SYUFO]]、漫画家 * 1954年 - [[ジャッキー・チェン]]、映画俳優 * 1954年 - [[木本茂美]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[西野朗]]、元[[サッカー選手]]、指導者 * 1955年 - [[康京和]]、[[外交官]] * [[1956年]] - [[谷宏明]]、元プロ野球選手 * 1956年 - [[中川惣一]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[安達忍]]、[[声優]] * 1958年 - [[青島健太]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[ジェームス・ダグラス]]、[[プロボクサー]] * 1960年 - [[ノルベルト・シュラム]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1961年]] - [[森脇稔]]、高校野球指導者 * [[1963年]] - [[横谷彰将]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[山岡三子]]、テレビキャスター * 1964年 - [[ラッセル・クロウ]]、映画俳優 * 1964年 - [[カルロス・トシキ]]、歌手(カルロス・トシキ&[[オメガトライブ]]) * [[1965年]] - [[小林靖子]]、脚本家 * 1965年 - [[安田淳]]、[[テレビプロデューサー]] * [[1966年]] - [[木村幹]]、[[国際政治学者]] * [[1967年]] - [[平澤真希]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]] * [[1967年]] - [[宇徳敬子]]、歌手 * 1967年 - [[ボド・イルクナー]]、サッカー選手 * [[1968年]] - [[本仁戻]]、漫画家 * 1968年 - [[神山雄一郎]]、[[競輪選手]]、[[自転車競技]]選手 * [[1969年]] - [[ヴァディム・ナウモフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1970年]] - [[赤堀元之]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[レイフ・オヴェ・アンスネス]]、ピアニスト * [[1971年]] - [[ヒデ (お笑い芸人)|ヒデ]] 、[[お笑いタレント]]([[ペナルティ (お笑いコンビ)|ペナルティ]]) * 1971年 - [[斎藤誠 (競馬)|斎藤誠]]、調教師 * 1971年 - [[山口弘美]]、女優、歌手 * 1971年 - [[ヴィクター・クラーツ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1972年]] - [[葛山信吾]]、俳優 * 1972年 - [[志賀大士]]、[[テレビプロデューサー]]、元[[アナウンサー]] * 1972年 - [[高木広子]]、[[美容]]研究家、元アナウンサー * [[1973年]] - [[マルコ・デルヴェッキオ]]、元サッカー選手 * [[1974年]] - [[伊藤優津樹]]、元サッカー選手 * [[1975年]] - [[有坂美裕]]、シンガーソングライター * 1975年 - [[小野晋吾]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[河本準一]]、お笑いタレント([[次長課長]]) * 1975年 - [[ロニー・ベリアード]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[田中有紀美]]、女優、歌手 * [[1978年]] - [[宮越徹]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[ダンカン・ジェイムス]]、ミュージシャン * [[1979年]] - [[平野恵一]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[エイドリアン・ベルトレ]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[ニコール・フィオレンティーノ]]、ミュージシャン * [[1980年]] - [[玉山鉄二]]、[[俳優]] * 1980年 - [[竹財輝之助]]、俳優 * 1980年 - [[福岡サヤカ]]、女優、タレント * [[1981年]] - [[HITOE]]、歌手([[SPEED]]) * 1981年 - [[黒河貴矢]]、元[[サッカー選手]] * 1981年 - [[クリス・アルドワン]]、[[アコーディオン]]奏者、歌手 * [[1982年]] - [[黒川春樹]]、野球指導者 * 1982年 - [[西嶋弘之]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[菅良太郎]]、[[お笑い芸人]]([[パンサー (お笑いトリオ)|パンサー]]) * 1982年 - [[秋本真吾]]、元陸上競技選手 * [[1983年]] - [[鬼崎裕司]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[枝並千花]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1983年 - [[フランク・リベリー|フランク・リベリ]]、サッカー選手 * [[1984年]] - [[島袋寛子]]、歌手(SPEED) * 1984年 - [[レナト・ヤンバエフ]]、サッカー選手 * 1984年 - [[前田友理香]]、タレント(元[[トリコロール (お笑いトリオ)|トリコロール]]) * 1984年 - [[上田慎一郎]]、映画監督 * [[1985年]] - [[MiChi]]、歌手 * 1985年 - [[アントニー・クラストゥス]]、[[騎手]] * 1985年 - [[成宮真希]]、元プロレスラー * [[1986年]] - [[羅嘉仁]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[倉貫まりこ]]、元[[グラビアアイドル]]、元女優 * 1988年 - [[猪狩佑貴]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[斎藤陽介]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[遠藤康]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[三上真奈]]、アナウンサー * 1989年 - [[木谷良平]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[ケビン・シャッケルフォード]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[越智亮介]]、サッカー選手 * 1990年 - [[ソラナ・チルステア]]、テニスプレーヤー * 1990年 - [[ロベルタ・ロデギエーロ]]、フィギュアスケート選手 * [[1991年]] - [[アン・マリー]]、歌手 * [[1992年]] - [[キローラン木鈴]]、サッカー選手 * 1992年 - [[キローラン菜入]]、サッカー選手 * 1992年 - [[船崎良]]、俳優 * [[1993年]] - [[逸ノ城駿]]、元大相撲力士 * [[1994年]] - [[木下勲]]、プロ[[バスケットボール]]選手 * [[1995年]] - [[内田有咲]]、女優 * [[1998年]] - [[松本梨菜]]、女優 * 1998年 - [[白石真菜]]、声優、アイドル(元[[ラストアイドル]]) * [[1999年]] - [[夕美しおん]]、[[AV女優]] * 1999年 - [[福戸あや]]、アナウンサー * [[2000年]] - [[万波中正]]、プロ野球選手 * [[2001年]] - [[中野あいみ]]、[[ファッションモデル]]、アイドル(元[[原宿駅前パーティーズ|ふわふわ]]) * [[2002年]] - [[石橋蛍]]、元アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]]) * [[2003年]] - イ・ウジン、アイドル ([[TEEN TEEN]]、[[GHOST9]]) * [[2004年]] - [[みとゆな]]、モデル、タレント * [[2005年]] - [[辻口由奈]]、元子役 * [[2006年]] - スターキングデリシャス、アイドル([[りんご娘]]) * 生年不詳 - [[可歌まと]]、漫画家 * 生年不詳 - [[志乃宮風子]]、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1924年]] - [[シアンモア]]、[[競走馬]](+ [[1953年]]) * [[1935年]] - [[スゲヌマ]]、競走馬(+ 不明) * [[1946年]] - [[シラオキ]]、競走馬(+ [[1973年]]) * [[1968年]] - [[ナスノカオリ]]、競走馬(+ [[1997年]]) * [[1980年]] - [[ミスターシービー]]、競走馬、[[種牡馬]](+ [[2000年]]) * [[1983年]] - [[トニービン]]、競走馬(+ [[2000年]]) * [[1984年]] - [[シンウインド]]、競走馬(+ [[2013年]]) * [[1985年]] - [[シーキングザゴールド]]、競走馬(+ [[2016年]]) * [[1988年]] - [[リターンエース]]、競走馬(+ [[1999年]]) * [[1989年]] - [[エルカーサリバー]]、競走馬 * 1989年 - [[ゴールドマウンテン]]、競走馬 * 1989年 - [[サンエイサンキュー]]、競走馬(+ [[1994年]]) * [[1991年]] - [[ノーブルグラス]]、競走馬 * [[1993年]] - [[マウンテンストーン]]、競走馬 * [[1994年]] - [[ザミンダー]]、競走馬 * [[1995年]] - [[アメリカンボス]]、競走馬(+ [[2018年]]) * [[1998年]] - [[ダービーレグノ]]、競走馬(+ [[2004年]]) * [[2002年]] - [[メイショウトウコン]]、競走馬 * [[2005年]] - [[カムジン]]、競走馬 * [[2006年]] - [[サマーバード]]、競走馬(+ [[2013年]]) * 2006年 - [[ダノンヨーヨー]]、競走馬 == 忌日 == [[Image:Charles_VIII_de_france.jpg|thumb|100px|[[ヴァロワ朝]]の温情王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]](1470-1498)、鴨居に頭をぶつけ没]] <!--[[Image:Trinidad_El_Greco2.jpg|thumb|220px|画家[[エル・グレコ]](1541-1614)没。画像は『三位一体』(1577-1579)]]--> [[Image:Taksin_the_Great.jpg|thumb|100px|[[タイ王国|タイ]]の[[タークシン]]王、処刑される(1734-1782)]] [[Image:Toussaint_Louverture.jpg|thumb|100px|[[ハイチ]]独立運動の指導者[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]](1739-1743))、拷問の末獄中死]] <!-- [[Image:Jacques_Charles_Luftschiff.jpg|thumb|upright|[[シャルルの法則]]を発見した物理学者[[ジャック・シャルル]](1746-1823)没。水素[[気球]]の発明者でもあった]] --> [[Image:ValadonSuzanne_TheBath.jpg|thumb|180px|画家[[シュザンヌ・ヴァラドン]](1865-1938)没。画像は『風呂』(1908)]] [[Image:Mr_and_Mrs_Henry_Ford_in_his_first_car.jpg|thumb|upright|[[フォード・モーター]]創設者[[ヘンリー・フォード]](1863-1947)没。画像は自作の4輪自動車に乗るフォード夫妻]] * [[772年]] ‐ [[道鏡]]、[[法王]](* [[700年]]) * [[1234年]] - [[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]王(* [[1154年]]) * [[1498年]] - [[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]、[[ヴァロワ朝]]第7代[[フランス王国|フランス]]王(* [[1470年]]) * [[1536年]]([[天文 (元号)|天文]]5年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[今川氏輝]]、[[駿河国]]の[[戦国大名]](* [[1513年]]) * [[1614年]] - [[エル・グレコ]]、[[画家]](* [[1541年]]) * [[1638年]]([[寛永]]15年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[島津忠恒]]、初代[[薩摩藩|薩摩藩主]](* [[1576年]]) * [[1648年]]([[慶安]]元年[[閏]][[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[覚深法親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](* [[1588年]]) * [[1651年]] - [[レンナート・トルステンソン]]、[[スウェーデン陸軍]][[元帥]](* [[1603年]]) * [[1719年]] - [[ジャン=バティスト・ド・ラ・サール]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[聖人]](* [[1651年]]) * [[1761年]] - [[トーマス・ベイズ]]、[[数学者]](* [[1702年]]) * [[1789年]] - [[アブデュルハミト1世]]、[[オスマン帝国]]第27代[[スルタン]](* [[1725年]]) * [[1803年]] - [[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]、[[ハイチ]]の独立運動指導者(* [[1743年]]) * [[1823年]] - [[ジャック・シャルル]]、[[物理学者]](* [[1746年]]) * [[1836年]] - [[ウィリアム・ゴドウィン]]、政治評論家(* [[1756年]]) * [[1845年]] - [[ジュリー・クラリー]]、[[ジョゼフ・ボナパルト]]の妻(* [[1771年]]) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[黒住宗忠]]、[[黒住教]]の開祖(* [[1780年]]) * [[1858年]] - [[アントニオ・ディアベリ]]、[[作曲家]](* [[1781年]]) * [[1868年]]([[慶応]]4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - [[川路聖謨]]、[[江戸幕府]][[勘定奉行]]、[[外国奉行]](* [[1801年]]) * [[1891年]] - [[P・T・バーナム]]、興行師(* [[1810年]]) * [[1908年]] - [[栽仁王]]、皇族(* [[1887年]]) * [[1925年]] - [[ティーホン (モスクワ総主教)|ティーホン]]、モスクワ総主教(* [[1865年]]) * [[1926年]] - [[尾崎放哉]]、[[俳人]](* [[1885年]]) * [[1928年]] - [[アレクサンドル・ボグダーノフ]]、[[内科学|内科医]]、[[哲学|哲学者]](* [[1873年]]) * [[1929年]] - [[上杉慎吉]]、[[法学者]](* [[1878年]]) * [[1938年]] - [[シュザンヌ・ヴァラドン]]、画家(* [[1865年]]) * [[1945年]] - [[伊藤整一]]、[[海軍大将]](* [[1890年]]) * 1945年 - [[有賀幸作]]、[[海軍中将]](* [[1897年]]) * 1945年 - [[武内俊子]]、[[童謡]][[詩人]]、童謡[[作詞家]]、[[童話]]作家(* [[1905年]]) * [[1947年]] - [[ヘンリー・フォード]]、[[フォード・モーター|フォード社]]創設者(* [[1863年]]) * 1947年 - [[直木松太郎]]、野球スコアブック考案者(* [[1888年]]) * [[1950年]] - [[ウォルター・ヒューストン]]、[[俳優]](* [[1884年]]) * [[1951年]] - [[金須嘉之進]]、[[正教徒]]、[[作曲家]](* [[1867年]]) * [[1954年]] - [[伊東忠太]]、[[建築家]](* [[1867年]]) * 1954年 - [[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]、[[外交官]](* [[1886年]]) * [[1955年]] - [[セダ・バラ]]、[[俳優|女優]](* [[1885年]]) * [[1957年]] - [[羽仁もと子]]、[[ジャーナリスト]]、教育家、[[自由学園]]創設者(* [[1873年]]) * [[1961年]] - [[ヴァネッサ・ベル]]、画家(* [[1879年]]) * 1961年 - [[ヘスース・グリーディ]]、[[作曲家]](* [[1886年]]) * [[1963年]] - [[岡本天明]]、[[宗教家]](* [[1897年]]) * [[1968年]] - [[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](* [[1936年]]) * [[1985年]] - [[カール・シュミット]]、法学者(* [[1888年]]) * [[1986年]] - [[レオニート・カントロヴィチ]]、[[経済学者]](* [[1912年]]) * 1986年 - [[萩原光]]、レーサー(* [[1956年]]) * [[1988年]] - [[ツェザール・ブレスゲン]]、作曲家(* [[1913年]]) * [[1989年]] - [[松岡政保]]、[[実業家]]、[[政治家]](* [[1897年]]) * [[1997年]] - [[湯木貞一]]、[[板前]]、[[吉兆]]創業者(* [[1901年]]) * 1997年 - [[田中友幸]]、[[映画プロデューサー]](* [[1910年]]) * [[2001年]] - [[並木路子]]、[[歌手]](* [[1921年]]) * 2001年 - [[馬場のぼる]]、[[絵本作家]]、[[漫画家]](* [[1927年]]) * [[2003年]] - [[山内雅人]]、俳優、[[声優]](* [[1929年]]) * [[2004年]] - [[芦屋雁之助]]、俳優、[[脚本家]]、[[演出家]](* [[1931年]]) * [[2005年]] - [[中山大三郎]]、作曲家、[[作詞家]](* [[1941年]]) * [[2007年]] - [[三島瑞穂]]、[[作家]]、[[軍人]](* [[1938年]]) * [[2010年]] - [[木村拓也]]、元[[プロ野球選手]](* [[1972年]]) * [[2017年]] - [[田中東雨]]、[[書家]](* [[1931年]]) * [[2022年]] - [[藤子不二雄A|藤子不二雄Ⓐ]]、[[漫画家]](* [[1934年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Annunciation_by_El_Greco_(1570-1575,_Prado).jpg|thumb|240px|[[正教会]]の[[生神女福音祭]]。画像は[[エル・グレコ]]『[[受胎告知]]』(1570-1575)。(グレコは4月7日が忌日)]] * [[世界保健デー]]({{World}}) *: [[1948年]]4月7日に[[世界保健機関]] (WHO) が設立されたことを記念し、同機関が1949年に制定。[[国際デー]]の一つ。 * [[ルワンダ虐殺|1994年のルワンダにおけるジェノサイド]]を考える国際デー({{World}}) *: 前日の[[ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件]]をきっかけに、1994年のこの日から[[ルワンダ虐殺]]が起ったことによる。 * [[農林水産省]]創立記念日({{JPN}}) *: [[1881年]]4月7日に農林水産省の前身である[[農商務省 (日本)|農商務省]]が設置されたことから<ref name="kinenbi">{{Cite web|和書|url=http://www.nnh.to/04/07.html|title=4月7日|publisher=今日は何の日〜毎日が記念日〜|accessdate=2017-04-07}}</ref>。 * 労務管理の日({{JPN}}) *: 労務管理認定サービス業の労務管理OK株式会社が制定。[[1947年]]4月7日の[[労働基準法]]公布に由来<ref name="kinenbi" />。 * タイヤケージの日({{JPN}}) *: タイヤ圧力の重要性と、正確なタイヤケージの使用をPRするため、旭産業株式会社が制定。日付は4月8日が「タイヤの日」であり、その前日をタイヤの圧力を計測する日として関心を持ってもらうため<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=116|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 * スーチーパイの日({{JPN}}) *: [[ジャレコ]]の[[脱衣麻雀|美少女対戦麻雀ゲーム]]『[[アイドル雀士スーチーパイ]]』シリーズの記念日。中国読みの“四”(sì=スー)と“七”(qī=チー)から。2007年に日本記念日協会に認定された<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20070406-a014/|title=ジャレコ、4月7日は「スーチパイの日」 - 日本記念日協会に認定される|newspaper=マイナビニュース|accessdate=2018-02-01}}</ref>。 * [[生神女福音祭]]([[東方正教会]]) *: [[十二大祭]]のひとつ。 {{clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0407|date=2011年6月}} * [[2004年]] - ウルフイマジンが現れる。電王ガンフォームに倒される寸前に逃亡。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0096年 - インダストリアル7において、[[ユニコーンガンダム]]1号機がバナージ・リンクスをパイロットに固定して起動。(小説・アニメ『[[機動戦士ガンダムUC]]』) * [[アフターコロニー|A.C.]]195年 - 「オペレーション・メテオ」発動。地球圏統一連合に反目する勢力が、5機の[[ガンダムタイプ]][[モビルスーツ]]を地球に降下させる。(アニメ『[[新機動戦記ガンダムW]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1985年]] - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|細川美樹]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>原作168話「明石谷老人の不思議な紙の巻」</ref> * [[2003年]] - アトム、漫画・アニメ『[[鉄腕アトム]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|title=鉄腕アトム |url=https://tezukaosamu.net/jp/manga/291.html |access-date=2022-11-01 |publisher=株式会社手塚プロダクション}}</ref> * 2291年 - 刹那・F・セイエイ、漫画・アニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gundam.info/news/info/01_811.html |title=「Q.4月7日は刹那・F・セイエイの誕生日!刹那の名セリフといえば?」は「俺がガンダムだ!」が1位! |access-date=2022-11-01 |publisher=創通・サンライズ・MBS・テレビ東京 |date=2020-04-20 |work=GUNDAM.INFO}}</ref> * 生年不明 - 小早川美幸、漫画・アニメ『[[逮捕しちゃうぞ]]』の主人公のひとり * 生年不明 - [[暁のヨナ#ヨナ|ヨナ]]、漫画・アニメ・舞台『[[暁のヨナ]]』の主人公 * 生年不明 - 水野カツオ、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1511721655760039937}}</ref> * 生年不明 - [[茶渡泰虎]](チャド)、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year=2006|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=42|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - マグナ・スウィング、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/ |title=Character 黒の暴牛 マグナ・スウィング |access-date=2022-11-01 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=ブラッククローバー}}</ref> *生年不明 - 亜門鋼太朗、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2013|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879498-3|date=|volume=6巻|quote=カバー裏}}</ref> *生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#ジャン|ジャン・キルシュタイン]]、漫画・アニメ・映画『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shingeki-sp.net/shindb/index/c_sa_004 |title=進撃データベース |publisher=進撃の巨人for auスマートパス |accessdate=2020-07-16}}{{リンク切れ|date=2022年11月}}</ref> * 生年不明 - 川﨑稜、漫画・アニメ『[[球詠]]』に登場するキャラクター<ref>マウンテンプクイチ 『球詠』3巻 株式会社[[芳文社]].2018年.カバー裏</ref> * 生年不明 - 名瀬泉、小説・アニメ『[[境界の彼方]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tv.anime-kyokai.com/character/izumi/ |title=名瀬 泉 |access-date=2022-11-01 |publisher=[[鳥居なごむ]]・[[京都アニメーション]]/境界の彼方製作委員会 |work=境界の彼方}}</ref> * 生年不明 - 押水菜子、アニメ『[[花咲くいろは]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2011|title=TV ANIMATION 「花咲くいろは」 オフィシャルガイド いろはのいろは|page=20|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=ガイドブック|isbn=978-4-7575-3310-3}}</ref> * 生年不明 - 奥入祐、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2022-11-01}}</ref> * 生年不明 - 村正、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNew Wave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/muramasa.php |title=村正 |access-date=2022-11-01 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 和久井留美、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20190 |title=和久井 留美(わくい るみ) |access-date=2022-10-16 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 大和田沙智、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/owada |publisher=Akatsuki Inc. |title=大和田 沙智 |accessdate=2022-11-01 |work=八月のシンデレラナイン公式サイト}}</ref> * 生年不明 - アユミ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1379614929301348352}}</ref> * 生年不明 - ミスターシービー、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=mrcb |title=ミスターシービー |publisher=Cygames |accessdate=2022-11-01 |website=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト}}</ref> <!-- * 生年不明 - 紅虎、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年4月6日 (土) 15:30 (UTC)}} * 生年不明 - エリック・ボールドウィン、ゲーム『[[パラサイト・イヴ2]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年4月6日 (土) 15:30 (UTC)}} * 生年不明 - バルザー、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年4月6日 (土) 15:30 (UTC)}} 2022年11月、3年半以上要出典のためコメントアウト --> === 忌日(フィクション)=== * [[2008年]] - 源さくら、アニメ『[[ゾンビランドサガ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://zombielandsaga.com/character/2.php |title=源 さくら |access-date=2022-11-01 |publisher=ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会 |work=TVアニメ「ゾンビランドサガ リベンジ」}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|April 7|7 April}} {{新暦365日|4|6|4|8|[[3月7日]]|[[5月7日]]|[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]|0407|4|07}} {{1年の月と日}}
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チャンプカー・ワールド・シリーズ
チャンプカー・ワールド・シリーズ(英: Champ Car World Series)はかつて存在した、アメリカ合衆国を中心として開催されるフォーミュラカー(オープンホイール)の自動車レース選手権である。カテゴリとしても、また選手権の略称としてチャンプカー(英: Champ Car)と呼ばれることもあった。 運営団体のOWRS(英: Open Wheel Racing Series)は、2003年に経営破綻したCART(カート、英: Championship Auto Racing Teams)からCART ワールド・シリーズを引き継ぐ形で2004年に始まったが、2008年の第1戦ロングビーチGP(英語版)の開催をもって第2戦以降は全戦キャンセルとなり、シリーズを終了した。 レースによっては1イベントで20万人もの観客を集めることもあり人気が高かった。日本でも1992年から2002年まではNHK-BSで、2003年までG+ SPORTS & NEWS(現・日テレG+)で放送されていた。その後は日本でのTV放送はされていないが、公式サイトで年間契約の課金登録をする事により、英語放送のストリーミング中継や、2001年シーズン以降のアーカイブ映像を視聴する事が可能だった。 本項では前身となったインディカー・ワールド・シリーズ(1979年-1996年)及びCART ワールド・シリーズ(1997年-2003年)についても記載する。 1979年より、スポーツカークラブ・オブ・アメリカ(SCCA)に認可されたCART (Championship Auto Racing Teams) が、「インディカー・ワールド・シリーズ」と呼ばれるフォーミュラカー・レース選手権を運営していた。1990年代前半には世界的にも一時期F1と肩を並べる勢いをもった。その中でF1からCART、CARTからF1へとドライバーの移籍交流があった。 ただ、そのためにCARTに参戦するアメリカ人ドライバーの減少と、何よりアメリカンレーシングそのものであるオーバルレースの減少に、世界三大レースのひとつで当時CARTの1ラウンドを構成していたインディ500の開催地であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ (IMS)オーナーのトニー・ジョージ(英語版) は不満を持ち、1994年にはIMSが1996年より新しいカテゴリーを発足させる旨の発表をするに至る。その後1995年までにCARTとIMSとの間で何度か交渉が持たれたが話がまとまらず、1996年から2つのシリーズに分裂することになった。 CART側はインディ500をシリーズカレンダーから除き、それまでのレギュレーションのレースを維持する一方で、IMS側は統括組織として新たにインディ・レーシング・リーグ (IRL、現IndyCar) を設立し、インディ500を中心としたオーバルレース専門の選手権インディ・レーシング・リーグを運営開催することになった。 「インディ」はIMSが持つ商標であるため、1997年よりCART側は「インディ」と称することができなくなり、選手権名称は「CART ワールド・シリーズ」に、インディカーとよばれていたマシンはチャンプカー (Champ Car) と名称変更された(チャンプカーとは1909年から続いているアメリカ国内チャンピオンシップを走るマシン、即ちチャンプカー)。ちなみにインディカーはIRL側のマシンの呼称となった。 IRLは、1996年のインディ500(英語版)に「25/8ルール」を導入した。これはIRLシリーズに参戦するドライバーに、33台中25台のスタートポジションを保証するというものだ。CARTはこれに猛反発、ミシガン・インターナショナル・スピードウェイにてU.S. 500(英語版)という大規模オーバルイベントを企画し、27台のエントリーを集めた。1997年以降もCARTはインディ500と競合するスケジュールでレースを開催した。 しかし、分裂後もメーカーの参戦、ドライバーレベルの高さ、レースの面白さもあって2001年まで盛り上がりを見せ、分裂前のブラジル・オーストラリアに加え、日本やヨーロッパにも進出したCARTだったが、2001年のポップオフバルブを巡る「ターボゲート」と呼ばれる一連の騒動や、2002年末のエンジン規定改正を巡るいざこざでトヨタ、ホンダが撤退、両社は2003年にIRL主催のインディカー・シリーズへ移籍した事でシリーズ自体の存続が危ぶまれるようになった。また名門ペンスキーをはじめ、それまでの参戦チーム、ドライバーも多数がインディカー・シリーズへと移籍、更には2002年末をもってそれまでの冠スポンサーであったフェデックスがスポンサーシップから降りてしまった事が決定打となり、2003年にCARTは破産した。 破産当時、旧CARTの株式評価額は1株当たり25セントまで暴落し、IRLのトニー・ジョージが吸収合併を見込んだ買収に意欲を見せたが、旧CARTの有力チームのオーナーであり、経営陣にも名を連ねていたジェラルド・フォーサイス(英語版)(フォーサイス・レーシング)、ポール・ジェンティーロジー(英語版)(ロケットスポーツ・レーシング(英語版))、ケビン・カルコーベン(KVレーシング・テクノロジー)およびダン・ペティ(フォーサイス・レーシングの共同オーナー)の4名が連名でOWRS (Open Wheel Racing Series)という新団体を設立、カルコーベンがチェアマンとなる形で旧CARTの存続を目指す事になった。 こうしてCARTは2004年にOWRSに全ての資産を売却し、運営団体、名称としてのCARTは消滅。その後チャンプカー・ワールドシリーズ (CCWS) として再生を図っていたが、2007年のシリーズ開幕を前に、タイトルスポンサーであるフォードが「スポンサーシップが経営目標に合致していない」ことを理由に、同年1月26日にタイトルスポンサー契約の打ち切りを決めた。これらの影響に加え、アメリカ国内でのモータースポーツ人気がNASCARに集中し観客動員等の低下傾向が見られるようになったため、トニー・ジョージとケビン・カルコーベンの間でシリーズ合併の交渉が行われ、2008年シーズンからIRLとシリーズを統合することが決定(事実上IRLによる吸収合併であった)。プロモーターとの契約の関係で、同年4月20日にロングビーチ市街地コースで行われるレースを最後にシリーズが終了した。 チャンプカーの吸収合併により、チャンプカー側が開催権を保有していたロングビーチを始めとするロードコースの大イベントの多くや、トップチームのニューマン・ハース・レーシングをはじめ、ロケットスポーツやデイル・コイン・レーシングなどほとんどのチームやドライバーがインディカーへそのまま合流したが、「トニー・ジョージの経営方針への不服従」を直接の理由として、トップチームの一角であったフォーサイス・レーシングがチャンプカーと運命を共にする形でチーム自体を解散、HVMレーシングに「ミナルディ」の名称を貸与していた元F1チームオーナーで名称権保持者のポール・ストッダートも、ジェラルド・フォーサイスと同様の理由でHVMから手を引き、アメリカのレース活動から去っていった。また、エンジンサプライヤーのコスワースとシャーシメーカーのパノスも、チャンプカーの消滅と共にそのままアメリカン・オープンホイールから撤退した。 なお、旧チャンプカーの一部の関係者が最後まで従属を拒み続けたトニー・ジョージは、インディ500の開催とIRLを運営する傍ら、(両シリーズの最大のライバルである)ストックカーのNASCARにブリックヤード400の開催を承認するなどの行動をとっており、NASCARを通じてCART/チャンプカーのオーバルレースの開催に間接的に影響力を行使できる立場であった。トニー・ジョージはまた、フォーミュラ1やロードレース世界選手権(MotoGP)をレーストラックを大幅に改修してまでインディアナポリスへ招聘、IRLにおいてはヴィジョン・レーシング(英語版)を主催し継子のエド・カーペンターをメインドライバーに起用するという露骨な縁故主義を示した。結果としてIRLは2000年代初頭のCART全盛期には、インディ500を除くほとんどのレースイベントにおいて不入りに喘ぐ状況であった。1996年シーズンの時点でNASCARとCARTの全米視聴率はほぼ拮抗していたが、CARTの弱体化に伴いNASCARは全米最大の人気を持つモータースポーツとなり、シーズン統合後も未だインディ500を含むインディカーの人気はNASCARのそれに及ぶ回復を見せていない。レースジャーナリストのゴードン・カービィ(英語版)はこうした状況を総括して、「トニー・ジョージの覇権の為ならば手段を選ばない露骨な経営方針と、CART/チャンプカーのレギュレーションやシーズン運営方針に対する主体性の無さ、その両者が繰り広げた不毛な抗争は、結果として(インディ500を含む)アメリカン・オープンホイールの人気を失墜させる原因となった。」「これらの事例は近代スポーツにおける最も自己破壊的な行為である。」と断じており、ニューヨーク・タイムズは2009年のトニー・ジョージのインディアナポリスCEO辞任に際して、「アメリカン・オープンホイールを愛する純粋な米国人ファンにとっては、彼の辞任は余りにも遅きに失した。」と報じた。 シリーズの特徴としては、常設サーキット(ロード)、公道コース(ストリート)、オーバル(末期は開催せず)の3種類のコースで行われ、満遍なくどのコースでも速さを求められるカテゴリーとなっていた。しかしIRLの台頭や、NASCARを初めとする他カテゴリー統括団体によるオーバルトラック買収の影響により、オーバルレースは減少、のち消滅を余儀なくされ、またロードレースでも独立資本のサーキットが減少している事情などもあり、末期には他団体や特定メーカーの干渉を受けにくいストリートレースが、シリーズの中心を占めるようになっている状況だった。 エンジンは2.65リッターのシングルターボで、燃料としてガソリンではなくメタノールを使用するのが特徴(なおインディカーは2007年よりエタノール燃料に転換している)。また、F1などで禁止されているウイングカー構造のシャシを使用していた。マシン、エンジン、タイヤに関してはレギュレーション上基本的にはどのメーカーでも参戦できる事になっていたが、2002年の騒動により2003年よりエンジンはフォード(コスワース)、タイヤはブリヂストンの独占供給となっていた。シャシーはマーチやレイナード、ローラ、スウィフトなどが販売・供給しており、独自シャシーを採用するチームはペンスキーやシャパラルなど、ごく一部に限られていた。2002年のレイナード倒産により、一時ローラの独占状態となった。2007年からはパノスが新シャーシを独占供給することが定められ、車幅の切り詰めなど思い切った改正が行われた。 2005年シーズンからは、レース中合計60秒間だけエンジンパワーを増大させることができる「Push-to-Pass」ボタンや、本気のアタック時に使用するサイドウォール部分が赤く塗られたソフトタイヤ(通称「レッドタイヤ」)などの新機軸が導入された。 ステップアップカテゴリーとして、過去にF3000に近いインディ・ライツ(2008年よりIRL主催の旧インディ・プロ・シリーズがこの名称に改称)、F3に近いフォーミュラ・トヨタ・アトランティックの2カテゴリーによってCARTのフォーミュラピラミッドが形成されていたが、インディ・ライツは2001年をもって廃止され、以後フォーミュラ・アトランティックのみ運営された。なお、フォーミュラ・アトランティックは2006年よりタイヤが横浜ゴム、エンジンがマツダ・コスワースの供給となり、「ヨコハマ・プレゼンツ・チャンプカー・アトランティック・パワード・バイ・マツダ」として再出発が図られている。バッジネームのみという形ではあるが、マツダにとっては久々にレース活動に復帰を果たした事になっていた。 同カテゴリーは、チャンプカーのシリーズ終了後も「アトランティック・チャンピオンシップ」の名称で引き続きOWRSによる運営が行われ、マツダ等のスポンサーも引き続きシリーズ運営に関わっていくことを表明していたが(ただしタイヤ供給はクーパーに交代した)、アメリカ国内の景気低迷の影響から2009年を最後に一時休止状態となった(その後2012年に3シーズンぶりに復活し、2013年は休止されたが2014年からは再び継続的に開催されている)。 2001年にはCARTを舞台としたシルベスター・スタローンの映画「ドリヴン」が制作されたが、本物のCARTドライバーやマシンが多数登場する一方で、ストーリーにおいて実際のCARTでは起こりえない事態が描かれている部分が多い(CARTで使用するメタノール燃料は容易に水で消火・分解が可能なため、映画の後半で起きるような雨の中での燃料漏れによる爆発は考えにくい、雨が降っているのにオーバルコースでレースを行っているなど)。これは、当初「ドリヴン」がF1をテーマとして企画された映画だったため、CARTを舞台とすることに変更された後も当初の脚本の設定が残っていたことが原因ではないかと、一部の関係者は指摘している。 一時期、日本では2007年以降のレース開催を目指して、北海道小樽市では小樽グランプリ推進協議会というNPO団体が立ち上げられ、市街地コースを利用しての『小樽グランプリ』の誘致活動を行っていた。だが、グランプリ開催を前提とするデモランに使う道路が国交省により許可が降りずデモラン自体も無期限延期となり、さらに誘致を行っていたチャンプカーも消滅。資金が集まらなかったこともありその後小樽グランプリ推進協議会の公式ウェブサイトも消えており、活動は事実上頓挫した。 東南アジア圏では小樽の他に、大韓民国もチャンプカー誘致を企画し、2004年にソウル特別市市街地コース、2005年と2006年に安山市に建設中のアンサンスピードウェイでの開催がイベントスケジュールに企画されたが、韓国側の開催計画の杜撰さからスケジュールが度々延期された果てに、いずれの年も開催中止という形で終わっている。 ※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間) ※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間)
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チャンプカー・ワールド・シリーズはかつて存在した、アメリカ合衆国を中心として開催されるフォーミュラカー(オープンホイール)の自動車レース選手権である。カテゴリとしても、また選手権の略称としてチャンプカーと呼ばれることもあった。 運営団体のOWRSは、2003年に経営破綻したCARTからCART ワールド・シリーズを引き継ぐ形で2004年に始まったが、2008年の第1戦ロングビーチGPの開催をもって第2戦以降は全戦キャンセルとなり、シリーズを終了した。 レースによっては1イベントで20万人もの観客を集めることもあり人気が高かった。日本でも1992年から2002年まではNHK-BSで、2003年までG+ SPORTS & NEWS(現・日テレG+)で放送されていた。その後は日本でのTV放送はされていないが、公式サイトで年間契約の課金登録をする事により、英語放送のストリーミング中継や、2001年シーズン以降のアーカイブ映像を視聴する事が可能だった。 本項では前身となったインディカー・ワールド・シリーズ(1979年-1996年)及びCART ワールド・シリーズ(1997年-2003年)についても記載する。
[[Image:Champ Car simplified logo (2003-2008).svg|thumb|チャンプカー・ワールド・シリーズのロゴ]] [[Image:Reynard_96I_right_Honda_Collection_Hall.jpg|thumb|300px|right|1996年のCARTで使用されたレイナード・96i]] [[Image:Panoz_DP01,_original_livery-01.jpg|thumb|300px|right|チャンプカー最後のマシン、パノス・DP01]] '''チャンプカー・ワールド・シリーズ'''({{Lang-en-short|Champ Car World Series}})はかつて存在した、[[アメリカ合衆国]]を中心として開催される[[フォーミュラカー]](オープンホイール)の自動車レース選手権である。カテゴリとしても、また選手権の略称として'''チャンプカー'''({{Lang-en-short|Champ Car}})と呼ばれることもあった。 運営団体の'''OWRS'''({{Lang-en-short|Open Wheel Racing Series}})は、[[2003年のCARTシーズン|2003年]]に経営破綻した'''CART'''(カート、{{Lang-en-short|Championship Auto Racing Teams}})から'''CART ワールド・シリーズ'''を引き継ぐ形で[[2004年のチャンプカー・シーズン|2004年]]に始まったが、[[2008年のチャンプカー・シーズン|2008年]]の第1戦{{仮リンク2|2008年のロングビーチグランプリ (チャンプカー)|en|2008 Toyota Grand Prix of Long Beach|label=ロングビーチGP}}の開催をもって第2戦以降は全戦キャンセルとなり、シリーズを終了した。 レースによっては1イベントで20万人もの観客を集めることもあり人気が高かった。日本でも1992年から2002年まではNHK-BSで、2003年までG+ SPORTS & NEWS(現・[[日テレG+]])で放送されていた。その後は日本でのTV放送はされていないが、公式サイトで年間契約の課金登録をする事により、英語放送のストリーミング中継や、2001年シーズン以降のアーカイブ映像を視聴する事が可能だった。 本項では前身となった'''インディカー・ワールド・シリーズ'''(1979年-1996年)及び'''CART ワールド・シリーズ'''(1997年-2003年)についても記載する。 ==沿革== [[ファイル:CART logo (1997-2002).svg|サムネイル|CARTのロゴ (1997-2002)]] === インディカー・ワールド・シリーズの隆盛 === [[1979年のインディカー・シーズン|1979年]]より、[[スポーツカークラブ・オブ・アメリカ]](SCCA)に認可されたCART (Championship Auto Racing Teams) が、「'''インディカー・ワールド・シリーズ'''」と呼ばれるフォーミュラカー・レース選手権を運営していた{{Efn2|初年度の[[1979年のインディカー・シーズン|1979年]]は「ワールドシリーズ」とは冠されなかった}}。1990年代前半には世界的にも一時期F1と肩を並べる勢いをもった。その中でF1からCART、CARTからF1へとドライバーの移籍交流があった。 === インディアナポリス・モーター・スピードウェイとの対立 === ただ、そのためにCARTに参戦するアメリカ人ドライバーの減少と、何よりアメリカンレーシングそのものであるオーバルレースの減少に、世界三大レースのひとつで当時CARTの1ラウンドを構成していた[[インディ500]]の開催地である[[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]] (IMS)オーナーの{{仮リンク|トニー・ジョージ|en|Tony George}} は不満を持ち、[[1994年]]にはIMSが[[1996年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1996年]]より新しいカテゴリーを発足させる旨の発表をするに至る。その後[[1995年]]までにCARTとIMSとの間で何度か交渉が持たれたが話がまとまらず、[[1996年のインディカー・シーズン|1996年]]から2つのシリーズに分裂することになった。 === インディの分裂 === CART側はインディ500をシリーズカレンダーから除き、それまでのレギュレーションのレースを維持する一方で、IMS側は統括組織として新たにインディ・レーシング・リーグ (IRL、現[[IndyCar]]) を設立し、インディ500を中心としたオーバルレース専門の選手権[[インディカー・シリーズ|インディ・レーシング・リーグ]]を運営開催することになった。 「インディ」はIMSが持つ商標であるため、[[1997年のCARTシーズン|1997年]]よりCART側は「インディ」と称することができなくなり、選手権名称は「'''CART ワールド・シリーズ'''」に、インディカーとよばれていたマシンはチャンプカー (Champ Car) と名称変更された(チャンプカーとは[[1909年]]から続いているアメリカ国内チャンピオンシップを走るマシン、即ちチャンプカー)。ちなみにインディカーはIRL側のマシンの呼称となった。 IRLは、{{仮リンク2|1996年のインディ500|en|1996 Indianapolis 500}}に「25/8ルール」を導入した。これはIRLシリーズに参戦するドライバーに、33台中25台のスタートポジションを保証するというものだ。CARTはこれに猛反発、[[ミシガン・インターナショナル・スピードウェイ]]にて{{仮リンク|U.S. 500|en|U.S. 500}}という大規模オーバルイベントを企画し、27台のエントリーを集めた。1997年以降もCARTはインディ500と競合するスケジュールでレースを開催した。 === CARTの衰退 === しかし、分裂後もメーカーの参戦、ドライバーレベルの高さ、レースの面白さもあって[[2001年のCARTシーズン|2001年]]まで盛り上がりを見せ、分裂前のブラジル・オーストラリアに加え、日本やヨーロッパにも進出したCARTだったが、2001年の[[ポップオフバルブ]]を巡る「ターボゲート」と呼ばれる一連の騒動や、[[2002年のCARTシーズン|2002年]]末のエンジン規定改正を巡るいざこざ<ref>CARTは2001年シーズン末に突如、2003年シーズンからそれまでの2,650cc[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンから、3,500cc[[自然吸気|NA]]エンジンにエンジン規定を変更すると発表した。当時参戦していたエンジンサプライヤー達への合議がなされない状態での突然の発表だった為、ホンダは新エンジンには最低2年の開発期間が必要だとして反発(CARTのルール上も2年の猶予期間をもって発表を行うのが通例だった)。トヨタは規定変更の発表以前に、2003年以降はNAエンジンの開発に一本化すると表明していたが、結局はホンダ・トヨタは共に2002年末をもってCARTから撤退した。[[フォード・モーター|フォード]]も規定変更に反対し2003年シーズンへのエンジン供給停止(=撤退)を表明していたが、2002年中盤にCART側が再びそれまでの発表を覆す形で、2003年以降も2,650ccターボエンジンを継続使用する事を発表した為、シリーズに残留する事となった。なお、このエンジン規定を巡るCARTとサプライヤー間のトラブルについてはエンジン規定変更の発表以前、2001年シーズン中盤にCART側が過給圧を制御する為のポップオフバルブの規定変更を発表した頃から既に始まっていたと言われている。</ref>で[[トヨタ自動車|トヨタ]]、[[本田技研工業|ホンダ]]が撤退、両社は[[2003年のインディカー・シリーズ|2003年]]にIRL主催の[[インディカー・シリーズ]]へ移籍した事でシリーズ自体の存続が危ぶまれるようになった。また名門[[ペンスキー]]をはじめ、それまでの参戦チーム、ドライバーも多数がインディカー・シリーズへと移籍、更には2002年末をもってそれまでの冠スポンサーであった[[フェデックス]]がスポンサーシップから降りてしまった事が決定打となり、2003年にCARTは破産した。 === CARTからOWRSへ === 破産当時、旧CARTの株式評価額は1株当たり25セントまで暴落し、IRLのトニー・ジョージが吸収合併を見込んだ買収に意欲を見せたが、旧CARTの有力チームのオーナーであり、経営陣にも名を連ねていた{{仮リンク|ジェラルド・フォーサイス|en|Gerald Forsythe}}([[フォーサイス・レーシング]])、{{仮リンク|ポール・ジェンティーロジー|en|Paul Gentilozzi}}({{仮リンク|ロケットスポーツ・レーシング|en|Rocketsports Racing}})、[[ケビン・カルコーベン]]([[KVレーシング・テクノロジー]])およびダン・ペティ(フォーサイス・レーシングの共同オーナー)の4名が連名でOWRS (Open Wheel Racing Series)という新団体を設立、カルコーベンがチェアマンとなる形で旧CARTの存続を目指す事になった。 こうしてCARTは[[2004年のチャンプカー・シーズン|2004年]]にOWRSに全ての資産を売却し、運営団体、名称としてのCARTは消滅。その後チャンプカー・ワールドシリーズ (CCWS) として再生を図っていたが、[[2007年のチャンプカー・シーズン|2007年]]のシリーズ開幕を前に、タイトルスポンサーであるフォードが「スポンサーシップが経営目標に合致していない」ことを理由に、同年1月26日にタイトルスポンサー契約の打ち切りを決めた。これらの影響に加え、アメリカ国内での[[モータースポーツ]]人気が[[NASCAR]]に集中し観客動員等の低下傾向が見られるようになったため、トニー・ジョージとケビン・カルコーベンの間でシリーズ合併の交渉が行われ、[[2008年のチャンプカー・シーズン|2008年シーズン]]からIRLとシリーズを統合することが決定(事実上IRLによる吸収合併であった)。プロモーターとの契約の関係で、同年4月20日に[[ロングビーチ市街地コース]]で行われるレースを最後にシリーズが終了した。 === インディカーとの統合 === チャンプカーの吸収合併により、チャンプカー側が開催権を保有していたロングビーチを始めとするロードコースの大イベントの多くや、トップチームの[[ニューマン・ハース・レーシング]]をはじめ、ロケットスポーツや[[デイル・コイン・レーシング]]などほとんどのチームやドライバーがインディカーへそのまま合流したが、「トニー・ジョージの経営方針への不服従」を直接の理由として、トップチームの一角であったフォーサイス・レーシングがチャンプカーと運命を共にする形でチーム自体を解散、[[HVMレーシング]]に「[[ミナルディ]]」の名称を貸与していた元F1チームオーナーで名称権保持者の[[ポール・ストッダート]]も、ジェラルド・フォーサイスと同様の理由でHVMから手を引き、アメリカのレース活動から去っていった。また、エンジンサプライヤーの[[コスワース]]とシャーシメーカーの[[パノス]]も、チャンプカーの消滅と共にそのままアメリカン・オープンホイールから撤退した。 なお、旧チャンプカーの一部の関係者が最後まで従属を拒み続けたトニー・ジョージは、インディ500の開催とIRLを運営する傍ら、(両シリーズの最大のライバルである)[[ストックカー]]の[[NASCAR]]に[[ブリックヤード400]]の開催を承認するなどの行動をとっており、NASCARを通じてCART/チャンプカーのオーバルレースの開催に間接的に影響力を行使できる立場であった。トニー・ジョージはまた、フォーミュラ1や[[ロードレース世界選手権]](MotoGP)をレーストラックを大幅に改修してまでインディアナポリスへ招聘、IRLにおいては{{仮リンク|ヴィジョン・レーシング|en|Vision_Racing}}を主催し継子の[[エド・カーペンター]]をメインドライバーに起用するという露骨な[[縁故主義]]を示した。結果としてIRLは2000年代初頭のCART全盛期には、インディ500を除くほとんどのレースイベントにおいて不入りに喘ぐ状況であった。1996年シーズンの時点でNASCARとCARTの全米視聴率はほぼ拮抗していたが、CARTの弱体化に伴いNASCARは全米最大の人気を持つモータースポーツとなり、シーズン統合後も未だインディ500を含むインディカーの人気はNASCARのそれに及ぶ回復を見せていない。レースジャーナリストの{{仮リンク|ゴードン・カービィ|en|Gordon Kirby}}はこうした状況を総括して、「トニー・ジョージの覇権の為ならば手段を選ばない露骨な経営方針と、CART/チャンプカーのレギュレーションやシーズン運営方針に対する主体性の無さ、その両者が繰り広げた不毛な抗争は、結果として(インディ500を含む)アメリカン・オープンホイールの人気を失墜させる原因となった。」「これらの事例は近代スポーツにおける最も自己破壊的な行為である。」と断じており<ref>{{cite news|title=Explaining modern sports' most self-destructive act|url=http://www.gordonkirby.com/categories/columns/archive/self-destructive_act.html|accessdate=2010-03-21|publisher=Gordon Kirby 2004-04}}</ref>、[[ニューヨーク・タイムズ]]は2009年のトニー・ジョージのインディアナポリスCEO辞任に際して、「アメリカン・オープンホイールを愛する純粋な米国人ファンにとっては、彼の辞任は余りにも遅きに失した。」と報じた<ref name="Chang">{{cite news|title=IndyCar President Tony George Resigns|date=July 1, 2009|url=http://wheels.blogs.nytimes.com/2009/07/01/indycar-president-tony-george-resigns/?pagemode=print|work=The New York Times|first=Richard S.|last=Chang}}</ref>。 ==概要== === 特徴 === シリーズの特徴としては、常設[[サーキット]](ロード)、[[公道コース]](ストリート)、[[オーバルトラック|オーバル]](末期は開催せず)の3種類のコースで行われ、満遍なくどのコースでも速さを求められるカテゴリーとなっていた。しかしIRLの台頭や、[[NASCAR]]を初めとする他カテゴリー統括団体によるオーバルトラック買収の影響により、オーバルレースは減少、のち消滅を余儀なくされ、またロードレースでも独立資本のサーキットが減少している事情などもあり、末期には他団体や特定メーカーの干渉を受けにくいストリートレースが、シリーズの中心を占めるようになっている状況だった。 エンジンは2.65リッターのシングルターボで、燃料としてガソリンではなく[[メタノール]]を使用するのが特徴(なおインディカーは[[2007年]]より[[エタノール]]燃料に転換している)。また、F1などで禁止されている[[ウイングカー]]構造のシャシを使用していた。マシン、エンジン、タイヤに関してはレギュレーション上基本的にはどのメーカーでも参戦できる事になっていたが、2002年の騒動により2003年よりエンジンはフォード([[コスワース]])、タイヤは[[ブリヂストン]]の独占供給となっていた。シャシーは[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]や[[レイナード]]、[[ローラ・カーズ|ローラ]]、[[スウィフト・エンジニアリング|スウィフト]]などが販売・供給しており、独自シャシーを採用するチームはペンスキーや[[シャパラル・カーズ|シャパラル]]など、ごく一部に限られていた。2002年のレイナード倒産により、一時ローラの独占状態となった。2007年からは[[パノス]]が新シャーシを独占供給することが定められ、車幅の切り詰めなど思い切った改正が行われた。 2005年シーズンからは、レース中合計60秒間だけエンジンパワーを増大させることができる「Push-to-Pass」ボタンや、本気のアタック時に使用するサイドウォール部分が赤く塗られたソフトタイヤ(通称「レッドタイヤ」)などの新機軸が導入された。 === 下位カテゴリ === ステップアップカテゴリーとして、過去に[[フォーミュラ3000|F3000]]に近いインディ・ライツ(2008年よりIRL主催の旧インディ・プロ・シリーズがこの名称に改称)、[[フォーミュラ3|F3]]に近い[[フォーミュラ・アトランティック|フォーミュラ・トヨタ・アトランティック]]の2カテゴリーによってCARTのフォーミュラピラミッドが形成されていたが、インディ・ライツは2001年をもって廃止され、以後フォーミュラ・アトランティックのみ運営された。なお、フォーミュラ・アトランティックは2006年よりタイヤが[[横浜ゴム]]、エンジンが[[マツダ]]・コスワースの供給となり、「ヨコハマ・プレゼンツ・チャンプカー・アトランティック・パワード・バイ・マツダ」として再出発が図られている。[[バッジネーム]]のみという形ではあるが、マツダにとっては久々にレース活動に復帰を果たした事になっていた。 同カテゴリーは、チャンプカーのシリーズ終了後も「アトランティック・チャンピオンシップ」の名称で引き続きOWRSによる運営が行われ、マツダ等のスポンサーも引き続きシリーズ運営に関わっていくことを表明していたが(ただしタイヤ供給はクーパーに交代した)<ref>[http://www.champcaratlantic.com/News/Article.asp?ID=3305 Cooper Tire & Rubber Company and Mazda Reaffirm Support for Cooper Tires Presents The Atlantic Championship Powered by Mazda - March 07, 2008]</ref>、アメリカ国内の景気低迷の影響から[[2009年]]を最後に一時休止状態となった(その後2012年に3シーズンぶりに復活し、2013年は休止されたが2014年からは再び継続的に開催されている)。 === 映画化 === [[2001年]]にはCARTを舞台とした[[シルベスター・スタローン]]の映画「[[ドリヴン]]」が制作されたが、本物のCARTドライバーやマシンが多数登場する一方で、ストーリーにおいて実際のCARTでは起こりえない事態が描かれている部分が多い(CARTで使用するメタノール燃料は容易に水で消火・分解が可能なため、映画の後半で起きるような雨の中での燃料漏れによる爆発は考えにくい、雨が降っているのにオーバルコースでレースを行っているなど)。これは、当初「ドリヴン」が[[フォーミュラ1|F1]]をテーマとして企画された映画だったため、CARTを舞台とすることに変更された後も当初の脚本の設定が残っていたことが原因ではないかと、一部の関係者{{誰2|date=2013年8月}}は指摘している。 === アジアへの誘致活動 === 一時期、日本では[[2007年]]以降のレース開催を目指して、[[北海道]][[小樽市]]では小樽グランプリ推進協議会というNPO団体が立ち上げられ、市街地コースを利用しての『小樽グランプリ』の誘致活動を行っていた。だが、グランプリ開催を前提とするデモランに使う道路が[[国土交通省|国交省]]により許可が降りずデモラン自体も無期限延期となり、さらに誘致を行っていたチャンプカーも消滅。資金が集まらなかったこともありその後小樽グランプリ推進協議会の公式ウェブサイトも消えており、活動は事実上頓挫した。 東南アジア圏では小樽の他に、[[大韓民国]]もチャンプカー誘致を企画し、2004年に[[ソウル特別市]]市街地コース、2005年と2006年に[[安山市]]に建設中のアンサンスピードウェイでの開催がイベントスケジュールに企画されたが、韓国側の開催計画の杜撰さからスケジュールが度々延期された果てに、いずれの年も開催中止という形で終わっている。 ==歴代チャンピオン== <table border="1" cellpadding="2" cellspacing="0"> <caption>'''ドライバーズ・チャンピオンシップ・チャンピオン'''</caption> <tr> <th style="background:#efefef;">年</th> <th style="background:#efefef;">チャンピオン</th> <th style="background:#efefef;">チーム</th> <th style="background:#efefef;">シャシー</th> <th style="background:#efefef;">エンジン</th> </tr> <tr><td>[[1979年のインディカー・シーズン|1979年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[リック・メアーズ]]</td><td>[[チーム・ペンスキー|ペンスキ―・レーシング]]</td><td>[[ペンスキー]]</td><td rowspan="9">[[コスワース]]-[[フォード・モーター|フォード]]</td></tr> <tr><td>[[1980年のインディカー・シーズン|1980年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[ジョニー・ラザフォード]]</td><td>[[シャパラル・カーズ|シャパラル・レーシング]]</td><td>[[シャパラル]]</td></tr> <tr><td>[[1981年のインディカー・シーズン|1981年]]</td><td rowspan="2">{{flagicon|USA}}リック・メアーズ</td><td rowspan="3">ペンスキ―・レーシング</td><td rowspan="3">ペンスキー</td></tr> <tr><td>[[1982年のインディカー・シーズン|1982年]]</td></tr> <tr><td>[[1983年のインディカー・シーズン|1983年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[アル・アンサー|アル・アンサーSr.]]</td></tr> <tr><td>[[1984年のインディカー・シーズン|1984年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[マリオ・アンドレッティ]]</td><td>[[ニューマン・ハース・レーシング]]</td><td>[[ローラ・カーズ|ローラ]]</td></tr> <tr><td>[[1985年のインディカー・シーズン|1985年]]</td><td>{{flagicon|USA}}アル・アンサーSr.</td><td>ペンスキ―・レーシング</td><td rowspan="2">[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]</td></tr> <tr><td>[[1986年のインディカー・シーズン|1986年]]</td><td rowspan="2">{{flagicon|USA}}[[ボビー・レイホール]]</td><td rowspan="2">[[トゥルー・スポーツ]]</td></tr> <tr><td>[[1987年のインディカー・シーズン|1987年]]</td><td>ローラ</td></tr> <tr><td>[[1988年のインディカー・シーズン|1988年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[ダニー・サリバン]]</td><td>ペンスキ―・レーシング</td><td rowspan="2">ペンスキー</td><td rowspan="5">[[シボレー]]</td></tr> <tr><td>[[1989年のインディカー・シーズン|1989年]]</td><td>{{flagicon|BRA}}[[エマーソン・フィッティパルディ]]</td><td>[[パトリック・レーシング]]</td></tr> <tr><td>[[1990年のインディカー・シーズン|1990年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[アル・アンサーJr.]]</td><td>[[ガレス=クラコ・レーシング]]</td><td rowspan="4">ローラ</td></tr> <tr><td>[[1991年のインディカー・シーズン|1991年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[マイケル・アンドレッティ]]</td><td>ニューマン・ハース・レーシング</td></tr> <tr><td>[[1992年のインディカー・シーズン|1992年]]</td><td>{{flagicon|USA}}ボビー・レイホール</td><td>[[レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング|レイホール=ホーガン・レーシング]]</td></tr> <tr><td>[[1993年のインディカー・シーズン|1993年]]</td><td>{{flagicon|GBR}}[[ナイジェル・マンセル]]</td><td>ニューマン・ハース・レーシング</td><td>コスワース-フォード</td></tr> <tr><td>[[1994年のインディカー・シーズン|1994年]]</td><td>{{flagicon|USA}}アル・アンサーJr.</td><td>ペンスキ―・レーシング</td><td>ペンスキー</td><td>[[イルモア]]</td></tr> <tr><td>[[1995年のインディカー・シーズン|1995年]]</td><td>{{flagicon|CAN}}[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]</td><td>[[チーム・グリーン|チーム・グリーン・レーシング]]</td><td rowspan="7">[[レイナード]]</td><td>コスワース-フォード</td></tr> <tr><td>[[1996年のインディカー・シーズン|1996年]]</td><td>{{flagicon|USA}}[[ジミー・バッサー]]</td><td rowspan="4">[[チップ・ガナッシ・レーシング]]</td><td rowspan="6">[[ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント|ホンダ]]</td></tr> <tr><td>[[1997年のCARTシーズン|1997年]]</td><td rowspan="2">{{flagicon|ITA}}[[アレッサンドロ・ザナルディ|アレックス・ザナルディ]]</td></tr> <tr><td>[[1998年のCARTシーズン|1998年]]</td></tr> <tr><td>[[1999年のCARTシーズン|1999年]]</td><td>{{flagicon|COL}}[[ファン・パブロ・モントーヤ]]</td></tr> <tr><td>[[2000年のCARTシーズン|2000年]]</td><td rowspan="2">{{flagicon|BRA}}[[ジル・ド・フェラン]]</td><td rowspan="2">ペンスキ―・レーシング</td></tr> <tr><td>[[2001年のCARTシーズン|2001年]]</td></tr> <tr><td>[[2002年のCARTシーズン|2002年]]</td><td>{{flagicon|BRA}}[[クリスチアーノ・ダ・マッタ]]</td><td>ニューマン・ハース・レーシング</td><td rowspan="5">ローラ</td><td>[[トヨタ自動車|トヨタ]]</td></tr> <tr><td>[[2003年のCARTシーズン|2003年]]</td><td>{{flagicon|CAN}}[[ポール・トレーシー]]</td><td>[[フォーサイス・レーシング|プレイヤーズ・フォーサイス・レーシング]]</td><td rowspan="5">コスワース-フォード</td></tr> <tr><td>[[2004年のチャンプカー・シーズン|2004年]]</td><td rowspan="4">{{flagicon|FRA}}[[セバスチャン・ボーデ]]</td><td rowspan="4">ニューマン・ハース・レーシング</td></tr> <tr><td>[[2005年のチャンプカー・シーズン|2005年]]</td></tr> <tr><td>[[2006年のチャンプカー・シーズン|2006年]]</td></tr> <tr><td>[[2007年のチャンプカー・シーズン|2007年]]</td><td>[[パノス]]</td></tr> </table> ==イベント== ===2006年シーズンのチャンプカー イベント=== ※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間) #[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]([[カリフォルニア州]])4/9 #[[ヒューストン]]([[テキサス州]])5/13 #[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]([[メキシコ]])5/21 #[[ミルウォーキー]]([[ウィスコンシン州]])6/4 #[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]([[オレゴン州]])6/18 #[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]([[オハイオ州]])6/25 #[[トロント]]([[カナダ]]・[[オンタリオ州]])7/9 #[[エドモントン]](カナダ・[[アルバータ州]])7/23 #[[サンノゼ]](カリフォルニア州)7/30 #[[デンバー (コロラド州)|デンバー]]([[コロラド州]])8/13 #[[モントリオール]](カナダ・[[ケベック州]])8/27 #[[ロード・アメリカ]]([[ウィスコンシン州]])9/24 #[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)]] [[オーストラリア]] 10/22 #[[メキシコシティ]]([[メキシコ]])11/5 ===2007年シーズンのチャンプカー イベント=== ※イベント、開催州、決勝日(日付は現地時間) #[[ラスベガス]]([[ネバダ州]])4/8 #[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]](カリフォルニア州)4/15 #[[ヒューストン]]([[テキサス州]])4/22 #ポートランド(オレゴン州)6/10 #クリーブランド(オハイオ州)6/24 #[[モントランブラン・リゾート|モントランブラン]](カナダ・[[ケベック州]])7/1 #トロント(カナダ・オンタリオ州)7/8 #エドモントン(カナダ・アルバータ州)7/22 #サンノゼ(カリフォルニア州)7/29 #[[エルクハートレイク]]([[ウィスコンシン州]])8/12 #[[ゾルダー]]([[ベルギー]]・[[リンブルフ州 (ベルギー)|リンブルフ州]])8/26 #[[アッセン]]([[オランダ]]・[[ドレンテ州]])9/2 #[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)]] [[オーストラリア]] 10/21 #メキシコシティ(メキシコ)11/11 #[[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]([[アリゾナ州]])12/2 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> === 注釈 === <references group="注"></references> ==関連項目== *[[インディカー・シリーズ]] *[[ドリヴン]] ==外部リンク== *[http://www.champcarworldseries.com チャンプカー公式ウェブサイト] {{チャンプカー・シリーズ}} {{モータースポーツ}} {{デフォルトソート:ちやんふかあわあるとしりいす}} [[Category:現存しない自動車レース]] [[Category:アメリカ合衆国のモータースポーツ大会]]
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NASCAR
NASCAR(ナスカー、National Association for Stock Car Auto Racing, 全米自動車競走協会)はフロリダ州 デイトナビーチに本部を置くアメリカ合衆国で最大のモータースポーツ統括団体であり、同団体が統括するストックカーレースの総称でもある。 統括団体としてのNASCARは、1948年にビル・フランス・シニアとエド・オットーによって設立された。== 概要 == NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。 NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。 カテゴリーはNASCARカップ・シリーズを頂点とするピラミッド構造となっている。NASCARカップ、そしてNASCARカップの年式落ちの車を使用するエクスフィニティ・シリーズ(Xfinity Series)、(2008年-2014年はネイションワイド・シリーズ、2007年まではブッシュシリーズ)、ピックアップトラックベースの車で争われるガンダー・アウトドアーズ・トラック・シリーズ(2009年から2018年まではキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ、2008年まではクラフツマン・トラック・シリーズ)の3カテゴリーは“三大シリーズ(Three Largest Series)”で全米のレース場を転戦し、全てのレースでテレビ中継がある。「三大カップ戦」という呼び方がファン・ジャーナリストの間で定着しているが、本来「カップ戦」というのは頂点の現モンスターエナジーカップのみに与えられる称号であり、英語でもそのような表現は存在しないので誤りである。 その下にはRegional Series(リージョナル シリーズ)として、昔のBuschシリーズマシンを使用するレギュレーションから始まったNASCAR K&N PRO SERIESがEastシリーズ(東海岸エリア)とWestシリーズ(西海岸エリア)の2つの地域に分かれて開催されており、7月のアイオワ・スピードウェイと8月のGateway Motorsports Park でEastシリーズとWestシリーズの合同レースが年に2度 開催される。Whelen Modified Tour(ウェレン モディファイド ツアー)も北シリーズと南シリーズとして開催されている。またインターナショナルシリーズとして、Pinty's Series(ピンティーズ)、PEAK MEXICO Series(ピーク・メキシコ)そしてWhelen Euro Series(ウェレン・ユーロ)までが、NASCAR Regional Seriesとして北米外で開催されている。 「Whelen All-American Series」と呼ばれるカテゴリー、Local Racing と総称される2005年現在は地域ごとの8カテゴリーが存在する。使用される車の細かいレギュレーションはカテゴリーによって異なることが多い。またARCA等NASCAR以外の競技団体が主催するストックカーレースも、その多くが実質的に3大シリーズ戦へのステップアップカテゴリーとして機能している。 通常NASCARに参戦するドライバーは各地域カテゴリーから徐々にステップアップするのが通例だが、中にはIRLやチャンプカー(旧CART)など、フォーミュラカーレースからの転身組も存在する。F1ドライバーではファン・パブロ・モントーヤ、ジャック・ヴィルヌーヴ、キミ・ライコネン、ナレイン・カーティケヤン、ネルソン・ピケJr.、インディカーからはダリオ・フランキッティ、ダニカ・パトリックが有名である。このうちモントーヤはネクステルカップ、ピケJr.はトラックシリーズのロードコースで勝利を挙げる成功を収めている。 NASCARのルーツは20世紀前半、主に広大な平地を有するアメリカ中部以南で行われていたアマチュアの自動車レースであり、さらにルーツを辿れば禁酒法時代に取り締まる警察車両から逃れるため、速い車を必要とした当時の "ならず者" に行き着くという説もある。直接の発祥となったのはフロリダ州のデイトナ・ビーチにて互いの腕とマシンを競い合うため、各地の実力者達が集って催されたストックカー・レースであった。やがて競技ルールの平定が求められるようになり、1947年に同地で全米自動車競争協会(NASCAR)が発足。翌年には早速公式レースが開催され、数日後には同協会の法人化への手続きも完了して、その後は同地域を中心に競技が行われ続けた。 1959年のデイトナ500初開催に多数の観客が詰め掛け、続く1960年代にはきわめて局所的ではあるがライブ中継が試みられていた。そして1969年 - 1970年にかけて競技車両はストックボディ(市販車)からパイプフレームへと移った。これによって軽量・高剛性になったことはもちろん、大きな安全性も得られた。1970年代初頭には煙草ブランドのウィンストンがNASCARの冠スポンサーへ付き、シリーズも近代的な形へと改編され、レース数の縮小、ショートトラックレースの排除などが行なわれた。レギュレーションの範囲内で車体も進化を重ね、よりパワフルなマシンが登場している。そして、そのモンスターマシンを駆るリチャード・ペティ達にいつしかアメリカ南部の若者は夢中となった。 1980年代へ入ってもNASCARは "カントリー" なイメージを払拭できずにいたが、それでも惹かれたファン達はデイル・アーンハートらのレースを観客席、あるいはリビングで固唾を呑み見守った。その後1979年にはウィンストン・カップ全戦のテレビ放映が開始、完全に興業の主体がテレビ放映へと移行する。それに伴って以後は都市部での視聴者拡大に対して運営側の強い意識が向けられた。ドライバー達にも幾度目かの世代交代が起こり、"都会っ子" ドライバーは伝統的な開催地にて度々熱心な親子のファンからブーイングを浴びつつも、テレビカメラを通して視聴する者達の応援を期待しながら走行を続けた。 近年は同シリーズにとって目下のライバルであったオープンホイール競技団体の分裂もあり、最高峰シリーズの看板スポンサーが通信企業(スプリント)に変わった現代でもNASCARの人気は増加傾向である。そして南部を沸かせた英雄の息子はメディアの発達もあり全米の子供達のアイドルとなって、さらには3世代のファンとドライバー達も登場した。しかし今日では数千万人の視聴者を満足させ続けるレギュレーションが必要不可欠となり、2004年からはファンの納得できるチャンピオンの誕生と、シーズン後半の消化試合をなくす目的でチェイス(2017年からプレーオフに名称変更)が導入されている。また安全面では2001年のデイトナ500以後、対策が積極的に思案されるようになった。 NASCARはインディカーと同じようにアメリカ独自のレースであり、ヨーロッパや日本のレースとは大きく異なっている。その主な理由は、多くのサーキットが、ヨーロピアンスタイルのロードコースではなく、アメリカンスタイルの楕円型をしたオーバルトラックであることに由来し、ロードコースでの開催は年間わずか2レースのみとなる。1周0.5マイル(約0.8 km)のショートオーバルから、2.66マイル(約4.3 km)のスーパースピードウェイのコースをひたすら超高速で周回する。オーバルサーキットの場合、その速度は各マシンのドラフティング効果も相まって時速300 km以上にも達する世界でも稀にみる超高速レースである。 誤解されがちであるが、NASCARマシンはマルチメイクである。メーカー・チームごと車両は組み立て・開発をするか、他チームから購入する。ただしレースの成り立ちがアマチュアによる市販車レースであったため、NASCARは車体製造のコスト高騰を極端に嫌う。そのため高価なチタンやカーボンファイバーの使用を禁止している。競技用四輪車としては非常に重く、レギュレーションによって最低重量は3,450ポンド (≒1,560 kg) と規定されており、そもそも前述のような特殊材料を使ってまで軽量化をするメリットがない。これはレースのイコールコンディション化に大きく貢献している。 しかし〝ストックカー〟という名前が付いているものの、それ以外の実態については、ワンオフのパイプフレームに金属外板を貼りつけ市販車を模した外観で、燈火類は無く、それに当たる部分はステッカーや塗装で表現、ドアも無く乗り降りはガラスは無く、乗車後保護ネットを張った窓部分から行うなど、市販車とは全く異なるレーシングマシンである。1950年代から1960年代にかけて、アメリカ車にはどの車種にも非常に高出力なエンジンを搭載したスポーツモデルが設定され、頂点のモデルとしてファストバックスタイルのマッスルカーが若者の人気を集めていた時代には、メーカーの販促の意味もあり市販車ほぼそのままの形態で参戦していたが、より高度なエアロダイナミクスを求めて大型の空力付加物の装着が試みられた1969年から1970年シーズンのエアロ・ウォーリア(英語版)と呼ばれる特殊モデルの台頭により、レース速度の高速化と車両価格の高騰が顕著となった事から、1971年シーズンからは空力付加物の制限とホモロゲーション(英語版)取得のための最低販売台数が大幅に引き上げられたため、膨大な開発費用が掛かるエアロカーは僅か2シーズンで姿を消した。同時期に発生した第一次石油危機の影響と自動車排出ガス規制の強化、若者向け自動車保険の懲罰的高騰などにより、1960年代のような有鉛ガソリンの使用を前提とするフルパワーエンジンのマッスルカーの市販が次第に難しくなった事情なども重なり、その後はパイプフレームに金属製カウルを架装し、レース専用エンジンを積む現在のような車体が主流となった。 タイヤはそれほどでもなく、アルミホイールやマグネシウムホイール等の軽量ホイールを使用せず、一般のアルミホイールよりも軽量に作られているNASCAR用スチールホイールを使用し、なおかつレーシングカーによく見られるセンターロックホイールではなく、装着を容易にするためにナットはあらかじめホイールに接着された昔ながらの5穴ホイールであったが、2022年シーズンから実装されたGen7carではセンターロックホイールが採用された。 リアサスペンションは長らく車軸式が一般的であったが、2022年以降カップ戦では独立懸架式が採用されるようになっている。 車検の際には「テンプレート」を使用して空力チェックを行うユニークな場面が見られる。これはかつてスモーキー・ユニック(1923年5月25日 - 2001年5月9日)という規定違反すれすれの行為を繰り返していた悪名高いエンジニアが、他のマシンより空力的に勝る一回り小さいマシンを走らせ失格となったというエピソードから始まっている。車輌ごとに決められたテンプレートをあてがうことにより、空力的な違反が無いか細かくチェックされる。 エンジンは近年では珍しい存在となりつつあるOHVを使用している。しかし、358立方インチ (≒約5,866 cc) のOHVエンジンは軽く10,000 rpm近くまで回り、840馬力以上を搾り出す。これはDOHCエンジンを20,000 rpm近くまで回したNAエンジン時代のF1エンジンと同様に、最先端の技術によって作られたレーシングエンジンであることを窺い知ることができる。設計の自由度についてはむしろF1よりも大きいという。 ギアボックスはG-Force製Hパターン4速MTが組み合わされ、コースごとにギアレシオの変更を行う。 供給はGM、フォードに加え、2000年代に入ってトヨタが積極的な参入姿勢を示しており、2001年からNASCARマシンであるにもかかわらずDOHCエンジン搭載車であるセリカで下位カテゴリーへの参入を開始したのを皮切りに、2004年からはクラフツマン・トラック・シリーズにタンドラで参戦している。タンドラについては本来4カムSOHCのV型エンジンを、わざわざOHVに改造して参戦している。2007年からはカムリでスプリントカップ・シリーズ、ネイションワイド・シリーズの両シリーズに参戦している。 2011年までは燃料供給にキャブレターを使用していたが、環境保護アピール等の要因から、スプリントカップシリーズでは2012年よりフリースケール・セミコンダクタとF1のマクラーレンの関連会社であるマクラーレン・エレクトロニック・システムズが開発した電子制御式の燃料噴射装置が導入された。ただしレース中にエンジンマッピングを書き換えるような行為は禁止されており、ドライバーの腕による燃費制御等の余地を残している。 2012年までは米ビッグスリーの一角であるクライスラーもダッジブランドで供給を行ってきたが、有力チームのペンスキーを同年限りで失うなど近年勢力の衰退が著しく、結果的に同年限りでスプリントカップ・シリーズ及びネイションワイド・シリーズから撤退することになった。 2021年から長年の5穴仕様から変更され、次世代カップカーでセンターロックホイールが採用される。 現在ではオーバルコースの外側やトラックによっては内側にも緩衝帯が設置されている。2001年デイトナ500でのデイル・アーンハートの死亡事故の後にはHANSの着用も義務付けられた。さらに2007年からは、カー・オブ・トゥモロー(CoT)と呼ばれる新型車がスプリントカップシリーズにおいて採用され2008年より全面移行、より安全性が強化された。 平均時速が高いデイトナ、タラデガの二箇所でレースが行われる場合、リストリクタープレートが装着される。これによって馬力は500馬力前後、レブリミットは7000rpm程度までに落ちる。 屋根にルーフフラップと言う空力ブレーキの設置が義務付けられている。これはスピンの際マシンが後ろ向きになると後ろ向きの空気の流れで立ち上がる小型の板で、この板が屋根から立つことにより車体上方の空気の流れを乱流にして揚力を小さくさせ、車体が浮き上がらないようにすることで、転倒やそれ以上の大事故となることを防ぐものである。 過去から現在まで、トヨタがほぼ唯一日本メーカーとして参戦している。トヨタは2000年にV6エンジンのセリカでグッディーズダッシュシリーズからNASCARデビューし、2003年にドライバーズタイトルを獲得。2004年に日本メーカーとして初めて3大シリーズ戦の一つクラフツマン・トラックシリーズにタンドラでステップアップし、2006年には初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。以降同シリーズでは2016年までの11年間に全メーカー中最多の9度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。 2007年からは最高峰のネクステルカップ・シリーズ、加えてネイションワイド・シリーズにもカムリで参戦を開始。ネイションワイド・シリーズでは2009年にドライバー・マニュファクチャラーズ、そして最高峰のスプリントカップ・シリーズでは2015年にドライバーズチャンピオン(カイル・ブッシュ)、2016年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。2016年はデイトナ500優勝(デニー・ハムリン)、エクスフィニティ・シリーズ及びキャンピング・ワールド・トラック・シリーズのマニュファクチャラーズタイトルも勝ちとったため、三大シリーズ同年制覇の快挙を達成した。 2019年はカップ戦で最終戦前にマニュファクチャラーズタイトルを決める圧倒的な速さで、最終戦を制したブッシュがトヨタの3度目のドライバーズタイトルも獲得した。 カイル・ブッシュのNASCAR史上初の2度の同一週末での3大シリーズ制覇は全てトヨタ車によって成し遂げられている。また、2016年にマーティン・トゥルーレックスJr.がコカ・コーラ600で全400周中392周、588マイルに渡ってラップリードを記録して勝利した時のマシンもトヨタ・カムリであった。 エクスフィニティは2019年にベース車両をカムリからGRスープラへと切り替えた。 日本人としては過去に鈴木誠一が1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)に掛けて、スポット参戦ながらもNASCAR Grand Americanシリーズのデイトナ戦に3年連続で参戦。1995年(平成7年)には桃田健史が NASCAR SuperTruck Series(現:キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)のシリーズ発足年にPhoenixで1戦参戦している。2000年(平成12年)には古賀琢麻がNASCAR Weekly Racing Series に参戦、シリーズ参戦選手の中でもっともアグレッシブだったドライバーに与えられるハードチャージャーアワードを受賞している。2002年(平成14年)からNASCAR K&N Pro Series-Westに参戦し、2017年よりフルシーズン参戦をしている。 2002年(平成14年)には福山英朗がウインストン・カップ(現:モンスターエナジー Cup シリーズ)にDover戦でデビューし、翌2003年(平成15年)にはLas Vegas、Sonoma戦で決勝進出し、日本人として計4戦のNASCAR カップ シリーズ レースキャリアを持っている。 現在は2003年(平成15年)から Whelen All-American Series に参戦を開始した尾形明紀が、NASCAR K&N PRO SERIES-EASTの経験を経て、2014年(平成26年)からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにスポット参戦している。また2017年から、欧州で開催されるNASCAR・ウィレン・ユーロシリーズに三浦健光がカムリで参戦している。 クラフツマン・トラック・シリーズなどにドライバーとして参戦していた服部茂章が、2008年からHRE(ハットリ・レーシング・エンタープライズ)を組織してチームとして参戦。2009年にはトヨタと日本政府観光局がスポンサーになってキャンピング・ワールド・トラックシリーズにスポット参戦した。 その後HREはNASCAR K&N PRO SERIES-EASTで優勝を取ったあと、2017年からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにフル参戦を開始。2018年にアトランタで初優勝を挙げると、同年日本人オーナーとして初となる3大シリーズチャンピオン獲得を達成した。 1996年・1997年に鈴鹿サーキット東側コース、1998年にツインリンクもてぎのオーバルコースでエキシビション戦の「NASCARサンダースペシャル」、1999年にツインリンクもてぎのオーバルで「NASCARウィンストンウェストシリーズ(NASCAR K&Nプロシリーズの前身)・コカコーラ500」が開催された。ジェフ・ゴードンやデイル・アーンハート、ダレル・ウォルトリップ、デイル・ジャレットといったスーパースターが来日した他、日本からも土屋圭市、織戸学、福山英朗、中谷明彦、脇田一輝、中路基敬が参戦した。
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2001年5月9日)という規定違反すれすれの行為を繰り返していた悪名高いエンジニアが、他のマシンより空力的に勝る一回り小さいマシンを走らせ失格となったというエピソードから始まっている。車輌ごとに決められたテンプレートをあてがうことにより、空力的な違反が無いか細かくチェックされる。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エンジンは近年では珍しい存在となりつつあるOHVを使用している。しかし、358立方インチ (≒約5,866 cc) のOHVエンジンは軽く10,000 rpm近くまで回り、840馬力以上を搾り出す。これはDOHCエンジンを20,000 rpm近くまで回したNAエンジン時代のF1エンジンと同様に、最先端の技術によって作られたレーシングエンジンであることを窺い知ることができる。設計の自由度についてはむしろF1よりも大きいという。 ギアボックスはG-Force製Hパターン4速MTが組み合わされ、コースごとにギアレシオの変更を行う。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "供給はGM、フォードに加え、2000年代に入ってトヨタが積極的な参入姿勢を示しており、2001年からNASCARマシンであるにもかかわらずDOHCエンジン搭載車であるセリカで下位カテゴリーへの参入を開始したのを皮切りに、2004年からはクラフツマン・トラック・シリーズにタンドラで参戦している。タンドラについては本来4カムSOHCのV型エンジンを、わざわざOHVに改造して参戦している。2007年からはカムリでスプリントカップ・シリーズ、ネイションワイド・シリーズの両シリーズに参戦している。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年までは燃料供給にキャブレターを使用していたが、環境保護アピール等の要因から、スプリントカップシリーズでは2012年よりフリースケール・セミコンダクタとF1のマクラーレンの関連会社であるマクラーレン・エレクトロニック・システムズが開発した電子制御式の燃料噴射装置が導入された。ただしレース中にエンジンマッピングを書き換えるような行為は禁止されており、ドライバーの腕による燃費制御等の余地を残している。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2012年までは米ビッグスリーの一角であるクライスラーもダッジブランドで供給を行ってきたが、有力チームのペンスキーを同年限りで失うなど近年勢力の衰退が著しく、結果的に同年限りでスプリントカップ・シリーズ及びネイションワイド・シリーズから撤退することになった。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2021年から長年の5穴仕様から変更され、次世代カップカーでセンターロックホイールが採用される。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在ではオーバルコースの外側やトラックによっては内側にも緩衝帯が設置されている。2001年デイトナ500でのデイル・アーンハートの死亡事故の後にはHANSの着用も義務付けられた。さらに2007年からは、カー・オブ・トゥモロー(CoT)と呼ばれる新型車がスプリントカップシリーズにおいて採用され2008年より全面移行、より安全性が強化された。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "平均時速が高いデイトナ、タラデガの二箇所でレースが行われる場合、リストリクタープレートが装着される。これによって馬力は500馬力前後、レブリミットは7000rpm程度までに落ちる。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "屋根にルーフフラップと言う空力ブレーキの設置が義務付けられている。これはスピンの際マシンが後ろ向きになると後ろ向きの空気の流れで立ち上がる小型の板で、この板が屋根から立つことにより車体上方の空気の流れを乱流にして揚力を小さくさせ、車体が浮き上がらないようにすることで、転倒やそれ以上の大事故となることを防ぐものである。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "過去から現在まで、トヨタがほぼ唯一日本メーカーとして参戦している。トヨタは2000年にV6エンジンのセリカでグッディーズダッシュシリーズからNASCARデビューし、2003年にドライバーズタイトルを獲得。2004年に日本メーカーとして初めて3大シリーズ戦の一つクラフツマン・トラックシリーズにタンドラでステップアップし、2006年には初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。以降同シリーズでは2016年までの11年間に全メーカー中最多の9度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2007年からは最高峰のネクステルカップ・シリーズ、加えてネイションワイド・シリーズにもカムリで参戦を開始。ネイションワイド・シリーズでは2009年にドライバー・マニュファクチャラーズ、そして最高峰のスプリントカップ・シリーズでは2015年にドライバーズチャンピオン(カイル・ブッシュ)、2016年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。2016年はデイトナ500優勝(デニー・ハムリン)、エクスフィニティ・シリーズ及びキャンピング・ワールド・トラック・シリーズのマニュファクチャラーズタイトルも勝ちとったため、三大シリーズ同年制覇の快挙を達成した。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2019年はカップ戦で最終戦前にマニュファクチャラーズタイトルを決める圧倒的な速さで、最終戦を制したブッシュがトヨタの3度目のドライバーズタイトルも獲得した。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カイル・ブッシュのNASCAR史上初の2度の同一週末での3大シリーズ制覇は全てトヨタ車によって成し遂げられている。また、2016年にマーティン・トゥルーレックスJr.がコカ・コーラ600で全400周中392周、588マイルに渡ってラップリードを記録して勝利した時のマシンもトヨタ・カムリであった。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エクスフィニティは2019年にベース車両をカムリからGRスープラへと切り替えた。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本人としては過去に鈴木誠一が1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)に掛けて、スポット参戦ながらもNASCAR Grand Americanシリーズのデイトナ戦に3年連続で参戦。1995年(平成7年)には桃田健史が NASCAR SuperTruck Series(現:キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)のシリーズ発足年にPhoenixで1戦参戦している。2000年(平成12年)には古賀琢麻がNASCAR Weekly Racing Series に参戦、シリーズ参戦選手の中でもっともアグレッシブだったドライバーに与えられるハードチャージャーアワードを受賞している。2002年(平成14年)からNASCAR K&N Pro Series-Westに参戦し、2017年よりフルシーズン参戦をしている。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)には福山英朗がウインストン・カップ(現:モンスターエナジー Cup シリーズ)にDover戦でデビューし、翌2003年(平成15年)にはLas Vegas、Sonoma戦で決勝進出し、日本人として計4戦のNASCAR カップ シリーズ レースキャリアを持っている。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "現在は2003年(平成15年)から Whelen All-American Series に参戦を開始した尾形明紀が、NASCAR K&N PRO SERIES-EASTの経験を経て、2014年(平成26年)からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにスポット参戦している。また2017年から、欧州で開催されるNASCAR・ウィレン・ユーロシリーズに三浦健光がカムリで参戦している。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "クラフツマン・トラック・シリーズなどにドライバーとして参戦していた服部茂章が、2008年からHRE(ハットリ・レーシング・エンタープライズ)を組織してチームとして参戦。2009年にはトヨタと日本政府観光局がスポンサーになってキャンピング・ワールド・トラックシリーズにスポット参戦した。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その後HREはNASCAR K&N PRO SERIES-EASTで優勝を取ったあと、2017年からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにフル参戦を開始。2018年にアトランタで初優勝を挙げると、同年日本人オーナーとして初となる3大シリーズチャンピオン獲得を達成した。", "title": "日本勢" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1996年・1997年に鈴鹿サーキット東側コース、1998年にツインリンクもてぎのオーバルコースでエキシビション戦の「NASCARサンダースペシャル」、1999年にツインリンクもてぎのオーバルで「NASCARウィンストンウェストシリーズ(NASCAR K&Nプロシリーズの前身)・コカコーラ500」が開催された。ジェフ・ゴードンやデイル・アーンハート、ダレル・ウォルトリップ、デイル・ジャレットといったスーパースターが来日した他、日本からも土屋圭市、織戸学、福山英朗、中谷明彦、脇田一輝、中路基敬が参戦した。", "title": "日本勢" } ]
NASCARはフロリダ州 デイトナビーチに本部を置くアメリカ合衆国で最大のモータースポーツ統括団体であり、同団体が統括するストックカーレースの総称でもある。 統括団体としてのNASCARは、1948年にビル・フランス・シニアとエド・オットーによって設立された。== 概要 == NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。
{{Infobox Sport governing body |assocname= National Association for Stock Car Auto Racing, Inc. |abbrev = NASCAR |logo=NASCAR logo 2017.svg |sport=[[ストックカー]] |founded = 1948年 |aff = |affdate = |region = |regionyear = | image = File:Green flag at Daytona.JPG | size = 280px | caption = 2015 デイトナ 500 スタート | category = | jurisdiction = {{USA}}<br />{{CAN}}<br />{{MEX}}<br />[[ヨーロッパ]] | year closed = | headquarters = [[ノースカロライナ州]][[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]]<br />[[フロリダ州]][[デイトナビーチ]]<br />[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]] | president = [[:en:Mike Helton|マイク・ヘルトン]] | chairman = [[:en:Brian France|ブライアン・フランス]] | key staff = |chiefexec = |replaced = |prevfounded = |url = Nascar.com |countryflag= |countryflag2= }} [[File:Jimmie Johnson, 2013 STP Gas Booster 500.jpg|thumb|250px|right|[[ホールデン・コモドア|シボレー・SS]](2013年)]] [[File:22 Joey Logano, 2013 STP Gas Booster 500.jpg|thumb|250px|right|[[フォード・フュージョン (アメリカ)|フォード・フュージョン]](2013年)]] [[File:TSM - Kyle Busch - 2015 - Stierch - 11.jpg|thumb|250px|right|[[トヨタ・カムリ]](2015年)]] '''NASCAR'''(ナスカー、'''National Association for Stock Car Auto Racing''', 全米自動車競走協会)は[[フロリダ州|フロリダ州 デイトナビーチ]]に本部を置く[[アメリカ合衆国]]で最大の[[モータースポーツ]]統括団体であり、同団体が統括する[[ストックカー]]レースの総称でもある。 統括団体としてのNASCARは、[[1948年]]に[[:en:Bill France Sr.|ビル・フランス・シニア]]と[[エド・オットー]]によって設立された。 == 概要 == NASCARは、かつては四輪市販車(ストックカー)をベースに改造を施した車両で行われたが、現在は市販車に似せた純レーシングカーを使用するレースであり、主に北米大陸で行われる独自のレースカテゴリーである。 カテゴリーは[[NASCARカップ・シリーズ]]{{efn2|[[2003年]]までは[[ウィンストン (たばこ)|ウィンストン]]カップ、2004年 - 2007年は[[スプリント・ネクステル|ネクステル]]カップ、[[2008年]] - [[2016年]]はスプリントカップ、[[2017]]-2019年はモンスターエナジーNASCARカップと年のタイトルスポンサーによって名称が異なる。}}を頂点とするピラミッド構造となっている。NASCARカップ、そしてNASCARカップの年式落ちの車を使用する[[エクスフィニティ・シリーズ]](Xfinity Series{{efn2|2008年-2014年は[[ネイションワイド・シリーズ]]、2007年まではブッシュシリーズ。}})、[[ピックアップトラック]]ベースの車で争われる[[ガンダー・アウトドアーズ・トラック・シリーズ]]{{efn2|2009年から2018年まではキャンピング・ワールド・トラック・シリーズ、2008年まではクラフツマン・トラック・シリーズ。}}の3カテゴリーは“三大シリーズ(Three Largest Series)”で全米のレース場を転戦し、全てのレースでテレビ中継がある。「三大カップ戦」という呼び方がファン・ジャーナリストの間で定着しているが、本来「カップ戦」というのは頂点の現モンスターエナジーカップのみに与えられる称号であり、英語でもそのような表現は存在しないので誤りである。 その下にはRegional Series(リージョナル シリーズ)として、昔のBuschシリーズマシンを使用するレギュレーションから始まったNASCAR K&N PRO SERIESがEastシリーズ(東海岸エリア)とWestシリーズ(西海岸エリア)の2つの地域に分かれて開催されており、7月のアイオワ・スピードウェイと8月のGateway Motorsports Park でEastシリーズとWestシリーズの合同レースが年に2度 開催される。Whelen Modified Tour(ウェレン モディファイド ツアー)も北シリーズと南シリーズとして開催されている。またインターナショナルシリーズとして、Pinty's Series(ピンティーズ)、PEAK MEXICO Series(ピーク・メキシコ)そしてWhelen Euro Series(ウェレン・ユーロ)までが、NASCAR Regional Seriesとして北米外で開催されている。 「Whelen All-American Series」と呼ばれるカテゴリー{{efn2|2005年現在はDivision I - IVの4つに分かれているが、各Divisionは同等のものという扱いであり、最もシリーズポイントを稼いだ者が全体のシリーズチャンピオンとなる}}、Local Racing と総称される2005年現在は地域ごとの8カテゴリーが存在する。使用される車の細かいレギュレーションはカテゴリーによって異なることが多い。またARCA等NASCAR以外の競技団体が主催するストックカーレースも、その多くが実質的に3大シリーズ戦へのステップアップカテゴリーとして機能している。 通常NASCARに参戦するドライバーは各地域カテゴリーから徐々にステップアップするのが通例だが、中には[[インディ・レーシング・リーグ|IRL]]や[[チャンプカー]](旧CART)など、[[フォーミュラカー]]レースからの転身組も存在する。F1ドライバーでは[[ファン・パブロ・モントーヤ]]、[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]、[[キミ・ライコネン]]、[[ナレイン・カーティケヤン]]、[[ネルソン・ピケJr.]]、インディカーからは[[ダリオ・フランキッティ]]、[[ダニカ・パトリック]]が有名である。このうちモントーヤはネクステルカップ、ピケJr.はトラックシリーズのロードコースで勝利を挙げる成功を収めている。 == 歴史 == === NASCARの誕生 === NASCARのルーツは[[20世紀]]前半、主に広大な平地を有するアメリカ中部以南で行われていたアマチュアの自動車レースであり、さらにルーツを辿れば[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]時代に取り締まる警察車両から逃れるため、速い車を必要とした当時の "ならず者" に行き着くという説もある{{efn2|イギリスの自動車番組[[トップ・ギア]]のシーズン15エピソード7にて、取材で発祥の地とされる[[ノースカロライナ州]]の[[ウィルケスボロ]]にあるアメリカ初のオーバルコースを訪れた[[ジェレミー・クラークソン]]が、市長らからそのような説明を受けている。}}。直接の発祥となったのは[[フロリダ州]]の[[デイトナビーチ|デイトナ・ビーチ]]にて互いの腕とマシンを競い合うため、各地の実力者達が集って催されたストックカー・レースであった。やがて競技ルールの平定が求められるようになり、[[1947年]]に同地で全米自動車競争協会(NASCAR)が発足。翌年には早速公式レースが開催され、数日後には同協会の[[法人]]化への手続きも完了して、その後は同地域を中心に競技が行われ続けた。 === シーズンの形成と車体の進化 === [[1959年]]の[[デイトナ500]]初開催に多数の観客が詰め掛け、続く[[1960年代]]にはきわめて局所的ではあるが[[生放送|ライブ中継]]が試みられていた。そして[[1969年]] - [[1970年]]にかけて競技車両はストックボディ(市販車)から[[フレーム形式 (自動車)#マルチチューブラーフレーム|パイプフレーム]]へと移った。これによって軽量・高[[剛性]]になったことはもちろん、大きな[[安全性]]も得られた。[[1970年代]]初頭には煙草ブランドのウィンストンがNASCARの冠[[スポンサー]]へ付き、シリーズも近代的な形へと改編され、レース数の縮小、ショートトラックレースの排除などが行なわれた<ref>[https://www.usatoday.com/story/sports/nascar/2017/08/30/old-nascar-tracks-downsizing-bowman-gray-south-boston/617685001/ Venerable old tracks endure after NASCAR Cup Series' departure]USA Today, 2017.8.30</ref>。レギュレーションの範囲内で車体も進化を重ね、よりパワフルなマシンが登場している。そして、そのモンスターマシンを駆るリチャード・ペティ達にいつしか[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]の若者は夢中となった。 === デイトナ・ビーチからお茶の間へ === [[1980年代]]へ入ってもNASCARは "[[田舎|カントリー]]" なイメージを払拭できずにいたが、それでも惹かれたファン達は[[デイル・アーンハート]]らのレースを観客席、あるいはリビングで固唾を呑み見守った。その後[[1979年]]にはウィンストン・カップ全戦のテレビ放映が開始、完全に興業の主体が[[テレビ]]放映へと移行する。それに伴って以後は[[都市]]部での[[視聴者]]拡大に対して運営側の強い意識が向けられた。ドライバー達にも幾度目かの世代交代が起こり、"都会っ子" ドライバーは伝統的な開催地にて度々熱心な親子のファンから[[ブーイング]]を浴びつつも、テレビカメラを通して視聴する者達の応援を期待しながら走行を続けた。 === エンターテイメント性の追求 === 近年は同シリーズにとって目下のライバルであったオープンホイール競技団体の分裂もあり、最高峰シリーズの看板スポンサーが通信企業([[スプリント・ネクステル|スプリント]])に変わった現代でもNASCARの人気は増加傾向である。そして南部を沸かせた英雄の息子はメディアの発達もあり全米の子供達のアイドルとなって、さらには3世代のファンとドライバー達も登場した。しかし今日では数千万人の視聴者を満足させ続けるレギュレーションが必要不可欠となり、[[2004年]]からはファンの納得できるチャンピオンの誕生と、シーズン後半の[[消化試合]]をなくす目的で[[モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズ#プレーオフ|チェイス]](2017年からプレーオフに名称変更)が導入されている。また安全面では[[2001年]]の[[デイトナ500]]以後、対策が積極的に思案されるようになった。 == 規格 == === コース === NASCARはインディカーと同じようにアメリカ独自のレースであり、ヨーロッパや日本のレースとは大きく異なっている。その主な理由は、多くのサーキットが、ヨーロピアンスタイルのロードコースではなく、アメリカンスタイルの[[楕円]]型をした[[オーバルトラック]]であることに由来し、ロードコースでの開催は年間わずか2レースのみとなる。1周0.5[[マイル]](約0.8 [[キロメートル|km]])のショートオーバルから、2.66マイル(約4.3 km)のスーパースピードウェイのコースをひたすら超高速で周回する。オーバルサーキットの場合、その速度は各マシンの[[スリップストリーム|ドラフティング]]効果も相まって時速300 km以上にも達する世界でも稀にみる超高速レースである。 === 車体 === 誤解されがちであるが、NASCARマシンは[[ワンメイク|マルチメイク]]である。メーカー・チームごと車両は組み立て・開発をするか、他チームから購入する。ただしレースの成り立ちがアマチュアによる市販車レースであったため、NASCARは車体製造のコスト高騰を極端に嫌う。そのため高価な[[チタン]]や[[炭素繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]]の使用を禁止している。競技用四輪車としては非常に重く、レギュレーションによって最低重量は3,450[[ポンド (質量)|ポンド]] (≒1,560 kg) と規定されており、そもそも前述のような特殊材料を使ってまで軽量化をするメリットがない{{efn2|参考として、F1では最低728 kg(ドライバーの体重を含む)、[[SUPER GT]]では最低1,020 kg(ドライバーを含まない)となっている。}}。これはレースのイコールコンディション化に大きく貢献している。 しかし〝ストックカー〟という名前が付いているものの、それ以外の実態については、ワンオフの[[フレーム形式 (自動車)#マルチチューブラーフレーム|パイプフレーム]]に金属外板を貼りつけ市販車を模した外観で、燈火類は無く、それに当たる部分はステッカーや塗装で表現、ドアも無く乗り降りはガラスは無く、乗車後保護ネットを張った窓部分から行うなど、市販車とは全く異なる[[レーシングカー|レーシングマシン]]である。[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて、[[アメリカ車]]にはどの車種にも非常に高出力なエンジンを搭載したスポーツモデルが設定され、頂点のモデルとして[[ファストバック]]スタイルの[[マッスルカー]]が若者の人気を集めていた時代には、メーカーの販促の意味もあり市販車ほぼそのままの形態で参戦していたが、より高度な[[エアロダイナミクス]]を求めて大型の[[エアロパーツ|空力付加物]]の装着が試みられた1969年から1970年シーズンの{{仮リンク|エアロ・ウォーリア|en|Aero Warriors}}と呼ばれる特殊モデルの台頭により、レース速度の高速化と車両価格の高騰が顕著となった事から、1971年シーズンからは空力付加物の制限と{{仮リンク|ホモロゲーション (モータースポーツ)|en|Homologation (motorsport)|label=ホモロゲーション|redirect=1}}取得のための最低販売台数が大幅に引き上げられたため、膨大な開発費用が掛かるエアロカーは僅か2シーズンで姿を消した。同時期に発生した[[第一次石油危機]]の影響と[[自動車排出ガス規制]]の強化、若者向け[[自動車保険]]の懲罰的高騰などにより、1960年代のような[[有鉛ガソリン]]の使用を前提とするフルパワーエンジンのマッスルカーの市販が次第に難しくなった事情なども重なり、その後はパイプフレームに金属製カウルを架装し、レース専用エンジンを積む現在のような車体が主流となった。 タイヤはそれほどでもなく、[[アルミホイール]]や[[マグネシウムホイール]]等の軽量ホイールを使用せず、一般のアルミホイールよりも軽量に作られているNASCAR用[[スチールホイール]]を使用し、なおかつレーシングカーによく見られる[[センターロックホイール]]ではなく、装着を容易にするためにナットはあらかじめホイールに接着された昔ながらの5穴ホイールであったが、2022年シーズンから実装されたGen7carではセンターロックホイールが採用された。 リアサスペンションは長らく車軸式が一般的であったが、2022年以降カップ戦では独立懸架式が採用されるようになっている。 [[車検]]の際には「テンプレート」を使用して空力チェックを行うユニークな場面が見られる。これはかつて[[スモーキー・ユニック]]([[1923年]]5月25日 - [[2001年]]5月9日)という規定違反すれすれの行為を繰り返していた悪名高い[[技術者|エンジニア]]が、他のマシンより空力的に勝る一回り小さいマシンを走らせ失格となったというエピソードから始まっている。車輌ごとに決められたテンプレートをあてがうことにより、空力的な違反が無いか細かくチェックされる。 === エンジン === エンジンは近年では珍しい存在となりつつある[[OHV]]を使用している。しかし、358[[立方インチ]] (≒約5,866 cc) のOHVエンジンは軽く10,000 [[Rpm (単位)|rpm]]近くまで回り、840馬力以上を搾り出す。これは[[DOHC]]エンジンを20,000 rpm近くまで回した[[自然吸気|NA]]エンジン時代の[[フォーミュラ1カー|F1]]エンジンと同様に、最先端の技術によって作られたレーシングエンジンであることを窺い知ることができる。設計の自由度についてはむしろF1よりも大きいという<ref>『SUPER GT file ver.8 技術こそ、生命線。』75ページ 三栄書房刊行 2021年9月20日閲覧</ref>。 ギアボックスはG-Force製Hパターン4速[[マニュアルトランスミッション|MT]]が組み合わされ、コースごとに[[歯車比|ギアレシオ]]の変更を行う。 供給は[[ゼネラルモーターズ|GM]]、[[フォード・モーター|フォード]]に加え、[[2000年代]]に入って[[トヨタ自動車|トヨタ]]が積極的な参入姿勢を示しており、[[2001年]]からNASCARマシンであるにもかかわらず[[DOHC]]エンジン搭載車である[[トヨタ・セリカ|セリカ]]で下位カテゴリーへの参入を開始したのを皮切りに、[[2004年]]からはクラフツマン・トラック・シリーズに[[トヨタ・タンドラ|タンドラ]]で参戦している。タンドラについては本来4カム[[SOHC]]のV型エンジンを、わざわざOHVに改造して参戦している。[[2007年]]からは[[トヨタ・カムリ|カムリ]]でスプリントカップ・シリーズ、ネイションワイド・シリーズの両シリーズに参戦している。 [[2011年]]までは燃料供給に[[キャブレター]]を使用していたが、環境保護アピール等の要因から、スプリントカップシリーズでは[[2012年]]より[[フリースケール・セミコンダクタ]]とF1の[[マクラーレン]]の関連会社である[[マクラーレン・エレクトロニック・システムズ]]が開発した電子制御式の[[燃料噴射装置]]が導入された。ただしレース中にエンジンマッピングを書き換えるような行為は禁止されており、ドライバーの腕による燃費制御等の余地を残している<ref>[http://www.nascar.com/news/120207/fuel-injection-opens-possibilities/index.html EFI opens a wealth of possibilities to competitors] - NASCAR・2012年2月7日</ref>。 [[2012年]]までは米ビッグスリーの一角である[[クライスラー]]も[[ダッジ]]ブランドで供給を行ってきたが、有力チームの[[チーム・ペンスキー|ペンスキー]]を同年限りで失うなど近年勢力の衰退が著しく、結果的に同年限りでスプリントカップ・シリーズ及びネイションワイド・シリーズから撤退することになった<ref>[https://www.as-web.jp/past/nascar%e5%8b%a2%e5%8a%9b%e5%9b%b3%e3%81%ab%e7%95%b0%e5%a4%89%e3%80%82%e3%83%80%e3%83%83%e3%82%b8%e3%81%8c%e4%bb%8a%e5%ad%a3%e9%99%90%e3%82%8a%e3%81%ae%e6%92%a4%e9%80%80 NASCAR勢力図に異変。ダッジが今季限りの撤退] - オートスポーツ・2012年8月8日</ref>。 === ホイール === 2021年から長年の5穴仕様から変更され、次世代カップカーで[[センターロックホイール]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/overseas/570450?all|title=ワNASCAR、2021年からの次世代カップカーでセンターロックホイールを採用|date=2020-03-03|work=as-web.jp|accessdate=2021-09-02}}</ref>が採用される。 === 安全対策 === [[ファイル:Restrictor-Plate-Rendering.png|right|thumb|NASCARで使用されるリストリクタープレート]] 現在ではオーバルコースの外側やトラックによっては内側にも緩衝帯が設置されている。2001年デイトナ500での[[デイル・アーンハート]]の死亡事故の後には[[HANS]]の着用も義務付けられた。さらに2007年からは、[[カー・オブ・トゥモロー]](CoT)と呼ばれる新型車がスプリントカップシリーズにおいて採用され2008年より全面移行、より安全性が強化された。 平均時速が高い[[デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ|デイトナ]]、[[タラデガ・スーパースピードウェイ|タラデガ]]の二箇所でレースが行われる場合、[[リストリクター]]プレートが装着される。これによって馬力は500馬力前後、レブリミットは7000rpm程度までに落ちる。 屋根にルーフフラップと言う[[空力ブレーキ]]の設置が義務付けられている。これはスピンの際マシンが後ろ向きになると後ろ向きの空気の流れで立ち上がる小型の板で、この板が屋根から立つことにより車体上方の空気の流れを[[乱流]]にして[[揚力]]を小さくさせ、車体が浮き上がらないようにすることで、転倒やそれ以上の大事故となることを防ぐものである。 == 用語、レース上の特徴 == ; コーション : クラッシュなどの要因によってレース中のトラック上に危険な状態がある場合、黄色い旗が振られるとともに全区間追い越し禁止となり、[[セーフティカー|ペースカー]]が導入され、ラップリーダー(その時点で1位の車)を先導する。 他カテゴリではフルコースコーションとも呼ばれるが、NASCARのレギュレーションではロードコースであっても特定区間のみのコーション(ローカルコーション)が存在しないため、単にコーションまたはイエローと呼ばれる。レースがあまりにも単調な場合、観客が落とした紙コップやスナック菓子の袋など些細な物でもコース清掃のためにコーションを発動する{{efn2|インディカーでも同様に採用されるルールだが、レース展開に応じてコーションが出されるのはNASCAR独自のものである。}}。これはリスタートの緊張感を含めたレースに変化を出すためである。逆にトップグループがアンダーグリーンピットし始めた場合では、相当鋭利でタイヤカットするような物が落ちなければ、混乱を避けるためにコーションを出さないという、レースの面白さを重視した出し方を行っている。 ; コンペディションコーション : レースウィーク中に雨などのトラブルにより走行周回が稼げない場合、決勝の序盤20周前後に予めオフィシャルより提示されるコーション。ピットイン自体は任意であるが、タイヤの摩耗などを確認するため4本交換+シャーシーアジャストを行うのが通例。これもレース終盤の接戦を演出するための措置である。 ; ラッキードッグパス : NASCARでは単独走行でタイムを稼ぐのは非常に難しいことから導入された救済措置。フリーパスとも呼ばれる。コーションが入る際、ラップダウン(周回遅れ)の最上位のマシンはリードラップ(トップと同一周回)の最下位へと戻される(ラップダウンの最上位が2周遅れの場合は1周遅れに戻る)。そのためラップリーダーの争いだけでなく、ラッキードッグパスを巡る争い、そしてラッキードッグパスを貰ってからの追い上げという3つの争いが激しくなり、エキサイティングなレース展開を更に盛り上げている。このルールを巧みに利用した例として、2009年第21戦[[ポコノ・レースウェイ|ポコノ]]がある。このレースで、トラブルを抱えた[[ジミー・ジョンソン (ドライバー)|ジミー・ジョンソン]]が3周遅れのほぼ最下位まで落ち込んだが、その後のラッキードッグパスを全て獲得し、最後のリスタートまでにリードラップに復帰し、結果13位に入った。 : 「ラッキードッグ」の名称はネーミングライツ([[命名権]])によるもので、かつて春の[[タラデガ・スーパースピードウェイ|タラデガ]]の冠スポンサーであったアメリカの家電量販店チェーン、アーロンズ(Aaron's)のマスコットキャラクターの名前である。 ; リスタート : コーション中の作業が終了するとリスタートとなる。スタート/フィニッシュラインの手前に設けられたリスタートゾーンにリーダーが進入すると同時にグリーンフラッグが振られ、レース再開となる。ただし、リーダーがスタート/フィニッシュラインを超える前に前車を追い越したドライバーにはペナルティが課せられる。なお、リスタートゾーンにもネーミングライツが付けられており、2017年シーズンは春のタラデガの冠スポンサーでもあるアメリカの損害保険会社[[GEICO|ガイコ]](GEICO)が保有している : コーション明けのリスタートは「アウトラインにトップと同一周回、インラインに周回遅れのマシン」という整列で行われるが残り周回数が1桁の時には全員順位関係無しに1列で整列となる。リスタート直後は混乱からクラッシュ→再度コーションが起きやすい事から、インラインで見た目上のトップを押さえたままコーションが発生すれば周回遅れを挽回することができ、逆転のチャンスが生まれることになり、上記のラッキードッグパス同様にエキサイティングなレースを演出している。 : 2009年第14戦ポコノよりルールが変更になり「アウトラインに奇数順位、インラインに偶数順位、並び順はラップリード車→ラップダウン車へどの周回数でも整列し、1位のドライバーはアウトライン/インラインの選択が可能」というスタイルに変更になった。これにより特にレース終盤での上位によるデッドヒートを演出されるようになった。 ; ピット関連 : コーション中、ピットレーン開放直後の周回はリードラップ(リーダーと同一周回)、1周後にラップダウン(周回遅れ)のマシンが入れるようになるが、レース序盤でのコーションではラップダウンが少なくほぼ全車が入ることになり大混乱をきたす。そのためピットボックスへの入り方などドライバーサイド、ピットクルーの素早さなどクルーサイド両方の腕が要求される。また、コーションが出ないままでのピットイン(アンダーグリーンピット)ではピット作業のミスが大きな痛手となることから、さらにピットワークの重要さが増す。ピット戦略においても全てのタイヤを交換する「4タイヤチェンジ」、左右いずれかの2本を交換する「2タイヤチェンジ」、燃料補給のみ行う「スプラッシュ」など様々な作戦をとることができる。 ; ウェーブアラウンド : 前述のとおり、コーション中のピットインは、まずリードラップが入り、次の周にラップダウンがピットインする。このとき、ラップダウンの車がピットに入らなかった場合、周回遅れにもかかわらず、ペースカーとリーダーの間にいることになる。これらの車をリスタートの1周前にペースカーを追い抜いて隊列の最後尾に誘導する措置をウェーブアラウンドという。これにより、隊列の最後尾にはなるものの、ほぼ1周分の遅れを取り戻すことになるが、ウェーブアラウンドを受けた車は当該コーション中にピットに入ることはできない。 :リーダー(先頭車両)がステイアウトした場合はウェーブアラウンドは発動せず、ラップダウン車はリードラップカーの後方へと後退させられる。 ; グリーン・ホワイト・チェッカー : 残り周回数が少ない場合、レースアクシデントによりコーション中にフィニッシュとなるような事態となってもアンダーイエローフィニッシュとはせず「グリーンフラッグでレースリスタート→次の周回でホワイトフラッグが振られファイナルラップへ→チェッカーフラッグでフィニッシュ」となるようレース自体が延長される。最後の最後の差し合いを演出するための措置。2009年までは延長は1度だけであったが、2010年からホワイトフラッグが振られる前に再度コーションになった場合3回まで再延長されることとなった。また[[キャンピングワールド・トラックシリーズ]]では3回という制限無しに、ホワイトフラッグが振られるまで再延長される。 ; NASCARオーバータイム : 前述のグリーン・ホワイト・チェッカーをさらに整理し、2016年シーズンより導入された延長ルール<ref>{{cite web|url=http://www.nascar.com/en_us/news-media/articles/2016/2/11/fast-facts-nascar-procedural-changes-2016.html|title=FAST FACTS FOR NASCAR'S 2016 PROCEDURAL CHANGES|work=NASCAR.com|publisher=|date=2016-02-11|accessdate=2017-06-08}}</ref>。3大シリーズすべてに適用される。 : 残り2周のリスタート後、アンダーグリーンで先頭車両がオーバータイムラインを通過(クリーンリスタート)すれば、グリーン・ホワイト・チェッカー成立となり、ファイナルラップにホワイトフラッグが振られてレースは残り1周で成立する。ただし、オーバータイムライン通過前にコーションが発生すれば、改めてリスタートが試みられる。回数の制限はない。 : グリーン・ホワイト・チェッカーが成立した後にレースアクシデントが起これば、イエローチェッカーもしくはレッドチェッカーでレース終了となる。 : オーバータイムラインの位置はトラックによって異なるが、概ねオーバルトラック半周後付近に設定されていた。 2018年からは全トラック一律でスタート/フィニッシュライン上にオーバータイムラインが設定されている。 ; ビッグ・ワン : レース中に発生するクラッシュの中でも、特に多数のマシンが巻き込まれる多重クラッシュを指す名称。この場合クラッシュした複数のマシンによりコースが完全に塞がれてしまうことが多く、コーションではなくレッドフラッグ(レース中断)となることも少なくない。またフィニッシュ間際でビッグ・ワンが発生した場合は、前述のグリーン・ホワイト・チェッカーを適用せず、クラッシュ直後の黄旗提示時点での順位を最終順位とすることがある<ref>[https://www.as-web.jp/past/nascar%e3%82%bf%e3%83%a9%e3%83%87%e3%82%ac%ef%bc%9a%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%ab%e7%9b%ae%e5%89%8d%e3%81%ab%e3%83%93%e3%83%83%e3%82%b0%e3%83%af%e3%83%b3%e7%99%ba%e7%94%9f NASCARタラデガ:ゴール目前に“ビッグワン”発生] - オートスポーツ・2012年10月9日</ref>。 ; オーナーズチャンピオンシップ : NASCAR三大シリーズ戦独自の選手権。モンスターエナジーカップのドライバーは、同じ週に開催される下位のXfinityやトラックシリーズに同時エントリーすることが多く、なかには[[カイル・ブッシュ]]の様に同一週の三大シリーズ戦全てで勝ってしまう猛者もいる<ref>[https://www.as-web.jp/overseas/153211| NASCAR第24戦:カイル・ブッシュがシリーズ初の偉業達成。トヨタはトップ4独占]</ref>。そうしたトップドライバーたちの参戦で若手ドライバーの活躍を妨げることがないよう2011年に設定された。車両の持ち主(オーナー)にドライバーと同じだけポイントが入る。この選手権設定と同時に、ドライバーはドライバーズタイトルを争うシリーズを三大シリーズから一つだけしか選べなくなった。<ref>[http://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/nascar/whats.html]</ref> == その他 == * 数少ない海外開催の一例として、過去には[[1996年]]と[[1997年|97年]]に[[鈴鹿サーキット]]でロードレースが開催されたこともある。 * また、[[ツインリンクもてぎ]]では、1998/11/20〜22 に NASCAR THUNDER SPECIAL MOTEGI Coca−Cola 500, 1999/11/18〜20 に NASCAR Winston West Series Coca-Cola 500が開催された。 * 一人のドライバーに対して年間で十数台の車体が供給される(車体一台の値段は1500万円前後、これはレーシングカーとしては格安の値段)。 * アメリカ陸軍の大型輸送ヘリ[[CH-47 (航空機)|CH-47]]が車両を運ぶこともある。 * オーバルコース向けのセッティングはスタッガーと呼ばれる。左へ曲がりやすくするために車高・重心の左右バランスが大きくずれているため、直線部分でも常にハンドルを保持する必要がある。 * 改造した市販車をベースとしたレース車両を使っていることから、スポンサー企業の[[ロゴ・マーク|ロゴ]]がレース車両のボンネットを飾っている。スプリントカップにエントリーしている中には、アメリカの[[陸軍州兵]](Army National Guard名義)がメインスポンサーとなっている車両も存在する<ref>[http://www.nascar.com/news/120817/hendrick-national-guard-release/index.html National Guard extends sponsorship of No. 88] - NASCAR・2012年8月17日</ref>。かつては[[アメリカ軍]]の主要五軍全てがそれぞれメインスポンサーを務める車両が存在したが<ref>[https://www.huffpost.com/entry/navy-cancels-as-a-nascar_b_111575 Navy Cancels as a NASCAR Sponsor; With This Economy, Who's Next?] - HuffingtonPost・2008年7月9日</ref>、[[アメリカ海軍|海軍]]は[[2008年]]<ref>[http://www.navytimes.com/news/2008/07/navy_nascar_recruiting_071108w/ Navy puts brakes on NASCAR sponsorship] - NavyTimes・2008年7月11日</ref>、[[アメリカ陸軍|陸軍]]は[[2012年]]<ref>[http://usatoday30.usatoday.com/sports/motor/nascar/story/2012-07-10/Army-wont-return-to-NASCAR-in-2013/56126666/1 U.S. Army to discontinue NASCAR sponsorship in 2013] - USA Today・2012年7月10日</ref>を最後にスポンサーを撤退するなど、撤退が相次いでいる。 * 2021年10月2日、アラバマ州タラデガで開催されたレースでブランドン・ブラウンが優勝。このインタビューの際にレポーターが「観客がレッツゴー・ブランドンと叫んでいますよ」と振ったが、実際の映像では観客はFから始まる四文字の熟語を用いてくそったれ[[ジョー・バイデン]]」と叫んでいた。このため共和党支持者を中心に「レッツゴー・ブランドン」が大統領への不満を意味する隠語として用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://washingtontimes.jp/2021/10/15/4819/ |title=反バイデン「レッツゴー、ブランドン」-右派の間で大流行 |publisher=ワシントンポスト日本語版 |date=2021-10-15 |accessdate=2021-11-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/business/35179012.html |title=反バイデン大統領の俗語を機内放送か、内部調査開始 |publisher=CNN |date=2021-11-04 |accessdate=2021-11-09}}</ref>。 == 日本勢 == === 日本メーカー === [[File:Darrell Wallace Jr Kyle Busch Motorsports Toyota Rockingham 2013.jpg|200px|thumb|right|[[キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ]]の[[トヨタ・タンドラ]]]] [[File:18 Daniel Suarez 2015 Road America.jpg|200px|thumb|right|[[エクスフィニティ・シリーズ]]の[[トヨタ・カムリ]]]] 過去から現在まで、[[トヨタ自動車|トヨタ]]がほぼ唯一日本メーカーとして参戦している。トヨタは2000年にV6エンジンの[[トヨタ・セリカ|セリカ]]でグッディーズダッシュシリーズからNASCARデビューし、2003年にドライバーズタイトルを獲得。2004年に日本メーカーとして初めて3大シリーズ戦の一つクラフツマン・トラックシリーズに[[タンドラ]]でステップアップし、2006年には初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。以降同シリーズでは2016年までの11年間に全メーカー中最多の9度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。 2007年からは最高峰の[[ネクステルカップ|ネクステルカップ・シリーズ]]、加えて[[ネイションワイド・シリーズ]]にも[[トヨタ・カムリ|カムリ]]で参戦を開始。ネイションワイド・シリーズでは2009年にドライバー・マニュファクチャラーズ、そして最高峰の[[スプリントカップ・シリーズ]]では2015年にドライバーズチャンピオン([[カイル・ブッシュ]])、2016年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。2016年は[[デイトナ500]]優勝([[デニー・ハムリン]])、[[エクスフィニティ・シリーズ]]及び[[キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ]]のマニュファクチャラーズタイトルも勝ちとったため、三大シリーズ同年制覇の快挙を達成した。 2019年はカップ戦で最終戦前にマニュファクチャラーズタイトルを決める圧倒的な速さで、最終戦を制したブッシュがトヨタの3度目のドライバーズタイトルも獲得した。 [[カイル・ブッシュ]]のNASCAR史上初の2度の同一週末での3大シリーズ制覇は全てトヨタ車によって成し遂げられている<ref>[http://www.as-web.jp/overseas/153211?all NASCAR第24戦:カイル・ブッシュがシリーズ初の偉業達成。トヨタはトップ4独占]</ref>。また、2016年に[[マーティン・トゥーレックス・ジュニア|マーティン・トゥルーレックスJr.]]が[[コカ・コーラ600]]で全400周中392周、588マイルに渡ってラップリードを記録して勝利した<ref>{{cite web|url=http://racing-reference.info/race/2016_Coca-Cola_600/W|title=2016 Coca-Cola 600|work=Racing-Reference|publisher=USA Today Sports Media Group|accessdate=May 20, 2017}}</ref>時のマシンもトヨタ・カムリであった。 エクスフィニティは2019年にベース車両をカムリから[[GRスープラ]]へと切り替えた。 === 日本人ドライバー === 日本人としては過去に[[鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一]]が[[1969年]]([[昭和]]44年)から[[1971年]](昭和46年)に掛けて、スポット参戦ながらもNASCAR Grand Americanシリーズのデイトナ戦に3年連続で参戦。[[1995年]]([[平成]]7年)には[[桃田健史]]が NASCAR SuperTruck Series(現:キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)のシリーズ発足年にPhoenixで1戦参戦している。[[2000年]]([[平成]]12年)には[[古賀琢麻]]がNASCAR Weekly Racing Series に参戦、シリーズ参戦選手の中でもっともアグレッシブだったドライバーに与えられるハードチャージャーアワードを受賞している。[[2002年]]([[平成]]14年)からNASCAR K&N Pro Series-Westに参戦し、2017年よりフルシーズン参戦をしている。 [[2002年]](平成14年)には[[福山英朗]]が[[モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズ|ウインストン・カップ]](現・モンスターエナジー Cup シリーズ)にDover戦でデビューし、翌[[2003年]](平成15年)にはLas Vegas、Sonoma戦で決勝進出し、日本人として計4戦のNASCAR カップ シリーズ レースキャリアを持っている。 現在は[[2003年]](平成15年)から [[:en:Whelen All-American Series|Whelen All-American Series]] に参戦を開始した[[尾形明紀]]が、NASCAR K&N PRO SERIES-EASTの経験を経て、[[2014年]](平成26年)から[[キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ]]にスポット参戦している。また2017年から、欧州で開催されるNASCAR・ウィレン・ユーロシリーズに三浦健光がカムリで参戦している。 === 日本人チームオーナー === [[キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ|クラフツマン・トラック・シリーズ]]などにドライバーとして参戦していた[[服部茂章]]が、[[2008年]]からHRE(ハットリ・レーシング・エンタープライズ)を組織してチームとして参戦。2009年にはトヨタと日本政府観光局がスポンサーになってキャンピング・ワールド・トラックシリーズにスポット参戦した。 その後HREはNASCAR K&N PRO SERIES-EASTで優勝を取ったあと、2017年からキャンピング・ワールド・トラック・シリーズにフル参戦を開始。2018年にアトランタで初優勝を挙げると、同年日本人オーナーとして初となる3大シリーズチャンピオン獲得を達成した。 === 日本開催 === 1996年・1997年に[[鈴鹿サーキット]]東側コース、1998年に[[ツインリンクもてぎ]]のオーバルコースでエキシビション戦の「NASCARサンダースペシャル」、1999年にツインリンクもてぎのオーバルで「NASCARウィンストンウェストシリーズ(NASCAR K&Nプロシリーズの前身)・[[コカコーラ]]500」が開催された。[[ジェフ・ゴードン]]や[[デイル・アーンハート]]、ダレル・ウォルトリップ、デイル・ジャレットといったスーパースターが来日した他、日本からも[[土屋圭市]]、[[織戸学]]、[[福山英朗]]、[[中谷明彦]]、脇田一輝、中路基敬が参戦した<ref>[http://www.driveraverages.com/nascar/race.php?sked_id=1996106 NASCAR Race Results at Suzuka East - Nov 24, 1996]、[http://www.driveraverages.com/nascar/race.php?sked_id=1997106 NASCAR Race Results at Suzuka East - Nov 23, 1997]</ref><ref>[http://www.twinring.jp/result_m/1999/big/1118_1p.html Result 1999 NASCAR Winston West Series Coca-Cola 500 ]、[http://www.twinring.jp/result_m/1998/big/1122_1f.html 1998 NASCAR THUNDER SPECIAL MOTEGI Coca-Cola 500]</ref>。 == 放送局(メディア) == ; 日本国内 :2003年までは[[GAORA]]にて放送されていた。 :2004年から[[日テレジータス]]が、カップシリーズの全戦(36戦)及びノンタイトル戦2戦({{仮リンク|アドバンス・オートパーツ・クラッシュ|en|Advance Auto Parts Clash}}、[[NASCARオールスターレース]])、計38戦の放送を行っていた。そのうち、開幕戦の[[デイトナ500]]と最終戦の[[フォード・エコブースト400]]は生中継で初回オンエアを実施していた。しかし、2019年12月に来期(2020年)の放映権を取得しないことを発表。16年にわたる放送に終止符を打った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.autocar.jp/news/2020/01/01/456943/|title=【3つの原因】NASCARやインディ なぜアメリカでモータースポーツが地盤沈下しているのか|accessdate=2020年2月17日|publisher=AUTOCAR JAPAN(2020年1月1日作成)}}</ref>。 :2023年8月13日のブリックヤード200は[[小林可夢偉]]のスポット参戦が決まったことを受け、GAORAにて生中継された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gaora.co.jp/motor/3761610 |title=【小林可夢偉 電撃参戦】NASCARカップ・シリーズ2023 |publisher=株式会社GAORA |accessdate=2023-07-03 }}</ref>。同局でのNASCAR生中継は20年ぶり、日本国内では4年ぶりとなる。 :また、毎戦トヨタが日本語版のレースレポートをリリースしている。 ; アメリカ本国 :[[フォックス放送|FOX]]・[[NBC]]と同国大手の放送局が持ち回りで放送を担当しており、近年ではスポーツニュース番組等でも連日話題に取りあげられる。公式[[ウェブサイト]]や[[スマートフォン]]でも情報を得られるサービスが積極的に展開されている。 ; 全世界 : 2017年より公式アプリ「NASCAR TrackPass」にて全世界向けにライブ配信を行っていたが、2022年限りで終了となった<ref>{{Cite news |title=From F1 TV to WRC+: Assessing the leading OTT platforms in motorsport |url=https://www.sportspromedia.com/analysis/f1-tv-wrc-motorsport-tv-indycar-live-motogp-videopass-nascar-trackpass-ott/?zephr_sso_ott=WExD93 |newspaper=SportsPro Media |date=2022-11-28 |accessdate=2023-03-09 }}</ref>。現在は公式YouTubeチャンネルにて「Full Race Replay」と称してレース終了から10日前後に録画配信されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[シルエットタイプカー]] * [[ウィンストン・ミリオン]] * [[シャーロット (ノースカロライナ州)]] - NASCARの有力チームのほとんどが本拠地としており「NASCARの[[聖地]]」の異名を取る。 * [[マイク・グリーンウェル]] - NASCARのドライバーで、元[[阪神タイガース]]の選手。 * [[富士スピードウェイ]] - 元々極東地域でのNASCAR開催を目的に作られたサーキットで、旧社名「日本ナスカー」にその名残が見られる。 * [[カーズシリーズ]] - 本作の[[ピストン・カップ]]はNASCARをモデルにしている。<ref>但し[[カーズ2]]は除く。 </ref> * [[三浦清一郎]] - [[岳父]]のアルヴィン・ホーキンスがNASCARの初フラッグマン。ホーキンス家はNASCAR設立者ビル・フランシスとともに1949年に[[ウィンストン・セーラム]]の市立スタジアム([[:en:Bowman Gray Stadium]])でショートトラックレースの開催を始め、1958年以降はNASCARのトップティアとしてレースを開催し、殿堂入りドライバーを多数輩出した老舗コースだったが、1972年の協会改正時に公認を外れた。 == 外部リンク == {{Commons category|NASCAR}} * [http://www.nascar.com/ NASCAR Online 公式サイト(英語版)] * [http://www.nascar.com/en_us/xfinity-series.html エクスフィニティ・シリーズ公式サイト(英語版)] * [http://www.myspeedwayracer.com/ 現在のナスカー公認サイト MySpeedwayRacer(英語版)] * [http://www.akinoriogata.com/ 日本人NASCARレーサー 尾形明紀公式サイト] *[http://www.popularmechanics.com/automotive/motor_sports/1336277.html NASCAR Technology] – from PopularMechanics.com *[http://www.racing-reference.info/index.jsp Results of Every Race in NASCAR History at Racing-Reference.info] *[http://videos.espn.com/car-racing/nascar/nascar.htm NASCAR Video on ESPN Video Archive] *[http://www.shavemagazine.com/cars/090601 All About NASCAR] *[http://www.sightseebyspace.com/browse_by.php?category=NASCAR%20Tracks NASCAR Tracks Viewed from Space - Satellite Photography] {{NASCAR}} {{モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズ}} {{エクスフィニティ・シリーズ}} {{ガンダー・アウトドアーズ・トラック・シリーズ}} {{モータースポーツ}} {{Normdaten}} {{Motorsport-stub}} {{DEFAULTSORT:なすか}} [[Category:NASCAR|*]] [[Category:アクロニム|NASCAR]]
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インディカー・シリーズ
インディカー・シリーズ(IndyCar Series)は、IndyCarが主催するモータースポーツのカテゴリー。フォーミュラカー(オープンホイール)を使用したレースでは北米最高峰に位置する。 現在、アメリカ合衆国を中心に転戦しているが、2003年から2011年までは日本でも開催されていた。 1994年、インディ500を開催するインディアナポリス・モーター・スピードウェイ (IMS) の社長であったトニー・ジョージ(英語版)が、インディ500だけでなく自らが主催するシリーズを立ち上げたいために、1996年よりインディ・レーシング・リーグ (IRL)を発足させることを表明。1996年にはCART(後のチャンプカー・ワールド・シリーズ)から分離独立し、CARTやF1と同様、オープンホイールマシンでチャンピオンシップを争うレースとして発足した。 インディ500を頂点に据え、オーバルを中心にロード/ストリートコースを組み合わせたスケジュールとなっている(2004年まではオーバルコースレースのみ)。発足初年はCARTのマシンを使用していたが、1997年以降は独自のレギュレーションにより運営。当初はCARTに比べマイナーなカテゴリーであったが、2003年よりホンダ、トヨタが揃ってCARTよりIRLへ移籍表明を行ってからはそれまでの有力CART参戦ドライバー、チームも挙って移籍に追随し、一気に北米フォーミュラーレースのメジャーへと取って変わった。これも伝統のインディ500を持つ強みからである。 同年、トップカテゴリーの名称を「インディカー・シリーズ」に変更、IRLはFIAのように運営組織の名称として残された。 日本でもそれまで1998年より毎年栃木県茂木町のツインリンクもてぎで開催されてきたCARTのレースを2003年よりIRLに変更し、インディジャパン300として開催。これによりIRLの初のアメリカ以外での開催進出となった。 また、下位カテゴリーとしてインディ・ライツ(2002年 - 2005年までは「インフィニティ・プロシリーズ」、2005年以降は「インディ・プロシリーズ」)が形成され、インディカーへのステップアップカテゴリーとしてIRLの下に運営されている。 2008年シーズンからCARTとシリーズを統合した。実際には旧チャンプカーのチームに無償でエンジン・シャシー等を供給する形となったため、事実上IRL側がチャンプカー側を吸収する形となった。 2010年から2013年にかけて、アパレル・ブランドのアイゾッド(IZOD)がシリーズ冠スポンサーになり、名称が「IZOD インディカー・シリーズ」となった。2014年から2018年まではベライゾンが冠スポンサーとなり、名称も「ベライゾン・インディカー・シリーズ」に変更された。2019年からはNTTが冠スポンサーとなり、「NTT・インディカー・シリーズ」となる。 近年は北米でのF1人気の高まりに合わせてインディカーも急激に成長を見せており、視聴者数が増加。2023年の平均視聴者数はデジタルストリーミングを含めて132万人で、2008年以来の高水準に回復した。 シャシーはワンメイクで、2012年より第4世代のダラーラ「DW12」が使用される。車名はこのシャーシのテストドライバーで2011年シーズンの最終戦ラスベガスで事故死したダン・ウェルドンに敬意を表したもの。全幅が78インチ(=約1,981mm,±12.7mm以内の誤差は認める)、重量がオーバル用1,545ポンド(約701kg)、ロード/ストリート用1,575ポンド(約714kg)とフォーミュラカーとしては幅広くやや重い。シャシーの基本部分は2012年以降、マイナーチェンジを繰り返しながら使用されており、マイナーチェンジのバージョンによっては「IR(西暦の下二桁)」と別名で呼ばれることもある。 エアロパーツはロード/ストリートコース及び低速オーバル用の「ロードコース・パッケージ」と高速オーバル用の「スーパースピードウェイ・パッケージ」の2種類が用意される。 ウィングの角度は設定範囲が決められているが、ガーニーフラップは自由に設定できる。 フロントウイング、リアウイング、サイドウイング、エンジンカバーを含むエアロキットは、2017年まではシャシーメーカー等が独自に開発、投入できた。ただし、2012年と2013年は全チームダラーラ製のエアロキットを搭載することになっている。これらはレース参戦コストを上げない為にレギュレーションで価格上限が30万9,000ドルと決められている。2018年からは再びダラーラ製のユニバーサルエアロキットを全車が使用する形に戻る。2020年からはコックピット内のドライバーを保護する目的で、F1等におけるHaloに相当する役割を持つ「エアロスクリーン」の装着が義務付けられている。 2003年よりシャーシ部門のコンストラクター、エンジン部門のマニュファクチャラーの両タイトルが制定されたが、2011年までは双方ワンメイクだったため有名無実化していた。2012年からは後述の通り複数のエンジンサプライヤーが参入するため、エンジン部門のタイトルが意味を持つことになる。 オーバルではスタッガーによって旋回性能を高めている。 タイヤはファイアストン (ブリヂストングループ) のワンメイク。チャンプカー同様1999年まではグッドイヤーも供給していた。 ロードコースではソフト(レッドタイヤ)とハード(ブラックタイヤ)の2種類のタイヤをアンダーグリーン中に装着し、かつそれぞれで2周以上走行しなければならない。 エンジンは2012年から2.2L以下 6気筒以下ツイン ターボ 直噴エンジンを採用する。サプライヤーはホンダとシボレー(実際の開発はイルモアが行う)の2社。 ECUは2012年よりマクラーレン・エレクトロニック・システムズ(MES)製の共通ECUが使用される。最高出力はオーバルで約550馬力、ロード/ストリートで約700馬力、レブリミットは12,000rpm。ロード/ストリートコースでは、エンジン回転数(+200rpm)とブースト圧(+11kPa)を一定時間引き上げる「プッシュ・トゥ・パス」を使用できる。 シーズン中にエンジンを改良した場合、それをレースに導入するには他のメーカーの同意を得なければならない。新しいエンジンに対して抗議をすることも可能だが、その際にはIndyCarの承認が必要になる。 燃料は2012年シーズンよりエタノール(生物由来)85%・ガソリン15%の混合燃料が使用されている。この配合のおかげで爆発の心配が少なく、ドライバーやピットクルーに引火しても視覚的に確認できる。2023年シーズンからはシェル製の100%再生可能燃料がレースで使用される予定。 エンジンについては、2.4L 6気筒ツインターボに回生ブレーキを組み合わせたハイブリッド型パワーユニット(PU)が導入される予定があった。ハイブリッドユニットは独マーレ社から供給を受けるとされ、当初は2023年からの導入を予定していたが、ハイブリッドユニットの一部コンポーネントに供給遅れが発生し、導入は2024年に延期。その後も安定供給の目処が立たないため、結局2.4Lエンジン及びマーレ製ハイブリッドユニットの導入計画は撤回され、既存の2.2Lエンジンにホンダ(HPD)/シボレー/イルモアが協力して開発したハイブリッドユニットを組み合わせた新PUを導入する方針となった。 基本的に2022年シーズンで行われている方式を記す。 インディカー・シリーズでは、コースやイベントによって予選方式が異なる。 オーバルトラックでの予選では前のレースまでのエントラント・ポイント順位の下位から順に1回のみ計測を行うことが出来る。各車が2周を連続して走行し、その平均速度をもとにグリッドを決定する。 ロード/ストリートコースの予選は、セッションは以下の3つのラウンドに分けて行われ、各ラウンドの制限時間中に無制限に計測を行うことが出来る。 インディ500の予選は、決勝レース1週間前の土曜日と日曜日に行われる。スポット参戦を含む出場枠数以上の選手によってグリッドが争われる場合、予選落ちがある。 ローリングスタートを採用し、インディ500のみ3列、それ以外は2列に並びスタートする。2013年 - 2014年は一部レースでスタンディングスタートを採用したレースがあった。 インディカー・シリーズでは、周回数を定めるための基準となる走行距離を定めていない。そのため総走行距離及び規定周回数はレース毎に異なる。また、周回数の50%が完了した時点でレースは成立する。 2011年以前はマルチメイクであり、過去にはパノスも供給していたが、ダラーラと比較して空力などで劣ることから徐々に需要が減り、2008年のインディ500にスポット参戦したチームが使ったのを最後に撤退した。また以前はライリー&スコットが参戦していたこともあり、ファルコンも参戦を表明したが使われることはなかった。 そのため2009年から2011年までは、事実上ダラーラのワンメイクとなっていた。 シリーズ発足当初はCART同様の2.65L V8 ターボエンジンを使用していたが、1997年より3.5L V8 NAエンジンに変更。2002年まではシボレー(2001年まではオールズモビル・オーロラの名で供給)とインフィニティ(日産)の2社がエンジンを供給していた。インフィニティは2002年限りで撤退するが、2003年よりトヨタ・ホンダが新規参入して3社体制となったほか、同年のシーズン途中からはシボレーエンジンの開発をコスワースが担当するようになった。その後高速化に歯止めをかける目的から、2004年の第4戦(インディ500)からはエンジン排気量の上限を3Lに改めている。 しかし、2005年限りでシボレーが撤退したほか、トヨタも2006年限りでの撤退を発表したため、ペンスキー、チップ・ガナッシなどの有力チームが軒並みホンダ陣営への鞍替えを発表。このためトヨタも予定を1年前倒しして2005年限りで撤退し、2006年から2011年まではホンダのワンメイクとなっていた。 2012年のマニュファクチャラーズチャンピオンシップ復活に伴い、ロータスがジャッドと提携し参戦したが、1年限りで撤退した。 2005年まではシリーズ発足から一貫してCARTと同じアルコール燃料であるメタノールが使用されていたが、環境への配慮から切り替えられた。この準備段階として、2006年シーズンはメタノール90%・エタノール10%の混合燃料が使用された。メタノールからエタノール系への変更によりエンジン出力が約1割程低下するため、合わせてエンジン排気量が3.5Lへ変更された。 2010年からはシリーズチャンピオンに加え、オーバルとロードコースそれぞれに部門別チャンピオンシップを設けている。オーバル賞にはインディ500で4勝をあげたA.J.フォイト、ロードコース賞にはCARTで4度のチャンピオンを獲得したマリオ・アンドレッティの名が冠されている。 インディ500の勝者はインディ500#歴代優勝者を参照 (インディカー・シリーズとその下部カテゴリのみ、旧CART除く) 2019年インディカー・シリーズ参戦 過去参戦していたドライバー 1996年発足当初は3戦のみという少なさだったが翌1997年から拡大、さらに2005年はロードコースへ進出した。また2003年から2011年まで日本がカレンダーに組み込まれていた。また2010年からはブラジルがカレンダーに組み込まれている。現在ではオーバルレースとロードレース(市街地、特設含む)が概ね1:2の比率となっている。
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2014年は一部レースでスタンディングスタートを採用したレースがあった。", "title": "スポーティングレギュレーション" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "インディカー・シリーズでは、周回数を定めるための基準となる走行距離を定めていない。そのため総走行距離及び規定周回数はレース毎に異なる。また、周回数の50%が完了した時点でレースは成立する。", "title": "スポーティングレギュレーション" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2011年以前はマルチメイクであり、過去にはパノスも供給していたが、ダラーラと比較して空力などで劣ることから徐々に需要が減り、2008年のインディ500にスポット参戦したチームが使ったのを最後に撤退した。また以前はライリー&スコットが参戦していたこともあり、ファルコンも参戦を表明したが使われることはなかった。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そのため2009年から2011年までは、事実上ダラーラのワンメイクとなっていた。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "シリーズ発足当初はCART同様の2.65L V8 ターボエンジンを使用していたが、1997年より3.5L V8 NAエンジンに変更。2002年まではシボレー(2001年まではオールズモビル・オーロラの名で供給)とインフィニティ(日産)の2社がエンジンを供給していた。インフィニティは2002年限りで撤退するが、2003年よりトヨタ・ホンダが新規参入して3社体制となったほか、同年のシーズン途中からはシボレーエンジンの開発をコスワースが担当するようになった。その後高速化に歯止めをかける目的から、2004年の第4戦(インディ500)からはエンジン排気量の上限を3Lに改めている。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、2005年限りでシボレーが撤退したほか、トヨタも2006年限りでの撤退を発表したため、ペンスキー、チップ・ガナッシなどの有力チームが軒並みホンダ陣営への鞍替えを発表。このためトヨタも予定を1年前倒しして2005年限りで撤退し、2006年から2011年まではホンダのワンメイクとなっていた。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2012年のマニュファクチャラーズチャンピオンシップ復活に伴い、ロータスがジャッドと提携し参戦したが、1年限りで撤退した。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2005年まではシリーズ発足から一貫してCARTと同じアルコール燃料であるメタノールが使用されていたが、環境への配慮から切り替えられた。この準備段階として、2006年シーズンはメタノール90%・エタノール10%の混合燃料が使用された。メタノールからエタノール系への変更によりエンジン出力が約1割程低下するため、合わせてエンジン排気量が3.5Lへ変更された。", "title": "過去のレギュレーションの変遷" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年からはシリーズチャンピオンに加え、オーバルとロードコースそれぞれに部門別チャンピオンシップを設けている。オーバル賞にはインディ500で4勝をあげたA.J.フォイト、ロードコース賞にはCARTで4度のチャンピオンを獲得したマリオ・アンドレッティの名が冠されている。", "title": "歴代チャンピオン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "インディ500の勝者はインディ500#歴代優勝者を参照", "title": "歴代チャンピオン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "(インディカー・シリーズとその下部カテゴリのみ、旧CART除く)", "title": "日本人ドライバーの参戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2019年インディカー・シリーズ参戦", "title": "日本人ドライバーの参戦" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "過去参戦していたドライバー", "title": "日本人ドライバーの参戦" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1996年発足当初は3戦のみという少なさだったが翌1997年から拡大、さらに2005年はロードコースへ進出した。また2003年から2011年まで日本がカレンダーに組み込まれていた。また2010年からはブラジルがカレンダーに組み込まれている。現在ではオーバルレースとロードレース(市街地、特設含む)が概ね1:2の比率となっている。", "title": "開催日程と優勝者" } ]
インディカー・シリーズは、IndyCarが主催するモータースポーツのカテゴリー。フォーミュラカー(オープンホイール)を使用したレースでは北米最高峰に位置する。 現在、アメリカ合衆国を中心に転戦しているが、2003年から2011年までは日本でも開催されていた。
{{Otheruseslist|IndyCarが主催する自動車レース選手権|1979年から1996年までCARTが主催していたインディカー・シリーズ|チャンプカー・ワールド・シリーズ}} {{Infobox motorsport championship | logo = Indycar 1.jpg | image-size = 250px | caption = | category = [[フォーミュラカー|オープンホイール]] | country/region = 国際 | inaugural = 1996年 | folded = | drivers = 33 | teams = 12 | engines = [[シボレー]]<br />[[ホンダ]] | tyres = [[ファイアストン]] | constructors = [[ダラーラ]] | champion driver = {{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]] | champion team = {{flagicon|USA}} [[チップ・ガナッシ・レーシング]] | manufacturer = {{flagicon|USA}} [[シボレー]] | current_season = 2024年のインディカー・シリーズ | website = [https://www.indycar.com/ IndyCar.com] }} '''インディカー・シリーズ'''(''IndyCar Series'')は、[[IndyCar]]が主催する[[モータースポーツ]]のカテゴリー。[[フォーミュラカー]](オープンホイール)を使用したレースでは北米最高峰に位置する。 現在、[[アメリカ合衆国]]を中心に転戦しているが、[[2003年]]から[[2011年]]までは[[日本]]でも開催されていた。 == 概要 == [[Image:Panther2006.JPG|thumb|right|175px|2006年のダラーラ IR5、ヴィットール・メイラ車]] [[1994年]]、[[インディアナポリス500|インディ500]]を開催する[[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]] (IMS) の社長であった{{仮リンク|トニー・ジョージ|en|Tony George}}が、インディ500だけでなく自らが主催するシリーズを立ち上げたいために、[[1996年]]よりインディ・レーシング・リーグ (IRL)を発足させることを表明。[[1996年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1996年]]にはCART(後の[[チャンプカー・ワールド・シリーズ]])から分離独立し、CARTや[[フォーミュラ1|F1]]と同様、オープンホイールマシンでチャンピオンシップを争うレースとして発足した。 [[インディ500]]を頂点に据え、[[オーバルトラック|オーバル]]を中心にロード/ストリートコースを組み合わせたスケジュールとなっている([[2004年のインディカー・シリーズ|2004年]]まではオーバルコースレースのみ)。発足初年はCARTのマシンを使用していたが、[[1996年-1997年のインディカー・シリーズ|1997年]]以降は独自のレギュレーションにより運営。当初はCARTに比べマイナーなカテゴリーであったが、[[2003年のインディカー・シリーズ|2003年]]より[[本田技研工業#モータースポーツ|ホンダ]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]が揃ってCARTよりIRLへ移籍表明を行ってからはそれまでの有力CART参戦ドライバー、チームも挙って移籍に追随し、一気に北米フォーミュラーレースのメジャーへと取って変わった。これも伝統のインディ500を持つ強みからである。 同年、トップカテゴリーの名称を「インディカー・シリーズ」に変更、IRLは[[国際自動車連盟|FIA]]のように運営組織の名称として残された。 日本でもそれまで[[1998年]]より毎年[[栃木県]][[茂木町]]の[[ツインリンクもてぎ]]で開催されてきたCARTのレースを2003年よりIRLに変更し、[[インディジャパン300]]として開催。これによりIRLの初のアメリカ以外での開催進出となった。 また、下位カテゴリーとして[[インディ・ライツ]](2002年 - 2005年までは「'''インフィニティ・プロシリーズ'''」、2005年以降は「'''インディ・プロシリーズ'''」)が形成され、インディカーへのステップアップカテゴリーとしてIRLの下に運営されている。 [[2008年のインディカー・シリーズ|2008年]]シーズンからCARTとシリーズを統合した。実際には旧チャンプカーのチームに無償でエンジン・シャシー等を供給する形となったため、事実上IRL側がチャンプカー側を吸収する形となった。 [[2010年のインディカー・シリーズ|2010年]]から[[2013年のインディカー・シリーズ|2013年]]にかけて、アパレル・ブランドの[[アイゾッド]]([[:w:IZOD|IZOD]])がシリーズ冠スポンサーになり、名称が「IZOD インディカー・シリーズ」となった。[[2014年のインディカー・シリーズ|2014年]]から[[2018年のインディカー・シリーズ|2018年]]までは[[ベライゾン・コミュニケーションズ|ベライゾン]]が冠スポンサーとなり、名称も「ベライゾン・インディカー・シリーズ」に変更された<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%80%81%e3%83%99%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%82%be%e3%83%b3%e3%81%a8%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%88%e3%83%ab%e5%a5%91%e7%b4%84%e3%82%92%e7%b7%a0%e7%b5%90 インディカー、ベライゾンとタイトル契約を締結] - オートスポーツ・2014年3月17日</ref>。2019年からは[[日本電信電話|NTT]]が冠スポンサーとなり、「NTT・インディカー・シリーズ」となる<ref>[https://web.archive.org/web/20190116200712/https://this.kiji.is/458015937958069345 NTT、米レース冠スポンサーに インディカー] 共同通信2019年1月16日</ref>。 近年は北米でのF1人気の高まりに合わせてインディカーも急激に成長を見せており、視聴者数が増加。2023年の平均視聴者数はデジタルストリーミングを含めて132万人で、2008年以来の高水準に回復した<ref>[https://www.sportsbusinessjournal.com/Articles/2023/09/18/motorsports.aspx IndyCar sees gains in viewership and other metrics, but are the upticks coming fast enough?]</ref>。 == テクニカルレギュレーション == === 車体 === [[ファイル:Tony Kanaan at speed 2018.jpg|代替文=|サムネイル|ダラーラ・IR18を運転する[[トニー・カナーン]]]] シャシーはワンメイクで、2012年より第4世代の[[ダラーラ]]「DW12」が使用される。車名はこのシャーシのテストドライバーで2011年シーズンの最終戦[[ラスベガス・モーター・スピードウェイ|ラスベガス]]で事故死した[[ダン・ウェルドン]]に敬意を表したもの。全幅が78インチ(=約1,981mm,±12.7mm以内の誤差は認める)、重量がオーバル用1,545ポンド(約701kg)、ロード/ストリート用1,575ポンド(約714kg)とフォーミュラカーとしては幅広くやや重い。シャシーの基本部分は2012年以降、マイナーチェンジを繰り返しながら使用されており、マイナーチェンジのバージョンによっては「IR(西暦の下二桁)」と別名で呼ばれることもある。 エアロパーツはロード/ストリートコース及び低速オーバル用の「ロードコース・パッケージ」と高速オーバル用の「スーパースピードウェイ・パッケージ」の2種類が用意される。 ウィングの角度は設定範囲が決められているが、ガーニーフラップは自由に設定できる。 フロントウイング、リアウイング、サイドウイング、エンジンカバーを含むエアロキットは、2017年まではシャシーメーカー等が独自に開発、投入できた<ref>{{cite news|url =http://f1-gate.com/other/indycar_8373.html|title =インディカー、2012年マシンの概要を発表 | date = 2010-07-15| accessdate = 2007-07-15}}</ref>。ただし、2012年と2013年は全チームダラーラ製のエアロキットを搭載することになっている。これらはレース参戦コストを上げない為にレギュレーションで価格上限が30万9,000ドルと決められている。2018年からは再びダラーラ製のユニバーサルエアロキットを全車が使用する形に戻る<ref>[http://www.as-web.jp/overseas/145347?all インディカー、2018年投入のユニバーサルエアロキット実車をお披露目] - オートスポーツ・2017年7月25日</ref>。2020年からはコックピット内のドライバーを保護する目的で、F1等における[[Halo (フォーミュラカー)|Halo]]に相当する役割を持つ「エアロスクリーン」の装着が義務付けられている。 2003年よりシャーシ部門のコンストラクター、エンジン部門のマニュファクチャラーの両タイトルが制定されたが、2011年までは双方ワンメイクだったため有名無実化していた。2012年からは後述の通り複数のエンジンサプライヤーが参入するため、エンジン部門のタイトルが意味を持つことになる。 オーバルでは[[オーバルトラック#セッティング|スタッガー]]によって旋回性能を高めている。 === タイヤ === [[File:Firestone tires 2011 Indy Japan 300.jpg|thumb|ファイアストン・ファイアホークタイヤ]] タイヤは[[ファイアストン]] ([[ブリヂストン]]グループ) のワンメイク。チャンプカー同様[[1999年のインディカー・シリーズ|1999年]]までは[[グッドイヤー]]も供給していた。 ロードコースではソフト(レッドタイヤ)とハード(ブラックタイヤ)の2種類のタイヤをアンダーグリーン中に装着し、かつそれぞれで2周以上走行しなければならない。 === エンジン === エンジンは2012年から2.2[[リットル|L]]以下 6気筒以下[[ツインターボ|ツイン]] [[ターボチャージャー|ターボ]] [[ガソリン直噴エンジン|直噴エンジン]]を採用する<ref>[http://www.indycar.com/News/2013/07/7-25-Twin-turbochargers-for-2014 Twin-turbocharged engines mandated for '14 ] IndyCar.com ・2013年7月26日</ref>。サプライヤーはホンダ<ref>[http://response.jp/article/2010/08/08/143865.html ホンダ、IRLにエンジン供給継続---2012年新スペック] - response.jp・2010年8月8日</ref>とシボレー(実際の開発は[[イルモア]]が行う)<ref>[http://www.indycar.com/news/archive/show/55-izod-indycar-series/40465-chevrolet-announcement-what-theyand-39-re-saying/ Chevrolet announcement: What they're saying] - IndyCar.com ・2010年11月12日</ref>の2社。 [[エンジンコントロールユニット|ECU]]は2012年より[[マクラーレン・エレクトロニック・システムズ]](MES)製の共通ECUが使用される<ref>[http://blog.gaora.co.jp/indy/2012/02/2332 インディカーニュース 2月23日] - GAORA・2012年2月23日</ref>。最高出力はオーバルで約550馬力、ロード/ストリートで約700馬力、レブリミットは12,000rpm。ロード/ストリートコースでは、エンジン回転数(+200rpm)とブースト圧(+11kPa)を一定時間引き上げる「プッシュ・トゥ・パス」を使用できる。 シーズン中にエンジンを改良した場合、それをレースに導入するには他のメーカーの同意を得なければならない。新しいエンジンに対して抗議をすることも可能だが、その際にはIndyCarの承認が必要になる。 燃料は[[2012年のインディカー・シリーズ|2012年]]シーズンより[[バイオマスエタノール|エタノール(生物由来)]]85%・ガソリン15%の混合燃料が使用されている。この配合のおかげで爆発の心配が少なく、ドライバーやピットクルーに引火しても視覚的に確認できる。2023年シーズンからは[[シェル (企業)|シェル]]製の100%再生可能燃料がレースで使用される予定<ref name=as221209 />。 エンジンについては、2.4L 6気筒ツインターボに[[回生ブレーキ]]を組み合わせた[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]型パワーユニット(PU)が導入される予定があった。ハイブリッドユニットは独[[マーレ]]社から供給を受けるとされ、当初は[[2023年]]からの導入を予定していたが<ref>[https://www.as-web.jp/overseas/631392?all ホンダ、インディカーは参戦継続へ。インディカーがホンダとシボレーとのエンジン供給契約の延長を発表] - オートスポーツ・2020年10月4日</ref>、ハイブリッドユニットの一部コンポーネントに供給遅れが発生し、導入は[[2024年]]に延期<ref>[https://jp.motorsport.com/indycar/news/embargoed-until-930am-et-230pm-uk-indycar-postpones-24-liter-hybrid-formula-to-2024/8658669/ インディカー、次世代パワートレイン導入を2024年に延期。2.4Lの新エンジン&ハイブリッド化を予定] - motorsport.com 2022年3月3日</ref>。その後も安定供給の目処が立たないため、結局2.4Lエンジン及びマーレ製ハイブリッドユニットの導入計画は撤回され、既存の2.2Lエンジンにホンダ([[ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント|HPD]])/シボレー/イルモアが協力して開発したハイブリッドユニットを組み合わせた新PUを導入する方針となった<ref name=as221209>[https://www.as-web.jp/overseas/889885?all インディカーがサスティナブルな取り組みを発表。2024年導入のパワーユニットは仕様を変更して2.2リッターの現行エンジンを継続] - オートスポーツ・2022年12月9日</ref>。このハイブリッドPUは、2024年の第6戦(デトロイト)から導入される予定となっている<ref name=as231210>[https://www.as-web.jp/overseas/1024042?all インディカーがハイブリッドエンジンの導入を延期。2024年シーズン途中のインディ500後に] - オートスポーツ・2023年12月10日</ref>。 == スポーティングレギュレーション == 基本的に[[2022年のインディカー・シリーズ|2022年シーズン]]で行われている方式を記す。 === 予選 === インディカー・シリーズでは、コースやイベントによって予選方式が異なる。 *'''オーバルコース''' オーバルトラックでの予選では前のレースまでのエントラント・ポイント<ref>「同じカーナンバー」での獲得ポイントを通算したポイント。同じカーナンバーで出走すればドライバーが異なっても通算される</ref>順位の下位から順に1回のみ計測を行うことが出来る。各車が2周を連続して走行し、その平均速度をもとにグリッドを決定する。 **※ダブルヘッダーレースの場合、1周目がレース1の、2周目がレース2のグリッドを決定する。 *'''ロード/ストリートコース''' ロード/ストリートコースの予選は、セッションは以下の3つのラウンドに分けて行われ、各ラウンドの制限時間中に無制限に計測を行うことが出来る。 **ラウンド1 - 全車をグループ1とグループ2に分けて行われる。各グループの上位6台、計12台がラウンド2に進出する。また、7位以下の選手については、グループ1には13番以降の奇数グリッド、グループ2には14番以降の偶数グリッドが与えられる。 **ラウンド2 - 12台が計測を行い、上位6台がラウンド3に進出する。7位以下には順位通りに7番から12番のグリッドが与えられる。 **ファイアストン・ファスト・シックス(ラウンド3) - 6台が計測を行い、ポールポジションから6番グリッドまでを決定する。 **※併催イベントなどの兼ね合いにより、ラウンド3を行わず、ラウンド2に進出した12台によりポールポジションから12番グリッドまでを決定する場合がある。 *'''インディ500''' {{main|[[インディ500#予選方式|インディ500の予選方式]]}} インディ500の予選は、決勝レース1週間前の土曜日と日曜日に行われる。スポット参戦を含む出場枠数以上の選手によってグリッドが争われる場合、予選落ちがある。 ===決勝=== *'''スタート''' [[ローリングスタート]]を採用し、インディ500のみ3列、それ以外は2列に並びスタートする。2013年 - 2014年は一部レースで[[スタンディングスタート]]を採用したレースがあった。 ===周回規定=== インディカー・シリーズでは、周回数を定めるための基準となる走行距離を定めていない。そのため総走行距離及び規定周回数はレース毎に異なる。また、周回数の50%が完了した時点でレースは成立する。 ==過去のレギュレーションの変遷== ===シャシー=== [[Image:USNGPanozIndy.jpg|thumb|right|1997年仕様のGフォース、2008年]] [[Image:JLazierIndy07.jpg|thumb|right|2007年の[[パノス]] GF09、[[ジャック・ラジアー]]車。[[インディアナポリス]]]] 2011年以前はマルチメイクであり、過去には[[パノス]]も供給していたが、ダラーラと比較して空力などで劣ることから徐々に需要が減り、2008年のインディ500にスポット参戦したチームが使ったのを最後に撤退した。また以前は[[ライリー&スコット]]が参戦していたこともあり、ファルコンも参戦を表明したが使われることはなかった。 そのため2009年から2011年までは、事実上ダラーラのワンメイクとなっていた。 ===エンジン=== シリーズ発足当初はCART同様の2.65L [[V型8気筒|V8]] ターボエンジンを使用していたが、1997年より3.5L V8 [[自然吸気|NA]]エンジンに変更。2002年までは[[シボレー]]([[2001年のインディカー・シリーズ|2001年]]までは[[オールズモビル]]・オーロラの名で供給)と[[インフィニティ (日産自動車)|インフィニティ]](日産)の2社がエンジンを供給していた。インフィニティは2002年限りで撤退するが、2003年よりトヨタ・ホンダが新規参入して3社体制となったほか、同年のシーズン途中からはシボレーエンジンの開発を[[コスワース]]が担当するようになった。その後高速化に歯止めをかける目的から、[[2004年のインディカー・シリーズ|2004年]]の第4戦(インディ500)からはエンジン排気量の上限を3Lに改めている。 [[Image:HondaIndyV8.jpg|thumb|right|2008年仕様のホンダV8エンジン]] しかし、2005年限りでシボレーが撤退したほか、トヨタも2006年限りでの撤退を発表したため、[[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]]、[[チップ・ガナッシ・レーシング|チップ・ガナッシ]]などの有力チームが軒並みホンダ陣営への鞍替えを発表。このためトヨタも予定を1年前倒しして2005年限りで撤退し、2006年から2011年まではホンダのワンメイクとなっていた。 2012年のマニュファクチャラーズチャンピオンシップ復活に伴い、[[ロータス・カーズ|ロータス]]が[[ジャッド]]と提携し参戦したが<ref>[http://www.indycar.com/news/archive/show/55-izod-indycar-series/40525-manufacturer-competition-blooms-with-lotus/ Manufacturer competition blooms with Lotus] - IndyCar.com ・2010年11月18日</ref>、1年限りで撤退した<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%82%bf%e3%82%b9%e3%80%81%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%81%ae%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%83%b3%e4%be%9b%e7%b5%a6%e6%92%a4%e9%80%80%e3%82%92%e7%99%ba ロータス、インディカーのエンジン供給撤退を発表] - オートスポーツ・2012年12月8日</ref>。 ===燃料=== 2005年まではシリーズ発足から一貫してCARTと同じ[[アルコール燃料]]である[[メタノール]]が使用されていたが、環境への配慮から切り替えられた。この準備段階として、2006年シーズンはメタノール90%・[[エタノール]]10%の混合燃料が使用された。メタノールからエタノール系への変更によりエンジン出力が約1割程低下するため、合わせてエンジン排気量が3.5Lへ変更された。 ==歴代チャンピオン== ===シリーズチャンピオン=== {| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small" |- !rowspan=2| 年 !colspan=4| チャンピオン !rowspan=2| ルーキー・オブ・ザ・イヤー !rowspan=2| モースト・ポピュラー・ドライバー |- ! ドライバー ! チーム ! シャシー ! エンジン |- ! [[1996年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1996]] | {{flagicon|USA}} [[スコット・シャープ]]、<br />{{flagicon|USA}} [[バズ・カルキンス]]<ref>二人のポイントが並んだが、成績比較はせず、2人がチャンピオンとされた</ref> | [[A.J.フォイト・エンタープライズ]]<br />[[ブラッドレイ・モータースポーツ]] | [[ローラ・カーズ|ローラ]]<br />[[レイナード]] | [[フォード・モーター|フォード]]・[[コスワース]]<br />フォード・コスワース | ''受賞者なし'' | ''受賞者なし'' |- ! [[1996年-1997年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1996-97]] | {{flagicon|USA}} [[トニー・スチュワート]] | [[チーム・メナード]] | [[パノス|Gフォース]] | rowspan="5" | [[オールズモビル]] | {{flagicon|USA}} [[ジム・ガスリー]] | rowspan="2" | {{flagicon|NED}} [[アリー・ルイエンダイク]] |- ! [[1998年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1998]] | {{flagicon|SWE}} [[ケニー・ブラック]] | A.J.フォイト・エンタープライズ | rowspan="5" | [[ダラーラ]] | {{flagicon|USA}} [[ロビー・アンサー]] |- ! [[1999年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1999]] | {{flagicon|USA}} [[グレッグ・レイ]] | [[チーム・メナード]] | {{flagicon|USA}} [[スコット・ハリントン]] | {{flagicon|CAN}} [[スコット・グッドイヤー]] |- ! [[2000年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|2000]] | {{flagicon|USA}} [[バディ・ラジアー]] | [[ヘメルガーン・レーシング]] | {{flagicon|BRA}} [[アイルトン・ダーレ]] | {{flagicon|USA}} [[アル・アンサーJr.]] |- ! [[2001年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|2001]] | rowspan="2" | {{flagicon|USA}} [[サム・ホーニッシュJr.]] | rowspan="2" | [[パンサー・レーシング]] | {{flagicon|BRA}} [[フェリペ・ジアフォーネ]] | rowspan="3" | {{flagicon|USA}} [[サラ・フィッシャー]] |- ! [[2002年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|2002]] | [[シボレー]] | {{flagicon|FRA}} [[ローラン・レドン]] |- ! [[2003年のインディカー・シリーズ|2003]] | {{flagicon|NZL}} [[スコット・ディクソン]] | [[チップ・ガナッシ・レーシング]] | Gフォース | [[トヨタ]] | {{flagicon|GBR}} [[ダン・ウェルドン]] |- ! [[2004年のインディカー・シリーズ|2004]] | {{flagicon|BRA}} [[トニー・カナーン]] | rowspan="2" | [[アンドレッティ・オートスポーツ|アンドレッティ・グリーン・レーシング]] | rowspan="20" | ダラーラ | rowspan="8" | [[ホンダ]] | {{flagicon|JPN}} [[松浦孝亮]] | {{flagicon|USA}} サム・ホーニッシュJr. |- ! [[2005年のインディカー・シリーズ|2005]] | {{flagicon|GBR}} [[ダン・ウェルドン]] | {{flagicon|USA}} [[ダニカ・パトリック]] | rowspan="6" | {{flagicon|USA}} ダニカ・パトリック<ref>2008年の公式発表はなかったが、2009年に受賞した際公式ホームページにて"5年連続の受賞"とされたことから、2008年も受賞していたことが分かった。</ref> |- ! [[2006年のインディカー・シリーズ|2006]] | {{flagicon|USA}} サム・ホーニッシュJr.<ref>ダン・ウェルドンとポイントが並んだが、成績比較でホーニッシュJr.がチャンピオン</ref> | [[ペンスキー・レーシング]] | {{flagicon|USA}} [[マルコ・アンドレッティ]] |- ! [[2007年のインディカー・シリーズ|2007]] | {{flagicon|SCO}} [[ダリオ・フランキッティ]] | アンドレッティ・グリーン・レーシング | {{flagicon|USA}} [[ライアン・ハンター=レイ]] |- ! [[2008年のインディカー・シリーズ|2008]] | {{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン | rowspan="4" | チップ・ガナッシ・レーシング | {{flagicon|JPN}} [[武藤英紀]] |- ! [[2009年のインディカー・シリーズ|2009]] | rowspan="3" | {{flagicon|SCO}} ダリオ・フランキッティ | {{flagicon|BRA}} [[ラファエル・マトス]] |- ! [[2010年のインディカー・シリーズ|2010]] | {{flagicon|GBR}} [[アレックス・ロイド]] |- ! [[2011年のインディカー・シリーズ|2011]] | {{flagicon|CAN}} [[ジェームズ・ヒンチクリフ]] | {{flagicon|GBR}} ダン・ウェルドン<ref>この年の[[ラスベガス・モーター・スピードウェイ|ラスベガス]]でのレースで事故死したため、死後に受賞。スポット参戦のドライバーがこの賞を受け取るのは初めてのこと。</ref> |- ! [[2012年のインディカー・シリーズ|2012]] | {{flagicon|USA}} ライアン・ハンター=レイ | アンドレッティ・オートスポーツ | シボレー | {{flagicon|FRA}}[[サイモン・パジェノ]] | {{flagicon|CAN}}ジェームズ・ヒンチクリフ |- ! [[2013年のインディカー・シリーズ|2013]] | {{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン | チップ・ガナッシ・レーシング | ホンダ | {{flagicon|FRA}} [[トリスタン・ヴォーティエ]] | {{flagicon|BRA}} トニー・カナーン |- ! [[2014年のインディカー・シリーズ|2014]] | {{flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] | チーム・ペンスキー | rowspan="4" | シボレー | {{flagicon|COL}} [[カルロス・ムニョス (レーサー)|カルロス・ムニョス]] | {{flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]] |- ! [[2015年のインディカー・シリーズ|2015]] | {{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン<ref>ファン・パブロ・モントーヤとポイントが並んだが、成績比較でディクソンがチャンピオン</ref> | チップ・ガナッシ・レーシング | {{flagicon|COL}} [[ギャビー・チャベス]] | {{flagicon|GBR}} [[ジャスティン・ウィルソン]]<ref>この年の[[ポコノ・レースウェイ|ポコノ]]でのレースで事故死したため、死後に受賞。</ref> |- ! [[2016年のインディカー・シリーズ|2016]] | {{flagicon|FRA}} [[サイモン・パジェノ]] | rowspan="2" | チーム・ペンスキー | {{flagicon|USA}} [[アレクサンダー・ロッシ]] | {{flagicon|USA}} [[ブライアン・クロウソン]]<ref>この年の他カテゴリー(ミジェットカー)参戦時のレースで事故死したため、死後に受賞。インディカー参戦はインディ500の3戦のみ</ref> |- ! [[2017年のインディカー・シリーズ|2017]] | {{flagicon|USA}} [[ジョセフ・ニューガーデン]] | {{flagicon|UAE}} [[エド・ジョーンズ]] | {{flagicon|USA}} [[コナー・デイリー]] |- ! [[2018年のインディカー・シリーズ|2018]] | {{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン | チップ・ガナッシ・レーシング | ホンダ | {{flagicon|CAN}} [[ロバート・ウィッケンス]] | {{flagicon|CAN}} [[ジェームズ・ヒンチクリフ]] |- ! [[2019年のインディカー・シリーズ|2019]] | {{flagicon|USA}} ジョセフ・ニューガーデン | チーム・ペンスキー | シボレー | {{flagicon|SWE}} [[フェリックス・ローゼンクヴィスト]] | ''受賞者なし'' |- ! [[2020年のインディカー・シリーズ|2020]] | {{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン | rowspan="2" | チップ・ガナッシ・レーシング | rowspan="2" | ホンダ | {{flagicon|NED}} [[リヌス・ヴィーケイ]] | {{flagicon|USA}} [[アレクサンダー・ロッシ]] |- ! [[2021年のインディカー・シリーズ|2021]] | {{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]] | {{flagicon|NZL}} [[スコット・マクラフリン]] | {{flagicon|FRA}} [[ロマン・グロージャン]] |- ! [[2022年のインディカー・シリーズ|2022]] | {{flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] | チーム・ペンスキー | シボレー | {{flagicon|DEN}} [[クリスチャン・ルンガー]] | ''受賞者なし'' |- ! [[2023年のインディカー・シリーズ|2023]] | {{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]] | チップ・ガナッシ・レーシング | ホンダ | {{flagicon|NZL}} [[マーカス・アームストロング]] | |} ====チャンピオン獲得回数(ドライバー)==== {| class="wikitable" style="font-size: 95%;" |- ! 回数 ! ドライバー ! 年 |- ! 6 | {{flagicon|NZL}} [[スコット・ディクソン]] | 2003年, 2008年, 2013年, 2015年, 2018年, 2020年 |- ! 4 | {{flagicon|SCO}} [[ダリオ・フランキッティ]] | 2007年, 2009年, 2010年, 2011年 |- ! 3 | {{flagicon|USA}} [[サム・ホーニッシュ・ジュニア]] | 2001年, 2002年, 2006年 |- ! rowspan=3| 2 | {{flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] | 2014年, 2022年 |- | {{flagicon|USA}} [[ジョセフ・ニューガーデン]] | 2017年, 2019年 |- | {{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]] | 2021年, 2023年 |- ! rowspan="10" |1 | {{flagicon|USA}} [[スコット・シャープ]] | 1996年 |- | {{flagicon|USA}} {{仮リンク|バズ・カルキンス|en|Buzz Calkins}} | 1996年 |- | {{flagicon|USA}} [[トニー・スチュワート]] | 1997年 |- | {{flagicon|SWE}} [[ケニー・ブラック]] | 1998年 |- | {{flagicon|USA}} {{仮リンク|グレッグ・レイ|en|Greg Ray}} | 1999年 |- | {{flagicon|USA}} {{仮リンク|バディ・ラジアー|en|Buddy Lazier}} | 2000年 |- | {{flagicon|BRA}} [[トニー・カナーン]] | 2004年 |- | {{flagicon|GBR}} [[ダン・ウェルドン]] | 2005年 |- | {{flagicon|USA}} [[ライアン・ハンター=レイ]] | 2012年 |- | {{flagicon|FRA}} [[サイモン・パジェノ]] | 2016年 |} ====チャンピオン獲得回数(チーム)==== {| class="wikitable" style="font-size: 95%;" |- ! 回数 ! チーム ! 年 |- ! 11 | [[チップ・ガナッシ・レーシング]] | 2003年, 2008年, 2009年, 2010年, 2011年, 2013年, 2015年, 2018年, 2020年, 2021年, 2023年 |- ! 6 | [[チーム・ペンスキー]] | 2006年, 2014年, 2016年, 2017年, 2019年, 2022年 |- ! 4 | [[アンドレッティ・オートスポーツ]] | 2004年, 2005年, 2007年, 2012年 |- ! rowspan=3|2 | [[A.J.フォイト・エンタープライズ]] | 1996年, 1998年 |- | [[チーム・メナード]] | 1997年, 1999年 |- | [[パンサー・レーシング]] | 2001年, 2002年 |- ! rowspan=2|1 | [[ブラッドレイ・モータースポーツ]] | 1996年 |- | [[ヘメルガーン・レーシング]] | 2000年 |} ===部門賞=== 2010年からはシリーズチャンピオンに加え、オーバルとロードコースそれぞれに部門別チャンピオンシップを設けている。オーバル賞にはインディ500で4勝をあげた[[A.J.フォイト]]、ロードコース賞にはCARTで4度のチャンピオンを獲得した[[マリオ・アンドレッティ]]の名が冠されている。 {| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small" |- ! 年 ! A.J.フォイト<br />トロフィー ! マリオ・アンドレッティ<br/>トロフィー |- ! 2010 |{{flagicon|SCO}} [[ダリオ・フランキッティ]] | rowspan="3" |{{flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] |- ! 2011 |{{flagicon|NZL}} [[スコット・ディクソン]] |- ! 2012 |{{flagicon|USA}} [[ライアン・ハンター=レイ]] |- ! 2013 |{{flagicon|BRA}} [[エリオ・カストロネベス]] |{{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン |- ! 2014 | rowspan="2" |{{flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]] | rowspan="2" |{{flagicon|AUS}} ウィル・パワー |- ! 2015 |- ! 2016 |{{flagicon|USA}} [[ジョセフ・ニューガーデン]] |{{flagicon|FRA}} [[サイモン・パジェノ]] |- ! 2017 |{{flagicon|BRA}} エリオ・カストロネベス |{{flagicon|USA}} ジョセフ・ニューガーデン |- ! 2018 |{{flagicon|AUS}} ウィル・パワー | rowspan="2" |{{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン |- ! 2019 |{{flagicon|FRA}} サイモン・パジェノ |- ! 2020 |{{flagicon|NZL}} スコット・ディクソン |{{flagicon|USA}} ジョセフ・ニューガーデン |- ! 2021 | rowspan="2" |{{flagicon|MEX}} [[パトリシオ・オワード]] |{{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]] |- ! 2022 |{{flagicon|AUS}} ウィル・パワー |- ! 2023 |{{flagicon|USA}} ジョセフ・ニューガーデン |{{flagicon|ESP}} アレックス・パロウ |} ''インディ500の勝者は[[インディ500#歴代優勝者]]を参照'' == 主なシリーズ参戦ドライバー == {| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small" |- ! ドライバー !! 参戦年 !! 主な成績 !! F1参戦歴 |- | {{flagicon|USA}}[[ダニー・オンガイス]] || 1996-1998 || 1996年29位、1996-97年42位、1998年NC || 1977-1978([[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]]、[[エンサイン]]、[[シャドウ・レーシング・カーズ|シャドウ]]) |- | {{flagicon|USA}}[[エディ・チーバー]] || 1996-2002, 2006 || 1996年16位、1996-97年3位、1998年9位、1999年7位、2000年3位、2001年8位、2002年10位、2006年19位 || 1978, 1980-1989([[セオドール]]、[[ヘスケス・レーシング|ヘスケス]]、[[オゼッラ]]、[[ティレル]]、[[リジェ]]、[[ルノーF1|ルノー]]、[[アルファロメオ]]、[[チーム・ハース|ハース]]、[[アロウズ]]) |- | {{flagicon|CHL}}[[エリセオ・サラザール]] || 1996-2002 || 1996年23位、1996-97年9位、1998年29位、1999年20位、2000年4位、2001年5位、2002年20位 || 1981-1983([[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]、エンサイン、[[ATSホイールズ#モータースポーツ|ATS]]、[[RAM (F1)|RAM]]) |- | {{flagicon|ITA}}[[ミケーレ・アルボレート]] || 1996 || 1996年11位、1996-97年32位 | 1981-1994(ティレル、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]、[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]、アロウズ、[[アロウズ|フットワーク]]、[[スクーデリア・イタリア]]) |- | {{flagicon|COL}}[[ロベルト・ゲレーロ]] || 1996-2001 || 1996年4位、1996-97年7位、1998年26位、1999年30位、2000年44位、2001年NC || 1982-1983(エンサイン、セオドール) |- | {{flagicon|BRA}}[[ラウル・ボーセル]] || 1998-2002 || 1998年20位、1999年23位、2000年37位、2001年NC、2002年19位 || 1982-1983(マーチ、リジェ) |- | {{flagicon|BRA}}[[ロベルト・モレノ]] || 1999, 2006-2008 || 1999年29位、2006年30位、2007年36位、2008年46位 || 1982, 1987, 1989-1992, 1995([[チーム・ロータス|ロータス]]、[[AGS (F1)|AGS]]、[[コローニ]]、[[ユーロブルン]]、[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]、[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]、[[ミナルディ]]、[[アンドレア・モーダ]]、[[フォルティ]]) |- | {{flagicon|GBR}}[[ジョニー・ハーバート]] || 2001-2002 || 2001年NC、2002年NC || 1989-2000(ベネトン、ティレル、ロータス、リジェ、[[ザウバー]]、[[スチュワート・グランプリ|スチュワート]]、[[ジャガー・レーシング|ジャガー]]) |- | {{flagicon|FRA}}[[ジャン・アレジ]] || 2012 || 2012年34位 || 1989-2001(ティレル、フェラーリ、ベネトン、ザウバー、[[プロスト・グランプリ|プロスト]]、ジョーダン) |- | {{flagicon|USA}}[[マイケル・アンドレッティ]] || 2001-2003, 2006-2007 || 2001年34位、2002年38位、2003年24位、2006年24位、2007年27位 || 1993([[マクラーレン]]) |- | {{flagicon|BRA}}[[ルーベンス・バリチェロ]] || 2012 || 2012年12位 || 1993-2011(ジョーダン、スチュワート、フェラーリ、[[ホンダF1|ホンダ]]、[[ブラウンGP|ブラウン]]、[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]) |- | {{flagicon|JPN}}[[野田英樹]] || 2002 || 2002年32位 || 1994(ラルース) |- | {{flagicon|ITA}}[[マッシミリアーノ・パピス]] || 2002, 2006, 2008 || 2002年43位、2006年27位、2008年NC || 1995(フットワーク) |- | {{flagicon|CAN}}[[ジャック・ヴィルヌーヴ]] || 2014 || 2014年30位 || 1996-2006(ウィリアムズ、[[B・A・R|BAR]]、ルノー、ザウバー、[[BMWザウバー]]) |- | {{flagicon|JPN}}[[中野信治]] || 2003 || 2003年29位 || 1997-1998(プロスト、ミナルディ) |- | {{flagicon|ITA}}[[ヴィンセンツォ・ソスピリ]] || 1997, 1999 || 1996-97年21位、1999年NC || 1997([[ローラ・カーズ|ローラ]]) |- | {{flagicon|JPN}}[[高木虎之介]] || 2003-2004 || 2003年10位、2004年15位 || 1998-1999(ティレル、アロウズ) |- | {{flagicon|COL}}[[ファン・パブロ・モントーヤ]] || 2000, 2014-2017, 2021-2022 || 2000年25位、2014年4位、2015年2位、2016年8位、2017年24位、2021年31位、2022年31位 || 2001-2006(ウィリアムズ、マクラーレン) |- | {{flagicon|BRA}}[[エンリケ・ベルノルディ]] || 2008 || 2008年22位 || 2001-2002(アロウズ) |- | {{flagicon|ESP}}[[フェルナンド・アロンソ]] || 2017, 2019-2020 || 2017年29位、2019年NC、2020年31位 || 2001, 2003-2018, 2021-(ミナルディ、ルノー、マクラーレン、フェラーリ、[[アルピーヌF1|アルピーヌ]]、[[アストンマーティンF1|アストンマーティン]]) |- | {{flagicon|CZE}}[[トーマス・エンゲ]] || 2004-2006 || 2004年27位、2005年16位、2006年32位 || 2001(プロスト) |- | {{flagicon|JPN}}[[佐藤琢磨]] || 2010-2023 || 2010年21位、2011年13位、2012年14位、2013年17位、2014年15位、2015年14位、2016年17位、2017年8位、2018年12位、2019年9位、2020年7位、2021年11位、2022年19位、2023年29位 || 2002-2008(ジョーダン、BAR、[[スーパーアグリ]]) |- | {{flagicon|BRA}}[[アントニオ・ピッツォニア]] || 2008 || 2008年45位 || 2003-2005(ジャガー、ウィリアムズ) |- | {{flagicon|GBR}}[[ジャスティン・ウィルソン]] || 2008-2015 || 2008年11位、2009年9位、2010年11位、2011年24位、2012年15位、2013年6位、2014年15位、2015年24位 || 2003(ミナルディ、ジャガー) |- | {{flagicon|ITA}}[[ジョルジオ・パンターノ]] || 2005, 2011-2012 || 2005年26位、2011年36位、2012年31位 || 2004(ジョーダン) |- | {{flagicon|NED}}[[ロバート・ドーンボス]] || 2009 || 2009年16位 || 2005-2006(ミナルディ、[[レッドブル]]) |- | {{flagicon|USA}}[[スコット・スピード]] || 2011 || 2011年NC || 2006-2007([[スクーデリア・トロ・ロッソ|トロ・ロッソ]]) |- | {{flagicon|FRA}}[[フランク・モンタニー]] || 2008-2009, 2014 || 2008年40位、2009年38位、2014年36位 || 2006(スーパーアグリ) |- | {{flagicon|FRA}}[[セバスチャン・ボーデ]] || 2005, 2011-2021 || 2005年28位、2011年23位、2012年25位、2013年12位、2014年10位、2015年10位、2016年14位、2017年21位、2018年7位、2019年11位、2020年28位、2021年16位 || 2008-2009(トロ・ロッソ) |- | {{flagicon|FRA}}[[ロマン・グロージャン]] || 2021- || 2021年15位、2022年13位、2023年13位 || 2009, 2012-2020(ルノー、[[ロータスF1チーム|ロータス]]、[[ハースF1チーム|ハース]]) |- | {{flagicon|MEX}}[[エステバン・グティエレス]] || 2017 || 2017年25位 || 2013-2014, 2016(ザウバー、ハース) |- | {{flagicon|DEN}}[[ケビン・マグヌッセン]] || 2021 || 2021年42位 || 2014-2020, 2022-(マクラーレン、ルノー、ハース) |- | {{flagicon|GBR}}[[マックス・チルトン]] || 2016-2021 || 2016年19位、2017年11位、2018年19位、2019年22位、2020年22位、2021年25位 || 2013-2014([[マルシャF1チーム|マルシャ]]) |- | {{flagicon|SWE}}[[マーカス・エリクソン]] || 2019- || 2019年17位、2020年12位、2021年6位、2022年6位、2023年6位 || 2014-2018([[ケータハムF1チーム|ケータハム]]、ザウバー) |- | {{flagicon|USA}}[[アレクサンダー・ロッシ]] || 2016- || 2016年11位、2017年7位、2018年2位 、2019年3位、2020年9位、2021年10位、2022年9位、2023年9位 || 2015(マルシャ) |- | {{flagicon|BRA}}[[ピエトロ・フィッティパルディ]] || 2018, 2021, 2024- || 2018年26位、2021年32位 || 2020(ハース) |} == 日本人ドライバーの参戦 == (インディカー・シリーズとその下部カテゴリのみ、旧CART除く) 2019年インディカー・シリーズ参戦 *[[佐藤琢磨]] (インディカー通算6勝、2017年、2020年インディ500優勝) 過去参戦していたドライバー *[[松田秀士]] *[[野田英樹]] *[[高木虎之介]](2003年インディ500ルーキーオブザイヤー) *[[中野信治]] *[[服部茂章]] *[[松浦孝亮]](2004年インディ500&シーズンルーキーオブザイヤー) *[[武藤英紀]](2008年シーズンルーキーオブザイヤー) *[[ロジャー安川]] **安川はアメリカ合衆国で生まれたためアメリカ国籍であるが、日本では日本人として扱われることが多い。 *[[レーサー鹿島]](プロシリーズのみ) *[[岡本章平]](プロシリーズのみ) == 開催日程と優勝者 == 1996年発足当初は3戦のみという少なさだったが翌1997年から拡大、さらに2005年はロードコースへ進出した。また2003年から2011年まで日本がカレンダーに組み込まれていた。また2010年からはブラジルがカレンダーに組み込まれている。現在ではオーバルレースとロードレース(市街地、特設含む)が概ね1:2の比率となっている。 == テレビ中継 == *アメリカ国内では2008年まで[[ESPN]]と[[ESPN on ABC|ABC]]で中継を行っていた。しかし2009年からはESPNに代わり、[[NBCSN]](旧Versus)が中継することになった。なお、ABCは1965年から2018年までの54年に渡りインディ500の中継を行っていたが、2019年以降は[[NBCスポーツ]]がシリーズ全戦中継を行う<ref name="indy">{{cite web|url=http://www.foxnews.com/auto/2018/03/21/after-54-years-abc-is-losing-indy-500-to-nbc.html|title=After 54 years, ABC is losing the Indy 500 to NBC|publisher=FOXNEWS.com|date=2018-03-21|accessdate=2018-05-30}}</ref><ref name="indy2">{{Cite web|和書|url=http://blog.gaora.co.jp/indy/2018/03/25007|title=2019シーズンから全戦をNBCが放送|website=こちらGAORA INDYCAR実況室|publisher=[[GAORA]]|date=2018-03-21|accessdate=2018-05-30}}</ref>。アメリカにおける人気は、インディ500を除くと視聴者数的には[[モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズ]]の1/4以下で、[[NHRA]]メモ・イエローシリーズ及び[[F1世界選手権]]と同程度である<ref>[http://www.sportsmediawatch.com/2017/07/indycar-ratings-nbcsn-viewership-formula-one-nhra-fs1/ Ratings Roundup: IndyCar, F1, NHRA]</ref>。 *日本では[[GAORA|GAORA SPORTS]]が中継を行っている。GAORA SPORTSでは生放送を中心に放送している。生放送の場合は時差のため日曜日の深夜~月曜日の昼頃に放送が行われる。実況、司会は[[村田晴郎]]、[[レーサー鹿島]]、[[辻野ヒロシ]]。解説は[[松田秀士]]を中心に[[武藤英紀]]、[[松浦孝亮]]、[[黒澤琢弥]]、[[野田英樹]]ら、インディカーをはじめとしたアメリカンオープンホイールを戦ったドライバーや[[小倉茂徳]]が務めているほか、現地から[[天野雅彦]]の[[Skype]]または電話リポートが行われ、レース後に天野と連絡が取れた場合は出場した日本人ドライバーがその場からSkype出演をしている。実況解説の雰囲気がモータースポーツのみならず他のあらゆるスポーツ中継と比べても特筆すべきほど非常に「ゆるい」ことで有名で、確かな解説と軽妙なトークのバランスが人気。インターネットを中心に「居酒屋実況」と呼ばれ親しまれている。 *インディカー公式サイトによる無料の中継配信が行われている<ref>[https://www.indycar.com/ways-to-watch/stream Ways To Watch - INDYCAR Live!(英語)] - INDYCAR、2022年5月23日閲覧。なお視聴にはメールアドレスの登録が必要</ref>。基本的にプラクティス・予選を含めインディカー・シリーズおよびインディ・ライツ全セッションの英語による中継配信が行われるが、放映権利の兼ね合いから一部セッションの配信がブロックされている国がある。日本でもインディカー・シリーズの決勝レース配信はブロックされている。 *日本テレビでは2002年まで[[CART]]の中継を行っていたが、ホンダ・トヨタが共にIRLに移ったこと、またツインリンクもてぎでの開催がIRLに移った事により、[[2003年]]からインディジャパン最終年となった[[2011年]]までIRLの中継を行った。 *1999年以前、IRLのシリーズ戦中継は行われていなかったが、[[インディ500]]のみ[[TBSテレビ|TBS]]や[[テレビ朝日]]にて放送されていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *[https://www.indycar.com/ IndyCar公式ウェブサイト] *[http://www.indy500.com インディ500公式ウェブサイト] *[https://www.gaora.co.jp/motor/ GAORA公式ウェブサイト(中継局)] {{インディカー・シリーズ}} {{インディカー・シリーズのサーキット}} {{インディカー・シリーズのチャンピオン}} {{モータースポーツ}} {{Motorsport-stub}} {{デフォルトソート:いんていかあしりいす}} [[Category:インディカー・シリーズ|*]] [[Category:1996年開始のスポーツイベント]]
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テクモ
テクモ株式会社(英: TECMO,LTD.)は、かつて存在した日本のコンピュータゲームソフト開発会社である。家庭用ゲームソフトおよび業務用ソフトの開発、オンラインゲーム、モバイルコンテンツの開発に注力していた。2010年に同業のコーエーと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。 社名は「Technology(技術)」「Entertainment(娯楽)」「Creation(創作)」「Man(人)」「Overseas(海外)」の頭文字を採ったもの。2010年3月設立の新会社の旧社名は株式会社テーカン(2011年に再統合)。かつてはアミューズメント施設の運営事業も行っていた。 2006年1月、みずほコーポレート銀行出身で、前年まで常務取締役だった安田善巳が社長に就任。その後、前任の社長中村純司による退職金訴訟、プロデューサー板垣伴信への元女性社員によるセクハラ訴訟、板垣による成功報奨金未払い訴訟、労働組合による従業員への未払い残業代訴訟など、テクモに対する訴訟が頻発する中、2008年8月20日、一身上の都合により8月31日をもって安田が社長を辞任することが発表される。それにより、創業者柿原彬人の次男で医師出身の柿原康晴代表取締役会長が社長を兼任することとなった。 このようにゴタゴタが続き社内が混乱し、「M&Aの絶好のチャンスでどの会社に買収を仕掛けられてもおかしくない」などと評される状況の中、8月29日、スクウェア・エニックスが、テクモ株の株式公開買い付けの提案を行う。買い付け価格は、前日の終値に30%強のプレミアムを乗せた920円。9月4日までに回答が得られない場合、もしくはテクモ取締役会の賛同を得られない場合は、提案を撤回するとした。 回答期限の9月4日、テクモ取締役会は「有能な従業員の確保、安定した開発環境の確保、ブランドの維持発展の観点から検討した結果、ほかにより企業価値向上の実現性の高い選択の可能性がある」として、株式公開買い付けへの非賛同を表明。同時にコーエーとの経営統合へ向けた協議の開始を発表した。コーエーの社長松原健二は「(創業者同士で)家族ぐるみの親交があり、将来の経営像などについても話し合いを持ったと聞いている。そういう中で、今回の話し合いが進んだ」と述べた。 11月18日、両社は統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同持株会社であるコーエーテクモホールディングスを設立。 2010年4月1日にコーエーと合併し、コーエーテクモゲームスが誕生した。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された。 下記では家庭用ソフトで販売本数の多いソフトを記す。 また、テクモ社長が兼任して作られた子会社の『サリオ』ブランドで、セガ・マークIII時代のセガの唯一のサードパーティとして「アルゴスの十字剣」「ソロモンの鍵」を発売した。 (全て過去のもの)
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テクモ株式会社は、かつて存在した日本のコンピュータゲームソフト開発会社である。家庭用ゲームソフトおよび業務用ソフトの開発、オンラインゲーム、モバイルコンテンツの開発に注力していた。2010年に同業のコーエーと合併し、コーエーテクモゲームスとなった。 社名は「Technology(技術)」「Entertainment(娯楽)」「Creation(創作)」「Man(人)」「Overseas(海外)」の頭文字を採ったもの。2010年3月設立の新会社の旧社名は株式会社テーカン(2011年に再統合)。かつてはアミューズメント施設の運営事業も行っていた。
{{Pathnav|コーエーテクモホールディングス|コーエーテクモゲームス|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = テクモ株式会社 |英文社名 = TECMO,LTD. |ロゴ = [[File:Tecmo logo.svg|250px]] |画像 = {{画像募集中}} |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = {{上場情報|東証1部|9650| |2009年3月26日}} |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 102-0073 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[九段北]]四丁目1番34号 |設立 = [[1967年]]([[昭和]]42年)[[7月31日]]<br />(日本ヨット株式会社) |業種 = 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = パーソナルコンピューター家庭用ビデオゲーム機用ソフトウェアの企画・開発 |代表者 = 阪口 一芳(代表取締役社長) |資本金 = 58億2300万円 |発行済株式総数 = 2355万3173株 |売上高 = 単独:660百万円(2009年3月期) |営業利益 = 単独:614百万円(2009年3月期) |純利益 = 単独:4,196百万円(2009年3月期) |純資産 = 単独:12,413百万円(2009年3月期) |総資産 = 単独:14,918百万円(2009年3月期) |従業員数 = |決算期 = 3月31日 |主要株主 = [[コーエーテクモホールディングス]] 100% |主要子会社 = [[コーエーテクモウェーブ|テクモウェーブ]] |関係する人物 = [[柿原彬人]](創業者)<br />[[板垣伴信]](元社員) |外部リンク = http://www.tecmo.co.jp/<br />※現在は2010年3月31日までの情報アーカイブサイトになっている。 |特記事項 = 特記ある場合以外は2009年9月30日時点の情報<ref>{{PDFlink|[https://www.koeitecmo.co.jp/ir/docs/ird6_20100215.pdf グループ組織再編(会社分割並びに子会社の合併及び商号変更)のお知らせ(2010年2月15日)]}}</ref>。 }} '''テクモ株式会社'''({{Lang-en-short|TECMO,LTD.}})は、かつて存在した[[日本]]の[[コンピュータゲーム]][[ゲームソフト|ソフト]]開発会社である。家庭用ゲームソフトおよび業務用ソフトの開発、[[オンラインゲーム]]、[[モバイルコンテンツ]]の開発に注力していた。2010年に同業の[[コーエー]]と合併し、[[コーエーテクモゲームス]]となった。 社名は「{{en|Technology}}([[技術]])」「{{en|Entertainment}}([[エンターテインメント|娯楽]])」「{{en|Creation}}(創作)」「{{en|Man}}(人)」「{{en|Overseas}}([[海外]])」の頭文字を採ったもの<ref>{{Cite book|和書 |title=ファミコン通信 No.269 |date=1994年2月11日 |year=1994 |publisher=アスキー |page=139}}</ref>。2010年3月設立の新会社の旧社名は'''株式会社テーカン'''(2011年に再統合)。かつては[[ゲームセンター|アミューズメント施設]]の運営事業も行っていた。<!--2002年、子会社に営業譲渡--> == 沿革 == * 1964年9月 - '''帝国管財株式会社'''設立。 *: 当初は建築物管理(ビルメンテナンス)を行っていた。以降、以下に記すようにビルメンテナンス→テナント・店舗管理→自社で店舗運営→ゲームセンターなどアミューズメント事業→[[アーケードゲーム]]→[[テレビゲーム]]と事業を変えて行く。 * 1967年7月31日 - '''日本ヨット株式会社'''設立。後に、[[ヨット]]など船の管理→動産管理→不動産管理→ビル管理という流れから、下記の[[合併 (企業)|合併]]を行うことになる。 * 1969年7月業務用アミューズメント機器の販売を開始。 * 1970年3月直営アミューズメント施設の第1号を千葉県姉ヶ崎のボウリングセンター内に開設。 * 1977年10月 - 帝国管財株式会社が'''株式会社テーカン'''([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]本社所在)に商号変更。 * 1981年 **3月 - 米国(ロスアンゼルス)に現地法人U.S.TEHKAN,INC(現・TECMO KOEI AMERICA Corporation)を設立。 **4月 - 業務用アミューズメントソフトの自社開発作品第1号『プレアデス』を発表。 * 1982年12月6日 - 日本ヨット株式会社が、'''テーカンエレクトロニクス株式会社'''に商号変更。 * 1985年 **4月19日 - '''株式会社テーカン'''(同名別会社)設立。本社を設立時の東京都[[墨田区]][[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]]から東京都[[千代田区]][[神田東松下町]]に移転。 **6月 - 株式会社テーカン(東京都中央区所在)の事業を、株式会社テーカン(東京都千代田区所在)へ[[営業譲渡]]。 * 1986年 **この年、ファミリーコンピュータ向けソフト開発事業に参入する。それまでのアミューズメント施設運営事業やアーケードゲーム開発事業から、家庭用ゲームソフト事業主体の事業構造に転換を行う。 **1月8日 - 株式会社テーカンから、'''テクモ株式会社'''に商号変更。 **1月 - 対戦用ゲーム初、トラックボール使用のサッカーゲーム『テーカン・ワールドカップ』発売。 **4月 - 自社開発家庭用ゲーム第1号『マイティボンジャック』(FC)発表“ゲーム偏差値”等の新機軸を取り入れたアクションパズルゲーム。 * 1987年4月1日 - 株式の額面変更を目的として、株式会社テーカンエレクトロニクスがテクモ株式会社を合併し、株式会社テーカンエレクトロニクスから'''テクモ株式会社'''に商号変更。東京都千代田区[[神田須田町]]に本社を移転。 * 1988年 **7月 - 東京都千代田区[[九段北]]に本社を移転。 **12月 - 業務用アクションゲーム『忍者龍剣伝』(米国版『NINJA外伝』)発売。 * 1989年2月 - 米国版アメリカンフットボールゲーム『TECMO BOWL』(NES)発売。 * 1992年12月 - 株式を[[店頭登録]](現[[ジャスダック]])。 * 1993年 **1月 - ゲーム用娯楽機器の製造、販売、賃貸及び輸出入を目的として、東京都千代田区に子会社 テクモソフトプロダクツ株式会社を資本金1000万円をもって設立。 **12月 - 浜松研究開発センター竣工。 * 1994年8月 - 子会社 テクモソフトプロダクツ株式会社の商号を株式会社テクモエイトに変更。 * 1996年 **3月 - 市川アネックス開設。 **7月 - トラップシミュレーションゲーム『刻命館』(PS)発売。 **9月 - 3Dジョッキーレーシングゲーム『ギャロップレーサー』(PS)発売。 **11月 - 業務用3D対戦格闘ゲーム『[[デッド オア アライブ]]』発売。 * 1997年7月 - モンスター育成シミュレーションゲーム『モンスターファーム』(PS)発売。 * 1997年10月 - 3D対戦格闘ゲーム『デッド オア アライブ』(SS)発売。 * 1998年8月 - 本社第2ビル開設。 * 1999年4月 - 『モンスターファーム ~円盤石の秘密~』 アニメ放送開始。 * 2000年3月 - [[東京証券取引所]]第2部に上場。 * 2000年8月 - 麹町オフィス開設。 * 2001年3月 - 東京証券取引所第1部に上場。 * 2001年10月 - 代表取締役[[会長]]に[[柿原彬人]]、代表取締役[[社長]]に[[中村純司]]が就任。 * 2002年 - パチンコ・パチスロ液晶ソフト受託開発事業に本格参入。[[パチスロ機]]メーカーの[[ネット (パチスロメーカー)|ネット]]と事業提携を行う。 * 2002年4月 - アミューズメント施設運営事業を、テクモウェーブ株式会社(現・株式会社[[コーエーテクモウェーブ]])に営業譲渡。 * 2002年9月 - 子会社 株式会社お台場王国設立。子会社 株式会社テクモエイト(現・株式会社コーエーテクモウェーブ)の本部オフィスを市川アネックス(千葉県船橋市二子町)から秀和三番町ビル(東京都千代田区三番町)に移転。 * 2002年10月 - 兵庫県伊丹市のショッピングセンター「ダイヤモンドシティ テラス(現・イオンモール伊丹テラス)」内に「テクモピアフォーレ(伊丹店)」オープン。 * 2003年1月 - スポーツゲーム『DEAD OR ALIVE Xtreme Beach Volleyball』(Xbox)発売。 * 2003年3月 - 日本ビルオフィス開設。 * 2003年4月 - 奈良県奈良市のショッピングセンター「ならファミリー」内に全身シール機コーナー「テクモピア オロスコポ(奈良ファミリー店)」オープン。 * 2003年7月 - 栃木県宇都宮市のショッピングセンター「FKDショッピングモールインターパーク」内に「テクモピアロックダム(インターパーク店)」オープン。 * 2004年3月 - アクションアドベンチャーゲーム『NINJA GAIDEN』(Xbox)発売。 * 2004年7月 - 子会社 株式会社テクモエイトの商号をテクモウェーブ株式会社に変更、本部オフィスを秀和三番町ビル(東京都千代田区三番町)から日本ビルディング九段別館(東京都千代田区九段北)に移転。 * 2004年8月 - 子会社 テクモウェーブ株式会社が株式会社ゼットプロジェクト(現・CWS Brains 株式会社)を買収、子会社化。 * 2004年12月 - 沖縄県豊見城市のショッピングセンター「マックスバリュ豊見城店」内にアミューズメント施設「テクモピアフォレスタ」をオープン。 * 2005年4月 - 子会社 テクモウェーブ株式会社本店の所在地を東京都千代田区九段北4丁目1番3号日本ビルディング九段別館10階に移転。 * 2005年7月 - ホラーアクションアドベンチャーゲーム『[[零 -刺青ノ聲-]]』(PS2)発売。 * 2005年9月 - パチスロシミュレーター『タッチde楽勝!パチスロ宣言 リオデカーニバル』(DS)発売。 * 2005年11月 - 栃木県宇都宮市のショッピングセンター「インターパークショッピングビレッジ」内にアミューズメント施設「てくもぴあゆうらく工房」をオープン。 * 2005年12月 - アクションゲーム『KARAKURI』(PSP)発売。 * 2006年1月 - 代表取締役社長に[[安田善巳]]が就任。 * 2006年2月 - 中期経営計画『[http://www.tecmo.co.jp/company/data/20060223chuki.pdf テクモビジョナリー2010]』を策定。 * 2006年4月 - アイボリービル拠点開設。 * 2006年7月 - 代表取締役会長の柿原彬人が逝去。 * 2006年8月28日 - [[SeedC]]との業務提携契約を締結。 * 2006年10月10日 - SeedCの共同でグローバル&オープンのオンラインゲームプラットフォーム「[[Lievo]]」のサービスを開始。<!--* [http://www.lievo.jp/ LieVo]--> * 2006年10月 - 東京都江東区のショッピングセンター「アーバンドックららぽーと豊洲」内にアミューズメント施設「テクモピアラグジィ」と「ハローキティのドレミファ島」をオープン。 * 2006年12月 - ゴルフアクションゲーム『スイングゴルフ パンヤ』(Wii)発売。リアルタイムストラテジーゲーム『Heroes of Annihilated Empires Episode I ~黄泉の国 アトランティス~』(PC)発売。 * 2007年3月 - 代表取締役会長に[[柿原康晴]]が就任。 * 2007年4月 - パチスロシミュレーター『楽勝!パチスロ宣言 リオパラダイス』(PS2)発売。 * 2007年6月 - アクションゲーム『NINJA GAIDEN Σ』(PS3)発売。 * 2007年10月 - サスペンスアドベンチャーゲーム『DS西村京太郎サスペンス 新探偵シリーズ「京都・熱海・絶海の孤島 殺意の罠」』(DS)発売。 * 2008年8月29日 - 株式会社[[スクウェア・エニックス]]より[[TOB]]による子会社化の提案を受ける。 * 2008年8月31日 - 代表取締役社長の安田善巳が辞任。 * 2008年9月1日 - 代表取締役会長兼社長に柿原康晴が就任。 * 2008年9月4日 - スクウェア・エニックスからのTOB提案を拒否する。株式会社コーエーとの経営統合協議を開始。 * 2008年11月 - ロールプレイングゲーム『ノスタルジオの風』(DS)発売 * 2008年11月18日 - コーエーと統合契約書を締結。 * 2009年1月 - 代表取締役社長に阪口一芳就任。 * 2009年3月31日 - SeedCとの業務提携契約を解消し、Lievoの運営から撤退。 * 2009年4月1日 - コーエーと経営統合し、共同[[持株会社]]「[[コーエーテクモホールディングス]]株式会社」を設立。テクモはコーエーテクモホールディングスの完全子会社となる。 * 2010年2月25日 - 4月1日をもって、コーエーに全権利義務を承継させ解散することを公告<ref>{{Cite web|和書|date=2010-02-25|url=http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20100225koukoku.pdf|title=合併公告 |format=PDF|publisher=テクモ株式会社|accessdate=2010-02-25}}</ref>。 * 2010年3月15日 - '''株式会社テーカン'''設立(4月1日付けで'''テクモ株式会社'''に商号変更)。 * 2010年4月1日 - コーエーがテクモを合併し、'''株式会社[[コーエーテクモゲームス]]'''に商号商号。テクモは解散。同時に開発機能を(新)'''テクモ株式会社'''に分離。 * 2011年4月1日 - 開発部門の効率化を図る為にコーエーテクモゲームスに統合され、開発機能としてのテクモは消滅した。 == コーエーとの経営統合 == 2006年1月、[[みずほコーポレート銀行]]出身で、前年まで常務取締役だった[[安田善巳]]が社長に就任<ref>{{Cite web|和書|date=2005-11-09 |url=http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20051109.pdf |title=当社及び連結子会社の代表取締役の異動に関するお知らせ |format=PDF |publisher=テクモニュースリリース |accessdate=2020-12-01}}</ref>。その後、前任の社長[[中村純司]]による退職金訴訟、プロデューサー[[板垣伴信]]への元女性社員によるセクハラ訴訟、板垣による成功報奨金未払い訴訟、労働組合による従業員への未払い残業代訴訟など、テクモに対する訴訟が頻発する中、2008年8月20日、一身上の都合により8月31日をもって安田が社長を辞任することが発表される<ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-20 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0808/20/news103.html |title=テクモ安田氏、代表取締役社長を辞任 |publisher=[[ねとらぼ]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>。それにより、創業者[[柿原彬人]]の次男で<ref name="toyokeizai">{{Cite web|和書|date=2008-09-18 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/1979 |title=スクエニがTOBを撤回、テクモ争奪戦の深層 |publisher=[[東洋経済オンライン]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>医師出身の[[柿原康晴]]代表取締役会長が社長を兼任することとなった<ref name="diamond">{{Cite web|和書|date=2008-09-16 |url=https://diamond.jp/articles/-/1140 |title=スクエニのテクモ買収は破談も「ゲーム業界再編」の引き鉄となるか? |publisher=[[週刊ダイヤモンド]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>。 このようにゴタゴタが続き社内が混乱し<ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-29 |url=https://japan.zdnet.com/article/20379534/ |title= スクエニ和田社長が語る、「テクモに株式公開買い付けを提案した理由」 |publisher=[[ZDNet Japan]] |accessdate=2020-12-02}}</ref><ref name="toyokeizai" /><ref>{{Cite web|和書|date=2008-09-05 |url=https://www.j-cast.com/2008/09/05026376.html |title=テクモがスク・エニ袖にした 理由は「昔の怨恨」? |publisher=[[J-CASTニュース]] |accessdate=2020-12-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-29 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/29/news089.html |title=スクエニ、テクモに友好的TOB提案 「世界に通用する創造力が魅力」と和田社長 |publisher=[[ITmedia NEWS]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>、「[[M&A]]の絶好のチャンスでどの会社に買収を仕掛けられてもおかしくない」<ref name="diamond" /><ref>{{Cite web|和書|date=2009-02-09 |url=https://www.data-max.co.jp/2009/02/post_4536.html |title=創業者の死が招いた経営混乱 テクモ経営統合の舞台裏(上) |publisher=Net IB News |accessdate=2020-12-02}}</ref>などと評される状況の中、8月29日、[[スクウェア・エニックス]]が、テクモ株の[[株式公開買い付け]]の提案を行う<ref name="reuters">{{Cite web|和書|date=2008-08-29 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-33498820080829 |title=スクエニがテクモにTOBを提案、株式の過半数取得を目指す |publisher=[[ロイター]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>。買い付け価格は、前日の終値に30%強のプレミアムを乗せた920円<ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-29 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080829/sqex.htm |title=スクウェア・エニックス、テクモに対し株式の友好的公開買付けを提案 和田氏「TOBはこれから。目的はグループとして一緒にやっていくこと」 |publisher=[[GAME Watch]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>。9月4日までに回答が得られない場合、もしくはテクモ[[取締役会]]の賛同を得られない場合は、提案を撤回するとした<ref name="reuters" />。 回答期限の9月4日、テクモ取締役会は「有能な従業員の確保、安定した開発環境の確保、ブランドの維持発展の観点から検討した結果、ほかにより企業価値向上の実現性の高い選択の可能性がある」として、株式公開買い付けへの非賛同を表明。同時にコーエーとの経営統合へ向けた協議の開始を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2008-09-04 |url=https://www.pachinkovillage.com/news/?p=345 |title=テクモとコーエーが経営統合に向け協議開始 スクエニのTOB提案は拒否 |publisher=パチンコビレッジ |accessdate=2020-12-02}}</ref>。コーエーの社長松原健二は「(創業者同士で)家族ぐるみの親交があり、将来の経営像などについても話し合いを持ったと聞いている。そういう中で、今回の話し合いが進んだ」と述べた<ref>{{Cite web|和書|date=2008-09-04 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-33595020080904 |title=テクモがスクエニの買収案拒否、コーエーと経営統合で協議 |publisher=ロイター |accessdate=2020-12-02}}</ref>。 11月18日、両社は統合契約書を締結し、2009年4月1日に共同[[持株会社]]である[[コーエーテクモホールディングス]]を設立<ref>{{Cite web|和書|date=2008-11-18 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20081118/koei1.htm |title=コーエーとテクモ、経営統合に関する契約を締結 2009年4月に共同持株会社コーエーテクモホールディングスを設立 |publisher=GAME Watch |accessdate=2020-12-02}}</ref>。 2010年4月1日にコーエーと合併し、[[コーエーテクモゲームス]]が誕生した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-02-26 |url=https://www.4gamer.net/games/028/G002820/20100226061/ |title=テクモ,コーエーに吸収合併で新会社コーエーテクモゲームスに |publisher=[[4Gamer.net]] |accessdate=2020-12-02}}</ref>。合併時に開発部門が(新)コーエー、(新)テクモに分離されたが、「更に柔軟かつ機動的な開発体制へと変えていく必要がある」として、2011年4月に再度吸収合併された<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.koeitecmo.co.jp/news/docs/news_20110207_01.pdf|title=連結子会社間の組織再編(合併及び会社分割)についてのお知らせ|publisher=コーエーテクモホールディングス|date=2011-02-07|accessdate=2018-01-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2011-02-08 |url=https://www.gamebusiness.jp/article/2011/02/08/3035.html |title=コーエーテクモゲームス、コーエーとテクモを吸収合併 |publisher=GameBusiness.jp |accessdate=2022-02-09}}</ref>。 == 開発チーム == * [[Team NINJA]] * [[Team TACHYON]] == 主力タイトル == 下記では家庭用ソフトで販売本数の多いソフトを記す。 ; [[デッド オア アライブ シリーズ]]([[アーケードゲーム|AC]]・[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]・[[セガサターン|SS]]・[[ドリームキャスト|DC]]・[[PlayStation 2|PS2]]・[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]・[[Xbox 360]]・[[PlayStation 3|PS3]]・[[PlayStation 4|PS4]])(1996~) : 3D対戦格闘ゲーム。シリーズ累計970万本販売。 ; [[忍者龍剣伝]]/[[NINJA GAIDEN]]シリーズ([[NINJA GAIDEN Σ|Σ]]・[[NINJA GAIDEN Dragon Sword|Dragon Sword]]・[[NINJA GAIDEN 2|2]]・[[NINJA GAIDEN Σ2|Σ2]])(AC・FC・[[ゲームボーイ|GB]]・Xbox・Xbox 360・[[PlayStation 3|PS3]]・[[ニンテンドーDS|DS]])(1988~) : 忍者アクションゲーム。シリーズ累計770万本出荷。 ; [[テクモボウル]]シリーズ(AC・[[ファミリーコンピュータ|FC]]・[[スーパーファミコン|SFC]]・[[メガドライブ|MD]]・PS)(1987~) : アメリカンフットボールゲーム。米国でのテクモの知名度を一気に高めた。シリーズ累計500万本販売<ref name="Tsales"/>。 ; [[モンスターファームシリーズ]](PS・PS2・[[ゲームボーイアドバンス|GBA]]・[[Microsoft Windows|WIN]] ・DS)(1997~) : CDによるモンスター再生で一世を風靡した育成シミュレーションゲーム。シリーズ累計400万本販売<ref name="Tsales">http://www.tecmo.co.jp/company/data/20070823cp_e.pdf#page=13</ref>。 ; [[ギャロップレーサー]]シリーズ(AC・PS・PS2・WIN)(1996~) : 競馬アクションレーシングゲーム。シリーズ累計130万本。 ; [[零 (ゲーム)|零シリーズ]](PS2・日本国外版PS3・Xbox・3DS・Wii・Wii U)(2001 - 2014) : 和風ホラーアクションアドベンチャー。シリーズ累計130万本販売。 ; [[アルゴスの戦士]]シリーズ(AC・FC・PS2・Wii)(1986~2008) : シリーズ累計150万本販売<ref name="Tsales"/>。 == その他のゲームタイトル一覧 == * [[ドラキュラハンター]](AC)(1980) - 開発・発売ともテクノン工業による。テーカンが協力している。 * プレアデス(AC)(1981) - この作品が自社として最初のゲーム。アムスターと[[タイトー]]の『[[フェニックス (ゲーム)|フェニックス]]』の改造であり、映像・演出・ゲーム内容に類似性が見られる。 * [[レッドスラッシュ]](AC)(1981) * [[スイマー (ゲーム)|スイマー]](AC)(1982) * ボイジャー(AC)(1982) * [[ガズラー]](AC・[[オセロマルチビジョン|OMV]])(1983) * [[SENJYO]](AC・MSX)(1983) * [[スターフォース]](AC)(1984) / ([[SG-1000|SG]]・FC・MSX)(1985) ** [[スーパースターフォース]](FC)(1986) ** [[ファイナルスターフォース]](AC)(1992) * [[ボンジャック]](AC・[[SG-1000|SG]]・PC-88)(1984) / [[マイティボンジャック]](FC)(1986) * [[グリダイアンファイト]](AC)(1985) - [[トラックボール]]を使用するアメフトゲームで、米国市場向けに出荷された。日本国内では「オールアメリカンフットボール」に改題されて1987年に流通したが、ほとんど出回らなかった。 * [[ピンボールアクション]](AC)(1985) ** [[スーパーピンボールアクション]](AC)(1991) * [[TEHKAN World Cup|テーカン ワールドカップ]]シリーズ ** [[TEHKAN World Cup|テーカン ワールドカップ]](AC)(1985) - シリーズ1作目。[[グリダイアンファイト]]の基板と筺体を流用したサッカーゲーム。近年の移植版はテクモカップと改称。 ** [[テクモ ワールドカップ'90]](AC)(1989) - 2作目以降はトラックボール操作から通常レバーでの操作に変更。 ** [[テクモ ワールドカップ'94]](AC)(1994) ** [[テクモ ワールドカップ'98]](AC)(1998) ** [[テクモ ワールドカップミレニアム]](AC)(2000) * [[ソロモンの鍵 (ゲーム)|ソロモンの鍵]]シリーズ(AC・FC・GB)(1986~2000) * [[ティードオフ]](AC)(1986) - トラックボールを使用するゴルフゲーム。 * [[ジェミニウイング]](AC・[[X68000|X68K]])(1987) * [[つっぱり大相撲]]シリーズ(FC・SFC・PCE・Wii)(1987~2009) * [[シルクワーム]](AC)(1988) * [[キャプテン翼 (ゲーム)|キャプテン翼]]シリーズ(FC・GB・SFC・MD)(1988~1994) * [[ワイルドファング]](AC)(1989) * [[激闘プロレス!!]](FC)(1989) * [[激闘スタジアム!!]](FC)(1989) * [[キャッ党忍伝てやんでえ]](FC)(1991) * [[おぼっちゃまくん]](FC)(1991) - このゲームのモデルとスポンサー番組でもあった。 * [[ラディア戦記~黎明篇~]](FC)(1991) * [[雷牙]](AC)(1991) * [[クイズココロジー]](AC)(1992) ** [[クイズココロジー2]](AC)(1993) * [[雀師]](AC)(1992) * [[テクモスーパーNBAバスケットボール]](SFC・MD)(1992) * [[雷軋斗]](1992) - 読み方はライアット。国内未発売で海外では[[NMK]]が販売。 * [[アクタリオン]](SFC)(1993) * [[エイトフォース]](AC)(1994) * [[テクモ スーパーベースボール]](SFC)(1994) * [[テクモ Vゴールサッカー]](AC・3DO)(1994) * [[がんばれギンくん]](AC)(1995) * [[ザ・大阪]](AC)(1995) * [[でろ~ん でろでろ]](AC・PS・SS)(1995) * [[フットボールファイター]](AC)(1995) * [[能力向上委員会]](AC)(1995) * [[ターフヒーロー]](SFC)(1995) * [[闘姫伝承]](AC・PS)(1996) * [[刻命館]] / [[影牢]] / [[蒼魔灯]]シリーズ(PS・PS2)(1996~) * [[Jリーグ ゴーゴーゴール!]](SS)(1997) * [[Jリーグサッカー 実況サバイバルリーグ]](PS)(1999) * [[UNiSON]](PS2)(2000) * [[爆烈サッカー]](PS)(2002) * [[KARAKURI]](PSP)(2005) * [[コロボットアドベンチャー]](PS2)(2006) * [[スイングゴルフ パンヤ]](Wii)(2006) * [[DSサスペンスシリーズ]](DS)(2007~2008) * [[ノスタルジオの風]](DS)(2008) * [[AGAIN FBI超心理捜査官]](DS)(2009) * [[相棒DS]](DS)(2009) * [[アンデッドナイツ]](PSP)(2009) * [[クウォンタム セオリー]](PS3・360)(2010) また、テクモ社長が兼任して作られた子会社の『サリオ』ブランドで、[[セガ・マークIII]]時代の[[セガ]]の唯一のサードパーティとして「アルゴスの十字剣」「ソロモンの鍵」を発売した。 == 訴訟 == === 役員退職慰労金訴訟 === * 2007年2月14日 - 元代表取締役社長中村純司が、テクモに対し役員退職慰労金1億6990円の支払いを求める[[訴訟]]を提起した、とのリリースをテクモが発表する<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/2007021406.pdf 役員退職慰労金の請求について] - 2007年2月14日テクモニュースリリース</ref>。 * 2007年4月3日 - 同年3月28日付で[[和解]]が成立した、とのリリースをテクモが発表する<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20080403_1.pdf 和解による訴訟の解決に関するお知らせ] - 2008年4月3日テクモニュースリリース</ref>。 === セクハラ訴訟 === * 2006年8月4日 - [[板垣伴信]]が常務執行役員ハイエンドプロダクション本部長から、執行役員ハイエンドプロダクション本部長になり、謎の降格と話題になる<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/2006080401.pdf 人事異動について] - 2006年8月4日テクモニュースリリース</ref><ref name="zakzak">[https://web.archive.org/web/20070105224358/http://www.zakzak.co.jp/top/2006_11/t2006110710.html 「DOA」より過激だったセクハラ技…東京地裁で裁判中 ] - ZAKZAK 2006/11/07</ref>。 * 2006年9月10日 - 元女性社員が、上司である板垣に[[セクハラ]]を受け、会社に訴えたものの逆に辞めさせられたと主張して、テクモと板垣に対する[[民事訴訟]]を提訴する。テクモは「元社員(女性社員)が私情をはらす目的で行った行為であり、セクハラではないとの結論に至った」としているが、「執行役員(板垣)と元社員(女性社員)とその関係者にも公私を混同した行為があったことと、本件のため同人らが社内に無用の混乱を招き支障を来したことから、同人らの反省を促すため同人らを降格(2006年8月)ならびに減給処分にいたしました。」としている<ref name="zakzak" /><ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/2006111702.pdf 訴訟に関する一部報道について] - 2006年11月17日テクモニュースリリース</ref>。 * 2007年12月5日 - [[東京地方裁判所]]は、板垣がセクハラ行為を行った事実はないとの判決を下す。また「この判決により、一部報道メディアに掲載されたセクハラ記事の内容は虚偽であることが証明された」とのリリースをテクモが発表する<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20071205.pdf 訴訟判決について] - 2007年12月5日テクモニュースリリース</ref>。 * 2008年2月8日 - 元社員が判決を不服として控訴する<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20080208.pdf 訴訟事件の判決に対する控訴について] - 2008年2月8日テクモニュースリリース</ref>。 * 2008年3月1日 - 板垣が執行役員 ゲームプロダクション本部長から執行役員[[Team NINJA]]部長に降格になる<ref name="koukaku">[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20080303.pdf 人事異動に関するお知らせ] - 2008年3月3日テクモニュースリリース</ref>。 * 2008年4月1日 - 板垣が執行役員Team NINJA部長からクリエイティブオフィサーTeam NINJA部長に降格になる<ref name="koukaku" />。 * 2008年5月22日 - [[東京高等裁判所]]は、原告女性の請求を棄却する判決を下す。テクモはニュースリリースにて「当社社員の行為は、セクハラにはあたらないとの認定がなされました。」としているが、同時に「裁判を通じ、当時、職場において社会通念上容認し難い行為が繰り返し行なわれていたことが明らかになりました。」ともしている<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/2008052303.pdf 訴訟事件の控訴判決について] - 2008年5月23日テクモニュースリリース</ref>。 === 未払い成功報酬・不当発言訴訟 === * 2008年5月14日 - [[板垣伴信]]は成功報酬が未払いであるとし、また[[安田善巳]]が板垣の評価を不当におとしめる発言をしたとして、テクモと安田に対し合計1億4800万円の支払いを求める訴訟を起こす。また板垣が2008年7月1日付でテクモを[[退社]]すると公表した<ref name="teiso">[https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0806/03/news095.html 板垣伴信氏、テクモを退社。未払い報酬および慰謝料を請求して同社を提訴] - ITmedia 2008年6月3日配信</ref>。 * 2008年5月22日 - 板垣の訴状がテクモに送達された<ref name="teiso" />。 * 2008年6月18日 - テクモは板垣の[[解雇]]を発表した。板垣はこれを不当解雇として、訴訟の賠償請求額を1億6400万95円に引き上げた<ref>*[https://kotaku.com/heres-the-documented-evidence-itagaki-submitted-against-5028470 Here's The Documented Evidence Itagaki Submitted Against Tecmo] - ゲーム系ブログサイト[[kotaku]](英語サイト)に掲載された裁判所に提出した証拠資料と声明文(日本語)より。</ref>。 * 2008年8月31日 - 安田が一身上の都合により代表取締役社長ならびに取締役を辞任する<ref>*[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/20080820.pdf 代表取締役の異動に関するお知らせ] - 2008年8月20日テクモニュースリリース</ref>。 * 2010年2月26日 - [[コーエーテクモホールディングス]]と板垣の間で和解が成立した。和解条件は公表されていないが「円満に和解が成立した」としている<ref>[https://www.famitsu.com/game/news/1232445_1124.html 板垣伴信氏とテクモの訴訟で和解が成立](ファミ通.com)</ref><ref>[https://www.koeitecmo.co.jp/news/docs/news_20100226.pdf 和解による訴訟の解決に関するお知らせ] - 2010年2月26日コーエーテクモホールディングスニュースリリース</ref>。 === 残業代未払い訴訟 === * 2008年6月16日 - [[労働組合]]の執行役員2名が未払[[残業代]]の支払いを求め提訴する。原告は手続上の不備([[裁量労働制]]を導入するためには、[[労使協定|労働者の過半数を代表する者との書面による協定]]が必要)があったため、裁量労働制自体が[[無効]]であると主張する。 * 2008年9月1日 - 和解。 * 2008年9月から10月 - 和解直後である2008年9月から10月にかけて組合員全員が自主退職し、2009年3月時点でテクモの労働組合は存在しなくなる<ref>[http://www.tecmo.co.jp/company/pdf/2103yuho.pdf 2009年3月公開のテクモの有価証券報告書] -「労働組合の状況」の項には、和解直後である2008年9月から10月にかけて組合員全員が自主退職したため、テクモに労働組合は存在しないと記されている。</ref>。 == 主な提供番組 == (全て過去のもの) * [[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼]] * [[おぼっちゃまくん]] * [[モンスターファーム (アニメ)|モンスターファーム]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ゲーム会社一覧]] * [[ウイニング競馬]] == 外部リンク == * [https://www.gamecity.ne.jp/index.html#top GAMECITY] * [http://www.tecmo.co.jp/sub_index.html TECMO INTERNET STUDIO] - 2010年3月31日以前の情報アーカイブサイト * [https://web.archive.org/web/20060203050220/http://www.tecmo.co.jp/main.htm TECMO INTERNET STUDIO] - 2007年時のアーカイブサイト * {{Mediaarts-db}} {{コーエーテクモグループ}} {{DEFAULTSORT:てくも}} [[Category:コーエーテクモグループの歴史|*てくも]] [[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:2009年の合併と買収]] [[pt:Koei Tecmo Holdings#Tecmo]]
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マリオブラザーズ
『マリオブラザーズ』(MARIO BROS.)は、1983年に発売された任天堂のアクションゲーム。マリオシリーズで初めてマリオの名がタイトルに冠されると共に正式に主人公にマリオの名前が与えられた作品であり、マリオシリーズ第1作目にあたる。 タイトルは、ゲーム画面ではBrothersを省略形にした『MARIO BROS.』(マリオブロス)と表示される(『スーパーマリオブラザーズ』以降のシリーズでも共通)。 1983年3月14日にゲーム&ウオッチ版が発売、同年7月14日にアーケードゲーム版が稼働したが、両作品はゲーム内容が全く異なっている。通常『マリオブラザーズ』というと、アーケード版とその移植作を指し、本記事でも特にことわりのない限りこれに準拠して記述する。ゲーム&ウオッチ版については、本記事#ゲーム&ウオッチ版の項を参照。 配管工のマリオとルイージが、下水道から流出したカメ、カニ、ハエなどを駆除していくアクションゲーム。 『ドンキーコング』で大工と設定されていたマリオの職業が(ゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』の工場作業員を経て)配管工と呼ばれるようになった。ルイージが初登場するが、本作ではまだマリオとの違いは服装の色のみである。 ファミリーコンピュータを始めとした数々の家庭用ゲーム機に移植されている。 土管から出現する敵キャラクターを床の下から突き上げて気絶させ、蹴り落として退治する。複数の敵をまとめて蹴り落とすと、敵の数に応じて得点に倍率がかかる。敵を一匹倒すごとにコインが1枚出現し、下から突き上げる、もしくは触れることで回収でき、得点が入る。ステージの敵を全て倒すと面(フェイズ)クリア。フェイズが進むほど難易度は上昇して行く。数フェイズごとにボーナスステージ(TEST YOUR SKILL)があり、フィールド内に配置されたコインを集めるステージとなる。時間内にコインを全部集めるとボーナスポイントを獲得できる。 ゲームスタート時と次ラウンドより新敵キャラクター登場前には、敵キャラクターの名前と倒し方が画面で説明される。 エンディングはなく、ゲームオーバーになるまでひたすらゲームが続いていくループゲーム。PHASE 23以降のPHASEは98までカウントされ、その次の面以降は98で固定されるが、ゲーム内容はPHASE 16〜22の繰り返しとなる。 ステージの1段目中央にあるブロック。「パワー床」とも呼ばれる。下から突き上げることでステージの床全体を突き上げたのと同じ効果を及ぼす。使うごとにパワー床は薄くなってゆき、3回目で消滅する。パワー床は接地しているプレイヤーおよび敵キャラクター、そしてファイアーボールに対して効果が及ぶため、非常に強力な攻撃手段となりうる。なおこの方法で消した火の玉は得点されない。アーケード版をはじめとするつららのあるバージョンでは完成したつららはすべて落ち、未完成のつららは破壊される。パワー床の使用可能回数は2度目以降の ボーナス フェイズで全回復する。 本作登場時、キャッチフレーズが書かれたポップ広告の通り1コインで2人同時プレイも楽しめた。敵キャラクターだけでなくプレイヤーキャラクター同士にも衝突判定が設定されており、それがゲーム上でも大きな意味を持つ。インストラクションカードには「協力するか、それとも裏切るか」と書かれており、異なる遊び方をさりげなく提示している。 などがある。 上記の3種類は気絶させておいてしばらく放置すると自力で復活し、その際に色が変わって動きが少し速くなる。さらに同じことを繰り返すともっと素早くなる。また、敵を倒していき最後の1匹となったのがファイターフライ以外であった場合、自動的にこの一番素早い状態になる。 1983年9月9日に発売。国内売り上げ本数約163万本。かつてオリジナル版ルールでの移植作が長らく無かった時期には、プレミアソフトとして中古市場で定価よりも数段高い価格で取引されることもあったが、後述のゲームボーイアドバンスでの復刻版発売などの影響により、現在は取引価格も落ち着いている。 ROMカセットのタイトルシールには2種類あり、初期版は銀の背景にオレンジ色のタイトルの下に太い波線の物(当時のファミコンソフトに見られたタイプ)、後期版はタイトルの横に箱と同じイラストが縮小されて描かれている物(『スーパーマリオブラザーズ』と同様のタイプ)となっている。なお、中古市場では後者のほうが流通が少ない。 1988年10月23日に発売の『スーパーマリオブラザーズ3』も2人プレイ中でも同様のゲームがプレイ可能であるが、同作ではコースでゴールしたときに得たパネルを奪い合う対戦ミニゲームの色が濃いため、本作とはいささかゲーム性が異なる。従来のシェルクリーパー(カメさん)が「トゲゾー」に置き換えられており、他の敵キャラクターは「カニさん」「ファイターフライ」表記となっている。相手を踏むか突き上げることで、持っているパネルが1枚飛び出す。また、ルールの異なるオリジナルステージが2つ追加されている。 ファミリーコンピュータ発売前後のCMで『マリオブラザーズ』が紹介されていたが、ルイージの色が違う(白色ではなく緑色。アーケード版の色が緑のツナギに茶色のシャツであった)。 FC版では容量の都合から、アーケード版と比べると細かい演出がカットされていたり、シェルクリーパーとファイヤーボールの大きさがアーケード版に比べてかなり小さくなっている。 1993年には、『Mario Bros. Classic』がヨーロッパ限定で販売された。これは、『帰ってきたマリオブラザーズ』の仕様にアーケード版にあったPHASE 1,5,7,9のアトラクトデモを追加した内容となっている。なお、本作ではPHASE 24以降になると、敵がひっくり返っている時間が短くなっている。 PHASE 99をクリアするとその次はPHASE 0となりそしてPHASE 1に戻る。 ルイージのほうが面開始時の立ち位置がわずかに右寄りなので、3面などのコイン取りではタイムが0.1秒多く残せるが、通常面ではPOWまでの距離がマリオより僅かに遠い。 1988年11月30日にディスクライター書き換え専用ソフト『帰ってきたマリオブラザーズ』としてリメイク発売。 当時「マリオカレー」などのキャラクター商品を発売していた永谷園がスポンサーについたため、書き換え価格が標準では500円のところ、本作については上記の広告料などの関係で400円に引き下げられた。このためゲーム中に同社の「マリオカレー」「お茶づけ海苔」などのCMが流れたことも話題になった。これにより2006年時点では、無料ソフトや同梱版を除くとマリオシリーズで最も低価格のゲームソフトとなっていた。 「ながたにえんワールド」モードではゲームオーバー時に復活チャンスがある。1988年11月30日 - 1989年5月31日にクリア時の暗号(いああなあお-など)を永谷園に送ることで、10万点でマリオ3トランプ・20万点マリオ3カセットがそれぞれプレゼントされるキャンペーンを実施。応募者全員の中からマリオ3特製キーホルダーも当たった。 容量が増えたため、敵キャラクターのグラフィックがアーケード版に近くなっていたり、ファミコンのROM版で削除されたつららが復活、ボーナスステージで床が見えなくなるなどアーケード版の仕様がそのまま移植されている。また、ジャンプ中に十字ボタン左右でジャンプの勢いをコントロールできるようになった。 1984年にウエストサイドよりPC-8001(N-BASIC)対応版が発売された。また、ハドソン開発の『マリオブラザーズスペシャル』(英: MARIO BROS. Special)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、PC-9800シリーズ、FM-7、MZ-2200、X1、MZ-1500、SMC-777、MB-S1)と、『パンチボールマリオブラザーズ』(英: PUNCH BALL MARIO BROS.)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、FM-7、MZ-1500、MB-S1、IBM JX)が発売された。ハドソン開発の2タイトルともアーケードゲーム版をベースにステージ、ルールの大幅変更など大胆なアレンジが施されており本作の名を冠するもののほとんど原形をとどめていない。三作とも任天堂の許諾を正規に受けた移植作品である。 1993年7月14日発売の『スーパーマリオコレクション』に収録されたリメイク版『スーパーマリオブラザーズ3』では、ファミコン版と同様に2人プレイ時の途中で対戦する形式のものの他、新たに前記を元にして単独のモードとして独立させた2人対戦専用の「BATTLE MODE」も実装された。「BATTLE MODE」ではスーパーマリオの状態でスタートし、一回だけ敵に当たってもミスにならない(床を叩くとランダムで出現するキノコを取ると回復もできる)。 敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニキチ」「ハエまる」「ファイアーボール」となっている。加えて、バトルゲーム限定でファイアーボールが「テレサ」に置き換えられ、踏みつけると甲羅になり蹴ると武器にできる「ノコノコ」が新たに登場する。 過去のマリオシリーズを移植した2001年3月21日発売の『スーパーマリオアドバンス』およびそのシリーズ全4作と、2003年11月21日発売の『マリオ&ルイージRPG』でプレイ可能。基本的な内容は5作で共通しており、クラシックモードとバトルモードの2種類が収録されている。いずれも、ステージBGM(面により異なる)が追加されている。敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニ」「フライ」「ファイアーボール」「フリーザー」表記となっている。 クラシックモードは1人から最大4人で協力プレイ可能の面クリア型タイプ。プレイヤーキャラクターは全てマリオで、1Pから順に赤・緑・黄・青の色違いとなる。音源などの基本システムはファミコン版に準拠しているが、面構成やつららの登場など、アーケード版をベースにしている部分も多い。1画面だったステージが広くなっており、マリオの移動に合わせてスクロールする。また、POWブロックが上部にも追加された。POWブロックの上に乗ってBボタンを押すと(1 - 2回叩いた状態であっても)持ち上げることができる(投げれば叩いた時と同じ効果、ただし投げると一発で消滅する)。他にも、空中の左右移動を受け付けるようになったり、下を押しつづけるとパワージャンプができるなど、操作性は『スーパーマリオUSA』に似ている。ひっくり返った敵を5匹以上連続で蹴れば1UPも可能。ゲームオーバーになった場合は一回だけコンティニューができる。 バトルモードは対戦専用で、2人から最大4人対戦が可能。コースのレベルやファイアーボールの有無、ハンディキャップとして各プレイヤー毎の初期コイン数を設定可能。全員「スーパーマリオ」の状態で開始し、1回ダメージを受けると従来の「チビマリオ」、さらにその状態でダメージを食らうとミスになる。他のプレイヤーキャラクターを持ち上げることも可能で、持ち上げられたキャラクターは十字キーやボタンの連打で拘束を免れることが可能。また、4の倍数のステージには敵キャラクターとして「クッパ」が登場するが、倒すことはできない。バトルモードの2人プレイ時に限り、POWブロックの代わりに「ゴミ箱」が最下段中央に設置される。フタが開いている時に自分で中に飛び込む、あるいは他のプレイヤーから投げ入れられると、一定時間出られない代わりにアイテムが手に入る。入手できるアイテムは、POWブロック・こうら(投げるか蹴ると床を滑って敵にダメージ)・魚の骨(効果無し)・タマゴの内のどれか1つ。タマゴは投げると割れ、コイン1枚・ハート(チビマリオの状態からスーパーマリオに戻る)・スター(一定時間無敵)のどれか1つが出てくる。 上記の他、ファミコン版の移植版が、『ファミコンミニ』第2弾の1つとして2004年5月21日に発売されている。 2006年12月12日よりバーチャルコンソールでファミコン版が配信開始。 2010年10月21日に『スーパーマリオコレクション』が『スーパーマリオコレクション スペシャルパック』としてWii版が発売された。内容はスーパーファミコン版と同じで、『スーパーマリオブラザーズ3』内のマリオブラザーズもある。 2011年12月16日よりニンテンドー3DS早期購入者を対象にしたアンバサダー・プログラムにて、マリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス3』がバーチャルコンソールとして配信開始。内容はゲームボーイアドバンス版に準ずるが、多人数プレイが不能になったためバトルモードで遊べなくなっている。 2013年5月8日にはファミコン版がバーチャルコンソールとして配信開始。 2013年5月29日よりバーチャルコンソールとして配信。 2013年11月21日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』というゲームがプレイ可能になる。ゲーム内容はファミコン版と同じだがマリオが登場せず、原作の1Pであったマリオが最新作準拠の配色のルイージ(緑の帽子・シャツ、青のつなぎ)に差し替わったものになっており、2Pのルイージは原作と同じまま(白い帽子・シャツ、緑のつなぎ)である。 2014年4月3日よりバーチャルコンソールとしてゲームボーイアドバンスソフトでマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス2』が配信開始したが、多人数プレイが不能になったため、バトルモードが遊べなくなっている。 2016年11月10日に発売したゲーム機・ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータは、本作などファミコンソフト30本を内蔵している。 2017年9月27日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてアーケード版が配信開始された。 任天堂のアーケードゲームが同サービスで配信されたのは本作が初めてであるが、選ばれた理由は任天堂の担当者から「どのタイトルが第1弾としてインパクトがあり、Switchに合っていて、ユーザーの皆さんに喜んでいただけるか」と語っており、おすそわけプレイの相性が良く、マリオの登場するゲームが決まった。 開発はハムスターが担当し、任天堂は監修を行う。ベースはアップライト筐体。オンラインランキングは配信当日の0時20分の時点で100位が埋まり、2日目でキャラバンモードの1位が10万点を超えた。 2018年9月19日にNintendo Switch Online加入者向けに配信された『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にはファミコン版が収録されている。 2021年2月12日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド + フューリーワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』がプレイ可能になる。ゲーム内容はWii U版と同様。 2023年2月9日よりNintendo Switch Online + 追加パック加入者向けに配信された『ゲームボーイアドバンス Nintendo Switch Online』にはマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス4』および『マリオ&ルイージRPG』が収録されている。ローカル通信およびオンライン通信にも対応しており、最大4人同時にクラシックモードとバトルモードを遊ぶことができる。 ゲーム開始時に流れる音楽はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章冒頭部分である。アーケード版とファミコン版ではややサウンドが異なりリメイク作品はファミコン版を基に作られているため、サウンドもファミコン準拠である。 1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「それまでのゲームでは、テーブル筐体の手前側とその反対側にプレイヤーが1人ずつ座りプレイする形が主流だったのに対し、それを手前側に2人分の操作系を用意し、同一画面中で2人のプレイヤーが操るキャラクターが登場した」、「プレイヤーが2人並んで同じ目的を持ってプレイするこのスタイルは、孤独にプレイするものから大きく変化したものであった。このスタイルはその後の協力プレイの基本となり、さらにはアップライト型筐体の形に発展することになる」、「その他にも強制的にゲームを終わらせる演出や、1度にすべての敵の動きを止める、今でいうところのボムの存在も忘れることはできない」と紹介されている。 『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マリオをメジャーなスターダムにのしあげたゲーム」、「2人同時プレイの楽しさを引き出したゲームでもある」と紹介されている。 1983年3月14日に任天堂より発売。『マリオブラザーズ』のタイトルで最も早く発売されたバージョンであり、後のアーケード版とタイトルは同じだが、アーケード版は本作から移植されたものではなく、ゲーム内容は全く異なっている。ポッカ(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)の販促用景品としても配布されていた。 左右2画面のマルチスクリーン機用ゲーム。瓶詰め工場を舞台に、兄弟はベルトコンベア上を流れてくる荷物を運ぶ仕事をしており、中央に表示されたベルトコンベアを挟んで、マリオは右画面、ルイージは左画面にいる。プレイヤーは一人で同時に、右手でマリオ、左手でルイージを上下操作して、流れてくる荷物を落とさないように、より高い位置にあるベルトコンベアにタイミングよく乗せかえて行く。最上段まで荷物を運んでトラックに積み、積載量一杯になるとトラックが発車してボーナス得点が与えられる。 荷物を落としてミスすると上司に叱られるなど、さまざまな演出も見られる。 本作がマリオの弟・ルイージの初登場作品となり、本体パネルに描かれたイメージイラストでは、それぞれ赤い帽子とつなぎに青のシャツと、緑の帽子とつなぎに赤のシャツとなっており、この時点で「赤」「緑」というイメージで描き分けられていた(ただしどちらがそのキャラクターなのかはイラストには添えられておらず、実際のゲーム上ではモノクロ液晶のため二人とも全身真っ黒)。なお、上述のアーケード版ではマリオが青い帽子とつなぎに赤のシャツ、ルイージが緑の帽子とつなぎに茶色のシャツ(ファミコン版ではマリオが赤い帽子、ルイージが白い帽子とシャツ)へと変化している。また、アーケード版ではマリオのイメージカラーは「青」であり、タイトルロゴから筐体の配色にまで反映されている。 こちらのバージョンは、1999年4月8日発売のゲームボーイ用ソフト『ゲームボーイギャラリー3』の1ゲームとして移植されており、同作にはグラフィックをリニューアルしてルールがアレンジされた「いまモード」も収録されている。同様にリメイクされたものが日本国外でゲームボーイアドバンス用ソフト『GAME&WATCH GALLERY 4』に収録され、日本では、2016年3月16日にWii Uバーチャルコンソール専用ソフト『ゲームボーイギャラリー4』として配信された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『マリオブラザーズ』(MARIO BROS.)は、1983年に発売された任天堂のアクションゲーム。マリオシリーズで初めてマリオの名がタイトルに冠されると共に正式に主人公にマリオの名前が与えられた作品であり、マリオシリーズ第1作目にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "タイトルは、ゲーム画面ではBrothersを省略形にした『MARIO BROS.』(マリオブロス)と表示される(『スーパーマリオブラザーズ』以降のシリーズでも共通)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1983年3月14日にゲーム&ウオッチ版が発売、同年7月14日にアーケードゲーム版が稼働したが、両作品はゲーム内容が全く異なっている。通常『マリオブラザーズ』というと、アーケード版とその移植作を指し、本記事でも特にことわりのない限りこれに準拠して記述する。ゲーム&ウオッチ版については、本記事#ゲーム&ウオッチ版の項を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "配管工のマリオとルイージが、下水道から流出したカメ、カニ、ハエなどを駆除していくアクションゲーム。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『ドンキーコング』で大工と設定されていたマリオの職業が(ゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』の工場作業員を経て)配管工と呼ばれるようになった。ルイージが初登場するが、本作ではまだマリオとの違いは服装の色のみである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータを始めとした数々の家庭用ゲーム機に移植されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "土管から出現する敵キャラクターを床の下から突き上げて気絶させ、蹴り落として退治する。複数の敵をまとめて蹴り落とすと、敵の数に応じて得点に倍率がかかる。敵を一匹倒すごとにコインが1枚出現し、下から突き上げる、もしくは触れることで回収でき、得点が入る。ステージの敵を全て倒すと面(フェイズ)クリア。フェイズが進むほど難易度は上昇して行く。数フェイズごとにボーナスステージ(TEST YOUR SKILL)があり、フィールド内に配置されたコインを集めるステージとなる。時間内にコインを全部集めるとボーナスポイントを獲得できる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲームスタート時と次ラウンドより新敵キャラクター登場前には、敵キャラクターの名前と倒し方が画面で説明される。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "エンディングはなく、ゲームオーバーになるまでひたすらゲームが続いていくループゲーム。PHASE 23以降のPHASEは98までカウントされ、その次の面以降は98で固定されるが、ゲーム内容はPHASE 16〜22の繰り返しとなる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ステージの1段目中央にあるブロック。「パワー床」とも呼ばれる。下から突き上げることでステージの床全体を突き上げたのと同じ効果を及ぼす。使うごとにパワー床は薄くなってゆき、3回目で消滅する。パワー床は接地しているプレイヤーおよび敵キャラクター、そしてファイアーボールに対して効果が及ぶため、非常に強力な攻撃手段となりうる。なおこの方法で消した火の玉は得点されない。アーケード版をはじめとするつららのあるバージョンでは完成したつららはすべて落ち、未完成のつららは破壊される。パワー床の使用可能回数は2度目以降の ボーナス フェイズで全回復する。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本作登場時、キャッチフレーズが書かれたポップ広告の通り1コインで2人同時プレイも楽しめた。敵キャラクターだけでなくプレイヤーキャラクター同士にも衝突判定が設定されており、それがゲーム上でも大きな意味を持つ。インストラクションカードには「協力するか、それとも裏切るか」と書かれており、異なる遊び方をさりげなく提示している。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "などがある。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "上記の3種類は気絶させておいてしばらく放置すると自力で復活し、その際に色が変わって動きが少し速くなる。さらに同じことを繰り返すともっと素早くなる。また、敵を倒していき最後の1匹となったのがファイターフライ以外であった場合、自動的にこの一番素早い状態になる。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1983年9月9日に発売。国内売り上げ本数約163万本。かつてオリジナル版ルールでの移植作が長らく無かった時期には、プレミアソフトとして中古市場で定価よりも数段高い価格で取引されることもあったが、後述のゲームボーイアドバンスでの復刻版発売などの影響により、現在は取引価格も落ち着いている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ROMカセットのタイトルシールには2種類あり、初期版は銀の背景にオレンジ色のタイトルの下に太い波線の物(当時のファミコンソフトに見られたタイプ)、後期版はタイトルの横に箱と同じイラストが縮小されて描かれている物(『スーパーマリオブラザーズ』と同様のタイプ)となっている。なお、中古市場では後者のほうが流通が少ない。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1988年10月23日に発売の『スーパーマリオブラザーズ3』も2人プレイ中でも同様のゲームがプレイ可能であるが、同作ではコースでゴールしたときに得たパネルを奪い合う対戦ミニゲームの色が濃いため、本作とはいささかゲーム性が異なる。従来のシェルクリーパー(カメさん)が「トゲゾー」に置き換えられており、他の敵キャラクターは「カニさん」「ファイターフライ」表記となっている。相手を踏むか突き上げることで、持っているパネルが1枚飛び出す。また、ルールの異なるオリジナルステージが2つ追加されている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ発売前後のCMで『マリオブラザーズ』が紹介されていたが、ルイージの色が違う(白色ではなく緑色。アーケード版の色が緑のツナギに茶色のシャツであった)。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "FC版では容量の都合から、アーケード版と比べると細かい演出がカットされていたり、シェルクリーパーとファイヤーボールの大きさがアーケード版に比べてかなり小さくなっている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1993年には、『Mario Bros. Classic』がヨーロッパ限定で販売された。これは、『帰ってきたマリオブラザーズ』の仕様にアーケード版にあったPHASE 1,5,7,9のアトラクトデモを追加した内容となっている。なお、本作ではPHASE 24以降になると、敵がひっくり返っている時間が短くなっている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "PHASE 99をクリアするとその次はPHASE 0となりそしてPHASE 1に戻る。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ルイージのほうが面開始時の立ち位置がわずかに右寄りなので、3面などのコイン取りではタイムが0.1秒多く残せるが、通常面ではPOWまでの距離がマリオより僅かに遠い。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1988年11月30日にディスクライター書き換え専用ソフト『帰ってきたマリオブラザーズ』としてリメイク発売。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時「マリオカレー」などのキャラクター商品を発売していた永谷園がスポンサーについたため、書き換え価格が標準では500円のところ、本作については上記の広告料などの関係で400円に引き下げられた。このためゲーム中に同社の「マリオカレー」「お茶づけ海苔」などのCMが流れたことも話題になった。これにより2006年時点では、無料ソフトや同梱版を除くとマリオシリーズで最も低価格のゲームソフトとなっていた。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「ながたにえんワールド」モードではゲームオーバー時に復活チャンスがある。1988年11月30日 - 1989年5月31日にクリア時の暗号(いああなあお-など)を永谷園に送ることで、10万点でマリオ3トランプ・20万点マリオ3カセットがそれぞれプレゼントされるキャンペーンを実施。応募者全員の中からマリオ3特製キーホルダーも当たった。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "容量が増えたため、敵キャラクターのグラフィックがアーケード版に近くなっていたり、ファミコンのROM版で削除されたつららが復活、ボーナスステージで床が見えなくなるなどアーケード版の仕様がそのまま移植されている。また、ジャンプ中に十字ボタン左右でジャンプの勢いをコントロールできるようになった。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1984年にウエストサイドよりPC-8001(N-BASIC)対応版が発売された。また、ハドソン開発の『マリオブラザーズスペシャル』(英: MARIO BROS. Special)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、PC-9800シリーズ、FM-7、MZ-2200、X1、MZ-1500、SMC-777、MB-S1)と、『パンチボールマリオブラザーズ』(英: PUNCH BALL MARIO BROS.)(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、FM-7、MZ-1500、MB-S1、IBM JX)が発売された。ハドソン開発の2タイトルともアーケードゲーム版をベースにステージ、ルールの大幅変更など大胆なアレンジが施されており本作の名を冠するもののほとんど原形をとどめていない。三作とも任天堂の許諾を正規に受けた移植作品である。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1993年7月14日発売の『スーパーマリオコレクション』に収録されたリメイク版『スーパーマリオブラザーズ3』では、ファミコン版と同様に2人プレイ時の途中で対戦する形式のものの他、新たに前記を元にして単独のモードとして独立させた2人対戦専用の「BATTLE MODE」も実装された。「BATTLE MODE」ではスーパーマリオの状態でスタートし、一回だけ敵に当たってもミスにならない(床を叩くとランダムで出現するキノコを取ると回復もできる)。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニキチ」「ハエまる」「ファイアーボール」となっている。加えて、バトルゲーム限定でファイアーボールが「テレサ」に置き換えられ、踏みつけると甲羅になり蹴ると武器にできる「ノコノコ」が新たに登場する。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": 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"バトルモードは対戦専用で、2人から最大4人対戦が可能。コースのレベルやファイアーボールの有無、ハンディキャップとして各プレイヤー毎の初期コイン数を設定可能。全員「スーパーマリオ」の状態で開始し、1回ダメージを受けると従来の「チビマリオ」、さらにその状態でダメージを食らうとミスになる。他のプレイヤーキャラクターを持ち上げることも可能で、持ち上げられたキャラクターは十字キーやボタンの連打で拘束を免れることが可能。また、4の倍数のステージには敵キャラクターとして「クッパ」が登場するが、倒すことはできない。バトルモードの2人プレイ時に限り、POWブロックの代わりに「ゴミ箱」が最下段中央に設置される。フタが開いている時に自分で中に飛び込む、あるいは他のプレイヤーから投げ入れられると、一定時間出られない代わりにアイテムが手に入る。入手できるアイテムは、POWブロック・こうら(投げるか蹴ると床を滑って敵にダメージ)・魚の骨(効果無し)・タマゴの内のどれか1つ。タマゴは投げると割れ、コイン1枚・ハート(チビマリオの状態からスーパーマリオに戻る)・スター(一定時間無敵)のどれか1つが出てくる。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上記の他、ファミコン版の移植版が、『ファミコンミニ』第2弾の1つとして2004年5月21日に発売されている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2006年12月12日よりバーチャルコンソールでファミコン版が配信開始。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2010年10月21日に『スーパーマリオコレクション』が『スーパーマリオコレクション スペシャルパック』としてWii版が発売された。内容はスーパーファミコン版と同じで、『スーパーマリオブラザーズ3』内のマリオブラザーズもある。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2011年12月16日よりニンテンドー3DS早期購入者を対象にしたアンバサダー・プログラムにて、マリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス3』がバーチャルコンソールとして配信開始。内容はゲームボーイアドバンス版に準ずるが、多人数プレイが不能になったためバトルモードで遊べなくなっている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2013年5月8日にはファミコン版がバーチャルコンソールとして配信開始。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2013年5月29日よりバーチャルコンソールとして配信。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年11月21日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』というゲームがプレイ可能になる。ゲーム内容はファミコン版と同じだがマリオが登場せず、原作の1Pであったマリオが最新作準拠の配色のルイージ(緑の帽子・シャツ、青のつなぎ)に差し替わったものになっており、2Pのルイージは原作と同じまま(白い帽子・シャツ、緑のつなぎ)である。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2014年4月3日よりバーチャルコンソールとしてゲームボーイアドバンスソフトでマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス2』が配信開始したが、多人数プレイが不能になったため、バトルモードが遊べなくなっている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2016年11月10日に発売したゲーム機・ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータは、本作などファミコンソフト30本を内蔵している。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2017年9月27日にハムスターが展開している『アーケードアーカイブス』のひとつとしてアーケード版が配信開始された。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "任天堂のアーケードゲームが同サービスで配信されたのは本作が初めてであるが、選ばれた理由は任天堂の担当者から「どのタイトルが第1弾としてインパクトがあり、Switchに合っていて、ユーザーの皆さんに喜んでいただけるか」と語っており、おすそわけプレイの相性が良く、マリオの登場するゲームが決まった。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "開発はハムスターが担当し、任天堂は監修を行う。ベースはアップライト筐体。オンラインランキングは配信当日の0時20分の時点で100位が埋まり、2日目でキャラバンモードの1位が10万点を超えた。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年9月19日にNintendo Switch Online加入者向けに配信された『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にはファミコン版が収録されている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2021年2月12日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド + フューリーワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』がプレイ可能になる。ゲーム内容はWii U版と同様。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2023年2月9日よりNintendo Switch Online + 追加パック加入者向けに配信された『ゲームボーイアドバンス Nintendo Switch Online』にはマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス4』および『マリオ&ルイージRPG』が収録されている。ローカル通信およびオンライン通信にも対応しており、最大4人同時にクラシックモードとバトルモードを遊ぶことができる。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ゲーム開始時に流れる音楽はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第1楽章冒頭部分である。アーケード版とファミコン版ではややサウンドが異なりリメイク作品はファミコン版を基に作られているため、サウンドもファミコン準拠である。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「それまでのゲームでは、テーブル筐体の手前側とその反対側にプレイヤーが1人ずつ座りプレイする形が主流だったのに対し、それを手前側に2人分の操作系を用意し、同一画面中で2人のプレイヤーが操るキャラクターが登場した」、「プレイヤーが2人並んで同じ目的を持ってプレイするこのスタイルは、孤独にプレイするものから大きく変化したものであった。このスタイルはその後の協力プレイの基本となり、さらにはアップライト型筐体の形に発展することになる」、「その他にも強制的にゲームを終わらせる演出や、1度にすべての敵の動きを止める、今でいうところのボムの存在も忘れることはできない」と紹介されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マリオをメジャーなスターダムにのしあげたゲーム」、「2人同時プレイの楽しさを引き出したゲームでもある」と紹介されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1983年3月14日に任天堂より発売。『マリオブラザーズ』のタイトルで最も早く発売されたバージョンであり、後のアーケード版とタイトルは同じだが、アーケード版は本作から移植されたものではなく、ゲーム内容は全く異なっている。ポッカ(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)の販促用景品としても配布されていた。", "title": "ゲーム&ウオッチ版" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "左右2画面のマルチスクリーン機用ゲーム。瓶詰め工場を舞台に、兄弟はベルトコンベア上を流れてくる荷物を運ぶ仕事をしており、中央に表示されたベルトコンベアを挟んで、マリオは右画面、ルイージは左画面にいる。プレイヤーは一人で同時に、右手でマリオ、左手でルイージを上下操作して、流れてくる荷物を落とさないように、より高い位置にあるベルトコンベアにタイミングよく乗せかえて行く。最上段まで荷物を運んでトラックに積み、積載量一杯になるとトラックが発車してボーナス得点が与えられる。", "title": "ゲーム&ウオッチ版" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "荷物を落としてミスすると上司に叱られるなど、さまざまな演出も見られる。", "title": "ゲーム&ウオッチ版" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "本作がマリオの弟・ルイージの初登場作品となり、本体パネルに描かれたイメージイラストでは、それぞれ赤い帽子とつなぎに青のシャツと、緑の帽子とつなぎに赤のシャツとなっており、この時点で「赤」「緑」というイメージで描き分けられていた(ただしどちらがそのキャラクターなのかはイラストには添えられておらず、実際のゲーム上ではモノクロ液晶のため二人とも全身真っ黒)。なお、上述のアーケード版ではマリオが青い帽子とつなぎに赤のシャツ、ルイージが緑の帽子とつなぎに茶色のシャツ(ファミコン版ではマリオが赤い帽子、ルイージが白い帽子とシャツ)へと変化している。また、アーケード版ではマリオのイメージカラーは「青」であり、タイトルロゴから筐体の配色にまで反映されている。", "title": "ゲーム&ウオッチ版" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "こちらのバージョンは、1999年4月8日発売のゲームボーイ用ソフト『ゲームボーイギャラリー3』の1ゲームとして移植されており、同作にはグラフィックをリニューアルしてルールがアレンジされた「いまモード」も収録されている。同様にリメイクされたものが日本国外でゲームボーイアドバンス用ソフト『GAME&WATCH GALLERY 4』に収録され、日本では、2016年3月16日にWii Uバーチャルコンソール専用ソフト『ゲームボーイギャラリー4』として配信された。", "title": "ゲーム&ウオッチ版" } ]
『マリオブラザーズ』は、1983年に発売された任天堂のアクションゲーム。マリオシリーズで初めてマリオの名がタイトルに冠されると共に正式に主人公にマリオの名前が与えられた作品であり、マリオシリーズ第1作目にあたる。 タイトルは、ゲーム画面ではBrothersを省略形にした『MARIO BROS.』(マリオブロス)と表示される(『スーパーマリオブラザーズ』以降のシリーズでも共通)。 1983年3月14日にゲーム&ウオッチ版が発売、同年7月14日にアーケードゲーム版が稼働したが、両作品はゲーム内容が全く異なっている。通常『マリオブラザーズ』というと、アーケード版とその移植作を指し、本記事でも特にことわりのない限りこれに準拠して記述する。ゲーム&ウオッチ版については、本記事#ゲーム&ウオッチ版の項を参照。
{{混同|x1=続編の|スーパーマリオブラザーズ}} {{Otheruses|ゲームソフト|キャラクターとしてのマリオ兄弟|マリオシリーズのキャラクター一覧#主要キャラクター}} {{Pathnav|マリオシリーズ|frame=1}} {{コンピュータゲーム | Title = マリオブラザーズ<br /><small>''Mario Bros.''</small> | image = file:MarioBros-sideart.svg | Genre = [[アクションゲーム|固定画面アクションゲーム]] | Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[Atari 2600]] (A26)<br />[[Atari 5200]] (A52)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />[[Amstrad CPC]] (CPC)<br />[[ZX Spectrum]] (ZX)<br />[[Atari 7800]] (A78)<br />[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] (FCD)<br />[[Atari 8ビット・コンピュータ]] (A8)<br />[[ゲームボーイアドバンス]] (GBA)<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]<br />[[Nintendo Switch]] (Switch)}} | Dev = [[任天堂]] | Pub = 任天堂レジャーシステム | producer = [[横井軍平]] | designer = [[宮本茂]] | programmer = | composer = 兼岡行男 | series = [[マリオシリーズ]] | Play = 1 - 2人 | Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(64.50[[キロバイト]]) | Date = {{vgrelease new|JP|1983-06-21|NA|1983年}}<ref>{{Cite news | title = 敵を下からパンチ、そしてケリ落とす 2人用は同時に 任天堂の「マリオ・ブラザーズ」 | newspaper = ゲームマシン | pages = 22 | publisher = アミューズメント通信社 | date = 1983-07-01 | url = https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830701p.pdf | accessdate = 2023-07-17 }}</ref>{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1983-9-9|NA|June 1986|EU|1986-9-1}}'''A26'''<br />{{vgrelease new|NA|1983年}}'''A52'''<br />{{vgrelease new|NA|1983年}}'''C64'''<br />{{vgrelease new|EU|1986年}}'''CPC,ZX'''<br />{{vgrelease new|EU|1987年}}'''A78'''<br />{{vgrelease new|NA|1988年}}'''FCD'''<br />{{vgrelease new|JP|1988-11-30}}'''A8'''<br />{{vgrelease new|NA|1989年}}'''GBA'''<br />{{vgrelease new|JP|2004-5-21}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|NA|2006-11-19|EU|2006-12-8|JP|2006-12-12}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-5-8|NA|2014-1-30|EU|2014-1-9}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-5-29|NA|2013-6-20}}'''Switch'''<br />{{vgrelease new|JP|2017-9-27|NA|2017-9-27}}}} | Rating = {{vgrelease new|JP|{{CERO-A}}<ref group="注">一部移植版のレーティング。</ref>|NA|{{ESRB-E}}}} | ContentsIcon = なし | Download content = なし | Device = 2方向レバー<br />1ボタン | Arcade system = | cpu = [[Z80]] (@ 3.072 MHz) | sound = I8039 (@ 730 kHz)<br />[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]<br />ディスクリート | display = [[ラスタースキャン]]<br />横モニター<br />256×224[[ピクセル]]<br />60.00[[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />パレット256色 | Sale = | ArcOnly = 1 | etc = 移植されたプラットホームについては本記事[[#他機種版]]の項を参照。 }} 『'''マリオブラザーズ'''』(''MARIO BROS.'')は、[[1983年]]に発売された[[任天堂]]の[[アクションゲーム]]。[[マリオシリーズ]]で初めて[[マリオ_(ゲームキャラクター)|マリオ]]の名がタイトルに冠されると共に正式に主人公にマリオの名前が与えられた作品であり、マリオシリーズ第1作目にあたる。 [[ファイル:Mario_Bros._Game_&_Watch_by_Nintendo,_closed,_Model_No._MW-56,_Made_in_Japan,_Copyright_1983_(Handheld_Electronic_Game,_).jpg|サムネイル|パッケージの真ん中にいるのは主人公の[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]と[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]である。]] タイトルは、ゲーム画面では'''Brothers'''を省略形にした『'''MARIO BROS.'''』('''マリオブロス''')と表示される(『'''[[スーパーマリオブラザーズ]]'''』以降のシリーズでも共通)。 1983年[[3月14日]]に[[ゲーム&ウオッチ]]版が発売、同年[[7月14日]]に[[アーケードゲーム]]版が稼働したが、両作品はゲーム内容が全く異なっている。通常『マリオブラザーズ』というと、アーケード版とその移植作を指し、本記事でも特にことわりのない限りこれに準拠して記述する。ゲーム&ウオッチ版については、本記事[[#ゲーム&ウオッチ版]]の項を参照。 == 概要 == [[ファイル:Mario_Bros._cabinet_at_PAX_East_2014.jpg|サムネイル|アーケードゲームのマリオブラザーズ。]] 配管工のマリオと[[ルイージ_(ゲームキャラクター)|ルイージ]]が、[[下水道]]から流出した[[カメ]]、[[カニ]]、[[ハエ]]などを駆除していく[[アクションゲーム]]<ref>{{Cite book |和書 |title=With LUIGI 30th Anniversary: ザ・イヤー・オブルイージ メモリアルムック |publisher=学研 |year=2013 |page=26|isbn=978-4056102512}}</ref>。 『[[ドンキーコング]]』で[[大工]]と設定されていたマリオの職業が(ゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』の工場作業員を経て)[[配管工]]と呼ばれるようになった。ルイージが初登場するが、本作ではまだマリオとの違いは服装の色のみである。 [[ファミリーコンピュータ]]を始めとした数々の[[コンシューマーゲーム|家庭用]][[ゲーム機]]に移植されている。 == ゲーム内容 == === システム === [[土管]]から出現する[[モブキャラクター|敵キャラクター]]を床の下から突き上げて気絶させ、蹴り落として退治する<ref name="clafami3">『ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine』[[アンビット]]、2016年、73頁。</ref>。複数の敵をまとめて蹴り落とすと、敵の数に応じて[[得点]]に倍率がかかる。敵を一匹倒すごとにコインが1枚出現し、下から突き上げる、もしくは触れることで回収でき、得点が入る。ステージの敵を全て倒すと面(フェイズ)クリア。フェイズが進むほど難易度は上昇して行く。数フェイズごとにボーナスステージ(TEST YOUR SKILL)があり、フィールド内に配置されたコインを集めるステージとなる。時間内にコインを全部集めるとボーナスポイントを獲得できる。 ゲームスタート時と次ラウンドより新敵キャラクター登場前には、敵キャラクターの名前と倒し方が画面で説明される。 エンディングはなく、[[ゲームオーバー]]になるまでひたすらゲームが続いていくループゲーム。PHASE 23以降のPHASEは98までカウントされ、その次の面以降は98で固定されるが、ゲーム内容はPHASE 16〜22の繰り返しとなる。 === POWブロック === ステージの1段目中央にあるブロック。「パワー床」とも呼ばれる。下から突き上げることでステージの床全体を突き上げたのと同じ効果を及ぼす。使うごとにパワー床は薄くなってゆき、3回目で消滅する。パワー床は接地しているプレイヤーおよび敵キャラクター、そしてファイアーボールに対して効果が及ぶため、非常に強力な攻撃手段となりうる。なおこの方法で消した火の玉は得点されない。アーケード版をはじめとするつららのあるバージョンでは完成したつららはすべて落ち、未完成のつららは破壊される。パワー床の使用可能回数は2度目以降の <!--"TEST YOUR SKILL !!"-->ボーナス フェイズで全回復する。 === 2人プレイ === 本作登場時、[[キャッチフレーズ]]が書かれた[[ポップ広告]]の通り1コインで2人同時プレイも楽しめた<ref group="注">1コインで2人同時プレイ:標準設定の場合。店舗側の設定変更で2人用に2コイン必要とすることもできる。プレイ料金を安価に設定する店舗でこのような設定をされることが多かった。プレイに必要なコイン数はデモ中に確認可能。</ref>。敵キャラクターだけでなくプレイヤーキャラクター同士にも[[衝突判定]]が設定されており、それがゲーム上でも大きな意味を持つ。[[インストラクションカード]]には「協力するか、それとも裏切るか」と書かれており、異なる遊び方をさりげなく提示している。 ==== 対戦でできる相手の倒し方 ==== * 気絶している敵を下から突き上げることで目を覚まさせられることを利用して、相手が敵を蹴り落とそうとする瞬間にその敵を突き上げる。これは基本技なだけに互いに慣れてくると警戒して成功しにくくなってくるが、起こすのが間に合うかどうかの微妙な距離の場合や気絶している敵が3匹などの場合、相手も危険を冒してこれを強引に取りに来るのでその場合は成功する。 * 相手を突き上げて敵に当てる。 * 相手を押して敵や火の玉に接触させる。 * 高速移動するピンクガニを突き上げて、横にはねさせ相手に当てる。 * 敵をジャンプで避けようとする相手に上から飛び降りて下の敵に接触させる。 * 最上階に行った相手を2段目の中央で降ろさないよう阻止し下から攻撃する。 * 相手を踏みつけて約2秒間行動不能にする(判定はややシビア。また、相手がジャンプ中は踏みつけられない)。 * ミスして上部中央から再出現した相手に向かってジャンプし接触可能なタイミングを計って飛び蹴りをして下の敵に当てる(ファミコン版のみでアーケード版では飛び蹴りをしても相手は落ちない)。 などがある<ref>『裏ワザ大全集 マリオブラザーズ』[[二見書房]]。</ref>。 == キャラクター == === 敵キャラクター === ; シェルクリーパー(Shellcreeper) / カメさん : カメ。最も基本的な敵キャラクター。下から1回突き上げるとひっくり返って気絶する。その状態でもう一度突き上げるかしばらく放置すると復活してしまう(他の敵も共通)<ref name="clafami3"/>。また最後の1匹になると色が変わり移動速度が速くなる。 : アーケード版およびディスクシステム版『帰ってきた』では気絶から回復する際、甲羅を脱ぎ捨て外からひっくり返し再度甲羅を纏うといったモーションが存在する。また接触してプレイヤーが噛みつかれた際には一瞬凶悪な表情になる。 : 後に発売された『スーパーマリオブラザーズ』の[[ノコノコ]]のモデルであり、[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]を始めとするカメ一族の敵キャラクターたちのモチーフになったと思われる{{要出典|date=2023年9月}}。ただし、本作ではこのカメさんを含めどの敵も『スーパーマリオブラザーズ』のノコノコのように上から踏んで倒すことはできず、どこから接触してもミスになる。ノコノコの影響により踏める敵と誤解されるようになった{{要出典|date=2023年9月}}ため、のちの『[[スーパーマリオブラザーズ3]]』の2人用バトルゲームや、その後のリメイク作品では[[トゲゾー]]に変更されているものが多い。 ; サイドステッパー(Sidestepper) / カニさん : カニ。1回突き上げると怒って少しスピードアップし、その状態でもう1回突き上げると気絶する。2回突き上げないと気絶しない<ref name="clafami3"/>。ただし気絶後は1回突き上げるだけで初期状態に戻る。最後の1匹になると高速化する。マリオコレクション版では'''カニキチ'''(カニ吉)と呼ばれ、カニさんよりスピードアップの段階が少ない。ゲームボーイアドバンス版では単に'''カニ'''と呼ばれている。 :シェルクリーパー同様、プレイヤーが噛まれると一瞬凶悪な表情になる。マリオクラッシュに登場するものは'''クワトロ'''と呼ばれていた。 ; ファイターフライ(Fighterfly) / ハエさん : ハエ。横一方向のみに移動する点は他の敵キャラクターと変わらないが、ジャンプしながら移動する。着地していないときには突き上げても攻撃が効かない<ref name="clafami3"/>。なおファイターフライだけは気絶を放置させない限り高速にはならず、これを最後の一匹にしても速度に変化は起こらない。最低速では、下をくぐることのできるタイミングが存在する。マリオコレクション版では'''ハエまる'''(ハエ丸)と呼ばれ、ファイターフライよりスピードアップの段階が少ない。ゲームボーイアドバンス版では単に'''フライ'''と呼ばれている。このキャラクターとは別物として『[[マリオ&ルイージRPG]]』の敵キャラクターに登場している。 上記の3種類は気絶させておいてしばらく放置すると自力で復活し、その際に色が変わって動きが少し速くなる。さらに同じことを繰り返すともっと素早くなる。また、敵を倒していき最後の1匹となったのがファイターフライ以外であった場合、自動的にこの一番素早い状態になる。 : アーケード版のシェルクリーパーは気絶から自力で回復する毎に色が緑から青に、青から赤に変化(ゲームボーイアドバンス版のトゲゾーは赤→緑→青)。 : アーケード版のサイドステッパーは気絶から自力で回復する毎に色が赤から青に、青からピンクに変化(ゲームボーイアドバンス版では赤→緑→青)。 : アーケード版のファイターフライは気絶から自力で回復しても色は変化しない(ゲームボーイアドバンス版では青→黄色→ピンクの順に変化)。 ; スリップアイス(Slipice) / フリーズ : 氷柱。PHASE 10から登場。一定時間ごとに土管から出現して移動し、最下段を除く床の中央に到達すると、床を凍らせて滑りやすくさせてしまう。下から突き上げることで破壊可能(蹴り落とす必要はない)<ref name="clafami3"/>。後に発音の関係で'''フリーザー'''という名前となった。最上段の床は凍らせない(ゲームボーイアドバンス版では最上段も凍らせる)。 : アーケード版ではマリオ(ルイージ)が触れると体が凍るモーションが存在した(つららも同様)。 ; つらら(Icicles) : PHASE 17から登場。最上部の床(ゲームボーイアドバンス版では最初から凍っている)とパイプから不規則に発生し、つららが完成するとすぐにステージの下までまっすぐ落下する。つららが完成するまでに下から叩けば消すことができるが、完成形および落下中のつららに触れるとミスになる。なお、完成後につららの近く(当たり判定スレスレ)の床を叩くと即座に落とすことができる(パイプに発生したものは落とせない)。つららはファミコンのROM版は容量の関係で削除されているが、[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]用に[[リメイク]]された『帰ってきたマリオブラザーズ』で復活した(ゲームボーイアドバンス版でも登場する)。また『[[アイスクライマー]]』にも受け継がれている。 ; ファイアボール、グリーンボール : 火の玉。敵が減り一定時間経つと出現する(高次面になるほど規定時間は短くなる)。時間経過と共に出現間隔が短くなる。赤(ファイアボール:赤玉)と緑(グリーンボール:青玉)の2種類が存在し動きが異なる。 : 赤玉はゆっくり斜めに移動し床や画面端で直角に跳ね返る。床に接地した際に下から叩くことで消すことができ、得点も1000点入る。床で消すか、規定時間経過で自然消滅した後に再出現すると動きが速くなり(POWブロックで消した、またはこれに触れてミスをした場合は速くならない)、繰り返すとマリオよりも高速で動くようになるため回避が困難になる。 : 青玉はマリオがいる段の反対側から出現する(マリオのミス後、画面下へ降下する時もその段に出現する)。ステージの端からマリオ・ルイージと同じ速さで段を蛇行移動し、反対側の端に着くと消える。赤玉同様に床接地時に消すことができるほか、特定の場所でくぐることが可能(サイズの違いから、アーケード版では自機が停止した状態ではくぐれないが、走行中タイミングが合致すれば可能。同様の理由から、アーケード版では特定の場所では飛び越すことができない)。アーケード版では一度に2個出てくることもあり一度出た方向と逆の方向から、あるいは同じ方向から出現する。2個目は、2人プレイ中はルイージに合わせて出現する。また規定時間以前でも、同じ段に長時間滞在していると出現する。 : [[スーパーマリオコレクション]]版のみで遊べる'''BATTLE GAME'''では、[[テレサ (ゲームキャラクター)|テレサ]]に変更された。 : アーケード版ではマリオ(ルイージ)が触れると体が燃えるモーションが存在した。 ; クッパ : ゲームボーイアドバンス版のバトルゲームで4の倍数のステージに登場。下から叩いたりPOWによって一時的に怯ませられるが、倒すことはできない。他の敵より体格が大きく、上から2段目に陣取ったまま往復する(他の敵はすり抜ける)。目の前に炎を吐いて攻撃する(『スーパーマリオブラザーズ』のような飛び道具ではない)。 == 他機種版 == {|class="wikitable" style="font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 ! マリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|1983-9-9|NA|June 1986|EU|1986-9-1}} | [[ファミリーコンピュータ]] | 任天堂<br />[[インテリジェントシステムズ|岩崎技研工業]] | 任天堂 | 192[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga40">{{Cite journal |和書|title=5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ|date=1991-05-10|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=9|pages=40}}</ref> | {{vgrelease new|JP|HVC-MA}} | {{vgrelease new|JP|165万本}}[[画像:Map_projection-Eckert_IV.png|22px|世界]] 228万本<ref>{{cite book |title=2021CESAゲーム白書 (2021 CESA Games White Papers)|publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]]|year=2021|isbn=978-4-902346-43-5}}</ref> | - |- | style="text-align:right" | 2 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|NA|1983年}} | [[Atari 2600]] | [[アタリ (企業)|アタリ]] | アタリ | ロムカセット | - | 148万本 | - |- | style="text-align:right" | 3 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|NA|1983年}} | [[Atari 5200]] | アタリ | アタリ | ロムカセット | - | - | - |- | style="text-align:right" | 4 ! マリオブラザーズスペシャル | {{vgrelease new|JP|February 1984}} | [[FM-7]]<br />[[MZ-1500]]<br />[[MZ-2000#MZ-2200|MZ-2200]]<br />[[PC-6000シリーズ]]<br />[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]]<br />[[PC-8800シリーズ]]<br />[[PC-9800シリーズ]]<br />[[SMC-777]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]] | [[ハドソン]] | ハドソン | [[カセットテープ]]<br />[[フロッピーディスク]] | - | - | - |- | style="text-align:right" | 5 ! パンチボールマリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|February 1984}} | [[FM-7]]<br />[[IBM JX]]<br />[[MZ-1500]]<br />[[PC-6000シリーズ]]<br />[[PC-8000シリーズ|PC-8001mkII]]<br />[[PC-8800シリーズ]] | [[ハドソン]] | ハドソン | [[カセットテープ]]<br />[[フロッピーディスク]] | - | - | - |- | style="text-align:right" | 6 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|EU|1986年}} | [[コモドール64]] | [[w:Ocean Software|Ocean Software]] | Ocean Software | ロムカセット | - | - | - |- | style="text-align:right" | 7 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|EU|1987年}} | [[Amstrad CPC]]<br />[[ZX Spectrum]] | Ocean Software | Ocean Software | フロッピーディスク<br />カセットテープ | - | - | - |- | style="text-align:right" | 8 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|NA|1988年}} | [[Atari 7800]] | アタリ | アタリ | ロムカセット | - | - | - |- | style="text-align:right" | 9 ! [[スーパーマリオブラザーズ3]] | {{vgrelease new|JP|1988-10-23|NA|1990-2-12|EU|1991-8-29}} | ファミリーコンピュータ | 任天堂 | 任天堂 | 3[[メガビット]]+64キロRAMロムカセット<ref name="famimaga12">{{Cite journal |和書|title=5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ|date=1991-05-10|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=9|pages=12 - 13}}</ref> | HVC-UM | 384万本 | ミニゲームとして収録 |- | style="text-align:right" | 10 ! 帰ってきたマリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|1988-11-30}} | [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] | インテリジェントシステムズ | 任天堂 | [[ディスクカード]]両面 | FMC-KMAR | - | ディスクカード書き換え専用ソフト |- | style="text-align:right" | 11 ! MARIO BROS. | {{vgrelease new|NA|1989年}} | [[Atari 8ビット・コンピュータ]] | [[w:Sculptured Software|Sculptured Software]] | アタリ | ロムカセット | - | - | - |- | style="text-align:right" | 12 ! [[スーパーマリオコレクション]] | {{vgrelease new|JP|1993-7-14|NA|1993-8-2|EU|1993-12-16}} | [[スーパーファミコン]] | 任天堂情報開発部 | 任天堂 | 16メガビットロムカセット | SHVC-4M | 212万本 | リメイク版『スーパーマリオブラザーズ3』に2人対戦専用モード「BATTLE GAME」として収録 |- | style="text-align:right" | 13 ! [[スーパーマリオアドバンス]] | {{vgrelease new|JP|2001-3-21|NA|2001-6-11|EU|2001-6-22}} | [[ゲームボーイアドバンス]] | 任天堂 | 任天堂 | ロムカセット | AGB-P-AMAJ-JPN | - | - |- | style="text-align:right" | 14 ! [[ファミコンミニ]]11 マリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|2004-5-21}} | ゲームボーイアドバンス | 任天堂 | 任天堂 | ロムカセット | AGB-P-FMBJ-JPN | - | - |- | style="text-align:right" | 15 ! [[マリオ&ルイージRPG]] | {{vgrelease new|NA|2003-11-17|JP|2003-11-21|EU|2003-11-21}} | ゲームボーイアドバンス | [[アルファドリーム]] | 任天堂 | 128メガビットロムカセット | AGB-P-A88J-JPN | - | - |- | style="text-align:right" | 16 ! マリオブラザーズ | {{vgrelease new|NA|2006-11-19|EU|2006-12-8|JP|2006-12-12}} | [[Wii]] | 任天堂<br />インテリジェントシステムズ | 任天堂 | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 17 ! スーパーマリオコレクション スペシャルパック | {{vgrelease new|JP|2010-10-21}} | [[Wii]] | 任天堂 | 任天堂 | Wii用[[光ディスク]] | RVL-P-SVMJ-JPN | - | - |- | style="text-align:right" | 18 ! マリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|2013-5-8|NA|2014-1-30|EU|2014-1-9}} | [[ニンテンドー3DS]] | 任天堂 | 任天堂 | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 19 ! マリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|2013-5-29|NA|2013-6-20}} | [[Wii U]] | 任天堂 | 任天堂 | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 20 ! マリオブラザーズ | {{vgrelease new|JP|2017-9-27|NA|2017-9-27}} | [[Nintendo Switch]] | ハムスター | ハムスター | ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]]) | - | - | アーケード版の移植 |- | style="text-align:right" | 21 ! [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]] | {{vgrelease new|JP|2018-09-19|NA|2018-09-19}} | Nintendo Switch | 任天堂 | 任天堂 | ダウンロード | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |} === ファミリーコンピュータ版 === {{出典の明記|section=1|date=2019年11月}} 1983年[[9月9日]]に発売。国内売り上げ本数約163万本。かつてオリジナル版ルールでの移植作が長らく無かった時期には、プレミアソフトとして中古市場で定価よりも数段高い価格で取引されることもあったが、後述のゲームボーイアドバンスでの復刻版発売などの影響により、現在は取引価格も落ち着いている。 ROMカセットのタイトルシールには2種類あり、初期版は銀の背景にオレンジ色のタイトルの下に太い波線の物(当時のファミコンソフトに見られたタイプ)、後期版はタイトルの横に箱と同じイラストが縮小されて描かれている物(『スーパーマリオブラザーズ』と同様のタイプ)となっている。なお、中古市場では後者のほうが流通が少ない。 [[1988年]][[10月23日]]に発売の『スーパーマリオブラザーズ3』も2人プレイ中でも同様のゲームがプレイ可能であるが、同作ではコースでゴールしたときに得たパネルを奪い合う対戦ミニゲームの色が濃いため、本作とはいささかゲーム性が異なる。従来のシェルクリーパー(カメさん)が「トゲゾー」に置き換えられており、他の敵キャラクターは「カニさん」「ファイターフライ」表記となっている。相手を踏むか突き上げることで、持っているパネルが1枚飛び出す。また、ルールの異なるオリジナルステージが2つ追加されている。 ファミリーコンピュータ発売前後の[[コマーシャルメッセージ|CM]]で『マリオブラザーズ』が紹介されていたが、ルイージの色が違う(白色ではなく緑色。アーケード版の色が緑のツナギに茶色のシャツであった)。 FC版では容量の都合から、アーケード版と比べると細かい演出がカットされていたり、シェルクリーパーとファイヤーボールの大きさがアーケード版に比べてかなり小さくなっている。 [[1993年]]には、『Mario Bros. Classic』がヨーロッパ限定で販売された。これは、『帰ってきたマリオブラザーズ』の仕様にアーケード版にあったPHASE 1,5,7,9の[[アトラクトデモ]]を追加した内容となっている。なお、本作ではPHASE 24以降になると、敵がひっくり返っている時間が短くなっている。 PHASE 99をクリアするとその次はPHASE 0となりそしてPHASE 1に戻る。 ルイージのほうが面開始時の立ち位置がわずかに右寄りなので、3面などのコイン取りではタイムが0.1秒多く残せるが、通常面ではPOWまでの距離がマリオより僅かに遠い。 === ファミリーコンピュータ ディスクシステム版 === 1988年[[11月30日]]にディスクライター書き換え専用ソフト『'''帰ってきたマリオブラザーズ'''』としてリメイク発売。 当時「マリオカレー」などのキャラクター商品を発売していた[[永谷園]]がスポンサーについたため、書き換え価格が標準では500円のところ、本作については上記の[[広告]]料などの関係で400円に引き下げられた<ref>『CM NOW vol.23』[[玄光社]]、1989年1月、P149。</ref>。このためゲーム中に同社の「マリオカレー」「[[お茶漬け海苔|お茶づけ海苔]]」などのCMが流れたことも話題になった{{要出典|date=2023年9月}}。これにより2006年時点では、無料ソフトや同梱版を除くとマリオシリーズで最も低価格のゲームソフトとなっていた<ref>[[メディアワークス]]刊『New スーパーマリオブラザーズ ザ・コンプリートガイド』(ISBN 978-4-8402-3527-3) </ref><ref group="注">2009年以降は[[ニンテンドーDSiウェア]]の展開などにより、本作を下回る価格のソフトが登場している。</ref>。 「ながたにえんワールド」モードではゲームオーバー時に復活チャンスがある。1988年11月30日 - [[1989年]][[5月31日]]にクリア時の暗号(いああなあお-など)を永谷園に送ることで、10万点でマリオ3トランプ・20万点マリオ3カセットがそれぞれプレゼントされるキャンペーンを実施。応募者全員の中からマリオ3特製キーホルダーも当たった。 容量が増えたため、敵キャラクターのグラフィックがアーケード版に近くなっていたり、ファミコンのROM版で削除されたつららが復活、ボーナスステージで床が見えなくなるなどアーケード版の仕様がそのまま移植されている。また、ジャンプ中に十字ボタン左右でジャンプの勢いをコントロールできるようになった。 === パソコン版 === 1984年に[[ウエストサイド (ユーティリティ会社)|ウエストサイド]]よりPC-8001([[N-BASIC]])対応版が発売された。また、ハドソン開発の『'''マリオブラザーズスペシャル'''』(''{{lang-en-short|MARIO BROS. Special|}}'')(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、PC-9800シリーズ、FM-7、MZ-2200、X1、MZ-1500、SMC-777、[[ベーシックマスター#S1|MB-S1]])と、『'''パンチボールマリオブラザーズ'''』(''{{lang-en-short|PUNCH BALL MARIO BROS.}}'')(PC-8001mkII、PC-8800シリーズ、PC-6000シリーズ、FM-7、MZ-1500、MB-S1、IBM JX)が発売された。ハドソン開発の2タイトルともアーケードゲーム版をベースにステージ、ルールの大幅変更など大胆なアレンジが施されており本作の名を冠するもののほとんど原形をとどめていない。三作とも任天堂の許諾を正規に受けた移植作品である。 === スーパーファミコン版 === [[1993年]][[7月14日]]発売の『スーパーマリオコレクション』に収録されたリメイク版『スーパーマリオブラザーズ3』では、ファミコン版と同様に2人プレイ時の途中で対戦する形式のものの他、新たに前記を元にして単独のモードとして独立させた2人対戦専用の「BATTLE MODE」も実装された。「BATTLE MODE」ではスーパーマリオの状態でスタートし、一回だけ敵に当たってもミスにならない(床を叩くとランダムで出現するキノコを取ると回復もできる)。 敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニキチ」「ハエまる」「ファイアーボール」となっている。加えて、バトルゲーム限定でファイアーボールが「テレサ」に置き換えられ、踏みつけると甲羅になり蹴ると武器にできる「ノコノコ」が新たに登場する。 === ゲームボーイアドバンス版 === 過去のマリオシリーズを移植した2001年3月21日発売の『[[スーパーマリオアドバンス]]』およびそのシリーズ全4作と、2003年11月21日発売の『[[マリオ&ルイージRPG]]』でプレイ可能。基本的な内容は5作で共通しており、'''クラシックモード'''と'''バトルモード'''の2種類が収録されている。いずれも、ステージBGM(面により異なる)が追加されている。敵キャラクターの名称は「トゲゾー」「カニ」「フライ」「ファイアーボール」「フリーザー」表記となっている。 クラシックモードは1人から最大4人で協力プレイ可能の面クリア型タイプ。プレイヤーキャラクターは全てマリオで、1Pから順に赤・緑・黄・青の色違いとなる。音源などの基本システムはファミコン版に準拠しているが、面構成やつららの登場など、アーケード版をベースにしている部分も多い。1画面だったステージが広くなっており、マリオの移動に合わせてスクロールする。また、POWブロックが上部にも追加された。POWブロックの上に乗ってBボタンを押すと(1 - 2回叩いた状態であっても)持ち上げることができる(投げれば叩いた時と同じ効果、ただし投げると一発で消滅する)。他にも、空中の左右移動を受け付けるようになったり、下を押しつづけるとパワージャンプができるなど、操作性は『[[スーパーマリオUSA]]』に似ている。ひっくり返った敵を5匹以上連続で蹴れば1UPも可能。ゲームオーバーになった場合は一回だけコンティニューができる。 バトルモードは対戦専用で、2人から最大4人対戦が可能。コースのレベルやファイアーボールの有無、ハンディキャップとして各プレイヤー毎の初期コイン数を設定可能。全員「スーパーマリオ」の状態で開始し、1回ダメージを受けると従来の「チビマリオ」、さらにその状態でダメージを食らうとミスになる。他のプレイヤーキャラクターを持ち上げることも可能で、持ち上げられたキャラクターは十字キーやボタンの連打で拘束を免れることが可能。また、4の倍数のステージには敵キャラクターとして「クッパ」が登場するが、倒すことはできない。<br>バトルモードの2人プレイ時に限り、POWブロックの代わりに「'''ゴミ箱'''」が最下段中央に設置される。フタが開いている時に自分で中に飛び込む、あるいは他のプレイヤーから投げ入れられると、一定時間出られない代わりにアイテムが手に入る。入手できるアイテムは、'''POWブロック'''・'''こうら'''(投げるか蹴ると床を滑って敵にダメージ)・'''魚の骨'''(効果無し)・'''タマゴ'''の内のどれか1つ。タマゴは投げると割れ、'''コイン'''1枚・'''ハート'''(チビマリオの状態からスーパーマリオに戻る)・'''スター'''(一定時間無敵)のどれか1つが出てくる。 上記の他、ファミコン版の移植版が、『'''ファミコンミニ'''』第2弾の1つとして2004年5月21日に発売されている。 === Wii版 === 2006年12月12日より[[バーチャルコンソール]]でファミコン版が配信開始。 2010年10月21日に『スーパーマリオコレクション』が『スーパーマリオコレクション スペシャルパック』としてWii版が発売された。内容はスーパーファミコン版と同じで、『スーパーマリオブラザーズ3』内のマリオブラザーズもある。 === ニンテンドー3DS版 === 2011年12月16日よりニンテンドー3DS早期購入者を対象にしたアンバサダー・プログラムにて、マリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス3』がバーチャルコンソールとして配信開始。内容はゲームボーイアドバンス版に準ずるが、多人数プレイが不能になったためバトルモードで遊べなくなっている。 2013年5月8日にはファミコン版がバーチャルコンソールとして配信開始。 === Wii U版 === 2013年5月29日よりバーチャルコンソールとして配信。 2013年11月21日発売の『[[スーパーマリオ 3Dワールド]]』で特定の条件を満たすと『'''[[スーパーマリオ 3Dワールド#ルイージブラザーズ|ルイージブラザーズ]]'''』というゲームがプレイ可能になる。ゲーム内容はファミコン版と同じだがマリオが登場せず、原作の1Pであったマリオが最新作準拠の配色のルイージ(緑の帽子・シャツ、青のつなぎ)に差し替わったものになっており、2Pのルイージは原作と同じまま(白い帽子・シャツ、緑のつなぎ)である。 2014年[[4月3日]]よりバーチャルコンソールとしてゲームボーイアドバンスソフトでマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス2』が配信開始したが、多人数プレイが不能になったため、バトルモードが遊べなくなっている。 === ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ === 2016年11月10日に発売したゲーム機・[[ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ]]は、本作などファミコンソフト30本を内蔵している。 === Nintendo Switch版 === 2017年9月27日に[[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]が展開している『[[アーケードアーカイブス]]』のひとつとしてアーケード版が配信開始された<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/1a835154-96b5-11e7-8cda-063b7ac45a6d|title=任天堂のアーケードタイトルが30年以上の時を経て甦る! 『アーケードアーカイブス マリオブラザーズ』が9月27日に配信決定!|publisher=任天堂|accessdate=2017-09-14|date=2017-09-14}}</ref>。 任天堂のアーケードゲームが同サービスで配信されたのは本作が初めてであるが、選ばれた理由は任天堂の担当者から「どのタイトルが第1弾としてインパクトがあり、Switchに合っていて、ユーザーの皆さんに喜んでいただけるか」と語っており、おすそわけプレイの相性が良く、マリオの登場するゲームが決まった<ref name="arcade">{{Cite journal|和書|author=|year=2017|date=2017-10-21|title=ゲームセンターの任天堂|journal=[[Nintendo DREAM]]|volume=|issue=2017年12月号|page=38-43|publisher=[[アンビット]]|id=雑誌07113-12}}</ref>。 開発はハムスターが担当し、任天堂は監修を行う。ベースはアップライト筐体。オンラインランキングは配信当日の0時20分の時点で100位が埋まり、2日目でキャラバンモードの1位が10万点を超えた<ref name="arcade"/>。 2018年9月19日に[[Nintendo Switch#Nintendo Switch Online|Nintendo Switch Online]]加入者向けに配信された『[[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]]』にはファミコン版が収録されている。 2021年2月12日発売の『スーパーマリオ 3Dワールド + フューリーワールド』で特定の条件を満たすと『ルイージブラザーズ』がプレイ可能になる。ゲーム内容はWii U版と同様。 2023年2月9日よりNintendo Switch Online + 追加パック加入者向けに配信された『[[ゲームボーイアドバンス Nintendo Switch Online]]』にはマリオブラザーズを収録した『スーパーマリオアドバンス4』および『マリオ&ルイージRPG』が収録されている。ローカル通信およびオンライン通信にも対応しており、最大4人同時にクラシックモードとバトルモードを遊ぶことができる。 == 音楽 == ゲーム開始時に流れる音楽は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]の第1楽章冒頭部分である<ref>[http://www.tech-land.gr.jp/thinkso/game/classic.html ゲーム音楽とクラシック音楽] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070823140136/http://www.tech-land.gr.jp/thinkso/game/classic.html |date=2007年8月23日 }}</ref>。アーケード版とファミコン版ではややサウンドが異なりリメイク作品はファミコン版を基に作られているため、サウンドもファミコン準拠である。 ; サウンドトラック :* ファミコン 20TH アニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.1(2004年1月7日) :* ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」(2004年7月22日) :* [[サイトロン・デジタルコンテンツ]]より発売されたCD内の一作品として収録されている。 == スタッフ == ;アーケード版 :*デザイン:[[宮本茂]] :*音楽:兼岡行男 :*効果音:[[田中宏和]] :*プロデューサー:[[横井軍平]] :*エグゼクティブ・プロデューサー:[[山内溥]] == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |Allgame = {{rating|4.5|5}} (AC)<ref name="allgameArcade">{{cite web |title=Mario Bros. : Review |url=http://www.allgame.com/game.php?id=4072 |publisher=[[Allgame]] |accessdate=2008-12-08}}</ref><br />{{Rating|4.5|5}} (FC)<ref name="mobygames_FC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7301/mario-bros/ |title=Mario Bros. for NES (1983) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-04}}</ref><br />{{rating|4|5}} (A52)<ref name="allgameAtari5200">{{cite web |title=Mario Bros. > Review |url=http://www.allgame.com/game.php?id=15768 |publisher=[[Allgame]] |accessdate=2008-12-08}}</ref><br />{{rating|4.5|5}} (Wii)<ref name="allgameVR">{{cite web |title=Mario Bros. > Review |url=http://www.allgame.com/game.php?id=51339 |publisher=[[Allgame]] |accessdate=2008-12-08}}</ref> |CVG = 80% (FC)<ref name="mobygames_FC"/><br />7/10点 (C64)<ref name="mobygames_C64">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7301/mario-bros/ |title=Mario Bros. for Commodore 64 (1987) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-04}}</ref><br />24/40点 (ZX)<ref name="mobygames_ZX">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7301/mario-bros/ |title=Mario Bros. for ZX Spectrum (1987) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-04}}</ref> |CRASH = 45% (ZX)<ref name="mobygames_ZX"/> |EuroG = {{Rating|3|5}} (Wii)<ref name="mobygames_Wii">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7301/mario-bros/ |title=Mario Bros. for Wii (2006) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-04}}</ref> |GSpot = 4.9/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/> |IGN = 4.5/10点 (Wii)<ref name="ignreview">{{cite web |title=Mario Bros. (Virtual Console) Review |url=http://wii.ign.com/articles/750/750161p1.html |date=2006-12-08 |publisher=[[IGN]] |accessdate=2013-08-24}}</ref><br />6/10点 <small>(e-Reader)</small><ref name="mariobrose">{{cite web |title=Mario Bros.-e Review |url=http://gameboy.ign.com/articles/377/377503p1.html |date=2002-11-15 |publisher=[[IGN]] |accessdate=2008-09-26}}</ref> |NLife = {{Rating|6|10}} (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/> |SUser = {{Rating|5|5}} (ZX)<ref name="mobygames_ZX"/> |rev1 = [[:en:Commodore User|Commodore User]] |rev1Score = 9/10点 (C64)<ref name="mobygames_C64"/> |rev2 = [[:en:Aktueller Software Markt|Aktueller Software Markt]] |rev2Score = 8/12点 (C64)<ref name="mobygames_C64"/> |rev3 = [[:en:Your Commodore|Your Commodore]] |rev3Score = 6/10点 (C64)<ref name="mobygames_C64"/> |rev4 = [[:en:Zzap!64|Zzap!64]] |rev4Score = 55% (C64)<ref name="mobygames_C64"/> |rev5 = [[:en:Commodore Force|Commodore Force]] |rev5Score = 40% (C64)<ref name="mobygames_C64"/> }} === アーケード版 === 1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「それまでのゲームでは、テーブル筐体の手前側とその反対側にプレイヤーが1人ずつ座りプレイする形が主流だったのに対し、それを手前側に2人分の操作系を用意し、同一画面中で2人のプレイヤーが操るキャラクターが登場した」、「プレイヤーが2人並んで同じ目的を持ってプレイするこのスタイルは、孤独にプレイするものから大きく変化したものであった。このスタイルはその後の協力プレイの基本となり、さらにはアップライト型筐体の形に発展することになる」、「その他にも強制的にゲームを終わらせる演出や、1度にすべての敵の動きを止める、今でいうところのボムの存在も忘れることはできない」と紹介されている<ref name="bestgame2_91">{{Cite journal |和書 |title = ザ・ベストゲーム |date = 1998-01-17 |publisher = 新声社 |journal = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |volume = 5 |number = 4 |naid = |pages = 91 |isbn = 9784881994290 |url = |ref = harv}}</ref>。 === ファミリーコンピュータ版 === 『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マリオをメジャーなスターダムにのしあげたゲーム」、「2人同時プレイの楽しさを引き出したゲームでもある」と紹介されている<ref name="famimaga40"/>。 {{Clear}} == ゲーム&ウオッチ版 == {{コンピュータゲーム | Title = マリオブラザーズ<br /><small>Mario Bros.</small> | Genre = [[アクションゲーム]] | Plat = [[ゲーム&ウオッチ]] | Dev = | Pub = [[任天堂]] | distributor = 任天堂 | series = マリオシリーズ | Play = 1人 | Date = {{vgrelease new|JP|1983-3-14}} | Sale = | etc = 型式MW-56 }} 1983年[[3月14日]]に任天堂より発売<ref>{{Cite book|和書 |title=懐かしの電子ゲーム大博覧会 |date=2018-5-20 |publisher=主婦の友インフォス |page=124 |isbn=9784074310593 |author=山崎功}}</ref>。『マリオブラザーズ』のタイトルで最も早く発売されたバージョンであり、後のアーケード版とタイトルは同じだが、アーケード版は本作から移植されたものではなく、ゲーム内容は全く異なっている。[[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカ(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)]]の販促用景品としても配布されていた。 左右2画面のマルチスクリーン機用ゲーム。瓶詰め工場を舞台に、兄弟は[[ベルトコンベア]]上を流れてくる荷物を運ぶ仕事をしており、中央に表示されたベルトコンベアを挟んで、マリオは右画面、ルイージは左画面にいる。プレイヤーは一人で同時に、右手でマリオ、左手でルイージを上下操作して、流れてくる荷物を落とさないように、より高い位置にあるベルトコンベアにタイミングよく乗せかえて行く。最上段まで荷物を運んでトラックに積み、積載量一杯になるとトラックが発車してボーナス得点が与えられる。 荷物を落としてミスすると上司に叱られるなど、さまざまな演出も見られる。 本作がマリオの弟・ルイージの初登場作品となり、本体パネルに描かれたイメージイラストでは、それぞれ赤い帽子とつなぎに青のシャツと、緑の帽子とつなぎに赤のシャツとなっており、この時点で「赤」「緑」というイメージで描き分けられていた(ただしどちらがそのキャラクターなのかはイラストには添えられておらず、実際のゲーム上ではモノクロ液晶のため二人とも全身真っ黒)。なお、上述のアーケード版ではマリオが青い帽子とつなぎに赤のシャツ、ルイージが緑の帽子とつなぎに茶色のシャツ(ファミコン版ではマリオが赤い帽子、ルイージが白い帽子とシャツ)へと変化している。また、アーケード版ではマリオのイメージカラーは「青」であり、タイトルロゴから筐体の配色にまで反映されている。 こちらのバージョンは、[[1999年]][[4月8日]]発売の[[ゲームボーイ]]用ソフト『[[ゲームボーイギャラリー3]]』の1ゲームとして移植されており、同作にはグラフィックをリニューアルしてルールがアレンジされた「いまモード」も収録されている。同様にリメイクされたものが日本国外でゲームボーイアドバンス用ソフト『GAME&WATCH GALLERY 4』に収録され、日本では、[[2016年]][[3月16日]]に[[Wii U]]バーチャルコンソール専用ソフト『[[ゲームボーイギャラリー4]]』として配信された。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[バルーンファイト]]([[1984年]]) * [[アイスクライマー]]([[1985年]]) * [[マリオクラッシュ]]([[1995年]]) * [[テトリスDS]]([[2006年]]) - 一部にこのゲーム画面が使われている。 * [[大乱闘スマッシュブラザーズX]]([[2008年]]) - 「マリオブラザーズ」という隠しステージが登場する。ルールを除けば構造や敵キャラクターも完全再現されている。 * [[ファンタシースターZERO]](2008年) - このゲームからのコラボレーションアイテム関連。 == 外部リンク == * [https://www.nintendo.co.jp/n08/mariobros/index.html マリオブラザーズ](スーパーマリオアドバンスシリーズ・マリオ&ルイージRPG) * [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk2/mariobro/index.html ファミコンミニ マリオブラザーズ] * {{Wiiバーチャルコンソール|mb}} * {{3DSバーチャルコンソール|tb7j}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|faej}} * [https://ec.nintendo.com/JP/ja/titles/70010000000918 アーケードアーカイブス マリオブラザーズ] - 任天堂公式 * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/mario.htm アーケードアーカイブス マリオブラザーズ] - ハムスター公式 * {{MobyGames|id=/7301/mario-bros/|name=Mario Bros.}} {{Mario}} {{ゲーム&ウオッチ}} {{デフォルトソート:まりおふらさあす}} [[Category:1983年のコンピュータゲーム]] [[Category:1983年のアーケードゲーム]] [[Category:1984年のパソコンゲーム]] [[Category:Amstrad CPC用ゲームソフト]] [[Category:Apple II用ゲームソフト]] [[Category:Atari 2600用ソフト]] [[Category:Atari 5200用ソフト]] [[Category:Atari 7800用ソフト]] [[Category:Atari 8ビット・コンピュータ用ゲームソフト]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:MZ用ゲームソフト]] [[Category:PC-6000/6600用ゲームソフト]] [[Category:PC-8001用ゲームソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:ZX Spectrum用ゲームソフト]] [[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]] [[Category:ゲーム&ウオッチ]] [[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]] [[Category:固定画面アクションゲーム]] [[Category:コモドール64用ゲームソフト]] [[Category:ディスクシステム用ソフト]] [[Category:ニューヨーク市を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ハドソンのゲームソフト]] [[Category:マリオブラザーズ|0]] [[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
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江戸川乱歩
江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。 大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。 1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士だった。のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げた。 2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。 小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であった。中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事に勤務。 1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという。 1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する。 1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるようなフェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、岩田準一とともに研究していた衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。 当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作『二銭銅貨』以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。1925年に森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたってその2作目の『心理試験』が好評で踏ん切りがついたと述べている。ここで会社を辞めて小説家一本にしたが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『幽霊』は自ら愚作と評し、小説家になったことを後悔したという。しかし、森下の紹介で『写真報知』や『苦楽』にも掲載を持てることとなり、探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定した。 海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』など)を残している。 また、少年向けとして1936年に発表した、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』は、少年層からの圧倒的な人気を得てシリーズ化され、その他にも少年向けの作品が作られるようになった。 戦後も主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。 晩年は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。 1965年(昭和40年)7月28日、蜘蛛膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で70歳で没した。戒名は智勝院幻城乱歩居士。31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。8月1日、推理作家協会葬が行われた。墓所は多磨霊園(26区1種17側6番)。 創作活動初期は、『D坂の殺人事件』『心理試験』など、いわゆる本格派推理小説(探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。 探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』などが代表的な変格ものといえる。 1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、朝日新聞に『一寸法師』を連載する。病欠の山本有三の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。 1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、乱歩は自己の総決算的中篇『陰獣』を発表する。これは変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史(当時の探偵小説の雑誌『新青年』の編集者)により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。戦前の本格探偵小説の新時代を築いたといえる。『新青年』は『陰獣』を8月増刊号、9月号、10月号の三回に分けて掲載したが、初回の載った増刊号は増刷するほどで、当時の世評の高さがうかがえる。 1929年(昭和4年)8月より通俗長編『蜘蛛男』をかねてより執筆依頼のあった『講談倶楽部』に連載する。この作品は自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだった。作品は大好評で、これを契機として乱歩は続けざまにヒット作を連発させる。単行本は数十版を重ねた。これは探偵小説をポピュラーな地位に押し上げたといえる(通俗長編について乱歩は、黒岩涙香やモーリス・ルブラン、ポーなどから着想をえたと言っており、事実、そのような作品が多い)。 乱歩の通俗長編が大衆に歓迎された理由は、作品自体の面白さ以外に、時代的背景が影響していたといえる。金融恐慌の影響で、世間にはいわゆる「エログロナンセンス」といわれる退廃的気風が満ちていた。これらの通俗長編は、初期作品に比べると破綻があり(乱歩自身認めている)、これがミステリーの低俗化を招いたとする批判がある。評論家の権田萬治は、著書『日本探偵作家論』において、乱歩の長編は翻案など一部を除きほとんどがプロットに破綻をきたしていると述べ、作品としての完成度を批判している。一方、乱歩と長年親交のあった評論家中島河太郎は、1974年刊の『小学館万有百科事典』(ジャンルジャポニカ)において、低俗性を認める一方で、市場拡大の貢献を言及している。 1931年(昭和6年)5月、乱歩初の『江戸川乱歩全集』全13巻が平凡社より刊行開始された。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになったという。 乱歩は執筆に関して、長編小説のプロットをまとめることが苦手だったという。多くの長編連載を場当たりで執筆し、筋の展開に行き詰まってしまうことがあった。ストーリー展開の行き詰まりから休筆を繰り返すこととなった。また、長編を作り上げるにあたり、程度の低い作品を書いているという意識に苛まれていた。これも休筆の要因といえる。 とりわけ、探偵小説の本舞台である『新青年』に本格ものを書こうとして行き詰まった経緯がある。『悪霊』は1934年(昭和9年)1月号までに3回中断し、探偵文壇の不評を被った。これ以外に、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。 1935年(昭和10年)頃より、乱歩は評論家として広く活躍し始める。評論集『鬼の言葉』は、その最初の成果である。その一方で、1936年(昭和11年)初めての少年ものを執筆する。のちにシリーズ化される『怪人二十面相』を雑誌『少年倶楽部』に連載した。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、乱歩のもとに多数のファンレターが来たという。以後、乱歩は創作レパートリーに少年ものを定期的に加えるようになった。 日本が戦争体制を強化していくに従い芸術への検閲が強まっていき、日中戦争に勃発した1937年(昭和12年)頃よりその度合いは強くなった。探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。一説では、内務省のブラックリストに乱歩の名が載っていたという。 1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発し、『芋虫』が発禁になっている。 1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。同年12月、日本が太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松龍之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない海軍省の会報に論評を載せるなどしていた。 この時期、少年時代のノートから気になった近年の新聞記事など取り溜めておいた資料をスクラップブックに貼るようになった。他見させるつもりはなかったようであるが、没時までに9冊に増え、後に『貼雑年譜』(はりまぜねんぷ)として復元・刊行され、乱歩自身や日本の推理小説史の貴重な史料となっている。 太平洋戦争中、抹殺されていた探偵文壇は戦後、GHQの占領政策終了のもと復興し始める。戦後は、創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年に探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。雑誌『少年』1949年(昭和24年)1月号から連載の『青銅の魔人』で少年向け小説を再開する。 評論の分野では、1947年(昭和22年)に『随筆探偵小説』を上梓。1951年(昭和26年)には『幻影城』、1954年(昭和29年)に『続・幻影城』、1958年(昭和33年)に『海外探偵小説作家と作品』が上梓される。これらの評論集は、乱歩の優れた批評眼と洞察力がうかがえる探偵小説論・探偵作家論といえる。 戦後においても、大衆は乱歩の「本格もの」よりも「変格もの」を支持し、作家としても日本・海外を問わず既出のトリックがある本格推理が軽蔑されたため、乱歩だけではなく変格ものが中心に執筆された。乱歩が本意としていた本格ものはあまり反響がなかった。同時期に多数発表された長編探偵小説の中で、戦後継続して再刊され続けた(ほとんどの作品は入手できない時期は存在しなかった)のは乱歩の作品だけである。ちなみに、文庫5000万部という空前のリバイバルとなった横溝正史ですら、戦前作品は『人形佐七捕物帳』などごく一部を除けば一時的に再刊されただけである。また、推理小説(ミステリ)の枠に留まらず、怪奇・幻想文学において存在意義がある。猟奇・異常性愛を描いた作品は後年の官能小説に多大な影響を残した。 また、戦後に再開した少年探偵団シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代頃から映像化された。戦後は雑誌『少年』の発行元だった光文社から『少年探偵江戸川乱歩全集』として全23巻が刊行された。乱歩最晩年の昭和39年頃から光文社は絶版となり、版権はポプラ社へ移動する。ポプラ社では、『少年探偵江戸川乱歩全集』として乱歩が児童向けとして書いた作品を全26巻で刊行した。さらに乱歩の大人向けの作品を代作者が児童向けに書き直したものを20巻刊行し、全46巻の大全集となった。シリーズのほとんどで敵役となっている怪人二十面相は、推理小説の架空キャラクターとしては、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、明智小五郎、金田一耕助らと並んで、日本では広く親しまれている。なお、戦後に発表されたものについては、戦前に大人向けに書いた推理小説・怪奇小説を代作者が子供向きに翻案した結果、明智小五郎など登場人物の性格が、乱歩自身の設定と異なっていることがあった。 戦後は、新人発掘にも熱心で、高木彬光、筒井康隆、大薮春彦、星新一など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。『宝石』編集長時代には、多くの一般作家に推理小説発表の場を与えている。代表的な作家に、歌舞伎評論家の戸板康二がいる。また、小林信彦を宝石社にスカウトし、アルフレッド・ヒッチコックの名を冠した雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長に推薦している。 日本国外の推理作家との交流にも積極的で、エラリー・クイーンと文通してアメリカ探偵作家クラブ (MWA) の会員にもなったほか、フランスのイゴール・B・マスロフスキー、オランダのロバート・ファン・ヒューリック、W・G・キエルドルフ(nl)、ソビエト連邦のロマン・キム(ru)、韓国の金来成らと文通し、彼らを介して各国の推理小説事情を日本に紹介した。 晩年には、SF小説に興味を持ち、筒井康隆、矢野徹など、黎明期の日本のSF関係者を援助し、商業出版に尽力した。1959年のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、クリスティを例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった。 「全集」は没後刊行が一般的な時代、生前・没後に各4度 にわたり「全集」刊行した作家は分野を問わず他には存在しない。 内外から尊敬を込め大乱歩とも呼ばれた。師事した山田風太郎は、『風眼抄』で「『大乱歩』という言葉もある。ほかにも一世を風靡した作家や、大衆から敬意を表された作家や、芸術的にもっと高いものを書いた作家は多いのに、大の字を冠してこれほどおかしくない人も珍らしい。」と書いている。ちなみに、他に「大」を冠して呼ばれることの多いアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)や谷崎潤一郎(大谷崎)には、同じ文筆家として名高い息子や弟と区別する意味合いもあるが、乱歩にはそうした区別対象はない。 1919年(大正8年)、鳥羽造船所を退職したのち、東京で三人書房を営んでいた時代に結婚。1982年9月2日、脳血栓で死去、享年85。 一部明智小五郎や二十面相が登場しない作品もある。 多数あり。「明智小五郎」も参照のこと。以下はその一部である。 乱歩作品の漫画化は、藤子不二雄による子供向けの『少年探偵団』ものが1959年(昭和34年)に発表されている。初の成人向け作品の漫画化としては、昭和45年に少年誌『週刊少年キング』が「江戸川乱歩恐怖シリーズ」と銘打ち、エログロ物を含む乱歩作品を横山光輝、桑田次郎、古賀新一、石川球太の四者に競作させている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、1894年〈明治27年〉10月21日 - 1965年〈昭和40年〉7月28日)は、日本の推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。本名は平井 太郎(ひらい たろう)。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東の郷士だった。のちに伊勢の津藩の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であった。中学校では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事に勤務。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるようなフェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、岩田準一とともに研究していた衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, 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"戦後は、新人発掘にも熱心で、高木彬光、筒井康隆、大薮春彦、星新一など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。『宝石』編集長時代には、多くの一般作家に推理小説発表の場を与えている。代表的な作家に、歌舞伎評論家の戸板康二がいる。また、小林信彦を宝石社にスカウトし、アルフレッド・ヒッチコックの名を冠した雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長に推薦している。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本国外の推理作家との交流にも積極的で、エラリー・クイーンと文通してアメリカ探偵作家クラブ (MWA) の会員にもなったほか、フランスのイゴール・B・マスロフスキー、オランダのロバート・ファン・ヒューリック、W・G・キエルドルフ(nl)、ソビエト連邦のロマン・キム(ru)、韓国の金来成らと文通し、彼らを介して各国の推理小説事情を日本に紹介した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "晩年には、SF小説に興味を持ち、筒井康隆、矢野徹など、黎明期の日本のSF関係者を援助し、商業出版に尽力した。1959年のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、クリスティを例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「全集」は没後刊行が一般的な時代、生前・没後に各4度 にわたり「全集」刊行した作家は分野を問わず他には存在しない。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "内外から尊敬を込め大乱歩とも呼ばれた。師事した山田風太郎は、『風眼抄』で「『大乱歩』という言葉もある。ほかにも一世を風靡した作家や、大衆から敬意を表された作家や、芸術的にもっと高いものを書いた作家は多いのに、大の字を冠してこれほどおかしくない人も珍らしい。」と書いている。ちなみに、他に「大」を冠して呼ばれることの多いアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)や谷崎潤一郎(大谷崎)には、同じ文筆家として名高い息子や弟と区別する意味合いもあるが、乱歩にはそうした区別対象はない。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1919年(大正8年)、鳥羽造船所を退職したのち、東京で三人書房を営んでいた時代に結婚。1982年9月2日、脳血栓で死去、享年85。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一部明智小五郎や二十面相が登場しない作品もある。", "title": "作品一覧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "多数あり。「明智小五郎」も参照のこと。以下はその一部である。", "title": "翻案作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "乱歩作品の漫画化は、藤子不二雄による子供向けの『少年探偵団』ものが1959年(昭和34年)に発表されている。初の成人向け作品の漫画化としては、昭和45年に少年誌『週刊少年キング』が「江戸川乱歩恐怖シリーズ」と銘打ち、エログロ物を含む乱歩作品を横山光輝、桑田次郎、古賀新一、石川球太の四者に競作させている。", "title": "翻案作品" } ]
江戸川 乱歩は、日本の推理小説家、怪奇・恐怖小説家、アンソロジスト。本名は平井 太郎。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーのもじり。 大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
{{出典の明記|date=2013年3月|ソートキー=人1由来年没}} {{Redirect|乱歩|小惑星帯に位置する小惑星|乱歩 (小惑星)}} {{Infobox 作家 |name = 江戸川 乱歩<br />(えどがわ らんぽ) |image = Rampo Edogawa 02.jpg |imagesize = |caption = [[1954年]] |pseudonym = 小松 龍之介 |birth_name = 平井 太郎(ひらい たろう) |birth_date = {{生年月日と年齢|1894|10|21|no}} |birth_place = {{JPN}}・[[三重県]][[名賀郡]][[名張町]](現・[[名張市]]) |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1894|10|21|1965|7|28}} |death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[豊島区]][[池袋]] |occupation = [[小説家]] |language = [[日本語]] |nationality = {{JPN}} |education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> |alma_mater = [[早稲田大学]][[早稲田大学政治経済学部|大学部政治経済学科]] |period = [[1923年]] - [[1965年]] |subject = [[推理小説]]、[[ホラー小説|怪奇・恐怖小説]]<ref name="怪奇恐怖">この分野の乱歩の作品集として『鏡地獄―江戸川乱歩怪奇幻想傑作選』[[角川ホラー文庫]]、『文豪怪奇コレクション 猟奇と妖美の江戸川乱歩』双葉文庫などがある。</ref> |movement = |notable_works = 『[[D坂の殺人事件]]』(1925年)<br />『[[陰獣]]』(1928年)<br />『[[孤島の鬼]]』(1930年)<br />『[[黒蜥蜴]]』(1934年)<br />『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』(1936年)<br />『[[幻影城 (評論集)|幻影城]]』(1951年、評論)<br />『[[探偵小説四十年]]』(1961年、自伝) |awards = [[紫綬褒章]](1961年)<br 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乱歩の名作「二銭銅貨」、最初期の草稿見つかる|publisher=[[読売新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011202030741/http://www.yomiuri.co.jp/04/20011121ic16.htm|archivedate=2001-12-02|accessdate=2011-07-10}}</ref>。}}のもじり。 [[大正]]から[[昭和]]期にかけて活躍し、主に[[推理小説]]を得意とした。また、[[第二次世界大戦]]後は推理小説分野を中心に[[評論家]]や研究家、[[編集者]]としても活躍した。乱歩の寄付で創設された[[江戸川乱歩賞]]が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に[[探偵]]として、[[岩井三郎]]探偵事務所([[ミリオン資料サービス]])に勤務していた経歴を持つ。 == 経歴 == ===生い立ち=== [[ファイル:Edogawa Rampo birthplace 2021-11 ac.jpg|thumb|180px|乱歩生誕地碑広場]] [[1894年]](明治27年)、[[三重県]][[名賀郡]][[名張町]](現・[[名張市]])に名賀[[郡役所]]書記の[[平井繁男]]ときくの長男として生まれる([[本籍地]]は同県[[津市]])。平井家は武士の家柄で、祖先は[[伊豆]][[伊東市|伊東]]の[[郷士]]だった。のちに[[伊勢国|伊勢]]の[[津藩]]の[[藤堂家]]に仕え、乱歩の[[祖父母|祖父]]の代まで藤堂家の[[藩士]]として勤め上げた。 2歳の頃父の転勤に伴い三重県[[鈴鹿郡]][[亀山町]](現・[[亀山市]])、翌年、[[愛知県]][[名古屋市]]に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。 小学生の頃に母に読み聞かされた[[菊池幽芳]]訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、[[推理小説|探偵小説]]に接した最初であった。中学校では、[[押川春浪]]や[[黒岩涙香]]の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・[[愛知県立瑞陵高等学校]])を卒業後、[[早稲田大学]]の[[早稲田大学政治経済学部|政治経済学科]]に進学。在学中に([[メルヴィル・デイヴィスン・ポースト|メルヴィル・D・ポースト]]に先んじた世界初の[[トリック (推理小説)|トリック]]という意味で)傑作の処女作『[[火縄銃 (江戸川乱歩)|火縄銃]]』を執筆。[[博文館]]の雑誌『[[冒険世界]]』に投稿するが、掲載はされなかった<ref>『新潮日本文学アルバム41 江戸川乱歩』新潮社,1993 p.14</ref>。卒業後は貿易会社社員、[[古書店|古本屋]]、[[ラーメン|支那そば]]屋など多くの仕事に勤務。 ===就職と結婚=== 1917年([[大正]]6年)11月、三重県[[鳥羽市|鳥羽]]の鳥羽造船所電機部(現・[[シンフォニア テクノロジー]])に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へ[[おとぎ話]]を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された<ref name=sinfo1>{{Cite web|和書|url=https://www.sinfo-t.jp/100th/rampo01.html|title=江戸川乱歩とシンフォニア(その1)|publisher=シンフォニアテクノロジー|accessdate=2020-5-9}}</ref>。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている<ref name=sinfo>{{Cite web|和書|url=https://www.sinfo-t.jp/100th/rampo02.html |title=江戸川乱歩とシンフォニア(その2)|publisher=シンフォニアテクノロジー|accessdate=2020-5-9}}</ref>。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『[[屋根裏の散歩者]]』『[[パノラマ島奇談]]』の参考になったという<ref name=sinfo1 />。 [[1919年]]、読み聞かせ会で知り合った[[坂手島]]の小学校教師である村山隆子と結婚する<ref name=sinfo />。 ===作家デビュー=== [[1923年]](大正12年)、[[森下雨村]]、[[小酒井不木]]に激賞され<ref>[[小酒井不木]]「『二銭銅貨』を読む」(1923)、新保博久・山前譲編『乱歩【上】』(講談社、1994年)所収。</ref>、『[[新青年 (日本)|新青年]]』に掲載された『[[二銭銅貨]]』でデビューする。欧米の[[推理小説|探偵小説]]に強い影響を受け<ref>{{Cite book|和書|author=奈落一騎、荒俣宏|title=江戸川乱歩語辞典|publisher=誠文堂新光社|date=2020-8-5|page=41|isbn=978-4416520420}}</ref>、本格探偵小説を志す一方で『[[心理試験]]』『[[赤い部屋]]』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。『[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]』や『[[鏡地獄]]』に代表されるような[[フェティシズム]]や怪奇小説の部類も初期から執筆しており、[[岩田準一]]とともに研究していた[[衆道]]の[[少年愛]]・[[少女愛]]、[[異性装|男装・女装]]、人形愛、[[草双紙]]、[[サディズム]]やグロテスク、残虐趣味などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。 当初は小説家として生計を立てるか悩んだと述べており、デビュー作『二銭銅貨』以降は、あくまで兼業の趣味の範疇として散発的に短編小説を執筆するに留まっていた。[[1925年]]に森下の企画で『新青年』に6ヶ月連続短編掲載するにあたってその2作目の『心理試験』が好評で踏ん切りがついたと述べている。ここで会社を辞めて小説家一本にしたが、探偵小説家としては早くも行き詰まり、連続掲載の6作目に当たる『[[幽霊 (江戸川乱歩)|幽霊]]』は自ら愚作と評し、小説家になったことを後悔したという。しかし、森下の紹介で『[[写真報知]]』や『[[苦楽]]』にも掲載を持てることとなり、探偵小説専門誌である『新青年』には載せられないような通俗的な作品の執筆で生計が安定した。 海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』『三角館の恐怖』『幽鬼の塔』などを残している。このほか、探偵小説に関する評論(『[[幻影城 (評論集)|幻影城]]』など)を残している。 また、少年向けとして1936年に発表した、[[明智小五郎]]と小林少年や[[少年探偵団]]が活躍する『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』は、少年層からの圧倒的な人気を得てシリーズ化され、その他にも少年向けの作品が作られるようになった。 ===晩年から死去=== [[ファイル:Grave-marker of Ranpo Edogawa.jpg|thumb|150px|平井家の墓の右脇に江戸川乱歩の墓標がある]] 戦後も主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』の編集・経営に携わった。また、[[日本探偵作家クラブ]]の創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として[[江戸川乱歩賞]]が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。 晩年は[[高血圧]]、[[動脈硬化]]、[[副鼻腔炎]](蓄膿症)を患い、さらに[[パーキンソン病]]を患ったが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110730/20110730032.html|title=江戸川乱歩(下)<nowiki> [なにわ人物伝 -光彩を放つ-]</nowiki>|publisher=[[大阪日日新聞]]|accessdate=2011-12-28}}</ref>、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。 1965年(昭和40年)7月28日、[[クモ膜下出血|蜘蛛膜下出血]]のため[[東京都]][[豊島区]][[池袋]]の自宅で70歳で没した<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)54頁</ref>。[[戒名]]は智勝院幻城乱歩居士。31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。8月1日、推理作家協会葬が行われた。墓所は[[多磨霊園]](26区1種17側6番)。 == 業績 == === 小説家として === 創作活動初期は、『[[D坂の殺人事件]]』『[[心理試験]]』など、いわゆる[[本格派推理小説]](探偵小説)の短編作品を執筆し、日本人の創作による探偵小説の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。 探偵小説の王道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり支持されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。『[[赤い部屋]]』『[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]』『[[鏡地獄]]』などが代表的な変格ものといえる。 1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3か月間、朝日新聞に『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』を連載する。病欠の[[山本有三]]の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。 1928年(昭和3年)8月、14か月の休筆のあと、乱歩は自己の総決算的中篇『[[陰獣]]』を発表する。これは[[変態性欲]]を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、[[横溝正史]](当時の探偵小説の雑誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』の編集者)により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。戦前の本格探偵小説の新時代を築いたといえる。『新青年』は『陰獣』を8月増刊号、9月号、10月号の三回に分けて掲載したが、初回の載った増刊号は増刷するほどで、当時の世評の高さがうかがえる。 1929年(昭和4年)8月より通俗長編『[[蜘蛛男]]』をかねてより執筆依頼のあった『[[講談倶楽部]]』に連載する。この作品は自身の趣向であった「エログロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだった。作品は大好評で、これを契機として乱歩は続けざまにヒット作を連発させる。単行本は数十版を重ねた。これは探偵小説をポピュラーな地位に押し上げたといえる(通俗長編について乱歩は、[[黒岩涙香]]や[[モーリス・ルブラン]]、ポーなどから着想をえたと言っており、事実、そのような作品が多い)。 乱歩の通俗長編が大衆に歓迎された理由は、作品自体の面白さ以外に、時代的背景が影響していたといえる。[[金融恐慌]]の影響で、世間にはいわゆる「[[エログロナンセンス]]」といわれる退廃的気風が満ちていた<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2020-5-9|url= https://kotobank.jp/word/エロ・グロ・ナンセンス-1278953|title=エロ・グロ・ナンセンス}}</ref>。これらの通俗長編は、初期作品に比べると破綻があり(乱歩自身認めている)、これがミステリーの低俗化を招いたとする批判がある。評論家の[[権田萬治]]は、著書『日本探偵作家論』において、乱歩の長編は翻案など一部を除きほとんどがプロットに破綻をきたしていると述べ、作品としての完成度を批判している。一方、乱歩と長年親交のあった評論家[[中島河太郎]]は、1974年刊の『小学館万有百科事典』(ジャンルジャポニカ)において、低俗性を認める一方で、市場拡大の貢献を言及している。 1931年(昭和6年)5月、乱歩初の『江戸川乱歩全集』全13巻が[[平凡社]]より刊行開始された。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになったという。 乱歩は執筆に関して、長編小説のプロットをまとめることが苦手だったという。多くの長編連載を場当たりで執筆し、筋の展開に行き詰まってしまうことがあった。ストーリー展開の行き詰まりから休筆を繰り返すこととなった。また、長編を作り上げるにあたり、程度の低い作品を書いているという意識に苛まれていた。これも休筆の要因といえる。 とりわけ、探偵小説の本舞台である『新青年』に本格ものを書こうとして行き詰まった経緯がある。『[[悪霊 (江戸川乱歩)|悪霊]]』は1934年(昭和9年)1月号までに3回中断し、探偵文壇の不評を被った。これ以外に、[[木々高太郎]]、[[小栗虫太郎]]らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。 1935年(昭和10年)頃より、乱歩は評論家として広く活躍し始める。評論集『鬼の言葉』は、その最初の成果である。その一方で、1936年(昭和11年)初めての少年ものを執筆する。のちにシリーズ化される『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』を雑誌『[[少年倶楽部]]』に連載した。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、乱歩のもとに多数のファンレターが来たという。以後、乱歩は創作レパートリーに少年ものを定期的に加えるようになった。 日本が戦争体制を強化していくに従い芸術への検閲が強まっていき、[[日中戦争]]に勃発した1937年(昭和12年)頃よりその度合いは強くなった。探偵小説は[[内務省 (日本)|内務省]]図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。一説では、内務省のブラックリストに乱歩の名が載っていたという{{要出典|date=2021年7月}}。 1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発し、『[[芋虫 (小説)|芋虫]]』が[[発禁]]になっている。 1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。同年12月、日本が[[太平洋戦争]]に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松龍之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない[[海軍省]]の会報に論評を載せるなどしていた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30895060U8A520C1CR0000/ 「言論統制下も執筆続ける 乱歩ら、海軍関連の会報で」][[日本経済新聞]]</ref>。 この時期、少年時代のノートから気になった近年の新聞記事など取り溜めておいた資料を[[スクラップブック]]に貼るようになった。他見させるつもりはなかったようであるが、没時までに9冊に増え、後に『貼雑年譜』(はりまぜねんぷ)として復元・刊行され、乱歩自身や日本の推理小説史の貴重な史料となっている<ref>[https://library.doshisha.ac.jp/attach/page/LIBRARY-PAGE-JA-114/110084/file/cent21.pdf 江戸川乱歩著『貼雑年譜はりまぜねんぶ』(東京創元社 完全復刻版)【今出川 閉架 910.268 E9549 】][[同志社大学]]図書館(2022年5月5日閲覧)</ref>。 太平洋戦争中、抹殺されていた探偵文壇は戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領政策終了のもと復興し始める。戦後は、創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演を行う。また、1946年から始めた愛好家の集まり「土曜会」を発展させ、1947年に探偵作家クラブ(後の[[日本推理作家協会]])の結成を行う。[[少年 (雑誌)|雑誌『少年』]]1949年(昭和24年)1月号から連載の『[[青銅の魔人]]』で少年向け小説を再開する。 評論の分野では、1947年(昭和22年)に『随筆探偵小説』を上梓。1951年(昭和26年)には『[[幻影城 (評論集)|幻影城]]』、1954年(昭和29年)に『続・幻影城』、1958年(昭和33年)に『海外探偵小説作家と作品』が上梓される。これらの評論集は、乱歩の優れた批評眼と洞察力がうかがえる探偵小説論・探偵作家論といえる。 戦後においても、大衆は乱歩の「本格もの」よりも「変格もの」を支持し、作家としても日本・海外を問わず既出のトリックがある本格推理が軽蔑されたため、乱歩だけではなく変格ものが中心に執筆された。乱歩が本意としていた本格ものはあまり反響がなかった。同時期に多数発表された長編探偵小説の中で、戦後継続して再刊され続けた(ほとんどの作品は入手できない時期は存在しなかった)のは乱歩の作品だけである。ちなみに、文庫5000万部という空前のリバイバルとなった横溝正史ですら、戦前作品は『人形佐七捕物帳』などごく一部を除けば一時的に再刊されただけである。また、推理小説(ミステリ)の枠に留まらず、怪奇・幻想文学において存在意義がある。猟奇・異常性愛を描いた作品は後年の[[官能小説]]に多大な影響を残した。 また、戦後に再開した[[少年探偵団]]シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代頃から映像化された。戦後は雑誌『少年』の発行元だった[[光文社]]から『少年探偵江戸川乱歩全集』として全23巻が刊行された。乱歩最晩年の昭和39年頃から光文社は絶版となり、版権は[[ポプラ社]]へ移動する。ポプラ社では、『少年探偵江戸川乱歩全集』として乱歩が児童向けとして書いた作品を全26巻で刊行した。さらに乱歩の大人向けの作品を代作者が児童向けに書き直したものを20巻刊行し、全46巻の大全集となった。シリーズのほとんどで敵役となっている[[怪人二十面相]]は、推理小説の架空キャラクターとしては、[[シャーロック・ホームズ]]、[[アルセーヌ・ルパン]]、[[明智小五郎]]、[[金田一耕助]]らと並んで、日本では広く親しまれている。なお、戦後に発表されたものについては、戦前に大人向けに書いた推理小説・怪奇小説を代作者が子供向きに翻案した結果、明智小五郎など登場人物の性格が、乱歩自身の設定と異なっていることがあった。 === プロデューサーとして === [[ファイル:Japanese-edition-of-Alfred-Hitchcocks-Mystery-Magazine-1959-August-3.jpg|thumb|来日したヒッチコックを囲む乱歩、[[淀川長治]]、[[双葉十三郎]]、[[植草甚一]]ら(1955年)]] 戦後は、新人発掘にも熱心で、[[高木彬光]]、[[筒井康隆]]、[[大薮春彦]]、[[星新一]]など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』編集長時代には、多くの一般作家に[[推理小説]]発表の場を与えている。代表的な作家に、歌舞伎評論家の[[戸板康二]]がいる。また、[[小林信彦]]を宝石社にスカウトし<ref>{{Cite book|和書 |author=[[小林信彦]] |title=東京のロビンソン・クルーソー |publisher=[[晶文社]] |date=1974年6月30日 |pages=144-147 }}</ref>、[[アルフレッド・ヒッチコック]]の名を冠した雑誌『[[ヒッチコック・マガジン]]』の編集長に推薦している。 日本国外の推理作家との交流にも積極的で、[[エラリー・クイーン]]と文通して[[アメリカ探偵作家クラブ]] (MWA) の会員にもなったほか、[[フランス]]の[[イゴール・B・マスロフスキー]]、[[オランダ]]の[[ロバート・ファン・ヒューリック]]、[[W・G・キエルドルフ]]([[:nl:Pim Hofdorp|nl]])、[[ソビエト連邦]]の[[ロマン・キム]]([[:ru:Ким, Роман Николаевич|ru]])、[[韓国]]の[[金来成]]らと文通し、彼らを介して各国の推理小説事情を日本に紹介した。 晩年には、[[SF小説]]に興味を持ち、筒井康隆、[[矢野徹]]など、黎明期の日本のSF関係者を援助し、商業出版に尽力した。[[1959年]]のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、[[アガサ・クリスティ|クリスティ]]を例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった<ref>[http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch01/index.html 1959年7月31日の対談「文壇よもやま話」]カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「江戸川乱歩」(3){{リンク切れ|date=2020-5}}</ref>。 「全集」は没後刊行が一般的な時代、生前・没後に各4度<ref group="※">全集は刊行順に、生前刊は[[平凡社]]全13巻(戦前)、[[春陽堂]]全16巻、[[光文社]]全23巻、桃源社全18巻(近年[[沖積舎]]で復刻)。没後刊は[[講談社]]で全15巻(新版 全25巻)、他に「文庫版全集」が、昭和末期に[[講談社文庫]]全66巻、[[平成]](21世紀に入り)に[[光文社文庫]]全30巻が刊行。</ref> にわたり「全集」刊行した作家は分野を問わず他には存在しない。 内外から尊敬を込め'''大乱歩'''とも呼ばれた。師事した[[山田風太郎]]は、『[[風眼抄]]』で「『大乱歩』という言葉もある。ほかにも一世を風靡した作家や、大衆から敬意を表された作家や、芸術的にもっと高いものを書いた作家は多いのに、大の字を冠してこれほどおかしくない人も珍らしい。」と書いている<ref>山田風太郎『風眼抄』(六興出版、1979年)p.152</ref>。ちなみに、他に「大」を冠して呼ばれることの多い[[アレクサンドル・デュマ・ペール]](大デュマ)や[[谷崎潤一郎]](大谷崎)には、同じ文筆家として名高い息子や弟と区別する意味合いもあるが、乱歩にはそうした区別対象はない。 == 栄典 == * 1961年 - [[紫綬褒章]]受章<ref>[http://web.akikusa.ac.jp/web2010/45sakuhin/keireki.html 江戸川乱歩の世界]</ref> * 1965年 - [[勲三等]][[瑞宝章]]受章 * 1965年 - [[正五位]] == 家族 == ;両親 *父 - [[平井繁男]](実業家、官吏) *母 - きく([[津藩]]家臣の長女) ;妻子 *妻 - 村山隆(りう)子(現・[[鳥羽市]][[坂手島]]の学校教師)  [[1919年]](大正8年)、鳥羽造船所を退職したのち、東京で三人書房を営んでいた時代に結婚。1982年9月2日、[[脳血栓]]で死去、[[享年]]85。 *[[平井隆太郎]] - ([[心理学者]]、立教大学[[名誉教授]]。「少年探偵」シリーズの[[著作権]]継承者。) ;孫 *[[エリエイ#役員|平井憲太郎]] - (鉄道研究家、『[[とれいん (雑誌)|とれいん]]』編集者) ;兄弟 *[[平井蒼太]](作家) == 邸宅及び記念施設 == [[File:Edogawa Rampo Memorial Center for Popular Culture Studies main gate 2023-01-30.jpg|thumb|江戸川乱歩記念大衆文化研究センター(旧江戸川乱歩邸)]] *乱歩は46回転居したが、現在の東京都[[豊島区]][[西池袋]]にある家を気に入り、没時まで31年住み続け、当初は月額90円で賃借していた家を買い取って増築した<ref name="読売20220411">【シティライフ】旧江戸川乱歩邸(東京都豊島区)執筆支えたついの住み家『読売新聞』東京夕刊2022年4月11日2面</ref>。敷地は1000平方メートルを超え、母屋と[[土蔵]]があり、太平洋戦争末期の1945年4月の[[東京大空襲|城北大空襲]]でも焼失を免れた<ref name="読売20220411"/>。[[立教大学]]と隣接しており、子息である[[平井隆太郎]]が立教大学教員だったこともあり、2002年に同大学が旧江戸川乱歩邸と蔵書、原稿・書簡などを譲り受けて「江戸川乱歩記念大衆文化研究センター」として保存している<ref name="読売20220411"/>。引き継いだ資料には、家族旅行などを生前を写した[[8ミリフィルム]]映像も含まれる<ref name="読売20220411"/>。蔵書は和書1万3000冊、雑誌5500冊、洋書2600冊に及び、[[図書館]]のようにラベルを貼って整理していた<ref name="読売20220411"/>。 *昭和55年([[1980年]])1月になって、大正13年([[1924年]])9月から東京へ転居する大正15年([[1926年]])1月まで2階を書斎にしていた、当時「[[守口市|守口町]]外島694番地」であった[[大阪府]][[守口市]]八島町の家が今も残っていることが判明した。この家は一時期一般開放されていたが、平成22年([[2010年]])に解体された。「江戸川乱歩寓居の跡」と書かれた記念碑板が掲げられていた<ref group="※">『心理試験』や『[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]』『屋根裏の散歩者』などの初期の作品を含む21作品がこの家で執筆されており、そのほとんどが大正14年([[1925年]])に創作された。[[明智小五郎]]が初登場する『[[D坂の殺人事件]]』もこの家で創作された。また乱歩はこの家に住んでいた当時、床の間の天井板を外して踏み台に載り、首だけを出して[[屋根裏]]を覗いてみて、その捨てがたい眺めに陶然とした。その経験を元に『屋根裏の散歩者』が書かれた。</ref>が、民家が解体された後に建造されたワンルームマンションにこの記念碑板も移築され同地に現存する<ref>目立つ場所に建っていないので、簡単な謎解きの楽しみがある。</ref>。 * 2002年、三重県鳥羽市にある乱歩と親交の深かった[[岩田準一]]の邸宅に江戸川乱歩館が開設された<ref name="chunichi20230423">[https://www.chunichi.co.jp/article/677479 火災で休館の「江戸川乱歩館」鳥羽でリニューアルオープン] 中日新聞 2023年4月23日閲覧。</ref>。しかし、2021年10月の火災で建物4棟のうち本館だった旧宅母屋と書斎が全焼したため休館<ref name="chunichi20230423" />。隣接する空き家を活用して2023年4月29日にリニューアルオープンすることになった<ref name="chunichi20230423" />。 * 名張市の生家跡には「江戸川乱歩生誕地碑」が建てられている<ref name="nabari">{{Cite web|和書|url=https://www.kankou-nabari.jp/pdfwp/information/panfu/08_p14-15.pdf |title=名張市観光パンフレット |publisher=名張市観光協会 |accessdate=2021-11-7 }}</ref>。また、[[名張駅]]前には江戸川乱歩の銅像がある<ref name="nabari" />。 == エピソード == *ファンにサインを求められると必ず色紙に「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと」あるいは「昼〔ひる〕は夢 夜〔よ〕ぞ現〔うつつ〕」と書き添えた。 *[[稚児]]趣味があり、若い[[歌舞伎]]役者を可愛がり、ただのファンを超えた関係があった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch01/index.html |title=「江戸川乱歩」(3) |publisher=NHKラジオ |archiveurl=https://archive.vn/wL876 |archivedate=2013-04-23 |accessdate=2021-04-13}}</ref>。 *2015年、未発表手記が発見された。日付は1936年で原稿用紙38枚<ref>『読売新聞』2015年10月17日1面※記事名不明</ref>。 == 作品一覧 == * 著作権は既に消滅し、[[パブリックドメイン]]となっている。江戸川乱歩の小説は色々な形で出版され、かつ作品集の類も戦前から現在まで何度も刊行されている。[[文庫]]で多数の作品を収録しているものとして、[[光文社文庫]]の「江戸川乱歩全集」(全30巻)、[[創元推理文庫]](全20巻)、[[春陽堂書店|春陽文庫]]「江戸川乱歩文庫」(改訂版)、ポプラ社文庫(児童向け)などがある。没後半世紀を経て[[著作権]]が失効したことを受け、[[角川文庫]](改訂版)、[[岩波文庫]]、[[文春文庫]]でも刊行されている。 === 探偵小説 === ==== 明智小五郎もの(長編) ==== *『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』(『[[朝日新聞]]』1926年12月〜1927年2月) *『[[蜘蛛男]]』(『[[講談倶楽部]]』1929年8月〜1930年6月) *『猟奇の果』(『文芸倶楽部』1930年1月〜12月) *『[[魔術師 (江戸川乱歩)|魔術師]]』(『講談倶楽部』1930年7月〜1931年5月) *『[[黄金仮面]]』(『[[キング (雑誌)|キング]]』1930年9月〜1931年10月) *『[[吸血鬼 (江戸川乱歩)|吸血鬼]]』(『[[報知新聞]]』1930年9月〜1931年3月) *『[[黒蜥蜴]]』(『[[日の出 (雑誌) |日の出]]』1934年1月〜11月) *『人間豹』(『講談倶楽部』1934年1月〜1935年5月) *『悪魔の紋章』(『日の出』1937年9月〜38年10月) *『暗黒星』(『講談倶楽部』1939年1月〜12月) *『地獄の道化師』(『富士』1939年1月〜12月) *『化人幻戯』(『[[別冊宝石]]』〜『宝石』1954年11月〜55年10月) - 乱歩晩年の「本格」ものに挑戦した作品<ref>[[中島河太郎]] 『江戸川乱歩 評論と研究』(講談社)など</ref> と言われる。 *『[[影男]]』(『面白倶楽部』1955年1月〜12月) ==== 明智小五郎もの(中短編) ==== *『[[D坂の殺人事件]]』(『新青年』1925年1月) *『[[心理試験]]』(『新青年』1925年2月) *『[[黒手組 (江戸川乱歩)|黒手組]]』(『新青年』1925年3月) *『幽霊』(『新青年』1925年5月) *『[[屋根裏の散歩者]]』(『新青年』1925年8月) *『[[何者]]』(『[[時事新報]]』1929年11月〜12月) *『兇器』(『[[大阪産業経済新聞]]』1954年6月) *『[[月と手袋]]』(『[[オール讀物]]』1955年4月〜) ==== その他の探偵・ノンシリーズ ==== *『[[二銭銅貨]]』(『[[新青年 (日本)|新青年]]』1923年4月) *『[[一枚の切符]]』(『新青年』1923年7月) *『[[恐ろしき錯誤]]』(『新青年』1923年11月) *『[[二癈人]]』(『新青年』1924年6月) *『双生児』(『新青年』1924年10月) *『[[赤い部屋]]』(『新青年』1925年4月) *『日記帳』(『[[写真報知]]』1925年4月) *『[[算盤が恋を語る話]]』(『写真報知』1925年4月) *『[[盗難 (江戸川乱歩)|盗難]]』(『写真報知』1925年5月) *『[[白昼夢 (江戸川乱歩)|白昼夢]]』(『新青年』1925年7月) *『指環』(『新青年』1925年7月) *『夢遊病者の死』(『[[苦楽]]』1925年7月) *『百面相役者』(『写真報知』1925年7月) *『一人二役』(『[[新小説]]』1925年9月) *『疑惑』(『写真報知』1925年9月) *『[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]』(『苦楽』1925年10月) *『接吻』(『[[映画と探偵]]』1925年12月) *『[[闇に蠢く]]』(『苦楽』1926年1月〜11月で連載中絶)1927年に完結 *『湖畔亭事件』(『[[サンデー毎日]]』1926年1月〜5月) *『空気男』(原題:二人の探偵小説家)(『写真報知』1926年1月〜2月で連載中絶) (未完) *『[[踊る一寸法師]]」(『新青年』1926年1月) *『毒草』(『[[探偵文芸]]』1926年1月) *『覆面の舞踏者』(『[[婦人之国]]』1926年1月〜2月) *『灰神楽』(『[[大衆文芸]]』1926年3月) *『火星の運河』(『新青年』1926年4月) *『[[モノグラム (江戸川乱歩)|モノグラム]]』(『新小説』1926年7月) *『[[お勢登場]]』(『大衆文芸』1926年7月) *『[[人でなしの恋]]』(『サンデー毎日』1926年10月) *『[[パノラマ島奇談]]』(別表記:パノラマ島綺譚)(『新青年』1926年10月〜1927年4月) *『[[鏡地獄]]』(『大衆文芸』1926年10月) *『木馬は廻る』(『[[探偵趣味の会|探偵趣味]]』1926年10月) *『[[陰獣]]』(『新青年』1928年8月〜10月) *『[[芋虫 (小説)|芋虫]]』(原題:悪夢)(『新青年』1929年1月) *『[[孤島の鬼]]』(『[[朝日 (雑誌)|朝日]]』1929年1月〜1930年2月) *『[[押絵と旅する男]]』(『新青年』1929年6月) *『[[蟲 (江戸川乱歩)|蟲]]』(『[[改造 (雑誌)|改造]]』1929年9月〜10月) *『[[盲獣]]』(『朝日』1931年2月〜1932年3月) *『[[目羅博士]]』(原題『目羅博士の不思議な犯罪』)(『文芸倶楽部』1931年4月) *『[[地獄風景]]』(『[[平凡社]]版江戸川乱歩全集』1931年5月〜1932年4月) 全集付録冊子への連載 *『[[恐怖王]]』(『講談倶楽部』1931年6月〜1932年5月) *『[[鬼 (江戸川乱歩)|鬼]]』(『キング』1931年11月〜1932年2月) *『[[火縄銃 (江戸川乱歩)|火縄銃]]』(『平凡社版江戸川乱歩全集』1932年4月) 学生時代(1916年以前)の習作 *『[[悪霊 (江戸川乱歩)|悪霊]]』(『新青年』1933年11月〜1934年1月で連載中絶) (未完)<ref group="※">途中で話が続けられなくなり中断した。乱歩本人が掲載誌にお詫びとして読者へ謝罪し、中断を発表している。</ref> *『[[妖虫]]』(『キング』1933年12月〜1934年10月) *『[[石榴 (小説)|石榴]]』(『[[中央公論]]』1934年9月) *『大暗室』(『キング』1936年12月〜39年6月) *『偉大なる夢』(『日の出』1943年11月〜44年12月)米国相手の戦意高揚小説 *『断崖』(『報知新聞』1950年3月) *『悪霊物語』(『講談倶楽部』1954年8月〜) *『防空壕』(『[[文藝]]』1955年7月) *『十字路』(講談社、1955年11月、書き下ろし) [[渡辺剣次]]による第一稿を書きなおし。トリック、構想も渡辺剣次の案出。 *『[[堀越捜査一課長殿]]』(『オール讀物』1956年4月) *『妻に失恋した男』(『[[産経新聞|産経時事]]』1957年10月〜11月) *『ぺてん師と空気男』([[桃源社]]、1959年11月、書き下ろし) *『指』(『[[ヒッチコック・マガジン]]』1960年1月) *『薔薇夫人』(未収録作品) ==== 翻案・再筆小説 ==== *『[[白髪鬼]]』(『[[キング (雑誌)|富士]]』1931年4月〜1932年4月」) - [[マリー・コレリ]]作『ヴェンデッタ』(''Vendetta, A Story of One Forgotten'')の[[黒岩涙香]]による翻案小説『白髪鬼』を書きなおしたもの。 *『緑衣の鬼』(『講談倶楽部』1936年1月〜12月)- [[イーデン・フィルポッツ]]作『[[赤毛のレドメイン家]]』(''The Red Redmaynes'')の翻案小説。 *『[[幽霊塔]]』(『講談倶楽部』1936年12月〜37年4月) - [[アリス・マリエル・ウィリアムソン]]作『灰色の女』(''A Woman in Grey'')の黒岩涙香による翻案小説『幽霊塔』を書きなおしたもの。 *『[[鉄仮面]]』(1938年) - [[フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ]]作『サン・マール氏の二羽のつぐみ』(''Les Deux Merles de M. de Saint-Mars'')の黒岩涙香による翻案小説『鉄仮面』を小中学生向けに書きなおしたもの。 *『幽鬼の塔』(『日の出』1936年4月〜40年3月) - [[ジョルジュ・シムノン]]作『聖フォリアン寺院の首吊男』(''Le Pendu de Sant-Phollien'')の翻案小説。 *『三角館の恐怖』(『面白倶楽部』1951年1月〜12月) - [[ロジャー・スカーレット]]作『エンジェル家の殺人』(''Murder Among the Angells'')の翻案小説。 *『死美人』([[小山書店]]『黒岩涙香集 日本探偵小説代表作集1』1956年)- フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ作『ルコック氏の晩年』(''La Vieillesse de Monsieur Lecoq'')の黒岩涙香による翻案小説を現代語訳(完全新版・河出書房新社、2018年) ==== 連作・合作小説 ==== *『五階の窓』(『新青年』1926年5月) リレー連作小説の第1回目を担当 *『空中紳士』(原題:飛機睥睨)(『新青年』1928年2月〜9月) 乱歩を含む5人の作家による合作 *『江川蘭子』(『新青年』1930年9月) リレー連作小説の第1回目を担当 *『殺人迷路』(『[[探偵倶楽部]]』1932年10月) 全集の付録冊子に連載されたリレー連作小説の第5回目を担当 *『黒い虹』(『[[婦人公論]]』1934年1月) リレー連作小説の第1回目を担当 *『畸形の天女』(『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』1953年10月) *『女妖』(『[[探偵実話]]』1954年1月) *『大江戸怪物団』(『面白倶楽部』1955年7月) ==== 児童向け作品 ==== ===== 少年探偵団・怪人二十面相もの ===== 一部明智小五郎や二十面相が登場しない作品もある。 *『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』(『[[少年倶楽部]]』1936年1月〜12月) *『[[少年探偵団 (小説)|少年探偵団]]』(『少年倶楽部』1937年1月〜12月) *『[[妖怪博士]]』(『少年倶楽部』1938年1月〜12月) *『[[大金塊]]』(『少年倶楽部』1939年1月〜1940年2月) *『[[青銅の魔人]]』(『[[少年 (雑誌)|少年]]』1949年1月〜12月) *『[[虎の牙 (江戸川乱歩)|虎の牙]]』(『少年』1950年1月〜12月)、※ポプラ社版では「地底の魔術王」 *『[[透明怪人]]』(『少年』1951年1月〜12月) *『[[怪奇四十面相]]』(『少年』1952年1月〜12月) *『[[宇宙怪人]]』(『少年』1953年1月〜12月) *『[[鉄塔の怪人]]』(『少年』1954年1月〜12月)、※ポプラ社版では「鉄塔王国の恐怖」 *『[[灰色の巨人]]』(『[[少年倶楽部|少年クラブ]]』1955年1月〜12月) *『[[海底の魔術師]]』(『少年』1955年1月〜12月) *『[[黄金の虎]]』(「探偵少年」改題 『[[読売新聞]]』1955年1月〜12月) *『天空の魔人』(『少年クラブ増刊』1956年1月15日) *『[[黄金豹]]』(『少年クラブ』1956年1月〜12月) *『[[魔法博士]]』(『少年』1956年1月〜12月) *『[[サーカスの怪人]]』(『少年クラブ』1957年1月〜12月) *『妖人ゴング』(『少年』1957年1月〜12月)、※ポプラ社版では「魔人ゴング」 *『[[魔法人形]]』(『[[少女倶楽部|少女クラブ]]』1957年1月〜12月)、※ポプラ社版では「悪魔人形」 *『[[まほうやしき]]』(『[[たのしい三年生]]』1957年1月〜3月) *『[[赤いカブトムシ]]』(『たのしい三年生』1957年4月〜1958年3月) *『[[奇面城の秘密]]』(『少年クラブ』1958年1月〜12月) *『[[夜光人間]]』(『少年』1958年1月〜12月) *『塔上の奇術師』(『少女クラブ』1958年1月〜12月) *『[[鉄人Q]]』(『[[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]』1958年4月〜1959年3月、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]』1959年4月〜1960年3月) *『ふしぎな人』(「ふしぎな人」、『[[たのしい二年生]]』1958年8月〜1959年3月、続けて「名たんていと二十めんそう」、『たのしい三年生』1959年4月〜12月) *『[[仮面の恐怖王]]』(『少年』1959年1月〜12月) *『[[怪人二十面相|かいじん二十めんそう]]』(『たのしい二年生』1959年10月〜1960年3月) *『[[怪人二十面相|かいじん二十めんそう]]』(『たのしい一年生』1959年11月〜1960年3月、続けて『たのしい二年生』1960年4月〜12月) *『[[電人M]]』(『少年』1960年1月〜12月) *『[[おれは二十面相だ]]』(『[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]』1960年4月〜1961年3月)、※ポプラ社版では「二十面相の呪い」 *『怪人と少年探偵』(『[[こども家の光]]』1960年9月〜1961年9月) *『妖星人R』(『少年』1961年1月〜12月)、※ポプラ社版では「空飛ぶ二十面相」 *『超人ニコラ』(『少年』1962年1月〜12月)、※ポプラ社版では「黄金の怪獣」 ===== 児童向け作品(ノンシリーズ )===== *『新宝島』(『[[少年倶楽部]]』1940年4月〜1941年3月) *『智恵の一太郎』(『少年倶楽部』1942年1月〜43年4月){{refnest|group=※|発表当時は「小松龍之介」名義}} === 随筆・評論 === *『悪人志願』博文館(1929年) *『鬼の言葉』春秋社(1936年) *『幻影の城主』かもめ書房(1947年) *『随筆探偵小説』清流社(1947年) *『[[幻影城]]』岩谷書店(1951年)、評論集 *『続・幻影城』早川書房(1954年)、評論集。[[類別トリック集成]]を含む。 *『探偵小説三十年』岩谷書店(1954年) *『探偵小説の「謎」』社会思想研究会出版部 現代教養文庫(1956年) *『海外探偵小説作家と作品』早川書房(1957年)評論集 *『わが夢と真実』東京創元社(1957年)。それまでの随筆のうち、乱歩自身にかかわるものを収録したもの。 *『乱歩随筆』青蛙房(1960年) *『[[探偵小説四十年]]』桃源社(1961年)。自伝的回想録で、乱歩の目を通し描かれた初期日本探偵文壇史とでも称すべきもので、貴重な文献資料でもある。 *『彼・幻影の城』東都書房(1963年) == 翻案作品 == === 映画 === 多数あり。「[[明智小五郎]]」も参照のこと。以下はその一部である。 * [[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]](1927年) * [[パレットナイフの殺人]](1946年) * 一寸法師(1948年) * [[吸血鬼 (江戸川乱歩)|氷柱の美女]](1950年) * [[怪人二十面相]](1954年) * [[青銅の魔人]] (1955年)<!--四部作。厳密には第一部は1954年12/29公開。--> * 一寸法師 (江戸川乱歩の一寸法師)(1955年) * [[少年探偵団]]/[[妖怪博士]](1956年) * 少年探偵団/二十面相の悪魔(1956年) * 死の十字路(1956年) * 少年探偵団/かぶと虫の妖奇(1957年) * 少年探偵団/鉄塔の怪人(1957年) * 少年探偵団/二十面相の復讐(1957年) * 少年探偵団/[[夜光人間|夜光の魔人]](1957年) * 少年探偵団/[[透明怪人]](1958年) * 少年探偵団/首なし男(1958年) * 少年探偵団/敵は原子潜航艇(1959年) * [[蜘蛛男]](1958年) * [[黒蜥蜴]](1962年) * 黒蜥蜴(1968年) * [[盲獣]](1969年) * [[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]](1969年) * [[屋根裏の散歩者]](1970年) * 江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者(1976年) * [[江戸川乱歩の陰獣]](1977年) * [[押繪と旅する男]](1994年) * 屋根裏の散歩者(1994年) * [[RAMPO]](1994年) * [[人でなしの恋]](1995年) * [[人間椅子 (江戸川乱歩)#1997年版|人間椅子]](1997年) * [[D坂の殺人事件]](1998年) * [[双生児 (映画)|双生児 -GEMINI-]](1999年) * [[盲獣vs一寸法師]](2001年、公開は2004年) * [[乱歩地獄]](2005年) * 人間椅子(2006年) * 屋根裏の散歩者(2007年) * 陰獣(フランス映画 2009年) * [[失恋殺人]](2010年) * [[キャタピラー (映画)|キャタピラー]](2010年)※当初、乱歩の『芋虫』原作と言われていたが、その後製作者側は公式には乱歩原作という表記を撤回している。 * [[D坂の殺人事件]](2015年) * [[屋根裏の散歩者]](2016年) * [[メビウスの悪女 赤い部屋]](2020年)※乱歩の『双生児』が原案 * [[裸の天使 赤い部屋]](2021年)※乱歩の『畸形の天女』が原案 * [[聖なる蝶 赤い部屋]](2021年)※乱歩の『[[魔法人形|悪魔人形]]』が原案 * 人でなしの恋(2022年) === テレビドラマ === * [[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]]([[テレビ東京|東京12チャンネル]] 1970年) * [[江戸川乱歩の美女シリーズ]]([[テレビ朝日]]系 1977年〜1985年) * 乱歩〜妖しき女たち〜([[TBSテレビ]] 1994年) * [[乱歩R]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系 2004年) * [[シリーズ・江戸川乱歩短編集]](NHK 2016年~2021年) === 漫画 === 乱歩作品の漫画化は、[[藤子不二雄]]による子供向けの『少年探偵団』ものが1959年(昭和34年)に発表されている。初の成人向け作品の漫画化としては、昭和45年に少年誌『[[週刊少年キング]]』が「江戸川乱歩恐怖シリーズ」と銘打ち、エログロ物を含む乱歩作品を[[横山光輝]]、[[桑田次郎]]、[[古賀新一]]、[[石川球太]]の四者に競作させている。 * [[怪人二十面相]]([[藤子不二雄]] 1959年) * [[白髪鬼]]([[横山光輝]] 1970年) * [[地獄風景]]([[桑田次郎]] 1970年) * [[屋根裏の散歩者]]([[古賀新一]] 1970年) * [[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]、[[芋虫 (小説)|芋虫]]、[[白昼夢 (江戸川乱歩)|白昼夢]]、お勢地獄([[お勢登場]])([[石川球太]] 1970年) * 黒とかげ([[高階良子]] 1971年4月〜8月 原題『[[黒蜥蜴]]』) * [[血とばらの悪魔]]([[高階良子]] 1971年11月〜1972年2月 原題『[[パノラマ島奇談]]』) * 巡礼萬華鏡([[真崎守]] 1973年) * [[ドクターGの島]]([[高階良子]] 1974年4月〜1974年8月 原題『[[孤島の鬼]]』) * 陰獣(古賀新一 1984年) * 江戸川乱歩 屋根裏の散歩者(長田ノオト 1994年) * お勢登場([[池上遼一]] 1996年) * 大暗室([[山田貴敏]] 1997年) * [[妖怪博士]](山田貴敏 1997年) * 人間椅子([[有沢遼]] 1997年) * 江戸川乱歩の[[パノラマ島奇談]](長田ノオト 1999年) * 名工のカタルシス(木暮峰 2004年 原題『人間椅子』) * パノラマ島綺譚([[丸尾末広]] 2007年) * 百面相役者([[東元]] 2007年) * 双生児(東元 2007年) * 人間椅子(東元 2007年) * [[鏡地獄]](東元 2008年) * [[人でなしの恋]](東元 2008年) * [[赤い部屋]](東元 2008年) * [[怪人二十面相]](山田貴敏) * [[大金塊]](山田貴敏) * 江戸川乱歩の[[押絵と旅する男]](長田ノオト) * 江戸川乱歩の[[孤島の鬼]](長田ノオト) * 芋虫([[丸尾末広]]) * [[江戸川乱歩異人館]] ([[山口譲司]] 2010~2015年) * 乱歩アナザー -明智小五郎狂詩曲-([[薫原好江]]) === テレビアニメ === * [[わんぱく探偵団]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系、1968年2月1日から同年9月26日まで全35話、制作:虫プロダクション)。 * [[乱歩奇譚 Game of Laplace]](フジテレビ系、2015年7月から9月まで) * [[TRICKSTER -江戸川乱歩「少年探偵団」より-]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]ほか、2016年10月から3月まで) * [[超・少年探偵団NEO]](TOKYO MXほか、2017年1月) == 派生作品 == === 乱歩が登場するフィクション === * 『目羅博士』など、一部の作品は「私が聞いたり見たりした話を元に書いた」という体裁を取っており<ref group="※">これは古典推理小説ではよくあることで、同時期の横溝正史作品などにもよく見られる。</ref>、聞き手として乱歩が出てくる。 * 『[[陰獣]]』:乱歩作。自身をパロディした作家「大江春泥」が登場。春泥の本名「平田一郎」<!--←実はこれも偽名だというのはおいといて-->も乱歩の本名「平井太郎」をもじっている。 * [[横溝正史]]『呪いの塔』1932年。上記『陰獣』をさらに捻った推理パロディ長編。意外性を狙っているため、乱歩に相当する人物は、親友の横溝以外には困難だったであろう遠慮会釈のない造形となっている。 * [[斎藤栄]]『乱歩幻想譜』1974年、のち双葉文庫。乱歩を主人公にして、作品世界と関連した事件に次々と遭遇する連作短編。 * [[加納一朗]]『浅草ロック殺人事件』1985年 - 乱歩をモデルとした探偵作家「香川幻夢」が登場。 * [[久世光彦]]『[[一九三四年冬―乱歩]]』初刊1993年、創元推理文庫、2013年(新版) - [[山本周五郎賞]]受賞。 * [[川田武]]『乱歩邸土蔵伝奇』光文社文庫、2002年 *『乱歩の幻影』[[日下三蔵]]編、ちくま文庫、1999年 *『江戸川乱歩に愛をこめて』[[ミステリー文学資料館]]編、光文社文庫、2011年 ;以下は小説以外 * 映画『[[RAMPO]]』1994年 - 乱歩役は[[竹中直人]]。 * 映画『[[まぼろし探偵#映画版|まぼろし探偵 地底人襲来]]』1960年 - 乱歩のパロディである作家「江戸山散歩」がキャラクターとして登場。 * 映画『[[シルバー假面]]』2006年 - 作家になる前の「平井太郎」として登場。 * 映画『[[ゴーストライターホテル]]』2012年 - 著名な作家たちが執筆のために宿泊したというホテル「本天堂」に現れる作家の霊の一体として。乱歩役は[[カンニング竹山]]。 * 舞台『[http://www.caramelbox.com/stage/santa2010/index.html サンタクロースが歌ってくれた]』([[演劇集団キャラメルボックス]]) - 作家になる前の「平井太郎」として劇中映画「ハイカラ探偵物語」に[[芥川龍之介]]と共に黒蜥蜴を追い詰める探偵役として登場し、スクリーンから飛び出した黒蜥蜴を追って芥川と共にスクリーンから飛び出す。太郎役は[[上川隆也]]と[[岡田達也]](2010年10日限定公演のみ)。 *テレビアニメ『[[啄木鳥探偵處]]』2020年 - 作家になる前の「平井太郎」として登場。 *漫画・テレビアニメ『[[文豪ストレイドッグス]]』2013年~ - 文豪をモチーフとしたキャラクターの一人として登場し、「超推理」の異能力を持つ<ref>[http://bungo-stray-dogs.jp/character/?character=edogawa-rampo 江戸川乱歩] テレビアニメ版文豪ストレイドッグス公式サイト(2022年5月5日閲覧)</ref>。 * テレビドラマ『[[探偵ロマンス]]』[[2023年]]。太郎役は[[濱田岳]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="※"/> === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == ※代表的な書目の一部で、品切・絶版も含んでいる。 :;図版本・入門書 *『新潮日本文学アルバム41 江戸川乱歩』[[鈴木貞美]]編、[[新潮社]]、1993年 *『江戸川乱歩アルバム』平井隆太郎・新保博久編、河出書房新社、1994年 *『江戸川乱歩』太陽編集部編、[[平凡社]]「コロナ・ブックス」、1998年 *『江戸川乱歩と少年探偵団』河出書房新社「らんぷの本」、2003年。堀江あき子編 *『怪人 江戸川乱歩のコレクション』新潮社「[[とんぼの本]]」、2017年。平井憲太郎(孫)・[[本多正一]]・[[近藤ようこ]]画ほか全5名 *『江戸川乱歩 日本探偵小説の父』[[戸川安宣]]監修、平凡社「別冊太陽 日本のこころ」、2023年。以上は図版案内 *[[小林信彦]]『回想の江戸川乱歩』メタローグ 1994年。のち[[文春文庫]]、[[光文社文庫]]で再刊 <!-- *[[仁賀克雄]]監修『江戸川乱歩99の謎-生誕百年・探偵小説の大御所』[[二見書房]]「二見wai wai文庫」、1994年11月 --> *[[中川右介]]『江戸川乱歩と横溝正史』[[集英社]]、2017年。[[集英社文庫]]、2020年 :;伝記研究 *[[中島河太郎]]『江戸川乱歩 評論と研究』[[講談社]] 1980年 - 乱歩研究の代表作 *中島河太郎責任編集『江戸川乱歩ワンダーランド』沖積舎 新版2003年 *[[平井隆太郎]]『うつし世の乱歩 父江戸川乱歩の憶い出』河出書房新社 2006年 *平井隆太郎『乱歩の軌跡 父の貼雑帖から』[[東京創元社]] 2008年 - 自作の年代記『貼雑年譜』([[講談社]]、新版2004年ほか)を読み込んだ評伝。 *[[新保博久]]・[[山前譲]]編『江戸川乱歩 日本探偵小説事典』河出書房新社 1996年 :;作品研究 *『新文芸読本 江戸川乱歩』河出書房新社、1992年 *『江戸川乱歩 誰もが憧れた少年探偵団』[[河出書房新社]]「[[KAWADE夢ムック]]」2003年 *『江戸川乱歩と大衆の二十世紀』[[藤井淑禎]]編「[[国文学 解釈と鑑賞]] 別冊」[[至文堂]] 2003年 <!-- *『[[幻想文学 (雑誌)|幻想文学]]42号 RAMPOMANIA』幻想文学出版局、1994年10月 *『ユリイカ 詩と批評 特集 江戸川乱歩 没後五〇年』2015年8月号、[[青土社]]。各・総特集ではなく、残念ながらコメントアウト--> *『江戸川乱歩徹底追跡』[[志村有弘]]編、[[勉誠出版]]、2009年 *『江戸川乱歩新世紀 越境する探偵小説』([[石川巧]]・落合教幸・[[金子明雄]]・[[川崎賢子]]編)ひつじ書房、2019年 :;書誌研究 *平井隆太郎監修・[[中相作]]編『江戸川乱歩著書目録』【江戸川乱歩リファレンスブック3】、名張市立図書館、2003年3月 [http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED1/E01-pr1.html](1は『乱歩文献データブック』、2は『江戸川乱歩執筆年譜』)。 *『幻影の蔵 江戸川乱歩探偵小説蔵書目録』新保博久 山前譲編、[[東京書籍]] [[CD-ROM]]1枚付 2002年 *『江戸川乱歩小説キーワード辞典』平山雄一、新保・山前編、東京書籍 CD-ROM1枚付 2007年 *『江戸川乱歩大事典』勉誠出版、2021年。落合教幸・[[阪本博志]]・[[藤井淑禎]]・[[渡辺憲司 (日本文学者)|渡辺憲司]] 編集委員 == 関連項目 == {{Commonscat|Edogawa Ranpo}} {{Wikisource|作者:江戸川乱歩}} {{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:P sci-fi.png|34px|Project:スペキュレイティブ・フィクション]]}} *[[光石介太郎]] - 一時期、乱歩の弟子のような立場にあった小説家。『新青年』に乱歩の文体模写小説「類人鬼」を発表している。 *[[J・B・ハリス]] - 乱歩の最初の英訳単行本の翻訳を担当。 *[[美輪明宏]] - [[三島由紀夫]]脚色の舞台[[黒蜥蜴]]はライフワーク。 *[[杉原千畝]] - [[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]に[[ホロコースト|迫害されたユダヤ人]]を大勢救った外交官。乱歩とは高校、大学ともに同窓。 *[[岩田準一]] - [[竹久夢二]]の弟子。乱歩の風俗研究における同好の友だったとされている。乱歩が鳥羽造船所に勤めていた時代に親交を深めた。 *[[江戸川乱歩賞]] *[[鈴鹿ポイントゲッターズ|FC鈴鹿ランポーレ]] - 三重県[[鈴鹿市]]を本拠地とするサッカークラブ。前身は名張市を本拠地にした三重FCランポーレ。同市出身の乱歩の名前にちなんで命名。 *[[ランポーレ三重]] - [[名張市]]を本拠地とするバスケットボールクラブ。 *[[乱歩 (小惑星)]] *[[ワセダミステリクラブ]] - 乱歩が初代顧問を務めた。 *[[岡戸武平]] - 昭和7年刊の乱歩名義作品『蠢く触手』([[新潮社]]『新作探偵小説全集』所収)を代作した。 *[[渡辺温]] - 兄の[[渡辺啓助]]とともに江戸川乱歩の代りに、改造社世界大衆文学全集第30巻の『ポー、ホフマン集』(1929年刊)のポーの部門を翻訳する。 *[[シンフォニアテクノロジー]] - 旧鳥羽造船所電機部。乱歩が創刊した社内誌は現在も発行されている。 *[[乱歩せんべい「二銭銅貨」]] - 江戸川乱歩が元になった[[菓子]] *[[名探偵コナン]] - 主人公「[[江戸川コナン]]」の名前の元となっている。 == 外部リンク == *{{青空文庫著作者|1779|江戸川 乱歩}} *{{Wayback|url=http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/e/ee004/ee004p01.htm |title=早稲田と文学(江戸川乱歩) |date=20080518031944}} - [[早稲田大学]] *[https://www.rikkyo.ac.jp/campuslife/facilities/ikebukuro/edogawaranpo.html 旧江戸川乱歩邸] | [[立教大学]] **{{twitter|Rikkyo_Rampo}}(旧・江戸川乱歩邸 大衆文化研究センター)公式アカウント *[http://www.city.nabari.lg.jp/s061/060/050/010/201502051935.html 江戸川乱歩] - [[名張市|名張市役所]] *[http://rampomuseum.com/ 江戸川乱歩館【公式ホームページ】~鳥羽みなとまち文学館~] *江戸川乱歩を歩く- 東京紅団 - [http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo1.htm 名張編]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo2.htm 亀山・津編]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo3.htm 名古屋編]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo4.htm 東京編 -1・2-]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo5.htm 大阪編]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo6.htm 鳥羽編]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo7.htm 東京編 -3-]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo8.htm 東京編 -4-]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo9.htm 東京編 -5-]・[http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo11.htm 江戸川乱歩と団子坂(文京区千駄木)] *{{IMDb name|0708835}} *{{Japanese-cinema-db name|staff}} *{{Allcinema name|113382}} *{{Eiren name|3}} *{{Kinejun name|99808}} *{{JMDb name|0106040}} {{江戸川乱歩}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えとかわ らんほ}} [[Category:江戸川乱歩|*]] [[Category:19世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:SFに関連する人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:愛知県立瑞陵高等学校出身の人物]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:勲三等瑞宝章受章者]] [[Category:日本推理作家協会賞受賞者]] [[Category:宝石 (雑誌)]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:パーキンソン病の人物]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] [[Category:1894年生]] [[Category:1965年没]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
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PCエンジン
PCエンジン(PC Engine)は、ハドソンと日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス、以下NEC-HE)により共同開発され、1987年10月30日にNEC HEから発売されたHE-SYSTEM規格に基づく家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。 任天堂のファミリーコンピュータが発売され数年が経過し、ハドソン社内におけるより高性能のハードウェアを望む声から開発が始まった。同時期に日本電気(NEC)社内において計画されていたCD-ROM機開発の思惑と合致したため、ハドソンとNEC-HEとの共同開発により市場に投入されたゲーム機である。 北米市場ではTurboGrafx-16(ターボグラフィックス16)の商品名で発売され、NECの米国法人から販売された。HE-SYSTEMの北米仕様であり、HE-SYSTEMのロゴだけは使用している。 発売当初はファミリーコンピュータやセガ・マークIIIと競合し、後にスーパーファミコンやメガドライブとも競合した。トップシェアを占めることはなかったが、世界累計販売台数1,000万台を記録している。 1987年に設立されたNECアベニューがゲームソフトの開発と販売を行っている(NEC-HEはハードウェア製造メーカーだった)。また、ハドソンが初期のラインナップを充実させている。この時期ファミコンソフトの製造での優遇措置停止で任天堂とのトラブルになっていたナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)が参入。ハドソン・NECアベニューと共に初期の三本柱に、参入社数過多により飽和状態になっていたファミコン市場から新たな市場を求めたサードパーティがPCエンジンへと参入した、タイトー・アイレム・データイースト・日本物産などが参入。一方でカプコンやコンパイルなどはソフトのOEM供給などをしていたが、参入して自社ブランドで販売することはなかった。 これらサードパーティの参加もあり、ファミコンでは実現が難しかったアーケードゲームが移植された。 1988年11月にCD-ROMを発売。CD-ROMは1989年の『天外魔境 ZIRIA』『イースI・II』、1990年の『スーパーダライアス』といったキラーソフトの登場により普及が加速していった。 1989年末にはテレビへの出力端子を従来のRF端子からAV端子に変更して色はダークグレーになり、コントローラーのI・IIボタンに連射機能が搭載されたものに変わったPCエンジンコアグラフィックス、拡張バスを削除してCD-ROMや天の声などは繋げなくHuカードのみ専用にした廉価版 のPCエンジンシャトル、Hu6270を2個に増量しVRAMを2倍、メインメモリを4倍に強化したPCエンジンスーパーグラフィックス、本体の拡張バスから繋ぎPCエンジンを使って画面に絵を描け、アーティストツールで印刷をすることも可能なプリント&イラストブースタという4種類のハードを発売している。 1991年6月にコアグラフィックスと性能は同じだが、価格を5000円ダウンさせたコアグラフィックスIIが19800円で発売された。ハードの色はSUPER CD-ROMシステムと同色となる。12月にSUPER CD-ROMを発売している。またこの時期にコナミ(ブランド名は『KONAMI』、その後ゲーム事業はコナミデジタルエンタテインメントへ移管)も参入し、NEC HEも日本市場(それまで当社は米国市場のみでゲームソフトを発売する程度だった)でゲームソフトを販売するようになり、後期以降の主要ソフトメーカーにまで発展した。 翌1992年3月にはCD-ROMが100万台を突破し、ソフト供給はCD-ROM中心になる。この時期にPCエンジンの主力メディアはHuカードからCD-ROMへ移行が進み、本体もPCエンジンDuoシリーズが主力になっていった。しかしながらHuカードもコンパクトサイズハードであるPCエンジンGT、PCエンジンLTなどで依然として意義はあり、供給を継続していた。国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていたとする調査結果が雑誌に掲載された。この時期に『天外魔境II』『スナッチャー』といったSUPER CD-ROMを代表するキラーソフトが発売されている。CD-ROMの普及に伴い、日本ファルコム・アートディンク・システムソフト・リバーヒルソフト・ブレイングレイ・マイクロキャビン・コーエー(現:コーエーテクモゲームス)・日本テレネットといったPCゲームのソフトハウスが参入した。 1994年春にはアーケードカードが発売。RAMは18 Mbitへ増強され、ネオジオで人気を博していた『餓狼伝説2』『龍虎の拳』が目玉ソフトとして発売された。同年末にはPCエンジンの次世代機PC-FXが発売され、それ以降もPCエンジンの市場は継続されたが、1999年6月にメッセサンオーとソフマップ専売で発売された『デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2』を最後に、ソフトの供給は終了した。 北米ではNECホームエレクトロニクスの現地法人により「Turbografx-16」の名称で1989年5月23日に発表、同年8月29日にニューヨークとロサンゼルスでテスト販売が開始された。価格はTurboPad1個とTurboChip(HuCARDの海外名称)のソフト「Keith Courage in Alpha Zones(魔神英雄伝ワタル)」が付属して$199.99。他に「Alien Crush」「The Legendary Axe(魔境伝説)」「Victory Run」がロンチタイトルとして発売された。一方でメガドライブの北米版である「Sega Genesis」も二週間前にテスト販売を開始しており、ほぼ同時に市場投入される形になった。日本のCD-ROM2に該当する「Turbografx-CD」も同年12月に$399.99で発売された。CD-ROMドライブとインターフェースユニットのセットでとバンドルソフトは無く、ロンチタイトルとして「Fighting Street」「Monster Lair(ワンダーボーイIII モンスター・レアー)」の2本がリリースされた。 1992年4月より、取り扱いがNECテクノロジー社とハドソンの共同出資であるターボ・テクノロジー社に変更され、そのキャンペーンとして発売予定のTurboDuo(価格$299.99)に250ドル相当の特典(Ys Book I & II、Bonk's Adventure(PC原人)、Bonk's Revenge(PC原人2)、Gate of Thunder、Dungeon Explorer、専門誌『TURBO FORCE』、$5×10枚のソフト購入割引クーポン)を添付させる「Add $250 Value」を実施。また1992年のサマーCESに合わせてTurboGrafx-16の本体価格が$69.99、Turbografx-CDの価格が$149.99にそれぞれに引き下げられた。TurboDuo発売後、既存のTurboGrafx-CDユーザ向けにスーパーシステムカードと3-in-1 CD(Bonk's Adventure、Bonk's Revenge、Gate of Thunder)と$5×10枚のソフト購入割引クーポンをセットにしたバリューパックが$95で販売された。ちなみに旧来のシステムカードは起動画面がTurboGrafx-CDのロゴになっていたが、スーパーシステムカードは国内版と同じ「SUPER CD-ROM SYSTEM」の起動ロゴになっている。 TurboGrafx-16は参入業者が少なかったために、販売面で苦労した。またCD-ROMにあたるTurboGrafx-CD(HES-CDR-01 TurboGrafx-16と同時発売)やPCエンジンGTと同機能のTurboExpress(HES-EXP-01 1990年11月発売)、PCエンジンDuoと同機能のTurboDuo(HES-DUO-01 1992年10月発売)なども発売された。これらは日本ではCD-ROMのゲーム環境としてヒットしたがTurboGrafx-CD関連は1993年中には市場からほぼ淘汰された。晩年は慢性的なソフト不足を補うため国内向けのソフトを輸入販売し、PCエンジンのHuCARDのピンアサインをTurboGrafx-16向けに変換するアダプタも非公式に流通した。 また、北米においてはTurboGrafx-16を業務用ゲーム機として展開する計画も立てられていたが、こちらは業務用ゲーム機のメーカーの反発や、NECホームエレクトロニクスの北米法人内で業務用ゲーム機業界に詳しい者がいないことなどが原因で頓挫した。 欧州市場ではフランスを除いて正式販売は行われなかった。フランス版HE-SYSTEMは、当時日本で販売されていた本体をRGB仕様に改造したのみで、本体の形状や商品名称などは日本と同様PC Engineとなっていた。イギリスではNTSC出力のままの米国モデルがTelegames社より極少数販売された実績がある。 アジア市場では大韓民国でも発売され、韓国版HE-SYSTEMは、大宇電子がZemmix PC Shuttle(CPG-100)としてZemmixのラインナップの一部でPCエンジンシャトルを輸入し、その後はPCエンジンシャトル自体が生産を終了したということもあり、ヘテ電子からも『スーパーコン バイスター』の名称でハドソンとの共同開発によるオリジナルの本体で発売されていた(こちらもHE-SYSTEMのロゴだけは使用していた)。ただ、NEC-HEは一切関与していなかった。ソフトのラインナップは、基本的に日本や北米からHuカードのみを輸入し、パッケージを独自に制作したものだった。そのため、コナミのタイトル全般や、ドラえもんのゲームなど、北米で発売されていないタイトルも含まれていた。 なおTurboGrafx-16は本体の大きさが国内版に比べ横幅が倍になっているが、これは本体が小さくて価格が高いと割高感が出て敬遠されるという海外の消費者心理を考慮したためである。またCD-ROMユニットは本体後部に接続する形式を取っているが、CD-ROMユニットの大きさは国内版と同じのため、組み合わせると、さらに特異な形状(真上から見ると『凸』型)となる。 またTurboGrafx-16の名称はPCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及びSuper Nintendo Entertainment System(北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗する意味でつけられた。 当時、ハドソンの目指す高度な表現に対してファミコンやパソコンの「性能の限界が見えてきた」という状況に直面していた。この問題に対して「自分たちが欲しいものを自分たちの手で作り上げる」という目的でハドソン社長工藤浩をはじめとしたハドソン技術者たちが動き出した(ハドソンはシステム開発も行っており、また半導体技術者も擁していた)。ハドソン技術者の山村喜美夫は「ハードを作るという発想ではなく、ソフトを作る発想で開発が始まったんです。ハードメーカーがハードを作ってくれないなら、性能を上げるためのチップを作ってみようということになったわけです。最初から新しいハードを作ろうとしていたわけではなく、あくまでチップの開発だったんです」と語っている。 この時点ではビジネスのことは考えておらず、単純に「自分たちの夢を追いかけただけ」である。 しかし、半導体メーカーではないハドソン単体ではチップを作ることができない。開発者(岡田節男・山村喜美夫、他1名)が仕様書を書き、半導体メーカーに持ち込んでも「北海道から来た訳のわからない会社」では信用されない。NECを含む国内の主な半導体メーカーには断られた。 最後に訪問したセイコーエプソン(以下エプソン)で、ようやく工藤の話をまともに聞いてくれた。ここで工藤は「別に売るつもりはないから、とにかく一個作ってほしいんだ」「自分の机にファミコンより性能のいいゲーム機があればいいんです」という話をしている。対するエプソン担当者が開発には相当な額がかかると言うと、工藤は「お金はいくらでも用意します。何なら、いまここに積みますから」と返した。この時点で相手もあきれていたと後に工藤は言っている。 こうしてチップの開発はスタートした。ハドソン、エプソン双方のメンバーがほぼ同年代で、細かい点ではよく話し合って決めた部分もあるので山村は「一緒に作ったという感覚が強い」と証言している。そして完成したのが『Hu-7(工藤の証言より。山村の証言ではHu6270と呼んでいる)』と呼ばれるチップである(山村はHu6270の開発スタートが1985年春、Hu6270の完成のめどがつき、次の段階に進んだのが1985年末から1986年初め頃と証言している)。費用は2億円、数量として「1000個だか10000個だか(工藤の証言より)」が作られた。 (出典) 完成したHu-7(Hu6270)の画像処理能力はファミコンのCPUを上回る性能を見せ、独自の新ハードの野望を抱かせるようになった。 ハドソンは、これをまずシャープに持ち込んだ(「思ったよりもいいものができたというか、画像の処理能力なんかファミコンのCPUよりも数段いい。これを使って何かできるんじゃないかと思って、とりあえずパソコンの関係でおつき合いのあったシャープさんにそれを見せたわけです。そうしたら『これは商売になる!』というんで話が一気に盛り上がって...」と工藤は証言している)。結局シャープとは話がまとまらなかった。任天堂と協力関係にあり、それがネックになったといわれている。 次に工藤が向かったのがNECである。ここで幸運なことに「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていたんだ」という対応を受け、話がスムーズに進んでいった。 一方のNECも任天堂のファミコンの急速な普及に触発され、1983年末頃から後藤富雄を中心とした若手社員により、社内で「パソコン以外の何か」を作るための議論が続いていた。1985年に「記録メディアにCD-ROMを使ったゲーム機」という結果となった。目標価格を10万円以下に設定したが、ゲーム機用の安価なチップ(CPU)を内製化する設計力がNECには当時無かった。そのため計画が頓挫していた。NECの多部田俊雄も当時から家庭用のCD-ROMの企画書を提出していたが価格の問題があり却下されていた。 工藤が完成品のチップと一緒にNECを訪問したのはちょうどその頃で「PC-8801の後継機としてCD-ROMを搭載したマシンを作りたいNEC」と「スプライトに強いチップを売り込みたいハドソン」という二者の利害が一致した。 その後チップの開発とツール開発が同時進行して、チップはエプソン、製品化はNEC、Huカードは当時の三菱樹脂とハドソンが共同開発することでPCエンジンは誕生した。 (出典) 上記の通りNECからハドソンにもたらされたCD-ROM機開発計画であるが、PCエンジン発売後1年でCD-ROM本体として発売されることになった。当時パソコン用のCD-ROMドライブは本体接続用のインターフェースと合わせて25万円もしていたが、価格を5万7800円に落とすことで、家庭用ゲームへの採用を可能にした。搭載されたRAMの容量はメイン64KB、ADPCM用64KBだった。このため大きなデータを一度に取り込めず、凝った演出を行うために頻繁なロードが必要だったが、この問題点は後にスーパーCDROM、アーケードカードへとRAM容量が拡張されることで解決していった。 シークに片道で3秒、往復で最大6秒かかるため、複数のファイルをバラバラに読ませる、読み取り時にエラーが発生するなどの状況下では実用性に問題が出るほど時間がかかった。ゲームの進行などで一部のデータだけが変更される事象が起こった場合、差分をバラバラに読むのではなく「それらをひとまとめにしたファイルを進行毎に用意してシークをなるべくさせないで一度に読み込む」方式を採用した。データの二重保存と合わせてCD-ROM内でデータトラックが占める割合が大幅に増すことになったが、CD-ROM自体が大容量であったのでこのような対処が可能であった。 CD-ROMの発売以前、ハドソンの朝礼の時に中本伸一がCDを持ってきて「お前ら、この中にゲームが入るから」と発言したがハドソンの他の開発者たちは当時「CD=音楽CD」という知識しか無く、中本が何を言っているのか分からなかったという。このようにハドソン社内でも具体的な形になるまでは開発情報の公開に制限がかかっていたという話がある。 システムカードがバージョン2.0以降の物からはCD-G (CDグラフィック)に対応する様になり、カラオケ用の再生プレーヤーとしても利用が可能となった。 PCエンジンは「コア構想」という拡張思想を持ち、パーソナルコンピュータのようにコア(核)の役割を持たせ、様々な周辺機器を接続することでゲーム以外にも対応させる。いわば周辺機器のエンジンに見立たものであり「PCエンジン」の命名はここが由来である。そのためDUO系統を除く本体にはゲーム機としては最小限の機能しか無く、他社ゲーム機では標準装備もしくはカートリッジに内蔵されるような機能も別売りの周辺機器で補完していく必要があった。 構想の要であった拡張バスは初代PCエンジンから始まり、コアグラフィックス系統などの本体後部に標準装備されており、周辺機器の接続は主にこれを使う。多くの周辺機器が発売されたが、拡張バスを用いる機器は排他仕様であり、またLTやスーパーグラフィックスなどハードの形状が統一されておらず接続できない代物もあった。この問題を解決するために「周辺機器を接続するための周辺機器」も発売された。拡張バスは機能を追加するものであったが、性能を向上するためのものではなかったためPCエンジンをスーパーグラフィックス相当にする周辺機器は発売されず、専用ソフトをプレイするにはスーパーグラフィックス自体を別途購入する必要があった。 PCエンジン専門誌の一つ「マル勝PCエンジン」でも1989年10月号の116頁では天の声2をAV出力へ対応させるための改造記事を掲載したり、PCエンジンSGについて1989年12月でに記事を組んだものの19頁で「みんな自分のマシンが旧機種になってしまうという不安を感じているようだ。しかし価格設定や販売方針を考えると、この新機種が主流になることはまずないと言ってよさそうだ」と記載しており、ユーザーへの余計な出費をさせないような配慮も行っている。 NEC-HEとハドソンによって提唱された規格。ライセンス商品の証明としてPCエンジンに関連する本体とソフトウェアには必ずロゴが記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」はHome Entertainmentの略であり、『ホーム・エンターテイメント・システム』という意味である。 そのPCエンジンのブランドロゴはNECが販売する日本国内向けのHE-SYSTEMのハードで用いられているため、他社製品のレーザーアクティブに関しては、NECからもOEM供給することによってPCエンジンのロゴを使用できたのに対し、X1twinに関しては、NECの製品ではないが、ハドソンが開発に関与しているため、HE-SYSTEMのロゴだけを使用しており、PCエンジンのロゴは一切使用していない。 CD-ROM用のディスクをCDプレーヤーで再生した時の警告音声に関しては、標準メッセージからではあるが、「HE-SYSTEMのCD-ROMディスクです」と言っており、PCエンジンの名称は一言も発していない。これは、登場キャラクターが担当するタイトルも同様の措置である。 PCエンジンは時期によりパソコンのように拡張を繰り返し、1つのハードに2つの媒体で計5つの規格のソフトが流通した。 HuCARDのパッケージはCDアルバムの様な大きさ、太さのケースに収納されていて、ケースの背面にはメーカーシールのみのソフトも多数あり、どのようなゲームなのかが確認し難い要素があった。 Huカードにはバックアップ機能がなかったため、初期のソフトはゲーム再開時にパスワードを手動で入力する必要があった。 やがて天の声2やバックアップブースターなど周辺機器が発売されるとセーブデータ・バックアップが可能になった。1つで複数のソフトに対応する必要からファミコンなどのカートリッジ内蔵式のものよりは容量が大きい。CD-ROMが発売されると本体の機能として統合された。DUOの登場で拡張バスが廃止され、またゲームのデータの肥大化に伴いHuCARDスロットやコントローラーポートで接続する機器も発売された。 標準パッドは見た目を変えているものの、ボタンの配置と大きさはファミコンのIコンと同等のものとなっている。十字ボタンのみ形状が変更されており、ボタン類は名称が異なるものの、「START→RUN」「A/Bボタン→I/IIボタン」と位置関係上それぞれ対応している。PCエンジンコアグラフィックス以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されている。その後ボタン数(3/6ボタン仕様)を変えたものが発売されている。 また「RUNボタン」を押しながら「SELECTボタン」を押すことでリセットをかける機能が基本的にソフト側に搭載されている(『妖怪道中記』など、サードパーティー製のソフトでは例外的に「SELECT」→「RUN」でもリセットを行える場合がある)。この操作はマルチタップ経由でも可能なので、1プレイヤーのみが可能な機能には留まらない。 パッドは脱着式だが本体にはコントローラー端子が1つしか無く、2人以上の同時プレイには別売りのマルチタップを購入し、端子を増設する必要がある。マルチタップは5人用の他に、3人用・2人用等、ゲームの用途に合わせて発売されている。 コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売された。 NEC製 他社製 一般に多く流通したソフトを遊ぶにはSUPER CD-ROMが可動する環境があれば良いが、上記の通り本体および周辺機器共に多くのバリエーションが存在するため、システムの組み合わせパターンは数多い。分類すると下記のようになる。なお下記では、初代PCエンジン・PCエンジンコアグラフィックス・PCエンジンコアグラフィックスIIを合わせ「コアマシン」と称する。 発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。 映像出力方法はRF接続とRCA端子のみだが、拡張バスにはRGB出力が含まれている。電波新聞社は、ここからRGB信号を取り出すコネクターの発売を予定していたが企画倒れとなった ため、正規の方法でS端子やRGB端子への接続は出来ない。 ゲームソフトとして、HuCARDメディアのローンチタイトルは『上海』と『ビックリマンワールド』である。またHuCARDメディアでの最後のタイトルは1994年12月16日発売の『21エモン めざせホテル王』である。 またゲームソフト以外にも事典やカラオケソフトが発売された。 1987年に発売された本機は初年度で60万台を出荷し、任天堂のファミリーコンピュータが独占状態であった国内家庭用ゲーム機市場では任天堂に次ぐ2番手となった。 1987年当時の家庭用ゲーム機の常識を覆す高速・高性能であり、任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた。1990年代前半の日本市場において、PCエンジンの周辺機器であるCD-ROM(シーディーロムロム)は最も普及していたCD-ROMゲーム機である。 その他ファミリーコンピュータとは異なる以下の点が評価されている。 メディア展開としてテレビの専門番組にハドソンが提供・協力、一部は日本電気ホームエレクトロニクスも提供をしている。それに加え広報の一つとしてPCエンジン発売に合わせファミコンソフトのイベントだったハドソン全国キャラバンの課題ゲームをPCエンジン用に切り替えており、『コロコロコミック』のタイアップ記事やさくまあきらが担当した『週刊少年ジャンプ』の読者コーナーなど、影響下にあるメディアでPCエンジンの話題を多く取り上げた。 また富士見ファンタジア文庫から1990年2月に刊行された『悪の江ノ島大決戦』(とまとあき・塚本裕美子著)では、当時発売直後のシャトルやスーパーグラフィックスなどが作中のアイテムとして登場し、ゲーム機本体とライトノベルという、タイアップが行われた。 本機の製造終了後には実機を使用せずにゲームを遊べる環境を各社が提供している。 2019年には、ゲームソフトを内蔵した小型復刻版「PCエンジン mini」の販売が、コナミデジタルエンタテインメント(KDE)より正式発表され、2020年3月19日に発売された。 58本のゲームがプリインストールソフトとして収録されている。また、北米市場向けに「TurboGrafx-16 mini」、欧州市場向けに「PC Engine CoreGrafx mini」がリリースされている。
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}, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "北米ではNECホームエレクトロニクスの現地法人により「Turbografx-16」の名称で1989年5月23日に発表、同年8月29日にニューヨークとロサンゼルスでテスト販売が開始された。価格はTurboPad1個とTurboChip(HuCARDの海外名称)のソフト「Keith Courage in Alpha Zones(魔神英雄伝ワタル)」が付属して$199.99。他に「Alien Crush」「The Legendary Axe(魔境伝説)」「Victory Run」がロンチタイトルとして発売された。一方でメガドライブの北米版である「Sega Genesis」も二週間前にテスト販売を開始しており、ほぼ同時に市場投入される形になった。日本のCD-ROM2に該当する「Turbografx-CD」も同年12月に$399.99で発売された。CD-ROMドライブとインターフェースユニットのセットでとバンドルソフトは無く、ロンチタイトルとして「Fighting Street」「Monster Lair(ワンダーボーイIII モンスター・レアー)」の2本がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1992年4月より、取り扱いがNECテクノロジー社とハドソンの共同出資であるターボ・テクノロジー社に変更され、そのキャンペーンとして発売予定のTurboDuo(価格$299.99)に250ドル相当の特典(Ys Book I & II、Bonk's Adventure(PC原人)、Bonk's Revenge(PC原人2)、Gate of Thunder、Dungeon Explorer、専門誌『TURBO FORCE』、$5×10枚のソフト購入割引クーポン)を添付させる「Add $250 Value」を実施。また1992年のサマーCESに合わせてTurboGrafx-16の本体価格が$69.99、Turbografx-CDの価格が$149.99にそれぞれに引き下げられた。TurboDuo発売後、既存のTurboGrafx-CDユーザ向けにスーパーシステムカードと3-in-1 CD(Bonk's Adventure、Bonk's Revenge、Gate of Thunder)と$5×10枚のソフト購入割引クーポンをセットにしたバリューパックが$95で販売された。ちなみに旧来のシステムカードは起動画面がTurboGrafx-CDのロゴになっていたが、スーパーシステムカードは国内版と同じ「SUPER CD-ROM SYSTEM」の起動ロゴになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "TurboGrafx-16は参入業者が少なかったために、販売面で苦労した。またCD-ROMにあたるTurboGrafx-CD(HES-CDR-01 TurboGrafx-16と同時発売)やPCエンジンGTと同機能のTurboExpress(HES-EXP-01 1990年11月発売)、PCエンジンDuoと同機能のTurboDuo(HES-DUO-01 1992年10月発売)なども発売された。これらは日本ではCD-ROMのゲーム環境としてヒットしたがTurboGrafx-CD関連は1993年中には市場からほぼ淘汰された。晩年は慢性的なソフト不足を補うため国内向けのソフトを輸入販売し、PCエンジンのHuCARDのピンアサインをTurboGrafx-16向けに変換するアダプタも非公式に流通した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、北米においてはTurboGrafx-16を業務用ゲーム機として展開する計画も立てられていたが、こちらは業務用ゲーム機のメーカーの反発や、NECホームエレクトロニクスの北米法人内で業務用ゲーム機業界に詳しい者がいないことなどが原因で頓挫した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "欧州市場ではフランスを除いて正式販売は行われなかった。フランス版HE-SYSTEMは、当時日本で販売されていた本体をRGB仕様に改造したのみで、本体の形状や商品名称などは日本と同様PC Engineとなっていた。イギリスではNTSC出力のままの米国モデルがTelegames社より極少数販売された実績がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アジア市場では大韓民国でも発売され、韓国版HE-SYSTEMは、大宇電子がZemmix PC Shuttle(CPG-100)としてZemmixのラインナップの一部でPCエンジンシャトルを輸入し、その後はPCエンジンシャトル自体が生産を終了したということもあり、ヘテ電子からも『スーパーコン バイスター』の名称でハドソンとの共同開発によるオリジナルの本体で発売されていた(こちらもHE-SYSTEMのロゴだけは使用していた)。ただ、NEC-HEは一切関与していなかった。ソフトのラインナップは、基本的に日本や北米からHuカードのみを輸入し、パッケージを独自に制作したものだった。そのため、コナミのタイトル全般や、ドラえもんのゲームなど、北米で発売されていないタイトルも含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なおTurboGrafx-16は本体の大きさが国内版に比べ横幅が倍になっているが、これは本体が小さくて価格が高いと割高感が出て敬遠されるという海外の消費者心理を考慮したためである。またCD-ROMユニットは本体後部に接続する形式を取っているが、CD-ROMユニットの大きさは国内版と同じのため、組み合わせると、さらに特異な形状(真上から見ると『凸』型)となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "またTurboGrafx-16の名称はPCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及びSuper Nintendo Entertainment System(北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗する意味でつけられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当時、ハドソンの目指す高度な表現に対してファミコンやパソコンの「性能の限界が見えてきた」という状況に直面していた。この問題に対して「自分たちが欲しいものを自分たちの手で作り上げる」という目的でハドソン社長工藤浩をはじめとしたハドソン技術者たちが動き出した(ハドソンはシステム開発も行っており、また半導体技術者も擁していた)。ハドソン技術者の山村喜美夫は「ハードを作るという発想ではなく、ソフトを作る発想で開発が始まったんです。ハードメーカーがハードを作ってくれないなら、性能を上げるためのチップを作ってみようということになったわけです。最初から新しいハードを作ろうとしていたわけではなく、あくまでチップの開発だったんです」と語っている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この時点ではビジネスのことは考えておらず、単純に「自分たちの夢を追いかけただけ」である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、半導体メーカーではないハドソン単体ではチップを作ることができない。開発者(岡田節男・山村喜美夫、他1名)が仕様書を書き、半導体メーカーに持ち込んでも「北海道から来た訳のわからない会社」では信用されない。NECを含む国内の主な半導体メーカーには断られた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "最後に訪問したセイコーエプソン(以下エプソン)で、ようやく工藤の話をまともに聞いてくれた。ここで工藤は「別に売るつもりはないから、とにかく一個作ってほしいんだ」「自分の机にファミコンより性能のいいゲーム機があればいいんです」という話をしている。対するエプソン担当者が開発には相当な額がかかると言うと、工藤は「お金はいくらでも用意します。何なら、いまここに積みますから」と返した。この時点で相手もあきれていたと後に工藤は言っている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "こうしてチップの開発はスタートした。ハドソン、エプソン双方のメンバーがほぼ同年代で、細かい点ではよく話し合って決めた部分もあるので山村は「一緒に作ったという感覚が強い」と証言している。そして完成したのが『Hu-7(工藤の証言より。山村の証言ではHu6270と呼んでいる)』と呼ばれるチップである(山村はHu6270の開発スタートが1985年春、Hu6270の完成のめどがつき、次の段階に進んだのが1985年末から1986年初め頃と証言している)。費用は2億円、数量として「1000個だか10000個だか(工藤の証言より)」が作られた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(出典)", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "完成したHu-7(Hu6270)の画像処理能力はファミコンのCPUを上回る性能を見せ、独自の新ハードの野望を抱かせるようになった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ハドソンは、これをまずシャープに持ち込んだ(「思ったよりもいいものができたというか、画像の処理能力なんかファミコンのCPUよりも数段いい。これを使って何かできるんじゃないかと思って、とりあえずパソコンの関係でおつき合いのあったシャープさんにそれを見せたわけです。そうしたら『これは商売になる!』というんで話が一気に盛り上がって...」と工藤は証言している)。結局シャープとは話がまとまらなかった。任天堂と協力関係にあり、それがネックになったといわれている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "次に工藤が向かったのがNECである。ここで幸運なことに「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていたんだ」という対応を受け、話がスムーズに進んでいった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方のNECも任天堂のファミコンの急速な普及に触発され、1983年末頃から後藤富雄を中心とした若手社員により、社内で「パソコン以外の何か」を作るための議論が続いていた。1985年に「記録メディアにCD-ROMを使ったゲーム機」という結果となった。目標価格を10万円以下に設定したが、ゲーム機用の安価なチップ(CPU)を内製化する設計力がNECには当時無かった。そのため計画が頓挫していた。NECの多部田俊雄も当時から家庭用のCD-ROMの企画書を提出していたが価格の問題があり却下されていた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "工藤が完成品のチップと一緒にNECを訪問したのはちょうどその頃で「PC-8801の後継機としてCD-ROMを搭載したマシンを作りたいNEC」と「スプライトに強いチップを売り込みたいハドソン」という二者の利害が一致した。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その後チップの開発とツール開発が同時進行して、チップはエプソン、製品化はNEC、Huカードは当時の三菱樹脂とハドソンが共同開発することでPCエンジンは誕生した。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "(出典)", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "上記の通りNECからハドソンにもたらされたCD-ROM機開発計画であるが、PCエンジン発売後1年でCD-ROM本体として発売されることになった。当時パソコン用のCD-ROMドライブは本体接続用のインターフェースと合わせて25万円もしていたが、価格を5万7800円に落とすことで、家庭用ゲームへの採用を可能にした。搭載されたRAMの容量はメイン64KB、ADPCM用64KBだった。このため大きなデータを一度に取り込めず、凝った演出を行うために頻繁なロードが必要だったが、この問題点は後にスーパーCDROM、アーケードカードへとRAM容量が拡張されることで解決していった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シークに片道で3秒、往復で最大6秒かかるため、複数のファイルをバラバラに読ませる、読み取り時にエラーが発生するなどの状況下では実用性に問題が出るほど時間がかかった。ゲームの進行などで一部のデータだけが変更される事象が起こった場合、差分をバラバラに読むのではなく「それらをひとまとめにしたファイルを進行毎に用意してシークをなるべくさせないで一度に読み込む」方式を採用した。データの二重保存と合わせてCD-ROM内でデータトラックが占める割合が大幅に増すことになったが、CD-ROM自体が大容量であったのでこのような対処が可能であった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "CD-ROMの発売以前、ハドソンの朝礼の時に中本伸一がCDを持ってきて「お前ら、この中にゲームが入るから」と発言したがハドソンの他の開発者たちは当時「CD=音楽CD」という知識しか無く、中本が何を言っているのか分からなかったという。このようにハドソン社内でも具体的な形になるまでは開発情報の公開に制限がかかっていたという話がある。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "システムカードがバージョン2.0以降の物からはCD-G (CDグラフィック)に対応する様になり、カラオケ用の再生プレーヤーとしても利用が可能となった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "PCエンジンは「コア構想」という拡張思想を持ち、パーソナルコンピュータのようにコア(核)の役割を持たせ、様々な周辺機器を接続することでゲーム以外にも対応させる。いわば周辺機器のエンジンに見立たものであり「PCエンジン」の命名はここが由来である。そのためDUO系統を除く本体にはゲーム機としては最小限の機能しか無く、他社ゲーム機では標準装備もしくはカートリッジに内蔵されるような機能も別売りの周辺機器で補完していく必要があった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "構想の要であった拡張バスは初代PCエンジンから始まり、コアグラフィックス系統などの本体後部に標準装備されており、周辺機器の接続は主にこれを使う。多くの周辺機器が発売されたが、拡張バスを用いる機器は排他仕様であり、またLTやスーパーグラフィックスなどハードの形状が統一されておらず接続できない代物もあった。この問題を解決するために「周辺機器を接続するための周辺機器」も発売された。拡張バスは機能を追加するものであったが、性能を向上するためのものではなかったためPCエンジンをスーパーグラフィックス相当にする周辺機器は発売されず、専用ソフトをプレイするにはスーパーグラフィックス自体を別途購入する必要があった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "PCエンジン専門誌の一つ「マル勝PCエンジン」でも1989年10月号の116頁では天の声2をAV出力へ対応させるための改造記事を掲載したり、PCエンジンSGについて1989年12月でに記事を組んだものの19頁で「みんな自分のマシンが旧機種になってしまうという不安を感じているようだ。しかし価格設定や販売方針を考えると、この新機種が主流になることはまずないと言ってよさそうだ」と記載しており、ユーザーへの余計な出費をさせないような配慮も行っている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "NEC-HEとハドソンによって提唱された規格。ライセンス商品の証明としてPCエンジンに関連する本体とソフトウェアには必ずロゴが記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」はHome Entertainmentの略であり、『ホーム・エンターテイメント・システム』という意味である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "そのPCエンジンのブランドロゴはNECが販売する日本国内向けのHE-SYSTEMのハードで用いられているため、他社製品のレーザーアクティブに関しては、NECからもOEM供給することによってPCエンジンのロゴを使用できたのに対し、X1twinに関しては、NECの製品ではないが、ハドソンが開発に関与しているため、HE-SYSTEMのロゴだけを使用しており、PCエンジンのロゴは一切使用していない。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "CD-ROM用のディスクをCDプレーヤーで再生した時の警告音声に関しては、標準メッセージからではあるが、「HE-SYSTEMのCD-ROMディスクです」と言っており、PCエンジンの名称は一言も発していない。これは、登場キャラクターが担当するタイトルも同様の措置である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "PCエンジンは時期によりパソコンのように拡張を繰り返し、1つのハードに2つの媒体で計5つの規格のソフトが流通した。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "HuCARDのパッケージはCDアルバムの様な大きさ、太さのケースに収納されていて、ケースの背面にはメーカーシールのみのソフトも多数あり、どのようなゲームなのかが確認し難い要素があった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "Huカードにはバックアップ機能がなかったため、初期のソフトはゲーム再開時にパスワードを手動で入力する必要があった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "やがて天の声2やバックアップブースターなど周辺機器が発売されるとセーブデータ・バックアップが可能になった。1つで複数のソフトに対応する必要からファミコンなどのカートリッジ内蔵式のものよりは容量が大きい。CD-ROMが発売されると本体の機能として統合された。DUOの登場で拡張バスが廃止され、またゲームのデータの肥大化に伴いHuCARDスロットやコントローラーポートで接続する機器も発売された。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "標準パッドは見た目を変えているものの、ボタンの配置と大きさはファミコンのIコンと同等のものとなっている。十字ボタンのみ形状が変更されており、ボタン類は名称が異なるものの、「START→RUN」「A/Bボタン→I/IIボタン」と位置関係上それぞれ対応している。PCエンジンコアグラフィックス以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されている。その後ボタン数(3/6ボタン仕様)を変えたものが発売されている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また「RUNボタン」を押しながら「SELECTボタン」を押すことでリセットをかける機能が基本的にソフト側に搭載されている(『妖怪道中記』など、サードパーティー製のソフトでは例外的に「SELECT」→「RUN」でもリセットを行える場合がある)。この操作はマルチタップ経由でも可能なので、1プレイヤーのみが可能な機能には留まらない。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "パッドは脱着式だが本体にはコントローラー端子が1つしか無く、2人以上の同時プレイには別売りのマルチタップを購入し、端子を増設する必要がある。マルチタップは5人用の他に、3人用・2人用等、ゲームの用途に合わせて発売されている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "NEC製", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "他社製", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "一般に多く流通したソフトを遊ぶにはSUPER CD-ROMが可動する環境があれば良いが、上記の通り本体および周辺機器共に多くのバリエーションが存在するため、システムの組み合わせパターンは数多い。分類すると下記のようになる。なお下記では、初代PCエンジン・PCエンジンコアグラフィックス・PCエンジンコアグラフィックスIIを合わせ「コアマシン」と称する。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "映像出力方法はRF接続とRCA端子のみだが、拡張バスにはRGB出力が含まれている。電波新聞社は、ここからRGB信号を取り出すコネクターの発売を予定していたが企画倒れとなった ため、正規の方法でS端子やRGB端子への接続は出来ない。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゲームソフトとして、HuCARDメディアのローンチタイトルは『上海』と『ビックリマンワールド』である。またHuCARDメディアでの最後のタイトルは1994年12月16日発売の『21エモン めざせホテル王』である。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "またゲームソフト以外にも事典やカラオケソフトが発売された。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1987年に発売された本機は初年度で60万台を出荷し、任天堂のファミリーコンピュータが独占状態であった国内家庭用ゲーム機市場では任天堂に次ぐ2番手となった。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1987年当時の家庭用ゲーム機の常識を覆す高速・高性能であり、任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた。1990年代前半の日本市場において、PCエンジンの周辺機器であるCD-ROM(シーディーロムロム)は最も普及していたCD-ROMゲーム機である。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その他ファミリーコンピュータとは異なる以下の点が評価されている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "メディア展開としてテレビの専門番組にハドソンが提供・協力、一部は日本電気ホームエレクトロニクスも提供をしている。それに加え広報の一つとしてPCエンジン発売に合わせファミコンソフトのイベントだったハドソン全国キャラバンの課題ゲームをPCエンジン用に切り替えており、『コロコロコミック』のタイアップ記事やさくまあきらが担当した『週刊少年ジャンプ』の読者コーナーなど、影響下にあるメディアでPCエンジンの話題を多く取り上げた。", "title": "広告" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また富士見ファンタジア文庫から1990年2月に刊行された『悪の江ノ島大決戦』(とまとあき・塚本裕美子著)では、当時発売直後のシャトルやスーパーグラフィックスなどが作中のアイテムとして登場し、ゲーム機本体とライトノベルという、タイアップが行われた。", "title": "広告" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "本機の製造終了後には実機を使用せずにゲームを遊べる環境を各社が提供している。", "title": "販売終了後の展開" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年には、ゲームソフトを内蔵した小型復刻版「PCエンジン mini」の販売が、コナミデジタルエンタテインメント(KDE)より正式発表され、2020年3月19日に発売された。", "title": "販売終了後の展開" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "58本のゲームがプリインストールソフトとして収録されている。また、北米市場向けに「TurboGrafx-16 mini」、欧州市場向けに「PC Engine CoreGrafx mini」がリリースされている。", "title": "販売終了後の展開" } ]
PCエンジンは、ハドソンと日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス、以下NEC-HE)により共同開発され、1987年10月30日にNEC HEから発売されたHE-SYSTEM規格に基づく家庭用ゲーム機。当時のメーカー希望小売価格は24,800円。 任天堂のファミリーコンピュータが発売され数年が経過し、ハドソン社内におけるより高性能のハードウェアを望む声から開発が始まった。同時期に日本電気(NEC)社内において計画されていたCD-ROM機開発の思惑と合致したため、ハドソンとNEC-HEとの共同開発により市場に投入されたゲーム機である。 北米市場ではTurboGrafx-16(ターボグラフィックス16)の商品名で発売され、NECの米国法人から販売された。HE-SYSTEMの北米仕様であり、HE-SYSTEMのロゴだけは使用している。 発売当初はファミリーコンピュータやセガ・マークIIIと競合し、後にスーパーファミコンやメガドライブとも競合した。トップシェアを占めることはなかったが、世界累計販売台数1,000万台を記録している。
{{otheruses|家庭用据置型ゲーム専用機の「PCエンジン」|舶用・発電用4サイクル中速ディーゼルエンジンの「PCエンジン」|JFEエンジニアリング|パーソナルコンピュータPC-88VAシリーズ用OSの「PC-Engine」|PC-8800シリーズ}} {{画像提供依頼|PC-KD863G|date=2007年6月|cat=製品}} {{Infobox コンシューマーゲーム機 |名称 = PCエンジン<br />TurboGrafx-16 |ロゴ = [[File:PC engine logo.png|200px]] |画像 = [[ファイル:PC-Engine-Console-Set.png|300px]] |画像コメント = PCエンジン |メーカー = [[ハドソン]](開発)<br />[[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]](開発・販売) |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機|第4世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1987年]][[10月30日]]<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon|CAN}} [[1989年]][[8月29日]]<br />{{Flagicon|FRA}} 1989年[[11月22日]]<br />{{Flagicon|KOR}} 1989年<br />{{Flagicon|EU}} [[1990年]] |CPU = [[HuC62|HuC6280]]<br />([[MOS 6502]]ベース) |GPU = [[HuC62|HuC6260 + HuC6270]] |メディア = [[HuCARD]]<br />[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]<br />[[アーケードカード]] |ストレージ = 天の声2<br>バックアップブースター<br>バックアップブースターII<br>天の声BANK<br>メモリーベース128 |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = |売上台数 = '''PCエンジンシリーズ'''<br />{{Flagicon|JPN}} 590万台<br 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[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]が発売され数年が経過し、[[ハドソン]]社内におけるより高性能の[[ハードウェア]]を望む声から開発が始まった。同時期に[[日本電気]](NEC)社内において計画されていたCD-ROM機開発の思惑と合致したため、ハドソンとNEC-HEとの共同開発により市場に投入されたゲーム機である{{Efn|NECはチップ単位では任天堂や[[エポック社]]の[[スーパーカセットビジョン]]や[[カシオ]]の[[PV-1000]]への供給を行っていたものの、完成品としてのコンシューマゲーム機としては[[NECグループ]]では初参入である。}}。 [[北アメリカ|北米市場]]では'''[[w:TurboGrafx-16|TurboGrafx-16]]'''(ターボグラフィックス16)の商品名で発売され、[[w:NEC Corporation of America|NECの米国法人]]から販売された。HE-SYSTEMの北米仕様であり、HE-SYSTEMのロゴだけは使用している。 発売当初はファミリーコンピュータや[[セガ・マークIII]]と競合し、後に[[スーパーファミコン]]や[[メガドライブ]]とも競合した。トップシェアを占めることはなかったが、世界累計販売台数1,000万台{{要出典|date=2023年7月}}を記録している。 == 歴史 == === 国内展開 === 1987年に設立された[[NECアベニュー]]がゲームソフトの開発と販売を行っている(NEC-HEはハードウェア製造メーカーだった)。また、ハドソンが初期のラインナップを充実させている。この時期ファミコンソフトの製造での優遇措置停止で任天堂とのトラブルになっていた[[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)]]が参入。ハドソン・NECアベニューと共に初期の三本柱に<ref>[[多根清史]]『日本を変えた10大ゲーム機』ソフトバンク新書、2008年、p.100</ref>、参入社数過多により飽和状態になっていたファミコン市場から新たな市場を求めたサードパーティがPCエンジンへと参入した、[[タイトー]]・[[アイレムソフトウェアエンジニアリング|アイレム]]・[[データイースト]]・[[日本物産]]などが参入。一方で[[カプコン]]{{Efn|『[[サイドアーム (シューティングゲーム)|サイドアーム]]』『[[サイドアーム・スペシャル]]』『[[F1ドリーム]]』『[[ソンソン2]]』『ポンピングワールド』『[[ストリートファイターII']]』などを開発。}}や[[コンパイル (企業)|コンパイル]]{{Efn|『[[エイリアンクラッシュ]]』『[[デビルクラッシュ]]』『[[サイバーナイト]]』『[[ガンヘッド (PCエンジン)|ガンヘッド]]』『[[精霊戦士スプリガン]]』『[[スプリガン mark2]]』『[[シルフィア]]』などを開発。}}などはソフトのOEM供給などをしていたが、参入して自社ブランドで販売することはなかった。 これらサードパーティの参加もあり、ファミコンでは実現が難しかった[[アーケードゲーム]]が移植された。 1988年11月に[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]を発売<ref name="scejnews" />。CD-ROM<sup>2</sup>は1989年の『[[天外魔境 ZIRIA]]』『[[イースI・II]]』、1990年の『[[スーパーダライアス]]』といった[[キラーソフト]]の登場により普及が加速していった。 1989年末にはテレビへの出力端子を従来の[[RF端子]]から[[AV端子]]に変更して色はダークグレーになり、コントローラーのI・IIボタンに連射機能が搭載されたものに変わった[[PCエンジンコアグラフィックス]]、拡張バスを削除してCD-ROM<sup>2</sup>や天の声などは繋げなくHuカードのみ専用にした廉価版<ref name="nindori200803"/> の[[PCエンジンシャトル]]、Hu6270を2個に増量しVRAMを2倍、メインメモリを4倍に強化した[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]、本体の拡張バスから繋ぎPCエンジンを使って画面に絵を描け、アーティストツールで印刷をすることも可能なプリント&イラストブースタという4種類のハードを発売している。 1991年6月にコアグラフィックスと性能は同じだが、価格を5000円ダウンさせたコアグラフィックスIIが19800円で発売された。ハードの色はSUPER CD-ROM<sup>2</sup>システムと同色となる。12月にSUPER CD-ROM<sup>2</sup>を発売している。またこの時期に[[コナミグループ|コナミ]](ブランド名は『KONAMI』、その後ゲーム事業は[[コナミデジタルエンタテインメント]]へ移管)も参入し、NEC HEも日本市場(それまで当社は米国市場のみでゲームソフトを発売する程度だった)でゲームソフトを販売するようになり、後期以降の主要ソフトメーカーにまで発展した{{Efn|後継機のPC-FXではNEC HEが大半のソフトを発売している一方、開発元のハドソンのソフトは少数派で、初期の間しか発売されていなかった。}}。 翌1992年3月にはCD-ROMが100万台を突破し、ソフト供給はCD-ROM中心になる<ref>[[多根清史]]『日本を変えた10大ゲーム機』ソフトバンク新書、2008年、p.117</ref>。この時期にPCエンジンの主力メディアはHuカードからCD-ROMへ移行が進み、本体も[[PCエンジンDuo]]シリーズが主力になっていった。しかしながらHuカードもコンパクトサイズハードであるPCエンジンGT、PCエンジンLTなどで依然として意義はあり、供給を継続していた。国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていたとする調査結果が雑誌に掲載された<ref name="週刊ファミ通700号 『ゲームの歴史』、p.127"/>。この時期に『[[天外魔境II 卍MARU]]』『[[スナッチャー]]』といったSUPER CD-ROM<sup>2</sup>を代表するキラーソフトが発売されている。CD-ROMの普及に伴い、[[日本ファルコム]]・[[アートディンク]]・[[システムソフト]]・[[リバーヒルソフト]]・[[ブレイングレイ]]・[[マイクロキャビン]]・[[コーエー]](現:[[コーエーテクモゲームス]])・[[日本テレネット (ゲーム会社)|日本テレネット]]といった[[パソコンゲーム|PCゲーム]]のソフトハウスが参入した。 1994年春には[[アーケードカード]]が発売。RAMは18 Mbitへ増強され、[[ネオジオ]]で人気を博していた『[[餓狼伝説2]]』『[[龍虎の拳]]』が目玉ソフトとして発売された。同年末にはPCエンジンの次世代機[[PC-FX]]が発売され、それ以降もPCエンジンの市場は継続されたが、1999年6月に[[メッセサンオー]]と[[ソフマップ]]専売で発売された『[[デッド・オブ・ザ・ブレイン|デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2]]』を最後に、ソフトの供給は終了した<ref name="nindori200803"/>。 === 日本国外展開 === {{出典の明記|date=2022年4月|section=1}} [[ファイル:TurboGrafx16-Console-Set.png|thumb|right|200px|TurboGrafx-16]] [[File:NEC-TurboGrafx-16-CD-FL.jpg|thumb|right|200px|CD-ROMユニットを接続したTurboGrafx-16]] [[ファイル:TurboGrafx HuCard adapters.png|thumb|right|200px|HuCARD変換アダプタ]] 北米では[[NECホームエレクトロニクス]]の現地法人により「Turbografx-16」の名称で1989年5月23日に発表、同年8月29日に[[ニューヨーク]]と[[ロサンゼルス]]でテスト販売が開始された。価格はTurboPad1個とTurboChip(HuCARDの海外名称)のソフト『[[w:Keith Courage in Alpha Zones|Keith Courage in Alpha Zones]]([[魔神英雄伝ワタル]])』が付属して$199.99。他に『[[エイリアンクラッシュ]]』『[[魔境伝説]]』『[[ビクトリーラン]]』がロンチタイトルとして発売された。一方で[[メガドライブ]]の北米版である「[[Sega Genesis]]」も二週間前にテスト販売を開始しており、ほぼ同時に市場投入される形になった。日本のCD-ROM2に該当する「Turbografx-CD」も同年12月に$399.99で発売された。CD-ROMドライブとインターフェースユニットのセットでとバンドルソフトは無く、ロンチタイトルとして『[[ファイティング・ストリート]]』『[[ワンダーボーイIII モンスター・レアー]]』の2本がリリースされた。 1992年4月より、取り扱いがNECテクノロジー社とハドソンの共同出資であるターボ・テクノロジー社に変更され、そのキャンペーンとして発売予定のTurboDuo(価格$299.99)に250ドル相当の特典(『[[イースI・II]]』『[[PC原人 (1989年のゲーム)|PC原人]]』『[[PC原人2]]』『[[ゲート オブ サンダー]]』『[[ダンジョンエクスプローラー]]』、専門誌『TURBO FORCE』{{Efn|TurboDuo発売と同時に創刊された専門誌。創刊号はTurboDuo本体に同梱され、さらにユーザ登録することで3号まで無償で送付されたので、どちらかというと広報誌に近い。4号から有償になったが、その4号でなんの告知もなく休刊した。}}、$5×10枚のソフト購入割引クーポン)を添付させる「Add $250 Value」を実施。また1992年のサマー[[コンシューマー・エレクトロニクス・ショー|CES]]に合わせてTurboGrafx-16の本体価格が$69.99、Turbografx-CDの価格が$149.99にそれぞれに引き下げられた。TurboDuo発売後、既存のTurboGrafx-CDユーザ向けにスーパーシステムカードと3-in-1 CD(Bonk's Adventure、Bonk's Revenge、Gate of Thunder)と$5×10枚のソフト購入割引クーポンをセットにしたバリューパックが$95で販売された。ちなみに旧来のシステムカードは起動画面がTurboGrafx-CDのロゴになっていたが、スーパーシステムカードは国内版と同じ「SUPER CD-ROM<sup>2</sup> SYSTEM」の起動ロゴになっている。 TurboGrafx-16は参入業者が少なかったために、販売面で苦労した。またCD-ROM<sup>2</sup>にあたる[[w:TurboGrafx-CD#TurboGrafx-CD|TurboGrafx-CD]](HES-CDR-01 TurboGrafx-16と同時発売)やPCエンジンGTと同機能の[[w:TurboExpress|TurboExpress]](HES-EXP-01 1990年11月発売)、PCエンジンDuoと同機能の[[w:TurboDuo|TurboDuo]](HES-DUO-01 1992年10月発売)なども発売された。これらは日本ではCD-ROMのゲーム環境としてヒットしたがTurboGrafx-CD関連は1993年中には市場からほぼ淘汰された。晩年は慢性的なソフト不足を補うため国内向けのソフトを輸入販売し、PCエンジンのHuCARDのピンアサインをTurboGrafx-16向けに変換するアダプタも非公式に流通した{{Efn|PCエンジンはリージョンチェックが無いため、物理配線さえ何とかすれば国内・国外問わず全てのソフトが動作したが、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>のソフトについてはシステムカードのチェックを行っているため、海外版のSUPER CD-ROM<sup>2</sup>のシステムカードで日本のソフトを起動すると警告画面が表示されてしまう。無論変換アダプタを使用して日本版のシステムカードを使えば動作する。}}。 また、北米においてはTurboGrafx-16を[[アーケードゲーム|業務用ゲーム機]]として展開する計画も立てられていたが、こちらは業務用ゲーム機のメーカーの反発や、NECホームエレクトロニクスの北米法人内で業務用ゲーム機業界に詳しい者がいないことなどが原因で頓挫した<ref>{{Cite news|和書 |title=海外の話題|newspaper=ゲームマシン |date=1990-5-15|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19900615p.pdf|access-date=2023-06-15|issue=382|page=17}}</ref>。 [[ヨーロッパ|欧州市場]]では[[フランス]]を除いて正式販売は行われなかった。フランス版HE-SYSTEMは、当時日本で販売されていた本体を[[RGB]]仕様に改造したのみで、本体の形状や商品名称などは日本と同様PC Engineとなっていた。[[イギリス]]では[[NTSC]]出力のままの米国モデルが[[:en:Telegames|Telegames]]社より極少数販売された実績がある。 [[アジア]]市場では[[大韓民国]]でも発売され、韓国版HE-SYSTEMは、[[東部大宇電子ジャパン|大宇電子]]がZemmix PC Shuttle(CPG-100)として[[Zemmix]]のラインナップの一部でPCエンジンシャトルを輸入し、その後はPCエンジンシャトル自体が生産を終了したということもあり、[[ヘテ]]電子からも『スーパーコン バイスター』の名称でハドソンとの共同開発によるオリジナルの本体で発売されていた(こちらもHE-SYSTEMのロゴだけは使用していた)。ただ、NEC-HEは一切関与していなかった。ソフトのラインナップは、基本的に日本や北米からHuカードのみを輸入し、パッケージを独自に制作したものだった。そのため、コナミのタイトル全般や、[[ドラえもんの派生作品#PCエンジン用ソフト|ドラえもんのゲーム]]など、北米で発売されていないタイトルも含まれていた。 なおTurboGrafx-16は本体の大きさが国内版に比べ横幅が倍になっているが、これは本体が小さくて価格が高いと割高感が出て敬遠されるという海外の消費者心理を考慮したためである。またCD-ROMユニットは本体後部に接続する形式を取っているが、CD-ROMユニットの大きさは国内版と同じのため、組み合わせると、さらに特異な形状(真上から見ると『凸』型)となる。 またTurboGrafx-16の名称はPCエンジンは画像処理周りなど一部の処理を16ビットで行っていたため、Sega Genesis(北米版メガドライブ)及び[[Super Nintendo Entertainment System]](北米版スーパーファミコン)が搭載していた16ビットCPUの話題性に対抗する意味でつけられた。 == ハードウェア == === 開発経緯 === ==== チップの開発 ==== 当時、ハドソンの目指す高度な表現に対してファミコンやパソコンの「性能の限界が見えてきた」という状況に直面していた。この問題に対して「自分たちが欲しいものを自分たちの手で作り上げる」という目的でハドソン社長の工藤浩をはじめとしたハドソン技術者たちが動き出した(ハドソンはシステム開発も行っており、また半導体技術者も擁していた)。ハドソン技術者の山村喜美夫は「ハードを作るという発想ではなく、ソフトを作る発想で開発が始まったんです。ハードメーカーがハードを作ってくれないなら、性能を上げるためのチップを作ってみようということになったわけです。最初から新しいハードを作ろうとしていたわけではなく、あくまでチップの開発だったんです」と語っている。 この時点ではビジネスのことは考えておらず、単純に「自分たちの夢を追いかけただけ」である<!--「1985年にハドソンで「プログラマーにとって、もっとゲームが作りやすいハードができないか」というコンセプトでPCエンジンの開発が企画され、チップ開発が始まった(ドリマガ 2003年10月10・24日合併号)という記事もある」という内容は見つかりませんでした。何ページのどこら辺に記述がありますか?-->。 しかし、半導体メーカーではないハドソン単体ではチップを作ることができない。開発者(岡田節男・山村喜美夫、他1名)が仕様書を書き、半導体メーカーに持ち込んでも「北海道から来た訳のわからない会社」では信用されない。NECを含む国内の主な半導体メーカーには断られた<ref>時期は明記されていないがNECより前に[[ソニー]]へも持ち込んだことがあるという証言もある。[[平林久和]]「[http://hisakazuhirabayashi.blog95.fc2.com/blog-entry-970.html 急にハドソンのことが語りたくなった -]」 [http://hisakazuhirabayashi.blog95.fc2.com/ Hisakazu Hirabayashi Official Blog] 2011年1月21日</ref>。 最後に訪問した[[セイコーエプソン]](以下エプソン)で、ようやく工藤の話をまともに聞いてくれた。ここで工藤は「別に売るつもりはないから、とにかく一個作ってほしいんだ」「自分の机にファミコンより性能のいいゲーム機があればいいんです」という話をしている。対するエプソン担当者が開発には相当な額がかかると言うと、工藤は「お金はいくらでも用意します。何なら、いまここに積みますから」と返した。この時点で相手もあきれていたと後に工藤は言っている。 こうしてチップの開発はスタートした。ハドソン、エプソン双方のメンバーがほぼ同年代で、細かい点ではよく話し合って決めた部分もあるので山村は「一緒に作ったという感覚が強い」と証言している。そして完成したのが『Hu-7』(工藤の証言より。山村の証言ではHu6270と呼んでいる)と呼ばれるチップである(山村はHu6270の開発スタートが1985年春、Hu6270の完成のめどがつき、次の段階に進んだのが1985年末から1986年初め頃と証言している)。費用は2億円、数量として「1000個だか10000個だか(工藤の証言より)」が作られた。 (出典<ref name="nindori200803">{{Cite journal|和書|author=|year=2008|date=2008-01-20|title=ALLAbout PCエンジン|journal=[[Nintendo DREAM]]|volume=|issue=2008年3月号|page=72-76|publisher=毎日コミュニケーションズ|id=雑誌16947-3}}</ref><ref>滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.180.181.182</ref>) ==== ゲーム機の開発 ==== 完成したHu-7(Hu6270)の画像処理能力はファミコンのCPUを上回る性能を見せ、独自の新ハードの野望を抱かせるようになった。 ハドソンは、これをまずシャープに持ち込んだ(「思ったよりもいいものができたというか、画像の処理能力なんかファミコンのCPUよりも数段いい。これを使って何かできるんじゃないかと思って、とりあえずパソコンの関係でおつき合いのあったシャープさんにそれを見せたわけです。そうしたら『これは商売になる!』というんで話が一気に盛り上がって…」と工藤は証言している)。結局シャープとは話がまとまらなかった。任天堂と協力関係にあり、それがネックになったといわれている。 次に工藤が向かったのがNECである。ここで幸運なことに「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていたんだ」という対応を受け、話がスムーズに進んでいった。 一方のNECも任天堂のファミコンの急速な普及に触発され、1983年末頃から後藤富雄を中心とした若手社員により、社内で「パソコン以外の何か」を作るための議論が続いていた。1985年に「記録メディアにCD-ROMを使ったゲーム機」という結果となった<ref>[https://www.gamepres.org/2016/02/26/pcengine/ PCエンジンにまつわる当事者の想いを保存する] ゲーム保存協会</ref>。目標価格を10万円以下に設定したが、ゲーム機用の安価なチップ(CPU)を内製化する設計力がNECには当時無かった。そのため計画が頓挫していた。NECの[[多部田俊雄]]も当時から家庭用のCD-ROMの企画書を提出していたが価格の問題があり却下されていた<ref>エンターブレイン「ファミ通」2006年6月16日号、PAGE23より</ref>。 工藤が完成品のチップと一緒にNECを訪問したのはちょうどその頃で「[[PC-8801]]の後継機としてCD-ROMを搭載したマシンを作りたいNEC」と「スプライトに強いチップを売り込みたいハドソン」という二者の利害が一致した<ref>ドリマガ 2003年10月10・24日号、PAGE117</ref>。 その後チップの開発とツール開発が同時進行して、チップはエプソン、製品化はNEC、Huカードは当時の[[三菱樹脂]]とハドソンが共同開発することでPCエンジンは誕生した。 (出典<ref name="nindori200803"/><ref>滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.183.184.185.186</ref>) ==== CD-ROM<sup>2</sup>の開発 ==== 上記の通りNECからハドソンにもたらされたCD-ROM機開発計画であるが、PCエンジン発売後1年でCD-ROM<sup>2</sup>本体として発売されることになった。当時パソコン用のCD-ROMドライブは本体接続用の[[インターフェース]]と合わせて25万円もしていたが、価格を5万7800円に落とすことで、家庭用ゲームへの採用を可能にした<ref name="usedgames">ユーゲーNo.06 2003年6号 『特集 PCエンジン回顧録』、p.128</ref>。搭載されたRAMの容量はメイン64KB、ADPCM用64KBだった。このため大きなデータを一度に取り込めず、凝った演出を行うために頻繁なロードが必要だったが、この問題点は後にスーパーCDROM<sup>2</sup>、アーケードカードへとRAM容量が拡張されることで解決していった。 シークに片道で3秒、往復で最大6秒かかるため、複数のファイルをバラバラに読ませる、読み取り時にエラーが発生するなどの状況下では実用性に問題が出るほど時間がかかった<ref name="ドリマガ 2003年10月10・24日号、PAGE121">ドリマガ 2003年10月10・24日号、PAGE121</ref><ref>[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/index.php?e=424 「続・PCエンジンのCDROMのプロテクト」]</ref>。ゲームの進行などで一部のデータだけが変更される事象が起こった場合、差分をバラバラに読むのではなく「それらをひとまとめにしたファイルを進行毎に用意してシークをなるべくさせないで一度に読み込む」方式を採用した<ref name="ドリマガ 2003年10月10・24日号、PAGE121"/>。データの二重保存と合わせてCD-ROM内でデータトラックが占める割合が大幅に増すことになったが、CD-ROM自体が大容量であったのでこのような対処が可能であった。 CD-ROM<sup>2</sup>の発売以前、ハドソンの朝礼の時に[[中本伸一]]がCDを持ってきて「お前ら、この中にゲームが入るから」と発言したがハドソンの他の開発者たちは当時「CD=音楽CD」という知識しか無く、中本が何を言っているのか分からなかったという<ref name="nindori200803"/>。このようにハドソン社内でも具体的な形になるまでは開発情報の公開に制限がかかっていたという話がある。 システムカードがバージョン2.0以降の物からは[[CD+G|CD-G]] (CDグラフィック)に対応する様になり、カラオケ用の再生プレーヤーとしても利用が可能となった。 === コア構想 === PCエンジンは「コア構想」という拡張思想を持ち、[[パーソナルコンピュータ]]のようにコア(核)の役割を持たせ、様々な周辺機器を接続することでゲーム以外にも対応させる。いわば周辺機器の[[機関 (機械)|エンジン]]に見立たものであり「PCエンジン」の命名はここが由来である。そのためDUO系統を除く本体にはゲーム機としては最小限の機能しか無く、他社ゲーム機では標準装備もしくはカートリッジに内蔵されるような機能も別売りの[[周辺機器]]で補完していく必要があった。 構想の要であった拡張バスは初代PCエンジンから始まり、コアグラフィックス系統などの本体後部に標準装備{{Efn|ただしCD-ROM<sup>2</sup>本体により占有されたりDUOシリーズで一体化された結果消滅した。}}されており、周辺機器の接続は主にこれを使う。多くの周辺機器が発売されたが、拡張バスを用いる機器は排他仕様であり、またLTやスーパーグラフィックスなどハードの形状が統一されておらず接続できない代物もあった。この問題を解決するために「周辺機器を接続するための周辺機器」も発売された。拡張バスは機能を追加するものであったが、性能を向上するためのものではなかったためPCエンジンをスーパーグラフィックス相当にする周辺機器は発売されず、専用ソフトをプレイするにはスーパーグラフィックス自体を別途購入する必要があった。 PCエンジン専門誌の一つ「[[マル勝PCエンジン]]」でも1989年10月号の116頁では天の声2をAV出力へ対応させるための改造記事を掲載したり、PCエンジンSGについて1989年12月でに記事を組んだものの19頁で「みんな自分のマシンが旧機種になってしまうという不安を感じているようだ。しかし価格設定や販売方針を考えると、この新機種が主流になることはまずないと言ってよさそうだ」と記載しており、ユーザーへの余計な出費をさせないような配慮も行っている。 === HE-SYSTEM === NEC-HEとハドソンによって提唱された[[標準化|規格]]。[[ライセンス|ライセンス商品]]の証明としてPCエンジンに関連する本体と[[ソフトウェア]]には必ず[[ロゴタイプ|ロゴ]]が記載されている。なお、「HE-SYSTEM」(エイチイーシステム)の「HE」は'''H'''ome '''E'''ntertainmentの略であり、『'''ホーム・エンターテイメント・システム'''』という意味である。 そのPCエンジンのブランドロゴはNECが販売する日本国内向けのHE-SYSTEMのハードで用いられているため、他社製品の[[レーザーアクティブ]]に関しては、NECからもOEM供給することによってPCエンジンのロゴを使用できたのに対し、X1twinに関しては、NECの製品ではないが、ハドソンが開発に関与しているため、HE-SYSTEMのロゴだけを使用しており、PCエンジンのロゴは一切使用していない。 CD-ROM<sup>2</sup>用のディスクをCDプレーヤーで再生した時の警告音声に関しては、標準メッセージからではあるが、「HE-SYSTEMのCD-ROMディスクです」と言っており、PCエンジンの名称は一言も発していない。これは、登場キャラクターが担当するタイトルも同様の措置である。 {{main|#バリエーション}} === ソフトウェア媒体と規格 === PCエンジンは時期によりパソコンのように拡張を繰り返し、1つのハードに2つの媒体で計5つの規格のソフトが流通した{{Efn|パイオニア製の[[レーザーアクティブ]]によるLD-ROM2を除く。}}。 *[[HuCARD]]:[[ICカード]]型の[[ROMカートリッジ]]。小型なメディアだったので[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]の[[PCエンジンGT]]が発売された。 **HuCARD **[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]専用HuCARD HuCARDのパッケージはCDアルバムの様な大きさ、太さのケースに収納されていて、ケースの背面にはメーカーシールのみのソフトも多数あり、どのようなゲームなのかが確認し難い要素があった。 *CD-ROM **[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]:家庭用ゲーム機としては[[世界初の一覧|世界初]]の[[CD-ROM]]の採用例である<ref name="scejnews" />。 **[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] **[[アーケードカード]]専用CD-ROM<sup>2</sup> === バックアップ機能 === Huカードには[[バックアップ]]機能がなかったため、初期のソフトはゲーム再開時に[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]を手動で入力する必要があった。 やがて天の声2やバックアップブースターなど周辺機器が発売されると[[セーブ (コンピュータ)|セーブデータ]]・バックアップが可能になった。1つで複数のソフトに対応する必要からファミコンなどの[[ロムカセット|カートリッジ]]内蔵式のものよりは容量が大きい。CD-ROM<sup>2</sup>が発売されると本体の機能として統合された。DUOの登場で拡張バスが廃止され、またゲームのデータの肥大化に伴いHuCARDスロットやコントローラーポートで接続する機器も発売された。 === コントロールパッド === [[ゲームパッド|標準パッド]]は見た目を変えているものの、ボタンの配置と大きさはファミコンのIコンと同等のものとなっている。十字ボタンのみ形状が変更されており、ボタン類は名称が異なるものの、「START→RUN」「A/Bボタン→I/IIボタン」と位置関係上それぞれ対応している。[[PCエンジンコアグラフィックス]]以降の機種ではそれぞれ色調を合わせた連射パッドが標準装備されている。その後ボタン数(3/6ボタン仕様)を変えたものが発売されている。 また「RUNボタン」を押しながら「SELECTボタン」を押すことでリセットをかける機能が基本的にソフト側に搭載されている(『妖怪道中記』など、[[サードパーティー]]製のソフトでは例外的に「SELECT」→「RUN」でもリセットを行える場合がある)。この操作はマルチタップ経由でも可能なので、1プレイヤーのみが可能な機能には留まらない。 パッドは脱着式だが本体にはコントローラー端子が1つしか無く、2人以上の同時プレイには別売りのマルチタップを購入し、端子を増設する必要がある。マルチタップは5人用の他に、3人用・2人用等、ゲームの用途に合わせて発売されている{{Efn|最大5人で協力・対戦が可能なゲームには『[[ボンバーマン (PCエンジン)|ボンバーマン]]』『[[スーパー桃太郎電鉄II]]』『[[ダンジョンエクスプローラー]]』『[[モトローダー]]』がある。}}。 === 仕様 === [[ファイル:HuC6280A 01.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|CPU HuC6280A]] [[ファイル:HuC6270A 01.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|VDC HuC6270]] [[ファイル:HuC6260A 01.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|VCE HuC6260A]] ; CPU:HuC6280(音源内蔵) :* CPU部:[[MOS 6502|6502]]互換 :: クロック:1.79MHz/7.16MHz (ソフトウェアで選択可能) :: ファミリーコンピュータや[[コモドール]]社のパソコン等に搭載されたMOS 6502互換CPUに、独自に命令を追加したカスタムCPUを採用。クロック周波数は7.16MHzで、1.79MHzのファミリーコンピュータに対して4倍の動作周波数を実現<ref name="多根">多根清史『日本を変えた10大ゲーム機』ソフトバンククリエイティブ・ソフトバンク新書、2008年、p.98</ref>。 :*音源部:[[波形メモリ音源|波形メモリ]]6音または波形メモリ4音+ノイズ2音(1周期32アドレス波形メモリ方式、[[LFO (電子楽器)|LFO]]内蔵)。Ch.0とCh.1はLFOで合成させて[[FM音源]]のような変調音を作ることが可能。 ::波形メモリを使わずに直接CPUの値を出力するDirect D/Aモード有り。タイマー割り込みで同期を取って値を書き換えることで[[サンプリング]]周波数7kHz相当の5bit[[パルス符号変調|PCM]]音声が再生可能。ただしサンプリングの発音数が多くなるにつれそれ相応のCPU負荷を要する<ref>Twitterでの『ガンヘッド』のプログラマーだったジェミニ広野のコメントによれば、『ガンヘッド』製作時のサウンドドライバでは3音までサンプリングが発声可能であり、最大で使うとCPUパワーの半分くらいの負荷がかかるとコメントしている。</ref>。またサンプリングを使用時は発音数に応じて波形メモリ側の音数は間引かれる。※例 サンプリング3音を使用の場合は残り3音で波形メモリやノイズを発声する。{{Efn|『[[ゼビウス ファードラウト伝説]]』『ガンヘッド』等では主にドラムパートを、『[[源平討魔伝]]』等ではボイス再生に使用された。『[[スーパースターソルジャー]]』以降は波形メモリを制御することでドラム音が再現可能となり、処理速度の向上と再生チャンネルを稼ぐことが可能となっている。}} ; VDC (Video Display Controller):HuC6270 ; VCE (Video Color Encoder) :HuC6260 :※ ''CPU・VDC・VCEの詳細''は[[HuC62]]を参照。 ; メモリ :* メイン[[Random Access Memory|RAM]]:8KB{{Efn|『[[ポピュラス]]』(HuCARD版)のみカード側にメイン[[Random Access Memory|RAM]]:32KBを増設。}} :* [[VRAM]]:64KB(32KB+32KB) ::RAMには高速な[[Static Random Access Memory|SRAM]]を使用<ref name="多根" /> : ; 表示解像度(単位は[[ピクセル|画素]]) :*256×240 :*320×240(N/A) :*336×240 :*512×240{{Efn|HuCARDの『TVスポーツ バスケットボール』の選手選択画面や、CD-ROM<sup>2</sup>の『[[シャーロック・ホームズの探偵講座]]』の全編、『シャドー・オブ・ザ・ビースト 魔性の掟』のOPデモで使用。縦スクロールシューティングゲームで縦画面仕様のアーケードゲームの雰囲気に似せた、通称「縦画面モード」をオプション・裏技で選択可能。}} : TV の表示範囲に入るのは 224 ライン程。横方向の画素数は256、336、512の3種類から任意で切り替え可能。 : VDC([[HuC62|HuC6270]])に16ビットの[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]があり、横512の座標も問題なく扱える。 : 画素単位で制作したグラフィックを横512画素で表示するには[[VRAM]]の容量が不足するが、BG画面(後述)を使うことで表示可能。{{Efn|高解像度なソフトが少ない理由は、画素単位で制作したグラフィックをフル画面表示しづらい・[[スプライト (映像技術)|スプライト]]が複数並び易く、横並び制限による[[スプライト (映像技術)|スプライト]]欠けが生じ易いからである。}} ; 画面発色数 : 512色中最大481色{{Efn|スプライト240色(15色×16パレット、透明色は透過処理に使われるので発色はできない)とBG241色(15色×16パレット+共通色)合わせての数字。}} ※ただし画面同時表示色は最大112色<ref>{{Cite book|和書 |title=[[ゲームマシン]] アミューズメント通信 「日本電気がTVゲームに参入」家庭用『PCエンジン』小型、軽量化で ソフトはハドソン、ナムコが供給 |date=10月1日 |year=1987年 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |page=1}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19871001p.pdf |title=ゲームマシンアーカイブ アミューズメント通信 1987年10月1日 第317号 |access-date=2023/11/28 |publisher=オニオンソフト}}</ref> : スプライト:512色中15色+透明色のパレットを16個 : BG:512色中15色+共通色のパレットを16個 : NTSC信号出力の際に、カラーバースト信号を切ってモノクロ表示にすることが可能。 ; [[スプライト (映像技術)|スプライト]] :* 最大64個(1個のスプライトサイズは16×16から最大32×64 カラー指定512色中15色+透明色) :* 横方向へ16×16のサイズを最大16個(横320ドットモード時は14個に制限される。これはスプライトを横に16個並ぶ設定にするとオーバークロック状態になり(VRAMのアクセスタイムを超える駆動をする)、PCエンジン本体の動作保証が出来ないことから、NECのガイドラインにより設定された。※初期に発売されたR-TYPEなどは例外的に使用<ref>[[岩崎啓眞]]「[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/index.php?e=53 PCエンジン版R-TYPEのコト]」[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/ Colorful Pieces of Game] 2010年10月4日</ref> : ; バックグラウンド(BG画面) : 1画面(1キャラクタ8×8画素固定で最大2048個定義 カラー指定512色中16色 ただし内1色はBGパレット内で共通色となる)。この仕様により[[スクロール|多重スクロール]]は苦手である。そのため背景の一部をスプライトにする・[[背景|バックグラウンド]]のキャラクタを複数用意してアニメーションさせる、横方向ではそれに加え[[ラスタースクロール]]を併用することで対応している。なお、これらは他のゲーム機でも使われるテクニックである。 == バリエーション == コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売された。 NEC製 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! 名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 拡張バス ! style="width:50%" |備考 |- | PI-TG001 | PCエンジン | 1987年10月30日 |有 | 初代機。この機種のみ映像出力がRF端子となっている。 |- | PC-KD863G | PC-KD863G | 1988年9月27日 |無 | PCエンジンを[[ブラウン管|CRT]][[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に内蔵させたもの。RGB接続により画面が鮮明に映る。そのためゲーム雑誌では[[スクリーンショット|画面撮影]]の用途に使われたという。発売当時の価格は138,000円。 |- | PI-TG2 | [[PCエンジンシャトル]] | 1989年11月22日 |無{{Efn|専用のバックアップユニットのみ接続可能。}} | 拡張バスを省いた廉価版。 |- | PI-TG3 | [[PCエンジンコアグラフィックス]] | rowspan="2" | 1989年12月8日 |有 | 初代PCエンジンの[[モデルチェンジ]]版。映像出力を[[RF接続|RF信号]]から[[コンポジット映像信号]]にしたもの。 |- | PI-TG4 | [[PCエンジンスーパーグラフィックス]] |有 | グラフィックチップを2つ搭載して、表示能力を2倍にした上位機種。 |- | PI-TG6 | [[PCエンジンGT]] | 1990年12月1日 |無 | PCエンジンの[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]。 |- | PI-TG7 | [[PCエンジンコアグラフィックス|PCエンジンコアグラフィックスII]] | 1991年6月21日 |有 | コアグラフィックスのモデルチェンジ版。 |- | PI-TG8 | [[PCエンジンDuo]] | 1991年9月21日 |無 | SUPER CD-ROM<sup>2</sup>本体との一体型。システムカードが内蔵され本体だけで起動する。CD蓋部のロック機構や専用バッテリー端子など独特の機能がある。[[CD+G|CDグラフィックス]]の再生機能搭載 |- | PI-TG9 | [[PCエンジンLT]] | 1991年12月13日 |有 | 従来のPCエンジンと同様の筐体に、開閉式の液晶モニター、スピーカー、TVチューナー、コントローラー等を内蔵したもの。本体をCD-ROM²システムに着用可能。 |- | PI-TG10 | [[PCエンジンDuo|PCエンジンDuo-R]] | 1993年3月25日 |無 | PCエンジンDuoの廉価版。[[ヘッドフォン]]端子や[[組電池|バッテリー]]端子等を省いた。 |- | PCE-LD1 | [[レーザーアクティブ]] | 1993年12月1日 | 無 | パイオニア製レーザーアクティブのOEM。 |- | PCE-DUORX | [[PCエンジンDuo|PCエンジンDuo-RX]] | 1994年6月25日 |無 | Duo-Rのマイナーチェンジ版。CD-ROMドライブが改良されている。 |} 他社製 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! 名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 拡張バス ! style="width:50%" |備考 |- | CZ-830C-BK | [[X1 (コンピュータ)#X1シリーズの系譜|X1 twin]] | 1987年12月 |無 | PCエンジンを[[シャープ]]が開発していた[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、[[X1 (コンピュータ)|X1]]に内蔵させたもの。 |- | CLD-A100 | [[レーザーアクティブ]] | 1993年8月20日 | 無 | パイオニア製。 |- | CPG-100 | Zemmix PC Shuttle | 1990年 | 不明 | HE-SYSTEMの{{KOR}}専売版にあたり、[[Zemmix]]ブランドで発売された。 |- |} === 各ソフトの規格に対応する機器 === [[ファイル:NEC CD-Rom 2 Unit.png|thumb|200px|標準クラスのプレイ環境の一例:<br />コアマシン + CD-ROM<sup>2</sup> + 各種システムカード]] [[ファイル:Super CD-ROM2 with CoreGrafx II (3-4 right view).jpg|thumb|200px|標準クラスのプレイ環境の一例:<br />コアマシン + SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] [[ファイル:PCEngine SuperGrafx with SuperCDRom2.jpg|thumb|200px|スーパーグラフィックス + SUPER CD-ROM<sup>2</sup>。アーケードカードがあればLD-ROM<sup>2</sup>以外の全ソフトのプレイが可能]] 一般に多く流通したソフトを遊ぶにはSUPER CD-ROM<sup>2</sup>が可動する環境があれば良いが、上記の通り本体および周辺機器共に多くのバリエーションが存在するため、システムの組み合わせパターンは数多い。分類すると下記のようになる。なお下記では、初代PCエンジン・PCエンジンコアグラフィックス・PCエンジンコアグラフィックスIIを合わせ「'''コアマシン'''」と称する。 * '''発売されたソフトの規格''' ** 動作可能な本体、ハード、システムの組み合わせ * HuCARD ** 全PCエンジンハード * HuCARD([[PCエンジンスーパーグラフィックス]]専用) ** PCエンジンスーパーグラフィックスのみ * [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] ** コアマシン + CD-ROM<sup>2</sup> + 各種システムカード ** コアマシン + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** PCエンジンスーパーグラフィックス + ROM<sup>2</sup> Adapter + CD-ROM<sup>2</sup> + 各種システムカード ** PCエンジンスーパーグラフィックス + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** [[PCエンジンLT]] + SUPER ROM<sup>2</sup> ADAPTER + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** [[PCエンジンDuo]]系列機(R・RXを含む。以下同様) **レーザーアクティブ+LDRom<sup>2</sup>パック * [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] ** コアマシン + CD-ROM<sup>2</sup> + システムカードVer.3.00(SUPER SYSTEM CARD) or [[アーケードカード]]PRO ** コアマシン + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** PCエンジンスーパーグラフィックス + ROM<sup>2</sup> Adapter + CD-ROM<sup>2</sup> + システムカードVer.3.00(SUPER SYSTEM CARD)or アーケードカードPRO ** PCエンジンスーパーグラフィックス + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** PCエンジンLT + SUPER ROM<sup>2</sup> ADAPTER + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> ** PCエンジンDuo系列機 **レーザーアクティブ+LDRom<sup>2</sup>パック(パック内蔵のスーパーシステムカード機能の場合不具合が出るソフトが有るので、その場合スーパーシステムカードをHuカードスロットに挿すことで回避可能) * [[アーケードカード]]専用CD-ROM ** コアマシン + CD-ROM<sup>2</sup> + アーケードカードPRO ** コアマシン + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> + アーケードカードDUO or アーケードカードPRO *** 以下も含め、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>上(Duo系列機含む)でのアーケードカードPROの使用は公式にはサポート外 ** PCエンジンスーパーグラフィックス + ROM<sup>2</sup> Adapter + CD-ROM<sup>2</sup> + アーケードカードPRO ** PCエンジンスーパーグラフィックス + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> + アーケードカードDUO or アーケードカードPRO ** PCエンジンLT + SUPER ROM<sup>2</sup> ADAPTER + SUPER CD-ROM<sup>2</sup> + アーケードカードDUO or アーケードカードPRO ** PCエンジンDuo系列機 + アーケードカードDUO or アーケードカードPRO **レーザーアクティブ+LDRom<sup>2</sup>パック+ アーケードカードDUO or アーケードカードPRO == 周辺機器 == 発売された本体が多岐にわたるため、それぞれの本体に対応する周辺機器は以下のページを参照すること。 *CD-ROM<sup>2</sup> - [[CD-ROM2#周辺機器]] *SUPER CD-ROM<sup>2</sup> - [[SUPER CD-ROM2#周辺機器]] *PCエンジンDuo - [[PCエンジンDuo#周辺機器]] *PCエンジンシャトル - [[PCエンジンシャトル#周辺機器]] *PCエンジンコアグラフィックス - [[PCエンジンコアグラフィックス#周辺機器]] *PCエンジンGT - [[PCエンジンGT#周辺機器]] *PCエンジンLT - [[PCエンジンLT#周辺機器]] *PCエンジンスーパーグラフィックス - [[PCエンジンスーパーグラフィックス#周辺機器]] === CD-ROM === {| class="wikitable"style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! 名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | CDR-30 | [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]] | 1988年12月4日 | PCエンジンのCD-ROMドライブ。 |- | PI-CD1 | [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]] | 1991年12月13日 | 上位規格のCD-ROM<sup>2</sup>システム。 |- |} === セーブ用外部メモリ === {{Gallery |File:PC Engine Tennokoe2.jpg|天の声2 }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | HC66-6 | 天の声2 | 1989年8月8日 | 拡張バスに接続するセーブ用外部メモリでハドソンが発売。内容保持に単3電池を使用するため電池が切れたらデータも消失する。本体通電中なら電池交換してもデータは保持される。AVブースターと併用はできないため初代PCエンジンよりも1989年12月8日に発売された[[PCエンジンコアグラフィックス|コアグラフィックス]]向きである。価格・流通量の多さにより利用者数はバックアップブースターより多い。名前の由来はハドソンのRPG『[[桃太郎伝説]]』の[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]が「天の声」という名称だったことによる。 |- | PI-AD7 | バックアップブースター | 1989年11月12日 | 天の声2とAVブースターの機能を併せ持つため、[[CD-ROM2|IFU-30]]と同様にRF出力しかない初代PCエンジンでAV出力とセーブ機能を両立できる。天の声2よりは高価だが、IFU-30に比べると機能を絞り込んだ分値段が安い。 |- | PI-AD8 | バックアップブースターII | 1989年12月8日 | バックアップ用電源がキャパシタ([[コンデンサ]])に変更され、本体使用中に充電されるようになった。同時発売のコアグラフィックスでの使用が前提でAVブースター機能を削除し価格も下げられた。 |- | HC692 | 天の声BANK | 1991年9月6日 | HuCARD型のセーブ用外部メモリ。言わばPCエンジン用[[SRAMカード]]。それまでの外部記憶ユニットのセーブデータを4台分バックアップできる。[[バンク切り換え]]式でゲームタイトルごとの管理はできない。電池は内蔵[[リチウム電池]]で長寿命であったが交換不可能。隠し要素としてハドソンの人気ゲームのデータが初めから記録されていた。 |- |style="white-space:nowrap" | PI-AD19 | メモリーベース128 | 1993年3月 | パッド端子に接続して使用するセーブ用外部メモリ。後期ソフトのセーブデータの肥大化に対応し容量は128KBと非常に大きいが、対応ソフト以外は使用不可能。[[コーエー]]発売の同機能の周辺機器「セーブくん」もある(『[[信長の野望・武将風雲録]]』・『[[三國志III]]』などの一部に同梱)。<br />対応ソフトのうち、『[[エメラルドドラゴン]]』・『[[リンダキューブ]]』・『[[プライベート・アイ・ドル]]』・『[[ぽっぷるメイル]]』の4本には本体のバックアップメモリとの間でセーブデータをコピーするなどの操作が出来る管理ユーティリティを内蔵。『エメラルドドラゴン』・『リンダキューブ』は共通のツールでデータの互換性があるが、『プライベート・アイ・ドル』と『ぽっぷるメイル』は両者との互換性はない。 |- |} === 映像/音声出力 === {{Gallery |File:NEC-PC-Engine-AC-Adapter.jpg|PCエンジン用ACアダプタ }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! style="width:5.5em"|型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PAD-105 | ACアダプタ | 1987年10月30日 | |- | PAD-106 | ACアダプタ | | |- | | アンテナスイッチ | 1987年10月30日 | 初代PCエンジンで使用可能。RF信号を出力するための機器。 |- | PI-AD2 | AVブースター | 1988年4月8日 | 拡張バスに接続する[[コンポジット映像信号]]出力用の機器。初代PCエンジンでの使用が前提の商品。専用のDIN5ピンコネクタで本体と接続するコアグラフィックスと違い、汎用のAVケーブルをダイレクトに挿すことができる。 |- | PI-AN2 | AVケーブル | rowspan="2" | 1989年11月22日 | 初代PCエンジン以外で使用可能なステレオAVケーブル。 |- | PI-AN3 | RFユニット | AVブースターとは逆に[[コンポジット映像信号]]出力のマシンに使用し、RF信号を出力するための機器。 |- |style="white-space:nowrap" | PI-AD20 | バーチャルクッション | 1992年12月18日 | エアークッションに[[サブウーファー]]を内蔵。音声が出力されるとクッション内の空気が振動する機器。アンプ・エアークッション本体・カバーに別れている。AVブースター等が付いたPCエンジンと直接接続するのは困難で、TV側の外部出力端子から接続されるのが一般的。発想は先進的だが本体価格が高く、長期間使用するとエアークッションの空気が漏れる・接触不良で音声や振動が出ない等の影響か普及には至らなかった。 |- | CA-54 | PCエンジンコネクターケーブル | | NEC製テレビ専用の接続ケーブル。一部のNECのTVに「PCエンジン端子」があり、ケーブル一本で映像/音声の入力・電源供給が可能。 |- |} === パッド関連 === {{Gallery |File:PC Engine Controller.jpg|PCエンジン用パッド |File:NEC-PC-Engine-Controller-Plug.jpg|パッドの接続プラグ |File:NEC-PC-Engine-Turbo-Stick-Controller.jpg|ターボスティック }} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! style="width:15%"|名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PI-PD001 | PCエンジンパッド | rowspan="3" | 1987年10月30日 | 初代PCエンジンに同梱されていたパッド。 |- | PI-PD002<br/>PI-PD06<br/>PI-PD8 | ターボパッド | PI-PD001に連射機能を付けたもの。 |- | PI-PD003 | [[マルチタップ (コンピュータゲーム)|マルチタップ]] | パッドを5つまで接続できる純正機器。本体のみではパッドを1つしか接続できなかった弱点が逆に普及を促し、ファミコン以上に多人数同時プレイソフトを登場させることとなった。2人用や4人用のサードパーティ製のものもあった。 |- | PI-PD4 | ターボスティック | 1988年10月1日 | NEC-HE純正では唯一のジョイスティック型コントローラ。 |- | HC63-8 | ジョイタップ3 | 1988年10月4日 | 純正品。マルチタップの廉価版で、3つまでしかパッドを接続できない。 |- | PI-PD5 | ターボパッドII | 1989年11月22日 | PCエンジンシャトルの形状に合わせたターボパッド。 |- | NAPD-1001 | アベニューパッド3 | 1991年1月31日 | 3ボタン操作の[[ロストワールド (ゲーム)|フォーゴットンワールド]]の発売に合わせて登場。IIIボタンはSELECTかRUNボタンのいずれかに設定して使用する、連射もできるのでRUNボタンに設定してスローモーション(ポーズの連射)をかけることも可能。 |- | PI-PD10 | PCエンジンマウス | 1992年11月27日 | 後期、PCから移植等の一部ゲームに対応。親指で押せるセレクトボタン・ランボタンも付いており、当時としては珍しい4ボタンマウスだった。 |- | PI-PD11 | コードレスマルチタップ | rowspan="2" | 1992年12月18日 | PCエンジンDuoに合わせたデザインの純正品。パッド信号を[[赤外線]]で伝達することでコントローラのコードレス化を実現。コードレスマルチタップ自体はPCエンジン本体のパッド端子に接続する。コードレスパッドを5本揃えれば5人同時プレイ可能である。受信可能距離は約3mまで。 |- | PI-PD12 | コードレスパッド | コードレスマルチタップ用のパッド。単四乾電池4本必要。 |- | style="white-space:nowrap" |NAPD-1002 | アベニューパッド6 | 1993年5月28日 | 6ボタンパッド。『[[ストリートファイターII']]』の移植に対応する形で登場。 |- | PCE-TP1 | アーケードパッド6 | 1994年6月25日 | 6ボタンパッド。PC-FXの標準パッドとデザインがほぼ同じ。 |- |} === グラフィック === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! 名称 ! style="width:8.5em"|発売日 ! 備考 |- | PI-AS1 | アーティストツール | rowspan="4" | 1989年9月29日 | グラフィックソフト。イラストブースターがなくてもパッドで描画可能。画像の保存機能は無し。 |- | PI-AD3 | プリントブースター | 本体に接続できるプリンター。ペンを差し込んで使う[[プロッター|ペンプロッター]]式。 |- | PI-AD4 | イラストブースター | 専用[[ペンタブレット]]。透明なので下絵をなぞることができる。 |- | PI-AD5 | フォトリーダー | ペン型[[モノクローム|モノクロ]][[イメージスキャナ]]。プリントブースターのリーダ端子に接続して使用する。 |- |} === ライセンス品 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 型番 ! 名称 ! 発売元 ! 備考 |- | AS-7749-EG | アスキースティックエンジン | [[アスキー (企業)|アスキー]] | |- | BT-BG1 | バトルパッド | rowspan="2" | ビッグクラブ | |- | BT-BG2 | バトルタップ | |- | HJ-13 | ホリコマンダーPC | [[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ電機]] | |- | XE-1 PRO HE | ジョイスティック | rowspan="2" | [[電波新聞社|マイコンソフト]] | |- | XHE-3 | ジョイスティックアダプタ | アタリ仕様のコネクタを変換するアダプタ |- | CJPC-101 | パチンコ専用コントローラー | [[ココナッツジャパンエンターテイメント|ココナッツジャパン]] | |- | KH-1001 | セーブくん | [[コーエー|光栄]] | |- |} === 非純正品 === * PCエンジンのパッド端子は汎用のミニDIN8pinコネクタを採用している。同じミニDIN8pinコネクタを採用しているPC-9801用のキーボード延長ケーブル(2016年時点の現行品の例としては KB-K98-3K、KB-K98K)をPCエンジンのパッド延長ケーブルとして使える。 * [[2020年]][[4月]]上旬にコロンバスサークルより無改造でポータブル化できる外付け[[液晶ディスプレイ]]が発売された<ref>{{Cite web|和書|author=岩瀬賢斗 |date=2019-12-19 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1225409.html |title=4.3インチ液晶パネルを採用!PCエンジンをどこでも楽しむことができる「ポータブルモニター」が登場! |website=GAME Watch |publisher=インプレス |accessdate=2022-04-16}}</ref>。これによって安価に[[PCエンジンLT]]を再現することが可能になった。 === 発売中止 === ; 通信ブースター : 通信ツールというソフトと併用し、NECが運営していたテキストベースの[[パソコン通信]]「[[PC-VAN]]」に接続出来るというもの。[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]も発売されて[[BASIC]]の[[プログラミング]]なども可能になる予定もあった<ref>{{Cite web|url=https://www.chrismcovell.com/secret/sp_tsushinbooster.html |title=Japanese Secrets! - The Tsushin Booster Page |accessdate=2022-04-16}}</ref>。1988年には雑誌の企画として、ホスト用のパソコンと[[電話回線]]を介して、PCエンジン同士の通信や手書き文字の送受信が行われた{{Sfn|鯨武|2023|loc=未発売周辺機器|p=55-58}}が、開発期間が長引き性能が陳腐化したなどの理由で発売中止となる{{Sfn|鯨武|2023|loc=未発売周辺機器|p=55-58}}。 ; XPE-1RGB(仮称) : [[マイコンソフト]]より発売予定だった。本体をRGB接続に対応させる外部接続アダプタ。CD-ROM2との互換性を維持するため、PCエンジン本体の下に積むという独特の接続方法になる。形状の合致しない[[PCエンジンスーパーグラフィックス|スーパーグラフィックス]]、専用バックアップユニット接続端子のみ対応の[[PCエンジンシャトル|シャトル]]、拡張バスの無い[[PCエンジンDuo|Duo]]には非対応<ref name=micomsoft>{{Twitter status|famitakun|783542996830658560|2016年10月5日、マイコンソフト社員の発言}} - {{Accessdate|2016-10-07}}</ref>。 映像出力方法は[[RF接続]]と[[RCA端子]]のみだが、拡張バスには[[RGB]]出力が含まれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://dempa.jp/rgb/heaven/g_pce.html |title=●PCエンジン(PCEngine)|website=東京RGBホスピス |accessdate=2022-04-16}}</ref>。[[電波新聞社]]は、ここからRGB信号を取り出すコネクターの発売を予定していたが企画倒れとなった<ref name=micomsoft /> ため、正規の方法で[[S端子]]やRGB端子への接続は出来ない。 == ソフトウェア == {{Main|PCエンジンのゲームタイトル一覧}} ゲームソフトとして、HuCARDメディアの[[ローンチタイトル]]は『[[上海 (ゲーム)|上海]]』と『[[ビックリマンワールド]]』である。またHuCARDメディアでの最後のタイトルは1994年12月16日発売の『[[21エモン#ゲーム|21エモン めざせホテル王]]』である。 またゲームソフト以外にも事典やカラオケソフトが発売された。 == 反響 == === 販売台数 === 1987年に発売された本機は初年度で60万台を出荷し<ref>[http://id.nii.ac.jp/1060/00000012/ テレビゲーム機の変遷--ファミコン、スーパーファミコン、プレステ、プレステ2、Wiiまで]</ref>、任天堂のファミリーコンピュータが独占状態であった国内家庭用ゲーム機市場では任天堂に次ぐ2番手となった。 * 日本国内出荷台数は1987年度から1995年度まで584万台である<ref>小川純生、「[http://id.nii.ac.jp/1060/00000012/ テレビゲーム機の変遷--ファミコン、スーパーファミコン、プレステ、プレステ2、Wiiまで]」『経営論集』 2011年 77号 p.4, 東洋大学経営学部</ref>。(Huカード機が392万台、CD-ROM(Duo含む)が192万台) * 海外のウェブサイトGamePro [https://web.archive.org/web/20080905175406/http://www.gamepro.com/article/features/111822/the-10-worst-selling-consoles-of-all-time/ The 10 Worst-Selling Consoles of All Time] の推計によると最終的な出荷台数は世界で合計1000万台、北米での約250万台{{要出典範囲|その他の地域(ほぼすべて日本)|date=2017年2月}}750万台<!-- 出典には、ほぼすべて日本といった記載は無いみたいです -->としている。 * NEC-HEの事業部長の本庄、NEC社長(インタビュー時は相談役)の関本のインタビューと資料を基にした[[朝日新聞]]2001年12月1日(夕刊)「ウィークエンド経済 第765号 あの失敗がこう生きた」にて「だが、PCエンジンは世界で580万台売るヒットになる」と書かれている。 * NEC-HE取締役支配人の小林淳二は日経BP社『新世代ゲームビジネス』の117ページで「PC-FXは新世代のゲーム機であるが、従来のPCエンジンを190万台普及させてきた延長線上で地道に売っていく」と発言している。 === 影響と評価 === 1987年当時の家庭用ゲーム機の常識を覆す高速・高性能であり<ref name="scejnews">{{Cite web|和書|url=http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20090715_psstore_pce.html|title=PlayStationStore「ゲームアーカイブス」カテゴリ内にて「PCエンジンアーカイブス」を、本日より取り扱い開始|accessdate=2012-09-21|date=2007-09-15|publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパン ニュースリリース}}</ref>、任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた<ref name="週刊ファミ通700号 『ゲームの歴史』、p.127">週刊ファミ通700号 『ゲームの歴史』、p.127</ref>。1990年代前半の日本市場において、PCエンジンの周辺機器である[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]](シーディーロムロム)は最も普及していた[[CD-ROM]]ゲーム機である。 ; 関係者 : ハドソンの[[中本伸一]]はPCエンジン発売前のインタビューで「任天堂との共存、共栄を目指す」と発言しており、PCエンジンと並行して任天堂のファミリーコンピュータやスーパーファミコンへのソフト供給を続けた。当時任天堂の一強状態であった家庭用ゲーム機市場において初めて二番手市場を築き、それまで家庭用ゲーム機ではファミコンにしか参入していなかったサードパーティがPCエンジンに数多く参入し、任天堂ハードと共存できる市場を作り上げた。 : またハドソンの工藤浩社長(当時)は「成功か失敗か?成功と言えば成功ですよね『PCエンジン』シリーズはトータルで450万台くらい売れて、ソフトも何千万本か売れたんだから。だけど市場から姿を消してしまったし、今ではもう作っていないわけですから、そういう意味で失敗したということもできるかもしれない。少なくともNECにとっては失敗だったかも。ハドソンとしては成功だったように思うけど、本当のことをいうと自分でも成功したのか失敗だったのかよくわからないね<ref name="neccdrom">「ゲーム大国ニッポン 神々の興亡」滝田誠一郎 2000年、p.187,188</ref>」と語っている。 ; ユーザー : 1996年創刊の雑誌『ユーズド・ゲームズ』(後の『[[GAME SIDE]]』)では、PCエンジンの熱狂的な[[ユーザ]]のことを「PCエンジニア」と呼んでいた。この言葉は同誌2号のメガドライブ特集記事で誕生したものである。 ; 外部団体 : 1988年度の商品デザイン部門で[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/14421 |title=電子ゲーム NEC PCEngine PI-TG001 |publisher=[[日本デザイン振興会]] |year=1988 |accessdate=2021-08-21}}</ref>。 その他ファミリーコンピュータとは異なる以下の点が評価されている。 ; 多人数プレイ : コア構想の一環として、NEC-HEより本体と同時に発売されたマルチタップを使用することにより、対応するゲームでは最大5人まで遊べるようになる。ハドソンからは5人同時プレイ対応のアクションRPG『[[ダンジョンエクスプローラー]]』が発売された他、[[日本コンピュータシステム]]からはレースゲームの『[[モトローダー]]』が発売され、ナムコの『[[プロテニス ワールドコート]]』ではファミコンの『[[ファミリーテニス]]』では実現しなかった4人同時プレイによるダブルス対戦が可能になった。その後、ハドソンの代表作となる『[[ボンバーマンシリーズ]]』や『[[桃太郎電鉄シリーズ]]』はマルチタップに対応することでパーティゲームとしてのジャンルを確立させ、「パーティゲームの定番」として21世紀初頭現在に至るまで新作が発売され続けている。ハドソンの中本伸一はボンバーマンシリーズについて「本当にラッキーだったのが、PCエンジンにマルチタップがあったことです」「5人プレイが出来るハードに移植された段階で全く新しいボンバーマンの歴史がスタートした」と、PCエンジン版の『[[ボンバーマン (PCエンジン)|ボンバーマン]]』とマルチタップを評している<ref>『スーパーボンバーマン公式ガイドブック』小学館 P.107</ref>。 ; 先進性 : PCエンジンは家庭用ゲーム機として世界で初めてCD-ROMを採用したゲーム機であり{{R|scejnews}}、PCエンジンが世に送り出したCD-ROMゲーム機の思想はその後のゲーム機にも受け継がれていった<ref name="neccdrom" />。元NECアベニューの[[多部田俊雄]]は後に、「CD-ROMシステムは200万台近く売れた。PCエンジンがなければ全世界規模でCD-ROMの普及が1年は遅れていたでしょう<ref name="usedgames" />」と語っている<ref>「週刊ファミ通」、エンターブレイン、2006年6月16日号23ページ</ref>。またNEC(当時)の後藤富雄は「他のメーカーに先駆けてCD-ROMを採用したことに対しては、私としてはそれなりの自負がある<ref name="neccdrom" />」と述べている。 ; ゲームジャンルの拡大 : PCエンジン専門誌の[[PC Engine FAN]]では「『[[R-TYPE]]』や『[[ドラゴンスピリット]]』。ほんとうにほしいゲームがよくそろっていました。その後、『[[ドラゴンナイト]]II』『[[卒業 (ゲーム)|卒業]]』『[[ときめきメモリアル]]』が登場。こういった今は[[ギャルゲー]]と呼ばれるソフトがゲーム機で遊べるようになったのもPCエンジンの功績です。」という評価を受けている<ref>[[PC Engine FAN]]1996年10月号、134ページ『「月刊PCエンジンファン」刊行変更のごあいさつ』</ref>。 == 広告 == メディア展開としてテレビの専門番組にハドソンが提供・協力、一部は日本電気ホームエレクトロニクスも提供をしている。それに加え広報の一つとしてPCエンジン発売に合わせファミコンソフトのイベントだった[[ハドソン#ハドソン全国キャラバン|ハドソン全国キャラバン]]の課題ゲームをPCエンジン用に切り替えており、『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』の[[タイアップ]]記事や[[さくまあきら]]が担当した『[[週刊少年ジャンプ]]』の[[ジャンプ放送局|読者コーナー]]など、影響下にあるメディアでPCエンジンの話題を多く取り上げた。 また[[富士見ファンタジア文庫]]から1990年2月に刊行された『悪の江ノ島大決戦』([[とまとあき]]・塚本裕美子著)では、当時発売直後のシャトルやスーパーグラフィックスなどが作中のアイテムとして登場し、ゲーム機本体と[[ライトノベル]]という、[[タイアップ]]が行われた。 === テレビ番組 === * [[さきどり!PC遊び塾]] * [[大竹まことのただいま!PCランド]] * [[聖PCハイスクール]] * [[そのまんま東のバーチャル情報局]] * [[ダウンタウンのゆーたもん勝ち]] * [[そのまんま東のバーチャルZ]] === 専門誌 === * [[月刊PCエンジン]]([[小学館]]) * [[マル勝PCエンジン]]([[角川書店]]) * [[電撃G's magazine#雑誌の沿革|電撃PCエンジン]]([[メディアワークス]]) * [[PC Engine FAN]]([[徳間書店インターメディア]]) * [[ファミ通|ファミコン通信]]増刊 PCエンジン通信([[アスキー (企業)|アスキー]]) == 販売終了後の展開 == 本機の製造終了後には実機を使用せずにゲームを遊べる環境を各社が提供している。 === ダウンロード販売サービス === * [[ドリームライブラリ]] - 2000年6月1日、セガとの提携により配信された。2003年1月31日にサービス終了。 * [[プロジェクトEGG]] - Windows PC向けのレトロゲーム配信サービス。2003年よりラインナップが追加されている。 * [[バーチャルコンソール]] - 2006年12月2日、任天堂との提携により[[Wii]]向けに配信されている。2013年12月25日からは[[ニンテンドー3DS]]向け、[[Wii U]]向けも配信を開始。3DSとWii Uの場合、ソフトにカーソルを合わせるとコナミのサウンドロゴが流れる。Wii版は2019年1月31日14時59分を以ってサービス終了した。 * PCエンジンアーカイブス - 2009年7月15日、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]との提携により[[PlayStation 3]]・[[PlayStation Vita]]のダウンロード販売サービスである[[ゲームアーカイブス]]にて配信されている<ref name="scejnews" />([[PlayStation Portable]]向けは2016年3月31日に、[[Media Go]]からのダウンロードも2017年12月にサービス終了、以降はPlayStation 3を介してのダウンロードとなる)。 * PC Engine GameBox - 2010年12月20日、[[iOS]]用ソフト[[PC Engine GameBox]](発売元:ハドソン)のダウンロード配信が始まった。『パワースポーツ』以外のゲームはアドオン購入となる。 * PCエンジンライブラリー - 2014年4月より[[Windowsストア]]にてダウンロード販売が始まった。 === クラウドサービス === * PCエンジンライブラリー - 2013年6月20日に発売された[[クラウドゲーム]]機「[[ブロードメディア#G-cluster|G-cluster]]」向けのサービスとして開始。数本を一つにまとめたセット購入となる。 === 復刻型ゲーム機 === {{Main|PCエンジン mini}} 2019年には、ゲームソフトを内蔵した小型復刻版「[[PCエンジン mini]]」の販売が、[[コナミデジタルエンタテインメント]](KDE){{Efn|2012年にハドソンは[[コナミデジタルエンタテインメント]]に吸収合併されたため、その後は同社が権利を保有した。}}より正式発表され<ref name="denfami20190612">[https://news.denfaminicogamer.jp/news/190612k コナミ、「PCエンジン mini」を正式発表。1987年に生まれた世界初のCD-ROM対応ゲーム機が現代に蘇る],電ファミニコゲーマー,2019年6月12日</ref>、2020年3月19日に発売された。 58本のゲームがプリインストールソフトとして収録されている。また、北米市場向けに「TurboGrafx-16 mini」、欧州市場向けに「PC Engine CoreGrafx mini」がリリースされている。 == その他 == *2019年現在、「PCEngine」という商標名はコナミデジタルエンタテインメント(KDE)および[[BIGLOBE|ビッグローブ]]の[[登録商標]](第2272123号ほか)となっている<ref name="denfami20190612" /><ref>[[特許庁]]の「特許情報プラットフォーム」[https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/all/top/BTmTopSearchPage.action] において、「PCEngine」を「商標を探す」で検索した結果(2015年6月21日閲覧)</ref><ref>{{Twitter status|BIGLOBE|1138650953870000128}}</ref>(「PCエンジン」では商標登録されていない)。発売当時はハドソンおよびNEC-HEが商標などの諸権利を保持していたが、ハドソンは2012年にKDEに吸収合併され、NEC-HEは2001年の会社解散に伴って権利関係が親会社のNECを経て2006年にNECから分社したビッグローブ{{Efn|2014年3月まではNECビッグローブ。同年に[[日本産業パートナーズ]]へ売却された後、2016年に[[KDDI]]へ売却された。}}へ承継されたためである。なお、「PCエンジン mini」の著作権表記にはKDEおよびビッグローブの2社が表示されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1906/12/news131.html|title=「PCエンジン」の商標を、BIGLOBEが持ってるワケ|accessdate=2019-06-12|publisher=ITmedia(2019年6月12日作成)}}</ref>が、その後にビッグローブは削除された<ref>[https://www.konami.com/games/pcemini/jp/ja/ PCエンジン mini 公式サイト](2019年8月25日閲覧)</ref>(理由は不明)。 *[[PC-8800シリーズ|PC-88VA]]の[[オペレーティングシステム|OS]]を「PC-Engine」と呼ぶが、PCエンジンとの関係はない。 *同様のコンセプトを持つ品として、テクナート(業務用基板を取り扱う会社)より「PCメイト」というRGB出力/業務用筐体に接続できる機能を持つ基板が販売されていた。発売当時にはゲーメストに広告が載っていたが、価格が2万円と高価だった。同基板をさらに改造し、業務用として設置できるようクレジット機能(コインの投入数分だけRUNボタンの押下を受け付ける)を搭載したものも存在した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |title=PCエンジン&メガドライブ発売中止ゲーム図鑑(ゲームラボ選書)|publisher=三才ブックス|location=東京|isbn=978-4-86673-359-3 |oclc=1373376760 |author=鯨武長之介|date=2023-03-22 |ref={{SfnRef|鯨武|2023}} }} == 関連項目 == * [[PC Engine Best Collection]] * [[PC Engine GameBox]] * [[PCエンジン mini]] * [[Project Engine]] == 外部リンク == {{Commonscat|PC Engine}} * {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/gamenavi/psp/pce-best/index.html|title=PC Engine Best Collection - ハドソン公式サイト|date=20081115020207}} * {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/pcea/jpn/index.html|title=HUDSON's PC Engine Archives - ハドソン公式サイト|date=20100929000726}} ** {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/pcea/jpn/about.html|title=PCエンジンアーカイブスとは? - ハドソン公式サイト|date=20101012055845}} * [https://www.jp.playstation.com/psn/store/gamestore/archives/ ゲームアーカイブス なつかしの名作ゲームソフトを楽しもう! プレイステーションR オフィシャルサイト] * [https://www.konami.com/games/pcemini/ PCエンジン mini 公式サイト] {{家庭用ゲーム機/NEC}} {{DEFAULTSORT:ひいしいえんしん}} [[Category:PCエンジン|*1]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1987年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:ハドソン]] [[Category:1980年代の玩具]] [[Category:グッドデザイン賞]] [[Category:アセンブリ言語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/PC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
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3DO
3DO(スリーディーオー)は、以下のいずれかを指す。 本項では上記の3つについて述べる。 The 3DO Companyは、1990年にエレクトロニック・アーツ(以下、EA)の創始者の一人トリップ・ホーキンスがゲーム機プラットホーム開発を目的に設立したアメリカ合衆国の企業である。元々はSMSG(San Mateo Software Group)という名前だった。「3DO」の「3D」は3次元(3 Dimension)、そして、オーディオ(Audio)やビデオ(Video)のように一般的なものになるように願って、両者に共通する最後の一文字「O」をつけられた。 1993年に32ビットマルチメディア端末の統一規格「3DO」を開発・発表し、北米のマスコミを通じて「マルチメディア」時代の到来を宣伝した。3DO社は自社ではハードを製造せず、ライセンスを提供した電機メーカーからハードをリリースし、ハードおよびソフトが売れるたびにロイヤリティを徴収するというビジネスモデルをとった。またトリップ・ホーキンスがEAの設立者でもあることから、EAが事実上のセカンドパーティとして機能した。だが、リリースされた3DOハードの高額さ、サードパーティー製のソフトの数の不足など複数の要因が重なり競合機にシェアを奪われ、会社設立からほどなくしてThe 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。 日本では1994年3月20日に、スプライトや動画再生能力を持つ32ビットゲーム機の先駆けとして、3DO規格機「3DO REAL」を松下電器がパナソニックブランドでインタラクティブ・マルチプレイヤーという家電製品の一種として発売した。当初の発表された希望小売価格は79,800円で、実際には54,800円で発売された。イメージキャラクターには3DCGで描かれ、「なんか言った?」と呟くアインシュタインが使用された。 ライセンシーである松下電器は、1993年1月7日から開催された'93冬期コンシューマー・エレクトロニクス・ショーで、3DO本体、ゲームのデモ映像を出展した。さらにThe 3DO Companyは、当時の北米ハード業界を二分していたセガや任天堂より安いロイヤリティでゲームソフトのサードパーティーを呼び集め、松下電器が北米と日本でプロモーションを行い知名度を上げた。後に三洋電機からも「3DO TRY」が発売された。 3DO REALは発売直後は品切れが続出し、4月末までに約10万台を出荷するが5月に入ると売上は伸び悩み、7月末までに18万台を出荷するにとどまった。また、3DO REALが発売されてから約半年後の11月には「セガサターン」(以下、SS)、12月には「PlayStation」(以下、PS)などの競合機が発売され、それに対抗するため、高額だった本体も設計見直しによる改良機「3DO REAL II」を44,800円で販売するなど普及戦略を仕掛けたが、洋ゲーと国内中小のサードパーティーが開発した版権キャラクターもののタイトルで占めていた3DOは早くも抜かれてしまう。 1995年には北米および日本にてSSやPSが普及し、The 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。 3DOの権利を得た松下電器は北米で1996年2月より3DO REALの価格を下げるが、ハードの高価さ、サードパーティーの支持の少なさ、ソフトの少なさ、競合機の普及などの要因が重なり、販売台数を伸ばせず、3DOは1996年中に市場から姿を消した。 1996年4月には松下電器のゲーム事業を担当するパナソニック・ワンダーテインメント社を設立し、同時に「Panasonic M2」と称する次世代機のプロモーションを開始した。M2端末は1997年4月から6月の発売とされており、旧来の3DO端末ユーザーにも何らかのアップグレード施策が約束された。1997年には松下電器とLG電子(旧・金星電子、現・LGエレクトロニクス)からM2端末のプロトタイプ機の発表もなされた。しかし、その頃には競合機のPSが普及しており、松下電器は次世代機の展開を断念。1997年6月にはゲーム事業からの撤退を表明し、3DOに関する全てのプロジェクトを終結させた。3DO M2のローンチタイトルとしてワープが『Dの食卓2』の開発を表明し、プロモーションビデオも公開され1996年夏に発売予定とされたが、3DOの終息により開発は中止された。結局パナソニック・ワンダーテインメント社からはソフトとハード共に発売されずに終わった。 なお、松下電器がThe 3DO Companyから買収したM2のアーキテクチャは、松下電器の業務用端末や自動販売機などの組み込み用基板として主に流用され、ゲーム用途としてはコナミのアーケードゲーム基板として一部採用された。またパナソニック・ワンダーテインメント社は他社ハード向けのソフトウェア開発に転換したが、実際に開発が行われる事が無いまま1999年に清算された。一方The 3DO Companyはその後、ゲームメーカーとしてセガサターン(SS)やPlayStation(PS)、PC用のソフトを開発・発売していた。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。 東芝やAT&Tなどかなり多くの企業が3DO端末の発売に意欲を示したが3DO端末を発売したのは、最終的には松下電器(Panasonic)、三洋電機(Sanyo)、金星社(Goldstar)の3社だけで、ほかにはクリエイティブ・テクノロジーがPCカードの形で販売を行ったに留まっている。北米市場・日本市場ともに、松下電器の機種「3DO REAL」が最もよく知られている。遅れてサムスン電子(Samsung)も3DO端末の発売を表明したが、ハードを発売する前に3DOが終息してしまったため、モックアップが公開されたのみである。 The 3DO Companyの主なゲームソフトとしては、『突撃!アーミーマン 史上最小の作戦』、マイト・アンド・マジックシリーズ、『Meridian 59』、『Cubix Robots for Everyone』などがある。 日本で発売された初期のゲームソフトの大半はエレクトロニック・アーツ・ビクター(EAV、現・エレクトロニック・アーツ日本法人)らによる「洋ゲー」の日本語版だった。 3DOはEAの他にもサードパーティーとしてコナミやクリスタル・ダイナミックス、フューチャー・パイレーツ、カプコン、ワープなどが参加した。 フューチャー・パイレーツの高城剛は1994年当時の日本のテレビ等で3DOを賞賛。『チキチキマシン猛レース』などを製作。3DO一社提供のTV番組「高城剛X」(テレビ東京)を制作・出演した。 カプコンが発売した『スーパーストリートファイターII X』は国内のコンシューマソフトとしては発売されていなかったこともありキラーソフトとなった。 1995年4月、ワープの飯野賢治が制作した『Dの食卓』や家庭用ゲーム機に初めて移植された同年9月末発売でコナミの小島秀夫が制作した『ポリスノーツ』は話題を集めた。 なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『メタルギアソリッド』と改変のうえ発売された。 3DOでは実写のアダルトゲームの発売があり、海外タイトルではポルノ女優の静止画や動画を再生するもの、国産では脱衣麻雀ものや野球拳による脱衣ゲーム類、美少女ゲームが発売されている。再生対応としていたビデオCDはLDと比べ画質が劣ることもあり、日本では専らアダルトビデオ系統の正規タイトルが多かったため、これを逆手に取り、ナイステックの「ROBO」が発売されラブホテルのサービス機器として実用化された。 3DOソフトとして製作された一部のタイトルはPSやSSで移植版が発売され、更に『テーマパーク』などのその一部はゲームアーカイブス配信タイトルとなり現在もプレイ可能である。 自主規制によるレイティングシステムが定められた。 1994年当時の北米での主な競合機である任天堂・SNESやセガ・Genesisと比べてハードウェアの性能は高く、タイム誌によって"1994 Product of the Year"に選出されている。 しかし、ハードのプロモーションを事実上一手に担った松下電器は規格提唱社でもゲームメーカーでもないハードウェアメーカーであり、プロモーションでも「インタラクティブ」や「マルチメディア」を強調するのみで、肝心のソフトの宣伝を行わなかった。また競合ゲーム機のように「ハードを赤字覚悟で販売し、ソフトの売り上げやサードパーティーからのロイヤリティで補填する」というビジネスモデルを取れずハードのみで利益を得る必要があった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。松下電器は地域専門店、いわゆる「ナショナルショップ」での販売も行ったので、メーカーに対する発言力の強いこれらの店が儲かる施策が必要で、競合機のような積極的な値引き販売ができなかった。三洋電機の販売した「3DO TRY」の実売価格は3DO REALと比較して安価だったが、松下よりもさらに販路が弱い三洋の家電の販路を利用して販売されたため、非常に流通量が限られた。このように発売当初の3DO端末は旧来の家電製品のビジネスモデルから脱却できなかった。 そのため競合ゲーム機と比べて高価格設定となり、輸出先のアメリカでは699ドル、欧州へ輸出した時にはEUから、ゲーム機ではなく関税が高い「情報家電」として認定されたので、価格がさらに高くなった。「安価なゲーム機」ではなく「高価格なマルチメディア機」というコンセプトは、普及の大きな妨げとなった。結果としてハイエンドゲーマーしか手を出さなかった。松下電器は「3DOがこれほど高価格なのは、これが単なるゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチプレイヤーだからである」と主張してその価格を正当化した。 3DOはEAの他にもサードパーティとしてコナミやクリスタル・ダイナミックスなどの大手メーカーの支持を受けた。しかし、他のサードパーティの支持がそれほど集まらなかったため、ゲームの本数自体が少なかった。またメガCDのタイトルをそのまま3DOに移植した『ナイト・トラップ』など、「インタラクティブ・ムービー」と称して動画を再生するタイトルはゲーム性の低いものが多く、3DOが売りにした「マルチメディア」にしても、3DOが標準で再生できるデジタルムービーは品質が低く、ビデオCD規格の動画の再生を可能にするには周辺機器のビデオCDアダプター(MPEG1デコーダ)を追加で購入する必要があった。なお、インタラクティブ・ムービーものの一部タイトルには「3DO VIDEO」とパッケージに表記された。 上記の理由から、3DO REALはローンチに失敗。3DOは北米の大手ゲーム雑誌であるエレクトロニック・ゲーミング・マンスリーによって"Worst Console Launch of 1993"に選出されている。 このように日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが弱く、その結果、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」「洋ゲー主流で取りつきにくいマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥った。「ゲームに留まらない」という方向性のため多くのゲーム雑誌でも扱いは他のゲーム機と同格ではなく、別枠で便宜的に紹介されるだけだったのも一般への認知度の広がりを阻害した。任天堂の山内溥は、当時開発中の3DOについて、NHKの取材の中でソフトメーカー、流通関係者などから、「発売前から消されることが確定した」と言われており、ユーザーはハードを求めているのではなく、独創的な楽しさをもつソフトであり、自らの意見としても3DOは99.99%駄目だと酷評した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "3DO(スリーディーオー)は、以下のいずれかを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では上記の3つについて述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "The 3DO Companyは、1990年にエレクトロニック・アーツ(以下、EA)の創始者の一人トリップ・ホーキンスがゲーム機プラットホーム開発を目的に設立したアメリカ合衆国の企業である。元々はSMSG(San Mateo Software Group)という名前だった。「3DO」の「3D」は3次元(3 Dimension)、そして、オーディオ(Audio)やビデオ(Video)のように一般的なものになるように願って、両者に共通する最後の一文字「O」をつけられた。", "title": "The 3DO Company" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1993年に32ビットマルチメディア端末の統一規格「3DO」を開発・発表し、北米のマスコミを通じて「マルチメディア」時代の到来を宣伝した。3DO社は自社ではハードを製造せず、ライセンスを提供した電機メーカーからハードをリリースし、ハードおよびソフトが売れるたびにロイヤリティを徴収するというビジネスモデルをとった。またトリップ・ホーキンスがEAの設立者でもあることから、EAが事実上のセカンドパーティとして機能した。だが、リリースされた3DOハードの高額さ、サードパーティー製のソフトの数の不足など複数の要因が重なり競合機にシェアを奪われ、会社設立からほどなくしてThe 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。", "title": "The 3DO Company" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本では1994年3月20日に、スプライトや動画再生能力を持つ32ビットゲーム機の先駆けとして、3DO規格機「3DO REAL」を松下電器がパナソニックブランドでインタラクティブ・マルチプレイヤーという家電製品の一種として発売した。当初の発表された希望小売価格は79,800円で、実際には54,800円で発売された。イメージキャラクターには3DCGで描かれ、「なんか言った?」と呟くアインシュタインが使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ライセンシーである松下電器は、1993年1月7日から開催された'93冬期コンシューマー・エレクトロニクス・ショーで、3DO本体、ゲームのデモ映像を出展した。さらにThe 3DO Companyは、当時の北米ハード業界を二分していたセガや任天堂より安いロイヤリティでゲームソフトのサードパーティーを呼び集め、松下電器が北米と日本でプロモーションを行い知名度を上げた。後に三洋電機からも「3DO TRY」が発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "3DO REALは発売直後は品切れが続出し、4月末までに約10万台を出荷するが5月に入ると売上は伸び悩み、7月末までに18万台を出荷するにとどまった。また、3DO REALが発売されてから約半年後の11月には「セガサターン」(以下、SS)、12月には「PlayStation」(以下、PS)などの競合機が発売され、それに対抗するため、高額だった本体も設計見直しによる改良機「3DO REAL II」を44,800円で販売するなど普及戦略を仕掛けたが、洋ゲーと国内中小のサードパーティーが開発した版権キャラクターもののタイトルで占めていた3DOは早くも抜かれてしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1995年には北米および日本にてSSやPSが普及し、The 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機NINTENDO64の発売を目前に控えた1995年末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった64ビット規格の次世代機「M2」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "3DOの権利を得た松下電器は北米で1996年2月より3DO REALの価格を下げるが、ハードの高価さ、サードパーティーの支持の少なさ、ソフトの少なさ、競合機の普及などの要因が重なり、販売台数を伸ばせず、3DOは1996年中に市場から姿を消した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1996年4月には松下電器のゲーム事業を担当するパナソニック・ワンダーテインメント社を設立し、同時に「Panasonic M2」と称する次世代機のプロモーションを開始した。M2端末は1997年4月から6月の発売とされており、旧来の3DO端末ユーザーにも何らかのアップグレード施策が約束された。1997年には松下電器とLG電子(旧・金星電子、現・LGエレクトロニクス)からM2端末のプロトタイプ機の発表もなされた。しかし、その頃には競合機のPSが普及しており、松下電器は次世代機の展開を断念。1997年6月にはゲーム事業からの撤退を表明し、3DOに関する全てのプロジェクトを終結させた。3DO M2のローンチタイトルとしてワープが『Dの食卓2』の開発を表明し、プロモーションビデオも公開され1996年夏に発売予定とされたが、3DOの終息により開発は中止された。結局パナソニック・ワンダーテインメント社からはソフトとハード共に発売されずに終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、松下電器がThe 3DO Companyから買収したM2のアーキテクチャは、松下電器の業務用端末や自動販売機などの組み込み用基板として主に流用され、ゲーム用途としてはコナミのアーケードゲーム基板として一部採用された。またパナソニック・ワンダーテインメント社は他社ハード向けのソフトウェア開発に転換したが、実際に開発が行われる事が無いまま1999年に清算された。一方The 3DO Companyはその後、ゲームメーカーとしてセガサターン(SS)やPlayStation(PS)、PC用のソフトを開発・発売していた。そして2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東芝やAT&Tなどかなり多くの企業が3DO端末の発売に意欲を示したが3DO端末を発売したのは、最終的には松下電器(Panasonic)、三洋電機(Sanyo)、金星社(Goldstar)の3社だけで、ほかにはクリエイティブ・テクノロジーがPCカードの形で販売を行ったに留まっている。北米市場・日本市場ともに、松下電器の機種「3DO REAL」が最もよく知られている。遅れてサムスン電子(Samsung)も3DO端末の発売を表明したが、ハードを発売する前に3DOが終息してしまったため、モックアップが公開されたのみである。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "The 3DO Companyの主なゲームソフトとしては、『突撃!アーミーマン 史上最小の作戦』、マイト・アンド・マジックシリーズ、『Meridian 59』、『Cubix Robots for Everyone』などがある。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本で発売された初期のゲームソフトの大半はエレクトロニック・アーツ・ビクター(EAV、現・エレクトロニック・アーツ日本法人)らによる「洋ゲー」の日本語版だった。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "3DOはEAの他にもサードパーティーとしてコナミやクリスタル・ダイナミックス、フューチャー・パイレーツ、カプコン、ワープなどが参加した。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "フューチャー・パイレーツの高城剛は1994年当時の日本のテレビ等で3DOを賞賛。『チキチキマシン猛レース』などを製作。3DO一社提供のTV番組「高城剛X」(テレビ東京)を制作・出演した。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カプコンが発売した『スーパーストリートファイターII X』は国内のコンシューマソフトとしては発売されていなかったこともありキラーソフトとなった。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1995年4月、ワープの飯野賢治が制作した『Dの食卓』や家庭用ゲーム機に初めて移植された同年9月末発売でコナミの小島秀夫が制作した『ポリスノーツ』は話題を集めた。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『メタルギアソリッド』と改変のうえ発売された。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "3DOでは実写のアダルトゲームの発売があり、海外タイトルではポルノ女優の静止画や動画を再生するもの、国産では脱衣麻雀ものや野球拳による脱衣ゲーム類、美少女ゲームが発売されている。再生対応としていたビデオCDはLDと比べ画質が劣ることもあり、日本では専らアダルトビデオ系統の正規タイトルが多かったため、これを逆手に取り、ナイステックの「ROBO」が発売されラブホテルのサービス機器として実用化された。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "3DOソフトとして製作された一部のタイトルはPSやSSで移植版が発売され、更に『テーマパーク』などのその一部はゲームアーカイブス配信タイトルとなり現在もプレイ可能である。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "自主規制によるレイティングシステムが定められた。", "title": "ソフトタイトル" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1994年当時の北米での主な競合機である任天堂・SNESやセガ・Genesisと比べてハードウェアの性能は高く、タイム誌によって\"1994 Product of the Year\"に選出されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、ハードのプロモーションを事実上一手に担った松下電器は規格提唱社でもゲームメーカーでもないハードウェアメーカーであり、プロモーションでも「インタラクティブ」や「マルチメディア」を強調するのみで、肝心のソフトの宣伝を行わなかった。また競合ゲーム機のように「ハードを赤字覚悟で販売し、ソフトの売り上げやサードパーティーからのロイヤリティで補填する」というビジネスモデルを取れずハードのみで利益を得る必要があった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。松下電器は地域専門店、いわゆる「ナショナルショップ」での販売も行ったので、メーカーに対する発言力の強いこれらの店が儲かる施策が必要で、競合機のような積極的な値引き販売ができなかった。三洋電機の販売した「3DO TRY」の実売価格は3DO REALと比較して安価だったが、松下よりもさらに販路が弱い三洋の家電の販路を利用して販売されたため、非常に流通量が限られた。このように発売当初の3DO端末は旧来の家電製品のビジネスモデルから脱却できなかった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そのため競合ゲーム機と比べて高価格設定となり、輸出先のアメリカでは699ドル、欧州へ輸出した時にはEUから、ゲーム機ではなく関税が高い「情報家電」として認定されたので、価格がさらに高くなった。「安価なゲーム機」ではなく「高価格なマルチメディア機」というコンセプトは、普及の大きな妨げとなった。結果としてハイエンドゲーマーしか手を出さなかった。松下電器は「3DOがこれほど高価格なのは、これが単なるゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチプレイヤーだからである」と主張してその価格を正当化した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "3DOはEAの他にもサードパーティとしてコナミやクリスタル・ダイナミックスなどの大手メーカーの支持を受けた。しかし、他のサードパーティの支持がそれほど集まらなかったため、ゲームの本数自体が少なかった。またメガCDのタイトルをそのまま3DOに移植した『ナイト・トラップ』など、「インタラクティブ・ムービー」と称して動画を再生するタイトルはゲーム性の低いものが多く、3DOが売りにした「マルチメディア」にしても、3DOが標準で再生できるデジタルムービーは品質が低く、ビデオCD規格の動画の再生を可能にするには周辺機器のビデオCDアダプター(MPEG1デコーダ)を追加で購入する必要があった。なお、インタラクティブ・ムービーものの一部タイトルには「3DO VIDEO」とパッケージに表記された。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上記の理由から、3DO REALはローンチに失敗。3DOは北米の大手ゲーム雑誌であるエレクトロニック・ゲーミング・マンスリーによって\"Worst Console Launch of 1993\"に選出されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このように日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが弱く、その結果、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」「洋ゲー主流で取りつきにくいマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥った。「ゲームに留まらない」という方向性のため多くのゲーム雑誌でも扱いは他のゲーム機と同格ではなく、別枠で便宜的に紹介されるだけだったのも一般への認知度の広がりを阻害した。任天堂の山内溥は、当時開発中の3DOについて、NHKの取材の中でソフトメーカー、流通関係者などから、「発売前から消されることが確定した」と言われており、ユーザーはハードを求めているのではなく、独創的な楽しさをもつソフトであり、自らの意見としても3DOは99.99%駄目だと酷評した。", "title": "評価" } ]
3DO(スリーディーオー)は、以下のいずれかを指す。 かつて存在したアメリカのコンピュータゲーム開発企業であるThe 3DO Company 同社の提唱したマルチメディア端末規格である3DO system 3DO規格を満たしたマルチメディア機である3DO Interactive Multiplayer 本項では上記の3つについて述べる。
{{出典の明記|date=2018年6月}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = 3DO |ロゴ =[[ファイル:3DO Logo.svg|100px]] |画像 = [[ファイル:3DO-FZ1-Console-Set.png|300px]] |画像コメント = Panasonic 3DO REAL |メーカー = [[パナソニック|松下電器産業]]<br />[[三洋電機]]<br />[[LGエレクトロニクス|金星社]]<br />(ライセンス供給元:The 3DO Company) |種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]] |世代 = [[ゲーム機#第5世代|第5世代]] |発売日 = {{Flagicon|USA}}{{flagicon|Canada}} [[1993年]][[10月4日]]<br />{{flagicon|JPN}} [[1994年]][[3月20日]]<br />{{flagicon|EU}} [[1994年]] |CPU = |GPU = |メディア = [[CD-ROM]] |ストレージ = メモリーユニット |コントローラ = ケーブル |外部接続端子 = |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 72万台<ref name=koubou>オークラ出版「家庭用ゲーム機興亡史」167頁</ref><br />{{Flagicon|USA}} 63万台<br />[[ファイル:Map projection-Eckert IV.png|26px]] 200万台<ref name=koubou /> |最高売上ソフト = |互換ハード = 3DO TRY<br />3DO ALIVE<br />3DOブラスター |前世代ハード = |次世代ハード = [[3DO M2]](Panasonic M2) }} '''3DO'''(スリーディーオー)は、以下のいずれかを指す。 * かつて存在した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[コンピュータゲーム]]開発企業である'''The 3DO Company''' * 同社の提唱した[[マルチメディア機|マルチメディア端末]]規格である'''3DO system''' * 3DO規格を満たしたマルチメディア機である'''3DO Interactive Multiplayer''' 本項では上記の3つについて述べる。 == The 3DO Company == [[File:3DO Company logo.png|thumb|250px|The 3DO Companyのロゴ]] {{Anchors|3DO社}}The 3DO Companyは、[[1990年]]に[[エレクトロニック・アーツ]](以下、EA)の創始者の一人[[トリップ・ホーキンス]]が[[ゲーム機]]プラットホーム開発を目的に設立した[[アメリカ合衆国]]の企業である。元々はSMSG(San Mateo Software Group)という名前だった。「3DO」の「3D」は3次元(''3 Dimension'')、そして、オーディオ(''Audio'')やビデオ(''Video'')のように一般的なものになるように願って、両者に共通する最後の一文字「O」をつけられた。 1993年に[[32ビット]]マルチメディア端末の統一規格「3DO」を開発・発表し、北米のマスコミを通じて「[[マルチメディア]]」時代の到来を宣伝した。3DO社は自社ではハードを製造せず、ライセンスを提供した電機メーカーからハードをリリースし、ハードおよびソフトが売れるたびにロイヤリティを徴収するというビジネスモデルをとった。またトリップ・ホーキンスがEAの設立者でもあることから、EAが事実上のセカンドパーティとして機能した。だが、リリースされた3DOハードの高額さ、サードパーティー製のソフトの数の不足など複数の要因が重なり競合機にシェアを奪われ、会社設立からほどなくしてThe 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機[[NINTENDO64]]の発売を目前に控えた[[1995年]]末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった[[64ビット]]規格の次世代機「[[3DO M2|M2]]」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。そして[[2003年]]5月に[[連邦倒産法第11章]]を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。 === 3DO社の主なゲームソフト === *[[突撃!アーミーマン 史上最小の作戦]] *[[マイト・アンド・マジック]]シリーズ *Meridian 59 *Cubix Robots for Everyone == 歴史 == 日本では[[1994年]]3月20日に、[[スプライト (映像技術)|スプライト]]や動画再生能力を持つ32ビットゲーム機の先駆けとして、3DO規格機「3DO REAL」を松下電器がパナソニックブランドでインタラクティブ・マルチプレイヤーという家電製品の一種として発売した<ref name="famitsu20200320">{{Cite web|url=https://www.famitsu.com/news/202003/20194950.html|title=3DO REALが日本で発売された日。『スパIIX』や『Dの食卓』、『ポリスノーツ』がいち早く遊べた大手電機メーカー開発の変わり種ハード【今日は何の日?】|accessdate=2020-05-30|publisher=KADOKAWA|author=ウワーマン|date=2020-03-20|website=ファミ通}}</ref>。当初の発表された希望小売価格は79,800円で、実際には54,800円で発売された。イメージキャラクターには3DCGで描かれ、「なんか言った?」と呟く[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]が使用された。 ライセンシーである[[パナソニック|松下電器]]は、1993年[[1月7日]]から開催された'93冬期[[コンシューマー・エレクトロニクス・ショー]]で、3DO本体、ゲームのデモ映像を出展した。さらにThe 3DO Companyは、当時の北米ハード業界を二分していた[[セガ]]や[[任天堂]]より安いロイヤリティでゲームソフトの[[サードパーティー]]を呼び集め、松下電器が北米と日本でプロモーションを行い知名度を上げた。後に[[三洋電機]]からも「3DO TRY」が発売された。 3DO REALは発売直後は品切れが続出し、4月末までに約10万台を出荷するが5月に入ると売上は伸び悩み、7月末までに18万台を出荷するにとどまった<ref>「松下、リアル販売不振の現実-マルチメディア事業戦略に暗雲」日経産業新聞、1994年8月31日、1頁。</ref>。また、3DO REALが発売されてから約半年後の11月には「[[セガサターン]]」(以下、SS)、12月には「[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]」(以下、PS)などの競合機が発売され、それに対抗するため、高額だった本体も設計見直しによる改良機「3DO REAL II」を44,800円で販売するなど普及戦略を仕掛けたが、洋ゲーと国内中小のサードパーティーが開発した版権キャラクターもののタイトルで占めていた3DOは早くも抜かれてしまう。 1995年には北米および日本にてSSやPSが普及し、The 3DO Companyの業績は悪化。任天堂の次世代機[[NINTENDO64]]の発売を目前に控えた[[1995年]]末にThe 3DO Companyは3DOと開発中だった[[64ビット]]規格の次世代機「[[3DO M2|M2]]」の権利を松下電器へ売却してハード事業から撤退、ゲームメーカーとしてSSやPS、PC用のソフトを開発・発売した。 3DOの権利を得た松下電器は北米で1996年2月より3DO REALの価格を下げるが、ハードの高価さ、サードパーティーの支持の少なさ、ソフトの少なさ、競合機の普及などの要因が重なり、販売台数を伸ばせず、3DOは1996年中に市場から姿を消した。 === 次世代機の頓挫 === 1996年4月には松下電器のゲーム事業を担当するパナソニック・ワンダーテインメント社を設立し、同時に「[[3DO M2|Panasonic M2]]」と称する次世代機のプロモーションを開始した。M2端末は1997年4月から6月の発売とされており、旧来の3DO端末ユーザーにも何らかのアップグレード施策が約束された。1997年には松下電器とLG電子(旧・金星電子、現・[[LGエレクトロニクス]])からM2端末のプロトタイプ機の発表もなされた。しかし、その頃には競合機のPSが普及しており、松下電器は次世代機の展開を断念。1997年6月にはゲーム事業からの撤退を表明し、3DOに関する全てのプロジェクトを終結させた。3DO M2のローンチタイトルとしてワープが『[[Dの食卓2]]』の開発を表明し、プロモーションビデオも公開され1996年夏に発売予定とされたが、3DOの終息により開発は中止された{{Efn|その後、ストーリー構成から作り直し「[[Dの食卓2|D2]]」として1999年12月に[[ドリームキャスト]]で発売されている。}}。結局パナソニック・ワンダーテインメント社からはソフトとハード共に発売されずに終わった。 なお、松下電器がThe 3DO Companyから買収したM2のアーキテクチャは、松下電器の業務用端末や[[自動販売機]]などの[[組み込み]]用基板として主に流用され、ゲーム用途としてはコナミの[[アーケードゲーム基板]]として一部採用された。またパナソニック・ワンダーテインメント社は他社ハード向けのソフトウェア開発に転換したが、実際に開発が行われる事が無いまま1999年に清算された。一方The 3DO Companyはその後、ゲームメーカーとしてセガサターン(SS)やPlayStation(PS)、PC用のソフトを開発・発売していた。そして[[2003年]]5月に[[連邦倒産法第11章]]を申請し倒産した。いくつかのゲームソフトは倒産後に他の会社に買収され、続編が開発されている。 == ハードウェア == {{Empty section|date=2023年4月}} == 仕様 == *[[CPU]] : 32ビット[[RISC]]プロセッサ [[ARMアーキテクチャ|ARM]]60(12.5MHz) *[[メモリ]] : メイン2MB,VRAM 1MB,SRAM 32KB[バッテリーバックアップ(3DO REAL IIではCR2032を使用)] *[[バス (コンピュータ)|バス]]速度 : 50MB/秒 *[[Direct_Memory_Access|DMA]] : 24ch *描画速度 : 6400万[[ピクセル]]/秒 *[[解像度]] : 640ドット×480ライン *カラー機能 : 最大1,670万色、32,000色同時発色 *[[ポリゴン]]機能 : [[3次元コンピュータグラフィックス#制作のための技術|テクスチャマッピング]]、[[グーローシェーディング]] *サウンド : DSP *[[CD-ROM]]ドライブ : 倍速 **対応CD-ROM規格 : 3DO用CD・[[CD-DA]]・[[ビデオCD]]・[[CD-G]]・[[フォトCD]] **毎秒30フレームのフルスクリーン・フルカラー動画再生機能(シネパック) **ビデオCDの再生にはビデオCDアダプターが必要(高精細静止画不可) <gallery caption="3DO REAL(FZ-1)に実装されているLSI" perrow="4"> File:VY86C06020FC-2 02.jpg|ARM60 CPU(VY86C06020FC-2)<br />※下記FZ-10と同様にP60ARMが実装されているものもある。 File:6SC700HF101 03.jpg|MADAM(6SC700HF101) File:6SC800HF103 01.jpg|CLIO(6SC800HF103) 3DO Clio Graphics Accelerator.jpg|3DO REALのグラフィックチップ"Clio"。3DOのロゴが刻印されている </gallery> <gallery caption="3DO REAL II(FZ-10)に実装されているLSI" perrow="3"> File:P60ARM_GC_01.jpg|ARM60 CPU(P60ARM) File:6SC700HF101_02.jpg|MADAM(6SC700HF101) File:6SC800HF103_02.jpg|CLIO(6SC800HF103) </gallery> == バリエーション == [[File:3DO-FZ-10-Console-FL.png|thumb|right|250px|松下電器産業「3DO REAL II」]] [[ファイル:3DO-TRY-Console-FL.png|thumb|right|250px|三洋電機「3DO TRY」]] [[File:3DO-GDO-101M-Console-Set.png|thumb|right|250px|Goldstar「3DO ALIVE」]] [[東芝]]や[[AT&T]]などかなり多くの企業が3DO端末の発売に意欲を示したが3DO端末を発売したのは、最終的には松下電器(Panasonic)、[[三洋電機]](Sanyo)、[[LGエレクトロニクス|金星社]](Goldstar)の3社だけで、ほかには[[クリエイティブ・テクノロジー]]がPCカードの形で販売を行ったに留まっている。北米市場・日本市場ともに、松下電器の機種「3DO REAL」が最もよく知られている。遅れて[[サムスン電子]](Samsung)も3DO端末の発売を表明したが、ハードを発売する前に3DOが終息してしまったため、モックアップが公開されたのみである。 ; Panasonic FZ-1 R.E.A.L. 3DO Interactive Multiplayer : 通称は「3DO REAL」 : 1994年3月20日に日本で発売。予価79,800円、発売価格54,800円。アジア、北米、ヨーロッパでも発売。当時最新のIBM-PCより動画処理能力に優れており、サウンドを同時に鳴らすことも可能だった。サウンドは、CD音声とPCM音源の利用が可能で、これまでIBM-PCや[[ゲームセンター]]でしか楽しめなかったゲームが、家庭で遊べるようになった<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=[[電撃王]] 3DOマシン第1号アメリカで10月発売! |date=1993年10月1日 |year=1993 |publisher=[[メディアワークス]] |page=26 |issue=通巻9号}}</ref>。 : 世界で<ref name=":1" />最初に登場した3DO端末であり、北米市場で$699.99で販売された。1994年に$399.99に値下げされた<ref>{{cite journal|last=Markoff|first=John|month=December 11|year=1994|title=For 3DO, a Make-or-Break Season|url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9904E1DF1039F932A25751C1A962958260&sec=&spon=&pagewanted=all|journal=New York Times|accessdate=December 31, 2007|work=The New York Times}}</ref>。 : [[リムーバブルメディア#メディアの装填|トレイ式]]CD-ROMドライブには、その当時[[パナソニック四国エレクトロニクス|松下寿電子工業]]が生産し、[[コンパック]]や[[Apple|Apple Computer]]などPCベンダー各社に供給されていたCR-503系のドライブが搭載されていた。 ; ROBO : 「3DO ROBO」ではなく「ROBO」が正式名称 : 日本で発売。FZ-1のカスタム仕様で[[双葉電子工業]]の子会社であるナイステック社が[[ラブホテル]]に納入するために500台製作したもの<ref>[http://i-o.no.coocan.jp/3dorobo/ ROBO (3DO)]</ref>。 : ビデオCDアダプタが標準で付属し、予め5枚のCDを磁力で持ち上げて取り付け、CDを切り替えて使用出来る。一般には出回っていないが、一時秋葉原等で少量売られていた。 ; Panasonic FZ-10 R.E.A.L. 3DO Interactive Multiplayer : 通称は「3DO REAL II」 : 1994年11月11日に日本で発売。44,800円、1995年夏頃からオープン価格。北米、ヨーロッパでも発売。 : FZ-1の後継機として、より低価格化、スリム化、軽量化がなされた。CDドライブをトップローディング式へ変更し、倍速CD-ROMの駆動回路や電子回路の集積化などでコストダウンをした。内部メモリマネージャーが付いており、[[LED]]とコントローラ接続端子の位置が変更されている。コントローラもFZ-1より軽量化・小型化されており、ヘッドホン出力端子は削除された。 ; Sanyo IMP-21J TRY 3DO Interactive Multiplayer : 通称は「3DO TRY」 : [[1994年]][[10月1日]]に日本で発売<ref>{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.330|date=1995年4月14日|year=1995|publisher=株式会社アスキー|page=74}}</ref>。発売価格54,800円。1995年夏頃からオープン価格 ; Goldstar GDO-101M 3DO Interactive Multiplayer : 通称は「3DO ALIVE」 : 1994年に韓国、北米、ヨーロッパで発売。 : 形状的にはFZ-1に似ているが、ハード的には仕様が違う。また、ファイルの処理数の制限のために、いくつかのソフトが動かないとの報告がある。 ; Goldstar GDO-203P 3DO Interactive Multiplayer : 通称は「3DO ALIVE II」 : 韓国で発売。 : 本機発売中にGoldstarの社名がLGに変更されたため、後期の製品はLGの名義で販売された。 ; SAMSUNG 3DO : 発売中止。 : VHSビデオデッキの様なデザイン。本体内部にビデオCDアダプター接続専用のスペースがある。従来機ではオプション扱いだったMPEGデコーダを内蔵している。 ; [[Creative Technology|Creative]] 3DO Blaster : [[PC/AT互換機|PC]]用の[[Industry Standard Architecture|ISA]]拡張カードの形式で販売された。PCで3DO用ゲームを楽しむため、2倍速CD-ROMとコントローラーが付属している。 == 周辺機器 == ; 3DOコントロールパッド(Panasonic FZ-JP1X/FZ-JP2X) : 標準の[[ゲームコントローラ|コントロールパッド]]。パッド上部に別のパッドを接続するためのコネクタを備えており、[[デイジーチェーン]]で8台まで接続できる。FZ-JP1Xの手前側にはステレオ[[フォーンプラグ|ヘッドフォン端子]]と音量ボリュームがあり、ヘッドホンを挿すことで音がモニターできる。 ; 3DOマウス(Panasonic FZ-JM1) : 3DO専用の[[マウス (コンピュータ)|マウス]]。マウス対応のソフトでのみ使用可能。 ; デジタルスティックコントローラー : アーケードゲーム仕様のコントローラー。(Panasonic FZ-JS1) ; 6ボタンコントロールパッド(Panasonic FZ-JJ1XP) : スーパーファミコン用コントローラー「カプコンパッドソルジャー」の3DO版。 ; メモリーユニット(Panasonic FZ-EM256) : ゲームのセーブデータを保存しておくための外部[[補助記憶装置]]。容量は256KBで、本体内蔵メモリーの8倍の容量である。 ; ビデオCDアダプタ(Panasonic FZ-FV1) : [[ビデオCD]]を再生するのに必要なアダプタ。COMPACT DISC DIGITAL VIDEO、VIDEO CD、3DO DIGITAL VIDEO対応。Panasonic 3DO REAL(FZ-1)専用。 ; ビデオCDアダプタ(Panasonic FZ-FV1A) : 上記FZ-FV1のVCD Ver.2.0、PBC(プレイバックコントロール)機能対応版。 ; ビデオCDアダプター用電源(Panasonic FZ-AA103) : 上記FZ-FV1、FZ-FV1Aの電源。 ; ビデオCDアダプタ(Panasonic FZ-FV10) : FZ-10専用ビデオCDアダプタ。 ; 3DO用互換アダプター 3D ZERO SUPER NES CONTROLLER ADAPTOR FOR 3DO(SUPERUFO F-952) : 本体とパッドの間につなげる事で[[スーパーファミコン]]のコントローラーが使えるようにするコンバーター。<ref>{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.328|date=1995年3月31日|year=1995|publisher=株式会社アスキー|page=115}}</ref> ; カラオケミキサー(Panasonic FZ-AKI) : REALに接続するだけで本格的なカラオケが楽しめる。ボーカルキャンセルなどの機能も搭載されている。 ; 推奨マイク(RP-VK-90-K) ; ステレオヘッドホン(RP-HT950-H) ; ビデオプリンター(NV-NP7) == ソフトタイトル == {{see|3DOのゲームタイトル一覧}} The 3DO Companyの主なゲームソフトとしては、『[[突撃!アーミーマン 史上最小の作戦]]』、[[マイト・アンド・マジック]]シリーズ、『[[Meridian 59]]』、『Cubix Robots for Everyone』などがある。 日本で発売された初期のゲームソフトの大半はエレクトロニック・アーツ・ビクター(EAV、現・[[エレクトロニック・アーツ]]日本法人)らによる「[[洋ゲー]]」の日本語版だった。 3DOはEAの他にもサードパーティーとして[[コナミ]]や[[クリスタル・ダイナミックス]]、フューチャー・パイレーツ、[[カプコン]]、ワープなどが参加した。 フューチャー・パイレーツの[[高城剛]]は1994年当時の日本のテレビ等で3DOを賞賛。『チキチキマシン猛レース』などを製作。3DO一社提供のTV番組「[[高城剛X]]」([[テレビ東京]])を制作・出演した。 [[カプコン]]が発売した『[[ストリートファイターII|スーパーストリートファイターII X]]』は国内のコンシューマソフトとしては発売されていなかったこともありキラーソフトとなった。 1995年4月、ワープの[[飯野賢治]]が制作した『[[Dの食卓]]』や家庭用ゲーム機に初めて移植された同年9月末発売でコナミの[[小島秀夫 (ゲームデザイナー)|小島秀夫]]が制作した『[[ポリスノーツ]]』は話題を集めた{{R|famitsu20200320}}。 なお、同年中にコナミから[[メタルギアシリーズ]]の第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、[[阪神・淡路大震災]]による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSの『[[メタルギアソリッド]]』と改変のうえ発売された<ref>[[小島秀夫 (ゲームデザイナー)|小島秀夫]]が「[[HIDECHAN! ラジオ]]」にて発言している。</ref>。 3DOでは実写の[[アダルトゲーム]]の発売があり、海外タイトルでは[[ポルノ女優]]の静止画や動画を再生するもの、国産では[[脱衣麻雀]]ものや[[野球拳]]による[[脱衣ゲーム]]類、[[美少女ゲーム]]が発売されている。再生対応としていた[[ビデオCD]]はLDと比べ画質が劣ることもあり、日本では専ら[[アダルトビデオ]]系統の正規タイトルが多かったため、これを逆手に取り、ナイステックの「ROBO」が発売されラブホテルのサービス機器として実用化された。 3DOソフトとして製作された一部のタイトルはPSやSSで移植版が発売され、更に『[[テーマパーク (ゲーム)|テーマパーク]]』などのその一部は[[ゲームアーカイブス]]配信タイトルとなり現在もプレイ可能である。 === レイティング === 自主規制による[[コンピュータゲームのレイティングシステム|レイティングシステム]]が定められた。 ;'''{{color|green|E}}''' *アイコンは緑。一般向。 ;'''{{Font color|yellow|black|16}}''' *アイコンは黄。16歳未満不適。過激な[[暴力]]・猟奇的描写が含まれるタイトル、AOよりも性的描写が軽微なタイトルに指定。 ;'''{{color|red|AO}}''' *アイコンは赤。[[成人]]専用で、18歳未満販売禁止。「AO」はAdults Onlyの略で、性的表現を含んだ[[アダルトゲーム]]タイトルに指定。 == 評価 == 1994年当時の北米での主な競合機である任天堂・[[Super Nintendo Entertainment System|SNES]]やセガ・[[メガドライブ|Genesis]]と比べてハードウェアの性能は高く、[[タイム (雑誌)|タイム誌]]によって"1994 Product of the Year"に選出されている。 しかし、ハードのプロモーションを事実上一手に担った松下電器は規格提唱社でもゲームメーカーでもないハードウェアメーカーであり、プロモーションでも「インタラクティブ」や「マルチメディア」を強調するのみで、肝心のソフトの宣伝を行わなかった。また競合ゲーム機のように「ハードを赤字覚悟で販売し、ソフトの売り上げやサードパーティーからのロイヤリティで補填する」というビジネスモデルを取れずハードのみで利益を得る必要があった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。松下電器は地域専門店、いわゆる「[[ナショナルショップ]]」での販売も行ったので、メーカーに対する発言力の強いこれらの店が儲かる施策が必要で、競合機のような積極的な値引き販売ができなかった。三洋電機の販売した「3DO TRY」の実売価格は3DO REALと比較して安価だったが、松下よりもさらに販路が弱い三洋の家電の販路を利用して販売されたため、非常に流通量が限られた。このように発売当初の3DO端末は旧来の家電製品のビジネスモデルから脱却できなかった。 そのため競合ゲーム機と比べて高価格設定となり、輸出先のアメリカでは699ドル、欧州へ輸出した時には[[欧州連合|EU]]から、ゲーム機ではなく関税が高い「[[情報家電]]」として認定されたので、価格がさらに高くなった。「安価なゲーム機」ではなく「高価格なマルチメディア機」というコンセプトは、普及の大きな妨げとなった。結果としてハイエンドゲーマーしか手を出さなかった。松下電器は「3DOがこれほど高価格なのは、これが単なるゲーム機ではなくインタラクティブ・マルチプレイヤーだからである」と主張してその価格を正当化した。 3DOはEAの他にもサードパーティとしてコナミやクリスタル・ダイナミックスなどの大手メーカーの支持を受けた。しかし、他のサードパーティの支持がそれほど集まらなかったため、ゲームの本数自体が少なかった。またメガCDのタイトルをそのまま3DOに移植した『ナイト・トラップ』など、「インタラクティブ・ムービー」と称して動画を再生するタイトルはゲーム性の低いものが多く、3DOが売りにした「マルチメディア」にしても、3DOが標準で再生できるデジタルムービーは品質が低く、[[ビデオCD]]規格の動画の再生を可能にするには周辺機器の[[ビデオCD]]アダプター([[MPEG1]]デコーダ)を追加で購入する必要があった。なお、インタラクティブ・ムービーものの一部タイトルには「3DO VIDEO」とパッケージに表記された。 上記の理由から、3DO REALはローンチに失敗。3DOは北米の大手[[ゲーム雑誌]]である[[エレクトロニック・ゲーミング・マンスリー]]によって"Worst Console Launch of 1993"に選出されている。 このように日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが弱く、その結果、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」「洋ゲー主流で取りつきにくいマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥った。「ゲームに留まらない」という方向性のため多くのゲーム雑誌でも扱いは他のゲーム機と同格ではなく、別枠で便宜的に紹介されるだけだったのも一般への認知度の広がりを阻害した。任天堂の[[山内溥]]は、当時開発中の3DOについて、NHKの取材の中でソフトメーカー、流通関係者などから、「発売前から消されることが確定した」と言われており、ユーザーはハードを求めているのではなく、独創的な楽しさをもつソフトであり、自らの意見としても3DOは99.99%駄目だと酷評した<ref name=":0">{{Cite book|title=新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防|date=1997-01-20|year=|publisher=日本放送出版協会|author=相田洋|author2=大墻敦|pages=261-265|page=}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * 松下電器産業のハード ** [[MSXturboR]] - 1990年に発表されたパソコンの規格。参入したのは松下電器産業のみで、事実上、松下のハードだった。 ** [[ニンテンドーゲームキューブ|Panasonic Q]] - 2001年に松下電器産業が発売した[[ニンテンドーゲームキューブ]]互換マルチメディア機。ちなみにこの時代の「マルチメディア」とは「[[DVDビデオ]]再生対応」という意味。 ** [[The Jungle]] - 2010年にパナソニックが発表した携帯型ゲーム機。2011年に市場の変化により発売を断念したとのアナウンスがあった。 * 同時期のマルチメディア機 ** [[CD-i]] - [[フィリップス]]社が策定し、1991年に最初の対応製品を発売したマルチメディアの規格。 ** [[Commodore CDTV]] - 1991年に[[コモドール]]社が発売したマルチメディア機。 ** [[レーザーアクティブ]] - 1993年にパイオニアが発売したマルチメディア機。 ** [[NUON]](ヌオン) - 1998年に発売され、3DOと同じコンセプトで失敗したマルチメディア機。3DOに正式参入しつつもハードの発売時期を逃したサムスンと、当初賛同を表明しつつも最終的に参入を見送った東芝の2社が対応機種を発売した。 * [[Mana (ミュージシャン)|Mana]](マナ) - ギタリスト・シンセシスト・音楽プロデューサー。3DOに造詣が深い。 == 外部リンク == {{Commonscat|3DO}} * [https://web.archive.org/web/20080923154024/http://assembler.roarvgm.com/3do_blaster/3do_blaster.html 3DO BLASTER] - Internetアーカイブ保管。 * [https://web.archive.org/web/20151108175703/http://ysw.digi2.jp/3do/ 3DO SOFT MUSEUM] {{家庭用ゲーム機/その他}} {{DEFAULTSORT:3DO}} [[Category:ゲーム機]] [[Category:1993年のコンピュータゲーム|*3DO]] [[Category:1990年代の玩具]] [[Category:パナソニックの製品]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータ企業]] [[Category:経営破綻した企業]] [[Category:1991年設立の企業]] [[Category:2003年廃止の企業]] [[Category:LGグループ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/3DO
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言語資源
言語資源(げんごしげん、英: Language resource)とは、自然言語を研究するさいに用いられる資源のこと。 辞書やコーパス、シソーラス、インフォーマントなどがこれにあたる。 電子化された言語資源は自然言語処理技術の研究に不可欠であるが、作成に非常に手間がかかるため、いまだにその数は少なく、一般にとても高価である。 近年WWWが普及したこともあり、これらの資源をインターネット上から自動的に獲得しようとする試みも数多くなされてはいるが、一般的なネットワーク上の文章にはノイズが多すぎて価値ある情報を収集するのは難しいとされる。 また、言語資源には著作権の問題が重くのしかかっている。それはたとえ資源を作っていても、それを公開するのは権利上の許可を得なければならないからである。 ウィキペディアはこの問題に対する解決策の一つとなるべく運営されている。
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'''言語資源'''(げんごしげん、{{lang-en-short|Language resource}})とは、[[自然言語]]を研究するさいに用いられる資源のこと。 [[辞書]]や[[コーパス]]、[[シソーラス]]、[[インフォーマント]]などがこれにあたる。 電子化された言語資源は[[自然言語処理]]技術の研究に不可欠であるが、作成に非常に手間がかかるため、いまだにその数は少なく、一般にとても高価である。 近年[[World Wide Web|WWW]]が普及したこともあり、これらの資源を[[インターネット]]上から自動的に獲得しようとする試みも数多くなされてはいるが、一般的なネットワーク上の文章には[[ノイズ]]が多すぎて価値ある情報を収集するのは難しいとされる。 また、言語資源には[[著作権]]の問題が重くのしかかっている。それはたとえ資源を作っていても、それを公開するのは権利上の許可を得なければならないからである。 [[ウィキペディア]]はこの問題に対する解決策の一つとなるべく運営されている。 == 言語資源に関するサイト == * [http://cl.aist-nara.ac.jp/index.php?%5B%5B%BC%AB%C1%B3%B8%C0%B8%EC%A5%C7%A1%BC%A5%BF%A4%CB%B4%D8%A4%B9%A4%EB%BE%F0%CA%F3%5D%5D 松本研究室 - 自然言語データに関する情報](日本語の言語資源一覧) * {{Wayback |url=http://it.jeita.or.jp/eltech/report/linguistic.html |title=言語イニシアティブ調査(JEITA 電子情報技術産業協会)|date=20100914211149 }} {{自然言語処理}} [[Category:言語資源|*]]
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ウェブサイト
ウェブサイト(英: website)は、World Wide Web (WWW) (ワールドワイドウェブ)上にあり、一般に特定のドメイン名の下にある複数のウェブページの集まりのこと。サイトと呼ばれることもある。企業などの団体が自身を紹介するため自ら構築したサイトをその団体の公式サイトなどと呼ぶ。 ホームページと呼ばれることもあるが、この用法は誤用とされる場合もある。また、ウェブサイトのトップページのみをさしてホームページと呼ぶ場合もある。 1990年代のWWWは実験運用の時代にあった。この時代には、WWW提案よりも前の集中型の思想を参考にして、組織の総合的な情報を掲載した、静的コンテンツによるウェブサイトを立ち上げ、手動で管理されるポータルサイトに登録を依頼する例が多かった。しかし、2000年代からロボット型検索エンジンによるウェブサイトの自動登録に移行し、 組織が複数のドメインを取得してサービス別にサイトを切り分けるなど、WWWの本来の思想である分散型のシステムに移行して行った。 イギリスのネットクラフト社(英語版)の調査によると、1995年8月にはインターネット上のサイト数は約1万8000件だった。2006年11月2日の時点でサイト数は1億件を突破した。また、インターネット統計サイトのインターネット・ライブ・スタッツのリアルタイム統計では、2014年9月16日に世界のサイト数が10億件を突破した。WWWの考察者とされるティム・バーナーズリーは、ミニブログのツイッターでこの様子を喜んでいる。 ここでは美術館の公式サイトを例示する。 中国では、Webサイトは許可制となっている。ICP(Internet Content Provider) Licenseと公安登録(Public Security Bureau、京公网安备、正式な中国語の名称:北京市计算机信息网络国际联网单位备案的简称)が必要となる。 個人が製作したウェブサイトやブログなどが、その個人の没後、どのように管理・保存されるべきかという問題がある。この問題を「関心空間」では「ネット墓守(ネットはかもり)」というキーワードとして登録した。インターネット上の個人の墓標といった、慰霊や追憶といったものとは別物である。あくまで、これは個人が生前活動していたかたちをそのままに残すというものである。 現在まだ日本国内では、直接個人のウェブサイトを本人の没後維持していくサービスのようなものは商品サービス化されていないが、難病で闘病生活をおくって亡くなった個人のウェブサイトを担当医、もしくはボランティアが故人の意図を尊重しつつ管理、維持しているものがいくつか存在する。 こうした動きの中で、例えば山形浩生のサイトにおける『遺言状』や、「まろまろ記」におけるWeb遺書など、管理者自身が急死にそなえて没後の方針をサイト上で意思表明する活動もおこなわれている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のmixi内でのWeb 遺書コミュニティでも情報交換がおこなわれている。 この問題に対する社会的関心は徐々に高まっており、日本経済新聞2006年4月21日付の夕刊「ホームページよ永遠に」でも取り上げられている。 もっとも管理者が死去する以前に、管理者が自身のウェブサイトの管理・運営に飽きてしまい、途中で放置してしまう事例、若しくはサーバ管理会社が管理システムへのアクセス方法を変更し、管理者が切り替えに対応しなかったために管理不能となった例などは数多くある。大韓民国では2006年に韓国政府情報通信部と韓国情報保護振興院(KISA)(現:韓国インターネット振興院)により、放置されたサイトが悪用されるのを防ぐ為、長い間更新されていないサイトの大掃除が行われた。
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ウェブサイトは、World Wide Web (WWW) (ワールドワイドウェブ)上にあり、一般に特定のドメイン名の下にある複数のウェブページの集まりのこと。サイトと呼ばれることもある。企業などの団体が自身を紹介するため自ら構築したサイトをその団体の公式サイトなどと呼ぶ。 ホームページと呼ばれることもあるが、この用法は誤用とされる場合もある。また、ウェブサイトのトップページのみをさしてホームページと呼ぶ場合もある。
{{Redirect|トップページ|[[ウィキペディア]]のトップページ|Wikipedia:メインページ}} [[ファイル:2021年7月18日、Wikipedia 日本 メインページ.png|サムネイル|[[ウィキペディア日本語版]]のトップページ(→[[メインページ]])]] '''ウェブサイト'''({{lang-en-short|website}})は、[[World Wide Web]] (WWW) (ワールドワイドウェブ)上にあり、一般に特定の[[ドメイン名]]の下にある複数の[[ウェブページ]]の集まりのこと。'''サイト'''と呼ばれることもある。企業などの団体が自身を紹介するため自ら構築したサイトをその団体の公式サイトなどと呼ぶ。 '''[[ホームページ]]'''と呼ばれることもあるが、この用法は誤用とされる場合もある。また、ウェブサイトのトップページのみをさしてホームページと呼ぶ場合もある。 {{main|ホームページ}} == 歴史 == [[1990年代]]の[[WWW]]は実験運用の時代にあった。この時代には、[[WWW]]提案よりも前の集中型の思想を参考にして、組織の総合的な情報を掲載した、静的[[コンテンツ]]によるウェブサイトを立ち上げ、手動で管理される[[ポータルサイト]]に登録を依頼する例が多かった。しかし、2000年代からロボット型[[検索エンジン]]によるウェブサイトの自動登録に移行し、 組織が複数のドメインを取得してサービス別にサイトを切り分けるなど、[[WWW]]の本来の思想である[[分散型]]のシステムに移行して行った。 [[イギリス]]の{{仮リンク|ネットクラフト|en|Netcraft|label=ネットクラフト社}}の調査によると、[[1995年]]8月にはインターネット上のサイト数は約1万8000件だった。[[2006年]]11月2日の時点でサイト数は1億件を突破した<ref>{{Cite web |url= http://news.netcraft.com/archives/2006/11/01/november_2006_web_server_survey.html|title= November 2006 Web Server Survey|accessdate= 2014-09-19|date= 2006-11-01|publisher= [[:en:Netcrft|Netcrft]]|language= 英語}}</ref>。また、インターネット統計サイトのインターネット・ライブ・スタッツのリアルタイム統計では、[[2014年]]9月16日に世界のサイト数が10億件を突破した。WWWの考察者とされる[[ティム・バーナーズリー]]は、[[ミニブログ]]の[[ツイッター]]でこの様子を喜んでいる<ref>{{Cite news |title= 世界のウェブサイト数、10億件を突破|date= 2014-09-17|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3026121|accessdate= 2014-09-19|agency= [[フランス通信社|AFP]]|publisher= [[AFPBB News]]}}</ref>。 == ウェブサイト構成の例 == ここでは[[美術館]]の公式サイトを例示する。 ; [[ホームページ]]、メインページ、フロントページ、'''トップページ'''、またはインデックスページ : そのウェブサイトの“顔”になる部分 ; 概要 : 画家の紹介や、入場料金と開館時間、美術館の沿革など ; 施設案内 : [[施設]]の平面図、[[交通]][[交通手段|アクセス]]など ; 催し案内 : 企画展のお知らせなど ; 作品紹介 : 作品の[[データベース]]が公開されていることもある。 ; [[電子掲示板]] : ウェブサイトを閲覧した人が感想などを書けるようにしていることがある。 ; [[リンク集]] : 関連する外部団体などのリンク集 == 認可 == 中国では、Webサイトは許可制となっている。ICP(Internet Content Provider) Licenseと公安登録(Public Security Bureau、京公网安备、正式な中国語の名称:北京市计算机信息网络国际联网单位备案的简称)が必要となる<ref>{{Cite web |url=https://www.softbank.jp/biz/blog/cloud-technology/articles/202008/public-regulation/ |title=中国のWebサイト公開規制について|クラウドテクノロジーブログ|ソフトバンク |access-date=2023-10-19 |website=ソフトバンク |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.beijing.gov.cn/zhengce/zhengcefagui/qtwj/201912/t20191227_1522451.html |title=计算机信息网络国际联网安全保护管理办法_其他文件_首都之窗_北京市人民政府门户网站 |access-date=2023-10-19 |website=www.beijing.gov.cn}}</ref>。 == 管理者を失ったウェブサイトの扱い == 個人が製作したウェブサイトや[[ブログ]]などが、その個人の没後、どのように管理・保存されるべきかという問題がある。この問題を「[[関心空間]]」では「ネット墓守(ネットはかもり)」というキーワードとして登録した。インターネット上の個人の墓標といった、[[慰霊]]や追憶といったものとは別物である。あくまで、これは個人が生前活動していたかたちをそのままに残すというものである。 現在まだ日本国内では、直接個人のウェブサイトを本人の没後維持していくサービスのようなものは商品サービス化されていないが、[[難病]]で闘病生活をおくって亡くなった個人のウェブサイトを担当医、もしくは[[ボランティア]]が故人の意図を尊重しつつ管理、維持しているものがいくつか存在する。 こうした動きの中で、例えば[[山形浩生]]のサイトにおける『遺言状』や、「まろまろ記」におけるWeb遺書など、管理者自身が[[急死]]にそなえて没後の方針をサイト上で意思表明する活動もおこなわれている<ref>{{Cite web|和書|url= https://cruel.org/will.html|title= 山形浩生の遺言状|accessdate= 2014-09-19|author= [[山形浩生]]|date= 1999-03-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://maromaro.com/archive/2003/07/07/post_117.php|title= まろまろ遺書-万が一のときのために意思を表明してみます-|accessdate= 2014-09-19|date= 2004-04-25}}</ref>。[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]](SNS)の[[mixi]]内でのWeb 遺書コミュニティでも情報交換がおこなわれている<ref>{{Cite web|和書|url= http://mixi.jp/view_community.pl?id=589241|title= Web遺書(ネット遺言)|publisher= [[mixi]]|accessdate=2014-09-19}}</ref>。 この問題に対する社会的関心は徐々に高まっており、[[日本経済新聞]]2006年4月21日付の夕刊「ホームページよ永遠に」でも取り上げられている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.senshu-u.ac.jp/library/00_spdata/koho/media_info/past_data/2006_04.pdf|title= 2006 年 4 月|accessdate= 2014-09-19|date= 2006-04|format= PDF|publisher= [[専修大学]]}}</ref>。 もっとも管理者が死去する以前に、管理者が自身のウェブサイトの管理・運営に飽きてしまい、<ref>{{Cite web|title=How to Start a Blog (Easy Beginner's Guide)|url=https://sites.google.com/view/startblog/home|website=sites.google.com|accessdate=2020-11-27|language=英語|publisher=}}</ref>途中で放置してしまう事例、若しくは[[サーバ]]管理会社が管理システムへのアクセス方法を変更<ref group="注">ジオシティーズジャパンと[[Yahoo! JAPAN]]が統合し[[Yahoo!ジオシティーズ]]となった際など。</ref>し、管理者が切り替えに対応しなかったために管理不能となった例などは数多くある。<!-- [[大韓民国|韓国]]の自治体の公式サイトの場合、改編前のサイトを以前ホームページなどの形でアドレス変更を行っているサイトがあるが、管理状態はほとんど放置状態に近い。また、-->[[大韓民国]]では2006年に[[情報通信部|韓国政府情報通信部]]と韓国情報保護振興院(KISA)(現:[[韓国インターネット振興院]])により、放置されたサイトが悪用されるのを防ぐ為、長い間更新されていないサイトの大[[掃除]]<ref group="注">管理者に閉鎖を促したり[[ホスティング]]業者が復旧可能な閉鎖状態にするキャンペーン。</ref>が行われた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 関連項目 == * [[Webサーバ]] * [[ウェブページ]] * [[ホームページ]] * [[コンテンツ管理システム]] (CMS) * [[インターネットアーカイブ]] * [[Webガバナンス]] * [[ウェブユーザインタフェース]] * ウェブサイトの分類 ** [[ポータルサイト]] ** [[検索サイト]] ** [[口コミサイト]] ** [[ウェブページ作成支援サイト]] == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url=https://developer.mozilla.org/ja/docs/Learn/Getting_started_with_the_web/What_will_your_website_look_like |title=ウェブサイトをどんな外見にするか |access-date=2023-02-03 |website=MDN |work=ウェブ開発を学ぶ |publisher=Mozilla |language=ja}} * {{Cite web|和書|url=https://developer.mozilla.org/ja/docs/Learn/HTML/Introduction_to_HTML/Document_and_website_structure |title=文書とウェブサイトの構造 |access-date=2023-02-03 |website=MDN |work=ウェブ開発を学ぶ |publisher=Mozilla |language=ja}} {{Normdaten}} <!-- カテゴリー --> {{DEFAULTSORT:うえふさいと}} [[Category:ウェブサイト|*]] [[Category:ウェブサイトの構成|*]]
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2,132
ホームページ
ホームページ (home page, homepage) とは、ウェブブラウザを起動した時に表示されるウェブページや各ウェブサイトのメインページのことである。 ホームページの用法には現在でも揺れが見られるが、おおよそ以下のように分類できる。 省略して、HP、ホムペなどと表現する場合もある。ホムペという略語は、個人が運営する携帯電話向けサイトのみを指している場合もある。HPという略語は英語圏でも利用されているが、同じ表記が米国のコンピュータ製品企業「ヒューレット・パッカード」やそれが分割された各社の社名、馬力(horsepower)の記号など多用途で使われるため、「HP」と記載しても「ホームページ」として認識されない場合があるので注意が必要である。 「ホームページという言葉は本来、上記用法1のようにウェブブラウザを起動した際に表示されるウェブページの事を指しており、それ以外の用法は誤用である」という主張がある。しかし実際にはホームページの意味は用法1以外の意味に多様化しているのが現状である。 代表的なウェブブラウザInternet Explorer、Google Chrome、Mozilla Firefoxなどでも、「本来の用法」とされるウェブブラウザ起動時のページは、「スタートアップ」「起動ページ」などと表現されており、用法1で使われていない。これらのブラウザでは用法2のホームボタンを押した際のページをホームページと呼んでいる。 また、ドイツや日本などの国では用法4、用法5の「ホームページ=ウェブサイト、ウェブページ」という認識が広く浸透している。日本の法令にもウェブページのアドレスの意で「ホームページアドレス」の語が用いられている。官公庁や企業でもウェブサイトの意味で使われている。なかには、用法1が正しい用語であるとしつつも、より一般にわかりやすいという判断からホームページという言葉を使用している例もある。 辞書においても、「本来の用法」とされる用法1以外の意味が記載されており、さらに用法1を採用していないものさえある。 英語圏では、主に用法1~3の用途で「homepage」という言葉を用いられる。ウェブ標準を推進するW3Cのウェブサイトでもメインページをhome pageと呼ぶ用法3で使用している。 英語圏の辞書においても、日本語圏と同様で、用法1と併せて他の用法を掲載しているものや、用法1を記載していないものもある。用法5の用途で「homepage」を説明したものもある。 ウェブブラウザを起動した時や、「ホーム」ボタンを押すと表示されるように設定されたウェブページなどの画面をホームページと呼ぶ。スタートページやトップページと呼ばれることもある。 ブラウザの開発元やスポンサー企業等が自社のポータルサイトにアクセスを誘導する役割もあり、例えばInternet Explorerではmsnなどマイクロソフトのポータルサイトが初期設定のホームページとなっている。またパソコンのメーカーが自社のウェブサイトをプリインストールブラウザの出荷時のホームページに設定する場合もある。 ウェブページ以外に、空白ページ(about:blank)やブラウザ自体や拡張機能によって提供されるブックマークや履歴を表示するページをホームページに設定できるブラウザも多い。 2000年代半ばまでは、ブラウザのホームページにはポータルサイトを設定する使い方が多かったが、2000年代後半以降はMicrosoft Edgeの「スタートページ」、Google Chromeの「新しいタブ」、Operaの「スピードダイヤル」などのように個人の使い方に合わせてカスタマイズされたページをホームページに設定する機能、あるいは前回終了した時に開いていたウェブサイトを再表示する機能が主流となっている。また、ホームボタンも初期設定では非表示になっているブラウザが多く、使用される機会は減っている。 ソフトウェアをインストールする際に、そのソフトウェアメーカーが提供あるいは提携するポータルサイトをブラウザのホームページに設定する場合もある。多くの場合は、インストール時のオプションで拒否することもできるが、アドウェア(広告表示ソフト)やマルウェア、コンピュータウイルスの中にはブラウザのホームページを確認なく勝手に変更するものがある。ブラウザ起動時に設定した覚えのないサイトが表示されたら、不審なソフトウェアがないかチェックすることが望ましい。 ホームページという言葉はウェブサイトの表紙にあたるメインページだけを指す言葉としても使われる。トップページ、インデックスページ、フロントページとも呼ばれる。 メインページには、ほかのコンテンツへの入り口や、サイトの説明などが書かれている場合が多い。Wikipedia日本語版では「メインページ」がこれにあたる。 各ウェブページにホームページに戻るボタンが存在するサイトも多い。「○○のホームページへ」、「トップへ」、「Home」などのテキストのほか、Wikipediaのようにウェブページ上部に表示されるロゴがそのリンクになっていることも多い。 また、SNSなどにログインすることで表示される各ユーザー専用のページもホームページと呼ばれる場合がある。ユーザーへのメッセージや、登録されているプロフィールデータ等、ユーザーごとにカスタマイズされた情報が表示される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ホームページ (home page, homepage) とは、ウェブブラウザを起動した時に表示されるウェブページや各ウェブサイトのメインページのことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ホームページの用法には現在でも揺れが見られるが、おおよそ以下のように分類できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "省略して、HP、ホムペなどと表現する場合もある。ホムペという略語は、個人が運営する携帯電話向けサイトのみを指している場合もある。HPという略語は英語圏でも利用されているが、同じ表記が米国のコンピュータ製品企業「ヒューレット・パッカード」やそれが分割された各社の社名、馬力(horsepower)の記号など多用途で使われるため、「HP」と記載しても「ホームページ」として認識されない場合があるので注意が必要である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「ホームページという言葉は本来、上記用法1のようにウェブブラウザを起動した際に表示されるウェブページの事を指しており、それ以外の用法は誤用である」という主張がある。しかし実際にはホームページの意味は用法1以外の意味に多様化しているのが現状である。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "代表的なウェブブラウザInternet Explorer、Google Chrome、Mozilla Firefoxなどでも、「本来の用法」とされるウェブブラウザ起動時のページは、「スタートアップ」「起動ページ」などと表現されており、用法1で使われていない。これらのブラウザでは用法2のホームボタンを押した際のページをホームページと呼んでいる。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、ドイツや日本などの国では用法4、用法5の「ホームページ=ウェブサイト、ウェブページ」という認識が広く浸透している。日本の法令にもウェブページのアドレスの意で「ホームページアドレス」の語が用いられている。官公庁や企業でもウェブサイトの意味で使われている。なかには、用法1が正しい用語であるとしつつも、より一般にわかりやすいという判断からホームページという言葉を使用している例もある。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "辞書においても、「本来の用法」とされる用法1以外の意味が記載されており、さらに用法1を採用していないものさえある。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英語圏では、主に用法1~3の用途で「homepage」という言葉を用いられる。ウェブ標準を推進するW3Cのウェブサイトでもメインページをhome pageと呼ぶ用法3で使用している。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "英語圏の辞書においても、日本語圏と同様で、用法1と併せて他の用法を掲載しているものや、用法1を記載していないものもある。用法5の用途で「homepage」を説明したものもある。", "title": "用法1以外の意味について" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ウェブブラウザを起動した時や、「ホーム」ボタンを押すと表示されるように設定されたウェブページなどの画面をホームページと呼ぶ。スタートページやトップページと呼ばれることもある。", "title": "ウェブブラウザのホームページ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ブラウザの開発元やスポンサー企業等が自社のポータルサイトにアクセスを誘導する役割もあり、例えばInternet Explorerではmsnなどマイクロソフトのポータルサイトが初期設定のホームページとなっている。またパソコンのメーカーが自社のウェブサイトをプリインストールブラウザの出荷時のホームページに設定する場合もある。", "title": "ウェブブラウザのホームページ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ウェブページ以外に、空白ページ(about:blank)やブラウザ自体や拡張機能によって提供されるブックマークや履歴を表示するページをホームページに設定できるブラウザも多い。", "title": "ウェブブラウザのホームページ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2000年代半ばまでは、ブラウザのホームページにはポータルサイトを設定する使い方が多かったが、2000年代後半以降はMicrosoft Edgeの「スタートページ」、Google Chromeの「新しいタブ」、Operaの「スピードダイヤル」などのように個人の使い方に合わせてカスタマイズされたページをホームページに設定する機能、あるいは前回終了した時に開いていたウェブサイトを再表示する機能が主流となっている。また、ホームボタンも初期設定では非表示になっているブラウザが多く、使用される機会は減っている。", "title": "ウェブブラウザのホームページ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ソフトウェアをインストールする際に、そのソフトウェアメーカーが提供あるいは提携するポータルサイトをブラウザのホームページに設定する場合もある。多くの場合は、インストール時のオプションで拒否することもできるが、アドウェア(広告表示ソフト)やマルウェア、コンピュータウイルスの中にはブラウザのホームページを確認なく勝手に変更するものがある。ブラウザ起動時に設定した覚えのないサイトが表示されたら、不審なソフトウェアがないかチェックすることが望ましい。", "title": "ウェブブラウザのホームページ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ホームページという言葉はウェブサイトの表紙にあたるメインページだけを指す言葉としても使われる。トップページ、インデックスページ、フロントページとも呼ばれる。", "title": "インターネット用語としてのホームページ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "メインページには、ほかのコンテンツへの入り口や、サイトの説明などが書かれている場合が多い。Wikipedia日本語版では「メインページ」がこれにあたる。", "title": "インターネット用語としてのホームページ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "各ウェブページにホームページに戻るボタンが存在するサイトも多い。「○○のホームページへ」、「トップへ」、「Home」などのテキストのほか、Wikipediaのようにウェブページ上部に表示されるロゴがそのリンクになっていることも多い。", "title": "インターネット用語としてのホームページ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、SNSなどにログインすることで表示される各ユーザー専用のページもホームページと呼ばれる場合がある。ユーザーへのメッセージや、登録されているプロフィールデータ等、ユーザーごとにカスタマイズされた情報が表示される。", "title": "インターネット用語としてのホームページ" } ]
ホームページ とは、ウェブブラウザを起動した時に表示されるウェブページや各ウェブサイトのメインページのことである。
{{Otheruseslist|ホームページという言葉の用法、ウェブブラウザのスタートページ、ウェブサイトのメインページ|ウェブ上の個々の文章|ウェブページ|ウェブページの一連の集まり|ウェブサイト|ソースネクストのパソコンソフト|ホームページ (パソコンソフト)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} [[ファイル:2021年7月18日、Wikipedia 日本 メインページ.png|サムネイル|[[ウィキペディア日本語版]]のホームページ]] '''ホームページ''' ({{Lang|en|home page}}, {{Lang|en|homepage}}) とは、[[ウェブブラウザ]]を起動した時に表示される[[ウェブページ]]や各[[ウェブサイト]]のメインページのことである。 == 概要 == ホームページの用法には現在でも揺れが見られるが、おおよそ以下のように分類できる。 # ウェブブラウザの用語で、起動時に表示されるように設定されたウェブページ<ref name="デジタル大辞泉_ホームページ" />。 # ウェブブラウザの用語で、ホームボタンを押した際に表示されるように設定されたウェブページ<ref>[https://support.google.com/chrome/answer/95314?hl=ja ホームページと起動ページを設定する - Chrome ヘルプ]</ref>。 # [[インターネット]]の用語で、ウェブサイトの表紙にあたるメインページのこと<ref name="ASCII用語" /><ref name="知恵蔵2006_p995" /><ref name="知恵蔵2006_p1208" />。 # '''[[ウェブページ]]の意'''<ref name="デジタル大辞泉_ホームページ" /><ref name="ASCII用語" />。ウェブページのアドレスをホームページアドレスということもある。 # '''[[ウェブサイト]]の意'''<ref name="ASCII用語" /><ref name="知恵蔵2006_p995" />。[[企業]]・[[団体]]が運営する公式ウェブサイトを'''公式ホームページ'''ということもある。[[ホームページ・ビルダー]]など、ソフトウェア名としても利用される。 # [[ウェブサイト]]の中でも[[個人]]が運営するサイトのみを指す場合<ref>{{cite book |last1=Crowder |first1=Phillip |last2=Crowder |first2=David A. |title=Creating Web Sites Bible |url=https://books.google.com/books?id=6jR9D2mOimQC&pg=PA16 |year=2008 |publisher=John Wiley & Sons |isbn=978-0-470-37259-3 |page=16}}</ref>。ブログを含まず「ホームページやブログ」という使い方もする。 省略して、'''HP'''<ref name="ASCII用語" />、'''ホムペ'''などと表現する場合もある。ホムペという略語は、個人が運営する携帯電話向けサイトのみを指している場合もある<ref>[https://japan.cnet.com/article/20389316/ 「ホムペ」「プロフ」「リアル」--ケータイ世代が生み出す新コミュニケーション - CNET Japan]</ref>。HPという略語は英語圏でも利用されている<ref>[http://www.acronymfinder.com/HP.html HP - Definition by AcronymFinder]</ref>が、同じ表記が米国のコンピュータ製品企業「[[ヒューレット・パッカード]]」やそれが分割された各社の社名、[[馬力]]({{lang|en|horsepower}})の記号<ref>{{Citation |contribution=hp, HP |contribution-url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/ej3/41781/m0u/ |title=[[プログレッシブ (辞典)|プログレッシブ英和中辞典]]([[goo辞書]]) |publisher=[[小学館]] |accessdate=2011-12-14 }}</ref>など多用途で使われるため、「HP」と記載しても「ホームページ」として認識されない場合があるので注意が必要である。 == 用法1以外の意味について == 「ホームページという言葉は本来、上記'''用法1'''のように[[ウェブブラウザ]]を起動した際に表示される[[ウェブページ]]の事を指しており<ref name="デジタル大辞泉_ホームページ" /><ref name="ASCII用語" />、それ以外の用法は誤用である」という主張がある<ref>[http://www.adcip.com/itlanguage/ うっかり口にしてしまう誤ったIT用語。]</ref>。しかし実際にはホームページの意味は'''用法1'''以外の意味に多様化しているのが現状である<ref name="知恵蔵2006_p995" />。 代表的なウェブブラウザ[[Internet Explorer]]、[[Google Chrome]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.google.com/chrome/answer/95314?hl=ja|title=起動ページとホームページを設定する|accessdate=2015-3-10}}</ref>、[[Mozilla Firefox]]<ref>[https://web.archive.org/web/20170415012543/https://support.mozilla.org/t5/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%92%E8%A8%AD%E5%AE%9A%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95/ta-p/9904 ホームページを設定する方法 - Mozilla Support Community](2017年4月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>などでも、「本来の用法」とされるウェブブラウザ起動時のページは、「スタートアップ」「起動ページ」などと表現されており、'''用法1'''で使われていない。これらのブラウザでは'''用法2'''のホームボタンを押した際のページをホームページと呼んでいる。 また、ドイツ<ref>{{Cite web |title=Duden {{!}} Homepage {{!}} Rechtschreibung, Bedeutung, Definition, Herkunft |url=https://www.duden.de/rechtschreibung/Homepage |website=www.duden.de |access-date=2022-09-22 |language=de}}</ref>や日本などの国では'''用法4'''、'''用法5'''の「ホームページ=ウェブサイト、ウェブページ」という認識が広く浸透している。日本の法令にもウェブページのアドレスの意で「ホームページアドレス」の語が用いられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=335M50000002056#167|title=放射性同位元素等の規制に関する法律施行規則(昭和35年総理府令第56号)第14条の6第3号|website=e-Gov法令検索|date=2019-07-01|accessdate=2020-01-11|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。官公庁<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/|title=首相官邸ホームページ|accessdate=2014-10-31}}</ref>や企業<ref>[http://www.ocn.ne.jp/info/hp/ OCNホームページについて | OCN]</ref>でもウェブサイトの意味で使われている。なかには、用法1が正しい用語であるとしつつも、より一般にわかりやすいという判断からホームページという言葉を使用している例もある<ref>[http://www.cis-trans.jp/column_homepage.html 弊社があえて「ホームページ」制作という理由 | 研究機関専門ホームページ制作 - 株式会社シストランス]</ref>。&nbsp; 辞書においても、「本来の用法」とされる'''用法1'''以外の意味が記載されており<ref name="デジタル大辞泉_ホームページ" />、さらに'''用法1'''を採用していないもの<ref name="コトバンク" />さえある。 === 英語圏での表記 === {{Main|en:Home_page}} 英語圏では、主に'''用法1~3'''の用途で「homepage」という言葉を用いられる。[[ウェブ標準]]を推進する[[World Wide Web Consortium|W3C]]のウェブサイトでもメインページをhome pageと呼ぶ'''用法3'''で使用している<ref>[https://www.w3.org/MarkUp/ W3C XHTML2 Working Group Home Page]</ref>。 英語圏の辞書においても、日本語圏と同様で、'''用法1'''と併せて他の用法を掲載しているもの<ref>[http://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/home-page home page - Definition and pronunciation | Oxford Advanced Learner's Dictionary at OxfordLearnersDictionaries.com]</ref>や、'''用法1'''を記載していないもの<ref>[https://web.archive.org/web/20160920044201/http://www.ldoceonline.com/dictionary/homepage homepage - Definition from Longman English Dictionary Online]</ref>もある。'''用法5'''の用途で「homepage」を説明したもの<ref>[https://web.archive.org/web/20170527200550/http://www.kdictionaries-online.com/DictionaryPage.aspx?ApplicationCode=18&DictionaryEntry=home+page&SearchMode=Entry&TranLangs=18 K DICTIONARIES online]</ref>もある。 == ウェブブラウザのホームページ == [[ウェブブラウザ]]を起動した時や、「ホーム」ボタンを押すと表示されるように設定されたウェブページなどの画面をホームページと呼ぶ。'''スタートページ'''や'''トップページ'''と呼ばれることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 |title=スタートページの意味・解説 |accessdate=2022-01-12 |website=[[Weblio辞書]] |publisher=GRASグループ株式会社 |quote=別名:トップページ,スタートページ}}</ref>。 ブラウザの開発元や[[スポンサー]]企業等が自社の[[ポータルサイト]]にアクセスを誘導する役割もあり、例えば[[Internet Explorer]]では[[MSN|msn]]など[[マイクロソフト]]のポータルサイトが初期設定のホームページとなっている。また[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]のメーカーが自社のウェブサイトを[[プリインストール]]ブラウザの出荷時のホームページに設定する場合もある<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/745/745252/ ASCII.jp:PCメーカーがIE10「ホームページ」にMSNを設定したのはなぜか? (1/2)|マイクロソフト・トゥディ]</ref>。 ウェブページ以外に、空白ページ(<code>about:blank</code>)やブラウザ自体や拡張機能によって提供されるブックマークや履歴を表示するページをホームページに設定できるブラウザも多い。 [[2000年代]]半ばまでは、ブラウザのホームページにはポータルサイトを設定する使い方が多かった<ref>[https://japan.cnet.com/release/10159514/ Yahoo! は多機能・ユーザビリティが理由で高い評価 - CNET Japan]</ref>が、2000年代後半以降は[[Microsoft Edge]]の「スタートページ」、[[Google Chrome]]の「新しいタブ」、[[Opera]]の「スピードダイヤル」などのように個人の使い方に合わせてカスタマイズされたページをホームページに設定する機能、あるいは前回終了した時に開いていたウェブサイトを再表示する機能が主流となっている。また、ホームボタンも初期設定では非表示になっているブラウザが多く、使用される機会は減っている。 ソフトウェアをインストールする際に、そのソフトウェアメーカーが提供あるいは提携するポータルサイトをブラウザのホームページに設定する場合<ref>[http://www.shinwa-agency.co.jp/ds/first_skype.html Skypeの使い方 | D's Speak]</ref>もある。多くの場合は、インストール時のオプションで拒否することもできるが、[[アドウェア]](広告表示ソフト)や[[マルウェア]]、[[コンピュータウイルス]]の中にはブラウザのホームページを確認なく勝手に変更するものがある。ブラウザ起動時に設定した覚えのないサイトが表示されたら、不審なソフトウェアがないかチェックすることが望ましい。 == インターネット用語としてのホームページ == === ウェブサイトのメインページ === ホームページという言葉はウェブサイトの表紙にあたるメインページだけを指す言葉としても使われる。'''トップページ<ref>[http://www.ocn.ne.jp/toppageguide/ OCNトップページの使い方 | OCN]</ref>、インデックスページ'''、'''フロントページ'''とも呼ばれる。 メインページには、ほかのコンテンツへの入り口や、サイトの説明などが書かれている場合が多い。Wikipedia日本語版では「[[メインページ]]」がこれにあたる。 各ウェブページにホームページに戻るボタンが存在するサイトも多い。「○○のホームページへ」、「トップへ」、「Home」などのテキストのほか、Wikipediaのようにウェブページ上部に表示されるロゴがそのリンクになっていることも多い。 また、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などに[[ログイン]]することで表示される各[[ユーザーアカウント|ユーザー]]専用のページもホームページと呼ばれる場合がある。ユーザーへのメッセージや、登録されているプロフィールデータ等、ユーザーごとにカスタマイズされた情報が表示される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist |refs= <ref name="デジタル大辞泉_ホームページ">{{Citation |date=2010年 |contribution=ホームページ【homepage】 |contribution-url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/203113/m0u/ |title=[[大辞泉|デジタル大辞泉]]([[goo辞書]]) |publisher=[[小学館]] |accessdate=2011-12-14 }}</ref> <ref name="知恵蔵2006_p995">{{Cite encyclopedia |author=西田宗千佳 |encyclopedia=[[知恵蔵|朝日現代用語 知恵蔵2006]] |title=パソコン - ウェブ/サイト/ホームページ |date=2006年1月1日 |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=4-02-390006-0 |page=995 }}</ref> <ref name="知恵蔵2006_p1208">{{Cite encyclopedia |author=河合伸 |encyclopedia=[[知恵蔵|朝日現代用語 知恵蔵2006]] |title=外来語・カタカナ語 (ホ) |date=2006年1月1日 |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=4-02-390006-0 |page=1208 }}</ref> <ref name="コトバンク">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8-8768 |title=ホームページとは - コトバンク |accessdate=2014-11-01}}</ref> <ref name="ASCII用語">{{Cite web|和書|url=http://yougo.ascii.jp/caltar/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 |title=ホームページ - 意味・説明・解説 : ASCII.jpデジタル用語辞典 |accessdate=2017-04-15}}</ref> |2}} == 関連項目 == {{wiktionary}} * [[World Wide Web]] (WWW) * [[ウェブサイト]] * [[ポータルサイト]] * [[ブックマーク]] <!--* [[Netvibes]]--> * [[コンテンツ管理システム]] (CMS) * [[ホームページ・ビルダー]] {{Internet-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおむへえし}} [[Category:World Wide Web]] [[Category:ウェブサイト]] [[Category:ウェブブラウザ]] [[Category:ウェブサイトの構成|*]]
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2,133
ウェブページ
ウェブページ (Web page, webpage) は、ウェブ上にあり、ウェブブラウザで閲覧可能な、ページ単位の文書のこと。ホームページと表記することもあるが、誤用であるという主張もある(詳しくはホームページの項を参照)。 もし、あなたがこの記事をWorld Wide Web(ウェブ)を使ってパソコンなどの画面上で見ているなら、この記事もウェブページの1つである。ウェブページのことを略して「ページ」ともいう。 書物のページとは異なり、ウェブページ同士を相互にハイパーリンクという形で指し示して移動できること(ハイパーテキスト)が特徴である。 一連のウェブページの集まりとしてできている意味のあるまとまりをウェブサイトという。ウェブサイトの最上位にあたるページをホームページ、トップページ、メインページなどと表現する場合があるが、正確にはドキュメントルートであり、ウェブサイトという表現でも通常は最上位ページを指す。 自分でウェブページを作成する場合、ソースコード (HTML) をテキストエディタで直接打ち込む他、専用のWebオーサリングツール(ウェブページ作成ソフトウェア)を用いたり、ウィキやブログ、ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) などのサービスを利用することもできる。オフィス系アプリケーションでは作成したドキュメントをHTML形式で出力する機能を持たせたものもある。 また、ネット上に存在するウェブページの数は"極めて膨大"であると言われており、2022年までにgoogleが発見したページだけでも130兆を超えている。 大半のウェブページは、HTML(またはXHTML)とスタイルシート、画像データで構成されており、ウェブブラウザを使用して閲覧されることが一般的である。HTMLではブラウザ毎の解釈が異なる場合があるため、企業などが制作しているページにはPDFが用いられていることもある。 JavaScriptなどのスクリプト言語を使ってウェブページに動作をもたせたり (DHTML)、FlashやJavaアプレットなどを付加的に用いてアプリケーションやインタフェースの機能を追加する場合がある。 電子掲示板(BBS)など、サーバサイドでウェブページやそこに含まれるコンテンツを動的に生成するための方法の、主要な例を以下に挙げる。
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ウェブページ は、ウェブ上にあり、ウェブブラウザで閲覧可能な、ページ単位の文書のこと。ホームページと表記することもあるが、誤用であるという主張もある(詳しくはホームページの項を参照)。
{{出典の明記|date=2017年10月}} '''ウェブページ''' (Web page, webpage) は、[[World Wide Web|ウェブ]]上にあり、[[ウェブブラウザ]]で閲覧可能な、ページ単位の文書のこと。[[ホームページ]]と表記することもあるが、誤用であるという主張もある(詳しくはホームページの項を参照)。 == 概説 == もし、あなたがこの記事を[[World Wide Web]](ウェブ)を使って[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]などの画面上で見ているなら、この記事もウェブページの1つである。ウェブページのことを略して「'''ページ'''」ともいう。<!-- また、'''WP''' ('''W'''eb'''P'''age) と呼ぶ人もいる。 --> 書物のページとは異なり、ウェブページ同士を相互に[[ハイパーリンク]]という形で指し示して移動できること([[ハイパーテキスト]])が特徴である。 <!--世界中のページをリンクすることができる構造が[[クモ]]の巣 (web) のようだということからWorld Wide Webと呼ばれている。(これはここではなく、World Wide Webに記述するべきでは?--> 一連のウェブページの集まりとしてできている意味のあるまとまりを[[ウェブサイト]]という。ウェブサイトの最上位にあたるページを[[ホームページ]]、トップページ、メインページなどと表現する場合があるが、{{要出典|date=2014年10月|範囲=正確にはドキュメントルートであり、ウェブサイトという表現でも通常は最上位ページを指す。}} 自分でウェブページを作成する場合、[[ソースコード]] ([[HyperText Markup Language|HTML]]) を[[テキストエディタ]]で直接打ち込む他、専用の[[Webオーサリングツール]](ウェブページ作成[[ソフトウェア]])を用いたり、[[ウィキ]]や[[ブログ]]、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]] (SNS) などのサービスを利用することもできる。[[オフィススイート|オフィス]]系[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]では作成したドキュメントをHTML形式で出力する機能を持たせたものもある。 また、ネット上に存在するウェブページの数は"極めて膨大"であると言われており、2022年までにgoogleが発見したページだけでも130兆を超えている。 == ウェブページの構成 == 大半のウェブページは、[[HyperText Markup Language|HTML]](または[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]])と[[Cascading Style Sheets|スタイルシート]]<ref>携帯電話などの携帯端末向けにはHTMLではなく[[Compact HTML|CHTML]]や[[Handheld Device Markup Language|HDML]]、[[Wireless Markup Language|WML]]などが使われることもある。</ref>、画像データで構成されており、[[ウェブブラウザ]]を使用して閲覧されることが一般的である。HTMLではブラウザ毎の解釈が異なる場合があるため、企業などが制作しているページには[[Portable Document Format|PDF]]が用いられていることもある。 [[JavaScript]]などのスクリプト言語を使ってウェブページに動作をもたせたり ([[ダイナミックHTML|DHTML]])、[[Adobe Flash|Flash]]や[[Javaアプレット]]などを付加的に用いて[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]や[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の機能を追加する場合がある。 == 動的なウェブページの生成 == [[電子掲示板]](BBS)など、サーバサイドでウェブページやそこに含まれるコンテンツを動的に生成するための方法の、主要な例を以下に挙げる。 * [[Common Gateway Interface|CGI]]を使用できる環境で、[[Perl]]や[[C言語|C]]を利用する方法。 * [[Java]]の利用できる環境で、[[Java Servlet|Javaサーブレット]]や[[JavaServer Pages|JSP]]、[[JavaServer Faces|JSF]]を利用する方法。 * [[Active Server Pages|ASP]]や[[ASP.NET]]を利用する方法 * [[PHP (プログラミング言語)|PHP]] * [[Ruby on Rails]] * [[Node.js]] == 関連項目 == * [[ウェブサイト]] * [[ホームページ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うえふへえし}} [[Category:World Wide Web]] [[Category:ウェブサイトの構成|*]]
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ルイージ (ゲームキャラクター)
ルイージ (Luigi) は、任天堂が発売したコンピュータゲームソフトのシリーズ、マリオシリーズに登場する架空の人物で、同社の登録商標(第4997624号ほか)。 任天堂の看板キャラクター「マリオ」の双子の弟。兄のマリオより長身で痩せ型、カイゼル髭、シャツ・帽子が緑でオーバーオールが紺色、帽子のマークが「L」であるといった相違点がある。『大乱闘スマッシュブラザーズDX』で見られるフィギュアの説明を考慮すると、年齢はマリオと同じ26歳前後(ただし、厳密な設定は存在していない)。 性格はマリオより物静か。一人称は「ボク」で、基本的に柔らかい口調でしゃべる。マリオとは違い、やや気弱で臆病であり、おっちょこちょいな性格。日記を付けるマメな一面もある(『マリオストーリー』より)。お化けや怪物といった類いのものが大の苦手で、そうした存在と相対した際は激しくおびえる。 スポーツ系のゲームでは、マリオ共々、平均的な能力を持つキャラクターとして扱われているが、マリオはパワーが若干強め、ルイージはテクニックに長けているという差もある。 初期作品で2プレイヤー用キャラクターとして位置づけられて以降、マリオと比べてあまり目立たず活躍の場が限られていることから、一部のマリオシリーズや『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズでは作中で「永遠の2番手」などと揶揄されることがある。 エンターブレインが企画する『ファミ通アワード2013』で「最優秀キャラクター賞」を受賞。 名前は任天堂の米国法人(Nintendo of America, NOA)の社員が付けたものである。イタリア人に多く語呂の良い名前を模索した結果「ルイージ」が選ばれたという。また、後の話によるとイタリア人デザイナーに多い名前でもあったとのこと。「生みの親である宮本茂が『マリオの類似(るいじ)やからルイージでええんちゃう』と言ったから」というのは俗説。 明確にマリオの弟「ルイージ」として初めて登場した作品は、1983年発売のゲーム&ウオッチ版『マリオブラザーズ』である。この中ではマリオの相棒として登場する。本体パネルに描かれたイメージイラストでは片方が赤い帽子・赤いオーバーオールに青のシャツ、もう片方は緑の帽子・緑のオーバーオールに赤のシャツとなっており、この頃から2人は「赤」「緑」として描き分けられていた。同年に稼働を開始した別内容のアーケードゲーム版『マリオブラザーズ』では、マリオが1プレイヤー用キャラ、ルイージが2プレイヤー用キャラとなり、マリオが青い帽子とオーバーオールに赤いシャツ、ルイージは緑の帽子とオーバーオールに赤褐色のシャツで描かれ、ファミコン版のゲーム中ではマリオが赤の帽子とシャツに青のオーバーオール、ルイージが白の帽子とシャツ、緑のオーバーオールの姿で描かれた。ただ、翌1984年稼働のアーケードゲーム版『VS.レッキングクルー』および1985年発売のファミリーコンピュータ(ファミコン)版『レッキングクルー』では、ルイージはピンク色の服装でマリオに近い配色だった。『スーパーマリオブラザーズ』においては、ゲーム中ではマリオが赤の帽子とオーバーオールに茶色のシャツ、ルイージが白の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で、イラストではマリオが赤の帽子とオーバーオールに青のシャツ、ルイージが水色の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で描かれた。 初めてマリオとの能力の差別化が図られた作品は1986年発売の『スーパーマリオブラザーズ2』である。この作品では「マリオに比べてジャンプ力が高いが滑りやすい」という、上級者向けの設定になった。この設定は、以降のスーパーマリオシリーズでも多く用いられるようになる。服の色以外で初めて外見的な違いが設けられた作品は、同年公開のアニメ映画『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!』で、マリオよりも細身で長身になっている。ただし、この時の服の色はシャツが黄色、帽子・オーバーオールが青だった。その後、1988年4月発売の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の説明書内でも細身・長身の姿で描かれると同時に、髭の形がマリオと異なるものに、Lマークが緑にそれぞれ変更された。同時期に日本国外で発売された『Super Mario Bros. 2』(日本における『スーパーマリオUSA』)で初めてグラフィックが差別化された他、シャツ・帽子が緑、オーバーオールが青となり、以降、このスタイルが定着することになる。日本でも『マリオオープンゴルフ』からはゲーム内でも同様に描かれるようになった。また、『ルイージマンション』からはオーバーオールがマリオよりも暗い紺色で差別化されることが多い。作品によってはジャンプ時に足をばたつかせるといった特徴がつけられることもある。 初期の頃は無鉄砲な性格(『スーパーマリオブラザーズ2』の説明書より)で、ファミコンからスーパーファミコン時代の漫画やゲームブック、および前述のアニメ映画では、マリオより兄貴肌の性格として描かれていた。また、ファミリーコンピュータ ディスクシステムの起動画面や『スーパーマリオブラザーズ3』のタイトル画面ではルイージがいたずらを仕掛ける様子が描かれている。しかし、吉田戦車の漫画『はまり道』や本山一城のスーパーマリオシリーズの漫画等で「二番手」「報われない」ということを皮肉って卑屈な性格として描かれて以降、そのイメージが徐々にゲーム本編でも反映されるようになり、一方で、気弱な性格(『マリオストーリー』や『ルイージマンション』など)、多少ドジ(『ペーパーマリオRPG』から)といった、マリオとは異なるルイージ特有の人物像が形成されていった。長期連載となっている沢田ユキオの漫画『スーパーマリオくん』におけるルイージも、初期は一人称が「おれ」で荒っぽい性格だったが「ペーパーマリオRPG編」以降から現在のゲームに準拠した性格に変更されている。 『マリオカート64』以降の作品からは声が付いた。初期の頃に担当していたジュリアン・バーダコフは高い声だったが、国外版『マリオカート64』、『マリオゴルフ64』から担当していたチャールズ・マーティネーはマリオよりもやや低い声で演じている。『ルイージマンション』以降の作品では控えめで気弱な性格が声でも表現されるようになった。ただし、『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』および『大乱闘スマッシュブラザーズDX』では、チャールズ・マーティネーによるマリオの声を高い声に加工したものがルイージに用いられていた。『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』でのケビン・アフガニの声もマリオよりやや低い声に準じたものとなっている。 マリオシリーズにおいて、ルイージはマリオと同様に様々な変身能力を発揮する。多くの能力はマリオと同じで、「ファイアルイージ」(マリオにおける「ファイアマリオ」に相当)のように名称と衣装等が異なるだけだが、『スーパーマリオ 3Dランド』『スーパーマリオ 3Dワールド』の「キツネルイージ」(マリオにおける「タヌキマリオ」に相当)、『New スーパーマリオブラザーズ 2』の「シルバールイージ」(マリオにおける「ゴールドマリオ」に相当)などのように、マリオと性能は共通したままで明確に異なる姿になるものもある。 変身能力の詳細は「マリオ (ゲームキャラクター)#変身能力」を参照。 ルイージの赤ん坊時代の姿。1995年発売の『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』で初登場。この作品を含むいずれの『ヨッシーアイランド』シリーズでも敵にさらわれる。2003年発売の『マリオカート ダブルダッシュ!!』では、ベビィマリオとのペアという形で登場。公式サイトの説明では、「シャイでハニカミやさんだけど、攻撃はスゴイぞ!」と記載されている。『マリオ&ルイージRPG2』では大人マリオと共に大人ルイージが過去にタイムトラベルした際に共演する。泣き虫だが勇敢な性格。大人ルイージとすぐに仲良くなる。『マリオスポーツ スーパースターズ』ではメインキャラクターとして登場する。ベースボールは「スーパーマリオスタジアム ファミリーベースボール」以来約8年半ぶりで、テニス、サッカー、ゴルフは初参加となる。 『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』および『ヨッシーアイランドDS』『ヨッシー New アイランド』ではおむつ姿だったが、『マリオカート ダブルダッシュ!!』以降ではオーバーオール姿で登場する。声は大人ルイージと同じくチャールズ・マーティネーが担当している。 『スーパーペーパーマリオ』に登場。敵であるノワール伯爵の部下「ザ・伯爵ズ」のナスタシアに捕まって催眠術をかけられ、洗脳されたルイージ。「ミドリ色の貴公子」「ミドリのいかずち」との異名を用いる。黒い服を着用し、首に緑色のスカーフを巻き、顔の上半分は黒い仮面で覆われている。頭に被る緑の帽子にはLのアルファベットの鏡文字が描かれている。 普段のルイージの性格とは大きく変わっている。マリオへの対抗心をむき出しにし、誰彼構わず傍若無人な言動をとる。一人称は「オレ」(ただし洗脳が解けかけた際は「ボク」と言っている)。 洗脳が解けた際にはミスターLとしての記憶を失っており、マリオたちもミスターLがルイージだと気づいていない(「どこかで見たことがある」と思った程度)。 『マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー』に登場。夢世界のルイージ。 2Dのスーパーマリオシリーズでは、2プレイヤーキャラクターとしてマリオと共に登場する。また、マリオカートシリーズやマリオパーティシリーズなどの作品でも常連となっている。一方で、3Dのスーパーマリオシリーズ『スーパーマリオ64』『スーパーマリオサンシャイン』では出番がなく(リメイク版の『スーパーマリオ64DS』には登場する)、それ以外の作品でも出番が限られたり、ぞんざいに扱われたりすることがある。 『スーパーマリオRPG』では取扱説明書や一部の台詞、エンディングにしか顔を見せず、『マリオストーリー』では、マリオが冒険に出ている間、家でずっと留守番をしている。 『ルイージマンション』で初めて主役を務める。なお、日本国外のみで発売された地理学習ゲーム『Mario is Missing!』では主役となっているが、任天堂はライセンス供与のみで同作の開発・販売に関わっていない。 『マリオ&ルイージRPG』シリーズではマリオのパートナーとして冒険する。ただ、物語の中では、クッパから「緑のヒゲ」「頼りないヒゲ」、マメーリア城の警備員からも「ルーなんとか」と名前で呼ばれないなど、雑な扱いを受けている。 『ペーパーマリオRPG』では、エクレア姫を助けるために単身冒険に出ているが、その様子はゲーム本編では描かれていない。仲間の話を聞く限り、旅先で迷惑ばかりかけていたとのことだが、エクレア姫は無事に救出している。作中では、冒険の内容を記した本『スーパールイージ』シリーズが(話をかなり美化した上で)発売されベストセラーになっている。 『スーパーマリオ64DS』では操作キャラクターの一人となり、ゲーム中ではマリオの「スケスケマリオ」(透明マリオ)の能力と同様の「透明ルイージ」に変身することができる。また、短時間水面歩行できる特有の能力を持つ。ただ、ゲーム中の解説(看板)によれば、透明ルイージは「影が薄いから」、水面歩行は「水に浮くほど存在が軽いから」可能になったとのこと。作品内では味方キャラクター(キノピオ、赤ボム)からも馬鹿にされている。 『スーパーペーパーマリオ』では、ノワール一味に洗脳され、洗脳が解けた後はマリオたちの仲間となって同行し、終盤で再び洗脳される。洗脳されている間は「ミスターL」と名乗り、専用メカ「エルガンダー」(後に「エルガンダーZ」へと強化)と共にマリオたちの前に現れる。 『スーパーマリオギャラクシー』では、「ファントムギャラクシー」内の館に幽閉されている。救出後は「パワースター」探しを行うようになるが、毎回のように向かった先から帰れなくなっている。マリオが迎えに行きルイージが持つパワースターを受け取る際には、マリオの後ろでポーズを決める。また、パワースターを120個集めると、ルイージをプレイヤーキャラとして使用できるようになるが、シナリオはマリオの場合と変わらないため、場面によってはルイージが同時に2人登場する。ルイージ本人はそれを「自分によく似た人」としか思っておらず、気に留めていない。 『マリオ+ラビッツ キングダムバトル』では、キノコ王国に現れたウサギ「ラビッツ」たちとともに武器を装備して戦う。 『マリオテニスエース』では、ワリオとワルイージが持ち込んだ人を操る力を持つラケット「エスター」の力に取り込まれ、ルイージが行方不明になる。 その他、『New スーパーマリオブラザーズ U』の派生作品『New スーパールイージ U』や、『スーパーマリオ 3Dワールド』収録の作品『ルイージブラザーズ』などでも主役を務めている。 『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズではファイターの一人として全作品に登場。 1作目の『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』から3作目『大乱闘スマッシュブラザーズX』までは初期段階では使用できず、一定条件を満たすと使用できるようになる。戦闘時に見せる動きはコミカルなものが多い。 『大乱闘スマッシュブラザーズX』では、強力な必殺ワザ「最後の切りふだ」として、ルイージの周辺に様々なマイナス効果を及ぼす空間を発生させる強力な技「ネガティブゾーン」を用いる。また作中では、『メタルギア』シリーズのキャンベル大佐がルイージのことを「永遠の2番手」「いわゆる日陰者」「兄に勝る弟などいない」と貶し、同シリーズのスネークにたしなめられる場面がある。 同作品のアドベンチャーモード「亜空の使者」では、ストーリー上重要な役割を果たすこととなる。 4作目『大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U』以降では、ジャンプ時に『スーパーマリオUSA』などのように足をばたつかせる動作を行うようになったほか、最後の切りふだが『ルイージマンション』でルイージが使用するアイテム「オバキューム」に変更されている。 1983年発売の『マリオブラザーズ』でルイージが初登場してから2013年で30周年となったことを受け、2013年2月14日に放送された「Nintendo Direct」の中で、当時の任天堂社長・岩田聡から2013年を「ルイージの年」にすると宣言された。以降、約1年にわたって関連作品・関連グッズが製作・販売され、関連イベントも行われた。この「ルイージの年」は2014年3月18日をもって終了した。 ゲーム作品では専任声優としてチャールズ・マーティネーが長年担当していた。チャールズは2022年に降板となり、2023年の『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』からはケビン・アフガニが新たに声を担当する。
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"text": "ゲーム作品では専任声優としてチャールズ・マーティネーが長年担当していた。チャールズは2022年に降板となり、2023年の『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』からはケビン・アフガニが新たに声を担当する。", "title": "担当声優・俳優" } ]
ルイージ (Luigi) は、任天堂が発売したコンピュータゲームソフトのシリーズ、マリオシリーズに登場する架空の人物で、同社の登録商標(第4997624号ほか)。
{{Pathnav|マリオシリーズ|[[マリオシリーズのキャラクター一覧|キャラクター]]|this=ルイージ|frame=1}} {{コンピュータゲームキャラクター | name = ルイージ | image = | series = [[マリオシリーズ]] | firstgame = [[マリオブラザーズ]] | creator = [[宮本茂]] | voiceactor = [[チャールズ・マーティネー]](初代)<br />[[ケビン・アフガニ]](2代目)<br />その他は[[#担当声優・俳優]]を参照 | japanactor = [[#担当声優・俳優]]を参照 | motionactor = <!-- モーションキャプチャー担当者 --> | liveactor = [[ジョン・レグイザモ]] | inuniverse = <!-- 後述 --> }} [[File:Luigi emblem.svg|thumb|right|150px|ルイージのイニシャルマーク]] '''ルイージ''' (Luigi) は、[[任天堂]]が発売した[[コンピュータゲーム]]ソフトのシリーズ、[[マリオシリーズ]]に登場する架空の人物で、同社の[[登録商標]]([https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-2005-121768/9E30B3A133292A79BC875FF256D9ADDCEF6868ADFF945F0E19A503411A266FD4/40/ja 第4997624号]ほか)。 == 概要 == [[任天堂]]の看板[[キャラクター]]「[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]」の双子の弟。兄のマリオより長身で痩せ型、カイゼル髭、シャツ・帽子が緑でオーバーオールが紺色、帽子のマークが「L」であるといった相違点がある。『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』で見られるフィギュアの説明を考慮すると、年齢はマリオと同じ26歳前後(ただし、厳密な設定は存在していない)<ref>映画『[[スーパーマリオ 魔界帝国の女神]]』では、孤児だったところをマリオに育てられたことにより年の離れた義理の兄弟(ルイージは「父親でもあり兄さんでもあり」と発言)と設定されているが、この映画の設定について任天堂は関与していない。</ref>。 性格はマリオより物静か。[[一人称]]は「ボク」<ref>平仮名・漢字の場合もあり、表記は安定していない。</ref>で、基本的に柔らかい口調でしゃべる。マリオとは違い、やや気弱で臆病であり、おっちょこちょいな性格。日記を付けるマメな一面もある(『[[マリオストーリー]]』より)。お化けや怪物といった類いのものが大の苦手で、そうした存在と相対した際は激しくおびえる。 スポーツ系のゲームでは、マリオ共々、平均的な能力を持つキャラクターとして扱われているが、マリオはパワーが若干強め、ルイージはテクニックに長けているという差もある。 初期作品で[[2プレイヤー]]用キャラクターとして位置づけられて以降、マリオと比べてあまり目立たず活躍の場が限られていることから、一部のマリオシリーズや『[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ|大乱闘スマッシュブラザーズ]]』シリーズでは作中で「永遠の2番手」などと揶揄されることがある。 [[エンターブレイン]]が企画する『[[ファミ通アワード]]2013』で「最優秀キャラクター賞」を受賞<ref>{{Cite press release |和書 |title=「ファミ通アワード2013」受賞作品発表 ~2013年のゲーム・オブ・ザ・イヤーは『モンスターハンター4』に決定~|publisher=エンターブレイン ブランドカンパニー(株式会社KADOKAWA)|date=2014-04-25|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000654.000007006.html|accessdate=2019-04-06}}</ref>。 == 名前の由来 == 名前は任天堂の米国法人(Nintendo of America, NOA)の社員が付けたものである。イタリア人に多く語呂の良い名前を模索した結果「ルイージ」が選ばれたという。また、後の話によるとイタリア人デザイナーに多い名前でもあったとのこと<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2009|date=2009-11-21|title=宮本茂さんが語るNewスーパーマリオブラザーズWii|journal=[[Nintendo DREAM]]|volume=|issue=2010年1月号|page=9|publisher=[[毎日コミュニケーションズ]]|id=雑誌16947-1}}</ref>。「生みの親である[[宮本茂]]が『マリオの類似(るいじ)やからルイージでええんちゃう』と言ったから」というのは俗説<ref>{{Cite web|和書|work=ファミ通.com|date=2000|url=http://www.famitsu.com/game/extra/special/2000/zelda/zelda04.html|title=独占スクープ宮本茂最新雑談|language=日本語 |accessdate=2009年11月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20001010214429/https://www.famitsu.com/game/extra/special/2000/zelda/zelda04.html|archivedate=2000-10-10}}</ref>。 == キャラクター設定の変遷 == 明確にマリオの弟「ルイージ」として初めて登場した作品は、[[1983年]]発売の[[ゲーム&ウオッチ]]版『[[マリオブラザーズ#ゲーム&ウオッチ版|マリオブラザーズ]]』である<ref>それ以前に、1982年の[[アーケードゲーム]]版『[[ドンキーコングJR.]]』のオープニングデモにて、マリオの姿をした2人の男が[[ドンキーコング (ゲームキャラクター・初代)|ドンキーコング]]の檻の搬送を行っているが、このうち片方がルイージかどうかは明らかにされていない。</ref>。この中ではマリオの相棒として登場する。本体パネルに描かれたイメージイラストでは片方が赤い帽子・赤い[[オーバーオール]]に青のシャツ、もう片方は緑の帽子・緑のオーバーオールに赤のシャツとなっており、この頃から2人は「赤」「緑」として描き分けられていた<ref>ただし、どちらがマリオでどちらがルイージかまでは書かれておらず、実際のゲーム上ではモノクロ液晶のため二人とも黒の単色である。</ref>。同年に稼働を開始した別内容の[[アーケードゲーム]]版『[[マリオブラザーズ]]』では、マリオが1プレイヤー用キャラ、ルイージが2プレイヤー用キャラとなり、マリオが青い帽子とオーバーオールに赤いシャツ、ルイージは緑の帽子とオーバーオールに赤褐色のシャツで描かれ、ファミコン版のゲーム中ではマリオが赤の帽子とシャツに青のオーバーオール、ルイージが白の帽子とシャツ、緑のオーバーオールの姿で描かれた。ただ、翌[[1984年]]稼働のアーケードゲーム版『[[レッキングクルー|VS.レッキングクルー]]』および[[1985年]]発売の[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン)版『レッキングクルー』では、ルイージはピンク色の服装でマリオに近い配色だった<ref>ファミコン版では肌の色がマリオと異なり、アーケード版に近い色白で描かれている。また、アーケード版のアートワークでは『スーパーマリオUSA』に先駆けて、緑+青の組み合わせになっていた。</ref>。『[[スーパーマリオブラザーズ]]』においては、ゲーム中ではマリオが赤の帽子とオーバーオールに茶色のシャツ、ルイージが白の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で、イラストではマリオが赤の帽子とオーバーオールに青のシャツ、ルイージが水色の帽子とオーバーオールに緑のシャツの姿で描かれた。 初めてマリオとの能力の差別化が図られた作品は[[1986年]]発売の『[[スーパーマリオブラザーズ2]]』である。この作品では「マリオに比べてジャンプ力が高いが滑りやすい」という、上級者向けの設定になった。この設定は、以降のスーパーマリオシリーズでも多く用いられるようになる。服の色以外で初めて外見的な違いが設けられた作品は、同年公開の[[アニメ映画]]『[[スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!]]』で、マリオよりも細身で長身になっている。ただし、この時の服の色はシャツが黄色<ref>イラストでは赤。</ref>、帽子・オーバーオールが青だった。その後、[[1988年]]4月発売の『[[ファミコングランプリII 3Dホットラリー]]』の説明書内でも細身・長身の姿で描かれると同時に、髭の形がマリオと異なるものに、Lマークが緑にそれぞれ変更された。同時期に日本国外で発売された『[[:en:Super Mario Bros. 2|Super Mario Bros. 2]]』(日本における『[[スーパーマリオUSA]]』)で初めてグラフィックが差別化された他、シャツ・帽子が緑、オーバーオールが青となり<ref>パッケージのイラストでは青のシャツに緑のオーバーオールとなっている。また、『[[スーパーマリオワールド]]』など一部作品のグラフィックでは紫のオーバーオールで差別化されている。</ref>、以降、このスタイルが定着することになる。日本でも『[[マリオオープンゴルフ]]』からはゲーム内でも同様に描かれるようになった。また、『[[ルイージマンション]]』からはオーバーオールがマリオよりも暗い紺色で差別化されることが多い。作品によってはジャンプ時に足をばたつかせる<ref>『スーパーマリオUSA』など。</ref>といった特徴がつけられることもある。 初期の頃は無鉄砲な性格(『スーパーマリオブラザーズ2』の説明書より)で、ファミコンから[[スーパーファミコン]]時代の[[漫画]]や[[ゲームブック]]、および前述のアニメ映画では、マリオより兄貴肌の性格として描かれていた。また、[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]の起動画面や『スーパーマリオブラザーズ3』のタイトル画面ではルイージがいたずらを仕掛ける様子が描かれている。しかし、[[吉田戦車]]の漫画『はまり道』や[[本山一城]]の[[スーパーマリオ (本山一城の漫画)|スーパーマリオシリーズ]]の漫画等で「二番手」「報われない」ということを皮肉って卑屈な性格として描かれて以降、そのイメージが徐々にゲーム本編でも反映されるようになり、一方で、気弱な性格(『[[マリオストーリー]]』や『[[ルイージマンション]]』など)、多少ドジ(『[[ペーパーマリオRPG]]』から)といった、マリオとは異なるルイージ特有の人物像が形成されていった。長期連載となっている[[沢田ユキオ]]の漫画『[[スーパーマリオくん (沢田ユキオの漫画)|スーパーマリオくん]]』におけるルイージも、初期は一人称が「おれ」で荒っぽい性格だったが「[[ペーパーマリオRPG]]編」以降から現在のゲームに準拠した性格に変更されている。 『[[マリオカート64]]』以降の作品からは声が付いた。初期の頃<ref>日本版『マリオカート64』、『[[マリオパーティ]]』、『[[マリオパーティ2]]』、『[[マリオカートアドバンス]]』。</ref>に担当していたジュリアン・バーダコフは高い声だったが、国外版『マリオカート64』、『[[マリオゴルフ64]]』から担当していた[[チャールズ・マーティネー]]はマリオよりもやや低い声で演じている。『ルイージマンション』以降の作品では控えめで気弱な性格が声でも表現されるようになった。ただし、『[[ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ]]』および『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』では、チャールズ・マーティネーによるマリオの声を高い声に加工したものがルイージに用いられていた。『[[スーパーマリオブラザーズ ワンダー]]』でのケビン・アフガニの声もマリオよりやや低い声に準じたものとなっている。 == 派生型のルイージ == === 変身時のルイージ === マリオシリーズにおいて、ルイージはマリオと同様に様々な変身能力を発揮する。多くの能力はマリオと同じで、「ファイアルイージ」(マリオにおける「ファイアマリオ」に相当)のように名称と衣装等が異なるだけだが、『[[スーパーマリオ 3Dランド]]』『[[スーパーマリオ 3Dワールド]]』の「キツネルイージ」(マリオにおける「タヌキマリオ」に相当)、『[[New スーパーマリオブラザーズ 2]]』の「シルバールイージ」(マリオにおける「ゴールドマリオ」に相当)などのように、マリオと性能は共通したままで明確に異なる姿になるものもある。 変身能力の詳細は「''[[マリオ (ゲームキャラクター)#変身能力]]''」を参照。 === ベビィルイージ === ルイージの赤ん坊時代の姿。[[1995年]]発売の『[[スーパーマリオ ヨッシーアイランド]]』で初登場。この作品を含むいずれの『ヨッシーアイランド』シリーズでも敵にさらわれる。[[2003年]]発売の『[[マリオカート ダブルダッシュ!!]]』では、[[マリオ (ゲームキャラクター)#関連キャラクター|ベビィマリオ]]とのペアという形で登場。公式サイトの説明では、「シャイでハニカミやさんだけど、攻撃はスゴイぞ!」と記載されている。『[[マリオ&ルイージRPG2]]』では大人マリオと共に大人ルイージが過去に[[タイムトラベル]]した際に共演する。泣き虫だが勇敢な性格。大人ルイージとすぐに仲良くなる。『[[マリオスポーツ スーパースターズ]]』ではメインキャラクターとして登場する。ベースボールは「[[スーパーマリオスタジアム (ゲームソフト)|スーパーマリオスタジアム]] ファミリーベースボール」以来約8年半ぶりで、テニス、サッカー、ゴルフは初参加となる。 『スーパーマリオ ヨッシーアイランド』および『[[ヨッシーアイランドDS]]』『[[ヨッシー New アイランド]]』では[[おむつ]]姿だったが、『マリオカート ダブルダッシュ!!』以降ではオーバーオール姿で登場する。声は大人ルイージと同じくチャールズ・マーティネーが担当している。 === ミスターL === 『[[スーパーペーパーマリオ]]』に登場。敵であるノワール伯爵の部下「ザ・伯爵ズ」のナスタシアに捕まって催眠術をかけられ、洗脳されたルイージ。「ミドリ色の貴公子」「ミドリのいかずち」との異名を用いる。黒い服を着用し、首に緑色の[[スカーフ]]を巻き、顔の上半分は黒い[[仮面]]で覆われている。頭に被る緑の帽子にはLのアルファベットの[[鏡文字]]が描かれている。 普段のルイージの性格とは大きく変わっている。マリオへの対抗心をむき出しにし、誰彼構わず傍若無人な言動をとる。一人称は「オレ」(ただし洗脳が解けかけた際は「ボク」と言っている)。 洗脳が解けた際にはミスターLとしての記憶を失っており、マリオたちもミスターLがルイージだと気づいていない(「どこかで見たことがある」と思った程度)。 === ユメルイージ === 『[[マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー]]』に登場。夢世界のルイージ。 == 作品内での扱い == === マリオシリーズでの扱い === 2Dの[[スーパーマリオシリーズ]]では、[[2プレイヤー]]キャラクターとしてマリオと共に登場する。また、[[マリオカートシリーズ]]や[[マリオパーティシリーズ]]などの作品でも常連となっている。一方で、3Dのスーパーマリオシリーズ『[[スーパーマリオ64]]』『[[スーパーマリオサンシャイン]]』では出番がなく(リメイク版の『[[スーパーマリオ64DS]]』には登場する)、それ以外の作品でも出番が限られたり、ぞんざいに扱われたりすることがある。 『[[スーパーマリオRPG]]』では取扱説明書や一部の台詞、エンディングにしか顔を見せず、『[[マリオストーリー]]』では、マリオが冒険に出ている間、家でずっと留守番をしている。 『[[ルイージマンション]]』で初めて主役を務める。なお、日本国外のみで発売された地理学習ゲーム『[[Mario is Missing!]]』では主役となっているが、任天堂はライセンス供与のみで同作の開発・販売に関わっていない。 『[[マリオ&ルイージRPGシリーズ|マリオ&ルイージRPG]]』シリーズではマリオのパートナーとして冒険する。ただ、物語の中では、[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]から「緑のヒゲ」「頼りないヒゲ」、マメーリア城の警備員からも「ルーなんとか」と名前で呼ばれないなど、雑な扱いを受けている。 『[[ペーパーマリオRPG]]』では、エクレア姫を助けるために単身冒険に出ているが、その様子はゲーム本編では描かれていない。仲間の話を聞く限り、旅先で迷惑ばかりかけていたとのことだが、エクレア姫は無事に救出している。作中では、冒険の内容を記した本『スーパールイージ』シリーズが(話をかなり美化した上で)発売されベストセラーになっている。 『スーパーマリオ64DS』では操作キャラクターの一人となり、ゲーム中ではマリオの「スケスケマリオ」(透明マリオ)の能力と同様の「透明ルイージ」に変身することができる。また、短時間水面歩行できる特有の能力を持つ。ただ、ゲーム中の解説(看板)によれば、透明ルイージは「影が薄いから」、水面歩行は「水に浮くほど存在が軽いから」可能になったとのこと。作品内では味方キャラクター(キノピオ、赤ボム)からも馬鹿にされている。 『[[スーパーペーパーマリオ]]』では、ノワール一味に洗脳され、洗脳が解けた後はマリオたちの仲間となって同行し、終盤で再び洗脳される。洗脳されている間は「ミスターL」と名乗り、専用メカ「エルガンダー」(後に「エルガンダーZ」へと強化)と共にマリオたちの前に現れる。 『[[スーパーマリオギャラクシー]]』では、「ファントムギャラクシー」内の館に幽閉されている。救出後は「パワースター」探しを行うようになるが、毎回のように向かった先から帰れなくなっている。マリオが迎えに行きルイージが持つパワースターを受け取る際には、マリオの後ろでポーズを決める。また、パワースターを120個集めると、ルイージをプレイヤーキャラとして使用できるようになるが、シナリオはマリオの場合と変わらないため、場面によってはルイージが同時に2人登場する。ルイージ本人はそれを「自分によく似た人」としか思っておらず、気に留めていない。 『[[マリオ+ラビッツ キングダムバトル]]』では、キノコ王国に現れたウサギ「ラビッツ」たちとともに武器を装備して戦う。 『[[マリオテニスエース]]』では、[[ワリオ]]と[[ワルイージ]]が持ち込んだ人を操る力を持つラケット「エスター」の力に取り込まれ、ルイージが行方不明になる。 その他、『[[New スーパーマリオブラザーズ U]]』の派生作品『[[New スーパーマリオブラザーズ U#New スーパールイージ U|New スーパールイージ U]]』や、『[[スーパーマリオ 3Dワールド]]』収録の作品『[[スーパーマリオ 3Dワールド#ルイージブラザーズ|ルイージブラザーズ]]』などでも主役を務めている。 === 大乱闘スマッシュブラザーズシリーズでの扱い === 『[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ|大乱闘スマッシュブラザーズ]]』シリーズではファイターの一人として全作品に登場。 1作目の『[[ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ]]』から3作目『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』までは初期段階では使用できず、一定条件を満たすと使用できるようになる。戦闘時に見せる動きはコミカルなものが多い。 『大乱闘スマッシュブラザーズX』では、強力な必殺ワザ「最後の切りふだ」として、ルイージの周辺に様々なマイナス効果を及ぼす空間を発生させる強力な技「ネガティブゾーン」を用いる。また作中では、『[[メタルギアシリーズ|メタルギア]]』シリーズの[[ロイ・キャンベル|キャンベル大佐]]がルイージのことを「永遠の2番手」「いわゆる日陰者」「兄に勝る弟などいない」と貶し、同シリーズの[[ソリッド・スネーク|スネーク]]にたしなめられる場面がある。 同作品のアドベンチャーモード「亜空の使者」では、ストーリー上重要な役割を果たすこととなる。 4作目『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]]』以降では、ジャンプ時に『[[スーパーマリオUSA]]』などのように足をばたつかせる動作を行うようになったほか、最後の切りふだが『ルイージマンション』でルイージが使用するアイテム「オバキューム」に変更されている。 == 関連キャラクター == ; [[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]] : ルイージの双子の兄。基本的には仲が良く、『[[スーパーマリオスタジアム (ゲームソフト)|マリオスタジアム]]』シリーズでは全キャラクターの相性の中で1番数値が高い。日本国内作品におけるルイージはマリオのことを「兄さん」と呼ぶが、日本国外作品では名前で呼んでいる(英語圏では兄弟同士の場合お互いを名前で呼ぶのが普通である)。ただし、日本国外版『[[スーパーペーパーマリオ]]』など一部の作品では「Bro(兄弟)」という呼称が使われている。 ; [[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ]] : [[キノコ王国]]のお姫様。クッパにさらわれてしまうことが多いが、作品によってはルイージが救出に向かう。大抵の作品ではマリオ同様親しく接しているが、一部の作品では扱いがひどいこともある。 ; [[ヨッシー]] : 『[[スーパーマリオワールド]]』以来たびたび共演している恐竜。『[[マリオテニスGC]]』では空腹に耐えられなかった(正確には勘違いしていた)ことで、ルイージが食べられてしまう。 ; [[キノピオ]] : マリオシリーズに数多く登場するキノコ王国の住人。『[[New スーパーマリオブラザーズ Wii]]』ではピーチ姫を助けるため青キノピオと黄キノピオが共に冒険に出る。『[[スーパーマリオ64DS]]』などでは、ルイージを頼りない人として扱う。 ; [[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]] : クッパ軍団の首領。ルイージが[[プレイヤーキャラクター]]となるスーパーマリオシリーズ作品ではピーチ姫の救出を賭けて対決することになる。『[[マリオ&ルイージRPG]]』ではルイージのことを「緑のヒゲ」と呼びマリオの弟とすら認識していない。 ; [[デイジー (ゲームキャラクター)|デイジー]] : サラサ・ランドのお姫様。[[1991年]]発売の『[[マリオオープンゴルフ]]』でルイージの[[キャディ (ゴルフ)|キャディ]]として初共演。『[[マリオパーティシリーズ|マリオパーティ]]』シリーズでは2人がコンビを組むと「じみーズ」(『[[マリオパーティ5]]』)、「ぐうぜんカップルズ」(『[[マリオパーティ8]]』)というコンビ名になる。『[[マリオカートWii]]』の走行コースの一つ「デイジーサーキット」にはルイージとデイジーが手をつないだ姿の像が建っている。 : ゲームと世界観は異なるが、実写映画『[[スーパーマリオ 魔界帝国の女神]]』ではルイージと恋仲の関係にある。 ; [[ワルイージ]] : ルイージのライバルとして『マリオテニス64』で初登場。ルイージの方はワルイージを意識している様子はほぼないが、『[[いただきストリートDS]]』ではルイージがワルイージを見くびっている場面も見られる。 ; [[オヤ・マー博士]] : 『[[ルイージマンション]]』シリーズに登場する博士。オバケ退治に用いる道具「オバキューム」「ゲームボーイホラー」等をルイージに提供する。 ; グーイージ : オヤ・マー博士が発明した、ルイージそっくりの緑色の物体。[[ニンテンドー3DS]]版『ルイージマンション』で初登場し操作キャラクターとなる。格子をすり抜けるなどの能力を持つ一方、熱や水に触れると溶けてしまう。 ; [[キングテレサ]] : 『[[ルイージマンション]]』シリーズのラストボス。パーティ系のゲームで共演する際には相性が悪いことが多い。 ; ラビッツルイージ : 『[[マリオ+ラビッツ キングダムバトル]]』に登場する[[ウサギ]]のキャラクター「ラビッツ」の一種。ルイージのような格好をしている。 == ルイージの年 == [[1983年]]発売の『[[マリオブラザーズ]]』でルイージが初登場してから[[2013年]]で30周年となったことを受け、2013年[[2月14日]]に放送された「[[Nintendo Direct]]」の中で、当時の任天堂社長・[[岩田聡]]から2013年を「ルイージの年」にすると宣言された。以降、約1年にわたって関連作品・関連グッズが製作・販売され、関連イベントも行われた。この「ルイージの年」は[[2014年]][[3月18日]]をもって終了した。 === 関連作品 === ; [[ルイージマンション2]] (2013年[[3月20日]]、[[ニンテンドー3DS]]) : 前作から約11年半ぶりの新作。前作を超える売り上げとなる日本国内100万本以上、世界累計545万本(2017年9月末時点)を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/finance/software/3ds.html|title=株主・投資家向け情報:業績・財務情報 - 販売データ - 主要タイトル販売実績 ニンテンドー3DS専用ソフト|publisher=任天堂|accessdate=2018-2-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171115153031/https://www.nintendo.co.jp/ir/finance/software/3ds.html|archivedate=2017-11-15}}</ref>。 ; [[New スーパールイージ U]] (2013年[[7月13日]]、[[Wii U]]) : 『[[New スーパーマリオブラザーズ U]]』のルイージ版。コースが原作から全て一新されている。 ; [[マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー]] (2013年[[7月18日]]、ニンテンドー3DS) : マリオがルイージの夢の中の世界を冒険する。 ; [[スーパーマリオ 3Dワールド]] (2013年[[11月21日]]、Wii U) : 隠し要素として、『マリオブラザーズ』をアレンジした『[[スーパーマリオ_3Dワールド#ルイージブラザーズ|ルイージブラザーズ]]』を収録。登場する2人の操作キャラクターが共にルイージになっている。 ; [[Dr.LUIGI & 細菌撲滅]] (2014年[[1月15日]]、Wii U) : 『[[Dr.MARIO & 細菌撲滅]]』のルイージ版。マリオの代わりにルイージがドクターとなる。原作にはないL字型のカプセルが登場する。 === 関連グッズ === ; クラブニンテンドーの景品 : 任天堂が行っていた会員サービス「[[クラブニンテンドー]]」で、「ルイージの年」仕様の景品として「ザ・イヤー・オブ・ルイージ サウンドセレクション」「[[ニンテンドー3DS#ニンテンドー3DS LL|ニンテンドー3DS LL]] ポーチ」「ノート&ボールペン」「クリーナークロス」が製作された。 :'''『ザ・イヤー・オブ・ルイージ サウンドセレクション』'''<ref>{{cite web|url=https://musicbrainz.org/release/2e0a1c7a-f4f7-408e-ac7c-82766d080703 |title=THE YEAR OF LUIGI サウンドセレクション |website=MusicBrainz |accessdate=2024-01-01}}</ref> :交換開始日:2013年8月 / 品番:NTDO-17287 / 全30曲 :{{tracklist | collapsed = yes | headline = トラックリスト 30曲{{0}} | total_length = auto | extra_column = 作曲・編曲 | title1 = メインテーマ / ルイージマンション | extra1 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length1 = 2:04 | title2 = オヤ・マー博士の研究所 / ルイージマンション | extra2 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length2 = 1:36 | title3 = ダンスホール / ルイージマンション | extra3 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length3 = 1:16 | title4 = モンスターの話 / ルイージマンション | extra4 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length4 = 0:48 | title5 = テレサ解放 / ルイージマンション | extra5 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length5 = 0:28 | title6 = リザルト / ルイージマンション | extra6 = 戸高一生 & 田中しのぶ | length6 = 0:43 | title7 = ルイージマンション球場 / スーパーマリオスタジアム ファミリーベースボール | extra7 = 近藤浩治, 阪東太郎, 中塚章人 & 阿部友一 | length7 = 2:26 | title8 = ルイージマンションコート / マリオテニスGC | extra8 = 桜庭統 | length8 = 3:11 | title9 = ルイージマンションコート(ゲームポイント/ブレイクポイント) / マリオテニスGC | extra9 = 桜庭統 | length9 = 2:16 | title10 = ルイージの表彰式 / マリオテニスGC | extra10 = 桜庭統 | length10 = 0:25 | title11 = ミドリ色のきこうし ミスターL / スーパーペーパーマリオ | extra11 = 三留尚子 & 関川ちか | length11 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マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー | extra23 = 下村陽子 | length23 = 2:03 | title24 = エンド オブ ザ アドベンチャー / マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー | extra24 = 下村陽子 | length24 = 4:31 | title25 = オバ渓谷のテーマ / ルイージマンション2 | extra25 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length25 = 3:08 | title26 = 探索 - ヒャッキ~ヤ坑道Ver. - / ルイージマンション2 | extra26 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length26 = 2:53 | title27 = 探索 - ウラメ~シ屋敷Ver. - / ルイージマンション2 | extra27 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length27 = 2:33 | title28 = 地下室に潜む者 / ルイージマンション2 | extra28 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length28 = 2:08 | title29 = オバケとバトル / ルイージマンション2 | extra29 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length29 = 0:57 | title30 = ひと休み / ルイージマンション2 | extra30 = Chad York, Darren Radtke, Mike Peacock, Scott McFadyen & Davor Vulama | length30 = 4:22 }} ; ルイージ30周年 パック (2013年7月18日発売) : 表面にルイージのシルエットが迷彩柄風にあしらわれたニンテンドー3DS LL本体に、『マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー』のダウンロード版がついた限定商品。ソフト単体と同日に発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/3ds/lineup/pack/aymj/index.html|title=ルイージ30周年 パック|publisher=任天堂|accessdate=2017-01-29}}</ref>。 ; With LUIGI 30th Anniversary: ザ・イヤー・オブ・ルイージ メモリアルムック (2013年[[12月16日]]発売) : [[学研教育出版]]より発売された[[ムック (出版)|ムック]]。歴代のルイージ登場作品や関連グッズを紹介している。付録として「ルイージ[[トートバッグ]]」と「スーパースター[[定期入れ|パスケース]]」がセットになっている。 === 関連イベント === ; Miiverse ルイージの年 コミュニティ : 「ルイージの年」の期間中、任天堂が運営していた[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]「[[Miiverse]]」に特設コミュニティが開設された(現在は閉鎖)。この中ではルイージに関する様々なコメントやイラストが寄せられたほか、テーマに沿ったイラストやゲーム画面写真の投稿を募集する「作ルイージ」(つくルイージ)という企画も実施された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/134/G013466/20130508043/|title=「Miiverse」でルイージ30周年を記念したイラストコンテストが開催中。「ルイージマンション2」に出てきそうなオリジナルオバケを描いて投稿しよう|publisher=4Gamer.net|date=2013-5-8|accessdate=2019-8-7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/luigi/album/album1.html|title=みんなで作ルイージアルバム:ドングリへいげん Acorn Plains|publisher=THE YEAR OF LUIGI|accessdate=2019-8-7}}</ref>。 ; ニコニコ超会議2 : 2013年[[4月27日]]と[[4月28日]]に[[幕張メッセ]]で開催されたイベント「[[ニコニコ超会議]]2」に、マリオシリーズから唯一ルイージの着ぐるみが参加した。イベントの最中には、ルイージが[[セガ]]のブースを訪れ、[[初音ミク]]の派生キャラクター「[[ミクダヨー]]」の着ぐるみと共演する一幕もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/sega_official/status/328000511792017408|title=【ニコニコ超会議2】これは・・・!!夢の共演・・・!!!|publisher=セガ公式Twitter|date=2013-4-27|accessdate=2018-2-1}}</ref>。 ; ルイージライン : 2013年[[8月12日]]、[[アメリカ合衆国]]の[[シカゴ]]で運行している高架鉄道および地下鉄の「[[シカゴ・L]]」で、車体の内外に『New スーパールイージ U』のイラストを施した[[ラッピング車両]]が「ルイージライン」(Luigi Line)として走行し、ルイージの着ぐるみも乗車した<ref>{{Cite web|url=https://www.huffpost.com/entry/luigi-train-chicago_n_3749608|language=英語|title=‘Luigi’ Train In Chicago: Super Mario Brother’s Day In Windy City Was Pretty Epic (PHOTOS)|publisher=HuffPost|date=2013-8-13|accessdate=2019-8-7}}</ref>。 == その他 == * 2005年から2006年冬に任天堂が実施した「HOT MARIO BROS.」キャンペーン関連や『[[マリオバスケ 3on3]]』のCMでは[[ナインティナイン]]の[[矢部浩之]]が、「ルイージの年」関連のCMでは[[稲川淳二]]が、『マリオ&ルイージRPG4 ドリームアドベンチャー』のCMでは[[本田翼]]が、それぞれルイージに扮して出演した。 == 登場作品 == * [[マリオブラザーズ]] ** [[マリオブラザーズ|ファミコンミニ11 マリオブラザーズ]] ** [[マリオブラザーズ|帰ってきたマリオブラザーズ]] ** [[スーパーマリオ 3Dワールド#ルイージブラザーズ|ルイージブラザーズ]] ※『[[スーパーマリオ 3Dワールド]]』に収録 ** アーケードアーカイブス マリオブラザーズ * [[レッキングクルー]] ** [[レッキングクルー'98]] ** [[レッキングクルー|ファミコンミニ14 レッキングクルー]] * [[スーパーマリオブラザーズ]] ** [[スーパーマリオブラザーズデラックス]] ** [[スーパーマリオブラザーズ|ファミコンミニ01 スーパーマリオブラザーズ]] ** [[ファミコンリミックス]]シリーズ ※『2』にはルイージを主人公にした『スーパールイージブラザーズ』を収録 ** アーケードアーカイブス VS.スーパーマリオブラザーズ * [[スーパーマリオブラザーズ2]] ** [[スーパーマリオブラザーズ2|ファミコンミニディスクシステムセレクション スーパーマリオブラザーズ2]] * [[スーパーマリオブラザーズ3]] ** [[スーパーマリオブラザーズ3#スーパーマリオアドバンス4|スーパーマリオアドバンス4]] * [[スーパーマリオワールド]] ※「ルイジ」表記になっている箇所あり。リメイク版では修正されている。 ** [[スーパーマリオワールド#スーパーマリオアドバンス2|スーパーマリオアドバンス2]] * [[スーパーマリオUSA]] ** [[スーパーマリオUSA#スーパーマリオアドバンス|スーパーマリオアドバンス]] * [[スーパーマリオコレクション]] * [[スーパーマリオ ヨッシーアイランド]] ** [[スーパーマリオ ヨッシーアイランド#スーパーマリオアドバンス3|スーパーマリオアドバンス3]] * [[ヨッシーアイランドDS]] * [[ルイージマンションシリーズ]] ※初の主役作品シリーズ * [[スーパーマリオ64#DS版|スーパーマリオ64DS]] * [[スーパーマリオギャラクシー]] * [[スーパーマリオギャラクシー2]] * [[スーパーマリオ 3Dランド]] * [[スーパーマリオ 3Dワールド]] * [[New スーパーマリオブラザーズ]] * [[New スーパーマリオブラザーズ Wii]] * [[New スーパーマリオブラザーズ 2]] * [[New スーパーマリオブラザーズ U]] ** [[New スーパーマリオブラザーズ U#New スーパールイージ U|New スーパールイージ U]] ※ルイージを主人公にした派生作品 * [[Super Mario Run]] * [[スーパーマリオ オデッセイ]]※2018年2月の無料アップデートで登場、ストーリークリア後に登場するミニゲーム「バルーンファインド」の案内役を担当。 * [[ペーパーマリオシリーズ]] * [[マリオ&ルイージRPGシリーズ]] * [[マリオカートシリーズ]] * [[マリオパーティシリーズ]] * [[マリオゴルフ]]シリーズ * [[マリオテニス]]シリーズ * [[マリオストライカーズ]]シリーズ * [[スーパーマリオスタジアム (ゲームソフト)|スーパーマリオスタジアム]]シリーズ * [[Dance Dance Revolution with MARIO]] * [[マリオバスケ 3on3]] * [[MARIO SPORTS MIX]] * [[ヨッシーのたまご]] * [[マリオとワリオ]] * [[マリオのスーパーピクロス]] * [[キャッチ!タッチ!ヨッシー!]] * [[スーパープリンセスピーチ]] * [[ゲームボーイギャラリー]]シリーズ * [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]] * [[星のカービィ スーパーデラックス]] ※[[デデデ大王]]戦、サブゲーム『かちわりメガトンパンチ』での観客として登場 ** [[星のカービィ ウルトラスーパーデラックス]] ※SFC版と同上 * [[NBAストリートV3 マリオでダンク]] * [[SSX On Tour with マリオ]] * [[テトリスDS]] * [[役満DS]] ** [[Wi-Fi対応 役満DS]] * [[QIX|クイックス]] * [[F1レース (任天堂)|F1レース]]ゲームボーイ版 * [[いただきストリートDS]] * [[いただきストリートWii]] * [[マリオ&ソニック AT 北京オリンピック]] ** [[マリオ&ソニック AT バンクーバーオリンピック]] ** [[マリオ&ソニック AT ロンドンオリンピック]] ** [[マリオ&ソニック AT ソチオリンピック]] ** [[マリオ&ソニック AT リオオリンピック]] ** [[マリオ&ソニック AT 東京2020オリンピック]] * [[パズル&ドラゴンズ スーパーマリオブラザーズ エディション]] * [[Wii Fit]] ※ジョギングのコース途中の壁面に[[ドット絵]]のルイージが描かれている * [[ニンテンドーDSi電卓|ニンテンドーDSi電卓 ファミコンマリオタイプ]] * [[ニンテンドーDSi時計|ニンテンドーDSi時計 ファミコンマリオタイプ]] * [[Dr.LUIGI & 細菌撲滅]] * [[Dr.MARIO ギャクテン!特効薬 & 細菌撲滅]] * [[マリオスポーツ スーパースターズ]] * [[マリオ+ラビッツ キングダムバトル]] == amiibo == * ルイージ(大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ、[[2014年]][[12月6日]]発売) * ルイージ(スーパーマリオシリーズ、[[2015年]][[3月12日]]発売) * 『マリオスポーツ スーパースターズ』amiiboカード、([[2017年]][[3月30日]]発売) == 担当声優・俳優 == === 声優 === {{dl2 | ゲーム作品での配役 | * [[宮川一朗太]] - [[サテラビュー]] * マーク・グラウェ - 『[[ホテルマリオ|Hotel Mario]]』 * ジュリアン・バーダコフ - 日本版『[[マリオカート64]]』、『[[マリオパーティ]]』、『[[マリオパーティ2]]』、『[[マリオカートアドバンス]]』 * [[チャールズ・マーティネー]] - 日本国外版『[[マリオカート64]]』(1997年)から『[[マリオ+ラビッツ ギャラクシーバトル]]』(2022年)までのゲーム作品 * [[ケビン・アフガニ]] - 『[[スーパーマリオブラザーズ ワンダー]]』<ref name="denfami1014">{{Cite web2|url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/231014a|title=「マリオ」新声優は米国の声優ケビン・ザカリー・アフガニ氏(26歳)に。本人が発表し任天堂も認める。『原神』のアーノルド(英語版)など担当、出演クレジットは数えるほど少ない若手新人が大役務める|work=電ファミニコゲーマー|publisher=マレ|date=2023-10-14|accessdate=2023-10-14}}</ref> | メディアミックス作品での配役 | * ダニー・ウェルズ - テレビアニメ『[[:en:The Super Mario Bros. Super Show!|The Super Mario Bros. Super Show!]]』 * トニー・ロザート - テレビアニメ『[[:en:The Adventures of Super Mario Bros. 3|The Adventures of Super Mario Bros. 3]]』、テレビアニメ『[[:en:Super Mario World (TV series)|Super Mario World(TVシリーズ)]]』 * [[水島裕 (声優)|水島裕]] - 劇場アニメ『[[スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!]]』 * [[塩屋翼]] - OVA『スーパーマリオの消防隊』 * [[龍田直樹]] - OVA『アマダアニメシリーズスーパーマリオ』 * [[堀内賢雄]] - 『[[マリオゴルフ|マリオオープンゴルフ]]』CM * [[辻谷耕史]] - 実写映画『[[スーパーマリオ 魔界帝国の女神]]』(吹き替え・ソフト版) * [[島田敏]] - 実写映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(吹き替え・[[日本テレビ系列|日本テレビ]]版) * [[チャーリー・デイ]] - 劇場アニメ『[[ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://s.famitsu.com/news/202109/24234747.html|title=スーパーマリオの新作アニメ映画は2022年ホリデーシーズンに公開。マリオなど登場10キャラの声優キャストも決定【Nintendo Direct】|work=[[ファミ通.com]]|date=2021-09-24|accessdate=2021-09-24}}</ref> * [[畠中祐]] - 劇場アニメ『[[ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー]]』(日本語吹き替え) }} ゲーム作品では専任声優としてチャールズ・マーティネーが長年担当していた。チャールズは2022年に降板となり、2023年の『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』からはケビン・アフガニが新たに声を担当する{{R|denfami1014}}。 === 俳優 === * [[ジョン・レグイザモ]] - 実写映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.nintendo.co.jp/luigi/ THE YEAR OF LUIGI] - ルイージ生誕30周年を記念したサイト {{mario character}} {{マリオカートシリーズの登場レーサー}} {{大乱闘スマッシュブラザーズシリーズの登場キャラクター}} {{ファミ通アワード最優秀ゲームキャラクター賞}} {{DEFAULTSORT:るいいし}} [[Category:マリオシリーズのキャラクター]] [[Category:大乱闘スマッシュブラザーズの登場キャラクター]] [[Category:コンピュータゲームの探検家キャラクター]] [[Category:コンピュータゲームの双子キャラクター]]
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リンクの冒険
『リンクの冒険』(リンクのぼうけん、英題: Zelda II: The Adventure of Link)は、任天堂より1987年1月14日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用アクションロールプレイングゲーム。パッケージおよびタイトル画面では『THE LEGEND OF ZELDA 2 リンクの冒険』と表記され、テレビCMでは『ゼルダの伝説パート2 リンクの冒険』と紹介している。 1986年に発売されたアクションアドベンチャーゲーム『ゼルダの伝説』の続編。前作はほぼ全編にわたり正面見下ろし視点(トップビュー)で表示されていたが、本作ではフィールドの移動時を除き横視点(サイドビュー)で表示される。また、経験値を取得してレベルを上げ能力を強化する要素や一般のアクションゲームのような残り数の要素があるなど、後続のシリーズ作品のシステムとは大きく異なる。 ディスクライターでの累計書き換え回数は第4位を記録している。 ゲームボーイアドバンス用ソフト(ファミコンミニ)やWii、ニンテンドー3DS、Wii U用ソフト(バーチャルコンソール)として本作が移植された。また、かつて任天堂が行っていた会員サービス「クラブニンテンドー」の景品として配布されたニンテンドーゲームキューブ用ソフト『ゼルダコレクション』と、2016年11月10日に発売されたファミリーコンピュータの復刻版「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」に収録された他、Nintendo Switch用ゲームソフト『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にも2019年1月16日に追加され、同年3月13日には『リンクの冒険 力持ちバージョン』と題した特別版も配信された。さらに、2021年11月12日にゲーム&ウオッチ 40周年記念作の第2弾として発売された「ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説」にも本作が収録されている。 少年リンクの活躍により魔王ガノンが倒され、ハイラル王国の秘宝「力のトライフォース」と「知恵のトライフォース」は王家の手に戻った。しかし、依然としてガノンの影響は消えず、残党たちがガノン復活に必要となるリンクの血を求め各地で暴れ回っていた。 王国が荒廃を続ける中、復興に尽力していたリンクは16歳の誕生日を迎えた。すると、リンクの左手の甲にトライフォースの紋章のような痣が浮かび上がった。その痣を見た王国のゼルダ姫の乳母インパがリンクを北の城の一室に連れて行くと、そこには一人の女性が横たわっていた。インパはその女性「初代ゼルダ姫」の伝説について語り始めた。 これがシリーズ名「ゼルダの伝説」の起源である。 初代ゼルダ姫は、亡き父王よりトライフォースの秘密を伝えられていた。その秘密を聞き出そうと兄王子が問い詰めるも姫は口を閉ざし続け、耐えかねた側近の魔術師が魔法をかけたことで、姫は決して覚めぬ眠りに落ちてしまった。過ちに気付いた兄王子は、後世に遺す戒めとして代々の王女にゼルダと名付けるよう定めたのである。 インパは、リンクに6つのクリスタルと1本の巻物を手渡した。その巻物には、「力」「知恵」とは異なる「勇気のトライフォース」が「死の谷」(デス・バレー)の大神殿に隠されていること、大神殿に入るためには各地の6つの神殿の守護神を倒しその先にある石像にクリスタルをはめる必要があることが記されていた。トライフォースの力を用いて初代ゼルダ姫とハイラルを救うようインパから託されたリンクは、再び旅に出ることを決意する。 トップビューで描画されたフィールドでは一般的なRPGのようにリンクを移動させる。フィールド上には町やダンジョンのシンボルがあり、重なってそれぞれの内部に入るとサイドビューの表示に切り替わる。 また、フィールド上を移動している敵シンボルに触れた際にもサイドビューになり戦闘が開始される。戦闘が行われる地形は、戦闘直前にリンクがいた場所の地形により変化する。リンクがエリアの端に到達すると戦闘が終了し再びトップビューのフィールド画面に戻る。 敵を倒した際やアイテムの「宝袋」の入手時に経験値を得られ、一定値に達すると、3つのステータス「ATTACK」(攻撃力)、「MAGIC」(魔法使用時に消費する数値の上限)、「LIFE」(体力の上限)のうちいずれか1つのレベルを上げることができる。MAGICとLIFEのレベルアップ時には、それぞれ、各魔法の消費魔力の減少、敵から受けるダメージの減少の追加効果が得られ、さらに全回復する。なお、ゲームオーバー後のゲーム再開時には、3つのステータスのレベルが最も数値が低いものに統一される(例えば、ATTACKがレベル1、MAGICがレベル2、LIFEがレベル3の場合は、全てレベル1になる)。また、全てのレベルが最大値の8に達した状態でレベルアップすると、リンクの残り数が1つ増える。 盾を用いて、通常の状態では上半身(上段)を、しゃがみ時には足元(下段)を防御する。ファイアボール、斧、チェーンハンマー、棍棒による敵の攻撃は盾では防御できない。 魔法は各地の町にいる魔術師から教わることで習得する。消費魔力は魔法ごとに異なる。SHIELDとJUMPの効果は重複せず、後に使った方が優先される。変身や強化の魔法は、画面が切り替わるまで有効。 一部の説明は攻略本『リンクの冒険必勝攻略法』(ファミリーコンピュータ完璧攻略シリーズ 双葉社 ISBN 978-4575150759)に基づく。 海外ではNES対応のロムカセットとして発売された。国内版からそのまま移植されているのではなく、様々な変更が加えられている。 ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Onlineでは通常のディスクシステム版のほか、『リンクの冒険 力持ちバージョン』という特別版も配信されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『リンクの冒険』(リンクのぼうけん、英題: Zelda II: The Adventure of Link)は、任天堂より1987年1月14日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用アクションロールプレイングゲーム。パッケージおよびタイトル画面では『THE LEGEND OF ZELDA 2 リンクの冒険』と表記され、テレビCMでは『ゼルダの伝説パート2 リンクの冒険』と紹介している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1986年に発売されたアクションアドベンチャーゲーム『ゼルダの伝説』の続編。前作はほぼ全編にわたり正面見下ろし視点(トップビュー)で表示されていたが、本作ではフィールドの移動時を除き横視点(サイドビュー)で表示される。また、経験値を取得してレベルを上げ能力を強化する要素や一般のアクションゲームのような残り数の要素があるなど、後続のシリーズ作品のシステムとは大きく異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ディスクライターでの累計書き換え回数は第4位を記録している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゲームボーイアドバンス用ソフト(ファミコンミニ)やWii、ニンテンドー3DS、Wii U用ソフト(バーチャルコンソール)として本作が移植された。また、かつて任天堂が行っていた会員サービス「クラブニンテンドー」の景品として配布されたニンテンドーゲームキューブ用ソフト『ゼルダコレクション』と、2016年11月10日に発売されたファミリーコンピュータの復刻版「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」に収録された他、Nintendo Switch用ゲームソフト『ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online』にも2019年1月16日に追加され、同年3月13日には『リンクの冒険 力持ちバージョン』と題した特別版も配信された。さらに、2021年11月12日にゲーム&ウオッチ 40周年記念作の第2弾として発売された「ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説」にも本作が収録されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "少年リンクの活躍により魔王ガノンが倒され、ハイラル王国の秘宝「力のトライフォース」と「知恵のトライフォース」は王家の手に戻った。しかし、依然としてガノンの影響は消えず、残党たちがガノン復活に必要となるリンクの血を求め各地で暴れ回っていた。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "王国が荒廃を続ける中、復興に尽力していたリンクは16歳の誕生日を迎えた。すると、リンクの左手の甲にトライフォースの紋章のような痣が浮かび上がった。その痣を見た王国のゼルダ姫の乳母インパがリンクを北の城の一室に連れて行くと、そこには一人の女性が横たわっていた。インパはその女性「初代ゼルダ姫」の伝説について語り始めた。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これがシリーズ名「ゼルダの伝説」の起源である。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "初代ゼルダ姫は、亡き父王よりトライフォースの秘密を伝えられていた。その秘密を聞き出そうと兄王子が問い詰めるも姫は口を閉ざし続け、耐えかねた側近の魔術師が魔法をかけたことで、姫は決して覚めぬ眠りに落ちてしまった。過ちに気付いた兄王子は、後世に遺す戒めとして代々の王女にゼルダと名付けるよう定めたのである。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "インパは、リンクに6つのクリスタルと1本の巻物を手渡した。その巻物には、「力」「知恵」とは異なる「勇気のトライフォース」が「死の谷」(デス・バレー)の大神殿に隠されていること、大神殿に入るためには各地の6つの神殿の守護神を倒しその先にある石像にクリスタルをはめる必要があることが記されていた。トライフォースの力を用いて初代ゼルダ姫とハイラルを救うようインパから託されたリンクは、再び旅に出ることを決意する。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "トップビューで描画されたフィールドでは一般的なRPGのようにリンクを移動させる。フィールド上には町やダンジョンのシンボルがあり、重なってそれぞれの内部に入るとサイドビューの表示に切り替わる。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、フィールド上を移動している敵シンボルに触れた際にもサイドビューになり戦闘が開始される。戦闘が行われる地形は、戦闘直前にリンクがいた場所の地形により変化する。リンクがエリアの端に到達すると戦闘が終了し再びトップビューのフィールド画面に戻る。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "敵を倒した際やアイテムの「宝袋」の入手時に経験値を得られ、一定値に達すると、3つのステータス「ATTACK」(攻撃力)、「MAGIC」(魔法使用時に消費する数値の上限)、「LIFE」(体力の上限)のうちいずれか1つのレベルを上げることができる。MAGICとLIFEのレベルアップ時には、それぞれ、各魔法の消費魔力の減少、敵から受けるダメージの減少の追加効果が得られ、さらに全回復する。なお、ゲームオーバー後のゲーム再開時には、3つのステータスのレベルが最も数値が低いものに統一される(例えば、ATTACKがレベル1、MAGICがレベル2、LIFEがレベル3の場合は、全てレベル1になる)。また、全てのレベルが最大値の8に達した状態でレベルアップすると、リンクの残り数が1つ増える。", "title": "システム" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "盾を用いて、通常の状態では上半身(上段)を、しゃがみ時には足元(下段)を防御する。ファイアボール、斧、チェーンハンマー、棍棒による敵の攻撃は盾では防御できない。", "title": "アクション" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "魔法は各地の町にいる魔術師から教わることで習得する。消費魔力は魔法ごとに異なる。SHIELDとJUMPの効果は重複せず、後に使った方が優先される。変身や強化の魔法は、画面が切り替わるまで有効。", "title": "アクション" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一部の説明は攻略本『リンクの冒険必勝攻略法』(ファミリーコンピュータ完璧攻略シリーズ 双葉社 ISBN 978-4575150759)に基づく。", "title": "敵" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "海外ではNES対応のロムカセットとして発売された。国内版からそのまま移植されているのではなく、様々な変更が加えられている。", "title": "海外版の仕様" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Onlineでは通常のディスクシステム版のほか、『リンクの冒険 力持ちバージョン』という特別版も配信されている。", "title": "他機種版" } ]
『リンクの冒険』は、任天堂より1987年1月14日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステム用アクションロールプレイングゲーム。パッケージおよびタイトル画面では『THE LEGEND OF ZELDA 2 リンクの冒険』と表記され、テレビCMでは『ゼルダの伝説パート2 リンクの冒険』と紹介している。
{{Pathnav|ゼルダの伝説シリーズ|frame=1}} {{コンピュータゲーム | Title = リンクの冒険<br />''Zelda II: The Adventure of Link'' | Genre = [[アクションロールプレイングゲーム|アクションRPG]]<!--バーチャルコンソール版の表記は「アクションアドベンチャー」--> | Plat = [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] [FCD]<br />[[Nintendo Entertainment System]] [NES]<br />[[ゲームボーイアドバンス]] [GBA]([[ファミコンミニ]])<br />[[Wii]]、[[ニンテンドー3DS]] [3DS]、[[Wii U]]([[バーチャルコンソール]]) | Dev = [[任天堂情報開発本部]]<br />[[SRD (ゲーム会社)|SRD]] | Pub = [[任天堂]] | producer = [[山内溥]](エグゼクティブプロデューサー)<br />[[宮本茂]] | director = [[杉山直 (ゲームクリエイター)|杉山直]]<br />[[山村康久]] | designer = | programmer = [[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]]<br />西山達夫<br />笠松栄弘<br />西田泰也<br />[[中郷俊彦]] | writer = | composer = [[中塚章人]] | artist = 清水一伸 | series = [[ゼルダの伝説シリーズ]] | Play = 1人 | Media = '''FCD''':[[ディスクカード]]両面<br />'''NES''':2[[メガビット]][[ロムカセット]] | Date = '''FCD'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[1987年]][[1月14日]]<br />'''NES'''<br />[[:en:PAL region|PAL]] [[1988年]][[9月26日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1988年[[12月1日]]<br />'''GBA'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2004年]][[8月10日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2004年[[10月25日]]<br />{{Flagicon|EU}} [[2005年]][[1月7日]]<br />'''Wii'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2007年]][[1月23日]]<br />{{Flagicon|EU}} 2007年[[2月9日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2007年[[6月4日]]<br />'''3DS'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2012年]][[6月6日]]<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon|EU}} 2012年[[11月22日]]<br />'''Wii U'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2013年]][[9月11日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2013年[[9月12日]]<br />{{Flagicon|EU}} 2013年[[9月26日]]<br />'''ゲーム&ウオッチ'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2021年]][[11月12日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2021年]][[11月12日]] | Rating = {{CERO-A}}<br />{{ESRB-E}}<br />{{PEGI-7}} | ContentsIcon = ESRB: Mild Fantasy Violence<br />PEGI: Violence | Sale = {{Flagicon|JPN}} 約161万本<ref name="fam">{{Cite journal |和書 | author = [[上村雅之]]| author2 = [[細井浩一]]| author3 = [[中村彰憲]]| title = ファミコン主要ゲームソフトの国内外出荷数比較(2010年版 CESAゲーム白書より)| journal = ファミコンとその時代 テレビゲームの誕生| date = 2013-6-28 | publisher = [[NTT出版]]| isbn = 978-4-7571-7046-9 | url = https://books.google.co.jp/books?id=tCNSJOGndeEC&pg=PA165&lpg#v=onepage&q&f=false| ref = harv}}</ref><br />(販売:75万本<ref name="famimaga30_31">{{Cite journal|和書|title=ディスクライター 書き換えゲーム全カタログ|date=1989-7-7|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=5|number=12|pages=30 - 31|ref=harv}}</ref> 書き換え:75万回<ref name="famimaga30_31"/>)<br/>{{Flagicon|World}} 約438万本<ref name="fam"/> | etc = 型式<br />{{vgrelease new|JP|FMC-LNK|NA|NES-AL-USA}} }} 『'''リンクの冒険'''』(リンクのぼうけん、英題: ''Zelda II: The Adventure of Link'')は、[[任天堂]]より[[1987年]][[1月14日]]に発売された[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]用[[アクションロールプレイングゲーム]]。パッケージおよびタイトル画面では『'''THE LEGEND OF ZELDA 2 リンクの冒険'''』と表記され、テレビCMでは『'''ゼルダの伝説パート2 リンクの冒険'''』と紹介している。 == 概要 == [[1986年]]に発売された[[アクションアドベンチャーゲーム]]『[[ゼルダの伝説]]』の続編。前作はほぼ全編にわたり正面見下ろし視点(トップビュー)で表示されていたが、本作ではフィールドの移動時を除き横視点(サイドビュー)で表示される。また、[[経験値]]を取得して[[レベル (ロールプレイングゲーム)|レベル]]を上げ能力を強化する要素や一般の[[アクションゲーム]]のような[[自機|残り数]]の要素があるなど、後続のシリーズ作品のシステムとは大きく異なる。 [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクライター|ディスクライター]]での累計書き換え回数は第4位を記録している<ref>M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』91ページ</ref>。 [[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト([[ファミコンミニ]])や[[Wii]]、[[ニンテンドー3DS]]、[[Wii U]]用ソフト([[バーチャルコンソール]])として本作が移植された。また、かつて任天堂が行っていた会員サービス「[[クラブニンテンドー]]」の景品として配布された[[ニンテンドーゲームキューブ]]用ソフト『[[ゼルダコレクション]]』と、[[2016年]][[11月10日]]に発売された[[ファミリーコンピュータ]]の復刻版「[[ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ]]」に収録された他、[[Nintendo Switch]]用ゲームソフト『[[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]]』にも[[2019年]][[1月16日]]に追加され、同年[[3月13日]]には『リンクの冒険 力持ちバージョン』と題した特別版も配信された。さらに、2021年11月12日に[[ゲーム&ウオッチ]] 40周年記念作の第2弾として発売された「ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説」にも本作が収録されている。 == ストーリー == 少年リンクの活躍により魔王ガノンが倒され、ハイラル王国の秘宝「力の[[トライフォース]]」と「知恵のトライフォース」は王家の手に戻った。しかし、依然としてガノンの影響は消えず、残党たちがガノン復活に必要となるリンクの血を求め各地で暴れ回っていた。 王国が荒廃を続ける中、復興に尽力していたリンクは16歳の誕生日を迎えた。すると、リンクの左手の甲にトライフォースの紋章のような[[痣]]が浮かび上がった。その痣を見た王国のゼルダ姫の乳母インパがリンクを北の城の一室に連れて行くと、そこには一人の女性が横たわっていた。インパはその女性「初代ゼルダ姫」の伝説について語り始めた。 これがシリーズ名'''「ゼルダの伝説」の起源'''である。 初代ゼルダ姫は、亡き父王よりトライフォースの秘密を伝えられていた。その秘密を聞き出そうと兄王子が問い詰めるも姫は口を閉ざし続け、耐えかねた側近の魔術師が魔法をかけたことで、姫は決して覚めぬ眠りに落ちてしまった。過ちに気付いた兄王子は、後世に遺す戒めとして代々の王女にゼルダと名付けるよう定めたのである。 インパは、リンクに6つのクリスタルと1本の巻物を手渡した。その巻物には、「力」「知恵」とは異なる「勇気のトライフォース」が「死の谷」(デス・バレー)の大神殿に隠されていること、大神殿に入るためには各地の6つの神殿の守護神を倒しその先にある石像にクリスタルをはめる必要があることが記されていた。トライフォースの力を用いて初代ゼルダ姫とハイラルを救うようインパから託されたリンクは、再び旅に出ることを決意する。 == 主要キャラクター == ; [[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]] (Link) : 本作の主人公。前作の主人公リンクと同一人物。 ; 初代ゼルダ姫 (Princess Zelda I) : ハイラル王家に仕えていた魔術師に魔法をかけられて以来、北の城で眠り続けている。前作に登場したゼルダ姫は彼女の末裔。 ; インパ (Impa) : 現在のゼルダ姫の乳母。リンクに初代ゼルダ姫に関する伝説を教える。 == システム == トップビューで描画されたフィールドでは一般的な[[ロールプレイングゲーム|RPG]]のようにリンクを移動させる。フィールド上には町やダンジョンのシンボルがあり、重なってそれぞれの内部に入るとサイドビューの表示に切り替わる。 また、フィールド上を移動している敵シンボルに触れた際にもサイドビューになり戦闘が開始される。戦闘が行われる地形は、戦闘直前にリンクがいた場所の地形により変化する。リンクがエリアの端に到達すると戦闘が終了し再びトップビューのフィールド画面に戻る。 敵を倒した際やアイテムの「宝袋」の入手時に経験値を得られ、一定値に達すると、3つの[[ステイタス|ステータス]]「ATTACK」(攻撃力)、「MAGIC」(魔法使用時に消費する数値の上限)、「LIFE」([[ライフ (コンピュータゲーム)|体力]]の上限)のうちいずれか1つのレベルを上げることができる。MAGICとLIFEのレベルアップ時には、それぞれ、各魔法の消費魔力の減少、敵から受けるダメージの減少の追加効果が得られ、さらに全回復する。なお、ゲームオーバー後のゲーム再開時には、3つのステータスのレベルが最も数値が低いものに統一される(例えば、ATTACKがレベル1、MAGICがレベル2、LIFEがレベル3の場合は、全てレベル1になる)。また、全てのレベルが最大値の8に達した状態でレベルアップすると、リンクの残り数が1つ増える。 == アクション == === 攻撃 === ; 上段攻撃 : 通常の攻撃。立った状態で剣を振る。 ; 下段攻撃 : しゃがみ状態で剣を振る。小さい敵や胸部をガードしている敵を攻撃する際に用いる。 ; ビーム : 体力が全快の状態で剣を振る際に剣先から出るビーム。ただし効果のない敵もいる。射程は短い。 ; 下突き : 剣士から習う剣術。ジャンプ中に下方向の敵を攻撃する。ブロックの下のアイテムを掘り起こす際にも用いる。 ; ジャンプ突き : 剣士から習う剣術。ジャンプ中に上方向の敵を攻撃する。 === 防御 === 盾を用いて、通常の状態では上半身(上段)を、しゃがみ時には足元(下段)を防御する。ファイアボール、斧、チェーンハンマー、棍棒による敵の攻撃は盾では防御できない。 === 魔法 === 魔法は各地の町にいる魔術師から教わることで習得する。消費魔力は魔法ごとに異なる。SHIELDとJUMPの効果は重複せず、後に使った方が優先される。変身や強化の魔法は、画面が切り替わるまで有効。 ; SHIELD : 敵から受けるダメージが一時的に半減する。使用時はリンクの着ている服の色が緑から赤になる。 ; JUMP : 一時的にジャンプ力が2倍になる。 ; LIFE : 体力を3マス分回復する。 ; FAIRY : リンクが妖精に変身し、空中を自由に飛べるようになる。変身中は攻撃やアイテムの取得ができないが、鍵のかかった扉をすり抜けられる。 ; FIRE : ファイアボールを一度に2発まで放つ。画面端まで届く。ビームの効かない敵には効かない。海外版ではFIREを使わないと倒せない敵もいる。 ; REFLEX(海外名:REFLECT) : 通常の盾では防げない攻撃を防いだり魔法攻撃を反射したりすることができる。 ; SPELL : 説明書では「不思議な呪文を唱える」と記載されている魔法で、画面内の敵が敵キャラクター「ボト」に変化する。また、特定の場所で使うと隠されたアイテムが出現する。 ; THUNDER : 画面内の敵に大ダメージを与える。これを使わなければ倒せない敵もいる<ref>ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine(アンビット、2016年)20ページから21ページ</ref>。 == アイテム == ; マジックのつぼ : 魔力が回復する。青いツボは1マス分、赤いツボは最大値まで回復する。 ; 宝袋 : 経験値が増える。得られる経験値の量は場合により異なる。 ; ハートの器 : 体力の上限が1マス分増え、最大値まで回復する。4つ存在する。 ; マジックの器 : 魔力の上限が1マス分増え、最大値まで回復する。4つ存在する。 ; 人形 : リンクの姿をした人形。残り数が1増える。一度取ると二度と現れない。 ; 妖精 : 触れると体力が最大値まで回復する。フィールド上では赤いシンボルとして表示される。 ; カギ : 神殿内の扉を開けることができる。一度使用すると無くなる。 ; マジカルキー : 神殿内の扉を開けることができる。何度使用しても無くならない。 ; ローソク : 洞窟など暗い場所を明るく照らすことができる。 ; 聖なるグローブ : 剣で神殿内のブロックを壊せるようになる。 ; イカダ : [[艀]]から別の大陸に渡る事ができる。 ; 聖なるブーツ : 履くと海や浅瀬の上を渡れるようになる。 ; 笛 : その音色で魔物を退けたり、隠された神殿を出現させたりすることができる。 ; 十字架 : 通常では姿が見えない敵が見えるようになる。 ; ハンマー : フィールド上にある岩を破壊したり木を伐採したりできる。 ; 女神像、聖なる水、子供 : 各マジックを修得するのに必要なアイテム == 敵 == 一部の説明は攻略本『リンクの冒険必勝攻略法』(ファミリーコンピュータ完璧攻略シリーズ [[双葉社]] ISBN 978-4575150759)に基づく。 === 地上・神殿・洞窟内に出現する敵 === ; ビト : ゼリー状の赤い生物。飛び跳ねながら移動する。 ; ボト : ゼリー状の青い生物。動きはビトに似ているが、大ジャンプすることもある。大神殿にいるものは耐久力が高い。 ; モリブリン : 槍を持つ小鬼。黄色の個体は槍を構えての直進や槍の投擲、赤色の個体は上下段の刺突、青色の個体は槍の投擲を行う。直進するタイプの黄色の個体は無限に出現し、倒しても経験値は得られない。 ; ディーラ : 森に出現する[[クモ]]のような敵。画面上部を左右に移動しリンク目掛けて降下する。青色の個体は地面に降りてきてリンクに飛びかかる。 ; エーク : 青っぽい[[コウモリ]]のような生物。天井に留まっているが、リンクが近づくと襲撃する。赤色の個体は地面に接近すると後述のエークマンに変身する。町中で町民に化けている紫色のものもいる。 :; エークマン :: ガノンの力でコウモリ男に変身する力を得たエークが変身した人型の敵。通常の盾では防げない炎を吐く。 ; [[オクタロック]] : [[タコ]]のような敵。岩を吐いて攻撃する。その場でジャンプするものと前進しながらジャンプするものの2種類がいる。青色の個体は耐久力が高い。 ; ゴーリア : ブーメランで攻撃する小鬼。黄・赤・青の3種がおり、それぞれ一度に飛ばすブーメランの数が異なる。 ; ゲルドアーム : 砂漠に生息する[[ムカデ]]状の敵。体を攻撃すると地中に潜り、弱点の頭だけを出した状態になる。 ; ローダー : 洞窟などに生息する地を這う甲虫。リンクが近づくと急接近する。 ; モービー : 森や沼に出現する鳥のような敵。空から降下し、リンクの高さまで来ると突進する。無限に現れる。 ; メグマット : [[アルマジロ]]のような敵。リンクを目掛けて飛びかかる。森の中で集団で現れる。 ; バゴバゴ : 魚の骸骨。川の中から飛び出し岩を吐く。骨だけなのでいつまで経ってもその食欲が満たされる事は無い。 ; ミュー : とげが生えた小さな敵。動きはビトやボトに似ている。あまりに小さいのでしゃがみ突きすら当たらず、剣で倒すには下突きが基本。 ; ダイラ : ガノンが魔界から呼び出した[[ワニ]]のような頭を持つ二足歩行の敵。通常の盾では防げない[[斧]]を振り回す。黄色と赤色があり、赤色の個体は斧を投げる。 ; モア : 一つ目の幽霊のような敵。空中を左右に大きく飛び回る。赤・青・紫の3種がおり、青色や紫色の個体は十字架を持っていないと見えない。 ; ギルボック : 空中を浮遊する一つ目の敵。目を閉じている間は攻撃が効かない。 ; リーバー : 砂漠に出現する。地中に潜って移動する。 ; [[ゾーラ族|ゾーラ]] : [[半魚人]]のような敵。上下段に分けてビームを吐く。 ; テクタイト : 一つ目の多脚生物。大きく飛び跳ねながら移動し、上下段に分けてビームを放つ。 ; ブーン : [[ハエ]]のような姿の敵。素早く飛び回りながら石を投下する。 ; アルローダ : [[サソリ]]の姿をした敵。尻尾から通常の盾では防げない炎を飛ばす。目を開いた状態でないと攻撃が効かない。 ; ゲール : ガノンが魔界から呼び出した[[トカゲ]]のような姿をした二足歩行の魔物。盾で防御しつつ手にした武器で攻撃する。黄色の個体は槍による上下段の刺突、赤色の個体は棍棒の振り回し、青色の個体は棍棒の投擲を行う。棍棒の攻撃は盾では防げない。砦にいるものは投石を行う。 === 神殿に出現する敵 === ; ウォース : [[イヌ]]から創られた戦士。無限に現れ、一定のステップで直進する。歩行速度が速いものと遅いものがいる。倒しても経験値は得られない。 ; バブル : 炎に包まれたどくろのような人魂。触れると体力だけでなく魔力も減少する。常に直進し壁に当たると直角に曲がる。動きが速いものと遅いものがいる。 ; スタルフォン : かつて初代ハイラル王に忠誠を誓っていた兵士が蘇った人骨。剣で攻撃し盾で胸部を守る。青い個体はジャンプして下突きを使う。 ; パルタム : 兜を身につけたスタルフォンの指揮官。青い個体は下突きを使う。 ; グーマ : [[ウシ]]から創られた戦士。投擲するチェーンハンマーは通常の盾では防げない。 ; ヘルグーマ : 鎧を纏ったグーマの上位種。ブーメランのように手元に戻る棍棒を投擲する。棍棒は通常の盾では防げない。 ; アイアンナック : ハイラル王家の親衛隊員。上下段を盾で防御する。耐久力が高い順に青・赤・黄の3種類がいる。青色の個体は剣先からビームを飛ばす。 ; ラー : 神殿内にある竜の頭のような形の石像に魂が宿った敵。[[正弦波]]のような軌道で空中を前進し、リンクに突進する。無限に出現する。青色と黄色の2種類がいるが、黄色の個体は大神殿にのみ登場し耐久力が高い。 ; マウ : 神殿内にある[[オオカミ]]の頭のような形の石像に魂が宿った敵。[[矩形波]]のような軌道で空中を前進しながらビームを放つ。無限に出現する。 ; ファイアモア : モアの変種。画面上部を往復しながら炎を落とす。無限に出現する。 ; ウィズザール : 初代ハイラル王に仕えた魔法使い。ワープで移動し、下段に魔法を放つ。魔法を跳ね返す以外にダメージを与えられない。 ; マーゴ : ウィズザールにより生み出された魔法使い。炎を放った後に姿を消し、別の場所に再び現れる。 ; アーネル : 大神殿に出現する[[ヘビ]]のような敵。飛び跳ねながら炎を吐く。海外版にのみ登場する青い個体は岩を吐き出す。 ; ファイア・バゴバゴ : 大神殿に出現するバゴバゴの変種。溶岩の中から飛び出し炎を吐く。 ; ボトマスター : 大神殿に出現するボトの大型種。ボトを合成して巨大化させた。剣で斬りつけると複数のボトに分裂する。このボトは通常のものよりも耐久性が高い。 ; デグバブル : 大神殿に出現するバブルの大型種。バブルを合成して巨大化させた。触れると体力だけでなく魔力も減少する。ダメージの与え方によってはバブル2体に分裂する。 ; フォッケル : 大神殿に出現する鳥の戦士。イラストでは女性の乳房を持つ。[[放物線]]状に炎を吐く。地面に落ちた炎はしばらく消えず、左右に移動する。 ; フォッカー : 大神殿に出現する鳥の騎士。盾で防御しつつ剣先からビームを放つ。大ジャンプを行うこともある。赤と青の2種類がおり、青色の個体は体力が高い。 === ボス敵 === ; マズラ : 「第1の神殿(パラパ砂漠の神殿)」のボス。馬のような頭を持つ戦士。初代ハイラル王により馬から創り出された守護神。大型の棍棒を振り回す。「第5の神殿」では中ボスとしても登場。 ; ジャーマフェンサ : 「第2の神殿(モルゲ沼の神殿)」のボス。全身鎧を纏い剣と盾を装備した戦士。王国の親衛隊長が初代ハイラル王の力により神殿の守護神となった。前方にビームを吐く。頭部を攻撃すると兜が外れて宙を飛び回り、本体と同じようにビームを放つ。 ; レボナック : 「第3の神殿(神の島の神殿)」のボス。空飛ぶ馬に騎乗した青色のアイアンナック。王国の親衛隊の精鋭が馬を与えられて神殿の守護神となった。宙に浮いたまま突進し、一定のダメージを受けると下馬して攻撃する。通常の青色アイアンナックよりも能力が高い。「第6の神殿」では中ボスとしても登場。 ; カロック : 「第4の神殿(迷路島の神殿)」のボス。高位の魔導師。かつて初代ハイラル王に仕えていたが、勇気のトライフォースを求める者の資格を見定めるため神殿の守護神となった。ワープで移動し、下段に魔法を放つ。 ; ジャーマフェンサII : 「第5の神殿(海上の神殿)」のボス。姿や攻撃方法は「第2の神殿」のジャーマフェンサと同じだが、頭部を攻撃すると2つの兜が飛び回りビームを放つ。 ; バルバジア : 「第6の神殿(三つ目岩の神殿)」のボス。ハイラルに昔から棲む水の神であり、ヘビのように長い体を持つ竜。溶岩の中から姿を現し炎を吐く。 ; 大守護神ボルバ : 「死の谷(デスバレー)の大神殿」のボス。勇気のトライフォースを守る大守護神で、初代ハイラル王、カロック、ウィズザール、ウィズローブらにより生み出された究極の人工生命体。太古の神を模して造られた。空中を浮遊している。結界に守られている間はダメージを与えられず、結界が破られた後は大量の炎を撒き散らす。 ; ???<ref group="注">設定資料集『ゼルダの伝説 ハイラル百科』([[徳間書店]] 2017年 ISBN 978-4198643782)では「シャドウリンク」と記載されている。また、ゲームブック『リンクの冒険 魔界からの逆襲』『リンクの冒険 暗黒トライフォース伝承』では「ブラックリンク」と記載されている。</ref> : 本作のラストボス。ボルバを倒した者への最後の試練として現れる、リンクの姿に酷似した黒い影。リンクと同じ攻撃パターンを持つ。 == 海外版の仕様 == 海外ではNES対応の[[ロムカセット]]として発売された。国内版からそのまま移植されているのではなく、様々な変更が加えられている。 * オープニングのBGMを内蔵音源に合わせて変更。 * ロード画面がなくなった。 * フィールド画面におけるシンボルの変更(弱い敵(黄)→ビトのようなシルエット、強い敵(青)→人型の魔物のようなシルエット、妖精(赤)→妖精)。 * ATTACK、MAGIC、LIFEの各レベルについて、ゲームオーバー時およびゲーム中断時に最も低いものに統一される仕様が撤廃されたほか、レベル上昇に必要な経験値がステータスごとに別になった。ただし、必要な合計経験値は増えており、最大レベル到達以降の1upに必要な経験値も4000から9000になっている。 * 一部の敵の仕様(エフェクト、能力、経験値など)や配置を変更。ゾーラやテクタイトに通常攻撃が効かないなど、全般に強化されている。 * 第5の神殿のボスがジャーマフェンサIIではなく、海外版オリジナルの鉄球を振り回す大男になっている。 * 通常戦闘のBGMの変更。 * リンクが重要アイテムを取得した際のエフェクトを追加。 * 町民の一部や剣士のグラフィックを変更。 * 神殿内部の壁の色には、国内版では見られない緑色や紫色などが用いられている。 * 「王の墓」のイベントを変更。 * ゲームオーバー時には、赤一色の画面にガノンのシルエットが表示され笑い声が流れる。 == 他機種版 == {|class="wikitable" style="font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:center"| 1 ! [[ゼルダコレクション]] | {{vgrelease new|JP|2004-03-18}} | [[ニンテンドーゲームキューブ]] | [[任天堂]] | 任天堂 | [[光ディスク|8cm光ディスク]] | - | - | [[クラブニンテンドー]]の景品<br />収録ソフトのひとつ |- | style="text-align:center" | 2 ! [[ファミコンミニ]]25 ディスクシステムセレクション リンクの冒険 | {{vgrelease new|JP|2004-08-10|NA|2004-10-25|EU|2005-01-07}} | [[ゲームボーイアドバンス]] | [[任天堂情報開発本部]] | 任天堂 | [[ロムカセット]] | - | {{flagicon|JPN}} 約14万本<ref>{{cite web |url=http://geimin.net/da/db/2004_ne_fa/index.php |title=2004年テレビゲームソフト売り上げTOP500 ファミ通調べ |date=2004-12-26 |website=GEIMIN.NET |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161101111936/http://geimin.net/da/db/2004_ne_fa/index.php |archivedate=2016-11-01 |accessdate=2023-11-15 }}</ref> | |- | style="text-align:center" | 3 ! リンクの冒険 | {{vgrelease new|JP|2007-01-23|NA|2007-02-09|EU|2007-06-04}} | [[Wii]] | 任天堂情報開発本部 | 任天堂 | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | - | 2019年1月31日 配信・販売終了 |- | style="text-align:center" | 4 ! リンクの冒険 | {{vgrelease new|JP|2012-06-06|NA|2012-11-22|EU|2012-11-22}} | [[ニンテンドー3DS]] | 任天堂情報開発本部 | 任天堂 | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | |- | style="text-align:center" | 5 ! リンクの冒険 | {{vgrelease new|JP|2013-09-11|NA|2013-09-12|EU|2013-09-26}} | [[Wii U]] | 任天堂情報開発本部 | 任天堂 | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | |- | style="text-align:center" | 6 ! リンクの冒険 | {{vgrelease new|JP|2016-11-10|NA|2016-11-11}} | [[ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ]] | 任天堂 | 任天堂 | 内蔵ゲーム | - | - | |- | style="text-align:center" | 7 ! [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]] | {{vgrelease new|JP|2019-01-16|NA|2019-01-16}} | [[Nintendo Switch]] | 任天堂 | 任天堂 | ダウンロード | - | - | |- | style="text-align:center" | 8 ! ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説 | {{vgrelease new|JP|2021-11-12|NA|2021-11-13}} | [[ゲーム&ウオッチ|ゲーム&ウオッチ]] | 任天堂 | 任天堂 | 内蔵ゲーム | HXB-001 | - |国内版、および海外版の移植 |- |} [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online]]では通常のディスクシステム版のほか、『リンクの冒険 力持ちバージョン』という特別版も配信されている。 == スタッフ == *エグゼクティブ・プロデューサー:[[山内溥]]、[[岩田聡]] *プロデューサー:MIYAHON([[宮本茂]]) *ディレクター:SUGIYAN([[杉山直 (ゲームクリエイター)|杉山直]])、YAMAHEN([[山村康久]]) *デザイナー:ISSHIN(清水一伸) *サウンド・コンポーザー:TSUKASAN([[中塚章人]]) *プログラマー:MORIKAZU([[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]])、MARUMARU(西山達夫)、SHIGECHAN(笠松栄弘)、NISHIYAN(西田泰也)、NAKAZOO([[中郷俊彦]]) == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |GR = 78.14% (NES)<ref>{{cite web|title=Zelda II: The Adventure of Link|publisher=[[Game Rankings]]|url=http://www.gamerankings.com/nes/563487-zelda-ii-the-adventure-of-link/index.html|accessdate=2014-01-11}}</ref><br />68.88% (GBA)<ref name="gamerankings">{{cite web|accessdate=2008-04-06|url=http://www.gamerankings.com/htmlpages2/921925.asp?q=Zelda%20II|title= Classic NES Series: Zelda II - GBA|publisher=[[Game Rankings]]|date=1 January 2008}}</ref> |MC = 73/100点 (GBA)<ref name="metacritic">{{cite web|accessdate=2008-04-01|url=http://www.metacritic.com/games/platforms/gba/zelda2theadventureoflinkclassicnesseries?q=zelda%20ii|title=Zelda II: The Adventure of Link (Classic NES Series) |publisher=[[Metacritic]] }}</ref> |Allgame = {{Rating|4.5|5}} (NES)<ref name="Allgame">{{cite web|accessdate=July 25, 2013|url=http://www.allgame.com/game.php?id=1358&tab=review|title= Zelda II: The Adventure of Link - Review|publisher=[[Allgame]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100216074000/http://allgame.com/game.php?id=1358&tab=review|archivedate=2010-02-16}}</ref><br />{{Rating|3.5|5}} (GBA)<ref>{{allgame|46266|Zelda II: The Adventure of Link (Classic NES Series) (Game Boy Advance)}}</ref> |Fam = 36/40点 (FC)<ref name="famitsu"/><br />(プラチナ殿堂) |NP = 72/100点 (GBA)<ref name="nintendo power">{{cite journal|journal=[[Nintendo Power]]|title=Zelda II: The Adventure of Link review|page=150}}</ref> |Play = 91% (NES)<ref name="play">{{cite journal|journal=[[Play (UK magazine)|Play Magazine]]|title=Zelda II: The Adventure of Link review|page=100}}</ref> |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 19.84/25点 (FC)<ref name="famimaga38"/> |rev2 = [[GAME SIDE|ユーゲー]] |rev2Score = 否定的 (FC)<ref name="usedgame09"/> }} *ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「クロスレビュー」では合計36点(満40点)でプラチナ殿堂入りを獲得している<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=8835|title=リンクの冒険 [ファミコン]/ ファミ通.com|accessdate=2015-03-15|publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]}}</ref>。 *ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通り19.84点(満25点)<ref name="clafami">ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine([[アンビット]]、2016年)7ページ</ref><ref name="famimaga38">{{Cite journal|和書|title=5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ|date=1991-05-24|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=10|pages=38 - 39|ref=harv}}</ref>。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ファミコンディスクカード オールカタログ」では「ゲーム自体のスタイルは、前作とガラリと変わってしまったのだが、サウンド、グラフィック、どれをとっても前作を上まわる仕上がりである」「神殿の内部には冒険に必要不可欠なアイテムが隠されていたり、数々のトラップありと、内容は盛りだくさん。プレイヤーを飽きさせない」と紹介されている<ref name="famimaga38"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || お買得度 || 操作性 || 熱中度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! 得点 | 4.14 || 3.95 || - || 3.84 || 4.15 || 3.76 ! 19.84 |} *ゲーム誌『[[GAME SIDE|ユーゲー]]』では、「(前作と比較して)画面の構成やゲーム性など多くの部分ががらりと変わり、難易度もかなり高くなってしまった。(中略)この変化に戸惑ったファンがある程度いたことは紛れもない事実」、「慣れてしまえばキレもよく、ゲームとしては非常によくできているので『ゼルダの伝説』同様、夢中になれるのだが、前作のインパクトがあまりにも大きかったことが、『リンクの冒険』にとっては不幸だったのかもしれない」と評している<ref name="usedgame09">{{Cite journal|和書|title=総力特集 フォーエバー DISK SYSTEM|date=2003-10-01|publisher=[[キルタイムコミュニケーション]]|journal=[[GAME SIDE|ユーゲー]] 2003 Vol.09|volume=7|number=18|pages=15|id=雑誌17630-10|ref=harv}}</ref>。 {{-}} == バージョンごとの相違 == ; ニンテンドーゲームキューブ『ゼルダコレクション』版 : [[クラブニンテンドー]]の景品『[[ゼルダコレクション]]』に収録。一部の効果音がディスクシステム版と異なる。 ; ゲームボーイアドバンス「ファミコンミニ」版 : 「[[ファミコンミニ|ファミコンミニ ディスクシステムセレクション]]」の1つとして発売。リンクがミスした際の画面点滅が、画面が赤く染まる表現に変更されている。 ; ゲーム&ウオッチ版 : 「[[ゲーム&ウオッチ|ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説]]」に収録。リンクがミスした際の画面点滅が、画面が白く染まる表現に変更されている。 == サウンドトラック == ; ファミコン 20TH アニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.2(2004年3月24日) ; 任天堂 サウンドヒストリーシリーズ「ゼルダ ザ ミュージック」(2004年12月22日) : いずれも[[サイトロン・デジタルコンテンツ]]より発売。CD内の一作品として収録されている。 ;ゲームサウンドミュージアム 〜ファミコン編〜S-4「リンクの冒険」(2004年4月28日) :[[メガハウス]]より発売されたCD同梱[[食玩]]のひとつ。 == その他 == * 続編として、[[スーパーファミコン]]版の『リンクの冒険』が宮本茂、[[小泉歓晃]]らによって開発されていた([[スーパーFXチップ]]対応で、[[ポリゴン]]のリンクが、横画面で剣戦闘をするような実験を行っていた)が、ハードがスーパーファミコンから[[NINTENDO64]]に切り替わる状況でスーパーファミコン用ソフトの開発期間が取れなくなった事、主要スタッフが『[[スターフォックス64]]』の開発に移行した等のため、開発が中止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/aqej/vol2/index2.html|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』オリジナルスタッフ 篇 その1|publisher=任天堂|accessdate=2017-10-20}}</ref>。 * テレビCMには[[所ジョージ]]と[[間下このみ]]が出演した。 * カストの町を除く町(ラウル、ルト、サリア、ミド、ナボール、ダルニア)の名前は、『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ|時のオカリナ]]』に登場するキャラクターの名前に使われている。 * ルトの町の住人の台詞「オレノナハ エラー ダ…」の海外版での英訳"I am Error"が誤訳やゲームの欠陥と勘違いされ話題となった。詳細は[[I am Error]]を参照。 * ゼルダシリーズ画集「HYRULE GRAPHICS」には未収録の敵キャラクターイラストが多数存在する(カロック・ファイアモア・壁から抜け出たラー・アイアンナック赤・フォッケル・フォッカー青・アーネル・ボトマスター・デグバブル・ファイアバゴバゴ・金色(黄色)ラー)<ref>徳間書店「ファミリーコンピュータmagazine緊急増刊 リンクの冒険 必勝ガイド」(2016年発売「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine」DVD-ROMに収録)にて確認可能。</ref>。 == 関連作品 == === ゲームソフト === ; [[ドラゴンクエスト]] : 本作のサリアの町にある墓の一つに「ユウシャ ロト ココニネムル」と記されている。ロトは『ドラゴンクエスト』に登場する伝説の勇者の名。 ; [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]](『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』以降) : 本作の神殿BGMのアレンジ曲が用いられている。『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』以降では大神殿BGMのアレンジ曲も収録されている。 ; [[さわるメイドインワリオ]] : 本作のリンクが空中を飛んでいる妖精を捕まえるというミニゲームが収録されている。 === 書籍 === ==== 漫画 ==== ; リンクの冒険 : [[乱丸]] [[1987年]] 月刊[[わんぱっくコミック]] [[徳間書店]] : 乱丸が手掛けていた漫画『ゼルダの伝説』から数年後を描いた続編。オリジナルキャラクターも引き続き登場している。基本的な話の流れはゲームに準拠しているが、リンクの旅に前作のゼルダ姫が合流するほか、ガノンが不完全ながらも復活を果たす、「ガノン」の正体が人間だったなど独自の展開を見せる。また、リンクが旅の途中で戦う意味を見失い葛藤するなど、登場キャラクターの心理描写が念入りに描かれている。単行本は全2巻(いずれも絶版)。最終巻である第3巻は発売が告知されたが、『わんぱっくコミック』の休刊により発売されなかった。なお、後のリンクの代表的な技とも言える回転斬りやジャンプ斬りといった技と似た技が登場している。 ; [[必勝テクニック完ペキ版]]『リンクの冒険』 : 1(23巻)[[しごと大介]]、2-3(27-28巻)[[ものたりぬ|みなづき由宇]] 1987年 徳間書店 : 『わんぱっくコミック』の単行本「必勝テクニック完ペキ版」収録の描き下ろしゲーム攻略漫画。全3巻(上記の括弧内は必勝テクニック完ペキ版での巻数)。初代ゼルダ姫の精神が兄王の魔法によって実体化し、リンクの守護霊として攻略のアドバイスを行う。1がスタートから第1の神殿まで、2が「ミドロ沼」から第4の神殿、3がエンディングまでの攻略。特に3は大神殿攻略を行っている唯一の攻略本である。執筆者が途中交代したのはしごと大介が急病により降板したため。 ; リンクの冒険 : [[未将崎雄]] [[1991年]] [[JICC出版局]] 宝島コミックス : 未将崎が手掛けていた漫画『ゼルダの伝説』の続編。オリジナルキャラクターも引き続き登場している。前作から3年後を描いており、初代ゼルダの霊体と接触したリンクとゼルダ姫が「前作で倒されたガノンは本体の分身に過ぎず、過去の戦いで初代ゼルダが封印した本体の復活が迫っている」と聞き、阻止するべく冒険に出る。初代ゼルダの霊体も子犬に憑依して同行し、彼女の肉体を取り戻すのが最終目的となる。密かに生きていたガノンの分身がリンクに化けて悪事を働く、王国が騎士団の他に忍者部隊を所有しているなど、原作とは大きく異なる独自の物語が展開される。 : コミックとしては未将崎最後の作品となる。心臓を病みながらもスタッフや友人知人の協力を得て完結させたが、これまでの未将崎とは作画が異なる。 ==== ゲームブック ==== ; [[アドベンチャーヒーローブックス]] リンクの冒険 ハイラル英雄伝説(アドベンチャーヒーローブックス10) : [[スタジオ・ハード]]構成、文:[[勁文社]]、1987年初版 : 並行世界にある「もうひとつのハイラル」を舞台とした物語。ハイラル王国を支配していた魔王ガルゴアの呪いを解くために必要な勇気のトライフォースを求めてリンクが旅立つ。ガルゴアは既に寿命を迎えており、側近のデオーが敵として登場する。ゼルダ姫は原因不明の奇病で眠っているとされていたが、終盤で真実が明らかになる。 ; リンクの冒険 魔界からの逆襲 : 文、構成:[[上原尚子]]、[[草野直樹 (スポーツ紙記者)|草野直樹]]、黒トレス スタジオハード編:双葉文庫/[[冒険ゲームブックシリーズ]] : 原作で3つのトライフォースが揃った後の物語。ガノンの怨念によって初代国王の時代にタイムスリップしたリンクが、同じくタイムスリップした後にさらわれた当代ゼルダ姫を取り戻すために旅立つ。当代ゼルダ姫はリンクと恋仲にある。初代ゼルダ姫についてはエンディングで国王とリンクの会話に取り上げられる程度である。 ; ファミコン必勝本 ファミコンゲームブック2 リンクの冒険 暗黒トライフォース伝承(フライデースペシャル―ファミコンゲームブックシリーズ (38)) : 文・構成:井上尚美/RECCA社、JICC出版局、[[1987年]][[5月10日]]初版 : 復活したガノンを倒すためにリンクが旅立ち、そこからガノン復活の真相、真の黒幕に迫っていく。眠りの呪いをかけられているのは当代ゼルダ姫であり(初代ゼルダ姫は登場しない)、呪いをかけたのは黒幕の仕業とされている。オリジナルキャラクターも多数登場する。 : 国王の側近には賢者ハルデナーハ、予言者ジハド、勇剣士ダヌークの3人がおり、この中の誰かが黒幕であることを早い段階から示唆されている。 == 関連書籍 == * {{Cite book |和書 |author = 加納将光(発行人、酒井征勇(編集人) |year = 1992/2/18 |title = 全ゼルダの伝説大百科 |publisher = ケイブンシャ |isbn = |ref = }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.nintendo.co.jp/software/zelda2/index.html リンクの冒険](2021年に新規開設された公式サイト) * [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk3/link/ ファミコンミニ リンクの冒険] * [https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_lb/ リンクの冒険] - [[Wii]][[バーチャルコンソール]] * [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000002069 リンクの冒険] - [[Wii U]]バーチャルコンソール * [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000007263 リンクの冒険] - [[ニンテンドー3DS]]バーチャルコンソール * [https://www.nintendo.co.jp/software/feature/nintendo-classics/clv-p-haasj/index.html?lq=%3Fvcyear%3D1985%2C1987 リンクの冒険] - [[Nintendo Switch]] * [https://topics.nintendo.co.jp/article/f3b094b8-8f8f-11e6-9b38-063b7ac45a6d なぜ『リンクの冒険』は当たり前にならなかったのか?] - 任天堂ホームページ「トピックス」 {{zelda}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りんくのほうけん}} [[Category:ゼルダの伝説のコンピュータゲーム]] [[Category:ディスクシステム用ソフト]] [[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]] [[Category:1987年のコンピュータゲーム]] [[Category:冒険ゲームブック]] [[Category:ファミ通クロスレビュープラチナ殿堂入りソフト]] [[Category:アクションRPG]]
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チャンピオンシップロードランナー
『チャンピオンシップロードランナー』 (Championship Lode Runner)はコンピューターゲームで、アクションパズルゲーム『ロードランナー』(1983年)の続編である。オリジナルはアメリカ合衆国のブローダーバンド社からApple II対応ソフトとして発売された。 日本では、1985年からファミリーコンピュータ (発売元:ハドソン) やSG-1000 (発売元:セガ)、MSX (発売元ソニー)、国産パソコン各機種(発売元:システムソフト、ソフトプロ)に移植された。またWiiとWii Uのバーチャルコンソールでファミリーコンピュータ版が配信されている。 穴を掘りロボットを埋め、画面内にある全ての金塊を回収するアクションパズルゲームである。アクション性よりも、むしろ消したブロックの復活のタイミングや ロボットの動きを正確に理解した上で、難解パズルを解いていくのがメイン。画面も1画面完結でないため、隅々まで金塊を捜す必要があり、金塊を全て回収しても、別の画面へ移動してゴールを見つけなければクリアできない。ロードランナーの上級編で、システムやルール、パッケージイラストは前作と同じである。 BGMはないが、効果音でBGMに近い音を出している。 ステージ31はノーヒントによる攻略はほぼ不可能であり、別冊ファミリーコンピュータ必勝本1の攻略記事で、「こんなものはパズルなんかじゃない」と述べられる。これらのステージはロードランナーの作者であるダグ・スミスのところに全世界から投稿されてきた難易度の高いステージが採用されている。ダグ・スミスによると、全50ステージのうち、日本人からの投稿は25ステージ。さらにその中の10ステージは当時のアスキー編集部の人間の投稿だった。 ファミリーコンピュータ版発売当時、早解コンテストが催され、ステージ11~ステージ50までのパスワードを全て送ると、HUDSONチャンピオンシップロードランナー審査委員会から「チャンピオンカード」というゴールドの認定証が発行された。この認定番号は、早くクリアしたほど番号が若く、当時ハドソン社員だった高橋名人の番号は39050番である(mixiにおける2008年12月5日の高橋の日記)。また、全部で50ステージがあり、最初の10ステージは好きな順番でクリアできる。それ以降は1ステージクリアするごとに次のステージのパスワードが表示され、順にクリアしていかなければならない。パスワードはブロックなどの絵で描かれており、全てのパスワードをまとめると、最終ステージ50のマップになっている(ファミコン版のみ)。 なお、チャンピオンカードは50ステージ全てをクリアしたことを証明するものとされ、各ステージのパスワードを送ることが条件だが、ステージ50をクリアしてもパスワードは表示されず審査の対象外だったため、実際はステージ49までクリアすれば貰う事が出来た。 各種PC版においても、各発売元ごとに同様の認定証キャンペーンは行われていた。 Apple版のデモ画面は作者ダグ・スミスのプレイを収録したものである。 セガ版だけのオリジナル要素である。 ステージ50をクリアした後のエンディング画面の曲はタイトル画面の曲と同じである。
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『チャンピオンシップロードランナー』はコンピューターゲームで、アクションパズルゲーム『ロードランナー』(1983年)の続編である。オリジナルはアメリカ合衆国のブローダーバンド社からApple II対応ソフトとして発売された。 日本では、1985年からファミリーコンピュータ (発売元:ハドソン) やSG-1000 (発売元:セガ)、MSX (発売元ソニー)、国産パソコン各機種(発売元:システムソフト、ソフトプロ)に移植された。またWiiとWii Uのバーチャルコンソールでファミリーコンピュータ版が配信されている。
{{コンピュータゲーム | Title = チャンピオンシップロードランナー<br />''Championship Lode Runner'' | Genre = [[アクションパズル]] | Plat = [[Apple II]] (APII){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[Atari 8ビット・コンピュータ]] (A8)<br />[[コモドール64]] (C64)<br />VIC-20<br />[[ZX Spectrum]] (ZX)<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[SG-1000]] (SG)<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]] (PC98)<br />[[SMC-777]]<br />[[SG-1000]] (SG)<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[MSX]]<br />[[PC-8801|PC-8800シリーズ]]<br />[[Wii]]<br />[[Wii U]]}} | Dev = [[ブローダーバンド]] | Pub = ブローダーバンド | producer = | director = | designer = [[ダグラス・E・スミス]] | writer = | programmer = | composer = | artist = | license = | series = | Ver = | Play = 1人 | Media = [[フロッピーディスク]] | Date = {{vgrelease new|NA|1983年}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''A8,C64,VIC-20,ZX'''<br />{{vgrelease new|NA|1984年}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-4-17}}'''SG'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''PC98'''<br />{{vgrelease new|JP|October 1985}}'''SMC-777'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''SG(マイカード)'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''X1'''<br />{{vgrelease new|JP|March 1986}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1986-3-21}}'''PC88'''<br />{{vgrelease new|JP|June 1986}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2009-10-27}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2015-7-8}}}} | Rating = | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Spec = | Engine = | aspect ratio = | resolution = | Sale = | etc = }} 『'''チャンピオンシップロードランナー'''』 (''Championship Lode Runner'')は[[コンピューターゲーム]]で、[[アクションパズル]]ゲーム『[[ロードランナー]]』(1983年)の続編である。オリジナルは[[アメリカ合衆国]]の[[ブローダーバンド]]社から[[Apple II]]対応ソフトとして発売された。 日本では、[[1985年]]から[[ファミリーコンピュータ]] (発売元:[[ハドソン]]) や[[SG-1000]] (発売元:[[セガ]])、[[MSX]] (発売元[[ソニー]])、国産パソコン各機種(発売元:[[システムソフト]]、[[ソフトプロ]])に移植された。また[[Wii]]と[[Wii U]]の[[バーチャルコンソール]]でファミリーコンピュータ版が配信されている。 == 概要 == 穴を掘りロボットを埋め、画面内にある全ての金塊を回収するアクションパズルゲームである<ref name="natsukashi">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』86ページ</ref>。アクション性よりも、むしろ消したブロックの復活のタイミングや ロボットの動きを正確に理解した上で、難解パズルを解いていくのがメイン<ref name="natsukashi"/>。画面も1画面完結でないため、隅々まで金塊を捜す必要があり、金塊を全て回収しても、別の画面へ移動してゴールを見つけなければクリアできない<ref name="natsukashi"/>。[[ロードランナー]]の上級編で、システムやルール、パッケージイラストは前作と同じである。 BGMはないが、効果音でBGMに近い音を出している<ref name="natsukashi"/>。 <!--NOR : 難易度としては超難解であり、前作ロードランナーを全面クリアした購入者がステージ1だけしかクリアできないほどであった。以後、一部ボーナスステージはあるものの、総じてレベルが高く攻略が困難であり、とりわけ最終面のステージ50はずば抜けて難易度が高い。そして-->ステージ31はノーヒントによる攻略はほぼ不可能であり<ref name="natsukashi"/>、別冊[[ファミリーコンピュータ必勝本]]1の攻略記事で、「こんなものはパズルなんかじゃない」と述べられる。これらのステージは[[ロードランナー]]の作者であるダグ・スミスのところに全世界から投稿されてきた難易度の高いステージが採用されている。ダグ・スミスによると、全50ステージのうち、日本人からの投稿は25ステージ。さらにその中の10ステージは当時の[[アスキー (企業)|アスキー]]編集部の人間の投稿だった<ref name="login198412">月刊ログイン1984年12月号 ダグ・スミス インタビュー</ref>。 ファミリーコンピュータ版発売当時、早解コンテストが催され、ステージ11~ステージ50までのパスワードを全て送ると、HUDSONチャンピオンシップロードランナー審査委員会から「チャンピオンカード」というゴールドの認定証が発行された。この認定番号は、早くクリアしたほど番号が若く、当時ハドソン社員だった[[高橋名人]]の番号は39050番である(mixiにおける2008年12月5日の高橋の日記)。また、全部で50ステージがあり、最初の10ステージは好きな順番でクリアできる。それ以降は1ステージクリアするごとに次のステージのパスワードが表示され、順にクリアしていかなければならない。パスワードはブロックなどの絵で描かれており、全てのパスワードをまとめると、最終ステージ50のマップになっている(ファミコン版のみ)。 なお、チャンピオンカードは50ステージ全てをクリアしたことを証明するものとされ<ref name="natsukashi"/>、各ステージのパスワードを送ることが条件だが、ステージ50をクリアしてもパスワードは表示されず審査の対象外だったため、実際はステージ49までクリアすれば貰う事が出来た。 各種PC版においても、各発売元ごとに同様の認定証キャンペーンは行われていた。 Apple版のデモ画面は作者ダグ・スミスのプレイを収録したものである<ref name="login198412"/>。 == 移植版 == {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 ! CHAMPIONSHIP LODE RUNNER | {{vgrelease new|NA|1984年}} | [[Atari 8ビット・コンピュータ]]<br />[[コモドール64]]<br />VIC-20<br />[[ZX Spectrum]] | ブローダーバンド | ブローダーバンド | [[フロッピーディスク]] | - | - | |- | style="text-align:right" | 2 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985-4-17}} | [[ファミリーコンピュータ]] | ハドソン | ハドソン | [[ロムカセット]] | HFC-CR | - | |- | style="text-align:right" | 3 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985年}} | [[SG-1000]] | タイトー<br />[[セガ]] | セガ | ロムカセット | C-55 | - | |- | style="text-align:right" | 4 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|October 1985}} | [[PC-9800シリーズ|PC-9801]] | ブローダーバンド | システムソフト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" | 5 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985年}} | [[SMC-777]] | ブローダーバンド | [[ソニー]] | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" | 6 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|1985年}} | SG-1000 | [[コンパイル (企業)|コンパイル]] | [[セガ]] | [[マイカード]] | C-57 | - | - |- | style="text-align:right" | 7 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|March 1986}} | [[X1 (コンピュータ)|X1]] | ブローダーバンド | ソフトプロ | フロッピーディスク<br />カセットテープ | - | - | - |- | style="text-align:right" | 8 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|1986-3-21}} | [[MSX]] | コンパイル | ソニー | ロムカセット | HBS-G047C | - | |- | style="text-align:right" | 9 ! チャンピオンシップロードランナー | {{vgrelease new|JP|June 1986}} | [[PC-8800シリーズ|PC-8801]] | ブローダーバンド | システムソフト | フロッピーディスク | - | - | |- | style="text-align:right" | 10 ! ハドソンベストコレクション Vol.2<br />ロードランナーコレクション | {{vgrelease new|JP|2005-12-22}} | [[ゲームボーイアドバンス]] | ハドソン | ハドソン | ロムカセット | AGB-P-B72J | - | ファミリーコンピュータ版の移植,「ロードランナー」同時収録 |- | style="text-align:right" | 11 ! ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2006-10-26}} | [[ニンテンドーDS]] | ハドソン | ハドソン | DSカード | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植+アレンジ移植,「ロードランナー」同時収録 |- | style="text-align:right" | 12 ! チャンピオンシップ・ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2009-10-27}} | [[Wii]] | ハドソン | ハドソン | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |- | style="text-align:right" | 13 ! チャンピオンシップ・ロードランナー | {{vgrelease new|JP|2015-7-8}} | [[Wii U]] | ハドソン | [[コナミデジタルエンタテインメント|KDE]] | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | - | ファミリーコンピュータ版の移植 |} ; ファミリーコンピュータ版 *前作と比較するとマップサイズが大きく、左右のみならず上下にもスクロールする。ポーズ中、画面をスクロールできる。 *レンガを掘ってから埋まるまでの時間が前作と比較して少し長い(約2秒程度)<ref>2006年に発売されたニンテンドーDS版のチュートリアルにその旨の記載説明がある。</ref>。 *タイトルBGMはステージクリアBGMと同じ曲。また前作にあった、ステージクリア時にランナーが汗をふく演出は本作にはない。 *また同じく前作で特定条件で出現するボーナスアイテムは本作には登場しない。 *なお2006年に発売されたニンテンドーDS版ではステージクリア時にランナーが汗をふく演出やボーナスアイテムが復活している。 *パッケージには、初心者の購入を避けるため「警告! ロードランナー未経験者お断り!」と表記されている。 *ステージ1は、オリジナルApple II版のデモステージに差し替わっており、オリジナル版のステージ1(金塊でHELLOと書かれている面)は収録されていない。 ; PC-8801版 *Apple版より画面の横キャラクタ数が少なくなっている。(横26×縦16サイズ) ; PC-9801版 * PC-8801版と同様、Apple版に比べて画面の横キャラクタ数が少なくなっている。(横26×縦16サイズ) *また、PC-88、PC-98版ともに、金塊を全部取り終わって脱出用ハシゴが出現すると、画面下部にメッセージが表示される。このメッセージはステージ毎に異なっている。例えば、デモステージは「GOOD LUCK」、ステージ1は「HELLO AND WELCOME」、ステージ2は「MUSIC MAESTRO」、ステージ3は「LADDERS GALORE」など。 ; FM-7版 *FD版。Apple版より画面の縦横キャラクタ数が少なかった(横26×縦15サイズ)のに伴い、敵ロボットのアルゴリズムも若干変更されている。 ; SG-1000版 *画面の縦横キャラクター数は、Apple版と同じ(横28×縦16サイズ)。ステージ1からステージ50の内の幾つかはセガ版のオリジナルに差し替えられている。 *説明書の3ページ目はキャラクター紹介になっており、説明によると、主人公は銀河パトロール隊員で、名前はキーンである。以下は、その全文である(原文ママ)。 :「バンゲリング帝国。そこは、金に狂った権力者達の集まりだった。彼らは、民衆への苛酷な重税によって、莫大な金塊を貯えていた。銀河パトロール隊員 キーンとしてのキミの任務は、その金塊を全て取り返し、貧しい民衆の生活を救うことにある。金塊は、50のブロックルームに、侵入者を避けて巧妙に収められている。しかも、見張りの衛兵の追跡は厳しい。レーザーガンでブロックを砕いて、衛兵を落とし入れ、キミの任務を遂行しよう!」 :因みに、前作『ロードランナー』の説明書にはキャラクター紹介ページは無く、主人公は「プレイヤー」、敵キャラは「敵」と表記されている。 *両作品のパッケージ絵は同じ物が使われており、主人公(と思われる人物)も同一人物である。しかし、『ロードランナー』のパケ絵では、その人物は向かって右を向いているが、本作のパッケージでは向かって左向きである。しかも、後者の服の左腕のマークは、前者の服の右腕のマーク(アルファベットのRがデザインされている)の左右逆の形になっている。 *ステージ1をクリアするとステージ2のパスワードが表示される。パスワードは8個のアルファベット大文字と数字と記号で構成されており、以後も同様に、ステージクリアすると次のステージのパスワードが表示される。ステージ50をクリアすると、デモ用のステージ51のパスワードが表示され、エンディング画面のメッセージが表示されて終了となる。 *ステージ51はファミリーコンピュータ版のステージ1と同じ内容であり、デモプレイでもクリアまでの手順が見られるようになっている。しかしスタッフのミスにより一部のコンクリートブロックの部分を間違ってレンガブロックとしてエディットしてしまったため、デモプレイのように敵のロボットを誘導せずに普通にブロックを掘って攻略する事が可能になってしまっている。 *セガ版の前作には、レンガの上から右側に飛び降りる瞬間、左側を掘ると、そのレンガを掘る事が出来てしまうというバグが存在したが、セガ版の本作には無い。 *各ステージの画面下にタイトルが表示されている。エディットモードでも好きなタイトルを作成できる。 セガ版だけのオリジナル要素である。 *前作とは異なりBGMが付いている。タイトル画面、プレイ中、ミスをした時、面クリア、ゲームオーバー、の5曲。 ステージ50をクリアした後のエンディング画面の曲はタイトル画面の曲と同じである。 *ゲームのスピード調節が5段階で可能。ポーズ中に変更できる。標準はスピード3。スピード1だと速く、スピード5だと遅くなる。主人公の動きだけでなく、衛兵の動きやブロックの破壊・復元のスピードも変わり、破壊から復元までの時間も変わる。つまり、プレイ中の時間のスピードを調節出来る。 *ポーズすると、画面下部にコマンド画面が現れる。ここでスピード調節とアボート(身動きが取れなくなった時や、クリア出来ない時に自殺する)が可能。 *キーボードなしでもステージが作成出来るようになった。 *{{要出典範囲|date=2018年6月|実は、全55ステージである。}} ; X1版 *テープ版およびFD版。FM-7版同様、画面の縦横キャラクタ数が少なかった(横26×縦15サイズ)ことに伴い、敵ロボットのアルゴリズムも若干変更されている。 * キャラクターグラフィックにカラー3色が用いられており、他機種版より多少カラフルであった。 ; MSX版 *開発担当は[[コンパイル (企業)|コンパイル]]。Apple版同様の画面構成(横28×縦16サイズ)を再現している。 *タイトル画面の造りやキャラクター、文字と数字と記号のフォントはセガ版と同じ。 *ROM版、全60ステージ(Apple版50ステージからの抜粋40ステージ、オリジナルステージ20)。また、カラーチェンジ機能が搭載され、ブロックの色を変えられた。 *セガ版と異なり、BGMは無い。サウンドのONとOFFを切り替え可能。 *セガ版と異なり、各ステージの画面下にタイトルは表示されない。 *セガ版と異なり、エディットモードは無い。 *セガ版と同じく、5段階にスピード調節が可能。 *ESCキーを押すとポーズ(一時停止)画面になる。 *ポーズすると、画面下部にコマンド画面が現れる。Cでカラーチェンジ、SでサウンドON/OFF、LとHでスピード調節、Aでアボート(身動きが取れなくなった時や、クリア出来ない時に自殺する)。 *ステージ1をクリアするとステージ2のパスワードが表示される。パスワードはセガ版と同じく、8個のアルファベット大文字と数字と記号で構成されており、対応するステージは異なるが、セガ版と同じパスワードもある。ちなみに、ステージ2のパスワードはセガ版と同じである。以後も同様に、ステージクリアすると次のステージのパスワードが表示される。 *ステージ61はファミリーコンピュータ版のステージ1と同じ内容であり、デモプレイでもクリアまでの手順が見られるようになっている。しかしスタッフのミスにより一部のコンクリートブロックの部分を間違ってレンガブロックとしてエディットしてしまったため、デモプレイのように敵のロボットを誘導せずに普通にブロックを掘って攻略する事が可能になってしまっている。セガ版と全く同じミスである。 == スタッフ == ;ファミリーコンピュータ版 *プログラム:[[中本伸一]] *音楽:平野勇 == 脚注 == {{Reflist}} <!--出典の参考文献としてしていないため、コメントアウト-- == 関連文献 == {{Cite book|author=|title=チャンピオンシップロードランナー|series=ゲーム必勝法シリーズ|date=|year=|accessdate=|publisher=勁文社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}} --> == 外部リンク == *{{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=ChampLodeRunner|title=チャンピオンシップロードランナー(ハドソンゲームナビ)|date=20040815041238 }} * {{Wiiバーチャルコンソール|clr|チャンピオンシップ・ロードランナー}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|fedj|チャンピオンシップ・ロードランナー}} * {{MobyGames|id=/3930/championship-lode-runner/|name=Championship Lode Runner}} {{Video-game-stub}} {{デフォルトソート:ちやんひおんしつふろおとらんなあ}} [[Category:1983年のパソコンゲーム]] [[Category:Apple II用ゲームソフト]] [[Category:Atari 8ビット・コンピュータ用ゲームソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:PC-8800用ゲームソフト]] [[Category:SG-1000用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:アクションパズル]] [[Category:アメリカで開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:コモドール64用ゲームソフト]] [[Category:ハドソンのゲームソフト]] [[Category:ブローダーバンドのゲームソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(独: Wolfgang Amadeus Mozart [ˈvɔlfɡaŋ ʔamaˈdeːʊs ˈmoːtsaʁt] ( 音声ファイル)、1756年1月27日 - 1791年12月5日)は、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。 洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。 ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。 1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。 父・レオポルト・モーツァルトは、元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、7番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。ほかの5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称ナンネル)だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)である。 父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している。 1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。 1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった。 1777年にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた。 モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年2月にはパリ行きを命じる。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎもよくなかった。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。7月3日、同行した母がパリで死去した。 1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。 翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、歌劇『魔弾の射手』等の作曲で知られるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。 1783年、このころ『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(1778年説もある)。 1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した。 1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。 1787年5月28日に父レオポルト死去。父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い(現存する晩年の書簡の大半は妻コンスタンツェか、借金相手のヨハン・プフベルク宛のものである)。8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。 翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。しかし、第40番を除いて演奏を聴くことはなかったと見られる。さらに、フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。 ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。 1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。 1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。 9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。 体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。 この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった。 死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」 妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った。成人した2人の男子はどちらも子を残さなかったため、モーツァルトの子孫はいない。 モーツァルトの死後、コンスタンツェは、彼女の多大な借金を返すために予約演奏会を開いた。そして数年の間に、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽会で、後援者たちから多額の金額を集めている。 症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。 モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。 また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。 サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた。 葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる。 没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。 現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行った。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。 作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。 作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録をつけている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。 最初は父のレオポルト経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後、ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響が強い。 モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼がおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた。 晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。 モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕があった。 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、たとえば交響曲第36番はリンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。 モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制がなくなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれにあたる。 思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている。 モーツァルトの時代、現在でいう「ピアノ曲」、ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲などはドイツ語圏では通常「クラヴィーア」と書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノ、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。 モーツァルトの初期の数作品はチェンバロのために書かれており、彼はレーゲンスブルクの製作者フランツ・ヤコブ・シュペートが作ったピアノに馴染んでいた。 後にモーツァルトはアウクスブルクを訪れてシュタインピアノに感銘を受け、そのことを父親への手紙に書いている。1777年10月22日にモーツァルトは、シュタインが提供した楽器で3台のピアノのための協奏曲(K.242)を初演した。アウクスブルク大聖堂のオルガン奏者デンムラーが第1パートを演奏し、モーツァルトが第2パート、そしてシュタインが第3パートを演奏した。1783年のウィーン在住時に、彼はワルターの楽器を購入した。モーツァルトが自分のワルターのフォルテピアノに愛着していた様子は、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒を説明するのは不可能だ。おまえの弟のピアノは、彼の家から劇場または他の誰かの家へと少なくとも12回移動されたのだ。」という記述からわかる。 モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。 モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトはAmadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)をおもに使っていたともいわれ、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。 肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者ニーメチェク(英語版)によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その突出した才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時にかかった天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹のゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、いまだに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小柄である」「肥満が著しかった」などと、様々な説があったが、検死による実際の身長は163センチ程であり、当時の西洋人としては中背程度である。左耳は奇形で、対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形と類似した耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしている事から、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。 信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。 2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。 ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家にあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン公国、プロイセン王国、ザクセン選帝侯領などの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。 モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている。また、ショパンの生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家・国民という概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、当時はその域外であったザルツブルク出身者であり、オーストリアに在住したのは最後の10年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、オーストリア人ヒトラーや伊仏露など、周辺国だけでなく米国も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。 音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。 こういった彼の異常な感覚能力についての話はほかにも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶しており、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。#巡業と音楽教育の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(独: Wolfgang Amadeus Mozart [ˈvɔlfɡaŋ ʔamaˈdeːʊs ˈmoːtsaʁt] ( 音声ファイル)、1756年1月27日 - 1791年12月5日)は、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "父・レオポルト・モーツァルトは、元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、7番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。ほかの5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称ナンネル)だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1777年にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年2月にはパリ行きを命じる。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎもよくなかった。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。7月3日、同行した母がパリで死去した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、歌劇『魔弾の射手』等の作曲で知られるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1783年、このころ『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(1778年説もある)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1787年5月28日に父レオポルト死去。父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い(現存する晩年の書簡の大半は妻コンスタンツェか、借金相手のヨハン・プフベルク宛のものである)。8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。しかし、第40番を除いて演奏を聴くことはなかったと見られる。さらに、フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った。成人した2人の男子はどちらも子を残さなかったため、モーツァルトの子孫はいない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "モーツァルトの死後、コンスタンツェは、彼女の多大な借金を返すために予約演奏会を開いた。そして数年の間に、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽会で、後援者たちから多額の金額を集めている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行った。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録をつけている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最初は父のレオポルト経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後、ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響が強い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼がおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕があった。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、たとえば交響曲第36番はリンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制がなくなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれにあたる。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "モーツァルトの時代、現在でいう「ピアノ曲」、ピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲などはドイツ語圏では通常「クラヴィーア」と書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノ、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。", "title": "楽器" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "モーツァルトの初期の数作品はチェンバロのために書かれており、彼はレーゲンスブルクの製作者フランツ・ヤコブ・シュペートが作ったピアノに馴染んでいた。 後にモーツァルトはアウクスブルクを訪れてシュタインピアノに感銘を受け、そのことを父親への手紙に書いている。1777年10月22日にモーツァルトは、シュタインが提供した楽器で3台のピアノのための協奏曲(K.242)を初演した。アウクスブルク大聖堂のオルガン奏者デンムラーが第1パートを演奏し、モーツァルトが第2パート、そしてシュタインが第3パートを演奏した。1783年のウィーン在住時に、彼はワルターの楽器を購入した。モーツァルトが自分のワルターのフォルテピアノに愛着していた様子は、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒を説明するのは不可能だ。おまえの弟のピアノは、彼の家から劇場または他の誰かの家へと少なくとも12回移動されたのだ。」という記述からわかる。", "title": "楽器" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。", "title": "楽器" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトはAmadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)をおもに使っていたともいわれ、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者ニーメチェク(英語版)によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その突出した才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時にかかった天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹のゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、いまだに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小柄である」「肥満が著しかった」などと、様々な説があったが、検死による実際の身長は163センチ程であり、当時の西洋人としては中背程度である。左耳は奇形で、対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形と類似した耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしている事から、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家にあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン公国、プロイセン王国、ザクセン選帝侯領などの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている。また、ショパンの生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家・国民という概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、当時はその域外であったザルツブルク出身者であり、オーストリアに在住したのは最後の10年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、オーストリア人ヒトラーや伊仏露など、周辺国だけでなく米国も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "こういった彼の異常な感覚能力についての話はほかにも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶しており、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。#巡業と音楽教育の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。", "title": "人物像" } ]
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。 洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。 ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。
{{Redirect|モーツァルト}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト<br>Wolfgang Amadeus Mozart | 画像 = Wolfgang-amadeus-mozart_1.jpg | 画像説明 = [[バーバラ・クラフト]]による肖像画([[1819年]])<BR>モーツァルトの死後に想像で描かれた。 | 画像サイズ = 200px | 背景色 = classic | 出生名 = ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト<br>Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart | 別名 = 神童 | 出生 = [[1756年]][[1月27日]]<br>{{HRR1512}}<br>[[File:Wappen Erzbistum Salzburg.png|25px]] {{仮リンク|ザルツブルク大司教領|en|Prince-Archbishopric of Salzburg}}<br>[[ザルツブルク]] | 死没 = {{死亡年月日と没年齢|1756|1|27|1791|12|5}}<br> {{HRR1512}}<br>{{AUT1358}}<br>[[ウィーン]] | ジャンル = [[古典派音楽]] | 職業 = [[作曲家]] | 活動期間 = [[1761年]] - 1791年 }} [[File:Wolfgang Amadeus Mozart Signature.svg|thumb|250px|モーツァルトのサイン]] {{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}} '''ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト'''<ref group="注釈">「'''モーツァルト'''」は[[ドイツ語音韻論#舞台発音|舞台ドイツ語]]読みであり、現代ドイツ語読みすると「'''モーツァート'''」に近い。</ref>({{lang-de-short|Wolfgang Amadeus Mozart}} {{IPA-de|ˈvɔlfɡaŋ ʔamaˈdeːʊs ˈmoːtsaʁt||De-Wolfgang Amadeus Mozart.ogg}}、[[1756年]][[1月27日]] - [[1791年]][[12月5日]])は、主に現在の[[オーストリア]]を活動拠点とした[[音楽家]]<ref group="注釈">別記のように、国籍については議論が絶えないが、生地の現在版図と主要活躍地を併せ、現時点で「オーストリアの」と記す。[[広辞苑]]、[[大辞林]]、[[大辞泉]]のいずれもこの記載となっている。</ref>。 洗礼名は'''ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト''' [{{lang|de|Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart}}]。 [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と同じく[[古典派音楽]]・[[ウィーン古典派]]を代表する存在である<ref>ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 [[角倉一朗]]日本語版監修、[[白水社]]、1989年、333頁。ISBN 978-4-560-03686-0</ref><ref>『[[世界大百科事典]]』(第2版)</ref>{{Sfn|大崎|2022|p=モーツァルト}}。 == 生涯 == === 幼年期 === [[1756年]][[1月27日]]、[[ザルツブルク]]で誕生する。現在はオーストリアの都市であるが、当時は[[神聖ローマ帝国]]領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。 父・[[レオポルト・モーツァルト]]は、元々は[[哲学]]や[[歴史]]を修めるために[[大学]]に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・[[ヴァイオリニスト]]であった。母は[[アンナ・マリア・モーツァルト|アンナ・マリーア・ペルトル]]で、7番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。ほかの5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉[[マリア・アンナ・モーツァルト|マリーア・アンナ]](愛称ナンネル)だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』4頁</ref>。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)である。 父・レオポルトは息子が[[天才]]であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから[[チェンバロ]]を弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された<ref>[http://www.cnn.co.jp/fringe/30006016.html 新発見のモーツァルトのピアノ曲演奏、オーストリア生家で]</ref>。父とともに音楽家として[[ザルツブルク大司教]]・[[ヒエロニュムス・コロレド伯]]の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、[[パリ]]、[[ロンドン]]、および[[イタリア]]各地に[[モーツァルト家の大旅行|大旅行]]を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。[[1762年]]1月に[[ミュンヘン]]へ、9月に[[ウィーン]]へ旅行したのち、[[10月13日]]、[[シェーンブルン宮殿]]で[[マリア・テレジア]]の御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちの[[マリー・アントワネット]])に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のとき[[フランクフルト]]で演奏した際に作家の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]がたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画での[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、文学の[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]に並ぶと思ったとのちに回想している<ref>『エッカーマンとの対話』岩波書店。またピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁</ref>。 === 巡業と音楽教育 === [[1769年]]から[[1771年]]にかけて第1回目の[[イタリア]]旅行を行い、父とともに[[ミラノ]]、[[ボローニャ]]、[[ローマ]]を巡回する。[[システィーナ礼拝堂]]では、門外不出の秘曲とされていた[[グレゴリオ・アレグリ]](Gregorio Allegri)の9声部の『[[ミゼレーレ (アレグリ)|ミゼレーレ]]』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない[[古代ローマ]]遺跡[[ポンペイ]]を訪れている<ref group="注釈">このことを詳細に語る父の手紙が残されている。</ref>。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』23頁</ref>。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。 [[1770年]]にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャの[[アカデミア・フィラルモニカ]]の会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『[[ポントの王ミトリダーテ]]』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』25頁</ref>。 === マンハイム時代 === [[1777年]]にはザルツブルクでの職を辞し[[ミュンヘン]]、次いで[[マンハイム]]へ移る。同年10月、パリに行く途中に[[アウクスブルク]]に立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った<ref name="名前なし-1">[[メイナード・ソロモン]]前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁</ref>。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった[[マンハイム楽派]]の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた<ref name="名前なし-2">ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁</ref>。 モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』40頁</ref>、父・レオポルトは猛然と反対し、[[1778年]]2月にはパリ行きを命じる<ref group="注釈">父・レオポルトは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ。」といった。同書。</ref><ref>[[柴田治三郎]]編訳『モーツァルトの手紙(上)』 [[岩波文庫]]1980年(1987年 第11刷) ISBN 4-00-335041-3、122-130頁掲載の2月12日付け書簡。</ref>。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった<ref name="名前なし-2" />。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎもよくなかった<ref group="注釈">父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している。ピーター・ゲイ『モーツァルト』43頁。ただし当時の西欧では、このような状態はよくある光景であった。コルバン『においの歴史』藤原書店参照。</ref>。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。[[交響曲第31番 (モーツァルト)|交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」]]を作曲する。[[7月3日]]、同行した母がパリで死去した。 === ウィーン時代 === [[ファイル:Wolfgang-amadeus-mozart 2.jpg|200px|thumb|少年時代のモーツァルト]][[1781年]]3月、25歳のモーツァルトは[[ザルツブルク大司教]]・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、[[5月9日]]、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、[[オペラ]]の作曲、レッスン、[[楽譜]]の出版などで生計を立てていた。 翌[[1782年]]、父の反対を押し切り[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ・ヴェーバー]]と結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、歌劇『[[魔弾の射手]]』等の作曲で知られる[[カール・マリア・フォン・ヴェーバー]]の従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。 [[1783年]]、このころ『[[ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)|ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)]]』を作曲したといわれる(1778年説もある)。 [[1785年]]には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「[[ハイドン・セット]]」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]から息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の[[1787年]]、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁</ref>。[[Image:Aloysia weber.jpg|thumb|200px|アロイジア・ヴェーバー]][[1786年]][[5月1日]]、オペラ『[[フィガロの結婚]]』K.492を[[ブルク劇場]]で初演し、翌年[[プラハ]]で大ヒットしたため[[モーツァルトとプラハ|プラハを訪問する]]。4月には[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]がモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『[[ドン・ジョヴァンニ]]』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。 [[1787年]]5月28日に父レオポルト死去。父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い(現存する晩年の書簡の大半は妻コンスタンツェか、借金相手のヨハン・プフベルク宛のものである)。8月10日、[[ウィーン]]で『[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]』を作曲。 翌[[1788年]]にはいわゆる「3大交響曲」([[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番]])を作曲する。しかし、第40番を除いて演奏を聴くことはなかったと見られる。さらに、[[フリーメイソン]]仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。 === 晩年 === ウィーンでは[[ピアニスト]]として人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした[[宮廷楽長]][[アントニオ・サリエリ]]らのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。 [[1790年]]1月、オペラ 『[[コジ・ファン・トゥッテ]](女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]が逝去し、[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が即位する。モーツァルトは[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]で行われた[[戴冠式]]に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」]]、[[ピアノ協奏曲第19番 (モーツァルト)|同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」]]などを演奏するも聴衆は不入りだった。 [[1791年]] 1月、最後のピアノ協奏曲となる[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|第27番]] K.595を作曲する。この曲を自ら初演した[[3月4日]]のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子[[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト]](モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世の[[ボヘミア]]王戴冠式でオペラ 『[[皇帝ティートの慈悲]]』 K.621を初演。 [[9月30日]]、[[エマヌエル・シカネーダー|シカネーダー]]の一座のために[[ジングシュピール]] 『[[魔笛]]』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。 体調は11月から悪化し、[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]] K.626に取り組んでいる最中の[[11月20日]]から病床に伏し、2週間後の[[12月5日]]0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、[[病者の塗油|終油の儀]]は受けていない。 {{see also|モーツァルトの死}} この年、[[レオポルト・ホフマン]]の推挙でモーツァルトは[[シュテファン大聖堂]]の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのは[[アルブレヒツベルガー]]であった<ref group="注釈">[[レオポルト・ホフマン]]の項目に記事がある。</ref>。 死去する3年前の手紙<ref>ドノヴァン・ビクスレー『素顔のモーツァルト』清水玲奈訳、グラフィック社、2005年。ISBN 978-4766116229</ref>に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」 === 妻子 === 妻・[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ]]との間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、[[カール・トーマス・モーツァルト|カール・トーマス]]と[[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト|フランツ・クサーヴァー]]だけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している<ref group="注釈">当時は医学が発達した時代ではなかった。</ref>。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った<ref group="注釈">フランツは弟子の[[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー|ジュースマイヤー]]の名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある。</ref>。成人した2人の男子はどちらも子を残さなかったため、モーツァルトの子孫はいない。 モーツァルトの死後、コンスタンツェは、彼女の多大な借金を返すために予約演奏会を開いた{{sfn|ロックウッド|2010|pp=68}}。そして数年の間に、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽会で、後援者たちから多額の金額を集めている{{sfn|ロックウッド|2010|pp=68}}。 === 年譜 === *[[1756年]] (0歳) [[1月27日]]、[[ザルツブルク]]に生まれる。 *[[1761年]] (5歳) 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。 *[[1762年]] (6歳) 10月[[マリア・テレジア]]御前演奏。 *[[1763年]] - [[1766年]] (7 - 10歳) [[パリ]]・[[ロンドン]]旅行。 *[[1767年]] - [[1769年]] (11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『[[みてくれの馬鹿娘]]』K.51上演。 *[[1769年]] - [[1771年]] (13 - 15歳) 第1回[[イタリア]]旅行。 *[[1770年]] (14歳) 黄金拍車勲章授与。[[12月26日]] オペラ『[[ポントの王ミトリダーテ]]』K.87初演。 *1771年 (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『[[アルバのアスカニオ]]』K.111ミラノ上演。 *[[1772年]] - [[1773年]] (16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『[[ルーチョ・シッラ]]』K.135上演。 *1773年 (17歳) 第3回ウィーン旅行。 *[[1774年]] - [[1775年]] (18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『[[偽の女庭師]]』K.196上演。 *[[1777年]] (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、[[マンハイム]]へ移る。 *[[1778年]] (22歳) パリへ移る。7月、同行した母はパリで死去する。 *[[1779年]] (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。 *[[1780年]] (24歳) オペラ『[[イドメネオ]]』K.366準備のためにミュンヘンに赴く。マリア・テレジア崩御。 *[[1781年]] (25歳) [[ザルツブルク大司教]]コロレドと衝突、解雇。ウィーン定住を決意。 *[[1782年]] (26歳) **7月、オペラ『[[後宮からの誘拐]]』K.384をウィーンで初演。 **[[8月3日]]、[[コンスタンツェ・モーツァルト|コンスタンツェ・ヴェーバー]]と結婚。 *[[1783年]] (27歳) **ザルツブルクに帰郷。[[大ミサ曲]]ハ短調 K.427を上演。 **6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。 *[[1784年]] (28歳) **第2子[[カール・トーマス・モーツァルト]]誕生。 **[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の'''慈善ロッジ([[ウィーン]])'''に入会(書類上では[[12月5日]])。 *[[1785年]] (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「[[ハイドン・セット]]」)。 *[[1786年]] (30歳) オペラ『[[フィガロの結婚]]』K.492初演。 *[[1787年]] (31歳) 父・レオポルト死去。オペラ『[[ドン・ジョヴァンニ]]』K.527初演。 *[[1788年]] (32歳) いわゆる「3大交響曲」を作曲。 *[[1789年]] (33歳) [[モーツァルトのベルリン旅行|ベルリン旅行]]。 *[[1790年]] (34歳) オペラ『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』K.588初演。 *[[1791年]] (35歳) オペラ『[[皇帝ティートの慈悲]]』K.621、オペラ『[[魔笛]]』K.620初演。[[12月5日]]ウィーンにて死去。 === 死因 === 症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「[[粟粒熱|急性粟粒疹熱]]」とされる。実際の死因は「[[リウマチ熱|リューマチ性炎症熱]]」であったと考えられている<ref group="注釈">ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった[[伝染病]]の影響で慢性的な[[腎臓病]]を患っており11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。</ref>。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている<ref group="注釈">旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、[[道路]]の[[舗装]]が不完全であったがために[[馬車]]の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。罹患したリューマチに終生悩まされ、この持病のため体格が小柄になり、さらに直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。</ref>。また、医者が死の直前に行った[[瀉血]]が症状を悪化させたとも言われる。 モーツァルトは[[1791年]]7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた[[亜ヒ酸|亜砒酸]]が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。 また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。[[1820年]]ごろになると、ウィーンでは「[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]を担ぐイタリア派と[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]を担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。 サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは[[1825年]]に死ぬまで悩まされた<ref group="注釈">この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』([[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]])や『[[アマデウス]]』などの作品が作られた。</ref>。 === 葬儀と墓 === [[葬儀]]の日取りは「[[12月6日]]説」と「[[12月7日]]説」の2つがある<ref group="注釈">寺院に残された台帳によれば葬儀は[[12月6日|6日]]に行われた。[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]の勅令で、[[死人]]は死後48時間経たないと[[埋葬]]できない規定があったため、6日の深夜から[[12月7日|7日]]の朝に埋葬されたと思われる。葬儀の日は[[嵐]]だったとする報告があり6日は穏やかな天候であったため、葬儀は7日に行われたとする説がある。しかし実際には7日にも降水はなく、強風が吹き始めたのは7日の深夜になってからであった。ソロモンの前掲書、749頁参照。</ref>。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩[[馬車]]に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である<ref group="注釈">葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つであり、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習となっていた。ソロモンの前掲書、751頁参照。</ref>。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えられる{{sfn|ロックウッド|2010|pp=68}}。 没後100年の[[1891年]]、中央墓地([[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]ら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである<ref group="注釈">もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。</ref>。なお、サンクト・マルクス墓地は[[1874年]]に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。[[ヨハン・シュトラウス2世]]の弟[[ヨーゼフ・シュトラウス]]も最初はここに埋葬されていた([[1909年]]に中央墓地に移設)。 現在、[[モーツァルテウム|国際モーツァルテウム財団]](ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる[[頭蓋骨]]が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、[[遺骨]]は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て[[1902年]]に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、[[2004年]]に[[ウィーン医科大学]]の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨との[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]を行った<ref group="注釈">鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の[[2006年]][[1月8日]]に、[[オーストリア国営放送]]の[[ドキュメンタリー]]番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とモーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取された[[デオキシリボ核酸|DNA]]であった。</ref>。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。 == 作品 == {{main|モーツァルトの楽曲一覧}} 作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲([[オペラ]]、教会用の[[宗教音楽]]、[[歌曲]]など)と器楽曲([[交響曲]]、[[協奏曲]]、[[重奏|室内楽曲]]、[[クラヴィーア]][[ソナタ]]など)のどちらにも多数の作品が残されている。 作品を識別するには、音楽家の[[ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル]]が分類した作曲順の目録である[[ケッヘル番号]](K.+数字)が使われる<ref group="注釈">ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。</ref>。モーツァルト自身は[[1784年]]以降に自作の作品目録をつけている。[[1784年]]より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。 ; 代表的な作品 *5大オペラ:『[[後宮からの誘拐]]』『[[フィガロの結婚]]』『[[ドン・ジョヴァンニ]]』『[[コジ・ファン・トゥッテ]](女はみなこうしたもの)』『[[魔笛]]』 *宗教音楽:[[大ミサ曲]]、[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]、『[[アヴェ・ヴェルム・コルプス]]』 *交響曲:[[交響曲第25番 (モーツァルト)|第25番]]、[[交響曲第29番 (モーツァルト)|第29番]]、[[交響曲第35番 (モーツァルト)|第35番『ハフナー』]]、[[交響曲第36番 (モーツァルト)|第36番『リンツ』]]、[[交響曲第38番 (モーツァルト)|第38番『プラハ』]]、[[交響曲第39番 (モーツァルト)|第39番]]、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|第40番]]、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番『ジュピター』]] *セレナード:『[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]』『[[セレナータ・ノットゥルナ]]』 *ピアノ協奏曲:[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|第20番]]、[[ピアノ協奏曲第21番 (モーツァルト)|第21番]]、[[ピアノ協奏曲第22番 (モーツァルト)|第22番]]、[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|第23番]]、[[ピアノ協奏曲第24番 (モーツァルト)|第24番]]、[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|第26番]]、[[ピアノ協奏曲第27番 (モーツァルト)|第27番]] *ヴァイオリン協奏曲:[[ヴァイオリン協奏曲第3番 (モーツァルト)|第3番]]、[[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)|第5番『トルコ風』]] *管楽器のための協奏曲:[[クラリネット協奏曲 (モーツァルト)|クラリネット協奏曲]]、[[フルート協奏曲第1番 (モーツァルト)|フルート協奏曲第1番]]、[[フルートとハープのための協奏曲 (モーツァルト)|フルートとハープのための協奏曲]]、[[オーボエ協奏曲 (モーツァルト)|オーボエ協奏曲]]、[[ホルン協奏曲 (モーツァルト)|ホルン協奏曲]] *弦楽四重奏曲:[[ハイドン・セット]]、[[プロシャ王セット]] *弦楽五重奏曲:[[弦楽五重奏曲第3番 (モーツァルト)|第3番]]、[[弦楽五重奏曲第4番 (モーツァルト)|第4番]] *その他室内楽曲:[[クラリネット五重奏曲 (モーツァルト)|クラリネット五重奏曲]]、[[オーボエ四重奏曲 (モーツァルト)|オーボエ四重奏曲]] *ピアノソナタ:[[ピアノソナタ第11番 (モーツァルト)|第11番『トルコ行進曲付き』]] *ピアノのための変奏曲: [[きらきら星変奏曲]](フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲)ハ長調 K.265 == 作風 == 最初は父のレオポルト経由で[[ヨハン・ショーベルト]]などの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後、[[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]の影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンと[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の影響が強い。 モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、[[ロココ]]様式あるいは[[ギャラント様式]]と呼ばれる。彼がおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた<ref>斎藤信哉著『ピアノはなぜ黒いのか』</ref>。 晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]ト短調のように人気が高い。 モーツァルトの時代には[[ポリフォニー]]音楽が流行遅れになり、[[ホモフォニー]]音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハや[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の作品を研究し、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|交響曲第41番]]の終楽章のように[[対位法]]を活用する手腕があった。 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。人気の高い[[ピアノ協奏曲第23番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲23番]]については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、たとえば[[交響曲第36番 (モーツァルト)|交響曲第36番]]は[[リンツ]]滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。[[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]]から[[交響曲第41番 (モーツァルト)|41番]]「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。 モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである<ref group="注釈">このことは、当時の手紙や各種の資料で確認できる。作曲家が「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される。」という形態には至っていなかったようである{{要出典|date=2009年11月}}。</ref>。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』50頁</ref>。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった<ref group="注釈">モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較され差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは2人が置かれていた社会的状況とヨーロッパを旅行してその歴史を知り尽くしていたかどうかの差であると言える{{要出典|date=2009年11月}}。</ref>。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制がなくなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれにあたる。 思想的には、[[フリーメイソン]]がパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている<ref group="注釈">なかにし礼『三拍子の魔力』([[毎日新聞社]]、ISBN 4620318426)を参照のこと。</ref>。 == 楽器 == モーツァルトの時代、現在でいう「[[ピアノ曲]]」、[[ピアノ・ソナタ]]、[[ピアノ協奏曲]]などはドイツ語圏では通常「クラヴィーア」と書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、有弦鍵盤楽器を指し、[[フォルテピアノ]]、[[チェンバロ]](ハープシコード、クラヴサン)、[[クラヴィコード]]のいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。 モーツァルトの初期の数作品はチェンバロのために書かれており、彼は[[レーゲンスブルク]]の製作者フランツ・ヤコブ・シュペートが作ったピアノに馴染んでいた<ref name="instrument">[https://www.gutenberg.org/files/5307/5307-h/5307-h.htm The Letter of Wolfgang Amadeus Mozart (1769-1791)]. In Two Volumes. Vol. 1. By Wolfgang Amadeus Mozart. Translated, from the Collection of Ludwig Nohl, by Lady Wallace. New York and Philadelphia, 1866</ref>。 後にモーツァルトは[[アウクスブルク]]を訪れて[[ヨハン・アンドレアス・シュタイン|シュタイン]]ピアノに感銘を受け、そのことを父親への手紙に書いている<ref name="instrument" />。1777年10月22日にモーツァルトは、シュタインが提供した楽器で3台のピアノのための協奏曲(K.242)を初演した<ref>Review in Augsburgische Staats und Gelehrten Zeitung 28 Oktober 1777</ref>。[[:en:Augsburg_Cathedral|アウクスブルク大聖堂]]のオルガン奏者デンムラーが第1パートを演奏し、モーツァルトが第2パート、そしてシュタインが第3パートを演奏した<ref>Layer, Adolf; Ullrich, Hermann (2001). [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.07542 ''<nowiki>Demmler [Demler, Dümmler], Johann Michael</nowiki>''.] Oxford Music Online. Oxford University Press. [[デジタルオブジェクト識別子|doi]][[doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.07542|:10.1093/gmo/9781561592630.article.07542.]]</ref>。1783年のウィーン在住時に、彼は[[アントン・ワルター|ワルター]]の楽器を購入した<ref>Latcham, Michael (1997). "[[doi:10.1093/earlyj/XXV.3.383|Mozart and the pianos of Gabriel Anton Walter]]". ''[[:en:Early_Music_(journal)|Early Music]]''. '''XXV''' (3): 383–400. [[デジタルオブジェクト識別子|doi]][[doi:10.1093/earlyj/XXV.3.383|:10.1093/earlyj/XXV.3.383]].</ref>。モーツァルトが自分のワルターのフォルテピアノに愛着していた様子は、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒を説明するのは不可能だ。おまえの弟のピアノは、彼の家から劇場または他の誰かの家へと少なくとも12回移動されたのだ。」という記述からわかる<ref>Bauer, Wilhelm (1963). [https://www.cengage.com/music/book_content/049557273X_wrightSimms/assets/ITOW/7273X_47_ITOW_Mozart.pdf ''Mozart: Briefe und Aufzeichnungen'' (PDF).]</ref>。 モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは、[[1785年]]に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にも[[マンドリン]]とチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。 == 人物像 == [[ファイル:Mozart drawing by Doris Stock 1789.jpg|thumb|200px|モーツァルト(1789年の肖像画)]] [[ファイル:Martini bologna mozart 1777.jpg|thumb|200px|1777年のモーツァルトGiovanni Battista Martiniの依頼による<ref>[http://asv.vatican.va/en/doc/1770.htm "Award of the Papal Equestrian Order of the Golden Spur to Wolfgang Amadeus Mozart"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100918061819/http://asv.vatican.va/en/doc/1770.htm|date=2010年9月18日}}, [[Vatican City|Vatican]] Archives</ref>]] === 名前 === モーツァルトの洗礼名([[ラテン語]])は、ヨハンネス・クリュソストムス<ref group="注釈">4世紀の[[教会博士]]で[[聖人]]の[[ヨハネス・クリュソストモス]]にちなんでいる。</ref>・ウォルフガングス・'''テオフィルス<ref group="注釈">「テオフィルス」は[[ギリシア語]]で「神を愛する」または「神に愛された」の意のテオフィロス({{lang|el|Θεόφιλος, Theophilos}})をラテン語形にしたもの。</ref>'''・モザルト({{lang|la|Johannes Chrysostomus Wolfgangus '''Theophilus''' Mozart}})である。当時は[[イタリア]]の[[音楽家]]がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス({{lang|la|Amadeus}})」を[[通称]]として使用していた。ただしモーツァルトは{{lang|la|Amadeus}}ではなく[[イタリア語]]風のアマデーオ({{lang|it|Amadeo}})をおもに使っていたともいわれ<ref>石井宏『反音楽史』127頁</ref>、ほか[[フランス語]]風のアマデ({{lang|fr|Amadé}})、[[ドイツ語]]風のゴットリープ({{lang|du|Gottlieb}})も用いたことがある。 === 容姿 === 肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者{{仮リンク|ニーメチェク|en|Franz Xaver Niemetschek}}によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その突出した才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時にかかった[[天然痘]]の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだった[[デスマスク]]は、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に[[石膏]]で型取られたことが義妹のゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、いまだに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小柄である」「肥満が著しかった」などと、様々な説があったが、検死による実際の身長は163センチ程であり、当時の西洋人としては中背程度である。左耳は奇形で、対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形と類似した耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしている事から、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。 [[File:Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart.jpg|thumb|ヨーゼフ・ランゲ作『鍵盤に手を置くモーツァルト』(首より下未完成<ref group="注釈">元来は頭部と首および肩の部分を描いた完成作だったが、後に新たなカンバスを貼って加筆した部分が未完となった。[http://www.mozarteum.at/en/content/latest-news.html?meldung=142 New Mozart Portrait] - Stiftung Mozarteum Salzburg</ref>)妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトにもっともよく似た肖像画<ref>MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 132頁</ref>」]]信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。 === 人柄 === *優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。 *女性小説家である{{ill|カロリーネ・ピヒラー|en|Caroline Pichler|de|Caroline Pichler}}は「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能をまったく示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた」と書いている。 *モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5か国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては、何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を唐突にかつ仔細に書き出したりしていた。 [[Image:Marianne Thekla Mozart.jpg|thumb|200px|マリア・アンナ・テークラ(ベーズレ)の鉛筆画]] *モーツァルトは従妹に[[排泄]]にまつわる[[駄洒落]]([[トイレのユーモア]])にあふれた手紙を送ったことがある<ref group="注釈">前掲『モーツァルトの手紙』上巻79頁。[[1777年]]の「ベーズレ書簡」。「あなたの鼻に糞をします」などの記述がある。このことから「才能は今の半分でいいから社会性が2倍ほしい」と言われたことがある。</ref>。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった!どういうこと!知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ?ウンコが出たがってる?そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」などの記述がある<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』39頁</ref>。従妹は[[マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト]]といい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従妹以上の恋愛関係にあったともされる<ref name="名前なし-1"/>。 *ベーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これらの手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力を示している。ベーズレの残された数少ない銅版画は、彼女の素晴らしい美貌を示しているが、この点は彼女の強みとはならず、彼女がかなり移り気な女性であったことがのちに証明されることとなった。 *遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっている。ほかに『[[俺の尻をなめろ]]』(K.231、K.233)というカノンも作曲するなど、この類の話は彼に[[スカトロジー]]の傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者同士での尾籠な話は日常的なものであり[[タブー]]ではなく<ref>アインシュタイン、前掲書、47頁</ref>、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた<ref>ピーター・ゲイ『モーツァルト』33頁</ref>。 *[[19世紀]]の伝記作者は、スカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch"は英語の"Kiss my ass"(「くそったれ!」など)と同類の慣用表現であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。 *そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。 *[[精神医学]]界には、こうした珍奇な行動が[[サヴァン症候群]]によるものであるという憶測もある<ref>Aidin Ashoori, Joseph Jankovic: "Mozart’s movements and behaviour: a case of Tourette’s syndrome?" ''Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry'' 2007;78:1171-1175; {{PMID|17940168}}</ref>。 *[[九柱戯]]([[ボウリング]])や[[ビリヤード]]を好み<ref group="注釈">関連項目:[[P. D. Q. バッハ]]</ref>、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた<ref>CUE'S([[2006年]]5月号114頁)</ref>。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。[[賭博]]にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引っ越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である<ref>礒山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、37 - 40頁</ref>。 === ドイツ人論議 === [[2006年]]、ドイツのテレビ局[[第2ドイツテレビ|ZDF]]が「史上もっとも偉大な[[ドイツ人]]は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。 ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家にあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「[[神聖ローマ帝国|ドイツ国民の神聖ローマ帝国]]」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、[[ナポレオン戦争]]以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とする[[ドイツ連邦]]に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含む[[オーストリア大公国|オーストリア大公領]]、[[バイエルン公国]]、[[プロイセン王国]]、[[ザクセン選帝侯領]]などの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。 モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、[[ドイツ語]]で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている<ref>海老沢敏・高橋英郎 編訳『モーツァルト書簡全集』白泉社</ref>。また、[[ショパン]]の生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。<!--{{要出典|date=2021-6|(ショパンと同時期には[[エクトル・ベルリオーズ]]が[[ヨハン・シュトラウス1世]]を中心とするウインナワルツ・ブームをやはり「ドイツ人たちの間で」という形容で論じている)}}。-->また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家・国民という概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、当時はその域外であったザルツブルク出身者であり、オーストリアに在住したのは最後の10年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だと[[マリア・テレジア]]も[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]もれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、[[オーストリア人]][[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や伊仏露など、周辺国だけでなく[[アメリカ合衆国|米国]]も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。 === 逸話 === *モーツァルト一家の親しい友人であり、ザルツブルク大司教に仕えたトランペット奏者、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは[[1763年]]のある日、わずか6歳のヴォルフガングがヴァイオリンを弾こうとしているところに出くわし、彼から「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ」と言われた。シャハトナーは最初それを聞いて笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力と音の記憶力を知っていた父がヴァイオリンを取ってきて「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめてみると、ヴォルフガングの言う通りだったという<ref>ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』78頁</ref>。 *シャハトナーとの逸話はほかにも残されており、彼はマリアンネ・モーツァルトに向けた[[1792年]]4月の手紙にて、次のように書いている。 {{quotation|10歳ころまでの彼は、独奏のトランペットに常軌を逸した恐怖感を抱いていました。ある日あなたのお父さんがこの恐怖感を取り除くべく、近くでトランペットを吹いてやってくれ、と仰ったのでそうしてみたところ、あの甲高い音色を聞くとたちまち蒼白になり、気を失いそうになりました。あのまま続けていれば彼は引付を起こしていたでしょう…(中略)あなたは私がとても良いヴァイオリンを持っていたのをご存じのはずです。亡きヴォルフガングはそれの音色が柔らかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』と呼んでいました。<ref>ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』219頁</ref>}}音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないため、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。 *姉・ナンネル([[マリア・アンナ・モーツァルト|マリア・アンナ]])がウォルフガングのことをよく知っていた人から回想文を集めて出版された本には、次のような証言がある。 {{quotation|彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。<ref name="名前なし-3">ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁</ref>}} *[[1763年]][[5月19日]]付の「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」紙にも、ウォルフガングについての記事が載せられている。 {{quotation|…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…<ref name="名前なし-3"/>}} こういった彼の異常な感覚能力についての話はほかにも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「ある[[ロンドン王立協会]]への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶しており、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。[[#巡業と音楽教育]]の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。 *協奏曲などを手掛けていたにもかかわらず、[[フルート]]を嫌っていた<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2014/02/03/mozart-flute-ayako-takagi_n_4715193.html "フルート嫌い"のモーツァルト、お金のために仕事をした―東京藝大准教授・高木綾子さんに聞く] huffingtonpost</ref>。ドゥジャンという資産家から200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か、フルートのために作って」くれるように注文を受けたが、結局出来上がったのは協奏曲2曲(しかも1曲は旧作のオーボエ協奏曲からの編曲)と3曲のフルート四重奏曲のみであった。これにドゥジャンが怒り、報酬は半分以下の96フローリンしか支払われなかった。この仕事中、モーツァルトは父レオポルドに宛てた手紙で「我慢できない楽器のために、作曲を続けるのはうんざり」と書いている。モーツァルトがフルートを嫌っていた理由としては、当時のフルートはまだ[[テオバルト・ベーム]]による改良以前で楽器としての性能が低かったため、とする説が有力である。 == モーツァルトを扱った作品 == *{{仮リンク|モーツァルトとサリエリ|ru|Моцарт и Сальери}} - [[1830年]]、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の戯曲。 **[[1897年]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]がオペラ化(『[[モーツァルトとサリエリ (オペラ)]]』)。 *[[哀しみのシンフォニー]] - [[シルヴィ・ヴァルタン]]の[[1972年]]の[[シングル]]曲(事実上の[[フレンチ・ポップス]])。交響曲第40番の第一楽章の有名な[[メロディ]]に[[イタリア語]]の[[歌詞]]を乗せて歌唱。 *{{仮リンク|旅の日のモーツァルト|de|Mozart auf der Reise nach Prag}} - [[エドゥアルト・メーリケ|メーリケ]]の小説。 *[[アマデウス]] - [[1979年]]、[[ピーター・シェーファー]]の戯曲。 **[[1984年]]、[[ミロス・フォアマン]]監督により[[アマデウス (映画)|映画化]]。 *モーツァルト - [[1982年]]フランスのTVドラマ(全6回、540分)(マルセル・ブリュワル監督作品)。 *{{仮リンク|くたばれアマデウス|de|Vergeßt Mozart}} - [[1985年]]西ドイツ映画 ウィーン警察と関係者が死因を探る推理ドラマ。 *Rock me Amadeus - [[1985年]]、[[オーストリア]]の歌手・[[ファルコ (ミュージシャン)|ファルコ]]の楽曲。 *モーツァルトは子守唄を歌わない - 1985年、[[森雅裕]]の小説。 *[[マドモアゼル モーツァルト]] - [[1989年]]、[[福山庸治]]の漫画。 **[[1991年]]、[http://www.ongakuza-musical.com/ 音楽座]がミュージカル化、[[2004年]]にも『21C:マドモアゼル・モーツァルト』として公演。 *[[モーツァルト!]] - [[1999年]]、ミュージカル作品。日本では[[2002年]]に初演。 *[[TEAM NACS#全国公演|COMPOSER〜響き続ける旋律の調べ]] - [[2005年]]、[[TEAM NACS]]の舞台。演:[[安田顕]]<ref>{{Cite web|和書|title=「生理がないのが悔しい」TEAM NACS安田顕の役づくりがスゴすぎる! 鈴木亮平も唖然 (2015年8月26日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_1426/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-02-11|language=ja}}</ref>。 *Wolfango Amedeo(ヴォルフガング・アマデウス) - [[2006年]]、G.ファザーノ作曲、V.セッサ=ヴィタリ作詞 同年の第49回[[ゼッキーノ・ドーロ]](イタリア)優勝歌曲。 *モーツァルトの魔法の笛 - [[2009年]]、[[メアリー・ポープ・オズボーン]]作 [[マジック・ツリーハウス]]シリーズの第27巻。 *[[ロックオペラ モーツァルト]] - [[2009年]]、Olivier Dahan演出、Dove Attia, Albert Cohen制作。ミュージカル作品。 *[[プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード]] - [[2017年の映画|2017年]]の[[チェコの映画|チェコ]]・[[イギリスの映画|イギリス]]合作映画。 == その他 == *[[ユーロ]]導入前のオーストリアの最高額面の5,000[[シリング]]紙幣、また現在のオーストリアの1ユーロ硬貨にも同じ肖像が採用されている。 *彼を讃え、[[水星]]には「モーツァルト」という名の[[クレーター]]が存在する。 *モーツァルト没後200周年となる1991年に発見された鉱物に「{{ill|モーツァルト石|de|Mozartite}}」という名前がつけられている。 *彼が[[フリーメイソン]]の会員<ref>[http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M%7Ctitle= Famous Freemasons M-Z]</ref>であったことは比較的有名である。 *ロシアの音楽評論家[[アレクサンドル・ウリビシェフ]]は1843年に3巻からなる伝記『Nouvelle biographie de Mozart』をモスクワで出版している<ref>Geoffrey Norris (一柳富美子)「ウルィーブィシェフ, アレクサンドル・ドミトリエヴィチ」ニューグローブ世界音楽大事典. 第3巻, 講談社, 1994年, p143。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *''NEUE MOZART-AUSGABE''(新モーツァルト全集) **[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター社]]・パックスアーレン社のソフトカバー版が入手できる。 *竹山敏郎 『モーツァルト』 [[音楽之友社]]、1957年 *[[アルフレート・アインシュタイン]] 『モーツァルト-その人間と作品』[[浅井真男]]訳、[[白水社]]、初版[[1961年]]、<span style="font-size:90%;">新版1997年</span>(原著1945年)ISBN 4-560-03732-9 **著者アルフレート・アインシュタインは音楽史研究家で、物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]の従弟。 *『モーツァルトの手紙』 [[柴田治三郎]]編訳、[[岩波文庫]](上・下)、初版1980年 <span style="font-size:90%;">ISBN 4-00-335041-3・ISBN 4-00-335042-1</span> *H.C.ロビンズ・ランドン 『モーツァルト最後の年』 [[海老沢敏]]訳、[[中央公論社]]、2001年(原著1988年) <span style="font-size:90%;">ISBN 4-12-003114-4</span> *[[真木洋三]] 『モーツァルトは誰に殺されたか』 [[読売新聞社]]、1989年 *[[ノルベルト・エリアス]] 『モーツァルト ある天才の社会学』 [[青木隆嘉]]訳、[[法政大学出版局]]〈叢書ウニベルシタス〉、[[1991年]] <span style="font-size:90%;">ISBN 4-588-00353-4</span> *メイナード・ソロモン 『モーツァルト』 [[石井宏 (音楽評論家)|石井宏]]訳、[[新書館]]、1995年(原著1995年) <span style="font-size:90%;">ISBN 4-403-12006-7</span> *[[ピーター・ゲイ]] 『モーツァルト』 高橋百合子訳、岩波書店、2002年(原著1999年、PenguinPutnum Inc.) *{{Cite book|和書|author=ルイス・ロックウッド|date=2010-11|title=ベートーヴェン 音楽と生涯|others=土本英三郎・藤本一子 監訳、沼口隆・堀朋平 訳|publisher=[[春秋社]]|isbn=978-4-393-93170-7|ref={{SfnRef|ロックウッド|2010}}}} *[[石井宏 (音楽評論家)|石井宏]] 『反音楽史 さらば、ベートーヴェン』 [[新潮社]]、2004年 <span style="font-size:90%;">ISBN 4-10-390303-1</span> * {{Cite web |和書 |last = 大崎 |first = 滋生 |authorlink = 大崎滋生 |title = 日本大百科全書(ニッポニカ) |chapter = モーツァルト |year = 2022 |url = https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88-142474 |publisher = [[DIGITALIO]] |accessdate = 2022-10-10 |ref = harv }} *[[岡田暁生]] 『恋愛哲学者 モーツァルト』 新潮社、2008年<span style="font-size:90%;">ISBN 4106036002</span> *[[なかにし礼]] 『三拍子の魔力』 [[毎日新聞社]]、2008年<span style="font-size:90%;">ISBN 4620318426</span> * {{Cite web |和書 |author = 平凡社 |authorlink = 平凡社 |title = 世界大百科事典 第2版 |edition = 第2版 |chapter = ドイツ音楽 |year = 2022 |url = https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%9F%B3%E6%A5%BD-1188529 |publisher = DIGITALIO |accessdate = 2022-10-10 |ref = harv }} *[[三枝成彰]] 『名曲の履歴書』 [[朝日新聞出版]]、2013年 ISBN 978-4-02-251039-6 *水谷彰良『サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長』(増訂新版)復刊ドットコム、2019年1月、ISBN 978-4835456249 == 関連項目 == {{Commonscat|Compositions by Wolfgang Amadeus Mozart}} {{Commons|Wolfgang Amadeus Mozart}} {{Wikiquote|モーツァルト}} *[[モーツァルト (曖昧さ回避)]] *[[ウィーン古典派]] *[[ケッヘル番号]] *[[国際モーツァルテウム財団]] *[[ザルツブルク・モーツァルテウム大学]] *[[モーツァルテウム管弦楽団]] *[[モーツァルト国際コンクール]] *[[モーツァルト管弦楽団]] *[[モストリー・モーツァルト・フェスティバル]] *[[ヴュルツブルク・モーツァルト音楽祭]] *[[モーツァルト効果]] *[[ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ]] - 「黒いモーツァルト」 *[[ヨーゼフ・マルティン・クラウス]] - 「スウェーデンのモーツァルト」 *[[フランソワ・ドヴィエンヌ]] - 「フランスのモーツァルト」 *{{仮リンク|サミュエル・ウェズリー|en|Samuel Wesley}} - 「イングランドのモーツァルト」 *[[ホアン・クリソストモ・アリアーガ]] - 「スペインのモーツァルト」 *[[キダ・タロー]] - 「浪花のモーツァルト」 == 外部リンク == === 音源 録音ファイル === #[https://www.classicalarchives.com/newca/#!/Composer/3052 Mozart, Wolfgang Amadeus] #[https://classical-music-online.net/en/composer/Mozart/46 Composer Wolfgang Amadeus Mozart - listen online, download mp3 - complete works] #Nikolaus Harnoncourt, Rudolf Buchbinder. Wolfgang Amadeus Mozart. [https://www.sonyclassical.de/alben/releases-details/mozart-piano-concertos-nos-23-25 Piano Concerti Nos. 23 & 25.] Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty. #Robert Levin, Academy of Ancient Music, Christopher Hogwood. Wolfgang Amadeus Mozart. [https://avxhm.se/music/Robert-Levin-Academy-of-Ancient-Music-Christopher-Hogwood-Mozart-Piano-Concertos-15-26-1987.html Piano Concertos Nos 15 & 26]. Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty. # Viviana SofronitskyW.A. Mozart: [https://www.cdandlp.com/mozart-wolfgang-amadeus/complete-fortepiano-concertos-viviana-sofronitsky-karolak-musicae-antiquae-collegium-varsoviense/coffret-cd/r116968560/ 11CD box, the first world complete works for piano and orchestra performed on original instruments]. Orchestra: Musicae Antiquae Collegium Varsoviense "Pro Musica Camerata", Poland. Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty. # András Schiff. Wolfgang Amadeus Mozart. Piano works. Played on Mozart’s own piano in Salzburg. # Linda Nicholson. Wolfgang Amadeus Mozart. [https://www.classicdvd.cz/mozart-w-a-sonatas-for-fortepiano-linda-nicholson-cd Sonatas for Fortepiano]. Played on the original Walter piano. # Paul Badura-Skoda. Wolfgang Amadeus Mozart. Works for piano. Played on an antique Walter piano. === 楽譜 === *{{IMSLP|id=Mozart,_Wolfgang_Amadeus}} *[https://dme.mozarteum.at/DME/nma/start.php?l=3 新モーツァルト全集・デジタル版] - [[新モーツァルト全集]]の総譜すべてが網羅されており、[[Portable Document Format|PDF]]として入手できる。 === その他 === *[https://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/et/catalog.html モーツァルト自作全作品目録] *[https://www.mozarthausvienna.at/en Mozarthaus Vienna](日本語 - モーツァルトハウス・ウィーン) *[https://classicmanager.com/artists/11?kind=works Classic Manager] - モーツァルトの楽曲無料鑑賞サイト * {{NHK放送史|D0009041369_00000|毎日モーツァルト}} * {{NHK放送史|D0009043697_00000|生誕250年 まるごと入門!モーツァルト}} * {{Kotobank|モーツァルト}} * {{Kotobank|モーツァルト(年譜)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もおつあると うおるふかんく あまてうす}} [[Category:モーツァルト|*]] [[Category:オーストリアの作曲家]] [[Category:古典派の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:教会音楽家]] [[Category:フリーメイソンの作曲家]] [[Category:18世紀の音楽家]] [[Category:18世紀の作曲家]] [[Category:ヨーゼフ2世]] [[Category:オーストリア・シリング紙幣の人物]] [[Category:モーツァルト家|うおるふかんく あまてうす]] [[Category:ザルツブルク出身の人物]] [[Category:1756年生]] [[Category:1791年没]]
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ゲーム&ウオッチ
ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)は、任天堂発売の携帯型液晶ゲーム機(電子ゲーム、LSIゲーム)。CMなど一般での呼称は「ゲームウオッチ」。 同社にとって、初の携帯型ゲーム機であり、ゲームソフトが本体内のROMに書き込まれた「1ハード1ソフト」方式の機種である。そのためファミリーコンピュータなどの同社後継ゲーム機のようにカートリッジ(ロムカセット)交換で様々なソフトを実行することはできない。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来となった(後にアラーム機能も付くようになった)。 第一作は1980年4月28日発売の『ボール』。手元で遊べる手軽さが受けてヒットし社会現象になった。同年6月、7月にも『フラッグマン』『バーミン』『ファイヤ』と3つの新作を発売、これもヒットし、その後もほぼ「1ヶ月に1タイトル」ほどのペースで新作を発表した。 1983年にファミリーコンピュータが発売されると人々の関心はそちらへ移り、1985年2月発売の『ブラックジャック』を最後に日本での発売は終了したが、日本国外向けとしては1991年10月発売の『マリオジャグラー』が最後の作品となった。こうして総計で59タイトルが発売された。 販売総数は日本で1287万個、日本国外で3053万個、総計4340万個を記録した。当シリーズの大ヒットとその利益により、任天堂は当時抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済でき、さらに40億円ほどの黒字にもなった。任天堂を高収益の優良企業へと成長させたゲーム機シリーズであり、これで得られた利益がファミリーコンピュータの開発に投資されたことでも知られ、任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作った製品とも言える。 また、後の「ゲームボーイ」「ニンテンドーDS」などの携帯ゲーム機の元祖としても知られる。 横井軍平が、新幹線の中で暇潰しに電卓のボタンを押して遊んでいる人を見て、「暇つぶしのできる小さなゲーム機」として発案。その後、横井がたまたま社長車の代理運転手を引き受けたとき、運転中に雑談ながら構想を社長の山内博に話したところ、向かった会合先で、液晶生産用の新工場を立ち上げたものの電卓の需要が頭打ちとなり、新たな応用先を探していたシャープ社長の佐伯旭に伝わり、「電卓サイズのゲーム機」を作ることに意気投合して一気に具現化した。 当時の任天堂には液晶やマイコン(マイクロコントローラ)関連の技術が不足していたのでシャープと共同開発をした。当初は液晶とマイコンの製造は技術的に難しいと断わられたが、横井の置いていった試作機をシャープの技術者が遊んだ事がきっかけで製品化が実現した。 横井軍平がゲームのアイデアとゲームデザイン、岡田智が電子回路の設計とゲームプログラムを担当した。 時計機能については、もともとは入れる予定はなく、名前も「マイクロゲーム」とする予定だった。3つのボタンに3種類のゲームを入れる予定だったが、1つが面白くなかったこともあり、それを時計ボタンに変えた。時計機能をつけたのは、時計機能を加えてもコストがあまり高くならず、「時計を買うため」ということで大人にも買いやすくなると見込んだためである。 当初はサラリーマンなどが通勤途中に遊べるもの、という目的を念頭に、座った時に手を組んだまま「隠して操作できる」ワイシャツのポケットサイズでデザインされた。ゲーム内容も横井が「誰もが説明書を読まなくても遊べるゲーム」を目指し、親指でボタンを押すだけの極力シンプルな操作体系にした「ゲーム付きの時計」というコンセプトで開発した。しかし発売後は小中学生が主な購買層となったため、その後はターゲットを変更し、よりゲーム性が重視されることになった。 なお、同時期に上村雅之がほぼゲームボーイに近いスペックのゲームを構想していたが、そちらのほうはコスト面などの問題が解消できず、開発の着手に至らなかった。ゲームウォッチ発売から9年後、ゲームボーイが発売されるに至った。 液晶画面は、液晶セグメント表示方式でキャラクターなどの動きを表現しており(つまりドットマトリクス方式ではなく)、モノクロ(単色)であった。 最初期のシリーズ5作品までは完全なモノクロ画面である。続く「ゴールド」シリーズでは液晶の前面に別のスクリーンが置かれ、カラーで背景やオブジェを表現。以降、画面を約1.7倍に広げた「ワイドスクリーン」、2画面の折り畳み式にした「マルチスクリーン」、カラー液晶を採用した「テーブルトップ」と「パノラマスクリーン」、4色に色分けされたカラースクリーンで疑似カラー画面を表現した「スーパーカラー」、さらに2020年の「カラースクリーン」よりフルカラードット液晶へと発展していった。 初期のゲームウオッチは、プレイヤーキャラクタの移動も含め、本体左右に装備された丸ボタンで操作していた。 マルチスクリーン『ドンキーコング』はゲーム機史上初めて十字キー(説明書での呼称は『+ボタン』)を装備した。 本機の開発にあたり採用したチップ(集積回路)は電卓で使われているものだった。電卓のディスプレイのひとつの数字は7セグメントで表示されており(7セグメントディスプレイ)、つまり0から9までの数字はいずれも、それぞれが「セグメント」と呼ばれるパーツを7個組み合わせて数字を表示している。したがって8桁の電卓用のチップなら、7セグメント×8桁=56セグメント、および数字の間の小数点や「-(マイナス)」などの記号のセグメントを制御できる能力もあった。つまり56個よりは数個ほど多い数のセグメントを制御できる能力があった。 そのチップを使って第一作の『ボール』をつくった。つまり、電卓のチップは72セグメントのそれぞれをON/OFFできる仕組みになっていたので、それを数字用の液晶セグメントの代わりに絵の液晶セグメントを制御するために使うことで、ゲーム&ウオッチを作った。ただし、第一作『ボール』の画面の右上には得点や時刻を表示する4桁のカウンタがついており、そのカウンタ部分だけで 7セグメント×4桁=28個 のセグメントを使ってしまうので、残りの28個(さらにプラス数個)ほどのセグメントでキャラクタやボールなどの動きを描かなければならなかった。 発売日欄「※」は日本国外のみ販売タイトル。『ドンキーコング』などのアーケードゲームやファミリーコンピュータの移植版も開発された。1990年代に入ってから、日本国外のみ発売を含むタイトルが逆輸入版として日本で発売されたことがあり、一部の量販店などでいわゆる「輸入トイ」のような扱いで売られた例もあった。 タイトルの多くは、難易度が低めのGAME Aと高めのGAME Bのどちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり。なおこの選択方法はファミリーコンピュータの初期タイトルにも使用されている)。 発売初期のテレビCMは、「いつでもゲームウオッチ、どこでもゲームウオッチ」というCMソングに合わせて商品で遊ぶ場面やゲーム画面が映し出され、最後に「マイクロコンピューターを使ったゲームウオッチ。ゲームをしない時はデジタル式クォーツ時計です」のナレーションが入るというものだった。 本機を共同開発したシャープとは元々光線銃SP時代からの付き合いがあったが、本機のヒット後も両社は親密な関係を続け、ファミリーコンピュータ、ゲームボーイ、スーパーファミコンなどでも技術面での提携関係にあり、ツインファミコンやファミコンテレビC1などのシャープ製ファミコンを発売、シャープ製パソコンで採用されていたクイックディスクやHu-BASICをディスクシステムやファミリーベーシックに採用した。 また『ドンキーコング』に初搭載された十字キーに関して、これまでゲーム機のコントローラは丸・角形ボタンかスティック状のレバーが主流だったが、十字キーはコンパクトながら親指だけで4方向にキーを押す感覚が伝わる操作性で、その後の同社をはじめとする国内外で発売されるゲーム機で標準採用された。 なお、後に有志により電池フタの3Dプリンター用データが公開された。 当時流行した同様の携帯ゲーム機としてカシオの「ゲーム電卓」などがある。ゲーム&ウオッチのヒットにならい、タカトクトイス、バンダイ、トミーなどから多数のLSIゲーム・電子ゲームが発売され、中には増田屋コーポレーションからは「PLAY&TIME」、原田企画からは「GAME&TIME」という名前や外観がゲーム&ウオッチに酷似した商品までもが発売された。他社製品も含めて「ゲームウオッチ」と呼ばれる場合もある。 また、ソビエト連邦ではElektronikaという海賊版が販売されていた。内容は「エッグ」とその書換えがほとんどである。なお、ソ連ではCOCOM規制のため、ゲーム&ウオッチは販売されていなかった。 日本では1985年に発売された『ブラックジャック』、日本国外では1991年に発売された『マリオジャグラー』が最後の機種となった。それ以降は同社のゲーム機向けにゲーム内容を移植したり、ゲーム内のキャラクターを登場させている。また周年記念作品も発売されている。 1998年より、複数メーカー開発によるMini Classicsシリーズが日本国外で販売されている。任天堂よりライセンスを受けたマルチスクリーンを含むゲーム&ウオッチの移植版や、オリジナルタイトルが遊べるキーチェーンサイズの携帯ゲーム機である。電源はボタン型電池(LR44)2個。 発売30周年と40周年を記念した作品が作られている。 2009年度のクラブニンテンドーのプラチナ会員特典として、本機発売30周年に、ゲーム&ウオッチ『ボール』の復刻版がプレゼントされた。型番はRGW-001。プレゼント時期は2010年4月下旬。 本機発売40周年記念作の第1弾『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』が2020年11月13日に、2021年3月末までの期間限定生産品として発売され、景品・非売品を除いては日本国内では35年ぶりの新モデル発売となった。 主に単色・固定の液晶表示のみだった従来機種と異なり、2.36インチのフルカラー・ドット液晶表示方式なので「COLOR SCREEN(カラースクリーン)」と命名されており、ファミリーコンピュータ版『スーパーマリオブラザーズ』とファミリーコンピュータ ディスクシステム版『スーパーマリオブラザーズ2』の完全移植版、および、ゲーム&ウオッチの第一作『ボール』の計3作を収録。なお『ボール』のキャラクターはマリオやルイージにアレンジしてある。「マリオ時計」モードでは、特定の時間やボタン操作などの条件により35種類の秘密イベントが起こる。2021年3月31日生産終了。型番はHXA-001。CERO:A(全年齢対象) 2021年11月12日には、40周年記念作の第2弾、『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』が発売された。ファミリーコンピュータ ディスクシステム版『ゼルダの伝説』『リンクの冒険』とゲームボーイ版『ゼルダの伝説 夢をみる島』および、ゲーム&ウオッチ第3作『バーミン』のキャラクターをリンクに差し替えたバージョンの計4作品を収録。時計機能も『ゼルダの伝説』をモチーフにした「遊べるゼルダ時計」と『リンクの冒険』をモチーフにした「遊べるショートタイマー」を搭載している。型番はHXB-001。CERO:B(12才以上対象)。 電源は従来の電池交換式ではなく、内蔵リチウムイオン電池で、給電はUSB-C端子。 なお周辺機器として以下を使用することができる。
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ディスクシステム版『スーパーマリオブラザーズ2』の完全移植版、および、ゲーム&ウオッチの第一作『ボール』の計3作を収録。なお『ボール』のキャラクターはマリオやルイージにアレンジしてある。「マリオ時計」モードでは、特定の時間やボタン操作などの条件により35種類の秘密イベントが起こる。2021年3月31日生産終了。型番はHXA-001。CERO:A(全年齢対象)", "title": "販売終了後の展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2021年11月12日には、40周年記念作の第2弾、『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』が発売された。ファミリーコンピュータ ディスクシステム版『ゼルダの伝説』『リンクの冒険』とゲームボーイ版『ゼルダの伝説 夢をみる島』および、ゲーム&ウオッチ第3作『バーミン』のキャラクターをリンクに差し替えたバージョンの計4作品を収録。時計機能も『ゼルダの伝説』をモチーフにした「遊べるゼルダ時計」と『リンクの冒険』をモチーフにした「遊べるショートタイマー」を搭載している。型番はHXB-001。CERO:B(12才以上対象)。", "title": "販売終了後の展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "電源は従来の電池交換式ではなく、内蔵リチウムイオン電池で、給電はUSB-C端子。", "title": "販売終了後の展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお周辺機器として以下を使用することができる。", "title": "販売終了後の展開" } ]
ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)は、任天堂発売の携帯型液晶ゲーム機(電子ゲーム、LSIゲーム)。CMなど一般での呼称は「ゲームウオッチ」。 同社にとって、初の携帯型ゲーム機であり、ゲームソフトが本体内のROMに書き込まれた「1ハード1ソフト」方式の機種である。そのためファミリーコンピュータなどの同社後継ゲーム機のようにカートリッジ(ロムカセット)交換で様々なソフトを実行することはできない。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来となった(後にアラーム機能も付くようになった)。 第一作は1980年4月28日発売の『ボール』。手元で遊べる手軽さが受けてヒットし社会現象になった。同年6月、7月にも『フラッグマン』『バーミン』『ファイヤ』と3つの新作を発売、これもヒットし、その後もほぼ「1ヶ月に1タイトル」ほどのペースで新作を発表した。 1983年にファミリーコンピュータが発売されると人々の関心はそちらへ移り、1985年2月発売の『ブラックジャック』を最後に日本での発売は終了したが、日本国外向けとしては1991年10月発売の『マリオジャグラー』が最後の作品となった。こうして総計で59タイトルが発売された。 販売総数は日本で1287万個、日本国外で3053万個、総計4340万個を記録した。当シリーズの大ヒットとその利益により、任天堂は当時抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済でき、さらに40億円ほどの黒字にもなった。任天堂を高収益の優良企業へと成長させたゲーム機シリーズであり、これで得られた利益がファミリーコンピュータの開発に投資されたことでも知られ、任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作った製品とも言える。 また、後の「ゲームボーイ」「ニンテンドーDS」などの携帯ゲーム機の元祖としても知られる。
{{Redirect|ゲームウォッチ|インプレス系列のゲーム情報サイト「'''GAME Watch'''」|Impress Watch}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = ゲーム&ウオッチ |ロゴ = [[File:Game and watch logo.svg|180px]] |画像 = [[File:Game & Watch.png|250px]] |画像コメント = 第1作目の『ボール』 |メーカー = [[任天堂]] |種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]] |世代 = [[第二世代ゲーム機|第2世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1980年]][[4月28日]]([[ボール (ゲーム&ウオッチ)|ボール]]) |CPU = |GPU = |メディア = 内蔵ゲーム |ストレージ = |コントローラ = 内蔵 |外部接続端子 = |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 1,287万個<br />[[ファイル:Map projection-Eckert IV.png|26px|世界]] 4,340万個 |最高売上ソフト = |互換ハード = |次世代ハード = [[ゲームボーイ]] }} '''ゲーム&ウオッチ'''<ref group="注釈">「'''オ'''」が[[直音]](大きいカタカナ)となっており、「ウ'''ォ'''ッチ」は厳密には誤記である。</ref>(ゲームアンドウオッチ、''GAME&WATCH'')は、[[任天堂]]発売の[[携帯型ゲーム|携帯型液晶ゲーム機]]([[電子ゲーム]]、LSIゲーム)。[[コマーシャルメッセージ|CM]]など一般での呼称は「'''ゲームウオッチ'''」。 同社にとって、初の携帯型ゲーム機であり、ゲームソフトが本体内の[[Read Only Memory|ROM]]に書き込まれた「1ハード1ソフト」方式の機種である。そのため[[ファミリーコンピュータ]]などの同社後継ゲーム機のようにカートリッジ([[ロムカセット]])交換で様々なソフトを実行することはできない。ゲームをしない間は[[時計]]として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来となった(後に[[目覚し時計|アラーム]]機能も付くようになった)。 第一作は1980年4月28日発売の『[[ボール (ゲーム&ウオッチ)|ボール]]』。手元で遊べる手軽さが受けてヒットし[[社会現象]]になった{{要出典|date=2022年6月}}。同年6月、7月にも『フラッグマン』『バーミン』『ファイヤ』と3つの新作を発売、これもヒットし、その後もほぼ「1ヶ月に1タイトル」ほどのペースで新作を発表した<ref name="nintendo_index4">[https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/game_and_watch/vol1/index4.html 『社長が訊く』 ゲーム&ウオッチ]</ref>。 [[1983年]]にファミリーコンピュータが発売されると人々の関心はそちらへ移り、1985年2月発売の『[[ブラックジャック (ゲーム&ウオッチ)|ブラックジャック]]』を最後に日本での発売は終了したが、日本国外向けとしては1991年10月発売の『[[マリオジャグラー]]』が最後の作品となった。こうして総計で59タイトルが発売された<ref name="nintendo_index4" />。 販売総数は日本で1287万個、日本国外で3053万個、総計4340万個を記録した<ref name="nintendo_index4" />。当シリーズの大ヒットとその利益により、任天堂は当時抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済でき、さらに40億円ほどの黒字にもなった<ref>山崎功『任天堂コンプリートガイド 玩具編』主婦の友社 ISBN 978-4-07-294757-9</ref>。任天堂を高収益の優良企業へと成長させたゲーム機シリーズであり、これで得られた利益が'''[[ファミリーコンピュータ]]'''の開発に投資されたことでも知られ、任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作った製品とも言える。 また、後の「[[ゲームボーイ]]」「[[ニンテンドーDS]]」などの携帯ゲーム機の元祖としても知られる。 == ハードウェア == === 開発 === [[横井軍平]]が、[[新幹線]]の中で暇潰しに[[電卓]]のボタンを押して遊んでいる人を見て、「暇つぶしのできる小さなゲーム機」として発案<ref> {{Cite web|和書|url=http://www.mtc.pref.kyoto.jp/ce_press/no917/lecture.htm |title=【講演会だより】(基調講演)新しいビジネスは枯れた技術の水平思考から |accessdate=1997-10-18 |website=M&T総合センター情報 |publisher=京都府中小企業総合センター |archiveurl=https://web.archive.org/web/19971018053036/http://www.mtc.pref.kyoto.jp/ce_press/no917/lecture.htm |archivedate=2019-11-13}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019224/?P=3|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第4回:携帯型ゲーム機を発想 {{!}} 新幹線で携帯型ゲーム機を着想 |accessdate=2008-10-06 |publisher=日経BP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081006082417/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019224/?P=3 |archivedate=2008-10-06}}</ref>。その後、横井がたまたま社長車の代理運転手を引き受けたとき、運転中に雑談ながら構想を社長の[[山内溥|山内博]]に話したところ、向かった会合先で、液晶生産用の新工場を立ち上げたものの電卓の[[需要]]が頭打ちとなり、新たな応用先を探していた[[シャープ]]社長の[[佐伯旭]]に伝わり、「電卓サイズのゲーム機」を作ることに意気投合して一気に具現化した<ref>横井軍平ゲーム館、株式会社アスキー ISBN 4-89366-696-7</ref>。 当時の任天堂には[[液晶]]や[[マイコン]]([[マイクロコントローラ]])関連の技術が不足していたのでシャープと共同開発をした<ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=2|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第5回:試行錯誤のなかから十字ボタンを見いだす シャープを口説き落とす|accessdate=2008-10-06|publisher=日経BP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081006082444/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=2|archivedate=2018-10-06}}</ref>。当初は液晶とマイコンの製造は技術的に難しいと断わられたが、横井の置いていった試作機をシャープの技術者が遊んだ事がきっかけで製品化が実現した。 横井軍平がゲームのアイデアとゲームデザイン、[[岡田智]]が[[電子回路]]の設計とゲームプログラムを担当した<ref>[[昭和50年男]] Vol.008</ref>。 [[時計]]機能については、もともとは入れる予定はなく、名前も「マイクロゲーム」とする予定だった<ref name="NikkeiBP_20081012">{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=3 |title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第5回:試行錯誤のなかから十字ボタンを見いだす ゲーム&ウォッチがヒット商品に |accessdate=2018-10-12 |publisher=日経BP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081012060232/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=3 |deadlinkdate=|first=|archivedate=2018-10-12}}</ref>。3つのボタンに3種類のゲームを入れる予定だったが、1つが面白くなかったこともあり、それを時計ボタンに変えた{{R|NikkeiBP_20081012}}。時計機能をつけたのは、時計機能を加えてもコストがあまり高くならず、「時計を買うため」ということで大人にも買いやすくなると見込んだためである{{R|NikkeiBP_20081012}}。 当初はサラリーマンなどが通勤途中に遊べるもの<ref name=":0" />、という目的を念頭に、座った時に手を組んだまま「隠して操作できる」ワイシャツのポケットサイズで[[デザイン]]された。ゲーム内容も横井が「誰もが説明書を読まなくても遊べるゲーム」を目指し、親指でボタンを押すだけの極力シンプルな操作体系にした「ゲーム付きの時計」というコンセプトで開発した。しかし発売後は小中学生が主な購買層となったため、その後はターゲットを変更し、よりゲーム性が重視されることになった。 なお、同時期に[[上村雅之]]がほぼ[[ゲームボーイ]]に近いスペックのゲームを構想していたが、そちらのほうは[[コスト]]面などの問題が解消できず、開発の着手に至らなかった<ref>{{Cite book |和書 |author=武田亨 |year=2000 |title=イッツ・ザ・ニンテンドウ(It's the Nintendo) |publisher=ティーツー出版 |isbn=4887497164 |id={{NCID|BA45716825}}}}</ref>。ゲームウォッチ発売から9年後、ゲームボーイが発売されるに至った。 === 表示装置 === [[File:Game & Watch Super Mario Bros and Parachute comparison.jpeg|thumb|220px|画面サイズ比較。COLOR SCREEN(上)とWIDE SCREEN(下)の比較]] [[液晶ディスプレイ|液晶画面]]は、[[液晶]][[セグメント]]表示方式で[[キャラクター]]などの動きを表現しており(つまり[[ドットマトリクス]]方式ではなく)、[[モノクロ]](単色)であった。 最初期のシリーズ5作品までは完全なモノクロ画面である。続く「ゴールド」シリーズでは液晶の前面に別のスクリーンが置かれ、カラーで背景やオブジェを表現。以降、画面を約1.7倍に広げた「ワイドスクリーン」、2画面の折り畳み式にした「マルチスクリーン」、カラー液晶を採用した「テーブルトップ」と「パノラマスクリーン」、4色に色分けされたカラースクリーンで疑似カラー画面を表現した「スーパーカラー」、さらに2020年の「カラースクリーン」よりフルカラードット液晶へと発展していった。 === 入力装置 === 初期のゲームウオッチは、プレイヤーキャラクタの移動も含め、本体左右に装備された丸ボタンで操作していた。 マルチスクリーン『ドンキーコング』はゲーム機史上初めて[[十字キー]](説明書での呼称は『+ボタン』)を装備した<ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=5|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第5回:試行錯誤のなかから十字ボタンを見いだす シリーズ展開、十字ボタンが登場|accessdate=2018-10-12|publisher=日経BP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081012060242/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080929/1019225/?P=5|archivedate=2018-10-12}}</ref>。 === 電源 === * シルバー、ゴールド、ワイドスクリーン - [[ボタン型電池]](LR43またはSR43)2個 * マルチスクリーン、 ニューワイド、パノラマスクリーン、スーパーカラー、マイクロVSシステム - ボタン型電池(LR44またはSR44)2個 * カラースクリーン テーブルトップ - 単2型[[乾電池]]2個 * クリスタルスクリーン - [[コイン形リチウム電池]](CR2025)1個 === チップの選択、セグメント数 === 本機の開発にあたり採用したチップ([[集積回路]])は[[電卓]]で使われているものだった<ref name="nintendo_index4" />。電卓のディスプレイのひとつの数字は7[[セグメント]]で表示されており([[7セグメントディスプレイ]])、つまり0から9までの数字はいずれも、それぞれが「セグメント」と呼ばれるパーツを7個組み合わせて数字を表示している<ref name="nintendo_index4" />。したがって8桁の電卓用のチップなら、7セグメント×8桁=56セグメント、および数字の間の小数点や「-(マイナス)」などの記号のセグメントを制御できる能力もあった<ref name="nintendo_index4" />。つまり56個よりは数個ほど多い数のセグメントを制御できる能力があった。 そのチップを使って第一作の『ボール』をつくった<ref name="nintendo_index4" />。つまり、電卓のチップは72セグメントのそれぞれをON/OFFできる仕組みになっていたので、それを数字用の液晶セグメントの代わりに絵の液晶セグメントを制御するために使うことで、ゲーム&ウオッチを作った<ref name="nintendo_index4" />。ただし、第一作『ボール』の画面の右上には得点や時刻を表示する4桁のカウンタがついており、そのカウンタ部分だけで 7セグメント×4桁=28個 のセグメントを使ってしまうので、残りの28個(さらにプラス数個)ほどのセグメントでキャラクタやボールなどの動きを描かなければならなかった<ref name="nintendo_index4" />。 == タイトル一覧 == {{Gallery|width=250px |File:Game and Watch Super Mario Bros.PNG|スーパーマリオブラザーズ |Game&watch-donkey-kong-2.png|MULTI SCREEN |Nintendo Game & Watch - Donkey Kong Hockey.jpg| |Game&watch-donkey-kong-3.jpg|MICRO VS. SYSTEM(ドンキーコング3) |Nintendo Game & Watch Mickey Mouse.jpg|PANORAMA SCREEN(ミッキーマウス) }} 発売日欄「※」は日本国外のみ販売タイトル。『[[ドンキーコング]]』などの[[アーケードゲーム]]やファミリーコンピュータの移植版も開発された。1990年代に入ってから、日本国外のみ発売を含むタイトルが[[逆輸入]]版として日本で発売されたことがあり、一部の量販店などでいわゆる「輸入トイ」のような扱いで売られた例もあった<ref group="注釈">元々ゲーム機本体は英語表記のため、日本版と逆輸入版との違いは外箱や説明書の表記のみで、ゲーム機本体に大きな違いはない。</ref>。 タイトルの多くは、難易度が低めの'''GAME A'''と高めの'''GAME B'''のどちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり。なおこの選択方法は[[ファミリーコンピュータ]]の初期タイトルにも使用されている)。 <!--注意:以下のタイトルは一般名詞や各社の登録商標とかぶることがあるので、リンクを作るときはリンク先の題名作りに特に留意してください!--> ; SILVER / GOLD : 初めの5タイトルは本体前面が銀色であるが、「SILVER」のシリーズ名は発売当時はなく後から便宜的につけられた。あとの3タイトルは本体前面が金色で「GOLD」と箱に記載され、本体背面にスタンドの内蔵、アラーム機能、ミス帳消しの機能が追加された。定価5,800円。型番は[01~08]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日<ref name="GameWatchPerfectCatalog">{{Cite book |和書 |title=ゲーム&ウオッチパーフェクトカタログ |publisher=ロングランドジェイ |page=174 |chapter=ゲーム&ウオッチ発売詳細リスト |isbn=9784862978035}}</ref><ref name="HistoryGameWatch">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/history.html|title=HISTORY ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ 公式サイト|publisher=[[任天堂]]|accessdate=2020-12-14}}</ref> !! style="width:50%"|備考 |- | [[ボール (ゲーム&ウオッチ)|ボール]] || BALL || AC-01 || 1980年{{0}}4月28日 || |- | [[フラッグマン]] || FLAGMAN || FL-02 || 1980年{{0}}6月{{0}}5日 || |- | [[バーミン]] || VERMIN || MT-03 || 1980年{{0}}7月10日 || |- | [[ファイア (ゲーム&ウオッチ)|ファイア]] || FIRE || RC-04 || 1980年{{0}}7月31日 || |- | [[ジャッジ (ゲーム&ウオッチ)|ジャッジ]] || JUDGE || IP-05 || 1980年10月{{0}}4日 || 本体カラーは前期販売品は緑、後期販売品は紫の2種類がある。<ref group="注釈">前期販売品にあった得点上のバグを後期販売品で修正している。参照 > [[ジャッジ (ゲーム&ウオッチ)]]</ref> |- | マンホール || MANHOLE || MH-06 || 1981年{{0}}1月27日 || |- | [[ヘルメット (ゲーム&ウオッチ)|ヘルメット]] || HELMET || CN-07 || 1981年{{0}}2月21日 || 日本国外のCGL社は「HEADACHE」として発売した。 |- | ライオン || LION || LN-08 || 1981年{{0}}4月27日 || |} ; WIDE SCREEN : WIDE SCREEN(ワイドスクリーン)は画面サイズを従来の1.7倍に拡大。それにともないモードボタンの位置がそれまでの画面下部から本体右上に変更された(上から「GAME A」「GAME B」「TIME」の順)。定価6,000円。型番は[21~30]。なお『タートルブリッジ』以降は一定得点までノーミスの場合、次にミスをするまで(あるいは一定時間)得点が2倍になる「チャンスタイム」というルールが追加された。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | パラシュート || PARACHUTE || PR-21 || 1981年{{0}}6月19日 || |- | オクトパス ||OCTOPUS || OC-22 || 1981年{{0}}7月16日 || |- | [[ポパイ (任天堂)#ゲーム&ウオッチ版|ポパイ]] || POPEYE || PP-23 || 1981年{{0}}8月{{0}}5日 || |- | シェフ || CHEF || FP-24 || 1981年{{0}}9月{{0}}8日 || |- | ミッキーマウス || MICKEY MOUSE || MC-25 || 1981年10月{{0}}9日 || 日本国外でもCGL社などにより販売されていた<ref>[http://www.intheattic.co.uk/mickey_mouse.htm intheattic.co.uk - Mickey Mouse]</ref>。 |- | [[エッグ (ゲーム&ウオッチ)|エッグ]] || EGG || EG-26 || 1981年10月{{0}}9日※ || 内容は『ミッキーマウス』と同一。 |- | [[ファイア (ゲーム&ウオッチ)|ファイア]] || FIRE || FR-27 || 1981年12月{{0}}4日 || 前述のシルバー版とは内容が若干異なる。 |- | タートルブリッジ ||TURTLE BRIDGE || TL-28 || 1982年{{0}}2月{{0}}1日 || |- | ファイアアタック || FIRE ATTACK || ID-29 || 1982年{{0}}3月26日 || |- | スヌーピーテニス || SNOOPY TENNIS || SP-30 || 1982年{{0}}4月28日 || |} ; MULTI SCREEN : MULTI SCREEN(マルチスクリーン)は2画面で折り畳み式。ミス帳消し・チャンスタイムは300点に達してからとなる。日本国外発売を含め、最もタイトル数が多い。定価6,000円。型番は[51~65]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | オイルパニック || OIL PANIC || OP-51 || 1982年{{0}}5月28日 || 一部の日本国外版は、下画面の車の位置が逆。 |- | [[ドンキーコング]] || DONKEY KONG || DK-52 || 1982年{{0}}6月{{0}}3日 || |- | ミッキー&ドナルド || MICKEY & DONALD || DM-53 || 1982年11月12日 || |- | グリーンハウス || GREEN HOUSE || GH-54 || 1982年12月{{0}}6日 || |- | [[ドンキーコングJR.|ドンキーコングII]] || DONKEY KONG II || JR-55 || 1983年{{0}}3月{{0}}7日 || |- | [[マリオブラザーズ]] || MARIO BROS. || MW-56 || 1983年{{0}}3月14日 || 画面は左右横開き。 |- | レインシャワー || RAINSHOWER || LP-57 || 1983年{{0}}8月10日※ || 画面は左右横開き。 |- | ライフボート || LIFEBOAT || TC-58 || 1983年10月25日※ || 画面は左右横開き。 |- | [[ピンボール (任天堂)|ピンボール]] || PINBALL || PB-59 || 1983年12月{{0}}5日 || |- | ブラックジャック || BLACK JACK || BJ-60 || 1985年{{0}}2月15日 || |- | スキッシュ || SQUISH || MG-61 || 1986年{{0}}4月※ || |- | ボムスイーパー || BOMB SWEEPER || BD-62 || 1987年{{0}}6月※ || |- | セイフバスター || SAFEBUSTER || JB-63 || 1988年{{0}}1月※ || |- | ゴールドクリフ || GOLD CLIFF || MV-64 || 1988年10月※ || |- | [[ZELDA (ゲーム&ウオッチ)|ゼルダ]] || ZELDA || ZL-65 || 1989年{{0}}8月※ || |} ; TABLE TOP : 据え置き型。自然光を鏡に反射して照明とし、カラー液晶表示を実現した。定価7,800円。型番は[71~74]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | [[ドンキーコングJR.]] || DONKEY KONG JR. || CJ-71 ||rowspan="2"| 1983年{{0}}4月28日 || 一部の国や地域では、コレコの蛍光表示管ゲームとして発売された。 |- | {{仮リンク|マリオズ・セメントファクトリー|en|Mario's Cement Factory}} || MARIO'S CEMENT FACTORY || CM-72 || |- | スヌーピー || SNOOPY || SM-73 || 1983年{{0}}7月{{0}}5日 || |- | ポパイ || POPEYE || PG-74 || 1983年{{0}}8月※ || |} ; PANORAMA SCREEN : テーブルトップを携帯サイズにしたものが多い。定価6,000円。型番は[91~96]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | スヌーピー || SNOOPY || SM-91 ||rowspan="2"| 1983年{{0}}8月30日 || |- | ポパイ || POPEYE || PG-92 || |- | ドンキーコングJR. || DONKEY KONG JR. || CJ-93 || 1983年10月{{0}}7日 || |- | マリオズ・ボンアウェイ || MARIO'S BOMBS AWAY || TB-94 || 1983年11月10日 || |- | ミッキーマウス || MICKEY MOUSE || DC-95 || 1984年{{0}}2月※ || 内容は『ドンキーコングサーカス』と同一。 |- | ドンキーコングサーカス || DONKEY KONG CIRCUS || MK-96 || 1984年{{0}}9月{{0}}6日※ || |} ; NEW WIDE : 「WIDE SCREEN」の廉価版。「NEW WIDE」のシリーズ名は発売当時はなく後から便宜的につけられた。定価4,800円。型番は[101~108]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | ドンキーコングJR. || DONKEY KONG JR. || DJ-101 || 1982年10月26日 || |- | マリオズ・セメントファクトリー || MARIO'S CEMENT FACTORY || ML-102 || 1983年{{0}}6月16日 || 前述のカラースクリーンテーブルトップ版とは若干内容が異なる。 |- | マンホール || MANHOLE || NH-103 ||1983年{{0}}8月24日※ ||<!-- 一部資料では日本発売とされているが確証なし --> |- | トロピカルフィッシュ || TROPICAL FISH || TF-104 || 1985年{{0}}7月{{0}}8日※ || |- | [[スーパーマリオブラザーズ]] || SUPER MARIO BROS. || YM-105 ||rowspan="3"| 1988年{{0}}3月※ || |- | クライマー || CLIMBER || DR-106 ||ファミコン『[[アイスクライマー]]』のアレンジ。 |- | [[バルーンファイト]] || BALLOON FIGHT || BF-107 || |- | [[マリオジャグラー]] || MARIO THE JUGGLER || MB-108 || 1991年10月※ ||『ボール』のリメイク。 |} ; SUPER COLOR : 縦長サイズで、カラーフィルムを貼り疑似カラー表示。タイトル数は2つのみと最も少ない。定価6,000円。型番は[201~202]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | スピットボール スパーキー || SPITBALL SPARKY || BU-201 || 1984年{{0}}2月{{0}}7日 || |- | クラブグラブ || CRAB GRAB || UD-202 ||| 1984年{{0}}2月21日 || |} ; MICRO VS. SYSTEM : 横長サイズで、コントローラー2つが付いており対戦ができる。定価6,000円。型番は[301~303]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | ボクシング / [[パンチアウト!!]] || BOXING / PUNCH-OUT!! || BX-301 || 1984年{{0}}7月31日 || 「パンチアウト!!」は海外版タイトル。 |- | [[ドンキーコング3]] || DONKEY KONG 3 || AK-302 || 1984年{{0}}8月20日 || |- | ドンキーコングホッケー || DONKEY KONG HOCKEY || HK-303 || 1984年11月13日 || |} ; CRYSTAL SCREEN : 国外のみの発売。液晶の反射板がなく、画面が透明になっている。型番は[801~803]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | スーパーマリオブラザーズ || SUPER MARIO BROS. || YM-801 || 1986年{{0}}6月25日※ || |- | クライマー || CLIMBER || DR-802 || 1986年{{0}}7月{{0}}4日※ || |- | バルーンファイト || BALLOON FIGHT || BF-803 || 1986年11月19日※ || |} ; 賞品 : 大会上位入賞者に送られた。型番は[901]。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" |- ! タイトル !! 英語表記 !! 型番 !! style="white-space:nowrap"|発売日{{R|GameWatchPerfectCatalog}}{{R|HistoryGameWatch}} !! style="width:50%"|備考 |- | スーパーマリオブラザーズ || SUPER MARIO BROS. || YM-901 || 1987年 || [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] 『[[ファミコングランプリ F1レース]]』大会景品。 |} == 広告 == 発売初期の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]は、「いつでもゲームウオッチ、どこでもゲームウオッチ」というCMソングに合わせて商品で遊ぶ場面やゲーム画面が映し出され、最後に「[[マイクロコンピュータ|マイクロコンピューター]]を使ったゲームウオッチ。ゲームをしない時はデジタル式[[クォーツ時計]]です」のナレーションが入るというものだった。 == 反響 == 本機を共同開発したシャープとは元々光線銃SP時代からの付き合いがあったが、本機のヒット後も両社は親密な関係を続け、ファミリーコンピュータ、[[ゲームボーイ]]、[[スーパーファミコン]]などでも技術面での提携関係にあり、[[ツインファミコン]]や[[ファミコンテレビC1]]などのシャープ製ファミコンを発売、シャープ製パソコンで採用されていた[[クイックディスク]]や[[Hu-BASIC]]を[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]や[[ファミリーベーシック]]に採用した。 また『ドンキーコング』に初搭載された十字キーに関して、これまでゲーム機の[[ゲームコントローラ|コントローラ]]は丸・角形ボタンかスティック状のレバーが主流だったが、十字キーはコンパクトながら親指だけで4方向にキーを押す感覚が伝わる操作性で、その後の同社をはじめとする国内外で発売されるゲーム機で標準採用された。 なお、後に有志により電池フタの[[3Dプリンター]]用データが公開された<ref>[https://www.thingiverse.com/thing:847061 LR44用]</ref><ref>[https://www.thingiverse.com/thing:2084310 単2型乾電池用]</ref>。 === 類似品 === 当時流行した同様の携帯ゲーム機として[[カシオ]]の「[[ゲーム電卓]]」などがある。ゲーム&ウオッチのヒットにならい、[[タカトクトイス]]、[[バンダイ]]、[[トミー (企業)|トミー]]などから多数の[[LSIゲーム]]・[[電子ゲーム]]が発売され、中には[[増田屋コーポレーション]]からは「PLAY&TIME」、[[原田企画]]からは「GAME&TIME」という名前や外観がゲーム&ウオッチに酷似した商品<ref>{{Cite book|和書|title=電子ゲームなつかしブック|date=2016-10-29|publisher=[[コアマガジン]]|series=コアムックシリーズ|page=90|ISBN=978-4-86436-961-9}}</ref>までもが発売された。他社製品も含めて「ゲームウオッチ」と[[商標の普通名称化|呼ばれる場合]]もある。 また、ソビエト連邦では[[:en:Elektronika|Elektronika]]という海賊版が販売されていた。内容は「エッグ」とその書換えがほとんどである<ref>{{Cite web|url=http://www.gameandweb.com/russian.htm|title=RUSSIAN Game & Watch clone games|archiveurl= https://web.archive.org/web/20041014022056/http://www.gameandweb.com/russian.htm |archivedate=2004-10-14|accessdate=2019-11-13}}</ref>。なお、ソ連では[[COCOM]]規制のため、ゲーム&ウオッチは販売されていなかった。 == 販売終了後の展開 == 日本では1985年に発売された『ブラックジャック』、日本国外では1991年に発売された『マリオジャグラー』が最後の機種となった。それ以降は同社のゲーム機向けにゲーム内容を移植したり、ゲーム内のキャラクターを登場させている。また周年記念作品も発売されている。 === 移植 === ; ゲームボーイ : 同じく横井軍平が開発し、[[1989年]]に発売された[[ゲームボーイ]]はゲーム&ウオッチの進化形として開発されたものである。ゲーム&ウオッチで人気のあった一部のタイトルは、後に『[[ゲームボーイギャラリー]]』シリーズとしてリメイクされている。 : ゲームボーイ向け周辺機器[[ポケットカメラ]]には『ボール』が収録されており、ポケットカメラで撮影した自分の顔を、ゲーム内のキャラクターに貼り付けることができる。 ; ニンテンドーゲームキューブ : [[ニンテンドーゲームキューブ]]用ソフト『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』以降の[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]]では、人間型キャラクターを、色・動き・平面な形状などをそのままに「[[Mr.ゲーム&ウォッチ]]」という名前を付け、隠しキャラクターとして登場している。キャラクターのベースは『ファイア』の飛び降りる人で、それぞれの技は「ゲーム&ウオッチ」シリーズをモチーフとしたものになっている。Mr.ゲーム&ウォッチは、後に日本国外のみで発売された『Game & Watch Gallery4』公式サイトでマリオよりも古い、任天堂で最古のゲームキャラクターと解説された。 :* 『大乱闘スマッシュブラザーズDX』(ニンテンドーゲームキューブ) :* 『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』([[Wii]]) :* 『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U|大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS]]』([[ニンテンドー3DS]]) :* 『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U|大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U]]』([[Wii U]]) :* 『[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]]』([[Nintendo Switch]]) ; ゲームボーイアドバンス : [[ゲームボーイアドバンス]]用周辺機器『[[カードe|カードeリーダー]]』で『ひかる[[イマクニ?]]』を読みこませるとキャラがイマクニ?になった『ボール』が遊べる。 : 『[[カードe|カードeリーダー+]]』には印刷コードを読み込ませることで遊べる「ゲーム&ウオッチカードe マンホール」が附属した。サンプル用として[[トイザらス]]などの店舗でも配布された。なお「ゲーム&ウオッチカードe」はシリーズ化の予定があったが未発売である。 : 『[[メイド イン ワリオシリーズ]]』では、ゲーム&ウオッチが登場するプチゲームがいくつか登場する。 :* 『[[メイド イン ワリオ]]』、『[[あつまれ!!メイド イン ワリオ]]』 - 『ヘルメット』 :* 『[[さわるメイドインワリオ]]』 - 『ボール』、『フラッグマン』、『オイルパニック』、『ライオン』 :* 『[[おどる メイド イン ワリオ]]』 - 『オクトパス』 :*『[[メイドイン俺]]』 - 『グリーンハウス』、『タートルブリッジ』 :* 『[[ゲーム&ワリオ]]』 - 『ボール』 :*『[[メイド イン ワリオ ゴージャス]]』 - 『マンホール』 :*『[[おすそわける メイド イン ワリオ]]』 ‐ 『ジャッジ』 ; ニンテンドーDS : [[ニンテンドーDS]]用ソフト『[[DS楽引辞典]]』では、「ゲームウオッチ」と入力すると『ボール』が遊べる。続編の『漢字そのまま DS楽引辞典』では「ゲームウオッチ」と入力すると『マンホール』が、各ゲーム名を入力する事で『マンホール』『フラッグマン』、『ジャッジ』、『ボール』が遊べる。 : 2006年7月より[[クラブニンテンドー]]のポイント引き換え景品(非売品)として、ニンテンドーDS用ソフト『[[GAME & WATCH COLLECTION]]』が登場。DS同様に液晶2画面が特徴だったゲーム&ウオッチマルチスクリーンシリーズ『ドンキーコング』『オイルパニック』『グリーンハウス』の3作を収録。DS本体の時計機能を利用し、アラーム機能や現在の時刻表示も再現。また、2008年9月からは『GAME & WATCH COLLECTION 2』も登場。海が舞台となる『パラシュート』『オクトパス』の他、この2作を融合させたオリジナルゲーム『パラシュート×オクトパス』を収録。 : ニンテンドーDS用ソフト『[[しゃべる!DSお料理ナビ]]』には、タイマー中の待ち時間用にゲーム&ウオッチの『シェフ』が、続編の『世界のごはん しゃべる!DSお料理ナビ』には、『エッグ』が収録されている。 : [[ワンセグ受信アダプタ DSテレビ]]ではDSの下画面でゲーム&ウオッチが遊べる。最初は1つのゲームしか遊べないが、条件を満たすことで『ファイア』、『ライオン』、『オクトパス』、『フラッグマン』、『ジャッジ』、『パラシュート』の6つが遊べるようになる。なお、最初から遊べるゲームは[[ワンセグ]]受信地域によって異なる。 ; ニンテンドーDSiウェア版 : 2009年7月から8月にかけてゲーム&ウオッチの9作品を移植した[[ニンテンドーDSiウェア]]が発売された([[ニンテンドー3DS]]シリーズ向けに「[[ニンテンドーeショップ]]」でも販売)。ニンテンドーDSiショップでの料金区分は「DSiウェア200」。 : 上画面にゲームが表示され、下画面にはタイトル等が表示される。タッチ操作は説明書を除いて一切なし。2009年8月19日から配信の3作は、ニューワイド版が元になっている。 : オリジナル版の内容を忠実に再現し、オリジナル版にはなかったハイスコアのセーブ機能とゲーム開始時のスコアを設定できるスコアセレクトの機能が追加されている。また、効果音は実機のゲーム&ウオッチで実際に使われているものを録音して忠実に再現している。なお、時計機能は使えるがアラーム機能は搭載されていない。 {| class="wikitable" style="margin-bottom:1em;" ! タイトル !! 発売日 !! 必要ブロック数 |- | ゲーム&ウオッチ ボール ||rowspan="4"| 2009年7月15日 ||rowspan="5"| 12ブロック |- | ゲーム&ウオッチ フラッグマン |- | ゲーム&ウオッチ バーミン |- | ゲーム&ウオッチ ジャッジ |- | ゲーム&ウオッチ ヘルメット ||rowspan="2"| 2009年7月29日 |- | ゲーム&ウオッチ シェフ ||rowspan="4"|13ブロック |- | ゲーム&ウオッチ ドンキーコングJR. ||rowspan="3" |2009年8月19日 |- | ゲーム&ウオッチ マリオズセメントファクトリー |- | ゲーム&ウオッチ マンホール |} ; Wii U : [[Wii U]]用ソフト『[[Nintendo Land]]』では、『オクトパス』をモチーフとした[[リズムゲーム]]「オクトパスダンス」が遊べる。なお、『オクトパス』の大ダコのイラストは、この他にも『[[タッチで楽しむ百人一首 DS時雨殿|DS時雨殿]]』『[[スプラトゥーン]]』など多くの任天堂ゲームに登場している。 === 日本国外 === [[1998年]]より、複数メーカー開発による'''[[:en:Nintendo_Mini_Classics|Mini Classics]]'''シリーズが日本国外で販売されている。任天堂よりライセンスを受けたマルチスクリーンを含むゲーム&ウオッチの移植版や、オリジナルタイトルが遊べるキーチェーンサイズの携帯ゲーム機である。電源はボタン型電池(LR44)2個。 === 記念作品 === 発売30周年と40周年を記念した作品が作られている。 ==== 30周年 ==== 2009年度の[[クラブニンテンドー]]のプラチナ会員特典として、本機発売30周年に、ゲーム&ウオッチ『ボール』の[[ボール (ゲーム&ウオッチ)#復刻版|復刻版]]がプレゼントされた。型番はRGW-001。プレゼント時期は2010年4月下旬。 ==== 40周年 ==== {{Gallery |ファイル:Game & Watch Super Mario Bros - Color Screen (5).png|ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ |ファイル:NSwitch GameWatch Legendary Logo-300x266.png|『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』のロゴ |ファイル:Game & Watch The Legend of Zelda.png|ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説 |ファイル:Game & Watch- ゼルダの伝説 logo.png|『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』のロゴ }} 本機発売40周年記念作の第1弾『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』が[[2020年]][[11月13日]]に、[[2021年]]3月末までの期間限定生産品として発売され<ref group="注釈">同年はスーパーマリオシリーズ35周年にもあたる</ref>、景品・非売品を除いては日本国内では35年ぶりの新モデル発売となった。 主に単色・固定の液晶表示のみだった従来機種と異なり、2.36インチのフルカラー・[[ドットマトリクス|ドット]]液晶表示方式なので「COLOR SCREEN(カラースクリーン)」と命名されており、ファミリーコンピュータ版『[[スーパーマリオブラザーズ]]』と[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]版『[[スーパーマリオブラザーズ2]]』の完全[[移植 (ソフトウェア)|移植]]版、および、ゲーム&ウオッチの第一作『[[ボール (ゲーム&ウオッチ)|ボール]]』の計3作を収録。なお『ボール』のキャラクターは[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]や[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]にアレンジしてある<ref>{{Cite news|title=任天堂『「ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ」が11月13日に発売決定。価格は税別4980円|newspaper=4Gamer.net|date=2020-09-03|url=https://www.4gamer.net/games/527/G052780/20200903136/|accessdate=2020-09-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/75c59c1f-50b3-4097-9ad1-67bb550be8d5|title=1980年に登場した『ゲーム&ウオッチ』が、35周年を迎えた『スーパーマリオブラザーズ』とのコラボレーションで復活!|publisher=任天堂|date=2020-9-3|accessdate=2020-9-5}}</ref>。「マリオ時計」モードでは、特定の時間やボタン操作などの条件により35種類の秘密イベントが起こる{{Refnest| group="注釈"|イベントの一つである「マリオ絵描き歌」には言語選択と表示される歌詞字幕の言語に一部仕様の誤りがある<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-10 |url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/info/index.html|title=『ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ』「マリオ時計」における一部仕様の誤りについて(お詫び) |publisher=任天堂 |accessdate=2020-11-18}}</ref>。}}。2021年3月31日生産終了。型番はHXA-001<ref group="注釈">従来シリーズで型番を記載していたパッケージ側面には「スーパーマリオ35周年」の意味で「'''SM-35'''」と記載(本来の型番とは異なる)。</ref>。{{CERO-A}} [[2021年]][[11月12日]]には、40周年記念作の第2弾、『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』が発売された<ref>[https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/zelda/index.html 任天堂公式サイト]</ref><ref group="注釈">同年は[[ゼルダの伝説シリーズ]]発売から35周年にもあたる</ref>。ファミリーコンピュータ ディスクシステム版『[[ゼルダの伝説]]』『[[リンクの冒険]]』と[[ゲームボーイ]]版『[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]』<ref group="注釈">『ゼルダの伝説』『リンクの冒険』は日本語版と英語版、『夢をみる島』はそれに加えてドイツ語版とフランス語版を収録。</ref>および、ゲーム&ウオッチ第3作『[[バーミン]]』のキャラクターを[[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]]に差し替えたバージョンの計4作品を収録。時計機能も『ゼルダの伝説』をモチーフにした「遊べるゼルダ時計」と『リンクの冒険』をモチーフにした「遊べるショートタイマー」を搭載している<ref>[https://www.famitsu.com/news/202106/16223627.html 『ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説』11月12日発売。『夢をみる島』や『リンクの冒険』などを収録【E3 2021】],ファミ通.com,2021年6月16日</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1331746.html 「ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説」11月12日発売決定!],GAME Watch,2021年6月16日</ref><ref>[https://topics.nintendo.co.jp/article/1cddf888-9e38-4413-a191-2ba2bcfb3b50 懐かしの「ゼルダの伝説」が遊べる「ゲーム&ウオッチ」が新登場。11月12日(金)発売。],Nintendoトピックス,2021年6月16日</ref>。型番はHXB-001<ref group="注釈">従来シリーズで型番を記載していたパッケージ側面には「ZELDA35周年」の意味で「'''ZL-35'''」と記載(本来の型番とは異なる)。</ref>。{{CERO-B}}<ref group="注釈">『ゼルダの伝説 夢をみる島』のみCEROレーティングBに該当する。</ref>。 電源は従来の電池交換式ではなく、内蔵[[リチウムイオン二次電池|リチウムイオン電池]]で、給電は[[USB Type-C|USB-C端子]]。 なお周辺機器として以下を使用することができる。 {| class="wikitable" style=font-size:small |- ! 型番 !! 名称 !! 備考 |- | HAC‐006 | バッテリー | カラースクリーン本体に内蔵。Nintendo SwitchのJoy‐Conのバッテリーと供用。 |- | HAC‐010 | USB充電ケーブル | カラースクリーン本体に0.3m長のタイプが同梱。type C端子のUSBケーブル。 |- | CLV‐003 | ニンテンドーUSB ACアダプター | USB充電ケーブルと組み合わせることでカラースクリーン本体の充電をすることができる。 |} == 注釈 == {{Reflist|30em|group="注釈"}} == 出典 == {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[Mr.ゲーム&ウォッチ]] * [[ゲームボーイギャラリー]] * [[GAME & WATCH COLLECTION]] * [[メイド イン ワリオシリーズ]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Game & Watch}} * [https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/game_and_watch/vol1/ 社長が訊く「ゲーム&ウオッチ」] - [[任天堂]]による開発秘話 * [https://www.nintendo.co.jp/ds/dsiware/game_and_watch/ GAME&WATCH] - [[ニンテンドーDSiウェア]] * [https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/ ゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ] * [https://www.nintendo.co.jp/hardware/gamewatch/zelda/index.html ゲーム&ウオッチ ゼルダの伝説] {{ゲーム&ウオッチ}} {{任天堂}} {{家庭用ゲーム機/任天堂}} {{デフォルトソート:けえむあんとうおつち}} [[Category:ゲーム&ウオッチ|*]] [[Category:携帯型ゲーム機]] [[Category:任天堂のハードウェア]] [[Category:1980年のコンピュータゲーム]] [[Category:1980年代の玩具]] [[Category:ニンテンドーDSiウェア]] [[Category:登録商標]]
2003-02-17T02:07:13Z
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ル・マン24時間レース
ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、仏: 24 Heures du Mans )は、フランスのル・マン近郊で行われる四輪耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。 主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)で世界耐久選手権(WEC)の1戦でもある。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。 1923年に「ラッジウィットワース杯24時間耐久グランプリ(Grand Prix d'Endurance de 24 Heures "Coupes Rudge-Whitworth")」として初開催された歴史あるレースのひとつで、フォーミュラ1のモナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース(英: Triple Crown of Motorsport)」と呼ばれる。またデイトナ24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。そのため、世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズ(LMS)や世界耐久選手権(WEC)の車両規定はル・マンのものに準じている。他の長時間レースと同様に、車両やその周辺環境に対する新技術は、まずレースに導入されてから一般車両等へ展開されることが多い。24時間走行、変化する天候、30回以上の給油、同一コースを300周以上走行した際の距離は約5000kmとなるなど過酷な条件の下、過去に発生した事故を教訓として安全性を向上させている。このように、技術革新の最先端を担うレースとなっている。 これまでにレースが中止されたのは、フランス自動車工業界のストライキの影響による1936年と、第二次世界大戦と戦後のフランスの疲弊と混乱による1940年から1948年にかけての間だけである。スポーツカーレースに参戦するマニュファクチャラー(自動車メーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利は非常に名誉なものとされており、各チームが最重要レースとして入念な準備をして臨む。 競技はフランス中部にあるル・マン市のル・マン24時間サーキット(Le circuit des 24 heures du Mans)と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その2/3は普段は一般道で、レースウィーク中のみ閉鎖される。スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。なお、オートバイの24時間レースはブガッティ・サーキットのフルコースで行われる。 各コーナーには「テルトル・ルージュ」、「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの、レース業界で著名な名称がついている。サルト・サーキットの名物といえば全長6kmに及ぶロングストレート「ユノディエール」であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、危険性を低減させるべく1990年に2箇所のシケインが設けられた。 参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、FIA 世界耐久選手権 (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)がWECのシーズンエントリーをべースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権(WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権(ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権)における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能。 また、最大参加台数の55台に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対してガレージ56という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた。 かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで予備予選が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際自動車連盟(FIA)がル・マンを含めた世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)全戦への参加を義務付けたこともある。 毎年6月に、1年の内で最も昼の長い夏至の頃に開催される。6月上旬にはサーキットの一般公道部分を閉鎖してテストデーが行われる。 レースウィークは日・月曜日にル・マン旧市街地のリパブリック広場で一般公開の公式車検を行い、水曜日にフリー走行と公式予選1回目、木曜日に公式予選2・3回目を行う。レース中に夜間走行があるため予選も深夜近い時間帯に行われるが、初夏のル・マンは日の入りが22時頃と遅い。日没後には気温が下がり、タイムアタックに適した時間帯となる。金曜日はル・マン市内でドライバーズパレードを行う。 土曜日の午前中にウォームアップ走行を行い、午後3時にスタートフラッグが振られレース開始となる。例年、主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)がスタートフラッグを振る人物を選ぶ。日没後に日曜日を迎え、午前6時に日の出、午後3時に栄光のチェッカーフラッグを受ける。 1925年大会より用いられたスタート方式は、コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーが車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。 「ル・マン式スタート」と呼ばれて他のレースでも採用されたが、シートベルトをきちんと締めないままスタートするドライバーが続出するなど危険であり事故も多く、「初代ミスター・ルマン」ことジャッキー・イクスは身をもって抗議の意を表明した。 1971年は通常のグリッド式スタンディングスタートを採用し、1972年以降は耐久レースでは一般的なローリングスタートを採用している。 現行のWECになってからは、フォーメーションラップ前のセレモニー時に、ル・マン式スタートのように車をコースに対して斜めに並べるという形で擬似的に再現している。 ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。 日本車では、日産がエントリーしていた1990年に日産・フェアレディZ 300ZX、同じく日産がエントリーしていた1997年に日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用された。 ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。 ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ招聘している(後述)。 1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーのマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへ、メルセデス・ベンツを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。 ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解して炎上。衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客、スタッフ、そしてルヴェーも含めて死者86人、負傷者200人という大事故となった。当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットも同様で、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる。 なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。 この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していたファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。 メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている。 「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはモータースポーツそのものが禁止されるなど、全世界に大きな影響を残した。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。 この事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。 メルセデス自体も、1985年のル・マン24時間レースにザウバー・C8にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりのCLRが3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再び」と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。 マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れてカーディーラー経営者となったが、2002年にこの世を去っている。 1960年から1963年にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、1960年代初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらには創業者エンツォ・フェラーリの妻のラウラによる現場への介入によって、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。 その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード2世率いるフォード・モーターに買収されることになり、マラネッロの本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップ、ジャンニ・アニェッリの意向も影響していたといわれる。 これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をしてGT40を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したフェラーリ・250LM/275Pに対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。 フォードではキャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後はフェラーリがF1に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。 現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。 ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300 km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。 日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督を務めた加藤眞は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。 WM・セカテバ・プジョーは、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、1988年に407 km/hの公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、1989年にはメルセデス・ベンツのザウバー・C9が決勝走行中に400 km/hを記録した。 国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブは「これこそがル・マンの特徴である」と主張し、1989年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(英: World Sports Prototype Championship, WSPC)から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は1990年のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年もWSPCからは外れることとなった。 地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。 ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。 1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。 1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。 2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシングの中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝している。 日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年にTBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、 1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送のスカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(後のJ sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。 2006年から2008年までは、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルのJ SPORTSがスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間 の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった。また、J SPORTSの契約者向けにスカパー!オンデマンドでの24時間ライブ配信を実施。2012年からは、日経CNBCが現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、谷中麻里衣が出向いている。 毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた。 競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 1987 - 89年はタイアップ曲ではない(オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない)。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていたインディ500中継とのダブルタイアップとなっていた。 1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。 映画 ドラマ レーザーディスク ビデオソフト LP VHD CD 小説 漫画 ゲーム 昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「ル・マンには魔物が棲んでいる」との格言が生まれた。2016年には、初優勝を目指してトップを快走していたトヨタのマシンが車両故障のため、残り3分でポルシェに逆転された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、仏: 24 Heures du Mans )は、フランスのル・マン近郊で行われる四輪耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)で世界耐久選手権(WEC)の1戦でもある。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1923年に「ラッジウィットワース杯24時間耐久グランプリ(Grand Prix d'Endurance de 24 Heures \"Coupes Rudge-Whitworth\")」として初開催された歴史あるレースのひとつで、フォーミュラ1のモナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース(英: Triple Crown of Motorsport)」と呼ばれる。またデイトナ24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。そのため、世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズ(LMS)や世界耐久選手権(WEC)の車両規定はル・マンのものに準じている。他の長時間レースと同様に、車両やその周辺環境に対する新技術は、まずレースに導入されてから一般車両等へ展開されることが多い。24時間走行、変化する天候、30回以上の給油、同一コースを300周以上走行した際の距離は約5000kmとなるなど過酷な条件の下、過去に発生した事故を教訓として安全性を向上させている。このように、技術革新の最先端を担うレースとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これまでにレースが中止されたのは、フランス自動車工業界のストライキの影響による1936年と、第二次世界大戦と戦後のフランスの疲弊と混乱による1940年から1948年にかけての間だけである。スポーツカーレースに参戦するマニュファクチャラー(自動車メーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利は非常に名誉なものとされており、各チームが最重要レースとして入念な準備をして臨む。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "競技はフランス中部にあるル・マン市のル・マン24時間サーキット(Le circuit des 24 heures du Mans)と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その2/3は普段は一般道で、レースウィーク中のみ閉鎖される。スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。なお、オートバイの24時間レースはブガッティ・サーキットのフルコースで行われる。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "各コーナーには「テルトル・ルージュ」、「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの、レース業界で著名な名称がついている。サルト・サーキットの名物といえば全長6kmに及ぶロングストレート「ユノディエール」であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、危険性を低減させるべく1990年に2箇所のシケインが設けられた。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、FIA 世界耐久選手権 (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者であるフランス西部自動車クラブ(ACO)がWECのシーズンエントリーをべースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権(WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権(ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権)における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、最大参加台数の55台に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対してガレージ56という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで予備予選が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際自動車連盟(FIA)がル・マンを含めた世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)全戦への参加を義務付けたこともある。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "毎年6月に、1年の内で最も昼の長い夏至の頃に開催される。6月上旬にはサーキットの一般公道部分を閉鎖してテストデーが行われる。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "レースウィークは日・月曜日にル・マン旧市街地のリパブリック広場で一般公開の公式車検を行い、水曜日にフリー走行と公式予選1回目、木曜日に公式予選2・3回目を行う。レース中に夜間走行があるため予選も深夜近い時間帯に行われるが、初夏のル・マンは日の入りが22時頃と遅い。日没後には気温が下がり、タイムアタックに適した時間帯となる。金曜日はル・マン市内でドライバーズパレードを行う。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "土曜日の午前中にウォームアップ走行を行い、午後3時にスタートフラッグが振られレース開始となる。例年、主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)がスタートフラッグを振る人物を選ぶ。日没後に日曜日を迎え、午前6時に日の出、午後3時に栄光のチェッカーフラッグを受ける。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1925年大会より用いられたスタート方式は、コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーが車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「ル・マン式スタート」と呼ばれて他のレースでも採用されたが、シートベルトをきちんと締めないままスタートするドライバーが続出するなど危険であり事故も多く、「初代ミスター・ルマン」ことジャッキー・イクスは身をもって抗議の意を表明した。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1971年は通常のグリッド式スタンディングスタートを採用し、1972年以降は耐久レースでは一般的なローリングスタートを採用している。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現行のWECになってからは、フォーメーションラップ前のセレモニー時に、ル・マン式スタートのように車をコースに対して斜めに並べるという形で擬似的に再現している。", "title": "開催方式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": 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mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはモータースポーツそのものが禁止されるなど、全世界に大きな影響を残した。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "メルセデス自体も、1985年のル・マン24時間レースにザウバー・C8にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりのCLRが3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再び」と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れてカーディーラー経営者となったが、2002年にこの世を去っている。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1960年から1963年にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、1960年代初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらには創業者エンツォ・フェラーリの妻のラウラによる現場への介入によって、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード2世率いるフォード・モーターに買収されることになり、マラネッロの本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップ、ジャンニ・アニェッリの意向も影響していたといわれる。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をしてGT40を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したフェラーリ・250LM/275Pに対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "フォードではキャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後はフェラーリがF1に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300 km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督を務めた加藤眞は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "WM・セカテバ・プジョーは、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、1988年に407 km/hの公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、1989年にはメルセデス・ベンツのザウバー・C9が決勝走行中に400 km/hを記録した。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブは「これこそがル・マンの特徴である」と主張し、1989年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(英: World Sports Prototype Championship, WSPC)から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は1990年のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年もWSPCからは外れることとなった。", "title": "特筆的な出来事" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。", "title": "各国自動車メーカーの活動" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。", "title": "各国自動車メーカーの活動" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。", "title": "各国自動車メーカーの活動" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。", "title": "各国自動車メーカーの活動" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシングの中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝している。", "title": "各国自動車メーカーの活動" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年にTBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、 1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送のスカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(後のJ sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2006年から2008年までは、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルのJ SPORTSがスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間 の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった。また、J SPORTSの契約者向けにスカパー!オンデマンドでの24時間ライブ配信を実施。2012年からは、日経CNBCが現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、谷中麻里衣が出向いている。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1987 - 89年はタイアップ曲ではない(オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない)。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていたインディ500中継とのダブルタイアップとなっていた。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。", "title": "日本での中継" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "映画", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ドラマ", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "レーザーディスク", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ビデオソフト", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "LP", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "VHD", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "CD", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "小説", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "漫画", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ゲーム", "title": "ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「ル・マンには魔物が棲んでいる」との格言が生まれた。2016年には、初優勝を目指してトップを快走していたトヨタのマシンが車両故障のため、残り3分でポルシェに逆転された。", "title": "格言" } ]
ル・マン 24時間レースは、フランスのル・マン近郊で行われる四輪耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。 主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)で世界耐久選手権(WEC)の1戦でもある。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。
{{Otheruses|自動車による耐久レース|オートバイによる耐久レース|ル・マン24時間耐久ロードレース|}} {{Infobox motor race |Race title = ル・マン24時間レース<br>24 Heures du Mans |Logo = [[File:24 Hours of Le Mans logo (2014).svg|200px]] |Track map = [[File:Circuit de la Sarthe track map.svg|250px]] |Series long = [[FIA 世界耐久選手権]] |Series short = WEC |Venue = [[サルト・サーキット]] |Sponsor = |First race = 1923 |First series race = |Last race = |Distance = |Laps = |Duration = 24時間 |Previous names = |Most wins driver = [[トム・クリステンセン]] (9) |Most wins team = [[ヨースト・レーシング]] (13) |Most wins manufacturer = [[ポルシェ]] (19) }} '''ル・マン 24時間レース'''(ル・マンにじゅうよじかんレース、{{lang-fr-short|24 Heures du Mans}} )は、[[フランス]]の[[ル・マン]]近郊で行われる四輪[[耐久レース]]である。24時間でのサーキット周回数を競う。 主催は[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)で[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]](WEC)の1戦でもある。'''ル・マン24時間耐久レース'''と記されることもある。 == 概要 == [[ファイル:United-Autosports-Le-Mans-2017-82 (35340856665) (2).jpg|thumb|right|220px|2017年大会]] [[1923年]]に「'''ラッジウィットワース杯24時間耐久グランプリ'''(Grand Prix d'Endurance de 24 Heures "Coupes Rudge-Whitworth")」として初開催された歴史あるレースのひとつで<ref group="注釈">「ル・マン24時間(24 Heures du Mans)」に改称されたのは1937年からである。</ref>、[[フォーミュラ1]]の[[モナコグランプリ]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[インディ500]]と並び「[[世界三大レース]]({{Lang-en-short|Triple Crown of Motorsport}})」と呼ばれる。また[[デイトナ24時間レース]]、[[スパ・フランコルシャン24時間レース]]とともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。そのため、世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、[[ル・マン・シリーズ]](LMS)や[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]](WEC)の車両規定はル・マンのものに準じている。他の長時間レースと同様に、車両やその周辺環境に対する新技術は、まずレースに導入されてから一般車両等へ展開されることが多い。24時間走行、変化する天候、30回以上の給油、同一コースを300周以上走行した際の距離は約5000kmとなるなど過酷な条件の下、過去に発生した事故を教訓として安全性を向上させている。このように、技術革新の最先端を担うレースとなっている。 これまでにレースが中止されたのは、フランス自動車工業界の[[ストライキ]]の影響による[[1936年のル・マン24時間レース|1936年]]と、[[第二次世界大戦]]と戦後のフランスの疲弊と混乱による[[1940年]]から[[1948年]]にかけての間だけである。[[スポーツカーレース]]に参戦するマニュファクチャラー(自動車メーカー)と、レーシングチームにとって、ル・マンでの勝利は非常に名誉なものとされており、各チームが最重要レースとして入念な準備をして臨む。 == 開催方式 == === サーキット === [[ファイル:LeMans PitStop2.JPG|thumb|220px|right|ル・マン24時間が開催されるサルト・サーキットのピット]] {{main|サルト・サーキット}} 競技は[[フランス]]中部にある[[ル・マン|ル・マン市]]のル・マン24時間サーキット(Le circuit des 24 heures du Mans)と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その2/3は普段は一般道で、レースウィーク中のみ閉鎖される。スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用の[[ブガッティ・サーキット]]の一部を使用する。なお、オートバイの24時間レースはブガッティ・サーキットのフルコースで行われる。 各コーナーには「テルトル・ルージュ」、「ミュルサンヌ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの、レース業界で著名な名称がついている。サルト・サーキットの名物といえば全長6kmに及ぶロングストレート「ユノディエール」であったが、マシンの進歩により[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]には最高速が405km/hに達するなどしたため、危険性を低減させるべく[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]に2箇所の[[シケイン]]が設けられた。 === 出場資格 === 参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、[[FIA 世界耐久選手権]] (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者である[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)がWECのシーズンエントリーをべースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 審査は前年大会の優勝者、[[FIA 世界耐久選手権]](WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権([[ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ]]、[[アジアン・ル・マン・シリーズ]]、[[ユナイテッド・スポーツカー選手権|ウェザーテック・スポーツカー選手権]])における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能<ref>{{Cite web |title=Which teams have already been invited to compete in the 2024 24 Hours of Le Mans? |url=https://www.24h-lemans.com/en/news/which-teams-have-already-been-invited-to-compete-in-the-2024-24-hours-of-le-mans-57964 |website=24h-lemans.com |access-date=2023-11-30 |language=en |publisher=[[フランス西部自動車クラブ|ACO]] |date=2023-10-22}}</ref><ref>{{Cite web |title=How many competitors will be invited to the 24 Hours of Le Mans 2024? |url=https://en.endurance-info.com/auto/article/108275-how-many-competitors-will-be-invited-24-hours-le-mans-2024 |website=Endurance Info |access-date=2023-11-30 |language=en |date=2023-08-10}}</ref>。 また、最大参加台数の55台{{efn|ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。}}に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対して'''ガレージ56'''という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-20 |url=http://wired.jp/2016/06/20/quadruple-amputee-le-mans/ |title=両手両足を失って、彼は「ル・マン」に挑み、見事に完走した |publisher=WIRED |accessdate=2017-04-17}}</ref>。 かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで[[予備予選]]が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、[[国際自動車連盟]](FIA)がル・マンを含めた[[スポーツカー世界選手権|世界スポーツプロトタイプカー選手権]](WSPC)全戦への参加を義務付けたこともある。 === スケジュール === [[File:United-autosports-le-mans-2018-170 (41048825320).jpg|thumb|220px|right|ル・マン24時間のスタート(2018年)]] 毎年6月に、1年の内で最も昼の長い[[夏至]]の頃に開催される。6月上旬にはサーキットの一般公道部分を閉鎖してテストデーが行われる。 レースウィークは日・月曜日に[[ル・マン]]旧市街地のリパブリック広場で一般公開の公式車検を行い、水曜日にフリー走行と公式予選1回目、木曜日に公式予選2・3回目を行う。レース中に夜間走行があるため予選も深夜近い時間帯に行われるが、初夏のル・マンは日の入りが22時頃と遅い。日没後には気温が下がり、タイムアタックに適した時間帯となる。金曜日はル・マン市内でドライバーズパレードを行う。 土曜日の午前中にウォームアップ走行を行い、午後3時にスタートフラッグが振られレース開始となる。例年、主催者の[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)がスタートフラッグを振る人物を選ぶ。日没後に日曜日を迎え、午前6時に日の出、午後3時に栄光のチェッカーフラッグを受ける。 === ル・マン式スタート === [[File:1965-05-23 Le-Mans-Start 3.jpg|thumb|220px|right|ル・マン式スタート([[1965年]])]] {{main|ル・マン式スタート}} [[1925年のル・マン24時間レース|1925年]]大会より用いられたスタート方式は、コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーが車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。 「ル・マン式スタート」と呼ばれて他のレースでも採用されたが、[[シートベルト]]をきちんと締めないままスタートするドライバーが続出するなど危険であり事故も多く、「初代ミスター・ルマン」こと[[ジャッキー・イクス]]は身をもって抗議の意を表明した。 [[1971年のル・マン24時間レース|1971年]]は通常のグリッド式[[スタンディングスタート]]を採用し、1972年以降は耐久レースでは一般的な[[ローリングスタート]]を採用している。 現行のWECになってからは、フォーメーションラップ前のセレモニー時に、ル・マン式スタートのように車をコースに対して斜めに並べるという形で擬似的に再現している。 === オフィシャルカー === ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる[[1999年のル・マン24時間レース|1999年]]には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりの[[ベントレー・アルナージ]]が起用された。[[1923年のル・マン24時間レース|1923年]]、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。 日本車では、日産がエントリーしていた[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]に[[日産・フェアレディZ]] 300ZX、同じく日産がエントリーしていた[[1997年のル・マン24時間レース|1997年]]に[[日産・スカイラインGT-R]](BCNR33)が採用された。 == コース全長の変遷 == * A ([[1923年のル・マン24時間レース|1923年]] - )'''17.262&nbsp;km''' - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。 * B ([[1929年のル・マン24時間レース|1929年]] - )'''16.340&nbsp;km''' * C ([[1932年のル・マン24時間レース|1932年]] - )'''13.492&nbsp;km''' - テルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。 * D ([[1956年のル・マン24時間レース|1956年]] - )'''13.461&nbsp;km''' - [[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]の大事故を受けピット前ストレートのスタンドを後退させた。 * E ([[1968年のル・マン24時間レース|1968年]] - )'''13.469&nbsp;km''' * F ([[1972年のル・マン24時間レース|1972年]] - )'''13.640&nbsp;km''' * G ([[1979年のル・マン24時間レース|1979年]] - )'''13.626&nbsp;km''' * H ([[1986年のル・マン24時間レース|1986年]])'''13.528&nbsp;km''' - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。 * I ([[1987年のル・マン24時間レース|1987年]] - )'''13.535&nbsp;km''' - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。 * J ([[1990年のル・マン24時間レース|1990年]] - )'''13.600&nbsp;km''' - ユノディエールに2か所のシケインが設置された。 * K ([[1997年のル・マン24時間レース|1997年]] - )'''13.605&nbsp;km''' - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。 * L ([[2002年のル・マン24時間レース|2002年]] - )'''13.650&nbsp;km''' - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。 * M ([[2006年のル・マン24時間レース|2006年]])'''13.650&nbsp;km''' - ダンロップシケイン付近を改修した。 * N ([[2007年のル・マン24時間レース|2007年]] - )'''13.629&nbsp;km''' - テルトルルージュ付近を改修した。 *O (2018年 - )'''13.626&nbsp;km''' - ポルシェカーブ付近を改修した。 == 優勝車/優勝者 == {{Main2|各年の優勝記録については|ル・マン24時間歴代勝者}} === メーカー別勝利数 === [[File:Porsche 956 - Flickr - andrewbasterfield (1).jpg|thumb|220px|right|[[ポルシェ・956]](1983年)]] [[ファイル:Audi R10 1.JPG|thumb|220px|right|[[アウディ・R10 TDI]](2006年)]] [[File:Bentley 4 of Barnato and Rubin at the 1928 24 Hours of Le Mans (2).jpg|thumb|220px|right|ベントレー・4½リットル(1928年)]] <!-- 2023年までの分 --> *1位. 19回 - [[ポルシェ]] *2位. 13回 - [[アウディ]] *3位. 10回 - [[フェラーリ]] *4位. 7回 - [[ジャガー (自動車)|ジャガー]] *5位. 6回 - [[ベントレー]] *6位. 5回 - [[トヨタ]] *7位. 4回 - [[アルファロメオ]] *7位. 4回 - [[フォード・モーター|フォード]] *9位. 3回 - [[マトラ (自動車)|マトラ]] *9位. 3回 - [[プジョー]] *11位.2回 - [[ブガッティ]] *11位.2回 - {{仮リンク2|ロレーヌ・ディートリッシュ|en|Lorraine-Dietrich}} *11位.2回 - [[メルセデス・ベンツ]] *14位.1回 - {{仮リンク2|シュナール・エ・ワルケル|en|Chenard-Walcker}} *14位.1回 - [[ラゴンダ]] *14位.1回 - [[ドライエ]] *14位.1回 - [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]] *14位.1回 - [[アストンマーティン]] *14位.1回 - [[JWオートモーティヴ・エンジニアリング|ミラージュ]] *14位.1回 - [[ルノー]] *14位.1回 - [[ジャン・ロンドー|ロンドー]] *14位.1回 - [[マツダ]] *14位.1回 - [[マクラーレン]] *14位.1回 - [[BMW]] == 特筆的な出来事 == <!-- 話題はだいたいの年代順にソート --> === ドライバー交代なしで24時間に挑戦 === [[ピエール・ルヴェー]]は1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡って[[ステアリング]]を握りトップを走り続けたが、[[疲労]]のためギアを入れ間違えて[[エンジンブロー|エンジンを壊し]]リタイアとなった<ref>『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。</ref>。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。 ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であった[[アルフレート・ノイバウアー]]は、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ[[招聘]]している(後述)。 === 1955年の事故 === {{main|1955年のル・マン24時間レース}} [[File:Mercedes-Benz 300 SLR 1986-08-16.jpg|thumb|220px|right|メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)]] [[ファイル:Jaguar D-Type 1954.jpg|thumb|220px|right|ジャガー・Dタイプ(同型車)]] [[1955年]][[6月11日]]18時28分、トップを走っていた[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の[[マイク・ホーソーン]]が周回遅れの[[オースチン・ヒーレー]]を抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、[[ランス・マクリン]]が追突を避けようと進路変更したところへ、[[メルセデス・ベンツ]]を運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。 ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解して炎上。衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客、スタッフ、そしてルヴェーも含めて死者86人、負傷者200人という大事故となった。当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットも同様で、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる。 なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった<ref>[[二玄社]]刊・[[世界の自動車]]「メルセデス・ベンツ」戦後編</ref>。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。 この事故の映像は、映画『[[グレート・ドライバー]](原題"Fangio")』等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していた[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]は、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台([[カール・クリング]]のメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。 メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「[[ガソリン直噴エンジン|燃料噴射システム]]の秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている<ref>『死のレース 1955年 ルマン』p.214。</ref>。 「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと[[西ドイツ]]のグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、[[スイス]]に至ってはモータースポーツそのものが禁止される<ref group="注釈">[[ラリー]]や[[ヒルクライム]]競技等から徐々に緩和された。完全に解禁する法案が[[2007年]][[6月]]に下院を通過したが、上院で否決され2009年に撤回された。</ref>など、全世界に大きな影響を残した。[[フォーミュラ1|F1]]も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。 この事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。 メルセデス自体も、[[1985年のル・マン24時間レース]]に[[ザウバー・C8]]にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりの[[メルセデス・ベンツ・CLR|CLR]]が3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再び」と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。 マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れて[[自動車ディーラー|カーディーラー]]経営者となったが、[[2002年]]にこの世を去っている。 ===フェラーリとフォード=== [[File:1965 Ferrari 250 LM.jpg|thumb|220px|right|フェラーリ・250LM(1965年)]] [[File:Shelby GT40.jpg|thumb|220px|right|フォード・GT40Mk2(1966年)]] [[1960年]]から[[1963年]]にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、[[1960年代]]初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していた[[フェラーリ]]は、[[モータースポーツ]]への過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していた[[イタリア共産党]]などの左翼政党が後援した[[労働争議|労使紛争]]とそれがもたらした[[ストライキ]]、さらには創業者[[エンツォ・フェラーリ]]の妻のラウラによる現場への介入によって、[[1961年]]11月には[[カルロ・キティ]]ら主要メンバーによる[[クーデター]]が勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。 その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいた[[ヘンリー・フォード]]2世率いる[[フォード・モーター]]に買収されることになり、[[マラネッロ]]の本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかった[[フィアット]]・グループのトップ、[[ジャンニ・アニェッリ]]の意向も影響していたといわれる。 これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をして[[フォード・GT40|GT40]]を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、[[1964年]]にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、[[マウロ・フォルギエーリ]]がル・マン向けに開発した[[フェラーリ・250LM|フェラーリ・250LM/275P]]に対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。 フォードでは[[キャロル・シェルビー]]率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらに[[フィル・ヒル]]やボブ・ボンデュラント、[[マリオ・アンドレッティ]]やデイビット・ホッブス、[[ダン・ガーニー]]などの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで[[1966年]]に初優勝を飾った。その後はフェラーリが[[フォーミュラ1|F1]]に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。 現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。 === 映画俳優の参戦 === [[File:Patrick Dempsey Le Mans 2009.jpg|thumb|220px|right|パトリック・デンプシー(2009年)]] * 映画「[[栄光のル・マン]]」で主演を務めた[[スティーブ・マックイーン|スティーヴ・マックイーン]]は、1970年の[[セブリング12時間レース]]で2位に入賞するなどレーシングドライバーとしても活躍しており、同映画でも代役を立てず実際にマシンを走らせていた。その後正式レースに出場を希望したが、周囲からの猛反対に遭って止むなく断念せざるを得なくなり、彼は生涯それを悔しがっていたという。後に息子の[[チャド・マックイーン]]が出場を果たしている。 * [[ポール・ニューマン]]が[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]2位となったが、レース中からずっと[[パパラッチ]]がしつこく付いてくることに嫌気が差し、それ以降エントリーすることはなかった。 * [[近藤真彦]]は[[1994年]]に初出場し、[[1995年]]は[[NISMO]]([[日産自動車]])からワークスチームドライバーとして参戦し、雨で荒れた展開となったレースで総合10位で完走。[[2002年]]には監督兼ドライバーとして自らのチームで参戦し、[[2003年]]には総合13位で完走を果たした。 * [[パトリック・デンプシー]]は[[2009年]]に初出場し、[[2013年]]は自らのチームで出場しLMGTE-Amクラス3位を走行し表彰台に手が届きそうだったが、惜しくも4位に終わった。[[2015年]]は、LMGTE-Amクラス2位に入賞し念願の初表彰台を獲得した。さらに[[富士スピードウェイ]]で行われたFIA世界耐久選手権最終戦でクラス優勝している。 === ユノディエールとその分割 === [[File:Mulsanne Le Mans.jpg|thumb|220px|right|ユノディエール]] ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300&nbsp;km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。 日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後の[[サード (企業)|サード]])の監督を務めた[[加藤眞]]は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。 WM・セカテバ・[[プジョー]]は、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]に'''407 km/h'''の公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]にはメルセデス・ベンツの[[ザウバー・C9]]が決勝走行中に400 km/hを記録した。 国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の[[国際自動車連盟]])は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。[[フランス西部自動車クラブ]]は「これこそがル・マンの特徴である」と主張し、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]は[[1989年の世界スポーツプロトタイプカー選手権|世界スポーツプロトタイプカー選手権]]({{Lang-en-short|World Sports Prototype Championship}}, WSPC)から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年も[[1990年の世界スポーツプロトタイプカー選手権|WSPC]]からは外れることとなった。 == 各国自動車メーカーの活動 == === フランス === 地元でもあり第一回の[[1923年のル・マン24時間レース|1923年]]にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。 ;ロレーヌ・ディートリッシュ :[[1925年のル・マン24時間レース|1925年]]、[[1926年のル・マン24時間レース|1926年]]と連覇している。 ;[[ブガッティ]] :[[1937年のル・マン24時間レース|1937年]]、[[1939年のル・マン24時間レース|1939年]]と総合優勝している。 ;[[ドライエ]] :[[1938年のル・マン24時間レース|1938年]]総合優勝している。 ;DB/ボネ/マートラ :[[DB (自動車)|DB]]は戦後最初に開催された[[1949年のル・マン24時間レース|1949年]]から[[1961年のル・マン24時間レース|1961年]]までの長年休みなしで参戦し、性能指数賞を[[1954年のル・マン24時間レース|1954年]]、[[1956年のル・マン24時間レース|1956年]]、[[1959年のル・マン24時間レース|1959年]]、[[1960年のル・マン24時間レース|1960年]]、[[1961年のル・マン24時間レース|1961年]]と獲得している。オトモビル・ルネ・ボネ体制になってからも[[1963年のル・マン24時間レース|1963年]]まで継続して参戦した。この頃は総合優勝を狙える力はなかったが、さらにその後は[[マトラ (自動車)|マトラ]]体制になり[[1966年のル・マン24時間レース|1966年]]から参戦、[[1972年のル・マン24時間レース|1972年]]には総合優勝、その後[[1973年のル・マン24時間レース|1973年]]、[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]と三連覇した<ref>『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』p.42。</ref>。 ;[[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]] :[[1950年のル・マン24時間レース|1950年]]総合優勝している。なお下記のプジョーで1992年から1993年にかけて優勝したレースチーム名は、[[プジョー・タルボ・スポール]]である。 ;[[アルピーヌ]]・[[ルノー]] :[[1978年のル・マン24時間レース|1978年]]総合優勝している。 ;ロンドー :地元に育った[[ジャン・ロンドー]]は、自分の名前を冠したマシンでルマンに優勝するという夢を[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]に果たした。 ;[[プジョー]] :[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]]、[[1993年のル・マン24時間レース|1993年]]、[[2009年のル・マン24時間レース|2009年]]に総合優勝した。 === イギリス === ;[[ベントレー]] :当初より参戦し、[[1924年のル・マン24時間レース|1924年]]第2回大会でフランス以外の外国車として初優勝。富裕層出身のドライバーたちは「[[ベントレー#ベントレー・ボーイズ|ベントレー・ボーイズ]]」と呼ばれた。[[1927年のル・マン24時間レース|1927年]]から[[1930年のル・マン24時間レース|1930年]]まで4連勝し、黎明期に非常に大きな足跡を残した。2001年には[[アウディ]]グループ傘下でル・マンへ復帰し、[[2003年のル・マン24時間レース|2003年]]に[[ベントレー・スピード8|スピード8]]が73年ぶりの総合優勝を果たした。 ;[[ジャガー (自動車)|ジャガー]] :先駆的なメカニズムを持つ[[ジャガー・Cタイプ|Cタイプ]]で[[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、[[1953年のル・マン24時間レース|1953年]]に勝利し[[ジャガー・Dタイプ|Dタイプ]]で[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]から[[1957年のル・マン24時間レース|1957年]]まで3連勝。また[[トム・ウォーキンショー]]と組んで[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]に総合優勝している。 ;[[ロータス・カーズ|ロータス]] :[[1954年]]、創始者[[コーリン・チャップマン]]自らマーク9で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった<ref>『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。</ref>。参戦2回目の[[1956年のル・マン24時間レース|1956年]]にはイレブンで1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。[[1962年のル・マン24時間レース|1962年]]にロータス・23を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年に[[ロータス・エリーゼ|エリーゼGT1]]で参戦。2013年にはLMP2クラスにT128(開発はコデワ)を投入した。 ;その他 * [[アストンマーティン]]が[[1959年のル・マン24時間レース|1959年]]に、[[ガルフ]]・ミラージュが[[1975年のル・マン24時間レース|1975年]]に、総合優勝している。 * [[マクラーレン]]・カーズ(現[[マクラーレン・オートモーティブ]])が開発し、当時行われていたGT選手権で出走していた[[マクラーレン・F1]] GTRが[[1995年のル・マン24時間レース]]に同レース初出走し、そのまま総合優勝している。 * [[ウィリアムズF1]]はドイツの[[BMW]]と共同開発した[[BMW・V12 LMR]]で1999年に総合優勝を果たしている。 === イタリア === ;[[アルファロメオ]] :[[アルファロメオ・8C|8C]]で[[1931年のル・マン24時間レース|1931年]]から[[1934年のル・マン24時間レース|1934年]]まで4連覇した。 ;[[フェラーリ]] :創業間もない[[1949年のル・マン24時間レース|1949年]]に初優勝。その後、[[1954年のル・マン24時間レース|1954年]]、[[1958年のル・マン24時間レース|1958年]]で勝利。[[1960年のル・マン24時間レース|1960年]]から[[1965年のル・マン24時間レース|1965年]]まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、[[1966年のル・マン24時間レース|1966年]][[フォード・モーター|フォード]]の物量作戦に敗れた。[[1973年のル・マン24時間レース|1973年]]に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入したが過去の様なワークスとしての参加ではなかった。[[:en:2023 24 Hours of Le Mans|2023年]]には50年ぶりにル・マン24時間レースのトップカテゴリー([[ル・マン・ハイパーカー|LMH]])に復帰し、ワークスマシンとなる「[[フェラーリ・499P|499P]]」を投入。ここまでル・マンを5連覇していた[[トヨタ]]をLMHクラス参戦初年度にもかかわらず打ち破り、ル・マン100周年の節目かつ復帰初年度で総合優勝を飾った。 ;[[ランチア]] :[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]にグループ6のLC1で参戦したが、[[ポルシェ・956]]の前に惨敗に終わった。[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]からグループCの[[ランチア・LC2|LC2]]にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]は注目を集めたが、この時も[[ヨースト・レーシング]]に惨敗した。 === ドイツ === ;[[ポルシェ]] * [[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、いまだフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘により[[ポルシェ・356]]で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく908、910等中排気量車によるクラス優勝を続けた後、[[ポルシェ・917]]を開発して[[1970年のル・マン24時間レース|1970年]]に初の総合優勝を果たした。その後は[[1971年のル・マン24時間レース|1971年]]、[[1976年のル・マン24時間レース|1976年]]、[[1977年のル・マン24時間レース|1977年]]、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]から[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。 * [[1994年]]は[[ポルシェ・962|ダウアー・ポルシェ]]、[[1996年]]と[[1997年]]は[[1984年]]と[[1985年]]にも組んだ[[ヨースト・レーシング]]、[[1998年]]は[[トム・ウォーキンショー|TWRポルシェ]]と連名で優勝した。ワークスチームとしての参加は1998年の優勝以降はしばらく遠のく。 * [[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。翌2015年のレースで17年ぶり17度目の優勝、[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はトヨタとトップ争いを繰り広げたが、最後の最後でトヨタを逆転して18度目の優勝を飾った。[[2017年のル・マン24時間レース|2017年]]はLMP1の全車がトラブルに見舞われた影響で、終盤の時点でもLMP2の車両が総合首位につけていたが、一度は優勝争いから脱落した2号車([[ティモ・ベルンハルト]]/[[アール・バンバー]]/[[ブレンドン・ハートレイ]]組)が残り1時間で逆転し19度目の優勝を飾った。その1か月後、ポルシェは[[FIA 世界耐久選手権]]から2017年シーズン限りで撤退することを発表した。 ;[[メルセデス・ベンツ]] :[[1952年のル・マン24時間レース|1952年]]に総合優勝するなど強豪であったが、[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]から[[ザウバー]]がメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]からワークス参戦となり、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]には総合優勝を果たしている。 :19'''55'''年は大惨事、19'''88'''年はタイヤバースト、19'''99'''年は[[メルセデス・ベンツ・CLR|CLR]]が3度宙を舞うアクシデントによって、3度もレース撤退の決断を強いられ、「西暦下2桁ぞろ目のジンクス」が囁かれた。 ;[[BMW]] * 1995年に優勝したマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ([[BMW M]])GmbH製で[[BMW・8シリーズ#M8]]のS70/2型というコードがつけられたエンジンが搭載されていた。6.1LV型12気筒DOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。 * 1999年にはル・マン24時間レース参戦用にBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカー[[BMW・V12 LMR]]を共同開発。このマシンで同年、BMWとしては初のル・マン総合優勝を飾った。同年に開発していたフライホイール式KERSはその後、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012年に総合優勝したアウディが投入したR18 e-tron クワトロにも提供していた。 ;[[アウディ]] * [[1999年のル・マン24時間レース|1999年]]に初出場で3位入賞。その後、21世紀に入ると圧倒的なペースで優勝を重ねる一方で、参戦初年度からの様々な記録を更新し続けていることから「ル・マンの鉄人メーカー」の異名が付いている。 * [[アウディ・R8 (レーシングカー)|R8]]を開発し[[2000年のル・マン24時間レース|2000年]]から[[2002年のル・マン24時間レース|2002年]]、[[荒聖治]]に日本人2人目のル・マン優勝をもたらした[[2004年のル・マン24時間レース|2004年]]、そして[[2005年のル・マン24時間レース|2005年]]に総合優勝を達成。 * 翌[[2006年のル・マン24時間レース|2006年]]に投入した[[アウディ・R10 TDI]]は、ル・マン史上初の[[ディーゼルエンジン]]搭載車による総合優勝に加え、[[2007年のル・マン24時間レース|2007年]]、[[2008年のル・マン24時間レース|2008年]]と2度目の3連覇、合わせて2004年から2008年まで5連覇を達成した。 * [[2010年のル・マン24時間レース|2010年]]には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝し、[[2011年のル・マン24時間レース|2011年]]に10勝目を挙げた。[[2012年のル・マン24時間レース|2012年]]には[[アウディ・R18#R18 e-tron クワトロ|アウディ・R18 e-tron クアトロ]]が初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成した。 * [[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]限りでル・マンを含むWEC及びプロトタイプレース活動からの撤退を表明。同時に達成した参戦初年度から撤退までの18年間全てに及ぶル・マンの連続表彰台入賞記録は史上初かつ前人未到の最長記録となった。 === アメリカ === ;カニンガム :カルフォルニアの大富豪ブリッグス・カニンガムが自分の財産をつぎ込んで[[キャデラック]]のレーシングバージョンを製作し、1950年代に参戦していた。 ;[[シャパラル・カーズ|シャパラル]] :テキサスの石油王ジム・ホールが個人の資産で作った自動車研究所で空力特性の良い車両を独自の方針に従って開発し、[[ゼネラルモーターズ]]からエンジンやトランスミッションの支援を受けて参戦した。 ;[[フォード・モーター|フォード]] :[[1963年のル・マン24時間レース|1963年]]に[[シェルビー・アメリカン]]がACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦し、[[スターリング・モス]]がマネージャーを務めるACカーズが総合7位に入賞し、これを[[フォード・モーター|フォード]]が評価してGTプロジェクトに繋がった。フォードはフェラーリ買収に失敗し、[[フォード・GT40|フォード・GT]]を投入した1965年のル・マンでも惨敗、最終的にシェルビー・アメリカンの協力を得て大量にエントリーし[[1966年のル・マン24時間レース|1966年]]に勝利、これがアメリカ車初の勝利となった。フォードは[[1969年のル・マン24時間レース|1969年]]まで4連覇し撤退した。 ;[[パノス]] ;[[シボレー]] === スイス === *[[ザウバー]]・モータースポーツ・AGが上記の通り1989年にザウバー・メルセデスとして[[ザウバー・C9]]で総合優勝した。 === 日本 === ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの[[先進国]]の主要自動車生産国としては最も遅い[[1970年のル・マン24時間レース|1970年]]である。マシンは[[リーバイス]]・レーシングが、[[シェブロン]]B16に、[[マツダ]]製10A型、[[ロータリーエンジン]]を搭載したものだった。 1970年代は、排気ガス規制対策や[[オイルショック]]によって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、[[サード (企業)|シグマオートモーティブ]]や[[童夢]]などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。 1980年代以降は[[マツダ]]や[[日産自動車]]、[[トヨタ自動車]]、[[本田技研工業]]などがワークス・準ワークスチームで参戦し、[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。 2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついに[[トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ|トヨタ・ガズー・レーシング]]の[[中嶋一貴]]が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、[[小林可夢偉]]が悲願の初優勝を飾った。2022年には[[平川亮]]が初優勝を飾っている。なお(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝している。 ;[[マツダ]] [[File:Mazda 757 2.jpg|thumb|220px|マツダ757(1988年)]] [[File:Le Mans-120121-0073FP.jpg|thumb|220px|1991年に総合優勝したマツダ787B]] :マツダは日本勢としては最も古く1970年代からル・マン24時間レースに参戦していた。途中[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]にはアメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残している<ref>[http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/motorsports/index05_04.html マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616]</ref>。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールした。 :レギュレーションの変更に伴い[[ロータリーエンジン]]が参加できるのは1990年までとなり、[[1990年のル・マン24時間レース]]に[[マツダ・787]]を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。 :[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両は[[マツダ・787]]B、ドライバーは[[ジョニー・ハーバート]]/[[ベルトラン・ガショー]]/[[フォルカー・ヴァイドラー]]。同時に参戦していた他の2台も6位と8位に入った。なおこの年はファイナルラップ中に24時間のゴールタイムを迎えたため終了前に観客がコースになだれ込んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受けることになってしまった。更にゴール時にドライブしていたジョニー・ハーバートが[[脱水症状]]を起こし、ゴール直後に医務室に搬送されたために表彰台に姿を現さない一幕もあった。 :大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきた{{独自研究範囲|マツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた|date=2018年6月}}。 :このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであった[[レナウン (企業)|レナウン]]の当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし「こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て」と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地の[[アーガイル柄]]をベースに考案したものである{{要出典|date=2018年6月}}。 :この年を最後に事実上ロータリー車が締め出されるため、当初[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]をもってレースから撤退する予定であったが、優勝したために急遽[[レシプロエンジン]]の車両である[[マツダ・MX-R01]]を開発し、[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]]に[[ディフェンディングチャンピオン]]として参戦、総合4位に入賞するが、マツダの業績悪化に伴い、この年を最後に撤退した。 :その後、レギュレーション改正によりロータリーエンジンが解禁されると[[1994年]]にモータースポーツ部門であるマツダスピードが[[マツダ・RX-7|RX-7]]GTO(FC3S)で単独参戦、久々にル・マンにロータリーサウンドを復活させ、その後はマツダスピードや[[寺田陽次郎]]率いるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載マシンがル・マンを走っているが、その後撤退を余儀なくされている。 :[[ファイル:Nissan R390.JPG|thumb|right|220px|日産・R390]] ;[[日産自動車|日産]] :日産の初参加は[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル|ニスモ]]からのエントリーである。前年[[WEC-JAPAN]]を制覇した[[マーチ・85G/日産|R85V]]と[[マーチ・86G/日産|R86V]]の2台体制。R85Vが16位で完走した。 :2年目以降([[マーチ・87G/日産|R87E]]、[[日産・R88C|R88C]])は苦戦するが、参戦4年目の[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]、ローラと共同開発の[[日産・R89C|R89C]]で、日本車として初めてトップ争いに加わるが、3車ともリタイヤに終わった。 :翌[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]には、[[ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ]](NME)からエントリーした[[日産・R90CK|R90CK]]が日本車初の[[ポールポジション]]を獲得するも、決勝ではリタイア。日本([[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル|ニスモ]])からエントリーした[[日産・R90CP|R90CP]]が予選3位、決勝5位と健闘した。 :その後しばらく参戦を休止するが、[[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]に[[日産・スカイライン|GTR-LMロードゴーイングバージョン]]ベースのニスモGT-R-LMで復帰。[[1997年のル・マン24時間レース|1997年]]からは本格的GT-1マシンである[[日産・R390]]で参戦した。[[1998年のル・マン24時間レース|1998年]]には[[星野一義]]、[[鈴木亜久里]]、[[影山正彦]]のドライブするR390が総合3位に入賞し、純日本人ドライバーチームが初めて表彰台に上がった。この年は日産から4台がエントリーしたが、すべて10位以内で完走した。翌[[1999年のル・マン24時間レース|1999年]]にも[[日産・R391]]で参戦するがリタイヤ。翌[[2000年のル・マン24時間レース|2000年]]にもニスモがR391によるル・マン参戦を計画していたが、この頃日産のCEOに就任した[[カルロス・ゴーン]]の判断により撤退を余儀なくされている。 :[[2015年のル・マン24時間レース|2015年]]には[[日産・GT-R LM NISMO]]で参戦したが、全車が未完走またはリタイアと言う結果に終わった。その後再度の撤退を余儀なくされている。 :[[ファイル:1999 Toyota TS020 01.jpg|thumb|220px|right|トヨタ・GT-One TS020(1999年)]] ;[[トヨタ自動車|トヨタ]] :トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]には[[トヨタ・87C|88C]]が12位で完走している。[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]には[[トヨタ・90C-V|90C-V]]が6位に入賞。1年の参戦中断の後[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]][[トヨタ・TS010|TS010]]で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位にとどまった。 :[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]には[[サード (企業)|サード]]から[[トヨタ・94C-V|トヨタ94C-V]]が参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。 :久々の復帰となった[[1998年のル・マン24時間レース|1998年]]は[[トヨタ・チーム・ヨーロッパ|TTE]]を通じて出走した[[トヨタ・GT-One TS020|TS020]]が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前にリタイア。また[[1999年のル・マン24時間レース|1999年]]には[[片山右京]]、[[土屋圭市]]、[[鈴木利男]]組が1998年仕様と同型の3号車での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ総合2位に終わった。トヨタは[[2002年]]からの[[フォーミュラ1|F1]]参戦に集中するため同年限りで参戦を休止した。 :なお先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちの[[トヨタF1]]の実働部隊である[[トヨタ・モータースポーツ]](TMG)の母体となった組織である。ル・マン参戦前は[[世界ラリー選手権|WRC]]にトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。 :[[2012年のル・マン24時間レース|2012年]]には[[ハイブリッドカー]]の[[トヨタ・TS030 HYBRID|TS030 HYBRID]]で13年振りにル・マン復帰。2台で参戦し予選で3位になり、決勝でもトップ争いを繰り広げたものの、1台は周回遅れの車と絡んでクラッシュ、残る1台もトラブルでリタイアした。[[2013年のル・マン24時間レース|2013年]]には、決勝で2位に入賞。新モデルの[[トヨタ・TS040 HYBRID|TS040 HYBRID]]で臨んだ[[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]では、予選で7号車の[[中嶋一貴]]が[[日本初の一覧|日本人初]]の[[ポールポジション]]を獲得、中嶋は本選途中リタイアだったがもう1台の8号車が決勝では3位に入賞した<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140617-a144/ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」]</ref><ref>[http://news.mynavi.jp/news/2014/06/14/207/ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!]</ref>。[[2015年のル・マン24時間レース|2015年]]も参戦したもののライバルにスタートから終始圧倒され続けてしまい、完走したものの2台とも表彰台に昇ることはできなかった。[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はマシンを[[トヨタ・TS050 HYBRID|TS050 HYBRID]]へ変更し、ポルシェと最後まで競り合い初の総合優勝がほぼ確実と思われた終盤残り3分、トップを走っていた5号車がマシントラブルによりストップしポルシェに逆転を許した<ref>[http://www.as-web.jp/sports-car/24429?cx_top=pickup トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利]</ref>。なお残った6号車が2位でチェッカーを受けている<ref>当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定(首位でチェッカーフラッグを受けた車両より6分以内にチェッカーフラッグを受けた車両を完走扱いとするルールが存在する)を超えたため完走扱いになっておらず、失格またはリタイア扱いとなる。この時はリタイアの届出を行わなかったため規定違反で失格となった。</ref>。 [[File:Tokyo Auto Salon 2019 (39804218063).jpg|thumb|230px|トヨタ・TS050 HYBRID 8号車<br/>([[東京オートサロン]]2019にて)]] :[[2018年]]はTS050 HYBRID 8号車の[[セバスチャン・ブエミ]]、中嶋一貴、[[フェルナンド・アロンソ]]組が悲願の初優勝を飾った。8号車はポールポジションからスタートを切り、[[ポールトゥーウィン]]の快挙を果たした。2位にもTS050 HYBRID 7号車の[[マイク・コンウェイ]]、小林可夢偉、[[ホセ・マリア・ロペス]]組が入った。途中7号車の小林がピットインのタイミングを忘れ一時燃料に懸念が生じセーフティモード走行で意図的にスローダウンせざるを得なかったなど人為的ミスはあったものの、8号車と7号車は最前列スタートから一度もトップ2を譲らないレース運びで、ル・マン24時間レース完全制覇を果たした。日本人が運転する日本車が優勝したのは史上初。 :[[2019年]]、途中トップを快走していた7号車がパンクし失速した。その他もトラブルに見舞われる過酷なレースになったが、中嶋一貴とフェルナンド・アロンソらの8号車が優勝、小林可夢偉らの7号車が2位に入り2年連続のワンツーフィニッシュを飾った<ref>[2019.6.17中日新聞朝刊]</ref>。 :[[2020年]]は[[新型コロナウイルス感染症_(2019年)|新型コロナウイルス]]の影響で[[無観客試合|無観客開催]]となった中、セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、[[ブレンドン・ハートレイ]]組の8号車が3連覇を果たした。 :[[2021年]]は2年ぶりに有観客開催となり、新規定のLMH車両・[[トヨタ・GR010 HYBRID|GR010 HYBRID]]を投入。序盤の接触やトラブルに苦戦しつつも着実なレース運びでワンツーフィニッシュを飾りトヨタとして4連覇を果たした。また、7号車のマイク・コンウェイ、小林可夢偉、ホセ・マリア・ロペス組が初優勝を飾り、セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、ブレンドン・ハートレイの8号車が2位となった。 :[[File:Kremer Racing - Honda NSX - 1994 24 Hours of Le Mans.jpg|thumb|right|220px|NSXル・マンレーサー]] ;[[本田技研工業|ホンダ]] :[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]から[[本田技研工業|ホンダ]]も[[ホンダ・NSX#レース活動|NSX GT]]により参戦を始めた。初年度はクレマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。 :2年目の[[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台([[チーム国光]]及び[[中嶋企画]])エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出ることすらできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいたために起きた断線が原因であることが判明している。中嶋企画はタイムアタックがうまく行かず好タイムを出せないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出して撥ねてしまうというアクシデントに見舞われた。幸いオフィシャルは軽傷で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取るうちにタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまった。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の[[十勝24時間レース]]や[[鈴鹿1000km]]でもチーム国光とは全く明暗が分かれることとなる)。 :決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光([[高橋国光]]/[[土屋圭市]]/[[飯田章]]組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。 :[[1996年のル・マン24時間レース|1996年]]はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。結局この年を最後に、ホンダのル・マン24時間レースへの参戦は幕を閉じている。 == 日本のプライベートチームの参戦 == ;[[サード (企業)|シグマオートモーティブ]] :ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは[[1973年のル・マン24時間レース|1973年]]のシグマ・オートモーティブである。当初は[[トヨタ自動車|トヨタ]]製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなく[[マツダ]]製の12A[[ロータリーエンジン]]を購入して搭載した。このため、ル・マンに出場した[[シグマ・MC73|MC73]]はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンであった。シグマMC73は元々[[富士グランチャンピオンレース]]用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。 :[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]はマツダオート東京と正式にジョイントし、24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこのときのドライバーの一人が、長年参戦を続けたことから後に「ミスター・ル・マン」の異名を取ることになる[[寺田陽次郎]]である。 :[[1975年のル・マン24時間レース|1975年]]はトヨタからのエンジン供給が実現し、[[トヨタ・T型エンジン|2T-G]]ターボエンジンを搭載した[[シグマ・MC75]]でエントリーしたが、結果はエンジントラブルでリタイアとなった。 :これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立された[[サード (企業)|サード]]がその後を引き継ぎ、[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]にトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]には旧グループCカーを貸与され出場、[[エディ・アーバイン]]/マウロ・マルティニ/[[ジェフ・クロスノフ]]組が2位表彰台を獲得している。[[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]、[[1996年のル・マン24時間レース|1996年]]には独自開発のGTマシン・[[サード・MC8R]]と[[トヨタ・スープラ LM-GT|スープラLM-GT]]で参戦した。 ;[[童夢 (自動車会社)|童夢]](1979 - 1986年) :[[1978年]]の[[サロン・アンテルナショナル・ド・ロト|ジュネーブモーターショー]]で、[[スーパーカー]]「[[童夢-零]]」を発表し、その玩具ライセンス収入をきっかけに[[1979年のル・マン24時間レース]]に初挑戦した。零RLは[[フォーミュラ1|F1]]用に販売されていた[[フォード・コスワース・DFVエンジン]]を搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。 :[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、零RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし、最下位の25位で完走した。[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。 :[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、イギリスの[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]とジョイントして、[[フォード・コスワース・DFVエンジン#DFVの発展形エンジン|フォード・コスワース・DFLエンジン]]を搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした。[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]、[[童夢・RC-83|RC-83]]で出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。 :[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢・トヨタ・[[トムス]]による提携が実現し、童夢製の車体に当時市販されていた[[グループB]]車両の[[トヨタ・セリカ]]GT-TSの2,090ccエンジンをレース用に修正した4T-GT改を搭載する[[童夢・84C|85C-L]]で出場。決勝はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、前年と同様の体制で[[トムス・86C|86C-L]]で出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第1期ル・マン参戦は終わった。 :[[ファイル:Dome S101.jpg|thumb|200px|right|童夢・S101Hbi・ジャッド (2006年マシン)]] :[[2001年のル・マン24時間レース|2001年]]に[[FIA スポーツカー選手権]](FIA SCC)参戦用の車としてオープンプロトタイプカーの[[童夢・S101|S101]]を開発すると、同車を購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった。中でも[[ヤン・ラマース]]率いるRacing for Hollandが[[2001年]]から[[2007年]]までル・マンに参戦し、[[2001年のル・マン24時間レース|2001年]]・[[2003年のル・マン24時間レース|2003年]]には予選4番手を獲得するなど、打倒[[アウディ・R8 (レーシングカー)|アウディ・R8]]の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブルに悩まされることが多く、最高位は[[2003年のル・マン24時間レース|2003年]]・[[2004年のル・マン24時間レース|2004年]]の総合6位と、期待されたほどの成績は残せなかった。 :[[2005年のル・マン24時間レース|2005年]]以降はル・マンのレギュレーション変更によりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、[[2008年のル・マン24時間レース|2008年]]には久々の新車としてクローズドプロトタイプの[[童夢・S102|S102]]を開発しワークス参戦(総合33位)。[[2012年のル・マン24時間レース|2012年]]には改良型のS102.5で[[アンリ・ペスカロロ]]と提携して4年ぶりに復帰した。 :2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 ;マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年) :[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]に自らのチームで参戦を果たした。マシンは[[国際モータースポーツ協会|IMSA]]-GTO仕様の[[マツダ・RX-7|サバンナRX7・252i]]であった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により結果は予選落ちとなった。 :翌[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]チーム体制構築のための参戦を見合せ、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]に再挑戦をする。この際に[[トム・ウォーキンショー]]・レーシング(TWR)と提携した。また1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりでドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の[[脇雅世]]をチームの料理長に迎えた。脇は[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]まで料理長を務めることとなった。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/[[従野孝司]]/アラン・モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。 :[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の[[マツダスピード]]となり、以後の活動は[[ワークス・チーム]]によるものとなった。 ;[[トムス]](1980年、1985 - 1986年) :[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、[[トヨタ・セリカ]]RA40系ベースの[[国際モータースポーツ協会|IMSA]]-GTXマシンで初参戦し予選落ち。 :[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、童夢と共同で日本で初めて[[グループC]]カーを開発し[[WEC-JAPAN]]に参戦。[[1983年]]以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]])にフル参戦するようになった。 :[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した[[童夢・84C|85C-L]]で5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[トムス・86C|86C-L]]で参戦するが完走できなかった。[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。 === その他の日本のチーム、ドライバー === [[File:Hall of fame Le Mans-winners 1995.JPG|thumb|220 px|right|関谷の手形が納められた優勝記念プレート]] [[File:Seiji Ara 2010 Motorsport Japan.jpg|thumb|150 px|right|荒聖治(2010年)]] * [[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]から1990年まで[[高橋国光]]がドイツ・クレマーレーシングの[[ポルシェ・962C]]で参戦。最高位は1988年の9位。当時の日本人最高位記録。 * [[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]には[[岡田秀樹 (モータースポーツ)|岡田秀樹]]が[[ザウバー]]から参戦。リタイア。岡田は88年から90年までクレマーレーシングのポルシェで参戦、最高位は高橋国光と組んだ88年で9位。 *[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[米山二郎]]と[[福山英朗]]がADAエンジニアリング(ADA・03)から参戦し、総合18位でC2クラス2位に入賞している。[[片山右京]]も[[クラージュ・コンペティション]](クーガー・C22)で、初参戦リタイア。 *[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]では、[[粕谷俊二]]が[[クラージュ・コンペティション]](クーガー・C20B)から参戦し、総合14位でC2クラス優勝を果たしている。また[[FromA|FromAレーシング]]がブルンとジョイントで参戦。レギュラードライバーの[[中谷明彦]]が初出場。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで参戦、15位完走。米山二郎がクラージュのクーガーC22で参戦、リタイア。 *[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]、東名スポーツがメンテナンスし、その後[[1992年]]に[[全日本F3選手権]]のチャンピオンとなる[[アンソニー・レイド]]らがドライブするジ・アルファレーシングの[[ポルシェ・962]]Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ・962Cで初参戦、粕谷俊二もドライブ。13位で完走する。池谷勝則もデイビーから参戦、19位完走。 *[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]にはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR([[長坂尚樹]]/[[見崎清志]]/[[横島久]]組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイアとなった。また、AOレーシングが[[吉川とみ子]]他女性3名([[リン・セント・ジェームズ]]、[[デジレ・ウィルソン]]ら)での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで、粕谷俊二がクラシック/TFRのスパイスでエントリーしていたが、いずれも予選落ちに。 *[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]]には、粕谷俊二、[[松田秀士]]がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦し、総合13位で完走。また、原田淳・吉川とみ子・[[嶋村健太]]らがチーム・ニッポン(登録名チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦したが、こちらはチェッカーをうけたものの周回数不足(160Lap)で非完走(NC)となり結果表のリタイアしたチームの一番上に記載されている。 * [[1993年]]には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田淳が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川とみ子が参戦したが、両方リタイアに終わっている。 * 1994年は、チーム・ニッポン(登録名ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田淳・吉川とみ子・[[近藤真彦]]の3人で参戦したが、途中リタイア。 * 1995年には、[[1985年]]より参戦を続けてきた[[関谷正徳]]が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 ([[マクラーレン・F1#モータースポーツ|マクラーレン F1 GTR]] /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳、[[J.J.レート]]、[[ヤニック・ダルマス]])を果たした。 * [[1997年]]、[[チーム郷]]がマクラーレン F1 GTR LMで参戦。ドライバーは[[中谷明彦]]、[[土屋圭市]]、[[ゲイリー・アイルズ]]。決勝は88周リタイア。 * [[1999年]]、チーム郷が[[BMW・V12 LM]]で参戦。ドライバーは[[ヒロ松下]]、[[加藤寛規]]、中谷明彦。223周リタイア。 * [[2000年]]には[[テレビ朝日]]がチーム郷と共同で、'''"テレビ朝日・チーム龍(Dragon)"'''として[[パノス]]LMP-1を2台エントリーさせている。当初はLM-GT2クラスに[[ダッジ・バイパー|クライスラー・ヴァイパー]]を2台投入した'''"チーム虎(Tiger)"'''として、二つのクラスで出場を計画していたが、諸事情でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定していたドライバーには[[高橋国光]]、近藤真彦、関谷正徳らが予定され、ル・マン経験者を中心に布陣を固めた「ドリームチーム」として期待されていた。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、レースに出場するエントラントでもあったため他チームのピットを取材しようとして拒否されるなどのトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。 * [[2001年]]、チーム郷が[[デンマーク]]のデン・ブラ・エイビスとジョイントで参戦。マシンは[[童夢・S101]]。ドライバーはジョン・ニールセン、加藤寛規、キャスパー・エルガード。リタイア。 * [[2002年]]から[[2004年]]にかけて[[KONDO Racing]]が[[横浜ゴム]]とジョイントし、童夢・S101でル・マンに参戦。近藤真彦や[[福田良]]・[[片山右京]]・[[加藤寛規]]らがステアリングを握ったが、[[2003年]]に総合13位に入ったのが唯一の完走。 * 2002年、チーム郷が[[アウディ・R8]]で参戦。ドライバーは加藤寛規、[[ヤニック・ダルマス]]、[[荒聖治]]。総合7位。 * 2003年、チーム郷がアウディ・R8で参戦。ドライバーは荒聖治、[[ヤン・マグヌッセン]]、マルコ・ヴェルナー。総合4位。 * 2004年にはチーム郷のアウディ・R8が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。同チームのドライバーの1人の[[荒聖治]]は、日本人として2人目の総合優勝。[[リナルド・カペッロ]]、[[トム・クリステンセン]]とドライブ。 * [[JLOC]](日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして[[2006年]]のレースに、[[桧井保孝]]らのドライブで参戦したものの完走には至らなかった。[[2007年]]にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。また[[2009年]]と[[2010年]]にも参戦したがリタイアに終わる。 * 2009年、チーム郷が[[ポルシェ・RSスパイダー]]で参戦。ドライバーは荒聖治、[[国本京佑]]、[[サッシャ・マーセン]]。リタイア。 * その他に[[太田哲也]]が1993年~1996年まで、[[羽根幸浩]]が1995年に、鈴木隆司が1996年~1997年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。 * [[東海大学]]において[[林義正]]研究室(開発コース)でル・マン参戦のための車両が研究開発されていた。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、[[2008年]]の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形の[[ワイ・ジー・ケー|YGK]]が製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーを修正したものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れていないなどの要因からトラブルが多発。メカニックについて[[R&D SPORT]]の支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。林が東海大を退官する関係から[[2012年]]に同プロジェクトは終了したが、林はYGKと共同で新たなル・マン参戦プロジェクトを立ち上げる方針である。 *[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]にクリアウォーター・レーシングよりエントリー([[フェラーリ・458イタリア|フェラーリ・458GT2]])した[[澤圭太]]が、LM-GTEアマクラスのポールポジションを獲得した。 *2017年にMRレーシングよりエントリー([[フェラーリ・488GTB|フェラーリ・488GTE]])した[[石川資章]]が、2018年、2019年とLM-GTEアマクラスで参戦している。 *2021年には[[青木拓磨]]がフランスのSRT41チームより特別枠で出場(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木拓磨、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)<ref>[https://www.as-web.jp/sports-car/418468?all 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場],autosport web,2018年10月10日</ref><ref> [https://www.jomo-news.co.jp/sports/gunma/319464 「障害あっても夢はかなう」 車いすレーサーの青木拓磨がルマン24時間に初参戦 青木3兄弟の次男],上毛新聞,2021年8月21日</ref>。334周、総合32位で完走している。 *2021年に星野敏率いるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井誠暢が操る[[アストンマーティン・ヴァンテージ]]で参戦し、クラス6位・総合33位で完走する。<ref>{{Cite web|和書|title=【決勝結果】2021年WEC第4戦・第89回ル・マン24時間レース/7号車トヨタが総合優勝 {{!}} ル・マン/WEC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/sports-car/730756 |website=AUTO SPORT web |date=2021-08-22 |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=D’station Racing、ル・マン24時間は目標の完走果たしクラス6位「本当に素晴らしい結果」と藤井誠暢 |url=https://jp.motorsport.com/lemans/news/lemans24-2021-Dstation-fujii/6653463/ |website=jp.motorsport.com |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref>2022年のFIA世界耐久選手権にも参戦中。<ref>{{Cite web|和書|title=D'station Racing、2022年のWEC/アジアン・ル・マン参戦体制を発表。初年度以上の結果目指す {{!}} ル・マン/WEC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/sports-car/775514 |website=AUTO SPORT web |date=2022-01-12 |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref> == 日本での中継 == {{出典の明記|date=2023年9月}} 日本では、株式会社[[マクランサ]]代表の[[林正史]](株式会社童夢代表の[[林みのる]]の実弟)の企画により、[[1979年]]に[[TBSテレビ|TBS]]による2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより[[1982年]]から[[1986年]]まで[[テレビ朝日]]がダイジェスト版を放送し、 [[1987年]]から[[2003年]]まで中継を行っていた。2004年と2005年は、[[衛星放送|CS放送]]の[[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV!]]でレース前後を含めた25時間完全生中継、[[スポーツ・アイ ESPN]](後の[[J SPORTS|J sports ESPN]])でも部分的に中継を行っていた。 2006年から2008年までは、CS放送の[[日テレジータス|G+]]でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルの[[J SPORTS]]がスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間<ref group="注釈">2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に[[J SPORTS STADIUM|野球中継]]「[[オリックス・バファローズ|オリックス]]対[[阪神タイガース|阪神]]」戦が放送された関係でゴールは5時間だった。</ref> の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170606110607/https://www.jsports.co.jp/press_release/20170602.html |date=2017-06-02 |title=最後の最後まで何が起こるのか分からない…24時間筋書きのないドラマ「ル・マン24時間レース」J SPORTSで初の完全中継が決定! |publisher=J SPORTS |accessdate=2017-06-13}}</ref>。また、J SPORTSの契約者向けに[[スカパー!オンデマンド]]での24時間ライブ配信を実施。2012年からは、[[日経CNBC]]が現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、[[谷中麻里衣]]が出向いている。 === テレビ朝日のテレビ中継 === 毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)[[フォーメーションラップ]]がメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンの[[グリッド (モータースポーツ)#種類|スターティンググリッド]]がテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 なお[[UEFA欧州選手権|サッカー欧州選手権]]開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた<ref group="注釈">主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。</ref>。 競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 ;実況 * [[東出甫]](1987年) * [[朝岡聡]](1987年) * [[森下桂吉]](1987年、1994年) * [[三浦智和]](1988 - 91年) - マツダの日本車初制覇を実況。 * [[松苗慎一郎]](1988 - 93年、1995 - 96年) - 関谷の日本人初優勝を実況。 * [[大熊英司]](1991 - 92年) - この後は、スタジオ司会を多く担当している。 * [[田原浩史]](1993年、1995 - 2003年) * [[飯村真一]](1994年) * [[国吉伸洋]](1997 - 2000年、2003年) - 2002年はスタジオ司会を担当。 * [[中山貴雄]](2001 - 02年) ;解説 * 熊谷睦(1987 - 1990年、1992年) - 『[[オートスポーツ]]』編集長(当時)、91年はスタジオ解説を担当。 * 赤井邦彦(1987年)- モータージャーナリスト、ピットレポートも併せて担当した。 * [[津々見友彦]](1991 - 95年)- 90年はスタジオ解説を担当。 * [[由良拓也]](1995 - 2003年) - 長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する「由良拓也が斬る!」というコーナーを持っていた。1995年はピットレポートを担当。 * [[郷和道]](2001年) ;ピットリポーター * ビル大友(1988 - 89年) * [[大石吾朗]](1988年) * [[粕谷俊二]](1993年、1996 - 2001年) * [[服部尚貴]](1996年) * [[近藤真彦]](1997年) * [[影山正彦]](2002年) * [[飯田章]](2003年) ;現地リポート * [[篠田潤子]](1992年) * [[田中真理子]](1994年) * [[徳永有美]](2000年) * [[石井希和]](2001年) ;ゲスト解説 * [[高橋国光]](1991 - 93年) * [[関谷正徳]](1998 - 99年) * [[舘信秀]](2001 - 03年) * 飯田章(2001年) ;現地ゲスト * [[松尾雄治]](1987年) - 実況席にゲストとして登場。 * [[村上龍]](1989年) * [[川島なお美]](1990年) - 実況席にゲストとして登場。 * [[酒井法子]](1992年) - ピットバルコニーゲストとして登場。 * [[岡本香了|岡本佳織]](1994 - 1995年) - ピットリポートを担当した。 * [[MANISH]](1996年) - この年のテーマソング(後述)を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。 * [[伊達公子]] (1999年) - ピットバルコニーゲストとして登場。 * [[松岡充]]([[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]])(2001年) - MANISHと同様、この年のテーマソング(後述)を担当。 ;スタジオゲスト * [[後藤新弥]]([[日刊スポーツ]])(1987 - 1988年) * 大石吾朗(1989年) * [[三原じゅん子]](1995年) * [[奥山道子]](1995年) * [[花田虎上|藤島親方]](2000年) ;スタジオ司会 * [[三好康之]](1987 - 88年) * 大熊英司(1989 - 90年、1993 - 97年、1999 - 2001年、2003年) * 田原浩史(1991 - 92年) * 中山貴雄(1998年) * 国吉伸洋(2002年) * [[高橋享子]](1990年) * [[佐藤紀子 (アナウンサー)|佐藤紀子]](1991年) * [[川瀬眞由美]](1992年) * [[木下智佳子]](1993年) * [[大下容子]](1994 - 95年) * [[高橋真紀子]](1996年) * [[下平さやか]](1997 - 99年) * [[萩野志保子]](2000年) * 徳永有美(2001年) * [[石井希和]](2002 - 03年) ;歴代テーマ曲 1987 - 89年はタイアップ曲ではない(オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない)。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていた[[インディ500]]中継とのダブルタイアップとなっていた。 * 1987年 - [[ジェリー・グッドマン|Jerry Goodman]]「Rockers」 * 1988年 - [[3 (バンド)|3]]「[[スリー・トゥ・ザ・パワー|Talkin' Bout]]」 * 1989年 - [[ジェネシス (バンド)|Genesis]]「Behind The Lines」 * 1990年 - [[高中正義]]「[[Can You Feel It]]」 * 1991年 - [[外道 (バンド)|外道]]「龍神 〜空に舞う (1991 Version)」 * 1992年 - [[DIMENSION]]「[[Le Mans|Out Of Wind]]」 * 1993年 - [[FORCE (音楽ユニット)|FORCE]]「HUNAUDIERES」 * 1994年 - FORCE「DISTANT VIEW」 * 1995年 - DIMENSION「[[Rera|Land Breeze]]」 * 1996年 - [[MANISH]]「[[君の空になりたい|It's so Natural]]」 * 1997年 - [[ケン・イシイ]]「DRUMMELTER」 * 1998年 - [[小山田圭吾|CORNELIUS]]「[[FANTASMA|Count 5,6,7,8]]」 * 1999年 - [[LUNA SEA]]「[[STYLE (LUNA SEAのアルバム)|G.]]」 * 2000年 - [[東儀秀樹]]「COOL RUN」 * 2001年 - [[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]]「[[KURU KURU]]」 * 2002年 - SOPHIA「[[ROCK STAR]]」 * 2003年 - [[B'z]]「[[IT'S SHOWTIME!!]]」 === ラジオ中継 === 1990年、1991年に2年間、[[文化放送]]で中継された。 ;実況 * [[扇一平]](1990年 - 1991年) == ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム == '''映画''' * [[栄光のル・マン]](Le Mans、1971年、アメリカ) * [[ミシェル・ヴァイヨン]](2003年、フランス) *[[フォードvsフェラーリ]] (2019年、アメリカ) '''ドラマ''' * [[ル・マンへ熱き涙を]](1992年、テレビ朝日)マツダの参戦記をドラマ化したもの。 '''レーザーディスク''' * '84 24HEURES DU MANS(1984年、[[パイオニア]]、プロデューサー:林正史) '''ビデオソフト''' * エキサイティング ルマン(1984年、プロデューサー:林正史) * 爆走モンスターマシン 24時間の記録 * ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン(1982年、[[日本コロムビア]]、プロデューサー:川野真) * DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985年、[[BMG JAPAN|ファンハウス]]、プロデューサー:林正史) * 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、アドインターナショナル) * Dramas of Le Mans 24Hours(1980年、東映芸能ビデオ) * '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986年、デルタポイント) * Le MANS 83(1983年、[[東映ビデオ]]、プロデュース DUKE marketing ltd) * ル・マン カタログ'85(1985年、[[クリエイティヴ・コア|TDKコア]]) '''LP''' * 24HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史) * TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979年、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]、プロデューサー:新田和長) * 童夢ZERO RL(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長) * FUNKY TRACK/鳴瀬喜博(1984年、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]、プロデューサー:林正史) * DIGITAL EXPLOSION '83(1983年、東芝EMI、プロデューサー:林正史) '''VHD''' * DOME & TOM'S IN LE MANS '85(1985年、[[日本ビクター]]、プロデューサー:林正史) '''CD''' * 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史) *Hot & Long Battle LE MANS 24 HOURS '90(1990年、ポニーキャニオン) '''小説''' *[[高斎正]]『ニッサンがルマンを制覇する時』[[徳間文庫]] ISBN 978-4195775387 *高斎正『お気に入りがルマンに優勝する時』徳間文庫 ISBN 978-4195792780 *[[福野礼一郎]]『スーパーカーのル・マン』 - 『スーパーカー野郎』[[双葉社]] ISBN 978-4575296983 に収録、[[1994年のル・マン24時間レース]]の[[パラレルワールド]]的作品 *ブルース・カーター 『栄光のポンコツ車』岩崎書店 ジュニアベストノベルズ第18巻 1975年刊行絶版、1930年台のベントレースピード6を駆って1950年台のスポーツカー相手にル・マンを戦う話。訳 斎藤伯好 画 伊藤梯夫 '''漫画''' *[[新谷かおる]]『白と黒の羊』 *[[聖悠紀]]『ミルザンヌの嵐』[[主婦と生活社]] ISBN 978-4391920086 *廣谷章、[[川崎のぼる]]『日産は勝つ―'58オーストラリアラリーから'89ル・マンまで 男たち30年の挑戦』東急エージェンシー出版部 ISBN 978-4924664685 '''ゲーム''' {{see also|[[:en:Le Mans 24 Hours video games|Le Mans 24 Hours video games (英語)]]}} * ル・マン(1976年、アタリ) * [[WECル・マン24]](1986年、コナミ〈後の[[コナミデジタルエンタテインメント]]→後の[[コナミアミューズメント]]〉、開発はコアランドテクノロジー→後の[[バンプレスト]]→後の[[バンダイナムコエンターテインメント]]) * [[ルマン24 (アーケードゲーム)]](1997年、セガ〈後の[[セガ・インタラクティブ]]〉) * チェッカーフラグ(1988年、コナミ〈後のコナミデジタルエンタテインメント〉、2面に収録) * ル・マン24アワーズ(TEST DRIVE LE MANS、2001年、[[アタリジャパン|アタリ]])日本では[[ドリームキャスト]]、[[PlayStation 2]]版は[[セガ]]が販売。 * [[グランツーリスモ4]]([[PlayStation 2|PS2]])(2004年、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]])以降の[[グランツーリスモシリーズ]]の耐久レースで当レースを収録。 == 格言 == 昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「'''ル・マンには魔物が棲んでいる'''<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-20 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/06/20/24_1/ |title=トヨタの悲願達成ならず。中嶋一貴が語ったル・マン24時間のラスト3分 |author=川喜田研 |publisher=web Sportiva |accessdate=2017-04-15}}</ref>」との格言が生まれた。[[2016年]]には、初優勝を目指してトップを快走していた[[トヨタ自動車|トヨタ]]のマシンが車両故障のため、'''残り3分'''で[[ポルシェ]]に逆転された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *『ルマン 伝統と日本チームの戦い』[[グランプリ出版]] ISBN 4-87687-161-2 *『Gr.Cとル・マン』[[学研ホールディングス|学研]] ISBN 978-4-05-604601-4 *黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』[[集英社]] ISBN 4-08-780158-6 *マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』[[二玄社]] ISBN 4-544-04043-4 *大川悠『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』二玄社 *神田重巳『世界の自動車-15 クーパー ローラ エルヴァ』二玄社 == 関連項目 == * [[ル・マン24時間歴代勝者]] * [[スポーツカー世界選手権]] * [[FIA 世界耐久選手権]] * [[フランス西部自動車クラブ]] * [[ル・マン・シリーズ]] * [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]] * [[アジアン・ル・マン・シリーズ]] == 外部リンク == {{Commonscat|24 Hours of Le Mans}} * {{Official website|https://www.lemans.org/fr/24-heures-du-mans}} * [https://www.dailymotion.com/lemans-tv#video=xqxkvh lemans-tv - Dailymotion] {{ル・マン24時間レース}} {{モータースポーツ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るまん24しかんれえす}} [[Category:ル・マン24時間レース|*]] [[Category:耐久レース]] [[Category:テレビ朝日のスポーツ番組]] [[Category:テレビ朝日の深夜番組の歴史]] [[Category:近藤真彦]] [[Category:フランスのモータースポーツ大会]] [[Category:ル・マンのスポーツ]] [[Category:1923年開始のイベント]]
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世界ラリー選手権
世界ラリー選手権(せかいラリーせんしゅけん、英語: FIA World Rally Championship、ワールドラリーチャンピオンシップ、通称:WRC〔ダブリュアールシー〕)は、国際自動車連盟(FIA)が主催するラリー競技の世界選手権である。ヨーロッパを中心としてアフリカ・中南米・アジア・オセアニアなどの地域でも開催されている。併催のWRC2、WRC3などについてもここで述べる。 1970年にそれまで世界各地で単独に開催されていたラリー競技のイベントをFIAの下に一本化して誕生した、「国際マニュファクチャラーズ選手権(英語版)」(英: International Championship for Manufacturers、通称:IMC)が前身である。1973年に世界選手権へと格上げされて、WRCとしてスタートした。FIAが主催する自動車競技の世界選手権の中ではF1世界選手権(1950年創設)の次に長い歴史を持つ。また開幕戦のラリー・モンテカルロは、F1のモナコグランプリより長い歴史を持つイベントである。選手権は元々はマニュファクチャラー部門(自動車メーカー)のみが争われたが、後にドライバー部門とコ・ドライバー部門の選手権も争われるようになった。また下位のサポート選手権であるWRC2、WRC3、JWRCが併催されている。 ラリーの種類は、公道や競技場などに設けられたコース=スペシャルステージ(SS)でタイムアタックを行い、各SSタイムの合計で順位を決める「スペシャルステージラリー」である。SSとSSの間の移動は「リエゾン」または「ロードセクション」と呼ばれ、一般車に混じり現地の交通法規に従って走行する。現行の標準的なスケジュール(アイテナリー)では、木曜日から日曜日にかけての3 - 4日間に20本前後のSSを走行する。SSの合計距離は300 - 400 km、リエゾンを加えた総走行距離は1,000 - 1,500 km程度である。SSの時間は基本的に日中で、時々早朝や夜間にも行われる。 競技車両は一定数生産された市販車をベースとして、公認範囲内で改造を加えたラリーカーである。性能別に数段階にグループ分けされているが、選手権タイトルを賭けた最高峰クラスは、マニュファクチャラーの直営組織(ワークスチーム)が開発した現在ではワールドラリーカー(WRカー)で競われる。 競技車両にはドライバーとコ・ドライバーの2名が乗車し、コ・ドライバーがコース上のコーナーや路面状況などをあらかじめ記載したペースノートを読み上げ、ドライバーはそれに従い運転操作を行う。また、基本的にはドライバーが運転操作を行い、ナビゲートするのがコ・ドライバーという形ではあるが、非常に稀なケースではあるものの両者の役割が逆転する場合もある。2011年スウェーデンラリーでは、ペター・ソルベルグ選手が一般道のリエゾン区間でスピード違反で免許停止措置(世界中で開催される世界選手権に参加するためのライセンス以外に開催国での自動車運転を認めてもらうための国際免許を停止される処分)を受け、処分の執行には48時間の猶予があったものの、最終ステージ前で執行猶予時間が経過したため最終ステージだけをコ・ドライバーのグリス・パターソンにステアリングを託し、ソルベルグ本人は助手席で運転操作を解説しながら最終ステージを完走するという場面もあった。このように、タイムアタック区間(スペシャルステージ)以外の走行区間では開催当該国の道交法に従わなければならないため苦肉の策が実行されるケースもある。また、スペシャルステージでアクシデントを起こして破損した車で走り続けるしかない場合(多くの場合はリエゾン区間前にチームの整備を受けられる)もあり、そのままリエゾン区間に入ると整備不良や危険な破損車での走行ということで警官に止められ、その場合は、その場で即刻リタイアを余儀なくされるケースもある。このようにFIA(世界選手権主管団体)が定めた規則だけではなく、開催当該国の道交法も遵守しなければならない。 競技車両は市販車両をベースに製作することと規定されているため外観はベースモデルと大差無いが、特に最上位のWRCクラスの車両であるラリー1は、フレームやエンジンはじめとする各パーツ、駆動やサスペンションの形式の変更などが行われ、内部はほぼ完全に別物となっている。ECUにはSS用の“ステージモード”、リエゾン用で低燃費となる“リエゾンモード”の2種類が設定されており、走行状況に合わせて切り替える仕様となっている(ラリー1の車両では、ハイブリッドシステムの複数の走行モードを切り替えて運用する)。 競技ライセンス“国際C級レース除外”を取得し、規定に合致した車両を用意して抽選に通れば、一般人もプライベーターとして出場することが可能である。WRカーの後から同じコースを走りタイムを争い、時にはプライベーターがランキングの上位に食い込むということもある。なおコ・ドライバーもドライバーと同等の競技ライセンスが必要である。 サーキットで行われる周回競技と異なり、一般道路や林道などを一時的に閉鎖して行われるため、設営された観客席は少ない。観客はコースを間近で見られることもあり、熱心なファンは足繁く観戦ポイントに出向く。しかし、車両がコースオフし客席に飛び込む恐れもあるために観戦には危険も伴い、過去には死亡・負傷事故も起こっている。(特に1980年代のグループB規定時代は、ドライバー、観客の死亡事故が多発した) 観客達が大きくコースオフした車両をコースに戻したりすることも多々あるが、本来ドライバー、コ・ドライバー以外の人間が競技車両に触れることはルール違反なため、ドライバーはペナルティを受けてしまうことが多い。逆に観客が競技の妨害を行うこともあり、開催中にコース上の冊が閉められたこともある。現地の運営側が観客をコントロール出来ないと判断された場合はSSそのものがキャンセルとなり、実際にラリー・ポルトガルやラリー・ポーランドがこの理由で一時WRCから外された。 広大なエリアでは、時に観客がプロに代わるカメラマンとして活躍することがある。2005年のキプロス・ラリーでは、フランソワ・デュバルのコースオフと車両炎上のシーンにおいて、観客が撮影した映像が国際映像として放映された。また近年はドローンが撮影に投入されており、ダイナミックな映像の撮影に大きな貢献をしている。 WRCの統一プロモーターは2014年から現在まで、「WRCプロモーター有限会社(WRC Promoter GmbH)」が担っている。以前は1982年にバーニー・エクレストンにより設立された「ISO(International Sportsworld Communicators)」が2010年まで、これをノースワン・テレビジョンが買収した「ノースワン・スポーツ」がプロモーターを務めていた。 各々の国で開催される競技をイベントと呼ぶ。年間のイベント数は1990年代中頃まで8 - 10戦程度であったが、増加を望むFIAの意向により各ラリーの開催日数・走行距離の短縮やサービス (車両整備) 回数の制限等、イベントの簡素化が進められたことに対応するようにイベント数が徐々に増やされ、2007年には全16戦、2008年は全15戦となっていたが、2009年と2010年は2年間で24戦を隔年で開催するという年間12戦のローテーション制となり、2011年からは全13戦となっている。 F1のオフシーズンであるストーブリーグが4ヶ月-5ヶ月近くであるのに対して WRCは1ヶ月前後しかないが、シーズンオフが短い分、6月上旬から7月終わりまたは8月始めまで約2ヶ月間の休息期間となるインターバルを設けている。 現在WRCクラスのマニュファクチャラーは全イベントに参戦することが前提となっているが、かつては有効ポイント制であったことに加えて輸送の問題や参戦コスト、マシンの得意・不得意などもあったため、全イベントに参戦しない方がむしろ一般的であった。WRC黎明期に日本勢がアフリカイベントで好成績を残すことができたのは、そうした事情も関係がある。 イベントで使用されるコースの路面環境は様々だが、大きな分類では未舗装路のグラベルとアスファルト舗装路のターマックの2種類で、積雪路のスノーや凍結路のアイスは、土台となる基礎路面で分類される。ターマックとグラベルが混在するミックスサーフェイスのイベントも有る。 概ね、ターマックでは車高を下げて大径の18インチホイールを装着するのに対して、路面変化の大きいグラベルではサスペンションのストロークを確保するために車高を上げて小径の15インチホイールを装着する。全イベントの2/3を占めるグラベルも地質や砂利の割合などそれぞれ特性が異なり一括りに出来ない難しさがあるため、ターマック、グラベル共に路面状況や天候を読みながらのセッティング、タイヤ選択がタイムに大きな影響を与えることも少なくない。 ラリードライバーは大別するとターマックが得意か・グラベルが得意かで分けることができるが、その違いはドライバーの出身地による場合が多い。例えばグラベル路面の多いフィンランドのドライバーはグラベルが得意で、ターマック路面の多いフランスのドライバーはターマックが得意、といった具合である。これは慣れというのはもちろん、その地域で頭角を現すためにはその地域の路面に強い必要があるということでもある。また同じ「グラベル」「ターマック」でも、国によってコース環境は大きく異なるため、地元のドライバーが好成績を残す傾向にある。 かつてはタイヤの種類や使用本数に制限は無かったが、コスト低減などを目的としたコントロールタイヤ制度 (ワンメイク) の導入と同時に様々な制限を行った。タイヤの種類は、トレッドパターンがブロック状のグラベル用、ターマック用のグルーブ (溝) が少ないスリックのほか、冬期イベント用にスノーとスタッド付きスノーがある。レギュレーションにより、イベントで使用可能なトレッドはグラベル、ターマック共に1種類、コンパウンドは2種類まで認められているが、例外として、ターマックの冬期イベントで路面のコンディションが多種多様に変化するモンテカルロでは4種類まで認められている。 車両へ搭載されるスペアタイヤの本数は2本まで、新品タイヤへの交換は“サービスパーク”への入庫時のみ、交換本数も4本までとなっている。限られたタイヤ本数で如何に早いタイムを出すことが求められるため、特に近年はタイヤマネージメントの重要性が増した。前後左右のタイヤ選択、前後のローテーション、内圧設定のほか、勝負所となる重要なSSを見極めタイヤを温存するなど様々な戦略が取られている。イベント毎に使用出来るタイヤの総本数は異なるが、2014年のラリー・イタリアではシェイクダウンに4本、競技では35本となっている。 2018年現在でFIAに認定されている公式サプライヤー (供給メーカー) は、ミシュラン、DMACK、ピレリの3社である。2008年から2011年までは独占契約を結んだ1社が全てのマシンにタイヤを供給するワンメイクとなっていたが、2011年からはタイヤメーカーの選択が自由となり、各チームがそれぞれのタイヤメーカーと契約する形となっている。尚、トップクラスのWRカークラスに関しては2021シーズンから、コントロールタイヤがミシュラン製からピレリ製に変更されている。 3日間または4日間で行われる。各日はDAY (デイ) で表し、1日目は「DAY1 (デイワン)」と呼称する。DAYは、実質的な競技区間のSS (Special Stage: スペシャルステージ、通称: エスエス) と計測地点のTC (Time Control: タイムコントロール)、公道を走行する移動区間 (ロードセクション) のリエゾンに分けられ、SSの合計タイムが最も早いドライバーが優勝となる。 競技はアイテナリーと呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。通常のスタート間隔は2分だが、グラベルで無風状態になると前車走行後の土煙が2分以内に収まらず、後にスタートしたマシンが視界を遮られて影響を受けるため、その場合は間隔を1分延長し、状況次第では更に1分延長される事も有る。このためサーキットレースとは異なり、トラブルで減速・停車した場合を除きコース上での抜きつ抜かれつはほぼ生じない。 イベントが開催される週の水曜日からレッキと呼ばれる、競技で使用されるコースの下見走行を行い、ドライバーとコ・ドライバーはコース状況を把握してペースノートの製作を行うが、使用車両は競技車両ではなく一般車両となる。水曜日の夕方から木曜日に掛けてはシェイクダウンと呼ばれる、実際に競技車両を使用して最終チェックを行った後、車検を受けて規定外のパーツの装着が無いか確認が取れると、競技車両はパルクフェルメと呼ばれる車両保管所に置かれ、ドライバーを含め全ての関係者は競技開始まで触れることが出来ないようになっている。 一般道路を使用する移動区間。スタートした車両はリエゾンを通りTCへ向かう。SSと異なり閉鎖されていないため、現地の交通法規に従い一般車両に混じって走行する。そのため競技車両は開催国のナンバープレートを装着する。リエゾンを走行することも競技の一部であり、主催者から示されるコマ図に従って走行するというラリー競技当初の姿が現在も残っている。TCに入る時間は車両毎に指定され、指定時刻に遅れた場合は1分につき10秒のペナルティが総合タイムに加算される。スピード違反や一時停止義務違反で現地の警察に検挙されることもあり、ドライバーが免許停止などの処分を受けた場合、以後のリエゾン区間はコ・ドライバーがステアリングを握ってドライバーがナビをする。また、各国の法律に定められた保安基準を満たしていない場合は走行を止められることがあり、特にSS区間でのトラブルで車が破損した場合などに問題となる。 一般道路を一時的に閉鎖して作られた区間で、スタート地点はTC内に設置され、1台ずつ一定間隔でスタートしてタイムを競う。イベントによっては一般道路を閉鎖して使用するSSとは異なり、人工的に作られたサーキットコースのような特設会場で、2台の車両が仕切りのあるコースを同時にスタートするスーパースペシャルステージ (Super Special Stage: スーパーSS、SSS) も存在する。 スピード感のある走行シーンが見所であるため、メディア中継が行われるのもSSであることが多い。SSの数はイベントにより異なるが概ね20前後で、各SSの距離は2 km前後から50 km以上まで存在し、合計距離は300 - 400 km程度となっている。2011年からはパワーステージが導入された。タイトル争いでは僅かなポイントが結果を大きく左右する場合があるため、DAYリタイアやトラブルで上位進出の可能性が無くなった場合はパワーステージでのポイント獲得に切り替える事が多い。 タイムは速いほど良いためドライバーは全力で挑むが、時にはスピンやパンクによるタイムロスも発生する。また、事故や機器のトラブルなど、車両が深刻なダメージを受けて走行不能となった場合は、リタイアしたSSと、同日に行われる全てのSSがリタイア扱いとなるDAYリタイアとなる。全損で無い場合、指定の時刻までに車両を走行可能な状態にして認定を受けた場合は翌日の出走が可能となる救済措置のラリー2規定が適用され、ペナルティとしてリタイアしたSSと走行出来なかった残りのSSのトップタイムに5分加算されるが総合成績は有効となる。ただし、最終日にリタイアした場合は同規定が適用されないため未完走扱いとなり総合成績は残らない。 DAYリタイアの時点で、優勝やポディウム争いからは脱落してしまうが、以降のイベントに向けてのテストやセッティングと割り切って走行する事が多い。2014年からは、シードドライバーがDAYリタイアし翌日出走する場合、前年のドライバーズポイント順である、ゼッケンナンバーが15番までのシードドライバーの最下位に組み入れることと規定された。これは、余りにも下位の出走順にしてしまうと、技量の高いシードドライバーがタイムの遅い前走者に追い付き、危険と判断されたものである。 スタート順は、グラベルのイベントに於いては重要なファクターとなる。最初にスタートするドライバーは堆積する土砂を掻き分ける掃除役となり不利を被ることが多いため、これまでも様々な対策が取られてきたが根本的な解決策は定まっていない。2013年までは事前に行われる予選でタイム順に上位のドライバーから自由に決めることが出来たが、2014年からは予選が廃止された。新方式は、初日のDAY1はドライバーズポイントが高い順、DAY2以降はスーパーSSを除く前日の最終ステージを終えた時点での総合成績順となっている。 各DAY最後のSS終了後はTCに移動してリエゾンを通り、サービスパークと呼ばれる各チームの本部に戻る。サービスパークでは競技中の整備や給油などの各種作業が許されるが制限時間があり、制限時間をオーバーしたり、SSを欠場してマシンの修復を行う場合はペナルティとしてタイムが加算される。その後、車両は再びパルクフェルメに保管されて次のDAYの競技開始を待つ。サービスパーク以外で簡単な整備が出来る場所、リモートサービスを設ける場合もある。 2014年にFIAにおける地域選手権も含めたラリーカーの規定は、6つのクラスに再編された。グループRのR3D以外は全てガソリン車となる。従来は各クラスに多数の規定が混在していたが、2019年にグループA・グループNを排除して簡素化された。また2020年にはグループRのうちR3以外のすべてが「Rally〜」へと改名している。現在の車両の区分は以下の通り。 この技術区分はプライオリティ(優先順位、出走順などに関連)の基準として用いられる。 2022年現在。車両の詳細は競技クラスを参照。 その他、これらのクラスとは別枠でASN(Authority Sport Nationale、各国の自動車協会)の認める地域選手権独自の規定の車両がエントリーすることも可能である。ただし安全基準はFIAのそれに準ずる。またチャンピオンシップポイントを得ることはできず、賞典外での参加となる。 WRCのほかにWRC2、WRC3を始めとするサポート選手権と、それに付随する各種カップが存在する。このうちWRC2とWRC3は全WRCイベントで併催される。こうしたいわゆる「下位クラス」は業界の事情に対して右往左往するような形で毎年大規模に賞典の変更が行われるため、情報を追う場合には特に注意が必要である。 タイヤは2022年現在、全クラスでピレリとなっている(ただしASN車両はこの限りではない)。 選手権の名称にもなっている最上位クラス。1973年誕生。マニュファクチャラー(製造者)として参戦するチームは、全13戦で2台以上のエントリーが義務付けられている。ポイントは全戦有効。カーナンバーは基本的に1 - 30番だが、それ以外をリクエストすることも可能。2019年よりチャンピオンドライバー以外は「2 - 99」のうちから自由選択となった。 現在の車両規定はRally1である。市販車に由来しないパイプフレームと共通のハイブリッドシステム、SDGsの観点から精製されたバイオ燃料を用いているのが特徴となる。エンジンは先代のWRカー規定からキャリーオーバーされた直列4気筒1.6 Lターボの「GRE(グローバル・レース・エンジン)」と呼ばれる規格で、最高出力は約380 PS、最大トルクは約425 Nmを発生する。ハイブリッドの最大出力と組み合わせると500PS/500Nmにも達する。コスト削減のためパドルシフトとセンターデフ、電子制御デフは禁止されている。 ベース車両は古くはクーペやセダンが主流であったが、2000年代以降は小型化が進み、現在のラリー1はBセグメントハッチバックと同様のシルエットを採用している。 2018年まで規則上ではグループN、スーパー2000、グループA、グループRGT、グループRなども参戦可能であったが、実際にこれを用いるエントラントはなく、2019年以降は規則から削除されている。 WRCの直下カテゴリ。2013年誕生。参戦した7戦のうち上位6戦分のポイントが採用される有効ポイント制である。カーナンバーは2018年までは31から60番。2019年より20番以降となる。歴史は長くないが、WRC3との絡みも合わせて参加車両・参加資格などの変更が非常に多くされてきたクラスである。 使用車両は2022年現在はRally2(旧名グループR5)車両のみで選手権が争われる。2013〜14年まではグループR4、2013 - 2018年まではグループN4、スーパー2000もエントリーできた。またWRC2発足当初はグループN4が対象の「プロダクションカーカップ」が設定されていた。2020年からは、オレカ製の共通コンポーネントおよび1.6リッターターボエンジンを搭載するRally2キットカー(旧R4キットカー)も参戦可能となる。 グループRally2/R5は元々はスーパー2000に代わる規定で、最大価格18万ユーロの規制の下に多数のメーカーが開発・販売を行っている。エンジンは市販車由来の1.6 Lターボで最大馬力280 PS程度、大規模な空力パーツも無いため絶対的な速さこそRally1に劣るが、コースやドライバーなどの諸条件が揃うと稀にRally1/WRカーを上回るパフォーマンスを見せることもある。コストパフォーマンスに極めて優れているためプライベーターからの人気が高く、シュコダのようにこのクラスを主戦場とするメーカーもいるため、かつてはRally2/R5規定を次期WRカーとする構想があったほどであった。結局それは実現していないものの、ワークスチームやプロドライバーが多数いる現状を鑑みて、彼らを対象としたWRC2プロクラスが開催されていたこともあった。WRC2プロは1年間のみの開催で、2020年からはワークス向けのWRC2プロを「WRC2」、プライベーター向けのWRC2を「WRC3」へと名称を置き換えることとなった。 2022年からは再びワークス・プライベーターともにWRC2に一本化され、高齢層のための「マスターカップ」と、WRC2/3優勝経験を持たない若年層のための「ジュニアカップ(WRC2ジュニア)」が賞典として施行される。2023年からはジュニアカップはまだRally2レベルのサポート選手権(WRC2/旧WRC3)の王者になったことのないドライバーによる「WRC2チャレンジャー選手権」に格上げされ、マスターカップは50歳以上のドライバーとRally2〜5またはR-GT車両が対象の「WRCマスターズカップ」へと変更された。 2013年誕生。運営規則はほぼWRC2とかなり近く、13戦開催・7戦中6戦の有効ポイント制を敷く。歴史は短いながら車両規定の変遷が激しく、廃止と復活も経験している。 もともとはワンメイク化されたJWRCに代わって登場した、WRCの二輪駆動車部門で、2018年までは二輪駆動のグループR車両(=R1・2・3、現在のRally4・5)で争った。またJWRCの車両はWRC3の規則と合致するため、両クラスに同時エントリーが可能となっていた。JWRCは出走イベント・参戦マシン・タイヤメーカーなどを選べないハンデはあるが、実際にはJWRCのエントラントがWRC3でも上位をほぼ占めており、両選手権でチャンピオンを獲得することの方が多かった。この頃はWRC3としてのメディア露出はほとんどなく、2018年終了を以て一旦廃止された。 2020年にRally2車両のプライベーター向けクラスとして復活したが、最終戦ラリー・モンツァにて前年までヒュンダイワークスドライバーのアンドレアス・ミケルセンがスポット参戦し優勝したことで苦情が発生。その影響で2021年以降、過去5年以内にWRCクラスでマニュファクチャラーズポイントを獲得した者又はWRC2/3チャンピオンのWRC3参戦を禁止するという一幕があった。 2022年からは新生'Rally3車両(コスト規制10万ユーロで210 PS程度の四輪駆動車)が導入され、明確にWRC2と区別される。 WRCの育成向けクラス。2002年誕生。WRCクラスの有力マニュファクチャラーで知られるMスポーツのポーランド法人がプロモーターを務める。年間5 - 7戦で、ポイントは全戦が有効となる。カーナンバーは61から80番。2015 - 2016年と2019年以降に、1イベント中各国で最もポイントを稼いだドライバーをポイント対象とし、年間最もポイントを稼いだ国に贈られる「JWRCネイションズトロフィー」が設定されている。 参戦には29歳以下で、かつWRカーでマニュファクチャラーポイントを獲得したことが無いドライバーという制限が課されており、WRCへの登竜門的な存在となっている。以前はJWRCでチャンピオンになってすぐWRCで活躍するドライバーも多かったが、近年はWRCの出場枠が少ないことやWRカーの戦闘力が以前より上がったこともあり、一旦WRC2へステップアップするドライバーが多い。運営側でも、優秀な成績を収めたドライバーには翌年WRC3に参戦するための費用やマシンが与えられる。 2011年から車両・タイヤともにワンメイクとなっている。従来の指定車両は前輪駆動車のみであったが、2022年からは四輪駆動のフォード・フィエスタRally3が指定されている。 前身は1993 - 1999年開催の、二輪駆動+自然吸気エンジン車のF2規定車両のための「FIA 2リッターカップ」(正式名称は「FIAカップ・フォー・マニュファクチャラー・オブ・ツーリングカー」)。2001年に改めて開催された「FIAスーパー1600カップ」が翌年にJWRCと改称された。2006年以降はスーパー1600に加えて1,600cc以下のグループA3キットカー、2,000cc以下のグループN3、グループR2・R3規定など多彩なマシンのエントリーも認められるようになった。2007年のみヨーロッパ以外での開催が無かったため、“W”が取れ「JRC」となった。エントラントの減少から、2011年に車両・タイヤがワンメイク化された。2011 - 2012年の名称は「WRC アカデミー」であったが、2013年にはサポートカテゴリ再編と共に「JWRC」に戻った。2022年のみWRC2ジュニア/WRC3ジュニアへと分化しているが、Mスポーツのブランド戦略上の意向により、WRC3ジュニアについては「JWRC」の呼称が残された。WRC2ジュニアの発展解消により、2023年からは正式にも「JWRC」として開催される。 クーペをメインとした、グループR-GTを対象とするカテゴリ。WRCとの併催が多いが、他のサポート選手権と異なり世界タイトルはかけられておらず、ERC(ヨーロッパラリー選手権)などとも併催されている。 2002 - 2012年開催。市販車に安全装備など最低限の改造のみを施した、グループN規定の車両を中心に戦う。前身は1987年から開催されていたFIAプロダクションカーカップ。チームタイトルに当たるものは存在しない。 スバル・インプレッサと三菱・ランサーエボリューションの寡占状態が長く続いたため、2007年からスーパー2000車両も許可され、2011年からはJWRCのワンメイク化に伴いR1 - R3車両のための2WDカップが創設された。2010年にスーパー2000はSWRCへ分離され、2013年にはグループN4車両はWRC2のプロダクションカーカップ、2WDカップはWRC3へと発展してPWRCは消滅した。 日本人・日本車の活躍が多く、新井敏弘が2度のドライバーズタイトル、奴田原文雄がモンテカルロで優勝を飾る活躍を見せた。前身のFIAプロダクションカーカップでも三菱・スバルの他マツダ・日産がチャンピオンマシンとなっており、日本人では西山寛が総合ランキング2位に入っている。なお2005年頃までは「PCWRC」と表記されていたが、現在は「PWRC」と表記するのが通例である。 2010年〜2012年開催。市販車を自然吸気2.0 Lエンジン・四輪駆動に換装するスーパー2000規定と、グループN4の戦闘力の乖離を鑑みて創設された。また初年度のみチームタイトルとして、選手権名の原案でもあった「WRCカップ」が掛けられた。マシンはスーパー2000の他、2011年からグループR4車両も可とされた。わずか3年のみの開催で、2013年よりWRC2へ移行した。 2020年~2021年のWRC2に相当するクラス。ワークスチームやプロドライバーが対象で、グループR5で2019年のみの1年間だけ争われた。 全クラス共通で、最終日のSS終了時の順位で1位から10位までに25, 18, 15, 12, 10, 8, 6, 4, 2, 1ポイントが与えられ、1シーズンで最も多くのポイントを獲得したドライバー/コ・ドライバーがドライバーズチャンピオン/コ・ドライバーズチャンピオンとなる。 WRC、WRC2、WRC3のエントリー車両に限り、総合成績に関係なくイベントの最終SSの1〜5位にそれぞれ5-4-3-2-1ポイントのボーナス点が与えられる(パワーステージ)。JWRCのみ、各SSで最速タイムを記録するたび1ポイントの「ステージポイント」が与えられる。 下位クラスのWRC2/WRC3/JWRCはクラス別にポイントが設けられているが、最高峰のWRCのドライバーだけはクラス順位ではなく総合順位からポイントが決定する。また下位クラスのドライバーでも総合順位次第でWRCのポイントを獲得できる(ただしASN車両では獲得できない)。 WRC2は7戦中上位6戦(そのうち1戦は欧州外イベントが絶対条件)、WRC3は最初に参戦した7戦中上位5戦の有効ポイント制となっている。2020年のJWRCは最終戦のみポイントが倍となる。 WRカーの製造者(マニュファクチャラー)が該当し、WRCで開催される。WRCの場合同選手権にエントリー出来るのはマニュファクチャラー毎に1チーム3台までで、2チーム目(4台目)以降はマニュファクチャラーズポイントは与えられない。各マニュファクチャラーの、各イベントの上位2名の順位が加点対象となる。またWRC2は2台までがエントリーでき、ポイント対象は1台のみである。 ドライバーズタイトルと異なり、下位クラスのマシン・各マニュファクチャラーの最下位者1名・リタイア者を排除した順位でポイントを決める。例えば3名×4マニュファクチャラー=12名がマニュファクチャラー参戦している状態で、仮に全車がデイリタイアを喫しつつも完走した場合、マニュファクチャラー選手権の加点対象は12名―(各メーカーの最下位者×4)=8名となるため、最低順位は8位となる。つまりこの場合どんな形でも最終日の最終SSを走りきれば、7位+8位分の6+4=10ポイントは必ず獲得できる。年間最も多くのポイントを獲得したメーカーがマニュファクチャラーズチャンピオンとなる。 2021年よりパワーステージにてマニュファクチャラーズ選手権ポイントも加算される。ドライバーズ選手権のパワーステージ同様に各マニュファクチャラーは、パワーステージの上位5人のうち、自チームのポイント対象ドライバーの上位2名のポイントを獲得できる。 なおWRCが誕生した当初はドライバーズ選手権はなく、マニュファクチャラーズ選手権のみであった。1970年後半から~80年半ばまでは、総合順位とグループB/A/N内の順位を表で照らし合わせて、18~1ポイントまでを割り振るという少々複雑なポイント付与が行われていた。またマニュファクチャラーズポイント対象外に設定されるイベントもあった。 WRC2ではマニュファクチャラーズ選手権の代わりに「チーム選手権」が設定されている。1チームにつき最大2名が対象で、3人目以降は別チームの扱いとなる。そのイベントで最もポイントを多く獲得した1名がポイント対象。ドライバーズ選手権同様、13戦中8戦の有効ポイント制で、チームのドライバーのうち1名でも参戦すればポイント対象となる。年間通して最もポイントを獲得したチームがチームズチャンピオンとなる。 JWRCと2020年以降のWRC3にチーム選手権に該当するものは存在しないが、JWRCではイベント毎各国で最も多くポイントを稼いだ者が対象の、「JWRCネイションズトロフィー」と呼ばれる国別対抗戦が存在する。 1973年のWRC創設から1980年代初頭までは「連続する12ヶ月間で1000台以上」の生産義務があるツーリングカーのグループ2と、「連続する12ヶ月で500台」のグランドツーリングカーのグループ4規定で競技が行われた。ただしグループ2は「連続する12ヶ月で生産台数5,000台」のグループ1、グループ4は「連続する12ヶ月で1,000台」のグループ3の公認もそれぞれ取得することが前提であった。各メーカーは市販車を強化した特別仕様車であるホモロゲーションモデルを販売し、その車両をベースにグループ2・グループ4の競技用車両を開発していた。 目敏いランチアはグループ3のパワートレインだけを移植したような、ミッドシップのグループ4マシン・ストラトスを生産してWRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社のフィアットが難色を示し、ランチアの代わりにフィアット(アバルト)が前面に出ることとなった。ここにフォード、オペル、タルボなどが絡む形となっていった。 当時はピックアップトラックやクロスカントリー車を排除する目的で2WDが義務付けられていたが、アウディは4WDを乗用車に載せた上でFIAを説得し、4WDを認めさせた。そして1981年からフルタイム4WDとターボエンジンを採用したアウディ・クワトロがラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。 グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちWRCはグループB・グループA・グループNを採用した。グループBの生産義務はメーカーの参入を促すため「12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台」と非常に緩く設定されており、これによりさらに高性能で過激なラリー専用車両が続々登場した。グループB車両のほとんどは鋼管スペースフレームに市販車に似せたデザインのFRP若しくはC-FRP・ケブラー製のカウルを被せ、400 - 600 PSと言われた高出力の過給エンジンをミッドシップに搭載し、フルタイム4WDで駆動するといった物であり、メーカー各社は先鋭化した高性能車両を競って生み出していく。際限の無い競争の結果として開発コストが上昇したため、FIAはグループBよりも金銭的な負担が少なく、競争が激しくなるような新しいカテゴリーとしてグループS構想を発表した。 グループB規定により走行スピードは劇的に向上したが、安全面がその進化に追いつかず、多くの事故と犠牲者を生み出すこととなった。1985年ツール・ド・コルスでのランチアのアッティリオ・ベッテガの事故死、同年アルゼンチンラリーでのプジョーのアリ・バタネンの事故、1986年ポルトガルラリーでフォードからワークスエントリーしていたヨアキム・サントスが多数の観客を死傷させるなど、ワークスドライバーが絡む事故が多発。そして、1986年のツール・ド・コルスで発生したランチアのヘンリ・トイヴォネン / セルジオ・クレスト組の事故死を受けて、FIAは事故の翌日に以後のグループB車両のホモロゲーション申請を却下することを発表し、その後1986年を以てグループBの廃止を決定、翌1987年からは世界選手権はそれまで下位クラスであったグループAで行われることを発表、同時にグループS構想も消滅した。 1987年の世界ラリー選手権は従来は下位カテゴリであったグループA規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5,000台(1993年より2,500台)以上の生産が義務づけられたほか様々な改造規制が加えられて市販車に近いものとなった。またグループBの教訓を忘れないFIAは1990年にエアリストリクターの装着を義務化し、最大出力を300馬力以下に抑えた。しかし4WD技術とタイヤの性能の進歩によりハンドリングは改良され続け、車両性能は落ちるどころか年々向上。エンジンも開発リソースがトルクの増強に回された結果、グループBに匹敵する400Nm級のトルクを発揮。こうした進歩により3年後にはグループBのマシンを凌駕する速さを身に付けた。 当初こそBMW・M3やルノー・5ターボ、日産・200SXといった後輪駆動車が総合優勝できたこともあったが、1990年代に入るとフルタイム4WDと2.0 Lのターボエンジンが必須装備となっていた。グループA導入時にスポーツ走行用の4WDを備えた市販車を製造していたメーカーはランチア・アウディ・フォード・マツダがいたが、アウディは大柄すぎるボディが環境に合わずに撤退。以降もその様な高性能な装備の市販スポーツ車両を生産・販売出来る欧州メーカーはランチア以外無く、トップカテゴリを戦えるメーカー数は大幅に減少した。 ランチアはコンパクトなデルタを用いてグループA時代の覇権を握ったが、これに日本のメーカーが勝負を挑む。当時の日本の自動車市場はコンパクトな4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、また海外進出が好調で景気の良かった日本車メーカーたちはこぞって高性能な4WDスポーツ車を量産。1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、トヨタ、スバル、三菱、日産、マツダといった日本のメーカーがWRCを席巻した。またフォードもタイトルには手が届かなかったが、コスワースがエンジンを手がける4WDスポーツで日本車勢に迫った。 バブル崩壊によりマツダ・日産は志半ばで撤退するが、トヨタはセリカでランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権を制覇した。またスバルはインプレッサで1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇、三菱自動車のランサーエボリューションが1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇、特に1998年はマニュファクチャラーズ、グループNと合わせハットトリックを達成するなどし、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。この頃から高度な電子制御によるハイテク装備が普及し、各メーカーは前後中央3つのデフ全てのアクティブ化を目指すようになり、セミATやトラクションコントロール、ABSなども装備されるようになった。 一方欧州メーカーへの参戦の門戸を広げる必要に迫られたFIAは、2WD/NAエンジンのグループA車によるF2クラスを1993年に新設。さらに1995年にはフランスメーカーたちの提案により、改造範囲を大きく広げたF2キットカー規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD/NA化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べるワールドラリーカー (WRカー) 規定が1997年よりグループAに代わって導入されることで決着した。その後F2キットカー規定は規制緩和や開発競争により戦闘力が向上し、1999年にはシトロエン・クサラがターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、性能調整を受けて消滅。2WD規定は低コストなスーパー1600へと発展し、後のJWRCに繋がっている。 1997年にライバルたちがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、以降も2001年半ばまでグループA車両で戦い続けた。 グループAの特例として1997年から導入されたWRカーは、継続した12ヶ月間に25,000台以上生産された車種の派生モデルに限り、直接的なベースモデルの生産台数を2,500台とするもので、ワイドボディ化、4WDへの改造、リアサスペンション形状の変更、同一メーカー車に搭載されているエンジンへの換装やターボの付加など、大幅な改造を認められたものである。この規定により高性能4WD車をベースにする必要がなくなったため、ヨーロッパの自動車メーカーが相次いでWRCに参戦し、メーカー数が増加して活況を呈し始めた。またアジア車勢でもヒュンダイやスズキといったメーカーが短期間ながら新規参入した。エンジントルクは600Nmにまで到達するマシンも現れ、ハイテク戦争も高度化してアクティブサスペンションが現れ始めた。 WRカー導入の初期こそ、トヨタ・カローラや三菱・ランサー、インプレッサといった日本車勢が引き続き強さを見せていたものの、21世紀に入ると陰りが見え始めた。1999年に登場したプジョー・206 WRCは2000年 - 2002年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇。2003年には本格参戦1年目にしてシトロエンがマニュファクチャラーズタイトルを奪取し、その後2005年まで3連覇するなど、今度は一大勢力と化したフランス車勢が台頭した。 しかしF1のようなハイテク制御を用いた過激な開発競争と、90年代の倍近くに増えた年間イベント開催数がコスト高騰を招き、2005年にはプジョー、シトロエン、三菱、シュコダが一斉にワークスチームを撤退させてしまうという事態に陥った。 そこで2006年以降はトラクションコントロールやABS、前後デフの電子制御化などの禁止(センターデフのみ許可)でハイテク化に歯止めをかけた。しかしもう一つの高コストの原因であった空力は放置されたため、大きな効果を挙げたとは言いがたかった。同時に参戦台数確保のため、セミワークス向けに全戦参戦義務が無くエントリー料の安いマニュファクチャラー・チームという制度も導入され、プジョーとシュコダはこれで短期間のみ留まった。 シトロエンは2006年にプライベートチームのクロノス・レーシングをワークス支援する形で参戦を続行し、その間従来のWRカーであったクサラ WRCの後継となるC4 WRCの開発を平行して行っており、2007年に再びワークスチームとしてWRCへ復帰した。選手権はシトロエンのエースのセバスチャン・ローブ/ダニエル・エレナ組による独走が続き、実に2012年までドライバーズ/コドライバーズタイトルを9連覇、マニュファクチャラーズタイトルも同期間中7度の制覇を果たすこととなる。 フォードはグループA規定末期から英国のMスポーツにワークス活動を委託していた。最初はコリン・マクレーを破格の契約金で引き抜くなど羽振りが良かったが、フォードグループの経営不振などにより年を追うごとに資金が先細りしていく状況にあった。2002年頃から毎年撤退が噂され、2004年には撤退寸前まで追い込まれるが、Mスポーツ代表のマルコム・ウィルソンが絶望的な状況の中でも諦めることなくフォード首脳陣に対して参戦継続へ向けた粘り強い交渉を行っていた。そして交渉期間中に開催されたカタルニア・ラリーとツール・ド・コルスで連続優勝を成し遂げて状況が好転し、フォード本社がラリー活動の継続を決断した。2005年に3年間の参戦と資金が確約されると攻勢に転じ、モデルチェンジしたフォーカスSTをベースに新型車両を開発。2006年は1979年以来となるマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、2007年にも連覇した。 2007年にはスズキが参入するが、リーマン・ショックに端を発する世界的不況が直撃し2008年末にスズキ・スバルが電撃撤退。2009年開始時点で正式に参戦したのはシトロエン、フォードの2社のみとなってしまった。 WRカーはコスト高騰で新規ワークスの参入は困難になってしまったため、コスト削減案としてすでにPWRCやIRCで活躍していたスーパー2000 (S2000) 規定を導入しようという案が有力視された。これは大衆車を共通部品と2.0 LのNAエンジンを使用して低コストで4WD化する、いわば廉価版のWRカー規定のような存在である。 WRカーという名称は引き継いだまま、新規格のWRカーを2010年から導入することが検討され、2008年12月にFIAはS2000をベースにボルトオンキットで簡単にWRカーに出来る様にする“S2000プラス”とする方針を提案した。しかし2009年の間もFIAの中で意見が二転三転し、S2000プラスを撤回して2011年以降はS2000をそのままメインカテゴリーにするという話が浮上。際限なく続く議論に、次期車両開発をしたくてもできないシトロエンとフォードからは、結論の出ないFIAに対して不満の声が上がった。 最終的には世界ツーリングカー選手権(WTCC)と共通のエンジン規格『GRE』(Global Race Engine、1.6L直噴ターボエンジン)を、S2000車両に搭載し改造範囲を広げたS2000 WRCに変更することを決定。GREにより市販車に由来するエンジンである必要が無くなった一方で、トルクは400Nm程度まで引き下げられた。 これにより2011年5月、フォルクスワーゲンがポロ R WRCで参戦することを発表している。フォードは2012年を以てワークス参戦を終了し、80年代以来長きに渡る挑戦の歴史を一度終えたが、Mスポーツへの車両供給と技術支援は続けた。また2011年からは新たにBMWがプロドライブに製作を委託しミニ カントリーマンをベースにした、ミニ・ジョン クーパー ワークス WRCで参戦したが、組織的な紛糾により2013年に姿を消した。 フォルクスワーゲンは2013年にWRCクラスに本格参戦を開始、デビュー年でドライバーズ/コ・ドライバーズ/マニュファクチャラーズの三冠を制覇した。2014年も好成績を継続していることを受けて、フォルクスワーゲンは当初の2013年 - 2015年までの3年計画を延長、2019年まで参戦することを決定した。また2014年からはヒュンダイがi20 WRCで復帰し、初年度で念願の初勝利を挙げるなど活躍を見せたが、シトロエン・フォードらとともにVWの三冠4連覇を阻止するには至らなかった。 下位クラスではS2000やS1600、グループNといった車両規定がグループRに取って代わられ、さらにピラミッド型にまとめられた。 WRC代表のカルロス・バルボサは近年失われつつある人気を取り戻すことを重視し、これまでの低コスト・規制強化路線とは打って変わった大規模な規制緩和を行うことを決めた。そして2017年からエアリストリクター径は33 mmから36 mmに緩められ、エンジン出力が315馬力から380馬力へアップ。最低重量は1200 kgから1175 kgに引き下げられ、アクティブセンターデフの解禁、リアディフューザーや車幅の拡大もなされた。 新規則発表に前後して2015年1月、トヨタはかねてから噂されていたWRC復帰を発表。一方2016年11月にフォルクスワーゲンが電撃撤退を表明したため、マニュファクチャラーの総数は増加には至らなかった。この新WRカー初年度は、フォード車を用いるプライベーターのMスポーツがメーカー勢を破って三冠を獲得する快挙を達成。これにより2018年からフォードはMスポーツへの支援を厚くする形で「Mスポーツ・フォード」の名でワークス復帰した。 しかしアジア車勢が徐々に強さを見せ始め、2019年にはトヨタがマニュファクチャラーズ、ヒュンダイがドライバーズ/コドライバーズタイトルを制覇。アジア車メーカーによるタイトル独占は1999年以来、20年ぶりであり、以降もこの2社でタイトルを分け合う状態が続いた。 同年シトロエンが撤退を表明したことにより、欧州車メーカーは再びWRCの最高クラスから姿を消した。 自動車業界を取り巻く流れを受け、2022年からハイブリッドシステムが導入される事が決定した。導入から3年間(2024年まで)は各チームに共通のハードウェアとソフトウェアが提供され、全車同一のシステムを使うことになる。リエゾンの一部では電気でのみ走り、SSでは電気ブーストとして利用することが狙いとされている。エンジンはGREが維持され、ハイブリッドと合わせると最大で500馬力/500Nm以上を発生できるようになった。 しかしハイブリッド導入でコストが上がる分を補填する必要があり、他の部分ではローテク化がなされる。具体的には前後メカニカルデフでセンターデフそのものが廃止され、空力開発も制限されるなどしたため、コーナーリング面では前規定に比べると不利な部分が増えた。 新規ワークスチームの参入を促すため、鋼管パイプフレームを使ったプロトタイプのボディワークも認められる事となった。これはベース車両のスケーリングも可能であり、従来のようなBセグメントコンパクトカーのみならず、Cセグメント車やSUVも規定サイズに縮小すれば参戦が可能となった。 古くからホンダを除く主要日本メーカーのほとんどが参戦、活躍を見せた。 トヨタはWRCの前身であるIMCの1972年シーズンから、ドイツのプライベーターであったオベ・アンダーソン・モータースポーツ(後のTTE、TMG、TGR-E)を支援する形で参戦。当初は欧州イベントのみに参加していた。カローラレビン、セリカを運用して1975年の1000湖ラリーで初優勝を果たした(ただしトヨタ車としては1973年アメリカが初)。1977年にはマニュファクチャラーズ選手権で日本車勢最上位となる3位につけた。その後欧州イベント以外にも活動を広げ、82年ニュージーランドの他、1984年から1986年までサファリラリー3連覇を果たすなどの活躍を見せた。 1990年にセリカを駆るカルロス・サインツが当時、無敵の強さを誇っていたランチア勢を破って日本車で初のドライバーズタイトルに輝くと、1993年にはユハ・カンクネンのドライバーズタイトルに加えて日本車初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。1994年もダブルタイトルを獲得し、黄金時代を築いた。しかし1995年に苦戦から違法なリストリクター製造に手を染めてしまい、発覚後にFIAより1年間の出場停止処分が科された。これを重く受け止めたトヨタは、出場停止を言い渡された1996年に加え、翌1997年まで活動を自粛した。1998年にWRカーのカローラで復帰するとすぐに三菱とタイトルを争い、1999年に3回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得して有終の美を飾り、トヨタはF1へ転身していった。 それから18年後の2017年、ヤリスWRCで復帰。オペレーションはフィンランドを本拠とするトミ・マキネン・レーシングで、エンジン開発をTMGが行った。デビュー2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たし、翌2018年には5勝を挙げて19年ぶり4回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。 以降2022年終盤時点で、マニュファクチャラーズ選手権は5回、ドライバーズ選手権は8回まで記録を伸ばしている(いずれも日本メーカー1位)。 また下位クラス向けにTMG(現TGR-E)が開発したヤリスR1やGT86 CS-R3のプライベーターへの供給も行っている。 2022年現在、下位クラス含めて唯一WRCにワークス参戦している日本メーカーである。 日産は「ダットサン」ブランドを用いてIMCの初年度から参戦していたが、サファリラリーにはそれよりさらに前の1963年から参加しており、クラス優勝や総合優勝を達成するなど実績を積み重ねていた。スポーツ240Zが1973年のWRC開幕初年度から日本のワークスチームとしてWRC初優勝を果たしたのもサファリであった(サファリでは3回目の総合優勝)。1979年 - 1983年にもA10系バイオレットでサファリラリー史上初の4連覇を果たした。また1979年・1981年はマニュファクチャラーズランキングで2位に入り、グループ2・4規定時代のWRCを日本最強のメーカーとして過ごした。 しかし、グループB規定が導入されると、得意のサファリでもトヨタ・セリカなどの後塵を拝するようになった。1988年のアイボリーコーストでの200SX(日本名シルビア)の優勝が日産にとっても最後の優勝であり、WRC史上最後のFR車の優勝ともなっている。1991 - 1992年のパルサーGTI-Rを最後に、本社の業績不振からシーズン途中で撤退した。通算では9勝を記録しているが、結局タイトルには手が届かなかった。 なおGTI-Rは1992年にFIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)でグレゴワール・ド・メビウスのドライブによりチャンピオンマシンになっている。またFIA2リッターワールドカップ(後のJWRC)にもヨーロッパ法人が開発したサニーGTI、F2キットカーのマイクラやアルメーラなどが参戦していたが、本社がフランスのルノー傘下になる直前に活動を終了した。 1973年のWRC開幕初年度から参戦を開始。1974年にランサーでサファリラリーで初優勝を果たした。排ガス規制対策で一時休止後、1981年にランサー2000ターボで復帰。1984年にはラリーアートを設立、ヨーロッパに拠点を移した。その後長いグループA導入とともに開花、1989 - 1992年にギャランで計5勝を挙げた。1993年にはランサー エボリューションがデビューすると、1996年から1999年までトミ・マキネンによって4年連続ドライバーズタイトル、1998年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、日本車黄金時代の一翼を担った。 しかしWRカーへ移行する中で最後までグループAにこだわった結果、苦戦が続き、マキネンの離脱や人材不足もあって混迷を極め、2003年に参戦休止。2004年に新設されたMMSP(三菱モータースポーツ)がラリーアートから運営を引き継ぎ、ジル・パニッツィをエース、新たに開発したランサーWRカーで再出発したものの、トラブルの多発により母国戦のラリージャパン開催前に活動を休止。2005年はハリ・ロバンペラをエースに起用し、パニッツィとロバンペラが表彰台、ラリートルコではジジ・ガリが一時首位を走るなど躍動したものの、本社の相次ぐリコール隠し問題から経営が急速に悪化したため、2005年に三たび参戦を休止、これが事実上の撤退となった。2007年末には英国の拠点を閉鎖、2010年にラリーアートが業務の一部停止を発表した。 しかしその後もランサーWRカーはプライベーターに用いられ、2006年にダニエル・カールソンがラリー・スウェーデンで総合3位入賞した。また同車のグループN規定車両も、2012年までのPWRCで4度のドライバーズタイトルに貢献した。現在も地元プライベーターによるランエボのスポット参戦は多く、2017年ラリー・オーストラリアでは上位勢の大量リタイヤもあり、ランサーエボリューションXの地元ドライバーネイサン・クイーンが総合ポイント圏内でフィニッシュした。またスウェーデンのプライベーターであるMパートABがグループR5相当のミラージュ(欧州名:スペーススター)を独自開発して2018年から北欧イベントにASN車としてスポット参戦しているが、正式な公認取得の予定はないとしている。 1981年にベルギーに設立されたマツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ(Mazda Rally Team-Europe, MRE-T)のもとにマツダのWRC活動の大半は行われた。1979年のRACラリーからグループ2規定のサバンナ・RX-7で参戦。グループB規定もRX-7で1986年まで戦い続け、最高3位の成績を収めた。グループAが導入されると、ワークス活動はそれまで下位クラスで活躍していたファミリア(323)に切り替えられた。 グループBの消滅より前から生産されていた323 4WDターボ(ファミリア4WDターボ)は、グループA導入の初年度から欧州メーカーのライバルたちと競り合い、1987・89年スウェディッシュ・ラリー、1989年ニュージーランド・ラリーで合計3度の総合優勝を記録。1989年にはマニュファクチャラーズランキングでトヨタに次ぐ3位につけた。しかし本社の業績不振のため、タイトル獲得は達成できないまま1992年をもって撤退した。 323は素性に優れており、FIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で3度チャンピオンマシンになっている。 1980年のサファリラリーの下位クラスにてデビュー。この時アウディより一年早く持ち込んだ4WDは、2WDが常識だった当時は画期的なもので、このレオーネは高い走破力を発揮しすぐにクラス優勝を飾った。グループA規定導入後の1990年、英国のコンストラクターのプロドライブとのジョイントでレガシィで最高クラスに挑戦を開始。1993年のニュージーランド・ラリーで初優勝し、1995年に初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得。以降、1997年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇した。また2001年にリチャード・バーンズ、2003年にペター・ソルベルグがドライバーズタイトルに輝いた。 しかしその後は、頻発するトラブルや度重なるモデルチェンジによる仕様変更の影響もあって、上位に絡めない展開が続き、2008年にようやくトップ争いが見える位置まで復活。だが、上位のシトロエン、フォードとの差は開いており、2008年に経済状況と「当初の目的を達成した」ことを理由として撤退した。 スバルは三菱同様PWRCでも猛威を振るい、2003年から2007年まで5年連続でドライバーズタイトルに貢献。PWRCがWRC2に変わった後も、2014年までワークス支援を続けていた。 スズキは日本メーカーでは最後発にあたる。1986年に田嶋伸博のモンスタースポーツが中心となって開発したカルタスのグループA5仕様でアメリカのオリンパスラリーにスポット参戦したのが初めてであった。その後1988年までA5クラスで同ラリーを3連勝した。特に1988年は多数のワークス不在という条件はあったものの、三菱・マツダを抑えて総合でも日本勢最高位でのフィニッシュとなった。その後一旦スズキはAPRC(アジア・パシフィック・ラリー選手権)へと転身し、バレーノのF2キットカーなどで経験を積んだ。 2002年に田嶋率いるスズキスポーツが下位クラスのJWRCに参戦し、スーパー1600規定のイグニスとスイフトで3度のドライバーズタイトルを獲得している。通算勝利数はシトロエンの32勝に次ぐ24勝で歴代2位である。 最高峰のWRCクラスには、当初2007年が夏季開幕となるウインターシーズン案が検討されていたため2007年からの全戦参戦を計画していたが、ウインターシーズン案が撤回されたため、2007年は3戦にスズキ・SX4 WRCでテスト参戦し、2008年からフル参戦した。シーズン前半は初期トラブルが多発し完走も難しかったが、後半へ向けて改良が行われ、2台完走することが増えていった。しかし最高位は日本とグレート・ブリテンの5位に終わり、2008年12月15日にリーマン・ショックによる業績不振を理由にスズキは2009年以降のWRC参戦休止を表明した。その後もJWRC活動は続いたが、2010年をもってマルチメイクが終了したのに伴いこちらも撤退となった。 グループ2/1(1300 cc未満)のシャレードで1979年 - 1981年にラリー・モンテカルロにスポット参戦、1981年にクラス優勝を果たした。また最高峰に向けてデ・トマソ社とともに本格的なグループBカーである926Rを開発していたものの、グループB廃止で市販化も含めて幻と消えた。 1982年からサファリラリーに参戦し始め、82・84・85 - 88・90 - 93年にクラス優勝。特に1993年のサファリでは排気量が1 L大きいライバル達を相手に健闘、総合1 - 4位を占めたトヨタ・セリカに次ぐ総合5 - 7位に食い込む活躍を見せた。 現在トラックメーカーとして知られるいすゞだが、乗用車製造から撤退する前にはRACラリー限定でWRCにスポット参戦していた。日本人で構成されたチームいすゞは1983年 - 1985年にアスカ、1986・1987年はジェミニで参戦。1984年にグループAクラスで優勝している。 メーカーのみならず、多くの日本人ドライバーがWRCに参戦した。下位クラスでは目覚ましい活躍が残されており、PWRCでは新井敏弘(スバル)が2度のドライバーズタイトル(日本人として初の四輪世界選手権王者)を獲得している。 プロダクションカーカップ/グループNクラスや2リッターカップの単一イベントなどでは西山寛(日産)、藤本吉郎(トヨタ)、三好秀昌(スバル)、鎌田豊(いすゞ)らが勝利を挙げているほか、奴田原文雄(三菱)が2006年のPWRCでラリー・モンテカルロを含め3勝を挙げて年間2位の成績を収めている。またサファリの岩瀬晏弘、RACラリーの勝田照夫や神岡政夫、APRC王者の田口勝彦、ナビでテイン設立者の市野諮なども古くはよく知られた名前である。 一方で日本人のWRC総合優勝記録は2021年現在、篠塚建次郎(三菱)による1991年、1992年のコート・ジボワール・ラリーでの2回に留まっている。 2015年からはTOYOTA GAZOO Racingの育成プログラムの下、元WRCドライバーの勝田照夫を祖父にもつ勝田貴元と、新井敏弘の息子新井大輝、コ・ドライバーの足立さやかがトヨタの支援でWRC2に参戦(マシンはフォード・フィエスタ R5を使用)し、2018年のラリー・スウェーデンで勝田が日本人初のWRC2優勝を挙げている。勝田はトヨタに才能を見出されて2019年にWRカーデビューを果たし、2022年現在WRCのトップカテゴリで、地元ラリージャパンを含め3度表彰台を獲得する活躍を見せている。 今でも全日本ラリー選手権の経験を持つドライバーが下位クラスや地域規定のマシンで海外イベントにスポット参戦することは珍しくない。 開催国を中心として、ヨーロッパで絶大な人気を誇るWRCはテレビ放送も盛んに行われている。特にフィンランドは母国イベントの開催時に国民の10%が観戦するほどの人気があるという。FIAとしてもテレビ放送から得られる収入は無視出来ないものとなり、スーパーSSなどテレビ放送向けにイベントを組んでいるが、より多くの視聴者を獲得するためにはテレビ放送より規模の大きいインターネット配信が有効という意見も出ている。ラジオ放送も行われており、日本でもインターネット経由で聴くことが出来る。 また2014年から一部のSSを有料配信する、公式ライブストリームサービスの「WRC plus」が配信開始。2018年には全SSをライブ配信する「WRC All Live」へと名称が変わった。これも日本で視聴することが可能で、またRed Bull TVでは同配信の一部を無料で配信している。 2019年現在J SPORTSが各イベントの最終SSのライブ中継や各DAY・イベントのダイジェスト、ラリージャーナリストが取材したWRCの裏側リポート等を有料放送している。 1990年代はNHKでWRCの報道がされていたほか、2003年以前は日本テレビで深夜にダイジェスト番組が放送されていた。 2004年にテレビ東京でもダイジェスト放送が開始。祝日や土日の昼頃に放送されており、時にはナビゲーターが現地リポートを行うこともあった。2005年のラリージャパンでは『報道ステーション』の松岡修造が出演するコーナーにて特集され、2006年には前述の放送局に加えて、インターネット放送GyaO、CS放送AXN、地上波放送日本テレビ系列および福井放送で行われたが、以降は地上波でWRCやラリージャパンに関する放送はされなくなった。衛星放送ではBS日テレでもダイジェストで放送していたが、スバルのWRC撤退によるスポンサー撤退で2008年12月25日で放送終了。2008年はテレビ東京系の番組『モヤモヤさまぁ〜ず2』とタイアップし、同年11月14日に21時から2時間特番を放送した。その他の放送局はWRCの報道に消極的であり、日本で開催されるラリージャパンも例外でない。同ラリーの開催時期でも、地上波では過去にWRCの放送経験があるテレビ東京系列の他は日本テレビ系列やNHKで多少触れられる程度であった。 2017年からトヨタのWRC復帰がきっかけでテレビ朝日において『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』というダイジェスト番組や『報道ステーション』のスポーツコーナーにおいて各イベントの結果の放送がされるようになっている。2018年1月には『アメトーーク!』で「世界ラリー大好き芸人」が特集され、1時間の枠でWRCが紹介された。 『地球の走り方』は芸人による現地リポートがメインの初心者向けバラエティー番組であり、モータースポーツファンからは不評であった。また、番組出演者がサービスパークで悪ふざけや、MCの渡部建がクリス・ミークのクラッシュシーンで不快な演出を行い、当シーンを視聴していたJスポーツのWRC番組MCの栗田佳織から批判されるなど不備が存在。『地球の走り方』としては2018年をもって終了。 2019年以降は『世界ラリー応援宣言2019』『ラリージャパン応援宣言』『モータースポーツ応援宣言』と5分番組に縮小し放送を続けている。また『地球の走り方』終了後の2019年以降も、『報道ステーション』では不定期にWRCの結果を報道している他、テレ朝Postもラリー記事を投稿している。この番組の影響もあり六本木ヒルズで毎年行われている「テレ朝夏祭り」でもWRCに関連したアトラクションが設営されていた。 その後、世界ラリー応援宣言と入れ替わるような形で、BS日テレが11年ぶりにラリーダイジェスト番組を4月よりラリーツール・ド・コルスからスタートさせたものの、12月をもって終了。2020年にはNHK-BSにて勝田貴元の挑戦を追いかけたドキュメンタリー番組が放送され、6月には同局にて開幕戦から第3戦までのハイライト番組を放送。同年12月には残り4戦のハイライト放送を行った。2021年以降もNHK-BSにてハイライトが不定期で放送されている。 また、ユーロピクチャーが1990年代前半からヨーロッパのラリーハイライト番組を翻訳したVHSを発売している。 その他、『カーグラフィックTV』もラリーのハイライトを放送したことがあった。 WRCの専門雑誌としては、1990年に創刊したWRC速報誌『RALLY・XPRESS』が草分け的な存在だが、2007年末の出版社の解散にともない廃刊。現在は、同誌の元スタッフが運営を引き継いだ携帯サイトラリーXモバイルとしてラリー情報を配信している。2017年現在、WRC専門誌『WRC PLUS』は廃刊、編集部が同誌を引き継ぐRALLY全般誌『RALLYPLUS』(三栄書房、編集: 株合同社サンク )として刊行されている。 新谷かおるの『ガッデム』が、『ビッグコミックスペリオール』で1988年 - 1990年まで連載され、OVAとしてアニメ化もされた。パリダカのようなモノだけをラリーと認識している人が多かった当時の日本に、WRCのルールを浸透させたエポックメイキングな作品。架空の日本車メーカー三沢自動車と日本人ドライバー轟源の活躍を描く。 なお新谷かおるは、同じくWRCを扱った作品として『NAVI』を『ヤングマガジンGT』に2000年1号 - 2002年6号まで連載、単行本全1巻をヤングマガジンコミックスから発売している。こちらはドライバーではなくナビゲーターが主人公というのが珍しい。 しんむらけーいちろーの『FLAT OUT』が、『別冊ヤングマガジン』に2005年4月 - 2006年12月まで連載された。2004年のラリージャパンとラリー・オーストラリアを舞台に日本人ドライバー剣龍也の活躍を描いている。なお、しんむらは2022年ラリージャパンを盛り上げるための公式マンガとして、勝田貴元の半生を描いた『勝田貴元物語』を描き下ろした。 2018年6月にはトヨタの全面協力の下にWRCを目指すドライバーとそれを支えるメカニックの兄弟を描いた、東出昌大/新田真剣佑主演の映画『OVER DRIVE』が公開された。また、2021年10月には再びラリーを題材にした映画『僕と彼女とラリーと』が公開された。 2001年(日本では2002年)のWRC ワールドラリーチャンピオンシップ(英語版)以降、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)(2001年~2005年)、Black Bean Games(2010年~2012年)、Nacon(2013年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。SCEから発売されたソフトはすべてPlayStationシリーズ限定。 日本ではスパイク(2002年~2006年)、サイバーフロント(2011年~2013年)、スクウェア・エニックス(2014年)、オーイズミ・アミュージオ(2017年~2022年)、3goo(2021年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。 ※2022年ラリージャパン終了時点。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "世界ラリー選手権(せかいラリーせんしゅけん、英語: FIA World Rally Championship、ワールドラリーチャンピオンシップ、通称:WRC〔ダブリュアールシー〕)は、国際自動車連盟(FIA)が主催するラリー競技の世界選手権である。ヨーロッパを中心としてアフリカ・中南米・アジア・オセアニアなどの地域でも開催されている。併催のWRC2、WRC3などについてもここで述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1970年にそれまで世界各地で単独に開催されていたラリー競技のイベントをFIAの下に一本化して誕生した、「国際マニュファクチャラーズ選手権(英語版)」(英: International Championship for Manufacturers、通称:IMC)が前身である。1973年に世界選手権へと格上げされて、WRCとしてスタートした。FIAが主催する自動車競技の世界選手権の中ではF1世界選手権(1950年創設)の次に長い歴史を持つ。また開幕戦のラリー・モンテカルロは、F1のモナコグランプリより長い歴史を持つイベントである。選手権は元々はマニュファクチャラー部門(自動車メーカー)のみが争われたが、後にドライバー部門とコ・ドライバー部門の選手権も争われるようになった。また下位のサポート選手権であるWRC2、WRC3、JWRCが併催されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ラリーの種類は、公道や競技場などに設けられたコース=スペシャルステージ(SS)でタイムアタックを行い、各SSタイムの合計で順位を決める「スペシャルステージラリー」である。SSとSSの間の移動は「リエゾン」または「ロードセクション」と呼ばれ、一般車に混じり現地の交通法規に従って走行する。現行の標準的なスケジュール(アイテナリー)では、木曜日から日曜日にかけての3 - 4日間に20本前後のSSを走行する。SSの合計距離は300 - 400 km、リエゾンを加えた総走行距離は1,000 - 1,500 km程度である。SSの時間は基本的に日中で、時々早朝や夜間にも行われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "競技車両は一定数生産された市販車をベースとして、公認範囲内で改造を加えたラリーカーである。性能別に数段階にグループ分けされているが、選手権タイトルを賭けた最高峰クラスは、マニュファクチャラーの直営組織(ワークスチーム)が開発した現在ではワールドラリーカー(WRカー)で競われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "競技車両にはドライバーとコ・ドライバーの2名が乗車し、コ・ドライバーがコース上のコーナーや路面状況などをあらかじめ記載したペースノートを読み上げ、ドライバーはそれに従い運転操作を行う。また、基本的にはドライバーが運転操作を行い、ナビゲートするのがコ・ドライバーという形ではあるが、非常に稀なケースではあるものの両者の役割が逆転する場合もある。2011年スウェーデンラリーでは、ペター・ソルベルグ選手が一般道のリエゾン区間でスピード違反で免許停止措置(世界中で開催される世界選手権に参加するためのライセンス以外に開催国での自動車運転を認めてもらうための国際免許を停止される処分)を受け、処分の執行には48時間の猶予があったものの、最終ステージ前で執行猶予時間が経過したため最終ステージだけをコ・ドライバーのグリス・パターソンにステアリングを託し、ソルベルグ本人は助手席で運転操作を解説しながら最終ステージを完走するという場面もあった。このように、タイムアタック区間(スペシャルステージ)以外の走行区間では開催当該国の道交法に従わなければならないため苦肉の策が実行されるケースもある。また、スペシャルステージでアクシデントを起こして破損した車で走り続けるしかない場合(多くの場合はリエゾン区間前にチームの整備を受けられる)もあり、そのままリエゾン区間に入ると整備不良や危険な破損車での走行ということで警官に止められ、その場合は、その場で即刻リタイアを余儀なくされるケースもある。このようにFIA(世界選手権主管団体)が定めた規則だけではなく、開催当該国の道交法も遵守しなければならない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "競技車両は市販車両をベースに製作することと規定されているため外観はベースモデルと大差無いが、特に最上位のWRCクラスの車両であるラリー1は、フレームやエンジンはじめとする各パーツ、駆動やサスペンションの形式の変更などが行われ、内部はほぼ完全に別物となっている。ECUにはSS用の“ステージモード”、リエゾン用で低燃費となる“リエゾンモード”の2種類が設定されており、走行状況に合わせて切り替える仕様となっている(ラリー1の車両では、ハイブリッドシステムの複数の走行モードを切り替えて運用する)。", "title": "主な特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "競技ライセンス“国際C級レース除外”を取得し、規定に合致した車両を用意して抽選に通れば、一般人もプライベーターとして出場することが可能である。WRカーの後から同じコースを走りタイムを争い、時にはプライベーターがランキングの上位に食い込むということもある。なおコ・ドライバーもドライバーと同等の競技ライセンスが必要である。", "title": "主な特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "サーキットで行われる周回競技と異なり、一般道路や林道などを一時的に閉鎖して行われるため、設営された観客席は少ない。観客はコースを間近で見られることもあり、熱心なファンは足繁く観戦ポイントに出向く。しかし、車両がコースオフし客席に飛び込む恐れもあるために観戦には危険も伴い、過去には死亡・負傷事故も起こっている。(特に1980年代のグループB規定時代は、ドライバー、観客の死亡事故が多発した)", "title": "主な特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "観客達が大きくコースオフした車両をコースに戻したりすることも多々あるが、本来ドライバー、コ・ドライバー以外の人間が競技車両に触れることはルール違反なため、ドライバーはペナルティを受けてしまうことが多い。逆に観客が競技の妨害を行うこともあり、開催中にコース上の冊が閉められたこともある。現地の運営側が観客をコントロール出来ないと判断された場合はSSそのものがキャンセルとなり、実際にラリー・ポルトガルやラリー・ポーランドがこの理由で一時WRCから外された。", "title": "主な特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "広大なエリアでは、時に観客がプロに代わるカメラマンとして活躍することがある。2005年のキプロス・ラリーでは、フランソワ・デュバルのコースオフと車両炎上のシーンにおいて、観客が撮影した映像が国際映像として放映された。また近年はドローンが撮影に投入されており、ダイナミックな映像の撮影に大きな貢献をしている。", "title": "主な特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "WRCの統一プロモーターは2014年から現在まで、「WRCプロモーター有限会社(WRC Promoter GmbH)」が担っている。以前は1982年にバーニー・エクレストンにより設立された「ISO(International Sportsworld Communicators)」が2010年まで、これをノースワン・テレビジョンが買収した「ノースワン・スポーツ」がプロモーターを務めていた。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "各々の国で開催される競技をイベントと呼ぶ。年間のイベント数は1990年代中頃まで8 - 10戦程度であったが、増加を望むFIAの意向により各ラリーの開催日数・走行距離の短縮やサービス (車両整備) 回数の制限等、イベントの簡素化が進められたことに対応するようにイベント数が徐々に増やされ、2007年には全16戦、2008年は全15戦となっていたが、2009年と2010年は2年間で24戦を隔年で開催するという年間12戦のローテーション制となり、2011年からは全13戦となっている。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "F1のオフシーズンであるストーブリーグが4ヶ月-5ヶ月近くであるのに対して WRCは1ヶ月前後しかないが、シーズンオフが短い分、6月上旬から7月終わりまたは8月始めまで約2ヶ月間の休息期間となるインターバルを設けている。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現在WRCクラスのマニュファクチャラーは全イベントに参戦することが前提となっているが、かつては有効ポイント制であったことに加えて輸送の問題や参戦コスト、マシンの得意・不得意などもあったため、全イベントに参戦しない方がむしろ一般的であった。WRC黎明期に日本勢がアフリカイベントで好成績を残すことができたのは、そうした事情も関係がある。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イベントで使用されるコースの路面環境は様々だが、大きな分類では未舗装路のグラベルとアスファルト舗装路のターマックの2種類で、積雪路のスノーや凍結路のアイスは、土台となる基礎路面で分類される。ターマックとグラベルが混在するミックスサーフェイスのイベントも有る。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "概ね、ターマックでは車高を下げて大径の18インチホイールを装着するのに対して、路面変化の大きいグラベルではサスペンションのストロークを確保するために車高を上げて小径の15インチホイールを装着する。全イベントの2/3を占めるグラベルも地質や砂利の割合などそれぞれ特性が異なり一括りに出来ない難しさがあるため、ターマック、グラベル共に路面状況や天候を読みながらのセッティング、タイヤ選択がタイムに大きな影響を与えることも少なくない。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ラリードライバーは大別するとターマックが得意か・グラベルが得意かで分けることができるが、その違いはドライバーの出身地による場合が多い。例えばグラベル路面の多いフィンランドのドライバーはグラベルが得意で、ターマック路面の多いフランスのドライバーはターマックが得意、といった具合である。これは慣れというのはもちろん、その地域で頭角を現すためにはその地域の路面に強い必要があるということでもある。また同じ「グラベル」「ターマック」でも、国によってコース環境は大きく異なるため、地元のドライバーが好成績を残す傾向にある。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "かつてはタイヤの種類や使用本数に制限は無かったが、コスト低減などを目的としたコントロールタイヤ制度 (ワンメイク) の導入と同時に様々な制限を行った。タイヤの種類は、トレッドパターンがブロック状のグラベル用、ターマック用のグルーブ (溝) が少ないスリックのほか、冬期イベント用にスノーとスタッド付きスノーがある。レギュレーションにより、イベントで使用可能なトレッドはグラベル、ターマック共に1種類、コンパウンドは2種類まで認められているが、例外として、ターマックの冬期イベントで路面のコンディションが多種多様に変化するモンテカルロでは4種類まで認められている。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "車両へ搭載されるスペアタイヤの本数は2本まで、新品タイヤへの交換は“サービスパーク”への入庫時のみ、交換本数も4本までとなっている。限られたタイヤ本数で如何に早いタイムを出すことが求められるため、特に近年はタイヤマネージメントの重要性が増した。前後左右のタイヤ選択、前後のローテーション、内圧設定のほか、勝負所となる重要なSSを見極めタイヤを温存するなど様々な戦略が取られている。イベント毎に使用出来るタイヤの総本数は異なるが、2014年のラリー・イタリアではシェイクダウンに4本、競技では35本となっている。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2018年現在でFIAに認定されている公式サプライヤー (供給メーカー) は、ミシュラン、DMACK、ピレリの3社である。2008年から2011年までは独占契約を結んだ1社が全てのマシンにタイヤを供給するワンメイクとなっていたが、2011年からはタイヤメーカーの選択が自由となり、各チームがそれぞれのタイヤメーカーと契約する形となっている。尚、トップクラスのWRカークラスに関しては2021シーズンから、コントロールタイヤがミシュラン製からピレリ製に変更されている。", "title": "路面とタイヤ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "3日間または4日間で行われる。各日はDAY (デイ) で表し、1日目は「DAY1 (デイワン)」と呼称する。DAYは、実質的な競技区間のSS (Special Stage: スペシャルステージ、通称: エスエス) と計測地点のTC (Time Control: タイムコントロール)、公道を走行する移動区間 (ロードセクション) のリエゾンに分けられ、SSの合計タイムが最も早いドライバーが優勝となる。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "競技はアイテナリーと呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。通常のスタート間隔は2分だが、グラベルで無風状態になると前車走行後の土煙が2分以内に収まらず、後にスタートしたマシンが視界を遮られて影響を受けるため、その場合は間隔を1分延長し、状況次第では更に1分延長される事も有る。このためサーキットレースとは異なり、トラブルで減速・停車した場合を除きコース上での抜きつ抜かれつはほぼ生じない。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イベントが開催される週の水曜日からレッキと呼ばれる、競技で使用されるコースの下見走行を行い、ドライバーとコ・ドライバーはコース状況を把握してペースノートの製作を行うが、使用車両は競技車両ではなく一般車両となる。水曜日の夕方から木曜日に掛けてはシェイクダウンと呼ばれる、実際に競技車両を使用して最終チェックを行った後、車検を受けて規定外のパーツの装着が無いか確認が取れると、競技車両はパルクフェルメと呼ばれる車両保管所に置かれ、ドライバーを含め全ての関係者は競技開始まで触れることが出来ないようになっている。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一般道路を使用する移動区間。スタートした車両はリエゾンを通りTCへ向かう。SSと異なり閉鎖されていないため、現地の交通法規に従い一般車両に混じって走行する。そのため競技車両は開催国のナンバープレートを装着する。リエゾンを走行することも競技の一部であり、主催者から示されるコマ図に従って走行するというラリー競技当初の姿が現在も残っている。TCに入る時間は車両毎に指定され、指定時刻に遅れた場合は1分につき10秒のペナルティが総合タイムに加算される。スピード違反や一時停止義務違反で現地の警察に検挙されることもあり、ドライバーが免許停止などの処分を受けた場合、以後のリエゾン区間はコ・ドライバーがステアリングを握ってドライバーがナビをする。また、各国の法律に定められた保安基準を満たしていない場合は走行を止められることがあり、特にSS区間でのトラブルで車が破損した場合などに問題となる。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一般道路を一時的に閉鎖して作られた区間で、スタート地点はTC内に設置され、1台ずつ一定間隔でスタートしてタイムを競う。イベントによっては一般道路を閉鎖して使用するSSとは異なり、人工的に作られたサーキットコースのような特設会場で、2台の車両が仕切りのあるコースを同時にスタートするスーパースペシャルステージ (Super Special Stage: スーパーSS、SSS) も存在する。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スピード感のある走行シーンが見所であるため、メディア中継が行われるのもSSであることが多い。SSの数はイベントにより異なるが概ね20前後で、各SSの距離は2 km前後から50 km以上まで存在し、合計距離は300 - 400 km程度となっている。2011年からはパワーステージが導入された。タイトル争いでは僅かなポイントが結果を大きく左右する場合があるため、DAYリタイアやトラブルで上位進出の可能性が無くなった場合はパワーステージでのポイント獲得に切り替える事が多い。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "タイムは速いほど良いためドライバーは全力で挑むが、時にはスピンやパンクによるタイムロスも発生する。また、事故や機器のトラブルなど、車両が深刻なダメージを受けて走行不能となった場合は、リタイアしたSSと、同日に行われる全てのSSがリタイア扱いとなるDAYリタイアとなる。全損で無い場合、指定の時刻までに車両を走行可能な状態にして認定を受けた場合は翌日の出走が可能となる救済措置のラリー2規定が適用され、ペナルティとしてリタイアしたSSと走行出来なかった残りのSSのトップタイムに5分加算されるが総合成績は有効となる。ただし、最終日にリタイアした場合は同規定が適用されないため未完走扱いとなり総合成績は残らない。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "DAYリタイアの時点で、優勝やポディウム争いからは脱落してしまうが、以降のイベントに向けてのテストやセッティングと割り切って走行する事が多い。2014年からは、シードドライバーがDAYリタイアし翌日出走する場合、前年のドライバーズポイント順である、ゼッケンナンバーが15番までのシードドライバーの最下位に組み入れることと規定された。これは、余りにも下位の出走順にしてしまうと、技量の高いシードドライバーがタイムの遅い前走者に追い付き、危険と判断されたものである。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "スタート順は、グラベルのイベントに於いては重要なファクターとなる。最初にスタートするドライバーは堆積する土砂を掻き分ける掃除役となり不利を被ることが多いため、これまでも様々な対策が取られてきたが根本的な解決策は定まっていない。2013年までは事前に行われる予選でタイム順に上位のドライバーから自由に決めることが出来たが、2014年からは予選が廃止された。新方式は、初日のDAY1はドライバーズポイントが高い順、DAY2以降はスーパーSSを除く前日の最終ステージを終えた時点での総合成績順となっている。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "各DAY最後のSS終了後はTCに移動してリエゾンを通り、サービスパークと呼ばれる各チームの本部に戻る。サービスパークでは競技中の整備や給油などの各種作業が許されるが制限時間があり、制限時間をオーバーしたり、SSを欠場してマシンの修復を行う場合はペナルティとしてタイムが加算される。その後、車両は再びパルクフェルメに保管されて次のDAYの競技開始を待つ。サービスパーク以外で簡単な整備が出来る場所、リモートサービスを設ける場合もある。", "title": "スケジュール" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2014年にFIAにおける地域選手権も含めたラリーカーの規定は、6つのクラスに再編された。グループRのR3D以外は全てガソリン車となる。従来は各クラスに多数の規定が混在していたが、2019年にグループA・グループNを排除して簡素化された。また2020年にはグループRのうちR3以外のすべてが「Rally〜」へと改名している。現在の車両の区分は以下の通り。", "title": "車両クラス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この技術区分はプライオリティ(優先順位、出走順などに関連)の基準として用いられる。", "title": "車両クラス" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2022年現在。車両の詳細は競技クラスを参照。", "title": "車両クラス" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その他、これらのクラスとは別枠でASN(Authority Sport Nationale、各国の自動車協会)の認める地域選手権独自の規定の車両がエントリーすることも可能である。ただし安全基準はFIAのそれに準ずる。またチャンピオンシップポイントを得ることはできず、賞典外での参加となる。", "title": "車両クラス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "WRCのほかにWRC2、WRC3を始めとするサポート選手権と、それに付随する各種カップが存在する。このうちWRC2とWRC3は全WRCイベントで併催される。こうしたいわゆる「下位クラス」は業界の事情に対して右往左往するような形で毎年大規模に賞典の変更が行われるため、情報を追う場合には特に注意が必要である。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "タイヤは2022年現在、全クラスでピレリとなっている(ただしASN車両はこの限りではない)。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "選手権の名称にもなっている最上位クラス。1973年誕生。マニュファクチャラー(製造者)として参戦するチームは、全13戦で2台以上のエントリーが義務付けられている。ポイントは全戦有効。カーナンバーは基本的に1 - 30番だが、それ以外をリクエストすることも可能。2019年よりチャンピオンドライバー以外は「2 - 99」のうちから自由選択となった。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現在の車両規定はRally1である。市販車に由来しないパイプフレームと共通のハイブリッドシステム、SDGsの観点から精製されたバイオ燃料を用いているのが特徴となる。エンジンは先代のWRカー規定からキャリーオーバーされた直列4気筒1.6 Lターボの「GRE(グローバル・レース・エンジン)」と呼ばれる規格で、最高出力は約380 PS、最大トルクは約425 Nmを発生する。ハイブリッドの最大出力と組み合わせると500PS/500Nmにも達する。コスト削減のためパドルシフトとセンターデフ、電子制御デフは禁止されている。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ベース車両は古くはクーペやセダンが主流であったが、2000年代以降は小型化が進み、現在のラリー1はBセグメントハッチバックと同様のシルエットを採用している。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2018年まで規則上ではグループN、スーパー2000、グループA、グループRGT、グループRなども参戦可能であったが、実際にこれを用いるエントラントはなく、2019年以降は規則から削除されている。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "WRCの直下カテゴリ。2013年誕生。参戦した7戦のうち上位6戦分のポイントが採用される有効ポイント制である。カーナンバーは2018年までは31から60番。2019年より20番以降となる。歴史は長くないが、WRC3との絡みも合わせて参加車両・参加資格などの変更が非常に多くされてきたクラスである。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "使用車両は2022年現在はRally2(旧名グループR5)車両のみで選手権が争われる。2013〜14年まではグループR4、2013 - 2018年まではグループN4、スーパー2000もエントリーできた。またWRC2発足当初はグループN4が対象の「プロダクションカーカップ」が設定されていた。2020年からは、オレカ製の共通コンポーネントおよび1.6リッターターボエンジンを搭載するRally2キットカー(旧R4キットカー)も参戦可能となる。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "グループRally2/R5は元々はスーパー2000に代わる規定で、最大価格18万ユーロの規制の下に多数のメーカーが開発・販売を行っている。エンジンは市販車由来の1.6 Lターボで最大馬力280 PS程度、大規模な空力パーツも無いため絶対的な速さこそRally1に劣るが、コースやドライバーなどの諸条件が揃うと稀にRally1/WRカーを上回るパフォーマンスを見せることもある。コストパフォーマンスに極めて優れているためプライベーターからの人気が高く、シュコダのようにこのクラスを主戦場とするメーカーもいるため、かつてはRally2/R5規定を次期WRカーとする構想があったほどであった。結局それは実現していないものの、ワークスチームやプロドライバーが多数いる現状を鑑みて、彼らを対象としたWRC2プロクラスが開催されていたこともあった。WRC2プロは1年間のみの開催で、2020年からはワークス向けのWRC2プロを「WRC2」、プライベーター向けのWRC2を「WRC3」へと名称を置き換えることとなった。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2022年からは再びワークス・プライベーターともにWRC2に一本化され、高齢層のための「マスターカップ」と、WRC2/3優勝経験を持たない若年層のための「ジュニアカップ(WRC2ジュニア)」が賞典として施行される。2023年からはジュニアカップはまだRally2レベルのサポート選手権(WRC2/旧WRC3)の王者になったことのないドライバーによる「WRC2チャレンジャー選手権」に格上げされ、マスターカップは50歳以上のドライバーとRally2〜5またはR-GT車両が対象の「WRCマスターズカップ」へと変更された。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2013年誕生。運営規則はほぼWRC2とかなり近く、13戦開催・7戦中6戦の有効ポイント制を敷く。歴史は短いながら車両規定の変遷が激しく、廃止と復活も経験している。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "もともとはワンメイク化されたJWRCに代わって登場した、WRCの二輪駆動車部門で、2018年までは二輪駆動のグループR車両(=R1・2・3、現在のRally4・5)で争った。またJWRCの車両はWRC3の規則と合致するため、両クラスに同時エントリーが可能となっていた。JWRCは出走イベント・参戦マシン・タイヤメーカーなどを選べないハンデはあるが、実際にはJWRCのエントラントがWRC3でも上位をほぼ占めており、両選手権でチャンピオンを獲得することの方が多かった。この頃はWRC3としてのメディア露出はほとんどなく、2018年終了を以て一旦廃止された。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2020年にRally2車両のプライベーター向けクラスとして復活したが、最終戦ラリー・モンツァにて前年までヒュンダイワークスドライバーのアンドレアス・ミケルセンがスポット参戦し優勝したことで苦情が発生。その影響で2021年以降、過去5年以内にWRCクラスでマニュファクチャラーズポイントを獲得した者又はWRC2/3チャンピオンのWRC3参戦を禁止するという一幕があった。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2022年からは新生'Rally3車両(コスト規制10万ユーロで210 PS程度の四輪駆動車)が導入され、明確にWRC2と区別される。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "WRCの育成向けクラス。2002年誕生。WRCクラスの有力マニュファクチャラーで知られるMスポーツのポーランド法人がプロモーターを務める。年間5 - 7戦で、ポイントは全戦が有効となる。カーナンバーは61から80番。2015 - 2016年と2019年以降に、1イベント中各国で最もポイントを稼いだドライバーをポイント対象とし、年間最もポイントを稼いだ国に贈られる「JWRCネイションズトロフィー」が設定されている。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "参戦には29歳以下で、かつWRカーでマニュファクチャラーポイントを獲得したことが無いドライバーという制限が課されており、WRCへの登竜門的な存在となっている。以前はJWRCでチャンピオンになってすぐWRCで活躍するドライバーも多かったが、近年はWRCの出場枠が少ないことやWRカーの戦闘力が以前より上がったこともあり、一旦WRC2へステップアップするドライバーが多い。運営側でも、優秀な成績を収めたドライバーには翌年WRC3に参戦するための費用やマシンが与えられる。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2011年から車両・タイヤともにワンメイクとなっている。従来の指定車両は前輪駆動車のみであったが、2022年からは四輪駆動のフォード・フィエスタRally3が指定されている。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "前身は1993 - 1999年開催の、二輪駆動+自然吸気エンジン車のF2規定車両のための「FIA 2リッターカップ」(正式名称は「FIAカップ・フォー・マニュファクチャラー・オブ・ツーリングカー」)。2001年に改めて開催された「FIAスーパー1600カップ」が翌年にJWRCと改称された。2006年以降はスーパー1600に加えて1,600cc以下のグループA3キットカー、2,000cc以下のグループN3、グループR2・R3規定など多彩なマシンのエントリーも認められるようになった。2007年のみヨーロッパ以外での開催が無かったため、“W”が取れ「JRC」となった。エントラントの減少から、2011年に車両・タイヤがワンメイク化された。2011 - 2012年の名称は「WRC アカデミー」であったが、2013年にはサポートカテゴリ再編と共に「JWRC」に戻った。2022年のみWRC2ジュニア/WRC3ジュニアへと分化しているが、Mスポーツのブランド戦略上の意向により、WRC3ジュニアについては「JWRC」の呼称が残された。WRC2ジュニアの発展解消により、2023年からは正式にも「JWRC」として開催される。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "クーペをメインとした、グループR-GTを対象とするカテゴリ。WRCとの併催が多いが、他のサポート選手権と異なり世界タイトルはかけられておらず、ERC(ヨーロッパラリー選手権)などとも併催されている。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2002 - 2012年開催。市販車に安全装備など最低限の改造のみを施した、グループN規定の車両を中心に戦う。前身は1987年から開催されていたFIAプロダクションカーカップ。チームタイトルに当たるものは存在しない。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "スバル・インプレッサと三菱・ランサーエボリューションの寡占状態が長く続いたため、2007年からスーパー2000車両も許可され、2011年からはJWRCのワンメイク化に伴いR1 - R3車両のための2WDカップが創設された。2010年にスーパー2000はSWRCへ分離され、2013年にはグループN4車両はWRC2のプロダクションカーカップ、2WDカップはWRC3へと発展してPWRCは消滅した。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本人・日本車の活躍が多く、新井敏弘が2度のドライバーズタイトル、奴田原文雄がモンテカルロで優勝を飾る活躍を見せた。前身のFIAプロダクションカーカップでも三菱・スバルの他マツダ・日産がチャンピオンマシンとなっており、日本人では西山寛が総合ランキング2位に入っている。なお2005年頃までは「PCWRC」と表記されていたが、現在は「PWRC」と表記するのが通例である。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2010年〜2012年開催。市販車を自然吸気2.0 Lエンジン・四輪駆動に換装するスーパー2000規定と、グループN4の戦闘力の乖離を鑑みて創設された。また初年度のみチームタイトルとして、選手権名の原案でもあった「WRCカップ」が掛けられた。マシンはスーパー2000の他、2011年からグループR4車両も可とされた。わずか3年のみの開催で、2013年よりWRC2へ移行した。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2020年~2021年のWRC2に相当するクラス。ワークスチームやプロドライバーが対象で、グループR5で2019年のみの1年間だけ争われた。", "title": "競技クラス" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "全クラス共通で、最終日のSS終了時の順位で1位から10位までに25, 18, 15, 12, 10, 8, 6, 4, 2, 1ポイントが与えられ、1シーズンで最も多くのポイントを獲得したドライバー/コ・ドライバーがドライバーズチャンピオン/コ・ドライバーズチャンピオンとなる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "WRC、WRC2、WRC3のエントリー車両に限り、総合成績に関係なくイベントの最終SSの1〜5位にそれぞれ5-4-3-2-1ポイントのボーナス点が与えられる(パワーステージ)。JWRCのみ、各SSで最速タイムを記録するたび1ポイントの「ステージポイント」が与えられる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "下位クラスのWRC2/WRC3/JWRCはクラス別にポイントが設けられているが、最高峰のWRCのドライバーだけはクラス順位ではなく総合順位からポイントが決定する。また下位クラスのドライバーでも総合順位次第でWRCのポイントを獲得できる(ただしASN車両では獲得できない)。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "WRC2は7戦中上位6戦(そのうち1戦は欧州外イベントが絶対条件)、WRC3は最初に参戦した7戦中上位5戦の有効ポイント制となっている。2020年のJWRCは最終戦のみポイントが倍となる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "WRカーの製造者(マニュファクチャラー)が該当し、WRCで開催される。WRCの場合同選手権にエントリー出来るのはマニュファクチャラー毎に1チーム3台までで、2チーム目(4台目)以降はマニュファクチャラーズポイントは与えられない。各マニュファクチャラーの、各イベントの上位2名の順位が加点対象となる。またWRC2は2台までがエントリーでき、ポイント対象は1台のみである。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ドライバーズタイトルと異なり、下位クラスのマシン・各マニュファクチャラーの最下位者1名・リタイア者を排除した順位でポイントを決める。例えば3名×4マニュファクチャラー=12名がマニュファクチャラー参戦している状態で、仮に全車がデイリタイアを喫しつつも完走した場合、マニュファクチャラー選手権の加点対象は12名―(各メーカーの最下位者×4)=8名となるため、最低順位は8位となる。つまりこの場合どんな形でも最終日の最終SSを走りきれば、7位+8位分の6+4=10ポイントは必ず獲得できる。年間最も多くのポイントを獲得したメーカーがマニュファクチャラーズチャンピオンとなる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2021年よりパワーステージにてマニュファクチャラーズ選手権ポイントも加算される。ドライバーズ選手権のパワーステージ同様に各マニュファクチャラーは、パワーステージの上位5人のうち、自チームのポイント対象ドライバーの上位2名のポイントを獲得できる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なおWRCが誕生した当初はドライバーズ選手権はなく、マニュファクチャラーズ選手権のみであった。1970年後半から~80年半ばまでは、総合順位とグループB/A/N内の順位を表で照らし合わせて、18~1ポイントまでを割り振るという少々複雑なポイント付与が行われていた。またマニュファクチャラーズポイント対象外に設定されるイベントもあった。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "WRC2ではマニュファクチャラーズ選手権の代わりに「チーム選手権」が設定されている。1チームにつき最大2名が対象で、3人目以降は別チームの扱いとなる。そのイベントで最もポイントを多く獲得した1名がポイント対象。ドライバーズ選手権同様、13戦中8戦の有効ポイント制で、チームのドライバーのうち1名でも参戦すればポイント対象となる。年間通して最もポイントを獲得したチームがチームズチャンピオンとなる。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "JWRCと2020年以降のWRC3にチーム選手権に該当するものは存在しないが、JWRCではイベント毎各国で最も多くポイントを稼いだ者が対象の、「JWRCネイションズトロフィー」と呼ばれる国別対抗戦が存在する。", "title": "ポイントシステム" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1973年のWRC創設から1980年代初頭までは「連続する12ヶ月間で1000台以上」の生産義務があるツーリングカーのグループ2と、「連続する12ヶ月で500台」のグランドツーリングカーのグループ4規定で競技が行われた。ただしグループ2は「連続する12ヶ月で生産台数5,000台」のグループ1、グループ4は「連続する12ヶ月で1,000台」のグループ3の公認もそれぞれ取得することが前提であった。各メーカーは市販車を強化した特別仕様車であるホモロゲーションモデルを販売し、その車両をベースにグループ2・グループ4の競技用車両を開発していた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "目敏いランチアはグループ3のパワートレインだけを移植したような、ミッドシップのグループ4マシン・ストラトスを生産してWRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社のフィアットが難色を示し、ランチアの代わりにフィアット(アバルト)が前面に出ることとなった。ここにフォード、オペル、タルボなどが絡む形となっていった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "当時はピックアップトラックやクロスカントリー車を排除する目的で2WDが義務付けられていたが、アウディは4WDを乗用車に載せた上でFIAを説得し、4WDを認めさせた。そして1981年からフルタイム4WDとターボエンジンを採用したアウディ・クワトロがラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちWRCはグループB・グループA・グループNを採用した。グループBの生産義務はメーカーの参入を促すため「12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台」と非常に緩く設定されており、これによりさらに高性能で過激なラリー専用車両が続々登場した。グループB車両のほとんどは鋼管スペースフレームに市販車に似せたデザインのFRP若しくはC-FRP・ケブラー製のカウルを被せ、400 - 600 PSと言われた高出力の過給エンジンをミッドシップに搭載し、フルタイム4WDで駆動するといった物であり、メーカー各社は先鋭化した高性能車両を競って生み出していく。際限の無い競争の結果として開発コストが上昇したため、FIAはグループBよりも金銭的な負担が少なく、競争が激しくなるような新しいカテゴリーとしてグループS構想を発表した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "グループB規定により走行スピードは劇的に向上したが、安全面がその進化に追いつかず、多くの事故と犠牲者を生み出すこととなった。1985年ツール・ド・コルスでのランチアのアッティリオ・ベッテガの事故死、同年アルゼンチンラリーでのプジョーのアリ・バタネンの事故、1986年ポルトガルラリーでフォードからワークスエントリーしていたヨアキム・サントスが多数の観客を死傷させるなど、ワークスドライバーが絡む事故が多発。そして、1986年のツール・ド・コルスで発生したランチアのヘンリ・トイヴォネン / セルジオ・クレスト組の事故死を受けて、FIAは事故の翌日に以後のグループB車両のホモロゲーション申請を却下することを発表し、その後1986年を以てグループBの廃止を決定、翌1987年からは世界選手権はそれまで下位クラスであったグループAで行われることを発表、同時にグループS構想も消滅した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1987年の世界ラリー選手権は従来は下位カテゴリであったグループA規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5,000台(1993年より2,500台)以上の生産が義務づけられたほか様々な改造規制が加えられて市販車に近いものとなった。またグループBの教訓を忘れないFIAは1990年にエアリストリクターの装着を義務化し、最大出力を300馬力以下に抑えた。しかし4WD技術とタイヤの性能の進歩によりハンドリングは改良され続け、車両性能は落ちるどころか年々向上。エンジンも開発リソースがトルクの増強に回された結果、グループBに匹敵する400Nm級のトルクを発揮。こうした進歩により3年後にはグループBのマシンを凌駕する速さを身に付けた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "当初こそBMW・M3やルノー・5ターボ、日産・200SXといった後輪駆動車が総合優勝できたこともあったが、1990年代に入るとフルタイム4WDと2.0 Lのターボエンジンが必須装備となっていた。グループA導入時にスポーツ走行用の4WDを備えた市販車を製造していたメーカーはランチア・アウディ・フォード・マツダがいたが、アウディは大柄すぎるボディが環境に合わずに撤退。以降もその様な高性能な装備の市販スポーツ車両を生産・販売出来る欧州メーカーはランチア以外無く、トップカテゴリを戦えるメーカー数は大幅に減少した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ランチアはコンパクトなデルタを用いてグループA時代の覇権を握ったが、これに日本のメーカーが勝負を挑む。当時の日本の自動車市場はコンパクトな4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、また海外進出が好調で景気の良かった日本車メーカーたちはこぞって高性能な4WDスポーツ車を量産。1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、トヨタ、スバル、三菱、日産、マツダといった日本のメーカーがWRCを席巻した。またフォードもタイトルには手が届かなかったが、コスワースがエンジンを手がける4WDスポーツで日本車勢に迫った。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "バブル崩壊によりマツダ・日産は志半ばで撤退するが、トヨタはセリカでランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権を制覇した。またスバルはインプレッサで1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇、三菱自動車のランサーエボリューションが1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇、特に1998年はマニュファクチャラーズ、グループNと合わせハットトリックを達成するなどし、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。この頃から高度な電子制御によるハイテク装備が普及し、各メーカーは前後中央3つのデフ全てのアクティブ化を目指すようになり、セミATやトラクションコントロール、ABSなども装備されるようになった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "一方欧州メーカーへの参戦の門戸を広げる必要に迫られたFIAは、2WD/NAエンジンのグループA車によるF2クラスを1993年に新設。さらに1995年にはフランスメーカーたちの提案により、改造範囲を大きく広げたF2キットカー規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD/NA化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べるワールドラリーカー (WRカー) 規定が1997年よりグループAに代わって導入されることで決着した。その後F2キットカー規定は規制緩和や開発競争により戦闘力が向上し、1999年にはシトロエン・クサラがターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、性能調整を受けて消滅。2WD規定は低コストなスーパー1600へと発展し、後のJWRCに繋がっている。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1997年にライバルたちがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、以降も2001年半ばまでグループA車両で戦い続けた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "グループAの特例として1997年から導入されたWRカーは、継続した12ヶ月間に25,000台以上生産された車種の派生モデルに限り、直接的なベースモデルの生産台数を2,500台とするもので、ワイドボディ化、4WDへの改造、リアサスペンション形状の変更、同一メーカー車に搭載されているエンジンへの換装やターボの付加など、大幅な改造を認められたものである。この規定により高性能4WD車をベースにする必要がなくなったため、ヨーロッパの自動車メーカーが相次いでWRCに参戦し、メーカー数が増加して活況を呈し始めた。またアジア車勢でもヒュンダイやスズキといったメーカーが短期間ながら新規参入した。エンジントルクは600Nmにまで到達するマシンも現れ、ハイテク戦争も高度化してアクティブサスペンションが現れ始めた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "WRカー導入の初期こそ、トヨタ・カローラや三菱・ランサー、インプレッサといった日本車勢が引き続き強さを見せていたものの、21世紀に入ると陰りが見え始めた。1999年に登場したプジョー・206 WRCは2000年 - 2002年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇。2003年には本格参戦1年目にしてシトロエンがマニュファクチャラーズタイトルを奪取し、その後2005年まで3連覇するなど、今度は一大勢力と化したフランス車勢が台頭した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "しかしF1のようなハイテク制御を用いた過激な開発競争と、90年代の倍近くに増えた年間イベント開催数がコスト高騰を招き、2005年にはプジョー、シトロエン、三菱、シュコダが一斉にワークスチームを撤退させてしまうという事態に陥った。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "そこで2006年以降はトラクションコントロールやABS、前後デフの電子制御化などの禁止(センターデフのみ許可)でハイテク化に歯止めをかけた。しかしもう一つの高コストの原因であった空力は放置されたため、大きな効果を挙げたとは言いがたかった。同時に参戦台数確保のため、セミワークス向けに全戦参戦義務が無くエントリー料の安いマニュファクチャラー・チームという制度も導入され、プジョーとシュコダはこれで短期間のみ留まった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "シトロエンは2006年にプライベートチームのクロノス・レーシングをワークス支援する形で参戦を続行し、その間従来のWRカーであったクサラ WRCの後継となるC4 WRCの開発を平行して行っており、2007年に再びワークスチームとしてWRCへ復帰した。選手権はシトロエンのエースのセバスチャン・ローブ/ダニエル・エレナ組による独走が続き、実に2012年までドライバーズ/コドライバーズタイトルを9連覇、マニュファクチャラーズタイトルも同期間中7度の制覇を果たすこととなる。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "フォードはグループA規定末期から英国のMスポーツにワークス活動を委託していた。最初はコリン・マクレーを破格の契約金で引き抜くなど羽振りが良かったが、フォードグループの経営不振などにより年を追うごとに資金が先細りしていく状況にあった。2002年頃から毎年撤退が噂され、2004年には撤退寸前まで追い込まれるが、Mスポーツ代表のマルコム・ウィルソンが絶望的な状況の中でも諦めることなくフォード首脳陣に対して参戦継続へ向けた粘り強い交渉を行っていた。そして交渉期間中に開催されたカタルニア・ラリーとツール・ド・コルスで連続優勝を成し遂げて状況が好転し、フォード本社がラリー活動の継続を決断した。2005年に3年間の参戦と資金が確約されると攻勢に転じ、モデルチェンジしたフォーカスSTをベースに新型車両を開発。2006年は1979年以来となるマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、2007年にも連覇した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2007年にはスズキが参入するが、リーマン・ショックに端を発する世界的不況が直撃し2008年末にスズキ・スバルが電撃撤退。2009年開始時点で正式に参戦したのはシトロエン、フォードの2社のみとなってしまった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "WRカーはコスト高騰で新規ワークスの参入は困難になってしまったため、コスト削減案としてすでにPWRCやIRCで活躍していたスーパー2000 (S2000) 規定を導入しようという案が有力視された。これは大衆車を共通部品と2.0 LのNAエンジンを使用して低コストで4WD化する、いわば廉価版のWRカー規定のような存在である。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "WRカーという名称は引き継いだまま、新規格のWRカーを2010年から導入することが検討され、2008年12月にFIAはS2000をベースにボルトオンキットで簡単にWRカーに出来る様にする“S2000プラス”とする方針を提案した。しかし2009年の間もFIAの中で意見が二転三転し、S2000プラスを撤回して2011年以降はS2000をそのままメインカテゴリーにするという話が浮上。際限なく続く議論に、次期車両開発をしたくてもできないシトロエンとフォードからは、結論の出ないFIAに対して不満の声が上がった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "最終的には世界ツーリングカー選手権(WTCC)と共通のエンジン規格『GRE』(Global Race Engine、1.6L直噴ターボエンジン)を、S2000車両に搭載し改造範囲を広げたS2000 WRCに変更することを決定。GREにより市販車に由来するエンジンである必要が無くなった一方で、トルクは400Nm程度まで引き下げられた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "これにより2011年5月、フォルクスワーゲンがポロ R WRCで参戦することを発表している。フォードは2012年を以てワークス参戦を終了し、80年代以来長きに渡る挑戦の歴史を一度終えたが、Mスポーツへの車両供給と技術支援は続けた。また2011年からは新たにBMWがプロドライブに製作を委託しミニ カントリーマンをベースにした、ミニ・ジョン クーパー ワークス WRCで参戦したが、組織的な紛糾により2013年に姿を消した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "フォルクスワーゲンは2013年にWRCクラスに本格参戦を開始、デビュー年でドライバーズ/コ・ドライバーズ/マニュファクチャラーズの三冠を制覇した。2014年も好成績を継続していることを受けて、フォルクスワーゲンは当初の2013年 - 2015年までの3年計画を延長、2019年まで参戦することを決定した。また2014年からはヒュンダイがi20 WRCで復帰し、初年度で念願の初勝利を挙げるなど活躍を見せたが、シトロエン・フォードらとともにVWの三冠4連覇を阻止するには至らなかった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "下位クラスではS2000やS1600、グループNといった車両規定がグループRに取って代わられ、さらにピラミッド型にまとめられた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "WRC代表のカルロス・バルボサは近年失われつつある人気を取り戻すことを重視し、これまでの低コスト・規制強化路線とは打って変わった大規模な規制緩和を行うことを決めた。そして2017年からエアリストリクター径は33 mmから36 mmに緩められ、エンジン出力が315馬力から380馬力へアップ。最低重量は1200 kgから1175 kgに引き下げられ、アクティブセンターデフの解禁、リアディフューザーや車幅の拡大もなされた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "新規則発表に前後して2015年1月、トヨタはかねてから噂されていたWRC復帰を発表。一方2016年11月にフォルクスワーゲンが電撃撤退を表明したため、マニュファクチャラーの総数は増加には至らなかった。この新WRカー初年度は、フォード車を用いるプライベーターのMスポーツがメーカー勢を破って三冠を獲得する快挙を達成。これにより2018年からフォードはMスポーツへの支援を厚くする形で「Mスポーツ・フォード」の名でワークス復帰した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "しかしアジア車勢が徐々に強さを見せ始め、2019年にはトヨタがマニュファクチャラーズ、ヒュンダイがドライバーズ/コドライバーズタイトルを制覇。アジア車メーカーによるタイトル独占は1999年以来、20年ぶりであり、以降もこの2社でタイトルを分け合う状態が続いた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "同年シトロエンが撤退を表明したことにより、欧州車メーカーは再びWRCの最高クラスから姿を消した。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "自動車業界を取り巻く流れを受け、2022年からハイブリッドシステムが導入される事が決定した。導入から3年間(2024年まで)は各チームに共通のハードウェアとソフトウェアが提供され、全車同一のシステムを使うことになる。リエゾンの一部では電気でのみ走り、SSでは電気ブーストとして利用することが狙いとされている。エンジンはGREが維持され、ハイブリッドと合わせると最大で500馬力/500Nm以上を発生できるようになった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "しかしハイブリッド導入でコストが上がる分を補填する必要があり、他の部分ではローテク化がなされる。具体的には前後メカニカルデフでセンターデフそのものが廃止され、空力開発も制限されるなどしたため、コーナーリング面では前規定に比べると不利な部分が増えた。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "新規ワークスチームの参入を促すため、鋼管パイプフレームを使ったプロトタイプのボディワークも認められる事となった。これはベース車両のスケーリングも可能であり、従来のようなBセグメントコンパクトカーのみならず、Cセグメント車やSUVも規定サイズに縮小すれば参戦が可能となった。", "title": "車両の変遷" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "古くからホンダを除く主要日本メーカーのほとんどが参戦、活躍を見せた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "トヨタはWRCの前身であるIMCの1972年シーズンから、ドイツのプライベーターであったオベ・アンダーソン・モータースポーツ(後のTTE、TMG、TGR-E)を支援する形で参戦。当初は欧州イベントのみに参加していた。カローラレビン、セリカを運用して1975年の1000湖ラリーで初優勝を果たした(ただしトヨタ車としては1973年アメリカが初)。1977年にはマニュファクチャラーズ選手権で日本車勢最上位となる3位につけた。その後欧州イベント以外にも活動を広げ、82年ニュージーランドの他、1984年から1986年までサファリラリー3連覇を果たすなどの活躍を見せた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1990年にセリカを駆るカルロス・サインツが当時、無敵の強さを誇っていたランチア勢を破って日本車で初のドライバーズタイトルに輝くと、1993年にはユハ・カンクネンのドライバーズタイトルに加えて日本車初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。1994年もダブルタイトルを獲得し、黄金時代を築いた。しかし1995年に苦戦から違法なリストリクター製造に手を染めてしまい、発覚後にFIAより1年間の出場停止処分が科された。これを重く受け止めたトヨタは、出場停止を言い渡された1996年に加え、翌1997年まで活動を自粛した。1998年にWRカーのカローラで復帰するとすぐに三菱とタイトルを争い、1999年に3回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得して有終の美を飾り、トヨタはF1へ転身していった。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "それから18年後の2017年、ヤリスWRCで復帰。オペレーションはフィンランドを本拠とするトミ・マキネン・レーシングで、エンジン開発をTMGが行った。デビュー2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たし、翌2018年には5勝を挙げて19年ぶり4回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "以降2022年終盤時点で、マニュファクチャラーズ選手権は5回、ドライバーズ選手権は8回まで記録を伸ばしている(いずれも日本メーカー1位)。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "また下位クラス向けにTMG(現TGR-E)が開発したヤリスR1やGT86 CS-R3のプライベーターへの供給も行っている。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2022年現在、下位クラス含めて唯一WRCにワークス参戦している日本メーカーである。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "日産は「ダットサン」ブランドを用いてIMCの初年度から参戦していたが、サファリラリーにはそれよりさらに前の1963年から参加しており、クラス優勝や総合優勝を達成するなど実績を積み重ねていた。スポーツ240Zが1973年のWRC開幕初年度から日本のワークスチームとしてWRC初優勝を果たしたのもサファリであった(サファリでは3回目の総合優勝)。1979年 - 1983年にもA10系バイオレットでサファリラリー史上初の4連覇を果たした。また1979年・1981年はマニュファクチャラーズランキングで2位に入り、グループ2・4規定時代のWRCを日本最強のメーカーとして過ごした。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "しかし、グループB規定が導入されると、得意のサファリでもトヨタ・セリカなどの後塵を拝するようになった。1988年のアイボリーコーストでの200SX(日本名シルビア)の優勝が日産にとっても最後の優勝であり、WRC史上最後のFR車の優勝ともなっている。1991 - 1992年のパルサーGTI-Rを最後に、本社の業績不振からシーズン途中で撤退した。通算では9勝を記録しているが、結局タイトルには手が届かなかった。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "なおGTI-Rは1992年にFIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)でグレゴワール・ド・メビウスのドライブによりチャンピオンマシンになっている。またFIA2リッターワールドカップ(後のJWRC)にもヨーロッパ法人が開発したサニーGTI、F2キットカーのマイクラやアルメーラなどが参戦していたが、本社がフランスのルノー傘下になる直前に活動を終了した。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1973年のWRC開幕初年度から参戦を開始。1974年にランサーでサファリラリーで初優勝を果たした。排ガス規制対策で一時休止後、1981年にランサー2000ターボで復帰。1984年にはラリーアートを設立、ヨーロッパに拠点を移した。その後長いグループA導入とともに開花、1989 - 1992年にギャランで計5勝を挙げた。1993年にはランサー エボリューションがデビューすると、1996年から1999年までトミ・マキネンによって4年連続ドライバーズタイトル、1998年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、日本車黄金時代の一翼を担った。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "しかしWRカーへ移行する中で最後までグループAにこだわった結果、苦戦が続き、マキネンの離脱や人材不足もあって混迷を極め、2003年に参戦休止。2004年に新設されたMMSP(三菱モータースポーツ)がラリーアートから運営を引き継ぎ、ジル・パニッツィをエース、新たに開発したランサーWRカーで再出発したものの、トラブルの多発により母国戦のラリージャパン開催前に活動を休止。2005年はハリ・ロバンペラをエースに起用し、パニッツィとロバンペラが表彰台、ラリートルコではジジ・ガリが一時首位を走るなど躍動したものの、本社の相次ぐリコール隠し問題から経営が急速に悪化したため、2005年に三たび参戦を休止、これが事実上の撤退となった。2007年末には英国の拠点を閉鎖、2010年にラリーアートが業務の一部停止を発表した。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "しかしその後もランサーWRカーはプライベーターに用いられ、2006年にダニエル・カールソンがラリー・スウェーデンで総合3位入賞した。また同車のグループN規定車両も、2012年までのPWRCで4度のドライバーズタイトルに貢献した。現在も地元プライベーターによるランエボのスポット参戦は多く、2017年ラリー・オーストラリアでは上位勢の大量リタイヤもあり、ランサーエボリューションXの地元ドライバーネイサン・クイーンが総合ポイント圏内でフィニッシュした。またスウェーデンのプライベーターであるMパートABがグループR5相当のミラージュ(欧州名:スペーススター)を独自開発して2018年から北欧イベントにASN車としてスポット参戦しているが、正式な公認取得の予定はないとしている。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1981年にベルギーに設立されたマツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ(Mazda Rally Team-Europe, MRE-T)のもとにマツダのWRC活動の大半は行われた。1979年のRACラリーからグループ2規定のサバンナ・RX-7で参戦。グループB規定もRX-7で1986年まで戦い続け、最高3位の成績を収めた。グループAが導入されると、ワークス活動はそれまで下位クラスで活躍していたファミリア(323)に切り替えられた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "グループBの消滅より前から生産されていた323 4WDターボ(ファミリア4WDターボ)は、グループA導入の初年度から欧州メーカーのライバルたちと競り合い、1987・89年スウェディッシュ・ラリー、1989年ニュージーランド・ラリーで合計3度の総合優勝を記録。1989年にはマニュファクチャラーズランキングでトヨタに次ぐ3位につけた。しかし本社の業績不振のため、タイトル獲得は達成できないまま1992年をもって撤退した。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "323は素性に優れており、FIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で3度チャンピオンマシンになっている。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1980年のサファリラリーの下位クラスにてデビュー。この時アウディより一年早く持ち込んだ4WDは、2WDが常識だった当時は画期的なもので、このレオーネは高い走破力を発揮しすぐにクラス優勝を飾った。グループA規定導入後の1990年、英国のコンストラクターのプロドライブとのジョイントでレガシィで最高クラスに挑戦を開始。1993年のニュージーランド・ラリーで初優勝し、1995年に初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得。以降、1997年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇した。また2001年にリチャード・バーンズ、2003年にペター・ソルベルグがドライバーズタイトルに輝いた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "しかしその後は、頻発するトラブルや度重なるモデルチェンジによる仕様変更の影響もあって、上位に絡めない展開が続き、2008年にようやくトップ争いが見える位置まで復活。だが、上位のシトロエン、フォードとの差は開いており、2008年に経済状況と「当初の目的を達成した」ことを理由として撤退した。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "スバルは三菱同様PWRCでも猛威を振るい、2003年から2007年まで5年連続でドライバーズタイトルに貢献。PWRCがWRC2に変わった後も、2014年までワークス支援を続けていた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "スズキは日本メーカーでは最後発にあたる。1986年に田嶋伸博のモンスタースポーツが中心となって開発したカルタスのグループA5仕様でアメリカのオリンパスラリーにスポット参戦したのが初めてであった。その後1988年までA5クラスで同ラリーを3連勝した。特に1988年は多数のワークス不在という条件はあったものの、三菱・マツダを抑えて総合でも日本勢最高位でのフィニッシュとなった。その後一旦スズキはAPRC(アジア・パシフィック・ラリー選手権)へと転身し、バレーノのF2キットカーなどで経験を積んだ。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2002年に田嶋率いるスズキスポーツが下位クラスのJWRCに参戦し、スーパー1600規定のイグニスとスイフトで3度のドライバーズタイトルを獲得している。通算勝利数はシトロエンの32勝に次ぐ24勝で歴代2位である。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "最高峰のWRCクラスには、当初2007年が夏季開幕となるウインターシーズン案が検討されていたため2007年からの全戦参戦を計画していたが、ウインターシーズン案が撤回されたため、2007年は3戦にスズキ・SX4 WRCでテスト参戦し、2008年からフル参戦した。シーズン前半は初期トラブルが多発し完走も難しかったが、後半へ向けて改良が行われ、2台完走することが増えていった。しかし最高位は日本とグレート・ブリテンの5位に終わり、2008年12月15日にリーマン・ショックによる業績不振を理由にスズキは2009年以降のWRC参戦休止を表明した。その後もJWRC活動は続いたが、2010年をもってマルチメイクが終了したのに伴いこちらも撤退となった。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "グループ2/1(1300 cc未満)のシャレードで1979年 - 1981年にラリー・モンテカルロにスポット参戦、1981年にクラス優勝を果たした。また最高峰に向けてデ・トマソ社とともに本格的なグループBカーである926Rを開発していたものの、グループB廃止で市販化も含めて幻と消えた。 1982年からサファリラリーに参戦し始め、82・84・85 - 88・90 - 93年にクラス優勝。特に1993年のサファリでは排気量が1 L大きいライバル達を相手に健闘、総合1 - 4位を占めたトヨタ・セリカに次ぐ総合5 - 7位に食い込む活躍を見せた。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "現在トラックメーカーとして知られるいすゞだが、乗用車製造から撤退する前にはRACラリー限定でWRCにスポット参戦していた。日本人で構成されたチームいすゞは1983年 - 1985年にアスカ、1986・1987年はジェミニで参戦。1984年にグループAクラスで優勝している。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "メーカーのみならず、多くの日本人ドライバーがWRCに参戦した。下位クラスでは目覚ましい活躍が残されており、PWRCでは新井敏弘(スバル)が2度のドライバーズタイトル(日本人として初の四輪世界選手権王者)を獲得している。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "プロダクションカーカップ/グループNクラスや2リッターカップの単一イベントなどでは西山寛(日産)、藤本吉郎(トヨタ)、三好秀昌(スバル)、鎌田豊(いすゞ)らが勝利を挙げているほか、奴田原文雄(三菱)が2006年のPWRCでラリー・モンテカルロを含め3勝を挙げて年間2位の成績を収めている。またサファリの岩瀬晏弘、RACラリーの勝田照夫や神岡政夫、APRC王者の田口勝彦、ナビでテイン設立者の市野諮なども古くはよく知られた名前である。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "一方で日本人のWRC総合優勝記録は2021年現在、篠塚建次郎(三菱)による1991年、1992年のコート・ジボワール・ラリーでの2回に留まっている。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "2015年からはTOYOTA GAZOO Racingの育成プログラムの下、元WRCドライバーの勝田照夫を祖父にもつ勝田貴元と、新井敏弘の息子新井大輝、コ・ドライバーの足立さやかがトヨタの支援でWRC2に参戦(マシンはフォード・フィエスタ R5を使用)し、2018年のラリー・スウェーデンで勝田が日本人初のWRC2優勝を挙げている。勝田はトヨタに才能を見出されて2019年にWRカーデビューを果たし、2022年現在WRCのトップカテゴリで、地元ラリージャパンを含め3度表彰台を獲得する活躍を見せている。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "今でも全日本ラリー選手権の経験を持つドライバーが下位クラスや地域規定のマシンで海外イベントにスポット参戦することは珍しくない。", "title": "日本勢の活躍" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "開催国を中心として、ヨーロッパで絶大な人気を誇るWRCはテレビ放送も盛んに行われている。特にフィンランドは母国イベントの開催時に国民の10%が観戦するほどの人気があるという。FIAとしてもテレビ放送から得られる収入は無視出来ないものとなり、スーパーSSなどテレビ放送向けにイベントを組んでいるが、より多くの視聴者を獲得するためにはテレビ放送より規模の大きいインターネット配信が有効という意見も出ている。ラジオ放送も行われており、日本でもインターネット経由で聴くことが出来る。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "また2014年から一部のSSを有料配信する、公式ライブストリームサービスの「WRC plus」が配信開始。2018年には全SSをライブ配信する「WRC All Live」へと名称が変わった。これも日本で視聴することが可能で、またRed Bull TVでは同配信の一部を無料で配信している。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2019年現在J SPORTSが各イベントの最終SSのライブ中継や各DAY・イベントのダイジェスト、ラリージャーナリストが取材したWRCの裏側リポート等を有料放送している。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "1990年代はNHKでWRCの報道がされていたほか、2003年以前は日本テレビで深夜にダイジェスト番組が放送されていた。 2004年にテレビ東京でもダイジェスト放送が開始。祝日や土日の昼頃に放送されており、時にはナビゲーターが現地リポートを行うこともあった。2005年のラリージャパンでは『報道ステーション』の松岡修造が出演するコーナーにて特集され、2006年には前述の放送局に加えて、インターネット放送GyaO、CS放送AXN、地上波放送日本テレビ系列および福井放送で行われたが、以降は地上波でWRCやラリージャパンに関する放送はされなくなった。衛星放送ではBS日テレでもダイジェストで放送していたが、スバルのWRC撤退によるスポンサー撤退で2008年12月25日で放送終了。2008年はテレビ東京系の番組『モヤモヤさまぁ〜ず2』とタイアップし、同年11月14日に21時から2時間特番を放送した。その他の放送局はWRCの報道に消極的であり、日本で開催されるラリージャパンも例外でない。同ラリーの開催時期でも、地上波では過去にWRCの放送経験があるテレビ東京系列の他は日本テレビ系列やNHKで多少触れられる程度であった。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2017年からトヨタのWRC復帰がきっかけでテレビ朝日において『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』というダイジェスト番組や『報道ステーション』のスポーツコーナーにおいて各イベントの結果の放送がされるようになっている。2018年1月には『アメトーーク!』で「世界ラリー大好き芸人」が特集され、1時間の枠でWRCが紹介された。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "『地球の走り方』は芸人による現地リポートがメインの初心者向けバラエティー番組であり、モータースポーツファンからは不評であった。また、番組出演者がサービスパークで悪ふざけや、MCの渡部建がクリス・ミークのクラッシュシーンで不快な演出を行い、当シーンを視聴していたJスポーツのWRC番組MCの栗田佳織から批判されるなど不備が存在。『地球の走り方』としては2018年をもって終了。 2019年以降は『世界ラリー応援宣言2019』『ラリージャパン応援宣言』『モータースポーツ応援宣言』と5分番組に縮小し放送を続けている。また『地球の走り方』終了後の2019年以降も、『報道ステーション』では不定期にWRCの結果を報道している他、テレ朝Postもラリー記事を投稿している。この番組の影響もあり六本木ヒルズで毎年行われている「テレ朝夏祭り」でもWRCに関連したアトラクションが設営されていた。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "その後、世界ラリー応援宣言と入れ替わるような形で、BS日テレが11年ぶりにラリーダイジェスト番組を4月よりラリーツール・ド・コルスからスタートさせたものの、12月をもって終了。2020年にはNHK-BSにて勝田貴元の挑戦を追いかけたドキュメンタリー番組が放送され、6月には同局にて開幕戦から第3戦までのハイライト番組を放送。同年12月には残り4戦のハイライト放送を行った。2021年以降もNHK-BSにてハイライトが不定期で放送されている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "また、ユーロピクチャーが1990年代前半からヨーロッパのラリーハイライト番組を翻訳したVHSを発売している。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "その他、『カーグラフィックTV』もラリーのハイライトを放送したことがあった。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "WRCの専門雑誌としては、1990年に創刊したWRC速報誌『RALLY・XPRESS』が草分け的な存在だが、2007年末の出版社の解散にともない廃刊。現在は、同誌の元スタッフが運営を引き継いだ携帯サイトラリーXモバイルとしてラリー情報を配信している。2017年現在、WRC専門誌『WRC PLUS』は廃刊、編集部が同誌を引き継ぐRALLY全般誌『RALLYPLUS』(三栄書房、編集: 株合同社サンク )として刊行されている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "新谷かおるの『ガッデム』が、『ビッグコミックスペリオール』で1988年 - 1990年まで連載され、OVAとしてアニメ化もされた。パリダカのようなモノだけをラリーと認識している人が多かった当時の日本に、WRCのルールを浸透させたエポックメイキングな作品。架空の日本車メーカー三沢自動車と日本人ドライバー轟源の活躍を描く。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "なお新谷かおるは、同じくWRCを扱った作品として『NAVI』を『ヤングマガジンGT』に2000年1号 - 2002年6号まで連載、単行本全1巻をヤングマガジンコミックスから発売している。こちらはドライバーではなくナビゲーターが主人公というのが珍しい。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "しんむらけーいちろーの『FLAT OUT』が、『別冊ヤングマガジン』に2005年4月 - 2006年12月まで連載された。2004年のラリージャパンとラリー・オーストラリアを舞台に日本人ドライバー剣龍也の活躍を描いている。なお、しんむらは2022年ラリージャパンを盛り上げるための公式マンガとして、勝田貴元の半生を描いた『勝田貴元物語』を描き下ろした。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "2018年6月にはトヨタの全面協力の下にWRCを目指すドライバーとそれを支えるメカニックの兄弟を描いた、東出昌大/新田真剣佑主演の映画『OVER DRIVE』が公開された。また、2021年10月には再びラリーを題材にした映画『僕と彼女とラリーと』が公開された。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2001年(日本では2002年)のWRC ワールドラリーチャンピオンシップ(英語版)以降、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)(2001年~2005年)、Black Bean Games(2010年~2012年)、Nacon(2013年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。SCEから発売されたソフトはすべてPlayStationシリーズ限定。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "日本ではスパイク(2002年~2006年)、サイバーフロント(2011年~2013年)、スクウェア・エニックス(2014年)、オーイズミ・アミュージオ(2017年~2022年)、3goo(2021年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "※2022年ラリージャパン終了時点。", "title": "通算優勝数ランキング" } ]
世界ラリー選手権は、国際自動車連盟(FIA)が主催するラリー競技の世界選手権である。ヨーロッパを中心としてアフリカ・中南米・アジア・オセアニアなどの地域でも開催されている。併催のWRC2、WRC3などについてもここで述べる。
{{Infobox motorsport championship | category = [[ワールドラリーカー]] | logo= File:WRC.svg | country/region = [[国際|インターナショナル]] | inaugural2 = {{WRC|1973}} | folded = | drivers = 9<ref group="注" name="Manufacture">マニュファクチャラーチーム</ref> | teams = 3<ref group="注" name="Manufacture"/> | tyres = [[ピレリ]] | champion driver = | manufacturer = {{flagicon|JPN}} [[トヨタ自動車|トヨタ]] | current_season =2023年の世界ラリー選手権 | website = https://www.wrc.com }} [[File:2017 Rally Portugal - 22.jpg|thumb|right|300px|2017年[[ラリー・ポルトガル]]]] '''世界ラリー選手権'''(せかいラリーせんしゅけん、''{{lang-en|FIA World Rally Championship}}''、ワールドラリーチャンピオンシップ、通称:'''WRC'''〔ダブリュアールシー〕)は、[[国際自動車連盟]](FIA)が主催する[[ラリー]]競技の[[世界選手権]]である。ヨーロッパを中心として[[アフリカ]]・[[ラテンアメリカ|中南米]]・[[アジア]]・[[オセアニア]]などの地域でも開催されている。併催のWRC2、WRC3などについてもここで述べる。 == 概要 == [[ファイル:2010 wales rally gb by 2eight dsc1445.jpg|thumb|right|220px|[[シトロエン]]チームと9年連続WRC王者の[[セバスチャン・ローブ]]/[[ダニエル・エレナ]]組(2010年[[ラリーGB]])]] [[1970年]]にそれまで世界各地で単独に開催されていた[[ラリー]]競技のイベントをFIAの下に一本化して誕生した、「{{仮リンク|国際マニュファクチャラーズ選手権|en|International Championship for Manufacturers}}」({{Lang-en-short|International Championship for Manufacturers}}、通称:IMC)<ref group="注">[[スポーツカー世界選手権]]が1962年に改称した、全く同名のシリーズも存在する</ref>が前身である。[[1973年の世界ラリー選手権|1973年]]に世界選手権へと格上げされて、WRCとしてスタートした<ref name="msarchive-4-wrc">{{Cite journal|和書|journal=モータースポーツアーカイブ |volume=4 |publisher=公益社団法人自動車技術会 |year=2017 |title=WRCの解説 |author=田中泰男 |url=https://www.jsae.or.jp/katsudou/docu/1045/motorsports_archives04.pdf |format=PDF |page=12}}</ref>。FIAが主催する[[自動車競技]]の世界選手権の中では[[フォーミュラ1|F1世界選手権]]({{F1|1950}}創設)の次に長い歴史を持つ<ref group="注">[[スポーツカー世界選手権]]は1953年創設だが1992年に一旦消滅している。</ref>。また開幕戦の[[ラリー・モンテカルロ]]は、F1の[[モナコグランプリ]]より長い歴史を持つイベントである{{R|msarchive-4-nissan|page=6}}。選手権は元々はマニュファクチャラー部門(自動車メーカー)のみが争われたが、後にドライバー部門と[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]部門の選手権も争われるようになった。また下位のサポート選手権であるWRC2、WRC3、JWRCが併催されている。 ラリーの種類は、[[公道]]や[[競技場]]などに設けられたコース=スペシャルステージ(SS)でタイムアタックを行い、各SSタイムの合計で順位を決める「スペシャルステージラリー」である。SSとSSの間の移動は「[[リエゾン (曖昧さ回避)|リエゾン]]」または「ロードセクション」と呼ばれ、一般車に混じり現地の交通法規に従って走行する{{R|msarchive-4-wrc}}。現行の標準的なスケジュール(アイテナリー)では、木曜日から日曜日にかけての3 - 4日間に20本前後のSSを走行する{{R|msarchive-4-wrc}}。SSの合計距離は300 - 400&nbsp;km、リエゾンを加えた総走行距離は1,000 - 1,500 km程度である{{R|msarchive-4-wrc}}。SSの時間は基本的に日中で、時々早朝や夜間にも行われる。 競技車両は一定数生産された市販車をベースとして、[[ホモロゲーション|公認]]範囲内で改造を加えたラリーカーである。性能別に数段階にグループ分けされているが、選手権タイトルを賭けた最高峰クラスは、マニュファクチャラーの直営組織([[ワークスチーム]])が開発した現在では[[ワールドラリーカー]](WRカー)で競われる。 競技車両には[[運転手|ドライバー]]と[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]]の2名が乗車し、コ・ドライバーがコース上のコーナーや路面状況などをあらかじめ記載した[[ペースノート]]を読み上げ、ドライバーはそれに従い運転操作を行う{{R|msarchive-4-wrc}}。また、基本的にはドライバーが運転操作を行い、ナビゲートするのがコ・ドライバーという形ではあるが、非常に稀なケースではあるものの両者の役割が逆転する場合もある。2011年スウェーデンラリーでは、[[ペター・ソルベルグ]]選手が一般道のリエゾン区間でスピード違反で免許停止措置(世界中で開催される世界選手権に参加するためのライセンス以外に開催国での自動車運転を認めてもらうための国際免許を停止される処分)を受け、処分の執行には48時間の猶予があったものの、最終ステージ前で執行猶予時間が経過したため最終ステージだけをコ・ドライバーのグリス・パターソンにステアリングを託し、ソルベルグ本人は助手席で運転操作を解説しながら最終ステージを完走するという場面もあった<ref name="rallyplus_20110214">{{Cite web|和書| url = https://www.rallyplus.net/7850 | title = ペター・ソルベルグ、免停の顛末を語る - RALLYPLUS.NET | accessdate=2022-8-14}}</ref>。このように、タイムアタック区間(スペシャルステージ)以外の走行区間では開催当該国の道交法に従わなければならないため苦肉の策が実行されるケースもある。また、スペシャルステージでアクシデントを起こして破損した車で走り続けるしかない場合(多くの場合はリエゾン区間前にチームの整備を受けられる)もあり、そのままリエゾン区間に入ると整備不良や危険な破損車での走行ということで警官に止められ、その場合は、その場で即刻リタイアを余儀なくされるケースもある。このようにFIA(世界選手権主管団体)が定めた規則だけではなく、開催当該国の道交法も遵守しなければならない。 == 主な特徴 == {{Double image aside|right|VW Polo V 1.2 Team Monosilber.JPG|180|2014 rally sweden by 2eight dsc6731.jpg|200|市販車両|WRCの競技車両}} [[Image:2013-03-05 Geneva Motor Show 7962.JPG|thumb|right|200px|4連補助灯]] 競技車両は市販車両をベースに製作することと規定されているため外観はベースモデルと大差無いが、特に最上位のWRCクラスの車両である'''[[ラリー1]]'''は、フレームやエンジンはじめとする各パーツ、駆動やサスペンションの形式の変更などが行われ、内部はほぼ完全に別物となっている{{#tag:ref|WRカー時代末期のトヨタ・ヤリスWRCの場合、WRカー仕様と市販車仕様の共通性は38%ほどであるという<ref name="toyokeizai18477">{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/184777 |title=トヨタが「WRC再参戦」でつかんだ成果と課題 |accessdate=2017-08-28 |publisher=東洋経済}}</ref>。|group="注"}}。[[エンジンコントロールユニット|ECU]]にはSS用の“ステージモード”{{#tag:ref|リエゾン走行時とは異なるSS用のセッティングモード。パワーの増大と共に[[ミスファイアリングシステム|アンチラグシステム]]の効きを強くすることでスロットルレスポンスは向上するが、燃料を濃くするため、より多くの燃料を消費する。仮に、負荷の低いリエゾンでステージモードを使用してしまうと不燃焼ガスが多く発生する<ref>WRC 2013 第5戦 アルゼンチン . ''J SPORTS''. (2013年5月5日)</ref>{{出典無効|date=2020-04-10|title=WP:TVWATCH}}。|group="注"}}、リエゾン用で低燃費となる“リエゾンモード”の2種類が設定されており、走行状況に合わせて切り替える仕様となっている(ラリー1の車両では、ハイブリッドシステムの複数の走行モードを切り替えて運用する<ref>{{Cite web|和書| url = http://rallyx.net/news/Rally1%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AF3%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%B5%B0%E8%A1%8C%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89-20547/ | title = Rally1のハイブリッドシステムは3つの走行モード - RALLY-X mobile | accessdate = 2022-8-14}}</ref>)。 [[モータースポーツライセンス|競技ライセンス]]“国際C級レース除外”を取得し、規定に合致した車両を用意して抽選に通れば、一般人も'''プライベーター'''として出場することが可能である<ref group="注">2004年に日本で初めて行われた[[ラリージャパン]]には、全国から多数のプライベーターが参戦した。</ref>。[[WRカー]]の後から同じコースを走りタイムを争い、時にはプライベーターがランキングの上位に食い込むということもある。なお[[コ・ドライバー]]もドライバーと同等の競技ライセンスが必要である。 [[ファイル:Acr2011 626.jpg|thumb|200px|left|興奮する観客<br />(2011年 [[アクロポリス・ラリー]])]] サーキットで行われる周回競技と異なり、一般道路や林道などを一時的に閉鎖して行われるため、設営された観客席は少ない。観客はコースを間近で見られることもあり、熱心なファンは足繁く観戦ポイントに出向く。しかし、車両がコースオフし客席に飛び込む恐れもあるために観戦には危険も伴い、過去には死亡・負傷事故も起こっている<ref>{{Cite news |url=http://www.nipponrentacar.co.jp/freeroad/rally_japan6.htm |title=第12戦ラリーGB 異常事態の中、ソルベルグ(スバル)優勝 |newspaper=NIPPON Rent-A-Car |date=2005-09}}</ref>。(特に1980年代のグループB規定時代は、ドライバー、観客の死亡事故が多発した) 観客達が大きくコースオフした車両をコースに戻したりすることも多々あるが、本来ドライバー、コ・ドライバー以外の人間が競技車両に触れることはルール違反なため、ドライバーはペナルティを受けてしまうことが多い<ref group="注">2004年のメキシコ・ラリーにおいて第一レグの最終SS終了後、ロードセクションのゴール間際で[[富士重工業|スバル]]の[[ペター・ソルベルグ]]の[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]がエンストした際、周りにいたメディアや観客がペターと一緒に車を押してしまい、これを受けてペターはペナルティを課せられた。</ref>。逆に観客が競技の妨害を行うこともあり、開催中にコース上の冊が閉められたこともある<ref>WRC 2013 第4戦 [[ラリー・ド・ポルトガル|ポルトガル]] . ''J SPORTS''. (2013年4月21日)</ref>{{出典無効|date=2020-04-10|title=WP:TVWATCH}}。現地の運営側が観客をコントロール出来ないと判断された場合はSSそのものがキャンセルとなり、実際に[[ラリー・ポルトガル]]や[[ラリー・ポーランド]]がこの理由で一時WRCから外された。 広大なエリアでは、時に観客がプロに代わるカメラマンとして活躍することがある。2005年のキプロス・ラリーでは、[[フランソワ・デュバル]]のコースオフと車両炎上のシーンにおいて、観客が撮影した映像が国際映像として放映された。また近年はドローンが撮影に投入されており、ダイナミックな映像の撮影に大きな貢献をしている。 == イベント == WRCの統一プロモーターは2014年から現在まで、「WRCプロモーター有限会社(WRC Promoter GmbH)」が担っている。以前は1982年に[[バーニー・エクレストン]]により設立された「[[:en:International Sportsworld Communicators|ISO(International Sportsworld Communicators)]]」が2010年まで、これをノースワン・テレビジョンが買収した「ノースワン・スポーツ」がプロモーターを務めていた<ref>[https://www.rallyplus.net/9918 WRCのプロモーター、ISCが社名変更]Rally Plus.net 2022年8月12日閲覧</ref>。 各々の国で開催される競技を'''イベント'''と呼ぶ。年間のイベント数は1990年代中頃まで8 - 10戦程度であったが、増加を望むFIAの意向により各ラリーの開催日数・走行距離の短縮やサービス (車両整備) 回数の制限等、イベントの簡素化が進められたことに対応するようにイベント数が徐々に増やされ、2007年には全16戦、2008年は全15戦となっていたが、2009年と2010年は2年間で24戦を隔年で開催するという年間12戦のローテーション制となり{{#tag:ref|自動車メーカー側からはイベント数が多過ぎるとの声が上がり、主催者側はWRCを自国で開催したいという思惑があるため、双方の意向を汲む形で導入された<ref>{{Cite news |url=https://www.jsports.co.jp/press/article/N2009012614501305.html |title=【WRCコラム】2009年 第1戦 ラリー・アイルランド |newspaper=J SPORTS WRC Mr.フクイのものしり長者 de WRC! |date=2009-01-26}}</ref>。そのため2009年は伝統のモンテカルロからの開催とならず、ラリージャパンも2010年に回っている。映画の題材となるなど、日本でよく知られている[[ケニア]]の[[サファリラリー]]は、イベント自体の特殊性や開催地の遠さが敬遠され、2002年の開催を最後にWRCからは外されている。 |group="注"}}、2011年からは全13戦となっている。 F1のオフシーズンである[[ストーブリーグ]]が4ヶ月-5ヶ月近くであるのに対して<ref group="注">2006年最終戦は10月21日の[[ブラジルグランプリ]]で、2007年の開幕戦である[[オーストラリアグランプリ]]は3月18日と5ヶ月ある。</ref> WRCは1ヶ月前後しかないが<ref group="注">例として、2006年最終戦のグレートブリテンラリーが12月3日に最終日を迎えたのに対し、2007年開幕戦であるモンテカルロ・ラリーは1月19日と1ヶ月強程度しかオフシーズンがない。</ref>、<!--ドライバーからは年間イベント数の縮小を求めるなど不満の声が出ている。(出典提示後に本文に戻して下さい)-->シーズンオフが短い分、6月上旬から7月終わりまたは8月始めまで約2ヶ月間の休息期間となるインターバルを設けている。 現在WRCクラスのマニュファクチャラーは全イベントに参戦することが前提となっているが、かつては有効ポイント制であったことに加えて輸送の問題や参戦コスト、マシンの得意・不得意などもあったため、全イベントに参戦しない方がむしろ一般的であった。WRC黎明期に日本勢がアフリカイベントで好成績を残すことができたのは、そうした事情も関係がある。 === これまでに開催されたWRCイベント === <div style="clear: both"></div> {| class="wikitable" style="font-size:small" |- style="background:#efefef;" !開催地 !イベント名 !開催都市 !開催年度 |- |{{ARG}} |[[ラリー・アルゼンチン]] |ビジャ・カルロス・パス |1983年 - 2019年 |- |{{BRA}} |[[Marlboro Rallye do Brasil]] |[[サンパウロ州|サンパウロ]] |1981年 - 1982年 |- |{{AUS}} |[[ラリー・オーストラリア|テルストラ・ラリー・オーストラリア]] |[[パース (西オーストラリア州)|パース]] |1988年 - 2006年, 2009年, 2011年, 2013年 - 2018年 |- |{{CAN}} |[[Criterium Molson du Quebec]] |[[モントリオール]] |1977年 - 1979年 |- |{{CYP}} |[[キプロスラリー|キプロス・ラリー]] | |2000年 - 2006年 |- |rowspan="2"|{{FIN}} |[[1000湖ラリー]] |[[ユバスキュラ]] |1951年 - 1996年 |- |[[ラリー・フィンランド|ネステ・ラリー・フィンランド]] |ユバスキュラ |1997年 - 2019年, 2021年 |- |rowspan="2"|{{FRA}} |[[ツール・ド・コルス|ツール・ド・コルス - ラリー・ド・フランス]] |[[アジャクシオ]] |1956年 - 2009年 |- |[[ラリー・ド・フランス-アルザス]] |[[ストラスブール]] |2010年 - 2014年 |- |{{GER}} |[[ラリー・ドイチェランド|OMV ADAC ラリー・ドイチェランド]] |[[トリーア]] |2002年 - 2019年 |- |rowspan="2"|{{Flagicon|WAL}}[[イギリス]] |[[RACラリー]] |[[カーディフ]] |1933年 - 1997年 |- |[[ラリー・グレートブリテン|ウェールズ・ラリー・オブ・グレートブリテン]] |[[カーディフ]] |1998年 - 2019年 |- |{{GRE}} |[[アクロポリスラリー|アクロポリス・ラリー・オブ・グリース]] |[[ラミア (ギリシャ)|ラミア]] |1973年 - 2013年 |- |{{IRL}} |[[ラリー・アイルランド]] |[[スライゴ]] |2007年, 2009年 |- |rowspan="2"|{{ITA}} |[[ラリー・サンレモ]] |[[サンレーモ|サンレモ]] |1973年 - 2003年 |- |[[ラリー・イタリア・サルディニア|スーパーマグ・ラリー・イタリア・サルディニア]] |ポルト・チェルヴォ |2004年 - |- |{{POL}} |[[ラリー・ポーランド]]{{#tag:ref|一部のステージはWRC初の[[リトアニア]]で行われる<ref>{{Cite news |url=http://response.jp/article/2013/12/06/212477.html |title=【WRC】ラリーポーランド、2014年のルートの詳細を発表 |newspaper=Response |date=2013-12-06}}</ref>。 |group="注"}} |[[ミコワイキ]] |2014年 - 2017年 |- |{{CIV}} |[[Rallye Cote d'Ivoire]] |[[アビジャン]] |1976年 - 1992年 |- | rowspan="4" |{{JPN}} | rowspan="4" |[[ラリージャパン|ラリー・ジャパン]] |[[帯広市]] |2004年 - 2007年 |- |[[札幌市]] |2008年 - 2010年 |- |[[長久手市]] |2020年(中止)、2021年(中止) |- |[[豊田市]] |2022年 |- |{{JOR}} |[[:en:Jordan Rally|ヨルダン・ラリー]] |[[アンマン]] |2008年, 2010年 - 2011年 |- |rowspan="2"|{{KEN}} (および[[ウガンダ]] 、[[タンザニア]]) |[[イースト・アフリカン・サファリ]] | |1960年 - 1973年 |- |[[サファリラリー]] |[[ナイロビ]] |1974年 - 2002年, 2021年 |- |{{MAR}} |[[Rallye du Maroc]] ||[[カサブランカ]] |1971年 - 1976年 |- |{{MEX}} |[[ラリー・メキシコ|コロナ・ラリー・メキシコ]] ||[[レオン (メキシコ)|レオン]] |2004年 - 2020年 |- |{{MON}} |[[ラリー・モンテカルロ|ラリー・オートモービル・モンテカルロ]] |[[モンテカルロ]] |1911年 - |- |{{NOR}} |[[ラリー・ノルウェー]] |[[ハーマル市|ハーマル]] |2007年 - 2009年 |- |{{NZL}} |[[ラリー・ニュージーランド|プロペシア・ラリー・ニュージーランド]] |[[ハミルトン (ニュージーランド)|ハミルトン]] |1985年 - 2008年, 2010年, 2012年 |- |rowspan="2"|{{POR}} |[[ラリー・ポルトガル]] |[[ポルト]] |1967年 - 2001年 |- |[[ラリー・ポルトガル|ボーダフォン・ラリー・デ・ポルトガル]] |[[アルガルヴェ]] |2007年 - 2019年, 2021年 |- |{{ESP}} |[[ラリー・カタルーニャ|ラリー・ラック・カタルーニャ - コスタ・ドゥラダ]] |[[サロウ]] |1991年 - 2019年, 2021年 |- |rowspan="3"|{{SWE}} |[[Rally to the Midnight Sun]] |[[カールスタッド]] |1950年 - ? |- |rowspan="2"|[[スウェディッシュラリー|ウッデホルム・スウェディッシュ・ラリー]] |カールスタッド |2002年 - 2020年 |- |[[ウメオ]] |2022年 |- |{{TUR}} |[[ラリー・オブ・ターキー]] |ケメル |2003年 - 2010年, 2018年 - 2020年 |- |{{USA}} |[[オリンパス・ラリー]] | |1985年 - 1988年 |- |{{CHL}} |[[ラリー・チリ]] |[[タルカワノ]] |2019年 |- |{{CHN}} |[[チャイナ・ラリー]] | |1999年 |- |{{CRO}} |[[ラリー・クロアチア]] |[[ザグレブ]] |2021年 - |- |{{BEL}} |[[イープル・ラリー]] |[[イーペル]] |2021年 |} == 路面とタイヤ == {{Double image aside|right|2000 WRC Acropolis Day3 Sainz.jpg|200|Sébastien Loeb - 2008 Rally Catalunya.jpg|200|グラベル|ターマック}} イベントで使用されるコースの路面環境は様々だが、大きな分類では未舗装路の'''[[グラベル]]'''とアスファルト舗装路の'''[[ターマック]]'''の2種類で、積雪路の'''スノー'''や凍結路の'''アイス'''は、土台となる基礎路面で分類される{{#tag:ref|例として、モンテカルロは舗装路が積雪や凍結状態となるため'''ターマック'''、スウェーデンは未舗装路に積雪しているため'''グラベル'''となる<ref name="2013R2">WRC 2013 第2戦 [[ラリー・スウェーデン|スウェーデン]] . ''J SPORTS''. (2013年2月17日)</ref>。|group="注"}}。ターマックとグラベルが混在する'''ミックスサーフェイス'''のイベントも有る<ref name="michelin1">{{Cite news |url=http://nihon.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2013/10/rd12-spain-preview.html |title=ひとつのラリーで舗装路とグラベル路をこなすシーズン唯一のミックスサーフェイスイベント |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2013-10-24 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 概ね、ターマックでは[[最低地上高|車高]]を下げて大径の18インチ[[車輪|ホイール]]を装着するのに対して、路面変化の大きいグラベルではサスペンションのストロークを確保するために車高を上げて小径の15インチホイールを装着する。全イベントの2/3を占めるグラベルも地質や砂利の割合などそれぞれ特性が異なり一括りに出来ない難しさがあるため、ターマック、グラベル共に路面状況や天候を読みながらのセッティング、タイヤ選択がタイムに大きな影響を与えることも少なくない{{#tag:ref|特に1月に開催される[[ラリー・モンテカルロ|モンテカルロ]]は、ドライ、ウェット、スノー、アイスと路面状況が変化するためタイヤ選択が重要なイベントとなっている。公式サプライヤーの1社で、2014年に全てのワークスチームに供給するミシュランでは、低い路面温度に対応するコンパウンドが柔らかいソフトとスーパーソフトの2種類、モンテカルロ専用となるスタッド付きとスタッド無しのスノータイヤを用意したが、装着分4本とスペアタイヤの搭載は2本に限られるため、選択によっては大きくタイムを失うドライバーが続出する結果となった<ref>{{Cite news |url=http://nihon.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/01/rd01-monte-carlo-report.html |title=【第1戦 ラリー・モンテカルロ: レポート】 |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2014-01-20 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 |group="注"}}。 ラリードライバーは大別するとターマックが得意か・グラベルが得意かで分けることができるが、その違いはドライバーの出身地による場合が多い。例えばグラベル路面の多い[[フィンランド]]のドライバーはグラベルが得意で、ターマック路面の多い[[フランス]]のドライバーはターマックが得意、といった具合である。これは慣れというのはもちろん、その地域で頭角を現すためにはその地域の路面に強い必要があるということでもある。また同じ「グラベル」「ターマック」でも、国によってコース環境は大きく異なる<ref group ="注">例えばグラベルは土砂の大きさや乾燥具合、ターマックは路面の粗さなど。また両者に共通して、平均速度や土地勘なども加わる</ref>ため、地元のドライバーが好成績を残す傾向にある。 === タイヤの制限 === [[Image:Rali Portugal (168).JPG|thumb|right|200px|左: ターマック用<br />右: グラベル用<br />(2007年 ラリー・ポルトガル)]] かつてはタイヤの種類や使用本数に制限は無かったが、コスト低減などを目的としたコントロールタイヤ制度 (ワンメイク) の導入<ref group="注">2008年 - 2010年</ref>と同時に様々な制限を行った<ref name="mmr20110616Tips">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/06/-1.html |title=グラベル用ラリータイヤ最新事情 |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2011-06-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140404175924/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/06/-1.html |archivedate=2014-04-04 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。タイヤの種類は、[[トレッド (タイヤ)|トレッド]]パターンがブロック状のグラベル用<ref group="注">少々のパンクに対応できる様、2007年まではムースと呼ばれる発泡剤をタイヤ内部に充填していたが、2008年のレギュレーション変更で禁止された。</ref>、ターマック用のグルーブ (溝) が少ないスリック{{#tag:ref|1994年を以て純粋なスリックタイヤの使用は禁止された<ref name="mmr20110816">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/08/post-34.html |title=アスファルト用ラリータイヤのパフォーマンス |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2011-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140404191605/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/08/post-34.html |archivedate=2014-04-04 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。 |group="注"}}のほか、冬期イベント用にスノーとスタッド付きスノーがある{{#tag:ref|同じ冬期のイベントでも、モンテカルロとスウェーデンでのスタッドタイヤは仕様が異なる。2013年のスタッドの高さと数は、モンテカルロが約2 mm/180本、スウェーデンが6 mm/360本となっている<ref name="2013R2"/>。 |group="注"}}。レギュレーションにより、イベントで使用可能なトレッドはグラベル、ターマック共に1種類、コンパウンド<ref group="注">タイヤの接地面に使用されるゴムの種類。一般的に、ソフトはグリップ力は高いが性能保持時間が短く、ハードはソフトに比べるとグリップ力は劣るものの性能保持時間は長い傾向がある。</ref>は2種類まで認められているが<ref name="mmr20110816"/>、例外として、ターマックの冬期イベントで路面のコンディションが多種多様に変化する[[ラリー・モンテカルロ|モンテカルロ]]では4種類まで認められている<ref name="mmr20140115">{{Cite news |url=http://nihon.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/01/rd01-monte-carlo-preview.html |title=今年もWRCは"雪と氷のモンテカルロ"から。ミシュランのWRC公式タイヤサプライヤー4年目がスタート |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2014-01-15 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 車両へ搭載されるスペアタイヤの本数は2本まで、新品タイヤへの交換は“サービスパーク”への入庫時のみ、交換本数も4本までとなっている{{#tag:ref|環境負荷の低減とコスト削減のため、2011年までは6本まで、2012年には5本まで、2013年からは4本までと年々削減されているため、タイヤメーカーは耐久性と性能の両立を更に求められることになった<ref name="mmr20140207t&r">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-basics-regulations.html |title=2014年WRCタイヤ&主要レギュレーション |newspaper= MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC|date=2014-02-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141214010440/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-basics-regulations.html |archivedate=2014-12-14 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。 |group="注"}}。限られたタイヤ本数で如何に早いタイムを出すことが求められるため、特に近年はタイヤマネージメントの重要性が増した。前後左右のタイヤ選択、前後のローテーション、内圧設定のほか、勝負所となる重要なSSを見極めタイヤを温存するなど様々な戦略が取られている<ref name="mmr20110910">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/09/post-40.html |title=ラリー中のタイヤ・マネージメント |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2011-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140404182055/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/09/post-40.html |archivedate=2014-04-04 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。イベント毎に使用出来るタイヤの総本数は異なるが、2014年のラリー・イタリアではシェイクダウンに4本、競技では35本となっている<ref name="mmr20140605p">{{Cite news |url=http://nihon.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/06/rd06-sardinia-preview.html |title=【第6戦 ラリー・イタリア: プレビュー】 |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2014-06-05 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 === タイヤメーカー === 2018年現在でFIAに認定されている公式サプライヤー (供給メーカー) は、[[ミシュラン]]{{#tag:ref|WRC開催初年度の1973年から2005年まで供給、その後は傘下の[[BFグッドリッチ]]ブランドとして[[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ]](IRC)に供給するなどの形で一時休止していたが2011年に復帰した<ref>{{Cite news |url=http://f1-gate.com/michelin/wrc_8980.html |title=ミシュラン、WRC復帰を検討 |newspaper=F1-Gate.com |date=2010-09-10}}</ref><ref name="mmr20140207w&m">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-basics-michelin-and-wrc.html |title=WRCとミシュラン |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2014-02-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141214010431/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-basics-michelin-and-wrc.html |archivedate=2014-12-14 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。2014年は全てのワークスチームが使用する<ref name="mmr20140207t&r"/>。 |group="注"}}、[[山東永泰化工集団|DMACK]]、[[ピレリ]]{{#tag:ref|ミシュランと同じく開催初年度の1973年から供給を開始し、2008年から2010年までは独占契約によりワンメイク供給を行った<ref name="rp20100409">{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/9435 |title=ピレリ、2011年までWRCコントロールタイヤ契約を延長! |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2010-04-09 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。2011年からF1に集中するため2010年を以て休止したが、2014年に復帰した<ref>{{Cite news |url=http://rallyx.net/news/ピレリ、2014年にWRCに復帰-9447/ |title=ピレリ、2014年にWRCに復帰 |newspaper=RALLY·X |date=2013-08-02}}</ref>。|group="注"}}の3社である。2008年から2011年までは独占契約を結んだ1社が全てのマシンにタイヤを供給するワンメイクとなっていたが、2011年からはタイヤメーカーの選択が自由となり、各チームがそれぞれのタイヤメーカーと契約する形となっている<ref name="mmr20110201tips">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/02/post-8.html |title=ミシュラン、ラリーに本格復帰 |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2012-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141214003242/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/02/post-8.html |archivedate=2014-12-14 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。尚、トップクラスのWRカークラスに関しては2021シーズンから、コントロールタイヤがミシュラン製からピレリ製に変更されている。 == スケジュール == 3日間または4日間で行われる{{#tag:ref|2014年からの新規定では、木曜日にスタート前のイベントとなるセレモニアルスタート、金曜日から日曜日を競技とし、最終日は12時頃に終了することとされた<ref name="jscwrc201401">{{Cite news |url=https://www.jsports.co.jp/press/article/N2014011014182305.html |title=2014年WRC第1戦モンテカルロラリー |newspaper=J SPORTS |date=2014-01-10}}</ref>。 |group="注"}}。各日は'''DAY''' (デイ) で表し、1日目は「DAY1 (デイワン)」と呼称する{{#tag:ref|2007年までは「DAY (デイ)」という表現を用いず「LEG (レグ)」と表記していた。現在でも「レグ」と表記している媒体も有る<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/3508 |title=ERCサンレモ、新井はプロダクション3位 |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2013-10-12 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 |group="注"}}。DAYは、実質的な競技区間の'''SS''' (Special Stage: スペシャルステージ、通称: '''エスエス''') と計測地点の'''TC''' (Time Control: タイムコントロール)、公道を走行する移動区間 (ロードセクション) の'''リエゾン'''に分けられ、SSの合計タイムが最も早いドライバーが優勝となる。 競技は'''アイテナリー'''と呼ばれるタイムスケジュール表に沿って進められる。通常のスタート間隔は2分だが、グラベルで無風状態になると前車走行後の土煙が2分以内に収まらず、後にスタートしたマシンが視界を遮られて影響を受けるため、その場合は間隔を1分延長し、状況次第では更に1分延長される事も有る{{#tag:ref|WRC 2011 第12戦 スペイン DAY1のグラベルでは、先頭走者のローブが本来であれば掃除役として不利を被る筈が、早朝かつ無風の状況で走行により巻き上げたダストが2分経過後もコース上に漂い、後続のマシンが視界を遮られて全開走行が出来ず、コースアウト寸前になるマシンも出るなど、ローブ以外は大幅にタイムを落としてしまう。この状況を受けてDAY1後半からはスタート間隔が4分に延長され、ようやく視界がクリアとなった<ref>WRC 2011 第12戦 スペイン. ''J SPORTS''. (2011年10月21日)</ref>{{出典無効|date=2020-04-10|title=WP:TVWATCH}}<ref>{{Cite news |url=http://carnifty.cocolog-nifty.com/wrc/2011/10/day1wrc-12-a53c.html |title=WRC第12戦ラリー・スペイン、デイ1はローブがトップ |newspaper=Car@nifty |date=2011-10-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714162451/http://carnifty.cocolog-nifty.com/wrc/2011/10/day1wrc-12-a53c.html |archivedate=2014-07-14 |deadlinkdate=2017-08-24}}</ref>。 |group="注"}}。このためサーキットレースとは異なり、トラブルで減速・停車した場合を除きコース上での抜きつ抜かれつはほぼ生じない。 === 準備 === イベントが開催される週の水曜日から'''[[レッキ]]'''と呼ばれる、競技で使用されるコースの下見走行を行い、ドライバーとコ・ドライバーはコース状況を把握してペースノートの製作を行うが、使用車両は競技車両ではなく一般車両となる。水曜日の夕方から木曜日に掛けては'''[[シェイクダウン (モータースポーツ)|シェイクダウン]]'''と呼ばれる、実際に競技車両を使用して最終チェックを行った後<ref group="注">この際はシェイクダウン専用のコースを使用する。</ref>、'''車検'''を受けて規定外のパーツの装着が無いか確認が取れると、競技車両は'''[[パルクフェルメ]]'''と呼ばれる車両保管所に置かれ、ドライバーを含め全ての関係者は競技開始まで触れることが出来ないようになっている。 {{main|[[パルクフェルメ#世界ラリー選手権(WRC)におけるパルクフェルメ|世界ラリー選手権(WRC)におけるパルクフェルメ]]}} === リエゾン === [[Image:2012 10 05 Rallye France, Route de liaison à Colmar, Ott Tänak.jpg|thumb|right|200px|リエゾンを走行する車両 (2012年 [[ラリー・ド・フランス-アルザス|ラリー・フランス]])]] 一般道路を使用する移動区間。スタートした車両はリエゾンを通りTCへ向かう。SSと異なり閉鎖されていないため、現地の交通法規に従い一般車両に混じって走行する{{R|msarchive-4-wrc}}。そのため競技車両は開催国のナンバープレートを装着する。リエゾンを走行することも競技の一部であり、主催者から示されるコマ図に従って走行するというラリー競技当初の姿が現在も残っている<ref group="注">優勝を争うような選手でもコマ図を読み違え、道に迷いガス欠で棄権するということが起こる。</ref>。TCに入る時間は車両毎に指定され<ref group="注">交通渋滞などで遅くなった若しくは早く着いてしまったなど、リエゾンで生じた誤差を正すのが目的。</ref>、指定時刻に遅れた場合は1分につき10秒のペナルティが総合タイムに加算される<ref name="mmr20140207t&r"/>。スピード違反や一時停止義務違反で現地の警察に検挙されることもあり{{R|msarchive-4-wrc}}、ドライバーが免許停止などの処分を受けた場合、以後のリエゾン区間はコ・ドライバーがステアリングを握ってドライバーがナビをする<ref name="rallyplus_20110214" />。また、各国の法律<ref group="注">日本の場合は[[道路運送車両法]]。</ref>に定められた保安基準を満たしていない場合は走行を止められることがあり、特にSS区間でのトラブルで車が破損した場合などに問題となる<ref>{{Cite journal|和書|magazine=RALLY CARS |volume=24 |year=2019 |publisher=三栄 |title=小説より、奇なり {{Small|トミ・マキネン3度目の戴冠と三菱ランサーエボリューションV}} |author=Martin Holmes |page=98, 102 |isbn=9784779639319}}</ref>。 === SS === 一般道路を一時的に閉鎖して作られた区間で、スタート地点はTC内に設置され、1台ずつ一定間隔でスタートしてタイムを競う。イベントによっては一般道路を閉鎖して使用するSSとは異なり、人工的に作られたサーキットコースのような特設会場で、2台の車両が仕切りのあるコースを同時にスタートする'''スーパースペシャルステージ''' (Super Special Stage: '''スーパーSS'''、'''SSS''') も存在する{{R|msarchive-4-wrc}}<ref group="注">通常のSSでは観客は競技車両が走り去るまでの短時間しか観戦出来ないが、スーパーSSでは観客席を設けて同じコースを2台の車両が同時にスタートするため、タイムを争う様子を観戦出来る。厳密には同じコースではないが比較的距離が短いため、タイム差は僅かである。</ref>。 [[ファイル:Grönholm vs. Loeb.jpg|thumb|200px|left|スーパーSS<br />(2006年 [[ラリー・アルゼンチン]])]] スピード感のある走行シーンが見所であるため、メディア中継が行われるのもSSであることが多い。SSの数はイベントにより異なるが概ね20前後で、各SSの距離は2 km前後から50 km以上まで存在し{{#tag:ref|規定により最長距離は80 km程度とされている<ref name="mmr20110910"/>。 |group="注"}}、合計距離は300 - 400 km程度となっている{{R|msarchive-4-wrc}}<ref group="注">ロードセクションなどの距離はこれ以上あるため、全ての競技の総走行距離はこの限りではない。</ref>{{#tag:ref|F1監督やWRCでコ・ドライバーを務めていた現FIA会長の[[ジャン・トッド]]が推進するWRC長距離化政策や元WRCドライバーで現FIA役員である[[ミシェル・ムートン]]の影響により、近年は長距離化が進んでいる<ref>{{Cite news |url=https://www.rallyplus.net/5832 |title=第6戦アクロポリス初日:復活ラトバラが首位 |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2012-05-25 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 |group="注"}}。2011年からは'''パワーステージ'''{{#tag:ref|最終日の最終SSの1位 - 3位に、それぞれ3ポイント、2ポイント、1ポイントのドライバーズポイントが与えられる<ref name="mmr20140207t&r"/>。2013年までは設定SSや距離も様々で、規定は無かったもののほとんどが最終日の最終SSに設定されていた。2013年のフランスではDAY1のSS1に設定される例もみられたが、2014年からは最終日の最終SSで距離は10 km以上と規定された<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/3245 |title=2014年からWRCのアイテナリーはさらにフォーマット化へ |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2013-12-05 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。|group="注"}}が導入された。タイトル争いでは僅かなポイントが結果を大きく左右する場合があるため、DAYリタイアやトラブルで上位進出の可能性が無くなった場合はパワーステージでのポイント獲得に切り替える事が多い。 [[Image:Accident Skoda WRC.JPG|thumb|right|200px|破損した車両]] [[ファイル:2012 Rally Finland friday 11.jpg|thumb|200px|right|サービスパーク<br />(2012年 [[ラリー・フィンランド]])]] タイムは速いほど良いためドライバーは全力で挑むが、時にはスピンやパンクによるタイムロスも発生する。また、事故や機器のトラブルなど、車両が深刻なダメージを受けて走行不能となった場合は、リタイアしたSSと、同日に行われる全てのSSがリタイア扱いとなる'''DAYリタイア'''となる。全損で無い場合、指定の時刻までに車両を走行可能な状態にして認定を受けた場合は翌日の出走が可能となる救済措置の'''[[スーパーラリー|ラリー2]]規定'''が適用され、ペナルティとしてリタイアしたSSと走行出来なかった残りのSSのトップタイムに5分加算されるが総合成績は有効となる。ただし、最終日にリタイアした場合は同規定が適用されないため未完走扱いとなり総合成績は残らない<ref name="mmr20140207t&r"/>。 DAYリタイアの時点で、優勝やポディウム争いからは脱落してしまうが、以降のイベントに向けてのテストやセッティングと割り切って走行する事が多い。2014年からは、シードドライバーがDAYリタイアし翌日出走する場合、前年のドライバーズポイント順である、ゼッケンナンバーが15番までのシードドライバーの最下位に組み入れることと規定された。これは、余りにも下位の出走順にしてしまうと、技量の高いシードドライバーがタイムの遅い前走者に追い付き、危険と判断されたものである<ref name="mmr20140207t&r"/><ref name="jscwrc201401"/>。 スタート順は、グラベルのイベントに於いては重要なファクターとなる。最初にスタートするドライバーは堆積する土砂を掻き分ける掃除役となり不利を被ることが多いため、これまでも様々な対策が取られてきたが根本的な解決策は定まっていない。2013年までは事前に行われる予選でタイム順に上位のドライバーから自由に決めることが出来たが、2014年からは予選が廃止された。新方式は、初日のDAY1はドライバーズポイントが高い順、DAY2以降はスーパーSSを除く前日の最終ステージを終えた時点での総合成績順となっている。 各DAY最後のSS終了後はTCに移動してリエゾンを通り、'''サービスパーク'''と呼ばれる各チームの本部に戻る。サービスパークでは競技中の整備や給油などの各種作業が許されるが制限時間があり{{#tag:ref|通常は60分だが、ミックスサーフェイスのイベントであるスペインでは75分に設定されている。これは、DAY2がターマックでDAY3がグラベルのため、通常の整備作業に加えて仕様変更も行う必要があるため特別に設定されている<ref name="michelin1"/>。 |group="注"}}、制限時間をオーバーしたり、SSを欠場してマシンの修復を行う場合<ref group="注">[[スーパーラリー]]制度を適用</ref>はペナルティとしてタイムが加算される<ref group="注">以前はサービスパークという制度は存在せず、競技中はほぼ時間や場所に関わらず整備が可能であった。</ref>。その後、車両は再びパルクフェルメに保管されて次のDAYの競技開始を待つ。サービスパーク以外で簡単な整備が出来る場所、'''リモートサービス'''{{#tag:ref|15分間のため、整備は必要最低限となる<ref name="mmr20110526r6">{{Cite news |url=http://nihon.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2011/05/post-19.html |title=WRC第6戦ラリー・アルゼンチン プレビュー |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2011-05-26 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。 |group="注"}}を設ける場合もある。 == 車両クラス == ===テクニカルクラス(技術的な区分)=== 2014年にFIAにおける地域選手権も含めたラリーカーの規定は、6つのクラスに再編された。グループRのR3D以外は全てガソリン車となる。従来は各クラスに多数の規定が混在していたが、2019年にグループA・グループNを排除して簡素化された。また2020年には[[グループR]]のうちR3以外のすべてが「Rally〜」へと改名している。現在の車両の区分は以下の通り<ref>{{Cite web |date= |url=https://www.fia.com/file/65287/download/9275?token=9vDTtjTT |title=Download 2018_wrc_sporting_regulations_170118.pdf |format=PDF |publisher=FIA |accessdate=2018-01-28}}</ref>。 {{seealso|グループRally}} この技術区分はプライオリティ(優先順位、出走順などに関連)の基準として用いられる。 ; RC1 :* [[ワールドラリーカー|WRカー]](1,600 ccターボ) : ;RC2 :* グループRally2(R5) :* グループRally2キットカー : ;RGT :* [[グループR-GT]] : ;RC3 :* グループR3/VR3C(自然吸気は1,600 cc超 - 2,000 cc以下、ターボは1,067 cc超 - 1,333 cc以下) :* グループR3/VR3T(1,620cc以下のターボ) :* グループR3/VR3D(ディーゼル 2,000cc以下のターボ) : ;RC4 :* グループRally4/RC4A(自然吸気は1,600 cc超 - 2,000 cc以下、ターボは1,067 cc超 - 1,333 cc以下) :* グループRally4/RC4B(自然吸気は1,390 cc - 1,600cc、ターボは927 cc - 1,067 cc) : ;RC5 :* グループRally5(自然吸気は1,600 cc以下・ターボは1,067 cc以下) ==== 2018年までのテクニカルクラス ==== ; RC1 :* [[ワールドラリーカー|WRカー]] (1,600 ccターボ) : ;RC2 :* [[スーパー2000]](1,600ccターボ+内径28 mmリストリクター、または2,000 cc[[自然吸気]]) :* [[グループR]]5/VR5 :* グループR4/VR4(欧州イベント不可) :* グループNR4(従来の[[グループN|グループN4]]) : ;RGT :* グループRGT : ;RC3 :* [[グループA]] (1,600 cc超 - 2,000 cc未満) :* スーパー1600 :* グループR2/VR2C(自然吸気は1,600 cc超 - 2,000 cc以下、ターボは1,067 cc超 - 1,333 cc以下) :* グループR3/VR3C(自然吸気は1,600 cc超 - 2,000 cc以下、ターボは1,067 cc超 - 1,333 cc以下) :* グループR3/VR3T(1,620 cc以下のターボ) :* グループR3/VR3D(ディーゼル 2,000 cc以下のターボ) : ;RC4 :* グループA (1,600 cc以下) :* グループR2/VR2B(自然吸気は1,390 cc - 1,600 cc、ターボは927 cc - 1,067 cc) :* [[キットカー]] (1,600 cc以下) :* グループN (1,600 cc超 - 2,000 cc以下) : ;RC5 :* グループN (1,600 cc以下) :* グループR1/ VR1A/VR1B(自然吸気は1,600 cc以下・ターボは1,067 cc以下) === 実際に参戦可能な車両とクラス === 2022年現在。車両の詳細は[[世界ラリー選手権#競技クラス|競技クラス]]を参照。 ; WRC :* [[WRカー]](型落ちも含む) : ; WRC2 :* グループRally2 : : WRC3 :*グループRally3 : ; FIA R-GTカップ :* [[グループR-GT]] その他、これらのクラスとは別枠でASN(Authority Sport Nationale、各国の自動車協会)の認める地域選手権独自の規定の車両がエントリーすることも可能である。ただし安全基準はFIAのそれに準ずる。またチャンピオンシップポイントを得ることはできず、賞典外での参加となる。 == 競技クラス == WRCのほかに'''WRC2'''、'''WRC3'''を始めとするサポート選手権と、それに付随する各種カップが存在する。このうちWRC2とWRC3は全WRCイベントで併催される<ref group="注">2012年まで、WRC以外のJWRCやPWRCなどは、WRCと併設されたイベントでWRCのみしか行われないイベント、一部サポートカテゴリーを行われないイベント、全カテゴリーを同時開催するイベントなどまちまちであった</ref>。こうしたいわゆる「下位クラス」は業界の事情に対して右往左往するような形で毎年大規模に賞典の変更が行われるため、情報を追う場合には特に注意が必要である。 [[タイヤ]]は2022年現在、全クラスで[[ピレリ]]となっている(ただしASN車両はこの限りではない)。 === WRC === [[File:WRC Central European Rallye 2023 Nr. 18 (4).jpg|200px|thumb|[[トヨタ・GRヤリス ラリー1|トヨタ・GRヤリス Rally1 ハイブリッド]]]] [[File:WRC Central European Rallye 2023 Nr. 11 (4).jpg|thumb|right|200px|[[ヒョンデ・i20 N ラリー1|ヒョンデ・i20 N Rally1 ハイブリッド]]]] [[File:WRC Central European Rallye 2023 Nr. 13 (4).jpg|thumb|right|200px|[[フォード・プーマ ラリー1|フォード・プーマ Rally1 ハイブリッド]]]] 選手権の名称にもなっている最上位クラス。1973年誕生。マニュファクチャラー(製造者)として参戦するチームは、全13戦で2台以上のエントリーが義務付けられている。ポイントは全戦有効。カーナンバーは基本的に1 - 30番だが、それ以外をリクエストすることも可能。2019年よりチャンピオンドライバー以外は「2 - 99」のうちから自由選択となった<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.as-web.jp/rally/444410 | title = WRC:ドライバーが任意で選ぶ“コンペティションナンバー”発表。トヨタの3名は#5、#8、#10 - autosport web | accessdate=2022-8-21}}</ref>。 現在の車両規定は'''[[ラリー1|Rally1]]'''である。市販車に由来しないパイプフレームと共通のハイブリッドシステム、SDGsの観点から精製されたバイオ燃料を用いているのが特徴となる。エンジンは先代の[[WRカー]]規定からキャリーオーバーされた直列4気筒1.6 Lターボの「GRE(グローバル・レース・エンジン)」と呼ばれる規格で、最高出力は約380 PS、最大トルクは約425 Nmを発生する。ハイブリッドの最大出力と組み合わせると500PS/500Nmにも達する。コスト削減のため[[パドルシフト]]とセンターデフ、電子制御デフは禁止されている。 ベース車両は古くは[[クーペ]]や[[セダン]]が主流であったが、2000年代以降は小型化が進み、現在のラリー1は[[Bセグメント]][[ハッチバック]]と同様のシルエットを採用している。 2018年まで規則上では[[グループN]]、[[スーパー2000]]、[[グループA]]、グループRGT、グループRなども参戦可能であったが、実際にこれを用いるエントラントはなく、2019年以降は規則から削除されている。 {{main|[[ラリー1]]}} ==== 1998 - 2010年の主な車種 ==== * [[シトロエン・C4|シトロエン・C4 WRC]] * [[シトロエン・クサラ]] * [[シュコダ・オクタヴィア]] * [[シュコダ・ファビア]] * [[スズキ・SX4]] * [[スバル・インプレッサ#初代|スバル・インプレッサ]] * [[セアト・コルドバ]] * [[トヨタ・カローラ WRC]] * [[ヒュンダイ・アクセント]] * [[フォード・フォーカスWRC]] * [[プジョー・206]] * [[プジョー・307]] * [[三菱・ランサーエボリューション]](Gr.A) * [[三菱・ランサーWRC]] ==== 2011- 2016年の車種 ==== * [[シトロエン・DS3 WRC]] * [[ヒュンダイ・i20 WRC]] * [[フォード・フィエスタ RS WRC]] * [[フォルクスワーゲン・ポロ R WRC]] * [[ミニ・ジョン クーパー ワークス WRC]] ==== 2017-2020年の車種 ==== * [[シトロエン・C3 WRC]] * [[トヨタ・ヤリスWRC]] * [[ヒュンダイ・i20クーペWRC]] * [[フォード・フィエスタWRC]] ==== 2022年以降の車種 ==== * [[トヨタ・GRヤリス ラリー1|トヨタ・GRヤリス Rally1 ハイブリッド]] * [[ヒョンデ・i20 N ラリー1|ヒュンダイ・i20 Rally1 ハイブリッド]] * [[フォード・プーマ ラリー1|フォード・プーマ Rally1 ハイブリッド]] === WRC2 === [[file:2019 Rally Bohemia - Kopecký-Dresler, Škoda Fabia R5 evo.jpg|thumb|right|200px|[[シュコダ・ファビアR5|シュコダ・ファビアRally2]]]] WRCの直下カテゴリ。2013年誕生。参戦した7戦のうち上位6戦分のポイントが採用される[[有効ポイント制]]である<ref group="注">2017年までは、フル参戦者は運営の指定する3イベントに参戦することが義務付けられていたが、2018年には全戦自由に選べるようになった。これはWRC3も同様である</ref>。カーナンバーは2018年までは31から60番。2019年より20番以降となる。歴史は長くないが、WRC3との絡みも合わせて参加車両・参加資格などの変更が非常に多くされてきたクラスである。 使用車両は2022年現在は'''Rally2'''(旧名グループR5)車両のみで選手権が争われる。2013〜14年まではグループR4、2013 - 2018年までは[[グループN|グループN4]]、[[スーパー2000]]もエントリーできた。またWRC2発足当初は[[グループN|グループN4]]が対象の「プロダクションカーカップ」が設定されていた<ref name="as20121122">{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/5032 |title=WRC-2,WRC-3の詳細が発表 |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2012-11-22 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。2020年からは、[[オレカ]]製の共通コンポーネントおよび1.6リッターターボエンジンを搭載するRally2キットカー(旧R4キットカー)も参戦可能となる。 グループRally2/R5は元々はスーパー2000に代わる規定で、最大価格18万ユーロの規制の下に多数のメーカーが開発・販売を行っている。エンジンは市販車由来の1.6 Lターボで最大馬力280 PS程度、大規模な空力パーツも無いため絶対的な速さこそRally1に劣るが、コースやドライバーなどの諸条件が揃うと稀にRally1/WRカーを上回るパフォーマンスを見せることもある{{#tag:ref|2017年[[ラリー・ドイチュラント]]のSS1ではWRカーには狭すぎる超低速ステージであったこともあり、[[シュコダ・ファビアR5]]のヤン・コペッキーが総合首位に立った。また2022年[[ラリー・エストニア]]のパワーステージでは荒天による路面状況の変化が目まぐるしく、シュコダRally2の[[アンドレアス・ミケルセン]]が後一方でステージウィンを飾るところであった<ref>{{Cite news |url=https://www.as-web.jp/rally/152149 |title=WRCドイチェランド:シトロエンのミークがSS1クラッシュの波乱。トヨタ勢は6番手発進 |date=2017-08-18 |accessdate=2017-08-28 |newspaper=AUTO SPORT web}}</ref> |group="注"}}。コストパフォーマンスに極めて優れているためプライベーターからの人気が高く、[[シュコダ]]のようにこのクラスを主戦場とするメーカーもいるため、かつてはRally2/R5規定を次期WRカーとする構想があったほどであった。結局それは実現していないものの、ワークスチームやプロドライバーが多数いる現状を鑑みて、彼らを対象としたWRC2プロクラスが開催されていたこともあった<ref>[https://www.rallyplus.net/54921 WRCがカーナンバー選択制へ、WRC2プロを創設しWRC3は廃止] RallyPlus.net 2018年10月13日</ref>。WRC2プロは1年間のみの開催で、2020年からはワークス向けのWRC2プロを「WRC2」、プライベーター向けのWRC2を「WRC3」へと名称を置き換えることとなった。 2022年からは再びワークス・プライベーターともにWRC2に一本化され、高齢層のための「マスターカップ」と、WRC2/3優勝経験を持たない若年層のための「ジュニアカップ(WRC2ジュニア)」が賞典として施行される。2023年からはジュニアカップはまだRally2レベルのサポート選手権(WRC2/旧WRC3)の王者になったことのないドライバーによる「'''WRC2チャレンジャー選手権'''」に格上げされ、マスターカップは50歳以上のドライバーとRally2〜5またはR-GT車両が対象の「WRCマスターズカップ」へと変更された。 ==== 2015年までの主な車種 ==== [[File:Mikko Hirvonen Fiesta S2000 Monte Carlo Rally 2010 005.jpg|thumb|right|180px|[[フォード・フィエスタ]] S2000]] * [[シュコダ・ファビア]] S2000 * [[プジョー・207]] S2000 * [[プジョー・208]] T16 R5 * [[フォード・フィエスタ]]R5/S2000/RRC * [[シトロエン・DS3]] R5/RRC * [[ミニ (BMW)|Mini・ジョンクーパーワークス]] S2000 * [[スバル・インプレッサ]] グループN/R4 * [[三菱・ランサーエボリューション]] グループN/R4 ==== 2016年以降の主な車種 ==== * [[シュコダ・ファビア]] R5 * シュコダ・ファビア・R5エボ * [[フォード・フィエスタ]] R5 * フォード・フィエスタMK-Ⅱ R5 * [[プジョー・208]] T16 R5 * [[シトロエン・DS3]] R5 * [[ヒュンダイ・i20]] R5 * [[フォルクスワーゲン・ポロ]] GTI R5 * [[シトロエン・C3]] R5 * [[ダチア・サンデロ]] Rally2キットカー * [[フィアット・500X]] Rally2キットカー === WRC3 === 2013年誕生。運営規則はほぼWRC2とかなり近く、13戦開催・7戦中6戦の有効ポイント制を敷く。歴史は短いながら車両規定の変遷が激しく、廃止と復活も経験している。 もともとはワンメイク化されたJWRCに代わって登場した、WRCの[[二輪駆動]]車部門で、2018年までは二輪駆動のグループR車両(=R1・2・3、現在のRally4・5)で争った。またJWRCの車両はWRC3の規則と合致するため、両クラスに同時エントリーが可能となっていた。JWRCは出走イベント・参戦マシン・タイヤメーカーなどを選べないハンデはあるが、実際にはJWRCのエントラントがWRC3でも上位をほぼ占めており、両選手権でチャンピオンを獲得することの方が多かった<ref group="注">現在、2014年から2017年まで4年連続でJWRC/WRC3の同時制覇が達成されている</ref>。この頃はWRC3としてのメディア露出はほとんどなく、2018年終了を以て一旦廃止された。 2020年にRally2車両のプライベーター向けクラスとして復活したが、最終戦ラリー・モンツァにて前年までヒュンダイワークスドライバーの[[アンドレアス・ミケルセン]]がスポット参戦し優勝したことで苦情が発生。その影響で2021年以降、過去5年以内にWRCクラスでマニュファクチャラーズポイントを獲得した者又はWRC2/3チャンピオンのWRC3参戦を禁止するという一幕があった<ref name="rallyplus.net">[https://www.rallyplus.net/74982 2021年からパワーステージポイントがマニュファクチャラーズ選手権にも加算。WRC2、WRC3にも導入へ] RallyPlus.net 2020年12月17日</ref>。 2022年からは新生'''Rally3''車両(コスト規制10万ユーロで210 PS程度の四輪駆動車)が導入され、明確にWRC2と区別される。 ==== 2018年までの主な車種 ==== [[File:2017 Rally Portugal - 13.jpg|thumb|right|200px|[[プジョー・208]] R2]] * [[シトロエン・DS3]] R3 * [[フォード・フィエスタ]] R2T * [[ルノー・クリオ]] RS R3T * [[プジョー・208]] R2 * [[トヨタ・86|トヨタ・GT86]] CS-R3 ==== 2022年以降の主な車種 ==== * [[フォード・フィエスタ]] Rally3 === JWRC=== [[File:D. Matalobos - P. Silva (CITROEN DS3 R3T ) (18060760938).jpg|thumb|right|200px|[[シトロエン・DS3]] R3T]] WRCの育成向けクラス。2002年誕生。WRCクラスの有力マニュファクチャラーで知られる[[Mスポーツ]]のポーランド法人がプロモーターを務める。年間5 - 7戦で、ポイントは全戦が有効となる。カーナンバーは61から80番。2015 - 2016年と2019年以降に、1イベント中各国で最もポイントを稼いだドライバーをポイント対象とし、年間最もポイントを稼いだ国に贈られる「JWRCネイションズトロフィー」が設定されている。 参戦には29歳以下<ref group="注">かつては26歳以下だった。</ref>で、かつWRカーでマニュファクチャラーポイントを獲得したことが無いドライバーという制限が課されており、WRCへの[[登竜門]]的な存在となっている。以前はJWRCでチャンピオンになってすぐWRCで活躍するドライバーも多かったが、近年はWRCの出場枠が少ないことやWRカーの戦闘力が以前より上がったこともあり、一旦WRC2へステップアップするドライバーが多い。運営側でも、優秀な成績を収めたドライバーには翌年WRC3<ref group="注">2020年まではWRC2だった。JWRCは年間イベントを2戦ずつ3つのセクターに分けており、各セクターで最も多くのドライバーズポイントを得たドライバーは、[[Mスポーツ]]のオペレーションの下、翌年のWRC2にR5マシンで2戦ずつスポット参戦する権利を得ることができる。加えてドライバーズチャンピオンは1戦の権利を得る。つまり全セクターで勝利すれば、7戦に参戦する権利を得ることが可能となる。ちなみにこの特典がこのような複雑な形態を取るのは、接戦になった場合を考慮しているためである。なお2020年以降はコロナ禍もあって4~5戦に絞られており、上記の話は当てはまらない</ref>に参戦するための費用やマシンが与えられる。 2011年から車両・タイヤともにワンメイクとなっている。従来の指定車両は前輪駆動車のみであったが、2022年からは四輪駆動の'''フォード・フィエスタRally3'''が指定されている。 前身は1993 - 1999年開催の、二輪駆動+自然吸気エンジン車の[[フォーミュラ2 (ラリー)|F2]]規定車両のための「FIA 2リッターカップ」(正式名称は「FIAカップ・フォー・マニュファクチャラー・オブ・ツーリングカー」)。2001年に改めて開催された「FIA[[スーパー1600]]カップ」が翌年にJWRCと改称された。2006年以降はスーパー1600に加えて1,600cc以下の[[グループA|グループA3]][[キットカー]]、2,000cc以下の[[グループN|グループN3]]、[[グループR|グループR2・R3]]規定など多彩なマシンのエントリーも認められるようになった。2007年のみ[[ヨーロッパ]]以外での開催が無かったため、“W”が取れ「JRC」となった。エントラントの減少から、2011年に車両・タイヤがワンメイク化された。2011 - 2012年の名称は「WRC アカデミー」であったが、2013年にはサポートカテゴリ再編と共に「JWRC」に戻った。2022年のみ'''WRC2ジュニア/WRC3ジュニア'''へと分化しているが、Mスポーツのブランド戦略上の意向により、WRC3ジュニアについては「JWRC」の呼称が残された。WRC2ジュニアの発展解消により、2023年からは正式にも「JWRC」として開催される。 ==== 2010年までの主な車種==== [[ファイル:Suzuki Swift JWRC 05 001.JPG|200px|right|thumb|スズキ・スイフト S1600。奥はスーパーイグニス (先代スイフト)]] * [[オペル・コルサ]] * [[オペル・アストラ]] * [[シトロエン・サクソ]] * [[シトロエン・C2]] * [[スズキ・スイフト]] * [[スズキ・イグニス]] * [[フィアット・プント]] * [[:en:Ford Puma|フォード・プーマ]] * [[フォード・フィエスタ]] * [[フォルクスワーゲン・ポロ]] * [[プジョー・206]] * [[ホンダ・シビックタイプR]] * [[:en:MG ZR|MG ZR]] * [[ルノー・クリオ]] ==== ワンメイク化後の車種 ==== * [[シトロエン・DS3]] R3T(2014 - 2016年) * [[フォード・フィエスタ]] R2 (2011 - 2013年、2017 - ) * [[フォード・フィエスタ]] Rally3 (2022年 - ) === FIA R-GTカップ === クーペをメインとした、[[グループR-GT]]を対象とするカテゴリ。WRCとの併催が多いが、他のサポート選手権と異なり世界タイトルはかけられておらず、ERC([[ヨーロッパラリー選手権]])などとも併催されている。 {{main|グループR-GT}} ==== 主な車種 ==== * [[ポルシェ・911|ポルシェ・997 GT3]] * [[アバルト・124スパイダー|アバルト・124 R-GT]] === 過去に存在した選手権 === ====プロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC)==== {{main|プロダクションカー世界ラリー選手権}} [[ファイル:2010 wales rally gb by 2eight dsc0555.jpg|thumb|right|200px|三菱・ランサーエボリューションX]] 2002 - 2012年開催。市販車に安全装備など最低限の改造のみを施した、[[グループN]]規定の車両を中心に戦う。前身は1987年から開催されていた'''FIAプロダクションカーカップ'''。チームタイトルに当たるものは存在しない。 [[スバル・インプレッサ]]と[[三菱・ランサーエボリューション]]の寡占状態が長く続いたため、2007年から[[スーパー2000]]車両も許可され、2011年からはJWRCのワンメイク化に伴いR1 - R3車両のための2WDカップが創設された。2010年にスーパー2000はSWRCへ分離され、2013年にはグループN4車両はWRC2のプロダクションカーカップ、2WDカップはWRC3へと発展してPWRCは消滅した。 日本人・日本車の活躍が多く、[[新井敏弘]]が2度のドライバーズタイトル、[[奴田原文雄]]がモンテカルロで優勝を飾る活躍を見せた。前身のFIAプロダクションカーカップでも三菱・スバルの他マツダ・日産がチャンピオンマシンとなっており、日本人では西山寛が総合ランキング2位に入っている。なお2005年頃までは「PCWRC」と表記されていたが、現在は「PWRC」と表記するのが通例である。 ===== 主な車種 ===== * [[三菱・ランサーエボリューション]] * [[スバル・インプレッサ]] * [[プロトン (自動車)|プロトン]]・パート * [[プジョー・207]] S2000 (2007年-) * [[MG|MG ZR]] S2000 (ラリーGBに出場) * [[フィアット・プント|アバルト・グランデ・プント]] S2000 (2007年-) * [[シュコダ・ファビア]] S2000 (2009年-) * [[トヨタ・オーリス|トヨタ・カローラ]] S2000 (ラリー・オーストラリアに出場) * [[シトロエン・DS3]] R3 (2011年-) * [[フォード・フィエスタ]] S2000 ====スーパー2000世界ラリー選手権 (SWRC) ==== [[Image:2010 Skoda Fabia S2000 - Flickr - exfordy.jpg|thumb|right|200px|シュコダ・ファビア S2000]] 2010年〜2012年開催。市販車を[[自然吸気]]2.0 Lエンジン・[[四輪駆動]]に換装する[[スーパー2000]]規定と、グループN4の戦闘力の乖離を鑑みて創設された<ref>[https://www.rallyplus.net/10074 S2000世界ラリー選手権、SWRC誕生へ]</ref>。また初年度のみチームタイトルとして、選手権名の原案でもあった「'''WRCカップ'''」が掛けられた<ref>[https://www.rallyplus.net/9891 FIAが2010年のエントリーを発表<WRCカップ>]</ref>。マシンはスーパー2000の他、2011年からグループR4車両も可とされた。わずか3年のみの開催で、2013年よりWRC2へ移行した。 ===== 主な車種 ===== * [[フォード・フィエスタ]] S2000 * [[シュコダ・ファビア]] S2000 * [[フィアット・プント|アバルト・グランデ・プント]] S2000 * [[プジョー・207]] S2000 * [[プロトン・サトリア|プロトン・サトリアネオ]] S2000 (2012年 - ) * [[三菱・ランサーエボリューション]] R4 ==== WRC2プロ ==== 2020年~2021年のWRC2に相当するクラス。ワークスチームやプロドライバーが対象で、グループR5で2019年のみの1年間だけ争われた。 ==== その他の賞典・トロフィー ==== * レディースカップ - 1990 - 1995年開催。女性ドライバーが対象。 * チームズカップ - 1998 - 2001年開催。プライベーターチームが対象。 * WRCトロフィー - 2017年のみ開催。2016年までの[[WRカー]]が対象。参戦した車両は[[フォード・フィエスタ RS WRC]]、[[シトロエン・DS3 WRC]]、[[ミニ・ジョン クーパー ワークス WRC]]。 == ポイントシステム == === ドライバー選手権/コ・ドライバー(ナビゲータ)選手権 === 全クラス共通で、最終日のSS終了時の順位で1位から10位までに25, 18, 15, 12, 10, 8, 6, 4, 2, 1ポイントが与えられ、1シーズンで最も多くのポイントを獲得したドライバー/コ・ドライバーが'''ドライバーズチャンピオン'''/'''コ・ドライバーズチャンピオン'''となる。 WRC、WRC2、WRC3のエントリー車両に限り、総合成績に関係なくイベントの最終SS{{#tag:ref|2018年のラリーGBのように、最終SSではないことも稀にある。|group="注"}}の1〜5位にそれぞれ5-4-3-2-1ポイントのボーナス点が与えられる('''パワーステージ''')<ref>{{Cite news |url=https://jp.motorsport.com/wrc/news/wrc-2017年の規定変更がwrcコミッション内で決定-847770 |title=2017年の規定変更がWRCコミッション内で決定 |date=2016-11-09 |author=David Gruz |accessdate=2017-08-28 |newspaper=motorsport.com}}</ref>。JWRCのみ、各SSで最速タイムを記録するたび1ポイントの「ステージポイント」が与えられる。 下位クラスのWRC2/WRC3/JWRCはクラス別にポイントが設けられているが、最高峰のWRCのドライバーだけはクラス順位ではなく総合順位からポイントが決定する。また下位クラスのドライバーでも総合順位次第でWRCのポイントを獲得できる(ただしASN車両では獲得できない)。 WRC2は7戦中上位6戦(そのうち1戦は欧州外イベントが絶対条件)、WRC3は最初に参戦した7戦中上位5戦の有効ポイント制となっている。2020年のJWRCは最終戦のみポイントが倍となる。 === マニュファクチャラー選手権 === [[WRカー]]の製造者(マニュファクチャラー)が該当し{{#tag:ref|WRCにおいて「マニュファクチャラー」とは「ワークスチーム」という意味がある。基本的には自動車メーカーがなるが、[[Mスポーツ]]のようにプライベーターでもマニュファクチャラーとなる例もある|group="注"}}、WRCで開催される。WRCの場合同選手権にエントリー出来るのはマニュファクチャラー毎に1チーム3台までで、2チーム目(4台目)以降はマニュファクチャラーズポイントは与えられない<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/24293 |title=WRC、2017年からドライバー3人制導入 |date=2016-09-29 |accessdate=2017-08-28 |newspaper=RALLYPLUS.NET}}</ref>{{#tag:ref|2016年までは1チーム2台までで、マニュファクチャラーズポイントは2チーム目にも個別に与えられていた<ref name="mmr20140207t&r"/>。 |group="注"}}。各マニュファクチャラーの、各イベントの上位2名の順位が加点対象となる。またWRC2は2台までがエントリーでき、ポイント対象は1台のみである。 ドライバーズタイトルと異なり、下位クラスのマシン・各マニュファクチャラーの最下位者1名・リタイア者を排除した順位でポイントを決める。例えば3名×4マニュファクチャラー=12名がマニュファクチャラー参戦している状態で、仮に全車がデイリタイアを喫しつつも完走した場合、マニュファクチャラー選手権の加点対象は12名―(各メーカーの最下位者×4)=8名となるため、最低順位は8位となる。つまりこの場合どんな形でも最終日の最終SSを走りきれば、7位+8位分の6+4=10ポイントは必ず獲得できる。年間最も多くのポイントを獲得したメーカーが'''マニュファクチャラーズチャンピオン'''となる。 2021年よりパワーステージにてマニュファクチャラーズ選手権ポイントも加算される。ドライバーズ選手権のパワーステージ同様に各マニュファクチャラーは、パワーステージの上位5人のうち、自チームのポイント対象ドライバーの上位2名のポイントを獲得できる<ref name="rallyplus.net"/>。 なおWRCが誕生した当初はドライバーズ選手権はなく、マニュファクチャラーズ選手権のみであった。1970年後半から~80年半ばまでは、総合順位とグループB/A/N内の順位を表で照らし合わせて、18~1ポイントまでを割り振るという少々複雑なポイント付与が行われていた。またマニュファクチャラーズポイント対象外に設定されるイベントもあった。 === チームズ選手権 === WRC2ではマニュファクチャラーズ選手権の代わりに「チーム選手権」が設定されている。1チームにつき最大2名が対象で、3人目以降は別チームの扱いとなる。そのイベントで最もポイントを多く獲得した1名がポイント対象。ドライバーズ選手権同様、13戦中8戦の有効ポイント制で、チームのドライバーのうち1名でも参戦すればポイント対象となる。年間通して最もポイントを獲得したチームが'''チームズチャンピオン'''となる。 JWRCと2020年以降のWRC3にチーム選手権に該当するものは存在しないが、JWRCではイベント毎各国で最も多くポイントを稼いだ者が対象の、「JWRCネイションズトロフィー」と呼ばれる国別対抗戦が存在する。 == 車両の変遷 == === WRC草創期 === [[Image:Lancia-Stratos-HF-Group-4-'.jpg|thumb|right|200px|ランチア・ストラトス]] 1973年のWRC創設から1980年代初頭までは「連続する12ヶ月間で1000台以上」の生産義務がある[[ツーリングカー]]の'''グループ2'''と、「連続する12ヶ月で500台」の[[グランドツーリングカー]]の'''グループ4'''規定で競技が行われた。ただしグループ2は「連続する12ヶ月で生産台数5,000台」のグループ1、グループ4は「連続する12ヶ月で1,000台」のグループ3の公認もそれぞれ取得することが前提であった。各メーカーは市販車を強化した特別仕様車である[[ホモロゲーション]]モデルを販売し、その車両をベースにグループ2・グループ4の競技用車両を開発していた。 目敏い[[ランチア]]はグループ3のパワートレインだけを移植したような、[[ミッドシップ]]のグループ4マシン・[[ランチア・ストラトス|ストラトス]]を生産してWRCを席巻。マニュファクチャラーズ選手権を3連覇した。しかしあまりに市販車と乖離していることから宣伝にならないと親会社の[[フィアット]]が難色を示し、ランチアの代わりにフィアット([[アバルト]])が前面に出ることとなった。ここに[[フォード]]、[[オペル]]、[[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]]などが絡む形となっていった。 当時は[[ピックアップトラック]]や[[オフロード|クロスカントリー車]]を排除する目的で[[二輪駆動|2WD]]が義務付けられていたが、[[アウディ]]は[[四輪駆動|4WD]]を[[乗用車]]に載せた上でFIAを説得し、4WDを認めさせた<ref>[https://dirtfish.com/rally/how-a-jeep-led-to-fias-infamous-4wd-ban/ HOW A JEEP LED TO THE FIA’S INFAMOUS 4WD BAN]</ref>。そして1981年からフルタイム[[四輪駆動|4WD]]と[[ターボ]]エンジンを採用した[[アウディ・クワトロ]]がラリーを席巻し、その後のラリーカーの方向性を決定づけた{{R|msarchive-4-wrc}}。その後グループ1 - 8規定を廃止し、1983年から新規定に移行することが発表された。1982年は新旧両規定に基づいた車両が使える移行期間であった。 ===グループB時代 (1982年 - 1986年)=== [[ファイル:Audi Quattro A2 20060407.jpg|thumb|left|200px|アウディ・クワトロ A2]] {{see also|グループB}} グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちWRCは[[グループB]]・[[グループA]]・[[グループN]]を採用した{{R|msarchive-4-wrc}}。グループBの生産義務はメーカーの参入を促すため「12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台{{R|msarchive-4-wrc}}」と非常に緩く設定されており、これによりさらに高性能で過激なラリー専用車両が続々登場した。グループB車両のほとんどは鋼管スペースフレームに市販車に似せたデザインのFRP若しくはC-FRP・ケブラー製のカウルを被せ、400 - 600 PSと言われた高出力の過給エンジンをミッドシップに搭載し、フルタイム4WDで駆動するといった物であり、メーカー各社は先鋭化した高性能車両を競って生み出していく。際限の無い競争の結果として開発コストが上昇したため、FIAはグループBよりも金銭的な負担が少なく、競争が激しくなるような新しいカテゴリーとしてグループS構想を発表した。 グループB規定により走行スピードは劇的に向上したが、安全面がその進化に追いつかず、多くの事故と犠牲者を生み出すこととなった{{R|msarchive-4-wrc}}。1985年ツール・ド・コルスでのランチアの[[アッティリオ・ベッテガ]]の事故死、同年アルゼンチンラリーでのプジョーの[[アリ・バタネン]]の事故、1986年ポルトガルラリーでフォードからワークスエントリーしていたヨアキム・サントスが多数の観客を死傷させるなど、ワークスドライバーが絡む事故が多発。そして、1986年のツール・ド・コルスで発生したランチアの[[ヘンリ・トイヴォネン]] / セルジオ・クレスト組の事故死を受けて、FIAは事故の翌日に以後のグループB車両の[[ホモロゲーション]]申請を却下することを発表し、その後1986年を以てグループBの廃止を決定{{R|msarchive-4-wrc}}<ref group="注">グループB車両の全てが出場不可となった訳ではなく、300 PS以下のB車両は1987年以降も出走は可能だった。実際、小排気量のグループB車両はポイント対象外ながら、ホモロゲーションの切れる1990年代までプライベートチームが走らせる姿を見ることが出来た。[[ポルシェ・959]]などもグループB参加車両として開発されていたが、ベース車の生産・販売の問題や莫大な競技参加費用が掛かるなどの様々な事情があり、更にグループBの廃止の煽りを受けてこれらの車が実際の競技に参加することは無かった。</ref>、翌1987年からは世界選手権はそれまで下位クラスであった[[グループA]]で行われることを発表、同時にグループS構想も消滅した。 ==== 1973年 - 1986年の車種 ==== <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0; width: 80%"> <div class="NavHead" style="text-align: center">1973年 -1986年の車種</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> * グループ4時代(1973年 - 1982年) ** [[アウディ・クワトロ#WRC参戦|アウディ・クワトロ (A1)]] (グループ4→グループB) ** [[アウトビアンキ・A112アバルト]] (グループ1、2) ** [[アルファロメオ・1750/2000#ラリー競技|アルファ・ロメオ2000 (GTV)]] (グループ1) ** [[アルファロメオ・アルフェッタ#ラリー競技|アルファロメオ・アルフェッタ (GT、GTV6)]] (グループ1、2→グループ4→グループA) ** [[アルファロメオ・アルファスッド#ラリー競技|アルファロメオ・アルファスッド]] (Ti、スプリント) (グループ2→N、A) ** [[アルピーヌ・A110]] ** [[アルピーヌ・A310]] ** [[オペル・カデット#カデットC(1973年-1979年)|ヴォクスホール・シェベット (HS/HSR/2300HSR)]] (グループ4→グループB) ** [[オペル・アスコナ#アスコナ400|オペル・アスコナ400]] (グループ4→グループB) ** [[オペル・カデット#カデットC(1973年-1979年)|オペル・カデットGT/E]] (グループ4→グループ1、2) ** [[オペル・コモドーレ|オペル・コモドーレGS/E]] (グループ2) ** [[サーブ・96|サーブ・96V4]] (グループ1、2→グループ4) ** [[サーブ・99 (EMS/ターボ)]] (グループ4→グループ2) ** [[シュコダ・100]] (110L/120S、LS/130S、LR、RS) (グループ1、2、4→グループA、B) ** [[ダッジ・ラム|ダッジ・ラムチャージャー]] (グループ2) ** [[DAF (自動車メーカー)#1958年-1975年の主な車種|DAF・66]] (グループ2) ** [[ヒルマン・アヴェンジャー#タルボット・アヴェンジャー(1978 - 1981年)|タルボ・サンビーム・ロータス]] (グループ2) ** [[トヨタ・セリカ#初代 A20/30型(1970年 ‐ 1977年)|トヨタ・セリカ1600GT (TA22)]] (グループ2) ** [[トヨタ・カローラレビン|トヨタ・カローラ (TE27)]] ** [[トヨタ・セリカ#初代 A20/30型(1970年 ‐ 1977年)|トヨタ・セリカ2000GT (RA20)]] ** [[トヨタ・セリカ#2代目 A40/50型(1977年 ‐ 1981年)|トヨタ・セリカ (RA40)]] ** [[トヨタ・セリカ#3代目 A60型(1981年 ‐ 1985年)|トヨタ・セリカ (RA63)]] ** [[トライアンフ・TR#TR7(1974-1981年)|トライアンフ・TR7-16V Rally]] ** [[トライアンフ・TR#TR7(1974-1981年)|トライアンフ・TR7 V8]] ** [[トライアンフ・TR#TR8(1978-1981年)|トライアンフ・TR8]] ** [[日産・フェアレディZ#初代|日産・240Z]] ** [[日産・バイオレット#2代目 A10型系|日産・バイオレット]] ** [[日産・バイオレット#初代 710型系|日産・バイオレットGT]] (グループ2→グループ4) ** [[フィアット・124スパイダー|フィアット・124・アバルトスパイダー]] ** [[フィアット・131|フィアット・131・アバルトラリー]] ** [[フィアット・X1/9#競技モデル|フィアット・アバルトX1/9プロトーティポ]] ** [[フィアット・リトモ|フィアット・リトモ・アバルト125TC]] (グループ2) ** [[フォード・エスコート|フォード・エスコートRS]] ** [[プジョー・504]] (グループ2、4) ** [[BMW・02シリーズ#BMW2002|BMW・2002]] (ti、tii) (グループ1、2) ** [[BMW・M1]](グループ4) ** [[ポルシェ・911#Fシリーズ|ポルシェ・911カレラRS]] (2.7/3.0) (グループ3、4) ** [[三菱・ランサー#初代 A70/A140系(1973年-1979年)|三菱・ランサー1600GSR]] ** [[三菱・ランサー#2代目 A170系(1979年-1987年)|三菱・ランサーEX2000ターボ]] ** [[メルセデス・ベンツ・W123|メルセデス・ベンツ280E]](グループ2) ** [[メルセデス・ベンツ・SLクラス#ラリー競技|メルセデス・ベンツ450 SLC 5.0]] ** [[メルセデス・ベンツ・SLクラス#ラリー競技|メルセデス・ベンツ500 SLC]] (グループ4→グループ2) ** [[ラーダ (自動車)|ラーダ]]([[アフトヴァース|VAZ]]) (2103、1200、1300ラリー、1500/S、1600、21011) (グループ1→グループ2) ** [[ランチア・フルヴィア|ランチア・フルヴィアHF]] ** [[ランチア・ベータ|ランチア・ベータクーペ]] (グループ3、4) ** [[ランチア・ストラトス|ランチア・ストラトスHF]] ** [[ルノー・5|ルノー・5ターボ]] (グループ4→グループB) ** [[ルノー・12|ルノー・12ゴルディーニ]] (グループ1、2) ** ルノー17ゴルディーニ * グループB時代 (1982年 - 1986年) ** [[アウディ・クワトロ#WRC参戦|アウディ・クワトロ (A2)]] ** [[アウディ・クワトロ#スポーツ・クワトロ|アウディ・スポーツクワトロ]] (S1E1/S1E2) ** [[MG・メトロ6R4]] ** [[オペル・カデット#カデットC(1973年-1979年)|ヴォクスホール・シェベットHSR]] ** [[オペル・マンタ#マンタ400|オペル・マンタ400]] ** [[シトロエン・ヴィザ|シトロエン・ビザ]]・ミルピステ ** [[シトロエン・BX#バリエーション|シトロエン・BX-4TC]] ** [[シュコダ・100|シュコダ・130LR]] ** [[ダイハツ・シャレード#926ターボ(G26)|ダイハツ・シャレード]] (1.0/926/926ターボ) (グループA→グループB (1985年のみ)→グループA) ** [[トヨタ・セリカ#3代目 A60型(1981年 ‐ 1985年)|トヨタ・セリカ ツインカムターボ]] ** [[日産・240RS]] ** [[フォード・RS200]] ** [[プジョー・205ターボ16]] (EV.1/EV.2) ** [[ポルシェ・911|ポルシェ・911SC-RS]] ** [[マツダ・RX-7#初代 SA22C(FB3S)型(1978年 - 1985年)|マツダ・サバンナRX-7 (SA22C)]] ** [[三菱・スタリオン]]4WD<ref group="注">参戦はプロトタイプクラスのみ。</ref> ** [[ラーダ|ラーダ2105VFTS]] ** [[ランチア・ラリー]] (Evo.Ⅰ/Evo.Ⅱ) ** [[ランチア・デルタS4]] ** [[ルノー・5|ルノー・MAXI5ターボ]] * グループB時代のグループAカー ** [[アルファロメオ・アルフェッタ#ラリー競技|アルファロメオ・アルフェッタGTV6]] ** [[アルファロメオ・アルファスッド#ラリー競技|アルファロメオ・アルファスッド・スプリント]] ** [[オペル・カデット#カデットE(1984年-1991年)|オペル・カデットGSi]] ** [[トラバント#トラバント P800 RS|トラバント・P800 RS]] ** [[スバル・レオーネ#2代目(1979年-1984年)|スバル・レオーネRX]] ** [[フィアット・ウーノ]] (55S/ターボ) (グループN、A) ** [[フィアット・リトモ|フィアット・リトモ・アバルト130TC]] (グループA→N) ** [[フォルクスワーゲン・ゴルフ#2代目 ゴルフII 19E型 (1983年-1992年)|VW・ゴルフGTI]] ** [[マツダ・ファミリア#6代目 BF型(1985年 - 1994年)|マツダ・323 4WD]] ** [[シュコダ・100|シュコダ・130L]] * 開発中止になったグループSカー ** [[ランチア・デルタ]](後の[[ランチア・デルタS4#主な戦歴・エピソード|ランチア・ECV]]) ** [[アウディ・クワトロ#スポーツ・クワトロRS002|アウディ・スポーツ・クワトロRS002]] ** [[マツダ]]・4WDプロトタイプ ** [[オペル・カデット#カデットE(1984年-1991年)|オペル・カデット GSi T16 ラリー4X4]] ** [[トヨタ・MR2#WRC参戦計画|トヨタ・222D]] ** [[フォード・RS200E]] ** [[ラーダ・サマーラ#特殊モデル|ラーダ・サマラS-プロト]] {{Gallery|title=グループA |width=150 |height=170 |ファイル:Lancia Storatos HF 002.JPG|ランチア ストラトス HF |ファイル:Peugeot 504 02.jpg|プジョー 504 |ファイル:Ford RS200 001.JPG|フォード RS200 |ファイル:Porsche_911_SC_RS_001.jpg|ポルシェ 911 SC-RS |ファイル:Mazda RX-7 Gr.B 001.JPG|マツダ RX-7 |ファイル:Lancia Delta S4 010.JPG|ランチア デルタ S4 |ファイル:MG Metro 6R4 001.JPG|MG メトロ 6R4 |ファイル:RBrookes.jpg|オペル マンタ 400 }} {{Gallery|title=グループS |width=150 |height=170 |ファイル:LanciaECV-Bologna1986-1.jpg|ランチア ECV |ファイル:Toyota WRC Group S 222D MR2 Prototype - Flickr - andrewbasterfield.jpg|トヨタ 222D |ファイル:Quattrors002grs.png|アウディ スポーツ・クワトロRS002 |ファイル:WelchSpanien1988.jpg|オペル カデット GSi T16 ラリー4X4 }} </div></div> === グループA時代 (1987年 - 2001年) === [[Image:Lancia Delta Integrale - Flickr - exfordy (1).jpg|thumb|right|200px|ランチア・デルタ インテグラーレ]] [[1987年の世界ラリー選手権]]は従来は下位カテゴリであった[[グループA]]規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5,000台(1993年より2,500台)以上の生産が義務づけられたほか様々な改造規制が加えられて市販車に近いものとなった。またグループBの教訓を忘れないFIAは1990年に[[エアリストリクター]]の装着を義務化し、最大出力を300馬力以下に抑えた<ref group="注">最初は40mm径だったが、段階的に34mmまで絞られた。</ref>。しかし4WD技術とタイヤの性能の進歩によりハンドリングは改良され続け、車両性能は落ちるどころか年々向上。エンジンも開発リソースが[[トルク]]の増強に回された結果、グループBに匹敵する400Nm級のトルクを発揮。こうした進歩により3年後にはグループBのマシンを凌駕する速さを身に付けた。 当初こそ[[BMW・M3]]や[[ルノー・5|ルノー・5ターボ]]、[[日産・シルビア|日産・200SX]]といった[[後輪駆動]]車が総合優勝できたこともあったが、1990年代に入ると[[四輪駆動|フルタイム4WD]]と2.0 Lの[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンが必須装備となっていた。グループA導入時にスポーツ走行用の4WDを備えた市販車を製造していたメーカーはランチア・アウディ・フォード・[[マツダ]]がいたが、アウディは大柄すぎるボディが環境に合わずに撤退。以降もその様な高性能な装備の市販スポーツ車両を生産・販売出来る欧州メーカーはランチア以外無く、トップカテゴリを戦えるメーカー数は大幅に減少した{{R|msarchive-4-wrc}}。 [[ファイル:1996 Subaru Impreza WRC - Flickr - exfordy.jpg|thumb|left|200px|スバル・インプレッサ WRX]] ランチアはコンパクトな[[ランチア・デルタ|デルタ]]を用いてグループA時代の覇権を握ったが、これに日本のメーカーが勝負を挑む。当時の日本の自動車市場はコンパクトな4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、また海外進出が好調で景気の良かった日本車メーカーたちはこぞって高性能な4WDスポーツ車を量産。1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、[[トヨタ自動車|トヨタ]]、[[富士重工業|スバル]]、[[三菱自動車工業|三菱]]、[[日産自動車|日産]]、マツダといった日本のメーカーがWRCを席巻した{{R|msarchive-4-wrc}}。またフォードもタイトルには手が届かなかったが、[[コスワース]]がエンジンを手がける4WDスポーツで日本車勢に迫った。 バブル崩壊によりマツダ・日産は志半ばで撤退するが、トヨタは[[トヨタ・セリカ|セリカ]]でランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権{{R|msarchive-4-wrc}}を制覇した。また[[富士重工業|スバル]]は[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]で1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇{{R|msarchive-4-wrc}}、[[三菱自動車工業|三菱自動車]]の[[三菱・ランサーエボリューション|ランサーエボリューション]]が1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇、特に1998年はマニュファクチャラーズ、グループNと合わせハットトリックを達成するなどし{{R|msarchive-4-wrc}}、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。この頃から高度な電子制御によるハイテク装備が普及し、各メーカーは前後中央3つのデフ全てのアクティブ化を目指すようになり、[[セミAT]]や[[トラクションコントロール]]、[[アンチロック・ブレーキ・システム|ABS]]なども装備されるようになった。 一方欧州メーカーへの参戦の門戸を広げる必要に迫られたFIAは、2WD/NAエンジンのグループA車による[[フォーミュラ2 (ラリー)|F2]]クラスを1993年に新設。さらに1995年にはフランスメーカーたちの提案により、改造範囲を大きく広げた[[F2キットカー]]規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD/NA化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べる[[ワールドラリーカー]] (WRカー) 規定が1997年よりグループAに代わって導入されることで決着した{{R|msarchive-4-wrc}}<ref>{{Cite journal|和書|journal=モータースポーツアーカイブ |volume=7 |publisher=公益社団法人自動車技術会 |year=2019 |title=90年代WRCにおけるトヨタ黄金時代 そのバックグラウンド [後編] |author=松井誠 |url=https://www.jsae.or.jp/katsudou/docu/1045/motorsports_archives07.pdf |format=PDF |page=8}}</ref>。その後F2キットカー規定は規制緩和や開発競争により戦闘力が向上し、1999年には[[シトロエン・クサラ]]がターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、性能調整を受けて消滅。2WD規定は低コストな[[スーパー1600]]へと発展し、後のJWRCに繋がっている。 1997年にライバルたちがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、以降も2001年半ばまでグループA車両で戦い続けた。 ==== 1987年 - 2001年の車種 ==== <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0; width: 80%"> <div class="NavHead" style="text-align: center">1987年 - 2001年の主な車種</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> * [[アウディ・200#WRC|アウディ・200クワトロ]] * [[アウディ・90|アウディ・90クワトロ]] * [[オペル・カデット|オペル・カデット GSI]] * [[オペル・カリブラ|オペル・カリブラ ターボ 4x4]] * [[シトロエン|シトロエン・クサラ キットカー]] (F2キットカー) * [[シトロエン|シトロエン・サクソ キットカー]] (F2キットカー) * [[スバル・レオーネ|スバル・レオーネ4WD RX]] * [[スバル・レオーネ|スバル・レオーネ RXⅡ]] * [[スバル・レガシィ|スバル・レガシィ RS]] (BC) * [[スバル・インプレッサ|スバル・インプレッサ WRX]] (GC) * [[トヨタ・スープラ|トヨタ・スープラ GT]] * [[トヨタ・セリカ|トヨタ・セリカ GT-FOUR (TURBO4WD)]] (ST165・ST185・ST205) * [[トラバント#トラバント P800 RS|トラバント・P800 RS]] * [[日産・シルビア|日産・200SX]] * [[日産・パルサー|日産・パルサーGTI-R]] * [[日産・パルサー|日産・パルサー GTI]] (F2およびF2キットカー) * [[日産・アルメーラ|日産・アルメーラ (パルサー)]] キットカー (F2キットカー) * [[日産・マーチ|日産・マイクラ (マーチ) キットカー]] (F2キットカー) * [[BMW・M3]] * [[フィアット・ウーノ|フィアット・ウーノターボ]] * [[フォード・シエラ|フォード・シエラ XR6 4WD]] * [[フォード・シエラ|フォード・シエラ RSコスワース]] * [[フォード・シエラ|フォード・シエラ RSコスワース 4x4]] * [[フォード・エスコート|フォード・エスコート RSコスワース]] * [[フォルクスワーゲン・ゴルフ|フォルクスワーゲン・ゴルフ GTI]] * [[フォルクスワーゲン・ゴルフ|フォルクスワーゲン・ゴルフ G60ラリー]] * [[プジョー・306|プジョー・306 MAXI]] (F2キットカー) * [[プジョー・106|プジョー・106 MAXI]] (F2キットカー) * [[マツダ・ファミリア|マツダ・ファミリア (3234WD)]] * [[マツダ・ファミリア|マツダ・ファミリア (323GT-X)]] * [[三菱・スタリオン|三菱・スタリオン ターボ]] * [[三菱・ギャラン|三菱・ギャラン VR-4]] * [[三菱・ランサーエボリューション]] (I・II・III・IV・V・VI) * [[ランチア・デルタ|ランチア・デルタ HF4WD]] * [[ランチア・デルタ|ランチア・デルタ HFインテグラーレ (8V)]] * [[ランチア・デルタ|ランチア・デルタ HFインテグラーレ 16V]] * [[ランチア・デルタ|ランチア・デルタ HFインテグラーレ エボルツィオーネ (スーパーデルタ)]] * [[ルノー・11|ルノー・11 ターボ]] * [[ルノー・クリオ|ルノー・クリオ MAXI]] (F2キットカー) * [[ルノー・メガーヌ|ルノー・MAXI メガーヌ]] (F2キットカー) <gallery> ファイル:Toyota Celica Gr.A 001.JPG|トヨタ セリカ<br/>GT-FOUR ファイル:Nissan_Pulsar_Gr.A_001.jpg|日産 サニー (パルサー) GTI-R ファイル:LEGACY_RS.jpg|スバル レガシィRS ファイル:ImprezaWRX.JPG|スバル インプレッサWRX </gallery> </div></div> === WRカー黎明期 (1997年 - 2010年) === [[File:2015 Rally Bohemia - Jirovec, Toyota Corolla WRC.JPG|thumb|right|200px|トヨタ・カローラ WRC]] {{see also|ワールドラリーカー}} グループAの特例として1997年から導入されたWRカーは、継続した12ヶ月間に25,000台以上生産された車種の派生モデルに限り、直接的なベースモデルの生産台数を2,500台とするもので、ワイドボディ化、4WDへの改造、リア[[サスペンション]]形状の変更、同一メーカー車に搭載されているエンジンへの換装やターボの付加など、大幅な改造を認められたものである。この規定により高性能4WD車をベースにする必要がなくなったため、ヨーロッパの自動車メーカーが相次いでWRCに参戦し、メーカー数が増加して活況を呈し始めた。またアジア車勢でも[[ヒュンダイ]]や[[スズキ (企業)|スズキ]]といったメーカーが短期間ながら新規参入した。エンジントルクは600Nmにまで到達するマシンも現れ、ハイテク戦争も高度化してアクティブサスペンションが現れ始めた。 WRカー導入の初期こそ、[[トヨタ・カローラ]]や[[三菱・ランサー]]、[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]といった日本車勢が引き続き強さを見せていたものの、21世紀に入ると陰りが見え始めた。1999年に登場した[[プジョー・206|プジョー・206 WRC]]は2000年 - 2002年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇。2003年には本格参戦1年目にしてシトロエンがマニュファクチャラーズタイトルを奪取し、その後2005年まで3連覇するなど、今度は一大勢力と化したフランス車勢が台頭した。 しかしF1のようなハイテク制御を用いた過激な開発競争と、90年代の倍近くに増えた年間イベント開催数がコスト高騰を招き、2005年にはプジョー、シトロエン、三菱、シュコダが一斉にワークスチームを撤退させてしまうという事態に陥った。 そこで2006年以降は[[トラクションコントロール]]や[[アンチロック・ブレーキ・システム|ABS]]、前後デフの電子制御化などの禁止(センターデフのみ許可)でハイテク化に歯止めをかけた。しかしもう一つの高コストの原因であった空力は放置されたため、大きな効果を挙げたとは言いがたかった。同時に参戦台数確保のため、セミワークス向けに全戦参戦義務が無くエントリー料の安い[[マニュファクチャラーチーム|マニュファクチャラー・チーム]]という制度も導入され、プジョーとシュコダはこれで短期間のみ留まった。 シトロエンは2006年にプライベートチームのクロノス・レーシングをワークス支援する形で参戦を続行し、その間従来のWRカーであった[[シトロエン・クサラ|クサラ WRC]]の後継となる[[シトロエン・C4|C4 WRC]]の開発を平行して行っており、2007年に再びワークスチームとしてWRCへ復帰した。選手権はシトロエンのエースの[[セバスチャン・ローブ]]/[[ダニエル・エレナ]]組による独走が続き、実に2012年までドライバーズ/コドライバーズタイトルを9連覇、マニュファクチャラーズタイトルも同期間中7度の制覇を果たすこととなる。 [[ファイル:Markko Märtin - 2004 Cyprus Rally.jpg|200px|thumb|left|フォード・フォーカス WRC<br />(2004年 キプロス・ラリー)]] フォードは[[グループA]]規定末期から英国の[[Mスポーツ]]にワークス活動を委託していた。最初は[[コリン・マクレー]]を破格の契約金で引き抜くなど羽振りが良かったが、フォードグループの経営不振などにより年を追うごとに資金が先細りしていく状況にあった。2002年頃から毎年撤退が噂され、2004年には撤退寸前まで追い込まれるが、Mスポーツ代表の[[マルコム・ウィルソン]]が絶望的な状況の中でも諦めることなくフォード首脳陣に対して参戦継続へ向けた粘り強い交渉を行っていた。そして交渉期間中に開催されたカタルニア・ラリーとツール・ド・コルスで連続優勝を成し遂げて状況が好転し、フォード本社がラリー活動の継続を決断した。2005年に3年間の参戦と資金が確約されると攻勢に転じ、モデルチェンジしたフォーカスSTをベースに新型車両を開発。2006年は1979年以来となるマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、2007年にも連覇した。 2007年にはスズキが参入するが、[[リーマン・ショック]]に端を発する世界的不況が直撃し2008年末にスズキ・スバルが電撃撤退。2009年開始時点で正式に参戦したのは[[シトロエン]]、[[フォード・モーター|フォード]]の2社のみとなってしまった<ref group="注">本来マニュファクチャラーが2社のみの場合は世界選手権を名乗ることはできないが、マニュファクチャラー・チームを含めることで半ば無理やり体裁を保った</ref>。 ==== 1997年 - 2010年の車種 ==== <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0; width: 80%"> <div class="NavHead" style="text-align: center">1997年 - 2010年の主な車種</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> * [[シトロエン・クサラ|シトロエン・クサラ WRC]] * [[シトロエン・C4|シトロエン・C4 WRC]] * [[プジョー・206|プジョー・206 WRC]] * [[プジョー・307|プジョー・307 WRC]] * [[フォード・エスコートWRC]] * [[フォード・フォーカスWRC]] * [[トヨタ・カローラWRC]] * [[スバル・インプレッサ|スバル・インプレッサ WRC]] * [[三菱・ランサーWRC]] * [[スズキ・SX4|スズキ・SX4 WRC]] * [[ヒュンダイ・アクセント|ヒュンダイ・アクセント WRC]] * [[セアト|セアト・コルドバ WRC]] * [[シュコダ・オクタビア|シュコダ・オクタビア WRC]] * [[シュコダ・ファビア|シュコダ・ファビア WRC]] </div></div> === S2000 WRC時代 (2011年 - ) === [[Image:Loeb 2011 WRC Portugal crop.jpg|thumb|right|200px|シトロエン・DS3 WRC]] WRカーはコスト高騰で新規ワークスの参入は困難になってしまったため、コスト削減案としてすでにPWRCや[[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ|IRC]]で活躍していた'''[[スーパー2000]]''' ('''S2000''') 規定を導入しようという案が有力視された。これは大衆車を共通部品と2.0 LのNAエンジンを使用して低コストで4WD化する、いわば廉価版のWRカー規定のような存在である。 WRカーという名称は引き継いだまま、新規格のWRカーを2010年から導入することが検討され、2008年12月にFIAはS2000をベースにボルトオンキットで簡単にWRカーに出来る様にする“S2000プラス”とする方針を提案した<ref group="注">競技車両のコストダウンを図ると共に、既に多様な車種が出回っているS2000車両をほぼそのままWRカーとしてエントリーを可能とする狙いであった。この時既存のWRカーマニュファクチャラー(シトロエン、フォード、スバル、スズキ)はいずれもまだS2000車両を持っておらずその点では同条件だったものの、S2000に適した[[Bセグメント]]車を市販車ラインナップに持たないスバルにとっては不利とされた。とはいえこの時点ではまだ方針のみで具体的な規則は決まっておらず、マニュファクチャラーの減少を恐れるFIAに対し戦闘力均衡について交渉をする余地は十分に残っていた。</ref><ref>『WRC PLUS 2009 Vol.1』P70-72</ref>。しかし2009年の間もFIAの中で意見が二転三転し、S2000プラスを撤回して2011年以降はS2000をそのままメインカテゴリーにするという話が浮上<ref group="注">WRカーに替わるS2000はエンジンの回転数を8,500[[rpm (単位)|rpm]]に、純粋なS2000は8,000rpmに制限する2種類のS2000が存在することになるというものであった。</ref>。際限なく続く議論に、次期車両開発をしたくてもできないシトロエンとフォードからは、結論の出ないFIAに対して不満の声が上がった。 最終的には[[世界ツーリングカー選手権]](WTCC)と共通のエンジン規格『GRE』('''G'''lobal '''R'''ace '''E'''ngine、1.6L[[ガソリン直噴エンジン|直噴]]ターボエンジン)を、S2000車両に搭載し改造範囲を広げた'''S2000 WRC'''に変更することを決定。GREにより市販車に由来するエンジンである必要が無くなった一方で、トルクは400Nm程度まで引き下げられた。 これにより2011年5月、[[フォルクスワーゲン]]が[[フォルクスワーゲン・ポロ R WRC|ポロ R WRC]]で参戦することを発表している<ref>{{Cite news |url=http://response.jp/article/2011/05/06/155881.html |title=VW、2013年からWRCに参戦…マシンは ポロ |newspaper=Response |date=2011-05-06}}</ref>。フォードは2012年を以てワークス参戦を終了し{{#tag:ref|<ref name="mmr20140207b">{{Cite news |url=http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-overview.html |title=2014年WRC(FIA世界ラリー選手権)の見どころ |newspaper=MICHELIN MOTORSPORTS REPORT WRC |date=2014-02-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141202224528/http://www.michelin.co.jp/Motorsports_report/wrc/2014/02/2014-wrc-overview.html |archivedate=2014-12-02 |deadlinkdate=2017-08-28}}</ref>。 |group="注"}}、80年代以来長きに渡る挑戦の歴史を一度終えたが、[[Mスポーツ]]への車両供給と技術支援は続けた。また2011年からは新たに[[BMW]]が[[プロドライブ]]に製作を委託し[[ミニ (BMW)|ミニ カントリーマン]]をベースにした、[[ミニ・ジョン クーパー ワークス WRC]]で参戦{{#tag:ref|ワークス活動は2012年に撤退<ref>{{Cite news |url=http://response.jp/article/2012/10/13/183057.html |title=MINI、WRC 撤退へ…年内にワークス活動を終了 |newspaper=Response |date=2012-10-13}}</ref>。 |group="注"}}したが、組織的な紛糾により2013年に姿を消した。 フォルクスワーゲンは2013年にWRCクラスに本格参戦を開始、デビュー年でドライバーズ/コ・ドライバーズ/マニュファクチャラーズの三冠を制覇した。2014年も好成績を継続していることを受けて、フォルクスワーゲンは当初の2013年 - 2015年までの3年計画を延長、2019年まで参戦することを決定した<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/2326 |title=VW、2019年末までのWRC継続が確定 |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2012-06-10 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。また2014年からは[[現代自動車|ヒュンダイ]]が[[ヒュンダイ・i20 WRC|i20 WRC]]で復帰し、初年度で念願の初勝利を挙げるなど活躍を見せた<ref name="mmr20140207b"/>が、シトロエン・フォードらとともにVWの三冠4連覇を阻止するには至らなかった。 下位クラスではS2000やS1600、グループNといった車両規定が[[グループR]]に取って代わられ、さらにピラミッド型にまとめられた。 === 2017年規定 === [[File:Toyota yaris wrc.jpg|thumb|right|200px|[[トヨタ・ヤリスWRC|ヤリスWRC]]の巨大な空力パーツ]] WRC代表のカルロス・バルボサは近年失われつつある人気を取り戻すことを重視し、これまでの低コスト・規制強化路線とは打って変わった大規模な規制緩和を行うことを決めた<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/2081 |title=WRC、2017年の技術規定改革へ |date=2014-07-30 |accessdate=2017-08-28 |newspaper=RALLYPLUS.NET}} </ref>。そして2017年からエアリストリクター径は33 mmから36 mmに緩められ、エンジン出力が315馬力から380馬力へアップ。最低重量は1200 kgから1175 kgに引き下げられ、アクティブセンターデフの解禁、リアディフューザーや車幅の拡大もなされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.redbull.com/jp-ja/wrc-2017-rule-changes-and-new-cars |title=WRC:2017年の新レギュレーションは? |date=2016-12-16 |accessdate=2017-08-28 |author=Anthony Peacock |author2=Damn Fine |publisher=RedBull}} </ref>。 新規則発表に前後して2015年1月、トヨタはかねてから噂されていたWRC復帰を発表<ref>{{Cite news |url=http://archive.as-web.jp/news/info.php?c_id=3&no=62842 |title=トヨタ、17年からヤリスでのWRC復帰を正式発表! |date=2015-01-30 |accessdate=2017-08-28 |newspaper=AUTO SPORT web}}</ref>。一方2016年11月にフォルクスワーゲンが電撃撤退を表明したため、マニュファクチャラーの総数は増加には至らなかった<ref>{{Cite news |url=http://www.as-web.jp/rally/62437 |title=フォルクスワーゲン、16年限りのWRC撤退を正式発表! カスタマースポーツに集中 |date=2016-11-30 |accessdate=2017-08-02 |newspaper=AUTO SPORT web}}</ref>。この新WRカー初年度は、フォード車を用いるプライベーターの[[Mスポーツ]]がメーカー勢を破って三冠を獲得する快挙を達成。これにより2018年からフォードはMスポーツへの支援を厚くする形で「Mスポーツ・フォード」の名でワークス復帰した。 しかしアジア車勢が徐々に強さを見せ始め、2019年にはトヨタがマニュファクチャラーズ、ヒュンダイがドライバーズ/コドライバーズタイトルを制覇。アジア車メーカーによるタイトル独占は1999年以来、20年ぶりであり、以降もこの2社でタイトルを分け合う状態が続いた。 同年シトロエンが撤退を表明したことにより、欧州車メーカーは再びWRCの最高クラスから姿を消した。 === Rally1規定 === [[File:M-Sport Ford Puma, Croatia Rally 2022.jpg|200px|thumb|right|[[フォード・プーマ ラリー1]]]] {{main|ラリー1}} 自動車業界を取り巻く流れを受け、2022年から[[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]システムが導入される事が決定した。導入から3年間(2024年まで)は各チームに共通のハードウェアとソフトウェアが提供され、全車同一のシステムを使うことになる。リエゾンの一部では電気でのみ走り、SSでは電気ブーストとして利用することが狙いとされている。エンジンはGREが維持され、ハイブリッドと合わせると最大で500馬力/500Nm以上を発生できるようになった。 しかしハイブリッド導入でコストが上がる分を補填する必要があり、他の部分ではローテク化がなされる。具体的には前後メカニカルデフでセンターデフそのものが廃止され、空力開発も制限されるなどしたため、コーナーリング面では前規定に比べると不利な部分が増えた。 新規ワークスチームの参入を促すため、[[チューブラーフレーム|鋼管パイプフレーム]]を使ったプロトタイプのボディワークも認められる事となった。これはベース車両のスケーリングも可能であり、従来のようなBセグメントコンパクトカーのみならず、Cセグメント車や[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]も規定サイズに縮小すれば参戦が可能となった<ref>[https://www.as-web.jp/rally/526027?all WRC:2022年のハイブリッド導入は「予定どおり」進行中。10月中にはサプライヤーを決定]</ref>。 == 日本勢の活躍 == 古くから[[ホンダ]]を除く主要日本メーカーのほとんどが参戦、活躍を見せた。 === トヨタ === [[File:FoS20162016 0624 154417AA (27274234324).jpg|thumb|right|200px|トヨタ・セリカ GT Four ST185]] [[トヨタ自動車|トヨタ]]はWRCの前身であるIMCの1972年シーズンから、[[ドイツ]]のプライベーターであった[[トヨタ・モータースポーツ|オベ・アンダーソン・モータースポーツ]](後のTTE、TMG、TGR-E)を支援する形で参戦。当初は欧州イベントのみに参加していた。[[トヨタ・カローラレビン|カローラレビン]]、[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を運用して1975年の[[ラリー・フィンランド|1000湖ラリー]]で初優勝を果たした(ただしトヨタ車としては1973年アメリカが初)。1977年にはマニュファクチャラーズ選手権で日本車勢最上位となる3位につけた。その後欧州イベント以外にも活動を広げ、82年[[ニュージーランド]]の他、1984年から1986年まで[[サファリラリー]]3連覇を果たすなどの活躍を見せた。 1990年に[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を駆る[[カルロス・サインツ]]が当時、無敵の強さを誇っていたランチア勢を破って日本車で初のドライバーズタイトルに輝くと、1993年には[[ユハ・カンクネン]]のドライバーズタイトルに加えて日本車初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。1994年もダブルタイトルを獲得し、黄金時代を築いた。しかし1995年に苦戦から違法なリストリクター製造に手を染めてしまい、発覚後にFIAより1年間の出場停止処分が科された。これを重く受け止めたトヨタは、出場停止を言い渡された1996年に加え、翌1997年まで活動を自粛した。1998年にWRカーの[[トヨタ・カローラWRC|カローラ]]で復帰するとすぐに三菱とタイトルを争い、1999年に3回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得して有終の美を飾り、トヨタは[[フォーミュラ1|F1]]へ転身していった。 それから18年後の2017年、[[トヨタ・ヤリスWRC|ヤリスWRC]]で復帰。オペレーションはフィンランドを本拠とする[[トミ・マキネン|トミ・マキネン・レーシング]]で、エンジン開発をTMGが行った。デビュー2戦目の[[ラリー・スウェーデン]]で早くも優勝を果たし、翌2018年には5勝を挙げて19年ぶり4回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。 以降2022年終盤時点で、マニュファクチャラーズ選手権は5回、ドライバーズ選手権は8回まで記録を伸ばしている(いずれも日本メーカー1位)。 また下位クラス向けに[[トヨタ・モータースポーツ|TMG]](現TGR-E)が開発した[[トヨタ・ヤリス|ヤリスR1]]や[[トヨタ・86|GT86 CS-R3]]のプライベーターへの供給も行っている。 2022年現在、下位クラス含めて唯一WRCにワークス参戦している日本メーカーである。 === 日産/ダットサン === [[File:Nissan Violet (PA10) front-left 2015 Motorsport Japan.jpg|thumb|right|200px|日産・バイオレット]] [[日産自動車|日産]]は「[[ダットサン]]」ブランドを用いてIMCの初年度から参戦していたが<ref name="msarchive-4-nissan">{{Cite journal|和書|journal=モータースポーツアーカイブ |volume=4 |publisher=公益社団法人自動車技術会 |year=2017 |title=“ラリーの日産”が世界の舞台で得た知見 |author=野口隆彌 |author2=石川裕造 |url=https://www.jsae.or.jp/katsudou/docu/1045/motorsports_archives04.pdf |format=PDF |pages=2-7}}</ref><ref name="nissan-sport-stories">{{Cite book|和書|author=渡辺陽一郎 |title=日産スポーツストーリーズ |chapter=ラリーカーになった日産車 |series=SAKURA MOOK |year=2017 |publisher=笠倉出版社 |isbn=9784773058147 |pages=70-88}}</ref>、[[サファリラリー]]にはそれよりさらに前の1963年から参加しており、クラス優勝や総合優勝を達成するなど実績を積み重ねていた。[[日産・フェアレディZ|スポーツ240Z]]が1973年のWRC開幕初年度から日本のワークスチームとしてWRC初優勝を果たしたのもサファリであった{{R|nissan-sport-stories|page=76, 79}}(サファリでは3回目の総合優勝)。1979年 - 1983年にもA10系バイオレットでサファリラリー史上初の4連覇を果たした{{R|nissan-sport-stories|page=82-83}}。また1979年・1981年はマニュファクチャラーズランキングで2位に入り、グループ2・4規定時代のWRCを日本最強のメーカーとして過ごした。 しかし、[[グループB]]規定が導入されると、得意のサファリでも[[トヨタ・セリカ]]などの後塵を拝するようになった。1988年のアイボリーコーストでの200SX(日本名[[日産・シルビア|シルビア]])の優勝が日産にとっても最後の優勝であり、WRC史上最後の[[後輪駆動#フロントエンジン・リアドライブ方式|FR]]車の優勝ともなっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.nissan-dakar.com/JP/HISTORY/MACHINE/index.html |title=日産モータースポーツの歴史 |publisher=日産自動車 |accessdate=2017-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://nissan-heritage-collection.com/NEWS/publicContents/index.php?procType=CATEGORY&catID=12 |title=【ラリー】大陸を一周する1万6,000kmのコース |publisher=日産自動車 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。1991 - 1992年のパルサーGTI-Rを最後に、本社の業績不振からシーズン途中で撤退した。通算では9勝を記録しているが、結局タイトルには手が届かなかった。 なおGTI-Rは1992年にFIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で[[グレゴワール・ド・メビウス]]のドライブによりチャンピオンマシンになっている。またFIA2リッターワールドカップ(後のJWRC)にもヨーロッパ法人が開発したサニーGTI、F2キットカーの[[日産・マイクラ|マイクラ]]や[[日産・アルメーラ|アルメーラ]]などが参戦していたが、本社が[[フランス]]の[[ルノー]]傘下になる直前に活動を終了した。 === 三菱 === [[File:Tg3 mitsu.jpg|thumb|right|200px|三菱・ランサーエボリューション 6.5]] 1973年のWRC開幕初年度から参戦を開始。1974年に[[三菱・ランサー|ランサー]]でサファリラリーで初優勝を果たした。排ガス規制対策で一時休止後、1981年にランサー2000ターボで復帰。1984年には[[ラリーアート]]を設立、ヨーロッパに拠点を移した。その後長いグループA導入とともに開花、1989 - 1992年にギャランで計5勝を挙げた。1993年には[[三菱・ランサーエボリューション|ランサー エボリューション]]がデビューすると、1996年から1999年まで[[トミ・マキネン]]によって4年連続ドライバーズタイトル、1998年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、日本車黄金時代の一翼を担った。 しかしWRカーへ移行する中で最後までグループAにこだわった結果、苦戦が続き、マキネンの離脱や人材不足もあって混迷を極め、2003年に参戦休止。2004年に新設されたMMSP(三菱モータースポーツ)がラリーアートから運営を引き継ぎ<ref>[http://www.mitsubishi-motors.com/motorsports/j/04wrc/05release/heritage.html 三菱自動車 FIA世界ラリー選手権(WRC)における栄光の軌跡]</ref>、[[ジル・パニッツィ]]をエース、新たに開発したランサーWRカーで再出発したものの、トラブルの多発により母国戦のラリージャパン開催前に活動を休止。2005年は[[ハリ・ロバンペラ]]をエースに起用し、パニッツィとロバンペラが表彰台、ラリートルコでは[[ジジ・ガリ]]が一時首位を走るなど躍動したものの、本社の相次ぐリコール隠し問題から経営が急速に悪化したため、2005年に三たび参戦を休止、これが事実上の撤退となった。2007年末には英国の拠点を閉鎖、2010年に[[ラリーアート]]が業務の一部停止を発表した<ref>{{Cite news |url=http://www.ralliart.co.jp/10news/100310.html |title=弊社業務縮小に伴う、一部業務廃止のご案内 |newspaper=RALLYART NEWS |date=2010-03-10}}</ref>。 しかしその後もランサーWRカーはプライベーターに用いられ、2006年に[[ダニエル・カールソン (ラリードライバー)|ダニエル・カールソン]]が[[ラリー・スウェーデン]]で総合3位入賞した。また同車のグループN規定車両も、2012年までのPWRCで4度のドライバーズタイトルに貢献した。現在も地元プライベーターによるランエボのスポット参戦は多く、2017年[[ラリー・オーストラリア]]では上位勢の大量リタイヤもあり、ランサーエボリューションXの地元ドライバーネイサン・クイーンが総合ポイント圏内でフィニッシュした。また[[スウェーデン]]のプライベーターであるMパートABがグループR5相当の[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]](欧州名:[[三菱・スペーススター|スペーススター]])を独自開発して2018年から北欧イベントにASN車としてスポット参戦しているが、正式な公認取得の予定はないとしている<ref>[https://www.rallyplus.net/47223]</ref>。 === マツダ === [[file:Mazda RX-7 Group B at Goodwood 2014 001.jpg|200px|thumb|right|サバンナ・RX-7]] 1981年にベルギーに設立されたマツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ({{en|Mazda Rally Team-Europe, MRE-T}})のもとにマツダのWRC活動の大半は行われた。1979年の[[ラリーGB|RACラリー]]からグループ2規定の[[マツダ・RX-7|サバンナ・RX-7]]で参戦。グループB規定もRX-7で1986年まで戦い続け、最高3位の成績を収めた。グループAが導入されると、ワークス活動はそれまで下位クラスで活躍していた[[マツダ・ファミリア|ファミリア]](323)に切り替えられた。 グループBの消滅より前から生産されていた323 4WDターボ(ファミリア4WDターボ)は、グループA導入の初年度から欧州メーカーのライバルたちと競り合い、1987・89年スウェディッシュ・ラリー、1989年ニュージーランド・ラリーで合計3度の総合優勝を記録。1989年にはマニュファクチャラーズランキングでトヨタに次ぐ3位につけた。しかし本社の業績不振のため、タイトル獲得は達成できないまま1992年をもって撤退した<ref>{{Cite web |url=http://www.rallyplus.net/14772 |title=RALLY CARS vol.10 MAZDA 323 |accessdate=2017-08-28 |publisher=RALLYPLUS.NET}}</ref>。 323は素性に優れており、FIAプロダクションカーカップ(後のPWRC)で3度チャンピオンマシンになっている。 === スバル === [[File:SUBARU IMPREZA WRC (5205650014).jpg|thumb|right|200px|スバル・インプレッサWRC]] 1980年の[[サファリラリー]]の下位クラスにてデビュー。この時アウディより一年早く持ち込んだ4WDは、2WDが常識だった当時は画期的なもので、この[[スバル・レオーネ|レオーネ]]は高い走破力を発揮しすぐにクラス優勝を飾った。グループA規定導入後の1990年、英国のコンストラクターの[[プロドライブ]]とのジョイントで[[スバル・レガシィ|レガシィ]]で最高クラスに挑戦を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://gazoo.com/article/car_history/150508_1.html |title=世界を駆けた六連星――スバルWRCの戦い(1995年) |accessdate=2017-08-28 |publisher=TOYOTA MOTOR CORPORATION}}</ref>。1993年のニュージーランド・ラリーで初優勝し、1995年に初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトルを獲得。以降、1997年までマニュファクチャラーズタイトルを3連覇した。また2001年に[[リチャード・バーンズ]]、2003年に[[ペター・ソルベルグ]]がドライバーズタイトルに輝いた。 しかしその後は、頻発するトラブルや度重なるモデルチェンジによる仕様変更の影響もあって、上位に絡めない展開が続き、2008年にようやくトップ争いが見える位置まで復活。だが、上位のシトロエン、フォードとの差は開いており、2008年に経済状況と「当初の目的を達成した」ことを理由として撤退した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0812/17/news058.html スバルはなぜWRCから撤退するのか]</ref>。 スバルは三菱同様PWRCでも猛威を振るい、2003年から2007年まで5年連続でドライバーズタイトルに貢献。PWRCがWRC2に変わった後も、2014年までワークス支援を続けていた。 === スズキ === [[File:Suzuki sx4 avant.jpg|thumb|right|200px|スズキ・SX4 WRC]] スズキは日本メーカーでは最後発にあたる。1986年に[[田嶋伸博]]のモンスタースポーツが中心となって開発した[[スズキ・カルタス|カルタス]]のグループA5仕様でアメリカのオリンパスラリーにスポット参戦したのが初めてであった<ref>北米市場の開拓を目論んでいたスズキの意向によるものである</ref>。その後1988年までA5クラスで同ラリーを3連勝した。特に1988年は多数のワークス不在という条件はあったものの、三菱・マツダを抑えて総合でも日本勢最高位でのフィニッシュとなった。その後一旦スズキは[[APRC]](アジア・パシフィック・ラリー選手権)へと転身し、[[スズキ・バレーノ|バレーノ]]のF2キットカーなどで経験を積んだ。 2002年に田嶋率いるスズキスポーツが下位クラスのJWRCに参戦し、スーパー1600規定の[[スズキ・イグニス|イグニス]]と[[スズキ・スイフト|スイフト]]で3度のドライバーズタイトルを獲得している。通算勝利数は[[シトロエン]]の32勝に次ぐ24勝で歴代2位である。 最高峰のWRCクラスには、当初2007年が夏季開幕となるウインターシーズン案が検討されていたため2007年からの全戦参戦を計画していたが、ウインターシーズン案が撤回されたため、2007年は3戦に[[スズキ・SX4|スズキ・SX4 WRC]]でテスト参戦し、2008年からフル参戦した。シーズン前半は初期トラブルが多発し完走も難しかったが、後半へ向けて改良が行われ、2台完走することが増えていった。しかし最高位は日本とグレート・ブリテンの5位に終わり、2008年12月15日に[[リーマン・ショック]]による業績不振を理由にスズキは2009年以降のWRC参戦休止を表明した。その後もJWRC活動は続いたが、2010年をもってマルチメイクが終了したのに伴いこちらも撤退となった。 === ダイハツ === [[File:Daihatsu Charade Safari Rally 1982 002.jpg|200px|thumb|right|[[ダイハツ・シャレード]]]] グループ2/1(1300 cc未満)の[[ダイハツ・シャレード|シャレード]]で1979年 - 1981年に[[ラリー・モンテカルロ]]にスポット参戦<ref name="wrcplus0904-daihatsu">{{Cite magazine|和書|magazine=WRC Plus |publisher=三栄書房 |volume=20 |issue=13 |year=2009 |month=4 |title=ダイハツ・ラリーヒストリー |pages=84-94}}</ref>{{Rp|88-89}}、1981年にクラス優勝を果たした。また最高峰に向けてデ・トマソ社とともに本格的なグループBカーである[[ダイハツ・シャレード|926R]]を開発していたものの、グループB廃止で市販化も含めて幻と消えた。 1982年から[[サファリラリー]]に参戦し始め、82・84・85 - 88・90 - 93年にクラス優勝{{R|wrcplus0904-daihatsu|page=89}}。特に1993年のサファリでは排気量が1 L大きいライバル達を相手に健闘、総合1 - 4位を占めた[[トヨタ・セリカ]]に次ぐ総合5 - 7位に食い込む活躍を見せた{{R|wrcplus0904-daihatsu|page=88}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://rallyx.net/blog2/2015/01/post-252.html |title=サファリのシャレードを忘れちゃこまる。 |accessdate=2017-08-28 |publisher=ラリーX}}</ref>。 === いすゞ === 現在トラックメーカーとして知られる[[いすゞ]]だが、乗用車製造から撤退する前には[[RACラリー]]限定でWRCにスポット参戦していた。日本人で構成されたチームいすゞは1983年 - 1985年に[[いすゞ・アスカ|アスカ]]、1986・1987年は[[いすゞ・ジェミニ|ジェミニ]]で参戦。1984年にグループAクラスで優勝している<ref>[https://www.ewrc-results.com/final/8564-lombard-rac-rally-1984/?ct=8833. Lombard RAC Rally 1984]</ref>。 === 日本人ドライバー === メーカーのみならず、多くの日本人ドライバーがWRCに参戦した。下位クラスでは目覚ましい活躍が残されており、PWRCでは[[新井敏弘]](スバル)が2度のドライバーズタイトル(日本人として初の四輪世界選手権王者)を獲得している。 プロダクションカーカップ/グループNクラスや2リッターカップの単一イベントなどでは西山寛(日産)、[[藤本吉郎]](トヨタ)、[[三好秀昌]](スバル)、鎌田豊(いすゞ)らが勝利を挙げているほか、[[奴田原文雄]](三菱)が2006年のPWRCで[[ラリー・モンテカルロ]]を含め3勝を挙げて年間2位の成績を収めている。またサファリの岩瀬晏弘、RACラリーの勝田照夫や[[神岡政夫]]、APRC王者の[[田口勝彦 (ラリードライバー)|田口勝彦]]、ナビで[[テイン]]設立者の市野諮なども古くはよく知られた名前である。 一方で日本人のWRC総合優勝記録は2021年現在、[[篠塚建次郎]](三菱)による1991年、1992年のコート・ジボワール・ラリーでの2回に留まっている。 2015年からはTOYOTA GAZOO Racingの育成プログラムの下、元WRCドライバーの勝田照夫を祖父にもつ[[勝田貴元]]と、[[新井敏弘]]の息子[[新井大輝]]、コ・ドライバーの[[足立さやか]]がトヨタの支援でWRC2に参戦(マシンは[[フォード・フィエスタ|フォード・フィエスタ R5]]を使用)し、2018年の[[ラリー・スウェーデン]]で勝田が日本人初のWRC2優勝を挙げている。勝田はトヨタに才能を見出されて2019年にWRカーデビューを果たし、2022年現在WRCのトップカテゴリで、地元ラリージャパンを含め3度表彰台を獲得する活躍を見せている。 今でも[[全日本ラリー選手権]]の経験を持つドライバーが下位クラスや地域規定のマシンで海外イベントにスポット参戦することは珍しくない。 == メディア == === 海外での放送 === 開催国を中心として、ヨーロッパで絶大な人気を誇るWRCはテレビ放送も盛んに行われている。特にフィンランドは母国イベントの開催時に国民の10%が観戦するほどの人気があるという<ref name="toyokeizai18477" />。FIAとしてもテレビ放送から得られる収入は無視出来ないものとなり、スーパーSSなどテレビ放送向けにイベントを組んでいるが、より多くの視聴者を獲得するためにはテレビ放送より規模の大きいインターネット配信が有効という意見も出ている<ref>{{Cite news |url=http://www.rallyplus.net/2401 |title=リチャーズ、「WRCはネット配信に専念すべき」 |newspaper=RALLY PLUS.NET |date=2014-05-31 |accessdate=2017-08-28}}</ref>。ラジオ放送も行われており、日本でもインターネット経由で聴くことが出来る。 また2014年から一部のSSを有料配信する、公式ライブストリームサービスの「WRC plus」が配信開始。2018年には全SSをライブ配信する「[https://plus.wrc.com/jp/ WRC All Live]」へと名称が変わった。これも日本で視聴することが可能で、また[[Red Bull]] TVでは同配信の一部を無料で配信している<ref>[http://rallyx.net/news/WRC史上初、全ステージをライブ中継へ-15589/ WRC史上初、全ステージをライブ中継へ] ラリーモバイルX 2018年1月13日</ref>。 === 日本での放送 === 2019年現在[[J SPORTS]]が各イベントの最終SSのライブ中継や各DAY・イベントのダイジェスト、ラリージャーナリストが取材したWRCの裏側リポート等を有料放送している。 1990年代はNHKでWRCの報道がされていた<ref group="注">オープニング曲はTonyMacalpineのThe stranger(1990年)、[[増崎孝司]]のCHANCE IT(1993-1995年)、Vinne Mooreのcinema(1996-1997年)。スポーツキャスターは[[小平桂子アネット]]。小平はその後、2001年にCS放送のWRC番組でキャスターとして復帰するが2004年メキシコをもって引退している。</ref>ほか、2003年以前は日本テレビで深夜にダイジェスト番組が放送されていた<ref group="注">ナビゲーターは[[ケイ・グラント]]と[[国沢光宏]]が担当。</ref>。 2004年に[[テレビ東京]]でもダイジェスト放送が開始<ref group="注">テーマソングはfocusのNeurotika。番組[[ナビゲーター]]は2004年から2005年が[[前田真理子]]と[[国沢光宏]]、2006年は[[倉野麻里]]と[[古賀敬介]]、2007年から2008年は[[松丸友紀]]と古賀が担当した。</ref>。祝日や土日の昼頃に放送されており、時にはナビゲーターが現地リポートを行うこともあった。2005年のラリージャパンでは『[[報道ステーション]]』の[[松岡修造]]が出演するコーナーにて特集され、2006年には前述の放送局に加えて、インターネット放送[[GYAO!#GyaO|GyaO]]、CS放送[[アクションチャンネル|AXN]]、地上波放送日本テレビ系列<ref group="注">テレビ東京系列局の無い地域、且つラリージャパンのみ。</ref>および[[福井放送]]<ref group="注">[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列・[[テレビ朝日]]系列[[クロスネット局]]、ラリージャパンのみ。</ref>で行われたが、以降は地上波でWRCやラリージャパンに関する放送はされなくなった。衛星放送では[[BS日本|BS日テレ]]でもダイジェストで放送していたが、スバルのWRC撤退によるスポンサー撤退で2008年12月25日で放送終了。2008年はテレビ東京系の番組『[[モヤモヤさまぁ〜ず2]]』とタイアップし、同年11月14日に21時から2時間特番を放送した<ref group="注">PR的な内容で、選手やレース関係者へのインタビュー、番組プロデューサーの[[伊藤隆行]]によるラリーカー同乗レポート、各種イベントの紹介などが行われた。</ref>。その他の放送局はWRCの報道に消極的であり、日本で開催される[[ラリージャパン]]も例外でない。同ラリーの開催時期でも、地上波では過去にWRCの放送経験があるテレビ東京系列の他は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列や[[日本放送協会|NHK]]で多少触れられる程度であった。 [[2017年の世界ラリー選手権|2017年]]から[[トヨタ]]のWRC復帰がきっかけで[[テレビ朝日]]において『[[地球の走り方 世界ラリー応援宣言]]』というダイジェスト番組や『[[報道ステーション]]』のスポーツコーナーにおいて各イベントの結果の放送がされるようになっている。2018年1月には『[[アメトーーク!]]』で「世界ラリー大好き芸人」が特集され、1時間の枠でWRCが紹介された。 『地球の走り方』は芸人による現地リポートがメインの初心者向けバラエティー番組であり、モータースポーツファンからは不評であった。また、番組出演者がサービスパークで悪ふざけ<ref>[https://twitter.com/OfficialWRC/status/873498684432031745 Jari-Matti Latvala is heading out to the next group of stages!] 2017年6月10日</ref>や、MCの[[渡部建]]が[[クリス・ミーク]]のクラッシュシーンで不快な演出を行い、当シーンを視聴していたJスポーツのWRC番組MCの[[栗田佳織]]から批判されるなど不備が存在<ref>[https://twitter.com/KURITA_KAORI/status/996660885262188545 今更ながら某地上波のWRC番組を観ました。今季第4戦ツールドコルス。ミークがコースアウトした瞬間、MCの人が「ありがとうー。」と一言。アクシデントは決して笑えない。選手は生半可な気持ちで戦ってない。なんだか悲しくなりました。] 2018年5月16日</ref>。『地球の走り方』としては2018年をもって終了。 2019年以降は『世界ラリー応援宣言2019<ref group="注">MCは[[レイザーラモンRG]]、放送期間は2019年2月から3月末および7月から9月末</ref>』<ref>{{Cite web | url = https://twitter.com/tvasahi_rally/status/1162370144804339715 | title = Twitter 2019年8月16日 | accessdate = 2022-8-22}}</ref>『ラリージャパン応援宣言<ref group="注">MCは[[柴田阿弥]](2021年4月からはナレーションを担当)と[[EXIT (お笑いコンビ)|EXIT]](7月以降)、放送期間は2020年4月から12月および2021年4月から12月</ref>』<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/owarai/news/422588 | title = 「EXITのラリージャパン応援宣言」開始、皆さんにもシェアできたらいいな - お笑いナタリー | accessdate = 2022-8-22}}</ref><ref>{{Cite web | url = https://twitter.com/tvasahi_rally/status/1243471107526541312 | title = Twitter 2020年3月27日 | accessdate = 2022-8-22}}</ref>『モータースポーツ応援宣言<ref group="注">[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]]も取り上げられている。MCはEXIT。ナレーションは柴田阿弥。放送期間は2022年4月から</ref>』<ref>{{Cite web | url = https://twitter.com/tvasahi_rally/status/1508083258848071680 | title = Twitter 2022年3月27日 | accessdate = 2022-8-22}}</ref>と5分番組に縮小し放送を続けている。また『地球の走り方』終了後の2019年以降も、『報道ステーション』では不定期にWRCの結果を報道している他、テレ朝Postもラリー記事を投稿している。この番組の影響もあり六本木ヒルズで毎年行われている「[[テレ朝夏祭り]]」でもWRCに関連したアトラクションが設営されていた。 その後、世界ラリー応援宣言と入れ替わるような形で、BS日テレが11年ぶりにラリーダイジェスト番組を4月よりラリーツール・ド・コルスからスタートさせたものの、12月をもって終了<ref group="注">テーマソングは[[ニュー・ファウンド・グローリー]]のIt's not your found。ナレーションは[[狭川尚紀]]。</ref>。2020年にはNHK-BSにて勝田貴元の挑戦を追いかけたドキュメンタリー番組が放送され、6月には同局にて開幕戦から第3戦までのハイライト番組を放送。同年12月には残り4戦のハイライト放送を行った。2021年以降もNHK-BSにてハイライトが不定期で放送されている<ref group="注">ナレーションは[[高瀬登志彦]]。解説は古賀敬介。</ref>。 また、ユーロピクチャーが1990年代前半からヨーロッパのラリーハイライト番組を翻訳したVHSを発売している<ref group="注">ナレーションは[[みし奈昌俊]]であったが、2002年をもって降板。しかし、近年は再びみし奈が担当している。</ref>。 その他、『[[カーグラフィックTV]]』もラリーのハイライトを放送したことがあった<ref group="注">ただし、翻訳の違いからか他番組やメディアと少し名前が違うドライバーが多数存在した。サインツ→サインス、オリオール→オーリオル、マキネン→メキネンなど。</ref>。 === 日本での雑誌報道 === WRCの専門雑誌としては、1990年に創刊したWRC速報誌『[[RALLY・XPRESS]]』が草分け的な存在だが、2007年末の出版社の解散にともない廃刊。現在は、同誌の元スタッフが運営を引き継いだ携帯サイト[[ラリーXモバイル]]としてラリー情報を配信している。2017年現在、WRC専門誌『WRC PLUS』は廃刊、編集部が同誌を引き継ぐRALLY全般誌『[[WRC PLUS|RALLYPLUS]]』([[三栄書房]]、編集: 株合同社サンク )として刊行されている。 === フィクション === [[新谷かおる]]の『[[ガッデム]]』が、『[[ビッグコミックスペリオール]]』で1988年 - 1990年まで連載され、OVAとしてアニメ化もされた。パリダカのようなモノだけをラリーと認識している人が多かった当時の日本に、WRCのルールを浸透させたエポックメイキングな作品。架空の日本車メーカー三沢自動車と日本人ドライバー轟源の活躍を描く。 なお新谷かおるは、同じくWRCを扱った作品として『NAVI』を『ヤングマガジンGT』に2000年1号 - 2002年6号まで連載、単行本全1巻をヤングマガジンコミックスから発売している。こちらはドライバーではなくナビゲーターが主人公というのが珍しい。 [[しんむらけーいちろー]]の『FLAT OUT』が、『[[別冊ヤングマガジン]]』に2005年4月 - 2006年12月まで連載された。2004年のラリージャパンと[[ラリー・オーストラリア]]を舞台に日本人ドライバー剣龍也の活躍を描いている。なお、しんむらは2022年ラリージャパンを盛り上げるための公式マンガとして、勝田貴元の半生を描いた『勝田貴元物語』を描き下ろした<ref>{{Cite web|和書| url = https://motor-fan.jp/mf/article/78243/ | title = 勝田貴元選手が主人公のマンガ『勝田貴元物語』「前編」をASB電子雑誌書店で無料公開【フォーラムエイト・ラリージャパン2022公式マンガ】 - Motor-Fan | accessdate = 2022-11-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://motor-fan.jp/mf/article/92305/ | title = 「ラリージャパン2022」公式マンガ『勝田貴元物語』の後編を電子版で無料公開! - Motor-Fan | accessdate = 2022-11-14}}</ref>。 2018年6月には[[トヨタ]]の全面協力の下にWRCを目指すドライバーとそれを支えるメカニックの兄弟を描いた、[[東出昌大]]/[[新田真剣佑]]主演の映画『[[OVER DRIVE (映画)|OVER DRIVE]]』が公開された。また、2021年10月には再びラリーを題材にした映画『[[僕と彼女とラリーと]]』が公開された。 === ゲームソフト === {{See also|:en:WRC (video game series)}} 2001年(日本では2002年)の{{仮リンク|WRC ワールドラリーチャンピオンシップ|en|World Rally Championship (2001 video game)}}以降、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)]](2001年~2005年)、Black Bean Games(2010年~2012年)、Nacon(2013年~2022年)、[[エレクトロニック・アーツ]](2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。SCEから発売されたソフトはすべて[[PlayStation|PlayStationシリーズ]]限定。 日本では[[スパイク (ゲーム会社)|スパイク]](2002年~2006年)、[[サイバーフロント]](2011年~2013年)、[[スクウェア・エニックス]](2014年)、[[オーイズミ・アミュージオ]](2017年~2022年)、3goo(2021年~2022年)、エレクトロニック・アーツ(2023年)がWRC公式ゲームソフトを発売している。 == 歴代チャンピオン == === WRC === <div class="NavFrame" style="border:0;"> <div class="NavHead">WRC</div> <div class="NavContent"> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:left" |- !年 !マニュファクチャラー部門 !ドライバー部門 !コ・ドライバー部門 |- ! style="white-space:nowrap" | [[1973年の世界ラリー選手権|1973年]] | {{Flagicon|FRA}} [[アルピーヌ]] | rowspan="4" style="text-align:center" {{N/A|''not held''}} | rowspan="6" style="text-align:center" {{N/A|''not held''}} |- ! [[1974年の世界ラリー選手権|1974年]] | {{Flagicon|ITA}} [[ランチア]] |- ! [[1975年の世界ラリー選手権|1975年]] | {{Flagicon|ITA}} ランチア |- ! [[1976年の世界ラリー選手権|1976年]] | {{Flagicon|ITA}} ランチア |- ! [[1977年の世界ラリー選手権|1977年]] | {{Flagicon|ITA}} [[フィアット]] |{{Nowrap begin}}{{Flagicon|ITA}} [[:en:Sandro Munari|サンドロ・ムナーリ]]{{ref|1|1}}{{W}}(ランチア){{Nowrap end}} |- ! [[1978年の世界ラリー選手権|1978年]] | {{Flagicon|ITA}} フィアット | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} [[マルク・アレン]]{{ref|1|1}}{{W}}([[フィアット]]/ランチア){{Nowrap end}} |- ! [[1979年の世界ラリー選手権|1979年]] | {{Flagicon|USA}} [[フォード]] | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}} [[ビョルン・ワルデガルド|ビヨン・ワルデガルド]]{{W}}([[フォード]]/[[メルセデス・ベンツ]]){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}} ハンス・ソルレリウス{{W}}(フォード/メルセデス・ベンツ){{Nowrap end}} |- ! [[1980年の世界ラリー選手権|1980年]] | {{Flagicon|ITA}} フィアット | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GER}} ヴァルター・ロール{{W}}(フィアット){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GER}} クリスチャン・ゲイストドルファー{{W}}(フィアット){{Nowrap end}} |- ! [[1981年の世界ラリー選手権|1981年]] | {{Flagicon|FRA}} [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]] | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} [[アリ・バタネン]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GBR}} [[デビッド・リチャーズ]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! [[1982年の世界ラリー選手権|1982年]] | {{Flagicon|GER}} [[アウディ]] | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GER}} ヴァルター・ロール{{W}}([[オペル]]){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GER}} クリスチャン・ゲイストドルファー{{W}}(オペル){{Nowrap end}} |- ! [[1983年の世界ラリー選手権|1983年]] | {{Flagicon|ITA}} ランチア | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} ハンヌ・ミッコラ{{W}}(アウディ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} アーネ・ヘルツ{{W}}(アウディ){{Nowrap end}} |- ! [[1984年の世界ラリー選手権|1984年]] | {{Flagicon|GER}} [[アウディ]] | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}} [[スティグ・ブロンクビスト]](アウディ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}}ビヨン・セダベルグ{{W}}(アウディ){{Nowrap end}} |- ! 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2014年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|QAT}} [[ナッサー・アル=アティヤ]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|ITA}} ジョバンニ・ベルナッキーニ{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|GBR}} ドライブ[[DMACK]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! 2015年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|QAT}} [[ナッサー・アル=アティヤ]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FRA}} マシュー・バウメル{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} シュコダ・モータースポーツ{{W}}([[シュコダ]]){{Nowrap end}} |- ! 2016年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} [[エサペッカ・ラッピ]]{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} ヤンネ・フェルム{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} シュコダ・モータースポーツ{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} |- ! 2017年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}} [[ポンタス・ティデマンド]]{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|SWE}} ヨナス・アンダーソン{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} シュコダ・モータースポーツ{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} |- ! 2018年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} ヤン・コペッキー{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} パベル・ドレスラー{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|CZE}} シュコダ・モータースポーツ{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} |- ! 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2018年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|ITA}} エンリコ・ブラゾッリ{{W}}(プジョー){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|ITA}} ルカ・ベルトラム{{W}}(プジョー){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|ITA}} ACIチームイタリア{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! 2020年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} ヤリ・フッツネン{{W}}(ヒュンダイ){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} ミッコ・ルッカ{{W}}(ヒュンダイ){{Nowrap end}} | |- ! 2021年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FRA}} ヨハン・ロッセル{{W}}(シトロエン){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|POL}} マチェイ・シュシェパニャク{{W}}(シュコダ){{Nowrap end}} | |- ! 2022年 | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} ラウリ・ヨーナ{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{Flagicon|FIN}} エンニ・マルコネン{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | |- ! 2023年 | | | |- |} </div> </div> === JWRC === <div class="NavFrame" style="border:0;"> <div class="NavHead">JWRC</div> <div class="NavContent"> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:left" |- !年 !ドライバー部門 !コ・ドライバー部門 |- !style="white-space:nowrap"| 2001年{{ref|2|2}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|FRA}} [[セバスチャン・ローブ]]{{W}}([[シトロエン]]){{Nowrap end}} | rowspan="12" style="text-align:center" {{N/A|''not held''}} |- ! 2002年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|ESP}} ダニエル・ソラ{{W}}(シトロエン){{Nowrap end}} |- ! 2003年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|FRA}} ブライス・ティラバッシ{{W}}([[ルノー]]){{Nowrap end}} |- ! 2004年 |{{Nowrap begin}}{{flagicon|SWE}} パー・ガンナー・アンダーソン{{W}}([[スズキ (企業)|スズキ]]){{Nowrap end}} |- ! 2005年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|ESP}} [[ダニ・ソルド]]{{W}}(シトロエン){{Nowrap end}} |- ! 2006年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|SWE}} パトリック・サンデル{{W}}(ルノー){{Nowrap end}} |- ! 2007年{{ref|3|3}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|SWE}} パー・ガンナー・アンダーソン{{W}}(スズキ){{Nowrap end}} |- ! 2008年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|FRA}} [[セバスチャン・オジェ]]{{W}}(シトロエン){{Nowrap end}} |- ! 2009年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|CZE}} マルティン・プロコップ{{W}}(シトロエン){{Nowrap end}} |- ! 2010年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|GER}} アーロン・ブルカルト{{W}}(スズキ){{Nowrap end}} |- ! 2011年{{ref|4|4}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|IRE}} [[クレイグ・ブリーン]]{{W}}([[フォード]]){{Nowrap end}} |- ! 2012年{{ref|4|4}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|GBR}} [[エルフィン・エバンス]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! 2013年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|SWE}} [[ポンタス・ティデマンド]]{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|NOR}} オラ・フローネ{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! 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2021年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|FIN}} サミ・パジャリ{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|FIN}} マルコ・サルミネン{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- ! 2022年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|EST}} ロベルト・ビルベス{{W}}(フォード){{Nowrap end}} | {{Nowrap begin}}{{flagicon|IRL}} ブライアン・ホイ{{W}}(フォード){{Nowrap end}} |- |} <div style="text-align:left"> * {{note|2|2}} - FIA Cup Super1600 for Driversとしての開催 * {{note|3|3}} - ジュニアラリー選手権としての開催 * {{note|4|4}} - WRCアカデミーとしての開催 </div> </div> </div> === PWRC === <div class="NavFrame" style="border:0;"> <div class="NavHead">PWRC</div> <div class="NavContent"> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:left" |- !年 !ドライバー部門 |- !style="white-space:nowrap"|2002年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|MAS}} カラムジット・シン{{W}}([[プロトン (自動車)|プロトン]]){{Nowrap end}} |- ! 2003年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|GBR}} マーチン・ロウ{{W}}([[スバル]]){{Nowrap end}} |- ! 2004年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|GBR}} ナイオール・マクシェア{{W}}(スバル){{Nowrap end}} |- ! 2005年 | {{Nowrap begin}}{{flagicon|JPN}} [[新井敏弘]]{{W}}(スバル){{Nowrap end}} |- ! 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!ドライバー !総計 !コ・ドライバー !総計 |- !1 |{{Flagicon|FRA}} [[セバスチャン・ローブ]] |80回 |{{Flagicon|MON}} [[ダニエル・エレナ]] |79回 |- !2 |{{Flagicon|FRA}} [[セバスチャン・オジェ]] |55回 |{{Flagicon|FRA}} [[ジュリアン・イングラシア]] |54回 |- !3 |{{Flagicon|FIN}} [[マーカス・グロンホルム]] |30回 |{{Flagicon|FIN}} [[ティモ・ラウティアイネン]] |30回 |- !4 |{{Flagicon|ESP}} [[カルロス・サインツ]] |26回 |{{Flagicon|ESP}} ルイス・モヤ |24回 |- !5 |{{Flagicon|SCO}} [[コリン・マクレー]] |25回 |{{Flagicon|Wales}} ニッキー・グリスト |21回 |- !6 |{{Flagicon|FIN}} [[トミ・マキネン]] |24回 |{{Flagicon|FIN}} セッポ・ハルヤンネ |20回 |- !7 |{{Flagicon|FIN}} [[ユハ・カンクネン]] |23回 |{{Flagicon|FIN}} イルッカ・キヴィマキ |19回 |- !rowspan="2" | 8 |rowspan="2" | {{Flagicon|FRA}} [[ディディエ・オリオール]] |rowspan="2" | 20回 |{{Flagicon|SWE}} アーネ・ハーツ |rowspan="2" | 18回 |- |{{Flagicon|FIN}} [[ミイカ・アンティラ]] |- !9 |{{Flagicon|FIN}} [[マルク・アレン]] |19回 | - | - |- !rowspan="2" | 10 |{{Flagicon|FIN}} [[ハンヌ・ミッコラ]] |rowspan="2" | 18回 |{{Flagicon|ITA}} ティジアーノ・シビエロ |rowspan="2" | 16回 |- |{{Flagicon|FIN}} [[ヤリ=マティ・ラトバラ]] |{{Flagicon|FRA}} ベルナール・オチェッリ |} {{col-float-break}} === マニュファクチャラー === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- ! !マニュファクチャラー !総計 |- !1 |{{Flagicon|FRA}} [[シトロエン]] ||102回 |- !2 |{{Flagicon|USA}}/{{Flagicon|GBR}} [[フォード・モーター|フォード]] |92回 |- !3 |{{Flagicon|JPN}} [[トヨタ]] |77回 |- !4 |{{Flagicon|ITA}} [[ランチア]] |73回 |- !5 |{{Flagicon|FRA}} [[プジョー]] |48回 |- !6 |{{Flagicon|JPN}} [[富士重工業|スバル]] |47回 |- !7 |{{Flagicon|GER}} [[フォルクスワーゲン]] |44回 |- !8 |{{Flagicon|JPN}} [[三菱自動車工業|三菱]] |34回 |- !9 |{{flagicon|KOR}} [[ヒョンデ]] |25回 |- !10 |{{Flagicon|GER}} [[アウディ]] | 24回 |- |} {{col-float-end}} ※2022年[[ラリージャパン]]終了時点。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 関連項目 == {{Commonscat|World Rally Championship}} * [[ラリー]] * [[国際自動車連盟#競技車両規定|FIA 車両規定]] == 外部リンク == * [https://www.wrc.com/ WRC] * [https://rally-japan.jp/ Rally Japan] * [https://web.archive.org/web/20070208184352/http://www.citroen.co.jp/motorsports/ シトロエン公式サイト WRC] * {{Wayback |url=http://www.ford.co.jp/about-ford/wrc-result |title=フォードジャパン |date=20151002105029}} * [https://www.subaru-msm.com/ SUBARU/STI MOTORSPORT] * [https://www.mitsubishi-motors.com/jp/innovation/motorsports/ モータースポーツ | 三菱自動車] * [https://www.jsports.co.jp/motor/wrc/ WRC世界ラリー選手権 | J SPORTS] * [https://www.bs4.jp/motorsports/ モータースポーツ情報|BS日テレ] {{Motorsport-stub}} {{世界ラリー選手権}} {{世界ラリー選手権のイベント}} {{モータースポーツ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せかいらりいせんしゆけん}} [[Category:国際自動車連盟]] [[Category:世界ラリー選手権|*]] [[Category:ラリー]] [[Category:1973年開始のスポーツイベント]]
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F1
F1、F-1(エフワン、エフいち)
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F1、F-1(エフワン、エフいち)
__NOTOC__ '''F1'''、'''F-1'''(エフワン、エフいち) <!-- 以下、独立した記事のある事項以外は新たに追加しないこと --> == 一般名詞 == * [[遺伝学]]における[[雑種第一代]]のこと。F1品種、一代交配種、一代雑種とも呼ばれる。 ** [[ウシ|牛]]の[[交雑]]種。一般的には[[ホルスタイン種]]と[[黒毛和種]]の一代交雑種を指す。 * [[マーケティング]]分析における[[消費者]]のカテゴリーの一つで、20 - 34歳の女性を指す。→ [[視聴者#視聴者構成割合]]を参照。 * [[F-1 (査証)]] - 米国の学生ビザ([[査証]])。米国の教育機関に留学する際に必要な非[[移民]]査証。「F-1ビザ」とも。 * [[コンピュータ]]の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の[[ファンクションキー]]のひとつ(F1 - F12まである)。 * [[竜巻]]の規模を表す数値「[[藤田スケール]]」のうちの一つで、中程度の被害をもたらす。 * [[一元体]]のこと。 == 固有名詞、商標など == === イベント名など === * [[フォーミュラ1]]('''F'''ormula '''1''') - [[自動車レース]]のカテゴリーの1つ。[[F1世界選手権]]そのものを指す場合もある。 ** [[フォーミュラ1カー]] - フォーミュラ1で使用される[[レーシングカー]]。'''F1マシン'''、'''F1カー'''とも。 ** [[F1 (エレメカ)]] - フォーミュラ1を題材にしたレースゲームの[[エレメカ]]([[アーケードゲーム]]の一種)。 <!--** [[Formula One]]、[[Formula One 2005]] - フォーミュラ1を題材にしたレースゲームのシリーズ。--> ** [[F1グランプリ]] - [[フジテレビジョン]]系列のF1レース中継[[テレビ番組|番組]]。 ** [[F-1倶楽部]] - フォーミュラ1を題材にしたレース[[漫画]]。 * [[競輪]]のFI競走。→ [[競輪の競走格付け#FI (F1)]]を参照。 * [[F-1タッグ選手権]] - [[全日本プロレス]]で行われていた[[プロレスラー]]と[[お笑い芸人]]とのタッグ王座。2015年10月以降は、[[WRESTLE-1]]にて「F-1タッグチャンピオンシップ」として開催。 === 商品名 === * [[マクラーレン・F1]] - [[マクラーレン]]が製造した自動車。 * [[キヤノン F-1]] - [[キヤノン]]製[[一眼レフカメラ]]。 * DSC-F1 - [[ソニー]]製[[デジタルカメラ]]。→ [[サイバーショット]]を参照。 * JOYSOUND f1 - [[エクシング]]が製造販売するの[[通信カラオケ]]機器「[[JOYSOUND]]」の機種名。→ [[JOYSOUND#JOYSOUND fシリーズ]]を参照。 * [[シナジーF1]](旧商品名:モービルF1)- [[エクソンモービル]]が販売していた[[ハイオクガソリン]]。 === 航空機・艦船 === * [[F-1 (航空機)]] - [[航空自衛隊]]の[[支援戦闘機]]([[攻撃機]])。 * [[ミラージュF1 (戦闘機)]] - [[フランス]]製[[戦闘機]]。 * ノースアメリカン F-1 - [[アメリカ海軍]]の戦闘機「[[FJ-1 (航空機)|FJ フューリー]]」の名称変更後の呼称。 ** [[F-86 (戦闘機)|F-1C]] ** [[FJ-4 (航空機)|F-1E]] * [[F-1 (潜水艦)]] - アメリカ海軍の[[潜水艦]]。 * [[F-1ロケットエンジン]] - [[アポロ計画]]の[[ロケット]]、[[サターンV]]の[[ロケットエンジン|エンジン]]。 === 鉄道 === * [[国鉄9150形蒸気機関車]]の[[鉄道作業局]]時代の形式。 * [[WILLER TRAINS]](京都丹後鉄道)[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]][[福知山駅]]の[[駅ナンバリング]]。 === その他 === * [[F-1 (人工衛星)]] - ベトナムの人工衛星。 * {{仮リンク|F1 (短機関銃)|en|F1 submachine gun}} - オーストラリアの[[短機関銃]]。 * [[F-1 (原子炉)]] - 旧ソ連で最初に[[臨界状態|臨界]]に達した[[原子炉]]。[[1946年]]に[[イーゴリ・クルチャトフ]]博士により達成された。 * [[F1手榴弾]] - 第二次世界大戦初期にソビエト連邦で生産された手榴弾。 * [[F-1 (長山洋子のアルバム)]] - [[長山洋子]]の1988年の[[アルバム]]。 * [[エフワン]] - [[大阪府]]に本社を置く日本の紳士服メーカー。 * [[吉岡稔真]]の[[競輪選手]]時代の愛称。 == 関連項目 == * [[F0]] - '''F1''' - [[F2]] - [[F3]] - [[F4]] - [[F5]] - [[F6]] - [[F7]] - [[F8]] - [[F9]] {{aimai}}
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園山俊二
園山 俊二(そのやま しゅんじ、1935年〈昭和10年〉4月23日 - 1993年〈平成5年〉1月20日)は、日本の漫画家。血液型B型。 島根県松江市外中原町生まれ。島根大学教育学部附属小学校、同附属中学校、島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、早稲田大学商学部卒業。 早稲田大学在学中、英文科の講師三浦修や、同級生のしとうきねおらとともに早稲田大学漫画研究会を創設するも、結核の療養のため1年休学。復学後に漫研に復帰し、後輩の福地泡介、東海林さだおと出会う。園山・福地・東海林はのちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半当時の学生運動になぞらえて「漫画界の三派全学連」と称された。 在学中の1958年、学内での展覧会を通じて知己を得ていた毎日小学生新聞の編集長・原本秀雄にスカウトされ、同紙で『がんばれゴンベ』を連載開始し、プロデビュー。元は数か月だけ連載する予定だったが、35年にわたる長期連載となった。 新聞連載のかたわら、大学を卒業。しとうの世話で広告代理店に就職するも、入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らず、そのまま辞職。「自分は勤め人にそぐわない性格だと判断した」「食うのにつらくても漫画一本で生きた方がよい」と思ったという。以降専業の漫画家として、児童漫画および大人漫画の連載作品を多数発表する。1961年、寺田ヒロオの紹介で、第2次新漫画党に参加。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める。 1989年11月に手術のため入院(著書では「肝臓にできたコワイモノの除去」と説明)。その後入退院を繰り返す。1992年7月には、長期の入院・加療のため多くの連載を中断・終了する。『ペエスケ』を長期連載していた同年12月17日付の『朝日新聞』等では、「ぎっくり腰の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行であった。当時の園山は見舞客に「肝硬変」あるいは「前癌症状」と説明していたが、交友のあった畑正憲は追悼コメントにおいて、実際の園山の病が肝臓癌であったことを明かしている。 1993年1月20日死去。57歳没。「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」という文面の遺書を残したほか、病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど『ペエスケ』の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという。翌1月21日付の『朝日新聞』朝刊には、園山が死の直前に書いた動物の絵と、東海林さだおの追悼文からなる特集が1ページ半にわたり掲載された。 いずれもコンパクト盤
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園山 俊二は、日本の漫画家。血液型B型。
{{出典の明記|date=2016年2月17日 (水) 06:57 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 園山 俊二 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 同じ | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1935|4|23|no}}<ref name="mangaseek">まんがseek・[[日外アソシエーツ]]編『漫画家人名事典』(日外アソシエーツ、[[2003年]]、ISBN 4816917608)p.215</ref> | 生地 = [[島根県]][[松江市]]<ref name="mangaseek" /> | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1935|4|23|1993|1|20}}<ref name="mangaseek" /> | 没地 = [[東京都]] | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1958年]] - [[1992年]] | ジャンル = ナンセンス漫画、家庭漫画 | 代表作 = [[がんばれゴンベ]]<br />[[ペエスケ]]<br />[[ギャートルズ]]<br />[[花の係長]]<br />さすらいのギャンブラー 他 | 受賞 = 第22回[[文藝春秋漫画賞]]<br />第6回[[日本漫画家協会賞]]特別賞 | 公式サイト = }} '''園山 俊二'''(そのやま しゅんじ、[[1935年]]〈[[昭和]]10年〉[[4月23日]] - [[1993年]]〈[[平成]]5年〉[[1月20日]]<ref name="mangaseek" />)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|B型]]<ref name="mangaseek" />。 == 略歴 == [[島根県]][[松江市]]外中原町生まれ<ref name="mangaseek" />。[[島根大学教育学部附属小学校]]、[[島根大学教育学部附属中学校|同附属中学校]]、島根県立松江高等学校(現・[[島根県立松江北高等学校]])を経て<ref>[https://web.archive.org/web/20110913054044/http://www.web-sanin.co.jp/orig/news/6-807p.htm 園山俊二プロフィール](アーカイブ) - [[松江情報センター]]</ref>、[[早稲田大学商学部]]卒業。 [[早稲田大学]]在学中、英文科の講師三浦修や、同級生の[[しとうきねお]]らとともに[[早稲田大学漫画研究会]]を創設<ref name="mangaseek" /><ref name="mineshima">[[峯島正行]]『ナンセンスに賭ける』(青蛙房、1992年)pp.167-181「園山俊二 自由への願望」</ref>するも、[[結核]]の療養のため1年休学。復学後に漫研に復帰し、後輩の[[福地泡介]]、[[東海林さだお]]と出会う。園山・福地・東海林はのちに相次いでプロとなり、3人が出揃った1960年代後半当時の[[日本の学生運動|学生運動]]になぞらえて「漫画界の[[全日本学生自治会総連合の歴史|三派全学連]]」と称された<ref name="mineshima"/>。 在学中の[[1958年]]、学内での展覧会を通じて知己を得ていた[[毎日小学生新聞]]の編集長・原本秀雄にスカウトされ<ref name="mineshima"/><ref name=omoide>[https://web.archive.org/web/20110913054040/http://www.web-sanin.co.jp/orig/news/6-8071.htm 園山俊二さんの思い出](アーカイブ) - 松江情報センター</ref>、同紙で『[[がんばれゴンベ]]』を連載開始し、プロデビュー。元は数か月だけ連載する予定だったが、35年にわたる長期連載となった<ref name="mineshima"/>。 新聞連載のかたわら、大学を卒業。しとうの世話で広告代理店に就職するも、入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らず、そのまま辞職。「自分は勤め人にそぐわない性格だと判断した<ref>福地泡介『あいつのカゲグチ』([[立風書房|立風漫画文庫]]、1981年)p.160</ref>」「食うのにつらくても漫画一本で生きた方がよい<ref name="mineshima"/>」と思ったという。以降専業の漫画家として、児童漫画および大人漫画の連載作品を多数発表する。[[1961年]]、[[寺田ヒロオ]]の紹介で、[[新漫画党#第2次新漫画党|第2次新漫画党]]に参加。[[トキワ荘]]の漫画家たちと交流を深める<ref name="mineshima"/><ref>[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|&#9398;}}]]『トキワ荘青春日記』([[光文社]]、1996年、ISBN 4334971156)</ref>。 [[1989年]]11月に手術のため入院(著書では「肝臓にできたコワイモノの除去」と説明<ref>『ペエスケ』8巻([[朝日文庫]]、1993年、ISBN 4022607734)p.156</ref>)。その後入退院を繰り返す。[[1992年]]7月には、長期の入院・加療のため多くの連載を中断・終了する。『[[ペエスケ]]』を長期連載していた同年12月17日付の『[[朝日新聞]]』<ref>ISBN 4022607734 pp.158-160</ref>等では、「[[急性腰痛症|ぎっくり腰]]の治療」と公表していたが、実際は肝臓の病状の進行であった。当時の園山は見舞客に「[[肝硬変]]」あるいは「[[異形成|前癌症状]]」と説明していたが、交友のあった[[畑正憲]]は追悼コメントにおいて、実際の園山の病が[[肝癌|肝臓癌]]であったことを明かしている<ref>ISBN 4022607734 pp.184-186</ref>。 [[1993年]][[1月20日]]死去。{{没年齢|1935|4|23|1993|1|20}}。「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」という文面の遺書を残したほか、病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど『ペエスケ』の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという{{要出典|date=2015年6月}}。翌[[1月21日]]付の『朝日新聞』朝刊には、園山が死の直前に書いた動物の絵と、東海林さだおの追悼文からなる特集が1ページ半にわたり掲載された。 == 受賞歴 == * [[1976年]] 第22回[[文藝春秋漫画賞]](『[[ギャートルズ]]』等) * [[1977年]] 第6回[[日本漫画家協会賞]]特別賞(『[[がんばれゴンベ]]』) * [[1993年]] 勲四等[[瑞宝章]] ※没後受章 == 作風・人物 == * [[小学館]]『[[大辞泉|デジタル大辞泉]]』においては、「飄々としたタッチでほのぼのとした日常を描く」と評されている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9C%92%E5%B1%B1%E4%BF%8A%E4%BA%8C-555024 園山俊二] [[コトバンク]]</ref>。東海林さだおは「白い画用紙のまん中に、スーッと一本、鉛筆で横に線を引くと、すでにそれは大平原と空を分かつ地平線なのであった」「それが園山さんの代表作『ギャートルズ』なのだった」と園山のシンプルな描線による画風を評した<ref>ISBN 4022607734 pp.191-193</ref>。 * ユーモラスな擬音を多く用いている。しっかりと握って離さない状況を示す「シッカ」など。 * メスのカエルに乳房を描くなど、動物に対する強い擬人化表現が見られる。 * 愛称は「おんちょ」。[[音痴]]であったことから<ref>[https://web.archive.org/web/20120312231604/http://www.web-sanin.co.jp/orig/news/6-807.htm 「おんちょ」と呼ばれた男の子 松江市出身の漫画家・園山俊二さんのこと](アーカイブ) - 松江情報センター</ref>。 * [[趣味]]は[[麻雀]]。アニメ版の「[[はじめ人間ギャートルズ]]」でも父ちゃんが4人で麻雀をする描写を入れたくらいだった(第23回「クルクルマワルラーの巻」)。 * [[1982年]]に[[日本自然保護協会]]の理事に就任。[[中浦水門|宍道湖の淡水化計画]]に反対する活動を行った<ref>ISBN 4022607734 p.199</ref>。 == 主な作品 == === 漫画 === * [[がんばれゴンベ]](1958年 - 1992年、毎日小学生新聞) : 通算連載回数は9775回。[[1980年]]に[[テレビ東京|東京12チャンネル]]で[[テレビアニメ]]化。 * [[ギャートルズ#シリーズ作品|ギャートルズシリーズ]] ** ギャートルズ、新ギャートルズ([[1965年]] - [[1975年]]、[[漫画サンデー]]) ** はじめ人間ゴン([[1966年]] - [[1968年]]、[[科学と学習]]) ** はじめ人間ギャートルズ([[小学館の学年別学習雑誌|小学館の学習雑誌]]) ** くたばれギャートルズ(1980年 - [[1984年]]、[[ビッグコミックオリジナル]]) *** 2度テレビアニメ化されている。[[1974年]]の『[[ギャートルズ#はじめ人間ギャートルズ(テレビアニメ)|はじめ人間ギャートルズ]]』([[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作・[[TBSテレビ|TBS]]系→[[テレビ朝日|NET]]系)および、[[1996年]]の『[[ギャートルズ#はじめ人間ゴン(テレビアニメ)|はじめ人間ゴン]]』([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])。ただし『はじめ人間ゴン』については、同時期に[[しのだひでお|篠田ひでお]]が『[[科学と学習|4年の学習]]』で連載していた同名のリメイク作品が直接の原作。 * 気になるあの人(1968年 - 1980年、[[女性セブン]]) * [[花の係長]]([[1969年]] - 1982年、[[週刊ポスト]]) ** [[1976年]]に[[毎日放送]]制作・TBS系でテレビアニメ化。 * さすらいのギャンブラー(1969年 - [[1990年]]、[[ビッグコミック]]) * オレ係長38歳([[1973年]] - [[1985年]]、[[サンデー毎日]]) * [[ペエスケ]]([[1979年]] - 1992年、[[朝日新聞]]夕刊) ** 1990年に[[松竹]]配給で『[[ペエスケ ガタピシ物語]]』のタイトルで実写映画化。また同年、『[[ガタピシ]]』のタイトルでテレビ朝日でテレビアニメ化。 === 絵本 === * 火星へシルクハットを([[岩崎書店]]、[[1965年]]) * 大恐龍運動ピテカン作戦([[講談社]]、[[1971年]]) - 作画は[[村上豊]]。 === イラスト === ; レコードジャケット いずれも[[コンパクト盤]] * [[高石ともや|高石友也]]「受験生ブルース」 * [[殿さまキングス]]「係長5時を過ぎれば」 == 園山俊二を演じた人物 == *[[矢田耕司]] - テレビアニメ『[[ぼくらマンガ家 トキワ荘物語]]』([[日生ファミリースペシャル]]) ==脚注== <div class="references-small"><references /></div> == 外部リンク == *[http://www.sonoyamashunji.net/ 園山俊二 オフィシャルホームページ] - プロフィール、全作品リスト等。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そのやま しゆんし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:島根県出身の人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:島根県立松江北高等学校出身の人物]] [[Category:朝日新聞社の人物]] [[Category:勲四等瑞宝章受章者]] [[Category:1935年生]] [[Category:1993年没]] [[Category:結核に罹患した人物]] [[Category:肝癌で亡くなった人物]]
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モナコグランプリ
モナコグランプリ(モナコGP、英: Monaco Grand Prix , 仏: Grand Prix de Monaco )は、モナコ公国のモンテカルロ市街地コースで行われるF1世界選手権レースの一戦である。 F1カレンダーのなかでも最も厳しいコースのひとつと言われており、インディ500、ル・マン24時間レースと並び「世界3大レース」の1つに数えられ、F1およびモナコの象徴ともいえる名物レースとなっている。 1929年に第1回大会を開催し、第二次世界大戦前後の中断(1938年 - 1947年、1949年)、1950年代前半、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行に見舞われた2020年を除き毎年開催されている。1950年のF1世界選手権発足時よりイギリスGP、イタリアGP、ベルギーGPと並んで同シリーズに組み込まれている。この内、同じコースで開催され続けているのはモナコGPのみである。 グランプリ期間中、普段は人口3万人の小国に、およそ20万人の観客が訪れる。モナコ王室を始めとして、政財界の協力によって行われる国家的な観光イベントでもある。多くの観客を招き入れるため、キリスト昇天祭の祝日となる5月の2週目か3週目の木曜日に日程を合わせるのが慣わしである。近年はF1カレンダーの過密化により、キリスト教の復活祭と一致しないこともあるが、木曜日からスケジュールが始まるという伝統は2021年まで続き、他のグランプリでは初日となる金曜日が、モナコGPでは休息日となっていた。しかし2022年からは他のグランプリ同様のスケジュールとなる。 レースの舞台となるのは、モナコのモンテカルロ区とラ・コンダミーヌ区の公道を閉鎖して造られた1周3,340 mのモンテカルロ市街地コースである。現在のF1レースでは「305 kmを超える最低の周回数」がレースの規定周回数・総走行距離として定められているが、このコースでは例外として、総走行距離が1968年から約260 km(約78周。それまでは約318 km〔約100周〕)に減らされている。この約260 kmという距離は、このコースをF1マシンで走行し続けるとこれぐらいの距離で2時間以内に収まるから、という理由で決められている。コースの設営準備には6週間、レース後の撤去作業には2週間を要する。 コース幅が非常に狭いためレース中の追い抜きは困難であり、他のコースに増して予選結果が重要視される。レース中はペースの遅いマシンの後方に数台が数珠繋ぎとなり、無理な追い抜きで接触する場面がよく見られる。ポールポジションを獲得したドライバーがそのまま優勝することが多く、2023年現在で30回ポール・トゥ・ウィンが達成されている。本グランプリ開始数年後の1933年にグリッドの決め方がくじ引きから現在の方式である予選タイムの早い順に変更されているが、これもこのコースが追い抜き困難で不公平であるからという理由による。 伝統と華やかさに加え、高い技量と集中力を要する難コースであることから、「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」といわれる。ここで際立って強いドライバーは「モナコ・マイスター」と賞賛されることがあり、スターリング・モス(3勝)、グラハム・ヒル(5勝)、ジャッキー・スチュワート(3勝)、アラン・プロスト(4勝)、アイルトン・セナ(6勝)、ミハエル・シューマッハ(5勝)、ニコ・ロズベルグ(3勝)といった名手が挙げられる(後述の#優勝回数(ドライバー)も参照)。 ファン・マヌエル・ファンジオは出走4戦中2勝をあげ、4戦全てでポールポジションとファステストラップを記録している。一方、ジム・クラークは出走6戦中4回ポールポジションを獲得しながら、4位が最高で1勝もできなかった。 事故の起きやすい環境や、マシンにも過酷で機械の故障が発生しやすいことから、優勝候補がリタイアするなど波乱の展開が繰り広げられることもあり、意外なチームやドライバーが優勝することもある。過去9名のドライバーがこのコースでF1初優勝を遂げており、初優勝が出やすいコースでもある。 モナコGPの主催者であるモナコ自動車クラブ (Automobile Club de Monaco, ACM) は、1890年にモナコ自転車クラブとして発足した。1925年に自動車クラブに改名し、国際自動車連盟 (FIA) の前身である国際自動車公認クラブ協会 (AIACR) に登録申請を行った。1911年よりラリー・モンテカルロを開催していたため、問題なく加盟できると考えていたが、ラリーで使用しているコースのほとんどは隣国のフランス国内で行われており、レース開催経験の無さを理由に申請を却下された。 ACM会長アレクサンドル・ノゲの息子アントニー・ノゲは、モナコの街路を使用してレースを開催する計画を立てた。当時の公道レースはもっぱら郊外の田舎道で行われており、市街地でのレース運営は無謀に思われた。しかし、モナコ大公ルイ2世や、高級ホテル・カジノを経営するソシエテ・デ・バン・ド・メール社(英語版)(SBM)の理解を得て1929年の第1回開催にこぎつけ、モナコ自動車クラブはAIACRに加盟を認められた。功労者であるノゲの名は、英語読みの「アントニー・ノウズ」として最終コーナーの名称に残されている。 コースデザインにはモナコ出身のドライバールイ・シロンが協力した。シロンはインディ500出場を優先したため第1回大会は不参加だったが、第3回大会で優勝している。また、引退後は競技委員長を務め、シグナル式スタートが採用されるまでスタート/チェッカーフラッグを振った。シロンの名もプールサイドベントの入口のコーナーに残されている。 チェッカーフラッグに見られる現在の白黒市松模様は細かく指定されているが、1970年代以前のかつては今より荒い模様が使われていたことが過去のVTR映像で確認できる。シグナルも、現在はブラックアウト方式に改定された。 通例では、各国のGP主催者はF1の商業管理団体であるフォーミュラワン・マネージメント (FOM) に莫大な開催権料を支払い、コースサイドの看板広告の収入もFOMに納めねばならない。モナコGPの主催者であるACMは、特例として開催権料を免除されている上に、看板広告収入も手にしている。モナコGPは2007年まで、ヨーロッパで唯一たばこ広告規制のないレースであった。 高級リゾートという土地柄、富裕層の人々は高級ホテルや自宅アパートのバルコニーや、港に停泊する豪華なクルーザーの甲板、「Formula One Paddock Club」といった特等席からレースを観戦している。期間中、ホテルの宿泊料金は軒並み跳ね上がるが、予約の時点で満室になる上に、高級ホテルの多くは最低5日から7日以上の連続宿泊を条件とする。 一般観戦者は近隣のニースやイタリア方面の街に宿をとり、自家用車やフランス国鉄 (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。 モナコ公国は所得税非課税のタックス・ヘイヴンとして知られる。外国人が居住するためには審査が必要となるが、F1ドライバーは名士として優遇されている。税金対策の他、治安が良い、プライバシーが守られる(有名人でも特別視されない)などの理由から、スイスと並んで居住地として人気があり、モナコGP期間中はドライバー達がマンションから「自宅通勤」する光景が見られる。2000年と2002年のウィナーであるデビッド・クルサードは、最高級ホテル「コロンバス・モンテカルロ」の共同経営者という副業を持っていた。 レースウィークの休息日となる金曜日にはモナコ大公主催のパーティが開かれ、ドライバーやチーム関係者をはじめ、世界中のセレブリティが参加する。また、モータースポーツシーズンの終了後には、FIA傘下の各カテゴリのチャンピオンを集めての表彰式がモナコで行われる(2011年はインドで開催)。 モナコGPはモナコ王室が観覧する御前レースであり、かつては大公レーニエ3世と大公妃グレース・ケリーがオープンカーでパレード走行を行っていた。レース後の表彰式もロイヤルファミリーが出席するため、他のグランプリとは手順が大きく異なる。 表彰台に関しては、大公よりも高い位置にドライバーが立つことが失礼であるとして、特別な台は設けず表彰ステージの最前列に、通常の表彰台と同じ配置でドライバーと優勝コンストラクター代表者が整列する。シャンパンに関しては、大公夫妻にシャンパンがかからないようにするため、大公の目の前での乱痴気騒ぎは失礼にあたるため、である。一国の元首から栄誉を称えられるというところも、このレースの優勝が価値あるものと見做されている理由の一つである。 1987年の優勝者アイルトン・セナは、事前にチーム側から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいたレーニエ3世らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。 2009年の優勝者ジェンソン・バトンは手順を知らず(後にマーシャルの誘導ミスと判明)、ウィニングラップ後ピットに戻ってしまった。バトンは車両保管所でそのことを知らされ、ホームストレートを駆け足で表彰ステージに向かった。 ★は初優勝。☆はその年のドライバーズチャンピオン。■はポール・トゥ・ウィン 1935年から1937年はヨーロッパ・ドライバーズ選手権の一戦として、1952年はスポーツカーレースとして開催された。 (2勝以上) (2勝以上) (2勝以上)
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"コースデザインにはモナコ出身のドライバールイ・シロンが協力した。シロンはインディ500出場を優先したため第1回大会は不参加だったが、第3回大会で優勝している。また、引退後は競技委員長を務め、シグナル式スタートが採用されるまでスタート/チェッカーフラッグを振った。シロンの名もプールサイドベントの入口のコーナーに残されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "チェッカーフラッグに見られる現在の白黒市松模様は細かく指定されているが、1970年代以前のかつては今より荒い模様が使われていたことが過去のVTR映像で確認できる。シグナルも、現在はブラックアウト方式に改定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "通例では、各国のGP主催者はF1の商業管理団体であるフォーミュラワン・マネージメント (FOM) に莫大な開催権料を支払い、コースサイドの看板広告の収入もFOMに納めねばならない。モナコGPの主催者であるACMは、特例として開催権料を免除されている上に、看板広告収入も手にしている。モナコGPは2007年まで、ヨーロッパで唯一たばこ広告規制のないレースであった。", "title": "権威" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "高級リゾートという土地柄、富裕層の人々は高級ホテルや自宅アパートのバルコニーや、港に停泊する豪華なクルーザーの甲板、「Formula One Paddock Club」といった特等席からレースを観戦している。期間中、ホテルの宿泊料金は軒並み跳ね上がるが、予約の時点で満室になる上に、高級ホテルの多くは最低5日から7日以上の連続宿泊を条件とする。", "title": "権威" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一般観戦者は近隣のニースやイタリア方面の街に宿をとり、自家用車やフランス国鉄 (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。", "title": "権威" }, { 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"text": "1987年の優勝者アイルトン・セナは、事前にチーム側から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいたレーニエ3世らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。", "title": "権威" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2009年の優勝者ジェンソン・バトンは手順を知らず(後にマーシャルの誘導ミスと判明)、ウィニングラップ後ピットに戻ってしまった。バトンは車両保管所でそのことを知らされ、ホームストレートを駆け足で表彰ステージに向かった。", "title": "権威" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "★は初優勝。☆はその年のドライバーズチャンピオン。■はポール・トゥ・ウィン", "title": "過去の結果" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1935年から1937年はヨーロッパ・ドライバーズ選手権の一戦として、1952年はスポーツカーレースとして開催された。", "title": "過去の結果" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "(2勝以上)", "title": "過去の結果" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "(2勝以上)", "title": "過去の結果" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(2勝以上)", "title": "過去の結果" } ]
モナコグランプリは、モナコ公国のモンテカルロ市街地コースで行われるF1世界選手権レースの一戦である。 F1カレンダーのなかでも最も厳しいコースのひとつと言われており、インディ500、ル・マン24時間レースと並び「世界3大レース」の1つに数えられ、F1およびモナコの象徴ともいえる名物レースとなっている。
{{redirect4|モナコGP|[[セガ・インタラクティブ|セガ]]のレースゲーム|モナコGP (ゲーム)|スーパーモナコGP}} {{Infobox F1 race | Name = Monaco Grand Prix | Flag = Flag_of_Monaco.svg | Circuit = [[モンテカルロ市街地コース|シルキュイ・ド・モナコ]] | Circuit_image = Monte Carlo Formula 1 track map.svg | Laps = 78 | Circuit_length_km = 3.337 | Circuit_length_mi = 2.074 | Race_length_km = 260.286 | Race_length_mi = 161.734 | First_held = 1929 | Last_held = | Times_held = 80 | Most_wins_driver = {{flagicon|BRA}} [[アイルトン・セナ]] (6) | Most_wins_constructor = {{flagicon|GBR}} [[マクラーレン]] (15) | Current_year = 2023 | Pole_driver = {{flagicon|NED}} [[マックス・フェルスタッペン]] | Pole_team = [[レッドブル・レーシング|レッドブル]]-[[レッドブル・パワートレインズ|ホンダ・RBPT]] | Pole_time = 1:11.365 | Winner = {{flagicon|NED}} [[マックス・フェルスタッペン]] | Winning_team = [[レッドブル・レーシング|レッドブル]]-[[レッドブル・パワートレインズ|ホンダ・RBPT]] | Winning_time = 1:48:51.980 | Second = {{flagicon|ESP}} [[フェルナンド・アロンソ]] | Second_team = [[アストンマーティンF1|アストンマーティン・アラムコ]]-[[メルセデスAMG F1|メルセデス]] | Second_time = +27.921s | Third = {{flagicon|FRA}} [[エステバン・オコン]] | Third_team = [[アルピーヌF1|アルピーヌ]]-[[ルノーF1|ルノー]] | Third_time = +1.491s | Fastest_lap_driver = {{flagicon|GBR}} [[ルイス・ハミルトン]] | Fastest_lap_team = [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] | Fastest_lap = 1:15.650 }} [[Image:Grand_Prix_Monaco96_131954710.jpg|thumb|280px|right|モナコグランプリ]] '''モナコグランプリ'''('''モナコGP'''、{{lang-en-short|''Monaco Grand Prix'' }}, {{lang-fr-short|''Grand Prix de Monaco'' }})は、[[モナコ|モナコ公国]]の[[モンテカルロ市街地コース]]で行われる[[フォーミュラ1|F1]]世界選手権レースの一戦である。 F1カレンダーのなかでも最も厳しいコースのひとつと言われており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/f1/702978?all|title=モナコの不運がボッタスのF1キャリアを左右か。メルセデス後には魅力的な選択肢なし|publisher=autosport web|date=2021-06-01|accessdate=2021-06-01}}</ref>、[[インディアナポリス500|インディ500]]、[[ル・マン24時間レース]]と並び「[[世界三大レース|世界3大レース]]」の1つに数えられ、F1およびモナコの象徴ともいえる名物レースとなっている。 == 概要 == [[1929年]]に第1回大会を開催し、[[第二次世界大戦]]前後の中断([[1938年]] - [[1947年]]、[[1949年]])、1950年代前半{{refnest|group="注"|1951・1953・1954年は開催せず。1952年はF1ではなくスポーツカーレースとして開催。}}、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行]]に見舞われた{{F1|2020}}を除き毎年開催されている。1950年のF1世界選手権発足時より[[英国グランプリ|英国GP]]、[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]、[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]と並んで同シリーズに組み込まれている。この内、同じコースで開催され続けているのはモナコGPのみである。 グランプリ期間中、普段は人口3万人の小国に、およそ20万人の観客が訪れる<ref name="ESPN100514">{{Cite news|author=Christian Sylt and Caroline Reid / Me |url=http://ja.espnf1.com/monaco/motorsport/story/17138.html |title=モナコ、そのたぐいまれな引力 |publisher=ESPN F1 |date=2010-05-14 |accessdate=2012-01-13 }}</ref>。モナコ王室を始めとして、政財界の協力によって行われる国家的な観光イベントでもある。多くの観客を招き入れるため、[[キリストの昇天|キリスト昇天祭]]の祝日となる5月の2週目か3週目の[[木曜日]]に日程を合わせるのが慣わしである<ref>尾張正博 "[http://number.bunshun.jp/articles/-/458246 F1ピットストップ「メルセデスのテストは違反行為か!?魔の金曜日にF1界騒然の事件発覚。」]". Number Web.(2013年5月31日)2013年6月29日閲覧。</ref>。近年はF1カレンダーの過密化により、[[キリスト教]]の[[復活祭]]と一致しないこともあるが、木曜日からスケジュールが始まるという伝統は2021年まで続き、他のグランプリでは初日となる[[金曜日]]が、モナコGPでは休息日となっていた。しかし2022年からは他のグランプリ同様のスケジュールとなる。 レースの舞台となるのは、モナコの[[モンテカルロ|モンテカルロ区]]とラ・コンダミーヌ区の公道を閉鎖して造られた1周3,340{{nbsp}}mの[[モンテカルロ市街地コース]]である。現在のF1レースでは「305{{nbsp}}kmを超える最低の周回数」がレースの規定周回数・総走行距離として定められているが、このコースでは例外として、総走行距離が[[1968年]]から約260{{nbsp}}km(約78周。それまでは約318{{nbsp}}km〔約100周〕)に減らされている。この約260{{nbsp}}kmという距離は、このコースをF1マシンで走行し続けるとこれぐらいの距離で2時間以内に収まるから、という理由で決められている{{refnest|group="注"|現在の競技規則では規定周回数に達するか、2時間を超えた最初の周でレースが成立する。}}。コースの設営準備には6週間、レース後の撤去作業には2週間を要する<ref name="ESPN100514"/>。 === レースの特徴 === {{CSS image crop |Image = Senna monaco91.jpg |bSize = 264 |cWidth = 220 |cHeight = 147 |oTop = 60 |oLeft = 0 |Location = left |Description = モナコGP個人最多勝記録者の[[アイルトン・セナ]](画像は1991年大会) }} コース幅が非常に狭いためレース中の追い抜きは困難であり、他のコースに増して予選結果が重要視される。レース中はペースの遅いマシンの後方に数台が数珠繋ぎとなり、無理な追い抜きで接触する場面がよく見られる。[[ポールポジション]]を獲得したドライバーがそのまま優勝することが多く、2023年現在で30回[[ポールトゥーウィン|ポール・トゥ・ウィン]]が達成されている。本グランプリ開始数年後の1933年に[[グリッド (モータースポーツ)|グリッド]]の決め方がくじ引きから現在の方式である予選タイムの早い順に変更されているが、これもこのコースが追い抜き困難で不公平であるからという理由による。 伝統と華やかさに加え、高い技量と集中力を要する難コースであることから、「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある<ref>{{Cite news|author=辻野ヒロシ |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/192498/3/ |title=セナの名前がF1に帰ってくる!? |publisher=All About |date=2008-11-18 |accessdate=2012-01-13 }}</ref>」といわれる。ここで際立って強いドライバーは「[[モナコ・マイスター]]」と賞賛されることがあり、[[スターリング・モス]](3勝)、[[グラハム・ヒル]](5勝)、[[ジャッキー・スチュワート]](3勝)、[[アラン・プロスト]](4勝)、[[アイルトン・セナ]](6勝)、[[ミハエル・シューマッハ]](5勝)、[[ニコ・ロズベルグ]](3勝)といった名手が挙げられる(後述の[[#優勝回数(ドライバー)]]も参照)。 [[ファン・マヌエル・ファンジオ]]は出走4戦中2勝をあげ、4戦全てで[[ポールポジション]]と[[ファステストラップ]]を記録している。一方、[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]は出走6戦中4回ポールポジションを獲得しながら、4位が最高で1勝もできなかった。 事故の起きやすい環境や、マシンにも過酷で機械の故障が発生しやすいことから、優勝候補がリタイアするなど波乱の展開が繰り広げられることもあり、意外なチームやドライバーが優勝することもある。過去9名のドライバーがこのコースでF1初優勝を遂げており、初優勝が出やすいコースでもある。 === 起源 === [[ファイル:Louis Chiron at the 1931 Monaco Grand Prix (2).jpg|thumb|right|240px|1931年のモナコGPで優勝した[[ルイ・シロン]]]] モナコGPの主催者であるモナコ自動車クラブ (Automobile Club de Monaco, '''ACM''') は、[[1890年]]にモナコ自転車クラブとして発足した。1925年に自動車クラブに改名し、[[国際自動車連盟]] (FIA) の前身である国際自動車公認クラブ協会 (AIACR) に登録申請を行った。[[1911年]]より[[ラリー・モンテカルロ]]を開催していたため、問題なく加盟できると考えていたが、ラリーで使用しているコースのほとんどは隣国のフランス国内で行われており、レース開催経験の無さを理由に申請を却下された。 ACM会長アレクサンドル・ノゲの息子[[アントニー・ノゲ]]は、モナコの街路を使用してレースを開催する計画を立てた。当時の公道レースはもっぱら郊外の田舎道で行われており、市街地でのレース運営は無謀に思われた。しかし、[[モナコ統治者の一覧|モナコ大公]][[ルイ2世 (モナコ公)|ルイ2世]]や、高級[[ホテル]]・[[カジノ]]を経営する{{仮リンク|ソシエテ・デ・バン・ド・メール・ド・モナコ|en|Société des bains de mer de Monaco|label=ソシエテ・デ・バン・ド・メール社}}(SBM)の理解を得て[[1929年]]の第1回開催にこぎつけ、モナコ自動車クラブはAIACRに加盟を認められた。功労者であるノゲの名は、英語読みの「アントニー・ノウズ」として最終コーナーの名称に残されている。 コースデザインにはモナコ出身のドライバー[[ルイ・シロン]]が協力した。シロンは[[インディアナポリス500|インディ500]]出場を優先したため第1回大会は不参加だったが、第3回大会で優勝している。また、引退後は競技委員長を務め、シグナル式スタートが採用されるまでスタート/チェッカーフラッグを振った。シロンの名もプールサイドベントの入口のコーナーに残されている。 チェッカーフラッグ<ref>{{Cite web |url = https://archive.md/bQO80|title = チェッカーフラッグを振るセリーナ・ウィリアムズ|website = pbs.twimg.com|publisher = ESPN Vivo|date = |accessdate = 2021-12-17}}</ref>に見られる現在の白黒市松模様は細かく指定されているが、1970年代以前のかつては今より荒い模様が使われていたことが過去のVTR映像で確認できる。シグナルも、現在はブラックアウト方式に改定された。 == 権威 == === 上流階級の世界 === 通例では、各国のGP主催者はF1の商業管理団体である[[フォーミュラワン・グループ|フォーミュラワン・マネージメント]] (FOM) に莫大な開催権料を支払い、コースサイドの看板広告の収入もFOMに納めねばならない。モナコGPの主催者であるACMは、特例として開催権料を免除されている上に、看板広告収入も手にしている<ref name="ESPN100514"/>。モナコGPは[[2007年]]まで、[[ヨーロッパ]]で唯一[[たばこ広告]]規制のないレースであった。 高級[[リゾート]]という土地柄、富裕層の人々は高級ホテルや自宅アパートのバルコニーや、港に停泊する豪華な[[クルーザー]]の甲板、「[[Formula One Paddock Club]]」といった特等席からレースを観戦している。期間中、ホテルの宿泊料金は軒並み跳ね上がるが、予約の時点で満室になる上に、高級ホテルの多くは最低5日から7日以上の連続宿泊を条件とする。 一般観戦者は近隣の[[ニース]]やイタリア方面の街に宿をとり、自家用車や[[フランス国鉄]] (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。 モナコ公国は[[所得税]]非課税の[[タックス・ヘイヴン]]として知られる。外国人が居住するためには審査が必要となるが、F1ドライバーは名士として優遇されている。税金対策の他、治安が良い、プライバシーが守られる(有名人でも特別視されない)などの理由から、[[スイス]]と並んで居住地として人気があり、モナコGP期間中はドライバー達がマンションから「自宅通勤」する光景が見られる。[[2000年モナコグランプリ|2000年]]と[[2002年モナコグランプリ|2002年]]のウィナーである[[デビッド・クルサード]]は、最高級ホテル「コロンバス・モンテカルロ」の共同経営者という副業を持っていた。 レースウィークの休息日となる金曜日には[[モナコ統治者の一覧|モナコ大公]]主催のパーティが開かれ、ドライバーやチーム関係者をはじめ、世界中の[[セレブリティ]]が参加する。また、[[モータースポーツ]]シーズンの終了後には、FIA傘下の各カテゴリのチャンピオンを集めての表彰式がモナコで行われる(2011年はインドで開催)。 === 表彰式 === モナコGPはモナコ王室が観覧する御前レースであり、かつては大公[[レーニエ3世]]と大公妃[[グレース・ケリー]]が[[オープンカー]]でパレード走行を行っていた。レース後の表彰式もロイヤルファミリーが出席するため、他のグランプリとは手順が大きく異なる。 * ホームストレートのスタート地点付近に2階建てのロイヤルボックスがあり、階下に表彰ステージが設けられている。 * レース終了後、4位以下はピットの車両保管所にマシンを止めるが、1~3位の3台はロイヤルボックスの前にマシンを停める。ドライバー3名はコースから階段を上って表彰ステージに立つ。 * ロイヤルファミリーの前に3名が並び、プレゼンターである大公(現在は[[アルベール2世 (モナコ公)|アルベール2世]])からトロフィーを受け取る。 * [[シャンパン]]は表彰ステージ上で開封してはいけない。[[シャンパンファイト]]はステージからコースに下りてから行い、ステージ方向へシャンパンを向けることは厳禁。 表彰台に関しては、大公よりも高い位置にドライバーが立つことが失礼であるとして、特別な台は設けず表彰ステージの最前列に、通常の表彰台と同じ配置でドライバーと優勝コンストラクター代表者が整列する。シャンパンに関しては、大公夫妻にシャンパンがかからないようにするため、大公の目の前での乱痴気騒ぎは失礼にあたるため、である。一国の元首から栄誉を称えられるというところも、このレースの優勝が価値あるものと見做されている理由の一つである。 [[1987年モナコグランプリ|1987年]]の優勝者[[アイルトン・セナ]]は、事前に[[チーム・ロータス|チーム側]]から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいた[[レーニエ3世]]らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。 [[2009年モナコグランプリ|2009年]]の優勝者[[ジェンソン・バトン]]は手順を知らず(後にマーシャルの誘導ミスと判明)、ウィニングラップ後ピットに戻ってしまった。バトンは車両保管所でそのことを知らされ、ホームストレートを駆け足で表彰ステージに向かった。 == 過去のおもな出来事 == * [[1929年モナコグランプリ|1929年]] - 初開催。[[ブガッティ]]に乗る[[ウィリアム・グローバー=ウィリアムズ]]が優勝した。初優勝者を記念して、1991年にサン・デボーテ(第1コーナー)に彼の銅像が立てられた。 * {{仮リンク|1931年モナコグランプリ|label=1931年|en|1931 Monaco Grand Prix}} - モナコ出身の[[ルイ・シロン]]が地元優勝を果たした。 * {{仮リンク|1932年モナコグランプリ|label=1932年|en|1932 Monaco Grand Prix}} - 4回目の開催で初めてブガッティ以外の車両が勝利。[[アルファロメオ]]の[[タツィオ・ヌヴォラーリ]]が優勝したものの、直後を同じアルファロメオで走っていた[[ルドルフ・カラツィオラ]]は車両にトラブルが出ていたヌヴォラーリを故意に抜かずに2番手をキープしたままゴールし、八百長ではないかということでレース後に物議をかもした。 * {{仮リンク|1933年モナコグランプリ|label=1933年|en|1933 Monaco Grand Prix}} - この年から決勝レースのグリッドポジションをくじ引きではなく練習走行のタイムを基準に決める方式に変更。その練習走行のタイムアタックでトップを争っていたルドルフ・カラツィオラがタバココーナーの壁でクラッシュし、右足に深刻な重傷を負う事故が発生。 * {{仮リンク|1936年モナコグランプリ|label=1936年|en|1936 Monaco Grand Prix}} - 豪雨の中の開催となる。ルドルフ・カラツィオラが2位に2分近いタイム差をつけ、3位以下を周回遅れにする圧勝。 * [[1950年モナコグランプリ|1950年]] - F1世界選手権開幕2戦目として開催。1周目にブラインドコーナーで多重事故が発生したが、優勝した[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]はコースサイドの群集の動きから危険を察知し、接触を回避した。 * {{仮リンク|1952年モナコグランプリ|label=1952年|en|1952 Monaco Grand Prix}} - スポーツカーレースとして開催。トンネルでの事故で負傷した[[ルイジ・ファジオーリ]]が入院中に死亡。 * [[1955年モナコグランプリ|1955年]] - この年以降はF1の選手権として開催される。[[アルベルト・アスカリ]]のマシンがシケイン付近で海中に転落したが、無事救助される{{refnest|group="注"|しかし、この4日後に[[モンツァ・サーキット|モンツァ]]でスポーツカーのテスト走行中に事故死。}} * [[1961年モナコグランプリ|1961年]] - [[スターリング・モス]]が[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]の2台を振り切り、モナコ通算3勝目を達成。モスのレースキャリアにおいてベストレースのひとつにあげられる。 * [[1963年モナコグランプリ|1963年]] - [[グラハム・ヒル]]がモナコ初優勝。以後1964年、1965年、1968年、1969年と5勝を獲得し、「ミスターモナコ」と呼ばれる。 * [[1965年モナコグランプリ|1965年]] - {{仮リンク|ポール・ホーキンス|en|Paul Hawkins (racing driver)}}のマシンがアスカリと同様にシケインから海に転落、その後無事救助された。 * [[1966年モナコグランプリ|1966年]] - エンジンの最大排気量が3リッターに変更された最初のレースとして開催。完走と認められたのは僅か4台で、{{F1|2019}}現在でもF1最少完走台数の記録を保持している。 * [[1967年モナコグランプリ|1967年]] - [[ロレンツォ・バンディーニ]]のマシンがシケインで炎上。バンディーニは火傷により3日後に死亡。 * [[1970年モナコグランプリ|1970年]] - 最終ラップの最終コーナーで[[ジャック・ブラバム]]が痛恨のスピンを喫し、[[ヨッヘン・リント]]が大逆転優勝。 * [[1982年モナコグランプリ|1982年]] - 終盤に上位が次々脱落し、[[リカルド・パトレーゼ]]がF1初優勝。 * [[1984年モナコグランプリ|1984年]] - 大雨により赤旗終了。ルーキー[[アイルトン・セナ]]と[[ステファン・ベロフ]]の追走が注目される。またこのレースでセナは初のファステストラップを記録している。 * [[1988年モナコグランプリ|1988年]] - トップ独走中のセナがポルティエ(第8コーナー)で単独クラッシュ。 * [[1992年モナコグランプリ|1992年]] - [[ナイジェル・マンセル]]が1位、セナが2位を走行していたが、レース終盤にマンセルがタイヤ交換で2位に後退してセナが1位に。ピットアウトしたマンセルがセナを猛追するモナコGP史に残るデッドヒートを展開したが、セナが抑え切って4連覇、5回目の優勝を達成。アクティブサスペンションによる圧倒的な競争力を誇ったウィリアムズのマシンを制した大金星。 * [[1993年モナコグランプリ|1993年]] - セナがモナコGP5連覇、並びにヒルの記録を塗り替えるモナコ通算6回目の優勝を達成。 * [[1994年モナコグランプリ|1994年]] - 前戦[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]で事故死したセナと[[ローランド・ラッツェンバーガー]]への哀悼の意を表して1・2番グリッドを空席とし、路面に両ドライバーの母国の国旗をペイントした。<br />予選中、[[カール・ヴェンドリンガー]]がシケインのバリアに激突。一時意識不明となる。[[ミハエル・シューマッハ]]が自身初の[[ポールポジション]]からモナコGP初制覇。 * [[1995年モナコグランプリ|1995年]] フリー走行でマシンがストップしたために、[[井上隆智穂]]が乗車しながらロープで牽引されている最中、突然飛び出してきたオフィシャルカー([[ジャン・ラニョッティ]]が運転していた)に衝突されマシンが横転した。その様子をモニターで見ていたシューマッハは大笑いした。また、そのシューマッハのドライブにより[[ルノーF1|ルノー]]エンジンが念願のモナコGP初制覇を達成。 * [[1996年モナコグランプリ|1996年]] - 雨中の乱戦で[[オリビエ・パニス]]がF1初優勝。[[リジェ]]に搭載された[[M-TEC|無限]]エンジンにとってもF1初優勝。チェッカーを受けたのは僅か3台で、完走扱いを含めても7台のサバイバルレースとなった。 * [[2004年モナコグランプリ|2004年]] - ルノーの[[ヤルノ・トゥルーリ]]が自身初のポール・トゥ・ウィンでF1初優勝。ルノーエンジン9年ぶりのモナコ制覇(ルノーワークスとしては初)。またこのトゥルーリ以降モナコGPで初優勝を達成したドライバーは2019年モナコGP終了時点では出ていない。 * [[2006年モナコグランプリ|2006年]] - 予選中、シューマッハがラスカス(第17コーナー)に故意にマシンを停め、後続のフェルナンド・アロンソやマーク・ウェバーらのアタックを妨害したとして予選記録を無効抹消とされ、最後尾ピットからのスタートとなった(俗に言う「ラスカス・ゲート<ref name="F1DataRascasse">{{Cite web|和書|url = https://formula1-data.com/glossary/circuit/corner/la-rascasse|title = 用語集>ラスカス|website = Formula1-data|accessdate = 2023-03-28}}</ref>」ないしは「ラスカス事件<ref name="TOP01">[http://2010.f1.topnews.jp/2010/05/13/news/f1/teams/ferrari/15188.html] TOPNEWS 2010年5月13日</ref>」)。 * [[2007年モナコグランプリ|2007年]] - ワン・ツー・フィニッシュした[[マクラーレン]]に[[チームオーダー]]疑惑発生(チームオーダーは{{F1|2010}}まで禁止だった)。 * [[2008年モナコグランプリ|2008年]] - 雨の決勝レース、フロントロウを独占したフェラーリの2台は奮わず、3番手スタートの[[ルイス・ハミルトン]]が序盤のタイヤをパンクさせるミスを挽回しモナコGP初制覇。一時、非力な[[フォース・インディア]]で表彰台目前の4位まで浮上する活躍を見せた[[エイドリアン・スーティル]]だったが、[[キミ・ライコネン]]に追突されてリタイヤし男泣き。 * [[2009年モナコグランプリ|2009年]] - この年台風の目となった[[ブラウンGP]]がこのGPでも危なげなくワン・ツー・フィニッシュを決めるが、優勝したバトンはモナコのしきたりを知らず前述の珍事を起こす。 * [[2010年モナコグランプリ|2010年]] - レース終了直前に2台のマシンの衝突によりセーフティカーが入り、セーフティカー先導でレースが終了することに。しかしこの年セーフティカー退出時のルールが変更され、セーフティカーがピット入口のラインを越えた時点から追い抜きが可能となっていた。この年[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]から復帰したシューマッハはこれを利用し、最終ラップでセーフティカーが退出するや否やコントロールラインまでのわずかな間に前の[[フェルナンド・アロンソ]]をオーバーテイク。しかしこれは明らかなルール違反で20秒加算のペナルティを受けた。この一件がセーフティカー退出時のルールが再考されるきっかけとなった。<ref>{{Cite web|和書|url=http://ja.espnf1.com/monaco/motorsport/story/17494.html/ |title=モナコGP シューマッハに20秒加算ペナルティ! |publisher=ESPN F1 |date=2010-05-17 |accessdate=2016-08-28}}</ref><br />また、決勝レースで単独クラッシュした[[ルーベンス・バリチェロ]]が苛立ちのあまり、マシンから出る際にステアリングホイールをコース上に投げ捨て、危険行為と高価な代物を粗末に扱ったことで非難された。 * [[2011年モナコグランプリ|2011年]] - 予選Q3で[[ザウバー]]の[[セルジオ・ペレス]]がトンネル出口でバランスを失いヌーベルシケイン入口のバリアに高速で衝突。マシンは大破、ペレスは脳震盪を起こして決勝レースと次戦[[2011年カナダグランプリ|カナダGP]]を欠場し、カナダGPでは[[ペドロ・デ・ラ・ロサ]]が代役を務めた。[[セバスチャン・ベッテル]]がモナコGP初制覇。 * [[2013年モナコグランプリ|2013年]] - メルセデスの[[ニコ・ロズベルグ]]が優勝し、父[[ケケ・ロズベルグ]]が1983年に優勝してから30年越しで親子2代でのモナコGP優勝を達成。 * [[2014年モナコグランプリ|2014年]] - 予選Q3の終盤にロズベルグがミラボー(第5コーナー)でオーバーランしてエスケープロードにマシンを止め、イエローフラッグが振られる。これによりアタック中だったハミルトンはアタックを断念、ロズベルグがポールポジションを獲得し、決勝でロズベルグがポール・トゥ・ウィンを飾り2連覇するも物議を醸す。 * [[2015年モナコグランプリ|2015年]] - レース終盤に2台のマシンの衝突によりセーフティカーが入る。ポール・トゥ・ウィンを目指していたハミルトンは、後続のロズベルグやベッテルもこのタイミングでピットに入ると考えタイヤ交換のためピットインしたが2台はステイアウト。なんと戻った場所は彼らに続く3番手の位置だった<ref>{{Cite web |url=http://www.f1fanatic.co.uk/2015/05/25/how-tyre-confusion-influenced-hamiltons-pit-call/ |title= How tyre confusion influenced Hamilton’s pit call |publisher=F1 Fanatic |date=2015-05-25 |accessdate=2015-05-28}}</ref>。ハミルトンはこの自滅によって3位でレースを終え、ロズベルグは図らずもF1史上4人目のモナコGP3連覇を達成した。 * [[2016年モナコグランプリ|2016年]] - このGPで改良型のルノー[[運動エネルギー回生システム|パワーユニット]]を積んだ[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]の[[ダニエル・リカルド]]がチーム久々かつ自身初のポールポジションを獲得、雨の中スタートした決勝もこのまま優勝かと思われた。しかし雨が上がってきた終盤、2位のハミルトンのタイヤ交換(ウェットからウルトラソフト)を見たレッドブル陣営はリカルドの交換タイヤを直前で「ソフト」から「スーパーソフト」に変更。しかしモナコ特有のピットの構造もあってガレージに適切に情報伝達されず、リカルドがピットインした時にタイヤが用意されていなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/f1/20039 |title=レッドブル、ピットストップでのミスを防ぐための予防策を約束 |publisher=オートスポーツweb |date=2016-06-02 |accessdate=2016-06-08}}</ref>。このピットでのタイムロスによりリカルドはハミルトンに順位を明け渡す形となって2位でレースを終え、怒りと失意を口にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.topnews.jp/2016/05/30/news/f1/140494.html |title=モナコGP優勝を逃し、怒りのリカルド「2レース連続で失敗された」 ミスはなぜ起きたのか |publisher=オートスポーツweb |date=2016-05-30 |accessdate=2016-06-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160617173406/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160530-00000015-fliv-moto |archivedate=2016年6月17日 }}</ref>。 * [[2017年モナコグランプリ|2017年]] - 予選でライコネンが自身[[2008年フランスグランプリ|2008年フランスGP]]以来のポールポジションを獲得し、フェラーリがフロントロウを独占。決勝ではベッテルがライコネンを逆転して優勝。これは自身にとって6年ぶりのモナコGP優勝、チームとしては2001年以来16年ぶりのモナコGP優勝、及び[[2010年ドイツグランプリ|2010年ドイツGP]]以来のワン・ツー・フィニッシュとなった。 * [[2018年モナコグランプリ|2018年]] - コースレコードを塗り替える走りで自身2度目のポールポジションを獲得したリカルドだったが、決勝では19周目で[[運動エネルギー回生システム#ERS|MGU-K]]の故障により180馬力を失い、回生ブレーキが効かなくなったことに伴うリアブレーキの加熱、その上柔らかいウルトラソフトタイヤでロングランを強いられるという苦境に立たされた。しかし手負いのマシンで逃げ切って優勝し2016年の雪辱を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.as-web.jp/f1/374346|title=三重苦となったマシンを生還させたリカルドの力走【今宮純のF1モナコGP決勝分析】 |publisher=オートスポーツweb |date=2018-5-29 |accessdate=2019-5-28}}</ref>。 * [[2019年モナコグランプリ|2019年]] - メルセデスの重役を務めていた元F1世界王者で5月20日に亡くなった[[ニキ・ラウダ]]をF1全体で追悼。決勝スタート前にドライバー達は彼のトレードマークだった赤いキャップを着けて黙祷し、メルセデスは特別に1戦限りの赤い[[Halo (フォーミュラカー)|ハロ]]を2台のマシンに着けて臨んだ。<br />決勝はポールからスタートしたハミルトンがチームの選択ミスにより終盤タイヤを使い果たしていたが、[[マックス・フェルスタッペン]]のテール・トゥ・ノーズの猛追を辛くも抑え切り優勝(フェルスタッペンは5秒加算ペナルティで4位に降格)。自身をメルセデスに引き入れてくれたラウダの死去に人一倍ショックを受けたハミルトンにとっては、ラウダに捧げる特別な勝利となった。 *2020年 - 1月下旬より[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]の感染が世界に拡大し、各国で多くのスポーツ大会が中止する決断が行われた。F1も例外でなく、当初は計画上の第4戦に開催予定であった中国GPの開催延期のみにとどまっていたが、開幕戦オーストラリアGPの中止をきっかけに5月までに開催されるレースはすべて延期が決定した。そして3月19日(UTC)、当初は延期にとどまっていたモナコGPだったが、主催者は今年のレースを中止にすると発表。そのため、1955年にF1レースとして始まって以来66年ぶりの開催中止となった。 * [[2021年モナコグランプリ|2021年]] - フェラーリの[[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]]が母国レースで自身初、チームとしても久々のポールポジションを獲得したが予選最終アタックでクラッシュ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/f1/700792?all|title=ルクレールが母国でポールポジション獲得も、最終盤にクラッシュ。フェルスタッペンが2番手【予選レポート/F1第5戦】 |publisher=autosport web |date=2021-05-23 |accessdate=2021-05-24}}</ref>。ギアボックスには損傷はなかったが、ドライブシャフトにトラブルが出て決勝レースをスタートできなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/leclerc-fails-to-start-monaco-gp-with-gearbox-issue/6514174/|title=モナコGPポールポジションのルクレールに悲劇……ドライブシャフトにトラブル発生で決勝出走できず |publisher=motorsport.com |date=2021-05-23 |accessdate=2021-05-24}}</ref>。ポールシッターが不在となったレースはフェルスタッペンが支配し、ホンダに1992年以来29年ぶりのモナコGP優勝をもたらした。メルセデスのハミルトンが奮わずボッタスがリタイアしたことで、自身及びレッドブル・ホンダ体制になってから初のドライバーズ・コンストラクターズの両方でポイントリーダーとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-2021-monaco-race-report/6514208/|title=F1モナコGP決勝:フェルスタッペン完勝で選手権首位に。PPルクレールに悲劇、角田は16位 |publisher=motorsport.com |date=2021-05-24 |accessdate=2021-05-24}}</ref>。<br />リタイアしたボッタスだが、ピットでのタイヤ交換の際にホイールナットの角をホイールガンで削ってしまい(俗に言う「なめる」)、ホイールを外せなくなるという前例の無いトラブルに見舞われた。そのためマシンは一度英国に送り返され、ファクトリーでホイールを外す作業が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/how-bottas-pitstop-ended-up-being-43-hours-long/6516896/ |title=悪夢……なぜボッタスのピットストップは、”43時間”もかかったのか? |publisher=motorsport.com |date=2021-05-30 |accessdate=2022-06-01}}</ref>。 * [[2022年モナコグランプリ|2022年]] - 雨の中スタートした決勝レース26周目に[[ハースF1チーム|ハース]]の[[ミック・シューマッハ]]がプールサイドシケインで単独クラッシュ。マシンは大破しリヤセクションが離断した。低速コースとしては異例の大きな壊れ方であったため他のドライバー達はこれを深刻視し、検証と対策を求める声を上げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/shocking-to-see-schumachers-car-split-apart-say-f1-drivers/10314141/ |title=モナコGPの大クラッシュにドライバー達ショック。まさかのマシン“真っ二つ”に検証の必要性訴える |publisher=motorsport.com |date=2022-05-31 |accessdate=2021-05-31}}</ref>。<br />決勝レースは予選でフロントロウを独占したフェラーリがピット戦略の度重なる混乱によりレッドブルの先行を許し、前年に移籍したペレスがモナコGP初勝利<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-2022-rd7-Monaco-GP-Race-Report/10313387/ |title=レッドブルのペレス、感涙のモナコ初優勝。サインツJr.との激闘を制す|F1モナコGP決勝 |publisher=motorsport.com |date=2022-05-30 |accessdate=2022-06-01}}</ref>。しかし、予選Q3でペレスがクラッシュしフェルスタッペンのアタックを妨害する形になった件は、シーズン終盤にルクレールとドライバーズランク2位を争っていたペレスを優位にするために[[2022年サンパウログランプリ|サンパウロGP]]において出されたチームオーダーをフェルスタッペンが頑なに拒絶することにつながり、2人の間に亀裂を生むきっかけとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/perez-fumes-as-verstappen-defies-red-bull-team-orders-it-shows-who-he-really-is/10399605/ |title=ペレス、フェルスタッペンのチームオーダー無視に不満たっぷり「アレが”本当のアイツ”だ……」 |publisher=motorsport.com |date=2022-11-14 |accessdate=2023-05-29}}</ref>。 * [[2023年モナコグランプリ|2023年]] - 車体規則が変更された前年、メルセデスは極端に小さなサイドポッド「ゼロポッド」を編み出したが、ここに至るまで戦闘力と挙動安定性を著しく欠き、ついにこのGPから他チームと同様のサイズのサイドポッドを導入した。このマシンはハミルトンがフリー走行でクラッシュしたことで回収の際にクレーンで空高く持ち上げられ、グラウンドエフェクトカーの肝であるアンダーフロアが早速「公開」された。メルセデス代表の[[トト・ヴォルフ]]は「クレーン操縦者は[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]出身だったのだろう」と揶揄した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/wolff-jokes-monaco-crane-operator-from-cirque-du-soleil-after-f1-floor-reveal/10474555/ |title=新フロア大公開!メルセデス代表、宙吊りになったマシンに苦笑い「サーカスみたいだ」 |publisher=motorsport.com |date=2022-05-28 |accessdate=2023-05-29}}</ref>。また、予選Q1でクラッシュしたペレスのマシンも同様に高々と持ち上げられ、最速マシン『[[レッドブル・RB19]]』の戦闘力の秘訣の一端が露わになることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-teams-will-be-all-over-red-bull-floor-photographs-mercedes/10474708/ |title=フロア写真は空力エンジニアの”大好物”!モナコGPで宙吊りにされたレッドブルRB19を「舐め回す」とメルセデス |publisher=motorsport.com |date=2022-05-29 |accessdate=2023-05-29}}</ref>。 == 過去の結果 == === F1世界選手権 === ★は初優勝。☆はその年のドライバーズチャンピオン。■は[[ポールトゥーウィン|ポール・トゥ・ウィン]] {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: 90%;" |- !年!!決勝日!!ラウンド!!サーキット!!勝者!!コンストラクター!! |- ! [[1950年のF1世界選手権|1950]] | 5月21日 || 2 || align="left"|[[モンテカルロ市街地コース|モンテカルロ]] || align="left"|{{flagicon|ARG}} [[ファン・マヌエル・ファンジオ]]★■ || align="left"|[[アルファロメオ]] || [[1950年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1955年のF1世界選手権|1955]] | 5月22日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} [[モーリス・トランティニアン]]★ || align="left"|[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] || [[1955年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1956年のF1世界選手権|1956]] | 5月13日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[スターリング・モス]] || align="left"|[[マセラティ]] || [[1956年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1957年のF1世界選手権|1957]] | 5月19日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|ARG}} ファン・マヌエル・ファンジオ☆■ || align="left"|マセラティ || [[1957年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1958年のF1世界選手権|1958]] | 5月18日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} モーリス・トランティニアン || align="left"|[[クーパー・カー・カンパニー|クーパー]]-[[コヴェントリー・クライマックス|クライマックス]]<br />([[ロブ・ウォーカー・レーシングチーム|ロブ・ウォーカー]]) || [[1958年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1959年のF1世界選手権|1959]] | 5月10日 || 1 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUS}} [[ジャック・ブラバム]]★☆ || align="left"|クーパー-クライマックス || |[[1959年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1960年のF1世界選手権|1960]] | 5月29日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} スターリング・モス■ || align="left"|[[チーム・ロータス|ロータス]]-クライマックス<br />(ロブ・ウォーカー) || [[1960年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1961年のF1世界選手権|1961]] | 5月14日 || 1 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} スターリング・モス■ || align="left"|[[チーム・ロータス|ロータス]]-クライマックス<br />(ロブ・ウォーカー) || [[1961年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1962年のF1世界選手権|1962]] | 6月{{0}}3日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|NZL}} [[ブルース・マクラーレン]] || align="left"|クーパー-クライマックス || [[1962年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1963年のF1世界選手権|1963]] | 5月26日 || 1 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[グラハム・ヒル]] || align="left"|[[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]] || [[1963年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1964年のF1世界選手権|1964]] | 5月10日 || 1 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} グラハム・ヒル || align="left"|BRM || [[1964年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1965年のF1世界選手権|1965]] | 5月30日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} グラハム・ヒル■ || align="left"|BRM || [[1965年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1966年のF1世界選手権|1966]] | 5月22日 || 1 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[ジャッキー・スチュワート]] || align="left"|BRM || [[1966年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1967年のF1世界選手権|1967]] | 5月{{0}}7日 || 2 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|NZL}} [[デニス・ハルム]]★☆ || align="left"|[[ブラバム]]-[[レプコ]] || [[1967年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1968年のF1世界選手権|1968]] | 5月26日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} グラハム・ヒル☆■ || align="left"|ロータス-[[フォード・モーター|フォード]] || [[1968年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1969年のF1世界選手権|1969]] | 5月18日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} グラハム・ヒル || align="left"|ロータス-フォード || [[1969年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1970年のF1世界選手権|1970]] | 5月10日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUT}} [[ヨッヘン・リント]]☆ || align="left"|ロータス-フォード || [[1970年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1971年のF1世界選手権|1971]] | 5月23日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} ジャッキー・スチュワート☆■ || align="left"|[[ティレル]]-フォード || [[1971年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1972年のF1世界選手権|1972]] | 5月14日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} [[ジャン=ピエール・ベルトワーズ]]★ || align="left"|BRM || [[1972年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1973年のF1世界選手権|1973]] | 6月{{0}}3日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} ジャッキー・スチュワート☆■ || align="left"|ティレル-フォード || [[1973年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1974年のF1世界選手権|1974]] | 5月26日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|SWE}} [[ロニー・ピーターソン]] || align="left"|ロータス-フォード || [[1974年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1975年のF1世界選手権|1975]] | 5月11日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUT}} [[ニキ・ラウダ]]☆■ || align="left"|フェラーリ || [[1975年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1976年のF1世界選手権|1976]] | 5月30日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUT}} ニキ・ラウダ■ || align="left"|フェラーリ || [[1976年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1977年のF1世界選手権|1977]] | 5月22日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ZAF1928}} [[ジョディー・シェクター]] || align="left"|[[ウォルター・ウルフ・レーシング|ウルフ]]-フォード || [[1977年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1978年のF1世界選手権|1978]] | 5月{{0}}7日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} [[パトリック・デパイユ]]★ || align="left"|ティレル-フォード || [[1978年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1979年のF1世界選手権|1979]] | 5月27日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ZAF1928}} ジョディー・シェクター☆■ || align="left"|フェラーリ || [[1979年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1980年のF1世界選手権|1980]] | 5月18日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|ARG}} [[カルロス・ロイテマン]] || align="left"|[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]-フォード || [[1980年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1981年のF1世界選手権|1981]] | 5月31日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|CAN}} [[ジル・ヴィルヌーヴ]] || align="left"|フェラーリ || [[1981年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1982年のF1世界選手権|1982]] | 5月23日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ITA}} [[リカルド・パトレーゼ]]★ || align="left"|ブラバム-フォード || [[1982年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1983年のF1世界選手権|1983]] | 5月15日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|FIN}} [[ケケ・ロズベルグ]] || align="left"|ウィリアムズ-フォード || [[1983年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1984年のF1世界選手権|1984]] | 6月{{0}}3日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} [[アラン・プロスト]]■ || align="left"|[[マクラーレン]]-[[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]] || [[1984年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1985年のF1世界選手権|1985]] | 5月19日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} アラン・プロスト☆ || align="left"|マクラーレン-TAG || [[1985年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1986年のF1世界選手権|1986]] | 5月11日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} アラン・プロスト☆ || align="left"|マクラーレン-TAG || [[1986年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1987年のF1世界選手権|1987]] | 5月31日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} [[アイルトン・セナ]] || align="left"|ロータス-[[ホンダF1|ホンダ]] || [[1987年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1988年のF1世界選手権|1988]] | 5月15日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} アラン・プロスト || align="left"|マクラーレン-ホンダ || [[1988年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1989年のF1世界選手権|1989]] | 5月{{0}}7日 || 3 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} アイルトン・セナ■ || align="left"|マクラーレン-ホンダ || [[1989年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1990年のF1世界選手権|1990]] | 5月27日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} アイルトン・セナ☆■ || align="left"|マクラーレン-ホンダ || [[1990年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1991年のF1世界選手権|1991]] | 5月12日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} アイルトン・セナ☆■ || align="left"|マクラーレン-ホンダ || [[1991年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1992年のF1世界選手権|1992]] | 5月31日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} アイルトン・セナ || align="left"|マクラーレン-ホンダ || [[1992年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1993年のF1世界選手権|1993]] | 5月23日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|BRA}} アイルトン・セナ || align="left"|マクラーレン-フォード || [[1993年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1994年のF1世界選手権|1994]] | 5月15日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} [[ミハエル・シューマッハ]]☆■ || align="left"|[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]-フォード || [[1994年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1995年のF1世界選手権|1995]] | 5月28日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ミハエル・シューマッハ☆ || align="left"|ベネトン-[[ルノーF1|ルノー]] || [[1995年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1996年のF1世界選手権|1996]] | 5月19日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|FRA}} [[オリビエ・パニス]]★ || align="left"|[[リジェ]]-[[M-TEC|無限ホンダ]] || [[1996年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1997年のF1世界選手権|1997]] | 5月11日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ミハエル・シューマッハ || align="left"|フェラーリ || [[1997年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1998年のF1世界選手権|1998]] | 5月24日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|FIN}} [[ミカ・ハッキネン]]☆■ || align="left"|マクラーレン-[[メルセデスAMG F1|メルセデス]] || [[1998年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1999年のF1世界選手権|1999]] | 5月16日 || 4 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ミハエル・シューマッハ || align="left"|フェラーリ || [[1999年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2000年のF1世界選手権|2000]] | 6月{{0}}4日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[デビッド・クルサード]] || align="left"|マクラーレン-メルセデス || [[2000年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2001年のF1世界選手権|2001]] | 5月27日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ミハエル・シューマッハ☆ || align="left"|フェラーリ || [[2001年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2002年のF1世界選手権|2002]] | 5月26日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} デビッド・クルサード || align="left"|マクラーレン-メルセデス || [[2002年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2003年のF1世界選手権|2003]] | 6月{{0}}1日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]] || align="left"|ウィリアムズ-[[BMW]] || [[2003年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2004年のF1世界選手権|2004]] | 5月23日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ITA}} [[ヤルノ・トゥルーリ]]★■ || align="left"|ルノー || [[2004年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2005年のF1世界選手権|2005]] | 5月22日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|FIN}} [[キミ・ライコネン]]■ || align="left"|マクラーレン-メルセデス || [[2005年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2006年のF1世界選手権|2006]] | 5月28日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ESP}} [[フェルナンド・アロンソ]]☆■|| align="left"|ルノー || [[2006年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2007年のF1世界選手権|2007]] | 5月27日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|ESP}} フェルナンド・アロンソ■ || align="left"|マクラーレン-メルセデス || [[2007年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2008年のF1世界選手権|2008]] | 5月25日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[ルイス・ハミルトン]]☆|| align="left"|マクラーレン-メルセデス || [[2008年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2009年のF1世界選手権|2009]] | 5月24日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} [[ジェンソン・バトン]]☆■ || align="left"|[[ブラウンGP|ブラウン]]-メルセデス || [[2009年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2010年のF1世界選手権|2010]] | 5月16日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUS}} [[マーク・ウェバー]]■ || align="left"|[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]-ルノー || [[2010年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2011年のF1世界選手権|2011]] | 5月29日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} [[セバスチャン・ベッテル]]☆■ || align="left"|レッドブル-ルノー || [[2011年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2012年のF1世界選手権|2012]] | 5月27日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUS}} マーク・ウェバー■ || align="left"|レッドブル-ルノー || [[2012年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2013年のF1世界選手権|2013]] | 5月26日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} [[ニコ・ロズベルグ]]■ || align="left"|メルセデス || [[2013年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2014年のF1世界選手権|2014]] | 5月25日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ニコ・ロズベルグ■ || align="left"|メルセデス || [[2014年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2015年のF1世界選手権|2015]] | 5月24日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} ニコ・ロズベルグ || align="left"|メルセデス || [[2015年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2016年のF1世界選手権|2016]] | 5月29日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} ルイス・ハミルトン || align="left"|メルセデス || [[2016年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2017年のF1世界選手権|2017]] | 5月28日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{Flagicon|GER}} セバスチャン・ベッテル || align="left"|フェラーリ || [[2017年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2018年のF1世界選手権|2018]] | 5月27日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|AUS}} [[ダニエル・リカルド]]■ || align="left"|レッドブル-[[タグ・ホイヤー]] || [[2018年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2019年のF1世界選手権|2019]] | 5月26日 || 6 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|GBR}} ルイス・ハミルトン☆■ || align="left"|メルセデス || [[2019年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2020年のF1世界選手権|2020]] |bgcolor="#DDDDDD" colspan="6"|[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で中止 |- ! [[2021年のF1世界選手権|2021]] | 5月23日 || 5 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|NED}} [[マックス・フェルスタッペン]]☆ || align="left"|レッドブル-ホンダ || [[2021年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2022年のF1世界選手権|2022]] | 5月29日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|MEX}} [[セルジオ・ペレス]] || align="left"|レッドブル-[[レッドブル・パワートレインズ|RBPT]] || [[2022年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[2023年のF1世界選手権|2023]] | 5月28日 || 7 || align="left"|モンテカルロ || align="left"|{{flagicon|NED}} マックス・フェルスタッペン☆■ || align="left"|レッドブル-[[レッドブル・パワートレインズ|ホンダ・RBPT]] || [[2023年モナコグランプリ|詳細]] |} === F1世界選手権外 === [[1935年のグランプリ・シーズン|1935年]]から[[1937年のグランプリ・シーズン|1937年]]は[[ヨーロッパ・ドライバーズ選手権]]の一戦{{efn2|name="EDC"|1931年-1932年および1935年-1939年に行われた四輪モータースポーツにおける最高峰の選手権。現在のF1世界選手権の前身にあたる。}}として、1952年は[[スポーツカー]]レースとして開催された。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: 90%;" |- !年!!決勝日!!勝者!!所属チーム!! |- ! [[1929年のグランプリ・シーズン|1929]] | 4月21日 ||align="left"|{{flagicon|GBR}} [[ウィリアム・グローバー=ウィリアムズ]] || align="left"|[[ブガッティ]] || [[1929年モナコグランプリ|詳細]] |- ! [[1930年のグランプリ・シーズン|1930]] | 4月20日 ||align="left"|{{flagicon|FRA}} {{仮リンク|ルネ・ドレフュス|en|René Dreyfus}} || align="left"|ブガッティ || {{仮リンク|1930年モナコグランプリ|label=詳細|en|1930 Monaco Grand Prix}} |- ! [[1931年のグランプリ・シーズン|1931]] | 4月19日 ||align="left"|{{flagicon|MON}} [[ルイ・シロン]] || align="left"|ブガッティ || {{仮リンク|1931年モナコグランプリ|label=詳細|en|1931 Monaco Grand Prix}} |- ! [[1932年のグランプリ・シーズン|1932]] | 4月17日 ||align="left"|{{flagicon|ITA1861}} [[タツィオ・ヌヴォラーリ]] || align="left"|[[アルファロメオ]] || {{仮リンク|1932年モナコグランプリ|label=詳細|en|1932 Monaco Grand Prix}} |- ! [[1933年のグランプリ・シーズン|1933]] | 4月23日 ||align="left"|{{flagicon|ITA1861}} [[アキーレ・ヴァルツィ]] || align="left"|ブガッティ || {{仮リンク|1933年モナコグランプリ|label=詳細|en|1933 Monaco Grand Prix}} |- ! [[1934年のグランプリ・シーズン|1934]] | 4月{{0}}2日 ||align="left"|{{flagicon|FRA}} {{仮リンク|ギ・モル|en|Guy Moll}} || align="left"|アルファロメオ || {{仮リンク|1934年モナコグランプリ|label=詳細|en|1934 Monaco Grand Prix}} |- style="background-color: #ffc" ! [[1935年のグランプリ・シーズン|1935]] | 4月22日 ||align="left"|{{flagicon|ITA1861}} [[ルイジ・ファジオーリ]] || align="left"|[[メルセデスAMG F1|メルセデス・ベンツ]] || {{仮リンク|1935年モナコグランプリ|label=詳細|en|1935 Monaco Grand Prix}} |- style="background-color: #ffc" ! [[1936年のグランプリ・シーズン|1936]] | 4月13日 ||align="left"|{{Flagicon|GER1935}} [[ルドルフ・カラツィオラ]] || align="left"|メルセデス・ベンツ || {{仮リンク|1936年モナコグランプリ|label=詳細|en|1936 Monaco Grand Prix}} |- style="background-color: #ffc" ! [[1937年のグランプリ・シーズン|1937]] | 8月{{0}}8日 ||align="left"|{{Flagicon|GER1935}} [[マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ]] || align="left"|メルセデス・ベンツ || {{仮リンク|1937年モナコグランプリ|label=詳細|en|1937 Monaco Grand Prix}} |- ! [[1948年のグランプリ・シーズン|1948]] | 5月16日 ||align="left"|{{flagicon|ITA}} [[ジュゼッペ・ファリーナ]] || align="left"|[[マセラティ]] || {{仮リンク|1948年モナコグランプリ|label=詳細|en|1948 Monaco Grand Prix}} |- ! 1952 | 6月{{0}}2日 ||align="left"|{{flagicon|ITA}} {{仮リンク|ヴィットリオ・マルゾット|en|Vittorio Marzotto}} || align="left"|[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] || {{仮リンク|1952年モナコグランプリ|label=詳細|en|1952 Monaco Grand Prix}} |} === 優勝回数(ドライバー) === [[File:Ayrton_Senna_with_toy_car_cropped_no_wm.jpg|thumb|right|200px|[[アイルトン・セナ]]が最多の6勝を挙げている。]] (2勝以上) {| class="wikitable" style="font-size: 80%" |- ! 回数 ! ドライバー ! 優勝年 |- ! 6 | {{flagicon|BRA}} [[アイルトン・セナ]] | [[1987年モナコグランプリ|1987]], [[1989年モナコグランプリ|1989]], [[1990年モナコグランプリ|1990]], [[1991年モナコグランプリ|1991]], [[1992年モナコグランプリ|1992]], [[1993年モナコグランプリ|1993]] |- !rowspan="2"| 5 | {{flagicon|GBR}} [[グラハム・ヒル]] | [[1963年モナコグランプリ|1963]], [[1964年モナコグランプリ|1964]], [[1965年モナコグランプリ|1965]], [[1968年モナコグランプリ|1968]], [[1969年モナコグランプリ|1969]] |- | {{flagicon|GER}} [[ミハエル・シューマッハ]] | [[1994年モナコグランプリ|1994]], [[1995年モナコグランプリ|1995]], [[1997年モナコグランプリ|1997]], [[1999年モナコグランプリ|1999]], [[2001年モナコグランプリ|2001]] |- ! 4 | {{flagicon|FRA}} [[アラン・プロスト]] | [[1984年モナコグランプリ|1984]], [[1985年モナコグランプリ|1985]], [[1986年モナコグランプリ|1986]], [[1988年モナコグランプリ|1988]] |- !rowspan="4"| 3 | {{flagicon|GBR}} [[スターリング・モス]] | [[1956年モナコグランプリ|1956]], [[1960年モナコグランプリ|1960]], [[1961年モナコグランプリ|1961]] |- | {{flagicon|GBR}} [[ジャッキー・スチュワート]] | [[1966年モナコグランプリ|1966]], [[1971年モナコグランプリ|1971]], [[1973年モナコグランプリ|1973]] |- |{{flagicon|GER}} [[ニコ・ロズベルグ]] | [[2013年モナコグランプリ|2013]], [[2014年モナコグランプリ|2014]], [[2015年モナコグランプリ|2015]] |- | {{flagicon|GBR}} '''[[ルイス・ハミルトン]]''' | [[2008年モナコグランプリ|2008]], [[2016年モナコグランプリ|2016]], [[2019年モナコグランプリ|2019]] |- !rowspan="9"| 2 | {{flagicon|ARG}} [[ファン・マヌエル・ファンジオ]] | [[1950年モナコグランプリ|1950]], [[1957年モナコグランプリ|1957]] |- | {{flagicon|FRA}} [[モーリス・トランティニアン]] | [[1955年モナコグランプリ|1955]], [[1958年モナコグランプリ|1958]] |- | {{flagicon|AUT}} [[ニキ・ラウダ]] | [[1975年モナコグランプリ|1975]], [[1976年モナコグランプリ|1976]] |- | {{flagicon|RSA1928}} [[ジョディー・シェクター]] | [[1977年モナコグランプリ|1977]], [[1979年モナコグランプリ|1979]] |- | {{flagicon|GBR}} [[デビッド・クルサード]] | [[2000年モナコグランプリ|2000]], [[2002年モナコグランプリ|2002]] |- | {{flagicon|ESP}} '''[[フェルナンド・アロンソ]]''' | [[2006年モナコグランプリ|2006]], [[2007年モナコグランプリ|2007]] |- | {{flagicon|AUS}} [[マーク・ウェバー]] | [[2010年モナコグランプリ|2010]], [[2012年モナコグランプリ|2012]] |- | {{flagicon|GER}} [[セバスチャン・ベッテル]] | [[2011年モナコグランプリ|2011]], [[2017年モナコグランプリ|2017]] |- | {{flagicon|NED}} '''[[マックス・フェルスタッペン]]''' | [[2021年モナコグランプリ|2021]], [[2023年モナコグランプリ|2023]] |} * '''太字'''は[[2023年のF1世界選手権]]に参戦中のドライバー。 === 優勝回数(コンストラクター) === (2勝以上) {| class="wikitable" style="font-size: 80%" |- ! 回数 ! コンストラクター ! 優勝年 |- ! 15 | {{flagicon|GBR}} '''[[マクラーレン]]''' | [[1984年モナコグランプリ|1984]], [[1985年モナコグランプリ|1985]], [[1986年モナコグランプリ|1986]], [[1988年モナコグランプリ|1988]], [[1989年モナコグランプリ|1989]], [[1990年モナコグランプリ|1990]], [[1991年モナコグランプリ|1991]], [[1992年モナコグランプリ|1992]], [[1993年モナコグランプリ|1993]], [[1998年モナコグランプリ|1998]],<br />[[2000年モナコグランプリ|2000]], [[2002年モナコグランプリ|2002]], [[2005年モナコグランプリ|2005]], [[2007年モナコグランプリ|2007]], [[2008年モナコグランプリ|2008]] |- ! 10 | {{flagicon|ITA}} '''[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]''' | <span style="background:#fcc;">1952</span>, [[1955年モナコグランプリ|1955]], [[1975年モナコグランプリ|1975]], [[1976年モナコグランプリ|1976]], [[1979年モナコグランプリ|1979]], [[1981年モナコグランプリ|1981]], [[1997年モナコグランプリ|1997]], [[1999年モナコグランプリ|1999]], [[2001年モナコグランプリ|2001]], [[2017年モナコグランプリ|2017]]<!-- 次回優勝用 ,<br />--> |- ! 8 | {{flagicon|GER}} '''[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]''' | <span style="background:#ffc;">1935</span>, <span style="background:#ffc;">1936</span>, <span style="background:#ffc;">1937</span>, [[2013年モナコグランプリ|2013]], [[2014年モナコグランプリ|2014]], [[2015年モナコグランプリ|2015]], [[2016年モナコグランプリ|2016]], [[2019年モナコグランプリ|2019]] |- !rowspan="2"| 7 | {{flagicon|GBR}} [[チーム・ロータス|ロータス]] | [[1960年モナコグランプリ|1960]], [[1961年モナコグランプリ|1961]], [[1968年モナコグランプリ|1968]], [[1969年モナコグランプリ|1969]], [[1970年モナコグランプリ|1970]], [[1974年モナコグランプリ|1974]], [[1987年モナコグランプリ|1987]] |- | {{flagicon|AUT}} '''[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]''' | [[2010年モナコグランプリ|2010]], [[2011年モナコグランプリ|2011]], [[2012年モナコグランプリ|2012]], [[2018年モナコグランプリ|2018]], [[2021年モナコグランプリ|2021]], [[2022年モナコグランプリ|2022]], [[2023年モナコグランプリ|2023]] |- ! 5 | {{flagicon|GBR}} [[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]] | [[1963年モナコグランプリ|1963]], [[1964年モナコグランプリ|1964]], [[1965年モナコグランプリ|1965]], [[1966年モナコグランプリ|1966]], [[1972年モナコグランプリ|1972]] |- ! 4 | {{flagicon|FRA}} [[ブガッティ]] | <span style="background:#fcc;">1929</span>, <span style="background:#fcc;">1930</span>, <span style="background:#fcc;">1931</span>, <span style="background:#fcc;">1933</span> |- !rowspan="5"| 3 | {{flagicon|ITA}} [[アルファロメオ]] <sup>*</sup> | <span style="background:#fcc;">1932</span>, <span style="background:#fcc;">1934</span>, [[1950年モナコグランプリ|1950]] |- | {{flagicon|ITA}} [[マセラティ]] | <span style="background:#fcc;">1948</span>, [[1956年モナコグランプリ|1956]], [[1957年モナコグランプリ|1957]] |- | {{flagicon|GBR}} [[クーパー・カー・カンパニー|クーパー]] | [[1958年モナコグランプリ|1958]], [[1959年モナコグランプリ|1959]], [[1962年モナコグランプリ|1962]] |- | {{flagicon|GBR}} [[ティレル]] | [[1971年モナコグランプリ|1971]], [[1973年モナコグランプリ|1973]], [[1978年モナコグランプリ|1978]] |- | {{flagicon|GBR}} '''[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]''' | [[1980年モナコグランプリ|1980]], [[1983年モナコグランプリ|1983]], [[2003年モナコグランプリ|2003]] |- !rowspan="3"| 2 | {{flagicon|GBR}} [[ブラバム]] | [[1967年モナコグランプリ|1967]], [[1982年モナコグランプリ|1982]] |- | {{flagicon|GBR}} [[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]] <sup>**</sup> | [[1994年モナコグランプリ|1994]], [[1995年モナコグランプリ|1995]] |- | {{flagicon|FRA}} [[ルノーF1|ルノー]] | [[2004年モナコグランプリ|2004]], [[2006年モナコグランプリ|2006]] |- |} * '''太字'''は[[2023年のF1世界選手権]]に参戦中のコンストラクター。 * <span style="background:#fcc;">ピンク地</span>はF1世界選手権以外で開催された年。 * <span style="background:#ffc;">クリーム地</span>は[[第二次世界大戦]]前に行われていた[[ヨーロッパ・ドライバーズ選手権]]<ref group="注" name="EDC"/>の一戦として開催された年。 * <sup>*</sup> {{F1|2019}}から[[ザウバー]]が運営している[[アルファロメオ・レーシング|アルファロメオF1チーム]]とは別扱い。 * <sup>**</sup> 1986-1995年は英国国籍、1996-2001年はイタリア国籍。 === 優勝回数(エンジン) === (2勝以上) {| class="wikitable" style="font-size: 80%" |- ! 回数 ! メーカー ! 優勝年 |- ! 15 | {{flagicon|GER}} '''[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]''' <sup>*</sup> | <span style="background:#fcc;">1935</span>, <span style="background:#ffc;">1936</span>, <span style="background:#ffc;">1937</span>, [[1998年モナコグランプリ|1998]], [[2000年モナコグランプリ|2000]], [[2002年モナコグランプリ|2002]], [[2005年モナコグランプリ|2005]], [[2007年モナコグランプリ|2007]], [[2008年モナコグランプリ|2008]], [[2009年モナコグランプリ|2009]],<br />[[2013年モナコグランプリ|2013]], [[2014年モナコグランプリ|2014]], [[2015年モナコグランプリ|2015]], [[2016年モナコグランプリ|2016]], [[2019年モナコグランプリ|2019]] |- ! 13 | {{flagicon|USA}} [[フォード・モーター|フォード]] <sup>**</sup> | [[1968年モナコグランプリ|1968]], [[1969年モナコグランプリ|1969]], [[1970年モナコグランプリ|1970]], [[1971年モナコグランプリ|1971]], [[1973年モナコグランプリ|1973]], [[1974年モナコグランプリ|1974]], [[1977年モナコグランプリ|1977]], [[1978年モナコグランプリ|1978]], [[1980年モナコグランプリ|1980]], [[1982年モナコグランプリ|1982]],<br />[[1983年モナコグランプリ|1983]], [[1993年モナコグランプリ|1993]], [[1994年モナコグランプリ|1994]] |- ! 10 | {{flagicon|ITA}} '''[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]''' | <span style="background:#fcc;">1952</span>, [[1955年モナコグランプリ|1955]], [[1975年モナコグランプリ|1975]], [[1976年モナコグランプリ|1976]], [[1979年モナコグランプリ|1979]], [[1981年モナコグランプリ|1981]], [[1997年モナコグランプリ|1997]], [[1999年モナコグランプリ|1999]], [[2001年モナコグランプリ|2001]], [[2017年モナコグランプリ|2017]]<!-- 次回優勝用 ,<br />--> |- ! 7 | {{flagicon|JPN}} [[ホンダF1|ホンダ]] <sup>***</sup> |[[1987年モナコグランプリ|1987]], [[1988年モナコグランプリ|1988]], [[1989年モナコグランプリ|1989]], [[1990年モナコグランプリ|1990]], [[1991年モナコグランプリ|1991]], [[1992年モナコグランプリ|1992]], [[2021年モナコグランプリ|2021]] |- ! 6 | {{flagicon|FRA}} '''[[ルノーF1|ルノー]]''' | [[1995年モナコグランプリ|1995]], [[2004年モナコグランプリ|2004]], [[2006年モナコグランプリ|2006]], [[2010年モナコグランプリ|2010]], [[2011年モナコグランプリ|2011]], [[2012年モナコグランプリ|2012]] |- !rowspan="2"| 5 | {{flagicon|GBR}} [[コヴェントリー・クライマックス|クライマックス]] | [[1958年モナコグランプリ|1958]], [[1959年モナコグランプリ|1959]], [[1960年モナコグランプリ|1960]], [[1961年モナコグランプリ|1961]], [[1962年モナコグランプリ|1962]] |- | {{flagicon|GBR}} [[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]] | [[1963年モナコグランプリ|1963]], [[1964年モナコグランプリ|1964]], [[1965年モナコグランプリ|1965]], [[1966年モナコグランプリ|1966]], [[1972年モナコグランプリ|1972]] |- ! 4 | {{flagicon|FRA}} [[ブガッティ]] | <span style="background:#fcc;">1929</span>, <span style="background:#fcc;">1930</span>, <span style="background:#fcc;">1931</span>, <span style="background:#fcc;">1933</span> |- !rowspan="3"| 3 | {{flagicon|ITA}} [[アルファロメオ]] | <span style="background:#fcc;">1932</span>, <span style="background:#fcc;">1934</span>, [[1950年モナコグランプリ|1950]] |- | {{flagicon|ITA}} [[マセラティ]] | <span style="background:#fcc;">1948</span>, [[1956年モナコグランプリ|1956]], [[1957年モナコグランプリ|1957]] |- | {{flagicon|LUX}} [[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]] <sup>****</sup> | [[1984年モナコグランプリ|1984]], [[1985年モナコグランプリ|1985]], [[1986年モナコグランプリ|1986]] |- ! 2 | {{flagicon|GBR}} [[レッドブル・パワートレインズ|RBPT]]/'''[[本田技研工業|ホンダ]]・RBPT''' <sup>***</sup> | [[2022年モナコグランプリ|2022]], [[2023年モナコグランプリ|2023]] |} * '''太字'''は[[2023年のF1世界選手権]]に参戦中のメーカー。 * <span style="background:#fcc;">ピンク地</span>はF1世界選手権以外で開催された年。 * <span style="background:#ffc;">クリーム地</span>は[[第二次世界大戦]]前に行われていた[[ヨーロッパ・ドライバーズ選手権]]<ref group="注" name="EDC"/>の一戦として開催された年。 * <sup>*</sup> 1998-2005年は[[イルモア]]が製造。 * <sup>**</sup> [[コスワース]]が製造。 * <sup>***</sup> [[ホンダ・レーシング]](HRC)が製造するRBPT及びホンダ・RBPTと記録は別扱い。 * <sup>****</sup> [[ポルシェ]]が製造。 === 過去のコースレイアウト === <gallery> Image:Circuit de Monaco 1950.png|1929–1972 Image:Circuit de Monaco 1973.png|1973–1975 Image:Circuit de Monaco 1976.png|1976–1985 Image:Circuit de Monaco 1986.png|1986–1996 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Monaco Grand Prix}} * [[モータースポーツ]] * [[F1選手権レースの一覧]] * [[モンテカルロ市街地コース]] * [[ラリー・モンテカルロ]] - [[世界ラリー選手権|WRC(世界ラリー選手権)]]開幕戦。1月開催。 * [[マカオグランプリ]] - 「東洋のモナコGP」と呼ばれる。 == 外部リンク == * [http://www.formula1monaco.com/ Official Monaco Grand Prix F1](フランス語・英語) * [http://www.acm.mc/ Automobile Club de Monaco](フランス語) {{F1選手権レース}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:もなこくらんふり}} [[Category:F1選手権レース]] [[Category:モナコグランプリ|*]] [[Category:1929年開始のイベント]]
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2,152
波数
波数(はすう、英: wavenumber)とは、波の空間周波数である。正弦波の波数は、波長の逆数、またはその 2π 倍として定義される。後者は前者と区別して、角波数(かくはすう、英: angular wavenumber)と呼ばれることがある。 直感的には、波数は単位長さの直線(または角波数の場合、単位円周上)に何波長分の波が入るかを表している。 波数を表す記号として、k, ~ν がよく用いられる。前者はもっぱら角波数に用いられ、後者は波長の逆数としての波数に用いられる。 波数の単位は、国際単位系では毎メートルが用いられる。また、CGS単位系では毎センチメートルが用いられる。波数は分光学において頻繁に現れる量であるため、カイザーがしばしば単位に用いられる。 物理化学や分光学の分野では単位長さ当たりの波の個数を指し、波数 ~ν は波長 λ の逆数 となる。 しばしば波数 ~ν は間接的に光の周波数 ν を指すこともあり、真空中の光速度 c を用いて と関係付けられる。 歴史的にはヨハネス・リュードベリが1880年代に初めて着目し、1908年にリュードベリ・リッツの結合原理において、公式の中に波数を現した。その後、スペクトル線に関する研究が進むにつれ、量子論によってエネルギー準位の差が波数や周波数に比例することがわかった。例えば、水素スペクトル系列はリュードベリの式(英語版)によって と表される。ここで、R∞ はリュードベリ定数、n, m (n < m) は主量子数である。 波動力学では正弦波の波数を指し、波数 k は 2π を波長 λ で割った量 となる。つまり、1 波長分の波を 1 個と数えたとき、波数 k は単位長さ当たりの波の個数を 2π 倍したものに相当する。このとき、k = 2π/λ は角波数 (angular wavenumber) と呼ばれる。 正弦波 u は振幅を A、振動数を ν、波長を λ とすると のように表示される。ここで、t は時刻、x は位置、ω は角振動数である。 しばしばフーリエ変換において、実空間の座標の双対として波数 k が用いられる。また量子力学においては波数ベクトル k にディラック定数 ħ を掛けた ħk が運動量 p に対応する。 古典的には、向きが波面の法線方向(つまり波の伝播方向)で、大きさが波数となるベクトルを、波数ベクトル(あるいは伝播ベクトル、wave vector, k-vector)と定義する。 なお、波数ベクトル k は十分大きな整数の組 (N1, N2, N3) を考えると、 で表される。b = (b1, b2, b3) は逆格子空間での基本並進ベクトル。整数 m = (m1, m2, m3) は、いろいろな範囲設定が可能だが、一例としてそれぞれ (0, ⋯, N1 − 1; 0, ⋯, N2 − 1; 0, ⋯, N3 − 1) の範囲の任意の整数と設定できる。
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波数とは、波の空間周波数である。正弦波の波数は、波長の逆数、またはその 2π 倍として定義される。後者は前者と区別して、角波数と呼ばれることがある。 直感的には、波数は単位長さの直線(または角波数の場合、単位円周上)に何波長分の波が入るかを表している。 波数を表す記号として、k, ~ν がよく用いられる。前者はもっぱら角波数に用いられ、後者は波長の逆数としての波数に用いられる。 波数の単位は、国際単位系では毎メートルが用いられる。また、CGS単位系では毎センチメートルが用いられる。波数は分光学において頻繁に現れる量であるため、カイザーがしばしば単位に用いられる。
{{出典の明記|date=2011年8月}} {{物理量 |名称=波数 |英語=wavenumber |記号=''k'', ''{{tilde|&nu;}}'' |次元=[[長さ|L]]{{sup-|1}} |種類=ベクトル |SI=[[毎メートル]] (m{{sup-|1}}) |CGS=[[カイザー (単位)|カイザー]] (K) |FPS=[[毎フィート]] (ft{{sup-|1}}) }} '''波数'''(はすう、{{lang-en-short|wavenumber}})とは、[[波]]の[[空間周波数]]である。[[正弦波]]の波数は、[[波長]]の[[逆数]]、またはその {{math|2{{pi}}}} 倍として定義される。後者は前者と区別して、'''角波数'''(かくはすう、{{lang-en-short|angular wavenumber}})と呼ばれることがある。 直感的には、波数は単位長さの直線(または角波数の場合、単位円周上)に何波長分の波が入るかを表している。 波数を表す記号として、{{mvar|k}}, {{math|{{tilde|''&nu;''}}}} がよく用いられる。前者はもっぱら角波数に用いられ、後者は波長の逆数としての波数に用いられる。 波数の単位は、[[国際単位系]]では[[毎メートル]]が用いられる。また、[[CGS単位系]]では毎センチメートルが用いられる。波数は[[分光法|分光学]]において頻繁に現れる量であるため、[[カイザー (単位)|カイザー]]がしばしば単位に用いられる。 == 分光学 == [[物理化学]]や[[分光法|分光学]]の分野では単位長さ当たりの波の個数を指し、波数 {{mvar|{{tilde|&nu;}}}} は[[波長]] {{mvar|&lambda;}} の[[逆数]] :<math>\tilde{\nu}=\frac{1}{\lambda}</math> となる。 しばしば波数 {{mvar|{{tilde|&nu;}}}} は間接的に[[光]]の[[周波数]] {{Mvar|&nu;}} を指すこともあり、[[真空]]中の[[光速|光速度]] {{Mvar|c}} を用いて :<math>\tilde{\nu}=\frac{\nu}{c}</math> と関係付けられる。 歴史的には[[ヨハネス・リュードベリ]]が[[1880年代]]に初めて着目し、[[1908年]]に[[リュードベリ・リッツの結合原理]]において、公式の中に波数を現した。その後、[[スペクトル線]]に関する研究が進むにつれ、[[量子論]]によって[[エネルギー準位]]の差が波数や周波数に比例することがわかった。例えば、[[水素スペクトル系列]]は{{仮リンク|リュードベリの式|en|Rydberg formula}}によって :<math>\tilde{\nu}=R_\infin\left(\frac{1}{n^2}-\frac{1}{m^2}\right)</math> と表される。ここで、{{Math|''R''{{Sub|&infin;}}}} は[[リュードベリ定数]]、{{Math|''n'', ''m'' (''n'' &lt; ''m'')}} は[[量子数|主量子数]]である。 == 波動力学 == [[波動力学]]では[[正弦波]]の波数を指し、波数 {{mvar|k}} は {{math|2''&pi;''}} を[[波長]] {{mvar|&lambda;}} で割った量 :<math>k=\frac{2\pi}{\lambda}</math> となる。つまり、1 波長分の波を 1 個と数えたとき、波数 {{mvar|k}} は単位長さ当たりの波の個数を {{math|2''&pi;''}} 倍したものに相当する。このとき、{{math|''k'' {{=}} {{Sfrac|2''&pi;''|''&lambda;''}}}} は'''角波数''' {{en|(angular wavenumber)}} と呼ばれる。 正弦波 {{Mvar|u}} は[[振幅]]を {{Mvar|A}}、[[振動数]]を {{Mvar|&nu;}}、[[波長]]を {{Mvar|&lambda;}} とすると :<math>u=A\sin2\pi\left(\nu t-\frac{x}{\lambda}\right)=A\sin(\omega t-kx)</math> のように表示される。ここで、{{Mvar|t}} は[[時刻]]、{{Mvar|x}} は[[位置]]、{{Mvar|&omega;}} は[[角周波数|角振動数]]である<ref>[[#Reference-Kotobank-波数|日本大百科全書]]</ref>。 しばしば[[フーリエ変換]]において、実空間の座標の[[双対]]として波数 {{mvar|k}} が用いられる。また[[量子力学]]においては波数[[空間ベクトル|ベクトル]] {{mvar|'''k'''}} に[[ディラック定数]] {{Mvar|&#x127;}} を掛けた {{Mvar|&#x127;'''k'''}} が[[運動量]] {{Mvar|'''p'''}} に対応する<ref>[[#Reference-Kotobank-波数ベクトル|ブリタニカ百科事典]]</ref>。 == 波数ベクトル == {{Main|波数ベクトル}} 古典的には、向きが波面の法線方向(つまり波の伝播方向)で、大きさが波数となるベクトルを、'''波数ベクトル'''(あるいは伝播ベクトル、{{en|wave vector, {{mvar|k}}-vector}})と定義する。 なお、波数ベクトル {{mvar|'''k'''}} は十分大きな整数の組 {{math|(''N''{{Sub|1}}, ''N''{{Sub|2}}, ''N''{{Sub|3}})}} を考えると、 :<math>\boldsymbol{k}=\frac{m_1}{N_1}\boldsymbol{b}_1+\frac{m_2}{N_2}\boldsymbol{b}_2+\frac{m_3}{N_3}\boldsymbol{b}_3</math> で表される。{{math|'''''b''''' {{=}} (''b''{{sub|1}}, ''b''{{sub|2}}, ''b''{{sub|3}})}} は[[逆格子空間]]での基本並進ベクトル。整数 {{math|''m'' {{=}} (''m''{{Sub|1}}, ''m''{{Sub|2}}, ''m''{{Sub|3}})}} は、いろいろな範囲設定が可能だが、一例としてそれぞれ {{math|(0, &#x22EF;, ''N''{{Sub|1}} &minus; 1; 0, &#x22EF;, ''N''{{Sub|2}} &minus; 1; 0, &#x22EF;, ''N''{{Sub|3}} &minus; 1)}} の範囲の任意の整数と設定できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 出典 {{Reflist}} == 関連項目 == *[[逆格子空間]] *[[フーリエ変換]] *[[ブロッホの定理]] *[[ド・ブロイ波]] *[[運動量]] == 外部リンク == * {{Kotobank|2=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)}} * {{Kotobank|波数ベクトル|2=[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典}} * {{Britannica|science|wave-number|Wave number}} {{Physics-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はすう}} [[Category:振動と波動]] [[Category:固体物理学]]
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2022-09-08T02:01:00Z
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仮面ノリダー
『仮面ノリダー』(かめんノリダー)は、フジテレビ系列のテレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』にて放送されたコーナードラマ、およびそれに登場するヒーロー。 木梨扮する仮面ノリダーと石橋扮する数多くの怪人が所属する悪の秘密組織『ジョッカー』との闘いを描いた、特撮番組『仮面ライダーシリーズ』のパロディドラマである。1988年(昭和63年)春の火曜ワイドスペシャル版で初回が放送され、レギュラー化した1988年(昭和63年)秋から1990年(平成2年)春まで放送された。のちに1992年(平成4年)、1993年(平成5年)、1997年(平成9年)にスペシャル版が放映されている。 『おかげです』のコーナーでも屈指の知名度を誇っており、小中学生の間では本家仮面ライダーを上回る人気を得ていた。本作は後年制作される仮面ライダー作品にも影響を与えており、木梨は劇場版仮面ライダーにゲスト出演も果たしている。 主人公は「木梨猛」(演:木梨憲武)という白いパンタロンと植物と動物を愛する青年。彼は悪の秘密結社「ジョッカー」により改造人間「ノリダー」に改造されるも、秘密特訓基地で親友となった石橋文字隼人(後に留守番電話男に改造)によって救出され、脳改造を前に脱出、正義の味方「仮面ノリダー」として、世界平和のために戦うことを決意した。普段は人間体として、人間社会で生活しているが、ジョッカーの怪人との戦闘時においては、変身ポーズをとることによりベルトの風車に風力を与え、仮面ノリダーへと変身する。 木梨猛は中目黒在住。普段はおやっさんこと「立花藤兵衛」(演:小林昭二)の経営する「喫茶Amigo」の臨時店員として働いている。また、恋人の「マリナさん」(演:渡辺満里奈)とともに、孤児院「チビッコハウス」で子供たち(演:劇団ひまわり)の教鞭をとったり、ジョッカーによって瀕死の重傷を負った人間にサイボーグ手術を行うこともあり、一定の収入を得ながら生計を立てている模様。 ナレーターも『昭和仮面ライダーシリーズ』同様、中江真司が起用され、オープニングナレーションも再現されるなど非常に凝ったパロディー作品となった。「恐怖バレーボール女」では、元ネタとなったドラマ『サインはV』と『仮面ライダーアマゾン』でナレーターを担当した納谷悟朗が登板し、その回のナレーションのほとんどを占めた。エンディングで「行け!仮面ノリダー!戦え!仮面ノリダー!」の決めゼリフを納谷一人で終わるかというところで、「待ってください納谷さん、私にも喋らせてくださいよ」と中江が乱入し、二人の決めゼリフでしめるというダブルナレーションが行われた。また、中江本人が劇中に登場し、その場でナレーションを読む回もあった。 おやっさんは木梨猛が改造人間であることを知っているが、マリナさんは知らない。そのため、猛は改造人間である自分がマリナさんとは恋人でありながら、結ばれることはないことを苦悩する描写もあった。しかし、真の完結編・『最後の決戦』のラストで結婚し、「現在も中目黒のアミーゴで幸せに暮らしているという」(ナレーションによる。以下同じ)。また、改造人間になったことを苦悩する猛に対し、おやっさんがはっぱをかける描写も存在し、本家以上に熱いセリフも散見される。 なおピンチになるシーンでは、本家仮面ライダーではなく『人造人間キカイダー』(その後番組の『キカイダー01』含む)の劇中で使用した音楽(作曲・渡辺宙明)が流用されている。また、木梨猛がジョッカーの皆さんと怪人に出くわすシーンなどは、アニメ『重戦機エルガイム』の劇中で使用した音楽(作曲・若草恵)が、キングジョッカーのテーマソングとして、アニメ『機動警察パトレイバー』の劇中で使用した音楽(作曲・川井憲次)が使用されていた。 木梨猛が変身ポーズをとることによって、ベルトの風車に風力を与えて変身した正義の戦士。巨大な耳が特徴。また仮面ライダーのマスクには、複眼の下にスーツアクターの視界確保のため覗き穴が開けられていたのに倣ってか、変身後の仮面ノリダーは自分の鼻の穴周辺を黒く塗っており、視覚的に鼻の穴がかなり大きく見える。寒い場所や暑い場所では防寒のために着膨れしていたり、半袖の状態になったりしたこともある。 番組冒頭では、手術台に拘束された猛にジョッカーの死神博士(演:石橋貴明)がノミとカナヅチで手術を施しているシーンがあった。このとき、猛が吐いたセリフは「やめろ、ジョッカー!! ぶっとばすぞー!!」であった。 また放映当時、雑誌で解剖図が掲載されたことがあるが、その内容は体の中にトランクスがある、頭脳の解説には「笑いを取ることだけを考えている」と記されているなど、かなり奇天烈なものであった。また、血の色は緑色でヘソがなく、胸には「かいぞう」、背中には「にんげん」という文字がある。 最終話(第71話)で、仮面ノリダーはジョッカー総帥の正体「キング・ジョッカー男」とともに大気圏外で爆死したかに思われたが、実は存命しており、後に戦線復帰する。1997年(平成9年)3月27日にスペシャル編で放映された『最後の決戦』では、亡くなった藤兵衛から「Amigo」のマスターを継いだとも取れる描写も登場している。また、キング・ジョッカー男も存命しており、続編「仮面ノリダーV2」では猩猩右近と共に悪の秘密組織「ゲロ・ジョッカー」を結成している。 巨大化した初代仮面ノリダーの市街戦も描かれ、本家で後年登場する「ウルトラマンとビデオ共演時の新1号」「仮面ライダーJ」「3D映画のシャドームーン」すべてに先駆けた設定でもあった。 変身時においては第1話では「怒ると恐~い!仮面ノリダー!!」のコールとともに、仮面ライダー1号の変身ポーズをアレンジしたようなポーズで変身していたが、基本的には「♪か~いわれ巻き巻き、ね~ぎトロ巻き巻き、巻いて巻いて、手巻き寿司、とぉー!!」と、腕を回しながら腰を振る動作と共に唱和して変身する。また、たまにジョッカーの皆さんが脇から蹴りを入れるなどの妨害を行うことがあり、その際はやり直すこともあった。この変身コールがきっかけで、後にとんねるずの二人はミツカン酢のCMに出演するようになった。また一時期、「カルーセル麻紀麻紀、ポール牧牧、巻いて巻いてマキ上田」、他にマイク真木、栗原小巻など、名前に「マキ」とつく有名人の名をパロディで使ったり、当時話題となっていた湖池屋の「スコーン」のCMフレーズを唱和して変身したこともある。しかし、ミツカン酢のCMの依頼が来てからは元に戻している。「シャワー男」のときは、時間がないからとの理由で4倍速で流れた。 「帝都大戦男」で帝都大戦男に投げ飛ばされたのを利用して早口で「♪か~いわれ巻き巻き~」を唱和したのを皮切りに、翌週からは突然「♪か~いわれ巻き巻き~」ではなく、さまざまな変身コールで変身を行っていった(「バレーボール女」での変身の際は元の変身コール)。その中でも植木等の『スーダラ節』の1フレーズである「♪スイスイ、スーダラダッタ、スラスラ、スイスイスイ」というパターンで変身することが多く、最終話(第71話)「キング・ジョッカー男」での最後の変身のときにこれを「2番」と位置づけていた。時に更衣室に置いてあった女性の下着を見て興奮した途端に変身したり、『光速エスパー』と同じパターンで変身したりしたこともある。 変身ポーズも仮面ライダー1号(いわゆる「新1号」)のものをアレンジしているが、一定のものが決まっているわけではないらしい。本家は変身時、「お約束」で一部を除き敵が攻撃しないことに対し、こちらはそのお約束を破り変身途中でも毎回のように怪人である石橋が邪魔したため、よく途中で打ち切り一瞬で変身していた。また変身のレベルも、ある程度自分で変えられるようで、弱そうな怪人(ヒヨコ男など)が相手のときは「半分だけ変身」していた。 仮面ノリダーはその技の豊富さでも群を抜いており、正確な数は本人ですら把握しきれていない。基本技はパンチ技の「ノリダー・パンチ」、飛び蹴り技の「ノリダー・キック」、頭突き技の「ノリダー・ヘッドバット」だが、同等の小打撃を「ノリダー・ハナミズ」でも行うことができる。 また、「ジョッカーのみなさん」(演:倉田プロモーション)に対しては、「ノリダー・カーニバル&フェスティバル」で全滅させるのが基本パターンである。その以外にもさまざまなパターンが存在し、「ノリダー・海」や「ノリダー・○○爆弾」といった投下・爆発攻撃で全滅させることもある。特に「ノリダー・海」は初使用の際、溺れかけた戦闘員が出たため、以後「ノリダー・海」は「ジョッカーのみなさん」に最も恐れられる必殺技となった。 怪人は、当初は「ノリダージャンプ&○○○」という技で高い所から落下していたが、後半に入ると「ノリダー○○○」と短縮された。最後に(岩場でなくても)岩石が落ちてくるのがパターン。ロケ地でとどめに使える高所がなかったり火薬の使用が認められなかった場合などでは、怪人は死なず人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりしている。 劇中後半では、金色のプロテクターを身につけた「すーパーNORIだー」への二段変身をすることで、さらに強力な攻撃を可能とした。すーパーNORIだーは、体色が黄金色に変化し声も約1オクターブ半高い西城秀樹風のものになる。「すーパーNORIダー参上、ボンヨヨヨ〜ン!」が決めゼリフ。ただ、実際は登場すると真面目に戦って倒すだけのパターンしかできなかったために扱い方が難しく、結局登場機会も少ないまま「北海道男」以降登場することはなかった。その後、プロテクターが「ノリダー秘密基地」に飾られているのが確認できる。 なお、すーパーNORIだーのプロテクターは、初期に撮影スタントマンが使用していた通常ノリダー色のプロテクターを再塗装したものである。このスタントマン用がすーパーNORIだー色に更新される前、トナカイ男の回で『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)スタジオでの対戦でノリダーが使用している。また、仮面ノリダーのプロテクターは初代と2代目があり、初代はラッコ男 - 1989年(平成元年)末まで頻繁に使われていたもので、2代目は北海道男で初登場している。初登場時、ノリダー自ら「プロテクターおニューだもんね」と言及している。しかし、その後しばらく2代目の使用例はなかったが、1990年代(スペシャル含む)に入り2代目プロテクターが主流となる。1997年(平成9年)『最後の決戦』ではノリダーが2代目、分身(岡村)が初代を使用している。すーパーNORIだーのスーツは仮面ライダー新1号と同じく黒字に2本の縦ラインが入っている。このスーツは続編でもある『仮面ノリダーV2』のスーツに使用された。 ヘルメットに関しても、特別編の『ゴキブリ男』から新しいものに交換されているのが色艶から確認できる(黒から緑に変わっている)。ノリダーヘルメットは1つ7万円もするそうである(スペシャルで木梨が言及)。なお、初代ヘルメットは、木梨の小父が営む喫茶店「なごみ堂」に飾られている。 仮面ノリダーは、握り拳大のカプセルに「チビノリダー」(演:伊藤淳史)を収納・携帯しており、自身のピンチのときに呼び出して、ともに戦うこともあった。共に繰り出す必殺技は、単独時の数倍にも達する。なお、子供に関連する行事時における戦闘では、かなりの頻度で呼び出していた。石橋演じる怪人は、チビノリダーに対して、不意打ちを食らわせるなど大人気なくかつ卑怯極まりない攻撃をたびたび繰り出していた。 演じていた伊藤淳史は当時4~6歳という幼い時期の出演だったため、当時のことをよく覚えていないという。だが、木梨からは当時のことを高く評価されており、いまだに「チビノリダー」と呼ばれることも多い。 なお、カプセル収納状態のチビノリダーは、番組エンディングで紹介されていた視聴者イラストコーナーで採用された者にプレゼントされていた、ノリダー特製キーホルダー人形を流用している。一般販売などはされなかった非売品であるため、大変レアなグッズとなっており、巷では無許可のニセモノ商品などが多数市販されていた。 元ネタは仮面ライダー2号と『ウルトラセブン』に登場するカプセル怪獣(ミクラス、ウインダム、アギラ)である。 仮面ノリダーV2終了後の特別編のエピソード(1993年(平成5年)11月4日)において、紺野美沙子演じる「女ノリダー」が登場、初代仮面ノリダーと共にジョッカー残党に改造された実兄(ゴキブリ男)と対決した。 また、最終回のエピソード(1997年(平成9年)3月27日)では13歳になったチビノリダーに加え「ノリダーの分身」としてナインティナインの岡村隆史が登場(石橋には「チビノリダーより小さい」と言われていた)。当番組自体はおろかとんねるずとしても、他のお笑いタレントとの共演がほぼ皆無だった時代でのこの組み合わせは視聴者を大変驚かせ、また注目を浴びた。なお、この際使用された衣装一式は岡村が貰い受け、大事に持ち帰ったそうである。またこの衣装は岡村が日本テレビ系の番組『ナイナイサイズ!』で「大事な宝物」として紹介したこともある。 おやっさんが経営するアミーゴは15年前(1974年ごろ)に中目黒でオープンした。年中無休だが、中盤からおやっさんが地方に行くことが多くなったため、店を閉めていることが多かった。ノリダーの顔の一つということもあり、回が進むごとに様々な変貌を遂げている。名前の由来は本家「仮面ライダー」の初期の立花の経営店から。 レギュラー放送第一回(『恐怖カルガモ男』)で喫茶アミーゴに息を切らして入ってきた猛が「おやっさん!水...、水一杯下さい...」と言い、その水をよろけながら店内にある観葉植物へかけ、「でっかくなれ観葉植物」とのアドリブを放った所スタッフに大ウケし、以後毎回このネタを披露し、回を重ねるごとに植物はどんどんでかくなっていった。 『恐怖うま男』で、実は「うま女」だった怪人が命と引き換えに産んだ子馬をアミーゴに置いた。 『恐怖留守番電話男』では、猛が親友の石橋文字隼人の改造後である留守番電話男を間違って落っことしてしまい倒してしまうが、後に修理され大運動会男によって爆破されるまでアミーゴの固定電話として置かれた。 他にもスナックを兼業したり、メニューにそば類を追加するなど、さまざまなアイデアが登場した。 終盤、「意外とミーハーだった」おやっさんがさまざまな有名人のサインをもらっては飾っていたアミーゴも、『恐怖大運動会男』では、大運動会男である元スター・西城ひろみが置いた時限爆弾によって、4秒前なのに爆発し破壊されてしまった。その時もおやっさんはサイン色紙を気にしていた。 次週(『恐怖ミッキーキャット男』)で、大道具さんの手によってリニューアルされ、それと同時におやっさんは猛を心配して、店内にノリダー秘密基地を作ってもらっていた。『ノリダーV2』でもそのままリニューアルしたアミーゴが登場していたが、終盤(最終回(第9話)まで残り3話だった)に変わったせいか、今ひとつ世間に認知されず、のちのスペシャルでは元に戻っている。 『ウルトラマンゼアス・パロディ編』にも登場し、おやっさんが来店した朝日勝人(ウルトラマンゼアス)を猛と見間違えた。 また、最後の決戦『恐怖ラッコ男』ではおやっさんがすでに亡くなっており、猛が引き継いでオーナーとなり、改築して住み込みで働くことになったが、その際にはおやっさんの遺影がアミーゴに飾られている。 世界征服をもくろむ悪の軍団で、世界中に支部を置いている。「ジョッカー総帥」こと「キング・ジョッカー男」 (演:石橋貴明)を首領として、日本支部では「ファンファン大佐」(演:岡田眞澄)が指揮をとっている。第1話では「ジョッカー将軍」であったが、当時の雑誌では「ラッコ男」による作戦が失敗した責任で「大佐」に降格されたという設定で統一されていた。 「ジョッカーのみなさん」と呼ばれるジョッカー構成員には戦闘員のほかにも一般要員・医療要員・科学技術要員・怪人候補生がおり、中には自分の意思でジョッカーに参画している者もいる。要員は男女の区別なく活動しているが、怪人候補生はほぼ男性である。 岡田はファンファン大佐としての出演が決まった際、1980年代にCMに出演した縁で革靴メーカーのマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。 後に本家平成仮面ライダーシリーズの『仮面ライダーW』や『仮面ライダーフォーゼ』の監督を手がけた坂本浩一は、倉田プロモーションでのスタントマン当時、本作にジョッカー戦闘員役で出演していた経験がある。 基本的には、「恐怖○○男」と呼ばれる怪人たちが、地球征服のための作戦を立案・実行しており、ファンファン大佐は、怪人の製造指揮、作戦の成否の監視、殉職した怪人たちの慰霊(ジョッカーの作戦室にはそれまで倒された怪人の遺影が飾られている)を主な職務とする。まれに、ファンファン大佐自身が戦う場合もあり、その際は愛刀の「5番アイアン」を振るう。また、「5番アイアン」は裏切った怪人用のためなのか、「ジョッカービーム」なる光線で怪人を一瞬にして消滅させることができる。 なお、ファンファン大佐は洗脳されていただけの一般人で、最終回(第71話)で「ジョッカー基地爆破のショックで普通の人間に戻った」。しかし、「最後の決戦」ではなぜかファンファン大佐として登場し(基地にはキング・ジョッカー男の遺影も飾られており、若干パラレルワールド化している)、事実上の首領代理として活動するが、再生ラッコ男がノリダーに倒されると、世界征服作戦を放棄した。なお、ファンファン大佐はほぼすべての回で、コーナー終盤の基地の映像に切り替わると同時に、怪人がノリダーに倒された腹いせとして「ノリダーめぇ!!」のセリフで締めるというお約束事があった(ただし、セリフの言い回しは必ずしもこれで統一されていたわけではなく、回によっては「くっそー!!」「おのれー!!」などの別のセリフで締めていたこともある)。 「恐怖蚊取り線香男」では巨人ファンであることが判明。沖縄編第1話の舞台裏において将軍昇進の機会が訪れたことがあるが、その回の怪人であるハブ男が倒されて作戦が失敗したために昇進できず、沖縄編第2話でも昇進できなかったため、新しいゴルフクラブのセットを購入できなかったと嘆いていた。 なお、2003年(平成15年)の『とんねるずのみなさんのおかげでした』の15周年スペシャルのゲストの1人として岡田眞澄が呼ばれており、ほとんど出番がなかったのにもかかわらずファンファン大佐(眼帯はなし)の服装で出演していた。倉田プロも元・ジョッカーのみなさんとして出演していたので、これが最後のジョッカー軍団出演である。 また、『ウルトラマン』のアラシ役の毒蝮三太夫を洗脳し、再び科学特捜隊のコスチュームを着せて破壊活動を行ったが、同隊のコスチュームを着て登場した「おやっさん」こと立花藤兵衛に説得され、自我を取り戻した(藤兵衛役の小林昭二は『ウルトラマン』のムラマツキャップ役も演じていた)。 ジョッカーの怪人は、仮面ノリダーと同じく人間からの改造人間で、脳手術まで完了している。鑿と金槌が用いられ、改造にかかる時間はさまざまだが、最長でも1週間とかからない。改造手術を受けると、血液の色が「緑」に変更される。改造のモチーフは特に決まっておらず、バラエティ豊かなさまざまな怪人が登場する。技は強力なものからまったく役に立たないものまで千差万別で、自分の技を返されてダメージを受けることもしばしばあった。また、台本上で嫌がったりダメージを受けるのではなく、演じる木梨憲武本人が本気で嫌がった技もあった(例:象男のつば攻撃は、石橋貴明本人がつばを垂らすという不潔なものであり、木梨も「名場面集」でこの場面を挙げ、「恐るべし、象男」と述懐している)。 なお、怪人のほぼすべては石橋貴明が演じており、「日本一のぬいぐるみ師」の称号を自称している。大柄な怪人は転倒すると石橋だけでは立ち上がれなくなり、ジョッカーの皆さんやADの助けが入る。作戦室に登場後から作戦開始まではファンファン大佐との間で掛け合い話を行うスタイルとなっている。 戦闘パターンは本家ライダー同様に「戦闘員を倒した後に1対1の対決」となることが多かったが、着ぐるみの取り回しが難しい場合は何人かのジョッカーの皆さんが残って手伝うこともあった。また、スポーツをテーマとした怪人(ゴルフ男やプロ野球男など)との対決では、ニアピン対決やホームラン競争など、その怪人が得意とするスポーツで戦うこともあった。特殊な例ではその場に居た一般人を対決に巻き込むこともあり、おひな様男などは幼稚園を襲った挙句、ノリダーに鼓舞された大勢の幼稚園児に逆襲されるという憂き目に遭っている。 前述のように、最後は高いところから転落し爆発、後から落ちてきた岩石(撮影用のプロップ)を受けて死ぬのが定番となっており、『週刊少年ジャンプ』の『ジャンプ放送局』で投稿者にネタにされたこともあった。初期はロケ地の都合(高い場所が無かったり火薬の使用許可が取れなかった等)で、転落→爆破のパターンではなく、怪人が人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりするケースもあった。 石橋は毎回着ぐるみを着るのが相当しんどかったらしく、最終回(第71話)「キング・ジョッカー男」によると「オランウータン男」ぐらいまで楽しかったが、「うま男」で初めてつらさを経験し、「花火男」のころはもう嫌だったそうである。しかし、冬の寒い日のロケでは着ぐるみのおかげで石橋だけが暖かく、元気だったこともあった。 ギャグパロディではあるが、真面目なパロディである面を持つ。 たとえば小林昭二、中江真司といった本家ライダー関係者の起用、また木梨猛のファッションやノリダーのデザインは、かなり極端なデフォルメがされているものの明らかに「旧1号」(第1話 - 第13話の仮面ライダー)の本郷猛と仮面ライダー1号のデザインをもとにしており、ノリダーが乗っている50ccのバイクも初期のサイクロン号によく似せてある。毎回終わりにノリダーが「全国のチビっ子諸君」に向けてメッセージ(「お風呂で身体を洗うとき、耳の後ろもしっかり洗おう!」など)を送っていたのも、本家のパロディーであった(のちに廃止されるが、完結編で復活している)。また、オープニング映像も本家と同じくノリダーがバイクで疾走するシーンが使われ、オープニング終了後の映像にも木梨猛が改造されるシーンと共に本家と同じようなナレーションが使われていた。完結編『最後の決戦』では、すでに物故していたにも関わらず「立花藤兵衛/小林昭二」のクレジットとともに、回想シーンの形で小林を登場させた。 ノリダーが駆る50ccバイクは、当初はヤマハ・YSR50が使用されたが、のちに番組スポンサーでもあったスズキよりGAG50の提供を受け、急遽ノリダーの愛車として使用されるようになった。元々本家仮面ライダーもスポンサーの関係でスズキ車の使用率が高かったのだが(なお、平成仮面ライダーシリーズでは番組スポンサーも務めているホンダ車が使用されている)、ノリダーと同時期に放送されていた仮面ライダーBLACKにおいては、主人公の愛車としてスズキ・GSX-R400が使用されていた。なお、バイクが50ccだったのは当時木梨が中型自動二輪免許を持っておらず普通自動車免許(50ccは乗車可)のみだったためである。 スタート当初から1話完結のストーリーを貫いてきたが、マンネリ化し始めた1989年(平成元年)秋頃から最終回に掛けてのストーリーは、2話連続(3話連続が1度だけあった)になったり、CMを挟んでのストーリーを展開するなど、小出しにしていった。特に2話連続の手法は、終盤に入った頃の1989年(平成元年)11月放送のボウリング女からで、この場合は最後に「来週につづく」のテロップが表示された。また、CMを挟んでの場合は「CMのあとすぐつづく」と表示された。 ただ、これは当時の視聴者からの受けは全く良くなかった。 なおこの背景には、前述のマンネリ化対策のほか、以下の理由があげられる。 本作は本家『仮面ライダーシリーズ』の原作者である石ノ森章太郎(石森プロ)や、制作会社の東映、および製作局である毎日放送に正式な承諾を取らず、無断でパロディ化したため、本家側から抗議を受けた挙句、続編の『仮面ノリダーV2』も含め作品のソフト化を一切禁じられた。 本家・仮面ライダーシリーズ(昭和仮面ライダーシリーズ)後期の『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーBLACK RX』で主人公・南光太郎を演じた倉田てつをは、BLACK出演当時にフジテレビ側から出演オファーが届いていたものの、結局東映側から許可が下りなかった為に断念したという。また当時の撮影現場では、ノリダーに関する話題はタブーであったとのことである。 一方で、昭和ライダーシリーズ前期から中期の初代『仮面ライダー』~『仮面ライダーZX』のプロデューサーであった平山亨の息子が、平山自身も仮面ノリダー本編を笑いながら見ていたと証言している。 当時は「バラエティ番組のソフト化」が皆無といっていい状況であり(本作もバラエティ番組の一コーナーである)、基本的に出演者とはソフト販売を前提としない放送のみの契約であった。そのため仮にこのような軋轢がなかったとしても、あらためて各出演者(故人の場合はその遺族)との再契約の必要が生じるなど、結局権利問題の面でソフト化のハードルは非常に高いものとなっている。しかしながらDVD化の署名運動まで行われるなど、現在においても人気は根強い。 同時期に放送されていた『オレたちひょうきん族』の『かまへんライダー』や、後年同じフジテレビ系で放送された『ダウンタウンのごっつええ感じ』にて行われた『秘密戦隊ゴレンジャー』のパロディコントである『世紀末戦隊ゴレンジャイ』の場合は、当初から版権元に許可を得ていたため、問題なくソフト化されている。 一方で原作者・石ノ森としては平山と同様に容認の姿勢を示していた。もともと石ノ森は、自身が関与した特撮作品を漫画化する際(石森プロ系の漫画家による代筆も含む)、原作に則ったハードな作品とは別に、『宇宙鉄人ジョーダイン』など、ギャグ漫画としてセルフパロディ化することもしており、『秘密戦隊ゴレンジャー』に至っては自らパロディの『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』を執筆していたため、もともと抵抗がなかったという。 1989年(昭和64年)に雑誌『TVガイド』にて仮面ノリダーの特集が組まれた際にもインタビューに応じ、「横澤(彪)さんに『いつも仮面ノリダーを楽しく見てます。ありがとうございます』と、先日電話をしました」と、容認を示すコメントをしていた。 その後、2007年(平成19年)9月27日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』特番において放送された「もう一度みたい仮面ノリダーベスト10」において、初めて「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、以降『おかげでした』でノリダーの映像を放送するときには必ずこのテロップが挿入されていた。 さらに、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行った。 2019年に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』にて木梨猛役で木梨が出演。公開当日まで情報は伏せられていた。カメオ出演ではなく木梨の見せ場となるシーンは用意されているが、「ライダーとして認めてもらえず囚われていた」というメタフィクション的な設定での登場であり、仮面ノリダーに変身することはなかった。 2020年4月28日には木梨が倉庫の掃除中に見つけた仮面ノリダーの衣装を着て自身のInstagramに仮面ノリダーとして動画を投稿したうえ、同年5月2日には自身のラジオ番組『土曜朝6時 木梨の会。』で「仮面ノリダーから届いた手紙」を紹介し、いずれも2019新型コロナウイルスへの警戒とその感染拡大を防ぐための自宅待機を呼びかける内容と合わせて話題となった。 仮面ノリダーの登場人物を参照。 野球中継の延長により1989年10月5日は21時15分~不明、同年4月20日・4月27日は21時30分~22時30分で放送。 『意地悪ばあさん』との合体企画として、ファンファン大佐の代わりにジョッカーの一日大佐となった波多野たつ(演・青島幸男)がファンファン大佐のゴルフバッグが密室から消失した事件の犯人の濡れ衣を着せられ真犯人探しに奔走するという第3弾の企画もあったが、番組の第2シーズン終了で制作中止になっている。なお同作のオチはたつの「犯人さ~ん!ファンファン大佐のゴルフバッグを、返しなさ~い!キャディのひとみさんが悲しむよ!」がアミーゴまで届いて猛やマリナさん、おやっさんにファンファン大佐のプライベートがばれてしまうというものになっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『仮面ノリダー』(かめんノリダー)は、フジテレビ系列のテレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』にて放送されたコーナードラマ、およびそれに登場するヒーロー。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "木梨扮する仮面ノリダーと石橋扮する数多くの怪人が所属する悪の秘密組織『ジョッカー』との闘いを描いた、特撮番組『仮面ライダーシリーズ』のパロディドラマである。1988年(昭和63年)春の火曜ワイドスペシャル版で初回が放送され、レギュラー化した1988年(昭和63年)秋から1990年(平成2年)春まで放送された。のちに1992年(平成4年)、1993年(平成5年)、1997年(平成9年)にスペシャル版が放映されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『おかげです』のコーナーでも屈指の知名度を誇っており、小中学生の間では本家仮面ライダーを上回る人気を得ていた。本作は後年制作される仮面ライダー作品にも影響を与えており、木梨は劇場版仮面ライダーにゲスト出演も果たしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "主人公は「木梨猛」(演:木梨憲武)という白いパンタロンと植物と動物を愛する青年。彼は悪の秘密結社「ジョッカー」により改造人間「ノリダー」に改造されるも、秘密特訓基地で親友となった石橋文字隼人(後に留守番電話男に改造)によって救出され、脳改造を前に脱出、正義の味方「仮面ノリダー」として、世界平和のために戦うことを決意した。普段は人間体として、人間社会で生活しているが、ジョッカーの怪人との戦闘時においては、変身ポーズをとることによりベルトの風車に風力を与え、仮面ノリダーへと変身する。", "title": "物語・設定" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "木梨猛は中目黒在住。普段はおやっさんこと「立花藤兵衛」(演:小林昭二)の経営する「喫茶Amigo」の臨時店員として働いている。また、恋人の「マリナさん」(演:渡辺満里奈)とともに、孤児院「チビッコハウス」で子供たち(演:劇団ひまわり)の教鞭をとったり、ジョッカーによって瀕死の重傷を負った人間にサイボーグ手術を行うこともあり、一定の収入を得ながら生計を立てている模様。", "title": "物語・設定" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ナレーターも『昭和仮面ライダーシリーズ』同様、中江真司が起用され、オープニングナレーションも再現されるなど非常に凝ったパロディー作品となった。「恐怖バレーボール女」では、元ネタとなったドラマ『サインはV』と『仮面ライダーアマゾン』でナレーターを担当した納谷悟朗が登板し、その回のナレーションのほとんどを占めた。エンディングで「行け!仮面ノリダー!戦え!仮面ノリダー!」の決めゼリフを納谷一人で終わるかというところで、「待ってください納谷さん、私にも喋らせてくださいよ」と中江が乱入し、二人の決めゼリフでしめるというダブルナレーションが行われた。また、中江本人が劇中に登場し、その場でナレーションを読む回もあった。", "title": "物語・設定" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "おやっさんは木梨猛が改造人間であることを知っているが、マリナさんは知らない。そのため、猛は改造人間である自分がマリナさんとは恋人でありながら、結ばれることはないことを苦悩する描写もあった。しかし、真の完結編・『最後の決戦』のラストで結婚し、「現在も中目黒のアミーゴで幸せに暮らしているという」(ナレーションによる。以下同じ)。また、改造人間になったことを苦悩する猛に対し、おやっさんがはっぱをかける描写も存在し、本家以上に熱いセリフも散見される。", "title": "物語・設定" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なおピンチになるシーンでは、本家仮面ライダーではなく『人造人間キカイダー』(その後番組の『キカイダー01』含む)の劇中で使用した音楽(作曲・渡辺宙明)が流用されている。また、木梨猛がジョッカーの皆さんと怪人に出くわすシーンなどは、アニメ『重戦機エルガイム』の劇中で使用した音楽(作曲・若草恵)が、キングジョッカーのテーマソングとして、アニメ『機動警察パトレイバー』の劇中で使用した音楽(作曲・川井憲次)が使用されていた。", "title": "物語・設定" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "木梨猛が変身ポーズをとることによって、ベルトの風車に風力を与えて変身した正義の戦士。巨大な耳が特徴。また仮面ライダーのマスクには、複眼の下にスーツアクターの視界確保のため覗き穴が開けられていたのに倣ってか、変身後の仮面ノリダーは自分の鼻の穴周辺を黒く塗っており、視覚的に鼻の穴がかなり大きく見える。寒い場所や暑い場所では防寒のために着膨れしていたり、半袖の状態になったりしたこともある。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "番組冒頭では、手術台に拘束された猛にジョッカーの死神博士(演:石橋貴明)がノミとカナヅチで手術を施しているシーンがあった。このとき、猛が吐いたセリフは「やめろ、ジョッカー!! ぶっとばすぞー!!」であった。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また放映当時、雑誌で解剖図が掲載されたことがあるが、その内容は体の中にトランクスがある、頭脳の解説には「笑いを取ることだけを考えている」と記されているなど、かなり奇天烈なものであった。また、血の色は緑色でヘソがなく、胸には「かいぞう」、背中には「にんげん」という文字がある。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最終話(第71話)で、仮面ノリダーはジョッカー総帥の正体「キング・ジョッカー男」とともに大気圏外で爆死したかに思われたが、実は存命しており、後に戦線復帰する。1997年(平成9年)3月27日にスペシャル編で放映された『最後の決戦』では、亡くなった藤兵衛から「Amigo」のマスターを継いだとも取れる描写も登場している。また、キング・ジョッカー男も存命しており、続編「仮面ノリダーV2」では猩猩右近と共に悪の秘密組織「ゲロ・ジョッカー」を結成している。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "巨大化した初代仮面ノリダーの市街戦も描かれ、本家で後年登場する「ウルトラマンとビデオ共演時の新1号」「仮面ライダーJ」「3D映画のシャドームーン」すべてに先駆けた設定でもあった。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "変身時においては第1話では「怒ると恐~い!仮面ノリダー!!」のコールとともに、仮面ライダー1号の変身ポーズをアレンジしたようなポーズで変身していたが、基本的には「♪か~いわれ巻き巻き、ね~ぎトロ巻き巻き、巻いて巻いて、手巻き寿司、とぉー!!」と、腕を回しながら腰を振る動作と共に唱和して変身する。また、たまにジョッカーの皆さんが脇から蹴りを入れるなどの妨害を行うことがあり、その際はやり直すこともあった。この変身コールがきっかけで、後にとんねるずの二人はミツカン酢のCMに出演するようになった。また一時期、「カルーセル麻紀麻紀、ポール牧牧、巻いて巻いてマキ上田」、他にマイク真木、栗原小巻など、名前に「マキ」とつく有名人の名をパロディで使ったり、当時話題となっていた湖池屋の「スコーン」のCMフレーズを唱和して変身したこともある。しかし、ミツカン酢のCMの依頼が来てからは元に戻している。「シャワー男」のときは、時間がないからとの理由で4倍速で流れた。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「帝都大戦男」で帝都大戦男に投げ飛ばされたのを利用して早口で「♪か~いわれ巻き巻き~」を唱和したのを皮切りに、翌週からは突然「♪か~いわれ巻き巻き~」ではなく、さまざまな変身コールで変身を行っていった(「バレーボール女」での変身の際は元の変身コール)。その中でも植木等の『スーダラ節』の1フレーズである「♪スイスイ、スーダラダッタ、スラスラ、スイスイスイ」というパターンで変身することが多く、最終話(第71話)「キング・ジョッカー男」での最後の変身のときにこれを「2番」と位置づけていた。時に更衣室に置いてあった女性の下着を見て興奮した途端に変身したり、『光速エスパー』と同じパターンで変身したりしたこともある。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "変身ポーズも仮面ライダー1号(いわゆる「新1号」)のものをアレンジしているが、一定のものが決まっているわけではないらしい。本家は変身時、「お約束」で一部を除き敵が攻撃しないことに対し、こちらはそのお約束を破り変身途中でも毎回のように怪人である石橋が邪魔したため、よく途中で打ち切り一瞬で変身していた。また変身のレベルも、ある程度自分で変えられるようで、弱そうな怪人(ヒヨコ男など)が相手のときは「半分だけ変身」していた。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "仮面ノリダーはその技の豊富さでも群を抜いており、正確な数は本人ですら把握しきれていない。基本技はパンチ技の「ノリダー・パンチ」、飛び蹴り技の「ノリダー・キック」、頭突き技の「ノリダー・ヘッドバット」だが、同等の小打撃を「ノリダー・ハナミズ」でも行うことができる。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、「ジョッカーのみなさん」(演:倉田プロモーション)に対しては、「ノリダー・カーニバル&フェスティバル」で全滅させるのが基本パターンである。その以外にもさまざまなパターンが存在し、「ノリダー・海」や「ノリダー・○○爆弾」といった投下・爆発攻撃で全滅させることもある。特に「ノリダー・海」は初使用の際、溺れかけた戦闘員が出たため、以後「ノリダー・海」は「ジョッカーのみなさん」に最も恐れられる必殺技となった。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "怪人は、当初は「ノリダージャンプ&○○○」という技で高い所から落下していたが、後半に入ると「ノリダー○○○」と短縮された。最後に(岩場でなくても)岩石が落ちてくるのがパターン。ロケ地でとどめに使える高所がなかったり火薬の使用が認められなかった場合などでは、怪人は死なず人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりしている。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "劇中後半では、金色のプロテクターを身につけた「すーパーNORIだー」への二段変身をすることで、さらに強力な攻撃を可能とした。すーパーNORIだーは、体色が黄金色に変化し声も約1オクターブ半高い西城秀樹風のものになる。「すーパーNORIダー参上、ボンヨヨヨ〜ン!」が決めゼリフ。ただ、実際は登場すると真面目に戦って倒すだけのパターンしかできなかったために扱い方が難しく、結局登場機会も少ないまま「北海道男」以降登場することはなかった。その後、プロテクターが「ノリダー秘密基地」に飾られているのが確認できる。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、すーパーNORIだーのプロテクターは、初期に撮影スタントマンが使用していた通常ノリダー色のプロテクターを再塗装したものである。このスタントマン用がすーパーNORIだー色に更新される前、トナカイ男の回で『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)スタジオでの対戦でノリダーが使用している。また、仮面ノリダーのプロテクターは初代と2代目があり、初代はラッコ男 - 1989年(平成元年)末まで頻繁に使われていたもので、2代目は北海道男で初登場している。初登場時、ノリダー自ら「プロテクターおニューだもんね」と言及している。しかし、その後しばらく2代目の使用例はなかったが、1990年代(スペシャル含む)に入り2代目プロテクターが主流となる。1997年(平成9年)『最後の決戦』ではノリダーが2代目、分身(岡村)が初代を使用している。すーパーNORIだーのスーツは仮面ライダー新1号と同じく黒字に2本の縦ラインが入っている。このスーツは続編でもある『仮面ノリダーV2』のスーツに使用された。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ヘルメットに関しても、特別編の『ゴキブリ男』から新しいものに交換されているのが色艶から確認できる(黒から緑に変わっている)。ノリダーヘルメットは1つ7万円もするそうである(スペシャルで木梨が言及)。なお、初代ヘルメットは、木梨の小父が営む喫茶店「なごみ堂」に飾られている。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "仮面ノリダーは、握り拳大のカプセルに「チビノリダー」(演:伊藤淳史)を収納・携帯しており、自身のピンチのときに呼び出して、ともに戦うこともあった。共に繰り出す必殺技は、単独時の数倍にも達する。なお、子供に関連する行事時における戦闘では、かなりの頻度で呼び出していた。石橋演じる怪人は、チビノリダーに対して、不意打ちを食らわせるなど大人気なくかつ卑怯極まりない攻撃をたびたび繰り出していた。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "演じていた伊藤淳史は当時4~6歳という幼い時期の出演だったため、当時のことをよく覚えていないという。だが、木梨からは当時のことを高く評価されており、いまだに「チビノリダー」と呼ばれることも多い。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、カプセル収納状態のチビノリダーは、番組エンディングで紹介されていた視聴者イラストコーナーで採用された者にプレゼントされていた、ノリダー特製キーホルダー人形を流用している。一般販売などはされなかった非売品であるため、大変レアなグッズとなっており、巷では無許可のニセモノ商品などが多数市販されていた。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "元ネタは仮面ライダー2号と『ウルトラセブン』に登場するカプセル怪獣(ミクラス、ウインダム、アギラ)である。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "仮面ノリダーV2終了後の特別編のエピソード(1993年(平成5年)11月4日)において、紺野美沙子演じる「女ノリダー」が登場、初代仮面ノリダーと共にジョッカー残党に改造された実兄(ゴキブリ男)と対決した。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、最終回のエピソード(1997年(平成9年)3月27日)では13歳になったチビノリダーに加え「ノリダーの分身」としてナインティナインの岡村隆史が登場(石橋には「チビノリダーより小さい」と言われていた)。当番組自体はおろかとんねるずとしても、他のお笑いタレントとの共演がほぼ皆無だった時代でのこの組み合わせは視聴者を大変驚かせ、また注目を浴びた。なお、この際使用された衣装一式は岡村が貰い受け、大事に持ち帰ったそうである。またこの衣装は岡村が日本テレビ系の番組『ナイナイサイズ!』で「大事な宝物」として紹介したこともある。", "title": "仮面ノリダー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "おやっさんが経営するアミーゴは15年前(1974年ごろ)に中目黒でオープンした。年中無休だが、中盤からおやっさんが地方に行くことが多くなったため、店を閉めていることが多かった。ノリダーの顔の一つということもあり、回が進むごとに様々な変貌を遂げている。名前の由来は本家「仮面ライダー」の初期の立花の経営店から。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "レギュラー放送第一回(『恐怖カルガモ男』)で喫茶アミーゴに息を切らして入ってきた猛が「おやっさん!水...、水一杯下さい...」と言い、その水をよろけながら店内にある観葉植物へかけ、「でっかくなれ観葉植物」とのアドリブを放った所スタッフに大ウケし、以後毎回このネタを披露し、回を重ねるごとに植物はどんどんでかくなっていった。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『恐怖うま男』で、実は「うま女」だった怪人が命と引き換えに産んだ子馬をアミーゴに置いた。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "『恐怖留守番電話男』では、猛が親友の石橋文字隼人の改造後である留守番電話男を間違って落っことしてしまい倒してしまうが、後に修理され大運動会男によって爆破されるまでアミーゴの固定電話として置かれた。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "他にもスナックを兼業したり、メニューにそば類を追加するなど、さまざまなアイデアが登場した。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "終盤、「意外とミーハーだった」おやっさんがさまざまな有名人のサインをもらっては飾っていたアミーゴも、『恐怖大運動会男』では、大運動会男である元スター・西城ひろみが置いた時限爆弾によって、4秒前なのに爆発し破壊されてしまった。その時もおやっさんはサイン色紙を気にしていた。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "次週(『恐怖ミッキーキャット男』)で、大道具さんの手によってリニューアルされ、それと同時におやっさんは猛を心配して、店内にノリダー秘密基地を作ってもらっていた。『ノリダーV2』でもそのままリニューアルしたアミーゴが登場していたが、終盤(最終回(第9話)まで残り3話だった)に変わったせいか、今ひとつ世間に認知されず、のちのスペシャルでは元に戻っている。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンゼアス・パロディ編』にも登場し、おやっさんが来店した朝日勝人(ウルトラマンゼアス)を猛と見間違えた。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、最後の決戦『恐怖ラッコ男』ではおやっさんがすでに亡くなっており、猛が引き継いでオーナーとなり、改築して住み込みで働くことになったが、その際にはおやっさんの遺影がアミーゴに飾られている。", "title": "アミーゴ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "世界征服をもくろむ悪の軍団で、世界中に支部を置いている。「ジョッカー総帥」こと「キング・ジョッカー男」 (演:石橋貴明)を首領として、日本支部では「ファンファン大佐」(演:岡田眞澄)が指揮をとっている。第1話では「ジョッカー将軍」であったが、当時の雑誌では「ラッコ男」による作戦が失敗した責任で「大佐」に降格されたという設定で統一されていた。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「ジョッカーのみなさん」と呼ばれるジョッカー構成員には戦闘員のほかにも一般要員・医療要員・科学技術要員・怪人候補生がおり、中には自分の意思でジョッカーに参画している者もいる。要員は男女の区別なく活動しているが、怪人候補生はほぼ男性である。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "岡田はファンファン大佐としての出演が決まった際、1980年代にCMに出演した縁で革靴メーカーのマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "後に本家平成仮面ライダーシリーズの『仮面ライダーW』や『仮面ライダーフォーゼ』の監督を手がけた坂本浩一は、倉田プロモーションでのスタントマン当時、本作にジョッカー戦闘員役で出演していた経験がある。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "基本的には、「恐怖○○男」と呼ばれる怪人たちが、地球征服のための作戦を立案・実行しており、ファンファン大佐は、怪人の製造指揮、作戦の成否の監視、殉職した怪人たちの慰霊(ジョッカーの作戦室にはそれまで倒された怪人の遺影が飾られている)を主な職務とする。まれに、ファンファン大佐自身が戦う場合もあり、その際は愛刀の「5番アイアン」を振るう。また、「5番アイアン」は裏切った怪人用のためなのか、「ジョッカービーム」なる光線で怪人を一瞬にして消滅させることができる。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、ファンファン大佐は洗脳されていただけの一般人で、最終回(第71話)で「ジョッカー基地爆破のショックで普通の人間に戻った」。しかし、「最後の決戦」ではなぜかファンファン大佐として登場し(基地にはキング・ジョッカー男の遺影も飾られており、若干パラレルワールド化している)、事実上の首領代理として活動するが、再生ラッコ男がノリダーに倒されると、世界征服作戦を放棄した。なお、ファンファン大佐はほぼすべての回で、コーナー終盤の基地の映像に切り替わると同時に、怪人がノリダーに倒された腹いせとして「ノリダーめぇ!!」のセリフで締めるというお約束事があった(ただし、セリフの言い回しは必ずしもこれで統一されていたわけではなく、回によっては「くっそー!!」「おのれー!!」などの別のセリフで締めていたこともある)。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「恐怖蚊取り線香男」では巨人ファンであることが判明。沖縄編第1話の舞台裏において将軍昇進の機会が訪れたことがあるが、その回の怪人であるハブ男が倒されて作戦が失敗したために昇進できず、沖縄編第2話でも昇進できなかったため、新しいゴルフクラブのセットを購入できなかったと嘆いていた。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、2003年(平成15年)の『とんねるずのみなさんのおかげでした』の15周年スペシャルのゲストの1人として岡田眞澄が呼ばれており、ほとんど出番がなかったのにもかかわらずファンファン大佐(眼帯はなし)の服装で出演していた。倉田プロも元・ジョッカーのみなさんとして出演していたので、これが最後のジョッカー軍団出演である。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、『ウルトラマン』のアラシ役の毒蝮三太夫を洗脳し、再び科学特捜隊のコスチュームを着せて破壊活動を行ったが、同隊のコスチュームを着て登場した「おやっさん」こと立花藤兵衛に説得され、自我を取り戻した(藤兵衛役の小林昭二は『ウルトラマン』のムラマツキャップ役も演じていた)。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ジョッカーの怪人は、仮面ノリダーと同じく人間からの改造人間で、脳手術まで完了している。鑿と金槌が用いられ、改造にかかる時間はさまざまだが、最長でも1週間とかからない。改造手術を受けると、血液の色が「緑」に変更される。改造のモチーフは特に決まっておらず、バラエティ豊かなさまざまな怪人が登場する。技は強力なものからまったく役に立たないものまで千差万別で、自分の技を返されてダメージを受けることもしばしばあった。また、台本上で嫌がったりダメージを受けるのではなく、演じる木梨憲武本人が本気で嫌がった技もあった(例:象男のつば攻撃は、石橋貴明本人がつばを垂らすという不潔なものであり、木梨も「名場面集」でこの場面を挙げ、「恐るべし、象男」と述懐している)。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、怪人のほぼすべては石橋貴明が演じており、「日本一のぬいぐるみ師」の称号を自称している。大柄な怪人は転倒すると石橋だけでは立ち上がれなくなり、ジョッカーの皆さんやADの助けが入る。作戦室に登場後から作戦開始まではファンファン大佐との間で掛け合い話を行うスタイルとなっている。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "戦闘パターンは本家ライダー同様に「戦闘員を倒した後に1対1の対決」となることが多かったが、着ぐるみの取り回しが難しい場合は何人かのジョッカーの皆さんが残って手伝うこともあった。また、スポーツをテーマとした怪人(ゴルフ男やプロ野球男など)との対決では、ニアピン対決やホームラン競争など、その怪人が得意とするスポーツで戦うこともあった。特殊な例ではその場に居た一般人を対決に巻き込むこともあり、おひな様男などは幼稚園を襲った挙句、ノリダーに鼓舞された大勢の幼稚園児に逆襲されるという憂き目に遭っている。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "前述のように、最後は高いところから転落し爆発、後から落ちてきた岩石(撮影用のプロップ)を受けて死ぬのが定番となっており、『週刊少年ジャンプ』の『ジャンプ放送局』で投稿者にネタにされたこともあった。初期はロケ地の都合(高い場所が無かったり火薬の使用許可が取れなかった等)で、転落→爆破のパターンではなく、怪人が人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりするケースもあった。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "石橋は毎回着ぐるみを着るのが相当しんどかったらしく、最終回(第71話)「キング・ジョッカー男」によると「オランウータン男」ぐらいまで楽しかったが、「うま男」で初めてつらさを経験し、「花火男」のころはもう嫌だったそうである。しかし、冬の寒い日のロケでは着ぐるみのおかげで石橋だけが暖かく、元気だったこともあった。", "title": "ジョッカー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ギャグパロディではあるが、真面目なパロディである面を持つ。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "たとえば小林昭二、中江真司といった本家ライダー関係者の起用、また木梨猛のファッションやノリダーのデザインは、かなり極端なデフォルメがされているものの明らかに「旧1号」(第1話 - 第13話の仮面ライダー)の本郷猛と仮面ライダー1号のデザインをもとにしており、ノリダーが乗っている50ccのバイクも初期のサイクロン号によく似せてある。毎回終わりにノリダーが「全国のチビっ子諸君」に向けてメッセージ(「お風呂で身体を洗うとき、耳の後ろもしっかり洗おう!」など)を送っていたのも、本家のパロディーであった(のちに廃止されるが、完結編で復活している)。また、オープニング映像も本家と同じくノリダーがバイクで疾走するシーンが使われ、オープニング終了後の映像にも木梨猛が改造されるシーンと共に本家と同じようなナレーションが使われていた。完結編『最後の決戦』では、すでに物故していたにも関わらず「立花藤兵衛/小林昭二」のクレジットとともに、回想シーンの形で小林を登場させた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ノリダーが駆る50ccバイクは、当初はヤマハ・YSR50が使用されたが、のちに番組スポンサーでもあったスズキよりGAG50の提供を受け、急遽ノリダーの愛車として使用されるようになった。元々本家仮面ライダーもスポンサーの関係でスズキ車の使用率が高かったのだが(なお、平成仮面ライダーシリーズでは番組スポンサーも務めているホンダ車が使用されている)、ノリダーと同時期に放送されていた仮面ライダーBLACKにおいては、主人公の愛車としてスズキ・GSX-R400が使用されていた。なお、バイクが50ccだったのは当時木梨が中型自動二輪免許を持っておらず普通自動車免許(50ccは乗車可)のみだったためである。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "スタート当初から1話完結のストーリーを貫いてきたが、マンネリ化し始めた1989年(平成元年)秋頃から最終回に掛けてのストーリーは、2話連続(3話連続が1度だけあった)になったり、CMを挟んでのストーリーを展開するなど、小出しにしていった。特に2話連続の手法は、終盤に入った頃の1989年(平成元年)11月放送のボウリング女からで、この場合は最後に「来週につづく」のテロップが表示された。また、CMを挟んでの場合は「CMのあとすぐつづく」と表示された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ただ、これは当時の視聴者からの受けは全く良くなかった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なおこの背景には、前述のマンネリ化対策のほか、以下の理由があげられる。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本作は本家『仮面ライダーシリーズ』の原作者である石ノ森章太郎(石森プロ)や、制作会社の東映、および製作局である毎日放送に正式な承諾を取らず、無断でパロディ化したため、本家側から抗議を受けた挙句、続編の『仮面ノリダーV2』も含め作品のソフト化を一切禁じられた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "本家・仮面ライダーシリーズ(昭和仮面ライダーシリーズ)後期の『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーBLACK RX』で主人公・南光太郎を演じた倉田てつをは、BLACK出演当時にフジテレビ側から出演オファーが届いていたものの、結局東映側から許可が下りなかった為に断念したという。また当時の撮影現場では、ノリダーに関する話題はタブーであったとのことである。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一方で、昭和ライダーシリーズ前期から中期の初代『仮面ライダー』~『仮面ライダーZX』のプロデューサーであった平山亨の息子が、平山自身も仮面ノリダー本編を笑いながら見ていたと証言している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "当時は「バラエティ番組のソフト化」が皆無といっていい状況であり(本作もバラエティ番組の一コーナーである)、基本的に出演者とはソフト販売を前提としない放送のみの契約であった。そのため仮にこのような軋轢がなかったとしても、あらためて各出演者(故人の場合はその遺族)との再契約の必要が生じるなど、結局権利問題の面でソフト化のハードルは非常に高いものとなっている。しかしながらDVD化の署名運動まで行われるなど、現在においても人気は根強い。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "同時期に放送されていた『オレたちひょうきん族』の『かまへんライダー』や、後年同じフジテレビ系で放送された『ダウンタウンのごっつええ感じ』にて行われた『秘密戦隊ゴレンジャー』のパロディコントである『世紀末戦隊ゴレンジャイ』の場合は、当初から版権元に許可を得ていたため、問題なくソフト化されている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一方で原作者・石ノ森としては平山と同様に容認の姿勢を示していた。もともと石ノ森は、自身が関与した特撮作品を漫画化する際(石森プロ系の漫画家による代筆も含む)、原作に則ったハードな作品とは別に、『宇宙鉄人ジョーダイン』など、ギャグ漫画としてセルフパロディ化することもしており、『秘密戦隊ゴレンジャー』に至っては自らパロディの『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』を執筆していたため、もともと抵抗がなかったという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1989年(昭和64年)に雑誌『TVガイド』にて仮面ノリダーの特集が組まれた際にもインタビューに応じ、「横澤(彪)さんに『いつも仮面ノリダーを楽しく見てます。ありがとうございます』と、先日電話をしました」と、容認を示すコメントをしていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "その後、2007年(平成19年)9月27日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』特番において放送された「もう一度みたい仮面ノリダーベスト10」において、初めて「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、以降『おかげでした』でノリダーの映像を放送するときには必ずこのテロップが挿入されていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "さらに、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行った。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2019年に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』にて木梨猛役で木梨が出演。公開当日まで情報は伏せられていた。カメオ出演ではなく木梨の見せ場となるシーンは用意されているが、「ライダーとして認めてもらえず囚われていた」というメタフィクション的な設定での登場であり、仮面ノリダーに変身することはなかった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2020年4月28日には木梨が倉庫の掃除中に見つけた仮面ノリダーの衣装を着て自身のInstagramに仮面ノリダーとして動画を投稿したうえ、同年5月2日には自身のラジオ番組『土曜朝6時 木梨の会。』で「仮面ノリダーから届いた手紙」を紹介し、いずれも2019新型コロナウイルスへの警戒とその感染拡大を防ぐための自宅待機を呼びかける内容と合わせて話題となった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "仮面ノリダーの登場人物を参照。", "title": "出演者" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "野球中継の延長により1989年10月5日は21時15分~不明、同年4月20日・4月27日は21時30分~22時30分で放送。", "title": "放映リスト" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "『意地悪ばあさん』との合体企画として、ファンファン大佐の代わりにジョッカーの一日大佐となった波多野たつ(演・青島幸男)がファンファン大佐のゴルフバッグが密室から消失した事件の犯人の濡れ衣を着せられ真犯人探しに奔走するという第3弾の企画もあったが、番組の第2シーズン終了で制作中止になっている。なお同作のオチはたつの「犯人さ~ん!ファンファン大佐のゴルフバッグを、返しなさ~い!キャディのひとみさんが悲しむよ!」がアミーゴまで届いて猛やマリナさん、おやっさんにファンファン大佐のプライベートがばれてしまうというものになっている。", "title": "放映リスト" } ]
『仮面ノリダー』(かめんノリダー)は、フジテレビ系列のテレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』にて放送されたコーナードラマ、およびそれに登場するヒーロー。
{{Pathnav|とんねるずのみなさんのおかげです|とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧|frame=1}} {{出典の明記|date=2020年12月11日 (金) 11:34 (UTC)}} 『'''仮面ノリダー'''』(かめんノリダー)は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列のテレビ番組『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』にて放送された[[コーナードラマ]]、およびそれに登場するヒーロー。 == 概要 == 木梨扮する仮面ノリダーと石橋扮する数多くの怪人が所属する悪の秘密組織『ジョッカー』との闘いを描いた、[[特撮]]番組『[[仮面ライダーシリーズ]]』の[[パロディ]]ドラマである。[[1988年]](昭和63年)春の[[火曜ワイドスペシャル]]版で初回が放送され、レギュラー化した[[1988年]](昭和63年)秋から[[1990年]](平成2年)春まで放送された。のちに[[1992年]](平成4年)、[[1993年]](平成5年)、[[1997年]](平成9年)にスペシャル版が放映されている。 『おかげです』のコーナーでも屈指の知名度を誇っており、小中学生の間では本家仮面ライダー{{efn|レギュラー放送期間中の1988年秋から1989年秋までは『[[仮面ライダーBLACK]]』『[[仮面ライダーBLACK RX]]』が放送されていた。}}を上回る人気を得ていた。本作は後年制作される仮面ライダー作品にも影響を与えており、木梨は劇場版仮面ライダーに[[劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer|ゲスト出演]]も果たしている。 == 物語・設定 == 主人公は「木梨猛」(演:[[木梨憲武]])という白い[[ベルボトム|パンタロン]]{{efn|『仮面ライダー』オリジナルの本郷猛も劇中で履いている。}}と植物と動物を愛する青年。彼は悪の秘密結社「ジョッカー」により改造人間「ノリダー」に改造されるも、秘密特訓基地で親友となった石橋文字隼人(後に留守番電話男に改造)によって救出され、脳改造を前に脱出、[[正義の味方]]「仮面ノリダー」として、世界平和のために戦うことを決意した。普段は人間体として、人間社会で生活しているが、ジョッカーの怪人との戦闘時においては、変身ポーズをとることによりベルトの風車に風力を与え、仮面ノリダーへと変身する。 木梨猛は[[中目黒]]在住。普段はおやっさんこと「[[立花藤兵衛]]」(演:[[小林昭二]])の経営する「喫茶Amigo」の臨時店員として働いている。また、恋人の「マリナさん」(演:[[渡辺満里奈]])とともに、孤児院「チビッコハウス」{{efn|『[[タイガーマスク]]』からの設定借用。ただし、こちらの主人公・伊達直人はさまざまな援助は行うものの孤児院の正職員でも臨時教員でもない。}}で子供たち(演:[[劇団ひまわり]])の教鞭をとったり、ジョッカーによって瀕死の重傷を負った人間にサイボーグ手術を行うこともあり、一定の収入を得ながら生計を立てている模様。 [[ナレーター]]も『昭和仮面ライダーシリーズ』同様、[[中江真司]]が起用され、オープニング[[ナレーション]]も再現されるなど非常に凝ったパロディー作品となった。「恐怖バレーボール女」では、元ネタとなったドラマ『[[サインはV]]』と『[[仮面ライダーアマゾン]]』でナレーターを担当した[[納谷悟朗]]が登板し、その回のナレーションのほとんどを占めた。エンディングで「行け!仮面ノリダー!戦え!仮面ノリダー!」の決めゼリフを納谷一人で終わるかというところで、「待ってください納谷さん、私にも喋らせてくださいよ」と中江が乱入し、二人の決めゼリフでしめるというダブルナレーションが行われた。また、中江本人が劇中に登場し、その場でナレーションを読む回もあった。 おやっさんは木梨猛が改造人間であることを知っているが、マリナさんは知らない。そのため、猛は改造人間である自分がマリナさんとは恋人でありながら、結ばれることはないことを苦悩する描写もあった。しかし、真の完結編・『最後の決戦』のラストで結婚し、「現在も中目黒のアミーゴで幸せに暮らしているという」(ナレーションによる。以下同じ)。また、改造人間になったことを苦悩する猛に対し、おやっさんがはっぱをかける描写も存在し、本家以上に熱いセリフも散見される。 なおピンチになるシーンでは、本家仮面ライダーではなく『[[人造人間キカイダー]]』(その後番組の『[[キカイダー01]]』含む)の劇中で使用した音楽(作曲・[[渡辺宙明]])が流用{{efn|同じくピンチになるシーンでは先述した『人造人間キカイダー』のほか、ごく稀に『[[勇者ライディーン]]』の劇中で使用した音楽(作曲・[[小森昭宏]])が使用される場合もあった。}}されている。また、木梨猛がジョッカーの皆さんと怪人に出くわすシーンなどは、アニメ『[[重戦機エルガイム]]』の劇中で使用した音楽(作曲・[[若草恵]])が、キングジョッカーのテーマソングとして、アニメ『[[機動警察パトレイバー]]』の劇中で使用した音楽(作曲・[[川井憲次]])が使用されていた{{efn|その他にも、ジョッカーの皆さんが登場するシーンでは、OVA『[[エリア88]]』のBGMが、ジョッカーの怪人が登場するシーンでは[[アート・オブ・ノイズ]]の「Dragnet」が、第33話で猛が自転車にひかれるシーンと第34話でガマガエル男がトラックにひかれるシーンでは『[[世界忍者戦ジライヤ]]』のブリッジ曲が使用されている。また、「ヒゲゴジラVS仮面ノリダー」の回では、パロディの元ネタとなった[[ゴジラvsビオランテ]]のBGMが使用されている。}}。 == 仮面ノリダー == 木梨猛が変身ポーズをとることによって、ベルトの風車に風力を与えて変身した正義の戦士。巨大な耳が特徴。また仮面ライダーのマスクには、複眼の下にスーツアクターの視界確保のため覗き穴が開けられていたのに倣ってか、変身後の仮面ノリダーは自分の鼻の穴周辺を黒く塗っており、視覚的に鼻の穴がかなり大きく見える。寒い場所や暑い場所では防寒のために着膨れしていたり、半袖の状態になったりしたこともある。 番組冒頭では、手術台に拘束された猛にジョッカーの死神博士(演:石橋貴明)が[[鑿|ノミ]]と[[槌|カナヅチ]]で[[手術]]を施しているシーンがあった。このとき、猛が吐いたセリフは「やめろ、ジョッカー!! ぶっとばすぞー!!」であった。 また放映当時、雑誌で解剖図が掲載されたことがあるが、その内容は体の中にトランクスがある、頭脳の解説には「笑いを取ることだけを考えている」と記されているなど、かなり奇天烈なものであった。また、血の色は緑色でヘソがなく、胸には「かいぞう」、背中には「にんげん」という文字がある。 最終話(第71話)で、仮面ノリダーはジョッカー総帥の正体「キング・ジョッカー男」とともに大気圏外で爆死したかに思われたが、実は存命しており、後に戦線復帰する{{efn|この流れは『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』の[[最終回]](第54話)及びそれ以降の展開と全く同じである。}}。[[1997年]](平成9年)[[3月27日]]にスペシャル編で放映された『最後の決戦』では、亡くなった藤兵衛{{efn|name=Tobei}}から「Amigo」のマスターを継いだとも取れる描写も登場している。また、キング・ジョッカー男も存命しており、続編「[[仮面ノリダーV2]]」では猩猩右近と共に悪の秘密組織「ゲロ・ジョッカー」を結成している。 巨大化した初代仮面ノリダーの市街戦も描かれ、本家で後年登場する「[[ウルトラマンVS仮面ライダー|ウルトラマンとビデオ共演]]時の新1号」「[[仮面ライダーJ]]」「[[仮面ライダーワールド|3D映画]]のシャドームーン」すべてに先駆けた設定でもあった。 === 変身 === 変身時においては第1話では「'''怒ると恐~い!仮面ノリダー!!'''」のコールとともに、仮面ライダー1号の変身ポーズをアレンジしたようなポーズで変身していたが、基本的には「'''♪か~いわれ巻き巻き、ね~ぎトロ巻き巻き、巻いて巻いて、手巻き寿司、とぉー!!'''」{{efn|由来は当時流れていた「ミツカン すし酢」([[ミツカン]])のCMのフレーズ。原曲は童謡「[[いとまきのうた]]」。}}{{efn|設定上ではこのフレーズを唱和することで「臨時収入が期待できる」とされていた。CMではこの後「'''う~めじそ巻き巻き、タ~ラコも巻き巻き、な~んでも巻いて、手巻き寿司'''」と続いており、[[1989年]](平成元年)4月27日放送分の「スチームアイロン男」の回ではそれも唱和している(ただし、CMにある「土曜日は、手巻きの日。ミツカン酢で、今年もどうぞ。」の締めゼリフは省略)。}}と、腕を回しながら腰を振る動作と共に唱和して変身する{{efn|但し、必ずしもすべて言わなければいけないというわけではない。}}。また、たまにジョッカーの皆さんが脇から蹴りを入れるなどの妨害を行うことがあり、その際はやり直すこともあった。この変身コールがきっかけで、後にとんねるずの二人はミツカン酢のCMに出演するようになった{{efn|[[1997年]]の最終回スペシャルに仮面ノリダーの分身として出演したナインティナインの岡村隆史は、[[2008年]]にコンビでミツカン酢のCMに出演してこのフレーズを歌っている。}}。また一時期、「'''[[カルーセル麻紀]]麻紀、[[ポール牧]]牧、巻いて巻いて[[マキ上田]]'''」、他に[[マイク真木]]、[[栗原小巻]]など、名前に「マキ」とつく有名人の名をパロディで使ったり、当時話題となっていた[[湖池屋]]の「[[スコーン]]」のCMフレーズを唱和して変身したこともある。しかし、ミツカン酢のCMの依頼が来てからは元に戻している。「シャワー男」のときは、時間がないからとの理由で4倍速で流れた。 「[[帝都大戦]]男」で帝都大戦男に投げ飛ばされたのを利用して早口で「♪か~いわれ巻き巻き~」を唱和したのを皮切りに、翌週からは突然「♪か~いわれ巻き巻き~」ではなく、さまざまな変身コールで変身を行っていった(「バレーボール女」での変身の際は元の変身コール)。その中でも[[植木等]]の『[[スーダラ節]]』の1フレーズである「'''♪スイスイ、スーダラダッタ、スラスラ、スイスイスイ'''」というパターンで変身することが多く、最終話(第71話)「キング・ジョッカー男」での最後の変身のときにこれを「2番」と位置づけていた。時に更衣室に置いてあった女性の下着を見て興奮した途端に変身したり、『[[光速エスパー]]』と同じパターンで変身したりしたこともある。 変身ポーズも仮面ライダー1号(いわゆる「新1号」)のものをアレンジしているが、一定のものが決まっているわけではないらしい。本家は変身時、「お約束」で一部を除き敵が攻撃しないことに対し、こちらはそのお約束を破り変身途中でも毎回のように怪人である石橋が邪魔したため、よく途中で打ち切り一瞬で変身していた。また変身のレベルも、ある程度自分で変えられるようで、弱そうな怪人(ヒヨコ男など)が相手のときは「半分だけ変身」していた。 === 技 === 仮面ノリダーはその技の豊富さでも群を抜いており、正確な数は本人ですら把握しきれていない。基本技はパンチ技の「ノリダー・パンチ」、飛び蹴り技の「ノリダー・キック」、頭突き技の「ノリダー・ヘッドバット」だが、同等の小打撃を「ノリダー・ハナミズ」でも行うことができる。 また、「ジョッカーのみなさん」(演:[[倉田プロモーション]])に対しては、「ノリダー・カーニバル&フェスティバル」で全滅させるのが基本パターンである{{efn|この技で爆破が起きたのは後のスペシャルのみ。}}。その以外にもさまざまなパターンが存在し、「ノリダー・海」や「ノリダー・○○爆弾」といった投下・爆発攻撃で全滅させることもある。特に「ノリダー・海」は初使用の際、溺れかけた戦闘員が出たため、以後「ノリダー・海」は「ジョッカーのみなさん」に最も恐れられる必殺技となった。 * なお、この「ノリダー・海」初使用の際に戦闘員が溺れかけたのは演出ではなく、完全な事故である。2回目は無事成功し、その放映の際には前回の映像と共に木梨が「今回は事故が起きなくて良かった」という旨の発言をしていた。また、真冬の東京湾に落ちるときには、ノリダーが「心臓叩いてー!」と気遣う場面もある。 怪人は、当初は「ノリダージャンプ&○○○」という技で高い所から落下していたが、後半に入ると「ノリダー○○○」と短縮された。最後に(岩場でなくても)岩石が落ちてくるのがパターン。ロケ地でとどめに使える高所がなかったり火薬の使用が認められなかった場合などでは、怪人は死なず人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりしている。 劇中後半では、金色のプロテクターを身につけた「'''すーパーNORIだー'''」への二段変身をすることで、さらに強力な攻撃を可能とした。すーパーNORIだーは、体色が黄金色に変化し声も約1オクターブ半高い[[西城秀樹]]風のものになる{{efn|パワーが強すぎて常に脱力していないと、周囲の物を壊してしまうため。}}。「すーパーNORIダー参上、ボンヨヨヨ〜ン!」が決めゼリフ。ただ、実際は登場すると真面目に戦って倒すだけのパターンしかできなかったために扱い方が難しく、結局登場機会も少ないまま「北海道男」以降登場することはなかった。その後、プロテクターが「ノリダー秘密基地」に飾られているのが確認できる。 なお、すーパーNORIだーのプロテクターは、初期に撮影スタントマンが使用していた通常ノリダー色のプロテクターを再塗装したものである。このスタントマン用がすーパーNORIだー色に更新される前、トナカイ男の回で『[[ねるとん紅鯨団]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]])スタジオでの対戦でノリダーが使用している。また、仮面ノリダーのプロテクターは初代と2代目があり、初代はラッコ男 - [[1989年]](平成元年)末まで頻繁に使われていたもので、2代目は北海道男で初登場している。初登場時、ノリダー自ら「プロテクターおニューだもんね」と言及している。しかし、その後しばらく2代目の使用例はなかったが、1990年代(スペシャル含む)に入り2代目プロテクターが主流となる。[[1997年]](平成9年)『最後の決戦』ではノリダーが2代目、分身(岡村)が初代を使用している。すーパーNORIだーのスーツは仮面ライダー新1号と同じく黒字に2本の縦ラインが入っている。このスーツは続編でもある『[[仮面ノリダーV2]]』のスーツに使用された。 ヘルメットに関しても、特別編の『ゴキブリ男』から新しいものに交換されているのが色艶から確認できる(黒から緑に変わっている)。ノリダーヘルメットは1つ7万円もするそうである(スペシャルで木梨が言及)。なお、初代ヘルメットは、木梨の小父が営む喫茶店「なごみ堂」に飾られている。 === チビノリダー === 仮面ノリダーは、握り拳大の[[カプセル]]に「チビノリダー」(演:[[伊藤淳史]])を収納・携帯しており、自身のピンチのときに呼び出して、ともに戦うこともあった。共に繰り出す必殺技は、単独時の数倍にも達する。なお、子供に関連する行事時における戦闘では、かなりの頻度で呼び出していた。石橋演じる怪人は、チビノリダーに対して、不意打ちを食らわせるなど大人気なくかつ卑怯極まりない攻撃をたびたび繰り出していた。 演じていた伊藤淳史は当時4~6歳という幼い時期の出演だったため、当時のことをよく覚えていないという。だが、木梨からは当時のことを高く評価されており、いまだに「チビノリダー」と呼ばれることも多い。 なお、カプセル収納状態のチビノリダーは、番組エンディングで紹介されていた視聴者イラストコーナーで採用された者にプレゼントされていた、ノリダー特製キーホルダー人形を流用している。一般販売などはされなかった非売品であるため、大変レアなグッズとなっており、巷では無許可の[[バッタもん|ニセモノ商品]]などが多数市販されていた。 元ネタは[[仮面ライダー2号]]と『[[ウルトラセブン]]』に登場する[[ウルトラセブン (キャラクター)#カプセル怪獣|カプセル怪獣]]([[ミクラス (ウルトラ怪獣)|ミクラス]]、[[ウインダム (ウルトラ怪獣)|ウインダム]]、[[アギラ (ウルトラ怪獣)|アギラ]])である。 === その他のノリダー === 仮面ノリダーV2終了後の特別編のエピソード([[1993年]](平成5年)[[11月4日]])において、[[紺野美沙子]]演じる「女ノリダー」が登場、初代仮面ノリダーと共にジョッカー残党に改造された実兄(ゴキブリ男)と対決した。 また、[[最終回]]のエピソード([[1997年]](平成9年)[[3月27日]])では13歳になったチビノリダーに加え「ノリダーの分身」として[[ナインティナイン]]の[[岡村隆史]]が登場(石橋には「チビノリダーより小さい」と言われていた)。当番組自体はおろか[[とんねるず]]としても、他のお笑いタレントとの共演がほぼ皆無だった時代でのこの組み合わせは視聴者を大変驚かせ、また注目を浴びた。 == アミーゴ == おやっさんが経営するアミーゴは15年前(1974年ごろ)に中目黒でオープンした。年中無休だが、中盤からおやっさんが地方に行くことが多くなったため、店を閉めていることが多かった。ノリダーの顔の一つということもあり、回が進むごとに様々な変貌を遂げている。名前の由来は本家「仮面ライダー」の初期の立花の経営店から。 レギュラー放送第一回(『恐怖カルガモ男』)で喫茶アミーゴに息を切らして入ってきた猛が「おやっさん!水…、水一杯下さい…」と言い、その水をよろけながら店内にある観葉植物へかけ、「'''でっかくなれ観葉植物'''」とのアドリブを放った所スタッフに大ウケし、以後毎回このネタを披露し、回を重ねるごとに植物はどんどんでかくなっていった。 『恐怖うま男』で、実は「うま女」だった怪人が命と引き換えに産んだ子馬をアミーゴに置いた{{efn|この子馬はのちの「ヤシの実男」の回でおやっさんにプレゼントされた。}}。 『恐怖留守番電話男』では、猛が親友の石橋文字隼人の改造後である留守番電話男を間違って落っことしてしまい倒してしまうが{{efn|このハプニングは後の総集編でよく放送された。}}、後に修理され大運動会男によって爆破されるまでアミーゴの固定電話として置かれた。 他にもスナックを兼業したり、メニューにそば類を追加するなど、さまざまなアイデアが登場した。 終盤、「意外とミーハーだった」おやっさんがさまざまな有名人のサインをもらっては飾っていたアミーゴも、『恐怖大運動会男』では、大運動会男である元スター・西城ひろみが置いた時限爆弾によって、4秒前なのに爆発し破壊されてしまった。その時もおやっさんはサイン色紙を気にしていた。 次週(『恐怖ミッキーキャット男』)で、大道具さんの手によってリニューアルされ、それと同時におやっさんは猛を心配して、店内にノリダー秘密基地を作ってもらっていた。『ノリダーV2』でもそのままリニューアルしたアミーゴが登場していたが、終盤(最終回(第9話)まで残り3話だった)に変わったせいか、今ひとつ世間に認知されず、のちのスペシャルでは元に戻っている。 『ウルトラマンゼアス・パロディ編』にも登場し、おやっさんが来店した朝日勝人(ウルトラマンゼアス)を猛と見間違えた{{efn|どちらも木梨が演じていることから瓜二つであるため。}}。 また、最後の決戦『恐怖ラッコ男』ではおやっさんがすでに亡くなっており{{efn|name=Tobei}}、猛が引き継いでオーナーとなり、改築して住み込みで働くことになったが、その際にはおやっさんの遺影がアミーゴに飾られている。 == ジョッカー == 世界征服をもくろむ悪の軍団で、世界中に支部を置いている。「ジョッカー総帥」こと「キング・ジョッカー男」 (演:[[石橋貴明]])を首領として、日本支部では「ファンファン大佐」(演:[[岡田眞澄]])が指揮をとっている。第1話では「ジョッカー将軍」であったが、当時の雑誌では「ラッコ男」による作戦が失敗した責任で「大佐」に降格されたという設定で統一されていた。 「ジョッカーのみなさん」と呼ばれるジョッカー構成員には戦闘員のほかにも一般要員・医療要員・科学技術要員・怪人候補生がおり、中には自分の意思でジョッカーに参画している者もいる。要員は男女の区別なく活動しているが、怪人候補生はほぼ男性である。 岡田はファンファン大佐としての出演が決まった際、1980年代にCMに出演した縁で[[革靴]]メーカーの[[マドラス (企業)|マドラス]]に小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。 後に本家[[平成]][[仮面ライダーシリーズ]]の『[[仮面ライダーW]]』や『[[仮面ライダーフォーゼ]]』の監督を手がけた[[坂本浩一]]は、[[倉田プロモーション]]でのスタントマン当時、本作にジョッカー戦闘員役で出演していた経験がある。 === 活動 === 基本的には、「恐怖○○男」と呼ばれる怪人たちが、地球征服のための作戦を立案・実行しており、ファンファン大佐は、怪人の製造指揮、作戦の成否の監視、殉職した怪人たちの[[慰霊]](ジョッカーの作戦室にはそれまで倒された怪人の遺影が飾られている)を主な職務とする。まれに、ファンファン大佐自身が戦う場合もあり、その際は愛刀の「5番アイアン」を振るう。また、「5番アイアン」は裏切った怪人用のためなのか、「ジョッカービーム」なる光線で怪人を一瞬にして消滅させることができる。 なお、ファンファン大佐は洗脳されていただけの一般人で、最終回(第71話)で「ジョッカー基地爆破のショックで普通の人間に戻った」。しかし、「最後の決戦」ではなぜかファンファン大佐として登場し(基地にはキング・ジョッカー男の遺影も飾られており、若干パラレルワールド化している)、事実上の首領代理として活動するが、再生ラッコ男がノリダーに倒されると、世界征服作戦を放棄した。なお、ファンファン大佐はほぼすべての回で、コーナー終盤の基地の映像に切り替わると同時に、怪人がノリダーに倒された腹いせとして「ノリダーめぇ!!」のセリフで締めるというお約束事があった(ただし、セリフの言い回しは必ずしもこれで統一されていたわけではなく、回によっては「くっそー!!」「おのれー!!」などの別のセリフで締めていたこともある)。 「恐怖蚊取り線香男」では[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであることが判明。沖縄編第1話の舞台裏において将軍昇進の機会が訪れたことがあるが、その回の怪人であるハブ男が倒されて作戦が失敗したために昇進できず、沖縄編第2話でも昇進できなかったため、新しいゴルフクラブのセットを購入できなかったと嘆いていた。 なお、[[2003年]](平成15年)の『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の15周年スペシャルのゲストの1人として[[岡田眞澄]]が呼ばれており、ほとんど出番がなかったのにもかかわらずファンファン大佐(眼帯はなし)の服装で出演していた。倉田プロも元・ジョッカーのみなさんとして出演していたので、これが最後のジョッカー軍団出演である。 また、『[[ウルトラマン]]』のアラシ役の[[毒蝮三太夫]]を洗脳し、再び科学特捜隊のコスチュームを着せて破壊活動を行ったが、同隊のコスチュームを着て登場した「おやっさん」こと立花藤兵衛に説得され、自我を取り戻した(藤兵衛役の小林昭二は『ウルトラマン』のムラマツキャップ役も演じていた)。 === 怪人 === ジョッカーの怪人は、仮面ノリダーと同じく人間からの改造人間で、脳手術まで完了している。[[鑿]]と[[槌|金槌]]が用いられ、改造にかかる時間はさまざまだが、最長でも1週間とかからない。改造手術を受けると、血液の色が「緑」に変更される。改造のモチーフは特に決まっておらず、バラエティ豊かなさまざまな怪人が登場する。技は強力なものからまったく役に立たないものまで千差万別で、自分の技を返されてダメージを受けることもしばしばあった。また、台本上で嫌がったりダメージを受けるのではなく、演じる木梨憲武本人が本気で嫌がった技もあった(例:象男のつば攻撃は、[[石橋貴明]]本人がつばを垂らすという不潔なものであり、木梨も「名場面集」でこの場面を挙げ、「恐るべし、象男」と述懐している)。 なお、怪人のほぼすべては石橋貴明が演じており、「日本一のぬいぐるみ師」の称号を自称している{{efn|怪人登場時のテロップではその前に石橋のどうでもいいセリフ・出来事などが入る(例・「恐怖カップラーメン男」では「事情があってそぉ~っと出てきました!日本一のぬいぐるみ師」、「恐怖マラドーナ男」では「発注遅いぞ港(浩一)!by美術スタッフ一同 日本一のぬいぐるみ師」など)。}}。大柄な怪人は転倒すると石橋だけでは立ち上がれなくなり、ジョッカーの皆さんやADの助けが入る。作戦室に登場後から作戦開始まではファンファン大佐との間で掛け合い話を行うスタイルとなっている。 戦闘パターンは本家ライダー同様に「戦闘員を倒した後に1対1の対決」となることが多かったが、着ぐるみの取り回しが難しい場合は何人かのジョッカーの皆さんが残って手伝うこともあった。また、スポーツをテーマとした怪人(ゴルフ男やプロ野球男など)との対決では、ニアピン対決やホームラン競争など、その怪人が得意とするスポーツで戦うこともあった。特殊な例ではその場に居た一般人を対決に巻き込むこともあり、おひな様男などは幼稚園を襲った挙句、ノリダーに鼓舞された大勢の幼稚園児に逆襲されるという憂き目に遭っている。 前述のように、最後は高いところから転落し爆発、後から落ちてきた岩石(撮影用の[[プロップ]])を受けて死ぬのが定番となっており、『[[週刊少年ジャンプ]]』の『[[ジャンプ放送局]]』で投稿者にネタにされたこともあった{{Full|date=2020年12月}}{{efn|「ロケ地が岩場でもないのにあの岩はいったいどこから落ちて来るのか?」や「同じパターンはもう飽きたのでたまには別の方法でやられてみろ」というツッコミであった。}}。初期はロケ地の都合(高い場所が無かったり火薬の使用許可が取れなかった等)で、転落→爆破のパターンではなく、怪人が人間や動物に戻ったりジョッカー基地に送り返されたりするケースもあった。 石橋は毎回着ぐるみを着るのが相当しんどかったらしく、最終回(第71話)「キング・ジョッカー男」によると「オランウータン男」ぐらいまで楽しかったが、「うま男」で初めてつらさを経験し、「花火男」のころはもう嫌だったそうである。しかし、冬の寒い日のロケでは着ぐるみのおかげで石橋だけが暖かく、元気だったこともあった。 == エピソード == === 作風 === ギャグパロディではあるが、真面目なパロディである面を持つ。 たとえば小林昭二、中江真司といった本家ライダー関係者の起用、また木梨猛のファッションやノリダーのデザインは、かなり極端なデフォルメがされているものの明らかに「旧1号」(第1話 - 第13話の仮面ライダー)の本郷猛と仮面ライダー1号のデザインをもとにしており、ノリダーが乗っている50ccのバイクも初期のサイクロン号によく似せてある。毎回終わりにノリダーが「全国のチビっ子諸君」に向けてメッセージ(「お風呂で身体を洗うとき、耳の後ろもしっかり洗おう!」など)を送っていたのも、本家のパロディーであった(のちに廃止されるが、完結編で復活している)。また、オープニング映像も本家と同じくノリダーがバイクで疾走するシーンが使われ、オープニング終了後の映像にも木梨猛が改造されるシーンと共に本家と同じようなナレーションが使われていた。完結編『最後の決戦』では、すでに物故していたにも関わらず「立花藤兵衛/小林昭二」のクレジットとともに、回想シーンの形で小林を登場させた。 ノリダーが駆る50ccバイクは、当初は[[ヤマハ・YSR50]]が使用されたが、のちに[[番組スポンサー]]でもあった[[スズキ (企業)|スズキ]]より[[スズキ・ギャグ|GAG50]]の提供を受け、急遽ノリダーの愛車として使用されるようになった。元々本家[[仮面ライダー]]もスポンサーの関係でスズキ車の使用率が高かったのだが(なお、[[平成仮面ライダーシリーズ]]では番組スポンサーも務めている[[本田技研工業|ホンダ]]車が使用されている)、ノリダーと同時期に放送されていた[[仮面ライダーBLACK]]においては、主人公の愛車として[[スズキ・GSX-R#GSX-R400|スズキ・GSX-R400]]が使用されていた。なお、バイクが50ccだったのは当時木梨が中型[[自動二輪]]免許を持っておらず[[普通自動車免許]](50ccは乗車可)のみだったためである。 === 本家を意識してのストーリー === スタート当初から1話完結のストーリーを貫いてきたが、マンネリ化し始めた[[1989年]](平成元年)[[秋]]頃から最終回に掛けてのストーリーは、2話連続(3話連続が1度だけあった)になったり、CMを挟んでのストーリーを展開するなど、小出しにしていった。特に2話連続の手法は、終盤に入った頃の[[1989年]](平成元年)[[11月]]放送のボウリング女からで、この場合は最後に「来週につづく」のテロップが表示された。また、CMを挟んでの場合は「CMのあとすぐつづく」と表示された{{efn|このフレーズ自体は当時の「 - おかげです」ではおなじみであったが、このコーナーでは本家仮面ライダーばりの専用フォントになっていた(この形式は、『[[とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧#保毛太郎侍|保毛太郎侍]]』でも見られた)。}}。 ただ、これは当時の視聴者からの受けは全く良くなかった。 なおこの背景には、前述のマンネリ化対策のほか、以下の理由があげられる。 *当時忙しくなっていたとんねるずのほか、[[渡辺満里奈]]や[[小林昭二]]ら共演者のスケジュール確保 *他のコーナーの時間増大 *終盤の時点で登場する怪人のネタ切れ === 作品のソフト化禁止の経緯 === ==== 無断パロディ化による軋轢 ==== 本作は本家『仮面ライダーシリーズ』の原作者である[[石ノ森章太郎]]([[石森プロ]])や、制作会社の[[東映]]、および製作局である[[MBSテレビ|毎日放送]]{{efn|name="NET"}}に正式な承諾を取らず、無断でパロディ化した{{efn|一方、同じくとんねるず出演ながら[[円谷プロダクション|円谷プロ]]と正式にタイアップし、制作も本家が担当した劇場作品「[[ウルトラマンゼアス]]」は同時期に放映されたテレビシリーズ「[[ウルトラマンティガ]]」の盛り上げに一役買い、キャラクターとしても公式認定された。また、本番組のコントでも『デビルタカマン』は第1話で「映像協力・東映株式会社」のクレジットが表示されていた。}}ため、本家側から抗議を受けた挙句、続編の『[[仮面ノリダーV2]]』も含め作品のソフト化を一切禁じられた<ref>関連する外部リンク:石森プロ 掲示板:記事番号4737以降に記述<br />http://www.ishimoripro.com/ibbs/sho.cgi?namber=4722&mode=res&page=&RES=1-20&no=0{{リンク切れ|date=2020年12月}}{{出典無効|date=2020年12月}}</ref>。 本家・仮面ライダーシリーズ(昭和仮面ライダーシリーズ)後期の『[[仮面ライダーBLACK]]』『[[仮面ライダーBLACK RX]]』で主人公・南光太郎を演じた[[倉田てつを]]は、BLACK出演当時にフジテレビ側から出演オファーが届いていたものの、結局東映側から許可が下りなかった為に断念したという。また当時の撮影現場では、ノリダーに関する話題はタブーであったとのことである<ref>[https://web.archive.org/web/20160315154437/https://weekly-g.jp/c05roman/s01horoniga/ho119/ 元 仮面ライダーBLACKが語る“ライダー”の苦悩] 週刊GEORGIA 2016年3月15日のインターネットアーカイブより</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20160315005033/https://news.walkerplus.com/article/74081/ “大人の事情”で幻に!「仮面ライダーBLACK」VS「仮面ノリダー」]、ニュースウォーカー(週刊ジョージア)、2016年3月15日 7:01 配信。</ref>。 一方で、昭和ライダーシリーズ前期から中期の初代『[[仮面ライダー]]』~『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!|仮面ライダーZX]]』のプロデューサーであった[[平山亨]]の息子が、平山自身も仮面ノリダー本編を笑いながら見ていたと証言している<ref>[https://ameblo.jp/riderproducer/entry-12018641906.html 拡散希望!!【父、平山亨プロデューサーと役者さんとの関係】のはなし] 泣き虫プロデューサーの「いいから俺にしゃべらせろ!!」 2012年5月11日</ref>。 当時は「バラエティ番組のソフト化」が皆無といっていい状況であり(本作もバラエティ番組の一コーナーである)、基本的に出演者とはソフト販売を前提としない放送のみの契約であった。そのため仮にこのような軋轢がなかったとしても、あらためて各出演者(故人の場合はその遺族)との再契約の必要が生じるなど、結局権利問題の面でソフト化のハードルは非常に高いものとなっている。しかしながらDVD化の署名運動まで行われるなど<ref>(参考リンク)[http://www.tanomi.com/metoo/naiyou.html?kid=8302 たのみこむ] - 現在は受付停止中{{出典無効|date=2020年12月}}。</ref>、現在においても人気は根強い。 同時期に放送されていた『[[オレたちひょうきん族]]』の『[[オレたちひょうきん族のコーナー一覧#かまへんライダー|かまへんライダー]]』や、後年同じフジテレビ系で放送された『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』にて行われた『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のパロディコントである『[[世紀末戦隊ゴレンジャイ]]』の場合は、{{要出典範囲|当初から[[版権]]元に許可を得ていたため|date=2021年6月}}、問題なくソフト化されている。 ==== 石ノ森章太郎からの容認 ==== 一方で原作者・石ノ森としては平山と同様に容認の姿勢を示していた。もともと石ノ森は、自身が関与した特撮作品を漫画化する際([[石森プロ]]系の漫画家による代筆も含む)、原作に則ったハードな作品とは別に、『[[宇宙鉄人キョーダイン|宇宙鉄人ジョーダイン]]』など、ギャグ漫画としてセルフパロディ化することもしており、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』に至っては自らパロディの『[[ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ]]』を執筆していたため、もともと抵抗がなかったという。 [[1989年]](昭和64年)に雑誌『[[TVガイド]]』にて仮面ノリダーの特集が組まれた際にもインタビューに応じ、「[[横澤彪|横澤(彪)]]さん{{efn|実際は『みなさんのおかげです』は横澤ではなく、[[石田弘]]の担当だった。}}に『いつも仮面ノリダーを楽しく見てます。ありがとうございます』と、先日電話をしました」と、容認を示すコメントをしていた。 ==== その後 ==== その後、[[2007年]](平成19年)[[9月27日]]放送の『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』特番において放送された「もう一度みたい仮面ノリダーベスト10」において、初めて「協力:石森プロ・東映」のクレジットが表示され、以降『おかげでした』でノリダーの映像を放送するときには必ずこのテロップが挿入されていた。 さらに、2013年には東映が正式に『仮面ノリダー』の商標登録を行った<ref>2013年6月11日出願、7月4日公開。特許電子図書館で検索可能。</ref>。 2019年に公開された『[[劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer]]』にて木梨猛役で木梨が出演。公開当日まで情報は伏せられていた{{R|natalie2019726}}。カメオ出演ではなく木梨の見せ場となるシーンは用意されているが、「ライダーとして認めてもらえず囚われていた」というメタフィクション的な設定での登場であり、仮面ノリダーに変身することはなかった。 2020年4月28日には木梨が倉庫の掃除中に見つけた仮面ノリダーの衣装を着て自身の[[Instagram]]に仮面ノリダーとして動画を投稿{{efn|同年5月2日には仮面ノリダーの衣装を借りた伊藤が木梨のInstagramにチビノリダーとして動画を投稿。}}したうえ、同年5月2日には自身のラジオ番組『[[土曜朝6時 木梨の会。]]』で「仮面ノリダーから届いた手紙」を紹介し、いずれも[[2019新型コロナウイルス]]への警戒とその感染拡大を防ぐための自宅待機を呼びかける内容と合わせて話題となった<ref>{{Cite news|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2004/29/news021.html|title=木梨憲武、約30年ぶりに“仮面ノリダー”復活! 「子供の頃のヒーロー」「コロナ帝国に負けないぞ!」と大反響 (1/2)|newspaper=ねとらぼ|publisher=[[アイティメディア]]|date=2020-04-29|accessdate=2020-05-02}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/05/02/kiji/20200502s00041000136000c.html|title=木梨憲武、“仮面ノリダー”からの手紙を紹介「敵のコロナはうようよしている。気を抜くな」|newspaper=Sponichi Annex|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2020-05-02|accessdate=2020-05-02}}</ref>。 == 出演者 == ''[[仮面ノリダーの登場人物]]''を参照。 == 主題歌 == ; 「仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ」 : 作詞/[[遠藤察男]] 作曲・編曲/[[辻陽]] 唄/木梨猛と「そこら辺にいた子供合唱団」 : 本家主題歌の「[[レッツゴー!!ライダーキック]]」を意識しており{{efn|name=song}}、歌詞の冒頭部分のほか、映像においても本家を感じさせる部分がある{{efn|冒頭ではバイクの走行シーンの直後にノリダーのアップとともに『仮面ノリダー』のタイトル表示、最後には中江真司のナレーションをバックにノリダーへの改造手術シーン([[#仮面ノリダー|前述]]参照)が描かれた。ただしナレーションの最後の部分については、本家では「仮面ライダーは、人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!」となっていたのに対し、本作では「世界平和を守るため、仮面ノリダーは戦うのだ!」となっている。}}。[[コミックソング]]としての色彩が強いものの、子供向けのヒーローソングとしての基本は押さえた内容になっている。 : 放送開始当初は一番のみ存在していたが、徐々に歌詞が増えていき、最終的には七番まで存在した(番数が増えるにつれて、歌詞のギャグ要素が濃くなって行った)。なお、作詞は当番組の構成担当である遠藤察男が手がけている。 : [[日本音楽著作権協会|JASRAC]]には「レッツゴー!!ライダーキック」に付随する形で登録されており、ゆえに[[菊池俊輔]]が作曲したと勘違いがち{{誰2|date=2016年12月}}であるが、実際の作曲は辻陽が担当している。初期には曲の入った[[カセットテープ]]のプレゼントもあった。 : 歌い方を木梨は「レッツゴー!!ライダーキック」を歌った[[子門真人]]{{efn|本家の放送当時は「藤 浩一」名義。}}に似せている。ただし、曲調自体のアレンジは似せているが、作曲の要であるメロディーラインは別物である{{efn|name=song}}。 : 木梨の子門真人を真似た独特な歌唱法とギャグが組み込まれた歌詞は一大ブームを巻き起こし、当時から十代の女性中心に人気を博していた月刊アイドル誌『明星(現・[[Myojo]])』の付録『YOUNG SONG』{{efn|その時ヒットや話題に上った[[J-POP]]の歌詞を掲載している小冊子。}}に、歌詞が掲載された{{Full|date=2020年12月}}。 : また、上記の通り子門真人の歌い方を真似ているため、極端に[[巻き舌]]発音を多用し、歌詞が聞き取りづらい独特な歌い方になっている。 : 例: :* 赤いマフラー→赤いマフリャゥ〜 :* レッツゴーゴー→レッツゴー、ギィョォ〜 :* 仮面ノリダー→きぃやめんノリディ〜ャ〜ゥ など : [[テレビ朝日]][[大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル|開局30周年記念の生放送番組]]で、とんねるずが登場した際は各ゲストが登場時にオーケストラの演奏に合わせて歌う「開局30周年おめでとうの歌」を木梨は仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマで歌い出し、場を盛り上げたことがある(その後、[[芳村真理]]の要望で歌い直すが、こちらも即興のアドリブソングであった)。本家『仮面ライダー』もテレビ朝日で放送されていた{{efn|name="NET"}}事から、そのシーンが流れた時はカメラをとんねるずに回し木梨が仮面ノリダーの変身シーンを行うなどのテレビ朝日側の配慮もあった。 : 2022年4月28日、木梨はステイホームを呼びかける「仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ」歌唱動画をInstagramに投稿し、75万回以上再生された<ref>{{Cite web|和書|url= https://otakei.otakuma.net/archives/2020042904.html|title=仮面ノリダーがステイホームを呼びかけ「わ~るい、コロナをぶっとばすぞぉ~!」|date=2022-04-29 |accessdate=2022-06-03|publisher=おたくま経済新聞}}</ref>。 == 放映リスト == {{節スタブ}} 野球中継の延長により1989年10月5日は21時15分~不明、同年4月20日・4月27日は21時30分~22時30分で放送{{efn|オープニングに「野球中継が延びましたので放送を15(30)分繰り下げてお送りしております。」と断りのテロップが出ていた。}}。 # [[1988年]](昭和63年)3月8日 - 恐怖[[ラッコ]]男 # 1988年10月13日 - 恐怖[[カルガモ]]男 # 1988年10月20日 - 恐怖[[コアラ]]男 # 1988年10月27日 - 恐怖[[チョコボール|チョコ玉]]男 # 1988年11月3日 - 恐怖[[プードル]]男 # 1988年11月10日 - 恐怖[[レンタルビデオ]]男 # 1988年11月17日 - 恐怖[[ウサギ|うさぎ]]男 # 1988年11月24日 - 恐怖[[カンガルー]]男(チビノリダー初登場) # 1988年12月1日 - 恐怖[[ゾウ|象]]男 # 1988年12月8日 - 恐怖[[臼|うす]]男 # 1988年12月15日 - 恐怖[[オランウータン]]男(チビノリダー) # 1988年12月22日 - 恐怖[[トナカイ]]男 # 1988年12月29日 - 恐怖[[カニ]]男(チビノリダー) # [[1989年]](平成元年)1月19日{{efn|前回の放送から20日近く間が開いたのは、年末年始特番の放送に加え[[昭和天皇]]の[[崩御]]で[[とんねるずのみなさんのおかげです|おかげです]]自体の放送が休止・自粛されたことに起因する。}} - 恐怖[[新巻鮭|新巻ジャケ]]男 # 1989年1月26日 - 恐怖[[ホルスタイン]]男 # 1989年2月2日 - 恐怖[[大仏]]男(チビノリダー) # 1989年2月9日 - 恐怖[[ウマ|うま]]男 # 1989年2月16日 - 恐怖[[雪だるま|雪ダルマ]]男 # 1989年2月23日 - 恐怖[[ツキノワグマ|月の輪ぐま]]男 # 1989年3月2日 - 恐怖[[雛人形|おひな様]]男(チビノリダー) # 1989年3月9日 - 恐怖[[ペンギン]]男 # 1989年3月16日 - 恐怖[[ヒヨコ]]男 # 1989年3月23日 - 恐怖[[スッポン|すっぽん]]男 # 1989年4月13日 - 恐怖[[ピザ]]男 〜タケシ労働の喜びを知るの巻〜(チビノリダー) # 1989年4月20日 - 恐怖[[留守番電話]]男 〜よみがえるメッセージの巻〜 (ノリダー誕生の謎が明かされた) # 1989年4月27日 - 恐怖[[アイロン|スチームアイロン]]男 〜ノリダー怒りの鉄拳の巻〜(すーパーノリダー初登場) # 1989年5月4日 - 恐怖[[こいのぼり]]男 〜マリナの恋敵現れるの巻〜(チビノリダー) # 1989年5月11日 - 恐怖[[カーネーション]]男 〜マリナお母さんになるの巻〜(すーパーノリダー) # 1989年5月18日 - 恐怖[[ハブ (動物)|ハブ]]男 〜長いものにはまかれろの巻〜 # 1989年5月25日 - 恐怖[[サメ]]男 # 1989年6月1日 - 恐怖[[ハリネズミ]]男 〜美しい兄弟愛の巻〜(すーパーノリダー) # 1989年6月8日 - 恐怖[[雷神|カミナリ]]男 〜イナズマと共にやってきた男の巻〜(チビノリダー) # 1989年6月15日 - 恐怖[[カメラ]]男 〜甘ずっぱ〜い初恋の罠の巻〜 # 1989年6月22日 - 恐怖[[オタマジャクシ|おたまじゃくし]]男 転じて [[ガマガエル]]男 〜華麗なる変身の巻〜 # 1989年6月29日 - 恐怖[[アサガオ]]男(木梨猛とファンファン大佐 対面) # 1989年7月7日 - 恐怖[[七夕]]男 〜ジョッカーの恋の巻〜 # 1989年7月13日 - 恐怖[[花火]]男 〜ひとときの命の巻〜(チビノリダー) # 1989年7月20日 - 恐怖[[コウノトリ]]男 〜大変!!ノリダーが死んじゃうよの巻〜 # 1989年7月27日 - 恐怖[[蚊取り線香]]男 〜めざせ!!完全燃焼の巻〜 # 1989年8月3日 - 恐怖[[シャワー]]男 〜プールサイドは走らないでねの巻〜 # 1989年8月10日 - 恐怖[[北海道]]男 〜彼女がぬいぐるみにきがえたら 北海道に連れてっての巻〜(すーパーノリダー) # 1989年8月17日 - 恐怖[[キタキツネ]]男 〜北の国から '89決闘…の巻〜 # 1989年8月24日 - 恐怖[[キラー・トーア・カマタ|トーア・カマタ]]男 〜地獄の[[マイクパフォーマンス|マイク・パフォーマンス]]の巻〜 # 1989年8月31日 - 恐怖[[免税店|デューティーフリー]]男 〜私 恨んでますの巻〜(チビノリダー) # 1989年9月7日 - 恐怖[[プラネタリウム]]男 〜星に願いを込めての巻〜 # 1989年9月14日 - 恐怖[[台風の目]]男 〜嵐を呼ぶ男の巻〜 # 1989年9月21日 - 恐怖[[帝都大戦]]男 〜東京大破壊計画の巻〜 # 1989年9月28日 - 恐怖[[松任谷由実|ユーミン]]男 〜悪はユーミンにのっての巻〜(チビノリダー) # 1989年10月19日 - 恐怖[[ゴルフ]]男 〜ファーちみつレモンの巻〜 # 1989年10月26日 - 恐怖[[プロ野球]]男 〜地獄の一球入魂の巻〜 # 1989年11月2日 - 恐怖[[カップラーメン]]男 〜悲しくも美しい親子愛の巻〜(チビノリダー) # 1989年11月9日 - 恐怖[[バレーボール]]女 〜世界へソーレッ 若さでアタックの巻〜 # 1989年11月16日 - 恐怖[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]男 〜振り向くな君は美しいの巻〜 # 1989年11月23日 - 恐怖[[ボウリング]]女 〜美しきチャレンジャーの巻〜 # 1989年11月30日 - 恐怖ボウリング女 〜美しきチャレンジャーの巻・II〜 # 1989年12月7日 - 恐怖[[寒中水泳]]大会男 〜いいぞ!いいぞ!ノリダー! わ〜〜ッパフパフ!!の巻〜 # 1989年12月14日 - [[とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧#ヒゲゴジラvs仮面ノリダー|ヒゲゴジラvs仮面ノリダー]] # 1989年12月21日 - ヒゲゴジラVS仮面ノリダーII # [[1990年]](平成2年)1月11日 - 恐怖[[マイケル・チャン]]男 〜コートに賭ける青春の巻〜 # 1990年1月18日 - 恐怖マイケル・チャン男 〜血戦![[有明コロシアム]]の巻〜 # 1990年1月25日 - 恐怖アイスホッケー男 〜愛は信じあうことの巻〜 # 1990年2月1日 - 恐怖[[アイスホッケー]]男 〜愛は信じあうことの巻・II # 1990年2月8日 - 恐怖[[運動会|大運動会]]男 〜立ち上がれノリダー!!アミーゴ大爆発!の巻〜 # 1990年2月15日 - 恐怖大運動会男 〜立ち上がれノリダー!!アミーゴ大爆発!の巻II〜 # 1990年2月22日 - 恐怖大運動会男 〜立ち上がれノリダー!!アミーゴ大爆発!の巻III〜 # 1990年3月1日 - 恐怖[[ミッキーマウス|ミッキーキャット]]男 〜ジョッカーランドへようこその巻〜 # 1990年3月8日 - 恐怖ミッキーキャット男 〜ジョッカーランドへようこその巻II〜(チビノリダー) # 1990年3月15日 - 恐怖[[ツバメ]]男 〜早すぎた北上 悲しみのツバメ前線の巻〜(チビノリダー) # 1990年3月22日 - 恐怖ツバメ男 〜早すぎた北上 悲しみのツバメ前線の巻II〜 # 1990年3月29日 - 仮面ノリダー[[最終回]](前編)「恐怖キング・ジョッカー男 〜さらばノリダーの巻〜」 # 1990年4月5日 - 仮面ノリダー最終回(後編)「恐怖キング・ジョッカー男 〜さらばノリダーの巻II〜」(チビノリダー) ; SP # [[1989年]](平成元年)3月30日 - ハイライト&メイキング # 1989年10月5日 - 怪人何でもザ・ベストテン # 1989年12月28日 - さよなら'89 みなさんのおかげです重大ニュース ノリダー・スペシャル ; 特別編 # [[1992年]](平成4年)7月30日 - 仮面ノリダー IN [[マウイ郡 (ハワイ州)|マウイ]]「キング・ジョッカーの息子 恐怖[[ヤシ|ヤシの実]]男 〜[[ハワイ]]だマウイだワーイワーイの巻〜」 # [[1993年]](平成5年)11月4日 - 恐怖ゴキブリ男 〜[[紺野美沙子|女ノリダー]]登場〜 『[[意地悪ばあさん]]』との合体企画として、ファンファン大佐の代わりにジョッカーの一日大佐となった波多野たつ(演・[[青島幸男]])がファンファン大佐のゴルフバッグが密室から消失した事件の犯人の濡れ衣を着せられ真犯人探しに奔走するという第3弾の企画もあったが、番組の第2シーズン終了で制作中止になっている。なお同作のオチはたつの「犯人さ~ん!ファンファン大佐のゴルフバッグを、返しなさ~い!キャディのひとみさんが悲しむよ!」がアミーゴまで届いて猛やマリナさん、おやっさんにファンファン大佐のプライベートがばれてしまうというものになっている。 ; 完結編 # [[1997年]](平成9年)3月27日 - 恐怖ラッコ男 〜よみがえる怪人達 ノリダー最後の決戦〜 == 怪人一覧 == {{Main|仮面ノリダーの登場人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist |refs= <ref name=Tobei>演者の小林昭二本人が1996年8月27日に逝去したことに伴う設定。</ref> <ref name="NET">大別すると、『BLACK RX』までが毎日放送、『クウガ』以降がテレビ朝日製作。いわゆる“[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|腸捻転]]”に伴い、本家の第一作から『アマゾン』までNETテレビ(現:テレビ朝日)系列で、その後『ストロンガー』から『BLACK RX』までが[[TBSテレビ|TBS]]系で放送された。『クウガ』以降は再びテレビ朝日系での放送となっている。詳しくは[[仮面ライダーシリーズ#歴史]]を参照。</ref> <ref name=song>[[1990年]][[5月20日]]放送の『[[テレビ探偵団]]』([[TBSテレビ|TBS系]])にて『仮面ライダーシリーズ』が取り上げられ(小林昭二がゲスト出演)、その際に「レッツゴー!!ライダーキック」がEDで流れたが(映像は『[[全員集合!7人の仮面ライダー!!]]』)、これは、「ノリダーの主題歌のもとが本家ライダーの主題歌だそうなので、それを聴かせてほしい」との視聴者からのリクエストによるものだった。小林もこれに対し、「ライダーの主題歌だったことを知らない人たちも多かったのではないか」と語っていた。</ref> }} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="natalie2019726">{{Cite web|和書|publisher=株式会社ナターシャ|work=[[映画ナタリー]]|url=https://amp.natalie.mu/eiga/news/341180|title=ネタバレ注意!本日公開「劇場版 仮面ライダージオウ」に意外なゲスト|date=2019-7-26|accessdate=2019-7-26}}</ref> }} == 関連項目 == * [[とんねるずのみなさんのおかげです]] * [[仮面ノリダーの登場人物]] * [[仮面ノリダーV2]] - 本作の続編。 * [[ウルトラマンゼアス]] - とんねるずが出演した特撮ヒーロー映画。こちらはパロディではなく、正式な[[ウルトラシリーズ]]の一作品である。なお『おかげです』番組内でも「パロディ版」が製作されているがこちらは[[円谷プロダクション]]が協力している。 * [[世紀末戦隊ゴレンジャイ]] - 同じフジテレビ系列で放送されたバラエティ番組『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』で放送された、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のパロディ[[コント]]。こちらは制作側承認済みの為、ソフト化もされている。 == 外部リンク == * [https://s024794342.exblog.jp/ THE NORIDER 'a branch!] 仮面ノリダーの技斗をしていた多賀谷渉のブログ(「ノリダー・海」の舞台裏など仮面ノリダーの撮影に関する記述も多い) {{とんねるずのみなさんのおかげです}} {{仮面ライダーシリーズ}} {{DEFAULTSORT:かめんのりたあ}} [[Category:とんねるずのみなさん]] [[Category:コーナードラマ]] [[Category:フジテレビの番組の企画]] [[Category:木梨憲武]] [[Category:パロディドラマ]]
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VM
VMは以下の略称、あるいは型式の呼称である。
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VMは以下の略称、あるいは型式の呼称である。 仮想機械- コンピュータの機械仮想化技術 Virtual Machine - IBMのメインフレーム用のOSの一種 仮想記憶 - コンピュータのメモリー仮想化技術 VMware - この業界における世界最大手企業 PC-9801VM - 日本電気(NEC)のパソコン・PC-9800シリーズ ヴァンテージ・マスター - 日本ファルコムのシミュレーションRPG作品 ビジュアルメモリ - ドリームキャスト用メモリーカード VM Motori S.p.A - イタリアのディーゼルエンジンメーカー VOODOO-MURDERS - プロレスのユニット名 Apache Velocity - テンプレートファイル V Magnet - オーディオテクニカが開発した針式レコードのピックアップ発電機構の方式名 VM# - スバル・レヴォーグの型式 ヴィクトリアマイル - 日本中央競馬会のGI競走 アルミニウム蒸着
'''VM'''は以下の略称、あるいは型式の呼称である。 * [[仮想機械]] (virtual machine)- [[コンピュータ]]の機械仮想化技術 ** [[z/VM|Virtual Machine]] - [[IBM]]の[[メインフレーム]]用の[[オペレーティングシステム|OS]]の一種 * [[仮想記憶]] (virtual memory) - [[コンピュータ]]のメモリー[[仮想化]]技術 ** [[VMware]] - この業界における世界最大手企業 * [[PC-9801シリーズ|PC-9801]]VM - [[日本電気]](NEC)の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[PC-9800シリーズ]] * [[ヴァンテージ・マスター]] (Vantage Master) - [[日本ファルコム]]の[[シミュレーションRPG]]作品 * [[ビジュアルメモリ]] (Visual Memory) - [[ドリームキャスト]]用[[メモリーカード]] * [[VM Motori]] S.p.A - [[イタリア]]の[[ディーゼルエンジン]]メーカー * [[VOODOO-MURDERS]] - [[プロレス]]のユニット名 * [[Apache Velocity]] - [[テンプレート]]ファイル * [[V Magnet]] - [[オーディオテクニカ]]が開発した針式レコードのピックアップ発電機構の方式名 * VM# - [[スバル・レヴォーグ]]の型式 * [[ヴィクトリアマイル]] - [[日本中央競馬会]]のGI競走 * [[アルミニウム蒸着]] (Vacuum Metalized) == 関連項目 == * [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]] * {{prefix}} {{Aimai}}
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辻灯子
辻 灯子(つじ とうこ)は、日本の漫画家。星座はみずがめ座。血液型はAB型。主に4コマ漫画を描く。芳文社の4コマ雑誌で作品を発表している。
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辻 灯子は、日本の漫画家。星座はみずがめ座。血液型はAB型。主に4コマ漫画を描く。芳文社の4コマ雑誌で作品を発表している。
{{統合文字|辻}} '''辻 灯子'''(つじ とうこ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。星座は[[みずがめ座]]<ref name="profile">単行本折り返しのプロフィールより。</ref>。血液型はAB型<ref name="profile"/>。主に[[4コマ漫画]]を描く。[[芳文社]]の4コマ雑誌で作品を発表している。 == 作品の内容 == : 総じて「一生懸命だけどその意気込みが空回り」する主人公が多い。一見コマが白っぽく見えるが結構描き込みがある。また同じページであっても1日経過したら服が違うという女性ならではの清潔感のある細かな配慮がなされている。 : [[ヌード]]どころか[[女性]]の[[下着]]姿も稀にしか登場しない。唯一の[[女子高生]]を主人公にした「[[ただいま勉強中]]」でもそういったジャンルの定番である[[スクール水着]]は描かず、全3巻中1話で[[体操着|体操服]]の[[短パン]]が描かれたぐらいしかない。4コマでも「[[萌え]]」を求められる昨今、「描けないものは描けない」というスタンスが男性女性を問わず安心して見ていられる要因となっている。 : ただし『[[敗者復活戦!]]』では[[銭湯]]に行くシーンが何度かあり、主人公格3人が入浴しているシーンと[[バスタオル]]を巻いているシーンが描かれている。 : 車の描写については拘りがあるようで内装を丁寧に描いているシーンが「[[ただいま勤務中]]」で見受けられた。 : なお、辻の作品は[[デビュー]]以来、全ての作品が[[単行本]]化されているが、現在『[[まんがホーム]]』で連載中の『[[恋はリベンジのあとで]]』は2020年1月号にて連載が開始されて以来、現在まで3年以上に亘ってゲスト扱いの状態となっている。[[芳文社]]ではゲスト連載作品は単行本化の権利を有さない規定があるため、もしこのまま正規連載へ昇格しないまま連載が終了した場合、自身初の「単行本化されなかった作品」となる可能性がある<ref>ただし、辻のデビュー以来の実績を考慮するなど、特例が認められた場合はこの限りではない。</ref>。 == 作品リスト == === 単行本化 === * [[ただいま勤務中]](、[[まんがタイムジャンボ]] 1999年 - 2003年、[[まんがタイムポップ]] 2002年 - 2003年、全3巻) * [[べたーふれんず]]([[まんがタイムスペシャル|まんがタイムナチュラル]] 1999年 - 2003年、全1巻) ** Moreべたーふれんず([[まんがタイムジャンボ]] 2005年 - 2006年、全1巻) * [[ふたご最前線]]([[まんがタイムスペシャル]] 2000年 - 2010年、全6巻) * [[帝都雪月花]]([[まんがタイムきららキャラット]] 2003年 - 2005年/2006年 - 2008年) ** 単行本 **# 〜昭和余録〜(2005年) ISBN 4-8322-7551-8 **# 〜昭和怪異始末記〜(2008年) ISBN 978-4-8322-7695-6 * [[ただいま勉強中]]([[まんがホーム]]→まんがタイムジャンボ、[[まんがタイムラブリー]]→[[まんがタイムオリジナル]] 2006年 - 2010年、全3巻) * [[虹色占い師]](まんがタイムジャンボ 2003年 - 2005年) ** 単行本(2010年、全1巻) ISBN 978-4-8322-6908-8 * [[ただいま独身中]](まんがタイムラブリー→まんがホーム 2009年 - 2013年<!--2014年1月号付-->、全3巻) * [[よゆう酌々]](まんがタイムオリジナル 2010年 - 2015年、全4巻) * [[敗者復活戦!]](まんがホーム 2014年 - 2017年、全3巻) - まんがタイムオリジナルに掲載歴あり<!--(まんがホーム、2014年6月号 - 2017年10月号)(まんがタイムオリジナル 2015年7月号-10月号)--> ** 単行本 **# (2016年2月5日発売) ISBN 978-4-8322-5456-5 **# (2016年10月6日発売) ISBN 978-4-8322-5526-5 **# (2017年11月7日発売) ISBN 978-4-8322-5639-2 * [[スズちゃんでしょ!]](まんがタイムオリジナル 2015年 - 2019年、全3巻) *# (2017年5月6日発売) ISBN 978-4-8322-5589-0 *# (2018年9月6日発売) ISBN 978-4-8322-5714-6 *# (2020年1月7日発売) ISBN 978-4-8322-5778-8 * [[おんなのおしろ]](まんがホーム 2018年 - 2019年、全1巻) === 連載中 === * [[恋はリベンジのあとで]](まんがホーム 2019年 - 、ゲスト扱い) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.manga-time.com/interview/20080205-4.html まんがタイム インタビュー] * [https://mobile.twitter.com/fc3pdmlytgixgnp ツイッター] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:つし とうこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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インディアナポリス500
インディアナポリス500 (Indianapolis 500) は、アメリカ合衆国インディアナ州インディアナポリス市近郊のスピードウェイにあるインディアナポリス・モーター・スピードウェイで毎年5月に開催されるアメリカンモータースポーツイベントである。略称のインディ500 (Indy 500) で呼ばれることもある。 インディ500の決勝レースは毎年5月最終月曜日・メモリアルデーの前日の日曜日、すなわち5月24日から30日までの日曜日に開催される。インディアナポリス・モーター・スピードウェイのオーバルトラック1周2.5マイル (約4.023 km) を200周、走行距離500マイル (805 km)で争う。第1回開催は1911年。モナコグランプリ、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつに数えられる。近年はモナコGPと同日に開催されることが多くなっている。 インディ500の周回平均速度は予選で362 km/h、決勝でも354 km/hを超える。これは同じマシンでレースが行われるインディカー・シリーズの中ではもちろん、世界の周回レースカテゴリーの中でも最も速い。また、最高速度は380 km/hに達する。これはF1の瞬間最高速度記録 (372.4 km/h) を上回り、これより速いカテゴリーはドラッグレース (NHRAトップフューエルクラスで 520 km/h超) のような非周回レースに限られる。また、最高速だけであれば一部のプロトタイプカーが400 km/hを超えたこともあった。33台のマシンがテール・トゥー・ノーズ、サイド・バイ・サイドで競り合い、ドラフティング(スリップストリーム)を駆使してオーバーテイクするアメリカンモータースポーツの典型とも言える展開が広がる。 1950年から1960年までは世界選手権という体裁を整えるためにF1の一戦として組み込まれていた。しかしF1ドライバーの参戦は少なく、ほとんど名目上のものであった。1996年以降はインディカー・シリーズの最大イベントレースとして組み込まれている。 普段のインディカーレースが平均して50万人程度の視聴者数なのに対し、インディ500は500万人以上がTV観戦するほど注目度は高い。現地でも、普段は空席の目立つオーバルに40万人が大挙し埋め尽くす、まさに国民的ビッグイベントとして存在している。こうした注目度の差から、インディカーシリーズ全レースではなく、インディ500単体で記憶するファンも少なくない。 2014年シーズンから2022年シーズンの決勝レースでは順位に応じて通常与えられるポイントの2倍が与えられていた。 1960年代までのインディ500は、様々なエンジン形式、駆動方式が参加可能であった。1952年にポールポジションを獲得したターボディーゼルエンジン搭載のカミンズ・ディーゼル・スペシャルや1967年(英語版)と1968年(英語版)に登場したガスタービンエンジン搭載車が有名である。 CARTやインディカー・シリーズなどのオープンホイールレース選手権の1戦に組み込まれるようになると、参戦車両は選手権のレギュレーションに対応したものに変わった。インディ500では「スーパースピードウェイ・パッケージ」と呼ばれる高速オーバル用のエアロパーツが取り付けられる。これは前後共に一枚板構造(シングルエレメント)を持ち、空気抵抗を最小限に抑えることで超高速走行を実現している。 速度域の高さや接戦の多さから、レース中には事故(クラッシュ)もたびたび発生している。レーシングマシンの安全性が低かった時代には何度か死亡事故も発生しているが、2021年現在、1996年(英語版)のスコット・ブレイトンがインディ500のレーススケジュール中に起きたものでは最後の死亡事故となっている。詳細はインディアナポリス・モーター・スピードウェイでの死亡事故一覧(英語版)を参照。 小さなサポートイベントなどを含めると約2週間にわたって行なわれること、予選グリッドの決め方が独特であることや、レース優勝者には牛乳が与えられるなど(下述)、他のレースと異なる「伝統」を持ったレースである。また、準優勝者(二位)には「最も速かった敗者」、初参戦のドライバーで最も活躍した者(基本的には最上位を獲得した者だが、2017年のように途中何度も1位に立ったがリタイアした選手に贈られる場合もある。)には「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の称号が与えられる。また、決勝の順位ごとに賞金が与えられるほか、「決勝1周目をトップで通過したドライバー」、「最後に予選を通過したドライバー」など、さまざまなケースのボーナス賞金がある。 インディ500の優勝トロフィーとして「ボルグワーナー・トロフィー」がある。このスターリングシルバー製トロフィーのチェッカーフラッグ状の壁面にはインディ500の歴代優勝者全員の顔を立体的にかたどったレリーフが埋め込まれ、それぞれ下のブロックに優勝者の氏名・開催年・優勝者の決勝レースにおける平均速度(マイル毎時 (mph))が刻まれている。トロフィーという名称ではあるが優勝者が持ち回りで所有できるわけではなく、また約153ポンド (69.4 kg) という重さのため持ち上げることもできない。普段はIMS内のミュージアムに展示されていて、インディ500決勝日にヴィクトリーレーンに飾られるモニュメント的な存在である。インディ500優勝者にはトロフィーの壁面に自分の顔のレリーフを埋め込む権利、決勝レースの翌日にトロフィーと一緒に写真を撮る権利が与えられ、後日ボルグワーナー・トロフィーを模したミニトロフィーが授与される(こちらは永久保持が可能)。1935年に制作されてから82年間、アメリカ国外に出たことがなかったが、2017年に佐藤琢磨が優勝したことを記念した日本での凱旋ツアーのために史上初めて国外に出ることとなった。 インディ500は5月中旬に開幕し、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムと、サイン会やパレードなどの観客向けイベントが約3週間に渡って開催される。期間中にはインディカー・シリーズの公式戦である「グランプリ・オブ・インディアナポリス」やインディ・ライツの「フリーダム100」といったレースイベントも開催される。以下は例年行われるレース関連行事である。 いわゆるルーキーテストのことで、4月中旬または下旬に行われるオープンテスト初日に行われるが、ここでクリアできなかった選手やオープンテスト以後にエントリーした選手向けにレーススケジュール中のプラクティス初日の最初にも行われる場合がある。初出場のドライバーや長らくオーバルでのレースに出場していないドライバー(「リフレッシャー」と呼ばれる)が対象となっていて、これに合格しないとインディ500への出走が認められない。インディ500では常に350 km/h (217 mph) 以上の巡航速度でレースが進むため、極端に遅いマシンはレースの妨げになり大変危険である。そこでコースレイアウトに慣れることと、安定したペースで周回を重ねられるようになることが主な到達目標に据えられている。細かい部分は年によって異なるが、目標となる平均速度毎にいくつかの「フェーズ」が用意され、それらを1つずつクリアしていく方式がとられる。 5月第3週の火曜日から金曜日に行われる自由練習期間。前半は概ねマシンセッティングの確認が行われる。後半は予選に向けたハイペース走行や、決勝を意識したスリップストリームを使う練習が行われる。特に最終日の金曜日は"ファストフライデー"と呼ばれ、この日のトップタイムを記録したドライバーには賞金が贈られる。 5月第3週の土曜日、及び翌日曜日の2日間で行われる(2001-2009年などは4日間)。複雑な方式によって行われるため、それについては下記の予選方式にて解説する。 決勝レース2日前、金曜日 (2004年までは木曜日) 午前に1時間だけ行われる最終練習。予選を通過した33台すべてが決勝レース用のセッティングを施してコースに入り、ドラフティングを利用しながらレースを想定した練習走行をする。カーブ・デイとはカーブレーション・デイの略であり、かつて決勝レースの前にカーブレーター=キャブレターを調整できる最後の時間であったためにこの名がついた。また、この日の正午過ぎにフリーダム100が開始される。午後には一部のドライバーと担当ピットクルーがピット作業の速さを競う「ピットストップ・コンテスト」が行なわれる。 インディ500の予選方式は何度か変更されているが、2022年現在はおおむね以下の方式によって行なわれている。 インディ500では、予選と決勝でドライバーを交代させることができる。これは、予選が「決勝に進出するドライバーではなくマシンを選ぶ」という理念に基づくものであることによる。1960年代までのようにヨーロッパのF1選手権シリーズとの間での人的交流が盛んだった時代には、このシステムを利用して「予選を通過したマシン」に決勝だけ乗り込むF1ドライバーも稀ではなかった。ただし、ドライバー交代が行われたシャシーはグリッドが最後尾に降格する。2台以上で交代があった場合、選手権ポイントが少ない方が最後尾につく。 予選1日目でまず30位までの決勝進出者が決定する。エントリーする全ての選手が最低1回のアテンプトを行い、その暫定順位によって以下のように振り分けられる。 1日目は予選時間中であれば、回数に制限なくアテンプトを行える。1回目は前日のくじ引きにより決まった順番にアテンプトする。2回目以降のアテンプトに臨む際は、直前に記録されたタイムを取り消すか残すかを選択できるが、取り消した選手が優先的に出走でき、取り消して再アテンプトする選手がいない場合に限り、取り消さない選手の再アテンプトが可能となる。 なお、エントリーが33台以下で予選落ちが発生しない場合は、1日目で予選13位-33位の予選順位が確定し、予選2日目の「ラストチャンス・クオリファイ」は行われない。 予選2日目は、3つのセッションが行われる。予選2日目に参加する選手は前日の記録はすべてリセットされる(暫定順位は保存される)ため、再びアテンプトを行う必要がある。なお予選上位12台にはこの日確定した順位をもとに選手権ポイントが与えられる。 2連勝したドライバーが5名いる(3連勝以上したドライバーは存在しない)。 日本では、トミー(現:タカラトミー)から、1997年5月23日に、プレイステーション用ゲームソフトとして、Indy500がリリースされた。 また、セガからもアーケードゲームとしてインディ500がリリースされた。 日本以外では、インディ500にアジアの国が関わった例はほとんどないため、「日本初」としている記録はたいてい「アジア初」となる。 1991年のヒロ松下の初参戦以降、2017年までに計10名の日本人ドライバーが挑戦している。 以下、参戦ドライバーと決勝順位を記載する。 いずれも現地チームを母体とした提携ではあるものの、スーパーアグリが2004~2006年に「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」、2007年に「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として、チーム郷が2020年に「デイル・コイン・レーシング with チーム郷」として参戦した例がある。 日本のチーム・コンストラクターがインディ500用の車両を製作したことはない。 実現に至らなかったものとしては、1960年代のF1の一戦に含まれていた頃に、ホンダが参戦を検討していたことがある。 エンジン供給は、ホンダ(1995年、2003年以降)のほか、過去に日産自動車(1997~2002年;インフィニティ名義)とトヨタ(2003 - 2005年)が行っている。初優勝は2003年にトヨタによって記録された(ドライバーはジル・ド・フェラン/チーム・ペンスキー)。 エンジン関係では、1987年から1991年にかけてジャッドにより供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含むCART参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。 タイヤ供給は、ブリヂストンがファイアストン名義で行っている(1995年以降)。 1966年10月、神彰の呼びかけにより、当時のインディ500出走ドライバーを招聘して「日本インディー200マイルレース」(通称「日本インディ」)が富士スピードウェイで開催された。 インディ500では、優勝したドライバーは牛乳を飲むという慣習がある。1933年、ルイス・メイヤーは自身二度目の優勝を飾ったが、レース終了後にバターミルクをリクエストした。ルイス・メイヤーは1936年にも自身三度目の優勝を果たし、この際もバターミルクをリクエストしたが、コップではなくボトルで手渡され、それをそのまま飲んだ。その飲んでいる写真が新聞の記事になり牛乳会社の目に止まった。それ以降優勝者には牛乳が提供されるようになった(1947年から1955年までの間を除く)。 この「ヴィクトリーレーンで牛乳を飲む」という行為にもスポンサー(2017年現在はインディアナ州酪農組合)がついており、仮に牛乳を飲まなかった場合や、飲むのが規定のスケジュールを外れた場合は該当スポンサーからの賞金は与えられない。 なお実際には、通常の成分無調整乳 (whole milk)以外に低脂肪乳 (2% fat milk)、無脂肪乳 (fat-free milk) も選択できる。このため予選通過が決まったドライバーは、優勝時にどれを飲むかを事前に選択することになっており、毎年選択の結果は「Milk List」として公表される。伝統に則りバターミルクをリクエストするドライバーも少なくないが、スポンサーのインディアナ州酪農組合では「メイヤーが飲んだのは、彼の母が作った伝統的なバターミルクだが、現代では同様のバターミルクは入手困難」「伝統的なバターミルクは非常に腐りやすい」の2点を理由として、このリクエストを断っている。 この慣習に従わなかったドライバーもいる。ボビー・アンサーは1968年の優勝時にはこれを拒否したが、その後の2回の優勝時には従っている。エマーソン・フィッティパルディは1993年の優勝時に自身がブラジルでオレンジ農園を営んでいるという理由から、牛乳より先にオレンジジュースを飲んでいる。このため牛乳を飲むのが規定の時間を外れてしまいスポンサー賞金を受け取れなかったが、後でフィッティパルディが陳謝することで事は収まった。 1998年に優勝したエディ・チーバーは、この「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した。 オープニングセレモニーの終盤、スタートコマンドの直前に「Back home again in Indiana」の独唱が行われる。セレモニーにおいてアメリカ合衆国国歌よりも後に歌われるこの曲は、インディアナ州の「州歌」と言えるほど有名な曲だが、1946年にジェームス・メルトンが、自分が代表を務める自動車クラブのパレードに合わせて歌ったものがセレモニー内で歌われた最初である。この歌が好評となり、メルトンは1947年以降は招待されてこの歌を歌うようになった。この歌が正式にスタートコマンドの直前に歌われる現在の形に決められたのは、1948年のことである。以降、現在に至るまで何人もの歌手が独唱を披露してきた。 もっとも知られている歌手は、1972年から2014年までの42年間に渡り、36回歌ったカントリー歌手のジム・ネイバースである。2014年、36回目にして最後の歌唱を終えたネイバースは、マリ・ハルマン・ジョージとともにスタートコマンドも行っている。 2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手ジム・コーネリソン(英語版)が行っている。 レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「Ladies and gentlemen, start your engines!」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。 もともとはIMSのオーナーだったトニー・ハルマンがアナウンスを行っていたが、トニーは1977年に死去。翌1978年からはトニーの妻のメアリー・フェンドリッチ・ハルマンが行うようになった(1982年のみ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイの場内放送アナウンサーだったトム・カーネギーが行っている)。そのメアリーが1998年4月に死去すると、1998年から2015年までトニーとメアリーの娘のマリ・ハルマン・ジョージが引き継いだ。その後2016年はマリが嫁いだハルマン・ジョージ家の家族一同で行い、2017年から2019年まではマリの息子のトニー・ジョージが行った。そして2020年は、新たにIMSのオーナーとなったロジャー・ペンスキーが行っている。 かつてはレースに参加するドライバーは男性ばかりだったので、スタートコマンドは「Gentlemen, start your engines!(紳士諸君、エンジンを始動しなさい)」だったが、女性ドライバーが参加するようになり、「A(One) lady and gentlemen, start your engines!(淑女と紳士諸君~)」と改められ、女性が複数人参加した際にはさらに複数形に改められ、「Ladies and gentlemen, start your engines!」となる。2017年と2018年、ペンスキーが行うようになった2020年以降は性別に関係なく使用できる「Drivers, start your engines!」というスタートコマンドが使われているが、結果的にトニ・ジョージ最後のコマンドとなった2019年は「Lady and gentlemen, start your engines!」に戻された。 1976年以降、優勝者には手作りのキルトが贈られている。これは、地元のキルターであり、自らも元女性レーサーであったジャネッタ・ホールダーが手作りしたもの。レースをこよなく愛するホールダーは、レーサーのサインを集めて刺繍(ししゅう)したオリジナルのアップリケキルトを毎年作り、優勝者に贈っている。そのため、彼女は「キルト・レディ」として、レーサーや関係者に親しまれている。 そのうちの一人、数回の優勝経験をもつボビー・アンサーはヘンリー・フォード・博物館(ミシガン州ディアボーン)にキルトを寄贈した。また、アル・アンサーは自ら設立したアンサー・レーシング博物館(ニューメキシコ州アルバカーキー)に授与されたキルトを飾っている。 他の多くのアメリカンスポーツ同様に、本レースでも優勝者にはチャンピオンリングが授与される。リングの製作は1983年から2016年までは同じインディアナポリスを本拠とする「Herff Jones」が担当していたが、2017年よりミネソタ州の「Jostens」に変更された。なおJostensは、他にもピットストップチャレンジの勝者等に渡されるリングや、主催者が同じNASCARのブリックヤード400のチャンピオンリングなどの製作も担当する。 優勝者は名誉と共に超過密日程をこなす責務を負うこととなる。レース翌日は午前9時から行われる3時間の撮影会の後に優勝者記者会見、午後は5時間に渡って行われるセレモニーイベント「インディ500ビクトリー・バンケット」に出席し、それが終わると休む間もなく 1000 km以上離れたニューヨークへ移動し、僅かな仮眠の後に翌朝はFOX5ニューヨークの「グッデイ・ニューヨーク」とCNBCの「スクワークボックス」に出演、その後はナスダックへ向かい午前9:30の取引開始のベルを鳴らす。更にこの後にはエンパイア・ステート・ビルでメディア向け撮影会をこなした後様々なテレビ、ラジオに出演、その後約 3000 km離れたテキサス州アーリントンへ移動しアメリカを象徴するスポーツチーム、NFLダラス・カウボーイズを表敬訪問し、ここでも数多くの取材をこなす。さらに2012年から2019年および2022年以降はそのまま週末にレースが行われるデトロイトに移動してレースに備えなければならない。
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"インディ500では、予選と決勝でドライバーを交代させることができる。これは、予選が「決勝に進出するドライバーではなくマシンを選ぶ」という理念に基づくものであることによる。1960年代までのようにヨーロッパのF1選手権シリーズとの間での人的交流が盛んだった時代には、このシステムを利用して「予選を通過したマシン」に決勝だけ乗り込むF1ドライバーも稀ではなかった。ただし、ドライバー交代が行われたシャシーはグリッドが最後尾に降格する。2台以上で交代があった場合、選手権ポイントが少ない方が最後尾につく。", "title": "予選方式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "予選1日目でまず30位までの決勝進出者が決定する。エントリーする全ての選手が最低1回のアテンプトを行い、その暫定順位によって以下のように振り分けられる。", "title": "予選方式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1日目は予選時間中であれば、回数に制限なくアテンプトを行える。1回目は前日のくじ引きにより決まった順番にアテンプトする。2回目以降のアテンプトに臨む際は、直前に記録されたタイムを取り消すか残すかを選択できるが、取り消した選手が優先的に出走でき、取り消して再アテンプトする選手がいない場合に限り、取り消さない選手の再アテンプトが可能となる。 なお、エントリーが33台以下で予選落ちが発生しない場合は、1日目で予選13位-33位の予選順位が確定し、予選2日目の「ラストチャンス・クオリファイ」は行われない。", "title": "予選方式" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "予選2日目は、3つのセッションが行われる。予選2日目に参加する選手は前日の記録はすべてリセットされる(暫定順位は保存される)ため、再びアテンプトを行う必要がある。なお予選上位12台にはこの日確定した順位をもとに選手権ポイントが与えられる。", "title": "予選方式" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2連勝したドライバーが5名いる(3連勝以上したドライバーは存在しない)。", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では、トミー(現:タカラトミー)から、1997年5月23日に、プレイステーション用ゲームソフトとして、Indy500がリリースされた。 また、セガからもアーケードゲームとしてインディ500がリリースされた。", "title": "ゲームソフト" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本以外では、インディ500にアジアの国が関わった例はほとんどないため、「日本初」としている記録はたいてい「アジア初」となる。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1991年のヒロ松下の初参戦以降、2017年までに計10名の日本人ドライバーが挑戦している。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下、参戦ドライバーと決勝順位を記載する。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "いずれも現地チームを母体とした提携ではあるものの、スーパーアグリが2004~2006年に「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」、2007年に「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として、チーム郷が2020年に「デイル・コイン・レーシング with チーム郷」として参戦した例がある。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本のチーム・コンストラクターがインディ500用の車両を製作したことはない。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "実現に至らなかったものとしては、1960年代のF1の一戦に含まれていた頃に、ホンダが参戦を検討していたことがある。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エンジン供給は、ホンダ(1995年、2003年以降)のほか、過去に日産自動車(1997~2002年;インフィニティ名義)とトヨタ(2003 - 2005年)が行っている。初優勝は2003年にトヨタによって記録された(ドライバーはジル・ド・フェラン/チーム・ペンスキー)。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "エンジン関係では、1987年から1991年にかけてジャッドにより供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含むCART参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "タイヤ供給は、ブリヂストンがファイアストン名義で行っている(1995年以降)。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1966年10月、神彰の呼びかけにより、当時のインディ500出走ドライバーを招聘して「日本インディー200マイルレース」(通称「日本インディ」)が富士スピードウェイで開催された。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "インディ500では、優勝したドライバーは牛乳を飲むという慣習がある。1933年、ルイス・メイヤーは自身二度目の優勝を飾ったが、レース終了後にバターミルクをリクエストした。ルイス・メイヤーは1936年にも自身三度目の優勝を果たし、この際もバターミルクをリクエストしたが、コップではなくボトルで手渡され、それをそのまま飲んだ。その飲んでいる写真が新聞の記事になり牛乳会社の目に止まった。それ以降優勝者には牛乳が提供されるようになった(1947年から1955年までの間を除く)。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この「ヴィクトリーレーンで牛乳を飲む」という行為にもスポンサー(2017年現在はインディアナ州酪農組合)がついており、仮に牛乳を飲まなかった場合や、飲むのが規定のスケジュールを外れた場合は該当スポンサーからの賞金は与えられない。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお実際には、通常の成分無調整乳 (whole milk)以外に低脂肪乳 (2% fat milk)、無脂肪乳 (fat-free milk) も選択できる。このため予選通過が決まったドライバーは、優勝時にどれを飲むかを事前に選択することになっており、毎年選択の結果は「Milk List」として公表される。伝統に則りバターミルクをリクエストするドライバーも少なくないが、スポンサーのインディアナ州酪農組合では「メイヤーが飲んだのは、彼の母が作った伝統的なバターミルクだが、現代では同様のバターミルクは入手困難」「伝統的なバターミルクは非常に腐りやすい」の2点を理由として、このリクエストを断っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この慣習に従わなかったドライバーもいる。ボビー・アンサーは1968年の優勝時にはこれを拒否したが、その後の2回の優勝時には従っている。エマーソン・フィッティパルディは1993年の優勝時に自身がブラジルでオレンジ農園を営んでいるという理由から、牛乳より先にオレンジジュースを飲んでいる。このため牛乳を飲むのが規定の時間を外れてしまいスポンサー賞金を受け取れなかったが、後でフィッティパルディが陳謝することで事は収まった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1998年に優勝したエディ・チーバーは、この「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "オープニングセレモニーの終盤、スタートコマンドの直前に「Back home again in Indiana」の独唱が行われる。セレモニーにおいてアメリカ合衆国国歌よりも後に歌われるこの曲は、インディアナ州の「州歌」と言えるほど有名な曲だが、1946年にジェームス・メルトンが、自分が代表を務める自動車クラブのパレードに合わせて歌ったものがセレモニー内で歌われた最初である。この歌が好評となり、メルトンは1947年以降は招待されてこの歌を歌うようになった。この歌が正式にスタートコマンドの直前に歌われる現在の形に決められたのは、1948年のことである。以降、現在に至るまで何人もの歌手が独唱を披露してきた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "もっとも知られている歌手は、1972年から2014年までの42年間に渡り、36回歌ったカントリー歌手のジム・ネイバースである。2014年、36回目にして最後の歌唱を終えたネイバースは、マリ・ハルマン・ジョージとともにスタートコマンドも行っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手ジム・コーネリソン(英語版)が行っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「Ladies and gentlemen, start your engines!」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "もともとはIMSのオーナーだったトニー・ハルマンがアナウンスを行っていたが、トニーは1977年に死去。翌1978年からはトニーの妻のメアリー・フェンドリッチ・ハルマンが行うようになった(1982年のみ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイの場内放送アナウンサーだったトム・カーネギーが行っている)。そのメアリーが1998年4月に死去すると、1998年から2015年までトニーとメアリーの娘のマリ・ハルマン・ジョージが引き継いだ。その後2016年はマリが嫁いだハルマン・ジョージ家の家族一同で行い、2017年から2019年まではマリの息子のトニー・ジョージが行った。そして2020年は、新たにIMSのオーナーとなったロジャー・ペンスキーが行っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "かつてはレースに参加するドライバーは男性ばかりだったので、スタートコマンドは「Gentlemen, start your engines!(紳士諸君、エンジンを始動しなさい)」だったが、女性ドライバーが参加するようになり、「A(One) lady and gentlemen, start your engines!(淑女と紳士諸君~)」と改められ、女性が複数人参加した際にはさらに複数形に改められ、「Ladies and gentlemen, start your engines!」となる。2017年と2018年、ペンスキーが行うようになった2020年以降は性別に関係なく使用できる「Drivers, start your engines!」というスタートコマンドが使われているが、結果的にトニ・ジョージ最後のコマンドとなった2019年は「Lady and gentlemen, start your engines!」に戻された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1976年以降、優勝者には手作りのキルトが贈られている。これは、地元のキルターであり、自らも元女性レーサーであったジャネッタ・ホールダーが手作りしたもの。レースをこよなく愛するホールダーは、レーサーのサインを集めて刺繍(ししゅう)したオリジナルのアップリケキルトを毎年作り、優勝者に贈っている。そのため、彼女は「キルト・レディ」として、レーサーや関係者に親しまれている。 そのうちの一人、数回の優勝経験をもつボビー・アンサーはヘンリー・フォード・博物館(ミシガン州ディアボーン)にキルトを寄贈した。また、アル・アンサーは自ら設立したアンサー・レーシング博物館(ニューメキシコ州アルバカーキー)に授与されたキルトを飾っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "他の多くのアメリカンスポーツ同様に、本レースでも優勝者にはチャンピオンリングが授与される。リングの製作は1983年から2016年までは同じインディアナポリスを本拠とする「Herff Jones」が担当していたが、2017年よりミネソタ州の「Jostens」に変更された。なおJostensは、他にもピットストップチャレンジの勝者等に渡されるリングや、主催者が同じNASCARのブリックヤード400のチャンピオンリングなどの製作も担当する。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "優勝者は名誉と共に超過密日程をこなす責務を負うこととなる。レース翌日は午前9時から行われる3時間の撮影会の後に優勝者記者会見、午後は5時間に渡って行われるセレモニーイベント「インディ500ビクトリー・バンケット」に出席し、それが終わると休む間もなく 1000 km以上離れたニューヨークへ移動し、僅かな仮眠の後に翌朝はFOX5ニューヨークの「グッデイ・ニューヨーク」とCNBCの「スクワークボックス」に出演、その後はナスダックへ向かい午前9:30の取引開始のベルを鳴らす。更にこの後にはエンパイア・ステート・ビルでメディア向け撮影会をこなした後様々なテレビ、ラジオに出演、その後約 3000 km離れたテキサス州アーリントンへ移動しアメリカを象徴するスポーツチーム、NFLダラス・カウボーイズを表敬訪問し、ここでも数多くの取材をこなす。さらに2012年から2019年および2022年以降はそのまま週末にレースが行われるデトロイトに移動してレースに備えなければならない。", "title": "エピソード" } ]
インディアナポリス500 は、アメリカ合衆国インディアナ州インディアナポリス市近郊のスピードウェイにあるインディアナポリス・モーター・スピードウェイで毎年5月に開催されるアメリカンモータースポーツイベントである。略称のインディ500 で呼ばれることもある。
{{Infobox motor race |Race title = Indianapolis 500 |Logo = [[File:Indianapolis 500 textlogo.svg|200px]] |Track map = [[File:Indianapolis Oval.svg|200px]] |Series long = インディカー・シリーズ |Series short = IndyCar |Venue = [[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]] |Location = インディアナ州スピードウェイ |Coordinates = |First race = 1911 |Last race = |Distance = {{convert|500|mi|km|sigfig=3}} |Laps = 200 |Previous names = ''International Sweepstakes'' (1911–1915, 1920-1980)<br />''Liberty Sweepstakes'' (1919) |Most wins driver = [[A.J.フォイト]] (4)<br />[[アル・アンサー]] (4)<br />[[リック・メアーズ]] (4)<br />[[エリオ・カストロネベス]] (4) |Most wins team = [[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]] (17) |Most wins manufacturer = Chassis: [[ダラーラ]] (18)<br />Engine: [[オッフェンハウザー]] (27) | Surface = 舗装 | Length km = <!-- or |Length mi = --> | Turns = 4 | Record time = 37.895 sec | Record driver = [[アリー・ルイエンダイク]] | Record car = Reynard/Ford-Cosworth XB | Record year = 1996 | Record class = }} [[画像:Indy 500 1994 Unser and Boesel.jpg|thumb|330px|right|Indy 500(1994年)]] '''インディアナポリス500''' (Indianapolis 500) は、[[アメリカ合衆国]][[インディアナ州]][[インディアナポリス|インディアナポリス市]]近郊の[[スピードウェイ (インディアナ州)|スピードウェイ]]にある[[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]]で毎年5月に開催されるアメリカン[[モータースポーツ]]イベントである。略称の'''インディ500''' (Indy 500) で呼ばれることもある。 == 概要 == [[File:Panoz G-Force GF09B Buddy Rice 2004.jpg|right|thumb|250px|Panoz G-Force GF09B<br />(2004年優勝のバディ・ライスのマシン)]] インディ500の決勝レースは毎年5月最終月曜日・[[戦没将兵追悼記念日|メモリアルデー]]の前日の日曜日、すなわち5月24日から30日までの日曜日に開催される。インディアナポリス・モーター・スピードウェイの[[オーバルトラック]]1周2.5[[マイル]] (約4.023 [[キロメートル|km]]) を200周、走行距離{{convert|500|mi|km|sigfig=3}}で争う。第1回開催は[[1911年]]。[[モナコグランプリ]]、[[ル・マン24時間レース]]と並び[[世界三大レース|世界3大レース]]のひとつに数えられる。近年はモナコGPと同日に開催されることが多くなっている。 === 世界最速の周回レース === インディ500の周回平均速度は予選で362 km/h、決勝でも354 km/hを超える。これは同じマシンでレースが行われるインディカー・シリーズの中ではもちろん、世界の周回レースカテゴリーの中でも最も速い。また、最高速度は380 km/hに達する。これは[[フォーミュラ1|F1]]の瞬間最高速度記録 (372.4 km/h) を上回り、これより速いカテゴリーは[[ドラッグレース]] ([[NHRA]]トップフューエルクラスで 520 km/h超) のような非周回レースに限られる。また、最高速だけであれば一部の[[スポーツカー (モータースポーツ)|プロトタイプカー]]が400 km/hを超えたこともあった<ref>{{Cite web|和書|title=6キロの直線「ユノディエール」を体験=ル・マンの風 現地レポートVol.3 |url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201506100003-spnavi |website=スポーツナビ |access-date=2023-04-22 |language=ja}}</ref>。33台のマシンがテール・トゥー・ノーズ、サイド・バイ・サイドで競り合い、[[スリップストリーム|ドラフティング]](スリップストリーム)を駆使してオーバーテイクするアメリカンモータースポーツの典型とも言える展開が広がる。 === 選手権としての位置付け === 1950年から1960年までは世界選手権という体裁を整えるためにF1の一戦として組み込まれていた。しかしF1ドライバーの参戦は少なく、ほとんど名目上のものであった{{Efn|この期間に参戦したF1ドライバーは[[1952年のインディ500|1952年]]の[[アルベルト・アスカリ]]、[[1958年のインディ500|1958年]]の[[ファン・マヌエル・ファンジオ]](エントリーしたが予選に参加せず)くらいである。なお世界選手権から外れた直後の1960年代にはこれよりも多くの参戦例がみられる。}}。[[1996年のインディ・レーシング・リーグ・シリーズ|1996年]]以降はインディカー・シリーズの最大イベントレースとして組み込まれている。 普段のインディカーレースが平均して50万人程度の視聴者数なのに対し、インディ500は500万人以上がTV観戦するほど注目度は高い<ref>[http://www.racer.com/north-american-racing/item/141030-tv-ratings-indy-500-coca-cola-600-monaco-gp UPDATED TV Ratings: Indy 500, Coca-Cola 600, Monaco GP]</ref>。現地でも、普段は空席の目立つオーバルに40万人が大挙し埋め尽くす、まさに国民的ビッグイベントとして存在している。こうした注目度の差から、インディカーシリーズ全レースではなく、インディ500単体で記憶するファンも少なくない。 [[2014年のインディカー・シリーズ|2014年シーズン]]から[[2022年のインディカー・シリーズ|2022年シーズン]]の決勝レースでは順位に応じて通常与えられるポイントの2倍が与えられていた。 === 車両 === 1960年代までのインディ500は、様々なエンジン形式、駆動方式が参加可能であった。[[1952年のインディ500|1952年]]に[[ポールポジション]]を獲得した[[ターボチャージャー|ターボ]][[ディーゼルエンジン]]搭載の[[カミンズ]]・ディーゼル・スペシャルや{{仮リンク2|1967年のインディ500|en|1967 Indianapolis 500|label=1967年}}と{{仮リンク2|1968年のインディ500|en|1968 Indianapolis 500|label=1968年}}に登場した[[ガスタービンエンジン]]搭載車が有名である。 [[CART]]やインディカー・シリーズなどのオープンホイールレース選手権の1戦に組み込まれるようになると、参戦車両は選手権のレギュレーションに対応したものに変わった。インディ500では「スーパースピードウェイ・パッケージ」と呼ばれる高速オーバル用のエアロパーツが取り付けられる。これは前後共に一枚板構造(シングルエレメント)を持ち、空気抵抗を最小限に抑えることで超高速走行を実現している。 === 危険性 === 速度域の高さや接戦の多さから、レース中には事故(クラッシュ)もたびたび発生している。レーシングマシンの安全性が低かった時代には何度か死亡事故も発生しているが、2021年現在、{{仮リンク2|1996年のインディ500|en|1996 Indianapolis 500|label=1996年}}の[[スコット・ブレイトン]]がインディ500のレーススケジュール中に起きたものでは最後の死亡事故となっている。詳細は{{仮リンク|インディアナポリス・モーター・スピードウェイでの死亡事故一覧|en|List of fatalities at the Indianapolis Motor Speedway}}を参照。 === 伝統 === 小さなサポートイベントなどを含めると約2週間にわたって行なわれること、予選グリッドの決め方が独特であることや、レース優勝者には[[牛乳]]が与えられるなど(下述)、他のレースと異なる「伝統」を持ったレースである。また、準優勝者(二位)には「最も速かった敗者」、初参戦のドライバーで最も活躍した者(基本的には最上位を獲得した者だが、[[2017年のインディ500|2017年]]のように途中何度も1位に立ったがリタイアした選手に贈られる場合もある。)には「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の称号が与えられる。また、決勝の順位ごとに賞金が与えられるほか、「決勝1周目をトップで通過したドライバー」、「最後に予選を通過したドライバー」など、さまざまなケースのボーナス賞金がある。 === ボルグワーナー・トロフィー === インディ500の優勝トロフィーとして「[[ボルグワーナー]]・トロフィー」がある。この[[スターリングシルバー]]製トロフィーの[[チェッカーフラッグ]]状の壁面にはインディ500の歴代優勝者全員の顔を立体的にかたどったレリーフが埋め込まれ、それぞれ下のブロックに優勝者の氏名・開催年・優勝者の決勝レースにおける平均速度([[マイル毎時]] (mph))が刻まれている。トロフィーという名称ではあるが優勝者が持ち回りで所有できるわけではなく、また約{{convert|153|lb|kg|sigfig=3}} という重さのため持ち上げることもできない。普段はIMS内のミュージアムに展示されていて、インディ500決勝日にヴィクトリーレーンに飾られるモニュメント的な存在である。インディ500優勝者にはトロフィーの壁面に自分の顔のレリーフを埋め込む権利、決勝レースの翌日にトロフィーと一緒に写真を撮る権利が与えられ、後日ボルグワーナー・トロフィーを模したミニトロフィーが授与される(こちらは永久保持が可能)。[[1935年]]に制作されてから82年間、アメリカ国外に出たことがなかったが、[[2017年のインディ500|2017年]]に[[佐藤琢磨]]が優勝したことを記念した日本での凱旋ツアーのために史上初めて国外に出ることとなった。 == 大会日程 == インディ500は5月中旬に開幕し、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムと、サイン会やパレードなどの観客向けイベントが約3週間に渡って開催される。期間中にはインディカー・シリーズの公式戦である「グランプリ・オブ・インディアナポリス」や[[インディ・ライツ]]の「フリーダム100」といったレースイベントも開催される。以下は例年行われるレース関連行事である。 === ルーキー・オリエンテーション・プログラム (ROP) === いわゆるルーキーテストのことで、4月中旬または下旬に行われるオープンテスト初日に行われるが、ここでクリアできなかった選手やオープンテスト以後にエントリーした選手向けにレーススケジュール中のプラクティス初日の最初にも行われる場合がある。初出場のドライバーや長らくオーバルでのレースに出場していないドライバー(「リフレッシャー」と呼ばれる)が対象となっていて、これに合格しないとインディ500への出走が認められない。インディ500では常に{{convert|350|km/h|mph|sigfig=3|abbr=on}} 以上の巡航速度でレースが進むため、極端に遅いマシンはレースの妨げになり大変危険である{{Efn|これはインディ500に限らず他のオーバルレースでも同様であり、インディカーシリーズではシリーズに参戦するドライバーに対しROPとは別にルーキーテストを課している}}。そこでコースレイアウトに慣れることと、安定したペースで周回を重ねられるようになることが主な到達目標に据えられている。細かい部分は年によって異なるが、目標となる平均速度毎にいくつかの「フェーズ」が用意され、それらを1つずつクリアしていく方式がとられる。 === 練習走行 === 5月第3週の火曜日から金曜日に行われる自由練習期間。前半は概ねマシンセッティングの確認が行われる。後半は予選に向けたハイペース走行や、決勝を意識したスリップストリームを使う練習が行われる。特に最終日の金曜日は"ファストフライデー"と呼ばれ、この日のトップタイムを記録したドライバーには賞金が贈られる。 === 予選 === 5月第3週の土曜日、及び翌日曜日の2日間で行われる(2001-2009年などは4日間)。複雑な方式によって行われるため、それについては下記の[[インディ500#予選方式|予選方式]]にて解説する。 === カーブ・デイ === 決勝レース2日前、金曜日 (2004年までは木曜日) 午前に1時間だけ行われる最終練習。予選を通過した33台すべてが決勝レース用のセッティングを施してコースに入り、ドラフティングを利用しながらレースを想定した練習走行をする。カーブ・デイとはカーブレーション・デイの略であり、かつて決勝レースの前にカーブレーター=キャブレターを調整できる最後の時間であったためにこの名がついた。また、この日の正午過ぎにフリーダム100が開始される。午後には一部のドライバーと担当ピットクルーがピット作業の速さを競う「ピットストップ・コンテスト」が行なわれる。 == 予選方式 == インディ500の予選方式は何度か変更されているが、2022年現在はおおむね以下の方式によって行なわれている<ref>[https://www.indycar.com/-/media/Files/2022/News/2022Indy500QualOneSheet042622 2022 QUALIFYING FORMAT(英語)] - INDYCAR、2022年5月9日閲覧。</ref>。 === 基本事項 === * 予選通過枠は33台、スターティンググリッドは3台✕11列。 * 予選1日目を土曜日、2日目を日曜日に行う。 * ドライバーは1回の計測(アテンプト)で4周走行し、その平均速度が参照される。 * 予選2日目が雨のためセッションが行われない場合、順延されず1日目の上位12台の順位で確定されるが、ラストチャンス・クオリファイは翌日以降に順延される。 ====ドライバー交代 ==== インディ500では、予選と決勝でドライバーを交代させることができる。これは、予選が「決勝に進出するドライバーではなくマシンを選ぶ」という理念に基づくものであることによる。1960年代までのようにヨーロッパのF1選手権シリーズとの間での人的交流が盛んだった時代には、このシステムを利用して「予選を通過したマシン」に決勝だけ乗り込むF1ドライバーも稀ではなかった。ただし、ドライバー交代が行われたシャシーはグリッドが最後尾に降格する。2台以上で交代があった場合、選手権ポイントが少ない方が最後尾につく。 === 予選1日目 === 予選1日目でまず30位までの決勝進出者が決定する。エントリーする全ての選手が最低1回のアテンプトを行い、その暫定順位によって以下のように振り分けられる。 * 1位-12位:予選通過確定、予選2日目進出 * 13位-30位:予選通過、及び予選順位確定 * 31位以下:予選2日目のラストチャンス・クオリファイへ 1日目は予選時間中であれば、回数に制限なくアテンプトを行える。1回目は前日のくじ引きにより決まった順番にアテンプトする。2回目以降のアテンプトに臨む際は、直前に記録されたタイムを取り消すか残すかを選択できるが、取り消した選手が優先的に出走でき、取り消して再アテンプトする選手がいない場合に限り、取り消さない選手の再アテンプトが可能となる。 なお、エントリーが33台以下で予選落ちが発生しない場合は、1日目で予選13位-33位の予選順位が確定し、予選2日目の「ラストチャンス・クオリファイ」は行われない。 === 予選2日目(ポール・デイ) === 予選2日目は、3つのセッションが行われる。予選2日目に参加する選手は前日の記録はすべてリセットされる(暫定順位は保存される)ため、再びアテンプトを行う必要がある。なお予選上位12台にはこの日確定した順位をもとに選手権ポイントが与えられる。 * '''トップ12・クオリファイ''' ** 前日の予選1位から12位の選手を対象に、順位の低い選手から一度だけアテンプトを行い、上位6台がファスト・シックスに進出。7-12位の選手は予選順位が確定する。 * '''ラストチャンス・クオリファイ''' ** 31番手から33番手のスターティング・グリッドを確定させるセッションが行われる。予選1日目の暫定予選順位31位以下の選手を対象に、参加選手中、1巡目は金曜日のくじ引きの早い順に一度アテンプトを行い、その後は制限時間中であれば再アテンプトは可能だが、その場合直前に出した記録は必ず取り消される。最終的に平均速度が速い順位で31位 - 33位(参加者中上位3台)の選手が予選通過、34位以下は予選落ちとなる。なお、前日30位以上の選手より速い記録を出しても、31位以下からのスタートとなる。 * '''ファスト・シックス''' ** ファスト・シックスでは[[ポール・ポジション]]から6番手までのスターティング・グリッドが確定する。トップ12・クオリファイの1位から6位の選手を対象に、順位の低い選手から一度だけアテンプトを行う。 == 歴代優勝者 == {|class="wikitable" style="font-size: 95%;" |-style="background:#efefef" !回!!年!!優勝者!!車体・エンジン!!チーム/オーナー!!レース距離<ref group="歴代">'''(雨)'''は降雨によって途中で打ち切られたレース。</ref><br />([[マイル]])!!平均時速<ref group="歴代">'''太字'''はその時点での最速記録。ただしインディ500ではフルコースコーション中も周回数が数えられるため、実際のレーシングスピードは記録を上回る。</ref><br />([[マイル毎時]] (mph)) |- ! 1 ! {{仮リンク2|1911年のインディ500|en|1911 Indianapolis 500|label=1911年}} | {{Flagicon|USA}} [[レイ・ハルーン]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | {{仮リンク2|マーモン・モーター|en|Marmon Motor Car Company|label=マーモン}} | マーモン | rowspan="5" | 500 | '''74.602''' |- ! 2 ! {{仮リンク2|1912年のインディ500|en|1912 Indianapolis 500|label=1912年}} | {{Flagicon|USA}} [[ジョー・ドーソン]] | [[ナショナル・モーター・ビークル|ナショナル]] | [[ナショナル・モーター・ビークル]] | '''78.719''' |- ! 3 ! {{仮リンク2|1913年のインディ500|en|1913 Indianapolis 500|label=1913年}} | {{Flagicon|FRA}} [[ジュール・グー]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | [[プジョー]] | プジョー | 75.933 |- ! 4 ! {{仮リンク2|1914年のインディ500|en|1914 Indianapolis 500|label=1914年}} | {{Flagicon|FRA}} [[ルネ・トーマ]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | {{仮リンク2|ドラージュ (自動車)|en|Delage|label=ドラージュ}} | ドラージュ | '''82.474''' |- ! 5 ! {{仮リンク2|1915年のインディ500|en|1915 Indianapolis 500|label=1915年}} | {{Flagicon|USA}} [[ラルフ・デパルマ]] | [[メルセデス・ベンツ#モータースポーツ|メルセデス]] | E.C Patterson | '''89.840''' |- ! 6 ! {{仮リンク2|1916年のインディ500|en|1916 Indianapolis 500|label=1916年}} | {{Flagicon|UK}} [[ダリオ・レスタ]] | プジョー | プジョー | 300<ref group="歴代">1916年のレースはレース距離300マイルとして開催。</ref> | 84.001 |- ! colspan=7|1917年・1918年: [[第一次世界大戦]]の影響により開催されず |- ! 7 ! {{仮リンク2|1919年のインディ500|en|1919 Indianapolis 500|label=1919年}} | {{Flagicon|USA}} [[ハウディ・ウィルコックス]] | プジョー | [[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ|I.M.S Corporation]] | rowspan="7" | 500 | 88.050 |- ! 8 ! {{仮リンク2|1920年のインディ500|en|1920 Indianapolis 500|label=1920年}} | {{Flagicon|USA}} [[ガストン・シボレー]] | rowspan="2" | [[フロンテナック・モーター・コーポレーション|フロンテナック]] | ウィリアム・スモール・カンパニー | 88.618 |- ! 9 ! {{仮リンク2|1921年のインディ500|en|1921 Indianapolis 500|label=1921年}} | {{Flagicon|USA}} [[トミー・ミルトン]] | [[ルイ・シボレー]] | 89.621 |- ! 10 ! {{仮リンク2|1922年のインディ500|en|1922 Indianapolis 500|label=1922年}} | {{Flagicon|USA}} [[ジミー・マーフィー]] | [[デューセンバーグ]]・{{仮リンク2|ハリー・ミラー (自動車レース)|en|Harry Miller (auto racing)|label=ミラー}} | ジミー・マーフィー | '''94.484''' |- ! 11 ! {{仮リンク2|1923年のインディ500|en|1923 Indianapolis 500|label=1923年}} | {{Flagicon|USA}} トミー・ミルトン | ミラー | H. C. S.モーターカンパニー | 90.545 |- ! 12 ! {{仮リンク2|1924年のインディ500|en|1924 Indianapolis 500|label=1924年}} | {{Flagicon|USA}} [[ローラ・L・コラム]]、<br />{{Flagicon|USA}} [[ジョー・ボイヤー]]<ref group="歴代">1924年のレースでは、ローラ・L・コラムがスタートさせた車をレース途中でジョー・ボイヤーが引き継ぎ優勝したため、両名が優勝者として扱われている。</ref> | colspan="2" rowspan="2" | デューセンバーグ | '''98.545''' |- ! 13 ! {{仮リンク2|1925年のインディ500|en|1925 Indianapolis 500|label=1925年}} | {{Flagicon|USA}} [[ピーター・デパオロ]] | '''101.127''' |- ! 14 ! {{仮リンク2|1926年のインディ500|en|1926 Indianapolis 500|label=1926年}} | {{Flagicon|USA}} [[フランク・ロックハート]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | ミラー | ピーター・クライス | 400(雨) | 95.904 |- ! 15 ! {{仮リンク2|1927年のインディ500|en|1927 Indianapolis 500|label=1927年}} | {{Flagicon|USA}} [[ジョージ・サウダース]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | デューセンバーグ | ウィリアム・S・ホワイト | rowspan="15" | 500 | 97.545 |- ! 16 ! {{仮リンク2|1928年のインディ500|en|1928 Indianapolis 500|label=1928年}} | {{Flagicon|USA}} ルイス・メイヤー | rowspan="2" | ミラー | アルデン・サンプソン2世 | 99.904 |- ! 17 ! {{仮リンク2|1929年のインディ500|en|1929 Indianapolis 500|label=1929年}} | {{Flagicon|USA}} [[レイ・キーチ]] | M. A. Yagle | 97.585 |- ! 18 ! {{仮リンク2|1930年のインディ500|en|1930 Indianapolis 500|label=1930年}} | {{Flagicon|USA}} [[ビリー・アーノルド]] | サマーズ・ミラー | ハリー・ハルツ | 100.448 |- ! 19 ! {{仮リンク2|1931年のインディ500|en|1931 Indianapolis 500|label=1931年}} | {{Flagicon|USA}} [[ルー・シュナイダー]] | {{仮リンク2|マイロン・スティーブンス|en|Myron Stevens|label=スティーブンス}}・ミラー | B. L. シュナイダー | 96.629 |- ! 20 ! {{仮リンク2|1932年のインディ500|en|1932 Indianapolis 500|label=1932年}} | {{Flagicon|USA}} [[フレッド・フレイム]] | {{仮リンク2|ウェッタロス|en|Wetteroth}}・ミラー | ハリー・ハルツ | '''104.144''' |- ! 21 ! {{仮リンク2|1933年のインディ500|en|1933 Indianapolis 500|label=1933年}} | {{Flagicon|USA}} ルイス・メイヤー | rowspan="2" | ミラー | ルイス・メイヤー | '''104.162''' |- ! 22 ! {{仮リンク2|1934年のインディ500|en|1934 Indianapolis 500|label=1934年}} | {{Flagicon|USA}} [[ビル・カミングズ]] | H. C. ヘニング | '''104.863''' |- ! 23 ! {{仮リンク2|1935年のインディ500|en|1935 Indianapolis 500|label=1935年}} | {{Flagicon|USA}} [[ケリー・ペティロ]] | ウェッタロス・{{仮リンク2|オッフェンハウザー|en|Offenhauser}} | ケリー・ペテイロ | '''106.240''' |- ! 24 ! {{仮リンク2|1936年のインディ500|en|1936 Indianapolis 500|label=1936年}} | {{Flagicon|USA}} ルイス・メイヤー | スティーブンス・ミラー | ルイス・メイヤー | '''109.069''' |- ! 25 ! {{仮リンク2|1937年のインディ500|en|1937 Indianapolis 500|label=1937年}} | {{Flagicon|USA}} [[ウィルバー・ショウ]] | {{仮リンク2|ウィルバー・ショウ|en|Wilbur Shaw|label=ショウ}}・オッフェンハウザー | ウィルバー・ショウ | '''113.580''' |- ! 26 ! {{仮リンク2|1938年のインディ500|en|1938 Indianapolis 500|label=1938年}} | {{Flagicon|USA}} [[フロイド・ロバーツ]] | ウエッタロス・ミラー | ロウ・ムーア | '''117.200''' |- ! 27 ! {{仮リンク2|1939年のインディ500|en|1939 Indianapolis 500|label=1939年}} | rowspan="2" | {{Flagicon|USA}} ウィルバー・ショウ | rowspan="2" | [[マセラティ]] | rowspan="2" | ボイル・レーシング | 115.035 |- ! 28 ! {{仮リンク2|1940年のインディ500|en|1940 Indianapolis 500|label=1940年}} | 114.277 |- ! 29 ! {{仮リンク2|1941年のインディ500|en|1941 Indianapolis 500|label=1941年}} | {{Flagicon|USA}} [[フロイド・デイビス]]、<br />{{Flagicon|USA}} [[マウリ・ローズ]]<ref group="歴代">1941年のレースでは、フロイド・デイビスがスタートさせた車をレース途中でマウリ・ローズが引き継ぎ優勝したため、両名が優勝者として扱われている。</ref> | ウェッタロス・オッフェンハウザー | ロウ・ムーア | 115.117 |- ! colspan=7|1942年~1945年: [[第二次世界大戦]]の影響により開催されず。 |- ! 30 ! {{仮リンク2|1946年のインディ500|en|1946 Indianapolis 500|label=1946年}} | {{Flagicon|USA}} [[ジョージ・ロブソン (レーサー)|ジョージ・ロブソン]] | アダムス・スパークス | Thorne Engineering | rowspan="4" | 500 | 114.820 |- ! 31 ! {{仮リンク2|1947年のインディ500|en|1947 Indianapolis 500|label=1947年}} | rowspan="2" | {{Flagicon|USA}} マウリ・ローズ | rowspan="3" | {{仮リンク2|デート (自動車レーシングチーム)|en|Deidt|label=デート}}・オッフェンハウザー | rowspan="3" | ロウ・ムーア | 116.338 |- ! 32 ! {{仮リンク2|1948年のインディ500|en|1948 Indianapolis 500|label=1948年}} | '''119.814''' |- ! 33 ! {{仮リンク2|1949年のインディ500|en|1949 Indianapolis 500|label=1949年}} | {{Flagicon|USA}} [[ビル・ホランド]] | '''121.327''' |- ! 34 ! [[1950年のインディ500|1950年]] | {{Flagicon|USA}} [[ジョニー・パーソンズ]] | rowspan="2" | {{仮リンク2|カーティス・クラフト|en|Kurtis Kraft|label=カーティス}}・オッフェンハウザー | カーティス | 345(雨) | '''124.002''' |- ! 35 ! [[1951年のインディ500|1951年]] | {{Flagicon|USA}} [[リー・ワラード]] | Murrell Belanger | rowspan="22" | 500 | '''126.244''' |- ! 36 ! [[1952年のインディ500|1952年]] | {{Flagicon|USA}} [[トロイ・ラットマン]] | {{仮リンク2|クズマ (自動車レーシングチーム)|en|Kuzma (constructor)|label=クズマ}}・オッフェンハウザー | Christopher J.C. Agajanian | '''128.922''' |- ! 37 ! {{仮リンク2|1953年のインディ500|en|1953 Indianapolis 500|label=1953年}} | rowspan="2" | {{Flagicon|USA}} [[ビル・ブコビッチ]] | rowspan="3" | カーティス・オッフェンハウザー | rowspan="2" | ハワード・ケック | 128.740 |- ! 38 ! {{仮リンク2|1954年のインディ500|en|1954 Indianapolis 500|label=1954年}} | '''130.840''' |- ! 39 ! {{仮リンク2|1955年のインディ500|en|1955 Indianapolis 500|label=1955年}} | {{Flagicon|USA}} [[ボブ・スウェイカート]] | rowspan="2" | ジョン・ジンク | 128.209 |- ! 40 ! [[1956年のインディ500|1956年]] | {{Flagicon|USA}} [[パット・フラハーティ]] | {{仮リンク2|A.J.ワトソン|en|A. J. Watson|label=ワトソン}}・オッフェンハウザー | 128.490 |- ! 41 ! [[1957年のインディ500|1957年]] | {{Flagicon|USA}} [[サム・ハンクス]] | rowspan="2" | エパリー・オッフェンハウザー | rowspan="2" | Geoge Salih | '''135.601''' |- ! 42 ! [[1958年のインディ500|1958年]] | {{Flagicon|USA}} [[ジミー・ブライアン]] | 133.719 |- ! 43 ! [[1959年のインディ500|1959年]] | {{Flagicon|USA}} [[ロジャー・ウォード]] | rowspan="6" | ワトソン・オッフェンハウザー | Leader Cards | '''135.875''' |- ! 44 ! [[1960年のインディ500|1960年]] | {{Flagicon|USA}} [[ジム・ラスマン]] | Ken-Paul | '''138.767''' |- ! 45 ! {{仮リンク2|1961年のインディ500|en|1961 Indianapolis 500|label=1961年}} | {{Flagicon|USA}} [[A.J.フォイト]] | Bignotti-Bowes Racing | '''139.130''' |- ! 46 ! {{仮リンク2|1962年のインディ500|en|1962 Indianapolis 500|label=1962年}} | {{Flagicon|USA}} ロジャー・ウォード | Leader Cards | '''140.293''' |- ! 47 ! {{仮リンク2|1963年のインディ500|en|1963 Indianapolis 500|label=1963年}} | {{Flagicon|USA}} [[パーネリー・ジョーンズ]] | Christopher J.C. Agajanian | '''143.137''' |- ! 48 ! {{仮リンク2|1964年のインディ500|en|1964 Indianapolis 500|label=1964年}} | {{Flagicon|USA}} A.J.フォイト | Ansted-Thompson Racing | '''147.350''' |- ! 49 ! {{仮リンク2|1965年のインディ500|en|1965 Indianapolis 500|label=1965年}} | {{Flagicon|UK}} [[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]] | [[チーム・ロータス|ロータス]]・[[フォード・モーター|フォード]] | [[チーム・ロータス]]<ref name="a" group="歴代">1965年の[[チーム・ロータス]]と1974年の[[マクラーレン]]は、同年に[[フォーミュラ1|F1]]の[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]も獲得している。</ref> | '''150.686''' |- ! 50 ! {{仮リンク2|1966年のインディ500|en|1966 Indianapolis 500|label=1966年}} | {{Flagicon|UK}} [[グラハム・ヒル]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | [[ローラ・カーズ|ローラ]]・フォード | メコン・レーシング・チーム | 144.137 |- ! 51 ! {{仮リンク2|1967年のインディ500|en|1967 Indianapolis 500|label=1967年}} | {{Flagicon|USA}} A.J.フォイト | [[コヨーテ (シャシー)|コヨーテ]]・フォード | Ansted-Thompson Racing | '''151.207''' |- ! 52 ! {{仮リンク2|1968年のインディ500|en|1968 Indianapolis 500|label=1968年}} | {{Flagicon|USA}} [[ボビー・アンサー]] | [[オール・アメリカン・レーサーズ|イーグル]]・オッフェンハウザー | Leader Cards | '''152.882''' |- ! 53 ! {{仮リンク2|1969年のインディ500|en|1969 Indianapolis 500|label=1969年}} | {{Flagicon|USA}} [[マリオ・アンドレッティ]] | {{仮リンク2|ブラウナー・ホーク|en|Brawner Hawk}}・フォード | {{仮リンク2|STP (エンジンオイルメーカー)|en|STP (motor oil company)|label=STP}} | '''156.867''' |- ! 54 ! {{仮リンク2|1970年のインディ500|en|1970 Indianapolis 500|label=1970年}} | rowspan="2" | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサー]] | rowspan="2" | PJコルト・フォード | rowspan="2" | [[ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング]] | 155.749 |- ! 55 ! {{仮リンク2|1971年のインディ500|en|1971 Indianapolis 500|label=1971年}} | '''157.735''' |- ! 56 ! {{仮リンク2|1972年のインディ500|en|1972 Indianapolis 500|label=1972年}} | {{Flagicon|USA}} [[マーク・ダナヒュー]] | [[マクラーレン]]・オッフェンハウザー | [[ペンスキー・レーシング]] | '''162.692''' |- ! 57 ! {{仮リンク2|1973年のインディ500|en|1973 Indianapolis 500|label=1973年}} | {{Flagicon|USA}} [[ゴードン・ジョンコック]] | イーグル・オッフェンハウザー | [[オール・アメリカン・レーサーズ]] | 332.5(雨) | 159.063 |- ! 58 ! {{仮リンク2|1974年のインディ500|en|1974 Indianapolis 500|label=1974年}} | {{Flagicon|USA}} [[ジョニー・ラザフォード]] | マクラーレン・オッフェンハウザー | [[マクラーレン]]<ref name="a" group="歴代"/> | rowspan="2" | 500 | 158.589 |- ! 59 ! {{仮リンク2|1975年のインディ500|en|1975 Indianapolis 500|label=1975年}} | {{Flagicon|USA}} ボビー・アンサー | イーグル・オッフェンハウザー | {{仮リンク2|A.J.フォイト・レーシング|en|A. J. Foyt Racing|label=A.J.フォイト・エンタープライゼス}} | 161.331 |- ! 60 ! {{仮リンク2|1976年のインディ500|en|1976 Indianapolis 500|label=1976年}} | {{Flagicon|USA}} ジョニー・ラザフォード | マクラーレン・オッフェンハウザー | マクラーレン | 255(雨) | 148.725 |- ! 61 ! {{仮リンク2|1977年のインディ500|en|1977 Indianapolis 500|label=1977年}} | {{Flagicon|USA}} A.J.フォイト | コヨーテ・フォイト | A.J.フォイト・エンタープライゼス | rowspan="27" | 500 | 161.331 |- ! 62 ! {{仮リンク2|1978年のインディ500|en|1978 Indianapolis 500|label=1978年}} | {{Flagicon|USA}} アル・アンサー | ローラ・[[コスワース]] | [[シャパラル・カーズ|シャパラル・レーシング]] | 161.363 |- ! 63 ! {{仮リンク2|1979年のインディ500|en|1979 Indianapolis 500|label=1979年}} | {{Flagicon|USA}} [[リック・メアーズ]] | [[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]]・コスワース | [[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]] | 158.899 |- ! 64 ! {{仮リンク2|1980年のインディ500|en|1980 Indianapolis 500|label=1980年}} | {{Flagicon|USA}} ジョニー・ラザフォード | シャパラル・コスワース | シャパラル・レーシング | 142.862 |- ! 65 ! {{仮リンク2|1981年のインディ500|en|1981 Indianapolis 500|label=1981年}} | {{Flagicon|USA}} ボビー・アンサー | ペンスキー・コスワース | ペンスキー・レーシング | 139.084 |- ! 66 ! {{仮リンク2|1982年のインディ500|en|1982 Indianapolis 500|label=1982年}} | {{Flagicon|USA}} [[ゴードン・ジョンコック]] | [[パトリック・レーシング|ワイルドキャット]]・コスワース | [[パトリック・レーシング|STPパトリック・レーシング]] | 162.029 |- ! 67 ! {{仮リンク2|1983年のインディ500|en|1983 Indianapolis 500|label=1983年}} | {{Flagicon|USA}} [[トム・スニーバ]] | rowspan="5" | [[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]・コスワース | Bignotti-Cotter | 162.117 |- ! 68 ! {{仮リンク2|1984年のインディ500|en|1984 Indianapolis 500|label=1984年}} | {{Flagicon|USA}} リック・メアーズ | rowspan="2" | ペンスキー | '''163.612''' |- ! 69 ! {{仮リンク2|1985年のインディ500|en|1985 Indianapolis 500|label=1985年}} | {{Flagicon|USA}} [[ダニー・サリバン]] | 152.982 |- ! 70 ! {{仮リンク2|1986年のインディ500|en|1986 Indianapolis 500|label=1986年}} | {{Flagicon|USA}} [[ボビー・レイホール]] | {{仮リンク2|トゥルースポーツ|en|Truesports}} | '''170.722''' |- ! 71 ! {{仮リンク2|1987年のインディ500|en|1987 Indianapolis 500|label=1987年}} | {{Flagicon|USA}} アル・アンサー | rowspan="2" | ペンスキー | 162.175 |- ! 72 ! {{仮リンク2|1988年のインディ500|en|1988 Indianapolis 500|label=1988年}} | {{Flagicon|USA}} リック・メアーズ | ペンスキー・[[シボレー]] | 144.809 |- ! 73 ! {{仮リンク2|1989年のインディ500|en|1989 Indianapolis 500|label=1989年}} | {{Flagicon|BRA}} [[エマーソン・フィッティパルディ]] | ペンスキー・シボレー | [[パトリック・レーシング]] | 167.581 |- ! 74 ! {{仮リンク2|1990年のインディ500|en|1990 Indianapolis 500|label=1990年}} | {{Flagicon|NED}} [[アリー・ルイエンダイク]] | ローラ・シボレー | {{仮リンク2|ダグ・シアソン・レーシング|en|Doug Shierson Racing}} | '''185.981''' |- ! 75 ! {{仮リンク2|1991年のインディ500|en|1991 Indianapolis 500|label=1991年}} | {{Flagicon|USA}} リック・メアーズ | ペンスキー・シボレー | ペンスキー | 176.457 |- ! 76 ! {{仮リンク2|1992年のインディ500|en|1992 Indianapolis 500|label=1992年}} | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサーJr.]] | [[ガルマー|ギャルマー]]・シボレー | {{仮リンク2|ギャレス・レーシング|en|Galles Racing|label=ギャレス・クラコ・レーシング}} | 134.477 |- ! 77 ! {{仮リンク2|1993年のインディ500|en|1993 Indianapolis 500|label=1993年}} | {{Flagicon|BRA}} エマーソン・フィッティパルディ | ペンスキー・シボレー | rowspan="2" | ペンスキー | 157.207 |- ! 78 ! {{仮リンク2|1994年のインディ500|en|1994 Indianapolis 500|label=1994年}} | {{Flagicon|USA}} アル・アンサーJr. | ペンスキー・メルセデス | 160.872 |- ! 79 ! {{仮リンク2|1995年のインディ500|en|1995 Indianapolis 500|label=1995年}} | {{Flagicon|CAN}} [[ジャック・ヴィルヌーヴ]] | rowspan="2" | [[レイナード]]・フォード | [[チーム・グリーン]] | 153.616 |- ! 80 ! {{仮リンク2|1996年のインディ500|en|1996 Indianapolis 500|label=1996年}} | {{Flagicon|USA}} [[バディ・ラジアー]] | {{仮リンク2|ヘメルガーン・レーシング|en|Hemelgarn Racing}} | 147.956 |- ! 81 ! {{仮リンク2|1997年のインディ500|en|1997 Indianapolis 500|label=1997年}} | {{Flagicon|NED}} アリー・ルイエンダイク | [[パノス|Gフォース]]・[[オールズモビル (自動車)|オーロラ(オールズモビル)]] | {{仮リンク2|トレッドウェイ・レーシング|en|Treadway Racing}} | 145.827 |- ! 82 ! {{仮リンク2|1998年のインディ500|en|1998 Indianapolis 500|label=1998年}} | {{Flagicon|USA}} [[エディ・チーバー|エディ・チーバーJr.]] | rowspan="2" | [[ダラーラ]]・オーロラ | {{仮リンク2|チーバー・レーシング|en|Cheever Racing}} | 145.155 |- ! 83 ! {{仮リンク2|1999年のインディ500|en|1999 Indianapolis 500|label=1999年}} | {{Flagicon|SWE}} [[ケニー・ブラック]] | A.J.フォイト・エンタープライゼス | 153.176 |- ! 84 ! {{仮リンク2|2000年のインディ500|en|2000 Indianapolis 500|label=2000年}} | {{Flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | Gフォース・オーロラ | [[チップ・ガナッシ・レーシング]] | 167.607 |- ! 85 ! {{仮リンク2|2001年のインディ500|en|2001 Indianapolis 500|label=2001年}} | {{Flagicon|BRA}} [[エリオ・カストロネベス]]<ref name="ルーキー" group="歴代" /> | ダラーラ・オーロラ | rowspan="3" | ペンスキー | 153.601 |- ! 86 ! {{仮リンク2|2002年のインディ500|en|2002 Indianapolis 500|label=2002年}} | {{Flagicon|BRA}} エリオ・カストロネベス | ダラーラ・シボレー | 166.499 |- ! 87 ! {{仮リンク2|2003年のインディ500|en|2003 Indianapolis 500|label=2003年}} | {{Flagicon|BRA}} [[ジル・ド・フェラン]] | [[パノス]]Gフォース・[[トヨタ自動車#モータースポーツ|トヨタ]] | 156.291 |- ! 88 ! {{仮リンク2|2004年のインディ500|en|2004 Indianapolis 500|label=2004年}} | {{Flagicon|USA}} [[バディ・ライス]] | パノスGフォース・[[本田技研工業#モータースポーツ|ホンダ]] | [[レイホール・レターマン・レーシング]] | 450(雨) | 138.518 |- ! 89 ! {{仮リンク2|2005年のインディ500|en|2005 Indianapolis 500|label=2005年}} | {{Flagicon|UK}} [[ダン・ウェルドン]] | rowspan="8" | ダラーラ・ホンダ | [[アンドレッティ・オートスポーツ|アンドレッティ・グリーン・レーシング]] | rowspan="2" | 500 | 157.603 |- ! 90 ! {{仮リンク2|2006年のインディ500|en|2006 Indianapolis 500|label=2006年}} | {{Flagicon|USA}} [[サム・ホーニッシュJr.]] | ペンスキー | 157.085 |- ! 91 ! {{仮リンク2|2007年のインディ500|en|2007 Indianapolis 500|label=2007年}} | {{Flagicon|SCO}} [[ダリオ・フランキッティ]] | アンドレッティ・グリーン・レーシング | 415(雨) | 151.774 |- ! 92 ! {{仮リンク2|2008年のインディ500|en|2008 Indianapolis 500|label=2008年}} | {{Flagicon|NZL}} [[スコット・ディクソン]] | チップ・ガナッシ・レーシング | rowspan="16" | 500 | 143.567 |- ! 93 ! {{仮リンク2|2009年のインディ500|en|2009 Indianapolis 500|label=2009年}} | {{Flagicon|BRA}} エリオ・カストロネベス | ペンスキー | 150.318 |- ! 94 ! {{仮リンク2|2010年のインディ500|en|2010 Indianapolis 500|label=2010年}} | {{Flagicon|SCO}} ダリオ・フランキッティ | チップ・ガナッシ・レーシング | 161.623 |- ! 95 ! [[2011年のインディ500|2011年]] | {{Flagicon|UK}} ダン・ウェルドン | {{仮リンク2|ブライアン・ハータ・オートスポート|en|Bryan Herta Autosport}} | 170.265 |- ! 96 ! [[2012年のインディ500|2012年]] | {{Flagicon|SCO}} ダリオ・フランキッティ | チップ・ガナッシ・レーシング | 167.734 |- ! 97 ! [[2013年のインディ500|2013年]] | {{flagicon|BRA}} [[トニー・カナーン]] | ダラーラ・シボレー | [[KVレーシング・テクノロジー]] | '''187.433''' |- ! 98 ! {{仮リンク2|2014年のインディ500|en|2014 Indianapolis 500|label=2014年}} | {{flagicon|USA}} [[ライアン・ハンター=レイ]] | ダラーラ・ホンダ | [[アンドレッティ・オートスポーツ]] | 186.563 |- ! 99 ! {{仮リンク2|2015年のインディ500|en|2015 Indianapolis 500|label=2015年}} | {{flagicon|COL}} ファン・パブロ・モントーヤ | ダラーラ・シボレー | チーム・ペンスキー | 161.341 |- ! 100 ! {{仮リンク2|2016年のインディ500|en|2016 Indianapolis 500|label=2016年}} | {{flagicon|USA}} [[アレクサンダー・ロッシ]]<ref name="ルーキー" group="歴代">インディアナポリス500における「ルーキー・ドライバー」による優勝。</ref> | rowspan="2" | ダラーラ・ホンダ | rowspan="2" | アンドレッティ・オートスポーツ | 166.634 |- ! 101 ! [[2017年のインディ500|2017年]] | {{flagicon|JPN}} [[佐藤琢磨]] | 155.395 |- ! 102 ! {{仮リンク2|2018年のインディ500|en|2018 Indianapolis 500|label=2018年}} | {{flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] | rowspan="2" | ダラーラ・シボレー | rowspan="2" | チーム・ペンスキー | 166.935 |- ! 103 ! {{仮リンク2|2019年のインディ500|en|2019 Indianapolis 500|label=2019年}} | {{flagicon|FRA}} [[サイモン・パジェノ]] | 175.794 |- ! 104 !{{仮リンク2|2020年のインディ500|en|2020 Indianapolis 500|label=2020年}}<ref group="歴代">[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|2019年コロナウイルス感染症の影響]]により8月23日に延期し、無観客開催。</ref> |{{flagicon|JPN}} [[佐藤琢磨]] | rowspan="3" |ダラーラ・ホンダ |レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング |157.824 |- !105 !{{仮リンク2|2021年のインディ500|en|2021 Indianapolis 500|label=2021年}} |{{Flagicon|BRA}} エリオ・カストロネベス | {{仮リンク2|メイヤー・シャンク・レーシング|en|Meyer Shank Racing}} |'''190.690'''<ref group="歴代">平均レース時速最速記録。</ref> |- !106 !{{仮リンク2|2022年のインディ500|en|2022 Indianapolis 500|label=2022年}} |{{Flagicon|SWE}} [[マーカス・エリクソン]] |[[チップ・ガナッシ・レーシング]] |175.428 |- !107 !{{仮リンク2|2023年のインディ500|en|2023 Indianapolis 500|label=2023年}} |{{Flagicon|USA}} [[ジョセフ・ニューガーデン]] | ダラーラ・シボレー | チーム・ペンスキー |168.193 |} {{Reflist|group=歴代}} == 記録 == === 予選速度の変遷 === *100mph台 - [[リーン・トーマス]] (104.785 mph, 1919年) *110mph台 - [[アール・クーパー]] (110.728 mph, 1925年) *120mph台 - [[フランク・ロックハート]] (120.546 mph, 1927年) *130mph台 - [[ジミー・スナイダー]] (130.492 mph, 1937年) *140mph台 - [[ジャック・マクグラス]] (141.287 mph, 1954年) *150mph台 - [[パーネリー・ジョーンズ]] (150.729 mph, 1962年) *160mph台 - [[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]] (160.973 mph, 1965年) *170mph台 - [[グラハム・ヒル]] (171.887 mph, 1968年) *180mph台 - [[ビリー・ブコビッチ]] (185.797 mph, 1972年) *190mph台 - [[ボビー・アンサー]] (196.678 mph, 1972年) *200mph台 - [[トム・スニーヴァ]] (200.535 mph, 1977年) *210mph台 - トム・スニーヴァ (210.689 mph, 1984年) *220mph台 - リック・メアーズ (220.453 mph, 1988年) *230mph台 - [[ロベルト・ゲレーロ]] (232.618 mph, 1992年) === レース === *最多ポール・ポジション - リック・メアーズ/6回 (1979年, 1982年, 1986年, 1988年, 1989年, 1991年) *最高レース平均速度 - 190.690 mph (306.885 km/h)/エリオ・カストロネベス (2021年) *最高予選速度(1周) - 237.498 mph (382.216 km/h)/アリー・ルイエンダイク (1996年) *最高ファステストラップ - 236.103 mph (379.971 km/h)/[[エディ・チーバー]] (1996年) *最多ラップリード - 198周 (3 - 200周目)/ビリー・アーノルド (1930年) *優勝ドライバーの最少ラップリード - 1周/ダン・ウェルドン (2011年) *最多リーダー人数 - 15人 (2017年, 2018年) *最多リードチェンジ - 68回 (2013年) *1位と2位の最小タイム差 - 0.043秒/1位:アル・アンサーjr, 2位:スコット・グッドイヤー (1992年) *最大ポジション上昇 - 32 (38番手スタートから6位フィニッシュ)/ジーク・メイヤー (1932年) === ドライバー === *最年少優勝 - トロイ・ラットマン/22歳80日 (1952年) *最年少出走 - A・J・フォイト4世/19歳0日 (2003年) *最年長優勝 - アル・アンサー/47歳360日 (1987年) *最年長出走 - A・J・フォイト/57歳128日 (1992年) ==== 勝利数 ==== {|class="wikitable" style="font-size: 95%;" |-style="background:#efefef" ! 回数 ! ドライバー ! 年 |- | rowspan="4" align="center" |'''4''' | {{Flagicon|USA}} [[A・J・フォイト]] | 1961年、1964年、1967年、1977年 |- | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサー]] | 1970年、1971年、1978年、1987年 |- | {{Flagicon|USA}} [[リック・メアーズ]] | 1979年、1984年、1988年、1991年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[エリオ・カストロネベス]] | 2001年、2002年、2009年、2021年 |- | rowspan="6" align="center" |'''3''' | {{Flagicon|USA}} ルイス・メイヤー | 1928年、1933年、1936年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ウィルバー・ショウ]] | 1937年、1939年、1940年 |- | {{Flagicon|USA}} [[マウリ・ローズ]] | 1941年、1947年、1948年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ジョニー・ラザフォード]] | 1974年、1976年、1980年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ボビー・アンサー]] | 1968年、1975年、1981年 |- | {{Flagicon|UK}} [[ダリオ・フランキッティ]] | 2007年、2010年、2012年 |- | rowspan="10" align="center" |'''2''' | {{Flagicon|USA}} [[トミー・ミルトン]] | 1921年、1923年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ビル・ブコビッチ]] | 1953年、1954年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ロジャー・ウォード]] | 1959年、1962年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ゴードン・ジョンコック]] | 1973年、1982年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[エマーソン・フィッティパルディ]] | 1989年、1993年 |- | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサーJr.]] | 1992年、1994年 |- | {{Flagicon|NED}} [[アリー・ルイエンダイク]] | 1990年、1997年 |- | {{Flagicon|UK}} [[ダン・ウェルドン]] | 2005年、2011年 |- | {{flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]] | 2000年、2015年 |- |{{flagicon|JPN}} [[佐藤琢磨]] |2017年、2020年 |} ==== 連勝 ==== 2連勝したドライバーが5名いる(3連勝以上したドライバーは存在しない)。 * [[ウィルバー・ショウ]](1939年・1940年) * [[マウリ・ローズ]](1947年・1948年) * [[ビル・ブコビッチ]](1953年・1954年) * [[アル・アンサー]](1970年・1971年) * [[エリオ・カストロネベス]](2001年・2002年) ==== 他カテゴリとの間の記録 ==== : ''[[モナコグランプリ]]、[[ル・マン24時間レース]]と関係する記録は[[世界三大レース]]を参照のこと'' ; アメリカ合衆国の他カテゴリと複数制覇 {|class="wikitable" style="font-size: 95%;" |-style="background:#efefef" ! ドライバー ! インディ500優勝 ! [[チャンプカー|CART]]/[[インディカー・シリーズ]]チャンピオン ! [[デイトナ500]]優勝 ! [[デイトナ24時間レース]]優勝 |- | {{Flagicon|USA}} [[ジミー・ブライアン]] | 1958年 | 1956年、1957年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[ロジャー・ウォード]] | 1959年、1962年 | 1959年、1962年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[A・J・フォイト]] | 1961年、1964年、1967年、1977年 | 1960年、1961年、1963年、1964年、<br />1967年、1975年、1979年 | 1972年 | 1983年、1985年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ボビー・アンサー]] | 1968年 | 1968年、1974年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[マリオ・アンドレッティ]] | 1969年 | 1965年、1966年、1969年、1984年 | 1967年 | 1972年 |- | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサー]] | 1970年、1971年、1978年、1987年 | 1970年、1983年、1985年 | — | 1985年 |- | {{Flagicon|USA}} [[マーク・ダナヒュー]] | 1972年 | — | — | 1969年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ゴードン・ジョンコック]] | 1973年、1982年 | 1976年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[ジョニー・ラザフォード]] | 1974年、1976年、1980年 | 1980年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[リック・メアーズ]] | 1979年、1984年、1988年、1991年 | 1979年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[トム・スニーバ]] | 1983年 | 1977年、1978年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[ダニー・サリバン]] | 1985年 | 1988年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[ボビー・レイホール]] | 1986年 | 1986年、1987年、1992年 | — | 1981年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[エマーソン・フィッティパルディ]] | 1989年、1993年 | 1989年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[アル・アンサーJr.]] | 1992年、1994年 | 1990年、1994年 | — | 1986年、1987年 |- | {{Flagicon|CAN}} [[ジャック・ヴィルヌーヴ]] | 1995年 | 1995年 | — | — |- | {{Flagicon|USA}} [[バディ・ラジアー]] | 1996年 | 2000年 (IRL) | — | — |- | {{Flagicon|SWE}} [[ケニー・ブラック]] | 1999年 | 1998年 (IRL) | — | — |- | {{Flagicon|COL}} [[ファン・パブロ・モントーヤ]] | 2000年、2015年 | 1999年 (CART) | — | 2007年、2008年、2013年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[ジル・ド・フェラン]] | 2003年 | 2000年、2001年 (CART) | — | — |- | {{Flagicon|ENG}} [[ダン・ウェルドン]] | 2005年、2011年 | 2005年 (IRL) | — | 2006年 |- | {{Flagicon|USA}} [[サム・ホーニッシュJr.]] | 2006年 | 2001年、2002年、2006年 (IRL) | — | — |- | {{Flagicon|SCO}} [[ダリオ・フランキッティ]] | 2007年、2010年、2012年 | 2007年 (IRL)、2009年、2010年、2011年 | — | 2008年 |- | {{Flagicon|USA}} [[バディ・ライス]] | 2004年 | - | — | 2009年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[トニー・カナーン]] | 2013年 | 2004年 (IRL) | — | 2015年 |- | {{Flagicon|NZL}} [[スコット・ディクソン]] | 2008年 | 2003年 (IRL)、2008年、2013年、2015年、<br/>2018年、2020年 | — | 2006年、2015年 |- | {{Flagicon|USA}} [[ライアン・ハンター=レイ]] | 2014年 | 2012年 | — | — |- | {{Flagicon|AUS}} [[ウィル・パワー]] | 2018年 | 2014年 | — | — |- | {{Flagicon|FRA}} [[サイモン・パジェノ]] | 2019年 | 2016年 | — | 2022年 |- | {{Flagicon|BRA}} [[エリオ・カストロネベス]] | 2001年、2002年、2009年、2021年 | — | — | 2021年、2022年 |- | {{Flagicon|USA}} [[アレキサンダー・ロッシ]] | 2016年 | — | — | 2021年 |- |} == ゲームソフト == 日本では、1968年に[[関西精機製作所]](Kasco)から[[エレメカ]]ゲームの「'''インディ500'''」がリリースされている。また、トミー(現:[[タカラトミー]])から1997年5月23日に[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲームソフトとして「'''Indy500'''」がリリース、[[セガ]]からも[[アーケードゲーム]]として「'''[[インディ500 (アーケードゲーム)|インディ500]]'''」がリリースされている。 == 日本との関係 == 日本以外では、インディ500にアジアの国が関わった例はほとんどないため{{Efn|エントリーしたドライバーとしては[[フィリピン]]のライセンスを使用した[[ジョビー・マルセロ]](1992年、練習走行中に事故死)、[[中華人民共和国]]のライセンスを使用した[[ホーピン・タン]](2011年、予選落ち)、[[アラブ首長国連邦]]のライセンスを使っている[[エド・ジョーンズ]](2017年初参戦)くらいしか例がない。}}、「日本初」としている記録はたいてい「アジア初」となる。 === ドライバー === 1991年の[[ヒロ松下]]の初参戦以降、2017年までに計10名の日本人ドライバーが挑戦している<ref name="Kotobank-Indy500" />{{Efn|人数には予選落ちして決勝を走っていない[[桃田健史]]と日系人の[[ロジャー安川]]を含んでいる。}}。 * 日本人ドライバー初の完走は1991年にヒロ松下によって記録された(16位{{Efn|優勝した[[リック・メアーズ]]から51周遅れ。}})。 * 日本人ドライバー初の{{仮リンク|ルーキー・オブ・ザ・イヤー (インディ500)|en|Indianapolis 500 Rookie of the Year|label=ルーキー・オブ・ザ・イヤー}}{{Efn|メディアの投票によって選出される。いくつかの選出基準があるが、通常はルーキーの中で最上位の順位を記録した者に与えられることが多い。}}は2003年に[[高木虎之介]]によって記録された(5位完走)。翌年、[[松浦孝亮]](11位完走)もルーキー・オブ・ザ・イヤーを授与された。 * 日本人ドライバー初のリードラップは2003年に高木虎之介によって記録された(2周)。 * 日本人ドライバー初の優勝は2017年に[[佐藤琢磨]]によって記録された。 * 日本人ドライバー初のフロントローは2020年に佐藤琢磨によって記録された。 * 日本人ドライバー初の複数回優勝は2020年に佐藤琢磨によって記録された。 * 日本人ドライバーのポールポジション獲得はまだ無く、予選最上位は2020年に佐藤琢磨によって記録された3位。 以下、参戦ドライバーと決勝順位を記載する。 <div style="height:auto; overflow: auto; text-align: left"> {| |valign="top"| {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:85%" |- ! !{{Smaller|[[1990年のインディ500|1990]]}} !{{Smaller|[[1991年のインディ500|1991]]}} !{{Smaller|[[1992年のインディ500|1992]]}} !{{Smaller|[[1993年のインディ500|1993]]}} !{{Smaller|[[1994年のインディ500|1994]]}} !{{Smaller|[[1995年のインディ500|1995]]}} !{{Smaller|[[1996年のインディ500|1996]]}} !{{Smaller|[[1997年のインディ500|1997]]}} !{{Smaller|[[1998年のインディ500|1998]]}} !{{Smaller|[[1999年のインディ500|1999]]}} !{{Smaller|[[2000年のインディ500|2000]]}} !{{Smaller|[[2001年のインディ500|2001]]}} !{{Smaller|[[2002年のインディ500|2002]]}} !{{Smaller|[[2003年のインディ500|2003]]}} !{{Smaller|[[2004年のインディ500|2004]]}} !{{Smaller|[[2005年のインディ500|2005]]}} !{{Smaller|[[2006年のインディ500|2006]]}} !{{Smaller|[[2007年のインディ500|2007]]}} !{{Smaller|[[2008年のインディ500|2008]]}} !{{Smaller|[[2009年のインディ500|2009]]}} !{{Smaller|[[2010年のインディ500|2010]]}} !{{Smaller|[[2011年のインディ500|2011]]}} !{{Smaller|[[2012年のインディ500|2012]]}} !{{Smaller|[[2013年のインディ500|2013]]}} !{{Smaller|[[2014年のインディ500|2014]]}} !{{Smaller|[[2015年のインディ500|2015]]}} !{{Smaller|[[2016年のインディ500|2016]]}} !{{Smaller|[[2017年のインディ500|2017]]}} !{{Smaller|[[2018年のインディ500|2018]]}} !{{Smaller|[[2019年のインディ500|2019]]}} !{{Smaller|[[2020年のインディ500|2020]]}} !{{Smaller|[[2021年のインディ500|2021]]}} !{{Smaller|[[2022年のインディ500|2022]]}} |- ![[ヒロ松下]]{{Efn|本名は松下弘幸だが、競技ライセンスでは「ヒロ松下 (Hiro Matsushita)」をエントリー名としていた。}} | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|16}} | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|18}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|14}} | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|10}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[桃田健史]] | | | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[松田秀士]] | | | | | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|24}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|15}} | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|8}} | | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|10}} | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[服部茂章]] | | | | | | | | | | | | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|20}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|30}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[中野信治]] | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|14}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[高木虎之介]]{{Efn|エントリー名は「Tora Takagi」}} | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#dfffdf" | {{Smaller|5}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|19}} | | | | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[ロジャー安川]]{{Efn|アメリカ合衆国生まれ、日本育ちの[[日系アメリカ人]]。アメリカ合衆国の競技ライセンスで出走している。}} | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|10}} | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|10}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|18}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|16}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|21}} | bgcolor="#ffcfcf" | {{Smaller|DNQ}} | | | | | | | | | | | | | | |- ![[松浦孝亮]] | | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|11}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|17}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|15}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|16}} | | | | | | | | | | | | | | | |- ![[武藤英紀]] | | | | | | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|7}} | bgcolor="#cfeaff" | {{Smaller|10}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|28}} | | | | | | | | | | | | |- ![[佐藤琢磨]] | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|20}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|33}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|17}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|13}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|19}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|13}} | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|26}} | bgcolor="#ffffbf" | '''{{Smaller|1}}''' | bgcolor="#efcfff" | {{Smaller|32}} | bgcolor="#ffdf9f" | {{Smaller|3}} | bgcolor="#ffffbf" | '''{{Smaller|1}}''' | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|14}} | bgcolor="#cfcfff" | {{Smaller|25}} |} |valign="top"| {| style="margin-right:0; font-size:85%; text-align:center;" class="wikitable" ! 色と結果 |- bgcolor="#ffffbf" | '''優勝''' |- bgcolor="#dfdfdf" | 2位 |- bgcolor="#ffdf9f" | 3位 |- bgcolor="#dfffdf" | 4位・5位 |- bgcolor="#cfeaff" | 6位 - 10位 |- bgcolor="#cfcfff" | 完走<br />(11位以下) |- bgcolor="#efcfff" | リタイア{{Efn|リタイアした場合も周回数に応じて順位が与えられる。そのため、完走したドライバーより上位となることもある。}} |- bgcolor="#ffcfcf" | 予選落ち<br />(DNQ) |} |} </div> === チーム === いずれも現地チームを母体とした提携ではあるものの、[[スーパーアグリ]]が2004~2006年に「スーパーアグリ・[[フェルナンデス・レーシング]]」、2007年に「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として、[[チーム郷]]が2020年に「[[デイル・コイン・レーシング]] with チーム郷」として参戦した例がある。 日本のチーム・コンストラクターがインディ500用の車両を製作したことはない。 実現に至らなかったものとしては、1960年代のF1の一戦に含まれていた頃に、ホンダが参戦を検討していたことがある<ref name="Honda-F1-roots-indy"/>。 === サプライヤー === エンジン供給は、[[本田技研工業|ホンダ]](1995年、2003年以降)のほか、過去に[[日産自動車]](1997~2002年;[[インフィニティ (日産自動車)|インフィニティ]]名義)と[[トヨタ自動車|トヨタ]](2003 - 2005年)が行っている。初優勝は2003年にトヨタによって記録された(ドライバーは[[ジル・ド・フェラン]]/[[チーム・ペンスキー]])。 エンジン関係では、1987年から1991年にかけて[[ジャッド]]により供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含む[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。 タイヤ供給は、[[ブリヂストン]]が[[ファイアストン]]名義で行っている(1995年以降){{Efn|ファイアストン社はブリヂストンに買収された1988年以前にも、1911年の第1回大会から1970年代までインディ500にタイヤを供給していた。}}。 === 日本インディ === 1966年10月、[[神彰]]の呼びかけにより、当時のインディ500出走ドライバーを招聘して「日本インディー200マイルレース」(通称「日本インディ」)が[[富士スピードウェイ]]で開催された<ref name="Honda-MyWonderfulCircuitII-55" />。 == テレビ放送 == * 日本では、地上波ではかつて[[TBSテレビ|TBS]]や[[テレビ朝日]]で全国ネット生中継、2003年からは[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で後日ダイジェスト放送(関東ローカル)がされていたが、2012年からは放送されていない。[[衛星放送]]ではインディカー・シリーズの一戦として[[GAORA]]が生中継している。2019年からはこのほか[[NHK BS1]]で当日夜に録画中継。 * アメリカでは1965年から2018年まで[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]が毎年生中継をしていて、映画[[デルタ・フォース (映画)|デルタ・フォース]]のテーマ曲The Delta Force Theme がオープニングや挿入曲として使われていた。2019年より[[NBC]]が生中継を行う<ref>{{Cite web|和書|title=2019シーズンから全戦をNBCが放送 {{!}} こちら GAORA INDYCAR 実況室|url=http://blog.gaora.co.jp/indy/2018/03/25007|accessdate=2019-04-20|language=ja}}</ref>。 == エピソード == === 優勝者は牛乳を飲む === インディ500では、優勝したドライバーは[[牛乳]]を飲むという[[慣習]]がある。1933年、ルイス・メイヤーは自身二度目の優勝を飾ったが、レース終了後に[[バターミルク]]をリクエストした。ルイス・メイヤーは1936年にも自身三度目の優勝を果たし、この際もバターミルクをリクエストしたが、コップではなくボトルで手渡され、それをそのまま飲んだ。その飲んでいる写真が新聞の記事になり牛乳会社の目に止まった。それ以降優勝者には牛乳が提供されるようになった(1947年から1955年までの間を除く)。 この「ヴィクトリーレーンで牛乳を飲む」という行為にもスポンサー(2017年現在はインディアナ州酪農組合)がついており、仮に牛乳を飲まなかった場合や、飲むのが規定のスケジュールを外れた場合は該当スポンサーからの賞金は与えられない。 なお実際には、通常の成分無調整乳 (whole milk)以外に[[低脂肪乳]] (2% fat milk)、[[脱脂粉乳|無脂肪乳]] (fat-free milk) も選択できる。このため予選通過が決まったドライバーは、優勝時にどれを飲むかを事前に選択することになっており、毎年選択の結果は「Milk List」として公表される<ref>[http://blackflag.jalopnik.com/this-is-the-2017-indy-500-milk-list-1795551825 This Is The 2017 Indy 500 Milk List] - BLACKFLAG・2017年5月25日</ref>。伝統に則りバターミルクをリクエストするドライバーも少なくないが、スポンサーのインディアナ州酪農組合では「メイヤーが飲んだのは、彼の母が作った[[バターミルク#伝統的なバターミルク|伝統的なバターミルク]]だが、現代では同様のバターミルクは入手困難」「伝統的なバターミルクは非常に腐りやすい」の2点を理由として、このリクエストを断っている<ref>[https://www.indystar.com/story/sports/motor/indy-500/2021/05/24/indy-500-why-indy-500-winner-drinks-milk-and-why-cant-buttermilk/5238814001/ Why the Indy 500 winner drinks milk, and why it can't be buttermilk] - IndyStar・2021年5月24日</ref>。 この慣習に従わなかったドライバーもいる。ボビー・アンサーは1968年の優勝時にはこれを拒否したが、その後の2回の優勝時には従っている。エマーソン・フィッティパルディは1993年の優勝時に自身がブラジルでオレンジ農園を営んでいるという理由から、牛乳より先にオレンジジュースを飲んでいる<ref>[http://www.twinring.jp/indyjapan/about/500/500about3.html インディ500とは? Vol.3]</ref><ref>『インディー500』二玄社、1994年、p.114。</ref>。このため牛乳を飲むのが規定の時間を外れてしまいスポンサー賞金を受け取れなかったが、後でフィッティパルディが陳謝することで事は収まった。 [[1998年]]に優勝した[[エディ・チーバー]]は、この「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した<ref>『Racing On』No.271 ニューズ出版、1998年、p.116。</ref>。 === 「Back home again in Indiana」 === オープニングセレモニーの終盤、スタートコマンドの直前に「Back home again in Indiana」の独唱が行われる。セレモニーにおいて[[星条旗 (国歌)|アメリカ合衆国国歌]]よりも後に歌われるこの曲は、インディアナ州の「州歌」と言えるほど有名な曲だが、1946年にジェームス・メルトンが、自分が代表を務める自動車クラブのパレードに合わせて歌ったものがセレモニー内で歌われた最初である。この歌が好評となり、メルトンは1947年以降は招待されてこの歌を歌うようになった。この歌が正式にスタートコマンドの直前に歌われる現在の形に決められたのは、1948年のことである。以降、現在に至るまで何人もの歌手が独唱を披露してきた。 もっとも知られている歌手は、1972年から2014年までの42年間に渡り、36回歌ったカントリー歌手の[[ジム・ネイバース]]である。2014年、36回目にして最後の歌唱を終えたネイバースは、マリ・ハルマン・ジョージとともにスタートコマンドも行っている。 2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手{{仮リンク|ジム・コーネリソン|en|Jim Cornelison}}が行っている。 === スタートコマンド === レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「'''Ladies and gentlemen, start your engines!'''」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。 もともとはIMSのオーナーだったトニー・ハルマンがアナウンスを行っていたが、トニーは1977年に死去。翌1978年からはトニーの妻のメアリー・フェンドリッチ・ハルマンが行うようになった(1982年のみ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイの場内放送アナウンサーだったトム・カーネギーが行っている)。そのメアリーが1998年4月に死去すると、1998年から2015年までトニーとメアリーの娘のマリ・ハルマン・ジョージが引き継いだ。その後2016年はマリが嫁いだハルマン・ジョージ家の家族一同で行い、2017年から2019年まではマリの息子のトニー・ジョージが行った。そして2020年は、新たにIMSのオーナーとなった[[ロジャー・ペンスキー]]が行っている。 かつてはレースに参加するドライバーは男性ばかりだったので、スタートコマンドは「Gentlemen, start your engines!(紳士諸君、エンジンを始動しなさい)」だったが、女性ドライバーが参加するようになり、「A(One) lady and gentlemen, start your engines!(淑女と紳士諸君~)」と改められ、女性が複数人参加した際にはさらに複数形に改められ、「Ladies and gentlemen, start your engines!」となる。2017年と2018年、ペンスキーが行うようになった2020年以降は性別に関係なく使用できる「'''Drivers''', start your engines!」というスタートコマンドが使われているが、結果的にトニ・ジョージ最後のコマンドとなった2019年は「Lady and gentlemen, start your engines!」に戻された<ref>[https://www.wthr.com/article/race-blog-simon-pagenaud-wins-indy-500]</ref>。 === 優勝者にはキルトが贈られる === 1976年以降、優勝者には手作りのキルトが贈られている。これは、地元のキルターであり、自らも元女性レーサーであったジャネッタ・ホールダーが手作りしたもの。レースをこよなく愛するホールダーは、レーサーのサインを集めて刺繍(ししゅう)したオリジナルのアップリケキルトを毎年作り、優勝者に贈っている。そのため、彼女は「キルト・レディ」として、レーサーや関係者に親しまれている。 そのうちの一人、数回の優勝経験をもつボビー・アンサーはヘンリー・フォード・博物館(ミシガン州ディアボーン)にキルトを寄贈した。また、アル・アンサーは自ら設立したアンサー・レーシング博物館(ニューメキシコ州アルバカーキー)に授与されたキルトを飾っている。 <ref>"Quilter's Newsletter Magazine" No.421</ref> === チャンピオンリング === 他の多くのアメリカンスポーツ同様に、本レースでも優勝者には[[チャンピオンリング]]が授与される。リングの製作は[[1983年]]から[[2016年]]までは同じインディアナポリスを本拠とする「Herff Jones」が担当していたが、[[2017年]]よりミネソタ州の「Jostens」に変更された。なおJostensは、他にもピットストップチャレンジの勝者等に渡されるリングや、主催者が同じ[[NASCAR]]の[[ブリックヤード400]]のチャンピオンリングなどの製作も担当する<ref>[http://www.insideindianabusiness.com/story/35417541/ims-shifts-winners-ring-supplier IMS Shifts Winners Ring Supplier] - Inside Indiana Business・2017年5月13日</ref>。 === 優勝者の超過密日程 === 優勝者は名誉と共に超過密日程をこなす責務を負うこととなる。レース翌日は午前9時から行われる3時間の撮影会の後に優勝者記者会見、午後は5時間に渡って行われるセレモニーイベント「インディ500ビクトリー・バンケット」に出席し、それが終わると休む間もなく 1000 km以上離れた[[ニューヨーク]]へ移動し、僅かな仮眠の後に翌朝は[[フォックス放送|FOX5ニューヨーク]]の「グッデイ・ニューヨーク」と[[CNBC]]の「[[スクワークボックス]]」に出演、その後は[[ナスダック]]へ向かい午前9:30の取引開始のベルを鳴らす。更にこの後には[[エンパイア・ステート・ビル]]でメディア向け撮影会をこなした後様々なテレビ、ラジオに出演、その後約 3000 km離れた[[テキサス州]][[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]]へ移動しアメリカを象徴するスポーツチーム、[[NFL]][[ダラス・カウボーイズ]]を表敬訪問し、ここでも数多くの取材をこなす。さらに[[2012年]]から[[2019年]]および[[2022年]]以降はそのまま週末にレースが行われる[[デトロイト]]に移動してレースに備えなければならない<ref>[https://formula1-data.com/article/indy500-takuma-busyday] - インディ500優勝ってどの位凄いの?= 全米の超有名メディアが大挙して取材を求めるレベルに凄い - FORMULA1 DATA 2018年1月9日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="Kotobank-Indy500">{{Cite web|和書|url= https://kotobank.jp/word/インディ500 |title= コトバンク - インディ500 |author=場野守泰 |publisher= コトバンク、朝日新聞出版 |language=Japanese|date=2017|accessdate=2018-05-20}}</ref> <ref name="Honda-F1-roots-indy">{{Cite web|和書|url= http://www.honda.co.jp/F1-roots/indy/index.html |title= 幻のHondaインディ計画 |author= |publisher= 本田技研工業 |language=Japanese|date=|accessdate=2018-05-20}}</ref> <ref name="Honda-MyWonderfulCircuitII-55">{{Cite web|和書|url= https://f1-stinger2.com/special/mwc/chapter02/talk55/ |title= 第55回 日本インディは風の又三郎だったのか?! |author= 大久保力・STINGER編集部 |publisher= STINGER |language=Japanese|date=|accessdate=2018-05-20}}</ref> }} == 関連項目 == {{Commonscat|Indianapolis 500}} *[[モータースポーツ]] *[[世界三大レース]] *[[インディカー・シリーズ]] == 外部リンク == * [http://www.indy500.com/ インディ500公式ウェブサイト] - 英語 * [https://www.indianapolismotorspeedway.com/ インディアナポリス・モーター・スピードウェイ公式サイト] - 英語 {{チャンプカー・シリーズ}} {{インディカー・シリーズ}} {{インディ500}} {{Normdaten}} {{Motorsport-stub}} {{デフォルトソート:いんてい500}} [[Category:インディ500|*]] [[Category:インディカー・シリーズ]] [[Category:1911年開始のスポーツイベント]] [[Category:アメリカ合衆国の毎年のスポーツイベント]]
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バイトコード
バイトコード (bytecode) は、バイト指向の、中間表現のコードすなわち中間コードの総称である。バイトコードという名前は命令の構成がバイト指向であること、すなわち命令長がバイト可変長であったり、命令中のフィールドの区切りがビット単位でなくバイト単位になっているといったことから来ている。特にJavaの場合オペコードが1バイトである(Javaバイトコードの記事を参照)。しかし、仮想マシンの機械語をバイトコードと呼ぶことがJavaで広く一般的になったことから、前述のようなバイト指向でなくともバイトコードと呼んでいることも多い。バイト単位でなくビット単位の場合は、ビットコードとも呼ばれる。ワード指向のためにワードコードという語を使っている例も見られる。 バイトコードを用いる方式の利点は、ソースコードを直接解釈するインタプリタと同等の移植性を確保した上での、インタプリタのパフォーマンスの高さである(これはバイトコードに限らず、なんらかの中間表現を利用する場合全ての利点でもある。以下全て同様)。人の手で読み書きされる用途のソースコードよりもバイトコードのほうが、抽象度の低さ、データサイズなどの点で優れておりコンピュータにとって扱いやすいため、パフォーマンスは上回る。このパフォーマンス上の利点から、現在の多くのインタプリタ言語は実際にはバイトコードにコンパイルされた後、バイトコードインタプリタによって実行される。またパフォーマンス以外にも、ソースコードの中身を隠蔽する目的でバイトコードが用いられる場合がある。 バイトコードを使用した初期のコンピュータにはSystem/38があり、ソフトウェアのインストール時に機械語に変換された。またJavaのプログラムは、コンパイル済みバイトコードも利用者の環境を選ばないことから、ソースコードだけではなくバイトコードにコンパイルしたものも、標準的に配布されていることが多い。 バイト指向でない中間コードもバイトコードも、その多くは、実ハードウェアの機械語と似た命令フォーマットや命令セットの構成をとっている。ただし、ハードウェアで実装されたプロセッサでは比較的、スタックマシンよりレジスタマシンの方が多いのに対し、ソフトウェアによる仮想機械や抽象機械ではJava仮想マシンなどスタックマシンも多いという特徴がある。なお、Luaのバージョン5やDalvik仮想マシンなど、レジスタマシンも多い。 「抽象機械」と呼ばれるような計算モデルとしての性格が強い機械の場合、理論的な扱いのためにスタックが使われているものもある。 レジスタマシン型命令セットではオペランドの位置を命令内で明示する。これに対しスタックマシン型命令セットでは、暗黙のうちにスタックトップをオペランドとして使い、オペランドの位置を明示する領域が不要である。目的のオペランドがスタックトップにない場合にはオペランド移動のための命令を追加する。大まかに言えば、スタックマシン命令一個当たりの長さと機能は、レジスタマシン一命令内の個々のオペランドフィールド一個、またはコードフィールドと同等である。 このためバイトコード全体の長さには大差はなさそうだが、スタックマシンでは命令順を並び換えることでオペランド移動命令を略せる場合がある。レジスタマシンではオペランド指定は省略できないので、オペランド移動を省略した分だけスタックマシンの方が同等のプログラムを短く記述できる場合が多い。又データキャッシュヒット率が高まるので、プログラムサイズ削減は実効速度改善にもなる。 しかしオペランド移動の省略を施しても、スタックマシンの方がレジスタマシンより命令数が多くなる。個々の命令が極めて単純な処理しか行わないバイトコードインタプリタでは、命令の種類を判定して分岐する処理が実行時間の大きな割合を占めるので、この点ではレジスタマシンの方が有利となる。 レジスタマシン型インタプリタでは番号で仮想レジスタを指定するが、多くの実機では実行時に物理レジスタを番号で参照することができないため、メモリ配列によって仮想レジスタが実装されている場合が多い。これに対しスタックマシン型インタプリタでは、ほとんどの命令のオペランドがスタックトップに決め打ちされ、参照すべき物理レジスタをコンパイル時に決定できるので、スタックトップ数個を物理レジスタで実装している。多くの実機ではレジスタ経由でのデータ受け渡しは1クロックでできるのに対し、メモリ経由でのデータ受け渡しは数クロックを要するので、直前の命令の結果を直後の命令が使う処理が連なった場合は、レジスタマシンは不利となる。 ALGOL以来、多くのプログラミング言語は文脈自由文法で記述でき、スタックマシンと類似したプッシュダウン・オートマトンで構文解析できる。このため、スタックマシン向けのコード生成器ならば、構文解析器と一体化させて省メモリ・高速なものにできる。 レジスタマシン向けの場合、有限のレジスタを使い回すレジスタ割り付けを行う必要がある。ただし、インタプリタの仮想レジスタはメモリ配列で実装されている場合が多い。このため、メモリ配列の大きさが許す限り、実機では非現実的な膨大な数の仮想レジスタを実装でき、その場合、レジスタの使い回しを省いてレジスタ割り付けを単純化することができる。レジスタ・ウィンドウも僅かなコストでレジスタ1本単位でスライドさせる柔軟なものが実装でき、スタックマシン向けと同様に構文解析器とコード生成器の一体化に役立つ。
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バイトコード (bytecode) は、バイト指向の、中間表現のコードすなわち中間コードの総称である。バイトコードという名前は命令の構成がバイト指向であること、すなわち命令長がバイト可変長であったり、命令中のフィールドの区切りがビット単位でなくバイト単位になっているといったことから来ている。特にJavaの場合オペコードが1バイトである(Javaバイトコードの記事を参照)。しかし、仮想マシンの機械語をバイトコードと呼ぶことがJavaで広く一般的になったことから、前述のようなバイト指向でなくともバイトコードと呼んでいることも多い。バイト単位でなくビット単位の場合は、ビットコードとも呼ばれる。ワード指向のためにワードコードという語を使っている例も見られる。
{{プログラムの実行}} '''バイトコード''' (bytecode) は、バイト指向の、[[中間表現]]のコードすなわち中間コードの総称である。バイトコードという名前は命令の構成が[[バイト (情報)|バイト]]指向であること、すなわち命令長がバイト可変長であったり、命令中のフィールドの区切りがビット単位でなくバイト単位になっているといったことから来ている。特に[[Java]]の場合[[オペコード]]が1バイトである([[Javaバイトコード]]の記事を参照)。しかし、仮想マシンの機械語をバイトコードと呼ぶことがJavaで広く一般的になったことから、前述のようなバイト指向でなくともバイトコードと呼んでいることも多い。バイト単位でなくビット単位の場合は、ビットコードとも呼ばれる。ワード指向のためにワードコードという語を使っている例も見られる。 == 存在意義 == バイトコードを用いる方式の利点は、[[ソースコード]]を直接解釈するインタプリタと同等の[[移植性]]を確保した上での、インタプリタのパフォーマンスの高さである(これはバイトコードに限らず、なんらかの中間表現を利用する場合全ての利点でもある。以下全て同様)。人の手で読み書きされる用途のソースコードよりもバイトコードのほうが、抽象度の低さ、データサイズなどの点で優れておりコンピュータにとって扱いやすいため、パフォーマンスは上回る。このパフォーマンス上の利点から、現在の多くのインタプリタ言語は実際にはバイトコードにコンパイルされた後、バイトコードインタプリタによって実行される。またパフォーマンス以外にも、ソースコードの中身を隠蔽する目的でバイトコードが用いられる場合がある。 バイトコードを使用した初期のコンピュータには[[System/38]]があり、ソフトウェアのインストール時に機械語に変換された。またJavaのプログラムは、コンパイル済みバイトコードも利用者の環境を選ばないことから、ソースコードだけではなくバイトコードにコンパイルしたものも、標準的に配布されていることが多い。 == スタックマシン vs レジスタマシン - その論点 == バイト指向でない中間コードもバイトコードも、その多くは、実ハードウェアの機械語と似た命令フォーマットや命令セットの構成をとっている<ref>実機ではデコーダやエンコーダといった論理回路に向いたビットパターンのほうが好まれるといった細かい傾向の違いなどはある。</ref>。ただし、ハードウェアで実装された[[プロセッサ]]では比較的、[[スタックマシン]]より[[レジスタマシン]]の方が多いのに対し、ソフトウェアによる[[仮想機械#プロセス仮想機械|仮想機械]]や[[抽象機械]]では[[Java仮想マシン]]などスタックマシンも多いという特徴がある。なお、[[Lua]]のバージョン5や[[Dalvik仮想マシン]]など、レジスタマシンも多い。 === 理論的観点 === 「[[抽象機械]]」と呼ばれるような[[計算モデル]]としての性格が強い機械の場合、理論的な扱いのためにスタックが使われているものもある。 === 命令の粒度 === レジスタマシン型命令セットではオペランドの位置を命令内で明示する。これに対しスタックマシン型命令セットでは、暗黙のうちにスタックトップをオペランドとして使い、オペランドの位置を明示する領域が不要である。目的のオペランドがスタックトップにない場合にはオペランド移動のための命令を追加する。大まかに言えば、スタックマシン命令一個当たりの長さと機能は、レジスタマシン一命令内の個々のオペランドフィールド一個、またはコードフィールドと同等である。 このためバイトコード全体の長さには大差はなさそうだが、スタックマシンでは命令順を並び換えることでオペランド移動命令を略せる場合がある。レジスタマシンではオペランド指定は省略できないので、オペランド移動を省略した分だけスタックマシンの方が同等のプログラムを短く記述できる場合が多い。又データキャッシュヒット率が高まるので、プログラムサイズ削減は実効速度改善にもなる。 しかしオペランド移動の省略を施しても、スタックマシンの方がレジスタマシンより命令数が多くなる。個々の命令が極めて単純な処理しか行わないバイトコードインタプリタでは、命令の種類を判定して分岐する処理が実行時間の大きな割合を占めるので、この点ではレジスタマシンの方が有利となる。 === 命令間でのオペランドの受け渡し === レジスタマシン型インタプリタでは番号で仮想レジスタを指定するが、多くの実機では実行時に物理レジスタを番号で参照することができないため、メモリ配列によって仮想レジスタが実装されている場合が多い。これに対しスタックマシン型インタプリタでは、ほとんどの命令のオペランドがスタックトップに決め打ちされ、参照すべき物理レジスタをコンパイル時に決定できるので、スタックトップ数個を物理レジスタで実装している。多くの実機ではレジスタ経由でのデータ受け渡しは1クロックでできるのに対し、メモリ経由でのデータ受け渡しは数クロックを要するので、直前の命令の結果を直後の命令が使う処理が連なった場合は、レジスタマシンは不利となる。 === ソースコードからバイトコードへの変換 === [[ALGOL]]以来、多くのプログラミング言語は[[文脈自由文法]]で記述でき、スタックマシンと類似した[[プッシュダウン・オートマトン]]で構文解析できる。このため、スタックマシン向けのコード生成器ならば、構文解析器と一体化させて省メモリ・高速なものにできる。 レジスタマシン向けの場合、有限のレジスタを使い回す[[レジスタ割り付け]]を行う必要がある。ただし、インタプリタの仮想レジスタはメモリ配列で実装されている場合が多い。このため、メモリ配列の大きさが許す限り、実機では非現実的な膨大な数の仮想レジスタを実装でき、その場合、レジスタの使い回しを省いてレジスタ割り付けを単純化することができる。[[レジスタ・ウィンドウ]]も僅かなコストでレジスタ1本単位でスライドさせる柔軟なものが実装でき、スタックマシン向けと同様に構文解析器とコード生成器の一体化に役立つ。[https://hzkr.hatenablog.com/entries/2008/06/24] == 使用例 == * [[System/38]] - TIMI(Technology Independent Machine Interface) * [[Java]] - [[Javaバイトコード]] * [[.NET Framework]] - [[共通中間言語]] (CIL) * [[Raku]] * [[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]] 1.9 * [[JavaScript]]の処理系の一部 == 注 == <references/> == 関連項目 == * [[オブジェクトファイル]] * [[命令セット]] * [[Smalltalk]] * [[Java仮想マシン]] * [[中間言語]] * [[Pコードマシン]] {{仮想化}} {{DEFAULTSORT:はいとこと}} [[Category:プログラミング]] [[Category:仮想化]] {{Computer-stub}}
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かき氷
かき氷(かきごおり、欠き氷)とは、氷を細かく削るか砕いて、シロップ等をかけた氷菓。餡やコンデンスミルクをかけることもある。氷は古くは鉋(かんな)などで粒状に削ったが、現在は専用の機械を用いる。また市販品として、細かく砕いた氷と各種シロップを混ぜてカップ容器や袋に入れた製品も売られている。日本以外にも類似のものが各国にある。 日本では、かき氷を売っている店は氷旗(白地に赤い文字で「氷」と書かれた幟〈のぼり〉)を掲げていることが多い。夏季に社寺の境内で催される祭礼や縁日などでは綿菓子、たこ焼き、焼きそばとともに売られる代表的な縁日物()の一つであり、夏の風物詩、季語の一つである。 最も一般的に普及している呼び名である「かき氷」は、東京方言の「ぶっかきごおり」に由来する。他の呼称として夏氷()、氷水()など。近畿では「かちわり(ごおり)」などとも呼ばれる。かき氷以外に、飲料を冷やしたり涼をとったりするのに使われる、砕いた氷は「かち割り」を参照。 日本の喫茶店や洋風の飲食店では、かき氷をフラッペと呼んで提供していることがある。「フラッぺ」(フランス語: Frappé)は、本来はクラッシュドアイスにリキュールなどの酒類を注いだ飲料のことである。日本ではシロップをかけたかき氷を指すことが多いが、「かき氷」に対して「フラッペ」は氷の砕き方がやや大粒であるとする説もある。また大阪府付近など一部の地域では、一旦かき氷状にした氷に掌で圧力をかけて少々固めたものをフラッペと呼び、かき氷とは区別している。 史実上の記録は平安時代に清少納言の『枕草子』「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ、文中では「けつりひ」)に蔓草の一種である甘葛(あまかづら・あまづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺()に入れたる」と記述されている。藤原定家の『明月記』にも登場する。製氷技術のなかった当時、夏に氷を求めるにはあらかじめ冬の雪や氷を氷室で保存する以外に方法が無く、かき氷は特権階級しか口にできないものであった。 1869年(明治2年)、神奈川県横浜にある馬車道で町田房造が初めての氷水店を開店(日本においてアイスクリームを発祥させた店でもある)。また、1871年(明治4年)、中川嘉兵衛が五稜郭の外堀で生産した天然氷が「函館氷」と銘打って京浜市場に登場しそれまでのアメリカ合衆国ボストン産の輸入氷「ボストン氷」に比べて良質でかつ低廉であった。 1878年 (明治11年)、粗悪な氷が販売される事を取り締まるために内務省から「氷製造人並販売人取締規則」が公布された。これにより営業者は、衛生検査に合格した氷の生産地・販売者名を示したのぼりや看板を掲げる事が義務付けられた。この時に配られた旗が現在の氷旗のデザインの元になっている。 1882年(明治15年)頃には博物学者のエドワード・S・モースが、かき氷を食べたことを自著に記している。 1883年(明治16年)には東京製氷株式会社ができて人工氷の生産が拡大。このようなこともあり明治20年代になると、かき氷は大衆的な飲食物となるに至った。1887年(明治20年)には村上半三郎が氷削機()を発明して特許を取る。1895年夏に、氷店は、東京や横浜では「5歩に1店、10歩に1舗」といわれるほど増え、氷水は1銭、ほか氷イチゴ、氷レモン、氷しるこ等多種あった。しかし、氷削機が一般化するのは昭和期に入ってからであり、それまでは台鉋を用いて削る方法が一般的であった。 第二次世界大戦前は、削った氷に砂糖をふりかけた「雪」か、砂糖蜜をかけた「みぞれ」、小豆餡をのせた「金時」が普通のメニューであった。戦後、かき氷専用のいちごやレモン風味のシロップが販売されるようになった。 現代において夏に涼しさを得られる食べ物としてはアイスクリームもあり、ウェザーニューズが2022年8月にスマートフォンの天気アプリの位置情報を利用して実施したアンケート調査によると、アイスクリームよりかき氷を食べたいという回答は、気温に比例して増え、34度を境に過半数(52%)を占めた。 作り方の一例を示す。これらシロップのかけ方や量は地域差がある。 天然氷を刃物の刃先で削ぎ落としたのが始まりとされ、この方法は現代でも日本料理で用いられている。さらに簡便な方法としては、野菜を薄切りにするスライサーを用いても同様のことができる。その後、鉋の刃を上にしたカツオブシを削る鰹箱(かつばこ)、または前述のスライサーのような状態にした大鉋の上で滑り止めとして布巾などを被せた氷を滑らせ、削り落ちてきたものをすくうようになる。1887年(明治20年)に氷商の村上半三郎が特許を取得して公に知られるようになった。 現代のかき氷器は鉋状の刃のついた台座の上で氷の塊が回転し、氷をスライス状に削りながら氷の塊を繰り下げていく仕組みをもつ。氷削機()、かき氷メーカー、フラップメーカー、アイスシェーバー、アイススライサーなどと呼ばれる。英名はIce block shaver。 かき氷器には粉雪のように細かい粒子のかき氷を削り出すことができるものと氷の薄い切片状のかき氷になるものがある。この要因として用いる氷の違いが挙げられる。近年、小型で高性能ながらアイスストッカー付きのキューブアイス用製氷機が出回ってきたことや各種電化製品の普及により、かつては氷を入手するために必須であった氷商への依存度が激減した。加えて重さ1貫(3.75キログラム)の角氷と言われるブロックアイスを扱う氷商も減少傾向にある。さらに天然氷のように冬の間に暴露で凍らせておき需要があるまで氷室()でストックできる生産者も減ってきている。ただし、インターネットや、コンビニエンスストアでの取扱があるため、角氷の入手は容易に成りつつある。各種電化製品の普及のためかき氷器の製造メーカーは家庭用はブロックアイス用からキューブアイス用に移行し、粉雪状のかき氷と薄い切片状のかき氷に二分された。 ブロックアイスを用いる製品は「ブロックアイスシェーバー」「ブロックアイススライサー」などと、キューブアイスを用いる製品は「キューブアイスシェーバー」「キューブアイススライサー」などとも呼ばれる。 業務用は、古くは鋳物のフレームに大きな手回しハンドルが本体横に付いたものが主流であったが、後に氷を回転させるモーターが剥き出しで取り付けられているものに代わっていき、近年ではモーターを内蔵したスタイルに移行している。併せてキューブアイス用のかき氷器が製造され、粉雪状ではなく細かい氷の粒のかき氷が普及するようになった。現在でも手回し式のものはレトロ調として販売されている。 家庭用は手回しのものが多く、専用の円筒形の製氷皿で作った氷を用いる。一般的な製氷皿で作るキューブアイスを用いてもかき氷を作ることができる機種もある。主に子供向けとして需要が高いため、安全面から金属製の刃は用いられないことも多い。またペンギンや白熊など寒冷地の動物を模した形状のものも発売されている。 同一のものであっても地域によって呼び名や盛りつけ方が異なる。かき氷専用のシロップは「氷蜜()」と呼ばれる。 削った氷を食べる文化は古くから各地に存在した。古代ローマにはアルプスから氷を切り出して氷室に保存しておき、夏季にそれを削って蜂蜜をかけて食べる文化があった。 アメリカ合衆国ではshaved ice(剃り氷)、snow cone(円錐形の雪)と呼ばれる。 中国語では「刨冰」(バオビン、拼音: bàobīng)という。台湾語ではツワピン、漢字表記は剉冰と銼冰と二つがある。 台湾のかき氷は台湾総督府時代に日本から伝われたと言われ、専門的な漢字表記もあって、「剉冰」や「銼冰」と書く。近年中国からの影響で中国語の「刨冰」の書き方もよく使っている。「剉・銼・刨」はかき氷の「かき」に当たる漢字で、「冰」は「氷」の繁体字。台湾のかき氷の名称の前半は上に乗せる具の漢字を付け、名称の後半はかき氷のタイプに付けることが一般的である。例えば、イチゴの漢字は「草莓」であり、イチゴ味の「雪花氷」タイプのかき氷は「草莓雪花氷」と書く。中華民国の台湾では「冰館(ICE ROOM、ピングアン、注音: ㄅㄧㄥ ㄍㄨㄢˇ)」という氷菓の専門店から各地に広がり、日本にも上陸した。また、台湾のフルーツ味のかき氷の場合では基本的に本物のフルーツや果汁を乗せられていて、日本のように氷蜜は使わない。
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かき氷(かきごおり、欠き氷)とは、氷を細かく削るか砕いて、シロップ等をかけた氷菓。餡やコンデンスミルクをかけることもある。氷は古くは鉋(かんな)などで粒状に削ったが、現在は専用の機械を用いる。また市販品として、細かく砕いた氷と各種シロップを混ぜてカップ容器や袋に入れた製品も売られている。日本以外にも類似のものが各国にある。 日本では、かき氷を売っている店は氷旗(白地に赤い文字で「氷」と書かれた幟〈のぼり〉)を掲げていることが多い。夏季に社寺の境内で催される祭礼や縁日などでは綿菓子、たこ焼き、焼きそばとともに売られる代表的な縁日物の一つであり、夏の風物詩、季語の一つである。
[[ファイル:Kakigori hyoki.png|サムネイル|氷旗の例。もとは許可証であり「官許」と「産地(企業名)」が記されていた。文様は波に千鳥である。]] [[ファイル:Koorimango.jpg|サムネイル|マンゴー氷]] <!--本記事は英語版のKakigōriにリンクしています。各国に類似の食べ物があり後半にまとめられています。--> '''かき氷'''(かきごおり、'''欠き氷''')とは、[[氷]]を細かく削るか砕いて、[[シロップ]]等をかけた[[冷菓|氷菓]]。[[餡]]や[[加糖練乳|コンデンスミルク]]をかけることもある。氷は古くは[[鉋]](かんな)などで粒状に削ったが<ref name=shimmeikai>三省堂『[[新明解国語辞典]]』第6版</ref>、現在は専用の機械を用いる。また市販品として、細かく砕いた氷と各種シロップを混ぜてカップ容器や袋に入れた製品も売られている。[[日本]]以外にも類似のものが各国にある。 日本では、かき氷を売っている店は氷旗(白地に赤い文字で「氷」と書かれた幟〈のぼり〉)を掲げていることが多い。夏季に[[社寺]]の[[境内]]で催される[[祭|祭礼]]や[[縁日]]などでは[[綿菓子]]、[[たこ焼き]]、[[焼きそば]]とともに売られる代表的な{{読み仮名|縁日物|えんにちもの}}の一つであり、夏の[[風物詩]]、[[季語]]の一つである。 == 呼称 == 最も一般的に普及している呼び名である「かき氷」は、[[東京方言]]の「ぶっかきごおり」に由来する。他の呼称として{{読み仮名|'''夏氷'''|なつごおり}}、{{読み仮名|'''氷水'''|こおりみず}}<!--、'''みぞれ''' ←みぞれは蜜を掛けた種類では?-->など<ref name="shimmeikai"/>。[[近畿地方|近畿]]では「かちわり(ごおり)」などとも呼ばれる。かき氷以外に、飲料を冷やしたり涼をとったりするのに使われる、砕いた氷は「[[かち割り]]」を参照。 日本の[[喫茶店]]や洋風の飲食店では、かき氷をフラッペと呼んで提供していることがある。「フラッぺ」({{Lang-fr|Frappé}})は、本来は[[クラッシュドアイス]]に[[リキュール]]などの[[酒]]類を注いだ飲料のことである。日本ではシロップをかけたかき氷を指すことが多いが、「かき氷」に対して「フラッペ」は氷の砕き方がやや大粒であるとする説もある{{要出典|date=2016年7月}}。また[[大阪府]]付近など一部の地域では、一旦かき氷状にした氷に掌で圧力をかけて少々固めたものをフラッペと呼び、かき氷とは区別している{{要出典|date=2016年7月}}。 == 歴史 == 史実上の記録は[[平安時代]]に[[清少納言]]の『[[枕草子]]』「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ、文中では「けつりひ」)に[[つる植物|蔓]]草の一種である[[アマヅラ|甘葛]](あまかづら・あまづら、[[ツタ|蔦]]の樹液または[[アマチャヅル|甘茶蔓]]の[[茎]]の汁)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき{{読み仮名|金鋺|かなまり}}に入れたる」と記述されている<ref name="dougu">[https://archive.fo/5nt0P 氷削機(ひょうさくき)] [[水資源機構]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64016890Y0A910C2BC8000|title=「あてなる」あまづら、幻の味 植物から再現|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2020-09-22|accessdate=2020-12-29}}</ref>。[[藤原定家]]の『[[明月記]]』にも登場する<ref name="dougu"/>。[[製氷]]技術のなかった当時、夏に氷を求めるにはあらかじめ冬の[[雪]]や氷を[[氷室]]で保存する以外に方法が無く、かき氷は特権階級しか口にできないものであった<ref name="dougu"/>。 [[1869年]]([[明治]]2年)、[[神奈川県]][[横浜市|横浜]]にある[[馬車道 (横浜市)|馬車道]]で町田房造が初めての氷水店を開店<ref name="dougu"/>(日本において[[アイスクリーム]]を発祥させた店でもある)。また、[[1871年]](明治4年)、[[中川嘉兵衛]]が[[五稜郭]]の外堀で生産した[[天然氷]]が「[[函館氷]]」と銘打って京浜市場に登場しそれまでの[[アメリカ合衆国]][[ボストン]]産の輸入氷「[[ボストン氷]]」に比べて良質でかつ低廉であった。 [[1878年]] (明治11年)、粗悪な氷が販売される事を取り締まるために[[内務省 (日本)|内務省]]から「氷製造人並販売人取締規則」が公布された。これにより営業者は、衛生検査に合格した氷の生産地・販売者名を示したのぼりや看板を掲げる事が義務付けられた。この時に配られた旗が現在の氷旗のデザインの元になっている。 [[1882年]](明治15年)頃には博物学者の[[エドワード・S・モース]]が、かき氷を食べたことを自著に記している<ref name="dougu"/>。<!-- 日本博物誌か? --> [[1883年]](明治16年)には東京製氷株式会社ができて人工氷の生産が拡大<ref name="dougu"/>。このようなこともあり明治20年代になると、かき氷は大衆的な飲食物となるに至った<ref name="dougu"/>。[[1887年]](明治20年)には村上半三郎が{{読み仮名|氷削機|ひょうさくき}}を発明して[[特許]]を取る<ref name="dougu"/>。1895年夏に、氷店は、[[東京]]や横浜では「5歩に1店、10歩に1舗」といわれるほど増え、氷水は1銭、ほか氷イチゴ、氷レモン、氷[[汁粉|しるこ]]等多種あった<ref>朝倉治彦・稲村徹元『明治世相編年辞典』</ref>。しかし、氷削機が一般化するのは[[昭和]]期に入ってからであり、それまでは台鉋を用いて削る方法が一般的であった<ref name="dougu"/>。 [[第二次世界大戦]]前は、削った氷に[[砂糖]]をふりかけた「雪」<ref>[[牧村史陽]]編『大阪方言事典』(1955年、大阪・杉本書店)737頁</ref>か、砂糖蜜をかけた「みぞれ」、[[小豆]]餡をのせた「金時」が普通のメニューであった。戦後、かき氷専用のいちごやレモン風味のシロップが販売されるようになった。 現代において夏に涼しさを得られる食べ物としては[[アイスクリーム]]もあり、[[ウェザーニューズ]]が2022年8月に[[スマートフォン]]の天気[[モバイルアプリケーション|アプリ]]の位置情報を利用して実施したアンケート調査によると、アイスクリームよりかき氷を食べたいという回答は、気温に比例して増え、34[[セルシウス度|度]]を境に過半数(52%)を占めた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220902/k00/00m/040/211000c 「34度超え かき氷を愛す/VSアイス 気温と関係 3.3万人調査」]『[[毎日新聞]]』朝刊2022年9月6日(総合・社会面)2022年9月21日閲覧</ref>。 == 作り方 == 作り方の一例を示す。これらシロップのかけ方や量は地域差がある。 # あらかじめかき氷を入れる器を冷凍庫などで冷却しておく。 # 器にかき氷器を用いてかき氷を若干載せ、シロップをレードル(甘露尺、甘露杓子)一杯分をかける。 # 続けて、かき氷器を用いてかき氷を盛る。この時、器は斜めに満遍なく回転させ山盛りになるように盛りつける。 # シロップを1-2杯程度かける。 # 各種盛りつける果物や添え物などのトッピングを載せる。 == 器 == [[ファイル:Kakigōri in Styrofoam cup.jpg|サムネイル|発泡スチロールの器に入れて提供された、かき氷(レモンシロップ)。 プラスチック製のスプーンストローが添えられている。]] ; 和風 : 涼しさを演出する透明な[[ガラス]]や{{読み仮名|[[切子]]|きりこ}}の広口の器を用いることが多い。氷が溶けにくいように、肉厚の陶器の丼が用いられることもある。明治時代には水呑コップや脚付きコップなどの汎用のコップが使われていたが、明治の終わり頃から[[氷コップ]]と呼ばれる専用のガラス器も使われるようになり、この器は大正時代から昭和の戦前頃まで[[あぶり出し技法]]などを駆使した独特の発達を遂げた。 ; 洋風 : 器を手で持ったときに手の体温で氷が溶けてしまいにくいように、細い脚が付いたガラス器を用いることが多い。 ; [[発泡スチロール]] : [[屋台|露店]]での販売では発泡スチロールの器がよく使われる。 ; ガラスコップ : [[スムージー]]に近い、シロップや果汁の多い物もガラスコップ(グラス)に盛られる場合がある。 ; 紙カップ、プラスチックカップ : 露店での販売では紙製あるいはプラスチック製の'''かき氷カップ'''が用いられる場合が多い。また、露店での販売の場合にはかき氷専用の'''スプーンストロー'''が添えられることが多い。また、工場で製造され、プラスチックカップに入ったままで[[スーパーマーケット]]や[[コンビニエンスストア]]で販売される例もある。 ; 袋 : [[九州地方]]では、スーパーやコンビニで売られるかき氷として、カップではなく袋詰めにしたものが普及している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140915-kakigori/ 「かき氷は袋タイプでしょ?」九州人が愛する「袋氷」はなぜあんなに濃い味?] [[マイナビニュース]](2014年9月15日)2020年11月30日閲覧</ref>。 == かき氷機 == {{出典の明記|section=1|date=2016年7月}} [[File:The-Showa-Era-Lifestyle-Museum-3.jpg|thumb|220px|昭和期のかき氷機]] 天然氷を刃物の刃先で削ぎ落としたのが始まりとされ、この方法は現代でも日本料理で用いられている。さらに簡便な方法としては、野菜を薄切りにするスライサーを用いても同様のことができる。その後、鉋の刃を上にしたカツオブシを削る鰹箱(かつばこ)、または前述のスライサーのような状態にした大鉋の上で滑り止めとして布巾などを被せた氷を滑らせ、削り落ちてきたものをすくうようになる。[[1887年]](明治20年)に氷商の村上半三郎が特許を取得して公に知られるようになった。 現代のかき氷器は鉋状の刃のついた台座の上で氷の塊が回転し、氷をスライス状に削りながら氷の塊を繰り下げていく仕組みをもつ。{{読み仮名|氷削機|ひょうさくき}}、かき氷メーカー、フラップメーカー、アイスシェーバー、アイススライサーなどと呼ばれる。英名はIce block shaver。 かき氷器には粉雪のように細かい粒子のかき氷を削り出すことができるものと氷の薄い切片状のかき氷になるものがある。この要因として用いる氷の違いが挙げられる。近年、小型で高性能ながらアイスストッカー付きのキューブアイス用製氷機が出回ってきたことや各種電化製品の普及により、かつては氷を入手するために必須であった氷商への依存度が激減した。加えて重さ1[[貫]](3.75[[キログラム]])の角氷と言われるブロックアイスを扱う氷商も減少傾向にある。さらに天然氷のように冬の間に暴露で凍らせておき需要があるまで{{読み仮名|氷室|ひむろ}}でストックできる生産者も減ってきている。ただし、インターネットや、コンビニエンスストアでの取扱があるため、角氷の入手は容易に成りつつある。各種電化製品の普及のためかき氷器の製造メーカーは家庭用はブロックアイス用からキューブアイス用に移行し、粉雪状のかき氷と薄い切片状のかき氷に二分された。 ブロックアイスを用いる製品は「ブロックアイスシェーバー」「ブロックアイススライサー」などと、キューブアイスを用いる製品は「キューブアイスシェーバー」「キューブアイススライサー」などとも呼ばれる。 業務用は、古くは鋳物のフレームに大きな手回しハンドルが本体横に付いたものが主流であったが、後に氷を回転させるモーターが剥き出しで取り付けられているものに代わっていき、近年ではモーターを内蔵したスタイルに移行している。併せてキューブアイス用のかき氷器が製造され、粉雪状ではなく細かい氷の粒のかき氷が普及するようになった。現在でも手回し式のものはレトロ調として販売されている。 家庭用は手回しのものが多く、専用の円筒形の製氷皿で作った氷を用いる。一般的な製氷皿で作るキューブアイスを用いてもかき氷を作ることができる機種もある。主に子供向けとして需要が高いため、安全面から金属製の刃は用いられないことも多い。また[[ペンギン]]や[[ホッキョクグマ|白熊]]など寒冷地の動物を模した形状のものも発売されている。 == 種類 == {{Vertical images list | 幅= 200px | 1=カキ氷ミルク&イチゴ8204555.jpg | 2=ミルク&イチゴ | 3=Free 8 Kakigōri Syrups with Self-Service.jpg | 4=8種 | 5=Many Kakigōri Syrups Flavors shop in Miyajima.jpg | 6=多種 }} 同一のものであっても地域によって呼び名や盛りつけ方が異なる。かき氷専用のシロップは「{{読み仮名|'''氷蜜'''|こおりみつ}}」と呼ばれる。 ; [[シロップ]]類 :; [[イチゴシロップ]] :: 赤色のシロップ :; [[メロン]]シロップ :: 緑色のシロップ :; [[レモン]]シロップ :: 黄色のシロップ :; ブルーハワイ :: 青色のシロップで[[カクテル]]の[[ブルー・ハワイ]]を連想させる。トロピカルフルーツ各種を添えることも多い。[[九州]]などでは'''ハワイアンブルー'''と呼ぶこともある。[[レモン]]・[[オレンジ]]等の香料が使われ、同じく[[寒色]]系統で着色されているソーダ味(日本式[[サイダー]]味や[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]味)アイスキャンディーに近い風味のものが多い。 :; [[コーラ (飲料)|コーラ]]シロップ :: カラメル色のシロップ。炭酸飲料のものとは異なり、炭酸は入っておらずそれ以上に甘い{{独自研究?|date=2020/07/08}}。 :; {{読み仮名|水|すい}} :: {{読み仮名|砂糖水|さとうすい}}を略して「水」と言い、砂糖を煮詰めて作る無色のガムシロップをかけたものと混同されやすいが、水に砂糖を溶かしただけのものをかけるのが「水」。「{{読み仮名|氷水|こおりすい}}」と呼ばれることがある。 :: 「みぞれ」・「せんじ」・「甘露(かんろ)」と呼ばれるものはシロップをかけたもの。せんじと呼ばれるのは、愛知県、岐阜県、三重県であるが、語源は砂糖を煎じ煮詰めてシロップを作ったからである。 :: また「{{読み仮名|甘露|かんろ}}」は[[マクワウリ|{{読み仮名|真桑瓜|マクワウリ}}]]の果汁を煮詰めて作ったシロップを指すことがある<ref>2013年8月30日放送[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]『[[ビーバップ!ハイヒール]]』での[[日本経済新聞社]]特別編集委員の野村泰申の解説{{出典無効|date=2013年8月}}</ref>。 :; [[マンゴー]]シロップ :: 橙色・黄色のシロップ :; [[オレンジシロップ]] :: 橙色のシロップ :; [[ヒュウガナツ|日向夏]]シロップ :: 山吹色のシロップ :; [[ブドウ]]シロップ :: 紫色のシロップ :; [[モモ|ピーチ]]シロップ :: 桃色のシロップ :; [[抹茶]]シロップ :: 濃緑色のシロップ :; レインボー :: いろんな色のシロップをかけた多色のもの。 :; 濃縮[[乳酸菌飲料]] :: [[カルピス]]などの濃縮液。地域によってはそのまま「カルピス」と呼ばれることがある。 :; [[コーヒー]] :: 濃く淹れたコーヒー。シロップや加糖練乳とともにかける。 :; [[黒蜜]] :: [[黒糖]]を湯で溶かしたもの。[[台湾]]のかき氷では一般的。 :; [[加糖練乳]] :: コンデンスミルク。かき氷のメニューに「ミルク」と書かれている場合、[[牛乳]]ではなく、コンデンスミルクを指している。単独でかけるよりもトッピングにされることが多い。 :; [[梅酒]] :: 大人向け : ※イチゴシロップなどは、無果汁で[[着色料]]で色を付けたものがほとんどだが、果汁や果肉を混ぜたものも一部には存在する。 ; [[アイスクリーム]] : かき氷の上のトッピングとしてアイスクリームを乗せる場合もある。 [[ファイル:Azabujuban summer festival.jpg|サムネイル|宇治金時のかき氷]] ; {{読み仮名|宇治金時|うじきんとき}}または{{読み仮名|抹茶小豆|まっちゃあずき}} : 銘茶として名高い宇治茶を連想させる[[抹茶]]に砂糖と水を加え、茶筅で泡立てたシロップをかき氷にかけ、[[小倉餡]]を載せたもの。この場合の「[[金時]]」は小豆餡の異称として用いられており、[[金時豆]]が使われることは稀である。つぶ餡のばあいは、抹茶の上に載せるようにかけ、漉し餡の場合はボール状にして添えることが多い。下部に埋設することもあり、この場合単なる宇治氷と区別がつかない。金時のアズキ色とかき氷の白、抹茶の緑の対比をさせるために餡の上に抹茶をかけることはない。勿論、宇治だけのものもある(抹茶だけ)、また、宇治金時にミルクをかけた「宇治ミルク金時(宇治時雨)」も一般的である。宇治ミルク金時は[[1929年]](昭和4年)に[[岡山県]][[岡山市]][[岡山表町商店街|表町]]で開業した喫茶店「カニドン」において、常連の[[第六高等学校 (旧制)|六高]]生が注文した宇治金時にコーヒー用ミルクをかけて食したのが始まりとされている。 ; {{読み仮名|氷小豆|こおりあずき}} : 前記、水をシロップとして小豆餡を載せたもの。これに練乳をかけたものは「ミルク金時」と呼ばれている。 ; {{読み仮名|雪|ゆき}} : 砂糖をかき氷に振りかけたもの。戦前は一般的であったが、戦後はほぼ消滅したメニューである。 ; {{読み仮名|酢だまり氷|すだまりごおり}} : [[山形県]][[山辺町]]周辺に伝わる[[酢醤油]](酢溜まり)をかけた氷。イチゴシロップなどとともにかけられる。[[第二次世界大戦]]後の貧しい時期に、シロップなどが手に入らず何もかけないかき氷が食べられていた。その頃に[[ところてん]]などに用いられていた酢醤油をかけ始めたとされる。 ; {{読み仮名|あかふく氷|あかふくごおり}} : 伊勢路の夏の風物詩の一つ。かき氷に[[赤福餅|赤福]]ならではの餡と餅、抹茶仕立てのシロップをかけたもの。ほうじ茶が添えられる。[[1961年]](昭和36年)7月に[[三重県]]の伊勢名物である[[赤福餅]]を「赤福アイス」の名称で氷菓として海水浴客に供したのが興りとされる。夏季には氷旗とは異なり赤福の赤い文字と青い氷の文字が書かれた看板が店先に置かれる。餡はこし餡で、餅については白玉団子より柔らかく、ゆでた後に搗いた餅が入っている。<!--「氷白玉宇治金時」との差を是非地元の人の手で書いて欲しい。単独記事にするなら起源をさらに詳しく。--> <gallery> ファイル:CdazziAkafukuKoori1.jpg|赤福氷。 ファイル:CdazziAkafukuKoori2.jpg|かき氷の中に赤福の餡と餅が別々に入っている。 </gallery> ; [[白くま]](しろくま、氷白熊とも) : 発祥の[[鹿児島市]]周辺、および[[九州]]でよく見られる名物氷菓。[[ミカン]]や[[パイナップル]]の缶詰などの果物を盛り込み、アズキを乗せ、[[加糖練乳]]をかけたもの。この組み合わせでカップ入りの氷菓やアイスキャンディーも作られている。 ; [[ぜんざい#沖縄県のぜんざい|ぜんざい]] : [[沖縄県]]の名物氷菓。[[金時豆]]を[[黒糖]]などで煮たものの上にかき氷をかける。<!--しかし元来、「ぜんざい(善哉)」の語は[[関西]]などでつぶしあんの[[汁粉]]を指す。--> ; {{読み仮名|白雪|しらゆき}} : シロップ等を使用しない、プレーンのかき氷。「プレーンはかき氷ではなく[[かち割り]]だ」とする人もいるが、中には愛好家もいる。 ; {{読み仮名|[[雪くま]]|ゆきくま}} : 夏の猛暑で知られる埼玉県[[熊谷市]]で、[[町おこし]]の一環として、地元の水を利用したかき氷を考案し、市内の飲食店でオリジナルかき氷を競作した。 [[ファイル:Yokohama Stadium Mikan-gori.JPG|thumb|横浜スタジアムで売られている<br>みかん氷]] ; コバルトアイス : 蜂楽饅頭が出しているかき氷。コバルトミルクと呼ばれる場合もある。主に[[熊本県]]をはじめとした九州付近では知られている。ブルーハワイと加糖練乳をかけたもの。 ; みかん氷、パイナップル氷 : [[横浜スタジアム]]で売られているかき氷。[[缶詰]]ミカンもしくは缶詰パイナップルを乗せ、その上に缶詰のシロップをかけただけの、シンプルなもの。 ; [[焼き氷]] : 20世紀初頭に[[通天閣]]前の喫茶店「白雨亭」に「焼き氷」の看板が掲げられていたことが確認された。資料によると、当時で珍しかったカラメルソースをかき氷にかけたのではないかと推測されている。 : 2012年に通天閣100周年として、新世界に近い「グリルDEN・EN」が「平成の焼き氷」というメニューを提供するようになり、そのカラメルソースの上に焼酎と思われるアルコールを上からかけて火をつけている。2013年、『[[ごちそうさん (2013年のテレビドラマ)|ごちそうさん]]』([[NHK総合テレビジョン]]・[[連続テレビ小説]])で取り上げられ注目されている<ref>[http://abeno.keizai.biz/headline/1074/ 新世界の喫茶レストラン、朝ドラ「ごちそうさん」の「焼氷」で再び脚光] [[みんなの経済新聞ネットワーク|あべの経済新聞]](2013年11月29日) 2013年12月2日閲覧</ref>。 == 備考 == * [http://kakigoori.or.jp 日本かき氷協会]は[[7月25日]]を'''かき氷の日'''と制定している。かき氷の別名である{{読み仮名|夏氷|なつごおり}}を7, 2, 5と[[語呂合わせ]]したほか、[[1933年]]同日に当時の[[気温#気温の日本記録|日本の最高気温]]が記録されたことにちなむ<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/ 日本記念日協会 今日の記念日] - 7月25日の検索結果より。</ref>。 * 一般的にかき氷がおいしく感じられる(売れ時の)温度は摂氏30度以上とされる<ref name="weather">[http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-5967.html アイスクリームと気温] - [[2013年]][[5月18日]] [[日本気象協会]]公式サイト「tenki.jp」より。</ref>。 * 冷蔵庫の発達しない時期などは衛生的に優れないことがあった。 * 水を凍らす前に水に砂糖を溶かしてから凍らすと出来た氷がサラサラになる。また食べ頃とされる温度は、アイスクリームの食べ頃とされる[[氷点下]]10度よりも少し高めとされている<ref name="weather"/>。 * 現在、日本で[[天然氷]]を製造している蔵元は、関東周辺では栃木県に3か所、山梨県に2か所、埼玉県に1か所ある。 == 各国のかき氷 == 削った氷を食べる文化は古くから各地に存在した。古代ローマにはアルプスから氷を切り出して氷室に保存しておき、夏季にそれを削って[[蜂蜜]]をかけて食べる文化があった<ref>池田律子『イタリアのおいしい旅』阪急コミュニケーションズ、2003年、51頁</ref>。 [[アメリカ合衆国]]では[[:en:shaved ice|shaved ice]](剃り氷)、[[:en:snow cone|snow cone]](円錐形の雪)と呼ばれる。 [[中国語]]では「{{Lang|zh|刨冰}}」(バオビン、{{ピン音|bàobīng}})という。[[台湾語]]ではツワピン、漢字表記は{{Lang|zh|剉冰}}と{{Lang|zh|銼冰}}と二つがある。 === 台湾 === [[ファイル:冰讃芒果雪花冰.jpg|サムネイル|「冰讃」という冰館で提供される芒果雪花氷]] [[ファイル:Bing guan cau mei.jpg|サムネイル|草莓氷]] [[台湾]]のかき氷は[[台湾総督府時代]]に日本から伝われたと言われ、専門的な漢字表記もあって、「剉冰」や「銼冰」と書く。近年中国からの影響で中国語の「刨冰」の書き方もよく使っている。「剉・銼・刨」はかき氷の「かき」に当たる漢字で、「冰」は「氷」の[[繁体字]]。台湾のかき氷の名称の前半は上に乗せる具の漢字を付け、名称の後半はかき氷のタイプに付けることが一般的である。例えば、イチゴの漢字は「草莓」であり、イチゴ味の「雪花氷」タイプのかき氷は「草莓雪花氷」と書く。[[中華民国]]の台湾では「冰館(ICE ROOM、ピングアン、{{注音|ㄅㄧㄥ ㄍㄨㄢˇ}})」という[[氷菓]]の専門店から各地に広がり、日本にも上陸した。また、台湾のフルーツ味のかき氷の場合では基本的に本物のフルーツや果汁を乗せられていて、日本のように氷蜜は使わない。 ; {{読み仮名|芒果氷|マングォビン}} : ({{注音|ㄇㄤˊ ㄍㄨㄛˇ ㄅㄧㄥ}}) : [[2004年]]頃から発展し、最新でありながら今でも流行している台湾の代表的なかき氷。芒果は[[マンゴー]]に当たる漢字。新鮮なマンゴーの切り身をたっぷり乗せ、マンゴーのジュースやアイスクリーム、加糖[[練乳]]をかける。 ; {{読み仮名|雪花氷|シェファビン}}、また{{読み仮名|雪綿氷|シェメンピン}} : ({{注音|ㄒㄩㄝˇ ㄏㄨㄚ ㄅㄧㄥ}}) : 特殊的な氷の削り方法を使って、氷の形状を雪の花のようにするき氷。日本では「雪花氷」という名前は既に別のアイス系スイーツに[[商標]]登録されており、日本国内では無断で使用することはできない。また、一番人気な雪花氷は前述のマンゴー味のものなので、漢字表記は「芒果雪花氷」と書く。 ; {{読み仮名|紅白団子氷|ホンバイトゥアンズビン}} : 茹でたピンクと白のもち団子をかけたかき氷。店によって、団子の中では黒ゴマ・白ゴマ、アズキ、抹茶などの[[餡]]も入れている。 ; {{読み仮名|月見氷|ユエチエンピン}} : ({{注音| ㄩㄝˋ ㄐ|ㄢˋ ㄅㄧㄥ}}) : かき氷の上に[[蒟蒻]]、[[練乳]]、[[ドライフルーツ]]などをトッピングした後、真ん中にくぼみを作って、[[鶏卵]]の[[カスタードプディング|プリン]]や黄色のアイスクリームを割り入れたもの<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.tabitabi-taipei.com/more/2005/0706/|title=懐かしの台湾デザート 月見カキ氷|publisher=マジカルサイト 旅々台北.com|language=日本語|accessdate=2013年7月7日}}</ref>。「月見」は[[日本語]]からの借用で、[[日本統治時代の台湾]]で考案されたと考えられる。 ; {{読み仮名|三果氷|サングオビン}}、また{{読み仮名|三色氷|サンスアビン}} : 三つの果物([[スイカ]]、[[パイナップル]]、[[キウイフルーツ|キウイ]])とそれぞれの果汁をかき氷に乗せた豪華なスイーツ。店によって、黄色のパイナップルは[[バナナ]]、マンゴー、[[メロン]]に代わり、赤色のスイカは[[イチゴ]]代わり、いずれも揃っていた三色を重視。なお、オレンジ色の[[オレンジ]]や[[蜜柑]]を加えて、四色の四果氷になることも可能。 ; {{読み仮名|八宝氷|バーバオビン}} : ({{注音|ㄅㄚ ㄅㄠˇ ㄅㄧㄥ}}) : かき氷の上に甘い煮豆をはじめ、多くの具を盛り合わせたかき氷を台湾では「八寶冰(八宝氷)」という。好みで果肉、[[ジャム]]、蜜煮の果物、「QQ」と呼ばれる弾力のあるフルーツ製[[団子]]、[[ライスヌードル]]、[[種実類|ナッツ]]、加糖練乳、クリームプリンなどが選べ、「八つの宝を茶碗に盛り上げた」イメージを作る。 ; {{読み仮名|牛奶氷|ニオナイビン}} : 「牛奶」は牛乳の意味。水の中に牛乳を加えて、氷状にしたかき氷。 ; {{読み仮名|黒糖氷|ヘイタンビン}} : 前述と同じく、水の中に[[黒糖]]の蜜を加え、氷状にしたかき氷。 ; {{読み仮名|泡泡氷|スグオビン}} : 泡泡は「大量なバブル」の意味を指し、かき氷と[[ミルクセーキ]]の間のかき氷。 ; {{読み仮名|刀削氷|ダオシャオビン}} : ({{注音|ㄉㄠ ㄒㄧㄠ ㄅㄧㄥ}}) : 台湾の別のタイプのかき氷。手で包丁を持って削るので、粗い[[氷|クラッシュドアイス]]に近いものができる。各種氷蜜と練乳をかけて食べ、日本のかき氷と一番近いと言われている。 === その他の国 === [[ファイル:Ice kachang.jpg|サムネイル|150ピクセル|香港の古いタイプの紅豆冰]] [[ファイル:Korean shaved ice-Patbingsu-05.jpg|サムネイル|150ピクセル|韓国のパッピンス]] [[ファイル:Halo halo1.jpg|サムネイル|150ピクセル|フィリピンのハロハロ]] ; 紅豆冰([[広東語]]:ホンダウベン) : [[香港]]のかき氷。旧来のものは、グラスに冷やした小豆の[[ぜんざい]]を入れ、[[エバミルク]]をかけ、その上に荒めに削った氷を山のように載せる。匙も出されるが、もともと飲料的要素が高く、現在はクラッシュアイスに変わった店がほとんどのため、飲料と認識されている。変種としてアイスクリームを加えたものや、「菠蘿冰」([[パイナップル]]氷)などがあり、「[[茶餐廳]]」や「冰室」と呼ばれる喫茶軽食店で提供される。 ; ケテック : [[新疆ウイグル自治区]]([[東トルキスタン]])のかき氷。蜂蜜を混ぜた手作り[[ヨーグルト]]がかけられる。山頂付近から運んだ天然氷を先端部がフォーク型の金属棒器具で削ぎ、砕く様に削る。 ; [[ピンス]]([[朝鮮語]]:氷水、{{Lang|kr|빙수}}) : [[朝鮮半島]]のかき氷。代表的なのが'''パッピンス'''({{Lang|kr|팥빙수}})で、名前には{{読み仮名|小豆|パッ}}が付いているが、日本の氷小豆とは異なり、台湾の八宝氷同様に、小豆餡や缶詰フルーツ、餅といっが具が豊富に盛られており、味付けによく[[きな粉]]を使う点と、[[ビビンバ|ピビンパ]]同様に食べる前に徹底的に混ぜるのが特徴的。他に小豆抜きで、フルーツを乗せた'''クヮイルピンス'''(果実氷水、{{Lang|kr|과일빙수}})など様々な種類がある。お店では通常、二人前以上の分量が器に盛られている場合が多く、(鍋のように)複数人で分けて食べるのが一般的。 ; シェイブアイス([[:en:Shave ice|SHAVE ICE]]) : [[ハワイ]]のかき氷。上記で紹介した“shaved ice”とは別物。'''アイスシェイブ'''とも呼ばれる{{R|hawaii}}。 : 1800年代中頃に日本からハワイへの移民が、農作業の合間に涼をとるために日本のかき氷を持ち込んで、砂糖やフルーツジュースをかけたのが原型とされる{{R|hawaii}}。 : カラフルなシロップをかけるのがスタンダードであるがフルーツやアイスクリームなどのトッピングも好まれる。トッピングの中には日本のかき氷由来の甘く煮た小豆も人気が高い<ref name="hawaii">{{Cite web|和書|language=ja|website=[[ハワイアン航空]]|url=https://www.hawaiianairlines.co.jp/hawaii-stories/food-and-entertainment/shave-ice-history|title=シェイブアイスがハワイ名物になった理由|author=Tiffany Hill|accessdate=2023-07-20}}</ref>。 ; [[グラッタケッカ]](GRATTACHECCA) : [[イタリア]]の[[ローマ]]地方の氷菓子。 ; [[ハロハロ]](Halohalo) : 豆の餡、[[ナタ・デ・ココ]]、アイスクリームなど、豊富な具を乗せた[[フィリピン]]のかき氷。Halohaloは[[タガログ語]]で「ごちゃ混ぜ」を意味する。日本では[[ミニストップ]]のコールドスイーツの名称として名が広まっている。 ; タッチェー : [[ベトナム]]のかき氷。かき氷の上に、緑豆や[[ココナッツ]]入りの白玉ぜんざい(チェー/che)がかかっている。 ; ボボチャチャ : ハロハロによく似ている[[シンガポール]]のかき氷。「ボボチャチャ」とは「ごちゃ混ぜ」の意である。 ; [[アイスカチャン|アイス・カチャン]] (Ais kacang) : [[マレーシア]]のかき氷。氷の上にカチャン(豆)の甘煮が乗る。氷自体に味を付けて鉋屑のように一続きに削った物も存在する。 ; [[インドネシア料理#飲み物・デザート|エス・チャンプル]](es campur) : [[インドネシア]]のかき氷。果物やタピオカが乗っている。 ; フリオフリオ(FRÍO FRÍO) : [[ドミニカ共和国]]のかき氷。手押し[[屋台]]で販売している。使い捨てのプラスチックのコップにかき氷を入れて、その上からシロップをかける。かき氷は氷の塊を金属器具にて鉋で削るようにして作る。シロップは、レモン、[[タマリンド]]など数種ある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[スムージー]] * [[かち割り]] * [[クラッシュドアイス]] * [[氷食症]] * [[関連痛]] - かき氷を急いで食べた際に頭が痛くなる現象は関連痛の一種。 ** [[アイスクリーム頭痛]] * [[氷室]] * [[氷コップ]] * {{仮リンク|スノーコーン|en|Snow cone}} - 砕いた氷や削った氷にシロップをかけた氷菓子 == 外部リンク == {{Commonscat|Kakigōri}} {{Wiktionary|かき氷|かきごおり}} * [http://www.junpyou.or.jp/museum/ 大阪純氷 氷の博物館] (大阪氷卸協同組合) {{Food-stub}} {{アイスクリーム}} {{DEFAULTSORT:かきこおり}} [[Category:かき氷|*]] [[Category:氷菓]] [[Category:日本の菓子]] [[Category:台湾の食文化]] [[Category:アメリカ合衆国の食文化]] [[Category:夏]] [[Category:夏の季語]]
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1ポンドの福音
『1ポンドの福音』(いちポンドのふくいん)は、高橋留美子による日本の漫画作品。『週刊ヤングサンデー』にて、1987年9号から2007年3/4合併号にかけて不定期連載されていた。単行本は小学館:ヤングサンデーコミックスより全4巻。 『週刊ヤングサンデー』での初出は1987年9号。初回は前後編の読みきり作品だったが、その後も1話ずつ不定期に集中連載され、約20年後の2007年3/4合併号にて完結。単行本も2007年3月に最終巻である4巻が刊行され、完結した。 1988年にはOVA化され、また2008年1月期にはKAT-TUNの亀梨和也主演により日本テレビ系列でもテレビドラマ化された。 減量中なのに食欲に負ける駆け出しボクサーの青年と若い修道女を中心にした人間模様を描いた作品。ストーリーは試合ごとに区切られ、耕作が対戦相手やその周辺の人物と触れ合ったり自分と戦ったりしながら、試合が終わるまでを1ストーリーとしてそのストーリーが何度か続いていく形式である。1ストーリー毎にテーマが決まっている。 内容はラブコメともボクシングものとも取れる作品になっている。 ※声の記述はOVA版、演の記述はドラマ版で表記。 テレビドラマでは、「聖エリシオ修道院」。 主要人物は#登場人物を参照。 2008年1月12日から3月8日まで毎週土曜日21:00 - 21:54に、日本テレビ系の「土曜ドラマ」枠で放送された。主演は亀梨和也。 2008年9月3日にDVD-BOXが発売されている。特典映像は「1ポンドの福イン」×メイキングムービー&「1ポンドの福イン!!サタデー」完全版が収録されている。 主要人物は#登場人物を参照。
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『1ポンドの福音』(いちポンドのふくいん)は、高橋留美子による日本の漫画作品。『週刊ヤングサンデー』にて、1987年9号から2007年3/4合併号にかけて不定期連載されていた。単行本は小学館:ヤングサンデーコミックスより全4巻。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 1ポンドの福音 | ジャンル = [[ラブコメディ|ラブコメ]]・[[スポ根]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[高橋留美子]] | 出版社 = [[小学館]] | 掲載誌 = [[週刊ヤングサンデー]] | 開始 = [[1987年]]9号 | 終了 = [[2007年]]3/4合併号<br />(不定期連載) | 冊数 = 4巻(単行本) }} {{Infobox animanga/Movie | タイトル = | 作者 = 高橋留美子 | 総監督 = | 監督 = [[出崎統]] | 脚本 = 西久保瑞穂 | 製作 = スタジオぎゃろっぷ | 封切日 = 1988年12月2日 | 上映時間 = 55 | 話数 = | その他 = }} {{Infobox animanga/TVDrama |タイトル = 1ポンドの福音 |監督 = [[佐藤東弥]]・田中峰弥 |制作 = 河野英裕 |放送開始 = 2008年1月12日 |放送終了 = 2008年3月8日 |放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |放送国 = {{JPN}} |話数 =全9話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''1ポンドの福音'''』(いちポンドのふくいん)は、[[高橋留美子]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。『[[週刊ヤングサンデー]]』にて、[[1987年]]9号から[[2007年]]3/4合併号にかけて不定期連載されていた。単行本は小学館:[[週刊ヤングサンデー#ヤングサンデーコミックス|ヤングサンデーコミックス]]より全4巻。 == 概要 == 『週刊ヤングサンデー』での初出は[[1987年]]9号。初回は前後編の読みきり作品だったが、その後も1話ずつ不定期に集中連載され、約20年後の2007年3/4合併号にて完結。単行本も2007年3月に最終巻である4巻が刊行され、完結した。 [[1988年]]には[[OVA]]化され、また[[2008年]]1月期には[[KAT-TUN]]の[[亀梨和也]]主演により[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列でも[[テレビドラマ]]化された。 減量中なのに食欲に負ける駆け出しボクサーの青年と若い修道女を中心にした人間模様を描いた作品。ストーリーは試合ごとに区切られ、耕作が対戦相手やその周辺の人物と触れ合ったり自分と戦ったりしながら、試合が終わるまでを1ストーリーとしてそのストーリーが何度か続いていく形式である。1ストーリー毎にテーマが決まっている。 内容は[[ラブコメ]]とも[[ボクシング]]ものとも取れる作品になっている。 == 登場人物 == ※声の記述はOVA版、演の記述はドラマ版で表記。 === 主要人物 === ; 畑中 耕作(はたなか こうさく) : 声 - [[古谷徹]] / 演 - [[亀梨和也]] : 主人公。19歳。[[プロボクサー]]ながら食欲が旺盛で、いつも減量に失敗しては試合に負けてきた根性無し<ref>[http://www.ntv.co.jp/1pound/chart/kousaku.html 畑中 耕作]テレビドラマ版公式サイト</ref>。しかし負けん気とシスターアンジェラへの愛で勝ち続ける青年ボクサー。楽天的かつ常に前向き思考な性格。シスターアンジェラに会いたいがために、懺悔の名目で教会へ通っている。OVAでは、後輩の岩田にお金をせびって買い食いし、ファイトマネーによって出世払いで返すとカツアゲまがいの事までやっていた。 : プロテストを受けた時は[[フライ級]]であったが、体重が徐々に増え、現在の階級は[[フェザー級]]<ref>[http://www.ntv.co.jp/1pound/about/about04.html ボクシング豆知識]テレビドラマ版公式サイト</ref>。本来は[[スーパーバンタム級|ジュニアフェザー]]にまで絞り込めるらしいが、減量が嫌で階級を上げた様子。鬼丸戦では4階級重い[[ウェルター級]]、松阪戦では1階級軽いジュニアフェザー級で戦っている。 : 素質を見出した向田にスカウトされて高校を中退して<ref>ただし、向田は学校をやめろとまでは言っていないと述べている。</ref>17歳の時に、難関の[[プロボクサー#日本におけるプロボクサー|B級]]プロ試験に一発合格したハードパンチャー<ref>B級プロ試験を受けるにはアマチュアで好成績を残しているのが条件の一つだが原作ではその描写はない。</ref>。「かませ犬」として試合を組まれることも多いが、試合後に対戦相手から認められるほどの実力者。戦績は17戦11勝(11KO)6敗。判定負けはなく、勝ちも負けもKO。最終話にて紅に勝利した事で[[東洋太平洋ボクシング連盟|東洋太平洋]]チャンピオン<ref>ドラマでは日本チャンピオン。</ref>になる。 ; シスターアンジェラ / 麻利絵(まりえ) : 声 - [[鶴ひろみ]] / 演 - [[黒木メイサ]] : ヒロイン。食欲に負けた耕作がいつも懺悔を聞いてもらいに行っていた[[修道院]]の見習い[[修道女|シスター]]。真面目な性格で、だらしない耕作をいつも叱っているが、彼の好意にはまんざらでもない様子で、嫉妬深い面も見せる<!--作者定番のヒロイン設定-->。普段は温厚だが、酒癖が結構悪く、アルコールが回ると気性が荒くなる。実家は敬虔なクリスチャン。 : 神に仕える修道女ゆえ、耕作と恋愛する事は禁じていたが、最終話ではシスターを辞めて耕作と交際を始めたような描写がある。 : OVA版では耕作より2歳年上。また、赤いスクーターを愛用している。 : テレビドラマ版では物心つく前から教会に育てられたらしい<ref>[http://www.ntv.co.jp/1pound/chart/angela.html シスターアンジェラ]テレビドラマ版公式サイト</ref>。 === 向田ボクシングジム === ; 向田(むこうだ) : 声 - [[永井一郎]] / 演 - [[小林聡美]] : 耕作の所属する向田ボクシングジムの会長で、常に耕作の食欲の心配をしている。 : 原作では初老の男性だが、テレビドラマ版では諸事情により女性が演じている。 ; 俊平(しゅんぺい) : 耕作の後輩。減量中に耕作の食事によく付き合わされる。 ; 石田(いしだ) : 向田ジムのコーチ。 === 聖マリア幼稚園 === テレビドラマでは、「聖エリシオ修道院」。 ; 修院長 : 演 - [[もたいまさこ]] : シスターアンジェラがいる[[女子修道院長|修道院の院長]]。耕作に「'''ばあや'''」と呼ばれ、そのたびに水をかける。 === ボクシングの関係者 === ; 赤城 圭二(あかぎ けいじ) : <!--作中で-->耕作が最初に対戦するボクサー。大学チャンピオンの実績を引っさげてプロの世界に入るが…。 ; 天草 二郎(あまくさ じろう) : 声 - [[塩沢兼人]] : 蟹谷ジム所属のフェザー級ボクサーで、同ジムでは期待の星。<!--偶然とはいえ-->トレーニング中に耕作のパンチを食らい、復讐するために耕作と対戦する。 ; 鬼丸 勝兵(おにまる かっぺい) : 演 - [[田中要次]] : 佃ジム所属のウェルター級ボクサー。プロになってから一度も勝利した事がないため4回戦の試合にしか出られないC級ライセンスに留まっているが、対戦相手全員が出世したジンクスがある。身重の妻持ち。普段は鬼丸工務店を経営している。才能がありながら自堕落な理由で試合に最善を尽くさない耕作に苛立ちを覚えている。 ; 松阪 太郎(まつさか たろう) : 耕作のB級プロ試験時のスパーリングの相手だったフライ級のプロボクサー。試合前に見下した発言をして、ヘッドギアを着けずにテスト相手になるなど、耕作を舐めてかかったがパンチ一発で、ダウンしてしまい、終いにはその拍子でロープに口を突っ込んでしまった事故で歯を全て折られてしまう。その後は1年ほど荒れた生活を過ごしていたが、全く腹の虫がおさまらない事から、耕作に復讐を果たすため、大食してわざと太って強引にジュニアフェザーまで階級を上げた。実力は高く、本来はとうの昔に10回戦の試合に上がっていてもおかしくないレベルの実力者。耕作を倒すために敢えてライセンスをA級に切り替えずにいた<!--耕作戦後どうしたかは分からないので、過去形で表記-->。元々太りにくい体質な上、耕作に負けて総入れ歯となっているため、減量を苦としていない。無理に階級を上げたため、腹だけが出るなどボクサーらしくない体型になり、防御力が全くないが、パンチ力は健在で最終的に負けたとはいえ、幾度も耕作をラッシュで出し抜き、ガードした耕作の腕を痣だらけしたほどの威力を持つ(ただし、肘打ちでパンチを払いのける反則技をしていた)。普段は父親の経営する「ファミリーレストランマツザカ」の店長を務める。仕事中では紳士的な態度で、プライベートでは素の乱暴な口調。戦績は17戦16勝1敗14KO(畑中耕作戦終了時)。 ; 来栖 正良(くるす まさよし) : 演 - [[福井博章]] : 高校時代に[[全国高等学校総合体育大会ボクシング競技大会|インターハイ]]を準優勝し、難関のB級プロ試験に合格した新人ボクサー。ヤクザの如き強面の顔とは裏腹に相当な小心者。鉄壁の防御と剃刀のような切れ味鋭いパンチで耕作に勝利する。教会のシスターに顔を覚えられているほど教会にお祈りに来ているクリスチャン。普段は幼馴染の女性の実家の電気屋に勤めており、ボクシングを始めたのも幼馴染から薦められたためである。ドラマでは来栖友也(くるす ゆうや)として登場。 ; タコス八郎(タコスはちろう)/ ハビエル・フェルナンデス : メキシコから日本へやってきたボクサー。後者は本名。世話人の壺井ジムの会長の援助で副業としてタコス屋を経営しているが、料理の腕は壊滅的に下手。信仰に篤く、腹に聖母マリアの[[刺青]]をしている。プロボクサーとしての経験は非常に少ないものの、実力はある方。手首の捻りを生かしたパンチが必殺技。耕作による愛称は'''八ちゃん'''。 ; 夜叉丸 ヒロシ(やしゃまる ヒロシ) : 激情的な性格のボクサー。神経性胃炎を患っている。やや柄が悪い。恋人(可菜)を愛し、仕事で使っているトラックには「可菜命」と塗装されている。 ; 桜 学(さくら まなぶ) : 普段は塾講師をしているボクサー。クリンチを多用して打ち合いを避けながらポイントを稼いで判定勝ちに持ち込む戦法を得意とし、その戦法のおかげで12戦8勝の戦績を持つ。向田会長も認める技巧派。反面、KO勝ちが無く、華が無いと陰口を叩かれている(本人もそれを気にしている)。 ; 紅 流星(くれない りゅうせい) : 演 - [[桐谷健太]] : ホストとの2足の草鞋を履いているボクサーで、耕作が最後に対戦するボクサー。フェザー級東洋太平洋チャンピオン<ref>ドラマではフライ級日本チャンピオン。</ref>。親に借金のカタとしてホストクラブに売り飛ばされた。人には冗談めかして「ウソだよ」と付け加える。実は、借金の額は7億。 === その他 === ; 電気屋の娘 : 演 - [[浅見れいな]] : 本名不明。来栖の幼馴染で、気が弱い来栖に箔がつくと考えボクシングを薦めた。男勝りな性格。試合から逃げ出す来栖の世話を焼いている。来栖はリングに上がる時が一番カッコいいと思っている。ドラマでは牧野夏希という名前で登場。 ; 善彦(よしひこ) : プロボクサーになるため地方から上京してきた、中学3年生の少年。広島弁らしき方言を操る。両親にボクサーを殴れたらボクサーになる事を約束したため<!--両親は最初から不可能と思っていた-->、耕作を殴ろうと付け狙う。 ; 可菜(かな) : 夜叉丸の彼女。夜叉丸に殴られたのがきっかけで、ダイエット中に知り合った耕作に乗り換えようとし、結果、耕作やシスターアンジェラ、夜叉丸を引っ掻き回す事に。最近体重が増えたため、ダイエットに励んでいた<!--本人にとっては意外な理由-->。 ; 水絵(みずえ) : シスターアンジェラの叔母。浪費家の遊び人で、借金をしてまで美食、旅行、ホストクラブ通いと遊び歩いている。その割には他人には厳しく、シスターアンジェラに思いを寄せる耕作に対し、「あんた生活力無いでしょ」と切り捨てた。 ; 若王子(わかおうじ) : 演 - [[黄川田将也]] : レストランを営む若きシェフ。店は繁盛しているのに、料理の腕は下手。修行に行ったはずのヨーロッパでは、結局観光に没頭した。 ; 守下(もりした) : 演 - [[中丸新将]] : 若王子シェフの部下。主人(若王子)の付き添いでヨーロッパへの修行についていき、シェフとしての修行をした。若王子とシスターアンジェラが結ばれる事を望んでいる。 == 単行本・連載 == * [[高橋留美子]] 『1ポンドの福音』 [[小学館]]〈[[ヤングサンデーコミックス]]〉、全4巻 ; 第1巻 : [[1989年]][[8月5日]]刊行 {{ISBN2|4-09-151101-5}}<ref>[https://www.shogakukan.co.jp/books/09151101 1ポンドの福音 1]小学館公式サイト</ref> :* 秤の上の迷える小羊:1987年9号、10号 :* まな板の上の小羊:1988年1号 - 3号 :* 小羊どもの夢のあと:1988年16号 - 19号 : ; 第2巻 : [[1990年]]8月5日刊行 {{ISBN2|4-09-151102-3}} :* 小羊の復活:1989年15号 - 19号 :* 十字をきった小羊:1990年8号 - 12号 : ; 第3巻 : [[1996年]]8月5日刊行 {{ISBN2|4-09-151103-1}} :* 狙われた小羊:[[1991年]]10号、11号 :* 聖夜に泣く小羊:[[1992年]]23号、24号 :* よろめく小羊:1996年17号 - 21/22合併号 : ; 第4巻 : [[2007年]][[3月10日]]刊行 {{ISBN2|978-4-09-151170-6}} :* 小羊のレストラン:[[1998年]]51号、52号 :* 小羊の未来図:[[2001年]]25号、26号 :* 小羊の約束:[[2006年]]52号 - 2007年3/4合併号 : == OVA == === キャスト(OVA) === 主要人物は[[#登場人物]]を参照。 ; 向田ボクシングジム :* 岩田 - [[二又一成]] :* 田渕 - [[龍田直樹]] :* 山本 - [[田中和実]] : ; 聖マリア幼稚園 :* 坂井 - [[富沢美智恵]] :* 藤田 - [[鈴木富子]] : ; ボクシングの関係者 :* 盤谷 - [[柴田秀勝]] === スタッフ(OVA) === * 原作 - 高橋留美子(小学館『週刊ヤングサンデー』連載) * 脚本 - [[高屋敷英夫]]、[[金春智子]] * 音楽 - [[川井憲次]] * 監督 - [[出崎統|さきまくら]] * エンディングテーマ - [[浜田麻里]]「CRY NO MORE」 * 挿入歌 - 浜田麻里「CALL MY LUCK」 * キャラクターデザイン - 青嶋克已 * 作画監督 - 山内昇寿郎 * 美術監督 - [[小林七郎]] * 撮影監督 - [[杉村重郎]] * 音響監督 - [[松浦典良]] * 色彩設計 - 藤田弘美 * 編集 - 古川雅士 * 演出 - [[水谷貴哉]] * 製作 - [[ぎゃろっぷ|スタジオぎゃろっぷ]] == テレビドラマ == {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 1ポンドの福音 | 画像 = | 画像説明 = | ジャンル = [[テレビドラマ]] | 放送時間 = 土曜21:00 - 21:54 | 放送分 = 54 | 放送枠 = 土曜ドラマ(日本テレビ) | 放送期間 = [[2008年]][[1月12日]] - [[3月8日]] | 放送回数 = 9 | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = | 企画 = | 製作総指揮 = | 監督 = | 演出 = [[佐藤東弥]]<br />田中峰弥<br />佐久間紀佳<br />狩山俊輔 | 原作 = [[高橋留美子]]<br />『1ポンドの福音』 | 脚本 = [[福田雄一]]<br />[[根本ノンジ]] | プロデューサー = 河野英裕(日本テレビ)<br />小泉守<br />下山潤(トータルメディアコミュニケーション) | 出演者 = [[亀梨和也]]<br />[[黒木メイサ]]<br />[[岡田義徳]]<br />[[山田涼介]]<br />[[高橋一生]]<br />[[石黒英雄]]<br />[[波岡一喜]]<br />[[光石研]]<br />[[南沢奈央]]<br />[[中村果生莉]]<br />[[江口のりこ]]<br />[[もたいまさこ]]<br />[[小林聡美]] | 音声 = | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = | EDテーマ = [[KAT-TUN]]「[[LIPS (KAT-TUNの曲)|LIPS]]」 | 時代設定 = | 外部リンク = https://www.ntv.co.jp/1pound/ | 外部リンク名 = 公式サイト | 特記事項 = 初回は15分拡大(21:00 - 22:09)。 | 音楽 = [[井筒昭雄]]<br />川嶋可能 | 国・地域 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] }} [[2008年]][[1月12日]]から[[3月8日]]まで毎週土曜日21:00 - 21:54<ref>初回のみ15分拡大。</ref>に、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の「[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]]」枠で放送された。主演は[[亀梨和也]]。 2008年9月3日にDVD-BOXが発売されている<ref>[https://tower.jp/item/2435068/1%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3-DVD-BOX(5%E6%9E%9A%E7%B5%84) 1ポンドの福音 DVD-BOX(5枚組)]タワーレコード株式会社公式サイト</ref>。特典映像は「1ポンドの福イン」×メイキングムービー&「1ポンドの福イン!!サタデー」完全版が収録されている。 === キャスト(テレビドラマ) === <!-- 登場人物の詳細を執筆するのは、原作との相違点が多い場合のみにしてください。また、その際は原作と混同しないよう、お願いします。 --> 主要人物は[[#登場人物]]を参照。 ==== レギュラー ==== ; 向田ボクシングジム :* 上田 正志(プロボクサー) - [[岡田義徳]] :* 向田 勝己(向田会長の息子) - [[山田涼介]] :* 石坂 雄介(プロボクサー) - [[高橋一生]] :* 堀口 徹平(プロボクサー) - [[石黒英雄]] :* 児島(プロボクサー) - [[波岡一喜]] :* 三鷹 秀夫(トレーナー) - [[光石研]] : ; 聖エリシオ修道院 :* シスターグレイス - [[中村果生莉]] :* シスターミリー - [[江口のりこ]] :* シスタークリスティーナ - 松坂早苗 : ; その他 :* 三品食堂の娘・紀子 - [[南沢奈央]] :* 三品食堂の店長 - [[菅原大吉]] ==== ゲスト ==== ; 第1話 :* 高山会長 - [[ベンガル (俳優)|ベンガル]] :* ドラゴン神崎(プロボクサー) - 大久保貴光 :* 大城 電二郎(プロボクサー) - [[蓮ハルク]] :* 向田 聖子(幼少期) - [[福原遥]] :* 三鷹 秀夫(幼少期) - [[槇岡瞭介]] : ; 第2話 :* 来栖 友也(プロボクサー) - [[福井博章]] :* 牧野 夏希(来栖の恋人) - [[浅見れいな]] : ; 第3話 :* 山吹 善彦(中学生) - [[知念侑李]]([[Hey! Say! JUMP]]) : ; 第6話 :* タイガーパンヤーク(タイ人ボクサー) - アベディーン :* 上田 和幸(上田の父) - [[不破万作 (俳優)|不破万作]](第7話にも出演) === スタッフ(テレビドラマ) === * ボクシング協力 - [[ヨネクラボクシングジム]] ** ボクシング指導 - 梅津正彦 * 脚本 - [[福田雄一]]、[[根本ノンジ]](#第7話) ** 脚本協力 - 根本ノンジ * 原案協力 - 都築伸一郎、三上信一、横山真義(小学館「週刊ヤングサンデー」編集部) * 音楽 - [[井筒昭雄]]、川嶋可能 * 演出 - [[佐藤東弥]]、田中峰弥、佐久間紀佳、狩山俊輔 * 主題歌 - [[KAT-TUN]]「[[LIPS (KAT-TUNの曲)|LIPS]]」([[J-One Records]]) * イメージソング(ドラマ開始前の予告CMにて使用) - [[クイーン (バンド)|Queen]]「[[ウィ・ウィル・ロック・ユー|We Will Rock You]]」 * 音楽プロデュース - [[志田博英]] * 技斗 - [[釼持誠]] * カースタント - [[タカハシレーシング]] * 技術協力 - [[日テレ・テクニカル・リソーシズ|NiTRo]]、[[日テレアート]]、[[映広]] * プロデューサー - 河野英裕(日テレ) * 協力プロデューサー - 小泉守、下山潤([[トータルメディアコミュニケーション]]) * 制作プロダクション - トータルメディアコミュニケーション * 製作著作 - 日本テレビ === 放送日程 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !各話!!放送日!!サブタイトル!!原作!!演出!!視聴率 |- |第1話||2008年1月12日||好きだ!シスター!||子羊どもの夢のあと(第1巻)||rowspan="2"|佐藤東弥||{{Color|red|13.0%}} |- |第2話||2008年1月19日||VS弱虫男!勝ってデートだ大食いだ!||十字をきった子羊(第2巻)||11.4% |- |第3話||2008年1月26日||母の仕事って?ウルトラマンになる方法||狙われた子羊(第3巻)||田中峰弥||11.1% |- |第4話||2008年2月{{0}}2日||恋敵は天才シェフ!世界一のラブレター||子羊のレストラン(第4巻)||佐久間紀佳||{{0}}9.0% |- |第5話||2008年2月{{0}}9日||苦しいときは、過去ではなく未来を思え||ドラマオリジナルストーリー||佐藤東弥||{{0}}9.6% |- |第6話||2008年2月16日||強くなれ!イジメられっこと女ボクサー||ドラマオリジナルストーリー||狩山俊輔||10.5% |- |第7話||2008年2月23日||悪徳ホストに大借金愛と金をかけた戦い||子羊の約束(第4巻)||田中峰弥||10.7% |- |第8話||2008年3月{{0}}1日||さよならシスター!! 根性ナシ涙のパンチ||子羊の約束(第4巻)||狩山俊輔||{{0}}{{Color|blue|8.8%}} |- |最終話||2008年3月{{0}}8日||結婚!? への道大作戦愛と焼き芋で旅立ち||ドラマオリジナルストーリー||佐藤東弥||11.3% |- !colspan="6"|平均視聴率 10.7%(視聴率は[[関東地方|関東地区]]・[[ビデオリサーチ]]社調べ) |} === 備考 === * 同じクールの日本テレビのドラマ『[[貧乏男子 ボンビーメン]]』にて、[[ユースケ・サンタマリア]]演じるオムオムが、このドラマの原作コミックを読んでいるシーンがあった。同じく『貧乏男子 ボンビーメン』にて[[小栗旬]]演じる一美の夢の場面で、このドラマで使用しているジムが登場した。 * 第1話で鬼丸勝兵([[田中要次]])が息子とお風呂の中で歌っていた曲は、[[2006年]]夏に同枠で放送されたドラマ『[[マイ☆ボス マイ☆ヒーロー]]』で登場する戦隊キャラクター・無限戦士アニキンダーのテーマ曲である。なお、このドラマには、[[田中要次]]も菊島徹也役として出演していた。また修道院長役のもたいも水島椿役で出演していた。 * 『[[天才!志村どうぶつ園]]』の企画により、7話に[[青木さやか]]が出演している。 * 系列局の[[福井放送]]では、2008年4月から同枠が[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|テレビ朝日系木曜ドラマ]]遅れネットになり、合わせて次作『[[ごくせん (テレビドラマ)|ごくせん]]』から土曜16時台において1週遅れでの放送になったため、本作が同局では最後の同時ネット作品となった。 {{前後番組 |放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系 |放送枠=[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]] |番組名=1ポンドの福音<br />(2008.1.12 - 2008.3.8) |前番組=[[ドリーム☆アゲイン]]<br />(2007.10.13 - 2007.12.15) |次番組=日本テレビ開局55年記念番組<br />[[ごくせん (テレビドラマ)|ごくせん 第3シリーズ]]<br />(2008.4.19 - 2008.6.28) }} {{日テレ系土曜ドラマ (1988年以降)}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.rumiko-no-sekai.com/onepound/ Rumiko No Sekai One Pound Gospel section](仏語) * テレビドラマ ** [https://www.ntv.co.jp/1pound/ 公式サイト - 日本テレビ] ** [https://www.vap.co.jp/1pound/ 1ポンドの福音 DVD-BOX](VAPによるDVD-BOX特設サイト) {{高橋留美子}} {{ぎゃろっぷ}} {{DEFAULTSORT:いちほんとのふくいん}} [[Category:高橋留美子の漫画作品]] [[Category:漫画作品 い|ちほんとのふくいん]] [[Category:1987年の漫画]] [[Category:週刊ヤングサンデー]] [[Category:ボクシング漫画]] [[Category:ロマンティック・コメディ漫画]] [[Category:宗教施設を舞台とした漫画作品]] [[Category:アニメ作品 い|ちほんとのふくいん]] [[Category:1988年のOVA]] [[Category:1988年のアニメ映画]] [[Category:ぎゃろっぷ]] [[Category:高橋留美子原作のアニメ作品]] [[Category:ビッグコミックスのアニメ作品]] [[Category:土曜ドラマ (日本テレビ)]] [[Category:2008年のテレビドラマ]] [[Category:テレビドラマ連動データ放送]] [[Category:漫画を原作とするテレビドラマ]] [[Category:ボクシングドラマ]] [[Category:ボクシングアニメ]] [[Category:福田雄一脚本のテレビドラマ]] [[Category:修道女を主人公にした作品]]
2003-02-17T04:01:36Z
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ロードレース世界選手権
ロードレース世界選手権(ロードレースせかいせんしゅけん)は、オートバイによるモータースポーツ。国際モーターサイクリズム連盟(FIM)が統括し、1949年に始まった二輪ロードレースの最高峰カテゴリーである。現在はドルナ社(DORNA)が各種権利等を管理している。 かつての正式名称は『FIM Road Racing World Championship Grand Prix』で、2016年シーズンより「Road Racing」の表記が外され、『FIM Grand Prix World Championship』という正式名称を用いている。シリーズの略称は2001年まではWGP(World Grand Prixの略)や、日本では世界GPや世界グランプリなどが一般的だったが、2002年に最高峰の500ccクラスがMotoGPクラスに改編されたのを機に、現在はシリーズ全体の略称にもMotoGP(モトジーピー)が使われる場合が多い。 現在は、レース専用に開発された二輪車を用い、レース専用に建設された世界各地のサーキットを転戦し、ライダーとマシンの速さを競うという内容になっている。かつては公道用市販車を改造したマシンも出場しており、公道を封鎖したコースも数多く使用されていた。 選手権はエンジンの排気量別に3つのクラスに分かれており、2019年現在、MotoGPクラスは4ストローク1000cc(2012年~)、Moto2クラスはトライアンフのワンメイクの3気筒4ストローク765cc(2019年~)、Moto3クラスは単気筒4ストロークの250cc(2012年~)となっている。 歴代チャンピオンに関してはロードレース世界チャンピオンの一覧を参照のこと。 世界各国でのグランプリレース(GP)での順位に応じてポイントを加算していき、年間チャンピオンを決定する。 全クラスにライダー選手権とマニファクチャラー(メーカー)選手権があり、現在はMotoGPクラスのみチーム選手権も存在する。マニファクチャラー選手権はメーカー内の最上位入賞ライダーのポイントのみを加算する。チーム選手権はチーム内の全てのライダーの入賞ポイントを加算する。 ロードレース世界選手権は、世界各国を転戦しながら全18戦でチャンピオンを決定する。チャンピオンシップはポイント制で、1位25ポイント、2位20ポイント、3位16ポイント、4位13ポイント、5位11ポイント、以下1ポイントずつ減っていき15位1ポイントとなる。エントリーライダー数(2017年シーズン開幕時点)は、MotoGPクラス:23人、Moto2クラス:32人、Moto3クラス:30人。このほかに各大会にはそれぞれのクラスに限られたワイルドカードという特別出場枠があり、レースの主催者の推薦によりスポット参戦が認められている。 レース期間は3日、 初日:フリー走行1/2 2日目:フリー走行3 → 公式予選Q1/Q2 → (motoGPのみ)スプリントレース 3日目:(motoGPのみ)ウォームアップ走行→決勝 という流れで行う。各フリー走行は初日moto3は35分、moto2は40分、motoGPのみ1が45分、2が60分。2日目は全クラス30分となっている。 フリー走行が予選の班分けを兼ねる変則的ノックダウン方式となっている。moto3/moto2ではフリー走行1-3の上位14名がQ1を経ずにQ2に進出する。その他はQ1を走行しその上位4名がQ2に進出し、Q2の結果で上位18のグリッドが決定される。グリッド19以降はQ1のタイム3位以降がタイム順に並ぶ。 つまり、予選通過者のうち上位14名はフリー走行とQ2の結果で、4名はフリー走行とQ1とQ2の結果で、残りはフリー走行とQ1の結果でグリッドが決まることになる。 motoGPでは2023年度から行われるようになったスプリントレースとの兼ね合いもあり、フリー走行1は完全なフリー走行枠となり、予選の班分けが行われるのはフリー走行2(セッション名は「プラクティス」)のみとなった。出走台数の違いから自動Q2進出は上位10名、Q1からQ2への進出は上位2名で、13位以下はQ1でグリッド決定となっている。 F1とは違い、スプリントレース用の予選は行われず、決勝用のグリッドがそのままスプリントでのグリッドとなる。 いわゆる107%ルール(予選まででポールポジションの周回タイムの107%を超えるものは予選不通過となる)が存在するが、F1のそれとは異なり、各フリー走行で1回でもトップから107%以内のタイムを出していれば予選通過となる。また悪天候等の影響で予選不通過者が多く出た場合は、主催者側の判断により救済措置が適用されることもある。 決勝 原則としてMoto3 → Moto2 → MotoGPの順にレースが行われ(motoGPの出走時間が一定の時間になるように調整されているため、イギリスGPやフランスGPではmotoGPの放映時間優先でmoto3→motoGP→moto2となることもある)、大会ごとの規定周回数を最も速く走ったものが勝者となる。レース走行距離は95 - 130km程度で、それぞれのクラスで45分ほどとなる。最初に搭載した燃料で走りきれるため、悪天候等の想定外のトラブルが発生しない限りピットインする事は無い。ただし、MotoGPクラスには2005年より“フラッグ・トゥ・フラッグ”と呼ばれるルールが定められ、降雨時にはスリックタイヤを履いたマシンでピットインし、ウェットタイヤを装着済みの別のマシンへの乗り換え(あるいはその逆)が見られることとなった。これはスタート前から「ウェットレース宣言」が出された場合には各自自由なタイミングで乗り換えが可能だが、「ドライレース宣言」でスタートした場合は、乗り換え可能を示す白旗が提示されるまでは乗り換えが出来ない。 2001年まで存在していた500ccクラスが、2002年に現在の名称となり発足した選手権の最高峰クラス。かつてはイルモア、WCMといったプライベーターがオリジナルマシンで参戦していたほか、カワサキがワークス・チームを送り込んでいたが、2021年現在出場しているのはヤマハ、ホンダ、スズキ、ドゥカティ、アプリリア、KTMの6メーカーと、ワークスマシンの貸与等を受けられるサテライトチームとなっている。 使用されるシャシーおよびエンジンはプロトタイプ(レース専用)が原則であるが、2012年より実施されたクレーミング・ルール・チーム(CRT)では市販車ベースの車両が認められた。なおタイヤは、2009年から2015年までブリヂストンのワンメイクであったが2016年よりミシュランのワンメイクになっている。。 なお、レギュレーションは年とともに変化しており、細部については次項の「レギュレーションの変遷」を参照 2001年まで存在していた500ccクラスは、2ストローク・4ストローク共に排気量500ccが上限で、1970年代半ば以降は事実上2ストロークのみという状況になっていた。そこで環境問題対策へのアピールや商業上の理由(2ストローク大排気量車が市場と直結していない)によって、2002年より4ストロークが主体となるMotoGPクラスが誕生した。 2002年には「4ストロークエンジンの排気量あたりの出力効率は2ストロークエンジンの半分」とする係数計算から制定された新レギュレーションが導入され、2006年まで適用された。エンジンは2ストローク500cc以下、4ストローク990cc以下のレース専用車両という規定で、気筒数やピストン形状による最低重量制限が課せられていた。排気量は4ストロークが優遇された一方で、燃料タンク容量は2ストロークが32L、4ストロークが24L(2004年には22L)と、4ストロークの燃料タンク容量は大きく制限された。 しかし、2002年シーズンが開幕すると4ストローク車両が圧倒的に有利なことが明らかとなったため、2ストローク車両でのMotoGP参戦は2003年シーズン終了までに次第になくなり、カワサキ(2002年シーズン第13戦もてぎGPから)やドゥカティ(2003年シーズンから)など4ストロークを得意とするメーカーの新規参入を呼び込むこととなった。 2ストロークから4ストローク大排気量へと変わった事でバックトルク(エンジンブレーキ)が強大になったため、初期の頃はコーナー手前のシフトダウンを伴う減速時に後輪側が激しく暴れるといったシーンがよく見られた。バックトルクの弱い2ストロークに馴染んだライダーやメーカーは対策に頭を悩まされることとなったが、エンジンの電子制御やスリッパー・クラッチ等の開発が進むにつれ問題は解消され、当時はまだ2ストロークだった250ccクラス等からのステップアップも困難ではなくなっていった。 2ストロークエンジンはその構造上電子制御を取り入れにくかったが、4ストロークへの移行に伴いハイテク化が一気に進んだ。燃料噴射装置は機械式から電子制御式に移行し、エンジン特性そのものの電子制御化、トラクションコントロール、シフターの最適化等、操縦を支援する装置が数多く搭載されるようになり、これらの電子装置の性能が車両性能を大きく左右するようになった。2ストローク時代と比べ、単に絶対速度が上がっただけでなく遥かに扱いやすいマシンとなり、ライダー達のタイムが拮抗するようになったという意見がある。 990cc時代の最高峰クラスは、直線での加速力や最高速では4輪のF1をも凌ぎ、ブレーキングポイントが明らかに手前でコーナー脱出速度が遅いにもかかわらず、鈴鹿サーキットをはじめ、各サーキットにおける最高速レコードを叩き出していた。そのため、最高速度の急激な上昇を抑えるといった安全上の理由等によりレギュレーションが改正され、2007年から最大排気量が800ccへと引き下げられた。エンジンの気筒数によって最低重量が定められ、燃料タンクは21Lに制限された。 800ccになっても下位クラスよりも大柄でトルクも強大で、最大エンジン出力は200馬力以上、最高時速はダニ・ペドロサが349km/h以上を記録した。また990cc時代はライダーにマシンの有り余るパワーを制御する事が求められたが、800ccへの変更後は電子制御技術が一層進化し、250ccクラス等からのステップアップがスムーズになったことにより以前に比べて新人ライダーが活躍する事が多くなり、スーパーバイク世界選手権(市販車改造1000cc)出身ライダーは、ライディングスタイルを変更しないと活躍出来ない傾向になっていた。 高騰し続ける参戦費用を抑えるため、2009年よりMotoGPの主催者であるDORNAやIRTAなどで構成されるグランプリ委員会によってレギュレーション改正が行われた。 タイヤサプライヤーを一社に限定し、2009年から2011年まで3年契約でブリヂストンが供給。第11戦チェコGP以降は使用できるエンジン数が最大5基までに制限された。また、ブレーキの材料として、セラミック複合材料によるディスクとパッドの使用は禁止となった。エンジンオイルは潤滑油としてのみ使用可能であり、油圧制御システムへの使用は禁止される。電子制御サスペンションの使用も禁止された。EGR(排気ガス再循環装置)の使用も禁止。さらにこの年からルーキーライダーはサテライトチームからしかエントリーできなくなった(スズキのみサテライトチームを持たない為このルールの適応外となっている)。 エンジン個数は、年間シーズンを通して、各ライダーは最大6基のエンジンを使用できる。カーボン製フロントディスクブレーキの直径は最大320mmとなる。MMC(金属基複合材料)とFRM(繊維強化金属)の使用は禁止となる。タイヤ温度センサーの使用も禁止される。ホイールのリム幅も制限され、ホイール直径は16.5インチのみとなる。可変排気システムの使用も禁止。可変バルブタイミングシステムと可変バルブ開閉システムでは、電子制御と油圧制御を使用するシステムは禁止される。コンロッドは、中空構造は禁止だが、オイル循環用の穴は直径2mmまで許可される。ツインクラッチシステムの使用は禁止。トランスミッションは、オートマチックは禁止されるが、マニュアルでは若干のパワーアシストが許可される。無段変速トランスミッションの使用は禁止。GPSの搭載は、DORNAがテレビ放送などを目的としたもののみ許可され、マシンの電子制御系システムとして使用することはできない。ステアリングダンパーの電子制御は禁止。 2012年シーズンから最大排気量が再び変更され、1000ccに拡大となる。シリンダー数は4気筒以下、最大ボア径は81mmとなる。最低車両重量は1000ccの場合157kg、従来の800ccエンジンを使用する場合は150kgとなる。メーカーが運営するワークスチームと、メーカーからマシンの供給を許可されたサテライトチームが使用する非量産の「プロトタイプマシン」は、年間使用エンジン数は6基、燃料タンク容量は21Lに引き続き制限される。 「クレーミング・ルール・チーム(Claiming Rule Team)」(CRT)とは、主催者・参加者による委員会で認められたチームに適用されるレギュレーションで、減少傾向にあったMotoGPクラスへの参加を容易にする目的で2012年より採用される。CRTは、フレームビルダーの製作した車体に改造した量産車エンジンを搭載した「CRTマシン」での出場が許可される。 CRTはカテゴリの1つではなく、MotoGPクラスの車両レギュレーションの1つであり、15位以内に入るとMotoGPクラスのポイントを獲得する。そのためCRTマシンの順位を比較する場合は、「CRT勢トップ」のような表現を用いる。 プロトタイプマシンに対して出力の劣るCRTマシンは、年間エンジン使用制限数が12基に、燃料タンクの最大容量が24Lに緩和されている。また、改造費の抑制を目的としたエンジンの買取制度も規定され、プロトタイプマシンを製造しているメーカーが要望した場合は、CRTは使用したエンジンを2万ユーロで販売しなければならない。つまり、プロトタイプマシンのエンジンに対抗しようとして、多額の費用をかけて量産エンジンを改造したとしても、ワークスメーカーはCRTが使用したエンジンを2万ユーロで買い取ることが可能である。 スイスのフレームビルダーであるスッター・レーシング・テクノロジーが、BMW社製の量産エンジンを使用し、プライベーターへのマシン供給を計画している他、イギリスのFTRも同様にシャーシ供給(エンジンはチームにより異なる)やアプリリアが自社製プロトタイプフレームにRSV4のエンジンを搭載したマシン等が参加した。 CRTは2013年シーズンまで実施され、2014年からはルールを改めエンジン使用台数制限の緩和や燃料タンクの増量などが受けられる代わりに主催者指定のECUソフトウェアを使用する「オープンクラス」に移行したが、これも2015年をもって廃止された。 オープンクラスの廃止により、ECUはハード・ソフト共に共通化。年間使用エンジン数は7基だが2013年以降参戦のメーカーは条件付きで9基。最低車体重量は157kgとなり、燃料タンク容量は22リットルに統一。タイヤはミシュランとなりサイズが16.5インチから17インチに変更される。 2009年まで存在していた250ccクラスに替わり、2010年から新たにMoto2クラスが始まった。クラス初年度は当初旧250ccマシンとの混走を認める予定であったが、エントラントは全てMoto2規格のマシンでの参戦となった。 エンジンは3年ごとにプロポーザルが行われており、2010年の入札でヤマハに勝ったホンダが、4ストローク直列4気筒600ccエンジンを独占供給していた。市販車のCBR600RR用のものをベースにしており、出力は約140馬力。この頃にはエンジン、車両ともに性能が向上し、2ストローク500ccのエンジンの時代よりも速く周回できるようになった。2013年の入札でもホンダが勝利し、契約は2015年まで延長された。さらに2014年11月に2018年までの契約延長が発表されている。ホンダのエンジン供給は2018年で終了し、2019年からはトライアンフがエンジンを供給する。トライアンフは2017年10月に直列3気筒・765ccのMoto2用新エンジンを公開した。2019年からはECUもマニエッティ・マレリ製の共通ECUとなる。 エンジンメンテナンスはドルナが契約した外部コンサルタントに委託され、イコールコンディションに保たれたエンジンが各チームに供給されている。メンテ担当は2010年 - 2012年までが後藤治率いるGEO Technology、2013年 - 2018年まではエクステンプロが指名されている。 車両最低重量は135kg、ブレーキディスクは鉄製のみ認められる。タイヤはダンロップのワンメイク。シャシーについてはプロトタイプであることが条件で、クラス開始時にはスッター、モリワキ、ビモータ等多くのシャシービルダーが参戦している。2022年現在ではカレックス、ボスコスクロ、ガスガス、MVアグスタが参戦している。 開始初年度から40台という、3クラス中最も多いエントリーを集める盛況となった。またエンジンの統一により各車のタイムが拮抗し、第3戦フランスGPの予選ではトップから1秒以内に27人ものライダーがひしめき合う事態となった。決勝でもたびたび激しいバトルが展開されることとなり、2010年シーズンは9人もの勝者を生み出した。 これまでの125ccクラスに代わり、2012年からはMoto3クラスが新設された。エンジンは単気筒250cc4ストロークのみ。最大ボア径は81mm、最大回転数は14,000rpmに制限される。エンジンサプライヤーは1基あたり12,000ユーロ以下での販売、要求があれば1シーズンあたり最低15人のライダーへの同一スペックのエンジン供給が義務付けられ、特定のライダーのみエンジン改良を施すといった行為は認められない。ライダー込みの最低制限重量は148kg。タイヤは2014年まではダンロップのワンメイク。パワーが小さいので、前の選手の真後ろを走りスリップストリームを利用するのが効果的とされ、数多くのマシンが僅差で競り合う展開になることが多い。 3クラスの中で年齢制限が最も厳しく、各シーズンの1月1日時点で新規参戦は16歳から25歳まで、継続参戦は28歳以下のライダーしかできない。 2012年現在はホンダがNSF250Rを発表しているほか、KTM、マヒンドラ、イオダが参戦。ホンダ、KTMはコンプリートマシン以外にエンジン単体の供給も行っており、オリジナルフレームにそれらのエンジンを搭載して参戦しているチームも多い。他にBeOnも参戦計画があるほか、モリワキエンジニアリングもワイン・ガードナーと共にニューマシンの開発を行う方針を明らかにしている。2021年現在では、ホンダはNSF250RWに発展し、KTMと激しい開発競争を繰り広げている。2017年までにマヒンドラとその別バッジネームであるプジョーが参戦している。オリジナルフレームによる参戦はなく、全てコンプリートマシンとなっている。 2001年までの53年間、選手権の最高峰を担ってきたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量500cc以下のマシンで争われた。1966年から1972年にかけて、ジャコモ・アゴスティーニがMVアグスタを駆りクラス7連覇を達成している。また、1978年から1980年はケニー・ロバーツがヤマハで3連覇、1990年から1992年はウェイン・レイニーがヤマハで3連覇、1994年から1998年にはミック・ドゥーハンがホンダで5連覇を遂げた。 排気量は500ccながら130kgの車体に200馬力近い2ストロークエンジンを積むマシンはモンスターと呼ばれる一方、2ストロークゆえにタイムを縮めるにはごく狭いパワーバンドを維持しながら走行するテクニックが必要だったため素人では到底乗りこなせない車体だった。パワーが飛躍的に向上した1988年当時のホンダNSR500を初ライドした王者エディ・ローソンが「このバイクは俺を殺す気か!?」と言った。 現在のMotoGPマシンよりもタイヤや車体が劣っていた事もあり、パワースライドのバランスを取るために繊細なテクニックが必要とされ、90年代中頃のマイルドなエンジンになるまでは、ダートトラックでテクニックを磨く事が多いアメリカンライダーとオージーライダーが活躍していた。また、各サーキットも現在と比較すると路面の状態が良い状態ではなく、彼らにとって大きなアドバンテージとなっていた。 1989年までゼッケンは、黄色ベースに黒数字。 1982年までの34シーズン開催されたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量350cc以下のマシンで争われた。アゴスティーニがこのクラスでも7連覇(1968年 - 1974年)を果たしている。在日韓国人の片山敬済が1977年にタイトルを獲得している。 2009年までの61年間にわたり開催された、選手権で2番目に長い歴史を持つクラス。250cc以下のレース専用車両で競われた。最終的なレギュレーションでは最低重量は100kg。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べたが、末期は全てのチームが軽量・ハイパワーである2ストロークを採用していた。シリンダー数は2気筒以下。 市販レース車両(レース専用車)では、ホンダ・レーシング(HRC)からRS250R、ヤマハからTZ250等が販売され、プライベーターの参加が可能なカテゴリーであった。4ストローククラス移行の関係で、市販レース車両の開発は、一旦2003年をもってストップしたが、2007年型TZ250でごく僅かな改良が施された(一部パーツに変更有)。最終年度の参戦メーカーはアプリリア、ホンダ、ジレラ、ヤマハの4社だった。 日本人では原田哲也(1993年)、加藤大治郎(2001年)、青山博一(2009年)の3人がタイトルを獲得している。1990年代前半は岡田忠之、原田哲也、青木宣篤ら日本人トリオが活躍した。 1989年までゼッケンは、緑色ベースに白数字。 1949年の選手権開始以来、唯一2011年シーズンまで63年間開催され続けたクラス。125cc以下のレース専用車両で競われる。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べるが、全てのチームが軽量・ハイパワーな2ストロークを採用した。最低制限重量はライダー込みで136kg。 2010年当時、参戦メーカーはアプリリア、デルビ、ホンダ、ランブレッタ。 かつてはベテランの軽量級スペシャリストが多いクラスであったが、途中から厳しい年齢制限が課され、近年では若手の登竜門的なクラスに位置付けられていた。 免許制度の都合で125cc市販車に馴染みの深い南欧諸国出身のライダーが多く活躍した。日本人では坂田和人(1994年、1998年)、青木治親(1995年、1996年)がチャンピオンを獲得している。 1989年までゼッケンは、白色ベースに黒数字。 1962年から1983年の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量50cc以下のマシンで争われた。 50ccクラスを引き継ぐ形で1984年から始まったクラス。1989年までの6シーズンと短命に終わった。4ストロークまたは2ストロークの排気量80cc以下のマシンで争われた。 1996年まで選手権の1クラスとして開催されていた。現在は独立した別の選手権としてヨーロッパで開催されている。 2023年シーズン終了時 2022年開幕戦カタールGP終了時 2022年開幕戦カタールGP終了時 2022年開幕戦カタールGP終了時 現在、地上波では日本テレビがMotoGPクラスを中心に録画放送を実施。CS放送ではスカパー!の日テレG+で全クラス予選・決勝レースの完全放送が行われており(基本は巨人戦生中継最優先の為、重ならない場合は生中継実施)、2016年度は巨人戦の生中継が重なった場合BSスカパー!で放送される。またBS放送ではBS日テレがMotoGPクラスを中心に録画放送(ただし、日本GPのみ生中継)。 2018年度からは定額制動画配信サービス、Huluでも予選・決勝レースを全戦ライブ配信されている。 なおHuluストア(課金配信)ではライブ配信のほかに見逃し配信の販売も行なっている。 テレビ中継の無かった時代は、VIDEO VISON(英)が4〜6台のENGカメラで収録したものが主であった。イギリスのDuke Marketing Ltd.がヨーロッパでの発売・販売を行ってきた。 日本では初の廉価ビデオマガジン「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:ダイエーSVラボ/1987年6月創刊)が世界GPを扱い出したことをきっかけとし、「パワースポーツ・ビデオ」(発売:大陸書房)や「マンスリーモーターサイクルビデオマガジン RIDE ON」(制作/発売禅プランニング)、「ライダーズビデオステーション・バーン」(発売:ジャパン・ネットワーキング)やビデオサービスフルカワからビデオマガジン形式でシリーズ戦が発売された。 1989年の日本国内で全戦がTXN系列で放映されると同時に、「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:アートスタッフ/発売:世界文化社)が全戦をリリース。以降発売元は、1991年日本ビクター、1992年東芝EMI、1993年よりウィック・ビジュアル・ビューロウとなっている。 2000年からはエキスプレスが発売元となり、2004年からは公式DVDとしてウィック・ビジュアル・ビューロウがラウンド毎に発売している。
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"p", "text": "3日目:(motoGPのみ)ウォームアップ走行→決勝", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "という流れで行う。各フリー走行は初日moto3は35分、moto2は40分、motoGPのみ1が45分、2が60分。2日目は全クラス30分となっている。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "フリー走行が予選の班分けを兼ねる変則的ノックダウン方式となっている。moto3/moto2ではフリー走行1-3の上位14名がQ1を経ずにQ2に進出する。その他はQ1を走行しその上位4名がQ2に進出し、Q2の結果で上位18のグリッドが決定される。グリッド19以降はQ1のタイム3位以降がタイム順に並ぶ。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "つまり、予選通過者のうち上位14名はフリー走行とQ2の結果で、4名はフリー走行とQ1とQ2の結果で、残りはフリー走行とQ1の結果でグリッドが決まることになる。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "motoGPでは2023年度から行われるようになったスプリントレースとの兼ね合いもあり、フリー走行1は完全なフリー走行枠となり、予選の班分けが行われるのはフリー走行2(セッション名は「プラクティス」)のみとなった。出走台数の違いから自動Q2進出は上位10名、Q1からQ2への進出は上位2名で、13位以下はQ1でグリッド決定となっている。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "F1とは違い、スプリントレース用の予選は行われず、決勝用のグリッドがそのままスプリントでのグリッドとなる。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "いわゆる107%ルール(予選まででポールポジションの周回タイムの107%を超えるものは予選不通過となる)が存在するが、F1のそれとは異なり、各フリー走行で1回でもトップから107%以内のタイムを出していれば予選通過となる。また悪天候等の影響で予選不通過者が多く出た場合は、主催者側の判断により救済措置が適用されることもある。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "決勝", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "原則としてMoto3 → Moto2 → MotoGPの順にレースが行われ(motoGPの出走時間が一定の時間になるように調整されているため、イギリスGPやフランスGPではmotoGPの放映時間優先でmoto3→motoGP→moto2となることもある)、大会ごとの規定周回数を最も速く走ったものが勝者となる。レース走行距離は95 - 130km程度で、それぞれのクラスで45分ほどとなる。最初に搭載した燃料で走りきれるため、悪天候等の想定外のトラブルが発生しない限りピットインする事は無い。ただし、MotoGPクラスには2005年より“フラッグ・トゥ・フラッグ”と呼ばれるルールが定められ、降雨時にはスリックタイヤを履いたマシンでピットインし、ウェットタイヤを装着済みの別のマシンへの乗り換え(あるいはその逆)が見られることとなった。これはスタート前から「ウェットレース宣言」が出された場合には各自自由なタイミングで乗り換えが可能だが、「ドライレース宣言」でスタートした場合は、乗り換え可能を示す白旗が提示されるまでは乗り換えが出来ない。", "title": "選手権の概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2001年まで存在していた500ccクラスが、2002年に現在の名称となり発足した選手権の最高峰クラス。かつてはイルモア、WCMといったプライベーターがオリジナルマシンで参戦していたほか、カワサキがワークス・チームを送り込んでいたが、2021年現在出場しているのはヤマハ、ホンダ、スズキ、ドゥカティ、アプリリア、KTMの6メーカーと、ワークスマシンの貸与等を受けられるサテライトチームとなっている。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "使用されるシャシーおよびエンジンはプロトタイプ(レース専用)が原則であるが、2012年より実施されたクレーミング・ルール・チーム(CRT)では市販車ベースの車両が認められた。なおタイヤは、2009年から2015年までブリヂストンのワンメイクであったが2016年よりミシュランのワンメイクになっている。。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、レギュレーションは年とともに変化しており、細部については次項の「レギュレーションの変遷」を参照", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2001年まで存在していた500ccクラスは、2ストローク・4ストローク共に排気量500ccが上限で、1970年代半ば以降は事実上2ストロークのみという状況になっていた。そこで環境問題対策へのアピールや商業上の理由(2ストローク大排気量車が市場と直結していない)によって、2002年より4ストロークが主体となるMotoGPクラスが誕生した。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2002年には「4ストロークエンジンの排気量あたりの出力効率は2ストロークエンジンの半分」とする係数計算から制定された新レギュレーションが導入され、2006年まで適用された。エンジンは2ストローク500cc以下、4ストローク990cc以下のレース専用車両という規定で、気筒数やピストン形状による最低重量制限が課せられていた。排気量は4ストロークが優遇された一方で、燃料タンク容量は2ストロークが32L、4ストロークが24L(2004年には22L)と、4ストロークの燃料タンク容量は大きく制限された。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、2002年シーズンが開幕すると4ストローク車両が圧倒的に有利なことが明らかとなったため、2ストローク車両でのMotoGP参戦は2003年シーズン終了までに次第になくなり、カワサキ(2002年シーズン第13戦もてぎGPから)やドゥカティ(2003年シーズンから)など4ストロークを得意とするメーカーの新規参入を呼び込むこととなった。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2ストロークから4ストローク大排気量へと変わった事でバックトルク(エンジンブレーキ)が強大になったため、初期の頃はコーナー手前のシフトダウンを伴う減速時に後輪側が激しく暴れるといったシーンがよく見られた。バックトルクの弱い2ストロークに馴染んだライダーやメーカーは対策に頭を悩まされることとなったが、エンジンの電子制御やスリッパー・クラッチ等の開発が進むにつれ問題は解消され、当時はまだ2ストロークだった250ccクラス等からのステップアップも困難ではなくなっていった。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2ストロークエンジンはその構造上電子制御を取り入れにくかったが、4ストロークへの移行に伴いハイテク化が一気に進んだ。燃料噴射装置は機械式から電子制御式に移行し、エンジン特性そのものの電子制御化、トラクションコントロール、シフターの最適化等、操縦を支援する装置が数多く搭載されるようになり、これらの電子装置の性能が車両性能を大きく左右するようになった。2ストローク時代と比べ、単に絶対速度が上がっただけでなく遥かに扱いやすいマシンとなり、ライダー達のタイムが拮抗するようになったという意見がある。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "990cc時代の最高峰クラスは、直線での加速力や最高速では4輪のF1をも凌ぎ、ブレーキングポイントが明らかに手前でコーナー脱出速度が遅いにもかかわらず、鈴鹿サーキットをはじめ、各サーキットにおける最高速レコードを叩き出していた。そのため、最高速度の急激な上昇を抑えるといった安全上の理由等によりレギュレーションが改正され、2007年から最大排気量が800ccへと引き下げられた。エンジンの気筒数によって最低重量が定められ、燃料タンクは21Lに制限された。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "800ccになっても下位クラスよりも大柄でトルクも強大で、最大エンジン出力は200馬力以上、最高時速はダニ・ペドロサが349km/h以上を記録した。また990cc時代はライダーにマシンの有り余るパワーを制御する事が求められたが、800ccへの変更後は電子制御技術が一層進化し、250ccクラス等からのステップアップがスムーズになったことにより以前に比べて新人ライダーが活躍する事が多くなり、スーパーバイク世界選手権(市販車改造1000cc)出身ライダーは、ライディングスタイルを変更しないと活躍出来ない傾向になっていた。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "高騰し続ける参戦費用を抑えるため、2009年よりMotoGPの主催者であるDORNAやIRTAなどで構成されるグランプリ委員会によってレギュレーション改正が行われた。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "タイヤサプライヤーを一社に限定し、2009年から2011年まで3年契約でブリヂストンが供給。第11戦チェコGP以降は使用できるエンジン数が最大5基までに制限された。また、ブレーキの材料として、セラミック複合材料によるディスクとパッドの使用は禁止となった。エンジンオイルは潤滑油としてのみ使用可能であり、油圧制御システムへの使用は禁止される。電子制御サスペンションの使用も禁止された。EGR(排気ガス再循環装置)の使用も禁止。さらにこの年からルーキーライダーはサテライトチームからしかエントリーできなくなった(スズキのみサテライトチームを持たない為このルールの適応外となっている)。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "エンジン個数は、年間シーズンを通して、各ライダーは最大6基のエンジンを使用できる。カーボン製フロントディスクブレーキの直径は最大320mmとなる。MMC(金属基複合材料)とFRM(繊維強化金属)の使用は禁止となる。タイヤ温度センサーの使用も禁止される。ホイールのリム幅も制限され、ホイール直径は16.5インチのみとなる。可変排気システムの使用も禁止。可変バルブタイミングシステムと可変バルブ開閉システムでは、電子制御と油圧制御を使用するシステムは禁止される。コンロッドは、中空構造は禁止だが、オイル循環用の穴は直径2mmまで許可される。ツインクラッチシステムの使用は禁止。トランスミッションは、オートマチックは禁止されるが、マニュアルでは若干のパワーアシストが許可される。無段変速トランスミッションの使用は禁止。GPSの搭載は、DORNAがテレビ放送などを目的としたもののみ許可され、マシンの電子制御系システムとして使用することはできない。ステアリングダンパーの電子制御は禁止。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2012年シーズンから最大排気量が再び変更され、1000ccに拡大となる。シリンダー数は4気筒以下、最大ボア径は81mmとなる。最低車両重量は1000ccの場合157kg、従来の800ccエンジンを使用する場合は150kgとなる。メーカーが運営するワークスチームと、メーカーからマシンの供給を許可されたサテライトチームが使用する非量産の「プロトタイプマシン」は、年間使用エンジン数は6基、燃料タンク容量は21Lに引き続き制限される。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「クレーミング・ルール・チーム(Claiming Rule Team)」(CRT)とは、主催者・参加者による委員会で認められたチームに適用されるレギュレーションで、減少傾向にあったMotoGPクラスへの参加を容易にする目的で2012年より採用される。CRTは、フレームビルダーの製作した車体に改造した量産車エンジンを搭載した「CRTマシン」での出場が許可される。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "CRTはカテゴリの1つではなく、MotoGPクラスの車両レギュレーションの1つであり、15位以内に入るとMotoGPクラスのポイントを獲得する。そのためCRTマシンの順位を比較する場合は、「CRT勢トップ」のような表現を用いる。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "プロトタイプマシンに対して出力の劣るCRTマシンは、年間エンジン使用制限数が12基に、燃料タンクの最大容量が24Lに緩和されている。また、改造費の抑制を目的としたエンジンの買取制度も規定され、プロトタイプマシンを製造しているメーカーが要望した場合は、CRTは使用したエンジンを2万ユーロで販売しなければならない。つまり、プロトタイプマシンのエンジンに対抗しようとして、多額の費用をかけて量産エンジンを改造したとしても、ワークスメーカーはCRTが使用したエンジンを2万ユーロで買い取ることが可能である。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スイスのフレームビルダーであるスッター・レーシング・テクノロジーが、BMW社製の量産エンジンを使用し、プライベーターへのマシン供給を計画している他、イギリスのFTRも同様にシャーシ供給(エンジンはチームにより異なる)やアプリリアが自社製プロトタイプフレームにRSV4のエンジンを搭載したマシン等が参加した。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "CRTは2013年シーズンまで実施され、2014年からはルールを改めエンジン使用台数制限の緩和や燃料タンクの増量などが受けられる代わりに主催者指定のECUソフトウェアを使用する「オープンクラス」に移行したが、これも2015年をもって廃止された。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "オープンクラスの廃止により、ECUはハード・ソフト共に共通化。年間使用エンジン数は7基だが2013年以降参戦のメーカーは条件付きで9基。最低車体重量は157kgとなり、燃料タンク容量は22リットルに統一。タイヤはミシュランとなりサイズが16.5インチから17インチに変更される。", "title": "MotoGPクラス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2009年まで存在していた250ccクラスに替わり、2010年から新たにMoto2クラスが始まった。クラス初年度は当初旧250ccマシンとの混走を認める予定であったが、エントラントは全てMoto2規格のマシンでの参戦となった。", "title": "Moto2クラス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "エンジンは3年ごとにプロポーザルが行われており、2010年の入札でヤマハに勝ったホンダが、4ストローク直列4気筒600ccエンジンを独占供給していた。市販車のCBR600RR用のものをベースにしており、出力は約140馬力。この頃にはエンジン、車両ともに性能が向上し、2ストローク500ccのエンジンの時代よりも速く周回できるようになった。2013年の入札でもホンダが勝利し、契約は2015年まで延長された。さらに2014年11月に2018年までの契約延長が発表されている。ホンダのエンジン供給は2018年で終了し、2019年からはトライアンフがエンジンを供給する。トライアンフは2017年10月に直列3気筒・765ccのMoto2用新エンジンを公開した。2019年からはECUもマニエッティ・マレリ製の共通ECUとなる。", "title": "Moto2クラス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "エンジンメンテナンスはドルナが契約した外部コンサルタントに委託され、イコールコンディションに保たれたエンジンが各チームに供給されている。メンテ担当は2010年 - 2012年までが後藤治率いるGEO Technology、2013年 - 2018年まではエクステンプロが指名されている。", "title": "Moto2クラス" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "車両最低重量は135kg、ブレーキディスクは鉄製のみ認められる。タイヤはダンロップのワンメイク。シャシーについてはプロトタイプであることが条件で、クラス開始時にはスッター、モリワキ、ビモータ等多くのシャシービルダーが参戦している。2022年現在ではカレックス、ボスコスクロ、ガスガス、MVアグスタが参戦している。", "title": "Moto2クラス" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "開始初年度から40台という、3クラス中最も多いエントリーを集める盛況となった。またエンジンの統一により各車のタイムが拮抗し、第3戦フランスGPの予選ではトップから1秒以内に27人ものライダーがひしめき合う事態となった。決勝でもたびたび激しいバトルが展開されることとなり、2010年シーズンは9人もの勝者を生み出した。", "title": "Moto2クラス" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "これまでの125ccクラスに代わり、2012年からはMoto3クラスが新設された。エンジンは単気筒250cc4ストロークのみ。最大ボア径は81mm、最大回転数は14,000rpmに制限される。エンジンサプライヤーは1基あたり12,000ユーロ以下での販売、要求があれば1シーズンあたり最低15人のライダーへの同一スペックのエンジン供給が義務付けられ、特定のライダーのみエンジン改良を施すといった行為は認められない。ライダー込みの最低制限重量は148kg。タイヤは2014年まではダンロップのワンメイク。パワーが小さいので、前の選手の真後ろを走りスリップストリームを利用するのが効果的とされ、数多くのマシンが僅差で競り合う展開になることが多い。 3クラスの中で年齢制限が最も厳しく、各シーズンの1月1日時点で新規参戦は16歳から25歳まで、継続参戦は28歳以下のライダーしかできない。", "title": "Moto3クラス" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2012年現在はホンダがNSF250Rを発表しているほか、KTM、マヒンドラ、イオダが参戦。ホンダ、KTMはコンプリートマシン以外にエンジン単体の供給も行っており、オリジナルフレームにそれらのエンジンを搭載して参戦しているチームも多い。他にBeOnも参戦計画があるほか、モリワキエンジニアリングもワイン・ガードナーと共にニューマシンの開発を行う方針を明らかにしている。2021年現在では、ホンダはNSF250RWに発展し、KTMと激しい開発競争を繰り広げている。2017年までにマヒンドラとその別バッジネームであるプジョーが参戦している。オリジナルフレームによる参戦はなく、全てコンプリートマシンとなっている。", "title": "Moto3クラス" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2001年までの53年間、選手権の最高峰を担ってきたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量500cc以下のマシンで争われた。1966年から1972年にかけて、ジャコモ・アゴスティーニがMVアグスタを駆りクラス7連覇を達成している。また、1978年から1980年はケニー・ロバーツがヤマハで3連覇、1990年から1992年はウェイン・レイニーがヤマハで3連覇、1994年から1998年にはミック・ドゥーハンがホンダで5連覇を遂げた。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "排気量は500ccながら130kgの車体に200馬力近い2ストロークエンジンを積むマシンはモンスターと呼ばれる一方、2ストロークゆえにタイムを縮めるにはごく狭いパワーバンドを維持しながら走行するテクニックが必要だったため素人では到底乗りこなせない車体だった。パワーが飛躍的に向上した1988年当時のホンダNSR500を初ライドした王者エディ・ローソンが「このバイクは俺を殺す気か!?」と言った。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "現在のMotoGPマシンよりもタイヤや車体が劣っていた事もあり、パワースライドのバランスを取るために繊細なテクニックが必要とされ、90年代中頃のマイルドなエンジンになるまでは、ダートトラックでテクニックを磨く事が多いアメリカンライダーとオージーライダーが活躍していた。また、各サーキットも現在と比較すると路面の状態が良い状態ではなく、彼らにとって大きなアドバンテージとなっていた。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1989年までゼッケンは、黄色ベースに黒数字。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1982年までの34シーズン開催されたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量350cc以下のマシンで争われた。アゴスティーニがこのクラスでも7連覇(1968年 - 1974年)を果たしている。在日韓国人の片山敬済が1977年にタイトルを獲得している。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2009年までの61年間にわたり開催された、選手権で2番目に長い歴史を持つクラス。250cc以下のレース専用車両で競われた。最終的なレギュレーションでは最低重量は100kg。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べたが、末期は全てのチームが軽量・ハイパワーである2ストロークを採用していた。シリンダー数は2気筒以下。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "市販レース車両(レース専用車)では、ホンダ・レーシング(HRC)からRS250R、ヤマハからTZ250等が販売され、プライベーターの参加が可能なカテゴリーであった。4ストローククラス移行の関係で、市販レース車両の開発は、一旦2003年をもってストップしたが、2007年型TZ250でごく僅かな改良が施された(一部パーツに変更有)。最終年度の参戦メーカーはアプリリア、ホンダ、ジレラ、ヤマハの4社だった。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本人では原田哲也(1993年)、加藤大治郎(2001年)、青山博一(2009年)の3人がタイトルを獲得している。1990年代前半は岡田忠之、原田哲也、青木宣篤ら日本人トリオが活躍した。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1989年までゼッケンは、緑色ベースに白数字。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1949年の選手権開始以来、唯一2011年シーズンまで63年間開催され続けたクラス。125cc以下のレース専用車両で競われる。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べるが、全てのチームが軽量・ハイパワーな2ストロークを採用した。最低制限重量はライダー込みで136kg。 2010年当時、参戦メーカーはアプリリア、デルビ、ホンダ、ランブレッタ。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "かつてはベテランの軽量級スペシャリストが多いクラスであったが、途中から厳しい年齢制限が課され、近年では若手の登竜門的なクラスに位置付けられていた。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "免許制度の都合で125cc市販車に馴染みの深い南欧諸国出身のライダーが多く活躍した。日本人では坂田和人(1994年、1998年)、青木治親(1995年、1996年)がチャンピオンを獲得している。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1989年までゼッケンは、白色ベースに黒数字。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1962年から1983年の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量50cc以下のマシンで争われた。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "50ccクラスを引き継ぐ形で1984年から始まったクラス。1989年までの6シーズンと短命に終わった。4ストロークまたは2ストロークの排気量80cc以下のマシンで争われた。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1996年まで選手権の1クラスとして開催されていた。現在は独立した別の選手権としてヨーロッパで開催されている。", "title": "過去に存在したクラス" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2023年シーズン終了時", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2022年開幕戦カタールGP終了時", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2022年開幕戦カタールGP終了時", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2022年開幕戦カタールGP終了時", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "現在、地上波では日本テレビがMotoGPクラスを中心に録画放送を実施。CS放送ではスカパー!の日テレG+で全クラス予選・決勝レースの完全放送が行われており(基本は巨人戦生中継最優先の為、重ならない場合は生中継実施)、2016年度は巨人戦の生中継が重なった場合BSスカパー!で放送される。またBS放送ではBS日テレがMotoGPクラスを中心に録画放送(ただし、日本GPのみ生中継)。 2018年度からは定額制動画配信サービス、Huluでも予選・決勝レースを全戦ライブ配信されている。", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なおHuluストア(課金配信)ではライブ配信のほかに見逃し配信の販売も行なっている。", "title": "日本人の活躍" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "テレビ中継の無かった時代は、VIDEO VISON(英)が4〜6台のENGカメラで収録したものが主であった。イギリスのDuke Marketing Ltd.がヨーロッパでの発売・販売を行ってきた。 日本では初の廉価ビデオマガジン「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:ダイエーSVラボ/1987年6月創刊)が世界GPを扱い出したことをきっかけとし、「パワースポーツ・ビデオ」(発売:大陸書房)や「マンスリーモーターサイクルビデオマガジン RIDE ON」(制作/発売禅プランニング)、「ライダーズビデオステーション・バーン」(発売:ジャパン・ネットワーキング)やビデオサービスフルカワからビデオマガジン形式でシリーズ戦が発売された。 1989年の日本国内で全戦がTXN系列で放映されると同時に、「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:アートスタッフ/発売:世界文化社)が全戦をリリース。以降発売元は、1991年日本ビクター、1992年東芝EMI、1993年よりウィック・ビジュアル・ビューロウとなっている。 2000年からはエキスプレスが発売元となり、2004年からは公式DVDとしてウィック・ビジュアル・ビューロウがラウンド毎に発売している。", "title": "日本人の活躍" } ]
ロードレース世界選手権(ロードレースせかいせんしゅけん)は、オートバイによるモータースポーツ。国際モーターサイクリズム連盟(FIM)が統括し、1949年に始まった二輪ロードレースの最高峰カテゴリーである。現在はドルナ社(DORNA)が各種権利等を管理している。 かつての正式名称は『FIM Road Racing World Championship Grand Prix』で、2016年シーズンより「Road Racing」の表記が外され、『FIM Grand Prix World Championship』という正式名称を用いている。シリーズの略称は2001年まではWGPや、日本では世界GPや世界グランプリなどが一般的だったが、2002年に最高峰の500ccクラスがMotoGPクラスに改編されたのを機に、現在はシリーズ全体の略称にもMotoGP(モトジーピー)が使われる場合が多い。 現在は、レース専用に開発された二輪車を用い、レース専用に建設された世界各地のサーキットを転戦し、ライダーとマシンの速さを競うという内容になっている。かつては公道用市販車を改造したマシンも出場しており、公道を封鎖したコースも数多く使用されていた。 選手権はエンジンの排気量別に3つのクラスに分かれており、2019年現在、MotoGPクラスは4ストローク1000cc(2012年~)、Moto2クラスはトライアンフのワンメイクの3気筒4ストローク765cc(2019年~)、Moto3クラスは単気筒4ストロークの250cc(2012年~)となっている。 歴代チャンピオンに関してはロードレース世界チャンピオンの一覧を参照のこと。
{{Redirect|MotoGP|この選手権大会を再現したコンピュータゲーム|MotoGP (コンピュータゲーム)}} {{Infobox motorsport championship |logo=Moto Gp logo.svg |image-size = 180px |caption = '''FIM Grand Prix World Championship<ref name="ro">{{PDFlink|[http://www.fim-live.com/en/library/download/57492/no_cache/1/ FIM Grand Prix World Championship 2016 Calender, 10 February]}} - FIM・2016年2月10日</ref><br/>''' |category = [[オートバイ]] |country/region = 国際 |inaugural2 ={{start date and age|1949}} |folded = |classes = MotoGP,Moto2,Moto3,MotoE |riders = |teams = |engines = |tyres = [[ミシュラン]](MotoGP、MotoE)、[[ダンロップ]](Moto2、Moto3) |champion rider = {{flagicon|ITA}} [[フランチェスコ・バニャイア]]<br />(<small>MotoGPクラス</small>)<br />{{Flagicon|ESP}} [[アウグスト・フェルナンデス (オートバイレーサー)|アウグスト・フェルナンデス]]<br />(<small>Moto2クラス</small>)<br />{{Flagicon|ESP}} [[イサン・ゲバラ]] ([[ガスガス]])<br />(<small>Moto3クラス</small>)<br />{{flagicon|ITA}} [[マッティア・カサデイ]]<br />(<small>MotoEクラス</small>) |manufacturer = {{flagicon|ITA}} [[ドゥカティ]]<br />(<small>MotoGPクラス</small>)<br />{{flagicon|GER}} [[カレックス・エンジニアリング]]<br />(<small>Moto2クラス</small>)<br />{{flagicon|ESP}} [[ガスガス]]<br />(<small>Moto3クラス</small>) |current_season = 2023年のMotoGP |website = [http://www.motogp.com/ motogp.com] }} <!-- 定義 --> '''ロードレース世界選手権'''(ロードレースせかいせんしゅけん)は、[[オートバイ]]による[[モータースポーツ]]。[[国際モーターサイクリズム連盟]](FIM)が統括し、{{MGP|1949}}に始まった二輪[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]の最高峰カテゴリーである。現在は[[ドルナ社|ドルナ社(DORNA)]]が各種権利等を管理している。 かつての正式名称は『FIM Road Racing World Championship Grand Prix<ref>{{PDFlink|[http://www.fim-live.com/en/library/download/52058/no_cache/1/ FIM Road Racing World Championship Grand Prix 2015 provisional Calender, 11 February]}} - FIM・2015年2月11日</ref>』で、[[2016年のロードレース世界選手権|2016年シーズン]]より「Road Racing」の表記が外され、『FIM Grand Prix World Championship』という正式名称を用いている<ref name="ro" />。シリーズの略称は{{MGP|2001}}までは'''WGP'''(World Grand Prixの略)や、日本では'''世界GP'''や'''世界グランプリ'''などが一般的だったが、{{MGP|2002}}に最高峰の500ccクラスがMotoGPクラスに改編されたのを機に、現在はシリーズ全体の略称にも'''MotoGP'''(モトジーピー)が使われる場合が多い。 現在は、レース専用に開発された二輪車を用い、レース専用に建設された世界各地の[[サーキット]]を転戦し、ライダーとマシンの速さを競うという内容になっている。かつては公道用市販車を改造したマシンも出場しており、公道を封鎖したコースも数多く使用されていた。 選手権は[[レシプロエンジン|エンジン]]の排気量別に3つのクラスに分かれており、2019年現在、MotoGPクラスは[[4ストローク機関|4ストローク]]1000cc(2012年~)、Moto2クラスは[[トライアンフ (オートバイ)|トライアンフ]]の[[ワンメイク]]の3気筒4ストローク765cc(2019年~)、Moto3クラスは単気筒4ストロークの250cc(2012年~)となっている<ref name="Regulation">{{PDFlink|[http://www.fim-live.com/fileadmin/alfresco/Codes_et_reglements/2010_GP_Regulations_%28with_current_season_amendments%29-14.08.pdf 2010 FIM Road Racing World Championship Grand Prix Regulations (with current season amendments)-14.08]}}</ref>。 歴代チャンピオンに関しては'''[[ロードレース世界チャンピオンの一覧]]'''を参照のこと。 [[File:Capirossi Hayden Rossi 2005.jpg|thumb|250px|right|{{MGP|2005}}の[[マレーシアグランプリ (ロードレース)|マレーシアGP]]決勝。前から[[ロリス・カピロッシ|カピロッシ]]、[[ニッキー・ヘイデン|ヘイデン]]、[[バレンティーノ・ロッシ|ロッシ]]。]][[File:MotoGP riders 2010 Qatar.jpg|thumb|right|250px|{{MGP|2010}}のMotoGPクラス参戦ライダー([[2010年のカタールグランプリ|開幕戦カタールGP]]にて)]] [[File:Moto2 multiple crash 2010 Indianapolis.jpg|thumb|right|250px|[[2010年のインディアナポリスグランプリ|2010年のインディアナポリスGP]] Moto2クラス決勝で発生した多重クラッシュ]] == 選手権の概要 == 世界各国でのグランプリレース(GP)での順位に応じてポイントを加算していき、年間チャンピオンを決定する。 全クラスにライダー選手権とマニファクチャラー(メーカー)選手権があり、現在はMotoGPクラスのみチーム選手権も存在する。マニファクチャラー選手権はメーカー内の最上位入賞ライダーのポイントのみを加算する。チーム選手権はチーム内の全てのライダーの入賞ポイントを加算する。 ===基本=== ロードレース世界選手権は、世界各国を転戦しながら全18戦でチャンピオンを決定する。チャンピオンシップはポイント制で、1位25ポイント、2位20ポイント、3位16ポイント、4位13ポイント、5位11ポイント、以下1ポイントずつ減っていき15位1ポイントとなる。エントリーライダー数(2017年シーズン開幕時点)は、MotoGPクラス:23人、Moto2クラス:32人、Moto3クラス:30人。このほかに各大会にはそれぞれのクラスに限られた[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]という特別出場枠があり、レースの主催者の推薦によりスポット参戦が認められている。 === 競技方法 === レース期間は3日、 初日:フリー走行1/2 2日目:フリー走行3 → 公式予選Q1/Q2 → (motoGPのみ)スプリントレース 3日目:(motoGPのみ)ウォームアップ走行→決勝 という流れで行う。各フリー走行は初日moto3は35分、moto2は40分、motoGPのみ1が45分、2が60分。2日目は全クラス30分となっている。 フリー走行が予選の班分けを兼ねる変則的ノックダウン方式となっている。moto3/moto2ではフリー走行1-3の上位14名がQ1を経ずにQ2に進出する。その他はQ1を走行しその上位4名がQ2に進出し、Q2の結果で上位18のグリッドが決定される。グリッド19以降はQ1のタイム3位以降がタイム順に並ぶ。 つまり、予選通過者のうち上位14名はフリー走行とQ2の結果で、4名はフリー走行とQ1とQ2の結果で、残りはフリー走行とQ1の結果でグリッドが決まることになる。 motoGPでは2023年度から行われるようになったスプリントレースとの兼ね合いもあり、フリー走行1は完全なフリー走行枠となり、予選の班分けが行われるのはフリー走行2(セッション名は「プラクティス」)のみとなった。出走台数の違いから自動Q2進出は上位10名、Q1からQ2への進出は上位2名で、13位以下はQ1でグリッド決定となっている。 F1とは違い、スプリントレース用の予選は行われず、決勝用のグリッドがそのままスプリントでのグリッドとなる。 いわゆる[[107%ルール]](予選まででポールポジションの周回タイムの107%を超えるものは予選不通過となる)が存在するが、[[フォーミュラ1|F1]]のそれとは異なり、各フリー走行で1回でもトップから107%以内のタイムを出していれば予選通過となる<ref name="Regulation" />。また悪天候等の影響で予選不通過者が多く出た場合は、主催者側の判断により救済措置が適用されることもある<ref>http://www.motogp.com/ja/news/2007/Stoner+takes+first+pole+of+the+year+at+wet+Mugello</ref>。 決勝 原則としてMoto3 → Moto2 → MotoGPの順にレースが行われ(motoGPの出走時間が一定の時間になるように調整されているため、イギリスGPやフランスGPではmotoGPの放映時間優先でmoto3→motoGP→moto2となることもある)、大会ごとの規定周回数を最も速く走ったものが勝者となる。レース走行距離は95 - 130km程度で、それぞれのクラスで45分ほどとなる。最初に搭載した燃料で走りきれるため、悪天候等の想定外のトラブルが発生しない限りピットインする事は無い。ただし、MotoGPクラスには{{MGP|2005}}より“[[フラッグ・トゥ・フラッグ]]”と呼ばれるルールが定められ、降雨時にはスリックタイヤを履いたマシンでピットインし、ウェットタイヤを装着済みの別のマシンへの乗り換え(あるいはその逆)が見られることとなった<ref>http://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2009/studies/03/</ref>。これはスタート前から「ウェットレース宣言」が出された場合には各自自由なタイミングで乗り換えが可能だが、「ドライレース宣言」でスタートした場合は、乗り換え可能を示す白旗が提示されるまでは乗り換えが出来ない。 == MotoGPクラス == [[File:Rossi and Lorenzo 2010 French GP.jpg|thumb|right|250px|[[2010年のフランスグランプリ (ロードレース)|2010年フランスGP]] [[バレンティーノ・ロッシ|ロッシ]]と[[ホルヘ・ロレンソ|ロレンソ]]によるバトル]] {{MGP|2001}}まで存在していた500ccクラスが、[[2002年のロードレース世界選手権|2002年]]に現在の名称となり発足した選手権の最高峰クラス。かつては[[イルモア]]、[[ワールド・チャンピオンシップ・モータースポーツ|WCM]]といったプライベーターがオリジナルマシンで参戦していたほか、[[川崎重工業|カワサキ]]が[[ワークス・チーム]]を送り込んでいたが、[[2021年のMotoGP|2021年]]現在出場しているのは[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[スズキ (企業)|スズキ]]、[[ドゥカティ]]、[[アプリリア (会社)|アプリリア]]、[[KTM (オートバイ)|KTM]]の6メーカーと、ワークスマシンの貸与等を受けられる[[セミワークス|サテライトチーム]]となっている。 使用されるシャシーおよびエンジンはプロトタイプ(レース専用)が原則であるが、[[2012年のロードレース世界選手権|2012年]]より実施されたクレーミング・ルール・チーム(CRT)では市販車ベースの車両が認められた。なおタイヤは、[[2009年のロードレース世界選手権|2009年]]から[[2015年のロードレース世界選手権|2015年]]まで[[ブリヂストン]]のワンメイクであったが<ref name="bs2011bangai" />[[2016年のロードレース世界選手権|2016年]]より[[ミシュラン]]のワンメイクになっている。<ref>http://www.motogp.com/ja/news/2014/05/23/michelin-statement-following-tyre-supplier-announcement/164182 ミシュランがタイヤサプライヤーとして世界舞台に復帰</ref>。 なお、レギュレーションは年とともに変化しており、細部については次項の'''「レギュレーションの変遷」'''を参照 === レギュレーションの変遷 === ==== 2002年 - 2006年 : 990cc時代 ==== {{MGP|2001}}まで存在していた500ccクラスは、2ストローク・4ストローク共に排気量500ccが上限で、1970年代半ば以降は事実上2ストロークのみという状況になっていた。そこで環境問題対策へのアピールや商業上の理由(2ストローク大排気量車が市場と直結していない)によって、{{MGP|2002}}より4ストロークが主体となるMotoGPクラスが誕生した。 2002年には「4ストロークエンジンの排気量あたりの出力効率は2ストロークエンジンの半分」とする係数計算から制定された新レギュレーションが導入され、{{MGP|2006}}まで適用された。エンジンは2ストローク500cc以下、4ストローク990cc以下のレース専用車両という規定で、気筒数やピストン形状による最低重量制限が課せられていた。排気量は4ストロークが優遇された一方で、燃料タンク容量は2ストロークが32L、4ストロークが24L([[2004年のロードレース世界選手権|2004年]]には22L)と、4ストロークの燃料タンク容量は大きく制限された。 {| class="wikitable" |+2002年のMotoGPレギュレーション<ref name=":0">[[#BS163|21世紀のホンダ・レーシングエンジン]]</ref> |- style="background-color:#ccccff" | || colspan="2" | 4ストロークエンジン || colspan="2" | 2ストロークエンジン |- | 排気量 || colspan="2" | 990cc以下 || colspan="2" | 350~500cc |- | rowspan="3" | 気筒数・<br />最低重量 || 3気筒以下 || 135kg || 1・2気筒 || 101kg |- | 4・5気筒 || 145kg || 3気筒 || 116kg |- | 6気筒 || 155kg || 4気筒 || 131kg |- | [[楕円ピストンエンジン|楕円ピストン]] || colspan="2" | 1ランク上の重量<br />カテゴリーを適用 || colspan="2" | 制限無し |- | 燃料タンク容量 || colspan="2" | 24L以下 || colspan="2"| 規制無し |- | rowspan="2" | 音量 || 走行前 || 115ホン || 走行前 || 110ホン |- | 走行後 || 120ホン || 走行後 || 113ホン |} しかし、2002年シーズンが開幕すると4ストローク車両が圧倒的に有利なことが明らかとなったため、2ストローク車両でのMotoGP参戦は[[2003年のロードレース世界選手権|2003年シーズン]]終了までに次第になくなり、[[カワサキ]](2002年シーズン第13戦もてぎGPから)や[[ドゥカティ]](2003年シーズンから)など4ストロークを得意とするメーカーの新規参入を呼び込むこととなった。 2ストロークから4ストローク大排気量へと変わった事でバックトルク([[エンジンブレーキ]])が強大になったため、初期の頃はコーナー手前のシフトダウンを伴う減速時に後輪側が激しく暴れるといったシーンがよく見られた。バックトルクの弱い2ストロークに馴染んだライダーやメーカーは対策に頭を悩まされることとなったが、エンジンの電子制御や[[バックトルクリミッター|スリッパー・クラッチ]]等の開発が進むにつれ問題は解消され、当時はまだ2ストロークだった250ccクラス等からのステップアップも困難ではなくなっていった。 2ストロークエンジンはその構造上電子制御を取り入れにくかったが、4ストロークへの移行に伴いハイテク化が一気に進んだ。[[燃料噴射装置]]は機械式から電子制御式に移行し、エンジン特性そのものの電子制御化、[[トラクションコントロール]]、シフターの最適化等、操縦を支援する装置が数多く搭載されるようになり、これらの電子装置の性能が車両性能を大きく左右するようになった。2ストローク時代と比べ、単に絶対速度が上がっただけでなく遥かに扱いやすいマシンとなり、ライダー達のタイムが拮抗するようになったという意見がある。 ==== 2007年 - 2011年 : 800cc時代 ==== 990cc時代の最高峰クラスは、直線での加速力や最高速では4輪の[[フォーミュラ1|F1]]をも凌ぎ、ブレーキングポイントが明らかに手前でコーナー脱出速度が遅いにもかかわらず、[[鈴鹿サーキット]]をはじめ、各サーキットにおける最高速レコードを叩き出していた。そのため、最高速度の急激な上昇を抑えるといった安全上の理由等によりレギュレーションが改正され、{{MGP|2007}}から最大排気量が800ccへと引き下げられた。エンジンの気筒数によって最低重量が定められ、燃料タンクは21Lに制限された。 {| class="wikitable" |+2007年のMotoGPレギュレーション<ref name=":0" /> |- style="background-color:#ccccff" | || colspan="2" | 4ストロークエンジン |- | 排気量 || colspan="2" | 800cc以下 |- | rowspan="5" | 気筒数・<br />最低重量 || 2気筒 || 135kg以上 |- | 3気筒 || 142.5kg |- | 4気筒 || 150kg |- | 5気筒 || 157.5kg |- | 6気筒 || 165kg |- | 楕円ピストン || colspan="2" | 禁止 |- | 燃料タンク容量 || colspan="2" | 21L以下 |} 800ccになっても下位クラスよりも大柄でトルクも強大で、最大エンジン出力は200[[馬力]]以上、最高時速は[[ダニ・ペドロサ]]が349km/h以上を記録した。また990cc時代はライダーにマシンの有り余るパワーを制御する事が求められたが、800ccへの変更後は電子制御技術が一層進化し、250ccクラス等からのステップアップがスムーズになったことにより以前に比べて新人ライダーが活躍する事が多くなり、[[スーパーバイク世界選手権]](市販車改造1000cc)出身ライダーは、ライディングスタイルを変更しないと活躍出来ない傾向になっていた。 ==== 2009年 : コスト削減策の適用 ==== 高騰し続ける参戦費用を抑えるため、2009年よりMotoGPの主催者である[[DORNA]]や[[IRTA]]などで構成されるグランプリ委員会によってレギュレーション改正が行われた。 タイヤサプライヤーを一社に限定し、2009年から2011年まで3年契約で[[ブリヂストン]]が供給<ref>http://www.twowheelsblog.com/post/5459/pirelli-interested-in-supplying-tires-to-motogp-in-2012</ref>。[[2009年のチェコグランプリ|第11戦チェコGP]]以降は使用できるエンジン数が最大5基までに制限された。また、ブレーキの材料として、セラミック複合材料によるディスクとパッドの使用は禁止となった。エンジンオイルは潤滑油としてのみ使用可能であり、油圧制御システムへの使用は禁止される。電子制御サスペンションの使用も禁止された。[[排気再循環|EGR]](排気ガス再循環装置)の使用も禁止<ref name="インテリマーク MotoGP 2009年4月1日">インテリマーク「MotoGP FIMがマシン台数制限などの新規約を発表」(2009年4月1日)より[http://www.intellimark.co.jp/2009/articles/news20090401001.html]。</ref>。さらにこの年からルーキーライダーはサテライトチームからしかエントリーできなくなった([[スズキ (企業)|スズキ]]のみサテライトチームを持たない為このルールの適応外となっている)。 ==== 2010年 : コスト削減策の適用 ==== エンジン個数は、年間シーズンを通して、各ライダーは最大6基のエンジンを使用できる。カーボン製フロントディスクブレーキの直径は最大320mmとなる<ref>2011年シーズンは320mm「のみ」に制限、2012年シーズン終了までにはカーボンブレーキ自体が禁止になる予定。{{PDFlink|[http://www.fim-live.com/fileadmin/alfresco/Codes_et_reglements/2010_GP_Regulations_%28with_current_season_amendments%29-14.08.pdf]}}</ref>。MMC(金属基複合材料)とFRM(繊維強化金属)の使用は禁止となる。タイヤ温度センサーの使用も禁止される。ホイールのリム幅も制限され、ホイール直径は16.5インチのみとなる。可変排気システムの使用も禁止。可変バルブタイミングシステムと可変バルブ開閉システムでは、電子制御と油圧制御を使用するシステムは禁止される。コンロッドは、中空構造は禁止だが、オイル循環用の穴は直径2mmまで許可される。ツインクラッチシステムの使用は禁止。トランスミッションは、オートマチックは禁止されるが、マニュアルでは若干のパワーアシストが許可される。無段変速トランスミッションの使用は禁止。GPSの搭載は、DORNAがテレビ放送などを目的としたもののみ許可され、マシンの電子制御系システムとして使用することはできない。ステアリングダンパーの電子制御は禁止<ref name="インテリマーク MotoGP 2009年4月1日" />。 ==== 2012年以降 : 1000cc時代 ==== {{Expand-section|2021年5月}} 2012年シーズンから最大排気量が再び変更され、1000ccに拡大となる。[[シリンダー]]数は4気筒以下、最大ボア径は81mmとなる。最低車両重量は1000ccの場合157kg、従来の800ccエンジンを使用する場合は150kgとなる。メーカーが運営するワークスチームと、メーカーからマシンの供給を許可されたサテライトチームが使用する非量産の「プロトタイプマシン」は、年間使用エンジン数は6基、燃料タンク容量は21Lに引き続き制限される。 ==== 2012年 : クレーミング・ルール・チーム ==== <!-- このセクションは、リダイレクトページ「クレーミング・ルール・チーム」の転送先になっています。 --> <!-- セクション名を変更する際は、リダイレクトページの修正をしてください。 --> 「クレーミング・ルール・チーム(Claiming Rule Team)」(CRT)とは、主催者・参加者による委員会で認められたチームに適用されるレギュレーションで、減少傾向にあったMotoGPクラスへの参加を容易にする目的で2012年より採用される。CRTは、フレームビルダーの製作した車体に改造した量産車エンジンを搭載した「CRTマシン」での出場が許可される<ref>http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/motor100524_1_2.html</ref>。 CRTはカテゴリの1つではなく、MotoGPクラスの車両レギュレーションの1つであり、15位以内に入るとMotoGPクラスのポイントを獲得する。そのためCRTマシンの順位を比較する場合は、「CRT勢トップ」のような表現を用いる。 プロトタイプマシンに対して出力の劣るCRTマシンは、年間エンジン使用制限数が12基に、燃料タンクの最大容量が24Lに緩和されている<ref>http://www.crash.net/motogp/news/162433/1/further_details_of_motogp_2012_emerge.html</ref>。また、改造費の抑制を目的としたエンジンの買取制度も規定され、プロトタイプマシンを製造しているメーカーが要望した場合は、CRTは使用したエンジンを2万ユーロで販売しなければならない<ref name=bs2011bangai>[http://ms.bridgestone.co.jp/hp/bsms_contents?coid=1901 番外編 2011年最終戦を終えて〜来シーズン・テストレポート] - 山田宏の2011 MotoGPここが見所!</ref>。つまり、プロトタイプマシンのエンジンに対抗しようとして、多額の費用をかけて量産エンジンを改造したとしても、ワークスメーカーはCRTが使用したエンジンを2万ユーロで買い取ることが可能である。 スイスのフレームビルダーである[[スッター・レーシング・テクノロジー]]が、[[BMW]]社製の量産エンジンを使用し、プライベーターへのマシン供給を計画している<ref>http://www.motogp.com/ja/news/2010/Suter+on+MotoGP+project+0</ref>他、イギリスの[[FTRモト|FTR]]も同様にシャーシ供給(エンジンはチームにより異なる)や[[アプリリア (会社)|アプリリア]]が自社製プロトタイプフレームに[[アプリリア・RSV4|RSV4]]のエンジンを搭載したマシン<ref>http://www.motogp.com/ja/news/2011/De+Puniet+and+Espargar+join+Aspar+CRT+project</ref>等が参加した。 CRTは2013年シーズンまで実施され、{{MGP|2014}}からはルールを改めエンジン使用台数制限の緩和や燃料タンクの増量などが受けられる代わりに主催者指定の[[エンジンコントロールユニット|ECU]]ソフトウェアを使用する「オープンクラス」に移行したが、これも{{MGP|2015}}をもって廃止された。 ==== 2016年シーズンのレギュレーション ==== オープンクラスの廃止により、ECUはハード・ソフト共に共通化<ref name="r16">[http://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2016/regulations/ 2016 MotoGP レギュレーション解説] - 本田技研工業</ref>。年間使用エンジン数は7基だが2013年以降参戦のメーカーは条件付きで9基<ref name="r16" />。最低車体重量は157kgとなり、燃料タンク容量は22リットルに統一<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2016/01/27/%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/192048 オフィシャルテストプレビュー] - motogp.com</ref>。タイヤはミシュランとなりサイズが16.5インチから17インチに変更される<ref>[http://www.michelin.co.jp/Home/News-Promotions/News/20140606 ミシュランが2016年からMotoGPのタイヤサプライヤーに] - [[ミシュラン|日本ミシュランタイヤ]]・2014年6月6日</ref>。 == Moto2クラス == [[File:Toni Elias 2010 Mugello.jpg|thumb|right|250px|Moto2クラス初代チャンピオンの[[トニ・エリアス]]([[2010年のイタリアグランプリ (ロードレース)|2010年イタリアGP]])]] {{MGP|2009}}まで存在していた250ccクラスに替わり、{{MGP|2010}}から新たにMoto2クラスが始まった。クラス初年度は当初旧250ccマシンとの混走を認める予定であったが、エントラントは全てMoto2規格のマシンでの参戦となった<ref>{{PDFlink|http://www.fim-live.com/fileadmin/alfresco/Communiques_de_presse/FIM_Road_Racing_Word_Championship_Grand_Prix_-_Moto2_Announcement__Estoril.pdf}}</ref>。 エンジンは3年ごとに[[プロポーザル方式|プロポーザル]]が行われており、2010年の入札で[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]に勝った[[本田技研工業|ホンダ]]が、4ストローク直列4気筒600ccエンジンを独占供給していた<ref>http://www.motorcyclenews.com/MCN/sport/sportresults/mcn/2009/May/4-10/may0509-yamaha-not-concerned-over-moto2-deal/</ref>。市販車の[[ホンダ・CBR600RR|CBR600RR]]用のものをベースにしており<ref>[http://www.motorcycle-usa.com/749/7229/Motorcycle-Article/Schwantz--Hayden---Erion-to-Race-Moto2.aspx Schwantz, Hayden & Erion to Race Moto2]</ref>、出力は約140馬力<ref>[http://www.motogp.com/ja/MotoGP+BasicsMotoGP Basics]</ref>。この頃にはエンジン、車両ともに性能が向上し、2ストローク500ccのエンジンの時代よりも速く周回できるようになった<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-19 |url=https://www.as-web.jp/bike/544208/2 |title=ホンダNSR500は「モトクロスバイクに乗るような感じ」とクラッチロー。乗って感じた現代マシンとの違い |publisher=Auto sports web |accessdate=2020-03-03}}</ref>。2013年の入札でもホンダが勝利し、契約は2015年まで延長された<ref name=motogp130613>[http://www.motogp.com/ja/news/2013/Moto2+engines+with+Externpro+1 エンジンメンテナンス担当のエクステンプロが設備を初公開] - motoGP・2013年6月13日</ref>。さらに2014年11月に2018年までの契約延長が発表されている<ref name=motogp141127>[http://www.motogp.com/ja/news/2014/11/27/honda-to-continue-to-power-moto2-racing-through-2018/165727 ホンダ、2018年までMoto2™クラスのエンジンを供給] - motogp.com・2014年11月27日</ref>。ホンダのエンジン供給は2018年で終了し、2019年からは[[トライアンフ (オートバイ)|トライアンフ]]がエンジンを供給する<ref name=as170110>[https://www.as-web.jp/bike/81460?all MotoGP:ホンダに代わりトライアンフが2019年のMoto2エンジンサプライヤーに] - オートスポーツ・2017年1月10日</ref>。トライアンフは2017年10月に直列3気筒・765ccのMoto2用新エンジンを公開した<ref>[https://news.webike.net/2017/10/20/117845/ トライアンフ製「Moto2」エンジンを初公開 市販車の3気筒765ccベースに大幅性能アップ] - Webike・2017年10月20日</ref>。2019年からはECUも[[マニエッティ・マレリ]]製の共通ECUとなる<ref>[https://www.as-web.jp/bike/432808?all 2019年Moto2がトライアンフエンジンとマレリ社ECUで新たな幕開け。バレンシアで会見を実施] - オートスポーツ・2018年11月21日</ref>。 エンジンメンテナンスはドルナが契約した外部コンサルタントに委託され、イコールコンディションに保たれたエンジンが各チームに供給されている。メンテ担当は2010年 - 2012年までが[[後藤治]]率いるGEO Technology<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2009/Geo+Technology+Moto2+visit MotoGPの代表団がMoto2エンジンのメンテナンス工場を訪問]</ref>、2013年 - 2018年まではエクステンプロが指名されている<ref name=motogp130613 /><ref name=motogp141127 />。 車両最低重量は135kg、ブレーキディスクは鉄製のみ認められる<ref name="Regulation"/>。タイヤは[[ダンロップ]]の[[ワンメイク]]。シャシーについてはプロトタイプであることが条件で、クラス開始時には[[スッター・レーシング・テクノロジー|スッター]]、[[モリワキエンジニアリング|モリワキ]]、[[ビモータ]]等多くのシャシービルダーが参戦している。2022年現在では[[カレックス・エンジニアリング|カレックス]]、[[ボスコスクロ]]、[[ガスガス]]、[[MVアグスタ]]が参戦している<ref>[https://jp.motorsport.com/moto2/news/mv-agusta-launches-bike-for-grand-prix-racing-return/4336058/ MVアグスタ、Moto2用マシン『F2』を公開。復帰は42年振り] - motorsport.com 2019年2月13日</ref>。 開始初年度から40台という、3クラス中最も多いエントリーを集める盛況となった。またエンジンの統一により各車のタイムが拮抗し、[[2010年のフランスグランプリ (ロードレース)|第3戦フランスGP]]の予選ではトップから1秒以内に27人ものライダーがひしめき合う事態となった<ref>[http://www.ultimatemotorcycling.com/2010/moto2-le-mans-qualifying-results-rider-quotes Moto2 Le Mans: Qualifying Results & Quotes]</ref>。決勝でもたびたび激しいバトルが展開されることとなり、2010年シーズンは9人もの勝者を生み出した。 == Moto3クラス == これまでの125ccクラスに代わり、{{MGP|2012}}からはMoto3クラスが新設された。エンジンは単気筒250cc[[4ストローク]]のみ。最大ボア径は81mm、最大回転数は14,000rpmに制限される。エンジンサプライヤーは1基あたり12,000ユーロ以下での販売、要求があれば1シーズンあたり最低15人のライダーへの同一スペックのエンジン供給が義務付けられ、特定のライダーのみエンジン改良を施すといった行為は認められない。ライダー込みの最低制限重量は148kg<ref>[http://www.motorcycle-usa.com/791/8410/Motorcycle-Article/FIM-Releases-Official-Moto3-Regulations.aspx FIM Releases Official Moto3 Regulations]</ref>。タイヤは2014年まではダンロップのワンメイク<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2011/Dunlop+to+supply+Moto3+and+Moto2 ダンロップがMoto3&Moto2クラスのタイヤを供給] - MotoGP.com・2011年6月3日</ref>。パワーが小さいので、前の選手の真後ろを走り[[スリップストリーム]]を利用するのが効果的とされ、数多くのマシンが僅差で競り合う展開になることが多い。 3クラスの中で年齢制限が最も厳しく、各シーズンの1月1日時点で新規参戦は16歳から25歳まで、継続参戦は28歳以下のライダーしかできない<ref name="Regulation"/>。 2012年現在はホンダが[[ホンダ・NSF250R|NSF250R]]を発表しているほか、[[KTM (オートバイ)|KTM]]<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2011/KTM+ignites+Moto3+engine+to+signal+return+to+MotoGP KTM、Moto3クラス参戦を発表] - MotoGP.com・2011年10月12日</ref>、[[マヒンドラ&マヒンドラ|マヒンドラ]]<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2012/Mahindra+Racing+Valencia+Official+Test マヒンドラ・レーシングがMoto3クラスに向けて始動] - MotoGP.com・2012年2月12日</ref>、イオダ<ref>[http://www.motogp.com/ja/news/2012/iodaracing+project+presentation イオダ・レーシングが2012年プロジェクトを発表] - MotoGP.com・2012年3月12日</ref>が参戦。ホンダ、KTMはコンプリートマシン以外にエンジン単体の供給も行っており、オリジナルフレームにそれらのエンジンを搭載して参戦しているチームも多い。他に[[BeOn]]<ref>[http://www.motogp.com/en/news/2011/BeOn+presentation+in+Montmelo BeOn presents Moto3 prototype at Montmeló] - MotoGP.com・2011年6月2日</ref>も参戦計画があるほか、[[モリワキエンジニアリング]]も[[ワイン・ガードナー]]と共にニューマシンの開発を行う方針を明らかにしている<ref>[http://www.autoby.jp/blog/2011/11/jr-70c9.html ガードナーとモリワキが再びタッグを組み、moto3マシン開発へ] - Webオートバイ・2011年11月26日</ref>。2021年現在では、ホンダは[[ホンダ・NSF250R|NSF250RW]]に発展し、KTMと激しい開発競争を繰り広げている。2017年までにマヒンドラとその別バッジネームである[[プジョー]]が参戦している。オリジナルフレームによる参戦はなく、全てコンプリートマシンとなっている。 == 過去に存在したクラス == === 500ccクラス === [[File:Kevin_Schwantz_1993_JapanGP.JPG|thumb|right|250px|{{MGP|1993}}の500ccクラス世界チャンピオン、[[ケビン・シュワンツ]]]] {{MGP|2001}}までの53年間、選手権の最高峰を担ってきたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量500cc以下のマシンで争われた。{{MGP|1966}}から{{MGP|1972}}にかけて、[[ジャコモ・アゴスティーニ]]が[[MVアグスタ]]を駆りクラス7連覇を達成している。また、{{MGP|1978}}から{{MGP|1980}}は[[ケニー・ロバーツ]]が[[ヤマハ・モーター・レーシング|ヤマハ]]で3連覇、{{MGP|1990}}から{{MGP|1992}}は[[ウェイン・レイニー]]が[[ヤマハ・モーター・レーシング|ヤマハ]]で3連覇、{{MGP|1994}}から{{MGP|1998}}には[[マイケル・ドゥーハン|ミック・ドゥーハン]]が[[レプソル・ホンダ|ホンダ]]で5連覇を遂げた。 排気量は500ccながら130kgの車体に200馬力近い2ストロークエンジンを積むマシンはモンスターと呼ばれる一方、2ストロークゆえにタイムを縮めるにはごく狭いパワーバンドを維持しながら走行するテクニックが必要だったため素人では到底乗りこなせない車体だった。パワーが飛躍的に向上した1988年当時のホンダ[[ホンダ・NSR500|NSR500]]を初ライドした王者[[エディ・ローソン]]が「このバイクは俺を殺す気か!?」と言った。 現在のMotoGPマシンよりもタイヤや車体が劣っていた事もあり、パワースライドのバランスを取るために繊細なテクニックが必要とされ、90年代中頃のマイルドなエンジンになるまでは、ダートトラックでテクニックを磨く事が多いアメリカンライダーとオージーライダーが活躍していた。また、各サーキットも現在と比較すると路面の状態が良い状態ではなく、彼らにとって大きなアドバンテージとなっていた。 1989年までゼッケンは、黄色ベースに黒数字。 === 350ccクラス === {{MGP|1982}}までの34シーズン開催されたクラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量350cc以下のマシンで争われた。アゴスティーニがこのクラスでも7連覇({{MGP|1968}} - {{MGP|1974}})を果たしている。在日韓国人<ref>本人の意志で、当時の国籍表記は日本である。</ref>の[[片山敬済]]が{{MGP|1977}}にタイトルを獲得している。 === 250ccクラス === [[File:Hiroshi Aoyama2.jpg|thumb|right|250px|250ccクラス最後のチャンピオン、[[青山博一]]([[2009年の日本グランプリ (ロードレース)|2009年日本GP]])]] {{MGP|2009}}までの61年間にわたり開催された、選手権で2番目に長い歴史を持つクラス。250cc以下のレース専用車両で競われた。最終的なレギュレーションでは最低重量は100kg。エンジンは[[2ストローク]]、[[4ストローク]]のどちらでも選べたが、末期は全てのチームが軽量・ハイパワーである2ストロークを採用していた。シリンダー数は2気筒以下。 市販レース車両(レース専用車)では、[[ホンダ・レーシング]](HRC)から[[ホンダ・RS#RS250R|RS250R]]、[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]から[[ヤマハ・TZ#TZ250|TZ250]]等が販売され、プライベーターの参加が可能なカテゴリーであった。4ストローククラス移行の関係で、市販レース車両の開発は、一旦2003年をもってストップしたが、2007年型TZ250でごく僅かな改良が施された(一部パーツに変更有)。最終年度の参戦メーカーは[[アプリリア (会社)|アプリリア]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[ジレラ]]、[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]の4社だった。 日本人では[[原田哲也]]({{MGP|1993}})、[[加藤大治郎]]({{MGP|2001}})、[[青山博一]]({{MGP|2009}})の3人がタイトルを獲得している。1990年代前半は[[岡田忠之]]、原田哲也、[[青木宣篤]]ら日本人トリオが活躍した。 1989年までゼッケンは、緑色ベースに白数字。 === 125ccクラス === [[File:Gabor-Talmacsi-Aprilla-2.jpg|thumb|right|250px|{{MGP|2007}}の世界チャンピオン、[[ガボール・タルマクシ]]]] {{MGP|1949}}の選手権開始以来、唯一{{MGP|2011}}シーズンまで63年間開催され続けたクラス。125cc以下のレース専用車両で競われる。エンジンは2ストローク、4ストロークのどちらでも選べるが、全てのチームが軽量・ハイパワーな2ストロークを採用した。最低制限重量はライダー込みで136kg<ref name="Regulation"/>。 2010年当時、参戦メーカーは[[アプリリア (会社)|アプリリア]]、[[デルビ]]、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[ランブレッタ]]。 かつてはベテランの軽量級スペシャリストが多いクラスであったが、途中から厳しい年齢制限が課され、近年では若手の登竜門的なクラスに位置付けられていた。 免許制度の都合で125cc市販車に馴染みの深い南欧諸国出身のライダーが多く活躍した。日本人では[[坂田和人]](1994年、1998年)、[[青木治親]](1995年、1996年)がチャンピオンを獲得している。 1989年までゼッケンは、白色ベースに黒数字。 === 50ccクラス === {{MGP|1962}}から{{MGP|1983}}の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラス。4ストロークまたは2ストロークの排気量50cc以下のマシンで争われた。 === 80ccクラス === 50ccクラスを引き継ぐ形で{{MGP|1984}}から始まったクラス。{{MGP|1989}}までの6シーズンと短命に終わった。4ストロークまたは2ストロークの排気量80cc以下のマシンで争われた。 === サイドカークラス === {{MGP|1996}}まで選手権の1クラスとして開催されていた<ref>『[[#50years|Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix]]』(p183)より。</ref>。現在は独立した別の選手権としてヨーロッパで開催されている。 == 日本人の活躍 == === 優勝回数 === * 17:[[加藤大治郎]](250cc)、[[原田哲也]](250cc) * 13:[[上田昇]](125cc) * 11:[[宇井陽一]](125cc)、[[坂田和人]](125cc) * 10:[[東雅雄]](125cc) * 9:[[青木治親]](125cc)、[[青山博一]](250cc) * 6:[[岡田忠之]](500cc ×4、250cc ×2)、[[中野真矢]](250cc)、[[眞子智実]](125cc) * 5:[[辻村猛]](125cc)、[[宇川徹]](250cc ×4、MotoGP ×1)、[[徳留真紀]](125cc) * 4:[[片山義美]](50cc ×3、125cc ×1)、[[高橋国光]](125cc ×3、250cc ×1) * 3:[[阿部典史]](500cc)、[[金谷秀夫]](500cc ×1、350cc ×1、250cc ×1)、[[高橋裕紀]](250cc ×2、Moto2×1) * 2:[[伊藤光夫]](50cc)、[[玉田誠]](MotoGP)、[[中上貴晶]](Moto2) 、[[鈴木竜生]] (Moto3) * 1:[[伊藤史朗]](250cc)、長谷川弘(250cc)、[[田中禎助]](125cc)、[[小林大]](250cc)、[[宮崎敦]](250cc)、[[森下勲]](50cc)、[[青木宣篤]](250cc)、 [[平忠彦]](250cc)、[[小山知良]](125cc)、[[富沢祥也]](Moto2) 、[[鳥羽海渡]] (Moto3) 、[[長島哲太]](Moto2)、[[小椋藍]](Moto2×3)、[[佐々木歩夢]](Moto3×3) 2023年シーズン終了時 === 表彰台(3位以内)獲得回数 === * 55:原田哲也(250cc ×53、500cc ×2) * 44:坂田和人(125cc) * 39:宇川徹(250cc ×29、MotoGP ×9、500cc ×1)、上田昇(125cc) * 36:岡田忠之(500cc ×21、250cc ×15) * 27:加藤大治郎(250cc ×25、MotoGP ×2)、青山博一(250cc) * 22:宇井陽一(125cc) * 21:中野真矢(250cc ×18、500cc ×1、MotoGP ×2) * 20:青木治親(125cc ×19、250cc ×1)、東雅雄(125cc) * 17:阿部典史(500cc) * 15:金谷秀夫(500cc ×5、350cc ×4、250cc ×5、125cc ×1) * 14:高橋国光(125cc ×8、250cc ×5、50 ×1)、中上貴晶(Moto2) * 13:伊藤光夫(50cc ×10、125cc ×3)、辻村猛(125cc) * 12:片山義美(125cc ×7、50cc ×5) * 11:[[徳留真紀]](125cc) * 9:[[清水雅広]](250cc)、高橋裕紀(250cc ×7、Moto2 ×2)、小山知良(125cc)、[[小椋藍]] (Moto2 ×1、Moto3 ×8) * 7:青木宣篤(500cc ×4、250cc ×3) * 6:[[伊藤真一]](500cc)、[[斉藤明]](125cc)、森下勲(50cc) * 5:玉田誠(MotoGP) * 4:[[粕谷勇]](350cc ×2、250cc ×2)、[[青木拓磨]](500cc)、田中禎助(250cc ×1、125cc ×2)、伊藤史朗(250cc)、[[高田孝慈]](125cc)、[[鈴木竜生]] (Moto3) * 3:[[仲城英幸]](125cc)、[[本橋明泰]](250cc ×2、125cc ×1)、[[市野三千雄]](50cc)、[[鳥羽海渡]] (Moto3) * 2:[[小林大]](250cc)、平忠彦(500cc ×1、250cc ×1)、長谷川弘(250cc)、[[畝本久]](125cc)、[[浅見貞男]](350cc)、[[若井伸之]](125cc)、[[松戸直樹]](250cc)、[[富沢祥也]](Moto2)、[[長島哲太]](Moto2)、[[佐々木歩夢]](Moto3) * 1:[[田中健二郎]](250cc)、[[菊池寛幸]](125cc)、宮崎敦(250cc)、[[加藤義昌]](125cc)、[[酒井大作]](250cc)、[[高井幾次郎]](250cc)、[[河崎裕之]](500cc)、[[梁明]](MotoGP)、[[砂子義一]](250cc)、[[伊藤巧]](500cc)、[[浜野順]](250cc)、[[匹田禎智]](250cc)、[[芳賀紀行]](500cc)、[[沼田憲保]](250cc)、[[清原明彦]](250cc)、[[青山周平 (オートレース選手)|青山周平]](250cc)、[[中須賀克行]](MotoGP) 2022年開幕戦カタールGP終了時 === ポールポジション獲得回数 === * 29:坂田和人(125cc) * 21:原田哲也(250cc ×20、500cc ×1) * 19:上田昇(125cc) * 17:宇井陽一(125cc) * 11:加藤大治郎(250cc ×10、MotoGP ×1) * 8:青山博一(250cc) * 7:岡田忠之(500cc) * 6:青木治親(125cc)、中上貴晶(Moto2 ×5、MotoGP ×1)、[[鈴木竜生]] (Moto3) * 5:中野真矢(250cc)、[[徳留真紀]](125cc) * 3:玉田誠(MotoGP)、宇川徹(250cc ×2、500cc ×1)、東雅雄(125cc)、金谷秀夫(350cc)、平忠彦(500cc) * 2:富沢祥也(Moto2)、[[長島哲太]](Moto2) * 1:青木宣篤(250cc)、[[本間利彦]](250cc)、伊藤真一(500cc)、清原明彦(250cc)、青山周平(250cc)、仲城英幸(125cc)、[[根本健]](250cc)、清水雅広(250cc)、高井幾次郎(250cc)、辻村猛(125cc)、[[和田欣也]](125cc)、[[佐々木歩夢]](Moto3)、[[小椋藍]] (Moto3) 2022年開幕戦カタールGP終了時 === 年間ランキング === ==== チャンピオン獲得回数 ==== * 2:[[坂田和人]](125cc ×2: 1994・1998年)、[[青木治親]](125cc ×2: 1995・1996年) * 1:[[原田哲也]](250cc : 1993年)、[[加藤大治郎]](250cc : 2001年)、[[青山博一]](250cc : 2009年) ==== 2位獲得回数 ==== * 2:岡田忠之(500cc ×1: 1997年、250cc ×1: 1994年)、原田哲也(250cc ×2: 1995・2001年)、坂田和人(125cc ×2: 1993・1995年)、上田昇(125cc ×2: 1994・1997年)、宇井陽一(125cc ×2: 2000・2001年) * 1:宇川徹(250cc : 1999年)、中野真矢(250cc : 2000年)、[[徳留真紀]](125cc : 1996年)、眞子智実(125cc : 1998年)、片山義美(50cc : 1967年) ==== 3位獲得回数 ==== * 2:原田哲也(250cc ×2: 1997・1998年)、辻村猛(125cc ×2: 1993・1994年)、眞子智実(125cc ×2: 1996・1997年) * 1:宇川徹(MotoGP: 2002年)、金谷秀夫(500cc : 1975年)、青木宣篤(500cc : 1997年)、岡田忠之(500cc : 1999年)、伊藤史朗(250cc : 1963年)、加藤大治郎(250cc : 2000年)、東雅雄(125cc : 1999年)、小山知良(125cc : 2007年)、[[小椋藍]](Moto3:2020年) 2022年開幕戦カタールGP終了時 === 日本におけるテレビ中継 === 現在、地上波では[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]がMotoGPクラスを中心に録画放送を実施。CS放送ではスカパー!の[[日テレG+]]で全クラス予選・決勝レースの完全放送が行われており(基本は巨人戦生中継最優先の為、重ならない場合は生中継実施)、2016年度は巨人戦の生中継が重なった場合[[BSスカパー!]]で放送される<ref>[http://response.jp/article/2016/04/04/272804.html 【MotoGP】日テレジータス×BSスカパー! 全18戦を予選から決勝まで完全生中継] response.jp 2016年4月4日</ref>。またBS放送では[[BS日テレ]]がMotoGPクラスを中心に録画放送(ただし、日本GPのみ生中継)<ref>[https://www.ntv.co.jp/motogp/]</ref>。 2018年度からは定額制動画配信サービス、[[Hulu]]でも予選・決勝レースを全戦ライブ配信されている<ref>[https://www.hulu.jp/livetv/233 ライブTV | MotoGP | Hulu(フールー) 【お試し無料】]</ref>。 ==== 歴史 ==== *[[1987年]] *:[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]で世界GPのシリーズ戦として日本GPが復活した年に、500ccクラスのみ、[[TBSテレビ|TBS]]が全国生中継を行った。このとき、雨のため、レーススタートが10分間遅れたことなどが影響し、すべてを放送時間の中で収めることができず、各マシンがチェッカーフラッグ、クールダウンラップをしているところで、放送が終了した。 *[[1988年]] *:前年に引き続きTBSで日本GPのみが放送され、250ccクラスはハイライト、500ccクラスのみ生中継であった。解説は[[泉優二]]。 *[[1989年]] *:TBSによる日本GP生中継が予定されていたが、放映権料の問題でGPの興行側と折り合わず、TBSは放映を断念することになる。 *:89年当時の世界GPは、F-1のプロモーターとして知られる、当時の[[フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション|FOCA]](現FOM)会長の[[バーニー・エクレストン]]がGPの興行にも触手を伸ばしてきた頃で、エクレストンはTWP(Two Wheel Promortion)という会社を立上げ、これにFIMが興行を委託する形をとっていた。これに伴い、前年まで可能であった日本GPのみのスポット放映が不可能となり、放映権契約は1シーズン全戦放映が原則となった。放映権料は当時の推定額で約1億円とされている。 *:日本GPのみの中継しか想定していなかったTBS側はたった1戦のみの放映に1億円もの放映権料を支払うことは不可能とし、以後、GPの放映から撤退することになる。一時、テレビ朝日が放映に興味を示したとされているが、実現には至らなかった。 *:シーズン開幕戦の500ccクラスにはスペンサーの復帰やローソンのホンダ移籍など、話題目白押しにもかかわらず、GP実況中継なしという危機に陥ることになる。 *:ここで、TXN系列の局である、大阪の[[テレビ大阪]](TVO)が放映権獲得に乗り出し、権利を獲得する(この時、TVOがTWPにいくら支払ったのかは不明である)。 *:日本GPの中継なしという危機は回避されはしたものの、生中継ではなく、深夜0時50分からの録画放送によるもので、放映は当時の全国TXN系列4局ネット([[テレビ東京]]、[[テレビ愛知]]、テレビ大阪、[[テレビせとうち]])のみであった(実況:[[千年屋俊幸]] 解説:[[福田照男]] ゲスト:[[清水国明]])。 *:その後、テレビ大阪はGP放映に精力的に力を注いでいく。 *[[1990年]] *:全戦、TVOによるGP放映が実現した。放映はレース翌日の月曜深夜、50分間の放映で、500ccクラスを中心に250cc、125ccクラスは更に翌週にハイライト放送という形式をとった。基本的な放送スタイルとしては、スタジオに実況アナウンサーと解説、ゲスト、女性アシスタントを据えて放送していた。さらに、この年の[[ヘレスサーキット|ヘレス]]でのスペインGPで、TVOは日本の放送メディアとしては初めて、放送スタッフを現地に送り、録画ではあるものの現地からの中継を実現させた(実況:千年屋俊幸 解説:福田照男)。ゲストとして出演していた[[山田純]]もこの頃から、250cc、125ccクラスを中心に正式に解説陣としてメンバーに加わることになる。 *:90年シーズン終了後、NHKが衛星第1で、そのシーズンの500ccクラスのレースを放映した。開幕戦から第4戦まではハイライト、その後は1時間単位で放映された(解説:[[坪内隆直]])。 *[[1991年]] *:開幕戦の日本GPでGP中継は放送を更に拡大する。TVOの地上波中継に加え、日本衛星放送(JSB、通称[[WOWOW]])による全クラス同日放映が実現する。これは、TVOが衛星放送放映権枠をWOWOWに譲ることで実現した。 *:日本GPはTVOが同日午後の録画によるディレイの放送に対し、WOWOWは250cc、500cc、併催の全日本TT-F3クラスまでも生中継し、125ccクラスを録画放送というスタイルで中継を行った(実況:[[高柳謙一]] 解説:[[和歌山利弘]]500ccクラスのみゲスト:[[八代俊二]])。 *:有料放送を基本とするWOWOWであったが、当時は開局したばかりの試験放送ということもあり、日本GPは当日の生中継、翌日のリピート放送共にノンスクランブルで放映された。その後、レース開催後の水曜日に約2時間弱の放送で[[サイドカー]]クラスに至る、すべてのGPのクラスを放映した。 *:WOWOWは日本GPの次のレースから実況としてレースコメンテーターの[[みし奈昌俊]]、解説として[[八代俊二]]を起用した。 *:シーズン最終戦、[[マレーシア]]・シャーアラムでのマレーシアGPで、WOWOWが日本の放送メディアとしては初めて、放送時間3時間の枠を確保し、現地からの一部生中継を実現させた。このとき、みし奈昌俊氏は125ccクラスで表彰台を獲得した[[坂田和人]]と[[若井伸之]]の両選手を放送ブースに招き、生の声を視聴者に伝えた。 *:TVOはレース翌日の月曜深夜の50分間の放送で、対するWOWOWは有料放送であるものの、TVOの2日後に全国放送という、ある種の棲み分けが整う形となった。 *[[1992年]] *:TVOとWOWOWは共に、GP中継を強化させていく。それまで、TVOは月曜深夜、WOWOWは水曜放映とリピート放送を基本としていたが、日曜深夜に[[F1グランプリ]]を放映していた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に打ってでる形で、放映時間帯を日曜深夜に移動する。WOWOWに至っては、開幕戦の日本GPは生中継し、その他のGPにおいては放送時間枠を更に1時間拡大し、深夜0時から3時間に渡り放映を行った(ただし、サイドカークラスの放映はなくなった)。また、この年からほとんどのレースを現地から中継した。TVOの放映布陣は実況:千年屋俊幸、解説:福田照男、山田純らがほぼ固定し、WOWOWの実況はみし奈昌俊を中心に、[[柄沢晃弘]]、[[高柳謙一]]、解説には八代俊二を中心に、[[泉優二]]、[[土志田彰]]が加わる。番組制作はTBSの子会社であるTBS-Vが1997年シーズンまで担当した。 *[[1993年]]~[[1997年]] *:WOWOWは実況を柄沢晃弘に固定する形をとった。 *[[1998年]] *:1997年シーズン終了後、GP中継に転機が訪れた。TVOがGPの放映権を手放す事になったのである。これにより、TVOから衛星放送放映権枠を譲られる形で中継を行っていたWOWOWの放映が終了することになった。 *:これは、世界GPが新たな放送の媒体となると踏んだ[[日本放送協会|NHK]]とフジテレビが放映権獲得に乗り出したことが原因となった。 *:当初、NHKは日曜深夜のBS放送の空白地帯にGP中継を入れることを想定していたとされ、GPはBS2の日曜深夜に放送されると報じられていた。 *:対するフジテレビは、当時、開局予定だったCS放送(J-スカイB)でGP放映を予定していたとされる。 *:2局の獲得競争は予想外に熾烈なものとなり、結果的に放映権料が吊り上げられ、TVOは早々に獲得競争から脱落することになった。 *:放映権料の点から、当初はフジテレビ優位とされ、事実、フジの提示金額はNHKよりも上とされていた。しかし、1997年秋の段階で、J-スカイBは開局しておらず、シーズン開幕戦の中継にさえ、間に合わないことは確実だった。また、F-1中継をも抱えるフジテレビにGP中継が可能であるかという点も放映権を統括するドルナ社から疑問視されていた。NHKは[[公共放送]]であるという点が評価され、金額ではNHKの上を行っていたとされるフジテレビではあったが、結果的に放映権はNHKに渡ることになった。 *:GPの放映権は[[地上波]]が優先とされており、地上波放映権を獲得した局がBS/CS放映の権利を獲得することができた。しかし、放映権を獲得したNHKは当初から地上波放映をする予定はなく、結局、地上波の枠をTVOに譲る形となり、1998年シーズンはTVOも地上波中継を継続することになった。 *:当初はBS2での深夜録画放送とされていたNHKであったが、4時間半という放送時間を確保し、チャンネルは[[NHK BS1|BS1]]で生中継されることになった。しかしいざ放送が始まってみると、実況アナウンサーの中継技量、レースの知識等の希薄な面が露呈される形となり、中継の段取りもWOWOW、TVOほど整備されておらず、また、[[サッカー]]の[[ワールドカップ]] フランス大会と重なったマドリードGP、オランダGPは1時間50分のハイライト放送となった。中継自体も日本GP以外の海外GPについてはすべて、スタジオのモニターに映る国際映像のみの映像を頼りにする実況中継であったため、臨場感に欠ける点も否めなかった。また公共放送という性格から固有の商品名を放送することができないこと等もあり、それが更に弊害を生むことになった。 *[[1999年]]~[[2001年]] *:89年から中継を担当していたTVOが資金的理由からGP中継から撤退を表明。この事によりGP中継の地上波放送は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]へとバトンタッチした。有料放送はNHK BS1が引き続き行った。BS1の実況は[[田中崇裕]]にほぼ固定され、一定の評価を得るようになった。 *[[2002年]]~[[2003年]] *:NHK BS1での中継は[[MotoGP]]クラスが中心となり、しかも、生中継ではなく、録画、ディレイ放送という形が大半となった。 *:完全放送は、同年開局した110°CS放送、日本テレビ系の有料放送[[日テレG+]](ジータス)が担当することになった。日テレG+では大半のレースが生中継された。しかしそれも年を経るごとに深夜時間帯への録画放送へと移行していく。地上波放送では、日本テレビにより関東ローカルの深夜時間枠で放映された。 *[[2004年]] *:NHKはMotoGPクラスを一部生放送し他のクラスをハイライト放送、日テレG+は深夜時間帯で完全放送、地上波放送は日本テレビによる関東ローカルの深夜時間枠で放映という形で中継を行った。しかし、近年の欧州でのGP人気で放映権料が高騰し、その結果、翌年以降、NHKは放映撤退を余儀なくされることになった。 *[[2005年]] *:2004年シーズン終了間際にNHKの放映撤退が決定的なものとなる。 *:日本での配信先が決定しない中、日テレG+で放映を行っていた日本テレビが放映権獲得に名乗りを挙げた。日本のバイクメーカーが活躍するMotoGPで、日本でのTV中継がないということを危惧したドルナ社は欧州での放映権料に比較し、かなり、割安な金額で日本テレビに放映権を譲ったとされている。 *:この2005年から現在にかけて、日本テレビが日本におけるテレビ放映権を独占することになり、「地上波放送は深夜枠でMotoGPクラスを中心に関東ローカルで放映、CS放送は日テレG+で基本的に全クラス完全生中継」という体制が確立されていく。 *:(解説:[[辻本聡]]、[[宮城光]]、[[青木拓磨]]、[[坂田和人]]) *[[2006年]] *:第15戦日本GPにおいて、TBS時代の1988年日本GP以来となる地上波放送での生中継が実施された(MotoGPクラスのみ、125、250はハイライト)。また、このレースは1998年のTVO時代以来となる、全国ネットでの放送となった。 *:この年以降、「日本GPのみ全国ネット中継」という体制がとられることになる。 *[[2007年]]~[[2008年]] *:地上波放送において、「月刊MotoGPプラス」という試みが行われた。これはひと月に行われるいくつかのレースのうちの一戦の放送枠を30分拡大し、通常のレース中継だけでなく、日本人ライダーの詳報や過去の名ライダー列伝などを放送するというものである。この試みは2008年まで行われた。 *:また、地上波放送における日本GPの中継は、この年から若干ディレイでの放送となった(これは現在まで続いている)。 *[[2009年]] *:日テレG+の姉妹チャンネル「[[日テレプラス]]」において、第2戦日本GPがノンスクランブルで完全生中継された。これはプロ野球の巨人戦を最優先とする日テレG+が、巨人戦のデーゲームを生放送することになり、日本GPと放送時間が重なってしまった事が原因である。ちなみに日テレG+では夜にノーカット放送が行われた。 *:また、この年から解説に[[上田昇]]が加わった(主に250cc/Moto2クラスを担当する)。さらに最終戦バレンシアGPでは[[中野真矢]]がゲストとして登場した。翌年以降、度々ゲスト解説として登場することになる。 *[[2010年]] *:2010年から、日テレG+の中継が大きく改善されることになった。 *:まずレースウィーク前に、前年の同GPの再放送が行われるようになった(例:日本GPのレースウィーク前には前年の日本GPを放送)。 *:また第2戦スペインGPから、それまでMotoGPクラスのみであった予選の放送枠が大きく拡大され、全クラスをノーカットで放送することになった。日本GPでは以前から行われていたが、海外ラウンドで、しかも恒常的に行われることは初めてであった。さらに第5戦イギリスGPにおいて、こちらも海外ラウンドでは初となる予選の全クラス生放送が実現した。 *[[2011年]] *:地上波放送において、バイク好きとして知られる女性タレントの[[英玲奈]]をナビゲーターに起用した。主にナレーションを担当し、日本GPではレース直前のグリッドリポートを行った。 *[[2012年]] *:世界GPの地上波放送では初となる、副音声付きでの放送を実施した。主音声では日テレG+の実況と解説をそのまま放送し、副音声では「芸能界一のMotoGPマニア」として知られる[[チュートリアル (お笑いコンビ)|チュートリアル]]の[[福田充徳]]と、解説、実況が1人ずつという体制がとられた。 *:日本GPではMotoGPクラスのコメンテーターが日テレG+と地上波放送で完全に分けられ、地上波放送のコメンテーターは副音声とほぼ同じ顔ぶれとなった。 *[[2018年]] *:2018年シーズンから日本テレビ傘下の定額制インターネット動画配信サービス、[[Hulu]]でも全レースがライブ配信。開催期間中は日テレG+での中継映像のほかに、オンボード画面やライブトラッキング、さらに予選レースのみ第2オンボード画面/決勝レース限定で空中ライブ画面といった4つのマルチアングルでレースが楽しめる内容となっている。 なおHuluストア(課金配信)ではライブ配信のほかに見逃し配信の販売も行なっている。 === 日本における公式映像 === テレビ中継の無かった時代は、VIDEO VISON(英)が4〜6台のENGカメラで収録したものが主であった。イギリスのDuke Marketing Ltd.がヨーロッパでの発売・販売を行ってきた。 日本では初の廉価ビデオマガジン「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:ダイエーSVラボ/1987年6月創刊)が世界GPを扱い出したことをきっかけとし、「パワースポーツ・ビデオ」(発売:大陸書房)や「[[マンスリーモーターサイクルビデオマガジン RIDE ON]]」(制作/発売[[禅プランニング]])、「ライダーズビデオステーション・バーン」(発売:ジャパン・ネットワーキング)やビデオサービスフルカワからビデオマガジン形式でシリーズ戦が発売された。 1989年の日本国内で全戦がTXN系列で放映されると同時に、「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス」(制作:アートスタッフ/発売:世界文化社)が全戦をリリース。以降発売元は、1991年日本ビクター、1992年東芝EMI、1993年よりウィック・ビジュアル・ビューロウとなっている。 2000年からはエキスプレスが発売元となり、2004年からは公式DVDとしてウィック・ビジュアル・ビューロウがラウンド毎に発売している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite journal|和書 |author = 島英彦 |date = 2001-04 |title = 21世紀のホンダ・レーシングエンジン |journal = Bikers Station |volume = 163 |pages = P. 14 |publisher = [[遊風社]] |id = 雑誌07583-4 |ref = BS163 }} <!-- 参考文献の定義:本項目の執筆に際して参考とした文献 --> * {{cite | editor1-surname = [[:en:Dennis Noyes|Noyes]] | editor1-first = Dennis | editor2-surname = [[マイケル・スコット (バイクジャーナリスト)|Scott]] | editor2-first = Michael | title = Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix | publisher = [[:en:Hazleton Publishing|Hazleton Pub Ltd]] | date = October 1999 | isbn = 978-1874557838 | ref = 50years}} == 関連項目 == * [[ロードレース世界チャンピオンの一覧]] * [[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MotoGP)]] * [[ライダー一覧]] * [[ロードレース世界選手権の歴史]] * [[ロードレース世界選手権の沿革]] * [[ロードレース世界選手権のレギュレーション]] * [[モータースポーツ]] == 外部リンク == {{commonscat|Grand Prix motorcycle racing}} * [http://www.motogp.com/ja/ MotoGP公式ウェブサイト] * [http://www.dorna.com/ ドルナ・スポーツ公式ウェブサイト] * [http://www.fim-live.com/en/ FIM公式ウェブサイト] {{ロードレース世界選手権}} {{ロードレース世界選手権規定年表}} {{モータースポーツ}} {{デフォルトソート:ろとれすせかいせんしゆけん}} [[Category:オートバイレース]] [[Category:ロードレース世界選手権|*]] [[Category:TBSのスポーツ番組]] [[Category:TBSの深夜番組の歴史]] [[Category:テレビ大阪の番組の歴史]] [[Category:テレビ大阪の深夜番組]] [[Category:テレビ大阪のスポーツ番組]] [[Category:テレビ東京の深夜番組の歴史]] [[Category:NHK BSのスポーツ番組]] [[Category:NHK BS1の番組]] [[Category:NHK BSの深夜番組]] [[Category:日本テレビのスポーツ番組|Motogp]] [[Category:日本テレビの深夜番組|Motogp]] [[Category:日テレジータス|Motogp]] [[Category:BS日テレのスポーツ番組|Motogp]] [[Category:BS日テレの深夜番組|Motogp]] [[Category:日本のモータースポーツ番組]] [[Category:1949年開始のスポーツイベント]]
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Human68k
Human68kとは、1986年にシャープが自社のパソコン、X68000用として、ハドソンと共同開発したオペレーティングシステムである。 MC68000を搭載した主に欧米圏のコンピュータは、主にビジネスユースに特化した当時の86系コンピュータと比較して一般的にグラフィック機能などの表現力に優れるものが多く、これらの68系CPUを搭載したコンピュータに搭載されるOS環境もまたそれらの性質を反映したグラフィカルなものやマルチタスクに対応した製品が登場したが、当時の水準ではきわめて強力な表現力を持つX68000の標準オペレーティングシステム環境であるHuman68kは、それらの先進的な環境とは対照的に、単にインターフェイスのルック・アンド・フィールのみならず、その構造までもがマイクロソフトのMS-DOSに酷似していた。 原始的なシングルタスクのオペレーティングシステムであるが、後にバックグラウンドプロセスとしてマルチスレッドがサポートされた。ただしバックグラウンドとされている通り、コンソールまでマルチスレッドではない。 標準のシェル環境として「コマンドシェル」が存在した。マウスを標準搭載していることもあり、グラフィカルなシェル環境として当初はビジュアルシェル、のちにSX-Windowが開発され付属したが、10 - 16MHz程度のMC68000には荷が重く、対応する市販アプリケーションもシャープ製品以外はほとんど現れず、普及することは無かった。また、UNIX風のシェルとして、Human68kを製作したハドソン社員の板垣史彦が、tcshをベースに「fish.x」(Fumihiko Itagaki Shellの略、Human68k ver2.0以降対応)をフリーソフトとして公開している。 X680x0シリーズ全機種に標準付属しており、独立パッケージも発売されていたが、市販アプリケーションの起動ディスクや雑誌の付録フロッピーディスクにもプリインストールされる等の扱いがなされており、X680x0シリーズ発売終了後の2000年に正式に無償公開された。 Ver.3.02が最終である。 Human68kは、ストレージのファイルシステムにはMS-DOSのFAT12/16を応用し(但し完全な互換性は無い)、システムコールのファンクションナンバーも概ねMS-DOSに倣うなど、バイナリ・ソースとも互換性は無いものの、その構造は明らかにMS-DOSを模倣した構造であった。 また、システムの構成も、MS-DOSと酷似していた。MS-DOSのシステムファイルは入出力サブシステムIO.SYSとカーネルMSDOS.SYSで構成されるが、単一アーキテクチャをターゲットとしたHuman68kでは異なるアーキテクチャへの移植を全く考慮する必要が無かったため、また入出力サブシステムはそのほとんどがROMで搭載されたIOCSによってまかなわれていた事もあり、IO.SYSに相当するモジュールは存在しない(IOCSのバグをパッチしたり、アクセスの遅いROM上のIOCSをメモリ上にコピーして高速化したり、アルゴリズムを改善して処理を高速化するパッチなどが、デバイスドライバの形としては存在した)。 Human68kのコマンドインタプリタはCOMMAND.Xであり、MS-DOSのCOMMAND.COMに相当する。コマンドはMS-DOSよりも改善されていた。 MS-DOS環境では、このCOMMAND.COMを含め、実行バイナリのロード時にバイナリをリロケートする必要がない(これはセグメント+相対アドレスによって実メモリ空間にアクセスする86系のアドレッシングアーキテクチャに起因し、その64kB空間の壁が大きいデメリットだった16ビット(64kB)幅のセグメント内相対アドレス空間の制約とトレードオフの関係にあるメリットであった)が、COMMAND.Xを始めとするアプリケーションやコマンド等の非リロケータブルバイナリでは実行前にリロケート処理を行う必要があるため、特にチャイルドプロセスなどでこのCOMMAND.Xが頻繁にロードされる際のオーバーヘッドは無視できないものであった。このため、後にリロケータブルバイナリ化されたCOMMAND.Rがフリーソフトとして開発された他、実行ファイルのバインド機能が対応された際にはCOMMAND.Xが常駐部とインターフェース部に別れバインドされた物に替わり、チャイルドプロセスでの起動の場合は不要部をメモリ上にロードする必要がなくなる等といった対策が取られた。 デバイスドライバの組み込みにも、MS-DOSと同様にCONFIG.SYSファイルへの記述が必要であり、その書式もMS-DOSに倣う繁雑で難解なものであるが、後のバージョンではMS-DOSに実装された選択起動などの機能を独自に拡張して実装するなど、MS-DOSの進歩に合わせた拡張も行われた。 Human68k Ver.2.0から、擬似マルチタスクやシェアロックの機能を備えており、擬似マルチタスクを応用したコマンドの製作も可能であった。 バックグラウンドタスクとして、タイムシェアリングによるマルチスレッドに対応した。 実際のところHuman68kの擬似マルチタスク機能を用いて、コマンドシェルからマルチプロセスを起動させる応用はあまり報告されなかった。Human68k上でマルチタスクが広く使われるようになったのは、SX-Windowにおいてイベントドリブン式マルチタスクが採用されてからである。また SX-Window Ver.3.0 からコンソールウィンドウによるマルチコンソールに対応し、コンソールアプリケーションならば同時にコンソールウィンドウ毎に実行が可能になった。 MC68000 CPU の16MBリニアアドレッシングを活かし、X68000のメインメモリ空間である12MBまでのメモリを一括して管理する事ができた。(X68000では12MB以上の領域はメモリマップドI/OやVRAM等のシステム領域として確保されていたため、当然ユーザーエリアとして使用することはできない) 8086の64kBセグメントに由来する、640kBのメインメモリを可能な限り残すようにバンクメモリを駆使して、ドライバーなどを部分退避させるといったメモリの遣り繰りを強いられた86系MS-DOSパソコンと違い、増設した全てのメモリがプログラム実行もデータ保存も自由用途のエリアであった。 RAMディスクなどを確保した際にはユーザーエリアの使用領域がそのまま奪われるといったデメリットも存在したが、後に自由に使用メモリを確保開放させられるRAMディスクドライバーが登場したり、一時作業用に512kBのグラフィックRAMをRAMディスクにできる物も登場した。 X68000では先頭から8kB単位で2MBまでの領域は自由にスーパーバイザーエリアとして保護が可能なので、デバイスドライバ含むオペレーティングシステム領域をアプリケーションの暴走によるアクセスから保護する事ができた。 MS-DOSの標準拡張子と比較し、以下の点が異なる。 MS-DOSのFAT 12/16ファイルシステムを元に独自拡張したもので、ファイル名に小文字も使用可能(Microsoft WindowsのVFATと互換性はない)。FATでは未使用の部分を使ってファイル名の長さを18文字+拡張子3文字の計21文字までユーザーによって拡張している。MS-DOSと違ってFATを二重に記録していない(第2FATの領域自体は確保されている)。
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Human68kとは、1986年にシャープが自社のパソコン、X68000用として、ハドソンと共同開発したオペレーティングシステムである。
{{Infobox OS |name={{lang|en|Human}}{{スペル|68k}} |logo= |screenshot= |caption= |website= |developer=[[シャープ]],[[ハドソン]] |kernel_type= |ui= |family= |released={{Start date and age|df=yes|1986}} |latest_release_version=3.02 |latest_release_date={{Start date and age|df=yes|1993}} |language={{ISO639言語名|en}}、{{ISO639言語名|ja}} |supported_platforms=X68000シリーズ |license=無償公開<ref>http://retropc.net/x68000/software/sharp/license.htm X68000 {{lang|en|LIBRARY}} 無償公開されたシャープのソフトウェアに同梱されている許諾条件</ref> |working_state=終了 }} [[ファイル:Sharp Human68k 2.0 floppy disk.jpg|サムネイル|Human68k v2.0のディスク]] '''{{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}'''とは、1986年に[[シャープ]]が自社のパソコン、[[X68000]]用として、[[ハドソン]]と共同開発した[[オペレーティングシステム]]である。 ==概要== [[MC68000]]を搭載した主に欧米圏のコンピュータは、主にビジネスユースに特化した当時の86系コンピュータと比較して一般的にグラフィック機能などの表現力に優れるものが多く、これらの68系CPUを搭載したコンピュータに搭載されるOS環境もまたそれらの性質を反映したグラフィカルなものやマルチタスクに対応した製品が登場したが、当時の水準ではきわめて強力な表現力を持つX68000の標準オペレーティングシステム環境であるHuman68kは、それらの先進的な環境とは対照的に、単にインターフェイスのルック・アンド・フィールのみならず、その構造までもが[[マイクロソフト]]の[[MS-DOS]]に酷似していた。 原始的なシングルタスクのオペレーティングシステムであるが、後にバックグラウンドプロセスとしてマルチスレッドがサポートされた。ただしバックグラウンドとされている通り、コンソールまでマルチスレッドではない。 標準のシェル環境として「コマンドシェル」が存在した。マウスを標準搭載していることもあり、グラフィカルなシェル環境として当初はビジュアルシェル、のちに[[SX-Window]]が開発され付属したが、10 - 16MHz程度のMC68000には荷が重く、対応する市販アプリケーションもシャープ製品以外はほとんど現れず、普及することは無かった。また、[[UNIX]]風のシェルとして、Human68kを製作したハドソン社員の板垣史彦が、[[tcsh]]をベースに「fish.x」(Fumihiko Itagaki Shellの略、Human68k ver2.0以降対応)をフリーソフトとして公開している。 X680x0シリーズ全機種に標準付属しており、独立パッケージも発売されていたが、市販アプリケーションの起動ディスクや雑誌の付録フロッピーディスクにもプリインストールされる等の扱いがなされており、X680x0シリーズ発売終了後の2000年に正式に無償公開された。 Ver.3.02が最終である。 =={{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}の特徴== {{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}は、ストレージの[[ファイルシステム]]には{{lang|en|MS-DOS}}の{{lang|en|FAT}}12/16を応用し(但し完全な互換性は無い)、[[システムコール]]のファンクションナンバーも概ね{{lang|en|MS-DOS}}に倣うなど、バイナリ・ソースとも互換性は無いものの、その構造は明らかに{{lang|en|MS-DOS}}を模倣した構造であった。 また、システムの構成も、{{lang|en|MS-DOS}}と酷似していた。{{lang|en|MS-DOS}}のシステムファイルは入出力サブシステム<code {{lang属性|en}}>[[IO.SYS]]</code>とカーネル<code {{lang属性|en}}>[[MSDOS.SYS]]</code>で構成されるが、単一アーキテクチャをターゲットとした{{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}では異なるアーキテクチャへの移植を全く考慮する必要が無かったため、また入出力サブシステムはそのほとんどが{{lang|en|ROM}}で搭載された<code {{lang属性|en}}>IOCS</code>によってまかなわれていた事もあり、<code {{lang属性|en}}>IO.SYS</code>に相当するモジュールは存在しない(<code {{lang属性|en}}>IOCS</code>のバグをパッチしたり、アクセスの遅い{{lang|en|ROM}}上の<code {{lang属性|en}}>IOCS</code>をメモリ上にコピーして高速化したり、アルゴリズムを改善して処理を高速化するパッチなどが、デバイスドライバの形としては存在した)。 {{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}のコマンドインタプリタは<code {{lang属性|en}}>COMMAND.X</code>であり、{{lang|en|MS-DOS}}の<code {{lang属性|en}}>COMMAND.COM</code>に相当する。コマンドは{{lang|en|MS-DOS}}よりも改善されていた。 {{lang|en|MS-DOS}}環境では、この<code {{lang属性|en}}>COMMAND.COM</code>を含め、実行バイナリのロード時にバイナリをリロケートする必要がない(これはセグメント+相対アドレスによって実メモリ空間にアクセスする{{スペル|86}}系のアドレッシングアーキテクチャに起因し、その64[[キロバイト|{{読み|kB|キロバイト}}]]空間の壁が大きいデメリットだった16ビット(64{{読み|kB|キロバイト}})幅のセグメント内相対アドレス空間の制約と[[トレードオフ]]の関係にあるメリットであった)が、<code {{lang属性|en}}>COMMAND.X</code>を始めとするアプリケーションやコマンド等の非リロケータブルバイナリでは実行前にリロケート処理を行う必要があるため、特にチャイルドプロセスなどでこの<code {{lang属性|en}}>COMMAND.X</code>が頻繁にロードされる際のオーバーヘッドは無視できないものであった。このため、後にリロケータブルバイナリ化された<code {{lang属性|en}}>COMMAND.R</code>がフリーソフトとして開発された他、実行ファイルのバインド機能が対応された際には<code {{lang属性|en}}>COMMAND.X</code>が常駐部とインターフェース部に別れバインドされた物に替わり、チャイルドプロセスでの起動の場合は不要部をメモリ上にロードする必要がなくなる等といった対策が取られた。 デバイスドライバの組み込みにも、{{lang|en|MS-DOS}}と同様に<code {{lang属性|en}}>CONFIG.SYS</code>ファイルへの記述が必要であり、その書式も{{lang|en|MS-DOS}}に倣う繁雑で難解なものであるが、後のバージョンでは{{lang|en|MS-DOS}}に実装された選択起動などの機能を独自に拡張して実装するなど、{{lang|en|MS-DOS}}の進歩に合わせた拡張も行われた。 ==バックグラウンドタスク== {{lang|en|Human}}{{スペル|68k}} {{lang|en|Ver.}}2.0から、擬似マルチタスク<ref>{{lang|en|MS-DOS}}では[[Terminate and Stay Resident|TSR]]に相当する。</ref>や[[ファイルロック|シェアロック]]の機能を備えており、擬似マルチタスクを応用したコマンドの製作も可能であった。 {{要出典範囲|バックグラウンドタスクとして、タイムシェアリングによるマルチスレッドに対応した。|date=2011年12月}} 実際のところ{{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}の擬似マルチタスク機能を用いて、コマンドシェルからマルチプロセスを起動させる応用はあまり報告されなかった。{{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}上で[[マルチタスク]]が広く使われるようになったのは、{{lang|en|SX-Window}}において[[イベントドリブン]]式マルチタスクが採用されてからである。また {{lang|en|SX-Window}} {{lang|en|Ver.}}3.0 からコンソールウィンドウによるマルチコンソールに対応し、コンソールアプリケーションならば同時にコンソールウィンドウ毎に実行が可能になった。 ==メモリ管理== MC68000 CPU の16[[メガバイト|{{読み|MB|メガバイト}}]]リニアアドレッシングを活かし、X68000のメインメモリ空間である12{{読み|MB|メガバイト}}までのメモリを一括して管理する事ができた。(X68000では12{{読み|MB|メガバイト}}以上の領域は[[メモリマップドI/O]]や{{lang|en|{{読み|VRAM|V-RAM}}}}等のシステム領域として確保されていたため、当然ユーザーエリアとして使用することはできない) 8086の64{{読み|kB|キロバイト}}セグメントに由来する、640{{読み|kB|キロバイト}}のメインメモリを可能な限り残すように[[バンクメモリ]]を駆使して、ドライバーなどを部分退避させるといったメモリの遣り繰りを強いられた{{スペル|86}}系{{lang|en|MS-DOS}}パソコンと違い、増設した全てのメモリがプログラム実行もデータ保存も自由用途のエリアであった。 {{lang|en|RAM}}ディスクなどを確保した際にはユーザーエリアの使用領域がそのまま奪われるといったデメリットも存在したが、後に自由に使用メモリを確保開放させられる{{lang|en|RAM}}ディスクドライバーが登場したり、一時作業用に512{{読み|kB|キロバイト}}のグラフィック{{lang|en|RAM}}を{{lang|en|RAM}}ディスクにできる物も登場した。 X68000では先頭から8{{読み|kB|キロバイト}}単位で2{{読み|MB|メガバイト}}までの領域は自由にスーパーバイザーエリアとして保護が可能なので、デバイスドライバ含むオペレーティングシステム領域をアプリケーションの暴走によるアクセスから保護する事ができた。 ==拡張子== {{lang|en|MS-DOS}}の標準拡張子と比較し、以下の点が異なる。 {|class=wikitable !ファイル形式!!{{lang|en|MS-DOS}}での拡張子!!{{lang|en|Human}}{{スペル|68k}}での拡張子 |- |再配置情報付き実行可能ファイル||<code {{lang属性|en}}>.EXE</code>||<code {{lang属性|en}}>.X</code> |- |相対アドレス実行可能ファイル||なし||<code {{lang属性|en}}>.R</code> |- |アドレス固定実行可能ファイル||<code {{lang属性|en}}>.COM</code>||<code {{lang属性|en}}>.Z</code> |} ==ファイルシステムの論理構造== {{lang|en|MS-DOS}}の{{lang|en|FAT}} 12/16ファイルシステムを元に独自拡張したもので、ファイル名に小文字も使用可能({{lang|en|[[Microsoft Windows]]}}の{{lang|en|{{読み|VFAT|V-FAT}}}}と互換性はない)。{{lang|en|FAT}}では未使用の部分<ref>のちにWindowsで作成日時やアクセス日の記録に用いられた</ref>を使ってファイル名の長さを18文字+拡張子3文字の計21文字までユーザーによって拡張<ref>TwentyOne.xを利用した場合。</ref>している。{{lang|en|MS-DOS}}と違って{{lang|en|FAT}}を二重に記録していない(第2FATの領域自体は確保されている)。 ==脚注== <references /> {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:HUMAN68K}} [[Category:オペレーティングシステム]] [[Category:DOS]] [[Category:ハドソン]] [[Category:シャープ]]
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2022-12-09T08:07:44Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Human68k
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大洋
大洋(たいよう、英: ocean)または大海洋(だいかいよう)・独立海(どくりつかい)は、水圏の大部分を占める、それぞれが接続した地球上の海の主要領域。一般には北極海・太平洋・大西洋・インド洋・南極海の5つに区分される。これらの大洋はそれぞれ固有の海流を持ち、また潮汐を発生させる元ともなる。大洋以外の海は副洋 (独: Nebenmeere) または附属海と呼ばれ、地中海のように大陸の間にある狭い面積の海や紅海のような大陸内部に存在する海、また日本海のように大陸の沿うものまたは北海のような大陸から直角に伸びる海などが当たる。 英語 ocean の語源はギリシア語の Ὠκεανὸς, "okeanos" オーケアノスである。 全大洋面積の過半が深さ4267m程の水深にある。大洋の平均塩分濃度は3.5%程度であり、ほとんどの水域で3.0-3.8%の範囲に入る。科学者による推計では、23万の海洋種が知られており、さらにその10倍の種が存在する可能性がある。 大洋は生物圏に重要な役割を果たす。大洋の蒸発は水循環においてほとんどの降雨の元であり、大洋の温度は気候や風を決定付け、陸地の生物へ影響を与える。 一般に複数の大洋が認識されているが、それらの水域は地球規模で見ればひとつの、繋がった海水域であり、時に「世界海洋」 (World Ocean) または「球海洋・球海」 (global ocean) とも呼ばれる。このような、一部を交換する事が比較的自由に行われるような状態にある連続した水体という概念は、海洋学において重要かつ基本的な概念である。 一般的な大洋の区分は、以下のように大陸や様々な列島などの基準を以って仕切られている。(面積順) 太平洋と大西洋は赤道を境界に南北で区切られる場合もある。狭い領域は、海、入り江、湾、海峡などの呼称が用いられる。 地質学的には、大洋は海水で覆われた狭義の海洋性地殻(海底地殻、海洋地殻)域と言うことができる。海洋性地殻とは、中央海嶺で生成される厚さ約6kmの主に玄武岩質のプレートであり、平均厚さ40kmの花崗岩質である大陸性地殻(英語版)よりも密度が高い。 北極海は北極のほとんどを覆い、北アメリカとユーラシア沿岸で仕切られるが、大西洋の一部または三角江と取る場合もある。 国際水路機関 (IHO) 『Limits of Oceans and Seas』第3版(1953年)の定義は以下の通りである。 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。 2000年、IHOは大西洋の南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。ただしこの新定義はオーストラリアの留保提言などにより、未だ批准されていない。 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。 インド洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない。 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである。 南太平洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない。 南極海は南極大陸を取り囲む水域であり、それは太平洋・大西洋およびインド洋を拡張させた領域と受け取られる場合もある。1937年のIHO『Limits of Oceans and Seas』第2版では「南極大陸周囲の海域」と定義されていたが、1953年の第3版では「(南極海の)北限は季節的な影響もあり、境界を設定しがたい」と述べられて定義の一覧から外され、代わりに南太平洋・南大西洋・インド洋の南限を南極大陸まで広げた。 2000年にIHOはこの問題に関し、海洋調査の結果について聞き取りを行った。これに対し、加盟68か国中28か国から回答があり、海流を重視する海洋学者の意見が反映され、アルゼンチン以外は新しい大洋の定義設定に合意した。名称の選出では、「Southern Ocean」(南氷洋・南大洋)が18票を得て、「Antarctic Ocean」(南極海)を上回った。境界線については、投票の結果陸地で分断されない南緯60度線に半分が賛同し、他の14票のうち南緯50度線が次点、最も北側に設定された南緯35度線も若干の賛同を得た。しかし、『Limits of Oceans and Seas』第4版はオーストラリアが批准を拒否し、公表は見合わされた。このような経緯に関わらず、事実上第4版の結論は多くの組織、学者らや国家に加えIHOさえ用いている。 しかし、国によっては独自の南氷洋の定義を用いている。例えばイギリスは南緯55度線を採用している。オーストラリアの地図製作当局は、南氷洋に自国とニュージーランド南岸までを含む解釈を施している。だがニュージーランドはこの解釈に賛同していない。 大洋は、物理学的および生物学的な諸条件に応じて区分される。大洋のすべての部分である漂泳区分帯 (pelagic zone) は、水深や光の到達度合いによって分割される。有光層 (Photic zone) または表層とは生物が太陽光を感知できる限界までの層を指し、深度100-200mまでの層を指す。ただし、水深100-200mの部分は薄光層 (Dysphotic/Disphotic zone) とも呼ばれ、到達する太陽光は5%未満に過ぎず充分な光合成が難しい。ここよりも深い水深200m以上の無光層 (Aphotic zone) 部分では一部の例外を除き光合成生物が生存できない。 遠洋の有光層は表海水層 (epipelagic) とも呼ばれ、無光層は垂直方向に複数の層へ区分される。中深層(英語版) (mesopelagic) はその中でも上部に位置する領域で、水深1000mまでが該当する。次の漸深層 (bathypelagic) は、水深2000-3000m程度までに当たる。深海平原の上部から水深約6000m前後までは深海層 (abyssalpelagic) と呼ばれる。その下は海溝を含む最も深い領域である超深海層 (hadalpelagic) がある 漂泳区分帯は、無光層部分の水体の底辺(英語版)形状によっても区分される。これは、深海の3つの形状に対応する。漸深層 (bathyal zone) は大陸棚が4000mまで落ち込んでゆく領域を示し、深海域 (abyssal zone) は海底が4000-6000m、超深海帯 (Hadal zone) は超深海帯に対応する最下層に当たる。 漂泳区分帯はまた、沿岸地帯(英語版) (neritic zone) と海洋地帯(英語版) (oceanic zone) の2つにも分けることができる。沿岸地帯は大陸棚部分の水域に対応し、海洋地帯は開水面全域を指す。また、沿岸帯 (littoral zone) と潮間帯 (intertidal zone) という区分もある。前者は満潮と干潮の間に位置し、海と陸の境界に当たる部分である。後者は潮位が領域に影響を与える部分である。 世界海洋の面積は361億平方キロメートル(1億3900万平方マイル)である。体積は13億立方キロメートル(3億1000万立方マイル)であり、立方体に換算すると一辺は1111kmとなる。平均深度は3790メートル(12430フィート)、最大深度は10923m(6787マイル)である。世界海洋面積の半分以上は3000mを超える深さである。水深200mを上回る広大な水域は地球表面の66%を占める。これらの数字は、カスピ海など外洋と接続していない海は含まれない。 大洋の蒼みがかった色は、複数の要因が絡み合い作られている。特に影響を与えるものは、溶融した有機物とクロロフィルである。しかし、沿岸の海域で見られる土砂の色(黄海)、藻類の色(紅海)または植物性プランクトンの黄色が混ざり見られる碧色にはあまりならない。黒潮は見た目の色から名づけられたものだが、この海流は含有物質が少なく透明度が高いため、波長が短い青色を比較的吸収せず、青黒く見える事を由来とする。 大洋の海底は海嶺で生じ、接続する2つのプレートとなる(海洋底拡大説)。これは双方向に移動し、沈み込み帯で他の海洋または大陸プレートとぶつかり、その下へもぐりこむ。海嶺は、大西洋やインド洋においては大洋の中央部に位置し、それぞれ大西洋中央海嶺、中央インド洋海嶺と呼ばれる。太平洋のプレートはアメリカ沖の東太平洋海膨で形成される。 海洋性地殻は、生じた海嶺からゆっくり移動する。大西洋では年間約4cmの速度で東西に拡大し、太平洋プレートは大西洋の2倍程度の速度で移動する。この地殻部分は海盆または深海底・海底平原と呼ばれる。この地殻に含まれる鉄などの強磁性体は、地磁気の方向に配列されて固まる(残留磁気)。しかし地球磁場は地磁気逆転を起こすなど一定していないため、残留磁気は海嶺を中心に左右対称の縞模様として現れる。この変化から、過去の地球磁場がどのように変化したかを知ることができる。 海洋性地殻が他の地殻と衝突する際には、一方が地球内部に沈み込んで、海盆から約2kmほど深い非対称V字形状の海溝を作る場合がある。地球に存在する海溝27ヵ所のうち22ヵ所は太平洋に存在し、東側の海溝は特に深い。海洋性地殻の沈み込む部分は、太平洋西部の日本列島のように島弧を作る場合と、東部チリ側のように作らない場合がある。 陸地に近い部分は堆積物がたまり、海底には傾斜ができる。コンチネンタルライズ(英語版)は海盆から傾斜が始まる部分であり、陸地起源の堆積物が到達する端に当たる。しかし陸地側に海溝がある所では形成されない。深度3300-1500mあたりからは大陸斜面が続き、泥や砂および砂利や岩などに加えて貝殻も5%程度混ざる堆積物が積みあがりながら深度約180m程度まで急な傾斜が続く。この先には、陸地まで続く大陸棚がある。 これらに比べ、海盆の堆積物は陸地由来の物質は少なく、主に微生物由来の軟泥である。大洋の表層部分は栄養素が豊富にあり、発生した微生物が死滅するとゆるやかに沈殿してゆき深層部分にたまる。ただし堆積する物質は主に骨格や石灰質である。この他にも、気流に乗り到達した細かな鉱物粒子や、噴火で巻き上げられた火山灰、海底火山の噴出物や宇宙塵なども含まれる。これらは遠洋性堆積物と呼ばれる。 大洋地形の中には、海底からそびえる山や丘もある。この典型的な例が太平洋のハワイ諸島と天皇海山群(ハワイ‐天皇海山列)である。ハワイ諸島東端のハワイ島は活火山のマウナ・ロア山・キラウエア火山を持つ火山島である。この地下には、マントル層からマグマが湧き上がるホットスポットがあり、海洋性地殻上まで噴きあがり火山島を形成する。しかし太平洋プレートは西へ移動しているため、火山島はホットスポットからずれて火山活動による島形成がやがて止む。その後、侵食作用と海洋性地殻の沈み込みから島の標高は徐々に低くなり、やがて海面に没して海山となる。ハワイ‐天皇海山列は、同じホットスポットから形成された海底火山が雄略海山を境に列の方向を変えており、約4300万年前に太平洋プレートの移動方向に変化が起こった事を示している。 この火山島が侵食を受ける過程で、熱帯において島の周辺で形成されたサンゴ礁が充分に発達すれば、島が水没した後もサンゴ礁による環礁が海面上に残る。 海流を起こす力には、風または海水の密度および高低差等があり、陸地や海底の形状または水深の影響を受ける。大洋のような深い海では、これら海流を起こす作用に地球の自転から生じるコリオリの力が大きく影響し、その方向が曲げられる。恒常的に吹く風が大洋表面の水を風向きと同方向に動かそうとすると、そこにコリオリの力が加わって北半球では右に、南半球では左に振られる。この表面流の動きは直下の水も動かそうとするが、これにもコリオリの力が影響して更に振られてゆく。これが力を弱めながら深い水深まで段階的に積み重なり、海水全体では表面流以上の角度を持つ方向に流れる。沿岸など浅い海ではその角度は15度程度にとどまるが、深い海では45-90度にまで及ぶ。これはエクマン輸送と呼ばれる。 北半球の場合エクマン輸送によって、西風の偏西風は南向きに、東風の貿易風は北向きにそれぞれ海水を動かす。そしてこの間に水が集まり、海面が盛り上がる。すると今度は高い所から低い方への流れが生じるが、ここにもエクマン輸送の影響が及び方向が曲げられる。この結果、偏西風と貿易風の間には海面が高い場所が生じ、これを周回するように海流が生じる。この結果、北太平洋では日本列島南海上の水面が最も高くなり、逆に最も低くなるカムチャツカ半島沖とはジオイドからの高低差が1m以上になる。北大西洋ではフロリダ半島東沖合が最も高くなる。 赤道上に吹く貿易風による大洋への影響は、エクマン輸送によって南北半球で相反する作用を大洋に与える。すなわち、北半球では北に、南半球では南に海水を動かす。これは海面の水を排斥する動きであり、それを埋めるべく下層の比較的冷たい海水が上昇する。太平洋東部で顕著なこの現象は赤道湧昇と呼ばれ、結果的に赤道部分の大洋表面温度が相対的に低くなる。貿易風が弱くなることが数年に一度あり、この低温域に太平洋東部の暖かい海水が移動する現象がエルニーニョ・南方振動を起こし、地球の各所に異常気象をもたらす。 深海の水温は熱帯地方でも2°C前後と低い。その理由は太陽光が届かず温められないためと考えがちだが、これは誤りである。深海の海水は、両極に近い箇所で冷やされて沈み込み、それが大洋を地球規模の広さで流れることによって供給されている。これを海洋大循環または熱塩循環という。 大洋大循環のモデルは、グリーンランド沖で冷却され、塩分濃度が増し密度を高めた海水が一気に水深約2500mまで沈下することで始まり、大西洋底を南下して南極のウェッデル海まで流れ、そこで同じように冷やされ沈み込んだ海水と合流する。この冷たい水は南極大陸を東向きに周回しながら、インド洋や太平洋の深海に向けた支流を作る。これら支流はそれぞれの大洋で表層に湧きあがり、温められると南下して再び南へ向かう。そして南氷洋外周を通って大西洋表層を北上し、グリーンランド沖へ戻る。この循環は1000-1500年をかけてゆっくり一巡すると考えられている。 北大西洋を南西から北東へ流れるメキシコ湾流(ガルフストリーム)は、西ヨーロッパを温暖な気候に保つ働きを担う。この海流は熱帯・亜熱帯気候で温められたフロリダ半島付近の海水を、遥か遠くのブリテン島沖まで運ぶ。これにより周辺の陸地は温暖になり、例えば北緯45度の稚内は年間平均気温が6.6°Cにとどまるのに対し、北緯51度に位置するロンドンの平均気温は10.0°Cにもなる。 海岸線で昼と夜にそれぞれ吹く海風と陸風のメカニズムと同じ現象が、大洋と大陸の間で大規模に発生してアジアのモンスーンとなる。夏の6-8月はインド亜大陸が相対的に暖かくなって上昇気流を生み、この地域の気圧は低くなる。すると低温のインド洋が高気圧状態になり、そこから南風が流れ込む。この風向きはコリオリの力の影響を受けて北東方向に振られ、中国大陸や日本列島まで吹きつけ、日本に梅雨を発生させる。12-2月にはこの関係が逆になり、大陸性高気圧が優勢となり北東から南西へ風が流れる。 発生から30億年間にわたり、生命は大洋中で進化を果たした。深度と海岸からの距離は、その生活圏ごとに植物や動物の多くの種が形成されることに影響した。大洋ではそれぞれの深さにおいて多様な生物が生息するが、水深5400m以上の深海ではその数は少なくなる。 また特に大洋の表層は、食物連鎖における生食連鎖(生きた生物を直接食べる連鎖)が成立している場所である。陸上や河口また沿岸などでは、植物や藻など光合成生物がその死後に食べられる腐食連鎖の比率が高いが、大洋表層部では植物プランクトンに始まる食物連鎖が、それぞれ上位階層生物に生きたまま捕食される体系が成り立つ。植物プランクトンは主に動物プランクトンに食われ、それを主に小型の魚やイカ類が食べる。そして、これらの生物がマグロ・カジキ・サメなど大型の肉食生物の食物となる。そして、それぞれの個体は連鎖の低位になるほど個体数が多く、典型的なピラミッド構造をつくる。 19世紀前半の海洋生物学者エドワード・フォーブスは、約540m以上の深海で生物は生息できないと考えた。しかしその後、もっと深い水域にも多くの生物が棲んでいることがわかった。水深6000mよりも深い超深海層においても、深海魚のシンカイヨロイダラやクサウオ科の一種、またヨミノアシロなどが確認された。 深海底の熱水噴出孔も生物が棲む特徴的な場所である。光合成生物が生きられないこのような場所では、噴出する熱水に含まれる硫化水素をエネルギー源とするバクテリアを食べるエビ・カニやフジツボ、チューブワーム、イソギンチャクや貝類などが密集状態で生息している。 先史時代には人類は大洋に漕ぎ出していた。アフリカを起点とする人類の大移動は、ポリネシア人による粗末なカヌー等を用いた太平洋諸島やニュージーランドまで達していた。世界を包括する地理観を確立した古代ギリシアでは、地球は平面で、彼らが認識可能なヨーロッパ・西アジア・北アフリカの3大陸と地中海が世界であり、その外側はオケアノスという境界不明な塩水の大河で取り囲まれていると考えていた。ただし地球を球体と考える学者たちも存在し、プトレマイオスは天文学書『アルマゲスト』に緯度と経度が表記された曲面の地図を作成した。この地図の中では、インド洋は内海として書かれている。 中世までに、航海術の発展に伴う海上交易が行われるようになり、その主役はアラビア人たちが担った。また、陸路元へ到達したマルコ・ポーロの帰路や明の鄭和も大航海を行ったが、これらは沿岸部に沿うものだった。大航海時代初期にエンリケ航海王子が指導したアフリカ航路と、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見しインド洋が外洋であることを知らしめた航海も、この例に漏れなかった。 1492年に出発したクリストファー・コロンブスの航海と同様に、ヨーロッパから西へ漕ぎ出そうという試みは以前からあった。しかしそれらはヴァイキング遠征の一環であったり、伝説の地を目指すなどあやふやなもので、偏西風やガルフストリームにことごとく阻まれていた。コロンブスが画期的だった点は、結果的に小さく見積もっていたが地球の大きさを推測し、またジパングという明確な目標を定める高い計画性に裏打ちされた点である。彼は大西洋を真西に進むため、いったんカナリア諸島まで南下する航路を取り、結果的に貿易風に乗ったことで大西洋横断に成功した。以後、16世紀前半にはフェルディナンド・マゼラン一行が世界一周を果たし、人類が大洋を盛んに渡る時代が到来した。 コロンブスは大西洋を横断中に海洋生物の採集、海流や気候の記録等を残し、サルガッソ海も発見した。マゼランは太平洋の水深調査を何度も行ったが、彼が用いた綱の長さは360mでしかなかった。 18世紀には、航海に必要な系統立った海洋研究が行われた。ベンジャミン・フランクリンは北大西洋の海水温度測定を行い、ガルフストリームの詳細を明らかにした。南氷洋を航海し、ハワイ諸島を発見したジェームズ・クック(キャプテン・クック)も水温測定や1200mまでの水深調査を行った。彼はまた、航海に博物学者や天文学者らを同行させる端緒を開いた。19世紀に入るとスコットランドのジョン・ロス、ロシアのベリングスハウゼン、イギリスのジョージ・パウエルやジェイムス・ウェッデルそしてジェイムズ・クラーク・ロスらが水深や水温の調査を重ねた。エドワード・フォーブスは海洋生物学に大きな足跡を残した。近代的な海洋物理学はアメリカの海軍大尉マシュー・フォンテーン・モーリーに始まる。 本格的な海洋調査の嚆矢は、1872 - 1876年に行われたイギリスのチャレンジャー号による探検と言われる。362か所にわたる地球規模の水深測定や海流・生物等の調査は50巻の膨大な報告書に纏められ出版された。その後、ドイツ・スウェーデン・デンマーク・ソビエト連邦などの探検船が様々な調査を行った。1892年頃からは国際的な協力体制による調査も始まり、1902年には国際海洋探求会議(英語版) (ICES) が設立され、各方面の調査研究が行われた。 20世紀初頭、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説はあまりに先駆的過ぎ、移動を起こす動力の説明ができなかったため賛同を得られなかった。しかし、アメリカが第二次世界大戦中から継続した、音波による海底地形の調査から、大西洋の中心に大規模な海底山脈(大西洋中央海嶺)が発見された。この地質構造を調査したモーリス・ユーイングらによって、海嶺を挟んだ対称構造と、離れるほどに堆積物が厚くなる様子が明らかになった。1960年代には、中央海嶺が火山の連なりと判明し、ハリー・ハモンド・ヘスとロバート・シンクレア・ディーツによって海洋底拡大説が提唱された。この証明を目指し立案されたモホール計画は深海掘削計画へ発展し、海洋底の拡大が確認された。海洋底調査はさらに国際深海掘削計画の段階へ進み、海洋性地殻の分布を地球規模で解き明かし、また残留磁場の縞模様から地殻が拡大した経過も知らしめた。これらの結果を踏まえ、海洋底拡大説はプレートテクトニクスへと発展した。 大洋の海底は学術的研究対象だけでなく、鉱物資源の供給元としても期待されている。大西洋と太平洋の海底にはマンガン団塊と呼ばれるマンガン・ニッケル・銅・コバルトなどの金属を含む塊が非常に広く転がっている。これがどのように形成されたのかはわかっていないが、経済的に見合う手段で引き上げることが出来れば、有効な資源となる。その他にも、燐灰石・グロビゲリナ軟泥(有孔虫軟泥等)・珪藻軟泥・赤粘土などの深海底資源が期待される。
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"2000年にIHOはこの問題に関し、海洋調査の結果について聞き取りを行った。これに対し、加盟68か国中28か国から回答があり、海流を重視する海洋学者の意見が反映され、アルゼンチン以外は新しい大洋の定義設定に合意した。名称の選出では、「Southern Ocean」(南氷洋・南大洋)が18票を得て、「Antarctic Ocean」(南極海)を上回った。境界線については、投票の結果陸地で分断されない南緯60度線に半分が賛同し、他の14票のうち南緯50度線が次点、最も北側に設定された南緯35度線も若干の賛同を得た。しかし、『Limits of Oceans and Seas』第4版はオーストラリアが批准を拒否し、公表は見合わされた。このような経緯に関わらず、事実上第4版の結論は多くの組織、学者らや国家に加えIHOさえ用いている。", "title": "大洋の境界" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、国によっては独自の南氷洋の定義を用いている。例えばイギリスは南緯55度線を採用している。オーストラリアの地図製作当局は、南氷洋に自国とニュージーランド南岸までを含む解釈を施している。だがニュージーランドはこの解釈に賛同していない。", "title": "大洋の境界" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大洋は、物理学的および生物学的な諸条件に応じて区分される。大洋のすべての部分である漂泳区分帯 (pelagic zone) は、水深や光の到達度合いによって分割される。有光層 (Photic zone) または表層とは生物が太陽光を感知できる限界までの層を指し、深度100-200mまでの層を指す。ただし、水深100-200mの部分は薄光層 (Dysphotic/Disphotic zone) とも呼ばれ、到達する太陽光は5%未満に過ぎず充分な光合成が難しい。ここよりも深い水深200m以上の無光層 (Aphotic zone) 部分では一部の例外を除き光合成生物が生存できない。", "title": "区分帯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "遠洋の有光層は表海水層 (epipelagic) とも呼ばれ、無光層は垂直方向に複数の層へ区分される。中深層(英語版) (mesopelagic) はその中でも上部に位置する領域で、水深1000mまでが該当する。次の漸深層 (bathypelagic) は、水深2000-3000m程度までに当たる。深海平原の上部から水深約6000m前後までは深海層 (abyssalpelagic) と呼ばれる。その下は海溝を含む最も深い領域である超深海層 (hadalpelagic) がある", "title": "区分帯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "漂泳区分帯は、無光層部分の水体の底辺(英語版)形状によっても区分される。これは、深海の3つの形状に対応する。漸深層 (bathyal zone) は大陸棚が4000mまで落ち込んでゆく領域を示し、深海域 (abyssal zone) は海底が4000-6000m、超深海帯 (Hadal zone) は超深海帯に対応する最下層に当たる。", "title": "区分帯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "漂泳区分帯はまた、沿岸地帯(英語版) (neritic zone) と海洋地帯(英語版) (oceanic zone) の2つにも分けることができる。沿岸地帯は大陸棚部分の水域に対応し、海洋地帯は開水面全域を指す。また、沿岸帯 (littoral zone) と潮間帯 (intertidal zone) という区分もある。前者は満潮と干潮の間に位置し、海と陸の境界に当たる部分である。後者は潮位が領域に影響を与える部分である。", "title": "区分帯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "世界海洋の面積は361億平方キロメートル(1億3900万平方マイル)である。体積は13億立方キロメートル(3億1000万立方マイル)であり、立方体に換算すると一辺は1111kmとなる。平均深度は3790メートル(12430フィート)、最大深度は10923m(6787マイル)である。世界海洋面積の半分以上は3000mを超える深さである。水深200mを上回る広大な水域は地球表面の66%を占める。これらの数字は、カスピ海など外洋と接続していない海は含まれない。", "title": "物理的性質" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大洋の蒼みがかった色は、複数の要因が絡み合い作られている。特に影響を与えるものは、溶融した有機物とクロロフィルである。しかし、沿岸の海域で見られる土砂の色(黄海)、藻類の色(紅海)または植物性プランクトンの黄色が混ざり見られる碧色にはあまりならない。黒潮は見た目の色から名づけられたものだが、この海流は含有物質が少なく透明度が高いため、波長が短い青色を比較的吸収せず、青黒く見える事を由来とする。", "title": "物理的性質" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大洋の海底は海嶺で生じ、接続する2つのプレートとなる(海洋底拡大説)。これは双方向に移動し、沈み込み帯で他の海洋または大陸プレートとぶつかり、その下へもぐりこむ。海嶺は、大西洋やインド洋においては大洋の中央部に位置し、それぞれ大西洋中央海嶺、中央インド洋海嶺と呼ばれる。太平洋のプレートはアメリカ沖の東太平洋海膨で形成される。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "海洋性地殻は、生じた海嶺からゆっくり移動する。大西洋では年間約4cmの速度で東西に拡大し、太平洋プレートは大西洋の2倍程度の速度で移動する。この地殻部分は海盆または深海底・海底平原と呼ばれる。この地殻に含まれる鉄などの強磁性体は、地磁気の方向に配列されて固まる(残留磁気)。しかし地球磁場は地磁気逆転を起こすなど一定していないため、残留磁気は海嶺を中心に左右対称の縞模様として現れる。この変化から、過去の地球磁場がどのように変化したかを知ることができる。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "海洋性地殻が他の地殻と衝突する際には、一方が地球内部に沈み込んで、海盆から約2kmほど深い非対称V字形状の海溝を作る場合がある。地球に存在する海溝27ヵ所のうち22ヵ所は太平洋に存在し、東側の海溝は特に深い。海洋性地殻の沈み込む部分は、太平洋西部の日本列島のように島弧を作る場合と、東部チリ側のように作らない場合がある。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "陸地に近い部分は堆積物がたまり、海底には傾斜ができる。コンチネンタルライズ(英語版)は海盆から傾斜が始まる部分であり、陸地起源の堆積物が到達する端に当たる。しかし陸地側に海溝がある所では形成されない。深度3300-1500mあたりからは大陸斜面が続き、泥や砂および砂利や岩などに加えて貝殻も5%程度混ざる堆積物が積みあがりながら深度約180m程度まで急な傾斜が続く。この先には、陸地まで続く大陸棚がある。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これらに比べ、海盆の堆積物は陸地由来の物質は少なく、主に微生物由来の軟泥である。大洋の表層部分は栄養素が豊富にあり、発生した微生物が死滅するとゆるやかに沈殿してゆき深層部分にたまる。ただし堆積する物質は主に骨格や石灰質である。この他にも、気流に乗り到達した細かな鉱物粒子や、噴火で巻き上げられた火山灰、海底火山の噴出物や宇宙塵なども含まれる。これらは遠洋性堆積物と呼ばれる。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大洋地形の中には、海底からそびえる山や丘もある。この典型的な例が太平洋のハワイ諸島と天皇海山群(ハワイ‐天皇海山列)である。ハワイ諸島東端のハワイ島は活火山のマウナ・ロア山・キラウエア火山を持つ火山島である。この地下には、マントル層からマグマが湧き上がるホットスポットがあり、海洋性地殻上まで噴きあがり火山島を形成する。しかし太平洋プレートは西へ移動しているため、火山島はホットスポットからずれて火山活動による島形成がやがて止む。その後、侵食作用と海洋性地殻の沈み込みから島の標高は徐々に低くなり、やがて海面に没して海山となる。ハワイ‐天皇海山列は、同じホットスポットから形成された海底火山が雄略海山を境に列の方向を変えており、約4300万年前に太平洋プレートの移動方向に変化が起こった事を示している。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この火山島が侵食を受ける過程で、熱帯において島の周辺で形成されたサンゴ礁が充分に発達すれば、島が水没した後もサンゴ礁による環礁が海面上に残る。", "title": "大洋の地質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "海流を起こす力には、風または海水の密度および高低差等があり、陸地や海底の形状または水深の影響を受ける。大洋のような深い海では、これら海流を起こす作用に地球の自転から生じるコリオリの力が大きく影響し、その方向が曲げられる。恒常的に吹く風が大洋表面の水を風向きと同方向に動かそうとすると、そこにコリオリの力が加わって北半球では右に、南半球では左に振られる。この表面流の動きは直下の水も動かそうとするが、これにもコリオリの力が影響して更に振られてゆく。これが力を弱めながら深い水深まで段階的に積み重なり、海水全体では表面流以上の角度を持つ方向に流れる。沿岸など浅い海ではその角度は15度程度にとどまるが、深い海では45-90度にまで及ぶ。これはエクマン輸送と呼ばれる。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北半球の場合エクマン輸送によって、西風の偏西風は南向きに、東風の貿易風は北向きにそれぞれ海水を動かす。そしてこの間に水が集まり、海面が盛り上がる。すると今度は高い所から低い方への流れが生じるが、ここにもエクマン輸送の影響が及び方向が曲げられる。この結果、偏西風と貿易風の間には海面が高い場所が生じ、これを周回するように海流が生じる。この結果、北太平洋では日本列島南海上の水面が最も高くなり、逆に最も低くなるカムチャツカ半島沖とはジオイドからの高低差が1m以上になる。北大西洋ではフロリダ半島東沖合が最も高くなる。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "赤道上に吹く貿易風による大洋への影響は、エクマン輸送によって南北半球で相反する作用を大洋に与える。すなわち、北半球では北に、南半球では南に海水を動かす。これは海面の水を排斥する動きであり、それを埋めるべく下層の比較的冷たい海水が上昇する。太平洋東部で顕著なこの現象は赤道湧昇と呼ばれ、結果的に赤道部分の大洋表面温度が相対的に低くなる。貿易風が弱くなることが数年に一度あり、この低温域に太平洋東部の暖かい海水が移動する現象がエルニーニョ・南方振動を起こし、地球の各所に異常気象をもたらす。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "深海の水温は熱帯地方でも2°C前後と低い。その理由は太陽光が届かず温められないためと考えがちだが、これは誤りである。深海の海水は、両極に近い箇所で冷やされて沈み込み、それが大洋を地球規模の広さで流れることによって供給されている。これを海洋大循環または熱塩循環という。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "大洋大循環のモデルは、グリーンランド沖で冷却され、塩分濃度が増し密度を高めた海水が一気に水深約2500mまで沈下することで始まり、大西洋底を南下して南極のウェッデル海まで流れ、そこで同じように冷やされ沈み込んだ海水と合流する。この冷たい水は南極大陸を東向きに周回しながら、インド洋や太平洋の深海に向けた支流を作る。これら支流はそれぞれの大洋で表層に湧きあがり、温められると南下して再び南へ向かう。そして南氷洋外周を通って大西洋表層を北上し、グリーンランド沖へ戻る。この循環は1000-1500年をかけてゆっくり一巡すると考えられている。", "title": "海流" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北大西洋を南西から北東へ流れるメキシコ湾流(ガルフストリーム)は、西ヨーロッパを温暖な気候に保つ働きを担う。この海流は熱帯・亜熱帯気候で温められたフロリダ半島付近の海水を、遥か遠くのブリテン島沖まで運ぶ。これにより周辺の陸地は温暖になり、例えば北緯45度の稚内は年間平均気温が6.6°Cにとどまるのに対し、北緯51度に位置するロンドンの平均気温は10.0°Cにもなる。", "title": "気候への影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "海岸線で昼と夜にそれぞれ吹く海風と陸風のメカニズムと同じ現象が、大洋と大陸の間で大規模に発生してアジアのモンスーンとなる。夏の6-8月はインド亜大陸が相対的に暖かくなって上昇気流を生み、この地域の気圧は低くなる。すると低温のインド洋が高気圧状態になり、そこから南風が流れ込む。この風向きはコリオリの力の影響を受けて北東方向に振られ、中国大陸や日本列島まで吹きつけ、日本に梅雨を発生させる。12-2月にはこの関係が逆になり、大陸性高気圧が優勢となり北東から南西へ風が流れる。", "title": "気候への影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "発生から30億年間にわたり、生命は大洋中で進化を果たした。深度と海岸からの距離は、その生活圏ごとに植物や動物の多くの種が形成されることに影響した。大洋ではそれぞれの深さにおいて多様な生物が生息するが、水深5400m以上の深海ではその数は少なくなる。", "title": "大洋の生物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また特に大洋の表層は、食物連鎖における生食連鎖(生きた生物を直接食べる連鎖)が成立している場所である。陸上や河口また沿岸などでは、植物や藻など光合成生物がその死後に食べられる腐食連鎖の比率が高いが、大洋表層部では植物プランクトンに始まる食物連鎖が、それぞれ上位階層生物に生きたまま捕食される体系が成り立つ。植物プランクトンは主に動物プランクトンに食われ、それを主に小型の魚やイカ類が食べる。そして、これらの生物がマグロ・カジキ・サメなど大型の肉食生物の食物となる。そして、それぞれの個体は連鎖の低位になるほど個体数が多く、典型的なピラミッド構造をつくる。", "title": "大洋の生物" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "19世紀前半の海洋生物学者エドワード・フォーブスは、約540m以上の深海で生物は生息できないと考えた。しかしその後、もっと深い水域にも多くの生物が棲んでいることがわかった。水深6000mよりも深い超深海層においても、深海魚のシンカイヨロイダラやクサウオ科の一種、またヨミノアシロなどが確認された。", "title": "大洋の生物" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "深海底の熱水噴出孔も生物が棲む特徴的な場所である。光合成生物が生きられないこのような場所では、噴出する熱水に含まれる硫化水素をエネルギー源とするバクテリアを食べるエビ・カニやフジツボ、チューブワーム、イソギンチャクや貝類などが密集状態で生息している。", "title": "大洋の生物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "先史時代には人類は大洋に漕ぎ出していた。アフリカを起点とする人類の大移動は、ポリネシア人による粗末なカヌー等を用いた太平洋諸島やニュージーランドまで達していた。世界を包括する地理観を確立した古代ギリシアでは、地球は平面で、彼らが認識可能なヨーロッパ・西アジア・北アフリカの3大陸と地中海が世界であり、その外側はオケアノスという境界不明な塩水の大河で取り囲まれていると考えていた。ただし地球を球体と考える学者たちも存在し、プトレマイオスは天文学書『アルマゲスト』に緯度と経度が表記された曲面の地図を作成した。この地図の中では、インド洋は内海として書かれている。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "中世までに、航海術の発展に伴う海上交易が行われるようになり、その主役はアラビア人たちが担った。また、陸路元へ到達したマルコ・ポーロの帰路や明の鄭和も大航海を行ったが、これらは沿岸部に沿うものだった。大航海時代初期にエンリケ航海王子が指導したアフリカ航路と、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見しインド洋が外洋であることを知らしめた航海も、この例に漏れなかった。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1492年に出発したクリストファー・コロンブスの航海と同様に、ヨーロッパから西へ漕ぎ出そうという試みは以前からあった。しかしそれらはヴァイキング遠征の一環であったり、伝説の地を目指すなどあやふやなもので、偏西風やガルフストリームにことごとく阻まれていた。コロンブスが画期的だった点は、結果的に小さく見積もっていたが地球の大きさを推測し、またジパングという明確な目標を定める高い計画性に裏打ちされた点である。彼は大西洋を真西に進むため、いったんカナリア諸島まで南下する航路を取り、結果的に貿易風に乗ったことで大西洋横断に成功した。以後、16世紀前半にはフェルディナンド・マゼラン一行が世界一周を果たし、人類が大洋を盛んに渡る時代が到来した。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "コロンブスは大西洋を横断中に海洋生物の採集、海流や気候の記録等を残し、サルガッソ海も発見した。マゼランは太平洋の水深調査を何度も行ったが、彼が用いた綱の長さは360mでしかなかった。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "18世紀には、航海に必要な系統立った海洋研究が行われた。ベンジャミン・フランクリンは北大西洋の海水温度測定を行い、ガルフストリームの詳細を明らかにした。南氷洋を航海し、ハワイ諸島を発見したジェームズ・クック(キャプテン・クック)も水温測定や1200mまでの水深調査を行った。彼はまた、航海に博物学者や天文学者らを同行させる端緒を開いた。19世紀に入るとスコットランドのジョン・ロス、ロシアのベリングスハウゼン、イギリスのジョージ・パウエルやジェイムス・ウェッデルそしてジェイムズ・クラーク・ロスらが水深や水温の調査を重ねた。エドワード・フォーブスは海洋生物学に大きな足跡を残した。近代的な海洋物理学はアメリカの海軍大尉マシュー・フォンテーン・モーリーに始まる。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本格的な海洋調査の嚆矢は、1872 - 1876年に行われたイギリスのチャレンジャー号による探検と言われる。362か所にわたる地球規模の水深測定や海流・生物等の調査は50巻の膨大な報告書に纏められ出版された。その後、ドイツ・スウェーデン・デンマーク・ソビエト連邦などの探検船が様々な調査を行った。1892年頃からは国際的な協力体制による調査も始まり、1902年には国際海洋探求会議(英語版) (ICES) が設立され、各方面の調査研究が行われた。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "20世紀初頭、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説はあまりに先駆的過ぎ、移動を起こす動力の説明ができなかったため賛同を得られなかった。しかし、アメリカが第二次世界大戦中から継続した、音波による海底地形の調査から、大西洋の中心に大規模な海底山脈(大西洋中央海嶺)が発見された。この地質構造を調査したモーリス・ユーイングらによって、海嶺を挟んだ対称構造と、離れるほどに堆積物が厚くなる様子が明らかになった。1960年代には、中央海嶺が火山の連なりと判明し、ハリー・ハモンド・ヘスとロバート・シンクレア・ディーツによって海洋底拡大説が提唱された。この証明を目指し立案されたモホール計画は深海掘削計画へ発展し、海洋底の拡大が確認された。海洋底調査はさらに国際深海掘削計画の段階へ進み、海洋性地殻の分布を地球規模で解き明かし、また残留磁場の縞模様から地殻が拡大した経過も知らしめた。これらの結果を踏まえ、海洋底拡大説はプレートテクトニクスへと発展した。", "title": "人類の大洋認識" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "大洋の海底は学術的研究対象だけでなく、鉱物資源の供給元としても期待されている。大西洋と太平洋の海底にはマンガン団塊と呼ばれるマンガン・ニッケル・銅・コバルトなどの金属を含む塊が非常に広く転がっている。これがどのように形成されたのかはわかっていないが、経済的に見合う手段で引き上げることが出来れば、有効な資源となる。その他にも、燐灰石・グロビゲリナ軟泥(有孔虫軟泥等)・珪藻軟泥・赤粘土などの深海底資源が期待される。", "title": "人類の大洋認識" } ]
大洋または大海洋(だいかいよう)・独立海(どくりつかい)は、水圏の大部分を占める、それぞれが接続した地球上の海の主要領域。一般には北極海・太平洋・大西洋・インド洋・南極海の5つに区分される。これらの大洋はそれぞれ固有の海流を持ち、また潮汐を発生させる元ともなる。大洋以外の海は副洋 または附属海と呼ばれ、地中海のように大陸の間にある狭い面積の海や紅海のような大陸内部に存在する海、また日本海のように大陸の沿うものまたは北海のような大陸から直角に伸びる海などが当たる。 英語 ocean の語源はギリシア語の Ὠκεανὸς, "okeanos" オーケアノスである。 全大洋面積の過半が深さ4267m程の水深にある。大洋の平均塩分濃度は3.5%程度であり、ほとんどの水域で3.0-3.8%の範囲に入る。科学者による推計では、23万の海洋種が知られており、さらにその10倍の種が存在する可能性がある。 大洋は生物圏に重要な役割を果たす。大洋の蒸発は水循環においてほとんどの降雨の元であり、大洋の温度は気候や風を決定付け、陸地の生物へ影響を与える。
{{otheruses}} '''大洋'''(たいよう、{{lang-en-short|ocean}})または'''大海洋'''(だいかいよう)<ref name="Gro24">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.24-26、I 物理学から見た海 海洋と海とはどう違うのか]]</ref>・'''独立海'''(どくりつかい)<ref name="Maru26">[[#丸川1932|丸川 (1932)、pp.26-29、第二章 海洋の形態 第一節 海洋の分類]]</ref>は、[[水圏]]の大部分を占める<ref name="Maru26" />、それぞれが接続した[[地球]]上の[[海]]の主要領域<ref name="Gro24" />。一般には<ref group="注">例えば[[#丸川1932|丸川 (1932)、pp.27-29]]では、北極海は面積の小ささから[[地中海]]と同じく大陸間にある間洋の一種に分類し、[[#宇田1969|宇田 (1969)、p.3]]では太平洋・大西洋・インド洋の三大洋としている。</ref>[[北極海]]・[[太平洋]]・[[大西洋]]・[[インド洋]]・[[南極海]]の5つに区分される<ref name="Gro24" />。これらの大洋はそれぞれ固有の[[海流]]を持ち、また[[潮汐]]を発生させる元ともなる<ref name="Maru26" />。大洋以外の海は副洋 (独: Nebenmeere) または[[附属海]]と呼ばれ、[[地中海]]のように[[大陸]]の間にある狭い面積の海や[[紅海]]のような大陸内部に存在する海、また[[日本海]]のように大陸の沿うものまたは[[北海]]のような大陸から直角に伸びる海などが当たる<ref name="Maru26" />。 英語 ocean の語源は[[ギリシア語]]の {{polytonic|Ὠκεανὸς}}, "''okeanos''" [[オーケアノス]]<ref>{{cite web|url= http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3D*%29wkeano%2Fs |title= Ὠκεανός |publisher= Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek–English Lexicon'', at Perseus project|language=英語 |accessdate=2012-01-20}}</ref>である。 全大洋面積の過半が深さ4267m程の水深にある<ref>{{cite web | url = http://oceanservice.noaa.gov/facts/oceandepth.html | title = How deep is the ocean? | accessdate = 2012-01-20|language=英語| publisher = [[アメリカ海洋大気庁]]}}</ref>。大洋の平均[[塩分濃度]]は3.5%程度であり、ほとんどの水域で3.0-3.8%の範囲に入る。科学者による推計では、23万の海洋[[種 (分類学)|種]]が知られており、さらにその10倍の種が存在する可能性がある<ref>{{cite web | url = http://esciencenews.com/sources/la.times.science/2009/08/02/census.marine.life.maps.ocean.species | title = Census of Marine Life maps an ocean of species| accessdate = 2012-01-20|language=英語| publisher =Science News}}</ref>。 大洋は[[生物圏]]に重要な役割を果たす。大洋の蒸発は[[水循環]]においてほとんどの[[降雨]]の元であり、大洋の温度は[[気候]]や[[風]]を決定付け、陸地の生物へ影響を与える<ref name="C&C">''Biology: Concepts & Connections.'' Chapter 34: The Biosphere: An Introduction to Earth's Diverse Environment. (sec 34.7)</ref>。 [[ファイル:World ocean map.gif|right|thumb|240px|世界の大洋水域を示す地図。[[地球]]は連結した水面で覆われ、[[世界の大洋]]は複数の主要な領域で区分されている。[[太平洋]]・[[大西洋]]・[[インド洋]]・[[北極海]]・[[南極海]]を5大洋と言うが、両極の大洋を前の3大洋に含めてしまう場合もある。|alt=表示される1から5の地図は、海洋の区分方に対するパターンを表示する。]] == 概要 == 一般に複数の大洋が認識されているが、それらの水域は地球規模で見ればひとつの、繋がった海水域であり、時に「世界海洋」 (World Ocean) <ref>{{cite web | url = http://ejje.weblio.jp/content/World+Ocean | title = 【World Ocean】| accessdate = 2012-01-20 | publisher =webio英和・和英辞典}}</ref>または「球海洋・球海」 (global ocean) <ref>{{cite web | url = http://ejje.weblio.jp/content/global+ocean | title = 【global ocean】| accessdate = 2012-01-20 | publisher =webio英和・和英辞典}}</ref><ref name="UNAoO">{{cite web |title= Welcome to the United Nations Atlas of the Oceans |publisher= UN Atlas of the Oceans |url= http://www.oceansatlas.com/ |accessdate=2012-01-20}}</ref><ref>{{cite web |title= Ocean |work= The Columbia Encyclopedia |publisher=[[コロンビア大学出版局]]|url= http://www.answers.com/Ocean#Encyclopedia |accessdate=2012-01-20}}</ref><ref>{{cite web |title= Distribution of land and water on the planet |publisher= HEAD DEPARTMENT OF NAVIGATION AND OCEANOGRAPHY (HDNO) OF THE RUSSIAN FEDERATION MINISTRY OF DEFENCE |url= http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html |accessdate= 2012-01-20 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120216030249/http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html |archivedate= 2012年2月16日 |deadlinkdate= 2017年9月 }}</ref>とも呼ばれる<ref>{{cite web | url = http://www.answers.com/Ocean#Encyclopedia | title = Ocean | accessdate = 2012-01-20 |language=英語|publisher = The Columbia Encyclopedia 2002. New York: Columbia University Press }}</ref><ref name="UNAoO2">{{cite web | url = http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html | title = Distribution of land and water on the planet | accessdate = 2012-01-20 | language = 英語 | publisher = HDNO | archiveurl = https://web.archive.org/web/20120216030249/http://www.oceansatlas.com/unatlas/about/physicalandchemicalproperties/background/seemore1.html | archivedate = 2012年2月16日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}{{cite web | url = http://www.oceansatlas.com/ | title = Welcome to the United Nations Atlas of the Oceans | accessdate = 2012-01-20 | language = 英語 | publisher = UN Atlas of the Oceans }}</ref>。このような、一部を交換する事が比較的自由に行われるような状態にある連続した水体という概念は、[[海洋学]]において重要かつ基本的な概念である<ref>{{Cite journal|last=Spilhaus|first=Athelstan F.|date=July 1942|title=Maps of the whole world ocean|publisher= [[アメリカ地理学協会]]|volume=32 (3)|pages=431–5}}</ref>。 一般的な大洋の区分は、以下のように[[大陸]]や様々な[[列島]]などの基準を以って仕切られている。(面積順) * [[太平洋]]:[[アジア]]・[[オーストラリア]]および[[アメリカ州]]で仕切られる海。 * [[大西洋]]:アメリカ州・[[ヨーロッパ]]および[[アフリカ]]で仕切られる海。 * [[インド洋]]:[[南アジア]]、アフリカおよびオーストラリアで仕切られる海。 * [[南極海]](南氷洋、南大洋、南極環海<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.weblio.jp/content/%E5%8D%97%E6%B0%B7%E6%B4%8B | title =【南大洋】|publisher=海の辞典、Weblio百科辞書| accessdate = 2012-01-20}}</ref>):[[南極]]を囲む海。太平洋・大西洋・インド洋の拡張部分と捉えられる場合もある<ref name="IHO">{{cite web|url=http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|format=PDF|title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition|year=1953|publisher=International Hydrographic Organization|language=英語|accessdate=2012-01-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|archivedate=2011年10月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 * [[北極海]](北氷洋、北大洋、北極環海):[[北極]]を取り囲む、[[北アメリカ]]と[[ユーラシア]]で仕切られる海。大西洋の拡張部分と捉える場合もある。 太平洋と大西洋は[[赤道]]を境界に南北で区切られる場合もある。狭い領域は、[[海]]、[[入り江]]、[[湾]]、[[海峡]]などの呼称が用いられる。 地質学的には、大洋は海水で覆われた狭義の{{仮リンク|海洋性地殻|en|Oceanic crust}}(海底地殻、海洋地殻<ref name="Tai254">[[#平ら2005|平ら (2005)、p.254、巻末用語集]]</ref>)域と言うことができる<ref name="HiroshimaKa">{{Cite web|和書| url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/ES_Y_02.html | title =地球科学用語集【か】| accessdate = 2012-01-20 | publisher =[[広島大学]]地球資源論研究室}}</ref>。海洋性地殻とは、中央海嶺で生成される厚さ約6kmの主に[[玄武岩]]質の[[プレート]]であり、平均厚さ40kmの[[花崗岩]]質である{{仮リンク|大陸性地殻|en|Continental crust}}よりも密度が高い<ref name="Tai254" />。 == 大洋の境界 == [[ファイル:Arctic Ocean - en IHO.png|thumb|175px|right|北極海の領域。黒線で示される範囲は[[国際水路機関]] (IHO) による基準。青色で示される範囲は[[中央情報局]] (CIA) 『[[ザ・ワールド・ファクトブック]]』による基準<ref name="CIA">{{cite web |title= Arctic Ocean |work= [[ザ・ワールド・ファクトブック]] |publisher= [[中央情報局]] |url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/xq.html |accessdate= 2012-01-20}}</ref>。]] === 北極海 === 北極海は[[北極]]のほとんどを覆い、[[北アメリカ]]と[[ユーラシア]]沿岸で仕切られるが、大西洋の一部または[[三角江]]と取る場合もある<ref>{{cite web |title= The Ocean |publisher= The MarineBio Conservation Society |url= http://marinebio.org/oceans/ |accessdate= 2012-01-20}}</ref><ref>{{cite web |title= Arctic Ocean |publisher= Encyclopædia Britannica |url= http://www.britannica.com/EBchecked/topic/33188/Arctic-Ocean |accessdate= 2012-01-20}}</ref>。 [[国際水路機関]] (IHO) 『Limits of Oceans and Seas』第3版(1953年)の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net">{{cite web|url=http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition|year=1953|publisher=国際水路機関|accessdate=2012-01-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf|archivedate=2011年10月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 *[[グリーンランド]] -([[グリーンランド海]]北限)- [[スピッツベルゲン島]] -([[北緯80度線]])- [[北東島]]・リー・スミス岬 -([[バレンツ海]]北限)- {{仮リンク|コールザート岬|en|Cape Kohlsaat}} -([[カラ海]]北限)- {{仮リンク|アークティック岬|en|Arctic Cape}} -([[ラプテフ海]]北限)- [[コテリヌイ島]]北端 -([[東シベリア海]]北限)- [[ウランゲリ島]]北端 -([[チュクチ海]]北限)- [[ポイント・バロー|バロー岬]] -([[ボーフォート海]]北限)- [[プリンスパトリック島]]のランドエンド岬から北西の海岸を通りレオポルド・マックリントン岬 - {{仮リンク|ブルック島|en|Brook Island}}のマーレー岬から北西岸を沿い北端 - [[ボーデン島]]マッカイ岬から北西岸を沿いマロッホ岬 - [[エルフリングネース島]]のIsachsen岬 - [[マイエン島]]北西部 - [[アクセルハイバーグ島]] {{仮リンク|ストールワージー岬|en|Cape Stallworthy}} - [[エルズミーア島]]最西部のコルゲート岬から北の海岸を通り[[コロンビア岬]]-グリーンランドの[[モリス・ジェサップ岬]] [[ファイル:Atlantic Ocean - en IHO.png|thumb|right|175px|IHO(黒線)とCIA 『ザ・ワールド・ファクトブック』(濃青)<ref>{{cite web |title= Atlantic Ocean |work= [[ザ・ワールド・ファクトブック]] |publisher= [[中央情報局]] |url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/zh.html |accessdate= 2012-01-20}}</ref>基準による北大西洋および南大西洋の領域。]] === 北大西洋 === [[国際水路機関]] (IHO) の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net"/>。 *西:[[カリブ海]]東限 - [[メキシコ湾]]東南限 - [[キューバ]]北岸 -([[ファンディ湾]]南西限)- [[フロリダ州]] [[キーウエスト]]、[[ファンディ湾]]南西限、[[セントローレンス湾]]北東限 *北:[[カナダ]]の[[ラブラドール地方]] -([[デービス海峡]]南限)- グリーンランド -(グリーンランド海および[[ノルウェー海]]南西限)- [[シェトランド諸島]] *東:([[北海]]北西限および{{仮リンク|スコットランド海|en|Inner Seas off the West Coast of Scotland}}北限と西限)-([[アイリッシュ海]]南限)-([[ブリストル海峡]]西限)-([[イギリス海峡]]西限)-([[ビスケー湾]]西限)-([[地中海]]西限) *南:[[ブラジル]]沿岸 -([[赤道]])- ([[ギニア湾]]南西限) === 南大西洋 === [[国際水路機関]] (IHO) の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net"/>。 *南西:[[ティエラ・デル・フエゴ]] -([[チリ]]の[[ホーン岬]]に沿う[[子午線]] (67°16'W))- [[南極大陸]]、[[マゼラン海峡]]の入り口に当たるティエラ・デル・フエゴの{{仮リンク|ヴァージネス岬|en|Cape Virgenes}}から{{仮リンク|エスピリトゥサント岬|en|Espíritu Santo Cape}} *西:[[ラプラタ川]]河口 *北:北大西洋南限 *北東:[[ギニア湾]]境界 *南東:[[アガラス岬]] -([[東経20度線]])- 南極大陸 *南:南極大陸 2000年、IHOは大西洋の南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。ただしこの新定義はオーストラリアの留保提言などにより、未だ批准されていない<ref name="Darby">{{cite news|url=http://www.theage.com.au/articles/2003/12/21/1071941610556.html|title=Canberra all at sea over position of Southern Ocean|last=Darby|first=Andrew|date=22 December 2003|publisher=The Age|accessdate=2012-01-20}}</ref>。 [[ファイル:Indian Ocean - en IHO.png|thumb|right|175px| IHO(黒線)とCIA 『ザ・ワールド・ファクトブック』(濃青)<ref>{{cite web |title= Indian Ocean |work= [[ザ・ワールド・ファクトブック]] |publisher= [[中央情報局]] |url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/xo.html |accessdate= 2012-01-20}}</ref>基準によるインド洋の領域。]] === インド洋 === 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net"/>。 *北:[[アラビア海]]と[[ラッカディブ海]]南限 - [[ベンガル湾]]南限 - [[東インド諸島]]南限 - [[グレートオーストラリア湾]] *西:[[アガラス岬]] -(東経20度線)- 南極大陸 *東:[[タスマニア島]]の{{仮リンク|サウスイースト岬|en|South East Cape}} -(東経146度55分線)- 南極大陸 *南:南極大陸 インド洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない<ref name="Darby"/>。 [[ファイル:Pacific Ocean - en IHO.png|thumb|right|175px| IHO(黒線)とCIA 『ザ・ワールド・ファクトブック』(濃青)<ref>{{cite web |title= Pacific Ocean |work= [[ザ・ワールド・ファクトブック]] |publisher= [[中央情報局]] |url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/zn.html |accessdate= 2012-01-20}}</ref>基準による太平洋の領域。]] === 北太平洋 === 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net"/>。 *南西:[[赤道]] – 東南アジア諸島北東 - [[ルソン島]] *西から北西:[[フィリピン海]]および[[日本海]]東限 - [[オホーツク海]]南東限 *北:[[ベーリング海]]と[[アラスカ湾]]南限 *東:[[アラスカ]]と[[ブリティッシュコロンビア州]]沿岸諸島の水域西限 - [[カリフォルニア湾]]南限 *南:[[ギルバート諸島]]と[[ガラパゴス諸島]]を除く赤道 === 南太平洋 === 国際水路機関 (IHO) の定義は以下の通りである<ref name="iho-ohi.net"/>。 *西:タスマニア島のサウスイースト岬 -(東経146度55分線)- 南極大陸 *南西および北西:[[タスマン海]]の南・東・北西限 -[[珊瑚海]]の南東・北東限 - [[ソロモン海]]と[[ビスマルク海]]の東・北限 - 東南アジア諸島から[[ニューギニア島]]を経て赤道まで *北:[[ギルバート諸島]]と[[ガラパゴス諸島]]を除く赤道 *東:ティエラ・デル・フエゴ -(ホーン岬に沿う子午線 (67°16'W))- 南極大陸、マゼラン海峡入り口に当たるヴァージネス岬からエスピリトゥサント岬 *南:南極大陸 南太平洋についても、IHOは2000年にその南限を南緯60度線とし、これより南の海域を南極海とする大洋の再定義を行った。しかしこれも批准には至っていない<ref name="Darby"/>。 [[ファイル:Location Southern Ocean.svg|thumb|175px|right| CIA『ザ・ワールド・ファクトブック』基準による南氷洋の領域<ref>{{cite web |title= Southern Ocean |work= [[ザ・ワールド・ファクトブック]] |publisher= [[中央情報局]] |url= https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/oo.html |accessdate= 2012-01-20}}</ref>。]] === 南極海 === [[南極海]]は南極大陸を取り囲む水域であり、それは太平洋・大西洋およびインド洋を拡張させた領域と受け取られる場合もある<ref name="iho-ohi.net"/>。1937年のIHO『Limits of Oceans and Seas』第2版では「南極大陸周囲の海域」と定義されていたが、1953年の第3版では「(南極海の)北限は季節的な影響もあり、境界を設定しがたい」と述べられて定義の一覧から外され、代わりに南太平洋・南大西洋・インド洋の南限を南極大陸まで広げた<ref name="iho-ohi.net"/>。 2000年にIHOはこの問題に関し、海洋調査の結果について聞き取りを行った。これに対し、加盟68か国中28か国から回答があり、海流を重視する海洋学者の意見が反映され、[[アルゼンチン]]以外は新しい大洋の定義設定に合意した。名称の選出では、「Southern Ocean」(南氷洋・南大洋)が18票を得て、「Antarctic Ocean」(南極海)を上回った。境界線については、投票の結果陸地で分断されない[[南緯60度線]]に半分が賛同し、他の14票のうち[[南緯50度線]]が次点、最も北側に設定された[[南緯35度線]]も若干の賛同を得た。しかし、『Limits of Oceans and Seas』第4版はオーストラリアが批准を拒否し、公表は見合わされた<ref name="Darby"/>。このような経緯に関わらず、事実上第4版の結論は多くの組織、学者らや国家に加えIHOさえ用いている<ref>{{cite web|url=http://www.iho.shom.fr/REG_HYD_COM/HCA/HCA3/HCA3-6.3B_Report_on_IBCSO.pdf|title=Proposal for the preparation of a new International Bathymetric Chart of the Southern Ocean|coauthors=IHO International Hydrographic Committee on Antarctica|date=10 September 2003|publisher=International Hydrographic Organization|accessdate=7 January 2010}}</ref>。 しかし、国によっては独自の南氷洋の定義を用いている。例えば[[イギリス]]は[[南緯55度線]]を採用している<ref name="iho-ohi.net"/>。オーストラリアの地図製作当局は、南氷洋に自国と[[ニュージーランド]]南岸までを含む解釈を施している<ref>{{cite web| url=http://aadc-maps.aad.gov.au/database/mapcat/antarctica/aust_to_ant_jan04.pdf| title= Map showing Australian definition of the Southern Ocean| format=PDF|accessdate=2012-01-20}}</ref>。だがニュージーランドはこの解釈に賛同していない<ref>{{cite web| url=http://www.linz.govt.nz/docs/placenames/se-asia.jpg| title= InfoMap: Asia, South-East; Pacific, South-West| format=JPEG|accessdate=2012-01-20 }}</ref>。 == 区分帯 == [[ファイル:Oceanic divisions.svg|300px|thumb|主な大洋の区分|alt=本図は、海岸線からの距離と水深によって分けられる大洋の区分を示す。]] 大洋は、物理学的および生物学的な諸条件に応じて区分される<ref name="Gro126">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.126-128、IV 地質学から見た海 海洋底はどんな姿をしているのか]]</ref>。大洋のすべての部分である[[漂泳区分帯]] (pelagic zone) は、水深や光の到達度合いによって分割される。[[有光層]] (Photic zone) または表層<ref name="Nishi5">[[#西村1981|西村 (1981)、pp.5-8、海のひろがりと生態区分]]</ref>とは生物が太陽光を感知できる限界までの層を指し<ref>{{Cite web|和書| url=http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/FU/EE06_10.html|title=生物圏(その2:海域生態系‐水産)|publisher=[[広島大学]]地球資源研究室|accessdate=2012-01-20}}</ref>、深度100-200mまでの層を指す<ref name="Robin">{{cite web| url= http://www.ldeo.columbia.edu/~rroberts/Lect-12.pdf |format=PDF|title=Marine Ecology |author=Robin Robertson |publisher=[[コロンビア大学]] |accessdate=2012-01-20}}</ref>。ただし、水深100-200mの部分は薄光層 (Dysphotic/Disphotic zone) とも呼ばれ、到達する太陽光は5%未満に過ぎず充分な光合成が難しい<ref name="Robin" />。ここよりも深い水深200m以上の[[無光層]] (Aphotic zone) 部分<ref name="Robin" />では一部の例外を除き光合成生物が生存できない<ref>{{cite report|和書 |author=研究代表者 宗林留美 |year=2009 |title=海洋中層における光合成生物の生存戦略と生元素循環へのその影響 |report=平成19年度~平成20年度科学研究費補助金(若手研究(B))研究成果報告書 |publisher=静岡大学 |volume=研究課題/領域番号 19710009 |url=https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19710009 |id={{CRID|1040282257460219648}}}}</ref>。 遠洋の有光層は表海水層 (epipelagic) とも呼ばれ、無光層は垂直方向に複数の層へ区分される。{{仮リンク|中深層|en|mesopelagic}} (mesopelagic) はその中でも上部に位置する領域で、水深1000mまでが該当する。次の[[漸深層]] (bathypelagic) は、水深2000-3000m<ref name="Nishi5" />程度までに当たる。[[深海平原]]の上部から水深約6000m前後までは[[深海層]] (abyssalpelagic) と呼ばれる。その下は海溝を含む最も深い領域である[[超深海層]] (hadalpelagic) がある<ref name="Robin" /><ref name="Paul294">{{cite web|url=https://books.google.co.jp/books?id=a2QJNVbdjTYC&pg=PA294&lpg=PA294&dq=abyssalpelagic+hadalpelagic+mesopelagic&source=bl&ots=K-0l99lS4p&sig=5v5Ppqm8eoz3IER7E7Gl_bx4i7A&hl=ja&sa=X&ei=03kKT-C8DpCemQX_mfDXAg&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=abyssalpelagic%20hadalpelagic%20mesopelagic&f=false|title=Invitation to Oceanography |author=Paul R. Pinet |pages=294 |accessdate=2012-01-20}}</ref> [[ファイル:Ocean Zones.jpg|200px|thumb|left|海岸線からの距離による海の区分と、そこに生きる海洋生物の例。]] 漂泳区分帯は、無光層部分の{{仮リンク|水体の底辺|en|benthic}}形状によっても区分される。これは、[[深海]]の3つの形状に対応する。[[漸深層]] (bathyal zone) は大陸棚が4000mまで落ち込んでゆく領域を示し、深海域 (abyssal zone) は海底が4000-6000m、[[超深海帯]] (Hadal zone) は超深海帯に対応する最下層に当たる<ref name="Robin" /><ref name="Paul294" />。 漂泳区分帯はまた、{{仮リンク|沿岸地帯|en|neritic zone}} (neritic zone) と{{仮リンク|海洋地帯|en|oceanic zone}} (oceanic zone) の2つにも分けることができる。沿岸地帯は大陸棚部分の水域に対応し、海洋地帯は開水面全域を指す<ref>{{cite web|url= http://www.onr.navy.mil/focus/ocean/regions/bluewater1.htm |title=Blue Water - Characteristics |publisher=Science & Technology Focus |accessdate=2012-01-20}}</ref>。また、[[沿岸帯]] (littoral zone) と[[潮間帯]] (intertidal zone) という区分もある。前者は満潮と干潮の間に位置し、海と陸の境界に当たる部分である。後者は潮位が領域に影響を与える部分である<ref>{{cite web|url= http://www.rjd.miami.edu/learning-tools/high-school/MODULE%201%20Ocean%20and%20Coastal%20Habitat%20-%20SECTION%204%20Intertidal%20Zones.pdf|format=PDF |title=Marine conservation science and policy service learning program |publisher=R.J. Dunlap Marine Conservation Program |accessdate=2012-01-20}}</ref>。 == 物理的性質 == === 海水 === {{See|海水}} 世界海洋の面積は361億平方キロメートル(1億3900万平方マイル)である<ref name="encarta">{{cite web| publisher = Encarta| title = The World's Oceans and Seas| url = http://encarta.msn.com/media_461547746/The_World's_Oceans_and_Seas.html| archiveurl = https://web.archive.org/web/20060224072644/http://encarta.msn.com/media_461547746/The_World%27s_Oceans_and_Seas.html| archivedate = 2006年2月24日| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。体積は13億立方キロメートル(3億1000万立方マイル)<ref>{{cite web| last = Qadri | first = Syed| title = Volume of Earth's Oceans| work = The Physics Factbook| year = 2003| url = http://hypertextbook.com/facts/2001/SyedQadri.shtml| accessdate = 2007-06-07 }}</ref>であり、立方体に換算すると一辺は1111kmとなる。平均深度は3790メートル(12430フィート)、最大深度は10923m(6787マイル)である<ref name="encarta" />。世界海洋面積の半分以上は3000mを超える深さである<ref name="UNAoO"/>。水深200mを上回る広大な水域は地球表面の66%を占める<ref>{{cite web| last = Drazen| first = Jeffrey C.| title = Deep-Sea Fishes| publisher = School of Ocean Earth Science and Technology, University of University of Hawai{{okina}}i at M?noa| url = http://www.soest.hawaii.edu/oceanography/faculty/drazen/fishes.htm| accessdate = 2007-06-07| archiveurl = https://web.archive.org/web/20070704060131/http://www.soest.hawaii.edu/oceanography/faculty/drazen/fishes.htm| archivedate = 2007年7月4日| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。これらの数字は、[[カスピ海]]など外洋と接続していない海は含まれない。 === 色 === {{Main|水の青}} 大洋の[[蒼]]みがかった[[色]]は、複数の要因が絡み合い作られている。特に影響を与えるものは、[[溶融]]した[[有機物]]と[[クロロフィル]]である<ref name="Coble">Paula G. Coble "Marine Optical Biogeochemistry:  The Chemistry of Ocean Color" Chemical Reviews, 2007, volume 107, pp 402–418. {{DOI|10.1021/cr050350}}</ref>。しかし、沿岸の海域で見られる土砂の色([[黄海]])、[[藻類]]の色([[紅海]])または[[植物性プランクトン]]の黄色が混ざり見られる碧色にはあまりならない<ref name="Gro44">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、p.44、I 物理学から見た海 海はなぜ蒼いのか]]</ref>。[[黒潮]]は見た目の色から名づけられたものだが、この海流は含有物質が少なく[[透明度]]が高いため、[[波長]]が短い[[青|青色]]を比較的吸収せず、青黒く見える事を由来とする<ref name="New1008-22">[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.22-23、何が「黒潮」をつくりだしているのか]]</ref>。 == 大洋の地質 == {{Main|海洋地質学}} === 海洋性地殻 === 大洋の海底は[[海嶺]]で生じ、接続する2つの[[プレートテクトニクス|プレート]]となる([[海洋底拡大説]])<ref name="Tai24">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.24-28、第一章 プレートテクトニクスの創造 海洋底拡大説の証明]]</ref>。これは双方向に移動し、[[沈み込み帯]]で他の海洋または大陸[[プレート]]とぶつかり、その下へもぐりこむ<ref name="Gro123">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.123-125、IV 地質学から見た海 地震がなぜ起こるのか]]</ref>。海嶺は、大西洋やインド洋においては大洋の中央部に位置し、それぞれ[[大西洋中央海嶺]]、[[中央インド洋海嶺]]と呼ばれる<ref name="Gro126">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.126-128、IV 地質学から見た海 海洋底はどんな姿をしているのか]]</ref>。太平洋のプレートはアメリカ沖の[[東太平洋海膨]]で形成される<ref name="Tai52">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.52-54、第一章 プレートテクトニクスの創造 プレートテクトニクスの提唱]]</ref>。 海洋性地殻は、生じた海嶺からゆっくり移動する。大西洋では年間約4cmの速度で東西に拡大し<ref name="Tai24" />、[[太平洋プレート]]は大西洋の2倍程度の速度で移動する<ref name="Tai49">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.49-52、第一章 プレートテクトニクスの創造 地磁気の縞模様]]</ref>。この地殻部分は[[海盆]]または深海底・海底平原と呼ばれる<ref name="Gro126" />。この地殻に含まれる[[鉄]]などの強磁性体は、[[地磁気]]の方向に配列されて固まる(残留磁気)。しかし地球磁場は[[地磁気逆転]]を起こすなど一定していないため、残留磁気は海嶺を中心に左右対称の縞模様として現れる。この変化から、過去の地球磁場がどのように変化したかを知ることができる<ref name="Tai255">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.255-256、巻末用語集]]</ref>。 海洋性地殻が他の地殻と衝突する際には、一方が地球内部に沈み込んで<ref name="Yamaga2-2-14">{{Cite web|和書|url= http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/platetectonics-01.htm |title=第二部-2- 地球の科学 第14章 プレートテクトニクスとプルームテクトニクス|author=山賀進|publisher=Science & Technology Focus |accessdate=2012-01-20}}</ref>、海盆から約2kmほど深い非対称V字形状の<ref name="HiroshimaKa" />[[海溝]]を作る場合がある<ref name="Gro123" />。地球に存在する海溝27ヵ所のうち22ヵ所は太平洋に存在し、東側の海溝は特に深い<ref name="HiroshimaKa" />。海洋性地殻の沈み込む部分は、太平洋西部の[[日本列島]]のように島弧を作る場合と、東部[[チリ]]側のように作らない場合がある<ref name="Yamaga2-2-14" />。 === 堆積層 === 陸地に近い部分は堆積物がたまり、海底には傾斜ができる。{{仮リンク|コンチネンタルライズ|en|Continental rise}}は海盆から傾斜が始まる部分であり、陸地起源の堆積物が到達する端に当たる。しかし陸地側に海溝がある所では形成されない<ref name="Gro126" />。深度3300-1500mあたりからは[[大陸斜面]]が続き、泥や砂および砂利や岩などに加えて貝殻も5%程度混ざる堆積物が積みあがりながら深度約180m程度まで急な傾斜が続く<ref name="Gro126" />。この先には、陸地まで続く[[大陸棚]]がある<ref name="Gro126" />。 これらに比べ、海盆の堆積物は陸地由来の物質は少なく、主に[[微生物]]由来の[[軟泥]]である。大洋の表層部分は栄養素が豊富にあり、発生した微生物が死滅するとゆるやかに沈殿してゆき深層部分にたまる。ただし堆積する物質は主に骨格や石灰質である<ref name="Gro134">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.134-136、IV 地質学から見た海 海洋底の堆積物はどんなものでできているか]]</ref>。この他にも、気流に乗り到達した細かな鉱物粒子や、噴火で巻き上げられた火山灰<ref name="Tai86">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.86-87、第三章 激変した地球環境 地球に何が起こったのか]]</ref>、海底火山の噴出物や宇宙塵<ref>[[#丸川1932|丸川 (1932)、pp.48-66、第五節 海洋沈殿物]]</ref>なども含まれる。これらは遠洋性堆積物と呼ばれる<ref name="Tai86" />。 [[ファイル:EmperorSeamounts.jpg|200px|thumb|ハワイ‐天皇海山列]] === 火山地形 === 大洋地形の中には、海底からそびえる山や丘もある。この典型的な例が太平洋の[[ハワイ諸島]]と[[天皇海山群]](ハワイ‐天皇海山列)である。ハワイ諸島東端の[[ハワイ島]]は[[活火山]]の[[マウナ・ロア山]]・[[キラウエア火山]]を持つ[[島#火山島|火山島]]である。この地下には、[[マントル]]層から[[マグマ]]が湧き上がる[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]があり、海洋性地殻上まで噴きあがり火山島を形成する。しかし[[太平洋プレート]]は西へ移動しているため、火山島はホットスポットからずれて火山活動による島形成がやがて止む。その後、[[侵食]]作用と海洋性地殻の沈み込みから島の標高は徐々に低くなり、やがて海面に没して[[海山]]となる<ref name="Yamaga2-2-7">{{Cite web|和書|url= http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/kazan-02.htm |title=第二部-2- 地球の科学 第7章 火山(2) |author=山賀進|publisher=Science & Technology Focus |accessdate=2012-01-20}}</ref><ref name="Tai45">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.45-49、第一章 プレートテクトニクスの創造 ホットスポット仮説]]</ref>。ハワイ‐天皇海山列は、同じホットスポットから形成された海底火山が[[雄略海山]]を境に列の方向を変えており、約4300万年前に太平洋プレートの移動方向に変化が起こった事を示している<ref name="Tai45" />。 この火山島が侵食を受ける過程で、[[熱帯]]において島の周辺で形成された[[サンゴ礁]]が充分に発達すれば、島が水没した後もサンゴ礁による[[環礁]]が海面上に残る<ref name="Yamaga2-2-7" /><ref name="Tai45 P28-31">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.28-31、第一章 プレートテクトニクスの創造 サンゴ礁の掘削]]</ref>。 == 海流 == {{Main|海流}} [[ファイル:エクマン輸送と海流.png|right|thumb|300px|エクマン輸送の作用によって生じる海流と海面の高低差]] === エクマン輸送が生む海面の高低差 === [[ファイル:Ekman spirale.jpg|エクマン輸送。海上を吹く風による水の流れは[[コリオリの力]]の影響を受ける。|thumb|100px|left]] [[海流]]を起こす力には、[[風]]または海水の[[密度]]<ref name="Gro27">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.27-31、I 物理学から見た海 海流はなぜ起こるのか、海流はどんな働きをしているのか]]</ref>および高低差<ref name="New1008-24">[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.24-25、海流はどのようにして生まれるのか]]</ref>等があり、[[陸地]]や海底の形状または水深の影響を受ける<ref name="Gro27" />。大洋のような深い海では、これら海流を起こす作用に地球の自転から生じる[[コリオリの力]]が大きく影響し、その方向が曲げられる。恒常的に吹く風が大洋表面の水を風向きと同方向に動かそうとすると、そこにコリオリの力が加わって北半球では右に、南半球では左に振られる。この表面流の動きは直下の水も動かそうとするが、これにもコリオリの力が影響して更に振られてゆく。これが力を弱めながら深い水深まで段階的に積み重なり、海水全体では表面流以上の角度を持つ方向に流れる<ref name="New1008-24" />。沿岸など浅い海ではその角度は15度程度にとどまるが<ref name="Gro27" />、深い海では45<ref name="Gro27" />-90度<ref name="New1008-24" />にまで及ぶ。これは[[エクマン輸送]]と呼ばれる<ref name="New1008-24" />。 北半球の場合エクマン輸送によって、西風の[[偏西風]]は南向きに、東風の[[貿易風]]は北向きにそれぞれ海水を動かす。そしてこの間に水が集まり、海面が盛り上がる。すると今度は高い所から低い方への流れが生じるが、ここにもエクマン輸送の影響が及び方向が曲げられる。この結果、偏西風と貿易風の間には海面が高い場所が生じ、これを周回するように海流が生じる<ref name="New1008-24" />。この結果、北太平洋では[[日本列島]]南海上の水面が最も高くなり、逆に最も低くなる[[カムチャツカ半島]]沖とは[[ジオイド]]からの高低差が1m以上になる<ref name="New1008-22" />。北大西洋では[[フロリダ半島]]東沖合が最も高くなる<ref name="New1008-26">[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.26-27、北海道よりも北にあるロンドンが温暖な理由とは]]</ref>。 === 赤道の湧昇と潜流 === [[赤道]]上に吹く貿易風による大洋への影響は、エクマン輸送によって南北半球で相反する作用を大洋に与える。すなわち、北半球では北に、南半球では南に海水を動かす。これは海面の水を排斥する動きであり、それを埋めるべく下層の比較的冷たい海水が上昇する。太平洋東部で顕著なこの現象は赤道[[湧昇]]と呼ばれ、結果的に赤道部分の大洋表面温度が相対的に低くなる<ref>[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.38-39、暖かいはずの赤道の海水が冷たい不思議]]</ref>。貿易風が弱くなることが数年に一度あり、この低温域に太平洋東部の暖かい海水が移動する現象が[[エルニーニョ・南方振動]]を起こし<ref>[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.40-41、こうしてエルニーニョ現象が起こる]]</ref>、地球の各所に異常気象をもたらす<ref>[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.42-43、エルニーニョが世界中に異常気象をもたらす]]</ref>。 [[ファイル:Thermohaline Circulation 2.png|海洋大循環の要約図。青線は深海流を、赤線は表層流を表す。|thumb|200px|right|alt=海水が大洋中をどのように通っているかを着色線で示す世界地図。冷たい深層水は太平洋の中心部やインド洋で温められ上昇し、暖かい表層水はグリーンランド南北大西洋、南極海で冷やされ沈んでゆく。]] === 海洋大循環 === 深海の水温は熱帯地方でも2℃前後と低い。その理由は太陽光が届かず温められないためと考えがちだが、これは誤りである<ref name="Tai45 P101-104">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.101-104、第三章 激変した地球環境 白亜紀の世界]]</ref>。深海の海水は、両極に近い箇所で冷やされて沈み込み、それが大洋を地球規模の広さで流れることによって供給されている。これを海洋大循環<ref name="New66884-11">{{Cite journal|和書|author=編集長:[[竹内均]]|year=2009|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊 太陽と惑星|pages=42-43|chapter=大洋と地球、そして月 太陽光が海洋大循環を引きおこす|isbn=978-4-315-51859-7|publisher=[[ニュートンプレス]]}}</ref>または[[熱塩循環]]<ref name="YamaNaka">{{Cite web|和書|url= http://ksgeo.kj.yamagata-u.ac.jp/~kazsan/class/chronology/great_circulation.html|title=カイ用水の大循環(熱塩循環)と気候変動|author=中島和夫|publisher=[[山形大学]]理学部地球環境学科 大学院理工学研究科地球環境学専攻 |accessdate=2012-01-20}}</ref>という。 大洋大循環のモデルは、グリーンランド沖で冷却され、塩分濃度が増し密度を高めた<ref name="YamaNaka" />海水が一気に水深約2500mまで沈下することで始まり、大西洋底を南下して南極の[[ウェッデル海]]まで流れ、そこで同じように冷やされ沈み込んだ海水と合流する。この冷たい水は南極大陸を東向きに周回しながら、インド洋や太平洋の深海に向けた支流を作る。これら支流はそれぞれの大洋で表層に湧きあがり、温められると南下して再び南へ向かう。そして南氷洋外周を通って大西洋表層を北上し、グリーンランド沖へ戻る<ref name="New66884-11" /><ref name="YamaNaka" />。この循環は1000<ref name="YamaNaka" />-1500年<ref name="New66884-11" />をかけてゆっくり一巡すると考えられている。 == 気候への影響 == === 海流がつくる気候 === 北大西洋を南西から北東へ流れる[[メキシコ湾流]](ガルフストリーム)は、西ヨーロッパを温暖な気候に保つ働きを担う。この海流は熱帯・亜熱帯気候で温められたフロリダ半島付近の海水を、遥か遠くの[[ブリテン島]]沖まで運ぶ。これにより周辺の陸地は温暖になり、例えば北緯45度の[[稚内]]は年間平均気温が6.6℃にとどまるのに対し、北緯51度に位置する[[ロンドン]]の平均気温は10.0℃にもなる<ref name="New1008-26" /><ref group="注">西ヨーロッパの温暖な気候を説明する仮説には、[[海盆]]の風下に位置しているためであり、また[[大気波]]が[[亜熱帯]]から北に暖かい空気を運んでいるためというものもある。([http://www.americanscientist.org/issues/feature/2006/4/the-source-of-europes-mild-climate The Source of Europe's Mild Climate/American Scientist]、[http://www.realclimate.org/Rhines_hakkinen_2003.pdf Is the Oceanic Heat Transport in the North Atlantic Irrelevant to the Climate in Europe?/ASOF Newsletter] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070716003623/http://www.realclimate.org/Rhines_hakkinen_2003.pdf |date=2007年7月16日 }})</ref>。 === モンスーン === 海岸線で昼と夜にそれぞれ吹く[[海陸風|海風と陸風]]のメカニズムと同じ現象が、大洋と大陸の間で大規模に発生して[[アジア]]の[[モンスーン]]となる。[[夏]]の6-8月は[[インド亜大陸]]が相対的に暖かくなって上昇気流を生み、この地域の気圧は低くなる。すると低温のインド洋が高気圧状態になり、そこから南風が流れ込む。この風向きはコリオリの力の影響を受けて北東方向に振られ、[[中国大陸]]や日本列島まで吹きつけ、日本に[[梅雨]]を発生させる。12-2月にはこの関係が逆になり、[[大陸性高気圧]]が優勢となり北東から南西へ風が流れる<ref name="New1008-32">[[#ニュートン (2010-8)|ニュートン2010年8月号、pp.32-33、モンスーンや梅雨はどうしておきるのか]]</ref>。 == 大洋の生物 == {{Main|生物海洋学}} === 表層の生食連鎖 === 発生から30億年間にわたり、[[生命]]は大洋中で[[進化]]を果たした。深度と海岸からの距離は、その生活圏ごとに[[植物]]や[[動物]]の多くの種が形成されることに影響した<ref name="C&C" />。大洋ではそれぞれの深さにおいて多様な生物が生息するが、水深5400m以上の深海ではその数は少なくなる<ref name="Gro88">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.88-90、III 生物学から見た海 魚は海洋のどんなところに棲んでいるのか]]</ref>。 また特に大洋の表層は、[[食物連鎖]]における[[生食連鎖]](生きた生物を直接食べる連鎖)が成立している場所である。陸上や河口また沿岸などでは、植物や藻など[[光合成]]生物がその死後に食べられる[[腐食連鎖]]の比率が高いが、大洋表層部では[[植物プランクトン]]に始まる食物連鎖が、それぞれ上位階層生物に生きたまま捕食される体系が成り立つ。植物プランクトンは主に動物プランクトンに食われ、それを主に小型の魚や[[イカ]]類が食べる。そして、これらの生物が[[マグロ]]・[[カジキ]]・[[サメ]]など大型の肉食生物の食物となる。そして、それぞれの個体は連鎖の低位になるほど個体数が多く、典型的なピラミッド構造をつくる<ref>[[#西村1981|西村 (1981)、pp.71-72、章II 外洋の植民 植民の順序]]</ref>。 === 深海に棲む生物 === 19世紀前半の海洋生物学者[[エドワード・フォーブス]]は、約540m以上の深海で生物は生息できないと考えた。しかしその後、もっと深い水域にも多くの生物が棲んでいることがわかった<ref name="Gro8">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.8-12、はじめに 十八‐十九世紀の活躍した人は、どんな功績を残したか]]</ref>。水深6000mよりも深い超深海層においても、[[深海魚]]の[[シンカイヨロイダラ]]や[[クサウオ科]]の一種、また[[ヨミノアシロ]]などが確認された<ref>{{Cite web|和書|url= http://museum-sv.museum.hokudai.ac.jp/activity/symposium/symposium8/ |title=深海魚の多様性 特殊な環境に適応した生物たち|author=今村央|publisher=[[北海道大学]]総合博物館第8回公開シンポジウム|accessdate=2012-01-20}}</ref>。 深海底の[[熱水噴出孔]]も生物が棲む特徴的な場所である。光合成生物が生きられないこのような場所では、噴出する熱水に含まれる[[硫化水素]]をエネルギー源とするバクテリアを食べる[[エビ]]・[[カニ]]や[[フジツボ]]、[[チューブワーム]]、[[イソギンチャク]]や[[貝類]]などが密集状態で生息している<ref>{{Cite web|和書|url= http://www-es.s.chiba-u.ac.jp/paleo/topics/vent.html|title=深海熱水噴出孔とは|author=上岡雅史|publisher=[[千葉大学]]理学部地球科学課 地史古生物学研究室|accessdate=2012-01-20}}</ref>。 == 人類の大洋認識 == [[ファイル:Anaximander world map-ja.svg|right|thumb|150px|古代ギリシアの世界観。]] === 大洋航海の歴史 === [[先史時代]]には人類は大洋に漕ぎ出していた。アフリカを起点とする人類の大移動は、[[ポリネシア人]]による粗末な[[カヌー]]等を用いた太平洋諸島や[[ニュージーランド]]まで達していた<ref name="Uda16">[[#宇田1969|宇田 (1969)、pp.16-19、II 海はどのように開発されてきたか 世界の海洋探検調査]]</ref><ref name="Gro4">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.4-7、はじめに はるかな昔、どんな人が海洋を調べたのか]]</ref>。世界を包括する地理観を確立した[[古代ギリシア]]では、地球は平面で、彼らが認識可能なヨーロッパ・西アジア・北アフリカの3大陸と地中海が世界であり、その外側はオケアノスという境界不明な塩水の大河で取り囲まれていると考えていた<ref name="Gro4" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No10/07matsumoto.pdf|format=PDF |title=言語と文化 No.10 帝国の隠喩的世界|author=松本一喜|publisher=[[愛知大学]]名古屋語学教育研究室|accessdate=2012-01-20}}</ref>。ただし地球を球体と考える学者たちも存在し、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は天文学書『アルマゲスト』に緯度と経度が表記された曲面の地図を作成した。この地図の中では、インド洋は内海として書かれている<ref name="Masu79">[[#増田1979|増田 (1979)、pp.79-91 地理学者コロンブス インディアスはインドではない]]</ref>。 中世までに、[[航海術]]の発展に伴う海上交易が行われるようになり、その主役は[[アラビア人]]たちが担った。また、陸路[[元 (王朝)|元]]へ到達した[[マルコ・ポーロ]]の帰路<ref name="Masu79" />や[[明]]の[[鄭和]]も大航海を行ったが、これらは沿岸部に沿うものだった<ref>{{Cite book|和書|title=出身地でわかる中国人|author=宮崎正弘|pages=217-218|year=2006|publisher=PHP研究所|url=https://books.google.co.jp/books?id=_M-F_jnYg-wC&pg=PT221&dq=%E9%84%AD%E5%92%8C&hl=ja&sa=X&ei=WLImT7GpGKbNmQXC4IGuDA&ved=0CDkQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E9%84%AD%E5%92%8C&f=false|ISBN=4-569-64620-4}}</ref>。[[大航海時代]]初期に[[エンリケ航海王子]]が指導したアフリカ航路と<ref name="Masu16">[[#増田1979|増田 (1979)、pp.16-22 航海者コロンブス 海に出る]]</ref>、[[バルトロメウ・ディアス]]が[[喜望峰]]を発見しインド洋が外洋であることを知らしめた航海も、この例に漏れなかった<ref name="Masu79" />。 1492年に出発した[[クリストファー・コロンブス]]の航海と同様に、ヨーロッパから西へ漕ぎ出そうという試みは以前からあった。しかしそれらは[[ヴァイキング]]遠征の一環であったり<ref name="Uda16" />、伝説の地を目指すなどあやふやなもので、偏西風やガルフストリームにことごとく阻まれていた<ref name="Masu74">[[#増田1979|増田 (1979)、pp.74-78 地理学者コロンブス コロンブスの航海目標]]</ref>。コロンブスが画期的だった点は、結果的に小さく見積もっていたが地球の大きさを推測し、またジパングという明確な目標を定める高い計画性に裏打ちされた点である<ref name="Masu74" />。彼は大西洋を真西に進むため、いったん[[カナリア諸島]]まで南下する航路を取り、結果的に[[貿易風]]に乗ったことで大西洋横断に成功した<ref name="Masu79" />。以後、16世紀前半には[[フェルディナンド・マゼラン]]一行が世界一周を果たし、人類が大洋を盛んに渡る時代が到来した<ref name="Gro7">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.7-8、はじめに ルネサンス全盛のころ、探検家は海洋について何を知ったのか]]</ref>。 [[ファイル:Primer viaje de Colón.svg|right|thumb|300px|コロンブスの第一回航路。]] === 初期の大洋探査 === コロンブスは大西洋を横断中に海洋生物の採集、海流や気候の記録等を残し、[[サルガッソ海]]も発見した。マゼランは太平洋の水深調査を何度も行ったが、彼が用いた綱の長さは360mでしかなかった<ref name="Gro7" />。 18世紀には、航海に必要な系統立った海洋研究が行われた。[[ベンジャミン・フランクリン]]は北大西洋の海水温度測定を行い、ガルフストリームの詳細を明らかにした。南氷洋を航海し、ハワイ諸島を発見した[[ジェームズ・クック]](キャプテン・クック)も水温測定や1200mまでの水深調査を行った。彼はまた、航海に博物学者や天文学者らを同行させる端緒を開いた。19世紀に入るとスコットランドの[[ジョン・ロス (北極探検家)|ジョン・ロス]]、ロシアの[[ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン|ベリングスハウゼン]]、イギリスの[[ジョージ・パウエル]]や[[ジェイムス・ウェッデル]]そして[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]らが水深や水温の調査を重ねた<ref name="Gro8" />。エドワード・フォーブスは海洋生物学に大きな足跡を残した<ref name="Gro8" />。近代的な海洋物理学はアメリカの海軍大尉[[マシュー・フォンテーン・モーリー]]に始まる<ref name="Gro12">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.12-15、はじめに 注目すべき最初の海洋学者は誰か]]</ref>。 === 国際的な大洋調査へ === 本格的な海洋調査の嚆矢は、1872 - 1876年に行われたイギリスの[[チャレンジャー (コルベット)|チャレンジャー号]]による探検と言われる<ref name="Uda16" /><ref name="Gro16">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.16-19、はじめに 科学としての海洋学はいつ始まったのか]]</ref>。362か所にわたる地球規模の水深測定や海流・生物等の調査は<ref name="Gro16" />50巻の膨大な報告書に纏められ出版された<ref name="Uda16" />。その後、[[ドイツ]]・[[スウェーデン]]・[[デンマーク]]・[[ソビエト連邦]]などの探検船が様々な調査を行った<ref name="Uda16" />。1892年頃からは国際的な協力体制による調査も始まり、1902年には{{仮リンク|国際海洋探求会議|en|International Council for the Exploration of the Sea}} (ICES) が設立され、各方面の調査研究が行われた<ref name="Uda16" />。 [[ファイル:Ocean gravity map.gif|right|thumb|300px|世界海洋底の地図。1995年、[[アメリカ海洋大気庁]]]] === 大陸移動説からプレートテクトニクスへ === 20世紀初頭、ドイツの[[アルフレート・ヴェーゲナー]]が提唱した[[大陸移動説]]はあまりに先駆的過ぎ、移動を起こす動力の説明ができなかったため賛同を得られなかった<ref name="Tai18">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.18-21、第一章 プレートテクトニクスの創造 ウェゲナーの大胆な仮説]]</ref>。しかし、アメリカが[[第二次世界大戦]]中から継続した、音波による海底地形の調査から、大西洋の中心に大規模な海底山脈([[大西洋中央海嶺]])が発見された。この地質構造を調査した[[モーリス・ユーイング]]らによって、海嶺を挟んだ対称構造と、離れるほどに堆積物が厚くなる様子が明らかになった<ref name="Tai22">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.22-24、第一章 プレートテクトニクスの創造 海底調査から大陸移動説が復活]]</ref>。1960年代には、中央海嶺が火山の連なりと判明し、[[ハリー・ハモンド・ヘス]]と[[ロバート・シンクレア・ディーツ]]によって[[海洋底拡大説]]が提唱された。この証明を目指し立案された[[モホール計画]]は[[深海掘削計画]]へ発展し、海洋底の拡大が確認された<ref name="Tai22-P24-28">[[#平ら2005|平ら (2005)、pp.24-28、第一章 プレートテクトニクスの創造 海洋底拡大説の証明]]</ref>。海洋底調査はさらに[[国際深海掘削計画]]の段階へ進み、海洋性地殻の分布を地球規模で解き明かし、また残留磁場の縞模様から地殻が拡大した経過も知らしめた<ref name="Tai49" />。これらの結果を踏まえ、海洋底拡大説はプレートテクトニクスへと発展した<ref name="Tai52" />。 === 海底資源 === 大洋の海底は学術的研究対象だけでなく、[[鉱物]]資源の供給元としても期待されている。大西洋と太平洋の海底には[[マンガン団塊]]と呼ばれる[[マンガン]]・[[ニッケル]]・[[銅]]・[[コバルト]]などの[[金属]]を含む塊が非常に広く転がっている。これがどのように形成されたのかはわかっていないが、経済的に見合う手段で引き上げることが出来れば、有効な資源となる<ref name="Gro137">[[#グロウブズ1990|グロウブズ (1990)、pp.137-141、IV 地質学から見た海 マンガン団塊とは何か、それはどんな役に立つのか]]</ref>。その他にも、[[燐灰石]]・グロビゲリナ軟泥([[有孔虫]]軟泥等)・[[珪藻]]軟泥・赤粘土などの深海底資源が期待される<ref name="Uda36">[[#宇田1969|宇田 (1969)、pp.36-41、III 海底とその資源 海底鉱物資源と深海堆積物]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} <!-- === 脚注2 === 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。 {{Reflist|group="2-"}} --> == 参考文献 == *{{Cite book|和書|title=海|author=宇田道隆|authorlink=宇田道隆|publisher=岩波書店|year=1969|edition=第1刷|ref=宇田1969}} *{{Cite book|和書|title=海洋学|author=丸川久俊|publisher=厚生閣|year=1932|url=https://books.google.co.jp/books?id=FoYMLFGXvjYC&pg=PA28&dq=%E5%A4%A7%E6%B4%8B%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90&hl=ja&sa=X&ei=8S4UT7vjBIrKmAW3gtWBCg&ved=0CEoQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E6%B4%8B%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90&f=false |ref=丸川1932}} *{{Cite book|和書|title=海の不思議がわかる本|author=D・グロウブズ|publisher=HBJ出版局|year=1990|edition=第1刷|isbn=4-8337-6024-X|ref=グロウブズ1990}} *{{Cite book|和書|title=地球の内部で何がおこっているのか|author=平朝彦、徐垣、末廣潔、木下肇|publisher=[[光文社]]新書|year=2005|edition=第1刷|isbn=4-334-03314-8|ref=平ら2005}} *{{Cite journal|和書|author=編集長:[[竹内均]]|year=2010|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]2010年8月号、雑誌07047-08|publisher=[[ニュートンプレス]] |ref=ニュートン (2010-8)}} *{{Cite book|和書|title=地球の海と生命:海洋生物地理学序説|author=西村三郎|year=1981|publisher=海鳴社|url=https://books.google.co.jp/books?id=Sta-wY2JKfwC&pg=PA34&dq=%E5%A4%A7%E6%B4%8B%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90&hl=ja&sa=X&ei=FqYmT4DkNqyUmQXyl4yuDA&ved=0CDYQ6AEwAA#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E6%B4%8B%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90&f=false|ISBN=4-87525-087-8|ref=西村1981}} *{{Cite book|和書|title=コロンブス|author=増田義郎|authorlink=増田義郎 |publisher=岩波新書|year=1979|edition=第1刷| ref=増田1979}} == 読書案内 == * Matthias Tomczak and J. Stuart Godfrey. 2003. ''Regional Oceanography: an Introduction''. (see [http://www.es.flinders.edu.au/~mattom/regoc/ the site]) * "[https://web.archive.org/web/20070915012040/https://www.oceansatlas.com/unatlas/about/howoceanswereformed2/originsofoceans/originofocean2jte.html Origins of the oceans and continents]". ''[http://www.oceansatlas.com/ UN Atlas of the Oceans].'' * Pope, F. 2009. From eternal darkness springs cast of angels and jellied jewels. ''in'' '''The Times'''. November 23. 2009 p.&nbsp;16–17. == 関連項目 == === 海洋学、海洋史 === * [[海面上昇]] * [[海況]] * [[七つの海]] === 国連関係 === * [[国際海事機関]] * [[海洋法に関する国際連合条約]] * [[世界海洋デー]] === 環境 === * [[漂流・漂着ごみ]] * [[海洋汚染]] == 外部リンク == {{commons}} {{wikiquote|Oceans}} {{Wiktionary}} * {{Curlie|Science/Environment/Water_Resources/Oceans|Oceans}} * [http://www.noaa.gov/ocean.html National Oceanic and Atmospheric Administration] * [http://www.buoyweather.com Marine forecasts for any ocean point] – Buoyweather is a helpful link for marine safety * [http://www.cfr.org/publication/18985/global_governance_monitor.html?breadcrumb=/thinktank/iigg/publications#/Oceans/Overview%20Video/ Council on Foreign Relations, Interactive Guide to Oceans Governance] * [http://ocean.si.edu Smithsonian Ocean Portal] * {{Kotobank|大洋(海)}} {{世界の地理}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:たいよう}} [[Category:大洋|*]] [[Category:海]]
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12月9日
12月9日(じゅうにがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から343日目(閏年では344日目)にあたり、年末まであと22日ある。
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{{出典の明記|date=2015年12月10日 (木) 14:48 (UTC)}} {{カレンダー 12月}} '''12月9日'''(じゅうにがつここのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から343日目([[閏年]]では344日目)にあたり、年末まであと22日ある。 == できごと == * [[536年]] - [[東ローマ帝国]]の将軍[[ベリサリウス]]が[[東ゴート王国]]の[[ローマ]]に入城。 * [[887年]]([[仁和]]3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[宇多天皇]]が[[藤原基経]]に引き続き政務を執るよう、初めて「[[関白]]」の語を使用した詔勅を出す([[阿衡事件]])<ref>{{Cite journal|和書|title = 阿衡の紛議 : 上皇と摂政・関白|publisher = 京都女子大学史学研究室|url = http://hdl.handle.net/11173/702|author = 瀧浪貞子|authorlink = 瀧浪貞子|journal=史窓|volume=58|date=2001}}</ref>。 * [[1425年]] - [[ルーヴェン・カトリック大学]]創立。 * [[1851年]] - [[北アメリカ]]州初めての[[キリスト教青年会|YMCA]]が[[ケベック州]][[モントリオール]]に設立される。 * [[1872年]]([[明治5年]][[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - 明治政府が、この年の[[12月31日]]([[12月2日 (旧暦)]])の翌日から[[太陰太陽暦]]を廃止して[[太陽暦]]を採用することを決定。 * [[1905年]] - [[フランス]]で[[政教分離法]]が公布。 * [[1911年]] - 浪花節の[[桃中軒雲右衛門]]が日本初のレコードの吹き込みを行う。 * [[1915年]] - [[三毛別羆事件]]発生。 * [[1920年]] - [[大杉栄]]らが[[日本社会主義同盟]]を結成。 * [[1931年]] - [[スペイン第二共和政]]: [[スペイン]]の[[国会 (スペイン)|国会]]で新憲法が成立。 * [[1935年]] - 12.9運動。日本が[[河北省]]などに設置する予定の[[冀察政務委員会]]に反対して北京の学生が抗日デモ。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[国民政府|中国国民政府]]・[[大韓民国臨時政府]]・[[キューバ]]・[[グアテマラ]]・[[フィリピン]]が[[日本]]・[[ドイツ]]に宣戦布告。 * [[1945年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が[[農地改革]]を指示。 * 1945年 - GHQによる宣伝番組「[[眞相はかうだ]]」放送開始。 * [[1946年]] - [[ニュルンベルク継続裁判]]が開始。 * [[1948年]] - 集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約([[ジェノサイド条約]])締結。 * [[1962年]] - [[タンガニーカ]](現在の[[タンザニア]]の一部)が[[英連邦王国]]から独立。 * [[1966年]] - [[バルバドス]]が[[国際連合|国連]]に加盟。 * [[1968年]] - 世界で初めて[[ハイパーテキスト]]・[[マウス (コンピュータ)|マウス]]などを実用化したコンピュータシステム[[NLS]]が[[すべてのデモの母|デモ公開]]される。 * [[1971年]] - [[アラブ首長国連邦]]が国連に加盟。 * [[1974年]] - [[田中金脈問題]]で[[第2次田中角榮内閣 (第2次改造)|田中角榮内閣]]が総辞職し、[[三木内閣|三木武夫内閣]]が発足。 * [[1975年]] - 国連総会で障害者の権利宣言を採択。 * [[1986年]] - [[ビートたけし]]と[[たけし軍団]]による[[フライデー襲撃事件]]が起こる。 * [[1987年]] - [[対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件]]が起こる。 * [[1989年]] - [[全国労働組合連絡協議会 (1989-)|全国労働組合連絡協議会]](全労協)結成。 * [[1992年]] - [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]と[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)の離婚が発表される。 * [[1993年]] - [[将棋]]の公式戦史上初めて[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]([[中井広恵]])が[[棋士 (将棋)|男性棋士]]([[池田修一]])から白星を挙げる。 * [[1995年]] - [[アメリカ海軍]]の[[ニミッツ級航空母艦]]の7番艦である[[ジョン・C・ステニス (空母)|ジョン・C・ステニス]]がサンディアゴ港にて就役。 * 1995年 - [[白川郷・五箇山の合掌造り集落]]が[[世界遺産]]に登録。 <!-- * [[1998年]] - [[宇多田ヒカル]]が「[[Automatic/time will tell|Automatic]]」で[[コンパクトディスク|CD]]デビュー。 --> * [[2003年]] - [[日本]]の[[火星探査機]]「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」の[[火星]]周回軌道投入を断念。火星への衝突を回避するため、「のぞみ」に弱い噴射を行うコマンドが送信される。 * [[2005年]] - 日本政府が[[自衛隊イラク派遣]]の1年間延長を決定。 * 2005年 - 日本の小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」との通信が途絶える。 <!-- * 2005年 - [[立川反戦ビラ配布事件]]第二審逆転有罪判決。 --> <!-- * 2007年 - [[KEMURI]](スカコアバンド)がZEPP TOKYOにて解散ライブを行った。 --> <!-- * [[2008年]] - [[イリノイ州知事]][[ロッド・ブラゴジェビッチ]]が収賄容疑で逮捕される。 --> * [[2015年]] - [[靖国神社#現在|靖国神社トイレ爆破事件]]の被疑者が逮捕される。 * 2015年 - [[福岡県警察|福岡県警]][[早良警察署|早良署]]が誤認逮捕をしていたと発表し、別の者を書類送検。 * [[2019年]] - [[ニュージーランド]]の[[ホワイト島]]で火山噴火。観光客が巻き込まれて5人死亡、8人が行方不明。 == 誕生日 == * [[1608年]] - [[ジョン・ミルトン]]、[[詩人]](+ [[1674年]]) * [[1796年]] - [[エミーリエ・ツムシュテーク]]、[[音楽家]](+ [[1857年]]) * [[1832年]] - [[アーダルベルト・クリューガー]]、[[天文学者]](+ [[1896年]]) * [[1837年]] - [[エミール・ワルトトイフェル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Emil-Waldteufel Emil Waldteufel French composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[作曲家]](+ [[1915年]]) * 1837年([[天保]]8年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[樺山資紀]]、[[薩摩藩]]士、[[政治家]](+ [[1922年]]) * [[1842年]] - [[ピョートル・クロポトキン]]、[[政治哲学|政治思想家]]、[[地理学者]]、[[社会学|社会学者]]、[[生物学|生物学者]](+ [[1921年]]) * [[1868年]] - [[フリッツ・ハーバー]]、物理化学者、電気化学者(+ [[1934年]]) * [[1871年]] - [[ジョー・ケリー (1871年生の外野手)|ジョー・ケリー]]、[[プロ野球選手]](+ [[1943年]]) <!-- 12月21日の誕生日の項にもスターリンの名があり重複するのでコメントアウト* [[1879年]] - [[ヨシフ・スターリン]]([[グレゴリオ暦]][[12月21日]])、[[ソ連邦]]の[[独裁者]]--> * [[1872年]] - [[サイ・セイモアー]]、プロ野球選手(+ [[1919年]]) * [[1876年]] - [[太田水穂]]、[[歌人]]・[[日本文学研究者|国文学者]](+ [[1955年]]) * [[1882年]] - [[ホアキン・トゥリーナ]]、作曲家(+ [[1949年]]) * [[1885年]] - [[高橋勝四郎]]、[[獣医師]](+ [[1972年]]) * [[1889年]] - [[ハンネス・コーレマイネン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1966年]]) * 1889年 - [[井上成美]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]](+ [[1975年]]) * [[1891年]] - [[長谷川潔]]、[[版画家]](+ [[1980年]]) * [[1893年]] - [[内藤千代子]]、[[小説家]](+ [[1925年]]) * [[1894年]] - [[浜田庄司]]、[[陶芸家]](+ [[1978年]]) * [[1895年]] - [[ランスロット・ホグベン]]、[[動物学|動物学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1975年]]) * [[1896年]] - [[池田亀鑑]]、[[日本文学研究者|国文学者]](+ [[1956年]]) * [[1901年]] - [[ジャン・メルモーズ]]、[[パイロット (航空)|操縦士]](+ [[1936年]]) * [[1903年]] - [[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]、[[宮内庁|宮内庁長官]](+ [[1991年]]) * [[1905年]] - [[本郷新]]、[[彫刻家]](+ [[1980年]]) * 1905年 - [[ダルトン・トランボ]]、[[脚本家]]、[[映画監督]](+ [[1976年]]) * [[1906年]] - [[グレース・ホッパー]]、計算機科学者(+ [[1992年]]) * [[1911年]] - [[瀬島龍三]]、[[陸軍軍人]]、[[実業家]](+ [[2007年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20070904000145|title=瀬島龍三氏死去/元伊藤忠商事会長、元大本営参謀|publisher=四国新聞社|date=2007-09-04|accessdate=2020-11-26}}</ref>) * [[1916年]] - [[カーク・ダグラス]]、[[俳優]](+ [[2020年]]) * 1916年 - [[ヴォルフガング・ヒルデスハイマー]]、[[作家]](+ [[1991年]]) * [[1920年]] - [[永利勇吉]]、プロ野球選手(+ [[1962年]]) * [[1925年]] - [[朝倉響子]]、[[彫刻家]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite news|title=彫刻家の朝倉響子さんが死去|newspaper=産経新聞|date=2016-5-31|url=https://www.sankei.com/article/20160531-BUS4PFIPO5P6TIIOH3RZBTVYNM/|accessdate=2020-11-01}}</ref>) * 1925年 - [[アーネスト・ゲルナー]]、[[歴史学者]]、[[哲学者]](+ [[1995年]]) * [[1926年]] - [[宮脇俊三]]、[[紀行]]作家(+ [[2003年]]) * 1926年 - [[佐田啓二]]、俳優(+ [[1964年]]) * [[1929年]] - [[ジョン・カサヴェテス]]、映画監督(+ [[1989年]]) * [[1930年]] - [[バック・ヘンリー]]、俳優、脚本家、映画監督(+ [[2020年]]) * 1930年 - [[杉山真治郎]]、元プロ野球選手 * [[1931年]] - [[岩下守道]]、プロ野球選手(+ [[2015年]]) * [[1934年]] - [[ジュディ・デンチ]]、[[俳優|女優]] * 1934年 - [[ジュニア・ウェルズ]]、[[歌手]]、[[ハーモニカ]]奏者(+ [[1998年]]) * [[1935年]] - [[友川賢次]]、元プロ野球選手 * [[1939年]] - [[市川猿翁 (2代目)]]、[[歌舞伎役者]](+ [[2023年]]) * [[1940年]] - [[石渡清元]]、政治家(+ [[2014年]]) * [[1941年]] - [[白石加代子]]、女優 * 1941年 - [[ボー・ブリッジス]]、俳優 * 1941年 - [[ヴォルフガング・ダンネ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2019年]]) * [[1942年]] - [[川合稔]]、[[レーシングドライバー]](+ [[1970年]]) * [[1943年]] - [[山内賢]]、俳優(+ [[2011年]]) * 1943年 - [[新宅洋志]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[飯田明弘]]、[[騎手]]、[[調教師]](+ [[2017年]]) * [[1947年]] - [[安彦良和]]、[[漫画家]]、キャラクターデザイナー * 1947年 - [[高須基仁]]、出版プロデューサー(+ [[2019年]]) * [[1948年]] - [[さいたまんぞう]]、歌手、タレント * [[1950年]] - [[綾小路きみまろ]]、漫談家 * 1950年 - [[井上夢人]]、小説家 * [[1951年]] - [[生井けい子]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1952年]] - [[ブルース・ボウクレア]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[落合博満]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]] * 1953年 - [[ジョン・マルコヴィッチ]]、俳優 * [[1954年]] - [[山本博司]]、政治家 * [[1955年]] - [[朝潮太郎 (4代)|朝潮太郎]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[年寄]]18代[[錦島]](+ [[2023年]]) * 1955年 - [[升毅]]、[[俳優]] * 1955年 - [[向殿あさみ]]、[[声優]] * 1955年 - [[渡辺裕之]]、俳優(+ [[2022年]]) * [[1956年]] - [[ジャン=ピエール・ティオレ]]、ジャーナリスト、作家 * 1956年 - [[宮沢章夫]]、劇作家、演出家、作家、遊園地再生事業団主宰(+ [[2022年]]) * [[1958年]] - [[たがみよしひさ]]、漫画家 * [[1959年]] - [[春風亭昇太]]、[[落語家]] * [[1960年]] - [[南牟礼豊蔵]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[フアン・サミュエル]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[斉藤実 (警察官僚)|斉藤実]]、警察官僚、第96代[[警視総監]] * [[1962年]] - [[小池浩司]]、声優 * [[1963年]] - [[皇后雅子]]、[[皇族]]、第126代[[皇后#日本の皇后|皇后]] * 1963年 - [[ペーター・ブランジェ]]、バレーボール選手 * [[1965年]] - [[五味孝氏]]、[[ミュージシャン]]([[T-BOLAN]]) * [[1966年]] - [[勝恵子]]、[[ニュースキャスター]] * 1966年 - [[濱中英次]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[小林勝 (音楽家)|小林勝]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[SADS]]、[[ザ・クロマニヨンズ]]) * 1967年 - [[ジョシュア・ベル]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1968年]] - [[カート・アングル]]、[[プロレスラー]] * 1968年 - [[森山ゆうこ]]、女優 * 1968年 - [[大塚いちお]]、[[イラストレーター]]、[[アートディレクター]] * [[1969年]] - [[中田圭]]、映画監督、俳優、脚本家 * 1969年 - [[ジェイコブ・ディラン]]、ミュージシャン * [[1970年]] - [[トニー・タラスコ]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[佐野瑞樹 (アナウンサー)|佐野瑞樹]]、[[アナウンサー]] * 1971年 - [[せがわきり]]、[[タレント]]、[[児童文学作家]] * 1971年 - [[関根裕之]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[ニック・ハイソング]]、陸上競技([[棒高跳]])選手 * 1971年 - [[ブラッド・ツイドリー]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[トレ・クール]]、ミュージシャン([[グリーン・デイ]]) * [[1973年]] - [[岡田理江]]、タレント、女優 * 1973年 - [[トニー・バティスタ]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[累央]]、俳優 * [[1974年]] - [[平山昌雄]]、お笑いタレント * 1974年 - [[深谷亮司]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[bird (日本の歌手)|bird]]、[[ミュージシャン]] * 1975年 - [[アレクサンダー・カラカセビッチ]]、[[卓球選手]] * 1975年 - [[田渕ひさ子]]、ミュージシャン(元[[NUMBER GIRL]]、[[toddle]]、[[LAMA]]、[[bloodthirsty butchers]]) * 1975年 - [[佐藤純]]、ファッションモデル * [[1976年]] - [[福永祐一]]、[[騎手]] * [[1977年]] - [[森広泰昌]]、元[[野球選手]] * [[1978年]] - [[ISSA (歌手)|ISSA]]、[[歌手]]([[DA PUMP]]) * [[1979年]] - [[OLIVIA (日本の歌手)|OLIVIA]]、歌手 * 1979年 - [[上村愛子]]、[[モーグル]]選手 * 1979年 - [[ジリ・ヴァンソン]]、俳優 * 1979年 - まり、歌手([[つしまみれ]]) * 1979年 - [[友利花]]、声優、歌手、[[グラビアアイドル]] * 1979年 - [[エリック・スタルツ]]、プロ野球選手 * [[1980年]] - [[高橋一生]]、俳優 <!-- 特筆性は? * 1980年 - Waka、[[フルート奏者]]([[Vanilla Mood]]) --> * 1980年 - [[フレッド・ルイス]]、プロ野球選手 * [[1981年]] - [[マーディ・フィッシュ]]、プロテニス選手 * 1981年 - [[玉手みずき]]、女優 * [[1982年]] - [[岡本綾]]、女優 * 1982年 - [[上野貴久]]、元プロ野球選手 <!-- 特筆性は? * 1982年 - 内海あい、ミュージシャン([[ナナ・イロ]]) --> * [[1983年]] - [[ネスリハン・デミル]]、バレーボール選手 * 1983年 - [[エゴール・ゴロフキン]]、[[フィギュアスケート選手]] <!-- 特筆性は? * 1983年 - G-YUN、ミュージシャン(元[[GOLLBETTY]])、ファッションモデル --> * [[1984年]] - [[牧口真幸]]、声優 * 1984年 - [[小出祐介]]、ミュージシャン([[Base Ball Bear]]) * 1984年 - [[山口智 (アニメーター)|山口智]]、[[アニメーター]] * [[1985年]] - [[松本さゆき]]、タレント、グラビアアイドル * 1985年 - [[内海崇]]、お笑い芸人([[ミルクボーイ]]) * 1985年 - [[クジラックス]]、漫画家 * [[1986年]] - [[小堺翔太]]、フリーアナウンサー、タレント、司会者 * 1986年 - [[神保貴宏]]、元プロ野球選手 <!-- 特筆性は? * [[1987年]] - AYAKA、ミュージシャン([[ユーフォーリア]]) --> * [[1987年]] - [[中嶋あき]]、声優 * 1987年 - [[中嶋ヒロ]]、声優 * [[1988年]] - [[クワドォー・アサモア]]、サッカー選手 <!-- 出典が不明 * 1988年 - DAI ([[Brain the mosh]]) 、イベンター&DJ --> <!-- 生年の出典が不明 * [[1989年]] - [[大釜ケリー]]、ファッションモデル、[[コスプレイヤー]] --> <!-- 出典が不明 * 1989年 - Backy、[[ベーシスト]] --> * [[1989年]] - [[アニェニル・メンドーサ]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[雪祈]]、グラビアアイドル * 1990年 - [[田面巧二郎]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[ステイシー・パーフェッティ]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[クレイグ・イーストモンド]]、サッカー選手 * 1990年 - [[エブソン・パトリシオ・ヴァスコンセロス・ド・ナシメント]]、プロサッカー選手 * [[1991年]] - [[猪狩ともか]]、[[車いす]]アイドル<ref>[<!--https://www.hochi.co.jp/entertainment/20181216-OHT1T50098.html-->https://hochi.news/articles/20180910-OHT1T50101.html <!--仮面女子・猪狩ともか、「車いすアイドル」へのSNS中傷にも「笑い話にするしかないかな」-->「車いすアイドル」猪狩ともか、笑顔で始球式に登場…彼女はなぜ、こんなに強いのか?] [[スポーツ報知|報知新聞]]2018年<!--12-->9月<!--16-->10日閲覧。</ref>([[仮面女子]]) * 1991年 - [[アメル・ブレコヴィチ]]、フィギュアスケート選手 * 1991年 - [[アダム・エンゲル]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[ミンホ]]、ミュージシャン([[SHINee]]) * [[1992年]] - [[高木善朗]]、サッカー選手 * [[1994年]] - [[松田芙由香]]、女優 * [[1995年]] - [[マッケイラ・マロニー]]、体操選手 * [[1996年]] - [[片山友希]]<ref>[https://www.cactus-mgt.co.jp/actors/katayama.html 片山友希のプロフィール]</ref>、女優 * 1996年 - [[立浦葉由乃]]、プロゴルファー * [[2000年]] - [[ディアナ・ニキチナ]]、フィギュアスケート選手 * 2000年 - ASUKA、元アイドル(元[[ミームトーキョー|meme tokyo.]]) * [[2003年]] - ユナ、アイドル([[ITZY]]) * [[2004年]] - J、アイドル([[STAYC]]) * [[2005年]] - [[NI-KI]]、アイドル([[ENHYPEN]]) == 忌日 == === 人物 === * [[1165年]] - [[マルカム4世 (スコットランド王)|マルカム4世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1142年]]) * [[1416年]]([[応永]]23年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[伏見宮栄仁親王]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]・[[室町時代]]の[[皇族]]、[[伏見宮]]始祖(* [[1351年]]) * [[1437年]] - [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/ジギスムント-72622 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-02-18 }}</ref>、[[神聖ローマ帝国]]皇帝(* [[1368年]]) * [[1565年]] - [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]、第224代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1499年]]) * [[1641年]] - [[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、[[画家]](* [[1599年]]) * [[1662年]]([[寛文]]2年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[水野勝貞]]、第3代[[備後福山藩|福山藩主]](* [[1625年]]) * [[1669年]] - [[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]、第238代ローマ教皇(* [[1600年]]) * [[1706年]] - [[ペドロ2世 (ポルトガル王)|ペドロ2世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1648年]]) * [[1793年]] - [[ポリニャック伯爵夫人]]、[[マリー・アントワネット]]の寵臣(* [[1749年]]) * [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]) - [[市川團十郎 (5代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1741年]]) * [[1864年]]([[元治]]元年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[益田親施]]、[[長州藩]][[家老]](* [[1833年]]) * 1864年(元治元年11月11日) - [[国司親相]]、長州藩家老(* [[1842年]]) * [[1882年]] - [[佐田介石]]、[[浄土真宗本願寺派]]の[[僧]](* [[1818年]]) * [[1901年]] - [[木村芥舟]]、[[江戸幕府]][[軍艦奉行]](* [[1830年]]) * [[1916年]] - [[夏目漱石]]、[[小説家]](* [[1867年]]) * [[1930年]] - [[ルーブ・フォスター]]、[[プロ野球選手]](* [[1879年]]) * [[1932年]] - [[カール・ブロスフェルト]]、[[写真家]]、[[植物学|植物学者]](* [[1865年]]) * [[1935年]] - [[川田正澂]]、[[教育者]](* [[1864年]]) * [[1937年]] - [[ニルス・グスタフ・ダレーン]]、[[エンジニア]]、[[実業家]](* [[1869年]]) * [[1944年]] - [[京井秋行]]、[[野球選手]](* [[1920年]]) * [[1945年]] - [[尹致昊]]、[[大韓帝国]]の政治家、[[朝鮮貴族]]、貴族院議員(* [[1865年]]) * [[1951年]] - [[芦田惠之助]]、教育者(* [[1873年]]) * [[1953年]] - [[イサイ・ドブローウェン]]、[[指揮者]](* [[1893年]]) * [[1954年]] - [[吉田茂 (内務官僚)|吉田茂]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]][[議員]](* [[1885年]]) * 1954年 - [[ビル・マゴワン]]、[[メジャーリーグ]]審判(* [[1896年]]) * [[1957年]] - [[下村宏]]、[[内閣情報局]]総裁(* [[1875年]]) * [[1961年]] - [[アルベルト・ブロッホ]]、画家、[[翻訳家]](* [[1882年]]) * [[1966年]] - [[ユーリ・シャポーリン]]、[[作曲家]](* [[1887年]]) * [[1975年]] - [[ウィリアム・A・ウェルマン]]、[[映画監督]](* [[1896年]]) * 1975年 - [[ピエール・ボスト]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]](* [[1901年]]) * [[1976年]] - [[ウェス・フェレル]]、プロ野球選手(* [[1908年]]) * [[1977年]] - [[中尾碩志]]、プロ野球選手(* [[1919年]]) * [[1987年]] - [[芹沢博文]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1936年]]) * [[1989年]] - [[開高健]]、[[作家]](* [[1930年]]) * [[1991年]] - [[ベレニス・アボット]]、[[写真家]](* [[1898年]]) * [[1994年]] - [[坂口謹一郎]]、応用微生物学者、東大農学部部長(* [[1897年]]) * [[1995年]] - [[鈴木竹雄]]、[[法学者]](* [[1905年]]) * [[1997年]] - [[趙方豪]]、[[俳優]](* [[1956年]]) * [[1998年]] - [[若山彰]]、[[歌手]](* [[1927年]]) * [[2001年]] - [[原智恵子]]、[[ピアニスト]](* [[1914年]]) * [[2002年]] - [[千葉茂 (野球)|千葉茂]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](* [[1919年]]) * [[2005年]] - [[シャーンドル・ジェルジ]]、[[ピアニスト]](* [[1912年]]) * 2005年 - [[ロバート・シェクリイ]]、[[SF作家]]、[[脚本家]](* [[1928年]]) * [[2011年]] - [[岸千恵子]]、[[民謡]][[歌手]](* [[1942年]]) * [[2012年]] - [[川島廣守]]、警察[[官僚]]、[[日本野球機構]]第10代コミッショナー(* [[1922年]]) * [[2014年]] - [[堀内護]]、歌手([[ガロ (フォークグループ)|ガロ]])(* [[1949年]]) * [[2015年]] - [[野坂昭如]]、作家・[[作詞家]](* [[1930年]]) * [[2017年]] - [[中島平太郎]]、[[技術者]]、元[[日本オーディオ協会]]会長、[[アイワ]]社長(* [[1921年]]) * [[2018年]] - [[重由美子]]、[[セーリング]]選手(* [[1965年]]) * [[2019年]] - [[石橋政嗣]]、政治家(* [[1924年]]) * [[2020年]] - [[織田無道]]、[[僧|僧侶]]、タレント(* [[1952年]]) * 2020年 - [[パオロ・ロッシ]]、[[サッカー選手]](* [[1956年]]) * [[2022年]] - [[佐藤蛾次郎]]、俳優(* [[1944年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2006年]] - [[まさお君]]、「[[ペット大集合!ポチたま]]」に出演していた[[ラブラドール・レトリバー]](* [[1999年]]) * [[2021年]] - [[ノボトゥルー]]、[[競走馬]](* [[1996年]]) == 記念日・年中行事 == * [[国際腐敗防止デー]] *: [[2003年]]のこの日に[[国際連合腐敗防止条約|腐敗の防止に関する国際連合条約]]が調印されたことを記念。 * [[マウス (コンピュータ)|マウス]]の誕生日 *:[[1968年]]のこの日、ITの父[[ダグラス・エンゲルバート]]によりインターネットの歴史の出発点となる「The Demo」が行われたことを記念して、ITの過去・現在・未来を考えることを目的に、「IT25・50」シンポジウム実行委員会が制定。「The Demo」の中でも、マウスはそれまで専門家しか使えなかったコンピューターを、誰でも操作できるようにした画期的なものであった<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=240|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 * 皇后誕生日([[地久節]])({{JPN}}) *: [[2019年]](令和元年)以後、[[皇后雅子]]の誕生日。 * [[独立記念日]]({{TZA}}) *: [[1961年]]のこの日、現在のタンザニアの一部である[[タンガニーカ]]がイギリスから独立した。 * [[障害者]]の日({{JPN}}) *: [[1975年]]に国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されたことを記念し、国際障害者年であった[[1981年]]の12月9日に開催された[[総理府]](現[[内閣府]])主催の中心記念事業「広がる希望の集い」で制定。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1209|date=2011年7月}} * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争の登場人物#ジオン公国軍(サイクロプス隊)|サイクロプス隊]]、[[地球連邦軍]]北極基地を襲撃。(アニメ『[[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]]』) * 昭和24年 - [[アイスランド沖海戦]](日本海軍[[旭日艦隊]]とドイツ海軍機動部隊との戦闘)([[架空戦記]]・『[[旭日の艦隊]]』・『[[紺碧の艦隊]]』) * 昭和35年 - アメリカ使節団歓迎会会場の「松のロビー」で丸菱銀行頭取・吉良剛之介を殴打し、足利会長から謹慎を命ぜられた赤穂産業社長・浅野卓也、気晴らしにドライブをするも事故死。(映画『[[サラリーマン忠臣蔵]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1977年]] - 君島コウ、ゲーム・アニメ『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター(+ [[2010年]])<ref>{{Cite book |和書 |title=ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |year=2012 |page=94|isbn=978-4-04-886756-6}}</ref> * 生年不明 - [[ケロロ|ケロロ軍曹]]、漫画・アニメ・ゲーム『[[ケロロ軍曹]]』の主人公<ref>{{Twitter status|keroro_pr|1468600930107023360}}</ref><ref>アニメ190話Bパート(2007年12月8日放送)より。</ref> * 生年不明 - 「ぼく」、小説『[[スプートニクの恋人]]』主人公<ref>{{Cite book|和書|author=村上春樹|title=スプートニクの恋人|date=|year=|publisher=講談社文庫}}要ページ番号記載</ref> * 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|稲葉郷子]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ |year = 1997 |title = 地獄先生ぬ~べ~大百科 |page = 32 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref> * 生年不明 - 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珠洲乃千哉、ゲーム・アニメ『[[DYNAMIC CHORD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|dynamicchord|1203890038913679361}}</ref> * 生年不明 - 小日向穂積、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_pos|806875987241672706}}</ref> * 生年不明 - 上月聡、メディアミックス『[[ツキノ芸能プロダクション]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vazzrock_info|1393114893952294912}}</ref> <!-- * 生年不明 - [[機動戦士ガンダム00の登場人物#ティエリア・アーデ|ティエリア・アーデ]]、アニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』に登場するキャラクター --> === 忌日(フィクション) === * [[1983年]] - 紺野純子、テレビアニメ『[[ゾンビランドサガ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://zombielandsaga.com/character/5.php |title=紺野純子 |access-date=2022-10-22 |publisher=ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|9 December}} {{新暦365日|12|8|12|10|[[11月9日]]|[[1月9日]]|[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]|1209|12|09}} {{1年の月と日}}
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主記憶装置
主記憶装置(しゅきおくそうち)は、記憶装置の分類で、「補助記憶装置」が一般に外部バスなど比較的CPUから離れていて大容量だが遅い記憶装置を指すのに対し、コンピュータのメインバスなどに直接接続されている記憶装置で、レイテンシやスループットは速いが比較すると小容量である。特に、CPUが入出力命令によって外部のインタフェースを操作するのではなく、「ロード・ストア命令」や、さらには通常の加算などの命令において直接読み書きできる対象であるものを指す。メインメモリ、一次記憶装置とも。 コンピュータの初期の頃は、水銀遅延線、ブラウン管記憶装置(ウィリアムス管)(1950年代)、磁気ドラムメモリ、あるいは磁気コアメモリ(1960年代)等を利用していたが、現在は一般的に半導体メモリを利用している。 磁気コアメモリを使った主記憶装置は、電源の供給がなくなっても内容を保持できていたが、半導体メモリを使ったRAMは、ハードディスクドライブなどの補助記憶装置と比較すると高速であるものの、記憶容量が限られており、また、電源の供給がなくなると内容が消えてしまうという特徴がある。そのため、補助記憶装置に内容を退避し、必要なときに再度読み込んで利用する形を取る。 RAMには、一定時間経つとデータが消失してしまうダイナミックRAM(DRAM)と、電気を供給している限り内容を保持しているスタティックRAM(SRAM)の2種類がある。SRAMはDRAMより高速なアクセスが可能であるが、構造上、DRAMの方が集積度を高められるため、現在の多くのコンピュータにはDRAMを主記憶装置として利用している。 最近のプロセッサ(以下、特にCPUについて記述)は、CPU自体の処理速度が極めて高速化しているにもかかわらず、主記憶装置を構成するDRAMのアクセス速度の向上が追いつかないため、主記憶装置とCPUとの処理速度のアンバランスが生じている(ノイマンズ・ボトルネック参照)。そのために、両者のギャップを埋め、より高速にデータを得るため、DRAMで構成された主記憶装置へのアクセスを直接行わず、高速動作が可能なSRAMで構成されたキャッシュメモリを経由してアクセスすることが多い。「Pentium 4」や「Athlon」など、おおよそ2000年以降に出回ったCPUでは、2段階及びそれ以上の段階のキャッシュメモリを経由して主記憶装置へアクセスする構造となっている。 なお、UNIXでプログラムが異常終了したときの動作を「コアダンプ」というが、これは、主記憶装置が磁気コアメモリを利用していた時代(1960年代)の名残である。 また、パーソナルコンピュータの時代の初期(1980年代)では、8ビット、16ビットCPUを使っていたが、CPUのアドレス空間が不足したため、バンク切り換え、EMSなどの手法により、実際のCPUのアドレス空間より広い主記憶装置を利用可能にしていた。32ビットCPUになってからは、アドレス範囲が4Gバイトあったため、主記憶切り替え機能は一旦廃れたが、さらなるメモリの需要に伴い、仮想記憶機能と連動して、一部の32ビットCPUでは、32ビットのアドレス範囲以上のメモリをアクセスできるような機能が提供されている。 現代的な多くのコンピュータシステムでは、オペレーティングシステムとメモリ管理ハードウェアの連携により、プロセスごとに保護された主記憶装置のメモリ空間を仮想的に割り当てる、仮想記憶を採用している。そのため、主記憶装置の空間を一定の単位に区切って管理しつつ利用するメモリ管理機能が利用されている。その方法には、セグメント方式やページング方式がある。 本来の主記憶装置の容量で足りない時は外部の容量を主記憶装置代わりとすることもある。これは仮想メモリとも言われる。 サーバやパーソナルコンピュータのハードウェアで、故障が最も発生し易いものの一つが主記憶装置である。従ってWindows 10などのOSでは「Windowsメモリ診断」ツールが利用できる。主記憶装置が故障すると以下のような事象が発生する。 PCに複数の主記憶装置を装填している場合、1つでも故障した主記憶装置があると他の主記憶装置が正常でも上記のような不具合が発生する。主記憶装置を1つ1つ抜いてどの主記憶装置が故障しているかを特定する必要がある。
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主記憶装置(しゅきおくそうち)は、記憶装置の分類で、「補助記憶装置」が一般に外部バスなど比較的CPUから離れていて大容量だが遅い記憶装置を指すのに対し、コンピュータのメインバスなどに直接接続されている記憶装置で、レイテンシやスループットは速いが比較すると小容量である。特に、CPUが入出力命令によって外部のインタフェースを操作するのではなく、「ロード・ストア命令」や、さらには通常の加算などの命令において直接読み書きできる対象であるものを指す。メインメモリ、一次記憶装置とも。
{{出典の明記|date=2020年6月}} [[ファイル:Samsung-1GB-DDR2-Laptop-RAM.jpg|代替文=|サムネイル|200x200ピクセル|パーソナルコンピュータ等の主記憶装置等に使われるRAMモジュール]] '''主記憶装置'''(しゅきおくそうち)は、[[記憶装置]]の分類で、「[[補助記憶装置]]」が一般に外部バスなど比較的[[CPU]]から離れていて大容量だが遅い記憶装置を指すのに対し、コンピュータのメインバスなどに直接接続されている記憶装置で、レイテンシやスループットは速いが比較すると小容量である。特に、CPUが入出力命令によって外部のインタフェースを操作するのではなく、「ロード・ストア命令」や、さらには通常の加算などの命令において直接読み書きできる対象であるものを指す。メインメモリ、一次記憶装置{{efn|近年はCPUキャッシュなどが3段近く入っていることもあったりするので、これを指して「一次記憶装置」というのは不適切になりつつある。}}とも。 == 概要 == コンピュータの初期の頃は、[[水銀遅延線]]、[[ブラウン管]]記憶装置([[ウィリアムス管]])([[1950年代]])、[[磁気ドラムメモリ]]、あるいは[[磁気コアメモリ]]([[1960年代]])等を利用していたが、現在は一般的に[[半導体メモリ]]を利用している。 磁気コアメモリを使った主記憶装置は、電源の供給がなくなっても内容を保持できていたが、半導体メモリを使った[[Random Access Memory|RAM]]は、[[ハードディスクドライブ]]などの[[補助記憶装置]]と比較すると高速であるものの、記憶容量が限られており、また、電源の供給がなくなると内容が消えてしまうという特徴がある。そのため、補助記憶装置に内容を退避し、必要なときに再度読み込んで利用する形を取る。 [[Random Access Memory|RAM]]には、一定時間経つとデータが消失してしまうダイナミックRAM([[Dynamic Random Access Memory|DRAM]])と、電気を供給している限り内容を保持しているスタティックRAM([[Static Random Access Memory|SRAM]])の2種類がある。SRAMはDRAMより高速なアクセスが可能であるが、構造上、DRAMの方が集積度を高められるため、現在の多くのコンピュータにはDRAMを主記憶装置として利用している。 最近の[[プロセッサ]](以下、特に[[CPU]]について記述)は、CPU自体の処理速度が極めて高速化しているにもかかわらず、主記憶装置を構成するDRAMのアクセス速度の向上が追いつかないため、主記憶装置とCPUとの処理速度のアンバランスが生じている([[ノイマンズ・ボトルネック]]参照)。そのために、両者のギャップを埋め、より高速にデータを得るため、DRAMで構成された主記憶装置へのアクセスを直接行わず、高速動作が可能なSRAMで構成された[[キャッシュメモリ]]を経由してアクセスすることが多い。「[[Pentium 4]]」や「[[Athlon]]」など、おおよそ2000年以降に出回ったCPUでは、2段階及びそれ以上の段階のキャッシュメモリを経由して主記憶装置へアクセスする構造となっている。 なお、[[UNIX]]で[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が異常終了したときの動作を「[[コアダンプ]]」というが、これは、主記憶装置が[[磁気コアメモリ]]を利用していた時代(1960年代)の名残である。 また、[[パーソナルコンピュータ]]の時代の初期([[1980年代]])では、[[8ビット]]、[[16ビット]]CPUを使っていたが、CPUの[[アドレス空間]]が不足したため、[[バンク切り換え]]、[[Expanded Memory Specification|EMS]]などの手法により、実際のCPUのアドレス空間より広い主記憶装置を利用可能にしていた。[[32ビット]]CPUになってからは、アドレス範囲が4G[[バイト (情報)|バイト]]あったため、主記憶切り替え機能は一旦廃れたが、さらなるメモリの需要に伴い、[[仮想記憶]]機能と連動して、一部の32ビットCPUでは、32ビットのアドレス範囲以上のメモリをアクセスできるような機能が提供されている。 == 主記憶装置の使われ方 == <!-- 主記憶装置は、CPUのアドレス空間に対応して、物理的にはリニアに配置される。 --><!-- 物理的(ハードウェア)による仮想メモリのサポートとか当たり前にあるんですが……バンクメモリとか --> <!--しかし、現在のCPUは、-->現代的な多くの[[コンピュータ]][[システム]]では、[[オペレーティングシステム]]とメモリ管理ハードウェア{{efn|以前は[[メモリ管理ユニット|MMU]]と呼ばれる独立したチップだったこともあったが、現代の高性能・高機能なプロセッサではほぼ内蔵されている。}}の連携により、プロセスごとに保護された主記憶装置のメモリ空間を仮想的に割り当てる、[[仮想記憶]]を採用している。そのため、主記憶装置の空間を一定の単位に区切って管理しつつ利用するメモリ管理機能が利用されている。その方法には、[[セグメント方式]]や[[ページング方式]]がある。 本来の主記憶装置の容量で足りない時は外部の[[キャッシュメモリ|容量]]を主記憶装置代わりとすることもある。これは[[仮想メモリ]]とも言われる。 == 故障 == [[サーバ]]や[[パーソナルコンピュータ]]のハードウェアで、故障が最も発生し易いものの一つが主記憶装置である。従ってWindows 10などのOSでは「Windowsメモリ診断」ツールが利用できる。主記憶装置が故障すると以下のような事象が発生する。 * 電源を投入してもOSが立ち上がらずブルースクリーンが表示される。 * OSの起動途中に再起動し繰り返す。 * OSが立ち上がってPCを一定時間操作している途中で、画面が[[スノーノイズ]]のようになって操作不可能になる。 PCに複数の主記憶装置を装填している場合、1つでも故障した主記憶装置があると他の主記憶装置が正常でも上記のような不具合が発生する。主記憶装置を1つ1つ抜いてどの主記憶装置が故障しているかを特定する必要がある。 == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} == 関連項目 == * [[メモリアドレス]] * [[SIMM]] (Single Inline Memory Module) * [[DIMM]] (Dual Inline Memory Module) * [[転送速度]] * [[容量の壁]] * [[記憶媒体]] * [[補助記憶装置]]:[[ハードディスクドライブ|HDD]]・[[ソリッドステートドライブ|SSD]] * [[CPU]] == 外部リンク == {{コンピュータの構成要素}} {{Normdaten}} [[Category:コンピュータの仕組み|しゆきおくそうち]] [[Category:主記憶装置|*]]
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Mozilla Foundation
Mozilla Foundation(モジラ・ファウンデーション)は、オープンソースのMozillaプロジェクトを支援するために設立された非営利団体である。略称はMoFoあるいはMFである。開発方針の決定、インフラの整備、商標や知的財産権の管理を行なっている。また、Mozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdのリリースを行なうためのMozilla Corporation(以降「コーポレーション」)を子会社としている。所在地はアメリカ合衆国カリフォルニア州マウンテンビューである。 1998年2月23日、NetscapeによってMozilla Application Suiteの開発への協力を目的としたMozilla Organization(以降「オーガニゼーション」)が設立された。オーガニゼーションはNetscape社員の大部分から成るが、Netscapeからは独立して運営されることが原則とされた。オーガニゼーションは「Mozillaはテスト目的のものでありエンドユーザーが利用するものではない」と主張していた。これがBeonex Communicator(ベオネックス・コミュニケーター)と呼ばれるブラウザの開発のきっかけとなった。Beonex Communicatorはオーガニゼーションがプロジェクトを進めていた間、Mozillaの「エンドユーザー版」としてリリースしていた。しかし、大多数のエンドユーザーは「正式な」Mozillaのビルドをダウンロードしていた。 Netscapeの親会社であるAOLによるオーガニゼーションとの関係の劇的な縮小に伴い、2003年7月15日、Mozilla Foundationが設立された。これによりMozillaはNetscapeとの関係を完全に切ることと成った。AOLはファウンデーションの設立に際し、ハードウェアや知的財産権を委譲し、移行の手伝いのために3か月間、3人のチームを雇った。またAOLは2年間にわたり200万ドルの寄付を約束した。 2005年8月3日、ファウンデーションは完全子会社であるMozilla Corporationを設立した。コーポレーションは主にFirefox、Thunderbirdのリリース計画、マーケティングおよび関連活動について責任を負うこととなった。さらに企業とも関係をもち、大きな収益を上げるようになった。コーポレーションは課税対象の法人であり、ファウンデーションとは異なり収益や企業活動の面で大きな自由度を持っている。 当初、ファウンデーションが他者へ支払う金額はオーガニゼーションの頃と比較して非常に大きくなった。これはオーガニゼーションが伝統的にNetscapeや他のMozillaの技術のベンダーに残してきた業務によるものである。対象を開発者からエンドユーザーへ移すことの一部として、ファウンデーションは広告会社と契約を結んでMozillaのソフトウェアを同梱したCDの販売や電話サポートを開始した。いずれもNetscapeと同じ業者を選択した。またファウンデーションは「Mozilla」の商標やロゴの使用に関する方針のもと、自社の知的財産権に対する主張をより強めるようになった。さらにマーケティングのような新しいプロジェクトも開始した。 コーポレーションの設立によって、ファウンデーションは開発や商業関係の活動の全てを子会社であるコーポレーションに委任した。そしてファウンデーションは「製品化されていない」CaminoやSeaMonkeyなどのプロジェクトの管理を継続し、単独でのプロジェクト管理と方針整備に注力することとなった。ファウンデーションはMozillaの商標と知的財産権を所有しており、これらをコーポレーションにライセンスしている。またMozillaのソースコードリポジトリも管理しており、チェックイン権限の付与も行なっている。 ファウンデーションは資金源として寄付を受け付けている。設立時にAOLから200万ドル、ミッチ・ケイパーから30万ドルの寄付を受けている。ファウンデーションはアメリカ合衆国国税収入局規約501(c)3によって連邦所得税の免除を受けているが、子会社であるコーポレーションは課税対象である。 ファウンデーションはGoogleと契約を結び、Googleでの検索をMozilla Firefoxの検索エンジンの既定の設定としている。また、Firefoxの既定のホームページはGoogleの検索サイトである。これらによる収益の総額は公式には公開されていない。 ファウンデーションの理事会は次の7人から成る。 当初はクリストファー・ブリザードが理事を務めていたが、彼がコーポレーションの設立に伴いコーポレーションの理事会へ異動となったため、それ以降は伊藤穰一が理事を務めている。ボブ・リスボンとカール・マラムードは2006年10月に理事に選任された。 ファウンデーションには有給のスタッフがおり、プロジェクトや方針に関する問題に対処している。 コーポレーションにも多数の職員がいるが、コーポレーション設立以前にはファウンデーションで働いていたものが多い。 伝統的にMozillaプロジェクトはmozilla.orgと呼ばれるコミュニティによって運営されてきたが、コミュニティのメンバーの中にはファウンデーションやコーポレーションの理事や職員となったものが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Mozilla Foundation(モジラ・ファウンデーション)は、オープンソースのMozillaプロジェクトを支援するために設立された非営利団体である。略称はMoFoあるいはMFである。開発方針の決定、インフラの整備、商標や知的財産権の管理を行なっている。また、Mozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdのリリースを行なうためのMozilla Corporation(以降「コーポレーション」)を子会社としている。所在地はアメリカ合衆国カリフォルニア州マウンテンビューである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1998年2月23日、NetscapeによってMozilla Application Suiteの開発への協力を目的としたMozilla Organization(以降「オーガニゼーション」)が設立された。オーガニゼーションはNetscape社員の大部分から成るが、Netscapeからは独立して運営されることが原則とされた。オーガニゼーションは「Mozillaはテスト目的のものでありエンドユーザーが利用するものではない」と主張していた。これがBeonex Communicator(ベオネックス・コミュニケーター)と呼ばれるブラウザの開発のきっかけとなった。Beonex Communicatorはオーガニゼーションがプロジェクトを進めていた間、Mozillaの「エンドユーザー版」としてリリースしていた。しかし、大多数のエンドユーザーは「正式な」Mozillaのビルドをダウンロードしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Netscapeの親会社であるAOLによるオーガニゼーションとの関係の劇的な縮小に伴い、2003年7月15日、Mozilla Foundationが設立された。これによりMozillaはNetscapeとの関係を完全に切ることと成った。AOLはファウンデーションの設立に際し、ハードウェアや知的財産権を委譲し、移行の手伝いのために3か月間、3人のチームを雇った。またAOLは2年間にわたり200万ドルの寄付を約束した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2005年8月3日、ファウンデーションは完全子会社であるMozilla Corporationを設立した。コーポレーションは主にFirefox、Thunderbirdのリリース計画、マーケティングおよび関連活動について責任を負うこととなった。さらに企業とも関係をもち、大きな収益を上げるようになった。コーポレーションは課税対象の法人であり、ファウンデーションとは異なり収益や企業活動の面で大きな自由度を持っている。", "title": "Mozilla Corporation" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初、ファウンデーションが他者へ支払う金額はオーガニゼーションの頃と比較して非常に大きくなった。これはオーガニゼーションが伝統的にNetscapeや他のMozillaの技術のベンダーに残してきた業務によるものである。対象を開発者からエンドユーザーへ移すことの一部として、ファウンデーションは広告会社と契約を結んでMozillaのソフトウェアを同梱したCDの販売や電話サポートを開始した。いずれもNetscapeと同じ業者を選択した。またファウンデーションは「Mozilla」の商標やロゴの使用に関する方針のもと、自社の知的財産権に対する主張をより強めるようになった。さらにマーケティングのような新しいプロジェクトも開始した。", "title": "業務" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "コーポレーションの設立によって、ファウンデーションは開発や商業関係の活動の全てを子会社であるコーポレーションに委任した。そしてファウンデーションは「製品化されていない」CaminoやSeaMonkeyなどのプロジェクトの管理を継続し、単独でのプロジェクト管理と方針整備に注力することとなった。ファウンデーションはMozillaの商標と知的財産権を所有しており、これらをコーポレーションにライセンスしている。またMozillaのソースコードリポジトリも管理しており、チェックイン権限の付与も行なっている。", "title": "業務" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ファウンデーションは資金源として寄付を受け付けている。設立時にAOLから200万ドル、ミッチ・ケイパーから30万ドルの寄付を受けている。ファウンデーションはアメリカ合衆国国税収入局規約501(c)3によって連邦所得税の免除を受けているが、子会社であるコーポレーションは課税対象である。", "title": "財源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ファウンデーションはGoogleと契約を結び、Googleでの検索をMozilla Firefoxの検索エンジンの既定の設定としている。また、Firefoxの既定のホームページはGoogleの検索サイトである。これらによる収益の総額は公式には公開されていない。", "title": "財源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ファウンデーションの理事会は次の7人から成る。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当初はクリストファー・ブリザードが理事を務めていたが、彼がコーポレーションの設立に伴いコーポレーションの理事会へ異動となったため、それ以降は伊藤穰一が理事を務めている。ボブ・リスボンとカール・マラムードは2006年10月に理事に選任された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ファウンデーションには有給のスタッフがおり、プロジェクトや方針に関する問題に対処している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "コーポレーションにも多数の職員がいるが、コーポレーション設立以前にはファウンデーションで働いていたものが多い。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "伝統的にMozillaプロジェクトはmozilla.orgと呼ばれるコミュニティによって運営されてきたが、コミュニティのメンバーの中にはファウンデーションやコーポレーションの理事や職員となったものが多い。", "title": "人物" } ]
Mozilla Foundation(モジラ・ファウンデーション)は、オープンソースのMozillaプロジェクトを支援するために設立された非営利団体である。略称はMoFoあるいはMFである。開発方針の決定、インフラの整備、商標や知的財産権の管理を行なっている。また、Mozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdのリリースを行なうためのMozilla Corporation(以降「コーポレーション」)を子会社としている。所在地はアメリカ合衆国カリフォルニア州マウンテンビューである。
{{基礎情報 非営利団体 |名称=Mozilla Foundation |英文社名= |ロゴ=[[File:Mozilla logo.svg|220px|Mozilla wordmark]] |団体種類=[[非営利団体]](501(c)(3)) |略称=MoFo、MF |国籍= |郵便番号= |所在地={{USA}}<br>[[カリフォルニア州]][[マウンテンビュー]] カストロ通り650 マウンテンビュー・シティセンター内<br><small>{{coord|37|23|17|N|122|4|58|W|type:landmark_region:US|display=inline,title}}</small> |設立=[[2003年]][[7月15日]] |業種= |事業内容= |代表者={{仮リンク|ミッチェル・ベーカー|en|Mitchell Baker}} |資本金= |収入=7860万[[米ドル|ドル]](2008年) <ref name="2008 financial report">{{cite web|url=http://www.mozilla.org/foundation/documents/mf-2008-audited-financial-statement.pdf|format=PDF|title=2008 Independent Auditor's Report and Consolidated Financial Statements|accessdate=2010-06-18}}</ref> |総資産=1億1562万ドル(2008年)<ref name="2008 financial report"/> |従業員数= |子団体=[[Mozilla Corporation]] |関係する人物= |ウェブサイト=[https://www.mozilla.org/ www.mozilla.org] |特記事項= }} '''Mozilla Foundation'''(モジラ・ファウンデーション)は、[[オープンソース]]の[[Mozilla]]プロジェクトを支援するために設立された[[非営利団体]]である。略称は'''MoFo'''あるいは'''MF'''である。開発方針の決定、[[インフラ]]の整備、[[商標]]や[[知的財産権]]の管理を行なっている。また、[[Mozilla Firefox]]や[[Mozilla Thunderbird]]のリリースを行なうための[[Mozilla Corporation]](以降「コーポレーション」)を[[子会社]]としている。所在地は[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[マウンテンビュー]]である。 ==歴史== [[Image:MozillaCaliforniaHeadquarters.JPG|thumb|right|250px|Mozilla FoundationとMozilla Corporationの本部が入居する、[[カリフォルニア州]][[マウンテンビュー]]の「マウンテンビュー・シティセンター」]] [[Image:Mozillaheadquarters.jpg|thumb|right|250px|2009年7月までの本部。[[Googleplex|グーグルプレックス]]([[Google|グーグル]]本社)の隣にあった。]] [[1998年]][[2月23日]]、[[ネットスケープコミュニケーションズ|Netscape]]によって[[Mozilla Application Suite]]の開発への協力を目的とした'''Mozilla Organization'''(以降「オーガニゼーション」)が設立された。オーガニゼーションはNetscape社員の大部分から成るが、Netscapeからは独立して運営されることが原則とされた。オーガニゼーションは「Mozillaはテスト目的のものであり[[エンドユーザー]]が利用するものではない」と主張していた。これが[[Beonex Communicator]](ベオネックス・コミュニケーター)と呼ばれるブラウザの開発のきっかけとなった。Beonex Communicatorはオーガニゼーションがプロジェクトを進めていた間、Mozillaの「エンドユーザー版」としてリリースしていた。しかし、大多数のエンドユーザーは「正式な」Mozillaのビルドをダウンロードしていた。 Netscapeの親会社である[[AOL]]によるオーガニゼーションとの関係の劇的な縮小に伴い、[[2003年]][[7月15日]]、Mozilla Foundationが設立された。これによりMozillaはNetscapeとの関係を完全に切ることと成った。AOLはファウンデーションの設立に際し、[[ハードウェア]]や[[知的財産権]]を委譲し、移行の手伝いのために3か月間、3人のチームを雇った。またAOLは2年間にわたり200万ドルの寄付を約束した。 == Mozilla Corporation == {{main|Mozilla Corporation}} [[2005年]][[8月3日]]、ファウンデーションは完全[[子会社]]であるMozilla Corporationを設立した<ref>[https://www.mozilla.org/press/mozilla-2005-08-03.html Mozilla Foundation Forms New Organization to Further the Creation of Free, Open Source Internet Software, Including the Award-Winning Mozilla Firefox Browser]</ref>。コーポレーションは主にFirefox、Thunderbirdのリリース計画、[[マーケティング]]および関連活動について責任を負うこととなった。さらに企業とも関係をもち、大きな収益を上げるようになった。コーポレーションは課税対象の法人であり、ファウンデーションとは異なり収益や企業活動の面で大きな自由度を持っている。 == 業務 == 当初、ファウンデーションが他者へ支払う金額はオーガニゼーションの頃と比較して非常に大きくなった。これはオーガニゼーションが伝統的にNetscapeや他のMozillaの技術のベンダーに残してきた業務によるものである。対象を開発者からエンドユーザーへ移すことの一部として、ファウンデーションは広告会社と契約を結んでMozillaのソフトウェアを同梱したCDの販売や電話サポートを開始した。いずれもNetscapeと同じ業者を選択した。またファウンデーションは「Mozilla」の商標やロゴの使用に関する方針のもと、自社の知的財産権に対する主張をより強めるようになった。さらにマーケティングのような新しいプロジェクトも開始した。 コーポレーションの設立によって、ファウンデーションは開発や商業関係の活動の全てを子会社であるコーポレーションに委任した。そしてファウンデーションは「製品化されていない」[[Camino]]や[[SeaMonkey]]などのプロジェクトの管理を継続し、単独でのプロジェクト管理と方針整備に注力することとなった。ファウンデーションはMozillaの商標と知的財産権を所有しており、これらをコーポレーションにライセンスしている。またMozillaの[[Concurrent Versions System|ソースコードリポジトリ]]も管理しており、チェックイン権限の付与も行なっている。 ==財源== ファウンデーションは資金源として寄付を受け付けている。設立時にAOLから200万ドル、[[ミッチ・ケイパー]]から30万ドルの寄付を受けている。ファウンデーションはアメリカ合衆国国税収入局規約501(c)3によって連邦所得税の免除を受けているが、子会社であるコーポレーションは課税対象である。 ファウンデーションは[[Google]]と契約を結び、Googleでの検索を[[Mozilla Firefox]]の検索エンジンの既定の設定としている。また、Firefoxの既定の[[ホームページ]]はGoogleの検索サイトである。これらによる収益の総額は公式には公開されていない。 == 人物 == ファウンデーションの[[理事会]]は次の7人から成る。 *{{仮リンク|ミッチェル・ベーカー|en|Mitchell Baker}}- 理事長 *{{仮リンク|ブライアン・ベーレンドルフ|en|Brian Behlendorf}} *[[ブレンダン・アイク]] *[[伊藤穰一]] *{{仮リンク|ボブ・リスボン|en|Bob Lisbonne}} *[[ミッチ・ケイパー]] *{{仮リンク|カール・マラムード|en|Carl Malamud}} 当初はクリストファー・ブリザード<ref>Christopher Blizzard</ref>が理事を務めていたが、彼がコーポレーションの設立に伴いコーポレーションの理事会へ異動となったため、それ以降は伊藤穰一が理事を務めている。ボブ・リスボンとカール・マラムードは[[2006年]][[10月]]に理事に選任された。 ファウンデーションには有給のスタッフがおり、プロジェクトや方針に関する問題に対処している。 <!-- こちらの名前は伏せる --> コーポレーションにも多数の職員がいるが、コーポレーション設立以前にはファウンデーションで働いていたものが多い。 伝統的にMozillaプロジェクトは<code>mozilla.org</code>と呼ばれるコミュニティによって運営されてきたが、コミュニティのメンバーの中にはファウンデーションやコーポレーションの理事や職員となったものが多い。 == その他 == * 2006年、[[OpenBSD]]の[[テオ・デ・ラート]]の要請を受け、ファウンデーションはOpenBSDへGoogleからの収益から1万ドルの寄付を行なった。これはOpenBSDによる[[OpenSSH]]の開発に対するものである。この要請の主な対象は [[シスコシステムズ]] 、[[IBM]] 、[[ヒューレット・パッカード]] 、[[レッドハット]] など、OpenSSHを組み込んだ製品を販売していながら寄付を行なっていなかった企業に対するものであったが、ファウンデーションはOpenSSHを使用していないにもかかわらず、開発への感謝として寄付を行なった<ref>[http://undeadly.org/cgi?action=article&sid=20060404004219 Donations Update]</ref>。 * [[Mozilla Europe]]、[[Mozilla Japan]]、[[Mozilla China]]はMozilla製品やプロジェクトの広報、普及を支援する非営利団体である。ファウンデーションからは独立しているが、ファウンデーションの公式アフィリエイト(支部)として活動している。 == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{columns-list|2| * [[Mozilla Firefox]] * [[Mozilla Thunderbird]] * [[Mozilla Sunbird]] * {{lang|es|[[Camino]]}} * [[SeaMonkey]] * [[Mozilla Messaging]] * [[Mozilla China]] * [[Mozilla Europe]] * [[Mozilla Japan]] * [[Mozilla Taiwan]] }} == 外部リンク == * [https://foundation.mozilla.org/ Mozilla Foundation]{{en icon}} {{Mozilla プロジェクト}} {{FOSS}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:もしらふあうんてえしよん}} [[Category:Mozilla]] [[Category:オープンソース文化・運動]] [[Category:フリーソフトウェアのプロジェクト]] [[Category:アメリカ合衆国の財団]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Mozilla_Foundation
2,167
FM-X
FM-X は富士通から発売されていたMSX。1983年発売。富士通製としては唯一のMSXである。 カートリッジスロット1つと16KiBytesのRAMを備えた、当時の廉価なMSXとしては標準的な仕様を持つ。 他に独自の拡張スロットにFM-7インターフェースを実装し、同社のパソコンFM-7と接続し協調動作を行えるのが特徴。FM-7との接続により、双方で以下の機能が使用できる。 FM-7との協調動作のために、MSX仕様機では唯一、FMシリーズ用と同じ8色しか表示できないデジタル方式のRGB映像出力 を備えている。FMシリーズと共通のディスプレイを利用できた半面、RGB出力ではMSXの本来の色表現である16色の表示が出来なかった。 ただし、MSX規格では「映像はRF・ビデオ・アナログRGBのいずれかの出力方式で表示できれば良い」とされており、本機はRF出力もあったため、この点では仕様に準拠している。また規格で定められていないハードウェア拡張に関しても制限は無く、デジタルRGB端子の存在は規格に違反していない。
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FM-X は富士通から発売されていたMSX。1983年発売。富士通製としては唯一のMSXである。
'''FM-X''' は[[富士通]]から発売されていた[[MSX]]。[[1983年]]発売。富士通製としては唯一の[[MSX]]である。 == 概要 == カートリッジスロット1つと16KiBytesのRAMを備えた、当時の廉価なMSXとしては標準的な仕様を持つ。 他に独自の拡張スロットにFM-7インターフェースを実装し、同社の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]][[FM-7]]と接続し協調動作を行えるのが特徴。FM-7との接続により、双方で以下の機能が使用できる<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1089380.html 富士通が発売した最初で最後のMSX規格に則った機種「FM-X」] - AKIBA PC Hotline!</ref>。 *FM-X側より **FM-7のメモリーを増設メモリーとして使用し、メインメモリーを32KBに拡張できる。 **別売りのパラレルインターフェイス搭載時にプリンターバッファとして利用可能。 **FM-7のシリアルポートを使用可能。 **FM-7側の一部のキー入力をサポート。 **call monとしてコールすると、マシン語モニタが利用可能。 **[[Programmable Sound Generator|PSG]]を共有し、6和音の発音が可能。 *FM-7側より **デジタルRGB出力をFM-XのデジタルRGB入力端子に接続することでスプライト機能が利用できる。 **PSGを共有し、6和音の発音が可能。 **FM-X側のジョイスティックポートが利用可能。 **3CPU協調動作が可能。 == その他 == FM-7との協調動作のために、MSX仕様機では唯一、FMシリーズ用と同じ[[8ピン角型デジタル端子|8色しか表示できないデジタル方式]]の[[RGB]]映像出力 を備えている。FMシリーズと共通のディスプレイを利用できた半面、RGB出力ではMSXの本来の色表現である16色の表示が出来なかった。 ただし、MSX規格では「映像は[[RF端子|RF]]・[[コンポジット映像信号|ビデオ]]・[[RGB21ピン|アナログRGB]]のいずれかの出力方式で表示できれば良い」とされており、本機はRF出力もあったため、この点では仕様に準拠している。また規格で定められていないハードウェア拡張に関しても制限は無く、デジタルRGB端子の存在は規格に違反していない。 <!--↓「〜と言える」云々はライター個人の解釈であり、事典の記載内容としては疑問。書くにしても、MSXの項にするのが妥当。コメントアウト。 一部MSX仕様に準拠していないこの機種のような例があるため、[[MSX]]は"[[Windows]]マシン"と呼ばれる[[PC/AT互換機]]の8ビット版と言える<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20120703-msx/ 世界のOSたち - 国民的8ビットコンピューター「MSX」を支えたOSたち (1) 国民的人気を博した「MSX」] - [[マイナビニュース]]</ref>。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://fururingo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/fm-xfm-7-1459.html|title=【番外編】FM-XをFM-7につないでみよう|date=20160305101041}} 実際にFM-7と接続して使用している様子が掲載されている。 {{Computer-stub}} {{富士通のパーソナルコンピュータ}} [[Category:MSX]] [[Category:富士通のパーソナルコンピュータ]] [[Category:富士通の歴史]]
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2,168
Read only memory
Read only memory(リードオンリーメモリ、ROM: ロム)は、記録されている情報を読み出すことのみ可能なメモリである。読み出し専用メモリともいう。 ROMは読み出し専用メモリであり、ROMに記録されている内容は本来の意味では書き換えできない。しかし、「RAM」が基本的にランダムアクセスで読み書きできるものを指すのに対し、それの対義語のように使われているため、EPROMの類など、何らかの条件の元一時的に書きこみできるものもROMと呼ばれるが通常は読み出し専用である。 原義的には対義語はRewritable memory(リライタブルメモリ、RWM)であるが上記の通りほとんど使われていない。 書き換えできないROMは、配線パターンによって(ICの製造過程の「マスク」から「マスクドROM」という)特定の情報を予め記録した状態で製造される。その他、読み出し専用・書き換え不可という動作や生産時に情報を記録しておくという性質が似ているCD-ROMなどのストレージメディア等を指す場合もある。 国内で販売されるスマートフォンのメーカー発表や通信キャリアのカタログ等では、書き換えのできる内部ストレージをRAMの対義語としてROMと表記していることがあるが、これは日本以外ではあまり使われていない。
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Read only memoryは、記録されている情報を読み出すことのみ可能なメモリである。読み出し専用メモリともいう。
'''Read only memory'''(リードオンリーメモリ、ROM: ロム)は、記録されている情報を読み出すことのみ可能な[[記憶装置|メモリ]]である。'''読み出し専用メモリ'''ともいう。 == 概説 == ROMは読み出し専用メモリであり、ROMに記録されている内容は本来の意味では書き換えできない。しかし、「[[Random Access Memory|RAM]]」が基本的にランダムアクセスで読み書きできるものを指す{{efn2|これも本来の語義からズレがある。}}のに対し、それの対義語のように使われているため、[[EPROM]]の類など、何らかの条件の元一時的に書きこみできるものもROMと呼ばれるが通常は読み出し専用である。 原義的には対義語はRewritable memory(リライタブルメモリ、RWM)であるが上記の通りほとんど使われていない。 書き換えできないROMは、配線パターンによって(ICの製造過程の「マスク」から「マスクドROM」という)特定の情報を予め記録した状態で製造される。その他、読み出し専用・書き換え不可という動作や生産時に情報を記録しておくという性質が似ている[[CD-ROM]]などの[[ストレージ]]メディア等を指す場合もある。 国内で販売される[[スマートフォン]]のメーカー発表<ref>{{Cite web|和書|title=ASUS「Zenfone 9」を11月4日発売、“片手で使える”高パフォーマンスを追求 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1448582.html |website=ケータイ Watch |date=2022-11-02 |access-date=2022-11-11 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>や[[通信キャリア]]のカタログ等では、書き換えのできる内部ストレージ<ref group="注">[[2022年]]現在は[[NAND型フラッシュメモリ|NAND型]]の[[フラッシュメモリ]]が用いられるが、これは構造としては[[EEPROM]]の一種である。</ref>をRAMの対義語としてROMと表記していることがあるが、これは日本以外ではあまり使われていない<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1706/01/news051.html 知らないと恥ずかしい? メモリの「RAM」と「ROM」の違い]</ref>。 == 用途 == *{{lang|en|[[Basic Input/Output System|BIOS]]}}・ファームウェアを記憶し[[CPU]]の[[主記憶装置]]として使用される。汎用のコンピュータにおいては[[ブート|IPL]]や {{lang|en|BIOS}} といった一部のプログラムやデータがROM上に置かれ、アプリケーションプログラムは {{lang|en|RAM}} 上で実行されるのに対し、[[組み込みシステム|組み込み用途のコンピュータ]]の場合、システムのプログラム全体を {{lang|en|ROM}} 上に配置することもある。 *[[補助記憶装置]]用の外部記憶媒体としての用途。 *着脱可能な[[ロムカセット|カートリッジ]]による[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の供給。主記憶装置としてのアドレス空間が割り当てられる。[[ファミリーコンピュータ]]や[[NINTENDO64]]などの据え置き型ないし多くの[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]、パーソナルコンピュータでも[[MSX]]や、[[PC-6000シリーズ]]などで用いられた。 == 種類 == === 半導体素子のROM === *[[マスクROM|マスク{{lang|en|ROM}}]] *{{lang|en|[[PROM]]}} **{{lang|en|OTPROM}}({{lang|en|one-time programmable ROM}}) **{{lang|en|[[EPROM]]}} ***{{lang|en|[[UV-EPROM]]}} ***{{lang|en|[[EEPROM]]}} === 半導体素子以外の{{lang|en|ROM}} === *[[パンチカード]] *[[コアロープメモリ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[Random Access Memory]] * [[ロムカセット]] {{半導体メモリ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りいとおんりいめもり}} [[Category:半導体メモリ]] [[Category:主記憶装置]]
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2,169
ROM
ROM(ロム、アールオーエム)
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ROM(ロム、アールオーエム)
{{Wiktionary|Róm}} '''ROM'''(ロム、アールオーエム) == 略称・通称 == * [[Read only memory|Read Only Memory]](リードオンリーメモリ)- の略。読み出し専用のメモリ。 *[[リードオンリーメンバー]] (Read Only Member) - 俗語([[和製英語]])、[[電子掲示板]]などを読むだけで書き込まない利用者を指す。 * [[関節可動域]] (Range Of Motion)、あるいはその検査、もしくは改善のために行われる理学療法。 * [[ロイヤルオンタリオ博物館]] (Royal Ontario Museum) の略称、通称名。 * [[ランダムオラクルモデル]] → [[ランダムオラクル]] (Random oracle) * [[ロードオブメジャー]] (ROAD OF MAJOR) - 日本の[[ロックバンド]]。 * [[ROMANTIC MODE]]の略称。 == コード == * [[ルーマニア]]のISO 3166-1国名コード(→[[ISO 3166-1]]) * [[ルーマニア語]]のISO 639コード * [[ローマ]]を表す[[IATA]]都市コード(→[[IATA空港コード]]) == 参照項目 == * [[ロム (曖昧さ回避)]] * [[LOM (曖昧さ回避)]] - カナ表記が一致。(RとLはカナによる区別が不可能なため) {{aimai}}
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2,170
アップル
アップル (apple) は、英語でリンゴ(林檎)のこと。
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アップル (apple) は、英語でリンゴ(林檎)のこと。
{{wiktionary|apple|アップル}} '''アップル''' (apple) は、[[英語]]で[[リンゴ]](林檎)のこと。 == 会社、団体 == * [[Apple]] (Apple Inc.) - [[アメリカ合衆国]]の[[インターネット]]([[情報技術|ICT]])、[[デジタル家電製品]]およびそれらに付随した[[ソフトウェア]]を開発する会社。[[2007年]]までの旧称はApple Computer, Inc.。 **[[Apple#Apple Japan合同会社|Apple Japan]]合同会社 (Apple Japan, Inc.) - Apple Inc.の100%子会社の日本法人。 * [[アップル・コア]] (Apple Corps Ltd.) - [[ビートルズ]]が[[イギリス]]の[[ロンドン]]に設立した企業。現在の主な事業はビートルズの諸権利の管理。[[1968年]]設立。 ** [[アップル・レコード]] - アップル・コア社の音楽[[レコードレーベル|レーベル]]。 ** [[アップル・ブティック]] - アップル・コア社がかつてロンドンに開いた洋装店(洋服の販売店)。 * [[アップルインターナショナル]] - 日本車の輸出を中心とする中古車販売企業。 ** [[アップルオートネットワーク]] - 中古車買取店「アップル」を運営している企業。アップルインターナショナルの子会社。 * [[アップルワールド]] - 東京都の旅行会社。「Hotelista(ホテリスタ)」と「Travery(トラベリー)」を運営。 * [[あっぷる]] - [[長崎放送]]で放映されているローカル[[テレビ番組]]。 === 架空の団体 === * APPLE - 特撮テレビ番組『[[マイティジャック|戦え!マイティジャック]]』に登場する架空の組織。正式名は「地球人類自由平和連合」。 == 地名 == * [[アップル川 (イリノイ州)]] (Apple River) - [[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]]南西部と[[イリノイ州]]北西部を流れている[[ミシシッピ川]]の支流。 == 製品 == * [[Apple I]]、[[Apple II]]、[[Apple III]] - [[Apple|アップルコンピュータ]]製のコンピュータ。 == 人物 == * [[アップル・デ・アップ]] (Apl.de.ap) - アメリカ合衆国の[[ヒップホップ]]グループ、[[ブラック・アイド・ピーズ]]のメンバー。本名アラン・ピネダ・リンドー (Allan Pineda Lindo) 。 * [[アップルみゆき]] - 日本の[[女子プロレスラー]]。 * [[フィオナ・アップル]] (Fiona Apple) - アメリカの[[シンガーソングライター]]。出生名フィオナ・アップル・マッガート (Fiona Apple Maggart) 。 * [[マイケル・アップル]](Michael W. Apple) - アメリカの教育学者。 === 架空の人物 === * [[シャロン・アップル]] (Sharon Apple) - SFアニメ『[[マクロスプラス]]』に登場する、架空の[[バーチャルアイドル]]。 * アップル - アニメ『[[赤い光弾ジリオン]]』に登場する架空のキャラクター。 == 音楽 == * [[アップル (アルバム)]] - [[マザー・ラヴ・ボーン]]の[[音楽アルバム|アルバム]]。 * [[The Apples]] - [[吉井和哉]]のアルバム。 * JIGGER'S SON BEST -apple- - [[JIGGER'S SON]]のベストアルバム『[[JIGGER'S SON BEST]]』の一枚。 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} * {{intitle|あっぷる}} * [[Wikipedia:索引 あつふ#あつふる]] * [[リンゴ (曖昧さ回避)]] * [[蘋果]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:あつふる}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]]
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2,171
補助記憶装置
補助記憶装置(ほじょきおくそうち、英:Auxiliary Memory Units)は、記憶装置の分類で、外部バスに接続され、CPUが入出力命令で操作する物を示す。 メインのバスに直接接続される主記憶装置(メインメモリ)と比較するとレイテンシやスループットは遅いが比較すると大容量である。二次記憶装置(にじきおくそうち、英:Secondary storage)などとも呼ばれる。 記録媒体の種類や記録方式、アクセス方式、設置場所、記録媒体が取り外せるか否か、書き換えられるか否か、等々といった分類がある。なお、以下のいくつかの属性は、「補助」記憶装置に関係なく、記憶装置一般の分類である。以下のリストは、網羅するものではない。 以下のリストは、網羅するものではない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "補助記憶装置(ほじょきおくそうち、英:Auxiliary Memory Units)は、記憶装置の分類で、外部バスに接続され、CPUが入出力命令で操作する物を示す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メインのバスに直接接続される主記憶装置(メインメモリ)と比較するとレイテンシやスループットは遅いが比較すると大容量である。二次記憶装置(にじきおくそうち、英:Secondary storage)などとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "記録媒体の種類や記録方式、アクセス方式、設置場所、記録媒体が取り外せるか否か、書き換えられるか否か、等々といった分類がある。なお、以下のいくつかの属性は、「補助」記憶装置に関係なく、記憶装置一般の分類である。以下のリストは、網羅するものではない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以下のリストは、網羅するものではない。", "title": "ストレージの例" } ]
補助記憶装置は、記憶装置の分類で、外部バスに接続され、CPUが入出力命令で操作する物を示す。 メインのバスに直接接続される主記憶装置(メインメモリ)と比較するとレイテンシやスループットは遅いが比較すると大容量である。二次記憶装置などとも呼ばれる。
{{Redirect|ストレージ|「ウルトラマンZ」に登場する組織「'''ストレイジ'''」|ウルトラマンZ#ストレイジ|その他の「ストレージ」|ストレージ (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2020年3月}} [[ファイル:Western Digital WD800 Hard Disk A.jpg|thumb|150px|パーソナルコンピュータのハードディスク]] [[File:Disk drive of professional large computer system (1970s) with removable disk pack as storage medium inside, from 'International Computers Limited'.jpg|thumb|right|150px|IBMディスクパック]] '''補助記憶装置'''(ほじょきおくそうち、英:Auxiliary Memory Units)は、[[記憶装置]]の分類で、外部[[バス_(コンピュータ)|バス]]に接続され、[[CPU]]が入出力命令で操作する物を示す。 メインのバスに直接接続される[[主記憶装置]]([[メインメモリ]])と比較するとレイテンシやスループットは遅いが比較すると大容量である。二次記憶装置<ref>{{Cite book| last = Organick | first = Elliot | title = Computer System Organization | publisher = [[Association for Computing Machinery|ACM]] | year = 1973 | pages = 321 | isbn = 0-12-528250-8 }}</ref>(にじきおくそうち、英:Secondary storage)などとも呼ばれる。 == 分類 == [[電子媒体|記録媒体]]の種類や記録方式、アクセス方式、設置場所、記録媒体が取り外せるか否か、書き換えられるか否か、等々といった分類がある。なお、以下のいくつかの属性は、「補助」記憶装置に関係なく、記憶装置一般の分類である。以下のリストは、網羅するものではない。 * 読み書きの制限 ** 読み書き自在のもの ** 書き込み操作や粒度に制限が強いもの([[NAND型フラッシュメモリ|NANDフラッシュ]]など) ** 「全部消去して再利用」しかできないもの([[CD-RW]]など) ** ライトワンス([[Write Once Read Many]]) ** リードオンリー([[Read only memory]]) * [[シーケンシャルアクセス]]と[[ランダムアクセス]](前者はテープのようなもの、後者はディスクのようなものを指す。後者にしても主記憶のような粒度でランダムアクセスできるわけではない。一方でDECtape([[w:DECtape]])のように、利用者に対してランダムアクセスに近い使い勝手を用意しているテープシステムもある)。 * コンピュータに内蔵される「内蔵型」と、コンピュータの外部に置かれる「外付型」があるが、内蔵型のドライブを取り付けて外付型として使うための筐体、といったような商品が市販されており容易に入手可能なことからもわかるように、普通は全く意味のある分類ではない。 * 取付け取外し可能([[リムーバブルメディア]])か否か * コンピュータの動作中に取付け取外し([[ホットスワップ|活線挿抜]])可能か否か == ストレージの例 == {{seealso|リムーバブルメディア}} 以下のリストは、網羅するものではない。 * [[紙テープ]] * [[パンチカード]] * [[磁気テープ]] * [[バブルユニット]] * [[磁気バブル]] * [[磁気コアメモリ]] * [[磁気ドラムメモリ]] * [[磁気ディスク]] * [[ハードディスクドライブ]] * [[ソリッドステートドライブ]] * [[光ディスク]] * [[光磁気ディスク]] * [[フラッシュメモリ]] == 関連項目 == * [[オンラインストレージ]] * [[キャッシュメモリ]] * [[スラッシング]] * [[デジタルジレンマ]] * [[ハードディスクドライブの歴史]] * [[バックアップ]] * [[ページング方式]] * [[リムーバブルメディア]] * [[仮想記憶]] == 出典 == {{Reflist}} {{補助記憶装置}} {{コンピュータの構成要素}} {{DEFAULTSORT:ほしよきおくそうち}} [[Category:補助記憶装置|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E8%A8%98%E6%86%B6%E8%A3%85%E7%BD%AE
2,173
日本電気
日本電気株式会社(にっぽんでんき、英: NEC Corporation)は、東京都港区芝五丁目に本社を置く住友グループの電機メーカーである。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。 略称はNEC(エヌ・イー・シー)、日電(にちでん)。通称としては一般的に「NEC」が使われ、ロゴタイプや関連会社の名前などにも「NEC」が用いられている。 旧社名は住友通信工業株式会社(すみともつうしんこうぎょう)。住友電気工業と兄弟会社で、同社及び住友商事とともに住友新御三家の一角であるが、住友の象徴である井桁マークは使用していない。 ブランドステートメントは「Orchestrating a brighter world」である。 有線・無線通信機器(IP電話網、携帯電話基地局、テレビジョン放送設備、都市・交通無線、鉄道無線、船舶無線、航空無線、自動車通信等)、コンピュータ(IAサーバ、UNIXサーバからメインフレーム、スーパーコンピュータまで)およびITサービス(システムインテグレーションSI、デジタルトランスフォーメーションDX)を主力事業としている。また、政府機関向け人工衛星・宇宙探査機を開発・製造している。インフォメーション・テクノロジー (IT) とネットワーク (NW) 、ITとオペレーショナル・テクノロジー (OT) の融合を掲げ、サーバやミドルウェアなどのクラウドコンピューティング基盤、IoTのためのエッジコンピューティング基盤、NGNやSDNなどの通信ネットワーク、スマートグリッドなどのエネルギーネットワーク、社会ソリューション向け人工知能 (AI)、サイバーセキュリティやコンピュータ媒介現実 (AR/MR)、近年は電子政府、FinTech(ブロックチェーン開発)やモビリティサービス技術にも力を入れている。 日本のマイコン、パーソナルコンピュータ市場では黎明期より手がけ、1976年(昭和51年)のTK-80のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。国内で「NEC」というブランドで親しまれているものにパーソナルコンピュータ (PC) があったが、2000年以降は個人消費者向け製品から法人向け製品や社会インフラ製品へ注力するよう事業改革が進められた。 「海底から宇宙まで」、ICTを活用した社会インフラの高度化を掲げる国内外の社会インフラ事業では、局用交換機、衛星地上局、マイクロ波通信設備、光海底ケーブル、放送送信機などの通信装置や生体認証システムやNシステムのような監視システムなどのセキュリティシステムの構築実績を持つ。政府開発援助を活用し、新興国を中心にICTインフラの構築を手がけてきた。アフリカは1963年から取引があり、これまでアフリカ大陸の40カ国以上に、マイクロ波通信システムを納入した。また、アジアの主要空港向けに、生体認証技術を活用した安全で確実な出入国審査を実現する電子パスポートシステムを提供している。現地法人のある南アフリカでは、指紋認証による7千万人規模の国民IDシステムを構築した。 2019年現在、サーバ分野で富士通に次ぎ国内2位である。メインフレームは現存する国内3社、世界6社のうちの1社である。ベクトル型スーパーコンピュータを製造する世界で現存する唯一のメーカーである。通信設備では国内首位であり、通信衛星から光通信など様々な設備を販売している。PASOLINKブランドは、2000年代から2010年代前半にかけて小型の固定無線伝送装置で世界トップのシェアを持っていた。ネットワーク機器関連の製品ではUNIVERGEブランドが代表的な製品である。IoT/M2Mソリューションの製品にはCONNEXIVEがある。ITサービスでは、2016年時点で富士通とNTTデータに次ぐ、国内3位である。 人工衛星・宇宙探査機については、日本において国内シェア約7割に相当する50機以上の開発実績を持ち、ロケットを手掛ける三菱重工業、IHI、人工衛星を手掛ける三菱電機と共に、宇宙業界の通称「ビッグ4」の一角をなす。 人工知能を活用した画像認識や自然言語認識技術に強みを持ち、顔認識システムNeoFaceは国立標準技術研究所が主催する顔認証ベンチマークにおいて4回連続でスピード・精度ともに世界一である。顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、耳音響の6つの生体認証技術はBio-Idiomブランドでサービスを展開する。 これらの製品・サービスの国際市場への販売にも力を入れているとともに、海外メーカーなどの通信機器、コンピュータ、ソフトウェアも販売している。ただし、ハードウェア単体の販売や売り切りのSI受託開発から、継続的なサービスの販売や生体認証と人工知能をコアとしたITプラットフォームビジネスモデルへと構造改革を進めている。 1899年(明治32年)7月17日設立。岩垂邦彦と米国ウェスタン・エレクトリック(以下W.E.社、現在のアルカテル・ルーセントの前身)が54%を出資する日米合弁会社であった。W.E.社は当初沖電機工場(現・沖電気工業)を合弁先に交渉したが、沖電機工場の沖牙太郎との間で条件がまとまらず成立しなかった。このため、W.E.社の代理人として交渉に当たっていた岩垂が自ら会社を興して提携相手となった。これは日本最初の合弁企業の事例とされる。なお、1992年まで使用されていたNECのロゴタイプはW.E.社のロゴに由来している。1918年(大正7年)W.E.社は海外投資部門を分離し、インターナショナル・ウェスタン・エレクトリック(以下I.W.E.社)を設立。1925年(大正14年)にI.W.E.社は買収され、インターナショナル・スタンダード・エレクトニクス・コーポレーション(I.S.E.社)と改称。 戦前は、電話交換機などの通信機器の製造を主な事業としていた。1928年(昭和3年)に日本電気の丹羽保次郎、小林正次らが昭和天皇の即位大礼の写真のファクシミリ通信を成功させた業績で知られる。 1932年(昭和7年)、I.S.E.社は経営を住友財閥に委託した。第二次世界大戦で日米関係が悪化すると、1941年(昭和16年)、I.S.E.社所有の株式が敵国資産として処分され住友グループ傘下となった。このため、1943年(昭和18年)2月から1945年(昭和20年)11月まで、住友通信工業株式会社と社名変更していた(住友電気工業が当時既に存在していたためこの社名になったようである)。大戦期は陸軍の無線機を一手に引き受け、電波警戒機の開発も行っていた。 1949年(昭和24年)に東京証券取引所に上場。 1951年(昭和26年)I.S.E.社と資本提携復活。 戦後は、通信関係や真空管や半導体など電子部品の製造のほか、1953年(昭和28年)に子会社「新日本電気」(のちの日本電気ホームエレクトロニクス、現在は清算)により家電・無線通信機器分野に進出した。また、1958年(昭和33年)のNEAC 1101からコンピュータの開発にも取り組み始めた。 1960年代から、マイクロ波通信装置を中心とする通信機器の海外輸出に積極的に取り組み始めた。 1963年(昭和38年)、茨城宇宙通信実験所の日本初の衛星通信地球局に高感度受信装置を納入。 1966年(昭和41年)、日本板硝子と共に世界最初期の自己収束型光ファイバー「セルフォック」を開発。1970年代にはマイクロ波通信や光ファイバー通信用の半導体レーザーの量産化でも世界をリードする。 1970年(昭和45年)には、日本初の人工衛星である「おおすみ」を製造し、運用に成功する。 1977年(昭和52年)に、当時会長であった小林宏治によって「コンピュータと通信の融合」をうたった「C&C」(Computer & Communicationの略)のスローガンが提唱され、新たな企業理念となる。これ以降、それまで「電電ファミリー」(例えば電話交換機では富士通と並び大手の一角と言われた)というイメージの強かったNECは、情報・通信系を中心とした総合電機メーカーへと変貌を遂げる。 1982年(昭和57年)に発売された「PC-9800シリーズ」は、約15年間にわたって日本のパソコン市場を席巻し、全盛期には「国民機」とまで呼ばれるようになった。 C&Cの理念は小林の実質的な後継社長であった関本忠弘の時代にも引き継がれ、上記のPC-9800シリーズによる国内PCの圧倒的シェアに加え、1985年にはスーパーコンピュータSX-2が世界最速となり、1980年代後半には半導体生産で世界一位となるなど、日本を代表するエレクトロニクス企業へと成長した。コンピュータ系の事業部門においては、富士通の池田敏雄と並ぶ日本の情報処理分野の生みの父とされる水野幸男などが、汎用機や関本の好む大型技術案件だけに集中しがちなNEC自体の傾向を補正し、PCやUNIXなどの当時の次世代技術に他ベンダよりいち早く投資を続ける事により発展してきたという側面も大きい。 NECを含めた日本企業の国際半導体市場進出は、「日の丸半導体」と呼ばれ、日米半導体貿易摩擦問題として政治問題化するまでになった。プラザ合意(1985年)後の急速な円高や、1986年から1996年まで続いた「日米半導体協定」の影響により海外競争力は衰えることとなった。 1983年(昭和58年)に英文社名を現在のものに変更する。1990年(平成2年)には、創業以来の地に現在の本社ビルであるNECスーパータワーが建設された。建設中は森永製菓本社がある森永プラザビルを間借りした。1992年(平成4年)10月5日には、CI刷新により、現在の青色のNECロゴに変更した。このロゴの使用を開始した1992年(平成4年)以降、対外的には「NEC」を通称とするようになっている。 1990年代後半に至り、国内PC市場でのPC/AT互換機対応の遅れ、海外PC市場進出をめざし買収したパッカードベル社の不振、半導体市場での米国・韓国・台湾勢との競争激化といった要因により業績の勢いにかげりが見えた矢先、1998年(平成10年)には防衛庁調達における価格水増し疑惑が発覚し、企業イメージを損なうこととなった。この責任を取る形で関本は会長を退き、社長も金子尚志から西垣浩司へと交代した。 西垣社長体制下において、不採算事業のリストラとガバナンス強化施策に従い、家電分野から撤退した。1999年(平成11年)12月には、DRAM事業部門を分社化し、NEC日立メモリ(エルピーダメモリに改称後、会社更生法適用により、現・マイクロンメモリジャパン)を設立する。また、2000年(平成12年)4月には、社内カンパニーとしてNECソリューションズ・NECネットワークス・NECエレクトロンデバイスを設立したが、2002年(平成14年)11月に半導体関連部門のNECエレクトロンデバイスをNECエレクトロニクス(現・ルネサスエレクトロニクス)として分社化、カンパニー制自体も導入からわずか3年後の2003年(平成15年)4月に金杉社長体制において廃止された。総合電機メーカーとしての暖簾を下ろし、C&Cコンセプトに立ち戻り、コンピュータシステム及び通信を中心とした電機メーカーへ転換した。 2001年(平成13年)、創立100周年記念事業として、玉川事業場の一部を高層ビル群に建て替えた(NEC玉川ルネッサンスシティ)。年間の売上が5兆4097億円と過去最大に達した(2016年度の2倍以上)。 2002年(平成14年)には、「地球シミュレータ」を完成させ、日米スパコン貿易摩擦以降初めてスーパーコンピュータの世界最速を記録し、コンピュートニク・ショックとも呼ばれた。 2004年(平成16年)11月、アビームコンサルティングと業務提携し、グループに加えることで、ビジネスコンサルティングとITサービスを強化する。 また、通信ネットワークのインターネット化・IP化を進め、次世代電話網のNGN(Next Generation Network)に関しては、IT/NW機器業界では一番早くから対応を進めている。 1988年よりNASDAQに米国預託証券(ADR)を上場していたが、米国の監査法人から求められていた保守・サポートサービスと製品が一体になった「複合契約」の収益分析が完了しなかったため、上場維持に必要なSECに対する2006年3月期の年次報告書を提出できず、2007年10月に上場を廃止した。その後、SECとの間では2008年6月に和解が成立した。また、この関連で2006年の中間決算より、日本国内向けの財務諸表の作成基準を従来の米国基準から日本基準に変更している。 2007年(平成19年)4月、日産自動車とともに自動車アプリケーション用リチウムイオン電池の開発を行うオートモーティブエナジーサプライを設立した。2010年にはリチウムイオン電池専門のNECエナジーデバイスを設立。2012年(平成24年)4月には、社内にスマートエネルギー事業本部を設置した。2014年5月にはNECエナジーソリューションズを北米に設立した。しかし、2017年にオートモーティブエナジーサプライ・NECエナジーデバイスともに株式を売却する方針と発表、2019年3月に売却した。北米のNECエナジーソリューションズも2021年9月に売却した。このように、2000年代後半から2010年代にかけて注力した蓄電池等のスマートエネルギー関連事業は、2020年代には縮小した。2023年の時点で社長を務める森田隆之は、インタビューで2019年の売却を「失敗」と評し、「売らなければ今、花開いているであろう事業です」と述べた。 2009年3月期決算(2008年度)は、主に半導体分野などの不振が響き、営業損益で62億円、当期損益では2966億円の赤字となった。決算発表で社長の矢野薫は「不採算事業の撲滅」を掲げ、経費の見直しとともに人員削減にも取り組むと述べた。この方針の一環として、2009年度中に国内研究員の約15%(約150人)を製品開発や営業、SEなどの事業部門に異動させる方針と報じられた。 2010年(平成22年)、6月13日、NEC東芝スペースシステムが主製造業者として製造した「はやぶさ」が世界初の地球重力圏外にある天体からのサンプルリターンに成功して地球に帰還する。 同年、携帯電話事業を分社化し、NECカシオ モバイルコミュニケーションズ(後にNECモバイルコミュニケーションズに改称)を設立する。また半導体子会社のNECエレクトロニクスはルネサス テクノロジと合併しルネサス エレクトロニクスとなった。 2011年(平成23年)1月27日、1980年代から国内シェア首位のPC事業を分社化し、世界シェア4位のレノボとともに合弁会社を設立すると発表した。これにより国内最大手のPC事業グループが誕生した。 これらの統合による規模のメリットによって、パーソナルプロダクトのコストダウンやシェア拡大を目指す一方で、成長市場であるクラウドやスマートグリッドなどのビジネス・社会インフラ関係の分野での事業創出を図っている。 2012年3月期決算(2011年度)は、営業利益は737億円となったものの、最終当期損益は1103億円の赤字で2期連続の赤字となる。決算発表では、スマートフォンの伸び悩みやタイでの洪水によるサプライチェーンへの影響といった事業面での事情のほか、繰延税金資産の見直し、構造改革特別費用405億円の計上が赤字の要因として挙げられた。これに先立って同年1月には業績の下方修正とともに1万人の人員削減を含む事業構造改革の実施を発表していた。2013年3月決算期(2012年度)は304億円の当期利益に回復した。 2011年に、SDN(Software Defined Network)を実現するOpenFlow技術を世界で初めて製品化したUNIVERGE PFシリーズを発売する。2013年(平成25年)には、SDN戦略本部を設立し、世界で初めて通信キャリア向けネットワークのSDN仮想化ソリューションを発売するなど、SDNを新しい事業の柱として据える方針を打ち出した。しかし、SDNの先駆的な実用化に成功しながらシスコシステムズなどに市場の主導権を奪われたと、2017年の時点で指摘されている。 2010年代にはシンガポールにセキュリティ関連事業の拠点「グローバルセーフティ事業部(GSD)」を設置。 携帯電話はフィーチャーフォンの時代には2001年から2004年までの4年間国内シェアトップを占めていたが、2011年には7位まで落ち込んだ。2011年発売のMEDIASによりスマートフォンに参入したものの、2013年7月に事業撤退を発表した。フィーチャーフォンの開発は継続するとしたが、パーソナル事業から社会インフラ事業へのシフトがますます鮮明となる。フィーチャーフォンのみとなった携帯電話事業は2016年3月に、NECモバイルコミュニケーションズを解散する形で再びNEC本体直轄となった。携帯電話事業の縮小をめぐっては、2012年に東京国税局の税務調査で、海外事業からの撤退に絡んで要求され支払った補償金などが交際費と認定され、約100億円分の所得隠しを指摘される事態も付随して起きた。 2010年代半ばからはビッグデータ、IoTや人工知能(AI)関連に注力するようになる。2014年4月にはビッグデータ戦略本部を新設した。2015年6月、ものづくりソリューションとして「NEC Industrial IoT」というサービスの提供を開始した。2016年6月には産業技術総合研究所と共同で「産総研‐NEC 人工知能連携研究室」を設立、7月には人工知能技術を集結した「NEC the Wise」ブランドを策定した。 2016年4月、FinTech事業開発室を新設した。また、大阪大学内に次世代コンピューターの基盤技術を開発する「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」を設立した。 同月、2016年度(2017年3月決算期)の決算より、国際財務報告基準(IFRS)を適用することを発表した。 2016年12月、1960年代より開発で先行し、常にトップグループを走り続けてきたオフィスコンピュータの製造より撤退。同製品の市場規模の縮小により採算が悪くなった影響である。コンビニエンスストアやホテルなどの稼働中のバックオフィス用コンピュータは独占状態に近く、保守サポートは2023年まで継続する。 2016年12月、人工知能を活用したがん治療用ワクチンの開発を担う新会社「サイトリミック」を設立。2019年には医療分野への展開として、定款を変更し創薬事業に参入した。 2017年2月、公正取引委員会より、消防救急デジタル無線の入札において談合があったとして、他の3社(富士通ゼネラル・沖電気工業・日本無線)とともに排除措置と課徴金支払を命じられる。2017年3月決算期(2016年度)の決算は海外事業の不振などに加え、前記の公取委の課徴金の影響もあって減収減益となり、当時掲げていた中期計画(2019年3月決算期まで)を撤回する事態となった。公取委の談合認定に関してはその後、立ち入り検査を2016年に受けた日付(11月18日)を「NECコンプライアンスの日」として不正再発防止の啓発を社内で実施している。また、業績回復に向けた構造改革として、2018年(平成30年)1月30日に、2020中長期計画にて、国内の間接部門やハードウェア事業領域で希望退職を募るなどによる3000人の人員整理を発表した。 2010年代後半からは日本国外企業のM&Aを積極的に手がけるようになる。2018年1月、イギリスのITサービス会社ノースゲート・パブリック・サービシズの買収を発表。同年12月27日にはデンマーク最大のIT企業である「KMD」を買収すると発表した。この2件はいずれも海外セーフティ事業を強化が目的と報じられた。2020年12月23日には、スイスの大手金融ソフトウェア企業であるAvaloq Group AGの買収を完了。買収価格は20.5億スイス・フラン(約2360億円)。 2018年1月には、地球観測衛星「ASNARO-2」の打ち上げに向け人工衛星の運用を独自で行う施設を新設し、製造から打ち上げ後の運用まで自社で行う初の国内メーカーとなった。当「NEC衛星オペレーションセンター」における衛星の運用事業に加え、衛星画像データの販売事業にも参入する。 第5世代移動通信システム(5G)に向けては、2018年10月24日にサムスン電子と5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した。2020年には、次世代通信規格5Gのインフラ整備でイギリス政府やNTTと協業を進める。5G投資の一環として、同年6月にはNTTとの資本業務提携を発表し、NTTはNECに約645億円を出資して4.8%の株式を取得した。2021年11月、大阪大学と共同で「NEC Beyond 5G協働研究所」を設置した。 量子コンピュータ分野では、2019年3月1日、産業技術総合研究所と共同の研究室「NEC―産総研 量子活用テクノロジー連携研究室」を設立した。さらに2020年6月には、量子アニーリングマシン分野で、D-Wave Systemsと協業を発表。量子暗号では、東芝や東京大学、NICT、野村ホールディングスなどと協業・共同検証を行っている。 2019年4月24日には新ブランド「NEC Smart Connectivity」を立ち上げ、ネットワーク技術やソリューションを、IoT化を迎える新たな領域におけるサービス事業を展開すると発表した。 2019年8月5日、新たな移動環境づくりを目指し、空飛ぶ車の試作機の浮上実験を公開した。 2020年3月決算期(2019年度)は、ビジネスPC特需などにより営業利益は前年比120%の1276億円となり、当期利益は過去最高を記録した。 2021年3月決算期(2020年度)は、新型コロナウイルス感染症流行の影響を受けながらも、5G基地局やGIGAスクールといった需要で補い、減収増益(調整後営業利益1782億円)だった。この決算発表と合わせて公表した2021年度(2022年3月決算期)の業績見込は成長投資などのため前年比減益としたが、株式市場では予想を下回ったとして「失望売り」が起きた。最終的に2022年3月期決算は、会社発表を上回った。 2021年7月、「NEC都市OS」を提供開始。NECはこれまで、国内13の自治体にスマートシティ事業者として参画しており、日本政府のスーパーシティ構想に応募した全国31自治体のうち17自治体にNECが参画している。 2023年1月30日、同年6月の株主総会での承認を前提とした指名委員会等設置会社への移行決定を発表し、6月22日の株主総会での承認を経て正式に指名委員会等設置会社となった。 2018年以降はキャリア採用を大幅に増やしていると紹介されている。 ※ 梶井剛の任期途中の1943年2月以降から社長を置く。それまでは専務がトップマネージメント。 主要な製品・サービスは、コンピュータ、ソフトウェアパッケージおよびネットワーク・通信機器の生産/販売、またそれらを組み合わせたITサービス(コンピュータシステムの構築・インテグレーション)の提供である。その他には、テレビ局向け放送機器や人工衛星の開発・製造を行っている。 2000年(平成12年)以降、事業の選択と集中が進み、半導体、パーソナルコンピュータの機器など、携帯電話、照明は分社化している。これらの製品は「#分社/子会社化した部門の製品」に記載する。 社内カンパニー制時代はNECソリューションズに属していた。 (旧・NEC東芝スペースシステム) 1956年(昭和31年)に東京大学にロケット用テレメトリ送受信装置を納入したのが始まり。2001年に東芝航空宇宙システム事業部と日本電気宇宙開発事業部が各社から分離し、NEC東芝スペースシステムとして統合された。2007年に日本電気に再び宇宙システム事業部が新設され、以降宇宙システム事業部は人工衛星および地上システムの開発・製造を担当し、NECスペーステクノロジー(旧NEC東芝スペースシステム)は主に搭載機器の開発や製造を担当している。人工衛星・宇宙探査機の開発実績は以下の通りである(「日本の宇宙機一覧」も参照) ほか ほか ほか NECのパッケージソフトは、そのほとんどが企業システム向けである。特に、ミドルウェアに強い。下記ソフトウェア以外に業種(医療、製造業など)に特化したパッケージソフトの開発、販売も行っている。事業部ごとに企業向けパッケージソフトを販売しており、例えば医療ソリューション事業部では電子カルテの販売を行っている。 大部分が社内カンパニー制時代はNECネットワークスの事業分野だが、AtermやスピークスなどはNECソリューションズの商品だった。 無線・通信関係に関しては、かつて日本陸軍の無線・通信設備を一手に引き受けていた。陸軍の無線機は電力供給がままならない状況を想定していたため、日本の低い工業技術力を背景にしながらある程度実用になったことで知られている(特に軍用機用)。一方で、日本無線が独占していた日本海軍の無線機は通じないことで有名だった。 超小型マイクロ波/ミリ波通信装置Pasolinkシリーズは、海外の主要オペレータを中心に販売を広げており、2007年度(平成19年度)から3年連続で世界シェア第1位を記録している。しかし2010年代半ばになると、中国の華為技術(ファーウェイ)が同様の製品で低価格攻勢をかけ、NECやスウェーデンのエリクソンのシェアは奪われている。 社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。 従来はテレビカメラからマスター機器、送信機器まで製作から送信まで一貫したラインナップを誇っていたが、現在は、テレビ局のテレビマスター装置(NECでは「APS装置」と呼ぶ)、CMバンクシステム、中継器及び送信機を製造しており、多くの放送局に納入実績がある。最近では、デジタル放送システムを納入している。また、ラジオマスター装置も製造している。 マスター装置の系列局・放送波毎の納入状況は次の通りである。 その他の放送局へのマスター納入状況は次の通りである。 ミリ波(60GHz帯)ブロードバンドトランシーバ(伝送装置): 市販製品や特注のハードウェア、ソフトウェアを組み合わせるシステムインテグレーションを行う。また、ロボットのシステムインテグレーション事業も行う。主に以下の業界向けのソリューションサービスを提供している。 NECは1947年からマイクロ波通信用の半導体レーザーの研究に着手していた。1958年には新しい事業として半導体開発部がスタートした。1960年代には集積回路(IC)の事業化へとこぎつけた。海外にも進出し、1983年には英国女王の臨席を得てNECスコットランドの開所式を行い、それに先立つ1978年には米国シリコンバレーでエレクトロニック・アレーズ9002(英語版)を開発したエレクトロニック・アレーズを買収、また、ブラジル、シンガポールにも進出した。1980年代には「日の丸半導体」の一角を担い、メモリ、プロセッサなどで世界上位にあり、多大な利益を上げていた(1985年から1991年まで売上世界首位)。 しかし、貿易摩擦や、東アジアにおいて日本製製造装置を輸入して完成品の半導体を製造するサムスンなどの韓国や台湾の半導体企業群の隆盛による価格下落の影響で利益を上げることが難しくなった。更に1990年代に入ると委託生産のため上記のアジア諸国メーカーへの積極的な技術供与も行われていて、先端品に近い半導体の製造技術まで流れることとなった。業況悪化を受け、まずメモリ部門を2000年に日立製作所との合弁という形でNEC日立メモリ(現・エルピーダ→マイクロンメモリジャパン)として、原点であるマイクロ波半導体を含む化合物半導体部門は2001年にNEC化合物デバイス(2006年に後述のNECエレクトロニクスと合併)として分社、続いて集積回路部門も2002年にNECエレクトロニクス(現・ルネサスエレクトロニクス)として分社化した。いずれの企業もその後、経営危機に伴う出資比率の変更に伴い、NECの関連会社から離れることになった。半導体事業が斜陽化した点については、選択と集中を進められなかったことが原因として指摘されている。 2000年(平成12年)に日立製作所のメモリ関連事業部と統合し、新会社「エルピーダメモリ」に移行した。その後、エルピーダは外部から開発および工場更新の資金を調達し、三菱電機のメモリ事業部門を買収したため、NECの出資比率は日立などに次いで3位となった。こうして持分法の対象以下の比率となり、NECの関連会社からははずれることとなった。 2013年7月31日には、マイクロン・テクノロジーからの増資を受け、エルピーダはマイクロンの完全子会社となり、2014年2月28日に「マイクロンメモリジャパン」と名称変更された。 2001年(平成13年)1月に韓国のブラウン管メーカーサムスンSDI(旧・サムスンNEC)と合弁会社「サムスンNECモバイルディスプレイ」を同国に設立して、NECエレクトロンデバイスが保有するカラー有機ELディスプレイ技術と基本特許、日本内の事業拠点などを共有。NECは2004年(平成16年)に有機ELなどの次世代ディスプレイ事業から撤退を決め、有機EL特許と合弁会社の全株式をサムスンに譲渡している。元・合弁会社はその後「サムスンOLED」→「サムスンモバイルディスプレイ」となって、2012年からはサムスン電子のS-LCDと統合され「サムスンディスプレイ」の有機EL事業部になっている。 コンデンサ、リレー、RFIDタグ・リーダ/ライタ、各種センサ等のデバイス製品を生産しているNECの子会社だったが、2017年4月19日にKEMET Corporationへと売却された。 1989年(平成元年)に発足したカラー液晶推進開発本部(後に事業部)の分社型会社分割により、2003年(平成15年)4月1日にNEC液晶テクノロジーを設立する。この会社は液晶ディスプレイ事業を担う。2011年(平成23年)2月25日、NEC液晶テクノロジーの株式の70%を中国の液晶大手である天馬微電子のグループに売却すると発表した。 2011年(平成23年)7月1日、NECと深圳中航光電子との合弁企業となり、NLTテクノロジーへと商号を変更した。2016年(平成28年)には天馬微電子の完全子会社となり、2017年(平成29年)7月1日、Tianma Japanへと商号変更している。 2006年(平成18年)7月3日に、NECの一部門だったBIGLOBE事業本部をNECビッグローブとして分離、独立させた。 2014年3月末にNECは保有していた株式を日本産業パートナーズに売却し、4月1日付で当社はNECグループを離脱するとともに、社名を「ビッグローブ」に変更した。 1950年(昭和25年)に日本電気のラジオ事業部で蛍光ランプを試作したのが始まり、清算された日本電気ホームエレクトロニクスから引き継いだ事業。1970年代にはアメリカの管球・照明器具メーカー、シルバニア(現在はオスラム傘下)との合弁会社「日本電気シルバニア株式会社」が展開していた。現在ランプ類を製造している水口工場は全国でも有数の規模を誇る管球工場であり一般ユーザー向け商品(下記の2製品が代表例)のほか特殊用途向け蛍光ランプのOEM生産も比率が高くなっている。 2019年4月に日本みらいキャピタル(東京・千代田)が出資するホタルクスに事業を譲渡。 2011年(平成23年)1月27日、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分社化し、レノボとともに「レノボNECホールディングス(Lenovo NEC Holding B.V.)」という持株会社を設立すると発表した。NEC 49%、レノボ 51%の出資比率で同年7月1日に発足し、その100%子会社として、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分離した新会社NECパーソナルコンピュータおよび既存のレノボ・ジャパンが独立して設置された。こうして、長らくNECおよびその関連企業によって行われてきたPCの製造は、NECパーソナルコンピュータに移管された。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、個人向け(VALUESTAR・LaVie)および企業向け(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気(NEC)本体が販売を担っている。レノボとともにNECのブランドも残る。しかしながらこの合弁は、NECにとっては実質的なパソコン事業の売却であるとも理解され、統合から5年後に、レノボ側が合弁会社の全株式取得権をNECの同意があれば行使できる事が明らかにされた。 その後、2014年10月7日にNECとレノボは事業統合契約を更新し、従来「2016年の時点でレノボが全株式取得が可能」とされていた点については、期限を2018年までに延長した上で以降は2026年まで自動更新されることとなり、かつレノボがNECの保有する株式を買い取って出資比率を66.6%まで引き上げる(NEC側は議決権を確保可能な33.4%)ことを可能とする条項が追加された。2016年7月1日、NECはこの条項に沿って自社の持つ普通株式の9割をレノボに譲渡し、代わりに新たに発行される劣後株式を引き受けることで、議決権確保可能な33.4%まで出資比率を引き下げることを発表した。この譲渡に伴いNECは200億円の売却益を2017年3月期に計上した。売却益は社会インフラ部門への投資に使われるのではないかと報じられている。 2017年11月、富士通および富士通クライアントコンピューティングがレノボと合弁会社を立ち上げることを正式発表した際は同様の体制をとるNECとの競合を懸念する声があがったが、NECは「NECの強みである顔認証技術などで差別化できる」とする見解を示した。 ビジネスPC: パソコン・タブレット: NECのパソコン一覧も参照のこと。 社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。NECネットワークス唯一の一般向け事業分野でもあった。 ほとんどNTTドコモ向けだが、SoftBankにも旧・デジタルフォン・デジタルツーカー時代から端末を提供していた。また、かつてはツーカーグループ・DDIセルラーグループ(のちのau(KDDI / 沖縄セルラー電話))にも供給していたこともあった。日本における折たたみ(二つ折り)式端末のパイオニアで、2001年のNTTドコモ503iシリーズでN503iが流行したことから他社も折畳化するきっかけとなり、2000年代前半はトップシェアを誇った。 また、NECとパナソニック モバイルコミュニケーションズ(松下通信工業)は、第三世代携帯電話向けの端末・技術を共同で開発していた。 なお、ドコモ向けのデータ通信用端末は日本電気本体が手がけていたが、ウィルコムとイー・モバイル向けデータ通信用端末はNECインフロンティアが、UQコミュニケーションズ向けデータ通信用端末はNECアクセステクニカがそれぞれ手がけている。 2010年(平成22年)より、カシオ計算機と日立製作所の合弁会社カシオ日立モバイルコミュニケーションズと経営統合し、携帯電話端末事業はNECカシオ モバイルコミュニケーションズとして統合された(実際の移行スキームは、NEC本体からの部門譲受が同年5月1日付、次いで同年6月1日付でカシオ日立を吸収合併し、以降のカシオブランド端末の販売開始と同時に、日立ブランドを含む保守部門を継承)。統合後もNECブランドとして携帯電話を供給する。 2013年7月に、スマートフォンの新規開発を中止し在庫分のみを以って販売を終了した。ただし、スマートフォンの修理等の保守業務、およびフィーチャーフォン(従来型携帯電話)の開発、製造、販売は継続している。 さらに2013年12月には、カシオと日立が保有する全株式をNECが買い取ることが発表され、NECの完全子会社に戻った。2014年10月1日にNECモバイルコミュニケーションズに商号変更している。 しかし2015年12月25日、同社の携帯電話端末事業を2016年3月1日付で親会社のNECに事業譲渡することを発表した。これまでの同事業の段階的縮小に伴い「独立会社として運営するには非効率な事業規模となった」ことを踏まえての決定と説明している。 そして2016年2月29日、NECはNECモバイルコミュニケーションズを同年3月24日付で解散・NEC本体に回帰するとともに同社に対する1012億円の債権を放棄することを発表した。 これらの製品はすべて生産終了している。 NECの組織は論理的にはビジネスユニット-事業本部-事業部の階層構造をとっている(研究所はビジネスユニット上の階層をR&Dユニットと位置づけている)。これとは別に、物理的な所在地として下記の事業場・研究所がある。 チーム、選手や大会スポンサード以外でのスポーツとの関わりとして、オートポリス(大分県)を1993年から1995年まで運営した株式会社大分阿蘇レーシングパークの出資者(4社の1つ)だったことがある。 男性だけでなく、女性や高齢者を含めた一般の人々にNECのパソコン・ワープロを訴求する手段として、1991年11月から、佐藤雅彦考案のCMキャラクター「バザールでござーる」を用いた。また、CMキャラクターとしてデジタル所さんを起用したこともある。 2011年4月から2014年6月までは、CM最後のサウンドロゴに当社製のロボット・PaPeRoと子役女優の谷花音を登場させた。 提供クレジットは、少なくとも1991年ごろまで「NEC日本電気グループ」(家電製品のCMを提供するときには「新日本電気」(のちに「日本電気ホームエレクトロニクス」。現在は業態ごとに分社化(テレビ、家庭パソコンなど一部撤退あり))としたものがある)としていたが、CIを一新した1992年以後は正式社名を略した「NEC(グループ)」で統一している。2020年4月以降は全国ネットでのテレビ番組でレギュラー提供をおこなっていないため、特別番組での提供のみとなる。 ほか
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本電気株式会社(にっぽんでんき、英: NEC Corporation)は、東京都港区芝五丁目に本社を置く住友グループの電機メーカーである。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "略称はNEC(エヌ・イー・シー)、日電(にちでん)。通称としては一般的に「NEC」が使われ、ロゴタイプや関連会社の名前などにも「NEC」が用いられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "旧社名は住友通信工業株式会社(すみともつうしんこうぎょう)。住友電気工業と兄弟会社で、同社及び住友商事とともに住友新御三家の一角であるが、住友の象徴である井桁マークは使用していない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ブランドステートメントは「Orchestrating a brighter world」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "有線・無線通信機器(IP電話網、携帯電話基地局、テレビジョン放送設備、都市・交通無線、鉄道無線、船舶無線、航空無線、自動車通信等)、コンピュータ(IAサーバ、UNIXサーバからメインフレーム、スーパーコンピュータまで)およびITサービス(システムインテグレーションSI、デジタルトランスフォーメーションDX)を主力事業としている。また、政府機関向け人工衛星・宇宙探査機を開発・製造している。インフォメーション・テクノロジー (IT) とネットワーク (NW) 、ITとオペレーショナル・テクノロジー (OT) の融合を掲げ、サーバやミドルウェアなどのクラウドコンピューティング基盤、IoTのためのエッジコンピューティング基盤、NGNやSDNなどの通信ネットワーク、スマートグリッドなどのエネルギーネットワーク、社会ソリューション向け人工知能 (AI)、サイバーセキュリティやコンピュータ媒介現実 (AR/MR)、近年は電子政府、FinTech(ブロックチェーン開発)やモビリティサービス技術にも力を入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本のマイコン、パーソナルコンピュータ市場では黎明期より手がけ、1976年(昭和51年)のTK-80のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。国内で「NEC」というブランドで親しまれているものにパーソナルコンピュータ (PC) があったが、2000年以降は個人消費者向け製品から法人向け製品や社会インフラ製品へ注力するよう事業改革が進められた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「海底から宇宙まで」、ICTを活用した社会インフラの高度化を掲げる国内外の社会インフラ事業では、局用交換機、衛星地上局、マイクロ波通信設備、光海底ケーブル、放送送信機などの通信装置や生体認証システムやNシステムのような監視システムなどのセキュリティシステムの構築実績を持つ。政府開発援助を活用し、新興国を中心にICTインフラの構築を手がけてきた。アフリカは1963年から取引があり、これまでアフリカ大陸の40カ国以上に、マイクロ波通信システムを納入した。また、アジアの主要空港向けに、生体認証技術を活用した安全で確実な出入国審査を実現する電子パスポートシステムを提供している。現地法人のある南アフリカでは、指紋認証による7千万人規模の国民IDシステムを構築した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2019年現在、サーバ分野で富士通に次ぎ国内2位である。メインフレームは現存する国内3社、世界6社のうちの1社である。ベクトル型スーパーコンピュータを製造する世界で現存する唯一のメーカーである。通信設備では国内首位であり、通信衛星から光通信など様々な設備を販売している。PASOLINKブランドは、2000年代から2010年代前半にかけて小型の固定無線伝送装置で世界トップのシェアを持っていた。ネットワーク機器関連の製品ではUNIVERGEブランドが代表的な製品である。IoT/M2Mソリューションの製品にはCONNEXIVEがある。ITサービスでは、2016年時点で富士通とNTTデータに次ぐ、国内3位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "人工衛星・宇宙探査機については、日本において国内シェア約7割に相当する50機以上の開発実績を持ち、ロケットを手掛ける三菱重工業、IHI、人工衛星を手掛ける三菱電機と共に、宇宙業界の通称「ビッグ4」の一角をなす。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "人工知能を活用した画像認識や自然言語認識技術に強みを持ち、顔認識システムNeoFaceは国立標準技術研究所が主催する顔認証ベンチマークにおいて4回連続でスピード・精度ともに世界一である。顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、耳音響の6つの生体認証技術はBio-Idiomブランドでサービスを展開する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらの製品・サービスの国際市場への販売にも力を入れているとともに、海外メーカーなどの通信機器、コンピュータ、ソフトウェアも販売している。ただし、ハードウェア単体の販売や売り切りのSI受託開発から、継続的なサービスの販売や生体認証と人工知能をコアとしたITプラットフォームビジネスモデルへと構造改革を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1899年(明治32年)7月17日設立。岩垂邦彦と米国ウェスタン・エレクトリック(以下W.E.社、現在のアルカテル・ルーセントの前身)が54%を出資する日米合弁会社であった。W.E.社は当初沖電機工場(現・沖電気工業)を合弁先に交渉したが、沖電機工場の沖牙太郎との間で条件がまとまらず成立しなかった。このため、W.E.社の代理人として交渉に当たっていた岩垂が自ら会社を興して提携相手となった。これは日本最初の合弁企業の事例とされる。なお、1992年まで使用されていたNECのロゴタイプはW.E.社のロゴに由来している。1918年(大正7年)W.E.社は海外投資部門を分離し、インターナショナル・ウェスタン・エレクトリック(以下I.W.E.社)を設立。1925年(大正14年)にI.W.E.社は買収され、インターナショナル・スタンダード・エレクトニクス・コーポレーション(I.S.E.社)と改称。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "戦前は、電話交換機などの通信機器の製造を主な事業としていた。1928年(昭和3年)に日本電気の丹羽保次郎、小林正次らが昭和天皇の即位大礼の写真のファクシミリ通信を成功させた業績で知られる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)、I.S.E.社は経営を住友財閥に委託した。第二次世界大戦で日米関係が悪化すると、1941年(昭和16年)、I.S.E.社所有の株式が敵国資産として処分され住友グループ傘下となった。このため、1943年(昭和18年)2月から1945年(昭和20年)11月まで、住友通信工業株式会社と社名変更していた(住友電気工業が当時既に存在していたためこの社名になったようである)。大戦期は陸軍の無線機を一手に引き受け、電波警戒機の開発も行っていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1949年(昭和24年)に東京証券取引所に上場。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)I.S.E.社と資本提携復活。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "戦後は、通信関係や真空管や半導体など電子部品の製造のほか、1953年(昭和28年)に子会社「新日本電気」(のちの日本電気ホームエレクトロニクス、現在は清算)により家電・無線通信機器分野に進出した。また、1958年(昭和33年)のNEAC 1101からコンピュータの開発にも取り組み始めた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1960年代から、マイクロ波通信装置を中心とする通信機器の海外輸出に積極的に取り組み始めた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)、茨城宇宙通信実験所の日本初の衛星通信地球局に高感度受信装置を納入。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)、日本板硝子と共に世界最初期の自己収束型光ファイバー「セルフォック」を開発。1970年代にはマイクロ波通信や光ファイバー通信用の半導体レーザーの量産化でも世界をリードする。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)には、日本初の人工衛星である「おおすみ」を製造し、運用に成功する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)に、当時会長であった小林宏治によって「コンピュータと通信の融合」をうたった「C&C」(Computer & Communicationの略)のスローガンが提唱され、新たな企業理念となる。これ以降、それまで「電電ファミリー」(例えば電話交換機では富士通と並び大手の一角と言われた)というイメージの強かったNECは、情報・通信系を中心とした総合電機メーカーへと変貌を遂げる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)に発売された「PC-9800シリーズ」は、約15年間にわたって日本のパソコン市場を席巻し、全盛期には「国民機」とまで呼ばれるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "C&Cの理念は小林の実質的な後継社長であった関本忠弘の時代にも引き継がれ、上記のPC-9800シリーズによる国内PCの圧倒的シェアに加え、1985年にはスーパーコンピュータSX-2が世界最速となり、1980年代後半には半導体生産で世界一位となるなど、日本を代表するエレクトロニクス企業へと成長した。コンピュータ系の事業部門においては、富士通の池田敏雄と並ぶ日本の情報処理分野の生みの父とされる水野幸男などが、汎用機や関本の好む大型技術案件だけに集中しがちなNEC自体の傾向を補正し、PCやUNIXなどの当時の次世代技術に他ベンダよりいち早く投資を続ける事により発展してきたという側面も大きい。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "NECを含めた日本企業の国際半導体市場進出は、「日の丸半導体」と呼ばれ、日米半導体貿易摩擦問題として政治問題化するまでになった。プラザ合意(1985年)後の急速な円高や、1986年から1996年まで続いた「日米半導体協定」の影響により海外競争力は衰えることとなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)に英文社名を現在のものに変更する。1990年(平成2年)には、創業以来の地に現在の本社ビルであるNECスーパータワーが建設された。建設中は森永製菓本社がある森永プラザビルを間借りした。1992年(平成4年)10月5日には、CI刷新により、現在の青色のNECロゴに変更した。このロゴの使用を開始した1992年(平成4年)以降、対外的には「NEC」を通称とするようになっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年代後半に至り、国内PC市場でのPC/AT互換機対応の遅れ、海外PC市場進出をめざし買収したパッカードベル社の不振、半導体市場での米国・韓国・台湾勢との競争激化といった要因により業績の勢いにかげりが見えた矢先、1998年(平成10年)には防衛庁調達における価格水増し疑惑が発覚し、企業イメージを損なうこととなった。この責任を取る形で関本は会長を退き、社長も金子尚志から西垣浩司へと交代した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "西垣社長体制下において、不採算事業のリストラとガバナンス強化施策に従い、家電分野から撤退した。1999年(平成11年)12月には、DRAM事業部門を分社化し、NEC日立メモリ(エルピーダメモリに改称後、会社更生法適用により、現・マイクロンメモリジャパン)を設立する。また、2000年(平成12年)4月には、社内カンパニーとしてNECソリューションズ・NECネットワークス・NECエレクトロンデバイスを設立したが、2002年(平成14年)11月に半導体関連部門のNECエレクトロンデバイスをNECエレクトロニクス(現・ルネサスエレクトロニクス)として分社化、カンパニー制自体も導入からわずか3年後の2003年(平成15年)4月に金杉社長体制において廃止された。総合電機メーカーとしての暖簾を下ろし、C&Cコンセプトに立ち戻り、コンピュータシステム及び通信を中心とした電機メーカーへ転換した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)、創立100周年記念事業として、玉川事業場の一部を高層ビル群に建て替えた(NEC玉川ルネッサンスシティ)。年間の売上が5兆4097億円と過去最大に達した(2016年度の2倍以上)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)には、「地球シミュレータ」を完成させ、日米スパコン貿易摩擦以降初めてスーパーコンピュータの世界最速を記録し、コンピュートニク・ショックとも呼ばれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)11月、アビームコンサルティングと業務提携し、グループに加えることで、ビジネスコンサルティングとITサービスを強化する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、通信ネットワークのインターネット化・IP化を進め、次世代電話網のNGN(Next Generation Network)に関しては、IT/NW機器業界では一番早くから対応を進めている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1988年よりNASDAQに米国預託証券(ADR)を上場していたが、米国の監査法人から求められていた保守・サポートサービスと製品が一体になった「複合契約」の収益分析が完了しなかったため、上場維持に必要なSECに対する2006年3月期の年次報告書を提出できず、2007年10月に上場を廃止した。その後、SECとの間では2008年6月に和解が成立した。また、この関連で2006年の中間決算より、日本国内向けの財務諸表の作成基準を従来の米国基準から日本基準に変更している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)4月、日産自動車とともに自動車アプリケーション用リチウムイオン電池の開発を行うオートモーティブエナジーサプライを設立した。2010年にはリチウムイオン電池専門のNECエナジーデバイスを設立。2012年(平成24年)4月には、社内にスマートエネルギー事業本部を設置した。2014年5月にはNECエナジーソリューションズを北米に設立した。しかし、2017年にオートモーティブエナジーサプライ・NECエナジーデバイスともに株式を売却する方針と発表、2019年3月に売却した。北米のNECエナジーソリューションズも2021年9月に売却した。このように、2000年代後半から2010年代にかけて注力した蓄電池等のスマートエネルギー関連事業は、2020年代には縮小した。2023年の時点で社長を務める森田隆之は、インタビューで2019年の売却を「失敗」と評し、「売らなければ今、花開いているであろう事業です」と述べた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2009年3月期決算(2008年度)は、主に半導体分野などの不振が響き、営業損益で62億円、当期損益では2966億円の赤字となった。決算発表で社長の矢野薫は「不採算事業の撲滅」を掲げ、経費の見直しとともに人員削減にも取り組むと述べた。この方針の一環として、2009年度中に国内研究員の約15%(約150人)を製品開発や営業、SEなどの事業部門に異動させる方針と報じられた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)、6月13日、NEC東芝スペースシステムが主製造業者として製造した「はやぶさ」が世界初の地球重力圏外にある天体からのサンプルリターンに成功して地球に帰還する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同年、携帯電話事業を分社化し、NECカシオ モバイルコミュニケーションズ(後にNECモバイルコミュニケーションズに改称)を設立する。また半導体子会社のNECエレクトロニクスはルネサス テクノロジと合併しルネサス エレクトロニクスとなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)1月27日、1980年代から国内シェア首位のPC事業を分社化し、世界シェア4位のレノボとともに合弁会社を設立すると発表した。これにより国内最大手のPC事業グループが誕生した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらの統合による規模のメリットによって、パーソナルプロダクトのコストダウンやシェア拡大を目指す一方で、成長市場であるクラウドやスマートグリッドなどのビジネス・社会インフラ関係の分野での事業創出を図っている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2012年3月期決算(2011年度)は、営業利益は737億円となったものの、最終当期損益は1103億円の赤字で2期連続の赤字となる。決算発表では、スマートフォンの伸び悩みやタイでの洪水によるサプライチェーンへの影響といった事業面での事情のほか、繰延税金資産の見直し、構造改革特別費用405億円の計上が赤字の要因として挙げられた。これに先立って同年1月には業績の下方修正とともに1万人の人員削減を含む事業構造改革の実施を発表していた。2013年3月決算期(2012年度)は304億円の当期利益に回復した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2011年に、SDN(Software Defined Network)を実現するOpenFlow技術を世界で初めて製品化したUNIVERGE PFシリーズを発売する。2013年(平成25年)には、SDN戦略本部を設立し、世界で初めて通信キャリア向けネットワークのSDN仮想化ソリューションを発売するなど、SDNを新しい事業の柱として据える方針を打ち出した。しかし、SDNの先駆的な実用化に成功しながらシスコシステムズなどに市場の主導権を奪われたと、2017年の時点で指摘されている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2010年代にはシンガポールにセキュリティ関連事業の拠点「グローバルセーフティ事業部(GSD)」を設置。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "携帯電話はフィーチャーフォンの時代には2001年から2004年までの4年間国内シェアトップを占めていたが、2011年には7位まで落ち込んだ。2011年発売のMEDIASによりスマートフォンに参入したものの、2013年7月に事業撤退を発表した。フィーチャーフォンの開発は継続するとしたが、パーソナル事業から社会インフラ事業へのシフトがますます鮮明となる。フィーチャーフォンのみとなった携帯電話事業は2016年3月に、NECモバイルコミュニケーションズを解散する形で再びNEC本体直轄となった。携帯電話事業の縮小をめぐっては、2012年に東京国税局の税務調査で、海外事業からの撤退に絡んで要求され支払った補償金などが交際費と認定され、約100億円分の所得隠しを指摘される事態も付随して起きた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2010年代半ばからはビッグデータ、IoTや人工知能(AI)関連に注力するようになる。2014年4月にはビッグデータ戦略本部を新設した。2015年6月、ものづくりソリューションとして「NEC Industrial IoT」というサービスの提供を開始した。2016年6月には産業技術総合研究所と共同で「産総研‐NEC 人工知能連携研究室」を設立、7月には人工知能技術を集結した「NEC the Wise」ブランドを策定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2016年4月、FinTech事業開発室を新設した。また、大阪大学内に次世代コンピューターの基盤技術を開発する「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」を設立した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同月、2016年度(2017年3月決算期)の決算より、国際財務報告基準(IFRS)を適用することを発表した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2016年12月、1960年代より開発で先行し、常にトップグループを走り続けてきたオフィスコンピュータの製造より撤退。同製品の市場規模の縮小により採算が悪くなった影響である。コンビニエンスストアやホテルなどの稼働中のバックオフィス用コンピュータは独占状態に近く、保守サポートは2023年まで継続する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2016年12月、人工知能を活用したがん治療用ワクチンの開発を担う新会社「サイトリミック」を設立。2019年には医療分野への展開として、定款を変更し創薬事業に参入した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2017年2月、公正取引委員会より、消防救急デジタル無線の入札において談合があったとして、他の3社(富士通ゼネラル・沖電気工業・日本無線)とともに排除措置と課徴金支払を命じられる。2017年3月決算期(2016年度)の決算は海外事業の不振などに加え、前記の公取委の課徴金の影響もあって減収減益となり、当時掲げていた中期計画(2019年3月決算期まで)を撤回する事態となった。公取委の談合認定に関してはその後、立ち入り検査を2016年に受けた日付(11月18日)を「NECコンプライアンスの日」として不正再発防止の啓発を社内で実施している。また、業績回復に向けた構造改革として、2018年(平成30年)1月30日に、2020中長期計画にて、国内の間接部門やハードウェア事業領域で希望退職を募るなどによる3000人の人員整理を発表した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2010年代後半からは日本国外企業のM&Aを積極的に手がけるようになる。2018年1月、イギリスのITサービス会社ノースゲート・パブリック・サービシズの買収を発表。同年12月27日にはデンマーク最大のIT企業である「KMD」を買収すると発表した。この2件はいずれも海外セーフティ事業を強化が目的と報じられた。2020年12月23日には、スイスの大手金融ソフトウェア企業であるAvaloq Group AGの買収を完了。買収価格は20.5億スイス・フラン(約2360億円)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2018年1月には、地球観測衛星「ASNARO-2」の打ち上げに向け人工衛星の運用を独自で行う施設を新設し、製造から打ち上げ後の運用まで自社で行う初の国内メーカーとなった。当「NEC衛星オペレーションセンター」における衛星の運用事業に加え、衛星画像データの販売事業にも参入する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第5世代移動通信システム(5G)に向けては、2018年10月24日にサムスン電子と5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した。2020年には、次世代通信規格5Gのインフラ整備でイギリス政府やNTTと協業を進める。5G投資の一環として、同年6月にはNTTとの資本業務提携を発表し、NTTはNECに約645億円を出資して4.8%の株式を取得した。2021年11月、大阪大学と共同で「NEC Beyond 5G協働研究所」を設置した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "量子コンピュータ分野では、2019年3月1日、産業技術総合研究所と共同の研究室「NEC―産総研 量子活用テクノロジー連携研究室」を設立した。さらに2020年6月には、量子アニーリングマシン分野で、D-Wave Systemsと協業を発表。量子暗号では、東芝や東京大学、NICT、野村ホールディングスなどと協業・共同検証を行っている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2019年4月24日には新ブランド「NEC Smart Connectivity」を立ち上げ、ネットワーク技術やソリューションを、IoT化を迎える新たな領域におけるサービス事業を展開すると発表した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2019年8月5日、新たな移動環境づくりを目指し、空飛ぶ車の試作機の浮上実験を公開した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2020年3月決算期(2019年度)は、ビジネスPC特需などにより営業利益は前年比120%の1276億円となり、当期利益は過去最高を記録した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2021年3月決算期(2020年度)は、新型コロナウイルス感染症流行の影響を受けながらも、5G基地局やGIGAスクールといった需要で補い、減収増益(調整後営業利益1782億円)だった。この決算発表と合わせて公表した2021年度(2022年3月決算期)の業績見込は成長投資などのため前年比減益としたが、株式市場では予想を下回ったとして「失望売り」が起きた。最終的に2022年3月期決算は、会社発表を上回った。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2021年7月、「NEC都市OS」を提供開始。NECはこれまで、国内13の自治体にスマートシティ事業者として参画しており、日本政府のスーパーシティ構想に応募した全国31自治体のうち17自治体にNECが参画している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2023年1月30日、同年6月の株主総会での承認を前提とした指名委員会等設置会社への移行決定を発表し、6月22日の株主総会での承認を経て正式に指名委員会等設置会社となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2018年以降はキャリア採用を大幅に増やしていると紹介されている。", "title": "採用・人事" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "※ 梶井剛の任期途中の1943年2月以降から社長を置く。それまでは専務がトップマネージメント。", "title": "歴代社長等" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "主要な製品・サービスは、コンピュータ、ソフトウェアパッケージおよびネットワーク・通信機器の生産/販売、またそれらを組み合わせたITサービス(コンピュータシステムの構築・インテグレーション)の提供である。その他には、テレビ局向け放送機器や人工衛星の開発・製造を行っている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)以降、事業の選択と集中が進み、半導体、パーソナルコンピュータの機器など、携帯電話、照明は分社化している。これらの製品は「#分社/子会社化した部門の製品」に記載する。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "社内カンパニー制時代はNECソリューションズに属していた。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "(旧・NEC東芝スペースシステム)", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)に東京大学にロケット用テレメトリ送受信装置を納入したのが始まり。2001年に東芝航空宇宙システム事業部と日本電気宇宙開発事業部が各社から分離し、NEC東芝スペースシステムとして統合された。2007年に日本電気に再び宇宙システム事業部が新設され、以降宇宙システム事業部は人工衛星および地上システムの開発・製造を担当し、NECスペーステクノロジー(旧NEC東芝スペースシステム)は主に搭載機器の開発や製造を担当している。人工衛星・宇宙探査機の開発実績は以下の通りである(「日本の宇宙機一覧」も参照)", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "NECのパッケージソフトは、そのほとんどが企業システム向けである。特に、ミドルウェアに強い。下記ソフトウェア以外に業種(医療、製造業など)に特化したパッケージソフトの開発、販売も行っている。事業部ごとに企業向けパッケージソフトを販売しており、例えば医療ソリューション事業部では電子カルテの販売を行っている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "大部分が社内カンパニー制時代はNECネットワークスの事業分野だが、AtermやスピークスなどはNECソリューションズの商品だった。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "無線・通信関係に関しては、かつて日本陸軍の無線・通信設備を一手に引き受けていた。陸軍の無線機は電力供給がままならない状況を想定していたため、日本の低い工業技術力を背景にしながらある程度実用になったことで知られている(特に軍用機用)。一方で、日本無線が独占していた日本海軍の無線機は通じないことで有名だった。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "超小型マイクロ波/ミリ波通信装置Pasolinkシリーズは、海外の主要オペレータを中心に販売を広げており、2007年度(平成19年度)から3年連続で世界シェア第1位を記録している。しかし2010年代半ばになると、中国の華為技術(ファーウェイ)が同様の製品で低価格攻勢をかけ、NECやスウェーデンのエリクソンのシェアは奪われている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "従来はテレビカメラからマスター機器、送信機器まで製作から送信まで一貫したラインナップを誇っていたが、現在は、テレビ局のテレビマスター装置(NECでは「APS装置」と呼ぶ)、CMバンクシステム、中継器及び送信機を製造しており、多くの放送局に納入実績がある。最近では、デジタル放送システムを納入している。また、ラジオマスター装置も製造している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "マスター装置の系列局・放送波毎の納入状況は次の通りである。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その他の放送局へのマスター納入状況は次の通りである。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ミリ波(60GHz帯)ブロードバンドトランシーバ(伝送装置):", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "市販製品や特注のハードウェア、ソフトウェアを組み合わせるシステムインテグレーションを行う。また、ロボットのシステムインテグレーション事業も行う。主に以下の業界向けのソリューションサービスを提供している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "NECは1947年からマイクロ波通信用の半導体レーザーの研究に着手していた。1958年には新しい事業として半導体開発部がスタートした。1960年代には集積回路(IC)の事業化へとこぎつけた。海外にも進出し、1983年には英国女王の臨席を得てNECスコットランドの開所式を行い、それに先立つ1978年には米国シリコンバレーでエレクトロニック・アレーズ9002(英語版)を開発したエレクトロニック・アレーズを買収、また、ブラジル、シンガポールにも進出した。1980年代には「日の丸半導体」の一角を担い、メモリ、プロセッサなどで世界上位にあり、多大な利益を上げていた(1985年から1991年まで売上世界首位)。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "しかし、貿易摩擦や、東アジアにおいて日本製製造装置を輸入して完成品の半導体を製造するサムスンなどの韓国や台湾の半導体企業群の隆盛による価格下落の影響で利益を上げることが難しくなった。更に1990年代に入ると委託生産のため上記のアジア諸国メーカーへの積極的な技術供与も行われていて、先端品に近い半導体の製造技術まで流れることとなった。業況悪化を受け、まずメモリ部門を2000年に日立製作所との合弁という形でNEC日立メモリ(現・エルピーダ→マイクロンメモリジャパン)として、原点であるマイクロ波半導体を含む化合物半導体部門は2001年にNEC化合物デバイス(2006年に後述のNECエレクトロニクスと合併)として分社、続いて集積回路部門も2002年にNECエレクトロニクス(現・ルネサスエレクトロニクス)として分社化した。いずれの企業もその後、経営危機に伴う出資比率の変更に伴い、NECの関連会社から離れることになった。半導体事業が斜陽化した点については、選択と集中を進められなかったことが原因として指摘されている。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)に日立製作所のメモリ関連事業部と統合し、新会社「エルピーダメモリ」に移行した。その後、エルピーダは外部から開発および工場更新の資金を調達し、三菱電機のメモリ事業部門を買収したため、NECの出資比率は日立などに次いで3位となった。こうして持分法の対象以下の比率となり、NECの関連会社からははずれることとなった。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2013年7月31日には、マイクロン・テクノロジーからの増資を受け、エルピーダはマイクロンの完全子会社となり、2014年2月28日に「マイクロンメモリジャパン」と名称変更された。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)1月に韓国のブラウン管メーカーサムスンSDI(旧・サムスンNEC)と合弁会社「サムスンNECモバイルディスプレイ」を同国に設立して、NECエレクトロンデバイスが保有するカラー有機ELディスプレイ技術と基本特許、日本内の事業拠点などを共有。NECは2004年(平成16年)に有機ELなどの次世代ディスプレイ事業から撤退を決め、有機EL特許と合弁会社の全株式をサムスンに譲渡している。元・合弁会社はその後「サムスンOLED」→「サムスンモバイルディスプレイ」となって、2012年からはサムスン電子のS-LCDと統合され「サムスンディスプレイ」の有機EL事業部になっている。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "コンデンサ、リレー、RFIDタグ・リーダ/ライタ、各種センサ等のデバイス製品を生産しているNECの子会社だったが、2017年4月19日にKEMET Corporationへと売却された。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)に発足したカラー液晶推進開発本部(後に事業部)の分社型会社分割により、2003年(平成15年)4月1日にNEC液晶テクノロジーを設立する。この会社は液晶ディスプレイ事業を担う。2011年(平成23年)2月25日、NEC液晶テクノロジーの株式の70%を中国の液晶大手である天馬微電子のグループに売却すると発表した。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)7月1日、NECと深圳中航光電子との合弁企業となり、NLTテクノロジーへと商号を変更した。2016年(平成28年)には天馬微電子の完全子会社となり、2017年(平成29年)7月1日、Tianma Japanへと商号変更している。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)7月3日に、NECの一部門だったBIGLOBE事業本部をNECビッグローブとして分離、独立させた。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2014年3月末にNECは保有していた株式を日本産業パートナーズに売却し、4月1日付で当社はNECグループを離脱するとともに、社名を「ビッグローブ」に変更した。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)に日本電気のラジオ事業部で蛍光ランプを試作したのが始まり、清算された日本電気ホームエレクトロニクスから引き継いだ事業。1970年代にはアメリカの管球・照明器具メーカー、シルバニア(現在はオスラム傘下)との合弁会社「日本電気シルバニア株式会社」が展開していた。現在ランプ類を製造している水口工場は全国でも有数の規模を誇る管球工場であり一般ユーザー向け商品(下記の2製品が代表例)のほか特殊用途向け蛍光ランプのOEM生産も比率が高くなっている。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2019年4月に日本みらいキャピタル(東京・千代田)が出資するホタルクスに事業を譲渡。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)1月27日、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分社化し、レノボとともに「レノボNECホールディングス(Lenovo NEC Holding B.V.)」という持株会社を設立すると発表した。NEC 49%、レノボ 51%の出資比率で同年7月1日に発足し、その100%子会社として、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分離した新会社NECパーソナルコンピュータおよび既存のレノボ・ジャパンが独立して設置された。こうして、長らくNECおよびその関連企業によって行われてきたPCの製造は、NECパーソナルコンピュータに移管された。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、個人向け(VALUESTAR・LaVie)および企業向け(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気(NEC)本体が販売を担っている。レノボとともにNECのブランドも残る。しかしながらこの合弁は、NECにとっては実質的なパソコン事業の売却であるとも理解され、統合から5年後に、レノボ側が合弁会社の全株式取得権をNECの同意があれば行使できる事が明らかにされた。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "その後、2014年10月7日にNECとレノボは事業統合契約を更新し、従来「2016年の時点でレノボが全株式取得が可能」とされていた点については、期限を2018年までに延長した上で以降は2026年まで自動更新されることとなり、かつレノボがNECの保有する株式を買い取って出資比率を66.6%まで引き上げる(NEC側は議決権を確保可能な33.4%)ことを可能とする条項が追加された。2016年7月1日、NECはこの条項に沿って自社の持つ普通株式の9割をレノボに譲渡し、代わりに新たに発行される劣後株式を引き受けることで、議決権確保可能な33.4%まで出資比率を引き下げることを発表した。この譲渡に伴いNECは200億円の売却益を2017年3月期に計上した。売却益は社会インフラ部門への投資に使われるのではないかと報じられている。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2017年11月、富士通および富士通クライアントコンピューティングがレノボと合弁会社を立ち上げることを正式発表した際は同様の体制をとるNECとの競合を懸念する声があがったが、NECは「NECの強みである顔認証技術などで差別化できる」とする見解を示した。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ビジネスPC:", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "パソコン・タブレット:", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "NECのパソコン一覧も参照のこと。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。NECネットワークス唯一の一般向け事業分野でもあった。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ほとんどNTTドコモ向けだが、SoftBankにも旧・デジタルフォン・デジタルツーカー時代から端末を提供していた。また、かつてはツーカーグループ・DDIセルラーグループ(のちのau(KDDI / 沖縄セルラー電話))にも供給していたこともあった。日本における折たたみ(二つ折り)式端末のパイオニアで、2001年のNTTドコモ503iシリーズでN503iが流行したことから他社も折畳化するきっかけとなり、2000年代前半はトップシェアを誇った。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "また、NECとパナソニック モバイルコミュニケーションズ(松下通信工業)は、第三世代携帯電話向けの端末・技術を共同で開発していた。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "なお、ドコモ向けのデータ通信用端末は日本電気本体が手がけていたが、ウィルコムとイー・モバイル向けデータ通信用端末はNECインフロンティアが、UQコミュニケーションズ向けデータ通信用端末はNECアクセステクニカがそれぞれ手がけている。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)より、カシオ計算機と日立製作所の合弁会社カシオ日立モバイルコミュニケーションズと経営統合し、携帯電話端末事業はNECカシオ モバイルコミュニケーションズとして統合された(実際の移行スキームは、NEC本体からの部門譲受が同年5月1日付、次いで同年6月1日付でカシオ日立を吸収合併し、以降のカシオブランド端末の販売開始と同時に、日立ブランドを含む保守部門を継承)。統合後もNECブランドとして携帯電話を供給する。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2013年7月に、スマートフォンの新規開発を中止し在庫分のみを以って販売を終了した。ただし、スマートフォンの修理等の保守業務、およびフィーチャーフォン(従来型携帯電話)の開発、製造、販売は継続している。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "さらに2013年12月には、カシオと日立が保有する全株式をNECが買い取ることが発表され、NECの完全子会社に戻った。2014年10月1日にNECモバイルコミュニケーションズに商号変更している。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "しかし2015年12月25日、同社の携帯電話端末事業を2016年3月1日付で親会社のNECに事業譲渡することを発表した。これまでの同事業の段階的縮小に伴い「独立会社として運営するには非効率な事業規模となった」ことを踏まえての決定と説明している。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "そして2016年2月29日、NECはNECモバイルコミュニケーションズを同年3月24日付で解散・NEC本体に回帰するとともに同社に対する1012億円の債権を放棄することを発表した。", "title": "分社/子会社化した部門の製品" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "これらの製品はすべて生産終了している。", "title": "過去の製品" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "NECの組織は論理的にはビジネスユニット-事業本部-事業部の階層構造をとっている(研究所はビジネスユニット上の階層をR&Dユニットと位置づけている)。これとは別に、物理的な所在地として下記の事業場・研究所がある。", "title": "製造・研究拠点" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "チーム、選手や大会スポンサード以外でのスポーツとの関わりとして、オートポリス(大分県)を1993年から1995年まで運営した株式会社大分阿蘇レーシングパークの出資者(4社の1つ)だったことがある。", "title": "広告・販売推進" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "男性だけでなく、女性や高齢者を含めた一般の人々にNECのパソコン・ワープロを訴求する手段として、1991年11月から、佐藤雅彦考案のCMキャラクター「バザールでござーる」を用いた。また、CMキャラクターとしてデジタル所さんを起用したこともある。", "title": "広告・販売推進" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "2011年4月から2014年6月までは、CM最後のサウンドロゴに当社製のロボット・PaPeRoと子役女優の谷花音を登場させた。", "title": "広告・販売推進" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "提供クレジットは、少なくとも1991年ごろまで「NEC日本電気グループ」(家電製品のCMを提供するときには「新日本電気」(のちに「日本電気ホームエレクトロニクス」。現在は業態ごとに分社化(テレビ、家庭パソコンなど一部撤退あり))としたものがある)としていたが、CIを一新した1992年以後は正式社名を略した「NEC(グループ)」で統一している。2020年4月以降は全国ネットでのテレビ番組でレギュラー提供をおこなっていないため、特別番組での提供のみとなる。", "title": "提供番組" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "提供番組" } ]
日本電気株式会社は、東京都港区芝五丁目に本社を置く住友グループの電機メーカーである。日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。 略称はNEC(エヌ・イー・シー)、日電(にちでん)。通称としては一般的に「NEC」が使われ、ロゴタイプや関連会社の名前などにも「NEC」が用いられている。 旧社名は住友通信工業株式会社(すみともつうしんこうぎょう)。住友電気工業と兄弟会社で、同社及び住友商事とともに住友新御三家の一角であるが、住友の象徴である井桁マークは使用していない。 ブランドステートメントは「Orchestrating a brighter world」である。
{{Redirect|NEC}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 日本電気株式会社 | 英文社名 = NEC Corporation | ロゴ = [[File:NEC logo.svg|200px]] | 画像 = [[File:Main NEC Building.jpg|300px]] | 画像説明 = [[日本電気本社ビル]](NECスーパータワー) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]([[指名委員会等設置会社]]) | 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 6701 | 1949年5月16日 | }} | 略称 = NEC、日電 | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 108-8001<ref>大口事業所個別番号である(参考:[https://jpn.nec.com/profile/branch/headquarter.html 本社ビル] - NECウェブサイト)。</ref> | 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]五丁目7番1号 | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[7月17日]] | 業種 = 3650 | 事業内容 = システムプラットフォーム事業<br/>ネットワークサービス事業<br/>パブリック事業<br/>エンタープライズ事業 | 代表者 = [[森田隆之]](取締役代表[[執行役]][[社長]]兼[[最高経営責任者|CEO]]) | 資本金 = 4278億3100万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>7Page>提出会社の経営指標等>資本金]</ref> | 発行済株式総数 = 2億7284万9863株<br/>(2021年3月期)<ref name="stock">{{Cite web|和書|date=2016-03-31|url=https://jpn.nec.com/ir/stock/share.html|title=株式・株主の状況|publisher=日本電気株式会社|accessdate=2016-07-31}}</ref> | 売上高 = 連結:2兆9940億23百万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>6Page>連結経営指標等>売上高]</ref> | 営業利益 = 連結:1537億59百万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>89Page>連結損益計算書>営業利益]</ref> | 純利益 = 連結:1496億06百万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>6Page>連結経営指標等>当期純損益]</ref> | 純資産 = 連結:1兆5618億26百万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>6Page>連結経営指標等>純資産額]</ref> | 総資産 = 連結:3兆6685億64百万円<br/>(2021年3月期)<ref>[https://jpn.nec.com/ir/pdf/securities/2013/2013176_04.pdf NEC>企業情報>株主投資家情報>IR資料>有価証券報告書・四半期報告書 2013年度有価証券報告書>6Page>連結経営指標等>総資産額]</ref> | 従業員数 = 連結:114,714人<br/> (2021年3月31日現在) | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]] | 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行|日本マスタートラスト信託口]] 16.44%<br/>[[日本カストディ銀行|日本カストディ銀行(信託口)]] 6.56%<br/> [[日本電信電話株式会社]] 4.77%<br/>[[住友生命保険相互会社]] 2.05%<br/>ステート ストリート バンク ウェスト クライアント トリーティー 505234 1.82%<br/>(2022年3月31日時点)<ref name="stock" /> | 主要子会社 = [[NECグループ]]を参照 | 関係する人物 = [[岩垂邦彦]]([[起業家|創業者]]、初代[[社長]])<br/>[[ウォルター・T・カールトン]](創業者)<br/>[[丹羽保次郎]]<br/>[[小林正次]]<br/>[[小林宏治]](元・代表取締役[[会長]])<br/>[[関本忠弘]](元・代表取締役会長)<br/>[[大内淳義]](元・代表取締役会長) | 外部リンク = {{URL|https://jpn.nec.com/}}{{ja icon}} | 特記事項 = }} '''日本電気株式会社'''(にっぽんでんき、{{lang-en-short|NEC Corporation}})は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]五丁目に[[本社]]を置く[[住友グループ]]の[[電機メーカー]]である。[[日経平均株価]]および[[TOPIX Large70]]の構成銘柄の一つ<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 構成銘柄一覧:日経平均株価] Nikkei Inc. 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/topix/tvdivq00000030ne-att/mei2_12_size.pdf 「TOPIXニューインデックスシリーズ」の定期選定結果及び構成銘柄一覧],2023年10月6日,東京証券取引所</ref>。 [[略語|略称]]は'''NEC'''(エヌ・イー・シー)<ref group="注釈">旧英文社名『{{en|Nippon Electric Company, Limited}}』の略。</ref>、'''日電'''(にちでん)<ref group="注釈">滋賀県[[甲賀郡]][[水口町]]には、当社の[[工場]]が進出したことを機に名付けられた「日電」という地名が存在する。水口町はその後の自治体[[日本の市町村の廃置分合|合併]]により現在は[[甲賀市]]となったが、合併後も「甲賀市水口町日電」として地名は継承されている。また、工場前のバス停も「名坂日電前」の名称である(「名坂」は工場周辺の通称地名)。なお、当該工場を含む照明器具製造部門は[[2019年]]に[[ホタルクス]]社へ売却され、現在はNECグループを離脱した。</ref>。通称としては一般的に「NEC」が使われ、[[ロゴタイプ]]や[[関連会社]]の[[名前]]などにも「NEC」が用いられている<ref group="注釈">電機業界や社内での隠語として、日本電気を「[[三田 (東京都港区)|三田]]」と言うことがある。</ref>。 旧社名は'''住友通信工業株式会社'''(すみともつうしんこうぎょう)。[[住友電気工業]]と兄弟会社で、同社及び[[住友商事]]とともに住友[[御三家|新御三家]]の一角であるが、住友の象徴である井桁マークは使用していない。 [[キャッチコピー|ブランドステートメント]]は「{{en|'''Orchestrating a brighter world'''}}」である<ref>[https://jpn.nec.com/press/201507/20150701_01.html NEC、企業ブランドメッセージを「Orchestrating a brighter world」に変更] - NECプレスリリース([[2015年]]7月1日)</ref><ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35056792/|title=NEC、7つの「社会価値創造」テーマと取り組みを策定|newspaper=ZDNet Japan|date=2014-11-20|accessdate=2022-04-09}}</ref>。<!--また、「'''Inovationへの情熱'''、'''自助'''、'''共生'''および'''Better Products, Better Service'''」というスローガンを掲げている。--> == 概要 == [[有線通信|有線]]・[[無線]][[通信機器]]([[IP電話]]網、[[携帯電話]][[基地局]]、[[テレビジョン放送]]設備、[[高度道路交通システム|都市・交通無線]]、[[鉄道無線]]、[[船舶無線]]、[[航空無線]]、[[先進運転支援システム|自動車通信]]等)、[[コンピュータ]]([[IAサーバ]]、[[UNIX]]サーバから[[メインフレーム]]、[[スーパーコンピュータ]]まで)および[[ITサービス]]([[システムインテグレーション]]SI、[[デジタルトランスフォーメーション]]DX)を主力事業としている。また、政府機関向け[[人工衛星]]・[[宇宙探査機]]を開発・製造している。[[情報技術|インフォメーション・テクノロジー]] (IT) と[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]] (NW) 、ITと[[オペレーショナル・テクノロジー]] (OT) の融合を掲げ、サーバやミドルウェアなどの[[クラウドコンピューティング]]基盤、[[モノのインターネット|IoT]]のためのエッジコンピューティング基盤、[[Next Generation Network|NGN]]や[[Software Defined Networking|SDN]]などの通信ネットワーク、[[スマートグリッド]]などのエネルギーネットワーク、社会ソリューション向け[[人工知能]] (AI)、<!--[[ビッグデータ]]アナリティクス←AI事業に含まれる-->[[サイバーセキュリティ]]や[[コンピュータ媒介現実]] ([[拡張現実|AR]]/[[複合現実|MR]])、近年は[[電子政府]]、[[フィンテック|FinTech]]([[ブロックチェーン]]開発)や[[MaaS|モビリティサービス]]技術にも力を入れている。 [[日本]]の[[マイクロコンピュータ|マイコン]]、[[パーソナルコンピュータ]]市場では黎明期より手がけ、[[1976年]]([[昭和]]51年)の[[TK-80]]のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。国内で「NEC」というブランドで親しまれているものにパーソナルコンピュータ (PC) があったが、[[2000年]]以降は個人消費者向け製品から[[法人]]向け製品や社会インフラ製品へ注力するよう事業改革が進められた。<!-- 詳細な記述は「[[#NECのコンピュータの歴史]]」の節に移動。 --> 「海底から宇宙まで」、[[情報技術|ICT]]を活用した社会インフラの高度化を掲げる国内外の社会インフラ事業では、局用交換機、衛星地上局、[[マイクロ波]]通信設備、光海底ケーブル<ref>{{Cite news|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/special/1359648.html|title=NECのグローバル事業、再編以来初の黒字化 海底ケーブルの成長が今後の鍵の1つに GAFAが主要顧客になってきている――、海底ケーブル事業の現状を見る|newspaper=クラウドWatch|大河原克行|2021-10-20|accessdate=2022-04-09}}</ref>、放送送信機などの通信装置や[[生体認証]]システムや[[Nシステム]]のような監視システムなどのセキュリティシステムの構築実績を持つ。[[政府開発援助]]を活用し、新興国を中心にICTインフラの構築を手がけてきた。[[アフリカ]]は[[1963年]]から取引があり、これまで[[アフリカ大陸]]の40カ国以上に、マイクロ波通信システムを納入した<ref>{{PDFlink|[https://ab-network.jp/wp-content/uploads/2014/01/1bab7ee0d77400eaa896ef86d5291609.pdf NECのアフリカ事業]}}} - NEC(2014年1月21日)2022年4月9日閲覧。</ref>。また、[[アジア]]の主要空港向けに、生体認証技術を活用した安全で確実な出入国審査を実現する[[バイオメトリック・パスポート|電子パスポート]]システムを提供している<ref>[https://jpn.nec.com/ad/onlinetv/society/e_pass_h.html シンガポールの出入国管理を担う、電子パスポート「バイオパス」の指紋認証システム] {{リンク切れ|date=2022-04}}</ref>。現地法人のある[[南アフリカ]]では、[[指紋]]認証による7千万人規模の国民IDシステムを構築した。 [[2019年]]現在、[[サーバ]]分野で富士通に次ぎ国内2位<ref>[https://www.publickey1.jp/blog/16/nechp732015idc_japan.html 2015年 国内サーバー市場動向] - Publickey(2016年3月29日)</ref>である。[[メインフレーム]]は現存する国内3社、世界6社のうちの1社である。[[ベクトル計算機|ベクトル型]][[スーパーコンピュータ]]を製造する世界で現存する唯一のメーカーである<ref>{{Cite news|url=https://ascii.jp/elem/000/001/055/1055814/index-2.html|title=スーパーコンピューターの系譜 最後のベクトルマシンとなったCray X1|newspaper=ASCII デジタル|author=大原雄介|date=2015-09-28|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://wired.jp/2004/09/01/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E5%9E%8B%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B0%86%E6%9D%A5%E3%81%AF%EF%BC%9F%E4%B8%8A/ |title=ベクトル型スーパーコンピューターの将来は?(上)|newspaper=WIRED|date=2004-09-01|accessdate=2022-04-09}}</ref>。通信設備では国内首位であり、[[通信衛星]]から[[光通信]]など様々な設備を販売している。[[PASOLINK]]ブランドは、2000年代から2010年代前半にかけて小型の固定無線伝送装置で世界トップのシェアを持っていた<ref>[[2007年]] - [[2009年]]は3年連続首位、[[2010年]] - [[2011年]]は2位、[[2012年]]は再び首位。</ref>。[[コンピュータ・ネットワーク|ネットワーク機器]]関連の製品では[[UNIVERGE]]ブランドが代表的な製品である。[[IoT]]/[[M2M]]ソリューションの製品にはCONNEXIVEがある。[[システムインテグレーター|ITサービス]]では、2016年時点で富士通とNTTデータに次ぐ、国内3位である<ref>[https://www.sbbit.jp/article/cont1/34213 国内ITサービスベンダーのランキング、ガートナーが富士通やNECらの強みと課題を解説] - ビジネス+IT(2017年11月8日)2022年4月9日閲覧。</ref>。 [[人工衛星]]・[[宇宙探査機]]については、日本において国内シェア約7割に相当する50機以上の開発実績を持ち、ロケットを手掛ける[[三菱重工業]]、[[IHI]]、人工衛星を手掛ける[[三菱電機]]と共に、宇宙業界の通称「ビッグ4」の一角をなす。 人工知能を活用した画像認識<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1702/08/news003.html |title=「見つけた」で見守りやおもてなし 映像活用が生み出す新たな価値とは?|newspaper=ITmediaエンタープライズ|date=2017-02-08|accessdate=2022-04-09}}</ref>や自然言語認識<ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35039934/|title=4年分の新聞を0.2秒で処理--NEC、「テキスト含意認識」技術を高速化|newspaper=ZDNet Japan|author=山田竜司|date=2013-11-15|accessdate=2022-04-09}}</ref>技術に強みを持ち、顔認識システムNeoFaceは[[国立標準技術研究所]]が主催する顔認証ベンチマークにおいて4回連続でスピード・精度ともに世界一である<ref>[https://jpn.nec.com/press/201703/20170316_01.html NEC、米国国立機関による動画顔認証の性能評価で第1位を獲得~利便性向上・適用範囲拡大により、セーフティ事業を加速~] - NECプレスリリース(2017年3月16日)2022年4月9日閲覧。</ref>。顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、耳音響の6つの生体認証技術はBio-Idiomブランドでサービスを展開する<ref>{{Cite news|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/event/1090845.html|title=NEC・新野隆社長、“デジタルトランスフォーメーションでビジネス創造”をアピール|newspaper=クラウドWatch|author=三浦優子|date=2017-11-10|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 これらの製品・サービスの国際市場への販売にも力を入れているとともに、海外メーカーなどの通信機器、コンピュータ、ソフトウェアも販売している。ただし、ハードウェア単体の販売や売り切りのSI受託開発から、継続的なサービスの販売や生体認証と人工知能をコアとしたITプラットフォームビジネスモデルへと構造改革を進めている。 == 沿革 == === 創業から1980年頃まで === [[1899年]]([[明治]]32年)7月17日設立。[[岩垂邦彦]]と[[アメリカ合衆国|米国]][[ウェスタン・エレクトリック]](以下W.E.社、現在の[[アルカテル・ルーセント]]の前身)が54%を出資する日米[[合弁事業|合弁会社]]であった。W.E.社は当初沖電機工場(現・[[沖電気工業]])を合弁先に交渉したが、沖電機工場の[[沖牙太郎]]との間で条件がまとまらず成立しなかった<ref>{{PDFlink|[https://www.oki.com/jp/Home/JIS/Profile/120y/pdf/OkiH1_4.pdf 沖電気工業『進取の精神 沖電気120年のあゆみ』]}} - [[2001年]]、P23 - 26。</ref>。このため、W.E.社の代理人として交渉に当たっていた岩垂が自ら会社を興して提携相手となった。これは日本最初の'''合弁企業'''の事例とされる。なお、[[1992年]]まで使用されていたNECのロゴタイプはW.E.社のロゴに由来している。[[1918年]]([[大正]]7年)W.E.社は海外投資部門を分離し、インターナショナル・ウェスタン・エレクトリック(以下I.W.E.社)を設立。[[1925年]](大正14年)にI.W.E.社は買収され、インターナショナル・スタンダード・エレクトニクス・コーポレーション(I.S.E.社)と改称。 戦前は、[[電話交換機]]などの通信機器の製造を主な事業としていた。[[1928年]]([[昭和]]3年)に日本電気の[[丹羽保次郎]]、[[小林正次]]らが[[昭和天皇]]の[[即位の礼|即位大礼]]の写真の[[ファクシミリ]]通信を成功させた業績で知られる。 [[1932年]](昭和7年)、I.S.E.社は経営を[[住友財閥]]に委託した。[[第二次世界大戦]]で日米関係が悪化すると、[[1941年]](昭和16年)、I.S.E.社所有の株式が敵国資産として処分され[[住友グループ]]傘下となった。このため、[[1943年]](昭和18年)[[2月]]から[[1945年]](昭和20年)[[11月]]まで、'''住友通信工業株式会社'''と社名変更していた([[住友電気工業]]が当時既に存在していたためこの社名になったようである)。大戦期は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[無線機]]を一手に引き受け、[[レーダー|電波警戒機]]の開発も行っていた。 [[1949年]](昭和24年)に[[東京証券取引所]]に上場。 [[1951年]](昭和26年)I.S.E.社と資本提携復活。 [[戦後]]は、通信関係や[[真空管]]や[[半導体素子|半導体]]など電子部品の製造のほか、[[1953年]](昭和28年)に[[子会社]]「新日本電気」(のちの[[日本電気ホームエレクトロニクス]]、現在は[[清算]])により[[家庭用電気機械器具|家電]]・[[無線通信]]機器分野に進出した。また、[[1958年]](昭和33年)の[[NEAC|NEAC 1101]]からコンピュータの開発にも取り組み始めた。 [[File:NEC logo 1963.svg|thumb|160px|旧ロゴ(1963年 - 1992年10月)]] [[1960年代]]から、[[マイクロ波工学|マイクロ波通信]]装置を中心とする通信機器の海外輸出に積極的に取り組み始めた。 [[1963年]](昭和38年)、[[KDDI茨城衛星通信センター|茨城宇宙通信実験所]]の日本初の[[衛星通信]][[地球局]]に高感度[[受信機|受信装置]]を納入。 [[1966年]](昭和41年)、[[日本板硝子]]と共に世界最初期の自己収束型[[光ファイバー]]「セルフォック」を開発。[[1970年代]]にはマイクロ波通信や[[光ファイバー通信]]用の[[半導体レーザー]]の量産化でも世界をリードする<ref>[http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi301.html 日本半導体歴史館]</ref>。 [[1970年]](昭和45年)には、'''日本初の[[人工衛星]]'''である「[[おおすみ]]」を製造し、運用に成功する。 <!-- [[小林宏治]]に記載されている内容と全く同じで冗長なのでコメントアウト [[1970年]]頃に[[サムスン]]は商社から電器産業に進出したが[[半導体]]の開発で行き詰まっていた当時、日韓定期閣僚会議が始まって日韓提携の気運があった。[[小林宏治]]が「韓国は技術を盗んでいく」と警戒感持っていたのに困った[[李健熙]]は[[シャープ]]の[[佐々木正]]に説得を頼み、[[駐日大韓民国大使]]と小林、佐々木とで食事する機会をセッティングしてもらった。その後に佐々木以外の3人でゴルフに行き、技術供与をするようになった<ref>https://toyokeizai.net/articles/-/54554?page=4</ref>。 --> [[1977年]](昭和52年)に、当時会長であった[[小林宏治]]によって「コンピュータと通信の融合」をうたった「'''C&C'''」(Computer & Communicationの略)のスローガンが提唱され、新たな企業理念となる。これ以降、それまで「[[電電ファミリー]]」(例えば電話交換機では[[富士通]]と並び大手の一角と言われた)というイメージの強かったNECは、情報・通信系を中心とした総合電機メーカーへと変貌を遂げる。 === 1980年頃から1990年代まで === [[File:PC9821 Nb10 NEC.jpg|thumb|160px|ノートパソコンの一例<br />PC-9821 Nb10]] [[1982年]](昭和57年)に発売された「'''[[PC-9800シリーズ]]'''」は、約15年間にわたって日本のパソコン市場を席巻し、全盛期には「'''国民機'''」とまで呼ばれるようになった。 C&Cの理念は小林の実質的な後継社長であった[[関本忠弘]]の時代にも引き継がれ、上記のPC-9800シリーズによる国内PCの圧倒的シェアに加え、[[1985年]]には[[スーパーコンピュータ]][[NEC SX|SX-2]]が世界最速となり、[[1980年代]]後半には半導体生産で世界一位となるなど、日本を代表するエレクトロニクス企業へと成長した。コンピュータ系の事業部門においては、富士通の[[池田敏雄]]と並ぶ日本の情報処理分野の生みの父とされる[[水野幸男]]などが、[[メインフレーム|汎用機]]や関本の好む大型技術案件だけに集中しがちなNEC自体の傾向を補正し、PCや[[UNIX]]などの当時の次世代技術に他ベンダよりいち早く投資を続ける事により発展してきたという側面も大きい。 NECを含めた日本企業の国際半導体市場進出は、「'''日の丸半導体'''」と呼ばれ、[[貿易摩擦|日米半導体貿易摩擦]]問題として政治問題化するまでになった。[[プラザ合意]]([[1985年]])後の急速な[[円高]]や、[[1986年]]から[[1996年]]まで続いた「[[日米半導体協定]]」<ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/9052 |title=国策半導体の失敗、負け続けた20年の歴史、親会社・国依存から脱却を|newspaper=[[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]]|date=2012-04-24|accessdate=2022-04-09}}</ref>の影響により海外競争力は衰えることとなった<ref>中沼尚「{{PDFlink|[https://www.shmj.or.jp/dev_story/pdf/nec/nec_e10.pdf 日米半導体貿易摩擦とは一体何だったのか]}}」 - 日本半導体歴史館(「開発ものがたり - NEC関連」掲載)</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=藤田実|title=1990年代の半導体産業|journal=企業環境研究年報|issue=5|date=2000-11|publisher=中小企業家同友会全国協議会企業環境研究センター|url=https://www.doyu.jp/research/issue/yearly/05/047-060_fujita.pdf|format=PDF}}</ref>。 [[File:NEC logo.svg|thumb|160px|新ロゴ(1992年10月 - )]] [[1983年]](昭和58年)に英文社名を現在のものに変更する。[[1990年]]([[平成]]2年)には、創業以来の地に現在の本社ビルである[[日本電気本社ビル|NECスーパータワー]]が建設された。建設中は[[森永製菓]]本社がある[[森永プラザビル]]を間借りした。[[1992年]](平成4年)[[10月5日]]には、[[コーポレートアイデンティティ|CI]]刷新により、現在の青色のNECロゴに変更した。このロゴの使用を開始した1992年(平成4年)以降、対外的には「NEC」を通称とするようになっている。 [[1990年代]]後半に至り、国内PC市場での[[PC/AT互換機]]対応の遅れ、海外PC市場進出をめざし買収した[[パッカードベル]]社の不振、半導体市場での米国・韓国・台湾勢との競争激化といった要因により業績の勢いにかげりが見えた矢先、[[1998年]](平成10年)には[[防衛庁]]調達における'''価格水増し疑惑'''が発覚し、企業イメージを損なうこととなった。この責任を取る形で関本は会長を退き、社長も[[金子尚志]]から[[西垣浩司]]へと交代した。 === 2000年代から現在まで === 西垣社長体制下において、不採算事業のリストラとガバナンス強化施策に従い、家電分野から撤退した。[[1999年]](平成11年)12月には、[[DRAM]]事業部門を分社化し、NEC日立メモリ(エルピーダメモリに改称後、会社更生法適用により、現・[[マイクロンメモリジャパン]])を設立する。また、[[2000年]](平成12年)4月には、[[社内カンパニー]]としてNECソリューションズ・NECネットワークス・NECエレクトロンデバイスを設立したが、[[2002年]](平成14年)11月に半導体関連部門のNECエレクトロンデバイスを[[NECエレクトロニクス]](現・[[ルネサスエレクトロニクス]])として分社化、カンパニー制自体も導入からわずか3年後の[[2003年]](平成15年)4月に金杉社長体制において廃止された。総合電機メーカーとしての暖簾を下ろし、C&Cコンセプトに立ち戻り、コンピュータシステム及び通信を中心とした電機メーカーへ転換した。 [[2001年]](平成13年)、創立100周年記念事業として、玉川事業場の一部を高層ビル群に建て替えた([[NEC玉川ルネッサンスシティ]])。年間の売上が5兆4097億円と過去最大に達した(2016年度の2倍以上)<ref name="kimura">{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/16/122000309/011000005/|title=木村岳史がITベンダーの新事業を斬る!「共創」十番勝負 NEC編第3回 木村の眼、“NECの失われた21世紀”を終わらせるカギは何か|website=日経XTECH|date=2017-01-12|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 [[2002年]](平成14年)には、「[[地球シミュレータ]]」を完成させ、[[日米スパコン貿易摩擦]]以降初めて[[スーパーコンピュータ]]の世界最速を記録し、[[コンピュートニク]]・ショックとも呼ばれた。 [[2004年]](平成16年)[[11月]]、[[アビームコンサルティング]]と業務提携し、グループに加えることで、ビジネスコンサルティングとITサービスを強化する。 また、通信ネットワークの[[インターネット]]化・[[インターネット・プロトコル・スイート|IP]]化を進め、次世代電話網の[[Next Generation Network|NGN]](Next Generation Network)に関しては、IT/NW機器業界では一番早くから対応を進めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20060727/244512/ |title=NGNにかけるNEC不退転の決意|author=大谷晃司|website=日経XTECH|date=2006-08-01|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 [[1988年]]より[[NASDAQ]]に[[米国預託証券]](ADR)を上場していたが<ref>[http://www.gregthatcher.com/Stocks/Technical/Analysis/NIPNY?AspxAutoDetectCookieSupport=1 Technical Analysis of NIPNY (NEC CP ADR)]</ref>、米国の監査法人から求められていた保守・サポートサービスと製品が一体になった「複合契約」の収益分析が完了しなかったため、上場維持に必要な[[証券取引委員会|SEC]]に対する[[2006年]]3月期の年次報告書を提出できず、[[2007年]]10月に上場を廃止した<ref>[http://www.nec.co.jp/press/ja/0709/2102.html 米国会計基準による過年度財務諸表およびADRのNASDAQ取引について] - NECプレスリリース(2007年9月21日)</ref>。その後、SECとの間では[[2008年]]6月に和解が成立した<ref>[http://www.nec.co.jp/press/ja/0806/1801.html 米国証券取引委員会との和解について] - NECプレスリリース(2008年6月18日)</ref>。また、この関連で2006年の中間決算より、日本国内向けの財務諸表の作成基準を従来の米国基準から日本基準に変更している。 [[2007年]](平成19年)4月、[[日産自動車]]とともに自動車アプリケーション用[[リチウムイオン電池]]の開発を行うオートモーティブエナジーサプライを設立した。[[2010年]]にはリチウムイオン電池専門のNECエナジーデバイスを設立。[[2012年]](平成24年)4月には、社内にスマートエネルギー事業本部を設置した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1001T_Q2A710C1000000/|title=NEC、スマートエネルギー事業を説明 17年度に売上高3000億円強|newspaper=日本経済新聞|date=2012-07-11|accessdate=2022-04-09}}</ref>。2014年5月にはNECエナジーソリューションズを北米に設立した<ref>[https://jpn.nec.com/press/201405/20140516_03.html NEC、世界トップクラスの蓄電システム事業会社「NEC Energy Solutions」を設立] - NECプレスリリース(2014年5月16日)</ref>。しかし、[[2017年]]にオートモーティブエナジーサプライ・NECエナジーデバイスともに株式を売却する方針と発表<ref>[https://jpn.nec.com/press/201712/20171204_02.html 連結子会社株式の譲渡に伴う譲渡益の計上に関するお知らせ] - NECプレスリリース([[2017年]]12月4日)</ref>、[[2019年]]3月に売却した{{refnest|group="注釈"|[[2017年]]の発表後、売却の前提となっていた、オートモーティブエナジーサプライの(日産からの)株式売却が当初予定より遅れて[[2018年]]6月末となると報じられたのち<ref>{{Cite news|url=https://response.jp/article/2018/05/01/309199.html|title=日産、リチウムイオン電池事業の売却を延期|newspaper=Response|date=2018-05-01}}</ref>、日産が予定していた売却先への売却を取り止めた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32486720S8A700C1EAF000/ |title=日産、電池子会社売却を中止 中国側の資金不足で|newspaper=日本経済新聞|date=2018-07-02}}</ref>。[[2018年]]8月3日に、エンビジョン・エレクトローズに対して[[2019年]]3月末に売却することを発表<ref>{{Cite news|url=https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/1808/06/news033.html |title=NECと日産、リチウムイオン電池事業を譲渡|newspaper=EETimes Japan|date=2018-08-06}}</ref>。}}。北米のNECエナジーソリューションズも2021年9月に売却した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC03B4M0T00C21A9000000/|title=NEC、米蓄電システム子会社を韓国LG化学に売却|newspaper=日本経済新聞|date=2021-09-03|accessdate=2022-04-09}}</ref>。このように、2000年代後半から2010年代にかけて注力した蓄電池等のスマートエネルギー関連事業は、2020年代には縮小した。2023年の時点で社長を務める森田隆之は、インタビューで2019年の売却を「失敗」と評し、「売らなければ今、花開いているであろう事業です」と述べた<ref>{{Cite web|和書|url=https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00119/00216/?P=3|title=「やっと1つの会社に」 森田社長が語る、NECの復活と未来 (3/4ページ)|website=日経ビジネス|date=2023-06-02|accessdate=2023-06-10}} (閲覧には会員登録が必要)</ref>。 2009年3月期決算(2008年度)は、主に半導体分野などの不振が響き、営業損益で62億円、当期損益では2966億円の赤字となった<ref name="itm090513">{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0905/12/news095.html|title=NEC、2966億円の最終赤字。固定費削減で来期は黒字回復目指す|newspaper=ITmediaエンタープライズ|date=2009-05-12|accessdate=2022-04-10}}</ref>。決算発表で社長の矢野薫は「不採算事業の撲滅」を掲げ、経費の見直しとともに人員削減にも取り組むと述べた<ref name="itm090513"/>。この方針の一環として、2009年度中に国内研究員の約15%(約150人)を製品開発や営業、SEなどの事業部門に異動させる方針と報じられた<ref>{{Cite news|和書|title=NEC、研究員15%配転、今期中に150人、開発・営業などに、研究費2割減|newspaper=日本経済新聞|date=2009年11月28日|page=12}}</ref>。 [[2010年]](平成22年)、6月13日、[[NECスペーステクノロジー|NEC東芝スペースシステム]]が主製造業者として製造した「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」が'''世界初の地球重力圏外にある天体からの[[サンプルリターン]]'''に成功して地球に帰還する。 同年、携帯電話事業を分社化し、NECカシオ モバイルコミュニケーションズ(後に[[NECモバイルコミュニケーションズ]]に改称)を設立する。また半導体子会社のNECエレクトロニクスはルネサス テクノロジと合併し[[ルネサス エレクトロニクス]]となった。 [[2011年]](平成23年)[[1月27日]]、1980年代から国内シェア首位のPC事業を分社化し、世界シェア4位の[[レノボ]]とともに合弁会社を設立すると発表した。これにより国内最大手のPC事業グループが誕生した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nec.co.jp/press/ja/1101/2702.html|title=NECとレノボが合弁会社を設立、国内最大のパソコン事業グループが誕生|publisher=日本電気株式会社 レノボ|date=2011-01-27|accessdate=2023-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110130045243/http://www.nec.co.jp/press/ja/1101/2702.html|archivedate=2011-01-30}}</ref>。 これらの統合による規模のメリットによって、パーソナルプロダクトのコストダウンやシェア拡大を目指す一方で、成長市場である[[クラウドコンピューティング|クラウド]]や[[スマートグリッド]]などのビジネス・社会インフラ関係の分野での事業創出を図っている<ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/20409271/ |title=NEC、組織再編を発表--クラウドとスマートグリッドで事業創出を目指す|author=冨田秀継|newspaper=ZDNet Japan|date=2010-02-25|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2012年3月期決算(2011年度)は、営業利益は737億円となったものの、最終当期損益は1103億円の赤字で2期連続の赤字となる<ref name="cw12">{{Cite news|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/530006.html|title=NEC、2011年度連結業績は1103億円の最終赤字に~全社戦略投資の半分をクラウドサービスに投資|newspaper=クラウドWatch|date=2012-04-28|accessdate=2022-04-10}}</ref>。決算発表では、[[スマートフォン]]の伸び悩みや[[タイ王国|タイ]]での洪水によるサプライチェーンへの影響といった事業面での事情のほか、繰延税金資産の見直し、構造改革特別費用405億円の計上が赤字の要因として挙げられた<ref name="cw12"/>。これに先立って同年1月には業績の下方修正とともに1万人の人員削減を含む事業構造改革の実施を発表していた<ref name="cw12"/>。2013年3月決算期(2012年度)は304億円の当期利益に回復した<ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35036298/|title=大河原克行のエンプラ徒然 電機大手決算を読む:2012年度を振り返る--成長戦略の礎はできたか|author=大河原克行|newspaper=ZENet Japan|date=2013-08-23|accessdate=2022-04-10}}</ref>。 2011年に、[[Software Defined Networking|SDN]](Software Defined Network)を実現する[[OpenFlow]]技術を世界で初めて製品化したUNIVERGE PFシリーズを発売する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nec.co.jp/press/ja/1103/0901.html|title=世界初、新ネットワーク制御技術「OpenFlow」に対応したネットワーク製品を販売開始|publisher=日本電気株式会社|date=2011-03-09|accessdate=2023-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110521015207/http://www.nec.co.jp/press/ja/1103/0901.html|archivedate=2011-05-21}}</ref>。[[2013年]](平成25年)には、[[Software Defined Networking|SDN]]戦略本部を設立し<ref>{{Cite web|和書|date=2013-07-10 |url=http://japan.internet.com/webtech/20130710/4.html |title=NEC、SDN ソリューションを体系化 |accessdate=2013-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029184208/http://japan.internet.com/webtech/20130710/4.html |archivedate=2013-10-29|siteweb=インターネットコム}}</ref>、世界で初めて通信キャリア向けネットワークのSDN仮想化ソリューションを発売する<ref>{{Cite web|和書|date=2013-10-23 |url=http://japan.internet.com/allnet/20131023/2.html |title=NEC、世界初、通信事業者向け SDN 仮想化モバイルコアネットワークソリューションを販売 |accessdate=2013-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029184025/http://japan.internet.com/allnet/20131023/2.html |archivedate=2013-10-29|website=インターネットコム}}</ref>など、SDNを新しい事業の柱として据える方針を打ち出した<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20130917/304011/|title=NECら5社、世界初の広域SDN実現を目指す「O3プロジェクト」を立ち上げ|newspaper=日経XTECH|author=森元美稀|date=2013-09-18|accessdate=2022-04-09}}</ref>。しかし、SDNの先駆的な実用化に成功しながら[[シスコシステムズ]]などに市場の主導権を奪われたと、2017年の時点で指摘されている<ref name="kimura"/>。 2010年代には[[シンガポール]]にセキュリティ関連事業の拠点「グローバルセーフティ事業部(GSD)」を設置<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1502/13/news041.html |title=インドネシアに“活路”を見出すNEC、3つの理由 (1/2)|newspaper=ITmedia エンタープライズ|date=2015-02-13|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 携帯電話は[[フィーチャーフォン]]の時代には2001年から2004年までの4年間国内シェアトップを占めていたが、[[2011年]]には7位まで落ち込んだ<ref>{{Cite news|url=http://www.icr.co.jp/newsletter/report_tands/2013/s2013TS293_3.html|title=政策関連(携帯電話メーカー) 日本の携帯電話メーカー(2013年7~8月考察)|newspaper=Infocomモバイル通信ニューズレター(Infocomモバイル通信T&S)|publisher=情報通信総合研究所|date=2013-09-26|accessdate=2022-04-09}}</ref>。2011年発売の[[MEDIAS]]によりスマートフォンに参入したものの、2013年7月に事業撤退を発表した<ref>{{Cite news|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/609830.html|title=NEC、スマートフォン事業から撤退|newspaper=ケータイWatch|date=2013-07-31|accessdate=2022-04-09}}</ref>。フィーチャーフォンの開発は継続するとしたが、パーソナル事業から社会インフラ事業へのシフトがますます鮮明となる。フィーチャーフォンのみとなった携帯電話事業は[[2016年]]3月に、NECモバイルコミュニケーションズを解散する形で再びNEC本体直轄となった<ref name="itmedia_2016_02_29">{{Citenews|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1602/29/news134.html|title=NECモバイル解散、携帯事業はNECが引き継ぐ形に|newspaper=ITmedia|date=2016-02-29|accessdate=2017-05-27}}</ref>。携帯電話事業の縮小をめぐっては、2012年に[[東京国税局]]の[[税務調査]]で、海外事業からの撤退に絡んで要求され支払った[[補償金]]などが[[交際費]]と認定され、約100億円分の[[脱税#いわゆる「申告漏れ」「所得隠し」について|所得隠し]]を指摘される事態も付随して起きた<ref>[https://web.archive.org/web/20120624180748/http://mainichi.jp/select/news/20120625k0000m040126000c.html NEC:100億円所得隠し…補償金は「交際費」国税判断] - [[毎日新聞]] 2012年(平成24年)6月25日(2012年(平成24年)6月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 2010年代半ばからは[[ビッグデータ]]、IoTや人工知能(AI)関連に注力するようになる。[[2014年]]4月にはビッグデータ戦略本部を新設した。[[2015年]]6月、[[ものづくり]][[ソリューション]]として「NEC Industrial IoT」というサービスの提供を開始した<ref>{{Cite news|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/707194.html|title=IoTを活用した次世代“ものづくり”ソリューション「NEC Industrial IoT」|newspaper=クラウドWatch|date=2015-05-16|accessdate=2022-04-09}}</ref>。2016年6月には[[産業技術総合研究所]]と共同で「産総研‐NEC 人工知能連携研究室」を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aist.go.jp/aist_j/news/pr20160405_2.html|title=「産総研-NEC 人工知能連携研究室」を設立|website=産総研 ニュース|date=2016-04-05|accessdate=2022-04-09}}</ref>、7月には人工知能技術を集結した「NEC the Wise」ブランドを策定した<ref>[https://jpn.nec.com/press/201607/20160719_01.html NEC、AI(人工知能)技術ブランド「NEC the WISE」を策定] - NECプレスリリース(2016年7月19日)</ref>。 2016年4月、[[フィンテック|FinTech]]事業開発室を新設した<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/16/032900913/?rt=nocnt|title=NECがFinTech専門組織、海外拠点との連携で新サービス創出狙う|newspaper=日経XTECH|author=岡部一詩|date=2016-03-29|accessdate=2022-04-09}}</ref>。また、[[大阪大学]]内に次世代コンピューターの基盤技術を開発する「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」を設立した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO99229430T00C16A4TJM000/|title=NEC、阪大に次世代コンピューターの研究所|newspaper=日本経済新聞|date=2016-04-03|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 同月、[[2016年]]度(2017年3月決算期)<!--「2017年3月決算期」は2016年度。-->の決算より、[[国際財務報告基準]](IFRS)を適用することを発表した<ref>[https://jpn.nec.com/press/201604/20160428_03.html 財務報告基準 (IFRS) の任意適用に関するお知らせ] - NECプレスリリース(2016年4月28日)</ref>。 2016年12月、1960年代より開発で先行し、常にトップグループを走り続けてきた[[オフィスコンピュータ]]の製造より撤退<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/16/121500301/ |title=オフコンの憂鬱|newspaper=日経XTECH|author=井上英明|date=2016-12-19}}</ref>。同製品の市場規模の縮小により採算が悪くなった影響である。[[コンビニエンスストア]]や[[ホテル]]などの稼働中のバックオフィス用コンピュータは独占状態に近く、保守サポートは[[2023年]]まで継続する。 2016年12月、人工知能を活用したがん治療用ワクチンの開発を担う新会社「サイトリミック」を設立<ref>{{cite news | url =https://japan.zdnet.com/article/35093979/| title =AIで「がん治療用ワクチン」を開発—NECが創薬の新会社| publisher =| date= 2016-12-19| accessdate =2016-12-23}}</ref>。2019年には医療分野への展開として、[[定款]]を変更し創薬事業に参入した<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/02237/|title=NECが創薬事業を手掛ける企業に、定款を変更し宣言|newspaper=日経XTECH|date=2019-05-28|accessdate=2022-04-08}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35137534/|title=NEC、AIを活用した治験開始--がん免疫療法の進歩に向けて|newspaper=ZDNet Japan|オーサー=大場みのり|date=2019-05-27|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2017年2月、[[公正取引委員会]]より、消防救急デジタル無線の入札において談合があったとして、他の3社([[富士通ゼネラル]]・沖電気工業・[[日本無線]])とともに排除措置と課徴金支払を命じられる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H76_S7A200C1CR8000/|title=消防無線談合、4社に課徴金63億円命令 公取委|newspaper=日本経済新聞|date=2017-02-02|accessdate=2022-04-10}}</ref>。2017年3月決算期(2016年度)の決算は海外事業の不振などに加え、前記の公取委の課徴金の影響もあって減収減益となり、当時掲げていた中期計画(2019年3月決算期まで)を撤回する事態となった<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/17/042701311/|title=NECの2016年度通期決算は減収減益、中期経営計画の撤回に新野社長「非常に残念」|日経XTECH|author=佐藤雅哉|date=2017-04-28|accessdate=2022-04-10}}</ref>。公取委の談合認定に関してはその後、立ち入り検査を2016年に受けた日付(11月18日)を「NECコンプライアンスの日」として不正再発防止の啓発を社内で実施している<ref>[https://jpn.nec.com/csr/ja/governance/compliance.html コンプライアンスとリスク・マネジメント] - NEC(2022年4月10日閲覧)</ref>。また、業績回復に向けた構造改革として、[[2018年]](平成30年)1月30日に、2020中長期計画にて、国内の間接部門や[[ハードウェア]]事業領域で[[希望退職]]を募るなどによる3000人の人員整理を発表した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/nec-3000-reduce-idJPKBN1FJ11G/|title=NEC、国内間接部門・ハードウエア事業領域で3000人削減=中計|newspaper=[[ロイター]]|date=2018-01-30|accessdate=2018-01-31}}</ref>。 2010年代後半からは日本国外企業のM&Aを積極的に手がけるようになる。[[2018年]]1月、[[イギリス]]のITサービス会社ノースゲート・パブリック・サービシズの買収を発表<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/nec-nps-idJPKBN1EY0NO|title=NECが英IT企業を約713億円で買収、セーフティー事業強化|newspaper=[[ロイター]]|date=2018-01-09|accessdate=2022-04-09}}</ref>。同年12月27日には[[デンマーク]]最大のIT企業である「KMD」を買収すると発表した<ref>{{Cite news|url=https://it.impress.co.jp/articles/-/17235|title=NECがデンマーク最大のIT企業KMDを買収、海外セーフティ事業を拡大|newspaper=IT Leaders|date=2018-12-27|accessdate=2022-04-09}}</ref>。この2件はいずれも海外セーフティ事業を強化が目的と報じられた。2020年12月23日には、スイスの大手金融ソフトウェア企業である[[:en:Avaloq|Avaloq Group AG]]の買収を完了。買収価格は20.5億スイス・フラン(約2360億円)<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20201223-1606859/|title=NEC、スイス大手金融ソフトウェア企業を2360億円で買収|newspaper=マイナビニュース|author=早川竜太|date=2020-12-23|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2018年1月には、地球観測衛星「ASNARO-2」の打ち上げに向け人工衛星の運用を独自で行う施設を新設し、製造から打ち上げ後の運用まで自社で行う初の国内メーカーとなった<ref>{{Cite news|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000118370.html|title=NECが衛星の運用施設を新設 報道陣に初公開|newspaper=[[テレビ朝日]]|date=2018-01-10|accessdate=2022-04-09}}</ref>。当「NEC衛星オペレーションセンター」における衛星の運用事業に加え、衛星画像データの販売事業にも参入する<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/feature/15/122200045/011500393/|title=衛星データ販売事業で「確実に黒字化」、NECが新規参入|newspaper=日経XTECH|author=内山育海|date=2018-01-15|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 [[第5世代移動通信システム]](5G)に向けては、2018年10月24日に[[サムスン電子]]と5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した<ref>{{Cite news |title=NEC、サムスンと提携 5G基地局の開発・営業 |newspaper=日本経済新聞 |date=2018-10-24 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36849930U8A021C1X12000/?s=2 |accessdate=2018-10-24 }}</ref>。2020年には、次世代通信規格[[5G]]のインフラ整備でイギリス政府やNTTと協業を進める<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60763770V20C20A6I00000/|title=NEC、5G挽回に「電電ファミリー」の絆頼み|newspaper=日本経済新聞|date=2020-06-25|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65443450W0A021C2EAF000/|title=英政府、5GでNECと協業 ファーウェイ排除で代替|newspaper=日本経済新聞|date=2020-10-26|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://enterprisezine.jp/news/detail/13661|title=NEC、英国政府主導の「NeutrORAN」に参加 5G Open RAN稼働に向けた実証実験へ|newspaper=EZニュース|date=2020-11-30|accessdate=2022-04-08}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1365391.html|title=クアルコムとNECが仮想化5Gソリューションで連携、ドコモのO-RAN構想下で開発|newspaper=ケータイWatch|author=北川研斗|date=2021-11-11|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1325324.html|title=楽天モバイル、NECと富士通それぞれと完全仮想化ネットワーク普及に向け連携|newspaper=ケータイWatch|author=竹野弘祐|date=2021-05-22|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/07/news143.html|title=KDDI、クラウドネイティブのネットワーク基盤技術でNEC、NICTと共同研究 5G網構築に向け|newspaper=ITmedia|date=2021-09-07|accessdate=2022-04-09}}</ref>。5G投資の一環として、同年6月にはNTTとの資本業務提携を発表し、NTTはNECに約645億円を出資して4.8%の株式を取得した<ref>{{cite news|url=https://ascii.jp/elem/000/004/019/4019090/|title=5Gとその先での日本の挑戦、NTTとNECの提携を読み解く|newspaper=[[アスキー (企業)|ASCII]]ビジネス|date=2020-07-09|accessdate=2021-01-05}}</ref>。2021年11月、大阪大学と共同で「NEC Beyond 5G協働研究所」を設置した<ref>{{Cite news|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1361125.html|title=NECと大阪大学、Beyond 5G技術の協働研究所を設置――「確率的デジタルツイン」で低通信量、低消費電力を目指す|newspaper=ケータイWatch|author=竹野弘祐|date=2021-10-26|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 [[量子コンピュータ]]分野では、[[2019年]]3月1日、産業技術総合研究所と共同の研究室「NEC―産総研 量子活用テクノロジー連携研究室」を設立した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38019300R21C18A1X20000/|title=NEC、量子コンピューターの研究室 産総研と|newspaper=日本経済新聞|date=2018-11-21|accessdate=2022-04-09}}</ref>。さらに2020年6月には、量子アニーリングマシン分野で、[[D-Wave Systems]]と協業を発表<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/news/18/08157/ |title=NECとカナダD-Waveが協業、量子アニーリングとスパコンを連携|newspaper=日経XTECH|author=中田敦|date=2020-06-18|accessdate=2022-04-09}}</ref>。量子暗号では、東芝や東京大学、NICT、野村ホールディングスなどと協業・共同検証を行っている<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2007/29/news126.html|title=東芝など12機関、盗聴不可能な暗号技術「量子暗号通信網」の共同開発へ|newspaper=ITmedia NEWS|author=井上輝一|date=2020-07-29|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP602167_R21C20A2000000/|title=NEC・野村HD・東芝など、金融分野のサイバーセキュリティ強化に向け量子暗号技術活用の共同検証を開始|date=2020-12-21|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2019年4月24日には新ブランド「NEC Smart Connectivity」を立ち上げ、ネットワーク技術やソリューションを、IoT化を迎える新たな領域におけるサービス事業を展開すると発表した<ref>{{Cite news|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/1182116.html |title=NECが新事業ブランド「NEC Smart Connectivity」発表 ネットワークの強みを生かしたサービス事業を展開|newspaper=クラウドWatch|author=唐沢正和|date=2019-04-25|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2019年8月5日、新たな移動環境づくりを目指し、[[空飛ぶクルマ|空飛ぶ車]]の試作機の浮上実験を公開した<ref>{{Cite news|url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1908/06/news047.html|title=NEC自社開発の空飛ぶクルマが飛んだ、ただし「機体ビジネスには参入せず」|newspaper=MONOist|date=2019-08-06|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2020年3月決算期(2019年度)は、ビジネスPC特需などにより営業利益は前年比120%の1276億円となり、当期利益は過去最高を記録した<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/news/18/07830/|title=NECの20年3月期は120%増益、PC特需で過去最高益に|author=長倉克枝|newspaper=日経XTECH|date=2020-05-12|accessdate=2022-04-10}}</ref>。 2021年3月決算期(2020年度)は、新型コロナウイルス感染症流行の影響を受けながらも、5G基地局やGIGAスクールといった需要で補い、減収増益(調整後営業利益1782億円)だった<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/news/18/10330/|title=NECの2021年3月期決算は減収増益、調整後営業利益は前期比22%増|newspaper=日経XTECH|author=田中陽菜|date=2021-05-12|accessdate=2022-04-10}}</ref>。この決算発表と合わせて公表した2021年度(2022年3月決算期)の業績見込は成長投資などのため前年比減益としたが、株式市場では予想を下回ったとして「失望売り」が起きた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB137NF0T10C21A5000000/|title=NEC大幅安 減益見通し嫌気 成長投資の見方分かれる|newspaper=日本経済新聞|date=2021-05-13|accessdate=2022-04-10}}</ref>。最終的に2022年3月期決算は、会社発表を上回った<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220428-2333119/|title=NEC、2021年度通期決算は業績予想を上回る - 売上収益3兆141億円|newspaper=TECH+|date=2022-04-28|accessdate=2022-10-22}}</ref>。 2021年7月、「NEC都市OS」を提供開始。NECはこれまで、国内13の自治体にスマートシティ事業者として参画しており、日本政府のスーパーシティ構想に応募した全国31自治体のうち17自治体にNECが参画している<ref>{{Cite news|url=https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1337452.html|title=NECが目指す「スーパーシティ」。10年先の「まるごと未来都市」|newspaper=Impress Watch|author=清宮信志|date=2021-07-12|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 2023年1月30日、同年6月の株主総会での承認を前提とした[[指名委員会等設置会社]]への移行決定を発表し<ref>[https://jpn.nec.com/press/202301/20230130_02.html 指名委員会等設置会社への移行および組織改革について] - 日本電気プレスリリース(2023年1月30日)2023年1月31日閲覧。</ref>、6月22日の株主総会での承認を経て正式に指名委員会等設置会社となった<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/677230|title=株主総会/NEC、統治強化・スピード向上 指名委等設置会社に移行|newspaper=[[日刊工業新聞]]|date=2023-06-23|accessdate=2023-06-24}}</ref>。 == 採用・人事 == 2018年以降はキャリア採用を大幅に増やしていると紹介されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dodadsj.com/content/220331_nec/|title=2期連続で過去最高利益を更新したNECが、「キャリア採用」を3年で6倍超に増やした理由。22年度の戦略とは――|website=d's journal|date=2022-03-31|accessdate=2022-04-10}}</ref>。 == 歴代社長等 == [[ファイル:Kaoru Yano cropped 2 Kaoru Yano and Sebastian Pinera 20101115.jpg|thumb|200px|日本電気社長を務めた矢野薫]] [[※]] 梶井剛の任期途中の[[1943年]]2月以降から社長を置く。それまでは[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]]がトップマネージメント。 {| class="wikitable sortable mw-collapsible mw-collapsed" |+ |- !代||氏名||在任期間||役職 |- |1||[[岩垂邦彦]]||[[1899年]] 7月 - [[1926年]]12月||専務 |- |2||[[大畑源一郎]]||[[1926年]]12月 - [[1932年]] 6月||専務 |- |3||[[志田文雄]]||[[1932年]] 6月 - [[1938年]] 4月||専務 |- |4||[[梶井剛]]||[[1938年]] 7月 - [[1943年]] 2月<br />[[1943年]] 2月 - [[1946年]] 1月||専務<br />社長 |- |5||[[佐伯長生]]||[[1946年]] 1月 - [[1947年]] 6月||社長 |- |6||[[渡辺斌衡]]||[[1947年]] 6月 - [[1964年]]11月||社長 |- |7||[[小林宏治]]||[[1964年]]11月 - [[1976年]] 6月||社長 |- |8||[[田中忠雄 (実業家)|田中忠雄]]||[[1976年]] 6月 - [[1980年]] 6月||社長 |- |9||[[関本忠弘]]||[[1980年]] 6月 - [[1994年]] 6月||社長 |- |10||[[金子尚志]]||[[1994年]] 6月 - [[1999年]] 2月||社長 |- |11||[[西垣浩司]]||[[1999年]] 3月 - [[2003年]] 3月||社長 |- |12||[[金杉明信]]||[[2003年]] 3月 - [[2006年]] 3月||社長 |- |13||[[矢野薫]]||[[2006年]] 4月 - [[2010年]] 3月||社長 |- |14||[[遠藤信博]]||[[2010年]] 4月 - [[2016年]] 3月||社長 |- |15||[[新野隆]]||[[2016年]] 4月 - 2021年 3月||社長 |- |16||[[森田隆之]]||2021年 4月 - 現職||社長 |} == 製品 == 主要な製品・サービスは、コンピュータ、[[パッケージソフトウェア|ソフトウェアパッケージ]]およびネットワーク・通信機器の生産/販売、またそれらを組み合わせたITサービス(コンピュータシステムの構築・インテグレーション)の提供である。その他には、テレビ局向け放送機器や人工衛星の開発・製造を行っている。 2000年(平成12年)以降、事業の選択と集中が進み、[[半導体]]、[[パーソナルコンピュータ]]の機器など、[[携帯電話]]、[[照明]]は分社化している。これらの製品は「[[#分社/子会社化した部門の製品]]」に記載する。 === コンピュータ === 社内カンパニー制時代はNECソリューションズに属していた。 ==== NECのコンピュータの歴史 ==== : ''パーソナルコンピュータに関しては、[[PC-9800シリーズ]]などの「[[#過去の製品|過去の製品]]の各項目」も参照'' ; 黎明期 : NECのコンピュータは、戦前の[[継電器|リレー式]]自動[[電話交換機]]の開発に端を発し、日本電気の中島章は[[1936年]](昭和11年)、後の真空管・半導体コンピュータの[[論理回路]]にあたるリレー回路の論理設計を論理数学(ブール代数)により行う理論を発表している。 : 戦後の[[1950年代]]には、[[パラメトロン]]コンピュータ[[NEAC|NEAC-1101シリーズ]]、[[トランジスタ]]コンピュータ[[NEAC|NEAC-2201シリーズ]]や[[FONTAC]]([[富士通]]/[[沖電気工業|沖]]/NEC共同コンピュータ)といわれる初期コンピュータを構築した。さらに、[[1960年代]]半ばに始まる[[経済産業省]](当時)主体の大型プロジェクト超高性能電子計算機開発計画においては、[[IBM]]などの海外のコンピュータベンダに寄らない日本独自のコンピュータシステムを構築すべく、電機メーカに対し通産省の元でコンピュータシステムの開発を進めた<ref>『{{PDFlink|[https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/008.pdf オフィスコンピュータの歴史調査と技術の系統化に関する調査]}}』かはく技術史大系(技術の系統化調査報告書)情報処理学会第3集、産業技術史資料情報センター、2003年</ref><ref>山田祥平「[https://support.nec-lavie.jp/navigate/application/history/20120911/ NECパソコンの歴史]」</ref>。 ; [[1970年代]] : [[1973年]](昭和48年)、日本ではコンピュータの輸入自由化が決定された。IBMを初めとする海外メーカーに日本市場を席巻されると考えた通商産業省は国内コンピュータ業界の再編に乗り出し、当時6社あった国産コンピュータメーカーのうち[[東芝]]とNECを1つのグループとし、補助金を支給のうえ、各社に「IBM対抗機」を開発させた。この際に開発されたのが、メインフレーム[[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]]シリーズである。{{See|三大コンピューターグループ}} : [[1976年]]には[[ワンボードマイコン]]の[[TK-80]]、[[1979年]]には初期の[[パソコン]][[PC-8000シリーズ|PC-8001]]を発売した。 ; [[1980年代]] : それまでの[[メインフレーム|汎用機]]に加えて、[[ミニコンピュータ]]や[[オフィスコンピュータ]]のMSシリーズ/[[N5200]]シリーズといった小型サーバ機のカテゴリにも進出した。[[1985年]](昭和60年)には通産省主導の[[Σプロジェクト]]に参加し、[[EWS4800]]によるUNIX[[ワークステーション]]といったUNIX製品群においても、[[CAE-2D]]などを発売した。また、同年([[Cray-2]]がリリースされるまでのつかの間)[[スーパーコンピュータ]][[NEC SX|SX-2]]が世界最速のコンピュータとなった。さらに、[[1987年]]には家庭用ゲーム機の[[PCエンジン]]を発売した。 : NECのパソコンは[[1980年]]前半には日本国内を代表するブランドとなり<ref name="nikkei230128"/>、[[1987年]]には国内シェア9割を握った。世界シェアでも上位を占めていた<ref>[http://www.sanosemi.com/biztech/data/PC-World-share-1980-1991.html 世界のPC市場シェアの歴史的推移 1980-1991] - [[明治大学]]経営学部佐野研究室</ref>が、[[1990年代]]より海外市場でのシェアは低下していった<ref name="nikkei230128"/>。NECのPCは、[[Microsoft Windows|Windows]]以降の巨大な勢力である[[PC/AT互換機]]とも激しい競争を繰り広げ、日本メーカーでは最後まで独自規格を貫いたが、最終的には最後発となりながらも標準規格を採用した(なお、他の日本メーカーの規格は比較的早い段階で消えていった)。また、[[PC-9800シリーズ]]互換性で、産業用としての信頼性と耐環境性を備えたFC-98シリーズは[[ファクトリーコンピュータ]]という分野の開拓に貢献した<ref>{{Cite web|和書|url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1402/28/news012.html|title=工場にしなやかさをもたらす、産業用PCの真価とは|website=MONOist(産業用機器基礎解説)|author=原一郎|date=2014-02-28|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 ; [[1990年代]] : [[UNIX戦争]]の影響やその後の、Windows OSベースのサーバやワークステーションの躍進を受けての、国産UNIX市場の衰退により、自社独自開発のUNIX関連製品群を放棄、[[HP-UX]]の[[OEM]]への縮退に至った<ref>[https://h50146.www5.hpe.com/products/software/oe/hpux/developer/column/special.pdf NECが語る「HP-UXによる高可用システム構築] - 『HP-UX特別企画』[[ヒューレット・パッカード]](2005年11月)2022年4月9日閲覧。</ref>。[[1990年代]]後半に至ると、国内PC市場でのPC/AT互換機によるシェア浸食が進み、[[1997年]]には遂にPC98規格([[Wintel]]が策定したもの)に準拠した[[PC98-NXシリーズ|PC-98NX]]を発売し、営々と築き上げた独自規格を断念した<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0308/07/njbt_03.html|title=NEC「PC-9800シリーズ」ついに受注打ち切り|newspaper=ITmediaニュース|date=2003-08-07|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 ; [[2000年代]] : [[個人]]向けPC事業においては、長らく日本電気本体(一時期は[[日本電気ホームエレクトロニクス|新日本電気]]も含まれていた)が[[事業]]を統括して、傘下の生産[[子会社]](NEC米沢・NEC群馬・NEC新潟・日本電気データ機器)で製造を行う形を取っていた。しかし、[[2001年]](平成13年)10月に製造をNECカスタムテクニカ、個人向け([[VALUESTAR]]・[[LaVie]])の販売をNECカスタマックスに統合再編し、さらに[[2003年]](平成15年)7月、この2社が合併したNECパーソナルプロダクツが個人向けの事業を行い、企業向け([[Mate (デスクトップパソコン)|Mate]]・[[VersaPro]])についてはNECパーソナルプロダクツで製造、販売は日本電気(NEC)本体が担当した[http://www.necp.co.jp/company/history/]{{リンク切れ|date=2022-04}}。[[2009年]](平成21年)には海外のパソコン事業から撤退、国内専業に甘んじる状態となった<ref name="nikkei230128"/>。サーバービジネスにおいても、2000年代より急速に普及した[[クラウドコンピューティング|パブリッククラウド]]というビジネス形態でアメリカの企業に独走を許すことになった。 ; [[2010年代]]以降 : [[2011年]]、[[NECパーソナルコンピュータ]]は[[レノボ]]傘下のNECレノボ・ジャパングループ入りすることとなった。[[2004年]]よりの[[Itanium]]系サーバの展開は[[2012年]]をもって終了した。さらに、[[2015年]]には[[オフィスコンピュータ]]の製造より撤退した。保守サポートは[[2023年]]まで継続する。[[2017年]]より、海外勢より遅れを取っていた、サーバーとストレージを統合した[[ハイパーコンヴァージド・インフラストラクチャ|ハイパーコンバージド]](HCI)型の製品を発売している<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/17/101902470/ |title=NECが新Xeon搭載PCサーバーを拡充、ハイパーコンバージド製品も|newspaper=日経XTECH|author=高橋秀和|date=2017-10-19|accessdate=2022-04-09}}</ref>。PCに関しては、往年の圧倒的シェアはないものの、レノボと合弁で国内シェアでトップを維持している。 ==== スーパーコンピュータ(HPCサーバ) ==== * UNI系 ** [[SXシリーズ]]([[ベクトル計算機|ベクトル型]][[スーパーコンピュータ]]) ** [https://jpn.nec.com/hpc/lx/index.html LXシリーズ]([[スカラー計算機|スカラー型]]) ** 特注機 *** [[地球シミュレータ]] ==== サーバ ==== * エンタープライズサーバ ** NX7700xシリーズ([[SAP HANA]]向けアプライアンスサーバ「NEC High-Performance Appliance for SAP HANA」含む)<ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35063432/ |title=NECとEMC、SAP HANA環境の運用を支援|newspaper=ZDNet Japan|date=2015-04-20|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jpn.nec.com/sap/infrastructure/hana.html |title=SAP HANA向けアプライアンスサーバ「NEC High-Performance Appliance for SAP HANA」 |publisher=NEC |accessdate=2017-04-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160410035322/http://jpn.nec.com/sap/infrastructure/hana.html |archivedate=2016-04-10}}</ref> * [[メインフレーム]] ** ACOS-2シリーズ ** ACOS-4シリーズ ** ACOS-6シリーズ * [[DIPS (コンピュータ)|DIPS]]系メインフレーム ** NEDIPS(NTTへのOEM) * [[PCサーバ]] ** [[Express5800]]シリーズ * 統合プラットフォーム(NEC Solution Platforms) ** Cloud Platform Suite ** Data Platform Suite ** Application Platform Suite <!-- * 生産終了機 過去の製品へ移動 --> ==== ストレージ ==== * iStorage ==== ワークステーション・ファクトリコンピュータ ==== * [[ワークステーション]] ** Express5800/50シリーズ * [[シンクライアント]] ** USシリーズ * [[ファクトリコンピュータ]] ** [[FC98-NXシリーズ]] ** [https://jpn.nec.com/fc/fcnote_series.html? ShieldPROシリーズ] ** [[FC-NOTE|FC-NOTEシリーズ]] ** [[NBCシリーズ]](ボードコンピュータ) ==== POS ==== * TWINPOSシリーズ : 初期TWIN-POSにはMS-DOSを使用するシリーズもあった ==== ロボット ==== * [[PaPeRo]] === 人工衛星・宇宙探査機 === {{see also|NECスペーステクノロジー}}(旧・NEC東芝スペースシステム) [[1956年]](昭和31年)に[[東京大学]]に[[ロケット]]用[[テレメトリ]]送受信装置を納入したのが始まり。[[2001年]]に東芝航空宇宙システム事業部と日本電気宇宙開発事業部が各社から分離し、NEC東芝スペースシステムとして統合された。[[2007年]]に日本電気に再び宇宙システム事業部が新設され、以降宇宙システム事業部は人工衛星および地上システムの開発・製造を担当し、NECスペーステクノロジー(旧NEC東芝スペースシステム)は主に搭載機器の開発や製造を担当している。人工衛星・宇宙探査機の開発実績は以下の通りである(「[[日本の宇宙機の一覧|日本の宇宙機一覧]]」も参照) * 運用が終了した宇宙機 ** 人工衛星「[[おおすみ]]」(日本初の[[人工衛星]]) ** 技術試験衛星「[[たんせい]]」 ** [[ひまわり5号]](気象衛星)までの「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」シリーズ全機種 ** 「ゆり」シリーズ [[ゆり2号a]]、[[ゆり2号b]]、[[ゆり3号a]]、[[ゆり3号b]] ** ハレー彗星探査機「[[すいせい]]」(英文名:PLANET-A) ** 磁気圏観測衛星「[[あけぼの (人工衛星)|あけぼの]]」(英文名:EXOS-D) ** 工学実験衛星「[[ひてん]]」(英文名:MUSES-A) ** 太陽観測衛星「[[ようこう]]」(英文名:SOLAR-A) ** 磁気圏尾部観測衛星「[[GEOTAIL]]」 ** X線天文衛星「[[あすか (人工衛星)|あすか]]」(英文名:ASTRO-D) ** 電波天文衛星「[[はるか (人工衛星)|はるか]]」(英文名:MUSES-B) ** 火星探査機「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」(英文名:PLANET-B) ** 小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」(英文名:MUSES-C) ** X線天文衛星「[[すざく]]」(英文名:ASTRO-EII) ** 赤外線天文衛星「[[あかり (人工衛星)|あかり]]」(英文名:ASTRO-F) ** 月周回衛星「[[かぐや]](日本の[[昔話]]「[[竹取物語]]」にちなむ)」(英文名:SELENE、[[ギリシア神話]]の月の[[女神]]) ** X線天文衛星「[[ひとみ (人工衛星)|ひとみ]]」(英文名:ASTRO-H) ** 光衛星間通信実験衛星「[[きらり (人工衛星)|きらり]]」(英文名:OICETS) ** 陸域観測技術衛星「[[だいち]]」(英文名:ALOS) ** 超高速[[インターネット]]衛星「[[きずな (人工衛星)|きずな]]」(英文名:WINDS)  ほか * 現在運用中の宇宙機 ** 金星探査機「[[あかつき (探査機)|あかつき]]」(英文名:PLANET-C) ** 小型ソーラー電力セイル実証機「[[IKAROS]]」 ** 惑星分光観測衛星「[[ひさき]]」(英文名:SPRINT-A) ** 小惑星探査機「[[はやぶさ2]]」 ** ジオスペース探査衛星「[[あらせ]]」(英文名:ERG) ** 水星磁気圏探査機「[[ベピ・コロンボ|みお]]」(英文名:MMO) ** [[国際宇宙ステーション]]実験棟「[[きぼう]]」(英文名:JEM)ロボットアーム、衛星間通信システム、各種試験装置、オペレーション・コントロール・システムの開発 ** [[温室効果ガス]]観測技術衛星「[[いぶき (人工衛星)|いぶき]]」(英文名:GOSAT)温室効果ガス観測センサの開発 ** 気候変動観測衛星「[[地球環境変動観測ミッション#GCOM-C1|しきさい]]」(英文名:GCOM-C1) ** 水循環変動観測衛星「[[地球環境変動観測ミッション#GCOM-W1|しずく]]」(英文名:GCOM-W1) ** 地球観測衛星「[[ASNARO|ASNARO-1]]」、「[[ASNARO|ASNARO-2]]」 ** X線分光撮像衛星「[[X線分光撮像衛星|XRISM]]」  ほか * 開発中の宇宙機 ** 地球観測衛星「[[LOTUSat-1]]」 ** 深宇宙探査技術実証機「[[DESTINY+]]」  ほか === ソフトウェア === NECのパッケージソフトは、そのほとんどが企業システム向けである。特に、[[ミドルウェア]]に強い。下記ソフトウェア以外に業種(医療、製造業など)に特化したパッケージソフトの開発、販売も行っている。事業部ごとに企業向けパッケージソフトを販売しており、例えば医療ソリューション事業部では電子カルテの販売を行っている。多くの製品は多重下請けにより開発されている。<ref>{{Cite web |title=NTTデータ・NECが震撼、日本のソフト開発費が「安過ぎ」て海外下請けが脱走 |url=https://diamond.jp/articles/-/278146 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2021-08-11 |access-date=2023-12-15 |language=ja}}</ref> * [[コンピュータ・クラスター|高可用性]]ソフト [[CLUSTERPRO]] * [[アプリケーションサーバ|サービス実行基盤]] [[WebOTX]] * [[トランザクションモニター]] * 統合運用管理ソフト [[WebSAM]] * 情報管理ソフト [[InfoFrame]] * [[グループウェア]] [[StarOffice]] * [[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]対策ソフト [[InfoCage]] * [[企業資源計画|ERP]]パッケージ [[EXPLANNER]] * [[統合開発環境]] [[SystemDirector]] * その他 ** [[在庫管理|WMS]]パッケージ ** [[CAD]]/[[PLM]]/[[製品情報管理|PDM]] ** [[地理情報システム|GIS]] ** 科学技術計算ソフト([[データマイニング]]ソフト、[[高性能計算|HPC]][[数値計算]]ソフト) ** [[ビッグデータ]]分析 === 通信・ネットワーク機器 === 大部分が社内カンパニー制時代はNECネットワークスの事業分野だが、AtermやスピークスなどはNECソリューションズの商品だった。 * オフィスソリューション ** [[UNIVERGEソリューション]] * [[ルーター]] ** [[IXシリーズ]] ** [[COMSTARZシリーズ]] * [[電話交換機]] ** APEXシリーズ ** SV7000([[PASSAGE DUPLE]]等IP電話用[[Session Initiation Protocol|SIPサーバ]]) ** NEAX61(海外向けが多い) ** NEAX61Σ(国内NCC向けが多い) * [[マルチメディア多重化装置|MMM]] * [[ターミナルアダプタ|TA]] ** [[Aterm|Atermシリーズ]] ** [[DATAX]] * マイクロ波・ミリ波通信装置 ** [[PASOLINK]] * [[RFID]] * [[光トランシーバ]] 無線・通信関係に関しては、かつて日本陸軍の無線・通信設備を一手に引き受けていた。陸軍の無線機は電力供給がままならない状況を想定していたため、日本の低い工業技術力を背景にしながらある程度実用になったことで知られている(特に[[軍用機]]用)。一方で、[[日本無線]]が独占していた日本海軍の無線機は通じないことで有名だった。 超小型マイクロ波/ミリ波通信装置Pasolinkシリーズは、海外の主要オペレータを中心に販売を広げており、[[2007年]]度(平成19年度)から3年連続で世界シェア第1位を記録している。しかし[[2010年代]]半ばになると、中国の[[華為技術]](ファーウェイ)が同様の製品で低価格攻勢をかけ、NECやスウェーデンの[[エリクソン]]のシェアは奪われている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29939530X20C18A4X20000/?n_cid=SPTMG002|title=NEC、赤字の無線通信機器 撤退も視野|newspaper=日本経済新聞|date=2018-04-27| accessdate=2022-04-09}}</ref>。 === 放送機器 === {{出典の明記|date= 2015年7月7日 (火) 20:40 (UTC)|section= 1}} 社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。 従来はテレビカメラからマスター機器、送信機器まで製作から送信まで一貫したラインナップを誇っていたが、現在は、[[テレビ局]]の[[主調整室|テレビマスター装置]](NECでは「APS装置」と呼ぶ)、[[CMバンクシステム]]、中継器及び送信機を製造しており、多くの放送局に納入実績がある。最近では、デジタル放送システムを納入している<ref>{{Cite news|url=https://japan.zdnet.com/article/35179544/|title=テレビ東京系列4局、NECの次世代IPマスターシステムを採用|newspaper=ZDNet Japan|date=2021-11-17|accessdate=2022-04-09}}</ref>。また、ラジオマスター装置も製造している。 マスター装置の系列局・放送波毎の納入状況は次の通りである。 * [[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]] [[NHK放送センター|渋谷放送センター]](地上波・BS・国際放送<ref>NHKオンライン「NHKデジタル」のNHKの放送技術2012「世界に向けて発信」より</ref> とも)と全ての[[日本放送協会放送局の一覧|地方局]] * [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列局 [[中部日本放送|CBC]]・[[毎日放送|MBS]] * {{要出典範囲|[[日本ニュースネットワーク|NNN]]系列局 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と過半数の局([[札幌テレビ放送|STV]]、[[山形放送|YBC]]など)|date= 2017年6月}} * {{要出典範囲|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系列局 過半数の系列局([[青森朝日放送|ABA]]、[[東日本放送|KHB]]、[[新潟テレビ21|UX]]など。[[朝日放送グループホールディングス|ABC]]はラジオでも当社のマスターを納入しているが、地上波テレビ放送と一体型になっている。)|date= 2017年6月}} * {{要出典範囲|[[TXNネットワーク|TXN]]系列局 [[テレビ東京]]・[[テレビ大阪|TVO]](デジタル)・[[テレビせとうち|TSC]]|date= 2017年6月}} * {{要出典範囲|[[フジニュースネットワーク|FNN]]系列局 [[東海テレビ放送|THK]]・[[サガテレビ|STS]]・[[テレビ熊本|TKU]]・[[テレビ宮崎|UMK]](NNN・ANNクロスネット)・[[鹿児島テレビ放送|KTS]]|date= 2017年6月}} * {{要出典範囲|[[全国独立放送協議会|独立U局]]系 [[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]・[[テレビ埼玉|テレ玉]]・[[千葉テレビ放送|チバテレ]]・[[テレビ神奈川|tvk]]・[[群馬テレビ]]・[[とちぎテレビ]]・[[岐阜放送|ぎふチャン]]|date= 2017年6月}} * {{要出典範囲|民放BSデジタル [[BS-TBS]](旧・BS-i。TBS放送センター内に設置)・[[BSテレビ東京]](旧・BSジャパン。テレビ東京本社内に設置)・[[グリーンチャンネル]]|date= 2017年6月}} * CS放送(かきかけ) * AMラジオ局(単営局 かきかけ) * FMラジオ局(コミュニティー放送以外)(かきかけ) その他の放送局へのマスター納入状況は次の通りである。 * {{要出典範囲|短波ラジオ放送局の[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]|date= 2017年6月}} * イギリス[[英国放送協会|BBC]]([[世界]]初となる[[DVB-T|DVB-T2]]方式の送信機を近年から納入している) ミリ波(60GHz帯)ブロードバンドトランシーバ(伝送装置): * BB.LiNK === 周辺機器 === * [[FAX]]・[[複合機]] ** スピークス ** MULTINA ** NEFAX ** NetSpart * [[プロジェクタ]] * [[プリンター]] * [[生体認証|生体認証システム]] ** [[指紋認証|指紋認証システム]] * [[光学文字認識|OCRシステム]] * [[電子黒板]] === エネルギーコンポーネント === * [[蓄電池]] * [[HEMS]] * [[電気自動車|EV]]・[[プラグインハイブリッド自動車|PHV]]充電インフラ === ソリューションサービス === 市販製品や特注のハードウェア、ソフトウェアを組み合わせる[[システムインテグレーション]]を行う。また、[[ロボット]]のシステムインテグレーション事業も行う<ref>{{Cite news|url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1902/04/news048.html|title=NECが協働ロボットのインテグレーターに、「匠」によるライン設計が違いを生む|newspaper=MONOist|author=朴尚洙|date=2019-02-04|accessdate=2022-04-09}}</ref>。主に以下の業界向けのソリューションサービスを提供している。 * [[地方公共団体]] * 教育機関/国立研究機関 * 医療・ヘルスケア、介護、福祉 * 製造業 * 通信業 * 建設業・不動産業 * 流通業・サービス業 * 金融機関 * 卸売・小売業、飲食店 * メディア業 * 農業・ライフサイエンス * 宇宙システム == 分社/子会社化した部門の製品 == === 分社化 === ==== NECの半導体の歴史 ==== NECは[[1947年]]からマイクロ波通信用の[[半導体レーザー]]の研究に着手していた。[[1958年]]には新しい事業として半導体開発部がスタートした。1960年代には[[集積回路]](IC)の事業化へとこぎつけた<ref>[https://www.shmj.or.jp/dev_story/nec.html NECの半導体開発ものがたり] - 日本半導体歴史館</ref>。海外にも進出し、1983年には英国女王の臨席を得てNECスコットランドの開所式を行い{{Sfn|長船|1987|p=116-117}}、それに先立つ1978年には米国シリコンバレーで{{仮リンク|エレクトロニック・アレーズ9002|en|Electronic Arrays 9002}}を開発したエレクトロニック・アレーズを買収{{Sfn|長船|1987|p=126}}、また、ブラジル、シンガポールにも進出した{{Sfn|長船|1987|p=117-119}}。[[1980年代]]には「日の丸半導体」の一角を担い、[[記憶装置|メモリ]]、[[プロセッサ]]などで世界上位にあり、多大な利益を上げていた([[1985年]]から[[1991年]]まで売上世界首位<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20180114021354/https://www.sankeibiz.jp/business/news/180105/bsk1801051122002-n1.htm|title=サムスン、半導体で初首位 25年ぶり、インテル陥落 日本勢最高は8位東芝|newspaper=Sankei Biz|date=2018-01-05|accessdate=2022-04-09}}</ref>)。 しかし、貿易摩擦や、東アジアにおいて日本製製造装置を輸入して完成品の半導体を製造するサムスンなどの韓国や台湾の半導体企業群の隆盛による価格下落の影響で利益を上げることが難しくなった。<!--メモリはロジック回路と異なり、製造プロセスが各社ともにほぼ同様となるため、製造装置を大量に安価に運営できる会社が強くなる。-->更に[[1990年代]]に入ると委託生産のため上記のアジア諸国メーカーへの積極的な技術供与も行われていて、先端品に近い半導体の製造技術まで流れることとなった。業況悪化を受け、まずメモリ部門を[[2000年]]に[[日立製作所]]との合弁という形でNEC日立メモリ(現・エルピーダ→[[マイクロンメモリジャパン]])として、原点であるマイクロ波半導体を含む[[化合物半導体]]部門は[[2001年]]にNEC化合物デバイス([[2006年]]に後述のNECエレクトロニクスと合併)として分社、続いて集積回路部門も[[2002年]]にNECエレクトロニクス(現・[[ルネサスエレクトロニクス]])として分社化した。いずれの企業もその後、経営危機に伴う出資比率の変更に伴い、NECの関連会社から離れることになった。半導体事業が斜陽化した点については、選択と集中を進められなかったことが原因として指摘されている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXDZO59008300Y3A820C1EA1000/|title=「選択と集中」が分けた半導体産業の明暗|newspaper=日本経済新聞|date=2013-08-28|accessdate=2022-04-09}}</ref>。 ==== 集積回路(IC) ==== {{main|ルネサスエレクトロニクス}} : (旧・NECエレクトロニクス) : [[2013年]]9月30日に、ルネサスエレクトロニクスが第三者割当増資をおこなったためNECの保有比率が低下して[[持分法]]適用対象外となり、NECの関連会社からはずれた。 * 各種カスタム[[集積回路|LSI]] * AV用システムLSI ** EMMAシリーズ * [[マイクロプロセッサ]]・[[マイクロコントローラ]] ** [[μCOMシリーズ]] ** [[NEC Vシリーズ|Vシリーズ]] ** 78Kシリーズ([[78K0]]、[[78K0S]]、78K0R、78K4など) ** VRシリーズ([[MIPSアーキテクチャ]]) *** VR12000 [[R10000]] *** VR10000 *** VR8000{{要出典 |date=2023-01-12}} [[R8000]] <!-- R8000 は東芝などが開発したものでは? --> *** VR5000 [[R5000]] *** VR4000 [[R4000]] *** VR3000 [[R3000]] *** 等 ** [[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]]シリーズ用 *** NOAHシリーズ * [[データフロー]]プロセッサ ** ImPP μPD7281<ref>{{Citenews |url=http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi704.htm |title=非ノイマン型データ駆動プロセッサImPPの開発 (NEC) |publisher=shmj.or.jp |date=2010-10-16 |accessdate=2020-09-26 }}</ref> * {{仮リンク|フロッピーディスクコントローラ|en|Floppy-disk controller}} ** FDC μPD765<ref>{{cite web |url=http://www.bitsavers.org/components/nec/_dataSheets/uPD765_Data_Sheet_Dec78.pdf |title=µPD765 SINGLE/DOUBLE DENSITY FLOPPY DISK CONTROLLER |date=December 1978 |publisher=NEC |access-date=January 12, 2023}}</ref> ==== メモリ ==== {{main|マイクロンメモリジャパン}} : (旧・NEC日立メモリ) [[2000年]](平成12年)に[[日立製作所]]のメモリ関連事業部と統合し、新会社「エルピーダメモリ」に移行した。その後、エルピーダは外部から開発および工場更新の資金を調達し、三菱電機のメモリ事業部門を買収したため、NECの出資比率は日立などに次いで3位となった。こうして持分法の対象以下の比率となり、NECの関連会社からははずれることとなった。 [[2013年]]7月31日には、[[マイクロン・テクノロジー]]からの増資を受け、エルピーダはマイクロンの完全子会社となり、2014年2月28日に「マイクロンメモリジャパン」と名称変更された。 ==== 有機ELディスプレイ ==== {{main|サムスンSDI}} : (旧・サムスンNECモバイルディスプレイ) [[2001年]](平成13年)1月に韓国の[[ブラウン管]]メーカー[[サムスンSDI]](旧・サムスンNEC)と[[合弁会社]]「サムスンNECモバイルディスプレイ」を同国に設立して、NECエレクトロンデバイスが保有するカラー[[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]]ディスプレイ技術と基本特許、日本内の事業拠点などを共有。NECは2004年(平成16年)に有機ELなどの次世代ディスプレイ事業から撤退を決め、有機EL特許と合弁会社の全株式をサムスンに譲渡している<ref>{{Cite web|title=NEC: Press Release 2000/12/06-01|url=http://www.nec.co.jp/press/ja/0012/0601.html|website=www.nec.co.jp|accessdate=2020-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=NEC、有機ELディスプレイ事業から撤退|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040227/nec.htm|website=av.watch.impress.co.jp|accessdate=2020-12-03}}</ref>。元・合弁会社はその後「サムスンOLED」→「サムスンモバイルディスプレイ」となって、[[2012年]]からは[[サムスン電子]]の[[S-LCD]]と統合され「サムスンディスプレイ」の有機EL事業部になっている。 ==== 電子部品 ==== {{main|トーキン}} : (旧・NECトーキン) [[コンデンサ]]、[[継電器|リレー]]、[[RFID]]タグ・リーダ/ライタ、各種[[センサ]]等のデバイス製品を生産しているNECの子会社だったが、[[2017年]]4月19日にKEMET Corporationへと売却された。 ==== 液晶ディスプレイ ==== {{main|Tianma Japan}} : (旧・NEC液晶テクノロジー) [[1989年]](平成元年)に発足したカラー液晶推進開発本部(後に事業部)の分社型会社分割により、2003年(平成15年)4月1日に[[NEC液晶テクノロジー]]を設立する。この会社は[[液晶ディスプレイ]]事業を担う。2011年(平成23年)2月25日、NEC液晶テクノロジーの株式の70%を中国の液晶大手である[[天馬微電子]]のグループに売却すると発表した<ref>[http://www.nec.co.jp/press/ja/1102/2502.html 2011年2月25日付NECプレスリリース]</ref>。 2011年(平成23年)7月1日、NECと深圳中航光電子との合弁企業となり、NLTテクノロジーへと商号を変更した。2016年(平成28年)には天馬微電子の完全子会社となり、2017年(平成29年)7月1日、Tianma Japanへと[[改称|商号変更]]している。 ==== インターネットサービスプロバイダ ==== {{main|BIGLOBE}} : (旧・NECビッグローブ) 2006年(平成18年)7月3日に、NECの一部門だったBIGLOBE事業本部を[[NECビッグローブ]]として分離、独立させた。 [[2014年]]3月末にNECは保有していた株式を[[日本産業パートナーズ]]に売却し、4月1日付で当社は[[NECグループ]]を離脱するとともに、社名を「ビッグローブ」に変更した。 ==== 照明 ==== {{main|ホタルクス}} [[1950年]](昭和25年)に日本電気のラジオ事業部で[[蛍光ランプ]]を試作したのが始まり、清算された[[日本電気ホームエレクトロニクス]]から引き継いだ事業。[[1970年代]]にはアメリカの管球・照明器具メーカー、シルバニア(現在は[[オスラム]]傘下)との合弁会社「日本電気シルバニア株式会社」が展開していた。現在ランプ類を製造している水口工場は全国でも有数の規模を誇る管球工場であり一般ユーザー向け商品(下記の2製品が代表例)のほか特殊用途向け蛍光ランプのOEM生産も比率が高くなっている。 [[2019年]]4月に日本みらいキャピタル(東京・千代田)が[[出資]]する[[ホタルクス]]に事業を譲渡<ref>[http://www.nelt.co.jp/corporate/press/2019-03-06.html 2019年4月1日付け、会社分割法による事業承継について] - NECライティング、[[2019年]]3月6日</ref>。 * [[ホタルック]]:消灯後もしばらく光り続ける蛍光灯。阪神・淡路大震災の教訓を基に開発された。 * ライフルック ==== パソコン ==== [[2011年]](平成23年)[[1月27日]]、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分社化し、[[レノボ]]とともに「レノボNECホールディングス(Lenovo NEC Holding B.V.)」という持株会社を設立すると発表した。NEC 49%、レノボ 51%の出資比率で同年7月1日に発足し、その100%子会社として、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分離した新会社[[NECパーソナルコンピュータ]]および既存のレノボ・ジャパンが独立して設置された<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A9C93819499E2E7E2E2978DE2E7E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E2|title=レノボNEC始動、「圧倒的シェア」実現へのシナリオ|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2011-07-05|accessdate=2023-09-21|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110709025131/https://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A9C93819499E2E7E2E2978DE2E7E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E2|archivedate=2011-07-09}}</ref>。こうして、長らくNECおよびその関連企業によって行われてきたPCの製造は、NECパーソナルコンピュータに移管された<ref group="注釈">レノボNECホールディングスはNECの[[持分法]]適用会社であるが、その子会社であるNECパーソナルコンピュータは関連企業の範囲外となる。</ref>。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、個人向け([[VALUESTAR]]・[[LaVie]])および企業向け([[Mate (デスクトップパソコン)|Mate]]・[[VersaPro]])についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気(NEC)本体が販売を担っている。レノボとともにNECのブランドも残る。しかしながらこの合弁は、NECにとっては実質的なパソコン事業の売却であるとも理解され<ref name="nikkei230128">今こそ選択と集中が求められるNEC 『日本経済新聞』 [[2011年]](平成23年)1月28日 社説</ref>、統合から5年後に、レノボ側が合弁会社の全株式取得権をNECの同意があれば行使できる事が明らかにされた<ref>[https://web.archive.org/web/20110131163610/http://www.asahi.com/business/update/0129/TKY201101290114.html レノボに合弁会社の全株取得権 NECの同意が前提] - asahi.com [[2011年]](平成23年)1月29日([[2011年]](平成23年)1月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 その後、[[2014年]]10月7日にNECとレノボは事業統合契約を更新し、従来「[[2016年]]の時点でレノボが全株式取得が可能」とされていた点については、期限を[[2018年]]までに延長した上で以降は[[2026年]]まで自動更新されることとなり、かつレノボがNECの保有する株式を買い取って出資比率を66.6%まで引き上げる(NEC側は議決権を確保可能な33.4%)ことを可能とする条項が追加された<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/gyokai/673142.html レノボ・ジャパンを取り巻く3つの変化の狙いとは?] - 大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」PC Watch、[[2014年]]10月27日</ref>。[[2016年]]7月1日、NECはこの条項に沿って自社の持つ普通株式の9割をレノボに譲渡し、代わりに新たに発行される劣後株式を引き受けることで、議決権確保可能な33.4%まで出資比率を引き下げることを発表した<ref name="nec160701">[https://jpn.nec.com/press/201607/20160701_01.html 持分法適用関連会社株式の一部譲渡に伴う譲渡益の計上に関するお知らせ] - NECプレスリリース([[2016年]]7月1日)</ref><ref name="nkp160701">{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ01HXZ_R00C16A7TJC000/ |title=NEC、レノボにパソコン合弁株を一部売却 インフラ事業強化|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2016-07-01|accessdate=2016-07-05}}</ref>。この譲渡に伴いNECは200億円の売却益を[[2017年]]3月期に計上した<ref name="nec160701"/>。売却益は社会インフラ部門への投資に使われるのではないかと報じられている<ref name="nkp160701"/>。 [[2017年]]11月、[[富士通]]および[[富士通クライアントコンピューティング]]がレノボと合弁会社を立ち上げることを正式発表した際は同様の体制をとるNECとの競合を懸念する声があがったが、NECは「NECの強みである顔認証技術などで差別化できる」とする見解を示した<ref>{{Cite news |url=https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/special/1090007.html|title=どうなる富士通の法人向けPC――、“競合”NECと同じLenovo傘下での差別化ポイントは?|newspaper=クラウド Watch|date=2017-11-07|accessdate=2017-12-15}}</ref>。 ビジネスPC: * [[Mate (デスクトップパソコン)|Mate]] * [[VersaPro]] パソコン・タブレット: [[Image:VersaPRO VA23C NEC.jpg|thumb|200px|VersaPRO VA23C [[1998年]]]] [[NECのパーソナルコンピュータ一覧|NECのパソコン一覧]]も[[参照 (書誌学)|参照]]のこと。 * [[PC98-NXシリーズ]] ** [[LAVIE|LAVIEシリーズ]] ** ハローキティ ノートPC(ハローキティ誕生30周年限定モデル) === 子会社化 === ==== 携帯電話 ==== [[画像:V601N c.jpg|thumb|250px|日本初のアナログTV受信可能携帯電話 [[V601N]]<BR />左側起動画面、右側TV受信画面 [[2004年]]]] 社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。NECネットワークス唯一の一般向け事業分野でもあった。 ほとんど[[NTTドコモ]]向けだが、[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]にも旧・デジタルフォン・[[デジタルツーカー]]時代から端末を提供していた。また、かつては[[ツーカー]]グループ・[[DDIセルラーグループ]](のちの[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]] / [[沖縄セルラー電話]]))にも供給していたこともあった。日本における折たたみ(二つ折り)式端末のパイオニアで、[[2001年]]のNTTドコモ503iシリーズで[[N503i]]が流行したことから他社も折畳化するきっかけとなり、2000年代前半はトップシェアを誇った。 また、NECと[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ]](松下通信工業)は、[[第三世代携帯電話]]向けの端末・技術を[[コラボレーション|共同]]で開発していた。 なお、ドコモ向けのデータ通信用端末は日本電気本体が手がけていたが、[[ウィルコム]]と[[イー・モバイル]]向けデータ通信用端末は[[NECインフロンティア]]が、[[UQコミュニケーションズ]]向けデータ通信用端末は[[NECアクセステクニカ]]がそれぞれ手がけている。 2010年(平成22年)より、[[カシオ計算機]]と[[日立製作所]]の合弁会社[[カシオ日立モバイルコミュニケーションズ]]と経営統合し、携帯電話端末事業はNECカシオ モバイルコミュニケーションズとして統合された(実際の移行スキームは、NEC本体からの部門譲受が同年[[5月1日]]付、次いで同年[[6月1日]]付でカシオ日立を吸収合併し、以降のカシオブランド端末の販売開始と同時に、日立ブランドを含む保守部門を継承)。統合後もNECブランドとして携帯電話を供給する。 [[2013年]]7月に、スマートフォンの新規開発を中止し在庫分のみを以って販売を終了した<ref name="chushi">{{Cite web|和書|url=https://jpn.nec.com/press/201307/20130731_02.html|title=携帯電話端末事業の見直しについて|publisher=NECプレスリリース|date=2013-07-31|accessdate=2013-07-31}}</ref>。ただし、スマートフォンの修理等の保守業務、および[[フィーチャーフォン]](従来型携帯電話)の開発、製造、販売は継続している。 さらに[[2013年]]12月には、カシオと日立が保有する全株式をNECが買い取ることが発表され、NECの完全子会社に戻った<ref name="soshikihen">{{Cite web|和書|url=http://www.nec-casio-mobile.co.jp/news/press/1312/131201.html |title=NECカシオモバイルコミュニケーションズ社の経営体制変更について |publisher=NECカシオモバイルコミュニケーションズ |accessdate=2014-04-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140719134243/http://www.nec-casio-mobile.co.jp/news/press/1312/131201.html |archivedate=2014-07-19}}</ref>。2014年10月1日に[[NECモバイルコミュニケーションズ]]に商号変更している。 しかし[[2015年]][[12月25日]]、同社の携帯電話端末事業を[[2016年]]3月1日付で親会社のNECに事業譲渡することを発表した。これまでの同事業の段階的縮小に伴い「独立会社として運営するには非効率な事業規模となった」ことを踏まえての決定と説明している<ref name="minaoshi">{{Cite press release|和書|title=携帯電話端末事業の体制見直しについて|author= |agency=|publisher=日本電気株式会社|date=2015-12-25 |url=https://jpn.nec.com/press/201512/20151225_02.html|accessdate=2015-12-26}}</ref><ref>{{cite news |title=NECモバイルのケータイ事業、NEC本体に譲渡|author= |agency=ケータイWatch|publisher=インプレス|date=2015-12-25 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/737091.html|accessdate=2015-12-26}}</ref>。 そして[[2016年]]2月29日、NECはNECモバイルコミュニケーションズを同年3月24日付で解散・NEC本体に回帰するとともに同社に対する1012億円の債権を放棄することを発表した<ref name="itmedia_2016_02_29"/>。 <!-- CMキャラクターは、[[玉木宏]]([[2007年]]頃から)と[[橋本麗香]]([[2008年]]頃から)である(NTTドコモのみ。後者が加わってからは2人で共演)。 --> * NTTドコモ向け Nシリーズ * ソフトバンク向け Nシリーズ {{see also|NECの携帯電話一覧}} == 過去の製品 == これらの製品はすべて生産終了している。 === マイコン === * [[TK-80]] * [[TK-80BS]] * [[COMPO BS]] === LSI === * [[NEC Vシリーズ|Vシリーズ]] === サーバ === * [[EWS4800]]シリーズ(生産終了) * [[UP4800]]シリーズ(受注停止) * N6300シリーズ(生産終了) * [[N5200]]シリーズ(生産終了) * N7200(生産終了) * N6850(生産終了) * [[System3100]]シリーズ * [[System7100]]シリーズ * FTシリーズ(提供終了) * PO-POSシリーズ(生産終了) * NX7000シリーズ * NX7700i * CX5000シリーズ(SUNからのOEM) * シグマグリッド * シグマブレード * TX7シリーズ === パソコン === * [[PC-8000シリーズ]] * [[PC-8200シリーズ]] * [[PC-8800シリーズ]] * [[PC-6000シリーズ|PC-6000]]/[[PC-6600シリーズ|6600シリーズ]] * [[PC-100]]シリーズ * [[PC-9800シリーズ]] * [[PC-9821シリーズ]] * [[VALUESTAR|VALUESTARシリーズ]] * [[ValueOne|ValueOneシリーズ]] * BASIC言語 ** [[N-BASIC]] ** N60-BASIC/N66-BASIC ** N82-BASIC ** [[N88-BASIC]] ** N100-BASIC === オフコン === * [https://jpn.nec.com/pcserver/index.html Express5800/600シリーズ] * Express5800/700シリーズ === クラウド端末 === * クラウドコミュニケーター ** [[LifeTouch]] - [[Android (オペレーティングシステム)|android]] OS 2.1搭載のタブレット型端末 ** [[LifeTouch NOTE]] - android OS 2.2を搭載した[[スマートブック]] === 携帯情報端末(PDA) === * [[モバイルギア]] * [[モバイルギア#モバイルギアをベースにしたモデル|シグマリオン]]([[NTTドコモ]]へのOEM供給) * [[ポケットギア]] === ワープロ専用機 === * [[文豪]]シリーズ === 家庭用ゲーム機 === * [[PCエンジン]] ** [[PCエンジンシャトル]] ** [[PCエンジンコアグラフィックス]] ** PCエンジンコアグラフィックスII ** [[PCエンジンGT]] ** [[PCエンジンLT]] * [[PCエンジンスーパーグラフィックス]] * [[CD-ROM²]] ** [[SUPER CD-ROM²]] * [[PCエンジンDuo]] ** PCエンジンDuo-R ** PCエンジンDuo-RX * [[PC-FX]] === デジタルビデオレコーダー === * [[Giga Station]]([[MVDISC]]) === サービス === * [[BIGLOBE]]([[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]) == 研究・特許 == * [[カーボンナノチューブ]] - [[飯島澄男]](当時・NEC筑波研究所、現・NEC特別主席研究員) * [[量子コンピュータ]] - [[量子ビット]]による論理回路の開発、[[量子アニーリング]]素子の開発 ** 世界初の[[超電導]][[量子回路]]万能ゲートの開発(回転ゲートと制御NOTゲート<ref>[https://qforum.org/topics/interview10 会員インタビュー 日本電気株式会社システムプラットフォーム研究所 山本剛 量子分野の未来はハードウェアの再評価と異業種連携にかかっている] - 量子ICTフォーラム</ref>)- [[中村泰信]](当時・NEC基礎研究所主任、現・NEC中央研究所主任研究員) * 飛翔体の推進装置(特許第 2936858号) - [[サイエンス・フィクション|SF]]的な[[航法]]に関する内容が「[[UFO]]特許」として知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/201211/jpaapatent201211_075-085.pdf |title=知財ワールドへのいざない |format=PDF |accessdate=2013-10-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305142330/http://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/201211/jpaapatent201211_075-085.pdf |archivedate=2016-03-05}}</ref>。 == 製造・研究拠点 == NECの組織は論理的にはビジネスユニット-事業本部-事業部の階層構造をとっている(研究所はビジネスユニット上の階層をR&Dユニットと位置づけている)。これとは別に、物理的な所在地として下記の事業場・研究所がある。 === 事業場 === * 本社地区(旧・三田事業場含む)([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]):NECスーパータワー以外にも[[田町駅]]周辺の多くの[[オフィスビル|ビル]]に入居しており、「NEC村」と呼ばれる。 * 玉川事業場([[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]]下沼部):通信機器生産および研究開発 * 府中事業場(東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]日新町)宇宙開発事業部:コンピュータおよび通信機器生産 * 相模原事業場(神奈川県[[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]下九沢):研究開発 * 我孫子事業場([[千葉県]][[我孫子市]][[日の出 (我孫子市)|日の出]]):通信機器生産 === 研究所 === [[ファイル:YRPNEC.jpg|thumb|250px|YRP技術センター]] * 中央研究所:ただし所在地としての中央研究所([[神奈川県]][[川崎市]][[宮前区]])は既に廃止されており、現在は田町事業場および玉川事業場の中にある。 * 筑波研究所([[茨城県]][[つくば市]][[御幸が丘]]) * 関西研究所([[奈良県]][[生駒市]][[高山町 (生駒市)|高山町]]) * 関西デバイス研究所([[滋賀県]][[大津市]]) * 相模原研究所(神奈川県相模原市中央区下九沢) * YRP技術センター(神奈川県[[横須賀市]][[横須賀リサーチパーク]]内):第3世代、第4世代携帯電話の研究開発 == 関連会社 == {{main|NECグループ}} == 広告・販売推進 == === スポーツ大会のスポンサリング === * [[日本ゴルフ協会]](JGAオフィシャルスポンサー) * [[NEC軽井沢72ゴルフトーナメント]]([[1992年]]から毎年8月にNECグループの主催により行われている女子プロ[[ゴルフ]][[トーナメント方式|トーナメント]]) * [[NEC車いすテニスツアー]] * [[NEC車いすテニスマスターズ]] * [[東京ヴェルディバレーボールチーム]] - ユニフォームスポンサー * [[延岡西日本マラソン]] - [[2008年]](第46回)より大会のメインスポンサーで、[[セイコーホールディングス|セイコーグループ]]と協力して[[経営学|運営]]・[[記録]]システムを提供 * [[福岡国際マラソン]] - [[2012年]](第66回)大会より[[マイナビ]]と共に協賛 * [[1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー|1992年パリ-モスクワ-北京マラソンレイド]] - メインスポンサー * [[2020年東京オリンピック]] - ゴールドパートナー(原則1業種1社に限定される国内最高位のスポンサー<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK40175_Z10C15A2000000/|title=NEC、東京五輪の国内最高位スポンサーに|newspaper=日本経済新聞|date=2015-02-19|accessdate=2022-04-09}}</ref>) === スポーツチーム運営、選手のスポンサリング === * [[NECレッドロケッツ]](女子バレー部、[[日本バレーボールリーグ機構|Vリーグ]]) * [[NECグリーンロケッツ東葛]](ラグビー部、[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]) * 所属選手 ** [[福嶋晃子]](女子プロ[[ゴルフ]]選手) ** [[原江里菜]](女子プロゴルフ選手) * 過去スポンサーしていたチーム ** [[NECブルーロケッツ]](男子バレー部、Vリーグ、[[2009年]]休部) ** [[NECパープルロケッツ]](女子バスケット部、[[バスケットボール女子日本リーグ機構|日本リーグ]]、[[1997年]]廃部) ** [[NECファルコンズ]](アメリカンフットボール部、[[1996年]]廃部) ** [[モンテディオ山形]](元・[[ソニーセミコンダクタ山形テクノロジーセンター|NEC山形]]サッカー部、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ・J1]]=[[2009年]]までNECのロゴをユニホームに掲出) ** [[エヴァートンFC]](英[[プレミアリーグ]]、[[1985年]] - [[1995年]]メインスポンサー) <ref>[https://qoly.jp/2019/03/03/everton-fc-nec-sponsor-kits-lfb-1 日本企業との10年間!エヴァートン「NECスポンサー」ユニフォームを見る]</ref> ** [[ザウバー|ザウバー・モータースポーツ・AG]](プレミアムパートナー、[[2011年]] - [[2018年]])<ref>{{Cite news|url=https://f1-gate.com/sauber/f1_11183.html|title=ザウバー、NECとのスポンサー契約を正式発表|newspaper=F1-Gate.com|date=2011-03-24|accessdate=2022-04-09}}</ref> ** [[レーシング・ポイント|スポーツペサ・レーシング・ポイントF1チーム]](かつての[[フォース・インディア]]、プレミアムICTパートナー、[[2015年]] - [[2019年]])<ref>{{Cite news|url=https://f1sokuho.mopita.com/free/index.php?page=news/sp/body&no=88432 |title=NEC、Fインディアとのスポンサー契約を正式発表|newspaper=F1速報|date=2015-03-14|accessdate=2022-04-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://formula1-data.com/article/nec-ends-sponsorship-of-racing-point-f1-team|title=NEC、レーシング・ポイントF1チームへの協賛を終了…5年に渡る関係に終止符|newspaper=FOMURA1 DATA |date=2020-01-06|accessdate=2022-04-09}}</ref> * 過去所属していた選手 ** [[山下訓史]]([[陸上競技]]、[[三段跳|三段跳び]]日本記録保持者) ** [[増田明美]](陸上競技([[マラソン]])、[[1986年]] - [[1992年]]所属) ** [[和田正人]](陸上競技(長距離)、現・俳優) ** [[浅越しのぶ]](プロ[[テニス]]選手、[[2006年]][[引退]]) ** [[清水宏保]]([[1994年リレハンメルオリンピック|リレハンメルオリンピック]] - [[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]]代表[[スピードスケート]]選手、[[1998年]]4月 - [[2008年]]3月所属) ** [[吉冨桂子]]([[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]代表女子バドミントン選手、旧・九州日本電気所属、現・[[ルネサス セミコンダクタ パッケージ&テスト ソリューションズ|ルネサスSKY]]コーチ) ** [[末綱聡子]]([[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]代表女子[[バドミントン]]選手、旧・NEC SKY所属、現・ルネサスSKY所属、[[2010年]]4月所属会社のグループ離脱) ** [[前田美順]](北京オリンピック代表女子バドミントン選手、旧・NEC SKY所属、現・ルネサスSKY所属、[[2010年]]4月所属会社のグループ離脱) ** [[宮田諭]](バスケットボール選手、NEC勤務の傍ら[[横浜エクセレンス|エクセレンス]]に所属していた) チーム、選手や大会スポンサード以外でのスポーツとの関わりとして、[[オートポリス]]([[大分県]])を1993年から1995年まで運営した株式会社大分阿蘇レーシングパークの出資者(4社の1つ)だったことがある<ref>「[https://books.google.co.jp/books?id=rt0wEAAAQBAJ&pg=PA204&lpg=PA204&dq=%E5%A4%A7%E5%88%86%E3%80%80%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9+NEC&source=bl&ots=iO070GKcg4&sig=ACfU3U3lCz74o4gvwqtWhwvERoTx1vLAPQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiazbq98YX3AhXlqVYBHQRVDREQ6AF6BAhAEAM#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E5%88%86%E3%80%80%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%20NEC&f=false Ken's Talk]」『RIDERS CLUB』1995年12月号</ref>。 === CM === [[男性]]だけでなく、[[女性]]や[[高齢者]]を含めた一般の人々にNECの[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・[[ワープロ]]を訴求する手段として、[[1991年]]11月から、佐藤雅彦考案のCMキャラクター「[[バザールでござーる]]」を用いた。また、CMキャラクターとして[[デジタル所さん]]を起用したこともある。 [[2011年]]4月から[[2014年]]6月までは、CM最後の[[サウンドロゴ]]に当社製のロボット・[[PaPeRo]]と子役女優の[[谷花音]]を登場させた。 == 提供番組 == 提供クレジットは、少なくとも[[1991年]]ごろまで「'''NEC日本電気グループ'''」(家電製品の[[コマーシャルメッセージ|CM]]を提供するときには「'''新日本電気'''」(のちに「日本電気ホームエレクトロニクス」。現在は[[日本電気ホームエレクトロニクス#業務承継会社|業態ごとに分社化(テレビ、家庭パソコンなど一部撤退あり)]])としたものがある)としていたが、CIを一新した[[1992年]]以後は正式社名を略した「'''NEC'''(グループ)」で統一している。2020年4月以降は全国ネットでのテレビ番組でレギュラー提供をおこなっていないため、特別番組での提供のみとなる。 === 現在 === * [[NEC軽井沢72ゴルフトーナメント]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列 大会冠協賛・主催者。一部の住友グループ数社他と共同提供) * [[ダンロップフェニックストーナメント]]([[毎日放送|MBS]]・[[宮崎放送]]共同制作・[[TBSテレビ|TBS]]系列、[[2001年]] - [[2003年]]・[[2006年]] - [[2007年]]・[[2018年]]・[[2019年]] -。30秒×2本。ただし[[2018年]]度は3日目のみ) * [[TOTOジャパンクラシック]]([[2019年]]・2021年。30秒×2本。) * ケーブルナビゲーション〔[[シー・ティー・ワイ|CTY(三重県四日市市のケーブルテレビ局)]]。複数提供〕 * [[Business Link]]([[テレビ神奈川]]) * [[BEAT COASTER]]([[新潟県民エフエム放送|FM PORT]]・16:55の「'''FM PORT Weather'''」のみ) * [[東海ラジオ ガッツナイター|ガッツナイター]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) * [[銀シャリ橋本の○○WORLD]]([[eo光チャンネル]]) ==== 過去 ==== ===== 日本テレビ系列 ===== * [[あすの世界と日本]] * [[それは秘密です!!]](「TIME21」の移行により降板) * [[NTTアワー TIME21|TIME21]](冠スポンサー) * [[スーパーテレビ情報最前線]](冠スポンサー、1991年4月から1992年3月は300秒、1992年4月から1993年3月は370秒、1993年4月から1995年9月まで並び1996年1月から3月は120秒、1996年4月から2001年9月は90秒、2001年10月から番組終了まで60秒) * [[アンテナ22]] * [[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!|新装開店!SHOW by ショーバイ2]] → [[速報!歌の大辞テン]](60秒、1996年4月 - 1998年3月) * [[ザ!世界仰天ニュース]](2006年4月 - 2009年3月) * [[真相報道 バンキシャ!]] * [[金曜ロードショー]]([[2009年]]4月 - [[2011年]]9月)<ref group="注釈">「ザ!世界仰天ニュース」から移動。</ref> * [[news zero]](月曜日のみ) [[2020年]]3月まで ほか ===== TBS系列 ===== * TBS制作 ** [[筑紫哲也 NEWS23]](隔日) <!-- 提供時期がわかる方執筆お願いします --> ** [[うたばん]] ** [[JNNイブニング・ニュース]](土曜のみ) ** [[JNN報道特集]] ** [[報道特集 (TBS)|報道特集NEXT]] ** [[悪魔の契約にサイン]] * MBS制作 ** [[野生の王国]](腸捻転解消後のTBS系列の冠スポンサー=一時は1社単独協賛で「NECアワー」として放映。解消前は親会社の[[住友グループ]]の一員として協賛) ** [[中村敦夫の地球発22時|地球発19時]] ** [[新ビーグル号探検記]] ** [[北緯35度の風]] ** [[ダウトをさがせ!]]→[[オレたちのオーレ!]] ** [[ジャングルTV 〜タモリの法則〜]](1994年4月から1999年9月) ** [[リアルタイム (情報番組)|リアルタイム]] ** [[サタモニ!]] ** [[知っとこ!]](番組開始 - [[2010年]]3月27日放送分まで) ** [[サンデーモーニング]]([[TBSテレビ|TBS]]系列) - [[2018年]]3月25日放送分を最後に一時降板<ref group="注釈">同枠の後継には[[ハズキルーペ]]が60秒新規。</ref>。 ** [[となりのマエストロ]](4月4日のTBS制作「歴史がくつがえる!?ナスカの地上絵に巨大ピラミッドが…」の特番より) ** [[EXILE魂]] ** [[日10☆演芸パレード|日10☆演芸パレード→エンパレ]] ** [[ホムカミ〜ニッポン大好き外国人 世界の村に里帰り〜]] ** [[さまぁ〜ずの世界のすげぇにツイテッタ〜]] ** [[林先生が驚く初耳学!]]([[毎日放送|MBS]]制作・[[TBSテレビ|TBS]]系列) - [[2018年]]3月25日の2時間スペシャルを最後に一時撤退。番組は引き続き継続中。 ** [[甦るマヤ・1989〜失われた大神殿の謎〜]]([[1989年]]9月24日) ** [[甦るマヤ・1990〜密林に眠る大王を探して〜]]([[1990年]]9月2日) ** [[TOTOジャパンクラシック]]([[2019年]]) * [[BS-TBS]](旧:BS-i)制作 ** [[ザ・ベストホテル]] ワールドセレクション<!-- 提供時期がわかる方執筆お願いします --> ===== テレビ朝日系列 ===== * [[NECサンデー劇場]] * [[欽ちゃんのどこまでやるの!?]] * [[宇宙船サジタリウス]](PT) * [[アニメ80日間世界一周]] * [[テスト・ザ・ネイション]](協賛も兼ねていた) * [[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜]] * [[いきなり!黄金伝説]] * [[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]] * [[クイズ雑学王]]([[2009年]]10月7日の「[[シルシルミシル]]ゴールデン3時間スペシャル」より[[※]] 「[[相棒]]8」のスペシャル提供時も同様 〜 [[2010年]]3月31日の「シルシルミシルゴールデン春の3時間スペシャル」をもって降板。→[[2010年]]4月より報道ステーションの[[水曜日]]提供へ戻る) * 報道ステーション(金曜日放送分は2010年4月から2014年3月まで、水曜日放送分は2020年3月まで並び2020年10月から2021年3月まで) * [[日曜エンターテインメント]](当初は60秒。[[2014年]]10月より30秒) [[2013年]]4月 - [[2015年]]9月 ===== フジテレビ系列 ===== * [[一千万人の劇場]] * [[土曜劇場]](120秒) * [[ゴールデン洋画劇場]] * [[FNNニュース]](土曜深夜のみ) * [[ユアタイム]] ===== テレビ東京 ===== * [[空から日本を見てみよう]]([[2009年]]12月までの一時期提供。→[[2010年]]4月よりガイアの夜明けに出戻る) * [[日経スペシャル ガイアの夜明け]](2010年4月から2014年3月まで、一時提供降板時期あり。その後復帰も「Crossroad」に提供枠移転に伴い再び降板。番組は今も継続中。) * [[ミライダネ!|NEC Presents ミライダネ!]](テレビ東京系列) - [[2017年]]4月1日 〜 [[2018年]]3月31日<ref group="注釈">当番組終了後提供枠は「[[ドラマBiz]]」+不定期番組提供へ移動。</ref> * [[岡本綾子のNECスーパーゴルフ]](1社提供だったが末期は同社を含む複数社提供となった) * [[BB-WAVE.tv 〜勝利の方程式〜]](1社提供) * [[Crossroad (テレビ番組)|NEC presents Crossroad]](・一社提供→[[2016年]]10月1日放送からは当社を筆頭とした複数社提供となった) * [[ドラマBiz]] ===== 全国独立放送協議会 ===== * [[tvkニュース930α]]([[テレビ神奈川]]・火曜日のみ) * キラりん滋賀([[びわ湖放送]]・月曜日のみ) - びわ湖放送の地元である滋賀県内にNECの工場(当時は[[関西日本電気]]、現在の[[ルネサスエレクトロニクス]])があった縁から提供されていたものと思われる。当該番組終了とともに降板。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 | last= 長船 | first= 廣衛 | title= 半導体のあゆみ | year=1987 | date=1987-6-30 | publisher=C&C文庫|isbn = 4-930916-27-5|ref={{Sfnref|長船|1987}}}} == 関連項目 == * 製品・サービス ** [[らくらく無線スタート]] * [[施設]] ** [[NEC玉川ルネッサンスシティ]] ** [[OBPキャッスルタワー]] * 出身人物 ** [[瀬川晶司]] - [[将棋]]の[[棋士 (将棋)|プロ棋士]]。[[ワイイーシーソリューションズ]]で勤務しNEC将棋部に在籍していた。 ** [[吉住渉]] - 入社前から漫画家だったが、退職し専業となった。 * [[その他]] ** [[NEC社会起業塾]] ** [[象印クイズ ヒントでピント|象印クイズヒントでピント]]‐ テレビ朝日系列で放送されていたクイズ番組。[[モザイク処理]]を同社が開発し、[[テレビ番組]]で初めて採用された。 ** [[MBSメディアホールディングス|MBSメディアホールディングス(毎日放送)]] - [[会社#会社の定義|設立]]以来の大株主で、現在も第6位の大株主。そのため上記の通り同局製作番組に提供番組が多い。 ** [[ららぽーと横浜]]・[[パークシティLaLa横浜]] - 旧・横浜事業場跡地。 ** [[向河原駅]] - 玉川ルネッサンスシティ最寄り駅。[[1940年]]から[[1944年]]までの駅名は「'''日本電気前'''」だった。 ** [[偽NEC事件]] == 外部リンク == {{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=no|commons=Category:NEC|n=no|v=no|species=no|d=Q219203}} * {{Official websites |https://jpn.nec.com/|日本 |https://www.nec.com/|英語 }} {{NEC Group}} {{住友グループ}} {{JOCオフィシャルスポンサー(2015-2020)}} {{学術・文化・産業ネットワーク多摩}} {{グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員}} {{Normdaten}}<!-- |WKP=Q219203 --> {{DEFAULTSORT:につほんてんき}} [[Category:日本電気|*]] [[Category:NECグループ|*]] [[Category:住友グループ]] [[Category:コンピュータハードウエア企業]] [[Category:日本のコンピュータ企業]] [[Category:日本の電気機器メーカー]] [[Category:日本の携帯電話メーカー]] [[Category:ソリューションサービス業]] [[Category:日本の情報・通信業|器]] [[Category:日本の映像機器メーカー]] [[Category:日本の軍需産業]] [[Category:ケーブルテレビ]] [[Category:放送システム|業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1949年上場の企業]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:外資系発祥の日本企業]] [[Category:1899年設立の企業]] [[Category:東京都港区の企業]] [[Category:日経平均株価]] [[Category:芝 (東京都港区)]]
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氷(冰、こおり)とは、固体の状態にある水のこと。 なお、天文学では宇宙空間に存在する一酸化炭素や二酸化炭素、メタンなど水以外の低分子物質の固体をも氷(誤解を避けるためには「○○の氷」)と呼ぶこともある。また惑星科学では、天王星や海王星の内部に存在する高温高密度の水や、アンモニアの液体のことを氷と呼ぶことがある。さらに日常語でも、固体の二酸化炭素をドライアイスと呼ぶ。 この記事では、水の固体を扱う。 氷には、河川や湖水の冬季に氷結した物を切り出して保存・利用する「天然氷」と、機械によって製造される「人造氷」とがある。 長らく人類は天然氷のみを利用してきたが、19世紀、科学技術の発達により人造氷が現れると、衛生面・コストの点で天然氷の利用は主流ではなくなった。 我々は打ち水をすれば気温が下がることを知っているが、これは水が気化する際に熱を奪う(気化熱)ことによって起こる。機械による製氷も気化熱による冷却と同様の原理が利用される。 1748年、手回し式の減圧装置を用いることによるジエチルエーテルの気化熱を利用した製氷をスコットランドのウィリアム・カレンが行ったのが人造氷のはじまりとされる 1834年には、エーテルを利用したコンプレッサー式製氷機の特許がアメリカのジェイコブ・パーキンスによって取られている 日本では、明治以降に外国人居留地で小規模な製氷が行われるようになり、1883年(明治16年)東京製氷株式会社が設立されている(当初の製氷能力は、一日当たり6t)。 氷は冷却剤として以下の優れた性質を持っている。 以上の性質から主に使い捨ての冷却剤として、極めて広範な用途で使用されている。 人為的に冷却効果を得る技術が登場するまで、氷自身が唯一の冷却材であったため、冬季や寒冷地にて得られた天然氷を融かさないよう保管する努力が講じられた。保管方法として、地下や洞窟の奥などに空間を作り、冷却効果を得ようと大量に氷を保管した。また、断熱効果を得るためオガクズなども用いられた。 日本ではこれを氷室(ひむろ)、英語ではアイスハウスと呼ぶ。歴史的には紀元前1780年頃のメソポタミア北部のテルカで使われた記録がある。 昨今では、冬に降った大量の氷雪を保管しておいて夏期の冷房に利用しようとする試みや、気温が低く電力需要も少ない(そのため電力料金も安くなる)夜間に製氷しておき、昼間の冷房に役立てようとするサービスなどが普及しつつある。 日本において、冬以外に氷で冷やした飲み物が飲めるようになるのは、明治になってからになる。中川嘉兵衛という実業家が、明治4年、北海道・函館市で初めて天然氷の採氷事業に成功したことに始まる。嘉兵衛はまず、富士山の山麓に500坪の採氷池を掘り、そこから約2000個の天然氷を得ることに成功する。しかしこの氷は、江尻港(静岡市)までの8里(約31km)は馬で、その後は帆船を借りて一般貨物の2倍の運賃で横浜まで運んだものの、横浜到着時には全て溶けて水になってしまっていた。この後2年間休業したのち、諏訪湖、日光、釜山、青森からと、毎年場所を変えて氷を採り、横浜へと運搬したがいずれも失敗に終わった。しかし、嘉兵衛は諦めることなく、函館に渡り、6回目の採氷に挑戦した。この年は温暖であったため、僅かな氷しか採れず、250トンの氷を横浜に輸送することが出来たものの、採算は取れなかった。しかしこれに手応えを感じ、明治2年、函館の五稜郭の外濠を借り受け、亀田川の水を引き入れて7回目の採氷を行った。この7度目の挑戦にしてやっと事業が成功。明治5年(1872年)の『新聞雑誌』には、「製氷界の恩人――中川嘉兵衛」の見出しで、 と述べられ、その事業が称賛されている。これまで簡単に手に入れられなかった夏場の氷が、安く手に入るようになり、人々が夏場に冷たいものにふれる始まりになった。また明治7年(1874年)の『東京日日新聞』においても、函館の天然氷採取が取り上げられ、功績が称賛されている。 製氷事業は病人の熱さましとして、また暑い夏の飲食用として、人々に歓迎された。 1980年代から1990年代にかけて、飲食店で業務用の自動製氷機が普及したため、食用氷純氷を扱う業者は販売不振に陥っていた。しかし、2013年にコンビニエンスストアの挽きたてコーヒーが登場したことによって、再び食用氷の需要が上昇している。 近年のかき氷ブームによる需要でふわふわ感が楽しめる氷として、またウイスキーをオン・ザ・ロックで飲む際に用いられる、高品質でほとんど無味無臭の氷として、製氷工場で作られた純氷が求められるようになってきた。 1気圧の環境では、氷は0°C以上で溶解して水になり、水は0°C以下で凝固して氷になる。611.657Pa以下の気圧では、温度が上昇すると氷が水蒸気に昇華する。 氷、水、水蒸気は、611.657Paの圧力、273.16K(0.01°C)の三重点で共存することができる。 加圧下の多くの液体は、圧力が分子を固定することから高温でも凝固する。しかし、下図の100MPa周辺の水の場合は強い水素結合によって0°C以下で溶けている。この高圧下での氷の融解は、氷河の移動に寄与すると考えられている。 氷の結晶構造は、2021年現在20種の多形と、様々な密度の非晶質氷(英語版)が判明している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "氷(冰、こおり)とは、固体の状態にある水のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、天文学では宇宙空間に存在する一酸化炭素や二酸化炭素、メタンなど水以外の低分子物質の固体をも氷(誤解を避けるためには「○○の氷」)と呼ぶこともある。また惑星科学では、天王星や海王星の内部に存在する高温高密度の水や、アンモニアの液体のことを氷と呼ぶことがある。さらに日常語でも、固体の二酸化炭素をドライアイスと呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この記事では、水の固体を扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "氷には、河川や湖水の冬季に氷結した物を切り出して保存・利用する「天然氷」と、機械によって製造される「人造氷」とがある。 長らく人類は天然氷のみを利用してきたが、19世紀、科学技術の発達により人造氷が現れると、衛生面・コストの点で天然氷の利用は主流ではなくなった。", "title": "氷の製造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "我々は打ち水をすれば気温が下がることを知っているが、これは水が気化する際に熱を奪う(気化熱)ことによって起こる。機械による製氷も気化熱による冷却と同様の原理が利用される。", "title": "氷の製造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1748年、手回し式の減圧装置を用いることによるジエチルエーテルの気化熱を利用した製氷をスコットランドのウィリアム・カレンが行ったのが人造氷のはじまりとされる", "title": "氷の製造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1834年には、エーテルを利用したコンプレッサー式製氷機の特許がアメリカのジェイコブ・パーキンスによって取られている", "title": "氷の製造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では、明治以降に外国人居留地で小規模な製氷が行われるようになり、1883年(明治16年)東京製氷株式会社が設立されている(当初の製氷能力は、一日当たり6t)。", "title": "氷の製造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "氷は冷却剤として以下の優れた性質を持っている。", "title": "氷の利用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以上の性質から主に使い捨ての冷却剤として、極めて広範な用途で使用されている。", "title": "氷の利用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "人為的に冷却効果を得る技術が登場するまで、氷自身が唯一の冷却材であったため、冬季や寒冷地にて得られた天然氷を融かさないよう保管する努力が講じられた。保管方法として、地下や洞窟の奥などに空間を作り、冷却効果を得ようと大量に氷を保管した。また、断熱効果を得るためオガクズなども用いられた。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本ではこれを氷室(ひむろ)、英語ではアイスハウスと呼ぶ。歴史的には紀元前1780年頃のメソポタミア北部のテルカで使われた記録がある。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "昨今では、冬に降った大量の氷雪を保管しておいて夏期の冷房に利用しようとする試みや、気温が低く電力需要も少ない(そのため電力料金も安くなる)夜間に製氷しておき、昼間の冷房に役立てようとするサービスなどが普及しつつある。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本において、冬以外に氷で冷やした飲み物が飲めるようになるのは、明治になってからになる。中川嘉兵衛という実業家が、明治4年、北海道・函館市で初めて天然氷の採氷事業に成功したことに始まる。嘉兵衛はまず、富士山の山麓に500坪の採氷池を掘り、そこから約2000個の天然氷を得ることに成功する。しかしこの氷は、江尻港(静岡市)までの8里(約31km)は馬で、その後は帆船を借りて一般貨物の2倍の運賃で横浜まで運んだものの、横浜到着時には全て溶けて水になってしまっていた。この後2年間休業したのち、諏訪湖、日光、釜山、青森からと、毎年場所を変えて氷を採り、横浜へと運搬したがいずれも失敗に終わった。しかし、嘉兵衛は諦めることなく、函館に渡り、6回目の採氷に挑戦した。この年は温暖であったため、僅かな氷しか採れず、250トンの氷を横浜に輸送することが出来たものの、採算は取れなかった。しかしこれに手応えを感じ、明治2年、函館の五稜郭の外濠を借り受け、亀田川の水を引き入れて7回目の採氷を行った。この7度目の挑戦にしてやっと事業が成功。明治5年(1872年)の『新聞雑誌』には、「製氷界の恩人――中川嘉兵衛」の見出しで、", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "と述べられ、その事業が称賛されている。これまで簡単に手に入れられなかった夏場の氷が、安く手に入るようになり、人々が夏場に冷たいものにふれる始まりになった。また明治7年(1874年)の『東京日日新聞』においても、函館の天然氷採取が取り上げられ、功績が称賛されている。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "製氷事業は病人の熱さましとして、また暑い夏の飲食用として、人々に歓迎された。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1980年代から1990年代にかけて、飲食店で業務用の自動製氷機が普及したため、食用氷純氷を扱う業者は販売不振に陥っていた。しかし、2013年にコンビニエンスストアの挽きたてコーヒーが登場したことによって、再び食用氷の需要が上昇している。 近年のかき氷ブームによる需要でふわふわ感が楽しめる氷として、またウイスキーをオン・ザ・ロックで飲む際に用いられる、高品質でほとんど無味無臭の氷として、製氷工場で作られた純氷が求められるようになってきた。", "title": "氷利用の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1気圧の環境では、氷は0°C以上で溶解して水になり、水は0°C以下で凝固して氷になる。611.657Pa以下の気圧では、温度が上昇すると氷が水蒸気に昇華する。", "title": "相変化" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "氷、水、水蒸気は、611.657Paの圧力、273.16K(0.01°C)の三重点で共存することができる。", "title": "相変化" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "加圧下の多くの液体は、圧力が分子を固定することから高温でも凝固する。しかし、下図の100MPa周辺の水の場合は強い水素結合によって0°C以下で溶けている。この高圧下での氷の融解は、氷河の移動に寄与すると考えられている。", "title": "相変化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "氷の結晶構造は、2021年現在20種の多形と、様々な密度の非晶質氷(英語版)が判明している。", "title": "相変化" } ]
氷(冰、こおり)とは、固体の状態にある水のこと。 なお、天文学では宇宙空間に存在する一酸化炭素や二酸化炭素、メタンなど水以外の低分子物質の固体をも氷(誤解を避けるためには「○○の氷」)と呼ぶこともある。また惑星科学では、天王星や海王星の内部に存在する高温高密度の水や、アンモニアの液体のことを氷と呼ぶことがある。さらに日常語でも、固体の二酸化炭素をドライアイスと呼ぶ。 この記事では、水の固体を扱う。
{{Otheruses||「氷」という名称を持つ他の事項|氷 (曖昧さ回避)}}[[Image:Ice berg.jpg|thumb|280px|'''海氷''' 氷は水よりも密度が低いため、内部に水を残したまま、表面から[[氷結]]する。]] [[File:Katsuo Fudoson,Mt.Shibire 勝尾不動尊修験滝 神戸市北区淡河町 シビレ山 DSCF3051.JPG|thumb|280px|right|滝が凍結したもの([[シビレ山]]不動滝)。]] '''氷'''(冰、こおり)とは、[[固体]]の状態にある[[水]]のこと。 なお、[[天文学]]では[[宇宙空間]]に存在する[[一酸化炭素]]や[[二酸化炭素]]、[[メタン]]など水以外の[[低分子]][[物質]]の固体をも氷(誤解を避けるためには「○○の氷」)と呼ぶこともある。また惑星科学では、[[天王星]]や[[海王星]]の内部に存在する高温高密度の水や、[[アンモニア]]の液体のことを氷と呼ぶことがある。さらに日常語でも、固体の二酸化炭素を[[ドライアイス]]と呼ぶ。 この記事では、水の固体を扱う。 == 氷の特徴 == [[Image:Diag phase glace.png|thumb|300px|'''熱い氷''' 図は縦軸に温度(摂氏と絶対温度)、横軸に圧力 (GPa) を取った。1 GPa は大気圧の1万倍である。例えば、10 GPa では数百度という高温の氷VIIが存在することが読み取れる。]] ; 結晶 : 無色[[透明]](水以外の不純物や空気が混じらない場合)で、[[六方晶系]]の[[結晶]]を持つ。[[融点]]は通常の[[気圧]]で[[摂氏]]0度。ただし、圧力を変えることで[[相変化]]を起こし、結晶構造や物理的性質に差がある、様々な高圧相氷になることが知られている。この場合、我々が普段目にする「普通の」氷は「氷I」と呼ばれる。2021年現在、圧力が高い状態において氷IIから氷XIX(19)まで発見されている<ref name=XIXa>{{Cite journal | author1 = Yamane, Ryo | author2 = Komatsu, Kazuki | author3 = Gouchi, Jun | author4 = Uwatoko, Yoshiya | author5 = Machida, Shinichi | author6 = Hattori, Takanori | author7 = Ito, Hayate | author8 = Kagi, Hiroyuki | date = 2021-2-18 | title = Experimental evidence for the existence of a second partially-ordered phase of ice VI | journal = Nature Communications | pages = 1129 | volume = 12 | issue = 1 | issn = 2041-1723 | doi = 10.1038/s41467-021-21351-9}} </ref><ref name=XIXb>{{Cite press release | 和書 | title = 低温高圧下で新しい氷の相(氷XIX)を発見 | publisher = 東京大学大学院理学系研究科・理学部 | date = 2021-2-19 | url = https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/7238/ | accessdate = 2021-2-22 }} </ref>。特に、極めて高い圧力下では、[[水素結合]]が縮んで水分子の配列が変わる。このように様々な[[相]]が存在することを[[多形]]という。 ; 熱 : 氷は特異的に凝固熱、融解熱が大きい。例えば融解する時に、[[潜熱]]として1キログラムあたり約 80 k[[カロリー|cal]] (333.5 k[[ジュール|J]]) の[[熱]]を周囲から奪う。これは同量の水を0℃から80℃まで温めることができるほどの熱量である。[[雪]]を食べると体力を消耗するとして、寒地では(特に[[遭難]]時)禁忌とされている。また、氷表面の水分子は結合が不完全で[[ベアリング]]ボールのように転がりやすく、氷表面は滑りやすい。この現象は2018年5月に[[ドイツ]]の[[マックス・プランク研究所]]の永田勇樹らのグループによって解明された<ref>{{Cite journal|last=Weber|first=Bart|last2=Nagata|first2=Yuki|last3=Ketzetzi|first3=Stefania|last4=Tang|first4=Fujie|last5=Smit|first5=Wilbert J.|last6=Bakker|first6=Huib J.|last7=Backus|first7=Ellen H. G.|last8=Bonn|first8=Mischa|last9=Bonn|first9=Daniel|date=2018-06-07|title=Molecular Insight into the Slipperiness of Ice|url=https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.8b01188|journal=The Journal of Physical Chemistry Letters|volume=9|issue=11|pages=2838–2842|doi=10.1021/acs.jpclett.8b01188}}</ref><ref name="detazou191227">{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/チコちゃんに叱られる!/1325657 |title=チコちゃんに叱られる!「拡大版SP!イチョウ並木・氷の謎・イラスト一挙公開!」 |website=TVでた蔵 |publisher= |date=2019-12-27 |accessdate=2019-12-30}}</ref>。ー7℃でこの性質は最も強く現れ、[[スケート]]、[[スキー]]、[[カーリング]]、[[そり]]などはこの性質を活かしている。また、氷が溶け始めると逆に滑りにくくなる。従来、氷表面が滑る仕組みは圧力による[[界面]]の融解で説明されてきたが、[[ゾウ|象]]が氷上で[[ハイヒール]]を履いて立っても圧力は大幅に不足する。 ; 体積 : 通常気圧において凍る際は[[体積]]が約11分の1増加する。すなわち、[[比重]]が0.9168 と小さくなり、水に浮く。物質は温度が低くなるほど[[分子]]の振動が小さくなるため、通常であれば温度が低くなるほど[[密度]]は大きくなり、従って[[気相]]よりも[[液相]]のほうが密度が大きく、液相よりも[[固相]]のほうが密度が高い。このように固相の方が液相よりも密度が低い物質は非常に珍しい。これは液相の水分子が水素結合で強固に結びついており、固相の場合よりも分子間の距離が小さいことが原因である。<!-- [[湖]]、[[海]]で全ての水が凍らないのは、先行して凍った氷が断熱材となるため。--><!-- コメントアウトの理由はノートを参照 -->また、密閉された状態で凍ると周囲の物質を押し出し、時に破壊する。例えば岩の隙間に水が入り込んで氷になると、岩を破壊する。生物の細胞も凍結すると破壊され、生物の凍傷や凍死の原因となる。冬季の寒冷地では凍結による[[水道管]]の破裂を防ぐため、夜間は水抜栓を用いて水を冷気の及ばない地中に落とし、凍結を防ぐ。[[清涼飲料水]]類の缶にも「凍らせないでください」という注意書きが書かれている。[[水]]に溶けた[[炭酸]]は水が凍ると気体として追い出されてしまい、[[炭酸水]]を[[容器]]に入れて凍らせると[[爆発]]する危険がある。 ; 不純物 : 液体が固体になる時、溶解している物質は結晶構造に加わらずに濃縮される。[[冷蔵庫]]などで氷を作ると、内部に白く気泡が残されるのはこのためで、気泡中には、溶けていた[[空気]]([[二酸化炭素]]やその他不純物)が閉じ込められている。一方、透明な部分は不純物が少ない、純度が高い水になっている。透明な氷を作るためには、なるべく純粋な水をゆっくり凍らせる必要がある。一般に、一度[[煮沸]]して気体を追い出したり、大部分が凍結した段階で不純物が集まった水の部分を捨てたりするなどの方法が取られる(濃縮された方に用がある場合は、凍結濃縮法と呼ばれる)。 == 氷の製造 == {{seealso|冷蔵庫|製氷}} 氷には、河川や湖水の冬季に氷結した物を切り出して保存・利用する「[[天然氷]]」と、機械によって製造される「人造氷」とがある。 長らく人類は天然氷のみを利用してきたが、19世紀、科学技術の発達により人造氷が現れると、衛生面・コストの点で天然氷の利用は主流ではなくなった。 我々は[[打ち水]]をすれば気温が下がることを知っているが、これは水が気化する際に熱を奪う([[気化熱]])ことによって起こる。機械による製氷も気化熱による冷却と同様の原理が利用される。 [[1748年]]、手回し式の減圧装置を用いることによる[[ジエチルエーテル]]の気化熱を利用した製氷を[[スコットランド]]の[[ウィリアム・カレン]]が行ったのが人造氷のはじまりとされる<ref name="wired">{{Cite web|和書|url=http://wired.jp/2011/08/09/1850%E5%B9%B4%E3%81%AB%E8%A3%BD%E6%B0%B7%E6%A9%9F%E3%82%92%E7%99%BA%E6%98%8E%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BA%BA/|title= 製氷機を発明した人を動かした、熱い意志|publisher=WIRED Japan|accessdate=2016年2月5日}}</ref><ref name="jbpress">{{Cite web|和書|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44419?page=2|title=溶けゆく氷を使っていた大正・昭和の冷蔵庫 変わるキッチン(第15回)~冷やす(後篇)|accessdate=2016年2月5日}}</ref> [[1834年]]には、[[エーテル]]を利用した[[圧縮機|コンプレッサー]]式製氷機の特許がアメリカのジェイコブ・パーキンスによって取られている<ref name="wired" /><ref name="jbpress" /> [[日本]]では、[[明治]]以降に外国人居留地で小規模な製氷が行われるようになり、[[1883年]]([[明治]]16年)東京製氷株式会社が設立されている(当初の製氷能力は、一日当たり6t)。 == 氷の利用 == 氷は冷却剤として複数の優れた性質を持っている。 *融解熱が大きい - 氷の[[融解熱]]は333.5J/gとかなり大きく、少ない重量で効率的な冷却効果を得られる。 *融点が十分低く、かつ低過ぎない - [[融点]]が0度であるため0度未満まで冷却されにくく、冷却対象を[[凍結]]させにくい。[[細菌]]の繁殖を抑えつつ、[[細胞組織]]が[[水分]]の凍結によって破壊される事を回避出来るため、食品を冷却しても風味の変化を抑えられる。 *安全である - 上述の性質により人体に触れても凍結の危険性が低い。また、溶けても[[水]]であるため毒性物質とならず、清潔な水で作れば食品に直接触れる用途や直接的な食用にも使える。 *入手・処分が容易 - 水と家庭用[[冷凍庫]]程度の設備で製造出来るため、一般家庭でも入手が容易。近代以前でも[[雪]]や[[氷河]]など自然界の氷の利用が見られた。処分は溶けた水を捨てるだけでよい。 以上の性質から主に使い捨ての冷却剤として、極めて広範な用途で使用されている。 === 食用 === * [[かき氷]] * 飲用 - [[かち割り]]、氷水 * [[クラッシュドアイス]] - 清涼飲料水、[[カクテル]]、[[ウィスキー]]の冷却 === 冷却用 === * [[冷蔵庫]] - 初期の冷蔵庫は、単に断熱性のある筐体の天井部分に巨大な氷を詰めて冷やすだけのものであった。現在の[[アイスボックス]]に近く、定期的に氷屋から氷を届けてもらう必要があった。現在においても電気冷蔵庫に保存した場合、食材によっては特有の臭いがつく場合があり、氷冷蔵庫が用いられる例もある。 * 生鮮食品の鮮度維持 - 生鮮食品(特に魚介類)を輸送する際、梱包に砕いた氷を充填する。沿岸漁業では、漁船は船倉に砕いた氷を積んで出航するため、大きな漁港では岸壁に氷を送るコンベヤダクトが備えられている。 * 人体の冷却 - 発熱時などに'''氷枕'''(氷嚢)として冷却を行なう。 * [[アイシング (治療)|アイシング]] === その他 === * [[イグルー]]、[[かまくら]]などの住居や[[ホテル]]<ref group="注釈">[[星野リゾート トマム]](北海道[[占冠村]])が厳冬期に設営する。[https://www.asahi.com/articles/ASM1P3RPTM1PUQIP001.html 「クールな夢 見られそう」] 『[[朝日新聞]]』夕刊2019年1月22日(1面)2019年1月24日閲覧。</ref>。 * [[燃料]]の[[結着]]・[[成型]](例えば[[アルミニウム粉末]]を氷で固めた[[ALICE_(推進剤)|ALICE]][[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]) * [[氷像]]、氷による建築・装飾など。 * [[スケートリンク]] * [[トイレ]]の[[便器]] - 主に飲食店のトイレで小便器に置き、小便を冷やして臭気を抑える効果を持たせている(当然、本物の氷を定期的に補充しなければ無意味である)。 * 1973年、[[南極大陸]]で氷の桟橋([[:en:Ice pier|Ice pier]])が作られ利用された<ref>[http://antarcticsun.usap.gov/pastIssues/2005-2006/2006_01_08.pdf#page=3 "Unique ice pier provides harbor for ships,"] Antarctic Sun. 8 January 2006; McMurdo Station, Antarctica.</ref>。耐用年数は3〜5年で、寿命が来たら[[砕氷船]]に曳航されて除去される。 * 寒冷地では凍った湖や川などの上を道路や飛行場として利用し、臨時の鉄道も敷かれる<ref>Makkonen, L. (1994) "Ice and Construction". E & FN Spon, London. ISBN 0-203-62726-1</ref>([[レニングラード包囲戦]]、[[アラスカ鉄道]])。 * [[氷山空母]] - [[氷山]]で[[航空母艦]]を作る計画。 == 氷利用の歴史 == 人為的に冷却効果を得る技術が登場するまで、氷自身が唯一の冷却材であったため、冬季や寒冷地にて得られた[[天然氷]]を融かさないよう保管する努力が講じられた。保管方法として、地下や[[洞窟]]の奥などに空間を作り、冷却効果を得ようと大量に氷を保管した。また、断熱効果を得るため[[オガクズ]]なども用いられた。 [[日本]]ではこれを[[氷室]](ひむろ)、英語ではアイスハウスと呼ぶ。歴史的には紀元前1780年頃の[[メソポタミア]]北部の[[テルカ]]で使われた記録がある<ref>{{cite book|author=Stephanie Dalley|title=Mari and Karana: Two Old Babylonian Cities|url=https://books.google.com/books?id=_oTh51M5XF4C&pg=PA91|date=1 January 2002|publisher=Gorgias Press LLC|isbn=978-1-931956-02-4|page=91}}</ref>。 昨今では、[[冬]]に降った大量の氷雪を保管しておいて夏期の冷房に利用しようとする試みや、気温が低く電力需要も少ない(そのため電力料金も安くなる)夜間に[[製氷]]しておき、昼間の[[冷房]]に役立てようとするサービスなどが普及しつつある。 {{see also|氷貿易|en:Ice cutting}} === 函館氷 === {{see also|函館氷|ボストン氷}} 日本において、冬以外に氷で冷やした飲み物が飲めるようになるのは、[[明治]]になってからになる。[[中川嘉兵衛]]という実業家が、明治4年、[[北海道]]・[[函館市]]で初めて天然氷の採氷事業に成功したことに始まる。嘉兵衛はまず、[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]の山麓に500[[坪]]の採氷池を掘り、そこから約2000個の天然氷を得ることに成功する。しかしこの氷は、[[清水港|江尻港]]([[静岡市]])までの8里(約31km)は馬で、その後は[[帆船]]を借りて一般貨物の2倍の運賃で[[横浜市|横浜]]まで運んだものの、横浜到着時には全て溶けて水になってしまっていた。この後2年間休業したのち、[[諏訪湖]]、[[日光市|日光]]、[[釜山]]、[[青森県|青森]]からと、毎年場所を変えて氷を採り、横浜へと運搬したがいずれも失敗に終わった。しかし、嘉兵衛は諦めることなく、函館に渡り、6回目の採氷に挑戦した。この年は温暖であったため、僅かな氷しか採れず、250トンの氷を横浜に輸送することが出来たものの、採算は取れなかった。しかしこれに手応えを感じ、明治2年、函館の[[五稜郭]]の外濠を借り受け、亀田川の水を引き入れて7回目の採氷を行った。この7度目の挑戦にしてやっと事業が成功。明治5年(1872年)の『[[新聞雑誌]]』には、「製氷界の恩人――中川嘉兵衛」の見出しで、 {{cquote|昨夏横浜の氷会社より氷を売り出し、其価甚だ安く衆人の賞美大方ならず。(中略)文政天保の際に、奢侈を極めし貴人富豪と誰も知らざる所の一味を、一貧生にして飽まで消受すること、明代の余沢ならずや。}} と述べられ、その事業が称賛されている。これまで簡単に手に入れられなかった夏場の氷が、安く手に入るようになり、人々が夏場に冷たいものにふれる始まりになった。また明治7年(1874年)の『[[東京日日新聞]]』においても、函館の天然氷採取が取り上げられ、功績が称賛されている。 {{cquote|氷の世に大功ある事は、第一熱病には必要の薬品にて、氷室ありし以来、炎症を助けしこと少なからず。第二暑中人意を快くし、第三我国の一産物を開けり}} 製氷事業は病人の熱さましとして、また暑い夏の飲食用として、人々に歓迎された。 === 近年の需要動向 === 1980年代から1990年代にかけて、飲食店で業務用の自動製氷機が普及したため、食用氷[[純氷]]を扱う業者は販売不振に陥っていた<ref name="hokkaido-np-2014-8-7">{{Cite news | url = http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/555554.html | title = コンビニ「氷特需」 コーヒー用カップ入り増産、札幌の工場フル稼働 | newspaper = 『[[北海道新聞]]』 | publisher = 北海道新聞社 | date = 2014-8-7 }}</ref>。しかし、[[2013年]]に[[コンビニエンスストア]]の挽きたて[[コーヒー]]が登場したことによって、再び食用氷の需要が上昇している<ref name="hokkaido-np-2014-8-7"/>。 近年のかき氷ブームによる需要でふわふわ感が楽しめる氷として、また[[ウイスキー]]を[[オン・ザ・ロック]]で飲む際に用いられる、高品質でほとんど無味無臭の氷として、製氷工場で作られた[[純氷]]が求められるようになってきた。 == 自然界の氷 == [[画像:樹氷.jpg|thumb|260px|[[蔵王連峰]]の樹氷(山形県)]] [[File:Katsuo Fudoson,Mt.Shibire 勝尾不動尊修験滝 神戸市北区淡河町 シビレ山 DSCF3036.JPG|thumb|260px|right|滝の水滴が凍結して様々な造形を形作ることがある。]] === 大気中 === * [[雪]] * [[雹]](ひょう) * [[霰]](あられ) * [[霧氷]] * [[雨氷]] * [[細氷|ダイヤモンドダスト]] [[画像:Icicles Oshima-Ono.jpg|thumb|横に伸びた氷柱(北海道)]] === 地上 === * [[南極大陸]]、[[グリーンランド]]の[[氷床]] * [[氷河]] * [[氷柱]](つらら) * [[氷筍]] * [[霜]](しも) * [[霜柱]] === 海上 === * [[海氷]] * [[氷山]] * [[流氷]] * [[棚氷]] * [[いかり氷]] * [[氷舌]] * [[氷脚]] === 地球外 === * [[彗星]] * [[火星]]の[[極冠]] * [[氷衛星]] * [[土星の環]] * [[天王星型惑星]]の[[マントル]] * [[太陽系外縁天体]] == 相変化 == 1気圧の環境では、氷は0℃以上で溶解して水になり、水は0℃以下で凝固して氷になる。611.657Pa以下の気圧では、温度が上昇すると氷が水蒸気に昇華する。 氷、水、水蒸気は、611.657Paの圧力、273.16K(0.01℃)の[[三重点]]で共存することができる<ref>[http://www.nist.gov/srd/upload/jpcrd477.pdf International Equations for the Pressure along the Melting and along the Sublimation Curve of Ordinary Water Substance] W. Wagner, A. Saul and A. Pruss (1994), J. Phys. Chem. Ref. Data, '''23''', 515.</ref><ref>[http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1256/qj.04.94/abstract? Review of the vapour pressures of ice and supercooled water for atmospheric applications.] D. M. Murphy and T. Koop (2005) Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, '''131''', 1539.</ref>。 加圧下の多くの液体は、圧力が分子を固定することから高温でも凝固する。しかし、下図の100MPa周辺の水の場合は強い[[水素結合]]によって0℃以下で溶けている。この高圧下での氷の融解は、氷河の移動に寄与すると考えられている<ref>National Snow and Data Ice Center, [http://nsidc.org/cryosphere/glaciers/life-glacier.html "The Life of a Glacier"]</ref>。 氷の結晶構造は、2021年現在20種の多形と<ref name=XIXa/><ref name=XIXb/>、様々な密度の{{仮リンク|非晶質氷|en|Amorphous ice}}が判明している。 [[File:Phase diagram of water.svg|thumb|725px|centre|[[対数線形図]] 水の圧力―温度[[相図]]。青いSolid部が氷。[[ローマ数字]]が氷の多形を示す。]] ; 非晶質氷 : 非晶質氷(またはアモルファス氷)は分子配列の[[長距離秩序]]が無い[[アモルファス]]状態の氷の事である。非晶質氷は密度によって3つの形態に分けられる。大気圧で形成された低密度非晶質氷(LDA)や、より高い圧力で形成された高密度非晶質氷(HDA)および超高密度非晶質氷(VHDA)である。 : 宇宙空間では、地球上で最も優勢な六方晶系の氷は非常にまれで、非晶質氷が一般的である。しかし、火山活動によって六方晶系の氷が形成される可能性がある<ref>{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2004/12/09/science/09ice.html|title=Astronomers Contemplate Icy Volcanoes in Far Places|author=Chang, Kenneth |work=The New York Times|date=9 December 2004|accessdate=30 July 2012}}</ref>。 ; 氷の多形 {{main|en:Ice#Phases}} : 一般的な六方晶系の氷である[[氷Ih相]]を始め、[[氷Ic相]]、[[氷II]]、[[氷III]]、[[氷IV]]、[[氷V]]、[[氷VI]]、[[氷VII]]、[[氷VIII]]、[[氷IX]]、[[氷X]]、[[氷XI]]、[[氷XII]]、[[氷XIII]]、[[氷XIV]]、[[氷XV]]、[[氷XVI]]、[[氷XVII]]、[[氷XVIII]]、[[氷XIX]]の20種が発見されている。2018年にはダイヤモンド中に氷VIIが発見され、このことから、国際鉱物学連合は氷VIIを鉱物とした<ref>{{Cite journal|last=Tschauner|first=O.|last2=Huang|first2=S.|last3=Greenberg|first3=E.|last4=Prakapenka|first4=V. B.|last5=Ma|first5=C.|last6=Rossman|first6=G. R.|last7=Shen|first7=A. H.|last8=Zhang|first8=D.|last9=Newville|first9=M.|date=2018-03-09|title=Ice-VII inclusions in diamonds: Evidence for aqueous fluid in Earth’s deep mantle|url=https://science.sciencemag.org/content/359/6380/1136|journal=Science|volume=359|issue=6380|pages=1136–1139|language=en|doi=10.1126/science.aao3030|issn=0036-8075|pmid=29590042}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|35em}} <!--どの箇所に対する引用なのかが不明 * 山田仁史・永山ゆかり・藤原潤子(編)『水・雪・氷のフォークロア:北の人々の伝承世界』勉誠出版、2014年 ISBN 978-4-585-22083-1 --> == 関連項目 == {{Commons&cat|Ice|Ice}} {{Wiktionary|こおり|ひ|氷|冰|冫}} {{Wiktionary|Eis|ice}} * [[アイスバーン]] * [[氷食症]] * [[冷却]]、[[過冷却]] * [[凝固]]、[[凝固点]]、[[凝固点降下]] * [[ムペンバ効果]]<!--プロトサイエンス?--> * [[氷室]] * [[スピンアイス]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こおり}} [[Category:氷|*]] [[Category:冷凍]] [[Category:冷却]] [[Category:冬の季語]]
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2,176
フィクション
フィクション(英語: fiction)とは、作り事、虚構のこと。あるいは、作り話。作話。創作。 英語の「fiction」は、ラテン語のfictio(「作られたもの」)を語源としている。「fiction フィクション」は、一般には「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味している。 実際の用例でみるとフィクションは多義的な概念とされている。 まず、フィクションは「虚偽」や「嘘」の同義語であるが、このような意味のフィクションを論じる場合には真理や虚偽を問題にすれば足り、「虚偽」や「嘘」と置き換えることもでき、あえて「フィクション」という言葉を持ち出す必要はない。しかし「フィクション」の持つ一群の意味として「対応する事物が存在しない概念」と総括できるような事象の意味で用いられることがあり、例えばベンサムの人権に関するフィクション論などがある。 これらと関連しながらも、基本的に異なるフィクション概念として文学作品の一群も意味している。Oxford Dictionaryは「fiction」の解説の1番目に「散文形式で書かれた作品で、特に想像上の出来事や人々を描いたもの」を挙げ、2番目に「でっちあげられたもの、あるいは本当ではないこと」を挙げている。 文学用語(文学研究用語)としての「fiction フィクション」は、「架空の出来事を想像的に描いた物語。特に散文で書かれた小説の類を総称する語で、同様に想像的要素の多い詩や劇とは区別するならわしである。」とされている。 フィクションは大まかには小説の別称ともとれるが、小説とみなされる作品の中には「ノンフィクション小説」と呼ばれる「フィクション小説」と区別されるものを含むため同義ではない。「フィクション」には、虚構ではない実際の出来事の物語を「ノンフィクション」と呼ぶことで、「フィクション」をそれと対照的に扱う用法もある。 また形式も、小説だけがフィクションとは見なされておらず、ふつう小説とは別ジャンルとされる叙事詩や劇作品なども「フィクション」として扱わりており、「フィクション」は小説とは一致せず小説以外の作品群も含む意味で使われている。
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フィクションとは、作り事、虚構のこと。あるいは、作り話。作話。創作。
{{Otheruses|一般的な意味|作品名|fiction}} {{WikipediaPage|フィクションの扱い|Wikipedia:フィクションを明確に区別}} {{Wiktionary|フィクション|fiction|絵空事}} {{ウィキプロジェクトリンク|フィクション|break=yes}} '''フィクション'''({{lang-en|fiction}})とは、作り事、虚構のこと<ref name="kjen_go">[[広辞苑]] 第五版 p.p2298</ref><ref name="djs">[[大辞泉]]</ref>。あるいは、作り話。作話。[[創作]]<ref name="kjen_go" />。 == 概説 == 英語の「[[:en:fiction|fiction]]」は、[[ラテン語]]のfictio(「作られたもの」)を[[語源]]としている。「fiction フィクション」は、一般には「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味している<ref name="brita">ブリタニカ百科事典 【フィクション】</ref>。 実際の用例でみるとフィクションは多義的な概念とされている<ref name="kiyozuka">{{Cite web|和書|author=清塚邦彦|url= http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/37/37_01_kiyozuka.pdf |title=フィクションの統語論をめぐって|publisher=哲学若手研究者フォーラム|accessdate=2022-03-29}}</ref>。 まず、フィクションは[[嘘|「虚偽」や「嘘」]]の同義語であるが、このような意味のフィクションを論じる場合には[[真理]]や虚偽を問題にすれば足り、「虚偽」や「嘘」と置き換えることもでき、あえて「フィクション」という言葉を持ち出す必要はない<ref name="kiyozuka" />。しかし「フィクション」の持つ一群の意味として「対応する事物が存在しない概念」と総括できるような事象の意味で用いられることがあり、例えば[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]の[[人権]]に関するフィクション論などがある<ref name="kiyozuka" />。 これらと関連しながらも、基本的に異なるフィクション概念として[[文学]]作品の一群も意味している<ref name="kiyozuka" />。Oxford Dictionaryは「fiction」の解説の1番目に「[[散文]]形式で書かれた作品で、特に[[想像]]上の出来事や人々を描いたもの<ref>literature in the form of prose, especially novels, that describes imaginary events and people. [http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/fiction?q=fiction]</ref>」を挙げ、2番目に「でっちあげられたもの、あるいは本当ではないこと<ref>something that is invented or untrue. [http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/fiction?q=fiction]</ref>」を挙げている。 == 表現としてのフィクション == === 文学作品 === 文学用語(文学研究用語)としての「fiction フィクション」は、「[[架空]]の出来事を想像的に描いた物語。特に[[散文]]で書かれた[[小説]]の[[類]]を[[総称]]する語で、同様に想像的要素の多い[[詩]]や[[劇]]とは区別する[[習慣|ならわし]]である<ref name="brita" />。」とされている。 フィクションは大まかには[[小説]]の別称ともとれるが、小説とみなされる作品の中には「ノンフィクション小説」と呼ばれる「フィクション小説」と区別されるものを含むため同義ではない<ref name="kiyozuka" />。「フィクション」には、虚構ではない実際の出来事の物語を「[[ノンフィクション]]」と呼ぶことで、「フィクション」をそれと対照的に扱う用法もある<ref name="brita" />。 また形式も、小説だけがフィクションとは見なされておらず、ふつう小説とは別ジャンルとされる叙事詩や劇作品なども「フィクション」として扱わりており、「フィクション」は小説とは一致せず小説以外の作品群も含む意味で使われている<ref name="kiyozuka" />。 === フィクションに関する研究 === *[[物語論]]([[ナラトロジー]]) *[[レトリック]] *[[ストーリー]]・[[プロット]]・[[語り手]] === フィクションの諸形式 === * [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]] * [[絵本]] * [[紙芝居]] * [[コンピュータゲーム]] * [[小説]] * [[ドラマ]] * [[人形劇]] * [[舞台芸術]] * [[漫画]] * [[メディア・フランチャイズ]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[架空]] * [[場の空気]] * [[以心伝心]] * [[架空のものの一覧の一覧]] * [[鼻行類]](架空の動物の[[分類群]]) * [[擬制]] - (legal)fiction。法律用語。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふいくしよん}} [[Category:フィクション|*]] [[Category:英語の語句]] [[Category:ラテン語からの借用語]]
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2,177
X1 (コンピュータ)
パソコンテレビX1(エックスワン)は、シャープテレビ事業部が製造していたパソコンの名称である。型名はCZ-800 シリーズ。 先行してシャープ電子機器事業部がMZシリーズを製造しており、社内的には矢板(テレビ事業部)と大和郡山(電子機器事業部)の2つの部門で全く別の製品として展開した。 X1の初代機は、1982年11月に発売された。 X1の発売当時、シャープからは部品事業部・情報システム事業部が開発したMZシリーズが既に発売されていた。また情報システム事業部では、業務用のミニコン・オフコンも開発していた。X1はそれらとは異なり、栃木県矢板市のテレビ事業部が企画した製品である。そのため、当時の一般的なパソコンとは一線を画するものになった。 「パソコンテレビ」と銘打ち、専用のディスプレイテレビまたはオプションのデジタルテロッパーと組み合わせることで、テレビ画面とパソコン画面の重ね合わせ(スーパーインポーズ)を実現した。また、パソコンのサブ電源を切っていても、80C48省電力チップ制御によりキーボードやプログラムからテレビのチャンネルや音量を操作可能で、有線リモコンのように使用できた。 本体のIPL-ROM (Initial Program Loader) にテレビタイマーエディタがあり、チャンネル指定や曜日指定、毎時指定などテレビのオン/オフタイマーやチャンネルの切り替えを7件までプログラムできる。本体前面のサブ電源スイッチをオフにしていても内蔵マイコンによる制御で動作した。 初代機は赤/白/銀の3色のカラーバリエーションが用意された。また、AV機器のように積み重ねて使用することを想定して、本体、キーボード、ディスプレイテレビ、FDDやテロッパなどコンポーネントの横幅が39cmに統一されていた。X1Gでは本体縦置きも可能で、そのときは高さと専用ディスプレイの高さが一致するなど純正の組み合わせでは統一したデザインになる。 なお、横幅については一部オプションやX1Cシリーズ、X1G、X1twin、turboZ以降の専用ディスプレイTVは上記とは異なる。 同時期の汎用的なパソコンと異なり、基本仕様は前述のテレビとの連携も含めホビー要素に特化されたものとなっている。CPU速度、解像度など、基本性能としては各社横並びの性能であったが、これらの要因や機能によりホビー用途、特にゲームに強みを発揮したと言える。 テキスト画面のフォントがソフトウェア的に再定義可能なPCGになっており、ピクセルごとに任意の色が指定可能な8×8ピクセルで256種類のパターンを定義し表示可能である。また、テキストとグラフィック(B/R/Gの3面それぞれ)について優先度を任意に設定できる。これによって、フォントの書き換えタイミングに制限はあるものの、PCGを背景に利用することによりキャラクタを描画する演算のみで背景の上を動くキャラクターを表示できる。ソフトウェア的に合成が必要な競合機種と比べ、カラフルな画面構成のソフトウェアが多く発売された。なお、CRTC(画面描画LSI)は汎用のHD46505を使用していた。 明確にホビー用途の機種以外は搭載されないかオプションとされることの多かった時期に、3重和音8オクターブのPSG機能を標準で搭載していた。しかしX1シリーズは周期的な割り込み機能が1秒単位のものしかなく、安定した曲の再生をするにはミリ秒単位での周期的なPSG操作が必要であるため、CPUクロックを計算したプログラムを記述するか、定期的に映像同期信号の変化を監視する必要がある。この問題はFM音源ボードを始めとするCTCを搭載した拡張ボードを増設するか、あるいはCTCを標準搭載したX1turbo以降で改善されることになる。 ジョイスティックポートとしてD-sub9ピン台形のコネクタを2ポート標準搭載し、PSGのレジスタを介して各々8ビットの入出力ポートとして使用することが可能である。コネクタ形状並びにGNDの位置はATARI仕様の物と同一になっており、カタログ上はATARI仕様準拠になっている。8ビットのI/Oがそのまま接続されていることから電源ピンが存在せず、電源供給を必要とする連射付きジョイスティックなどの使用には別途電源が必要になる。 当時のパソコンゲームはアクションゲームなどであってもキーボードで操作するものが多かったが、X1を含め多くの機種では、複数キーの同時押しなどに一定の制限があった。X1では電波新聞社がゼビウスを発売した時にジョイスティック(XE-1)をセットにしたパッケージが用意され、他にもMSXなどで普及した規格のジョイスティックの多くが利用できた。X1Gではファミコンのコントローラーに使用感の近いもの(CZ-8NJ1)が標準添付された。 Z80は、8080では8ビットだったI/O空間を16ビットの空間として利用できるように仕様が拡張された。X1シリーズではこの仕様を利用し、メインメモリをバンク切り替えなどによってVRAMに割り当てる当時の一般的な実装ではなく、I/O空間に直接VRAMをマッピングした。 この実装は同じくZ80を採用したSONYのSMC-70やSMC-777などでも用いられており、メインメモリー空間のバンク切り替えを用いることなく常に64KBのメインメモリー空間と48KBのVRAM空間にアクセス可能なメリットがあった。また、初代X1と同世代であるPC-8801では、テキストVRAMをメインメモリに置きDMACにより転送することから、バス調停によるメモリアクセスウェイトが存在したため、相対的にX1はメインメモリのアクセスが高速でもあった。 その反面、直交性の低い当時のCISC CPUではI/O空間へのアドレス指定に煩雑な面が存在し、またメモリー空間と比較して読み書きに要するステート数が多いといったデメリットも存在した。加えてVRAMの配列が特殊な並びになっていることによるアドレス計算の煩雑さなどから、グラフィックス制御そのものは扱いやすいとは言い難かったが、サイクルスチール回路の導入や独立したテキストVRAM回路の設計など、システム速度の足を引っ張らない工夫がされていた。 同じパターンが書き込まれてしまうため実質画面クリアにしか利用できないものの、全3プレーン同時アクセスも可能になっている。 電源投入直後、最初にIPL (Initial Program Loader) が起動し、FDD、拡張ROMボード、CMTの順にブートを試みる。それらの応答がない場合やユーザー操作によるキャンセルによりメニュー画面に切り替わり、ブートするデバイス3つとテレビタイマーのエディタの計4つから選択する画面へと遷移する。 基本設計は同社のMZシリーズ同様、本体にROMでシステムプログラムを直接を持たない、クリーン設計になっている。MZとよく似た仕組みでありながら、X1のIPLでは読み込み時はROM、書き込み時はRAMにCPUがアクセスするようにし、Z80のメインメモリのフルサイズである64KiBのデータを一度にRAMへ書き込む事を可能にしている。 初期の本体に標準搭載された二次記憶装置はデータレコーダのみであり、標準の構成では当時の一般的なシステムであったBASICの起動まで数分を要するというデメリットがあった。しかし、FDDとDISK-BASIC (CZ-8FB01) の利用や、拡張ボードとしてあらかじめBASICの書き込まれたROMを搭載したCZ-8RB01等の利用により、その時間を短縮することが可能だった。ROMボードを用いた場合でも直接メモリ空間にマッピングされるのではなく、IPLによってボード上のデータがRAMに展開されてから起動した。 本体内蔵のデータレコーダーの速度は2700bpsで、同時期の競合製品の2〜3倍という転送速度を誇り、同社MZシリーズの一部に由来する電磁制御の可能なデッキはプログラムで頭出しやデッキオープンなどの制御が可能になっている。これらの機能を活かすことで、競合機種ではFD版のみで提供されたソフトが、X1では廉価なテープ版でも提供されることが多い傾向にあった。但し、フロッピーディスクと比較した場合高速とは言いがたいシーケンシャルデバイスのテープ版のゲームがFD版と同様の快適さで遊べるかどうかは別問題であり、テープ版ではデータを減らすために仕様が異なる実装のゲームもあった。 比較的初期のX1D(第3世代)に標準搭載された3インチフロッピーディスクが国際的にも(8インチFDに代わり)大幅にシェアを伸ばした5.25インチミニフロッピーディスクに押され、X1D及び外付け3インチFDDは廃止、X1turboの登場時に5インチFDDを採用するといった紆余曲折や、純正FDDの価格が高価だったことなどの要因があり、FDによるソフトウェア資産が出そろうのを遅らせ、カセットテープとFDで分散、あるいは両方の媒体で提供されることとなった。 これらはMZシリーズでも同様の傾向があり、標準搭載のデバイスがデータレコーダの時期が長く、割高なFDDへの移行は緩やかなものとなっていた。 X1turbo発売以前のX1シリーズには、NMIリセットボタンのみしか装備されていなかった。NMI (Non Maskable Interrupt) リセットは、Z80 CPUに強制割り込み信号を送り特定のアドレスにジャンプさせるもので、ホットリセットを行う目的がある。X1ではそれを積極的にリセットスイッチとして利用した。しかし、ジャンプ先アドレスはZ80の仕様として0x0066番地で固定されており、市販のソフトウェアでNMIリセットを行うと、リセットを想定していないソフトウェアではフリーズしてしまうなど意図しない動作を起こす。これを逆手に取り、NMIリセットのジャンプ先に故意に裏技となるものを仕込んでおくゲームも見られた。 X1turbo及びX1Fより、IPLリセットボタンが追加された。これは電源投入時とほぼ同じ挙動をさせ、IPLを呼び出す再起動用のリセットボタンである。リセット時に明示的にメモリがクリアされることは無いため、起動時に利用されない空間の内容については保持されている。 CPUにはZ80A(クロック4MHz)を採用し、割り込みは強力なモード2を使用した。ただし内部割込みはキー入力のみで、タイマ割り込みなどはなかった。 サブCPUとして80C49を搭載し、キーボード内の80C48との通信やデータレコーダの制御などに使用した。シリアル通信を採用したことに関連し、設計上キーマトリクスの取得ができず、Shiftなどを除きキーの同時押しは検知できなかった。キーボード分離型では接続コネクタに3.5mmの3極ミニフォーンプラグを使用していた。 シャープとハドソンの共同開発による Hu-BASIC が標準添付された。当時の水準では柔軟な記述を許容するなど、扱いやすく高機能なものだった。しかし、塗りつぶしなど一部の描画ルーチンの最適化が甘かったためグラフィック描画の遅さが目立ち、またFD版でなくとも毎回テープから起動する必要があったことと相まって、「X1は遅い」という誤解を招くことになった。ただし、塗りつぶし処理以外は当時の水準程度またはそれ以上の性能を備えていた。 一方、X1Fとともに登場した NEW BASIC (Hu-BASIC V2.0) は、X1turboの開発時に得たノウハウをフィードバックし、グラフィック描画性能を大幅に向上させ、漢字も扱いやすくなっていた。そして、クリーン設計ゆえにこの新しいBASICは初代X1までさかのぼって使用が可能であり、これをもって「Xシリーズは5年間その基本設計を変えない」(互換性を維持し、製品を販売する)とする販売姿勢の証左とされた。 X1シリーズはモデルチェンジを重ねつつも、基本仕様はオプションの標準装備化を進めた程度で上位互換性を保ち、オプションを追加しさえすれば初代機のX1でも長期間現役機として使用することができた。しかし、初代発売の2年後(1984年11月)に上位互換のX1turboが発売され、1987年後半頃には新規発売されるソフトウェア、とくにゲームはturboシリーズのみ対応のものが大半になった。このように、実際の市場動向としては、初代のX1(あるいはX1シリーズ)が5年間完全に現役でいられたわけでも、コンシューマーゲーム機のように単一プラットフォームとして機能していたわけでもない。 X1C以降、C, D, F, Gと連番のようになっているが、Eは抜けている。なお、turbo発売時の、Oh!MZには、X1Es,X1Ekなる性能強化機種の噂情報が載っている。この記事に関係して混乱を避けるためにEを飛ばしたか、あるいはturbo自体が「E」にあたる可能性もある。 X1turbo(エックスワン ターボ)は、X1の上位機種として1984年10月に発売された。 X1シリーズとソフトウェア・ハードウェアともモード切替を必要としない完全上位互換を維持しながら、機能の改善、並びに拡張が行なわれ、Z80ファミリのCTC・DMA・SIOが揃って搭載されていた。 赤、シルバー、ホワイトを基調に展開されてきた同シリーズであるが、1985年11月に登場したX1turbo IIにはX1発売3周年の特別限定色として黒色が設定され、それが好評であったため、この機種以降は黒色がX1/turboシリーズの標準色となった。 高い互換性を持つ上位機種であるX1turboは、下位機種のX1の性能が比較的優れたものだったことから、専用のソフトウェアがなかなか出揃わないというジレンマも抱えることとなった。また、X1twinに至るまでノーマルX1シリーズの販売は続き、末期になるとturbo専用が中心となったにもかかわらずノーマルX1が併売されるという新たなジレンマとなった。 パソコンとしての基本性能を下記の様に向上させてはいるが、ホビーマシンに重視されるオーディオ・ビジュアルの面での標準搭載による進化が他機種に比べ少なかった。X1turbo登場後、ライバル機がモデルチェンジを重ね、FM音源搭載やその拡張による音響表現の強化やアナログRGB搭載による多色表示化を進める中で、X1シリーズでこれらが標準で搭載されるのはX1turboZ発売まで待たなければならなかった。これは、X1が発売当初からホビー指向でオーディオ・ビジュアル面での基本性能が初めからある程度高かったことに甘んじた結果と言えるが、このことがホビー指向を強化してきた他機種に水をあけられる要因の一つとなっている。 X1turboのturboは、自動車のターボをふまえたものであるが、tはtailored machineでユーザに合ったマシン、uはup versionでこれからの成長、rはresolutionで高解像度、boはbussiness orientedでビジネス向きという、別の意味が含まれている。 X1turboシリーズでは、従来の表示モードに加え、640×400ドット・8色のグラフィック機能を搭載した。垂直400ライン表示が追加されたことで水平同期周波数は従来の15kHzに加え、24kHzモードが追加された。24kHz動作時は専用モニタに「ハイレゾモード」ランプが点灯する。また、24kHzモードの200ライン表示時も可能であった。ただしデジタルRGB出力のままであり、色数は8色だった。 ハードウェア制御のタイミングも改善され、垂直帰線期間にしかできなかったPCGなどへのフォントデータへのアクセスを水平帰線期間にも可能になった。 しかし、各プレーンに対し同時書き込みが可能な機能をX1から継承したものの、I/O空間にVRAMがありアドレスの計算が煩雑な配置になっていること、描画支援をハードウェア的に持っていないことは、競合機種に対してG-RAMに対するアクセス速度の点で大きく差を付けられる原因となった。 水平同期周波数24KHzモードのサポートと共に、ハードウェア的にROM上の日本語フォントをテキスト画面と同様に扱い、画面上に展開する漢字テキストVRAMを搭載。40×25行の高速漢字表示を実現した。グラフィックス画面にソフトウェアでフォントを展開・合成する処理に比べ、キャラクタコードの書き込みのみで日本語表示が可能であったため、8ビット機でありながら16ビットパソコンにも比肩しうる日本語処理を可能にしていた。この実装は構造上、CG-ROMにフォントを持つ必要があり、初期はJIS第1水準漢字ROMのみ搭載されていたが、JIS第2水準漢字ROMの発売を経てこちらも標準搭載されるようになった。 キーボード横にスライドスイッチが設けられ、「A/Bモード」切り替えが追加された。Aモードは従来互換のものである。Bモードはカナ入力がJIS配列から50音配列に変わるほか、マニュアルには記載されていないが従来不可能だった同時キー入力が可能になっている。 また、タイマなどの割り込み要因を増加させ、DMAの追加によってCPU自体の仕事量を軽減し、VRAMやFDDへのアクセスが並行して出来るようになった。 メモリについても、Z80の制限である64KiBを超える空間を取り扱うためバンクメモリがサポートされた。しかし、グラフィックスVRAMはI/O空間に据え置かれたため、メモリ空間に置かれることのメリットであるアドレッシングモードの豊富さ、自由度、アクセス速度は享受できないという制限は同様であった。 X1シリーズはクリーン設計の基、本体にBIOSを持たず、起動時にIPLによって読み込まれるようになっていた。シャープはIPLによって読み込まれるBIOSをIOCSと呼んでいたが、X1turboシリーズでは本体にローレベルな処理を定義したBIOS ROMを搭載し、呼称もBIOSに改められた。IOCSとBIOSに完全な互換性はなく、BIOSコールを使用するアプリケーションはX1turboシリーズ専用となる。 なお、これによりturbo BASICではIPL・BIOSのワークエリアが拡張されたため、BASICと機械語を併用したプログラムでは機械語部分のアドレスがこのワークエリアにかかるものはturbo BASIC上では動かない。その場合はX1のBASICを用いる事で動作させることが可能である。 1986年12月には、わずか1カ月前に登場した turbo III にAV機能を強化したX1の最上位シリーズであるX1turboZ(エックスワン ターボ ゼット)がX68000と同時に発表された。これ以降turboシリーズはturboZシリーズに集約されることとなった。 従来デジタル8色の出力のみであった表示機能が強化され、4096色同時表示可能なグラフィック機能とアナログRGBパレット(コネクタはD-Sub15ピン)、ハードウェアスクロール、ビデオキャプチャやモザイク機能などを追加した。但し、他の機種がVRAMの制御に専用のコントローラやサブプロセッサによる描画のサポートをさせたり、ALUなどによってVRAMへのアクセス処理そのものの軽減を周辺チップによってはかったのに対し、turboZでもそれらの仕組みは導入されなかった。そのため、多色描画が可能である反面、4096色モードでは1ピクセルの描画に実に12回ものアクセスが必要という処理量の増加が見られた。デジタイズされた画像の表示など用途によっては表現力の向上があったものの、動きを要するような処理には多色モードは利用しにくかった。 サウンドはオプションであったステレオ8チャンネルのFM音源であるYM2151を標準搭載。入力クロックはチップ規定の値ではなくCPUクロックと同じ4MHzが使われているため、チップの本来の設計とは若干異なる波形を生成する。従来機種では内蔵音源であるPSGとのミキシングがサポートされていなかったが、本機で内蔵されることにより、標準状態でミキシングされた出力を得られるようになった。 また、マウスが標準装備となっている。X1turboZIIおよびZIIIでは、CRTCが上位互換のMB89321Bに変更されている。 X1turboZII以降にはZ-BASICが標準添付され(X1turboZでは別売)、これらの機能はBASICからも利用が可能になっていた。 turboZシリーズに標準搭載されたFM音源やアナログRGBは後発だっただけに、いくつかの点で競合する他機種よりカタログスペック上は優れていた。しかし、こうしたAV機能の進化が他機種に比べて遅れ気味だったこと、CPUクロックが据え置きであり処理を軽減する仕組みが導入されなかったこと等により、その機能をフルに使った専用アプリケーションはほぼ発売されなかった。また他機種より優れていたがゆえに互換性が低い問題があった。これはソフトウェア移植の障害となり、移植されてもそれらの機能が十分活用されないことにもなった。オプションだった機能を引き継いだFM音源はYs2の様に左右に音を振るなどのステレオ対応がされたほか、後期のソフトウェアでパッケージやマニュアルに記載されていないものの、非公式でturboZシリーズで実行した際はアナログパレットを使用するユーフォリーなどのソフトウェアはあったものの、機能の活用は限定的であった。 こうしてX1がturboZとなりいかに機能改善を図ろうとも、X68000の圧倒的性能の前には存在感が霞んでしまい、X1turboZ専用ソフトはほとんど発売されないまま、X1シリーズの流れはX68000シリーズへ継承されていった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パソコンテレビX1(エックスワン)は、シャープテレビ事業部が製造していたパソコンの名称である。型名はCZ-800 シリーズ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "先行してシャープ電子機器事業部がMZシリーズを製造しており、社内的には矢板(テレビ事業部)と大和郡山(電子機器事業部)の2つの部門で全く別の製品として展開した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "X1の初代機は、1982年11月に発売された。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "X1の発売当時、シャープからは部品事業部・情報システム事業部が開発したMZシリーズが既に発売されていた。また情報システム事業部では、業務用のミニコン・オフコンも開発していた。X1はそれらとは異なり、栃木県矢板市のテレビ事業部が企画した製品である。そのため、当時の一般的なパソコンとは一線を画するものになった。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「パソコンテレビ」と銘打ち、専用のディスプレイテレビまたはオプションのデジタルテロッパーと組み合わせることで、テレビ画面とパソコン画面の重ね合わせ(スーパーインポーズ)を実現した。また、パソコンのサブ電源を切っていても、80C48省電力チップ制御によりキーボードやプログラムからテレビのチャンネルや音量を操作可能で、有線リモコンのように使用できた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本体のIPL-ROM (Initial Program Loader) にテレビタイマーエディタがあり、チャンネル指定や曜日指定、毎時指定などテレビのオン/オフタイマーやチャンネルの切り替えを7件までプログラムできる。本体前面のサブ電源スイッチをオフにしていても内蔵マイコンによる制御で動作した。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "初代機は赤/白/銀の3色のカラーバリエーションが用意された。また、AV機器のように積み重ねて使用することを想定して、本体、キーボード、ディスプレイテレビ、FDDやテロッパなどコンポーネントの横幅が39cmに統一されていた。X1Gでは本体縦置きも可能で、そのときは高さと専用ディスプレイの高さが一致するなど純正の組み合わせでは統一したデザインになる。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、横幅については一部オプションやX1Cシリーズ、X1G、X1twin、turboZ以降の専用ディスプレイTVは上記とは異なる。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同時期の汎用的なパソコンと異なり、基本仕様は前述のテレビとの連携も含めホビー要素に特化されたものとなっている。CPU速度、解像度など、基本性能としては各社横並びの性能であったが、これらの要因や機能によりホビー用途、特にゲームに強みを発揮したと言える。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "テキスト画面のフォントがソフトウェア的に再定義可能なPCGになっており、ピクセルごとに任意の色が指定可能な8×8ピクセルで256種類のパターンを定義し表示可能である。また、テキストとグラフィック(B/R/Gの3面それぞれ)について優先度を任意に設定できる。これによって、フォントの書き換えタイミングに制限はあるものの、PCGを背景に利用することによりキャラクタを描画する演算のみで背景の上を動くキャラクターを表示できる。ソフトウェア的に合成が必要な競合機種と比べ、カラフルな画面構成のソフトウェアが多く発売された。なお、CRTC(画面描画LSI)は汎用のHD46505を使用していた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "明確にホビー用途の機種以外は搭載されないかオプションとされることの多かった時期に、3重和音8オクターブのPSG機能を標準で搭載していた。しかしX1シリーズは周期的な割り込み機能が1秒単位のものしかなく、安定した曲の再生をするにはミリ秒単位での周期的なPSG操作が必要であるため、CPUクロックを計算したプログラムを記述するか、定期的に映像同期信号の変化を監視する必要がある。この問題はFM音源ボードを始めとするCTCを搭載した拡張ボードを増設するか、あるいはCTCを標準搭載したX1turbo以降で改善されることになる。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ジョイスティックポートとしてD-sub9ピン台形のコネクタを2ポート標準搭載し、PSGのレジスタを介して各々8ビットの入出力ポートとして使用することが可能である。コネクタ形状並びにGNDの位置はATARI仕様の物と同一になっており、カタログ上はATARI仕様準拠になっている。8ビットのI/Oがそのまま接続されていることから電源ピンが存在せず、電源供給を必要とする連射付きジョイスティックなどの使用には別途電源が必要になる。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当時のパソコンゲームはアクションゲームなどであってもキーボードで操作するものが多かったが、X1を含め多くの機種では、複数キーの同時押しなどに一定の制限があった。X1では電波新聞社がゼビウスを発売した時にジョイスティック(XE-1)をセットにしたパッケージが用意され、他にもMSXなどで普及した規格のジョイスティックの多くが利用できた。X1Gではファミコンのコントローラーに使用感の近いもの(CZ-8NJ1)が標準添付された。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Z80は、8080では8ビットだったI/O空間を16ビットの空間として利用できるように仕様が拡張された。X1シリーズではこの仕様を利用し、メインメモリをバンク切り替えなどによってVRAMに割り当てる当時の一般的な実装ではなく、I/O空間に直接VRAMをマッピングした。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この実装は同じくZ80を採用したSONYのSMC-70やSMC-777などでも用いられており、メインメモリー空間のバンク切り替えを用いることなく常に64KBのメインメモリー空間と48KBのVRAM空間にアクセス可能なメリットがあった。また、初代X1と同世代であるPC-8801では、テキストVRAMをメインメモリに置きDMACにより転送することから、バス調停によるメモリアクセスウェイトが存在したため、相対的にX1はメインメモリのアクセスが高速でもあった。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その反面、直交性の低い当時のCISC CPUではI/O空間へのアドレス指定に煩雑な面が存在し、またメモリー空間と比較して読み書きに要するステート数が多いといったデメリットも存在した。加えてVRAMの配列が特殊な並びになっていることによるアドレス計算の煩雑さなどから、グラフィックス制御そのものは扱いやすいとは言い難かったが、サイクルスチール回路の導入や独立したテキストVRAM回路の設計など、システム速度の足を引っ張らない工夫がされていた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同じパターンが書き込まれてしまうため実質画面クリアにしか利用できないものの、全3プレーン同時アクセスも可能になっている。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "電源投入直後、最初にIPL (Initial Program Loader) が起動し、FDD、拡張ROMボード、CMTの順にブートを試みる。それらの応答がない場合やユーザー操作によるキャンセルによりメニュー画面に切り替わり、ブートするデバイス3つとテレビタイマーのエディタの計4つから選択する画面へと遷移する。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "基本設計は同社のMZシリーズ同様、本体にROMでシステムプログラムを直接を持たない、クリーン設計になっている。MZとよく似た仕組みでありながら、X1のIPLでは読み込み時はROM、書き込み時はRAMにCPUがアクセスするようにし、Z80のメインメモリのフルサイズである64KiBのデータを一度にRAMへ書き込む事を可能にしている。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初期の本体に標準搭載された二次記憶装置はデータレコーダのみであり、標準の構成では当時の一般的なシステムであったBASICの起動まで数分を要するというデメリットがあった。しかし、FDDとDISK-BASIC (CZ-8FB01) の利用や、拡張ボードとしてあらかじめBASICの書き込まれたROMを搭載したCZ-8RB01等の利用により、その時間を短縮することが可能だった。ROMボードを用いた場合でも直接メモリ空間にマッピングされるのではなく、IPLによってボード上のデータがRAMに展開されてから起動した。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "本体内蔵のデータレコーダーの速度は2700bpsで、同時期の競合製品の2〜3倍という転送速度を誇り、同社MZシリーズの一部に由来する電磁制御の可能なデッキはプログラムで頭出しやデッキオープンなどの制御が可能になっている。これらの機能を活かすことで、競合機種ではFD版のみで提供されたソフトが、X1では廉価なテープ版でも提供されることが多い傾向にあった。但し、フロッピーディスクと比較した場合高速とは言いがたいシーケンシャルデバイスのテープ版のゲームがFD版と同様の快適さで遊べるかどうかは別問題であり、テープ版ではデータを減らすために仕様が異なる実装のゲームもあった。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "比較的初期のX1D(第3世代)に標準搭載された3インチフロッピーディスクが国際的にも(8インチFDに代わり)大幅にシェアを伸ばした5.25インチミニフロッピーディスクに押され、X1D及び外付け3インチFDDは廃止、X1turboの登場時に5インチFDDを採用するといった紆余曲折や、純正FDDの価格が高価だったことなどの要因があり、FDによるソフトウェア資産が出そろうのを遅らせ、カセットテープとFDで分散、あるいは両方の媒体で提供されることとなった。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらはMZシリーズでも同様の傾向があり、標準搭載のデバイスがデータレコーダの時期が長く、割高なFDDへの移行は緩やかなものとなっていた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "X1turbo発売以前のX1シリーズには、NMIリセットボタンのみしか装備されていなかった。NMI (Non Maskable Interrupt) リセットは、Z80 CPUに強制割り込み信号を送り特定のアドレスにジャンプさせるもので、ホットリセットを行う目的がある。X1ではそれを積極的にリセットスイッチとして利用した。しかし、ジャンプ先アドレスはZ80の仕様として0x0066番地で固定されており、市販のソフトウェアでNMIリセットを行うと、リセットを想定していないソフトウェアではフリーズしてしまうなど意図しない動作を起こす。これを逆手に取り、NMIリセットのジャンプ先に故意に裏技となるものを仕込んでおくゲームも見られた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "X1turbo及びX1Fより、IPLリセットボタンが追加された。これは電源投入時とほぼ同じ挙動をさせ、IPLを呼び出す再起動用のリセットボタンである。リセット時に明示的にメモリがクリアされることは無いため、起動時に利用されない空間の内容については保持されている。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "CPUにはZ80A(クロック4MHz)を採用し、割り込みは強力なモード2を使用した。ただし内部割込みはキー入力のみで、タイマ割り込みなどはなかった。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "サブCPUとして80C49を搭載し、キーボード内の80C48との通信やデータレコーダの制御などに使用した。シリアル通信を採用したことに関連し、設計上キーマトリクスの取得ができず、Shiftなどを除きキーの同時押しは検知できなかった。キーボード分離型では接続コネクタに3.5mmの3極ミニフォーンプラグを使用していた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シャープとハドソンの共同開発による Hu-BASIC が標準添付された。当時の水準では柔軟な記述を許容するなど、扱いやすく高機能なものだった。しかし、塗りつぶしなど一部の描画ルーチンの最適化が甘かったためグラフィック描画の遅さが目立ち、またFD版でなくとも毎回テープから起動する必要があったことと相まって、「X1は遅い」という誤解を招くことになった。ただし、塗りつぶし処理以外は当時の水準程度またはそれ以上の性能を備えていた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、X1Fとともに登場した NEW BASIC (Hu-BASIC V2.0) は、X1turboの開発時に得たノウハウをフィードバックし、グラフィック描画性能を大幅に向上させ、漢字も扱いやすくなっていた。そして、クリーン設計ゆえにこの新しいBASICは初代X1までさかのぼって使用が可能であり、これをもって「Xシリーズは5年間その基本設計を変えない」(互換性を維持し、製品を販売する)とする販売姿勢の証左とされた。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "X1シリーズはモデルチェンジを重ねつつも、基本仕様はオプションの標準装備化を進めた程度で上位互換性を保ち、オプションを追加しさえすれば初代機のX1でも長期間現役機として使用することができた。しかし、初代発売の2年後(1984年11月)に上位互換のX1turboが発売され、1987年後半頃には新規発売されるソフトウェア、とくにゲームはturboシリーズのみ対応のものが大半になった。このように、実際の市場動向としては、初代のX1(あるいはX1シリーズ)が5年間完全に現役でいられたわけでも、コンシューマーゲーム機のように単一プラットフォームとして機能していたわけでもない。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "X1C以降、C, D, F, Gと連番のようになっているが、Eは抜けている。なお、turbo発売時の、Oh!MZには、X1Es,X1Ekなる性能強化機種の噂情報が載っている。この記事に関係して混乱を避けるためにEを飛ばしたか、あるいはturbo自体が「E」にあたる可能性もある。", "title": "X1シリーズ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "X1turbo(エックスワン ターボ)は、X1の上位機種として1984年10月に発売された。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "X1シリーズとソフトウェア・ハードウェアともモード切替を必要としない完全上位互換を維持しながら、機能の改善、並びに拡張が行なわれ、Z80ファミリのCTC・DMA・SIOが揃って搭載されていた。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "赤、シルバー、ホワイトを基調に展開されてきた同シリーズであるが、1985年11月に登場したX1turbo IIにはX1発売3周年の特別限定色として黒色が設定され、それが好評であったため、この機種以降は黒色がX1/turboシリーズの標準色となった。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "高い互換性を持つ上位機種であるX1turboは、下位機種のX1の性能が比較的優れたものだったことから、専用のソフトウェアがなかなか出揃わないというジレンマも抱えることとなった。また、X1twinに至るまでノーマルX1シリーズの販売は続き、末期になるとturbo専用が中心となったにもかかわらずノーマルX1が併売されるという新たなジレンマとなった。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "パソコンとしての基本性能を下記の様に向上させてはいるが、ホビーマシンに重視されるオーディオ・ビジュアルの面での標準搭載による進化が他機種に比べ少なかった。X1turbo登場後、ライバル機がモデルチェンジを重ね、FM音源搭載やその拡張による音響表現の強化やアナログRGB搭載による多色表示化を進める中で、X1シリーズでこれらが標準で搭載されるのはX1turboZ発売まで待たなければならなかった。これは、X1が発売当初からホビー指向でオーディオ・ビジュアル面での基本性能が初めからある程度高かったことに甘んじた結果と言えるが、このことがホビー指向を強化してきた他機種に水をあけられる要因の一つとなっている。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "X1turboのturboは、自動車のターボをふまえたものであるが、tはtailored machineでユーザに合ったマシン、uはup versionでこれからの成長、rはresolutionで高解像度、boはbussiness orientedでビジネス向きという、別の意味が含まれている。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "X1turboシリーズでは、従来の表示モードに加え、640×400ドット・8色のグラフィック機能を搭載した。垂直400ライン表示が追加されたことで水平同期周波数は従来の15kHzに加え、24kHzモードが追加された。24kHz動作時は専用モニタに「ハイレゾモード」ランプが点灯する。また、24kHzモードの200ライン表示時も可能であった。ただしデジタルRGB出力のままであり、色数は8色だった。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ハードウェア制御のタイミングも改善され、垂直帰線期間にしかできなかったPCGなどへのフォントデータへのアクセスを水平帰線期間にも可能になった。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", 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"メモリについても、Z80の制限である64KiBを超える空間を取り扱うためバンクメモリがサポートされた。しかし、グラフィックスVRAMはI/O空間に据え置かれたため、メモリ空間に置かれることのメリットであるアドレッシングモードの豊富さ、自由度、アクセス速度は享受できないという制限は同様であった。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "X1シリーズはクリーン設計の基、本体にBIOSを持たず、起動時にIPLによって読み込まれるようになっていた。シャープはIPLによって読み込まれるBIOSをIOCSと呼んでいたが、X1turboシリーズでは本体にローレベルな処理を定義したBIOS ROMを搭載し、呼称もBIOSに改められた。IOCSとBIOSに完全な互換性はなく、BIOSコールを使用するアプリケーションはX1turboシリーズ専用となる。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、これによりturbo BASICではIPL・BIOSのワークエリアが拡張されたため、BASICと機械語を併用したプログラムでは機械語部分のアドレスがこのワークエリアにかかるものはturbo BASIC上では動かない。その場合はX1のBASICを用いる事で動作させることが可能である。", "title": "X1turboシリーズ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1986年12月には、わずか1カ月前に登場した turbo III にAV機能を強化したX1の最上位シリーズであるX1turboZ(エックスワン ターボ ゼット)がX68000と同時に発表された。これ以降turboシリーズはturboZシリーズに集約されることとなった。", "title": "X1turboZシリーズ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": 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"turboZシリーズに標準搭載されたFM音源やアナログRGBは後発だっただけに、いくつかの点で競合する他機種よりカタログスペック上は優れていた。しかし、こうしたAV機能の進化が他機種に比べて遅れ気味だったこと、CPUクロックが据え置きであり処理を軽減する仕組みが導入されなかったこと等により、その機能をフルに使った専用アプリケーションはほぼ発売されなかった。また他機種より優れていたがゆえに互換性が低い問題があった。これはソフトウェア移植の障害となり、移植されてもそれらの機能が十分活用されないことにもなった。オプションだった機能を引き継いだFM音源はYs2の様に左右に音を振るなどのステレオ対応がされたほか、後期のソフトウェアでパッケージやマニュアルに記載されていないものの、非公式でturboZシリーズで実行した際はアナログパレットを使用するユーフォリーなどのソフトウェアはあったものの、機能の活用は限定的であった。", "title": "X1turboZシリーズ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "こうしてX1がturboZとなりいかに機能改善を図ろうとも、X68000の圧倒的性能の前には存在感が霞んでしまい、X1turboZ専用ソフトはほとんど発売されないまま、X1シリーズの流れはX68000シリーズへ継承されていった。", "title": "X1turboZシリーズ" } ]
パソコンテレビX1(エックスワン)は、シャープテレビ事業部が製造していたパソコンの名称である。型名はCZ-800 シリーズ。 先行してシャープ電子機器事業部がMZシリーズを製造しており、社内的には矢板(テレビ事業部)と大和郡山(電子機器事業部)の2つの部門で全く別の製品として展開した。
[[画像:Sharp X1 logo.svg|thumb|right|200px|X1 ロゴ]] [[画像:Hu-BASIC X1.png|thumb|right|320px|Hu-BASIC(スクリーンショット)<br />シャープX1用フロッピー版]] '''パソコンテレビX1'''(エックスワン)は、[[シャープ]]テレビ事業部が製造していた[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の名称である。型名は'''CZ-800''' <ref>{{cite web|url=https://1drv.ms/u/s!AiKMO-w23ozogcw7WEL6yXD05kGGxw?e=zpSM4o|title=SHARP X1 CZ-800C|accessdate=2020-02-13}}</ref>シリーズ。 先行してシャープ電子機器事業部が[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]を製造しており、社内的には[[矢板市|矢板]](テレビ事業部)と[[大和郡山市|大和郡山]](電子機器事業部)の2つの部門で全く別の製品として展開した。 == X1シリーズ == X1の初代機は、[[1982年]]11月に発売された。 X1の発売当時、シャープからは部品事業部・情報システム事業部が開発した[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]が既に発売されていた。また情報システム事業部では、業務用のミニコン・オフコンも開発していた。X1はそれらとは異なり、[[栃木県]][[矢板市]]のテレビ事業部が企画した製品である。そのため、当時の一般的なパソコンとは一線を画するものになった。 === テレビとの連携 === 「パソコンテレビ」と銘打ち、専用の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイテレビ]]またはオプションのデジタルテロッパーと組み合わせることで、テレビ画面とパソコン画面の重ね合わせ([[スーパーインポーズ (映像編集)|スーパーインポーズ]])を実現した。また、パソコンのサブ電源を切っていても、[[Intel 8048|80C48]]省電力チップ制御によりキーボードやプログラムからテレビのチャンネルや音量を操作可能で、有線リモコンのように使用できた。 {| class="wikitable" |+ キーコンビネーションによるテレビ操作(X1本体のサブ電源がオフでも操作可能) ! 同時押しの軸キー !! テンキー !! 動作 |- | rowspan="8" | SHIFTキー | 1〜9キー | テレビチャンネルの1〜9に切り替え |- | /,*,-キー | テレビチャンネルの11〜12に切り替え |- | ←及び→キー |テレビチャンネルを昇順/降順に切り替え |- | ↑及び↓キー | テレビの音量調整(PSGなどの合成音声には無関係) |- | 0キー | 音声ミュート |- | +キー | スーパーインポーズON |- | =キー | スーパーインポーズOFF |- | ,キー | テレビ放送のみ表示 |} 本体のIPL-ROM (Initial Program Loader) にテレビタイマーエディタがあり、チャンネル指定や曜日指定、毎時指定などテレビのオン/オフタイマーやチャンネルの切り替えを7件まで{{efn2|隠し番号0番を含めると8件まで。}}プログラムできる。本体前面のサブ電源スイッチをオフにしていても内蔵マイコンによる制御で動作した。 初代機は赤/白/銀の3色のカラーバリエーションが用意された。また、AV機器のように積み重ねて使用することを想定して、本体、キーボード、ディスプレイテレビ、FDDやテロッパなどコンポーネントの横幅が39cmに統一されていた。X1Gでは本体縦置きも可能で、そのときは高さと専用ディスプレイの高さが一致するなど純正の組み合わせでは統一したデザインになる。 なお、横幅については一部オプションやX1Cシリーズ、X1G、X1twin、turboZ以降の専用ディスプレイTVは上記とは異なる。 === ホビー用途の機能 === 同時期の汎用的なパソコンと異なり、基本仕様は前述のテレビとの連携も含め[[ホビーパソコン|ホビー要素]]に特化されたものとなっている。CPU速度、解像度など、基本性能としては各社横並びの性能であったが、これらの要因や機能によりホビー用途、特にゲームに強みを発揮したと言える。 ==== テキストおよびグラフィック ==== テキスト画面のフォントがソフトウェア的に再定義可能な[[キャラクタ (コンピュータ)#PCG|PCG]]になっており、ピクセルごとに任意の色が指定可能な8×8ピクセルで256種類のパターンを定義し表示可能である。また、テキストとグラフィック(B/R/Gの3面それぞれ)について優先度を任意に設定できる。これによって、フォントの書き換えタイミングに制限はあるものの、PCGを背景に利用することによりキャラクタを描画する演算のみで背景の上を動くキャラクターを表示できる。ソフトウェア的に合成が必要な競合機種と比べ、カラフルな画面構成のソフトウェアが多く発売された。なお、[[CRTC (LSI)|CRTC]](画面描画LSI)は汎用のHD46505を使用していた。 ==== サウンド ==== 明確にホビー用途の機種以外は搭載されないかオプションとされることの多かった時期に、3重和音8オクターブの[[Programmable Sound Generator#AY-3-8910の仕様|PSG]]機能を標準で搭載していた。しかしX1シリーズは周期的な割り込み機能が1秒単位のものしかなく、安定した曲の再生をするにはミリ秒単位での周期的なPSG操作が必要であるため、CPUクロックを計算したプログラムを記述するか、定期的に映像同期信号の変化を監視する必要がある。この問題はFM音源ボードを始めとするCTCを搭載した拡張ボードを増設するか、あるいはCTCを標準搭載したX1turbo以降で改善されることになる。 ==== 入力装置 ==== ジョイスティックポートとして[[D-sub]]9ピン台形のコネクタを2ポート標準搭載し、PSGのレジスタを介して各々8ビットの入出力ポートとして使用することが可能である{{efn2|AY-3-8910の仕様により、各ポートごとにすべての信号が入力もしくは出力に設定される。}}。コネクタ形状並びにGNDの位置は[[Atari 2600#コントローラ|ATARI仕様]]の物と同一になっており、カタログ上はATARI仕様準拠になっている{{efn2|日本でジョイスティックとして普及したものは多くが[[MSX]]仕様に準拠したものであり、X1でも、ソフトウェア側の実装の多くはMSX仕様に準拠した制御を行っている他、「試験に出るX1」等、ハードウェアの解説書でもMSX仕様のピン配列を前提に記載されている。}}。8ビットのI/Oがそのまま接続されていることから電源ピンが存在せず、電源供給を必要とする連射付きジョイスティックなどの使用には別途電源が必要になる。 当時のパソコンゲームはアクションゲームなどであってもキーボードで操作するものが多かったが、X1を含め多くの機種では、複数キーの同時押しなどに一定の制限があった。X1では[[電波新聞社]]が[[ゼビウス]]を発売した時に[[ジョイスティック]](XE-1)をセットにしたパッケージが用意され、他にもMSXなどで普及した規格のジョイスティックの多くが利用できた。X1Gではファミコンのコントローラーに使用感の近いもの(CZ-8NJ1)が標準添付された。 === I/O空間の利用 === Z80は、[[8080]]では8ビットだったI/O空間を16ビットの空間として利用できるように仕様が拡張された{{efn2|Z80の正式な仕様でZilogの[http://www.zilog.com/docs/z80/um0080.pdf Z80ユーザマニュアル]ではOUT命令の説明ページに記述されている。}}。X1シリーズではこの仕様を利用し、メインメモリをバンク切り替えなどによってVRAMに割り当てる当時の一般的な実装ではなく、I/O空間に直接[[VRAM]]をマッピングした。 この実装は同じくZ80を採用した[[ソニー|SONY]]の[[SMC-70]]や[[SMC-777]]などでも用いられており、メインメモリー空間のバンク切り替えを用いることなく常に64KBのメインメモリー空間と48KBのVRAM空間にアクセス可能なメリットがあった。また、初代X1と同世代である[[PC-8801]]では、テキストVRAMをメインメモリに置きDMACにより転送することから、バス調停によるメモリアクセスウェイトが存在したため、相対的にX1はメインメモリのアクセスが高速でもあった。 その反面、[[直交性]]の低い当時の[[CISC]] CPUではI/O空間へのアドレス指定に煩雑な面が存在し、またメモリー空間と比較して読み書きに要するステート数が多いといったデメリットも存在した。加えてVRAMの配列が特殊な並びになっていることによるアドレス計算の煩雑さなどから、グラフィックス制御そのものは扱いやすいとは言い難かったが、[[サイクルスチール]]回路の導入や独立したテキストVRAM回路の設計など、システム速度の足を引っ張らない工夫がされていた。 同じパターンが書き込まれてしまうため実質画面クリアにしか利用できないものの、全3プレーン同時アクセスも可能になっている。 === クリーン設計とIPL-ROM === 電源投入直後、最初にIPL (Initial Program Loader) が起動し、FDD、拡張ROMボード、CMTの順にブートを試みる。それらの応答がない場合やユーザー操作によるキャンセルによりメニュー画面に切り替わり、ブートするデバイス3つとテレビタイマーのエディタの計4つから選択する画面へと遷移する。 基本設計は同社のMZシリーズ同様、本体にROMでシステムプログラムを直接を持たない、[[MZ (コンピュータ)#クリーン設計|クリーン設計]]になっている。MZとよく似た仕組みでありながら、X1のIPLでは読み込み時はROM、書き込み時はRAMにCPUがアクセスするようにし、Z80のメインメモリのフルサイズである64KiBのデータを一度にRAMへ書き込む事を可能にしている。 初期の本体に標準搭載された二次記憶装置は[[データレコーダ]]のみであり、標準の構成では当時の一般的なシステムであったBASICの起動まで数分を要するというデメリットがあった。しかし、FDDと[[DISK-BASIC]] (CZ-8FB01) の利用や、拡張ボードとしてあらかじめBASICの書き込まれたROMを搭載したCZ-8RB01等の利用により、その時間を短縮することが可能だった。ROMボードを用いた場合でも直接メモリ空間にマッピングされるのではなく、IPLによってボード上のデータがRAMに展開されてから起動した。 本体内蔵のデータレコーダーの速度は2700[[ビット毎秒|bps]]で、同時期の競合製品の2〜3倍という転送速度を誇り、同社MZシリーズの一部に由来する電磁制御の可能なデッキはプログラムで頭出しやデッキオープンなどの制御が可能になっている。これらの機能を活かすことで、競合機種ではFD版のみで提供されたソフトが、X1では廉価なテープ版でも提供されることが多い傾向にあった。但し、フロッピーディスクと比較した場合高速とは言いがたいシーケンシャルデバイスのテープ版のゲームがFD版と同様の快適さで遊べるかどうかは別問題であり、テープ版ではデータを減らすために仕様が異なる実装のゲームもあった。 比較的初期のX1D(第3世代)に標準搭載された3インチフロッピーディスク{{efn2|日立製作所、日立マクセル、松下電器産業が開発した純国産規格。Compact Floppy Diskとも。外見的特徴としては、長方形でジャケットの内側に保護用のシャッターがある。}}が国際的にも(8インチFDに代わり)大幅にシェアを伸ばした5.25インチミニフロッピーディスクに押され、X1D及び外付け3インチFDDは廃止、X1turboの登場時に5インチFDDを採用するといった紆余曲折や、純正FDDの価格が高価だったことなどの要因があり、FDによるソフトウェア資産が出そろうのを遅らせ、カセットテープとFDで分散、あるいは両方の媒体で提供されることとなった。 これらはMZシリーズでも同様の傾向があり、標準搭載のデバイスがデータレコーダの時期が長く、割高なFDDへの移行は緩やかなものとなっていた。 === リセットボタン === X1turbo発売以前のX1シリーズには、NMIリセットボタンのみしか装備されていなかった。NMI (Non Maskable Interrupt) リセットは、Z80 CPUに強制割り込み信号を送り特定のアドレスにジャンプさせるもので、ホットリセットを行う目的がある。X1ではそれを積極的にリセットスイッチとして利用した。しかし、ジャンプ先アドレスはZ80の仕様として0x0066番地で固定されており、市販のソフトウェアでNMIリセットを行うと、リセットを想定していないソフトウェアではフリーズしてしまうなど意図しない動作を起こす。これを逆手に取り、NMIリセットのジャンプ先に故意に裏技となるものを仕込んでおくゲームも見られた。 X1turbo及びX1Fより、[[ブート|IPL]]リセットボタンが追加された。これは電源投入時とほぼ同じ挙動をさせ、IPLを呼び出す再起動用のリセットボタンである。リセット時に明示的にメモリがクリアされることは無いため、起動時に利用されない空間の内容については保持されている。 === その他基本仕様 === [[CPU]]には[[Z80|Z80A]](クロック4MHz)を採用し、割り込みは強力なモード2を使用した。ただし内部割込みはキー入力のみで、タイマ割り込みなどはなかった。 サブCPUとして80C49を搭載し、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]内の[[Intel 8048|80C48]]との通信や[[データレコーダ]]の制御などに使用した。シリアル通信を採用したことに関連し、設計上キーマトリクスの取得ができず、Shiftなどを除きキーの同時押しは検知できなかった。キーボード分離型では接続コネクタに3.5mmの[[フォーンプラグ|3極ミニフォーンプラグ]]を使用していた。 シャープと[[ハドソン]]の共同開発による [[Hu-BASIC]] が標準添付された。当時の水準では柔軟な記述を許容するなど、扱いやすく高機能なものだった。しかし、塗りつぶしなど一部の描画ルーチンの最適化が甘かったためグラフィック描画の遅さが目立ち、またFD版でなくとも毎回テープから起動する必要があったことと相まって、「X1は遅い」という誤解を招くことになった。ただし、塗りつぶし処理以外は当時の水準程度またはそれ以上の性能を備えていた。 一方、X1Fとともに登場した NEW BASIC (Hu-BASIC V2.0) は、X1turboの開発時に得たノウハウをフィードバックし、グラフィック描画性能を大幅に向上させ、漢字も扱いやすくなっていた。そして、クリーン設計ゆえにこの新しいBASICは初代X1までさかのぼって使用が可能であり、これをもって「Xシリーズは5年間その基本設計を変えない」(互換性を維持し、製品を販売する)とする販売姿勢の証左とされた。 X1シリーズはモデルチェンジを重ねつつも、基本仕様はオプションの標準装備化を進めた程度で上位互換性を保ち、オプションを追加しさえすれば初代機のX1でも長期間現役機として使用することができた。しかし、初代発売の2年後(1984年11月)に[[上位互換]]のX1turboが発売され、1987年後半頃には新規発売されるソフトウェア、とくにゲームはturboシリーズのみ対応のものが大半になった。このように、実際の市場動向としては、初代のX1(あるいはX1シリーズ)が5年間完全に現役でいられたわけでも、コンシューマーゲーム機のように単一プラットフォームとして機能していたわけでもない。 === X1シリーズの系譜 === ;X1(CZ-800C/1982年11月) :X1の初代機。X1C・D の発売時に「マニアタイプ」あるいは「スタンダードタイプ」という愛称が付けられた。本体色はローズレッド (R)、スノーホワイト (W)、メタリックシルバー (S) の3色。本機種のみグラフィックRAM (G-RAM) はオプション。また、拡張I/Oポートもオプションだった。価格は155,000円。本体+専用ディスプレイテレビ+G-RAMで合計30万円の設定だった。 ;X1C(CZ-801C/1983年10月) :本体・キーボード一体型で、プロッタプリンターが内蔵可能。拡張I/Oポートは専用バスに接続するタイプの外付けオプションが用意された。愛称「アクティブタイプ」。本体色はローズレッド、シルバーメタリックの2色。グラフィックRAM48Kbyte内蔵、外部記憶用として利用可{{Sfn |ASCII 1983年12月号 |p=101}}。価格は119,800円。 ;X1D(CZ-802C/1983年10月) :[[フロッピーディスク#その他の規格|3インチ]]FDD1基を搭載した機種{{Sfn |ASCII 1983年12月号|p=101}}。後に発売されたX1専用データレコーダーを接続しても頭出し制御などのコントロールを本体から行うことが出来ず、テープ版ソフトウェアの使用に支障を来たした。キーボードはマニアタイプと同様で、カセットコントロールキーが廃されている点のみ異なる。FDCのI/F仕様も後期シリーズとは違い、5インチFDDを増設しても動作しないソフトがあった([[ハイドライドシリーズ#ハイドライドII|ハイドライドII]]など)。他にもパレットポートの実装が異なり、[[リバーヒルソフト]]の[[J.B.ハロルドシリーズ|マンハッタンレクイエム]]など、画面が異常な色になるソフトが多数存在した。愛称「プロフェッショナルタイプ」。本体色はローズレッド、シルバーメタリックの2色。グラフィックRAM48Kbyte内蔵、外部記憶用として利用可{{Sfn |ASCII 1983年12月号 |p=101}}。価格は198,000円。 ;X1Cs(CZ-803C/1984年7月) :X1Cのプロッタプリンタ用スペースに拡張用I/Oポートを2基内蔵したもの。本体色はローズレッド、シルバーメタリックの2色。価格は119,800円。 ;X1Ck(CZ-804C/1984年7月) :X1Csに漢字ROMを搭載したもの。価格は139,800円。 ;X1F(1985年7月) :turbo開発時のノウハウをフィードバックした NEW BASIC (CZ-8CB01/8FB01 V2.0) を搭載。これ以降、FDD搭載モデルには漢字ROM(第一水準)が標準装備された。デザイン等は微妙に異なるが、turboと同タイプの薄型キーボードになった。本体色はローズレッド (R)、オフィスグレー (E) の2色。turbo発売以降初のX1であり、従来のNMIリセットボタンの他、turboと同じIPLリセットボタンが装備された。FDDを2台標準搭載したモデルは用意されなかった。 :*model10 (CZ-811C) : データレコーダー内蔵。価格は89,800円。 :*model20 (CZ-812C) : 5インチ (2D) FDD×1基内蔵、オプションでさらに1基内蔵が可能。なお、ローズレッドのFDDインジケータの色は緑。外付け用FDDインターフェース搭載。価格は139,800円。 ;X1G(1986年7月) :縦置き可能な筐体を採用。本体色はブラック (B) とオフィスグレー (E) の2色。ファミコンと同タイプのX1ロゴ付き十字型ジョイカードを同梱。キーボードがこれまでのメカニカル方式からメンブレン方式に変更。FDD一台搭載というモデルは用意されなかった。デジタルテロッパー内蔵のX1turboシリーズ以外では初めて、ビデオ出力端子を装備。 :*model10 (CZ-820C) : データレコーダー内蔵。価格は69,800円。 :*model30 (CZ-822C) : 5インチ (2D) FDD×2基内蔵。X1F model20にあった外付け用FDDインターフェースが省かれている。価格は118,000円。 ;X1 twin(CZ-830C/1987年12月) :「これがX1誕生5年目の解答です。」というキャッチフレーズで宣伝された、X1シリーズの最終機種<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=X1誕生から5年という節目に登場したシリーズ最後の機種「X1twin」 |url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1195580.html |website=AKIBA PC Hotline! |date=2019-07-16 |access-date=2023-08-02 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。パソコンとしてのX1互換のシステムと、ゲーム用の「ホームエンターテイメントシステム」(HEシステム)を1つの機体に内蔵したハイブリッド機。実質的にはX1と[[PCエンジン]]([[日本電気ホームエレクトロニクス]]から1987年10月に発売された、HEシステム規格に準拠したゲーム機)の一体機であるが、「PCエンジン」の名称は日本電気ホームエレクトロニクスの登録商標であるため、X1 twinにおいてはあくまで「HEシステム」の名称が使われている。X1部分とHEシステム部分は同時に起動でき、専用ディスプレイテレビを使用するとスーパーインポーズで重ね合わせて画面を見ることができた<ref name=":0" />。なお、[[テラドライブ]]と違いX1部分とHEシステム部分は相互のアクセスや連携が一切できない仕組みとなっており、電源とビデオ出力を共有したのみの中途半端な機種と受け止められた。 :5インチ (2D) FDD×1基搭載。本体色はブラック (BK) のみ。価格は99,800円。本体前面にX1twinとエンボス加工されている。キーボードのロゴもこれまではX1ロゴのみだったのに対し、X1twinのロゴが金文字プリントされている。1988年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/14992 受賞番号:63H0598]</ref>。 X1C以降、C, D, F, Gと連番のようになっているが、Eは抜けている。なお、turbo発売時の、Oh!MZには、X1Es,X1Ekなる性能強化機種の噂情報が載っている。この記事に関係して混乱を避けるためにEを飛ばしたか、あるいはturbo自体が「E」にあたる可能性もある。 ==== 非公式モデル ==== ;X1R(1984年) :X1Dをベースにハドソンが高速化改造したもの。一般向けに市販や改造サービスが提供された形跡はないが、マイコンショウ'84での展示や雑誌で紹介されたことがある。 :CPUをZ80Hに換装し、メモリを高速なSRAMに交換するなどにより、倍速の8MHzで動作する。テープの読み込み等のソフトウェアでタイミング制御している部分は非互換になっていた。 :「X1R」のエンブレムが取り付けられていたが、Rの文字はSKYLINE GT-Rを思わせる赤いものだった。ボディカラーはそれまでのカラーバリエーションには存在しない黒だった。 ;X1DX(1985年12月) :X1Dに外付けカセットレコーダ (CZ-8RL1) を接続可能にするため、サブCPUの信号を電磁メカコントロールできるように電子回路を付け加える改造を[[祝一平]]が行ったもの。Oh!MZに掲載。同様の事をサブCPUの交換で実現した月刊マイコンの記事も存在する。 ;X1DII(1986年2月) :X1Dに5インチFDドライブを接続して市販ソフトを使用できるよう、祝一平が改良を加えてOh!MZの記事としたもの。 == X1turboシリーズ == '''X1turbo'''(エックスワン ターボ)は、X1の上位機種として[[1984年]]10月に発売された。 X1シリーズとソフトウェア・ハードウェアともモード切替を必要としない完全上位互換を維持しながら、機能の改善、並びに拡張が行なわれ、Z80ファミリの[[CTC]]・[[Direct Memory Access|DMA]]・[[SIO]]が揃って搭載されていた。 赤、シルバー、ホワイトを基調に展開されてきた同シリーズであるが、1985年11月に登場した'''X1turbo II'''にはX1発売3周年の特別限定色として黒色が設定され、それが好評であったため、この機種以降は黒色がX1/turboシリーズの標準色となった。 高い互換性を持つ上位機種であるX1turboは、下位機種のX1の性能が比較的優れたものだったことから、専用のソフトウェアがなかなか出揃わないというジレンマも抱えることとなった。また、X1twinに至るまでノーマルX1シリーズの販売は続き、末期になるとturbo専用が中心となったにもかかわらずノーマルX1が併売されるという新たなジレンマとなった。 パソコンとしての基本性能を下記の様に向上させてはいるが、ホビーマシンに重視されるオーディオ・ビジュアルの面での標準搭載による進化が他機種に比べ少なかった。X1turbo登場後、ライバル機がモデルチェンジを重ね、FM音源搭載やその拡張による音響表現の強化やアナログRGB搭載による多色表示化を進める中で、X1シリーズでこれらが標準で搭載されるのはX1turboZ発売まで待たなければならなかった。これは、X1が発売当初からホビー指向でオーディオ・ビジュアル面での基本性能が初めからある程度高かったことに甘んじた結果と言えるが、このことがホビー指向を強化してきた他機種に水をあけられる要因の一つとなっている。 X1turboのturboは、自動車のターボをふまえたものであるが、tはtailored machineでユーザに合ったマシン、uはup versionでこれからの成長、rはresolutionで高解像度、boはbussiness orientedでビジネス向きという、別の意味が含まれている{{sfn|それ行け!X1 VOL.15|1987|p=11}}。 === 従来機種からの拡張 === ==== 表示機能の強化 ==== X1turboシリーズでは、従来の表示モードに加え、640×400ドット・8色のグラフィック機能を搭載した。垂直400ライン表示が追加されたことで水平同期周波数は従来の15kHzに加え、24kHzモードが追加された。24kHz動作時は専用モニタに「ハイレゾモード」ランプが点灯する。また、24kHzモードの200ライン表示時も可能であった。ただしデジタルRGB出力のままであり、色数は8色だった。 ハードウェア制御のタイミングも改善され、垂直帰線期間にしかできなかったPCGなどへのフォントデータへのアクセスを水平帰線期間にも可能になった。 しかし、各プレーンに対し同時書き込みが可能な機能をX1から継承したものの、I/O空間にVRAMがありアドレスの計算が煩雑な配置になっていること、描画支援をハードウェア的に持っていないことは、競合機種に対してG-RAMに対するアクセス速度の点で大きく差を付けられる原因となった。 ==== 漢字テキストVRAMの搭載 ==== 水平同期周波数24KHzモードのサポートと共に、ハードウェア的にROM上の日本語フォントをテキスト画面と同様に扱い、画面上に展開する漢字テキストVRAMを搭載。40×25行の高速漢字表示を実現した。グラフィックス画面にソフトウェアでフォントを展開・合成する処理に比べ、キャラクタコードの書き込みのみで日本語表示が可能であったため、8ビット機でありながら16ビットパソコンにも比肩しうる日本語処理を可能にしていた{{efn2|同様の仕組みを持つ機種は8ビット機では少なく、[[MZ-2500]]など一部に限られた。}}。この実装は構造上、CG-ROMにフォントを持つ必要があり、初期はJIS第1水準漢字ROMのみ搭載されていたが、JIS第2水準漢字ROMの発売を経てこちらも標準搭載されるようになった。 === 機能の改善 === キーボード横にスライドスイッチが設けられ、「A/Bモード」切り替えが追加された。Aモードは従来互換のものである。Bモードはカナ入力が[[JIS配列]]から50音配列に変わるほか、マニュアルには記載されていないが従来不可能だった同時キー入力が可能になっている。 また、タイマなどの割り込み要因を増加させ、DMAの追加によってCPU自体の仕事量を軽減し、VRAMやFDDへのアクセスが並行して出来るようになった。 メモリについても、Z80の制限である64KiBを超える空間を取り扱うためバンクメモリがサポートされた。しかし、グラフィックスVRAMはI/O空間に据え置かれたため、メモリ空間に置かれることのメリットであるアドレッシングモードの豊富さ、自由度、アクセス速度は享受できないという制限は同様であった。 === BIOS ROMの搭載 === X1シリーズはクリーン設計の基、本体に[[Basic Input/Output System|BIOS]]を持たず、起動時にIPLによって読み込まれるようになっていた。シャープはIPLによって読み込まれるBIOSを'''IOCS'''と呼んでいたが、X1turboシリーズでは本体にローレベルな処理を定義したBIOS ROMを搭載し、呼称も'''BIOS'''に改められた。IOCSとBIOSに完全な互換性はなく、BIOSコールを使用するアプリケーションはX1turboシリーズ専用となる。 なお、これによりturbo BASICではIPL・BIOSのワークエリアが拡張されたため、BASICと[[機械語]]を併用したプログラムでは機械語部分のアドレスがこのワークエリアにかかるものはturbo BASIC上では動かない。その場合はX1のBASICを用いる事で動作させることが可能である。 === X1turboシリーズの系譜 === ;X1turbo(1984年10月) :X1turboの初代機。本体色はローズレッドとオフィスグレーの2色で、いずれもFDD・電源ボタンとその周辺はブラック。専用ディスプレイテレビ(リモコン付き)は200ラインと400ラインの自動切換え機能を世界で初めて搭載した。 :*model10 (CZ-850C) : データレコーダーを内蔵し、カセット版のturboBASICが付属する。標準二次記憶装置がCMTになっているだけではなく、当時のライバル機PC-8801mkII model10に価格的に対抗するため、ディスクI/F、シリアルI/F、マウスI/F、デジタルテロッパ等が削除されている。また、グラフィックRAMは48KiBになっており、オプション (CZ-8BGR2) で増設可能になっている。1983年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/11892 受賞番号:60K0976]</ref>。価格は168,000円。 :*model20 (CZ-851C) : 5インチ (2D) FDD×1基内蔵。1983年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/11893 受賞番号:60K0977]</ref>。価格は248,000円。 :*model30 (CZ-852C) : 5インチ (2D) [[フロッピーディスク|FDD]]×2基内蔵。1983年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/11894 受賞番号:60K0978]</ref>。価格は278,000円。 ;X1turbo model40(CZ-862C/1985年7月) :X1turbo model30からテレビ制御関係の機能を削除してコストダウンを図ったビジネス仕様機。本体色はオフィスグレーのみで、FDD・電源ボタンとその周辺も同色となった。システムユーザー辞書同梱。1983年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/11895 受賞番号:60K0979]</ref>。価格は258,000円。 ;X1turbo II(CZ-856C/1985年11月) :X1turbo model30と同仕様の廉価モデル。本体色は限定色のブラックとオフィスグレーの2色。本体背面インターフェースの配置がturboと微妙に異なる。また,スピーカーの位置が本体下部から本体左側面へ移された。日本語百科ワードパワーとターボ博士レキシコンを同梱。価格は178,000円。turbo II用第二水準漢字ROMが同時発売された。 ;X1turbo III(CZ-870C/1986年11月) :turbo IIのFDDを[[フロッピーディスク#3.5インチフロッピーディスク各形式の詳細|2HD / 2D]]両対応に変更したモデル。本体前面のデザインがturboZ同様の物に変更された。JIS第2水準漢字ROMを標準搭載する。本体色はブラックとオフィスグレーの2色。システムユーザー辞書を同梱。FDDのインジケーターランプは2Dモード時がこれまでと同じ赤、2HDモード時がグリーンだった。価格は168,000円。 == X1turboZシリーズ == 1986年12月には、わずか1カ月前に登場した turbo III にAV機能を強化したX1の最上位シリーズである'''X1turboZ'''(エックスワン ターボ ゼット)が[[X68000]]と同時に発表された。これ以降turboシリーズはturboZシリーズに集約されることとなった。 === 強化された表現機能 === 従来デジタル8色の出力のみであった表示機能が強化され、4096色同時表示可能なグラフィック機能とアナログRGBパレット(コネクタはD-Sub15ピン)、ハードウェアスクロール、ビデオキャプチャやモザイク機能などを追加した。但し、他の機種がVRAMの制御に専用のコントローラやサブプロセッサによる描画のサポートをさせたり、ALUなどによってVRAMへのアクセス処理そのものの軽減を周辺チップによってはかったのに対し、turboZでもそれらの仕組みは導入されなかった。そのため、多色描画が可能である反面、4096色モードでは1ピクセルの描画に実に12回ものアクセスが必要という処理量の増加が見られた。デジタイズされた画像の表示など用途によっては表現力の向上があったものの、動きを要するような処理には多色モードは利用しにくかった。 サウンドはオプションであったステレオ8チャンネルの[[FM音源]]である[[YM2151]]を標準搭載。入力クロックはチップ規定の値ではなくCPUクロックと同じ4MHzが使われているため、チップの本来の設計とは若干異なる波形を生成する。従来機種では内蔵音源であるPSGとのミキシングがサポートされていなかったが、本機で内蔵されることにより、標準状態でミキシングされた出力を得られるようになった。 また、マウスが標準装備となっている。X1turboZIIおよびZIIIでは、CRTCが上位互換のMB89321Bに変更されている。 X1turboZII以降にはZ-BASICが標準添付され(X1turboZでは別売)、これらの機能はBASICからも利用が可能になっていた。 turboZシリーズに標準搭載されたFM音源やアナログRGBは後発だっただけに、いくつかの点で競合する他機種よりカタログスペック上は優れていた。しかし、こうしたAV機能の進化が他機種に比べて遅れ気味だったこと、CPUクロックが据え置きであり処理を軽減する仕組みが導入されなかったこと等により、その機能をフルに使った専用アプリケーションはほぼ発売されなかった。また他機種より優れていたがゆえに互換性が低い問題があった。これはソフトウェア移植の障害となり、移植されてもそれらの機能が十分活用されないことにもなった。オプションだった機能を引き継いだFM音源はYs2の様に左右に音を振るなどのステレオ対応がされたほか、後期のソフトウェアでパッケージやマニュアルに記載されていないものの、非公式でturboZシリーズで実行した際はアナログパレットを使用するユーフォリーなどのソフトウェアはあったものの、機能の活用は限定的であった。 こうしてX1がturboZとなりいかに機能改善を図ろうとも、X68000の圧倒的性能の前には存在感が霞んでしまい、X1turboZ専用ソフトはほとんど発売されないまま、X1シリーズの流れはX68000シリーズへ継承されていった。 === X1turboZシリーズの系譜 === ;X1turboZ(CZ-880C/1986年12月) :turboZ初代機。本体色はブラック (B) とオフィスグレー (E) の2色。価格は218,000円。当初、専用ディスプレイTVはX68000兼用のCZ-600Dだったが、後にCZ-880Dが発売された。1987年度グッドデザイン賞受賞<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/14040 受賞番号:62H0672]</ref>。 ;X1turboZ II(CZ-881C/1987年12月) :turboZに拡張[[Random Access Memory|RAM]] 64KBを追加した機種。本体色はブラック (BK)のみ。NEW Z-BASIC (CZ-8FB03) が同梱され、これまで本体同梱の専用ソフト上でしか扱えなかったturboZシリーズのAV機能が、BASIC上で制御可能になった<ref>{{Cite web|和書|title=“NEW Z-BASIC”が同梱され多色モードに対応した「X1turboZII」 |url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrohard/1349664.html |website=AKIBA PC Hotline! |date=2021-09-15 |access-date=2023-08-02 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。NEW Z-BASICは拡張RAM同梱でturbo/Z用のオプションとして発売された{{efn2|turboシリーズでも使用可能で、FM音源ボードがBASIC上で制御可能になる。}}。本体色はブラックのみ。価格は179,800円。 ;X1turboZ III(CZ-888C/1988年12月) :X1/turbo/turboZ全シリーズ通じての最終機種。本体色はブラック (BK)のみ。カタログスペック上はturboZ IIから外付用FDD、デジタルRGBディスプレイ、専用データレコーダ端子が廃されて廉価になった機種となっている。ただし、実装部品はVRAMの容量が倍になっているなどドキュメントや仕様表にない機能の違いも見られる。FM音源とPSGのミキシングつまみも廃止され、単一のボリュームつまみで両音源の音量調節をする仕様になった。本体色はブラックのみ。価格は169,800円。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Citation |和書 | year=1987 | date=February 1 1987 | author=企画/監修 シャープ株式会社電子機器事業部システム機器営業部 | periodical=それ行け!X1 VOL.15 | | title=特集X1年代記 | volume=15 | publisher=AZビジコム株式会社『それ行け!X1』編集室}} *{{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年12月号 |volume=7 |issue=12 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-12-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年12月号}} }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} * [[X68000]] - 実質の後継シリーズ。互換性はない。 * [[MZ (コンピュータ)]] - 同社の別部署が展開したシリーズ。基本設計に影響を受けている。 * [[Oh!X]] - 活用例、情報などが掲載された、SHARPユーザをメインの対象とした雑誌。創刊時の誌名はOh!MZ。特集記事で本シリーズの型番からOh!CZという記事がかかれたこともある。 * [[:Category:X1用ゲームソフト]] - X1用のゲームソフトのカテゴリ。 {{シャープ}} {{デフォルトソート:えつくす1}} [[Category:シャープのパーソナルコンピュータ]] [[Category:1980年代の玩具]] [[Category:1982年のコンピュータゲーム]] [[Category:グッドデザイン賞]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/X1_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF)
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はっぴいえんど
はっぴいえんど (英語: HAPPY END) は、日本のロックバンド。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された。日本語ロック史の草創期に活動したグループの一つ。 バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を歌詞に取り入れて日本語ロックを構築した。第2回全日本フォークジャンボリー、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。 松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し「この曲がなければ『はっぴいえんど』はなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている。 細野晴臣は、メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観がバンドの音楽性にも影響を与えていると述べている。 サウンド面においては、アメリカのバッファロー・スプリングフィールドなどの影響を受けていた。もっとも1960年代末から1970年代初頭には、日本でもすでにハードロックやプログレッシブ・ロックが注目されていたが、1970年の洋楽専門雑誌では特集で彼らが回顧されていた。しかし、ブリティッシュロックが人気だった当時の日本でフォークソングやフォークロックの音楽性を標榜したのは、「日本のロック」を作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったためで、また細野がアメリカ音楽の影響を強く受けていたこともある。当初大瀧詠一と細野晴臣は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞を付けるという松本の提案に反対した。 はっぴいえんどが取った方向性やその音楽性は、後に続く日本のロックバンドに大きな影響を与え、乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンス等の後継者を生んだ。また松本が長らく作詞を担当した松田聖子の曲は大瀧・細野・鈴木が作曲した曲が数多くあり、はっぴいえんどの方向性や音楽性は松田にも受け継がれている。 遠藤賢司、岡林信康、加川良、高田渡、小坂忠らのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音等を行っている。 代表曲の「風をあつめて」は、2003年のアメリカ映画『ロスト・イン・トランスレーション』と2009年の日本映画『おと・な・り』の他、漫画『うみべの女の子』でそれぞれ取り上げられた。 2013年12月30日、メンバーだった大瀧詠一が自宅で夕食後、リンゴを食べている最中に倒れ、解離性動脈瘤により死去。葬儀には細野、鈴木、松本が参列し、出棺時は三人が棺を担ぎ、大瀧を弔った。 2021年11月5日・6日、松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト『風街オデッセイ2021』と冠したコンサートが日本武道館にて開催され、細野、松本、鈴木の三人が36年ぶりに“はっぴいえんど”として出演。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を演奏した。
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はっぴいえんど は、日本のロックバンド。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂によって結成された。日本語ロック史の草創期に活動したグループの一つ。
{{otheruses|音楽グループ|同グループのデビューアルバム|はっぴいえんど (アルバム)|[[サザンオールスターズ]]の楽曲|葡萄 (アルバム)}} {{出典の明記|date = 2021年4月}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = はっぴいえんど | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = band | 別名 = ヴァレンタイン・ブルー(旧名) | 出身地 = {{JPN1947}}・[[東京都]][[千代田区]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=Leon |last=Jackson |title=Happy End {{!}} Biography & History |class=artist |id=happy-end-mn0000553375/biography |accessdate=2020-12-12 }}</ref>|[[フォークロック]]<ref name="allmusic" />|[[サイケデリック・ミュージック|サイケデリア]]<ref name="allmusic" />}} | 活動期間 = {{Plainlist| * {{Start date|1969}} - {{End date|1972}} * {{Start date|1973}} * {{Start date|1985}} * {{Start date|2021}} }} | レーベル = {{Hlist-comma|[[アングラ・レコード・クラブ|URC]]|[[ベルウッド・レコード|Bellwood]] ⁄ [[キングレコード|KING]]}} |事務所 = {{Plainlist| * '''マネージメント''' * 風都市{{small|({{Start date|1969}} - {{End date|1973}})}} * '''音楽出版''' * アート音楽出版{{small|({{Start date|1969}} - {{End date|1972}})}} * [[シンコーミュージック・エンタテイメント|新興楽譜出版]]{{small|({{Start date|1972}} - {{End date|1973}})}} }} |共同作業者 = {{Plainlist| * [[小倉エージ|小倉栄司]](ディレクター){{small|({{Start date|1969}} - {{Start date|1970}})}} * [[三浦光紀]](ディレクター){{small|({{Start date|1971}} - {{End date|1973}})}} * 石浦信三(マネージメント){{small|({{Start date|1971}} - {{End date|1972}})}} }} |公式サイト = |旧メンバー = {{Plainlist| * [[細野晴臣]]([[ボーカル]]・[[エレクトリックベース|ベース]]・[[ギター]]・[[キーボード (楽器)|キーボード]]) * [[大瀧詠一]](ボーカル・ギター) * [[松本隆]]([[ドラムセット|ドラムス]]・[[パーカッション]]) * [[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]](ギター・ボーカル) }} }} '''はっぴいえんど''' ({{Lang-en|''HAPPY END''}}) は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]。[[細野晴臣]]、[[大瀧詠一]]、[[松本隆]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]によって結成された。[[日本語ロック論争|日本語ロック史]]の草創期に活動したグループの一つ。 == 概要 == バンドの[[作詞]]担当だった[[松本隆]]が、[[ダブルミーニング]]等の技法を歌詞に取り入れて[[日本のロック#「日本のロック」の誕生|日本語ロック]]を構築した。[[全日本フォークジャンボリー|第2回全日本フォークジャンボリー]]、[[第3回全日本フォークジャンボリー]]にも出演した。 松本は後年、[[ジャックス (バンド)|ジャックス]]の楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けたことを公言し「この曲がなければ『はっぴいえんど』はなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている<ref>{{Cite book |和書 |title=TJ MOOK 聴け! 伝説の日本ロック1969-79 |publisher=[[宝島社]] |year=2004 |isbn=4-7966-3862-8 |page=32 }}</ref>。 [[細野晴臣]]は、メンバーは[[宮沢賢治]]に影響を受けており、その世界観がバンドの音楽性にも影響を与えていると述べている<ref>劇場版アニメ『[[銀河鉄道の夜]]』[[レーザーディスク|LD]]解説書の細野の発言から。</ref>。 サウンド面においては、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[バッファロー・スプリングフィールド]]などの影響を受けていた<ref>{{Cite web|和書|author=北中正和 |title=はっぴいえんどの名曲「風をあつめて」はスタジオの廊下で生まれた |url=https://tokyo.whatsin.jp/69298 |website=WHAT's IN? tokyo |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |date=2017-03-05 |accessdate=2021-04-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412151257/https://tokyo.whatsin.jp/69298 |archivedate=2020-04-12 |deadlinkdate=2021年8月 }}</ref>。もっとも[[1960年代]]末から[[1970年代]]初頭には、日本でもすでに[[ハードロック]]や[[プログレッシブ・ロック]]が注目されていたが、1970年の[[洋楽]]専門雑誌では特集で彼らが回顧されていた。しかし、ブリティッシュロックが人気だった当時の日本で[[フォークソング]]やフォークロックの音楽性を標榜したのは、「日本のロック」を作るためにはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあったためで、また細野がアメリカ音楽の影響を強く受けていたこともある。当初[[大瀧詠一]]と細野晴臣は音楽性を重視していたため、ロックに日本語の歌詞を付けるという松本の提案に反対した。 はっぴいえんどが取った方向性やその音楽性は、後に続く日本のロックバンドに大きな影響を与え、[[乱魔堂]]、[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]等の後継者を生んだ。また松本が長らく作詞を担当した[[松田聖子]]の曲は大瀧・細野・鈴木が作曲した曲が数多くあり、はっぴいえんどの方向性や音楽性は松田にも受け継がれている。 [[遠藤賢司]]、[[岡林信康]]、[[加川良]]、[[高田渡]]、[[小坂忠]]らの[[バックバンド]]としても、コンサートやスタジオ録音等を行っている。 代表曲の「風をあつめて」は、2003年のアメリカ映画『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』と2009年の日本映画『[[おと・な・り]]』の他、漫画『[[うみべの女の子]]』でそれぞれ取り上げられた。 2013年12月30日、メンバーだった大瀧詠一が自宅で夕食後、リンゴを食べている最中に倒れ、[[動脈瘤|解離性動脈瘤]]により死去。葬儀には細野、鈴木、松本が参列し、出棺時は三人が棺を担ぎ、大瀧を弔った。 2021年11月5日・6日、松本隆 作詞活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト『風街オデッセイ2021』と冠したコンサートが[[日本武道館]]にて開催され、細野、松本、鈴木の三人が36年ぶりに“はっぴいえんど”として出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPC862Q9PC8UCVL01J.html?iref=pc_photo_gallery_bottom|title=はっぴいえんど、松本隆50周年公演で復活 日本語ロックへ開いた道|publisher=朝日新聞デジタル|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-09}}</ref>。「花いちもんめ」「12月の雨の日」「風をあつめて」の3曲を演奏した。 == メンバー == * [[細野晴臣]](ほその はるおみ [[1947年]][[7月9日]] - )- [[ボーカル]]、[[エレクトリックベース|ベース]]、[[ギター]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、[[作曲]] *: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[白金 (東京都港区)|白金]]出身。 * [[大瀧詠一]](おおたき えいいち [[1948年]][[7月28日]] - [[2013年]][[12月30日]])- [[ボーカル]]、[[ギター]]、[[作曲]] *: [[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](現:[[奥州市]])出身。 * [[松本隆]](まつもと たかし [[1949年]][[7月16日]] - )- [[ドラムセット|ドラムス]]、[[パーカッション]]、[[作詞]] *: 東京都港区[[青山 (東京都港区)|青山]]出身。 * [[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]](すずき しげる [[1951年]][[12月20日]] - )- [[ギター]]、[[ボーカル]]、[[作曲]] *: 東京都[[世田谷区]]出身。 == 年表 == === 1969年 === * 3月、“[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]”結成。 * 9月27日、エイプリル・フール、アルバム『[[APRYL FOOL (アルバム)|APRYL FOOL]]』発売。 * 9月、はっぴいえんどの前身“ヴァレンタイン・ブルー”結成。 * 10月、エイプリル・フール解散。 * 10月28日、ヴァレンタイン・ブルー、デビュー・ライブとなる“ロックはバリケードをめざす”(全電通ホール)に出演。 === 1970年 === * 3月6日、[[遠藤賢司]]『niyago』レコーディングに参加。 * 3月、ヴァレンタイン・ブルー、バンド名を“はっぴいえんど”に改名。 * 3月23日、[[岡林信康]]『[[岡林信康アルバム第二集 見るまえに跳べ]]』レコーディングに参加。 * 4月、アルバム『はっぴいえんど』レコーディング。 * 4月12日、“ロック叛乱祭”に出演([[文京公会堂]])。 * 8月5日、アルバム『[[はっぴいえんど (アルバム)|はっぴいえんど]]』発売。 * 8月8日、“第2回[[全日本フォークジャンボリー]]”出演。 * 10月、岡林信康とのコンサート・ツアー開始。 * 12月1日、“[[岡林信康コンサート]]”をライヴ録音。 === 1971年 === * 1月16日、[[高田渡]]『ごあいさつ』レコーディングに参加。 * 4月1日、シングル「[[12月の雨の日/はいからはくち|12月の雨の日 / はいからはくち]]」発売。 * 4月10日、[[加川良]]『教訓』レコーディングに参加。 * 4月14日、“加橋かつみコンサート”出演。 * 5月7日、アルバム『風街ろまん』レコーディング開始。 * 8月7日、“[[第3回全日本フォークジャンボリー]]”出演。 * 8月21日、“ロックアウト・ロック・コンサート”出演。 * 11月20日、アルバム『[[風街ろまん]]』発売。 * 12月10日、シングル「[[花いちもんめ/夏なんです|花いちもんめ / 夏なんです]]」、大瀧ソロ・シングル「[[恋の汽車ポッポ|恋の汽車ポッポ / それはぼくじゃないよ]]」同時発売。 === 1972年 === * 5月6日、“第2回春一番コンサート”出演。 * 6月25日、大瀧、ソロ・シングル「空飛ぶくじら / 五月雨」発売。 * 7月1日、“ラスト・はっぴいえんどツアー”開始。 * 10月、渡米して[[ロサンゼルス]]でアルバム『HAPPY END』をレコーディング。 * 11月25日、大瀧、ソロ・アルバム『[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]』発売。 * 12月31日、はっぴいえんど、正式解散。 === 1973年 === * 2月25日、アルバム『[[HAPPY END (アルバム)|HAPPY END]]』、シングル「[[さよならアメリカ さよならニッポン/無風状態|さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態]]」同時発売。 * 5月25日、細野ソロ・アルバム『[[HOSONO HOUSE]]』発売。 * 9月1日、[[ベスト・アルバム]]『[[CITY (はっぴいえんどのアルバム)|CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM]]』発売。 * 9月21日、はっぴいえんどラスト・ライブ“CITY-Last Time Around”に出演。 * 9月25日、細野ソロ・シングル「恋は桃色 / 福は内鬼は外」発売。 === 1974年 === * 1月15日、“CITY-Last Time Around”での模様を収録した[[ライブ・アルバム]]『[[ライブ!! はっぴいえんど]]』発売。 * 6月25日、編集盤『[[SINGLES (はっぴいえんどのアルバム)|SINGLES]]』発売。 === 1985年 === * 6月15日、“[[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW]]”に出演。 * 9月5日、“ALL TOGETHER NOW”での模様を収録したライブ・アルバム『[[THE HAPPY END]]』発売。 === 2015年 === * 6月24日、松本隆の作詞家活動45周年記念[[トリビュート・アルバム]]『[[風街であひませう]]』発売。スペシャル・トラックとして松本と細野晴臣、鈴木茂の演奏で再レコーディングされた未発表曲「驟雨の街」を収録<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/146240 |title=松本隆トリビュートに細野晴臣、YUKI、マサムネ、小山田壮平ら参加 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |publisher=株式会社ナターシャ |date=2015-05-04 |accessdate=2020-05-05}}</ref>。 * 8月21日・22日、[[東京国際フォーラム]]で開催された松本隆作詞活動45周年記念コンサート『風街レジェンド2015』に松本、細野、鈴木が揃って出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/147147 |title=松本隆の作詞曲を豪華ゲスト&風街ばんどが実演!フォーラムで2日公演 |work=ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2015-05-14 |accessdate=2020-05-05}}</ref>。 === 2021年 === * 11月5日・6日、松本隆作詞活動50周年記念オフィシャルプロジェクトの集大成ともいえるコンサート『風街オデッセイ2021』が[[日本武道館]]にて開催。細野、松本、鈴木の3人が36年ぶりに“はっぴいえんど”名義でステージに上がり3曲を演奏<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/443455 |title=はっぴいえんどと豪華ゲストが歌い紡ぐ、松本隆の50周年記念コンサートを日本武道館で2DAYS開催 |work=音楽ナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |date=2021-09-02 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。 == ディスコグラフィー == === シングル === {|class="wikitable" style="font-size:90%;" |+ ! # !! タイトル !! 発売日 !! 規格 !! [[規格品番|品番]] !! {{Nowrap|収録曲}} !! {{Nowrap|備考}} |- ! colspan="7" style="background-color:##e6e6e6;"|[[キングレコード|KING]] |- ! rowspan="2"| 1 | rowspan="2"| {{Nowrap|[[12月の雨の日/はいからはくち|'''12月の雨の日 / はいからはくち''']]}} || rowspan="2"| {{Start date|1971|4|1}} || rowspan="2"| {{Nowrap|7inch}} || rowspan="2"| BS-1366 || 12月の雨の日 || rowspan="2"| 両曲ともアルバムとは別ヴァージョン |- | はいからはくち |- ! rowspan="2"| 2 | rowspan="2"| {{Nowrap|[[花いちもんめ/夏なんです|'''花いちもんめ / 夏なんです''']]}} || rowspan="2"| {{Nowrap|{{Start date|1971|12|10}}}} || rowspan="2"| 7inch || rowspan="2"| BS-1467 || 花いちもんめ || rowspan="2"| 両曲とも[[スタジオ・アルバム|アルバム]]『[[風街ろまん]]』からのリカット |- | 夏なんです |- ! colspan="7" style="background-color:##e6e6e6;"|[[ベルウッド・レコード|Bellwood]] ⁄ KING |- ! rowspan="2"| 3 | rowspan="2"| {{Nowrap|[[さよならアメリカ さよならニッポン/無風状態|'''さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態''']]}} || rowspan="2"| {{Start date|1973|2|25}} || rowspan="2"| 7inch || rowspan="2"| OF-10 || さよならアメリカ さよならニッポン || rowspan="2"| 両曲ともアルバム『[[HAPPY END (アルバム)|HAPPY END]]』からのリカット |- | 無風状態 |- ! colspan="7" style="background-color:##e6e6e6;"|[[アングラ・レコード・クラブ|URC]] ⁄ [[EMIミュージック・ジャパン|TOSHIBA-EMI]] |- ! rowspan="3"| 4 | rowspan="3"| '''[[あしたてんきになあれ]]''' || rowspan="3"| {{Start date|1999|11|26}} || rowspan="3"| {{Center|CD}} || rowspan="3"| {{Nowrap|TOCT-22045}} || あしたてんきになあれ || {{unbulleted list|[[宝島社]]『[[smart (雑誌)|smart]]』CMソング|アルバム『風街ろまん』からのリカット}} |- | [[風をあつめて (はっぴいえんどの曲)|風をあつめて]] || アルバム『風街ろまん』からのリカット |- | あやか市の動物園(ライブ・ヴァージョン) || [[全日本フォークジャンボリー|第2回全日本フォークジャンボリー]]({{Start date|1970|8|9}})より |} === オリジナル・アルバム === ;URC # [[はっぴいえんど (アルバム)|'''はっぴいえんど''']]([[1970年]][[8月5日]])- LP:URL-1015 # '''[[風街ろまん]]'''([[1971年]][[11月20日]])- LP:URG-4009 ;Bellwood ⁄ KING # [[HAPPY END (アルバム)|'''HAPPY END''']]([[1973年]][[2月25日]])- LP:OFL-8 === ベスト・アルバム === ;Bellwood ⁄ KING # [[CITY (はっぴいえんどのアルバム)|'''CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM''']]([[1973年]][[9月1日]])- LP:OFL-15 #:コーラスに[[小坂忠]]参加の「はいからはくち」の別ヴァージョン、[[第3回全日本フォークジャンボリー]]のライブ音源の「かくれんぼ」を収録。 === 編集盤 === # [[SINGLES (はっぴいえんどのアルバム)|'''SINGLES''']]([[1974年]][[6月25日]])- LP:OFL-26 #:A面に大瀧詠一と細野晴臣それぞれのシングル、B面にはっぴいえんどのシングル曲を集めた編集盤。 === ライブ・アルバム === # '''[[ライブ!! はっぴいえんど]]'''({{Start date|1974|1|15}})- Bellwood ⁄ KING LP:OFL-20 #:{{Start date|1973|9|21}}に[[文京公会堂]]で行われた“CITY -LAST TIME AROUND”での模様を収録した、はっぴいえんど唯一のオリジナル・ライブ盤。すでに解散していたので実質的には再編という色合いが強い。三部構成のイベントのうち、はっぴいえんどのメンバーがプロデュースを務め、風都市がこれから売り出そうとする[[吉田美奈子]]、[[南佳孝]]、[[ムーンライダーズ|ムーンライダース]]、ココナツ・バンクの曲は同日発売の[[ライブ・アルバム]]『[[1973.9.21 SHOW BOAT 素晴しき船出]]』<ref group="注釈" name="show_boat">V.A.『[[1973.9.21 SHOW BOAT 素晴しき船出]]』 {{Start date|1974|1|15}}発売 SHOW BOAT ⁄ [[アートユニオン|TRIO]] LP:3A-1014</ref> に収録。 # '''[[THE HAPPY END]]'''(LP:[[1985年]][[9月5日]] CT:1985年[[11月3日]])- [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS/SONY]] LP:18AH-1933, CT:18KH-11755 #: [[1985年]][[6月15日]][[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]で行われたイベント“[[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW|ALL TOGETHER NOW]]”での再結成ライブを収録。LPは45回転盤。初回特典として7/12はっぴいえんど宣言や6/15再結成ライブの座談会などが収録されている24ページのブックレット「THE HAPPY END パンフレット」を同封。 # '''はっぴいえんど GREEEATEST LIVE! ON STAGE'''(1986年7月15日) #: 「[[ロック叛乱祭]]」(1970年4月12日)、「第3回全日本フォークジャンボリー」(1971年8月7日)、「[[加橋かつみ]]コンサート」(1971年4月14日)での演奏を収録。 # '''はっぴいえんど LIVE ON STAGE'''(1989年8月25日) #: CDでのみ発売。「第2回全日本フォークジャンボリー」(1970年8月9日)、「ロック・アウト・ロック・コンサート」(1971年8月21日)、「加橋かつみコンサート」(1971年4月14日)、「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」(1971年8月7日)での演奏を収録。 === ボックス・セット === # '''はっぴいえんど〜HAPPY END'''(1993年5月25日) #: レコード各社共同企画の“シンガー・ソングライター・ルネッサンス”の一環として発売された4枚組ボックス・セット。ライブも含めたオリジナル・アルバム4作とブックレット付き。その内『風街ろまん』『HAPPY END』の2枚は、[[吉野金次]]によるオリジナル・マルチトラック・マザー・テープを使用したリミックス盤で、発売当時、物議を醸した。またこのリミックス盤については、その内の数曲が細野のボックス・セット『HOSONO BOX 1969-2000』に収録されたのみで以後、再発売されていない。 # '''[[はっぴいえんどBOX]]'''(2004年3月31日) #: オリジナル・アルバム『[[はっぴいえんど (アルバム)|はっぴいえんど]]』『[[風街ろまん]]』『[[HAPPY END]]』、ライブアルバム『[[ライブ!! はっぴいえんど]]』『[[THE HAPPY END]]』と、はっぴいえんどがバックで演奏を務めた楽曲を集めた『バッキング音源集』、未発表ライブ音源を多数収録した『ライブ・ヒストリーVOL.1』『同VOL.2』がセットになったボックス・セット。 # '''[[はっぴいえんどマスターピース]]'''(2014年12月26日) #: URCレコードより発売したオリジナル・アルバム『はっぴいえんど』と『風街ろまん』のアナログ・マスターからのダイレクト・カッティングによるアナログ完全復刻盤に加え、メンバー公認でデジタル・リマスタリングしたCDを付属したボックス・セット。94k 24bitの[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ音源]]を期間中ダウンロードできるダウンロード・カード、当時のレコーディング資料や、[[野上眞宏]]所蔵の写真等を掲載した資料集、松本隆作詞ノート・レプリカを併せて収納。 # '''[[岡林信康withはっぴいえんど 7インチBOX]]'''(2018年7月25日) #: はっぴいえんどが[[岡林信康]]と共にURC時代にリリースしたシングル盤を収納した限定7インチBOXセット。ボーナス・レコードとして、岡林との最後のスタジオ録音となった「私たちの望むものは」を加えた6枚組。 == 関連作品 == * はっぴいえんど(1983年6月) *: [[センチメンタル・シティ・ロマンス]]による[[カバー]]・アルバム<ref group="注釈">ファースト・アルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』(1975年)では細野がチーフ・オーディエンスとしてクレジットされている。</ref>。 * はっぴいえんどに捧ぐ(1993年9月9日、再発:2004年11月3日、再々発:2010年12月15日) *: [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|SME]]所属アーティストによるカバーを収録。ジャケットのイラストは、[[つげ義春]]の短編漫画『[[紅い花]]』の主人公キクチサヨコ。2010年12月15日にボーナス・ディスクを追加した2枚組CD『はっぴいえんどに捧ぐ +』として再々発。[[吉田美奈子]]、[[矢野顕子]]、[[清水ミチコ]]、[[太田裕美]]、[[ピチカート・ファイヴ]]、[[小坂忠]]、[[葡萄畑]]などがライブでカバーした曲を追加収録。[[ブルースペックCD]]仕様。 * [[HAPPY END PARADE|HAPPY END PARADE〜tribute to はっぴいえんど〜]](2002年5月22日) * はっぴいえんどかばあぼっくす(2002年5月31日) *: 5枚組CDボックス・セット。はっぴいえんどが発表した3枚のスタジオ・アルバムと1枚のライブ・アルバム全曲を、本ボックス発売元のOZ disc所属アーティストを中心に、様々なアーティストがカバー。さらにボックス・セット収録の未発表曲までカバーされている。ライブ・アルバム『ライブ・はっぴいえんど』のカバーについては、1973年9月21日に行われたライブ「CITY - LAST TIME AROUND」を、2002年1月10日に同じ[[文京シビックホール]]にて完全再現またはカバーが行なわれた。ライブ・アルバム未収録の「CITY - LAST TIME AROUND」参加アーティストの曲もカバー。それらは『-はっぴいえんどかばあぼっくす外伝-素晴らしき船出かな』に収録され、ボックスには未収録。また、「レア・トラックス」と題されたボーナスCDには、はっぴいえんどが当時ライブで演奏していた曲のカバーが収録されている。Oz discで予約注文および注文を行うと、はっぴいえんどのシングル3枚をカバーしたアナログシングル盤3枚と、ベスト盤『CITY』のカバーを収録したCD-Rが特典として配布された。 * 風街クロニクル 〜another side of happy end〜(2004年11月3日、MHCL-427) *: 解散後に細野・大瀧・鈴木のいずれかが作曲、松本が作詞を手掛けた各メンバーのソロ、他者提供曲、カバーなどを収録した2枚組コンピレーション・アルバム。 * ひっぴいえんど(2009年2月18日、CD+DVD:COZP-354【初回限定盤】、CD:COCP-35382【通常盤】) *: [[加藤和彦]]と[[坂崎幸之助]]のユニット「[[和幸 (ユニット)|和幸]]」(かずこう)のセカンド・アルバム。はっぴいえんどのバンド名や曲名、アルバム名をもじった曲を収録。 * CITY COVER BOOK(2010年12月15日) *: ベスト・アルバム『CITY』全収録曲をカバーしたアルバム。 * SKYE(2021年10月27日〈CD〉、11月10日〈LP〉) *: 鈴木茂、小原礼、林立夫、松任谷正隆のバンド「[[SKYE]]」がリリースしたアルバム。はっぴいえんどの未発表曲『ちぎれ雲』(作詞:松本隆、作曲:鈴木茂)を初音源化し、収録<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/feature_item/2021/09/13/0704?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=yss&utm_term=s11&yclid=YSS.1000425119.EAIaIQobChMI0aaB5KWYggMVzFgPAh2dIgdgEAAYAyAAEgL_p_D_BwE|title=SKYE(鈴木茂、小原礼、林立夫、松任谷正隆)|デビューアルバム『SKYE』CDが10月27日、アナログ盤が11月10日発売|website=TOWER RECORDS ONLINE|publisher=タワーレコード|data=2021-09-13|accessdate=2023-10-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15776607.html?iref=pc_rensai_long_693_article|title=(書きかけの…:24)純粋な気持ち、昔なじみと曲に 松本隆|website= 朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞|data=2023-10-28|accessdate=2023-10-28}}</ref>。 == 出演 == * TDKトップ・オブ・ジャパン([[エフエム東京]]) == 書籍 == * はっぴいえんど伝説―細野晴臣・大滝詠一・松本隆・鈴木茂の世界([[1983年]]1月1日、八曜社、著:[[萩原健太]]) * 定本はっぴいえんど([[1986年]]12月1日、SFC音楽出版、共著:[[大川俊昭]]・[[高護]]) * はっぴいえんどコンプリート([[2008年]]3月20日、株式会社[[シンコーミュージック・エンタテイメント]]、監修:[[木村ユタカ]]) * [[野上眞宏]] 写真集『ゆでめん』({{Start date|2021|8|5}}、株式会社[[ミュージック・マガジン]]、{{ISBN2|978-4943959359}}){{Ndash}} 『ゆでめん』の通称で知られるアルバム『はっぴいえんど』のレコーディングに密着した野上眞宏が、新しい音楽の創造と向き合うメンバーの姿をファインダー越しに記録した写真集。監修・鈴木茂<ref name="item_5217930">{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/item/5217930/ |title=野上眞宏/野上眞宏 写真集 『ゆでめん』 |work=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード#タワーレコード株式会社(日本フランチャイジー)|タワーレコード株式会社]] |language=ja-p |date= |accessdate=2021-08-12}}</ref>。 * はっぴいえんどの原像(2023年1月20日〈予定〉、[[リットーミュージック]]、共著:[[サエキけんぞう]]・[[篠原章]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本語ロック論争]] * [[ニュー・ロック (音楽)]]<!--* [[WORKSHOP MU!!]]--> * [[1970年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手 * [[佐野史郎]] - 俳優。はっぴいえんどの大ファン。ライブを見に行ったり、所有するLPにメンバーからサインを書いて貰う等リアルタイムで接していた。細野と「細野晴臣イエローマジックショー」にて共演を果たす。 == 外部リンク == ; SonyMusic * {{URL |1=https://www.sonymusic.co.jp/artist/HappyEnd/ |2=はっぴいえんど}} {{Ndash}} ソニー・ミュージック内のアーティストページ ; KING RECORDS * {{URL |1=https://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=11394 |2=はっぴいえんど}} {{Ndash}} キングレコード内のアーティストページ {{はっぴいえんど}} {{細野晴臣}} {{大瀧詠一}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はつひいえんと}} [[Category:はっぴいえんど|*]] [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:日本のフォークグループ]] [[Category:サイケデリック・ロック・バンド]] [[Category:フォーク・ロック・バンド]] [[Category:1969年に結成した音楽グループ]] [[Category:1972年に解散した音楽グループ]] [[Category:1973年に再結成した音楽グループ]] [[Category:1985年に再結成した音楽グループ]] [[Category:松本隆]]
2003-02-17T08:16:47Z
2023-12-21T06:19:29Z
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MOS 6502
MOS 6502はアメリカのモステクノロジーが1975年に発表した8ビット MPU (CPU) である。 1977年に発売されたApple II に搭載されて一躍有名になり、その後PET 2001(1977年1月発表、10月発売)、CBM3032、VIC-1001等、主にコモドール社の製品で採用されていた。日本ではパソコン用のCPUとしての採用例は比較的少ないほうだが、互換CPUがファミリーコンピュータやPCエンジンに採用されている。 モトローラのMC6800をモデルに、レジスタセットの簡素化をはかり、多彩なアドレッシングモードと良く練られたパイプライン機構を持ち、同時期に設計された同一程度動作クロックの他CPU (MPU) 群に比べて格段に高速に演算処理を実行できた。レジスタを小さく、少なくし、ハードウェア規模を減らして高速化を図ったのではないかと見られる節がある一方で、以下のような特徴を持つ。 当時の競合製品と比較して破格の安値がつけられたことでアメリカのホビーストの間ではポピュラーな存在となった。設計はMC6800によく似ていて、バスが互換のほか、ピン配置も一部を除いて揃っている(完全ではないのは後述の訴訟の影響による)。68系と同様に「MPU」と呼称されることがあるが、MC6800シリーズと違ってバイトオーダはリトルエンディアンである。KIM-1にも搭載された初期バージョンのチップでは、ROR 命令に不具合がありドキュメントに同命令を掲載していなかった。 モステクノロジーはモトローラからスピンアウトしたチームで、当初に発表したMCS6501で起こったモトローラとの特許係争(ピン配列が完全互換だった問題)もあって、1976年に資金難から、コモドール傘下のコモドールSemiconductor Group (CSG) となっていたが、ICのマーキングにはMOSブランドがしばらく使用されていた。同社は1994年にコモドールごと倒産した(モステクノロジー社はMostek社とは別の会社である)。セカンドソースは多社にわたるが、ロックウェル・インターナショナル (Rockwell international) 社やウェスタンデザインセンター(Western Design Center、1977年にモステクノロジーのメンバーがスピンアウトした会社)、Synertek、GTEなどがあり、モステクノロジーの後を引き継ぐ形になっている。 最初、NMOSプロセスで生産されたが、後にロックウェルとウエスタンデザインセンターからCMOS版の65C02が登場した。65C02では、STZ(値$00のストア)やBRA(無条件相対分岐)といった命令が追加され、6502にあったバグが修正されたが、つくられた65C02の拡張命令のコードは両者で異なっていた。 周辺チップ(英語版)としては、6502用のタイミングにあわせた6521(6821互換)PIAや6522、6551 (ACIA) などが用意されていた。 ただし、nには16進1桁の数値を指定する。 6502の割り込み処理は三種類ある。それぞれの割り込みにつき、所定のアドレスに割り込み処理ルーチンの先頭アドレスが記載されており、割り込みが入るとそこへ制御を移す。割り込み処理ルーチンを終了して元のルーチンに復帰するにはRTI 命令 (0x40) を使用する。 なお、ARM (Acorn RISC Machine) の設計は6502を参考に行われたとされることがあるが、設計者らは6502を参考に設計を行ったわけではない。ARMの命令セットを設計したソフィー・ウィルソンは、6502とARMにはほとんど共通点がないと述べている。別のインタビューでは、(メインメモリをVRAMとしても使っている当時のパソコンの設計では)メモリアクセスが比較的に高性能であり、6502はそれを利用するバランスがすぐれていた、という事のみ言及している。
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MOS 6502はアメリカのモステクノロジーが1975年に発表した8ビット MPU (CPU) である。 1977年に発売されたApple II に搭載されて一躍有名になり、その後PET 2001(1977年1月発表、10月発売)、CBM3032、VIC-1001等、主にコモドール社の製品で採用されていた。日本ではパソコン用のCPUとしての採用例は比較的少ないほうだが、互換CPUがファミリーコンピュータやPCエンジンに採用されている。
{{Infobox CPU | 名称 = MOS Technology 6502 | 画像 = MOS 6502AD 4585 top.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像の説明 = モステクノロジー 6502 マイクロプロセッサ | 生産開始 = 1975 | 生産終了 = | 販売者 = [[モステクノロジー]] | 設計者 = | 生産者 = | 最低周波数 = 1 | 最高周波数 = 3 | 最低周波数単位 = MHz | 最高周波数単位 = MHz | FSB最低周波数 = | FSB最高周波数 = | FSB最低単位 = | FSB最高単位 = | QPI最低帯域 = | QPI最高帯域 = | QPI最低単位 = | QPI最高単位 = | HyperTransport最低帯域 = | HyperTransport最高帯域 = | HyperTransport最低単位 = | HyperTransport最高単位 = | 最大プロセスルール = | 最小プロセスルール = | トランジスタ = 3,510,<ref>{{Cite web |url=https://research.swtch.com/6502 |title=The MOS 6502 and the Best Layout Guy in the World |publisher=swtch.com |date=2011-01-03 |accessdate=2022-08-24}}</ref> 3,218<ref>{{Cite web |url=https://monster6502.com/ |title=MOnSter6502 |publisher=monster6502.com |date=2017 |accessdate=2022-08-24}}</ref> | 命令セット = | 拡張命令セット = | アーキテクチャ = | マイクロアーキテクチャ = | コア数 = | L1キャッシュ = | L2キャッシュ = | L3キャッシュ = | L4キャッシュ = | GPU = | 前世代プロセッサ = {{Plainlist| *[[Motorola 6800]] *MOS 6501}} | 次世代プロセッサ = {{Plainlist| *[[MOS 6510]] *[[WDC 65C02]] *[[WDC 65C816]]}} | コプロセッサ = | ソケット = | パッケージ = 40ピンDIP | コードネーム = | ブランド名 = }} '''MOS 6502'''は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[モステクノロジー]]が[[1975年]]に発表した[[8ビット]] [[CPU|MPU (CPU)]] である。 [[1977年]]に発売された[[Apple II]] に搭載されて一躍有名になり<ref name="nikkeibp20180721" />、その後[[PET 2001]](1977年1月発表、10月発売)、[[CBM3032]]、[[VIC-1001]]等、主に[[コモドール]]社の製品で採用されていた。日本では[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用のCPUとしての採用例は比較的少ないほうだが、互換CPUが[[ファミリーコンピュータ]]や[[PCエンジン]]に採用されている<ref name="nikkeibp20180721">{{Cite web|和書|title=上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(前編)(2013年10月号より)|url=https://www.ndw.jp/post-672/|website=Nintendo Dream Web|date=2018-07-21|accessdate=2022-08-24|publisher=アンビット}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081002/1019378/?P=3|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第7回:業務用機の仕様を家庭用に、LSIの開発から着手(3/3)|date=2008-10-03|accessdate=2014-05-22|publisher=日経BP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140522110547/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081002/1019378/?P=3|archivedate=2014-05-22}}</ref>。 == 概要 == モトローラの[[MC6800]]をモデルに、[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]セットの簡素化をはかり、多彩な[[アドレッシングモード]]と良く練られた[[命令パイプライン|パイプライン]]機構を持ち、同時期に設計された同一程度動作クロックの他CPU (MPU) 群に比べて格段に高速に演算処理を実行できた。レジスタを小さく、少なくし、ハードウェア規模を減らして高速化を図ったのではないかと見られる節がある一方で、以下のような特徴を持つ。 * 0から255番地までの[[記憶装置|メモリ]](ゼロページ)を1バイト少ないコードでアクセスできる(MC6800もゼロページは8ビットのアドレスでダイレクトアドレッシングが可能) * アドレッシングモードが豊富 ** Xレジスタでインデックストインダイレクト、Yレジスタでインダイレクトインデックストと動作が異なる 当時の競合製品と比較して破格の安値がつけられたことでアメリカのホビーストの間ではポピュラーな存在となった。設計は[[MC6800]]によく似ていて、バスが互換のほか、ピン配置も一部を除いて揃っている(完全ではないのは[[#訴訟|後述の訴訟]]の影響による)。68系と同様に「MPU」と呼称されることがあるが、MC6800シリーズと違って[[バイトオーダ]]は[[エンディアン|リトルエンディアン]]である。[[KIM-1]]にも搭載された初期バージョンのチップでは、ROR 命令に不具合がありドキュメントに同命令を掲載していなかった<ref>{{cite web |url=https://www.liquisearch.com/mos_technology_6502/bugs_and_quirks |title= MOS Technology 6502 - Bugs and Quirks |accessdate=2022-10-23 }}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.pagetable.com/?p=406 |title=Measuring the ROR Bug in the Early MOS 6502 |accessdate=2022-10-23 }}</ref><ref>1975年8月のデータシートでは ROR 命令を除く55個の命令が記載されており,1976年5月のデータシートでは ROR 命令を含む56個の命令が記載されている。[[:File:MCS650x Instruction Set.jpg]]</ref>。 == 訴訟 == モステクノロジーは[[モトローラ]]から[[スピンアウト]]したチームで、当初に発表したMCS6501で起こったモトローラとの特許係争(ピン配列が完全互換だった問題)もあって、[[1976年]]に資金難から、コモドール傘下のコモドールSemiconductor Group (CSG) となっていたが、ICのマーキングにはMOSブランドがしばらく使用されていた。同社は[[1994年]]にコモドールごと倒産した(モステクノロジー社は[[Mostek]]社とは別の会社である)。[[セカンドソース]]は多社にわたるが、[[ロックウェル・インターナショナル]] (Rockwell international) 社や[[ウェスタンデザインセンター]](Western Design Center、[[1977年]]にモステクノロジーのメンバーがスピンアウトした会社)、Synertek、GTEなどがあり、モステクノロジーの後を引き継ぐ形になっている。 最初、[[MOSFET|NMOS]]プロセスで生産されたが、後にロックウェルとウエスタンデザインセンターから[[CMOS]]版の'''65C02'''が登場した。65C02では、STZ(値$00のストア)やBRA(無条件相対分岐)といった命令が追加され、6502にあった[[バグ]]が修正されたが、つくられた65C02の拡張命令のコードは両者で異なっていた。 {{仮リンク|周辺チップ|en|Peripheral}}としては、6502用のタイミングにあわせた6521(6821互換)PIAや[[MOS 6522|6522]]、6551 (ACIA) などが用意されていた。 == 6502のレジスタセット == {| class="wikitable" |+ 6502のレジスタセット |- !呼称!!説明 |- !P |プロセッサステータス |- !A |[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]] |- !X |インデックスレジスタX |- !Y |インデックスレジスタY |- !PC |プログラムカウンタ |- !S |[[スタック]]ポインタ |} * 6502のレジスタはPCが16ビットであることを除き、すべて8ビットである。 * スタックポインタも上位8ビットが$01に固定されており、スタック領域としては第1ページ(アドレス範囲 $0100 - $01FF)の256バイトのみが使用可能。 == 命令セット == * 命令は[[バイト (情報)|バイト]]単位で、1 - 3 バイトの可変長命令である。 * 主な命令内容は以下の通り ** メモリまたはイミディエイト値からレジスタへのロード ** レジスタからメモリへのストア ** レジスタ値を別のレジスタへ転送(コピー) ** Aレジスタを用いた次の処理 *** 加算 *** 減算 *** ビット論理演算 *** 比較演算 ** 絶対番地による無条件分岐 ** サブルーチン分岐・リターン ** Pレジスタ値による相対番地への条件分岐 ** スタックへのプッシュ・プル ** Pレジスタへのセット・クリア * 加減算命令は、必ずキャリーを伴って行われるため、単に2値の加減算を行う場合には、必ずCLCまたはSEC命令でキャリーを初期化する必要がある。 * リセット直後は$FFFC番地に格納されたアドレス(RSTベクタ)から増加する方向に実行が行われる。また、スタックポインタはアドレスが減少する方向に自動的に減算されるため、スタックはメモリ下位番地に向かって伸びる。 * アセンブリ言語において、[[ニーモニック]]は必ず3 文字で表記される。 * 豊富なアドレッシングモードを持つ。 * A,P以外のレジスタをスタックに直接プッシュ・プルする命令はない。 * インデックスレジスタの値は+1,-1できるが、算術・論理演算に使用する命令はない。 === 主なアドレッシングモード === {| class="wikitable" |+ 主なアドレッシングモード |- !呼称!!記述!!説明 |- |イミディエイト||#''nn'' |直接8 ビットの値を指定する。 |- |アブソリュート||''nnnn'' |直接16 ビットの番地を指定する。 |- |ゼロページ||''nn'' |ゼロページの番地を下位8ビットで指定する。 |- |リラティブ||''nn'' |命令直後から-128 - +127の範囲の相対番地を指定する。 |- |ゼロページ・インデックストX||''nn'',X |ゼロページの番地にXレジスタの値を加算した番地を指定する。 |- |ゼロページ・インデックストY||''nn'',Y |ゼロページの番地にYレジスタの値を加算した番地を指定する。 |- |アブソリュート・インデックストX||''nnnn'',X |絶対番地にXレジスタの値を加算した番地を指定する。 |- |アブソリュート・インデックストY||''nnnn'',Y |絶対番地にYレジスタの値を加算した番地を指定する。 |- |インデックストX・インダイレクト||(''nn'',X) |ゼロページ・インデックストXで指定される番地に格納された16 ビット値を指定する。 |- |インダイレクト・インデックストY||(''nn''),Y |ゼロページの指定番地に格納された16 ビット値に、Yレジスタの値を加算した番地を指定する。 |} ただし、''n''には16進1桁の数値を指定する。 * ゼロページではアブソリュートより命令のコード数が1バイト少なくなり、所要サイクル数も変化する。 * MC6800シリーズは「16 ビットインデックス値+8 ビット定数」になるのに対して、6502はインデックスレジスタが2 つで「16 ビット絶対番地+8 ビットインデックス値」になっているのが最大の違いとなっている。比較すると、インデックスレジスタの重要性が増す代わりに、[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]を扱うのは難しくなっている。 == 割り込み == 6502の[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]処理は三種類ある。それぞれの割り込みにつき、所定のアドレスに割り込み処理ルーチンの先頭アドレスが記載されており、割り込みが入るとそこへ制御を移す。割り込み処理ルーチンを終了して元のルーチンに復帰するには<var>RTI</var> 命令 (<code>0x40</code>) を使用する。 {| class="wikitable" summary="割り込み一覧" |+ 割り込み処理 一覧 |- ! abbr="アドレス"|$XXXX ! abbr="割り込み名"|割り込み名 ! abbr="割り込みの詳細"|詳細 ! abbr="優先順位"|優先順位 |- |$FFFA |NMI |制御不能の強制割り込み。間隔はシステムに依存 |2 |- |$FFFC |RESET |開始時のみ発動 |1 |- |$FFFE |IRQ/BRK |<var>BRK</var> 命令 (<code>0x00</code>) 時に発動 |3 |} == 互換CPU == [[ファイル:WDC W65C02.jpg|thumb|W65C02]] ; 65C02 (Rockwell) : CMOS版で、命令が拡張されている。 ; W65C02 (Western Design Center) : CMOS版で、Rockwellのものとは別の形で命令が拡張されている。[[Apple II|Apple IIe, IIc]]などに採用。 ; [[MOS 6507|6507]] : 6502のアドレスを13ビットに削減したもの。[[Atari 2600]]([[アタリ (企業)|アタリ]])で使用。 ; [[MOS 6510|6510]] : 6502にクロック入力ピンとI/Oポートを追加。VIC-20 (VIC-1001) の後継機、[[コモドール64]]、[[マックスマシーン]]で使用。改良版の7501/8500/8501というバリエーションも存在する。 ; [[MOS 8502|8502]] : 6510を高速化、[[コモドール128]]で使用。 [[ファイル:CPU RP2A03E.jpg|thumb|RP2A03E]] ; RP65C02 (RICOH) : CMOS版6502。Rockwell製NMOS版6502とピンコンパチブル、命令コンパチブルであり、さらに59の命令の追加、パワーダウン、スタンバイモードなどCMOSの特長を備える。 ; [[Ricoh 2A03|RP2A03]] (RICOH) : 6502から10進演算関連の機能が削除され、サウンド機能が追加されているもの。[[ファミリーコンピュータ]]で使用。CPUの[[IPコア]]も存在した。 [[ファイル:HuC6280A_01.jpg|thumb|HuC6280A]] ; [[HuC62|HuC6280]] : [[ハドソン]]が開発。高クロック化がはかられ独自に命令拡張がなされたもの。[[PCエンジン]]で使用。 ; [[65816 (コンピュータ)|65816]] (W65C816) : Western Design Centerが開発。レジスタの16ビット化を含む多くの機能拡張がなされたもの。[[Apple II|Apple IIGS]]や[[スーパーファミコン]]で採用。 ; 740ファミリ : [[ルネサス エレクトロニクス]](旧[[三菱電機]])社製の8ビットMCUコア。7200、740/7450/7470、7600、38000シリーズがある。8ビット定数を直接ゼロページに入れる命令、乗除算命令(一部のもの)を備える。ビット操作・ブランチ命令もあるが、両65C02のものとは互換性がない。スタックは1ページではなくゼロページに置くことも可能。ROM・RAMと周辺機能を内蔵し、ゼロページの下位はI/Oレジスタとなっている。 ; 7700ファミリ : ルネサス エレクトロニクス(旧[[三菱電機]])社製の16ビットMCUコア。7700、7900シリーズがある。公式にはうたっていないが内容的には6502を拡張したもので、65816とはレジスタ構成と命令セットの多くが共通であり、さらに多バイト長コードの命令が増えている。6502エミュレーションモードはない。ビット操作・ブランチ命令は両65C02や740シリーズとは互換性がない。ROM・RAMと周辺機能を内蔵する。 ; YM-2002 (YAMAHA) : [[ヤマハ]]製の互換CPU。ゼロページが2ページあり、[[Z80]]の表レジスタ、裏レジスタのように切り替えられる。ホームコンピュータで使用した。 ; [[SPU]] : [[ソニー]]製のチップまたはCPUコアで、8ビットのアキュムレータの上下の4ビットの部分を交換するXCN (eXChange Nibble) と8ビット×8ビット=16ビットの乗算命令が追加されている。スーパーファミコンの[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]制御用としても使用された。 なお、[[ARMアーキテクチャ|ARM]] ([[エイコーン・コンピュータ|Acorn]] [[RISC]] Machine) の設計は6502を参考に行われたとされることがあるが、設計者らは6502を参考に設計を行ったわけではない。ARMの命令セットを設計した[[ソフィー・ウィルソン]]は、6502とARMにはほとんど共通点がないと述べている<ref>{{Cite web |url=http://www.cs.clemson.edu/~mark/admired_designs.html#wilson |title=Which Machines Do Computer Architects Admire? |first=Mark |last=Smotherman |date=2001-10 |accessdate=2022-08-24}}</ref>。別のインタビューでは、(メインメモリをVRAMとしても使っている当時のパソコンの設計では)メモリアクセスが比較的に高性能であり、6502はそれを利用するバランスがすぐれていた、という事のみ言及している<ref>{{Cite web |url=https://www.computerhistory.org/collections/catalog/102746190 |title=Wilson, Sophie oral history : 2012 fellow - 102746190 |website=Computer History Museum |date=2012-01-31 |accessdate=2022-08-24}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[KIM-1]]、[[SYM-1]]、[[AIM-65]] == 外部リンク == * [http://www.6502.org/ 6502.org] * [http://t.webring.com/hub?ring=6502webring 6502 Web Ring] {{Normdaten}} [[Category:マイクロプロセッサ]]
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液晶ディスプレイ
液晶ディスプレイ(えきしょうディスプレイ、liquid crystal display、LCD)は、光源等の表面に、液晶の光学特性を利用した複数のシャッターを配置し、様々なパターンでシャッターを開閉することによって図画等を表示する装置である。 液晶ディスプレイはデジタル化された電子機器の普及に伴いごく一般的な表示装置となっている。特に、数値や機器動作状態等の情報表示装置、映像などの画像表示装置として多様な電子機器において利用されている。 液晶ディスプレイには、「液晶モジュール」と呼ばれる部品が含まれており、その液晶モジュールは、主に「液晶パネル」と呼ばれる液晶を含む板状の部品と、液晶パネルに対して電気信号を供給するための駆動回路とを含んで構成されている。 液晶ディスプレイの典型例には、液晶テレビやコンピュータ・ディスプレイがある。液晶モジュールは、これら以外にも、携帯電話端末、携帯型ゲーム機、電卓、時計などの表示部として使われている。 つまり、単に「液晶ディスプレイ」と呼ばれた場合であっても、製品全体を指す場合と製品の表示部だけを指す場合がある。本記事では、便宜上、製品全体を指す場合には液晶ディスプレイと呼び、製品の表示部だけを指すには液晶モジュールや液晶パネルと呼ぶ。テレビ、PCなどの表示装置の製品としての「液晶ディスプレイ」と、携帯電話やデジタルカメラなどに組み込まれる製品の一部の部品としての「液晶パネル」と「液晶モジュール」について、それぞれを分けて記述する。また、本項目では液晶プロジェクタは扱わない。 単体装置としての液晶ディスプレイは、光源、駆動回路や電源回路、接続コネクタ、ケース等を除けば主要部分が液晶パネルと呼ばれる薄い板状部品で構成されている。 電卓や時計の液晶は、あらかじめ「絵」の形に電極を配置して液晶に電圧を加える反射型の液晶が使用されることが多い。カラーの画像や映像を表示するものでは、格子状に配列したサブ画素 (Sub-pixel, sub-dot) を用いる。 液晶パネルは、外光や、フロントライト、バックライト等の光源により発せられた光を部分的に遮ったり透過させたりすることによって表示を行う。一般的な透過型液晶パネルを例として表示原理を説明する。 このように液晶層を表裏2枚の配向層がはさみ、さらに2枚の偏光フィルタとその外側に電極が位置する。表側の偏光フィルタを透過する光が多い場合に表示が明るくなり、少ない場合には表示は暗くなる。 こうして光学的なシャッターを実現し、このような微細なシャッター1つを1つのサブ画素とする多数のサブ画素によって望む画像を表示する。このシャッターは光の透過と遮断だけを行うので多様な色は、概ね3原色を備えた色フィルタで実現される。 2枚の電極に挟まれた各画素での表示には偏光フィルムの配置方向に応じて、2種の表示モードが存在する。 液晶パネルは、大きくは表裏2枚の基板とその間の液晶材料から構成される。 液晶パネル(表面より順に示す。カッコ内は厚みの例) 上記に加えて基板の周囲に「封止剤」が使われる。 液晶パネルは、油状の透明な液晶組成物(液晶材料)が2枚の透明な基板の間にサンドイッチされ、周囲が封止剤によってシールされていて、液晶材料が漏れ出すことなくまた液晶材料が清浄に保たれるようになっている。セルギャップという基板同士の間隔を一定に保つためのスペーサやギャップ材として、粒の大きさが揃ったプラスチック球が少しだけ液晶層に散布されていたり、カラーフィルタ基板に柱状のスペーサが作り込まれている。カラーフィルタ基板よりもアレイ基板の方が周囲の接続端子などの分だけ大きくなる。 2枚の基板は表側にカラーフィルタ基板、裏側にアレイ基板が配置される。アレイ基板は液晶側にTFTなどのアクティブ素子とサブ画素となる電極がアレイ(配列)状に作り込まれている。カラーフィルタ基板の液晶側には、ブラック・マトリックス (BM) やR(赤)、G(緑)、B(青)というカラーフィルタを配列し、さらに透明電極による共通電極またはコモン電極と呼ばれるものが基板全面に作られる。これらの基板は光をできるだけ無駄なく透過させるために、ガラス基板が用いられることが多い。耐衝撃性、フレキシブル性などの点からプラスチック基板を用いることもある。透明電極の材料としては、電気抵抗が低くパターン加工の容易なインジウムとスズの酸化物であるITO (Indium-tin-oxide) が広く用いられている。また、透明電極に印加される電圧は、アレイ基板ではTFTなどのアクティブ素子を通じて外部から印加されるが、外部からサブ画素までの配線として金属配線もアレイ基板の内面に配置されている。アレイ基板の端部には、配線電極の接続部が露出しており、ここに駆動回路が接続されて電気的に実装される。表裏2面の透明電極のそれぞれの内側には、ポリイミド材料の配向膜が配置されて、液晶材料を所望の配向状態になるようにしている。 液晶パネルでは、液晶を封入した表裏の透明基板のさらに外側に、1組の偏光フィルタ(偏光板、Polarizer)を設ける形式が主流である。透過型の液晶パネルでは、裏側の光源(バックライト)から出た光は、光源⇒偏光フィルタ⇒アレイ基板⇒サブ画素の透明電極⇒配向膜⇒液晶⇒配向膜⇒共通透明電極⇒カラーフィルタ基板⇒偏光フィルタ、という順に各要素を通過して観察者の目に届く。ごく安価な表示用途で使われる簡易な反射型の液晶パネルでは、散乱性の反射板を液晶パネルの背面(裏面)に配置してそれ自体には光源を設けず、周囲の光(外光)によって表示する。 アレイ基板からカラーフィルタ基板の共通電極へ接続するのはトランスファ (Transfer) と呼ばれ、またこの接続材はコモン転移材 (Common transfer material) と呼ばれ、一般に銀ペーストやカーボン・ペーストといった導電ペーストが使用される。 実際の製品ではこういった基本構造の他にも、視野角特性を改良するための光学フィルム(視野角補償フィルム)などが偏光フィルタとガラス基板との間に追加して挿入される場合がある。また、バックライトシステムの一部にも、視野角や輝度を向上させるための光学フィルム(輝度上昇フィルム)を用いる場合もある。 カラーフィルタは、サブ画素に対応させて、赤色 (R)・緑色 (G)・青色 (B) の光を透過させる着色層やブラック・マトリックス (BM) を基板上に配置し、保護膜で覆ったものである。この着色層は、液晶をはさむ2枚の基板の表側のカラーフィルタ基板に微細パターンで塗り付けられる「着色材」、又は「着色膜」であり、顔料系、又は染色料系のものが用いられる。BM層によって黒色表示時の光漏れと隣り合う着色材同士の混色を防ぎ、TFTへの光照射による光電流の発生も防止する。着色材の定着に感光材を用いるものは、着色材に混ぜられてそのまま定着する。0.1μm程の薄いBM層は金属クロムが多く、他にもカーボン、チタン、ニッケルの使用が試みられている。BM層の間には1.2μm程のBM層よりは厚みのある3色の着色層が一定のパターンで配置される。高精細の画面では着色層のパターンはストライプ配置が多いが、低精細度の画面ではデルタ配置が良好な画質の印象となる。 カラーフィルタは色素の吸収を利用して各サブ画素の通過光をR、G、Bの3つの基本色にして、加法混合方式で混色を作り出すことで中間色を含むカラー表示が実現する。各サブ画素の印加電圧を制御して画素ごとの混色による発色が可能になり、透過光を遮ることで黒を表現する。これがカラー液晶パネルの仕組みである。 カラーフィルタには高色純度と高透過性、耐光性や耐熱性、耐薬品性、平滑性、加工寸法の精度が求められる。180°Cで1時間といった配向膜の焼成工程や低抵抗性ITOの成膜工程等での高温に耐える必要がある。同じく配向膜やITOの加工中での溶剤や洗浄剤に対する耐性が求められる。突起などがあるとセルギャップが一定に保てず、表示品質が悪くなる。カラーフィルタだけでも光の70%程度が失われて主に熱となり、残る約30%だけが通過できる。 簡易な表示で済む電卓の表示部のようなものを除けば、多数のサブ画素を格子状に配列したドットマトリクスによる表示が液晶パネルの主流となっており、これによって変化に富んだ画像表示が行える。ドットマトリクス表示の多数のサブ画素ごとの電極に個別の配線を行うと、基板周縁部は配線で埋まり現実的ではなくなることから、縦横の2次元的な配線の交点でサブ画素の電極を制御するマトリクス配線方式が採られている。マトリクス配線では、基本的に液晶パネル外との配線数が縦線と横線の合計数で済む。 マトリクス配線で使用される2種類の信号線を以下に示す。 マトリクス配線には「単純マトリクス駆動方式」と「アクティブ・マトリクス駆動方式」がある。 TFT等のアクティブ素子を用いる液晶パネルは、1990年代末頃から生産技術の発展とともに低価格化し、2000年代に入ると高品質の表示が必要なテレビ受像機やコンピュータ・モニタ、携帯電話の表示部として広く普及しており、STN型の単純マトリクスを使った液晶パネルは減少傾向にある。 TFTを構成する半導体の組成には、普及したアモルファス・シリコンと、開発が進んで実用化段階にあるポリ・シリコンがある。画面サイズの比較的小さな液晶パネルでは、開口率を上げるために絶縁膜を挟んで隣のゲート線上との間にコンデンサを作る「付加容量型」が多い。 ここでは一般的なアクティブ・マトリクス駆動方式の中でも、実用とされている駆動技術の代表的なものについて説明する。液晶分子が移動・回転する速度は、一般的には印加された電圧の二乗に比例するため、高速で表示を変えるためには印加電圧を高くする必要がある。 液晶表示では直流駆動すると寿命が短くなるため、交流電圧を加えることで駆動する交流電圧駆動が行われている。この交流の印加方式にいくつか種類があるが、いずれもフレームごとに反転させる。 画面が高精細となりサブ画素数が増えると動画表示のためにはXドライバの駆動周波数が100MHzを超えて一般的なICでは動作速度が満たせなくなる。このため、画面を例えば4分割するなどして駆動周波数を抑える工夫を行うのが普通であり、これを分割駆動 (Multiplexing drive) という。分割によってOLB (Outer Lead Bonding) による接続とデータドライバ / アドレスドライバ用ICは増えるが、高い周波数での設計は避けられる。例えば、3,200×2,400画素のQUXGAでは駆動周波数が575MHzとなって普通のICでは対応できなくなる。これを4画面にすれば約72MHzに低減できる。分割駆動では、XとYのドライバ(データドライバとアドレスドライバ)のICモジュールとそれらとの接続を増やすだけでなくタイミング・コントローラも対応しなければならない。画面を複数の領域に分けた分割駆動とすることで、一般的な半導体技術で作られた駆動ICを使用しながら画素数の増加を可能にした。 フレーム反転方式での液晶駆動では、カラーフィルタ基板側の透明電極である共通電極(コモン電極、対向電極)の電位の掛け方の違いで2方式に分けられる。 動きの激しい動画表示では、移動する物体の輪郭部が不鮮明に見えることがある。これは液晶画素が印加電圧を一定に保つホールド型駆動で構成されているために起こるが、これを避けるために、1つのフレーム内で画面を一度、全面真っ暗にすることで印加電圧をフレームごとに独立にするインパルス型駆動にする方法を採る。これがブラック挿入法である。液晶の表示時間は短くなり高い応答速度も求められ駆動データも高速化が必要だが、動くものの表示が鮮明にできる。 画素の明暗が急速に変化する場合に、液晶分子の動きが遅いために追従できないことがある。この場合に印加電圧を変化初期の短時間だけ10-20%程度大きめや小さめのプリエンファシス信号として与えることで液晶分子を早く駆動することができる。液晶の反応速度は印加電圧の2乗に反比例するので波形の立ち上がりと立下りだけ電圧を振ることで早い応答が得られる。 ブラック挿入法と同様に動く物体の表示を鮮明にするために、走査のタイミングを合わせてバックライトを消灯する。 倍速駆動や120Hz駆動と呼ばれる液晶パネルの駆動方式では、ほとんどの場合、毎秒60枚のフレームを表示していたものを120枚表示することを指す。表示枚数を増やすことによって激しい動きを伴う動画での残像感を小さくしようというものである。1秒間に60枚あった元の画像の間に、前後の画像情報から中間の画像を作り出して合わせて120枚にされる。4倍速の製品も登場している。 ショートリング (Short ring) は静電気破壊からパネルを保護する回路技術である。アレイ基板とカラーフィルタ基板はそのままでは大きなコンデンサとして働いて、人体などの静電気を蓄えて内部回路のTFT素子をショートさせる恐れがある。これを防ぐために、データ信号/アドレス信号の接続パッドごとに薄膜トランジスタ相当を抵抗として接続して、もう一方を共通接続する。このような抵抗を「作りこみ抵抗」や「負荷抵抗」と呼ぶ。 単純マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。 TN型(Twisted Nematic型、ねじれネマティック型)は初期に量産された最も基本的であり、2010年現在でも主流の表示方式である。 この方式では、電圧が無印加の状態でネマティック液晶と呼ばれる液晶分子の配向を90度ねじれるように配列している。表裏2枚の基板間で90度ねじれるように、各基板表面の配向膜に配向処理が施される。このねじれによって液晶を通過する光の偏光成分がほぼ90度回転する。これは旋光と呼ばれる現象である。また、正しく電圧が印加されると、分極している液晶分子は電界方向、つまり画面に垂直方向に揃って並び、光は偏光変換を受けずに液晶層を通過するため、光源側の偏光フィルムを透過した光の偏光状態がそのまま保たれて逆側の偏光フィルムにそのまま届くようになる。 STN (Super Twisted Nematic) 型は、単純マトリクス駆動方式での代表的な形式であり、現在でも比較的簡易な表示装置では使用されている。TN型が無印加時において液晶分子の並びのねじれ角が、両面の基板の間で90度であるのに対し、STN型では、180-270度となるように作製される。これにより印加電圧の僅かな差によって大きな配向変化を実現し、TN型では難しいハイデューティでの単純マトリクス駆動を可能にする。このため、TFT等のアクティブ素子を用いずに画素数の多い表示が可能となっている。TN型と同様にNBモードとNWモードがあり、NBモードでは黒と黄色、NWモードでは白と青の表示になる。初期のSTN型では光の波長によって明暗が一致せず、着色が避けられなかったため、いくつかの派生型が開発された。 STN型の派生型には以下のものがある。 アクティブ・マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。 単純マトリクス駆動と同様に、アクティブ・マトリクス駆動と組み合わせても多く利用されている。生産技術が確立され比較的安価である。また、特別な工夫をしなくても高い開口率が得られるため表示が明るくなり、同じ表示輝度であればバックライトの消費電力を削減できる。応答速度も8-15ms程度とそれほど遅くはない。短所は、視野角が狭く色度変位が大きい。画質よりコストや低消費電力を重視する用途に用いられる。2000年代頃までは廉価なノートパソコン向けであったが、2010年頃からは画質も向上し、ほとんどのノートパソコンでTN型となっている。また、視野角の狭さが簡易なプライバシーフィルターの効果を持つことから、上位機種でも積極的に採用するメーカーもある。 IPS型(In-Plane Switching型、インプレイン・スイッチング型)では、電極は一方の基板の面内方向に配置している。電圧を無印加の状態では液晶分子はねじれずに基板面に対して一定の水平方向を向いている。電圧の印加時には電界が面内方向に掛かるたて液晶分子が90度水平に回って電極に沿って並ぶ。無印加と印加で液晶分子が面内方向で90度回ることで、2枚の偏光フィルムとの間で透過、遮蔽を作り出す。液晶分子同士が並んだままで回転できるため反応が速く、特に中間調の応答が良い。見る角度にあまり影響されず視野角が広いという特徴がある。回転は、電極をくし型に配置することで実現されるため、半導体技術を用いるアクティブ・マトリクス駆動でのみ用いられる。液晶配向が基板に対して垂直方向に立ち上がることがないため、視野角が広い。視野角特性が良好なためTV用途で多く用いられるが、反面、開口率を上げにくく表示が暗くなり易い、正面表示でのコントラストを高めにくいといった課題もある。 VA型(Vertical Alignment型、 垂直配向型)では、負の誘電率異方性を持った液晶分子と垂直配向膜との組み合せで、無印加時には液晶分子が画面に対して垂直になり、印加時には液晶分子が画面に対して水平な配置となる。見る角度にかかわらず比較的良好な視野角と高いコントラストが得られる。8-15ms程度の応答速度になる。 OCB (Optically Compensated Bend, Optically Compensated Birefringence) 型は、無電界時には液晶が弓状に配列し、電圧印加時にはほぼ直線状に並ぶ。弓状から直線状に変化することで発生する液晶の流れと液晶分子の配向の変化が互いを阻害することがなく配向の変化が液晶の流れを加速するように働くため3-8msといった高速応答性を持つ。光学補償フィルムを必要とする。視野角も広く、-20°Cといった低温環境でも応答性がそれほど損なわれないがまだコストに課題があり、放送機器用や車載用での採用が多く、大画面は存在しない。 液晶分子は直径が0.4nm、長さが2nm程度の細長い有機分子である。 マザーガラスはマザーガラス基板とも呼ばれ、アレイ基板やカラーフィルタ基板の元となる素材である。これらの基板上に成膜するプロセスでは生産性向上のためにマザーガラスを切らずにそのままの大きさで製造工程を進め、終わりに近い工程で各基板ごとの大きさに切断してゆく。マザーガラスは以後の工程で障害とならないように、反り、塵、汚れ、傷、泡、欠けがないように求められる。 1枚のマザーガラスから取れる基板数は「面取り数」と呼ばれ、面取り数を増やすためにマザーガラスは拡大されてきた。マザーガラスの大きさとその月間や年間の処理可能枚数で、液晶ディスプレイ工場の生産能力が表現される。 マザーガラスは、主にその表面に構築される電極や回路の処理工程の最高温度によって使用できる種類が限定される。STN型のような単純マトリックス駆動では低価格のソーダガラスが使用できるが、TFT型のようなアクティブ・マトリックス駆動では高温処理が求められるため、高温ポリシリコン処理での1,000°C以上に耐えられる高価な石英ガラスや低温ポリシリコンでの600°C弱まで耐える無アルカリガラスが使用される。 ガラス厚も薄くなっており、カラーTFT液晶ディスプレイの開発当初は1.1mmであったものが0.7mmになり、特にノートパソコン用などでは0.63mmから0.6mmとなり、携帯電話用では0.4mmの製品が出ている。 配向膜にはポリイミドが使われることが多い。可溶性を高めるためのN-メチル-2-ピロリドン (NMP) などのアミド系極性溶媒と塗布性を高めるためのセロソルブアセテートなどの溶媒にポリアミック酸を溶解させたものが使用される。これを基板に塗布後、250°C以上に加熱処理してポリアミック酸を熱重合によりイミド化させて配向膜を形成する。基板上で熱重合するのではなくあらかじめ液体状態でイミド化させた可溶性ポリイミドも使用される。可溶性ポリイミドを使えば、基板上への塗布後の加熱温度が180°C以下となり、乾燥させる程度の処理となる。このため、加熱温度を高められないカラーフィルタ基板を用いる場合の配向膜として都合が良い。ポリイミド製の配向膜は、材質を選べば透明であり、300°C程度にも耐える高い耐熱性があり、液晶の配向を安定させることが可能であり、ガラス基板や電極膜への塗布性や密着性が良いという特徴がある。 偏光フィルムは、一般的な透過型パネル用では、偏光素子が入った偏光基材とこれを両面で挟むベース基板、そして片面には保護フィルムともう片面にはガラス基板に貼り付けるための離型フィルムから構成される。反射型パネルの裏面用は保護フィルムの代わりに粘着層を介して反射板が付けられる。 偏光フィルムは偏光板とも呼ばれるが「板」のような堅いものではなく、多ければ10層ほど積層されても0.12-0.4mm程度の薄いものであり、液晶パネルへ貼り付けられるまではテープ状に巻かれている。偏光素子が入った偏光基材とは、ヨウ素や二色性染料が偏光素子でありこれが偏光効果を起こす。偏光基材はポリビニルアルコール (PVA, Poly Vinyle Alcohol) が使われ、偏光素子がこの媒体内に含まれる。偏光基材を保護する役割のベース基板にはトリアセチルセルロース (TAC, Triacetyl cellulose, Cellulose triacetate) が使われる。ベース基板も「板」と呼ばれるがフィルムである。離型フィルムにはベース基板側に粘着層が塗布されており、ガラス基板に貼り付ける段階で剥離され、粘着層によってガラス基板に貼り付けられる。 偏光フィルムの単体での光学特性は、透過軸方向に平行方向の透過率:T1 と透過軸方向に直交方向の透過率:T2で表され、T1 は"1"に近く、T2は"0"に近くなるように偏光素子や偏光基材が調整される。1枚の偏光フィルムの単体透過率は T で表され、T1 とT2の平均で表される。 2枚使用時の光学特性は、透過軸方向が互いに平行な平行透過率:T ‖ {\displaystyle \|} と透過軸方向が互いに直交な直交透過率:T ⊥ {\displaystyle \perp } があり、平行透過率:T ‖ {\displaystyle \|} はT2とT1のそれぞれの2乗の和の平均で、直交透過率:T ⊥ {\displaystyle \perp } はT2とT1の積で表される。 また、偏光度 P は以下の式で表される。 実際の製品として使われている偏光フィルムでは、単体透過率 T は38-48%程度、偏光度 P は75-99.9%程度である。可視光領域で透過率と偏光度が波長によって差があると液晶パネルにすると色付きするので、これらの特性に波長依存性がないことが求められる。 2009年現在一般には、透明電極としてITO (Indium-tin-oxide) が使用されているが、ITOは塗布後の定着工程で200-300°C程度の比較的低い温度で半結晶化されるため抵抗値が高く、また透過度も波長の短い光線では低くなるために完全な透明ではなく少し茶色や黄色がかった色味を持つ。インジウムが中国に偏在するレアメタルであり、電子機器による需要増で価格が高騰している。 ITOに代わるものとして、ZnO膜や金の微細な繊維を配合した高分子膜の研究が進められて成果が上がっており、早ければ数年の内には製品への採用が始まるとされている。 液晶モジュールは、主な構成部品として液晶パネルに駆動回路と駆動用プリント基板、必要ならばバックライトを取り付けたものである。駆動用プリント基板類は液晶パネルとの接続部が柔軟なため、パネルの裏側に折り込まれて無用な実装面積を省くのが普通である。また、駆動回路の主要部を低温ポリシリコンによるTFT回路で液晶パネル上に取り込むことで、液晶パネルへの接続は、電源部やタイミング・コントローラ回路、最低限の映像信号回路などを載せた小型のプリント基板だけになり、不良の原因となる接続部の大幅な削減によって液晶モジュールの信頼性の向上が実現できるが、額縁スペースが余分に必要となる。 説明を簡単にするため、TFTカラー液晶モジュールでの駆動例を示す。以下の周辺回路の多くは、TABによってアレイ基板に接続されるか、COGや低温ポリシリコンによってアレイ基板上に実装または構築される。低温ポリシリコンを採用している場合でもタイミング・コントローラや電源回路は、ポリシリコンによるTFT素子でD/Aコンバータ、メモリ、コントローラまで作り込むと消費電力が増すために、外付け回路基板上の専用ICが使用される事が多い。 まず製造工程の概要を示したのちに、詳しい説明を加える。 各工程の最後や出荷前にそれぞれ検査が行われる。 アレイ基板の製造工程の各段階中と工程の最後に検査が行われる。アレイ基板として使用されないマザーガラス上の空き領域にあらかじめテスト用回路を作り込んでおき、膜厚、膜質、電気的特性を計測するという手法も使われる。 画面の大きさは21世紀以降急速に拡大している。アスペクト比は、テレビ用では4:3や16:9のアスペクト比を考慮しており、パソコン用もほとんどはテレビと同様の比率を考慮して作られている。 表示する画面部分は「有効表示領域」や「表示領域」、「アクティブ領域」と呼ばれ、周囲は「額縁」と呼ばれる。この有効表示領域の大きさは画面の対角線の長さをインチで表し、日本では数詞として「型」を付けて表現される。一般に画像の精細度を表すには、1インチ (25.4mm) 当り何個のドットがあるかという意味で "dpi" (dot per inch) を使うことが多いが、カラー液晶では "RGB" 3色の点で1つの画素 (pixel) を構成するため無用な混乱を避ける意味で "ppi" (pixel per inch) が使われることが多い。精細度を表す別の方法として「画素ピッチ」がある。画素ピッチは画素が並ぶ間隔を表しており、例えば1,000ppiでは0.0254mmになる。TV画面の水平解像度では「TV本」という解像度の表し方もあり、白地に縦に引いた黒い線を最大何本まで判別できるかというもので、普通のTVでは350TV本である。 ブラウン管式ディスプレイでも、液晶ディスプレイと同様に画面の対角線の長さをインチで表した「○○型」と表記していたが、米国では液晶ディスプレイと同じく有効表示領域の大きさを計っていたのに対して日本ではガラス管の外側の大きさを表していたので、実際に表示される領域は1-2インチ程度小さかった。 液晶ディスプレイでの画素(ピクセル、Pixel)は、"RGB" を合わせて1画素と数えて、R、G、Bのそれぞれは「サブ画素」や「サブ・ドット」と呼ばれる。カラー液晶ではサブ画素ごとに輝度を制御しており画素ごとではない。画素とサブ画素を混同しないように注意が求められる。 「ドット抜け」といった画素単位やサブ画素単位での不良は数個まで許容されるが、2013年現在では従来に比べて製造現場での環境整備が進み、ドット単位での不良はほとんどなくなる傾向にある。 安全性に関して留意すべきは、バックライトに冷陰極線管 (CCFL) を使用しているものでは、1,000V以上の高電圧を生じているので感電事故を起こさないように不用意にバックライトの電源部を触らないことである。陰極線管内には水銀が含まれるので、電気接続に使われるハンダの鉛やBM層のクロムと同様に人体には有毒であり、環境中にも放出されないよう留意する必要がある。液晶自身の毒性については, 急性経口毒性の指標であるLD50で表現するとほとんどが2,000以上であり、皮膚刺激性や吸入毒性でも「毒物および劇物取締り法」に抵触しない程度には基準を満たしているため、比較的安全であると考えられる。 1888年オーストリアのF.ライニッツァー (Reinitzer) らにより、コレステロールと安息香酸のエステル化合物からなる結晶を加熱することで液体状となるサーモトロピック液晶が発見された。1964年には米国で最初の液晶表示装置が考案され、1968年には米RCA社のハイルマイヤー (R. Heilmeir) 達の手で最初のネマティック液晶を使用した表示装置が作られた。これ以降、多様な装置が作られたがいずれもモノクロのものであった。1973年には日本で電池駆動可能な電卓の表示装置として採用された。しばらくはTN型による低消費電力で薄く小型のものが主体となって、電卓や腕時計、ワープロ、電子手帳、携帯型ゲーム機など、そのころ登場しはじめたデジタル機器の表示部として普及した。また1976年には英国ハル大学のグレイ教授が安定な液晶材料(ビフェニール系)を発見し、それは現在のLCD材料の基礎となっている。1983年には日本のエプソンから世界最初のTFT型液晶カラーテレビ「ET-10」が発表され、翌年に発売された。1988年には14型のTFT型液晶カラーTVが発表された。 1990年代になるとそれまでのセグメント表示からドット・マトリクス表示に、モノクロ表示からカラー表示に変わり、TFTによるアクティブ・マトリクス駆動によって高精細な表示が可能になった。1990年代半ばに低温ポリシリコンによるTFT層が実用化された。用途も静止画だけのスチルカメラの表示部のようなものから、動画が扱えるデジタルビデオカメラの表示部へと広がり、ノートパソコンの表示や小型テレビ、カーナビへと広がった。20世紀末ごろにはブラウン管TVを駆逐する勢いで、大型平面TVでの採用が大きな広がりを見せてきた。1990年代に日本メーカーのそれまでの基礎研究や技術開発の実用化・製品化が進み、世界市場を開拓していった。1990年代半ばに韓国メーカーが、1990年代後半には台湾メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。 2000年代になると、小型の表示器としては携帯電話やPDA、携帯音楽プレーヤー等の多様な携帯型電子機器に使用されるようになり、大型では大画面TVや普及型TVなど、広くTV用途で採用されている。2000年代には中国メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。 液晶ディスプレイに関係する産業には以下の会社群がある。 上記での液晶原材料とは、液晶材、配向膜、ターゲット材などがあり、液晶部材とはカラーフィルタ、偏光板、マザーガラスがある。 液晶パネルメーカーは液晶ディスプレイメーカーに対して液晶パネルを部品として供給するメーカーを指し、液晶ディスプレイメーカーは自社で液晶パネルを内製するものと社外から購入するものの両者を含む。液晶ディスプレイメーカーの中には内製した液晶パネルを外販する会社もある。液晶部材から半導体、液晶パネルを含めて内製する垂直統合型の液晶ディスプレイメーカーとして、韓国のサムスン電子、LGフィリップスと、日本のシャープ、パナソニック、ソニー、日立、東芝がある。欧州と台湾では水平分業型の専業メーカーがいくつかある。 液晶ディスプレイ産業は国際的な市場に向けた世界規模での開発・生産・販売が行われているが、生産拠点は比較的アジアに集中しており、また液晶部材の中でもマザーガラスのように巨大化を遂げた部品では長距離輸送に向かないため、地域的な偏在性を生む要因となっている。 液晶ディスプレイ産業は、特に大画面TVでの需要が急速に立ち上がっていることもあり、産業の中心は大型パネルの生産に比重が移っている。こういった大型パネルの生産では大きな設備投資が求められる割りに生産設備の陳腐化速度が速く、新たな技術の採用によって生産コスト削減や製品性能が大きく向上するなど、半導体産業に似た特徴を備えている。半導体産業での「シリコンサイクル」と同様に液晶ディスプレイ産業では「クリスタルサイクル」と呼ばれる需給バランスの長期的な変動を繰り返す傾向がある。また、中サイズのパネルではノートパソコンに組み込まれ、小画面パネルでは携帯機器や家庭電化製品、産業用機器などの広範な電気製品に対して組み込むために、多くが外販され一部が社内の別部署での機器生産に使用される。 液晶ディスプレイメーカーの各社は同業同士での競争だけでなく、プラズマディスプレイや有機ELのような似た用途のディスプレイ技術へも競争が求められる。また、多くのメーカーは液晶技術だけに固執せずに新たな次世代ディスプレイ技術への模索も続けている。 2009年1月の10型以上のTFT液晶パネルの世界売上高が25億米ドルだったと発表した。これは前月2008年12月から10.7%減であり、前年同期比では63.3%も減ったことになる。枚数で云えば、2,380万枚であり、これは前月2008年12月から12.4%減、前年同期比では33.5%減ったことになる。 メーカー別の売上高シェアでは、1位が韓国サムスン電子 (Samsung Electronics) 社の27.9%、2位が韓国LG電子系列のLG Display社が27.8%だった。出荷枚数別では、1位がLG Display社が26.4%で逆転し、2位はサムスン電子の26.0%、3位が台湾奇美電子 (Chi Mei Optoelectronics) 社で13.8%だった。 液晶パネルには、形状的な特徴、電気的な特徴、並びに、光学的な特徴および構成部品数などの面で他の表示装置とは異なる特徴がある。 液晶パネルの形状的な最大の特徴は、薄型である点である。ガラス2枚と偏光フィルタ2枚、必要に応じてバックライトによって表示が行えるため、非常に広汎な製品に応用されている。 また、液晶パネルの電気的な面での最大の特徴は、液晶パネルそれ自体の電力消費が非常に小さいことである。数ボルト程度の電圧によって表示が書き換わり、電流はほとんど流れないためである。このため、ロジック系ICによって容易に駆動が可能であるなどの特徴から、用途の制限が少ない。ただし、液晶パネルの液晶部分は通常は交流駆動する必要があり、表示内容を書き換えなくても極性反転のために充放電電流が消費される。また、液晶パネルは自発光しないため、照明を設ける場合には、照明のために消費電力が大きくなるという課題がある。ただしこれはLEDなどにおいてある程度は低減できる。 液晶ディスプレイの光学面での最大の特徴は、液晶それ自体が発光しないことである。表示には、バックライト、フロントライト、外光などの光源を必要とする。液晶ディスプレイでは、白色光のバックライトにカラーフィルタを用いた液晶パネルを組み合わせるカラー表示が主流である。 液晶パネルは、様々な利点を有する一方、表示原理に起因する技術課題(欠点)も有している。 液晶ディスプレイが多様な用途をカバーしてきた背景には、要求される光学的機能を実現するために、数多くの構成部品を組み合わせて液晶ディスプレイ自体が構成されてきた点を挙げることができる。 液晶ディスプレイは、多数の構成部品により構成される。この構成部品の多さのために、細かな需要に合せた多様なバリエーションが生み出されている。そればかりか、この構成部品の多様さは、液晶ディスプレイの性能の進歩に大きく寄与してきた。液晶パネルの液晶部分に全く変更がなくても全体性能の改良が実現されるからである。一例として、透過型液晶ディスプレイの構成部品であるバックライトを挙げると、バックライトの光源の進歩により、色再現範囲(色域、color gamut)が大幅に改善されたり、消費電力が低下するといった性能改善が実現される。このように、液晶そのものの改良がなくとも、構成部品の技術進歩が液晶ディスプレイの進歩に取り込まれている。 また、液晶ディスプレイを構成する部品を選択することによって表示特性を用途に適合させることも行なわれている。その典型例が、光沢(グレア)表示とノングレア(つや消し・マット)表示の選択である。この選択は、液晶ディスプレイの最もユーザー側に位置する部品(通常は偏光フィルム)の表面処理によって決定される。つまり、平滑な面を持ち光沢のある表面処理の偏光フィルムを採用すると光沢表示となり、散乱のある表面処理の偏光フィルムを採用するとノングレア表示となる。よって、写真画像や動画の鑑賞目的のために、色純度やコントラストの感覚的な品位を高めることができる光沢画面と、事務処理用に適する映り込みの少ないノングレア画面との用途別の作り分けが、偏光フィルムの選択のみにより行える。 液晶パネルは、透過型液晶パネル、反射型液晶パネル、プロジェクター、フィールドシーケンシャルカラー表示、半透過型液晶ディスプレイといったさまざまな表示方式が実用化または創出されており、非常に柔軟な光学的構成で用いられ、構成部品の改良が技術的進歩に寄与している。 液晶パネルの光学的機能の多様性の一例を挙げるなら、液晶パネルでは、外光を利用することにより照明を設けずに低消費電力の表示を行うことも可能であるし、必要に応じて照明を設けて、自発光型の表示装置と類似の用途に用いることもできる点が好例である。それ自体が発光することはないため、光源との組合せの数だけ光学的機能にも多様性が生まれている。 液晶パネルに照明を設けない場合には、外光を反射板で反射させて往復で表示を行うことが多い(反射型液晶パネル)。反射型液晶パネルでは、多くの場合に裏側の偏光板の背面に適当な凹凸をもった金属などの反射板を配置する方式(セル外反射板方式)が主流で、安価な液晶表示部で背景が薄緑、表示が変化する部分がこの背景色と黒色との間で変化するものは主にこの方式である。一部には、裏面側には偏光板を設けず、液晶層の裏側の基板の液晶層側反射板を配置して、液晶層と反射板を近接させ手配置する方式(セル内反射板方式)も実用化されている。この場合、一枚の表側の偏光板にフィルム位相差板が併用され、液晶層を往復する光の偏光を制御することが多い。 また、液晶パネルに照明を設ける場合には、EL(エレクトロ・ルミネッセンス)、冷陰極管、発光ダイオードなどの光源によって背面から照明するバックライトによる透過光を観察する透過型液晶パネルや、表示面側からフロントライトと呼ばれる照明装置により照明して反射光を観察するフロントライト付き反射型液晶パネルがある。照明を設けるのは、多くの場合、カラー表示を行うカラーフィルタの吸収のために表示が暗くなる場合である。 そして、照明を設ける液晶パネルと、照明を用いない液晶パネルとの組み合わせるようなもの、つまり、透過型と反射型を組み合わせることにより、外光を反射しつつ、バックライトの照明も利用する半透過型液晶パネルもしくは半(微)反射型液晶パネルと呼ばれるものもある。これにより、夜間の周囲が暗いときから日中の直射日光下まで表示内容が確認できるパネルが開発できるため、家庭用ビデオカメラ、ディジタルスチルカメラなどに利用されている。このように、発光ディスプレイに近い照明を用いた表示と外光を利用した反射ディスプレイとしての表示を1つの表示パネルで両立するものは液晶以外の表示方式では知られておらず、液晶パネルに用いることができる光学的機能の多様性を示す好例といえる。 誘電体である液晶物質は誘電分極という性質を持つ。スメクテック液晶でキラリティを持つ種類の物質は、長軸周りの分子回転の動きが束縛されるため永久双極子が並んだ状態となって電界がなくともが自発分極を起こす強誘電性を示すことがある。この代表的なものが、カイラル・スメクテックC相(又はキラル・スメクテックC相)と呼ばれる液晶である。 カイラル・スメクテックC相の液晶は通常は螺旋をとるが、2枚の基板間隔が縮められ螺旋ピッチ以下にまで狭くなると、螺旋構造がとれなくなり特定の2つの向きにのみダイレクタが揃う配列が許されるようになる。 このようなカイラル・スメクテックC相の液晶の層を1-2マイクロメートルの狭い幅の2枚の平行な電極基板で挟み込むと、正、又は負の電圧を電極間に加えることですべてのダイレクタの方向を揃えられ、さらに熱的揺らぎによっても容易には逆の方向まで変化しないので、電圧を加えなくとも配列状態が維持でき、無電力で表示が保存できる。 このような構造の液晶表示を表面安定化強誘電性液晶 (Surface Stabilized Ferroelectric Liquid Crystal, SSFLC) と呼び、一時期は実用化が進められたが、動作原理上、光の透過度で中間値が作れないことや狭い液晶層を大画面で作るのが容易ではなく、あまり利用は進まなかった。ただし、応答速度が他方式より2-3桁も早く、電界を切っても配列状態が残るので、フィールドシーケンシャルカラー表示や電子ペーパーとしての用途が見出されている。 強誘電性液晶は明状態と暗状態のそれぞれにするためには特定の極性電圧を加える必要があり、これは直流駆動(DC駆動)しか許されないことになる。直流駆動では画質の低下が避けられないので、できれば交流駆動(AC駆動)が望まれた。 2枚の基板間隔が広がり、螺旋構造が復活しても自発分極は層ごとで互いに打ち消しあって外部には現れず、無電界ではダイレクタが層ごとに交互に異なる向きに並んでいる。2枚の偏光フィルムを直交で用い、1枚の偏光軸を片方のダイレクタに合わせると、無電界ではほとんど遮蔽されるが、電極の電圧を正でも負でも加えると光が通るようになる。 しきい値以上の正電圧ですべての層で1方向にダイレクタが揃い、正と負の領域でのしきい値以下の電圧で層ごとに交互に1方向ずつ異なる無形にダイレクタが揃い、しきい値以上の負電圧ですべての層で正電圧とは逆向きの1方向にダイレクタが揃う。これら3つの他に中間の状態は取れないので反応が早い。 また、これまでの強誘電性液晶や反強誘電性液晶ではヒステリシス特性があったが、中間調表示が可能な無しきい値反強誘電性液晶 (Threshold-less Anti-Ferroelectric Liquid Crystal, TL-AFLC) が開発されている。 反射型は液晶が表示器として使用され始めた頃からの比較的古い技術である。外光を反射することで表示を行う反射型液晶表示パネルは、透過型のようにバックライトを必要としないため、現在も簡易な表示に多用されている。最も代表的な反射型の液晶表示はセグメント表示によるデジタル時計である。反射型でも、フロントライトと呼ばれる光源を液晶表面より手前側に備えることで、外光の無い暗所でも見えるように工夫したものがある。 これに対し、半透過型は、反射・透過両用型、つまり、外光による反射光の表示と、背面のバックライトによる透過光による表示とを組み合わせるものである。反射型でのフロントライトと同様に、暗所ではバックライトを使い、明るい場所ではライトを消すことで電力消費を抑えることができる。 反射型や半透過型は、外光が強い場合に視認性が低下するという透過型の欠点を解消できる利点がある。特に直射日光が差し込む環境などでの視認性は、その直射日光下の周囲の明るさに順応して観察者の目が明るさを感じにくくなることが影響する。透過型ではその観察者の目に表示面を明るく感じさせるためには強力なバックライトが必要になる。これに対し、外光に比例した反射光を利用する反射型および半透過型では、なんらエネルギー消費を増やさずとも、表示面を明るく感じさせることかでき、さらに外光に比例して反射光が増加するというある種の自動調整も実現する。 反射型と半透過型では液晶層の背面に反射板が置かれている。半透過型ではその反射板が半透過性の反射板とされたり、部分的に背面からの光を通過させる領域を設けて光透過性を示す反射板とされる。反射型と半透過型ともに、反射板の位置にはさらにバリエーションがあり、液晶層の背面側基板のさらに背面側のものと、前側(液晶側)のものとがある。旧来の反射型や半透過型は前者であるが、近年のアクティブ素子を利用するものでは後者も採用されている。後者は、背面側基板の厚みが表示に悪影響を及ぼさないため、高精細な表示が可能である。この場合、背面側基板はアレイ基板とされる。 特にアクティブ素子を利用する反射型や半透過型ではアレイ側の配線が不透明でも開口率に影響しにくい点で、透過型とは異なっている。つまり、反射型では、反射性の(サブ)画素電極を金属配線やアクティブ素子の上に形成した絶縁膜の上に構築することで金属配線やアクティブ素子などの非透過性要素が開口率に影響しないようにできる。また、半透過型でも、反射部分を非透過性要素に重ねて配置することが可能である。 2000年頃には、携帯電話用としてカラー表示のできる反射型TFT液晶が多用された。ところが、表示コンテンツの多様化が進展すると画質に不満が生じた。2002年頃に携帯電話にカメラ付き機種が登場すると、特に表示画面の高画質化が求められ、反射型TFT液晶に代わり半透過型TFT液晶が採用されるようになった。それ以降、ワンセグや動画再生機能などに対応した機種などのさらなる高画質化要求に応じ、透過型TFTと半透過型TFTが使い分けられている。反射型は低消費電力であるため、電話機以外でも携帯用途での利用が再び進んでいる。 セグメント表示の身近な例では、電卓に多用されている8の字によって数字を表示する、7セグメントディスプレイが挙げられる。このように表示対象をいくつかの小さい領域である「セグメント」に分割し、その領域毎に外部から所望の電圧を印加するものを、セグメント表示と呼ぶ。 どのセグメントに電圧をかけるかを適宜制御すれば、数字の0 - 9等を表示し分けることができる。数字だけでなく擬似的なアルファベットも16セグメント程度で1文字を表すものがあり、各種電気機器の動作表示部などではピクトグラムのような簡単なマークもセグメントによって表される。セグメント数が少なければスタティック駆動されるが、電卓のようにセグメント数が多くなるとダイナミック駆動(人間の目で判断できないほど高速で表示を順番に切り替える方式)される。 セグメント表示の多くは中間調を持たず明暗の2つの状態で表示されているが、電池が消耗した電卓などで駆動電圧が不十分になると、表示が薄くなり、中間調のような表示が起きる。 液晶テレビでは、液晶パネルは製造原価の6割から7割を占める重要な部分である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイ(えきしょうディスプレイ、liquid crystal display、LCD)は、光源等の表面に、液晶の光学特性を利用した複数のシャッターを配置し、様々なパターンでシャッターを開閉することによって図画等を表示する装置である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイはデジタル化された電子機器の普及に伴いごく一般的な表示装置となっている。特に、数値や機器動作状態等の情報表示装置、映像などの画像表示装置として多様な電子機器において利用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイには、「液晶モジュール」と呼ばれる部品が含まれており、その液晶モジュールは、主に「液晶パネル」と呼ばれる液晶を含む板状の部品と、液晶パネルに対して電気信号を供給するための駆動回路とを含んで構成されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイの典型例には、液晶テレビやコンピュータ・ディスプレイがある。液晶モジュールは、これら以外にも、携帯電話端末、携帯型ゲーム機、電卓、時計などの表示部として使われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "つまり、単に「液晶ディスプレイ」と呼ばれた場合であっても、製品全体を指す場合と製品の表示部だけを指す場合がある。本記事では、便宜上、製品全体を指す場合には液晶ディスプレイと呼び、製品の表示部だけを指すには液晶モジュールや液晶パネルと呼ぶ。テレビ、PCなどの表示装置の製品としての「液晶ディスプレイ」と、携帯電話やデジタルカメラなどに組み込まれる製品の一部の部品としての「液晶パネル」と「液晶モジュール」について、それぞれを分けて記述する。また、本項目では液晶プロジェクタは扱わない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "単体装置としての液晶ディスプレイは、光源、駆動回路や電源回路、接続コネクタ、ケース等を除けば主要部分が液晶パネルと呼ばれる薄い板状部品で構成されている。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "電卓や時計の液晶は、あらかじめ「絵」の形に電極を配置して液晶に電圧を加える反射型の液晶が使用されることが多い。カラーの画像や映像を表示するものでは、格子状に配列したサブ画素 (Sub-pixel, sub-dot) を用いる。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "液晶パネルは、外光や、フロントライト、バックライト等の光源により発せられた光を部分的に遮ったり透過させたりすることによって表示を行う。一般的な透過型液晶パネルを例として表示原理を説明する。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このように液晶層を表裏2枚の配向層がはさみ、さらに2枚の偏光フィルタとその外側に電極が位置する。表側の偏光フィルタを透過する光が多い場合に表示が明るくなり、少ない場合には表示は暗くなる。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "こうして光学的なシャッターを実現し、このような微細なシャッター1つを1つのサブ画素とする多数のサブ画素によって望む画像を表示する。このシャッターは光の透過と遮断だけを行うので多様な色は、概ね3原色を備えた色フィルタで実現される。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2枚の電極に挟まれた各画素での表示には偏光フィルムの配置方向に応じて、2種の表示モードが存在する。", "title": "液晶パネルの原理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "液晶パネルは、大きくは表裏2枚の基板とその間の液晶材料から構成される。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "液晶パネル(表面より順に示す。カッコ内は厚みの例)", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上記に加えて基板の周囲に「封止剤」が使われる。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "液晶パネルは、油状の透明な液晶組成物(液晶材料)が2枚の透明な基板の間にサンドイッチされ、周囲が封止剤によってシールされていて、液晶材料が漏れ出すことなくまた液晶材料が清浄に保たれるようになっている。セルギャップという基板同士の間隔を一定に保つためのスペーサやギャップ材として、粒の大きさが揃ったプラスチック球が少しだけ液晶層に散布されていたり、カラーフィルタ基板に柱状のスペーサが作り込まれている。カラーフィルタ基板よりもアレイ基板の方が周囲の接続端子などの分だけ大きくなる。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2枚の基板は表側にカラーフィルタ基板、裏側にアレイ基板が配置される。アレイ基板は液晶側にTFTなどのアクティブ素子とサブ画素となる電極がアレイ(配列)状に作り込まれている。カラーフィルタ基板の液晶側には、ブラック・マトリックス (BM) やR(赤)、G(緑)、B(青)というカラーフィルタを配列し、さらに透明電極による共通電極またはコモン電極と呼ばれるものが基板全面に作られる。これらの基板は光をできるだけ無駄なく透過させるために、ガラス基板が用いられることが多い。耐衝撃性、フレキシブル性などの点からプラスチック基板を用いることもある。透明電極の材料としては、電気抵抗が低くパターン加工の容易なインジウムとスズの酸化物であるITO (Indium-tin-oxide) が広く用いられている。また、透明電極に印加される電圧は、アレイ基板ではTFTなどのアクティブ素子を通じて外部から印加されるが、外部からサブ画素までの配線として金属配線もアレイ基板の内面に配置されている。アレイ基板の端部には、配線電極の接続部が露出しており、ここに駆動回路が接続されて電気的に実装される。表裏2面の透明電極のそれぞれの内側には、ポリイミド材料の配向膜が配置されて、液晶材料を所望の配向状態になるようにしている。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "液晶パネルでは、液晶を封入した表裏の透明基板のさらに外側に、1組の偏光フィルタ(偏光板、Polarizer)を設ける形式が主流である。透過型の液晶パネルでは、裏側の光源(バックライト)から出た光は、光源⇒偏光フィルタ⇒アレイ基板⇒サブ画素の透明電極⇒配向膜⇒液晶⇒配向膜⇒共通透明電極⇒カラーフィルタ基板⇒偏光フィルタ、という順に各要素を通過して観察者の目に届く。ごく安価な表示用途で使われる簡易な反射型の液晶パネルでは、散乱性の反射板を液晶パネルの背面(裏面)に配置してそれ自体には光源を設けず、周囲の光(外光)によって表示する。 アレイ基板からカラーフィルタ基板の共通電極へ接続するのはトランスファ (Transfer) と呼ばれ、またこの接続材はコモン転移材 (Common transfer material) と呼ばれ、一般に銀ペーストやカーボン・ペーストといった導電ペーストが使用される。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "実際の製品ではこういった基本構造の他にも、視野角特性を改良するための光学フィルム(視野角補償フィルム)などが偏光フィルタとガラス基板との間に追加して挿入される場合がある。また、バックライトシステムの一部にも、視野角や輝度を向上させるための光学フィルム(輝度上昇フィルム)を用いる場合もある。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "カラーフィルタは、サブ画素に対応させて、赤色 (R)・緑色 (G)・青色 (B) の光を透過させる着色層やブラック・マトリックス (BM) を基板上に配置し、保護膜で覆ったものである。この着色層は、液晶をはさむ2枚の基板の表側のカラーフィルタ基板に微細パターンで塗り付けられる「着色材」、又は「着色膜」であり、顔料系、又は染色料系のものが用いられる。BM層によって黒色表示時の光漏れと隣り合う着色材同士の混色を防ぎ、TFTへの光照射による光電流の発生も防止する。着色材の定着に感光材を用いるものは、着色材に混ぜられてそのまま定着する。0.1μm程の薄いBM層は金属クロムが多く、他にもカーボン、チタン、ニッケルの使用が試みられている。BM層の間には1.2μm程のBM層よりは厚みのある3色の着色層が一定のパターンで配置される。高精細の画面では着色層のパターンはストライプ配置が多いが、低精細度の画面ではデルタ配置が良好な画質の印象となる。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "カラーフィルタは色素の吸収を利用して各サブ画素の通過光をR、G、Bの3つの基本色にして、加法混合方式で混色を作り出すことで中間色を含むカラー表示が実現する。各サブ画素の印加電圧を制御して画素ごとの混色による発色が可能になり、透過光を遮ることで黒を表現する。これがカラー液晶パネルの仕組みである。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カラーフィルタには高色純度と高透過性、耐光性や耐熱性、耐薬品性、平滑性、加工寸法の精度が求められる。180°Cで1時間といった配向膜の焼成工程や低抵抗性ITOの成膜工程等での高温に耐える必要がある。同じく配向膜やITOの加工中での溶剤や洗浄剤に対する耐性が求められる。突起などがあるとセルギャップが一定に保てず、表示品質が悪くなる。カラーフィルタだけでも光の70%程度が失われて主に熱となり、残る約30%だけが通過できる。", "title": "液晶パネルの構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "簡易な表示で済む電卓の表示部のようなものを除けば、多数のサブ画素を格子状に配列したドットマトリクスによる表示が液晶パネルの主流となっており、これによって変化に富んだ画像表示が行える。ドットマトリクス表示の多数のサブ画素ごとの電極に個別の配線を行うと、基板周縁部は配線で埋まり現実的ではなくなることから、縦横の2次元的な配線の交点でサブ画素の電極を制御するマトリクス配線方式が採られている。マトリクス配線では、基本的に液晶パネル外との配線数が縦線と横線の合計数で済む。", "title": "液晶パネルの基本的な駆動方式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マトリクス配線で使用される2種類の信号線を以下に示す。", "title": "液晶パネルの基本的な駆動方式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "マトリクス配線には「単純マトリクス駆動方式」と「アクティブ・マトリクス駆動方式」がある。", "title": "液晶パネルの基本的な駆動方式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "TFT等のアクティブ素子を用いる液晶パネルは、1990年代末頃から生産技術の発展とともに低価格化し、2000年代に入ると高品質の表示が必要なテレビ受像機やコンピュータ・モニタ、携帯電話の表示部として広く普及しており、STN型の単純マトリクスを使った液晶パネルは減少傾向にある。", "title": "液晶パネルの基本的な駆動方式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "TFTを構成する半導体の組成には、普及したアモルファス・シリコンと、開発が進んで実用化段階にあるポリ・シリコンがある。画面サイズの比較的小さな液晶パネルでは、開口率を上げるために絶縁膜を挟んで隣のゲート線上との間にコンデンサを作る「付加容量型」が多い。", "title": "液晶パネルの基本的な駆動方式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ここでは一般的なアクティブ・マトリクス駆動方式の中でも、実用とされている駆動技術の代表的なものについて説明する。液晶分子が移動・回転する速度は、一般的には印加された電圧の二乗に比例するため、高速で表示を変えるためには印加電圧を高くする必要がある。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "液晶表示では直流駆動すると寿命が短くなるため、交流電圧を加えることで駆動する交流電圧駆動が行われている。この交流の印加方式にいくつか種類があるが、いずれもフレームごとに反転させる。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "画面が高精細となりサブ画素数が増えると動画表示のためにはXドライバの駆動周波数が100MHzを超えて一般的なICでは動作速度が満たせなくなる。このため、画面を例えば4分割するなどして駆動周波数を抑える工夫を行うのが普通であり、これを分割駆動 (Multiplexing drive) という。分割によってOLB (Outer Lead Bonding) による接続とデータドライバ / アドレスドライバ用ICは増えるが、高い周波数での設計は避けられる。例えば、3,200×2,400画素のQUXGAでは駆動周波数が575MHzとなって普通のICでは対応できなくなる。これを4画面にすれば約72MHzに低減できる。分割駆動では、XとYのドライバ(データドライバとアドレスドライバ)のICモジュールとそれらとの接続を増やすだけでなくタイミング・コントローラも対応しなければならない。画面を複数の領域に分けた分割駆動とすることで、一般的な半導体技術で作られた駆動ICを使用しながら画素数の増加を可能にした。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "フレーム反転方式での液晶駆動では、カラーフィルタ基板側の透明電極である共通電極(コモン電極、対向電極)の電位の掛け方の違いで2方式に分けられる。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "動きの激しい動画表示では、移動する物体の輪郭部が不鮮明に見えることがある。これは液晶画素が印加電圧を一定に保つホールド型駆動で構成されているために起こるが、これを避けるために、1つのフレーム内で画面を一度、全面真っ暗にすることで印加電圧をフレームごとに独立にするインパルス型駆動にする方法を採る。これがブラック挿入法である。液晶の表示時間は短くなり高い応答速度も求められ駆動データも高速化が必要だが、動くものの表示が鮮明にできる。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "画素の明暗が急速に変化する場合に、液晶分子の動きが遅いために追従できないことがある。この場合に印加電圧を変化初期の短時間だけ10-20%程度大きめや小さめのプリエンファシス信号として与えることで液晶分子を早く駆動することができる。液晶の反応速度は印加電圧の2乗に反比例するので波形の立ち上がりと立下りだけ電圧を振ることで早い応答が得られる。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ブラック挿入法と同様に動く物体の表示を鮮明にするために、走査のタイミングを合わせてバックライトを消灯する。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "倍速駆動や120Hz駆動と呼ばれる液晶パネルの駆動方式では、ほとんどの場合、毎秒60枚のフレームを表示していたものを120枚表示することを指す。表示枚数を増やすことによって激しい動きを伴う動画での残像感を小さくしようというものである。1秒間に60枚あった元の画像の間に、前後の画像情報から中間の画像を作り出して合わせて120枚にされる。4倍速の製品も登場している。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ショートリング (Short ring) は静電気破壊からパネルを保護する回路技術である。アレイ基板とカラーフィルタ基板はそのままでは大きなコンデンサとして働いて、人体などの静電気を蓄えて内部回路のTFT素子をショートさせる恐れがある。これを防ぐために、データ信号/アドレス信号の接続パッドごとに薄膜トランジスタ相当を抵抗として接続して、もう一方を共通接続する。このような抵抗を「作りこみ抵抗」や「負荷抵抗」と呼ぶ。", "title": "液晶パネルの駆動技術" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "単純マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。", "title": "液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "TN型(Twisted Nematic型、ねじれネマティック型)は初期に量産された最も基本的であり、2010年現在でも主流の表示方式である。", "title": "液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この方式では、電圧が無印加の状態でネマティック液晶と呼ばれる液晶分子の配向を90度ねじれるように配列している。表裏2枚の基板間で90度ねじれるように、各基板表面の配向膜に配向処理が施される。このねじれによって液晶を通過する光の偏光成分がほぼ90度回転する。これは旋光と呼ばれる現象である。また、正しく電圧が印加されると、分極している液晶分子は電界方向、つまり画面に垂直方向に揃って並び、光は偏光変換を受けずに液晶層を通過するため、光源側の偏光フィルムを透過した光の偏光状態がそのまま保たれて逆側の偏光フィルムにそのまま届くようになる。", "title": "液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "STN (Super Twisted Nematic) 型は、単純マトリクス駆動方式での代表的な形式であり、現在でも比較的簡易な表示装置では使用されている。TN型が無印加時において液晶分子の並びのねじれ角が、両面の基板の間で90度であるのに対し、STN型では、180-270度となるように作製される。これにより印加電圧の僅かな差によって大きな配向変化を実現し、TN型では難しいハイデューティでの単純マトリクス駆動を可能にする。このため、TFT等のアクティブ素子を用いずに画素数の多い表示が可能となっている。TN型と同様にNBモードとNWモードがあり、NBモードでは黒と黄色、NWモードでは白と青の表示になる。初期のSTN型では光の波長によって明暗が一致せず、着色が避けられなかったため、いくつかの派生型が開発された。", "title": "液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "STN型の派生型には以下のものがある。", "title": "液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アクティブ・マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。", "title": "液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "単純マトリクス駆動と同様に、アクティブ・マトリクス駆動と組み合わせても多く利用されている。生産技術が確立され比較的安価である。また、特別な工夫をしなくても高い開口率が得られるため表示が明るくなり、同じ表示輝度であればバックライトの消費電力を削減できる。応答速度も8-15ms程度とそれほど遅くはない。短所は、視野角が狭く色度変位が大きい。画質よりコストや低消費電力を重視する用途に用いられる。2000年代頃までは廉価なノートパソコン向けであったが、2010年頃からは画質も向上し、ほとんどのノートパソコンでTN型となっている。また、視野角の狭さが簡易なプライバシーフィルターの効果を持つことから、上位機種でも積極的に採用するメーカーもある。", "title": "液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "IPS型(In-Plane Switching型、インプレイン・スイッチング型)では、電極は一方の基板の面内方向に配置している。電圧を無印加の状態では液晶分子はねじれずに基板面に対して一定の水平方向を向いている。電圧の印加時には電界が面内方向に掛かるたて液晶分子が90度水平に回って電極に沿って並ぶ。無印加と印加で液晶分子が面内方向で90度回ることで、2枚の偏光フィルムとの間で透過、遮蔽を作り出す。液晶分子同士が並んだままで回転できるため反応が速く、特に中間調の応答が良い。見る角度にあまり影響されず視野角が広いという特徴がある。回転は、電極をくし型に配置することで実現されるため、半導体技術を用いるアクティブ・マトリクス駆動でのみ用いられる。液晶配向が基板に対して垂直方向に立ち上がることがないため、視野角が広い。視野角特性が良好なためTV用途で多く用いられるが、反面、開口率を上げにくく表示が暗くなり易い、正面表示でのコントラストを高めにくいといった課題もある。", "title": "液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "VA型(Vertical Alignment型、 垂直配向型)では、負の誘電率異方性を持った液晶分子と垂直配向膜との組み合せで、無印加時には液晶分子が画面に対して垂直になり、印加時には液晶分子が画面に対して水平な配置となる。見る角度にかかわらず比較的良好な視野角と高いコントラストが得られる。8-15ms程度の応答速度になる。", "title": "液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "OCB (Optically Compensated Bend, Optically Compensated Birefringence) 型は、無電界時には液晶が弓状に配列し、電圧印加時にはほぼ直線状に並ぶ。弓状から直線状に変化することで発生する液晶の流れと液晶分子の配向の変化が互いを阻害することがなく配向の変化が液晶の流れを加速するように働くため3-8msといった高速応答性を持つ。光学補償フィルムを必要とする。視野角も広く、-20°Cといった低温環境でも応答性がそれほど損なわれないがまだコストに課題があり、放送機器用や車載用での採用が多く、大画面は存在しない。", "title": "液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "液晶分子は直径が0.4nm、長さが2nm程度の細長い有機分子である。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "マザーガラスはマザーガラス基板とも呼ばれ、アレイ基板やカラーフィルタ基板の元となる素材である。これらの基板上に成膜するプロセスでは生産性向上のためにマザーガラスを切らずにそのままの大きさで製造工程を進め、終わりに近い工程で各基板ごとの大きさに切断してゆく。マザーガラスは以後の工程で障害とならないように、反り、塵、汚れ、傷、泡、欠けがないように求められる。 1枚のマザーガラスから取れる基板数は「面取り数」と呼ばれ、面取り数を増やすためにマザーガラスは拡大されてきた。マザーガラスの大きさとその月間や年間の処理可能枚数で、液晶ディスプレイ工場の生産能力が表現される。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "マザーガラスは、主にその表面に構築される電極や回路の処理工程の最高温度によって使用できる種類が限定される。STN型のような単純マトリックス駆動では低価格のソーダガラスが使用できるが、TFT型のようなアクティブ・マトリックス駆動では高温処理が求められるため、高温ポリシリコン処理での1,000°C以上に耐えられる高価な石英ガラスや低温ポリシリコンでの600°C弱まで耐える無アルカリガラスが使用される。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ガラス厚も薄くなっており、カラーTFT液晶ディスプレイの開発当初は1.1mmであったものが0.7mmになり、特にノートパソコン用などでは0.63mmから0.6mmとなり、携帯電話用では0.4mmの製品が出ている。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "配向膜にはポリイミドが使われることが多い。可溶性を高めるためのN-メチル-2-ピロリドン (NMP) などのアミド系極性溶媒と塗布性を高めるためのセロソルブアセテートなどの溶媒にポリアミック酸を溶解させたものが使用される。これを基板に塗布後、250°C以上に加熱処理してポリアミック酸を熱重合によりイミド化させて配向膜を形成する。基板上で熱重合するのではなくあらかじめ液体状態でイミド化させた可溶性ポリイミドも使用される。可溶性ポリイミドを使えば、基板上への塗布後の加熱温度が180°C以下となり、乾燥させる程度の処理となる。このため、加熱温度を高められないカラーフィルタ基板を用いる場合の配向膜として都合が良い。ポリイミド製の配向膜は、材質を選べば透明であり、300°C程度にも耐える高い耐熱性があり、液晶の配向を安定させることが可能であり、ガラス基板や電極膜への塗布性や密着性が良いという特徴がある。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "偏光フィルムは、一般的な透過型パネル用では、偏光素子が入った偏光基材とこれを両面で挟むベース基板、そして片面には保護フィルムともう片面にはガラス基板に貼り付けるための離型フィルムから構成される。反射型パネルの裏面用は保護フィルムの代わりに粘着層を介して反射板が付けられる。 偏光フィルムは偏光板とも呼ばれるが「板」のような堅いものではなく、多ければ10層ほど積層されても0.12-0.4mm程度の薄いものであり、液晶パネルへ貼り付けられるまではテープ状に巻かれている。偏光素子が入った偏光基材とは、ヨウ素や二色性染料が偏光素子でありこれが偏光効果を起こす。偏光基材はポリビニルアルコール (PVA, Poly Vinyle Alcohol) が使われ、偏光素子がこの媒体内に含まれる。偏光基材を保護する役割のベース基板にはトリアセチルセルロース (TAC, Triacetyl cellulose, Cellulose triacetate) が使われる。ベース基板も「板」と呼ばれるがフィルムである。離型フィルムにはベース基板側に粘着層が塗布されており、ガラス基板に貼り付ける段階で剥離され、粘着層によってガラス基板に貼り付けられる。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "偏光フィルムの単体での光学特性は、透過軸方向に平行方向の透過率:T1 と透過軸方向に直交方向の透過率:T2で表され、T1 は\"1\"に近く、T2は\"0\"に近くなるように偏光素子や偏光基材が調整される。1枚の偏光フィルムの単体透過率は T で表され、T1 とT2の平均で表される。 2枚使用時の光学特性は、透過軸方向が互いに平行な平行透過率:T ‖ {\\displaystyle \\|} と透過軸方向が互いに直交な直交透過率:T ⊥ {\\displaystyle \\perp } があり、平行透過率:T ‖ {\\displaystyle \\|} はT2とT1のそれぞれの2乗の和の平均で、直交透過率:T ⊥ {\\displaystyle \\perp } はT2とT1の積で表される。 また、偏光度 P は以下の式で表される。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "実際の製品として使われている偏光フィルムでは、単体透過率 T は38-48%程度、偏光度 P は75-99.9%程度である。可視光領域で透過率と偏光度が波長によって差があると液晶パネルにすると色付きするので、これらの特性に波長依存性がないことが求められる。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2009年現在一般には、透明電極としてITO (Indium-tin-oxide) が使用されているが、ITOは塗布後の定着工程で200-300°C程度の比較的低い温度で半結晶化されるため抵抗値が高く、また透過度も波長の短い光線では低くなるために完全な透明ではなく少し茶色や黄色がかった色味を持つ。インジウムが中国に偏在するレアメタルであり、電子機器による需要増で価格が高騰している。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ITOに代わるものとして、ZnO膜や金の微細な繊維を配合した高分子膜の研究が進められて成果が上がっており、早ければ数年の内には製品への採用が始まるとされている。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "液晶モジュールは、主な構成部品として液晶パネルに駆動回路と駆動用プリント基板、必要ならばバックライトを取り付けたものである。駆動用プリント基板類は液晶パネルとの接続部が柔軟なため、パネルの裏側に折り込まれて無用な実装面積を省くのが普通である。また、駆動回路の主要部を低温ポリシリコンによるTFT回路で液晶パネル上に取り込むことで、液晶パネルへの接続は、電源部やタイミング・コントローラ回路、最低限の映像信号回路などを載せた小型のプリント基板だけになり、不良の原因となる接続部の大幅な削減によって液晶モジュールの信頼性の向上が実現できるが、額縁スペースが余分に必要となる。", "title": "液晶モジュールの構造" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "説明を簡単にするため、TFTカラー液晶モジュールでの駆動例を示す。以下の周辺回路の多くは、TABによってアレイ基板に接続されるか、COGや低温ポリシリコンによってアレイ基板上に実装または構築される。低温ポリシリコンを採用している場合でもタイミング・コントローラや電源回路は、ポリシリコンによるTFT素子でD/Aコンバータ、メモリ、コントローラまで作り込むと消費電力が増すために、外付け回路基板上の専用ICが使用される事が多い。", "title": "液晶モジュールの駆動" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "まず製造工程の概要を示したのちに、詳しい説明を加える。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "各工程の最後や出荷前にそれぞれ検査が行われる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アレイ基板の製造工程の各段階中と工程の最後に検査が行われる。アレイ基板として使用されないマザーガラス上の空き領域にあらかじめテスト用回路を作り込んでおき、膜厚、膜質、電気的特性を計測するという手法も使われる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "画面の大きさは21世紀以降急速に拡大している。アスペクト比は、テレビ用では4:3や16:9のアスペクト比を考慮しており、パソコン用もほとんどはテレビと同様の比率を考慮して作られている。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "表示する画面部分は「有効表示領域」や「表示領域」、「アクティブ領域」と呼ばれ、周囲は「額縁」と呼ばれる。この有効表示領域の大きさは画面の対角線の長さをインチで表し、日本では数詞として「型」を付けて表現される。一般に画像の精細度を表すには、1インチ (25.4mm) 当り何個のドットがあるかという意味で \"dpi\" (dot per inch) を使うことが多いが、カラー液晶では \"RGB\" 3色の点で1つの画素 (pixel) を構成するため無用な混乱を避ける意味で \"ppi\" (pixel per inch) が使われることが多い。精細度を表す別の方法として「画素ピッチ」がある。画素ピッチは画素が並ぶ間隔を表しており、例えば1,000ppiでは0.0254mmになる。TV画面の水平解像度では「TV本」という解像度の表し方もあり、白地に縦に引いた黒い線を最大何本まで判別できるかというもので、普通のTVでは350TV本である。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ブラウン管式ディスプレイでも、液晶ディスプレイと同様に画面の対角線の長さをインチで表した「○○型」と表記していたが、米国では液晶ディスプレイと同じく有効表示領域の大きさを計っていたのに対して日本ではガラス管の外側の大きさを表していたので、実際に表示される領域は1-2インチ程度小さかった。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイでの画素(ピクセル、Pixel)は、\"RGB\" を合わせて1画素と数えて、R、G、Bのそれぞれは「サブ画素」や「サブ・ドット」と呼ばれる。カラー液晶ではサブ画素ごとに輝度を制御しており画素ごとではない。画素とサブ画素を混同しないように注意が求められる。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「ドット抜け」といった画素単位やサブ画素単位での不良は数個まで許容されるが、2013年現在では従来に比べて製造現場での環境整備が進み、ドット単位での不良はほとんどなくなる傾向にある。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "安全性に関して留意すべきは、バックライトに冷陰極線管 (CCFL) を使用しているものでは、1,000V以上の高電圧を生じているので感電事故を起こさないように不用意にバックライトの電源部を触らないことである。陰極線管内には水銀が含まれるので、電気接続に使われるハンダの鉛やBM層のクロムと同様に人体には有毒であり、環境中にも放出されないよう留意する必要がある。液晶自身の毒性については, 急性経口毒性の指標であるLD50で表現するとほとんどが2,000以上であり、皮膚刺激性や吸入毒性でも「毒物および劇物取締り法」に抵触しない程度には基準を満たしているため、比較的安全であると考えられる。", "title": "ディスプレイ装置" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1888年オーストリアのF.ライニッツァー (Reinitzer) らにより、コレステロールと安息香酸のエステル化合物からなる結晶を加熱することで液体状となるサーモトロピック液晶が発見された。1964年には米国で最初の液晶表示装置が考案され、1968年には米RCA社のハイルマイヤー (R. Heilmeir) 達の手で最初のネマティック液晶を使用した表示装置が作られた。これ以降、多様な装置が作られたがいずれもモノクロのものであった。1973年には日本で電池駆動可能な電卓の表示装置として採用された。しばらくはTN型による低消費電力で薄く小型のものが主体となって、電卓や腕時計、ワープロ、電子手帳、携帯型ゲーム機など、そのころ登場しはじめたデジタル機器の表示部として普及した。また1976年には英国ハル大学のグレイ教授が安定な液晶材料(ビフェニール系)を発見し、それは現在のLCD材料の基礎となっている。1983年には日本のエプソンから世界最初のTFT型液晶カラーテレビ「ET-10」が発表され、翌年に発売された。1988年には14型のTFT型液晶カラーTVが発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1990年代になるとそれまでのセグメント表示からドット・マトリクス表示に、モノクロ表示からカラー表示に変わり、TFTによるアクティブ・マトリクス駆動によって高精細な表示が可能になった。1990年代半ばに低温ポリシリコンによるTFT層が実用化された。用途も静止画だけのスチルカメラの表示部のようなものから、動画が扱えるデジタルビデオカメラの表示部へと広がり、ノートパソコンの表示や小型テレビ、カーナビへと広がった。20世紀末ごろにはブラウン管TVを駆逐する勢いで、大型平面TVでの採用が大きな広がりを見せてきた。1990年代に日本メーカーのそれまでの基礎研究や技術開発の実用化・製品化が進み、世界市場を開拓していった。1990年代半ばに韓国メーカーが、1990年代後半には台湾メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2000年代になると、小型の表示器としては携帯電話やPDA、携帯音楽プレーヤー等の多様な携帯型電子機器に使用されるようになり、大型では大画面TVや普及型TVなど、広くTV用途で採用されている。2000年代には中国メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイに関係する産業には以下の会社群がある。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "上記での液晶原材料とは、液晶材、配向膜、ターゲット材などがあり、液晶部材とはカラーフィルタ、偏光板、マザーガラスがある。 液晶パネルメーカーは液晶ディスプレイメーカーに対して液晶パネルを部品として供給するメーカーを指し、液晶ディスプレイメーカーは自社で液晶パネルを内製するものと社外から購入するものの両者を含む。液晶ディスプレイメーカーの中には内製した液晶パネルを外販する会社もある。液晶部材から半導体、液晶パネルを含めて内製する垂直統合型の液晶ディスプレイメーカーとして、韓国のサムスン電子、LGフィリップスと、日本のシャープ、パナソニック、ソニー、日立、東芝がある。欧州と台湾では水平分業型の専業メーカーがいくつかある。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイ産業は国際的な市場に向けた世界規模での開発・生産・販売が行われているが、生産拠点は比較的アジアに集中しており、また液晶部材の中でもマザーガラスのように巨大化を遂げた部品では長距離輸送に向かないため、地域的な偏在性を生む要因となっている。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイ産業は、特に大画面TVでの需要が急速に立ち上がっていることもあり、産業の中心は大型パネルの生産に比重が移っている。こういった大型パネルの生産では大きな設備投資が求められる割りに生産設備の陳腐化速度が速く、新たな技術の採用によって生産コスト削減や製品性能が大きく向上するなど、半導体産業に似た特徴を備えている。半導体産業での「シリコンサイクル」と同様に液晶ディスプレイ産業では「クリスタルサイクル」と呼ばれる需給バランスの長期的な変動を繰り返す傾向がある。また、中サイズのパネルではノートパソコンに組み込まれ、小画面パネルでは携帯機器や家庭電化製品、産業用機器などの広範な電気製品に対して組み込むために、多くが外販され一部が社内の別部署での機器生産に使用される。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイメーカーの各社は同業同士での競争だけでなく、プラズマディスプレイや有機ELのような似た用途のディスプレイ技術へも競争が求められる。また、多くのメーカーは液晶技術だけに固執せずに新たな次世代ディスプレイ技術への模索も続けている。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2009年1月の10型以上のTFT液晶パネルの世界売上高が25億米ドルだったと発表した。これは前月2008年12月から10.7%減であり、前年同期比では63.3%も減ったことになる。枚数で云えば、2,380万枚であり、これは前月2008年12月から12.4%減、前年同期比では33.5%減ったことになる。", "title": "経済規模" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "メーカー別の売上高シェアでは、1位が韓国サムスン電子 (Samsung Electronics) 社の27.9%、2位が韓国LG電子系列のLG Display社が27.8%だった。出荷枚数別では、1位がLG Display社が26.4%で逆転し、2位はサムスン電子の26.0%、3位が台湾奇美電子 (Chi Mei Optoelectronics) 社で13.8%だった。", "title": "経済規模" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "液晶パネルには、形状的な特徴、電気的な特徴、並びに、光学的な特徴および構成部品数などの面で他の表示装置とは異なる特徴がある。", "title": "表示素子としての特徴" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "液晶パネルの形状的な最大の特徴は、薄型である点である。ガラス2枚と偏光フィルタ2枚、必要に応じてバックライトによって表示が行えるため、非常に広汎な製品に応用されている。", "title": "表示素子としての特徴" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "また、液晶パネルの電気的な面での最大の特徴は、液晶パネルそれ自体の電力消費が非常に小さいことである。数ボルト程度の電圧によって表示が書き換わり、電流はほとんど流れないためである。このため、ロジック系ICによって容易に駆動が可能であるなどの特徴から、用途の制限が少ない。ただし、液晶パネルの液晶部分は通常は交流駆動する必要があり、表示内容を書き換えなくても極性反転のために充放電電流が消費される。また、液晶パネルは自発光しないため、照明を設ける場合には、照明のために消費電力が大きくなるという課題がある。ただしこれはLEDなどにおいてある程度は低減できる。", "title": "表示素子としての特徴" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイの光学面での最大の特徴は、液晶それ自体が発光しないことである。表示には、バックライト、フロントライト、外光などの光源を必要とする。液晶ディスプレイでは、白色光のバックライトにカラーフィルタを用いた液晶パネルを組み合わせるカラー表示が主流である。", "title": "表示素子としての特徴" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "液晶パネルは、様々な利点を有する一方、表示原理に起因する技術課題(欠点)も有している。", "title": "パネル/モジュール/ディスプレイの技術的課題" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイが多様な用途をカバーしてきた背景には、要求される光学的機能を実現するために、数多くの構成部品を組み合わせて液晶ディスプレイ自体が構成されてきた点を挙げることができる。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "液晶ディスプレイは、多数の構成部品により構成される。この構成部品の多さのために、細かな需要に合せた多様なバリエーションが生み出されている。そればかりか、この構成部品の多様さは、液晶ディスプレイの性能の進歩に大きく寄与してきた。液晶パネルの液晶部分に全く変更がなくても全体性能の改良が実現されるからである。一例として、透過型液晶ディスプレイの構成部品であるバックライトを挙げると、バックライトの光源の進歩により、色再現範囲(色域、color gamut)が大幅に改善されたり、消費電力が低下するといった性能改善が実現される。このように、液晶そのものの改良がなくとも、構成部品の技術進歩が液晶ディスプレイの進歩に取り込まれている。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、液晶ディスプレイを構成する部品を選択することによって表示特性を用途に適合させることも行なわれている。その典型例が、光沢(グレア)表示とノングレア(つや消し・マット)表示の選択である。この選択は、液晶ディスプレイの最もユーザー側に位置する部品(通常は偏光フィルム)の表面処理によって決定される。つまり、平滑な面を持ち光沢のある表面処理の偏光フィルムを採用すると光沢表示となり、散乱のある表面処理の偏光フィルムを採用するとノングレア表示となる。よって、写真画像や動画の鑑賞目的のために、色純度やコントラストの感覚的な品位を高めることができる光沢画面と、事務処理用に適する映り込みの少ないノングレア画面との用途別の作り分けが、偏光フィルムの選択のみにより行える。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "液晶パネルは、透過型液晶パネル、反射型液晶パネル、プロジェクター、フィールドシーケンシャルカラー表示、半透過型液晶ディスプレイといったさまざまな表示方式が実用化または創出されており、非常に柔軟な光学的構成で用いられ、構成部品の改良が技術的進歩に寄与している。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "液晶パネルの光学的機能の多様性の一例を挙げるなら、液晶パネルでは、外光を利用することにより照明を設けずに低消費電力の表示を行うことも可能であるし、必要に応じて照明を設けて、自発光型の表示装置と類似の用途に用いることもできる点が好例である。それ自体が発光することはないため、光源との組合せの数だけ光学的機能にも多様性が生まれている。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "液晶パネルに照明を設けない場合には、外光を反射板で反射させて往復で表示を行うことが多い(反射型液晶パネル)。反射型液晶パネルでは、多くの場合に裏側の偏光板の背面に適当な凹凸をもった金属などの反射板を配置する方式(セル外反射板方式)が主流で、安価な液晶表示部で背景が薄緑、表示が変化する部分がこの背景色と黒色との間で変化するものは主にこの方式である。一部には、裏面側には偏光板を設けず、液晶層の裏側の基板の液晶層側反射板を配置して、液晶層と反射板を近接させ手配置する方式(セル内反射板方式)も実用化されている。この場合、一枚の表側の偏光板にフィルム位相差板が併用され、液晶層を往復する光の偏光を制御することが多い。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、液晶パネルに照明を設ける場合には、EL(エレクトロ・ルミネッセンス)、冷陰極管、発光ダイオードなどの光源によって背面から照明するバックライトによる透過光を観察する透過型液晶パネルや、表示面側からフロントライトと呼ばれる照明装置により照明して反射光を観察するフロントライト付き反射型液晶パネルがある。照明を設けるのは、多くの場合、カラー表示を行うカラーフィルタの吸収のために表示が暗くなる場合である。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "そして、照明を設ける液晶パネルと、照明を用いない液晶パネルとの組み合わせるようなもの、つまり、透過型と反射型を組み合わせることにより、外光を反射しつつ、バックライトの照明も利用する半透過型液晶パネルもしくは半(微)反射型液晶パネルと呼ばれるものもある。これにより、夜間の周囲が暗いときから日中の直射日光下まで表示内容が確認できるパネルが開発できるため、家庭用ビデオカメラ、ディジタルスチルカメラなどに利用されている。このように、発光ディスプレイに近い照明を用いた表示と外光を利用した反射ディスプレイとしての表示を1つの表示パネルで両立するものは液晶以外の表示方式では知られておらず、液晶パネルに用いることができる光学的機能の多様性を示す好例といえる。", "title": "多様な技術" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "誘電体である液晶物質は誘電分極という性質を持つ。スメクテック液晶でキラリティを持つ種類の物質は、長軸周りの分子回転の動きが束縛されるため永久双極子が並んだ状態となって電界がなくともが自発分極を起こす強誘電性を示すことがある。この代表的なものが、カイラル・スメクテックC相(又はキラル・スメクテックC相)と呼ばれる液晶である。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "カイラル・スメクテックC相の液晶は通常は螺旋をとるが、2枚の基板間隔が縮められ螺旋ピッチ以下にまで狭くなると、螺旋構造がとれなくなり特定の2つの向きにのみダイレクタが揃う配列が許されるようになる。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "このようなカイラル・スメクテックC相の液晶の層を1-2マイクロメートルの狭い幅の2枚の平行な電極基板で挟み込むと、正、又は負の電圧を電極間に加えることですべてのダイレクタの方向を揃えられ、さらに熱的揺らぎによっても容易には逆の方向まで変化しないので、電圧を加えなくとも配列状態が維持でき、無電力で表示が保存できる。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "このような構造の液晶表示を表面安定化強誘電性液晶 (Surface Stabilized Ferroelectric Liquid Crystal, SSFLC) と呼び、一時期は実用化が進められたが、動作原理上、光の透過度で中間値が作れないことや狭い液晶層を大画面で作るのが容易ではなく、あまり利用は進まなかった。ただし、応答速度が他方式より2-3桁も早く、電界を切っても配列状態が残るので、フィールドシーケンシャルカラー表示や電子ペーパーとしての用途が見出されている。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "強誘電性液晶は明状態と暗状態のそれぞれにするためには特定の極性電圧を加える必要があり、これは直流駆動(DC駆動)しか許されないことになる。直流駆動では画質の低下が避けられないので、できれば交流駆動(AC駆動)が望まれた。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2枚の基板間隔が広がり、螺旋構造が復活しても自発分極は層ごとで互いに打ち消しあって外部には現れず、無電界ではダイレクタが層ごとに交互に異なる向きに並んでいる。2枚の偏光フィルムを直交で用い、1枚の偏光軸を片方のダイレクタに合わせると、無電界ではほとんど遮蔽されるが、電極の電圧を正でも負でも加えると光が通るようになる。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "しきい値以上の正電圧ですべての層で1方向にダイレクタが揃い、正と負の領域でのしきい値以下の電圧で層ごとに交互に1方向ずつ異なる無形にダイレクタが揃い、しきい値以上の負電圧ですべての層で正電圧とは逆向きの1方向にダイレクタが揃う。これら3つの他に中間の状態は取れないので反応が早い。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また、これまでの強誘電性液晶や反強誘電性液晶ではヒステリシス特性があったが、中間調表示が可能な無しきい値反強誘電性液晶 (Threshold-less Anti-Ferroelectric Liquid Crystal, TL-AFLC) が開発されている。", "title": "強誘電性液晶・反強誘電性液晶" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "反射型は液晶が表示器として使用され始めた頃からの比較的古い技術である。外光を反射することで表示を行う反射型液晶表示パネルは、透過型のようにバックライトを必要としないため、現在も簡易な表示に多用されている。最も代表的な反射型の液晶表示はセグメント表示によるデジタル時計である。反射型でも、フロントライトと呼ばれる光源を液晶表面より手前側に備えることで、外光の無い暗所でも見えるように工夫したものがある。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "これに対し、半透過型は、反射・透過両用型、つまり、外光による反射光の表示と、背面のバックライトによる透過光による表示とを組み合わせるものである。反射型でのフロントライトと同様に、暗所ではバックライトを使い、明るい場所ではライトを消すことで電力消費を抑えることができる。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "反射型や半透過型は、外光が強い場合に視認性が低下するという透過型の欠点を解消できる利点がある。特に直射日光が差し込む環境などでの視認性は、その直射日光下の周囲の明るさに順応して観察者の目が明るさを感じにくくなることが影響する。透過型ではその観察者の目に表示面を明るく感じさせるためには強力なバックライトが必要になる。これに対し、外光に比例した反射光を利用する反射型および半透過型では、なんらエネルギー消費を増やさずとも、表示面を明るく感じさせることかでき、さらに外光に比例して反射光が増加するというある種の自動調整も実現する。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "反射型と半透過型では液晶層の背面に反射板が置かれている。半透過型ではその反射板が半透過性の反射板とされたり、部分的に背面からの光を通過させる領域を設けて光透過性を示す反射板とされる。反射型と半透過型ともに、反射板の位置にはさらにバリエーションがあり、液晶層の背面側基板のさらに背面側のものと、前側(液晶側)のものとがある。旧来の反射型や半透過型は前者であるが、近年のアクティブ素子を利用するものでは後者も採用されている。後者は、背面側基板の厚みが表示に悪影響を及ぼさないため、高精細な表示が可能である。この場合、背面側基板はアレイ基板とされる。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "特にアクティブ素子を利用する反射型や半透過型ではアレイ側の配線が不透明でも開口率に影響しにくい点で、透過型とは異なっている。つまり、反射型では、反射性の(サブ)画素電極を金属配線やアクティブ素子の上に形成した絶縁膜の上に構築することで金属配線やアクティブ素子などの非透過性要素が開口率に影響しないようにできる。また、半透過型でも、反射部分を非透過性要素に重ねて配置することが可能である。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2000年頃には、携帯電話用としてカラー表示のできる反射型TFT液晶が多用された。ところが、表示コンテンツの多様化が進展すると画質に不満が生じた。2002年頃に携帯電話にカメラ付き機種が登場すると、特に表示画面の高画質化が求められ、反射型TFT液晶に代わり半透過型TFT液晶が採用されるようになった。それ以降、ワンセグや動画再生機能などに対応した機種などのさらなる高画質化要求に応じ、透過型TFTと半透過型TFTが使い分けられている。反射型は低消費電力であるため、電話機以外でも携帯用途での利用が再び進んでいる。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "セグメント表示の身近な例では、電卓に多用されている8の字によって数字を表示する、7セグメントディスプレイが挙げられる。このように表示対象をいくつかの小さい領域である「セグメント」に分割し、その領域毎に外部から所望の電圧を印加するものを、セグメント表示と呼ぶ。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "どのセグメントに電圧をかけるかを適宜制御すれば、数字の0 - 9等を表示し分けることができる。数字だけでなく擬似的なアルファベットも16セグメント程度で1文字を表すものがあり、各種電気機器の動作表示部などではピクトグラムのような簡単なマークもセグメントによって表される。セグメント数が少なければスタティック駆動されるが、電卓のようにセグメント数が多くなるとダイナミック駆動(人間の目で判断できないほど高速で表示を順番に切り替える方式)される。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "セグメント表示の多くは中間調を持たず明暗の2つの状態で表示されているが、電池が消耗した電卓などで駆動電圧が不十分になると、表示が薄くなり、中間調のような表示が起きる。", "title": "反射型と半透過型" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "液晶テレビでは、液晶パネルは製造原価の6割から7割を占める重要な部分である。", "title": "その他" } ]
液晶ディスプレイは、光源等の表面に、液晶の光学特性を利用した複数のシャッターを配置し、様々なパターンでシャッターを開閉することによって図画等を表示する装置である。
[[ファイル:Casio W-59 digital watch.jpg|サムネイル|腕時計の液晶ディスプレイ]] [[ファイル:EIZO FlexScan L461 16.0inch.jpg|thumb|300px|パソコンのTFT液晶ディスプレイ]] '''液晶ディスプレイ'''(えきしょうディスプレイ、liquid crystal display、'''LCD''')は、光源等の表面に、[[液晶]]の光学特性を利用した複数のシャッターを配置し、様々なパターンでシャッターを開閉することによって図画等を表示する装置である。 == 概要 == 液晶ディスプレイはデジタル化された電子機器の普及に伴いごく一般的な表示装置となっている。特に、数値や機器動作状態等の情報表示装置、映像などの画像表示装置として多様な電子機器において利用されている。 液晶ディスプレイには、「液晶モジュール」と呼ばれる部品が含まれており、その液晶モジュールは、主に「液晶パネル」と呼ばれる液晶を含む板状の部品と、液晶パネルに対して電気信号を供給するための駆動回路とを含んで構成されている。 液晶ディスプレイの典型例には、液晶テレビや[[ディスプレイ (コンピュータ)|コンピュータ・ディスプレイ]]がある。液晶モジュールは、これら以外にも、携帯電話端末、携帯型ゲーム機、電卓、時計などの表示部として使われている<ref group="注">なお、「液晶ディスプレイ」(LCD) が指すものは様々であり注意を要する。例えば、コンピューター等の表示のためのモニター装置を指す場合、部品としての表示装置(表示用部品)を指す場合、表示領域を指す場合、そして、液晶ディスプレイ技術一般を指す場合まである。また、液晶ディスプレイを英語にて略記するとLCDとなるが、この場合には、液晶ディスプレイを用いる表示用モニター装置ではなく、部品としての「液晶モジュール」あるいは「液晶パネル」を指すことや、それらによる表示領域を指す場合が多い。普及に伴い、これらは、いずれも単に「液晶」と呼ばれることも多い。 </ref>。 <!--以下では液晶ディスプレイに関する記述と液晶パネル、液晶モジュールに関する記述とを明確に区別されますようお願いします。--> つまり、単に「液晶ディスプレイ」と呼ばれた場合であっても、製品全体を指す場合と製品の表示部だけを指す場合がある。本記事では、便宜上、製品全体を指す場合には液晶ディスプレイと呼び、製品の表示部だけを指すには液晶モジュールや液晶パネルと呼ぶ。[[テレビ]]、[[パーソナルコンピュータ|PC]]などの表示装置の製品としての「液晶ディスプレイ」と、[[携帯電話]]や[[デジタルカメラ]]などに組み込まれる製品の一部の部品としての「液晶パネル」と「液晶モジュール」について、それぞれを分けて記述する。また、本項目では[[液晶プロジェクタ]]は扱わない。 == 液晶パネルの原理 == [[ファイル:Liquid Crystal Display Macro Example zoom 3.jpg|代替文=|サムネイル|200x200ピクセル|LCDモニターの一部を拡大した画像]] [[Image:LCD layers.svg|thumb|200px|right|'''液晶パネルの構成'''(単純な構造のもの)<br />1.偏光フィルタ(垂直)<br />2.ガラス基板(個別電極)<br />3.配向層に挟まれた液晶<br />4.ガラス基板(共通電極)<br />5.偏光フィルタ(水平)<br />6.光源]] 単体装置としての液晶ディスプレイは、光源、駆動回路や電源回路、接続コネクタ、ケース等を除けば主要部分が'''液晶パネル'''<ref group="注">液晶パネルは「液晶セル」や「液晶アレイセル」とも呼ばれる。</ref>と呼ばれる薄い板状部品で構成されている。 [[電卓]]や[[時計]]の液晶は、あらかじめ「絵」の形に電極を配置して液晶に電圧を加える反射型の液晶が使用されることが多い。カラーの画像や映像を表示するものでは、格子状に配列したサブ画素 (Sub-pixel, sub-dot) を用いる。 === 表示原理 === 液晶パネルは、外光や、[[フロントライト]]、[[バックライト]]等の光源により発せられた光を部分的に遮ったり透過させたりすることによって表示を行う。一般的な透過型液晶パネルを例として表示原理を説明する。 ;偏光 :光源となるバックライトからは360度多様な方向に振幅成分を有する光が放たれる。裏面の偏光フィルタ([[偏光板]])は、この光の内の特定の方向の振幅成分を持つ光(偏光)だけを通過させ<ref group="注">入射側の偏光フィルタが完全なもので、液晶層の偏光解消性が全く無い場合には、ここでの光は、偏光度1の完全な偏光となっている。この偏光は直線とは限らない。</ref>、残りは[[ヨウ素]]分子のような偏光素子<ref group="注">偏光素子には[[ヨウ素]]分子と二色性染料があるが、主にヨウ素分子が使用される。</ref>に吸収される<ref group="注">ヨウ素の吸収は分子の長軸方向の偏光がほとんど吸収される。</ref>。最初の偏光フィルタを通過した光は、直線偏光となって液晶層に入射される。直線偏光の入射光は、液晶層を厚み方向に伝播しながら、液晶のもつ屈折率異方性(複屈折)に応じて偏光状態を変化させて行く。液晶層を通過した出射光の内の、表側の偏光フィルタが制限する特定方向の偏光成分の光だけが表示光として出射される。表示を変化させるためには、電圧を変化させて液晶配向を変化させる。液晶配向の変化に合わせて、液晶層をはさんでいる偏光フィルタ2枚を含めた全体の透過率が変化し、表示される明るさが変化する<ref group="注">液晶自体は偏光を変化させるが、積極的に光を遮断する訳ではなく、液晶の多くは有機物であるため多少の光の吸収はあるが、表示原理にそれを用いているわけではない。また、偏光フィルタを通過した光は直線偏光しているが、ヒトの目は偏光を検知することがほとんどできないので、それを意識することはまずない。</ref><ref group="注">一般にヒトの眼では偏光方向を感知できないが、[[ハイディンガーのブラシ]] という方法によってわずかに知ることが可能である。</ref>。偏光板が不要な液晶表示パネルも存在する ;配向 :液晶層の表裏には2枚の配向層を備える形式が多く<ref group="注">液晶表示方式の中には配向層を必要としないものもある。</ref>、電圧を掛けない場合に液晶分子を特定方向に整列させる役割を担う。 ;電界 :液晶配向を変化させるために電圧を掛け電界を作る。多くの形式では表裏の両面に平面電極を備えている<ref group="注">IPS方式では面内方向に電界を加える。</ref>。 このように液晶層を表裏2枚の配向層がはさみ、さらに2枚の偏光フィルタとその外側に電極が位置する。表側の偏光フィルタを透過する光が多い場合に表示が明るくなり、少ない場合には表示は暗くなる。 ;中間調 :液晶パネルは単なる光シャッター<ref group="注">光シャッターは2次元の「空間光変調器」として働く。</ref>として動作しており、真っ黒や真っ白といった[[デジタル]]表示以外に[[アナログ]]的な中間の明るさを得るためには、電圧も中間の値を加えることで光の透過率を調節する。 ;交流[[印加]] :液晶パネル自身は直流の印加で動作できるが、電極側に正負電荷の偏りが生じて寿命が短くなってしまう。これを避けるために正と負の電圧を交互に掛ける交流を印加している。 こうして光学的なシャッターを実現し、このような微細なシャッター1つを1つのサブ画素とする多数のサブ画素によって望む画像を表示する。このシャッターは光の透過と遮断だけを行うので多様な色は、概ね3原色を備えた色フィルタで実現される。 === 表示モード === 2枚の電極に挟まれた各画素での表示には偏光フィルムの配置方向に応じて、2種の表示モードが存在する<ref group="注">偏光フィルムが不要な方式では2つのモードは存在せず、いずれか片方のものがある。</ref>。 * ノーマリー・ホワイト・モード(NWモード) - 電圧の無印加状態で明表示(白表示)となる * ノーマリー・ブラック・モード(NBモード) - 電圧の無印加状態で暗表示(黒表示)となる == 液晶パネルの構造 == [[File:LCD Panal (Layer model) J.PNG|thumb|280px|right|'''液晶パネルの構造概略'''<br />説明のために光源と導光板も加えたがこれらは通常、液晶パネルには含まれない。液晶層は厚みが誇張されているが、実際には3μm程と極めて薄い。]]液晶パネルは、大きくは表裏2枚の[[基板]]とその間の液晶材料から構成される<ref group="注">この節では構造の説明のために製造工程で使用される用語を使い、「液晶パネル」は、駆動用回路等が実装されて「液晶モジュール」となる前のものとする。</ref>。 '''液晶パネル'''(表面より順に示す。カッコ内は厚みの例) * 偏光フィルタ(0.2mm程度) * カラーフィルタ基板(BMとカラーフィルタ、共通電極、場合によりスペーサ、0.65mm程度) ** 配向膜 * 液晶層(液晶材料、場合によりスペーサ、3μm=0.003mm程度) ** 配向膜 * アレイ基板(配線やTFT回路、サブ画素となる電極、0.65mm程度) * 偏光フィルタ(0.2mm程度) 上記に加えて基板の周囲に「封止剤」が使われる。 液晶パネルは、油状の透明な液晶組成物(液晶材料)が2枚の透明な基板の間にサンドイッチされ、周囲が封止剤によってシールされていて、液晶材料が漏れ出すことなくまた液晶材料が清浄に保たれるようになっている。セルギャップという基板同士の間隔を一定に保つためのスペーサやギャップ材として、粒の大きさが揃ったプラスチック球が少しだけ液晶層に散布されていたり、カラーフィルタ基板に柱状のスペーサが作り込まれている<ref group="注">プラスチック球はアレイ基板の完成後にガスなどでスプレーされてランダムに撒かれる。散布量は1画素当り2-3個程度としている。サブ画素の上にその球が乗ればコントラスト比をわずかに悪化させるが微小なスペーサそのものは肉眼では判別できない。特に大画面液晶パネルでは、わずかな振動でプラスチック球が移動して配向膜を傷付ける事がある。そこで、最近では、スペーサとしてパネルの製造工程において事前にフォトスペーサと呼ばれる樹脂製の柱を作成しておくことも行われるようになっている。カラーフィルタ基板の作成時に表示のための光が透過しないブラックマトリックス部分にフォトスペーサによって柱を形成して、コントラストの低下や配向膜への傷を避ける。フォトスペーサはカラーフィルタの着色層を積み重ねることで作られることもあったが、専用の樹脂で作るものが多くなっている。</ref><ref group="注">多くの場合、基板が互いに接着されているのは基板周囲のシール部分のみであり、画面の中央部は液晶材料の内圧とスペーサの支持力が外部圧力と平衡してセルギャップが維持される。</ref><ref group="注">セルギャップは極めて狭く、3μm程であり、使用される液晶材料も42型で1.5g程とわずかである。</ref><ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問"/>。カラーフィルタ基板よりもアレイ基板の方が周囲の接続端子などの分だけ大きくなる。 2枚の基板は表側にカラーフィルタ基板、裏側にアレイ基板が配置される。アレイ基板は液晶側にTFTなどのアクティブ素子とサブ画素となる電極がアレイ(配列)状に作り込まれている<ref group="注">必要に応じて透明電極が表示すべき模様に応じたパターンに形成されるものもある。</ref>。カラーフィルタ基板の液晶側には、ブラック・マトリックス (BM) やR(赤)、G(緑)、B(青)というカラーフィルタを配列し、さらに透明電極による共通電極またはコモン電極と呼ばれるものが基板全面に作られる。これらの基板は光をできるだけ無駄なく透過させるために、ガラス基板が用いられることが多い<ref group="注">実際のTFT液晶パネルでは、高い平面性、液晶材料等の汚染を防ぐ低イオン汚染性等の厳しい基準に適合する必要があるため、液晶パネル用途に特別に作られた無[[塩基|アルカリ]]ガラス(ホウケイ酸ガラス)が用いられる。STN液晶パネルでは、二酸化珪素をコーティングしたソーダガラスも利用される。</ref>。耐衝撃性、フレキシブル性などの点からプラスチック基板を用いることもある。透明電極の材料としては、[[電気抵抗]]が低くパターン加工の容易な[[インジウム]]と[[スズ]]の酸化物であるITO (Indium-tin-oxide) が広く用いられている<ref group="注">インジウムは例えば20型液晶パネルでは0.2グラムほどが使用されている。</ref><ref>福岡正人著 『なぞの金属・レアメタル』、技術評論社、2009年3月10日初版第1刷発行、ISBN 9784774137049</ref>。また、透明電極に印加される電圧は、アレイ基板ではTFTなどのアクティブ素子を通じて外部から印加されるが、外部からサブ画素までの配線として金属配線もアレイ基板の内面に配置されている<ref group="注">この金属配線としては、種々の金属配線が用いられるが、通常は[[アルミニウム]]系の材料が用いられる。大画面高精細化つまり表示面積を大きくして表示容量を増大させるには、信号線の抵抗と浮遊容量による信号波形のナマリが問題となる。例えば、4096×2048画素級の液晶パネルでは従来以上に抵抗の低い金属配線が必要となるため、アルミニウム系の金属配線に代わって例えば銅系などの低抵抗の材料によって金属配線を実現する開発が行われている。(日経エレクトロニクス 2009年2月9日号 P.53)</ref>。アレイ基板の端部には、配線電極の接続部が露出しており、ここに駆動回路が接続されて電気的に実装される。表裏2面の透明電極のそれぞれの内側には、ポリイミド材料の配向膜が配置されて、液晶材料を所望の配向状態になるようにしている<ref name="液晶ディスプレイのできるまで"/>。 液晶パネルでは、液晶を封入した表裏の透明基板のさらに外側に、1組の偏光フィルタ([[偏光板]]、Polarizer)を設ける形式が主流である。透過型の液晶パネルでは、裏側の光源(バックライト)から出た光は、光源⇒偏光フィルタ⇒アレイ基板⇒サブ画素の透明電極⇒配向膜⇒液晶⇒配向膜⇒共通透明電極⇒カラーフィルタ基板⇒偏光フィルタ、という順に各要素を通過して観察者の目に届く。ごく安価な表示用途で使われる簡易な反射型の液晶パネルでは、散乱性の反射板を液晶パネルの背面(裏面)に配置してそれ自体には光源を設けず、周囲の光(外光)によって表示する<ref group="注">古典的な反射型の液晶パネルでは、外部から入射した光が反射板に反射して外へ戻るまでの、液晶パネル内を往復する間に液晶が光を遮蔽する効果が2度加えられるので、厚みのある基板類では表示が2重に見え、精細な表示には向かなった。</ref>。 アレイ基板からカラーフィルタ基板の共通電極へ接続するのはトランスファ (Transfer) と呼ばれ、またこの接続材はコモン転移材 (Common transfer material) と呼ばれ、一般に銀ペーストやカーボン・ペーストといった導電ペーストが使用される。 実際の製品ではこういった基本構造の他にも、視野角特性を改良するための光学フィルム(視野角補償フィルム)などが偏光フィルタとガラス基板との間に追加して挿入される場合がある。また、バックライトシステムの一部にも、視野角や輝度を向上させるための光学フィルム(輝度上昇フィルム)を用いる場合もある。 === カラーフィルタ === [[カラーフィルタ]]は、サブ画素に対応させて、赤色 (R)・緑色 (G)・青色 (B) の光を透過させる着色層やブラック・マトリックス (BM) を基板上に配置し、保護膜で覆ったものである<ref name="液晶ディスプレイのできるまで">鈴木八十二編著 『液晶ディスプレイのできるまで』 日刊工業新聞社 2005年11月28日初版1刷発行 ISBN 4526055476</ref>。この着色層は、液晶をはさむ2枚の基板の表側のカラーフィルタ基板に微細パターンで塗り付けられる「着色材」、又は「着色膜」であり、顔料系、又は染色料系のものが用いられる。BM層によって黒色表示時の光漏れと隣り合う着色材同士の混色を防ぎ、TFTへの光照射による光電流の発生も防止する。着色材の定着に感光材を用いるものは、着色材に混ぜられてそのまま定着する。0.1μm程の薄いBM層は金属クロムが多く、他にもカーボン、チタン、ニッケルの使用が試みられている。BM層の間には1.2μm程のBM層よりは厚みのある3色の着色層が一定のパターンで配置される。高精細の画面では着色層のパターンはストライプ配置が多いが、低精細度の画面ではデルタ配置が良好な画質の印象となる。 [[File:Liquid Crystal Display 3-types sub-pixel arrangement.PNG|thumb|250px|right|'''カラーフィルタの配列例'''<br />左からストライプ、ダイアゴナル(モザイク)、デルタ(トライアングル)と呼ばれる。カラーフィルタのない領域はBMで覆われ不要な光が遮蔽される。]] カラーフィルタは色素の吸収を利用して各サブ画素の通過光をR、G、Bの3つの基本色にして、加法混合方式で混色を作り出すことで中間色を含むカラー表示が実現する。各サブ画素の印加電圧を制御して画素ごとの混色による発色が可能になり、透過光を遮ることで黒を表現する。これがカラー液晶パネルの仕組みである<ref group="注">カラーフィルタを用いずにカラー表示を行う方式として、直視型の液晶ディスプレイにおいて、R、G、Bの光を順次発光させるように構成したLEDバックライトに、高速で書き換え可能な液晶パネルを組み合わせてカラー表示を行うフィールド・シーケンシャル・カラー表示方式のものも試作されている。これは、カラーフィルタを用いないため、必要な画素数が3分の1となり開口率が上がるために光の利用効率が良くなる利点がある。一方で、必要な応答速度が単純計算でも3倍になるために、一般に応答速度で劣る液晶表示素子では実現に難しさがある。また、色を順次表示するために色割れという問題も起きる。</ref><ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 カラーフィルタには高色純度と高透過性、耐光性や耐熱性、耐薬品性、平滑性、加工寸法の精度が求められる。180℃で1時間といった配向膜の焼成工程や低抵抗性ITOの成膜工程等での高温に耐える必要がある。同じく配向膜やITOの加工中での溶剤や洗浄剤に対する耐性が求められる。突起などがあるとセルギャップが一定に保てず、表示品質が悪くなる<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。カラーフィルタだけでも光の70%程度が失われて主に熱となり、残る約30%だけが通過できる<ref name="液晶、その不思議な世界へ"/>。 [[File:LCD Panel drive (Static).PNG|thumb|170px|right|'''単純マトリクス駆動方式の等価回路'''<br />A.理想 B.クロストーク経路 C.電圧平均法<br />Aが理想的な単純マトリクスによる液晶電極の駆動であるが、実際はBのように「クロストーク」によって電圧が他の素子を経由してかかり、周辺の画素まで影響を受ける。図の例では1本の経由ルートだけを示したが、実際は周囲に多数のルートがありクロストークとなる。Cのようにクロストークによって漏れ出る電圧の影響を最小限にするために、非選択の画素には印加電圧のN分の1程度(Nは走査電極数)の電圧が加わるように工夫した「電圧平均法」が用いられる。]] == 液晶パネルの基本的な駆動方式 == 簡易な表示で済む電卓の表示部のようなものを除けば、多数のサブ画素を格子状に配列したドットマトリクスによる表示が液晶パネルの主流となっており、これによって変化に富んだ画像表示が行える。ドットマトリクス表示の多数のサブ画素ごとの電極に個別の配線を行うと、基板周縁部は配線で埋まり現実的ではなくなることから、縦横の2次元的な配線の交点でサブ画素の電極を制御するマトリクス配線方式が採られている。マトリクス配線では、基本的に液晶パネル外との配線数が縦線と横線の合計数で済む。 マトリクス配線で使用される2種類の信号線を以下に示す<ref group="注">ソース電極線には[[クロム|Cr]]、[[モリブデン|Mo]]-[[タンタル|Ta]]、Ta、[[チタン|Ti]]、[[アルミニウム|Al]]が使われる。ゲート電極線にはCrやTaよりもAlやAl-Nb合金が主に使われ、Alでは絶縁膜も陽極酸化によるAl<sub>2</sub>O<sub>3</sub>(酸化アルミニウム)層が利用される。絶縁膜を2層にすることで製造工程でのピンホールの問題を回避することもあり、その場合には、Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub>の上にSiN<sub>X</sub>を使う。また、40型以上といった大きなパネルではAlやAl-Nb合金でも抵抗値が充分ではないため、[[銅|Cu]]を使った配線も開発されている。低抵抗なアルミニウム合金の比抵抗はAlで3μΩcm、Al-Nbで6μΩcm、Al-Cuで4μΩcm程度である。アモルファス・シリコンでは金属配線から直接、電子を受け渡しするのに問題があり、オーミック層としてn+アモルファス・シリコン層を両者の間に加える。アモルファス・シリコンに直接、光が当たると光電変換効果による光電流が生まれるため、アモルファス・シリコン層は50nm以下にされるとともに、アモルファス・シリコンの部分は金属配線やBMによって遮光される。表示輝度を高めるためには[[開口率]]を上げるのが良く、配線やTFT、コンデンサの配置を工夫したりTFTそのものの性能を上げて縮小して少しでも開口率を上げるよう工夫されている。20型パネルで開口率は70%程度である。</ref><ref name="わかりやすい液晶ディスプレイ"/>。 ;データ線 :データ線はデータ信号線やX電極線とも呼ばれ、アクティブ・マトリクス駆動ではソース線とも呼ばれる。 ;アドレス線 :アドレス線はアドレス信号線やY電極線とも呼ばれ、アクティブ・マトリクス駆動ではゲート線とも呼ばれる。 マトリクス配線には「単純マトリクス駆動方式」と「アクティブ・マトリクス駆動方式」がある。 ;単純マトリクス駆動方式 :単純マトリクス (Simple Matrix) 駆動方式はパッシブ・マトリクス (Passive Matrix) 駆動方式('''PM型''')とも呼ばれ、X電極線とY電極線の交点の画素、またはサブ画素に電圧を印加し液晶を駆動する。単純マトリクス駆動方式では、液晶材料に270度まで旋回させる分子が選ばれた'''STN''' (Super twisted nematic) がほとんど用いられる。XとYが非選択状態となると基本的には印加電圧は失われるため、画素が多数になるとその分だけ1つの画素に印加される時間は短くなるのであまり多数の画素は扱えない。1枚の画面、つまりフレームを表示する間の1つの画素、サブ画素に電圧を加える時間の比率をデューティ比と呼ぶ。XとYが同時に選択されていなくてもXとYのいずれかが選択されれば周辺の画素に無用の回路が出来て1/3程度の電圧が印加され、これはクロストークと呼ばれ、画面の滲みとなり、XとYにノイズが加わっても同様に無用な線が生じる。 [[File:LCD Panel drive (Active).PNG|thumb|350px|right|'''アクティブ・マトリクス駆動方式の等価回路'''<br />1.TFT 2.表示電極 3.コンデンサ 4.共通電極線へ<br />太線の部分が電圧が加えられている。<br />横方向に走るゲート電極線と縦方向に走るソース電極線の交点に[[薄膜トランジスタ|TFT]]と呼ばれる[[電界効果トランジスタ|FET]]が配置され、2本の[[バス (コンピュータ)|バス線]]がFETのゲートとソースに接続されている。FETのドレイン側にはサブピクセルとなる液晶電極、そして[[コンデンサ]](キャパシタ)がつながれ、これら2つの容量性素子の反対側は共通電極(コモン電極)になっている。ゲート電極線に加えられた電圧によってそれに接続されている1列分すべてのFETが"ON"動作となることで、ソースとドレイン間に電流が流れ、そのときソース電極線に加えられている各々の電圧が液晶電極にかかり、コンデンサには電圧に応じた電荷が蓄積される。ゲート電極線は1列分の充電を終えると電圧の印加は次の列に移り、最初の1列分のFETはゲート電圧を失って"OFF"動作となる。最初の1列分の液晶電極はソース電極線からの電圧を失うが同時にコンデンサに蓄積された電荷によって次にゲート電極線が選択されるまでの1フレーム分の時間、必要な電圧をほとんど維持できる。コンデンサの共通電極線は隣接するサブ画素のゲート電極線で代替することがある。このようにTFTをスイッチとして使ったアクティブ・マトリクス駆動方式では、ゲート電極線によって同時に多数のFETへ電圧を加えることができるので、膨大な画素にも対応でき、コンデンサによって表示を維持できる。]] ;アクティブ・マトリクス駆動方式 :アクティブ・マトリクス (Active matrix) 駆動方式は'''AM型'''とも呼ばれ、単純マトリクスのXとYの電極線と蓄積コンデンサに加えてアクティブ素子が各画素ごとに設けられている。一般的にはこのアクティブ素子に[[薄膜トランジスタ]] ('''TFT''') が使われる。ガラスやプラスチック製のアレイ基板上に作られたTFTがスイッチング動作することで、XとYが非選択状態では蓄積コンデンサに蓄えられた電荷を出来るだけ保持するように働く<ref group="注">TFTがスイッチング動作で非選択状態になっても、トランジスタ回路の寄生キャパシタ成分が蓄積コンデンサの電荷を奪う「突き抜け現象」を起こして電位差は少し減少する。</ref>。XとYが同時に選択されなければTFTによるスイッチは"ON"とならず画素、またはサブ画素への印加電圧に変化は生じないため、XとYに少しのノイズが加わってもそれはその時選択されていた画素だけに影響して他の部分には影響しない。XとYが非選択状態になると蓄積コンデンサに蓄えられた電荷が電圧の印加を担ってゆっくりと減少してゆくために、次にXとYが選択されて電荷を加えられるまで時間が稼げる。このため比較的多数の画素、またはサブ画素を1つのXとYの配列内に持つことができる。 TFT等のアクティブ素子を用いる液晶パネルは、1990年代末頃から生産技術の発展とともに低価格化し、2000年代に入ると高品質の表示が必要なテレビ受像機やコンピュータ・モニタ、携帯電話の表示部として広く普及しており、STN型の単純マトリクスを使った液晶パネルは減少傾向にある<ref group="注">なお、'''TFT型'''の他にも'''MIM型''' (Metal Insulator Metal) というアクティブ素子を用いる方式もある。この方式では、金属 / 絶縁膜 / 金属という配置を備えることで双方向のダイオード特性を持たせたアクティブ素子が画素ごとに配置されている。この場合、単純マトリックスのように対向電極側もストライプ状の列を作る必要がある。素子自体はTFTに比べ簡素化した工程で作製されるが、TFTの一般化につれて利用されなくなっている。</ref>。 [[File:LCD schematic (Single Sub-cell, add-cap. type).PNG|thumb|250px|right|'''TFT画素の模式図'''(付加容量型)<br />1.ゲート電極線 2.ソース電極線 3.ゲート電極 4.ドレイン電極 5.絶縁膜 6.アモルファス・シリコン層 7.n+アモルファス・シリコン層 8.絶縁膜 9.蓄積電極(蓄積容量) 10.絶縁膜 11.表示電極 12.1つのサブセル<br />蓄積電極への配線を隣のゲート電極線と兼ねることで製造工程を簡略化した付加容量型を示したが、蓄積電極専用の配線を持った構造もある。図の例では正方形に近いが、3色のカラー表示の各サブセルは、通常は細長い。]] TFTを構成する半導体の組成には、普及した[[アモルファスシリコン|アモルファス・シリコン]]と、開発が進んで実用化段階にあるポリ・シリコンがある。画面サイズの比較的小さな液晶パネルでは、開口率を上げるために絶縁膜を挟んで隣のゲート線上との間にコンデンサを作る「付加容量型」が多い。 ;アモルファス・シリコン :アモルファス・シリコンは、大型のガラス基板に対して容易に成膜ができることから、高い生産性を誇っている。電子移動度は0.5-1.0cm<sup>2</sup>/Vs 程度である<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 ;ポリ・シリコン :ポリ・シリコン (poly-crystalline Si) は、多結晶シリコンのことであり、アモルファス・シリコンに比べると電子移動度が30-300cm<sup>2</sup>/Vs (LTPS) と単結晶シリコン (MOS-FET) の600-700cm<sup>2</sup>/Vs には及ばないが画素表示用途では十分な性能が得られる。このポリシリコンTFTにはさらに製造プロセスの温度差によって高温ポリシリコンと低温ポリシリコンがある<ref group="注">低温ポリシリコンは[[東芝]]が開発した</ref>。ポリシリコンによってガラス基板上に液晶を駆動するためのドライバー回路を作り込める利点がある。 :;高温ポリシリコン ::高温ポリシリコン (High-temperature polycrystalline silicon, HTPS) は、1,000℃程度の高温に耐えられる石英ガラス基板上に成膜したアモルファス・シリコンを熱アニールして結晶化する(日本語ではポリシリコンだが、英語標記ではpolycrystallineになることに注意)。サファイヤ基板上にアモルファス・シリコンを結晶化させたものにSOS (Silicon On Sapphire) があり、プロジェクター等の液晶ライトバルブなど、比較的特殊なものに用いられている<ref name="液晶、その不思議な世界へ"/>。 :;低温ポリシリコン ::低温ポリシリコン (Low-temperature polycrystalline silicon, LTPS) は、安価な通常の無アルカリ・ガラス基板上に成膜したアモルファス・シリコンをレーザーアニール等による600℃以下の低温で多結晶化するものである。低温ポリシリコンは、結晶粒界によって電流が妨げられる割合が高いために高温ポリシリコンより電子移動度が低くなるが、それでもアモルファス・シリコンと比べれば数百倍のスイッチング動作が可能となり、特にCOG方式でのドライバ回路までガラス基板上に集積することで、<!--狭額縁化による小型化可能になっている <==出典によっては額縁は広くなるのと狭くなるというまったく逆の説明がなされるが、書籍の信頼度では額縁が広くなる方を採用した。-->接続点が少なくなるために信頼性が高まるが、額縁部分は少し広くなる<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。ただし、外部ICでは3.3-5Vでの駆動電圧なのに対して、低温ポリシリコンによる駆動回路では8-12V程度が必要となり、携帯機器が求める低消費電力化の点では逆行することになってしまう。HTPSより特性は劣るが安価なため、利用が進んでいる。 ::;連続粒界シリコン :::連続粒界シリコン (Continous grain silicon) は粒界を実質的になくすことで電子移動度を高めたもの(シャープと半導体エネルギー研究所が共同開発)。 [[File:Liquid Crystal Display 4-types frame driving method.PNG|thumb|220px|right|'''フレーム反転の4方式'''<br />1. フレーム反転駆動方式<br />2. 行ライン反転駆動方式<br />3. 列ライン反転駆動方式<br />4. ドット反転駆動方式]] == 液晶パネルの駆動技術 == ここでは一般的なアクティブ・マトリクス駆動方式の中でも、実用とされている駆動技術の代表的なものについて説明する。液晶分子が移動・回転する速度は、一般的には印加された電圧の二乗に比例するため、高速で表示を変えるためには印加電圧を高くする必要がある。 === フレーム反転方式 === 液晶表示では直流駆動すると寿命が短くなるため、交流電圧を加えることで駆動する交流電圧駆動が行われている<ref group="注">交流による駆動電圧はプラスとマイナスの両電圧が総体として等しくなるように印加されなければならない。いずれかの電圧に偏っていると液晶に直流成分が加えられることになり、同じ画像を長時間表示すると焼き付き現象となって現われる事がある。</ref>。この交流の印加方式にいくつか種類があるが、いずれもフレームごとに反転させる。 ;フレーム反転駆動方式 :フレーム反転駆動方式は、フレームごとに全画面のサブ画素を一度に同じ極性で反転させる方式である。 ;行ライン反転駆動方式 :行ライン反転駆動方式、又はHライン反転駆動方式は、フレームごとに行方向のサブ画素を互い違いに正極と負極を反転させる方式である。 ;列ライン反転駆動方式 :列ライン反転駆動方式、又はVライン反転駆動方式は、フレームごとに列方向のサブ画素を互い違いに正極と負極を反転させる方式である。 ;ドット反転駆動方式 :ドット反転駆動方式は、フレームごとに1つおきのサブ画素を互い違いに正極と負極を反転させる方式である。 === 分割駆動 === 画面が高精細となりサブ画素数が増えると動画表示のためにはXドライバの駆動周波数が100MHzを超えて一般的なICでは動作速度が満たせなくなる。このため、画面を例えば4分割するなどして駆動周波数を抑える工夫を行うのが普通であり、これを分割駆動 (Multiplexing drive) という。分割によってOLB (Outer Lead Bonding) による接続とデータドライバ / アドレスドライバ用ICは増えるが、高い周波数での設計は避けられる。例えば、3,200×2,400画素のQUXGAでは駆動周波数が575MHzとなって普通のICでは対応できなくなる。これを4画面にすれば約72MHzに低減できる。分割駆動では、XとYのドライバ(データドライバとアドレスドライバ)のICモジュールとそれらとの接続を増やすだけでなくタイミング・コントローラも対応しなければならない。画面を複数の領域に分けた分割駆動とすることで、一般的な半導体技術で作られた駆動ICを使用しながら画素数の増加を可能にした<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 [[File:LCD Panel drive (Active, Voltage).PNG|thumb|320px|right|'''コモンDC方式'''<br />共通電極(コモン電極)には点線で示した一定のバイアス電圧が加えられているため、液晶層に加えられる電圧は、そのバイアス電圧を中心に上下に振れながらサブ画素ごとのソース電極の電圧振幅の半分になる。液晶電極の電圧を見れば、ゲート電圧が加わるとソース電極線からの電圧を受けてそれと同じ電圧になるが、ゲート電圧がなくなると同時にTFTのゲートとドレイン間の寄生容量によってΔVで表される電圧の低下(フィード・スルー電圧、突き抜け電圧)を受け、蓄積電荷の放出とともに電圧は緩やかに共通電極レベルに近づいてゆく。]] [[File:LCD Panel drive (Active, Voltage Common toggle).PNG|thumb|320px|right|'''コモン反転方式''']] === 共通電極の電位差 === フレーム反転方式での液晶駆動では、カラーフィルタ基板側の透明電極である共通電極(コモン電極、対向電極)の電位の掛け方の違いで2方式に分けられる。 ;コモンDC方式 :コモンDC方式では共通電極の電圧は一定で、液晶への電圧印加はアレイ基板側のサブ画素の個別の電極だけで行われる。フレーム反転の度に正電位と負電位を反転させるには、共通電極の電圧が一定のままであるために、例えば+5Vから-5Vまでの10Vの振幅が駆動回路に求められる。 ;コモン反転方式 :毎フレームごとに共通電極へのバイアス電圧を逆転し印加することで、コモンDC方式で求められるドライバ回路の振幅を半分にする方式である。ただし、列ライン反転駆動方式とドット反転駆動方式では、カラーフィルタ基板側の共通電極を分割する必要があるので、コモン反転法は基本的にフレーム反転駆動方式か行ライン反転駆動方式に限定される。駆動回路への要求が下げられるので、ほとんどはコモン反転方式が採用されるが、フレーム反転駆動方式ではフリッカが生じやすくなり、行ライン反転駆動方式ではクロストークなどが生じやすくなる<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 === 階調表現方法 === ;電圧階調法 :QVGA程度までの解像度の低い画面には、アナログ方式の電圧階調法によって必要な階調のすべてが表現できる。画素数が増えると表示するための画像信号の周波数が高くなるため必要とされるすべての階調を作り出せず、ドライバIC内の回路では3ビット8階調から4ビット16階調、6ビット256階調といった出力レベル数だけを出力して、これで不足する用途にはフレームレート階調法で補うようにしている。 ;フレームレート階調法 :フレームレート階調法 (Frame Rate Control, FRC) では、同一画素(サブ画素)を2-3フレームを1組として明るさをフレームごとに制御することで、人の感覚では中間の明るさとして感じることを利用している<ref>[https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0902/16/news001.html ITmedia流液晶ディスプレイ講座II 第4回:同じ色数でも画質が違うヒミツ――液晶ディスプレイの「最大表示色/LUT」に迫る (1/2) - ITmedia +D PC USER]</ref>。例えば50%と60%の明るさの2つのフレームを連続的に見れば[[残像効果]]により55%程の明るさに見える。ただし、フレームごとで明るさを変ると人の目で見て画素の明度変化が分かるフリッカの原因にもなるため、フレーム周期を毎秒180回に高めるなどの工夫が求められる。この方式は安い液晶で採用されていて、人によっては目の疲れや頭痛の原因になる。 === ブラック挿入法 === 動きの激しい動画表示では、移動する物体の輪郭部が不鮮明に見えることがある。これは液晶画素が印加電圧を一定に保つホールド型駆動で構成されているために起こるが、これを避けるために、1つのフレーム内で画面を一度、全面真っ暗にすることで印加電圧をフレームごとに独立にするインパルス型駆動にする方法を採る。これがブラック挿入法である。液晶の表示時間は短くなり高い応答速度も求められ駆動データも高速化が必要だが、動くものの表示が鮮明にできる。 [[File:LCD Panel drive (Active, Voltage Overdrive).PNG|thumb|320px|right|'''オーバードライブ'''での印加電圧]] === オーバードライブ === 画素の明暗が急速に変化する場合に、液晶分子の動きが遅いために追従できないことがある。この場合に印加電圧を変化初期の短時間だけ10-20%程度大きめや小さめのプリエンファシス信号として与えることで液晶分子を早く駆動することができる。液晶の反応速度は印加電圧の2乗に反比例するので波形の立ち上がりと立下りだけ電圧を振ることで早い応答が得られる。 === バックライト点滅法 === ブラック挿入法と同様に動く物体の表示を鮮明にするために、走査のタイミングを合わせてバックライトを消灯する。 === 倍速駆動 === 倍速駆動や120[[ヘルツ (単位)|Hz]]駆動と呼ばれる液晶パネルの駆動方式では、ほとんどの場合、毎秒60枚のフレームを表示していたものを120枚表示することを指す。表示枚数を増やすことによって激しい動きを伴う動画での残像感を小さくしようというものである。1秒間に60枚あった元の画像の間に、前後の画像情報から中間の画像を作り出して合わせて120枚にされる。4倍速の製品も登場している<ref group="注">液晶表示では、各フレームごとの画像を次のフレームの画像で書き換えるまで静的に保持し続ける仕組みのものが多く、これを「ホールド駆動」と呼ぶ。このホールド駆動では、たとえ液晶分子の反応時間が無限小にまで高速化できても、ヒトの視覚には残像感があるため、動画表示の画像切り替え例えば蛍光管であるブラウン管でのほとんど瞬間的な「インパルス発光」に比べれば遅く感じられる。</ref><ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問"/>。 === ショートリング === ショートリング (Short ring) は静電気破壊からパネルを保護する回路技術である。アレイ基板とカラーフィルタ基板はそのままでは大きなコンデンサとして働いて、人体などの静電気を蓄えて内部回路のTFT素子をショートさせる恐れがある。これを防ぐために、データ信号/アドレス信号の接続パッドごとに薄膜トランジスタ相当を抵抗として接続して、もう一方を共通接続する。このような抵抗を「作りこみ抵抗」や「負荷抵抗」と呼ぶ<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 == 液晶パネルの種類(単純マトリクス駆動) == 単純マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある<ref group="注">本文に示した代表的なものの他に、ECB、FLC(強誘電性液晶)、GH(ゲスト・ホスト)、DS(動的散乱)、PC(相転移)、熱光学、熱電気光学のそれぞれの表示方式がある。</ref><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 === TN型 === [[ねじれネマティック液晶|TN型]](Twisted Nematic型、ねじれネマティック型)は初期に量産された最も基本的であり、2010年現在でも主流の表示方式である<ref group="注">TN型は早くから実用化され、液晶といえばTN型が用いられているという時代が長く続いた。現在でもセグメント表示などの簡易な液晶表示部はTN型が主流である。構造が簡易で簡易な用途に限れば表示品位も十分である。印加電圧に対する透過率変化が緩やかであり、多数の画素表示を行うためにはアクティブ・マトリクス駆動を行う必要があるが、画素数が少なければデューティー駆動による単純マトリクス駆動で使用されることもある。</ref>。 この方式では、電圧が無印加の状態で[[ネマティック液晶]]と呼ばれる液晶分子の配向を90度ねじれるように配列している。表裏2枚の基板間で90度ねじれるように、各基板表面の配向膜に配向処理が施される<ref group="注">この配向処理は、ラビングという。配向膜上を布でこする(rubする)ことによって、その基板に接する液晶配向がその方向を向くようになる。液晶配向には方向性があり、一方が、基板からわずかだけ(数度程度)持ち上がる。例えば基板上に適当に取った時計文字盤によって方向を表して12時から6時の方向に向かって配向膜を布でこすると、液晶配向は、6時の側が持ち上がる。これをプレチルト角という</ref>。このねじれによって液晶を通過する光の偏光成分がほぼ90度回転する<ref group="注">無印加時に偏光が回転する角度は、屈折率異方性に液晶層の厚みを乗じたものと、伝播する波長との間の比率などといった液晶層の設計パラメータに依存する。</ref>。これは[[旋光]]と呼ばれる現象である<ref group="注">正しく旋光させるためには、液晶が螺旋構造をとるときの1周期の長さであるヘリカルピッチが、入射光の波長に比べて十分長い必要があり、この限界条件はモーガン条件、又はモーガン限界と呼ばれる。モーガン条件は<math>\vartriangle{n}\cdot{P} = \frac{\vartriangle{n}\cdot{d}\cdot{2}\pi}{\theta} > \lambda</math>で表される。通常の液晶材料には<math>\vartriangle{n}\cdot{P}</math>光の波長に対してが2.5-5倍のものが使われている。</ref>。また、正しく電圧が印加されると、分極している液晶分子は電界方向、つまり画面に垂直方向に揃って並び、光は偏光変換を受けずに液晶層を通過するため、光源側の偏光フィルムを透過した光の偏光状態がそのまま保たれて逆側の偏光フィルムにそのまま届くようになる。 ;偏光板の方向 :偏光板の配置方向には、NWモード (Normally White Mode) とNBモード (Normally Black Mode) の2つがある。NWモードでは入射側と射出側の偏光板の透過軸方向同士が互いに直交するように置かれ、この表裏2枚の偏光板の配置は「クロスニコル」 (Crossed nicols) と呼ばれる。NBモードでは互いに平行になるように設定され、この表裏2枚の偏光板の配置は「パラレルニコル」 (Paralleled nicols) と呼ばれる。<!--NWモードによって表示の変化を説明すれば、入射側の偏光フィルムを透過した直線偏光は、電圧を印加しないときには偏光状態を90度向きを変えて液晶を出射するため、出射側の偏光フィルムの透過軸の偏光成分が多くなり、明るい表示となる。これに対して、電圧を印加したときには、入射側偏光フィルムを透過した光がほとんどそのまま出射側偏光フィルムに伝播されてそこでほとんどが吸収されるため、暗い表示となる。NBモードの表示の変化はそれぞれ逆の動作によって説明される。--> :NWモードはTN型では多くが、特にTFT方式などではほぼ全数がNWモードが用いられる。これは黒表示での光の漏れが少なくコントラスト比が大きくでき、黒に近い表示で着色が生じず<ref group="注">NBモードでの電圧が無印加の場合には、原理的には光がすべて遮断されるが、実際にはパラレルニコルの間の液晶による90度の旋光では波長依存性によってすべての光が正しく90度に旋光するわけではなく、若干の光の漏れが生じて真っ暗にはならず、また黒に近い表示では着色が生じる</ref>、セルギャップ(液晶層の厚み)に対する製造マージンが広く安定した品質の生産が可能であること、パラレルニコルの偏光フィルム配置は生産性が良いこと、などによる。TN型のNBモードは、NWモードに比べた場合の視野角の広さからTFT方式への応用が検討された時期もあるが、上述のNWモードの利点の裏返しの欠点があり一般化するにいたっていない<ref group="注">現在でも、表示部のバックグラウンドを暗表示として数値を明表示にする数値表示を実現したいというデザイン上の必要性がある場面では、時計など簡便な表示を用いる機器の表示部にTN型のNBモードが利用されることもあるが稀である。</ref>。 === STN型 === [[STN液晶|STN]] (Super Twisted Nematic) 型は、単純マトリクス駆動方式での代表的な形式であり、現在でも比較的簡易な表示装置では使用されている。TN型が無印加時において液晶分子の並びのねじれ角が、両面の基板の間で90度であるのに対し、STN型では、180-270度となるように作製される。これにより印加電圧の僅かな差によって大きな配向変化を実現し、TN型では難しいハイデューティでの単純マトリクス駆動を可能にする。このため、TFT等のアクティブ素子を用いずに画素数の多い表示が可能となっている。TN型と同様にNBモードとNWモードがあり、NBモードでは黒と黄色、NWモードでは白と青の表示になる。初期のSTN型では光の波長によって明暗が一致せず、着色が避けられなかったため、いくつかの派生型が開発された。 STN型の派生型には以下のものがある。 ;DSTN型 :DSTN (Double STN) 型は、ねじれが逆向きの2枚のSTN液晶を表裏に張り合わせることによって、旋光に伴う着色を相殺し、白黒表示を実現する。ただし、二枚の液晶セルを重ねることから、コスト高や表示が暗くなるなど問題点もある。後述するFSTNが開発されたため、ほとんど採用されることはない。類似の名称で、Dual scan STNと呼ばれるものが、パソコン雑誌などでDSTNと表記されていたことがあるので注意が必要である。このDual scan STNは、単純マトリックスの列電極を画面の上下で分割し行電極の選択時間を確保したものであるため、Double STNとは別個の技術である。 ;FSTN型 :FSTN (Film-compensated STN) 型は、光学的補償を行う高分子フィルム(補償フィルム)を貼ることで画面の着色を減らしたものである<ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる">西久保晴彦著 『これで薄型ディスプレイのすべてがわかる』、秀和システム、2006年6月1日第1版第1刷発行、ISBN 4798013242</ref><ref group="注">DSTNやFSTNを含むSTN型が開発された背景として、1990年代初頭までは、TN型液晶でアクティブ・マトリクス駆動をおこなってドット数を増やすために必要なアクティブ素子(TFT素子)の量産性が低く、家電製品として普及させるには課題があった。また、多様な携帯機器の登場によってTN型のアクティブ・マトリクス駆動に代わる量産性の高い低コストの液晶表示器に対する要求も高まっていた。そういった中で、STN型が開発され、ハイデューティ駆動が可能であり、能動素子が不要なことから一時期広く利用された。特に、FSTN型では、色づきが低減できてカラーフィルタを組み合わせるとカラー表示が可能なことから、アクティブ・マトリクス駆動のTN型ディスプレイがまだ高価な期間に採用された。廉価である利点があったが、TFT液晶の低価格化や視野角特性、応答特性がTN型に比べて劣るなどの理由により採用は減っている。TN方式と比較するとアクティブ素子を作る難しさはないが、その一方で、液晶層の厚みの均一化、プレチルト角の精密な制御など、液晶パネルの製造技術としては高度な生産管理技術が求められる。</ref>。 :光学補償フィルムを液晶パネルの上下に挟むものをTSTNと呼ぶ事もある。 == 液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動) == [[File:Liquid Crystal Display TN-IPS-VA-MVA-OCB (ON&OFF).PNG|thumb|180px|'''液晶パネルの代表的な5方式'''<br />左が印加電圧の無い状態<br />右が印加電圧のある状態<br /><small>(液晶層全体を薄黄色で示したが、この部分は液晶分子を主成分とする溶液で満たされている<ref name="液晶、その不思議な世界へ">小林駿介著 『液晶、その不思議な世界へ』、オーム社、2007年11月30日第1版第1刷発行、ISBN 9784274204449</ref>。長円は液晶分子を横から見た姿であり、丸い円は液晶分子を長軸方向から見た姿である。)</small>]] アクティブ・マトリクス駆動による液晶パネルには、以下の方式がある。 === TN型 === 単純マトリクス駆動と同様に、アクティブ・マトリクス駆動と組み合わせても多く利用されている<ref group="注">TN型はアクティブ・マトリクス駆動でも利用されているが、単純マトリクス駆動と比べると要求される表示品位が異なるため、設計パラメータは異なる。</ref>。生産技術が確立され比較的安価である。また、特別な工夫をしなくても高い[[開口率]]<ref group="注">液晶パネルのサブ画素を透過部と遮光部とに分けた場合の全体に占める透過部の面積比。</ref>が得られるため表示が明るくなり、同じ表示輝度であればバックライトの消費電力を削減できる。応答速度も8-15ms程度とそれほど遅くはない。短所は、視野角が狭く色度変位が大きい。画質よりコストや低消費電力を重視する用途に用いられる。2000年代頃までは廉価な[[ノートパソコン]]向けであったが、2010年頃からは画質も向上し、ほとんどのノートパソコンでTN型となっている。また、視野角の狭さが簡易なプライバシーフィルターの効果を持つことから、上位機種でも積極的に採用するメーカーもある。 === IPS型 === [[IPS方式|IPS型]](In-Plane Switching型、インプレイン・スイッチング型)では、電極は一方の基板の面内方向に配置している。電圧を無印加の状態では液晶分子はねじれずに基板面に対して一定の水平方向を向いている。電圧の印加時には電界が面内方向に掛かるたて液晶分子が90度水平に回って電極に沿って並ぶ。無印加と印加で液晶分子が面内方向で90度回ることで、2枚の偏光フィルムとの間で透過、遮蔽を作り出す。液晶分子同士が並んだままで回転できるため反応が速く、特に中間調の応答が良い。見る角度にあまり影響されず視野角が広いという特徴がある。<!--液晶配向は基板に平行な面に含まれる向きで動作し、電圧を印加しない場合の一様な平行配向から、電圧を印加することによって基板に平行な面内で回転するようにしたものである。この-->回転は、電極をくし型に配置することで実現されるため、半導体技術を用いるアクティブ・マトリクス駆動でのみ用いられる。液晶配向が基板に対して垂直方向に立ち上がることがないため、視野角が広い<ref group="注">電圧印加時の画素内の配向が1つの回転方向にある場合には、視野角が広いものの、傾斜方向からの観察を行うと傾斜方位(画面に向かって傾斜させるときの傾斜の方位)に依存するような色づき(色度変化)が残ってしまうが、これは、液晶の回転する方向が互いに逆となる領域を画素内に設けるような電極構成をとることにより、互いに相殺しあって小さくされている。</ref>。視野角特性が良好なためTV用途で多く用いられるが、反面、開口率を上げにくく表示が暗くなり易い、正面表示でのコントラストを高めにくいといった課題もある<ref group="注">IPS型の派生形式には日立のS-IPS (Super-In Plane Switching) 型、NECのSA-SFT型がある。IPSは日立ディスプレイの登録商標である。</ref>。 ;偏光板の方向 :TN型のNWモードの場合の偏光フィルムのクロスニコル配置がIPS型ではNBモードに用いられており、TN型のNWモードの利点がIPS型ではNBモードの利点にほぼ対応し、IPS型では多くがNBモードで用いられる。NW、NBという名称が電圧と表示との関係のみを表す名称であるため、注意が必要である。 === VA型 === [[VA方式|VA型]](Vertical Alignment型、 垂直配向型)では、負の誘電率異方性を持った液晶分子と垂直配向膜との組み合せで、無印加時には液晶分子が画面に対して垂直になり、印加時には液晶分子が画面に対して水平な配置となる。見る角度にかかわらず比較的良好な視野角と高いコントラストが得られる。8-15ms程度の応答速度になる<ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/><ref group="注">日本のシャープ社では新たにUV<sup>2</sup>Aという液晶表示モードを開発し、2009年10月から堺工場と亀山第2工場で従来のASV型の生産を全面的に切り替えると発表した。このUV<sup>2</sup>A型は配向膜に特殊な高分子材料と紫外線を使うことでリブやスリットが不要になり、紫外線照射設備は新たに必要とするものの全体で生産効率が向上するだけでなく、開口率が20%拡大、光漏れが低減しコントラスト比が1.6倍、応答速度が4ms以下と従来の2倍と性能も大きく向上するとしている。</ref><ref name="光配向液晶を実用化">小谷卓也 『"30年の夢"光配向液晶を実用化 シャープが堺新工場に全面導入へ』、日経エレクトロニクス2009年10月5日号、8-9頁</ref>。 ;偏光板の方向 :TN型のNWモードの場合の偏光フィルムのクロスニコル配置がVA型ではNBモードに用いられており、TN型のNWモードの利点がVA型ではNBモードの利点にほぼ対応する。このため、VA型ではNBモードが用いられる。 ;MVA型 :VA型の派生型として、さらに視野角を広げるために画面の区画ごとに配向を変える「分割配向」を用いたMVA (Multi-domain Vertical Alignment) 型がある。MVA型では1つの画素やサブ画素内で異なる配向の領域を複数持つマルチドメイン方式とすることで視野角を広げている。マルチドメインは透明電極の上に「リブ」と呼ばれる微小な樹脂製の突起物を間隔をあけて構築することで実現される。TV用ディスプレイの用途で多く用いられている<ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問"/><ref group="注">MVA型には、ディスプレイ・メーカーによってそれぞれの工夫が加えられて名称も異なるものが付いている。例えばシャープはCPA (Continuous Pinwheel Alignment) 型とASV (Advanced Super View) 型、MVA (Multi-domain Vertical Alignment) 型(MVA型は元は富士通のものだったが事業部がシャープに吸収された)、サムスン電子はPVA (Patterned Vertical Alignment) 型と呼んでいる。CPA型ではMVA型の特徴であり問題点でもあるドメインを形成せずディスクリネーションも発生させないように、従来は列状だった電極突起「リブ」を円錐形にすることで液晶分子の傾斜方向を360度全方向に均等に配向させている。応答速度も25ms程度と良好である。ただし、液晶分子が360度均等になると分子の長軸と偏光フィルムの偏光軸とが平行になる部分が生まれて光を透過しなくなるので、その方向だけが十字状に黒くなる。これを避けるために、カイラル剤によって配向に捩れを作り十字状の影を低減している。</ref><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/><ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/>。 === OCB型 === OCB (Optically Compensated Bend, Optically Compensated Birefringence) 型は、無電界時には液晶が弓状に配列し、電圧印加時にはほぼ直線状に並ぶ。弓状から直線状に変化することで発生する液晶の流れと液晶分子の配向の変化が互いを阻害することがなく配向の変化が液晶の流れを加速するように働くため3-8msといった高速応答性を持つ<ref group="注">Πセルと呼ばれるOCB用液晶分子の液晶材も2枚のガラス間に注入直後はスプレイ配向と呼ばれるほぼ面内方向を向いて整列しているが、最初に2V程度の電圧を1分ほど掛けると分子が弧を描いて並ぶOCB型の特徴的なベンド配向になり、以後は電界がなくともこれが維持される。</ref>。光学補償フィルムを必要とする。視野角も広く、-20℃といった低温環境でも応答性がそれほど損なわれないがまだコストに課題があり、放送機器用や車載用での採用が多く、大画面は存在しない<ref group="注">OCB型では、2009年7月現在で民生品では32型での試作段階である。</ref><ref group="注">OCB型の高速応答性を利用して、フィールド・シーケンシャル・カラー (FSC) 方式の液晶ディスプレイが作られることもある。例えばサムスン電子は2005年10月にLEDバックライトを使うことでOCB型でFSC方式の32型カラーTVを発表している。</ref><ref>日経エレクトロニクス、2009年7月27日号、81頁</ref><ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 == 材料 == === 液晶材料 === 液晶分子は直径が0.4nm、長さが2nm程度の細長い有機分子である<ref group="注">液晶は固体と液体の中間的な状態を維持しているが、高温では液体状、低温では固体状になり、その中間の温度域では粘性流体となる。液晶の中で室温程度の温度範囲で液晶状態をとるサーモトロピック液晶と呼ばれるものが液晶表示に使用される。サーモトロピック液晶にはネマティック液晶(コレステリック液晶が含まれる)、スメクティック液晶(リエントラント液晶が含まれる)、高分子液晶、ディスコティック液晶が存在するが、液晶表示にはネマティック液晶の一種で光学活性を持つカイラルネマティック液晶の使用が多い。液晶表示では、液晶材料に電界を掛けることで光の異方性を示す電気光学的[[カー効果]]を利用して[[フレデリクス転移]]と呼ばれる液晶分子の再配列を行い、偏光の制御によって画像を表示している。</ref><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 {{main|液晶}} ;ネマティック液晶 :液晶パネルに使用されている液晶は、ほとんどがネマティック液晶である。ネマティック液晶は配向方向、つまり分子1つ1つの向きは秩序だった動きをするが、各々の位置は無秩序になっている。一般に長軸<ref group="注">液晶の「長軸」とはディレクタ(director、ダイレクター)と呼ばれる分子の統計平均的な配向方向を指す。</ref>方向と誘電的性質および光学的性質とが密接に関連している。液晶パネルにおいては、誘電的性質が配向方向と電圧との組み合わせから決まる駆動動作に積極的に利用され、光学的性質が配向方向と偏光フィルムとの組み合わせから決まる表示動作に利用される。 :上述の誘電的性質に関連して、通常液晶パネルに用いられる棒状分子からなるネマティック液晶を誘電率によって分類すれば、長軸方向に大きく長軸に垂直な方向に小さい場合のポジ型液晶と、長軸方向に小さく、長軸に垂直な方向に大きい場合のネガ型液晶がある。ポジ型液晶は、TN型やIPS型に用いられ、ネガ型液晶はVA型に用いられる。光学的性質については、ポジ型およびネガ型のいずれにおいても、屈折率が長軸方向の光電場に対して大きく、長軸に垂直な方向の光電場に対しては小さい複屈折性を有している。 :このような誘電的性質と光学的性質とを組み合わせて適切な表示を実現するために、液晶パネルでは、ガラス等の基板に適当な電極を設け、液晶材料の配向方向をその電極間に与えた電圧によって制御し、各電圧での配向方向と屈折率の関係から所望の表示を得る<ref group="注">ネマティック液晶による交流駆動の各電圧の変化に追従してすべての液晶分子が特定の方向に向きを整然とそろえて並び終えている訳ではない。すべての分子は熱的揺らぎによって振動や多少の回転運動を起こしており、室温近辺である限り電界の有無にかかわらずこの運動は常に起こり、必ずしもすべてが正しく並ぶのではなく無数の分子を集合的に見れば、全体としては平均化されることで特定の方向にきれいに並んでいるのとほとんど同じ効果が得られている。また、分子の長軸を大きく振り回して180度回転するよりも、長軸を軸にしてコマのようにその場で回転する方が、熱的揺らぎにしても電界による駆動にしても変化が早く行え、また周囲との相互作用もあるため、こういった運動方向や種類の違いで液晶の反応時間が3桁ほども変わってくる。</ref>。 ;強誘電性液晶・ブルー相液晶 :液晶パネルに用いられる液晶材料としては他には[[液晶#SmC*相および副次相|強誘電性液晶]]や[[:en:Blue Phase Mode LCD|ブルー相液晶]]などがある。どちらもネマティック液晶と比較して高速な応答を実現することができ、特に、ブルー相液晶は応答速度が10-100μsと速く、暗状態に視野角依存性が原理的に無い。そのため配向膜やラビングなどの配向処理や視野角補償のための光学フィルムが不要なためパネルを薄く安く作れる。近年になって非常に狭かった温度域を広げる技術が登場し、実用化が期待される。 <table align="right"><tr> <td valign="top">[[File:PNLC (OFF).PNG|thumb|110px|right|'''ポリマーネットワーク型液晶'''<br />(電界が無い状態)<br />光は透過できず散乱される。]]</td> <td valign="top">[[File:PNLC (ON).PNG|thumb|110px|right|'''ポリマーネットワーク型液晶'''<br />(電界がある状態)<br />光が透過できる。]]</td> </tr></table> ;ポリマーネットワーク型液晶 :ポリマーネットワーク型液晶 (PNLC, polymer network liquid crystal) は散乱液晶の一種であり、電圧が無印加の状態では液晶層内部の網目状の高分子繊維に沿って液晶分子が不規則に並び、表示が不透明となるが、電圧が印加された状態では液晶分子が表示面に対して垂直に整列するので、表示が透明になる。偏光を利用しないので偏光フィルタ<ref group="注">一方の偏光を吸収するため透過率が50%、実用的なものでは約42%しかない。</ref>が不要である。他の一般的な反射型液晶パネルが11%程度の反射率なのに対して50%と高く、これは実用化されている電気泳動式の[[電子ペーパー]]の40%よりも高い。窓ガラスに張り合わせた調光シャッターやプロジェクター投影用スクリーンとして採用されている<ref>佐伯真也著 『消費電力は有機ELの1/500 シャープのメモリ回路内蔵液晶』、日経エレクトロニクス2009年6月15日号。ただし、画素に設けられる反射層が光を反射するため、白と黒の表示ではなく白とミラーの表示となる。</ref>。 === マザーガラス === マザーガラスはマザーガラス基板とも呼ばれ、アレイ基板やカラーフィルタ基板の元となる素材である。これらの基板上に成膜するプロセスでは生産性向上のためにマザーガラスを切らずにそのままの大きさで製造工程を進め、終わりに近い工程で各基板ごとの大きさに切断してゆく。マザーガラスは以後の工程で障害とならないように、反り、塵、汚れ、傷、泡、欠けがないように求められる。 1枚のマザーガラスから取れる基板数は「面取り数」と呼ばれ、面取り数を増やすためにマザーガラスは拡大されてきた。マザーガラスの大きさとその月間や年間の処理可能枚数で、液晶ディスプレイ工場の生産能力が表現される。 {| class="wikitable" |+ 液晶パネルの面取り数 |- ! !! 稼動開始 !! 1枚のパネルの大きさ<br />(表示面対角長:インチ) !! 10.4 !! 12.1 !! 14.1 !! 15 !! 17 !! 20 !! 23 !! 28 !! 32 !! 37 !! 42 !! 50 !! 60 |- ! 第1世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 1991年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 300×350mm - 320×400mm | align="center" colspan="13" | 不明 |- ! 第2世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 1994年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 360×465mm - 410×520mm | align="center" colspan="13" | 不明 |- ! rowspan="3" | 第3世代 | style="background-color:#dfd" align="center" rowspan="3"| 1996年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 550×650mm | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 4 | align="center"| 4 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| |- | style="background-color:#dfd" align="center"| 600×720mm | align="center"| 9 | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 4 | align="center"| 4 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| |- | style="background-color:#dfd" align="center"| 650×830mm | align="center"| 9 | align="center"| 9 | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 4 | align="center"| 4 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| |- ! rowspan="2" | 第4世代 | style="background-color:#dfd" align="center" rowspan="2"| 2000年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 680×880mm | align="center"| 9 | align="center"| 9 | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 4 | align="center"| 4 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| |- | style="background-color:#dfd" align="center"| 730×920mm | align="center"| 12 | align="center"| 9 | align="center"| 9 | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 4 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| |- ! rowspan="2" | 第5世代 | style="background-color:#dfd" align="center" rowspan="2"| 2002年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 1000×1200mm | align="center"| | align="center"| 16 | align="center"| 15 | align="center"| 12 | align="center"| 9 | align="center"| 6 | align="center"| 6 | align="center"| 3 | align="center"| 2 | align="center"| 2 | align="center"| 2 | align="center"| | align="center"| |- | style="background-color:#dfd" align="center"| 1300×1500mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 20 | align="center"| 12 | align="center"| 8 | align="center"| 8 | align="center"| 6 | align="center"| 3 | align="center"| 2 | align="center"| 2 | align="center"| 2 |- ! 第6世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2004年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 1500×1800mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 12 | align="center"| 8 | align="center"| 8 | align="center"| 6 | align="center"| 3 | align="center"| 2 | align="center"| 2 |- ! 第7世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2005年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 1870×2200mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 20 | align="center"| 15 | align="center"| 12 | align="center"| 8 | align="center"| 6 | align="center"| 3 | align="center"| 2 |- ! 第8世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2006年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2160×2460mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 24 | align="center"| 15 | align="center"| 15 | align="center"| 8 | align="center"| 8 | align="center"| 6 | align="center"| 3 |- ! 第9世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2007年 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2400×2800mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 8 | align="center"| 8 | align="center"| 6 | align="center"| 3 |- ! 第10世代 | style="background-color:#dfd" align="center"| 2009年10月<ref group="注">第10世代のマザーガラスはシャープの大阪堺工場の新たな製造ラインで2009年10月から稼動した。</ref><ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/091001-a.html シャープ「世界初の第10世代マザーガラスを採用した液晶パネル工場が稼動を開始」]</ref> | style="background-color:#dfd" align="center"| 2,880×3,130mm | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| | align="center"| 12 | align="center"| 8 | align="center"| 6 |} マザーガラスは、主にその表面に構築される電極や回路の処理工程の最高温度によって使用できる種類が限定される。STN型のような単純マトリックス駆動では低価格のソーダガラスが使用できるが、TFT型のようなアクティブ・マトリックス駆動では高温処理が求められるため、高温ポリシリコン処理での1,000℃以上に耐えられる高価な石英ガラスや低温ポリシリコンでの600℃弱まで耐える無アルカリガラスが使用される。 ガラス厚も薄くなっており、カラーTFT液晶ディスプレイの開発当初は1.1mmであったものが0.7mmになり、特にノートパソコン用などでは0.63mmから0.6mmとなり、携帯電話用では0.4mmの製品が出ている<ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問"/><ref name="液晶ディスプレイ用語集"/><ref name="液晶のしくみ">白鳥敬著 『液晶のしくみ』、ぱる出版、2004年8月6日初版発行、ISBN 4-8272-0106-4</ref>。 === 配向膜 === [[File:LCD schematic of Pre-tilt.PNG|thumb|150px|right|'''プレティルト角'''<br />プレティルト角が非常に小さいと配向膜の上で同じ方向に立ち上がるようには液晶分子が配列しないため、電圧が印加されたとき予定した方向に立ち上がらないようになる。下図のようにプレティルト角が大きいと同じ向きに立ち上がる。]] [[File:LCD schematic of discrimination Line.PNG|thumb|150px|right|'''ディスクリネーション線'''<br />視野角を広げるために画素やサブ画素内を2分割や4分割して配向の方向を部分的に変える「配向分割」(マルチドメイン)を行うが、切り替えた境目に線が生まれ、多数の画素が続くと肉眼でもディスクリネーション線が見えるようになる。分割境目の場所の決め方に工夫がいる。]] 配向膜にはポリイミドが使われることが多い。可溶性を高めるためのN-メチル-2-ピロリドン (NMP) などのアミド系極性溶媒と塗布性を高めるためのセロソルブアセテートなどの溶媒にポリアミック酸を溶解させたものが使用される。これを基板に塗布後、250℃以上に加熱処理してポリアミック酸を熱重合によりイミド化させて配向膜を形成する。基板上で熱重合するのではなくあらかじめ液体状態でイミド化させた可溶性ポリイミドも使用される。可溶性ポリイミドを使えば、基板上への塗布後の加熱温度が180℃以下となり、乾燥させる程度の処理となる。このため、加熱温度を高められないカラーフィルタ基板を用いる場合の配向膜として都合が良い。ポリイミド製の配向膜は、材質を選べば透明であり、300℃程度にも耐える高い耐熱性があり、液晶の配向を安定させることが可能であり、ガラス基板や電極膜への塗布性や密着性が良いという特徴がある<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/><ref group="注">シャープ社が開発したUV<sup>2</sup>A型では、配向膜に特殊な高分子材料を使い、表示面に対して斜めから照射された紫外線に向けてこの高分子の主鎖が配列することで斜め方向に傾いた精密な配向膜が作れる。リブやスリットが省け性能も向上するとしている。UV<sup>2</sup>AはUV(紫外線)を使用したVAという意味である。</ref><ref name="光配向液晶を実用化"/>。 === 偏光フィルム === 偏光フィルムは、一般的な透過型パネル用では、偏光素子が入った偏光基材とこれを両面で挟むベース基板、そして片面には保護フィルムともう片面にはガラス基板に貼り付けるための離型フィルムから構成される。反射型パネルの裏面用は保護フィルムの代わりに粘着層を介して反射板が付けられる。 偏光フィルムは[[偏光板]]とも呼ばれるが「板」のような堅いものではなく、多ければ10層ほど積層されても0.12-0.4mm程度の薄いものであり、液晶パネルへ貼り付けられるまではテープ状に巻かれている。偏光素子が入った偏光基材とは、[[ヨウ素]]や二色性染料が偏光素子でありこれが[[偏光]]効果を起こす。偏光基材は[[ポリビニルアルコール]] (PVA, Poly Vinyle Alcohol) が使われ、偏光素子がこの媒体内に含まれる。偏光基材を保護する役割のベース基板にはトリ[[アセチルセルロース]] (TAC, Triacetyl cellulose, Cellulose triacetate) が使われる<ref group="注">ベース基板のTACの代わりにポリエチレンテレフタレート (PET, Polyethylene terephthalate) や[[ポリカーボネート]] (PC, Polycarbonate) を使うことも検討されている。</ref>。ベース基板も「板」と呼ばれるがフィルムである。離型フィルムにはベース基板側に粘着層が塗布されており、ガラス基板に貼り付ける段階で剥離され、粘着層によってガラス基板に貼り付けられる。 偏光フィルムの単体での光学特性は、透過軸方向に平行方向の透過率:T<sub>1</sub> と透過軸方向に直交方向の透過率:T<sub>2</sub>で表され、T<sub>1</sub> は"1"に近く、T<sub>2</sub>は"0"に近くなるように偏光素子や偏光基材が調整される。1枚の偏光フィルムの単体透過率は T で表され、T<sub>1</sub> とT<sub>2</sub>の平均で表される。 2枚使用時の光学特性は、透過軸方向が互いに平行な平行透過率:T<math>\|</math>と透過軸方向が互いに直交な直交透過率:T<math>\perp</math>があり、平行透過率:T<math>\|</math>はT<sub>2</sub>とT<sub>1</sub>のそれぞれの2乗の和の平均で、直交透過率:T<math>\perp</math>はT<sub>2</sub>とT<sub>1</sub>の積で表される。 また、偏光度 P は以下の式で表される。 :<math>P = \sqrt{\frac{T_1-T_2}{T_1+T_2}}</math> 実際の製品として使われている偏光フィルムでは、単体透過率 T は38-48%程度、偏光度 P は75-99.9%程度である。可視光領域で透過率と偏光度が波長によって差があると液晶パネルにすると色付きするので、これらの特性に波長依存性がないことが求められる<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 === 透明電極 === 2009年現在一般には、透明電極としてITO (Indium-tin-oxide) が使用されているが、ITOは塗布後の定着工程で200-300℃程度の比較的低い温度で半結晶化されるため抵抗値が高く、また透過度も波長の短い光線では低くなるために完全な透明ではなく少し茶色や黄色がかった色味を持つ。[[インジウム]]が中国に偏在する[[レアメタル]]であり、電子機器による需要増で価格が高騰している。 ITOに代わるものとして、[[酸化亜鉛|ZnO]]膜や金の微細な繊維を配合した高分子膜の研究が進められて成果が上がっており、早ければ数年の内には製品への採用が始まるとされている<ref>『透明電極に新材料を導入』日経エレクトロニクス 2009年8月10日号</ref>。 == 液晶モジュールの構造 == [[File:LCD Panel style (3-types).PNG|thumb|250px|right|'''駆動回路の配置'''<br />A.TAB方式<br />B.COG方式<br />C.LTPS(Low Temperature Polycrystalline Sillicon、低温ポリシリコン)方式<br />1.TABフレキシブル基板 2.TCP 3.プリント基板(X軸駆動回路) 4.プリント基板(Y軸駆動回路) 5.液晶パネル表示面 6.COG方式実装LSI 7.FPCコネクタ 8.TFTによるドライバ回路]] 液晶モジュールは、主な構成部品として液晶パネルに駆動回路と駆動用プリント基板、必要ならばバックライトを取り付けたものである<ref group="注">通常の流通では、液晶テレビ、液晶モニター、携帯電話端末などの製品に取り付ける部品として流通するのは液晶モジュールであり、[[液晶テレビ]]においては、[[液晶パネル]]は製造原価の6割から7割を占める主要な部分である。</ref>。駆動用プリント基板類は液晶パネルとの接続部が柔軟なため、パネルの裏側に折り込まれて無用な実装面積を省くのが普通である。また、駆動回路の主要部を低温ポリシリコンによるTFT回路で液晶パネル上に取り込むことで、液晶パネルへの接続は、電源部やタイミング・コントローラ回路、最低限の映像信号回路などを載せた小型のプリント基板だけになり、不良の原因となる接続部の大幅な削減によって液晶モジュールの信頼性の向上が実現できるが、額縁スペースが余分に必要となる。 * 液晶モジュール ** 液晶パネル ** TABモジュール、又はCOGモジュール ** 駆動用プリント基板 ** バックライト ** 駆動制御コネクタ部 ;TABモジュール・COGモジュール :安価なモノクロの電卓用液晶ディスプレイなどを除けば、多数の画素を駆動するための縦横合わせて数百から数千もの配線を液晶パネルの外部に引き回すことは避けて、パネルの端部にTAB (Tape Automated Bonding)、又はCOG (Chip On Glass) という2種類の実装方法によって、TABモジュール、又はCOGモジュールという駆動回路が接続されている。TABモジュールは、TABやTCP (Tape Carrier Package) と呼ばれる実装方法が用いられた液晶駆動用半導体のパッケージであり、必要なだけ複数個のTABモジュールが'''[[異方性導電フィルム|ACF]]'''(Anisotropic Conductive Film、異方性導電膜)によって液晶パネルの端部に接続される<ref group="注">ACF (Anisotropic Conductive Film) は熱硬化型の樹脂フィルムであり、[[エポキシ樹脂]]や[[アクリル樹脂]]の基材に熱硬化反応材が混ぜられ、内部には[[ニッケル]]や[[金]]をメッキした直径3-5μm程の樹脂ボールが無数に分散されている。TABモジュールは液晶パネルの接続部との間にACFが挟まれ精確な位置合わせの後に、加圧・加熱される事で樹脂ボールの金属によって導通が得られた状態で樹脂の硬化が進み、そのまま液晶パネルの端部にTABモジュールが固定される。</ref><ref group="注">TABモジュールと液晶パネルを取り付ける部分の端子間隔は広くても0.4mmピッチのOLB (Outer lead bonding) により通常はACFで接続され、TABモジュールと駆動用プリント基板は端子間隔が1.0-0.3mmのILB (Inner lead bonding) により通常はACFかハンダで接続される。"Outer"と"Inner"はTABモジュールから見た名称である。</ref>。TABモジュールと液晶パネルとの接続端子 (OLB, Outer lead bonding) の間隔は高精細度のパネルでは額縁寸法を決定するため、スリムなものが使用される傾向がある。例えばVGA表示では640×480画素で90μmだったものが、QQXGAの4,096×3,072画素では20μmになっている<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 :COGモジュールでは、名前の通り、半導体のベアーチップを液晶パネルのアレイガラス基板上に直接実装する。ベアーチップとパネル電極との接続方法には、次の4方式がある。いずれの方式でもベアーチップを保護するために電極の接続後は保護樹脂でコートされる。 :* 金バンプ直接接続方式 :* ワイヤーボンディング接続方式 :* 銀ペースト接続方式 :* ACF接続方式 ;駆動用プリント基板 :駆動用プリント基板はTABモジュールやCOGモジュールに画像信号や駆動電力を供給するための電子回路基板であり、液晶モジュールが外部と接続される部分でもある。プリント基板用のACFで接続される<ref group="注">駆動用プリント基板はガラスエポキシ製であり、耐熱温度130℃程度と高熱に弱く、接続端子は分厚く柔らかな銅箔製でTABモジュールの実装時のACFをそのまま使えば微小な樹脂ボールが銅の内部へとめり込んで圧接できない。このため、プリント基板用には低温で硬化する樹脂と樹脂ボールに加えてニッケルや半田などの金属粒子も加えられている。</ref><ref name="液晶ディスプレイのできるまで"/>。 ;バックライト :バックライトには、光源ランプ、インバーター回路、導光板などが含まれ、光源ランプはCCFL([[冷陰極管]])を使用する場合が多かったが白色[[発光ダイオード|LED]]が採用されるようになっていて、[[エレクトロルミネセンス|EL]] (Electro luminescence) も使われる。CCFLではインバーター回路によって1,000V以上の高電圧を発生させて管内の放電により、アルゴン、クリプトン、キセノンの単独、又は混合ガスが水銀を励起して水銀イオンが紫外線を放出し、管内面の蛍光体によって白色光を得る。管の両端にフィラメント状のヒーターを持つ通常の蛍光管と異なり、CCFLは加熱を利用せずに高電圧のみで放電を起こすので発熱量は少なく、管径も2-5mm程度と細く作れる。主に両端部で発熱する蛍光管を液晶パネル近くで使用すれば、温度に敏感な液晶材による表示ムラとなって都合が悪いのでCCFLの利用が多い。 :LEDでは電流源としての定電流回路か定電圧回路が電源回路となる。光源としてはCCFLとLEDの他に熱陰極蛍光管、分散型エレクトロルミネッセンス、ハロゲンランプ、メタルハイドロランプがある。 :直下型と呼ばれる液晶パネルの背面にバックライトを備える形式では、光源となる蛍光管を2本から4本程度の直管を並べるよりもU字やS字、W字の形状に曲げたものが使用されることもある。また直下型とは別にサイドライト型やエッジライト型と呼ばれる光源ランプを導光板の横に配置することでディスプレイの厚みを抑える工夫も採られているが、導光板を持たずに拡散板やライティング・カーテンと呼ばれる部分的に透過率を下げたものを使用するなどして均一な光を当るように工夫したものがある。薄型化が求められなければ、液晶パネルと距離をあけることで均一に照らす形式もある。これらの構造や部品の他にも、拡散シートやプリズム・シート、反射シートなどを使って光を出来るだけ逃さずに均一に液晶パネルの背面を照らすように工夫される。導光板にはポリメチルメタクリレートのようなアクリル樹脂が使用される。バックライトの発光スペクトル(分光特性)と液晶パネルのカラーフィルタの波長に対する光透過度(分光特性)が一致すると光の効率が上がるため鮮やかな色再現ができる。バックライトに蛍光管を使用すると、この光源が液晶ディスプレイ全体の寿命を決定することが多く、比較的長寿命のCCFL<ref group="注">熱陰極蛍光管は始動電圧が低いが寿命が連続点灯で3,000時間と短く、CCFL([[冷陰極管]])はフィラメントを持たないので始動に高電圧を必要とするが振動に強く寿命は連続点灯で20,000時間と比較的長い。CCFLは細くできるので、直径が2mm程度のものまで使用されている。</ref>が使用されることが多いがLEDの採用が増えている<ref name="液晶がわかる本"/><ref name="液晶ディスプレイ用語集"/><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。 ;駆動制御コネクタ部 :装置メーカのセットとして液晶モジュールはコネクタでセットの制御部に接続される。 :数万画素のマトリクスLCDパネルの駆動制御コネクタ部はフラットケーブル・フレキシブルケーブルというポリイミドベースの機材に厚さ数十μm、ピッチ0.65mmなどの平行電極を並べた,20極、30極などのコネクタでセットに接続する。LVDS(Low Voltage Differential Signaling)というインターフェースが主流で、デファクトスタンダード的にリーダーメーカーに後発コンパチブル2次供給メーカーが追従する慣例である。セットメーカーはPC、モニター、テレビなどに応じて、ディスプレイコントローラICによって、液晶パネルのドットマトリクスに対応する色と輝度信号を走査線の順番に送り、画像や文字を液晶パネルに表示する。 :一方、製品組み込みの小型のNT型のセグメント表示のものなどは、液晶モジュール本体は透明電極のみ配して、装置側基板に金表面処理電極を配して、構造的に位置合わせをして、導電部と絶縁ゴムが縞模様に配置された導電ゼブラゴム電極にて接続をして、液晶駆動機能を有する組み込みマイコンの数十極の電極で直接駆動することが主流である<ref name="名前なし-1">[http://japan.renesas.com/press/news/2012/news20120227.jsp LCDドライバ内蔵マイコン]</ref>。光源用バックライトに冷陰極管CCFL、EL、LEDをもつものはそれぞれに応じて2極程度のコネクタを備える。 == 液晶モジュールの駆動 == 説明を簡単にするため、TFTカラー液晶モジュールでの駆動例を示す。以下の周辺回路の多くは、TABによってアレイ基板に接続されるか、COGや低温ポリシリコンによってアレイ基板上に実装または構築される。低温ポリシリコンを採用している場合でもタイミング・コントローラや電源回路は、ポリシリコンによるTFT素子でD/Aコンバータ、メモリ、コントローラまで作り込むと消費電力が増すために、外付け回路基板上の専用ICが使用される事が多い。 ;タイミング・コントローラ :タイミング・コントローラICはT-CON (Timing Controller) やタイミングLSI (Timing LSI) とも呼ばれ、液晶モジュールに供給される映像データを平面上の画素に配分するためのクロック信号などを生成し、データドライバとアドレスドライバ(ゲートドライバ)に供給する半導体素子である。 ;データドライバ :データドライバはソースドライバやXドライバとも呼ばれソース線を通じて、画面のサブ画素ごとに対する印加電圧を加える。元となる映像信号から作られ液晶駆動用の階調化された電圧はソース線ごとにホールド回路で保持され、通常は画面の横方向の配列に対してタイミング・コントローラの信号の従って増幅された信号がデータ線に同時に加えられる。 ;アドレスドライバ :アドレスドライバはゲートドライバやYドライバとも呼ばれ、タイミング・コントローラの信号に従って、ゲート線を通じて画面のサブ画素の1列分を選択して、データドライバが各サブ画素に書き込むのを助ける。 ;電源・映像回路部 :電源・映像回路部はプリント基板とも呼ばれ、外部からの映像信号と電源を受け取り、映像信号をデータドライバとタイミング・コントローラに渡すと共にデータドライバ、アドレスドライバ、タイミング・コントローラへの駆動電力を供給する。タイミング・コントローラが一体となっているものもある<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 ;表示制御部 :数万画素以上のマトリクスLCDパネルの駆動系はパネル上に配し、モジュール上に液晶コントローラを配して、20極、30極などのLVDS(Low Voltage Differential Signaling)というインターフェースでセット側のPC、モニター、テレビなどに応じて、ディスプレイコントローラICによって、液晶パネルのドットマトリクスに対応する色と輝度信号を走査線の順番に送り、画像や文字を液晶パネルに表示する。 :一方、製品組み込みの小型のNT型のセグメント表示のものなどは、液晶モジュール本体は透明電極のみ配して、液晶駆動機能を有する組み込みマイコンの数十極の電極で直接駆動することが主流である<ref name="名前なし-1"/>。 == 製造工程 == まず製造工程の概要を示したのちに、詳しい説明を加える。 === 工程概要 === * 設計工程 * マザーガラス製造工程 * マスク製作工程 * アレイ基板製造工程 * カラーフィルタ基板製造工程 * 偏光フィルム製造工程 * 液晶パネル(セル)製造工程 * 駆動制御用IC製造工程 * バックライト製造工程 * モジュール製造工程 * 周辺回路、部品、筐体製造工程 * 液晶ディスプレイ組み立て工程 各工程の最後や出荷前にそれぞれ検査が行われる<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 === 液晶パネルの製造 === ; 設計工程 : 製造する製品の設計が行われる。本記事では詳しく扱わないが、この設計工程でアレイ基板の回路パターンのデータが作られる。 ; マザーガラスの製造 : ガラス製造の専業メーカーが生産するのが一般的である。 : マザーガラスは原料溶解、薄板形成、切断・面取り、熱処理・研磨、洗浄、検査、出荷という工程を経て製造される。メーカーによっては熱処理・研磨を行わないところもある。薄板形成の徐冷工程が品質を左右する。 :; フュージョン法 :: フュージョン法 (Fuson process) は、溶けた2枚の平面状ガラスを垂直に流し下ろしながら表裏合流合体させて空中で冷却する。ガラス表面に接触するものがないので高品質なマザーガラスが得られる。 :; スロット・ドロー法 :: スロット・ドロー法 (Slot drawing process) は「ダウン・ドロー法」や「引き下げ法」とも呼ばれ、ルツボの底の「スロット」から平面状にした溶解ガラスを流し出し、下では複数のローラーで固まり始めたガラスを引き下げながら冷却炉で冷やし連続的に外形を整えてゆく。スロットやローラーが接触するので引き下げ力の管理などを上手く行わないとガラス表面にうねりが生じる。製品は研磨が必要になる。 :; [[フロート法]] :: フロート法 (Float process) は、溶解した金属スズの上に溶けたガラスを流して、川のように連続的に平面ガラスを作る方法である。窓用を含めた一般的なガラス板の生産方法であるが、微細なうねりやスズが表面に付くために研磨が必要になる。マザーガラスの生産にはあまり採用されなくなっている<ref group="注">「フロート」は[[AGC]]の商標である。</ref>。 ; 基板 : ガラス製造工程から来たマザーガラスは、必要に応じて研磨・洗浄され、表裏や方向の区別のために「オリエンテーション・フラット」(オリフラ)や「オリエンテーション・コーナー」<ref group="注">オリエンテーション・コーナーでは1つの角を5mm程、3角形に欠け落とす。</ref>と呼ばれる印が付けられ、縁や角が面取り加工される。また、これとは別に後のいずれかの工程で、「合わせマーク」と呼ばれるアレイ基板とカラーフィルタ基板を合わせる時の印が付けられる。 ; アレイ基板製造工程 : アレイ基板の回路パターンは設計データに基づいて作図され、多数のレティクルがあらかじめ作られる。 :; TFT層・配線層・画素電極形成(5フォト・プロセスでの例) ::# 最初に基板洗浄を行う。 ::# 金属膜を蒸着させ、エッチングによってゲート電極と蓄積コンデンサ用C<sub>s</sub>電極を形成する。(マスク1) ::# [[化学気相成長|CVD]]によって絶縁膜 (SiO<sub>2</sub>, SiN<sub>x</sub>) を全面に形成する。 ::# CVDによってゲートとなるa-Si(アモルファス・シリコン)層を連続して堆積させ50nm厚程度まで形成する。 ::# エッチングによってチャネル保護膜 (SiN<sub>x</sub>) を形成する。(マスク2) ::# 電極との接続性向上とリーク電流の低減のために、燐ドープの半導体層 (n<sup>+</sup>a-Si) を形成する。 ::# 3層金属膜 (Mo-Al-Mo) を蒸着させる。 ::# エッチングによってドレインとソース層を形成する。(マスク3) ::# CVDによって保護膜 (SiN<sub>x</sub>) を全面に形成する。 ::# エッチングによってコンタクト孔を形成する。(マスク4) ::# スパッタリングによってITO(酸化インジウムチタン)膜を全面に蒸着させエッチングによって不要な部分を除去してサブ画素電極を形成する。(マスク5) :: 上記の内、半導体回路や配線層などを形成するエッチング工程では、マスクとなるレティクルのパターンを主に365nmの紫外線(i線)で光学的に基板上の感光材へ露光して、レジスト層としてパターンを写し取ることで実現される。これはLSIなどの半導体電子部品と同様の仕組みである。マザーガラスの大きさで1,000×1,300mmクラスまでは、1-5秒ほどの短時間で一度に全面を露光するワンショット方式が実用化されているが、転写対象が1mを越える大面積のものでは、光学投影レンズの有効径に制限されて、1枚のレティクルで全面を1度に露光できなくなっている。この場合には、複数枚のレティクルに分割して何度も露光を行う。半導体製造装置のスキャナのようにレティクルと転写面を同時に移動させながら露光するのではなく、移動中は露光シャッターは閉じられ、露光のつなぎ目が厳密にアライアメントがとられてから露光が開始される。このような露光方法をステップ&リピート (Step & repeat) と呼ばれ、この装置は「レンズ・ステッパ」や「ステッパ」と呼ばれる。特に液晶パネル1枚の大きさでレティクルを作る事で露光のつなぎ目を考慮しない方法には適する。半導体製造装置のスキャナのようにレティクルと基板を同時に移動させながら露光するものに、ミラー・プロジェクション法がある。これは、大口径レンズは球面収差のために作れないのを反射鏡で結像させるもので、1枚のレティクルで大面積に転写が可能になる。これらのいずれも、レティクルの等倍で露光する「等倍投影法」とレティクルの1/5や1/10に縮小して露光する「縮小投影法」がある<ref group="注">TFTパネルの製造工程では半導体製造工程に近い環境の清浄度が求められる。半導体ではほとんど全面が微細な回路で構成されているため、またTFTパネルのトタンジスタ回路よりさらに微細な回路であるために、許容されるゴミの大きさはより小さく、例えば0.1μm以下でも故障の原因となるので、TFTパネルよりもさらに厳密な管理が求められるが、半導体の製造では1つのゴミは1個のダイ(半導体の小片)を不良にするだけで済むのに対して、TFTパネルの製造工程では1つのゴミは1枚の大きなパネル全体を不良にする危険があり、例えば20型ディスプレイでは1.3m平方以上の面積のどこにも1μmのゴミがあってはならない。<!--と出典には書かれているが実際は数個の不良画素は許容されることがある。-->同様に温度管理も重要であり、1m程の基板では温度が1℃変わるだけで約5μm収縮して露光位置がずれる。</ref><ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。マスク数は5枚が主流であるが、4枚マスクの導入も始まっている<ref name="わかりやすい液晶ディスプレイ"/>。 アレイ基板の製造工程の各段階中と工程の最後に検査が行われる。アレイ基板として使用されないマザーガラス上の空き領域にあらかじめテスト用回路を作り込んでおき、膜厚、膜質、電気的特性を計測するという手法も使われる。 ; カラーフィルタ基板製造工程 :; 基板洗浄 :; BM層形成 :: BM(ブラックマトリクス)層は、金属クロム<ref group="注">金属クロムは遮光性は十分だがディスプレイ表面から浸入する入射光はガラス面も含めると約60%も反射してしまうため、酸化クロムも含めた2層以上に積層することで層間での反射光同士を逆位相にして打ち消し合わせる工夫も行われる。金属クロムは有害物質であるため、電気製品一般に使用されるハンダの鉛と同様にヨーロッパ圏では避けられる。このため、カーボンブラックなどを樹脂に混ぜた「ブラックレジスト」と呼ばれる材質に変える動きがあり、極めて低反射になる点でも有利となる。</ref>をスパッタリング蒸着させ、フォトリソグラフィ技術を使ったエッチングによって不要部分が除去される。金属クロムのほかにもカーボンやチタン、ニッケルの使用が検討され、低反射用に金属クロムに加えて酸化クロムの2層構造も使用される。 :; カラーフィルタ層形成 :: カラーフィルタ材を一定のパターンに配置・形成する方法には、フォトリソグラフィ法、印刷法、インクジェット法、その他がある。 ::; フォトリソグラフィ法 ::: フォトリソグラフィ法ではBM層形成と同様に全面に塗布したあと、フォトリソグラフィ技術を使ったエッチングによってマスクを作り不要部分を溶解除去する。3色のそれぞれに対して繰り返し処理が必要になる。 ::; 印刷法 ::: [[シルクスクリーン]]印刷と同様に、スキージでメッシュ・スクリーン上のカラーフィルタ材を基板に印刷する方法や、オフセット印刷する方法、凸版印刷に凹版印刷など、どれもカラー印刷と同じ手法を用いる。 ::; インクジェット法 ::: インクジェット印刷の技術を応用したものである。プラズマディスプレイでの実用が主導した技術であり、大画面の基板では実用され始めている。 :; 保護膜形成 :: BM層とカラーフィルタ層で生じた段差を平準化し、この後のITO膜の形成時の定着性が高められる。 :; 共通電極形成 :: 原料となるITOは酸化[[インジウム]]に酸化[[スズ]]を1-5重量%ほど加えた合金である。透明電極をガラス基板上に形成する方法には主に2種類ある。以下にそれらを示す。 ::; 真空蒸着法 ::: ITOの[[焼結]]体を真空中で加熱してガス化し、この気体のITOをガラス基板上に析出させて薄膜を形成する。ガス化雰囲気は厳密には真空ではなく、3%ほどの酸素を加えることで結晶化と酸化を制御する。ITOが蒸着する基板側の温度によってITO結晶の特性が変化し、180℃と250℃、300℃、そしてそれ以上の温度で得られるITO膜の[[電気抵抗|抵抗]]値が異なる。面抵抗で10Ω/□が必要なSTN用ガラス基板では250℃まで加熱され、面抵抗100Ω/□が必要なTFT用ガラス基板では180℃まで加熱された状態でITOが蒸着される。各々のガラス基板にはカラーフィルタが成膜されているので、カラーフィルタ中の有機化合物の耐熱性もこれに合わせたものが求められる。真空蒸着法は基本的に点から蒸発するため、ガラス基板が大面積になるほど膜厚の均一性が損なわれる。加熱する熱源の違いでEB(エレクトロン・ビーム)法、抵抗加熱法、イオンブレーティング法がある。 ::; スパッタリング法 ::: スパッタリング法は大きく2つの方法に分かれる。いずれの方法でもターゲットと呼ばれる平面状の焼結体を加熱することで蒸発させるため、ガラス基板が大面積になっても膜厚の均一性が保たれる。 :::; 酸化物スパッタリング法 :::: [[アルゴン]]と少量の酸素の混合ガスをプラズマにしてこの熱でITO酸化物のターゲットから昇華させてガラス基板に成膜する。水素や水を加える手法も存在する。200-1000Å程の厚みを作り、抵抗値は1.7-2.5×10<sup>-4</sup>Ω・cmになる。 :::; 反応性スパッタリング法 :::: アルゴンと酸素の混合ガス中でITOのターゲットから昇華させてガラス基板にITO酸化膜を成膜する。ITO酸化膜はほとんど不透明であり、膜に含まれる酸素を追い出すために200℃の大気中、または不活性ガス中での熱処理を必要とする。膜厚が厚いと透明度を高めにくくなり成膜を制御することが難しく抵抗値にバラツキがあるため、製造には酸化物を使う方法に移っている。 :: これらの他に、ディッピング法がある。カラーフィルタ基板では耐熱性の上限に配慮されるが、アレイ基板ではより高い温度を使って抵抗値の低減が計られる。例えばTFTアレイ基板では以前の工程でのゲート絶縁膜の350-400℃での形成時の温度や、後の工程でのSiN<sub>x</sub>保護膜の250℃や配向膜の熱処理温度180℃でITO膜の特性が劣化しないよう配慮が求められる。STN用のITO膜では配向膜の熱処理温度に対する250-300℃程度の耐熱性が求められる。ガラス基板の全面に成膜されたITOの薄膜は、アレイ基板のみフォトリソグラフィ技術を使ったエッチングによって不要部分が除去される。 ; 偏光フィルム製造工程 :# 偏光フィルム (PVA, Poly Vinyle Alcohol)、基板フィルム (TAC, Triacetyl cellulose, Cellulose triacetate)、離形・保護フィルム (PET, Polyethylene terephthalate) の原反を準備する。 :# 偏光フィルムの工程 :## 洗浄する。 :## ヨウ素を含む染料で染色する。 :## 延伸させる。 :## ホウ酸処理によって架橋させ、加熱処理を施す。 :## 乾燥させる。 :# 基板フィルムの工程。必要ならばAG/AR(防眩/低反射)処理を施す。 :# 偏光フィルムの両面に基板フィルムを貼り合わせる。視野角拡大フィルムを含む場合はガラス基板の外側に偏光フィルムが内側に視野角拡大フィルムがなるように張り合わせられる。 :# 基板フィルムに離形・保護フィルムを貼り合わせる。 :# 検査を行う。 :# ロールに巻き取る。 :# 切断する。 :# 出荷前検査を行う。 :; 配向膜形成(ラビング工程) :: 配向膜の形成はラビング工程とも呼ばれ、液晶分子の並びを整えるために高分子膜の表面に微細な溝を形成する工程である。[[ポリイミド]]樹脂 (Polyimide resin) など液体をガラス基板上に塗布した後、これを180℃程度で焼成したのち、膜の表面をラビング布製のローラーで所望の方向で擦ってゆく。布地の細かな繊維によって表面を一方向に撫でることで樹脂の分子が一定方向に並び、また微細な溝が形成される。ラビングによる配向では液晶分子が2-7度程度に傾きをもって並び、この傾きをプレティルト角と呼ぶ。配向膜にポリイミドを使うことでプレティルト角を増す工夫も行われる。一方向にラビングする以外に、部分的にマスクしておいて複数方向からラビングを行い、配向の方向を変えるマスクラビングによる分割配向方式があり、フォトリソグラフィによって行う分割配向方式もある。分割配向によって視野角が向上される。これらの場合にはプレチルト角は大きくするのが一般的である<ref group="注">「ラビング」は[[三洋電機]]の登録[[商標]]である。</ref>。 :; 位相差フィルム製造工程 :: 位相差フィルムは直線偏光を楕円偏光に、楕円偏光を直線偏光に変えることができ、1/2λ板や1/4λ板のように主として波長依存性を光学的に補償に使われ、また半透過型液晶での位相差補償にも使用される。波長依存性の補償用途のものの製造方法は、[[ポリビニルアルコール|PVA]]や[[ポリカーボネート|PC]]の膜を1軸延伸によってフィルムに含まれる高分子を配向させて複屈折の異方性を得る点では偏光板に似ており、ただ、この延伸率は小さく、求める補償能力が得られるように均等に力を制御しながら作られる。位相差補償用のものはこれとは異なり、ポリイミド重合ポリマーを塗布した偏光フィルムをラビングして作った配向膜上にカイラル分子を添加した高分子液晶を塗り高温度環境に置くことで液晶を螺旋配向させる。後者では複屈折と旋光の2つを同時に補償できる。 :; シール形成 :: 2枚の基板間で液晶材を流出を防ぎ、外部からの汚染などからも守るシール材をカラーフィルタ基板側に塗布する。シール材は2枚の基板の接着剤の役割もある。塗布には、スクリーン印刷とディスペンサによる2つの方法がある。スクリーン印刷では厚みのあるスクリーンをカラーフィルタ基板上にやや間をおいて位置させ、端にシール材を加えるとスキージと呼ばれるヘラで一方向に掃き進めて一度に塗布を完了させる。ディスペンサではノズルからシール材を搾り出してカラーフィルタ基板上に描いてゆく。予備硬化させておく。 :; トランスファ形成 :: カラーフィルタ基板上の共通電極(コモン電極、対向電極)とアレイ基板上の配線との接続用の導電ペースト柱を形成しておく。 :; スペーサ散布 :: 樹脂ビーズ状のスペーサを使用する場合には、サブ画素当り2-3個程度の微小球であるスペーサをN<sub>2</sub>ガスやアルコールによるスプレーでできるだけ均一に撒く。柱状スペーサではブラックマトリックス部分にフォトリソグラフィによって形成する。この場合、エッチングやレジスト除去は必要なく、フォトレジスト自身が柱状スペーサとなる。シール材とスペーサ散布は2枚の基板のいずれかで別々に行われる。 ; アレイ基板とカラーフィルタ基板の組立工程 : この段階ではまだ切断されていないため、2つの基板はマザーガラスの大きさのままである。 :; 張り合わせ :: アレイ基板とカラーフィルタ基板が合わせマークを目印に張り合わせられ、シール材が硬化される。通常は紫外線硬化樹脂が使用される。 :; 基板切断 :: アレイ基板とカラーフィルタ基板を張り合わせて、シール材で固定された後、切断が行わる。この切断工程はスクライブ&ブレーク (Scribe & Break) と呼ばれ、片面をダイヤモンド歯などで表面に傷を付けてから裏面から傷を押し広げて亀裂を広げて割り、もう片面でも同様に行うことで切断する。この状態は「空セル」と呼ばれる。ガラスの表面に傷を付ける方法も、従来は[[ダイヤモンドカッター]]が使用されて、切り屑の除去のために洗浄工程が必要だったが、レーザーで傷付けられるようになった。 :; 液晶注入・封止 :: 空の液晶基板を納めたチャンバーを真空にしてから液晶槽の中へシール材の開口部を漬け、チャンバーに外気を導入すれば、液晶が空気に押され真空に引かれて内部に注入出来る。この真空注入法の他に大画面用として、シール材塗布後、張り合わせる前にカラーフィルタ基板に液晶材を一度に適量を滴下する滴下注入法もある<ref group="注">液晶の充填方法には「真空注入法」と「滴下注入法」があるが、真空注入法では圧力と毛細管現象で内部に吸い込むが、狭い平面に粘度のある液晶を流動するのに時間がかかり、15インチで半日以上、大画面では十数時間から最大1日以上かかるなど生産性に問題が生まれたため、片面に規則的に等間隔に数滴落としてからもう片面を張り合わすという滴下注入法(ドロップフィーリング)が開発された。滴下注入法では基板切断工程を注入後に行うことも可能になった。</ref>。注入口には封止材(エンドシール)となる紫外線硬化型の接着剤を塗り固めておき、紫外線を当てることで複数の口が一度に封じられる<ref name="液晶、その不思議な世界へ"/>。 :; 洗浄 :: 液晶の注入・封止工程で液晶材が基板に余分に付着したものを超音波洗浄によって取り去る。 :; 面取り :: 基板の外部との配線が傷ついたり、後の工程でガラス基板を扱う過程で擦れたりして端部から破片が落ちて基板を傷つけたり汚染したりすることがないよう、また安全面からも、端部全周の角が削られ面取り加工される。 :; 偏光板貼り付け :: 通常は偏光板を基板の表裏両面に貼り付ける。偏光板は剥離フィルムを剥がしながら貼り付けるが、このとき静電気が発生するので除電対策や一層の清浄な環境が求められる。偏光板の貼り付け後、必要に応じて位相差板も貼り付けられる。 :; 点灯検査 :: パネルを点灯させて不良などがないか検査する。「組立検査」とも呼ばれる。フリッカ、クロストーク、線欠陥、階調不良、色度、色ムラ、コントラストなどの項目を検査する。 ; バックライト製造工程 : 導光板作成 : 導光板、反射フィルム、拡散板、プリズムシート等の組立て : 冷陰極線管、ランプリフレクタ組立て : エージング : 特性検査 : 出荷検査 ; モジュール組立工程 : TABの場合(カッコ内はCOGの場合) :; セル受け入れ検査 :; TAB圧着(又はベアチップ受け入れ) :: TABのFPC (Flexible Printed Circuit) のOLB (Outer lead bonding) 側のアウターリードを異方性導電フィルムによってアレイ基板上の配線に圧着接続する。 :; PCB実装(又はFCP圧着) :: TABのFPCのILB (Inner lead bonding) 側のアウターリードを異方性導電フィルム、またはハンダによって駆動用プリント基板上の配線に圧着などで接続する。 :; 樹脂塗布 :: ICとその接続部、インナーリードを保護するために樹脂をコートする。 :; PCB検査 :; バックライト取り付け :; 組立て検査 :; エージング :; 最終検査 ; 検査 : 出荷前に検査が行われる。点欠陥には輝度(明点)、低輝度(半明点)、滅点(暗点)、欠陥点が連結したもの(連結点)、欠陥点が近いもの(近接点)、ピンホール、微小気泡、微小異物などがある<ref name="液晶ディスプレイ用語集">鈴木八十二著 『液晶ディスプレイ用語集』、日刊工業新聞社、2008年10月28日初版1刷発行、ISBN 9784526061479</ref><ref name="わかりやすい液晶ディスプレイ">北原洋明著 『わかりやすい液晶ディスプレイ』、日刊工業新聞社、2006年3月1日発行初版1刷発行、ISBN 4526056502</ref>。 == ディスプレイ装置 == === 画面 === 画面の大きさは21世紀以降急速に拡大している。[[アスペクト比]]は、テレビ用では4:3や16:9のアスペクト比を考慮しており、パソコン用もほとんどはテレビと同様の比率を考慮して作られている。 {{main|画面解像度}} 表示する画面部分は「有効表示領域」や「表示領域」、「アクティブ領域」と呼ばれ、周囲は「額縁」と呼ばれる。この有効表示領域の大きさは画面の対角線の長さを[[インチ]]で表し、日本では数詞として「型」を付けて表現される。一般に画像の精細度を表すには、1インチ (25.4mm) 当り何個のドットがあるかという意味で "dpi" (dot per inch) を使うことが多いが、カラー液晶では "RGB" 3色の点で1つの画素 (pixel) を構成するため無用な混乱を避ける意味で "ppi" (pixel per inch) が使われることが多い。精細度を表す別の方法として「画素ピッチ」がある。画素ピッチは画素が並ぶ間隔を表しており、例えば1,000ppiでは0.0254mmになる。TV画面の水平解像度では「TV本」という解像度の表し方もあり、白地に縦に引いた黒い線を最大何本まで判別できるかというもので、普通のTVでは350TV本である<ref name="液晶ディスプレイ用語集"/>。 ブラウン管式ディスプレイでも、液晶ディスプレイと同様に画面の対角線の長さを[[インチ]]で表した「○○型」と表記していたが、米国では液晶ディスプレイと同じく有効表示領域の大きさを計っていたのに対して日本ではガラス管の外側の大きさを表していたので、実際に表示される領域は1-2インチ程度小さかった<ref name="液晶がわかる本">苗村省平著 『液晶がわかる本』、工業調査会、2001年5月20日初版第2刷、ISBN 4769311958</ref>。 === 画素 === 液晶ディスプレイでの[[画素]](ピクセル、Pixel)は、"RGB" を合わせて1画素と数えて、R、G、Bのそれぞれは「サブ画素」や「サブ・ドット」と呼ばれる。カラー液晶ではサブ画素ごとに輝度を制御しており画素ごとではない。画素とサブ画素を混同しないように注意が求められる。 「ドット抜け」といった画素単位やサブ画素単位での不良は数個まで許容されるが、2013年現在では従来に比べて製造現場での環境整備が進み、ドット単位での不良はほとんどなくなる傾向にある<ref name="液晶、その不思議な世界へ"/>。 === 入力 === :モニター、テレビと言った製品状のディスプレイ装置への入力は、デジタル系では[[HDMI]]、[[Digital Visual Interface|DVI]]、[[DisplayPort]]のほか、従来の15pin VGAと称されるアナログ端子などが使用されている。小型モニターではUSB接続や、5GHz インテル ワイヤレス・ディスプレイ(WIDI)の搭載もある。 :アナログ映像機器系では[[コンポジット映像信号]]、[[コンポーネント端子]]、[[D端子]]、[[S端子]]、[[RF接続|RF端子]]などの映像端子などが使用されている。 === 付加機能 === *画像信号の入力に合わせて表示位置を調整する機能とスクリーン上で明度彩度位置などを調節する機能はほとんどの機種で備えている。 *画像表示を行うだけでなくステレオ・スピーカーを備えたものも多く見られる。 *画像信号の入力が途絶えるとバックライトを消灯することで省電力を行う機能や、周囲の明るさを感知して画像の明度を自動的に変える機能を持つものがある。 *背面にVESA規格で定められたディスプレイ取り付け基部として 75mm×75mmや100mm×100mm といったサイズで備わっているものが多くなっている。 *USB接続型タッチパネルを備えたものがある。Windows 8搭載一体型パソコンや、セット用のディスプレイで普及が進んでいる。 === 寿命 === :ディスプレイ装置としての寿命は、バックライトに蛍光ランプを使用しているものでは、例えば冷陰極線管での6万時間(輝度の半減期)程度までといった寿命を決める主な要素となっている。短命なランプのものでは交換を前提として設計時から交換作業の容易性や交換部品の確保が配慮されているが、相応にコストがかかる。 :駆動回路や電源回路などは一般の電子部品と同程度の信頼性だと考えられるが、液晶パネル周辺回路で接続箇所が多いので、振動や衝撃に起因する故障の発生や高湿度環境での腐食などを防ぐ防振設計や耐湿樹脂塗布が行われたりする。固定の縦線は、CoGの剥離による典型的な故障である。横縞同期不良は液晶画面への衝撃によるポリイミド異方性導電接着剤の剥離の進行にみられる故障である。 :また経年劣化による問題の発生という点では、配向膜やシール材の劣化で水分や不純物が液晶材内部に混入すると表示ムラの原因となる。同じ画像を長時間表示しても、原理上は画像が焼き付くことはないが、交流駆動の調整不良などで駆動電圧に残留DC成分があると液晶中の不純物イオンなどで表示が焼き付くことがある<ref name="ディスプレイデバイス">松川文雄著 『ディスプレイデバイス』、森北出版、2008年2月29日初版第1刷発行 ISBN 9784627773417</ref>。 === 安全性 === 安全性に関して留意すべきは、バックライトに冷陰極線管 (CCFL) を使用しているものでは、1,000V以上の高電圧を生じているので感電事故を起こさないように不用意にバックライトの電源部を触らないことである<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ"/>。陰極線管内には水銀が含まれるので、電気接続に使われるハンダの鉛やBM層のクロムと同様に人体には有毒であり、環境中にも放出されないよう留意する必要がある<ref name="液晶ディスプレイのできるまで"/>。液晶自身の毒性については, 急性経口毒性の指標である[[半数致死量|LD50]]で表現するとほとんどが2,000以上であり、皮膚刺激性や吸入毒性でも「毒物および劇物取締り法」に抵触しない程度には基準を満たしているため、比較的安全であると考えられる<ref name="液晶がわかる本"/>。 == 歴史 == 1888年[[オーストリア]]のF.ライニッツァー (Reinitzer) らにより、[[コレステロール]]と[[安息香酸]]の[[エステル]]化合物からなる結晶を加熱することで液体状となるサーモトロピック液晶が発見された。[[1964年]]には[[アメリカ合衆国|米国]]で最初の液晶表示装置が考案され、1968年には米RCA社のハイルマイヤー (R. Heilmeir) 達の手で最初のネマティック液晶を使用した表示装置が作られた。これ以降、多様な装置が作られたがいずれもモノクロのものであった。1973年には日本で電池駆動可能な電卓の表示装置<ref group="注">日本の[[シャープ]]が作った「EL-805」が最初の小型液晶電卓である。これはDSM (Dynamic Scattering Mode) で15-20Vの電圧を必要とするものだった。</ref>として採用された。しばらくはTN型による低消費電力で薄く小型のものが主体となって、電卓や腕時計、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]、[[電子手帳]]、携帯型ゲーム機など、そのころ登場しはじめた[[デジタル]]機器の表示部として普及した。また1976年には英国[[ハル大学]]のグレイ教授が安定な液晶材料(ビフェニール系)を発見し、それは現在のLCD材料の基礎となっている。1983年には日本の[[エプソン]]から世界最初のTFT型液晶カラーテレビ「ET-10」が発表され、翌年に発売された。1988年には14型のTFT型液晶カラーTVが発表された。 1990年代になるとそれまでのセグメント表示からドット・マトリクス表示に、モノクロ表示からカラー表示に変わり、TFTによるアクティブ・マトリクス駆動によって高精細な表示が可能になった<ref group="注">1999年には20型のTFT型液晶カラーTVが発売された。</ref>。1990年代半ばに低温ポリシリコンによるTFT層が実用化された。用途も静止画だけのスチルカメラの表示部のようなものから、動画が扱えるデジタルビデオカメラの表示部へと広がり、ノートパソコンの表示や小型テレビ、カーナビへと広がった。20世紀末ごろにはブラウン管TVを駆逐する勢いで、大型平面TVでの採用が大きな広がりを見せてきた<ref group="注">2005年には65型のTFT型液晶カラーTVが発売された。</ref>。1990年代に日本メーカーのそれまでの基礎研究や技術開発の実用化・製品化が進み、世界市場を開拓していった。1990年代半ばに韓国メーカーが、1990年代後半には台湾メーカーが世界市場に本格的に参入してきた。 2000年代になると、小型の表示器としては携帯電話やPDA、携帯音楽プレーヤー等の多様な携帯型電子機器に使用されるようになり、大型では大画面TVや普及型TVなど、広くTV用途で採用されている。2000年代には中国メーカーが世界市場に本格的に参入してきた<ref name="カラーTFT液晶ディスプレイ">山崎照彦、他著 『カラーTFT液晶ディスプレイ』、共立出版、2005年10月30日改訂版大1刷、ISBN 4320086236</ref><ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問">西久保靖彦著 『大画面・薄型ディスプレイの疑問』、ソフトバンク・クリエイティブ、2009年3月24日初版第1刷発行、ISBN 9784797350531</ref><ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/>。 == 産業 == 液晶ディスプレイに関係する産業には以下の会社群がある。 * 液晶原材料メーカー * 液晶部材メーカー * 半導体メーカー ** マスクメーカー * 液晶ディスプレイメーカー ** 液晶パネルメーカー * 製造装置メーカー * 販売網 上記での液晶原材料とは、液晶材、配向膜、ターゲット材などがあり、液晶部材とはカラーフィルタ、偏光板、マザーガラスがある。 液晶パネルメーカーは液晶ディスプレイメーカーに対して液晶パネルを部品として供給するメーカーを指し、液晶ディスプレイメーカーは自社で液晶パネルを内製するものと社外から購入するものの両者を含む。液晶ディスプレイメーカーの中には内製した液晶パネルを外販する会社もある。液晶部材から半導体、液晶パネルを含めて内製する垂直統合型の液晶ディスプレイメーカーとして、韓国のサムスン電子、LGフィリップスと、日本のシャープ、パナソニック、ソニー、日立、東芝がある。欧州と台湾では水平分業型の専業メーカーがいくつかある。 液晶ディスプレイ産業は国際的な市場に向けた世界規模での開発・生産・販売が行われているが、生産拠点は比較的アジアに集中しており、また液晶部材の中でもマザーガラスのように巨大化を遂げた部品では長距離輸送に向かない<ref group="注">第十世代のマザーガラスは4畳半の床面積になる。</ref>ため、地域的な偏在性を生む要因となっている<ref name="わかりやすい液晶ディスプレイ"/>。 液晶ディスプレイ産業は、特に大画面TVでの需要が急速に立ち上がっていることもあり、産業の中心は大型パネルの生産に比重が移っている。こういった大型パネルの生産では大きな設備投資が求められる割りに生産設備の陳腐化速度が速く、新たな技術の採用によって生産コスト削減や製品性能が大きく向上するなど、[[半導体産業]]に似た特徴を備えている<ref group="注">大型パネルの生産に大きな設備投資が求められる例としては、シャープの亀山第一工場(第6世代、マザーガラス6万枚/月)で1,650億円、同亀山第二工場(第8世代、マザーガラス9万枚/月)で3,500億円、サムスン-LCDの牙山工場(第7世代、マザーガラス7.5万枚/月)で2,100億円相当、LGフィリップスのは坡州工場(第7.5世代、マザーガラス9万枚/月)で5,300億円相当、台湾のAUOの台中工場(第7.5世代、マザーガラス6万枚/月)で3,000億円相当である。</ref><ref group="注">亀山第二工場は2009年8月よりマザーガラス10万枚/月に引き上げた。</ref><ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/300941.html AV Watch 「シャープ、需要拡大を受け亀山第2工場の生産能力増強」]</ref>。半導体産業での「シリコンサイクル」と同様に液晶ディスプレイ産業では「クリスタルサイクル」と呼ばれる需給バランスの長期的な変動を繰り返す傾向がある<ref group="注">「クリスタルサイクル」としては、1994年と1997年は好調だったが1995年、1998年、2002年には低迷した。</ref>。また、中サイズのパネルではノートパソコンに組み込まれ、小画面パネルでは携帯機器や家庭電化製品、産業用機器などの広範な電気製品に対して組み込むために、多くが外販され一部が社内の別部署での機器生産に使用される。 液晶ディスプレイメーカーの各社は同業同士での競争だけでなく、プラズマディスプレイや有機ELのような似た用途のディスプレイ技術へも競争が求められる。また、多くのメーカーは液晶技術だけに固執せずに新たな次世代ディスプレイ技術への模索も続けている<ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/>。 == 経済規模 == 2009年1月の10型以上のTFT液晶パネルの世界売上高が25億米ドルだったと発表した。これは前月2008年12月から10.7%減であり、前年同期比では63.3%も減ったことになる。枚数で云えば、2,380万枚であり、これは前月2008年12月から12.4%減、前年同期比では33.5%減ったことになる。 メーカー別の売上高シェアでは、1位が韓国[[サムスン電子]] (Samsung Electronics) 社の27.9%、2位が韓国[[LG電子]]系列のLG Display社が27.8%だった。出荷枚数別では、1位がLG Display社が26.4%で逆転し、2位はサムスン電子の26.0%、3位が台湾[[奇美電子]] (Chi Mei Optoelectronics) 社で13.8%だった<ref>『ニュースランキング』 「日経エレクトロニクス」 2009年3月9日号 P.101</ref>。 == 新たな技術 == [[File:LCD schematic (Dual view).PNG|thumb|250px|right|デュアルビューの仕組み]] ;デュアルビュー :1枚の表示画面で左右の観覧者に異なる画像を見せる技術である。画面上に視差バリア層と呼ばれる無数の微細なスリットを持つことで、2つの画素ごとに1本のスリットが置かれ、見る角度に応じていずれかを隠すようにされている。左右に連なった画素に交互に異なる画像を表示することで、画素横方向の画像解像度は半分になるが、左右の閲覧者が特定の角度から見ることで異なる画像を見せることができる。同様の技術でトリプルビューも存在する。 ;ベールビュー :ベールビュー液晶には2種類あり、いずれも液晶の持つ視野角を狭めることで横から画面を見られないようする技術である。1つは常時正面方向以外には見られないように狭視野角で作られた液晶ディスプレイであり、もう1つは通常の広視野角の液晶パネルにスイッチ液晶と呼ばれる液晶層を外面に加えることで、必要に応じて狭視野角と広視野角の2つの表示をスイッチで切り替えられるようにしているものである。 [[File:LCD schematic (3D view).PNG|thumb|250px|right|3Dビューの仕組み]] ;3Dビュー :裸眼による立体視を実現する技術である。構造的にはデュアルビュー技術に似ており、視差バリア層と呼ばれる無数の微細なスリットがバックライトの光を画素を交互に遮ることで観覧者の右目と左目では異なる画素を見るようにそれぞれの位置関係が保たれる。視差バリア層が液晶層の背後になる点でデュアルビューとは異なる。立体視を表示している間は、観覧者が最適に見られる位置は制約され、左右方向の画面解像度も半減してしまう。そのため、通常の自由な位置からも本来の解像度で画面を閲覧できるように、視差バリア層をモノクロの液晶層で構成し、立体視モードを切れば視差バリア層が透明化されるものが作られている<ref name="これで薄型ディスプレイのすべてがわかる"/>。 ;タッチパネルとスキャナ :液晶ディスプレイ上にTFTという能動素子が構築できるようになり、さらにはSOGと呼ばれる周辺駆動回路までもガラス基板上に作り込めるようになると、この技術をさらに利用してそれまでは完成された液晶パネル上に重ねて設置されていた[[タッチパネル]]の機能を、光センサー素子をガラス基板上に作ることで取り込んでしまうものが登場している。携帯機器での表示器と操作スイッチを兼ねた部品としての利用が見込まれている。またガラス基板上に作り込むフォトダイオードの密度と精度を高めることで、スキャナとしての利用も考えられている。スキャナでは名刺の読み取りや指紋の読み取りなどが見込まれている<ref name="大画面・薄型ディスプレイの疑問"/>。 == 表示素子としての特徴 ==<!--「特徴」節には特徴を記述して、個別の技術に関する説明は別項で行ってください。--> 液晶パネルには、形状的な特徴、電気的な特徴、並びに、光学的な特徴および構成部品数などの面で他の表示装置とは異なる特徴がある。 === 形状的な特徴 === 液晶パネルの形状的な最大の特徴は、薄型である点である。ガラス2枚と偏光フィルタ2枚、必要に応じて[[バックライト]]によって表示が行えるため、非常に広汎な製品に応用されている。 === 電気的な特徴 === また、液晶パネルの電気的な面での最大の特徴は、液晶パネルそれ自体の電力消費が非常に小さいことである。数[[ボルト (単位)|ボルト]]程度の電圧によって表示が書き換わり、電流はほとんど流れないためである。このため、ロジック系ICによって容易に駆動が可能であるなどの特徴から、用途の制限が少ない。ただし、液晶パネルの液晶部分は通常は交流駆動する必要があり、表示内容を書き換えなくても極性反転のために充放電電流が消費される。また、液晶パネルは自発光しないため、照明を設ける場合には、照明のために消費電力が大きくなるという課題がある。ただしこれは[[発光ダイオード|LED]]などにおいてある程度は低減できる。 === 光学的な特徴 === 液晶ディスプレイの光学面での最大の特徴は、液晶それ自体が発光しないことである。表示には、バックライト、[[フロントライト]]、外光などの光源を必要とする。液晶ディスプレイでは、白色光のバックライトに[[カラーフィルタ]]を用いた液晶パネルを組み合わせるカラー表示が主流である。<!--また、投射表示を行うプロジェクターでは、光源の光を色ごとに分けて別々の液晶パネルを通過させ、再び合成する光学系(色分解光学系および合成光学系)が用いられることが多い。--><ref group="注">液晶それ自体が発光しないという光学的な特徴は、構成部品数が増えることで液晶パネルの多様性の一因となっている。</ref> == パネル/モジュール/ディスプレイの技術的課題 == {{独自研究|section=1|date=2017年1月}} 液晶パネルは、様々な利点を有する一方、表示原理に起因する技術課題(欠点)も有している。 ; 残像 : 液晶パネルで動きの早い動画を表示させると、残像が残って不明瞭な印象を受ける事がある。これは液晶パネルが動画表示を行うテレビに採用されて問題となってきた。この原因は、一つには、表示が変更されるまでの[[応答時間]]が長いためであり、もう一つは、駆動方法にも原因がある。 : まず、液晶パネルの応答時間については、一般に1-10ミリ秒程度の時間が必要となる。このため、1秒間に100回程度、つまり、100Hz程度でのフレーム周波数による表示書き換えが可能となっている。これに対し、ブラウン管やプラズマ・ディスプレイ・パネル (PDP) の応答速度は、マイクロ秒程度であるため、液晶パネルの応答時間はこれらに比べて長い。このように応答時間が長いことを、応答速度が遅いともいう。この理由は、液状の液晶物質の配向変化という物理的な変化を表示に利用するためである。具体的には、主に液晶の粘度および層の厚みをパラメータとして配向変化の遅れが決まる<ref group="注">これ以外に、液晶の表示モード(TN型、VA型、IPS型など)にも依存する。いずれにしても、光学的特性や製造の容易さ等の他の要因があるため、応答速度の観点のみからこれらのパラメータを決定できるわけではない</ref>。 : もう一つの駆動方法の観点では、表示フレーム時間内でバックライトが常時点灯していて画像が表示され続ける点(ホールド駆動)が大きな要因である<ref group="注">特に、液晶の応答時間が完全に0であっても、ホールド駆動をする限り残像は避けられないため、近年はむしろ駆動方法の改良が進められている。実際、液晶パネルの種類によっては、物理的な配向変化による応答時間は全く問題がなく、その速度を利用して専用メガネと組み合わせて別々の映像を左右の眼に対して与える3D映像を実現できるほどになりつつある</ref><ref group="注">これに対して、ブラウン管の駆動では、電子の衝突位置を掃引(スキャン)するように動作する。このため、瞬間的には、画面全体のうちで発光しているのは、ある走査線の一部(電子の衝突後、蛍光体の残光によって発光している範囲)のみである。このような駆動を(ホールド駆動と対比させて)インパルス駆動という。インパルス駆動で画面全体が表示されるのは、人の目における残像効果が寄与している</ref>。液晶パネルでは、応答時間を短くするため、液晶材料の低粘度化、液晶層厚の低減、表示駆動波形をオーバーシュートさせる工夫(オーバードライブ)といった対策を行っている。また、インパルス駆動に近づけるため、表示駆動波形による表示フレーム間への黒表示の挿入、バックライトの明滅等の対策も行われている。さらには、駆動周波数の増大(倍速・4倍速駆動)などの対策が採られている<ref group="注">このためには、表示する映像データにおいて得られる画像フィールドデータ(例えば1/60秒に1枚の割合のデータ)から、中間の画像フィールドデータを生成する必要がある。その処理には、画像処理のための高速なプロセッサと大量のメモリ、そして動画の画像フィールドデータから中間の画像(倍速では、前後の画像フィールドデータから1つの画像フィールドデータ、4倍速ではさらに中間の画像フィールドデータ)を適切に生成できる洗練された画像処理技術を必要とする。このような「力技」的な技術が実用化された背景には、単に液晶ディスプレイが巨大産業になったばかりではなく、半導体の低価格化が大きく寄与している。</ref>。 : なお、測定規格および計測技術上の問題点として、カタログ等に表記される応答速度(応答時間)の数値が参考にならない場合が多いという問題点も指摘されている{{要出典|date=2017年1月}}。 [[Image:ThinkLight -ThinkPad X20-.jpg|thumb|液晶ディスプレイを下からのぞき込むと、上方が暗く見える。]] ; 視野角 : ブラウン管などの他のディスプレイと比較して液晶パネルは視野角が狭い。液晶配向の向きと観察者の位置関係が透過率や反射率に影響するためである<ref group="注">液晶表示の電卓やデジタル時計を、様々な角度から眺めるとモノクロ表示の場合は、単にコントラストの問題だが、カラー表示の場合は3色のコントラストの組み合わせによりカラーを表示しているので、見やすい角度と見えにくい角度が色毎に異なる(屈折率の波長依存性)。</ref>。このため、液晶ディスプレイでは視野角特性が表示性能の1つとなっている。特にリビングに置くような大画面テレビ用途の液晶パネルでは、視野角特性を改善して、斜め向から見た場合でも正面方向と変わらない表示品質に近づけることが技術的な課題となってきた。 : 視野角特性の改善は、[[IPS方式]]や、VA方式<ref group="注">VA方式の例には[[ASV液晶]]がある。</ref>で利用されるマルチドメイン方式によって図られている。マルチドメイン方式は、表示に用いる液晶配向の向きが、明表示の場合と暗表示の場合で同じになるドメイン(領域)を画素内にいくつか設けて、複数のドメインの明度や色調をいくつか平均化したものが画素の透過率や反射率となるように構成する手法である。こうすることで、液晶パネルの観察方向を傾斜させたときの透過率が上下左右あるいは斜めの観察方向に依存しにくくなる。 + : 視野角特性を良好にするため、[[IPS方式]]や、VA方式<ref group="注">VA方式の例には[[ASV液晶]]がある。</ref>をマルチドメイン方式によって駆動することが行われている。マルチドメイン方式は、液晶配向の向きが揃っている単位領域(ドメインという)を各画素に複数(通常、2種又は4種)設けることにより、複数のドメインの明度や色調の平均化したものが画素単位での透過率や反射率となるように構成する手法である。こうすることで、液晶パネルの観察方向を傾斜させたときの透過率が上下左右あるいは斜めの観察方向に依存しにくくなる。 : ただし、IPS方式とVA方式では、ひとつ1つのドメインの視野角特性は異なっており、IPS方式の方が優れている。IPS方式におけるマルチドメインでの特性の平均化は、個々のドメインのわずかな色調の平均化が主眼であるのに対し、VA方式の特性では明度の平均化が主眼である。VA方式ではIPS方式に比べて不利な視野角特性を改善するため、1つの画素を複数の電圧で駆動するサブピクセルの組合せとすることも行われている。この手法により、基板に対する液晶の傾きが、中間調において一定の傾きではなく、強く傾いたサブピクセルと傾きの少ないサブピクセルの組み合わせとなり、上下左右斜めの観察方向に対する明度依存性が強い、中間的な液晶の傾きを表示に用いずに実質的に同様の明度が得られるため、視野角特性が改善される。また、このような中間的な傾きでの液晶の動作を避ける駆動方法は、応答にも良い影響を与える。なお、前述程の効果は得られないが、液晶性分子を用いた位相差フィルムを、偏光フィルターと液晶層との間に配置して視野角を拡大する工夫もなされている(主にTN方式やOCB方式で利用)。 : なお、上記の応答と同様に、測定規格および計測技術上の問題点として、カタログ等に表記される視野角の数値が参考にならない場合が多いという問題点も指摘されている。例えば、多くの場合にはコントラスト比が10程度の表示が実現する最大の視野角(正面からの傾斜角、またはそれを両側で表記した2倍の数)によって表示される。その結果、例えば176度の視野角などという観察方向として意味の無い範囲の数字の大きさばかりが強調されている。注意深く観察するユーザーにとっては、観察方向による色調の変化やコントラストの変化がいまだ認識できる程度に残存しており、液晶ディスプレイの方式やメーカーによってそれが異なることも事実であるが、このような意味のある特性がユーザーに比較可能な状態で示されることはほとんどない。 ; コントラスト比 : 画像表示製品の持つ明表示の最大の輝度を暗表示の最小の輝度で割った値を「コントラスト比」と呼び、表示品位の指標となる<ref group="注">通常は暗室で測定されるため、「暗所コントラスト」とも云う。</ref>。特にバックライトを制御することで得られる最大と最小輝度の比は、「ダイナミック・コントラスト比」と呼ばれる。コントラスト比が小さな表示装置は、白黒の表示が不明瞭になるだけではなく、カラー表示の色純度が低下するため重要な指標である。液晶パネルでは動作原理上、画面を完全な黒表示にすることが難しくコントラスト比をあまり大きくできない。これは、バックライトの光を液晶パネルが遮蔽し切れず、たとえ光源の光量を制御しても液晶パネル面から光が漏れるためである<ref group="注">コントラスト比を大きくできない詳しい要因は、偏光フィルタの偏光度が完全に100%ではないこと、液晶層やカラーフィルタ等により偏光が若干解消されるため、視野角によっては表示光が漏れてきてそれが見えるため等である。このため、液晶ディスプレイで映画などの暗い画面を映すと、「漆黒の闇」の表現が難しくなり、テレビなどの映像用途に液晶パネルを用いる場合の技術課題となっている。</ref>。 ; 低消費電力化 : 液晶パネルは消費電力の低さが優れているために電卓に使われはじめ、CRT(ブラウン管)ディスプレイとの比較でも画面サイズ当りの消費電力でも低く、21世紀初頭現在実用となっている中では低消費電力の表示装置である。また、電池駆動を行う携帯電子機器で使用される用途や大画面テレビなどの用途では、消費電力をさらに削減する要求も存在する<ref group="注">携帯機器では小型軽量化への要求と電池容量のトレードオフの関係が年々厳しくなっている事情があり、また、大画面の用途では、ブラウンTVの買い替え時により大きな画面の液晶TVが選ばれる傾向があり、液晶TVとプラズマTVの消費電力競争という背景もある。</ref>。 : バックライトを持つ液晶パネルの消費電力は、液晶を駆動するための電力よりも光源での消費電力が主な要素となる。一般的な透過型カラー液晶パネルでは、バックライトからの光量の大半が、偏光フィルタやカラーフィルタ、液晶を駆動するための金属配線などによって失われる。カラーフィルタを用いる液晶パネルの全面白表示での透過率は約5-10%に過ぎず、光量の90-95%は内部で失なわれる。液晶パネルの透過率を上げると共に、バックライトの発光効率の改善が求められる。 : また、携帯機器に使用される液晶パネルでは、正面方向だけに明瞭な表示をすれば良いものが多く、バックライトも正面方向にだけ光を放ってそれ以外には無駄に光を出さないことで低電力化が図られている。反対に据え置き式の映像機器に用いられる液晶パネルでは、バックライトができるだけ全方向に万遍なく光を放射しないと使用者の位置が制限されることになる。 : また、バックライトを使わない反射型液晶パネルでも、電池を電源とする携帯機器の用途では、液晶を駆動するわずかな消費電力ですら削減が求められる。このとき液晶は交流駆動されなければならず、表示内容が変わらない静止画であっても消費電力はゼロにはできない。この課題に対して、液晶配向に双安定性を持たせて電圧を印加しなくても液晶の表示を固定することができるメモリー性表示が開発されている。これは表示内容の書き換え時以外では電力を消費しないため、電子書籍端末などの表示装置として用いられている<ref group="注">原理は全く異なるが、メモリー性液晶表示機に似た動作が可能な物に[[電子ペーパー]]がある。</ref>。 : こういった消費電力の削減要求に対しては、発光効率のよいバックライトを選択するなどの工夫により、年ごとに液晶パネルの消費電力量は削減されている。 ; LED光源 : 光源に[[LED照明]]を使用することで、周囲の明るさにあわせて全体の表示輝度を調整したり、動画像に合わせて画面上の場所ごとの明るさを変更することにより、電力消費を抑えてコントラストや明暗のダイナミックレンジ<ref group="注">明暗のダイナミックレンジの向上とは、例えば闇夜の映像では真っ暗な画面が求められるため、光源も輝度を落とせばより黒がはっきりすることで、画面上の明暗の表現幅が広がることを云う。</ref>、動画追従性を向上させる「ローカルディミング」や「エリア制御」と呼ばれる工夫も試みられている<ref group="注">エリア制御の中には、部分的な明暗だけでなく色調まで変化させることで、例えば真っ赤なリンゴの背後のLEDでは赤色だけを発光させるといった制御を行うことで色純度を向上させるものが現れている。</ref>。 ; ドット落ち : 液晶パネルの構造は極めて繊細である。現在主流の薄膜トランジスタを利用するTFT液晶パネルでは、膨大な数の[[トランジスタ]]がガラス基板上に形成されている。トランジスタは異物混入に極めて弱く、数[[オングストローム]]程度の塵であっても動作不良を起こす。このため、ドット、またはサブドットを構成するトランジスタや関連回路に異常があると、一般に言う所の[[ドット落ち]]が発生する。現状ではパネル1枚当り2-3個程度のドット落ちを容認しないとパネル単価は10倍にも上昇するといわれており、メーカーは技術上の限界として顧客対応に苦慮している。その為、液晶パネルを使用した製品にはその旨の注意書きが書かれている。 ; 耐衝撃性 : 液晶パネルは薄いガラスでできている。このため、CRT(安全のために破損が許されず、厚いガラスを用いる必要があった)等と比べると、大画面を実現できるものの、逆に容易に割れて破損しやすい。しかし、種々のフィルムが表面に張ってあるため、割れた場合の危険性は低い。近年ノートパソコンなどの可搬性機器の破損例や、液晶テレビが一般家庭に浸透するに伴い幼児がいる家庭での破損例が多くなっている。そのため、画面それ自体に衝撃を与えないようにする工夫や、それ自体の頑丈さが求められるようになってきている<ref group="注">[[コレガ]]は2007年に衝撃に強い光沢硬化ガラス保護フィルタ付き液晶モニターを発売した。ASUS社の液晶モニターLS201はダイヤに近い9hの硬度をもち、[http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20071226_asus_ls201/ ボウガンで射撃されても鉄製の矢尻のほうが損傷する]ほどである。</ref>。なおデスクトップのパーソナルコンピューター用の液晶モニターの[[タッチパネル]]付き製品では、前面にタッチパネル用ガラスが装着されているためにセット全体としては衝撃に強い。また、ガラス基板でなくプラスチック基板を用いて耐衝撃性を高めることも検討されている。 ; 液晶配向のくせの固定化(擬似的な焼付け) : 液晶ディスプレイで同一画像を長期にわたって表示し続けた場合には、見かけ上発光型表示装置の焼付けと同じような現象が起きることがある。このような現象は、発光素子の焼付けのような外観を呈するので専門家でも焼付けと呼ぶことがあり、メーカーサポートなどでも焼付けとして扱う社もある。しかし、自発光デバイスではないため、液晶ディスプレイのこの現象は、CRTやPDPや有機ELや無機ELのような焼付け(発光素子の部分劣化)とは原理的に異なり、その意味で厳密には焼付けではない。液晶パネルメーカーでは、この現象の原因を、液晶の光シャッター機能の要である液晶配向にくせがつくこと、液晶材料中や配向膜中に残存したりそこに溶出する微量の不純物の影響などと考えており、液晶パネル部分の長期信頼性の問題として管理している。 ; バックライト寿命 : [[パーソナルコンピュータ|PC]]のディスプレイや液晶テレビに使用されている液晶パネルは、ほとんどがバックライトが必要な透過型である。このバックライトの光源としては冷陰極管 (CCFL) というごく細い蛍光管、あるいは[[発光ダイオード|LED]]が使用されている。冷陰極管やLEDは照明器具の蛍光灯等と同様に長期間使用するにつれて光度が低下する等劣化が避けられない。また、バックライトに用いる光源以外の光学部材の色調も長期間には変化することがある。その結果、画面全体や端の輝度が低下したり、色調が変わってくることがある。このような液晶モジュールの一部であるバックライトシステムのみの劣化は、原理的にはバックライトシステムを交換すれば回復するが、そのような交換はメーカーの修理としては通常は行われない<ref group="注">液晶モジュールの表示性能は、バックライトユニットの発光特性と組み合わせて設計されていて、液晶モジュールの品種だけの各種のバックライトを補修目的でそれだけで保有することが現実的でないこと、実際の作業の際にも、バックライトユニットの大きさは画面と同じ大きさであり、特に大型の液晶テレビなどではバックライトを輸送すること自体が本体の輸送と変わらないこと、液晶パネルとバックライトの間に異物(ホコリ)が進入すると表示欠陥につながり、設置場所での作業は大型になればそもそも難しいこと、バックライトが寿命となるような段階で、上記の費用をかけるだけの価値がその他の部分に残存している状況はデジタル機器では考えにくいこと、などのためである。なお、バックライトが冷陰極管を光源とするものの場合には、冷陰極間を点灯させるためのインバータ回路が動作不良となることもあり、外観上正常なのに画面が突然全く点灯しなくなるような故障ではその確率が高い。インバータ回路は、液晶モジュールとは別部品であることが多く、液晶モジュールの交換などに比べて安価に修理できることがある(なお、通電時に高電圧となる部位があり危険なので専門家に依頼すること)</ref>。一般に、バックライトの寿命は(輝度が半分になる点灯時間として規定することが多いがその場合でも)液晶パネルの他の部分に比べて短いことが多い。よって、バックライト寿命がモジュール寿命を決める面もあるため、バックライト部分を長寿命化するための開発も行われてきている。 ; 液晶の黄ばみ : 液晶が黄色く見えると液晶の黄ばみが一部で問題となることがあるが、今の技術で完全になくすことは出来ない。これはドット落ちと同じように容認しないとパネルの単価は跳ね上がるといわれている。こちらもメーカーは技術上の限界として顧客対応に苦慮しているが液晶の黄ばみについては注意書きはない。 <!--液晶プロジェクターの説明は[[液晶プロジェクタ]]で行った方が良いでしょう。--> <!--== 液晶プロジェクターの構造 == 装置としての液晶プロジェクターには、大きく分けて直視型とプロジェクタ型の2種類がある。 === 直視型 === 直視型とは、プロジェクション(投射)によって光学系を通して拡大表示したり、ビューファインダーとして光学系を通した像を観察する、といった光学系を用いて観察するものに対立する概念であり、液晶素子を光学系を用いずに直接視認するものをいう。 数量ではほとんどがモノクロの反射もしくは半透過型である(電卓、時計、家電製品等)。 TVやモニター等の高性能が求められるデバイスではカラー表示の透過型が使用される。また、携帯デバイスなど低消費電力が求められる用途で外光も利用する半透過型もしくは反射型のカラー表示が使用される。 === プロジェクタ型 === 液晶パネルに限らず、一般に投射光を用いるプロジェクタでは、フロントプロジェクションタイプとリアプロジェクションタイプの2つのタイプがある。画像または映像が投射されるスクリーンの面を含む平面を考え、その平面により仕切られる二つの半空間を考えると、リアプロジェクションタイプでは、観察する人のいる半空間とは別の半空間の側(スクリーンの背面側)がからスクリーンに光が投射され、スクリーンを透過した光が観察される。これに対し、フロントプロジェクションタイプでは、観察する人のいる半空間の側がからスクリーンに光が投射され、スクリーンで反射した光が観察される。 液晶パネルを用い投射光を生成する機構(プロジェクションエンジン)に用いられる技術には以下のようなものがある。 ; 透過型液晶プロジェクタ : 液晶パネルの後部からハロゲンランプなどで照射し、光学系を通して、スクリーンに描画するプロジェクタ。液晶パネルの画像表示エリア内に液晶を駆動するための配線を配置する必要があり、液晶パネルの画素の周囲に光が遮光される領域が生じる。このため、液晶パネルを透過する光の量が減る欠点がある(専門的には、画素の開口率が低い、という)。 ; 反射型液晶プロジェクタ : 駆動回路を作製したシリコン基板の上に液晶を配置することにより、画素の間に配線を配置する必要をなくして開口率を高めた[[LCOS]]と呼ばれる方法が注目を集めている{{要出典|date=2017年1月}}。 これらの液晶パネルの技術は、いずれもプロジェクションエンジン内部での投射光の生成機構であり、フロントプロジェクションタイプとリアプロジェクションタイプに共通して用いられる。 ; 現状 : 液晶プロジェクタに適した液晶パネルの要件は、表示容量(ドット数)が多く、パネルサイズが小さいことである。このため、大型基板によって生産するための高額な設備投資を必要とせず、半導体工程との工程上の親和性も高いことから、大型パネルの実現が難しい時期やコストが高い時期には大画面化のための有望であると考えられていた。しかし、技術的には、特にフロントプロジェクションタイプにおいて、高い表示コントラストを得るためには視環境の照明を調節又は消灯する必要があること、リアプロジェクションタイプでも、表示コントラストを得るためには視環境の照明のl調節が必要であること、良好な表示が得られる視野角が狭いこと、セットの奥行きが直視型よりも厚くなることなどによって、直視型の液晶ディスプレイやプラズマディスプレイなどのフラットパネルディスプレイの一般化に伴いその用途が限定されてきている。現状では、リアプロジェクションタイプは特に直視型ディスプレイと競合しており一時参入した企業が撤退している。フロントプロジェクションタイプの用途は、オフィスにおけるプレゼンテーション用途、家庭でのホームシアター用途、直視型では実現できない超大型映像用途などが主なものである。 --> == 多様な技術 == 液晶ディスプレイが多様な用途をカバーしてきた背景には、要求される光学的機能を実現するために、数多くの構成部品を組み合わせて液晶ディスプレイ自体が構成されてきた点を挙げることができる。 === 構成部品 === 液晶ディスプレイは、多数の構成部品により構成される。この構成部品の多さのために、細かな需要に合せた多様なバリエーションが生み出されている。そればかりか、この'''構成部品の多様さは、液晶ディスプレイの性能の進歩に大きく寄与'''してきた。液晶パネルの液晶部分に全く変更がなくても全体性能の改良が実現されるからである。一例として、透過型液晶ディスプレイの構成部品であるバックライトを挙げると、バックライトの光源の進歩により、色再現範囲(色域、color gamut)が大幅に改善されたり、消費電力が低下するといった性能改善が実現される。このように、'''液晶そのものの改良がなくとも、構成部品の技術進歩が液晶ディスプレイの進歩に取り込まれている'''。 === 構成部品により変わる表示特性 === また、液晶ディスプレイを構成する部品を選択することによって表示特性を用途に適合させることも行なわれている。その典型例が、'''光沢(グレア)表示'''と'''ノングレア(つや消し・マット)表示'''の選択である。この選択は、液晶ディスプレイの最もユーザー側に位置する部品(通常は偏光フィルム)の表面処理によって決定される。つまり、平滑な面を持ち光沢のある表面処理の偏光フィルムを採用すると光沢表示となり、散乱のある表面処理の偏光フィルムを採用するとノングレア表示となる。よって、写真画像や動画の鑑賞目的のために、色純度やコントラストの感覚的な品位を高めることができる光沢画面と、事務処理用に適する映り込みの少ないノングレア画面との用途別の作り分けが、'''偏光フィルムの選択のみ'''により行える<ref group="注">ノングレア表示では、外光が表面でわずかに反射する。このため映り込みの像が消失するものの、画面全体のコントラストを悪化させ、色純度を低下させる。これに対し、光沢表示では、コントラストが高く色純度の高い表示が可能であるものの、テキスト処理が主体のパソコン一般作業では、映り込みが表示に重なり疲労を増大させる欠点がある。なお、PDPにおいてノングレア処理のフィルムを表面に配置して映り込みの抑制が検討されたが、うまくいかなかった。厚いガラス等のために表示層から遠く離れている最表面の散乱が、表示内容にも影響してしまった。</ref>。 === 光学的機能の多様性 === 液晶パネルは、透過型液晶パネル、反射型液晶パネル、プロジェクター、フィールドシーケンシャルカラー表示、半透過型液晶ディスプレイといったさまざまな表示方式が実用化または創出されており、'''非常に柔軟な光学的構成'''で用いられ、構成部品の改良が技術的進歩に寄与している。 液晶パネルの光学的機能の多様性の一例を挙げるなら、液晶パネルでは、外光を利用することにより照明を設けずに低消費電力の表示を行うことも可能であるし、必要に応じて照明を設けて、自発光型の表示装置と類似の用途に用いることもできる点が好例である。それ自体が発光することはないため、光源との組合せの数だけ光学的機能にも多様性が生まれている。 液晶パネルに照明を設けない場合には、外光を反射板で反射させて往復で表示を行うことが多い(反射型液晶パネル)。反射型液晶パネルでは、多くの場合に裏側の偏光板の背面に適当な凹凸をもった金属などの反射板を配置する方式(セル外反射板方式)が主流で、安価な液晶表示部で背景が薄緑、表示が変化する部分がこの背景色と黒色との間で変化するものは主にこの方式である。一部には、裏面側には偏光板を設けず、液晶層の裏側の基板の液晶層側反射板を配置して、液晶層と反射板を近接させ手配置する方式('''セル内反射板方式''')も実用化されている。この場合、一枚の表側の偏光板にフィルム位相差板が併用され、液晶層を往復する光の偏光を制御することが多い。 また、液晶パネルに照明を設ける場合には、EL([[エレクトロ・ルミネッセンス]])、[[冷陰極管]]、[[発光ダイオード]]などの光源によって背面から照明するバックライトによる透過光を観察する透過型液晶パネルや、表示面側から'''フロントライト'''と呼ばれる照明装置により照明して反射光を観察する[[フロントライト]]付き反射型液晶パネルがある。照明を設けるのは、多くの場合、カラー表示を行う[[カラーフィルタ]]の吸収のために表示が暗くなる場合である。 そして、照明を設ける液晶パネルと、照明を用いない液晶パネルとの組み合わせるようなもの、つまり、透過型と反射型を組み合わせることにより、外光を反射しつつ、バックライトの照明も利用する'''半透過型液晶パネル'''もしくは'''半(微)反射型液晶パネル'''と呼ばれるものもある。これにより、夜間の周囲が暗いときから日中の直射日光下まで表示内容が確認できるパネルが開発できるため、家庭用ビデオカメラ、ディジタルスチルカメラなどに利用されている。このように、発光ディスプレイに近い照明を用いた表示と外光を利用した反射ディスプレイとしての表示を1つの表示パネルで両立するものは液晶以外の表示方式では知られておらず、液晶パネルに用いることができる光学的機能の多様性を示す好例といえる。 == 強誘電性液晶・反強誘電性液晶 == === 強誘電性液晶 === 誘電体である液晶物質は誘電分極という性質を持つ。スメクテック液晶でキラリティを持つ種類の物質は、長軸周りの分子回転の動きが束縛されるため永久双極子が並んだ状態となって電界がなくともが自発分極を起こす強誘電性を示すことがある。この代表的なものが、カイラル・スメクテックC相(又はキラル・スメクテックC相)と呼ばれる液晶である。 カイラル・スメクテックC相の液晶は通常は螺旋をとるが、2枚の基板間隔が縮められ螺旋ピッチ以下にまで狭くなると、螺旋構造がとれなくなり特定の2つの向きにのみダイレクタが揃う配列が許されるようになる。 このようなカイラル・スメクテックC相の液晶の層を1-2[[マイクロメートル]]の狭い幅の2枚の平行な電極基板で挟み込むと、正、又は負の電圧を電極間に加えることですべてのダイレクタの方向を揃えられ、さらに熱的揺らぎによっても容易には逆の方向まで変化しないので、電圧を加えなくとも配列状態が維持でき、無電力で表示が保存できる。 このような構造の液晶表示を表面安定化強誘電性液晶 (Surface Stabilized Ferroelectric Liquid Crystal, SSFLC) と呼び、一時期は実用化が進められたが、動作原理上、光の透過度で中間値が作れないことや狭い液晶層を大画面で作るのが容易ではなく、あまり利用は進まなかった。ただし、応答速度が他方式より2-3桁も早く、電界を切っても配列状態が残るので、フィールドシーケンシャルカラー表示や電子ペーパーとしての用途が見出されている。 === 反強誘電性液晶 === 強誘電性液晶は明状態と暗状態のそれぞれにするためには特定の極性電圧を加える必要があり、これは直流駆動(DC駆動)しか許されないことになる。直流駆動では画質の低下が避けられないので、できれば交流駆動(AC駆動)が望まれた。 2枚の基板間隔が広がり、螺旋構造が復活しても自発分極は層ごとで互いに打ち消しあって外部には現れず、無電界ではダイレクタが層ごとに交互に異なる向きに並んでいる。2枚の偏光フィルムを直交で用い、1枚の偏光軸を片方のダイレクタに合わせると、無電界ではほとんど遮蔽されるが、電極の電圧を正でも負でも加えると光が通るようになる。 しきい値以上の正電圧ですべての層で1方向にダイレクタが揃い、正と負の領域でのしきい値以下の電圧で層ごとに交互に1方向ずつ異なる無形にダイレクタが揃い、しきい値以上の負電圧ですべての層で正電圧とは逆向きの1方向にダイレクタが揃う。これら3つの他に中間の状態は取れないので反応が早い。 また、これまでの強誘電性液晶や反強誘電性液晶ではヒステリシス特性があったが、中間調表示が可能な無しきい値反強誘電性液晶 (Threshold-less Anti-Ferroelectric Liquid Crystal, TL-AFLC) が開発されている<ref name="液晶がわかる本"/>。 == 反射型と半透過型 == 反射型は液晶が表示器として使用され始めた頃からの比較的古い技術である。外光を反射することで表示を行う反射型液晶表示パネルは、透過型のようにバックライトを必要としないため、現在も簡易な表示に多用されている。最も代表的な反射型の液晶表示はセグメント表示によるデジタル時計である。反射型でも、フロントライトと呼ばれる光源を液晶表面より手前側に備えることで、外光の無い暗所でも見えるように工夫したものがある。 これに対し、半透過型は、反射・透過両用型、つまり、外光による反射光の表示と、背面のバックライトによる透過光による表示とを組み合わせるものである。反射型でのフロントライトと同様に、暗所ではバックライトを使い、明るい場所ではライトを消すことで電力消費を抑えることができる。 反射型や半透過型は、外光が強い場合に視認性が低下するという透過型の欠点を解消できる利点がある。特に直射日光が差し込む環境などでの視認性は、その直射日光下の周囲の明るさに順応して観察者の目が明るさを感じにくくなることが影響する。透過型ではその観察者の目に表示面を明るく感じさせるためには強力なバックライトが必要になる。これに対し、外光に比例した反射光を利用する反射型および半透過型では、なんらエネルギー消費を増やさずとも、表示面を明るく感じさせることかでき、さらに外光に比例して反射光が増加するというある種の自動調整も実現する。 反射型と半透過型では液晶層の背面に反射板が置かれている。半透過型ではその反射板が半透過性の反射板とされたり、部分的に背面からの光を通過させる領域を設けて光透過性を示す反射板とされる。反射型と半透過型ともに、反射板の位置にはさらにバリエーションがあり、液晶層の背面側基板のさらに背面側のものと、前側(液晶側)のものとがある。旧来の反射型や半透過型は前者であるが、近年のアクティブ素子を利用するものでは後者も採用されている。後者は、背面側基板の厚みが表示に悪影響を及ぼさないため、高精細な表示が可能である。この場合、背面側基板はアレイ基板とされる。 特にアクティブ素子を利用する反射型や半透過型ではアレイ側の配線が不透明でも開口率に影響しにくい点で、透過型とは異なっている。つまり、反射型では、反射性の(サブ)画素電極を金属配線やアクティブ素子の上に形成した絶縁膜の上に構築することで金属配線やアクティブ素子などの非透過性要素が開口率に影響しないようにできる<ref name="液晶がわかる本"/>。また、半透過型でも、反射部分を非透過性要素に重ねて配置することが可能である。 2000年頃には、携帯電話用としてカラー表示のできる反射型TFT液晶が多用された。ところが、表示コンテンツの多様化が進展すると画質に不満が生じた。2002年頃に携帯電話にカメラ付き機種が登場すると、特に表示画面の高画質化が求められ、反射型TFT液晶に代わり半透過型TFT液晶が採用されるようになった。それ以降、ワンセグや動画再生機能などに対応した機種などのさらなる高画質化要求に応じ、透過型TFTと半透過型TFTが使い分けられている<ref>トランジスタ技術編集部編 『小型液晶ディスプレイの選び方と使い方』、CQ出版社、2006年5月15日初版発行、ISBN 4789841219</ref>。反射型は低消費電力であるため、電話機以外でも携帯用途での利用が再び進んでいる<ref>『参加者激減のSID』日経エレクトロニクス2009年6月29日号</ref>。 [[Image:LCD Segments-Pixels.png|thumb|200px|right|セグメント表示の例]] === セグメント表示 === セグメント表示の身近な例では、電卓に多用されている8の字によって数字を表示する、[[7セグメントディスプレイ]]が挙げられる。このように表示対象をいくつかの小さい領域である「セグメント」に分割し、その領域毎に外部から所望の電圧を印加するものを、セグメント表示と呼ぶ。 どのセグメントに[[電圧]]をかけるかを適宜[[制御]]すれば、[[数字]]の0 - 9等を表示し分けることができる。数字だけでなく擬似的な[[アルファベット]]も16セグメント程度で1文字を表すものがあり、各種電気機器の動作表示部などでは[[ピクトグラム]]のような簡単なマークもセグメントによって表される。セグメント数が少なければ'''スタティック駆動'''されるが、[[電卓]]のようにセグメント数が多くなると'''ダイナミック駆動'''(人間の目で判断できないほど高速で表示を順番に切り替える方式)される。 セグメント表示の多くは中間調を持たず明暗の2つの状態で表示されているが、[[電池]]が消耗した電卓などで駆動電圧が不十分になると、表示が薄くなり、中間調のような表示が起きる。 == その他 == === 液晶テレビでのコスト === 液晶テレビでは、液晶パネルは製造原価の6割から7割を占める重要な部分である。 === 用途 === <gallery> ファイル:Powermac g4 lcd.png|[[Mac (コンピュータ)|Mac]]の液晶モニタ ファイル:Pentax-istD S.jpg|デジタルカメラのディスプレイ File:JRE-Series-E235 Inside Digital-Signage.jpg|[[山手線]]運行情報画面 ファイル:MS-21 cockpit mock up Beltyukov.jpg|航空機の[[グラスコックピット]] ファイル:US Navy 031125-N-0119G-002 Operations Specialist 1st Class Derrick L. Johnston from Meadville, Pa., (left) tracks interceptions of aircraft.jpg|軍艦の[[戦闘指揮所]] </gallery> ==脚注== === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連文献== *{{Cite journal|和書|author=木村宗弘|title=ディスプレイの基礎(1) 液晶ディスプレイの基礎|publisher=映像情報メディア学会|journal=映像情報メディア学会誌|date=2013|volume=67|issue=7|pages=578-583|doi=10.3169/itej.67.578}} == 関連項目 == {{commonscat|Liquid crystal displays}} * [[映像機器]] ** [[薄型テレビ]] - [[液晶プロジェクタ]] * [[ディスプレイデバイス]] * [[ファインダー]] * [[ダイナミックコントラスト比]] * [[高精細度テレビジョン放送|HDTV]] * [[ドットマトリクス]] * [[HDMI]] * [[VESA]] - [[The Society for Information Display]](SID:世界最大のディスプレイ学会) * [[日本液晶学会]] * [[スタンフォード・ロバート・オブシンスキー]] == 外部リンク == * [http://www.sharp.co.jp/products/lcd/tech/index.html 液晶の世界] シャープ公式サイト内 * {{Kotobank|2=}} {{Normdaten}} {{映像出力機器}} {{液晶}} {{DEFAULTSORT:えきしようていすふれい}} [[Category:ディスプレイデバイス]] [[Category:光学]] [[Category:光学機器]] [[Category:液晶]] [[Category:ディスプレイ技術]] [[Category:ハードウェア]] [[Category:パソコンの周辺機器]]
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X68000
X68000(エックス ろくまんはっせん)は、1987年(昭和62年)3月28日にシャープが発売したパーソナルコンピュータである。なお以下では、その初代に引き続く、1987年発売のX68000(CZ-600)シリーズとして現在扱われている製品関連の他、1993年(平成5年)発売のX68030(CZ-500/CZ-300)シリーズについても述べる。 「パソコンテレビX1」を送り出したシャープのテレビ事業部による後継機である。略称はX68k、ペケロク、ロクハチ、ロッパー、ペケロッパなど。X68030シリーズと併せ、X680x0と表記されることもあった。メーカーのシャープは「パーソナルワークステーション」と称した。 最大6万5536色を表示できる高いグラフィックス性能とシンセサイザーに匹敵する音楽性能から、1980年代後半から1990年代前半にかけて、ホビーパソコンの一角を担った。日本のホビーパソコンCPUにモトローラのMC68000を採用した機種は、他に発売されなかった。販売台数は1991年9月の時点で13万台。 標準のオペレーティングシステム(以下OS)だったCUIのHuman68k、およびGUIのSX-Windowは、後にユーザーコミュニティに対してフリーで公開された。 2015年には、内部構造や回路図などを収録した「サービスマニュアル」が公開された。 初代機のX68000は、発売前年の1986年(昭和61年)に発表された。開発は、パソコンテレビ「X1」シリーズを開発した、シャープ栃木のテレビ事業部。ソフトウェア・ハードウェア共に「X1」シリーズとの互換性は一部の周辺機器を除いてないが、実質上の後継機種である。MZシリーズをリリースし、後のMebiusブランドパソコンの元となった産業機器事業部(奈良県大和郡山市)は関わっていない。 初めて発表されたのは、1986年(昭和61年)10月2日 - 7日に開催されたエレクトロニクスショー'86(後のCEATEC JAPAN)。シャープブースの一角に展示され、デジタイズされた女性歌手荻野目洋子の6万5,536色画像と「グラデュース自走」と銘打たれた『グラディウス』の実動画面、そして画面切替によるチェス盤の上をあらかじめレイトレーシングされた玉が跳ねるといったデモンストレーションが行われた。展示画面には「新開発 16ビット パーソナルワークステーション X68000」と書かれた絵文字と南国をイメージした背景が表示されていた。 コンパニオンによるデモンストレーションは、「このパソコン、何と喋るんです」のナレーションに答えてX68000が「早く紹介して下さいよ」とADPCMで発声するもので、その後ハードウェアの特徴と構成が紹介されるというものだった。後述の「マンハッタンシェイプ」はこの時点で名称が確定しており、デモンストレーションでも紹介された。 当時、日本で68000系を採用したパーソナルコンピュータはほとんど前例がなく、業務用のEWSと誤解した人も多かったため、会場ではそれほど大きな注目は集めなかった。MC68000採用の理由は、メモリ空間が16MBと大きいことと、「OSがのっかりやすい」ことだった。当時、日本の電機メーカーの間で68000系MPUを採用する独自のEWSを開発・発売するのが一つの流行になっていた背景もあった。 その後、『Oh!MZ』誌を始め、各パソコン雑誌にて取り上げられた事により認知が高まり、次いでシャープ市ヶ谷のエルムホールにて九十九電機と協賛したお披露目が行われた(全国各地で行われたという説もあるが、詳細は不明)。内容はラヴェルのボレロをFM音源で再生しつつ、デジタイズされた画面を次々と「X1」シリーズ用のHDDユニットより読み込んで表示させるというものだった。また、『グラディウス』のデモについてはビックバイパーだけがカーソルキーの操作に合わせて可動し画面内を飛んでいるというものに変わった。 発表から発売まで約5カ月空いたため、発売前から一部の店舗にデモ機が置かれた。この時点で『グラディウス』、アセンブラ、X68000のテーマ等の同梱ソフトウェアは揃っていたが、本当に発売できるのか、あるいは発表された価格を実現できるのかについて懐疑的に見る向きも多かった。実際に発売されたのは、1987年3月下旬である。出荷数は少なく、実際に購入者の元に初期ロットが届けられたのを見て、突発的に注文する顧客もいた。 その結果、シャープはバックオーダーを抱えることとなり、好調な滑り出しとなった。 当初はインテル系プロセッサを始め、様々なプロセッサの搭載が検討されていたとされるが、最終的にはMacintoshと同じMC68000が採用され、日本のメーカーによる最初にして最後の68000系個人向けパソコンとなった。 当時としては大容量を誇るVRAMと強力なグラフィックコントローラ群によって実現された65,536色の多色グラフィックとスプライト機能、FM音源8チャンネル+ADPCM1チャンネル、1MBのメインメモリ(最大12MB)等の周辺回路により、総合的に競合製品を凌駕するホビーマシンとしての性能を備えていた。その象徴となるのが標準添付アプリケーションの一つでもある、当時はゲームコンソールでも多くの要素が省略されて移植されていた『グラディウス』の存在である。 価格は36万9000円で、購入資金を貯めるためアルバイトに励む学生ら若者も多かった。実売価格は40万円程度で発売された。 また、「5年間はハードの基本仕様を変えない」という方針が当初から決められていた。 これらの機能を実現するための膨大な回路の実装には積極的にカスタムLSIが採用された。初代機ではそれぞれビーナス1・ビーナス2(CRTコントロール)、VSOP(ビデオコントローラー)、シシリアン(I/Oコントローラー)、ET(メモリーコントローラー)、シンシア・シンシアJr.(スプライトコントロール)のコードネームが付けられていたものが使われた。試作機段階ではこれらの機能を全て標準ロジックICで実装したとされ、その容積は19インチラック1本分に上ったとされている。 こうした設計から、ホビー向けマシンとしてその機能を生かしたソフトウェアやハードウェアなどを自作するマニア層を中心に、当時としては安価なコンピュータグラフィックス(CG)制作機として映像作品を創作する者もいた。同様に、ゲームソフトウェアも多く作成され、アーケードゲームの移植も多数リリースされたことから、コアなゲームユーザーなどにも支持されていた。 このように、ビジュアル的なパフォーマンスでは強烈なインパクトを示した機体だったが、実務面では既にPC-9800シリーズがビジネス向けパソコンの主流として納まっていた背景もあり、オフィス系(実務・応用)アプリケーションソフトへの対応状況などは比例して芳しくなかった。その一方で教育・組み込み向けなどへの営業展開もなされていた。一部のアーケード(業務)用ゲーム機の筐体に組み込まれたり、PROシリーズなどが業務用組込みシステムの開発用途に着目され、Forks社などからX68000での動作を前提にしたOS-9環境で動作するLANボードなどの周辺機器が発売されたこともある。通勤電車の行き先電光板の制御用として使われた実例もあった。教育分野では、ゲームクリエイターを育成するために、専門学校の実習機としても採用されていた。 プログラミング環境の整備に力が入れられており、専用のC言語コンパイラが安価な価格で提供された。標準で付属しているBASICであるX-BASICが、BASICとしては非常に独特の、C言語風味の言語仕様であり、X-BASICからC言語への変換ツールや、プログラミング上問題になりやすい差異について検出する構文検査ツールなどが提供されるなど、BASICからCへのユーザーの移行が考えられていた。また、システムコール及びハードウェア構成、それぞれのハードウェアへの機械語レベルでの直接アクセスの方法とそれぞれのペリフェラルが持つレジスタの意味と動作の全てが公開された。 やがて、動作クロック16MHzの高速化機種であるX68000 XVI(エクシヴィ)発売を経て、X68030が発売された。実質的な最終機種である同機が発売された1993年頃には、DOS/VやMS-Windows 3.1などのOSが搭載されたPC/AT互換機やCD-ROMドライブユニットがそれぞれ普及し始めていた。しかし、本シリーズはソフトウェアのメディア供給が依然としてフロッピーディスクのみで、その大半が5.25インチの2HDだった。それを打開するため、SCSIのCD-ROMドライバがサードパーティーやフリーソフトで開発された。ただし、一部のCD-ROMドライブでは正常動作しないなど制約も多かった。X68000シリーズ対応のCD-ROMを媒体としたソフトウェアもわずかながら発売された。またこの頃には、国産機としては初めてMPEG(MPEG-1)による動画再生(MPEGエンコーダボードを拡張スロットに装着し、OSはOS-9/X68030にてVideo CDの視聴)を実現している。 キャッチコピーは「夢を超えた」(初代)、「アートの領域へ」(ACE)、「夢の続きを語ろう」(EXPERT / PRO)、「父のパソコンを越えろ」(XVI)、「夢の、頂きへ」(X68030)など。イメージキャラクターはツタンカーメン(X68000)、火の鳥(X68030)など。 なお、当時のシャープ顧問だった宮永好道によると、シャープが本機を出す際に一番気にしていたのは、「他のやらない事をする」社風のソニーの出方だったという。これは杞憂に終わったが、後にソニーはVAIOシリーズでその持ち味を出して来た、と自著で語っている。 X68000の筐体は「マンハッタンシェイプ」と称する樹脂製の左右分割ツインタワー型デザインとなっており、片側には主にオートイジェクトが可能な5.25インチ2HD対応のフロッピーディスクドライブ(FDD)2基と電源ユニットを搭載。ACE以降の機種では、更にハードディスクドライブ(HDD)の取り付けスペースが設けられており、HDD搭載モデルではそこに取付金具とともに搭載されている。反対側のタワーにはメインボードと共に拡張I/Oスロットを2基搭載した。2つのタワーの間にはポップアップハンドルを内蔵し、底部が連結されてそこに各種I/Oポートが実装されるサブ基板が搭載されていた。 この特徴的なCZ-600CEのデザインは純正のセットで1987年度のグッドデザイン賞に選ばれている。このデザインは初代から、後継機のACE・EXPERT (II)・SUPERに受け継がれた。高速化されたXVI、X68030では基本的なシルエットはそのままに、縦置きの10MHz機よりも角の強調されたデザインとなっている。 マンハッタンシェイプという名前は、当時アメリカ合衆国ニューヨーク市のマンハッタン島に存在したワールドトレードセンターのツインタワーの景観を連想させる事から名付けられた。なお、このツインタワーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件において倒壊している。 付属の専用マウスは上部の蓋を外すとトラックボールとしても使用可能。マウス端子は本体に1つ、専用キーボードに2つあった。PROシリーズはこれとは異なるPC然とした横置き筐体で、他モデルとデザインの異なる専用キーボード及びX1turboZ付属のものと同じマウスが付属し、拡張I/Oスロットを4基搭載したものとなっている。価格も縦置きのものと比較し安価に抑えられ、拡張性を強化した廉価版としての側面を持っていたが、従来の縦置きシリーズとは回路設計がやや異なる部分があり、SCSIボードの「Mach-2」など、非対応とされたハードウェアも少なからずあった。 XVI並びにX68030でラインナップされたCompactシリーズはオートイジェクトが可能な3.5インチFDDを搭載、プラスチック製で縦置きであるが非ツインタワー型で、専用キーボードはテンキーを省いたもの、マウスはPROと同じものが付属した。 ボディ色はグレーまたはブラック、SUPER以降はチタンブラックのみとなった。「X68000」のバッジは金色、Compactでは白色印刷、「X68030」のバッジは赤。 特徴ある外観の為、2016年公開のアニメーション映画『君の名は。』に描かれていることをシャープ公式ツイッターがツイート。その後、新海誠監督本人も劇中の画像付きで該当シーンをツイートしている。 CPUには当時のMacintoshなどと同じモトローラのMC68000を採用した。動作クロック周波数は10MHzで、無印、ACE、EXPERT、SUPERまではセカンドソースの日立製作所製HD68HC000が使用された。当時CMOS版のMC68000を生産していたのは日立だけだった。 搭載されたMC68000は、外部データバスが16ビット幅だったためモトローラは16ビットCPUと位置付けていたが、内部設計は32ビットであり、直交性の高い命令セットを特徴とした、同時代のCPUとしてはアセンブリ言語が扱いやすいアーキテクチャーだった。 X68000にはFPUとしてMC68881が使用可能であり、拡張スロットに装着するものが純正品としてシャープから発売されていた。 毎年高速化されていく他機種を横目に、4年を経てようやく、基本性能はそのままでクロック周波数が高速化されたXVIが登場した。このXVIと次のCompact XVIではモトローラ社製のMC68000が使用され、クロック周波数が16/10MHzの選択式になった。またFPUはメイン基板に専用ソケットが搭載された。 なおXVIの発売をきっかけとして従来の10MHz機やXVI・Compact XVIのクロック周波数を高速化する改造がBBSや雑誌で公開され、ユーザーの間で流行した。 MPUは、Compact以外はソケットに実装されていたため交換が容易で、HD68HC000搭載機ではモトローラ純正MC68000に交換も行われた。さらに、変換基板を自作してのMC68020搭載を試みた者もいた他、製品としても、倍速ボード、MC68EC030アクセラレータなどもリリースされている。 メモリー空間は、MC68000が利用可能な16MBのうち、主記憶空間として12MBを使用することができた。この主記憶領域はリニアアドレシングが可能であり、また、領域を指定しスーパーバイザー領域とする事で、アプリケーション側からアクセス禁止にすることも可能だった。 標準では、初代・ACE・PRO・PRO IIは1MB、その他は2MBを搭載していた。シャープからは拡張スロットに差すタイプの4MBの拡張メモリーボードが発売されていたが、後に他社から8MB以上のメモリーを装備したものが発売された。X68000のメインメモリーは拡張スロットを介したものを含め、すべてノーウェイトアクセスであるが、動作クロックの上昇したXVI・Compact XVI以降の機種では、10MHz動作の汎用拡張スロット経由でのノーウェイトアクセスは不可能だったため、本体内部に8MBまで増設可能なメモリーソケットも用意された。ただし、この場合12MBまで増設するには8MB以降は拡張スロットによる増設となるため、この4MBをアクセスする場合は多大なウェイトが挿入されることとなり、これによる速度低下を回避するため、この領域をRAMディスクとして使用するなどして、この範囲にコードが置かれることを回避する使用法もあった。 X68000は全機種でメモリーバックアップ機能を持つ16KBのSRAMを内蔵し、メモリースイッチの設定を保存するほか、RAMディスクとしての使用やSRAMからのシステム起動も可能だった。ただし、SRAM領域は通常は書き込み禁止に設定されており、プログラムの暴走など万一の事態でも書き換わる事はまず無いとされたが、PRO系の機種ではSRAM回りの設計に難があり、通常使用でもSRAMに書き込まれているデータが破損することがあった。一方、このSRAM領域を利用して潜伏・感染するコンピュータウイルスも存在した。 グラフィック画面表示用のVRAM(フレームバッファ)は512KBを搭載している。これを使用して、256×256または512×512×最大16ビット(65,536色)、768×512×最大4ビット(16色)の表示が可能である。また、CRTCのレジスタを直接操作することにより、1,024×768×4ビットの表示や640×400に近い解像度、384×512などでの表示も可能である。 グラフィックVRAMへのアクセスには、領域として全2MB(1,024ドット×1,024ライン×16ビット)が予約されているが、実際に搭載されている512KBのVRAMは、画面モードによらず常に1ワード(16ビット)=1ピクセルとなるように512KB - 2MBのメモリ空間に配置される。すなわち、16色ならば、2MBのメモリ空間の下位4ビットが有効になり、256色表示ならば、1MBの領域の下位8ビット(残り1MBの領域は無効)、65,536色表示であれば先頭の512KBの領域で全16ビットが有効になるという仕組みである。これによりピクセル単位のカラー操作を容易なものとしていた反面、多数のピクセルを書き換える際にアクセス速度の点では不利だったが、のちにデータ転送時のみグラフィックVRAMの構成を切り換えて隙間なしでデータ転送するテクニックが登場した。 また、グラフィック画面だけで独立した面(プレーン)を最大4プレーン(512x512ドット 16色時)持つことができた。16色モード時には1,024×1,024ドット1プレーンまたは512×512ドット4プレーン、256色モード時には512×512ドット2プレーン、65,536色モード時には512×512ドット1プレーンという構成で、複数のプレーンを重ねあわせて表示することができる他、半透明機能があった。また、それぞれ独立に上下左右がつながった球面スクロールが可能となっている。 同時代のパーソナルコンピュータとして標準的な環境での解像度は640×400ドット16色であり、この表示に必要なVRAMは128KB弱であることからも、X68000の圧倒的な画像処理能力がうかがえる。X68000の65,536色は下表の形式の16ビットによって構成されており、RGB各5ビットによる32768色と輝度ビット(半段階の明るさ調整)によって実現されている。 (G:緑、R:赤、B:青、I:高輝度) グラフィック画面は、上記の他、高速クリアなどの画面制御機能はあったものの、基本的にはMPUの直接制御によって図形描画が行われた。同時代の主な16ビット以上のパーソナルコンピュータで、グラフィックディスプレイコントローラーを採用しラインや多角形、塗り潰しなどの簡易的な描画機能が搭載されていた点とは対照的である。これは当時、安価なグラフィックディスプレイコントローラーのハードウェア描画機能がまだ貧弱であり、速度的にも充分なものでなく、かつ実装及びプログラミング上の制約が大きかったためと推測される。後にPC-9800シリーズでもこの問題から、グラフィックチャージャーと称してX68000同様のピクセル演算機能を実現して、性能の向上を図っている。 いわゆるキャラクタ単位のテキスト画面は用意されず、グラフィック面とは別に512KBのビットマップVRAMが用意されていた。 X68000のテキスト面はプレーンドピクセル方式のビットマッププレーンであり、同時代の標準的なパーソナルコンピュータのグラフィック画面に相当する情報量と表現力を持っていた。ビットマップによるテキスト表示は、その表現力と引き換えに、キャラクタ型VRAMと比較すると負荷が重い(遅い)ものであるが、X68000のテキストVRAMには同時プレーンアクセス機能やラスタコピー機能、ビットマスク機能などの画面制御機能が用意されており、CPUの処理を大幅に軽減することが可能となっていたため、十分な速度を得ることができた。 テキストVRAMは4プレーン存在するが、通常、そのうち2プレーンはマウスカーソルとソフトウェアキーボード、電卓の表示に使用されるため、テキスト表示は2プレーンで行われることが多い。 テキスト表示用にフォントパターンをROMに搭載している。このCGROMに搭載されている文字種は、16×16ドットのJIS第1/2水準漢字に加え、24×24ドット、12×12ドットのJIS第1/2水準漢字(非漢字752文字、第1水準漢字3,008文字、第2水準漢字3,478文字)である。このほか、ビットマッププレーンを生かし、ユーザー定義のフォントを使用することも可能だった。 通常の16ドットフォントを使用した際のテキスト表示は半角で96文字×32行であるが、VRAM自体は1,024×1,024ドットの広さを持っており、これを利用してSX-Window Ver.3.xでは起動時オプションの指定で最大1,024×848(インターレース)での表示が(隠し機能的に)可能なほか、CRTCのレジスタ操作と入力周波数の物理的な変更により、1,024×1,024ドットのフルスクリーン表示なども実現されている。なお、インターレース表示での高解像度画面は、長残光CRTを使用しないかぎり、ちらつきが著しく実用に耐えない。そのため、X68000 Compact XVIやX68030ではSX-Windowの640×480表示用に追加搭載された50MHzのクロックオシレータをより高周波数のもの、具体的には80MHzや100MHzのものに交換し、高解像度対応のCRTと組み合わせてSX-Windowの高解像度表示を実用的なものとすることが『Oh!X』誌で紹介され、一部でこの改造が流行した。 このテキスト面は前述の画面制御機能が使用できるほか、1ワードで最大16ドット、ロングワードで32ドットの書き換えが可能となるため、用途によってはテキスト画面をグラフィック画面代わりに使用し、他機種からのゲーム等の移植にも使われた。ビジュアルシェルやSX-WindowもテキストVRAMで実現されている。 その他には、16ドット×16ラインで65,536色中16色、同時表示枚数128枚の「スプライト機能」と「BG面」を持っている。これは、特にアクションゲームやシューティングゲームの作成に非常に有効だった。スプライトとBGのパターンデータは共用であり、VRAMとは独立した16KBの高速SRAMを使用していた。 スプライト以外の、これらの全ての画面を合わせると、最大で7枚(グラフィック4枚+テキスト1枚+BG2枚)もの独立スクロール機能付きの画面をハードウェアで合成表示することが可能だった。 他には、パソコンとしては珍しく「走査線(ラスタ)割り込み」を可能としていた。なお、ライバルと目されたFM TOWNSは、HSYNC(水平同期信号)を検出することは可能だったが、それを割り込みトリガには出来なかったため、一般にラスター割り込みを使うエフェクトは、他の手段で再現していた。 また、専用端子へ接続するカラーイメージユニットを使用することにより、当時としては先進的な、ビデオ信号のキャプチャが可能だった。 X1のパソコンテレビの機能も受け継いでおり、テレビチューナー付の純正の専用モニタでは、チャンネル操作やスーパーインポーズなどのテレビコントロールも可能だった。 サウンド機能として、4オペレータ、ステレオ最大8音同時発声できるFM音源 (YM2151)とモノラル4bitで3.9、5.2、7.8、10.4、15.6kHzの周波数でサンプリングできるADPCM(沖電気製MSM6258)を標準で搭載した。YM2151の定格入力周波数は3.58MHzであるが、本機ではX1に合わせ4MHzが入力されており、CZ-8FB03(New Z-BASIC)のMMLでは容量を除きX-BASICのMMLと互換性があった。チップの定格と異なる為、アーケードゲームの移植の際、音程がずれたまま発売されている物もある。デモンストレーションでは「喋る」という形で音声の利用を前提とした留守番電話用のチップであるMSM6258はチップの出力はモノラルであったが、YM2151と合わせ、左、中央、右に出力を定位させることができた。 ADPCM(適応的差分パルス符号変調)は、サンプリング周波数こそ変えられ、前述のように定位する場所は指定できたものの、出力音量は固定であり、音程と呼べるほどの音程の指定もできず、音質も楽音を前提としたチップと比較して高いとは言えなかった。ゲームソフトなどでは効果音などとしても使われることから始まり、シンセサイザ然としたFM音源を補う形で同期再生し、パーカッションなどとしての利用や、更にアタックを左右に振り、リリース部分を中央で再生することで5方向に定位して聞こえるような実装の工夫が行われた。また、ソフトウェア的な合成により発声数を増やす試みや、更にソフトウェア合成時に音程、音量を調整できるMPCM.Xや、同様の機能を追加したPCM8A.Xなど、個々にデータが必要だった音量、音程指定という弱点についても本体の高速化などもあり、ある程度の実用性をもって補われた。前述のとおり、MSM6258の出力はモノラルであるため、発声数を合成によって確保した場合には三か所のどこかに全ての出力が定位する形となる。また、ADPCM部のステレオ再生への試みとしては、左右への音声出力を高速にに切り替える手法、片方をADPCM、片方をOPMによる再現によって実現する手法などが発表されている。 リニアPCMを扱うことはできないが、ハードウェアとして扱えるようにしたボードや、FM音源に対し矩形波の近似波形を音色として設定しチップの応答速度限界付近の出力を制御し、DACとして利用することで、PCMとして利用するソフトウェア等も存在している。 同時期のPCの標準音源としてはリッチな部類であり、アーケードゲームで採用例の多かったYM2151とADPCMの構成はゲームソフトウェアでの高い再現性を実現すると共に、後述の音源ドライバの存在などによってユーザーも多くのデータを作成するに至った。またX1と異なり他の実装に近い(オクターブ指定など読み替えれば済む程度の)X-BASICのMMLは雑誌への音楽プログラムの投稿や掲載にも繋がっている。 それ以外にも外部音源モジュールを制御するMIDIボードなども純正ハードウェアとして発売されており、ゲームソフトでは外部モジュールを使用したリッチなBGMを実現したものや、本体側の音源と同期演奏するようなものもあった。後述のようにそれらを活用するツールやドライバの類も充実することとなった。 他には本体の電源を制御する機能がついており、ソフト上から時間を指定して電源をON/OFFすることが出来た。このため、現在のPC/AT互換機でのATX/BTX筐体のように、前面の電源スイッチとは別に背面に主電源スイッチがあった(Compact / PRO / PRO IIを除く)。さらに正面電源スイッチのほかに背面にリモート電源端子があり、マグネットコイルリレーなどの外部スイッチより起動することも可能だった。また、4チャンネルのDMAも搭載していた。 キーボードは80C51を内蔵したシリアル制御で、キーボードの特定のキーに内蔵されたLEDをソフトウェア的に制御することも可能だった。 本体の背面には10MHz動作の汎用拡張スロットが用意され、各種拡張カードや増設メモリカードなどの搭載が可能だった。 ジョイスティックポートは同時代に標準的となっていたD-sub9ピンのATARI規格準拠のものであり、電源ピンを持つ、MSXなどと同じピンアサインに変更された。このジョイスティックポートは縦型の機種では本体前面と背面に1ポートずつ、PRO系では前面に2ポート設置されていた。プリンターはセントロニクス仕様準拠のパラレルポートで、同時代の一般的なPC-9800シリーズのプリンターポートがそうだったように、入力はBusy信号のみの、事実上出力のみに特化した仕様のものが実装されていた。コネクタはX1同様のMIL-C-83503に準拠した俗に言うMILタイプ圧接コネクタだった。さらに、RS-232C上位規格のRS-232Eに準拠したシリアルポート、FDDの増設端子などのコネクタも標準搭載した。 また初代機からSASI相当のハードディスクドライブ(HDD)増設端子を備えており、純正のX1turbo用増設ドライブの他、PC-9801用のSASIハードディスクを流用できた他、後に有志が公開したドライバによってSCSIとして使用することもできた。 HDD増設端子はX68000 SUPERからはSCSI端子に変更された。ACE以降は本体内にHDDを内蔵するスペースがあり、マウンタ等は設置されていないものの、保守部品として別途入手し工作することで内蔵することが可能であった。また、拡張SCSIインターフェイスは内蔵インターフェイスとハードウェア的には別の実装になっていることから、ドライバなどを除けば直接ハードウェアを制御するソフトウェアは少なく、純正ボードと全く異なるハードウェアであるMach-2/Mach2pなども、ROM上のソフトウェアがその差異を吸収している。便宜上、拡張ボード、内蔵デバイスと検索されるため、拡張ボードを使用した場合は内蔵デバイスが無効になる。これらをソフトウェア側で別IDを与え、併用するTwoSCSIというソフトウェアも開発された。 SCSI機器はSCSI端子を持つX68000に接続して利用できるはずだが、ある一時期に発売されたSCSI機器はX68000に接続しても認識できない問題が少なくなかった。この問題には、終端抵抗の有無(SCSI機器末端の終端抵抗を取り外すことで動作する機器も存在した)といった電気的特性の他、NECが発売していたPC-9801-55ボードや同時期のPC-9800シリーズ本体内蔵SCSIには1台目SCSI機器のベンダID先頭3文字がNECでないと起動しない制限、俗に言う「NECチェックの巻き添え」に起因するものがあり、パソコン通信を中心にSCSI機器動作確認情報の交換が行われていた。 初代機からX68000 XVI(PROを除く)までは立体視端子(STEREOSCOPIC端子)も装備されていたが、対応ソフトは電波新聞社から発売されたセガの『ファンタジーゾーン』のみで、利用するための専用ハードウェアが発売されることはなく、満開製作所がファミリーコンピュータ用「3D SYSTEM」をX68000の立体視端子に接続するためのアダプタセット(立体視端子を持たないPROやCompact、X68030にも対応)を発売するだけにとどまった。なお『ファンタジーゾーン』が発売された時には満開製作所のアダプタは発売されておらず、電波新聞社発行のマイコンBASICマガジン等でアダプターの自作が紹介された。 また、拡張カードを自作・試作するためのユニバーサルカードが、サンハヤト等から発売されていた。またX68000の拡張カードの仕様はPC-9801用の拡張カードの大きさと概ね寸法が近似していたため、X68000用のユニバーサルカードが入手が難しい場合には、PC-9800シリーズ用の物を電源及びグランドのパターンにパターンカットを施し、部品面 / 配線面を裏返しに用いることにより流用できた。 本体内蔵のROM(容量512KB)には、CP/MのBDOSやMS-DOSのIO.SYS、MacintoshのToolBoxなどに相当する基本入出力システムIOCS (Input Output Control System) を搭載、これを活用する標準添付のオペレーティングシステム(OS)としては、ハドソンとSHARPがMS-DOSを参考に開発したCUIベースのHuman68kが標準添付されていた。このHuman68kは、単にユーザインタフェースのルック&フィールがMS-DOSに酷似しているだけではなく、システムコールのファンクションもMS-DOSとほぼ同等だった。 MC68000MPU特有の特権モード(スーパーバイザモード)を生かし、一部システム領域を、アプリケーションからのアクセスから保護する機能も有していたため、アプリケーションエラーを検出し、実行を停止させることもできたが、OSとして特権モードとユーザーモードの分離が十分でなく、その後システムに復帰できるかどうかは運頼みの側面もあった。 Human68k上で動作する独自のGUIを取り入れた簡易的なウインドウシステムであるビジュアルシェルが付属していたが、後により洗練されたウインドウシステムであるSX-Windowによって置き換えられ標準添付となった。 言語としては、BASICを独自にC言語ライクな構文表記に拡張したX-BASICなども付属していた。X-BASICで作られたプログラムはC言語に変換してコンパイルすることも可能である。 日本語入力ソフトとしてはASK68kというFEPが添付されていた。同時代の水準と比較してその変換精度にはやや難があったが、細部に目を移せば、ローマ字かな変換モードで「X」1文字で「ん」を入力できるといった操作体系や、あらかじめ日本語処理を意識して設計されたキーボード上の専用キーとの親和性は高かった。 X68000初代から日本語ワープロソフトwp.xが標準で添付されていた。機能的にシンプルでやや安定性に欠けていたものの、文書を書いて印刷するための最低限の機能は備えており、動作も軽いほか、メモリが許す限りファイルを同時に扱ったり、子プロセスを立ち上げられたりなどもできた。 SX-Windowでは、Ver.3.0以降wp.xに代わり、シャーペン.xというエディタが付属した。シャーペン.xは基本的にテキストエディタだが、各種フォント(書体倶楽部などのツァイト(Zeit)社製ベクトル/アウトラインフォントおよび書家万流など一部のシャープ製SX-Window用アプリケーショ同梱のアウトラインフォント)に対応するなどSX-Window Ver.3.0で拡張された機能をフルに生かすソフトとなっていた。また、多彩な表現力を備えるだけではなく、Human68kのCOMMAND.Xに相当するコマンドシェルを「コンソール」モードとして実装するなど、自在なカスタマイズの可能なものとなっていた。このシャーペン.xはSX-Window環境で標準添付あるいは市販されたものとしてはほぼ唯一のエディタ(後にフリーウェアとしてMuleなどが移植された)であり、他に選択肢が無かったこともあり、SX-Window上ではあらゆる用途で使用できるものとなっていた。 1993年3月に発売されたX68030(エックス ろくはちまるさんまる)シリーズ(型名はCZ-500 / CZ-300シリーズ)は25MHzのMC68EC030を搭載したX68000の後継機種。名実ともに32ビットパソコンとなった。5インチFDDを装備するX68030 (CZ-500) と、3.5インチFDDを装備するX68030 Compact (CZ-300) の2機種が発売された。 X68000発売当初は、次のMC68020以上のMPUを積む32ビットパソコン化の際は、大幅なアーキテクチャの拡大と改良が予定された。そのために移植性に優れたCコンパイラが安価に提供され、うまく行けば、ユーザーは既存のプログラムを再コンパイルするだけで32ビットパソコンへとスマートに移行できるはずだった。アセンブラレベルであっても、互換性に優れた上位プロセッサの恩恵を受け、趣味としての充分な時間と労力の中で問題にならない程度の一部の書き換えで事は済むはずだった。しかし、MC68EC030の採用に留まり、かつ後述されるわずかな改良に留まった。旧X68000シリーズとのソフトウェア互換性も低く、実質はX68000のソフトウェアも動作可能である 68EC030パソコンであった。 主記憶は標準で4MBとなり、内蔵の専用メモリーソケットに12MBまで搭載可能だった。MC68030 / MC68EC030は4GBのメモリー空間を持つが、X68030ではX68000のアーキテクチャを引き継ぎ互換性の維持を優先した結果、このメモリー空間の12 - 16MBの領域にメモリーマップドI/OやVRAMが配置され分断された。このことにより、セグメントによる制限のないリニアアドレッシングが売りの68系コンピュータでありながら、インテルの86系16ビットコンピュータの「640KB / 768KBの壁」などと同様の状態を生み出すこととなった。 なお、X68030シリーズでは通常のDRAMではなく、より高速にアクセス可能な日立製作所製スタティックカラムモードDRAMが採用された。これによってシステムタイミング上ではページ間をまたぐアクセス(1ウェイト挿入)以外については0ウェイトでのメモリーアクセスが可能であった。市販PCでこのメモリーを標準搭載したのは本シリーズが事実上唯一であった。FPUソケットも用意され、PLCC版のMC68881や、より高速なMC68882を追加できるようになっていた。MPU周辺回路の特徴を挙げると、内部標準搭載メモリーの動作クロック向上かつ 32ビットバスへの接続の結果、従来よりも高速なアクセスが可能となった。一部の周辺 I/Oなどが従来より高速動作可能となった点で性能改善が見られた。また、DMAコントローラーに従来よりも高速なものが使用されていた。 その他の、特にこのパソコンのセールスポイントとなるべきグラフィックス回路は、X68000のものを踏襲したままとなった。よって旧来の 16ビットバスで接続され、アクセス時にオーバーヘッドが発生しやすく、高速化された MPUに追従し切れていないアンバランスな設計となっていた。 内蔵ハードディスクはどちらのモデルにもSCSIの2.5インチタイプのものを使用するようになっていた。 XVIのような動作クロックの切り替えスイッチはなく、起動時にキーボードのXF3~ XF5キーを押したままとすることでMPUの動作速度を旧機種と相当する速度から最高速度までの3段階(XF-3=10 MHz、XF-4=16 MHz、XF-5=25 MHz)に変更できるようになっていた。 バンドルされるDOSのHuman68kは先述のデバイスタイプ定義に伴う内部的な仕様の変更や、ネットワーク対応などを前提としたファイルシステムの拡張が施されたバージョン3.0となった。さらに、SX-Windowもバージョン3.0となり、ベクトルフォント対応などの機能強化と内部処理の高速化、それにテキストエディタ「シャーペン.x」の添付などにより実用性の向上が計られた。なお、X68030では従来のX68000用ソフトとの互換性維持のため、Fライン例外処理を行っている部分をAライン例外処理へ変更するなどの修正を実施した、Human68kバージョン2.15がROMに内蔵されており、上述のXFnキーとの組み合わせでフロッピーディスクから起動される、市販された全ての旧バージョンのHuman68kを自動判別して、ロード時に68030対応のHuman.sysと動的に差し替えると同時にCPUキャッシュの機能を停止するいう互換性向上機能が実装されている。 MC68EC030はソケットによって実装されており、ユーザがより高速な33MHz版のMPUに差し替えたり、MMUを内蔵するMC68030に換装することが可能となっており、交換された場合、起動時にMMUの存在が認識、表示されるようになっている。後に、MC68040や、MC68060を搭載するためのアクセラレータが他社から発売された。クロック変更のためのパターンが基板上に記されている、起動時の POST表示にてで定格よりも高速な動作クロック周波数や標準では搭載されていないMMUの有無が自動判別されて表示される機能も組み込まれ入れていた。専門誌である『Oh!X』では発売と同時により高速な速度で駆動させるための改造記事が公開されていた。 FPUが通常のPGA版ではなくPLCC版とされたのは、当時このタイプのMC68882がMacintosh LCシリーズなどでサポートされており、店頭での入手が容易だったことに配慮されたためだったという。もっとも、このFPUは標準OSであるHuman68k上ではソフトウェアによる浮動小数点演算ドライバであるfloat2.xと共通のAPIでアクセスするfloat4.x経由でのアクセスとなったためオーバーヘッドがあった。 後に、16MB以上の空間にSIMMメモリを増設するボードが他社から発売され、これとMC68030のMMUを活用しハイメモリ空間にメインメモリを配置することも可能となった。なお、Human68kバージョン3.0でのプログラミングでは16MB以上のメモリー空間は、予約済み領域とされアドレスの上位1バイトはゼロで埋めることが要求されている。これは、将来16MBを超えるメモリー空間を利用する際に互換性を確保するためであった。 FPUのオーバーヘッドの問題も FPUを直接使用するようにプログラムされたプログラムが発表されるようになって、その問題は解決されていった。 5インチモデルの筐体のマウンタの取り付け位置はXVIなどと共通になっているため、XVI用のマウンタを保守パーツで購入するか、X68030用のものは穴を開けることで3.5インチのHDDも固定することが可能である。ただし、電源や、信号ケーブルのピッチなどが異なるため、別途変換するなどして配線する必要がある。 SCSIインターフェイスは電気的にはSCSI 1規格準拠のままだったが、CCS (Common Command Set) の制定によりソフトウェアレベルでの互換性確保が可能となり、またデバイスタイプが明確に定義されたことから、従来はデバイスタイプをドライブの側でHDD互換としなければブートできなかった、光磁気ディスクドライブなどのリムーバブルメディアからのOSブートがサポートされた。 従来機との互換性については前述の互換機能をもってしても起動すらままならなかったり、動作中に異常終了するなど正常に動作しなかったりして、パッチ適用など大幅な修正が必要なソフトが多く、この機種を購入するユーザーはたいていは旧機種である X68000を所有していたことから、わざわざ互換性の乏しいこの機種で X68000用のソフトウェアを実行させるよりも、本来のX68000で実行する、というケースがほとんどだった。 また、このパソコンのMPUをMC68030に差し替えることでMC68030が内蔵するMMUにより本格的な仮想記憶に対応したNetBSD等のUNIX互換OSも有志の手で移植された。 このようにある程度の盛り上がりを見せたが、当時既に68000系プロセッサの優位性は、MIPSアーキテクチャなど高性能なRISCの台頭で失われており、さらに80386から始まったインテル製の32ビットプロセッサファミリーとの競合でも不利になり始めていた。実際に、かつて68000系MPUを採用したEWS等では80386や80486との差別化をより決定的にできるRISCプロセッサへの移行が進んでおり、AppleのMacintoshなど68000系のMPUを採用する機種では、前月にMMU内蔵のMC68030 25MHzと4MBのRAM・HDDを搭載したMacintosh LC IIIがより安く発売されたり、本体基本価格をかなり高く設定できる業務用の上位機種には、より高速なMC68040が搭載されていた。つまり個人がホビー用途として購入できる価格帯に、メーカー標準出荷状態で68000系MPUの最新のものを搭載することはコストの問題から事実上不可能だった。最終的にはきわめて特殊なパソコンとなり、価格も高価であったことから販売が振るわず、X68000シリーズは終焉を迎えることとなった。 1988年、マルチタスクリアルタイムオペレーティングシステム(OS)としてMicroware社のOS-9/X68000が発売された。OS-9/68Kの単一機種売り上げでは世界記録を樹立するが、当時poor man's UNIX(プアマンズ・ユニックス、貧者のUNIX)とまで言われた、個人所有可能なUnix系環境としては当時ほぼ唯一と言ってよかったOS-9自体や、OS-9上で主流を占めるUnix系由来のツール環境に馴染むユーザーの絶対数が少なく、X68000ユーザーの間で広く普及することはなかった。その後、Ver.2.4が発売された。そして、X68030の登場とともに1993年にはMicroware社よりOS-9/X68030及びX11R5 for OS-9/X68030が発売された。Microware社から発売された OS-9/X680X0用X Window は X680X0シリーズ向け、動作環境としてメモリ8MB以上、ハードディスク80MB以上で、価格3万円。 1989年にはニューウェイブからCP/M-68Kが発売されている。 また商用ソフトウェアのOSの他にも、X68030、またはアクセラレータ基板併用によりMPUをMC68030やMC68040などに換装したX68000では、MINIXなども移植された。さらにX68030ではユーザーモードでもX Window Systemが使用できるよう、VRAMなどへのアクセスを可能とするためにMPUソケットの一部のピンを非接触とする加工をした上で、MPUをMMU内蔵のMC68030・MC68040・MC68060(アクセラレータ基板併用を含む)に交換する必要があったが、アマチュア有志によりNetBSDが移植された。 パワーユーザー(ヘビーユーザー)による拡張ボード開発の歴史は古く、極初期にはMacintosh互換ボードが一部のユーザーの間で開発された。これはSCSI拡張ポートやAppleTalk (RS422) ポートなどを含んだ本格的な物で、Macintosh用の多くのソフトウェアが動作したが、ROMを実機からコピーして流用するなど著作権上の問題があり、本格的に発売、流通されることはなかった。その後、『Oh!X』が休刊した1995年頃から、ユーザーが拡張ハードを自主製作することが本格的に行なわれるようになった。 Mercury Unitの作者が、『美少女戦士セーラームーン』の登場人物であるセーラーマーキュリー役声優の久川綾の声を高音質で録音・再生することを目的としてMercury Unit(まーきゅりーゆにっと)と命名したことに由来し、慣習的に、各セーラー戦士の守護星とされる太陽系の惑星の名称が付けられることが多くみられた。 などが実際に作られ、040turboが計測技研から、一部変更が加えられたMercury Unit(Version4)が「まーきゅりーゆにっと」として満開製作所から、製品として販売されている。 本体を作ろうとする試みもあったが結局、完成には至っていない。 発売元がシャープ、開発は別のソフトハウスというものも多い。 SHARP販売 / SPS開発のもの。以下、発売順。 X68000 / X68030向けのゲームソフトを精力的に開発し提供してきたゲームソフトメーカーを列記する。 電波新聞社販売 / マイコンソフト開発 全13組18作 国内では全くパソコンに採用されなかった68000系列のパソコンであるが故の宿命から、オフィススイート等の実用ソフトを初めとしてパッケージソフトウェアに恵まれず、かつ圧倒的なPC-9801のシェアに押されていたことが、逆に独自の豊かなフリーウェア文化が花開く土壌を形成し、ユーザー有志の手により様々なソフトウェアが作られ、パソコン通信や書籍などを通じて配布された。市場占有率から勘案されるユーザーの絶対数に比して、その数と充実ぶりには目を見張るものがあり、日本のパソコン文化とは異なるヨーロッパのパソコン文化を思わせる流儀と実績を残した。特に主な標準ソフトウェアには、機能を強化した、リバースエンジニアリングによるパッチまたは互換プログラムが存在した。またGNUプロジェクトのツール環境の多くもHuman68k環境に移植された。パソコン市場で主流だったMS-DOS環境から孤立していたX68000の世界では、プロプライエタリなソフトウェアの供給を期待することがほぼ不可能といった事情などを受け、ユーザーの間、および専門誌『Oh!X』誌上では、しばしば「無ければ作る」(欲しいソフトが存在しないならば自分たちの手で作る、の意)という合言葉が使われた。 SHARPから発売されたXCコンパイラはC言語の標準であるK&Rに非準拠であり、数々の制限があった。一方、有志の手により1988年初頭にはGNU C Compiler(以下GCC)が移植され、X68000への最適化も行われた。その後、GNU C++ (g++) も移植されるとともにライブラリも整備され、これらの開発環境の整備により多くのフリーソフトウェアを生み出した。これらは当時のパーソナルコンピュータとしては比較的大規模なソフトウェアであり、MS-DOS環境と比較して、X68000の持つリニアで巨大なメモリー空間を生かしたソフトウェア(移植)であると言える。 音楽ドライバー・サウンドドライバー。Z-MUSICはVersion1系の後継であるVersion2系と、機能強化を図ったVersion3系の2系統があるが、Version2系の方が広く使われた。後述のMXDRVに比べると後発にあたり、処理速度の向上、機能の追加等が図られている。MXDRVとは直接の互換性はない。 X68000の内蔵音源であるFM音源8声とADPCM1声(Version2系はPCM8.Xを使用することにより8声まで、Version3系はMPCM.X ©Wachomanを使用することにより16声まで)、MIDIボードが接続されていればMIDI楽器も同時にコントロールすることが出来る。MIDI出力はRS-MIDIアダプタ各種、POLYPHONボード等にも対応している。 一般の音楽制御ドライバーでは1台のMIDI楽器をコンピュータの外部音源という位置付けで扱っていたが、Z-MUSICではX68000をホストコンピュータに複数のMIDI楽器をコントロールすることができるように設計されている。 Z-MUSICは、ゲームに組み込んで使うことも考慮して設計されており、一部の市販ゲームや同人ゲームで実際に採用された。また、第三者によって、他ドライバーからのデータ変換、ビジュアルプレイヤーやミュージックセレクター、データ制作や開発支援、ADPCMユーティリティーなど様々なツールが作られた。 なお、Z-MUSICのZは、作者の名前である西川善司 (Nishikawa Zenji) から採ったものである。 最も広く使われた音楽ドライバー。パソコン通信等で普及した。FM音源とADPCM音源を制御する事が出来る。前身にMUDRVがある。対応するのはMDXファイル(演奏データ、拡張子.mdx)とPDXファイル(ADPCMデータ、拡張子.pdx)。複数人で頻繁に改良が加えられたために数多くのバージョンが存在し、ADPCMを擬似的に多重発音出来るPCM8・PCM8Aに対応しているバージョンも有る。パソコン通信等ではコピー曲やオリジナル曲などのMDXファイルが数多く流通した。MMDSP、MDXSのように演奏をビジュアル表示する再生ソフトも数多く作られた。MXDRVは後にPC-9800シリーズとFM TOWNSにも移植され、音源チップの差からパート数や音色などが不完全ながらもMDX再生が出来た。Microsoft WindowsでもFM音源YM2151をエミュレートするDLLドライバーと組み合わせてMDXファイルを演奏する事が出来るアプリケーションが幾つか存在する。 本体のみでは、FM8音/ADPCM16音を制御する事が出来るFM音源ドライバー。MIDI制御にこそ対応していないものの、満開製作所製MK-MU1Oがあれば搭載されているYMF288を同時に利用でき、FM20音、PSG6音、チップ内蔵リズム音源2セット、ソフトウェア合成によるADPCM16音の最大54音を同時に制御することが可能。更に、YMF288の効果音モードでオペレータごとの制御を可能にしているため、サイン波として扱った場合、FM音源のパートを最大26音制御することが可能になっている。 ADPCMについては、江藤啓作のリアルタイムADPCM多重再生ドライバーPCM8.X (PCM8A.X, PCM8SB.X) を使用することにより、ソフトウェアレベルでPCMを合成し、見かけ上最大8チャンネルでの再生が可能である。別人によりPCM16.Xが試作された。 X68000登場当初、そのグラフィック性能を生かしてパソコン通信経由であらかじめ決められた構文に従って相手側のパソコンに簡易なグラフィックとテキストを表示させつつ音楽を演奏させるソフトウェアが作成され、「あきら」と命名された。 X68000では65,536色の表現が可能なことから、イラストレーションなどの表現で従来のベクターグラフィックからZ's Staff Pro 68k等のグラフィックツールによって作成されたラスター形式のグラフィックが主流になっていった。その中で一番の問題はその画像を保管するにあたり外部記憶装置の容量が絶対的に不足していたことであり、それを解決するべくPIC形式の画像圧縮フォーマットが考案された。これはX68000シリーズで画像を保管する際のスタンダードなフォーマットとなった。 電脳倶楽部は、満開製作所が発行していたX68000用ディスクマガジン。内容は読者投稿が大半を占めていた。『月刊電脳倶楽部』は1988年5月に創刊され、12年間に亘って発行された。初代編集長は三上之彦(祝一平)だった。Vol.140から媒体がCD-ROMに変更された。同社がX68000関連事業から撤退した2000年8月発行のVol.148で廃刊。 その間に別冊も数多く発行され、『電脳倶楽部別冊』が壱號から拾六号まで、CD-ROMによる『すてきな電脳倶楽部』(すて電)、『すごい電脳倶楽部』(すご電)、『激光電脳倶楽部』がVol.1からVol.7まで発行。 フロッピーディスクで発行されたVol.1からVol.139までは、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.1~50』『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.51~100』および『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1997年度版』(Vol.101 - 115)、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1998年度版 / 1999年度版』(Vol.116 - 139) としてCD-ROMにまとめられた。別冊も『電脳倶楽部別冊・完全保存版』としてCD-ROM化されている。 DoGAは、大阪大学コンピュータクラブや京大マイコンクラブの有志が集まり、共同研究プロジェクト「PROJECT TEAM DoGA」として1985年に設立された。 さらに1993年には、子会社として株式会社ドーガを設立し、法人としてDoGAの活動をサポートしている。 DoGAは、シャープと提携し、X68000上で動くCG制作ソフト「DoGA CGAシステム」を開発。この活動にアスキー社(後のKADOKAWA/アスキー・メディアワークス)が関心を示し、『月刊ASCII』に開発状況を連載した。その後、ソフトバンク(後のSBクリエイティブ)の『Oh!X』に連載が引き継がれた。 当時パソコン上でCGアニメを動画として見ることができるのは画期的な事であり、「DoGA CGAシステム」は、国産ソフトとしては日本初の試みだった。 X68000と異なる内部構成を持つ 32bit後継機のプロトタイプも検討された。密かに各方面の有力関係者に予定しているスペックを提案した上で、商業的に成功するかどうかヒヤリングが行われた。内容的にはビデオ編集を自在に行えるパフォーマンスを備えた、当時としてはきわめて高スペックな仕様であったという。しかしながら予定価格が X68030の倍近くになると予測されていた。ちょうど時代はPC/AT互換機が DOS/Vを伴って日本で普及し始め、Microsoft Windowsも軌道に乗り始めていた時期である。結果、商業的には絶望的であるとの判断が下された模様である。加えて、シャープでもパソコン事業の2事業部制を改め、一事業部に統一して PC/AT互換機に社内リソースを集中させる方針を決定した。これにより、「真の意味での」 32bit後継機は日の目を見ることは無く、Xシリーズは必然的にその歴史にピリオドを打つことになった。 X68030はX1から続いたXシリーズの最終機となった。Xシリーズ販売終了後、シャープはパソコン事業をPC/AT互換機であるMebiusブランドに集約した。このMebiusブランドを展開している部署は、Xシリーズを展開していた部署とはまったく異なる。Xシリーズを展開したテレビ事業部は、後年の組織変更により別の事業部(AVシステム事業本部)となった。 『Oh!X』誌も、Windows 95の発売の年でもあった1995年末の12月号をもって休刊。1998年にムック形態で復刊したが、2001年春号以降、続刊は出ていない。またシリーズ発売終了後も周辺機器などを発売していた満開製作所は、創業者三上之彦が1999年4月2日に死去した後、2000年に事業撤退を表明して翌2001年には消滅した。 Xシリーズ販売終了後、Webに代表される新しいパソコンの使い方が広まるにつれ、世界的なパソコンアーキテクチャーの統一が進行し、ユーザーは徐々にMacintoshやMicrosoft Windowsなどへと移行して行った。しばらくは非公式にユーザー同士で拡張ハードを自主製作するなどの勢いは引き継がれたものの、時間と共にそれは衰退していった。その後のパソコンの性能向上によってEX68をはじめとするエミュレータも作成され、それは単行本としても発売された。その後も秋葉原などでユーザー主催のイベントが何回か開かれた。 2000年、OS、開発環境、BIOSなどがNIFTY-SERVEシャーププロダクツユーザーズフォーラムスタッフの尽力により、シャープ側の厚意もあって無償公開された。またZOOMなど一部のメーカーも自社製のアプリケーションソフトを無償で公開していたことがある。 X68000はゲームプログラミング入門に適した特性を持つため、2000年以降もしばらくはゲーム制作者もしくはコンピュータに関する専門学校で、職業訓練にX68000を採用したところも存在した。 Xシリーズは日本国内のみで販売された独自のアーキテクチャを持ったPCであるが、IOCSとDOS、エミュレーションソフトウェアがフリー形態で公開され、ネットワークによって世界に広まったため、日本国外でもXシリーズの認知度は比較的高い模様である。 市場での流通終了から30年以上経過しているので、発売当初の状態で完全に動作する個体はほとんど存在しない。その原因として一番多いものは、電源ユニットの故障である。電源ユニットの大きさを小さくするため、採用された電解コンデンサの電解液に四級塩が使用されていた。これが経年劣化に弱く、リード線引き出し部分の密封用ゴムを侵して電解液の液漏れを起こし、結果的に回路ショートを起こす。 なお、メーカー公式の修理受付は既に終了している。ただし非公式で修理請負を営んでいる個人も実在するので、まったく修理不可能という訳ではない。電源ユニットそのものを取り外し、ACアダプタを使えるように改造した例も存在する。現在でも動作の可否を無視すれば、本体はネットオークションなどを通じて入手することができる。 また、その独特の筐体がもつフォルムもあって、好事家の中にはX68000の筐体を利用して内部にPC/AT互換機用パーツを組み込んだユーザーも多数実在する。中には5.25インチFDDの位置にスロットインタイプの光学(CD・DVD等)ドライブを取り付け、X68000特有の機能だったオートイジェクト機能をそのまま再現するなどの工夫が施されているものもある。2013年には、X68000の筐体をPCケースとして復刻するプロジェクトが発足、2015年1月に試作品が公開、5月には一般公開された。 2016年12月にはRaspberry Pi2/3用の中密度繊維板製のケースが発売された。2018年には後継製品として、素材が樹脂となりシャープの正式ライセンス品を受け樹脂パーツの他、機種やロゴなどがデカールで添付されたケースが先ずはX68000XVIモデルの(MONAC-002)が2月、X68000/ACE/ACE-HD/EXPERT/EXPERT-HDモデルの黒、グレーモデルが7月に発売されている。 これらコンピュータ製品以外にも、ちびちび-Xとして、X68030のフィギュアの付いたキーホルダーが自主制作品として販売されて居た事もあるほか、2019年にはショルダーバッグ製品が発表されている。 エミュレータとして、Microsoft Windows上ではEX68、けろぴー、WinX68k高速版、XM6、Macintosh上ではX68EMなどがフリーソフトとして公開されている。 実機の5分の2サイズで復刻された「X68000Z」がクラウドファンディング(CF)で販売され、2023年3月31日から購入者に順次届けられた。2022年12月に開始されたCFは目標金額3300万円を1時間で達成し、最終的に6627人から約3億5000万円が集まった。 2022年6月8日に、メガドライブミニなどを開発している瑞起から「X68000ミニ」が発表され、2022年9月15日から18日まで開催されていた東京ゲームショウ2022にて「X68000 Z LIMITED EDITION」名称改め、モックアップを展示された。CZ-600のデザインのミニサイズである。 当時のユーザーであった、瑞起の40歳代後半の技術者らが、前述した「無いものは作る」文化を形成したパソコンであり、「夢の続きを描きたい」と「ロクハチ」復活を訴えて事業化が決まり、シャープから許諾は得られたものの資料は現存していないとの回答を受けた。インターネットオークションで実物を入手して採寸するなどして、キーボードの打ち心地も再現したが、フロッピーディスクの代わりにSDカードを差し込むなど現代に合わせて一部は仕様変更されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "X68000(エックス ろくまんはっせん)は、1987年(昭和62年)3月28日にシャープが発売したパーソナルコンピュータである。なお以下では、その初代に引き続く、1987年発売のX68000(CZ-600)シリーズとして現在扱われている製品関連の他、1993年(平成5年)発売のX68030(CZ-500/CZ-300)シリーズについても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「パソコンテレビX1」を送り出したシャープのテレビ事業部による後継機である。略称はX68k、ペケロク、ロクハチ、ロッパー、ペケロッパなど。X68030シリーズと併せ、X680x0と表記されることもあった。メーカーのシャープは「パーソナルワークステーション」と称した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最大6万5536色を表示できる高いグラフィックス性能とシンセサイザーに匹敵する音楽性能から、1980年代後半から1990年代前半にかけて、ホビーパソコンの一角を担った。日本のホビーパソコンCPUにモトローラのMC68000を採用した機種は、他に発売されなかった。販売台数は1991年9月の時点で13万台。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "標準のオペレーティングシステム(以下OS)だったCUIのHuman68k、およびGUIのSX-Windowは、後にユーザーコミュニティに対してフリーで公開された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2015年には、内部構造や回路図などを収録した「サービスマニュアル」が公開された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "初代機のX68000は、発売前年の1986年(昭和61年)に発表された。開発は、パソコンテレビ「X1」シリーズを開発した、シャープ栃木のテレビ事業部。ソフトウェア・ハードウェア共に「X1」シリーズとの互換性は一部の周辺機器を除いてないが、実質上の後継機種である。MZシリーズをリリースし、後のMebiusブランドパソコンの元となった産業機器事業部(奈良県大和郡山市)は関わっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "初めて発表されたのは、1986年(昭和61年)10月2日 - 7日に開催されたエレクトロニクスショー'86(後のCEATEC JAPAN)。シャープブースの一角に展示され、デジタイズされた女性歌手荻野目洋子の6万5,536色画像と「グラデュース自走」と銘打たれた『グラディウス』の実動画面、そして画面切替によるチェス盤の上をあらかじめレイトレーシングされた玉が跳ねるといったデモンストレーションが行われた。展示画面には「新開発 16ビット パーソナルワークステーション X68000」と書かれた絵文字と南国をイメージした背景が表示されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コンパニオンによるデモンストレーションは、「このパソコン、何と喋るんです」のナレーションに答えてX68000が「早く紹介して下さいよ」とADPCMで発声するもので、その後ハードウェアの特徴と構成が紹介されるというものだった。後述の「マンハッタンシェイプ」はこの時点で名称が確定しており、デモンストレーションでも紹介された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当時、日本で68000系を採用したパーソナルコンピュータはほとんど前例がなく、業務用のEWSと誤解した人も多かったため、会場ではそれほど大きな注目は集めなかった。MC68000採用の理由は、メモリ空間が16MBと大きいことと、「OSがのっかりやすい」ことだった。当時、日本の電機メーカーの間で68000系MPUを採用する独自のEWSを開発・発売するのが一つの流行になっていた背景もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後、『Oh!MZ』誌を始め、各パソコン雑誌にて取り上げられた事により認知が高まり、次いでシャープ市ヶ谷のエルムホールにて九十九電機と協賛したお披露目が行われた(全国各地で行われたという説もあるが、詳細は不明)。内容はラヴェルのボレロをFM音源で再生しつつ、デジタイズされた画面を次々と「X1」シリーズ用のHDDユニットより読み込んで表示させるというものだった。また、『グラディウス』のデモについてはビックバイパーだけがカーソルキーの操作に合わせて可動し画面内を飛んでいるというものに変わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "発表から発売まで約5カ月空いたため、発売前から一部の店舗にデモ機が置かれた。この時点で『グラディウス』、アセンブラ、X68000のテーマ等の同梱ソフトウェアは揃っていたが、本当に発売できるのか、あるいは発表された価格を実現できるのかについて懐疑的に見る向きも多かった。実際に発売されたのは、1987年3月下旬である。出荷数は少なく、実際に購入者の元に初期ロットが届けられたのを見て、突発的に注文する顧客もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その結果、シャープはバックオーダーを抱えることとなり、好調な滑り出しとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当初はインテル系プロセッサを始め、様々なプロセッサの搭載が検討されていたとされるが、最終的にはMacintoshと同じMC68000が採用され、日本のメーカーによる最初にして最後の68000系個人向けパソコンとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当時としては大容量を誇るVRAMと強力なグラフィックコントローラ群によって実現された65,536色の多色グラフィックとスプライト機能、FM音源8チャンネル+ADPCM1チャンネル、1MBのメインメモリ(最大12MB)等の周辺回路により、総合的に競合製品を凌駕するホビーマシンとしての性能を備えていた。その象徴となるのが標準添付アプリケーションの一つでもある、当時はゲームコンソールでも多くの要素が省略されて移植されていた『グラディウス』の存在である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "価格は36万9000円で、購入資金を貯めるためアルバイトに励む学生ら若者も多かった。実売価格は40万円程度で発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、「5年間はハードの基本仕様を変えない」という方針が当初から決められていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの機能を実現するための膨大な回路の実装には積極的にカスタムLSIが採用された。初代機ではそれぞれビーナス1・ビーナス2(CRTコントロール)、VSOP(ビデオコントローラー)、シシリアン(I/Oコントローラー)、ET(メモリーコントローラー)、シンシア・シンシアJr.(スプライトコントロール)のコードネームが付けられていたものが使われた。試作機段階ではこれらの機能を全て標準ロジックICで実装したとされ、その容積は19インチラック1本分に上ったとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうした設計から、ホビー向けマシンとしてその機能を生かしたソフトウェアやハードウェアなどを自作するマニア層を中心に、当時としては安価なコンピュータグラフィックス(CG)制作機として映像作品を創作する者もいた。同様に、ゲームソフトウェアも多く作成され、アーケードゲームの移植も多数リリースされたことから、コアなゲームユーザーなどにも支持されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このように、ビジュアル的なパフォーマンスでは強烈なインパクトを示した機体だったが、実務面では既にPC-9800シリーズがビジネス向けパソコンの主流として納まっていた背景もあり、オフィス系(実務・応用)アプリケーションソフトへの対応状況などは比例して芳しくなかった。その一方で教育・組み込み向けなどへの営業展開もなされていた。一部のアーケード(業務)用ゲーム機の筐体に組み込まれたり、PROシリーズなどが業務用組込みシステムの開発用途に着目され、Forks社などからX68000での動作を前提にしたOS-9環境で動作するLANボードなどの周辺機器が発売されたこともある。通勤電車の行き先電光板の制御用として使われた実例もあった。教育分野では、ゲームクリエイターを育成するために、専門学校の実習機としても採用されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "プログラミング環境の整備に力が入れられており、専用のC言語コンパイラが安価な価格で提供された。標準で付属しているBASICであるX-BASICが、BASICとしては非常に独特の、C言語風味の言語仕様であり、X-BASICからC言語への変換ツールや、プログラミング上問題になりやすい差異について検出する構文検査ツールなどが提供されるなど、BASICからCへのユーザーの移行が考えられていた。また、システムコール及びハードウェア構成、それぞれのハードウェアへの機械語レベルでの直接アクセスの方法とそれぞれのペリフェラルが持つレジスタの意味と動作の全てが公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "やがて、動作クロック16MHzの高速化機種であるX68000 XVI(エクシヴィ)発売を経て、X68030が発売された。実質的な最終機種である同機が発売された1993年頃には、DOS/VやMS-Windows 3.1などのOSが搭載されたPC/AT互換機やCD-ROMドライブユニットがそれぞれ普及し始めていた。しかし、本シリーズはソフトウェアのメディア供給が依然としてフロッピーディスクのみで、その大半が5.25インチの2HDだった。それを打開するため、SCSIのCD-ROMドライバがサードパーティーやフリーソフトで開発された。ただし、一部のCD-ROMドライブでは正常動作しないなど制約も多かった。X68000シリーズ対応のCD-ROMを媒体としたソフトウェアもわずかながら発売された。またこの頃には、国産機としては初めてMPEG(MPEG-1)による動画再生(MPEGエンコーダボードを拡張スロットに装着し、OSはOS-9/X68030にてVideo CDの視聴)を実現している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「夢を超えた」(初代)、「アートの領域へ」(ACE)、「夢の続きを語ろう」(EXPERT / PRO)、「父のパソコンを越えろ」(XVI)、「夢の、頂きへ」(X68030)など。イメージキャラクターはツタンカーメン(X68000)、火の鳥(X68030)など。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、当時のシャープ顧問だった宮永好道によると、シャープが本機を出す際に一番気にしていたのは、「他のやらない事をする」社風のソニーの出方だったという。これは杞憂に終わったが、後にソニーはVAIOシリーズでその持ち味を出して来た、と自著で語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "X68000の筐体は「マンハッタンシェイプ」と称する樹脂製の左右分割ツインタワー型デザインとなっており、片側には主にオートイジェクトが可能な5.25インチ2HD対応のフロッピーディスクドライブ(FDD)2基と電源ユニットを搭載。ACE以降の機種では、更にハードディスクドライブ(HDD)の取り付けスペースが設けられており、HDD搭載モデルではそこに取付金具とともに搭載されている。反対側のタワーにはメインボードと共に拡張I/Oスロットを2基搭載した。2つのタワーの間にはポップアップハンドルを内蔵し、底部が連結されてそこに各種I/Oポートが実装されるサブ基板が搭載されていた。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この特徴的なCZ-600CEのデザインは純正のセットで1987年度のグッドデザイン賞に選ばれている。このデザインは初代から、後継機のACE・EXPERT (II)・SUPERに受け継がれた。高速化されたXVI、X68030では基本的なシルエットはそのままに、縦置きの10MHz機よりも角の強調されたデザインとなっている。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "マンハッタンシェイプという名前は、当時アメリカ合衆国ニューヨーク市のマンハッタン島に存在したワールドトレードセンターのツインタワーの景観を連想させる事から名付けられた。なお、このツインタワーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件において倒壊している。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "付属の専用マウスは上部の蓋を外すとトラックボールとしても使用可能。マウス端子は本体に1つ、専用キーボードに2つあった。PROシリーズはこれとは異なるPC然とした横置き筐体で、他モデルとデザインの異なる専用キーボード及びX1turboZ付属のものと同じマウスが付属し、拡張I/Oスロットを4基搭載したものとなっている。価格も縦置きのものと比較し安価に抑えられ、拡張性を強化した廉価版としての側面を持っていたが、従来の縦置きシリーズとは回路設計がやや異なる部分があり、SCSIボードの「Mach-2」など、非対応とされたハードウェアも少なからずあった。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "XVI並びにX68030でラインナップされたCompactシリーズはオートイジェクトが可能な3.5インチFDDを搭載、プラスチック製で縦置きであるが非ツインタワー型で、専用キーボードはテンキーを省いたもの、マウスはPROと同じものが付属した。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ボディ色はグレーまたはブラック、SUPER以降はチタンブラックのみとなった。「X68000」のバッジは金色、Compactでは白色印刷、「X68030」のバッジは赤。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特徴ある外観の為、2016年公開のアニメーション映画『君の名は。』に描かれていることをシャープ公式ツイッターがツイート。その後、新海誠監督本人も劇中の画像付きで該当シーンをツイートしている。", "title": "外観上の特徴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "CPUには当時のMacintoshなどと同じモトローラのMC68000を採用した。動作クロック周波数は10MHzで、無印、ACE、EXPERT、SUPERまではセカンドソースの日立製作所製HD68HC000が使用された。当時CMOS版のMC68000を生産していたのは日立だけだった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "搭載されたMC68000は、外部データバスが16ビット幅だったためモトローラは16ビットCPUと位置付けていたが、内部設計は32ビットであり、直交性の高い命令セットを特徴とした、同時代のCPUとしてはアセンブリ言語が扱いやすいアーキテクチャーだった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "X68000にはFPUとしてMC68881が使用可能であり、拡張スロットに装着するものが純正品としてシャープから発売されていた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "毎年高速化されていく他機種を横目に、4年を経てようやく、基本性能はそのままでクロック周波数が高速化されたXVIが登場した。このXVIと次のCompact XVIではモトローラ社製のMC68000が使用され、クロック周波数が16/10MHzの選択式になった。またFPUはメイン基板に専用ソケットが搭載された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なおXVIの発売をきっかけとして従来の10MHz機やXVI・Compact XVIのクロック周波数を高速化する改造がBBSや雑誌で公開され、ユーザーの間で流行した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "MPUは、Compact以外はソケットに実装されていたため交換が容易で、HD68HC000搭載機ではモトローラ純正MC68000に交換も行われた。さらに、変換基板を自作してのMC68020搭載を試みた者もいた他、製品としても、倍速ボード、MC68EC030アクセラレータなどもリリースされている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "メモリー空間は、MC68000が利用可能な16MBのうち、主記憶空間として12MBを使用することができた。この主記憶領域はリニアアドレシングが可能であり、また、領域を指定しスーパーバイザー領域とする事で、アプリケーション側からアクセス禁止にすることも可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "標準では、初代・ACE・PRO・PRO IIは1MB、その他は2MBを搭載していた。シャープからは拡張スロットに差すタイプの4MBの拡張メモリーボードが発売されていたが、後に他社から8MB以上のメモリーを装備したものが発売された。X68000のメインメモリーは拡張スロットを介したものを含め、すべてノーウェイトアクセスであるが、動作クロックの上昇したXVI・Compact XVI以降の機種では、10MHz動作の汎用拡張スロット経由でのノーウェイトアクセスは不可能だったため、本体内部に8MBまで増設可能なメモリーソケットも用意された。ただし、この場合12MBまで増設するには8MB以降は拡張スロットによる増設となるため、この4MBをアクセスする場合は多大なウェイトが挿入されることとなり、これによる速度低下を回避するため、この領域をRAMディスクとして使用するなどして、この範囲にコードが置かれることを回避する使用法もあった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "X68000は全機種でメモリーバックアップ機能を持つ16KBのSRAMを内蔵し、メモリースイッチの設定を保存するほか、RAMディスクとしての使用やSRAMからのシステム起動も可能だった。ただし、SRAM領域は通常は書き込み禁止に設定されており、プログラムの暴走など万一の事態でも書き換わる事はまず無いとされたが、PRO系の機種ではSRAM回りの設計に難があり、通常使用でもSRAMに書き込まれているデータが破損することがあった。一方、このSRAM領域を利用して潜伏・感染するコンピュータウイルスも存在した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "グラフィック画面表示用のVRAM(フレームバッファ)は512KBを搭載している。これを使用して、256×256または512×512×最大16ビット(65,536色)、768×512×最大4ビット(16色)の表示が可能である。また、CRTCのレジスタを直接操作することにより、1,024×768×4ビットの表示や640×400に近い解像度、384×512などでの表示も可能である。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "グラフィックVRAMへのアクセスには、領域として全2MB(1,024ドット×1,024ライン×16ビット)が予約されているが、実際に搭載されている512KBのVRAMは、画面モードによらず常に1ワード(16ビット)=1ピクセルとなるように512KB - 2MBのメモリ空間に配置される。すなわち、16色ならば、2MBのメモリ空間の下位4ビットが有効になり、256色表示ならば、1MBの領域の下位8ビット(残り1MBの領域は無効)、65,536色表示であれば先頭の512KBの領域で全16ビットが有効になるという仕組みである。これによりピクセル単位のカラー操作を容易なものとしていた反面、多数のピクセルを書き換える際にアクセス速度の点では不利だったが、のちにデータ転送時のみグラフィックVRAMの構成を切り換えて隙間なしでデータ転送するテクニックが登場した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、グラフィック画面だけで独立した面(プレーン)を最大4プレーン(512x512ドット 16色時)持つことができた。16色モード時には1,024×1,024ドット1プレーンまたは512×512ドット4プレーン、256色モード時には512×512ドット2プレーン、65,536色モード時には512×512ドット1プレーンという構成で、複数のプレーンを重ねあわせて表示することができる他、半透明機能があった。また、それぞれ独立に上下左右がつながった球面スクロールが可能となっている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同時代のパーソナルコンピュータとして標準的な環境での解像度は640×400ドット16色であり、この表示に必要なVRAMは128KB弱であることからも、X68000の圧倒的な画像処理能力がうかがえる。X68000の65,536色は下表の形式の16ビットによって構成されており、RGB各5ビットによる32768色と輝度ビット(半段階の明るさ調整)によって実現されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "(G:緑、R:赤、B:青、I:高輝度)", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "グラフィック画面は、上記の他、高速クリアなどの画面制御機能はあったものの、基本的にはMPUの直接制御によって図形描画が行われた。同時代の主な16ビット以上のパーソナルコンピュータで、グラフィックディスプレイコントローラーを採用しラインや多角形、塗り潰しなどの簡易的な描画機能が搭載されていた点とは対照的である。これは当時、安価なグラフィックディスプレイコントローラーのハードウェア描画機能がまだ貧弱であり、速度的にも充分なものでなく、かつ実装及びプログラミング上の制約が大きかったためと推測される。後にPC-9800シリーズでもこの問題から、グラフィックチャージャーと称してX68000同様のピクセル演算機能を実現して、性能の向上を図っている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "いわゆるキャラクタ単位のテキスト画面は用意されず、グラフィック面とは別に512KBのビットマップVRAMが用意されていた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "X68000のテキスト面はプレーンドピクセル方式のビットマッププレーンであり、同時代の標準的なパーソナルコンピュータのグラフィック画面に相当する情報量と表現力を持っていた。ビットマップによるテキスト表示は、その表現力と引き換えに、キャラクタ型VRAMと比較すると負荷が重い(遅い)ものであるが、X68000のテキストVRAMには同時プレーンアクセス機能やラスタコピー機能、ビットマスク機能などの画面制御機能が用意されており、CPUの処理を大幅に軽減することが可能となっていたため、十分な速度を得ることができた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "テキストVRAMは4プレーン存在するが、通常、そのうち2プレーンはマウスカーソルとソフトウェアキーボード、電卓の表示に使用されるため、テキスト表示は2プレーンで行われることが多い。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "テキスト表示用にフォントパターンをROMに搭載している。このCGROMに搭載されている文字種は、16×16ドットのJIS第1/2水準漢字に加え、24×24ドット、12×12ドットのJIS第1/2水準漢字(非漢字752文字、第1水準漢字3,008文字、第2水準漢字3,478文字)である。このほか、ビットマッププレーンを生かし、ユーザー定義のフォントを使用することも可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "通常の16ドットフォントを使用した際のテキスト表示は半角で96文字×32行であるが、VRAM自体は1,024×1,024ドットの広さを持っており、これを利用してSX-Window Ver.3.xでは起動時オプションの指定で最大1,024×848(インターレース)での表示が(隠し機能的に)可能なほか、CRTCのレジスタ操作と入力周波数の物理的な変更により、1,024×1,024ドットのフルスクリーン表示なども実現されている。なお、インターレース表示での高解像度画面は、長残光CRTを使用しないかぎり、ちらつきが著しく実用に耐えない。そのため、X68000 Compact XVIやX68030ではSX-Windowの640×480表示用に追加搭載された50MHzのクロックオシレータをより高周波数のもの、具体的には80MHzや100MHzのものに交換し、高解像度対応のCRTと組み合わせてSX-Windowの高解像度表示を実用的なものとすることが『Oh!X』誌で紹介され、一部でこの改造が流行した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "このテキスト面は前述の画面制御機能が使用できるほか、1ワードで最大16ドット、ロングワードで32ドットの書き換えが可能となるため、用途によってはテキスト画面をグラフィック画面代わりに使用し、他機種からのゲーム等の移植にも使われた。ビジュアルシェルやSX-WindowもテキストVRAMで実現されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その他には、16ドット×16ラインで65,536色中16色、同時表示枚数128枚の「スプライト機能」と「BG面」を持っている。これは、特にアクションゲームやシューティングゲームの作成に非常に有効だった。スプライトとBGのパターンデータは共用であり、VRAMとは独立した16KBの高速SRAMを使用していた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "スプライト以外の、これらの全ての画面を合わせると、最大で7枚(グラフィック4枚+テキスト1枚+BG2枚)もの独立スクロール機能付きの画面をハードウェアで合成表示することが可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "他には、パソコンとしては珍しく「走査線(ラスタ)割り込み」を可能としていた。なお、ライバルと目されたFM TOWNSは、HSYNC(水平同期信号)を検出することは可能だったが、それを割り込みトリガには出来なかったため、一般にラスター割り込みを使うエフェクトは、他の手段で再現していた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、専用端子へ接続するカラーイメージユニットを使用することにより、当時としては先進的な、ビデオ信号のキャプチャが可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "X1のパソコンテレビの機能も受け継いでおり、テレビチューナー付の純正の専用モニタでは、チャンネル操作やスーパーインポーズなどのテレビコントロールも可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "サウンド機能として、4オペレータ、ステレオ最大8音同時発声できるFM音源 (YM2151)とモノラル4bitで3.9、5.2、7.8、10.4、15.6kHzの周波数でサンプリングできるADPCM(沖電気製MSM6258)を標準で搭載した。YM2151の定格入力周波数は3.58MHzであるが、本機ではX1に合わせ4MHzが入力されており、CZ-8FB03(New Z-BASIC)のMMLでは容量を除きX-BASICのMMLと互換性があった。チップの定格と異なる為、アーケードゲームの移植の際、音程がずれたまま発売されている物もある。デモンストレーションでは「喋る」という形で音声の利用を前提とした留守番電話用のチップであるMSM6258はチップの出力はモノラルであったが、YM2151と合わせ、左、中央、右に出力を定位させることができた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ADPCM(適応的差分パルス符号変調)は、サンプリング周波数こそ変えられ、前述のように定位する場所は指定できたものの、出力音量は固定であり、音程と呼べるほどの音程の指定もできず、音質も楽音を前提としたチップと比較して高いとは言えなかった。ゲームソフトなどでは効果音などとしても使われることから始まり、シンセサイザ然としたFM音源を補う形で同期再生し、パーカッションなどとしての利用や、更にアタックを左右に振り、リリース部分を中央で再生することで5方向に定位して聞こえるような実装の工夫が行われた。また、ソフトウェア的な合成により発声数を増やす試みや、更にソフトウェア合成時に音程、音量を調整できるMPCM.Xや、同様の機能を追加したPCM8A.Xなど、個々にデータが必要だった音量、音程指定という弱点についても本体の高速化などもあり、ある程度の実用性をもって補われた。前述のとおり、MSM6258の出力はモノラルであるため、発声数を合成によって確保した場合には三か所のどこかに全ての出力が定位する形となる。また、ADPCM部のステレオ再生への試みとしては、左右への音声出力を高速にに切り替える手法、片方をADPCM、片方をOPMによる再現によって実現する手法などが発表されている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "リニアPCMを扱うことはできないが、ハードウェアとして扱えるようにしたボードや、FM音源に対し矩形波の近似波形を音色として設定しチップの応答速度限界付近の出力を制御し、DACとして利用することで、PCMとして利用するソフトウェア等も存在している。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "同時期のPCの標準音源としてはリッチな部類であり、アーケードゲームで採用例の多かったYM2151とADPCMの構成はゲームソフトウェアでの高い再現性を実現すると共に、後述の音源ドライバの存在などによってユーザーも多くのデータを作成するに至った。またX1と異なり他の実装に近い(オクターブ指定など読み替えれば済む程度の)X-BASICのMMLは雑誌への音楽プログラムの投稿や掲載にも繋がっている。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "それ以外にも外部音源モジュールを制御するMIDIボードなども純正ハードウェアとして発売されており、ゲームソフトでは外部モジュールを使用したリッチなBGMを実現したものや、本体側の音源と同期演奏するようなものもあった。後述のようにそれらを活用するツールやドライバの類も充実することとなった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "他には本体の電源を制御する機能がついており、ソフト上から時間を指定して電源をON/OFFすることが出来た。このため、現在のPC/AT互換機でのATX/BTX筐体のように、前面の電源スイッチとは別に背面に主電源スイッチがあった(Compact / PRO / PRO IIを除く)。さらに正面電源スイッチのほかに背面にリモート電源端子があり、マグネットコイルリレーなどの外部スイッチより起動することも可能だった。また、4チャンネルのDMAも搭載していた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "キーボードは80C51を内蔵したシリアル制御で、キーボードの特定のキーに内蔵されたLEDをソフトウェア的に制御することも可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "本体の背面には10MHz動作の汎用拡張スロットが用意され、各種拡張カードや増設メモリカードなどの搭載が可能だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ジョイスティックポートは同時代に標準的となっていたD-sub9ピンのATARI規格準拠のものであり、電源ピンを持つ、MSXなどと同じピンアサインに変更された。このジョイスティックポートは縦型の機種では本体前面と背面に1ポートずつ、PRO系では前面に2ポート設置されていた。プリンターはセントロニクス仕様準拠のパラレルポートで、同時代の一般的なPC-9800シリーズのプリンターポートがそうだったように、入力はBusy信号のみの、事実上出力のみに特化した仕様のものが実装されていた。コネクタはX1同様のMIL-C-83503に準拠した俗に言うMILタイプ圧接コネクタだった。さらに、RS-232C上位規格のRS-232Eに準拠したシリアルポート、FDDの増設端子などのコネクタも標準搭載した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また初代機からSASI相当のハードディスクドライブ(HDD)増設端子を備えており、純正のX1turbo用増設ドライブの他、PC-9801用のSASIハードディスクを流用できた他、後に有志が公開したドライバによってSCSIとして使用することもできた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "HDD増設端子はX68000 SUPERからはSCSI端子に変更された。ACE以降は本体内にHDDを内蔵するスペースがあり、マウンタ等は設置されていないものの、保守部品として別途入手し工作することで内蔵することが可能であった。また、拡張SCSIインターフェイスは内蔵インターフェイスとハードウェア的には別の実装になっていることから、ドライバなどを除けば直接ハードウェアを制御するソフトウェアは少なく、純正ボードと全く異なるハードウェアであるMach-2/Mach2pなども、ROM上のソフトウェアがその差異を吸収している。便宜上、拡張ボード、内蔵デバイスと検索されるため、拡張ボードを使用した場合は内蔵デバイスが無効になる。これらをソフトウェア側で別IDを与え、併用するTwoSCSIというソフトウェアも開発された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "SCSI機器はSCSI端子を持つX68000に接続して利用できるはずだが、ある一時期に発売されたSCSI機器はX68000に接続しても認識できない問題が少なくなかった。この問題には、終端抵抗の有無(SCSI機器末端の終端抵抗を取り外すことで動作する機器も存在した)といった電気的特性の他、NECが発売していたPC-9801-55ボードや同時期のPC-9800シリーズ本体内蔵SCSIには1台目SCSI機器のベンダID先頭3文字がNECでないと起動しない制限、俗に言う「NECチェックの巻き添え」に起因するものがあり、パソコン通信を中心にSCSI機器動作確認情報の交換が行われていた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "初代機からX68000 XVI(PROを除く)までは立体視端子(STEREOSCOPIC端子)も装備されていたが、対応ソフトは電波新聞社から発売されたセガの『ファンタジーゾーン』のみで、利用するための専用ハードウェアが発売されることはなく、満開製作所がファミリーコンピュータ用「3D SYSTEM」をX68000の立体視端子に接続するためのアダプタセット(立体視端子を持たないPROやCompact、X68030にも対応)を発売するだけにとどまった。なお『ファンタジーゾーン』が発売された時には満開製作所のアダプタは発売されておらず、電波新聞社発行のマイコンBASICマガジン等でアダプターの自作が紹介された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、拡張カードを自作・試作するためのユニバーサルカードが、サンハヤト等から発売されていた。またX68000の拡張カードの仕様はPC-9801用の拡張カードの大きさと概ね寸法が近似していたため、X68000用のユニバーサルカードが入手が難しい場合には、PC-9800シリーズ用の物を電源及びグランドのパターンにパターンカットを施し、部品面 / 配線面を裏返しに用いることにより流用できた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "本体内蔵のROM(容量512KB)には、CP/MのBDOSやMS-DOSのIO.SYS、MacintoshのToolBoxなどに相当する基本入出力システムIOCS (Input Output Control System) を搭載、これを活用する標準添付のオペレーティングシステム(OS)としては、ハドソンとSHARPがMS-DOSを参考に開発したCUIベースのHuman68kが標準添付されていた。このHuman68kは、単にユーザインタフェースのルック&フィールがMS-DOSに酷似しているだけではなく、システムコールのファンクションもMS-DOSとほぼ同等だった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "MC68000MPU特有の特権モード(スーパーバイザモード)を生かし、一部システム領域を、アプリケーションからのアクセスから保護する機能も有していたため、アプリケーションエラーを検出し、実行を停止させることもできたが、OSとして特権モードとユーザーモードの分離が十分でなく、その後システムに復帰できるかどうかは運頼みの側面もあった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "Human68k上で動作する独自のGUIを取り入れた簡易的なウインドウシステムであるビジュアルシェルが付属していたが、後により洗練されたウインドウシステムであるSX-Windowによって置き換えられ標準添付となった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "言語としては、BASICを独自にC言語ライクな構文表記に拡張したX-BASICなども付属していた。X-BASICで作られたプログラムはC言語に変換してコンパイルすることも可能である。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本語入力ソフトとしてはASK68kというFEPが添付されていた。同時代の水準と比較してその変換精度にはやや難があったが、細部に目を移せば、ローマ字かな変換モードで「X」1文字で「ん」を入力できるといった操作体系や、あらかじめ日本語処理を意識して設計されたキーボード上の専用キーとの親和性は高かった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "X68000初代から日本語ワープロソフトwp.xが標準で添付されていた。機能的にシンプルでやや安定性に欠けていたものの、文書を書いて印刷するための最低限の機能は備えており、動作も軽いほか、メモリが許す限りファイルを同時に扱ったり、子プロセスを立ち上げられたりなどもできた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "SX-Windowでは、Ver.3.0以降wp.xに代わり、シャーペン.xというエディタが付属した。シャーペン.xは基本的にテキストエディタだが、各種フォント(書体倶楽部などのツァイト(Zeit)社製ベクトル/アウトラインフォントおよび書家万流など一部のシャープ製SX-Window用アプリケーショ同梱のアウトラインフォント)に対応するなどSX-Window Ver.3.0で拡張された機能をフルに生かすソフトとなっていた。また、多彩な表現力を備えるだけではなく、Human68kのCOMMAND.Xに相当するコマンドシェルを「コンソール」モードとして実装するなど、自在なカスタマイズの可能なものとなっていた。このシャーペン.xはSX-Window環境で標準添付あるいは市販されたものとしてはほぼ唯一のエディタ(後にフリーウェアとしてMuleなどが移植された)であり、他に選択肢が無かったこともあり、SX-Window上ではあらゆる用途で使用できるものとなっていた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1993年3月に発売されたX68030(エックス ろくはちまるさんまる)シリーズ(型名はCZ-500 / CZ-300シリーズ)は25MHzのMC68EC030を搭載したX68000の後継機種。名実ともに32ビットパソコンとなった。5インチFDDを装備するX68030 (CZ-500) と、3.5インチFDDを装備するX68030 Compact (CZ-300) の2機種が発売された。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "X68000発売当初は、次のMC68020以上のMPUを積む32ビットパソコン化の際は、大幅なアーキテクチャの拡大と改良が予定された。そのために移植性に優れたCコンパイラが安価に提供され、うまく行けば、ユーザーは既存のプログラムを再コンパイルするだけで32ビットパソコンへとスマートに移行できるはずだった。アセンブラレベルであっても、互換性に優れた上位プロセッサの恩恵を受け、趣味としての充分な時間と労力の中で問題にならない程度の一部の書き換えで事は済むはずだった。しかし、MC68EC030の採用に留まり、かつ後述されるわずかな改良に留まった。旧X68000シリーズとのソフトウェア互換性も低く、実質はX68000のソフトウェアも動作可能である 68EC030パソコンであった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "主記憶は標準で4MBとなり、内蔵の専用メモリーソケットに12MBまで搭載可能だった。MC68030 / MC68EC030は4GBのメモリー空間を持つが、X68030ではX68000のアーキテクチャを引き継ぎ互換性の維持を優先した結果、このメモリー空間の12 - 16MBの領域にメモリーマップドI/OやVRAMが配置され分断された。このことにより、セグメントによる制限のないリニアアドレッシングが売りの68系コンピュータでありながら、インテルの86系16ビットコンピュータの「640KB / 768KBの壁」などと同様の状態を生み出すこととなった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "なお、X68030シリーズでは通常のDRAMではなく、より高速にアクセス可能な日立製作所製スタティックカラムモードDRAMが採用された。これによってシステムタイミング上ではページ間をまたぐアクセス(1ウェイト挿入)以外については0ウェイトでのメモリーアクセスが可能であった。市販PCでこのメモリーを標準搭載したのは本シリーズが事実上唯一であった。FPUソケットも用意され、PLCC版のMC68881や、より高速なMC68882を追加できるようになっていた。MPU周辺回路の特徴を挙げると、内部標準搭載メモリーの動作クロック向上かつ 32ビットバスへの接続の結果、従来よりも高速なアクセスが可能となった。一部の周辺 I/Oなどが従来より高速動作可能となった点で性能改善が見られた。また、DMAコントローラーに従来よりも高速なものが使用されていた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その他の、特にこのパソコンのセールスポイントとなるべきグラフィックス回路は、X68000のものを踏襲したままとなった。よって旧来の 16ビットバスで接続され、アクセス時にオーバーヘッドが発生しやすく、高速化された MPUに追従し切れていないアンバランスな設計となっていた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "内蔵ハードディスクはどちらのモデルにもSCSIの2.5インチタイプのものを使用するようになっていた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "XVIのような動作クロックの切り替えスイッチはなく、起動時にキーボードのXF3~ XF5キーを押したままとすることでMPUの動作速度を旧機種と相当する速度から最高速度までの3段階(XF-3=10 MHz、XF-4=16 MHz、XF-5=25 MHz)に変更できるようになっていた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "バンドルされるDOSのHuman68kは先述のデバイスタイプ定義に伴う内部的な仕様の変更や、ネットワーク対応などを前提としたファイルシステムの拡張が施されたバージョン3.0となった。さらに、SX-Windowもバージョン3.0となり、ベクトルフォント対応などの機能強化と内部処理の高速化、それにテキストエディタ「シャーペン.x」の添付などにより実用性の向上が計られた。なお、X68030では従来のX68000用ソフトとの互換性維持のため、Fライン例外処理を行っている部分をAライン例外処理へ変更するなどの修正を実施した、Human68kバージョン2.15がROMに内蔵されており、上述のXFnキーとの組み合わせでフロッピーディスクから起動される、市販された全ての旧バージョンのHuman68kを自動判別して、ロード時に68030対応のHuman.sysと動的に差し替えると同時にCPUキャッシュの機能を停止するいう互換性向上機能が実装されている。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "MC68EC030はソケットによって実装されており、ユーザがより高速な33MHz版のMPUに差し替えたり、MMUを内蔵するMC68030に換装することが可能となっており、交換された場合、起動時にMMUの存在が認識、表示されるようになっている。後に、MC68040や、MC68060を搭載するためのアクセラレータが他社から発売された。クロック変更のためのパターンが基板上に記されている、起動時の POST表示にてで定格よりも高速な動作クロック周波数や標準では搭載されていないMMUの有無が自動判別されて表示される機能も組み込まれ入れていた。専門誌である『Oh!X』では発売と同時により高速な速度で駆動させるための改造記事が公開されていた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "FPUが通常のPGA版ではなくPLCC版とされたのは、当時このタイプのMC68882がMacintosh LCシリーズなどでサポートされており、店頭での入手が容易だったことに配慮されたためだったという。もっとも、このFPUは標準OSであるHuman68k上ではソフトウェアによる浮動小数点演算ドライバであるfloat2.xと共通のAPIでアクセスするfloat4.x経由でのアクセスとなったためオーバーヘッドがあった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "後に、16MB以上の空間にSIMMメモリを増設するボードが他社から発売され、これとMC68030のMMUを活用しハイメモリ空間にメインメモリを配置することも可能となった。なお、Human68kバージョン3.0でのプログラミングでは16MB以上のメモリー空間は、予約済み領域とされアドレスの上位1バイトはゼロで埋めることが要求されている。これは、将来16MBを超えるメモリー空間を利用する際に互換性を確保するためであった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "FPUのオーバーヘッドの問題も FPUを直接使用するようにプログラムされたプログラムが発表されるようになって、その問題は解決されていった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "5インチモデルの筐体のマウンタの取り付け位置はXVIなどと共通になっているため、XVI用のマウンタを保守パーツで購入するか、X68030用のものは穴を開けることで3.5インチのHDDも固定することが可能である。ただし、電源や、信号ケーブルのピッチなどが異なるため、別途変換するなどして配線する必要がある。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "SCSIインターフェイスは電気的にはSCSI 1規格準拠のままだったが、CCS (Common Command Set) の制定によりソフトウェアレベルでの互換性確保が可能となり、またデバイスタイプが明確に定義されたことから、従来はデバイスタイプをドライブの側でHDD互換としなければブートできなかった、光磁気ディスクドライブなどのリムーバブルメディアからのOSブートがサポートされた。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "従来機との互換性については前述の互換機能をもってしても起動すらままならなかったり、動作中に異常終了するなど正常に動作しなかったりして、パッチ適用など大幅な修正が必要なソフトが多く、この機種を購入するユーザーはたいていは旧機種である X68000を所有していたことから、わざわざ互換性の乏しいこの機種で X68000用のソフトウェアを実行させるよりも、本来のX68000で実行する、というケースがほとんどだった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、このパソコンのMPUをMC68030に差し替えることでMC68030が内蔵するMMUにより本格的な仮想記憶に対応したNetBSD等のUNIX互換OSも有志の手で移植された。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "このようにある程度の盛り上がりを見せたが、当時既に68000系プロセッサの優位性は、MIPSアーキテクチャなど高性能なRISCの台頭で失われており、さらに80386から始まったインテル製の32ビットプロセッサファミリーとの競合でも不利になり始めていた。実際に、かつて68000系MPUを採用したEWS等では80386や80486との差別化をより決定的にできるRISCプロセッサへの移行が進んでおり、AppleのMacintoshなど68000系のMPUを採用する機種では、前月にMMU内蔵のMC68030 25MHzと4MBのRAM・HDDを搭載したMacintosh LC IIIがより安く発売されたり、本体基本価格をかなり高く設定できる業務用の上位機種には、より高速なMC68040が搭載されていた。つまり個人がホビー用途として購入できる価格帯に、メーカー標準出荷状態で68000系MPUの最新のものを搭載することはコストの問題から事実上不可能だった。最終的にはきわめて特殊なパソコンとなり、価格も高価であったことから販売が振るわず、X68000シリーズは終焉を迎えることとなった。", "title": "X68030" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1988年、マルチタスクリアルタイムオペレーティングシステム(OS)としてMicroware社のOS-9/X68000が発売された。OS-9/68Kの単一機種売り上げでは世界記録を樹立するが、当時poor man's UNIX(プアマンズ・ユニックス、貧者のUNIX)とまで言われた、個人所有可能なUnix系環境としては当時ほぼ唯一と言ってよかったOS-9自体や、OS-9上で主流を占めるUnix系由来のツール環境に馴染むユーザーの絶対数が少なく、X68000ユーザーの間で広く普及することはなかった。その後、Ver.2.4が発売された。そして、X68030の登場とともに1993年にはMicroware社よりOS-9/X68030及びX11R5 for OS-9/X68030が発売された。Microware社から発売された OS-9/X680X0用X Window は X680X0シリーズ向け、動作環境としてメモリ8MB以上、ハードディスク80MB以上で、価格3万円。", "title": "オペレーティングシステム" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1989年にはニューウェイブからCP/M-68Kが発売されている。", "title": "オペレーティングシステム" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また商用ソフトウェアのOSの他にも、X68030、またはアクセラレータ基板併用によりMPUをMC68030やMC68040などに換装したX68000では、MINIXなども移植された。さらにX68030ではユーザーモードでもX Window Systemが使用できるよう、VRAMなどへのアクセスを可能とするためにMPUソケットの一部のピンを非接触とする加工をした上で、MPUをMMU内蔵のMC68030・MC68040・MC68060(アクセラレータ基板併用を含む)に交換する必要があったが、アマチュア有志によりNetBSDが移植された。", "title": "オペレーティングシステム" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "パワーユーザー(ヘビーユーザー)による拡張ボード開発の歴史は古く、極初期にはMacintosh互換ボードが一部のユーザーの間で開発された。これはSCSI拡張ポートやAppleTalk (RS422) ポートなどを含んだ本格的な物で、Macintosh用の多くのソフトウェアが動作したが、ROMを実機からコピーして流用するなど著作権上の問題があり、本格的に発売、流通されることはなかった。その後、『Oh!X』が休刊した1995年頃から、ユーザーが拡張ハードを自主製作することが本格的に行なわれるようになった。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "Mercury Unitの作者が、『美少女戦士セーラームーン』の登場人物であるセーラーマーキュリー役声優の久川綾の声を高音質で録音・再生することを目的としてMercury Unit(まーきゅりーゆにっと)と命名したことに由来し、慣習的に、各セーラー戦士の守護星とされる太陽系の惑星の名称が付けられることが多くみられた。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "などが実際に作られ、040turboが計測技研から、一部変更が加えられたMercury Unit(Version4)が「まーきゅりーゆにっと」として満開製作所から、製品として販売されている。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "本体を作ろうとする試みもあったが結局、完成には至っていない。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "発売元がシャープ、開発は別のソフトハウスというものも多い。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "SHARP販売 / SPS開発のもの。以下、発売順。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "X68000 / X68030向けのゲームソフトを精力的に開発し提供してきたゲームソフトメーカーを列記する。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "電波新聞社販売 / マイコンソフト開発 全13組18作", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "国内では全くパソコンに採用されなかった68000系列のパソコンであるが故の宿命から、オフィススイート等の実用ソフトを初めとしてパッケージソフトウェアに恵まれず、かつ圧倒的なPC-9801のシェアに押されていたことが、逆に独自の豊かなフリーウェア文化が花開く土壌を形成し、ユーザー有志の手により様々なソフトウェアが作られ、パソコン通信や書籍などを通じて配布された。市場占有率から勘案されるユーザーの絶対数に比して、その数と充実ぶりには目を見張るものがあり、日本のパソコン文化とは異なるヨーロッパのパソコン文化を思わせる流儀と実績を残した。特に主な標準ソフトウェアには、機能を強化した、リバースエンジニアリングによるパッチまたは互換プログラムが存在した。またGNUプロジェクトのツール環境の多くもHuman68k環境に移植された。パソコン市場で主流だったMS-DOS環境から孤立していたX68000の世界では、プロプライエタリなソフトウェアの供給を期待することがほぼ不可能といった事情などを受け、ユーザーの間、および専門誌『Oh!X』誌上では、しばしば「無ければ作る」(欲しいソフトが存在しないならば自分たちの手で作る、の意)という合言葉が使われた。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "SHARPから発売されたXCコンパイラはC言語の標準であるK&Rに非準拠であり、数々の制限があった。一方、有志の手により1988年初頭にはGNU C Compiler(以下GCC)が移植され、X68000への最適化も行われた。その後、GNU C++ (g++) も移植されるとともにライブラリも整備され、これらの開発環境の整備により多くのフリーソフトウェアを生み出した。これらは当時のパーソナルコンピュータとしては比較的大規模なソフトウェアであり、MS-DOS環境と比較して、X68000の持つリニアで巨大なメモリー空間を生かしたソフトウェア(移植)であると言える。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "音楽ドライバー・サウンドドライバー。Z-MUSICはVersion1系の後継であるVersion2系と、機能強化を図ったVersion3系の2系統があるが、Version2系の方が広く使われた。後述のMXDRVに比べると後発にあたり、処理速度の向上、機能の追加等が図られている。MXDRVとは直接の互換性はない。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "X68000の内蔵音源であるFM音源8声とADPCM1声(Version2系はPCM8.Xを使用することにより8声まで、Version3系はMPCM.X ©Wachomanを使用することにより16声まで)、MIDIボードが接続されていればMIDI楽器も同時にコントロールすることが出来る。MIDI出力はRS-MIDIアダプタ各種、POLYPHONボード等にも対応している。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "一般の音楽制御ドライバーでは1台のMIDI楽器をコンピュータの外部音源という位置付けで扱っていたが、Z-MUSICではX68000をホストコンピュータに複数のMIDI楽器をコントロールすることができるように設計されている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "Z-MUSICは、ゲームに組み込んで使うことも考慮して設計されており、一部の市販ゲームや同人ゲームで実際に採用された。また、第三者によって、他ドライバーからのデータ変換、ビジュアルプレイヤーやミュージックセレクター、データ制作や開発支援、ADPCMユーティリティーなど様々なツールが作られた。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "なお、Z-MUSICのZは、作者の名前である西川善司 (Nishikawa Zenji) から採ったものである。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "最も広く使われた音楽ドライバー。パソコン通信等で普及した。FM音源とADPCM音源を制御する事が出来る。前身にMUDRVがある。対応するのはMDXファイル(演奏データ、拡張子.mdx)とPDXファイル(ADPCMデータ、拡張子.pdx)。複数人で頻繁に改良が加えられたために数多くのバージョンが存在し、ADPCMを擬似的に多重発音出来るPCM8・PCM8Aに対応しているバージョンも有る。パソコン通信等ではコピー曲やオリジナル曲などのMDXファイルが数多く流通した。MMDSP、MDXSのように演奏をビジュアル表示する再生ソフトも数多く作られた。MXDRVは後にPC-9800シリーズとFM TOWNSにも移植され、音源チップの差からパート数や音色などが不完全ながらもMDX再生が出来た。Microsoft WindowsでもFM音源YM2151をエミュレートするDLLドライバーと組み合わせてMDXファイルを演奏する事が出来るアプリケーションが幾つか存在する。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "本体のみでは、FM8音/ADPCM16音を制御する事が出来るFM音源ドライバー。MIDI制御にこそ対応していないものの、満開製作所製MK-MU1Oがあれば搭載されているYMF288を同時に利用でき、FM20音、PSG6音、チップ内蔵リズム音源2セット、ソフトウェア合成によるADPCM16音の最大54音を同時に制御することが可能。更に、YMF288の効果音モードでオペレータごとの制御を可能にしているため、サイン波として扱った場合、FM音源のパートを最大26音制御することが可能になっている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ADPCMについては、江藤啓作のリアルタイムADPCM多重再生ドライバーPCM8.X (PCM8A.X, PCM8SB.X) を使用することにより、ソフトウェアレベルでPCMを合成し、見かけ上最大8チャンネルでの再生が可能である。別人によりPCM16.Xが試作された。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "X68000登場当初、そのグラフィック性能を生かしてパソコン通信経由であらかじめ決められた構文に従って相手側のパソコンに簡易なグラフィックとテキストを表示させつつ音楽を演奏させるソフトウェアが作成され、「あきら」と命名された。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "X68000では65,536色の表現が可能なことから、イラストレーションなどの表現で従来のベクターグラフィックからZ's Staff Pro 68k等のグラフィックツールによって作成されたラスター形式のグラフィックが主流になっていった。その中で一番の問題はその画像を保管するにあたり外部記憶装置の容量が絶対的に不足していたことであり、それを解決するべくPIC形式の画像圧縮フォーマットが考案された。これはX68000シリーズで画像を保管する際のスタンダードなフォーマットとなった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "電脳倶楽部は、満開製作所が発行していたX68000用ディスクマガジン。内容は読者投稿が大半を占めていた。『月刊電脳倶楽部』は1988年5月に創刊され、12年間に亘って発行された。初代編集長は三上之彦(祝一平)だった。Vol.140から媒体がCD-ROMに変更された。同社がX68000関連事業から撤退した2000年8月発行のVol.148で廃刊。", "title": "電脳倶楽部" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "その間に別冊も数多く発行され、『電脳倶楽部別冊』が壱號から拾六号まで、CD-ROMによる『すてきな電脳倶楽部』(すて電)、『すごい電脳倶楽部』(すご電)、『激光電脳倶楽部』がVol.1からVol.7まで発行。", "title": "電脳倶楽部" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "フロッピーディスクで発行されたVol.1からVol.139までは、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.1~50』『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.51~100』および『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1997年度版』(Vol.101 - 115)、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1998年度版 / 1999年度版』(Vol.116 - 139) としてCD-ROMにまとめられた。別冊も『電脳倶楽部別冊・完全保存版』としてCD-ROM化されている。", "title": "電脳倶楽部" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "DoGAは、大阪大学コンピュータクラブや京大マイコンクラブの有志が集まり、共同研究プロジェクト「PROJECT TEAM DoGA」として1985年に設立された。", "title": "DoGAとの関係" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "さらに1993年には、子会社として株式会社ドーガを設立し、法人としてDoGAの活動をサポートしている。", "title": "DoGAとの関係" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "DoGAは、シャープと提携し、X68000上で動くCG制作ソフト「DoGA CGAシステム」を開発。この活動にアスキー社(後のKADOKAWA/アスキー・メディアワークス)が関心を示し、『月刊ASCII』に開発状況を連載した。その後、ソフトバンク(後のSBクリエイティブ)の『Oh!X』に連載が引き継がれた。", "title": "DoGAとの関係" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "当時パソコン上でCGアニメを動画として見ることができるのは画期的な事であり、「DoGA CGAシステム」は、国産ソフトとしては日本初の試みだった。", "title": "DoGAとの関係" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "X68000と異なる内部構成を持つ 32bit後継機のプロトタイプも検討された。密かに各方面の有力関係者に予定しているスペックを提案した上で、商業的に成功するかどうかヒヤリングが行われた。内容的にはビデオ編集を自在に行えるパフォーマンスを備えた、当時としてはきわめて高スペックな仕様であったという。しかしながら予定価格が X68030の倍近くになると予測されていた。ちょうど時代はPC/AT互換機が DOS/Vを伴って日本で普及し始め、Microsoft Windowsも軌道に乗り始めていた時期である。結果、商業的には絶望的であるとの判断が下された模様である。加えて、シャープでもパソコン事業の2事業部制を改め、一事業部に統一して PC/AT互換機に社内リソースを集中させる方針を決定した。これにより、「真の意味での」 32bit後継機は日の目を見ることは無く、Xシリーズは必然的にその歴史にピリオドを打つことになった。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "X68030はX1から続いたXシリーズの最終機となった。Xシリーズ販売終了後、シャープはパソコン事業をPC/AT互換機であるMebiusブランドに集約した。このMebiusブランドを展開している部署は、Xシリーズを展開していた部署とはまったく異なる。Xシリーズを展開したテレビ事業部は、後年の組織変更により別の事業部(AVシステム事業本部)となった。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "『Oh!X』誌も、Windows 95の発売の年でもあった1995年末の12月号をもって休刊。1998年にムック形態で復刊したが、2001年春号以降、続刊は出ていない。またシリーズ発売終了後も周辺機器などを発売していた満開製作所は、創業者三上之彦が1999年4月2日に死去した後、2000年に事業撤退を表明して翌2001年には消滅した。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "Xシリーズ販売終了後、Webに代表される新しいパソコンの使い方が広まるにつれ、世界的なパソコンアーキテクチャーの統一が進行し、ユーザーは徐々にMacintoshやMicrosoft Windowsなどへと移行して行った。しばらくは非公式にユーザー同士で拡張ハードを自主製作するなどの勢いは引き継がれたものの、時間と共にそれは衰退していった。その後のパソコンの性能向上によってEX68をはじめとするエミュレータも作成され、それは単行本としても発売された。その後も秋葉原などでユーザー主催のイベントが何回か開かれた。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "2000年、OS、開発環境、BIOSなどがNIFTY-SERVEシャーププロダクツユーザーズフォーラムスタッフの尽力により、シャープ側の厚意もあって無償公開された。またZOOMなど一部のメーカーも自社製のアプリケーションソフトを無償で公開していたことがある。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "X68000はゲームプログラミング入門に適した特性を持つため、2000年以降もしばらくはゲーム制作者もしくはコンピュータに関する専門学校で、職業訓練にX68000を採用したところも存在した。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "Xシリーズは日本国内のみで販売された独自のアーキテクチャを持ったPCであるが、IOCSとDOS、エミュレーションソフトウェアがフリー形態で公開され、ネットワークによって世界に広まったため、日本国外でもXシリーズの認知度は比較的高い模様である。", "title": "シリーズの終焉" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "市場での流通終了から30年以上経過しているので、発売当初の状態で完全に動作する個体はほとんど存在しない。その原因として一番多いものは、電源ユニットの故障である。電源ユニットの大きさを小さくするため、採用された電解コンデンサの電解液に四級塩が使用されていた。これが経年劣化に弱く、リード線引き出し部分の密封用ゴムを侵して電解液の液漏れを起こし、結果的に回路ショートを起こす。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "なお、メーカー公式の修理受付は既に終了している。ただし非公式で修理請負を営んでいる個人も実在するので、まったく修理不可能という訳ではない。電源ユニットそのものを取り外し、ACアダプタを使えるように改造した例も存在する。現在でも動作の可否を無視すれば、本体はネットオークションなどを通じて入手することができる。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "また、その独特の筐体がもつフォルムもあって、好事家の中にはX68000の筐体を利用して内部にPC/AT互換機用パーツを組み込んだユーザーも多数実在する。中には5.25インチFDDの位置にスロットインタイプの光学(CD・DVD等)ドライブを取り付け、X68000特有の機能だったオートイジェクト機能をそのまま再現するなどの工夫が施されているものもある。2013年には、X68000の筐体をPCケースとして復刻するプロジェクトが発足、2015年1月に試作品が公開、5月には一般公開された。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2016年12月にはRaspberry Pi2/3用の中密度繊維板製のケースが発売された。2018年には後継製品として、素材が樹脂となりシャープの正式ライセンス品を受け樹脂パーツの他、機種やロゴなどがデカールで添付されたケースが先ずはX68000XVIモデルの(MONAC-002)が2月、X68000/ACE/ACE-HD/EXPERT/EXPERT-HDモデルの黒、グレーモデルが7月に発売されている。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "これらコンピュータ製品以外にも、ちびちび-Xとして、X68030のフィギュアの付いたキーホルダーが自主制作品として販売されて居た事もあるほか、2019年にはショルダーバッグ製品が発表されている。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "エミュレータとして、Microsoft Windows上ではEX68、けろぴー、WinX68k高速版、XM6、Macintosh上ではX68EMなどがフリーソフトとして公開されている。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "実機の5分の2サイズで復刻された「X68000Z」がクラウドファンディング(CF)で販売され、2023年3月31日から購入者に順次届けられた。2022年12月に開始されたCFは目標金額3300万円を1時間で達成し、最終的に6627人から約3億5000万円が集まった。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "2022年6月8日に、メガドライブミニなどを開発している瑞起から「X68000ミニ」が発表され、2022年9月15日から18日まで開催されていた東京ゲームショウ2022にて「X68000 Z LIMITED EDITION」名称改め、モックアップを展示された。CZ-600のデザインのミニサイズである。", "title": "現在におけるX68000" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "当時のユーザーであった、瑞起の40歳代後半の技術者らが、前述した「無いものは作る」文化を形成したパソコンであり、「夢の続きを描きたい」と「ロクハチ」復活を訴えて事業化が決まり、シャープから許諾は得られたものの資料は現存していないとの回答を受けた。インターネットオークションで実物を入手して採寸するなどして、キーボードの打ち心地も再現したが、フロッピーディスクの代わりにSDカードを差し込むなど現代に合わせて一部は仕様変更されている。", "title": "現在におけるX68000" } ]
X68000は、1987年(昭和62年)3月28日にシャープが発売したパーソナルコンピュータである。なお以下では、その初代に引き続く、1987年発売のX68000(CZ-600)シリーズとして現在扱われている製品関連の他、1993年(平成5年)発売のX68030(CZ-500/CZ-300)シリーズについても述べる。
{{出典の明記|date=2011年10月}} [[File:X68000ACE-HD.JPG|thumb|right|200px|X68000 ACE-HD(1988年)]] [[File:Vcfe2007 img 5135.jpg|thumb|right|200px|X68000 ACEセット(1988年)]] [[File:X68000 EXPERT2.JPG|thumb|right|300px|X68000 EXPERT IIセット(1990年)]] '''X68000'''(エックス ろくまんはっせん<ref name=朝日20230421/>)は、[[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月28日]]に[[シャープ]]が発売した[[パーソナルコンピュータ]]である。なお以下では、その初代に引き続く、1987年発売のX68000(CZ-600)シリーズとして現在扱われている製品関連の他、1993年([[平成]]5年)発売の'''X68030'''(CZ-500/CZ-300)シリーズについても述べる。 == 概要 == 「[[X1 (コンピュータ)|パソコンテレビX1]]」を送り出したシャープのテレビ事業部による後継機である。略称は'''X68k'''、'''ペケロク'''、'''ロクハチ'''<ref name=朝日20230421>「[https://www.asahi.com/articles/ASR3076FHR3JULZU00V.html 伝説のパソコン復刻:ロクハチ 36年経て]」『[[朝日新聞]]』夕刊2023年4月18日1面(2023年4月23日閲覧)</ref>、'''ロッパー'''、'''ペケロッパ'''など。[[#X68030|X68030]]シリーズと併せ、'''X680x0'''と表記されることもあった。メーカーのシャープは「パーソナル[[ワークステーション]]」と称した。 最大6万5536色を表示できる高いグラフィックス性能と[[シンセサイザー]]に匹敵する音楽性能<ref name=朝日20230421/>から、[[1980年代]]後半から[[1990年代]]前半にかけて、[[ホビーパソコン]]の一角を担った。日本のホビーパソコン[[CPU]]に[[モトローラ]]の[[MC68000]]を採用した機種は、他に発売されなかった。販売台数は1991年9月の時点で13万台<ref>[[アスキー (企業)|アスキー]](後の[[KADOKAWA]]/[[アスキー・メディアワークス#株式会社KADOKAWA アスキー・メディアワークス|アスキー・メディアワークス]])刊行パソコン雑誌『[[LOGiN]]』1991/10/4号より。</ref>。 標準の[[オペレーティングシステム]](以下OS)だった[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]の[[Human68k]]、および[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]の[[SX-Window]]は、後にユーザーコミュニティに対してフリーで公開された。 2015年には、内部構造や回路図などを収録した「サービスマニュアル」が公開された<ref>{{cite news|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/683361.html|title=シャープ「X68000」の回路図など記載の“裏マニュアル”電子化、「GALAPAGOS STORE」で無料配信|publisher=INTERNET Watch|date=2015-01-13|accessdate=2015-02-02}}</ref>。 == 歴史 == === 開発~発表 === 初代機のX68000は、発売前年の[[1986年]](昭和61年)に発表された。開発は、パソコン[[テレビ]]「[[X1 (コンピュータ)|X1]]」シリーズを開発した、シャープ栃木のテレビ事業部。[[ソフトウェア]]・[[ハードウェア]]共に「X1」シリーズとの[[互換性]]は一部の周辺機器を除いてないが、実質上の後継機種である。[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]をリリースし、後の[[Mebius]]ブランドパソコンの元となった産業機器事業部([[奈良県]][[大和郡山市]])は関わっていない。 初めて発表されたのは、1986年(昭和61年)10月2日 - 7日に開催されたエレクトロニクスショー'86(後の[[CEATEC JAPAN]])。シャープブースの一角に展示され、[[デジタイズ]]された女性歌手[[荻野目洋子]]{{efn2|当時、シャープのAV機器のイメージキャラクターでもあった。}}の6万5,536色<ref name=朝日20230421/>画像と「グラデュース自走」と銘打たれた『[[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]』の実動画面、そして画面切替によるチェス盤の上をあらかじめ[[レイトレーシング]]された玉が跳ねるといった[[デモンストレーション]]が行われた。展示画面には「新開発 16ビット パーソナルワークステーション X68000」と書かれた絵文字と南国をイメージした背景が表示されていた。 [[イベントコンパニオン|コンパニオン]]によるデモンストレーションは、「このパソコン、何と喋るんです」のナレーションに答えてX68000が「早く紹介して下さいよ」と[[ADPCM]]で発声するもので、その後ハードウェアの特徴と構成が紹介されるというものだった。後述の「マンハッタンシェイプ」はこの時点で名称が確定しており、デモンストレーションでも紹介された。 当時、日本で68000系を採用したパーソナルコンピュータはほとんど前例がなく、業務用の[[エンジニアリングワークステーション|EWS]]と誤解した人も多かったため、会場ではそれほど大きな注目は集めなかった。MC68000採用の理由は、メモリ空間が16MBと大きいことと、''「OSがのっかりやすい」''ことだった<ref>『パソコンヒット商品物語』(1991年)88頁にある、電子機器事業本部液晶営業システム事業部(1988年当時)の小林冬記による証言から引用。</ref>。当時、日本の[[電機メーカー]]の間で68000系[[MPU]]を採用する独自のEWSを開発・発売するのが一つの流行になっていた{{efn2|[[ソニー]]の[[NEWS (ソニー)|NEWS]]や[[オムロン]]の[[Luna (ワークステーション)|Luna]]など。}}背景もあった。 その後、『[[Oh!X|Oh!MZ]]』誌を始め、各[[パソコン雑誌]]にて取り上げられた事により認知が高まり、次いでシャープ[[市谷|市ヶ谷]]のエルムホールにて[[九十九電機]]と協賛したお披露目が行われた(全国各地で行われたという説もあるが、詳細は不明)。内容は[[ボレロ (ラヴェル)|ラヴェルのボレロ]]を[[FM音源]]で再生しつつ、[[デジタイズ]]された画面を次々と「[[X1 (コンピュータ)|X1]]」シリーズ用の[[HDD]]ユニットより読み込んで表示させるというものだった。また、『[[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]』のデモについては[[ビックバイパー]]だけが[[カーソルキー]]の操作に合わせて可動し画面内を飛んでいるというものに変わった。 === 発売 === 発表から発売まで約5カ月空いたため、発売前から一部の店舗にデモ機が置かれた。この時点で『グラディウス』、[[アセンブラ]]、[[X68000のテーマ]]等の同梱ソフトウェアは揃っていたが、本当に発売できるのか、あるいは発表された価格を実現できるのかについて懐疑的に見る向きも多かった。実際に発売されたのは、1987年3月下旬である。出荷数は少なく、実際に購入者の元に[[初期ロット]]が届けられたのを見て、突発的に注文する顧客もいた。 その結果、シャープは[[バックオーダー]]を抱えることとなり、好調な滑り出しとなった。 当初は[[インテル]]系プロセッサを始め、様々なプロセッサの搭載が検討されていたとされるが、最終的には[[Macintosh]]と同じ[[MC68000]]が採用され、日本のメーカーによる最初にして最後の68000系[[コンシューマー|個人]]向けパソコンとなった。 当時としては大容量を誇る[[VRAM]]と強力なグラフィックコントローラ群によって実現された65,536色の多色グラフィックと[[スプライト (映像技術)|スプライト]]機能、[[FM音源]]8チャンネル+[[Adaptive Differential Pulse Code Modulation|ADPCM]]1チャンネル、1MBのメインメモリ(最大12MB)等の周辺回路により、総合的に競合製品を凌駕するホビーマシンとしての性能を備えていた。その象徴となるのが標準添付アプリケーションの一つでもある、当時は[[ゲーム機|ゲームコンソール]]でも多くの要素が省略されて移植されていた『[[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]』の存在である。 価格は36万9000円で、購入資金を貯めるためアルバイトに励む学生ら若者も多かった<ref name=朝日20230421/>。実売価格は40万円程度で発売された。 また、「'''5年間はハードの基本仕様を変えない'''」という方針が当初から決められていた。 [[File:Cynthia Chipset in the Sharp X68000 Computer.jpg|thumb|Cynthia CZ-600Cに搭載されたスプライトコントローラ。]] [[File:VSOP Chipset in the Sharp X68000 Computer.jpg|thumb|VSOP CZ-600Cに搭載されたビデオコントローラ。]] これらの機能を実現するための膨大な[[電子回路|回路]]の実装には積極的に[[カスタムLSI]]が採用された。初代機ではそれぞれビーナス1・ビーナス2([[ブラウン管|CRT]]コントロール)、VSOP([[ビデオ]]コントローラー)、シシリアン([[入出力|I/O]]コントローラー)、ET([[主記憶装置|メモリー]]コントローラー)、シンシア・シンシアJr.([[スプライト (映像技術)|スプライト]]コントロール)の[[コードネーム]]が付けられていたものが使われた。試作機段階ではこれらの機能を全て[[標準ロジックIC]]で実装したとされ、その容積は[[19インチラック]]1本分に上ったとされている。 こうした設計から、ホビー向けマシンとしてその機能を生かしたソフトウェアやハードウェアなどを自作するマニア層を中心に、当時としては安価な[[コンピュータグラフィックス]](CG)制作機として映像作品を創作する者もいた。同様に、ゲームソフトウェアも多く作成され、[[アーケードゲーム]]の移植も多数リリースされたことから、コアなゲームユーザーなどにも支持されていた。 このように、ビジュアル的なパフォーマンスでは強烈なインパクトを示した機体だったが、実務面では既に[[PC-9800シリーズ]]がビジネス向けパソコンの主流として納まっていた背景もあり、オフィス系(実務・応用)[[アプリケーションソフト]]への対応状況などは比例して芳しくなかった。その一方で教育・組み込み向けなどへの営業展開もなされていた。一部のアーケード(業務)用ゲーム機の筐体に組み込まれたり、PROシリーズなどが業務用組込みシステムの開発用途に着目され、Forks社などからX68000での動作を前提にした[[OS-9]]環境で動作する[[Local Area Network|LAN]]ボードなどの周辺機器が発売されたこともある。通勤電車の行き先電光板の制御用として使われた実例もあった。教育分野では、ゲームクリエイターを育成するために、専門学校の実習機としても採用されていた。 [[プログラミング]]環境の整備に力が入れられており、専用の[[C言語]][[コンパイラ]]が安価な価格で提供された。標準で付属している[[BASIC]]である[[X-BASIC]]が、BASICとしては非常に独特の、C言語風味の言語仕様であり、X-BASICからC言語への変換ツールや、プログラミング上問題になりやすい差異について検出する構文検査ツールなどが提供されるなど、BASICからCへのユーザーの移行が考えられていた。また、[[システムコール]]及びハードウェア構成、それぞれのハードウェアへの[[機械語]]レベルでの直接アクセスの方法とそれぞれの[[ペリフェラル]]が持つ[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の意味と動作の全てが公開された。 === X68030の発売 === やがて、動作クロック16MHzの高速化機種であるX68000 XVI(エクシヴィ)発売を経て、X68030が発売された。実質的な最終機種である同機が発売された1993年頃には、[[DOS/V]]や[[Microsoft Windows 3.x|MS-Windows 3.1]]などのOSが搭載された[[PC/AT互換機]]や[[CD-ROM]]ドライブユニットがそれぞれ普及し始めていた。しかし、本シリーズはソフトウェアのメディア供給が依然として[[フロッピーディスク]]のみで、その大半が[[フロッピーディスク#5.25インチ|5.25インチ]]の[[2HD]]だった。それを打開するため、[[Small Computer System Interface|SCSI]]の[[CD-ROM]]ドライバが[[サードパーティー]]や[[フリーウェア|フリーソフト]]で開発された。ただし、一部のCD-ROMドライブでは正常動作しないなど制約も多かった。X68000シリーズ対応の[[CD-ROM]]を媒体としたソフトウェアもわずかながら発売された。またこの頃には、国産機としては初めて[[MPEG]]([[MPEG-1]])による動画再生(MPEGエンコーダボードを拡張スロットに装着し、OSはOS-9/X68030にて[[Video CD]]の視聴)を実現している。 キャッチコピーは「夢を超えた」(初代)、「アートの領域へ」(ACE)、「夢の続きを語ろう」(EXPERT / PRO)、「父のパソコンを越えろ」(XVI)、「夢の、頂きへ」(X68030)など。イメージキャラクターは[[ツタンカーメン]](X68000)、[[火の鳥]](X68030)など。 なお、当時のシャープ顧問だった[[宮永好道]]によると、シャープが本機を出す際に一番気にしていたのは、「他のやらない事をする」社風の[[ソニー]]の出方だったという。これは杞憂に終わったが、後にソニーは[[VAIO]]シリーズでその持ち味を出して来た、と自著で語っている<ref>[[宮永好道]]『誰も書けなかったパソコンの裏事情』([[並木書房]])</ref>。 == 外観上の特徴 == [[File:Brooklyn Bridge and World Trade Center, HAER NY-18-77.jpg|thumb|200px|アメリカ ワールドトレードセンターのツインタワー]] X68000の筐体は「マンハッタンシェイプ」と称する樹脂製の左右分割ツインタワー型デザインとなっており、片側には主に[[オートイジェクト]]が可能な5.25インチ[[2HD]]対応のフロッピーディスクドライブ(FDD)2基と電源ユニットを搭載。ACE以降の機種では、更に[[ハードディスクドライブ]](HDD)の取り付けスペースが設けられており、HDD搭載モデルではそこに取付金具とともに搭載されている。反対側のタワーには[[マザーボード|メインボード]]と共に拡張[[入出力ポート|I/O]]スロットを2基搭載した。2つのタワーの間にはポップアップハンドルを内蔵し、底部が連結されてそこに各種I/Oポートが実装されるサブ基板が搭載されていた。 この特徴的なCZ-600CEのデザインは純正のセットで1987年度の[[グッドデザイン賞]]に選ばれている<ref name="CZ-600">[https://www.g-mark.org/award/describe/14078 受賞番号:62K0709 (受賞対象:X68000 CZ-600CE、CZ-600DE、CZ-6STIEのセット)]</ref>{{efn2|グッドデザイン賞は、メーカーから審査依頼のあった商品とその組み合わせで審査が行われるため、実際に受賞しているものは一部バリエーションや一部の組み合わせに限定される。}}。このデザインは初代から、後継機のACE・EXPERT (II)・SUPERに受け継がれた。高速化されたXVI、X68030では基本的なシルエットはそのままに、縦置きの10MHz機よりも角の強調されたデザインとなっている。 マンハッタンシェイプという名前は、当時[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク市]]の[[マンハッタン島]]に存在した[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]のツインタワーの景観を連想させる事から名付けられた。なお、このツインタワーは、2001年9月11日の[[アメリカ同時多発テロ事件]]において倒壊している。 付属の専用[[マウス (コンピュータ)|マウス]]は上部の蓋を外すと[[トラックボール]]としても使用可能。マウス端子は本体に1つ、専用[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]に2つあった。PROシリーズはこれとは異なるPC然とした横置き筐体で、他モデルとデザインの異なる専用キーボード及びX1turboZ付属のものと同じマウスが付属し、拡張I/Oスロットを4基搭載したものとなっている。価格も縦置きのものと比較し安価に抑えられ、拡張性を強化した廉価版としての側面を持っていたが、従来の縦置きシリーズとは回路設計がやや異なる部分があり、SCSIボードの「Mach-2」など、非対応とされたハードウェアも少なからずあった。 XVI並びにX68030でラインナップされたCompactシリーズはオートイジェクトが可能な3.5インチFDDを搭載、プラスチック製で縦置きであるが非ツインタワー型で、専用キーボードはテンキーを省いたもの、マウスはPROと同じものが付属した。 ボディ色はグレーまたはブラック、SUPER以降はチタンブラックのみとなった。「X68000」のバッジは金色、Compactでは白色印刷、「X68030」のバッジは赤。 特徴ある外観の為、2016年公開のアニメーション映画『[[君の名は。]]』に描かれていることをシャープ公式[[Twitter|ツイッター]]がツイート<ref> {{Twitter status2|SHARP_JP|770061618239639552|4=SHARP シャープ株式会社の2016年8月28日のツイート|accessdate=2019-09-05}}</ref>。その後、[[新海誠]]監督本人も劇中の画像付きで該当シーンをツイート<ref>{{Twitter status2|shinkaimakoto|770110051935784967|4=新海誠の2016年8月28日のツイート|accessdate=2019-09-05}}</ref>している。 == 仕様 == [[File:Sharp X68000 Computer Main Processor Board.JPG|thumb|CZ-600Cメインボード]] [[File:Sharp X68000 Computer Video Board.JPG|thumb|CZ-600Cビデオボード]] === CPU === [[CPU]]には当時の[[Macintosh]]などと同じ[[モトローラ]]の[[MC68000]]を採用した。動作クロック周波数は10MHzで、無印、ACE、EXPERT、SUPERまでは[[セカンドソース]]の[[日立製作所]]製HD68HC000が使用された。当時[[CMOS]]版のMC68000を生産していたのは日立だけだった。 搭載された[[MC68000]]は、外部データバスが16ビット幅だったためモトローラは16ビットCPUと位置付けていたが、内部設計は32ビットであり、直交性の高い命令セットを特徴とした、同時代のCPUとしては[[アセンブリ言語]]が扱いやすい[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャー]]だった。 X68000には[[FPU]]として[[MC68881]]が使用可能であり、拡張スロットに装着するものが純正品としてシャープから発売されていた。 毎年高速化されていく他機種を横目に、4年を経てようやく、基本性能はそのままでクロック周波数が高速化されたXVIが登場した。このXVIと次のCompact XVIではモトローラ社製のMC68000が使用され、クロック周波数が16/10[[メガヘルツ|MHz]]の選択式になった。またFPUはメイン基板に専用ソケットが搭載された。 なおXVIの発売をきっかけとして従来の10MHz機やXVI・Compact XVIのクロック周波数を高速化する改造が[[電子掲示板|BBS]]や雑誌で公開され、ユーザーの間で流行した。 MPUは、Compact以外は[[CPUソケット|ソケット]]に実装されていたため交換が容易で、HD68HC000搭載機ではモトローラ純正MC68000に交換も行われた。さらに、変換基板を自作しての[[MC68020]]搭載を試みた者もいた他、製品としても、倍速ボード、MC68EC030アクセラレータなどもリリースされている。 === 主記憶 === メモリー空間は、MC68000が利用可能な16MBのうち、主記憶空間として12MBを使用することができた。この主記憶領域は[[リニアアドレシング]]が可能であり、また、領域を指定しスーパーバイザー領域とする事で、アプリケーション側からアクセス禁止にすることも可能だった。 標準では、初代・ACE・PRO・PRO IIは1MB<ref group="注">追加1MBは専用メモリーボードによってメインボード上に増設可能だが、2MB以上のメモリーを増設する場合はこの専用メモリーボードによってまず2MBまで増設することが必須である。</ref>、その他は2MBを搭載していた。シャープからは拡張スロットに差すタイプの4MBの拡張メモリーボードが発売されていたが、後に他社から8MB以上のメモリーを装備したものが発売された。X68000のメインメモリーは拡張スロットを介したものを含め、すべてノーウェイトアクセスであるが、動作クロックの上昇したXVI・Compact XVI以降の機種では、10MHz動作の汎用拡張スロット経由でのノーウェイトアクセスは不可能だったため、本体内部に8MBまで増設可能なメモリーソケットも用意された。ただし、この場合12MBまで増設するには8MB以降は拡張スロットによる増設となるため、この4MBをアクセスする場合は多大なウェイトが挿入されることとなり、これによる速度低下を回避するため、この領域を[[RAMディスク]]として使用するなどして、この範囲にコードが置かれることを回避する使用法もあった。 X68000は全機種でメモリーバックアップ機能を持つ16KBの[[Static Random Access Memory|SRAM]]を内蔵し、メモリースイッチの設定を保存するほか、RAMディスクとしての使用やSRAMからのシステム起動も可能だった。ただし、SRAM領域は通常は書き込み禁止に設定されており、プログラムの暴走など万一の事態でも書き換わる事はまず無いとされたが、PRO系の機種ではSRAM回りの設計に難があり、通常使用でもSRAMに書き込まれているデータが破損することがあった。一方、このSRAM領域を利用して潜伏・感染する[[コンピュータウイルス]]も存在した。 === グラフィック === グラフィック画面表示用の[[VRAM]](フレームバッファ)は512[[キロバイト|KB]]を搭載している。これを使用して、256×256または512×512×最大16[[ビット]](65,536色)、768×512×最大4ビット(16色)の表示が可能である。また、[[CRTC (LSI)|CRTC]]のレジスタを直接操作することにより、1,024×768×4ビットの表示や640×400に近い解像度、384×512などでの表示も可能である。 グラフィックVRAMへのアクセスには、領域として全2MB(1,024ドット×1,024ライン×16ビット)が予約されているが、実際に搭載されている512KBのVRAMは、画面モードによらず常に1ワード(16ビット)=1ピクセルとなるように512KB - 2MBのメモリ空間に配置される。すなわち、16色ならば、2MBのメモリ空間の下位4ビットが有効になり、256色表示ならば、1MBの領域の下位8ビット(残り1MBの領域は無効)、65,536色表示であれば先頭の512KBの領域で全16ビットが有効になるという仕組みである。これによりピクセル単位のカラー操作を容易なものとしていた反面、多数のピクセルを書き換える際にアクセス速度の点では不利だったが、のちにデータ転送時のみグラフィックVRAMの構成を切り換えて隙間なしでデータ転送するテクニックが登場した。 また、グラフィック画面だけで独立した面(プレーン)を最大4プレーン(512x512ドット 16色時)持つことができた。16色モード時には1,024×1,024ドット1プレーンまたは512×512ドット4プレーン、256色モード時には512×512ドット2プレーン、65,536色モード時には512×512ドット1プレーンという構成で、複数のプレーンを重ねあわせて表示することができる他、半透明機能があった。また、それぞれ独立に上下左右がつながった球面スクロールが可能となっている。 同時代のパーソナルコンピュータとして標準的な環境での解像度は640×400ドット16色であり、この表示に必要なVRAMは128KB弱であることからも、X68000の圧倒的な画像処理能力がうかがえる。X68000の65,536色は下表の形式の16ビットによって構成されており、[[RGB]]各5ビットによる32768色と輝度ビット(半段階の明るさ調整)によって実現されている。 {|class=wikitable style="text-align:center" !桁 |15||14||13||12||11||10||9||8||7||6||5||4||3||2||1||0 |- !色 |style="font-family:monospace;color:white;background-color:green"|G<sub>4</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:green"|G<sub>3</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:green"|G<sub>2</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:green"|G<sub>1</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:green"|G<sub>0</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:red"|R<sub>4</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:red"|R<sub>3</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:red"|R<sub>2</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:red"|R<sub>1</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:red"|R<sub>0</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:blue"|B<sub>4</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:blue"|B<sub>3</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:blue"|B<sub>2</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:blue"|B<sub>1</sub> |style="font-family:monospace;color:white;background-color:blue"|B<sub>0</sub> |style="font-family:monospace;color:black;background-color:white"|I |} (G:緑、R:赤、B:青、I:高輝度) グラフィック画面は、上記の他、高速クリアなどの画面制御機能はあったものの、基本的には[[MPU]]の直接制御によって図形描画が行われた。同時代の主な16ビット以上のパーソナルコンピュータで、グラフィックディスプレイコントローラーを採用しラインや多角形、塗り潰しなどの簡易的な描画機能が搭載されていた点とは対照的である。これは当時、安価なグラフィックディスプレイコントローラーのハードウェア描画機能がまだ貧弱であり、速度的にも充分なものでなく、かつ実装及びプログラミング上の制約が大きかったためと推測される。後にPC-9800シリーズでもこの問題から、[[グラフィックチャージャー]]と称してX68000同様の[[ピクセル演算]]機能を実現して、性能の向上を図っている。 === テキスト表示 === いわゆるキャラクタ単位のテキスト画面は用意されず、グラフィック面とは別に512KBのビットマップVRAMが用意されていた。 X68000のテキスト面はプレーンドピクセル方式のビットマッププレーンであり、同時代の標準的なパーソナルコンピュータのグラフィック画面に相当する情報量と表現力を持っていた。ビットマップによるテキスト表示は、その表現力と引き換えに、キャラクタ型VRAMと比較すると負荷が重い(遅い)ものであるが、X68000のテキストVRAMには同時プレーンアクセス機能やラスタコピー機能、ビットマスク機能などの画面制御機能が用意されており、CPUの処理を大幅に軽減することが可能となっていたため、十分な速度を得ることができた。 テキストVRAMは4プレーン存在するが、通常、そのうち2プレーンはマウスカーソルとソフトウェアキーボード、電卓の表示に使用されるため、テキスト表示は2プレーンで行われることが多い。 テキスト表示用にフォントパターンを[[Read Only Memory|ROM]]に搭載している。このCGROMに搭載されている文字種は、16×16ドットの[[JIS漢字コード|JIS第1/2水準漢字]]に加え、24×24ドット、12×12ドットのJIS第1/2水準漢字(非漢字752文字、第1水準漢字3,008文字、第2水準漢字3,478文字)である。このほか、ビットマッププレーンを生かし、ユーザー定義の[[フォント]]を使用することも可能だった。 通常の16ドットフォントを使用した際のテキスト表示は半角で96文字×32行であるが、VRAM自体は1,024×1,024ドットの広さを持っており、これを利用してSX-Window Ver.3.xでは起動時オプションの指定で最大1,024×848([[インターレース]])での表示が(隠し機能的に)可能なほか、[[CRTC (LSI)|CRTC]]の[[レジスタ]]操作と入力周波数の物理的な変更により、1,024×1,024ドットのフルスクリーン表示なども実現されている。なお、インターレース表示での高解像度画面は、長残光CRTを使用しないかぎり、ちらつきが著しく実用に耐えない。そのため、X68000 Compact XVIやX68030ではSX-Windowの640×480表示用に追加搭載された50MHzのクロックオシレータをより高周波数のもの、具体的には80MHzや100MHzのものに交換し、高解像度対応の[[ブラウン管|CRT]]と組み合わせてSX-Windowの高解像度表示を実用的なものとすることが『Oh!X』誌で紹介され、一部でこの改造が流行した。 このテキスト面は前述の画面制御機能が使用できるほか、1ワードで最大16ドット、ロングワードで32ドットの書き換えが可能となるため、用途によってはテキスト画面をグラフィック画面代わりに使用し、他機種からのゲーム等の移植にも使われた。ビジュアルシェルやSX-WindowもテキストVRAMで実現されている。 === スプライト表示・その他の表示機能 === その他には、16ドット×16ラインで65,536色中16色、同時表示枚数128枚の「スプライト機能」と「BG面」を持っている。これは、特に[[アクションゲーム]]や[[シューティングゲーム]]の作成に非常に有効だった。スプライトとBGのパターンデータは共用であり、VRAMとは独立した16KBの高速SRAMを使用していた。 スプライト以外の、これらの全ての画面を合わせると、最大で7枚(グラフィック4枚+テキスト1枚+BG2枚)もの独立スクロール機能付きの画面をハードウェアで合成表示することが可能だった。 他には、パソコンとしては珍しく「[[走査線]](ラスタ)割り込み」を可能としていた。なお、ライバルと目された[[FM TOWNS]]は、HSYNC(水平同期信号)を検出することは可能だったが、それを割り込みトリガには出来なかったため、一般にラスター割り込みを使うエフェクトは、他の手段で再現していた。 また、専用端子へ接続するカラーイメージユニットを使用することにより、当時としては先進的な、ビデオ信号のキャプチャが可能だった。 X1のパソコンテレビの機能も受け継いでおり、テレビチューナー付の純正の専用[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]では、チャンネル操作や[[スーパーインポーズ (映像編集)|スーパーインポーズ]]などのテレビコントロールも可能だった。 === サウンド === サウンド機能として、4オペレータ、[[ステレオ]]最大8音同時発声できる[[FM音源]] ([[YM2151]])と[[モノラル]]4bitで3.9、5.2、7.8、10.4、15.6kHzの周波数でサンプリングできる[[適応的差分パルス符号変調|ADPCM]]([[沖電気工業|沖電気]]製MSM6258)を標準で搭載した。YM2151の定格入力周波数は3.58MHzであるが、本機ではX1に合わせ4MHzが入力されており、CZ-8FB03(New Z-BASIC)のMMLでは容量を除きX-BASICのMMLと互換性があった。チップの定格と異なる為、アーケードゲームの移植の際、音程がずれたまま発売{{efn2|R-Type、イメージファイト等}}されている物もある。デモンストレーションでは「喋る」という形で音声の利用を前提とした留守番電話用のチップであるMSM6258はチップの出力はモノラルであったが、YM2151と合わせ、左、中央、右に出力を定位させることができた。 ADPCM([[適応的差分パルス符号変調]])は、サンプリング周波数こそ変えられ、前述のように定位する場所は指定できたものの、出力音量は固定であり、音程と呼べるほどの音程の指定もできず、音質も楽音を前提としたチップと比較して高いとは言えなかった。ゲームソフトなどでは効果音などとしても使われることから始まり、シンセサイザ然としたFM音源を補う形で同期再生し、[[パーカッション]]などとしての利用や、更にアタックを左右に振り、リリース部分を中央で再生することで5方向に定位して聞こえるような実装{{efn2|アクアレスのADPCM部<ref>ディスク内README2.DOCの記述</ref>}}の工夫が行われた。また、ソフトウェア的な合成{{efn2|PCM8.Xやその系譜、市販アプリケーションでは、SPSのサウンドドライバが68030で実行したときに4声分の合成を行うように実装されている。}}により発声数を増やす試みや、更にソフトウェア合成時に音程、音量を調整できるMPCM.Xや、同様の機能を追加したPCM8A.Xなど、個々にデータが必要だった音量、音程指定という弱点についても本体の高速化{{efn2|XVIや、X68030、CPUアクセラレータの登場などにより}}などもあり、ある程度の実用性をもって補われた。前述のとおり、MSM6258の出力はモノラルであるため、発声数を合成によって確保した場合には三か所のどこかに全ての出力が定位する形となる。また、ADPCM部のステレオ再生への試みとしては、左右への音声出力を高速にに切り替える手法<ref>『Oh!X』1993年3月号p128「PCMステレオ化大作戦!」内、PCMST.Sや、『電脳倶楽部』VOL.99(1996年8月号)PCMST.X、WAVST.X</ref>、片方をADPCM、片方をOPMによる再現によって実現する手法<ref>『電脳倶楽部』VOL.100(1996年9月号)STPLAY.X</ref>などが発表されている。 [[パルス符号変調|リニアPCM]]を扱うことはできないが、ハードウェアとして扱えるようにしたボードや、FM音源に対し矩形波の近似波形を音色として設定しチップの応答速度限界付近の出力を制御し、DACとして利用することで、PCMとして利用するソフトウェア<ref>[https://stdkmd.net/kohx3/ X680x0の内蔵音源を駆使した高品位ステレオPCM再生]</ref><ref>『Oh!X』1999年夏号「内蔵音源を駆使した高品位ステレオ PCM 再生」</ref><ref>[http://www.retropc.net/x68000/software/sound/stereopcm/s44play/s44play.htm S44PLAY.DOC]{{リンク切れ|date=2023年4月}}</ref>等も存在している。 同時期のPCの標準音源としてはリッチな部類であり、アーケードゲームで採用例の多かったYM2151とADPCMの構成はゲームソフトウェアでの高い再現性を実現すると共に、後述の音源ドライバの存在などによってユーザーも多くのデータを作成するに至った。またX1と異なり他の実装に近い(オクターブ指定など読み替えれば済む程度の)X-BASICのMMLは雑誌への音楽プログラムの投稿や掲載にも繋がっている。 それ以外にも外部音源モジュールを制御する[[MIDI]]ボードなども純正ハードウェアとして発売されており、ゲームソフトでは外部モジュールを使用したリッチな[[BGM]]を実現したものや、本体側の音源と同期演奏するようなもの<ref>『[[パロディウスだ! 〜神話からお笑いへ〜#移植版|パロディウスだ!]]』『[[悪魔城ドラキュラ]]』『[[ジェノサイド (ゲーム)|Genocide2]]』『[[ファランクス (ゲーム)|ファランクス]]』など</ref>もあった。後述のようにそれらを活用するツールやドライバの類も充実することとなった。 === その他の機能 === 他には本体の電源を制御する機能がついており、ソフト上から時間を指定して電源をON/OFFすることが出来た。このため、現在の[[PC/AT互換機]]でのATX/BTX筐体のように、前面の電源スイッチとは別に背面に主電源スイッチがあった(Compact / PRO / PRO IIを除く)。さらに正面電源スイッチのほかに背面にリモート電源端子があり、[[継電器|マグネットコイルリレー]]などの外部スイッチより起動することも可能だった。また、4チャンネルの[[Direct Memory Access|DMA]]も搭載していた。 [[File:X68000 keyboard.jpg|thumb|CZ-600Cキーボード]] キーボードは80C51を内蔵した[[シリアル通信|シリアル]]制御で、キーボードの特定のキーに内蔵されたLEDをソフトウェア的に制御することも可能{{efn2|X68000版の『[[コットン (ゲーム)|コットン]]』ではBGMに合わせて明滅するようになっている。}}だった。 === 拡張性他 === 本体の背面には10MHz動作の汎用拡張スロットが用意され、各種拡張カードや増設メモリカードなどの搭載が可能だった。 ジョイスティックポートは同時代に標準的となっていたD-sub9ピンの[[Atari 2600#コントローラ|ATARI規格]]準拠のものであり、電源ピンを持つ、[[MSX]]などと同じピンアサインに変更された。この[[ジョイスティック]]ポートは縦型の機種では本体前面と背面に1ポートずつ、PRO系では前面に2ポート設置されていた。[[プリンター]]は[[セントロニクス]]仕様準拠のパラレルポートで、同時代の一般的なPC-9800シリーズのプリンターポートがそうだったように、入力はBusy信号のみの、事実上出力のみに特化した仕様のものが実装されていた。コネクタはX1同様のMIL-C-83503に準拠した俗に言う[[MILタイプ圧接コネクタ]]だった。さらに、RS-232C上位規格の[[RS-232|RS-232E]]に準拠した[[シリアルポート]]、FDDの増設端子などのコネクタも標準搭載した。 また初代機から[[SASI]]相当の[[ハードディスクドライブ]](HDD)増設端子を備えており、純正のX1turbo用増設ドライブの他、PC-9801用のSASI[[ハードディスク]]を流用できた他、後に有志が公開したドライバ{{efn2|SxSI、TwoSCSIにも互換性改善を試みるプログラムが含まれる。これらドライバのドキュメントに含まれるパリティービットの生成回路の追加により、SCSI2の機器もより多く動作させることが可能である。}}によって[[Small Computer System Interface|SCSI]]として使用することもできた。 HDD増設端子はX68000 SUPERからはSCSI端子に変更された。ACE以降は本体内にHDDを内蔵するスペースがあり、マウンタ等は設置されていないものの、保守部品として別途入手し工作することで内蔵することが可能<ref name="HDD">Oh!X 1995年6月号 p.66 「大容量ハードディスク導入手引き」</ref>であった。また、拡張SCSIインターフェイスは内蔵インターフェイスとハードウェア的には別の実装になっていることから、ドライバなどを除けば直接ハードウェアを制御するソフトウェアは少なく、純正ボードと全く異なるハードウェアであるMach-2/Mach2pなども、ROM上のソフトウェアがその差異を吸収している<ref>『Oh!X』1995年8月号p.52「満開謹製SCSI2ボード」</ref>。便宜上、拡張ボード、内蔵デバイスと検索されるため、拡張ボードを使用した場合は内蔵デバイスが無効になる。これらをソフトウェア側で別IDを与え、併用するTwoSCSIというソフトウェアも開発された。 SCSI機器はSCSI端子を持つX68000に接続して利用できるはずだが、ある一時期に発売されたSCSI機器はX68000に接続しても認識できない問題が少なくなかった。この問題には、[[終端抵抗]]の有無(SCSI機器末端の終端抵抗を取り外すことで動作する機器も存在した)といった電気的特性の他、[[日本電気|NEC]]が発売していたPC-9801-55ボードや同時期の[[PC-9800シリーズ]]本体内蔵SCSIには1台目SCSI機器のベンダID先頭3文字がNECでないと起動しない制限、俗に言う「[[PC-9800シリーズ#55ボード問題|NECチェック]]の巻き添え」に起因するものがあり、[[パソコン通信]]を中心にSCSI機器動作確認情報の交換が行われていた。 初代機からX68000 XVI(PROを除く)までは立体視端子(STEREOSCOPIC端子)も装備されていたが、対応ソフトは[[電波新聞社]]から発売された[[セガ]]の『[[ファンタジーゾーン]]』のみで、利用するための専用[[ハードウェア]]が発売されることはなく、[[満開製作所]]が[[ファミリーコンピュータ]]用「[[ファミコン3Dシステム|3D SYSTEM]]」をX68000の立体視端子に接続するためのアダプタセット(立体視端子を持たないPROやCompact、X68030にも対応)を発売するだけにとどまった。なお『ファンタジーゾーン』が発売された時には満開製作所のアダプタは発売されておらず、電波新聞社発行の[[マイコンBASICマガジン]]等でアダプターの自作が紹介された。 また、拡張カードを自作・試作するためのユニバーサルカードが、[[サンハヤト]]等から発売されていた。またX68000の拡張カードの仕様はPC-9801用の拡張カードの大きさと概ね寸法が近似していたため、X68000用のユニバーサルカードが入手が難しい場合には、PC-9800シリーズ用の物を電源及びグランドのパターンにパターンカットを施し、部品面 / 配線面を裏返しに用いることにより流用できた。 === 標準ソフトウェア === 本体内蔵の[[Read Only Memory|ROM]](容量512KB)には、[[CP/M]]のBDOSや[[MS-DOS]]の[[IO.SYS]]、MacintoshのToolBoxなどに相当する基本入出力システム'''IOCS''' (Input Output Control System) を搭載、これを活用する標準添付の[[オペレーティングシステム]](OS)としては、[[ハドソン]]とSHARPがMS-DOSを参考に開発した[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]ベースの[[Human68k]]が標準添付されていた。このHuman68kは、単に[[ユーザインタフェース]]のルック&フィールがMS-DOSに酷似しているだけではなく、システムコールのファンクションもMS-DOSとほぼ同等だった。 [[MC68000]]MPU特有の特権モード(スーパーバイザモード)を生かし、一部システム領域を、アプリケーションからのアクセスから保護する機能も有していたため、アプリケーションエラーを検出し、実行を停止させることもできたが、OSとして特権モードとユーザーモードの分離が十分でなく、その後システムに復帰できるかどうかは運頼みの側面もあった。 Human68k上で動作する独自の[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]を取り入れた簡易的なウインドウシステムであるビジュアルシェルが付属していたが、後により洗練されたウインドウシステムである[[SX-Window]]によって置き換えられ標準添付となった。 言語としては、[[BASIC]]を独自に[[C言語]]ライクな構文表記に拡張した[[X-BASIC]]なども付属していた。X-BASICで作られたプログラムはC言語に変換してコンパイルすることも可能である。 [[日本語入力システム|日本語入力ソフト]]としては'''ASK68k'''という[[フロントエンドプロセッサ|FEP]]が添付されていた。同時代の水準と比較してその変換精度にはやや難があったが、細部に目を移せば、[[ローマ字かな変換]]モードで「X」1文字で「ん」を入力できるといった操作体系や、あらかじめ日本語処理を意識して設計された[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]上の専用キーとの親和性は高かった。 X68000初代から日本語ワープロソフトwp.xが標準で添付されていた。機能的にシンプルでやや安定性に欠けていたものの、文書を書いて印刷するための最低限の機能は備えており、動作も軽いほか、メモリが許す限りファイルを同時に扱ったり、子プロセスを立ち上げられたりなどもできた。 SX-Windowでは、Ver.3.0以降wp.xに代わり、シャーペン.xというエディタが付属した。シャーペン.xは基本的に[[テキストエディタ]]だが、各種フォント(書体倶楽部などの[[ツァイト]](Zeit)社製ベクトル/アウトラインフォントおよび書家万流など一部のシャープ製SX-Window用アプリケーショ同梱のアウトラインフォント)に対応するなどSX-Window Ver.3.0で拡張された機能をフルに生かすソフトとなっていた。また、多彩な表現力を備えるだけではなく、Human68kのCOMMAND.Xに相当するコマンドシェルを「コンソール」モードとして実装するなど、自在なカスタマイズの可能なものとなっていた。このシャーペン.xはSX-Window環境で標準添付あるいは市販されたものとしてはほぼ唯一のエディタ(後にフリーウェアとして[[Mule]]などが移植された)であり、他に選択肢が無かったこともあり、SX-Window上ではあらゆる用途で使用できるものとなっていた。 == X68030 == 1993年3月に発売された'''X68030'''(エックス ろくはちまるさんまる)シリーズ(型名は'''CZ-500''' / '''CZ-300'''シリーズ)は25MHzの[[MC68EC030]]を搭載したX68000の後継機種。名実ともに32ビットパソコンとなった。5インチFDDを装備するX68030 (CZ-500) と、3.5インチFDDを装備するX68030 Compact (CZ-300) の2機種が発売された。 X68000発売当初は、次の[[MC68020]]以上の[[MPU]]を積む[[32ビット]]パソコン化の際は、大幅な[[アーキテクチャ]]の拡大と改良が予定された。そのために移植性に優れたCコンパイラが安価に提供され、うまく行けば、ユーザーは既存のプログラムを再[[コンパイル]]するだけで32ビットパソコンへとスマートに移行できるはずだった。[[アセンブラ]]レベルであっても、互換性に優れた上位プロセッサの恩恵を受け、趣味としての充分な時間と労力の中で問題にならない程度の一部の書き換えで事は済むはずだった。しかし、MC68EC030の採用に留まり、かつ後述されるわずかな改良に留まった。旧X68000シリーズとのソフトウェア互換性も低く、実質はX68000のソフトウェアも動作可能である 68EC030パソコンであった。 主記憶は標準で4MBとなり、内蔵の専用メモリーソケットに12MBまで搭載可能だった。MC68030 / MC68EC030は4GBのメモリー空間を持つが、X68030ではX68000のアーキテクチャを引き継ぎ互換性の維持を優先した結果、このメモリー空間の12 - 16MBの領域に[[メモリマップドI/O|メモリーマップドI/O]]やVRAMが配置され分断された。このことにより、セグメントによる制限のないリニアアドレッシングが売りの68系コンピュータでありながら、[[インテル]]の86系16ビットコンピュータの「640KB / 768KBの壁」などと同様の状態を生み出すこととなった{{efn2|これはX68000の時点でハードウェアやプログラミングを工夫する事により回避できるものであったが、この対策をとらなかった事が後に禍根を残す事となった。なお、同種の問題は当時のMacintoshにもあったが、ハードウェア面では対策がとられていた為、OSやアプリケーションのバージョンアップにより解決した。}}。 なお、X68030シリーズでは通常の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]ではなく、より高速にアクセス可能な日立製作所製スタティックカラムモードDRAMが採用された。これによってシステムタイミング上ではページ間をまたぐアクセス(1ウェイト挿入)以外については0ウェイトでのメモリーアクセスが可能であった。市販PCでこのメモリーを標準搭載したのは本シリーズが事実上唯一であった。[[FPU]]ソケットも用意され、PLCC版の[[MC68881]]や、より高速な[[MC68881#MC68882|MC68882]]を追加できるようになっていた。MPU周辺回路の特徴を挙げると、内部標準搭載メモリーの動作クロック向上かつ 32ビットバスへの接続の結果、従来よりも高速なアクセスが可能となった。一部の周辺 I/Oなどが従来より高速動作可能となった点で性能改善が見られた。また、DMAコントローラーに従来よりも高速なものが使用されていた。 その他の、特にこのパソコンのセールスポイントとなるべきグラフィックス回路は、X68000のものを踏襲したままとなった。よって旧来の 16ビットバスで接続され、アクセス時にオーバーヘッドが発生しやすく、高速化された MPUに追従し切れていないアンバランスな設計となっていた。 内蔵ハードディスクはどちらのモデルにもSCSIの2.5インチタイプのものを使用するようになっていた。 XVIのような動作クロックの切り替えスイッチはなく、起動時にキーボードのXF3~ XF5キーを押したままとすることでMPUの動作速度を旧機種と相当する速度から最高速度までの3段階(XF-3=10&nbsp;MHz、XF-4=16&nbsp;MHz、XF-5=25&nbsp;MHz)に変更できるようになっていた。 [[バンドル]]されるDOSのHuman68kは先述のデバイスタイプ定義に伴う内部的な仕様の変更や、ネットワーク対応などを前提としたファイルシステムの拡張が施されたバージョン3.0となった。さらに、SX-Windowもバージョン3.0となり、ベクトルフォント対応などの機能強化と内部処理の高速化、それにテキストエディタ「シャーペン.x」の添付などにより実用性の向上が計られた。なお、X68030では従来のX68000用ソフトとの互換性維持のため、Fライン例外処理を行っている部分をAライン例外処理へ変更するなどの修正を実施した、Human68kバージョン2.15がROMに内蔵されており、上述のXFnキーとの組み合わせでフロッピーディスクから起動される、市販された全ての旧バージョンのHuman68kを自動判別して、ロード時に68030対応のHuman.sysと動的に差し替えると同時にCPUキャッシュの機能を停止するいう互換性向上機能が実装されている。 MC68EC030はソケットによって実装されており、ユーザがより高速な33MHz版のMPUに差し替えたり、[[メモリ管理ユニット|MMU]]を内蔵する[[MC68030]]に換装することが可能となっており、交換された場合、起動時にMMUの存在が認識、表示されるようになっている。後に、[[MC68040]]や、[[MC68060]]を搭載するためのアクセラレータが他社から発売された。クロック変更のためのパターンが基板上に記されている、起動時の POST表示にてで定格よりも高速な動作クロック周波数や標準では搭載されていないMMUの有無が自動判別されて表示される機能も組み込まれ入れていた。専門誌である『Oh!X』では発売と同時により高速な速度で駆動させるための改造記事が公開されていた。 [[FPU]]が通常のPGA版ではなくPLCC版とされたのは、当時このタイプのMC68882がMacintosh LCシリーズなどでサポートされており、店頭での入手が容易だったことに配慮されたためだったという。もっとも、このFPUは標準OSであるHuman68k上ではソフトウェアによる[[浮動小数点数|浮動小数点演算]]ドライバであるfloat2.xと共通のAPIでアクセスするfloat4.x経由でのアクセスとなったためオーバーヘッドがあった。 後に、16MB以上の空間に[[SIMM]]メモリを増設するボードが他社から発売され、これとMC68030のMMUを活用し{{efn2|一部、既存のアプリケーションとの互換性には問題が生じるものもあった。}}ハイメモリ空間にメインメモリを配置することも可能となった。なお、Human68kバージョン3.0でのプログラミングでは16MB以上のメモリー空間は、予約済み領域とされアドレスの上位1バイトはゼロで埋めることが要求されている。これは、将来16MBを超えるメモリー空間を利用する際に互換性を確保するためであった。 FPUのオーバーヘッドの問題も FPUを直接使用するようにプログラムされたプログラムが発表されるようになって、その問題は解決されていった。 5インチモデルの筐体のマウンタの取り付け位置はXVIなどと共通になっているため、XVI用のマウンタを保守パーツで購入するか、X68030用のものは穴を開けることで3.5インチのHDDも固定することが可能である。ただし、電源や、信号ケーブルのピッチなどが異なるため、別途変換するなどして配線する必要がある<ref name="HDD" />。 SCSIインターフェイスは電気的にはSCSI 1規格準拠のままだったが、CCS (Common Command Set) の制定によりソフトウェアレベルでの互換性確保が可能となり、またデバイスタイプが明確に定義されたことから、従来はデバイスタイプをドライブの側でHDD互換としなければブートできなかった、光磁気ディスクドライブなどのリムーバブルメディアからのOSブートがサポートされた。 従来機との互換性については前述の互換機能をもってしても起動すらままならなかったり、動作中に異常終了するなど正常に動作しなかったりして、[[パッチ]]適用など大幅な修正が必要なソフトが多く、この機種を購入するユーザーはたいていは旧機種である X68000を所有していたことから、わざわざ互換性の乏しいこの機種で X68000用のソフトウェアを実行させるよりも、本来のX68000で実行する、というケースがほとんどだった。 また、このパソコンのMPUをMC68030に差し替えることでMC68030が内蔵するMMUにより本格的な[[仮想記憶]]に対応した[[NetBSD]]等の[[UNIX]]互換OSも有志の手で移植された。 このようにある程度の盛り上がりを見せたが、当時既に68000系プロセッサの優位性は、[[MIPSアーキテクチャ]]など高性能な[[RISC]]の台頭で失われており、さらに[[Intel 80386|80386]]から始まった[[インテル]]製の32ビットプロセッサファミリーとの競合でも不利になり始めていた。実際に、かつて68000系MPUを採用した[[エンジニアリングワークステーション|EWS]]等では80386や[[Intel486|80486]]との差別化をより決定的にできるRISCプロセッサへの移行が進んでおり、[[Apple]]の[[Macintosh]]など68000系のMPUを採用する機種では、前月にMMU内蔵のMC68030 25MHzと4MBのRAM・HDDを搭載したMacintosh LC IIIがより安く発売されたり{{efn2|同年夏にはモニタ一体型のLC 520が、同年秋にはMC68LC040 25MHz搭載のLC 475が発売されている。}}、本体基本価格をかなり高く設定できる業務用の上位機種には、より高速な[[MC68040]]が搭載されていた。つまり個人がホビー用途として購入できる価格帯に、メーカー標準出荷状態で68000系MPUの最新のものを搭載することはコストの問題から事実上不可能だった{{efn2|MC68EC030の採用でコストを下げた一方、高コストなスタティックカラムDRAMを採用する、周辺回路について従来のままであったなどのアンバランスなシステム構成も問題だった。}}。最終的にはきわめて特殊なパソコンとなり、価格も高価であったことから販売が振るわず、X68000シリーズは終焉を迎えることとなった。 == オペレーティングシステム == 1988年、[[マルチタスク]]リアルタイム[[オペレーティングシステム]](OS)として[[Microware]]社の[[OS-9]]/X68000が発売された。OS-9/68Kの単一機種売り上げでは世界記録を樹立するが、当時poor man's UNIX(プアマンズ・ユニックス、貧者のUNIX{{efn2|なお、この表現は安価に使用できるというポジティヴな表現である。}})とまで言われた、個人所有可能な[[Unix系]]環境としては当時ほぼ唯一と言ってよかったOS-9自体や、OS-9上で主流を占めるUnix系由来のツール環境に馴染むユーザーの絶対数が少なく、X68000ユーザーの間で広く普及することはなかった。その後、Ver.2.4が発売された。そして、X68030の登場とともに1993年にはMicroware社よりOS-9/X68030及び[[X Window System|X11R5]] for OS-9/X68030が発売された。Microware社から発売された OS-9/X680X0用X Window は X680X0シリーズ向け、動作環境としてメモリ8MB以上、ハードディスク80MB以上で、価格3万円{{sfn|インターフェース1993年12月号|p=246}}。 [[1989年]]にはニューウェイブから[[CP/M#16ビット版|CP/M-68K]]が発売されている<!--同年に計測技研から発売されたのはCP/M-68Kエミュレータです-->。 また商用ソフトウェアのOSの他にも、X68030、またはアクセラレータ基板併用によりMPUをMC68030やMC68040などに換装したX68000では、[[MINIX]]なども移植された。さらにX68030ではユーザーモードでも[[X Window System]]が使用できるよう、VRAMなどへのアクセスを可能とするためにMPUソケットの一部のピンを非接触とする加工をした上で、MPUをMMU内蔵のMC68030・MC68040・MC68060(アクセラレータ基板併用を含む)に交換する必要があったが、アマチュア有志により[[NetBSD]]が移植された。 == 発売機種一覧 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |+ シャープ純正 |- !発売年!!機種名!!型式!!HDD容量!!定価(円)!!カラー<ref group="※">E, -GY:オフィスグレー、B,-BK:ブラック、-H:グレー、-TN,-B:チタンブラック</ref>!!ボディー!!メモリー容量!!特徴 |- | nowrap|1987年3月 |rowspan="2"|X68000 |rowspan="2"|CZ-600C |rowspan="2" style="text-align:center"|- |rowspan="2" style="text-align:right"| 369,000 | style="text-align:center"|E |rowspan="2" style="text-align:center"|タワー |rowspan="2" style="text-align:center"|1MB | CPUに日立HD68HC000 10MHz搭載、SASI搭載。<br />コナミ『グラディウス』バンドル。<br />1987年度グッドデザイン賞受賞<ref name="CZ-600" />。 |- | nowrap|1987年11月 | style="text-align:center"|B | ボディーカラー「ブラック」追加。 |- |rowspan="2"|1988年3月 | X68000 ACE | CZ-601C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 319,800 | rowspan="2" style="text-align:center"|-GY/-BK | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|1MB | rowspan="2"|後部I/O配置変更。前面スイッチによるFDD強制イジェクト機能追加。<br />HD搭載モデル追加。 |- | X68000 ACE-HD | CZ-611C | style="text-align:center"|20MB | style="text-align:right"| 399,800 |- |rowspan="4"|1989年3月 | X68000 EXPERT | CZ-602C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 356,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-GY/-BK | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|2MB | rowspan="2"|メモリー2MB標準搭載初モデル。 |- | X68000 EXPERT-HD | CZ-612C | style="text-align:center"|40MB | style="text-align:right"| 466,000 |- | X68000 PRO | CZ-652C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 298,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-GY/-BK | rowspan="2" style="text-align:center"|横置き | rowspan="2" style="text-align:center"|1MB | rowspan="2"|横置きボディ初モデル、拡張I/Oスロット4基<br />PRO専用キーボード・マウス<ref group="※">PROシリーズには[[パイオニア]]の[[OEM]]も存在している(本体のSHARPロゴがPIONEERになっている)。主に伝言ダイヤルなどの制御用として使用されていた。</ref><br />CZ-662Cのセットは1989年度グッドデザイン賞を受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/16173 受賞番号:89K0773(受賞対象:CZ-662C(GY)(BK)、CZ-603D(GY)(BK))]</ref>。 |- | X68000 PRO-HD | CZ-662C | style="text-align:center"|40MB | style="text-align:right"| 408,000 |- |rowspan="2"|1990年3月 | X68000 EXPERT II | CZ-603C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 338,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-GY/-BK | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|2MB | rowspan="4"|X68000ゴールドエンブレム採用。<br />BIOSの改良。SX-WINDOW添付。<br />CZ-613Cのセットは1990年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/17345 受賞番号:90K0799(受賞対象:CZ-613C、CZ-605D)]</ref>。 |- | X68000 EXPERT II-HD | CZ-613C | style="text-align:center"|40MB | style="text-align:right"| 448,000 |- |rowspan="2"|1990年4月 | X68000 PRO II | CZ-653C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 285,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-GY/-BK | rowspan="2" style="text-align:center"|横置き | rowspan="2" style="text-align:center"|1MB |- | X68000 PRO II-HD | CZ-663C | style="text-align:center"|40MB | style="text-align:right"| 395,000 |- | 1990年6月 | X68000 SUPER-HD | CZ-623C | style="text-align:center"|81MB | style="text-align:right"| 498,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-TN | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|2MB | rowspan="2"|SCSIインターフェイスを標準装備。<br />カラーバリエーションは「チタンブラック」のみ。<br />CZ-623Cのセットは1990年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/17344 受賞番号:90K0798(受賞対象:CZ-623C、CZ-613D)]</ref>。 |- | 1991年1月 | X68000 SUPER | CZ-604C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 348,000 |- | rowspan="2"|1991年5月 | X68000 XVI | CZ-634C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 368,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-TN | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|2MB | rowspan="2"|16MHzモードの追加。<br />ボディ形状の変更。<br />CZ-644C-TNは1991年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/18643 受賞番号:91K0882(受賞対象:CZ-644C-TN)]</ref>。 |- | X68000 XVI-HD | CZ-644C | style="text-align:center"|81MB | style="text-align:right"| 518,000 |- | 1992年2月 | X68000 Compact | CZ-674C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 298,000 | style="text-align:center"|-H | style="text-align:center"|タワー | style="text-align:center"|2MB | 3.5インチFDD搭載、コンパクトボディ、別名Compact XVI。<br />CZ-674CHは1992年度グッドデザイン賞受賞<ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/19668 受賞番号:92K0688(受賞対象:CZ-674CH)]</ref><ref>[https://www.g-mark.org/award/describe/19670 受賞番号:92K0690(受賞対象:CZ-674CH+CZ-608DH)]</ref>。 |- | rowspan="2"|1993年3月 | X68030 | CZ-500C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 398,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-B | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|4MB | rowspan="2"|モトローラ[[MC68030|MC68EC030]]の25MHz。メモリ4MBを標準装備。<br />X68030レッドエンブレム、ボディ形状変更 |- | X68030-HD | CZ-510C | style="text-align:center"|80MB | style="text-align:right"| 488,000 |- | rowspan="2"|1993年5月 | X68030 Compact | CZ-300C | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 388,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|-B | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|4MB | rowspan="2"|2HD/2DD両対応3.5インチFDD搭載<br />コンパクトボディ |- | X68030 Compact-HD | CZ-310C | style="text-align:center"|80MB | style="text-align:right"| 478,000 |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |+ 参考:他社改造発売製品 |- !発売年!!機種名!!型式!!HDD容量!!定価(円)!!カラー!!ボディー!!メモリー容量!!特徴 |- | 1992年5月 | X68000 XVI Compact-HD | CZ-310 | style="text-align:center"|80MB | style="text-align:right"| 466,000 | style="text-align:center"|グレー | style="text-align:center"|タワー | style="text-align:center"|2MB | Compact XVIに2.5インチ80MB HDD内蔵<br />(株)計測技研発売 |- | rowspan="2"|1993年6月 | X68000 Compact XVI RED ZONE | CZ-674C改 | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 160,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|グレー | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|2MB | Compact XVIのクロックを24MHzに改造したもの<br />(株)満開製作所発売 |- | X68000 Compact XVI RED ZOMBIE | | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| | クロックアップ耐性がなく24MHz駆動に耐えられなかった個体などを元の16MHzに戻して廉売したもの<br />(株)満開製作所発売 |- | 1994年9月 | X68030 D'ash | | style="text-align:center"|- | style="text-align:right"| 368,000 | style="text-align:center"|チタンブラック | style="text-align:center"|タワー | style="text-align:center"|4MB | X68030のクロックを33MHzに改造したもの、50台限定<br />(株)満開製作所発売 |- | 1994年11月 | X68030 HG/500 | | style="text-align:center"|500MB | style="text-align:right"| 368,000 | rowspan="2" style="text-align:center"|チタンブラック | rowspan="2" style="text-align:center"|タワー | rowspan="2" style="text-align:center"|8MB | X68030に500MB HDDと、8MBメモリーを搭載したもの<br />[[九十九電機]](株)発売 |- | 1995年4月 | X68030 HG/324 | | style="text-align:center"|324MB | style="text-align:right"| 328,000 | X68030に324MB HDDと、8MBメモリーを搭載したもの<br />[[九十九電機]](株)発売 |} {{reflist|group="※"}} == 周辺機器 == === シャープ純正 === ==== 内蔵用オプション ==== *増設RAMボード **CZ-6BE1 - CZ-600C用 (1MB) **CZ-6BE1A / CZ-6BE1B / CZ-6BE1B(A) - CZ-601C / 611C / 652C / 653C / 662C / 663C用 (1MB) **CZ-6BE2 / CZ-6BE4 / CZ-6BE4C - 拡張スロット用 (2MB / 4MB / 4MB) **CZ-6BE2A - CZ-634C/644C用 (2MB) **CZ-6BE2D - CZ-674C用 (2MB) **CZ-5BE4 - CZ-300C / 310C / 500C / 510C用 (4MB) *増設RAMモジュール ** CZ-6BE2B - CZ-6BE2A / CZ-BE2D用 (2MB) ** CZ-5ME4 - CZ-5BE4用 (4MB) *数値演算プロセッサボード (CZ-6BP1) *数値演算プロセッサ (CZ-6BP2) - CZ-634C / 644C / CZ-674(CZ-6BE2D)用 *数値演算プロセッサ (CZ-5MP1) - CZ-300C / 310C / 500C / 510C用 *FAXボード (CZ-6BC1) *[[GPIB]]ボード (CZ-6BG1) *[[Local Area Network|LAN]]ボード (CZ-6BL1 / CZ-6BL2) - BL1:10Base5 / BL2:10Base-2 / 5 *[[MIDI]]ボード (CZ-6BM1 / CZ-6BM1A) - BM1A:VCCI基準適合 *SCSIボード (CZ-6BS1) *増設用RS-232Cボード (CZ-6BF1) - 2チャンネル *ビデオボード (CZ-6BV1) *ユニバーサルI/Oボード (CZ-6BU1) *増設用ハードディスクドライブ ==== 外部機器 ==== *Compact用増設5インチFDD (CZ-6FD5) *ハードディスクユニット *光磁気ディスクユニット (CZ-6MO1) - 5.25インチ[[MO (記憶媒体)|MO]]ドライブ *拡張I/Oボックス (CZ-6EB1) - 4スロット 無印:グレー / -BK:ブラック PRO / PRO II非対応 *モデムユニット (CZ-8TM2) *カラーイメージジェット (CZ-6VT1) *カラーイメージスキャナー (CZ-8NS1 / JX-220X) *カラーイメージユニット (CZ-6VT1 (-GY / -BK)) *カラービデオプリンター (CZ-6PV1) *48ドット熱転写カラー漢字プリンター *ドットマトリクス漢字プリンター *ドットマトリクスカラー漢字プリンター *液晶ディスプレイ(XVI以降専用、解像度は[[Video Graphics Array|VGA]]相当のみ) ==== アクセサリー ==== *RGBケーブル (CZ-6CR1) - CZ-300C / 310C / 674C用 *RS-232Cケーブル (CZ-8LM1 / CZ-8LM2) - LM1:平 / LM2:クロス *SCSI接続ケーブル (CZ-6CS1) - CZ-300C / 310C / 500C / 510C / 674C用 *テレビコントロールケーブル (CZ-6CT1) - CZ-300C / 310C / 674C用 *インテリジェントコントローラー(サイバースティック) (CZ-8NJ2) *ジョイカード (CZ-8NJ1) *トラックボール (CZ-8NT1) *マウス (CZ-8NM1 / CZ-8NM2 / CZ-8NM2A) *マウス・トラックボール (CZ-8NM3) *アンプ内蔵スピーカーシステム (AN-160SP) === 他メーカーから === *[[V30]] CPU Board *V70 CPU Board *Polyphone サブCPU搭載MIDIボード *[[ARCNET]] Board *[[MIDI]] Board *EtherNet Board *H.A.R.P(X68000用倍速CPUアクセラレーター ジャスト) :ソケットとなっている機種ではCPUと交換することによってCPUを倍速で動作させるボード。ただし、CPUのクロックの向上のみであるため、キャッシュがないMC68000では実際の速度としての高速化は、1.06~1.13倍程度。高速なメモリボードも予定はされていたが発売されることはなく、最終的には前述のようなパフォーマンスに終わっている<ref>『Oh!X』1994年12月号 p.70「倍クロックアクセラレータH.A.R.P」</ref>。 *Xellent30シリーズ(X68000用68030アクセラレーター 東京システムリサーチ) :Xellent30がXVI用<ref>『Oh!X』1995年1月号p.116</ref>、Xellent30sがACE、EXPERT/II、SUPER用<ref>『Oh!X』1995年6月号p.74</ref>、Xellent30sがPro/II用<ref>『Oh!X』1995年11月号p.54</ref>。 :MC68EC030と、MC68882並びに、256KBのローカルRAM用SRAMを搭載。MC68EC030は本体から供給されるクロックの倍、FPUは基板上のオシレータを基準に33MHzで動作する。本体SRAMに常駐プログラムをインストールすることで起動時にCPUの選択を可能にする。CPUキャッシュがあることから、有効にした場合のパフォーマンスは前述の倍速ボードより高く、ローカルRAM上で実行することにより、更に高速に動作する。16MHz機では約33MHzでの動作となり、ローカルRAMで実行されるプログラムやキャッシュにヒットしたコードの実行速度はX68030を上回るが、バス調停などを伴うため画面表示などを行う実際のシステム全体としての速度はX68030を下回る。10MHz機では20MHz動作となるため、CPUのクロックの時点でX68030を下回っている。本体側の物理的なスペースなどの問題から、10MHz機であっても、製品によって対象機種が異なる。68030モードでの互換性はX68030とほぼ同様であるが、68000モードがあるため、システム全体の互換性という点ではメリットも存在した。 *060turbo(X68030用68060アクセラレーター 満開製作所) *XpanderIV :X68000 EXPERT、SUPER、XVI対応の拡張スロット。本体の拡張スロットと左のパネルを取り外し、製品の拡張スロットとパネルを設置する形でスロットを2基増設する。縦置きの機種全てに対応するが、カラーバリエーションは黒のみ。電源は本体のサブコンセントから取り、本製品にも、サブコンセントが設置されている。各種メモリ、インターフェイスも互換品が[[計測技研]]、[[I-O DATA機器]]などから販売されていた。 === パワーユーザーによる各種拡張カード === パワーユーザー([[ヘビーユーザー]])による拡張ボード開発の歴史は古く、極初期には[[Macintosh]]互換ボードが一部のユーザーの間で開発された。これはSCSI拡張ポートやAppleTalk (RS422) ポートなどを含んだ本格的な物で、Macintosh用の多くのソフトウェアが動作したが、ROMを実機からコピーして流用するなど[[著作権]]上の問題があり、本格的に発売、流通されることはなかった。その後、『Oh!X』が休刊した[[1995年]]頃から、ユーザーが拡張ハードを自主製作することが本格的に行なわれるようになった。 Mercury Unitの作者が、『[[美少女戦士セーラームーン]]』の登場人物である[[水野亜美|セーラーマーキュリー]]役[[声優]]の[[久川綾]]の声を高音質で録音・再生することを目的としてMercury Unit(まーきゅりーゆにっと)と命名したことに由来し、慣習的に、各セーラー戦士の守護星とされる[[太陽系]]の[[惑星]]の名称が付けられることが多くみられた。 *Mercury Unit (PCM) *Neptune-X([[Industry Standard Architecture|ISA]]用EtherNetカード接続アダプター) *Nereid(LAN+USB+Memory統合拡張ボード X-PowerStation製作) *Jupiter-X(X68000用68040 / 68060アクセラレーター) *Venus-X(X68030用68030アクセラレーター+セカンドキャッシュメモリー) *040turbo(X68030用68040アクセラレーター) *ビデオキャプチャーユニット *キーボード変換機 <!--プロジェクト断念とのことなのでとりあえずコメントアウト * 060turboX(X68000, X68030用[[MC68060|68060]]+[[Coldfire]]アクセラレーター X-PowerStation] ※開発中) --> などが実際に作られ、040turboが計測技研から、一部変更が加えられたMercury Unit(Version4)が「まーきゅりーゆにっと」として満開製作所から、製品として販売されている。 本体を作ろうとする試みもあったが結局、完成には至っていない。 == ソフトウェア == === シャープ純正 === 発売元がシャープ、開発は別のソフトハウスというものも多い。 ==== サウンドツール ==== *Sampling PRO-68K *SOUND PRO-68K *MUSIC PRO-68K *MUSIC PRO-68K〔MIDI〕 *Musicstudio PRO-68K *SOUND SX-68K *MUSIC SX-68K ==== グラフィックツール ==== *NEW Print Shop PRO-68K *CANVAS PRO-68K *Easydraw SX-68K *Easypaint SX-68K ==== OS ==== *[[Human68k]] *[[SX-Window]] *[[OS-9/X68000]] - 開発はマイクロウェアシステムズ ==== 開発環境 ==== *X-BASIC - Human68k標準付属の[[C言語]]ライクな[[BASIC]] *C Compiler PRO-68K - XC + ライブラリ *THE福袋 *XBAStoC CHECKER PRO68K - X-BASICのコードをC言語に変換したときに起こりえる問題点を指摘 *AI-68K(Staff [[LISP]] / OPS PRO-68K) *SX-WINDOW開発キット Workroom SX-68K ==== ビジネスツール ==== *Teleportion PRO-68K *Multiword PRO-68K *Hyperword PRO-68K *CYBERNOTE PRO-68K *Stationary PRO-68K *BUSINESS PRO-68K *BUSINESS PRO-68K Popular *CARD PRO-68K *DATA PRO-68K *TOP給与計算エキスパート *TOP財務会計 *PressConductor PRO-68K *CHART PRO-68K *EGWord SX-68K *フォント&ロゴ デザインツール 書家万流 SX-68K *XDTP SX-68K *Datacalc SX-68K ==== 通信ツール ==== *Communication PRO-68K *Communication SX-68K ==== ゲーム ==== ===== アーケード移植 ===== [[シャープ|SHARP]]販売 / [[エス・ピー・エス|SPS]]開発のもの。以下、発売順。 *[[ツインビー]]([[コナミデジタルエンタテインメント|コナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント)]]) - CZ-217AS / CZ-217ASC *[[アルカノイド]]リベンジオブDOH([[タイトー]](後の[[スクウェア・エニックス]]ホールディングス)) - CZ-222AS / CZ-222ASC *[[熱血高校ドッジボール部]]([[テクノスジャパン]]) - CZ-232AS / CZ-232ASC *[[沙羅曼蛇]](コナミ) - CZ-218AS / CZ-218ASC *[[フルスロットル (ゲーム)|フルスロットル]](タイトー) - CZ-231AS / CZ-231ASC *[[パックマニア]](隠しゲームで[[パックマン]]がプレイできる。)([[ナムコ]](後の[[バンダイナムコゲームス]])) - CZ-233AS / CZ-233ASC *[[ニュージーランドストーリー]](タイトー) - CZ-230AS / CZ-230ASC *[[V'BALL]]([[テクノスジャパン]]) - CZ-246AS / CZ-246ASC *[[スーパーハングオン]]([[セガ]]) - CZ-238AS / CZ-238ASC *[[サンダーブレード]](セガ) - CZ-239AS / CZ-239ASC *[[ダウンタウン熱血物語]](テクノスジャパン) - CZ-254AS / CZ-254ASC *[[サイバリオン]](タイトー) - CZ-229AS / CZ-229ASC *[[熱血高校ドッジボール部サッカー編]](テクノスジャパン) - CZ-262AS / CZ-262ASC *[[中華大仙]](タイトー) - CZ-268AS / CZ-268ASC *[[ダッシュ野郎]]([[東亜プラン]]) - CZ-269AS / CZ-269ASC *[[ボナンザブラザーズ]](セガ) - CZ-270AS / CZ-270ASC === 他メーカーから === ==== OS・開発環境 ==== *[[OS-9|OS-9/X68030]] *[[Microware Ultra-C]] Compiler for OS-9/X680x0 *[[X Window System|X-Window]]&Motif for OS-9/X68030 ==== グラフィックツール ==== *Z's Staff Pro 68k *Terrazzo Sprite Pro 68k *Matier ==== 3DCGソフトウェア ==== *[[3DCGツクール#サイクロンExpress|サイクロン (PSYCLONE) Express]] *C-TRACE 68 *[[DoGA CGA System]] *[[3Dアトリエ]] *[[Personal LINKS|XL/Image]] *[[Z's Triphony DIGITAL CRAFT]] ==== ゲームメーカー ==== X68000 / X68030向けのゲームソフトを精力的に開発し提供してきたゲームソフトメーカーを列記する。 *[[エス・ピー・エス|SPS]] *[[電波新聞社]]([[マイコンソフト]]) - 末期には「ビデオゲームアンソロジー」シリーズを展開した。 *[[コナミ]](後の[[コナミデジタルエンタテインメント]]) *[[カプコン]] *[[ズーム (ゲーム会社)|ズーム]] *[[エグザクト]] *[[ウルフ・チーム]] *[[システムサコム]] *[[マインドウェア|M.N.Mソフトウェア]] *[[魔法 (ゲーム会社)|魔法]] *[[エレクトロニック・アーツ|エレクトロニック・アーツ・ビクター]] *[[満開製作所]] - ゲームだけでなくX68000関連商品全般を開発し販売していた。 *[[サイバーヘッド (ゲーム会社)|アルシスソフトウェア]] ==== ビデオゲームアンソロジー ==== [[電波新聞社]]販売 / [[マイコンソフト]]開発 全13組18作 *vol.1 [[テラクレスタ]] / [[ムーンクレスタ]]([[日本物産]]) 1992年11月20日発売 *vol.2 [[チェルノブ]]([[メガドライブ]]用[[ゲームパッド|コントロールパッド]]変換アダプター付属)([[データイースト]]) 1993年1月29日発売 *vol.3 [[スターフォース]]([[テクモ|テーカン]](後の[[コーエーテクモゲームス]])) 1993年3月26日発売 *vol.4 [[リブルラブル]](専用十字パッド付属)(ナムコ) 1993年6月25日発売 *vol.5 [[クレイジー・クライマー]] / [[クレイジー・クライマー2]](日本物産) 1993年8月27日発売 *vol.6 [[ぶたさん]]([[ジャレコ]]) 1993年10月30日発売 *vol.7 [[ドラゴンバスター]](ナムコ) 1993年12月10日発売 *vol.8 エキサイティングアワー / [[出世大相撲]](テクノスジャパン) 1994年2月25日発売 *vol.9 [[アルゴスの戦士]]([[テクモ]]) 1994年4月28日発売 *vol.10 [[Mr. Do!]] / Mr. Do! v.s UNICORNS([[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]) 1994年7月2日発売 *vol.11 [[パックランド]](専用3ボタンジョイパッド付属)(ナムコ) 1994年12月9日発売 *vol.12 [[ディグダグ]] / [[ディグダグII]](ナムコ) 1995年3月10日発売 *vol.13 [[バラデューク]](ナムコ) 1995年5月26日発売 === フリーソフトウェア === 国内では全くパソコンに採用されなかった68000系列のパソコンであるが故の宿命から、[[オフィススイート]]等の実用ソフトを初めとして[[パッケージソフトウェア]]に恵まれず、かつ圧倒的な[[PC-9801]]の[[市場占有率|シェア]]に押されていたことが、逆に独自の豊かなフリーウェア文化が花開く土壌を形成し、ユーザー有志の手により様々なソフトウェアが作られ、[[パソコン通信]]や書籍などを通じて配布された。市場占有率から勘案されるユーザーの絶対数に比して、その数と充実ぶりには目を見張るものがあり、日本のパソコン文化とは異なる[[ヨーロッパ]]のパソコン文化を思わせる流儀と実績を残した。特に主な標準ソフトウェアには、機能を強化した、[[リバースエンジニアリング]]による[[パッチ]]または互換プログラムが存在した。また[[GNUプロジェクト]]のツール環境の多くもHuman68k環境に移植された。パソコン市場で主流だったMS-DOS環境から孤立していたX68000の世界では、[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なソフトウェアの供給を期待することがほぼ不可能といった事情などを受け、ユーザーの間、および専門誌『Oh!X』誌上では、しばしば「'''無ければ作る'''」(欲しいソフトが存在しないならば自分たちの手で作る、の意)という合言葉が使われた。 ==== GNU C Compiler ==== SHARPから発売されたXCコンパイラはC言語の標準であるK&Rに非準拠であり、数々の制限があった。一方、有志の手により1988年初頭には[[GNUコンパイラコレクション|GNU C Compiler]](以下GCC)が移植され、X68000への最適化も行われた。その後、GNU C++ (g++) も移植されるとともにライブラリも整備され、これらの開発環境の整備により多くのフリーソフトウェアを生み出した。これらは当時のパーソナルコンピュータとしては比較的大規模なソフトウェアであり、MS-DOS環境と比較して、X68000の持つリニアで巨大なメモリー空間を生かしたソフトウェア(移植)であると言える。 *Nemacs、microEmacs - [[テキストエディタ|エディタ]] *[[GNUデバッガ|GDB - GNU Debugger]] - [[デバッガ]] *GNU make - [[make (UNIX)|make]] *[[bash]] - [[シェル]] *HLK - High speed linker - [[リンケージエディタ|リンカ]] *HAS - High speed assembler - [[アセンブラ]] *[[TeX]]ツール等 ==== Z-MUSIC ==== 音楽ドライバー・サウンドドライバー。Z-MUSICはVersion1系の後継であるVersion2系と、機能強化を図ったVersion3系の2系統があるが、Version2系の方が広く使われた。後述のMXDRVに比べると後発にあたり、処理速度の向上、機能の追加等が図られている。MXDRVとは直接の互換性はない。 X68000の内蔵音源である[[FM音源]]8声と[[Adaptive Differential Pulse Code Modulation|ADPCM]]1声(Version2系はPCM8.Xを使用することにより8声まで、Version3系はMPCM.X ©Wachomanを使用することにより16声まで)、[[MIDI]]ボードが接続されていればMIDI[[楽器]]も同時にコントロールすることが出来る。MIDI出力はRS-MIDIアダプタ各種、POLYPHONボード等にも対応している。 一般の音楽制御ドライバーでは1台のMIDI楽器をコンピュータの外部音源という位置付けで扱っていたが、Z-MUSICではX68000を[[ホストコンピュータ]]に複数のMIDI楽器をコントロールすることができるように設計されている。 Z-MUSICは、ゲームに組み込んで使うことも考慮して設計されており、一部の市販ゲームや[[同人ゲーム]]で実際に採用された。また、第三者によって、他ドライバーからのデータ変換、ビジュアルプレイヤーやミュージックセレクター、データ制作や開発支援、[[Adaptive Differential Pulse Code Modulation|ADPCM]]ユーティリティーなど様々な[[ツール]]が作られた。 なお、Z-MUSICのZは、作者の名前である西川善司 (Nishikawa Zenji) から採ったものである<ref>[http://www.z-z-z.jp/zmusic/ Z-MUSIC Home Page]</ref>。 ===== Z-MUSICシステム ver.3.0の特長 ===== *X68000本体付属のOPMDRV.Xと上位互換性あり。Z-MUSIC ver.2.0以前の演奏データはver.3.0以降とソース (ZMS) レベルで上位互換があり、そのまま演奏可能。 *FM音源、ADPCM、MIDI楽器を同時に同期演奏可能(MIDIシステムのない環境でもZ-MUSICは利用可能)。 *複数のX68000を相互に接続しての同期演奏も可能。 *汎用トラックを65,535本装備。最大同時演奏トラック数65,535本。[[RS-232|RS-232C]] MIDIを2ポートと2枚のMIDIボードを同時に制御可能。MIDIは、64チャンネルまでを同時制御可能。最大同時演奏チャンネル数88チャンネル (FM8+ADPCM16+MIDI64)。 *独自のADPCMドライバー「MPCM.X」©WachomanにてADPCM音源をFM音源のように柔軟に制御可能。 *[[ポルタメント]]や[[オートベンド]]、[[和音]]や[[ビブラート]]などの特殊効果を内蔵音源とMIDIの両方で使用可能。ARCC (Assignable Realtime Control Change) 機能も、1トラックあたり同時に4つまで独立に動作させることが可能。 *コンピュータ音楽ならではの音楽情緒を作り出す[[テンポ#アゴーギク|アゴーギク]]機能やエンハンスドベロシティシーケンス機能を装備。 *2曲まで[[テンポ]]の異なった音楽を同時に演奏可能。 *送信MIDIデータをリアルタイムで最適な送信方法を選択して送信するVTMS機構、送信MIDI[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]]をリアルタイムに最適化するARS機構を装備。これらにより多チャンネル演奏時でもテンポずれの最大限抑止、[[CPU]]負荷の低減を両立。 *MT-32 / U220 / [[コルグ・Mシリーズ|M1]] / [[ローランド・SCシリーズ|SC-55 / SC-88]] / [[General MIDI|GM]]音源などに対応した楽器個別の制御命令を装備。 *MIDI楽器側の[[音色]]や設定データ、ユーザーの演奏を[[Standard MIDI File]]に出力可能。 *オブジェクトレベルの演奏データ (ZMD) を出力可能([[コンパイル]]機能)。 *Z-MUSICが持つ機能のすべてを公開。外部プログラムから利用可能。プログラム間通信機能も装備し、高度な連動動作機能を提供。 *専用[[アナログ-デジタル変換回路|A/Dコンバータ]]によって[[サンプリング]]された高音質のADPCMデータ[[ライブラリ]]を標準装備。 *全情報公開。ライセンスフリー。 ==== MXDRV ==== 最も広く使われた音楽ドライバー。[[パソコン通信]]等で普及した。FM音源とADPCM音源を制御する事が出来る。前身にMUDRVがある。対応するのは[[MDX (音楽データ)|MDX]]ファイル(演奏データ、[[拡張子]].mdx)とPDXファイル(ADPCMデータ、[[拡張子]].pdx)。複数人で頻繁に改良が加えられたために数多くのバージョンが存在し、[[ADPCM]]を擬似的に多重発音出来る[[PCM8]]・PCM8Aに対応しているバージョンも有る。[[パソコン通信]]等ではコピー曲やオリジナル曲などのMDXファイルが数多く流通した。MMDSP、MDXSのように演奏をビジュアル表示する再生ソフトも数多く作られた。MXDRVは後に[[PC-9800シリーズ]]と[[FM TOWNS]]にも移植され、音源チップの差からパート数や音色などが不完全ながらもMDX再生が出来た。[[Microsoft Windows]]でもFM音源YM2151をエミュレートするDLLドライバーと組み合わせてMDXファイルを演奏する事が出来る[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が幾つか存在する。 ==== MNDRV ==== 本体のみでは、FM8音/ADPCM16音を制御する事が出来るFM音源ドライバー。MIDI制御にこそ対応していないものの、満開製作所製MK-MU1Oがあれば搭載されている[[YM2608#YMF288(OPN3)|YMF288]]を同時に利用でき、FM20音、PSG6音、チップ内蔵リズム音源2セット、ソフトウェア合成によるADPCM16音の最大54音を同時に制御することが可能。更に、YMF288の効果音モードでオペレータごとの制御を可能にしているため、サイン波として扱った場合、FM音源のパートを最大26音制御することが可能になっている。 ==== PCM8.X ==== ADPCMについては、[[江藤啓]]作のリアルタイムADPCM多重再生ドライバーPCM8.X (PCM8A.X, PCM8SB.X) を使用することにより、ソフトウェアレベルで[[PCM]]を合成し、見かけ上最大8チャンネルでの再生が可能である。別人によりPCM16.Xが試作された。 ==== その他のもの・初期のもの ==== X68000登場当初、その[[グラフィック]]性能を生かして[[パソコン通信]]経由であらかじめ決められた構文に従って相手側のパソコンに簡易なグラフィックと[[テキスト]]を表示させつつ音楽を演奏させる[[ソフトウェア]]が作成され、「'''あきら'''」と命名された。 X68000では65,536色の表現が可能なことから、[[イラストレーション]]などの表現で従来の[[ベクターグラフィック]]からZ's Staff Pro 68k等の[[グラフィックツール]]によって作成された[[ビットマップ画像|ラスター形式]]のグラフィックが主流になっていった。その中で一番の問題はその画像を保管するにあたり[[外部記憶装置]]の容量が絶対的に不足していたことであり、それを解決するべく[[PIC (画像圧縮)|PIC形式]]の画像圧縮[[フォーマット]]が考案された。これはX68000シリーズで画像を保管する際のスタンダードなフォーマットとなった。 == 電脳倶楽部 == 電脳倶楽部は、[[満開製作所]]が発行していたX68000用ディスクマガジン。内容は読者投稿が大半を占めていた。『月刊電脳倶楽部』は[[1988年]]5月に創刊され、12年間に亘って発行された。初代編集長は三上之彦([[祝一平]])だった。Vol.140から[[電子媒体|媒体]]が[[CD-ROM]]に変更された。同社がX68000関連事業から撤退した2000年8月発行のVol.148で廃刊。 その間に別冊も数多く発行され、『電脳倶楽部別冊』が壱號から拾六号まで、[[CD-ROM]]による『すてきな電脳倶楽部』(すて電)、『すごい電脳倶楽部』(すご電)、『激光電脳倶楽部』がVol.1からVol.7まで発行。 フロッピーディスクで発行されたVol.1からVol.139までは、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.1~50』『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクションVol.51~100』および『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1997年度版』(Vol.101 - 115)、『月刊電脳倶楽部パーフェクトコレクション1998年度版 / 1999年度版』(Vol.116 - 139) として[[CD-ROM]]にまとめられた。別冊も『電脳倶楽部別冊・完全保存版』として[[CD-ROM]]化されている。 == DoGAとの関係 == DoGAは、[[大阪大学]]コンピュータクラブや[[京都大学|京大]]マイコンクラブの有志が集まり、共同研究プロジェクト「PROJECT TEAM DoGA」として[[1985年]]に設立された。 さらに[[1993年]]には、子会社として株式会社ドーガを設立し、法人としてDoGAの活動をサポートしている。 DoGAは、[[シャープ]]と提携し、X68000上で動く[[コンピュータグラフィックス|CG]]制作ソフト「DoGA CGAシステム」を開発<ref>[http://www.doga.co.jp/ DoGA(PROJECT TEAM DoGA、株式会社ドーガ)]</ref>。この活動に[[アスキー (企業)|アスキー]]社(後の[[KADOKAWA]]/[[アスキー・メディアワークス#株式会社KADOKAWA アスキー・メディアワークス|アスキー・メディアワークス]])が関心を示し、『[[月刊アスキー|月刊ASCII]]』に開発状況を連載した。その後、[[ソフトバンク]](後の[[SBクリエイティブ]])の『Oh!X』に連載が引き継がれた。 当時パソコン上でCG[[アニメーション|アニメ]]を[[動画]]として見ることができるのは画期的な事であり、「DoGA CGAシステム」は、国産ソフトとしては日本初の試みだった。 == シリーズの終焉 == X68000と異なる内部構成を持つ 32bit後継機のプロトタイプも検討された。密かに各方面の有力関係者に予定しているスペックを提案した上で、商業的に成功するかどうかヒヤリングが行われた。内容的にはビデオ編集を自在に行えるパフォーマンスを備えた、当時としてはきわめて高スペックな仕様であったという。しかしながら予定価格が X68030の倍近くになると予測されていた。ちょうど時代はPC/AT互換機が DOS/Vを伴って日本で普及し始め、Microsoft Windowsも軌道に乗り始めていた時期である。結果、商業的には絶望的であるとの判断が下された模様である。加えて、シャープでもパソコン事業の2事業部制を改め、一事業部に統一して PC/AT互換機に社内リソースを集中させる方針を決定した。これにより、「真の意味での」 32bit後継機は日の目を見ることは無く、Xシリーズは必然的にその歴史にピリオドを打つことになった。 X68030はX1から続いたXシリーズの最終機となった。Xシリーズ販売終了後、シャープはパソコン事業をPC/AT互換機である[[Mebius]]ブランドに集約した。この[[Mebius]]ブランドを展開している部署は、Xシリーズを展開していた部署とはまったく異なる。Xシリーズを展開したテレビ事業部は、後年の組織変更により別の事業部(AVシステム事業本部)となった。 『Oh!X』誌も、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の発売の年でもあった1995年末の12月号をもって休刊。1998年に[[ムック (出版)|ムック]]形態で復刊したが、2001年春号以降、続刊は出ていない。またシリーズ発売終了後も周辺機器などを発売していた満開製作所は、創業者[[祝一平|三上之彦]]が[[1999年]][[4月2日]]に死去した後、[[2000年]]に事業撤退を表明して翌[[2001年]]には消滅した。 Xシリーズ販売終了後、[[World Wide Web|Web]]に代表される新しいパソコンの使い方が広まるにつれ、世界的なパソコンアーキテクチャーの統一が進行し、ユーザーは徐々に[[Macintosh]]や[[Microsoft Windows]]などへと移行して行った。しばらくは非公式にユーザー同士で拡張ハードを自主製作するなどの勢いは引き継がれたものの、時間と共にそれは衰退していった。その後のパソコンの性能向上によってEX68をはじめとする[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]も作成され、それは単行本としても発売された。その後も[[秋葉原]]などでユーザー主催のイベントが何回か開かれた。 2000年、OS、開発環境、[[Basic Input/Output System|BIOS]]などが[[ニフティサーブ|NIFTY-SERVE]]シャーププロダクツユーザーズフォーラムスタッフの尽力により、シャープ側の厚意もあって無償公開された。また[[ズーム (ゲーム会社)|ZOOM]]など一部のメーカーも自社製のアプリケーションソフトを無償で公開していたことがある。 X68000はゲームプログラミング入門に適した特性を持つため、2000年以降もしばらくはゲーム制作者もしくはコンピュータに関する専門学校で、職業訓練にX68000を採用したところも存在した。 Xシリーズは[[ガラパゴス化|'''日本国内のみで販売された独自のアーキテクチャを持ったPC''']]であるが、[[IOCS]]と[[DOS (OS)|DOS]]、[[エミュレーション]]ソフトウェアがフリー<!-- どのフリー? -->形態で公開され、ネットワークによって世界に広まったため、{{要出典範囲|日本国外でもXシリーズの認知度は比較的高い模様である。|date=2019年9月}} == 現在におけるX68000 == 市場での流通終了から30年以上経過しているので、発売当初の状態で完全に動作する個体はほとんど存在しない。その原因として一番多いものは、電源ユニットの故障である。電源ユニットの大きさを小さくするため、採用された[[電解コンデンサ]]の電解液に[[不良電解コンデンサ問題#四級塩電解液によるもの|四級塩]]が使用されていた。これが[[経年劣化]]に弱く、リード線引き出し部分の密封用ゴムを侵して電解液の液漏れを起こし、結果的に回路[[短絡|ショート]]を起こす。 なお、メーカー公式の修理受付は既に終了している。ただし非公式で修理請負を営んでいる個人も実在するので、まったく修理不可能という訳ではない。電源ユニットそのものを取り外し、ACアダプタを使えるように改造した例も存在する<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/wakiba/find/748003.html X68000をACアダプタ駆動にする電源キットが販売中 (取材中に見つけた○○なもの) - AKIBA PC Hotline!]</ref>。現在でも動作の可否を無視すれば、本体はネットオークションなどを通じて入手することができる。 また、その独特の筐体がもつフォルムもあって、好事家の中にはX68000の筐体を利用して内部に[[PC/AT互換機]]用パーツを組み込んだユーザーも多数実在する。中には5.25インチFDDの位置にスロットインタイプの光学(CD・DVD等)ドライブを取り付け、X68000特有の機能だったオートイジェクト機能をそのまま再現するなどの工夫が施されているものもある。2013年には、X68000の筐体をPCケースとして復刻するプロジェクトが発足、2015年1月に試作品が公開<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/yajiuma/686062.html|title=ProjectMによる「X68000」ケースの試作が公開される|publisher=PC Watch|date=2015-01-29|accessdate=2015-02-02}}</ref>、5月には一般公開された<ref>{{cite news|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/699518.html|title=ProjectM、X68000デザインのPCケースが一般公開へ~5月4日の秋葉原同人イベントにて。コンパクトモデルも計画中|publisher=PC Watch|date=2015-04-24|accessdate=2019-09-05}}</ref>。 2016年12月には[[Raspberry Pi]]2/3用の中密度繊維板製のケースが発売<ref>{{cite news|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1033204.html|title=X68000が手の平サイズに!ラズパイが搭載できるミニチュアケースが販売中|publisher=AKIBA PC Hotline!|date=2016-12-04|accessdate=2019-09-05}}</ref>された。2018年には後継製品として、素材が樹脂となりシャープの正式ライセンス品を受け樹脂パーツの他、機種や[[ロゴタイプ|ロゴ]]などが[[デカール]]で添付されたケースが先ずはX68000XVIモデルの(MONAC-002)が2月<ref>{{cite news|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1033204.html|title=往年の名機「X68000 XVI」のプラモデルケースが発売、ラズパイを搭載可能|publisher=AKIBA PC Hotline!|date=2018-02-23|accessdate=2019-09-05}}</ref>、X68000/ACE/ACE-HD/EXPERT/EXPERT-HDモデルの黒、グレーモデルが7月<ref>{{cite news|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1133844.html|title=名機「X68000」のプラモデルケースに新モデル、ラズパイを搭載可能|publisher=AKIBA PC Hotline!|date=2018-07-20|accessdate=2019-09-05}}</ref>に発売されている。 これらコンピュータ製品以外にも、ちびちび-Xとして、X68030のフィギュアの付いたキーホルダーが自主制作品として販売されて居た事もあるほか、2019年にはショルダーバッグ製品<ref>{{cite news|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1201816.html|title=往年の名機「X68000」デザインのバッグが11月に発売、随所に細かい演出|publisher=AKIBA PC Hotline!|date=2019-08-19|accessdate=2019-09-05}}</ref>が発表されている。 [[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]として、[[Microsoft Windows]]上ではEX68、けろぴー、WinX68k高速版、XM6、[[Macintosh]]上ではX68EMなどが[[フリーウェア|フリーソフト]]として公開されている。 === 復刻版「X68000Z」 === 実機の5分の2サイズで復刻された「X68000Z」が[[クラウドファンディング]](CF)で販売され、2023年3月31日から購入者に順次届けられた<ref name=朝日20230421/>。2022年12月に開始されたCFは目標金額3300万円を1時間で達成し、最終的に6627人から約3億5000万円が集まった<ref name=朝日20230421/>。 2022年6月8日に、[[メガドライブ ミニ|メガドライブミニ]]などを開発している[[瑞起]]から「X68000ミニ」が発表され、2022年9月15日から18日まで開催されていた[[東京ゲームショウ]]2022にて「X68000 Z LIMITED EDITION」名称改め、[[モックアップ]]を展示された。CZ-600のデザインのミニサイズである。 当時のユーザーであった、瑞起の40歳代後半の技術者らが、前述した「無いものは作る」文化を形成したパソコンであり、「夢の続きを描きたい」と「ロクハチ」復活を訴えて事業化が決まり、シャープから許諾は得られたものの資料は現存していないとの回答を受けた<ref name=朝日20230421/>。[[インターネットオークション]]で実物を入手して採寸するなどして、キーボードの打ち心地も再現したが、フロッピーディスクの代わりにSDカードを差し込むなど現代に合わせて一部は仕様変更されている<ref name=朝日20230421/>。 == 関連書籍 == *X68000テクニカルデータブック 1987年 アスキー出版局テクライト編 監修シャープ株式会社テレビ事業部 ISBN 4-87148-426-2 *月刊Oh!X([[ソフトバンク]]、1987年12月号 - 1995年12月号) *図解16ビットマイクロコンピュータ[[MC68000]]の使い方([[オーム社]]、小島進) *作りながら学ぶ[[MC68000]]([[CQ出版社]]、[[トランジスタ技術]]編集部) *68000ソフト&ハードのすべて(CQ出版社、トランジスタ技術編集部) *VMEシステム完全マスタ(CQ出版社、インターフェース編集部) *68000 PROGRAMMER'S HAND BOOK([[技術評論社]]、宍倉幸則) *68000 マシン語プログラミング([[工学社]]、村山二郎) *X68000マシン語プログラミング 入門編(ソフトバンク、村田敏行) *X68000マシン語プログラミング グラフィックス編(ソフトバンク、村田敏行) *SX-WINDOWプログラミング(ソフトバンク、吉沢正敏) *X68000 Cプログラミング(ソフトバンク、中森章) *X68000 ゲーム・プログラミング(技術評論社、[[京大マイコンクラブ]]) *GCCによるX680x0ゲームプログラミング(ソフトバンク、吉村智興) *X68000ベストプログラミング入門(技術評論社、千葉憲昭) *X68000パワーアッププログラミング([[アスキー (企業)|アスキー]]、島田広道・丸川一志・石橋尚史) *プログラマーのためのX68000環境ハンドブック([[工学社]]、吉沢正敏・市原昌文) *X68000 X-BASIC入門([[BNN]]、荻野浩一郎・デブッタボーイズA・デブッタボーイズB) *SX-WINDOW ver.3.1開発キット(ソフトバンク、吉沢正敏・牛島健雄・西田文彦・小浜純) *X68000データブック([[小学館]]、[[ポプコム]]編集部) *Inside X68000(ソフトバンク、桒野雅彦) *Outside X68000(ソフトバンク、桒野雅彦) *X68030 Inside/Out(ソフトバンク、桒野雅彦) ISBN 4-89052-499-1 *X68040turbo(ソフトバンク、BEEPs) *X680x0 Develop. & libc II(ソフトバンク、吉野智興・中村祐一・石丸敏弘・今野幸義・村上敬一郎・大西恵司) *X680x0 Develop. Manual Books(ソフトバンク、吉野智興・中村祐一・石丸敏弘・今野幸義) *X680x0 libc Manual Books(ソフトバンク、村上敬一郎・大西恵司・荻野裕二) *[[OS-9]]ユーザーノート([[啓学出版]]、ピーター C.ディブル・西脇弘[訳]) *パーソナルコンピュータのための[[OS-9]]入門([[オーム社]]、蜂谷博) *OS-9/68000トレーニングマニュアル([[宝島社|JICC出版局]]、大内和博・熊谷博・角田多幸) *RAINBOW OS-9ガイド(SPIRIT Publishing、デイルL.パケット・ピーター C.ディブル・西脇弘[訳]) *OS-9/68000マルチユーザシステムガイド(SPIRIT Publishing、矢野公正) *初心者のためのOS-9/X68000操作ガイド([[BNN]]、[[インタープログ]]編) *GNUツールボックス(ソフトバンク、吉村智興・村上敬一郎) *X680x0 TeX(ソフトバンク、吉野智興) *NetBSD/X68k(ソフトバンク、NetBSD/X68k委員会) *X68000 3Dグラフィックス入門(BNN、BNN第2企画部編) *Z’s Triphony DIGITAL CRAFTによる誰でもできる3次元グラフィックス([[アーマット]]・[[工学図書]]、玉川美土里) *ナムコビデオゲームミュージックライブラリーVol1([[電波新聞社]]、磯田健一郎・[[マイコンBASICマガジン]]編集部) *パソコンFM音源音色ライブラリーVol.1(電波新聞社、原田雅司・永田英哉) *パソコンFM音源音色ライブラリーVol.2(電波新聞社、永田英哉) *パソコンFM音源音色ライブラリー フロッピー・バージョン(電波新聞社、マイコンBASICマガジン編集部編) *NAGDRV for X68000([[電波新聞社]]、[[マイコンソフト]]) *Z-MUSICシステムver.2.0(ソフトバンク、Oh!X編集部、1993年12月) ISBN 4-8905-2460-6 *Z-MUSICシステムver.3.0(ソフトバンク、元Oh!X編集部、1997年1月) ISBN 4-7973-0184-8 *The World of X68000(電波新聞社、[[山下章]]) *The World of X68000 II(電波新聞社、山下章) *X68000傑作ゲーム選-ログインソフトウェアコンテスト(ソフトバンク、中森章) *X68000フリーソフトウェア 最新・ゲーム&ユーティリティ集([[日本文芸社]]、望月馳也) *X68000 Free Software Book(ソフトバンク、グループ68K) *[[ゲームラボ|バックアップ活用テクニック]]総集編([[三才ブックス]]) *バックアップ活用テクニック総集編2(三才ブックス) *X68000やさしいプロテクトの外し方のすべて([[日本文芸社]]、PEC編集部・編) *究極!! X68000エミュレータ([[秀和システム]]、高木啓多) === ムック === *X68000活用研究(電波新聞社、塚越一雄) *X68000活用研究II X-BASICマスター編(電波新聞社、宮原哲也・深沢幸三) *X68000活用研究III X-BASIC活用Q&A(電波新聞社、塚越一雄) *[[X1 (コンピュータ)|X1]]/X68000ゲーム・ミュージック・プログラム大全集(電波新聞社、[[マイコンBASICマガジン]]編集部編) *Z-MUSICシステムver.1.0(ソフトバンク、Oh!X編集部、1991年11月) *I/O別冊X68k ディスク本1(工学社、I/O編集部・星正明) *Oh!X 1998復刊記念号(ソフトバンク、1998年11月) *Oh!X 1999春号(ソフトバンク、1999年5月) *Oh!X 1999夏号(ソフトバンク、1999年9月) *Oh!X 2000春号(ソフトバンク、2000年3月) *Oh!X 2001春号(ソフトバンク、2001年3月) <!-- ===X68000関連項目を掲載したことがある定期刊行誌=== 現在ではX68000関連の記事が掲載されることは、当時を回顧するものを例外とすればほとんどない。 *月刊[[ログイン (雑誌)|ログイン]](アスキー[創刊当時] - 2000年より[[エンターブレイン]]) 休刊 **90年代前半の頃はログインのゲームの投稿作品のほとんどがX68000のゲームだった。 *月刊[[コンプティーク]]([[角川書店]]) *月刊[[I/O (雑誌)|I/O]](工学社) *[[月刊マイコン]](電波新聞社) - 後にマイコンピュータマガジンと誌名変更するが最終的に休刊 *月刊[[マイコンBASICマガジン]](電波新聞社) 休刊 *月刊[[テクノポリス (雑誌)|テクノポリス]]([[徳間書店]]) 休刊 *月刊[[ポプコム]]([[小学館]]) 休刊 *月刊[[Hacker (雑誌)|Hacker]]([[日本文芸社]]) 廃刊 *月刊[[電撃王]]([[メディアワークス]]) - 後にDengekiGAMESとなるも休刊 *隔月刊PEC(PEC編集部) 廃刊 *[[ラジオライフ]]別冊バックアップ活用テクニック(三才ブックス、PART14まで) :季刊バックアップ活用テクニック(三才ブックス、1989年6月号PART15-1993年3月号PART30) :隔月刊バックアップ活用テクニック(三才ブックス、1993年6月号PART31-1994年8月号PART38) :隔月刊[[ゲームラボ]](三才ブックス、1994年10月号-1997年12月号) :月刊ゲームラボ(三才ブックス、1998年2月号-) --> == スペックシート == * 中央演算装置(CPU):初代-モトローラ68000 日立クローン 10MHz (HD68HC000) - X68000 XVIなどの後期モデルは、16MHzモトローラ68000-X68030 25MHzモトローラMC68EC030 * サブCPU:沖MSM80C51 * 数値演算コプロセッサ:モトローラMC68881(XVIはスロット装着、それ以外はメモリ拡張用の追加ボードに後付け) * システムクロック:リコーRP5C15 * フロッピーディスクコントローラ:NEC 72065 * ハードディスクコントローラ:富士通MB89352A(Super, XVI, X68030用SCSIコントローラ) * シリアルポートコントローラ:ザイログZ85C30, RS232×1、マウス×1 2チャンネルシリアル接続 * プリンター接続、パラレル:NEC 8255 von NEC プリンター、ジョイスティック接続用 * DMAコントローラ:日立HD63450 (フロッピードライブ、ハードディスク、拡張スロット、ADPCMオーディオ用DMA) * ROM: ** 256KB IPL (Initial Program Loader) ROM および BIOS-ROM ** 768KB キャラクタジェネレータROM:24×24および16×16各々7238文字の漢字フォント2種、12×24および8×16各々256文字の半角フォント2種、12×12および8×8各々256文字の半角フォント2種を搭載。漢字フォントの7238文字は、JIS第一水準 3008文字、JIS第二水準 3478文字、および非漢字752文字(ひらがな、カタカナ、[[ラテン文字]]、[[ギリシャ文字]]、[[キリル文字]]、および[[句読点]]、特殊記号、縁取り文字等)で構成。半角と全角のフォントは、日本のShift/JISコードの8ビット部分に対応。 * RAM: ** モデルにより1、2または4MBのRAM、最大12MBまで拡張可能 ** 512 KB テキストRAM ** 512 KB グラフィックRAM ** 32 KB スプライトRAM ** 16 KB スタティックメモリ(SRAM) * 画面解像度:テキストRAMとグラフィックスRAMのどちらか、または両方を同時に「重ね合わせる」ことが可能。画面は、768×512、512×512、512×256、256×256ピクセルから選択できる。それ以外の画面解像度は、ハードウェアを制御するプログラミングを行わないと実現できない。ハードウェアスプライトが有効な場合は、対応するスプライトRAM部分が追加で重畳される。 ** テキストRAM:1024×1024ピクセル、16色で画面上では全領域中の一部しか見えない。 ** グラフィックRAM:1024×1024ピクセル(16色)、または512×512ピクセル(65536色、256色、16色)のいずれか。選択された色深度に応じて、1、2、または4つの画面をグラフィックスRAMに収容することができる。選択された画面モードによっては、グラフィックスVRAMの一部のみが表示される。 * 色数: ** テキストRAM:65,536色のパレットから自由に選べる16色のカラーバリエーション ** グラフィックRAM:65536色のパレットから16色または256色を自由に選択可能、または65536色すべてを同時に表示(512×512ピクセル時) * スプライト: ** 16×16ピクセル、16色/スプライト ** 1画面128スプライト、1ライン16スプライト * グラフィックスハードウェア:ハードウェアスクロール、プライオリティコントロール、スーパーインポーズ * サウンド: ** ADPCM:沖データMSM6258 ** FM音源:ヤマハYM2151 (YM3012 DACノイズジェネレータ) ** 2チャンネルFMシンセサイザー、8オクターブ、8声同時出力 * モトローラ社製マルチファンクションコントローラ 68901: ** モニター同期 ** シリアルインターフェース ** システムクロック ** スタンバイ動作 ** FMシンセサイザー(サウンドの項目参照) ** IRQ割り込み ** キーボード * X68000シリーズ専用カスタムチップ: ** メモリコントローラ: *** ET(初代) *** OHM(ACE) *** OHM2(Expert, Expert2, Super, XVI) *** McCoy(PROおよびPRO II) ** システムコントローラ: *** BUDDHA(初代) *** MESSIAH(ACE, Expert, Expert 2, Super) *** DOSA(XVI) *** SCOTCH(PROおよびPRO II) ** スプライトコントローラ: *** Cynthia jr.(初代) *** Cynthia(ACE, Expert, Expert 2, Super, PRO, PRO II) ** CRTコントローラ: *** VINAS 1+2(初代) *** VICON(初代以降すべて) ** ビデオコントローラ: *** VSOP(初代) *** VIPS(初代以降すべて) ** ビデオデータセレクタr: *** RESERVE(初代) *** CATHY(初代以降すべて) ** I/Oコントローラ: *** SILICIAN(初代) *** IOSC(ACE) *** IOSC-2(ExpertおよびExpert 2) *** PEDEC(SuperおよびXVI) *** IOSC-2(PROおよびPRO II) * 拡張スロット: カードスロット2基(Proモデルは4基) * 電源:交流100V、50/60Hz * 重量:約8kg(Proバージョンは約10kg) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *{{Cite book ja-jp | editor = [[THE COMPUTER]]編集部 | year = 1991 | title = パソコンヒット商品物語 | publisher = ソフトバンク | isbn = 4-89052-194-1}} *{{Cite journal|和書|title= |year=1993 |month=12 |publisher=[[CQ出版社]] |journal=インターフェース |issue=1993年12月号 |ref={{sfnref|インターフェース1993年12月号}} }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} *[[Human68k]] *[[SX-Window]] *[[:Category:X68000用ゲームソフト]] == 外部リンク == {{Commonscat|X68000}} * [http://x68030.web.fc2.com/ X680x0資料館] * [irc://irc.afternet.org/#retrocomputing #retrocomputing] on AfterNET(X68000 and general classic computing chat) {{シャープ}} {{デフォルトソート:えつくす68000}} [[Category:シャープのパーソナルコンピュータ]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1980年代の玩具]] [[Category:1987年のコンピュータゲーム|*]] [[Category:グッドデザイン賞]]
2003-02-17T08:26:25Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/X68000
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イエロー・マジック・オーケストラ
イエロー・マジック・オーケストラ (英: Yellow Magic Orchestra)は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、Y.M.O.(ワイ・エム・オー)。 YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。 下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する曲もある。 Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。 1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(=解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、およびコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。 当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも、電子楽器の導入は明らかであった。よって、YMOはその路線に東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れ、プロモーションから黄色人種経由であることを主張し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。 クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。 YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。 ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶することでも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞くことができる。 YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。 1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。 それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一のアルバム「NIAGARA MOON」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。1976年5月、細野のアルバム『泰安洋行』発売時のライブでは坂本とともに「ファイアークラッカー」を演奏している。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏したことが一度あっただけだった。 その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。 細野はメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾はなぜか「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。 後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。 1978年7月10日、YMOはレコーディングを開始。 1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。 1978年10月18日、郵便貯金ホールにおいてライヴを開催。さらに10月25日から26日にかけ六本木ピットインにおいて「千のナイフ発売記念ライヴ」を開催。 YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、六本木のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。 1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。 1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始された。1979年8月2 - 4日には、ロサンゼルスのグリーク・シアター(英語版)でチューブス(英語版)の前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。その後、チューブスが来日した時には、9月10 - 11日に中野サンプラザで、9月13 - 14日には郵便貯金ホールで前座を務めている。 同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「デイ・トリッパー」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)がゲスト・ギタリストで参加している。 10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR)」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、中野サンプラザにてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。この時期の大人気に伴い、デビュー以降無かった正式なマネジメント会社の設立が必要になり、ベルウッド・レコード出身の「大蔵博」(大蔵火呂死)によって音楽プロダクション会社「ヨロシタミュージック」が設立され、YMOは当該会社の所属になった。 こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。 1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した。 4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。 6月、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。イギリスで発売されたシングル「COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)」が、6月8日付の全英シングルチャートで17位を記録した。 10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。 YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。 1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モズデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。 音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。 同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。 同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日から仙台・宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。主に『BGM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのライヴとしては初めてMTRが使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては非常に珍しいともいえる楽器のパート変更などが見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人のみで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演(この日の公演のみ立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏)を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。 グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。 この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。この時期の坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせにスタジオの椅子を蹴飛ばしたり、互いに顔を合わせないようにわざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。 メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。 1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚、イギリスで20万枚、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚、全世界でのレコード売上は500万枚に達した(アルファレコード社長(当時)の村井邦彦による)。 翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。 細野ははっぴいえんど時代の盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。 YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している。細野は“林家三平”“柳家金語楼”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。 翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。 また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。 この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。 当時、高橋が担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、1980年6月リリースの『増殖』のような、S.E.T.によるコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてギャグ色の濃いアルバム『サーヴィス』が制作されることになった。 そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。 旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパンツアー」が11月23日から札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。 アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画は4月18日、渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開された。 このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。 散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野が全て断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された。YMO再生は、新聞が社会面で、NHKおよび民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、YMOがかつて所属していたアルファはそれに便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。 再生時の記者会見はジョン・レノンとオノ・ヨーコのベッド・インのパロディで、巨大なベッドに3人が仰向けに寝た状態で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた『進め!電波少年』(日本テレビ)の松村邦洋と松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしのものまねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。 5月26日、アルバム『テクノドン』を東芝EMIから発売。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。 しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。 2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して丹前(どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。 同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多数参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細野と高橋も参加した。 翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。 スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペイン・バルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9 - 10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにMacintoshを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。 1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。 しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演に伴って、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。 3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。 その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA -エクスマキナ-』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、高野寛、高田漣、権藤知彦。 一方でApple Japanのウェブサイトにおける Special Interviewの中で、坂本が「歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている」ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。 そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の『テクノドン・ライヴ』以来。 2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペイン・ヒホンのLaboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTS MEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。 2009年、docomoの携帯電話端末N-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した(HASYMO名義)。この音源はここでしか確認ができない。 8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彦であった。 2010年4月発売“音楽の事典”『commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッドバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』の「ドラムス & ベース編」に三人で出演するとともに、小山田圭吾と権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッドバイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。 2010年も引き続き「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。 2011年6月26日、アメリカ・ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演が、チボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra “LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。 帰国後の7月31日には「フジロック・フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。 2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD『Live in San Francisco 2011』として発売。 7月7 - 8日、坂本の呼びかけで始まった脱原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリをクラフトワークに譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD『YMONHK』として発売。8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル・ダウンロード限定で販売。 8月12日には5回目の『WORLD HAPPINESS 2012』に出演し「開け心〜磁性紀のテーマ〜」をライブでは初めて披露され、散開以来29年ぶりに「TECHNOPOLIS」を演奏した。 同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、東京都現代美術館レストランで開催。「WORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋と共に鑑賞する内容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSにはYMOでは出演しない」旨が高橋よりコメントされた。 2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本(大友良英、Sachiko M、ASA-CHANGとの連名)、細野、高橋 (THE BEATNIKS) がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。 同年12月21日、EX THEATER ROPPONGIにて細野と坂本によるライブ「細野晴臣×坂本龍一」を開催。最後に高橋がゲストで登場し、坂本の「TIBETAN DANCE」、クラフトワークの「Radio Activity」に続き、YMOの「Rydeen」をアコースティック編成で演奏。さらにアンコールで「Smile」(細野が同年のアルバム『Ho So No Va』でカヴァー)を演奏した。 2016年4月には、坂本龍一をはじめとするアーティストとエイベックスグループが設立したプロジェクト、commmonsの10周年を記念したイベント「commmons10 健康音楽」の開催され、8日に前夜祭「高橋幸宏の新世界~出張特別編」が行われる。これは高橋がゲストを迎えて毎月開催していたトークイベントの特別編で、ゲストとして坂本龍一が出演、更にスペシャル・ゲストとして細野晴臣も出演。 2019年1月2日、細野の音楽活動50周年を記念し、BSプレミアムにて「細野晴臣イエローマジックショー2」を放送。前回に続き、18年ぶりに3人が「どてらYMO」として「Rydeen」を演奏、さらに共演の星野源が加わって「Firecracker」2018年6月23日、細野はロンドンのバービカン・センターで英国デビュー・ソロ・コンサートを行い、高橋と坂本もステージに加わり「Absolute Ego Dance」を披露した。を演奏した。また、同年12月1日開催の細野の音楽活動50周年記念イベント「イエローマジックショー3」において、高橋のゲスト出演に加え、事前収録の映像で坂本が出演。映像の坂本と3人で「COSMIC SURFIN'」と「ABSOLUTE EGO DANCE」を演奏。これがYMOメンバー揃って行った最後のパフォーマンスとなった。 2023年1月11日、高橋がかねてより闘病していた脳腫瘍から誤嚥性肺炎を併発し70歳で死去。そのわずか2か月半後の3月28日、がんとの闘病中であった坂本も71歳で死去した。 高橋死去が公表される1月15日の朝、坂本は追悼の意を表したような、コメントのない無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿した。そして坂本死去が公表された翌日の4月3日には、YMOで唯一存命となった細野も同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿し追悼した。 YMOは日本においてはシンセサイザーのサウンドを大々的に商業音楽に取り入れた先駆者である。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも東アジア圏では革新的だったのは間違いがない。 それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されることが多かった。ウェンディ・カーロスですらクラシックからの転向者で、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者は、非常に少なかった。しかし実際のレコーディングでは手弾きのパート、生のドラムの演奏が多かった。 YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期にまったく違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのため彼らのライブは新種楽器の見本市のような様相を示していた。正確なクリック音に同期して演奏するスタイルは結成当初に掲げた「グルーヴの徹底的な排除」が背景にあったが、すぐに飽きてしまい民族音楽とクリックの研究を重ねるうち、1拍を24分割し、前拍と後拍の比率を14:10にしたところエイサーに近いビートが得られたのが「ABSOLUTE EGO DANCE」の制作に繋っている。 YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。 YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。 技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。 後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。 『テクノデリック』の項目を参照。 坂本は「ピアノのレッスンをほとんどまじめにやらなかった」と回想することが多いが、ピアノの生演奏をする機会は同時代のミュージシャンの中でもずば抜けて多かったため、アクションの軽い電子キーボードの操作は容易であった。自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンや、「ライディーン」のメロディは手弾きである。 初期は、ミュージックシーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるミュージックシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武が制作から外れている。 アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期にはパーカッションも存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー(ローランド MC-8)のフレーズの同時出力数に限界があり(同期信号など演奏に出ないものもある)、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。 1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに代わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。 散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。 1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビューでは、高橋は「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、Macintosh(シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。そのため、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。 1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン世代」と呼ばれることがある。 ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座も第1回ワールドツアーに含む)以前のライヴを指す。 レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照 以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義のもので、「HASYMO」名義のものは除いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イエロー・マジック・オーケストラ (英: Yellow Magic Orchestra)は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、Y.M.O.(ワイ・エム・オー)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていたが、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。", "title": "メンバー" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する曲もある。", "title": "メンバー" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(=解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、およびコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも、電子楽器の導入は明らかであった。よって、YMOはその路線に東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れ、プロモーションから黄色人種経由であることを主張し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶することでも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞くことができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一のアルバム「NIAGARA MOON」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。1976年5月、細野のアルバム『泰安洋行』発売時のライブでは坂本とともに「ファイアークラッカー」を演奏している。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏したことが一度あっただけだった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "細野はメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾はなぜか「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1978年7月10日、YMOはレコーディングを開始。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1978年10月18日、郵便貯金ホールにおいてライヴを開催。さらに10月25日から26日にかけ六本木ピットインにおいて「千のナイフ発売記念ライヴ」を開催。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、六本木のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始された。1979年8月2 - 4日には、ロサンゼルスのグリーク・シアター(英語版)でチューブス(英語版)の前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。その後、チューブスが来日した時には、9月10 - 11日に中野サンプラザで、9月13 - 14日には郵便貯金ホールで前座を務めている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「デイ・トリッパー」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)がゲスト・ギタリストで参加している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR)」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、中野サンプラザにてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。この時期の大人気に伴い、デビュー以降無かった正式なマネジメント会社の設立が必要になり、ベルウッド・レコード出身の「大蔵博」(大蔵火呂死)によって音楽プロダクション会社「ヨロシタミュージック」が設立され、YMOは当該会社の所属になった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "6月、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。イギリスで発売されたシングル「COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)」が、6月8日付の全英シングルチャートで17位を記録した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モズデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日から仙台・宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。主に『BGM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのライヴとしては初めてMTRが使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては非常に珍しいともいえる楽器のパート変更などが見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人のみで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演(この日の公演のみ立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏)を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。この時期の坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせにスタジオの椅子を蹴飛ばしたり、互いに顔を合わせないようにわざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚、イギリスで20万枚、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚、全世界でのレコード売上は500万枚に達した(アルファレコード社長(当時)の村井邦彦による)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "細野ははっぴいえんど時代の盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している。細野は“林家三平”“柳家金語楼”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "当時、高橋が担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、1980年6月リリースの『増殖』のような、S.E.T.によるコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてギャグ色の濃いアルバム『サーヴィス』が制作されることになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパンツアー」が11月23日から札幌、道立産業共進会場よりスタート。全国6会場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試写会を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画は4月18日、渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野が全て断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された。YMO再生は、新聞が社会面で、NHKおよび民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、YMOがかつて所属していたアルファはそれに便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "再生時の記者会見はジョン・レノンとオノ・ヨーコのベッド・インのパロディで、巨大なベッドに3人が仰向けに寝た状態で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた『進め!電波少年』(日本テレビ)の松村邦洋と松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしのものまねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "5月26日、アルバム『テクノドン』を東芝EMIから発売。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して丹前(どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多数参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細野と高橋も参加した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペイン・バルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9 - 10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにMacintoshを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演に伴って、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA -エクスマキナ-』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、高野寛、高田漣、権藤知彦。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方でApple Japanのウェブサイトにおける Special Interviewの中で、坂本が「歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている」ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の『テクノドン・ライヴ』以来。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペイン・ヒホンのLaboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTS MEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2009年、docomoの携帯電話端末N-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した(HASYMO名義)。この音源はここでしか確認ができない。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彦であった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2010年4月発売“音楽の事典”『commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッドバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』の「ドラムス & ベース編」に三人で出演するとともに、小山田圭吾と権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッドバイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2010年も引き続き「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2011年6月26日、アメリカ・ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演が、チボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra “LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "帰国後の7月31日には「フジロック・フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD『Live in San Francisco 2011』として発売。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "7月7 - 8日、坂本の呼びかけで始まった脱原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリをクラフトワークに譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD『YMONHK』として発売。8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル・ダウンロード限定で販売。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "8月12日には5回目の『WORLD HAPPINESS 2012』に出演し「開け心〜磁性紀のテーマ〜」をライブでは初めて披露され、散開以来29年ぶりに「TECHNOPOLIS」を演奏した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、東京都現代美術館レストランで開催。「WORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋と共に鑑賞する内容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSにはYMOでは出演しない」旨が高橋よりコメントされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本(大友良英、Sachiko M、ASA-CHANGとの連名)、細野、高橋 (THE BEATNIKS) がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "同年12月21日、EX THEATER ROPPONGIにて細野と坂本によるライブ「細野晴臣×坂本龍一」を開催。最後に高橋がゲストで登場し、坂本の「TIBETAN DANCE」、クラフトワークの「Radio Activity」に続き、YMOの「Rydeen」をアコースティック編成で演奏。さらにアンコールで「Smile」(細野が同年のアルバム『Ho So No Va』でカヴァー)を演奏した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2016年4月には、坂本龍一をはじめとするアーティストとエイベックスグループが設立したプロジェクト、commmonsの10周年を記念したイベント「commmons10 健康音楽」の開催され、8日に前夜祭「高橋幸宏の新世界~出張特別編」が行われる。これは高橋がゲストを迎えて毎月開催していたトークイベントの特別編で、ゲストとして坂本龍一が出演、更にスペシャル・ゲストとして細野晴臣も出演。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2019年1月2日、細野の音楽活動50周年を記念し、BSプレミアムにて「細野晴臣イエローマジックショー2」を放送。前回に続き、18年ぶりに3人が「どてらYMO」として「Rydeen」を演奏、さらに共演の星野源が加わって「Firecracker」2018年6月23日、細野はロンドンのバービカン・センターで英国デビュー・ソロ・コンサートを行い、高橋と坂本もステージに加わり「Absolute Ego Dance」を披露した。を演奏した。また、同年12月1日開催の細野の音楽活動50周年記念イベント「イエローマジックショー3」において、高橋のゲスト出演に加え、事前収録の映像で坂本が出演。映像の坂本と3人で「COSMIC SURFIN'」と「ABSOLUTE EGO DANCE」を演奏。これがYMOメンバー揃って行った最後のパフォーマンスとなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2023年1月11日、高橋がかねてより闘病していた脳腫瘍から誤嚥性肺炎を併発し70歳で死去。そのわずか2か月半後の3月28日、がんとの闘病中であった坂本も71歳で死去した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "高橋死去が公表される1月15日の朝、坂本は追悼の意を表したような、コメントのない無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿した。そして坂本死去が公表された翌日の4月3日には、YMOで唯一存命となった細野も同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿し追悼した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "YMOは日本においてはシンセサイザーのサウンドを大々的に商業音楽に取り入れた先駆者である。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも東アジア圏では革新的だったのは間違いがない。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されることが多かった。ウェンディ・カーロスですらクラシックからの転向者で、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者は、非常に少なかった。しかし実際のレコーディングでは手弾きのパート、生のドラムの演奏が多かった。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期にまったく違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのため彼らのライブは新種楽器の見本市のような様相を示していた。正確なクリック音に同期して演奏するスタイルは結成当初に掲げた「グルーヴの徹底的な排除」が背景にあったが、すぐに飽きてしまい民族音楽とクリックの研究を重ねるうち、1拍を24分割し、前拍と後拍の比率を14:10にしたところエイサーに近いビートが得られたのが「ABSOLUTE EGO DANCE」の制作に繋っている。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "『テクノデリック』の項目を参照。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "坂本は「ピアノのレッスンをほとんどまじめにやらなかった」と回想することが多いが、ピアノの生演奏をする機会は同時代のミュージシャンの中でもずば抜けて多かったため、アクションの軽い電子キーボードの操作は容易であった。自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンや、「ライディーン」のメロディは手弾きである。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "初期は、ミュージックシーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるミュージックシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武が制作から外れている。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期にはパーカッションも存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー(ローランド MC-8)のフレーズの同時出力数に限界があり(同期信号など演奏に出ないものもある)、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに代わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビューでは、高橋は「東京ドームのグラウンド下には大きな発電機があり、Macintosh(シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。そのため、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。", "title": "技術面" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン世代」と呼ばれることがある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座も第1回ワールドツアーに含む)以前のライヴを指す。", "title": "ライヴサポートメンバー" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照", "title": "ライヴサポートメンバー" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義のもので、「HASYMO」名義のものは除いている。", "title": "作品" } ]
イエロー・マジック・オーケストラ は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、Y.M.O.(ワイ・エム・オー)。
{{redirect|YMO}} {{otheruses|音楽グループ|同グループのデビューアルバム|イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)}} {{複数の問題 |出典の明記 = 2008-04 |独自研究 = 2008-04 |観点 = 2011-08 |内容過剰 = 2013-06 }} {{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = イエロー・マジック・オーケストラ | 画像 = Yellow Magic Orchestra in 2008.jpg | 画像説明 = 左から坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣(2008年) | 画像サイズ = 250px | 背景色 = band | 別名 = {{Hlist-comma|Y.M.O.|トリオ・ザ・テクノ|<del>YMO</del>|Pre YMO|[[スケッチ・ショウ]]+坂本龍一|[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]]}} | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[エレクトロニカ]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=Jason |last=Ankeny |title=Yellow Magic Orchestra {{!}} Biography & History |class=artist |id=yellow-magic-orchestra-mn0000683750/biography |accessdate=2020-12-12 }}</ref>|[[アヴァンギャルド#前衛音楽|アヴァンギャルド]]<ref name="allmusic" />|[[アート・ロック]]<ref name="allmusic" />|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]<ref name="allmusic" />|[[シンセポップ]]<ref name="allmusic" />|[[テクノ (ダンスミュージック)|テクノ]]<ref name="allmusic" />}} | 活動期間 = {{Plainlist| * [[1978年]] - [[1983年]] * [[1993年]] * [[2007年]] - }} | レーベル = {{Hlist-comma|[[アルファレコード|アルファ]]|[[YENレーベル|¥EN]]|[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]/イーストワールド|[[commmons]]}} | 事務所 = | 共同作業者 = {{Hlist-comma|[[松武秀樹]]|[[矢野顕子]]|[[鮎川誠]]|[[シーナ&ザ・ロケッツ]]|[[GOH HOTODA]]}} | 公式サイト = [http://ymo.org/ ymo.org] | メンバー = {{Plainlist| * [[細野晴臣]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]・[[シンセベース]]・[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]) * [[高橋幸宏]]([[ドラムセット|ドラムス]]・[[ボーカル]]) * [[坂本龍一]]([[キーボード (楽器)|キーボード]]・[[シンセサイザー]]・コーラス) }} | 旧メンバー = }} '''イエロー・マジック・オーケストラ''' ({{lang-en-short|Yellow Magic Orchestra}})は、[[日本]]の音楽グループ。[[1978年]]に結成。通称、'''Y.M.O.'''(ワイ・エム・オー)。 == メンバー == YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた<ref name="a">『イエロー・マジック・オーケストラ』アスペクト、2007年</ref>が、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。 下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライヴでドラムスを披露する曲もある。 ;[[細野晴臣]]([[エレクトリックベース]]・[[シンセベース]]・[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]) :[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]、[[はっぴいえんど]]、[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]を経て、YMOを結成。YMOのリーダー・[[音楽プロデューサー|プロデューサー]]であり、[[シンセサイザー]]と[[コンピュータ]]を用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や[[民俗学]]など[[神秘主義]]的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼ[[ベーシスト]]に徹し、曲によってはシンセサイザーをベース代わりに演奏していた。YMO散開後は特に[[環境音楽|アンビエント]]、[[エレクトロニカ]]等のジャンルを取り入れている。 ;[[高橋幸宏]]([[ドラムセット|ドラムス]]・[[ボーカル]]) :[[サディスティック・ミカ・バンド]]、[[サディスティックス]]を経てYMOに参加。1978年6月21日のオムニバス・アルバム『PACIFIC』収録の「コズミック・サーフィン」や、1979年の[[矢野誠 (ミュージシャン)|MAKOTO HIGHLAND BAND]]『INJECTION』など、コンピューターのビートと同期した上で、グルーヴを生み出すドラムを初めて演奏したドラマーとなった。YMOの楽曲では、大半の楽曲でリード・ボーカルを担当。[[ファッション・デザイナー|ファッション・デザイン]]の技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとの[[コラボレーション]]や[[プロデュース]]業を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。サディスティック・ミカ・バンド時代、[[ロキシー・ミュージック]]の前座として[[ロンドン]]でライヴを行ったことがあり、結成当時メンバーで唯一、日本国外でのライヴを経験していた。2023年1月11日死去。70歳没。 ;[[坂本龍一]]([[キーボード (楽器)|キーボード]]・[[シンセサイザー]]・[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]) :[[スタジオ・ミュージシャン|スタジオミュージシャン]]として活動([[大滝詠一]]や[[山下達郎]]のアルバムに参加)した後、YMOに参加。YMOでは[[松武秀樹]]とともに[[録音|レコーディング]]において楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲の[[編曲|アレンジ]]を一手に引き受けた。YMO散開後は[[映画音楽]]で成功するなど、ソロ活動を展開している。幼少時より[[ピアノ]]と作曲を学び、[[東京芸術大学]]作曲科、同大学院を修了、音楽の素養のベースには[[クラシック音楽]]がある。「教授」という愛称は大学院時代に高橋が名付けたもの。2023年3月28日死去。71歳没。 == 概要 == Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が[[1970年代]]後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは[[白魔術]](善や[[白人]]などの象徴。特に白人音楽)でも、[[黒魔術]](悪や[[黒人]]などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない[[モンゴロイド|黄色人種]]独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『[[はらいそ]]』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.ph/5gWqy|title = ハリー細野とイエローマジックバンド はらいそ|website = thisboy.shop-pro.jp|publisher = thisboy.shop-pro.jp|date = |accessdate = 2022-04-27}}</ref>」が挙げられる。また坂本のアルバム『[[千のナイフ]]』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。 1980年代初頭に巻き起こったテクノ / [[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]の[[ムーブメント]]の中心にいたグループの一つであり、[[シンセサイザー]]と[[コンピュータ]]を駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(=[[解散]])するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、およびコンサートツアーも行っている。[[英語圏]]で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.ph/rULBs|title = YMO、1993年の「再生」ライヴが初DVD化。11月30日リリース|website = rockinon.com|publisher = rockinon.com|date = |accessdate = 2022-04-27}}</ref>)しており、また2007年にも再々結成している。 当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでに[[ドイツ]]の[[タンジェリン・ドリーム]]や[[イギリス]]の[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]、[[日本]]の[[冨田勲]]などが有名であり、1978年の[[ディーヴォ]]の「頽廃的美学論」や[[クラフトワーク]]の「[[人間解体]]」にも、電子楽器の導入は明らかであった。よって、YMOはその路線に東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れ、プロモーションから黄色人種経由であることを主張し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。 クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えた[[P-MODEL]]の[[平沢進]]は後年「あれは[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]だと思っていた<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20211211020644/http://shop.fascination.co.jp/media/miw_samples/p-model_sample_01.pdf|title = 「あれはフュージョンだと思ってましたから」.|website = shop.fascination.co.jp|publisher = shop.fascination.co.jp|date = |accessdate = 2022-04-27}}</ref>」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。 YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が[[中国]]の[[人民服]]と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「[[テクノカット]]」([[本多三記夫]]考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。 ライブにおいて[[ヴォコーダー]]ヴォイスで挨拶することでも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞くことができる。 == 来歴 == === 初期 : 結成〜ワールド・ツアー === ==== 結成 ==== YMO結成以前、細野は、[[ドラマー]]の[[林立夫]]、[[歌手|シンガー]]の[[MANNA|マナ]]と共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」を[[カバー#概要|カヴァー]]するという[[音楽ユニット|ユニット]]を構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と[[佐藤博 (ミュージシャン)|佐藤博]]のユニットで[[マーティン・デニー]]の「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は[[坂本龍一]]を推薦した<ref>2014[[楽器フェア]]内「YMO楽器展2014」におけるトークショーでの日笠雅水の発言{{信頼性要検証|date=2017-10}}</ref>。 1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『[[はらいそ]]』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、[[高橋幸宏]]の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。 それまでにも坂本と細野は1975年、[[大滝詠一]]のアルバム「[[NIAGARA MOON]]」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野が[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]のツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。1976年5月、細野のアルバム『[[泰安洋行]]』発売時のライブでは坂本とともに「ファイアークラッカー」を演奏している<ref>演奏はCD『Hosono Box 1969-2000』Disc 4(Re-Wind Recordings, 2000年)に収録</ref>。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流は[[サディスティック・ミカ・バンド]]が1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、[[小原礼]]の代役で細野が演奏したことが一度あっただけだった<ref>レコード・コレクターズ 2003年2月号</ref>。 その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「[[マーティン・デニー]]の「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。 細野はメンバーが決まった後も、結成当初は[[横尾忠則]]をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾はなぜか「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。 後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート[[松武秀樹]]が、サポートメンバーの[[プログラマー]]として迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。 1978年7月10日、YMOはレコーディングを開始<ref name="key19-25" />。 1978年9月、[[松武秀樹]]をサポート・メンバーとしてライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。 1978年10月18日、郵便貯金ホールにおいてライヴを開催<ref name="key19-25" />。さらに10月25日から26日にかけ六本木ピットインにおいて「[[千のナイフ]]発売記念ライヴ」を開催<ref name="key19-25" />。 YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は[[渡辺香津美]]とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、[[矢野顕子]]も参加)。また高橋は1979年6月まで[[サディスティックス]]に在籍していた。初期には東京、六本木のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、[[KYLYN]]、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「[[千のナイフ]]発売記念ライヴ」にも3人が参加している。 1978年11月25日、デビュー・アルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)|イエロー・マジック・オーケストラ]]』を[[アルファレコード]]より発売<ref name="key19-25">{{Cite journal|和書 |title= |publisher=キーボード・マガジン編集部 |journal=キーボード・マガジン 2019年1月号 |page=25}}</ref>。[[アルファレコード]]は、同年秋にアメリカの[[A&Mレコード]]と業務提携しており、12月3 - 10日に[[紀伊國屋ホール]]で行われたライヴが来日していた副社長の[[トミー・リピューマ]]の目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に『[[ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978]]』(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。 1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けに[[リミックス]]したアルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (US版)|イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)]]』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った<ref name="a" />。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本では[[オリコンチャート|オリコン]]・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、[[吉田美奈子]]のヴォーカルが加えられている。同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始された<ref name="ns_19820107">「アルファレコード、業界初の米国進出(下)第2、第3のYMOを(挑戦の記録)」『[[日経産業新聞]]』1982年1月7日付、16頁。</ref>。1979年8月2 - 4日には、ロサンゼルスの{{仮リンク|グリーク・シアター|en|Greek Theatre (Los Angeles)}}で{{仮リンク|チューブス|en|The_Tubes}}の前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。その後、チューブスが来日した時には、9月10 - 11日に[[中野サンプラザ]]で、9月13 - 14日には郵便貯金ホールで前座を務めている。 同年9月25日、2枚目のアルバム『[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]』を発売<ref>{{Cite journal|和書 |title= |publisher=キーボード・マガジン編集部 |journal=キーボード・マガジン 2019年1月号 |page=27}}</ref>(この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「[[テクノポリス (YMOの曲)|テクノポリス]]」「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「[[デイ・トリッパー]]」「[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ[[鮎川誠]]([[シーナ&ザ・ロケッツ]])がゲスト・ギタリストで参加している。 ==== 人気が国内へ逆輸入 ==== 10月には初のワールド・ツアー「[[トランス・アトランティック・ツアー]] ([[YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR]])」を[[イギリス]]・[[ロンドン]]のヴェニュー公演からスタート。ツアー中は[[テレビ]]、[[ラジオ]]でも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な[[人民服]]風の[[服装|コスチューム]]など、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、[[中野サンプラザ]]にてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、[[シーナ&ザ・ロケッツ]]がオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。この時期の大人気に伴い、デビュー以降無かった正式なマネジメント会社の設立が必要になり、[[ベルウッド・レコード]]出身の「大蔵博」(大蔵火呂死)によって音楽プロダクション会社「ヨロシタミュージック」が設立され、YMOは当該会社の所属になった。 こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者が[[テクノカット]]をまね、[[竹の子族]]が「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。 1980年3月からは初の国内ツアー「[[テクノポリス2000-20]]」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート([[Billboard Hot 100]])で60位を記録した<ref>Billboard HOT 100 charts YELLOW MAGIC ORCHESTRA - COMPUTER GAME (Theme From The Circus) Joel Whitburn Presents the Billboard Hot 100 Charts The 8OS - Record Research (1991/6/1)</ref>。 4月には、[[小学館]]の雑誌「[[写楽 (雑誌)|写楽]]」の創刊イベント「写楽祭」に[[シーナ&ザ・ロケッツ]]や[[スネークマンショー]]らと共に出演。 6月、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『[[増殖 (YMOのアルバム)|増殖]]』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。イギリスで発売されたシングル「COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)」が、6月8日付の全英シングルチャートで17位を記録した<ref>[https://www.charttimemachine.com/?view=title&title_id=7529]Music Week YELLOW MAGIC ORCHESTRA - COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)</ref>。 10月には第2回ワールド・ツアー「[[FROM TOKIO TO TOKYO]]」が、イギリス・[[オックスフォード]]のニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロサンゼルス]]のザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「[[ソウル・トレイン (テレビ番組)|ソウル・トレイン]]」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の[[日本武道館]]での4日連続公演で締めくくられた。 YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。 === 中期 : 『BGM』と『テクノデリック』 === 1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR([[マルチトラック・レコーダー]])を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良い[[ポピュラー音楽|ポップ]]指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェーヴ]]色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでの[[クリス・モズデル]]による散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞は[[ピーター・バラカン]]との共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『[[ニュー・ミュージカル・エクスプレス]]』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。 音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。 同年11月には、『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『[[テクノデリック]]』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などを[[サンプリング]]し、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。 同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「[[ウィンター・ライヴ1981]]」が11月24日から[[仙台市|仙台]]・[[宮城県民会館]]よりスタート。全国11会場で行われる。主に『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』 『[[テクノデリック]]』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのライヴとしては初めてMTRが使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては非常に珍しいともいえる楽器のパート変更などが見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも[[松武秀樹]]一人のみで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演(この日の公演のみ[[立花ハジメ]]、[[梅林茂]]もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏)を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。 グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した<ref group="footnote">『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』のジャケット等に「YMO」と表記されている。それ以前は略す場合「Y.M.O.」と、ピリオドを付けて表記するのが一般的だった。</ref>。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。 この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」<ref>ロッキンf 1981年5月号</ref>と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。この時期の坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせにスタジオの椅子を蹴飛ばしたり、互いに顔を合わせないようにわざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。 メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)[[アルファレコード]]の意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。 1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚<ref name="ns_19820107" />、イギリスで20万枚<ref name="ns_19820107" />、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚<ref name="ns_19820107" />、全世界でのレコード売上は500万枚<ref name="ns_19820107" />に達した(アルファレコード社長(当時)の[[村井邦彦]]による<ref name="ns_19820107" />)。 === 後期 : ソロ活動〜再始動〜そして「散開」へ === 翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった<ref group="footnote">この年は雑誌にフェイクアルバムの広告が掲載された</ref>。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。 細野は[[はっぴいえんど]]時代の盟友[[松本隆]]と共に[[松田聖子]]への楽曲提供を行い、また高橋と共に「[[¥EN]]」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『[[フィルハーモニー]]』を発表する。坂本は[[郷ひろみ]]や[[前川清]]などの楽曲プロデュース、また、[[忌野清志郎]]と共にシングル「[[い・け・な・いルージュマジック]]」をリリース、そして、[[大島渚]]監督の映画『[[戦場のメリークリスマス]]』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。 YMOとしては「[[ミュージックフェア]]」や「[[オレたちひょうきん族]]」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]」に「'''トリオ・ザ・テクノ'''」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している<ref>『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p52</ref>。細野は“[[林家三平 (初代)|林家三平]]”“[[柳家金語楼]]”“[[大河内傳次郎]]”、坂本は“[[忌野清志郎]]”“[[矢沢永吉]]”、高橋は“[[小野田寛郎]]”“[[草刈正雄]]”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。 翌年、1983年3月、[[カネボウ化粧品]]のCMタイアップ曲となったシングル「[[君に、胸キュン。]]」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』 『[[テクノデリック]]』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による[[松田聖子]]の「[[天国のキッス]]」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『[[浮気なぼくら]]』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。 また、同年7月には『[[浮気なぼくら]]』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『[[浮気なぼくら (インストゥルメンタル)]]』が発表され、このアルバムに収録された「[[以心電信 (YMOの曲)|以心電信]]」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。 この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。 当時、高橋が担当の「[[オールナイトニッポン]]」に劇団[[スーパー・エキセントリック・シアター]] (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、1980年6月リリースの『増殖』のような、S.E.T.によるコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてギャグ色の濃いアルバム『[[サーヴィス (YMOのアルバム)|サーヴィス]]』が制作されることになった。 そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月号)のインタビューで、細野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。 旧YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「[[1983 YMOジャパンツアー]]」が11月23日から札幌、[[北海道立産業共進会場|道立産業共進会場]]よりスタート。全国6会場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)だった。 アルバム『[[サーヴィス (YMOのアルバム)|サーヴィス]]』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『[[アフター・サーヴィス]]』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映画『[[A Y.M.O. FILM PROPAGANDA]]』のプロモーション試写会を新宿[[シアターアプル]]にて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。旧YMOとしてはこれが最後の仕事となった。同映画は4月18日、渋谷公会堂にて上映。以後、全国109か所で公開された。 このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。 === 「再生」=== 散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野が全て断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「'''再生'''」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された<ref group="footnote">この時点で「YMO」という名称はアルファ側により[[商標|商標登録]]されており、使用できなかったため、再生時のグループ名は「YMO」の3文字の上に「×」を描いたものが採用された。読みは「ノットYMO」。2007年の活動再開以降は高橋の所属事務所であるヒンツ・ミュージックにより「イエローマジックオーケストラ」(第5121722号)「YMO」(第5121723号)が商標登録されており、問題なく名称が使用できるようになっている。</ref>。YMO再生は、新聞が社会面で、[[日本放送協会|NHK]]および民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、YMOがかつて所属していたアルファはそれに便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。 再生時の記者会見は[[ジョン・レノン]]と[[オノ・ヨーコ]]の[[ベッド・イン]]のパロディで、巨大なベッドに3人が仰向けに寝た状態で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた『[[進め!電波少年]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])の[[松村邦洋]]と[[松本明子]]が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた<ref group="footnote">YMO方の回答は「関係者と相談します」であった。他にも「映画『進め! 電波少年』の音楽を作って欲しい!」というお願いも用意していたが、指名されることなく終了した。</ref>。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」と[[ビートたけし]]のものまねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。 5月26日、アルバム『[[テクノドン]]』を[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から発売。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合った[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]等との仕事で知られた日本人エンジニア[[GOH HOTODA]]が参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルは[[エルヴィス・プレスリー]]のカヴァー曲「[[ポケットが虹でいっぱい]]」。6月10、11日には、[[東京ドーム]]にて公演が行われた。前座は[[ジ・オーブ]]が務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『[[テクノドン・ライヴ]]』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、'''「再生」はメンバー自身の本意ではなかった'''と3人とも口を揃えて語っている<ref>[[日本放送協会|NHK]] [[プレミアム10]]「YMOからHASへ -坂本龍一+高橋幸宏+細野晴臣 音楽の旅-」{{信頼性要検証|date=2020年12月}}</ref>)。 しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。 === 2000年代 === 2001年1月23日、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して[[丹前]](どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。 同年 4月25日、[[TBSテレビ|TBS]]による地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「[[N.M.L.]] (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「[[ZERO LANDMINE]]」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、[[デヴィッド・シルヴィアン]]や[[クラフトワーク]]など、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多数参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細野と高橋も参加した。 翌2002年、細野と高橋が[[エレクトロニカ]]ユニット「[[スケッチ・ショウ]]」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「[[キュー (YMOの曲)|キュー]]」や「[[中国女 (曲)|中国女]]」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。 スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」が[[スペイン]]・[[バルセロナ]]にて開催され、3人はYMOではなく「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]] (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9 - 10日、「sonarsound tokyo 2004」が[[恵比寿ガーデンプレイス]]にて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースに[[Macintosh]]を配置した[[エレクトロニカ]]のスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「[[ライオット・イン・ラゴス]]」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。 1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。 しかしながら、2007年2月3日、[[麒麟麦酒|キリン]]ラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」を新たなアレンジで録音した「[[RYDEEN 79/07]]」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、[[iTunes Store]]をはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演に伴って、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。 3月21日にはベストアルバム『[[YMO GO HOME!]]』とライヴアルバム『[[ONE MORE YMO]]』が[[ソニー・ミュージックダイレクト]]より再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『[[UC YMO]]』の初回盤が復刻発売された。 その後5月19日、「Smile Together Project」の一環として[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HAS]]名義でのライヴを[[横浜国際平和会議場|パシフィコ横浜]]国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「[[以心電信 (YMOの曲)|以心電信]]」、「音楽」、「[[キュー (YMOの曲)|キュー]]」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『[[アップルシード#EX MACHINA|EX MACHINA -エクスマキナ-]]』のテーマ曲となる3人の新曲「[[RESCUE (HASYMOの曲)|レスキュー]]」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、[[高野寛]]、[[高田漣]]、[[権藤知彦]]。 一方で[[Apple Japan]]のウェブサイトにおける [https://web.archive.org/web/20070410184053/http://www.apple.com/jp/articles/interviews/sakamotoryuichi/ Special Interview]の中で、坂本が「歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている」ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。 そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「[[ライブ・アース]]」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。会場は[[京都市]]の[[東寺]]の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった<ref group="footnote">演奏されたのは「以心電信」「レスキュー」「War & Peace」「RYDEEN 79/07」の4曲。</ref>。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、[[エイベックス]]内の坂本が主宰するレーベル[[commmons]]から発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]](ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の『[[テクノドン・ライヴ]]』以来。 2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演が[[ロイヤル・フェスティバル・ホール]]で行われた。また、同週の6月19日にはスペイン・[[ヒホン]]のLaboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTS MEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「[[The City of Light / Tokyo Town Pages]]」と、[[ダライ・ラマ14世]]のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。 2009年、[[NTTドコモ|docomo]]の[[携帯電話#携帯電話端末|携帯電話端末]][[N-04A]]にオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した(HASYMO名義)。この音源はここでしか確認ができない。 8月9日、東京・[[夢の島]]で開催された[[ロック・フェスティバル|夏フェス]]「[[WORLD HAPPINESS]] 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、[[ビートルズ]]のカバー「[[ハロー・グッドバイ]]」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは[[小山田圭吾]]、[[高田漣]]、[[権藤知彦]]であった。 === 2010年以降 === 2010年4月発売“音楽の事典”『commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「[[ハロー・グッドバイ]]」と、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]の「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルは[[クリスタル・ケイ]]が担当した。これとリンクして、[[NHK教育テレビ]]の番組『[[スコラ 坂本龍一 音楽の学校]]』の「ドラムス & ベース編」に三人で出演するとともに、[[小山田圭吾]]と[[権藤知彦]]と共に「千のナイフ」「ハロー・グッドバイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。 2010年も引き続き「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは[[江崎グリコ]]「[[ポッキー]]」のCMに出演、BGMには「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」が使用された。 2011年6月26日、アメリカ・[[ハリウッド]]の野外音楽堂「[[ハリウッド・ボウル]]」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演が、[[チボ・マット]]を伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra “LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。 帰国後の7月31日には「[[フジロック・フェスティバル]]」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、1993年以来の新曲「'''Fire Bird'''」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブを[[NHK放送センター#テレビスタジオ|NHK放送センター101スタジオ]]にて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。 2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD『Live in San Francisco 2011』として発売。 7月7 - 8日、坂本の呼びかけで始まった脱原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリを[[クラフトワーク]]に譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD『YMONHK』として発売。8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル・ダウンロード限定で販売。 8月12日には5回目の『WORLD HAPPINESS 2012』に出演し「[[スネークマン・ショー|開け心〜磁性紀のテーマ〜]]」をライブでは初めて披露され、散開以来29年ぶりに「TECHNOPOLIS」を演奏した。 同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、[[東京都現代美術館]]レストランで開催。「WORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋と共に鑑賞する内容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSには'''YMOでは'''出演しない」旨が高橋よりコメントされた。 2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本([[大友良英]]、[[Sachiko M]]、[[ASA-CHANG]]との連名)、細野、高橋 ([[THE BEATNIKS]]) がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。 同年12月21日、[[EX THEATER ROPPONGI]]にて細野と坂本によるライブ「細野晴臣×坂本龍一」を開催。最後に高橋がゲストで登場し、坂本の「TIBETAN DANCE」、クラフトワークの「Radio Activity」に続き、YMOの「Rydeen」をアコースティック編成で演奏。さらにアンコールで「[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|Smile]]」(細野が同年のアルバム『[[HoSoNoVa|Ho So No Va]]』でカヴァー)を演奏した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/106274 |title=「どてらYMO」再び?細野晴臣×坂本龍一ライブで名曲続々 |date=2013-12-26 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |accessdate=2019-01-09}}</ref>。 2016年4月には、坂本龍一をはじめとするアーティストとエイベックスグループが設立したプロジェクト、commmonsの10周年を記念したイベント「commmons10 健康音楽」の開催され、8日に前夜祭「高橋幸宏の新世界~出張特別編」が行われる。これは高橋がゲストを迎えて毎月開催していたトークイベントの特別編で、ゲストとして坂本龍一が出演、更にスペシャル・ゲストとして細野晴臣も出演。 2019年1月2日、細野の音楽活動50周年を記念し、[[BSプレミアム]]にて「細野晴臣イエローマジックショー2」を放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://www4.nhk.or.jp/P5373/x/2019-01-02/10/32345/3122071/ |title=細野晴臣イエローマジックショー2 |work=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=2019-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190126015132/http://www4.nhk.or.jp/P5373/x/2019-01-02/10/32345/3122071/|archivedate=2019-01-26}}</ref>。前回に続き、18年ぶりに3人が「どてらYMO」として「Rydeen」を演奏、さらに共演の[[星野源]]が加わって「Firecracker」2018年6月23日、細野はロンドンのバービカン・センターで英国デビュー・ソロ・コンサートを行い、高橋と坂本もステージに加わり「Absolute Ego Dance」を披露した。を演奏した。また、同年12月1日開催の細野の音楽活動50周年記念イベント「イエローマジックショー3」において、高橋のゲスト出演に加え、事前収録の映像で坂本が出演。映像の坂本と3人で「COSMIC SURFIN'」と「ABSOLUTE EGO DANCE」を演奏<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/357943 |title=YMOによる時と場所を越えたセッションも!音楽と笑いの一夜「イエローマジックショー3」 |date=2019-12-04 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |accessdate=2020-01-01}}</ref>。これがYMOメンバー揃って行った最後のパフォーマンスとなった。 2023年1月11日、高橋がかねてより闘病していた[[脳腫瘍]]から[[誤嚥性肺炎]]を併発し70歳で死去。そのわずか2か月半後の3月28日、がんとの闘病中であった坂本も71歳で死去した。 高橋死去が公表される1月15日の朝、坂本は追悼の意を表したような、コメントのない無地の灰色一色の画像のみのものをSNSに投稿した<ref>{{Cite news|title=高橋幸宏さん死去にYMOメンバー沈痛…坂本龍一は灰色画像投稿、細野晴臣コメント出せず|url=https://hochi.news/articles/20230115-OHT1T51255.html?page=1|newspaper=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|date=2023-01-16||accessdate=2023-10-22}}</ref>。そして坂本死去が公表された翌日の4月3日には、YMOで唯一存命となった細野も同じような無地の灰色の画像をInstagramへ投稿し追悼した<ref>{{Cite news|title=細野晴臣、インスタに灰色の画像を投稿 坂本龍一さんが高橋幸宏さん死去の際に同様の投稿|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202304030000043.html|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2023-04-03|accessdate=2023-04-06}}</ref>。 == 技術面 == === 電子技術 === YMOは日本においてはシンセサイザーのサウンドを大々的に[[商業音楽]]に取り入れた先駆者<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/synthesizers-now-and-then-1 |title=シンセ今と昔: 60年代〜70年代のアナログシンセと音楽 |publisher=www.redbullmusicacademy.jp |date= |accessdate=2019-04-17}}</ref>である。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいてコンピュータプログラムによる自動演奏を取り入れた点でも東アジア圏では革新的だったのは間違いがない。 それまでのシンセサイザーは[[効果音]]製作や、既存の楽器の代用として使用されることが多かった。[[ウェンディ・カーロス]]ですらクラシックからの転向者で、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者は、非常に少なかった。しかし実際のレコーディングでは手弾きのパート、生のドラムの演奏が多かった。 YMO結成当時、コンピュータが刻むクリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だったが細野、坂本、高橋はクリックとの同期にまったく違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのため彼らのライブは新種楽器の見本市のような様相を示していた。正確なクリック音に同期して演奏するスタイルは結成当初に掲げた「'''[[グルーヴ]]の徹底的な排除'''」が背景にあったが、すぐに飽きてしまい民族音楽とクリックの研究を重ねるうち、1拍を24分割し、前拍と後拍の比率を14:10にしたところ[[エイサー]]に近いビートが得られたのが「ABSOLUTE EGO ⅮANCE」の制作に繋っている。 YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの[[松武秀樹]]の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データの[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]への打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。 === 主な演奏機材 === {{雑多な内容の箇条書き|date=2013-06|section=5}} YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。 ==== 初期 ==== * [[モーグ・シンセサイザー#モジュラー・システム|モーグ III-c]]([[松武秀樹]]が使用していた大型モジュラー・シンセサイザー、通称「[[箪笥|タンス]]」。簡単なフレーズやSEの演奏も行った。マルチテープのみ録音されたマルチ録音には欠かせないクリック音も本機で作っている。) * [[モーグ・シンセサイザー#ポリモーグ|ポリモーグ]](坂本の個人所有物。1stアルバムやライブで使用) * [[コルグ]] VC-10([[ヴォコーダー]]) * [[ローランド]] VP-330(ヴォコーダー)(文字通りヴォコーダーとして多用されたが、「CASTALIA」ではヴォコーダーとしてではなく同機に供えられていたアンサンブル機能(クワイヤー音色)を用いてメロディー演奏を行っている) * [[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]・[[:en:ARP Odyssey|オデッセイ]](ベースやリードで多用。坂本はYMO結成前はアープ・オデッセイの名手<ref group="footnote">[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]の1995年盤のライナーノーツで大滝詠一は「誰もがARPの音を出すのに苦労していたのを後に「教授」と呼ばれる坂本が弾いている所にYMOの萌芽が見られた。」と回顧している</ref>として知られており、「東風」PVでは坂本の個人所有物(MkI、白パネル・名前入り)も見られる。初期から第1回ワールドツアーでは「千のナイフ」などで、坂本がソロパートで使用しているのが目立つほか、第二回ワールドツアーまで細野がシンセベースで使用していた。2007年のキリンラガービールのテレビCMにおいても細野がシンセベースとして弾いている。細野使用のモデルは現在、当時自身の会社でYMOにシンセを貸出していたプログラマーの松武秀樹が所有) * コルグ PS-3100(細野の個人所有物で、ライディーンの馬の駆けて行くSEは、これで作ったという。坂本も所有しており「東風」PVでも確認できる。) * [[シーケンシャル・サーキット]] [[シーケンシャル・サーキット プロフェット5|プロフェット5]](YMOの使用シンセの代表。坂本は最も使いやすく、気に入っていると後に語っている<ref>{{Cite interview |和書|title=坂本龍一|第19回 「テクノ」について言いきる |url=http://openers.jp/article/10958 |work=OPENERS |publisher=株式会社スマートメディア |date=2015-03-09 |accessdate=2020-12-12 }}</ref>。個人所有している。) * ポラード シンドラム Model 477(シンセドラム) * ULT-SOUND(東洋楽器)DS-4・DS-4 Custom(シンセドラム) * E-MU カスタム・モジュール(大型モジュラー・シンセサイザー。第2回ワールド・ツアー以降で使用) * BIAS(イシバシ楽器)BS-1・BS-2(ドラムのフープに取り付けるタイプのシンセドラム。高橋のオーダーにより、BS-1の音色に[[ホワイト・ノイズ]]が追加されたタイプがBS-2。) * [[オーバーハイム]] 8ヴォイス(1stアルバムや、ライヴではサポートキーボーディストであった[[矢野顕子]]が使用) * モーグ [[:en:Multimoog|Multimoog]](細野がシンセベースとして使用。メモリーを持たないアープ・オデッセイと交互に使われた。) * ローランド JUPITER-4(ライヴでは坂本が使用。第2回ワールドツアー時にプロフェット5が壊れた際にはメインとして使用された。) * [[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ|EMS]] VCS3(主に[[効果音|SE]]等で使われた) * モーグ 16 Channel Vocoder(ヴォコーダー。「テクノポリス 2000-20」でのみ使用) * モーグ mini moog([[東風 (曲)|東風]]のパパパーという合いの手の音でしか使用されていない) * [[ヤマハ]] E1010(アナログ[[ディレイ (音響機器)|ディレイ]]) (YMOで多用されたことから「YMOディレイ」という通称を持つ) ==== 中期 ==== * シーケンシャル・サーキット プロフェット5(この時期からライヴにおいてもメンバー全員が使用している) * ローランド [[ローランド・TR-808|TR-808]](リズムマシン。当時の細野のお気に入りの機材であった) * ローランド JUPITER-8(これで「MASS」や「邂逅」の[[アルペッジョ|アルペジオ]]パターンが演奏されていた) * E-MU カスタム・モジュール * [[LMD-649]]([[サンプラー]]) * [[E-MU Systems|E-MU]] [[:en:E-mu Emulator|Emulator]] <ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/204619/ E-MU SystemsとCreativeの新戦略 Creative Professional誕生] - [[All About]]</ref>(サンプラー。ウィンター・ライヴ1981以降で使用) ==== 後期 ==== * シーケンシャル・サーキット プロフェット5 * ローランド JUPITER-8 * [[:en:Linn LM-1|リン・ドラム LM-1]] / [[:en:LinnDrum|LM-2]]([[ドラムマシン]]、坂本が個人所有しており、後に坂本が[[エクソル]]のCM曲で使用し、CM曲を演奏する坂本の楽器セットに組み込まれており、坂本と共にCMに登場した。また細野もソロアルバム『[[フィルハーモニー]]』や、[[松田聖子]]の『[[天国のキッス]]』で使用している。 * [[シモンズ]] SDS-5(エレクトロニックドラム。ただし散開ライヴのシモンズはバスドラム・スネアのパットはシモンズの音源でなく、リン・ドラムの外部トリガーに接続されていた) * シーケンシャル・サーキット プロフェットT8(散開ライヴでのみ使用された) 技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。<!--ヤマハ DX7?--> 後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。 ==== 再生 ==== * コルグ [[コルグ・Mシリーズ|M1]] * アープ・オデッセイ * ローランド JUPITER-8 * E-MU VINTAGE KEYS * コルグ [[コルグ・01/Wシリーズ|01/WproX]] ==== 2007年からの再活動 ==== * [[ヤマハ・MOTIFシリーズ|ヤマハ MOTIF XF 7]] * シーケンシャル・サーキット プロフェット5 * コルグ・microX * ローランド・SPD-S(サンプリングパッド。サンプリング機能搭載のエレクトリックパーカッション) === サンプリング === 『[[テクノデリック]]』の項目を参照。 === 自動演奏 === 坂本は「ピアノのレッスンをほとんどまじめにやらなかった<ref>[[太田出版]]・坂本龍一音楽史 p.72ほか、複数の書籍で何度でも出てくる。</ref>」と回想することが多いが、ピアノの生演奏をする機会は同時代のミュージシャンの中でもずば抜けて多かったため、アクションの軽い電子キーボードの操作は容易であった。自動演奏に聞こえる「[[テクノポリス (YMOの曲)|テクノポリス]]」のシーケンスパターンや、「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」のメロディは手弾きである<ref>サウンド&レコーディング・マガジン 1999年11月号</ref>。 初期は、[[ミュージックシーケンサー]]MC-8を[[松武秀樹]]がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるミュージックシーケンサーMC-4が登場する『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』の直前まで続いた。アルバム『[[浮気なぼくら]]』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武が制作から外れている。 === ドラム === {{雑多な内容の箇条書き|date=2013-06|section=5}} * YMOでの[[ドラムセット|ドラム]]は主に[[高橋幸宏]]が担当した。YMOのドラム演奏には以下のような特徴がある。 ** [[シンバル]]を使わない(ほぼ全てのスタジオレコーディング音源に共通)。しかし、後期には要所要所にてクラッシュ・シンバルが効果的に使用されている(シャドウズ・オン・ザ・グラウンド、パースペクティブ他)。 ** [[フィルイン]]には[[トムトム|タム]]を多用せずに、ほとんど[[スネアドラム|スネア]]を使う * YMO結成当時、ドラムの録音はスネア・[[バスドラム]]・[[ハイハット]]などを全て同時に録音するのが一般的であったが、YMOでは各パートを別々のトラックに録音していた。そのため、当時のエンジニアや関係者によると、YMOの録音は「時間がかかって仕方がない」という印象を持っていたとのこと。また、たとえばハイハットだけ録音する際には、ハイハット以外のドラムセットには[[毛布]]をグルグル巻きにして音が出ないようにして他のドラムセットも叩くなど[[グルーヴ]]感が出るように工夫することもあった。 * 初期のアルバムでは生ドラムの音色をそのまま使用していた。当時の[[アルファレコード]]の[[スタジオ]]の壁には石が埋め込まれており、特殊な残響による硬質なドラムの音色が特徴である。 *初期から80年のワールドツアー時まで、ライヴでは[[タム]]の代わりにシンセドラムを効果音的に多用した。シンセドラムのパッド1つにつき出る音は一つのため、ツアーを経るごとにシンセドラムの数は増えていった。しかし81年のウィンター・ライヴからは使用しなくなる。 *80年のワールドツアー時にはチューニングの異なるスネアを2台用意し、両方に[[BIAS BS-1]](石橋楽器のオリジナル・ブランド)を取り付け、さらにそのうち1台にバーカスベリーのピックアップを取り付けてE-MUカスタム・[[モジュール]]に接続し、[[ノイズ]]を付加させた音を出していた。しかし[[トリガー]]{{要曖昧さ回避|date=2022年1月}}の調子によってノイズは出たり出なかったりした。武道館公演のみ、BS-2が使われた。 * アルバム『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』の「U・T」では、ノイズゲート機材「Kepex」を使ったゲートエコーを利用している。具体的には、ドラム音にロングエコー(鉄板エコー・[[リバーブレーター|リバーブ]])をかけ、余韻の部分を強制的に切ることで、人工的な効果を出すというもの。この手法は、前年に「開け心-磁性紀-」や高橋のソロアルバム『音楽殺人』の「THE CORE OF EDEN」で使用されていた。 * また、アルバム『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』からは、[[ローランド]]の[[リズムマシン]]「[[ローランド・TR-808|TR-808]]」を取り入れた。前年末に行われた武道館公演での「千のナイフ」のイントロで使われたのが最初。 * アルバム『[[テクノデリック]]』以降では、手作りのサンプラー「[[LMD-649]]」を使い、サンプリング音源によるドラムを実現している。サンプリングの音源は[[ドラム缶]]やドアの[[ドアノブ|ノブ]]を叩いた音、工事現場の音、人の[[声]]などを採用している。直後のウィンター・ライヴではLMD-649をトリガー・ボックスに接続し、手やドラムスティックで叩いて使用した。しかし高橋も回想しているように、振動に弱いため、ちょっとした振動で音が出てしまうという難点も抱えていた<ref>『ONE MORE YMO』ライナーノーツ掲載の高橋による曲解説</ref>。 * アルバム『[[浮気なぼくら]]』では一転して「リン・ドラム」を使うなど、技術の発展に同期した音作りをしている。1983年の散開ライヴでは、シモンズのエレクトロニック・ドラムをトリガーにしてリン・ドラムを鳴らすなど、高度なテクニックを駆使していた。 * ドラムの自動演奏が実現できる環境になったとしても、人間特有の「ノリ」を完全に実現できないため、あえて人が叩くドラムを利用していたこともある。 * 散開ライヴにおいて、ドラムを叩きながら歌うのは体力が持たなくなってきたということもあり、歌うことに専念したいと考えた高橋は、基本的に簡単なパーカッションと単音のシンセ音を担当するのみでヴォーカルに徹し、ドラムは「東風」「ビハインド・ザ・マスク」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」「ファイアークラッカー」「テクノポリス〜ライディーン」といった初期の曲を中心としたライヴ序盤と終盤の曲で叩いたのみ。そのためドラムスには[[ABC (バンド)|ABC]]を脱退した[[デヴィッド・パーマー]]がサポートメンバーとして参加した<ref group="footnote">この手法は高橋が自身のソロツアーで確立した手法であり、2007年のHASのライヴでも行われた。</ref>。 * 散開ライヴでは前後移動できるドラムセットの台座下にパーカッションセットとシンセのある演説台型演奏ブースがステージの床付近に下げられた状態であり、「中国女」のラスト時に、デヴィッドが演奏しているドラムセットが台座ごと後方に下がり、演奏ブースが昇ってくるのが確認できる。 === ライヴ === アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期には[[パーカッション]]も存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー([[ローランド MC-8]])のフレーズの同時出力数に限界があり(同期信号など演奏に出ないものもある)、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「[[YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80]]」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、[[CPU]]関係に[[送風機|ファン]]が追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には[[扇風機]]を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。 1981年に行われた「[[ウィンター・ライヴ1981]]」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに代わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。 散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックが[[マルチトラックレコーダー|MTR]]で演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。 1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビュー<ref>『コンパクトYMO』徳間書店、1998年 ISBN 4-19-860831-8</ref>では、高橋は「[[東京ドーム]]の[[グラウンド]]下には大きな[[発電機]]があり、[[Macintosh]](シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。そのため、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「[[ポケットが虹でいっぱい]]」のみはテープ演奏であったが、ステージ上に[[オープンリール]]MTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、[[カラオケ]]演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。 === 同期演奏とそのためのヘッドフォン === {{雑多な内容の箇条書き|date=2013-06|section=5}} ==== 同期演奏とクリック音 ==== * YMOはライヴで[[ヘッドフォン]]を装着して演奏するという、当時としては画期的な方法をとっていた。これは、自動演奏とメンバーの演奏を同期するためのガイドとなるクリック音を聞くためであった。このクリック音は、モーグIII-cのステップシーケンサーを使って演奏させていた。 * クリック音は、松武がコントロールするシンセサイザーのフィルター発振音で、レゾナンスを上げていったときの自己発振音を使っている。 ** 音は「キッコッコッコッカッコッコッコッ」や「ピッポッポッポッパッポッポッポ」と聞こえる。 ** アルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (US版)]]』に収録されている「[[東風 (曲)|東風]]」イントロ部分を注意深く聞いていると「キッコ、キッコ」という音が微かに聞こえるのが分かる。 ** 1980年11月のロサンゼルスA&Mスタジオ公演の「ALL YOU NEED IS LOVE」-「[[テクノポリス (YMOの曲)|テクノポリス]]」での曲の合間を注意深く聞くと「キコカコ音」を聞くことができる。同公演のTV放送では同部分と「東風」が始まる前とでかなりの音量で聞こえていた。 ==== ヘッドフォン ==== * ヘッドフォンを装着すると、通常のライヴでは聞こえてくる各メンバーの演奏の音が聞こえない。そのため、メンバーの出している音を[[Public Address|PA]]から送り返す場合に、[[モニタースピーカー]]へ送らず[[キューボックス]]という簡易ミキサーへ送り、クリック音と混ぜて聞いていた。 ** このキューボックスは、グリークシアター公演の直前に数日間徹夜して作られ、当時としては最新の回路やパーツを使っていたため、一般のものにくらべてとても高音質かつ高価であった。 * ヘッドフォンは[[ビクター]]のHP-550がよく使われ、シュアーのSM-10Aヘッドセットマイクとのコンビネーションは、トレードマークになる。 * 初期のライヴで[[矢野顕子]]が使用していたのは[[ゼンハイザー]]のHD414である。これは他のメンバーが使用している場合もあり、また、東風のPVでもメンバー3人が使用しているのが確認できる。 * アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に収められている「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」ではヘッドフォンをマイク代わりに使用している部分がある。 * ヘッドフォン装着により観客の拍手や歓声なども聞こえなくなるため、演奏の無い部分や曲間などでヘッドフォンをずらして観客の反応を確かめていた。 ==== ライヴでの同期演奏 ==== * YMOの初期のライヴでは、実際にクリック音を聞きながら演奏していた曲は半分くらいであった。第1次-2次ワールド・ツアー時の「コズミック・サーフィン」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、「ラジオ・ジャンク」、「[[デイ・トリッパー]]」、「[[中国女 (曲)|中国女]]」等は、後の高橋のコメント<ref>CD「ONE MORE YMO」、「L-R TRAX」ライナーノーツより</ref>などから、普通のバンドのようにドラムに合わせて演奏していたと推察される。しかし、メンバーは機器トラブルでシーケンサを使用できなかった場合があることを認めている。ライヴにおいてどの曲目がシーケンサーを最初から使用しなかったのかは、グリークシアター公演の「コズミック・サーフィン」以外は明らかにされていない。 * シーケンサーに1曲のデータをロードするのに1曲分の時間がかかっていた。当初シーケンサーを使う曲の次にはクリック音を使わない曲を配置し、シーケンサー未使用曲を演奏している間に次の曲のデータをロードする工夫をしていた。 * 第2回ワールドツアーからは、モーグ・III-CのほかE-MUのモジュラーシステムも登場し、予備機を含め3台のMC-8を導入して、シーケンサーを使用した演奏を続けて行うことができるようになった(交互交互の自動演奏では2台のMC-8で充分だが、松武は1台のMC-8を演奏中、2台のMC-8で次曲の同じデータを同時にロードし、ロードエラーに備えていた)。この当時ソニーの[[デンスケ (録音機)|カセットデンスケ]]をデータ・ストア(記憶装置)として利用していた<ref>1980年12月 FROM TOKYO TO TOKYO 武道館ライヴ・パンフレット ※カセットデンスケ、2台のローランドMC-8、モーグ・III-CとE-MU・システムシンセサイザーが配置されたシステム構成図が載っている。</ref>。 * 初期のシーケンサー・MC-8は熱に弱く、ライヴ演奏中にデータが全て失われたりするなどのトラブルが多かった。そういうケースに遭遇した場合、曲順を変更したり、当時のギター担当であった[[渡辺香津美]]がその場でカッティング演奏を行い、メンバーもそれに合わせて演奏して臨機応変に対応していた<ref group="footnote">復旧するまでに時間を要することもあり、そのため海外では「曲が長い」という評価もあった。</ref>。こういう状況であわてふためくことがないのはYMOメンバーとサポートメンバーに高度な演奏技術があったことを示している。しかしメンバーへの精神的負担は大きく、細野は年月が経ってからも「ステージに立っても演奏できない」という夢を見るほどだったという。 * 初の衛星中継となった1980年11月のロサンゼルスでのライヴでは、最初の「[[ライオット・イン・ラゴス]]」で松武が機材のスイッチを入れる順序を間違えたため、クリック音がMC-8の演奏と16分音符1個分ずれて送出されてしまい、高橋が後方の松武に向かって首を横に振るシーンが見られる。この時は、MC-8演奏のパートをイントロの8小節演奏後辺りでカットして、クリックのみで演奏を行っていた。シーケンス自体は止めていないので、間奏後のBパート部分で小出しに音を出していた。 * 散開ライヴでは坂本が曲の始まる2小節前から体をリズムに合わせ始めるシーンが見られ、クリック音に演奏を同期させる様子が分かる(この時は全てMTR)。 == 影響 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2012-04|section=9}} <!--暫定的に、「YMOチルドレン」の項からそのままコピーしておきます。出典が確保できないものは順次削除します。--> === 音楽 === 1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン世代」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://amass.jp/116111/ |title=YMOチルドレン世代 |publisher=amass.jp |date= |accessdate=2019-04-17}}</ref>。 *'''[[浅倉大介]]''' *:自分の頭の中で"こうしたい"という音が、僕にとっては生楽器ではなかったんですね。その時にYMOを耳にして「これだ!」と。それから、すぐに思いを形にするべく小型のアナログシンセ (Roland SH-101) を手に入れて。最初のシンセとの出会いですね。 *'''[[槇原敬之]]''' *:[[坂本龍一]]が[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めた『[[サウンドストリート]]』([[NHK-FM放送|NHK-FM]]) のデモテープコーナーに自作曲を送り、坂本に高く評価される。 *'''[[宮沢和史]] ([[THE BOOM]])''' *:父親と「電子音楽は音楽なのか」論争になった旨がミニアルバム『[[D.E.M.O.]]』内に記されている。 *'''[[高野寛]]''' *:[[高橋幸宏]]と[[鈴木慶一]]([[ムーンライダーズ]])によって設立された「T・E・N・T」レーベル([[ポニーキャニオン]])のオーディションがきっかけでデビュー。後にギタリストとして、[[ビートニクス]]や坂本龍一、[[HAS]]のライブに参加している。 *'''[[テイ・トウワ]]''' *:元[[ディー・ライト]]。槇原敬之と同様、『[[サウンドストリート]]』のデモテープコーナーに自作曲を送り、坂本に高く評価される。一時は坂本のプライベートレーベル「güt」レーベル([[フォーライフミュージックエンタテイメント|フォーライフ・レコード]])に在籍し、坂本のアルバム『[[スウィート・リヴェンジ]]』の録音に参加したり、坂本と共に[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の変名ユニット[[ゲイシャガールズ]]をプロデュースした。 *'''[[電気グルーヴ]]''' ** '''[[石野卓球]]''' **:小学生時代、祖母から買ってもらった『[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]』のカセットテープから大きな衝撃を受け、その後ミュージシャンとなるきっかけを作る。あまりに毎日聴き過ぎたため、母親から『イエローマジック禁止令』を出され、テープを隠されてしまったほどであったという。 ** '''[[砂原良徳]](元メンバー)''' **:熱狂的ファンとして知られている。その熱狂ぶりは『[[カルトQ]]』のYMO大会で優勝、YMOカルトキングの称号を得てしまったほどである。砂原良徳の該当記事([[砂原良徳#略歴|逸話]])も参照のこと。 *'''[[デペッシュ・モード]]''' *:無名時代のデペッシュ・モードが、イエロー・マジック・オーケストラの追っかけをしており、イギリスの公演の時に何回も楽屋に押しかけて来て、しつこいくらいにあれこれ訊いてきたと、高橋幸宏が語った<ref>[https://otonano-shumatsu.com/articles/299498] おとなの週末 Web 「YMOの事務所社長が語った一番人気の曲名+筆者の極私的ベスト3 音楽の達人“秘話”・高橋幸宏(4完)」2023年3月20日閲覧</ref>。 *'''[[大槻ケンヂ]]''' *:現在の[[ハードロック]]志向の音楽性から一見関連性は薄いように思われがちだが、かつて自身のユニット・[[空手バカボン]]でYMOの「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」の替え歌(「来たるべき世界」)がレパートリーとしてあったり、[[インタビュー]]や著作等での発言から、その影響は多大なものであったことが窺える。筋肉少女帯「[[仏陀L]]」のジャケットは『増殖』のパロディであると自著「リンダリンダラバーソウル」で語っている。 *'''[[ケン・イシイ]]''' *:YMO散開直前に作品に触れ、彼がエレクトロミュージックに興味を持つきっかけとなった、とインタビューで答えている。 *'''[[今井寿]] ([[BUCK-TICK]])''' *:学生時代に影響を受ける。当初はシンセサイザーをやりたかったが、当時は機材が高価過ぎてとても手が出ず、仕方なくギターにしたという。また、自らがボーカルとギターを務めるバンド・[[Lucy (バンド)|Lucy]]では、ライブで「NICE AGE」のカバーも披露。 *'''[[宇多丸]] ([[RHYMESTER]])''' *:中学生時代は熱心なファンであった。RHYMESTERの楽曲「20世紀」にて「磁世紀」をサンプリングした。 *'''[[SUGIZO]] ([[LUNA SEA]], [[X JAPAN]])''' *'''[[TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND]]'''<ref>{{Cite web |title=TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUNDと高野寛が目指した、“現代のテクノポップ”とは |url=https://realsound.jp/2018/10/post-270186.html |website=Real Sound|リアルサウンド |date=2018-10-30 |access-date=2023-11-10 |language=ja}}</ref> *'''[[吉田拓郎]]''' *:「[[坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD]]」内でYMOの影響を受けて打ち込みを始めたと発言している。 *'''[[星野源]]''' *:20歳の時に「Mad Pierrot」を聴き影響を受け、ライブで同楽曲を演奏した他、制作楽曲にも影響が見られる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Entameplex_8325/?p=2 |title=星野源“カホコ”主題歌「Family Song」をライブ初披露 |publisher=exciteニュース |date=2017-09-10}}</ref>。星野は、自身の楽曲のジャンルを「イエローミュージック」と称している。 *[[ジェニファー・ロペス]]のシングル「I'm real」はファイアークラッカーをサンプリングし、全米ナンバーワンを獲得した。 *初音ミクのイメージアルバム『[[Hatsune Miku Orchestra]]』にて、YMOの各楽曲がカヴァーされている。ジャケットは、アルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ (US版)]]』のパロディ。 *「[[ひだまりスケッチ|ひだまりスケッチ×365]]」のアルバム『ひだまりラジオ×365 特別編 〜いぇすっ! アスミス!!〜』のジャケットは、アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のパロディ。 *「[[まりあ†ほりっく]]」のエンディングでは天の妃少女合唱団によって「[[君に、胸キュン。]]」がカバーされている。また、このシングルCDのジャケットは同曲のシングル盤ジャケットのパロディ。 === 音楽以外 === *[[ゲームクリエイター]][[飯野賢治]]は「坂本からは思想を、高橋からはファッションを、細野からは音楽を学んだ。」という意味のことを自著『ゲーム』に記している。 *漫画「[[ディスコミュニケーション]]」- 作者の[[植芝理一]]がYMOファンであり、主人公にYMOの曲を演奏させたり、扉絵では同漫画のキャラクターで[[トランス・アトランティック・ツアー]]のメンバーを表現したり、主人公に[[FROM TOKIO TO TOKYO]]のユニフォームを着せるなど数多くのYMOネタが見られる。 *[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]制作で[[新房昭之]]監督のアニメにはYMOのパロディなどが多い。 *「[[さよなら絶望先生 (アニメ)|さよなら絶望先生]]」の劇中にて顔に「坂本」「高橋」「細野」と書かれた明らかにYMOの三人を意識したパロディなどが登場している。 *漫画「[[すすめ!!パイレーツ]]」作者の[[江口寿史]] が80年ニューウェイブ好きだったため、YMOメンバーが作品に登場している。他には[[DEVO]]等も登場。 *漫画「[[はるみねーしょん]]」のキャラクターの名前が、YMOのメンバーの名前と酷似している。 *精神科医の[[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]もYMOに影響を受けたことを雑誌にて公言しており、NHK-FMでYMO特集番組「とことんYMOとその界隈」を弟の[[中塚圭骸]]と共に、ラジオパーソナリティを務めたことがある。 *ガクエン情報部H・I・Pにて、「デビッド・サカモト」という明らかに坂本をモデルとしたキャラが登場。 *[[田中雄二]](編集者)- [[カルトQ]](フジテレビ)の「YMOカルトQ」の構成、東芝EMI時代のYMO再発全タイトルの[[ライナーノーツ]]監修なども務めた。「[[電子音楽in Japan]]」「[[電子音楽 in the (lost) world]]」([[アスペクト (企業)|アスペクト]])を編著。 *ゲーム「[[SEEK2 -SADISTIC BABYLON-]]」の登場人物の名前はYMOメンバーに由来。 == ライヴサポートメンバー == ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座も第1回ワールドツアーに含む)以前のライヴを指す。 * '''[[矢野顕子]]''' / キーボード&バック・ヴォーカル([[トランス・アトランティック・ツアー|第1回ワールドツアー]]、[[FROM TOKIO TO TOKYO|第2回ワールドツアー]]) *: 矢野自身の曲「在広東少年」ではメインヴォーカルを務める。ワールドツアーでは通訳や現地メディアに応対する役割も果たした。1979年の自身のライヴにはYMOの3人がゲストとして参加。その際には矢野が作詞した「[[東風 (曲)|東風]]」を披露している。第1回ワールドツアー時は娘の[[坂本美雨]]を妊娠していた。 * '''[[渡辺香津美]]''' / ギター(初期 - 第1回ワールドツアー) *: [[紀伊國屋ホール]]のライヴでは自身のバンドのメンバーが参加した。 * '''[[鮎川誠]]''' / ギター(初期、テクノポリス2000-20、1980年4月5日、4月9日〜15日、写楽祭) *: 1978年12月に東京、六本木のライブハウス「ピットイン」で行われたライヴにも参加。[[ディーヴォ|DEVO]]、[[ローリング・ストーンズ]]両ヴァージョンのカバー「[[サティスファクション]]」の演奏ではメイン・ヴォーカルを務めた。また、第1回ワールドツアー後の1979年12月19日[[中野サンプラザ]]公演や第2回ワールドツアー後の[[日本武道館]]公演の前座は、鮎川のバンド・[[シーナ&ザ・ロケッツ]]が行った。 *'''風間幹也''' / パーカッション(1978年12月10日 紀伊国屋ホール) *'''松本弘''' / キーボード(1978年12月10日 紀伊国屋ホール) *:風間、松本ともに渡辺香津美のバンドのメンバーである。 * '''[[大村憲司]]''' / ギター&バック・ヴォーカル([[テクノポリス2000-20]]、写楽祭、第2回ワールドツアー) *: 第2回ワールドツアーでは自身の曲「MAPS」のメインヴォーカルを務めた。テクノポリス2000-20は、感冒性内耳炎になったため一時的にメンバーから外れたが、復帰時には[[鮎川誠]]とのダブルギターを披露([[写楽 (雑誌)|写楽祭]]でも鮎川とのダブルギターを披露している)。 * '''[[松武秀樹]]''' / プログラミング・SE(初期 - [[ウィンター・ライヴ1981]]) * '''[[矢野誠 (ミュージシャン)|矢野誠]]''' / キーボード(初期) * '''[[林立夫]]''' / パーカッション(1978・芝郵便貯金ホールでのライヴのみ参加) * '''[[橋本一子]]''' / キーボード&バック・ヴォーカル(テクノポリス2000-20) *: 矢野顕子産休のため。 * '''[[藤本敦夫]]''' / ギター&バック・ヴォーカル(テクノポリス2000-20、1980年4月4日、4月5日、4月7日) * '''[[藤井丈司]]''' / ギター(テクノポリス2000-20、1980年4月1日) *: 当時の本業はYMOの所属事務所であったヨロシタ・ミュージックのスタッフで、本来は、ドラマー兼プログラマー。急遽登板することになったが渡辺・大村とは異なり、簡単な[[和音|コード]]しか弾けなかったため、坂本がソロパートを増やすことで対処した。 * '''[[立花ハジメ]]''' / サックス([[ウィンター・ライヴ1981]] 東京、新宿の[[ディスコ]]「ツバキハウス」でのライヴのみ参加) * '''[[梅林茂]]''' / ギター([[ウィンター・ライヴ1981]] 東京、新宿のディスコ「ツバキハウス」でのライヴのみ参加) * '''デヴィッド・パーマー''' / ドラム(散開ライヴ) *: 高橋の要請により参加したが、当時所属していた[[ABC (バンド)|ABC]]のスケジュールと重なってしまったため、ABCを脱退して参加した。 * '''[[GOH HOTODA]]''' / プログラミング・SE(1993・再生ライヴ) * '''[[クリスチャン・フェネス]]''' / ギター・エレクトロニクス(2008・ロンドン&ヒホン、2011・WORLD HAPPINESS: [[フジロック・フェスティバル|FUJI ROCK FESTIVAL]]) * '''[[小山田圭吾]]''' / ギター(2009&2010&2011・WORLD HAPPINESS、2011・FUJI ROCK FESTIVAL) * '''[[高田漣]]''' / [[スティール・ギター]](2008・ロンドン&ヒホン、2009&2010・WORLD HAPPINESS) * '''[[権藤知彦]]''' / [[ユーフォニアム]]・[[フリューゲルホルン]]・コンピュータオペレーティング(2008・ロンドン&ヒホン、2009&2010&2011・WORLD HAPPINESS、2011・FUJI ROCK FESTIVAL) *: 権藤はHAS以降、長期にわたってコンピュータオペレーティングを担当している。 ''レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照'' == 作品 == 以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義のもので、「HASYMO」名義のものは除いている。 === シングル === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!![[レコードレーベル|レーベル]]!!規格!![[規格品番]] !順位<ref group="footnote">[[オリコンチャート]]による最高順位を参照。デジタル・ダウンロードの作品に関しては、[[iTunes Store]]による最高順位を参照。</ref> !収録アルバム |- |1st |{{Start date|1979|10|25}} !{{Larger|[[テクノポリス (YMOの曲)|テクノポリス]]<br />(TECHNOPOLIS)}} | rowspan="6" |[[アルファレコード]] | rowspan="9" |[[レコード|7インチ]] |ALR-1016 |9位 |rowspan=2|[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]] |- |2nd |{{Start date|1980|6|21}} !{{Larger|[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]<br />(RYDEEN)}} |ALR-701 |15位 |- |3rd |{{Start date|1980|12|20}} !{{Larger|[[タイトゥン・アップ]]<br />(TIGHTEN UP)}} |ALR-725 |43位 |[[増殖 (YMOのアルバム)|増殖]] |- |4th |{{Start date|1981|4|21}} !{{Larger|[[キュー (YMOの曲)|キュー]]<br />(CUE)}} |ALR-731 | - |rowspan=2|[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]] |- |5th |{{Start date|1981|9|5}} !{{Larger|[[マス (YMOの曲)|マス]]<br />(MASS)}} |ALR-742 | - |- |6th |{{Start date|1982|2|21}} !{{Larger|[[体操 (YMOの曲)|体操]]<br />(Taiso)}} |ALR-751 | - |[[テクノデリック]] |- |7th |{{Start date|1983|3|25}} !{{Larger|[[君に、胸キュン。]]}} | rowspan="3" |アルファレコード/YEN |YLR-704 |2位 |[[浮気なぼくら]] |- |8th |{{Start date|1983|7|27}} !{{Larger|[[過激な淑女]]}} |YLR-707 |15位 |アルバム未収録 |- |9th |{{Start date|1983|9|28}} !{{Larger|[[以心電信 (YMOの曲)|以心電信]]<br />(YOU'VE GOT TO HELP YOURSELF)}} |YLR-709 |23位 |[[サーヴィス (YMOのアルバム)|サーヴィス]] |- |10th |{{Start date|1993|4|28}} !{{Larger|[[ポケットが虹でいっぱい]]<br />(Pocketful of Rainbows)}} | rowspan="2" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]/EASTWORLD | rowspan="2" |[[8センチCD]] |TODT-3040 |13位 |rowspan=2|[[テクノドン]] |- |11th |{{Start date|1993|8|25}} !{{Larger|[[ビー・ア・スーパーマン]]<br />(BE A SUPERMAN)}} |TODT-3095 |76位 |- |12th |{{Start date|2007|2|3}} !{{Larger|[[RYDEEN 79/07]]}} | rowspan="2" |[[commmons]] | rowspan="2" |[[音楽配信|デジタル・ダウンロード]] | - |1位 |rowspan=2|アルバム未収録 |- |13th |{{Start date|2012|8|1}} !{{Larger|Fire Bird}} | - | - |} === オリジナル・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位 |- |1st |{{Start date|1978|11|25}} !{{Larger|[[イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)|イエロー・マジック・オーケストラ]]<br />(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)}} |アルファレコード | rowspan="3" |[[レコード|LP]]<br />[[コンパクトカセット|CT]] |ALR-6012<br />ALC-1511 |69位 |- | - |{{flagicon|USA}}{{Start date|1979|5|30}}<br />{{flagicon|JPN}}{{Start date|1979|7|25}} !{{Larger|[[イエロー・マジック・オーケストラ (US版)]]<br />(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)}} |{{flagicon|USA}}[[A&Mレコード]]<br />{{flagicon|JPN}}アルファレコード |{{flagicon|USA}}SP736<br />{{flagicon|JPN}}LP: ALR-6020<br />CT: ALC-1533 |20位 |- |2nd |{{Start date|1979|9|25}} !{{Larger|[[ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー]]<br />(SOLID STATE SURVIVOR)}} | rowspan="4" |アルファレコード |ALR-6022<br />ALC-1519 | rowspan="2" |1位 |- |3rd |{{Start date|1980|6|5}} !{{Larger|[[増殖 (YMOのアルバム)|増殖]]<br />(X∞MULTIPLIES)}} |10インチ<br />CT |YMO-1<br />ALC-22001 |- |4th |{{Start date|1981|3|21}} !{{Larger|[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]}} | rowspan="4" |LP<br />CT |ALR-28015<br />ALC-28014 |2位 |- |5th |{{Start date|1981|11|21}} !{{Larger|[[テクノデリック]]<br />(TECHNODELIC)}} |ALR-28030<br />ALC-28029 |4位 |- |6th |{{Start date|1983|5|24}} !{{Larger|[[浮気なぼくら]]<br />(NAUGHTY BOYS)}} | rowspan="2" |アルファレコード/YEN |YLR-28008<br />YLC-28008 |1位 |- |7th |{{Start date|1983|12|14}} !{{Larger|[[サーヴィス (YMOのアルバム)|サーヴィス]]<br />(SERVICE)}} |YLR-28013<br />YLC-28011 |5位 |- |8th |{{Start date|1993|5|26}} !{{Larger|[[テクノドン]]<br />(TECHNODON)}} |東芝EMI/EASTWORLD |[[コンパクトディスク|CD]] |TOCT-8010 |2位 |} === リミックス・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|1983|7|27}} !{{Larger|[[浮気なぼくら (インストゥルメンタル)]]<br />(NAUGHTY BOYS (INSTRUMENTAL))}} |アルファレコード/YEN |LP<br />CT |YLR-20002<br />YLC-20002 |18位 | |- |2nd |{{Start date|1986|3|25}} !{{Larger|[[Y.M.O. MEGA MIX]]}} |アルファレコード |LP |ALR-18002 | - | |- |3rd |{{Start date|1990|9|25}} !{{Larger|[[YMO・イン・ザ・ナインティーズ・ピート・ロリマー・リミックス]]<br />(YMO IN THE '90S THE PETE LORIMER REMIX)}} |アルファレコード | rowspan="10" |CD |ALCA-81 |87位 | |- |4th |{{Start date|1992|6|21}} !{{Larger|[[ハイテック・ノークライム]]<br />(HI-TECH / NO CRIME)}} |アルファレコード/SPIN |ALCA-323 |80位 | |- |5th |{{Start date|1992|12|16}} !{{Larger|NEO TECHNOPOLIS……繁殖}} |[[avex trax]] |AVCD-11093 | - | |- |6th |{{Start date|1993|3|21}} !{{Larger|RAVE TECHNOPOLIS TOKYO / MEGA RAVE PROJECT}} |[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]] |SRCL2581 | - | |- |7th |{{Start date|1993|4|21}} !{{Larger|[[YMO versus THE HUMAN LEAGUE]]}} |アルファレコード |ALCA-475 | - | [[ヒューマン・リーグ]]によるリミックス |- |8th |{{Start date|1993|6|9}} !{{Larger|[[TECHNODON REMIXES I]]}} | rowspan="2" |東芝EMI/EASTWORLD |TOCT-8050 | rowspan="2" |18位 | |- |9th |{{Start date|1993|7|14}} !{{Larger|[[TECHNODON REMIXES II]]}} |TOCT-8070 | |- |10th |{{Start date|1993|9|21}} !{{Larger|YMO HI-TECH / U.S.CRIME}} | rowspan="2" |アルファレコード |ALCA-527 | - |HI-TECH / NO CRIMEの海外リリースヴァージョン |- |11th |{{Start date|1993|10|21}} !{{Larger|WHO'S YMO}} |ALCA-533 | - |邦楽ミュージシャンによるリミックス集 |- |12th |{{Start date|1995|10|25}} !{{Larger|EURO-DON}} |[[cutting edge]] |CTCC-52003 | - | |- |13th |{{Start date|2000|11|22}} !{{Larger|YMO REMIXES TECHNOPOLIS 2000-00}} | rowspan="2" |[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]] | rowspan="2" |LP(2枚組)<br />CD |VIJL-60073/4<br />VICL-60653 |52位 | |- |14th |{{Start date|1999|11|3}} !{{Larger|YMO REMIXES TECHNOPOLIS 2000-01}} |VIJL-60045/6<br />VICL-60483 |25位 | |- |15th |{{Start date|2001|4|4}} !{{Larger|Junior's Magic Orchestra}} | rowspan="2" |front line records | rowspan="4" |CD |KMCT-7006 | - | |- |16th |{{Start date|2001|4|25}} !{{Larger|J.M.O. AFTER SERVICE-non stop mix-}} |KMCT-7007 | - | |- |17th |{{Start date|2005|3|24}} !{{Larger|YMO-REMIXES 99-00 THE BEST}} | rowspan="2" |ビクターエンタテインメント/Victor |VICL-61599 | - | |- |18th |{{Start date|2009|3|25}} !{{Larger|YMO REMIXES 99-00 THE BEST COMPLETE EDITION}} |VICL-63289 | - | |} === ライヴ・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位 |- |1st |{{Start date|1980|2|21}} !{{Larger|[[パブリック・プレッシャー]]/公的抑圧<br />(PUBLIC PRESSURE)}} |アルファレコード |LP<br />CT |ALR-6033<br />ALC-1530 |1位 |- |2nd |{{Start date|1984|2|22}} !{{Larger|[[アフター・サーヴィス]]<br />(AFTER SERVICE)}} |アルファレコード/YEN |LP(2枚組)<br />CT |YLR-40001/2<br />YLC-40001 |2位 |- |3rd |{{Start date|1991|5|21}} !{{Larger|[[フェイカー・ホリック]]<br />(FAKER HOLIC YMO WORLD TOUR LIVE)}} | rowspan="2" |アルファレコード | rowspan="2" |CD(2枚組) |ALCA-137/8 |50位 |- |4th |{{Start date|1992|11|21}} !{{Larger|[[コンプリート・サーヴィス]]<br />(COMPLETE SERVICE)}} |ALCA-421/2 | - |- |5th |{{Start date|1993|8|25}} !{{Larger|[[テクノドン・ライヴ]]<br />(TECHNODON LIVE)}} |東芝EMI/イーストワールド | rowspan="4" |CD |TOCT-8090 |12位 |- |6th |{{Start date|1993|11|21}} !{{Larger|[[ライヴ・アット・武道館1980]]<br />(LIVE AT BUDOKAN 1980)}} | rowspan="2" |アルファレコード |ALCA-543 |87位 |- |7th |{{Start date|1993|12|21}} !{{Larger|[[ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978]]<br />(LIVE AT KINOKUNI-YA HALL 1978)}} |ALCA-9052 |55位 |- |8th |{{Start date|1995|11|22}} !{{Larger|[[ウィンター・ライヴ1981 (アルバム)|ウィンター・ライヴ1981]]<br />(WINTER LIVE 1981)}} | rowspan="3" |[[アルファレコード|アルファミュージック]] |ALCA-5055 | - |- |9th |{{Start date|1996|5|22}} !{{Larger|[[ワールド・ツアー1980]]<br />(WORLD TOUR 1980)}} |CD(2枚組) |ALCA-5065/6 |59位 |- |10th |{{Start date|1997|3|26}} !{{Larger|[[ライヴ・アット・グリークシアター1979]]<br />(LIVE AT GREEK THEATER 1979)}} |CD |ALCA-5150 | - |- |11th | rowspan="2" |{{Start date|2008|12|10}} !{{Larger|[[EUYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON+GIJON 2008-|LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08]]}} | rowspan="3" |[[commmons]] | rowspan="2" |CD(2枚組) |RZCM-46100 |76位 |- |12th !{{Larger|[[EUYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON+GIJON 2008-|GIJÓNYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJÓN 19/6 08-]]}} |RZCM-46102 |89位 |- |13th |{{Start date|2015|8|5}} !{{Larger|[[NO NUKES 2012]]}} |CD |RZCM-59939 | |} === ベスト・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{flagicon|USA}}{{Start date|1980|7|29}}<br />{{flagicon|JPN}}{{Start date|1980|9|5}} !{{Larger|[[X∞Multiplies]]}} |{{flagicon|USA}}A&Mレコード<br />{{flagicon|JPN}}アルファレコード |LP |{{flagicon|USA}}SP4813<br />{{flagicon|JPN}}ALR-28004 | {{flagicon|USA}}177位<br />{{flagicon|JPN}}7位 |海外では2ndアルバムとして発売した物を逆輸入してベストアルバムとして販売 |- |2nd |{{Start date|1982|10}} !{{Larger|[[YMO ベスト・セレクション]]}} |アルファレコード |CT |ALC-30001 | - |カーステレオ向けベストアルバム |- |3rd |{{Start date|1984|12|21}} !{{Larger|[[シールド (YMOのアルバム)|シールド]]<br />(SEALED)}} |アルファレコード/YEN |LP(4枚組)<br />CT(4本組) |YLR-80001/4<br />YLC-80001/4 | - |散開記念ベストアルバム |- |4th |{{Start date|1987|11|28}} !{{Larger|[[Y.M.O.ヒストリー]]}} |アルファレコード |CD(2枚組) |50XA-191/2 | - | |- |5th |{{Flagicon|USA}}{{Start date|1991}}<br />{{Flagicon|UK}}{{Start date|1992}}<br />{{flagicon|JPN}}{{Start date|1992|7|21}} !{{Larger|[[キョーレツナリズム]]<br />(KYORETSU NA RHYTHM)}} |{{flagicon|USA}}{{仮リンク|レストレスレコード|en|Restless Records}}<br />{{Flagicon|UK}}レストレスレコード<br />{{flagicon|JPN}}アルファレコード |CD |{{Flagicon|USA}}7 72574-2<br />{{Flagicon|UK}}LS 9189 2<br />{{flagicon|JPN}}ALCA-331 |{{flagicon|JPN}}61位 |海外で[[リマスタリング]]された音源を使用したベスト |- |6th |{{Start date|1997|8|27}} !{{Larger|[[スーパー・ベスト・オブ・YMO]]<br />(SUPER BEST OF YMO)}} | rowspan="2" |[[アルファレコード|アルファミュージック]] | rowspan="2" |CD |ALCA-5199/200 | - | |- |7th |{{Start date|1998|8|29}} !{{Larger|[[We Love YMO]]}} |ALCA-5246 | - |[[オリコン]]とのタイアップベスト |- |8th |{{Start date|1999|9|22}} !{{Larger|[[YMO GO HOME!]]}} | rowspan="2" |東芝EMI/[[イーストワールド]] |CD(2枚組) |TOCT-24231/2 |6位 |細野プロデュースベスト |- |9th |{{Start date|2000|4|26}} !{{Larger|[[ONE MORE YMO]]}} |CD |TOCT-24315 |23位 |高橋プロデュースベスト |- |10th |{{Start date|2003|8|6}} !{{Larger|[[UC YMO]]}} | rowspan="2" |[[ソニー・ミュージックダイレクト]]/GTmusic |CD(2枚組)<br />[[Super Audio CD|SACD]](2枚組) |MHCL-295/6<br />MHGL-1/2 |14位 |坂本プロデュースベスト |- |11th |{{Start date|2011|6|15}} !{{Larger|[[YMO (アルバム)|YMO]]}} |CD |MHCL-20123 |30位 |メンバープロデュースベスト |} === コンピレーション・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|1995|12|13}} !{{Larger|[[オーヴァー・シーズ・コレクション]]<br />(OVER SEAS COLLECTION)}} |[[アルファレコード|アルファミュージック]] |CD(2枚組) |ALCA-5056/7 |98位 |海外向けシングル集 |- |2nd |{{Start date|2018|10|17}} !{{Larger|[[NEUE TANZ]]}} |[[ソニー・ミュージックダイレクト]]/GTmusic |LP<br />[[ブルースペックCD|Blu-spec CD2]] |MHJL-49<br />MHCL-30538 |8位 |結成40周年記念コンピレーション |} === ボックス・セット === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|1992|8|21}} !{{Larger|[[テクノ・バイブル]]<br />(TECHNO BIBLE)}} | rowspan="4" |アルファレコード |CD(5枚組) |ALCA-371/4,H12-19 |10位 |限定1万セット |- |2nd |{{Start date|1993|7|21}} !{{Larger|[[YMO ANALOG SINGLE BOX]]}} |7インチ(9枚組) |ALKA-1/9 | - |アナログシングル集 |- |3rd |{{Start date|1993|9|21}} !{{Larger|[[CUBIC - YMO CD Single BOX]]}} |8センチCD(10枚組) |ALDA-91/100 | - |CDシングル集 |- |4th |{{Start date|1994|1|21}} !{{Larger|[[YMO LP BOX]]}} |LP(14枚組) |ALJA-1/13 | - | |- |5th |{{Start date|1994|3|23}} !{{Larger|[[TECHNODON BOX]]}} |東芝EMI/EASTWORLD |CD(4枚組) |TOCT-8326/9 | - |<del>YMO</del>(ノットワイエムオー)名義で発売した4枚のアルバムをまとめた物 |- |6th |{{Start date|2005|3|24}} !{{Larger|[[L-R TRAX Live&Rare Tracks]]}} |ソニー・ミュージックダイレクト/GTmusic |CD(8枚組) |MHCL-501/8 | - |ライブアルバム集 |- |7th | {{Start date|2008|12|10}} !{{Larger|[[EUYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON+GIJON 2008-]]}} |[[commmons]] |CD (4枚組)+Tシャツ付限定BOX仕様 |RZCM-46096X |85位 |HASYMO名義で行われた2つのライブ音源とTシャツの限定BOX |} === トリビュート・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|2002|9|25}} !{{Larger|A MUSICAL TRIBUTE YMO TRANCE}} |[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] | rowspan="5" |CD |UPCH1190 | - | |- |2nd |{{Start date|2004|9|8}} !{{Larger|[[TRIBUTE TO YMO]]}} |ミュージックマインID |IDCA1018 | - | |- |3rd |{{Start date|2005|8|24}} !{{Larger|A MUSICAL TRIBUTE YMO EN-TRANCE}} |[[サイトロン・デジタルコンテンツ]] |SCDC00456 | - | |- |4th |{{Start date|2011|9|1}} !{{Larger|YMO REWAKE}} |electric sheep |ELSP-2 | - | |- |5th |{{Start date|2011|9|7}} !{{Larger|ウクレレ・YMOとその周辺}} |OCTAVE |OTCD-2317 | - | |} === カバー・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!アーティスト!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|1993|5|21}} | rowspan="2" |カバの会 !{{Larger|[[YMOのカバ]]}} | rowspan="2" |アルファレコード | rowspan="16" |CD |ALCA-489 | - |[[桑原茂一]]プロデュース |- |2nd |{{Start date|1993|10|21}} !{{Larger|続YMOのカバ}} |ALCA-532 | - | |- |3rd | rowspan="2" |{{Start date|1998|2|25}} |COSMIC VILLAGE !{{Larger|NICE AGE}} | rowspan="3" |アルファミュージック |ALCA-5227 | - | |- |4th |METAL SERVICE !{{Larger|YELLOW METAL ORCHESTRA}} |ALCA-5228 | - | |- |5th |{{Start date|1998|12|16}} |YMO & [[爆笑問題]]、[[長井秀和]] !{{Larger|増長}} |ALCA-5250 | - | YMOの結成20周年企画盤。桑原茂一プロデュース、収録曲はほぼ同一で、コント部分を爆笑問題と長井秀和に変えたアルバム |- |6th |{{Start date|2000|4|25}} |Yセツ王(齋藤久師 (ex.GULT DEP, [[8bit Project]])) !{{Larger|ERO MAGIC ORCHESTRA}} |[[P-VINE RECORDS]] |PCD-5808 | - | |- |7th |{{Start date|2001|3|22}} |内海源太 !{{Larger|Rydeen Electone}} |スーパースター |EGCH-10005 | - | |- |8th |{{Start date|2001|3|25}} |Yセツ王 !{{Larger|PUBLIC PUSSY/公的膣圧}} |P-VINE RECORDS |PCD-5815 | - | |- |9th |{{Start date|2005|1|26}} |といぼっくす !{{Larger|Acoustic YMO}} |[[ウェーブマスター|WAVE MASTER]] |WWCA31066 | - | |- |10th |{{Start date|2006|6|20}} |[[:en:Uwe Schmidt|セニョール・ココナッツ]]・アンド・ヒズ・オーケストラ !{{Larger|YELLOW FEVER!}} |Third Ear |XECX1051 | - | |- |11th |{{Start date|2008|2|20}} |[[anonymass]] !{{Larger|anonymoss}} |[[ミディ]] |MDCL1485 | - | |- |12th |{{Start date|2009|8|26}} |HMOとかの中の人。(PAw Laboratory) !{{Larger|[[Hatsune Miku Orchestra]]}} |JOINT RECORDS / Third-Ear |XECJ1005 | - | |- |13th |{{Start date|2009|11|11}} |minimums !{{Larger|YMO vs. minimums}} |Banyan Records |XQHX1003 | - | |- |14th |{{Start date|2011|1|26}} |ENOLA QUINTET !{{Larger|ENOLA QUINTET plays Yellow Magic Orchestra}} |ブルーリムレーベル |XQJU1001 | - | |- |15th |{{Start date|2012|12|19}} |HMOとかの中の人。(PAw Laboratory) !{{Larger|[[増殖気味 X≒MULTIPLIES]]}} |U/M/A/A Inc. |UMA9009 | - | |- |16th |{{Start date|2013|3|13}} |ENOLA QUINTET !{{Larger|Yellow Magic Orchestra JAZZ COVERS}} |[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]] |TKCA-73883 | - | |} === 映像作品 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!順位!!備考 |- |1st |{{Start date|1982|12|5}} !{{Larger|YELLOW MAGIC ORCHESTRA}} | rowspan="2" |ビクター | rowspan="3" |[[VHS]] |CSM 808 | - |ライブ・ビデオ |- |2nd |{{Start date|1983|2|5}} !{{Larger|COMPUTER GAME}} |CSM 809 | - |ミュージック・ビデオ集 |- |3rd |{{Start date|1983|4|21}} !{{Larger|ウィンター・ライヴ'81<br />WINTER LIVE '81}} |[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]] |96ZM-26 | - |ライブ・ビデオ |- |4th |{{Start date|1984|4|25}} !{{Larger|[[A Y.M.O. FILM PROPAGANDA]]}} |[[ポニーキャニオン]] |VHS<br />[[ベータマックス|β]] |V148F8002<br />X148F8002 | - |同名映画ソフト化 |- |5th |{{Start date|1992|8|21}} !{{Larger|ハラー<br />(HURRAH)}} | rowspan="4" |アルファレコード | rowspan="6" |VHS<br />LD |ALVA-83<br />ALLA-83 | - | ライブ・ビデオ |- |6th |{{Start date|1992|12|21}} !{{Larger|HI-TECH VIDEO CRIME}} |ALVA-87<br />ALLA-87 | - |ミュージック・ビデオ |- |7th |{{Start date|1993|3|21}} !{{Larger|Y.M.O.伝説 1983散開コンサート at 武道館}} |ALVA-91<br />ALLA-91 | - | rowspan="3" |ライブ・ビデオ |- |8th |{{Start date|1993|9|21}} !{{Larger|ライヴ・アット・武道館1980<br />(LIVE AT BUDOKAN 1980)}} |ALVA-105<br />ALLA-105 | - |- |9th |{{Start date|1993|12|1}} !{{Larger|テクノドン・イン・東京ドーム<br />(TECHNODON IN TOKYO DOME)}} |東芝EMI |TOVF-1179<br />TOLF-1178 | - |- |10th |{{Start date|1993|12|21}} !{{Larger|TV-YMO}} |アルファレコード |ALVA-9707<br />ALLA-9707 | - |テレビ出演映像集 |- |11th |{{Start date|1998|8|25}} !{{Larger|YMO Giga Clips}} | rowspan="3" |[[ショウゲート|東芝デジタルフロンティア]] | rowspan="3" |[[DVD]] |BBBE-1007 | - |ミュージック・ビデオ、テレビ出演映像集 |- |12th |{{Start date|1998|8|25}} !{{Larger|YMO Giga Live}} |BBBE-1008 | - |ライブ映像集 |- |13th |{{Start date|1999|1|25}} !{{Larger|YMO Giga Capsule}} |BBBE-1026 | - |[[MP3]]音声、ライブ映像集 |- |14th |{{Start date|1999|9|22}} !{{Larger|コンプリート・ハラー<br />(COMPLETE HURRAH)}} | rowspan="3" |東芝EMI |VHS<br />LD |TOVF-1320<br />TOLF-1320 | - |ライブ・ビデオ |- |15th |{{Start date|1999|11|10}} !{{Larger|CLIPS HISTORY OF YMO}} |VHS |TOVF-1329 | - |ミュージック・ビデオ集 |- |16th |{{Start date|2000|4|26}} !{{Larger|1979 トランス・アトランティック・ツアー<br />(1979 TRANS ATRANTIC TOUR)}} |VHS<br />DVD |TOVF-1342<br />TOBF-5024 |42位 |ライブ・ビデオ |- |17th |{{Start date|2003|1|22}} !{{Larger|Visual YMO : the Best}} |ソニー・ミュージックハウス |DVD |MHBL1 |13位 | |- |18th |{{Start date|2009|8|26}} !{{Larger|POSTYMO〜YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 2008+}} | rowspan="3" |commmons |DVD(2枚組) |RZBM-46311/2 |26位 | rowspan="2" |ライブ・ビデオ |- |19th |{{Start date|2012|2|15}} !{{Larger|Live in San Francisco 2011}} | rowspan="2" |DVD |RZBM-46936 |15位 |- |20th |{{Start date|2012|7|18}} !{{Larger|YMONHK}} |RZBM-59112 |46位 | |} === ミュージック・ビデオ === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !年!!タイトル!!備考!!監督 |- |{{Start date|1978}} !{{Larger|東風}} | | |- |rowspan=2|{{Start date|1979}} !{{Larger|COMPUTER GAME - FIRECRACKER}} | | |- !{{Larger|テクノポリス}} | | |- |{{Start date|1980}} !{{Larger|ライディーン}} | | |- |{{Start date|1982}} !{{Larger|体操}} | | |- |{{Start date|1983}} !{{Larger|君に、胸キュン。}} | |[[立花ハジメ]] |} === 提供曲・編曲 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !歌手名!!年!!タイトル!!作詞!!作曲!!編曲!!収録作品!!備考 |- |rowspan=4|[[近田春夫]] |rowspan=4|{{Start date|1979}} |[[エレクトリック・ラブ・ストーリー]] |[[楳図かずお]] |近田春夫 | rowspan="5" |イエロー・マジック・オーケストラ | rowspan="4" |アルバム『[[天然の美]]』 | |- |何故かアップ・サイド・ダウン |近田春夫 |[[加瀬邦彦]] | |- |ワン・シーン |[[山口洋子]] |近田春夫 | |- |プシー・キャット・ラブ |近田春夫 |筒美京平 | |- |[[朝比奈マリア]] |{{Start date|1979}} |おんなともだち |[[山川路夫]] |細野晴臣 |アルバム『MARIA』 | |- |[[シーナ&ザ・ロケッツ]] |{{Start date|1980}} |浮かびのピーチ・ガール | rowspan="2" |[[糸井重里]] | colspan="2" |イエロー・マジック・オーケストラ |アルバム『チャンネル・グー』 | |- |[[矢野顕子]] |{{Start date|1981}} |[[春咲小紅]] |矢野顕子 |ymoymo | rowspan="2" |シングルA面 | |- |[[小池玉緒]] |{{Start date|1983}} |鏡の中の十月 |[[売野雅勇]] | colspan="2" |YMO | |} === 参加作品 === <!--YMOの名義が出ていなくてもよいが、メンバー3人全てが何らかの形で関与している作品--> {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !発売日!!歌手名!!アルバムタイトル!!レーベル!!規格!!規格品番!!備考 |- |{{Start date|1978|12|21}} |[[RAJIE]] |LOVE HEART |[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]] | rowspan="12" |LP |25AH 663 |作詞、作曲、演奏 |- |{{Start date|1979|4|25}} |[[矢野顕子]] |[[東京は夜の7時]] |[[ユニバーサルミュージック (日本)|フォノグラム]] |S-7081 |演奏 |- |{{Start date|1979|12|25}} |[[シーナ&ザ・ロケッツ]] |真空パック |アルファレコード |ALR-6023 |YMOとして参加。第1回・第2回ワールドツアー等で発表されていた「RADIO JUNK」「ROCKET FACTORY」を収録。 |- |{{Start date|1980|7|21}} |[[大貫妙子]] |[[ROMANTIQUE (大貫妙子のアルバム)|ROMANTIQUE]] |[[RCAレコード|RCA]]/[[BMG JAPAN#RVC|RVC]] |RVL-8049 |編曲、演奏 |- |{{Start date|1980|9|5}} |[[シーナ&ザ・ロケッツ]] |チャンネル・グー |アルファレコード |ALR-28005 |細野晴臣&高橋幸宏プロデュース。坂本龍一も参加したシーナ&ロケッツの1980年リリース 3rdアルバム。「浮かびのピーチガール」はYMO作曲・編曲。 |-|- | {{Start date|1980|10|1}} |矢野顕子 |[[ごはんができたよ]] |ジャパンレコード |JAL-1001/2 |「東風」のカバーのほか、第1回・第2回ワールドツアー等で発表されていた「在広東少年」を収録。 |- |{{Start date|1981|2|21}} |[[スネークマンショー]] |[[スネークマン・ショー]] | rowspan="2" |アルファレコード |ALR-28009 |「磁性紀-開け心-」を収録。 |- |{{Start date|1981|2|21}} |[[大村憲司]] |春がいっぱい |ALR-28013 |作曲、演奏。第2回ワールドツアー等で発表されていた「MAPS」を収録。 |- |{{Start date|1981|5|1}} | rowspan="2" |矢野顕子 |[[ただいま。]] | rowspan="2" |[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|ジャパンレコード]] |JAL-7 |作曲、編曲、演奏 |- |{{Start date|1982|6|25}} |[[愛がなくちゃね。]] |JAL-1801 |編曲、演奏 |- |{{Start date|1983|4|21}} |[[郷ひろみ]] |[[比呂魅卿の犯罪]] |CBSソニー |28AH1516 |作曲、編曲、演奏 |- |{{Start date|1984|6|25}} |矢野顕子 |[[オーエス オーエス]] |徳間ジャパン/ジャパンレコーズ |28JAL-10 |作詞、作曲、編曲、演奏 |- |{{Start date|2010|4|21}} |[[オムニバス]] |commmons: schola vol.5<br />Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass |commmons |CD |RZCM-45965 |坂本龍一総合監修による音楽全集のシリーズ第5巻目。<br />イエロー・マジック・オーケストラ名義で、<br />[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]「サンキュー・フォー・トーキン・トゥ・ミー・アフリカ」(ボーカルは[[Crystal Kay]])、<br />ビートルズの「[[ハロー・グッドバイ]]」をカバーしている。 |} === カバー作品 === *他ミュージシャンによるカバー作品一覧。 {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !歌手名!!年!!タイトル!!編曲!!収録作品!!備考 |- |rowspan=3|[[ロジック・システム]] |1982年 |シムーン | |アルバム『東方快車 (ORIENT EXPRESS)』 | |- | rowspan="2" |{{Start date|1991}} |中国女 | | rowspan="2" |アルバム『To・Gen・Kyo』 | |- |ライディーン | | |- |[[電気グルーヴ]] |1991年 |COSMIC SURFIN' | |アルバム『[[UFO (アルバム)|UFO]]』 | |- |[[THE MAD CAPSULE MARKETS|THE MAD CAPSULE MARKET'S]] |{{Start date|1992}} |SOLID STATE SURVIVOR |THE MAD CAPSULE MARKET'S |アルバム『[[SPEAK!!!!]]』 | |- |[[東京スカパラダイスオーケストラ]] |1996年 |シムーン |東京スカパラダイスオーケストラ |アルバム『[[トーキョー・ストラット]]』 |ボーカルに[[ヒックスヴィル]]の[[真城めぐみ]]が参加 |- |[[TWO-MIX]] |{{Start date|1999}} |テクノポリス |TWO-MIX |アルバム『[[RHYTHM FORMULA]]』 |タイトルは「TECHNOPOLIS NEW GENESIS」 |- |[[デキシード・ザ・エモンズ]] |2000年 | rowspan="2" |NICE AGE |デキシード・ザ・エモンズ |マキシシングル『Nice Age』 | |- |[[Lucy (バンド)|Lucy]] |{{Start date|2004}} | |DVD『Lucy Show〜Shout,Speed,Shake your ROCKAROLLICA〜』 |ライブ・バージョン |- |[[クラムボン (バンド)|クラムボン]] |2006年 |以心電信 | |アルバム『LOVER ALBUM』 | |- |[[コトリンゴ]] |{{Start date|2010}} |以心電信 | |アルバム『picnic album 1』 | |- |[[私立恵比寿中学]] |2013年 |体操 |[[□□□|三浦康嗣]] |アルバム『[[中人]]』 | |} === その他 === ;COSMIC SURFIN' :1978年にCBS・ソニーからリリースされた『Pacific』からのシングルカット。アルバムの調和を崩す様なジャーマンディスコ調の本作をYMO結成前に'''ポリフォニックス'''名義でリリース。本音源は今も『Pacific』にて聴くことができる。 ;YEN YEARS :1996年12月。オムニバス・アルバム『YEN BOX Vol.II』の18枚中の1枚目。「PROPAGANDA」のオリジナル・ヴァージョンは、これにしか収録されていない。また、珍しいカラオケ・ヴァージョン曲も多数収録。 :その他には、YEN Box Vol.1のBonus Discに「君に、胸キュン。(Original Karaoke Version)」、「WILD AMBITIONS (TV size Edit type B)」、「以心電信 (CF 60 Sec. Version)」、「鏡の中の10月 (Original Karaoke Version)」が、YEN Box Vol.2のBonus Disc: Maleに「君に、胸キュン。〜過激な淑女〜以心電信のメドレー」が、Bonus Disc: Femaleに小池玉緒 featuring YMOの「Sexanova」(未発表)が。 :※「君に、胸キュン。(Original Karaoke Version)」は、どちらも高橋のコーラスパートが部分的に入っており純粋なインスト・ヴァージョンではない。 ;YEN RECORDS HISTORY SINGLES+α :'1988年11月(91年9月に再発売)。細野がアルファレコード内に立ち上げたレーベル「YEN RECORDS」設立から発売されたシングルを発売順にA・B面ともに収めたオムニバス・アルバムで、YMOの楽曲は「君に、胸キュン。」以降のYEN RECORDSから出されたシングルをA・B面収録している。特筆すべきは、「以心電信」がシングルバージョンで収録されていることである。「テクノポリス」のシングルバージョン違い、「以心電信」のシングルバージョンは殆んどCD化されておらず、YMOのベスト盤はほぼアルバムバージョンで収録されている。 ;[[YMO Selfservice|YMO Self service]] :1998年。結成20周年記念2枚組CD-ROM。12のアルバムの楽曲全てがMP3形式で収録されている。ただし、データ・レートが低いため音質はあまり良くない。その他、プロモーション・ビデオ、関係者インタビューのビデオ、シンセサイザーの音色、アルバムのデータ、未発表ライヴ音源(1981年、ウインター・ライヴより)などが収録されている。進行役には、畠山桃内として[[伊武雅刀]]が参加。シングルCDが添付されており、2曲のライヴ音源(「RYDEEN」、「BEHIND THE MASK」ともにチャップリン・メモリアル・スタジオ公演)が収録されている。 :翌年1999年に、DVD「YMO GIGA CAPSULE」にDVD-ROMとして上記のコンテンツが再録された。その際、「ウインター・ライヴ」からの未発表音源が一部追加されている。 ; InDo 1978 / Pre YMO : 2000年。原曲は未発表曲「InDo」(仮タイトル)で、1978年にYMOの[[プリプロダクション]]用トラックとして収録されたもの。高橋幸宏のドラム・パートまでレコーディングされたものの、最終的にお蔵入りとなった。その後、発見されたマルチ・トラック・テープを、細野がミックスを施し(本人曰く「きれいにしてあげて」)、「Pre YMO」名義で発表。細野自身を含むアーティスト陣の2000年版リミックスとともに、ミニアルバム『[[InDo]]』に収録された。 ; 増長 (ALCA 5250) / YMO&[[爆笑問題]]、[[長井秀和]] :『増殖』のパロディCD(内容的にはYMOではなくスネークマン・ショーのカヴァー)。 ; その他のレア音源・未収録曲 :発表済みのレア音源としては、「鏡の中の十月(デモVer. / オリジナルカラオケVer.)」、「以心電信(モノラル歌詞違いVer.)」、「過激な淑女(デモVer.)」、「SIMOON(デモVer.)」などがある。 :ライヴのみで発表されたタイトル不明な曲はいくつかあるが、有名なのはテクノポリス2000-20のオープニング曲(坂本龍一のアルバム『左うでの夢』収録の「Venezia」と似ている)と、ウィンター・ライヴでの通称「LOOP」などがある。 :YMO名義のライヴ・アルバムにのみ音源が存在し、YMO名義のスタジオ収録したアルバムに音源が存在しない曲がいくつかある。例えば、「PLASTIC BAMBOO」「[[ライオット・イン・ラゴス|riot in Lagos]]」(原曲:坂本龍一)、「THE CORE OF EDEN」(原曲:高橋幸宏)、「在広東少年」(原曲:矢野顕子。ただし初出はKYLYN BAND)、「maps」(原曲:大村憲司)、「ROCKET FACTORY」「RADIO JUNK」(原曲:SHEENA & THE ROCKETS)、「[[愛こそはすべて|all you need is love]]」(原曲:[[ザ・ビートルズ]])など。これらの曲はビートルズのカヴァーを除けばYMOの3人のソロ曲、またはYMOの3人が製作に参加した曲である。「[[愛こそはすべて|all you need is love]]」は第2回ワールドツアーのチャップリン・メモリアル・スタジオ公演で、日本への衛星中継が行われることと、ビートルズが原曲を衛星中継で披露したことを絡めた洒落であった。YMOの演奏では曲冒頭は[[星条旗 (国歌)|アメリカ国歌]]となっている。 :「在広東少年」は「お前は歌う、私に向かって歌う、[[つんぼ]]の私に」という歌詞があり、ライヴでも歌われていたが、日本で公開された映像・ライヴアルバムなどでは「つんぼ」の部分は音声加工によって消されていたり、ライヴによっては最初から「耳の壊れた」「耳の聞こえない」と歌詞を変更したヴァージョンが歌われていた。 === タイアップ === {|class="wikitable" style="font-size:small; font-size:small" !年!!楽曲!!タイアップ内容 |- |1979年 |テクノポリス |[[AXIA|FUJI CASSETTE]]「カセットテープ『テクノポリス25時』」[[コマーシャルソング]] |- |rowspan=2|1980年 |磁性紀-開け心- |FUJI CASSETTE「80分メタルテープ『テクノポリス25時』」コマーシャルソング |- |ライディーン |FUJI CASSETTE「カセットテープ『歩き篇』」コマーシャルソング<ref group="footnote">高橋幸宏デザインYMOシャツプレゼントキャンペーン</ref> |- |rowspan=2|1983年 |君に、胸キュン。 |カネボウ化粧品'83コマーシャルソング |- |以心電信 |[[国際連合]]「世界コミュニケーション年 (WCY)」テーマ曲 |- |1993年 |ポケットが虹でいっぱい |[[テレビドラマ]]『[[さくらももこランド・谷口六三商店]]』(1993年、[[Japan News Network|TBS系列]])主題歌 |- |2007年 |RYDEEN 79/07 |[[麒麟麦酒|キリンビール]]「キリン ラガービール&クラシックラガー」コマーシャルソング |- |2010年 |ライディーン |江崎グリコ「ポッキー」コマーシャルソング |} == 公演 == {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !年!!形態!!タイトル !style="width:31%"|公演規模・会場 !収録作品 |- |1978年 | rowspan="2" |単発コンサート !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全9公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 9月22日 ヤマハ池袋東店(シンセサイザー・スペース・ムーブメントVol. 1)<br />9月23日 ヤマハ池袋東店(シンセサイザー・スペース・ムーブメントVol. 1)<br />10月18日 東京郵便貯金ホール (SYNTHESIZER LAND)<br />10月25日 六本木PIT INN<br />10月26日 六本木PIT INN<br />10月27日 ヤマハ池袋東店(シンセサイザー・スペース・ムーブメントVol. 2)<br />10月28日 ヤマハ池袋東店(シンセサイザー・スペース・ムーブメントVol. 2)<br />12月5日 紀伊国屋ホール(アルファ・フュージョン・フェスティバル)<br />12月10日 紀伊国屋ホール (ALFA RECORD/KYODO TOKYO PRESENT FUSION FESTIVAL'78)<br />12月20日 六本木PIT INN<br />12月21日 六本木PIT INN<br />12月22日 六本木PIT INN </div></div> |アルバム『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』 |- |rowspan=3|1979年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全11公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 6月18日 Bee<br />7月26日 六本木PIT INN<br />7月27日 六本木PIT INN<br />8月2日 グリークシアター([[ロサンゼルス]])※<br />8月3日 グリークシアター※<br />8月4日 グリークシアター※<br />8月6日 グリークシアター※<br />9月10日 中野サンプラザ・ホール※<br />9月11日 中野サンプラザ・ホール※<br />9月13日 東京郵便貯金ホール※<br />9月14日 東京郵便貯金ホール※<br />※・・・ザ・チューブスの前座として公演 </div></div> |アルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』<br />ビデオ『YELLOW MAGIC ORCHESTRA』<br />アルバム『ライヴ・アット・グリークシアター1979』<br />アルバム『ONE MORE YMO』 |- |コンサートツアー !{{Larger|[[トランス・アトランティック・ツアー|YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">6都市全9公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 10月16日 ヴェニュー([[ロンドン]])<br />10月18日 ル・パラス([[パリ]])<br />10月20日 エンパイアシアター(パリ)<br />10月22日 ラジオルクセンブルク(パリ)<br />10月24日 ヴェニュー<br />10月30日 ハラー([[ニューヨーク]])<br />11月4日 ザ・バイユー([[ワシントンD.C.]])<br />11月5日 パラダイス・シアター([[ボストン]])<br />11月6日 ボトムライン(ニューヨーク)</div></div> |アルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』<br />アルバム『フェイカー・ホリック』<br />ビデオ『ハラー』<br />ビデオ『コンプリート・ハラー』<br />アルバム『ONE MORE YMO』 |- |単発コンサート !{{Larger|[[YELLOW MAGIC ORCHESTRA BACK IN TOKIO]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全1公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 12月19日 中野サンプラザ・ホール </div></div> |アルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』 |- |rowspan=3|1980年 |コンサートツアー !{{Larger|[[テクノポリス2000-20|YELLOW MAGIC ORCHESTRA TECHNOPOLIS 2000-20 TOUR]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">10都市全11公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 3月21日 愛知勤労会館<br />3月31日 仙台市民会館<br />4月1日 秋田市民会館<br />4月4日 広島郵便貯金ホール<br />4月5日 福岡市民会館<br />4月7日 毎日ホール<br />4月8日 毎日ホール<br />4月9日 神戸国際会館<br />4月11日 京都会館<br />4月13日 NHKホール<br />4月15日 北海道厚生年金会館 </div></div> | - |- |単発コンサート !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全2公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 4月23日 日本武道館(写楽創刊記念イベント " イエロー・マジック・オーケストラ・サーカス/写楽IN武道館 ")<br />5月7日 東京厚生年金会館(フジカセット・セレクテッド・アーティスト'80スペシャル) </div></div> |アルバム『ONE MORE YMO』 |- | rowspan="3" |コンサートツアー !{{Larger|[[FROM TOKIO TO TOKYO|YELLOW MAGIC ORCHESTRA WORLD TOUR '80]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">15都市全21公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 10月11日 ニューシアター([[オックスフォード]])<br />10月12日 オデオン([[バーミンガム]])<br />10月13日 アポロシアター([[マンチェスター]])<br />10月16日 ハマースミスオデオン([[ロンドン]])<br />10月18日 ゴウモン([[サザンプトン]])<br />10月20日 マルケトハウス([[ハンブルク]])<br />10月21日 デ・ランタレン([[ロッテルダム]])<br />10月24日 ゴタ・レオム([[ストックホルム]])<br />10月27日 ル・パラス(パリ)<br />10月29日 テアトレ・エスメラルダ([[ミラノ]])<br />10月30日 テアトレ・オリンピオ([[ローマ]])<br />11月2日 NBC TV『ソウルトレイン』出演(ロサンゼルス)<br />11月7日 A&M チャップリンメモリアルスタジオ(ロサンゼルス)<br />11月8日 ハリウッド・パラディアム(ロサンゼルス)<br />11月10日 カブキシアター(サンフランシスコ)<br />11月14日 パラディアム(ニューヨーク)<br />12月24日 日本武道館<br />12月25日 日本武道館<br />12月26日 日本武道館<br />12月27日 日本武道館 </div></div> |アルバム『ライヴ・アット・武道館1980』<br />アルバム『ワールド・ツアー1980』<br />ビデオ『ライヴ・アット・武道館1980』<br />アルバム『ONE MORE YMO』 |- |1981年 !{{Larger|[[ウィンター・ライヴ1981|YMO-WINTER-LIVE-1981]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">9都市全13公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 11月24日 宮城県民会館<br />11月26日 岩手県民会館<br />11月28日 広島郵便貯金会館<br />11月29日 大阪フェスティバルホール<br />11月30日 大阪フェスティバルホール<br />12月1日 名古屋市民会館<br />12月7日 札幌厚生年金会館<br />12月16日 福岡サンパレス<br />12月18日 金沢観光会館<br />12月22日 新宿コマ劇場<br />12月23日 新宿コマ劇場<br />12月24日 新宿コマ劇場<br />12月27日 ツバキハウス </div></div> | ビデオ『ウィンター・ライヴ1981』<br />アルバム『ウィンター・ライヴ1981』<br />CD-ROM『SELF SERVICE』<br />DVD『Giga Clips』<br />アルバム『ONE MORE YMO』 |- |1983年 !{{Larger|[[1983 YMOジャパンツアー|1983 YMO JAPAN TOUR]]}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">6都市全9公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 11月23日 道立産業共進会場<br />11月28日 愛知県体育館<br />11月29日 大阪城ホール<br />11月30日 大阪城ホール<br />12月3日 郡山市総合体育館<br />12月12日 日本武道館<br />12月13日 日本武道館<br />12月19日 福岡国際センター<br />12月22日 日本武道館 </div></div> |アルバム『アフター・サーヴィス』<br />アルバム『コンプリート・サーヴィス』<br />アルバム『ONE MORE YMO』 |- |1993年 | rowspan="7" |単発コンサート !{{Larger|YMO TOKYO DOME}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全2公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 6月10日 東京ドーム<br />6月11日 東京ドーム </div></div> |アルバム『テクノドン・ライブ』<br />ビデオ『テクノドン・イン・東京ドーム』 |- |2007年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全1公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 7月7日 東寺特設ステージ(ライブ・アース) </div></div> | - |- |2008年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全2公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 6月15日 ロイヤル・フェスティバル・ホール (MELTDOWN FESTIVAL)<br />6月19日 Laboral Ciudad de la Cultura([[ヒホン]]) </div></div> |アルバム『LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08』<br />アルバム『GIJONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJON 19/6 08-』<br />アルバム『EUYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON+GIJON 2008-』<br />DVD『POSTYMO-YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 2008 PLUS-』 |- |2009年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全1公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 8月9日 夢の島公園陸上競技場(ワールド・ハピネス2009) </div></div> | - |- |2010年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全1公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 8月8日 夢の島公園陸上競技場(ワールド・ハピネス2010) </div></div> | - |- |2011年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全5公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 6月26日 ハリウッド・ボウル (BIG IN JAPAN)<br />6月27日 The Warfield(ロサンゼルス)<br />7月31日 苗場スキー場(フジロックフェスティバル2011)<br />8月5日 NHK放送センター101スタジオ(スタジオライブ)<br />8月7日 夢の島公園陸上競技場(ワールド・ハピネス2011) </div></div> |シングル『Fire Bird』<br />DVD『Live in San Francisco 2011』<br />DVD・BD『YMONHK』 |- |2012年 !{{Larger|-}} |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0"> <div class="NavHead" style="text-align:center">全3公演</div> <div class="NavContent" style="text-align:center"> 7月7日 幕張メッセ (NO NUKES 2012)<br />7月8日 幕張メッセ (NO NUKES 2012)<br />8月12日 夢の島公園陸上競技場(ワールド・ハピネス2012) </div></div> |アルバム『NO NUKES 2012』 |} == 出演 == <!-- レギュラー及びそれに準ずる扱いを受けた番組のみを記載。音楽番組などへの単発のゲスト出演歴は記載しないこと。PJ:芸能人を参照 --> === 映画 === * [[A Y.M.O. FILM PROPAGANDA]](1984年) === CM === *[[富士フイルム|富士写真フイルム]]・フジカセット(DR, ER, UR, SRの各カセットテープ)([[コンパクトカセット]])(1980年) *[[麒麟麦酒|キリンビール]]・キリン・ラガービール(2007年) *[[江崎グリコ]]・[[ポッキー]]『エビバデポッキー宣言』篇(2010年) ===その他題材にしたもの=== *[[アナザーストーリーズ 運命の分岐点]](2023年7月14日生放送 NHK総合テレビジョン) :「YMO 時代を超えた革命児たち」 証言者:松浦武樹、[[小林克也]]、[[伊武雅刀]]、[[桑原茂一]](以上3人[[スネークマンショー]])、[[川添象郎]]、[[小室哲哉]]、[[いとうせいこう]]、[[塙宣之]]([[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{出典の明記|date=2013年5月|section=1}} {{Reflist|group="footnote"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}} * [[1978年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューしたアーティスト * [[ミュージシャン一覧 (グループ)]] * [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・グループ)]] * [[東京ドームコンサートを開催したミュージシャンの一覧]] * [[ディスコ・ミュージシャンの一覧]] * [[解散した日本のバンド・グループ一覧]] * [[オリエンタル・マグネチック・イエロー]] == 外部リンク == {{Commonscat|Yellow Magic Orchestra}} * [http://ymo.org/ ymo.org] * {{Twitter|ymo}} * {{Facebook|YMOofficial}} * {{Discogs artist|Yellow Magic Orchestra}} {{イエロー・マジック・オーケストラ}} {{エレクトロニック・ロック}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いえろおましつくおおけすとら}} [[Category:細野晴臣]] [[Category:坂本龍一]] [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:ニュー・ウェイヴ・バンド]] [[Category:テクノポップ]] [[Category:日本のフュージョン・ミュージシャン]] [[Category:アンビエント・ミュージシャン]] [[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]] [[Category:エイベックス・グループのアーティスト]] [[Category:1978年に結成した音楽グループ]] [[Category:1983年に解散した音楽グループ]] [[Category:1993年に再結成した音楽グループ]] [[Category:3人組の音楽グループ]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:インストゥルメンタルの音楽グループ]] [[Category:NO NUKES出演者]]
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細野晴臣
細野 晴臣(ほその はるおみ、Haruomi Hosono、1947年〈昭和22年〉7月9日 - )は、日本のミュージシャン。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。 1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。 港区立白金小学校から越境で港区立青山中学校入学。バンカラな校風の青山中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:立教新座高校)・立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。 高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。 立教大学在学中にベースをはじめ、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャー・デビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、結果として日本語ロックの礎を築く。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実、矢野顕子などのプロデュースも行う。 自身のソロ・アルバムでは、1stアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)は、当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行う。その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチした。この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっかばいまいべいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。 シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていた1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。 YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「¥EN」の高橋との共同による立ち上げなど、個人としても精力的に活動を行う。 また、ビデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース。ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。 1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。 この時期は旧知である松本隆の依頼で松田聖子への楽曲提供を行うなど他者への楽曲提供も盛んに行っている。一方で聖子と激しいライバル関係にあった中森明菜に対しても楽曲提供を行っており、同じく松本と旧知である松任谷由実が明菜に対し楽曲提供を行っていないのとは対照的である。 その後、1989年にEPIC/SONY RECORDSに移籍し、アルバム『omni Sight Seeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンドトラックを手掛ける。その後、アルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、アルバム発表や多くの他アーティストとのユニット(別項参照)結成など自己の音楽活動も枚挙に暇がない。 YMO時代からの多忙に加えて、日本のバブル崩壊以前の消費社会に幻滅し、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費されない音楽を模索した。 自身のレーベル「daisyworld discs」を1996年に創設、2002年よりYMO時代の盟友、高橋幸宏とスケッチ・ショウ (SKETCH SHOW) を結成しフォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。また2005年にはHISにてシングルをリリース、翌年この名義にて忌野清志郎のライブに参加するなどしている。 SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。 その一方で、2005年9月に狭山稲荷山公園で行われたハイドパーク・ミュージック・フェスティバルでは久々にボーカルをとって『HOSONO HOUSE』の曲を披露。以降、東京シャイネスやハリー・ホソノ・クインテットなどのユニットを結成し、カントリー&ウェスタンスタイルのライブ活動を行う。これらの活動は2007年9月に発売されたアルバム「FLYING SAUCER 1947」として結実する。また、同年4月に坂本龍一の立ち上げたレーベル「commmons」からトリビュート・アルバムが発売され、同年7月にはトリビュート・ライブが日比谷野外音楽堂で催された。2008年にトリビュート・アルバムの続編も発表されている。 2007年2月7日に発売されたCD-BOX『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』のDisc3で1976年5月8日に横浜市横浜中華街の中華レストラン「同發新館」に招待客を集めてディナーショー形式で行なわれた、通称「中華街ライブ」の音源が初CD化する。このライブで細野はベースではなくマリンバを担当。細野以外のバックメンバーはベース田中章弘、ギター鈴木茂、ドラム林立夫、パーカッションとフルート浜口茂外也、キーボードは後に細野とYMOを組む坂本龍一、ピアノは後にYMOのツアーにサポートキーボーディストとして参加する矢野顕子、そしてホーンセクションの人達(ライブのメンバー紹介MCで細野はホーンセクションの人達は紹介していない)。坂本龍一や矢野顕子が参加したりYMOでカバーされる「Firecraker」が披露された面、またソロライブはほぼ音源化されていない為貴重な音源である。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。 2011年、『くるり×細野晴臣 東北ツアー』を開催。2013年から4年間、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部の客員教授を務める。2015年、『キネマ旬報』に連載したコラム「映画を聴きましょう」で、第42回キネマ旬報読者賞を受賞。2020年度朝日賞受賞。 音楽家としての活動以外にも、俳優としてテレビドラマや映画に出演したり、また低音が響く声が評価され、TV番組やコマーシャルのナレーターとして起用されることも増えている。しかし、本人は自分の声が嫌いなようで、YMOのアルバム『BGM』に収録されている「ラップ現象」など、イコライザーで自身の声の低域をカットしている楽曲もある。また、声の低さ故はっぴいえんどのアルバム「風街ろまん」収録「風をあつめて」の曲作りには苦労したと言う。 一般的にはベーシストやキーボーディストとして知られているがギター、ピアノ、オルガン、ドラムス、ヴィブラフォン、シロフォン、三味線とマルチに演奏できる。実際にクラウン時代の『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』では、上記した楽器を演奏しているほか、ドラマーとしては、実際に大瀧詠一の「恋の汽車ポッポ」で、別名の宇野主水で参加している。 狭山に住んでいた頃、「寝図美」という名前の猫を飼っていた。以前の飼い主であるフォークシンガーの遠藤賢司が名付けた。遠藤が自宅アパートで飼っていたが大家に見つかって飼えなくなり、細野が預かることになったという。 1970年代にはいくつかの雑誌にコラムを書いている。当時出したアルバムのことなどである。それらのコラムは、CD-BOX『HARRY HOSONO CROWN YEARS 1974-1977』のブックレットに転載されており、読むことができる。アルバム『トロピカル・ダンディー』の歌詞カードにも「島について」というコラムを寄せている。 母方の祖父、中谷孝男は、日本楽器製造(現ヤマハ)のオルガン部門勤務を経て、社団法人日本ピアノ調律師協会の前身である全国ピアノ技術者協会の創設に力尽。 文筆の才に優れ、数多くのピアノ技術書を翻訳して刊行し、国立音楽大学の音響工学科講師を務める等日本屈指のピアノ調律師として名を馳せた。 喫煙者であり、デビュー50周年記念ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』のタイトルは、自身がヘビースモーカーであることに由来している。2021年現在は、受動喫煙対策により禁煙の場所が増えてきたことから、「もうずいぶん前から迫害を受けてる」と語っている。 YMOメンバーである高橋幸宏とはYMO結成以前から長い交流があり、2人が初めて出会ったのは、軽井沢の「三笠ホテル」(現在は国の重要文化財)で開かれたダンスパーティーで、細野が大学生、高橋が高校生のときであった。 ベーシストの細野悠太は孫。 細野の父方の祖父である細野正文は、日本人で唯一豪華客船タイタニック号に乗船し、事故から生還した人物である。映画『タイタニック』の公開に合わせ、1998年にウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(佐藤亮一訳、ちくま文庫)が再刊され、細野は祖父のことを記した文章を寄せた。また、ギャヴィン・ブライアーズの『タイタニック号の沈没』の1994年版CDの日本盤ライナーノーツでも、本件に関する質疑に答えている。 細野が1985年に『銀河鉄道の夜』のアニメ映画の音楽を担当した時には、偶然ではなく運命的なものと捉えたとコメントしている。 細野は2012年に、事故犠牲者の共同墓地があるカナダのハリファックスを訪れており、その模様は2012年6月7日のNHK BSプレミアム『旅のチカラ』にて放送され、大西洋海洋博物館(英語版)に展示されている乗船名簿に祖父の名を見つける。事故が起きた100年前と同じ4月21日に行われた追悼式を再現した式典に参加し、犠牲者の共同墓地も訪れた。細野は、同じミュージシャンとしてタイタニック号沈没まで演奏していて犠牲になった8人の音楽家のことが気になっていたという。 細野は1970年代に多くのアーティストの作品で演奏に参加している。ここでは、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーとして以外で演奏に参加したことのあるアーティストを記する。
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"細野は1970年代に多くのアーティストの作品で演奏に参加している。ここでは、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーとして以外で演奏に参加したことのあるアーティストを記する。", "title": "演奏で参加したことのある主なアーティスト" } ]
細野 晴臣は、日本のミュージシャン。 2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。
{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = 細野 晴臣 | 画像 = Hosono Haruomi from "No Smoking" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2019 (49013189233).jpg | 画像説明 = [[第32回東京国際映画祭]]にて([[2019年]]) | 画像サイズ = 220px | 画像補正 = | 背景色 = maker | 出生名 = <!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | 別名 = {{Hlist-comma|ハリー|ハリー細野|宇野主水|西原朱夏|チャーハン細野}} | 出生 = {{生年月日と年齢|1947|7|9}} | 出身地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]] | 死没 = | 学歴 = [[立教大学大学院社会学研究科・社会学部|立教大学社会学部]][[立教大学大学院観光学研究科・観光学部|観光学科]]卒 | ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]|[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]|[[エキゾチカ (音楽)|エキゾチカ]]|[[テクノポップ]]|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェーヴ]]|[[環境音楽|アンビエント]]|[[エレクトロニカ]]|[[ワールドミュージック]]|[[ニューエイジ・ミュージック|ニューエイジ]]}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[ミュージシャン]]|[[ベーシスト]]|[[シンガーソングライター]]|[[作曲家]]|[[編曲家]]|[[音楽プロデューサー]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[エレクトリックベース|ベース]]|[[コントラバス]]|[[ギター]]|[[ピアノ]]|[[キーボード (楽器)|キーボード]]|[[シンセサイザー]]|[[シンセベース]]|[[オルガン]]|[[ドラムス]]|[[ヴィブラフォン]]|[[パーカッション]]|[[マンドリン]]||[[琴]]|[[リゾネーター・ギター]]|[[シロフォン]]|[[マリンバ]]|[[三味線]]|[[スティールパン]]}} | 活動期間 = [[1969年]] - | レーベル = {{Plainlist| * [[ベルウッド・レコード]](1973年 - 1974年) * [[日本クラウン|CROWN]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]]<br />(1974年 - 1977年) * [[アルファレコード]](1977年 - 1982年) * アルファレコード / [[YENレーベル|¥・E・N]](1982年 - 1984年) * [[ノン・スタンダード|ノン・スタンダード、モナド]](1984年 - 1987年) * [[エピックレコードジャパン|EPIC・ソニー → Epic/Sony Records]](1987年 - 1995年) * [[cutting edge]]/daisyworld discs(1996年 - 2003年) * [[SPEEDSTAR RECORDS]] /daisyworld discs(2006年 - ) * [[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント → 日本コロムビア]] / daisyworld discs(2008年 - 2009年) }} | 事務所 = [[ミディアム (プロダクション)|ミディアム]] | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]] * [[はっぴいえんど]] * [[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]] * [[イエロー・マジック・オーケストラ]] * [[フレンズ・オブ・アース]] * [[HIS (音楽ユニット)|HIS]] * [[スケッチ・ショウ]] * [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]] }} | 公式サイト = {{Official website|http://hosonoharuomi.jp/}} | 著名使用楽器 = {{Plainlist| * [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]・[[フェンダー・ジャズベース|ジャズベース]] * [[カール・ヘフナー|ヘフナー]]・[[ヘフナー・500-1|500-1]] * [[ミュージックマン]]・[[ミュージックマン・スティングレイ|スティングレイ]] * [[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]・[[:en:ARP Odyssey|オデッセイ]] * [[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]・[[:en:Multimoog|Multimoog]]}} }} '''細野 晴臣'''(ほその はるおみ、Haruomi Hosono、[[1947年]]〈[[昭和]]22年〉[[7月9日]] - )は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。 [[2008年]]3月、平成19年度[[芸術選奨]]の大衆芸能部門で[[文部科学大臣賞]]を受賞。 == 略歴 == === 生い立ち === [[1947年]]([[昭和]]22年)、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]生まれ。父方の祖父は[[鉄道省|鉄道]][[官僚]]で、[[タイタニック号]]処女航海唯一の日本人乗客であった[[細野正文]]。母方の祖父である[[中谷孝男]]は[[ピアノ調律師]]、叔母が[[外資系]]の映画会社勤務という環境から、幼い頃から[[ポピュラー音楽]]に親しんだ。 [[港区立白金小学校]]から[[越境入学|越境]]で[[港区立青山中学校]]入学<ref>「YMO写真集『OMIYAGE』」 [[小学館]]、1981年 </ref><!--出典は以下にまとめられている。 http://www7.plala.or.jp/keeplistening/1960.html -->。[[バンカラ]]な校風の青山中学時代<ref>「TOKYO ROCK BEGINNINGS」 君塚太、[[河出書房新社]]、2016年12月23日</ref><!--出典は以下にまとめられている。https://kingfish.hatenablog.com/entry/20170614-->に[[ロック (音楽)|ロック]]に興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:[[立教新座中学校・高等学校|立教新座高校]])・[[立教大学]]の同級生だった[[西岸良平]]の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する<ref>[http://www.tama.or.jp/~hos/morohoshi/list/etc/hosono.htm 細野晴臣] - ほそやのWEBページ</ref>。 高校時代から[[フォークソング|フォーク]]の洗礼を受け、[[ボーカル]]にも挑戦し始める<ref group="注">学内の演劇サークルからその音楽知識と才能には一目置かれ劇団内でフォーク曲演奏などには招聘されることもあったという。このサークルに携わっていた[[永倉万治]]らは、のち[[東京キッドブラザース]]に参加している。</ref>。この頃、[[ボブ・ディラン]]に大きな影響を受けた。 === ロックバンドの結成 === 立教大学在学中に[[エレクトリックベース|ベース]]をはじめ、数多くのバンドを経た[[1969年]]、'''[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]'''のベーシストとして[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]。その後、[[大瀧詠一]]、[[松本隆]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]と'''[[はっぴいえんど]]'''を結成。細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、結果として日本語ロックの礎を築く。[[1973年]]のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、[[林立夫]]、[[松任谷正隆]]と'''キャラメル・ママ'''(のちに'''[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]'''と改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、[[松任谷由実|荒井由実]]、[[矢野顕子]]などのプロデュースも行う。 自身のソロ・アルバムでは、1stアルバム『[[HOSONO HOUSE]]』(1973年)は、当時[[埼玉県]][[狭山市]]の[[狭山アメリカ村|アメリカ村]]にあった自宅で録音を行う。その後の『[[トロピカル・ダンディー]]』(1975年)、『[[泰安洋行]]』(1976年)、『[[はらいそ]]』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチした。この三部作での[[ニューオーリンズ]]や[[沖縄諸島|沖縄]]、[[ハワイ]]、[[中華人民共和国|中国]]などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である[[西岡恭蔵]]の『ろっかばいまいべいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の[[諸星大二郎]]のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。 === 『イエロー・マジック・オーケストラ』結成 === [[シンセサイザー]]・コンピュータを用いた音楽や[[ディスコ]]への興味が高まっていた[[1978年]]、元[[サディスティック・ミカ・バンド]]の[[高橋幸宏]]、当時[[スタジオ・ミュージシャン]]でもあった[[坂本龍一]]と'''[[イエロー・マジック・オーケストラ]]'''('''YMO''')を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、[[1980年]]にはその活動がブームを巻き起こす。 YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「¥EN」の高橋との共同による立ち上げなど、個人としても精力的に活動を行う。 また、ビデオ・ゲーム「[[ゼビウス]]」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『[[ビデオ・ゲーム・ミュージック]]』(1984年)をプロデュース。[[ゲーム・ミュージック]]が音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。 === 『イエロー・マジック・オーケストラ』散開後 === [[1983年]]のYMO散開(解散)後は、[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]に移籍し、「[[ノン・スタンダード|Non Standard]]」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからは[[ピチカート・ファイヴ]]やWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『[[銀河鉄道の夜]]』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『[[パラダイスビュー]]』のサウンド・トラックを手掛ける。 この時期は旧知である松本隆の依頼で[[松田聖子]]への楽曲提供を行うなど他者への楽曲提供も盛んに行っている。一方で聖子と激しいライバル関係にあった[[中森明菜]]に対しても楽曲提供を行っており、同じく松本と旧知である[[松任谷由実]]が明菜に対し楽曲提供を行っていないのとは対照的である。 その後、[[1989年]]に[[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY RECORDS]]に移籍し、アルバム『omni Sight Seeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンドトラックを手掛ける。その後、アルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや[[作曲家]]としての活動や[[映画音楽]]の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、アルバム発表や多くの他アーティストとのユニット(別項参照)結成など自己の音楽活動も枚挙に暇がない。 === 1990年代以降 === YMO時代からの多忙に加えて、日本の[[バブル崩壊]]以前の消費社会に幻滅し、1980年代後期には[[ワールド・ミュージック]]、1990年代には[[環境音楽|アンビエント・ミュージック]]に深くアプローチし、大量消費されない音楽を模索した。 自身のレーベル「daisyworld discs」を[[1996年]]に創設、[[2002年]]よりYMO時代の盟友、高橋幸宏と'''[[スケッチ・ショウ]]''' ('''SKETCH SHOW''') を結成しフォーキーな[[エレクトロニカ]]サウンドに取り組む。また2005年には'''[[HIS (音楽ユニット)|HIS]]'''にてシングルをリリース、翌年この名義にて[[忌野清志郎]]のライブに参加するなどしている。 SKETCH SHOWは坂本龍一とも[[コラボレーション|コラボレート]]しており、ライヴや[[コンピレーション・アルバム]]では3人で'''[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]]''' ('''HAS''') として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「[[RYDEEN 79/07]]」を発表、さらにはHASYMOとしても「[[RESCUE (HASYMOの曲)|RESCUE]]」を発表するなど、活発な活動を行っている。 [[画像:YMOHosono2008(cropped).jpg|180px|thumb|[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]] 2008年ライブ]] その一方で、[[2005年]]9月に[[狭山稲荷山公園]]で行われた[[ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル]]では久々にボーカルをとって『HOSONO HOUSE』の曲を披露。以降、'''東京シャイネス'''や'''ハリー・ホソノ・クインテット'''などのユニットを結成し、[[カントリー&ウェスタン]]スタイルのライブ活動を行う。これらの活動は[[2007年]]9月に発売されたアルバム「FLYING SAUCER 1947」として結実する。また、同年4月に坂本龍一の立ち上げたレーベル「[[commmons]]」から[[トリビュート・アルバム]]が発売され、同年7月にはトリビュート・ライブが[[日比谷野外音楽堂]]で催された。2008年にトリビュート・アルバムの続編も発表されている。 [[2007年]]2月7日に発売されたCD-BOX『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』のDisc3で1976年5月8日に[[横浜市]][[横浜中華街]]の中華レストラン「同發新館」に招待客を集めてディナーショー形式で行なわれた、通称「中華街ライブ」の音源が初CD化する<ref group="注">当時の細野の事務所で保管された後、細野の初代マネージャーだった長門芳郎が長年所有して保管していたという秘蔵音源。[[Public Address|PA]]アウト音源なので録音状態は歌や演奏をマルチテープに録ってマルチ音源をスタジオでミックスダウンしてマスタリングするライブ音源よりは良くはない。またモノラル音源である。その様なマイナス面はあるが、幸い長門のテープの保管方法が良好であったようで大きく音が歪んだりする古いテープにある[[経年劣化]]は少ない。</ref>。このライブで細野はベースではなくマリンバを担当。細野以外のバックメンバーはベース[[田中章弘]]、ギター[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、ドラム[[林立夫]]、パーカッションとフルート[[浜口茂外也]]、キーボードは後に細野とYMOを組む坂本龍一、ピアノは後にYMOのツアーにサポートキーボーディストとして参加する矢野顕子、そしてホーンセクションの人達(ライブのメンバー紹介MCで細野はホーンセクションの人達は紹介していない)。坂本龍一や矢野顕子が参加したりYMOでカバーされる「Firecraker」が披露された面、またソロライブはほぼ音源化されていない為貴重な音源である。 [[2008年]]3月、平成19年度[[芸術選奨]]の大衆芸能部門で[[文部科学大臣賞]]を受賞。 [[2011年]]、『[[くるり]]×細野晴臣 東北ツアー』を開催。2013年から4年間、[[京都精華大学]][[ポピュラーカルチャー学部]]の客員教授を務める。2015年、『[[キネマ旬報]]』に連載したコラム「映画を聴きましょう」で、第42回[[キネマ旬報読者賞]]を受賞。2020年度[[朝日賞]]受賞<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210101/ddm/041/040/075000c 朝日賞受賞者が決定] [[毎日新聞]]、2021年1月1日</ref><ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 2020年度|website=[[朝日新聞社]]|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/14119210 |accessdate=2023-01-07}}</ref>。 == 人物 == 音楽家としての活動以外にも、[[俳優]]として[[テレビドラマ]]や[[映画]]に出演したり、また低音が響く声が評価され、TV番組やコマーシャルの[[ナレーター]]として起用されることも増えている。しかし、本人は自分の声が嫌いなようで、YMOのアルバム『[[BGM (YMOのアルバム)|BGM]]』に収録されている「ラップ現象」など、[[イコライザー (音響機器)|イコライザー]]で自身の声の低域をカットしている楽曲もある。また、声の低さ故はっぴいえんどのアルバム「[[風街ろまん]]」収録「風をあつめて」の曲作りには苦労したと言う。 一般的にはベーシストやキーボーディストとして知られているが[[ギター]]、[[ピアノ]]、[[オルガン]]、[[ドラムス]]、[[ヴィブラフォン]]、[[シロフォン]]、[[三味線]]と[[マルチプレイヤー (音楽)|マルチに演奏]]できる。実際にクラウン時代の『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』では、上記した楽器を演奏しているほか、[[ドラマー]]としては、実際に大瀧詠一の「[[恋の汽車ポッポ]]」で、別名の宇野主水で参加している。 狭山に住んでいた頃、「寝図美」という名前の猫を飼っていた<ref group="注">ボックス・セット『Harry Hosono/Crown Years 1974-1977』のブックレットに一緒に写った写真が掲載されている。</ref>。以前の飼い主であるフォークシンガーの[[遠藤賢司]]が名付けた。遠藤が自宅アパートで飼っていたが大家に見つかって飼えなくなり、細野が預かることになったという。 [[1970年代]]にはいくつかの[[雑誌]]にコラムを書いている。当時出したアルバムのことなどである。それらのコラムは、[[ボックス・セット|CD-BOX]]『HARRY HOSONO CROWN YEARS 1974-1977』のブックレットに転載されており、読むことができる。アルバム『トロピカル・ダンディー』の歌詞カードにも「島について」というコラムを寄せている。 母方の祖父、[[中谷孝男]]は、日本楽器製造(現[[ヤマハ]])のオルガン部門勤務を経て、[[社団法人]][[日本ピアノ調律師協会]]の前身である全国ピアノ技術者協会の創設に力尽。 文筆の才に優れ、数多くのピアノ技術書を翻訳して刊行し、[[国立音楽大学]]の音響工学科講師を務める等日本屈指の[[ピアノ調律師]]として名を馳せた。 [[喫煙|喫煙者]]であり、デビュー50周年記念ドキュメンタリー映画『[[NO SMOKING]]』のタイトルは、自身がヘビースモーカーであることに由来している<ref>{{Cite news |url = https://kahoku.news/articles/20191121kho000000015000c.html |title = 河北春秋(11/21) |newspaper = [[河北新報]] |publisher = [[河北新報社]] |date = 2019-11-21 |accessdate = 2021-11-14 }}</ref>。[[2021年]]現在は、[[受動喫煙]]対策により[[禁煙]]の場所が増えてきたことから、「もうずいぶん前から迫害を受けてる」と語っている<ref>{{Cite news |url = https://news.yahoo.co.jp/articles/fff51e581a7537167e549f8358769b7afe064656?page=2 |title = 今、非常にみんな内向的な音楽になっている――日本のポピュラー音楽史を更新してきた細野晴臣が見た「コロナ禍」 |newspaper = Yahoo!ニュース オリジナル 特集 |publisher = [[ヤフー (企業)|ヤフー株式会社]] |date = 2021-11-14 |accessdate = 2021-11-14 }}</ref>。 YMOメンバーである高橋幸宏とはYMO結成以前から長い交流があり、2人が初めて出会ったのは、[[軽井沢町|軽井沢]]の「[[三笠ホテル]]」(現在は国の[[重要文化財]])で開かれた[[ダンスパーティー]]で、細野が大学生、高橋が高校生のときであった。 ベーシストの[[細野悠太]]は孫。 === 祖父・細野正文とタイタニック号 === {{main|細野正文}} 細野の父方の祖父である[[細野正文]]は、日本人で唯一豪華客船[[タイタニック (客船)|タイタニック号]]に乗船し、事故から生還した人物である。映画『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』の公開に合わせ、1998年にウォルター・ロード『タイタニック号の最期』([[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]訳、[[ちくま文庫]])が再刊され、細野は祖父のことを記した文章を寄せた。また、[[ギャヴィン・ブライアーズ]]の『{{仮リンク|タイタニック号の沈没|en|The Sinking of the Titanic}}』の1994年版CDの日本盤<ref group="注">日本盤CDは翌年の1995年に発売されたことに注意。</ref>[[ライナーノーツ]]でも、本件に関する質疑に答えている。 細野が1985年に『[[銀河鉄道の夜]]』のアニメ映画の音楽を担当した時には、偶然ではなく運命的なものと捉えたとコメントしている<ref>『タイタニック伝説』、平川陽一、[[廣済堂出版]]廣済堂文庫、pp.177-178、1999年2月10日。</ref><!--および2011年に「徹子の部屋」に出演した際もタイタニック号のことについて触れられていた。-->。 細野は2012年に、事故犠牲者の共同墓地がある[[カナダ]]の[[ハリファックス]]を訪れており、その模様は2012年6月7日の[[NHK BSプレミアム]]『[[旅のチカラ]]』にて放送され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201206140800001301000 |title=旅のチカラ 「船上のラストソング~細野晴臣 カナダ~」 |work=NHKクロニクル |publisher=[[NHKアーカイブスポータル|NHKアーカイブス]] |accessdate=2023-04-07}}</ref>、{{仮リンク|大西洋海洋博物館|en|Maritime Museum of the Atlantic}}に展示されている乗船名簿に祖父の名を見つける<ref group="注">『M.H'''o'''sono』ではなく、『M.H'''a'''sono』と[[誤植]]されている。</ref>。事故が起きた100年前と同じ4月21日に行われた追悼式を再現した式典に参加し、犠牲者の共同墓地も訪れた。細野は、同じミュージシャンとして[[タイタニック号沈没事故|タイタニック号沈没]]まで演奏していて犠牲になった8人の音楽家のことが気になっていたという<ref>[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120330/304046/?P=4 Webナショジオ・インタビュー 細野晴臣]</ref>。 == 関連バンド・ユニット == * [[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]] * [[はっぴいえんど]] * [[ティン・パン・アレー (バンド)|キャラメル・ママ]] * [[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]] * [[イエロー・マジック・オーケストラ]] * [[フレンズ・オブ・アース]](a.k.a F.O.E) * [[HIS (音楽ユニット)|HIS]] * [[LOVE,PEACE&TRANCE]] * スウィング・スロー - [[コシミハル]]とのユニット * [[HAT]] * ハリーとマック - [[久保田麻琴]]とのユニット * KALABISA - 久保田麻琴、[[照屋林賢]]とのユニット * ティンパン - [[林立夫]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]とのユニット * [[スケッチ・ショウ]] * [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]] * 環太平洋モンゴロイドユニット - [[雲龍 (笛奏者)|雲龍]]、[[浜口茂外也]]、三上敏視とのユニット * 東京シャイネス * ハリー・ホソノ&ワールドシャイネス * [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ|HASYMO]] == ディスコグラフィ == === シングル === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!B面!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=7|[[ベルウッド・レコード]] |- !1st |[[1973年]][[9月25日]] |'''恋は桃色''' |福は内鬼は外 |EP | |[[2017年]][[7月19日]]:アナログEPで復刻発売 |- !colspan=7|[[日本クラウン|CROWN]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]] |- !2nd |[[1975年]][[6月]] |'''絹街道''' |ハニー・ムーン | rowspan="2" |EP | | |- !3rd |[[1976年]][[4月25日]] |'''[[北京ダック (曲)|北京ダック]]''' |ブラック・ピーナッツ | |[[1997年]][[6月26日]]:[[VIVID SOUND|Vivid]]盤 (EP) 発売 |- !colspan=7|[[アルファレコード]] / [[YENレーベル|¥・E・N]] |- !4th |[[1982年]][[11月21日]] |'''[[三国志メイン・テーマ]]''' |三国志ラヴ・テーマ |EP | |[[NHK総合テレビジョン|NHK]]「[[人形劇 三国志]]」テーマ曲 |- !5th |[[1984年]][[8月29日]] |'''[[スーパーゼビウス (アルバム)|スーパー・ゼビウス]]''' |[[ギャプラス|GAPLUS]]<br />[[ドルアーガの塔|THE TOWER OF DRUAGA]] |12inch | | |- !colspan=7|[[ノン・スタンダード]] |- !6th |[[1984年]][[11月5日]] |'''[[Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC]]''' | |12inch |41位 | |- !colspan=7|[[ユーキャン|FOA RECORDS]] |- !7th |[[1998年]][[6月1日]] |'''JADO KEN ISHII''' |NAGA |Maxi | |[[ケン・イシイ]]が[[リミックス]]を手がけた楽曲を収録したシングル |} === オリジナル・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=6|[[ベルウッド・レコード]] |- !1st |[[1973年]][[5月25日]] |'''[[HOSONO HOUSE]]''' |LP | |[[1979年]]:ベルウッド1500シリーズ (LP) 発売<br />[[1981年]]:LP再発<br />[[1989年]][[3月21日]]:CD化<br />[[1991年]][[9月21日]]:ベルウッド・クラシックス (CD) 発売<br />[[1995年]][[4月5日]]:ベルウッド・セレクション 21+2 ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[1996年]][[9月15日]]:[[VIVID SOUND|Vivid]]盤 (LP) 発売<br />[[2000年]][[2月4日]]:ベルウッド名盤コレクション (CD) 発売<br />[[2001年]][[5月26日]]:LP再発<br />[[2005年]][[3月24日]]:CDリマスター再発<br />[[2012年]][[10月3日]]:ベルウッド40周年記念盤 (CD) 発売<br />[[2014年]][[12月10日]]:ベルウッド・LPコレクション (LP) 発売<br />[[2017年]][[9月20日]]:ベルウッド45周年記念盤 (UHQCD) 発売 |- !colspan=6|[[日本クラウン|CROWN]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]] |- !2nd |[[1975年]][[6月25日]] |'''[[トロピカル・ダンディー]]''' |LP |50位 |[[1984年]]:The MEIBAN シリーズ (LP) 発売<br />[[1985年]][[11月21日]]:CD化<br />[[1990年]][[6月21日]]:CD再発<br />[[1993年]][[6月21日]]:CD再発<br />[[1995年]][[5月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />1995年[[11月10日]]:[[VIVID SOUND|Vivid]]盤 (LP) 発売<br />[[2000年]][[12月16日]]:CD再発<br />[[2015年]][[7月8日]]:[[ブルースペックCD|Blu-spec CD2]]発売 |- !3rd |[[1976年]][[7月25日]] |'''[[泰安洋行]]''' |LP, CT |77位 |[[1984年]]:The MEIBAN シリーズ (LP) 発売<br />[[1986年]][[1月21日]]:CD化<br />[[1990年]][[6月21日]]:CD再発<br />[[1993年]][[6月21日]]:CD再発<br />[[1995年]][[5月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />1995年[[11月10日]]:[[VIVID SOUND|Vivid]]盤 (LP) 発売<br />[[2000年]][[12月16日]]:CD再発<br />[[2015年]][[7月8日]]:[[ブルースペックCD|Blu-spec CD2]]発売 |- !colspan=6|[[アルファレコード]] |- !4th |[[1978年]][[4月25日]] |'''[[はらいそ]]'''({{small|ハリー細野とイエロー・マジック・バンド}}名義) |LP, CT | |[[1988年]][[8月10日]]:CD化<br />[[1992年]][[8月21日]]:CD再発<br />[[1994年]][[9月28日]]:CD再発<br />[[2005年]][[3月24日]]:CDリマスター再発<br />[[2019年]][[5月15日]]:[[Super Audio CD|SACDハイブリッド]]・アナログ盤リマスター再発 |- !colspan=6|キングレコード |- !5th |1978年[[9月21日]] |'''[[COCHIN MOON|COCHIN MOON(コチンの月)]]'''({{small|細野晴臣 & [[横尾忠則]]}}名義) |LP | |[[1985年]]:KING COlleCTOR'S ITEMシリーズ (LP) 発売<br />[[1989年]][[10月21日]]:CD化<br />[[1992年]][[11月21日]]:ソングライター・ルネッサンス (CD) 発売<br />[[2005年]][[3月24日]]:CDリマスター再発 |- !colspan=6|アルファレコード / [[YENレーベル|¥・E・N]] |- !6th |[[1982年]][[5月21日]] |'''[[フィルハーモニー]]''' |LP, CT |33位 |[[1988年]][[8月10日]]:CD化<br />[[1992年]][[8月21日]]:CD再発<br />[[1994年]][[9月28日]]:CD再発<br />[[2005年]][[3月24日]]:CDリマスター再発<br />[[2019年]][[5月15日]]:[[Super Audio CD|SACDハイブリッド]]・アナログ盤リマスター再発 |- !colspan=6|[[冬樹社]] |- !7th |1984年[[9月10日]] |'''[[花に水]]''' |[[カセットブック]] | |[[2020年]][[11月3日]]:シングルカセット復刻発売 |- !colspan=6|[[ノン・スタンダード]] |- !8th |1984年[[11月10日]] |'''[[Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC]]''' |12inch | |[[2001年]][[11月21日]]:CD化<br />[[2015年]][[12月16日]]:SHM-CD発売 |- !9th |1984年[[12月16日]] |'''[[S・F・X]]'''({{small|細野晴臣 with FRIENDS OF EARTH}}名義) |LP, CT |35位 |1985年2月21日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2001年]][[11月21日]]:CD再発<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD発売<br />[[2015年]][[12月16日]]:SHM-CD再発 |- !colspan=6|[[ノン・スタンダード|モナドレーベル]] |- !10th |[[1985年]][[8月21日]] |'''[[コインシデンタル・ミュージック]]''' | rowspan="3" |LP, CT |61位 |1985年11月21日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD発売 |- !11th |1985年[[9月21日]] |'''[[マーキュリック・ダンス]]''' | |1985年11月21日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD発売 |- !12th |1985年[[10月21日]] |'''[[エンドレス・トーキング]]''' | |1985年12月16日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD発売 |- !colspan=6|[[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY RECORDS]] |- !13th |[[1989年]][[7月21日]] |'''[[オムニ・サイト・シーイング|omni Sight Seeing]]''' |CD | |[[2009年]][[1月28日]]:リマスター再発<br />[[2020年]][[11月4日]]:[[Super Audio CD|SACDハイブリッド]]・アナログ盤リマスター再発 |- !colspan=6|Epic/Sony Records |- !14th |[[1993年]][[3月21日]] |'''メディスン・コンピレーション''' |CD | |[[2009年]][[1月28日]]:リマスター再発<br />[[2020年]][[11月4日]]:[[Super Audio CD|SACDハイブリッド]]・アナログ盤リマスター再発 |- !colspan=6|ミディアム |- !15th |[[1995年]][[9月10日]] |'''[[グッド・スポーツ (アルバム)|GOOD SPORT]]''' |CD | | |- !colspan=6|[[ユーキャン|フォア・レコード]] |- !16th |[[1995年]][[10月25日]] |'''[[ナーガ (アルバム)|ナーガ]]''' |CD | | |- !colspan=6|[[SPEEDSTAR RECORDS]] |- !17th |[[2007年]][[9月26日]] |'''[[FLYING SAUCER 1947]]'''({{small|ハリー細野 & ザ・ワールド・シャイネス}}名義) |CD |57位 |[[2013年]][[5月22日]]:アナログ盤発売 |- !colspan=6|daisyworld discs |- !18th |[[2008年]][[7月9日]] |'''[[細野晴臣アーカイヴスvol.1]]''' |CD |115位 |[[2013年]][[5月22日]]:再発 |- !colspan=6|SPEEDSTAR RECORDS / daisyworld discs |- !19th |[[2011年]][[4月20日]] |'''[[HoSoNoVa]]''' |CD |21位 |[[2013年]][[5月22日]]:アナログ盤発売 |- !20th |[[2013年]][[5月22日]] |'''[[Heavenly Music]]''' |CD, LP |12位 | |- !colspan=6|SPEEDSTAR RECORDS |- !21st |[[2017年]][[11月8日]] |'''[[Vu Jà Dé]]''' |CD |18位 | |- !22nd |[[2019年]][[3月6日]] |'''[[HOCHONO HOUSE]]''' |CD, LP |10位 | |} === サウンドトラック === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=6|[[ノン・スタンダード]] |- !1st |[[1985年]][[7月7日]] |'''[[銀河鉄道の夜#映画|銀河鉄道の夜]]''' |LP, CT | |メインテーマは90年代に入ってCMでも使われた。<br />1985年8月1日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD発売<br />[[2018年]][[12月12日]]:CD特別版発売 |- !colspan=6|[[ノン・スタンダード|モナドレーベル]] |- !2nd |[[1985年]][[9月21日]] |'''[[パラダイスビュー]]''' |LP, CT | |1985年11月21日:CD化<br />[[1990年]][[9月21日]]:CD再発<br />[[1996年]][[2月21日]]:[[CD選書]] ([[廉価版#CD|Q盤]]) 発売<br />[[2008年]][[12月17日]]:SHM-CD再発 |- !colspan=6|[[エピックレコードジャパン|EPIC・ソニー]] |- !3rd |[[1987年]][[11月21日]] |'''[[紫式部 源氏物語]]''' |LP, CT, CD | |[[1993年]][[9月22日]]:CD再発<br />[[2009年]][[1月28日]]:CDリマスター再発 |- !colspan=6|[[ワーナーミュージック・ジャパン]] |- !4th |[[2005年]][[8月24日]] |'''[[メゾン・ド・ヒミコ]]''' |CD | | |- !colspan=6|[[SPEEDSTAR RECORDS]] |- !5th |[[2018年]][[6月8日]] |'''[[万引き家族]]''' |rowspan="2"|配信 | | |- !6th |[[2020年]][[11月13日]] |'''[[Malu 夢路]]''' | | |} === リミックス・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=6|[[アルファレコード]] |- !1st |[[1992年]][[3月21日]] |'''細野晴臣 in the '90s THE MICHAEL BROOK REMIX''' |CD | | |- !colspan=6|[[エピックレコードジャパン|Epic/Sony Records]] |- !2nd |[[1993年]][[9月22日]] |'''MENTAL SPORTS MIXES''' |LP, CD | | |- !colspan=6|PROGRESSIVE FOrM |- !3rd |[[2004年]][[4月20日]] |'''MIX FORM''' |CD | | |} === ベスト・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=5|[[日本クラウン|CROWN]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]] |- |[[1983年]] |'''HARRY UP HOSONO - HARUOMI HOSONO BEST SELECTIONS''' |LP | |[[1996年]][[5月22日]]:[[CD選書]] |- |[[1984年]][[9月20日]] |'''細野晴臣 BEST 12''' | rowspan="4" |CD | | |- |[[1987年]][[10月21日]] |'''細野晴臣 17 SONGS''' | | |- |[[1989年]][[10月5日]] |'''細野晴臣 BEST''' | | |- |[[1992年]][[9月23日]] |'''細野晴臣 ベスト15''' | | |- !colspan=5|[[ベルウッド・レコード]] |- |[[1982年]] |'''アーリー 細野晴臣''' |LP | |[[1985年]][[11月21日]]:CD再発 |- !colspan=5|[[ノン・スタンダード]] |- |[[1988年]][[9月21日]] |'''THE BEST INSTRUMENTAL MUSIC OF HARUOMI HOSONO "CALM"''' |CD | | |- !colspan=5|[[アルファレコード]] |- |[[1990年]][[9月11日]] |'''決定版 細野晴臣ベスト・セレクション''' |CD | | |- !colspan=5|[[SPEEDSTAR RECORDS]] |- |[[2019年]][[8月28日]] |'''Hosono Haruomi Compiled By [[星野源|Hoshino Gen]]''' | rowspan="2" |2CD |23位 | |- |[[2019年]][[9月25日]] |'''Hosono Haruomi Compiled By [[小山田圭吾|Oyamada Keigo]]''' |43位 | |} === トリビュート・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=6|[[commmons]] |- !1st |[[2007年]][[4月25日]] |'''細野晴臣トリビュートアルバム -Tribute to Haruomi Hosono-''' | rowspan="2" |CD |23位 | |- !2nd |[[2008年]][[1月23日]] |'''細野晴臣 STRANGE SONG BOOK -Tribute to Haruomi Hosono 2-''' |55位 | |} === ボックス・セット === {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" ! !!発売日!!タイトル!!販売形態!!最高順位!!備考 |- !colspan=6|daisyworld discs |- !1st |[[2000年]][[3月23日]] |'''HOSONO BOX 1969-2000''' |CD | | |- !colspan=6|[[ノン・スタンダード]] |- !2nd |[[2002年]][[2月27日]] |'''MONAD BOX''' |CD | | |- !colspan=6|[[日本クラウン|CROWN]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]] |- !3rd |[[2007年]][[2月7日]] |'''Harry Hosono Crown Years 1974-1977''' |CD+[[DVD]] |57位 | |- !colspan=6|[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]] |- !4th |[[2009年]][[4月29日]] |'''細野晴臣の歌謡曲 20世紀BOX''' |CD |64位 | |} === ユニット === * [[フレンド・オア・フォー?]](1985年)- フレンズ・オブ・アース名義 * [[デクライン・オブ・O.T.T]](1986年)- フレンズ・オブ・アース名義 * [[セックス・エナジー・アンド・スター]](1986年)- フレンズ・オブ・アース名義 * [[日本の人]](1991年)- [[HIS (音楽ユニット)|HIS]]名義 * LOVE, PEACE & TRANCE(1995年)- LOVE, PEACE & TRANCE名義 * [[N. D. E]](1995年)- 細野晴臣+[[GOH HOTODA|ゴウ・ホトダ]] [[ビル・ラズウェル]] 寺田康彦名義 * Tokyo-Frankfurt-New York(1996年)- [[HAT]]名義 * Interpieces Organization(1996年)- 細野晴臣&ビル・ラズウェル名義 * swing slow(1996年)- スウィング・スロー名義 * DSP Holiday(1998年)- HAT名義 * [[ルイジアナ珍道中]](1999年)- ハリーと[[久保田麻琴|マック]]名義 === 参加作品 === ==== 音楽監修 ==== * [[ビデオ・ゲーム・ミュージック]](1984年4月25日) * [[南の島の小さな飛行機 バーディー]] オリジナル・サウンド・トラック(2006年8月2日) * [[アップルシード#EX MACHINA|EX MACHINA]] ORIGINAL SOUNDTRACK(2007年10月17日) * [[グーグーだって猫である#映画CD|グーグーだって猫である]] オリジナル・サウンドトラック(2008年8月27日) ==== その他 ==== * [[PACIFIC (オムニバス・アルバム)|PACIFIC]](1978年)「最後の楽園」、「スラック・キー・ルンバ」、「コズミック・サーフィン」 * [[エーゲ海 (the AEGEAN SEA)]](1979年)「レゲ・エーゲ・ウーマン」、「ミコノスの花嫁」 * 新版 電気的行楽 -POP GOES ON ELECTRO(1998年)「esc」 * [[MUJI BGM1980-2000]](2000年) ** 1980年から誕生して20周年目の2000年まで[[良品計画|無印良品]]店内で掛けられたオリジナルBGMを集めたコンピレーション・アルバムで、disc-aの「Original BGM」、「Talking-BGM ver.」が細野の作品。ただし、店頭販売は終了(廃盤)している。 * [[井上陽水トリビュート]](2019年)「Pi Po Pa (Reiwa mix)」 * パーティー/終りの季節(2020年) - [[KEEPON]]、[[久保田真琴]]と共同 == 演奏で参加したことのある主なアーティスト == 細野は1970年代に多くのアーティストの作品で演奏に参加している。ここでは、[[はっぴいえんど]]、[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]として以外で演奏に参加したことのあるアーティストを記する。 {{節スタブ}} * [[あがた森魚]] * [[有山じゅんじ#有山岸|有山岸]] * [[生田敬太郎]] * [[いとうたかお]] * [[井上陽水]] * [[遠藤賢司]] * [[大瀧詠一]] * [[大野義夫 (歌手)|大野義雄]] * [[大貫妙子]] * [[岡林信康]] * [[小椋佳]] * [[加川良]] * [[笠井紀美子]] * [[加藤和彦]] * [[金延幸子]] * [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]] * [[喜多嶋修]] * [[小坂忠]] * 斎藤任弘 * [[ザ・ディランII]] * 沢チエ * ジミー・蒔田 * [[高田渡]] * [[CHARA]] * [[寺本圭一]] * [[冨田ラボ]] * [[友部正人]] * [[中川イサト]] * [[中川五郎]] * [[中島みゆき]] * [[中村一義]] * [[中山ラビ]] * [[西岡恭蔵]] * [[布谷文夫]] * [[平尾昌晃]] * [[ブレッド&バター]] * [[星野源]] * [[ミッキー・カーチス]] * [[南正人]] * [[南佳孝]] * [[森山良子]] * [[矢野顕子]] * [[山下達郎]] * [[山本コウタロー]] * [[和田アキ子]] など == 主な提供楽曲 == * だっとホルモンラブ([[伊武雅刀]]) * [[ハイスクールララバイ]]([[イモ欽トリオ]]) * ティアドロップ探偵団(イモ欽トリオ) * ティーンエイジ・イーグルス(イモ欽トリオ) * エレクトリック・スーパーマン(イモ欽トリオ) * [[しあわせ音頭]]([[柏原芳恵]]) * 三つ編みヒロイン ([[畑山佳代|KAYO]]) * きたかチョーさんまってたドン([[川上さんと長島さん]]) * 正しいプロ野球訓辞小唄(川上さんと長島さん) * [[O album|99%]]([[KinKi Kids]]) * バイバイベイビー([[久保田麻琴]]) * [[Phantasien|連れてってファンタァジェン]]([[小泉今日子]]) * [[GOOD MORNING-CALL|は・じ・め・て]](小泉今日子) * ありがとう([[小坂忠]]) * しらけちまうぜ([[小坂忠]]) * コズミック・サーフィン([[コスミック・インベンション]]) * 終わりの季節([[斉藤任弘]]) * ハートブレイク太陽族([[スターボー]]) * [[三国志メイン・テーマ|三国志ラブ・テーマ]]([[小池玉緒]]) * [[水中メガネ/七夕の夜、君に逢いたい|七夕の夜、君に逢いたい]] ([[Chappie]]) * [[BEGINNING (竹内まりやのアルバム)#収録曲|輝くスターリー・ナイト]]([[竹内まりや]]) * [[玉姫様]]([[戸川純]]) * [[心のアンテナ]]([[中川翔子]]) * [[心のアンテナ|硝子のプリズム]](中川翔子) * ネコブギー - [[おまかせ!みらくるキャット団]]、オープニングテーマ(中川翔子(ショコタン♥ハルオミ名義)) * ルネサンス-優しさで変えて-([[中森明菜]]) * モナムール(グラスに半分の黄昏)(中森明菜) * [[禁区]](中森明菜)<!--(YMOの「過激な淑女」は、中森明菜サイドから没にされた曲の再利用) --> * 100℃バカンス(中森明菜) * 椿姫の夏([[早瀬優香子]]) * まるちゃんの静岡音頭([[ピエール瀧]]) * [[夢・恋・人。]]([[藤村美樹]]) * [[夢・恋・人。|春 Mon Amour]](藤村美樹) * [[夢恋人|仏蘭西映画]](藤村美樹) * [[夢恋人|妖星傅]](藤村美樹) * [[キテレツ大百科 (曲)|キテレツ大百科のうた]]([[堀江美都子]]) * [[Candy (松田聖子のアルバム)|ブルージュの鐘]]([[松田聖子]]) * [[Candy (松田聖子のアルバム)|黄色いカーディガン]](松田聖子) * [[天国のキッス]](松田聖子) * [[天国のキッス|わがままな片想い]](松田聖子) * [[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|ガラスの林檎]](松田聖子) * [[ピンクのモーツァルト]](松田聖子) * [[ピンクのモーツァルト|硝子のプリズム]](松田聖子) * Paradise Beach(ソフィーのテーマ)([[松原みき]]) * 月下美人([[松本伊代]]) * ねらわれた少女([[真鍋ちえみ]]) * ウイスキー色の街で([[森進一]]) * [[紐育物語]](森進一) * [[紐育物語|ルームキー]](森進一) * [[ミラクルライト]]([[森高千里]]) * [[風の谷のナウシカ (曲)|風の谷のナウシカ]]([[安田成美]]) * [[風の谷のナウシカ (曲)|風の妖精]](安田成美) * [[安田成美 (アルバム)|銀色のハーモニカ]](安田成美) * FLY ME - [[南の島の小さな飛行機 バーディー]]、エンディングテーマ(矢野顕子) * 夢色グライダー([[やまがたすみこ]]) * [[赤道小町ドキッ]]([[山下久美子]]) * 哲学しよう([[山田邦子]]) * 見えない世界([[和田アキ子]]) * [[クイズグランプリ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])- 1975年頃から最終回までのオープニングテーマ * [[NHKニュースTODAY]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])- オープニングテーマ * [[ばかのうた|ただいま]]([[星野源]]) * [[旬 (裕木奈江のアルバム)|青空挽歌]]([[裕木奈江]]) * [[旬 (裕木奈江のアルバム)|いたずらがき]](裕木奈江) * [[Forme|Sunday Girl]] ([[YUKI (歌手)|YUKI]]) == 著書 == * レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす(1979年8月、CBS・ソニー出版) * 地平線の階段(1979年11月、八曜社) * レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす(1984年7月、徳間書店) * 花に水(1984年9月、冬樹社) - カセットブック * 技術の秘儀(1984年12月、朝日出版社)※吉成真由美との共著 * 地平線の階段(1985年5月、徳間書店) * 観光(1985年6月、角川書店)※[[中沢新一]]との共著 * ネコの日(198年6月、八曜社) * 音楽少年漂流記(1988年1月、新潮社) * 季刊音楽誌「H2」エイチ・ツー創刊0号(1991年9月、筑摩書房)※責任編集 * The endless talking 細野晴臣インタビュー集(1992年3月、筑摩書房) ※編・北中正和 * テクノドン(1993年7月、小学館)※編著・後藤繁雄 * アンビエント・ドライヴァー(2006年9月、マーブルトロン) * 対談の本 ロックンロールから枝豆まで(2007年3月、マーブルトロン) ** [[高野寛]]、[[ムッシュかまやつ]]、[[大瀧詠一]]、[[コシミハル]]、[[テイ・トウワ]]、[[鮎川誠]]+[[シーナ&ザ・ロケッツ|シーナ]]、[[忌野清志郎]]、[[ジム・ジャームッシュ]] * 分福茶釜(2008年6月、平凡社)※聞き手・[[鈴木惣一朗]] * 神楽感覚(2008年10月、作品社)※[[鎌田東二]]との共著 * HOSONO百景 いつか夢に見た音の旅(2014年3月、河出書房新社)※編・中矢俊一郎 * とまっていた時計がまたうごきはじめた(聞き手・鈴木惣一郎)平凡社、2014.11 * 地平線の相談(2015年3月、文藝春秋)※[[星野源]]との共著 * 映画を聴きましょう(2017年11月7日、キネマ旬報社) == 主な出演番組 == * 細野晴臣 DAISYWORLD ([[J-WAVE]]) - 放送終了 * [[Daisy Holiday]]([[エフエムインターウェーブ|InterFM]] [https://web.archive.org/web/20030406205327/http://www.interfm.co.jp/n03_pro/daisy.cgi DAISY HOLIDAY!] 毎週日曜25:30-26:00) * [[スマイル]]([[関西テレビ放送]] 毎週水曜21:54-22:00)- ナレーション(放送終了) * [[大科学実験]]([[NHK教育テレビ]] 毎週水曜19:40-19:50 毎週金曜午前10:45〜午前10:55 他)- ナレーション * [[Eテレ0655&2355|Eテレ2355]]([[NHK教育テレビ]] 毎週月曜〜金曜23:55〜24:00)- オープニング曲『2355氏、帰る』ヴォーカル、タイトルコール(サウンドロゴ) * [[きこえタマゴ!]](NHKラジオ第1)- オープニングナレーション * 細野晴臣イエローマジックショー(2001年1月23日、[[NHK-BS2]]) **細野晴臣イエローマジックショー2(2019年1月2日、[[NHK BSプレミアム]]) **細野晴臣イエローマジックショー3(2020年1月1日、NHK BSプレミアム) * [[おげんさんといっしょ]](2017年5月4日、NHK総合) - 長男 役 == CM == * [[富士フイルム|富士写真フイルム]] -『フジカセット』YMOとして出演(1980年) ※広告は1980年 - 1981年 * [[麒麟麦酒]] ** 『ビヤ樽』※[[田中康夫]]・[[春風亭小朝]]と共演(1983年) ** キリンラガービール(2007年)※YMOとして出演。BGMは「[[RYDEEN 79/07]]」/YMO * [[グラクソ・スミスクライン|SK&F]] -『コンタック600』(1983年)※BGMは「Pietro Germi」 * [[ナムコ]] - namcot「オモいカルチャーをオモチャーという」(1984年)※BGMは「NON-STANDARD MIXTURE」 * [[ライオン (企業)|ライオン]] - [[ダッシュ (洗剤)|全自動洗濯機用洗剤 Dash]]「いえ、それではなく全自動用の……」(1989年) * [[東芝]] [[カラーテレビ]] -「[[レグザ#BAZOOKA(バズーカ)|BAZOOKA(バズーカ)]]」(1989年) * [[日本電気|NEC]] - 「NECパソコンフェア'93」(1993年) * [[サターン (自動車)|サターン]] ※ナレーションのみ(1997年) * [[ローソン]]:ローソンへ行かなくちゃ -([[Let's Go! (森高千里の曲)|Let's Go!]]、Let's go!II、SWEET CANDY、いつもの店、[[ミラクルライト]])(1997年 - 1999年) ※[[森高千里]]と夫婦役で共演。 * [[東日本電信電話|NTT東日本]] [[iタウンページ]] ※ナレーションのみ(1998年) * [[NTTドコモ]] - [[無線呼び出し|ポケベル]] ※[[加藤あい]]と共演のサルの声で出演。「サル語、お上手ですね」(2000年) * [[TBCグループ]] 「エステは進化していますTBC」ハカセくん篇(2001年)- ハカセくんの声で出演。[[木村拓哉]]と共演 * [[トヨタ自動車]] ** ナレーション(2003年) ** [[トヨタ・カローラフィールダー|カローラフィールダー]](2007年、2015年)※2007年版(2代目・E140G前期型)は図書館司書の役で木村拓哉と共演、2015年版(3代目・E160G後期型)は木村拓哉のほか[[加藤ミリヤ]]、[[石川さゆり]]と共演 * [[ツムラ]](現:[[バスクリン]])- [[入浴剤]]『きき湯』「炭酸効果の粒が効く〜」(2003年〜2004年) * [[サントリー]] - [[烏龍茶]]『音韻調』※ナレーション(2005年)※BGMは[[二胡]]アレンジによる「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」/YMO * [[東京ガス]](2010年)※妻夫木聡と共演 * [[江崎グリコ]] - [[ポッキー]](2010年)※YMOとして出演。BGMは「ライディーン」 * [[旭化成ホームズ]] - ヘーベルハウス(2012年)※ナレーション。BGMも細野によるもの。 * [[資生堂]] - IHADA(2015年)※ナレーション == 映画 == * [[宵待草 (1974年の映画)|宵待草]](1974年、[[神代辰巳]]監督)- 音楽 * [[夏の秘密 (映画)|夏の秘密]](1982年、[[川上裕通]]監督)- 音楽 * [[プルメリアの伝説 天国のキッス]](1983年、[[河崎義祐]]監督)- 主題歌「[[天国のキッス]]」・挿入歌「プルメリアの花」作曲担当 * [[居酒屋兆治]](1983年、[[降旗康男]]監督)- 出演 * [[A Y.M.O. FILM PROPAGANDA]](1984年、[[佐藤信 (演出家)|佐藤信]]監督)- 出演 * [[危険な女たち]](1985年、[[野村芳太郎]]監督)- 作曲(主題曲「ミステリユ」) * [[四月の魚]](1985年、[[大林宣彦]]監督)- 出演 * [[銀河鉄道の夜]](1985年、[[杉井ギサブロー]]監督)- 音楽 * [[パラダイスビュー]](1985年、[[高嶺剛]]監督)- 音楽、出演 * [[人間の約束]](1986年、[[吉田喜重]]監督)- 音楽 * [[紫式部 源氏物語]](1987年、[[杉井ギサブロー]]監督)- 音楽 * [[微熱少年]](1987年、[[松本隆]]監督)- 出演 * [[ほしをつぐもの]](1990年、[[小水一男]]監督)- 音楽 * [[サザン・ウィンズ]] [http://jfac.jp/culture/news/n-southern-winds-asian-three-fold-mirror/](1993年)- 音楽 * [[On The Way]](2000年、[[崔在銀]]監督)- 音楽 * [[メゾン・ド・ヒミコ]](2005年、[[犬童一心]]監督)- 音楽 * [[アップルシード#EX MACHINA|EX MACHINA -エクスマキナ-]](2007年、[[荒牧伸志]]監督)- 音楽、音楽監修 * [[グーグーだって猫である]](2008年、犬童一心監督)- 音楽、テーマソング * [[ノルウェイの森 (映画)|ノルウェイの森]](2010年、[[トラン・アン・ユン]]監督)- 出演 * [[モヒカン故郷に帰る]](2016年、[[沖田修一]]監督)- 主題歌「MOHICAN」<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/10/09/kiji/K20151009011286990.html |title=細野晴臣 8年ぶり映画主題歌、監督ラブコールで書き下ろし |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2015-10-09 |accessdate=2015-10-09}}</ref> * [[万引き家族]](2018年、[[是枝裕和]]監督)- 音楽 * [[犬ヶ島]](2018年、[[ウェス・アンダーソン]]監督)- 日本語吹替<ref>{{Cite web|和書|work=映画ナタリー |url=https://natalie.mu/eiga/news/281075 |title=「犬ヶ島」吹替版に細野晴臣が参加 |date=2018-05-07 |accessdate=2018-05-07}}</ref> * [[ある船頭の話]](2019年、[[オダギリジョー]]監督)- 出演<ref>{{Cite web|和書|work=音楽ナタリー |url=https://natalie.mu/music/news/334600 |title=細野晴臣、オダギリジョー長編初監督作品「ある船頭の話」にマタギ役で出演 |date=2019-06-07 |accessdate=2019-06-07}}</ref> * [[NO SMOKING]](2019年、[[佐渡岳利]]監督) - 主演(ドキュメンタリー映画)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkatsu.com/news/201908/003491.html|title=細野晴臣デビュー50周年記念ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』公開決定!特報&場面写真解禁! |date=2019-08-19 |accessdate=2021-01-13}}</ref> * [[SAYONARA AMERICA]](2021年、[[佐渡岳利]]監督) - 主演(ドキュメンタリー映画) == テレビドラマ == * [[はぐれ刑事]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]] / 1975)- 音楽 * [[家路〜ママ・ドント・クライ]]([[TBSテレビ|TBS]] / 1979)- 出演 * [[人形劇 三国志]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]] / 1982)- テーマ曲製作 * 南の島の小さな飛行機 バーディー([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]] / 2005・アニメーション作品)- 音楽 * [[ウォーカーズ〜迷子の大人たち]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]] / 2006)- 音楽 *[[ペンション・恋は桃色]](フジテレビ / 2020)- 出演<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/361853 |title=細野晴臣、ドラマ初出演でリリー・フランキーと親子演じる「緊張するなあ」 |publisher=Natasha |newspaper=音楽ナタリー |date=2020-01-02 |accessdate=2020-1-18}}</ref>、音楽、主題歌「恋は桃色」 * [[オリバーな犬、 (Gosh!!) このヤロウ]](NHK総合テレビ / 2021・2022) - 出演 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|音楽|[[ファイル:Xmms.png|45px|ウィキポータル 音楽]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|音楽家|[[File:Band Silhouette 04.jpg|35px|ウィキプロジェクト 音楽家]]}} * [[バッファロー・スプリングフィールド]] * [[マーティン・デニー]] * [[センチメンタル・シティ・ロマンス]] * [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]] * [[アルファレコード]] * [[LDKスタジオ]] * [[ノン・スタンダード]] * [[ピチカート・ファイヴ]] * [[テクノ歌謡]] * [[福澤もろ]] * [[遠藤賢司]] * [[小坂忠]] * [[奥村靫正]] * [[ジョンソン基地]] * [[狭山稲荷山公園]](米軍管轄時、住宅街の地域) == 外部リンク == * {{Official website|http://hosonoharuomi.jp/}} * [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]] ** {{Twitter|hosonoharuomi_|細野晴臣_info}} ** {{Instagram|hosonoharuomi_info|hosonoharuomi_info}} ** {{YouTube|handle = hosonoharuomi|細野晴臣}} * 各レコード会社による公式ページ ** [https://columbia.jp/artist-info/hosono/index.html 日本コロムビア | 細野晴臣] ** [https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discographylist/A019206.html SPEEDSTAR RECORDS | 細野晴臣] * その他 ** {{NHK人物録|D0009071148_00000}} ** [https://www.1101.com/artmusicword/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 横尾忠則、細野晴臣、糸井重里、3人が集まった日](2016年) ** [https://www.1101.com/yokoo2021/hosono_haruomi/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 特集 私と芸術、私の友情。細野晴臣+横尾忠則](2021年) {{細野晴臣}} {{はっぴいえんど}} {{イエロー・マジック・オーケストラ}} {{忌野清志郎}} {{ゼビウス}} {{日本アカデミー賞最優秀音楽賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほその はるおみ}} [[Category:細野晴臣|*]] [[Category:はっぴいえんどのメンバー]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本のテクノミュージシャン]] [[Category:日本のロック・ミュージシャン]] [[Category:日本の男性シンガーソングライター]] [[Category:日本の男性ロック歌手]] [[Category:日本のオルタナティヴ・ロック・ミュージシャン]] [[Category:日本のベーシスト]] [[Category:日本のキーボーディスト]] [[Category:日本のシンセサイザー奏者]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本の映画音楽の作曲家]] [[Category:ゲーム音楽家]] [[Category:アンビエント・ミュージシャン]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:京都精華大学の教員]] [[Category:テクノポップ]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:日本の男優]] [[Category:日本のナレーター]] [[Category:InterFMのDJ]] [[Category:NO NUKES出演者]] [[Category:立教新座中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:立教大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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MC68000
MC68000(エムシーろくまんはっせん)、68000は米・モトローラ(現NXPセミコンダクターズ)が開発したMPU(MPUはマイクロプロセッサを指すのにモトローラが使った語でマイクロプロセッシングユニットの略)である。略して68K(ろくはちケー)などとも。後継MPUも含めた同一アーキテクチャのシリーズを総称するときは、680x0と呼称される。モトローラ自体は周辺LSIを含めてM68000ファミリと呼称した。MC型番は量産ロットで、量産先行品はXC型番となる。M68000ファミリは、Apple Macintosh や Apollo/Domain、NeXTcube、HP 9000、Sun-3、ソニーNEWS、NEC EWS4800、シャープX68000、Uステーションなど様々なパソコンやワークステーションに採用された。オペレーティング・システムとしては、Mac OS、Domain/OS、NeXTSTEP、HP-UX、SunOS、CP/M-68K、OS-9/68000、NetBSDなどがある。 68000 は1976年に開始された MACSS (Motorola Advanced Computer System on Silicon) プロジェクトから出てきたものである。従来製品との互換性を考慮するような妥協したアーキテクチャにはしないということが開発の初期に決定されていた。これは、利用者がその新システムを一から新たに学ぶ必要があることを意味しており、一種の賭けだった。最終的に、6800系の周辺デバイスとのインタフェースの互換性だけは持つこととなったが、6800のコードは実行できないものとなった。しかし、その後の拡張における互換性には最大限の注意が払われ、68000に乗り換えさえすれば今後が保証されるようにした。例えば、CPUのレジスタは32ビット幅とされたが、外部バスはより小さく設計され、アドレスバスは24ビット幅であり、データバスは16ビット幅となっている。ちなみに、アドレスバスとデータバスはマルチプレクスされておらず分離されている。MACSSチームはPDP-11やVAXシステムのようなミニコンピュータのプロセッサに影響を受けた。命令セットはハードウェアの制限よりもソフトウェア開発の観点で設計された。そこにはミニコンピュータでの開発になれた技術者がプログラミングしやすいものにしようとの考えがあった。 "68000" という名称は6800との連続性を想起させるよう選択されたが、これらの間に設計上の類似点はあまりない。集積されたトランジスタ数が68,000だったからとも言われているが、実際には70,000に近かった。 当時、8ビットから16ビットへの移行で熾烈な競争が繰り広げられていた。ナショナル セミコンダクターは1973年から1975年にかけてIMP-16とPACEというプロセッサで一歩先んじたが、使用したプロセス技術が原因で、性能に問題を抱えていた。次にテキサス・インスツルメンツがTMS9900をリリースしたが、広く使われるには至らなかった。そして1977年にインテルが8086をリリースした。しかし、モトローラのマーケティング部門は68000をより完全な16ビット設計にすることが重要と考えた。このため、68000はハードウェアとしては複雑なものとなった。複雑さの指標としてトランジスタ数を見ると、8086は29000個であり、68000は前述のように70000近い。 68000の単純な命令は4クロックサイクルで実行できたが、複雑な命令の実行にはもっと時間がかかった。8MHzの68000で、平均性能は約1MIPS弱だった。 典型的なプログラムで平均をとると、68000のコードはインテルのプロセッサよりも一命令あたりにできることが多く、コードのサイズが小さくて済んだ。また、8086が、8080との互換性を重視した結果、汎用レジスタの不足や実行速度の低下に苦しんだ事に対して、十分な数のレジスタと、当時としては先進的な内部設計のため、実行速度の面では8086に対して優位に立っていた。さらに68000は24ビットリニアアドレッシングによって最大16MBの連続するメモリ空間をサポートし、この空間内の任意のアドレスへのダイレクトアクセスを可能としている。これは開発当時としては非常に広大なメモリ空間だった。これに対し8086は従来の8080との間でソフトウェアのアセンブリ言語レベル(注: バイナリレベルではない)での互換性のため、従来と同じ16ビットのアドレッシングを「オフセット」とし、「セグメント」と称する(詳細はセグメント方式#x86を参照)16ビットレジスタの値を4ビットシフトしてベースアドレスとする、20ビット空間のノンリニアアドレッシングだった。そのため、64Kバイトを超えるデータやコードを扱うにはセグメントレジスタの値を適宜変更する必要があり、面倒であった。32ビットアドレッシングは、x86では1986年の80386で初めて可能になった。 このような事情から68000は8086と比較して学習が容易で使いやすく、開発者に好まれた。 オリジナルのMC68000は、3.5μmルールのHMOSプロセスで製造された。技術サンプルは1979年末に出荷された。量産チップは1980年に出荷され、当初のクロック周波数は4, 6, 8MHzだった。10MHz版は1981年、12.5MHz版が1982年に登場している。HMOSでは最高速の16.67MHz版 (12F) は1980年代終盤まで生産されなかった。 メモリ量の少ないシステム向けの低価格版として1982年に MC68008 が登場した。これは MC68000 の8ビットデータバス版であり、アドレスバスも当初は24ビットよりも縮小され、48ピンDIP版は20ビット。後の52ピンPLCCパッケージ版では22ビットである。MC68012 は後に31ビットアドレスバスで登場した。 68HC000はモトローラと日立製作所が1985年にリリースしたオリジナルとピン配置互換のHCMOS版である。モトローラのものは MC68HC000、日立のものはHD68HC000と呼ばれた。68HC000では8MHzから20MHzまでのクロック周波数が可能となった。またCMOS化されただけでオリジナルと機能が全く変わらず、かつ電力消費が低減されている。オリジナル版は25°Cの環境で約1.35ワットを消費した(クロック周波数に依存しない)。一方、MC68HC000は8MHzで0.13ワット、20MHzで0.38ワットしか消費しない。なお、CMOSとは異なり、HMOS回路の電力消費はスイッチング時も何もしていないときも一定である。従って、クロック周波数が違っても電力消費はほとんど変化しない。ただし、周囲の気温には影響される。 モトローラは1990年、MC68HC001をリリースした。このチップは68HC000と仕様がほぼ共通であるが、データバスに16ビット幅と8ビット幅の2つのモードが用意されており、リセット時のピンへの入力でモード選択が行えるようになっていた。従って、このチップは68008の代替として 8ビットメモリを使った安価なシステムで利用できた。 HMOS版の68000はいくつかのセカンドソース企業で製造された。日立 (HD68000)、Mostek (MK68000)、ロックウェル (R68000)、シグネティックス (SCN68000)、Thomson/SGS-Thomson (EF68000, TS68000)、東芝 (TMP68000) などである。東芝はCMOS版の68HC000のセカンドソースでもあった (TMP68HC000)。また、後にシグネティックスがアーキテクチャ互換のSCC68070を製造した。 SCC68070は現在フィリップスが版権を持つ。 68000は数々のマイクロコントローラや組み込み用プロセッサのベースにもなった。1989年、モトローラはMC68302通信プロセッサをリリースした。これが68000CPUコアを使用した最初のマイクロコントローラだった。このコアはCMOS版の68HC000をベースとしているが、8ビットの6800周辺チップとのインタフェース機能が省略されている。1991年、モトローラはここからプロセッサ部分だけを抜き出したMC68EC000をリリースした。 モトローラは68EC000コアを使ったいくつかのマイクロコントローラを開発した。MC68306とMC68307は汎用マイクロコントローラ、MC68322 "Bandit" はプリンターコントローラ、MC68356はモデム用、MC68328 DragonBallは携帯機器向けだった。他のマイクロコントローラとして683XXファミリーは、より強力なCPU32プロセッサコアを使っていた。 68EC000ベースの683XXマイクロコントローラの一部にはスタティック版の68EC000コアが使われた。この場合クロックを遅くしたり停止させたりして電力消費を抑えることができる。1996年、モトローラはこのスタティックコアをプロセッサとして独立させ、MC68SEC000としてリリースした。 モトローラは1996年、HMOS版MC68000とMC68008の製造を終了した。生産終了の予告は1994年末ごろなされた。モトローラの通常の手順からいけば、1995年まで注文を受け付け、最後の出荷は1996年になったということになる。その後スピンオフしたフリースケール・セミコンダクタは現在もMC68HC000、MC68HC001、MC68EC000、MC68SEC000を製造販売し続けている。また、MC68302やMC68306マイクロコントローラやその後のDragonBallファミリーも生産し続けている。68000のアーキテクチャを受け継いだ680x0、CPU32、ColdFireも生産されている。 後継のMC68020からは外部データバス、アドレスバス共に32ビットの、名実共に32ビットのCPUとなり、コプロセッサがサポートされた。ソフトウェア的には、アドレッシングモードが拡張されたほか、ユーザーモードではほぼMC68000の上位互換だった。一部互換性のない部分は、存在しない命令を実行しようとしたときに割り込みでトラップ処理することで、ソフト的に吸収することができた。このMC68020や、後継のMC68030は数多くのワークステーションで採用された。 なおRISCであるPowerPCシリーズとの互換性はなく、同プロセッサを搭載したMacintoshではMC68LC040をエミュレーションしている。 RISC技術を採用したColdFireシリーズは、68000から使用頻度の低い命令の多くを削除した下位互換の組み込み用プロセッサである。 68000は1980年代前半には比較的高価なシステムに使われた。 UNIXシステムではプロセッサのメモリアドレッシングの上限やMMUの制限などにより、68000そのものは長く使われることはなかったが、その後継品種は1980年代を通して UNIX市場で広く使われた。そのアーキテクチャがDECのPDP-11やVAXによく似ていて、C言語のコードを動作させるのに最適なコンピュータだったからである。 1983年から68000はパーソナルコンピュータ (PC)、特にホビーパソコンで使われるようになった。まず、Apple ComputerのLisaとMacintoshで使われ、その後コモドール Amiga、アタリ Atari ST、シャープ X68000、それにソニー PalmTopなどで1990年代中盤まで使われた。一方68008が使われたホビーパソコンとしてはシンクレアQLぐらいしかない。(ちなみに日立製作所製のMB-S1には、オプションとして68008ボードが存在した) 68000はコントローラ用として最も成功した。1981年、Imagen社のImprint-10などのレーザープリンターは68000をCPUとする外部コントローラで制御されていた。最初のHP LaserJetは8MHzの68000を使ったコントローラを内蔵していた(1984年)。同様に68000を使ったコントローラが多くのレーザープリンターで使われている。例えばAppleのLaserWriterなどである。68000は1980年代を通してレーザープリンターで使用され、1990年代に入ってもローエンドのプリンターに使われ続けた。 また、68000は工業制御システムの分野でも成功を収めた。この種のシステムでは、68000やその派生CPUを中心としたプログラマブルロジックコントローラ (PLC) を利用する。このようなシステムは一般市場に比較して製品寿命が長く、20年前のものでもそのまま使い続けることが多い。そのため、21世紀になっても68000ベースのコントローラが数多く使われ続けている。 コンピュータゲームメーカーはアーケードゲームや家庭用ゲーム機などに68000を使った。アーケードゲームでは1983年にアタリが「Food Fight」で68000を使ったのが最初である。日本での初使用は同年のナムコ(後のバンダイナムコアミューズメント)の「 リブルラブル」である。1980年代後半から1990年代初めごろまでアーケードゲーム基板ではメインCPUとして68000がよく使われた。例えば、セガのセガ・システム16、カプコンのCPS-1とCPS-2、SNKのネオジオなどである。アーケードゲームでは68000を2個使ったり、場合によっては3個使う場合もあった。1990年代、アーケードゲームのメインCPUはもっと高性能なプロセッサが使われるようになっていったが、68000はサウンドコントローラなどとして使われ続けた。 家庭用ゲーム機で68000がメインCPUとして使われた例としては、メガドライブ、メガCD、家庭用のネオジオがある。その後のゲーム機でも、セガサターンは68EC000をサウンドコントローラとして使用し、Atari Jaguarでもグラフィックスやサウンドチップの制御に使われた。 また、クリエイティブテクノロジーのWave BLASTERやENSONIQ社のENSONIQ SoundScape DBをはじめとするPC向けサウンドカード用MIDIシンセサイザー・ドーターボードへ、制御用として68000が搭載されるケースが1990年代中盤には多数見られた。 技術の進歩によって68000がスタンドアローンのコンピュータ市場では使われなくなると、一般消費者向けの各種機器の組み込み用途に使われるようになった。テキサス・インスツルメンツは68000をハイエンドのグラフ表示電卓、TI-89、TI-92などで使っている。これらの初期のバージョンではスタティック版68EC000コアを使った特殊なマイクロコントローラだった。後のバージョンでは標準のMC68SEC000プロセッサが使われている。 CPU32とColdFireプロセッサは自動車のエンジン制御に数百万個単位で使われた。 また、低価格で信頼性が高いことから医療機器分野でも多く使用された。 低電圧版のDragonBallは、Palm PilotシリーズやHandspring VisorなどのPDAで使われた。後にこの市場はARMプロセッサコアに奪われた。高速シリアルポートを内蔵した派生品(68302と68360)は、シスコシステムズ、3Com、Ascend、Marconiなどが通信機器に使用した。 32ビットのデータレジスタを8本、また、32ビットのアドレスレジスタを8本持つ、CISCアーキテクチャのマイクロプロセッサである。8ビットのMC6800シリーズとはアセンブラソースレベルでもバイナリレベルでも互換性を持たない。 MC68000は、DECのVAXを参考にしたと言われる、直交性の高い命令体系をもつ。 外部バス幅はアドレスバス24ビット、データバス16ビットで、発表当初のクロック周波数は4 - 16MHz。約68,000個のトランジスタからなるN-MOS集積回路であり、当初は巨大な64ピンDIPパッケージ、後にPGAパッケージでも供給された。 データーバスはダイナミックバスサイジングを採用しており8ビットまたは16ビットのバスにアクセス可能である。これはM68000ファミリ周辺チップだけではなく、M6800ファミリなど廉価な8ビット周辺チップとの接続を考慮したものである。 MC68000自体は16ビットCPUとして取り扱われたが、内部アーキテクチャは32ビットプロセッサとして設計されており、レジスタとアドレスのデータ長は等しく32ビットとなっている。 32ビットのアドレス空間は4GBに相当するが、当時の技術では、4GB分のアドレス空間をフルに使う可能性は無いとされ、外部のアドレスバスとのデータ入出力では上位8ビットをマスクして下位24ビットを使用し、最大16MB分のメモリ領域を管理する実装とされていた。 このように最初に理想とする32ビットアーキテクチャを決めておき、その時々で利用できる技術で実現可能な機能から順に実装するという方式をとっていたため、無理なく上位互換性が確保できた。 また、ライバルであるx86系プロセッサではメモリ空間とは別にI/O空間が設けられ、専用のI/O命令が用意されていたが、MC68000シリーズではメモリ空間内にI/O用領域を割り当てるメモリマップドI/O方式を採用しているのも特徴の一つである。 MC68000ユーザズマニュアルによると、MC68000シリーズのアドレス空間はFC0 - FC2ピンのデコードによって、スーパーバイザ・プログラムアドレス空間、ユーザ・プログラムアドレス空間、スーパーバイザ・データアドレス空間、ユーザ・データアドレス空間に分離された4つの32bitアドレス空間がある。しかし実際のところ、それぞれのアドレス空間を通信する機能が不十分であったため、ユーザはハードウェア実装においてはFCピンのデコードを行わずに1つの32ビットアドレス空間とするほかはなかった。 MC68000シリーズではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離するハーバード・アーキテクチャを採用していた。しかし、アドレス空間の分離におけるメモリ管理の複雑化、またハーバード・アーキテクチャを採用したオペレーティングシステム (OS) があまり供給されなかったことから、多くの実装ではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離しない設計が採用される場合が殆どだった。 スタックがOS用とアプリケーション用に二つあり、特権モード(スーパバイザモード)と、ユーザモードの2つの特権レベルを持つなど、当初よりUNIXに代表される高度なメモリ管理機能やマルチタスク機能を備えたOSを搭載することを前提に設計されている。 ユーザーモードで動作するプログラムの互換性はMC68000からMC68060までバイナリレベルでほぼ完全に保たれているが、スーパバイザモードでの動作についてはこのモードで動作するOSが差異を吸収することを前提として、世代ごとに改良や変更が加えられている。 このため特にスタックポインタの実装とその挙動には世代間での相違が多く、アプリケーションがハードウェアリソースへ直接アクセスするためにスーパーバイザモードをアプリケーションに解放した原始的な実装のOSではMC68000用に書かれたこの種の動作を行うアプリケーションプログラムが後継各プロセッサで正常動作しないケースが存在する。 MC68000は16ビットのALUを持つ一方で、アドレスは常に32ビットで扱われ、フラットな32ビットアドレス空間を持つ。その実効アドレスの演算の為に、専用の16ビット幅のALUを2個持つ。 8086は20ビットのアドレス空間を持つが、リニアにアクセスできるのはセグメントと称された(セグメント方式#x86)16ビットの空間だけであった。これは特にグラフィックの扱いなどを面倒にした。 MC68000では実効アドレス演算の為に専用の2つの16ビットのALUを接続して用い、3つめのALUが16ビットの演算を行った。 例えば、32ビットのアドレスレジスタのポストインクリメント(そのアドレスにアクセスした後、アドレスレジスタの内容をインクリメント(増加)するアドレッシングモード)「ADD.W (An)+,Dn」はポストインクリメントをしない場合に較べても速度低下することがない。 したがって、16ビットCPUとして始まってはいるが、68000の命令セットは32ビットアーキテクチャになっている。後継のMC68020は32ビットのALUと32ビットのデータバスを持っていたが、68000用のソフトウェアをほぼ変更することなしに、データバス幅を32ビットに拡張することで速度向上を果たした。 しかし、ソフトウェアの互換性を完全に保てたわけではない。68000では(同様のテクニックは同じく32ビットマシンだがアドレスが24ビットだったSystem/360で行われていたが)使われない(無視される)上位8ビットに何らかの情報を持たせる、というテクニックが一部のシステムプログラムなどで使われた。例えば、LISPなどでポインタの指すオブジェクトの種類を区別する情報をそこに格納したり、ガベージコレクション用のフラグを格納した。そのようなコードを、後継のより広いアドレスバスを持つマシンで実行するとバスエラーが発生した(やはりSystem/360の後継機でも同様の問題が起きており、System/370-XAではMSBを互換モードのために残した31ビット化という苦肉の策がとられている)。 Macintoshでは8MB以上のRAMを搭載する際にソフトウェアのアップグレードが必要だった。 多くのアプリケーションは将来を見越して書かれており、問題は発生しなかった。 8本の汎用データレジスタ (D0 - D7)と8本のアドレスレジスタ (A0 - A7) を持つ。 アドレスレジスタ (A7) はスタックポインタ (SP) であり、スタック上位のオブジェクトをアクセスする事が容易となった。 68000ファミリでの多バイトデータのメモリ上での配置はビッグ・エンディアンである。 68000の比較命令、算術演算命令、論理演算命令は実行結果をステータスレジスタに反映させ、後で条件ジャンプ命令でそれを使えるようになっている。 ステータスレジスタのビットには、"Z"ero(ゼロ)、"C"arry(キャリー)、o"V"erflow(オーバーフロー)、eXtend、そして"N"egative(ネガティブ)がある。 eXtendビットはCarryビットと分離されている。 eXtendとCarryは、シフト/算術演算/論理演算命令の桁上がり結果を保持するが、eXtendビットはより多バイトの演算を実現するために使い、Carryビットは処理の流れを制御するのに用いる。 68000の設計者はアセンブリ言語が直交性を持つよう注意を払った。つまり、命令は操作とアドレッシングモードに分けられ、多くの場合は任意の操作に任意のアドレッシングモードを使えるようになっている。 ビットレベルで見ると、命令のオペコードの値は必ずしも現状の通りである必然性はない。このことは、ある意味でよい妥協点だった。真の直交性のあるマシンと同等の利便性を得ると同時にCPU設計者はオペコード表を自由に埋めることができた。 最小命令サイズは当時としては大きい16ビットである。さらに多くの命令やアドレッシングモードは追加のワードでアドレスやアドレスモードビット等を表現する。 多くの設計者はMC68000アーキテクチャはコストに見合うコンパクトなコードを実現していると信じている(特にコンパイラがコードを生成した場合)。多くの組み込み制御システムの設計者はメモリのコストに敏感であり、コードがコンパクトであるという信念がMC68000ならびに後継CPUを採用する動機に繋がり、アーキテクチャの寿命を延ばした。そして同様にコンパクトなARMアーキテクチャのThumb命令セットが登場するまで、多くの68000命令セット(のCPU)の採用をもたらし続けた。 このCPUと他の全ファミリは二段階の特権レベルを実装している。ユーザモードでは割り込みレベル制御以外はアクセス可能である。 スーパバイザ特権では全てにアクセスできる。割り込みが発生するとスーパバイザモードに移行する。 スーパバイザビットはステータスレジスタに格納され、ユーザプログラムからも見える。 68000は8つの割り込みレベルを持つ。レベル0から7まで厳密に優先順位が決まっている。 番号が大きい割り込みが番号の小さい割り込みに対して割り込むことが出来る。ステータスレジスタには現在の割り込みレベルを特権命令でセットすることができ、これにより低いレベルの割り込みをブロックする。レベル7はマスクすることができないため、NMI(英: Non-Maskable Interrupt)とも言う。レベル0は他の全てのレベルが割り込むことができる。レベル0は割り込み要求がないことを示す。レベルはステータスレジスタに格納され、ユーザレベルプログラムからも見ることが出来る。 ハードウェア割り込みは3本の信号線によってCPUに伝えられ、この3本の値がペンディング中の最も高い割り込みレベルにエンコードされる。別途割り込みをエンコードするための割り込みコントローラが必要である。ただし、割り込み発生源が三つ以下のシステムでは、各割り込みを三本の信号線にそれぞれつなぐことで割り込みコントローラを省略できる。ただし、割り込みレベルと割り込みの対応が単純ではないためソフトウェアでの処理が複雑になる。割り込みコントローラは汎用ロジックIC74148のような単純なエンコーダでもよいし、VLSIの周辺チップでもよい。例えばMC68901は、割り込み制御だけでなくUART(シリアル)、タイマー、パラレルI/Oを備えている。 例外テーブル(割り込みベクターテーブル)はアドレス0番地から1023番地まで固定で置かれ、256個の32ビットアドレスを表す。最初のベクターは初期スタックアドレスであり、二番目のベクターは初期コードアドレスである。3番から15番のベクターは各種エラー処理ルーチンのアドレスである。エラーの種類としてはバスエラー、アドレスエラー、不正命令、ゼロによる割り算、CHK/CHK2命令ベクター、特権違反、そして予約されたベクター(後にline 1010エミュレータ、line 1111エミュレータ、ハードウェアブレークポイントに割り当てられた)がある。ベクター24から実際の割り込みに対応する。ハードウェアに対応しない擬似割り込み、レベル1から7のベクター、15個のTRAPベクター、いくつかの予約されたベクター、ユーザ定義ベクターの順番で並んでいる。 リセットされたとき、少なくともスタートコードアドレスのベクターには正しいアドレスが入っている必要がある。多くのシステムは不揮発メモリ(つまりROM)を持っていて、0番地に配置し、そのROMにベクターテーブルとブートストラップコードが入っている。しかし、汎用システムでは動作中にベクターを書き換えられるのが望ましい。これを実現するため、ROM上のベクターがRAM上のジャンプテーブルを指すようにするか、バンク切り替えで動作中に0番地付近の配置をROMからRAM変更する。 68000はPopekとGoldbergの仮想化要件(英: virtualization requirements for full processor virtualization)を満たしていない。というのは、"MOVE from SR" 命令が特権命令でないため、ユーザモードから特権ステータスが見えてしまうからである。この問題は後述する仮想記憶サポートの問題とともに後のMC68010で改善された。"MOVE from SR" 命令は特権命令となり、ユーザモードのソフトウェア用に "MOVE from CCR" 命令を追加した。ユーザモードで "MOVE from SR" 命令を使った場合、トラップが発生してOS側でエミュレートすることも可能である。 680x0系の最初のプロセッサであるMC68000の仕様は、外部支援なしにはデマンドページングの実現が困難なものであった。 デマンドページングでは、実行中の命令のメモリアクセスがページフォールトを起こしたら、(それが正常なアクセスであれば)その実行中の命令の実行を一旦フリーズし、外部記憶と主記憶の間でスワッピングをおこなってから、実行中だった命令の実行から再開する、という処理が必要である。 しかし、MC68000がページフォールトの際に保存する内部情報は、「実行中だった命令の実行からの再開」ができないものであった。このため、MC68000の通常の割り込みの処理に従ってしまうと、デマンドページングは実現できない。これを、単にそもそもサポートするつもりが無かったものとみるむきもあれば、「仕様のバグ」とみるむきもあれば、後述のようにして実現が可能であるし、MMUも計画中に過ぎなかったのだから「将来仮想記憶をシリコン上に実装することを正当化する需要が発生するまでの暫定的な実装仕様」だったと考えるほうが自然である、とみるむきもある。 そのようなMC68000で仮想記憶を実装するためには、MC68000には次のような機能があった。バスアクセス中にあるピンをアサートすることにより、命令の実行をそこで一旦フリーズし、スリーステートバスをハイインピーダンスにして解放させたままいつまででも止めておいて、そののち、元の命令の中断したバスアクセスから再実行(re-run)する機能である。これによるバスサイクルをリランサイクル(rerun cycle)という。 これを利用して、メインのCPUであるMC68000を止めた状態で、別のプロセッサでページ処理をおこなうようにして、デマンドページングを実装できる。必然性はないが、同じバスに接続する容易性から、この補助プロセッサにもMC68000が使われることが多い。 以上のようなMC68000のデュアル・プロセッサによる仮想記憶を実現したコンピュータとしてはアポロコンピュータのDomainが有名である。同社の実装ではページスワップを担うスレーブ・プロセッサは、通常時はグラフィックス・プロセッサとして動作し、必要に応じてマスターのページ・スワップ要求に応じた。 この問題は後のMC68010で解決された。MC68010では、バスエラーとアドレスエラーが発生した場合、エラーを発生させた元の命令を指すプログラムカウンタのアドレスをスーパバイザスタックに保存することにより、元の処理に復帰できるようになった。 基本的なアドレッシングモードは以下の通りである。 追加:ステータスレジスタへのアクセス。後のモデルでは他の特殊レジスタも同様。 多くの命令にはドットに続くサフィックスが付き、処理単位を8ビット (".b")、 16ビット (".w")、32ビット (".l") で指定する。 多くの命令は入力(ソース)と出力(デスティネーション)を持ち、デスティネーションに変更を加える。主な命令は以下の通りである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "MC68000(エムシーろくまんはっせん)、68000は米・モトローラ(現NXPセミコンダクターズ)が開発したMPU(MPUはマイクロプロセッサを指すのにモトローラが使った語でマイクロプロセッシングユニットの略)である。略して68K(ろくはちケー)などとも。後継MPUも含めた同一アーキテクチャのシリーズを総称するときは、680x0と呼称される。モトローラ自体は周辺LSIを含めてM68000ファミリと呼称した。MC型番は量産ロットで、量産先行品はXC型番となる。M68000ファミリは、Apple Macintosh や Apollo/Domain、NeXTcube、HP 9000、Sun-3、ソニーNEWS、NEC EWS4800、シャープX68000、Uステーションなど様々なパソコンやワークステーションに採用された。オペレーティング・システムとしては、Mac OS、Domain/OS、NeXTSTEP、HP-UX、SunOS、CP/M-68K、OS-9/68000、NetBSDなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "68000 は1976年に開始された MACSS (Motorola Advanced Computer System on Silicon) プロジェクトから出てきたものである。従来製品との互換性を考慮するような妥協したアーキテクチャにはしないということが開発の初期に決定されていた。これは、利用者がその新システムを一から新たに学ぶ必要があることを意味しており、一種の賭けだった。最終的に、6800系の周辺デバイスとのインタフェースの互換性だけは持つこととなったが、6800のコードは実行できないものとなった。しかし、その後の拡張における互換性には最大限の注意が払われ、68000に乗り換えさえすれば今後が保証されるようにした。例えば、CPUのレジスタは32ビット幅とされたが、外部バスはより小さく設計され、アドレスバスは24ビット幅であり、データバスは16ビット幅となっている。ちなみに、アドレスバスとデータバスはマルチプレクスされておらず分離されている。MACSSチームはPDP-11やVAXシステムのようなミニコンピュータのプロセッサに影響を受けた。命令セットはハードウェアの制限よりもソフトウェア開発の観点で設計された。そこにはミニコンピュータでの開発になれた技術者がプログラミングしやすいものにしようとの考えがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "\"68000\" という名称は6800との連続性を想起させるよう選択されたが、これらの間に設計上の類似点はあまりない。集積されたトランジスタ数が68,000だったからとも言われているが、実際には70,000に近かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当時、8ビットから16ビットへの移行で熾烈な競争が繰り広げられていた。ナショナル セミコンダクターは1973年から1975年にかけてIMP-16とPACEというプロセッサで一歩先んじたが、使用したプロセス技術が原因で、性能に問題を抱えていた。次にテキサス・インスツルメンツがTMS9900をリリースしたが、広く使われるには至らなかった。そして1977年にインテルが8086をリリースした。しかし、モトローラのマーケティング部門は68000をより完全な16ビット設計にすることが重要と考えた。このため、68000はハードウェアとしては複雑なものとなった。複雑さの指標としてトランジスタ数を見ると、8086は29000個であり、68000は前述のように70000近い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "68000の単純な命令は4クロックサイクルで実行できたが、複雑な命令の実行にはもっと時間がかかった。8MHzの68000で、平均性能は約1MIPS弱だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "典型的なプログラムで平均をとると、68000のコードはインテルのプロセッサよりも一命令あたりにできることが多く、コードのサイズが小さくて済んだ。また、8086が、8080との互換性を重視した結果、汎用レジスタの不足や実行速度の低下に苦しんだ事に対して、十分な数のレジスタと、当時としては先進的な内部設計のため、実行速度の面では8086に対して優位に立っていた。さらに68000は24ビットリニアアドレッシングによって最大16MBの連続するメモリ空間をサポートし、この空間内の任意のアドレスへのダイレクトアクセスを可能としている。これは開発当時としては非常に広大なメモリ空間だった。これに対し8086は従来の8080との間でソフトウェアのアセンブリ言語レベル(注: バイナリレベルではない)での互換性のため、従来と同じ16ビットのアドレッシングを「オフセット」とし、「セグメント」と称する(詳細はセグメント方式#x86を参照)16ビットレジスタの値を4ビットシフトしてベースアドレスとする、20ビット空間のノンリニアアドレッシングだった。そのため、64Kバイトを超えるデータやコードを扱うにはセグメントレジスタの値を適宜変更する必要があり、面倒であった。32ビットアドレッシングは、x86では1986年の80386で初めて可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このような事情から68000は8086と比較して学習が容易で使いやすく、開発者に好まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オリジナルのMC68000は、3.5μmルールのHMOSプロセスで製造された。技術サンプルは1979年末に出荷された。量産チップは1980年に出荷され、当初のクロック周波数は4, 6, 8MHzだった。10MHz版は1981年、12.5MHz版が1982年に登場している。HMOSでは最高速の16.67MHz版 (12F) は1980年代終盤まで生産されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "メモリ量の少ないシステム向けの低価格版として1982年に MC68008 が登場した。これは MC68000 の8ビットデータバス版であり、アドレスバスも当初は24ビットよりも縮小され、48ピンDIP版は20ビット。後の52ピンPLCCパッケージ版では22ビットである。MC68012 は後に31ビットアドレスバスで登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "68HC000はモトローラと日立製作所が1985年にリリースしたオリジナルとピン配置互換のHCMOS版である。モトローラのものは MC68HC000、日立のものはHD68HC000と呼ばれた。68HC000では8MHzから20MHzまでのクロック周波数が可能となった。またCMOS化されただけでオリジナルと機能が全く変わらず、かつ電力消費が低減されている。オリジナル版は25°Cの環境で約1.35ワットを消費した(クロック周波数に依存しない)。一方、MC68HC000は8MHzで0.13ワット、20MHzで0.38ワットしか消費しない。なお、CMOSとは異なり、HMOS回路の電力消費はスイッチング時も何もしていないときも一定である。従って、クロック周波数が違っても電力消費はほとんど変化しない。ただし、周囲の気温には影響される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "モトローラは1990年、MC68HC001をリリースした。このチップは68HC000と仕様がほぼ共通であるが、データバスに16ビット幅と8ビット幅の2つのモードが用意されており、リセット時のピンへの入力でモード選択が行えるようになっていた。従って、このチップは68008の代替として 8ビットメモリを使った安価なシステムで利用できた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "HMOS版の68000はいくつかのセカンドソース企業で製造された。日立 (HD68000)、Mostek (MK68000)、ロックウェル (R68000)、シグネティックス (SCN68000)、Thomson/SGS-Thomson (EF68000, TS68000)、東芝 (TMP68000) などである。東芝はCMOS版の68HC000のセカンドソースでもあった (TMP68HC000)。また、後にシグネティックスがアーキテクチャ互換のSCC68070を製造した。 SCC68070は現在フィリップスが版権を持つ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "68000は数々のマイクロコントローラや組み込み用プロセッサのベースにもなった。1989年、モトローラはMC68302通信プロセッサをリリースした。これが68000CPUコアを使用した最初のマイクロコントローラだった。このコアはCMOS版の68HC000をベースとしているが、8ビットの6800周辺チップとのインタフェース機能が省略されている。1991年、モトローラはここからプロセッサ部分だけを抜き出したMC68EC000をリリースした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "モトローラは68EC000コアを使ったいくつかのマイクロコントローラを開発した。MC68306とMC68307は汎用マイクロコントローラ、MC68322 \"Bandit\" はプリンターコントローラ、MC68356はモデム用、MC68328 DragonBallは携帯機器向けだった。他のマイクロコントローラとして683XXファミリーは、より強力なCPU32プロセッサコアを使っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "68EC000ベースの683XXマイクロコントローラの一部にはスタティック版の68EC000コアが使われた。この場合クロックを遅くしたり停止させたりして電力消費を抑えることができる。1996年、モトローラはこのスタティックコアをプロセッサとして独立させ、MC68SEC000としてリリースした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "モトローラは1996年、HMOS版MC68000とMC68008の製造を終了した。生産終了の予告は1994年末ごろなされた。モトローラの通常の手順からいけば、1995年まで注文を受け付け、最後の出荷は1996年になったということになる。その後スピンオフしたフリースケール・セミコンダクタは現在もMC68HC000、MC68HC001、MC68EC000、MC68SEC000を製造販売し続けている。また、MC68302やMC68306マイクロコントローラやその後のDragonBallファミリーも生産し続けている。68000のアーキテクチャを受け継いだ680x0、CPU32、ColdFireも生産されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "後継のMC68020からは外部データバス、アドレスバス共に32ビットの、名実共に32ビットのCPUとなり、コプロセッサがサポートされた。ソフトウェア的には、アドレッシングモードが拡張されたほか、ユーザーモードではほぼMC68000の上位互換だった。一部互換性のない部分は、存在しない命令を実行しようとしたときに割り込みでトラップ処理することで、ソフト的に吸収することができた。このMC68020や、後継のMC68030は数多くのワークステーションで採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なおRISCであるPowerPCシリーズとの互換性はなく、同プロセッサを搭載したMacintoshではMC68LC040をエミュレーションしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "RISC技術を採用したColdFireシリーズは、68000から使用頻度の低い命令の多くを削除した下位互換の組み込み用プロセッサである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "68000は1980年代前半には比較的高価なシステムに使われた。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "UNIXシステムではプロセッサのメモリアドレッシングの上限やMMUの制限などにより、68000そのものは長く使われることはなかったが、その後継品種は1980年代を通して UNIX市場で広く使われた。そのアーキテクチャがDECのPDP-11やVAXによく似ていて、C言語のコードを動作させるのに最適なコンピュータだったからである。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1983年から68000はパーソナルコンピュータ (PC)、特にホビーパソコンで使われるようになった。まず、Apple ComputerのLisaとMacintoshで使われ、その後コモドール Amiga、アタリ Atari ST、シャープ X68000、それにソニー PalmTopなどで1990年代中盤まで使われた。一方68008が使われたホビーパソコンとしてはシンクレアQLぐらいしかない。(ちなみに日立製作所製のMB-S1には、オプションとして68008ボードが存在した)", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "68000はコントローラ用として最も成功した。1981年、Imagen社のImprint-10などのレーザープリンターは68000をCPUとする外部コントローラで制御されていた。最初のHP LaserJetは8MHzの68000を使ったコントローラを内蔵していた(1984年)。同様に68000を使ったコントローラが多くのレーザープリンターで使われている。例えばAppleのLaserWriterなどである。68000は1980年代を通してレーザープリンターで使用され、1990年代に入ってもローエンドのプリンターに使われ続けた。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、68000は工業制御システムの分野でも成功を収めた。この種のシステムでは、68000やその派生CPUを中心としたプログラマブルロジックコントローラ (PLC) を利用する。このようなシステムは一般市場に比較して製品寿命が長く、20年前のものでもそのまま使い続けることが多い。そのため、21世紀になっても68000ベースのコントローラが数多く使われ続けている。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームメーカーはアーケードゲームや家庭用ゲーム機などに68000を使った。アーケードゲームでは1983年にアタリが「Food Fight」で68000を使ったのが最初である。日本での初使用は同年のナムコ(後のバンダイナムコアミューズメント)の「 リブルラブル」である。1980年代後半から1990年代初めごろまでアーケードゲーム基板ではメインCPUとして68000がよく使われた。例えば、セガのセガ・システム16、カプコンのCPS-1とCPS-2、SNKのネオジオなどである。アーケードゲームでは68000を2個使ったり、場合によっては3個使う場合もあった。1990年代、アーケードゲームのメインCPUはもっと高性能なプロセッサが使われるようになっていったが、68000はサウンドコントローラなどとして使われ続けた。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "家庭用ゲーム機で68000がメインCPUとして使われた例としては、メガドライブ、メガCD、家庭用のネオジオがある。その後のゲーム機でも、セガサターンは68EC000をサウンドコントローラとして使用し、Atari Jaguarでもグラフィックスやサウンドチップの制御に使われた。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、クリエイティブテクノロジーのWave BLASTERやENSONIQ社のENSONIQ SoundScape DBをはじめとするPC向けサウンドカード用MIDIシンセサイザー・ドーターボードへ、制御用として68000が搭載されるケースが1990年代中盤には多数見られた。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "技術の進歩によって68000がスタンドアローンのコンピュータ市場では使われなくなると、一般消費者向けの各種機器の組み込み用途に使われるようになった。テキサス・インスツルメンツは68000をハイエンドのグラフ表示電卓、TI-89、TI-92などで使っている。これらの初期のバージョンではスタティック版68EC000コアを使った特殊なマイクロコントローラだった。後のバージョンでは標準のMC68SEC000プロセッサが使われている。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "CPU32とColdFireプロセッサは自動車のエンジン制御に数百万個単位で使われた。 また、低価格で信頼性が高いことから医療機器分野でも多く使用された。 低電圧版のDragonBallは、Palm PilotシリーズやHandspring VisorなどのPDAで使われた。後にこの市場はARMプロセッサコアに奪われた。高速シリアルポートを内蔵した派生品(68302と68360)は、シスコシステムズ、3Com、Ascend、Marconiなどが通信機器に使用した。", "title": "利用例" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "32ビットのデータレジスタを8本、また、32ビットのアドレスレジスタを8本持つ、CISCアーキテクチャのマイクロプロセッサである。8ビットのMC6800シリーズとはアセンブラソースレベルでもバイナリレベルでも互換性を持たない。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "MC68000は、DECのVAXを参考にしたと言われる、直交性の高い命令体系をもつ。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "外部バス幅はアドレスバス24ビット、データバス16ビットで、発表当初のクロック周波数は4 - 16MHz。約68,000個のトランジスタからなるN-MOS集積回路であり、当初は巨大な64ピンDIPパッケージ、後にPGAパッケージでも供給された。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "データーバスはダイナミックバスサイジングを採用しており8ビットまたは16ビットのバスにアクセス可能である。これはM68000ファミリ周辺チップだけではなく、M6800ファミリなど廉価な8ビット周辺チップとの接続を考慮したものである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "MC68000自体は16ビットCPUとして取り扱われたが、内部アーキテクチャは32ビットプロセッサとして設計されており、レジスタとアドレスのデータ長は等しく32ビットとなっている。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "32ビットのアドレス空間は4GBに相当するが、当時の技術では、4GB分のアドレス空間をフルに使う可能性は無いとされ、外部のアドレスバスとのデータ入出力では上位8ビットをマスクして下位24ビットを使用し、最大16MB分のメモリ領域を管理する実装とされていた。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このように最初に理想とする32ビットアーキテクチャを決めておき、その時々で利用できる技術で実現可能な機能から順に実装するという方式をとっていたため、無理なく上位互換性が確保できた。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、ライバルであるx86系プロセッサではメモリ空間とは別にI/O空間が設けられ、専用のI/O命令が用意されていたが、MC68000シリーズではメモリ空間内にI/O用領域を割り当てるメモリマップドI/O方式を採用しているのも特徴の一つである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "MC68000ユーザズマニュアルによると、MC68000シリーズのアドレス空間はFC0 - FC2ピンのデコードによって、スーパーバイザ・プログラムアドレス空間、ユーザ・プログラムアドレス空間、スーパーバイザ・データアドレス空間、ユーザ・データアドレス空間に分離された4つの32bitアドレス空間がある。しかし実際のところ、それぞれのアドレス空間を通信する機能が不十分であったため、ユーザはハードウェア実装においてはFCピンのデコードを行わずに1つの32ビットアドレス空間とするほかはなかった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "MC68000シリーズではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離するハーバード・アーキテクチャを採用していた。しかし、アドレス空間の分離におけるメモリ管理の複雑化、またハーバード・アーキテクチャを採用したオペレーティングシステム (OS) があまり供給されなかったことから、多くの実装ではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離しない設計が採用される場合が殆どだった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "スタックがOS用とアプリケーション用に二つあり、特権モード(スーパバイザモード)と、ユーザモードの2つの特権レベルを持つなど、当初よりUNIXに代表される高度なメモリ管理機能やマルチタスク機能を備えたOSを搭載することを前提に設計されている。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ユーザーモードで動作するプログラムの互換性はMC68000からMC68060までバイナリレベルでほぼ完全に保たれているが、スーパバイザモードでの動作についてはこのモードで動作するOSが差異を吸収することを前提として、世代ごとに改良や変更が加えられている。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このため特にスタックポインタの実装とその挙動には世代間での相違が多く、アプリケーションがハードウェアリソースへ直接アクセスするためにスーパーバイザモードをアプリケーションに解放した原始的な実装のOSではMC68000用に書かれたこの種の動作を行うアプリケーションプログラムが後継各プロセッサで正常動作しないケースが存在する。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "MC68000は16ビットのALUを持つ一方で、アドレスは常に32ビットで扱われ、フラットな32ビットアドレス空間を持つ。その実効アドレスの演算の為に、専用の16ビット幅のALUを2個持つ。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "8086は20ビットのアドレス空間を持つが、リニアにアクセスできるのはセグメントと称された(セグメント方式#x86)16ビットの空間だけであった。これは特にグラフィックの扱いなどを面倒にした。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "MC68000では実効アドレス演算の為に専用の2つの16ビットのALUを接続して用い、3つめのALUが16ビットの演算を行った。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "例えば、32ビットのアドレスレジスタのポストインクリメント(そのアドレスにアクセスした後、アドレスレジスタの内容をインクリメント(増加)するアドレッシングモード)「ADD.W (An)+,Dn」はポストインクリメントをしない場合に較べても速度低下することがない。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "したがって、16ビットCPUとして始まってはいるが、68000の命令セットは32ビットアーキテクチャになっている。後継のMC68020は32ビットのALUと32ビットのデータバスを持っていたが、68000用のソフトウェアをほぼ変更することなしに、データバス幅を32ビットに拡張することで速度向上を果たした。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、ソフトウェアの互換性を完全に保てたわけではない。68000では(同様のテクニックは同じく32ビットマシンだがアドレスが24ビットだったSystem/360で行われていたが)使われない(無視される)上位8ビットに何らかの情報を持たせる、というテクニックが一部のシステムプログラムなどで使われた。例えば、LISPなどでポインタの指すオブジェクトの種類を区別する情報をそこに格納したり、ガベージコレクション用のフラグを格納した。そのようなコードを、後継のより広いアドレスバスを持つマシンで実行するとバスエラーが発生した(やはりSystem/360の後継機でも同様の問題が起きており、System/370-XAではMSBを互換モードのために残した31ビット化という苦肉の策がとられている)。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Macintoshでは8MB以上のRAMを搭載する際にソフトウェアのアップグレードが必要だった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "多くのアプリケーションは将来を見越して書かれており、問題は発生しなかった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "8本の汎用データレジスタ (D0 - D7)と8本のアドレスレジスタ (A0 - A7) を持つ。 アドレスレジスタ (A7) はスタックポインタ (SP) であり、スタック上位のオブジェクトをアクセスする事が容易となった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "68000ファミリでの多バイトデータのメモリ上での配置はビッグ・エンディアンである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "68000の比較命令、算術演算命令、論理演算命令は実行結果をステータスレジスタに反映させ、後で条件ジャンプ命令でそれを使えるようになっている。 ステータスレジスタのビットには、\"Z\"ero(ゼロ)、\"C\"arry(キャリー)、o\"V\"erflow(オーバーフロー)、eXtend、そして\"N\"egative(ネガティブ)がある。 eXtendビットはCarryビットと分離されている。 eXtendとCarryは、シフト/算術演算/論理演算命令の桁上がり結果を保持するが、eXtendビットはより多バイトの演算を実現するために使い、Carryビットは処理の流れを制御するのに用いる。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "68000の設計者はアセンブリ言語が直交性を持つよう注意を払った。つまり、命令は操作とアドレッシングモードに分けられ、多くの場合は任意の操作に任意のアドレッシングモードを使えるようになっている。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ビットレベルで見ると、命令のオペコードの値は必ずしも現状の通りである必然性はない。このことは、ある意味でよい妥協点だった。真の直交性のあるマシンと同等の利便性を得ると同時にCPU設計者はオペコード表を自由に埋めることができた。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "最小命令サイズは当時としては大きい16ビットである。さらに多くの命令やアドレッシングモードは追加のワードでアドレスやアドレスモードビット等を表現する。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "多くの設計者はMC68000アーキテクチャはコストに見合うコンパクトなコードを実現していると信じている(特にコンパイラがコードを生成した場合)。多くの組み込み制御システムの設計者はメモリのコストに敏感であり、コードがコンパクトであるという信念がMC68000ならびに後継CPUを採用する動機に繋がり、アーキテクチャの寿命を延ばした。そして同様にコンパクトなARMアーキテクチャのThumb命令セットが登場するまで、多くの68000命令セット(のCPU)の採用をもたらし続けた。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "このCPUと他の全ファミリは二段階の特権レベルを実装している。ユーザモードでは割り込みレベル制御以外はアクセス可能である。 スーパバイザ特権では全てにアクセスできる。割り込みが発生するとスーパバイザモードに移行する。 スーパバイザビットはステータスレジスタに格納され、ユーザプログラムからも見える。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "68000は8つの割り込みレベルを持つ。レベル0から7まで厳密に優先順位が決まっている。 番号が大きい割り込みが番号の小さい割り込みに対して割り込むことが出来る。ステータスレジスタには現在の割り込みレベルを特権命令でセットすることができ、これにより低いレベルの割り込みをブロックする。レベル7はマスクすることができないため、NMI(英: Non-Maskable Interrupt)とも言う。レベル0は他の全てのレベルが割り込むことができる。レベル0は割り込み要求がないことを示す。レベルはステータスレジスタに格納され、ユーザレベルプログラムからも見ることが出来る。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ハードウェア割り込みは3本の信号線によってCPUに伝えられ、この3本の値がペンディング中の最も高い割り込みレベルにエンコードされる。別途割り込みをエンコードするための割り込みコントローラが必要である。ただし、割り込み発生源が三つ以下のシステムでは、各割り込みを三本の信号線にそれぞれつなぐことで割り込みコントローラを省略できる。ただし、割り込みレベルと割り込みの対応が単純ではないためソフトウェアでの処理が複雑になる。割り込みコントローラは汎用ロジックIC74148のような単純なエンコーダでもよいし、VLSIの周辺チップでもよい。例えばMC68901は、割り込み制御だけでなくUART(シリアル)、タイマー、パラレルI/Oを備えている。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "例外テーブル(割り込みベクターテーブル)はアドレス0番地から1023番地まで固定で置かれ、256個の32ビットアドレスを表す。最初のベクターは初期スタックアドレスであり、二番目のベクターは初期コードアドレスである。3番から15番のベクターは各種エラー処理ルーチンのアドレスである。エラーの種類としてはバスエラー、アドレスエラー、不正命令、ゼロによる割り算、CHK/CHK2命令ベクター、特権違反、そして予約されたベクター(後にline 1010エミュレータ、line 1111エミュレータ、ハードウェアブレークポイントに割り当てられた)がある。ベクター24から実際の割り込みに対応する。ハードウェアに対応しない擬似割り込み、レベル1から7のベクター、15個のTRAPベクター、いくつかの予約されたベクター、ユーザ定義ベクターの順番で並んでいる。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "リセットされたとき、少なくともスタートコードアドレスのベクターには正しいアドレスが入っている必要がある。多くのシステムは不揮発メモリ(つまりROM)を持っていて、0番地に配置し、そのROMにベクターテーブルとブートストラップコードが入っている。しかし、汎用システムでは動作中にベクターを書き換えられるのが望ましい。これを実現するため、ROM上のベクターがRAM上のジャンプテーブルを指すようにするか、バンク切り替えで動作中に0番地付近の配置をROMからRAM変更する。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "68000はPopekとGoldbergの仮想化要件(英: virtualization requirements for full processor virtualization)を満たしていない。というのは、\"MOVE from SR\" 命令が特権命令でないため、ユーザモードから特権ステータスが見えてしまうからである。この問題は後述する仮想記憶サポートの問題とともに後のMC68010で改善された。\"MOVE from SR\" 命令は特権命令となり、ユーザモードのソフトウェア用に \"MOVE from CCR\" 命令を追加した。ユーザモードで \"MOVE from SR\" 命令を使った場合、トラップが発生してOS側でエミュレートすることも可能である。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "680x0系の最初のプロセッサであるMC68000の仕様は、外部支援なしにはデマンドページングの実現が困難なものであった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "デマンドページングでは、実行中の命令のメモリアクセスがページフォールトを起こしたら、(それが正常なアクセスであれば)その実行中の命令の実行を一旦フリーズし、外部記憶と主記憶の間でスワッピングをおこなってから、実行中だった命令の実行から再開する、という処理が必要である。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "しかし、MC68000がページフォールトの際に保存する内部情報は、「実行中だった命令の実行からの再開」ができないものであった。このため、MC68000の通常の割り込みの処理に従ってしまうと、デマンドページングは実現できない。これを、単にそもそもサポートするつもりが無かったものとみるむきもあれば、「仕様のバグ」とみるむきもあれば、後述のようにして実現が可能であるし、MMUも計画中に過ぎなかったのだから「将来仮想記憶をシリコン上に実装することを正当化する需要が発生するまでの暫定的な実装仕様」だったと考えるほうが自然である、とみるむきもある。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "そのようなMC68000で仮想記憶を実装するためには、MC68000には次のような機能があった。バスアクセス中にあるピンをアサートすることにより、命令の実行をそこで一旦フリーズし、スリーステートバスをハイインピーダンスにして解放させたままいつまででも止めておいて、そののち、元の命令の中断したバスアクセスから再実行(re-run)する機能である。これによるバスサイクルをリランサイクル(rerun cycle)という。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "これを利用して、メインのCPUであるMC68000を止めた状態で、別のプロセッサでページ処理をおこなうようにして、デマンドページングを実装できる。必然性はないが、同じバスに接続する容易性から、この補助プロセッサにもMC68000が使われることが多い。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "以上のようなMC68000のデュアル・プロセッサによる仮想記憶を実現したコンピュータとしてはアポロコンピュータのDomainが有名である。同社の実装ではページスワップを担うスレーブ・プロセッサは、通常時はグラフィックス・プロセッサとして動作し、必要に応じてマスターのページ・スワップ要求に応じた。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "この問題は後のMC68010で解決された。MC68010では、バスエラーとアドレスエラーが発生した場合、エラーを発生させた元の命令を指すプログラムカウンタのアドレスをスーパバイザスタックに保存することにより、元の処理に復帰できるようになった。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "基本的なアドレッシングモードは以下の通りである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "追加:ステータスレジスタへのアクセス。後のモデルでは他の特殊レジスタも同様。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "多くの命令にはドットに続くサフィックスが付き、処理単位を8ビット (\".b\")、 16ビット (\".w\")、32ビット (\".l\") で指定する。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "多くの命令は入力(ソース)と出力(デスティネーション)を持ち、デスティネーションに変更を加える。主な命令は以下の通りである。", "title": "アーキテクチャ" } ]
MC68000(エムシーろくまんはっせん)、68000は米・モトローラ(現NXPセミコンダクターズ)が開発したMPU(MPUはマイクロプロセッサを指すのにモトローラが使った語でマイクロプロセッシングユニットの略)である。略して68K(ろくはちケー)などとも。後継MPUも含めた同一アーキテクチャのシリーズを総称するときは、680x0と呼称される。モトローラ自体は周辺LSIを含めてM68000ファミリと呼称した。MC型番は量産ロットで、量産先行品はXC型番となる。M68000ファミリは、Apple Macintosh や Apollo/Domain、NeXTcube、HP 9000、Sun-3、ソニーNEWS、NEC EWS4800、シャープX68000、Uステーションなど様々なパソコンやワークステーションに採用された。オペレーティング・システムとしては、Mac OS、Domain/OS、NeXTSTEP、HP-UX、SunOS、CP/M-68K、OS-9/68000、NetBSDなどがある。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Infobox CPU | 名称 = MC68000 | 画像 = MC68000P10_01.JPG | 画像サイズ = 250px | 画像の説明 = MC68000P10 | 生産開始 = 1980年 | 生産終了 = 1996年 | 生産者 = [[モトローラ]] | 最低周波数 = 4 | 最高周波数 = 20 | 最低周波数単位 = MHz | 最高周波数単位 = MHz | 命令セット = M68000([[32ビット]]) | パッケージ = 64ピン[[パッケージ (電子部品)#DIP|DIP]] | コードネーム = }} '''MC68000'''(エムシーろくまんはっせん)、68000は[[アメリカ合衆国|米]]・[[モトローラ]](現[[NXPセミコンダクターズ]])が開発した'''MPU'''(MPUは[[マイクロプロセッサ]]を指すのにモトローラが使った語でマイクロプロセッシングユニットの略)である。略して'''68K'''(ろくはちケー)などとも。後継MPUも含めた同一アーキテクチャのシリーズを総称するときは、'''680x0'''と呼称される。モトローラ自体は周辺[[集積回路|LSI]]を含めてM68000ファミリと呼称した。MC型番は量産ロットで、量産先行品はXC型番となる。M68000ファミリは、[[Macintosh|Apple Macintosh]] や [[Apollo/Domain]]、[[NeXTcube]]、[[HP 9000]]、[[Sun-3]]、[[NEWS (ソニー)|ソニーNEWS]]、[[EWS4800|NEC EWS4800]]、[[X68000|シャープX68000]]、DCL Uステーション{{Sfn |ASCII 1983年5月号|p=88}}<ref>{{cite web |url=https://www.nikkei.com/compass/content/NIRKDB19831017NSS0045/preview |title=DCL、東京・多摩に新工場建設――ワークステーション増産、カスタムLSIも。 |accessdate=2023-10-18}}</ref>など様々なパソコンやワークステーションに採用された。オペレーティング・システムとしては、[[Classic Mac OS|Mac OS]]、[[Domain/OS]]、[[NeXTSTEP]]、[[HP-UX]]、[[SunOS]]、[[CP/M#16ビット版|CP/M-68K]]、[[OS-9#OS-9/680x0|OS-9/68000]]、[[NetBSD]]などがある。 == 歴史 == 68000 は[[1976年]]に開始された '''MACSS''' (Motorola Advanced Computer System on Silicon) プロジェクトから出てきたものである。従来製品との[[互換性]]を考慮するような妥協した[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]にはしないということが開発の初期に決定されていた。これは、利用者がその新システムを一から新たに学ぶ必要があることを意味しており、一種の賭けだった。最終的に、[[MC6800|6800]]系の周辺デバイスとの[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の互換性だけは持つこととなったが、6800のコードは実行できないものとなった。しかし、その後の拡張における互換性には最大限の注意が払われ、68000に乗り換えさえすれば今後が保証されるようにした。例えば、[[CPU]]の[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]は[[32ビット]]幅とされたが、[[CPUバス|外部バス]]はより小さく設計され、アドレスバスは[[24ビット]]幅であり、データバスは[[16ビット]]幅となっている。ちなみに、アドレスバスとデータバスはマルチプレクスされておらず分離されている<ref name="16-bit-microprocessor">{{Cite book|和書 | author1= 禿節史 | author2= 喜田祐三 | author3= 田邊皓正 | author4= 藤岡旭 | title= 16ビットマイクロプロセッサ | year=1981 | date=1981-6-30 | page= 158-161 | publisher=[[丸善株式会社]]|isbn =}}</ref>。MACSSチームは[[PDP-11]]や[[VAX]]システムのような[[ミニコンピュータ]]の[[プロセッサ]]に影響を受けた。[[命令セット]]は[[ハードウェア]]の制限よりも[[ソフトウェア]]開発の観点で設計された。そこには[[ミニコンピュータ]]での開発になれた技術者がプログラミングしやすいものにしようとの考えがあった。 "68000" という名称は6800との連続性を想起させるよう選択されたが、これらの間に設計上の類似点はあまりない。集積された[[トランジスタ]]数が68,000だったからとも言われているが、実際には70,000に近かった。 当時、[[8ビット]]から16ビットへの移行で熾烈な競争が繰り広げられていた。[[ナショナル セミコンダクター]]は[[1973年]]から[[1975年]]にかけて[[IMP-16]]とPACEというプロセッサで一歩先んじたが、使用したプロセス技術が原因で、性能に問題を抱えていた。次に[[テキサス・インスツルメンツ]]が[[TMS9900]]をリリースしたが、広く使われるには至らなかった。そして1977年に[[インテル]]が[[Intel 8086|8086]]をリリースした。しかし、モトローラのマーケティング部門は68000をより完全な16ビット設計にすることが重要と考えた。このため、68000はハードウェアとしては複雑なものとなった。複雑さの指標としてトランジスタ数を見ると、8086は29000個であり、68000は前述のように70000近い。 68000の単純な命令は4クロックサイクルで実行できたが、複雑な命令の実行にはもっと時間がかかった。8MHzの68000で、平均性能は約1[[MIPS]]弱だった。 典型的な[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]で平均をとると、68000のコードはインテルのプロセッサよりも一命令あたりにできることが多く、コードのサイズが小さくて済んだ。また、[[Intel 8086|8086]]が、[[Intel 8080|8080]]との互換性を重視した結果、汎用[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の不足や実行速度の低下に苦しんだ事に対して、十分な数のレジスタと、当時としては先進的な内部設計のため、実行速度の面では8086に対して優位に立っていた。さらに68000は24ビットリニアアドレッシングによって最大16[[メガバイト|MB]]の連続する[[記憶装置|メモリ]]空間をサポートし、この空間内の任意のアドレスへのダイレクトアクセスを可能としている。これは開発当時としては非常に広大なメモリ空間だった。これに対し8086は従来の8080との間でソフトウェアの[[アセンブリ言語]]レベル(注: バイナリレベルではない)での互換性のため、従来と同じ16ビットのアドレッシングを「オフセット」とし、「セグメント」と称する(詳細は[[セグメント方式#x86]]を参照)16ビットレジスタの値を4ビットシフトしてベースアドレスとする、20ビット空間のノンリニアアドレッシングだった。そのため、64Kバイトを超えるデータやコードを扱うにはセグメントレジスタの値を適宜変更する必要があり、面倒であった。32ビットアドレッシングは、[[x86]]では1986年の[[Intel 80386|80386]]で初めて可能になった。 このような事情から68000は8086と比較して学習が容易で使いやすく、開発者に好まれた。 オリジナルのMC68000は、3.5[[マイクロメートル|μm]]ルールの[[HMOS]]プロセスで製造された。技術サンプルは[[1979年]]末に出荷された。量産チップは[[1980年]]に出荷され、当初のクロック周波数は4, 6, 8[[ヘルツ (単位)|MHz]]だった。10MHz版は[[1981年]]、12.5MHz版が[[1982年]]に登場している。HMOSでは最高速の16.67MHz版 (12F) は[[1980年代]]終盤まで生産されなかった。 メモリ量の少ないシステム向けの低価格版として[[1982年]]に '''MC68008''' が登場した。これは MC68000 の8ビットデータバス版であり、アドレスバスも当初は24ビットよりも縮小され、48ピンDIP版は20ビット。後の52ピンPLCCパッケージ版では22ビットである。MC68012 は後に31ビットアドレスバスで登場した。 68HC000はモトローラと[[日立製作所]]が[[1985年]]にリリースしたオリジナルとピン配置互換のHCMOS版である。モトローラのものは MC68HC000、日立のものはHD68HC000と呼ばれた。68HC000では8MHzから20MHzまでのクロック周波数が可能となった。また[[CMOS]]化されただけでオリジナルと機能が全く変わらず、かつ電力消費が低減されている。オリジナル版は25[[セルシウス度|℃]]の環境で約1.35[[ワット (単位)|ワット]]を消費した(クロック周波数に依存しない)。一方、MC68HC000は8MHzで0.13ワット、20MHzで0.38ワットしか消費しない。なお、CMOSとは異なり、HMOS回路の電力消費はスイッチング時も何もしていないときも一定である。従って、クロック周波数が違っても電力消費はほとんど変化しない。ただし、周囲の気温には影響される。 モトローラは[[1990年]]、MC68HC001をリリースした<ref>[http://www.highbeam.com/doc/1G1-8581526.html "68HC001 obsoletes 68008."]{{リンク切れ|date=2019年2月 |bot=InternetArchiveBot }}, Microprocessor Report, [[1990年]][[6月20日]]; available from HighBeam Research (subscription).</ref>。このチップは68HC000と仕様がほぼ共通であるが、データバスに16ビット幅と8ビット幅の2つのモードが用意されており、リセット時のピンへの入力でモード選択が行えるようになっていた。従って、このチップは68008の代替として 8ビットメモリを使った安価なシステムで利用できた。 [[ファイル:HD68000P8 02.JPG|thumb|right|HD68000P8]] HMOS版の68000はいくつかの[[セカンドソース]]企業で製造された。日立 (HD68000)、[[Mostek]] (MK68000)、[[ロックウェル・インターナショナル|ロックウェル]] (R68000)、シグネティックス (SCN68000)、Thomson/[[STマイクロエレクトロニクス|SGS-Thomson]] (EF68000, TS68000)、[[東芝]] (TMP68000) などである。東芝はCMOS版の68HC000のセカンドソースでもあった (TMP68HC000)。また、後にシグネティックスが[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]互換のSCC68070を製造した。 SCC68070は現在[[フィリップス]]が版権を持つ。 68000は数々の[[マイクロコントローラ]]や[[組み込みシステム|組み込み]]用プロセッサのベースにもなった。1989年、モトローラはMC68302通信プロセッサをリリースした。これが68000CPUコアを使用した最初のマイクロコントローラだった。このコアはCMOS版の68HC000をベースとしているが、8ビットの6800周辺チップとのインタフェース機能が省略されている。[[1991年]]、モトローラはここからプロセッサ部分だけを抜き出したMC68EC000をリリースした<ref>[http://www.highbeam.com/doc/1G1-10706635.html "Motorola streamlines 68000 family; "EC" versions of 68000, '020, '030, and '040, plus low-end 68300 chip."]{{リンク切れ|date=2019年2月 |bot=InternetArchiveBot }}, Microprocessor Report, [[1991年]][[4月17日]]; available from HighBeam Research (subscription).</ref>。 モトローラは68EC000コアを使ったいくつかのマイクロコントローラを開発した。MC68306とMC68307は汎用マイクロコントローラ、MC68322 "Bandit" は[[プリンター]]コントローラ、MC68356は[[モデム]]用、[[DragonBall|MC68328 DragonBall]]は携帯機器向けだった。他のマイクロコントローラとして[[Motorola CPU32|683XX]]ファミリーは、より強力なCPU32プロセッサコアを使っていた。 68EC000ベースの683XXマイクロコントローラの一部にはスタティック版の68EC000コアが使われた。この場合クロックを遅くしたり停止させたりして電力消費を抑えることができる。1996年、モトローラはこのスタティックコアをプロセッサとして独立させ、MC68SEC000としてリリースした<ref>[https://web.archive.org/web/19970328231731/http://mot-sps.com/press/html/PR961118B.html "Motorola reveals MC68SEC000 processor for low power embedded applications"], Motorola press release, [[1996年]][[11月18日]]; archived by Internet Archive on [[1997年]][[3月28日]].</ref>。 モトローラは[[1996年]]、HMOS版MC68000とMC68008の製造を終了した<ref>[https://groups.google.com/g/comp.sys.m68k/c/q5qFIO55TYU comp.sys.m68k Usenet posting], [[1995年]][[5月16日]]; 同スレッド内の他のポストも参照されたい。</ref>。生産終了の予告は[[1994年]]末ごろなされた。モトローラの通常の手順からいけば、1995年まで注文を受け付け、最後の出荷は1996年になったということになる。その後[[スピンオフ]]した[[フリースケール・セミコンダクタ]]は現在もMC68HC000、MC68HC001、MC68EC000、MC68SEC000を製造販売し続けている。また、MC68302やMC68306マイクロコントローラやその後のDragonBallファミリーも生産し続けている。68000のアーキテクチャを受け継いだ680x0、[[Motorola CPU32|CPU32]]、[[ColdFire]]も生産されている。 後継の[[MC68020]]からは外部データバス、アドレスバス共に32ビットの、名実共に32ビットのCPUとなり、コプロセッサがサポートされた。[[ソフトウェア]]的には、アドレッシングモードが拡張されたほか、ユーザーモードではほぼMC68000の[[上位互換]]だった。一部互換性のない部分は、存在しない命令を実行しようとしたときに割り込みでトラップ処理することで、ソフト的に吸収することができた。このMC68020や、後継のMC68030は数多くの[[ワークステーション]]で採用された。 なお[[RISC]]である[[PowerPC]]シリーズとの互換性はなく、同プロセッサを搭載した[[Macintosh]]ではMC68LC040を[[エミュレータ|エミュレーション]]している。 [[RISC]]技術を採用した[[ColdFire]]シリーズは、68000から使用頻度の低い命令の多くを削除した下位互換の組み込み用プロセッサである。 == 利用例 == [[ファイル:99723290 SSME Blk II Controller.jpg|upright|thumb|Block-II型[[SSME|スペースシャトルメインエンジン]]のコントローラーに使用されている68000。]] <!-- 疑問に思うなら英語版を参照願います。後は http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/computers/Ch4-8.html なども。 --> 68000は1980年代前半には比較的高価なシステムに使われた。 * [[マルチユーザー]]型の[[パーソナルコンピュータ]] : [http://www.old-computers.com/museum/computer.asp?c=254 WICAT 150]、[[タンディ]] [[TRS-80]] Model 16、Fortune 32:16 * [[ワークステーション]] : [[ヒューレット・パッカード]] [[HP 9000]] Series 200、[[アポロコンピュータ]]の最初のシステム、[[サン・マイクロシステムズ]] [[Sun-1]] * グラフィックス[[端末]] : [[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]] VAXstation 100、[[シリコングラフィックス]] IRIS 1000 および 1200 [[UNIX]]システムではプロセッサのメモリアドレッシングの上限やMMUの制限などにより、68000そのものは長く使われることはなかったが、その後継品種は1980年代を通して UNIX市場で広く使われた。そのアーキテクチャが[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[PDP-11]]や[[VAX]]によく似ていて、[[C言語]]のコードを動作させるのに最適なコンピュータだったからである。 1983年から68000は[[パーソナルコンピュータ]] (PC)、特に[[ホビーパソコン]]で使われるようになった。まず、[[Apple|Apple Computer]]の[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]と[[Macintosh]]で使われ、その後[[コモドール]] [[Amiga]]、[[アタリ (企業)|アタリ]] [[Atari ST]]、[[シャープ]] [[X68000]]、それに[[ソニー]] [[PalmTop]]などで1990年代中盤まで使われた。一方68008が使われたホビーパソコンとしては[[シンクレア・リサーチ|シンクレア]][[Sinclair QL|QL]]ぐらいしかない。(ちなみに日立製作所製の[[MB-S1]]には、オプションとして68008ボードが存在した) 68000はコントローラ用として最も成功した。1981年、Imagen社のImprint-10などの[[レーザープリンター]]は68000をCPUとする外部コントローラで制御されていた。最初のHP LaserJetは8MHzの68000を使ったコントローラを内蔵していた(1984年)。同様に68000を使ったコントローラが多くのレーザープリンターで使われている。例えば[[Apple]]の[[LaserWriter]]などである。68000は1980年代を通してレーザープリンターで使用され、[[1990年代]]に入ってもローエンドのプリンターに使われ続けた。 また、68000は工業制御システムの分野でも成功を収めた。この種のシステムでは、68000やその派生CPUを中心とした[[プログラマブルロジックコントローラ]] (PLC) を利用する。このようなシステムは一般市場に比較して製品寿命が長く、20年前のものでもそのまま使い続けることが多い。そのため、21世紀になっても68000ベースのコントローラが数多く使われ続けている。 [[コンピュータゲーム]]メーカーは[[アーケードゲーム]]や家庭用[[ゲーム機]]などに68000を使った。アーケードゲームでは1983年にアタリが「Food Fight」で68000を使ったのが最初である。日本での初使用は同年のナムコ(後の[[バンダイナムコアミューズメント]])の「 [[リブルラブル]]」である。1980年代後半から1990年代初めごろまで[[アーケードゲーム基板]]ではメインCPUとして68000がよく使われた。例えば、セガの[[セガ・システム16]]、[[カプコン]]の[[CPシステム|CPS-1]]と[[CPシステムII|CPS-2]]、[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]の[[ネオジオ]]などである。アーケードゲームでは68000を2個使ったり、場合によっては3個使う場合もあった<ref name="sega20171027">[https://sega.jp/history/hard/column/column_03.html 【連載】セガハードストーリー 第3回“時代が求めた16ビット” 『メガドライブ』]セガハード大百科 2017年10月27日</ref>。1990年代、アーケードゲームのメインCPUはもっと高性能なプロセッサが使われるようになっていったが、68000はサウンドコントローラなどとして使われ続けた。 家庭用ゲーム機で68000がメインCPUとして使われた例としては、[[メガドライブ]]、[[メガCD]]<ref name="sega20171027" />、家庭用の[[ネオジオ]]がある。その後のゲーム機でも、[[セガサターン]]は68EC000をサウンドコントローラとして使用し、[[Atari Jaguar]]でもグラフィックスやサウンドチップの制御に使われた。 また、[[クリエイティブテクノロジー]]のWave BLASTERや[[:en:ENSONIQ|ENSONIQ]]社のENSONIQ SoundScape DBをはじめとするPC向けサウンドカード用MIDI[[シンセサイザー]]・ドーターボードへ、制御用として68000が搭載されるケースが1990年代中盤には多数見られた。 技術の進歩によって68000がスタンドアローンのコンピュータ市場では使われなくなると、一般消費者向けの各種機器の組み込み用途に使われるようになった。[[テキサス・インスツルメンツ]]は68000をハイエンドのグラフ表示[[電卓]]、[[TI-89 シリーズ|TI-89]]、[[TI-92シリーズ|TI-92]]などで使っている。これらの初期のバージョンではスタティック版68EC000コアを使った特殊なマイクロコントローラだった。後のバージョンでは標準のMC68SEC000プロセッサが使われている。 [[Motorola CPU32|CPU32]]と[[ColdFire]]プロセッサは自動車の[[エンジンコントロールユニット|エンジン制御]]に数百万個単位で使われた。 また、低価格で信頼性が高いことから医療機器分野でも多く使用された。 低電圧版の[[DragonBall]]は、[[Palm (PDA)|Palm Pilot]]シリーズや[[ハンドスプリング (企業)|Handspring Visor]]などの[[携帯情報端末|PDA]]で使われた。後にこの市場は[[ARMアーキテクチャ|ARM]]プロセッサコアに奪われた。高速[[シリアルポート]]を内蔵した派生品(68302と68360)は、[[シスコシステムズ]]、[[スリーコム|3Com]]、Ascend、Marconiなどが通信機器に使用した。 == アーキテクチャ == {{Infobox CPU architecture | name = M68000ファミリ | designer = モトローラ | bits = 32ビット | introduced = | version = | design = CISC | type = | encoding = 可変多倍長 | branching = | endianness = Big | page size = | extensions = F系列命令 | open = プロプライエタリ | registers = 汎用(データ8本、<br />アドレス8本)、<br />ステータスレジスタ | gpr = D0-D7=32、{{要出典|範囲=D0-D8|date=2016年7月}}=32 | fpr = }} === 概要 === 32ビットのデータレジスタを8本、また、32ビットのアドレスレジスタを8本持つ、[[CISC]]アーキテクチャのマイクロプロセッサである。8ビットの[[MC6800]]シリーズとはアセンブラソースレベルでもバイナリレベルでも互換性を持たない。 MC68000は、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[VAX]]を参考にしたと言われる、[[直交性 (情報科学)|直交性]]の高い[[命令セット|命令体系]]をもつ。 [[CPUバス|外部バス]]幅はアドレスバス24ビット、データバス16ビットで、発表当初の[[クロック周波数]]は4 - 16MHz。約68,000個の[[トランジスタ]]からなるN-MOS[[集積回路]]であり、当初は巨大な64ピン[[集積回路#パッケージ|DIPパッケージ]]、後に[[集積回路#パッケージ|PGAパッケージ]]でも供給された。 データーバスはダイナミックバスサイジングを採用しており8ビットまたは16ビットのバスにアクセス可能である。これはM68000ファミリ周辺チップだけではなく、M6800ファミリなど廉価な8ビット周辺チップとの接続を考慮したものである。 MC68000自体は16ビットCPUとして取り扱われたが、内部アーキテクチャは32ビットプロセッサとして設計されており、[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]とアドレスのデータ長は等しく32ビットとなっている。 32ビットのアドレス空間は4[[ギガバイト|GB]]に相当するが、当時の技術では、4GB分のアドレス空間をフルに使う可能性は無いとされ、外部のアドレスバスとのデータ入出力では上位8ビットをマスクして下位24ビットを使用し、最大16MB分のメモリ領域を管理する実装とされていた。 このように最初に理想とする32ビットアーキテクチャを決めておき、その時々で利用できる技術で実現可能な機能から順に実装するという方式をとっていたため、無理なく[[上位互換]]性が確保できた。 また、ライバルである[[x86]]系プロセッサではメモリ空間とは別にI/O空間が設けられ、専用のI/O命令が用意されていたが、MC68000シリーズではメモリ空間内にI/O用領域を割り当てる[[メモリマップドI/O]]方式を採用しているのも特徴の一つである。 ===ファンクションコード=== {| class="wikitable" style="float:right" |+ファンクションコードと参照の分類<ref name="M68000UMJ-AD4" /> ! FC2!! FC1 !! FC0 !!参照の分類 |- | 0 || 0 || 0 ||未定義 |- | 0 || 0 || 1 ||ユーザ・データ |- | 0 || 1 || 0 ||ユーザ・プログラム |- | 0 || 1 || 1 ||未定義 |- | 1 || 0 || 0 ||未定義 |- | 1 || 0 || 1 ||スーパーバイザ・データ |- | 1 || 1 || 0 ||スーパーバイザ・プログラム |- | 1 || 1 || 1 ||割り込み応答 |} MC68000ユーザズマニュアル<ref name="M68000UMJ-AD4">{{Cite book|和書|author=Motlora, Inc.|publisher=CQ出版|date=1990-05-10|edition=4th edition第9版|title=M68000マイクロプロセッサユーザーズ・マニュアル|isbn=978-4-7898-4091-0|id=M68000UMJ/AD4}}</ref>によると、MC68000シリーズのアドレス空間はFC0 - FC2ピンのデコードによって、スーパーバイザ・プログラムアドレス空間、ユーザ・プログラムアドレス空間、スーパーバイザ・データアドレス空間、ユーザ・データアドレス空間に分離された4つの32bitアドレス空間がある。しかし実際のところ、それぞれのアドレス空間を通信する機能が不十分であったため、ユーザはハードウェア実装においてはFCピンのデコードを行わずに1つの32ビットアドレス空間とするほかはなかった{{Sfn|阿刀田央一|1987}}。 MC68000シリーズではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離する{{要出典範囲|[[ハーバード・アーキテクチャ]]を採用していた|date=2014年11月}}。<!--ハーバード・アーキテクチャを採用したのはMC68040以降の筈-->しかし、[[アドレス空間]]の分離における[[メモリ管理]]の複雑化、またハーバード・アーキテクチャを採用した[[オペレーティングシステム]] (OS) があまり供給されなかったことから、多くの実装ではプログラムアドレス空間とデータアドレス空間を分離しない設計が採用される場合が殆どだった。 {{-}} ===スタック=== [[スタック]]がOS用と[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]用に二つあり{{Sfn|MOTOROLA|1994|p=2-2}}、特権モード(スーパバイザモード)と、ユーザモードの2つの[[MC68000#特権レベル|特権レベル]]を持つなど、当初よりUNIXに代表される高度なメモリ管理機能やマルチタスク機能を備えたOSを搭載することを前提に設計されている。 ユーザーモードで動作するプログラムの互換性はMC68000から[[MC68060]]までバイナリレベルでほぼ完全に保たれているが、スーパバイザモードでの動作についてはこのモードで動作するOSが差異を吸収することを前提として、世代ごとに改良や変更が加えられている。 このため特に[[スタック|スタックポインタ]]の実装とその挙動には世代間での相違が多く、アプリケーションがハードウェアリソースへ直接アクセスするためにスーパーバイザモードをアプリケーションに解放した原始的な実装のOSではMC68000用に書かれたこの種の動作を行うアプリケーションプログラムが後継各プロセッサで正常動作しないケースが存在する。 === メモリアドレッシング === MC68000は16ビットの[[演算装置#ALU|ALU]]を持つ一方で、アドレスは常に32ビットで扱われ、フラットな32ビットアドレス空間を持つ。その実効アドレスの演算の為に、専用の16ビット幅のALUを2個持つ。 [[Intel 8086|8086]]は20ビットのアドレス空間を持つが、リニアにアクセスできるのはセグメントと称された([[セグメント方式#x86]])16ビットの空間だけであった。これは特にグラフィックの扱いなどを面倒にした。<ref group="注">640×400ドット程度の解像度でRGB各プレーンについてそれぞれ32[[キロバイト|KB]]程度の[[VRAM]]を必要とする多色ビットマップグラフィック環境においては、実メモリ空間が最大1MBの8086ではプログラムエリアを圧迫しないためにVRAM各プレーンを[[バンク切り換え]]するなどの回避策を講じる必要があった。このため、CPUから直接VRAMにアクセスするのにセグメント操作やバンク切り替えを併用する必要のある8086は、基本的にはVRAMをリニアにメモリ空間上に配置でき、しかもメモリ操作命令で直接必要なアドレスを指定できる68000と比較してプログラミングがどうしても煩雑になった。</ref> MC68000では実効アドレス演算の為に専用の2つの16ビットのALUを接続して用い、3つめのALUが16ビットの演算を行った。 例えば、32ビットのアドレスレジスタのポストインクリメント(そのアドレスにアクセスした後、アドレスレジスタの内容を[[インクリメント]](増加)するアドレッシングモード)「ADD.W (An)+,Dn」はポストインクリメントをしない場合に較べても速度低下することがない。 したがって、16ビットCPUとして始まってはいるが、68000の命令セットは32ビットアーキテクチャになっている。後継の[[MC68020]]は32ビットのALUと32ビットのデータバスを持っていたが、68000用のソフトウェアをほぼ変更することなしに、データバス幅を32ビットに拡張することで速度向上を果たした。 しかし、ソフトウェアの互換性を完全に保てたわけではない。68000では(同様のテクニックは同じく32ビットマシンだがアドレスが24ビットだった[[System/360]]で行われていたが)使われない(無視される)上位8ビットに何らかの情報を持たせる、というテクニックが一部のシステムプログラムなどで使われた。例えば、[[LISP]]などで[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]の指すオブジェクトの種類を区別する情報をそこに格納したり、[[ガベージコレクション]]用のフラグを格納した。そのようなコードを、後継のより広いアドレスバスを持つマシンで実行すると[[バスエラー]]が発生した(やはりSystem/360の後継機でも同様の問題が起きており、[[System/370]]-XAではMSBを互換モードのために残した[[31ビット#31ビットアーキテクチャ|31ビット化]]という苦肉の策がとられている)<ref>このような、アドレスの空きビットの「活用」を防ぐような実装も、[[x64]](初期リリースでは[[64ビット]]のアドレス空間のうち48ビットだけを利用、残りのビットは47ビット目のコピーでないとエラー)などで行われている。</ref>。 Macintoshでは8MB以上のRAMを搭載する際にソフトウェアのアップグレードが必要だった。 多くのアプリケーションは将来を見越して書かれており、問題は発生しなかった。 === 内部レジスタ === [[ファイル:MC68000-rejestry.svg|thumb|220px|内部レジスタのビット構成図]] 8本の汎用データ[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]] (D0 - D7)と8本のアドレスレジスタ (A0 - A7) を持つ。 アドレスレジスタ (A7) は[[コールスタック|スタックポインタ]] (SP) であり、スタック上位のオブジェクトをアクセスする事が容易となった。 68000ファミリでの多バイトデータのメモリ上での配置は[[エンディアン#ビッグエンディアン|ビッグ・エンディアン]]である。 === ステータスレジスタ === 68000の比較命令、算術演算命令、[[論理演算]]命令は実行結果をステータスレジスタに反映させ、後で条件ジャンプ命令でそれを使えるようになっている。 ステータスレジスタのビットには、"Z"ero(ゼロ)、"C"arry(キャリー)、o"V"erflow(オーバーフロー)、eXtend、そして"N"egative(ネガティブ)がある。 eXtendビットはCarryビットと分離されている。 eXtendとCarryは、シフト/算術演算/論理演算命令の桁上がり結果を保持するが、eXtendビットはより多バイトの演算を実現するために使い、Carryビットは処理の流れを制御するのに用いる。 === 命令セット === 68000の設計者はアセンブリ言語が[[直交性 (情報科学)|直交性]]を持つよう注意を払った。つまり、命令は操作と[[アドレッシングモード]]に分けられ、多くの場合は任意の操作に任意のアドレッシングモードを使えるようになっている。 ビットレベルで見ると、<!--アセンブリ言語を使ったことがある人なら分かると思われるが、-->命令の[[オペコード]]の値は必ずしも現状の通りである必然性はない。このことは、ある意味でよい妥協点だった。真の直交性のあるマシンと同等の利便性を得ると同時にCPU設計者はオペコード表を自由に埋めることができた。 最小命令サイズは当時としては大きい16ビットである。さらに多くの命令やアドレッシングモードは追加のワードでアドレスやアドレスモードビット等を表現する。 多くの設計者はMC68000アーキテクチャはコストに見合うコンパクトなコードを実現していると信じている(特に[[コンパイラ]]がコードを生成した場合)。多くの組み込み制御システムの設計者はメモリのコストに敏感であり、コードがコンパクトであるという信念がMC68000ならびに後継CPUを採用する動機に繋がり、アーキテクチャの寿命を延ばした。そして同様にコンパクトな[[ARMアーキテクチャ]]の[[ARMアーキテクチャ#Thumb|Thumb命令セット]]が登場するまで、多くの68000命令セット(のCPU)の採用をもたらし続けた。 === 特権レベル === このCPUと他の全ファミリは二段階の特権レベルを実装している。[[CPUモード|ユーザモード]]では割り込みレベル制御以外はアクセス可能である。 スーパバイザ特権では全てにアクセスできる。割り込みが発生するとスーパバイザモードに移行する。 スーパバイザビットはステータスレジスタに格納され、ユーザプログラムからも見える。 === 割り込み === 68000は8つの[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]レベルを持つ。レベル0から7まで厳密に優先順位が決まっている。 番号が大きい割り込みが番号の小さい割り込みに対して割り込むことが出来る。ステータスレジスタには現在の割り込みレベルを特権命令でセットすることができ、これにより低いレベルの割り込みをブロックする。レベル7はマスクすることができないため、NMI({{Lang-en-short|Non-Maskable Interrupt}})とも言う{{Sfn |16-bit_microprocessors |1983 |p=202}}。レベル0は他の全てのレベルが割り込むことができる。レベル0は割り込み要求がないことを示す{{Sfn |16-bit_microprocessors |1983 |p=163}}。レベルはステータスレジスタに格納され、ユーザレベルプログラムからも見ることが出来る。 ハードウェア割り込みは3本の信号線によってCPUに伝えられ、この3本の値がペンディング中の最も高い割り込みレベルにエンコードされる。別途割り込みをエンコードするための割り込みコントローラが必要である。ただし、割り込み発生源が三つ以下のシステムでは、各割り込みを三本の信号線にそれぞれつなぐことで割り込みコントローラを省略できる。ただし、割り込みレベルと割り込みの対応が単純ではないためソフトウェアでの処理が複雑になる。割り込みコントローラは[[汎用ロジックIC]]74148のような単純なエンコーダでもよいし、VLSIの周辺チップでもよい。例えばMC68901は、割り込み制御だけでなく[[UART]](シリアル)、タイマー、パラレルI/Oを備えている。 例外テーブル(割り込みベクターテーブル)はアドレス0番地から1023番地まで固定で置かれ、256個の32ビットアドレスを表す。最初のベクターは初期スタックアドレスであり、二番目のベクターは初期コードアドレスである。3番から15番のベクターは各種エラー処理ルーチンのアドレスである。エラーの種類としてはバスエラー、アドレスエラー、不正命令、[[ゼロ除算|ゼロによる割り算]]、CHK/CHK2命令ベクター、特権違反、そして予約されたベクター(後にline 1010エミュレータ、line 1111エミュレータ、ハードウェアブレークポイントに割り当てられた)がある。ベクター24から実際の割り込みに対応する。ハードウェアに対応しない擬似割り込み、レベル1から7のベクター、15個のTRAPベクター、いくつかの予約されたベクター、ユーザ定義ベクターの順番で並んでいる。 リセットされたとき、少なくともスタートコードアドレスのベクターには正しいアドレスが入っている必要がある。多くのシステムは不揮発メモリ(つまり[[Read Only Memory|ROM]])を持っていて、0番地に配置し、そのROMにベクターテーブルと[[ブートストラップ]]コードが入っている。しかし、汎用システムでは動作中にベクターを書き換えられるのが望ましい。これを実現するため、ROM上のベクターが[[Random Access Memory|RAM]]上のジャンプテーブルを指すようにするか、バンク切り替えで動作中に0番地付近の配置をROMからRAM変更する。 68000は[[PopekとGoldbergの仮想化要件]]({{Lang-en-short|virtualization requirements for full processor virtualization}})を満たしていない。というのは、"MOVE from SR" 命令が特権命令でないため、ユーザモードから特権ステータスが見えてしまうからである。この問題は後述する仮想記憶サポートの問題とともに後の[[MC68010]]で改善された。"MOVE from SR" 命令は特権命令となり、ユーザモードのソフトウェア用に "MOVE from CCR" 命令を追加した。ユーザモードで "MOVE from SR" 命令を使った場合、トラップが発生してOS側でエミュレートすることも可能である。 ==== MC68000 でのデマンドページングの実現 ==== <!--- 以下についての詳細はノートでいかがでしょうか?(以下の点は不具合、バグと語られることが多い。しかしMC6000の初版マニュアルからRERUN機能はきちんと説明されている。また、当時は仮想記憶の実現に必要なMMUも計画中に過ぎなかった。したがって、以下の動作は「将来仮想記憶をシリコン上に実装することを正当化する需要が発生するまでの暫定的な実装仕様」だったと考えるほうが自然である。そうではなく、バグなのだという根拠がある場合は是非その情報元を記してほしい。)---> 680x0系の最初のプロセッサであるMC68000の仕様は、外部支援なしには[[ページング方式#デマンドページング|デマンドページング]]の実現が困難なものであった。 デマンドページングでは、実行中の命令のメモリアクセスが[[ページフォールト]]を起こしたら、(それが正常なアクセスであれば)その実行中の命令の実行を一旦フリーズし、外部記憶と主記憶の間で[[仮想記憶|スワッピング]]をおこなってから、実行中だった命令の実行から再開する、という処理が必要である。 しかし、MC68000がページフォールトの際に保存する内部情報は、「実行中だった命令の実行からの再開」ができないものであった。このため、MC68000の通常の[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]の処理に従ってしまうと、デマンドページングは実現できない。これを、単にそもそもサポートするつもりが無かったものとみるむきもあれば、「仕様のバグ」とみるむきもあれば、後述のようにして実現が可能であるし、MMUも計画中に過ぎなかったのだから「将来仮想記憶をシリコン上に実装することを正当化する需要が発生するまでの暫定的な実装仕様」だったと考えるほうが自然である、とみるむきもある。 そのようなMC68000で仮想記憶を実装するためには、MC68000には次のような機能があった。バスアクセス中にあるピンをアサートすることにより、命令の実行をそこで一旦フリーズし、スリーステートバスをハイインピーダンスにして解放させたままいつまででも止めておいて、そののち、元の命令の中断したバスアクセスから再実行({{Lang|en|re-run}})する機能である。これによるバスサイクルをリランサイクル({{Lang|en|rerun cycle}})という。 これを利用して、メインのCPUであるMC68000を止めた状態で、別のプロセッサでページ処理をおこなうようにして、デマンドページングを実装できる。必然性はないが、同じバスに接続する容易性から、この補助プロセッサにもMC68000が使われることが多い。 以上のようなMC68000のデュアル・プロセッサによる仮想記憶を実現したコンピュータとしては[[アポロコンピュータ]]のDomainが有名である。同社の実装ではページスワップを担うスレーブ・プロセッサは、通常時はグラフィックス・プロセッサとして動作し、必要に応じてマスターのページ・スワップ要求に応じた。 この問題は後のMC68010で解決された。MC68010では、バスエラーとアドレスエラーが発生した場合、エラーを発生させた元の命令を指すプログラムカウンタのアドレスをスーパバイザスタックに保存することにより、元の処理に復帰できるようになった。 === 命令セットの詳細 === 基本的なアドレッシングモードは以下の通りである。 *レジスタ直接 **データレジスタ、例 "D0" **アドレスレジスタ、例 "A6" *レジスタ間接 **単純アドレス、例 (A0) **ポストインクリメント付アドレス、例 (A0)+ **プレデクリメント付アドレス -(A0) **16ビット符号付オフセット、例 16(A0) **実際のインクリメントやデクリメントのサイズはオペランドの指定によって変わる。バイトリード命令ではインクリメントすると、アドレスに1を加算し、ワード(16ビット)では2を、ロング(32ビット)では4を加算する。 *インデックス付レジスタ間接 **8ビット符号付オフセット、例 8(A0, D0) または 8(A0, A1) *プログラムカウンタ相対 **16ビット符号付オフセット、例 16(PC). このモードは非常に便利 **インデックス付8ビット符号付オフセット、例 8(PC, D2) *絶対アドレス指定 **"$4000"のような数値や、アセンブラが翻訳するシンボリックな名前。 **68000のアセンブリ言語では[[十六進記数法|16進数]]を表すのに "0x" ではなく "$" を使うものが多い。 *イミディエート値 **命令内に埋め込み、例 "#400". 追加:ステータスレジスタへのアクセス。後のモデルでは他の特殊レジスタも同様。 多くの命令にはドットに続くサフィックスが付き、処理単位を8ビット (".b")、 16ビット (".w")、32ビット (".l") で指定する。 多くの命令は入力(ソース)と出力(デスティネーション)を持ち、デスティネーションに変更を加える。主な命令は以下の通りである。 *算術演算:<code>ADD</code>, <code>SUB</code>, <code>MULU</code>(符号なし掛け算), <code>MULS</code>(符号あり掛け算), <code>DIVU</code>, <code>DIVS</code>, <code>NEG</code>(否定加算), <code>CMP</code>(減算の一種だが、ステータスビットにのみ結果を反映し、実際の減算結果は格納しない) *[[二進化十進表現|二進化十進]]演算:<code>ABCD</code>, <code>SBCD</code> *[[論理演算]]:<code>EOR</code>(排他的論理和), <code>AND</code>, <code>NOT</code>(論理否定) *シフト演算: **論理シフト、つまり右シフトで最上位ビットをゼロにする: <code>LSL</code>, <code>LSR</code> **算術シフト、つまり最上位ビットを符号拡張する: <code>ASR</code>, <code>ASL</code> **ローテート、eXtendを使う命令と使わない命令: <code>ROXL</code>, <code>ROXR</code>, <code>ROL</code>, <code>ROR</code> *メモリ内のビット操作:BSET(1にする), BCLR(0にする), and BTST(SRのZeroビットをセット) *[[対称型マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]制御:<code>TAS</code>(テストアンドセット、1命令でビットテストのためのリードとその結果のライトの2つのメモリアクセスを割り込みなどで中断されない[[不可分操作|不可分なバスサイクル]]で行うことによりメモリ共有型マルチプロセッサでの[[セマフォ]]を実現) *フロー制御:<code>JMP</code>(ジャンプ), <code>JSR</code>([[サブルーチン]]コール), <code>BSR</code>(相対アドレスでのサブルーチンコール), <code>RTS</code>(サブルーチンからの復帰), <code>RTE</code>(例外や割り込みからの復帰), <code>TRAP</code>(ソフトウェア割り込みに似たソフトウェア例外を発生), <code>CHK</code>(条件付きソフトウェア割り込み) *分岐:<code>Bcc</code>("cc"は分岐条件として16種類のステータスレジスタのチェック方法を記述:equal(等しい), greater than(大きい), less-than(小さい), carry, これらの組み合わせや論理否定) *デクリメント付き分岐:<code>DBcc</code>("cc"は分岐命令と同じ意味)指定したデータレジスタをデクリメントした後、指定された条件が真で、デクリメント結果が-1でないなら分岐する。0ではなく-1でチェックするのは、ループを記述する場合にコードを単純化するためである。ループカウンタとして最初から0が指定された場合、デクリメントされて-1になるので分岐しない。したがって0かどうかをループに入る前にチェックする必要がない。 == M68000ファミリ == === メインプロセッサ === [[ファイル:MC68020RC12E.jpg|thumb|MC68020RC12E]] [[ファイル:Motorola_68030_32-bit_microprocessor.jpg|thumb|MC68030RC50C]] *'''MC68000''' - [[サン・マイクロシステムズ]]の初代UNIXワークステーションであるSun-1や、初期の[[Macintosh]]などに採用された。日本では[[シャープ]] [[X68000]]シリーズ、SEGA [[メガドライブ]]、SNK [[NEO-GEO|ネオジオ]]などに採用された。 **MC68EC000 - 8ビットデータバスとして使用できるローコスト版。各種機器制御用の組み込みMPUとして使用されたほか、[[セガサターン]]ではサウンド制御用MPUとして搭載された。 *[[MC68008]] - データバスを8ビット、アドレスバスを20ビットに縮小、安価な48ピンパッケージに収めた縮小版の68000MPUである。 *[[MC68010]] - MC68000に[[仮想記憶]]および[[仮想機械]]を実現するための機構を追加した。3ワード分のキャッシュを持ち、MC68000に較べ、DBcc命令等を高速に実行可能だった。[[サン・マイクロシステムズ]]のUNIXワークステーションである[[Sun-2]]や[[日立製作所|日立]] 2050(初代)に搭載された。 *MC68012 - 外部アドレスバス31ビット。 *[[MC68020]] - 外部アドレスバス32ビット、データバス32ビットと、名実ともに32ビット化。命令キャッシュ256バイトを追加。[[コプロセッサ]]の接続も可能になった。 [[Sun-3]]、Macintosh II、Amiga 1200、日立 2050/32などに搭載。 *[[MC68030]] - MC68851相当の[[メモリ管理ユニット|MMU]]内蔵、命令キャッシュのほかにデータキャッシュ256バイトを追加。Sun3/80、[[ソニー]] NEWS、Next Cube(初代)、Macintosh IIx以降、Amiga 3000、日立 2050/32Eなどに搭載。 **[[MC68EC030]] - MMU 無し。シャープ [[X68000#X68030|X68030]]に搭載。 *[[MC68040]] - MMU、MC68882相当の[[FPU]]内蔵(一部命令はソフトウェアエミュレート)、各キャッシュを4Kバイトに増加、命令の高速化、マルチプロセッサのサポート。[[NeXTcube]]、[[Macintosh Quadra]]・Centris、Amiga 4000などに搭載。なお、68040は[[XC68040]](ソフトで言う[[ベータ版]])チップがそのまま量産されており、いわゆる[[エラッタ]]が解消したMC68040はほとんど流通していない。 **MC68LC040 - FPU無し。Macintosh LC475・575等、Appleの廉価モデルなどに搭載。 **MC68EC040 - FPU無し。MMU無し。 **MC68040V - 低電圧動作 (3.3V) 版。 *[[MC68060]] - 68040とピン互換、内部2逓倍、[[ワイヤードロジック]]化に伴い、一部の命令が削除された。しかしサン・マイクロシステムズは[[SPARC]]、MacintoshはPowerPC、他は[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]などに移行したためワークステーション・PCではほとんど採用されず。AmigaやX680x0ではアクセラレータとして使われた。 **MC68EC060 **MC68LC060 *{{仮リンク|SCC68070|en|Philips 68070}} - {{仮リンク|シグネティックス|en|Signetics}}が、[[CD-i]]のために製造した組み込み用の互換MPU。 [[ファイル:MC68MH360FE33E_01.JPG|thumb|MC68MH360FE33E]] *MC68MH360FE - MC68360(CPU32+ベース)+SCC (Serial Communications controllers) === 周辺LSI === [[ファイル:HD68450Y8.png|thumb|HD68450Y8]] *MC68120 - IPC (Intelligent Peripheral Controller with mask ROM) *MC68121 - IPC (Intelligent Peripheral Controller w/o mask ROM) *MC68122 - CTC(クラスタ ターミナル コントローラ)<ref name="16-bit-microprocessor"/> *MC68150 - DBS (Dynamic Bus Sizer) *MC68153 - Bus Interrupter *MC68160 - EEST (Ethernet Driver) *MC68184 - BIC (Broadband Interface Controller) *MC68185 - Twisted Pair Modem *MC68194 - Carrier band Modem for [[IEEE 802.4]] *MC68195 - Local Talk Adapter *MC68230 - PI/T (Parallel Interface & Timer) パラレルインターフェイス&タイマ *MC68338 - MAC (Media Access Controller) *MC68339 - FSI (FDDI System Interface) *MC68341 - 浮動小数点ROM<ref name="16-bit-microprocessor"/> *MC68356 - SPCE (Signal Processing Communication Engine) *MC68360 - QUICC ( Quad Integrated Communication Controller) *SCC68430 - DMAC (1ch Direct Memory Access Controller) *MC68440 - DMAC (2ch Direct Memory Access Controller) *HD68450 - DMAC (4ch Direct Memory Access Controller) *MC68451 - MMU (Memory Management Unit)<ref name="16-bit-microprocessor"/> *MC68452 - Bus Arbiter *MC68453 - Bubble Memory Controller バブルメモリコントローラ<ref name="16-bit-microprocessor"/> *HD63463 - HDC (Hard Disk Controller) ハードディスクコントローラ *HD63484 - ACRTC (Advanced Cathode Ray Tube Controller) *MC68488 - GPIBA (GP-IB Adapter) *R68C552 - DACIA (Dual Asynchronous Communication Interface Adapter) *R68560 - MPCC ( Multi Protocol Communication Controller) *HD68562 - DUSCC (Dual Universal Serial Communication Controller) *MK68564 - UART *MC68605 - X.25 Protocol Controller *MC68606 - X.25 Multi-Link LAPD Protocol *SCN68652 - MPCC (Multi-protocol Communication Controller) *MC68661 - UART *MC68681 - DUART (Dual Universal Asynchronous Receiver/Transmitter) *SCC68692 - 68681 Compatible CMOS *R68802 - LNET (Local Network Controller) *MC68824 - TBC (Token Bus Controller) *MC68834 - Stream Cipher Chip *MC68836 - FCG (FDDI Clock Generator) *MC68837 - ELM (Elasticity Buffer and Link management) *MC68838 - MAC (Media Access Controller) *MC68839 - FSI (FDDI System Interface) *MC68840 - Integrated FDDI *MC68847 - quad ELM *MC68848 - CAMEL *MC68851 - PMMU (32bit Page Memeoy Management Unit) *MC68881 - FPU (Floating-Point Unit) 浮動小数点演算ユニット *MC68882 - FPU (Floating-Point Unit) 浮動小数点演算ユニット(改良版) *MC68901 - MFP (Multi Function Peripheral) 多機能周辺コントローラ == 後継製品 == *CPU16<!--[[CPU16]]は68000シリーズとは別アーキテキチャ ⇒ [[マイクロコントローラ#フリースケール・セミコンダクタ]]--> **TMP68301 - 68HC000 + UART etc(東芝製) **TMP68303 - 68HC000 + UART + PI/T(東芝製) **MC68302 - 68EC000 + SCC(高機能通信コントローラ)、DMA、Timer他。ISDN等の通信機器に使われた。 **MC68306 - 68EC000 + DUART **MC68307 - 68EC000 + UART **MC68322 (BANDIT) - 68EC000 + **MC68328 ([[DragonBall]]) - 68EC000 + LCDコントローラ、UART、SPI、PWM、Timer、RTC他。[[Palm (PDA)|Palm]] (PDA) に使われた。 *[[Motorola CPU32|CPU32]] MCU **MC68330 - CPU32 **MC68331 - CPU32 + GPT (Timer),QSM(キュー付シリアルモジュール) **MC68332 - CPU32 + TPU(高機能なタイマ/カウンタ),QSM,SIM(システム統合モジュール) **MC68334 - モジュラプロセッサ - CPU32 + TPU,SIM, 8/10ビットADコンバータ(変換速度は8ビット時8ms、10ビット時9ms{{sfn |インターフェース 1995年1月号 |p=233}}) **MC68340 - CPU32 + DMA,DUART,Timer **MC68341 - CPU32 + タイマ,2チャネルDMA,2チャネルSIO(シリアルIO),SIM41(システム統合モジュール)、CD-Iエンジン向けプロセッサ、データバス16ビット、アドレスバス32ビット **MC68356 - MC68302のスーパーセット(統合マルチプロトコル・プロセッサ) - 68EC000 + RISCプロセッサ(CP:通信プロセッサとして利用) + DSP56002, SIB(システム統合ブロック), PCMCIAサポート, 16550UARTエミュレーション **MC68360 (QUICC) - CPU32+(CPU32上位互換) + CPM(高機能通信コントローラ),DMA,Timer *ColdFire - M68Kシリーズから派生したRISCプロセッサ。命令セットは68000から一部削除されソースコードレベルでサブセットとなっている。 **MCF52xx - ColdFire V2 **MCF53xx - ColdFire V3 **MCF54xx - ColdFire V4/V4e == エミュレータ == * [https://www.buffee.ca/ BUFFEE Accelerator] - MC68000と差替えて使えるよう、AM335x [[ARMアーキテクチャ#Cortex-A8|ARM Cortex-A8]]を搭載しMC68040 400MHz相当のアクセラレータとして、2021年3月現在、開発途上<ref>{{Cite web|和書|title=68000と挿し替えて使えるCPUアクセラレータ「Buffy Acellerator」|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1305052.html|website=PC Watch|date=2021-02-08|accessdate=2021-03-25|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref> == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年5月|section=1}} {{Refbegin}} *{{Cite book|和書|author=Motlora, Inc.|title=M68000マイクロプロセッサユーザーズ・マニュアル|edition=4th edition第9版|date=1990-05-10|publisher=CQ出版|id=M68000UMJ/AD4|isbn=978-4-7898-4091-0}} *{{Cite book|和書|author=日立マイクロコンピュータエンジニアリング|editor=関根慶太郎|title=図解16ビットマイコン68000とファミリの活用DMAC・ACRTC・HDC|year=1987|publisher=東京電機大学出版局|isbn=978-4-501-51240-8|ncid=BN02581340}} *{{Cite book|和書|ref=harv|author=阿刀田央一|title=68000ハードウェア設計|edition=初版第2刷(第1回修正)|year=1987|publisher=昭晃堂|others=五十嵐智・鵜沢繁行|isbn=978-4-7856-3062-1|ncid=BN01471063}} *日本モトローラ株式会社半導体事業部『MC68030ユーザーズ・マニュアル』CQ出版[[1990年]]、日本モトローラ。{{Lang-en-us-short|''MC 68030 enhanced 32-bit microprocessor user&#39;s manual''}}。{{NCID|BN06695647}}。 * {{Cite web | url = http://cache.freescale.com/files/32bit/doc/ref_manual/M68000UM.pdf | title = M68000 8-/16-/32-Bit Microprocessors User's Manual, Ninth Edition | accessdate = 2015-01-20 | author = MOTOROLA | date = | year = 1994 | format = PDF | publisher = MOTOROLA | ref=harv | edition=9th }} * {{Cite book|和書 | author1= 禿節史 | author2= 喜田祐三 | author3= 田邊皓正 | author4= 藤岡旭 | title= 16ビットマイクロプロセッサ | year=1981 | date=1981-6-30 | publisher=[[丸善株式会社]]|isbn = |ref={{Sfnref |16-bit_microprocessors |1983}} }} * {{Cite journal|和書|title= |year=1995 |month=1 |publisher=[[CQ出版社]] |journal=インターフェース |issue=1995年1月号 |ref={{sfnref|インターフェース 1995年1月号}} }} {{Refend}} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年5月号 |volume=7 |issue=5 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-5-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年5月号}} }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==注記== {{Commonscat|M68k microprocessors|M68000ファミリープロセッサ}} <div class="references-small"><references group="注" /></div> {{Processor architectures}} {{Motorola processors}} {{Normdaten}} [[Category:モトローラのマイクロプロセッサ]] [[Category:命令セットアーキテクチャ]]
2003-02-17T08:36:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MC68000